目次
アンナ・カレーニナ
第一編
第二編
第三編
第四編
第五編
第六編
第七編
第八編
解説(木村浩)
年譜(木村浩)
アンナ・カレーニナ
復讐《ふくしゅう》はわれにまかせよ、
われは仇をかえさん
第一編
幸福な家庭はすべて互いに似かよったものであり、不幸な家庭はどこもその不幸のおもむきが異なっているものである。
オブロンスキー家ではなにもかも混乱してしまっていた。妻は、夫がかつてわが家にいた家庭教師のフランス婦人と関係していたことを知って、もうとても一つ屋根の下で暮すことはできないと宣言したのだ。こうした状態はもう三日もつづいていて、当の夫婦はもちろん、家族全員から召使の末にいたるまで、それを痛感していた。家族や召使たちはだれも、自分たちが共同生活をいとなむ意味はない、たとえどんな安宿に偶然泊りあわせた人たちでも、自分たちオブロンスキー家の家族や召使たちよりは、まだしも互いに親近感をいだいているにちがいない、と感じていた。妻は自分が使っているいくつかの部屋のほかには顔を出さなかったし、夫は三日も家をあけていた。子供たちは、ただもうところかまわず、家の中を駆けずりまわっていた。家庭教師のイギリス婦人は女中頭《じょちゅうがしら》とけんかして、どこか新しい勤め口を捜してくれと、友だちに手紙を出した。コックはもうきのうから、わざと食事時をねらって、屋敷から姿をくらましたし、下働きの女中と御者も暇をくれといいだした。
妻とけんかをしてから三日めに、ステパン・アルカージッチ・オブロンスキー(社交界の通称ではスチーヴァ)は、いつもの時刻、つまり、朝の八時に、妻の寝室ではなく自分の書斎の、モロッコ皮のソファの上で目をさました。と、彼はもう一度ぐっすり寝なおそうと思ったのか、そのまるまると太った、栄養のよさそうなからだを、スプリングのきいたソファの上でくるりと寝返らせ、今度はまくらの反対側をしっかりと抱きしめ、そこに片頬《かたほお》をうずめた。が、急にぱっと飛びおき、ソファの上にすわると、目をあけた。
《そう、そう、ありゃ、いったい、なんだったかな?》彼は夢を思い浮べながら考えた。《ええと、なんだったかな? あっ、そうだ! アラビンがダルムシュタットでごちそうしてくれたんだっけ。いや、ダルムシュタットじゃない。なにかこうアメリカ風な感じだったな。そうだ、夢の中じゃ、ダルムシュタットがアメリカにあったんだ。そうだ、アラビンがごちそうしてくれたのはガラスのテーブルで……そうだ、そのテーブルがみんな《わが宝の君よ《イル・ミオ・テソロ》》を歌ったんだ。いや、《わ《イル》が宝の君よ《・ミオ・テソロ》》じゃなくて、もっといい歌だったな。それから、なんだかちっぽけなフラスコがいくつも並んでいたけれど、そいつがまたみんな女なんだ》彼はそうすっかり思いだした。
オブロンスキーの目は楽しそうに輝きはじめ、彼は微笑を浮べたまま、もの思いにふけった。《ああ、よかった。じつに、よかったなあ。いや、このほかにも、まだまだ、とってもすばらしいことがあったっけ。あんなことって、言葉じゃとてもいえっこないし、今、こうやって考えてみても、どうにもつかみどころのないものだなあ》そのとき、彼はふとラシャのカーテンの横から差しこんでいる朝日の光に気づくと、急に、うきうきした調子で、両足をソファからずり落し、妻の手になる金色のモロッコ皮の飾りをつけたスリッパ(去年の誕生日の贈り物)を捜しあてた。それから、九年来の古い習慣で、いつも寝室でガウンのかかっているほうへ、すわったまま、片手をのばした。が、その瞬間、彼ははっとして自分がなぜ妻の寝室ではなく、こうして書斎の中で眠っていたのかを思いだした。その顔からは微笑が消え、彼は額にしわをよせた。
《うむ、そうか! ああ、ああ!……》彼はいっさいのことを思い起しながら、うめくようにつぶやいた。すると、彼の頭にはまたしても妻とのけんかの一部始終が浮んで、改めて自分ののっぴきならない立場が思いだされた。何よりも耐えがたいのは、その原因がすべて自分ひとりにあることであった。
《そりゃ、あれは許しちゃくれまいし、許すわけにもいくまい。ところが、なによりもまずいことに、いっさいの原因がこのおれにありながら――その張本人のおれに少しも罪の意識がないことだ。いや、ここにこそ今度の悲劇のすべてがあるんだ》彼は考えた。《ああ、まいったなあ!》彼は妻とのけんかから受けたもっとも痛ましい印象をあれこれ思い浮べながら、絶望的に声をあげた。
なによりも不愉快だったのは、あの最初の瞬間であった。そのとき、彼は満ち足りたすがすがしい気分で劇場からもどって来ると、妻へのみやげの大きな梨《なし》を持って客間へはいって行ったが、妻の姿はそこになく、驚いたことには、書斎にも見あたらず、ようやく寝室で見つけたものの、その手にはいっさいを暴露した、あの忌わしい手紙を握っていたのである。
あの女、つまり、いつもはなにかしらに気を配って、せかせかと動きまわっている、たいして利口ではないと思いこんでいた妻のドリイが、例の手紙を握りしめて、身じろぎもせずにすわったまま、恐怖と絶望と憤激のいりまじった表情で夫の顔をにらみつけたのであった。
「これはなんですの? これは?」その手紙を指さしながら、妻はたずねた。
このときのことを思いだしてみても、もっともこれはよくあることだが、オブロンスキーを苦しめるものは、事件そのものよりも、むしろ妻のこうした言葉に対する自分の返答ぶりであった。
その瞬間、彼の身には、なにかあまりに恥ずかしい行いを不意に指摘された人たちによく見られる現象が起ったのであった。彼は自分の非行をあばかれながらも、そうした新しい事態にふさわしい顔つきを妻にすることができなかったのである。憤然として腹を立てるなり、否定するなり、弁明するなり、許しを請うなり、いや、ただ平然としているだけでもまだよかったものを――このいずれであっても、彼のしでかしたことよりはまだましだったろう!――彼の顔はまったく無意識に(《こりゃ条件反射だな》と、生理学好きのオブロンスキーはちらっと考えた)まったく無意識に、あの持ち前の、善良そうな、したがって間のぬけた微笑を、つい、浮べてしまったのである。
この間のぬけた微笑には、彼自身もわれながら許しかねていた。この微笑を見るや、ドリイはまるで肉体のどこかに痛みでも受けたかと思われるほど、ぶるっと身を震わせ、気短かな気性を一時に爆発させて、激しい言葉の雨を浴びせると、そのまま部屋から飛びだしてしまった。それ以来、彼女は夫の顔を見ようとはしないのであった。
《なにもかもあの間のぬけた微笑が原因なんだ》オブロンスキーは思った。
《それにしても、いったい、どうすればいいんだ? どうすれば?》彼はそう絶望的につぶやいたが、なんの答えも見いだせなかった。
ステパン・オブロンスキーは、自分自身に対しては正直な人間であった。自分の本心を偽って、おれは自分の行いを後悔しているなどとむりに思いこむことはできなかった。今なお彼は、三十四歳の美丈夫で惚《ほ》れっぽいこの自分が、ふたりの死んだ子供を数えれば七人の子持ちで、夫より一つしか若くない妻に魅力を感じていないからといって、後悔する気にはなれなかった。ただ妻の目をもっとうまくごまかすことができなかったことだけを後悔していた。そうはいっても、彼も自分のおかれたつらい立場は十分感じていて、妻子や自分自身を哀れに思っていた。もしあの手紙が妻にあれほど大きなショックを与えると知っていたら、おそらく、彼はもっとじょうずに妻の目から自分の過失を隠すことができたであろう。彼は一度もこの問題をつきつめて考えたことはなかったけれど、妻はもうだいぶ前から自分の浮気に感づいていながら、わざと見てみぬふりをしているのではないかと、ぼんやり想像していたのである。それどころか、妻のように老《ふ》けてやつれてきた、もう少しも美しくない、どこといって人目を惹《ひ》くものもない、ありふれた、ただもう善良な家庭の母親といった女は、公平にいって、もっと寛容であるべきだと思っていた。ところが、それとはまったく反対であることがわかったのである。
《ああ、かなわん! ああ、ああ、こりゃ、とても、かなわん!》オブロンスキーはそうひとり言を繰り返すばかりで、なにひとつ、いい考えをひねりだすことはできなかった。《ああ、これまではなにもかもじつにうまくいっていて、家じゅうみんな楽しく暮していたんだがなあ! あれは子供たちに夢中で幸福だったし、このおれはなにひとつ干渉しないで、子供の面倒も家政のことも、みんなあれのしたい放題にまかせていたんだ。そりゃ、あの女がうちにいた家庭教師だったってことはまずいさ。たしかに、よくはないさ! だいたい、自分のとこの家庭教師の尻《しり》を追いかけまわすなんて、低級な、俗っぽい趣味だよ。いや、そうはいっても、あの女はすばらしい家庭教師だったなあ! (彼はそこでマドモアゼル・ローランのいたずらっぽい黒いひとみと微笑をまざまざと思い浮べた)でも、あの女が家にいるあいだは、このおれもちゃんとしていたんだ。ただいちばんまずいのは、あの女が今じゃもう……、それにしても、まるでわざと仕組んだみたいなのには恐れ入ったな! ああ、ああ、こりゃ、いったい、どうすりゃいいんだ?》
その解答はなかった。あるのはただひとつ、きわめて複雑な解決不可能な問題に対して、この人生が用意しているあの一般的な解答ばかりであった。その解答とはほかでもない。その日その日の要求によって生きねばならぬ、つまり、くだらぬことは忘れてしまわねばならぬ、ということであった。眠りによってすべてを忘れ去ることは、すくなくとも、夜が来るまではできないし、あのフラスコの女たちが歌った音楽の世界に返って行くわけにもいかない。そうなると、今はもう生活の夢の中にすべてを忘れてしまわねばならぬわけだ。
《まあ、いずれ、なんとかなるだろう》オブロンスキーはそうひとり言をいって立ちあがると、空色の絹の裏地のついたねずみ色のガウンをひっかけ、その紐《ひも》を結び、広い胸いっぱいに思いきり空気を吸いこんだ。そして、太ったからだを軽々と運んで行く、がに股《また》気味の足を、勇ましく踏みだし、窓《まど》辺《べ》へ近づき、カーテンをあげると、高らかにベルを鳴らした。と、ベルを聞きつけて、古なじみの召使マトヴェイが、たちまち、服と靴と電報を手にしてはいって来た。マトヴェイのあとからは、ひげ剃《そ》り道具を持った理髪師もはいって来た。
「役所から書類は来ているかね?」オブロンスキーは、電報を受け取り、鏡の前にすわりながらたずねた。
「机の上にございます」マトヴェイは、同情をこめた、もの問いたげなまなざしで、主人の顔をそっとながめて答えた。それから、少し間をおいて、ずるそうな微笑を浮べながら、つけ加えた。「貸馬車屋の親《おや》父《じ》から使いが参りました」
オブロンスキーは、なんとも答えないで、ただ鏡の中のマトヴェイの顔をちらっと見た。と、鏡の中でかちあったその目の色から、ふたりが互いによく理解し合っていることが読みとれた。オブロンスキーの目は、《おまえはなんでそんなことをいうんだ? まさか、知らないわけじゃあるまいし……》といっているようだった。
マトヴェイはモーニングコートのポケットへ両手を突っこみ、ちょっと片足をひいて、黙りこくったまま、人の良さそうな、かすかなほほえみをたたえながら、主人の顔をながめていた。
「わしは今度の日曜に来いと申してやりました。それまではだんなさまのおじゃまをしたり、自分たちもむだ足をしないようにといってやりました」マトヴェイはいったが、これは明らかに、前もって用意してあったせりふらしかった。
オブロンスキーには、マトヴェイがちょっと冗談をいって、こちらの注意をひこうとしたのだとわかった。彼は電報の封をきって、いつものように、まちがって書かれた言葉を心の中で訂正しながら読みおえると、その顔はぱっと一時に明るくなった。
「おい、マトヴェイ、あした、妹のアンナがやって来るぞ」彼は理髪師の手をちょっとおしとどめて、いった。そのふっくらと、つやのいい手は、今まさに長い、ちぢれた頬ひげのあいだに、ばら色の切れ目をつけているところだった。
「それはようございましたな」マトヴェイは答えたが、彼はこの短い返事によって、自分は主人と同様、この訪問の意味、つまり、主人のお気に入りの妹であるアンナなら、夫婦の和解にひと役買うであろうことを承知していると表明したのであった。
「おひとりで、それとも、だんなさまとごいっしょで?」マトヴェイはたずねた。
オブロンスキーは口がきけなかった。ちょうど理髪師が上唇《うわくちびる》を剃《そ》っていたからである。それで、指を一本あげてみせた。マトヴェイは鏡に向ってうなずいた。
「おひとりで。では、お二階のほうにおしたくいたしましょうか?」
「奥さんにうかがってみろ、どこがいいか?」
「え、奥さまに?」なにやら納得のいかぬ面持ちで、マトヴェイはきき返した。
「そうさ、うかがってみるんだ。それから、この電報を持って行って、お渡ししろ。どういう返事があるか……」
《ははあ、ちょっと、ためしてみるんだな》マトヴェイにはわかったが、彼はただ、
「かしこまりました」といった。
オブロンスキーがもう顔を洗い、髪をとかして、これから着替えをはじめようとしていたとき、マトヴェイは電報を手に、靴をきしませながら、ゆっくりと部屋の中へはいって来た。理髪師はもういなかった。
「奥さまは、あたしはもう出て行くから、あの方の、つまり、だんなさまのお好きなように、するがいい、とのことでございました」マトヴェイは目だけで笑いながら、両手をポケットに突っこみ、首をかしげて、主人の顔をじっと見守った。
オブロンスキーは、ちょっと、黙っていた。と、じきに、その美しい顔には、人の良さそうな、いくらか哀れっぽい微笑が浮んだ。
「弱ったな、マトヴェイ?」彼は小首をかしげながら、声をかけた。
「なに、大丈夫でございますよ。丸く、おさまりますとも」とマトヴェイは答えた。
「丸く、おさまる?」
「たしかに、仰せのとおりで」
「そう思うか? おい、そこにいるのはだれだね?」戸の陰に、女の衣《きぬ》ずれの音を聞きつけて、オブロンスキーはたずねた。
「あたくしでございます」しっかりした、気持のいい女の声がして、戸の陰から、ばあやのマトリョーナの、きつい、あばた顔が現われた。
「おい、どうしたんだ、マトリョーナ?」オブロンスキーは、戸口のほうへ近づきながら、たずねた。
オブロンスキーは妻に対してまったく罪ぶかいことをしたのであり、彼自身もそれを痛感しているにもかかわらず、家じゅうのほとんどすべての者が、妻のドリイの無二の親友であるばあやまでが、彼の味方なのであった。
「おい、どうしたんだね?」彼は力のない声でいった。
「だんなさま、今すぐおいでになって、もう一ぺん、おわびをなさいませ。きっと、うまいぐあいに運びますから。奥さまのお苦しみようといったら、まったく、見るもおいたわしいほどでございますよ。それに、家の中も、まるっきり、めちゃくちゃでございます。だんなさま、お子さまのことも、おかわいそうだと思ってさしあげなくては。ねえ、おわびをなさいませ。もう、どうしようもございません! ご自分でまいた種は……」
「だが、あれが入れてくれんことには……」
「なに、だんなさまは、ご自分のことだけなさればよろしいんでございますよ。神さまはお慈悲ぶこうございますから。神さまにお祈りなさいませ。だんなさま、神さまにお祈りなさいませ」
「ああ、いいとも。もう、あっちへお行き」オブロンスキーは、急に頬を赤らめて、いった。「それじゃ、着替えをさせてもらおうか」彼はマトヴェイのほうへ振り向いて、思いきりよくガウンを脱ぎすてた。
マトヴェイは、さっきから、なにか目に見えないほこりを払いながら、馬の首輪の形にこしらえたシャツをささげ持っていたが、いまや見るからに満足そうに、手入れのゆきとどいた、主人のからだに、それをかぶせた。
着替えをすませると、オブロンスキーは、からだに香水をふりかけ、シャツの袖口《そでぐち》をなおし、なれた手つきで、たばこや、紙入れや、マッチや、二重鎖と飾りのついた時計を、それぞれのポケットへしまい、さっとハンカチをひと振りすると、例の不幸な事件にもかかわらず、自分がいかにもさっぱりとすがすがしく、元気いっぱいで、肉体的にもさわやかな感じがして、一歩踏みだすごとに、軽くからだで調子をとりながら、食堂へ出かけて行った。そこにはもうコーヒーが彼を待っていたが、コーヒーの横には、何通かの手紙と役所からの書類が置いてあった。
彼は手紙に目を通した。その一通はとても不愉快な手紙で、妻の領地の森を買おうとしている商人からのものであった。この森はなんとしても処分しなければならぬものであったが、しかし今となっては、妻と和解ができるまで、そんなことは口にすることもできなかった。しかも、なによりも不愉快なのは、この件のために、目前に控えている妻との和解という仕事に、金銭上の利害がからむことであった。そのとき、彼の頭には、ひょっとすると、自分はこうした利害に左右されるかもしれない、この森を処分したいために、妻との和解を求めるようになるかもしれない、という考えがちらっと浮んだが、この考えはひどく彼の心を傷つけた。
手紙を読みおわると、オブロンスキーは、役所の書類を手もとへ引き寄せ、すばやく二つの事件に目を通し、太い鉛筆でいくつかメモをつけてから、それをわきへ片づけ、コーヒーに手をかけた。彼はコーヒーを飲みながら、まだ湿りけのある朝刊をひろげ、それを読みはじめた。
オブロンスキーは自由主義的な新聞を取っていたが、自由主義といっても、それはあまり過激なものではなく、大多数の人びとがいだいている程度のものであった。また、彼は科学にも、芸術にも、政治にも、たいして興味をもっていなかったが、これらすべてのものに対しても、大多数の人びとと新聞のいだいている見解とまったく同じものを堅持していたし、大多数の人びとがその見解を変えるときにのみ、自分の見解を変えた。いや、彼が見解を変えたというよりも、見解そのものが、いつのまにか、彼の内部で変化するといったほうが当っているかもしれなかった。
オブロンスキーは、主義主張をみずから選んだことはなかった。主義主張のほうが彼に向ってやって来るのだった。それはちょうど、彼が帽子やフロックコートの型を選ばずに、世間一般で用いられているものを、そのまま使うのと同様であった。ところで、ひとつの見解をもつということは、彼のように一定の社会に生活し、普通、年配になってから発達する、一種の思索活動を痛感している者にとっては、帽子を持つのと同様、必要欠くべからざるものであった。もし彼が、自分と同じ階層の多くの人びとが支持する保守主義のかわりに、自由主義を選んだことについて、なにか理由があるとすれば、それは彼が自由主義をより合理的なものと判断したからではなく、単にこのほうが自分の生活様式によりぴったりするからであった。自由党は、ロシアではなにもかもひどい状態だといっていたが、実際、オブロンスキーは負債ばかり多くて、まったく金に困っていた。自由党の人びとは、結婚はもはや流行おくれの制度であり、なんとしても改革しなければならない、と説いていた。そして実際、オブロンスキーは家庭生活からほとんど満足を与えられていないばかりか、自分の本性に反して、うそをついたり、しらばっくれたりしなければならなかった。自由党の人びとは、宗教が国民の中の一部の野蛮な人びとのための轡《くつわ》にすぎない、と公言したというよりか、暗示を与えていた。そして実際、オブロンスキーは短い祈りのときですら、いつも足の痛みを我慢して立っている始末だったし、この世の暮しだってきわめて快適であるのに、なんだってあの世について誇張した恐ろしい言葉の数々を並べるのか、まったく納得がいかなかった。それと同時に、愉快なしゃれが好きなオブロンスキーは、もし種族の誇りを云云《うんぬん》するのならば、リューリックあたりでお茶をにごして、人類の祖先たる猿を否定する法はない、といって、ときどきおとなしい人びとを困らせては楽しんでいた。こうして、自由主義的傾向はオブロンスキーにとって習性となり、食後の葉巻と同じく、自分の新聞を愛していた。それは頭の中にいくらかもやもやしたものを生みだしてくれるからであった。彼はまず社説に目を通したが、そこにはこんなことが解説してあった。今まさに、過激主義はいっさいの保守的要素を飲みつくそうとしているとか、政府は革命の地下運動を圧殺するために、あらゆる手段を講じなければならぬとか、声を大にして叫ぶことは、現在においてまったく無意味なことであり、むしろその反対に、「われわれの見解によれば、危険はかかる実在しない革命の地下運動にあるのではなく、進歩を阻害する因襲の頑《がん》固《こ》さにある」云々。彼はもうひとつの財政関係の論説を読んだが、そこではベンサムとミルに言及しながら、当局をときどきちくりとやっつけていた。彼は持ち前の勘のよさから、そのいずれの皮肉の意味をも、つまり、だれがだれに対して、どういう件で、皮肉の針を刺したか、理解することができた。そしてこのことは、いつものことながら、彼にある種の満足感を与えた。ところが、きょうはこの満足感も、マトリョーナの忠告や、家の中がすっかり乱れていることを思いだすことによって、たちまち、そこなわれた。彼はさらに、ベイスト伯がヴィスバーデンに向ったという風説や、今後は白《しら》髪《が》の人がいなくなるだろうとか、軽装馬車の売却広告とか、若い婦人の求職広告などを読んだ。しかし、これらの記事も、以前のように、静かな、皮肉な満足感を与えてはくれなかった。
新聞を読みおえ、二杯めのコーヒーを飲みほし、バターつきのパンを食べてしまうと、彼は立ちあがり、チョッキからパンくずを払いおとし、広い胸をぐっと張って、うれしそうに微笑を浮べた。が、それは心の中が何か特別うきうきしていたためではなく、消化のよい胃がこのうれしそうな微笑を誘いだしたにすぎなかった。
ところが、このうれしそうな微笑は、たちまち、彼にいっさいのことを思いださせ、彼は急に考えこんでしまった。
ふたりの子供の声が(オブロンスキーは末の男の子グリーシャと長女のターニャの声を聞きわけた)戸の外で聞えた。ふたりはなにかをひきずって来て、落したところだった。
「だから、いったでしょう。屋根の上にお客さまをのせてはいけないって」女の子は英語で叫んだ。「さあ、早く拾いなさいよ」
《こりゃ、なにもかもめちゃくちゃだな》オブロンスキーは思った。《ああやって、子供たちも勝手に、走りまわっている》そこで、戸口へ近づいて、子供たちを呼んだ。子供たちは汽車にしていた箱を放りだして、父親のところへやって来た。
父親のお気に入りのターニャは、さっと飛びこんで来て、いきなり抱きつくと、父親の頬ひげから発散するおなじみの香水のにおいを喜んで、いつものように、笑い声をたてながら、その首にぶらさがった。それから、前かがみになっているために赤くなってはいるが、優しい愛情に輝く父親の顔にキスすると、娘は両手を放して、もとのほうへ駆けだそうとした。が、父親はそれをひきとめた。
「ママは、どうしてる?」彼は、娘のすべすべした、きゃしゃな首筋をなでながら、たずねた。それから、朝のあいさつをする男の子に、「やあ、おはよう」と笑いかけながら、いった。
彼は、自分が男の子のほうをあまり愛していないことを承知していたので、いつも公平になろうと努めていた。ところが、男の子のほうも、それを感じていたので、父親の冷たい笑顔には微笑を返さなかった。
「ママ? 起きたわ」女の子は答えた。
オブロンスキーは、そっと、溜息《ためいき》をつき、《こりゃ、つまり、またひと晩じゅう眠らなかったわけだな》と考えた。
「じゃ、ママはごきげんかい?」
女の子は、父母のあいだに争いのあったことも、だから母のきげんがいいはずがないことも、また、父がそれを知らないはずはないから、父がさりげなくこう聞くのは、わざと知らないふりをしているのだということも、承知していた。だから、女の子は、急に、父親に対して顔を赤らめた。父親のほうもすぐにそれと察して、これまた顔を赤らめた。
「知らないわ」女の子はいった。「ママは勉強のことはおっしゃらないで、ミス・フールとおばあさんのところまで散歩に行きなさいですって」
「それじゃ、行っておいで、ターニャ。あっ、そうだ、ちょっとお待ち」彼はなおも娘をおさえたまま、そのきゃしゃな、かわいい手をなでながら、いった。
彼はマントル・ピースの上から、きのうのせておいた菓子箱を取ると、ターニャの好きな、チョコレートとクリームのを、二つ取りだしてやった。
「グリーシャの分?」女の子は、チョコレートのほうを指さしながら、きいた。
「そう、そうだよ」それからもう一度、娘のかわいい肩をなでて、髪の根もとと首筋にキスしてから、やっと、放してやった。
「馬車のご用意ができました」マトヴェイがいった。「それから、女の請願者がひとりお待ちしております」彼はそうつけ足した。
「ずっと前からかね?」オブロンスキーはたずねた。
「半時間ほどで」
「すぐ取次ぐように、あれほどいってあるじゃないか!」
「だって、だんなさまも、せめてコーヒーの一杯ぐらい、召しあがらなくちゃ」マトヴェイは友だちづきあいの、乱暴な調子で答えたので、とてもそれに腹を立てるわけにはいかなかった。
「じゃ、とにかく、早くここへ」オブロンスキーは、いまいましそうに、顔をしかめながら、いった。
請願者はカリーニン二等大尉夫人といったが、その請願はとても不可能な、お話にならぬ事がらであった。しかし、オブロンスキーは、いつものとおり、相手をすわらせると、その話を黙って注意ぶかく聞いてから、だれに、どんなふうに頼んだらいいか、細かい忠告を与えたうえ、さらに、相手の力になってくれそうな人物にあてた紹介状を、大きな、のびのびした、美しい、はっきりした筆跡で、威勢よく、すらすらと書いてやった。二等大尉夫人を帰してしまうと、オブロンスキーは、帽子を手にして、ちょっと立ち止って、なにか忘れ物はないかと思案した。が、なにも忘れ物はなかった。ただ、忘れたいと願っていたあの妻との一件のほかは。
《ああ、そうだ!》彼はうなだれた。その美しい顔は、もの思いに沈んだ表情に変った。《行ったものか、どうか?》彼はそっとつぶやいた。そのとき、内なる声はこうささやいたのだ。行く必要はない、行ったところで偽り以外のなにものもありえない。ふたりの関係をもとにもどしたり、つくろったりすることは不可能だ。なぜなら、妻を再び魅力のある、彼の愛情を呼びさますようなものにすることも、彼自身をもはや恋することのできぬ老人にしてしまうこともできない相談であるからだ。今となっては、偽りのほか、なにも期待することはできない。しかも、偽りは彼の本性と相入れぬものであった。
《しかし、いつかは、それもしかたがないな。だって、いつまでもこのままですますわけにはいくまい》彼は自分で自分を力づけようとしながら、そういった。彼はぐっと胸を張り、巻たばこを一本取りだし、火をつけて、二口吸うと、真珠貝の灰皿のなかへ捨てた。そして、足速に陰気な客間を通りぬけ、妻の寝室へ通ずる、もう一つのドアをあけた。
ダーリヤ・アレクサンドロヴナはブラウスを着て、昔は濃くて美しいつやがあったのに、今ではもう薄くなった髪をうなじのところで巻いてピンでとめ、げっそりやせこけた顔に、大きな、おびえたような目を、いっそう目だたせながら、部屋いっぱいに散らかした荷物の中で、開いた洋服だんすの前に立って、何かを選びだしていた。が、夫の足音を聞きつけると、その手を休めて、ドアのほうを見ながら、自分の顔にきびしい、相手をさげすむような表情を与えようと、むなしい努力をはらった。彼女は夫を恐れ、目前に迫った対面を恐れている自分を感じていたのである。彼女はこの三日間にもう十度も試みたことを、今まさに試みようとしているのだった。それは自分と子供たちの物を選《え》りわけて、母親のところへ運ぼうというのだが、なかなかそう踏みきることはできなかった。しかし、彼女は今度もまた、前のときと同じように、このままではとてもすまされない、なんとか方法を講じて、夫を罰しはずかしめて、自分が受けた苦痛のせめて何分の一かでも、夫に復讐《ふくしゅう》しなければならない、と自分にいいきかせていた。さらに、彼女は今もってここを出て行くのだといいはっていたが、それが不可能であることを感じていた。なぜ不可能かといえば、彼女は今までどおり彼を夫として愛しつづけていたからである。そのうえ、今この家でも五人の子供の面倒をみるのは並みたいていではないのだから、みんなを引き連れて里へ帰ったら、なおさらたいへんだろう、とも感じていた。いや、それでなくとも、この三日間に、末の男の子は悪いスープにあたって病気をするし、ほかの子供たちも、きのうなどはほとんど食事らしい食事をしていない始末だった。これではとても出て行くわけにはいかないことを十分承知していながら、それでもなお、彼女は自分の気持を偽って、荷物の整理をし、家を出て行くふりをしていたのである。
夫の姿を見ると、ドリイはあわてて、なにか捜し物をしているように、洋服だんすの引出しに片手を突っこみ、夫がまったく目と鼻のあいだに近づいたときにはじめて、振り返った。しかし、彼女がきびしい決意を秘めた表情をつくろうとしたその顔は、途方にくれた、苦悩に満ちた表情を表わしていた。
「ドリイ!」夫は静かに弱々しい声でいった。彼はうなだれて、さも哀れな、従順な態度を示そうとしたが、その様子は、相変らず、さっそうとして、健康そのものであった。
彼女はちらっと、さっそうとして、健康そのものの夫の姿を、頭のてっぺんから足の爪《つま》先《さき》まで、見まわした。《そうだ、この人は幸福で、満ち足りているんだわ!》彼女は考えた。《じゃ、あたしは?……それに、あのぞっとするような人の良さときたら。みんなはそのためにこの人を好いたり、ほめたりしているけれど、あたしはこの人の人の良さが大きらいだわ》彼女は考えた。その口はゆがんで、青ざめた、神経質そうな顔は、右頬をぴくぴくと震わせた。
「なんのご用ですか?」彼女は胸の奥からしぼりだしたような、つくり声で、早口にいった。
「ドリイ!」彼は声を震わせながら、繰り返した。「アンナがきょうやって来るよ」
「それがどうしたんですの? あたしはお目にかかりません!」彼女は大きな声をたてた。
「しかし、そうもいくまいよ、ドリイ……」
「出て行ってください、出て行ってください、出て行ってください!」彼女は夫のほうを見ないで叫びつづけたが、その叫び声はまるで肉体的な苦痛から発したもののようであった。
オブロンスキーは、さっき妻のことを考えていたあいだは、平然と落ち着きはらって、マトヴェイの言葉をかりれば、すべてのことが丸くおさまると期待して、ゆっくり新聞を読んだり、コーヒーを飲んだりすることができた。ところが、現に、妻のやつれた、受難者のような顔をながめ、宿命に甘んじた、絶望的な声の響きを耳にすると、彼は息がつまり、なにかがのどにこみあげて来て、その目には涙が光りはじめた。
「ああ、おれはなんてことをしたんだろう!ドリイ! お願いだ! だって……」彼はもう言葉をつづけることができなかった。こみあげてくる泣き声でのどがつまってしまったのだ。
ドリイは洋服だんすの扉《とびら》をばたんとしめて、夫のほうを振り返った。
「ドリイ、おれにはなにもいえない……ただひとつ、あやまるだけだ、許しておくれ、許しておくれ……ねえ、考えてもみておくれ、九年間の生活が、ほんのいっときのことを、あがなうことができないものか……」
ドリイは目をふせて、夫の話に耳を傾けていたが、その様子はまるで夫に自分の誤解を正してもらいたいと、ひそかに念じているようであった。
「ほんのいっときの浮気心が……」と、彼はそういいだして、その先をつづけようとしたが、この言葉を聞くと同時に、ドリイの唇は、まるで肉体的な苦痛でも受けたように、再びゆがんで、右頬もまたぴくぴくと震えた。
「出て行ってください、ここから出て行ってください!」彼女は前よりいっそう声を張りあげて叫んだ。「それから、もうそんな浮気心だなんて、けがらわしい話は、あたしに聞かせないでください!」
彼女は出て行こうとしたが、急によろめいて、身をささえようと、いすの背につかまった。と、夫の顔は柔らいで、唇ははれ、両の目は涙でいっぱいになった。
「ドリイ!」もうすすり泣きながら、彼は話しだした。「お願いだから、子供たちのことを考えておくれ。あの子たちにはなんの罪もないんだ。悪いのはおれひとりなんだから、おれを罰しておくれ。罪ほろぼしをするようにいっておくれ。おれにできることなら、なんでもするよ! おれが悪かった、おれがどんなに悪かったと思ってるか、言葉につくせないくらいだ! だから、ドリイ、許しておくれ!」
ドリイは腰をおろした。彼は妻の苦しそうな、大きな息づかいを聞いて、たまらなくかわいそうになった。彼女は何度か話しかけようとしたが、できなかった。彼はじっと待っていた。
「あなたが子供たちのことを思いだすのは、あの子たちと遊びたいときだけですよ。でも、あたしはいつだって子供たちのことを思っていますし、あの子たちが今、だめになってしまったことも知っています」彼女はいったが、それはどうやら、この三日間に一度ならず自分にいってきかせた文句の一つらしかった。
彼女は親しい口調で「あなた」と呼びかけた。そこで、彼は相手に感謝するような面持ちで、妻の顔を見返し、その手を取ろうとした。が、彼女は嫌《けん》悪《お》の色を浮べて、さっと身をひいた。
「あたしはいつだって子供たちのことを思っています。だから、あの子たちを救うためには、この世でできることはなんでもするつもりです。でも、どうやったら、あの子たちを救えるか、もうあたしにもわからないんです。父親のもとから連れだしたものか、それとも、ふしだらな父親のもとに残したものか――ええ、そうですとも、ふしだらな父親ですとも……ねえ、おたずねしますけど、あんな……ことがあったあとでも、いっしょに暮せるものでしょうか? ほんとに、そんなことができるものでしょうか? ねえ、いってみてください、ほんとに、そんなことができるものかどうか?」彼女はいっそう声を張りあげながら、同じことを繰り返した。「あたしの夫が、あたしの子供たちの父親が、その子供たちの家庭教師の女とおかしな関係になったあとで……」
「でも、どうしたらいいんだ? どうしたら?」彼は哀れっぽい声でいったが、自分でもなにをいっているのかわからずに、ただ、前よりもいっそう低く頭をたれるのだった。
「あなたなんて、いや。けがらわしい!」ドリイはすっかり興奮しながら、叫んだ。「あなたの涙なんて、ただの水だわ! あなたは、一度だって、このあたしを愛してくれたことなんかないんだわ、あなたには心臓《こころ》もなければ、優しい気持もないんだわ! あなたは下劣で、いやらしくて、あたしなんかと関係ない人だわ。ええ、まったくの、赤の他人よ!」彼女は苦痛と敵意をこめて、自分自身にとっても恐ろしい他人《・・》、という言葉を口にした。
彼は思わず妻の顔を見た。と、その顔に表われている憎悪の色に、はっとして、たじろいだ。彼には自分が相手にいだいた哀れみが、かえって妻をいらだたせたことが理解できなかった。しかし、彼女が夫の中に見いだしたものは、自分に対する同情であって、愛情ではなかったのだ。
《いや、あれはおれを憎んでいる。とても、許してはくれまい》彼は考えた。
「ああ、かなわん! とても、かなわん!」彼は口走った。
そのとき、隣の部屋で、きっところびでもしたのだろう、急に赤ん坊が泣きだした。ドリイはじっと耳をすましたが、その顔は、たちまち、おだやかになった。
彼女は、どうやら、自分が今どこにいて、なにをしたものか、わからない様子で、しばらくのあいだ、じっと考えていたが、急に立ちあがると、ドアのほうへ歩きかけた。
《でも、あれはこのおれの子をかわいがってるじゃないか》彼は、赤ん坊の泣き声を聞きつけたときの、妻の顔つきの変化に気づいて、こう考えた。《おれ《・・》の子だっていうのに、どうしてこのおれを憎むことができるんだろう?》
「ドリイ、もうひと言だけ」彼は妻のあとを追いながら、話しかけた。
「あたしのあとをつけてなんていらっしゃれば、人を呼びますわよ、子供たちも。ほんとに、みんなに知れるといいんですよ、あなたが卑劣漢だってことが! あたしは、今すぐに出て行きます。あなたは、ここで、ご自分の情婦といっしょに、暮したらいいでしょ!」
そういって、彼女はドアをばたんとしめると、出て行った。
オブロンスキーは、溜息《ためいき》をつき、顔をぬぐうと、静かな足どりで、部屋を出ようとした。《マトヴェイのやつは、丸くおさまると、いいやがったが、こりゃ、とんでもない。いや、その可能性すら、見えないじゃないか。ああこりゃ、なんとしたことだ! それにしても、あれのわめきようときたら、まったく、ひどいものだったな》彼は妻が大声で叫んだ卑劣漢や情婦という言葉を思いだしながら、自分にいいきかせた。《いや、ひょっとすると、女中どもが耳にしたかもしれん! まったく、やりきれん、ひどいもんだ》オブロンスキーは、しばらくのあいだ、そこにたたずんでいたが、やがて目をぬぐい、ほっと、息をつくと、胸をぐっと張って部屋から出て行った。
ちょうど金曜日だったので、食堂では、いつものドイツ人の時計屋が時計を巻いていた。オブロンスキーは、このきちょうめんな、はげ頭の時計屋について、《あのドイツ人は時計のねじを巻くために、自分のほうも一生涯ねじを巻かれている》と、しゃれをとばしたことを思いだして、にやっと微笑をもらした。オブロンスキーは、気のきいたしゃれが好きだった。《ひょっとすると、丸くおさまるかもしれん! うむ、こりゃ、いい表現だな、丸くおさまる、か》彼は考えた。《ひとつ、これを使ってやろう》
「マトヴェイ!」彼は大声で呼んだ。「それじゃ、マリヤといっしょに、居間のほうにアンナを迎える用意をしておくれ」彼は姿を現わしたマトヴェイにそういいつけた。
「かしこまりました」
オブロンスキーは毛皮の外套《がいとう》を着て、玄関の階段へ出た。
「お食事にはお帰りになりませんか?」見送りにでたマトヴェイがたずねた。
「行ってみなければ、わからんよ。じゃ、さしあたって、これだけ置いて行こう」彼は、紙入れから十ルーブル紙幣を抜きだして、いった。「足りるかい?」
「足りても、足りなくても、なんとか、やりくりしなくちゃなりますまい」マトヴェイは馬車のドアをしめて、階段のほうへあともどりしながら、答えた。
ドリイはそのあいだ赤ん坊をなだめていたが、馬車の響きから夫が外出したことを知ると、また寝室へもどった。そこは彼女が逃《のが》れることのできる唯一の避難所だった。一歩そこを出たとたん、彼女はさまざまな家政の雑事にとりまかれるのだった。現に今も、子供部屋へ出かけた、ちょっとの間に、イギリス婦人とマトリョーナは「お子さまには散歩のときなにをお着せしましょう?」とか、「ミルクをさしあげましょうか?」とか、「かわりのコックを呼びにやらなくてもよろしゅうございますか?」とか、彼女でなくては答えられない、のっぴきならぬ質問を浴びせる始末だった。
「ああ、もう放っといてちょうだい。あたしをひとりにさせて!」彼女はそういって、寝室へもどると、さっきまで夫と話をしていた、その同じ場所に腰をおろし、骨ばった指から指輪が抜けそうなほどやせている両手を握りしめて、いましがた取りかわした会話の一部始終を、改めて記憶の中から選りわけにかかった。《出て行ってしまった! でも、あの《・・》女《・》とのことはどんなふうにけりがついたのだろう?》彼女は考えた。《まさか、今も会ってるんじゃないでしょうね? あたしはなぜそれを聞かなかったんだろう? いえ、いえ、とても仲直りなんか、できないわ。たとえ一つの屋根の下に暮すにしても――あたしたちはもう他人だわ。永久に他人だわ!》彼女は自分にとっても恐ろしいこの言葉を、特別の意味をこめて、繰り返した。《でも、あたしは愛していたわ。ええ、心の底からあの人のことを愛していたわ!……ほんとに、愛していたわ! じゃ、今は愛していないっていうの? 前よりもっと愛しているんじゃないかしら? ただ、なによりもつらいのは……》彼女はそう考えはじめたが、ばあやのマトリョーナがドアから顔をのぞかせたので、その考えの先をつづけることができなかった。
「どうぞ、弟を迎えにやらせてくださいまし」ばあやはいった。「あれなら、どうやら、お食事のしたくができますから。さもないと、きのうのように、六時までもお子さまはなにも召しあがれないということに」
「ああ、いいわよ。今すぐ、そっちへ行って、面倒をみるわ。それはそうと、新しいミルクを取りにやった?」
こうして、ドリイは日常の雑事におぼれて、しばらく、その悲しみをまぎらしていた。
オブロンスキーは、生れつき才能に恵まれていたので、学校ではよくできた。しかし、なまけ者で、いたずら好きだったので、卒業のときは、びりに近かった。ところが、いつも放縦な暮しをして、官等も低く、まだ年配というほどでもなかったのに、彼はモスクワのある役所で、長官として、俸給のいい、名誉ある地位を占めていた。この地位は、妹アンナの夫アレクセイ・カレーニンの世話で手に入れたもので、カレーニンはその役所の所属する某省の幹部のひとりであった。しかし、たとえカレーニンが自分の義兄をその地位に任命しなかったとしても、オブロンスキーは、彼以外の兄弟姉妹、従兄弟《いとこ》、叔父叔母《おじおば》など何百という人びとの世話で、この地位か、でなくても、これと似たりよったりの地位を手に入れて、年俸六千ルーブルぐらいはもらっていたであろう。この金額は彼の財政状態がめちゃめちゃになっている今、妻にかなりの財産があるにもかかわらず、彼にはなくてはならぬものであった。
モスクワとペテルブルグの半分は、オブロンスキーの親戚《しんせき》であり、友人であった。彼の生れは、この世の有力者、もしくは、有力者となった人びとの階級に属していた。国家的人物たる老人の三分の一は、父親の友人で、子供のころから、彼を知っていたし、他の三分の一は、彼と《きみぼく》の間がらだったし、残る三分の一は、親しい知人であった。したがって、地位、借地権、利権といったこの世の幸福の分配者は、すべて彼の友人だったから、自分の仲間を除《の》け者《もの》にするはずはなかった。だからオブロンスキーは、有利な地位を手に入れるためにも、特別に骨を折る必要もなく、ただ人の頼みを断わったり、他人をうらやんだり、いい争ったり、腹を立てたりさえしなければよかったのである。しかも、そんなことは、生れつきの人の良さから、ついぞ一度もしたことはなかった。ここでもし、彼に向って、きみは自分の必要とするだけの俸給の取れる地位を得ることはむずかしいだろうという人があったら、彼にはその言葉がこっけいに思われたにちがいない。まして彼は少しも法外なものを望んでいたわけではないから、なおさらである。彼が望んだものは、彼と同年配の者が手に入れることのできるものだったし、その程度の職務なら、彼もだれにも負けずに、りっぱにやりとげることができたのである。
オブロンスキーは、その善良で快活な性格と根っからの誠実さのために、彼を知るすべての人びとから愛されたばかりでなく、その輝くひとみや、黒い眉《まゆ》や、髪の毛や、白い膚の色や、ばら色の頬など、その明るく、美しい風貌《ふうぼう》の中には、彼に出会ったすべての人びとに、生理的に、親しみと楽しさを呼びおこすなにものかがあった。《やあ! スチーヴァ! オブロンスキー! おい、あの男がやって来たぞ!》彼と顔をあわせる者は、たいていいつも、うれしそうな微笑を浮べて、こう呼びかけたものである。たとえ時には、彼と話しあったあとべつに取りたててなにも楽しいことがなかったとしても、その翌日か、翌々日に彼と会えば、人びとはやっぱり、喜びの声をあげるのだった。
モスクワの役所でもう三年ごし長官として勤めているあいだに、オブロンスキーは、同僚、部下、上官をはじめ彼と交渉をもつすべての人びとから、愛情はもちろん、尊敬までかちえていた。こうして勤務先でだれからも尊敬されている彼の特質は、まず第一に、人びとに対して並みはずれて寛大なことであったが、それは彼が自分の欠点を自覚していたからであった。第二は、徹底した自由主義であったが、それはなにも彼が新聞などで学んだものではなく、まったくの生れつきのものであり、相手の身分や官等がなんであろうと、だれに対しても同等につきあうことであった。第三は、これがいちばん肝心なことだが、彼は自分の仕事に対して、まったく無関心であり、したがってそのために、けっしてわれを忘れたり、誤りをしでかしたりすることがなかったのである。
勤め先の役所へ着くと、オブロンスキーは、書類かばんをかかえた、慇懃《いんぎん》な守衛におくられて、小さな控室へ通り、制服に着替えて、事務室へはいって行った。と、書記や事務員たちは、いっせいに立ちあがって、明るい顔で、ていねいにおじぎをした。彼は、例によって、せかせかと自分の席へ近づき、同僚たちと握手して、腰をおろした。そして、度をすごさない程度に、冗談をいったり、むだ口をたたいたりしてから、仕事に取りかかった。いや、気持よく仕事をするには、自由と簡潔さと公式的な態度がある程度必要であるが、オブロンスキーほど、それを的確にわきまえている者はなかった。秘書は、事務室にいるすべての人間と同様、快活に、しかもうやうやしく、書類を手にして近づくと、これまたオブロンスキー仕込みのうちとけた自由な調子で、話しかけてきた。
「やっとのことで、ペンザ県から照会の返事をもらいましたよ。これなんですが、どうでしょう……」
「ああ、やっともらったかね」オブロンスキーは、書類のあいだに指をはさみながらいった。「それでは、諸君……」こうして執務がはじまった。
《それにしても、この連中が》彼はもったいらしく首をかしげて報告を聞きながら、考えた。《半時間前にはこの長官さまがいたずらを見つかった小僧っ子よろしくの態《てい》たらくだったことを知ったらなあ!》そう思うと、彼の目は報告を追いながら、ひとりでに笑っていた。執務は二時までぶっとおしにつづき、二時になると、ひと休みして昼食をとることになっていた。
ところが、まだ二時にならぬうちに、とつぜん、大きな事務室のガラス戸があいて、だれかがはいって来た。その場に居あわせたものは、いっせいに、あるいは皇帝の肖像画の下から、あるいは正義標のかげから、気のまぎれるものができたのを喜んで、戸のほうを振り向いた。が、戸のそばに立っていた守衛は、すぐさま、はいって来た男を追い出して、ガラス戸をしめてしまった。
仕事が一段落すると、オブロンスキーはのびをして立ちあがり、自由主義的な時代の風潮に敬意を表して、事務室の中で巻きたばこを一本取りだし、自分の控室へはいって行った。彼のふたりの補佐役たる、役所の古狸《ふるだぬき》ニキーチンと侍従補の肩書をもつグリネーヴィチが、そのあとを追った。
「食事のあとでも間にあうだろうね」オブロンスキーはいった。
「もちろんですとも!」ニキーチンは答えた。
「あのフォーミンという男は、なかなかの悪党らしいね」グリネーヴィチは自分たちが調べている事件の関係者のひとりについていった。
オブロンスキーは、グリネーヴィチの言葉に顔をしかめたが、それは先入観をもって事に当るのはよくないことを示そうとしたものだった。それで、彼にはひと言も答えなかった。
「さっきはいって来たのはなにものかね」彼は守衛にきいた。
「どこのだれですか……私がちょっとわきを向いてるすきに、無断ではいりこんで来ましたので。閣下にお目にかかりたいと申しましたので、みなさまがお出ましになったら、そのときに……」
「どこにいるんだね?」
「たしか、玄関のほうへ出て行きました。あのあたりを、ずっと、ぶらついておりましたが。ほれ、あれでございますよ」守衛はそういって、肩幅がひろく、もしゃもしゃしたあごひげをはやした、体格のいい男を指さしたが、その男は羊皮の帽子を脱ぎもしないで、石の階段を素早く軽々とのぼって来た。そのとき、小わきにかばんをかかえて階段をおりていたやせぎすの役人が、ちょっと足を止めて、その駆けあがる男の足をむっとした面持ちでながめたが、つづいて今度はもの問いたげな様子でオブロンスキーの顔を仰いだ。
オブロンスキーは階段の上に突っ立っていた。金モールの制服の襟《えり》の上で好人物らしく輝いていたその顔は、駆けのぼって来る男の正体を見分けたとき、一段とその輝きをました。
「やっぱり、そうだ! リョーヴィン、とうとうやって来たな!」自分に近づいて来るリョーヴィンの姿をながめまわしながら、彼は親しみのこもった、からかうような微笑を浮べて、いった。
「いや、よく、こんな洞窟《どうくつ》みたいなところへ訪《たず》ねて来てくれたね?」オブロンスキーは握手だけでは気がすまないで、友人に接吻《せっぷん》しながら、いった。「来たのはもうずっと前?」
「いや、今着いたばかりなんだが、とてもきみに会いたくてね」リョーヴィンはそう内気そうにと同時に、むっとした顔つきであたりを不安そうに見まわしながら、答えた。
「さあ、ぼくの部屋へ行こう」オブロンスキーは、友人が内気なくせに、自尊心が強く、すぐ腹を立てることを知っていたので、相手の手をつかむと、まるで危険地帯をぬってでも行くような格好で、先にたって歩きだした。
オブロンスキーは、ほとんどすべての知人と「きみぼく」でつきあっていた。すなわち、六十歳の老人とも、二十歳の青二才とも、俳優とも、大臣とも、商人とも、将軍クラスの侍従武官とも、同様であった。したがって、彼と「きみぼく」の間がらでいる多くの人びとは社会という階層の両極端に見いだされたから、もしこれらの人びとがオブロンスキーを介して互いになにか共通なものをもっていると知ったら、きっと、ひどくびっくりしたにちがいない。彼はいっしょにシャンペンを飲んだ相手なら、だれとでも「きみぼく」の間がらになった。ところが、彼はだれとでもシャンペンを飲んだ。そのため、彼は部下の手前、だれか「恥ずべき友人《・・・・・・》」に出会うと、彼は多くの友人を冗談にそう呼んでいたが、持ち前の要領のよさで、部下の受けた不愉快な印象を柔らげるすべを心得ていた。リョーヴィンは「恥ずべき友人《・・・・・・》」ではなかったが、オブロンスキーはその勘のよさで、かえってリョーヴィンのほうで、自分が部下の手前ふたりの仲のよさを見せるのを好まないと思っているのではないかと察して、急いで彼を自分の部屋へ連れ去ったのであった。
リョーヴィンはオブロンスキーとほとんど同《おな》い年だったが、ふたりが「きみぼく」の間がらになったのは、なにもシャンペンひとつのおかげではなかった。リョーヴィンはごく若いころからの友人であり、親友であった。ふたりはその性格や趣味が違っていたにもかかわらず、ごく若いころに親しんだ者同士が互いに愛しあうように、愛しあっていた。ところが、そうした関係にもかかわらず、これは職場を異にする人びとのあいだではよくあることだが、ふたりは互いに理屈では相手の仕事を認めながらも、心の中ではそれを軽蔑《けいべつ》しているのだった。ふたりは互いに自分の送っている生活こそ唯一無二の真実の生活であり、相手の生活など幻にすぎないという気がしていた。オブロンスキーはリョーヴィンを見るたびに、いくらか皮肉な微笑を禁ずることができなかった。田舎《いなか》からモスクワへやって来たリョーヴィンに会うのはもうこれで何度めかであったが、彼が田舎でなにかをしていることは知っていても、それがいったいどのようなものであるか、オブロンスキーにはしかとわからなかったし、また、それを知ろうというほどの興味もなかった。リョーヴィンはモスクワへやって来ると、いつも興奮のあまりせかせかして、いくらか気おくれ気味であったが、それと同時に、その自分の気おくれにいらいらして、たいていの場合、今まで思ってもみなかった、まるっきり新しい観点から周囲のものをながめてしまうのだった。オブロンスキーは彼のそうした点を笑いながらも、それを愛していた。リョーヴィンのほうもそれとまったく同様で、友人の都会生活を内心軽蔑し、その勤務をくだらぬものとして、冷笑していた。ただ両者の違うところは、オブロンスキーはだれもがやっていることをやりながら、自信をもって、好人物らしく笑っていたのに対して、リョーヴィンは自分に対して自信もなければ、時には腹さえ立てていたのであった。
「うちではきみのことをもうずいぶん待っていたよ」オブロンスキーは部屋にはいると、リョーヴィンの手を放しながら、そういったが、それはまるで、やっと危険区域を脱したことを示すかのようであった。「いや、きみに会えて、まったくうれしいよ」彼はつづけた。「ところで、どうだね? え? いつやって来たんだね?」
リョーヴィンは返事もせずに黙ったまま、なじみのない、オブロンスキーのふたりの同僚のほうをまじまじとながめていたが、とりわけ、優雅なグリネーヴィチの手に気をとられていた。それはとても長い白い指で、先のまがった、これまたとても長い黄色い爪がついており、その袖口《そでぐち》にはカフス・ボタンがぴかぴかと光っていた。そして、どうやら、この手が彼の注意をすっかりひきつけて、思考の自由を奪い去ってしまったらしかった。オブロンスキーはすぐそれに気づいて、にやっと笑った。
「ああそうだ、ひとつ紹介しよう」彼はいった。「こちらはぼくの同僚のニキーチン君と、グリネーヴィチ君だ」それからリョーヴィンのほうを向いて、「こちらは地方自治体で活躍している新人、いや、片手で八十キロも持ちあげるスポーツマンで、牧畜でも狩猟でもそれぞれ一家をなしている、ぼくの親友リョーヴィン君だ。あのコズヌイシェフの弟さんだよ」
「これははじめまして」老人はいった。
「兄上のコズヌイシェフさんは存じあげております」グリネーヴィチは、爪の長い、きゃしゃな手をさしのべながら、いった。
リョーヴィンはちょっと顔をしかめ、そっけなくその手を握ると、すぐオブロンスキーのほうを向いてしまった。彼は、全ロシアにその名を知られた作家である異父兄を心から尊敬していたが、しかし他人が自分をリョーヴィンとしてではなく、有名なコズヌイシェフの弟として遇することには我慢がならなかったからである。
「いや、ぼくはもう地方自治体では働いていないよ。みんなとけんかをやってね。それでもう会議にも出ないことにしたよ」彼は、オブロンスキーのほうを見ながら、いった。
「ずいぶん、早いじゃないか!」オブロンスキーは笑いながらいった。「でも、どういうわけで? 原因は?」
「話せば長いことがあるのさ。そのうちいつか、話すよ」リョーヴィンはそう答えたが、すぐその場で物語をはじめた。「まあ、簡単にいってしまえば、地方自治体の活動なんてものは、まるっきり、存在しないし、いや、だいたい、存在しえないと確信したからさ」彼は、まるでたった今だれかに侮辱でもされたような調子で、しゃべりだした。「一方からいえば、それは一種のおもちゃなんで、みんなで議会ごっこをやってるわけだが、ぼくはそんなおもちゃ遊びをするほど青二才でも、老人でもないからね。また、他方からいえは(彼はちょっと口ごもった)あれは、地方のごろ《・・》が金もうけをする手段なんだ。以前は、後見役とか裁判所がそれだったんだが、今じゃ地方自治体なんだ。つまり、賄《わい》賂《ろ》という形じゃなくて、不当な俸給という形式になってるのさ」彼はその場に居あわせただれかが自分の意見を反駁《はんばく》でもしたかのように、興奮していった。
「なるほど! どうやら、きみはまた変化したらしいね、保守主義に」オブロンスキーはいった。「だが、まあ、その話はあとにしよう」
「ああ、あとにしよう。ところで、ぼくはぜひきみに会わなくてはならん用事ができてね」リョーヴィンはグリネーヴィチの手を憎々しげにながめながら、いった。
オブロンスキーはかすかに微笑を浮べた。
「ねえ、どうしたんだい、きみはもう断じて西欧風な身なりはしないといってたのに!」彼は相手の、ひと目でフランス仕立てとみえる新調の服をじろじろながめながら、いった。「なるほど! これもまた、新しい変化か」
リョーヴィンはさっと顔を赤らめた。しかも、それはおとなが自分でも気づかぬくらい軽く赤面するのと違って、まるっきり子供のそれであった。つまり、子供は自分のはにかみがこっけいに見えるだろうと思って、いよいよあがってしまい、ついには涙がにじむほど赤面するものである。こうして、この賢明そうな、男らしい顔がこんな子供じみた表情におちいるのをながめるのは、なんとも妙なものだったので、オブロンスキーは相手の顔から目をそむけた。
「それでは、どこで会おうかね? とにかく、ぼくはぜひともきみに話したいことがあるんでね」リョーヴィンはいった。
オブロンスキーはちょっと考えこむような様子をした。
「じゃ、こうしよう。グリーンへ昼飯を食いに行って、あそこで話すことにしよう。三時までは暇だから」
「いや」リョーヴィンは、ちょっと考えてから、答えた。
「まだ寄らなくちゃならんところがあるんだ」
「じゃ、いいよ。そんなら、晩飯をいっしょにしよう」
「晩飯? いや、ぼくはなにも特別にどうってことはないんだ。ただ、ほんのふた言いえば。ちょっと、ききたいことがあるんだ。そのあとで、ゆっくり話をしよう」
「それじゃ、今すぐ、そのふた言というやつをいえよ。話はいずれ晩飯のときとして」
「そのふた言というのは、じつはこうなんだ」リョーヴィンはいった。「もっとも、そう特別なことじゃないがね」
彼の顔は、見る間に、けわしい表情に変ったが、それは自分の内気さに打ち勝とうとむきになったからであった。
「シチェルバツキー家の人たちはどうしてる? みんな相変らずかね」彼はいった。
オブロンスキーは、リョーヴィンが自分の義妹のキチイに恋していることをもうずっと前から知っていたので、かすかに微笑を浮べた。と、その目は陽気に輝きだした。
「きみはふた言でいったが、ぼくのほうはふた言じゃ答えられないね。なにしろ……ああ、ちょっと失敬……」
秘書がはいって来た。親しみのこもった、うやうやしい態度で、と同時に、すべての秘書に共通な、仕事に関しては自分のほうが上官より上《うわ》手《て》だという、あのつつましい優越感をみせながら、書類を持ってオブロンスキーのそばに近づいた。そして、質問という形で、なにやら面倒くさそうな事件の説明をはじめた。オブロンスキーは終りまで聞かずに、秘書の袖の上に優しく手をのせた。
「いや、ぼくのいったとおりに、きみやっといてくれたまえ」彼は微笑でその注意を柔らげながら、いった。それから、事件に対する自分の解釈を簡単に説明して、書類を返しながら、いった。「それじゃ、きみ、そうやっておいてくれたまえ。どうか、そういうふうに」
秘書はちょっと当惑した様子で出て行った。リョーヴィンは、相手が秘書とやりとりしているあいだに、すっかり困惑から立ちなおって、両肘《ひじ》でいすの背にもたれながら、突っ立っていたが、その顔には皮肉な表情が浮んでいた。
「わからない、ちっとも、わからないな」彼はいった。
「なにがわからないんだね?」相変らず陽気な微笑を浮べ、巻たばこを一本取りだしながら、オブロンスキーはいった。彼はリョーヴィンがなにか妙な言葉を吐くのを期待していた。
「きみたちがなにをやってるのか、わからないんだよ」リョーヴィンは肩をすくめながらいった。「きみはよくまじめな顔をしてそんなことをやっていられるね?」
「どうして?」
「どうしてって……なにもすることはないじゃないか」
「きみはそう考えても、ぼくらには仕事が山とあるんだよ」
「書類というやつがね。まあ、そうだろう。きみにはそのほうの才があるよ」リョーヴィンはつけ加えた。
「というと、きみはぼくにはなにか欠けたところがあると考えているんだね?」
「ああ、ひょっとするとね」リョーヴィンはいった。「いや、でもやっぱり、ぼくはきみの偉大さに感心して、自分の友人にこんな偉大な人物がいることを誇りに思っているんだよ。それはそうと、きみはぼくの質問に答えてくれていないね」彼はひじょうな努力をして、オブロンスキーの目をまともに見すえながら、そうつけ加えた。
「いや、わかった、わかった。まあ、ちょっと待ってくれ。いずれその件にふれるから。そりゃ、きみがカラジンスキー郡に三千ヘクタールの土地を持ち、そんなに筋肉隆々として、十二歳の少女のような新鮮さを保ってるのは、けっこうなことだよ――でも、いずれは、きみもぼくらの仲間入りをするのさ。そこで、きみの質問の件だがね。べつに変ったことはないが、それにしても、きみがこんなに長いことやって来なかったのは残念だよ」
「じゃ、なにか?」リョーヴィンはびっくりしてたずねた。
「なに、たいしたことじゃないよ」オブロンスキーは答えた。「まあ、ゆっくり話すとしよう。ところで、きみは、いったいなんの用で出て来たんだい?」
「ああ、そのことも、あとでゆっくり話すことにするよ」リョーヴィンは、またもや耳の付け根まで赤くして、いった。
「まあ、いいとも。わかったよ」オブロンスキーはいった。「いや、じつはね、家へ来てもらいたいんだが、女房のやつがちょっとからだをこわしていてね。でも、なんだよ。もしきみがあの連中に会いたいんだったら、たぶん、あの連中はこのところ四時から五時までのあいだ、動物園にいるはずだよ。キチイがスケートをやってるんでね。きみ行って来いよ。あとでぼくも寄るから。それから、いっしょに、どこかへ晩飯を食いに行こう」
「よしきた。じゃ、またあとで」
「大丈夫だろうね、ぼくはきみという男を知ってるんでね。度忘れしちまったり、急に田舎へ引きあげたりしちゃ困るよ!」オブロンスキーは笑いながら、大声でいった。
「いや、大丈夫だよ」
そういうと、リョーヴィンはもう戸口のところに来てしまってからはじめてオブロンスキーの同僚たちにあいさつを忘れたことに気づいたが、そのまま部屋を出て行った。
「どうやら、たいへんな精力家のようですな」リョーヴィンが姿を消すと、グリネーヴィチはいった。
「そうなんだよ、きみ」オブロンスキーはうなずきながら、いった。
「幸運なやつでね! カラジンスキー郡に三千ヘクタールの土地があって、なにもかもこれからだし、あんなに元気いっぱいなんだからねえ! こちとらとは違うよ」
「なにをそうこぼすことがあるんです、オブロンスキーさん?」
「いや、みじめなもんさ、まったく」オブロンスキーは、大きく溜息《ためいき》をつくと、そういった。
オブロンスキーがリョーヴィンに向って、きみはいったいなんの用でやって来たのかとたずねたとき、リョーヴィンは顔をまっ赤にし、自分でも赤くなったことに腹を立てた。それはほかでもない。彼は《きみの義妹に結婚の申し込みをしに来たのだ》と相手に答えることができなかったが、彼がやって来たのはほかならぬただそのためだったからである。
リョーヴィン家とシチェルバツキー家は、ともにモスクワの古い貴族の家がらで、いつの時代にも両家は親密な関係にあった。この結びつきはリョーヴィンの学生時代にいっそう強くなった。彼はドリイとキチイの兄に当る、若いシチェルバツキー公爵といっしょに入学準備をしていっしょに大学へ入学した。そのころリョーヴィンはよくシチェルバツキー家へ出入りして、すっかりシチェルバツキー家に惚《ほ》れこんでしまった。こんなことをいうと、ちょっと奇妙に聞えるかもしれないが、事実、コンスタンチン・リョーヴィンはほかならぬ同家に、その家族に、とりわけ、シチェルバツキー家の女性たちに惚れこんでしまったのである。リョーヴィン自身には母親の思い出というものがなく、たったひとりの姉とはかなり年が離れていたので、彼はシチェルバツキー家においてはじめて、父母の死によって知らずにいた、教養と名誉に恵まれた由緒《ゆいしょ》ある古い貴族の家庭を目《ま》のあたりに見ることができたのであった。この家族はすべて、中でも女性たちは、彼にとってなにかしら神秘で詩的なヴェールでおおわれているように思われた。したがって、彼はこの家の人びとになにひとつ欠点を見いださなかったばかりか、彼らをおおっている、その詩的なヴェールの陰に、きわめて高貴な感情と非の打ちどころのない完璧《かんぺき》さを想像していた。なんのためにこれら三人の令嬢たちは一日おきにフランス語と英語でしゃべらなければならないのか、なんのために彼女たちはきまった時間に交替でピアノをひかなければならないのか、(その響きは学生たちが勉強している二階の兄の部屋まで聞えてきた)、なんのためにフランス文学や音楽や絵画やダンスの先生たちがやって来るのか、なんのために三人の令嬢たちはきまった時間になるとマドモアゼル・リノンといっしょに、それぞれ思いおもいの繻《しゅ》子《す》の毛皮外套《がいとう》を着て――ドリイのは長く、ナタリイのはやや長めだったが、キチイのは赤い靴下をぴっちりはいた、格好のよい足が丸見えになるほど短かかった――幌《ほろ》馬《ば》車《しゃ》でトヴェルスコイ並木通りへ出かけるのか、また、なんのために彼女たちは金の紋章をつけた帽子をかぶったお供をつれてトヴェルスコイ並木通りを歩かなければならないのか――すべてこうしたことをはじめ、同家の神秘的な世界で行われる他の多くのことも、彼にはとても理解できないことであったが、しかしそこで行われていることはなにもかも美しいことだと知っていたので、ほかならぬその行事の神秘性に惚れこんでしまったのであった。
大学時代に、彼は姉娘のドリイにあやうく恋をするところだったが、彼女はまもなくオブロンスキーのもとへ嫁に行ってしまった。その後、彼は妹娘に恋するようになった。彼は自分が姉妹のうちのひとりに恋をしなければならないと感じていたものの、いざだれを選ぶかとなると、さっぱりわからなかった。ところが、ナタリイも社交界へ顔を出すとたちまち、外交官のリヴォフと結婚してしまった。キチイは、リョーヴィンが大学を卒業したときには、まだほんの子供だった。若いシチェルバツキーは海軍へはいってまもなく、バルチック海で溺《でき》死《し》したので、リョーヴィンとシチェルバツキー家とのつながりは、オブロンスキーと交友があったにもかかわらず、以前よりかなり疎遠なものになってしまった。ところが、今年の冬の初めに、リョーヴィンは一年間の田舎暮しのあとモスクワへやって来て、シチェルバツキー家の人びとに会い、自分が同家の三人姉妹のうちだれに恋する運《さだ》命《め》にあったか、はじめて悟ったのであった。
ちょっと考えると、家がらがいいうえに、貧乏人と違って財産もある三十二歳の彼が、シチェルバツキー公爵令嬢に求婚することは、いとも簡単なことに思われたにちがいない。いや、あらゆる点からみて、彼はただちに良き配偶者と認められたにちがいない。ところが、当のリョーヴィンは恋のとりことなってしまったので、彼の目にはキチイがあらゆる点で完全無欠な、この世のすべてのものを超越した存在に思われた。しかも彼自身はこの世の卑しい存在にほかならぬのであるから、周囲の人もキチイ自身も、自分が彼女にふさわしいなどとは考えるはずもないと思いこんでいたのである。
キチイに会うために足しげく通った社交界で、ほとんど毎日のようにキチイと顔を合せながら、モスクワで二カ月というもの夢うつつのうちに暮したあと、リョーヴィンは急に、そんなことはとても不可能なことだときめて、田舎へ帰ってしまったのである。
リョーヴィンがそんなことはとても不可能なことだと思いこんだのは、自分がキチイの肉親たちの目には優雅なキチイの配偶者として不相応にうつるにちがいないし、当のキチイも自分を愛することなどできない相談だと考えたからであった。親たちにすれば、彼はもう三十二歳にもなるのに、まだ世間的になにひとつちゃんとした勤めも地位ももっていないというわけである。ところが、その友人たちを見わたせば、あるいは大佐の侍従武官に、あるいは大学教授に、あるいは銀行や鉄道の幹部に、あるいはオブロンスキーのように役所の長官になっているのである。一方、彼は(彼は自分が他人の目にどんな姿にうつっているか、よく心得ていた)牛をふやしたり鴫《しぎ》を撃ったり、建築に精を出したりしている一介の地主、つまり、一人前になれなかった無能なやつで、世間の常識からすれば、なんの役にもたたない連中と同じことをやっている人間であった。
いや、当の神秘的で優雅なキチイにしてみても、こんな醜い男(彼はそう自認していた)を、それも、なにひとつとりえのない、こんな平凡な男を、愛するはずがなかった。さらに、キチイに対する彼の昔の関係までが、(それは彼女の兄との交友から生れた、子供に対するおとなの関係だったが)恋にとっては新たな障害であるかのように思われた。彼が自認しているようなお人好しの醜男《ぶおとこ》は、友人としてなら愛されもしようが、彼自身がキチイを愛しているような、そうした愛情の対象となるには美男子で、とりわけ、非凡な人物でなければならないと彼は考えていたのである。
彼も女性はしばしば平凡な醜い男を愛するものだという話は聞いていたが、彼はそれを信じようとはしなかった。というのは自分を例にとってみても、彼が愛することのできたのは、ただ美しくて、神秘的で非凡な女性だけだったからである。
ところが、田舎で二カ月のあいだひとり暮しをしてみて、彼は今度の件はあのごく若いころの浮気心とは違い、その恋心は自分に一瞬の安らぎも与えぬばかりか、彼女が妻になるかならぬかという問題を解決させぬかぎり、自分は生きていくことができないし、今の自分の絶望は単に想像から生れたものであり、自分がかならず拒絶されるというなんらの根拠もないことを確信したのであった。そこで彼は、とにかく求婚して、いれられたら結婚する固い決意を秘めて、今モスクワへ出て来たのであった。でも、ひょっとして……拒絶されたらどうなるか、彼はそこまで考えてみることはできなかった。
朝の汽車でモスクワに着くと、リョーヴィンは異父兄のコズヌイシェフのところに落ち着いた。そして、着替えをすませるとすぐ、今度上京して来た理由を打ち明けて、兄の意見を聞こうと思い、書斎へはいって行った。あいにく、兄はひとりではなかった。そこには有名な哲学の教授がすわっていたが、彼はきわめて重大な哲学上の問題について、ふたりのあいだに生れた誤解をとくために、わざわざハリコフから出かけて来たのであった。この教授は前々から唯物論者たちに対して激しい論争をつづけていた。コズヌイシェフは興味をもってその論争の成り行きを見守っていたので、教授の最近の論文を読むと、さっそく手紙で反論を書き送った。つまり、相手があまりに唯物論者に譲歩していると非難したのであった。そこで、教授は彼と話し合うために上京して来たのである。ふたりの話は、今はやりの問題、すなわち、人間の行為における心理的現象と生理的現象とのあいだには境界があるか、もしあるとすればどこか、といった問題に及んでいた。
コズヌイシェフは、だれにでも見せる、例の優しさとそっけなさのいりまじった微笑で、弟を迎えると、教授に紹介してから、また話をつづけた。
眼鏡をかけた、額のせまい、小がらな、黄色い顔の教授は、あいさつのため、ちょっと、話をとぎらせたきり、リョーヴィンのほうにはほとんど注意を向けないで、そのまま、話をつづけた。リョーヴィンは腰をおろして、教授が立ち去るのを待っていたが、まもなく、ふたりの話題に興味を覚えた。
リョーヴィンも、今話題となっている論文などには雑誌の中で出会って、大学で理科を専攻した者として、自分になじみの深い自然科学の原理の発展といった意味で興味をもっていた。しかし、動物としての人類の起原とか、反射作用とか、生物学とか、社会学とかについての科学的結論は、最近ますます彼の心をとらえるようになってきた、彼自身にとって重大な生死の問題と結びつけて考えたことは一度もなかった。
兄と教授の話を聞きながら、彼は次のようなことに気づいた。ふたりは科学的な問題を精神的なものに結びつけ、何度もそこへ近づきながら、いつもいちばん重要な(と彼には思われた)点に近づくと、たちまち、そこから離れてしまい、細かい分類やら、保留やら、引用やら、暗示やら、権威の借用やら、とにかく、そうしたものに首を突っこんでしまうのであった。そのために、彼にとっては、ふたりがなんの話をしているのか、いっこうにわからなかった。
「私はそうしたことを認めるわけにはいきません」コズヌイシェフは、持ち前の明晰《めいせき》な表現と歯切れのいい発音でいった。「私はどんなことがあっても、ケイスの説には賛成することができませんね、外界に関する私の観念がすべて印象から生れたものだなんて。私は存在《・・》に関するもっとも基本的な概念を、感覚を通じて受け取っているのではありません。なぜなら、この概念を伝える特別の器官などというものはありませんからね」
「そうですね。しかし、あの連中、つまり、ヴールストをはじめ、クナウストも、プリパーソフも、こう答えるでしょう。あなたの存在意識はすべての感覚が総合されたものから生れているのであって、この存在意識というものは、感覚の結果であると、ね。いや、ヴールストのごときは、もし感覚がなければ、存在の概念もないとさえいってるくらいですよ」
「私はそれと反対のことを主張しますね」コズヌイシェフはしゃべりはじめた……
ところが、そのときもまた、リョーヴィンにはふたりがもっとも重要な点に近づきながら、またしてもそこから離れていくように思われたので、彼は思いきって、教授に質問してみることにした。
「そうしますと、もし私の感覚がなくなったら、もし私の肉体が死滅したら、もうそのときには、いかなる存在もありえないということですね?」彼はたずねた。
と、教授はさもいまいましそうに、まるで話の腰を折られて、精神的な苦痛でも受けたような面持ちで、哲学者というよりか、むしろ引き舟人夫の風貌《ふうぼう》をもつ、この奇妙な質問者をじろりとながめた。それから、《これじゃ、いったい、なんの話ができます?》といわんばかりに、コズヌイシェフのほうへ視線を移した。しかし、コズヌイシェフは、教授ほどむきになって、一方的に話をすすめていたのではなく、教授に答えると同時に、こうした質問の生れる単純かつ自然な観点をも理解するだけの余裕をもっていたので、にっこり笑って、いった。
「その問題についてはまだわれわれも解決する権利をもっていないのさ……」
「その材料をもっていないんですよ」教授も相槌《あいづち》をうってから、自分の論証をつづけた。「いや、私は次の点を指摘しておきたいですね。つまり、もしプリパーソフが主張しているように、感覚が印象を基礎とするものなら、われわれはこの二つの概念をきびしく区別する必要がある、とね」
リョーヴィンはもうそれ以上聞くことをやめて、教授が立ち去るのを待っていた。
教授が立ち去ると、コズヌイシェフは弟に話しかけてきた。
「やあ、よく来てくれたね。長くいるの? 領地《くに》のほうはどう?」
リョーヴィンは兄にとって領地《くに》のことなどたいして興味はなく、今それをきいたのは、ちょっとお世辞をいったにすぎないことを承知していたので、ただ小麦を売ったことと、金のことについて、少し答えたきりだった。
リョーヴィンは兄に結婚の意志を打ち明け、相手の忠告を聞こうと、かたく決意していたにもかかわらず、今兄に面と向い、教授との話を聞き、領地《くに》のことをたずねたときの、相手のなんとなく保護者めいた言葉の調子を耳にしたとき(母の領地は分割されなかったので、リョーヴィンはふたり分を管理していた)、リョーヴィンは、なぜかしら、今結婚の決意を打ち明けてはならぬような気がしてきた。彼には兄がこの件について自分の望むような見方をしてくれないように思われたのである。
「ところで、きみのほうの地方自治体はどうかね、え?」地方自治体にひどく関心をもち、それに大きな意義を認めているコズヌイシェフはたずねた。
「なに、まったく、知りませんよ……」
「どうして? だって、きみは郡会議員じゃないか?」
「いや、もう議員じゃありません。やめてしまいました」リョーヴィンは答えた。「だから、もう会議にも出ません」
「そりゃ、残念だな!」コズヌイシェフは、眉をひそめながら、いった。
リョーヴィンは弁解をするために、自分の地方の郡会の実状を話しはじめた。
「いや、いつもそうなんだよ!」コズヌイシェフは相手の話をさえぎった。「われわれロシア人は、いつも、そうなんだ。ひょっとすると、これはわれわれの美点かもしれんがね。つまり、その、自分の欠点に気づくという能力はね。しかし、どうやら、塩をきかせすぎるようだね。いつでも舌の先に用意されている皮肉で、自己満足しているんだから。私がいいたいのはね。もしこうした地方自治体のような権利を、他のヨーロッパ諸国の国民に与えたとしたら、ドイツ人でもイギリス人でも、きっと、その中から自由を引き出しただろうが、われわれときたら、ただ皮肉をとばして笑っているだけなんだからねえ」
「でも、いったい、なにをしろとおっしゃるんです!」リョーヴィンはすまなさそうにいった。「あれはぼくにとって最後の試みだったんです。そりゃぼくだって、一生懸命やってみました。でも、できないんです。能力がないんですね」
「能力がない、なんてことはないさ」コズヌイシェフはいった。「おまえは物事をそんなふうに見てはいないはずだがね」
「そうかもしれません」リョーヴィンは力なく答えた。
「それはそうと、おまえ、知ってるかね、ニコライのやつがまたここへやって来ているってことを?」
ニコライというのは、リョーヴィンの実の兄で、コズヌイシェフには異父弟に当るのだが、かなりの遺産を使いはたして、今ではどこの馬の骨ともわからぬ悪党どもの仲間入りをして、兄弟たちともけんか別れをしている、ならず者であった。
「なんですって?」リョーヴィンは驚いて、大声をたてた。「どうして知ってるんです?」
「プロコーフィが往来で見かけたのさ」
「この、モスクワで? どこにいるんです?知ってるんですか?」リョーヴィンは、今すぐにでも出かけるような勢いで、いすから立ちあがった。
「おまえに話したのはまずかったな」コズヌイシェフは、弟の興奮した様子に首を振りながら、いった。「私は人をやって、あれの居所をつきとめ、あれが振り出して、こちらが代って払ったトルビンあての小切手を送ってやったのさ。そしたら、こんな返事をよこしたよ」
コズヌイシェフはそういって、文鎮の下から、一通の手紙を弟に手渡した。
リョーヴィンは、その奇妙だが、なじみのある筆跡で書かれた手紙を読んだ。
『どうか、私をそっとしておいてください。親愛なる兄弟諸君にお願いしたいのはこのことだけです。ニコライ・リョーヴィン』
リョーヴィンはそれを読みおえると、なおも頭を下げたまま、その手紙を手にして、コズヌイシェフの前に突っ立っていた。
彼の心の中では、もう不幸な兄のことは忘れたいという願いと、それはよくないことだという意識が闘っていた。
「あれは、たしかに、この私を侮辱したいらしいね」コズヌイシェフはつづけた。「でも、私を侮辱することなんかあれにできやしないし、この私は心からあれを助けてやりたいと思っているんだ。もっとも、そんなことはできない相談だということも知っているがね」
「ええ、ええ」リョーヴィンは繰り返した。「兄さんのとってる態度はよくわかりますし、りっぱだと思いますよ。それでも、ぼくは、あの人のところへ行ってきます」
「もし行きたいんなら、行けばいいさ。しかし、私としては勧めないがね」コズヌイシェフはいった。「つまり、自分のことについては、私はなにも恐れることはないし、あいつも、私とおまえとの仲をさくことはできまいからね。しかし、おまえとしては、行かないほうがいいんじゃないかね。助けるなんてことは不可能だよ。でも、やりたいようにするさ」
「そりゃ、助けることは不可能かもしれませんよ。しかし、ぼくとしては、とくにこの際――ええ、これは別の問題ですが――どうにもじっとしていられないような気がするんです」
「そうかね、その気持は私にはわからないがね」コズヌイシェフはいった。「ただひとつわかっていることは」彼はつけ加えた。「これは謙遜《けんそん》の教えだということさ。ニコライが今のような身になってからというもの、私は卑劣な行為と呼ばれているものに対して、前とは違って、もっと寛大な見方をするようになったからね……あれがなにをしでかしたか、おまえも知ってるだろうが……」
「ああ、ひどい、まったくひどいことだ!」リョーヴィンは繰り返した。
コズヌイシェフの召使から兄の住所を受けとると、リョーヴィンはすぐに、兄のところへ出かけようとしたが、また考えなおして、晩までそれをのばすことにした。なによりもまず、心の安らぎをうるために、モスクワへやって来た目的の仕事を片づける必要があった。リョーヴィンは兄のところからオブロンスキーの役所へおもむき、そこでシチェルバツキー家の人びとの様子を聞くと、たぶん、キチイに会えるだろうと教えられた場所へ馬車を走らせた。
四時に、リョーヴィンは胸をどきどきさせながら、動物園の前で辻《つじ》馬《ば》車《しゃ》をおり、小道づたいに、手《て》橇《ぞり》すべりの山とスケート場のあるほうへ向って歩いて行った。彼は車寄せにシチェルバツキー家の馬車を見かけたので、今すぐてっきり彼女に会えるものと思っていた。
それはからりと晴れあがった、凍《い》てのきびしい日だった。車寄せに馬車や、橇や、辻馬車や、憲兵たちが列をなして並んでいた。こざっぱりした身なりの人びとが、明るい日の光に帽子をきらきらさせながら、入口のところや、棟《むな》木《ぎ》に木彫りの飾りをつけたロシア式の小屋のあいだの、きれいに掃き清められた小道に群がっていた。雪の重みで、巻毛のような枝をすべてたらしている、庭園の白樺《しらかば》の老樹は、まるで新しい荘重な袈裟《けさ》で飾りたてられたみたいであった。
彼は小道をスケート場へ向って歩きながら、自分にいいきかせるのだった。《興奮してはいかん。落ち着いていなければ。なにをそわそわしているんだ? どうしたというんだ?だまれ、このばかものめ》彼はそう自分の心に向って叫んだ。そして、彼が落ち着こうとすればするほど、ますます息がつまってきた。だれか知人が向うからやって来て、彼に声をかけたが、リョーヴィンは相手がだれかも見分けがつかぬほどだった。彼は手橇すべりの山へ近づいたが、そこでは橇をおろしたりあげたりする鎖ががらがら鳴ったり、すべり落ちる手橇の音がとどろいたり、陽気そうな人の声が響いていた。彼はさらに数歩歩いて行った。と、彼の目の前にスケート場がひらけ、そのとたん、すべっている人びとの中に、すぐ彼女の姿が認められた。
彼は心臓をしめつける歓喜と恐怖の思いから、彼女がそこにいることを知った。彼女はひとりの婦人と話をかわしながら、スケート場の向うはしに立っていた。彼女の身なりにも、ポーズにも、どこといって、少しも変ったところはなかった。しかし、リョーヴィンにとっては、この群集の中で彼女を認めることは、刺草《いらくさ》の中でばらの花を捜すように、いともたやすかった。すべてのものが彼女の存在によって輝いていた。彼女こそは、周囲のすべてのものを明るく照らすほほえみであった。《おれは、ほんとに、氷の上を、彼女のところまでいけるだろうか?》彼はちらっとそう考えた。彼女のいる場所は、まるで近づいてはならぬ聖地のように思われ、一瞬、彼はそのまま帰ってしまおうかとさえ思った。それほど彼は恐ろしくなったのだ。彼はようやく、ひるむ自分をおさえつけて、彼女のまわりにはあらゆる人びとが歩きまわっているのだから、自分もスケートをはいて彼女のところまで行かれるのだと判断することができた。彼は相手が太陽でもあるかのように、長いこと彼女を見つめるのを避けながら、池へおりて行ったが、しかし、彼女の姿は、太陽と同じく、見ないでも、それとすぐわかった。
一週間のうちでも、この日のこの時刻には、同じサークルの、互いに顔見知りの人びとが氷の上に集まっていた。そこには技《わざ》を誇るスケートの名手も、いすの背につかまって、おっかなびっくりすべり方を習っている人びとも、少年たちも、健康上の理由からすべっている年配の人びともいたが、だれもかれもリョーヴィンの目には選ばれた幸福な人たちに見えた。なぜなら、彼らはそこに、彼女のそばにいたからである。すべっている人びとはだれも、まったく平然として、彼女に追いついたり追いこしたり、時には彼女と言葉をかわしたりまでしながら、すばらしい氷と好天に恵まれて、彼女とはまったく無関係に、はしゃぎまわっていた。
キチイの従兄妹《いとこ》のニコライ・シチェルバツキーは、短いジャケツに細いズボンをはいて、スケート靴のまま、ベンチに腰をおろしていたが、リョーヴィンの姿を見つけるや、大声で呼びかけた。
「よう、ロシア一番のスケーター! いつ来たんです? すばらしい氷ですよ、さあ、早くスケートをお着けなさい」
「ぼく、スケートがないんですよ」リョーヴィンは答え、彼女の目の前でこんなに大胆に無造作な態度をとるニコライにびっくりしながら、彼女のほうは見ずに、しかも一刻たりとも彼女の姿を視界から見失わずにいた。彼は太陽が近づいて来るのを感じた。彼女はすみのほうにいたが、そのとき深い編上げ靴をはいたほっそりとした足をややひろげ、見るからに、おっかなびっくりの様子で、彼のほうへすべって来た。と、ロシア風の服を着たひとりの少年が、猛烈に両手を振りかざしながら、低く氷面に身をかがめて、彼女を追い越した。彼女のすべり方はまったくあぶなげであった。彼女は紐《ひも》でつるした小さなマフから両手を出して、万一に備えていたが、リョーヴィンのほうを向いて、それと気づくと、彼に対してと同時に自分の臆病さに対しても、にっこり笑った。カーヴが終ると、彼女は弾力のある片足でひとけりして、まっすぐに、ニコライのほうへすべりこんで来た。そして、その手につかまると、微笑を浮べながら、リョーヴィンにうなずいてみせた。彼女はリョーヴィンが想像していた以上に美しかった。
彼はキチイのことを思うとき、いつも、彼女の容姿全体を、とりわけ、形のいい娘らしい肩の上に、そっとのっている、あの子供のように朗らかで、人の良い表情を浮べた、小さな、ブロンドの頭の美しさを、まざまざと思い浮べることができた。その顔の表情の子供らしさは、繊細な容姿の美しさと一体になって、彼がよく記憶している、あの特別の優雅さをかもしだしていた。しかし、彼がいつも、なにか思いがけぬことのように驚かされるのは、彼女のつつましい、落ち着いた、誠実そうな目の表情と、とくに、その微笑であった。この微笑は、いつも、リョーヴィンを魅惑の世界へ連れ去って、彼はそこで幼い日々でさえめったに味わったことのないほど、自分を生きいきとのびのびしたものに感ずるのであった。
「もうずっと前からこちらにいらして?」キチイは相手に手をさしのべながら、いった。「あら、すみません」彼女はマフから落ちたハンカチを彼が拾って渡したとき、そうつけ加えた。
「ぼくですか? ちょっと前に、きのう……いや、きょう、着いたばかりです」リョーヴィンは興奮のあまり、すぐには彼女の質問がのみこめずに、答えた。「お宅のほうへうかがうつもりだったんですが」彼はそこまでいって、ふと、自分が彼女を捜していたわけを思いだすと、すっかりどぎまぎして、顔を赤らめた。「あなたがスケートをなさるなんて、知りませんでした。とてもおじょうずですね」
キチイは注意ぶかくじっと彼の顔を見つめたが、それはなぜ相手がどぎまぎしたか、その原因を見きわめようとするふうだった。
「あなたにほめていただくなんて、光栄ですわ。だって、こちらでは今でも、あなたがすばらしいスケーターでいらしたという評判ですもの」黒い手袋をはめた、かわいい手で、マフにおちた霜の針を払いおとしながら、キチイはいった。
「ええ、昔はずいぶん夢中になってすべったものでした。なんとか完璧《かんぺき》を期そうと思いましてね」
「あなたはなにごとでも、夢中になっておやりになるのね」キチイは微笑しながら、いった。「あなたのおすべりになるところを、ぜひ拝見したいわ。さあ、スケートをお着けになって。ごいっしょに、すべりましょうよ」
《ごいっしょに、すべりましょうよ、だって? そんなことがありうるだろうか?》リョーヴィンは相手の顔をながめながら、心の中で思った。
「すぐ、はいて来ます」彼はいった。
そして、彼はスケートをつけに行った。
「ずいぶん長いことお見えになりませんでしたな、だんな」スケート場の男は、彼の片足をささえて、踵《かかと》のねじをしめながら、いった。「あなたのあとにつづく名手はまだだんなさま方の中におりませんな。これでよろしゅうございますか?」彼はバンドをしめながら、いった。
「いいよ、いいよ。どうか、早くしてくれ」リョーヴィンは、思わず顔にひろがる幸福の微笑を、やっとのことでおさえながら、答えた。《そうだ、これこそ、ほんとうの生活というものだ。これこそ、ほんとうの幸福というものだ》彼は心の中で考えた。《ごいっし《・・・・》ょに《・・》、すべりましょうよ《・・・・・・・・》、ってあの人はいった。今打ち明けてしまおうか? でも、今いうのはこわいな。だって、今おれは幸福なんだから。たとえそれが期待だけでも、幸福なんだから……じゃ、そのときは?……でも、やっぱり、いわなくちゃ! 弱気なんか、追っぱらえ!》
リョーヴィンは立ちあがり、外套を脱ぐと、小屋のまわりのざらざらした氷の上をひとすべりして、なめらかな氷の上へ出た。それから、まるで自分の意志ひとつで、スピードを速めたり、ゆるめたり、方向を変えたりすることができるように、いともやすやすと、すべりはじめた。彼はちょっとびくびくしながら彼女のほうへ近づいて行ったが、再びその微笑を見て安心した。
キチイは彼に片手をさしのべた。そこで、ふたりは少しずつスピードを速めながら、いっしょに並んですべりだしたが、スピードがつくにつれて、彼女はいっそう強く彼の手を握るのだった。
「あなたとごいっしょだと、とても早く上達できそうな気がしますわ。あたくし、なぜかしら、あなたのこと頼もしく思ってるんです」キチイはいった。
「ぼくのほうも、あなたが頼りにしてくださると、自分に自信が出てくるんですよ」彼はそういったが、すぐに、自分のしゃべったことに驚ろいて、顔を赤らめた。そして実際、彼がその言葉を口にするや、見るまに、まるで太陽が雲に隠れたように、彼女の顔からは今までの優しさが消えていった。そしてリョーヴィンは彼女の顔に、なにか考えごとをしようと努めている、かねて見覚えのある表情を認めた。そのなめらかな額の上に、一本のしわが浮んだのである。
「なにかお気にさわったことでも? もっともこんなことをおたずねする資格もありませんが」彼はあわてていった。
「どうしてですの?……いいえ、べつに気にさわったことなんてありませんわ」キチイはそっけなくいってから、すぐにこうつけ加えた。「あなた、マドモアゼル・リノンにお会いになって?」
「いいえ、まだです」
「じゃ、行っておあげなさいよ。あの方、あなたのことがとてもお好きでいらっしゃるから」
《こりゃ、なんてことだ? 彼女をおこらしてしまったのかな。ああ、神さま、助けてください!》リョーヴィンはそう心の中でつぶやくと、ベンチに腰かけていた、白髪のフランスの老婦人のところへすべって行った。その婦人は義歯をむきだしにして、にこにこ笑いかけながら、彼を旧友のように迎えいれた。
「ねえ、ほら、こんなに大きくなって」彼女はキチイのほうを目でうなずきながら、いった。「そして、こちらは年をとっていくんですよ。今じゃ Tiny Bear も大きくなりましたからね」そのフランス婦人は笑いながら言葉をつづけ、リョーヴィンがいつか三人の令嬢をイギリスの童話に出てくる三匹の子《こ》熊《ぐま》になぞらえた冗談を思いださせた。「ねえ、覚えていらっしゃる、いつも、そうおっしゃってらしたじゃありませんか?」
彼はまったく覚えがなかったが、彼女のほうは十年このかたこのしゃれをとばしながら、すっかりそれが気に入っているのであった。
「さあ、さあ、すべっていらっしゃい。うちのキチイもよくすべれるようになりましたでしょ。ねえ、ほんとに?」
リョーヴィンがまたキチイのそばへ駆けもどったときには、もうその顔には先ほどのきびしさは消えて、そのまなざしは前と同じように、心のこもった、優しいものだったが、リョーヴィンには、その優しさの中に、なにか特別の、わざととりすました調子があるように思われた。そして、彼はなんとなくものうくなった。彼女は自分の年とった女の家庭教師のことや、その奇行のことを話してから、今度は彼の暮しぶりについてたずねてきた。
「冬は田舎《いなか》にいらして退屈じゃありません?」彼女はいった。
「いいえ、退屈どころか、ぼくはとても忙しいんです」彼はそう答えながら、相手がとりすました調子に話をもっていこうとしているのに、この冬の初めのときと同様、自分のほうはその調子から抜け出ることができないような気がしていた。
「長くご滞在ですの?」キチイは彼にたずねた。
「わかりません」彼は自分でもなにをいっているのかわからずに、そう答えた。そのとき、彼はふと、もし自分が相手のとりすました友情の調子にひきこまれたら、今度もまたなにひとつきめることもできないで立ち去るようになるだろうと思ったので、相手に逆らうことにきめた。
「なぜおわかりになりませんの?」
「わかりませんね。それはあなたしだいですから」彼はそういったとたん、思わず、自分の口にした言葉に身ぶるいした。
彼の言葉が聞えなかったのか、それとも、聞きたくなかったのか、とにかく、彼女はつまずきでもしたように、二度ばかり、片方の足をとんとんやってから、急いで彼のそばを離れていった。彼女はマドモアゼル・リノンのほうへすべって行き、相手になにか話しかけたあと、婦人たちがスケート靴を脱いでいた小屋のほうへ足を向けた。
《ああ、おれは、いったい、なんてことをしたんだろう! ああ、神さま! 助けてください、いい知恵をかしてください!》リョーヴィンは祈るような気持でつぶやいたが、それと同時に、なにか激しい運動の欲求を感じて、さっと一気にすべりだし、内に外にあざやかな円を描いていった。
ちょうどそのとき、新しいスケーター仲間の名手といわれている若者のひとりが、口にたばこをくわえ、スケートをはいたまま、喫茶店から出て来ると、さっと駆けだして、がちゃがちゃ音をたて、とんとんとびはねながら、スケートのまま階段をおりはじめた。下へ飛ぶようにしておりると、彼は自由な両手の位置さえかえずに、すぐそのまま、氷の上をすべりだした。
「ははあ、あれが新しい手なんだな!」リョーヴィンはそうつぶやくと、その新しい手をやろうと、すぐ、階段を駆けのぼった。
「けがをしないように。なれなきゃむりですよ」ニコライ・シチェルバツキーが彼に向って叫んだ。
リョーヴィンは石段の上へ上がり、そこから勢いよく走りだすと、なれない動作なので両手で平衡を保ちながら、下へ駆けおりて行った。最後の一段で、ちょっと、よろめいたが、片手がかすかに氷の表面にふれただけで、そのまま、勢いよく姿勢をたてなおすと、笑い声をたてながら、ずっとすべって行った。
《すばらしい、いい方だわ》そのとき、マドモアゼル・リノンといっしょに小屋を出たキチイは、静かにいつくしむような微笑を浮べて、好きな兄でも見守るように、彼をながめながら、心の中でつぶやいた。《でも、あたしがいけないのかしら、なにか悪いことでもしたのかしら? みんなはコケティシュだっていうけれど。そりゃ、あたしが愛してるのはあの方ではないってことはわかってるわ。でも、それでもやっぱり、あの方といっしょにいると楽しいわ。とてもすばらしい方なんですもの。でも、なんだって、あんなことをおっしゃったのかしら?……》キチイはちらっとそう考えた。
リョーヴィンは、キチイが石段のところで待っていた母親と帰ろうとしているのを見て、激しい運動のために頬《ほお》を紅潮させたまま、立ち止って、ちょっと考えこんだ。彼はスケートを脱ぐと、園の入口のところで母娘《おやこ》に追い着いた。
「まあ、ようこそ」公爵夫人はいった。「宅では、相変らず、木曜日にお客をいたしております」
「というと、きょうですか?」
「どうぞ、いらしてくださいまし」公爵夫人はそっけなくいった。
このそっけなさにキチイは心を痛めたので、なんとかして、母親の冷たい態度を柔らげたいという思いを、おさえることができなかった。彼女は振り向いて、微笑をたたえながらいった。
「では、のちほど」
そのとき、オブロンスキーは帽子を横にかぶり、目はおろか、顔じゅうを輝かせながら、陽気な征服者然として園内にはいって来た。ところが、姑《しゅうとめ》のそばまでやって来ると、急に沈んだ、申しわけなさそうな顔つきをして、ドリイの健康をたずねる夫人の質問に答えた。静かな、沈んだ調子で姑との話を終えると、彼はぐっと胸を張って、リョーヴィンの腕を取った。
「さあ、そろそろ、出かけようじゃないか」と、彼はいった。「ぼくはずっと、きみのことを考えていたんでね。ほんとによく出て来てくれたね」彼は意味ありげに相手の目をのぞきこみながら、いった。
「ああ、行こう、行こう」幸福そうなリョーヴィンは、今耳にした「では、のちほど」という声の響きと、それをつぶやいたときの彼女の微笑になおも酔いながら、いった。
「《イギリス会館》にするか、《エルミタージュ》にするか?」
「どっちでもいいよ」
「それじゃ、《イギリス会館》にしよう」オブロンスキーはいったが、《イギリス会館》にきめたのは、そこのほうが《エルミタージュ》より借金が多かったからである。彼は借金のためにそこを避けては悪いと考えたのである。
「きみは辻馬車を待たしてあるんだね? いや、けっこう。ぼくは箱馬車を帰してしまったのでね」
道々、ふたりの友人は、ずっと、黙りこんでいた。リョーヴィンは、キチイの顔に表われた表情の変化がなにを意味するものか思いあぐねながら、時には望みがあるぞと信じこんでみたり、すぐまた、絶望におちいって、望みだなんて狂気のさただとはっきり自覚するのだった。が、それにもかかわらず、彼は自分があの微笑を見、「では、のちほど」という言葉を聞く前とは、まったく別人になっているような気がした。
オブロンスキーは、道々、晩飯のメニュー《・・・・》を考えていた。
「きみはたしか、ひらめ《・・・》が好きだったね?」彼は馬車を乗りつけたところで、リョーヴィンにたずねた。
「え?」リョーヴィンは問いかえした。「ひらめ? ああ、ぼくは、ひらめ《・・・》が、とっても好きだよ」
10
リョーヴィンは、オブロンスキーと連れだってホテルへはいって行ったとき、友人の顔やからだ全体になにか控えめな輝きとでもいった、一種独特の雰《ふん》囲《い》気《き》がただよっているのに気づかずにはいられなかった。オブロンスキーは外套《がいとう》を脱ぎ、帽子をあみだにかぶったまま、食堂へ通ると、燕《えん》尾《び》服《ふく》を着、ナプキンを手にして四方から走り寄ってくるタタール人たちに、用をいいつけた。どこででもそうであるように、そこでも、うれしそうに彼を迎える知人たちに向って、彼は左右に会釈しながら、スタンドのほうへ近づき、小魚をさかなにウォトカを一杯ひっかけると、カウンターにすわっていた、リボンや、レースや、カールで飾りたてたフランス女になにかしゃべりかけた。と、そのフランス女までが声をたてて笑いころげたほどであった。リョーヴィンがウォトカを飲まなかったのは、ただ、このフランス女が気に食わなかったからである。その女は全身が入れ毛とpoudre de riz  とvinaigre de toilette でできているみたいであった。彼はまるでけがらわしい場所を避けるように、あわてて、女のそばを離れた。彼の心はすっかりキチイについての思いでいっぱいになっており、その目も勝利と幸福との微笑に輝いていた。
「さあ、閣下、こちらへどうぞ。ここでしたら、落ち着けてよろしゅうございますよ、閣下」大きな尻《しり》に燕尾の裾《すそ》を開いた、白髪の老タタール人がとくにしつこくついて来て、いった。「さ、どうぞ、閣下」彼はリョーヴィンにも声をかけたが、それはオブロンスキーに対する敬意のしるしとして、その客をもてなしてのことであった。
青銅の壁燭台《かべしょくだい》の下の、もうちゃんとテーブル・クロスのかかった丸テーブルの上へ、たちまち真新しいテーブル・クロスをひろげると、老僕はビロード張りのいすを引き寄せ、手にナプキンとメニューを持ったまま、注文を聞くために、オブロンスキーの前に立った。
「閣下、もしお望みでしたら、じきに、別室のほうもあきましてございます。ゴリーツィン公爵がご婦人の方と見えていらっしゃいますので。牡蠣《かき》は新しいのがはいりましてございます」
「ああ、牡蠣がね」
オブロンスキーは、ちょっと、考えこんだ。
「ひとつ、予定を変えてみるか、リョーヴィン?」彼はメニューの上に指をとめたままいった。と、その顔つきは真剣に迷っているみたいだった。「牡蠣はいいやつかね? よく吟味してくれよ!」
「フレンスブルグのでございます、閣下、オーステンデのはございません」
「フレンスブルグでも、生きはいいのかい?」
「きのう、はいりましたもので」
「それじゃ、ひとつ、牡蠣から始めてみるか。またそのあとで、すっかり予定を変えてもいいし、どう?」
「なんだっていいよ。ぼくにはスープとカーシャがいちばんいいんだけど。でも、ここじゃ、そんなものないだろうからね」
「カーシャ・ア・ラ・リュスでございますか?」タタール人のボーイは、まるで赤ん坊に対する保母のような態度で、リョーヴィンの上にかがみこみながら、いった。
「いや、冗談はぬきにして、きみの選んだものでけっこうだよ。ぼくはスケートで駆けまわったあとなので、腹がへってるんだ。だから、思いちがいをしないでくれよ」オブロンスキーの顔に不満げな表情を認めて、リョーヴィンはつけ加えた。「きみの選択にけちをつけるわけじゃないんだから。ぼくは喜んで、たくさん、ごちそうになるよ」
「大いにけっこう! なんといっても、これはこの世の楽しみの一つだからね」オブロンスキーはいった。「それでは、おい、きみ、われわれのところに、牡蠣を二十、いや、足りないかな、そう、三十ばかりに、野菜の根入りスープ……」
「プランタニエールでございますね」タタール人はあとをひきとった。ところが、オブロンスキーは、どうやら、相手にフランス語で料理の名前をいう満足を与えてやりたくないようであった。
「野菜の根入りだよ、いいね? それから、濃いソースのかかったひらめ、それから……ロースト・ビーフ。よく吟味して、いいのを頼むぜ。うむ、去勢鶏《カプルン》もいいな。それから、罐詰《かんづめ》の果物《くだもの》だ」
タタール人は、料理の名前をフランス語でいわないオブロンスキーの癖を思いだして、彼のあとからついていわなかったが、注文の品を全部メニューどおりに、そっと、繰り返すことで満足した。《スープ・プランタニエール、チュルボー・ソース・ボーマルシェ、プラルド・ア・レストラゴン、マセドアヌ・ド・フリュイ……》そして、すばやく、まるでばね仕掛けのように、とじたメニューを置くと、もう一つの、ワイン・メニューを取って、オブロンスキーのほうへさしだした。
「なにを飲もうかね?」
「ぼくはなんでも。ただ、ほんの少し。シャンパンでも」リョーヴィンはいった。
「え? 初めから? うむ、まあ、それもいいな。きみはホワイト・ラベルのやつが好きだったね?」
「カシェ・ブラン」タタール人が言葉をついだ。
「じゃ、そのマークのを牡蠣のときに出してくれ。あとはまたにして」
「かしこまりました。テーブル・ワインのほうはなににいたしましょう?」
「ニュイをくれ。いや、やっぱり、例のシャブリのほうがいいな」
「かしこまりました。あなたさま《・・・・・》のチーズはいかがなさいます?」
「そうだな。じゃ、パルメザンを。それとも、きみはなにかほかのがいいかい?」
「いや、ぼくはなんでもいいよ」リョーヴィンは微笑をおさえかねて、いった。
そこでタタール人は燕尾の裾をひるがえしながら駆けだして行ったが、ものの五分もすると真珠色の殻の上に開いた牡蠣の皿と、酒の瓶《びん》を指のあいだにはさんで、飛ぶようにしてはいって来た。
オブロンスキーは、糊《のり》のきいたナプキンをもみほぐし、それをチョッキのあいだにはさむと、両手をゆったり構えて、牡蠣の皿にとりかかった。
「うむ、悪くないね」彼は銀のフォークで真珠色の殻から汁気の多い身をはがし、次々にそれを口に入れながら、いった。「悪くないね」彼はまたそのうるみをおびて輝いているまなざしで、リョーヴィンとタタール人とを、交互にながめやりながら、繰り返すのだった。
リョーヴィンは牡蠣も食べたが、彼にはチーズをのせた白パンのほうが口にあった。しかし、それよりも彼はオブロンスキーに見とれていた。いや、タタール人までが、コルクを抜いて、じょうご形の薄いグラスに、泡《あわ》だつ酒を注《つ》いでしまうと、見るからに満足そうな微笑を浮べて、白いネクタイをなおし、オブロンスキーのほうをながめていた。
「きみはあまり牡蠣が好きじゃないらしいね?」オブロンスキーはグラスを干しながら、いった。「それとも、なにか気にかかることでもあるのかい、え?」
彼はリョーヴィンが陽気であってほしかったのである。ところが、リョーヴィンは陽気でないというほどではなかったが、なにかこう気づまりな感じだった。彼は心にある一事のために、こんなレストランの中で、女連れの客が食事をしている別室などにはさまれて、人びとの足音や喧騒《けんそう》を聞いているのが、妙に心苦しく、落ち着かなかったのである。また、ブロンズ、姿見、ガス燈、タタール人といった道具だてもみな、彼には気に食わなかった。彼は自分の心を満たしているものをけがすことを恐れていたのである。
「ぼくが? ああ、気にかかることがあるんだ。でも、そればかりじゃない。ぼくには、こういうものがみんな気づまりなんだよ」彼はいった。「きみには想像もつかんだろうが、ぼくのような田舎者にとっては、こうしたものはみんなどうにも奇妙なものに思われるのさ、ちょうどきみの役所で会った、あの紳士の爪みたいにね……」
「ああ、ぼくも気づいていたよ、きみがあの哀れなグリネーヴィチの爪にひどく興味をもっていたことはね」オブロンスキーは苦笑しながら、いった。
「やりきれないことだよ」リョーヴィンは答えた。「まあ、ひとつ、きみも努力して、ぼくの身にもなって、田舎者の観点に立ってくれよ。田舎じゃ、ぼくたちはなるべく働きやすいように、自分の手を守ってるんで、そのためには、爪も切るし、時には袖をたくしあげるのさ。ところが、こちらじゃ、みんながわざと、伸ばせるだけ爪を伸ばし、小皿大の飾りボタンをつけて、手ではなにひとつできないようにしているんだからね」
オブロンスキーは、愉快そうに笑った。
「だが、それはつまり、荒仕事をする必要がないというしるしなんだね。知的な労働をしているという……」
「たぶん、そうだろう。しかし、それにしても、やっぱり、ぼくにはこっけいだね、つまり、ぼくたち田舎者は早く仕事にかかれるように、急いで飯をかっこむのに、今ぼくときみは、あまり早く満腹しないようにと、牡蠣なんか食べているじゃないか。まあ、それがこっけいに見えるのと同じことだね……」
「いや、もちろんだとも」オブロンスキーは相手の言葉をひきとった。「しかし、その点にこそ、教養というものの目的があるんじゃないか。いっさいのものから快楽を作りだすということが」
「ふん、それが目的だとしたら、ぼくはむしろ野蛮人でありたいね」
「なに、きみはそうでなくても野蛮人さ。リョーヴィン家の連中はみんな野蛮人だよ」
リョーヴィンはほっと溜息《ためいき》をついた。兄のニコライのことを思いだすと、気がとがめて、胸苦しくなり、思わず、眉をひそめた。が、そのとき、オブロンスキーのしゃべりだした話に、彼は、たちまち、気をとられてしまった。
「ときに、どうだい、今晩、われわれのところへ、つまり、シチェルバツキー家へ出かけて来るかね?」からになったざらざらの牡蠣殻をわきへおしやり、チーズを手もとに引き寄せて、彼は意味ありげにその目を輝かしながら、いった。
「ああ、かならず、出かけるよ」リョーヴィンはいった。「もっとも、公爵夫人はあまりぼくを呼びたくないらしかったがね」
「なにいってるんだ! くだらん! あれはあの人の癖なんだよ……おい、きみ、スープだ!……あれはあの人の癖なんだよ、grand dameのね」オブロンスキーはいった。「ぼくも行くけれど、こちらはボーニナ伯爵夫人のところへ合唱の練習にも行かなくちゃならんのでね。それにしても、きみはれっきとした野蛮人だよ。だって、きみが不意にモスクワから姿を消しちまったことなんか、なんて説明できるかね? シチェルバツキー家の連中なんか、ぼくにしょっちゅう、きみのことをきいたもんだよ、まるでぼくが知らないわけはないっていうふうに。ところが、ぼくの知ってるただ一つのことは、きみはいつでも、だれもやらないことをする、ってことだけだからね」
「ああ」と、リョーヴィンはゆっくりと、興奮した面持ちでいった。「きみのいうとおり、ぼくは野蛮人だよ。しかし、ぼくが野蛮人だっていうのは、黙ってここを発《た》つことじゃなくて、今またここへやって来たってことなんだ。今度ぼくがやって来たのは……」
「いや、きみはまったく幸福な男だよ!」オブロンスキーは、リョーヴィンの目をのぞきこみながら、すばやくいった。
「なぜだい?」
「名馬はその烙印《らくいん》により、恋せる若者はそのまなざしによって見分けられる、か」オブロンスキーは朗読調でいった。「きみの前途は洋々たるものさ」
「じゃ、きみは過去の人だっていうのかい?」
「いや、過去の人ってほどじゃないが、きみには未来がある。まあ、ぼくは現在ってところだが――それが、どうもうまくないんだ」
「どうして?」
「とにかく、まずいんだよ。でも、自分のことは話したくないな。それに、どうせ、すっかり説明できるものじゃなし」オブロンスキーはいった。「それで、きみはいったいなんだってモスクワへ出て来たんだね?……おーい、片づけろ!」彼はタタール人に叫んだ。
「見当がついてるだろう?」ひとみの奥が輝いているまなざしをオブロンスキーの顔から放さずに、リョーヴィンは答えた。
「そりゃ、見当はついてるさ。でも、その話はこちらから切りだすわけにはいかないよ。でも、もうこういうだけでも、ぼくの見当が当ってるかどうか、きみにはわかるはずじゃないか」オブロンスキーは、かすかに微笑を浮べて、リョーヴィンを見つめながら、いった。
「それじゃ、きみの意見はどうかね?」リョーヴィンは震え声でいったが、自分でも顔じゅうの筋肉がぶるぶる震えるのを感じていた。「この件についてどう見ている?」
オブロンスキーはリョーヴィンの顔から目を放さないで、ゆっくりとシャブリの杯を干した。
「ぼくがかい?」オブロンスキーはいった。「ぼくとしてはこれ以上望ましいことはないね。考えられるかぎりで最善の道だよ」
「でも、きみは思いちがいをしてるんじゃないかな? ぼくが今なんの話をしているのか、わかっているのかい?」リョーヴィンは相手の顔をのぞきこむようにして、いった。「じゃ、それは可能だっていうんだね?」
「可能だと思うね。なぜ不可能なことがあるんだい?」
「いや、きみはたしかにそれが可能だと思ってるんだね? いや、きみが考えてることを洗いざらいいってくれよ! たとえば、もし、もしもだね、ぼくが断わられたとしたら?……ぼくにはちゃんとそれがわかって……」
「なんだってきみはそんなことを考えるんだね?」オブロンスキーは相手の興奮した様子に微笑しながら、いった。
「ときどきそんな気がするんだよ。そうなればまったくやりきれないことだからね、ぼくにとっても、あの人にとっても」
「いや、どんな場合だって、娘の側にはなにもやりきれないことってのはないがね。娘はだれだって、求婚されるのを誇りとしているからね」
「そりゃ、たいていの娘はね。でも、あの人は違うよ」
オブロンスキーは微笑を浮べた。彼にはリョーヴィンの気持が手にとるようにわかっていたのである。つまり、リョーヴィンにとっては、世界じゅうの娘たちは二つの種類に分れているのだ。第一は彼女をのぞいた世界じゅうの娘たちで、それらの娘たちはあらゆる人間的欠点をもった、もっとも平凡な娘たちであり、第二の種類は彼女ただひとりで、それはなにひとつ欠点をもたない、いっさいの人間的なものを超越した存在であった。
「まあ、ちょっと、ソースをかけろよ」彼はソースをわきへ押しのけようとしたリョーヴィンの手をおさえながら、いった。
リョーヴィンはおとなしくソースをかけたが、オブロンスキーに食べる暇を与えなかった。
「いや、きみ、ちょっと、ちょっと、待ってくれ」彼はいった。「いいかい、これはぼくにとって生死にかかわる大問題だからね。今までだれともこの件についちゃ話をしたことはないんだ。第一、きみ以外のだれとも、この件についちゃ話はできないからね。そりゃ、きみとぼくとは、あらゆる点において違っているさ。趣味の点でも、物の見方の点でも、なにもかも。しかしそれでも、きみはぼくを愛し、理解してくれているので、ぼくもきみが大好きなんだ。いや、それだから頼むよ、なにもかも打ち明けてほしいんだ」
「ぼくは自分で思ってることを話しているのさ」オブロンスキーは微笑しながら、いった。「しかしね、もう少しいえばだね、ぼくの家内は――まったくおどろくべき女でね……」オブロンスキーは妻との関係を思いだすと、ほっと溜息《ためいき》をついて、しばらく口をつぐんだのち、言葉をつづけた。「あれには物事を予見する能力があるんだ。人の心を見通してしまうんだが、それだけじゃなくて、未来のことまでわかるんだ、とりわけ、結婚問題についてはね。たとえば、あれはシャホフスカヤがブレンテルに嫁《とつ》ぐことも予言したよ。だれひとり、それを信じようとはしなかったけれど、やっぱり、そのとおりになったからね。その家内が、きみの味方だからね」
「というと?」
「つまり、あれはきみが好きなばかりでなく、キチイはかならずきみの奥さんになるといってるのさ」
この言葉を聞くと、リョーヴィンの顔は、さっと微笑に輝いたが、それはほとんど感動の涙に近いものだった。
「あの人がそういってるって!」リョーヴィンは大声でいった、「ぼくはいつもいってるんだ、あの人は、きみの奥さんはすばらしい人だって。いや、もうたくさん、この話はたくさんだよ!」
彼は席から立ちあがりながら、いった。
「よかろう。しかし、まあ、かけろよ」
しかし、リョーヴィンはじっとすわっていられなかった。彼はしっかりした足どりで、鳥籠《とりかご》のような小部屋の中を二度ばかり歩きまわって、涙を見られないようにまばたきしてから、やっと元の席についた。
「いいかい」彼は念をおした。「これは恋じゃないんだよ。そりゃ、ぼくも恋をしたことはあるさ。でも、今度のは違うんだ。これはぼく自身の感情じゃなくて、なにかしら外的な力がぼくをつかまえてしまったんだ。だって、ぼくがここを逃げだしてしまったのは、そんなことはとてもありえないことだときめて、ね、わかるかい、そんなことはとてもこの世には存在しない幸福のような気がしたからなんだよ。しかし、ぼくはさんざん自分自身と闘ったすえ、それがなくては生きていく意味がないとわかったんだ。だから、なんとかきめなくちゃ……」
「じゃ、なんだって逃げだしたりしたんだい?」
「ま、ちょっと、待ってくれ! いや、まったく、いろんな考えが浮んできちゃって! なにからきいたらいいのかな! あ、そうだ。きみにはとても想像もつかないだろうね、ぼくが今のきみの言葉にどれほど打たれているかなんてことは。いや、まったく、ぼくは今すごく幸福なんだよ、なにもかも忘れてしまったよ……じつはきょう、兄のニコライのことを聞いたんだけれど……知ってるかい、兄はここにいるんだよ……でも、今は彼のことさえ忘れてしまったよ。いや、彼までが幸福でいるような気がしてきたよ。こりゃ、一種の気違いだな。ただひとつ、ぞっとするのは……いや、きみは結婚してるんだから、こうした感情もわかってるだろうが……その、ぞっとするのは、ぼくたちのように、かなりの年で、もういろいろと過去……それも愛のではなくて、罪の過去をもってるものが、いきなり、けがれを知らぬ、清純な存在に近づくってことなんだ。こりゃ、まったく唾棄《だき》すべきことじゃないか。いや、それだからこそ、自分はとてもそれにふさわしくないと感ぜざるをえないんだよ」
「なあに、きみの罪なんて軽いほうさ」
「いや、それにしても」リョーヴィンはいった。「やっぱり、『われ嫌《けん》悪《お》の情もてわが生活を振り返り、震えおののき、のろいし末に悲嘆にくれぬ……』さ。いや、そうなんだよ」
「しかたがないさ、世界がそうつくられてるんだから」オブロンスキーはいった。
「ただひとつの慰めはね、ぼくがいつも愛誦《あいしょう》している、『われを許したまえ、その功《いさお》しによらず、み恵みによりて』という、あの祈りの文句があるんだ。そういう意味でなら、あの人もぼくを許せるだろうからね」
11
リョーヴィンが杯を飲み干すと、ふたりはしばらく黙っていた。
「もうひとつ、きみに話しておかなくちゃ。きみはヴロンスキーを知ってるかい?」オブロンスキーはリョーヴィンにたずねた。
「いや、知らないね。なんだって、そんなことを聞くんだい?」
「おい、もう一本くれ」オブロンスキーは、用のないときにかぎって杯に酒を注《つ》ぎたしたり、ふたりのまわりをうろうろしていたタタール人のほうを向いていった。
「ぼくがヴロンスキーを知らなきゃならん理《わ》由《け》があるのかい?」
「だって、きみがヴロンスキーを知らなきゃならんのは、彼はきみのライバルのひとりだからね」
「ヴロンスキーって何者かね?」リョーヴィンはいったが、その顔はつい先ほどまでオブロンスキーが見とれていた、あの子供っぽい、有頂天な表情から、とつぜん、けわしい、不愉快なものに変わった。
「ヴロンスキーとはね――キリル・ヴロンスキー伯爵のむすこのひとりで、ペテルブルグ社交界の貴公子連の中でも選《え》りぬきの青年なんだ。ぼくはトヴェーリで勤務していたときに、知り合ったのさ。やっこさんが新兵募集にやって来てね。ものすごい金持で、美男子で、縁故関係も多く、侍従武官なんだ。しかも、そのうえ、とても気持のいい、好青年ときている。いや、単に、好青年といっただけでは足りないね。ここでまた知り合ったかぎりでは、教養もあり、なかなか聡明《そうめい》ときている。ありゃ、たしかに、出世する男だよ」
リョーヴィンは眉《まゆ》をひそめて、おし黙っていた。
「そこでだね、あの男がここへ現われたのはきみが発《た》ってじきだったよ。ぼくのにらんだところじゃ、やっこさん、キチイに首ったけでね。きみもわかるだろうが、母親が……」
「いや、悪いけれど、ぼくにはなんのことかわからないね」リョーヴィンは顔を暗くくもらせながら、いった。そのとたん、彼は兄のニコライのことを思いだし、兄のことを忘れていた自分にひどく腹が立った。
「ま、ちょっと、待ってくれ」オブロンスキーは微笑を浮べて、相手の手にさわりながら、いった。「ぼくは自分の知ってることをみんなきみに話しただけさ。いや、繰り返していうが、この微妙かつデリケートな問題において、まあ、推察できるかぎりにおいては、きみのほうに分があるよ」
リョーヴィンはいすの背にもたれたが、その顔色は青白かった。
「いや、それにしても、この問題はなるべく早くきめてしまうほうがいいな」オブロンスキーは相手の杯に酒を注ぎたしながら、いった。
「いや、けっこう。もう飲めないよ」リョーヴィンは杯をおしのけながら、いった。「酔っぱらっちゃうよ……ときにきみのほうはどうなんだね?」彼は、どうやら、話題を変えたいらしく、そうたずねた。
「もうひと言いっとくが、いずれにしても、この問題はなるべく早くきめるべきだね。しかし、今晩は切りださないほうがいいよ」オブロンスキーはいった。「あすの朝出かけて行って、ちゃんと正式に、結婚の申し込みをするんだ。なに、きっと、うまくいくだろうよ……」
「ねえ、きみはいつも、ぼくのところへ猟に来たいといってただろう? この春にはきっと来いよ」リョーヴィンはいった。
彼は今となって自分がオブロンスキーを相手にこんな話をはじめたことを心の底から後悔していた。彼の特別な《・・・》感情が、ライバルだというペテルブルグの一士官の話や、オブロンスキーの想像やら忠告やらで、すっかり汚されてしまったからである。
オブロンスキーはにっこり微笑を浮べた。リョーヴィンの心の動きを察したのである。
「そのうちに、出かけて行くよ」彼はいった。「それはそうと、きみ、女というやつはね、それを中心にいっさいのものがまわっているねじだからね、現に、ぼくのところも、おもしろくなくてね。大いにおもしろくないんだ。それもこれも、みんな女がもとさ。ひとつ、あけすけに、意見をいってくれよ」彼は片方の手で葉巻を取り出し、もう一方の手で杯をおさえたまま、そう言葉をつづけた。「きみの忠告が聞きたいんだ」
「それにしても、どういうことなんだね?」
「つまり、こういうことなんだ。まあ、かりにきみが結婚していて、女房を愛しているんだが、たまたま、他の女に心が惹《ひ》かれて……」
「ま、ちょっと待ってくれ。ぼくにはそんな話はまるっきり理解できないね。だって……そんな話はだね、かりにぼくが今腹いっぱい食べて、すぐそのあとパン屋のそばを通りかかったら、パンをひとつ盗む、っていうようなばかげたことじゃないか」
オブロンスキーの目は、いつもよりいっそう輝いた。
「どうしてだね? パンだって、ときにはたまらないほどいいにおいをたてていることがあるじゃないか?
Himmlisch ist's, wenn ich bezwungen
Meine irdische Begier;
Aber noch wenn's nicht gelungen
Hatt'ich auch recht h歟sch Plaisir!
この世の欲望に打ち勝つは
大いなることなれど
よしそれに打ち勝てずとも
われはなお至福をば味わう」
オブロンスキーはそういいながら、かすかに微笑した。リョーヴィンもまた微笑せざるをえなかった。
「しかし、冗談はさておいて」オブロンスキーは言葉をつづけた。「きみにもわかってほしいんだが、その女は、優しくて、かわいくて、愛すべき人間なんだ。しかも、貧しくて、身寄りがないのに、なにもかも犠牲にしてきてくれたんだ。それをいまさら、もうできてしまったからといって、きみ、おっぽりだすなんてことができるかね? まあ、かりに、家庭生活を破壊しないために別れるとしてもだよ、その女をかわいそうに思ったり、力になってやったり、慰めてやったりしちゃいけないって法があるかね?」
「あ、ちょっと、勘弁してくれ。きみも知ってるとおり、ぼくにとっちゃ、女の人はみんなただ二種類に分れているんだ……つまり、その、もっとはっきりいえば、一方にはちゃんとした女の人がおり、他方には……堕落した、いや、りっぱな女なんてあろうはずがないけれど、あの帳場にすわっていた、髪をカールして、白粉《おしろい》をぬりたくっていたフランス女、あんな女はぼくにとっちゃ、蛇《へび》も同じさ。堕落した女はみんなあれと同じさ」
「それじゃ、福音書の女は?」
「ああ、よしてくれ。キリストだって、もしこれほど濫用《らんよう》されると知ってたら、けっしてあんな言葉は口にしなかっただろうよ。福音書全体を通じて、ただあの言葉しか覚えていないんだからねえ。もっとも、これはぼくが頭で考えていることじゃなくて、心で感じていることをしゃべっているだけだよ。ぼくは堕落した女たちに対して嫌悪の情をもっているんでね。きみは蜘蛛《くも》がきらいだが、ぼくはああいう蛇がきらいだね。たぶん、きみは蜘蛛について研究したこともなければ、その習性も知らないだろうが、ぼくもそれと同じことなのさ」
「そりゃ、きみはそんなことをいってりゃ楽だよ。だって、そういう態度は、あのいっさいの難問を左手で右肩ごしにぽんぽん投げとばしていく、ディケンズの小説に出てくる紳士と同じことだからね。しかしね、事実の否定ということは――答えにはならないぜ。なにをなすべきか、教えてくれ、ほんとうにどうしたらいいんだ? 女房のほうはどんどん老《ふ》けていくのに、きみは元気いっぱいなんだ。ふと、気がついたときには、いくらきみが女房を尊敬していても、もう女房をほんとうに愛することができなくなっている自分を発見するんだ。そこへとつぜん、愛の対象が現われると、もうおしまいだ、いや、もうそれっきりなんだ!」オブロンスキーは、弱々しい、絶望的な調子で言葉をきった。
リョーヴィンはにやっと笑った。
「そうなんだ、もうおしまいなんだ」オブロンスキーはつづけた。「じゃ、どうすればいいんだ?」
「パンを盗まないことだね」
オブロンスキーは笑いだした。
「いやはや、モラリストだね、きみは! しかし、いいかね。今ここに、ふたりの女がいて、そのひとりはただ自分の権利だけを主張している。しかも、その権利たるや、きみがどうにも与えることのできないきみの愛情なんだよ。ところが、もうひとりのほうは、きみのためにすべてを犠牲にして、しかもなにひとつ要求していないんだ。おい、きみだったら、どうする? どういう行動をとる? つまり、ここんところに恐ろしい悲劇《ドラマ》があるんだ」
「その点についてぼくの本心を聞きたいというんなら、話すけれどね。ぼくはそこに悲劇《ドラマ》があるとは信じられないね。その理由はだね。ぼくの考えじゃ、愛というものには、あのプラトンが『饗宴《きょうえん》』の中で定義している二種類の愛があるんだが、それらはどちらも人間にとって試金石の役を果しているんだ。一部の人びとはただ一つの愛しか理解しないし、またもう一つの愛しか理解できない人びともいる。そして、プラトニックでない愛しか理解できない人びとは、悲劇《ドラマ》だなんて、口にする資格はないんだよ。だって、そういう愛には、いかなる悲劇《ドラマ》もありえないからなんだ。『いい目にあわせてくれて、ありがとう。さよなら』いや、もうそれだけで、悲劇《ドラマ》もけりというわけさ。また、プラトニックな愛にとっても、悲劇《ドラマ》なんてありえない、だって、そうした愛においてはなにごともはっきりしていて、清純で、しかも……」
その瞬間、リョーヴィンは自分の罪と、かつて味わった心の闘いを思いだして、急に、こうつけ加えた。
「でも、ひょっとすると、きみのいうのもほんとうかもしれないね……しかし、ぼくにはわからない、まるっきり、わからないよ」
「いや、じつはそのことなんだよ」オブロンスキーはいった。「きみはひじょうに純粋な人間だ。それはきみの美点でもあり、欠点でもある。きみ自身は純粋な性格だから、人生のすべてが純粋な現象から成り立っていることを望んでいるけれど、実際は、そんなものじゃないんだ。現に、きみは社会的な活動を軽蔑《けいべつ》しているけれど、それは仕事がつねに目的と一致することを望んでいるからなんだが、そんなことはありえないのさ。きみはまた、あるひとりの人間の活動がつねに目的をもっていることを、愛情と家庭生活とはつねに一体であることを希望しているんだが、そんなわけにはいかないのさ。この人生の変化も、魅力も、美しさも、どれもこれもみんな、光と影からできているものなんだからね」
リョーヴィンはほっと溜息をつくと、なんとも答えなかった。自分のことばかり考えていて、オブロンスキーの話など聞いていなかったのである。
そのとき、不意に、彼らはふたりとも、まったく同じことを感じた――自分たちは親友であり、いっしょに飲んだり、食ったりしたのであるから、前よりいっそう親密にならなければならないのに、お互いに、自分のことばかり考えていて、ふたりのあいだにはなにひとつ共通なものがない、ということを。オブロンスキーはこれまでに何度も、食事のあと親しみがますかわりに、かえって孤独になるこうした現象を経験しており、そんな場合にはどうすればいいか、ちゃんと心得ていた。
「勘定!」彼はそう叫んで、隣の広間へ出て行った。と、すぐにそこで知合いの副官に出会い、ある女優とそのパトロンの話をはじめた。オブロンスキーはその副官を相手に話をはじめたとたん、たちまち、ほっとした楽な気分になり、いつも頭脳と精神の緊張を極端に要求するリョーヴィンとの会話からくる疲れをいやす思いであった。
タタール人が二十六ルーブル何コペイカに、チップを加えた勘定書を持って現われたとき、田舎者のリョーヴィンは別のときなら、十四ルーブルという自分の割り前にびっくり仰天したであろうが、今はそんなことには気もとめないで、さっさと払いをすませると、家で着替えをして、自分の運命が決せられるシチェルバツキー家へおもむくために、帰途についた。
12
シチェルバツキー公爵家の令嬢キチイは十八歳であった。この冬はじめて社交界へ出たのであるが、その成功はふたりの姉以上であるばかりか、公爵夫人が期待していた以上のものであった。そればかりか、モスクワの舞踏会で踊った青年たちのほとんどすべてはキチイに恋してしまい、まだはじめての冬《シーズン》だというのに、ふたりのまじめな花婿候補が現われた。すなわち、リョーヴィンと、その出発後すぐやって来たブロンスキー伯爵である。
冬の初めにリョーヴィンが姿を現わし、足しげく訪問して、明らかにキチイを恋している様子がわかると、両親ははじめてキチイの将来についてまじめな話し合いをしたが、それはまた公爵と公爵夫人のいさかいの原因ともなった。公爵はリョーヴィンの味方で、キチイにとってあれ以上の良縁はないといった。一方、公爵夫人は問題を回避したがる婦人独特の性癖から、キチイはまだ若すぎるし、リョーヴィンもまじめな意思表示をしたことがないし、キチイも彼に心を惹《ひ》かれていないとか、その他いろいろな論拠を並べたてた。しかし、夫人は、自分が娘のためにもっといい花婿を期待しており、リョーヴィンのことをあまり快く思っておらず、したがって彼という人間をさっぱり理解していないという、肝心のことは口にしなかった。そのため、リョーヴィンが不意に田舎へ発ってしまったときには、夫人は喜んで「ほらごらんなさい、あたくしのいったとおりでしょう」と夫に勝ち誇っていったくらいである。だから、ヴロンスキーが現われたときには、夫人は前よりなおいっそう喜んで、キチイには単に良縁というだけでなく、輝くばかりの結婚をさせなければならぬという自分の意見をかためたのであった。
母親にとっては、リョーヴィンとヴロンスキーとではまったく比べものにならなかった。母親がリョーヴィンを気に入らなかったのは、彼の一風変った、過激なものの見方をはじめ、高慢に根ざしている(と彼女には思われた)社交界での彼の奔放さや、家畜や百姓相手の田舎での、(彼女の見解によれば)なんとなく粗野な彼の生活であった。さらにまた、彼が娘に恋して、一月半もせっせと通いながら、自分のほうから申し込みをしたら、さも沽《こ》券《けん》にでもかかわると心配でもしているかのように、ただなんとなくなにかを期待するように、ためらってばかりいて、年ごろの娘のいる家庭へ出入りする以上、ちゃんと心得ていなければならぬことを少しもわかっていない点が、とりわけ気にくわなかったのである。ところが、とつぜん、彼はなんの言いわけもしないで、姿を消してしまった。《でも、よかったこと、あの人はあんまり魅力がないので、キチイも夢中にならなくて》母親は心の中で考えていた。
ヴロンスキーは母親が望んでいたすべての条件にかなっていた。たいへんな金持で、頭がきれ、家がらがよく、侍従武官として輝かしい出世街道を歩んでおり、しかも魅力的な人間である。もうこれ以上望むことはできなかった。
ヴロンスキーは舞踏会のたびに、あからさまにキチイのきげんをとりながら、彼女と踊ったり、足しげく屋敷に通って来たりしている。そうなると、彼の気持の真剣さを疑うわけにはいかなかった。しかし、それにもかかわらず、母親はこの冬じゅう恐ろしい不安と動揺を感じていた。
当の公爵夫人は三十年前に、伯母《おば》の仲人《なこうど》で、嫁《とつ》いだのであった。もう前もってなにもかもわかっていた花婿候補がやって来て、花嫁候補を見、自分のほうも見られた末、仲人役の伯母が双方の印象を聞いて、それぞれに伝えた。印象は悪くなかった。やがて、きめられた日に、予期された申し込みが両親に行われ、受け入れられた。なにもかもきわめてたやすく、簡単に運ばれた。すくなくとも、公爵夫人にはそう思われた。ところが、娘たちの場合になってみると、この一見ありふれた事がら、つまり、娘を嫁にやるということが、いかに面倒な、むずかしいものであるかをしみじみ味わった。上の娘ふたり、ドリイとナタリイを嫁がせたとき、どれほど心配したことか、どれほど思案をめぐらしたことか、どれほどお金を使ったことか、どれほど夫とけんかしたことかしれなかった! ところが今、末娘を社交界へ出すについても、やはり同じような心労、同じような疑惑を味わい、姉たちの場合よりもさらに激しい争いを夫ともしなければならなかった。老公爵は、世のすべての父親と同様、娘たちの名誉と純潔についてはとくにやかましかった。彼は娘たちに対し、とりわけ、お気に入りのキチイに対しては、無分別なくらいやきもきするたちで、夫人が娘の評判をおとすようなことをするといっては、ほとんどことごとに、相手にくってかかっていた。公爵夫人は上の娘たちのときからこの夫の態度には慣れっこになっていたが、今度は夫人も公爵がやきもきするのはそれなりに原因があるのだと感じていた。彼女は最近、世間の風習が大いに変って、母親の務めがますますむずかしくなってきたことを認めた。いや、キチイと同じ年ごろの娘たちがなにかの会をつくったり、講習へ通ったり、自由に男性とつきあったり、自分たちだけで町を歩きまわったり、多くの娘たちが小腰をかがめてあいさつしなくなったりしていることを知っていた。が、なによりも重大なのは、娘たちがみんな夫を選ぶのは自分たちの仕事で、両親の知ったことではないと、かたく信じこんでいることであった。「今日では、もう昔のようなお嫁入りはないわ」――これらの若い娘たちはみんな、いや、かなり年配の者までが、そう考えて、口にまで出している始末だった。ところが、今日では、いったい、どんな嫁入りが行われているのかという点になると、公爵夫人はだれからも聞くことができなかった。子供の運命は両親がきめるべきもの、というフランス式の習慣は、受け入れられず、非難されている。また、娘たちに完全な自由を与える、イギリス式の習慣も、受け入れられず、第一、ロシアの社会ではとてもむりであった。そうかといって、媒酌というロシアの習慣は、何かしら醜悪なように思われ、みんなといっしょに当の公爵夫人までが、それを冷笑していた。しかし、ではどうしたら縁づき、嫁にやれるかという点になると、だれにもわからなかった。夫人がこの問題について話し合った人びとはだれも、口をそろえて「まあ、とんでもない。今はもうそんな古いしきたりは捨てるべきときですよ。だって、結婚するのは若い人たちで、両親じゃありませんもの。ですから、若い人たちの好きなようにさせるのがいちばんですよ」というのだった。もっとも、娘を持ってない人びとがそういうのはけっこうだが、公爵夫人は娘が男性とつきあっているうちに、恋をするかもしれぬことを、それも結婚の意志のない男や、夫としての資格のない男たちに恋してしまうかもしれぬことを承知していた。そのため、夫人は今日の若い人びとは自分の運命をきめるべきだと、いくら説得されても、けっしてそれを信ずることはできなかった。それはちょうど、いくらどんな時代になろうとも、五つの子供にとっていちばんいいおもちゃは弾丸《たま》をこめたピストルである、などということが信じられないのと同様であった。こんなわけで、公爵夫人はキチイのことについては姉たちのときよりもいっそう心を痛めていたのである。
今、夫人が恐れているのは、ヴロンスキーが単に娘のきげんを取りむすぶことだけでやめてしまいはせぬか、ということであった。夫人は娘がもう彼に夢中になっていることを知っていたが、あれは誠実な方だから、そんなことはするまいと、みずから慰めていた。が、それと同時に、今のような自由に交際できる時代には、若い娘たちを夢中にさせるのは簡単なことであり、また一般にいっても、男性の側もそうしたことにほとんど罪悪感を感じていないことも承知していた。先週、キチイはヴロンスキーとマズルカを踊ったときの話をした。その話はいくらか夫人を慰めてくれたが、しかし、すっかり、安心するわけにはいかなかった。ヴロンスキーはキチイに向って、自分たち兄弟ふたりはなにごとも母親に服従する習慣になっているから、母親に相談しなければ、重大なことはなにひとつきめられない、といった。「ですから今、母がペテルブルグから出て来るのを、なにか特別の幸福でも待つような思いで、待っているんです」と彼はいったのである。
キチイはこれらの言葉になんの特別の意味もつけないで話した。しかし、母親はそれとは別にとった。夫人は、老母が一日千秋の思いで待たれていることをも、老母がむすこの選択を喜ぶだろうことも知っていた。したがって、彼が母親の気をそこなうのを恐れて、申し込みをしないでいるのがふしぎに思われたくらいであった。しかし、夫人は当の結婚はもとより、なによりもまず自分の心労から解放されたいと願っていたので、それを信じる気になったのである。現在の夫人にとっては、夫と別れようとしている長女ドリイの不幸を見ることはまったく忍びないことであったが、しかし運命のきまりかけていた末娘のことで頭がいっぱいになり、すっかりそれに気をとられていた。きょうはリョーヴィンが姿を現わしたので、またひとつ、新しい悩みのたねがふえたわけである。夫人は、リョーヴィンに対して一時好意をよせていたらしい娘が、よけいな心づかいから、ヴロンスキーのほうを断わらなければいいが、いや、そうでなくても、リョーヴィンの上京が、ほとんどまとまりかけていた話をごたごたさせて、延期にでもならなければいいがと、そればかり心配していた。
「あの方はどうしたの、もう前から来ていらしたの?」母娘《おやこ》が家へもどったとき、公爵夫人はリョーヴィンのことをそうきいた。
「きょうですって、ママ」
「ひと言だけいっておきたいんだけど」公爵夫人はそう切りだしたが、その生きいきした、まじめくさった顔つきから、キチイはなんの話かすぐ察した。
「ママ」彼女は上気した顔を、すばやく母親のほうに向けて、いった。「どうか、お願い、そのことはおっしゃらないで。わかってますわ。みんなわかってますわ」
キチイも母親と同じことを願っていたのであるが、ただ母親がそれを願う動機に心を傷つけられたのであった。
「ただいっておきたいのは、ひとりの方に気をもたせて……」
「ねえ、ママ、お願い、もうおっしゃらないで。とってもこわいんですの、そのお話をするのは」
「じゃ、しません、しませんとも」母親は娘の目に涙を見て、いった。「でも、ただひとつだけ。ねえ、キチイ、あんたはママになにひとつ秘密をもたないって約束したわね、そうね?」
「ええ、ママ、どんなことだって」キチイはさっと頬をそめて、母親の顔をまともに見すえながら、いった。「でも、今はなんにもお話しすることありませんわ。あたし……あたし……かりにお話ししたいことがあっても、なにを、どう、いったらいいのか、わからないわ……ほんとに、わからないわ……」
《ええ、この目つきじゃ、うそはいえないわ》母親は娘の興奮と幸福に微笑をおくりながら、思った。公爵夫人が微笑したのは、今、キチイの心の中で起っていることが、かわいそうな娘にはどんなに大きな、意味ぶかいものに思われるか、察したからであった。
13
キチイは夕食をおえて夜会の始まるまでのあいだ、戦闘を前にした若者が経験するような感情を味わった。心臓は激しく高鳴り、なにひとつ考えを集中させることができなかった。
彼女は、あのふたりがはじめて顔を合せるきょうの夜会こそ、自分の運命が決せられるときだと感じていた。そして、ひっきりなしに、ふたりの面影を、時には別々に、また時には、ふたりいっしょにして、思い浮べるのであった。過ぎ去った日々のことを考えながら、彼女は優しい満ち足りた気持で、自分とリョーヴィンとの思い出にひたるのだった。少女持代の思い出と、亡《な》き兄とリョーヴィンとの友情の追憶は、自分と彼との関係に、なにかしら特別な、詩的な美しさをそえるのであった。キチイは彼が自分を愛していることを信じて疑わなかったが、その愛は彼女にとって気持のいい、うれしいものであった。そのため、リョーヴィンのことを思いだすと心が軽くなった。一方、ヴロンスキーについての思い出には、彼がこのうえなく社交的な、おだやかな人物であるにもかかわらず、なんとなく、しっくりしないものがまじっていた。それはまるで、なにか真実でないものでもあるかのようであったが、それは彼の中ではなく、(彼はきわめて単純な、好青年であった)彼女自身の中にあるのだった。ところが、リョーヴィンに対しては、彼女もまったくさっぱりと、晴ればれしたものを感じるのであった。しかし、そのかわり、ヴロンスキーとの将来を考えると、たちまち、目の前には輝かしい幸福な展望がひらけるのだが、リョーヴィンとの将来は、ただぼんやりと霧にかすんでいるのであった。
夜会服に着替えるために二階へ上がり、鏡をちらっとのぞきこんだとき、キチイはきょうこそ自分にとってすばらしい日の一つであり、自分のもつあらゆる魅力を完全に身につけていることを知って、喜んだ。それは目前に迫っていることのために、ぜひとも必要なものであった。彼女は自分が見た目にはしとやかでも、その立居振る舞いにはおおらかな気品があることを感じていた。
七時半に、キチイが客間に通るやいなや、『コンスタンチン・リョーヴィンさま』と召使が取次いだ。公爵夫人はまだ居間にいたし、公爵は出てこなかった。《やっぱり、そうだわ》キチイがそう思ったとたん、全身の血がどっと心臓へ流れこんだ。彼女は鏡をちらっとのぞいて、自分の顔があまりに青白いのにぞっとした。
今こそキチイは、彼が自分ひとりのときをねらってこんなに早くやって来たのは結婚の申し込みをするためであると、はっきり承知していた。と、そのときになってはじめて、いっさいのことが、まったく別の新しい側面から彼女の前に照らしだされた。いや、そのときになってはじめて、この問題は自分ひとりに関係したことではない。つまり、自分はだれと結婚したら幸福になれるか、自分はだれを愛しているのか、といったことだけでなく、今まさに自分は愛している人を侮辱することになるのだ、ということを悟ったのであった。しかも、手ひどく侮辱することになるのだ……なんのために? 相手が好人物で、自分を愛し、自分に恋しているために。しかし、どうすることもできない。そうしなければならないのだ。そうならなければならないのだ。
《ああ、ほんとに、あたしは自分でそれをいわなくちゃいけないのかしら》彼女は考えた。《ねえ、なんといったらいいんでしょう? まさか、あなたを愛してはおりませんなんていえないし。そんなこといったら、うそになるわ、ほんとに、なんていったらいいんでしょう? ほかの方を愛しておりますっていったら? いいえ、そんなことはできないわ。ここを出て行こう、出て行ってしまおう》
キチイがもうドアのそばまで近づいたとき、彼の足音が聞えてきた。《ええ、これは卑怯《ひきょう》なことだわ。なにもこわがることはないわ!なにも悪いことなんかしていないんですもの。なるようにしか、ならないんだわ! ほんとのことを、いってしまおう。あの方なら、気まずいってこともないでしょうし。ああ、もうお見えになったわ》彼が目を輝かし、たくましいからだをいくらか臆病げに運んで来るのを見たとき、彼女は自分にいいきかせた。彼女はまるで相手の許しでも請うように、まっすぐに彼の顔を見つめながら、その手をさしのべた。
「や、これはどうも。ちょっと、早すぎたようですね」彼はがらんとした客間を見まわして、いった。が、自分の見込みどおり、だれも自分の話のじゃまをするものがいないのを見てとると、彼の顔は急にくもった。
「いいえ、どういたしまして」キチイはいって、テーブルの前に腰をおろした。
「じつは、ぼくのほうはわざとあなたがおひとりのところをねらって来たんです」彼は勇気を失わぬように、彼女の顔も見ないで、突っ立ったまま、そう切りだした。
「ママがただいままいります。きのうとても疲れましたので、きのうは……」
彼女は自分の唇《くちびる》がなにをしゃべっているのかもわからずに、ただ祈るような、いつくしむようなまなざしを相手の顔から放さずに、言葉をつづけた。
彼はちらっと彼女をながめた。と、彼女は頬をそめて、黙ってしまった。
「ぼくはさっきいいましたね。自分が長く滞在するかどうかわからないって。それはあなたしだいだって……」
キチイはしだいに近づいてくるものにどう答えたらいいのかわからなかったので、いよいよ低くその頭をたれていった。
「つまり、それはあなたしだいだということを」彼は繰り返した。「ぼくはいいたかったんです……それがいいたかったんです……ぼくはそのために上京したのです……つまり……ぼくの妻になっていただこうと思って!」彼は自分でもなにをいっているのかわからぬままに、そう繰り返した。しかし、いちばん恐ろしいことはいってしまったことを感じて、ひと息つくと、彼女のほうをながめた。
彼女は彼を見ないで、重々しく息をついていた。彼女は歓喜を味わっていたのだ。その心は幸福で満ちあふれていた。彼女は、彼の愛の告白がこれほど強い感銘を自分に与えようとは夢にも思っていなかった。しかし、それはほんの一瞬のことであった。すぐにヴロンスキーのことが思いだされた。彼女はその明るい、誠実そうなまなざしをリョーヴィンの顔にそそぎ、彼の絶望したような顔を見ると、急いで答えた。
「そうはまいりませんの……どうか、お許しになって……」
ああ、ほんの一分前までは、彼女はどんなに彼に近しい、彼の生活にとって重要な存在であったことだろう! それが今では、もうまったく無縁な、遠いものになってしまったのだ!
「そうなるよりほかにしかたがなかったんですね」彼は相手の顔を見ないで、いった。
彼は一礼すると、そのまま立ち去ろうとした。
14
ところが、ちょうどそのとき、公爵夫人がはいって来た。そして、ふたりがさしむかいになって、気まずそうな顔つきをしているのを見ると、夫人の顔には、さっと、恐怖の色が現われた。リョーヴィンはちょっと会釈しただけで、なんともいわなかった。キチイは目を伏せたまま、黙っていた。《でも、よかった、断わってくれて》母親は思った。すると、その顔は、木曜日に客を迎えるときと同じ微笑に輝いた。夫人は腰をおろすと、リョーヴィンに田舎の暮しについてあれこれたずねはじめた。彼はまたすわりなおし、そっと抜け出そうと、ほかの客が集まるのを待った。
五分ばかりすると、キチイの友だちで、去年の冬嫁いだノルドストン伯爵夫人がはいって来た。
それは黒い目をぎらぎらさせた、かわいた感じの、色の黄色い、病的で神経質な婦人であった。彼女はキチイが好きだったが、その愛情は、人妻が年ごろの娘をかわいがる例にもれず、自分のいだく幸福の理想によって、キチイを結婚させたいという願いに現われていた。そして、彼女はキチイをヴロンスキーに嫁がせたいと願っていた。リョーヴィンには冬の初めによくシチェルバツキー家で出会っていたが、彼女には相手がいつも不愉快な人物に映った。で、夫人は彼に会うたびに、いつも相手をからかうのを楽しんでいた。
「あたしは好きなのよ、あの人がさも偉ぶってあたしのことを見くだしたり、そうかと思うと、あたしがばかなもんだから、むずかしい話を急にうちきって、あたしに調子をあわせてくれるのが。ええ、それがとっても好きなの、あの人が調子をあわせてくれるのが!あの人ったら、あたしのことが我慢ならないらしいけど、あたしにはそれがうれしいのよ」夫人はリョーヴィンのことをそんなふうにいうのだった。
夫人はまちがっていなかった。なぜなら、実際、リョーヴィンは彼女のことが我慢ならず、軽蔑《けいべつ》していたからである。それは彼女が誇りとし、自分の長所と思いこんでいるもの、つまり、その神経質な点や、すべての日常茶飯的な、粗野なものに対する彼女の軽蔑と無関心さが、我慢ならなかったからである。
ノルドストン夫人とリョーヴィンとのあいだには、社交界でよく見られる関係、つまり、ふたりの人間が外見は親しそうに見えても、その実もうまじめに応対できぬばかりか、腹を立てる気にもならないほど激しくさげすみあっているという関係が生れていた。
ノルドストン夫人は、さっそく、リョーヴィンに鋒先《ほこさき》を向けた。
「まあ! リョーヴィンさん! またあたしどもの堕落したバビロンへいらっしゃいましたのねえ」彼女はいつかこの冬の初めに、彼がモスクワはバビロンだといったことを思いだして、その小さな黄色い手をさしのべながら、いった。「ねえ、どうですの。バビロンがよくなったのかしら、それとも、あなたが堕落なさいましたの?」夫人は冷笑を浮べてキチイをかえりみながら、いった。
「こりゃ光栄のいたりですね、伯爵夫人、ぼくの言葉をちゃんと覚えていてくださって」態勢をとりなおしたリョーヴィンはさっそく、例によって、ノルドストン伯爵夫人に対する、冗談半分の敵意をこめていった。「どうやら、あの言葉には相当こたえたようですね」
「ええ、それはもう! あたしはなんでもメモしておくんですの。それはそうと、キチイ、あなたはまたスケートにいらしたのね?……」
そういって、彼女はキチイと話をはじめた。リョーヴィンにとって今ここを立ち去ることはどんなに気まずいことであろうとも、しかしそれを決行してしまうことのほうが、ひと晩じゅうここにとどまって、ときどきこちらを盗み見ては、自分の視線をさけようとしているキチイをながめているよりは、まだ気が楽であった。彼は腰をあげようとしたが、彼の沈黙に気づいた公爵夫人が、話しかけてきた。
「ずっとモスクワにご滞在ですの? たしか、地方自治会のお仕事をしてらしたからそう長くはごむりですわね」
「いいえ、奥さん、もう自治会の仕事はやっておりません」彼はいった。「四、五日の予定でまいりました」
《あの人、いつもとちょっと変ってるわ》ノルドストン伯爵夫人は彼のむっつりした、まじめくさった顔つきをながめながら、思った。《なぜだか、いつものへりくつ《・・・・》を並べたてないわ。それじゃ、ひとつ、あたしがけしかけてやろう。キチイの前で、あの人をおばかさんにするの、とってもおもしろいわ。さあ、やりましょう》
「リョーヴィンさん!」夫人は彼に話しかけた。「ねえ、お願いですから、あたしの納得のいくように説明してくださらない――あなたはなんでもご存じなんですもの――カルーガ県のあたしどもの領地でね、百姓たちが男も女もありたけのものを飲んじまって、今じゃ一文も年《ねん》貢《ぐ》を払ってくれないんですの。これは、いったい、どういうことですの? あなたはいつも百姓のことをほめていらっしゃるけれど」
そのとき、もうひとりの婦人が客間へはいって来た。そこでリョーヴィンは立ちあがった。「失礼ですが、奥さん、ぼくは、ほんとに、そうしたことはなにも知りませんので、なんともお答えできません」彼はそういうと、婦人のあとにつづいてはいって来た軍人のほうを振り返った。
《これがあのヴロンスキーだな》リョーヴィンは思った。そして、自分の勘をたしかめるために、ちらっとキチイのほうをうかがった。彼女はもうヴロンスキーを認めていたので、リョーヴィンのほうを振り返った。リョーヴィンは、ひとりでに輝きをましたキチイの視線を見たとたん、もう彼女がこの男を愛していることを悟った。いや、それはキチイがちゃんと言葉に出していったのと同じくらい、はっきりしていた。それにしても、これはいったいどういう人物なのだろう?
もう今となっては、その結果が良かろうと悪かろうと――リョーヴィンはそこにとどまらざるをえなかった。彼は、キチイの愛している男がなにものであるか、知らなければならなかった。
この世にはそれがどんな事でも幸運な競争者にぶつかるたびに、すぐ相手のもっているすべての長所に面《おもて》をそむけ、ただその悪いところばかり見ようとする人がある。ところが、その反対に、その幸運者の中に、勝利のもととなった特質を発見することをなによりも望んで、激しい心の痛みを覚えながらも、ただ相手の良いところばかりを捜す人間もいるのである。リョーヴィンはそういった種類の人間に属していた。しかも、彼がヴロンスキーの中に善良な、好ましいところを発見するのは、たやすいことであった。それは一目瞭然《りょうぜん》だった。ヴロンスキーは背のあまり高くない、がっちりした体格のブリュネットで、その善良そうな美しい顔は、とりわけ、落ち着いていて、しっかりした感じだった。その顔、からだつき、短く刈りこんだ黒い頭髪、剃《そ》りたての青青した顎《あご》から、新調のゆったりした軍服にいたるまで、なにもかもこざっぱりしていて、それと同時に優雅であった。はいって来る婦人に道をゆずると、ヴロンスキーはすぐ公爵夫人のほうへ、それからキチイのそばへ近づいて行った。
キチイのそばへ近づいて行ったとき、彼の美しいまなざしは特別やさしく輝いた。
彼は幸福そうな、つつましくも、満ちたりた微笑(リョーヴィンにはそう感じられた)を浮べて、うやうやしく、静かに彼女のほうへ身をかがめると、その小さな、しかし幅のある手をさしのべた。
彼はみんなにあいさつして、二つ三つ言葉をかわすと、自分から目を放さずにいるリョーヴィンのほうには、一度も振り向かずに、腰をおろした。
「ご紹介いたしましょう」公爵夫人はリョーヴィンを指さしながらいった。「こちらはコンスタンチン・リョーヴィンさん。アレクセイ・ヴロンスキー伯爵です」
ヴロンスキーは立ちあがると、親しげにリョーヴィンの目を見ながら、その手を握った。
「たしか、この冬の初めに、食事をごいっしょするはずになっていましたね」持ち前のさっぱりした、あけっぱなしの微笑を浮べながら、彼はいった。「ところが、あなたはとつぜん田舎へお帰りになってしまった」
「リョーヴィンさんは都会を軽蔑して、あたしども都会人を憎んでいらっしゃるんですのよ」ノルドストン伯爵夫人が口をはさんだ。
「そんなによく覚えていらっしゃるところをみると、どうやら、ぼくの言葉がひどくこたえたようですね」リョーヴィンはいったが、前に一度同じことをいったことを思いだして、赤面した。
ヴロンスキーはリョーヴィンとノルドストン伯爵夫人のほうをちらと見て、にやっと笑った。
「で、いつも田舎のほうに?」ヴロンスキーはたずねた。「冬は退屈じゃありませんか」
「仕事があれば、退屈なんてことはありませんよ。それに、自分を相手じゃ退屈なんかしませんから」リョーヴィンはきっぱりと答えた。
「ぼくも田舎は好きですがね」ヴロンスキーはリョーヴィンの語調に気づきながら、わざと気づかぬふりをして、いった。
「でも、伯爵さま、あなたまでがいつも田舎住まいをしたいなんておっしゃらないでしょうね」ノルドストン伯爵夫人はいった。
「そりゃ、わかりませんね、だって、長く住んでみたことがないんですから。ぼくはいつかこんな妙な気持を経験したことがありますよ」彼はつづけた。「ある冬、母とふたりでニースで暮したことがありますが、あのときほど田舎を、木靴をはいた百姓のいる、ロシアの田舎を恋しく思ったことはありませんね。ニースというところは、ご承知のとおり、町そのものが退屈なところですがね。いや、ナポリもソレントも、いいのはほんのちょっとのあいだだけですよ。まったく、ああいうところへ行くと、ロシアが、それもとくに田舎がひしひしと思いだされますね。ああいうところはつまり……」
彼はキチイとリョーヴィンの両方に向って話しながら、その落ち着いた、親しみのあるまなざしを、ふたりの上にかわるがわる移していったが、どうやら、頭に浮んでくることを、そのまま口にしているらしかった。
と、彼はノルドストン伯爵夫人がなにかいいたげなのに気づいて、いいかけたことをそのままやめて、夫人の話を注意ぶかく聞きはじめた。
会話は片時もとぎれなかった。したがって、いつも話がとぎれたときに、古典教育と実務教育の比較論と、国民皆兵制度の是非という二門の重砲を用意している老公爵夫人も、それを活躍させる機会がなかったし、ノルドストン夫人もリョーヴィンをからかうことができなかった。
リョーヴィンはみんなの会話に仲間入りしたいと思ったけれど、できなかった。彼は《今度こそ帰ろう》とずっと心のなかでつぶやきながら、なにかを期待しているような気持で、立ち去りかねていた。
話題は回転するテーブルとか、精霊とかいう問題に移っていった。降神術を信じているノルドストン夫人は、自分の見た奇《き》蹟《せき》について話をはじめた。
「ねえ、伯爵夫人、ぜひ私を連れて行ってください、お願いですから、そこへ連れてってください。私はまだなにひとつ異常なことを見たことがないんですよ。方々捜しまわっているんですがね」ヴロンスキーは微笑を浮べながらいった。
「けっこうですとも、この次の土曜日にでも」ノルドストン伯爵夫人は答えた。「それにしても、リョーヴィンさん、あなたはお信じになります?」彼女はリョーヴィンにたずねた。
「なんだってそんなことをぼくにおききになるんです? ぼくのいうことはご存じのくせに」
「でも、あなたのご意見がうかがいたいんですの」
「ぼくの意見は簡単ですよ」リョーヴィンは答えた。「つまり、そんな回転するテーブルなんてものは、いわゆる教養ある連中が百姓以上でないってことを証明しているだけですよ。百姓たちは呪《のろ》いの目だの、厄病のまじないだの、恋の妖術《ようじゅつ》だのを信じていますが、われわれは……」
「それじゃ、あなたはお信じにならないの?」
「信じるわけにはいきませんよ、伯爵夫人」
「でも、あなたがこの目で見たとしましたら」
「百姓の女房たちだって、自分で荒神《こうじん》さまを見たといってますからねえ」
「それじゃ、あたしが、うそをついてるとお考えですの?」
そういって、夫人はうつろな笑い方をした。
「いいえ、そうじゃないわよ、マーシャったら、リョーヴィンさんは信じるわけにいかないっておっしゃってるだけなのよ」キチイは、リョーヴィンのために赤面しながら、いった。リョーヴィンもそれを察して、いっそういらいらしながら、答えようとしたが、ヴロンスキーはすぐさま、持ち前のあけっぴろげの明るい微笑を浮べながら、気まずい空気になりそうな話題に助け舟を出した。
「あなたは、絶対にその可能性をお認めにならないんですか?」彼はたずねた。「いったい、それはなぜです? われわれは自分の知らない電気の存在を認めてるじゃありませんか。それじゃ、われわれにとって未知の新しい力があってもいいじゃありませんか。つまり……」
「いや、電気が発見されたときには」リョーヴィンはすぐ相手をさえぎった。「ただ現象が発見されただけで、それがどこから来るのか、どういう作用をするのかってことは、わからなかったのです。そして、その応用ということを考えるまでには、何世紀もかかりました。ところが、降神術信者はその反対に、まずテーブルが字を書くとか、精霊がやって来るとかいうことからはじめて、最後にそれが未知の力だっていいだしたんですからねえ」
ヴロンスキーは、いつも人の話を聞くときの癖で、注意ぶかくリョーヴィンの言葉を聞いていたが、どうやら、彼の言葉に興味をもったらしかった。
「なるほど、でも、今では降神術信者もこんなことをいってますよ――われわれはこれがどういう力か知らないが、とにかく力は存在する、そしてある一定の条件のもとで作用する、とね。ですから、その力がなんであるかは、学者が解明すればいいんですよ。いや、ぼくはそれが新しい力でありえないとは思いません。もしその力が……」
「いや、つまりですね」リョーヴィンは相手をさえぎった。「電気の場合では、樹脂で毛《ぬ》布《の》をこするたびに一定の現象が生じますが、降神術の場合は、そのたびにというわけにはいきません。したがって、これは自然現象ではありません」
どうやら、客間の話題としてはあまり堅苦しくなってきたと思ったのであろう、ヴロンスキーはもう反駁《はんばく》しないで、話題を変えようと努めながら、明るい微笑を浮べて、婦人たちのほうを振り返った。
「どうです、今すぐやってみようじゃありませんか、伯爵夫人」彼はいいだした。しかし、リョーヴィンのほうは自分の考えをすっかりいってしまいたかった。
「ぼくの考えるには」彼は言葉をつづけた。「あの降神術信者が自分の奇蹟をなにか新しい力で説明しようとするのは、まったく愚劣なことですよ。だって、彼らは精神的な力という点をまともに強調しながら、それを物質的な実験によって証明しようとしているんですからねえ」
みんなは彼の話がすむのを待ちかねていた。彼もそれを悟った。
「あなたはきっと、りっぱな霊媒になれますわ」ノルドストン伯爵夫人はいった。「だって、あなたにはなにか感激的なところがありますもの」
リョーヴィンは口をあけ、なにかいおうとしたが、頬をそめて、なにひとついわなかった。
「さあ、お嬢さん、今すぐテーブルでためしてみようじゃありませんか」ヴロンスキーはいった。「奥さん、よろしいでしょうか?」
そういって、ヴロンスキーは目で小さなテーブルを捜しながら、立ちあがった。
キチイは小さなテーブルをとりに行ったが、ふと、通りすがりに、リョーヴィンと視線が合った。彼女は心の底から彼が気の毒だった。まして、彼が不幸になったのは自分のせいであることを思えばなおさらであった。《あたしを許すことがおできでしたら、どうか、許してください》と、その目は語っていた。《あたしは今こんなにしあわせなんですもの》
《みんなを憎みます、あなたも、この自分も》彼のまなざしは答えた。そして、彼は帽子に手をかけた。が、彼はまだ帰るさだめにはなっていなかった。みんなが小さなテーブルのまわりに席を占めてリョーヴィンが出て行こうとしたとき、老公爵がはいって来て、婦人たちにあいさつすると、リョーヴィンのほうへ振り向いたからである。
「やあ!」公爵はうれしそうにしゃべりだした。「もうずっと前から? きみが来ているとは、わしも知らなかったよ。よくやって来てくれたね」
老公爵はリョーヴィンに対して、時には「きみ」といったり、時には「あなた」といったりした。彼はリョーヴィンを抱きしめ、ヴロンスキーにも気づかず、話をはじめたが、ヴロンスキーのほうは席を立って、老公爵が自分のほうを向くまで、じっと、待っていた。
キチイは、あんなことのあとでは、父親の好意はかえってリョーヴィンにとってつらかろうと察した。彼女はまた、父がヴロンスキーの会釈に対して、そっけない返礼をしたのも、ヴロンスキーが親しみのこもった、けげんな顔色で父を見つめながら、なぜ自分に対してこんな無《ぶ》愛《あい》想《そ》な態度をとるのだろうと、その原因をさぐろうと努めながら、結局わからずにいる様子を見てとった。と、彼女は思わず赤くなった。
「公爵さま、リョーヴィンさんをこちらへよこしてくださいまし」ノルドストン伯爵夫人はいった。「あたしどもは実験をしてみたいんですの」
「なんの実験を? ああ、テーブルをまわすんですか? いや、失礼ですが、みなさん、わしには指輪遊びのほうがまだおもしろいですがね」老公爵はヴロンスキーをじっと見つめ、相手が張本人だなと察しながら、そういった。「指輪遊びのほうがまだ意味がありますよ」
ヴロンスキーはその鋭いまなざしで、びっくりしたように老公爵をながめ、かすかに微笑すると、すぐノルドストン伯爵夫人と、来週催される盛大な舞踏会のことを話しはじめた。
「あなたも、きっと来てくださいますね?」彼はキチイのほうを振り向いた。
老公爵が自分から顔をそむけるのを待ちかねて、リョーヴィンはそっと席を立った。その晩、彼がいだいて帰った最後の印象は、ヴロンスキーに舞踏会のことをきかれたとき、それに答えたキチイのあの幸福そうな笑顔であった。
15
夜会が終ったとき、キチイはリョーヴィンとかわした話を母親に伝えた。すると、リョーヴィンに対して同情の気持をいだいていたにもかかわらず、自分は結婚の申し込みをされたのだという思いに心がおどった。彼女は自分の行為の正しさを少しも疑わなかった。しかし、寝床へついてからも、長いこと寝つかれなかった。一つの印象がしつこくつきまとって離れなかったのだ。それは、リョーヴィンが父の話をじっと立って聞きながら、自分とヴロンスキーのほうを見ていたときの、眉《まゆ》をひそめて、沈んだ弱々しい善良な目をのぞかせていた顔であった。キチイは彼が気の毒でたまらなくなって、思わず目に涙が浮んだほどであった。しかし、彼女はすぐリョーヴィンに見変えた人のことを考えた。あの男らしい、しっかりした顔だち、あの上品な落ち着いた態度、だれに対したときでも全身にあふれる善良さを、まざまざと思い起した。それから、愛している人が自分に示してくれた愛情を思い起して、再び、うれしい気持になった。と、幸福の微笑が浮んで、そのまま、まくらに身を横たえた。《お気の毒だわ、ほんとにお気の毒だわ。でも、どうにもならないわ。だって、あたしが悪いんじゃないから》彼女はそうつぶやいたが、内なる声は別のことをささやいた。彼女は自分が後悔しているのは、リョーヴィンをまどわしたことについてか、それとも彼の求婚を断わったことについてか――自分でもよくわからなかった。しかし、いずれにしても、彼女の幸福は疑いの思いに傷つけられてしまった。《ああ、主よ、哀れみたまえ、主よ、哀れみたまえ、主よ、哀れみたまえ!》キチイは寝つくまでつぶやきつづけた。
そのとき階下の公爵の小さな書斎では、かわいい娘のことで両親のあいだにしばしば繰り返されてきた衝突が、またもやはじまっていた。
「なんだと? そりゃ、こういうことさ!」公爵は両手を振りまわし、たえず栗鼠皮《りすがわ》のガウンの前を合せながら、大声でどなっていた。「つまりだな、あんたには誇りというものがないのだ、品位というものがないのだ。あんたはあんなくだらない、ばかげた縁談で、娘に恥をかかせて、あれの一生を台なしにしているのだ!」
「まあ、とんでもない、後生ですからよしてください。いったい、あたしがなにをしたとおっしゃるんです?」公爵夫人はほとんど泣きださんばかりにいった。
夫人は娘と話をしてから、幸福と満足を感じていたので、いつものとおり公爵のところへ夜のあいさつに行った。そして、リョーヴィンの求婚とキチイの拒絶については、べつに話をするつもりはなかったが、ヴロンスキーのほうはもうすっかりきまりがついたらしいということ、母親が到着すればすぐにも話がまとまるにちがいないということだけを、夫にほのめかした。ところが、そのとき、妻のそういう言葉を聞くと、公爵は不意にかっとなって、ひどい言葉を浴びせはじめたのであった。
「あんたがなにをしたかと? そりゃ、ほかでもない、第一にあんたはいつも花婿候補ばかりを集めているから、今にモスクワじゅうのうわさになるさ。いや、それはあたりまえのことさ。もし夜会を開くのなら、選《え》り好みをしないでみんなを呼べばいいんだ。あの青《・》二才《・・》ども(公爵はいつもモスクワの青年たちをこう呼んでいた)を残らず呼べばいいんだ。ピアノひきでも呼んで、ダンスでも踊らせればいいのさ。ところがそうじゃなくて、今夜みたいに花婿の候補者だけを呼んで、いっしょにしようとするなんてとんでもない。見ておっても胸糞《むなくそ》が悪い、じつに胸糞が悪い。ところが、あんたはまんまと目的を達して、娘をのぼせあがらしてしまったじゃないか。リョーヴィンのほうが千倍もりっぱな人間だ。ところが、あのペテルブルグの伊《だ》達《て》男《おとこ》はどうだ、あんな連中は機械ででも作れるんだ。どいつもこいつも似たりよったりで、そろいもそろってやくざ者じゃないか。たとえあの男が王子の血筋だろうと、わしの娘はなにひとつ不自由しちゃおらんからな!」
「それで、あたしがなにをしたとおっしゃるんです?」
「そいつは……」公爵は憤《ふん》怒《ぬ》の声でどなった。
「わかっておりますわよ」公爵夫人は相手をさえぎった。「あなたのいうことばかり聞いてたら、いつになったって娘を片づけることなんかできませんから。そういうことなら、田舎へ引っこんでしまわなくちゃなりませんよ」
「引っこんでしまうのもいいじゃないか」
「まあ、待ってください。あたしがむりに取り入ろうとしてるとでも、おっしゃるんですか? そんなことまるっきりありませんわ。ただ、あの若い方がとてもいい青年で、しかもあの子に夢中になっていますし、あの子のほうもどうやら……」
「そうさ、あんたにはそう見えるだろうよ。ところが、もしあの娘《こ》がほんとに惚《ほ》れこんじまって、しかも男のほうじゃ結婚のことなんか、ぜんぜん考えておらんとしたらどうする、え?……まったく、そんな目にはあいたくないもんだね!……『まあ、降神術! まあ、ニース、まあ、舞踏会で……』」公爵はそういいながら、夫人の身ぶりをまねているつもりで、一口ごとに腰をかがめてみせる始末だった。「それに、もしカーチェンカがほんとうにそうと思いこんだら、それこそあの子をふしあわせにすることじゃないか……」
「でも、なぜそんなことをお思いになりますの?」
「いや、思ってるんじゃなくって、ちゃんとわかっておるんだ。そういうことを見抜く目はわれわれ男どもにはあるが、女にはないのさ。わしには真剣な気持をもっている人間はちゃんとわかる。それはリョーヴィンだ。ところが、あのおっちょこちょいの鶉野郎《うずらやろう》なんか、ただちょっと楽しみがしてみたいだけなんだ、そんなことはわかってるさ」
「まあ、あなたこそずいぶん変なことに気をまわして……」
「なに、いまに思いあたるだろうが、そのときはもう遅いさ、あのダーシェンカの場合と同じようにな」
「ええ、けっこうです、けっこうですとも、もうこの話はよしましょう」夫人はふしあわせなドリイのことを思いだすと、夫をおしとどめた。
「いや、よかろう、じゃ、おやすみ!」
夫婦はお互いに十字を切りあい、接吻《せっぷん》をかわしながらも、互いに自分の意見を変えていないことを感じながら、別れて行った。
公爵夫人は、今夜こそキチイの運命は決せられたのであり、ヴロンスキーの気持は疑いのないものと、初めのうちは堅く思いこんでいたが、夫の言葉を聞いてその心はかき乱された。そのため、自分の寝室へもどると、キチイと同様、測り知ることのできぬ未来を前にして恐れおののきながら、《ああ、主よ、哀れみたまえ、主よ、哀れみたまえ!》と何度も心の中で繰り返した。
16
ヴロンスキーは今まで一度も家庭生活というものを味わったことがなかった。母親は若いころの社交界の花形で、結婚後も、またとくに未亡人になってからも、数々のロマンスをつくって、社交界にその名を知られていた。彼はほとんど父の記憶がなく、幼年学校で教育されたのである。
彼は華やかな青年士官としてごく若い時分に学校を出ると、さっそくペテルブルグの富裕な軍人におきまりのコースをたどった。ときにはペテルブルグの社交界へ出入りしてはいたが、その情事はすべて社交界の外に限られていた。
彼はぜいたくでがさつなペテルブルグ生活のあとで、モスクワヘ来て社交界の清らかな美しい令嬢に近づいて、はじめて愛される喜びを味わった。キチイに対する自分の態度になにか悪いところがあろうなどとは、まったく考えてもみなかった。あちこちの舞踏会でもとくに彼女と踊り、その屋敷へもせっせと出入りしていた。彼はまた、普通の社交界で話題になること、つまり、いろんなくだらないことを彼女とふたりで話し合ったが、しかし、そんなくだらないことにも、彼女にとってなにか特殊な意味がありそうなことを、われともなしにつけ加えていた。なにもべつに、人の前ではいえないようなことをいったわけではないが、彼は相手がしだいに自分の意志に左右されてくるのを感じ、そう感ずるといよいよ愉快になり、相手に対する彼の感情は優しくなっていった。彼は、キチイに対する自分の態度こそある一定の名前をもっている行為、つまり、結婚の意志なくして若い令嬢をまどわすふるまいであり、これは、彼のような前途有望な青年にとっては、かなりありふれた、忌わしき行為の一つであるということを、自分では意識していなかった。彼は自分がはじめてこの満ちたりた気分を発見したような気がして、その発見を楽しんでいたのである。
彼がもしこの晩キチイの両親が話し合ったことを聞くことができ、家族の立場にたって、万一自分が拒絶したらキチイは不幸におちいるだろうということを知ったなら、彼はほんとにびっくりして、それを信じることもできなかったにちがいない。彼としては自分に、というよりも、むしろ彼女にこれほど大きな快い満ちたりた気分を与えるものが、忌わしいことであるなどとは、とても信じられなかった。まして自分が結婚しなければならないなどとは、なんとしても信じられなかったからである。
結婚ということは、彼にかつて一度も可能なこととは思われなかった。彼は単に家庭生活を好まなかったばかりでなく、自分の住んでいる独身者の世界から見ると、一般に、家族、とくに夫というものには、なにか縁もゆかりもない、敵意とでもいった、そしてなによりもこっけいなところがあるように思われた。もっとも、ヴロンスキーは両親の話したことを想像もしなかったとはいうものの、この晩シチェルバツキー家を出るや、すぐ自分とキチイのあいだに存在していた精神的な結びつきが、とくにその晩強くなったのを感じ、なんとかそれに対処しなければならないと感じていた。しかし、なにができるか、なにをしなければならないか、彼にはまったく考えつかなかった。
《なに、あれだけだってすばらしいことじゃないか》シチェルバツキー家を辞して帰る道すがら、いつものように清らかで新鮮な快い感じと――それは、彼がひと晩じゅうたばこをすわなかったことにも原因していた――同時に、自分に示された乙女《おとめ》の愛情に対する感激を味わいながら、彼は思いめぐらすのだった。《ぼくのほうからも、彼女のほうからもなにひとついわなかったけれども、あの目と声の調子だけの無言の会話で、お互いにあんなによく気持がわかったし、彼女はいつにもましてはっきりと、愛しているといったんだから、すばらしいじゃないか。それにしても、かわいらしい、気どりのない、そしてなによりも、あの信じきったような態度といったら! いや、このおれまでが、今までよりも善良で、純潔になったような感じだ。おれにも心というものがあって、いいところがたくさんあるような気がしてくるよ。ああ、あのかわいらしい、恋をしているものの目つき! あの「ええ、とても……」と、いったときの口ぶり》
《では、どうしたもんだろう? なあに、たいしたことはありゃしない。おれもいい気持だし、彼女もいい気持なんだから》そこで彼は、今晩のけりをどこでつけようかとあれこれ考えはじめた。
彼は頭の中で、これから行ける先をひとわたりあたってみた。《クラブにするか? ビジックを一勝負やってイグナートフとシャンパンを飲むか? いや、よそう。Ch液eau des fleurrsにするか? あすこなら、オブロンスキーに会えるだろう、小歌でも聞いて、カンカン踊りでも見るか? いや、あれもあきたな。おれがシチェルバツキー家へ行くのが好きなのは、ほかでもない、あすこへ行くとこのおれまでがよくなるからさ。家へ帰ろう》彼はホテル・ジュソーの自分の部屋へまっすぐ帰ると、夜食を命じ、それから着替えをして、まくらに頭をつけるやいなや、ぐっすりと、いつものように、安らかな眠りにおちて行った。
17
翌日の午前十一時に、ヴロンスキーはペテルブルグ鉄道の停車場へ、母を迎えに行った。そして、その大階段の上で、まっ先に出会った人は、同じ汽車で来る妹を待っていたオブロンスキーであった。
「やあ! 閣下」オブロンスキーは叫んだ。「きみはだれを迎えに!」
「おふくろですよ」オブロンスキーに会った人がだれでもするように、ヴロンスキーは微笑を浮べながら答えると、握手をして、いっしょに階段をのぼって行った。「きょうペテルブルグから出て来るはずなんです」
「それはそうと、昨夜二時まできみを待っていたんだぜ。シチェルバツキー家からどこへ行ったんだね?」
「まっすぐ家へ」ヴロンスキーは答えた。「白状すると、昨夜はシチェルバツキー家を出たとき、あんまりいい気持だったので、もうどこへも行きたくなかったんですよ」
「名馬はその烙印《らくいん》により、恋せる若者はそのまなざしによって見分けらる、か」オブロンスキーは、前にリョーヴィンにいったと同じことを朗読調でいった。
ヴロンスキーは、それに反対はしないといった顔つきでにっこり笑ったが、すぐ話題を変えた。
「じゃ、きみはだれの出迎え?」
「ぼく? ああ、うるわしき婦人をね」オブロンスキーはいった。
「なるほど」
「Honni soit qui mal y pense! 妹のアンナさ」
「ああ、それじゃカレーニン夫人を」ヴロンスキーはいった。
「きみは、たしか、あれを知っていたね?」
「知っていたような気がするけれど、いや、違った……ほんとのところ、覚えていないな」ヴロンスキーはカレーニン夫人という名前に、なにかとりすました退屈なものを漠然《ばくぜん》と連想しながら、気のない返事をした。
「でも、ぼくの妹婿のあの有名なアレクセイ・カレーニンはきっと知ってるだろうね。なにしろ、あれは世界じゅうに知られているからね」
「つまり、世間の評判とか、風采《ふうさい》などはね。聡明《そうめい》で、学問があって、なにかこう崇高なくらいな人物だってことは承知してるよ。しかし、ご承知のとおり、それはぼくの領分じゃない……not in my line」ヴロンスキーはいった。
「そう、あれはじつにすばらしい人物だよ。ちょっと保守的なところがあるが、でも、りっぱな人物だよ」オブロンスキーはいった。「りっぱな人物だよ」
「そりゃ彼のためにけっこうなことだね」ヴロンスキーは微笑を浮べながら、いった。
「やあ、おまえも来ていたのか」彼は、戸口に立っていた背の高い母親の老僕にむかって、声をかけた。「こっちへはいれよ」
ヴロンスキーは近ごろ、オブロンスキーが一般の人びとに与えている好感とは別に、心中ひそかに彼をキチイと結びつけて考えているために、なおいっそう彼に親愛の情を感ずるようになっていた。
「ときに、どうかね、日曜日にはプリマドンナのために晩餐会《ばんさんかい》をやろうじゃないか?」彼は微笑を浮べて相手の腕をとりながら、いった。
「ぜひやろう。ぼくが有志を募るよ。あっ、そうだ、きみは昨夜、ぼくの親友のリョーヴィンと近づきになったろうね?」オブロンスキーはたずねた。
「もちろん。でも、彼はなんだか早く帰ってしまったよ」
「あれはじつに愛すべき人物だよ」オブロンスキーはつづけた。「ね、そうだろう?」
「わからないね」ヴロンスキーは答えた。「いったい、なんだってモスクワの連中はだれでも、といっても、今ぼくの相手をしている人は別だがね」彼はふざけた調子でつけ足した。「なにかこうとげとげしたところがあるんだろう? なんだか始終ぷりぷりして、むきになるんだからね、まるでいつもなにかしら相手に感じさせないではおかないといった調子でね」
「たしかに、そういうところがあるよ……」オブロンスキーは愉快そうに笑いながらいった。
「おい、もうすぐだろう?」ヴロンスキーは駅員のほうを向いてたずねた。
「もう前の駅を出ております」駅員は答えた。
列車が近づいていることは、停車場の雰《ふん》囲《い》気《き》で、つまり、荷運び人夫が走りまわったり、憲兵や駅員たちが現われたり、出迎えの人が集まって来ることなどで、だんだんはっきりと感じられるようになった。凍《い》てついた水蒸気をとおして、半外套《はんがいとう》に柔らかいフェルトの長靴をはいた、人夫たちの姿が、何本もカーブしている線路を横ぎっているのが見えた。ずっと向うのレールでは機関車の汽笛が聞え、何か重いものが動く気配がした。
「いや」オブロンスキーはいった。彼はリョーヴィンがキチイに対していだいている気持を、ヴロンスキーに話したくてたまらなかった。「そりゃ違うよ! きみはぼくのリョーヴィンを不当に評価しているね。とても神経質なやつで、ときには不愉快に感じられることもあるだろう。それはたしかだけれど、そのかわりときどきそりゃすばらしいやつだと思うよ。じつに潔白な、正直な性質で、黄金のような心の持ち主なんだよ。しかしね、きのうは特別な原因があったのさ」オブロンスキーはきのう親友に対して感じていた心からの同情を忘れて、今はその同じ気持をただヴロンスキーに対してのみ感じながら、意味ありげな微笑を浮べて、言葉をつづけた。「そうなんだよ、ある原因があってね、それでとくに幸福になるか、それともとくに不幸になるか、どちらかだったのでね」
ヴロンスキーは立ち止って、まともにこうたずねた。「というと、なにかね、彼はきのうきみのbelle-sマurに結婚の申し込みでもしたのかい?」
「たぶんね」オブロンスキーは答えた。「きのうはなにかそんなふうに見えたからね。いや、もしあの男が早く帰ってしまって、そのうえ、きげんが悪かったとすれば、たしかにそうだな……もうずっと前から夢中だったんでね、ぼくはあの男がとてもかわいそうだよ」
「そうだったのか!……しかし、ぼくにいわせれば、きみの妹さんはもっといい相手を望む資格があると思うがね」ヴロンスキーはそういって、ぐっと胸を張ると、また歩きだした。「そりゃ、ぼくはあの人をよく知らないがね」彼はつけ足した。「いや、たしかにつらい立場だね! だって、こうしたことのために、たいていの連中はクララとかなんとかいう女を相手にしたほうがましだ、という気になるんだから。このほうなら、振られるのは金が足りないのを証明するだけだが、この場合は人間としての資格がはかりにかけられるんだからね。それはそうと、どうやら汽車がはいったらしいね」
実際、はるかかなたでもう汽笛が響いていた。二、三分もすると、プラットフォームが震動して、寒気のために蒸気を下へ下へと吐き出し、中部車輪のピストンをゆっくりと規則正しく伸縮させながら、機関車がすべりこんで来て、襟巻《えりまき》に顔を包んで、からだじゅう霜だらけの機関手が、しきりにおじぎをしていた。炭水車のあとからは、手荷物ときゃんきゃん鳴きたてる犬をつんだ車が、しだいに速力をゆるめ、しかもいよいよ激しくプラットフォームをゆるがしながらはいって来た。最後に、客車が停車前の細かい震動をしながら近づいて来た。
すばしこい車掌が、警笛を鳴らしながら、まだ動いているうちに飛びおりた。と、そのあとから、気の早い乗客が次々におりはじめた――からだをぐっと伸ばして、いかめしくあたりを見まわしている近衛《このえ》士官、バッグを手にして、陽気そうに笑っているせかせかした商人、大きな袋を肩に背負った百姓。
ヴロンスキーはオブロンスキーと並んで立ったまま、客車や、出て来る人たちを見まわしながら、すっかり母親のことを忘れていた。いましがたキチイについて聞いたことで、彼は興奮し、喜んでいた。その胸は自然に大きく張り、その目は輝いていた。彼は自分が勝利者であることを感じていた。
「ヴロンスキー伯爵夫人はこの車におられます」車掌がヴロンスキーに近づいて行った。
この車掌の言葉で彼はわれに返り、母親のことや、目前に迫った対面のことを思いだした。彼は心の中で母親を尊敬していなかったばかりか、はっきり意識するほどではないにしても、愛してもいなかった。もっとも、彼の住んでいる階層の考え方からいっても、受けた教育からいっても、母に対しては最上級の服従とうやうやしい態度をとるほか、なにも想像することはできなかった。したがって、心の中で母を敬愛する念が少なければ少ないだけ、外面的にはますます従順で、うやうやしい態度をとるのであった。
18
ヴロンスキーは車掌のあとから車の中へはいって行ったが、車室の入口のところで、中から出て来たひとりの貴婦人に道をゆずるため、立ち止った。
社交界に出入りしている人間特有の勘で、ヴロンスキーはこの貴婦人の外貌《がいぼう》を見たとたん、相手が最上級の社会に属する人だと悟った。彼は会釈してから、車室へはいろうとしたが、なんとかもう一度この貴婦人を振り返って見たいという切実な思いにかられた――それも、相手がひじょうな美人だったからでも、その姿全体にただよっている繊細な感じや、つつましい優雅さのためでもなく、相手がそばを通りすぎたとき、その愛らしい表情の中に、一種独特ないつくしむような、優しいところがあったからであった。彼が振り返ったとき、彼女もまた顔をこちらへ向けた。濃いまつげのために黒ずんで見える、そのきらきらした灰色のまなざしは、まるで相手がだれであるか気づいたように、さも親しそうに、じっと彼の顔を見つめたが、すぐまた、だれかを捜しているように、通りすぎて行く群衆のほうへ転じた。この一瞬の凝視の中に、ヴロンスキーは相手の顔に躍《おど》っている控えめな、生きいきした表情に気がついたが、それは彼女のきらきらしたまなざしと、その赤い唇《くちびる》を心持ちゆがめている、かすかな微笑とのあいだにただよっているのだった。なにかしらありあまるものがその姿全体にあふれて、それがひとりでにひとみの輝きや、微笑の中に表われているかのようであった。彼女はわざと目の輝きを消したが、それはかえって彼女の意志に反して、かすかな微笑となって光っていた。
ヴロンスキーは車室へはいった。黒い目に、巻髪の、彼の母親はかわいた感じの老婦人であったが、目を細めてじっとむすこを見ながら、薄い唇でかすかに微笑した。座席から身を起し、小間使に手さげを渡すと、母親は小さなかさかさした手をむすこにさしだして、その手に接吻《せっぷん》するわが子の首を持ちあげ、その額に接吻した。
「電報はとどきました? お元気? それはよかったこと」
「道中はなにもお変りありませんでしたか?」母親のそばにすわって、むすこはそう問いかけたが、戸の外から聞えてきた女の声に思わず耳をそばだてた。それは出口で会ったあの貴婦人の声だと知ったからである。
「でも、やっぱり、あなたのご意見には賛成できませんわ」という貴婦人の声が聞えた。
「奥さん、それは、ペテルブルグ風のお考えですよ」
「ペテルブルグ風じゃございません、ただ女としての考えですわ」彼女は答えた。
「それでは、お手に接吻させてください」
「さよなら、イワン・ペトローヴィチ。ねえ、ちょっと見てくださいません、その辺に兄がおりませんかしら。いたら、こちらへ来るようにおっしゃって」貴婦人は戸のすぐそばでそういうと、また車室へはいって来た。
「どうなさいました。お兄さまはお見つかりになりまして?」ヴロンスキー伯爵夫人は貴婦人に話しかけた。
ヴロンスキーは、やっと、相手がカレーニン夫人だったと思いだした。
「お兄さまはこちらに見えています」彼は立ちあがりながらいった。「先ほどは失礼しました。ついお見それいたしまして。なにしろ、ほんのちょっとお目にかかったきりですので」ヴロンスキーは会釈しながらつづけた。「きっと、私のことは覚えていらっしゃらないでしょうね」
「いいえ、どういたしまして!」相手はいった。「あたくしもあなただとすぐ気づいたはずなんでございますのに。だって、お母さまと道々ずっとあなたのことばかりおうわさしていたんですもの」前々から外へ出ようとしていた、あの生きいきした表情に、とうとうきっかけを与え、それを微笑で表わしながら、彼女はいった。「それはそうと、兄はやっぱりおりませんのね」
「アリョーシャ、呼んできておあげなさいよ」老伯爵夫人はいった。
ヴロンスキーはプラットフォームへ出て、叫んだ。
「オブロンスキー! こっちだよ!」
ところが、カレーニン夫人は兄がくるのが待ちきれず、その姿を見つけると、しっかりした軽い足どりで車を出て行った。そして、兄が近づくがはやいか、ヴロンスキーがびっくりするほど大胆な、しかも優雅な身のこなしで、兄の首を左手で抱き、すばやく自分のほうへ引き寄せて、強く接吻した。ヴロンスキーはずっと目を放さずに彼女を見つめたまま、自分でもなんのためともわからず、微笑を浮べた。が、母親が自分を待っていることを思いだして、また車の中へとって返した。
「とてもかわいい方だねえ、え?」伯爵夫人はカレーニン夫人のことをいった。「ご主人があの方を、あたしといっしょの車室へお乗せになったのさ。あたし、ほんとうにうれしかったよ。途中ずっとあの方とおしゃべりをしてね。ときに、おまえはうわさによると……vous filez le parfait amour. Tant mieux, mon cher, tant mieux.」
「ママがなんのことをおっしゃっていらっしゃるのか、ぼくにはわかりませんね」むすこは冷たい調子で答えた。
「さあ、ママ、行きましょうか?」
カレーニン夫人は、伯爵夫人に別れのあいさつをするために、また車室へはいって来た。
「では、奥さま、あなたはご子息にお会いになれましたし、あたくしは兄に」彼女は楽しそうにいった。「それに、あたくしのお話もすっかり種切れになりましたから、もうこれ以上お話しすることもございませんわ」
「いいえ、そんなこと」伯爵夫人は相手の手をとっていった。「あなたとなら、世界を一周したって、退屈なんかいたしませんよ。だって、あなたは、お話をしていても黙っていても、ほんとうにこちらの気持が楽しくなる、かわいい女の方でいらっしゃいますもの。それから、お坊っちゃまのことはどうぞお考えにならないで。いつもいつもごいっしょにいるわけにはまいりませんもの」
カレーニン夫人はひどくからだをまっすぐにして、身動きもせずに立っていたが、そのひとみは笑っていた。
「カレーニンの奥さまには」伯爵夫人はむすこに説明しながらいった。「お坊っちゃまがおありでね、たしか八つにおなりだったがね。一度も離ればなれになられたことがないものだから、おいてらしたのをそれはいつも苦にしていらっしゃるんだよ」
「ええ、あたくしどもはずっと、奥さまとそのお話ばかりしてまいりましたの。あたくしは自分の子供のことを、奥さまはまたご自分のお子さまのことを」カレーニン夫人はいったが、またしても、ほほえみがその顔を照らした。それは彼に向けられた優しい微笑であった。
「それは、きっと、退屈なさいましたでしょうね」彼は相手が投げてよこした媚《び》態《たい》のまりを、すぐさま宙で受け止めながら、いった。しかし、彼女はどうやら、こうした調子の会話はつづけたくないらしく、老伯爵夫人のほうへ振り向いていった。
「ほんとに、ありがとうございました。きのう一日がどうして過ぎたか、あたくしには覚えがないほどでございますよ。では、奥さま、いずれまた」
「さよなら、奥さま」伯爵夫人は答えた。「どうかその美しいお顔に接吻させてくださいな。あたしは年寄りですから、なんでもざっくばらんに申しあげますが、あなたが好きになってしまいましてね」
これはいかにも決り文句のようではあったけれども、カレーニン夫人はどうやら、心の底からそれを信じて、喜んだらしかった。彼女は頬《ほお》をそめ、軽く身をかがめて、自分の顔を伯爵夫人の唇にさしだした。それから、また身をのばして、例の唇と目のあいだにただようあの微笑を見せながら、ヴロンスキーに手をさしのべた。彼はさしだされた小さな手を握ったが、相手が力強い握手をして、強く思いきって彼の手をふったのを、なにか特別なことのようにうれしく思った。彼女は速い足どりで出て行ったが、それはかなり太っているからだをふしぎなほど軽々と運んでいた。
「ほんとにかわいい方だこと」老夫人はいった。
それとまったく同じことをむすこも考えていた。彼は、カレーニン夫人の優雅な姿が隠れるまで、そのあとを目で追っていたが、その顔にはずっと微笑がただよっていた。窓越しに見ていると、彼女は兄に近づき、その手を兄の手にのせて、なにやら活発な調子で話しはじめた。それは明らかに、彼ヴロンスキーとはなんの関係もないことらしかったが、彼にはそれが残念に思われた。
「ねえ、ママ、おからだのほうはすっかりいいのですか?」彼は母親のほうへ向きなおりながら、繰り返した。
「なにもかもけっこう、申し分ありませんよ。アレクサンドルはとてもかわいくなったし、それにマリイもとてもきれいになってね。あの子はほんとにおもしろい娘だよ」
こうしてまた、彼女は自分にとってなによりも興味のあること、つまり、そのためにわざわざペテルブルグまで出向いた孫の洗礼のことや長男に対する皇帝の特別な恩寵《おんちょう》などを話しはじめた。
「ああ、やっと、ラヴレンチイが来ましたよ」ヴロンスキーは窓の外を見ながらいった。「さあ、まいりましょう、もしよろしかったら」
夫人につきそって来た老執事が、車室へはいって来て、すっかり用意ができたと報告した。そこで、伯爵夫人は出かけるために立ちあがった。
「まいりましょう。もう人が少なくなりました」ヴロンスキーはいった。
小間使は手さげと小犬をかかえ、執事と赤帽はほかの荷物を持った。ヴロンスキーは母親の手を取った。ところが、彼らがもう車から出ようとしたとき、とつぜん、五、六人の人がびっくりしたような顔つきをして、そばを駆けぬけて行った。一風変った色の制帽をかぶった駅長も、同じように駆けだして行った。なにか容易ならぬことが起ったのは明らかであった。汽車から出て来た連中も、うしろのほうへ駆けだして行った。
「なんだ?……なんだ?……どこで?……飛びこんだ! 轢《ひ》かれた!」そばを駆けだして行く人人のあいだから聞えた。
妹のアンナと腕をくんでいたオブロンスキーも、やはりびっくりしたような顔つきをして引き返し、群集をよけながら、車の出口のところに足を止めた。
婦人たちは車の中へはいった。が、ヴロンスキーはオブロンスキーといっしょに、事故の詳細を聞きに群集のあとからついて行った。
線路番が、酔っぱらっていたのか、それとも、極寒のためにあまり外套を深くかぶりすぎていたのか、バックして来た列車に気づかないで、轢き殺されたのであった。
ヴロンスキーとオブロンスキーがもどってくる前に、もう婦人たちは執事からその詳細を知った。
オブロンスキーとヴロンスキーのふたりは、見るもむざんな死《し》骸《がい》を見た。オブロンスキーは明らかに心を痛めた様子だった。その顔をしかめて、今にも泣きだしそうだった。
「ああ、なんて恐ろしいことだ! ああ、アンナ、もしおまえがあれを見たら! ああ、恐ろしいことだ!」彼はいいつづけた。
ヴロンスキーは黙っていた。その美しい顔はきびしい表情をしていたが、まったく落ち着いていた。
「ああ、伯爵夫人、もしあなたがごらんになったら」オブロンスキーはいった。「その男の女房もそこにおりましたがね……そりゃ見ちゃおれませんでしたよ……死骸にとりすがっていて……人の話じゃ、その男がひとりで大家族を養っていたんだそうですがね。いや、まったく恐ろしいことです」
「その女の人のために、なにかしてやれないものでしょうか?」アンナは、うわずった声でささやいた。
ヴロンスキーは彼女をちらりと見て、すぐ車を出て行った。
「ママ、すぐもどって来ますから」戸口のところで振り返りながら、彼はそうつけ足した。
彼がしばらくしてもどって来たとき、オブロンスキーはもう伯爵夫人を相手に、新しい歌姫の話をしていた。ただ夫人のほうはむすこを待ちかねて、何度も戸口を振り返っていた。
「さあ、今度こそまいりましょう」ヴロンスキーははいりながらいった。
一同はそろって外へ出た。ヴロンスキーは母親といっしょに先頭にたち、そのあとをカレーニン夫人が兄とともについて行った。停車場の出口のところで、追いかけて来た駅長がヴロンスキーに近づいた。
「あなたは助役に二百ルーブルお渡しになりましたね? ご面倒ですが、それはだれにおやりになるのか、はっきりしていただけませんか?」
「あの亭主に死なれた女にですよ」ヴロンスキーは肩をすくめながらいった。「きくまでもないじゃありませんか」
「きみは恵んでやったのかい?」オブロンスキーはうしろから大声でいい、妹の手を握りしめながら、つけ足した。「そりゃいい、じつにいいことだ! ねえ、ほんとに、りっぱなことじゃないか? では、奥さん、ごきげんよう」
そういって、彼はアンナとともに、小間使を捜しながら、立ち止った。
ふたりが外へ出たとき、ヴロンスキーの馬車はもう行ってしまったあとだった。そこへやって来る人たちは、まだあの事故の話をしていた。
「まったく、恐ろしい死にざまだなあ」ある紳士は通りすがりにいった。「まっ二つにちぎれたっていうじゃないか」
「ぼくはそう思わないね、ありゃ、あっという間もないから、いちばん楽な往生ですよ」もうひとりがいった。
「なんとか防ぐ方法はないものかね」三人めがいった。
カレーニン夫人は馬車に乗った。が、オブロンスキーは、妹が唇をふるわせ、やっと涙をおさえているのを見て、びっくりした。
「アンナ、どうしたんだい?」馬車が五、六百メートル走ったとき、彼はたずねた。
「不吉な兆《しらせ》ですわ」アンナは答えた。
「なにをくだらん」オブロンスキーはいった。「おまえがやって来てくれた、これがいちばん肝心なことだよ。ぼくがどんなにおまえを頼りにしているか、想像もつかんだろうよ」
「兄さんはもう前からヴロンスキーさんをご存じなの?」アンナはきいた。
「ああ、じつはね、ぼくらは彼がキチイと結婚するものと、楽しみにしているんだよ」
「そう?」アンナは静かに答えた。「さあ、今度はあなたのお話をしましょう」実際、なにか気にかかる考えでも追いはらおうとするかのように首を振って、アンナはこうつけ加えた。「さ、兄さんの問題についてお話ししましょう。お手紙を拝見したのですぐ飛んで来たんですのよ」
「ああ、いっさいの望みはおまえにかかっているんだよ」オブロンスキーはいった。
「それじゃ、すっかりお話ししてちょうだい」
そこでオブロンスキーは話しはじめた。
家の前まで来ると、オブロンスキーは妹をおろし、ほっと溜息《ためいき》をついてその手を握り、そのまま、役所へ馬車を走らせた。
19
アンナが部屋へはいって行ったとき、ドリイは小さいほうの客間にすわって、もう父親に似てきた、まるまる太って、髪の白っぽい、男の子を相手に、フランス語の読み方を見てやっていた。男の子は本を読みながらも、上着のとれかかっているボタンを手でひねくりまわして、もぎ取ろうとしていた。母親は何度もその手をどけさせたが、そのふっくらした小さな手はすぐまたボタンをつかむのだった。ついに母親はボタンをもぎ取って、ポケットの中へ入れてしまった。
「グリーシャ、手をじっとしてらっしゃい」母親はいって、前々からの仕事になっている毛糸の掛けぶとんをまたとりあげた。これはいつもなにかつらいことがあったときにすることになっていたので、今も彼女は指を動かして、目を数えながら、いらいらした様子で編んでいた。彼女はきのう夫に対して、あなたの妹が来ようと来まいと、自分の知ったことではないと、召使を通じて伝えたにもかかわらず、それでも、やっぱりなにかと客を迎える用意をして、胸をわくわくさせながら、義妹を待ちうけていたのである。
ドリイは自分の悲しみに打ちひしがれて、それにすっかりのまれていた。しかし、義妹のアンナがペテルブルグでも一流の人物の夫人で、ペテルブルグ社交界のgrand dameであることは、ちゃんと心得ていた。そのため、彼女は夫にいったことを実行しなかった、つまり、義妹がやって来ることを忘れなかったのである。
《それに、結局、アンナにはなんの罪もないんだもの》ドリイは考えた。《あの人のことといったら、それこそいいことよりほかになにも知らないし、あたしに対してだって、いつでも優しく親切なんだから》もっとも、ペテルブルグのカレーニン家に泊ったときの印象を思いだすかぎりでは、彼らの家そのものは彼女の気に入らなかった。その家庭生活のあり方には、なにかしら、真実でないような感じがあった。《それにしても、あの人を迎えないなんて理由はないわ。ただあの人が、あたしを慰めようなんて気を起さなければいいけれど!》ドリイは考えた。《だって、慰めだの、忠告だの、キリスト教徒としての赦罪だの、そんなことはもう千度も考えてみたけれど、やっぱり、そんなものはなんの役にも立ちゃしないんだから》
このところずっと、ドリイはただ子供たちを相手にひとりで暮してきた。自分の悲しみを口に出すのはいやだったが、そうかといって、こんな悲しみを心にいだきながら、なにかほかのつまらない話をするのは、とてもできないことであった。いずれにしても、彼女はアンナにはなにもかも話してしまうだろうと、自分でも前から考えていた。そしてときには、なにもかも話してしまうのだと考えてうれしい気持になったが、またどうかすると、自分の恥を夫の妹にさらけだして、通りいっぺんの忠告や慰めの言葉を聞かなければならないのかと思って、苦々しい気持におそわれたりするのであった。
彼女はよくあることだが、時計を見ながら、今か今かとアンナを待ちかねていたくせに、ちょうど客が到着した瞬間うっかりしていて、ベルの音を聞かなかった。
もう戸口のところで衣《きぬ》ずれの音や、軽い足音が聞えたので、彼女ははっとしてうしろを振り返った。と、そのやつれはてた顔には思わず、喜びならぬ驚きの色が表われた。彼女は立ちあがって、義妹を抱擁した。
「まあ、もう着いたの?」彼女は相手に接吻しながらいった。
「ドリイ、ほんとうにうれしいわ、お目にかかれて」
「こちらこそ」ドリイは、アンナが事情を知っているかどうか、その表情で見きわめようと努めながら、弱々しい微笑を浮べていった。《きっと、知ってるんだわ》アンナの顔に同情の色を認めて、彼女はそう思った。「さあ、行きましょう、お部屋へご案内するわ」なにかむずかしい話を先へ延ばそうと思って、彼女はそう言葉をつづけた。
「これがグリーシャ? まあ、大きくなったのねえ」アンナはいって、男の子に接吻すると、ドリイから目を放さずに、立ち止ったまま、頬を赤らめた。「ねえ、もうどこへも行かなくてけっこうよ」
アンナはショールを取り、帽子を脱ごうとしたが、そのひょうしに、カールしている黒髪の一束に帽子をひっかけ、頭を振って、髪を放した。
「まあ、あなたったら、見るからにおしあわせそうで、お元気なのね!」ドリイはほとんどうらやむような口調でいった。
「あたしが?……そうね」アンナは答えた。「おやまあ、ターニャ! うちのセリョージャと同《おな》い年だったわね」そこへ駆けこんで来た女の子を見て、彼女はそうつけ足した。アンナは女の子を抱きあげて、接吻した、「まあ、かわいい子、ほんとに、かわいいわ! さあ、みんなを見せてよ」
アンナは子供たちの名前を次々に呼びあげた。しかもその名前ばかりでなく、全部の子供たちの生年月日から、性質、病気にいたるまで覚えていたので、ドリイもすっかり感心してしまった。
「じゃ、子供部屋へ行きましょう」ドリイはいった。「あいにく、ワーシャは今ねんねだけれど」
子供たちをながめてから、彼女たちはもうふたりきりで、コーヒーを前にして、客間にすわった。アンナは盆に手をかけたが、また向うへ押しやった。
「ねえ、ドリイ」アンナは話しかけた。「お話は兄からうかがったわ」
ドリイは冷やかにアンナをながめた。相手が通りいっぺんの同情の言葉を吐くと思っていたのである。ところが、アンナはなにひとつそんなことは口に出さなかった。
「ねえ、ドリイ!」アンナは繰り返した。「あたしは兄を弁護しようとも、あなたを慰めようとも思いません。だって、そんなことは、とてもできないことですもの。でもね、ドリイ、あたしはただあなたがかわいそうなの、しんからかわいそうでたまらないの!」
アンナのきらきらしたひとみを縁どっている濃いまつげの下から、急に涙があふれた。彼女は相手のそばへすわりなおして、精力のあふれているような小さい手で、ドリイの手をぎゅっと握りしめた。ドリイは身をかわさなかったけれど、その顔はそっけない表情を変えなかった。ドリイはいった。
「あたしを慰めるなんてむりですよ。あんなことがあった以上、なにもかもおしまいですよ。なにもかもおしまいですよ!」
ところが、そういうかいわないうちに、彼女の顔の表情は不意に柔らいだ。アンナはドリイのやせた、かさかさの手をとって接吻し、話をつづけた。
「でもね、ドリイ、じゃ、どうしたらいいの、ねえ、いったい、どうしたらいいの? そんなひどいことになって、これからどうするのがいちばんいいのかしら? それを考えなくちゃいけないわ」
「もうなにもかもおしまいになったんだわ、それだけのことよ」ドリイはいった。「それに、なによりもつらいのは、ねえ、あたしがあの人を捨ててしまうことができないってことなの。子供のために、あたしはしばられているのよ、でももう、あの人といっしょに暮すことはできません。あの人を見るだけで苦しいんですもの」
「ねえ、ドリイ、兄の話は聞いたけど、今度はあなたの話が聞きたいの、なにもかもすっかりいってちょうだいね」
ドリイはさぐるような目で相手をながめた。
アンナの顔には、ほんものの同情と愛情が、あふれていた。
「じゃ、いうわ」不意にドリイは話を切りだした。「ただ、あたしはいちばんの初めからお話しするわ。お嫁に来たときのことは、あなたも知ってらっしゃるわね。ママの教育のおかげで、あたしはただ無邪気だというばかりでなくて、ばかだったのよ。あたしなんにも知らなかった。人の話じゃ、今になって知ったんだけど、夫は妻に自分の過去の生活について話をするもんですってね、でもスチーヴァは……」といいかけて、すぐ、いいなおした。「オブロンスキーは、なんにもあたしに話してくれなかったの。あなたは本気にしないでしょうけど、あたしは今まで、あの人の知っている女はあたしひとりだけだと、思いこんでいたんですから。そうやって八年間暮してきました。ねえ、ほんとに、あたしはあの人の不実なんて疑ってみたこともないばかりか、そんなことなどとてもありえないことだと思っていたんです。それが、どうでしょう。そう思っているところへ、いきなり、ひどいこと、けがらわしいことを一度に聞かされたんですからねえ……ねえ、あたくしの身にもなってちょうだい、自分の幸福をしんから信じきっているところへ、いきなり……」ドリイはすすり泣きをおさえながら、言葉をつづけた。「例の手紙を見つけたの……あの人が自分の情婦に、うちの家庭教師にやった手紙を、ねえ、あんまりひどすぎるわ!」彼女はすぐハンカチを取り出して、顔をおおった。
「それが一時の迷いならまだわかりますけれど」ちょっと黙ってから、彼女はまたつづけた。「でも、計画的に狡猾《こうかつ》なだまし方をするなんて……しかも、その相手というのは?……あんな女といっしょになりながら、あたしの夫にもなっていようなんて……ああ、たまらない! とてもあなたにはおわかりにはならないでしょうけれど……」
「いいえ、わかってよ、あたしにもわかってよ! ほんとよ、ドリイ」アンナは相手の手を握りしめながらいった。
「じゃ、あの人はあたしのこのひどい立場をわかってくれていると思って?」ドリイはつづけた。「これっぽっちもわかっちゃいないの! あの人は幸福で、満足しきってるんだわ」
「そりゃ違うわ!」アンナは早口にさえぎった。「兄は悲しんでるわ、すっかり後悔しながら……」
「あの人に後悔なんてできるかしら?」ドリイは義妹の顔を注意ぶかく見つめながら、そうさえぎった。
「できますとも、兄のことはよく知っていますもの。あたし、もう、かわいそうで見ていられなかったわ。ねえ、あたしたちはあの人をよく知ってるじゃありませんか。あの人はいい人だけれど、ちょっと自尊心の強いところがあるでしょう、それが今はすっかりしょげてしまって。それに、いちばんあたしが動かされたのは……(そこでアンナは、ドリイの心を動かすことのできる急所を考えついた)あの人は二つのことで苦しんでいるのよ。一つは、子供の手前恥ずかしいということと、もう一つは、あなたを愛していながら……ええ、ええ、この世のなによりも愛していながら」アンナは、なにかいい返そうとするドリイを、あわててさえぎった。「あなたをつらいめにあわせて、あなたの心を傷つけたことなの。『いや、いや、あれはけっして許してはくれんだろうよ』って、ずっと、いってたわ」
ドリイは義妹の言葉を聞きながら、なにか考えこんで、その顔から目をそらしていた。
「そりゃ、あたしにもわかるわ、あの人の立場もつらいってことは。罪のある者が、罪のないものより苦しいのはあたりまえですもの」彼女は口をきった。「ただあの人が、こういう不幸はみんな自分が罪を犯したからだ、と感じての話ですけれど。でも、どうしてあたしに許すことができると思って? あの女とのことのあとで、どうしてもう一度あの人の妻になることができると思って? もう今となっては、あの人と暮すのは苦痛だわ。だって、それは、あたしがあの人を愛していた昔の生活を、今なおなつかしく思って……」
そのとき、すすり泣きの声がその言葉をとぎらせた。
ところが、まるでわざとのように、ドリイは気が柔らぐたびに、すぐまた腹の立つことをいいださずにはいられなかった。
「そりゃ、あの女は若くて、美しいですよ」ドリイはつづけた。「ねえ、アンナ、考えてもみてよ、あたしの若さも美しさもすっかり失《う》せてしまったけれど、それはあの人とあの人の子供のためなんですからね。あたしはあの人につくして、そのおかげで、自分のすべてを、なにもかも使いはたしてしまったんですよ。だから今になって、あの人が若い下品な女に惹《ひ》かれるのもあたりまえだわ。あの人たちはきっとふたりして、あたしのうわさをしたにちがいないわ、それともわざと黙っていたかしら。そのほうがもっと性《たち》が悪いわ……ねえ、あなたわかる、あたしの気持が?」
その目は再び憎《ぞう》悪《お》に燃えあがった。「あんなことがあったあとでも、あの人はあたしになんとかいうでしょうが……ねえ、そんなことが信じられて? とてもできませんわ。いいえ、もうなにもかもおしまいだわ。前にはあたしの慰めとなっていたもの、骨折りや苦しみの報酬となっていたものが、もうすっかりおしまいになったんですよ……あなたには信じられないかもしれないけれど、今もグリーシャの勉強を見てやってたのよ、前にはそれが楽しみだったのに、今じゃ苦しみになってしまったわ。なんのために骨折ってるんだろう、なんのためにこうあくせく働いてるんだろう? なぜ子供なんかいるんだろう、ってね。でも、なによりもつらいのは、とつぜんあたしの魂がひっくり返ってしまって、今までの優しい愛情のかわりに憎しみが、ええ、ただ憎しみばかりがあることなの。あたし、いっそのこと、あの人を殺してしまって……」
「ねえ、ドリイ、あなたの気持はわかるわ、でも、そんなに自分で自分を苦しめないで。あんまりひどい仕打ちを受けて、興奮してらっしゃるから、いろんなことがちゃんと見えないのよ」
ドリイは気をしずめた。ふたりは二分ばかり黙っていた。
「ねえ、どうしたらいいの、アンナ、教えてちょうだい、助けてちょうだい。いくら考えても、なにひとついい考えが浮ばないんですもの」
アンナもなにひとつ考えつくことはできなかったが、その心は兄嫁の一語一語を、その顔の表情の一つ一つを、しっかりととらえていた。
「あたくし、一つだけいいたいことがあるの」アンナは話しはじめた。「あたしは妹ですから、あの人の性格はよく知ってますわ。なにもかも忘れてしまって(彼女は額の前で手を動かしてみせた)、すっかり夢中になってしまうけれど、そのかわり、心の底から後悔する、あの人の癖を知ってますの。あの人は今、どうしてあんなことができたかと、自分でもなにがなんだかわからずにいるんですよ」
「いいえ、あの人にはわかっているんです、わかっていたんです!」ドリイはさえぎった。「それじゃ、あたしは……、あなたはあたしのことを忘れてしまって……あたしのほうが気が楽だとでもいうの?」
「まあ、待ってちょうだい。じつは、兄から話を聞いたときには、あなたのひどい立場が十分にのみこめなかったんですの。あたしには兄の苦しみと、もう家庭がめちゃめちゃになったことがわかりましたわ。兄のことがとてもかわいそうでしたけど、今あなたとお話をしたら、やはり女として、別の見方をするようになりましたの。あなたのお苦しみようを見て、口ではいえないほど、お気の毒に思ってるんですの。それでもね、ドリイ、あなたのお苦しみはよくわかったけれど、たった一つわからないことがあるの。あたしにはわからないんだけど、ほんとにわからないんですけど……まだあなたの心の中にはどの程度あの人に対する愛情が残っているのかしら……でも自分にはそれがわかってるでしょう、――許すことができるぐらいまだ愛情があるかどうか。もしあったら、許してあげて!」
「いいえ」ドリイはいいかけたが、アンナはそれをさえぎって、もう一度、相手の手に接吻した。
「あたしはあなたより世間を知っていますわ」アンナはいった。「スチーヴァみたいな人たちも知っていれば、ああいう人たちがこの問題をどう見ているかってことも知っています。あなたは、兄があの女《・・・》とあなたのうわさをしただろう、っていいましたわね。そんなことはありませんわ、ああいう人たちは不実なことはしても、自分の家庭とか妻とかいうのは、どこまでも神聖なものとしているんですよ。どういうわけかああいう女はいつも軽蔑《けいべつ》されているので、家庭のじゃまにはならないのね。ああいう男の人たちは家庭とそうしたことのあいだに、なにか越えることのできない一線を画しているんですよ。そんなことはあたしにはわからないけれど、そういうものなのね」
「でも、あの人はあの女に接吻したんですのよ……」
「ねえ、ドリイ、お願いだから待って。あたしはあなたに夢中になっていた時分のスチーヴァを知っているわ。あの時分のことを覚えているけれど、あの人はよくあたしのとこへ来て、あなたの話をしながら泣いたものよ。あなたはあの人にとってなにか詩的な崇高なものだったのよ。兄はあなたといっしょに暮しているうちに、あなたはますます兄にとって尊いものになっていったんですの。だって、あたしたちは前によく兄のことを笑ったものですわ。兄ったら、一口ごとに、『ドリイはすばらしい女だ』ってつけたんですもの。あなたはあの人にとっていつも神聖なものだったし、今だってそのとおりなの、ただ今度のことはちょっとした心の迷いなのよ……」
「でも、その迷いがまた繰り返されるようだったら?」
「そんなことはありえませんよ、すくなくともあたしはそう思うわ……」
「そう、じゃ、あなたなら許せて?」
「わからないわ、裁《さば》くなんてできないし……いえ、できるわ」アンナはちょっと考えてからいった。それから、頭の中でその場の状況をはっきりのみこむと、それを心の秤《はかり》にかけて、つけ加えた。「ええ、できてよ、できてよ。ええ、あたしだったら許せてよ。そりゃ昔どおりにはいられないでしょうけれど、でも許せますわ、そんなことなんかまるでなかったみたいに、まるっきりなかったみたいに、許してしまいますわ……」
「そりゃ、もちろんだわ」ドリイは早口にそうさえぎったが、それは再三心に思ったことを口にしたようであった。「でなかったら、許したことになりゃしませんもの。いったん許すのなら、すっかり、許すのでなくちゃ。じゃ、行きましょう、あなたのお部屋へご案内するわ」ドリイは席を立ちながら、いった。そして、歩いて行く途中でアンナを抱きしめた。「ねえ、アンナ、来てくださって、ほんとにうれしいわ。あたし、気が軽くなったわ、前よりずっと気が軽くなったわ」
20
アンナはその日ずっと家で、つまり、オブロンスキー家で過した。そして、知人のだれかがはやくも上京を聞きつけて、その日のうちにやって来たが、だれにも会わなかった。アンナは午前中ずっとドリイと子供たちを相手に過した。ただ兄に簡単な手紙をことづけ、ぜひ家で食事するように、といってやった。『帰ってらっしゃい、神さまはお恵みぶかくいらっしゃいますから』とアンナは書いた。
オブロンスキーは自宅で夕食をした。食卓での話は一般的なもので、ドリイも夫と言葉をかわし、親しく「あなた」と呼んだが、これは前にはなかったことであった。夫婦の態度は相変らずよそよそしいものがあったが、もう別れ話などは出なかった。そこでオブロンスキーは妻と話し合って、和解する可能性があると見てとった。
食事がすむと、すぐキチイがやって来た。彼女はアンナを知ってはいたが、それはほんのちょっとだったので、みんなの賞讃《しょうさん》の的になっているこのペテルブルグ社交界の貴婦人が、自分をどんなふうに迎えてくれるかと、多少の気おくれを感じていた。しかし、キチイはアンナに気に入られた――それはキチイにもすぐわかった。アンナはどうやら、キチイの美《び》貌《ぼう》と若さに、見とれているふうだった。一方、キチイはそれと気づくまもなく、もう自分がアンナの影響の下にあるばかりでなく、彼女に惚《ほ》れこんでさえいるのを感じた。それはよく若い乙女《おとめ》が年上の人妻を慕っていくのと同じだった。アンナは社交界の貴婦人にも、八つになる男の子の母親にも見えなかった。いや、そのみずみずしさからいっても、微笑やまざなしにあふれるいつも生きいきした顔の表情からいっても、むしろ二十代の娘を思わせるものがあった。ただ、キチイをはっとさせると同時に、その心を強くとらえた、きまじめな、時には沈みがちのひとみの表情だけは別であった。キチイはアンナがとてもさっぱりした気性で、なにひとつ隠しだてしないことは、よくわかったけれども、それにもかかわらず、アンナの中にはなにかしら別の世界が、キチイなどには想像もつかない、複雑で詩的な興味に満ちた、崇高な世界があるように思われた。
食事が終って、ドリイが居間へ引っこんだとき、アンナはすぐ立ちあがって、葉巻をふかしはじめた兄のそばへ近づいた。
「ねえ、スチーヴァ」快活に目くばせして、兄に十字を切ると、戸のほうを目でさしながら、アンナはいった。「さあ、行ってらっしゃい、神さまが力をかしてくださいますよ」
彼は妹の言葉の意味を察して、葉巻を捨てると、戸の陰へ姿を隠した。
オブロンスキーが出て行くと、アンナは子どもたちにとりまかれながらすわっていたもとの長いすへ引き返した。子供たちはママがこの叔母《おば》を好いているのを見てとったからか、それとも自分たちで叔母のもっている特別な魅力を感じたのか、いずれにしても、小さな子供にはよくあることだが、上のふたりと、それにつづく下の弟や妹までが、もう食事の前から新しい叔母にまつわりついて、そばを離れようとしなかった。そして、子供たちのあいだにはなにか一種の遊戯みたいなものができてしまっていた。つまり、できるだけ叔母さんの近くにすわって、そのからだにさわったり、小さな手を握って接吻したり、その指輪をおもちゃにしたり、でなければ、せめてその着物のひだにでもふれたいというわけであった。
「さあ、みんな、さっきすわってたとおりにすわるのよ」アンナは自分の席につきながらいった。
するとまた、グリーシャが彼女の腕の下へ頭を突っこんで、その着物にもたれかかりながら、得意になって、幸福そうに顔を輝かした。
「それで、今度の舞踏会はいつですの?」アンナはキチイに顔を向けた。
「来週ですの、とてもすばらしい舞踏会ですわ。いつも楽しい舞踏会の一つですのよ」
「まあ、いつも楽しい舞踏会なんてあるかしら?」アンナは優しく皮肉をこめていった。
「おかしなことですけど、それがありますの。ボブリーシチェフ家のはいつでも楽しゅうございますし、ニキーチン家のもそうですわ。ところが、メシュコフ家のはいつも退屈なんですの。お気づきになりませんでした?」
「いいえ、だってあたしにとってはもう楽しい舞踏会なんてありませんもの」アンナはいった。すると、キチイはその目の中に、自分には開かれていないあの特別の世界を認めた。「あたしにとっては、まあ、そう気骨の折れない、そう退屈でない舞踏会しかありませんわ……」
「あなた《・・・》が舞踏会で退屈なさるなんて?」
「まあ、なぜあたし《・・・》は舞踏会で退屈するはずがないんでしょう?」アンナは聞き返した。
キチイは、アンナがそれにつづく返事をちゃんと承知していることに気づいた。
「だって、あなたはいつでもだれより美しくていらっしゃるんですもの」
アンナはすぐ赤くなる癖があった。頬《ほお》を赤らめて答えた。
「第一、そんなことはけっしてありませんけど、第二に、たとえそんなことがあったにしても、それがあたしにとってなんになるでしょう?」
「今度の舞踏会にはお出になりまして?」キチイはたずねた。
「まいらないわけにもまいりませんでしょうね。さあ、これを取ってもいいわ」まっ白な、きゃしゃな指先から、今にも抜けそうになっている指輪をひっぱっていたターニャに向って、アンナはいった。
「お出になりましたら、あたくし、ほんとにうれしゅうございますわ。だって、あたくし、舞踏会へお出になったところを拝見したくてたまりませんの」
「ひょっとして、出かけることになりましたら、あなたに喜んでいただけると思って、それをせめてもの慰めにいたしますわ……あ、グリーシャ、お願いだから、そういじらないで。ほら、こんなにすっかりばさばさになってしまったじゃないの」グリーシャがおもちゃにしたために、ほつれたおくれ毛をなおしながら、アンナはいった。
「あたくし、舞踏会へは紫のお召物でいらっしゃるところが目に浮びますの」
「あら、なぜ紫でなくちゃいけませんの?」アンナはほほえみながら、聞き返した。「さあ、さあ、子供たちはみんな、あっちへいらっしゃい、ね、わかったの? ミス・グールがお茶だって呼んでますよ」アンナは子供たちをせきたてて、食堂のほうへやりながらいった。
「でも、なぜあたしを舞踏会へお誘いになるか、あたし、ちゃんと存じておりますのよ。その舞踏会はあなたにとても大きな意味をもっているので、みなさんに出ていただきたいのでしょう、みんなに加わっていただきたいのでしょう?」
「まあ、どうしてご存じですの? そのとおりなんですけど」
「あなたぐらいの年ごろはほんとにようございますわねえ!」アンナは言葉をつづけた。「あたしもあの空色の霧のような気持を覚えていますわ、知ってますわ、まるであのスイスの山にかかっている霧のような。あの霧は、今にも少女時代を終ろうとする幸福な時代には、なにもかもすっかり包んでくれるものなんですのね。でも、その大きな、幸福で楽しい世界を出ると、道はだんだん狭くなっていきますけれど、その狭い道へはいって行くのがまた楽しいような、息づまるような気持になって……そりゃ、その道は明るくてとてもすばらしいように思えるんですけれど。だれでも一度はそれを通って行くんですわ」
キチイは無言のままほほえんでいた。《でも、この方はどんなふうにそれを通っていらしたのかしら? ああ、この方のロマンスを知りたいものだわ》アンナの夫であるカレーニンのあまり詩的でない風貌を思い起しながら、キチイは心の中でこんなことを考えた。
「あたしも、いくらか知ってますのよ、スチーヴァが話してくれましたので。おめでとうございます、あたしもあの人が気に入りましたわ」アンナはつづけた。「あたし、停車場でヴロンスキーさんにお会いしましたの」
「あら、あの方もあそこへいらっしゃいましたの?」キチイは頬を赤らめてきいた。「ねえ、スチーヴァはなんと申しまして?」
「スチーヴァはなにもかもしゃべってくれましたわ。あたしもそうなれば、ほんとにうれしゅうございますわ……きのうはずっと、ヴロンスキーさんのお母さまと汽車がごいっしょでしてね」アンナはつづけた。「お母さまは、ひっきりなしに、あの方のことばかり話していらっしゃいましたよ。――どうやら、お気に入りのようですわ。母親がとても子供に甘いってことは、あたしも承知しておりますけれど、ただ……」
「お母さまはあなたにどんなことをお話しなさいまして?」
「そりゃもういろんなことを! あの方がお母さまのお気に入りだってことは、わかってますけれど、でもあの方はたしかに、りっぱな騎士《ナイト》ですわ……まあ、たとえば、お母さまはこんなお話をなさいましたよ。あの方は全財産をお兄さまにあげてしまおうとなさったり、もう子供の時分からなにか非凡なことをなさって――ある女の人がおぼれかけたのを、水から救いあげたりされたんですって。まあ、一口に申せば、英雄ですわね」アンナは微笑しながらいったが、そのとき、ふと彼が停車場で二百ルーブル恵んだことを思いだした。
しかし、アンナはあの二百ルーブルのことは話さなかった。なぜかそれを思いだすと、不愉快になるのだった。そこにはなにか自分と関係のある、しかもそうあってはならぬことが隠されているような気がしたからである。
「お母さまはぜひたずねてほしいと、おっしゃってましたよ」アンナはつづけた。「あたしもお母さまにお目にかかるのは楽しみですから、あすおたずねしようと思っておりますの。でも、いいあんばいに、スチーヴァはいつまでもドリイの居間におりますこと」アンナは話題を変えて立ちあがりながら、そうつけ加えたが、何やら浮かぬ面持ちなのがキチイには感じられた。
「いや、ぼくが先だよ!」「いえ、あたしよ」子供たちは、お茶をすまして、アンナ叔母さんのほうへ駆けだして来ながら、口々に叫んだ。
「さあ、みんないっしょに!」アンナはいって、笑いながら子供たちのほうへ走って行って抱きつくと、もう有頂天になってわいわいきゃあきゃあ騒ぎまわる子供たちを、ひとかたまりにしておし倒した。
21
おとなたちのお茶の時間になると、ドリイは自分の居間から出て来た。オブロンスキーは顔をみせなかった。きっと、妻の居間の裏口から抜けだしたのであろう。
「あなた二階じゃ寒くないかと思って」ドリイはアンナのほうを向いて話しかけた。「階《し》下《た》へ移してあげたいんだけれど。そのほうが、お互いに近くなるでしょう」
「ねえ、もう後生だから、あたしのことは心配しないで」アンナはドリイの顔をじっと見つめて、和解ができたかどうか見きわめようと努めながら、答えた。
「こっちのほうが明るいでしょう」兄嫁はいった。
「でもね、あたしはいつどこでも、野ねずみみたいによく眠れるのよ」
「なんの話だい?」オブロンスキーは書斎から出て来て、妻に話しかけた。
その話し方の調子によって、キチイもアンナも、すぐ和解が成立したのだなと察した。
「アンナの部屋を階下《した》に変えようと思うんですけれど、窓掛けをとりかえなくちゃ。だれもしてくれるものがないから、結局、あたしがしなくちゃなりませんわ」ドリイは夫のほうに向いていった。
《ほんとに、仲直りができたかどうか、あやしいわ》ドリイの冷やかな落ち着いた調子を聞いて、アンナは心の中で考えた。
「いや、ドリイ、もういいよ、いつも面倒なことを自分でするなんて」夫はいった。「なんなら、わしがなんでもしてやるよ……」
《これなら、きっと仲直りしたんだわ》アンナは思った。
「あなたのなんでもしてやるは、わかってますわ」ドリイは答えた。「いつもマトヴェイにできもしないことをいいつけて、ご自分はさっさと出ておしまいになるんですもの、マトヴェイのほうはなにもかもごっちゃごちゃにしちまって」ドリイがそういったとき、もう癖になっている、さげすむような笑いが唇の両すみをゆがめた。
《完全な、ほんとに完全な和解だわ》アンナは思った。
《ありがたいことだわ!》アンナは自分がそのきっかけをつくったことを喜びながら、ドリイに近づいて接吻した。
「そりゃ、とんでもない。なぜおまえはわしとマトヴェイをそう軽蔑するんだね?」オブロンスキーはかすかな微笑を浮べながら、妻のほうへ振り向いていった。
その晩はずっと、ドリイはいつものように夫に対して、軽く冷笑しているような態度をとっていたが、オブロンスキーのほうは満ちたりて、浮きうきしていた。もっとも、それは、許されたために自分の罪を忘れた、というそぶりを見せぬ程度であったけれど。
九時半に、オブロンスキー家のお茶を囲んでの、とくに喜ばしくも楽しい一家だんらんの夕べの集《つど》いは、一見きわめて平凡な出来事で破られた。しかし、この平凡な出来事が一同にはなぜか奇妙なことに思われた。みんなに共通のペテルブルグの知人の話をしていたとき、アンナはいきなり立ちあがった。
「あの方なら、あたしのアルバムの中にありますわ」アンナはいった。「ついでに、うちのセリョージャのもお目にかけますわ」彼女は誇らかな母親らしい微笑とともにそうつけ足した。
十時近くになると、アンナはいつもわが子におやすみをいうならわしであったし、舞踏会などへ出かけるときには、その前に自分で寝かしつけることにしていたので、今こんなにも遠くわが子から離れているのがもの悲しくなり、どんな話をしていても、思いはすぐに巻毛のふさふさしたセリョージャのことへ飛んで行くのだった。アンナはわが子の写真をながめて、その話がしたくなったのである。ちょっとしたきっかけを見つけて、彼女は席を立つと、いつもの軽やかで、しっかりした足どりで、アルバムを取りに行った。二階の彼女の部屋へ通ずる階段は、暖房のきいた玄関の大階段の踊り場から分れていた。
アンナが客間から出たとき、控えの間でベルの音が聞えた。
「まあ、だれかしら?」ドリイがいった。
「あたしのお迎えにしちゃ早すぎるし、ほかの方の訪問にしては遅すぎるわね」キチイが口をはさんだ。
「きっと役所から書類でも持って来たんだろう」オブロンスキーはいった。アンナが階段のそばを通りかかったとき、召使は来客の取次に上へ駆けのぼり、当の来客はランプのわきに立っていた。アンナは下を見おろして、すぐヴロンスキーだと気づいた。と、奇妙な満足の思いと、同時になにかに対する恐怖の念が、とつぜん、その心の中にひらめいた。彼は外套《がいとう》も脱がないで立ったまま、ポケットからなにか取り出していた。アンナが階段の中途まで行ったとき、ヴロンスキーは目を上げて彼女を見た。すると、その顔にはなにかはにかんだような、びっくりしたような表情が浮んだ。アンナは軽く会釈して通りすぎたが、そのあとから、中へ通るようにというオブロンスキーの大きな声と、それを断わるヴロンスキーのあまり大きくない、柔らかみのある、落ち着いた声が聞えた。
アンナがアルバムを持って引き返したとき、彼はもういなかった。そしてオブロンスキーの話によると、彼は今度やって来た名士のために催されるあすの晩餐会《ばんさんかい》のことで、ちょっと寄ったとのことであった。
「いや、なんとしてもはいろうとしないんだ。ちょっと変だったな」オブロンスキーはつけ加えた。
キチイは頬をそめた。彼女は彼がなんのために来て、なぜはいらなかったかを、自分ひとりだけがわかっているように思ったからである。
《あの方はうちへいらして》キチイは考えた。《あたしに会えなかったものだから、ここに来ているものと思って、わざわざ寄ってくださったんだけれど、もう遅いし、それにアンナさんも見えているので、おはいりにならなかったんだわ》
一同はなにもいわずに顔を見合せると、アンナのアルバムをながめはじめた。
計画されている宴会について詳しいことをきくために、夜の九時半に友人をたずねて、家の中へはいらなかったといっても、べつにそうふしぎなことではなかった。しかし、それでもやはり、みんなは妙に感じた。だれよりもそれをいちばん妙な、よくないことに感じたのは、アンナであった。
22
キチイが母親といっしょに、頭に髪粉をつけ、真《しん》紅《く》の上着をまとった召使たちの出迎える、花々に飾られ、光にあふれた階段をのぼって行ったとき、舞踏会はちょうど始まったばかりのところだった。広間の中からは、まるで蜜蜂《みつばち》の巣のように、そこに立ちこめているざわめきの音が、規則正しく聞えていた。ふたりが踊り場のところで、植木の陰に隠れながら、鏡に向って髪や着つけをなおしているあいだに、ある広間から、最初のワルツをかなではじめたオーケストラのバイオリンの、繊細ではっきりした響きが流れて来た。別の鏡の前で香水のにおいをぷんぷんさせながら、こめかみの白髪をなおしていた老文官は、階段の上でふたりにぱったり出会うと、一面識もないキチイに見とれながら、からだをかわして道をゆずった。シチェルバツキー老公爵が、青二才と命名している社交界の青年のひとりである、大きく胸のあいたチョッキを着たひげのない青年は、立ち止りもしないで白ネクタイをなおしながら、ふたりに会釈して、そばを通りぬけたが、すぐまた引き返して来て、キチイにカドリールを申し込んだ。初めのカドリールはもうヴロンスキーに約束してあったので、彼女はこの青年に二度めの約束をしなければならなかった。ひとりの軍人は手袋のボタンをはめながら、戸口のところで道をゆずった。そして、鼻下のひげをひねりながら、ばら色に輝くキチイに見とれていた。
その化粧をはじめ髪の結《ゆ》い方や、その他さまざまな舞踏会のしたくは、キチイにとってひじょうな努力と苦心のたまものだったにもかかわらず、今彼女がばら色の衣装に細かい網目のチュール・レースを重ね、おおらかな気どりのない態度で舞踏会へはいって行くのを見ると、こうしたリボンの花飾りや、レースや、さまざまなしたくのはしばしにいたるまで、なにもかも、本人や家人たちにとっては少しも苦心を要するものではなく、彼女は初めからこの高い髪型を結い、二枚の葉のついたばらをさし、チュール織りのレースをまとってこの世に生れでたのではないかと思われるほどだった。
広間へはいる前に、老公爵夫人が、ベルトのリボンの折れているのをなおしてやろうとしたときにも、キチイは軽く身をかわしてしまった。彼女はなにもかもあるがままで十分美しく優雅なはずで、なにひとつなおす必要はない、と感じていたのである。
それはキチイにとって、幸運な日の一つにあたっていた。衣装はどこも窮屈なところがなく、レースの襟《えり》もたるんだところがなく、リボンの花飾りもしわになったり、ちぎれたりしていなかった。弓なりにそったばら色のハイ・ヒールの靴は、足をしめつけないどころか、かえっていい気持にしてくれた。ふさふさしたブロンドのかもじは、まるで自分の毛のように、かわいい頭の上にぴったりのっていた。少しも形を変えないで、その手をつつんでいる長い手袋のボタンは、三つともはずれないで、ちゃんとかかっていた。ロケットの黒いビロードは、とりわけやさしく首を巻いていた。このビロードはまったくすばらしかった。いや、キチイは家で、鏡に自分の首を映しながら、そのビロードが話しかけているような気分におそわれたほどである。ほかのものはどれにも、まだいくらか問題の余地があったけれど、ただ、このビロードだけは優雅そのものであった。キチイは舞踏会へ来てからも、それを鏡に映してみて、にっこりほほえんだ。あらわな肩と腕に、キチイは大理石のような冷たさを感じたが、それは彼女のとくに好きな感じだった。そのひとみはきらきらと輝き、赤い唇は、わが身の美しさに、思わずほほえまないではいられなかった。キチイは広間へ通り、チュール、リボン、レース、花などで飾りたて、踊りの申し込みを待っている婦人たちのグループ(キチイは一度もその中に立ったことはなかった)のところまで行き着くか着かぬうちに、はやくもワルツの申し込みを受けた。しかも、その申し込みをしたのは、第一流の紳士で、舞踏会の立て役者ともいうべき踊り手で、有名な舞踏会の指導者をつとめ、れっきとした妻をもった、美貌で、堂々たる押しだしの式部官エゴールシカ・コルスンスキーであった。彼はワルツの第一奏をいっしょに踊ったボーニン伯爵夫人を離れるがはやいか、その立場上、踊りはじめた幾組かを見まわしていたが、おりからはいって来たキチイの姿に目をとめると、舞踏会の指導者特有の一風変った、おおらかな、軽い足どりで、彼女のそばへ駆け寄った。そして、軽く会釈すると、相手の意向などはききもせずに、いきなり手をまわして、その細腰を抱こうとした。キチイはだれに扇を渡したものかと、あたりを見まわしていたが、すぐこの家の夫人が微笑を浮べながら、それを受け取った。
「ちゃんと時間どおりに来てくださったのは、たいへんけっこうです」彼はキチイの腰を抱きながら、いった。「だいたい、遅刻ということは、いいことじゃありませんよ」
キチイはその左手を少し曲げて、相手の肩においた。やがて、ばら色の靴をはいた小さな足は、音楽の拍子にあわせて、すばしこく、軽快に、なめらかな嵌《はめ》木《き》床《ゆか》の上をリズミカルに動きはじめた。
「あなたとワルツを踊っていると、休まりますよ」彼はワルツの最初のゆるやかなステップを踏み出しながら、いった。「こりゃ、すばらしい。すごく軽やかで、それに、pr残isionですね」彼は、ほとんどだれにでも親しい知人にいうことを、彼女にもいった。
キチイはこのほめ言葉にほほえんで、相手の肩越しに広間を見まわしていた。彼女は舞踏会へ出ると、どの人の顔も一つの魔術めいた印象に溶けあってしまうように感ずるほどの駆け出しでもなく、また、どの顔も知りぬいていて、退屈を感ずるほど、舞踏会ずれもしていなかった。いや、彼女はちょうどこの二つのタイプのまん中ぐらいで、かなり興奮もしていたが、それと同時に、あたりをながめまわすだけの余裕をもっていた。広間の左のすみに、社交界の花形が集まっているのが見えた。そこには、もうそれ以上出せないほど肩を現わした、美人の誉れたかい、コルスンスキー夫人のリジイも、この家の女主人も、また、社交界の花形の集まる場所にはかならず顔を見せるクリーヴィンも、そのはげ頭を光らせていた。青年たちはそこへ近寄りかねて、ただ遠くからながめていた。彼女はまたそこにスチーヴァを見つけたし、さらに、黒いビロードの衣装をまとったアンナの、優雅な容姿をも見いだした。そして、あの人《・・・》もやはりそこにいるのだった。キチイは、リョーヴィンの申し込みを拒絶した晩以来、彼に会っていなかった。キチイは遠目のきく目で、すぐに彼の姿を認め、彼のほうも自分をながめているのに気づいた。
「どうです、もうひとつ? お疲れじゃないでしょう」軽く息をはずませながら、コルスンスキーはいった。
「いいえ、もうけっこうでございます」
「では、どちらへお連れしましょう?」
「カレーニンの奥さまがあそこにいらっしゃるようですから……どうか、あの方のところへお連れくださいまし」
「では、お望みのところへ」
そういうと、コルスンスキーは歩みを加減して、"Pardon, mesdames, pardon, pardon, mesdames."といいながら、広間の左すみにいるグループをめざして、まっすぐにワルツを踊って行った。そして、レースや、チュールや、リボンの海のあいだを縫いながら、その羽根一本にもさわらないで、くるりと激しくキチイのからだを回転させたので、一瞬、網織りの長靴下をはいたそのきゃしゃな足がぱっとのぞいて、着物の裾《すそ》が扇のようにひろがりながら、クリーヴィンのひざにおおいかぶさった。コルスンスキーは会釈すると、開いた胸をぐっとそらしながら、彼女をアンナのところへ連れて行くために、片手をさしのべた。キチイは赤くなって、クリーヴィンのひざから着物の裾をとりのけ、いくらかめまいを感じながら、アンナを捜そうとあたりを見まわした。アンナは、キチイがあれほど望んでいた紫の衣装ではなく、胸を大きくあけた黒いビロードの衣装をつけ、古い象《ぞう》牙《げ》のように磨《みが》きあげられた豊かな肩や、胸や、手首のほっそりと、きゃしゃな、丸みをおびた腕をあらわにしていた。この衣装はすべてベニス・レースで縁取りがしてあった。その頭には、少しの入れ毛もない黒々とした髪に、三色すみれの小さな花束がさしてあり、それと同じ花束が、黒リボンのベルトの上にもとめてあって、白いレースのあいだからのぞいていた。髪の形もあまり目だたないものだった。ただ目につくものといえば、いつもうなじやこめかみにたれて、風《ふ》情《ぜい》を添えている、見るからに気ままな小さい巻毛の輪くらいのものであった。磨きあげたようにしっかりした首には、真珠の首飾りがかかっていた。
キチイは毎日アンナに会って、すっかり相手に惚《ほ》れこんでいたので、なんとしても紫の衣装を着せてみたいと想像していた。ところが、今黒い衣装をつけたアンナを見て、彼女は自分がアンナの魅力を完全に理解していなかったことを感じた。キチイは今こそアンナをまったく新しい、思いがけない存在として見なおした。今になってはじめてキチイは、アンナが紫の衣装をつけるわけにいかないことを、彼女の魅力の秘密は、彼女がいつもその化粧や着つけの中から抜け出していて、化粧や着つけがけっして目だたないことにあることを、悟ったのであった。この豪華なレースのついた黒い衣装も、彼女が着ていると、ほとんど目だたず、単なる額縁にすぎなかった。目につくのはただ、単純で、自然で、優雅で、と同時に快活で、生きいきとしている彼女自身であった。
アンナはいつものように、ぐっとまっすぐ身をそらしながら立っていたが、キチイが自分のいる一団のほうへ近づいて来たとき、この家の主人に向って、ややそちらに首を向けながら話していた。
「いいえ、あたくし、石など投げはいたしませんわ」アンナは主人に向って、なにか返事をした。「もっとも、あたくしには、よくわかりませんけれど」肩をすくめながらそう言葉をつづけたが、すでに保護者らしくやさしいほほえみを浮べて、キチイのほうを振り返った。アンナは女らしくちらっとキチイの化粧をながめると、かすかに、しかし、キチイには意味のわかるように、軽く首を動かして、その化粧と美貌にうなずいてみせた。「あなたったら、広間にも踊りながらはいってらっしゃるのね」アンナはつけ加えた。
「この人は私のもっとも忠実な助手のひとりでしてね」まだ一度も会ったことのないアンナにおじぎをしながら、コルスンスキーはいった。「公爵令嬢は舞踏会を楽しく、美しくするのを助けてくださるんですよ。カレーニン夫人、どうか、ワルツをひとつ」彼は、身をかがめながらいった。
「おや、ご存じでいらっしゃるんですか?」主人がたずねた。
「私が存じあげない人なんかおりませんからね。私ども夫婦は白狼《しろおおかみ》も同様、だれだって存じあげてますよ」コルスンスキーは答えた。「どうか、ワルツをひとつ、カレーニン夫人」
「あたくし、踊らなくてもよろしいときには踊りませんの」アンナはいった。
「でも、今晩はそうはまいりませんよ」コルスンスキーは答えた。
そのとき、ヴロンスキーがそばへ近づいて来た。
「まあ、今晩は踊らなくちゃいけないんでしたら、しかたがありませんわ。では、まいりましょう」
アンナはヴロンスキーの会釈に気づかず、さっと、コルスンスキーの肩に手をかけた。
《あの方はヴロンスキーさんに、どんな不満があるのかしら?》キチイは、アンナがわざとヴロンスキーの会釈に気のつかないふりをしたのを見て心の中で考えた。
ヴロンスキーはキチイに近づくと、最初のカドリールのことをいってから、このところずっと、キチイに会えなくて残念だったといった。キチイは、ワルツを踊るアンナに見とれながら、彼の言葉を聞いていた。キチイはヴロンスキーがワルツに誘うのを待っていたが、ヴロンスキーは誘わなかった。キチイはびっくりしてちらっと相手を見た。と、ヴロンスキーは赤面して、あわてて、ワルツを申し込んだが、彼がキチイの細腰を抱いて、最初のステップを踏みだすと同時に、音楽がやんだ。キチイはすぐ目の前にある彼の顔をじっとながめた。そして、彼女が愛に満ちた思いでじっとながめたのに、相手がそれに答えてくれなかった、そのまなざしは、その後も長いこと、数年の後までも、痛ましいはずかしめとなって、彼女の心を傷つけたのであった。
「Pardon, pardon!  ワルツ、ワルツ!」コルスンスキーは、広間の向う側で叫んだかと思うと、いきあたりばったりの令嬢をかかえて、自分で踊りはじめた。
23
ヴロンスキーはキチイといっしょに、ワルツを幾度か踊った。ワルツのあと、キチイは母親のそばへ行き、ノルドストン夫人と二言三言話したかと思うと、もうヴロンスキーが第一番のカドリールを踊ろうと迎えに来た。カドリールを踊っているときは、べつにたいした話はなかった。たとえば、ヴロンスキーが愛すべき四十代の子供だといって、愉快に描写して聞かせたコルスンスキー夫妻のことや、将来の公衆劇場のことなどについて、切れぎれの話があったばかりだった。ただ一度だけ、会話はキチイの急所にふれた。それはヴロンスキーがリョーヴィンのことをいいだし、彼はここに来ているかとたずね、私は彼がとても気に入った、といったときである。しかし、キチイはカドリールからはそれ以上を期待していなかった。キチイは胸のしめつけられる思いでマズルカを待った。マズルカのときに、なにもかもきまってしまうにちがいない、と思われたからである。カドリールのあいだに、ヴロンスキーがマズルカの申し込みをしなかったことは、まだキチイを不安にしなかった。彼女はそれまでの舞踏会と同じように、マズルカはヴロンスキーと踊るものと思いこんでいたので、もう相手がきまっていますからといって、五人も申し込みを断わった。この舞踏会は最後のカドリールのときまで、キチイにとっては、喜ばしい色彩と、響きと、動きの溶けあった、まるで魔法にでもかけられた幻を見るようなものであった。彼女が踊らなかったのは、ただあまりに疲れたような気がして、休息したくなったときだけであった。ところが、キチイが断わりきれないで退屈な青年のひとりと、最後のカドリールを踊っているとき、偶然、ヴロンスキーとアンナの対舞者《ヴィ・ザ・ヴィ》となった。キチイはここへ来た最初から、一度もアンナと踊りのあいだに行き会ったことはなかったが、ここでまた、いきなり、まったく新しい、想像もできなかったアンナを見いだした。キチイはアンナの中に、自分でもよく覚えのある、相手に対する勝利に酔っている表情を見てとった。アンナが自分でつくりだした歓喜の酒に酔いしれているのが、手にとるように見えた。その気持を知り、その兆候《きざし》を知っているキチイは、それを今アンナの中に認めたのである――そのひとみの中にふるえ燃えあがる輝きを、思わず唇をゆがめる幸福と興奮のほほえみを、そのしぐさにあふれる、見る目も優美で、正確で、軽やかな風《ふ》情《ぜい》を。
《相手はだれかしら?》キチイは自問した。《みんなかしら、それとも、だれかひとりの方かしら?》キチイは考えて、いっしょに踊っている青年がなんとか会話の糸口を見つけようとして苦しんでいるのも助けずに、みんなを大円舞にしたり、鎖にしたりするコルスンスキーの命令に、表面はさも楽しそうに従いながらも、じっと、観察していた。しかも、その胸はいよいよ強くしめつけられるばかりであった。《いいえ、あの方をうっとりさせているのは、みんなが見とれているからじゃなくて、ひとりの人から讃美されているからだわ。じゃ、そのひとりというのは、――まさか、あの人が?》ヴロンスキーがアンナに話しかけるたびに、アンナのひとみにはうれしそうな輝きが燃え立ち、幸福の微笑がその赤い唇をゆがめるのだった。アンナはそうした喜びの兆《きざし》を見せまいと、自分で努めている様子であったが、その喜びの兆は自然に顔に現われるのだった。《じゃ、あの人のほうはどうかしら?》キチイはヴロンスキーのほうを見て、はっとした。キチイはアンナの顔の鏡にはっきりと見たものを、彼の顔の上にも見いだしたのである。あの、いつも落ち着いて、しっかりした態度や、あくまでおっとりとした顔の表情は、いったい、どこへ行ったのだろう? いや、それどころか、いまや彼は、アンナのほうへ向くたびに、まるでその前にひれ伏すように、心もち首をかがめ、その目の中には、服従と畏怖《いふ》の色だけが読みとれた。《私は自分を恥ずかしめたいのではありません》そのたびに彼のまなざしは語っていた。《ただ自分を救いたいのですが、どうしたらいいかわからないでいるのです》彼の顔には、キチイが今まで一度も見たことのない表情が浮んでいた。
ふたりは共通の知人のうわさ話などして、きわめてつまらない会話をつづけていたにもかかわらず、キチイの目には、ふたりが口にする一語一語が、ふたりと彼女の運命を決するように思われてならなかった。しかも、奇妙なことには、ふたりは実際、イワン・イワーノヴィチのフランス語がこっけいだとか、エレーツカヤはもっといい相手を見つけることができただろうにとかいった話をしていたのであるが、それにもかかわらず、これらの言葉はふたりのためになにか特別の意味をもっており、ふたりもキチイと同様それを感じていたのであった。舞踏会全体が、いや、全世界までが、なにもかもキチイの心の中では霧におおわれてしまった。ただ彼女の受けてきた厳格な教育の力だけが彼女をささえて、人から要求されることを、つまり、踊ったり、質問に答えたり、話をしたり、すすんで微笑さえするのだった。ところが、マズルカがはじまるというときになって、もういすの置きかえがはじまり、幾組かの踊り手が小さな部屋から大広間へ移って行ったとき、キチイにとって絶望と恐怖の瞬間が訪れた。彼女は五人もの申し出《いで》を断わったのに、今ではマズルカを踊る相手がなかったのである。もう申し込みを受けるという望みもなかった。というのは、社交界における彼女の成功があまりにもすばらしかったので、今まで申し込みを受けずにいるなどとは、だれの頭にも思い浮ばなかったからである。もうこうなったら、母親に気分がすぐれないといって、家へ帰るよりほかになかった。しかし、今はそうする気力さえ尽きていた。キチイはすっかり打ちひしがれていた。
彼女は小さな客間の奥まったところへはいって、ソファに身を投げだした。空気のようにふわりとしたスカートが、雲のようにもちあがって、そのほっそりしたからだをとりまいた。あらわな、やせた、乙女《おとめ》らしいきゃしゃな片手は、力なくたれて、ばら色のチュニックのひだの中に沈み、扇を持った片方の手は、小刻みに、せかせかと上気した顔をあおいでいた。しかし、その姿は、いましがた草の葉にとまったものの、いまにも虹《にじ》のような羽根をひろげて飛び立とうとしている蝶《ちょう》のような風《ふ》情《ぜい》をたたえていたにもかかわらず、彼女の胸は恐ろしい絶望にしめつけられていた。
《でも、ひょっとしたら、あたしの思いちがいかもしれない。ひょっとしたら、そんなことはなかったのかもしれない?》
キチイはさっき自分の見たことを、もう一度思いだしていた。
「キチイ、これはいったいどういうことなの?」じゅうたんの上を音もなく歩いて来て、彼女のそばへ近寄りながら、ノルドストン伯爵夫人がいった。「あれはどういうことなのか、さっぱりわからないわ」
キチイの下唇がぴくりと震え、彼女はさっと立ちあがった。
「キチイ、あなた、マズルカは踊らないの?」
「ええ、ええ」キチイは涙に震える声で答えた。
「あの人はあたしの前で、あの方をマズルカにさそったのよ」あの人とあの方がだれのことか、キチイにはわかるものと承知して、ノルドストン夫人はいった。「すると、あの方はね、なんだってあなたはシチェルバツキー公爵令嬢とお踊りにならないんです、ってきいたわ」
「ああ、あたしにはどうだって同じよ!」キチイは答えた。
キチイの立場は彼女自身をのぞいては、だれにもわからなかった。彼女はひょっとすると愛していたかもしれぬ男の申し込みをつい先日断わったが、それももうひとりの男を信じていたためであった。しかし、そのことを知っているものは、だれひとりいなかった。
ノルドストン伯爵夫人は、自分がいっしょにマズルカを踊ったコルスンスキーを見つけて、キチイに申し込みをするようにいった。
キチイは第一の組で踊った。それに、幸い、なにひとついわないですんでいた。なぜなら、コルスンスキーは役目がら、いろいろ世話をやきながら駆けずりまわっていたからである。ヴロンスキーとアンナは、キチイのまっ正面にすわっていた。彼女はその遠目のきく目で、ふたりを観察していた。やがて、ふたりが踊りの組にまじってそばへやって来たので、すぐ近くからもながめたが、よくながめればながめるほど、キチイは自分の不幸がもう確定的なものであることを、はっきり信じこまないわけにはいかなかった。彼女は、ふたりがこの人であふれている大広間にいながら、自分たちふたりだけのような気持になっているのを見てとった。また、いつもは落ち着いて毅然《きぜん》としたところのあるヴロンスキーの顔にも、キチイをはっとさせた、なにか悪いことをした利口な犬に似た、途方にくれた従順な表情が認められた。
アンナが微笑すると、その微笑は彼にも伝わった。アンナが考えこむと、彼の顔もまじめになった。なにか超自然な力が、キチイの目をアンナの顔へひきつけるのだった。アンナは飾りけのない黒衣を身にまとって優雅だった。その腕輪をはめたむっちりした腕も、真珠の首飾りをまいて、しっかとすわった首も、やや乱れて波うっている髪も、小さな手足の気品のある軽々としたしぐさも、いまや生きいきとしているその美しい顔も、どれ一つとして優雅でないものはなかった。しかし、その妙《たえ》なる美しさの中には、なにかしら残酷な恐ろしいものがあった。
キチイは前にもましてアンナに見とれていたが、その胸の痛みはいよいよ激しくなるばかりであった。キチイはまったく自分がうちのめされたように感じ、その顔もまざまざとそれを表わしていた。マズルカのあいだにふと行き会ったヴロンスキーは、キチイを見たが、すぐにはだれか気がつかないほどだった。それほど彼女は変貌していたのである。
「すばらしい舞踏会ですね!」ただなにかいうために、彼はキチイにそう話しかけた。
「ええ」キチイはうなずいた。
マズルカの半ばに、コルスンスキーが新たに考案したこみいった形を繰り返しながら、アンナは輪のまん中へ出て、ふたりの紳士を選び、ひとりの婦人とキチイを、そばへ呼んだ。キチイはそばへ寄りながら、おびえたようにアンナをながめた。アンナは目を細めて相手をながめながら、その手を握って、にっこりほほえんだ。しかし、自分の微笑にこたえるキチイの顔が、ただ絶望と驚愕《きょうがく》だけを表わしているのに気づくと、アンナはさっと顔をそむけ、もうひとりの婦人と楽しそうに話しはじめた。
《ええ、そうだわ、この方にはなにかあたしたちとはかけ離れた、悪魔的な美しさがあるんだわ》キチイは心の中で考えた。
アンナは夜食には残りたくなかったが、主人がしきりに引き止めた。
「まあ、そうおっしゃらずに、カレーニン夫人」コルスンスキーはアンナのあらわな手を、自分の燕《えん》尾《び》服《ふく》の袖《そで》の下へ引き入れながら、いった。「今すばらしいコチヨンを考えついたんですよ! Un bijou!」
そういって、彼はアンナを踊りに誘いこんでしまおうと、少しずつ歩きだした。主人はそれにうなずきながら微笑していた。
「いいえ、あたくし残りませんわ」アンナはほほえみながら答えた。しかし、その微笑にもかかわらず、答えたときの断固たる調子から、彼女が残らないだろうということは、コルスンスキーにも主人にもわかった。「ほんとに、もうそれでなくても、この冬ずっとペテルブルグで踊ったよりも、ただお宅の舞踏会で踊ったほうが多いくらいですもの」そばに立っていたヴロンスキーのほうを振り返りながら、アンナはいった。「旅行の前には休んでおかなくては」
「じゃ、どうしてもあすお発《た》ちになるのですか?」ヴロンスキーがきいた。
「ええ、たぶん」アンナは相手の質問の大胆さにびっくりしたように答えた。しかし、アンナがそういったとき、そのひとみと微笑に現われたおさえきれぬふるえるような輝きは、彼の心を燃え立たせた。
アンナは、夜食に残らないで、帰って行った。
24
《たしかに、このおれには、なにかいやな、人好きのしないところがあるんだな》リョーヴィンはシチェルバツキー家を出て、兄のもとへおもむきながら、考えた。《それに、おれは他の人のためになんの役にも立たない人間だ。高慢だ、といわれているが、それは違う、おれにはそんなものもないのだ。もし高慢だったら、おれもこんな立場にはならなかったろうよ》彼はそう考えて、幸福で、善良で、聡明《そうめい》で、落ち着きがあって、たしかに今自分がおかれているような恐ろしい立場にはけっして追いこまれないであろうヴロンスキーのことを思いだした。《そうだ、キチイが彼を選んだのは当然だ。そうあるべきなのだ。だから、おれはだれに向っても、なにひとつ不平をいうことなんかできないのだ。とにかく、悪いのはこの自分なのだから。いったい、おれはどんな権利があって、キチイが自分の生涯をおれと結びつけたいと思うだろうなんて、考えたのだろう? おれは何者だ? このおれはなんなのだ? いや、まったくだれにも用のないつまらない人間じゃないか》そこでふと、彼は兄ニコライのことを思いだし、喜びを感じながら、その回想にひたった。《この世の中のことは、なにもかも悪く、けがらわしいという兄の言葉は、ほんとなのじゃなかろうか? われわれがあのニコライのことを裁くなんて、公平に裁くなんて、とてもできやしない。そりゃ、兄が破れた毛《け》皮外《がわがい》套《とう》を着て酔っぱらっていたところを見たプロコーフィからすれば、兄は軽蔑《けいべつ》すべき人間だろう。しかし、おれは別の兄を知っているんだ、おれは兄の心を知っているし、自分があの兄に似ていることも承知している。それなのに、このおれは兄を捜しに行こうともしないで、食事に行ったり、こんなとこへ来たりしているんだ》リョーヴィンは街燈のそばへ行って紙入れにしまっておいた兄の住所を読み、辻馬車を呼んだ。兄のところまで行く長い道のりのあいだ、彼は兄の生活の中で、自分の知っているいろんな出来事を、まざまざと思い起した。兄は大学にいたときも、卒業後も一年間は、友だちに笑われるのも意に介さず、修道僧のように暮し、勤行《ごんぎょう》も精進も、すべて宗教上のしきたりを厳重に守り、いっさいの享楽を、とくに女を遠ざけていたことを彼は思いだした。ところがその後、彼は急に鎖が切れたかのように、もっとも忌わしい連中に近づき、もうどうにもならぬほどの遊《ゆう》蕩《とう》生活へ堕してしまったのだ。さらに、ある少年についての事件を思いだした。兄はその少年を教育しようと田舎《いなか》から連れて来たが、憤激の発作にかられて、めちゃめちゃに打ちのめし、少年を不具にしたかどで裁判ざたにまでなったのであった。それからまた、あるいかさま賭《と》博《ばく》師《し》との事件を思いだした。兄は相手にトランプで負けて手形を渡したが、今度は自分のほうから訴訟を起して、自分はだまされたのだと証明しようとした(コズヌイシェフが支払ったのはこの金であった)。また、兄が暴行のかどで留置場で一夜をおくったことも思いだされた。さらに、コズヌイシェフが、母の遺産の分け前をすっかり払わなかったという、ニコライが兄を相手どって起した恥さらしな訴訟事件のことも思いだした。最後の事件は、彼がロシア西部へ仕事に行ったとき、上役のものをなぐったため、起訴されたものであった……すべてこうしたことはじつに忌わしいことであったが、しかしリョーヴィンの目には、ニコライという人物を知らず、その過去の歴史も、その心も知らない人たちの目に映るほど、それほど忌わしいことには思えなかった。
リョーヴィンは、ニコライがまだ敬虔《けいけん》な修道僧で、精進や、教会の勤行に熱中していたころ、彼が宗教の中に、自己の情熱的な性格に対する助けとささえを求めていたころには、だれひとり彼を支持しなかったばかりか、だれもが、いや、リョーヴィン自身までが、彼を冷笑していたことを覚えていた。彼はみんなにからかわれ、ノアと呼ばれ、坊さんと呼ばれていた。ところが、彼がその鎖をたち切ったときには、だれひとり助けようとするものもなく、恐怖と嫌《けん》悪《お》の念をいだきながら、顔をそむけてしまったのであった。
リョーヴィンは、兄ニコライがその醜悪きわまる生活ぶりにもかかわらず、心の中では、心のもっとも奥ふかいところでは、彼を侮蔑している人たちよりも、まちがってはいないのだと感じていた。彼が自分をおさえきれない性格と、なにか圧迫された知性をもってこの世に生れたということは、なにも彼の罪ではない。いや、それどころか、彼はいつも善人たらんと欲していたのである。《なにもかもいってしまおう、なんとかして、兄さんにもすっかりいわせよう。そして、おれが兄さんを愛していることを、だから、兄さんを理解していることを知らせてやろう》十時すぎに、番地に示してある宿屋へ乗りつけながら、リョーヴィンは自分でこう決心した。
「二階の十二号室と十三号室です」玄関番はリョーヴィンの問いに答えた。
「うちにいるかね?」
「たぶん、いらっしゃるでしょう」
十二号室の戸は半開きになっていて、そこから弱い安たばこの煙がひとすじの光の中に流れだし、リョーヴィンの聞きなれぬ人声が聞えた。しかし、リョーヴィンはすぐそこに兄がいることを知った。兄の軽い咳《せき》ばらいが聞えたからである。
彼が戸の中へはいろうとしたとき、聞きなれぬ声はこういっていた。
「すべては、いかに合理的に、また意識的に事を処理するかにかかっているさ」
リョーヴィンが戸の中をのぞいて見ると、話をしているのは、大きな帽子のような髪をして、袖なし外套を着た青年であった。また、ソファの上には、袖も襟《えり》もない毛織りの服を着た、薄あばたの女が腰かけていた。兄の姿は見えなかった。兄はなんという縁もゆかりもない他人の中に住んでいるのだろうと思うと、リョーヴィンは胸をしめつけられるような思いだった。だれも彼のはいって来たのに気がつかなかったので、リョーヴィンもオーヴァシューズを脱ぎながら、袖なし外套の男のいうことに耳を傾けていた。彼はなにか事業のことについて話しているのだった。
「おい、そんなやつらはどうだっていい、特権階級の連中なんか」咳をしながらいったのは、兄の声であった。「マーシャ、夜食をなにか持って来てくれ、残っていたら酒も頼むよ。なかったら、買いにやってくれ」
その女は立ちあがって、仕切り板の外へ出ると、リョーヴィンを見つけた。
「ニコライさん、どこかのだんなですよ」女はいった。
「だれに用なんだ?」ニコライが腹立たしげな声でいった。
「ぼくですよ」リョーヴィンは明るいところへ出て行きながらいった。
「ぼくってだれだ?」ニコライの声が、前よりもっと腹立たしげにいった。彼がなにかにつまずきながら、急に立ちあがった音が聞えたかと思うと、リョーヴィンは目の前の戸口のところに、なじみの深い、やや猫背の、大きな、やせた兄の姿を認めた。もっとも、そのすさんだ病的な感じには驚かされたが、大きな目はおびえたような表情をたたえていた。
リョーヴィンが最後にこの兄に会ったのは、三年前のことだったが、彼はそのときよりもさらにやせていた。兄は短いフロックを着ていたので、両手や頑丈《がんじょう》な骨格が、いっそう大きく見えるのだった。髪はさらにうすくなっていたが、相変らずごわごわした鼻下のひげが上唇をおおい、昔ながらの目が、訪問者をけげんそうに、ぼんやりと見つめていた。
「なんだ、コスチャじゃないか?」弟だとわかると、彼はいきなりそういって、その目は喜びに輝いた。ところが、その瞬間、彼は青年のほうを振り返った。と、リョーヴィンの昔からの知りぬいている身ぶりで、頭と首を痙攣《けいれん》的に動かしたが、それはまるでネクタイがきつい、とでもいうようであった。そのやつれた顔には、まったく別の――荒々しい、受難者めいた、残忍な表情が浮んだ。
「ぼくはきみにも、コズヌイシェフにも手紙を出して、自分はきみたちを知らない、いや、知ろうとも思わないと、書いてやったはずだがね。おまえは、いや、きみはなんの用があるんです?」
兄はリョーヴィンが想像していたのとは、まるっきり違っていた。リョーヴィンは兄のことをいろいろ考えたとき、人との交際をむずかしくさせている兄の性格の中でもっともやりきれなく感じられる欠点を、すっかり忘れていた。ところが、今兄の顔を見、とりわけ痙攣的に首を振る動作を見たとき、彼はそうしたいっさいのことを思い起したのであった。
「ぼくはなんか用事があって訪《たず》ねて来たのではありませんよ」彼はおずおずと答えた。「ただ会いたくて来たんです」
弟のおずおずした態度は、どうやら、ニコライの心を柔らげたらしい。彼は唇をもぐもぐさせた。
「なるほど、そういうわけか?」彼はいった。「まあ、はいって、かけるがいい。夜食はどうだい? マーシャ、三人前持って来い。や、待ってくれ。おまえ、これはだれか知ってる?」袖なし外套の男を指さしながら、彼は弟に向っていった。「こちらはクリツキー君といって、もうキエフ時分からの親友さ、じつにすばらしい人物なんだ。もちろん、警察からねらわれているがね、だって、卑劣漢じゃないからね」
そういって、彼はいつもの癖で、部屋の中に居あわせた一同を見まわした。戸口に立っていた女が出て行こうとするのに気づくと、彼は「待て、といったじゃないか」と、どなりつけた。それから、リョーヴィンのよく知りぬいている、例のつじつまのあわぬ話しぶりで、クリツキーの身の上話をはじめた。彼が貧窮学生の援助会や日曜学校をつくったために、大学を追われたいきさつから、その後、小学校の教師になったが、そこもまた追い出され、その後も何かで裁判にかけられたということだった。
「キエフ大学におられたんですか?」リョーヴィンは、しばらくつづいた気づまりな沈黙を破るために、クリツキーにたずねた。
「ええ、キエフにいました」クリツキーは眉《まゆ》をひそめて、おこったように答えた。
「さて、この女は」ニコライはマーシャを指さしてさえぎった。「ぼくの生涯の伴侶《はんりょ》の、マーシャだ。ある家からひきとったんだ」彼はそういいながら、首を一つしゃくってみせた。「で、ぼくはあれを愛し尊敬している。だから、ぼくとつきあおうと思うやつはだれでも」そこで彼は声を高め、眉をひそめながらつけ足した。「あれを愛し、尊敬してもらいたいんだ。あれはぼくの妻も同じなんだから、まったく同じなんだから。さあ、これでおまえも相手がどんな人間かわかったろう。もし屈辱を感じるようだったら、さあ、その敷居をまたいで出て行ってもらおう」
すると、彼の目はまたさぐるように、すばやく一同を見まわした。
「なぜぼくが屈辱を感じたりするんです、さっぱりわからない」
「それじゃ、マーシャ、夜食を持って来るようにいいつけてくれ。三人前だ、それからウォトカとぶどう酒……いや、待ってくれ……いや、かまわん……行ってくれ」
25
「そういうわけでね」ニコライは力んで額にしわをよせ、からだをひきつらせながら、言葉をつづけた。
どうやら、彼はなにを話し、なにをしたらいいのか、考えだすのに苦労しているようであった。「そういうわけでね……」彼は、部屋のすみにある縄《なわ》で縛ったなにか鉄棒みたいなものを指さした。「あれなんだがね。あれがわれわれのはじめようとしている事業の手はじめなんだ。その事業というのは、つまり、生産協同組合だ……」
リョーヴィンはほとんど聞いていなかった。彼は兄の結核らしい、病的な顔にじっと見入っていたが、見れば見るほどかわいそうになって、どんなに努力してみても、協同組合のことを説明する兄の話に身がはいらなかった。彼はこの協同組合なるものは、兄にとっては自己軽蔑から救ってくれる錨《いかり》にすぎないことを見てとった。ニコライは話をつづけた。
「おまえも知ってのとおり、資本は労働者を圧迫してる。わが国の労働者は、つまり、百姓は、労働の重みを一身に背負って、いくら働いても、家畜のような状態から抜け出すことはできないんだ。本来なら、彼らは賃金によっておのれの境遇を改善し、余暇をつくり、その結果として、教養を身につけることができるはずなんだが、その賃金の余剰利得はすっかり資本家に吸いとられてしまっているんだ。いや、この社会ってものは、あの連中が働けば働くほど、商人や地主が太っていって、連中は永久にただ働くための家畜で終るようにできているのさ。だから、こういう制度を変革しなくちゃならないんだよ」彼はそう話し終えると、もの問いたげに弟をながめた。
「ええ、それはもちろんですよ」リョーヴィンは兄のとびだした顴骨《かんこつ》の下ににじみ出た赤みをじっと見ながら、いった。
「そこでわれわれは今錠前屋の組合をつくろうとしているんだ。そこではいっさいの生産が、その利潤も、生産の主要な機械も、みんな共有になるんだ」
「その組合はどこにできるんです?」リョーヴィンはたずねた。
「カザン県のヴォズドレモ村だ」
「どうしてそんな村なんかに? 村じゃそれでなくても、仕事が多いようにみえるけれど。なんだって一つの村に錠前屋の組合なんかいるんです?」
「そりゃ、ほかでもないが、百姓たちが今も昔と同じ奴隷状態におかれているからさ。おまえやコズヌイシェフは、連中がこの奴隷状態から救いだされようとしているのが気に入らないんだよ」ニコライは反駁《はんばく》されたので、いらいらしながら、いった。
リョーヴィンはそのとき、薄暗いきたない部屋を見まわしながら、ほっと溜息《ためいき》をついた。どうやら、この溜息がよけいニコライをいらいらさせたらしい。
「おまえやコズヌイシェフの貴族的な物の見方は、よくわかってるよ。あの男は現存する悪を弁護するために、あらゆる知力を用いているんだ、そりゃ、わかってるさ」
「違いますよ、それに、なんだってコズヌイシェフのことなんかいいだすんです?」リョーヴィンは微笑を浮べながらいった。
「コズヌイシェフだって? それはこういうわけさ!」コズヌイシェフの名前を耳にすると、ニコライはいきなりこう叫んだ。「いや、こういうわけさ……いや、なにもいうことはありゃしない! ただ一つ……いったい、なんのためにおまえはここへやって来たんだ?おまえが軽蔑しているのは、それでけっこうだよ。そんなら、さっさと出て行ってもらおう、さあ、出て行ってくれ!」彼はいすから立ちあがりながらどなった。「さあ、出て行け、出て行けったら!」
「ぼくはちっとも軽蔑なんかしてません」リョーヴィンはおずおずといった。「それどころか、議論だってしてないじゃありませんか」
そのとき、マーシャが帰って来た。ニコライは腹立たしげに振り返った。彼女は急いでそばへよると、なにやらささやいた。
「からだの調子が悪いものだから、すぐいらいらしてくるんだ」ニコライはしだいに落ち着いてきて、重々しく息をつきながら、いった。「おまけに、おまえがコズヌイシェフや、あの男の論文のことなどいいだすもんだから。あんなものはくだらん、でたらめだ、自己欺《ぎ》瞞《まん》だ。正義を知らない人間が、正義についてなにが書ける? きみはあの男の論文を読んだかね?」彼はまたテーブルに腰をかけながら、そうクリツキーに話しかけ、テーブルの上に散乱しているたばこを半分ほど片づけて、あいた場所をこしらえた。
「読みませんでしたよ」どうやら話に加わりたくないらしく、クリツキーは陰気くさい声で答えた。
「なぜ?」リョーヴィンはいらいらした調子で、今度はクリツキーのほうへ向きなおった。
「なぜって、そんなことに時間をつぶす必要を認めなかったからですよ」
「というと、失礼ですが、なぜきみはそれが時間つぶしだってことがわかるんです? そりゃ、あの論文は多くの人にとって難解です、つまり、彼らの能力以上なんですよ。でも、ぼくは別ですよ、ぼくは彼の思想を見通しているので、なぜあれの力が弱いか、ちゃんとわかっているんです」
一同は口をつぐんだ。クリツキーはゆっくりと立ちあがって、帽子に手をかけた。
「夜食はして行かないの? じゃ、失敬。あすは錠前屋といっしょに来たまえ」
クリツキーが出て行くが早いか、ニコライはにっこり笑って、目くばせしてみせた。
「やっぱり、悪いのさ」彼は話しだした。「いや、ぼくにはちゃんとわかっているんだ……」しかし、そのときクリツキーが戸口で彼を呼んだ。
「まだなんの用事があるんだろう?」彼はいって、廊下へ出て行った。マーシャとふたりきりになると、リョーヴィンは話しかけた。
「もうずっと前から兄といっしょにおられるんですか?」彼はきいた。
「ええ、もう足かけ二年になりますわ。からだのぐあいがとても悪くおなりになりましてね。なにしろ、ずいぶんお飲みになるんで」彼女はいった。
「というと、どんなふうに飲むんです?」
「ウォトカを召しあがるんですけど、それがおからだにさわるんですの」
「そんなにたくさん?」リョーヴィンはつぶやくようにいった。
「ええ」彼女はおずおずと戸口を振り返りながら、いった。そこへニコライが姿を現わした。
「なんの話をしていたんだい?」彼は眉をひそめて、おびえたような目でふたりをかわるがわるながめながら、いった。「え、なんの話?」
「いや、べつに」リョーヴィンはどぎまぎしながらいった。
「いいたくなければ、いいさ。ただ、おまえなんか、あれと話なんかすることはないよ。あれはその辺の女だし、おまえは紳士だからな」彼は首を震わせながらいった。「おれにはちゃんとわかっているんだが、おまえはなにもかも承知して、それを評価したうえで、このおれの迷いに対して哀れみの態度をとっているんだろう」彼はまた声を高めながら、しゃべりだした。
「ニコライさん、ニコライさん」と、またマーシャは彼のそばへ近寄りながら、ささやいた。「いや、わかった、わかった!……ところで、夜食はどうなった? や、ちょうどいいとこへやって来たな」盆を運んで来たボーイを見て、彼はいった。「こっちだ、こっちへおいてくれ」彼は腹立たしげにいって、すぐウォトカをとりあげ、一杯つぐと、むさぼるように飲みほした。「飲めよ、おい?」たちまち陽気になりながら、彼は弟に話しかけた。「もうコズヌイシェフの話はたくさんだよ。なんといっても、おまえに会えたのは愉快だよ。とやかくいっても、やっぱり赤の他人とは違うからな。さあ、飲めよ。そして、今どんなことをやってるか話してくれ」がつがつと一切れのパンをかみ、二杯めを注ぎながら、彼は言葉をつづけた。「暮しはどうかね?」
「昔どおり、田舎でひとり暮しをして、領地の経営をやってますよ」兄ががつがつ飲んだり食ったりするのを、ぞっとする思いでながめながらも、それを気どられまいとして、リョーヴィンはそう答えた。
「なぜ結婚しないんだい?」
「チャンスがなかったんですよ」リョーヴィンは赤くなって答えた。
「なぜ? そりゃおれなんか、もうおしまいさ。おれは一生を棒にふっちまったのさ。これは前にもいったことだし、これからもまたいうかもしれんが、もしおれが必要なときに財産の分け前をもらってたら、おれの生涯もまるっきり別のものになってたろうね」
リョーヴィンは急いで話題を変えた。
「それはそうと、あなたの使っていたワニューシカは、今、ポクローフスコエでぼくの番頭をしていますよ」彼はいった。
ニコライはぴくっと首をひっつらせて、考えこんだ。
「そうだ、ひとつ、ポクローフスコエ村の様子を話してくれよ。どうだ、屋敷は相変らず健在かね? あの白樺《しらかば》の林も、おれたちの習った教室も? 庭師のフィリップもまだ達者かね? あの四阿《あずまや》だの、ソファだのは、今でもよく覚えているよ!……おい、いいかね、家の中の様子はなんにも変えちゃいけないぜ。まあ、早く結婚して、また昔とおんなじようにやってくれ。そうしたら、おれはおまえんとこへ行くよ、おまえの細君がいい人だったらな」
「いや、今すぐぼくんとこへ来ませんか」リョーヴィンはいった。「ふたりして愉快に暮せるんだがなあ!」
「コズヌイシェフに出くわさないとわかってたら、行ってもいいんだがね」
「出くわしゃしませんよ。ぼくはあの人からまったく独立して暮してるんだから」
「そうか、しかし、なんといっても、おまえはあの男かおれか、どちらかを選ばなくちゃなるまいよ」彼はおずおずと弟の目をのぞきこみながらいった。このおずおずしたところがリョーヴィンの心をうった。
「もしその点についてぼくの本心を聞きたいというのなら、はっきりいいますが、あなたとコズヌイシェフのけんかでは、ぼくはそのいずれにも味方しません。だって、あなたは外面的に正しくないし、あの人は内面的にまちがっていますから」
「おい、ほんとか! おまえにはそれがわかっていたんだな。それがわかっていたんだな!」ニコライはさもうれしそうに叫んだ。
「でも、なんならいいますがね、ぼくは、あなたとの友情をもっと尊重しますよ、なぜって……」
「なぜ、なぜだね?」
リョーヴィンがニコライとの友情を大切にするのは、この兄が不幸なために、友情を必要とするからだったが、それをいうわけにはいかなかった。ところが、ニコライは、弟がいおうとしたのがまさにそのことであることを悟って、眉をひそめながら、またウォトカに手をかけた。
「もういけませんよ、ニコライさん」
むっちりした、むきだしの手をフラスコのほうへのばしながら、マーシャはいった。
「おい、放せ! とやかくいうな! なぐるぞ!」ニコライは叫んだ。
マーシャはにっこりと、やさしいつつましい微笑を浮べたが、その微笑はニコライにも伝わった。そこで、彼女はウォトカをとりあげた。
「いや、おまえはこんな女になにがわかるものかと思ってるんだろう?」ニコライはいった。「でも、これはだれよりもいちばんよくわかっているんだよ、なあ、これはなにかしらいいところが、かわいいとこがあるだろう?」
「あなたは前に、一度もモスクワにいらしたことがないんですか?」リョーヴィンはただなにか話をするために、マーシャに向ってきいてみた。
「おい、これにそんなあなた《・・・》言葉を使うなよ。かえって恐縮するからな。今までだれひとり、あなた《・・・》言葉で話しかけたものなんかいないからな。ただ、あの治安判事だけは別さ。これが女郎屋から足を抜こうとしたとき、裁判ざたになったのさ。それにしても、この世の中のことなんて、なにもかも無意味なことばかりじゃないか」彼は急に大声でいった。「いや、新しい制度は、治安判事にしても、地方自治体にしても、まったくなんという醜態だ!」
そういって、彼はその新しい制度に直面したいろいろの場合を話しはじめた。
リョーヴィンは兄の話を聞いていた。そして、相手がすべての社会的施設に否定的見解をとっている点については彼も同感であって、自分でもよくそれを口にしたものだが、今それを兄の口から聞かされると、不愉快であった。
「あの世へ行ったら、なにもかもすっかりわかるでしょうよ」リョーヴィンは冗談半分にいった。
「あの世だって? いや、おれはあの世がきらいだよ! きらいだね」ひどくおびえたような目で弟を見すえながら、彼はいった。「そりゃ、自分のことにしろ、他人のことにしろ、いっさいのけがらわしいごたごたから抜け出すことができたら、せいせいするだろうなあ。でも、死ぬのはこわいよ、死ぬのは、ぞっとするほどこわいんだ」彼はぶるっと身を震わせた。「まあ、なにか飲めよ。シャンパンがいいかい? それとも、どこかへ出かけるか? ジプシーのとこへでも出かけようじゃないか! なあ、おれはジプシーと、やつらの歌うロシア民謡が、すっかり好きになったんだよ」
彼は舌がまわらなくなり、その話題もあちこちへとんで行った。リョーヴィンはマーシャの助けをかりて、どこへも行かないように兄をなだめ、完全に酔いつぶれたところを寝かせつけた。
マーシャはリョーヴィンに、なにか困ることがあったら手紙を出すことを、またニコライが彼のところへ移り住むように説得することを約束した。
26
その翌朝、リョーヴィンはモスクワを発《た》って、晩にはわが家へ帰り着いた。帰りの汽車の中で、彼は隣りあわせた人びとと、政治のことや、新しい鉄道のことなどを話し合ったが、またしてもモスクワにいたときと同じように、観念の混乱や、自分自身に対する不満や、なにものかに対する羞恥《しゅうち》に悩まされた。しかし、自分のおりる駅へ着いて、外套《がいとう》の襟《えり》を立てた、目っかちの御者のイグナートの姿を見つけたり、停車場の窓からさしているぼんやりした光の中に、じゅうたんを張った自分の橇《そり》と、輪や房《ふさ》を飾った馬具をつけて、しっぽを縛られた自分の馬を見たり、御者のイグナートが橇のしたくをしながら、村の新しい出来事を、たとえば、請負師が来たことや、雌牛のパーヴァが子を生んだことなどを話すころには、しだいに気分もおさまっていき、その羞恥心も、自分に対する不満も、薄らいでいくのを感じた。それはイグナートと馬を見た瞬間に感じたことであった。しかし、持って来てくれた毛皮外套をまとい、膝《ひざ》掛《か》けにくるまって橇に落ち着き、これから村でする仕事を考え、乗馬用だったのが、足を痛めたために引き馬にしたものの、今でもかなり元気のいいドン産のわき馬をながめながら出発したときには、彼も自分の身に起ったことを、まったく別の角度から解釈しはじめていた。彼は自分を自分として感じ、それ以外のものになりたいとは思わなかった。ただ、今は、前よりもっといい人間になりたかった。第一に、きょうからのちはもう結婚によって得られる並みはずれた幸福など期待せず、したがって、現在をおろそかにするようなことはしないと決心した。第二に、今後は彼が結婚を申し込もうと考えたとき、その記憶のためにひどく苦しめられたあのけがらわしい情欲にけっしておぼれるようなことはしないと決心した。それから、兄ニコライのことを思い起しながら、もうけっして兄のことを忘れず、兄が困ったときはいつでも救いの手がさしのべられるよう、いつもその動静に気をつけて、行くえを見失わぬようにしようと、自分に誓った。また、そのときが間もなくやって来ることを彼は感じた。それから、彼がきわめて軽くあしらった、共産主義についての兄の話も今では彼を考えこませるのであった。彼は経済条件の改革などくだらないことのように思っていた。しかし、彼はいつも民衆の貧困に比べて、自分のあまりに豊かな生活を不正と感じていたので、いまや彼はひそかに、自分がまったく正しいと確信するために、今までずいぶんよく働き、ぜいたくを慎んできたけれど、これからはもっと働き、もっとぜいたくを慎もうと決心した。そして、こんなことは自分にとっていとも簡単なことのように思われたので、彼は道々このうえもなく快い空想にひたっていた。彼はよりよき新生活を期待するはずんだ気持で、夜の八時すぎに、わが家へ帰り着いた。
家で家政婦の役目を勤めている年とったばあやのアガーフィヤの部屋の窓から漏れる光が、屋敷の前にある小さな広場の雪にさしていた。老婆はまだ寝ていなかったのである。アガーフィヤに起されたクジマーが、寝ぼけた眼《まなこ》ではだしのまま、入口の階段へ駆けだして来た。雌の猟犬のラスカは、クジマーの足をはらわんばかりの勢いで、同じように飛びだして来て、彼のひざに身をすりよせ、後足で立っては、主人の胸に前足をかけようとしたが、そこまではしなかった。
「まあ、お早いお帰りでございますね、だんなさま」アガーフィヤはいった。
「家が恋しくなってね、アガーフィヤ。お客に行くのも悪くはないが、やっぱり、わが家のほうがいいからねえ」彼は答えて、自分の居間へ通った。
居間は運ばれて来たろうそくで、だんだんに照らしだされていった。なじみの深いこまごましたものが、闇《やみ》の中から浮きだしてきた――鹿の角、本棚《ほんだな》、鏡、通風孔を修繕しなければならない暖炉、父譲りのソファ、大きなテーブル、その上に開いたままの本、こわれた灰皿、彼の手で書きこんである帳面。彼はこうした品々を見たとき、道々空想してきた新生活がはたして可能かどうかと、一瞬疑いをいだいた。すべてこうした生活の痕跡《こんせき》が、まるで一時に彼をとりかこんで、こう語りかけて来るように思われたからである。《いや、だめだよ、おまえはおれたちから逃げだせないさ。別人になんかなれっこないさ、相変らずもとのままだろうよ。おまえの懐疑も、永久の自己不満も、自己改造のむなしい試みも、堕落も、今までも、またこれからも与えられるはずのない幸福を永遠に期待する気持も》
しかし、それをいったのは彼の持ち物であって、内なる声は、過去に屈服してはいけない、決意したからにはどんなことでもできる、とささやいていた。で、彼はこの声に従いながら、一対《つい》の四貫目唖《あ》鈴《れい》の置いてある片すみへ行って、気持をふるいたたせようと努めながら、体操をはじめた。戸の外でぎしぎしという靴音が聞えた。彼は急いで唖鈴を置いた。
支配人がはいって来て、幸い万事うまくいっているが、ただ新しい乾燥機でそば《・・》が焦げたむねを報告した。この知らせはリョーヴィンをいらいらさせた。この新しい乾燥機はある程度までリョーヴィンの考案にかかるものであった。支配人はずっとこの乾燥機に反対だったので、いまや内心得々としながら、そ《・》ば《・》が焦げたと報告したのであった。一方、リョーヴィンは、もしそば《・・》が焦げたとしたら、それはあれほど繰り返しいいつけておいた方法をとらなかったためにほかならない、と堅く信じこんでいた。彼はいまいましくなって、支配人に小言をいった。ところが、ただ一つ重大な喜ばしい出来事があった。博覧会で買った良種で高価な雌牛のパーヴァが子牛を生んだのである。
「クジマー、毛皮外套をくれ。それから、きみは明りを持って来るようにいいつけてくれ。ひとつ見に行ってくるから」彼は支配人にいった。
大事な牛を入れてある牛舎は、屋敷のすぐうしろにあった。彼はライラックの根もとの雪だまりをさけて内庭を横ぎり、牛舎へ近づいた。凍《い》てついた戸があいたとき、生暖かい牛糞《ぎゅうふん》のにおいがぷんと鼻をついた。そして、慣れない提灯《ちょうちん》の明りにびっくりした牛どもは、新しい敷《し》き藁《わら》の上でもぞもぞと動いた。黒ぶちのオランダ牛のすべすべした大きな背中が、ちらりと見えた。じっと横になっていた、鼻輪をつけた雄牛のベルクートは、人がそばを通ったとき、起きあがろうとしたが、また考えなおして、ただ二度ばかり鼻を鳴らしただけだった。河馬《かば》のように大きな赤毛の美女パーヴァは、くるりと向きを変え、はいって来た人たちからわが子をかばいながら、それを嗅《か》ぎまわしていた。
リョーヴィンは柵《さく》の中へはいって、パーヴァをながめまわし、赤ぶちの子牛をひょろひょろした長い足で立たせてみた。パーヴァは気をもんでうなりかけたが、リョーヴィンが子牛を返すと安心して、重々しく大きな吐息をつき、そのざらざらした舌でわが子をなめはじめた。子牛は乳房《ちぶさ》を捜しながら、鼻先で母親の股《また》の付け根を突きあげ、しっぽを振っていた。
「おい、こっちを照らしてくれ、フョードル、提灯をこっちへ」リョーヴィンは子牛をながめながらいった。「母親そっくりだな! もっとも、毛色だけは父親似だが。こりゃ、いいぞ。足も長いし、腰もしっかりしてる。なあ、ワシーリイ、いいだろう?」子牛の生れた喜びにまぎれて、そば《・・》の件はすっかり仲直りしながら、彼は支配人に話しかけた。
「どちらに似たって、悪いはずはございませんよ。ところで、請負師のセミョーンが、お発ちになったあくる日にやってまいりました。あの男との相談もきめなけりゃなりませんな、だんなさま」支配人はいった。「機械のことは先ほどご報告いたしましたな」
このたった一つの問題が、大がかりで複雑な領地経営の雑事へ、リョーヴィンを引きずりこんでしまった。そこで、彼は牛舎からまっすぐに事務所へおもむき、支配人と請負師のセミョーンとしばらく話をすると、屋敷へもどって、すぐその足で二階の応接間へ通った。
27
それは大きな古い屋敷であった。リョーヴィンはひとりで暮していたけれども、暖房をして家じゅうを占領していた。彼もそんなことはばからしいことと承知していたし、いや、それどころか、それがよくないことで、今度の新しい計画にそむくことも心得ていたが、しかし、この屋敷はリョーヴィンにとって全世界にひとしかった。それは、彼の父母が暮し死んで行った世界であった。この両親の生きていた世界は、リョーヴィンにとってあらゆる完成の理想であり、彼はそれを自分の妻、自分の家族とともに復活させようと夢みていたのである。
リョーヴィンはほとんど母親を覚えていなかった。母親についての思いは、彼にとって神聖な追憶であり、空想に描く未来の妻は、母親がそうであったように、美しく神聖な女性の理想の再現でなければならなかった。
彼は女性に対する愛というものを、結婚を除いては想像することすらできなかったのみならず、まず最初に家族を思い描いたのち、はじめて家族を与えてくれる母親を思い描くのだった。したがって、彼の結婚観は、結婚を数多い社会的事件の一つにすぎないとする知人の大多数のそれとは似ても似つかないものだった。リョーヴィンにとっては、結婚は彼のいっさいの幸福を左右する生活の重要な事がらであった。ところが今、彼はそれを断念しなければならなかった。
リョーヴィンがいつも茶を飲む小さい客間へはいって、本を手に肘《ひじ》掛《か》けいすにすわり、アガーフィヤがお茶を持って来て、例の調子で「だんなさま、わたくしもかけさせていただきますよ」といいながら、窓ぎわのいすに腰をおろしたとき、それがどんなにふしぎなことであろうとも、彼は自分が例の空想とたもとを分ったり、この空想なしで生きるなんてとても不可能なことであると感じた。相手が彼女であるか、またはほかの女であるか、いずれにしても、その空想は実現されるであろう。彼は本を読んだり、読んだことを考えたり、アガーフィヤの話を聞くために、時おり読むのをやめた。老婆はひっきりなしにしゃべりつづけたが、それと同時に、領地の経営や未来の家庭生活のさまざまな光景が、なんのつながりもなく、彼の想像に浮んでくるのだった。彼は、心の奥底でなにかが確立し、調節され、おさまっていくのを感じた。
彼はアガーフィヤの話を聞いていたが、それはプローホルが神さまを忘れて、馬を買えといってリョーヴィンがやった金で、夜昼なしに飲んだくれて、女房を死ぬほどなぐったというのであった。彼は聞きながら本を読んでいるうちに、読書で呼びさまされた思想の流れを、すっかり思い起した。それはチンダルの熱力論であった。彼は、チンダルがおのれの実験の巧みさに自己満足していることと、哲学的な見解が不十分であることを、かつて自分が批判したことを思いだした。と、不意に喜ばしい思いが浮んだ。
《もう二年もすれば、うちの牛小屋にはオランダ牛の雌が二頭になる。パーヴァのやつもまだ生きてるだろうし、ベルクートの若い十二頭の雌牛がいるから、あの三頭をうまいとこまぜたら――すばらしいぞ》彼はまた本を読みだした。
《まあ、電気も熱も同じことなんだから。ところで、問題の解決のために、ある方程式で一つの量を別のものに置き換えることは、はたして可能だろうか? そりゃ、だめだ。それじゃ、どうしたらいいのだ? 自然界のあらゆる力の関連は、そうでなくても、本能で感じられるからな……パーヴァの子がもう赤ぶちの雌牛になって、全体の中にあの三匹をまぜるのかと思うと、まったく愉快だよ!……すばらしいじゃないか! いや、女房や客たちといっしょに、牛の群れを出迎えに行くなんて……女房のやつは、『あたし、宅のコスチャとふたりで、この雌牛を、まるで赤ちゃんみたいに世話しましたのよ』なんていうんだ。すると、客のだれかが『どうしてそんなに興味がおありなんでしょうね?』ときくんだ。『宅の興味があることは、なんでもあたしにもおもしろいんですの』それにしても、その女房には、いったい、だれがなるんだろう?》彼はそこでモスクワでの出来事を思いだした……《ああ、どうすればいいんだ……なにもおれが悪いんじゃないからな。しかし、今度はなにもかも新規まきなおしだ。生活が許さない、過去が許さないなんていうのは、ばかげた考えだ。もっとよく、もっとずっとよく生きるために、がんばらなくちゃ……》彼はちょっと頭をもちあげて、考えこんだ。老犬のラスカは主人が帰って来た喜びをまだよくのみこめないで、もうすこしほえるために内庭を駆けまわっていたが、しっぽを振りふり、冷たい空気のにおいを身につけて帰って来ると、彼のそばへよって、手の下へ首を突っこみ、哀れっぽくかぼそい鳴き声をたてながら、もっとかわいがってくれとせがむのだった。
「ただ、ものがいえないばかりでございますよ」アガーフィヤがいった。「犬とはいっても……ご主人さまが、お帰りになって、ふさいでいらっしゃることが、ちゃんと、わかっているんですからね」
「なんでふさいでいるんだい?」
「まあ、だんなさま、あたくしにそれがわからないとお思いで? もうだんなさま方のお気持はわかる年でございますよ。なにせ、小さいころから、だんなさま方の中で大きくなったんでございますもの。だんなさま、ご心配にはおよびませんよ。ただお達者で、やましいお気持さえなければ」
相手が自分の気持を見ぬいたのに驚きながら、リョーヴィンはじっと老婆を見つめた。
「さあ、お茶をもう一杯持ってまいりましょうか?」といって、アガーフィヤは茶碗《ちゃわん》を持って出て行った。
犬のラスカは相変らず、リョーヴィンの手の下へ首を突っこんでいた。彼がちょっとなでると、犬は突き出した後足の上に首をのせて、すぐ彼の足もとにくるりと丸くなった。そして、今度はなにもかも気に入っているというしるしに、心もち口をあけ、唇を鳴らし、年とった歯の上にねばっこい唇をいっそうぐあいよくのせ、心から安心しきった様子で静まりかえった。リョーヴィンはこの犬の最後の動作を注意ぶかく見守っていた。
《このおれもあれとおんなじだ!》彼はつぶやいた。《おれもあれとおんなじさ! なあに、たいしたことはない、万事うまくいってるさ》
28
舞踏会のあと、朝はやくアンナは夫あてに、きょうモスクワを出発すると電報をうった。
「いいえ、だめなの、どうしても帰らなくちゃ」まるで数えきれないほどの用事を思いだしたといった調子で、アンナは予定の変更を兄嫁に説明した。「いいえ、もうきょう発《た》つほうがいいのよ!」
オブロンスキーはうちで食事をしなかったが、七時には妹の見送りに帰って来ると約束した。
キチイも頭痛がするからという書きつけをよこして、やはりやって来なかった。ドリイとアンナは、子供たちとイギリス婦人だけを相手に、食事をした。子供たちは気まぐれなせいか、それとも敏感に、この日のアンナ叔母さんは、あれほど好きになった到着の日とはまるっきり違って、もう子供たちのことなんかかまってくれないのだと悟ったためか、いずれにしても、子供たちは急に叔母さんといっしょに遊ぶのも、叔母さんを愛するのもやめてしまい、叔母さんが帰るということも、まったく問題にしていなかった。アンナは午前中ずっと、出発の準備に追われていた。モスクワの知人に手紙を書いたり、勘定を払ったり、荷物をこしらえたりしていた。どうやら、ドリイの目には、アンナが落ち着いた気分になれず、ドリイ自身も覚えがある、なにか気がかりなことのために、いらいらしているように思われた。それにはなにか理由がなくてはならないもので、多くの場合、自分自身に対する不満に根ざしているものであった。食後、アンナは着替えに自分の居間へ行った。ドリイもそのあとにつづいた。
「あなた、きょうは少し変ね!」ドリイはいった。
「あたしが? そう見えて? あたし、変なのじゃなくって、いけない女なのよ。よくあることなの。すぐ泣きたくなってしようがないの。ほんとにばかげてるけど、じきなおってよ」アンナは早口にいって、ナイト・キャップや精麻《バチスト》のハンカチをつめていた玩《がん》具《ぐ》のような袋に、上気した顔をうずめた。そのひとみはいつにもましてきらきらと輝き、たえず涙がにじんでいた。「ペテルブルグを発つときも気が進まなかったけれど、今もここを発って行きたくないわ」
「あなたはここへ来て、いいことをしてくださったんだわ」ドリイは注意ぶかくじっとアンナをながめながら、いった。
アンナは涙にぬれたひとみで、ちらっとドリイを見た。
「そんなこといわないで、ドリイ。あたし、なんにもしやしなかったし、できもしなかったんですもの。あたし、よくふしぎに思うんだけど、なぜ人はあたしを悪くしようなんて思うのかしら。あたしがなにをしたというの、なにをすることができたかしら? あなたの胸の中に許すだけの愛情があったからこそ……」
「でも、あなたって人がいなかったら、それこそどんなことになったかしれなくってよ!アンナ、あなたはほんとにしあわせな方ねえ」ドリイはいった。「あなたの胸の中はすみからすみまで澄みきっていて、きれいなんですもの」
「人はだれでも心の中に、イギリス人のいう skeletons を持っているのよ」
「まあ、あなたにどんな skeletons があるの? だって、あなたはどこも、そりゃ澄みきっているじゃないの」
「いいえ、あるのよ!」不意にアンナはいった。と、涙のあとでは思いもよらぬいたずらっぽい、笑い上戸《じょうご》らしい微笑が唇をゆがめた。
「まあ、それじゃ、あなたの skeletons は暗いものじゃなくて、こっけいなものね」ドリイは微笑を浮べながらいった。
「いいえ、暗いものよ。どうしてあたしがあすでなしにきょう発つか、わかって? ねえ、これはずっと胸につかえていた告白なのよ、今あなたにそれを打ち明けたいの」思いきった様子で、肘掛けいすの背に身を投げかけ、まっすぐにドリイの目を見つめながら、アンナはいった。
そして、ドリイのびっくりしたことには、目の前のアンナは耳の付け根から、黒い編み髪のうねっている首筋まで、まっ赤になっていた。
「ほんとよ」アンナはつづけた。「なぜキチイがお食事に来なかったか、わかって? あの人はあたしに嫉妬《しっと》してるのよ。だって、あたしがだめにしたんですもの……あの舞踏会があの人に喜びでなくって、苦しみになったのは、あたしのせいなんですもの。でもね、ほんとは、ほんとうは、あたしが悪いんじゃないの。それとも、ほんのちょっとだけ悪いのかしら」『ほんのちょっと』という言葉を引っぱりながら、アンナはかぼそい声でいった。
「まあ、あなたの言い方ったら、スチーヴァそっくりよ」ドリイは笑いながらいった。
アンナは気を悪くした。
「いいえ、違うわ、違いますわ! あたしはスチーヴァとは違うわ」彼女は眉をひそめながらいった。「あたしが打ち明けるのは、一瞬でも、自分で自分を疑うようなことがしたくないからなの」アンナはつづけた。
しかし、アンナはそういった瞬間、それが真実ではないことを感じた。アンナは自分で自分を疑っていたばかりでなく、ヴロンスキーのことを思うと、心の動揺を感じていたからである。いや、現に、予定よりも早く発とうとしているのは、ただもう彼に会わないようにするためばかりであった。
「ええ、スチーヴァが話していたわ、あなたがあの人とマズルカを踊って、あの人が……」
「それがどんなにおかしなことになったか、想像することもできないわ。あたしはね、ただ結婚のお話をまとめようとしただけなの、それが急にまるっきり別なふうになってしまって。でも、ひょっとすると、あたし自身の心にもなく……」
アンナは頬《ほお》をそめて、口ごもった。
「まあ、世間の人たちはすぐそうしたことに感づくものよ」ドリイはいった。
「でも、あの人のほうになにか真剣なものがあるとしたら、あたし、もうどうしたらいいかわからないわ」アンナは相手の言葉をさえぎった。「そりゃ、あたしもこんなことはなにもかも忘れられてしまって、キチイもあたしを憎んだりしないようになるってことを信じていますけれど」
「でもね、アンナ、ほんとのことをいうと、あたし、この縁談はキチイのためにあまり望ましくないと思ってるのよ。もしもあの人が、ヴロンスキーさんが、たった一日であなたに恋してしまうようだったら、むしろ、こんなお話はこわれたほうがいいのよ」
「まあ、ほんとに、こんなばかげたことってありませんわ!」アンナはいったが、自分の心を占めていた思いが言葉になって語られたのを聞くと、またもや深い満足の紅がその顔をそめた。「ねえ、あたしはこうやって、あれほど好きになったキチイを敵にして、このまま発って行くのね。ああ、ほんとにかわいい人ねえ! でもドリイ、あなたはなんとかしてうまくとりつくろってくださるわね? ねえ?」
ドリイはやっとのことで、笑いをこらえていた。彼女はアンナを愛していたけれども、この妹にも弱点があるのだと思うと、なんとなく快かったのである。
「まあ、敵ですって? そんなことってないわ」
「そりゃ、あたしだって、こちらがあなた方を愛しているのと同じように、あなた方みんなから愛してもらいたいわ。それに、今度は前よりもっとあなた方が好きになったんですもの」アンナは目に涙を浮べながらいった。
「ああ、きょうはどうかしてるわね、あたしったら」
アンナはハンカチで顔をぬぐい、着替えにかかった。
もういよいよ出かけるというときになって、遅れたオブロンスキーが、楽しそうな赤ら顔で、酒と葉巻のにおいを振りまきながら、帰って来た。
アンナの感傷はドリイにも感染した。そこで、最後に義妹を抱きしめたとき、ドリイはこうささやいた。
「ねえ、アンナ、覚えててね、あなたがあたしのためにしてくれたことは、一生忘れないわ。それから、あなたをいちばんの親友として、あたしが昔も今も、これからも永久に愛しつづけるってことを、忘れないでね」
「あたしにはわからないわ、なぜそんなにいってくださるのか」ドリイを接吻《せっぷん》して涙を隠しながら、アンナはいった。
「あたしの気持をわかってくださったんですもの、今だってそうよ。じゃ、アンナ、お大事に」
29
《ああ、これでなにもかもおしまいだわ、ありがたいことに!》第三のベルが鳴るまで車室の入口をふさいで立っていた兄と最後の別れをつげたとき、アンナの頭にはこういう思いがひらめいた。アンナはアンヌシカと並んで自分の席に腰をおろすと、寝台車の薄明りの中を見まわした。《おかげさまで、やっと、あしたはセリョージャとアレクセイに会えるんだわ。そうすれば、また昔ながらの、慣れっこの快い生活がはじまるんだわ》
この日一日つづいていた、あの万事に気をつかわなくてはいられぬような気持はまだおさまっていなかったが、アンナは満ち足りた気持をいだきながら、きちょうめんに道中の用意にかかった。例の小さなすばしこい手で、赤い手さげをあけてまたしめると、膝掛けを取り出して膝にのせ、きちんと両足をくるみ、ゆったりと席に落ち着いた。ひとりの病身らしい婦人は、もう寝じたくをしていた。ほかのふたり連れの婦人はアンナに話しかけ、太った老婦人は足をくるみながら、暖房のことでなにか小言をいった。アンナはこれらの婦人たちに、二言《ふたこと》三《み》言《こと》返事をしていたが、話がたいしておもしろそうでなかったので、アンヌシカに明りを出すようにいい、それを肘掛けいすの腕木に縛りつけ、ハンド・バッグからペーパー・ナイフとイギリスの小説を取り出した。はじめのうちは読んでも身がはいらなかった。最初はまわりの混雑と、人びとの足音がじゃまになったし、汽車が動きだしてからは、その響きに耳を傾けないわけにいかなかった。それから後は、左側の窓を打ってはガラスに凍てつく雪や、片方から雪に吹きつけられながら、外套にくるまってそばを通りすぎて行く車掌の姿や、外は今すごい吹雪《ふぶき》だとまわりの人びとの話す声に気がちってしまった。それから先は、ずっと同じようなことばかりであった――相変らず、ごとんごとんという音を伴った震動、窓に吹きつける雪、熱くなったり冷たくなったりするスチームの急激な転換、薄明りの中にちらつく人びとの顔、話し声など。やがてアンナは読書にかかり、読んだことが頭にはいりだした。アンヌシカは片方の破れた手袋をはめた、幅の広い手で、ひざの上に赤い手さげを握ったまま、もう居眠りをはじめていた。アンナは読んだことを理解していったが、しかし、読んでいても楽しくなかった。というのは、他人の生活の反映などを追って行くのは、不愉快だったのである。アンナは、ほかならぬ自分自身が生きて行きたい思いでいっぱいであった。小説の女主人公が病人の看護をしているところを読むと、アンナは自分も足音を忍ばせて病室を歩きまわりたくなったし、国会議員が演説をするところを読むと、アンナも同じ演説がしたくなるのだった。また、メリイ夫人が騎馬で鳥を撃ちに行きながら、弟の嫁をからかって、その大胆なふるまいで一同を驚かすところを読むと、自分もそれと同じことがしたくなるのだった。しかし、なにもすることがなかったので、アンナはその小さな手でつるつるしたペーパー・ナイフをいじりながら、読書に身を入れようとした。
小説の主人公はもはや男爵の位と領地という、イギリス人としての幸運を手に入れはじめていた。そこで、アンナも彼とともにその領地へ乗りこみたくなったが、そのとき急に、アンナは小説の主人公がきっとそれを恥ずかしく思うにちがいないと感じ、彼女自身もそれが恥ずかしいことのような気がした。しかし、小説の主人公は、いったい、なにが恥ずかしいのだろうか? 《あたしはいったい、なにが恥ずかしいのかしら?》なにか侮辱されたようにびっくりして、アンナは自問した。そして、本を置き、ペーパー・ナイフを固く両手で握りしめたまま、いすの背に身を投げかけた。恥ずかしいことはなにもなかった。アンナはモスクワの思い出をいちいち調べてみた。それはなにもかも快い楽しい思い出ばかりだった。あの舞踏会の一件を思い起し、ヴロンスキーとその恋に酔ったような従順な顔つきを思いだし、相手に対する自分の態度をすっかり思いだしたが、なにも恥ずかしいことはなかった。ところが、それと同時に、追憶がここまでくると、羞恥《しゅうち》の念はいっそう強まってくるのであった。それはまるでアンナがヴロンスキーのことを思い起したとき、なにかしら内なる声が、《胸の中が暖かいわ、とても暖かいわ、熱いくらいだわ》とささやいているようであった。
《まあ、それがなんだっていうの?》アンナはいすの上にすわりなおして、きっぱりと自分にいいきかせた。《これはいったいどういう意味なの? あたしはそれをまともに見るのがこわいのかしら? まあ、どうしたってことなの、あの坊やのような士官とあたしのあいだに、普通の知人同士とは違ったなにかほかの関係があるっていうの、いいえ、そんなことってありうるかしら?》
アンナはさげすむように、にやりと笑って、また本を取りあげたが、もうなにを読んでいるのか、さっぱりわからなかった。アンナはペーパー・ナイフで窓ガラスをこすり、それから冷たいつるつるした刃を頬にあてたが、不意に、なんということもなくこみあげてくる喜びに、思わず、声をあげて笑いそうになった。アンナは、自分の神経がねじに巻かれた楽器の絃のようにしだいに強く張っていくのを感じた。そのひとみはいよいよ大きく見ひらかれ、手足の指は神経質に動き、胸の中ではなにものかが息をおさえつけ、この揺れ動く薄闇《うすやみ》の中にあって、すべての形象や響きが異常なあざやかさで、自分を驚かせたことを感じた。ふと、アンナは汽車は前へ走ってるのか、うしろへ走ってるのか、それともまるっきり動かないのか、疑ってみるのだった。そばにいるのはアンヌシカだろうか、それとも知らない女だろうか? 《あれはなんだろう、あの腕木にかかっているのは? 毛皮外套かしら、それとも獣かしら? それに、ここにいるあたし自身はなにものだろう? あたし自身かしら、それともほかの人かしら?》アンナはこうして自分を忘れるのが恐ろしかったが、なにものかがそうさせるのであった。しかし、アンナは忘却に身をゆだねるのも、おのれをおさえつけることも、意のままであった。アンナはわれに返るために立ちあがり、膝掛けを捨てて、暖かい服のケープをはずした。その瞬間、アンナはわれに返った。おりからはいって来た、ボタンのとれた南京《ナンキン》木《も》綿《めん》の外套を着た、やせた百姓男が暖炉たきであって、寒暖計を見にやって来たことも、そのうしろの戸口から風と雪がどっと吹きこんで来たのにも気づいた。しかし、それからまたなにもかもがまじりあってしまった……その胴長の百姓男は、壁の中でなにかがりがりかじりはじめたし、老婆は車室の長さいっぱいに足をのばして、車の中を黒い雲でいっぱいにしてしまった。それから、まるでだれかが八つ裂きにでもされたように、恐ろしい悲鳴が起り、なにやら音ががたがたしはじめた。それから、赤い火が目をくらませたかと思うと、なにもかも一面の壁に隠れてしまった。アンナは、自分がどこかへ落ちて行くような感じがした。しかし、こうしたことはすべて恐ろしいどころか、かえって楽しいものであった。雪だらけの外套にくるまった男の声が、アンナの耳のすぐ下でなにかどなった。アンナは立ちあがって、われに返った。と、汽車が停車場に近づいたことと、今のは車掌だったことがわかった。アンナは脱いたばかりのケープとプラトークを取りだすようアンヌシカにいい、それを身に着けると、戸口のほうへ歩いて行った。
「外へお出になるのですか?」アンヌシカはきいた。
「ああ、ちょっと、外の空気が吸いたくて。ここはひどい暑さだもの」
そういって、アンナはドアをあけた。吹雪と風がどっと吹きつけて来て、アンナとドアの奪いあいをはじめたが、それもアンナにはおもしろかった。アンナはドアをあけて、外へ出た。風はまるでアンナが出るのを待っていたかのように、うれしそうに口笛を吹きながら、アンナを引っぱって連れて行こうとした。しかし、アンナは冷たい鉄の柱につかまって、頭の布をおさえたまま、プラットフォームへおりると、車の陰へはいった。風はステップの上では強かったが、列車の陰になったプラットフォームは静かだった。アンナは楽しそうに胸をはり、雪まじりの凍てついた空気をいっぱいに吸いこんで、車のそばに立ちながら、プラットフォームや明りに照らされた停車場を見まわしていた。
30
恐ろしい吹雪が停車場のすみずみから起って、列車の車輪のあいだや、柱のまわりを荒れ狂い、たけり狂った。列車や、柱や、人びとなどすべて見える限りのものは、片方から雪をかぶって、その雪はしだいに厚くなっていった。あらしは時に、ほんの一瞬だけ静まったが、すぐまた恐ろしい勢いでどっと襲って来るので、とてもそれに面と向って立っていられそうもなかった。ところが、人びとはそのあいだにも、愉快そうに話し合ったり、プラットフォームの板をきしませたり、たえず大きなドアをあけたりしめたりしながら、あちこち駆けまわっていた。前かがみになった人間の影が、アンナの足もとをかすめたかと思うと、鉄を打つ金槌《かなづち》の音が聞えた。「電報をよこせ!」というおこったような声が、向う側の荒れ狂う闇の中から起った。「こちらへどうぞ! 二十八号車です!」というまちまちな叫び声がして、外套に身をつつんで、雪をかぶってまっ白になった人びとが、駆けぬけて行った。火のついたたばこをくわえたどこかの紳士がふたり、そばを通りすぎた。アンナはたっぷり空気を吸うために、もう一度大きく息をついた。それから列車の鉄柱につかまって車内にはいろうと、マフの中からもう片手を出したとたんに、軍外套をまとったひとりの男が、すぐそばに現われて、ゆらめくランプの光をさえぎった。アンナがふとそちらへ顔を向けると、そこにヴロンスキーの顔を認めた。相手は帽子のひさしへ手をあてて、会釈すると、なにかご用は、なにかお役に立つことはありませんか、とたずねた。アンナはかなり長いあいだ、なんとも答えないで、じっと相手の顔に見入っていた。そして、相手が影の中に立っていたにもかかわらず、その顔と目の表情を読みとった。いや、読みとったように思われた。それはきのうあれほど強くアンナの心をうった、あの従順な歓喜の表情であった。この二、三日、アンナは一度ならず、いや、現にたった今も、ヴロンスキーなんかは自分にとって、どこでもざらに出会える、永久に同じような青年のひとりにすぎない、そんな男のことなど考えるのさえおとなげないと、心の中でつぶやいていたのであった。ところが、今会ってみると、その最初の瞬間から、アンナは思わず喜ばしい誇らしさの思いにとらえられてしまった。なぜ彼が目の前にいるのか、アンナにはもうたずねてみるまでもなかった。まるで彼がアンナに向って、自分がここにいるのは、ただあなたのおそばにいたいからですと、口に出していったのと同様、アンナはそれをちゃんと知っていたからである。
「あなたが乗ってらっしゃることは、少しも、存じませんでしたわ。どうしてお帰りになるんですの?」鉄柱につかまろうとした片手をおろして、アンナはいった。と、おさえきれない喜びと生きいきした表情が、その顔に輝いた。
「どうして帰るかですって?」相手はまともにアンナの目を見つめながら、鸚《おう》鵡《む》返しにいった。「ご承知じゃありませんか、ぼくはあなたのいらっしゃるところにいたいから、こうしてやって来たんです」彼はいった。「そうするよりほか仕方がなかったのです」
と、ちょうどこのとき、一陣の風が障害物でも征服したかのように、列車の屋根からさっと雪を吹きはらい、どこかではがれかかったブリキ板をばたばたいわせはじめた。すると前方では、泣くような、陰気くさい調子で重々しい機関車の汽笛が、ほえはじめた。いまや、こうした吹雪のすさまじさそのものまでが、アンナの目にはひとしお美しいものに映るのだった。彼はアンナが心の中で願いながらも、理性で恐れていたまさにそのことを、口に出していったからである。アンナはひと言も答えなかった。そして、彼はその顔に内なる戦いを見てとった。
「ぼくのいったことがお気にさわりましたら、どうかお許しください」彼は素直にいった。
彼の言葉の調子はていねいで、うやうやしくはあったが、きっぱりと執拗《しつよう》な感じだったので、アンナは長いことなんとも答えられなかった。
「今おっしゃったことは、よくないことでございますわ。どうか、あなたがいい方でしたら、今おっしゃったことを、お忘れになってください、あたくしも忘れてしまいますから」やっと、アンナはいった。
「あなたのおっしゃったことは、ひと言だって、あなたの身ぶりはどれ一つだって、けっして忘れやしません。いや、忘れることなんかできません」
「いけません、いけませんたら!」相手がむさぼるように見つめている自分の顔に、きびしい表情を浮べようとむなしい努力をしながら、アンナはそう叫ぶと、冷たい鉄柱に手をかけ、ステップに飛びのって、すばやく車の入口へはいって行った。が、その狭い入口のところで、今起ったことを頭の中で考えながら、ふと足を止めた。と、べつに自分の言葉も、相手の言葉も思いだしたわけではなかったのに、アンナはあの束《つか》の間《ま》の会話が自分たちふたりを恐ろしく近づけたことを、直感によって悟った。アンナは思わずはっとしたが、またそれを幸福にも感じた。アンナはしばらくそこにたたずんでから、車の中へはいって、自分の座席へ腰をおろした。すると、はじめからアンナを苦しめていた、あの緊張した心の状態が、再びよみがえって来たばかりでなく、さらにいっそう激しくなって、ついにはなにか胸の中で張りつめていたものが、今にも堰《せき》を切って流れだすのではないかと、そら恐ろしくなるほどであった。アンナはひと晩じゅうまんじりともしなかった。しかし、そうした緊張感や、その思いを満たしていたさまざまな幻想の中には、不快なものや暗いものは少しもなかった。いや、それどころか、なにかしら心の浮きたつような、やきつくような、胸をわくわくさせるものがあった。明け方になって、アンナは肘掛けいすに腰かけたまま、まどろみはじめた。そして、目をさましたときには、あたりはもうしらじらと明るくなっていて、列車はペテルブルグに近づいていた。と、アンナはたちまち、わが家のことや、夫のことや、子供のことや、きょうからはじまる日々の生活のことなどをあれこれと思いめぐらすのだった。
ペテルブルグで汽車が止って、プラットフォームにおりたとたん、アンナの注意をひいた最初の顔は、夫の顔であった。《あら、まあ! なんだってあの人の耳はあんなになったんだろう?》夫の冷やかな堂々たる押しだしを、とりわけ、今びっくりして目を見はった丸帽子の鍔《つば》をささえている耳の軟骨部をながめながら、アンナは心の中で思った。相手は妻を見つけると、いつものあざけるような微笑で唇をゆがめ、大きな疲れたようなその目で、まともに妻を見つめながら、歩いてやって来た、アンナは相手の執拗な疲れたようなまなざしに出会ったとき、まるでそれが予期していなかったもののように、なにかしら不愉快な感情が、ちらっと心の中をかすめた。ことにアンナをびっくりさせたのは、夫に会った一瞬感じた、自分自身に対する不満の感情であった。この感情は、夫に対してもうずっと前から身にしみて経験していた、偽善にも似た感情であった。もっとも、以前には自分ではこの感情に気づいていなかったのに、今ははっきりと、痛いほどそれを感じたのであった。
「なあ、こりゃ、優しいだんなさんじゃないか。まるで結婚してまだ一年とたってないみたいじゃないか。一刻も早くおまえに会いたいと心を燃やしているなんて」彼は例のゆっくりした細い声でいった。それは、彼がほとんどつねに妻に対して用いる調子だったが、本気でそんなことをいうやつをからかうような調子でもあった。
「セリョージャは元気?」アンナはきいた。
「ほう、それが心を燃やしているこのわしに対するごあいさつかね?」彼はいった。「元気だ、元気だとも……」
31
ヴロンスキーはその晩、ずっと眠ろうともしなかった。彼は席に腰かけたまま、まっすぐ前方に目をこらしたり、出入りする人びとをながめたりしていた。彼は、今までにも、その泰然と落ち着きはらった態度で、未知の人びとを驚かせ、強い印象を与えたものだが、今はそれよりもさらに傲然《ごうぜん》として、他人のことなど気にもとめないように見えた。彼は、他人をまるで品物かなにかのような調子で、ながめていた。真向いにすわっていた神経質な青年は、地方裁判所に勤めていたが、こうした態度のために彼に憎《ぞう》悪《お》を感じたほどである。この青年は、自分が品物でなく人間であることを相手に思い知らせるために、彼にたばこの火を借りたり、話しかけたり、さらには突っつきまでしたが、ヴロンスキーは相変らず、まるで明りでも見るような目つきで彼をながめていた。ついに、青年は、自分を人間と認めてくれぬ相手の態度におされて、しだいに自制心が失われていくのを感じながら、渋い顔をしていた。
ヴロンスキーは、なにひとつ、だれひとりながめていなかった。彼は自分が王者になったような気がしていたが、それは、自分がアンナに感銘を与えたと信じていたからではなく――彼はまだそれが信じられなかった――アンナから受けた感銘が幸福と誇りをもたらしたからであった。
こうしたいっさいのことがどういう結末になるか、彼にはわからなかったし、また考えてみようともしなかった。ただ、彼は今までむなしく費やされていた自分の力が、すべて一つに集中され、すさまじいエネルギーで、一つの幸福な目的に向って突進して行くのを感じた。彼もそのために幸福であった。彼は自分がアンナに真実を語ったことだけを知っていた。すなわち、彼は、ぼくはあなたのいるところへ行くのです、今のぼくはこの人生におけるいっさいの幸福も、生活の唯一の意義も、ただあなたに会い、あなたの声を聞くことしか認めていないのです、といったのである。そして、ソーダ水を飲みに、ヴォロゴヴォ駅で列車からおり、アンナの姿を見かけたとき、思わず彼の口をついて出た言葉こそ、彼が心に思っていたことをアンナに打ち明けたのであった。彼はそのことをアンナに打ち明け、アンナも今はそれを知り、そのことを考えているかと思うと、うれしかった。彼はひと晩じゅう眠らなかった。自分の車室へ帰ると、彼はアンナに会ったときのいっさいの光景と、アンナの語ったすべての言葉を、たえず記憶の中から、さぐりだしていた。そして、将来起りうるであろうさまざまな光景を、胸のしびれるような思いで、あれこれと思い描くのだった。
ペテルブルグで汽車をおりたとき、彼は前の晩まんじりともしなかったのに、まるで冷水浴でもしたあとのように、生きいきとして、すがすがしい気分であった。彼はアンナがおりて来るのを待ちうけながら、自分の車のそばにたたずんでいた。《もう一度会えるだろう》彼は思わず微笑を浮べながら、つぶやいた。《あの歩き方、あの顔が見られるだろう。なにかいうかもしれんな、首をちょっとまわして、ちらっとこちらをながめ、ひょっとすると、にっこり笑ってくれるかもしれん》ところが、彼はアンナよりも先に、駅長が群集を分けてうやうやしく案内して来る彼女の夫を見つけた。《あ、そうだ! 夫じゃないか!》そのときはじめてヴロンスキーは、アンナに結びつけられた人間が夫であることを悟った。アンナに夫のあることは彼も知っていたが、その実在は信じられなかったからである。しかし、いまや、頭、肩、黒いズボンに包まれた足を備えたその人の姿を見たとき、とりわけ、この夫がさも自分のものだといわんばかりに、大様《おおよう》にアンナの手を取ったとき、彼もはっきりとその存在を信じこまされたのであった。
やや猫背ではあるが、ペテルブルグ人らしいさっぱりした顔をして、丸い帽子をかぶり、いかめしく自信ありげな風采《ふうさい》のアレクセイ・カレーニンを見ると、彼はその存在をはっきりと認識して、いやな感じをうけた。それはちょうど、渇《かわ》きに悩まされた人が、ようやく泉にたどり着いてみると、そこにはすでに犬や羊が、あるいは豚がいて、その清水《しみず》を飲んだり、どろどろにかきまわしている、といった感じであった。腰から下と鈍い両足をひねるようなカレーニンの歩き方に、ヴロンスキーはとりわけ軽蔑《けいべつ》されたような感じをうけた。彼は、アンナを愛する正当な権利を、ただ自分ひとりだけに認めていた。ところが、アンナは依然として変りなく、その容姿は依然として彼を肉体的に活気づけ、興奮させ、その心を幸福で満たしながら、彼に働きかけた。彼は、二等車から駆けだして来たドイツ人の召使に、荷物を持って先へ行くように命じてから、アンナのほうへ近づいて行った。彼は夫妻の最初の出会いを目撃したが、アンナが夫に話しかける調子に、ややぎこちないものがあるのを、愛する者の敏感さで見てとった。《そうだ、あの人は夫を愛してはいないんだ、いや、愛することなんかできないんだ》彼は勝手にそうきめてしまった。
彼は自分がうしろのほうからアンナのほうへ近づいて行ったとき、アンナが彼の近づいて来たことを感じて、振り向こうとしたが、すぐまた夫のほうへ向きなおったのに気づいて、うれしくなった。
「昨晩はよくおやすみになれましたか?」彼は、アンナと夫に向っていっしょに会釈しながら、そういったが、それは、カレーニンがこの会釈を自分に向けられたものと取ろうが、また彼に気がつこうがつくまいが、どうでもご勝手に、といった調子だった。
「おかげさまで、とてもよくやすめました」アンナは答えた。
その顔は疲れているように見えた。そして、時には微笑に、時には目もとにあふれる、あの生きいきとした表情の戯れは見られなかった。しかし、彼をちらっと見た瞬間、その目の中にはなにかがきらりとひらめいた。もっとも、その火はすぐ消えてしまったけれど、彼はその一瞬に幸福を感じた。アンナはちらと夫を見やって、ヴロンスキーを知っているかどうか、たしかめようとした。カレーニンは、相手がだれだか、ぼんやり思いだしながら、不満げにヴロンスキーを見つめていた。ヴロンスキーの落ち着きと自信に満ちた態度が、カレーニンの冷たい自信にまともにぶつかった。
「ヴロンスキー伯爵でいらっしゃいますよ」アンナはいった。
「やあ! たしか、われわれは知合いでしたな」カレーニンは手をさしだしながら、そっけなくいった。「行きはご母堂、帰りはご子息とごいっしょだったわけだね」彼は、まるでひと言ごとに一ルーブルずつ恵みでもするように、はっきりと発音しながらいった。「きっと、賜暇のお帰りでしょうな?」彼はそういって、その返事を待たずに妻のほうを振り向き、例のふざけたような調子で、「どうだね、モスクワでのお別れでは、さぞ涙を流したことだろうね?」
彼はこう妻にいったことで、早くふたりきりになりたいことを、ヴロンスキーに思い知らせようとした。そして、ヴロンスキーのほうへ振り向いて、帽子にちょっと手をかけたが、ヴロンスキーはアンナのほうを向いて、
「お宅をおたずねしてもよろしいでしょうね」と、いった。
カレーニンはどんよりした目つきで、ちらっとヴロンスキーを見た。
「どうぞ」彼は冷やかな調子でいった。「いつも月曜日にお客をすることになっています」それから、彼はヴロンスキーのほうはすっかり無視して、妻に話しかけた。「いや、うまいぐあいだったよ、ちょうど三十分だけ時間があいておって。おまえを迎えに来て、わしのこの優しい心を見せることができたのはね」彼は相変らずふざけた調子でいった。
「ご自分の優しい心を、そんなに売り物になさらないほうがよくってよ。いくら、あたしにありがたがらせようと思っても」自分たちのあとからついて来るヴロンスキーの足音に、思わず耳を傾けながら、アンナも同じようなふざけた調子で答えた。《でも、あたしの知ったことじゃないわ》アンナはそう考えて、留守中にセリョージャがどんなふうに暮したかを、夫にたずねはじめた。
「なに、満点だったよ! マリエットの話じゃ、とてもおとなしくって、それに……おまえをがっかりさせるかもしらんが、おまえの夫ほどはおまえを恋しがらなかったそうだよ。いや、もう一度メルシーをいおう。一日早く帰って来てくれて。わが愛すべきサモワール夫人がさぞ有頂天になって喜ぶだろうよ。(彼は有名なリジヤ伯爵夫人が年じゅうなにごとにつけても気をもんだり、熱くなったりするので、サモワールとあだ名したのであった)あの人は、おまえのことをとても案じていたよ。それで、これからひとつ忠告なんだが、きょうにもあの人をたずねたほうがいいね。なにしろ、あの人はありとあらゆることに心を痛めているんだからね。今のところは、いろんな心配事のほかに、オブロンスキー夫婦の和解にもかかずらっているんでね」
リジヤ伯爵夫人は、アンナの夫の親友で、ペテルブルグ社交界のあるグループの中心人物であり、アンナは夫との関係から、だれよりももっとも親しくしていた。
「でも、あの方にはお手紙を出しておきましたわ」
「ところが、あの人はなんでも根掘り葉掘りききたいんだよ。おまえ、疲れていないようだったら、ちょっと行っておいで。さて、おまえの馬車は、コンドラーチイがすぐまわしてくれるよ。わしは委員会へ出かけるから。もうきょうからまたひとりで食事をしなくてすむね」カレーニンは言葉をつづけたが、それはもうふざけた調子ではなかった。「おまえには信じられないだろうが、わしはおまえとの暮しにあまり慣れちまったので……」
そういって彼は、長いこと妻の手を握りしめながら、一種特別な微笑を浮べて、妻を馬車へ乗せた。
32
わが家で、アンナを出迎えた最初の人間は、むすこであった。少年は家庭教師の叫び声にも耳をかさず、母親に向って階段を駆けおりると、「ママ、ママ!」と有頂天になってはしゃいだ。そして、母親のそばまで駆けつけると、いきなりその首にぶらさがった。
「ねえ、いったでしょう、ママだって!」少年は家庭教師に向って叫んだ。「ぼく、ちゃんとわかってたんだ!」
むすこも夫と同じように、なにか幻滅に似た感じをアンナに呼びおこした。アンナはむすこを、実際よりもっといいように想像していた。あるがままのむすこをかわいがるためには、現実の世界までおりて行かなければならなかった。いや、あるがままのむすこも、白っぽい髪をふさふささせ、空色の目をして、長靴下をぴったりはいた足は長く、よく太って、とてもかわいかった。アンナはむすこを身近に見いだし、その愛《あい》撫《ぶ》を感じ、ほとんど肉体的な喜びを覚えた。また、その単純な、信じやすい、愛情にみちたわが子のまなざしを見、その無邪気な質問を聞くと、心の安らぎを覚えるのだった。アンナはドリイの子供たちからの贈り物を取り出してから、モスクワにはターニャという女の子がいて、そのターニャはもう本が読めるばかりか、ほかの子供たちに教えることもできるのよ、と話して聞かせた。
「じゃ、ぼくのほうがその子より悪いの?」セリョージャはきいた。
「ママには坊やが世界じゅうでいちばんいい子なの」
「そんなこと知ってるよ」セリョージャは、にこにこしながらいった。
アンナがまだ一杯のコーヒーも飲み終らないうちに、リジヤ伯爵夫人がたずねて来たと取次がれた。リジヤ伯爵夫人は、病身らしい黄色い顔をしていたが、背の高い、よく太った婦人で、夢みるような黒いひとみは美しかった。アンナは夫人が好きであったが、きょうはどういうものか、はじめて夫人の欠点という欠点を残らず見るような気がした。
「ねえ、どうだったの、無事にオリーヴの枝を持っていらした?」リジヤ伯爵夫人は、部屋へ通るが早いかこうたずねた。
「ええ、あれはもうすっかりけりがつきましたわ。でも、あれは、あたしどもが考えていたほど大事件ではございませんでしたの」アンナは答えた。「どうも、あたしの bell-sマur は、すこし気がはやすぎましてね」
ところが、リジヤ伯爵夫人は、自分に関係のないことだと、むやみに興味をもつくせに、ほんとうに自分の興味のあることはけっしてたずねない癖があった。そこで、夫人はアンナの言葉をさえぎった。
「まあ、ほんとにこの世には悲しいことや不正なことが多いのねえ。きょうは、あたし、ほんとにくたびれてしまいましたわ」
「どうなさいましたの?」アンナは、微笑をおさえようと努めながら、たずねた。
「あたし、真理のためのむなしい戦いに、そろそろまいってきましたの。どうかすると、すっかり力を落してしまいますの。姉妹協会(それは博愛的、かつ愛国的な宗教団体であった)なんか、発足はすばらしかったんですけど、あんな連中といっしょでは、なんにもすることができないんですの」なにかあきらめに似た自嘲《じちょう》の響きをこめて、リジヤ伯爵夫人はつけ加えた。「あの連中ときたら、会の趣旨に賛同したくせに、それをめちゃくちゃにして、なんだかだいいながら、すっかりだめにしてしまったんですもの。あの仕事の意味をちゃんと理解しているのは、お宅のご主人をいれて、ほんの二、三人で、あとの連中はただ引っかきまわすだけですわ。きのうもプラヴジンさんが手紙をよこして……」
プラヴジンは、外国にいる有名な汎《はん》スラヴ主義者であった。そこで、リジヤ伯爵夫人は、その手紙の内容を披《ひ》露《ろう》した。
さらに、伯爵夫人は、さまざまの不愉快な出来事や、教会連合の事業に対する奸計《かんけい》などについて語った後、きょうはまだある団体の会合と、スラヴ協会の委員会に出席しなければならないといって、そうそうに帰って行った。
《以前だって、あのとおりだったんだわ。それなのに、なぜ前にはあれに気がつかなかったのかしら?》アンナはつぶやいた。《それとも、きょうはあの方、特別いらいらしてたのかしら? ほんとに、こっけいだわ。だって、あの方の目的は善行で、あの方はクリスチャンなのに、しょっちゅうおこってばかりいるんですもの。あの方にとってはだれもかれも敵ばかり、しかも、それがキリスト教と善行の敵なんですものねえ》
リジヤ伯爵夫人のあとへ、親友の局長夫人がやって来て、市《まち》のニュースをすっかり話してくれた。三時になると、晩餐《ばんさん》に来ると約束して、この夫人も帰って行った。カレーニンは役所にいた。アンナはひとりきりになると、晩餐までの時間を利用して、むすこの食事するそばについていてやったり(少年は別に食事をすることになっていた)、自分の身のまわりの物を整理したり、机の上にたまっていた手紙類を読んだり、その返事を書いたりしていた。
帰途に経験した理由のない羞恥《しゅうち》の念と心の動揺は、もうすっかり消えていた。慣れた生活環境にもどって、アンナは再び自分が非難されるところのない、しっかりした女であることを感じていた。
アンナはきのうの心理状態を思いだして、自分ながらあきれてしまった。《いったいどうしたものかしら? いいえ、たいしたことないわ。ヴロンスキーさんはばかなことをいったけど、あんなことはすぐけりをつけてしまえるわ。それに、あたしのほうは、ちゃんとした返事をしたんだから。あんなことは夫に話す必要もないし、また話すわけにもいかないわ。あんなことを話すのは、意味もないことにわざわざ重大な意味をつけるようなものなんですもの》
アンナは、ふとこんなことを思いだした。いつかペテルブルグで夫の部下にあたる青年が、自分に向ってほとんど恋の告白にちかいことをしたことがあった。その話を妻から聞いたカレーニンは、どんな婦人でもこの世に生きているかぎり、そういった場合にぶつかるだろうが、わしはおまえの良識をかたく信頼しているから、嫉妬《しっと》などしておまえをも自分をもはずかしめるようなまねはしない、と答えたものであった。
《つまり、なにも話す必要なんかないんだわ。それに、幸い、なにも話すようなこともないし》
アンナはそうつぶやいた。
33
カレーニンは四時に役所から帰って来た。しかし、これはよくあることだったが、すぐ妻のところへ行くわけにいかなかった。彼は書斎へ通って、待っていた請願人に会ったり、事務主任の持って来たいくつかの書類に署名したりしなければならなかった。晩餐《ばんさん》にやって来たのは(カレーニン家ではたいてい三、四人の人が食事にやって来た)、カレーニンの従妹《いとこ》にあたる老嬢と、局長夫婦と、カレーニンの役所へ推薦されて来た青年であった。アンナはお客のお相手をするために、客間へはいって行った。きっかり五時に、ピョートル一世と呼ばれている青銅の時計が、まだ五つめを打ち終らないうちに、カレーニンが白ネクタイをして、燕《えん》尾《び》服《ふく》に勲章を二つつるして、はいって来た。食後、すぐ出かけなければならなかったからである。カレーニンの生活は、一分一分ちゃんと割り当てられ、予定されていた。そして、毎日、きめられたことをまちがいなくやっていくために、彼は厳格このうえない規律を守っていた。『急ぐこともなく、休むこともなく』というのが、彼のモットーであった。彼は広間へ現われると、一同に会釈して、妻に笑顔を見せながら、そそくさと腰をおろした。
「ああ、やっとわしのひとり暮しもおしまいになったな。おまえ、本気にしないだろうが、ひとりで食事をするのは、じつに間のぬけた(彼は間のぬけた《・・・・・》という言葉に、わざわざ力を入れた)もんだよ」
食事のあいだに、彼は妻に向ってモスクワのことを話したり、ばかにしたような薄笑いを浮べてオブロンスキーのことをたずねたりしたが、会話はだいたい一同に共通の話題である、ペテルブルグの役所に関係したことや、一般の社会的な問題にかぎられていた。食後、彼は三十分ばかり客といっしょに過した後、再び微笑を浮べて妻の手を握って部屋を出ると、会議に出るために出かけて行った。アンナはその晩、彼女の帰京を知って夜会に招待してくれたベッチイ・トヴェルスコイ公爵夫人のもとへも、ボックスの取ってあった劇場へも行かなかった。外出しなかったおもな理由は、あてにしていた服ができて来なかったからである。もっとも、アンナは、客が帰ってから化粧にかかったとき、ひどくふきげんだった。もともと、あまり金をかけない服装をととのえることのじょうずなアンナは、モスクワへ発つ前に、三枚の服を仕立てなおすため、洋裁師に渡しておいた。それは、見ちがえるほどきれいに仕立てなおされて、三日も前に届いているはずであった。ところが、二枚はぜんぜんできていず、一枚は仕立てなおされたものの、アンナの思っていたようなものとはちがっていた。洋裁師は言いわけに来て、このほうがずっとお似合いですといってきかないので、アンナは思わずかっとなって、あとで思いだしても気がさすほどどなりつけた。アンナはすっかり気分をしずめるために、子供部屋へ行き、その晩はずっとむすこのそばで過し、自分で寝かしつけてから、十字を切り、毛布にくるんでやった。アンナはどこへも出かけないで、ひと晩気持よく過せたのを喜んだ。アンナはすっかり心が軽くなって、気分も落ち着いたので、汽車の中ではあれほど重大に思われたことが、まったくありふれた、取るに足りない社交界の出来事にすぎず、自分は他人に対しても、自分自身に対しても、なにひとつ恥ずるところはないと、はっきりと悟ったのであった。アンナはイギリスの小説を手に、壁炉のそばへ腰をおろすと、夫の帰りを待った。きっかり九時半に、夫の鳴らすベルの音が聞え、つづいて本人が部屋へはいって来た。
「やっと、お帰りですのね!」アンナは手をさしのべながらいった。
相手はその手に接吻して、妻のそばに腰をおろした。
「どうやら、おまえの旅行は首尾よくいったらしいね」彼はいった。
「ええ、とても」アンナは答えて、夫にいっさいの経過を初めから話しだした。ヴロンスキー夫人との汽車の旅や、到着の模様や、停車場での突発事件などを。それからはじめ兄に対して、その後ドリイに対して感じた哀れみの情についても物語った。
「わしとしては、ああいう人間を許していいとは思わんね、そりゃおまえの兄さんではあるがね」カレーニンはきびしい調子でいった。
アンナはにっこりと笑った。アンナにはわかっていたが、夫がこういうのは、親戚《しんせき》などという関係も、自分が誠実な意見を表明するのを阻止することはできない、という気持を知らせるためであった。アンナは夫のこうした性格を承知していて、それを愛していた。
「とにかく、万事うまくいっておまえが帰って来たのは、うれしいよ」彼はつづけた。「ときに、わしが委員会で通過させた新しい法案のことを、向うではどんなふうにいってるかね?」
アンナはその法案のことについてなにも聞いて来なかった。そのため、夫にとってそんなに重大なことを、自分がけろりと忘れてしまったことに、気がさしてしまった。
「ところが、こっちじゃ、とてもたいへんな騒ぎを起してね」夫はひとりで満足そうな微笑を浮べながら、いった。
アンナは、夫のカレーニンがこの問題について、なにか自分として愉快な話をしたがっているのを見てとったので、いろいろと質問をしながら、話をそのほうへもって行った。彼は相変らず満ち足りた微笑を浮べながら、その法案が通過したとき、拍手かっさいを浴びた話をはじめた。
「わしは大いに喜んだものさ。だって、やっと、わが国でもこの問題に対して理知的な、確固たる見解が生れるようになったことを、このことは立証しているようなものだからね」
クリームを入れた二杯めのお茶をパンといっしょに飲み終ると、カレーニンは立ちあがって、書斎へ向った。
「じゃ、おまえはどこへも行かなかったんだね? きっと、退屈だったろう?」夫はいった。
「いいえ、すこしも!」アンナは夫につづいて席を立ち、広間を横ぎって書斎まで見送りながら答えた。「今はどんなものを読んでらっしゃるの?」アンナはきいた。
「今は Duc de Lilleの《Po市ie des enfers 》を読んでるよ」夫は答えた。「こりゃすばらしい本だよ」
アンナはにっこり笑ったが、それはよく人が愛するものの弱点に対して笑いかけるそれであった。そして、夫と腕を組んで、書斎の入口まで送って行った。アンナは夫にとって、もはや欠くべからざるものとなった夜の読書の習慣を、ちゃんと承知していたのである。アンナはまた、夫は勤務の上で、ほとんど時間をとられているにもかかわらず、知的な分野における目ぼしい問題にも注意を怠らぬことを、自分の義務と心得ていることを知っていた。いや、アンナはまた次のことも承知していた。実際、彼は政治、哲学、神学の本には興味をもっていたが、ただ芸術だけはその性格からいってまったく無縁であった。しかし、それにもかかわらず、いや、むしろそのためかもしれないが、カレーニンはこの分野で問題となった本は、一冊として見のがさず、すべて読破することを、自分の義務と心得ていた。アンナの知っているところによると、カレーニンは政治、哲学、神学の領域においては、疑いをいだいたり、模索したりすることもあったが、芸術や詩や、ことに音楽のこととなると、まったくその理解力を欠いているくせに、このうえなくきっぱりした断固たる見解を持っているのだった。彼は好んでシェークスピア、ラファエル、ベートーベンについて論じ、詩や音楽の新しい流派の意義などについて語ったが、それらは彼の頭の中できわめて明晰《めいせき》な論理によって、きちんと分類されているのであった。
「じゃ、のちほど」アンナは書斎の入口で、いった。部屋の中には、もうほや《・・》をかぶせたろうそくと、水のはいったフラスコが、肘掛けいすのそばに用意してあった。「あたしはモスクワへ手紙を書きますわ」
彼は妻の手を握りしめて、またそれに接吻した。
《やっぱり、あの人はいい人だわ、正直で、親切で、専門のほうでもたいしたものだし》アンナは、自分の部屋へ引き返しながら、まるでだれかが夫を非難して、あんなやつを愛するわけにいかぬ、といったのに対して、弁護でもするようにつぶやいた。《それにしても、あの人の耳はなぜあんなにおかしく突ったっているんだろう! 散髪したてのせいかしら?……》
きっかり十二時に、アンナがドリイあての手紙を書き終ろうとして、まだ机に向っていたとき、規則正しいスリッパの足音がして、顔を洗って、髪をなでつけたカレーニンが、本を小わきにかかえて、アンナのところへやって来た。
「さあ、もう時間だよ、時間だよ」彼は特別な笑いを浮べながら、寝室のほうへはいって行った。
《でも、いったい、どんな権利があってあの人は、うちの人をあんなふうに見たんだろう?》アンナは、カレーニンをながめたときのヴロンスキーの目つきを思いだしながら、こんなことを心の中で考えた。
アンナは着替えをして寝室へはいって行ったが、その顔には、モスクワにいるあいだその目もとにも微笑にもあふれていたあの生きいきした表情が、跡形もなく消えていた。いや、今ではもうその生命の火が消えてしまったのか、それとも、どこか遠いところに隠れてしまったみたいであった。
34
ペテルブルグを発《た》つとき、ヴロンスキーはモルスカヤ街にある自分の大きな邸宅を、親友で、同僚のペトリツキーにあずけて行った。
ペトリツキーは若い中尉で、名門の出でも、金持でもないばかりか、借金で首がまわらぬくらいだった。ところが、晩になると、いつも酔っぱらって、ありとあらゆる、こっけいで不潔な事件を起しては、よく営倉へ入れられたが、同僚にも上官にもかわいがられていた。十一時すぎに、停車場から自分の邸宅へ乗りつけたとき、ヴロンスキーは車寄せのところに、見覚えのある辻馬車が止っているのに気づいた。彼がベルを鳴らすと、ドアの中から男の連中の高笑いと、女の甘えたような声と、『だれか悪党だったら、通してはだめだぞ!』とどなるペトリツキーの声が聞えてきた。ヴロンスキーは従卒に取次をさせないで、そっと、いちばんはしの部屋へ通った。ペトリツキーの女友だちのシルトン男爵夫人が、紫の繻《しゅ》子《す》の服を着て、金髪のばら色の顔を輝かせ、パリ仕込みのフランス語を、カナリヤのように部屋いっぱいに響かせながら、丸テーブルの前にすわって、コーヒーを沸かしていた。外套《がいとう》を着たペトリツキーと、きっと勤務からの帰り道であろう、正装したカメロフスキー大尉が、夫人を囲んですわっていた。
「よう! ヴロンスキー!」いすをがたがたいわせて踊りあがりながら、ペトリツキーが叫んだ。「ご主人のお帰りだ! 男爵夫人。ひとつ、新しいコーヒー沸かしでコーヒーをいれてください。こりゃ、意外だったね! でも、きみの書斎のこの新しい飾りものには、満足してもらえるだろうね」彼は男爵夫人を指さしながらいった。「きみたちはたしか知合いだったね?」
「あたりまえさ!」ヴロンスキーは愉快そうに微笑して、男爵夫人の小さな手を握りしめながら答えた。「それも、古なじみだよ!」
「旅行からお帰りになったんですのね」男爵夫人はいった。「じゃ、もうおいとましなければ、ええ。今すぐにもおいとましますわ、おじゃまのようでしたら」
「あなたのいらっしゃるところはどこでも、ご自分のお宅ですよ、男爵夫人」ヴロンスキーはいった。「やあ、カメロフスキー」彼はそうつけ加えて、そっけなくカメロフスキーの手を握った。
「ねえ、よくって、あなたなんかけっしてこんな気のきいたことはいえないでしょう?」男爵夫人は、ペトリツキーのほうを向いていった。
「いや、どうして? 食後なら、ぼくだってもっと気のきいたことをいってみせますよ!」
「さて、それじゃ。あたしはコーヒーをいれますから、そのあいだに、お顔を洗ったり、お荷物を片づけたりなさったら」男爵夫人はいって、またいすに腰をおろすと、注意ぶかく新しいコーヒー沸かしのねじをまわしはじめた。「ピエール、コーヒーをとって」夫人はペトリツキーに声をかけたが、それは、ペトリツキーという姓をもじったものであり、夫人はそう呼ぶことによって、ふたりの関係を隠そうともしなかった。「も少しいれるわ」
「だめになっちまいますよ!」
「いいえ、だめになんかしないわ! それはそうと、あなたの奥さんは?」不意にヴロンスキーがペトリツキーと話しているのをさえぎりながら、男爵夫人はいった。「あたしたちはこちらで勝手に、あなたを結婚させていたんですのよ。奥さんは連れていらっしゃいまして?」
「いや、男爵夫人、ぼくはジプシーとして生れたんですから、ジプシーとして死にますよ」
「それならいいの、なおさらいいわ。じゃお手をかしてくださいな」
男爵夫人は、そういうと、ヴロンスキーを放そうともしないで、冗談をとばしたり、自分の最近の生活プランを話したり、相手の忠告を求めたりしはじめた。
「あの人ったら、まだ、あたしを離縁してくれないんですのよ! ねえ、どうしたらいいんでしょう? (あの人《・・・》というのは夫のことであった)あたし今度こそ、訴訟を起そうと思うんですけど。あなた、なにかいいお知恵ございまして? カメロフスキーさん、コーヒーを見ててくださいよ――ほら、ふきこぼれてよ。こちらは用事で忙しいんですから!あたし訴訟を起したいんですの、だって、自分の財産がほしいんですもの。あたしがあの人に不貞を働いたんですって。そんなばからしいことって、あるかしら?」夫人は軽蔑《けいべつ》するような調子でいった。「それを口実にして、あの人ったらあたしの財産を、手に入れようとかかってるんですのよ」
ヴロンスキーは、この美しい女性の快活なおしゃべりを、いい気分で聞きながら、相槌《あいづち》を打ったり、冗談半分の忠告をしたり、要するに、この種の女性を相手にするときのもの慣れた調子を、たちまち、取りもどしていった。
ペテルブルグにおけるヴロンスキーの世界は、すべての人びとがまったく相反する二つの種類に分れていた。一つは下等な種類であって、これは月並みな、愚劣な、とくに、こっけいな連中が属しており、この連中は、夫たるものはいったん結婚したら、ただひとりの妻を守らねばならぬとか、乙女《おとめ》は純潔でなければならぬとか、女はしとやかで、男は男らしく節操を持し堅実でなければならぬとか、子女を教育し、労働によってみずからのパンをかせぎ、借金は返さなければならぬとか、そういったばかげたことを信じているのであった。つまり、旧式でこっけいな人びとに属していたのである。ところが、もう一つ別の種類の、ほんとうの人間がおり、彼らはすべてみなこれに属していた。この種の人びとは、なによりもまず優雅で、美しく、おおらかで、大胆で、快活でなければならず、また顔を赤らめもせずに、あらゆる情欲に身をゆだね、その他のいっさいのものを冷笑しなければならなかった。
ヴロンスキーも最初のうちは、モスクワから持ち帰ったまったく違った世界の印象のあとだけに、いくらか茫然《ぼうぜん》となっていたが、すぐに古いスリッパに足を突っこんだように、昔ながらの愉快な楽しい世界へはいって行った。
コーヒーはやっぱりうまく沸かずに、みんな飛《ひ》沫《まつ》をかけてこぼれてしまい、まさしく期待されていた効果を奏した。つまり、高価なじゅうたんと男爵夫人の服をよごして、みんなの騒ぎと笑いのきっかけをつくったのである。
「じゃ、今度こそさよならですわ。でないと、あなたはいつまでたっても、お顔をお洗いにならないんですもの。そうなると、あたしの良心には、ちゃんとした人にとっていちばん重い罪、不潔という罪をうけることになりますもの。それじゃ、あなたは、のどに刀をつきつけろとおっしゃるんですのね?」
「ええ、かならず。それも、あなたのお手を、なるべく彼の唇に近いようにおかなくては。すると彼はあなたのお手に接吻して、万事うまくいきますよ」ヴロンスキーは答えた。「では、今晩、またフランス劇場でね!」そういって、夫人は衣《きぬ》ずれの音をたてながら、姿を消した。
カメロフスキーもまた立ちあがった。と、ヴロンスキーは、彼が出て行くのを待ちかねて、別れの握手をした後、化粧室へ行った。彼が顔を洗っているあいだに、ペトリツキーは簡単に、自分の立場を説明して、それがヴロンスキーの出発後、どれだけ変ったかを話して聞かせた。金は一文もない。父親は一文もくれない、借金も払わない、といった。洋服屋は彼を監獄へぶちこもうとしているし、もう一軒のほうは、かならずぶちこんでみせると脅《おど》かしている。連隊長は、もしこういう醜行がやまなければ、隊を出てもらわなければならぬ、と申しわたした。男爵夫人は、もうやりきれないほど鼻についてしまったが、なによりも、しょっちゅう金をくれようとするのがたまらない。ところで、ひとりいい女の子がいるから、いつか、きみに見せてやろう。まあ、奇《き》蹟《せき》といっていいくらい、すばらしいよ。東洋的な清《せい》楚《そ》な容姿で、『女奴隷レベッカのタイプ』なんだ、わかるかい。またきのうは、ベルコショーフとけんかして、やつは決闘の介添人をよこすといったが、もちろん、なんのこともなくすむにきまっている。まあ、いってみれば、なにもかも上首尾で、きわめて愉快にいっている。それから、ペトリツキーは、相手に自分の立場をくわしく話す余裕を与えないで、あらゆるおもしろいニュースを話しはじめた。もう三年ごし住んでいる自分の住まいの、なじみの深い道具立ての中で、これまたなじみの深いペトリツキーのおしゃべりを聞いているうちに、ヴロンスキーは自分が慣れ親しんだ、のんきなペテルブルグ生活へもどって来たという快感を、しみじみと味わうのだった。
「そんなことがあるもんか!」彼は洗面台のペダルを踏んで、血色のいい、健康そうな首筋に水を浴びせながら、叫んだ。「そんなことがあるもんか!」ローラがミレーエフといっしょになって、フェルチンゴフを捨てたというニュースを聞いて、彼は叫んだ。
「それで、やっこさんは相変らずの間ぬけで、うぬぼれているのかい? ところで、ブズルーコフはどう?」
「ああ、ブズルーコフにもひと騒ぎあってね――いや、たいした話だよ!」ペトリツキーは叫んだ。「なにしろ、やつはダンスに夢中だろう、だから宮廷の舞踏会といったら、一度だって欠かしたことはないんだ。ところでやっこさん、新型の軍帽をかぶって、大舞踏会へ出かけて行ったのさ。きみは、新しい軍帽を見たかい? なかなかしゃれてるんだ。軽くってね。さて、やっこさんが立っているといきなり……おい、聞いてろよ」
「ちゃんと聞いてるじゃないか」ヴロンスキーは、タオルでからだをふきながら答えた。
「そこへ大公妃が、どこかの大使を連れて通りかかったんだが、やっこさんにとって運の悪いことにゃ、たまたま、新しい軍帽のことが話題になったのさ。大公妃は、大使に新しい軍帽を見せようと思って……ふと見ると、やっこさんがそこに立ってるじゃないか(ペトリツキーは、軍帽をかぶって立っている様子をまねてみせた)。大公妃は、ちょっと軍帽を貸してくれとおっしゃったが、――やっこさんときたら、渡さないんだ。こりゃどうしたわけかと、みんなは目くばせしたり、あごをしゃくったり、顔をしかめてみせたりしたんだが、渡さないんだよ。ただもう棒立ちになって、身動きもしないというわけさ。まあ、その格好を想像してくれよ……ついに、あの……なんといったっけな……いや、ひとりの男が、やっこさんの軍帽を取ろうとしたんだが……どうにも、渡さない!……やっと、ひったくって、大公妃にさしだしたってわけさ。『これが新しい軍帽でございます』と大公妃がいって、それをくるりと引っくり返すと、まあ、どうだろう――その中から梨《なし》だのキャンデーだのが、それも二斤《きん》からのキャンデーがこぼれ落ちたんだからねえ! やっこさん、そいつをかっぱらって来たわけさ、たいしたやつだよ!」
ヴロンスキーは腹をかかえて笑いころげた。それからあとも長いこと、もうほかの話に移ったときでも、ヴロンスキーはその軍帽の一件を思いだしては、きれいにそろった丈夫そうな歯を見せながら、例の健康そうな笑い方で、大いに笑いころげていた。
ニュースをのこらず聞いてしまうと、ヴロンスキーは召使の手をかりて軍服に着替え、連隊へ申告するために出かけた。申告をすましたあと、彼は兄のところやベッチイの家へ立ち寄り、そのほか二、三の訪問を試みようと思っていた。それは、カレーニン夫人のアンナに会える可能性のある社交界へ出入りする準備であった。ペテルブルグでは、いつものことながら、彼はもう夜おそくまで帰らないつもりで、家を出かけた。
第二編
冬の終りに、シチェルバツキー家では医者の立会い診察が行われた。それは、キチイの健康がどういう状態にあるか、またその衰弱していく体力を回復するにはどうすればいいか、きめるためであった。キチイは病気だった。そして、春が近づくにつれて、その健康はますます悪くなっていった。かかりつけの医者はまず肝油を飲ませ、それから鉄剤、さらに硝酸銀《しょうさんぎん》剤を与えた。しかし、そのどれ一つとしてききめがなく、また医者は、春になったら外国へ転地するように勧めたので、今度は有名な博士が招かれたわけである。この名医はまだそう年配でもなく、なかなかの美男子だったが、とにかく、病人を診察したいといった。彼は一見、なにか特殊の満足をもって、処女の羞恥心《しゅうちしん》は野蛮時代の遺物にすぎないとか、まだあまり年をとっていない男が、若い女性の裸体にふれることほど自然なことはないとか、主張するのであった。彼がそれを自然なことと信じたのは、現に、自分が毎日それをやっており、しかも、その際なんの感じもうけず、べつに悪いことを考えたりしないと彼には思われたからである。そのために、彼は彼女の羞恥心こそ単に野蛮時代の遺物であるばかりでなく、彼自身に対する侮辱であるとさえ考えたのである。
とにかく、それに従うよりほかなかった。どの医者もみな同じ学校で、同じ書物によって勉強するのであるから、その学問も、結局は同じものであるのに、また一部の人びとは、この有名な博士を藪《やぶ》医者だといっているのに、公爵夫人の家でも、一般に夫人の仲間たちのあいだでも、どういうわけか、この名医がひとりだけなにか特別なことを知っていて、この人ばかりがキチイを助けることができるのだと、信じこまれていた。恥ずかしさのあまり途方にくれて、気が遠くなっている病人を、ていねいに聴診したり、打診したりしてから、名医は念入りに両手を洗い、客間で公爵と立ち話をした。公爵は医者のいうことを聞きながら、咳《せき》ばらいをして、眉《まゆ》をひそめていた。公爵は人生経験の豊かな人間で、ばかでも病人でもなかったから、医学なんかてんで信用せず、心の中でこうした茶番劇をいまいましく思っていたが、キチイの病気の原因を知りぬいているのは、ほとんど彼ひとりであってみれば、それもむりからぬことであった。
《それそれ、このほら吹きめ》公爵は心の中で、猟師仲間の言葉からとったこのあだ名を有名な博士に進呈しながら、娘の病状についての相手の長ったらしいおしゃべりを聞いていた。一方医者もまた、この老貴族に対する軽蔑《けいべつ》の表情を、やっとのことでおさえながら、相手の低い理解力にまで、自分を引き下げるのに苦心していた。医者には、こんな老人と話してもしようがない、この家の主権は母親にあるのだ、とちゃんとわかっていたので、母親が出て来たら、大いに雄弁をふるおうと、かまえていた。そこへ公爵夫人が、かかりつけの医者をつれて客間へはいって来た。公爵は、こんな茶番劇はおかしくてたまらない、という自分の気持を悟られまいとして、向うへ行ってしまった。公爵夫人はすっかり途方にくれて、なにをしていいかわからないでいた。自分がキチイに対して、なにか悪いことをしたような気持だったからである。
「さあ、先生、あたしどもの運命をきめてくださいまし」公爵夫人はいった。「どうか、なにもかもおっしゃってくださいまし」夫人は『望みがございますでしょうか?』と聞きたかったのだが、唇《くちびる》が震えてしまって、この質問を口にすることはできなかった。「さあ、いかがでございましょう、先生?」
「いや、待ってください、奥さん、今同僚と相談してから、そのうえで、私の意見を申しあげますから」
「では、あたくしはさがっておりましょうか」
「それはどちらでも」
公爵夫人は溜息《ためいき》をついて、出て行った。
医者がふたりきりになったとき、かかりつけの医者はおずおずと自分の意見を述べはじめた。それは、結核の初期らしいが、しかし、云々《うんぬん》というのであった。名医のほうは相手の話にじっと耳をかしていたが、その話の途中で、ちらっと大きな金時計を見た。
「なるほど」彼はいった。「しかしですな……」
かかりつけの医者は話なかばで、うやうやしく口をつぐんだ。
「ご承知のとおり、結核の初期というやつには、決め手がありませんでね。空洞《くうどう》が現われるまでは、なんら決定的な徴候はないわけですからな。そりゃ、推測することはできますよ。それに多少の徴候がないでもありません、食欲不振とか、神経性のいらだちとかいったようなものですな。そこで問題となるのは、結核の疑いがあるものとして、栄養を維持するにはどうしたらいいか、ということなんですな」
「しかし、ご承知でもありましょうが、このような場合には、いつも心理的、精神的原因が隠れておるものでして」かかりつけの医者は、かすかな笑いを浮べながら、思いきって意見を述べた。
「いや、それはもちろんですとも」名医はまた時計をちらりと見て、答えた。「失礼ですが、ヤウススキー橋はもう竣工《しゅんこう》しましたか、それとも、まだ迂《う》回《かい》しなくちゃならんでしょうか?」彼はきいた。「ほう! 竣工しましたか。いや、それなら、二十分もあればいけるでしょう。さて、今話していたのは、栄養を維持して、神経を静めるにはどうすればいいか、でしたな。これは相互に関連していますから、円の両側に向って作用させていかなけりゃなりませんな」
「そうしますと、外国旅行の件は?」かかりつけの医者はたずねた。
「私は外国旅行の反対論者でしてな。いや、失礼ですが、もし結核の初期だとしても、われわれはそれを現実に知るわけにいかないんですから、外国旅行をしても、なんの役にも立ちゃしませんよ。なによりもまず栄養を維持して、しかも、害にならない方法を講ずることが必要ですな」
そこで、この名医は、ソーデン水による治療の方法を提案したが、その方法を指定したおもな目的は、どうやら、ソーデン水ならけっして害にならない、ということらしかった。
かかりつけの医者は、注意ぶかく、うやうやしく相手の話に耳を傾けていた。
「しかし、私は外国旅行の効果として、習慣の変化や、記憶を呼びおこす生活環境からの逃避などをあげたいのですが。それにじつは、こちらのご母堂もそれを希望されておりますので」彼はいった。
「なるほど! いや、そういうことなら、行ってもいいでしょう。ただ、あのドイツのいんちき医者どもがいじくりまわすだろうなあ……私の意見を守ってもらわなくちゃこまるけれど……まあ、そういうことなら、行ってもいいでしょう」
彼はまた時計をちらっと見た。
「や、もう時間だ」そういって、戸口のほうへ歩きだした。
名医は公爵夫人に向って(それは体裁上いったのだが)、もう一度病人を診察しなくては、といった。
「まあ! また診察ですって!」母親はぎくりとして叫んだ。
「いや、なに、細かいことを少したしかめるだけですよ、奥さん」
「では、どうぞ」
そこで、母親は医者を伴って、キチイのいる客間へはいった。キチイは、いましがた恥ずかしい思いをさせられたために、肉のおちた頬《ほお》をぱっと赤く上気させ、目に特殊な輝きをみせて、部屋のまん中に立っていた。医者がはいって行ったとき、キチイはぱっと赤くなり、その目は涙でいっぱいになった。キチイには、自分の病気騒ぎも、その治療も、なにもかもがじつにばかげた、いや、こっけいなことにさえ思われた。自分を治療することは、まるでこわれた花《か》瓶《びん》のかけらをくっつけるのと同様に、まったくこっけいなことに感じられた。あたしの心はうちひしがれてしまったのだ。それなのに、あの人たちは、錠剤や粉薬でなにをなおそうというのだろう? でも、お母さまを侮辱するようなことはできないわ。だって、お母さまは自分が悪かったと思っていらっしゃるんだから、なおさらだわ。
「お嬢さん、ちょっと、かけてみてくださいませんか」名医はいった。
彼は微笑を浮べながら、真向いに腰をおろすと、脈をとり、また退屈な質問をはじめた。キチイはそれに答えていたが、急に腹を立てて、立ちあがった。
「先生、失礼でございますけど、こんなことをして、なんの役に立つんですの。もう先ほどから三度も同じことをたずねていらっしゃって」
名医はべつに腹も立てなかった。
「病気でいらいらしているんですな」彼はキチイが出て行くと、公爵夫人にいった。「とにかく、私のほうはもうすみました……」
それから医者は公爵夫人を前にして、まるでとびぬけて聡明《そうめい》な婦人でも相手にしているように、学術的な言葉をつらねて、令嬢の病状を定義して聞かせ、その結論として、必要もない例のソーデン水の飲み方について弁じたてた。外国へ行ったものかどうか、という問いに対しては、さも困難な問題を解決する人のように、医者は深いもの思いに沈んだ。最後に、やっとその解答が発表された。すなわち、出かけてもいいが、いんちき医者を信用しないで、なにごとも自分に相談してもらいたい、というのであった。
この名医が帰ったあとは、まるでなにか、楽しいことでも起ったみたいであった。母親は娘のところへもどって来て、浮きうきしているし、キチイのほうも浮きうきしているようなふりをしていた。いまやキチイは、しょっちゅうというよりも、ほとんどいつも、なにか心にもないそぶりをしていなければならなかった。
「ママ、ほんとよ、あたし、なんでもなくてよ。でも、ママがいらっしゃりたいんだったら、ごいっしょにまいりましょう」キチイはいった。そして、目前に迫った旅行にさも興味があるようなふりをしながら、旅立ちの準備についてあれこれと話をはじめた。
医者の帰ったあとへ、ドリイがたずねて来た。ドリイはきょう立会い診察があることを知っていたので、先日やっと産褥《さんじょく》を離れたばかりなのに(冬の終りに女の子を生んだのである)、また、自分の悲しみや心配事を山とかかえていたのに、きょう決定されるはずであったキチイの運命を知るために、乳飲み子と病気の女の子を家に残して、やって来たのであった。
「ねえ、どうだったの?」ドリイは帽子もとらずに部屋の中へはいりながら、いった。「みんな、なんだか、浮かれてるわね。じゃきっと、よかったんでしょう?」
みんなは医者のいったことを、彼女に話して聞かそうと努めた。しかし、医者はすこぶる流暢《りゅうちょう》にながながと説明したにもかかわらず、今になってみると、彼の話を伝えることは、なんとしてもできなかった。ただ外国行きのきまったことだけが、みんなの興味をひいた。
ドリイは思わずほっと溜息《ためいき》をついた。いちばん親友である妹が行ってしまうのだ。それに、ドリイの生活は楽しいものではなかった。夫のオブロンスキーとのあいだも、和解後は屈辱的なものになってきた。アンナの試みたはんだ付けも案外もろいものだったので、家庭の和解はまた同じところでひびがはいった。べつに、取りたててどうということはなかったが、オブロンスキーはほとんどいつも家にいなかったし、お金もまたほとんどいつも足りなかった。さらに、夫の不実に対する疑いは、たえずドリイを苦しめたが、前になめた嫉妬《しっと》の苦しみを恐れて、今ではその疑いをはらいのけるようにしていた。もうすでに体験したような嫉妬の爆発は、二度と繰り返されようがなかったし、また夫の不実を見つけたにせよ、もう最初のときほどの衝撃を与えることはできなかったであろう。そんなことをあばいてみても、ただドリイから家庭的な習慣を奪うだけにすぎないので、彼女は夫を軽蔑し、また、なによりもそうした弱点をもつ自分自身をさげすみながら、甘んじて自分自身を欺いているのだった。さらにそのうえ、大家族に対する心くばりは、たえず彼女を苦しめるのだった。赤ん坊の授乳がうまくいかなかったり、乳母《うば》が暇をとったり、またきょうみたいに子供のひとりが病気になったり。
「どうなの、おまえのところは?」母はたずねた。
「それがね、ママ、うちでも困ることだらけなのよ。今もリリイが病気なんですけど、猩《しょう》紅熱《こうねつ》じゃないかと思って、びくびくしているの。こちらの様子が知りたくって、抜けだして来たんですけど、万一そんなことがあったらたいへんですけど、猩紅熱だったら、ずっと家に閉じこもっていなければなりませんわ」
老公爵は、医者が帰ると、これまた書斎から出て来て、ドリイに頬《ほお》を接吻《せっぷん》させ、二言《ふたこと》三《み》言《こと》話をしてから、妻のほうを振り返った。
「どうなったね、行くかね? ところで、わしのほうはどうしてくれるのかね?」
「あなたには残っていただかなくっちゃ」妻はいった。
「どちらでもいいさ」
「ママ、どうしてパパはいっしょにいらっしゃらないの」キチイが口をはさんだ。「そのほうがパパも、あたしたちも楽しいじゃありませんか」
老公爵は立ちあがって、キチイの頭をなでた。彼女は顔を上げ、わざとにっこり笑いながら、父を見上げた。キチイはいつも、父はほとんど自分のことを話さないけれど、家じゅうのだれよりもいちばん自分の気持をわかってくれているような気がしていた。末っ子のキチイは、父親のお気に入りだった。だから、キチイには自分に対する愛情が、父に洞《どう》察力《さつりょく》を与えているように思われた。だから今も彼女の視線が、じっと自分を見つめる父の人の良さそうな、空色の目と出会ったとき、父は自分を心の奥底まで見透かして、そこにうごめいている良からぬものを、すっかり見抜いているような気がした。キチイは頬を赤らめながら、父の接吻を予期して、そのほうへ身をかがめたが、父はただ娘の髪を軽くたたいただけで、こういった。
「なんで、こんなばかげた入れ毛をするんだ! これじゃ、本物の娘にはさわらんで、死んだ女の髪をなでるだけじゃないか。ときに、どうだね、ドーリンカ」彼は彼女のほうへ振り向いた。「おまえのところの美丈夫は、元気かな?」
「おかげさまで、パパ」ドリイは夫のことをいわれているのだと悟って、こう答えた。「ただ、いつも出かけてばかりいますので、ろくすっぽ顔を合わすこともありませんけど」彼女はみずからあざけるような笑いを浮べて、こうつけ足さずにはいられなかった。
「それじゃ、まだ森を売りに領地へ出かけないんだな」
「ええ、しょっちゅう用意だけはしてるんですけど」
「なるほどな!」公爵はいった。「じゃ、わしも出かけることにするか? や、よくわかった」彼は腰をおろしながら、そう妻に向っていった。「ところでいいかね、キチイ」末娘のほうへ向いて、いい添えた。「いつか、朝ふと、目をさましたら、自分で自分にこういってきかせるのだよ、あたしはすっかり丈夫になって、気分も浮きうきしてるから、パパといっしょに凍った土の上を散歩して来ようって。いいね?」
父親のいったことは、一見、きわめて単純なことのように思われた。しかし、キチイはその言葉を聞くと同時に、証拠をつかまれた犯人のようにどぎまぎして、途方にくれてしまった。
《やっぱり、パパはなにもかも知ってらっしゃるんだわ、なにもかもわかってらっしゃるんだわ。あんなことをおっしゃったのは、つまり、いくら恥ずかしくても、その恥ずかしさを忍ばなければいけないってことなんだわ》しかし、キチイはそれに対してなにか返事をする勇気はなかった。口を開きかけたが、そのとたんに、わっと泣きくずれて、部屋から飛びだしてしまった。
「ほら、またつまらない冗談を!」公爵夫人は夫に食ってかかった。「あなたはいつだって……」
夫人はお得意のぐちをこぼしはじめた。
公爵はかなり長いこと妻のお説教を黙って聞いていたが、その顔はしだいに暗くなっていった。
「あの子はそうでなくたって、かわいそうで、気の毒で、見る目も痛ましいくらいですのに、あなたときたら、その原因になったことをちょっとでもほのめかされるのが、あの子にとってどんなにつらいことか、察してもやらないんですからね! ほんとに、人がらを見そこなったわ!」公爵夫人はそういったが、その語調の変化から、ドリイも、公爵も、夫人がヴロンスキーのことをいっているのだとわかった。「なぜあんなけがらわしい、卑劣な人間を罰する法律がないんでしょうね」
「いや、そんなことは聞きたくないね」公爵は顔をくもらせて、肘掛けいすから立ちあがって、出て行きそうにしながら、暗い顔でいったが、ふと、戸口のところで立ち止った。「なに、法律はあるのさ、ただおまえさんが話を持ちだしたんだから、いうがね、この件について悪いのは、おまえさんだよ、ああ、おまえさんだとも、ただおまえさんだよ。あんな若造を罰する法律はいつでもあったし、今でもちゃんとあるさ! そうとも、こっちになにもまちがったことがなかったのなら、この老人のわしでも、あのにやけた野郎に決闘を申し込むとこだったよ。そうとも。だが今となっちゃ、あんないんちき医者でも連れて来て、治療するしかないのさ」
公爵にはまだいくらでも言い分がありそうだった。しかし、夫人は相手の語調を聞くと、いつも重大な問題になるとよくやるように、急におだやかになって、後悔の色をみせた。
「Alexandre, Alexandre 」夫人は夫の名前をフランス語風に発音して、夫にすり寄ってささやくと、わっと泣きだした。
夫人が泣きだすと、公爵もすぐ静かになって、妻のそばへ歩み寄った。
「さ、もうたくさんだ、たくさんだよ! おまえだって苦しいだろう、わかっとるよ。でも、しかたがない! まあ、たいしたことじゃないさ! 神さまはお慈悲ぶかいからな……ありがたいことだ……」公爵は自分でもなにをいってるのかわからず、ただ自分の手に感じた、妻の涙にぬれた接吻にこたえながら、いった。やがて、公爵は部屋を出て行った。
もうキチイが涙をためて部屋から出て行ったときから、ドリイは家庭の母親としての経験から、この際、女のしなければならぬ仕事があると見てとって、それをしようと覚悟をきめた。まず帽子を脱ぎ、両袖《そで》をまくりあげんばかりの意気ごみで、次の行動の心がまえをした。母親が父に食ってかかっているあいだは、娘としての礼儀の許す範囲で、母親をおさえようとしたし、父がかんしゃくを破裂させたときは、母親に対して差恥の念を感じたし、公爵がすぐ優しい気持に返ったときは、父に対する愛情を覚えたが、父が出て行ってしまうと、この際いちばん大切なことをしようと、つまり、キチイの部屋へ行って、その気持をしずめさせようと決心した。
「ねえ、ママ、じつは前からお話ししたいと思ってたんですけど、リョーヴィンさんがキチイに結婚の申し込みをされようとしたのご存じ? あの人がこのあいだモスクワへいらしたときのことだけど。あの人がそうスチーヴァに話したんですって」
「それがどうしたの? あたしにはなんのことだかわからないけど……」
「それでね、ひょっとすると、キチイはそれをお断わりしたんじゃないかしら?……そんなお話、ママにしませんでした?」
「いいえ、なんにも。あの子ときたら、それこそなにひとついってくれないんでね。すこし気位が高すぎるのね。でも、あたしにはわかってるの、なにもかもあのことがもとで……」
「ええ、だからママも考えてみてよ、もしあの子が、リョーヴィンさんをお断わりしたとすれば……だって、あの人さえいなかったら、リョーヴィンさんをお断わりするわけがないんですもの、そりゃそうよ……それをあとになって、あの人ったら、あんなひどいだまし方をするんですもの」
公爵夫人は、自分が娘に対してどれほどすまないことをしているか、考えてみるのも恐ろしかったので、ついに腹を立ててしまった。
「ああ、あたしにはもうなにがなんだかわからないわ! 近ごろの若い人は、自分の考えだけでやっていこうとして、母親には、なにもいわないんだからねえ。それでいて、あとになればこんなことに……」
「ママ、あたし、あの子のところへ行ってきますわ」
「行っておいで。なにも止めてなんかいないじゃないか」
母親はいった。
vieux saxe の陶器人形などを飾った、キチイのかわいらしい、ばら色の小部屋は、ついふた月まえのキチイその人のように、若々しく、明るいばら色に輝いていた。ドリイは今そこへはいって行きながら、去年妹とふたりで、あんなに楽しく、深い愛情をこめてこの部屋を飾ったことを思い起した。が、ドアのすぐそばの低いいすにすわって、じゅうたんの一隅《いちぐう》にじっと動かぬ目をそそいでいるキチイを見たとき、ドリイは思わず心臓の凍る思いをした。キチイはちらっと姉を見たが、その冷やかな、いくぶんきびしい顔の表情は変らなかった。
「これから帰るとこだけど、あたしもう、当分外へ出られないし、あなたも来るわけにいかなくなるから」ドリイは妹のそばにすわりながらいった。「ちょっと、あなたとお話ししたいことがあるの」
「なんのお話?」キチイははっとして顔を上げ、すばやくたずねた。
「なんのお話って、あなたの悲しみのことにきまってるじゃないの」
「そんな悲しみなんてないわ」
「よしてよ、キチイ。あたしが知らないとでも思ってるの。なんだって知ってますよ。さ、あたしのいうことを信じてね、こんなことって、まったくたいしたことじゃないんだから……だれだってみんなそれを経験してきたんですもの」
キチイは黙りこくっていたが、その顔はきびしい表情をおびてきた。
「あんな人、あなたがそんなに苦しむほどの値打ちなんかなくてよ」ドリイはいきなり肝心な点にふれながら、言葉をつづけた。
「ええ、そりゃあの人はあたしを軽蔑《けいべつ》したんですもの」キチイはひびのはいったような声でいった。「そんなこと、もういわないで!お願いだから、いわないで!」
「まあ、だれがそんなことをいって? だれもそんなことはいいませんよ。いいえ、あの人はあなたに夢中だったし、今でもやっぱり夢中でしょうけど、ただね……」
「まあ、そんな同情の言葉なんて、聞くだけでもぞっとするわ!」キチイは急に腹を立てて叫んだ。キチイはいすの上でくるりと身をかわし、まっ赤になって、せかせかと指を動かしながら、手にしていたバンドの尾錠を、両手でかわるがわる握りしめた。ドリイは、妹が興奮すると、両手でかわるがわる物を握る癖があるのを、知っていた。また、やたらによけいな不愉快なことをしゃべりだすことも知っていた。そこで、ドリイは妹をしずめようとした。しかし、それはもう手おくれだった。
「いったい、なにを、なにをあたしに思い知らせようとしてるの、え?」キチイは早口にいった。「あたしに目もくれない人のことを思って、あたしが恋の病で死にかかっているっていうの? そんなことをお姉さんがいうなんて。そのくせ……ご自分では、あたしに同情してらっしゃるおつもりなんでしょ!……そんな同情や、もっともらしい見せかけなんか、まっぴらごめんですわ!」
「キチイ、あなたは思いちがいしてるのよ」
「なんだってそうあたしを苦しめるの?」
「まあ、なにをいうの……あんまりあなたが苦しそうなので……」
しかし、もうかっとなってしまったキチイは、相手のいうことに耳をかさなかった。
「あたし、べつに苦しんでもいないし、慰められることもないわ。あたしって、とても気位の高い女ですから、こちらを愛してもくれない人を恋するなんて、絶対に、しないわ」
「ええ、だから、そんなことをいってるんじゃないの……ただね、あたしにほんとのことを、いってちょうだい」ドリイは妹の手を取っていった。「ね、お願い、リョーヴィンさんはあなたに結婚の申し込みをなさったの?……」
リョーヴィンのことをいわれて、ついにキチイも最後の自制心を失ったらしかった。いきなりいすから立ちあがると、尾錠を床へたたきつけ、両手でなにか激しい身ぶりをしながら、まくしたてた。
「いったい、なんだって、リョーヴィンさんのことまで持ちだすの? なぜそんなにお姉さんはあたしを苦しめたいの、え? あたし、さっきいったことを、もう一度かさねていいますけど、あたしって、とても気位の高い女ですから、お姉さんのなさるようなまねは絶対、絶対《・・》いたしませんからね。自分を裏切ってほかの女を愛した男のところなんかに、帰って行くなんてまねは! そんなこと、あたしには理解ができないわ、ええ、理解できないわ! お姉さんにはできても、あたしにはできないのよ!」
やがて、これだけのことをいってしまうと、キチイはちらと姉のほうを見た。が、ドリイが浮かぬ顔で頭をたれ、じっと黙りこくっているのを見ると、キチイは急に部屋から出て行くのをやめ、ドアのそばに腰をおろし、ハンカチで顔をおおって、うなだれてしまった。
この沈黙は二分ばかりつづいた。ドリイは自分のことを考えていた。いつも感じていた自分の卑屈さが、妹に指摘されて、今までになく痛感された。妹がこれほど残酷な仕打ちをしようとは思いもよらなかったので、ドリイも妹に腹を立てた。しかしその瞬間、衣《きぬ》ずれの音とともに、とつぜん、堰《せき》を切って出たのをやっとおし殺したような号泣の声が聞え、だれかの手が下のほうからドリイの首に抱きついた。キチイが姉の前にひざまずいているのだった。
「ドーリンカ、あたし、とても、とても、ふしあわせなのよ!」キチイはすまなそうにささやいた。
そして、涙にぬれたかれんな顔が、ドリイのスカートの中にかくれた。
さながらこの涙は、ふたりの姉妹の心を通わせる機械の回転に、なくてはならない油のようなものであった。ふたりは泣いたあと、もういいたいと思うこととは別のことを話しはじめた。しかし、ほかのことを話しながらも、ふたりはお互いに理解しあっていた。キチイは、自分が腹立ちまぎれにいった夫の不実とそれに対する姉の卑屈さ云々《うんぬん》のひと言が、あわれな姉を胸の底まで傷つけたものの、姉は今それを許してくれたのだと悟った。ドリイはまたドリイで、自分の知りたいと思ったことを、すっかり悟った。ドリイは自分の推測がまちがっていなかったことを確信した。つまり、キチイの悲しみ、その癒《いや》すことのできない悲しみは、リョーヴィンの求婚を拒絶し、しかもヴロンスキーには欺かれ、今ではリョーヴィンを愛して、ヴロンスキーを憎む気持になっていることにあったのだ。キチイもそのことについては、ひと言もいわなかった。ただ自分の心の状態を話しただけだった。
「あたし、悲しいことなんか、ちっともないのよ」キチイは気持が落ち着いてから、いった。「でもお姉さんにはとてもわかりっこないでしょうけど、あたし、なにもかもけがらわしく、いやらしく、あさましく思われてきたの、それもこのあたしがいちばん。あたしがなにもかも、すぐけがらわしいことに結びつけて考えるってこと、お姉さんなんかにはとても想像がつかなくてよ」
「まあ、いったい、どんなけがらわしいことを考えるの?」ドリイは、微笑を浮べながらきいた。
「とっても、とってもけがらわしい、あさましいことよ。とてもお姉さんにはいえないわ。憂鬱《ゆううつ》とか退屈なんてものじゃなくて、もっと、ずっといけないものなのよ。なんだか、あたしの持っているいいものが、すっかりどこかへ隠れてしまって、いちばんいやらしいものばかりが残ってしまったみたいなの。さあ、なんていったらいいかしらね?」キチイは姉の目の中にけげんそうな表情を見て、言葉をつづけた。「さっきもパパがあたしに話しかけられたでしょう……するとあたしって、もうパパはただあたしが結婚しなくちゃいけないと、ただそればかり考えていらっしゃるような気がしてくるの。ママが舞踏会へ連れてってくださると、あたし、すぐ思っちゃうの――ママがこうして連れて来てくださるのは、ただ少しも早くあたしをお嫁にやって、厄介払いをするためなんだって。それがまちがってるのは承知してるんだけど、そうした考えを払いのけることができないのよ。いわゆる花婿候補なんて、あたしとても見ていられないわ。だって、みんなあたしの寸法をとってるような気がするんですもの。前は、舞踏服を着てお出かけするのが、ただもうそれだけでうれしくて、自分で自分に見とれていたもんですけど、今はもう恥ずかしくって、居心地が悪いばかりなの。それで、どうだっていうの? あのお医者さまは……ねえ?……」
キチイはふと口ごもった。キチイはそれからさらに、例の一件が起きてから、もうオブロンスキーのことがいやでたまらず、なにか思いきりあさましく、醜いことを想像しなくては、彼を見ることができなくなったといいたかったのである。
「それで、あたしはなにもかも思いきりあさましい、けがらわしい姿で想像するようになったの」キチイはつづけた。「これがあたしの病気なのね。ひょっとしたら、それもなおるかもしれませんけど」
「そんなこと考えないほうがいいのよ……」
「でも、そうなってしまうのよ。ただ子供といっしょにいるときだけがいいの、お姉さんのところにいるときだけ」
「残念だわ、家へ来てもらえなくて」
「いいえ、行くわ。あたし、もう猩紅熱《しょうこうねつ》はしたんですもの、ママにお願いしてみるわ」
キチイは我を張って、姉のもとへ移った。それから、事実となった猩紅熱のあいだじゅう、子供たちの面倒を見てやった。ふたりの姉妹は、無事に六人の子供たちを守りとおしたが、キチイの健康は回復しなかった。そこで、大斎期のくるのを待って、シチェルバツキー一家は外国へ旅立って行った。
ペテルブルグの上流社会は、もともと、一体をなしていて、すべての人はお互いに知り合ってるばかりでなく、お互いに行き来しあっていた。しかし、この大きな組織にも、それぞれのグループがあった。アンナ・カレーニナは、三つの異なったグループに友だちがあって、一つは社会的な条件から見ると種々雑多な組合せで、いとも気まぐれに集散離合する夫の同僚や部下たちから成っていた。アンナは、はじめのころこれらの人びとに対して、ほとんど敬虔《けいけん》とさえいえるほどの尊敬の念をいだいていたが、今ではその気持を思いだすのすらむずかしいくらいであった。今アンナはこれらの人びとを、地方の小さな町の人びとがお互い同士知り合っているのと同様、だれかれの別なく知りぬいていた。だれはどういう癖で、どういう欠点を持っているか、だれのどちらの足の靴が窮屈か、といったようなことまでも承知しており、お互い同士の関係も、中央との関係も、まただれはだれを頼りにしているか、それはどんなふうに、なにを手段としているか、だれはだれとどういう点でつながったり、離れたりしているか、というようなことも心得ていた。しかし、この政治的な男の利害で結束したグループは、リジヤ伯爵夫人からいくら説いてまわられても、アンナの興味をひくことはできず、アンナのほうもそれを避けるようにしていた。
もう一つのアンナの親しくしていたグループは、夫のカレーニンが出世の踏み台にしたものであって、そのグループの中心にはリジヤ伯爵夫人がおさまっていた。それは年配の、器量の悪い、信心ぶかい、篤志家の婦人たちと、聡明《そうめい》な、学問のある、名誉心の強い男たちの集まりであった。このグループに属するある聡明な男性のひとりは、これを『ペテルブルグ社交界の良心』と名づけた。カレーニンはこのグループを大いに尊重していたので、すぐだれとでも仲よくやっていくことのできるアンナは、ペテルブルグ生活の初期には、このグループの中にも、幾人かの親友をもっていた。ところが、今度モスクワから帰ってみると、このグループがいやでたまらなくなってしまった。アンナは、自分もほかの人たちも、みんななにかポーズをつくっているような気がして、そういう連中の中にいると退屈で、居心地が悪くなるのであった。そのため、アンナはなるべくリジヤ伯爵夫人のところへ行かないようにしていた。
最後に、アンナの関係していた第三のグループは、本来の意味の社交界、つまり、舞踏会や晩餐会《ばんさんかい》や輝かしい衣装くらべの社交界であった。この社交界は売笑の世界まで堕落しないために、片手でしっかりと宮廷につかまっており、自分では売笑の世界を軽蔑《けいべつ》しているつもりでありながら、その実、彼らの趣味はそれと似ているどころか、まったく同じものであった。このグループとアンナとの関係は、トヴェルスコイ公爵夫人を通して結ばれていた。公爵夫人はアンナの従兄《いとこ》の細君で、年二十万ルーブルもの収入があり、アンナが社交界へ出たいちばんの初めから、アンナを気に入ってしまい、なにかとごきげんをとっては、自分のグループへ引っぱりこもうとしていた。リジヤ伯爵夫人のグループのことは薄笑いを浮べながら、
「あたしも年をとって、みっともなくなったら、お仲間入りさせてもらいますよ」ベッチイ・トヴェルスコイ公爵夫人はいった。「でもね、あなたみたいに若くて美しい方は、まだあんな養老院へはいるのは早すぎてよ」
アンナははじめのうちこそ、努めてこのトヴェルスコイ公爵夫人のグループを避けるようにしていたが、それは、このグループとの交際には身分不相応な金がかかったし、それにアンナ自身心の中では、どちらかといえば第一のグループを好んでいたからであった。ところが、モスクワからもどって来ると、それが反対になってしまった。アンナは、前の精神的な友人を避けるようになり、華やかな社交界へ出入りするようになった。アンナはよくヴロンスキーに出会い、出会うたびに胸がわくわくするような喜びを感じた。中でもいちばんよくヴロンスキーに出会うのは、ベッチイの家で、ベッチイはヴロンスキー家の出で、彼とは従兄妹《いとこ》にあたっていた。ヴロンスキーのほうも、アンナに会えそうなところなら、どこへでも出かけて行き、機会をとらえては、自分の愛を打ち明けるのだった。アンナはそれに対して、問題となるようなことはなにもしなかったけれど、彼と顔を合わすたびに、はじめて彼を汽車の中で見たあの日と同じように、生きいきした感情が心の中に燃えあがるのであった。アンナ自身も、彼を見ると、自分のひとみに喜びの色が輝き、唇が微笑にほころびるのを感じた。そして、アンナもこの喜びの表情を自分で消すことはできなかった。
初めのころはアンナも、自分が彼につけまわされるのを不満に思っていると、心から信じきっていた。ところが、モスクワから帰って間もなく、ヴロンスキーに会えると思って来た夜会で、彼の姿が見えなかったとき、アンナは、急にもの足りぬ気分にとらわれたところから、今まで自分で自分を欺いてきたことを悟った。彼につけまわされることは、アンナにとって不愉快でないばかりか、今のアンナの生活をささえる興味のすべてであった。
有名な歌姫が二回めに出るというので、上流社交界の全員が劇場に集まっていた。第一列めの自分の席から従妹《いとこ》を見かけたので、ヴロンスキーは幕間《まくあい》も待たずに、その桟敷《さじき》へはいって行った。
「あら、なぜお食事にいらっしゃらなかったの?」ベッチイは彼に話しかけた。「恋する人の敏感さにもあきれてしまうわ」公爵夫人は、相手にだけ聞えるような声でこうつけ足した。「あの方もこなかったのよ《・・・・・・・・・・・》。でもね、オペラがすんだらいらっしゃいよ」
ヴロンスキーはもの問いたげな表情でベッチイを見た。彼女は黙ってうなずいた。ヴロンスキーは微笑で感謝の気持を見せ、そのそばに腰をおろした。
「でも、ちょっとおもしろいわね、あなたがいつも口にしている皮肉を思いだすと!」ベッチイはこの種の情熱の成り行きを見守ることに、特別な興味をもっているので、そう言葉をつづけた。
「あの皮肉はいったいどこへ行ってしまったのかしら? ねえ、あなた、すっかりまいってしまったのね」
「ええ、ぼくは、そのまいってしまうことばかりを念願にしてるんですよ」持ち前の、落ち着いた、人の良さそうな微笑を浮べながら、ヴロンスキーは答えた。「いや、なにか不満があるとしたら、まいりかたが少し足りないってことだけですよ。じつは、希望を失いかけているんですよ」
「あら、じゃ、どんな希望をもつことがおできになりますの?」ベッチイは自分の親友のために侮辱を感じてこういった。「entendons nous……」もっとも、その目の中にちらちらしていた火花は、あなたがどんな希望をもつことができるか、わたしもあなたと同じくらい正確に、ちゃんと承知しています、と語っていた。
「まるっきりないんですよ」ヴロンスキーはきれいに並んだ歯を見せて、笑いながら答えた。「ちょっと、失礼」彼はそうつけ加えて、ベッチイの手からオペラ・グラスを取り、彼女のあらわな肩ごしに、反対側の桟敷を見まわしにかかった。「ぼくは自分がだんだんこっけいな人間になっていきやしないかと心配してるんですよ」
もっとも彼は、自分がベッチイをはじめ、社交界のすべての人びとから見て、もの笑いのたねになるような危険は冒していないことをよく承知していた。これらの人びとの目には、年ごろの娘とか、一般に自由な立場にある婦人に不運な恋をしている男の役まわりは、あるいは、こっけいに映るかもしれないが、人妻を追いまわして、なんとか不倫な関係に引き入れようと命がけになっている男の役まわりは、なにか、美しく偉大なところがあって、けっしてこっけいに見える気づかいのないことを、彼はよくわきまえていたからである。そのため、彼は口ひげの下に誇らかな楽しそうな微笑を見せながら、オペラ・グラスをおろして、従妹の顔をのぞきこんだ。
「ねえ、なぜ、お食事にいらっしゃらなかったの?」ベッチイは、彼に見とれながらきいた。
「ええ、それをお話ししなくちゃなりませんね。とにかく、忙しかったんですが、それがなんだと思います? これは百のうち九十九まで……いや、千のうち九百九十九まで、ちょっと想像がつかないでしょうね。じつは、ある夫と、その細君を侮辱した人間を仲直りさせていたんですから。いや、ほんとうですとも!」
「それで、どうなの? うまく仲直りはできたの?」
「まあ、だいたいね」
「そのお話はぜひ聞かせていただかなくちゃ」ベッチイは立ちあがりながらいった。「今度の幕間にいらっしてね」
「それがだめなんですよ、フランス劇場へ行かなくちゃならないんで」
「まあ、ニルソンを聞かないで?」ベッチイは、びっくりしたようにいったが、そのベッチイにしても、ニルソンをただのコーラス・ガールと区別していたわけではなかった。
「しかたがありませんね。向うで人に会わなくちゃならんので。やっぱり、その仲裁の一件でね」
「平和をもたらすものは幸いなり、その人は救われん、ですものね」ベッチイはだれかからなにか似たようなことを聞いたのを思いだして、こういった。「さあ、それじゃ、ここにすわって、今のお話を聞かせてくださいな」
そういって、ベッチイは再び腰をおろした。
「これはちょっとあけすけの感がありますがね、じつにおもしろい話なので、なんとしてもしゃベりたくてたまらないんですよ」ヴロンスキーは笑《え》みを含んだ目で相手をながめながら、こういった。「名前だけはいわないことにしますがね」
「でも、すぐ見当がつきましてよ、そのほうがかえってけっこうですけど」
「さて、いいですね、陽気な苦い男がふたり、馬車を走らせていたとしましょう……」
「もちろん、あなたの連隊の将校さんでしょう?」
「なにも将校とはいいませんよ、いや、ただちょっと飯を食って出かけたふたりの若者ですよ」
「一杯きげんのふたり、といったほうがよくってよ」
「かもしれませんね。ま、とにかく、すごく上きげんで、友だちのところへ晩餐《ばんさん》に行く途中だったのです。ところが、ふと見ると、すばらしい美人が辻馬車に乗って、ふたりを追い越しながら、しきりにあとを振り返って、うなずいたり、笑ったりしているんです。いや、すくなくとも連中にはそう思われたんですね。そこで、今度は全速力で追いかけたというわけですよ。ところが、びっくりしたことに、その美人は、連中がたずねようとしていた屋敷の車寄せに、馬車を止めるじゃありませんか。その美人はすぐ二階へ駆けあがって行きました。連中が見ることのできたのは、ただその短いヴェールの下からのぞく赤い唇と、小さな美しい足ばかりだったのです」
「どうやら、そう熱をいれて話してらっしゃるところを見ると、そのおふたりのうちひとりは――あなたご自身だったようね」
「え、なにか今おっしゃいましたか? さて、そのふたりの青年は、友だちの部屋へ通りました。そこで送別の宴がはられていたのです。たしかに、そこでは、したたか飲んだことでしょう。なにしろ、送別の宴というやつは、いつもそうですからね。ところで、宴会の最中に、ふたりはみんなをつかまえて、上に住んでいるのはだれかとたずねてみたのですが、だれひとり知らないんですよ。ただ主人の召使が、この上にはマドモアゼルが住んでいるのかというふたりの質問に答えて、そんなのは大勢いますよ、というんですね。晩餐のあと、ふたりの青年は主人の書斎へ行って、例の未知の婦人にあてた手紙を書きました。それは愛の告白みたいな、情熱あふれる手紙でしたが、連中は自分でそれを二階へ持って行ったんです、つまり、手紙では十分意をつくさないところを、よく説明するためにね」
「まあ、なんのために、そんなけがらわしいことをお話しなさるの? それで?」
「ベルを鳴らすと、女中が出て来たので、その手紙を渡して、自分たちはふたりとも恋いこがれて、今にもこのドアの前で死にそうだといったんですよ。女中は納得がいかずに押し問答をしていると、そこへ不意にソーセージみたいな頬《ほお》ひげをはやした紳士が、ゆでえびのようにまっ赤な顔をして現われ、この家には、自分の女房よりほかだれもおらんといって、青年たちを追い出してしまったんです」
「でも、なぜその人がソーセージみたいな頬ひげをしていたなんてご存じなの?」
「まあ、聞いてください。ぼくはきょうその連中の仲裁に行って来たんですから」
「それで、どうなりました?」
「いいですか、ここがいちばんおもしろいところなんですから。それは九等官と九等官夫人の幸福な夫婦だということがわかりました。その九等官氏が訴えて出たものですから、このぼくが仲裁役を買ってでたんですが、いや、その仲裁ぶりといったら!……誓っていいますが、ぼくに比べたら、タレイランでも問題になりませんよ」
「なにがそう骨が折れたの?」
「いや、まあ、聞いてくださいよ……われわれはまず型どおりに謝罪したんです。『私どもはどうしていいかわからずにいます。あの不幸な誤解をなにとぞお許しください……』とね……ソーセージをぶらさげた九等官も、だんだんに軟化していったんですが、しかし、向うもまた、自分の気持を表明したくなってきたんですよ。それはまあいいとして、そいつを表明する段になると、いきなり、恐ろしくのぼせあがって、乱暴なことをいいだしたものだから、ぼくも、再び自分の外交的手腕を発揮しなければならなくなったんです。『もちろん、この連中の行動がよくなかったのは私も認めますが、しかしどうか、誤解ということと、この連中がまだ若いってことを考慮していただきたい。しかも、連中はこのちょっと前に食事をしたばかりなんですから。ごらんのとおり、ふたりは心から後悔して、どうか自分たちの罪を許していただきたいといってるんですから』とね。九等官のほうもまた折れてきました。『いや、ごもっともですとも、伯爵。しかし、私の立場も察してください、自分の女房が、れっきとした婦人である、私の女房が、追いまわされたり、まったく無礼な目にあわされたんですからな、それもどこの馬の骨ともわからぬ若造の、やくざに……』ところが、なにしろ、その若造がその場にいるんですからね、こちらはまた双方をなだめなくちゃならない。例の外交的手腕を発揮しましてね。やっと、円満におさまろうとしたとたん、わが九等官氏はまたかっとなって、顔をまっ赤にし、例のソーセージを振りまわすものだから、ぼくはまたもや、微妙な外交戦術の限りをつくすというわけなんですよ」
「ああ、この話はぜひあなたにお聞かせしなければなりませんわ!」ベッチイは、そのときボックスへはいって来た婦人に話しかけた。「あたし、この人にすっかり笑わせられてしまいましたのよ」「それでは、bonne chance 」ベッチイは手に扇を持っていたが、そのあいていた指をヴロンスキーにさしだし、軽く肩を動かして、ずりあがった夜会服の肩を下げながら、そうつけ足した。それは、舞台のフットライトのほうへ歩み寄って、一同の見ている前でガス燈の光に照らしだされるとき、すっかり肩をあらわにしておくためであった。
ヴロンスキーはフランス劇場へ出かけて行った。事実、そこで連隊長に合わねばならなかったのである。この連隊長は、フランス劇場の芝居は一度も欠かしたことがない人物であった。ヴロンスキーはもう足かけ三日も、忙しい思いをしたり、同時に自分でもおもしろがっている例の仲裁の件について、連隊長と打合せをするためだった。この件には、親友のペトリツキーと、最近入隊したばかりの、友人として資格十分の好漢、若いケドロフ公爵が関係していたが、なによりも重大なのは、それが連隊の利害に関する問題だったことである。
ふたりともヴロンスキーの中隊に属していた。九等官の官吏ヴェンデンは連隊長のもとへ、自分の女房を侮辱した将校に対する苦情を訴えに来たのである。ヴェンデンの話によると、その若い細君は――まだ結婚して半年にしかならなかった――母親といっしょに教会へ行ったが、急に身重のために気分が悪くなり、もう立っていられなくなったので、おりから通りかかった辻馬車に乗って家路についた。ところが、あとから将校たちが追いかけて来たので、女房はびっくりしてしまい、気分はますます悪くなって、わが家の階段を駆けのぼった始末である。当のヴェンデンは役所から帰ってみると、ベルの音とだれやら人の声がするので、玄関へ顔を出した。すると、酔っぱらった将校が手紙を持って立っているので、すぐ外へ突き出してしまった。彼は改めて厳重に処罰してくれと訴えたのである。
「いや、きみがなんといってもだね」連隊長は、ヴロンスキーを自分のもとへ呼んで、いった。「ペトリツキーはもう手におえんね。一週間だって、事件を起さずにすんだためしがない。あの官吏も事件をこのままにはしないだろう、どこまでもやる気だよ」
ヴロンスキーは、この事件があまりかんばしくないことを見てとったが、決闘ざたにはなりっこないから、なんとかその九等官をなだめて、事件をもみ消すために、万全の策を講じなければならぬと考えた。連隊長がヴロンスキーを呼んだのは、当人が高潔で聡明な人間であり、しかもなによりも、連隊の名誉を重んずる人間であることを、承知していたからである。ふたりはいろいろ相談したあげく、ペトリツキーとケドロフが、ヴロンスキーといっしょに、その九等官のところへ謝罪に行くことをきめた。連隊長もヴロンスキーもともに、ヴロンスキーという名前と、侍従武官の徽章《きしょう》は、九等官をなだめるのに、大いに役立つだろうと心得ていた。そして、案の定、この二つの武器はある程度、効を奏した。しかし、仲裁の結果は、さきにヴロンスキーも話したとおり、まだあいまいなものであった。
フランス劇場へ着くと、ヴロンスキーは連隊長と連れだって、廊下へ行き、自分の成功とも失敗ともつかぬ行為を報告した。連隊長はいっさいの事情を考慮したうえ、この事件を未解決のまま放っておくことにきめた。しかし、そのあとでおもしろ半分に、会見の模様をヴロンスキーに根掘り葉掘りきき、いったんおさまった九等官が、ふと、事件のいきさつを思いだして、急にかっとなったことや、ヴロンスキーがついに、いいかげんな仲裁の言葉を述べながら、相手の鋒先《ほこさき》をかわし、ペトリツキーを前に押し出して、退却して来たことを聞くと、長いこと腹をかかえて笑った。
「こりゃ、みっともない話だが、まったく笑わせるね! いや、ケドロフにしても、まさかその先生と決闘するわけにゃいかんし! それじゃ、相手はかんかんになったってわけだね?」連隊長は笑いながらききかえした。「それにしても、今夜のクレールはすごいだろう? まさに奇蹟だよ!」新米のフランス女優のことをいった。「何度見ても、毎日新しい感じなんだからな。いや、こいつは、フランス人じゃなくちゃできんよ」
ベッチイ公爵夫人は最後の幕の終りを待たずに、劇場を出た。ボリシャーヤ・モルスカヤ街にある、夫人の宏壮《こうそう》な邸宅に、次から次へと馬車が乗りつけて来たとき、夫人は化粧室へはいって、その青ざめた面長な顔に白粉《おしろい》をはたき、それをさっとのばし、髪の形をなおして、大きいほうの客間へやっとお茶を出すように命じたところだった。客たちが広々とした車寄せにおり立つと、毎朝、通行人にお説教するために、ガラス戸の中で新聞を読んでいる太った玄関番が、その大きなドアを、音もなくあけて来客を通すのであった。
きれいに髪を整え、生きいきした顔つきの女主人が、一方の戸口から客間へはいるのと、客がもう一つの戸口からやって来るのと、ほとんど同時であった。その大きな客間はくすんだ壁にかこまれ、毛の柔らかいじゅうたんを敷きつめ、あかあかと照らされたテーブルには、純白のテーブル・クロース、銀のサモワール、透きとおるような陶器の茶器などが、たくさんのろうそくの光に照りはえていた。
女主人はサモワールの前にすわって、手袋を脱いだ。一同は、目立たぬように動く召使たちの手をかりて、いすを動かしながら、ふた組に別れて席についた――ひと組はサモワールの前の女主人のまわりに、もうひと組は客間の反対側の端にいる、黒い眉《まゆ》をはっきりかいて、黒いビロードの服に身をつつんだ美しい公使夫人をかこんで。どちらの組の話題も、初めは例によって、人びとのあいさつや、お茶をすすめる言葉などにさまたげられて、なんにしたらいいか迷ってでもいるように、なかなかきまらなかった。
「あれは女優として、とびぬけてすばらしいですね。ひと目で、カウルバッハを研究したことが、わかりますよ」公使夫人の組にいるひとりの外交官がいった。
「あの倒れ方にお気づきになりました?……」
「ねえ、お願いですから、ニルソンのお話はしないことにいたしましょうよ! その女優《ひと》については、もうなんにも新しいことはいえませんもの」赤ら顔に眉を剃《そ》りおとし、ブロンドの髪に入れ毛も使わず、古びた絹の服をまとっている太った婦人がいった。それは、態度がざっくばらんで、ぶしつけなので有名な、enfant terrible と呼ばれていた、ミャフキー公爵夫人だった。ミャフキー公爵夫人は、二つの組のまん中にすわっていたので、かわるがわる耳を傾けては、どちらの話にも口を入れていた。
「きょうは三人の方から、カウルバッハのことで、今と同じ文句を聞かされましたよ、まるで申し合せたみたいに。どうやら、その文句がひどくその方たちには気に入ったのね」
会話はこの皮肉のために中断されたので、また新しい話題を考えださなければならなかった。
「どうぞ、なにかおもしろい話をしてくださいな、ただ、毒のないのをね」英語で small talk といわれている気のきいた小話の名人である公使夫人が、同じく今なにを話したらいいかわからないでいる外交官に向って、いった。
「いや、それがとてもむずかしいんですよ、毒のある話にかぎっておもしろいっていいますからね」彼は微笑を浮べながらいった。「でも、まあ、やってみましょう。なにかテーマを出してください。なにごともテーマにかかっていますからね。テーマさえ出れば、それを料理していくのは、たいしてむずかしくありませんよ。私はよく思うんですが、前世紀の有名な話術家も、今では気のきいた話をするのに困るでしょうね。なにしろ、気のきいた話はみんな鼻についてしまいましたから……」
「その文句もとっくの昔にいい古されてしまいましたね……」公使夫人は笑いながら、相手をさえぎった。
会話は優しい調子ではじまったが、あまり優しすぎたために、またもやいきづまってしまった。そこで、ついに、けっして失敗のない確実な方法、つまり、毒舌に頼るよりほかしかたがなかった。
「ねえ、みなさん、トゥシュケーヴィチには、どこかルイ十五世に似たところがありますでしょう?」彼は、テーブルのそばに立っているブロンドの美青年をかえりみながら、いった。
「まあ、ほんと! あの方はこの客間と同じ趣味なのね。だから、よくここへいらっしゃるんでしょう」
この話は一同の支持を受けた。というのは、それがほかならぬこの客間で話題にできないこと、つまり、女主人とトゥシュケーヴィチとの関係を、暗にさしていたからであった。
一方、サモワールと女主人をとりかこんでの会話も、やはり同じように三つの問題――最近の社会的なニュースと、芝居と、知人のうわさのあいだを、しばらく行ったり来たりしていたが、ついに最後の手段たる毒舌に移って、やはりそこに落ち着いた。
「ねえ、お聞きになって、マリチーシチェヴァさんも――お嬢さんのほうじゃなくてお母さまのほうが、diable rose のお召し物をこしらえてらっしゃるんですって」
「まさか! でも、さぞすてきでございましょうね!」
「ほんとに、びっくりいたしましたわ。だってあんなに賢い方がねえ――それに、けっしてもののわからない方じゃありませんのにね――ご自分がどんなにこっけいに見えるかってこと、おわかりにならないんですかしら」
みんなはひとりびとり、不幸なマリチーシチェヴァを非難したり、笑ったりする種をもっていたので、会話は燃えさかったたき火のように、さも楽しそうに、ぱちぱちと音をたてんばかりであった。
ベッチイ公爵夫人の夫は、人の良い、肥大漢で、熱心な版画の収集家であったが、妻のところに客が来ていると聞いて、クラブへ行く前に客間へはいって来た。彼は柔らかいじゅうたんの上を足音をしのばせて、ミャフキー公爵夫人のそばへ近づいた。
「ニルソンはお気に召しましたか?」彼はたずねた。
「まあ、そんなに足音をしのばせて近づくなんて、こちらがびっくりするじゃありませんか!」夫人は答えた。「どうか、あたしにオペラの話なんか、しないでください、あなたはまるっきり音楽なんか、おわかりにならないんですもの。そんなことより、あたしはあなたのところまで程度を下げて、マジョリカ焼きや版画のお話をいたしますよ。ねえ、このあいだの市《いち》で、どんな掘出しをなさいまして?」
「なんなら、お見せしましょうか? でも、あなたは見る目がないから」
「いいえ、見せてくださいな。あたし、あの、ええと、なんといいましたっけ……あの銀行家に教えてもらいましたのよ……すばらしい版画をお持ちでいらっしゃいますのね。見せてくださいましたけど」
「それじゃ、シュツブルクさんのところへいらっしゃいましたの?」女主人が、サモワールのそばからたずねた。
「まいりましたのよ、ma ch俊e 。宅といっしょに晩餐に呼ばれましたの。ところが、その晩餐に使ったソースが千ルーブルもしたって、おっしゃるじゃありませんか」ミャフキー公爵夫人は、みんなが耳をすましているのを感じながら、そう大きな声でいった。「でも、それがとてもいやなソースなんですのよ、なんだか緑色をしてて。それで、今度はこちらでお呼びしなくちゃならないので、あたし、八十五コペイカでソースを作りましたの、みんなとても喜んでくださいましてね。あたしはとても千ルーブルのソースなんか作れませんからね」
「あの方はちょっと変っていらっしゃいますね!」女主人はいった。
「いや、たいしたもんですよ!」だれかがいった。
ミャフキー公爵夫人の話がもたらす効果は、いつも同じようなものであった。夫人がそうした効果をつくりだす秘《ひ》訣《けつ》は、今の場合と同様、あまりその場に適切なものではなかったが、なにか意味のある単純な話をするところにあった。夫人の住んでいる社会では、そうした言葉が、もっと機知をおびたしゃれと同じ働きをするのであった。ミャフキー公爵夫人は、なぜそんなふうになるのか、自分ではわからなかったけれども、そういう働きをすることだけは心得ていて、いつもそれを利用するのであった。
ミャフキー公爵夫人がおしゃベりをしているあいだ、みんなはその話に耳をかしていたので、公使夫人の話はとぎれてしまった。そこで、女主人は一座を一つにまとめようと思って、公使夫人に話しかけた。
「まあ、どうしてもお茶を召しあがりませんの? こちらのほうへお移りになりません?」
「いいえ、ほんとに、こちらでけっこうですの」公使夫人は笑顔で答えて、しかけた話をつづけた。
その話はとりわけ愉快なものだった。みんなはカレーニン夫妻をあれこれと非難していたのである。
「アンナはモスクワヘ行ってから、すっかり変ってしまいましたのよ。なんだかおかしなふうになって」アンナの女友だちがいった。
「その変ったいちばんのところは、アレクセイ・ヴロンスキーの影を連れてらしたことですわね」公使夫人が口をはさんだ。
「それがどうしまして? グリムには影のない男、影をなくした男なんておとぎ話がございますよ。それはなにかの罰でそうなったんですが、いったい、なんの罰なのやら、あたしにはどうしてもわかりませんでしたわ。でも、女の身として影がないってことは、きっと、いやなものでしょうね」
「そうね、でも、影をもった女は、たいてい、終りがよくありませんわ」アンナの女友だちはいった。
「まあ、そんなひどいことをおっしゃって」今の言葉を聞きつけて、ミャフキー公爵夫人はいった。「カレーニン夫人はりっぱなご婦人ですよ。あたし、ご主人は好きじゃないけど、あの方のほうは好き」
「まあ、なぜご主人のほうはお好きじゃないの? あんなごりっぱな方じゃございませんか」公使夫人はいった。
「宅の主人なども、ああいう政治家はヨーロッパにもそうざらにはいないって申しておりますわ」
「うちの人もそういってますけど、あたし、本気にしてません」ミャフキー公爵夫人は答えた。「あたしどもの主人がいろんなことをいわなかったら、あたしどもだってもっと、ものごとをありのままに見たでしょうにねえ。カレーニンなんか、あたしにいわせれば、ただのおばかさんですよ。ま、これは小さな声でいっておきますがね……ね、すると、なにもかもはっきりしてくるでしょう、え? 以前、あの人は賢い人物だといわれたときには、いくら一生懸命に捜しても、あの人の賢さがわからなくって、自分のほうがばかなのだと思いましたがね。でも今度、あの人はばかだ《・・・・・・・》とつぶやいてみたら、なにもかもじつにはっきりしてきましたの、ね、そうじゃございません?」
「まあ、きょうはひどくお口が悪いのね!」
「いいえ、ちっとも。だって、ほかに考えようがないんですもの。ふたりのうちどちらかがおばかさんなんですからね。ねえ、おわかりになるでしょう、まさか、自分のことをおばかさんといえないじゃありませんか」
「なんぴともおのが富には満足せざれども、おのが知恵には満足するものなり」外交官がフランスの詩句を口ずさんだ。
「そう、そう、それですよ」ミャフキー公爵夫人は、急いでそちらへ振り向いた。「でも、とにかく、あたしはアンナを、あなた方の手にはお渡ししませんよ。あれはじつにりっぱなかわいい人ですものね。みんながあの人に恋して、影のようにあとをつけまわすからといって、あの人になにができますの?」
「いいえ、だから、あたくしも、あの方を非難しようなんて、思ってはおりませんわ」アンナの女友だちは弁解した。
「自分たちのあとから、だれも影のようについて歩かないからって、なにも、あたしたちが人を非難する権利をもってる証拠にはなりませんからね」
そういって、アンナの女友だちをたしなめてから、ミャフキー公爵夫人は立ちあがり、公使夫人といっしょに別のテーブルへ行った。そこでは、みんながプロシャ王の話をしていた。
「毒舌をおふるいになってたのはなんのお話?」ベッチイがたずねた。
「カレーニン夫妻のことよ。公爵夫人がカレーニンさんの性格解剖をなさいましてね」公使夫人は微笑を浮べて、テーブルに腰をおろしながら答えた。
「拝聴できなくて残念でしたわ」女主人は、入口のドアをじっと見ながらいった。「あら、やっといらしたのね!」はいって来たヴロンスキーに笑顔でそう声をかけた。
ヴロンスキーは、一同と知合いだったばかりでなく、毎回のようにそこに居あわす人びとに会っていたので、たった今出て行ったばかりの部屋へもどって来たような、すっかり落ち着きはらった態度ではいって来た。
「どこから来たかですって?」彼は公使夫人の問いに答えて、いった。「いや、いたしかたありません、白状しますが、じつは、喜劇《ブツ》座《フ》からなんですよ。たしか、もう百ぺんも見たんですが、いつも新しい満足を覚えますね。すばらしいことですよ! そりゃ、恥ずかしいことだってことは承知してますがね。オペラじゃ居眠りしますが、喜劇となると、最後の一分まで、じっとすわっていられますからね、しかも愉快にね。きょうは……」
彼はフランスの女優の名前をいって、なにかそれについて話そうとしたが、公使夫人はわざとふざけて恐怖の色を浮べると、さえぎった。
「ね、お願いですから、そんな恐ろしいことをお話しにならないで」
「じゃ、やめましょう。それに、もうみなさん、その恐ろしいことをご存じなんですからね」
「あれがオペラと同じように、あたしどもの見られるものになっていたら、さぞみなさん押しかけて行くでしょうよ」ミャフキー公爵夫人が引き取った。
入口のドアのところに人の足音が聞えた。ベッチイ公爵夫人は、それがカレーニナだとわかったので、ちらとヴロンスキーのほうを見た。彼は戸口をながめたが、その顔はついぞ見かけぬ奇妙な表情を浮べていた。彼はさもうれしそうに、目をこらして、そのくせ臆病そうに、はいって来る彼女を見つめながら、ゆっくりと腰を上げた。客間へアンナがはいって来た。例によって、ぐっと背筋をのばし、ほかの社交界の婦人たちとは違う、しっかりした軽い速足で、そのまなざしをそらさずに、まっすぐ女主人と自分を隔てている数歩の距離を歩くと、ベッチイの手を握り、にっこり笑って、笑顔のまま、ヴロンスキーのほうを振り向いた。ヴロンスキーは低くおじぎをして、アンナのためにいすを押した。
アンナは、ちょっと頭を下げただけでうなずき、頬を赤らめ、眉《まゆ》をひそめた。が、すぐに知人たちに会釈し、さしだされた手を握りながら、女主人に話しかけた。
「今リジヤ伯爵夫人のとこへ行ってまいりましたの。もっと早く伺うつもりでしたけれど、ついあちらが長くなってしまって。ジョン卿《きょう》がお見えになっていらっしゃいましたよ。とてもおもしろい方ですのね」
「ああ、あの宣教師ですね?」
「ええ、インド生活のお話をとてもおもしろくなさいましたわ」
アンナが来たのでいったんとぎれた会話が、あおりを食ったランプの灯のように、またゆらゆらと燃えあがった。
「ジョン卿ですって! まあ、ジョン卿ですの。お会いしましたわ。とてもお話がおじょうずでね。ヴラーシエヴァさんは、あの方にすっかり夢中になっておしまいになりましたわ」
「ときに、ヴラーシエヴァさんの下のお嬢さんが、トポフさんと結婚なさるって、ほんとうですの?」
「ええ、あれはもうすっかりきまった、といわれておりますよ」
「ご両親の気が知れませんわ。だって、恋愛結婚だそうじゃありませんの」
「恋愛結婚ですって? まあ、なんて旧式な考えをもってらっしゃるのでしょう! いまどき恋愛なんてことをいう人がございまして?」公使夫人がいった。
「しかたがありませんね。このばかげた古めかしい流行は、いまもってすたれないんですから」ヴロンスキーはいった。
「そんならなおさら、あんな流行を守っている人はお気の毒ね。だいたい、しあわせな結婚って、理性によって結ばれたものばかりじゃないかしら」
「ええ、でもそのかわり理性による結婚の幸福も、よく一瞬にして吹っとんでしまうじゃありませんか。以前には認めなかった恋というやつが頭をもちあげて」ヴロンスキーはいった。
「ですけど、理性による結婚っていうのは、もう両方とも遊びつかれたあとの結婚なんですのよ。それは猩紅熱《しょうこうねつ》みたいなもので、だれでも一度はそこを通らなくちゃなりませんわ」
「とすると、恋愛も種痘《しゅとう》と同じに、人工的に植えつける必要がありますな」
「若いころ、あたし、寺男に夢中になったことがありますけど」ミャフキー公爵夫人が口をはさんだ。「それがためになったかどうか知りませんねえ」
「でも冗談はぬきにして、恋を知るには、やはり、一度はまちがいを犯して、悔い改めるにかぎりますわ」ベッチイ公爵夫人がいった。
「まあ、結婚したあとでも?」公使夫人がふざけた調子できいた。
「悔い改めるには、遅すぎることはありませんからね」外交官はイギリスのことわざを引用した。
「ええ、そのとおりですよ」ベッチイはその言葉を受けていった。「いったん、まちがいを犯してから、悔い改めなくちゃ。ねえ、この点どうお思いになりまして?」ベッチイはアンナのほうへ振り向いていった。アンナは、こわばった微笑をかすかに浮べて、この会話を聞いていた。
「そうね」アンナは、脱いだ手袋をおもちゃにしながら答えた。「そうね……もし頭の数だけ人の考えも違うというんでしたら、人の心の数だけ、愛情の種類も違うのじゃないかしら」
ヴロンスキーはアンナを見つめて、相手のいうことを、胸のしびれるような思いで待っていた。アンナがこれだけのことをいってしまうと、彼はまるで危険の過ぎたあとのように、ほっと溜息《ためいき》をついた。
アンナはふと、彼のほうへ振り向いた。
「あたくし、モスクワから手紙を受け取りましたが、キチイの容態《ようだい》が、とても悪いそうでございますよ」
「ほんとですか?」ヴロンスキーは眉をひそめていった。
アンナはきびしく彼を見すえた。
「こんなお話、興味ございません?」
「いや、とても。いったい、どんなふうに書いてあったんです、もしおさしつかえなかったら」彼はたずねた。
アンナは立ちあがって、ベッチイのそばへ行った。
「お茶を一杯いただけません?」アンナは相手のいすのうしろに立ち止りながら、いった。ベッチイ公爵夫人がお茶を注いでいるあいだに、ヴロンスキーはアンナに近づいた。
「いったい、どんなふうに書いてあったんです?」彼はそう繰り返した。
「あたくし、よく思うんですけど、男の方って、卑劣ということがなんだかおわかりにならないくせに、よくそれを口になさいますのね」アンナは、彼の問いには答えないでいった。「前から、あたくし、あなたに申しあげたいことがありましたの」アンナはそうつけ加え、五、六歩歩いてから、アルバムをのせたすみのテーブルのそばに腰をおろした。
「ぼくにはお言葉の意味がはっきりわからないんですが」ヴロンスキーはアンナにお茶をさしだしながら、いった。
アンナがそばの長いすをちらと見たので、彼もすぐそれに腰をおろした。
「ええ、あたくし、前から、あなたに申しあげたいことがありましたの」アンナは相手を見ないでいった。「あなたのなすったことは、いけないことですわ、とてもいけないことですわ」
「それをぼくが自分で知らないとでも思っていらっしゃるんですか? でも、ぼくがあんなふうにふるまったのは、だれのためでしょう?」
「まあ、なぜそんなことをこのあたしにおっしゃるんですの?」アンナはきっと相手を見すえながら、いった。
「そのわけはご存じのはずですがね」ヴロンスキーはアンナの視線をじっと受け止め、それから目を放さず、思いきって、うれしそうにそう答えた。
どぎまぎしたのは、彼でなくて彼女のほうだった。
「それはただ、あなたに心ってものがないことを証明するだけですわ」アンナはいった。ところが、そのひとみはかえって、あなたに心があることは知っています、それだからこそあなたを恐れているのです、と語っていた。
「今おっしゃったことは、ただの過《あやま》ちであって、恋じゃありませんよ」
「今口にされた、忌わしい言葉はもう使わないよう、あたくし口止めしたのを、覚えていらっしゃいます?」アンナは身を震わせていった。ところが、それと同時に、このが口止《・・》め《・》というひと言で、彼に対する一種の権利を自認したことになり、そのためにかえってアンナは、彼に恋を語ることをけしかけたように自分で直感した。「これは前々から、あなたに申しあげようと思ってたことなんですの」アンナは思いきって相手の目をみつめ、まっ赤になった頬を火のようにほてらせながら、言葉をつづけた。「きょうはあなたにお会いできると思って、わざわざこちらへまいりましたの。それは、もうこんなことはおしまいにしなければならないってことを、申しあげるためですわ。あたくし、今まで、人の前で顔を赤くしたことなんかございませんのに、あなたとごいっしょだと、なにかしら自分が悪いことをしているような気になってくるんですもの」
ヴロンスキーはアンナをながめながら、その顔に表われた新しい精神的な美しさに打たれた。
「じゃ、ぼくにどうしろとおっしゃるんです?」彼は率直に、しかも、まじめな調子でたずねた。
「モスクワへ行って、キチイにあやまっていただきたいのです」アンナはいった。
「そんなこと、あなたは望んでいらっしゃいませんよ」彼は答えた。
ヴロンスキーは、アンナが自分のいいたいことでなく、むりしていわねばならぬことをいったにすぎない、と見てとったのである。
「もしおっしゃるように、ほんとにあたくしを愛してくださるのなら」アンナはささやいた。「どうぞ、あたくしの気持が安らかになるようにしてくださいまし」
彼の顔はさっと輝いた。
「ぼくにとってあなたが生活のすべてだということを、まさか、ご存じないわけはないでしょう。だいたい、安らぎだなんて、ぼくは知りませんし、さしあげるわけにもいきませんよ。でも、ぼくの全部、ぼくの愛なら、喜んで。もうぼくはあなたと自分を、別々に考えることはできないんです。ぼくにとって、あなたとぼくは一つのものなんですから。もうこれから先、あなたにもぼくにも、安らぎなんてありうるとは思いませんね。ただ考えられるのは、絶望か不幸か……さもなければ、幸福ということですが、その幸福といっても……いや、いったい、そんなことはありえないことなんでしょうか?」彼は唇の先だけでつぶやいたが、それもアンナの耳にはいった。
アンナは一心に理性の力を緊張させて、いわねばならぬことをいおうとしたが、かえって、愛情に満ちたまなざしをじっと相手にそそいで、なにひとつ答えられなかった。
《ああ、これだ!》彼は有頂天になって考えた。《もう絶望だ、これではとてもものになりそうもないと、思ったとたん――これだ!この人はぼくを愛している。自分でそれを白状しているんだ》
「じゃ、あたくしのために、これだけはお約束して。あんな言い方だけは、おっしゃらないってことを。仲のいいお友だちになりましょうね」アンナは言葉でそういったが、そのひとみはまるで別のことを語っていた。
「いや、友だちなんかになることはできませんよ、そんなこと、ご自分でもおわかりでしょう。この世の中でいちばん幸福な人間になるか、それとも、いちばん不幸な人間になるか、そのどちらもあなたしだいなんです」
アンナはなにかいおうとしたが、相手はそれをさえぎった。
「ぼくがお願いしているのは、たった一つのことだけじゃありませんか。今のように希望をかけながら、苦しむ権利をもちたいのです、でも、それさえだめだとしたら、消えてなくなれと命じてください。ぼくは消えてなくなりますよ。ぼくの存在があなたを苦しめるようでしたら、もう二度とあなたの前には現われませんよ」
「あたくし、どこへもあなたを追いやりたくありませんわ」
「ただ、なにも変えないでください。なにもかも現在のままにしておいてください」彼はふるえる声でいった。「あ、ご主人がお見えです」
実際、その瞬間、カレーニンが例の落ち着きはらった、不格好な足どりで、客間へはいって来た。
彼は妻とヴロンスキーのほうをちらと見て、女主人に近づいた。そして、茶碗《ちゃわん》を前に腰を落ち着けて、持ち前の悠然《ゆうぜん》とした、よくとおる声でしゃベりはじめたが、それは例のごとくだれかをからかうような、ふざけた調子だった。
「やあ、これはランブイエの勢ぞろいですな」彼は一座を見まわしながらいった。「美の神々に、芸術の神々ですか」
ところが、ベッチイ公爵夫人は今も相手のこうした、夫人にいわせれば sneering に我慢がならなかったので、すぐさま相手に、国民皆兵制度というまじめな話をしかけた。カレーニンはすぐこの話題に熱中して、この新しい法令をもう真剣に弁護しはじめた。ベッチイ公爵夫人はその反対派であった。
ヴロンスキーとアンナは、やはり小さなテーブルのそばにすわっていた。
「ああなると、すこしぶしつけになってきますね」ひとりの婦人は、アンナとヴロンスキーとアンナの夫を目でさしながら、ささやいた。
「ね、あたくしのいったとおりでございましょう」アンナの女友だちは答えた。
ところが、これらの婦人たちばかりでなく、客間にいたほとんどすべての人びとが、ミャフキー公爵夫人や当のベッチイまでが、一座から離れてすわっているふたりのほうを、まるで目ざわりだといわんばかりに、何度もじろじろと振り返ってながめた。ただカレーニンだけは一度もそちらを見ないで、いったんはじめた興味ある話題から、注意をそらさなかった。
ベッチイ公爵夫人はみんなが不愉快な気分を味わっているのに気づくと、自分のかわりにほかの人をカレーニンの聞き役にして、アンナのほうへ近づいた。
「ほんとに、お宅のご主人のお話ときたら、いつも明快で正確なのに驚いてしまいますわ」ベッチイはいった。「あの方がお話しになりますと、どんな高遠な思想でも、ちゃんとのみこめるんですものね」
「ええ、そうですのよ!」アンナは、幸福の微笑に顔を輝かせながら、ベッチイのいったことは、ひと言もわからぬまま、そう答えた。アンナは大きなテーブルのほうへ移って、一座の会話の仲間入りをした。
カレーニンは三十分ばかりいて、妻に近づき、いっしょに帰ろうといった。が、アンナは夫の顔を見ないで、あたしは夜食に残りますといった。カレーニンはみなに会釈して、出て行った。
アンナの御者の太った老タタール人は、ぴかぴか光る毛皮外套《がいとう》を着て、凍えきってあばれまわる灰色の左側のわき馬を、車寄せのところでかろうじておさえていた。召使は馬車のドアをあけて控えていた。玄関番は表のドアをおさえたまま、立っていた。アンナは小さいすばしこい手で、毛皮外套のホックにひっかかった袖口《そでぐち》のレースをはずしながら、うつむいたまま、自分を送って来るヴロンスキーの言葉に聞きほれていた。
「まあ、あなたがなにもおっしゃらなかったものとして、ぼくもなにひとつむりはいいませんから」彼はいった。「ただ、ご自分でもおわかりでしょうが、ぼくに必要なのは友情じゃありません。この世でぼくを幸福にするただ一つのものは、そう、あなたの大きらいなあのひと言……ええ、恋です……」
「恋……」アンナは口の中でゆっくりと、それを鸚《おう》鵡《む》返しにいった。が、不意に、レースをはずしながら、こうつけ足した。「あたしがこの言葉をきらいなのは、それが自分にあまりに深い意味をもっているからなんですの。ええ、あなたのお察しになれるよりずっと深い意味をね」そういって、彼女は相手の顔をちらっとながめた。「では、いずれまた!」
アンナは彼に手をさしのべると、はずみのついた速い足どりで、玄関番のそばを通りぬけ、馬車の中に、姿を消した。
彼女のまなざしとその手の感触は、ヴロンスキーを燃えたたせた。彼はアンナのさわった自分の掌《てのひら》の上に接吻《せっぷん》して、家路についたが、今晩は最近の二カ月間以上に、ずっと目的達成に近づいたと自覚して、幸福を感じていた。
カレーニンは、妻がヴロンスキーと別のテーブルにすわって、なにか熱心に話しているのを、とくに変ったこととも、ぶしつけなこととも思わなかった。ところが、客間に居あわせたほかの人たちの目には、それがなにかとくに変った、ぶしつけなことのように映ったのに気づいて、自分でもなにかとくに変った、ぶしつけなことのように思われてきた。彼は、そのことを妻にいわなければならぬと心にきめた。
カレーニンはわが家へ帰ると、いつものとおり書斎へはいって、肘《ひじ》掛《か》けいすに腰をおろし、ペーパー・ナイフをはさんでおいた法王論のページをあけて、いつものとおり一時まで読んだ。ただときどき、なにかをはらいのけようとするかのように、そのひいでた額をこすったり、頭を振ったりした。いつもの時刻に、立ちあがると、夜の身じまいを整えた。アンナはまだ帰って来なかった。彼は本をわきの下にかかえて、二階へあがった。しかし、今夜に限って、彼の頭の中は、いつもの役所の仕事に関する考えや配慮の代りに、妻のことや、妻の身に生じたなにかしら不愉快なことで、いっぱいになっていた。彼はいつもの習慣に反して、床にはいらないで、両手を背中に組み合せ、方々の部屋をあちこち歩きまわりはじめた。なによりもまず、新しい事態についてよく考えてみなければならないと思うと、とても寝る気にはなれなかった。
カレーニンは、妻とよく話し合ってみなければならないと、心の中できめたとき、そんなことはいともたやすい簡単なことのように思われた。ところが今、この新しい事態を、よく吟味してみると、それがひじょうにこみいった、むずかしいものであるような気がした。
カレーニンは嫉妬《しっと》ぶかいほうではなかった。嫉妬は、彼の確信によれば、妻を侮辱するものであり、妻に対しては信頼の念をもたねばならないとしていた。なぜ信頼の念をもたねばならぬか、つまり、なぜ彼の若い妻がつねに自分を愛しているという確信をもたねばならないか、ということについては、自分自身に問いただしてみたことはなかった。ただ、彼は妻に対して、不信の念をいだいたことがないから、したがって、信頼の念をいだいているのであり、自分自身に対しても、そうあらねばならないといいきかせていた。ところがいまや、嫉妬は恥ずべき感情であるから、信頼の念をもたねばならぬ、という確信はくずれさっていなかったにもかかわらず、彼はなにか非論理的なわけのわからぬものに直面して、自分がどうしたらいいのかわからないでいるのを感じた。カレーニンはほかならぬ人生に直面したのであった。いや、彼の妻が自分以外のだれかを愛するかもしれぬという事態に直面したのであった。これは彼にとってまったくわけのわからぬ不可解なものに思われた。なぜなら、それは人生そのものだったからである。カレーニンはこれまでの生涯を、生活の反映としかつながっていない官界でおくり、そこで働いてきた。そして、人生そのものにぶつかるたびに、それから身をかわすようにしてきた。しかし、今彼の感じた気持は、深淵《しんえん》にかかった橋の上を悠々《ゆうゆう》と渡っていた人が、不意に、その橋がこわれており、目の前に深淵を見いだしたときの気持に似ていた。その深淵は人生そのものであり、その橋はカレーニンの生きてきた人為的な人生であった。自分の妻がだれかを愛するかもしれぬという疑問がはじめて頭に浮んだので、彼はその思いに思わず身ぶるいしたのであった。
彼は着替えもせずに、一つのランプに照らされた食堂の嵌《はめ》木《き》床《ゆか》の上を、例の規則正しい足どりで、こつこつと音をたてて歩いたり、客間の柔らかいじゅうたんを踏みしめたりしていたが、長いすの上の、最近できた彼の大きな肖像画には、そこだけぼんやりと光が反射していた。彼はまた、アンナの肉親や女友だちの肖像画や、テーブルに飾ってある前からなじみぶかい品々が、二本のろうそくに照らされている妻の居間を通りぬけたり、そこから寝室の入口まで行って、また引き返したりした。
こうした散歩を繰り返すたびに、それもたいていは明るい食堂の嵌木床の上で立ち止りながら、彼は、こうひとり言をいうのだった。《そうだ、これはきっぱりやめさせるよう、この件に関する自分の見解と、決意を伝えなければならない》それから彼はあとへ引き返した。《しかし、いったい、なにを伝えるのだ? どんな決意を伝えるのだ?》彼は客間でそうつぶやいたが、答えは見いだされなかった。《それに、つまるところ》妻の居間へ曲る前に、彼は自問した。《いったい、なにごとが起ったというのか? なにもありゃしない。あれはあの男と長いこと話をしていた。だが、それがどうしたというのだ? 社交界の婦人が男の人と話をするのは、なにも珍しいことじゃない。それに、だいたい、嫉妬するなんて、自分の妻をも卑しめることじゃないか》彼は妻の居間へはいりながら、そうひとり言をいった。ところが、前はかなりの重みをもっていたこの判断も、今ではなんの重みも意味ももたなかった。そこで、彼は寝室の入口の前から、また玄関のほうへ引き返した。が、うす暗い客間へはいりかけたとたん、だれかの声が『それは違う、ほかの人たちがあれに気づいた以上、つまり、そこにはなにかがあるのだ』と、ささやいた。そこで彼はまたもや食堂の中でつぶやいた。《そうだ、これはきっぱりやめさせるよう、自分の見解を伝えなければならない……》それからまた、客間で向きを変える前に、いったい、どうきめたらいいのか、と自問した。それから、いったい、なにごとが起ったというのか、と自問し、なんにも起りゃしない、と答え、嫉妬は妻を卑しめる感情であることを思い起した。ところが、またもや客間で、たしかに、なにか起ったと確信するようになった。彼の思いはその肉体と同様、なにひとつ新しいものにぶつかることなしに、ぐるぐると円を描くのだった。彼もそれに気づいて、顔をなで、妻の居間に腰をおろした。
そこで、孔雀石《くじゃくせき》色の吸取紙ばさみや、書きかけの手紙をのせた妻のテーブルをながめているうちに、彼の思いは急にがらりと変った。彼は妻のことをあれこれ考え、妻がなにを考え、なにを感じているのかと考えはじめた。彼ははじめて、妻の私的な生活、妻の思想、妻の希望を、まざまざと思い浮べた。すると、妻にも自分自身の生活がありうる、いや、あるのが当然だという考えが、あまりにも恐ろしいもののように思われ、彼はあわててその考えを追いはらおうとした。それこそ、彼がのぞきこむのを恐れていたあの深淵であった。思想と感情によって他人の内部に立ち入ることは、カレーニンには縁遠い精神活動であった。彼はこの精神活動を有害かつ危険な妄想《もうそう》と見なしていたからである。
《いや、なによりも恐ろしいのは》彼は心の中で考えた。《もうおれの仕事が大詰めに来て(彼は、今通過させようとしている法案のことを考えていたのである)、心の安らぎと精力がとくに必要なこのときになって、こんな無意味な心配事が降りかかったことだ。しかし、いまさらどうしようもない。だって、おれは不安や心配事をじっと我慢して、まともにそれとぶつかっていく気力に欠けた人間とは違うからな》
「おれはとっくり考えて、決意をかため、くだらぬことははねとばしてしまわなけりゃならん」彼はそう声を出していった。
《あれの感情や、あれの心の中が、どういうふうになっているか、いや、どんなふうになる可能性があるか、といった問題は、あれの良心の問題であって、宗教の縄《なわ》張《ば》りなんだ》彼はそうつぶやいて、こんどの事態を担当する適当な部門が発見されたことに、思わず、ほっとする思いであった。
《さて、そこで》カレーニンはつぶやいた。《あれの感情その他の問題は、あれの良心の問題であるから、このおれにはなんの関係もありえないわけだ。ところで、おれの義務はもうわかりきっている。一家の長として、あれを指導すべき人間だから、おれも多少は責任のある人間だ。おれは目にふれる危険を指摘して、それを予防し、時には権力さえも使わねばならん。そうだ、あれになにもかもいってしまおう》
すると、カレーニンの頭の中には、これから妻にいおうとすることが、もうはっきりと組み立てられた。自分のいうベきことをあれこれ考えながらも、彼はこうした家庭的の事がらに、貴重な時間や能力を知らぬまに浪費しなければならないのを残念に思った。しかし、それにもかかわらず、彼の頭の中には、これからしようとする話の形式や順序が、まるで報告演説のように、明瞭《めいりょう》かつ正確に組み立てられていった。《おれは次のことをいわねばならん、きっぱりと伝えなけりゃならん。まず第一に、世間一般の考えと礼節の意義を説明することだ。第二に、結婚の意味を宗教的に説明することだ。第三に、場合によっては、むすこに不幸が起るかもしれぬ点を指摘することだ。第四に、あれ自身の不幸を指摘することだ》それからカレーニンは、両手の指を組み合せ、掌《たなごころ》を下に向けて、ぐっと上にそらした。と、指の関節がぽきぽきと鳴った。
このしぐさ、両手を組み合せて指をぽきぽき鳴らす、みっともないこの癖は、いつも彼を落ち着かせて、しっかりした気持にしてくれた。それは今の彼にとってなによりも必要なことであった。車寄せに馬車を乗りつける音が聞えた。カレーニンは広間のまん中で立ち止った。
階段をのぼる女の足音が聞えて来た。これからひと演説しようと身がまえたカレーニンは、組み合せた指をぐっと締め、まだどこか鳴らないかと心待ちしながら、突っ立っていた。一つの関節がぽきっと鳴った。
彼は、階段をのぼる軽い足音で、妻の近づいて来るのを感じた。そして、自分の演説には自信があったにもかかわらず、目前に控えた妻との話合いが恐ろしくなってきた。
アンナはうつむいて、外套《がいとう》の頭巾《フード》の紐《ひも》をいじりながら、はいって来た。その顔は明るい光輝に照り映《は》えていた。もっともその光輝は晴れやかなものではなく、闇《やみ》夜《よ》に燃える恐ろしい火事の炎を思わせた。夫の姿を見ると、アンナは顔を上げて、ふと目をさましたように、にっこりとほほえんだ。
「まだおやすみになりませんでしたの? まあ、お珍しいこと!」彼女はいって、頭巾を脱ぎ、立ち止りもしないで、そのまま、奥の化粧室へ通った。「もうお時間ですよ、あなた」アンナはドアの向うから声をかけた。
「アンナ、ちょっと、おまえと話をしなければならんことがあるんだ」
「あたくしと?」アンナはびっくりしたようにいって、ドアの陰から現われると、夫の顔をじっと見つめた。「いったい、なんのことですの? なんのお話?」すわりながらたずねた。「じゃ、お話しいたしましょう、そんなに必要なことでしたら。ほんとは、やすんだほうがいいんですけど」
アンナは口から出まかせのことをいったが、自分のいっていることを聞きながら、われながらうそをつくことがじょうずなのにびっくりした。彼女の言葉は、まったくさりげなく自然だったし、今はただ眠いばかりだというのは、いかにもほんとうらしく聞えた! アンナは、自分が堅牢《けんろう》なうその鎧《よろい》につつまれているような気がした、なにか目に見えぬ力が自分を助け、ささえてくれるような気がした。
「アンナ、わしはおまえに警告しなけりゃならんのだ」夫はいった。
「まあ、警告ですって?」アンナはいった。「どんなことで?」
彼女はまったくさりげなく、楽しそうに、夫の顔を見つめていたので、夫ほど彼女を知りつくしていないものには、彼女の言葉の響きにもその意味の中にも、なにひとつ不自然なところを認めることはできなかったにちがいない。ところが、妻を知りぬいている夫にとっては、つまり、自分がたった五分遅く床についてもすぐ気がついて、その理由をたずねる妻を知っている夫にとっては、今彼女が夫の気持に気づこうともせず、また自分のことはひと言も話そうとしないのを見るのは、なかなか意味ぶかいことであった。彼は今までいつも自分に対して開放されていた妻の心の奥底が、堅く閉ざされているのを見てとった。いや、そればかりか、彼は妻の言葉の調子から、妻がそのことに平然として、かえって逆に、「ええ、そうよ、あたしは心を閉ざしました、これはそうしなければならないからで、これから先もそうですよ」と、いってでもいるような様子を見てとった。いまや、彼は、わが家へ帰って、戸がしまっているのに気づいたときに味わうような気分におそわれた。《だが、ひょっとすると、まだ鍵《かぎ》は見つかるかもしれん》カレーニンは考えた。
「わしがおまえに警告したいのはね」彼は静かに口を開いた。「おまえは自分の不注意と軽はずみのために、世間から陰口をきかれる種子《たね》を蒔《ま》くかもしれん、ということだ。今夜、おまえがヴロンスキー伯爵と(彼はこの名前をはっきりと、ひとつづりずつ句切るように発音した)、あまり熱心に話しこんでいるものだから、だいぶみんなの注意を集めたようだからな」
彼はそれだけいって、妻の目を見た。その目は笑みを含んでいたものの、今はもう他人を寄せつけぬきびしさが感じられ、彼もはっとするほどだった。彼は話しながらも、自分の言葉の無意味さやばかばかしさを、痛感していた。
「あなたはいつもそうなんですわ」アンナは相手のいうことがまるっきりわからない、といった調子で、ただ夫のいった言葉の中で最後の一句だけを、心に留めながら、こう答えた。「あたしがふさいでいるのがおいやかと思えば、朗らかにしているのもおいやなんですのね。今晩はふさいでなんかおりませんでしたわ。それがお気にさわりましたの?」
カレーニンは身を震わせ、指を鳴らそうとして、手をそらした。
「あ、お願いですから、ぼきぽき鳴らさないで。あたし、それ、大きらいなんです」アンナはいった。
「アンナ、おまえは正気かね?……」カレーニンはぐっと自分をおししずめて、手の運動を止めながら、静かにいった。
「まあ、それがどうしたんですの?」アンナはわざとまじめくさった、おどけた驚きの表情できき返した。「いったい、このあたしに、どうしろとおっしゃるんですの?」
カレーニンは口をつぐんで、片手でその額と目をこすった。彼は自分がしようと思ったこと、つまり、世間の目から見た過《あやま》ちについて、妻に警告するかわりに、妻の良心に関する問題で思わず興奮し、自分ででっちあげた一種の壁と戦っている自分に気づいた。
「いや、わしはこういいたかったのだ」彼は冷やかに、落ち着きはらって、言葉をつづけた。「ひとつ、わしの話をちゃんと聞いてもらいたい。いいかね、おまえも知ってのとおり、わしにいわせれば、嫉妬は恥ずかしい、卑しむべき感情なのだから、わしはけっして、そんな感情にうごかされるようなまねはしないつもりだ。だが、世間には一定の礼儀上の掟《おきて》があって、罰を受けずにそれを踏み越えることはできないのだ。今夜、わしは自分でそれに気づいたのじゃないが、一座の人が受けた印象から察して、おまえの態度があまり望ましいものじゃないことを、みんなが認めたのだ」
「まるっきり、なんの話やらわかりませんわ」アンナは、肩をすくめながら、いった。《この人にはどうだってかまわないんだわ》彼女は考えた。《ただみんなに気づかれたものだから、それで気をもんでるんだわ》「あなた、おかげんが悪いのね」アンナはそういいそえ、立ちあがって、戸口のほうへ行こうとした。が、夫は妻を引き止めようとでもするかのごとく、その先にまわった。
夫の顔は、アンナがついぞ見たことのないほど醜く、暗かった。アンナは足を止めて、頭をうしろや横へ傾けながら、持ち前のすばしこい手つきで、ヘアピンを抜きはじめた。
「さあ、おっしゃって。それからどうなんですの」アンナは落ち着いて、あざけるような調子で繰り返した。「あたくし、こんなに興味をもって拝聴してるんですのよ。だって、なんのお話か納得したいんですもの」
アンナはそういいながらも、自分の少しもわざとらしくない、落ち着いた、ちゃんとした口調と、自分が口にした言葉の選択に、われながら驚いていた。
「わしもおまえの感情を細かい点にまで、いちいち干渉する権利は持ってないし、まただいたい、そんなことは少しもためになることじゃない。いや、むしろ、有害なことだと考えているさ」カレーニンはいいだした。「自分の心の中をほじくりまわしていると、よくそっとそのままにしておいたらいいと思うようなものを、掘り起すことがあるものだ。そりゃ、おまえの感情は、おまえの良心の問題だ。ただ、わしは、なにがおまえの義務かはっきりさせることを、おまえに対しても、自分に対しても、神に対しても、自分の義務と心得ている。わたしたちの生活は人間ではなく、神によって結ばれているのだ。この関係を破りうるものは、ただ犯罪だけでしかも、その種の犯罪はかならず恐ろしい罰をともなうものなのだ」
「なんにもわかりませんわ。ああ、ほんとに、今夜はあいにく、なんて眠たいんでしょう!」
アンナは片手で素早く髪をさぐって、残ったヘアピンを捜しながら、いった。
「アンナ、後生だから、そんな口のきき方はよしておくれ」彼はおだやかにいった。「ひょっとすると、わしの思い違いかもしれんが、しかし、わしのいうことを信じておくれ。わしがこんなことをいうのは、おまえのためでもあるが、それは自分のためでもあるんだからね。わしはおまえの夫で、おまえを愛しているんだから」
その瞬間、アンナは顔をふせ、そのひとみの中のあざけるような火花も消えた。が、《愛している》というひと言は、また彼女の気持を混乱させた。彼女は考えた。〈まあ、愛しているだって? この人に愛することなんかできるのかしら? 愛なんてものがあることを人から聞かなかったら、この人はけっしてこんな言葉を口にしなかったでしょうに。愛がどんなものか、わかっていないんですもの》
「あなた、ほんとに、あたくしには、わかりませんわ」アンナはいった。「もっとはっきりいってくださいな、あなたのごらんになったことを……」
「まあ、もう少しいわせておくれ。わしはおまえを愛している。しかし、わしはなにも自分のことばかりいってるのじゃない。この場合の主役は、わしらのむすことおまえ自身だよ。何度もいうが、わしの話は、ひょっとするとおまえの目にはまったく無用な、的はずれのものに思われるかもしれない。もしかしたら、それはわしの迷いから出たものかもしれん。いや、もしそうだったら、どうか、許しておくれ。しかし、おまえが自分でほんの少しでも、わしのいうことにそれなりの根拠があると感じたら、ひとつ、よく考えてもらいたいのだ。そして、もしおまえの心がわしに打ち明けたいというのなら……」
カレーニンは自分でも気づかないうちに、用意していたのとはまったく別のことをいってしまった。
「なんにも申しあげることはありませんわ。それに……」アンナは、やっとのことで微笑をおさえながら、いきなり、早口でいった。「ほんとに、もう寝る時間ですわ」
カレーニンは溜息をついた。そして、もうなにもいわずに、寝室へ足を向けた。
アンナが寝室へはいったとき、彼はもう横になっていた。その唇はきっと結ばれ、目は妻のほうを見ていなかった。アンナは自分のベッドにはいると、夫がまた自分に話しかけるのを、今か今かと待っていた。アンナは夫から口をきかれるのを恐れてもいたが、またそれを望んでもいた。しかし、彼は黙っていた。彼女は長いこと、身動きもせずに待っていたが、そのうち夫のことを忘れてしまった。彼女は別の人のことを考え、その姿を見ていた。そして、その人のことを考えると、心の中が興奮と罪ぶかい喜びでいっぱいになるのを感じた。不意に、規則正しい、落ち着いたいびきが聞えた。はじめカレーニンは自分のいびきに驚いたようで、すぐにやめたが、ふた息もするうちに、いびきはさらに落ち着いた規則正しい調子で響きはじめた。
「手おくれだわ、もう手おくれだわ」アンナは微笑を浮べながら、つぶやいた。彼女は目をあけたまま、長いこと、じっと身動きもせずに横たわっていたが、その目の輝きは自分でも闇の中に見えるような思いであった。
10
この晩から、カレーニンとその妻にとっては、新しい生活がはじまった。しかし、なにも特別変ったことが起ったわけではなかった。アンナは相変らず社交界へ出入りして、とくにベッチイ公爵夫人のもとへ出かけ、いたるところでヴロンスキーに会っていた。カレーニンはそれを知っていたが、どうすることもできなかった。彼がそれについてまじめに話し合おうといろいろ努力してみても、アンナはなにか楽しそうな、けげんそうな表情の壁をつくって、相手を一歩も寄せつけなかった。一見、ふたりの関係は前と同じようでありながら、その内容はがらりと変ってしまった。政治家としてはあれほど力の強いカレーニンも、ここではまったくおのれの無力を感じるのだった。彼はまるで雄牛のように、おとなしく首をたれて、自分の頭上に振り上げられたように思われる斧《おの》を、待っていた。彼はこの問題を考えはじめるたびに、なんとかもう一度やってみなくてはならない、今ならまだ、誠意と優しさと信念の力で、妻を救い出し、反省させる望みがあると感じて、毎日のように、それをいいだそうと考えていた。ところが、彼はいつも妻と話しはじめるたびに、彼女をとらえている悪と偽りの霊が、自分をも支配するのを感じた。そして、彼は自分が思っていたのとまるで違ったことを、違った調子で話しだすのであった。彼は思わずいつもの癖で、そんなことを話す人間をからかうような調子で話しだすのだった。しかし、そんな調子では、妻にいわなければならぬことを話すわけにはいかなかった。
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11
ヴロンスキーにとっては、ほとんどまる一年とさえ思われたあいだ、それまでのいっさいの欲望に代って、その生活のただひとつの希望となっていたもの、また、アンナにとっては、とても考えられない、恐ろしいものながら、それだけに、いっそう魅惑的な幸福の空想であったところのもの――それがいまや達成されたのであった。彼はまっ青な顔をして、下顎《したあご》を震わせながら、彼女の上に突っ立ったまま、自分でもなにをどうしていいかわからないで、彼女に気をしずめてくれと頼むのであった。
「アンナ、アンナ!」彼は震える声でいった。「アンナ、お願いだから……」
ところが、彼が声高《こわだか》に話せば話すほど、前は誇らしく快活だったのに、今はただ恥ずかしいばかりで、アンナはその頭をいよいよ低くたらすのだった。そして、彼女はからだを二つに折り曲げ、腰かけていた長いすから、床の上の彼の足もとへ倒れてしまった。いや、もし彼がささえてやらなかったら、そのままじゅうたんの上へつっぷしてしまったであろう。
「ああ、神さま! あたくしをお許しくださいまし」アンナはすすり泣きながら、彼の手を自分の胸へおしつけたまま、つぶやくのだった。
アンナは自分を過ちを犯した、罪ぶかいものと思いこみ、もうこのうえはわが身を卑下して、許しを請うよりほかになすすべはないような気がした。しかも、今は彼女にとってこの世の中に、彼よりほかにはだれもいなかったので、彼女はこの許しを請う祈りを、彼にも向けてしまった。アンナは彼を見ていると、肉体的に自分の堕落を感じて、もうそれ以上なにもいえなかった。一方、彼のほうは、殺人者が自分で殺した死体を見たときのような気持を味わっていた。彼がその生命を奪ったこの死《し》骸《がい》こそ、ふたりの恋であり、その恋の最初の段階であった。この羞恥《しゅうち》という恐ろしい犠牲をはらって得たところのものを思い起すと、そこにはなにかしら恐ろしく忌わしいものがあった。彼女は自分の精神的な裸体に対する羞恥の念に圧倒され、それは彼にも伝わった。しかし、殺人者は自分が殺した死骸に対して、どんなに激しい恐怖を感じても、その死体を隠すためには、それをずたずたに切り刻まなければならないし、殺人によって手に入れたものを、あくまで利用しなければならないのだ。
そこで、殺人者はまるで欲情ともいうべき憤《ふん》怒《ぬ》にもえながら、その死体に飛びかかって、引きずりまわしたり、切り刻んだりするのだ。ちょうどそれと同じように、彼もアンナの顔や肩に、接吻《せっぷん》を浴びせるのであった。彼女は男の手を握ったまま、身じろぎもしなかった。ああ、この接吻――これこそふたりの羞恥によってあがなわれたものであった。ああ、この手も、永久に自分のものになるだろうこの手も――わが共犯者の手なのだ。彼女はその手を持ちあげて、それに接吻した。彼はひざまずいて、彼女の顔を見ようとした。しかし、彼女は顔を隠して、ひと言も口をきかなかった。ようやく、彼女は自分に打ち勝とうとするかのように、ふと身を起すと、彼をおしのけた。彼女の顔は相変らず美しかったが、しかしそれだけに、ひとしおみじめであった。
「もうなにもかもおしまいだわ」アンナはいった。「あたしには、もうあなたのほかに、なにひとつないんですもの。それを覚えててね」
「覚えてないという法がありませんよ。だってそれがぼくの生命なんですから。この幸福の一瞬のために……」
「まあ、幸福だなんて!」アンナは嫌《けん》悪《お》と恐怖のいりまじった調子でいった。と、その恐怖は無意識のうちに彼にも伝わった。「後生ですから、もうなんにも、なんにもおっしゃらないで」
アンナは素早く立ちあがると、彼のそばから離れた。
「もうなんにもおっしゃらないで」アンナは繰り返した。そして、彼の目には奇妙に思われた冷やかな絶望の表情を顔に浮べながら、別れて行った。彼女は、新しい生活へ飛びこむにあたって感じた羞恥と、恐怖と、喜びを、その瞬間、言葉で表わすことはできないと感じていたし、またそれを口にして、この感情を不正確な言葉で俗っぽいものにしたくなかったのである。ところが、その後も、翌日になっても翌々日になっても、こうした感情の複雑さを十分に表現するに足る言葉を、見いだすことができなかったばかりか、自分の心の中に生じたいっさいのことを、自分自身でおしはかるだけの考えすら、見いだすことができなかったのである。
アンナは心につぶやいた。《いいえ、今はこんなことを考えることはできないわ。あとで、もっと気持が落ち着いてからにしよう》しかし、そうした考え事に必要な落ち着きは、けっしてやって来なかった。彼女は、自分はなにをしたのだろう、自分はこれからどうなるのだろう、自分はどうしなければならないのか、といった考えが心に浮んでくるたびに、恐怖の念におそわれ、あわてて、そうした考えを追いはらっていた。
「あとにしましょう、あとに」アンナはいった。「もっと気持が落ち着いてから」
そのかわり、アンナが自分の考えをおさえる力のない夢の中では、彼女の状態も、醜い赤裸々な姿で現われるのであった。アンナはある一つの夢を、ほとんど毎晩のように見た。その夢の中では、ふたりがともに自分の夫であり、ふたりは自分に愛《あい》撫《ぶ》のかぎりをつくすのだった。カレーニンは、彼女の手に接吻して泣きながら、ああ、なんてすてきなんだろう! とつぶやくのだった。すると、アレクセイ・ヴロンスキーもやはりそこにいて、彼も自分の夫なのであった。そしてアンナも、自分が今までそれを不可能のように思っていたのをふしぎがって、笑顔をつくりながら、ふたりに、このほうがずっと簡単で、あなた方ふたりとも今は満ちたりて、幸福でいるではないかと、説明するのであった。ところが、この夢は悪霊《あくりょう》のようにアンナの胸を締めつけ、彼女は慄然《りつぜん》として、目をさますのであった。
12
モスクワから帰ったばかりのころは、リョーヴィンも拒絶されたときの屈辱を思いだすたびに、思わず身を震わせ、顔を赤らめて、こうつぶやくのだった。《おれは物理で一点を取って、二年級にとどまったとき、やはり、こんなふうに赤い顔をして身を震わせ、おれはもうだめなんだと思ったものだ。それから、姉さんに頼まれた事件をしくじったあとも、やっぱり、これはもうだめだと思ったものだ。でも、どうだろう? 今何年かたって、思いだしてみると、あんなことでなぜ気をおとしたのか、自分でもふしぎに思うくらいだ。今度の苦しみだって、それと同じことだろう。しばらく時がたてば、おれも平気になれるだろう》
ところが、三カ月すぎても、彼は平気になれなかった。いや、初めのころと同じように、それを思いだすと苦しかった。彼はどうにも気持を落ち着けることができなかった。というのは、彼はあれほど長いあいだ結婚生活を夢み、自分がそのために十分成熟していると感じていたのに、相変らず妻帯しないでいるばかりか、昔よりもさらに結婚の可能性から遠ざかっているからであった。彼くらいの年配の男がひとりでいるのはよくないと、周囲のものが感じていたのと同様、彼自身もそのことを病的なほど痛感していた。彼はこんなことを覚えていた。それは彼がモスクワへ出かけて行く前のことで、彼がいつも好んで話をする家畜番のニコライという素朴な百姓に、「おい、ニコライ! おれは結婚したいんだがね」といったところ、相手はまったくあたりまえといった調子で、「もうとうにその時期でございますとも、だんなさま」と、たちどころに答えたものであった。しかし、その結婚も今となっては、前よりもさらに遠のいてしまったのである。妻の座はもうふさがっていて、彼がいくら想像の中で、知合いの娘のだれかをそこへ据えてみても、とてもそんなことはだめだという気がするのだった。しかも、彼は、結婚の申し込みを拒絶されたときのことや、そのとき自分が演じた役まわりのことを考えると、羞恥の念に悩まされた。あの場合自分はどこも悪いことはなかったのだ、と、いくら自分にいいきかせてみても、この記憶はその他の同種の恥ずべき記憶と並んで、彼の身を震わせ、顔を赤くさせるのだった。彼の過去にも、すべての人と同じく、みずから認めている悪行の数々があって、そのために彼は良心の呵責《かしゃく》に苦しめられねばならぬはずであった。ところが、それらの悪行に関する記憶は、前述の、とるに足らぬ、といっても、恥ずべき追憶ほどには、彼を苦しめなかった。この傷口は、いつまでたっても癒《い》えなかった。そして、これらの思い出と並んで、今はまたキチイの拒絶と、あの晩ほかの人たちの目に映ったにちがいない自分のみじめな立場が、思いだされるのであった。しかし、時の力と仕事が当然の働きをした。
痛ましい思い出はしだいに、目には見えなくとも、重大な意義を有する農村生活の出来事に隠れていった。一週過ぎるごとに、キチイを思いだすこともだんだん少なくなっていった。彼は、キチイがもう結婚したとか、あるいは、近く嫁に行くとかいう便りを、今か今かと待ちこがれていた。彼はそうしたニュースが、ちょうどひと思いに虫歯を抜くように、すっかり自分の病を癒《いや》してくれるものと、ひそかに期待していたのである。
そのうちに春が訪れた。それはこの季節にありがちな気をもませたり、がっかりさせることのない、すばらしい、好意に満ちた春で、植物も、動物も、人間もいっしょになって喜べる数少ない春の一つだった。このすばらしい春が、さらにリョーヴィンを奮いたたせ、過去のいっさいを捨て去って、自分の独身生活を、堅固に、独自性をもって築きあげようと決意させた。もっとも、彼が村へ持ち帰ったプランの多くは、まだ実現されてはいなかったけれども、いちばん大切なこと、つまり、生活の清潔という点だけは、ちゃんと守られていた。彼はこれまで堕落したあとにきまって悩まされたあの羞恥の念を味わうことなく、まっすぐ人の顔を正視することができるようになった。まだ二月中に、マーシャから手紙を受け取り、兄ニコライの健康は悪化しているにもかかわらず、彼は治療しようとしないことを知った。この手紙の結果、リョーヴィンはモスクワの兄のところへ行き、医師の診察を受けたうえで、外国の温泉へ行くように説きふせることができた。彼はうまいぐあいに兄を説きふせて、相手をおこらせることなく旅費を貸すことができたので、彼は自分でもその点満足していた。春には特別の注意を要する農事や読書のほかに、リョーヴィンは冬のうちから農村経営に関する著述をはじめていた。その腹案は、農村経営においては労働者の性質もその気候や土壌と同じように、絶対的資料である、というのであった。したがって、すべての農村経営に関する学説は、単に気候風土の資料のみでなく、土壌、気候および労働者の一定不変の性質という、三つの要素から吟味しなければならぬ、というのである。そういったわけで、彼の生活は孤独だったにもかかわらず、あるいは孤独だったために、かえってひじょうに充実していた。ただほんの時たま、彼は頭に浮ぶ思想を、だれかアガーフィヤ以外の人に伝えたいという満たされざる欲求を覚えるばかりであった。もっとも、彼はかなりしばしばこの老婆を相手に、物理学や、農村経営の理論や、とりわけ哲学について論じたものである。哲学はアガーフィヤの大好きな話題だったから。
春は長いこと、その本性を現わさなかった。大斎期の終りの一、二週間は、晴れた凍てついた天気がつづいた。昼間は日光で溶けるものの、夜ともなれば、零下七度まで下がった。一度溶けて凍った雪の表面は、道のないところでも、荷《に》橇《ぞり》が通れるほどであった。復活祭にはまだ雪があった。そのあと急に、聖週の二日めに、暖かい風が吹いて来て、雨雲がわきおこり、三日三晩も、あらしのような春雨が降りつづいた。木曜日になると風は静まり、まるで、自然の中に生じた変化の秘密を隠そうとでもするように、灰色の濃い霧がたちこめた。その霧の中で川の水はあふれ、水のかたまりが割れて流れだし、濁って泡《あわ》だった流れは、前よりいっそう激しく奔流した。そして、次の月曜日には、夕方から霧が晴れだし、雨雲も綿雲のように散りぢりになって、すっかり、空は晴れわたった。本物の春が顔を出したのである。翌朝になると、さしのぼった明るい太陽は、水面をおおっていた薄氷をまたたくうちに溶かし、生暖かい大気はよみがえった大地から立ちのぼる水蒸気にふれて、震えていた。古い草も、針のような芽をふいた若草も、一様に緑に染まって、灌木《かんぼく》、すぐり、ねばっこいアルコールのようなにおいの白樺《しらかば》の芽もふくらんだ。さらに、金色の花をふりかけたような柳の木の上では、巣から出された蜜蜂《みつばち》がうなり声をあげて飛びまわっていた。緑のビロードのような冬《ふゆ》蒔《ま》き畑や、氷でおおわれた耕地の上では、姿の見えぬひばりがさえずっていたし、まだ茶色の水がたまっている窪《くぼ》地《ち》や沼の上では、たげりが鳴き声をあげ、高い空では鶴《つる》や雁《がん》が、があがあと春らしい鳴き声をたてながら、舞っていた。牧場では、抜けた毛がまだところどころ生え変らずにいる家畜たちがうなり声をあげ、まだ足の曲っている子羊は、めえめえと鳴きたてる毛をつみとられた母親のまわりを、はねまわっていた。すばしっこい子供たちは、はだしの足跡をつけてかわきかかっている小道を駆けまわり、池のまわりからは布をさらす女たちの楽しそうなおしゃべりが聞え、庭先では犂《すき》や耙《まぐわ》を繕う百姓たちの斧《おの》の音が響きはじめた。本物の春が訪れたのである。
13
リョーヴィンは大きな長靴をはき、はじめて毛皮《シューパ》外套でなくラシャの外套を着て、日光を反射して目にちかちかする小川を渡ったり、水の上や、ねばねばした泥の上を踏みしめたりしながら、農場の見まわりに出かけた。
春は計画と予想の季節である。リョーヴィンは外へ出かけたものの、そのふくらんだ蕾《つぼみ》の中に閉ざされている若い芽や枝をどこへどう伸ばしていいか、まだわからずにいる春先の樹木のように、自分の好きな農村経営の仕事においても、これから先どんな計画に手をつけたらいいのか、自分でもよくわからなかった。しかし、彼は自分がこのうえもなくりっぱな計画や予想をいっぱいかかえていることだけは感じていた。まず第一に、彼は家畜小屋へ足を向けた。雌牛どもは柵《さく》の中に放たれ、抜け変ったなめらかな毛を光らせながら、ひなたぼっこをして、野原へ出してくれとせがんで鳴いていた。リョーヴィンは細かいところまですっかり知りつくしている牛どもにしばらく見とれた後、それらを野原へ放してやって、子牛どもを柵の中へ入れるように命じた。牧夫は陽気そうに野原へ行くしたくに駆けだして行った。家畜番の女たちは裾《すそ》をからげ、枯れ枝を手にして、まだ日焼けしていない白い素足で、ぬかるみをぴちゃぴちゃいわせながら、春の来たうれしさに、ただもう夢中になって鳴きわめく子牛どもを、庭へ追いたてようとして、駆けずりまわっていた。
例年になくすばらしかった今年生れの子牛に、しばらく見とれてから、(早生れの子牛は、百姓の持っている雌牛くらいあったし、三カ月になるパーヴァの娘は、もう一歳半ほどの大きさだった)、リョーヴィンはこれらの子牛どものために飼《かい》秣《ば》槽《おけ》を外へ持ち出して、干し草を柵越しにやるように命じた。ところが、冬じゅう使わなかった囲いの中では、秋につくった柵が少々こわれていた。彼は、自分の命令で打穀機を作るはずになっていた大工を迎えにやった。すると、その大工はもう謝肉祭にはできていなければならない耙《まぐわ》を今やっと修繕しているところだった。それにはリョーヴィンも腹を立てた。彼は長年のあいだ全力をあげて戦って来たのに、こうした経営上のふしだらな状態がいつまでも繰り返されていることに腹を立てたのであった。彼にわかったところによると、冬のあいだ不要なこの柵は、駄馬《だば》を入れる小屋へ運ばれたのだが、もともと子牛のためにざつに造られたものなので、すぐこわれてしまったというわけであった。いや、そればかりか、この一件からまた、冬のあいだに調べて修繕しておくようにいいつけ、わざわざ三人の大工まで雇っておいた耙と農具類が、まだなおしてないことが判明した。ただ耙だけは、土を耕さなければならぬ時期になって、やっと修理ができた。リョーヴィンはいったん支配人を呼びにやったが、すぐ自分から捜しに行くことにした。支配人は、この日のすべてのものと同様、にこにこと顔を輝かせながら、羊皮で縁とりした毛皮外套をきて、藁《わら》を両手でぽきぽき折りながら、打穀場のほうから歩いて来た。
「なぜあの大工は打穀機にかかっていないんだね?」
「いや、じつは、きのう申しあげるところでしたが、耙のほうを修理しなくちゃなりませんので。なにしろ、もう畑を起さねばなりませんので」
「じゃ、冬のあいだはなにをしていたんだね?」
「で、なにか大工にご用でもおありで?」
「子牛を入れる庭の柵はどこだね?」
「元のところへもどしておくようにいいつけておいたんですが。あの連中にはなにをいいつけても、どうにもなりませんので!」支配人は片手を振りながら、答えた。
「どうにもならんのはあの連中じゃなくて、おまえのような支配人だよ!」リョーヴィンはかっとなっていった。「なあ、いったい、きみのようなやつを雇ってるのはなんのためだと思うね?」彼はどなった。しかし、そんなことをいってみても、なんの足しにもならないと気づいて、途中で言葉を切り、ただ大きく溜息《ためいき》をついた。「で、どうかね、もう播《ま》きつけのほうはできるのかね?」彼はしばらく口をつぐんでから、たずねた。
「トゥルキンの先は、あすかあさってなら大丈夫でしょう」
「クローバーは?」
「ワシーリイとミーシュカをやりました。播いておりますよ。ただ、うまく出るかどうかわかりませんが、なにしろ、土地がひどくぬかっておりますので」
「幾ヘクタールだね?」
「六ヘクタールでございます」
「なぜ全部の土地に播かないんだ?」リョーヴィンは大声をたてた。
クローバーを二十ヘクタールでなく、六ヘクタールしか播かなかったことに、リョーヴィンはますます腹を立てた。クローバーの播きつけは、理論からいっても、彼自身の経験からいっても、できるだけ早く、まだ雪のあるうちからやって、はじめて好成績がえられるはずだった。しかも、リョーヴィンはなんとしても、それを達成することができなかったからである。
「人手がありませんで。あんな連中を相手になにができましょう? 三人も仕事に出てまいりませんでしたし、それに、セミョーンも……」
「そんなら、藁の仕事をやめさせたらいいじゃないか」
「ええ、ちゃんとやめさせておきました」
「じゃ、連中はどこにいるんだ?」
「五人はコンポートをこしらえておりますし(本人は堆肥《コンポスト》のつもりでいったのである)、四人は燕麦《えんばく》を移しかえております。いたんではたいへんですので、だんなさま」
リョーヴィンには、すぐのみこめたが、この「いたんではたいへんですので」という言葉は、種子とりのイギリス種の燕麦がもうだめになったことをいっているのだった。つまり、またもや彼が命じたことを実行しなかったのである。
「だから、あれほど大斎期のころからいってたじゃないか、通風筒をちゃんとしろと……」彼は叫んだ。
「いや、ご心配なく、万事ちゃんと間にあわせるようにいたしますから」
リョーヴィンは腹立たしげに片手を振って、燕麦を見に穀倉へ行ったが、すぐ厩《うまや》へ引き返した。燕麦はまだ腐ってはいなかった。しかし、作男たちはじかに階下《した》へ落せばよいものを、わざわざシャベルで移しかえていた。リョーヴィンはそのさしずをして、ふたりの作男をそこからクローバーの播きつけにまわしてからやっと、支配人に対する腹立たしさをしずめることができた。それに、天気があまりよかったので、とても腹など立てていられなかったのである。
「おい、イグナート!」彼は、井戸のそばで腕まくりして幌《ほろ》馬《ば》車《しゃ》を洗っていた御者に、大きな声で呼びかけた。「鞍《くら》をつけてくれ……」
「馬はどれにいたしましょう?」
「そうだな、コルピックでもいいや」
「かしこまりました」
馬に鞍をつけているあいだ、リョーヴィンは目の前をうろうろしている支配人をもう一度呼んで仲直りのつもりで、さし迫っている春の仕事や、経営上の計画などについて話しはじめた。
肥料の運搬は、草刈りのはじまるまでに、全部片づけてしまうよう早めに着手すること。また、遠く離れている畑も犂《すき》で耕して、閑田としてとっておくこと。草刈りも現物折半でなく、人手を頼んで全部始末すること。
支配人は注意ぶかく耳を傾けていたが、どうやら、主人の計画に賛意を表するのに骨を折っているらしかった。しかし、その顔は、リョーヴィンが前々から知りぬいていて、いつもいらいらさせられている、例のがっかりしたような、元気のない表情をしていた。その表情は、『それはなにもかもけっこうでございますが、なにごとも神さまのみ心で』と語っていた。
こうした調子ほどリョーヴィンをがっかりさせるものはなかった。しかし、この調子は、彼が幾度人を取りかえてみても、すべての支配人に共通した調子《もの》だった。だれもかれも、彼の計画に対して同じ態度をとるので、今ではもう彼も腹を立てずに、ただがっかりするばかりだった。そして、彼はこのなにか原始的な力ともいうべきものと戦うために、いよいよ奮いたってくる自分を感じるのだった。その力は、『なにごとも神さまのみ心で』としか名づけようのないもので、いつのときも彼に反抗してくるのであった。
「まあ、なんとかできますでしょう、だんなさま」支配人はいった。
「できないことがあるものか」
「人夫をもう十五人ばかり雇わなけりゃなりませんな。いや、それがなかなか集まりませんので。きょうも来るには来ましたが、ひと夏に七十ルーブルもくれと、申しますんで」
リョーヴィンは口をつぐんだ。またもや例の力が反抗して来たのである。彼は、自分たちがどんなにがんばってみても、現在の賃金では、三十七、八人から四十人以上の働き手を雇うことができないのを、承知していた。四十人までは集まったことがあるが、それ以上はなかった。しかし、それにしても、彼はなんとしても戦わずにはいられなかった。
「集まらんようだったら、スールイやチェフィローフカへ人をやるんだな。とにかく、捜さなくちゃ」
「やるにはやりましたが」ワシーリイは、元気のない声でいった。「今度は、その馬のほうが弱りましてな」
「買いたせばいいさ。なあに、ぼくにはちゃんとわかってるさ」リョーヴィンは笑いながらつけ足した。「きみたちはなんでもできるだけ少なく、できるだけ悪いものを作る主義のようだが、もう今年はきみたちに自分勝手のまねはさせないよ。なんでも自分でやるからな」
「いや、今までだって、そんなに大目に見てはいらっしゃいませんとも。私どもとしても、ご主人の目の前で働くほうが愉快でございますよ……」
「じゃ、白樺谷の向うでクローバーを播いてるんだな? ひとつ、行ってみて来よう」彼は御者の引いて来た小さい濃褐色《のうかっしょく》のコルピックにまたがりながら、いった。
「小川は渡れねえですよ、だんなさま」御者は叫んだ。
「じゃ、森づたいに行くさ」
こうして、リョーヴィンは水たまりへかかるたびに、鼻を鳴らしながら手《た》綱《づな》を引っぱる、長いこと厩《うまや》に閉じこもっていたので勇みたっている馬に、軽快なレ《だく》を踏ませながら、内庭のぬかるみを抜けて、門から野原のほうへ出て行った。
リョーヴィンは、牛小屋や穀物置場にいるときも愉快だったが、野原へ出るにおよんで、いっそう愉快になった。彼は、質《たち》のいい馬のレに規則正しく揺られ、暖かいなかにもすがすがしい雪と空気のにおいを吸いこみながら、かすかに人の足跡をとどめて、点々と見えるもろい残雪を踏んで、森の道を進んで行くとき、樹皮の苔《こけ》がよみがえって、芽をふいている自分の木の一本一本に、喜びを感ずるのだった。森を抜けると、目の前には、一点の禿《は》げ地も湿地もない緑の秋《あき》蒔《ま》き畑が、平らなビロードのじゅうたんのように広々とひろがっていた。ただところどころの窪地に、溶けかかった残雪が、点々とついているばかりだった。彼は、この緑の畑を踏み荒している百姓馬や一歳駒《ごま》を見ても(彼は出会った百姓にそれらを追っぱらうようにいいつけた)、向うからやって来た百姓のイパートが人をばかにしたような、間ぬけた返事をしても、腹が立たなかった。彼がこの百姓に、「どうだ、イパート、もうそろそろ播きつけだな?」とたずねたのに対して、イパートは「なに、その前に耕さにゃなりませんとも、だんなさま」と答える始末だったのである。
馬を先へ進めるにつれて、彼はますます楽しくなり、経営のことについても、次々と、すばらしい計画が浮んできた。どの畑にも南側の境界線に沿って柵をめぐらし、その下に雪が長く残らないようにすること。畑を区分けして、六枚は肥料を施し、三枚は牧草を播いて予備の畑にしておくこと。畑のいちばん向うの端に家畜小屋をつくり、池を掘ること、施肥のために家畜用の移動柵をつくること。そうすれば、三百ヘクタールは小麦、百ヘクタールはじゃがいも、百五十ヘクタールはクローバーにあてて、やせた土地は一ヘクタールもなくなるわけだ。
こんな空想を描いて、自分の畑を踏まないように、注意ぶかく馬を畦道《あぜみち》づたいに進めながら、彼はクローバーを播いている作男たちのほうへ近づいて行った。種子を積んだ荷車は、畦でなく耕地においてあったので、冬蒔きの麦は車輪のために掘りくずされ、馬に踏みにじられていた。ふたりの作男が畦道にすわりこんでいたが、きっと、一本のパイプを共同で吸っていたのだろう。種子に混ぜてある車の中の土は、よくもみほぐしてなく、ごろごろとかたまりだったり、凍ったりしていた。主人の姿を見ると、作男のワシーリイは車のところへ近づき、ミーシュカは播きつけにかかった。これはおもしろくないことだったが、リョーヴィンは作男に対してはめったにおこらなかった。ワシーリイがそばへ来たとき、リョーヴィンは馬を畦道へ引っぱって行くようにいいつけた。
「なあに、だんなさま、ひとりでになおりますよ」ワシーリイは答えた。
「頼むから、理屈はやめてくれ」リョーヴィンはいった。「いわれたとおり、すればいいんだ」
「かしこまりやした」ワシーリイは答えて、馬の首に手をかけた。「ところで、だんなさま、この種播きは」相手は取入るような調子でいった。「一級品でございますよ。ただ歩くのが大儀でしてね! まるで草鞋《わらじ》に一プードぐれえのおもりでもつけて、引きずってるようなもんですよ」
「それにしても、おまえたちはなぜ土をふるわなかったんだ?」リョーヴィンはきいた。
「ほれ、わしがもみほぐしてるですよ」ワシーリイは種子をひとつかみ取って、てのひらで土をもみほぐしながら、答えた。
よくふるっていない土を渡されたからといっても、それはワシーリイの罪ではなかった。しかし、なんとしても腹の立つことだった。
リョーヴィンはじっと腹の虫をおさえて、これまで一度ならずためしてみて成功している、すべておもしろくないことを、再びいいほうへ変える方法を今も用いてみた。彼は、ミーシュカが両足にへばりつく大きな土のかたまりを引きずりながら歩く様子をしばらくながめていたが、やがて馬からおりて、ワシーリイから種播き用の肩籠《かたかご》をとりあげ、自分で播きはじめた。
「おまえはどこまでやった?」
ワシーリイは、足で印をつけた場所を指さした。そこで、リョーヴィンは力いっぱい、種子のまじった土を播いていった。歩いて行くのは、まるで泥沼の中のように、むずかしかった。リョーヴィンは一畝《ひとうね》まくと、汗をかいて、立ちどまり、種播き肩籠を返した。
「ねえ、だんなさま、夏になってから、この一畝のために、わしに小言をいわんでくだせえよ」ワシーリイはいった。
「え、なぜだい?」リョーヴィンはためした方法が、早くもききめを現わしてきたのを感じながら、愉快そうにいった。
「まあ、夏になったら、よく見ておくんなさい。この一畝だけ違ってまさあね。去年の春わしの播いたとこをごらんにいれてえぐれえですよ。その生えぐあいのいいったら! だって、だんなさま、わしはこれでも生みの親につくすと同じつもりで、働いてるんでごぜえますよ。悪いことは自分でもするのがきれえだし、人にもさせねえですよ。そうすりゃ、だんなさまにもええし、わしらにもええでな。まあ、ひとつ、あれを見てごらんくだせえ」ワシーリイは畑を指さしながらいった。「気が晴ればれしますだよ」
「春はいいなあ、ワシーリイ!」
「いや、まったく、こんないい春は年寄りどもも覚えがねえといっとりますよ。このあいだも、わしが家へ帰ったとき、うちの年寄りがやっぱり、小麦を三百リットルほど播いとりましたが、裸麦と見分けがつかねえほどになるだろうっていっとりましたよ」
「おまえたちは、もうずっと前から小麦を播いてるのかい?」
「なに、だんなさま、おめえさまがおととし教えてくれたでねえですか。このわしに二プードめぐんでくだせえましたで、四分の一は売りやして、残りの三百リットルを播いたようなわけでして」
「おい、いいか、よく土のかたまりをほごすんだぞ」リョーヴィンは馬のそばへ行きながら、いった。「それから、ミーシュカのことも気をつけてな。いい芽が出たら、一ヘクタールに五十コペイカずつやるからな」
「そりゃ、どうもありがとうごぜえます。そうでなくっても、わしらはだんなさまのことじゃ、なにひとつぐちをこぼしたことはねえんで」
リョーヴィンは馬にまたがって、去年のクローバーのある畑へ行き、それから春播き小麦の用意に犂《すき》で耕している畑へまわった。
刈り跡に出たクローバーの新芽は、すばらしかった。それはもうすっかり生えそろって、去年の折れた小麦の茎の下から、生きいきとした緑にもえていた。馬は足をくるぶしの辺まで泥に埋めて、ひと足ごとに溶けかけた泥の中から引き抜く足が、ずぶずぶと音をたてた。犂で耕したところは、とても馬を進めることができなかった。ただ、薄氷の張っているところだけは大丈夫だったが、溶けた畦《あぜ》ではくるぶしの上まで埋まってしまった。犂の入れ方は申し分なかった。もう二日もしたら耙《まぐわ》をかけて、播きつけができそうだった。なにもかも上々で、なにもかも楽しかった。帰りは、もう水が引いたろうと考えて、リョーヴィンは小川を渡って行くことにした。そして、実際、無事に渡って、二羽の鴨《かも》を追いたてた。《きっと、鴫《しぎ》もいるにちがいない》彼はそう考えたが、ちょうど家へ曲るところで、森番に出会った。その男も、鴫がいるにちがいないという彼の予想の正しさを認めてくれた。
リョーヴィンは駆け足で帰途についた。一刻も早く食事をすませて、夕方までに銃の用意をしておこうというわけであった。
14
リョーヴィンはすごく上きげんで、家の近くまで馬を走らせて来たとき、表玄関の車寄せのほうに、鈴の音を聞きつけた。
《ああ、あれは駅から来たんだな》彼は考えた。《ちょうどモスクワから汽車が着いた時刻だ……いったい、だれだろう? ひょっとすると、兄貴のニコライかな? だって兄貴は、気がむけば温泉に行くかもしれんし、また、おまえのところへおしかけるかもしれんし、といってたからな》彼はその瞬間、兄ニコライの出現が、今の幸福な春めいた気分を台なしにしないかと、恐ろしくも不愉快な気分になった。しかし、彼はすぐ自分のこうした気持を恥ずかしく思い、まるで心の中で抱擁の腕をひろげたように、感激に満ちた喜びの気持につつまれ、今はどうか兄ニコライであってくれと、心の底から願うのであった。彼は馬をうながして、アカシヤの木陰から出ると、こちらへ近づいて来る停車場の三頭立ての橇《そり》と、毛皮外套の紳士の姿を見た。それは兄ではなかった。《ああ、だれかいい話し相手になれる、気持のいい人間ならいいが》彼は考えた。
「おおい!」リョーヴィンは両手をさしあげて、うれしそうに叫んだ。「こりゃ、珍客だな! ほんとに、うれしいよ!」彼はオブロンスキーの顔を見分けて、叫んだ。
《あの人がもう結婚したか、それとも、いつ結婚するか、はっきりしたことがきかれるだろう》彼は心に思った。
こんなうららかな春の日には、彼女についての思い出も、まったく苦にならないのを感じた。
「思いがけなかったろう、え?」オブロンスキーは橇からおりながら、いった。彼の鼻柱にも、頬《ほお》にも、眉《まゆ》にも、泥のかたまりをつけていたが、その顔は快活な気分と健康に輝いていた。「きみに会いたくてやって来たのさ――これが第一」彼は相手を抱いて接吻《せっぷん》しながらいった。「狩りをやる――これが第二で、それからエルグショーヴォの森を売る――これが第三だ」
「大いにけっこう! それにしても、すばらしい春じゃないか! でも、よく橇でこられたねえ!」
「馬車だと、もっとひどうございますよ、リョーヴィンのだんなさま」顔見知りの御者がいった。
「とにかく、きみが来てくれて、じつに、うれしいよ」リョーヴィンは心の底から子供のような喜びの微笑を浮べながら、いった。
リョーヴィンは友人を来客用の部屋へ案内した。そこへオブロンスキーの荷物も、つまり、大きな袋、ケースにはいった猟銃、葉巻の箱なども運びこまれた。そして彼は友人が顔を洗ったり、着替えをしたりするあいだ、自分は畑おこしやクローバーのことをいいに、事務所まで出かけた。アガーフィヤはいつも家の格式ということをひどく気にしていたので、晩餐《ばんさん》のことをききに、彼を玄関へ出迎えた。
「おまえのいいようにしておくれ、ただなるべく早くな」彼はいって、支配人のところへ行った。
彼がもどって来ると、オブロンスキーは顔を洗って、髪をとかし、顔いっぱいに微笑をたたえながら、部屋の戸口から出て来た。そして、ふたりはいっしょに二階へあがった。
「いや、やっときみのところへ来られて、まったくうれしいよ! 今度こそきみがここでせっせと築いてる秘密の正体がなにかってことも、わかるだろうよ。しかし、いや、まったくのところ、ぼくはきみがうらやましいね。いい家だな、それに、なにもかもすばらしい! 明るくて、楽しそうで」オブロンスキーは、なにも一年じゅう春で、いつもきょうのような晴れた日ばかりでないことを忘れて、そういった。「それから、きみの婆やもほんとにいい人だね! さらに欲をいえば、エプロンをかけたかわいい小間使がいるといいんだが。でも、きみの坊主くさい、厳粛な生活では、これがいちばん適しているわけだな」
オブロンスキーは、いろいろとおもしろいニュースを伝えたが、とくにリョーヴィンの興味をひいたのは、兄のコズヌイシェフがこの夏、彼の村へくるつもりだというニュースだった。
オブロンスキーは、キチイのことも、一般にシチェルバツキー家のことは、なにひとついわなかった。ただ妻からよろしくといったばかりであった。リョーヴィンは相手の細やかな心づかいを感謝し、この客の来訪を心から喜んだ。いつものことながら、リョーヴィンは孤独の暮しのうちに、まわりの者に伝えることのできぬ、数えきれないほどたくさんの思想や感情がたまっていたので、彼の詩的な春の喜びも、経営の上の失敗や今後の計画も、頭の中の考えも、読んだ本の感想も、ことごとくオブロンスキーにぶちまけてしまった。とくに、自分では気づかないでいたが、従来の農村経営上のいっさいの労作に対する批判を根底にした自分の著述についても弁じたてた。オブロンスキーはいつもちょっと暗示されただけですぐなにもかものみこむ、勘のいいほうだったが、今度の旅行にもとても気分をよくしていた。そのため、リョーヴィンは彼の中に今まで知らなかった自分にとってうれしい事実を発見した。それは自分に対する尊敬の気持と、なにか思いやりのある優しさみたいなものであった。
晩餐《ばんさん》を特別すばらしいものにしようと、アガーフィヤと料理人は骨を折ったものの、いざ食事をはじめてみると、ただ空腹をかかえたふたりの友が、前菜の前にすわりこんで、バターつきのパンと、鳥の燻製《くんせい》と、塩づけの茸《きのこ》をたらふく食べたのと、料理人がお客をびっくりさせようと、ピロシキぬきのスープを、リョーヴィンのいいつけで出しただけのことであった。ところが、オブロンスキーは、いつもは段違いの食事に慣れていたにもかかわらず、薬草の浸し酒も、パンも、バターも、ことに鳥の燻製も、茸も、刺草《いらくさ》のスープも、白ソースをかけたチキンも、クリミアの白ぶどう酒も、すばらしいとほめた。なにもかもすばらしく、上出来であった。
「いや、すばらしい、じつにすばらしい!」彼は焼き肉のあとで太い巻たばこをふかしながら、いった。「ぼくはきみのとこへ来て、まるで騒々しく揺れている汽船から、静かな岸辺へおりたような気分だよ。それじゃ、きみの説によれば、労働者の要素そのものが研究されて、農村経営の方法にもそれが加味されなければならないというんだね。ところで、ぼくはこうした問題ではまったく無知だからね。しかし、理論とその応用という点では、労働者にも影響があるだろう、とは思われるがね」
「そうさ、しかし、ちょっと、待ってくれ。ぼくは経済学の話をしてるんじゃなくて、農村経営学のことをいってるんだからね。それは他の自然科学と同じように、与えられた現象と労働者を、経済学の面からも、民族学の面からも観察しなくちゃならないんだよ……」
そのとき、アガーフィヤがジャムを持ってはいって来た。
「やあ、アガーフィヤ」オブロンスキーは、自分のふっくらした指先を吸いながら、いった。「いや、まったく、お宅の鳥の燻製はすばらしいですな、薬草入りの浸し酒も!……さて、どうだい、コスチャ、もうそろそろ時間だろう?」彼はつけ加えた。
リョーヴィンは、葉を落した森の梢《こずえ》に沈みかかった太陽を、窓越しにちらっとながめた。
「ああ、もう時間だ、時間だ」彼はいった。「クジマー、馬のしたくをしてくれ!」そういって、彼は階下《した》へ駆けおりた。
オブロンスキーは下へおりると、自分で漆塗りの箱からズック製のケースをていねいにとって、その蓋《ふた》をあけ、新式の高価な猟銃を取り出した。クジマーは、こりゃたいした酒《さか》手《て》にありつけるぞとはやくも嗅《か》ぎつけて、もうオブロンスキーのそばを離れず、靴下や靴をはかせにかかったが、彼のほうもすすんでなすがままにさせていた。
「コスチャ、もし商人のリャビーニンが来たら――きょうここへ来るようにいっといたんだが――屋敷へあげて、待たしておくように、いいつけておいてくれよ……」
「それじゃ、リャビーニンに森を売るつもりかね?」
「ああ、きみもあの男を知ってるのかい?」
「もちろん、知ってるとも。ぼくはあの男と『積極的かつ決定的に』取引をしたことがあるんだ」
オブロンスキーは笑いだした。『積極的かつ決定的に』というのは、この商人の好んで使う言葉だったからである。
「まったく、あいつの話しぶりときたら、あきれるほどこっけいだよ。ほほう、こいつはもうご主人さまがどこへ行くか感づいたな!」彼は犬のラスカを片手でたたきながら、こうつけ足した。犬はくんくん鳴きながら、リョーヴィンのまわりにからみついて、その手や、長靴や、猟銃をなめまわしていた。
ふたりが外へ出たとき、車体の長い田舎《いなか》馬車がもう入口の階段の下で待っていた。
「たいして遠くはないんだが、一応、馬車の用意をさせといたよ。でも、歩いて行くかい?」
「いや、車のほうがいいね」オブロンスキーは、馬車に近づきながらいった。彼は腰をおろすと、両足を虎《とら》の皮の膝《ひざ》掛《か》けでくるみ、葉巻をふかしはじめた。「きみがたばこをすわないのはどういうわけかね 葉巻ってやつは、単に楽しみというばかりじゃなくって、その楽しみの頂上であり、象徴でさえあるんだぜ。これこそまさに人生だよ! すばらしいねえ! これこそぼくの望んでる生活だよ!」
「じゃ、いったい、だれがそのじゃまをしてるんだい?」リョーヴィンは微笑を浮べながらいった。
「いや、きみは幸福な人間だよ。自分の好きなものはみんな持ってるんだからなあ。馬が好きなら馬もあれば、犬もあり、猟もできれば、農村経営の仕事もある」
「たぶん、それはぼくが自分にあるものに満足して、ないものについては、くよくよしないからだろうよ」リョーヴィンはキチイのことを思いだしていった。
オブロンスキーはすぐその意を悟ったが、ちらっと相手の顔を見ただけで、なんともいわなかった。
リョーヴィンはオブロンスキーがいつもの勘で、自分がシチェルバツキー家の話を恐れているのに気づいて、わざとその話にふれなかったことに対して、ひそかに感謝していた。しかし、今は、もう、自分をあれほど苦しめていたことについて知りたくなっていた。ただ、彼は自分からそれをいいだす勇気はなかった。
「ときに、きみのほうはどうかね?」リョーヴィンは自分のことばかり考えるのはよくないと考えて、そうたずねた。
オブロンスキーの目は楽しそうに輝きだした。
「きみはきっと、ちゃんとした食糧があるのに、丸パンをほしがっていいなんてことは、絶対に認めないだろうね。だって、きみにいわせれば、それは犯罪なんだから。でも、ぼくは恋愛のない人生なんて認めないね」彼はリョーヴィンの質問を、自己流に解釈しながら答えた。「どうにもならんさ、ぼくという人間は、そういうふうにできてるんだから。それに、まったくの話が、それで他人を傷つけることはめったにないんだし、こちらはとても楽しい思いなんだから……」
「おい、どうしたんだ、また、なにか新しいのができたのかい?」リョーヴィンはたずねた。
「そうなんだよ、きみ! ねえ、きみもオシアンの描く女のタイプを知ってるだろう……夢に見るようなやつをさ……ところが、そういった女が現実にも存在してるんだぜ……そういう女はこわいところがあるがね。だいたい、女ってやつはいくら研究しても、そのたびにまったく新しい面を表わすもんでね」
「そんなら、いっそ研究なんかしないほうがいいじゃないか」
「いや、そりゃ違う。ある数学者がいってるじゃないか、研究の楽しみは真理の発見にあるのじゃなくて、その探究にあるとね」
リョーヴィンは黙って聞いていたが、自分でいくら努力してみても、友人の立場に立って、そうした感情を解し、そういう女を研究する喜びを理解することは、なんとしてもできなかった。
15
猟場は、ささやかなやまならしの林を流れる小川のほとりで、そう遠くはなかった。林のそばへ乗りつけると、リョーヴィンは馬車をおり、もう雪が溶けて、苔むした泥ぶかい空地《あきち》の一隅《いちぐう》へ、オブロンスキーを案内した。そして自分は、別の片すみにある二叉《ふたまた》の白樺のそばへもどって、低い枯れ枝の叉へ銃を立てかけ、長い上着《カフタン》を脱ぎ、帯を締めなおして、両手が自由に動くかどうかためしてみた。
ふたりのあとをついて来た灰色の老犬ラスカは、主人と向いあって用心ぶかくうずくまり、さっと、耳をそばだてた。太陽は大きな森の陰に沈みかけていた。そして、やまならしのあいだに点々としている白樺が、今にもはちきれそうな芽をつけたしだれ枝を、夕《ゆう》映《ば》えの光の中にくっきりと描きだしていた。
まだ雪の残っているこんもりした森の中からは、曲りくねって細々と流れている水が、かすかな音をたてていた。小鳥たちはさえずりながら、時おり、木から木へ飛び移っていた。
しんとした静けさの合間をぬって、凍てついた土が溶けたり、草が伸びたりするために、少しずつ動く去年の朽ち葉の、かさこそと鳴る音が聞えた。
《こりゃ、驚いた! 草が伸びるのが、耳に聞えたり、目に見えたりするなんて!》リョーヴィンは若草の針のような芽のそばで、石筆色の湿ったやまならしの朽ち葉がぴくりと動いたのを見つけて、そうつぶやいた。彼は立ったまま耳を澄まして、足もとのじめじめと苔むした地面や、耳をそばだてているラスカや、目の前に低く山のふもとまで海のようにひろがっている冬枯れのあらわな森の梢《こずえ》や、ところどころ白い雲の条《すじ》をひいている夕暮れの空などを、かわるがわるながめるのだった。一羽の禿鷹《はげたか》がゆったりと羽ばたきながら、遠い森の空たかく飛んで行った。と、もう一羽が、やはり同じように、同じ方角へ飛んで行って、姿を消した。小鳥たちはいよいよ声高《こわだか》く、気ぜわしそうに、茂みの奥でさえずった。あまり遠くないところで、みみずくがほうほうと鳴きだした。と、ラスカはぶるっと身を震わせ、用心ぶかく二、三歩踏みだし、首を横にかしげて、じっと耳を澄ましはじめた。小川の向うからは、ほととぎすの鳴き声が聞えた。ほととぎすは二度ばかり普通の鳴き声をたてたが、じき声がかすれて、急《せ》きこんでしまい、すっかり調子がめちゃめちゃにもつれてしまった。
「どうだい! ほととぎすが鳴いてるじゃないか!」オブロンスキーは、灌木《かんぼく》の茂みから現われながらいった。
「ああ、ぼくも聞いたよ」リョーヴィンはわれながら不愉快な自分の声で、森の静けさを乱しながら、答えた。「もうじきだよ」
オブロンスキーの姿は、また灌木の茂みの陰に隠れた。やがて、リョーヴィンに見えたものは、ただぱっと燃えあがったマッチの炎と、すぐそれに代ったたばこの赤い火と、青い煙ばかりだった。
かちっ! かちっ! オブロンスキーが撃鉄を起す音が聞えた。
「ありゃ、なにが鳴いているんだい?」オブロンスキーは、子馬がふざけて細い声でいなないているような、長く尾をひいた鳴き声に、リョーヴィンの注意をうながしながら、たずねた。
「なに、あれを知らないのかい? あれは雄《お》兎《うさぎ》だよ。でも、もうしゃべっちゃいられないよ。ほら、飛んで来るぜ!」リョーヴィンは撃鉄を起しながら、ほとんど叫ぶようにしていった。
遠くに、かぼそい笛のような音が聞えたかと思うと、狩猟家にはおなじみの二秒間という一定の間をおいて、第二、第三の声がつづいた。そして、第三声のあとでは、もうのどを鳴らすような音が聞えて来た。
リョーヴィンはすばやく左右に目をくばった。と、目の前の黒みがかったコバルト色の空に、やまならしの梢の若枝がぽうっと一つに溶けこんだ上方を、飛んで行く一羽の鳥の姿が見えた。その鳥はまっすぐに彼のほうへ飛んで来た。その厚地の布を裂くようなのどの奥で鳴く声が、耳のすぐ上で響いた。もう鳥の長いくちばしと首が見分けられた。リョーヴィンがねらいをつけた瞬間、オブロンスキーが立っていた灌木の茂みから、赤い稲妻《いなずま》のようなものがぱっとひらめき、鳥は矢のように落ちて来たが、再び空へ舞いあがった。と、再び稲妻がひらめいて、銃声がとどろいた。と、鳥はまるで宙に身をささえようとするかのように、翼をばたばたさせながら、一瞬、ひとところに止まっていたかと思うと、たちまち、泥ぶかい土の上へどさっと落ちて来た。
「しくじったかな」オブロンスキーは、煙のためによく見えなかったので、そう叫んだ。
「ほら、そこへ持って来たじゃないか!」リョーヴィンはラスカを指さしながらいった。犬は片方の耳をたて、ふさふさとしたしっぽの先を高々と振りながら、このうれしさを少しでも長びかせたいといった格好で、微笑でも浮べているような顔つきをしながら、静かに歩みよると、殺された鳥を主人に運んで来た。
「いや、きみがしとめてくれてうれしいよ」リョーヴィンはいったが、それと同時に、鴫《しぎ》をしとめたのが自分でなかったことに、はやくも羨望《せんぼう》の念を覚えた。
「ちぇっ、右側の銃身が射ち損じやがった!」オブロンスキーは答えた。「しっ……飛んで来たぞ」
はたして、耳をつんざくような鋭い鳴き声が、矢つぎばやに次から次へと聞えた。二羽の鴫が戯れながら、互いに追いかけあい、例ののどの奥で鳴く声は出さずに、かぼそい笛のような鳴き声ばかりたてて、ふたりの猟人の頭の上へ飛んで来た。四発の銃声が鳴りわたったと思うと、鴫は燕《つばめ》のようにひらりと身をかわして、たちまち、視界から消えてしまった。
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猟の成績はすばらしかった。オブロンスキーはさらにもう二羽しとめ、リョーヴィンも二羽しとめたものの、そのうちの一羽は見つからなかった。やがて暗くなってきた。明るい銀色をした宵《よい》の明星は、西の空低く、白樺の陰にその優しい輝きを見せ、東の高い空には、陰気くさい牛飼い座の第一星が、赤い光を放ってまたたきはじめた。リョーヴィンは頭の上に、大熊座の星を見つけたり、見失ったりした。鴫はもう飛ぶのをやめてしまった。しかし、リョーヴィンは、今は白樺の枝の下のほうに見えている宵の明星が、その上のほうへ昇って、大熊座がどこからでもはっきりと見えるようになるまで、待ってみようと心にきめた。明星はもう白樺の枝の上にまわり、轅《ながえ》をつけた車のような大熊座は、もう暗青色の空にはっきりとその姿を現わしてきたが、彼はなおもじっと待っていた。
「もう帰る時間だろう?」オブロンスキーは声をかけた。
森の中はもうすっかり静まりかえって、一羽の鳥もこそとも音をたてなかった。
「もうちょっと待ってみよう」リョーヴィンは答えた。
「まあ、きみのいいように」
ふたりはそのとき、十五歩ばかり離れて立っていた。
「スチーヴァ!」いきなり、思いがけなくリョーヴィンが声をかけた。「なぜきみは話してくれないんだい、義妹《いもうと》さんは結婚したのか、それとも、いつ結婚するんだい?」
リョーヴィンは、自分がしっかり落ち着いており、どんな答えにも興奮などしないように思われた。ところが、オブロンスキーの答えは、夢にも予期していなかったことだった。
「あれは嫁に行くなんて考えてもいなかったし、今も考えてはいないよ。なにしろ、からだがひどく悪くてね、医者にいわれて、外国へ転地したよ。生命の危険を心配してるくらいだからね!」
「ほんとかい!」リョーヴィンは思わず大声をあげた。「からだがひどく悪いって? いったい、どうしたんだ? どうしてあの人は……」
ふたりがそんな話をしているとき、ラスカは耳をそばだてて、空を高く見上げたり、責めるようにふたりを振り返ったりしていた。
《よりによって、とんでもないときに、話をはじめたもんだ》ラスカは考えた。《あいつが飛んで来ているのに……ほらほら、やっぱり、そうじゃないか。あ、逃げて行ってしまうじゃないか……》ラスカは考えつづけた。
ところが、ちょうどその瞬間、ふたりとも耳をつんざくような鋭い鳴き声を聞いた。ふたりはさっと銃に手をかけた。と、二条の稲妻がひらめいて、まったく同時に、二発の銃声がとどろいた。空高く飛んでいた鴫は、たちまち、翼をおさめて、細いひこばえをへし曲げながら、茂みの中へ落ちて来た。
「こいつはすばらしい! 相撃ちだ!」リョーヴィンは叫んで、鴫をさがしにラスカといっしょに、茂みの中へ駆けだして行った。《ええと、あれはなんだったかな、今いやな気持がしたのは?》彼は思いだした。《そうだ、キチイが病気なんだ……でも、どうにもしかたがない。ほんとに、かわいそうだけれど》彼は考えた。
「あっ、見つけたな、感心感心!」彼はラスカの口からまだ暖かい鳥をとって、もうほとんどいっぱいになっている獲物袋へ入れながら、いった。「スチーヴァ! 見つかったぜ!」彼は叫んだ。
16
わが家へ帰る途中、リョーヴィンはキチイの病気と、シチェルバツキー家の計画についていちいち細かいことまで、すっかりききただした。彼はそんなことを認めるのは、われながら恥ずかしかったが、正直にいって、それを聞いて気持がよかった。気持がよかったというのは、それでまた希望が生れたからでもあるが、さらに、自分にあれほどつらい思いをさせた彼女が、今度は自分でそのつらい思いをしているからでもあった。しかし、オブロンスキーがキチイの病気の原因について話しはじめて、ヴロンスキーの名をあげたとき、リョーヴィンは相手をさえぎった。
「ぼくはね、よその家庭の事情を細かくせんさくする権利なんか、もってないよ。いや、正直なところ、そんな興味はぜんぜんないのさ」
オブロンスキーは、リョーヴィンの顔に表われた、前からなじみの深い急激な変化を、はやくも見てとって、かすかに微笑をもらした。一分ほど前まであれほど明るかった友人の顔が、今度は逆にすっかり陰鬱《いんうつ》になってしまったからである。
「森の件については、もうリャビーニンとすっかり話がついているのかね?」リョーヴィンはたずねた。
「ああ、すんだよ、えらく高値でね。三万八千ルーブルだった。八千は前払いで、残りは六年年賦だ。この件じゃ、ずいぶん、手間をかけたよ。だれもそれ以上で買ってくれるやつはいなかったからね」
「それじゃ、きみはただで森をやったようなものだよ」リョーヴィンは顔をくもらせていった。
「というと、なぜただなんだね?」オブロンスキーは人の良さそうな微笑を浮べながらいった。彼は、いまやリョーヴィンの目から見れば、なにもかもおもしろくないということが、ちゃんと前もってわかっていたからである。
「なぜって、あの森はすくなくとも、一ヘクタールあたり五百ルーブルはするからね」リョーヴィンは答えた。
「いやはや、こんな農村経営者にかかったら、たまらんね!」オブロンスキーはふざけた調子でいった。「きみはすぐわれわれ都会人をそうやって見下げるくせがあるね……ところが、いざ仕事をする段になると、われわれのほうがいつもずっとうまいんだからね。とにかく、ぼくはすっかり計算ずくのうえで」彼はいった。「あの森が高値で売れたと思ってる。いや、それだから、先方で破約にでもしやしないかと、恐れるくらいだよ。なにしろ、あれは木材用の森じゃなくって」オブロンスキーはこの木材用《・・・》というひと言で、リョーヴィンの疑いがまちがっていることを証明しようと思って、いった。「どっちかというと、薪《たきぎ》とりの森なんだからね。しかも、一ヘクタールから三十サージェン以上はとれないんだからね。それなのに、やっこさんは二百ルーブルの割で払うんだから」
リョーヴィンは、相手をばかにしたように、にやりと笑った。《わかってるさ》彼は考えた。《こういう都会人のやり口は。これはなにもこの友人ひとりのことじゃなくて、みんなそうなんだから。十年に二度も田舎へやって来て、二つか三つ田舎言葉を覚えると、もうなにもかもすっかりわかったような気になって、それがその場にぴったりしようとしまいと、やたらにそいつを振りまわすんだ。木《・》材用《・・》だとか、三十サージェン《・・・・・・・》とか。自分でしゃベっていても、本人はなんのことか、さっぱりわかっちゃいないんだ》
「そりゃぼくだって、きみが現にお役所で書いていることについちゃ、きみに教えようなんて思わないよ」彼はいった。「必要があれば、ききに行くよ。ところが、きみはそんなことで森のいろはぐらいはわかってるつもりなんだね。いや、どうして森というやつはむずかしいものなんだよ。だいたい、立木の数は勘定したのかい?」
「どうやって立木の数なんか勘定できるんだい?」オブロンスキーは、なおも友人のふきげんをなおそうとして、笑いながらいった。「いや、知者ならずして、いかで数えん、浜の真砂《まさご》を、星の光を、だよ……」
「そうとも。ところが、リャビーニンの偉大なる頭脳なら、できるんだからね。どんな商人だって、勘定しないで買うやつは、ひとりもいやしないよ。そりゃ、きみのように、ただでくれてやるなら別だがね。きみの森はぼくも知ってるさ。毎年あすこへ猟に行くからね。で、きみの森は一ヘクタール、現金で五百ルーブルの値打ちはあるね。ところが、やっこさんは年賦で二百ルーブルってわけだ。つまり、きみは三万ルーブルばかり、ただでくれてやったわけさ」
「いや、そう勝手に熱をあげるのはよしてくれ」オブロンスキーは哀れっぽくいった。「それじゃ、なぜだれもそんな値をつけなかったんだい?」
「だって、やっこさんは商人どもとぐるになってるからさ。手を引かせるために、みんなに金をまいたのさ。ぼくもあの連中とはみんな取引したことがあるから、よく承知しているよ。なにしろ、あの連中ときたら、商人じゃなくて、ブローカーみたいなもんだからな。やつは一割や、一割五分の仕事には手を出さないんだ。すくなくとも二十コペイカで一ルーブルのものを買う機会をねらってるんでね」
「いや、もうたくさんだ! きみは今虫の居所が悪いんだろ」
「とんでもない」リョーヴィンは顔をくもらせて答えた。もうそのときふたりは屋敷のそばに乗りつけていた。
入口の階段のところには、鉄と皮で頑丈《がんじょう》にかためた田舎馬車が、太った馬を幅の広い綱でしっかりつけて、もう乗りつけていた。車の中には、リャビーニンのために御者がわりを勤めている、血の気の多そうな番頭が、帯をきつく締めて腰かけていた。リャビーニン自身はもう屋敷の中へはいっていて、ふたりの友人を玄関に出迎えた。リャビーニンは背の高いやせぎすの中年の男で、鼻下にひげをたくわえ、突き出た下顎《したあご》はきれいに剃《そ》って、飛びでたような、どんよりした目をしていた。彼は尻《しり》の下までボタンのついた、裾《すそ》の長い、青いフロックコートを着こんで、くるぶしのところにしわがよって、ふくらはぎの辺がまっすぐのびた長めの長靴をはき、さらにその上に大きなオーヴァシューズまではいていた。彼は顔をぐるっと丸くハンカチでふいてから、それでなくともきちんとしているフロックコートの前を合せ、まるでなにかをつかもうとするようなしぐさで、オブロンスキーに手をさしのベながら、ふたりを笑顔で迎えた。
「やあ、ちゃんと来てくれたね」オブロンスキーは、相手に手をさしのベながらいった。「ちょうどよかった」
「道はまったくひどいもんでしたが、閣下のご命令にそむくわけにはいきませんので。来る途中、ずっと歩いてまいりましたが、とにかく時間までに間にあいました。リョーヴィンのだんなさま、お久しぶりで」彼はリョーヴィンのほうを向いて、その手を捕えようとした。一方、リョーヴィンは顔をしかめて、相手の手に気のつかないようなふりをしながら、袋から鴫《しぎ》を取り出していた。「猟のお楽しみでいらっしゃいましたか? この鳥は、つまり、なんというのでございますかな?」リャビーニンはばかにしたように、鴫を見やりながら、つけ加えた。「つまり、その、風味がございますんですな」そういって、彼は納得いかぬふうに首を振ったが、その様子はまるで、そんなことは骨折り損のくたびれもうけだといわんばかりであった。
「書斎にするかね?」リョーヴィンは暗い顔に眉《まゆ》をひそめて、フランス語でオブロンスキーにいった。「書斎へ行って、あそこで相談したらいいだろう」
「いや、もうどこでもいっこうにさしつかえありませんですよ」リャビーニンは、人を食ったような尊大な調子でいったが、それは、ほかのものなら、場所と相手によっては困るかもしれないが、自分はどんな場合でもけっして困ったりしない、ということを思い知らせるためらしかった。
書斎へはいると、リャビーニンは習慣から、聖像はどこかと、すぐあたりを見まわしたが、それを見つけても、ベつに十字は切らなかった。彼は本を並べた戸《と》棚《だな》や棚をじろりと見たが、鴫の場合と同じようなけげんそうな表情を浮べ、人を食ったように、にやりと笑って、これこそ骨折り損のくたびれもうけ以外のなにものでもないといわんばかりに、納得のいかぬ様子で首を振った。
「どうした、金は持って来たかい?」オブロンスキーはたずねた。「まあ、かけろよ」
「わしどもはお金のことでしたら、けっしてご心配はかけませんよ、ちょっとお目にかかって、ご相談しようと思ってまいりましたので」
「いったい、相談とはなんだね? まあ、かけたらどうだね」
「はあ、それはどうも」リャビーニンはいって、さも窮屈そうな格好で、肘《ひじ》掛《か》けいすの背に肘をつきながら、腰をおろした。「もう少しまけてくださらなくちゃ。公爵、罪でございますよ。いや、お金のほうはもうすっかり用意しております、一コペイカまで。お金の遅れることはけっしてございません」
リョーヴィンはそのあいだ、銃を戸棚にしまい終って、もう戸口から出ようとしていたが、商人のこの言葉を耳にすると、足を止めた。
「そうでなくても、きみはあの森をただも同然で手に入れたんじゃないか」彼はいった。「この男の来方が遅かったから、しかたがないが、でなければ、ぼくが値をつけてやったのに」
リャビーニンは席を立って、黙ったまま、にやにやしながら、リョーヴィンを頭の上から爪先《つまさき》まで見おろしていた。
「こりゃ、えらくけちくさいことをおっしゃいますな、リョーヴィンのだんなさま」彼はオブロンスキーに笑いかけながらいった。「こちらからはもうこんりんざいなにもいただけませんよ。小麦を買いつけましたが、ずいぶんいい値段でございましてね」
「ぼくが自分のものをきみにただでやるわけがあるかね。ぼくだって、なにも地面に落ちてるものを拾ったんでも、盗んだのでもないからね」
「そりゃ、とんでもございません。このごろじゃ、盗みなんか、こんりんざいできませんとも。なにしろ、このごろじゃ、なにもかも、決定的に公開裁判ということになっておりますから、今じゃ万事が公明正大でございますよ。盗みなんてとんでもござんせん。わしどもは正直にご相談したんですが、どうもあの森の値段は、高すぎましてな。とてもそろばんがとれませんので、なんとか、少しでもまけていただきたいもんで」
「じゃ、きみたちの取引はすんでるのか、それとも、すんでないのか? もしすんでるのなら、いまさら相談する必要はないね。でも、もしすんでないのなら」リョーヴィンはいった。「あの森はぼくが買うよ」
と、リャビーニンの顔からは、とつぜん、微笑が消えた。隼《はやぶさ》のように貪欲《どんよく》で残忍な表情が、その顔をおおってしまった。彼は骨ばった指をすばやく動かして、フロックコートのボタンをはずし、シャツやチョッキの真鍮《しんちゅう》ボタンや、時計の鎖を見せながら、そそくさと、古びた厚ぼったい紙入れを取り出した。
「さ、どうぞ。森は手前どものもので」彼はすばやく十字を切って、手をさしのベながら、いった。「さ、お金を受け取ってください。もうわしの森ですからな。これがリャビーニンの取引というもんで、端金《はしたがね》なんざとやかく申しませんよ」彼は顔をしかめ、紙入れを振りまわしながら、いった。
「ぼくがきみの立場だったら、そうあわてて売らないんだがなあ」リョーヴィンはいった。
「とんでもない」オブロンスキーはあきれたようにいった。「だって、こちらはもう約束してしまったんだから」
リョーヴィンは、ドアをぱたんとたたきつけて、部屋から出て行った。リャビーニンはそのドアをながめながら、にやにやして、首を振った。
「まったくお若いことで、まるっきりお坊っちゃん育ちですな。いや、わしが買ったのは、正直のところ、こりゃ信用していただきたいんですが、その、ただもう名誉のためなんでして。つまり、オブロンスキー家の森を買ったのは、ほかならぬリャビーニンだ、といわれたいためなんで。まあ、そろばんがとれるかどうかは神さまのおぼしめしで。ほんとでございますとも。では、どうぞ、契約書にご署名を……」
一時間後に、商人はきちょうめんに下着の前をあわせ、フロックコートのボタンをかけ、契約書をポケットに入れて、頑丈に鉄を張りめぐらした馬車に乗って、帰って行った。
「いやはや、どうにもならんな、ああいうだんな方ときたら?」彼は番頭に話しかけた。「どいつもこいつも同じ穴のむじなさ」
「そりゃ、まったくおおせのとおりで」番頭は手《た》綱《づな》を渡して、皮の膝掛けのボタンをかけながら、答えた。「でも、いいお買い物でしたな、だんな?」
「ああ、まあね……」
17
オブロンスキーは、商人から受け取った三カ月前払いの約束手形で、ポケットをふくらませて、二階へのぼった。森の一件も片がつき、ふところには金がはいっているうえに、猟も上首尾だったので、オブロンスキーはすこぶる上きげんであった。そのため、彼はなおさら、なんとかリョーヴィンのふきげんを追いはらおうとやっきになった。彼は夜食のあいだじゅう、きょうという日を、その始まりと同様、気持よく終らせたいと望んでいた。
実際、リョーヴィンはきげんが悪かった。彼は愛すべき珍客を愛想《あいそ》よく親切にもてなそうと、一生懸命努めたにもかかわらず、なんとしても自分に打ち勝つことができなかった。キチイが嫁《とつ》いでないというニュースは、酒の酔いのように、少しずつ彼のからだをまわりはじめていた。
キチイは嫁に行かないで、病気をしている。しかも、その病気は彼女をふった男への恋患《こいわずら》いである。この侮辱は、まるで彼自身に加えられたような感じだった。ヴロンスキーは彼女をふったが、彼女はリョーヴィンをふったのだ。したがって、ヴロンスキーはリョーヴィンを軽蔑《けいべつ》する権利があり、それゆえに彼の敵である。ところが、リョーヴィンはこうしたことをすっかり考えてみなかった。彼はただ、そこになにか自分にとって侮辱的なものがあると、ぼんやり感じただけであった。現に今も、自分をすっかり混乱させた事がらに腹を立てずに、ただ目にふれるすべてのものに、八つ当りする始末だった。ばかげた森の売買、オブロンスキーのひっかかった欺《ぎ》瞞《まん》、しかも、それが自分の家で行われたということが、彼の心をいらいらさせたのであった。
「やあ、すんだかね?」彼は二階で、オブロンスキーを迎えながら、いった。「夜食をするかね?」
「ああ、けっこうだね。田舎《いなか》へ来たら、えらく食欲が出るね、こりゃ。奇《き》蹟《せき》だよ! でも、なぜきみはリャビーニンに、食事を出そうとしなかったんだい?」
「ふん、あんな悪党はごめんだよ!」
「それにしても、きみはあの男をひどくあしらったものだね!」オブロンスキーはいった。「手もさしださないんだからなあ。なにも握手していかんという法もないだろう?」
「なに、下男と握手しないのと同じことさ。でも、下男のほうがあいつより百倍もましだがね」
「それにしても、きみは相当な保守主義者だね! じゃ、階級の融和なんてことはどうかね?」オブロンスキーはいった。
「融和したいやつは、どうぞ、ご勝手に。でも、ぼくはいやだね」
「どうやら、きみは純然たる保守主義者だよ」
「正直にいって、自分がなにものかなんてことは、今まで一度だって考えたことはないね。ぼくはコンスタンチン・リョーヴィンだ、ただそれだけのことさ」
「それも、大いにふきげんなコンスタンチン・リョーヴィンだろう」オブロンスキーは笑いながら、いった。
「ああ、ふきげんだとも、なぜだかわかるかい? それはね、失礼だが、きみのばかげた取引のせいなんだぜ……」
オブロンスキーは、なにも罪がないのに、侮辱されて、気分をこわした人のように、人の良さそうな表情で顔をしかめた。
「いや、もうたくさんだよ!」彼はいった。「だれかがなにかを売った場合、そのすぐあとで、『あれはもっとずっと高いものだったのに』といわれるのは毎度のことだからね。しかも、売ろうとしているときには、だれひとりそんな値をつけちゃくれないのさ……いや、どうやら、きみはあの哀れなリャビーニンになにか恨み《・・》があるらしいね」
「そう、あるかもしれないね。でも、それがなんのためかわかるかい? きみはまたぼくのことを保守主義者とか、あるいは、もっと恐ろしい言葉で呼ぶかもしれんが、それでも、とにかくぼくは、自分もその一員である貴族階級があらゆる面で貧困化していくのを見るのが、いまいましく、残念なんだ。そりゃ、階級の融和ということもいわれているけれど、ぼくはやはり貴族に属してることを大いに喜んでいるからね……しかも、その貧困化はぜいたくの結果じゃないのさ。もしそうなら、なにもいうことはない。だんな暮しは貴族の特権で、それができるのはただ貴族だけだからね。近ごろは、この辺の百姓も土地を買い集めているが、それにはぼくも腹が立たない。だんなはなにもしないのに、百姓は働いているんだから、怠け者がおしのけられるのは、あたりまえの話だよ。ぼくも百姓のために大いに喜んでいるさ。ところが、ぼくはあの、なんと呼んだらいいか知らないが、ある種の無邪気さのために起る貧困化を見ると、どうにも腹が立ってしようがないんだ。こちらでは、小作人のポーランド人が、ニースで暮しているある奥さんから、すばらしい領地を半値で買うかと思えば、あちらでは一ヘクタール十ルーブルはする土地を、一ルーブルで商人に貸してしまったりする。現に今もきみは、なんの理由もないのに、あんないかさま野郎に三万ルーブルもくれてやったんだからなあ」
「それじゃ、どうすればいいんだね? 立木を一本一本数えるのかい?」
「絶対に数えなくちゃいけないね。いや、きみは数えなかったが、リャビーニンのほうは数えたんだよ。まあ、リャビーニンの子供たちには生活費も、教育費も残っていくけど、きみの子供たちには、きっと、そうはならないだろうね!」
「いや、失敬だが、そんな勘定をするなんて、なんだかけちくさくていやだね。われわれにはわれわれの仕事があり、あの連中にはまたあの連中の仕事があるのさ。それに、連中にはもうけが必要なのさ。まあ、しかし、もう取引はすんで、けりがついちまったんだ。や、目玉焼きじゃないか、ぼくは玉子焼きの中でこれがいちばん好きでね。それから、アガーフィヤが、またあのすばらしい薬草入の浸し酒を出してくれるだろうね……」
オブロンスキーは食卓につくと、アガーフィヤと冗談話をはじめ、こんな昼食や夜食はもう長いこと食ベたことがない、といいはるのだった。
「あなたさまはそういってほめてくださいますがね」アガーフィヤはいった。「うちのだんなさまときたら、なにをさしあげても、ええ、パンの皮でも、黙って召しあがって、すぐ行っておしまいになるんでございますよ」
リョーヴィンはどんなに自分をおさえようと努めてみても、どうしても気分が沈んで、黙りがちであった。彼はオブロンスキーに、ある質問をしたかったが、どうにも決意がつかぬばかりか、その質問の形式も見つからず、いつ、どんなふうにそれを持ちだしたらいいかも見当がつかなかった。オブロンスキーは、もう階下《した》の自分の部屋へおり、服を脱ぎ、もう一度顔を洗って、ひだのはいった寝間着を着こんで、横になっていた。一方、リョーヴィンはいろんなむだ話をしながら、いつまでも彼の部屋にぐずぐずしていたが、自分のききたいことを思いきってたずねることができなかった。
「まったく、石鹸《せっけん》のつくり方もびっくりするほどじょうずになったもんだなあ」彼はかおりのいい石鹸の包み紙をといて、ながめまわしながらいった。それは、アガーフィヤがお客さんのために用意したものだが、オブロンスキーはそれを使わなかった。「まあ、これを見たまえ、まさに一個の芸術品だね」
「ああ、今じゃ、あらゆるものに改良の手がおよんでいるからな」オブロンスキーはうるみ声で、天下泰平なあくびをしながら、いった。「たとえば、芝居だって、それから、あの娯楽場だって……あ、あ、あー!」彼はあくびをした。「どこもかしこも電燈がついてるし……あ、あー!」
「ああ、電燈がね」リョーヴィンはいった。「なるほど。それはそうと、ヴロンスキーは今どこにいるかね?」彼は不意に石鹸をおいて、たずねた。
「ヴロンスキーだって?」オヴロンスキーは、ふと、あくびをやめていった。「ペテルブルグだよ。きみが発《た》ってからじきに行っちまったきり、もう一度もモスクワへやって来ないんだよ。ねえ、コスチャ、きみにほんとうのことをいうがね」彼はテーブルに肘《ひじ》をつき、美しいばら色の顔を片手にのせて、言葉をつづけた。その顔には、とろんとした、人の良い眠そうな目が、星のように光っていた。「あれはきみ自身が悪かったんだぜ。きみが競争者を恐れたからさ。ところで、ぼくとしては、あのときもいったとおり、どっちのほうにチャンスがあったかは、自分でもわからないね。なぜきみはどこまでもおさなかったんだい? あのときもきみにいったとおり、つまり……」彼は口を大きくあけないで、あごだけであくびをした。
《こいつは、おれが結婚の申し込みをしたことを知ってるのか、それとも、知らないのか?》リョーヴィンは相手の顔を見つめながら、ちょっと考えた。《うむ、こいつの顔には、なにかずるい、外交官的なところがあるな》彼は自分が赤くなっていくのを感じながら、無言のまま、オブロンスキーの目をまともに見すえた。
「たとえあのとき彼女の側になにかあったとしても、それはただ外面的なことに迷わされたのさ」オブロンスキーは言葉をつづけた。「それは、つまり、完全な貴族主義と、将来の社会的地位が、彼女でなくて、母親のほうに作用したってわけさ」
リョーヴィンは顔をしかめた。彼が味わわされたあの拒絶という侮辱感が、まるでたった今受けたなまなましい傷のように、彼の心を焼いた。彼はわが家にいたので、四方の壁がささえとなった。
「あ、ちょっと、待ってくれ」彼はオブロンスキーをさえぎりながら、しゃべりだした。「きみは貴族主義といったね、じゃ、ひとつ、きみにききたいが、ヴロンスキーにしろ、だれにしろ、その貴族主義というやつは、いったいどういうものなんだね? つまり、ぼくを軽蔑してもかまわんという貴族主義なるものは? きみはヴロンスキーを貴族と見なしているが、ぼくはそうは思わんね。親《おや》父《じ》のほうはつまらん身分からただうまいとこ世の中を泳ぎまわって成りあがった男だし、母親ときたら、どんな男とでも関係したと思われるような女だし……いや、失敬だが、ぼくはぼく自身や、ぼくと同じような人間を貴族と考えてるね。つまり、過去にさかのぼっても、三、四代もつづいた名誉ある家族や、最高の教養を身につけた人びとの名前をあげることができるのさ(そりゃ、天与の才とか頭脳とかは別の話だよ)。こういう人たちはぼくの父親や祖父のして来たように、どんな人の前でも、一度として卑屈な振る舞いもせず、だれの保護も必要としなかった人たちだからね。しかも、ぼくはそういう人たちを大勢知っているんだ。きみは、ぼくが立木を数えることをけちくさいといって、リャビーニンに三万ルーブルの金をくれてやっている。そりゃ、きみには地代とか、なにやかや、よくは知らんが、いろんな収入があるんだろうが、ぼくにはそんなものはない。だから、先祖伝来のもの、労働から得たものを尊ぶのさ……われわれこそ貴族であって、この世の権力のお情けだけで生きている連中や、二十コペイカくらいの端金《はしたがね》で買収されるような連中は貴族じゃないよ」
「きみはだれのことをいってるんだね? とにかく、ぼくはきみの説に賛成だがね」オブロンスキーは、心から楽しそうにいった。もっとも、彼はリョーヴィンが二十コペイカで買収される連中と名づけた中に、自分も含まれていることを直感したが、しかし、リョーヴィンの生きいきした態度が、すっかり気に入ってしまった。「きみはだれのことをいってるんだね? そりゃ、きみがヴロンスキーについていったことは、まちがってる点も少なくないが、ぼくがいおうとしてるのはそんなことじゃない。ぼくははっきりいうけれど、もしぼくがきみの立場だったら、これからいっしょにモスクワへ出かけるところだがね……」
「いや、きみが知ってるかどうかは知らんが、ぼくはもうどうだっていいんだ。じつをいえば、ぼくは結婚の申し込みをして、断わられたんだよ。だから、キチイは、もうぼくにとって痛ましい、恥ずべき思い出なのさ」
「なぜだい? それこそ、くだらん話じゃないか!」
「しかし、もうこの話はやめよう。もしぼくが、今きみに失敬なことをいったなら、どうか、堪忍《かんにん》してくれたまえ」リョーヴィンはいった。いまや彼はなにもかもいってしまったので、また朝と同じような気分になった。「スチーヴァ、まさかぼくに腹を立てちゃいないだろうね? どうか、腹を立てんでくれよ」彼はいって、笑いながら友の手をとった。
「なあに、ちっとも。第一、なにもおこるわけがないじゃないか。それより、すっかり話ができてほんとにうれしいよ。それはそうと、朝の猟もなかなかいいものだぜ。出かけようじゃないか? ぼくはこのまま眠らなくたって平気だし、猟場からまっすぐ駅へ行けばいいんだから」
「いや、大いにけっこう」
18
ヴロンスキーの内面生活は、すベてあの情熱によって満たされていたにもかかわらず、その外面生活は社交界と連隊の、さまざまな関係や利害から成り立った昔ながらの、きまりきった軌道にのって、相変らず、のっぴきならぬ状態で流れていた。連隊の利害は、ヴロンスキーの生活でも、重大な位置を占めていた。それは、彼が連隊を愛していたからでもあるが、それよりもさらに、彼が連隊のみなから好かれていたからでもあった。連隊では、だれもがヴロンスキーを愛していたばかりでなく、彼を尊敬し、また誇りとしていた。彼が莫大《ばくだい》な財産を持ち、すばらしい教養と才能を備え、名誉心と虚栄心を満たすことのできるあらゆる成功への大道が開けているにもかかわらず、これらのいっさいを軽視して、生活のあらゆる利害の中で、連隊と、友人たちの利害をなによりも大切に考えていたので、だれもが彼を誇りに思っていたわけである。ヴロンスキーも、自分に対する同僚のこうした見方を自覚していたので、単にこうした生活を愛していたばかりでなく、自分に対するそうした見方を保つことを、自分の義務と感じていた。
あたりまえのことながら、彼は仲間のだれにも自分の恋については話さなかった。どんな羽目をはずした酒席でも、けっして口をすベらすようなことはしなかったし(もっとも、彼は自制力を失うほど酔っぱらったことは、一度もなかったが)、彼の情事をにおわせようとする軽率な仲間には、ちゃんと口を割らないように手を打っていた。しかし、カレーニン夫人との関係については誰しも多少なりとも感づいていたので、彼の恋は全市に知れわたってしまったにもかかわらず、若い連中の大多数は、彼の恋でもっとも苦しい点、つまりカレーニンの地位が高いために、ふたりの恋が社交界ですぐ目につくことをうらやんでいた。
前々からアンナをうらやみながら、彼女が操の正しい婦人といわれている《・・・・・・・・・・・・・・》のに、もう長いこといやけがさしていた若い婦人の多くは、自分たちの予想が当ったのを喜んで、世論の変化が決定的になるのを待って、ありとあらゆる侮辱を、一気に彼女に浴びせかけようと手ぐすねひいていた。この人たちは機会が到来したとき、アンナに投げるべき非難の泥のかたまりを、もうそれぞれに用意しているありさまであった。年配の人びとの多くや地位の高い人びとは、こうして着々準備されていく社交界のスキャンダルを、苦々しく思っていた。
ヴロンスキーの母親は、むすこの情事を知ると、はじめのうちは満足していた。というのは、夫人の意見によると、上流社会の情事ほど、輝かしい未来をもつ青年に、最後の磨《みが》きをかけてくれるものはないからであったし、さらにまた、あれほどわが子の話ばかりして、夫人に好感を与えたカレーニン夫人も、ヴロンスキー伯爵夫人の見解によれば、やっぱり、すべての美しい、れっきとした婦人たちと少しも変らなかったからでもあった。ところが、最近になって、むすこが将来の栄達のために重要な意義をもつ地位を勧められたのにもかかわらず、カレーニン夫人に会える今の連隊にとどまりたいばかりに、その申し出《いで》を断わったために、上司の人びとの不興を買ったという話を聞いて、夫人も自分の意見を改めた。さらに、この情事について夫人が聞きおよんだあらゆる情報から判断すると、それは夫人が認めているような、華やかな、優雅な、社交界の情事ではなくて、なにかしらあのヴェルテル式の激しい恋で、人の話によれば、むすこはとんだばかげた羽目に落ちこまぬともかぎらない、といわれていることも、夫人の気に入らなかった。夫人は、むすこが急にモスクワを発ってしまって以来、会っていなかったので、長男を通して一度帰って来るようにいいつけた。
この兄も弟の一件には快く思っていなかった。兄は弟の情事がどんなものか、すばらしいものか、けちなものか、熱烈なものか、それほどでもないものか、罪ぶかいものか、そうでないものか、そんなことにはまったく頓《とん》着《ちゃく》なかった(彼自身も子供があるくせに、あるバレエの踊り子を世話していたくらいだから、こうした点では寛大だったのである)。しかし、この情事が、気に入ってもらわねばならぬ人たちに気に入られないことを知っていたので、その点で弟の行状を是認できなかったのである。
勤務と社交という仕事のほかに、ヴロンスキーにはもう一つの仕事――馬があった。馬のことになると、彼はまったく夢中だった。
ちょうど今年は、将校たちの障害物競馬が行われることになっていた。ヴロンスキーはこの競走に参加する登録をすませ、血統のいいイギリス種の雌馬を買った。そして、一方では恋にうつつを抜かしながらも、目前に迫った競馬に、多少控えめなところもあったが、内心では夢中になっていた。
この二つの情熱は、互いに妨げとはならなかった。いや、かえって彼にとっては、自分の恋と関係のない仕事なり、道楽なりが必要であった。彼はそうしたものによって、あまり自分の気持を興奮させる印象から、ひと息ついて、すがすがしい気分になりたかったのである。
19
クラースノエ・セロー競馬の当日、ヴロンスキーはいつもより早めに、将校集会所の食堂へ、ビフテキを食べに行った。彼の体重はちょうど所定の四プード半に達していたので、そう厳重に節制する必要はなかった。しかし、もうこれ以上太ってはまずいので、澱粉質《でんぷんしつ》と甘いものを避けるようにしていた。彼はフロックコートのボタンをはずして、白いチョッキをのぞかせ、両手でテーブルに肘《ひじ》をついて、注文したビフテキを待ちながら、皿の上にのっていたフランスの小説本を見ていた。彼がその本を見ていたのは、出たりはいったりする将校連と口をききたくないためであり、彼は考え事をしているのであった。
彼は、アンナがきょう競馬のあとで会おうと約束したことを、考えていた。ところが、彼はもう三日も彼女に会っていないうえ、夫が外国から帰って来たので、はたしてきょう会えるかどうかも、見当がつかず、それをどうやってたしかめたものかも、わからなかった。彼が最後にアンナに会ったのは、ベッチイ公爵夫人の別荘であった。当のカレーニン家の別荘へは、なるべく行かないようにしていたが、きょうはぜひともそこへ行きたくなったので、どうしたらいいかと、その問題で頭を悩ましていたのである。
《もちろん、おれは、ベッチイから、あなたが競馬に行くかどうか、きいて来てくれといわれたといおう。とにかく、行かなくちゃ》彼は本から顔を上げながら、こう決心した。そして、彼女に会えるという幸福を、まざまざと心に描いて、彼の顔はぱっと明るく輝いた。
「おれの家へ使いをやって、大急ぎで、三頭立ての幌《ほろ》馬《ば》車《しゃ》を用意するようにいってくれ」彼は熱い銀の皿にビフテキをのせて持って来たボーイに、そういいつけてから、皿を引き寄せ、食事をはじめた。
隣の玉突き部屋では、玉のあたる音や、人の話し声や笑い声が聞えていた。入口のドアからふたりの将校が現われた。ひとりは最近幼年学校を終えて、連隊へはいって来た、弱々しい細おもての若い将校で、もうひとりは手に腕輪をはめた、小さなはれぼったい目の、太った年寄りの将校であった。
ヴロンスキーはふたりの姿をちらと見て、まるで気づかないようなふりで、本を横目でにらみながら、同時に食べたり、読んだりしはじめた。
「やあ、勝負の前に腹ごしらえしてるってわけかね?」太った将校は、彼のそばに腰をかけながらいった。
「ごらんのとおりさ」ヴロンスキーはしかめ面《つら》をしながら、口をふきふき、相手のほうを見ないで、答えた。
「じゃ、きみは太るのが気にならんのかね?」相手は若い将校のためにいすをまわしてやりながら、きいた。
「なんだって?」ヴロンスキーは、嫌《けん》悪《お》の情を表わして、例のきれいな歯並みを見せながら、おこったように、問い返した。
「きみは太るのがこわくはないんだね?」
「おーい、シェリー酒!」ヴロンスキーは返事もせずにそう叫ぶと、本を反対側へ置きなおして、そのまま読みつづけた。
太った将校は、酒のメニューを取りあげると、若い将校に話しかけた。
「きみ、自分できめてくれよ、酒はなんにするか」彼はメニューを渡して、相手の顔を見つめながら、いった。
「じゃ、ラインワインでも」若い将校はヴロンスキーのほうをおずおずと見やり、やっとはえかけた口ひげを、指先でつまもうと苦心しながら、いった。が、ヴロンスキーがこちらへ向かないのを見ると、若い将校は立ちあがった。
「玉突きへ行きましょう」彼はいった。
太った将校は、おとなしく立ちあがると、ふたりは戸口のほうへ歩きだした。
そのとき、部屋の中へ、すらりと背の高い、ヤーシュヴィン大尉がはいって来た。そして、ふたりの将校のほうへ、軽蔑するようにうなずいてから、ヴロンスキーに近づいた。
「なんだ、ここにいたのか!」彼は叫んで、大きな手で強く相手の肩章をたたいた。ヴロンスキーはおこったようにすぐ振り返ったが、たちまち、その顔は持ち前の落ち着いた、しっかりした優しい表情に輝いた。
「こりゃ、うまい考えだ、アリョーシャ」大尉は声高なバリトンでいった。「今のうちに食べて、一杯飲むとするか」
「どうも、ぼくはあんまり食欲がないんでね」
「ほら、おしどりみたいな野郎が行くぞ」ヤーシュヴィンは、そのとき部屋から出て行くふたりの将校を軽蔑するように見やりながら、そうつけ加えた。そして、いすの高さの割にはあまりに長すぎる、細い乗馬ズボンをはいた腿《もも》と脛《はぎ》を鋭角に曲げて、彼はヴロンスキーのそばに腰をおろした。「きのうはなぜクラースノエの劇場へ来なかったんだい? ヌメロヴァはなかなかよかったぜ。どこへ行ってたんだい?」
「トヴェルスコイ夫人のところで腰をすえちまったのさ」ヴロンスキーはいった。
「なるほど!」ヤーシュヴィンは答えた。
ヤーシュヴィンは、トランプ遊びの道楽者で、単にいっさいの規範をもたないどころか、かえって不道徳の規範を信奉する男であった。ところが、ほかならぬこのヤーシュヴィンが連隊じゅうで、ヴロンスキーのいちばんの親友であった。ヴロンスキーが彼を愛したのは、なによりもまず第一に、彼が並みはずれた体力の持ち主であったからである。彼は酒樽《さかだる》のように飲んだり、徹夜してもいつもと少しも変らぬ態度でいられることで、その体力を証明していた。また、第二は彼の偉大なる精神力のためであった。彼は上官や同僚に相対したとき、相手に恐怖と尊敬を呼びおこさせたり、勝負にあたってはいつも何万という金を賭《か》け、いくら酒を飲んでも細心で確実であり、イギリス・クラブでも第一級のトランプ師と見なされていることなどで、それを証明していた。しかし、ヴロンスキーがとくに彼を尊敬し、愛情をいだいたのは、ヤーシュヴィンが彼をその名声や富のためでなく、彼の人がらそのものを愛したからである。多くの人たちの中で、ヴロンスキーが自分の恋を語ってもいいと思ったのは、彼ひとりだけであった。ヴロンスキーは、ヤーシュヴィンだけは、一見、あらゆる愛情を軽蔑しているらしく思われたにもかかわらず、今自分の全生活を満たしているあの激しい情熱を、理解してくれるただひとりの人間だと直感していた。いや、それだけでなく、彼はヤーシュヴィンにかぎって、陰口やスキャンダルには興味を示さず、この感情を正しく理解してくれるにちがいない、つまり、恋愛は冗談事でもなければ、慰みでもなく、なにかしらもっときまじめな、もっと重大なものであることを承知し、それを信じているのだ、と確信していたからである。
ヴロンスキーは、自分の恋について彼と話し合ったことはなかったけれども、彼がそのすべてを知り、すべてを正しく理解しているのを承知していたので、そのことを相手の目つきの中に読みとるのが快かった。
「なんだ、そうだったのか!」彼はヴロンスキーがトヴェルスコイ夫人のところにいたと答えたのに対して、そういった。そしてその黒い目をぎらりと光らせて、左の口ひげをつまみ、いつもの悪い癖でそれを口の中へ入れはじめた。
「それじゃ、きみのほうはきのうはどうだった? 勝ったかい?」ヴロンスキーはきいた。
「八千ルーブルさ。そのうち三千はだめだな、よこしそうもない」
「なるほど、それじゃ、ぼくの分は負けても平気だな」ヴロンスキーは笑いながらいった(ヤーシュヴィンは今度の競馬で、ヴロンスキーに大きく賭けていたからである)。
「絶対に、負けはしないよ。あぶないのはマホーチンひとりだけだよ」
それから、話題はきょうの競馬の予想に移った。ヴロンスキーは今、このことよりほかに考えられなかった。
「さ、行こう、ぼくはすんだから」ヴロンスキーはいって、立ちあがり、戸口に向って歩きだした。ヤーシュヴィンも、その大きな足と長い背中をのばして、立ちあがった。
「食事をするにはまだ早すぎるけれど、とにかく、一杯やらなくちゃ。今すぐ行くよ。おーい、酒だ!」彼は号令にかけては有名な、窓ガラスをふるわせるほど厚みのある声でどなった。
「いや、いらん!」彼はすぐまた叫んだ。「きみはうちへ帰るのかい、じゃ、おれもいっしょに行くよ」
そういって、彼はヴロンスキーと連れだって出かけて行った。
20
ヴロンスキーは、二つに仕切られた、こぎれいなフィンランド風の田舎《いなか》家《や》に泊っていた。ペトリツキーはこの野営でも、彼といっしょに寝起きしていた。ヴロンスキーとヤーシュヴィンが家へはいって行ったとき、ペトリツキーはまだ眠っていた。
「おい、起きろ、もう寝るのはたくさんだ」ヤーシュヴィンは、仕切りの向うへはいって、鼻をまくらに突っこんで、髪をふり乱して眠っているペトリツキーの肩をゆすぶりながら、いった。
ペトリツキーはいきなり膝《ひざ》をついて起きあがると、あたりをきょろきょろ見まわした。
「きみの兄貴がここへやって来たぜ」彼はヴロンスキーにいった。「おれを起しやがって、畜生、また来るといってたぜ」彼はそういって、また毛布をひっかぶりながら、まくらの上に身を投げた。「おい、ほっといてくれ、ヤーシュヴィン」彼は自分の毛布をはがそうとするヤーシュヴィンに腹を立てながら、いった。「ほっといてくれ!」彼はひとつ寝返りをうって、目をあけた。
「それよりきみ、なにを《・・・》飲んだらいいか教えてくれよ、口の中がいやあな気持なんだ、まったく……」
「ウォトカがいちばんだね」ヤーシュヴィンは低音《バス》でいった。「おい、テレシチェンコ!このだんなにウォトカと、きゅうりを!」彼はそう叫んだが、どうやら、自分の声を聞くのがうれしいらしかった。
「ウォトカがいいんだって? え?」ペトリツキーは顔をしかめ、目をこすりながら、いった。「じゃ、きみもやるかい? いっしょなら、飲むよ! ヴロンスキー、きみもやるね?」ペトリツキーは起きあがり、腕から下を縞《しま》模様の毛布にくるまりながら、いった。
彼は仕切りの戸口へ出て、両手をさしあげると、フランス語で歌いだした。「『トゥルにひとりの王さまがいて……』ヴロンスキー、きみも飲むかね?」
「うるさいぞ」ヴロンスキーは召使のさしだした上着を着ながら、いった。
「おや、どこへ行くんだい?」ヤーシュヴィンはたずねた。「や、三頭立て《トロイカ》も来たぜ」彼は近づいて来る幌馬車に目をとめて、つけ加えた。
「厩《うまや》へ行くのさ。それから、馬のことでブリャンスキーのとこへも、行かなくちゃならないんだ」ヴロンスキーはいった。
ヴロンスキーは、事実ペテルゴフから十露里離れたところにいるブリャンスキーに、馬の代金を届ける約束をしていたので、そこへもなんとか寄りたいと思っていた。しかし、ふたりの友人は、彼の行く先はそこばかりでないことを、感づいてしまった。
ペトリツキーは、なおも歌いつづけながら、片目でちょっとウインクして、唇を突き出したが、その様子はまるで、それがどんなブリャンスキーか、ちゃんと承知してると、いわんばかりであった。
「ただ遅れないようにしろよ!」ヤーシュヴィンはそれだけいって、すぐ話題を変えるために、「どうだい、おれの葦《あし》毛《げ》は、よくやってるかね?」彼は窓の外を見ながら、自分の譲った三頭立ての中馬のことをたずねた。
「ま、待ってくれ!」ペトリツキーはもう出て行こうとするヴロンスキーに叫んだ。「きみの兄貴が手紙と走り書きを置いてったよ。待ってくれ、あれはどこへやったかな?」
ヴロンスキーは足を止めた。
「さあ、それはどこにあるんだ?」
「それはどこにあるかって? いや、そいつが問題だよ!」ペトリツキーは人差し指を鼻の前で上《うわ》向《む》きに立てながら、もったいぶった調子でいった。
「おい、早くいえよ、ばかばかしい!」ヴロンスキーは、笑いながら、いった。
「ストーブはたかなかったし。たしか、どこかこの辺に」
「さあ、くだらんおしゃべりはたくさんだ!手紙はいったいどこにあるんだ?」
「いや、ほんとに、忘れたんだよ。それとも、あれは夢だったかな? 待てよ、いや、待てよ! まあ、そうおこることはないだろう!かりにきみがきのうぼくのように、ひとりあたり四本の酒を飲んでみろ、自分がどこに寝ているのかも忘れてしまうから。待てよ、今、思いだすから!」
ペトリツキーは仕切りの向うへ行って、自分の寝台に横になった。
「待てよ! おれがこうして寝ていると、彼はこんなふうに立っていたな。そう、そう、そうだ……ほら、ここだよ!」そういって、ペトリツキーは藁《わら》ぶとんの下から、一通の手紙を取り出した。
ヴロンスキーは手紙と、兄の走り書きを受け取った。それはまさに彼の予期していたもの、つまり、彼が来ないのを責めた母の手紙であった。兄の走り書きには、なにか話したいことがあると書いてあった。ヴロンスキーには、それが相変らず例の件だということがわかっていた。《あの人たちにはまったく関係のないことなのに!》ヴロンスキーはちらと考え、手紙を乱暴にたたむと、上着のボタンのあいだへ突っこんだが、それは途中でゆっくりと読むつもりだったからである。小屋の入口で、彼はふたりの将校にばったり出会った。ひとりは同じ連隊、もうひとりはほかの連隊の将校だった。
ヴロンスキーの宿は、いつもあらゆる将校の巣になっていたのである。
「どこへ?」
「用事で、ペテルゴフまで」
「あの馬はツァールスコエから来たかい?」
「来たよ、ぼくはまだ見ていないがね」
「うわさだが、マホーチンのグラジアートルが、びっこをひきだしたそうだよ」
「そんなばかな! それより、きみはこのぬかるみをどうやって駆けるつもりだい?」もうひとりのほうがいった。
「やあ、おれたちの救い主が来たぞ!」ペトリツキーははいって来たふたりを見て、叫んだ。彼のまえには、ウォトカと塩づけきゅうりを盆にのせた従卒が立っていた。「いや、じつはヤーシュヴィンがね、気分なおしに一杯やれというんでね」
「まったく、ゆうべはきみのおかげでひどい目にあったよ」はいって来たうちのひとりがいった。「ひと晩じゅう、寝かしてくれないんだからねえ」
「いや、そんなことより、お開きのときがすごかったよ」ペトリツキーは話しだした。「ヴォルコフときたら、屋根へはいのぼって、おれは寂しいよっていうじゃないか。そこでおれが、音楽をやれ、葬送曲だ! とやったのさ。すると、やっこさんそのまま屋根の上で、葬送曲を聞きながら、眠ってしまったってわけさ」
「さあ、飲むんだ、絶対に、ウォトカを飲むんだ。それから、レモンをうんと入れたソーダ水をな」ヤーシュヴィンはまるで子供に薬を飲ませる母親よろしく、ペトリツキーのそばに立って、いった。「最後に、シャンパンをほんの少し。まあ、小《こ》瓶《びん》だな」
「うん、こりゃ、いい考えだ。待てよ、ヴロンスキー、まあ、一杯やろうじゃないか」
「いや、諸君、じゃまた。きょうは飲まないから」
「どうしたんだ、からだがつらくなるからかい? じゃ、おれたちだけでやろう。ソーダ水とレモンを持って来い」
「おい、ヴロンスキー!」彼がもう入口へ出たとき、だれかが叫んだ。
「なんだい?」
「髪を刈ったらどうだい、でないと、見た目が重っくるしいよ、ことに、そのはげたところが」
ヴロンスキーは、実際、年の割に、はやくも頭が薄くなりかかっていた。彼はきれいな歯並みを見せて、愉快そうに大声で笑い、はげたところへ軍帽をずらせて、外へ出ると幌馬車に乗った。
「厩《うまや》へ!」彼はいって、もう一度読み返そうと先ほどの手紙を出しかけたが、すぐまた、馬の点検をすますまでは、気を散らしてはいけないと思いなおした。《そうだ、あとにしよう!……》
21
臨時の厩である木造のバラックは、競馬場のすぐそばに建てられており、そこへきのうのうちに、彼の馬が運ばれているはずであった。彼はまだ馬を見ていなかった。ここ数日、彼は自分では乗ってみないで、調教師に任せきりだったので、自分の馬がどんな状態で着き、今どんなぐあいでいるか、ぜんぜん、知らなかった。彼が幌馬車をおりると、ふつう『グルーム』と呼ばれる少年の馬丁が、たちまち遠くのほうから彼の馬車を認めて、調教師を呼び出した。と、やせぎすのイギリス人が深い長靴をはき、短いフロックコートを着、下顎《したあご》だけひげを剃《そ》り残して、騎手特有の無器用な足どりで、両肘を張り、からだをゆすりながら、迎えにやって来た。
「どうだい、フル・フルの調子は?」ヴロンスキーは英語でたずねた。
「All right,sir. 」イギリス人の声はどこかのどの奥で響いた。「いらっしゃらないほうがよろしいですよ」彼は帽子を持ちあげながら、つけ加えた。「口籠《くつこ》をかけましたので。なにしろ、馬は気がたっておりましてね。いらっしゃらないほうがよろしいですよ。馬を興奮させるばかりですから」
「いや、やっぱり行ってみよう。ひと目、見たいんだよ」
「じゃ、まいりましょう」相変らず口を開かないで、眉をしかめたまま、イギリス人はそういうと、両肘を振りまわしながら、例のねじのゆるんだような足どりで、先に立って歩きだした。
ふたりはバラックの前の小さな内庭へはいった。こざっぱりしたジャケツを着た、おしゃれな、すばしこそうな、当番の少年が、ほうきを手に持ったまま、はいって来たふたりを出迎え、そのあとからついて来た。バラックの中には五頭の馬が、それぞれの仕切りの中につながれていた。ヴロンスキーはその中に、同じくきょう、連れて来られたはずの、自分のいちばんの競争相手である、一メートル六四もあるグラジアートルという、マホーチンの栗《くり》毛《げ》がいることも知っていた。ヴロンスキーは自分の馬よりも、まだ見たことのないグラジアートルのほうがもっと見たかった。しかし、競馬界の礼節ある掟《おきて》として、他人の馬を見ることはおろか、それについてあれこれきくことすら礼を失するものであることを、ヴロンスキーも心得ていた。彼が通路を抜けて行くうちに、少年が左側二番めの仕切りのドアをあけた。と、栗毛の大きな馬と白い足が、ヴロンスキーの目にはいった。彼は、それがグラジアートルであることを知っていたが、開かれた他人の手紙から顔をそむける人の気持で、すぐわきを向いて、自分のフル・フルの仕切りに近づいた。
「ここにいる馬が、あのマーク……マク……どうもあの名前がいえませんな」イギリス人はきたない爪をした親指で、肩越しにグラジアートルの仕切りを指さしながら、いった。
「マホーチンのかね? ああ、あれはぼくにとって、手ごわい競争相手のひとりだよ」ヴロンスキーはいった。
「だんなさまがあれにお乗りになるんだったら」イギリス人はいった。「私もだんなさまに賭けるんですがね」
「そりゃ、フル・フルはすこし神経質だし、あっちのほうが力はずっとあるよ」ヴロンスキーは自分の乗馬術をほめられたので、にこにこしながら、いった。
「障害物では、問題はただ、乗馬術と pluck だけですよ」イギリス人はいった。
pluck すなわち、精力と大胆さにかけては、ヴロンスキーも十二分の自信があったばかりでなく、世界広しといえどもこの pluck にかけて自分に勝《まさ》っているものはひとりもない、と確信していた。
「きみはたしか知ってたね、これ以上汗をか《・・・・・・・》かせる《・・・》必要はないってことを?」
「ええ、その必要はありませんよ」イギリス人は答えた。「どうか、大きな声をなさらないで。馬がすぐ興奮しますから」ふたりの前のドアのしまった仕切りを、あごでしゃくって見せながら、彼はそうつけ足した。その中では、藁《わら》の上で足を踏みかえる音が聞えていた。
彼はドアをあけた。そして、ヴロンスキーは、一つの小さな窓からぼんやり照らされている仕切りへはいった。仕切りの中では、新しい藁の上で足を踏みかえながら、口籠をかけられた黒栗毛の馬が立っていた。仕切りの中の薄明りでざっと見まわしてみて、ヴロンスキーはまたしても、無意識のうちに愛馬のあらゆる点を、ひと目で見てとってしまった。フル・フルは中背の馬で、体格は非の打ちどころがないとはいえなかった。からだつき全体が骨細で、胸はぐっと前へ張りだしていたが、胸部は狭かった。尻はやや下がり気味で、足は前もそうだが、ことにうしろのほうが内側に曲っていた。前後の足の筋肉は、あまり発達しているほうではなかった。しかし、そのかわり、腹帯をつけてみると、並みはずれて大きく、特に今は調教中で腹が引きしまっているので、おどろくほどそれが目だっていた。ひざから下の足の骨は、前から見ると、指くらいの太さしかなかったが、そのかわり、横から見ると、並みはずれて大きかった。この馬は、全体的にみて、肋骨《ろっこつ》を除いては、両側から圧《お》しつぶされて、縦に伸びたような感じだった。しかしながら、この馬には、こうしたすべての欠点を忘れさせるほどの特質が十分にあった。その特質とは血統《・・》であった。つまり、イギリス式にいえば、ひとりでに表《・・・・・・》われる《・・・》血統であった。薄くて敏感で、繻《しゅ》子《す》のようになめらかな皮膚におおわれ、網目のような血管の下からきわだって盛りあがっている筋肉は、骨かと思われるぐらい堅そうに見えた。楽しそうに輝く目玉の飛び出している、細おもての顔は、内側の薄皮に血のみなぎったような鼻孔のところで、思いきり大きくひろがっていた。その姿態全体に、とくにその顔には、ある種の、精力的な、と同時に、優しい表情がただよっていた。それは、ただ口の構造が許さないばかりに物をいわない動物の一つのように思われた。
すくなくともヴロンスキーには、今自分が馬をながめながら感じているいっさいのことを、相手の馬もわかってくれているような気がした。
ヴロンスキーが近づくやいなや、馬は深く息を吸いこんで、飛び出した目玉を、白目が充血するほどやぶにらみして、はいって来たふたりを、反対側からながめながら、口籠を振りまわし、ばね仕掛けのように、足をばたばた踏みならした。
「そら、ごらんなさい、ひどく興奮してますよ」イギリス人はいった。
「おお、よしよし!」ヴロンスキーは馬のそばへ近づき、なだめながら、いった。
ところが、彼がそばへ寄れば寄るほど、馬はますます興奮した。彼がやっと顔のそばへ寄ったとき、馬は不意におとなしくなって、薄いきゃしゃな毛並みの下で、筋肉がぶるぶると震えだした。ヴロンスキーはそのがっちりした首をなで、とがったうなじのところのたてがみが反対側へねているのを、なおしてやってから、蝙蝠《こうもり》の翼のようにひろがった薄い鼻孔へ、自分の頬を寄せた。馬は、張りきった鼻孔から音高く空気を吸って、また吐き出し、ぶるっと身を震わせ、とがった片耳をふせながら、主人の袖《そで》をとらえようとするかのように、しっかりした黒い上唇を、ヴロンスキーのほうへ伸ばした。が、すぐ口籠のことを思いだして、ぶるっとそれをひと振りすると、またもやそのけずったような足を、かわるがわる踏みかえるのだった。
「落ち着くんだ、おい、落ち着くんだ!」彼はもう一度尻を片手でなでて、いった。そして、馬が申し分ない状態でいることに、すっかりうれしくなりながら、仕切りから出て行った。
馬の興奮はヴロンスキーにも感染した。彼は、全身の血が心臓へみなぎってくるような気がして、馬と同様、あばれたり、かみついたりしたくなった。それは恐ろしくもあれば、愉快でもあった。
「それじゃ、ぼくはきみをあてにしているからね」彼はイギリス人にいった。「六時半には所定の場所にいるように」
「万事、承知しました」イギリス人はいった。「ときに、どこへおこしで、My Lord ?」彼は思いがけなく、今までほとんど使ったことのない、My Lord という称号をつかって、たずねた。
ヴロンスキーはびっくりして顔を上げると、相手の質間の大胆さに驚きながらも、そこは心得たもので、イギリス人の目でなく、その額をながめた。しかし、彼はイギリス人がこの質問をしたのは、自分を主人でなく騎手と見なしてだ、と悟って、こう答えた。
「ブリャンスキーのところへ行かなくちゃならないんだ。一時間もしたら家に帰るよ」
《きょうはこの質問をもう何度聞いたことだろう》彼はつぶやいて、顔を赤らめた。こんなことはめったにないことであった。イギリス人は注意ぶかくじっと彼を見つめた。そして、ヴロンスキーがどこへ行くか知っているように、こうつけ加えた。
「競走の前には、気分をしずめておくのが第一でございますよ」彼はいった。「お腹立ちになったり、どんなことでも、気分を乱すようなことはなさいませんように」
「All right. 」ヴロンスキーは微笑しながらいって、幌馬車に飛びのると、ペテルゴフへ行くように命じた。
やっと馬車が走り出すか出さないうちに、朝から雨模様の気配だった黒い雲が、空一面にかぶさって、どっとばかりに、夕立を降らしてきた。
《こりゃ、まずいな》ヴロンスキーは、幌を上げながら考えた。《そうでなくても、かなりぬかっていたのに、これじゃ、すっかり泥になってしまう》幌で包まれ、馬車の中にひとりきりになると、彼は母の手紙と兄の走り書きを取り出して、目を通した。
はたして、それはなにからなにまでまったく同じことであった。彼の母も、だれもかれもが、すべて彼の心の問題に干渉する必要を認めているのだった。こうした干渉は彼の心に敵意を呼びさました。彼はめったにそんな感情は経験したことがなかった。《あの連中になんの関係があるというんだ? なんだってみんなは、おれのことを心配するのを、義務と心得ているんだろう? それに、なぜみんなしておれにからむんだろう? きっと、これはなにかしら、あの連中の理解できないことだからだろう。これがもしありふれた、月並みな社交界の情事だったら、あの連中もおれをそっとしておいてくれたにちがいない。ところが、あの連中もこれがなにかしら別のもので、おもちゃでもなく、あの女《ひと》がおれにとって命よりも尊いものだということを、感じとったのだろう。それに、これがなにか自分たちに不可解なものなので、それでみんないまいましがっているのだ。いや、たとえぼくたちの運命がどんなものであろうと、またどうなろうと、それはぼくたちが作り上げたものだから、泣き言なんかいうものか》彼はぼくたち《・・・・》という言葉の中に、自分とアンナとを結びつけながら、こうひとりつぶやいた。《いや、あの連中ときたら、ぼくたちにちゃんとした生き方を教えなければ気がすまないんだ。そのくせ、あの連中は幸福とはなにかということなんか、てんでわかっちゃいないのだ。あの連中には、ぼくたちはこの恋がなくちゃ、幸福もなければ、不幸もない、いや、生活そのものがないってことが、わからないんだからなあ》彼はそう考えるのだった。
彼がこうした干渉のために、すべての人びとに腹を立てたのは、彼も心の奥底では、これらすべての人びとのいうことがほんとうであると、ひそかに感じていたからであった。彼は、自分とアンナを結びつけた恋は一時的な浮気ではないことを感じていた。もしそうならば、それはすべての社交界の情事のように、あるいは楽しい、あるいは不快な思い出のほか、お互いの生活になんの痕跡《こんせき》も止めず、過ぎ去ってしまうはずであった。彼は自分と彼女の立場の苦しさを、残らず痛感していた。ふたりの関係は、ふたりの住んでいる社会全体の目にさらされていたから、その恋を隠したり、偽ったり、うそをついたりすることは、至難の業《わざ》であった。しかも、ふたりを結びつけている情熱があまりにも激しく、ふたりとも自分たちの恋のほかは、なにもかも忘れがちであったにもかかわらず、一方ではたえずその恋を隠して、策をめぐらし、他人のことを考えていなければならないのであった。
彼は自分の性格からいって相いれない虚偽や欺《ぎ》瞞《まん》を、余儀なくしなければならぬ場合がしばしば繰り返されるのを、まざまざと思い起した。とりわけ、アンナがこのやむをえぬ虚偽と欺瞞のために、一再ならず羞恥《しゅうち》の情に苦しめられたのを、まざまざと思い起した。すると、アンナと関係をもって以来時おりおそって来るある奇妙な感じを覚えた。それは、なにものかに対する嫌《けん》悪《お》の情であった。それはカレーニンに対するものか、自分自身に対するものか、社交界全体に対するものか、自分でもよくわからなかった。しかし、彼はいつもこの奇妙な感じを、追いはらおうとしていた。そして今も、ぶるっと一つ身ぶるいすると、もの思いをつづけていった。
《そうだ、彼女は以前は不幸だったけれど、誇りがあって、落ち着いていた。それが今は、落ち着いて、品位を保つことができなくなってしまった、そりゃ彼女としてはそうした様子を見せてはいないけれど。そうだ、こりゃ、なんとか早くけりをつけなくちゃいけないな》彼は心のなかできめた。
と、そのときはじめて、一つの、はっきりした考えが頭にひらめいた。それは、なんとかしてこの虚偽をうちきらねばならぬ、しかもそれは早ければ早いほどいいのだ、という考えであった。《彼女もおれもいっさいをなげうって、自分たちの恋だけを守って、どこかへ身を隠してしまうことだ》彼は自分にそういいきかせた。
22
夕立はそう長くつづかなかったので、もう手《た》綱《づな》なしにぬかるみを走る両側の副馬《そえうま》を引っぱるようにして、全速力を出して疾駆する中馬の働きで、ヴロンスキーがはやくも目的地へ近づいたときには、太陽が再び顔をのぞかせた。そして、大通りの両側に並んだ別荘の屋根や、庭の古い菩《ぼ》提樹《だいじゅ》は、ぬれた光で輝き、木々の枝からは楽しげにしずくが落ち、屋根からは水が流れていた。彼はもうこの夕立のために、競馬場が台なしになることなど考えず、ただこの雨のおかげで、きっと彼女が家に、しかもひとりでいるだろうと、そればかり喜んでいた。というのは、最近、温泉からもどって来たカレーニンが、まだペテルブルグからこちらへ来ていないことを、知っていたからである。
彼女がひとりでいるところへ行きあわせようと期待しながら、ヴロンスキーは、いつもよくやるように、なるべく人目につかないように、小橋を渡らずに馬車をおり、歩きだした。彼は通りから正面玄関へ行かないで、いきなり庭先のほうへはいって行った。
「だんなはお着きになったかね!」彼は庭師にたずねた。
「いいえ、まだで。奥さまはおいでになります。さあ、どうぞ玄関のほうから。あちらには人がおりますから、おあけいたしますよ」庭師は答えた。
「いや、ぼくは庭のほうから行くよ」
こうして、彼はアンナがひとりきりでいると思いこむと、不意を襲って、相手をびっくりさせようと思った。というのは、彼はきょう来ると約束しなかったし、彼女のほうもまさか競馬の前にはやって来ないだろう、と思っているにちがいないからであった。そこで彼はサーベルをおさえて、両側に花々の植わった小道の砂を、用心ぶかく踏みしめながら、庭に面したテラスのほうへ歩いて行った。ヴロンスキーはいまや、道々いろいろ考えてきた自分の立場の苦しさや困難さを、すっかり忘れてしまっていた。彼の思いはただ一つ、今すぐにも単なる空想ではなく、現実にあるがままの、生きいきしたアンナの姿をすっかり見られる、ということだけであった。彼は、音のしないように、大股《おおまた》な足どりで、もうテラスのゆるい石段をのぼりかけていたが、そのとき不意に、いつも忘れがちなことを思いだした。それは、自分と彼女との関係でもっとも耐えがたい一面を形づくっている、あの、もの問いたげな、彼の目には敵意ありげに見えるまなざしをした彼女のむすこのことであった。
この少年は、ほかのだれにもまして、ふたりの関係の障害になることが多かった。少年がその場にいると、ヴロンスキーもアンナも、他人の前ではいえないような話を、することができなかったばかりでなく、少年にはわからないようなことでも、におわすようにして話すことすら避けていた。ふたりはそうしたことを申し合せたわけではなかったが、ひとりでにそうなったのである。ふたりともこうした子供を欺くことは、自分自身に対する侮辱と考えたのであろう。少年のいるところでは、ふたりはただの知人のように話をした。ところが、これほど慎重にやっているにもかかわらず、ヴロンスキーは、よく自分にそそがれている少年の注意ぶかい、けげんそうなまなざしをとらえ、少年が自分に示す奇妙におどおどした、時に甘えたり、時に冷淡になったりするむらのある態度や、はにかんだりする様子に気づいていた。どうやら、少年は、自分の母親とこの男のあいだには、自分には意味のわからぬ、なにか重大な関係があるのを、かぎつけているようであった。
実際、少年は自分がこの関係を理解できないのを感じ、この相手の男に対してどんな感情をもつべきであるかを、自分ではっきりさせようと努めながらも、それができないでいるのであった。ただ感情の表現に対する少年特有の敏感さで、少年は、父親も、家庭教師も、ばあやも、だれもかれもが、単にヴロンスキーを好かぬばかりか、ひと言も口に出してはいわなかったが、嫌悪と恐怖の思いで彼をながめていることをはっきり見てとっていた。しかも、母親だけは、彼をもっとも親しい友人のように扱っているのであった。
《いったい、これはどういうことだろう? あの人は何者だろう? どんなふうにあの人を愛したらいいのだろう? それがわからないなんて、ぼくがいけないのかな。それとも、ぼくはばかか、悪い子供なのかな》少年は考えた。そのために、少年はためすような、もの問いたげな、そして、いくらか反感をいだくような表情と、おどおどした、むらのある態度をとって、すっかりヴロンスキーをどぎまぎさせるのだった。この子供がそばにいると、いつもかならず、ヴロンスキーは最近しばしば経験するようになった、あの奇妙な、理由のない嫌悪の情を呼びさまされるのだった。この子供がいることによってヴロンスキーとアンナの胸に呼びさまされる感情は、羅《ら》針盤《しんばん》をながめているときの航海者の感情に似ていた。つまり、今自分の船の走っている方角は、正しい方向とはずいぶんかけ離れていることを知りながらも、自分には船の進行を止めるだけの力がなく、したがって、一分ごとにますますその誤差は大きくなっていくが、正しい方向から遠ざかっていくのを自認するのは、とりもなおさず、自分の破滅を自認することであった。
人生に対して素《そ》朴《ぼく》な目をもったこの少年は、ほかならぬ羅針盤であって、ふたりが知っていながら、知ることを欲しない事がらから、どれほど自分たちがそれているかを示すものであった。
だが、このときは、セリョージャは家にいなかった。アンナはまったくのひとりぼっちで、テラスに腰をかけ、散歩に出かけて雨にあったむすこの帰りを待っていた。彼女はわが子を捜しに、下男と小間使をやり、自分はじっとすわって待っていた。大きな刺繍《ししゅう》のある白い服を着たアンナは、テラスのすみの花の陰にいたので、彼の足音に気づかなかった。彼女はその黒い髪のふさふさと渦巻いた頭を傾けて、手すりにおいてある冷たい如露《じょうろ》に額をおしあて、彼のよく知りぬいている指輪をはめた美しい両手で、その如露をおさえていた。その容姿全体の美しさは、その頭も首も手も、いつ見ても、まるで思いがけないもののように、ヴロンスキーをはっとさせるのであった。彼は歓喜に燃えて彼女をながめながら、歩みを止めた。が、彼女に近寄ろうとして一歩ふみだそうとしたとき、相手ははやくもそれを察して、如露をつき放し、その上気した顔を彼のほうへ向けた。
「どうしたんです? おかげんでも悪いんですか?」彼は近寄りながら、フランス語でいった。彼はすぐ走り寄りたかったが、ふと、だれかよその人がいるかもしれないと思いだして、バルコニーのドアを振り返った。そして、いつものことながら、びくびくとあたりを見まわさなければならぬ身の上を思って、さっと、顔を赤らめた。
「いいえ、あたし、元気ですわ」アンナは立ちあがって、さしだされた彼の手を堅く握りしめながら、いった。「ほんとに思いがけなかったわ……あなただなんて」
「ああ! なんて冷たい手をしてるんです!」彼はいった。
「だって、あたしをびっくりさせるんですもの」アンナはいった。「たったひとりで、セリョージャを待ってたんですの。あの子は散歩に出かけたんです。あっちのほうからもどって来るでしょう」
ところが、アンナは気をしずめようと努めたにもかかわらず、その唇は震えていた。
「許してください、不意に、やって来たりして。でも、ぼくはあなたにお目にかからないでは、一日だって過ごせないんです」彼は例によってフランス語でいった。それはふたりにとってたまらないほど冷たい響きをもつロシア語のあなた《・・・》という言葉と、これまた危険なおまえ《・・・》という呼びかけを避けるためであった。
「まあ、許してくださいだなんて。あたしこんなにうれしいのに!」
「でも、どこかおかげんが悪いか、なにか心配事があるんでしょう」彼はアンナの手を放さずに、相手にかがみこみながら、言葉をつづけた。「なにをそんなに考えていらしたんです?」
「いつもただ一つことばかりよ」アンナはほほえみながらいった。
アンナはほんとうのことをいったのである。それがいつ、どんなときであろうとも、なにを考えているのかときかれたら、彼女はあやまりなく、それはただ一つのこと、つまり、自分の幸福と不幸のことを考えているのです、と答えるにちがいない。彼がやって来たときも、ほかならぬそのことを考えていたのである。つまり、なぜほかの女の人にとっては、たとえば、ベッチイなどは(アンナは、公爵夫人が社交界には秘密でトゥシュケーヴィチと関係をもっていることを知っていた)、こうしたことがすべていとも簡単にいくのに、なぜ自分にとってはこうも苦しいのだろう?と考えていたのであった。きょうはある事情によって、この思いがとくに彼女を苦しめた。アンナはヴロンスキーに、競馬のことをたずねた。彼はそれに答えたが、彼女が興奮しているのを見てとって、その気分をまぎらわせようと努めながら、競馬の準備の様子をとりわけ気軽な調子で話しはじめた。
《話そうかしら、それとも、やめておこうかしら?》アンナは相手の落ち着いた優しいまなざしを見ながら、考えた。《この人はとても幸福で、こんなに競馬に夢中になっているから、今あのことを話したところでわかってはくれないだろうし、それがあたしたちふたりにとって、どんな意味をもっているかも、はっきり理解できないだろう》
「でも、ぼくがはいって来たとき、なにを考えていらしたかは、まだいってくれませんでしたね」彼はふと話を途中で切って、たずねた。「ねえ、いってください!」
アンナはそれには答えず、ただ心もち頭をたれて、その額ごしに、長いまつげの下に輝くひとみで、もの問いたげに相手の顔をじっと見つめた。むしりとった木の葉をおもちゃにしていた彼女の手は、かすかに震えていた。彼はそれに気づいた。と、その顔は従順な、奴隷のような心服を表わし、彼女もそれを見ると、つい、心がくじけてしまうのだった。
「ほんとに、なにか起ったようですね。あなたになにかぼくの知らない悩み事があったら、ぼくはいっときだって平気ではいられませんよ! お願いだから、話してください!」彼は祈るように繰り返した。
《いいえ、もしこの人があのことの意味を、ちゃんとわかってくれなかったら、とてもこの人を許すことはできないわ。やっぱり、いわないほうがいいわ、なにもためしてみる必要なんてないんですもの》彼女は相変らずじっと相手の顔を見ながら、そう考えていたが、木の葉を握りしめている自分の手がしだいに激しく震えていくのを感じていた。
「ね、お願いだから!」彼はアンナの手をとって、繰り返した。
「お話ししましょうか?」
「ええ、ええ、ええ……」
「あたくし、妊娠しましたの」アンナは静かに、ゆっくりとつぶやいた。
彼女の手の中の木の葉は、さらに激しく震えだした。しかし、アンナは、彼がこの知らせをどう受け取るか見きわめようと、相手の顔から目を放さなかった。と、彼は、さっと青ざめて、なにかいおうとしたが、それをやめて、彼女の手を放し、自分の頭《こうべ》をたれた。《ああ、この人はこのことの意味を、すっかりわかってくれたんだわ》彼女は考え、感謝の気持をこめて、彼の手を握りしめた。
しかし、アンナはここで考え違いをしたのだった。彼はこの知らせの意味を、アンナが女として解釈したようには理解しなかったからである。この知らせを聞くと、最近よく彼が発作的におそわれるあのなにものかに対する奇妙な嫌悪の念が、いつもの十倍もの力で彼をおそって来た。しかし、それと同時に、彼は、自分が予期していた危機が、今こそ到来したのであり、もうこれ以上夫に隠すことはできないから、方法はとにかく、一刻も早くこの不自然な状態を打破しなければならぬと感じた。ところが、それとは別に、彼女の興奮は生理的に彼にも感染した。彼はうっとりとした従順な目つきでアンナをながめ、その手に接吻《せっぷん》すると、そっと立ちあがって、無言のまま、テラスをひとまわりした。
「ええ」彼は決然とした足どりで彼女のそばへよって、話しかけた。「ぼくにしても、あなたにしても、ふたりの関係を一時の遊びだなんて考えたことはありませんが、しかし今こそぼくたちの運命はきまったのです。なんとしても、清算しなくちゃいけませんね」彼はあたりを見まわしながらいった。「ぼくたちが暮しているこの虚偽を」
「清算するですって? どうやって清算するの、アレクセイ?」アンナは静かにいった。彼女はもう気分がしずまったので、その顔は優しい微笑に輝いていた。
「ご主人を捨てて、ぼくたちふたりの生活を結びつけるんです」
「今だってふたりは結びつけられてるじゃありませんの」
アンナはやっと聞えるぐらいの声で答えた。
「ええ、でも、もっと完全に、しっかりと」
「でも、どんなふうに、アレクセイ、考えてちょうだい、どんなふうに?」アンナは出口のない自分の立場に悲しいあざけりの響きをこめて、いった。「ほんとに、こんな状態から抜け出す方法があって? だって、あたしはあの夫の妻じゃなくって?」
「どんな状態からだって、抜け出す道はありますよ。とにかく、決心をしなければ」彼はいった。「それがどんなものだって、今きみが暮している状態よりはましですよ。ぼくにはちゃんとわかっているんですよ、きみがどんなにいろんなものに苦しめられてるかってことは――社交界にも、むすこにも、夫にも」
「ええ、でも夫だけは違うわ」アンナは薄笑いを浮べていった。「自分でもわからないけど、あの人のことは考えませんわ。あの人なんかいないみたいなもんですもの」
「きみはごまかしていってるんだ。ぼくにはきみという人がわかっているんだから。いや、あの人のことでも苦しんでいますよ」
「でも、あの人はなにも知らないんですのよ」アンナはいったが、とつぜん、燃えるような紅《くれない》がその顔にひろがった。と、その頬《ほお》から額、首筋までがまっ赤になって、羞恥の涙が両の目にあふれでた。「ねえ、あの人のことはいわないようにしましょうね」
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ヴロンスキーは、今ほどはっきりした調子ではなかったが、これまでにも幾度かふたりの立場をもっとよく考えるようにと、アンナに話をもちかけた。しかし、いつの場合も、彼女はなにかその場かぎりの、軽はずみな受け答えしかしなかった。今も彼女はそれと同じ調子で、彼の申し出《いで》に答えたわけである。そこにはなにかしら、彼女が自分にもはっきりさせることのできない、いや、させたくないようなものがあるらしかった。彼女がその話をはじめるたびに、ほんとうのアンナはどこか、彼女自身の内部へ隠れてしまって、だれか別の、奇妙な、彼にとってまったくなじみのない、彼のきらいな、彼の恐れている女の人が姿を現わして、彼に食ってかかるのであった。しかし、彼はきょうこそなにもかもすっかり話してしまおうと決心した。
「あの人が知っていても、知らなくても」ヴロンスキーは持ち前のしっかりした、落ち着いた調子でいった。「あの人が知っていても、知らなくても、そんなことはぼくたちに、なんの関係もありませんよ。ぼくたちはどうしても……あなただってこのままではいられないじゃありませんか、とくに今となっては」
「じゃ、どうしろとおっしゃるんですの、あなたのご意見は?」彼女は相変らず軽くあざけるような調子でたずねた。先ほどまでは相手が自分の妊娠を軽く受け取りはしないかと恐れていた彼女も、いまや彼がそのためになにかしなければならぬという結論を引き出したことに、腹が立ってきたのであった。
「なにもかもあの人に打ち明けて、あの人を捨てるんですよ」
「そりゃ、とてもけっこうなことですわ。まあ、かりにあたしがそうするとして」アンナはいった。「その結果がどんなものかおわかりになって? あたし、これからなにもかもお話ししますわ」ついいましがたまで優しかった彼女のひとみの中に、毒々しい光が燃えはじめた。「『では、おまえはほかの男を愛して、その男と罪ぶかい関係になったというわけだね?』」(アンナは夫の口ぶりをまねながら、カレーニンがいつもするように、罪《・》ぶかい《・・・》という言葉に力を入れた)「『私はそうしたことが宗教や、社会や、家庭生活の面において、どんな結果が生れるかを、あらかじめ警告しておいたはずだ。ところが、おまえは私のいうことを聞かなかった。いまさら、私は自分の名に、泥をぬるわけにはいかんね……』」彼女は『自分のむすこにも』といいたかったが、むすこをこうした冗談事にひきだすわけにいかなかった。「『自分の名に泥をぬるわけにはいかん……』まあ、ざっとこんなふうのことを、まだなにかいうでしょうよ」彼女はつけたした。「まあ、だいたいのところ、あの人は例の政治家ぶった態度で、はっきりと正確に、あたしを手放すわけにはいかないが、なんとかできるだけの手をつくして、スキャンダルを避けたい、というでしょう。そして、自分のいったことは、落ち着いて、きちょうめんに実行するでしょう。結果はそういうことですわ。だって、あれは人間じゃなくて機械なんですから。それも、恐ろしい機械ですわ。おこったときには」彼女はそうつけ加えた。そのときふと、カレーニンの姿や話しぶりや性格を、細かいところまで一つ残らず思いだし、その中に見いだしうるかぎりの欠点をすべて彼の罪にして、彼女自身が夫に対して犯した恐るべき罪のために、かえってなにひとつ夫を許そうとしないのであった。
「でも、アンナ」ヴロンスキーは、相手の気持をしずめようと努めながら、説きふせるような、しかももの柔らかな声でいった。「なんとしても、あの人にはいわなくちゃいけないね。そのうえではじめて、あの人のとる方法に対して善処しなければ」
「じゃ、駆落ちするの?」
「駆落ちして悪いことはないさ。ぼくはこのままつづくとは思わないね……それも、自分ひとりのためじゃない――きみが苦しんでいるのが、わかってるから」
「じゃ、駆落ちして、あたし、あなたの情婦になるのね?」彼女は意地悪そうにいった。
「アンナ!」彼は優しくとがめるような調子でいった。
「ええ、そうよ」彼女はつづけた。「あなたの情婦になって、なにもかも破滅させてしまうんだわ……」
アンナはまた、むすこまでも、といいたかったが、その一語は口にすることができなかった。
ヴロンスキーには、あの性格のしっかりした、潔癖なアンナが、なぜこうした偽りの状態に耐えながら、そこから抜け出ようとしないのか、理解できなかった。しかも、彼はそのおもな原因が、彼女の口に出すことのできないむすこ《・・・》という一語にあることを、推察することができなかった。アンナはむすこのことを思い、父親を捨てた母親に対して将来むすこがどんな態度をとるかと考えると、自分のしたことがそら恐ろしくなった。そして、もう冷静に判断する力を失い、ただもうひとりの女として、すべてのものをそのままにして、むすこの運命がどうなるかという恐ろしい問題を忘れたい一心で、偽りの理屈や言葉で自分を安心させようとするのであった。
「ね、お願いするわ、どうしてもお願いしたいわ」不意に、アンナは彼の手を取って、今までとは別人のような、誠意のこもった、優しい声でいった。「こんな話はもう二度となさらないでね!」
「だって、アンナ……」
「いいえ、もうけっしてなさらないで。あたしにまかせておいて。自分の立場が、どんなに恐ろしく卑しいみじめなものだってことは、あたしにはよくわかってるんですけど、それはあなたが考えてるほど、簡単にきめられるものじゃありませんわ。ですから、あたしにまかせて、あたしのいうことも聞いてちょうだい。もうこのお話はあたしにけっして二度となさらないでね。あたしに約束してくださる……いいえ、だめ、約束してくださらなくちゃ!」
「そりゃ、ぼくはなんでも約束するけれど、どうしても落ち着いていられないんですよ、ことにきみが今いったことを聞いたあとでは。きみが落ち着いていられないときは、ぼくだって落ち着いちゃいられませんよ……」
「あたくしが?」アンナは繰り返していった。「そりゃ、あたしもときには苦しみますわ。でも、あなたがもう二度とけっしてこの話をあたしとなさらなければ、こんなこともなんとかなっていきますわよ。あなたがそんなことをおっしゃれば、ただあたしを苦しめるばかりですわ」
「わからないな」彼はいった。
「あたしにはわかってますわ」アンナはさえぎった。「あなたのような潔癖な気性の方は、うそをつくのがさぞ苦しいでしょうね。あなたがお気の毒だわ。あたし、よく思うんですけど、あなたはあたしのために、ご自分の一生を台なしになすったのねえ」
「ぼくも今ちょうどそれと同じことを考えてたんです」彼はいった。「きみだってぼくのために、なにもかも犠牲にしてくれたじゃありませんか? きみを不幸にしたと思うと、ぼくはどうしても自分が許せないんです」
「あたしが不幸ですって?」アンナは彼のそばへ近づき、愛の喜びに燃えた微笑で相手の顔に見入りながら、いった。「あたしはね、飢えた人がお腹《なか》いっぱい食べさせてもらったみたいなものね。そりゃ、その人は寒いかもしれませんよ。着物もぼろぼろに破れているかもしれませんし、恥ずかしいかもわかりません。でも、その人は不幸じゃありませんわ。あたしが不幸ですって? いいえ、ねえ、これこそあたしの幸福ですわ……」
アンナは帰って来たむすこの声を聞きつけ、素早くテラスを一瞥《いちべつ》して、ぱっと立ちあがった。彼女のまなざしには、彼の見なれている火が燃えだした。彼女はすばしこい動作で、いくつも指輪をはめた美しい両手を上げ、彼の頭をはさんで、長いことじいっと見つめていたが、やがて笑《え》みを含んだ唇を開いたまま、自分の顔を近づけ、素早く彼の口と両の目に接吻して、つき放した。彼女は行こうとしたが、彼がそれを引き止めた。
「いつ?」彼は有頂天になって相手をながめながら、ささやくようにきいた。
「今夜、一時に」彼女はささやいた。そして、大きく溜息《ためいき》をつくと、例の軽く速い足どりで、わが子を迎えに行った。
セリョージャは公園で雨にあい、ばあやといっしょに四阿《あずまや》で雨やどりしていたのだった。
「じゃ、のちほどまた」アンナはヴロンスキーにいった。
「もうすぐ競馬場へ行かなくちゃなりませんわ。ベッチイがあたしを迎えに寄る約束なの」
ヴロンスキーは、ちらと時計を見て、急いで出かけて行った。
24
ヴロンスキーはカレーニン家のバルコニーで時計を見たとき、ひどくそわそわして、自分の考え事に気をとられていたので、文字盤の針をながめながらも、いったい何時なのかわからなかった。彼は大通りへ出て、ぬかるみの中を用心ぶかく歩きながら、自分の馬車のほうへ歩いて行った。彼の心は、アンナに対する愛情でいっぱいだったので、今何時なのか、ブリャンスキーのところへ寄る暇があるのかどうかも、考えなかった。これはよくあることだが、今の彼にはなんのあとにはなにをするのだという、外的な記憶力しか残っていなかった。彼は、もう影が斜めになっている菩《ぼ》提樹《だいじゅ》の茂みのそばの、御者台の上に居眠りをしていた自分の御者に近づき、汗ばんだ馬の上でぶんぶんと蚊柱をたてている蚊や蚋《ぶよ》にしばらく見とれてから、御者をゆり起し、馬車に飛びのって、ブリャンスキーのところへやれと命じた。七キロばかり行ったとき、彼はやっといくらかわれに返って、時計を見ると、もう五時半だったので、これは遅れたぞ、と思った。
この日はいくつかの競馬があった――護衛兵の競馬に始まり、将校の二キロ競馬、四キロ競馬、最後が彼の参加している例の障害物であった。自分の競馬には間にあうだろうが、今ブリャンスキーのところへ寄ったら、陛下が宮廷の顕官を従えて臨席されたあとにやっと着くようになるだろう。それはまずかった。しかし、ブリャンスキーには立ち寄るとちゃんと約束したので、彼はそのまま先へ行くことにし、御者に三頭立て《トロイカ》でも馬を容赦しないようにいいつけた。
彼はブリャンスキーのところへ着くと、五分ほどいて、すぐ今来た道を引き返した。この疾駆は彼の気持をしずめた。アンナとの関係で生じた重苦しいいっさいのものも、ふたりの話のあとに残ったあいまいなものも、すべて彼の頭から吹っとんでしまった。彼は浮きうきした興奮にかられながら、競馬のことや、とにかく、間にあうだろうということを考えた。そして、時たま、今夜のあいびきについての幸福な期待が、あざやかな光となって、空想の中にぱっと燃えあがるのだった。
彼の馬車が、別荘帰りの馬車や、ペテルブルグから競馬に行く馬車を追いこしながら、次第に競馬の雰《ふん》囲《い》気《き》にはいりこんでいくにつれて、目前に迫った競馬への感激がますます彼の心をとらえていった。
彼の宿舎には、もうだれも残っていなかった。みんなが競馬へ出かけてしまったので、召使は門のそばで彼を待ちうけていた。彼が着替えているあいだも、召使はもう二番めの競馬が始まろうとしていることや、大勢のだんな方が彼のことをたずねに来たことや、厩《うまや》から二度も少年が駆けつけたことなどを報告した。
たいして急ぐ様子もなく、着替えをすると(彼はけっして急いだり、自制心を失ったりすることはなかった)、ヴロンスキーはバラックへ馬車をやるように命じた。バラックからは、もう競馬場をとりかこんでいる馬車や徒歩の人や兵隊たちの海が見え、群衆でわきたっている桟《さ》敷《じき》が見わたされた。どうやら、第二番めが始まっているらしかった。というのは、彼がバラックにはいろうとしたとき、鐘の音が聞えたからである。厩の近くで、彼はマホーチンの持ち馬で、足の白い栗毛のグラジアートルに出会った。馬は青い縁飾りのために耳が大きく見える、オレンジ色に青い縞《しま》のある馬衣を着せられて、競馬場へ引かれて行くところだった。
「コードはどこにいる?」彼は馬丁にたずねた。
「厩の中にいます。今鞍《くら》をつけてるところです」
あけはなされた仕切りの中で、フル・フルはもう鞍をつけていた。これから引き出すところだった。
「遅れなかったかね?」
「All right! All right ! みんなちゃんとしてあります、なにもかもちゃんと」イギリス人は答えた。「ただ興奮なさいませんように」
ヴロンスキーはもう一度、全身を震わしている愛馬の優雅な美しい姿をながめまわしてから、やっとの思いで、このすばらしいながめから目を放して、バラックを出た。彼は人の目につかないように、ちょうどいいころあいを見計らって、桟敷へ乗りつけた。ちょうどそのとき、二キロ競馬が終ったところで、すべての視線は、最後の力をふりしぼって馬を追いながら決勝点へ近づいていた先頭の近《この》衛《え》騎兵と、それにつづく軽騎兵にそそがれていた。馬場の中からも外からも、人びとは決勝点へひしめきあっていた。近衛騎兵の一団は兵卒も将校も、自分たちの上官であり同僚である人の優勝を目前にしながら、喊声《かんせい》をあげて、喜びを表現していた。競馬の終了を告げる鐘が鳴るのとほとんど同時に、ヴロンスキーは群衆の中へそっと気づかれぬようにはいった。そのとき、泥のはねだらけの、背の高い、一着になった近衛騎兵は、鞍の上につっ伏し、苦しそうに息をしている、汗で黒ずんだ、灰色の雄馬の手綱をゆるめはじめた。
雄馬は、懸命に足をつっぱりながら、その大きな図体《ずうたい》の速度を縮めた。と、近衛騎兵は重苦しい夢からさめた人のように、あたりをちらっと見まわし、かすかに微笑をもらした。同じ隊や他の隊の人びとが、いっせいに彼をとりまいた。
ヴロンスキーは、桟敷の前で、つつましく、しかも、おおらかな態度で歩きまわったり、おしゃべりをしたりしている、えりぬきの上流の人びとを、わざと避けるようにしていた。彼はそこにアンナも、ベッチイも、兄の妻もいることを知っていたが、ほかのことに気を散らさないために、わざとそのほうへは行かなかった。しかし、ひっきりなしに出会う知人たちは、彼を引き止め、いままですんだ競馬の詳細を物語ったり、なぜきみは遅れたのかとたずねたりした。
騎手たちが賞品をもらいに桟敷へ呼ばれて、一同の視線がそのほうへそそがれたとき、ヴロンスキーの兄のアレクサンドルが近づいて来た。参謀の金モールをつけた大佐の兄は、あまり背が高くなく、アレクセイ同様がっしりした体格だったが、彼よりもさらに美男で、酔ってばら色の顔に赤い鼻をしていたが、その表情はあけっぱなしだった。
「わしの手紙は受け取ったかね?」彼はいった。「いつ行ってみても、おまえはつかまらんねえ」
兄のアレクサンドルは、放縦な、とくに酒びたりの生活で有名であったが、それにもかかわらず、しんから宮廷風な人間であった。
彼は今も弟に、きわめて不愉快な話をしようとしながらも、大勢の人びとの目が自分たちに注がれるおそれがあるのを知っていたので、なにかつまらないことで弟と冗談をいっているように、わざと笑顔をつくっていた。
「受け取りましたよ。でも、正直のところ、なにをあなた《・・・》がそんなに気をもんでるのか、理解に苦しみますよ」ヴロンスキーはいった。
「いや、わしが気をもんでいるのは、さきほどもおまえがここにいなかったことと、月曜日にもペテルゴフでおまえに会った人があるという、そのことなんだよ」
「でも、この世の中には、その当事者だけが頭を悩ますべき事がらがありますからね。あなたがそんなに気をもんでいられることは、そういった……」
「うん、しかし、そうなら勤めなんかやめて……」
「どうか、ぼくのことに干渉しないでください、お願いはそれだけです」
ヴロンスキーの眉《まゆ》をひそめた顔は、さっと青ざめ、その瞬間、突き出た下顎《したあご》が震えた。こんなことは、彼としてまったく珍しいことであった。彼は、きわめて善良な心をもった人のつねとして、めったにおこったりしなかったが、しかし、いったん、おこりだして、下顎が震えだすと、危険な人物になることを、兄のアレクサンドルは知っていた。そこで、アレクサンドルは、愉快そうに微笑した。
「なに、わしはただ、お母さんの手紙を渡そうと思っただけさ。返事は書いてくれよ。さ、競馬の前にそう気を乱しちゃいかんよBonne chance 」彼はそう笑顔でつけ加えると、弟のそばを離れて行った。
ところが、兄が去るとすぐ、またしても親しげなあいさつの声が、ヴロンスキーを引き止めた。
「やあ、きみは友人を無視する気なのかい!ごきげんよう、Mon cher ! 」オブロンスキーが声をかけた。彼はこのえりぬきのペテルブルグ上流社交人の中でも、モスクワにいるときに劣らず、そのばら色の顔と、きれいになでつけられた頬ひげを輝かしていた。「きのうやって来たんだ、きみの勝利を見ることができて、とてもうれしいよ。いつ会えるかね?」
「あした集会所へ来てくれたまえ」ヴロンスキーはいい、失礼を謝しながら、相手の外套《がいとう》の袖《そで》を握って、競馬場のまん中へ歩いて行った。そこではもう大障害物競走の馬が、引き出されていた。
競走をすまして、汗だらけの、へとへとに疲れきった馬は、馬丁に引かれて厩のほうへ連れ去られ、次の競走に出る新しい生気溌剌《はつらつ》たる馬が、次から次へと姿を現わした。その多くはイギリス種の馬で、頭被をかぶり、腹のぐっとひきしまっているところは、巨大な怪鳥《けちょう》の姿を思わせた。胴のひきしまった美女フル・フルは、弾力性のあるかなり長い足首を、ばね仕掛けのように踏みしめながら、右手へ引かれて行った。そこから遠くないところでは、耳のたれたグラジアートルが、馬衣を脱がせてもらっていた。その見事な尻と、ひづめのすぐ上についているような感じの、並みはずれて短い足首を持ったこの雄馬の、完全に均斉のとれた、大がらな美しい姿は、思わずヴロンスキーの注意をひきつけた。彼は自分の馬のほうへ近づこうとしたが、またもや知人に引き止められた。
「ほら、あすこにカレーニンがいるよ」その知人は、話の途中でいった。「細君を捜してるんだが、細君のほうは桟敷のまん中にいるのさ。きみはその女《ひと》に会ったかい?」
「いや、会わなかった」ヴロンスキーは答え、知人が指さしたアンナのいる桟敷のほうは振り向きもせずに、自分の馬に近づいて行った。
ヴロンスキーが自分でさしずしておこうと思っていた鞍を見る暇もないうちに、騎手たちは枠《わく》順の抽せんと、スタートの準備をするために、桟敷の前へ呼び出された。多くはまっ青な顔をした、真剣な、きびしい表情をたたえた、十七人の将校は、桟敷に集まって、番号のくじをひいた。ヴロンスキーは七番に当った。
「乗馬!」という声が聞えた。
ヴロンスキーは自分がほかの騎手たちとともに、衆人環視の的となっているのを感じながら、緊張した気持で、自分の馬に近づいて行った。彼は緊張すると、いつも動作がゆったりして、落ち着くのだった。調教師のコードは晴れの競馬だというので、礼服を着ていた。それは、きっちりボタンをかけた黒のフロックコートに、両の頬をおしあげている糊《のり》のきいたカラー、黒の山高帽に、騎兵靴といういでたちであった。彼は例によって落ち着きはらって、もったいぶった様子で、馬の前に立ち、手ずから両方の手綱をおさえていた。フル・フルは、まるで熱病にでもかかったように、なおも震えつづけていた。その火のように燃える目は、近づいてくるヴロンスキーのほうを、横目でにらんでいた。ヴロンスキーは、腹帯の下へ指を一本さしこんでみた。馬はますます横目をつかって、歯をむきだし、片方の耳をたらした。イギリス人は唇をしかめたが、それは自分がつけた鞍を検査されたことに対して、冷笑を示そうとしたのであった。
「さあ、お乗りください、そのほうが興奮なさいませんから」
ヴロンスキーは、最後に、自分の競争相手たちを見まわした。駆けだしてしまえば、もう見られないことを知っていたからである。ふたりの騎手はもう出発点のほうへ馬を進めていた。手ごわい競争相手のひとりであり、ヴロンスキーの友人であるガリツィンは、自分を乗せようとしない栗毛の雄馬のまわりを、うろうろしていた。細い乗馬ズボンをはいた小がらな軽騎兵は、イギリス人のまねをして、猫のように馬の背に身をかがめながら、駆歩で進んでいた。クゾヴリョフ公爵はまっ青な顔をして、グラーボフ牧場生れのサラブレッド牝《ひん》馬《ば》にまたがり、イギリス人に轡《くつわ》を取らしていた。ヴロンスキーもその同僚たちも、クゾヴリョフの人がらを、とくに《弱々しい》神経をもっているくせに、恐ろしく自尊心が強いことを承知していた。みんなは、彼がどんなことでも恐れていることを、軍馬に乗ることすら恐れていることを知っていた。ところが、いまや彼はその軍馬で競走することに決心したのである。そう決心したのは、それが恐ろしいことであり、人がよく首の骨を折ったりするので、障害物の一つ一つに軍医がついたり、赤い十字を縫いつけた救急車や、看護婦が控えたりしているためにほかならなかった。ふたりは目を見合せた。ヴロンスキーは優しく、励ますように彼に目くばせして見せた。ただひとり、いちばんの競争相手である、グラジアートルに乗ったマホーチンの姿だけは、そこに見あたらなかった。
「お急ぎになってはいけません」コードはヴロンスキーにいった。「それから、一つだけ申しあげておきますが、障害物の手前では手綱をしめても、ゆるめてもいけませんよ。馬の好きなようにさせておいてください」
「ああ、いいとも」ヴロンスキーは手綱を取りながら、いった。
「できれば、先頭にお立ちになることですが、たとえあとになっても、最後の瞬間まで、あきらめてはいけません」
馬が動く間のないうちに、ヴロンスキーはしなやかな力強い動作で、刻み目のついた鋼鉄の鐙《あぶみ》に片足をかけ、そのひきしまったからだを、ぎいぎい音のする鞍の上に、軽々と、しかも、しっかりとのせた。彼は右足を鐙にかけ、二重になった手綱を、慣れた手つきで指のあいだでさばいた。そこで、コードは手を放した。フル・フルはどちらの足から先に踏みだしたらいいかわからないように、長い首で手綱をひっぱり、しなやかな背の上で、乗り手を軽くゆすりながら、ばね仕掛けのように、歩きだした。コードは足を速めながら、あとからついて来た。気のたった馬は、乗り手をだまそうとして、左右かわるがわるに手綱を引っぱった。が、ヴロンスキーはそれをなだめようとして、声をかけたり、手でなでたりして、むなしい努力をつづけた。
彼らはもう、出発点になっている場所をめざして、せき止めてある川のそばまで近づいていた。騎手たちは前のほうにも、うしろのほうにも、大勢いたが、とつぜん、ヴロンスキーは自分のうしろから、ぬかるみの道を駆歩で走って来る馬《ば》蹄《てい》の音を聞きつけた。と、足が白くて、耳の大きなグラジアートルにのったマホーチンが、彼を追い越して行った。マホーチンは大きな歯を見せながら、にっこり笑った。しかし、ヴロンスキーはおこったように相手をじろっと見たきりだった。だいたい、ヴロンスキーはマホーチンを好かなかったが、今は彼をもっとも手ごわい競争相手と見なしていたので、その彼がそばを駆けぬけて、自分の馬をいらだたせたのがしゃくにさわったのである。フル・フルは、左足をさっと上げて駆歩に移ると、二つばかり飛んだ。そして、手綱がしまっているのに腹を立てて、レ《だく》に移り、乗り手をさかんにゆすり上げはじめた。コードも眉をひそめて、ほとんど走るようにして、ヴロンスキーのあとを追った。
25
競走に参加した将校は、全部で十七人であった。競馬は、桟敷の前にひろがる周囲四キロもある、大きな楕《だ》円形《えんけい》の馬場で行われることになっていた。この馬場の中に、九つの障害物が設けてあった。すなわち、小川、桟敷のすぐ前にある高さ一メートル半ほどの大竹《だいちく》柵《さく》、空堀《からぼり》、水溝《すいこう》、坂、アイルランド式の踏ア《バンケット》(いちばんむずかしい障害物の一つ)と呼ばれる枯れ枝を一面にさした土坡《どは》、その陰には、馬の目に見えないように、もう一つ溝《みぞ》があるので、馬は一気に二つの障害物を飛び越すか、命を落すかしなければならなかった。そのほかになお二つの水溝と空堀が一つあり、決勝点は桟敷の向う正面になっていた。しかし、競馬の出発点は馬場の中ではなくて、そこより二百メートルばかり離れたわきのほうになっていた。しかも、この距離のあいだに、もう第一の障害物があった――それは、幅二メートルばかりの水をせきとめた川で、それは飛び越そうと歩いて渡ろうと、騎手たちの勝手であった。
三度ばかり騎手たちは、一列に並んだが、そのたびにだれかの馬が前に飛びだすので、また初めからやらなければならなかった。出発係の名手セストリン大佐も、そろそろかんしゃくを起しかけていたが、やっと四度めに『スタート!』と号令をかけることができた。と、騎手たちはいっせいにぱっと飛び出した。
だれの目も、どの双眼鏡も、騎手たちが出発点に並びはじめたときから、その色とりどりの騎手の一団に引きつけられていた。
「そら出た! さあ、走りだしたぞ!」息をのむような沈黙のあとで、あちらこちらから、こうした声が聞えた。
一団になっているのや、めいめい別になっている立見席の連中は、すこしでもよく見えるようにと、小走りに、あちこち場所を変えはじめた。騎手の一団は、もう最初の瞬間から遅れをとるものがでて、あるいは二人ずつ、あるいは三人ずつ、次々に川へ近づいて行くのが見えた。観衆には、全部がいっせいに駆けだしたように見えたが、騎手たちにとっては重大な意味をもつ一、二秒の差があったのである。
気がたっているうえに、あまりに神経質すぎるフル・フルは、最初の一瞬を逸して、数頭の馬に先を越されたが、まだ川まで走り着かないうちに、ヴロンスキーは、むやみに手綱をひく馬を、一生懸命おさえながら、楽々と三頭を追い越してしまった。もう彼の前には、そのすぐ鼻先で軽軽と尻で拍子をとっている、マホーチンの栗毛のグラジアートルと、もう生きた心地もないクゾヴリョフを乗せて、トップを切っている美しいディアナの二頭だけになってしまった。
はじめの数分間は、ヴロンスキーもまだ自分をおさえることも、馬を御することもできなかった。彼は第一障害の川に着くまでは、馬の動きを制御することができなかった。
グラジアートルとディアナは、いっしょに川へ近づき、ほとんど同時に、さっと、川の上へ飛びあがり、向う岸へ飛び越した。それにつづいて、フル・フルはあっという間にさながら空飛ぶ鳥のように、高く舞いあがった。しかし、ヴロンスキーは、からだが宙へ舞いあがったなと感じた瞬間、愛馬の足のほとんど真下にあたる、川の向う岸で、クゾヴリョフがディアナといっしょに、ばたばたもがいているのを、ちらっと見た。(クゾヴリョフは飛んだあと、手綱をゆるめたので、馬は彼を乗せたまま、もんどりうって倒れたのである)。ヴロンスキーがこうしたいきさつを知ったのはあとのことで、そのときはただ、フル・フルが足をおろすべき場所が、ディアナの足か頭にあたりはしないかと、ちらっと思っただけであった。しかし、フル・フルは、さながら落下する猫のように、飛びあがっているうちに前足と背に力を入れて、馬をよけて飛びおり、そのまま前へ突進した。
《おお、でかしたぞ……》ヴロンスキーは心の中で叫んだ。
川を越してしまうと、ヴロンスキーはもう完全に馬を御するようになった。そして、大きな柵はマホーチンのあとから越して、その先の障害物のない四百メートルばかりのところで、彼を追いぬこうともくろみながら、馬をひきしめにかかった。
大障害の柵は貴賓席の真正面にあった。彼らが悪魔(この大竹柵は、そうあだ名されていた)のそばへ近づいたとき、皇帝も、宮廷の顕官たちも、群衆も――すべての人びとは彼らふたりを、ヴロンスキーと、一馬身だけ先に立っているマホーチンとを見つめていた。ヴロンスキーは、八方から注がれているこれらの視線をわが身に感じながらも、なにひとつ目にはいらなかった。彼が見ていたのは、ただ自分の馬の耳と首と、彼を目がけて飛んで来る地面と、彼の前で目まぐるしく拍子をとりながら、いつも同じ距離を保っているグラジアートルの尻と、白い足ばかりであった。グラジアートルはぱっと飛びあがったかと思うと、どこにもぶつかった様子はなく、短い尾をひと振りして、ヴロンスキーの視界から消えてしまった。
「ブラヴォー!」だれかが叫んだ。
その瞬間、ヴロンスキーの目の前、というよりも目の下に、大竹柵の板がちらっと見えた。馬はその動作にいささかの変化も見せないで、その上に舞いあがった。と、板は隠れた。ただうしろで、なにか音がしただけであった。先頭をゆくグラジアートルのためにいきりたったフル・フルは、柵の手前で、あまりに早く飛びあがったので、後足のひづめが板にぶつかったのである。が、歩度は変らなかった。ヴロンスキーは、泥のかたまりを顔にうけながら、またグラジアートルと同じ距離になったのを知った。彼はまたしても自分の目の前に、グラジアートルの尻と、短いしっぽと、相変らず遠ざかりもせずに迅速に動く白い足を見た。
ヴロンスキーが、今こそマホーチンを追い越さなければいけないと思った瞬間、フル・フルも素早く主人の気持を察して、まだなんのさしずも受けないのに、ぐんと速度をまし、いちばん有利な側面である縄を張ってあるほうから、マホーチンに接近して行った。しかし、マホーチンは縄のほうへ近づけないようにした。ヴロンスキーが外側からでも抜けると考えたとたん、フル・フルはもう足を変えて、そのとおりに追い越しはじめた。汗のためにもう黒ずみかけたフル・フルの肩は、グラジアートルの尻と並んでいた。しばらくのあいだふたりは並んで走った。しかし、まもなく近づいてきた障害物の手前で、ヴロンスキーは大きく外まわりをしないように、手綱をさばきながら、坂ですばやくマホーチンを追い越した。その瞬間、彼は、泥のはねでよごれた相手の顔を、ちらっと見た。相手がにやっと笑ったようにさえ思われた。ヴロンスキーは、マホーチンを抜いたものの、自分のすぐうしろに相手の存在を感じ、背中のすぐうしろに拍子正しいひづめの音と、きれぎれではあるがまだ生きいきとしたグラジアートルの鼻息をたえず耳にしていた。
つづく二つの障害物、水溝と竹柵は、楽々と越せた。ところが、ヴロンスキーには、グラジアートルの鼻息とひづめの音が、前よりいっそう近くに聞えて来た。彼は馬に拍車をかけた。馬がやすやすと速力を加えたのを感じて、彼はすっかりうれしくなった。グラジアートルのひづめの音は、再び前と同じ距離で聞えはじめた。
ヴロンスキーは先頭にたった。それは自分でも望んでいたことだし、コードも勧めてくれたことだったので、いまや彼は自分の勝利を信じて疑わなかった。彼の興奮と歓喜とフル・フルによせる優しい愛情は、ますます強くなっていった。彼はうしろを振り返って見たくてたまらなかったが、思いきってそうすることはできなかった。そして、グラジアートルに残っていると感じられるだけの馬力を、自分の馬にもたくわえておこうと、努めて自分の気持を落ち着かせながら、馬にも拍車をかけないようにしていた。行く手にはただ一つ、もっともむずかしい障害物が残っていた。彼がそれさえまっ先に飛び越えたら、第一着は疑いないところであろう。彼はそのアイルランド式踏ア《バンケット》を目ざして突進した。彼はフル・フルといっしょに、まだ遠くのほうからこの踏ア《バンケット》を見た。その瞬間、彼らは両方とも、人も馬も、疑いの念におそわれた。彼は馬の耳に躊躇《ちゅうちょ》の気配を認めて、鞭《むち》を振り上げた。が、すぐまた、その懸《け》念《ねん》は根拠のないものだと感じた。馬はなすべきことを心得ていた。フル・フルはぐっと身を乗りだすと、彼の予想どおり、正確に、ひと飛びして、大地をけったまま、惰力に身をまかせ、その力に乗って、溝の向う側まで飛んで行った。それからも、フル・フルは同じ調子で、なんの苦もなく、同じ足どりで疾走をつづけた。「ブラヴォー! ヴロンスキー!」障害物のそばに立っていた一団の人びとの叫ぶ声が、彼の耳にも聞えた。彼はそれが同じ連隊の仲間だということを知った。彼は、ヤーシュヴィンの声をいやでも聞き分けたが、その姿は見えなかった。
《ああ、なんてすばらしいやつだろう!》彼はうしろの気配に耳を澄ましながら、フル・フルのことを考えた。
《越えたな!》うしろにグラジアートルの跳躍の音を聞きつけて、彼はそう思った。あと残っているのは幅四メートルあまりの、水をたたえた最後の溝が一つあるきりだった。もうヴロンスキーにはそんなものなど眼中になかった。彼はただ大きく差をつけて、一着になりたいと思い、疾走の勢いにうまく拍子をあわせ、馬の頭を上下させながら、円を描くように手綱をさばきはじめた。彼は、馬が最後の力をふりしぼって、走っているのを感じた。馬はその肩や首をびっしょりぬらしているばかりでなく、たてがみの下や頭やとがった耳にも、玉の汗がにじみでていた。馬ははあはあと息をきらしていた。しかし、彼はこの余力だけでも、残りの四百メートルには十分なのを、承知していた。ヴロンスキーは、自分のからだが前よりいっそう地面に近づいたように感じたのと、馬が一種独特の柔らかい身のこなしでうんと速力をましたのを知った。小溝などは、まるで気づかぬように、飛び越えた。馬はさながら小鳥のように飛び越えた。
しかし、ちょうどその瞬間、ヴロンスキーは自分が馬の動きに従わないで、自分でもどういうことかわけがわからなかったが、とにかく鞍の上に尻を落し、騎手として許すべからざる、醜い動作をして、われながらはっとした。と、急に彼の姿勢がくずれた。彼は、なにか恐ろしいことが起ったのを感じた。彼がまだなにごとが起ったのか、はっきり自覚するまもなく、もう栗毛の雄馬の白い足が彼のすぐそばにひらめいたかと思うと、マホーチンが全速力でわきを駆けぬけていった。ヴロンスキーの片足は地面にふれ、彼の馬はその足の上に倒れかかった。彼がやっと足を抜いたとたん、馬は横だおしに倒れて、苦しそうにあえぎながら、起きあがろうとして、その細い汗だらけの首をむなしくさしのべていた。それはさながら、弾丸《たま》を受けた小鳥のように、彼の足もとで身をもがいていた。ヴロンスキーはへまな動作で、馬の背骨を折ったのである。しかし、彼がそれを悟ったのは、ずっとあとになってからであった。その瞬間、彼が知ったことは、マホーチンが見るみるうちに遠ざかって行くのに、自分はじっと動かぬきたない地面に、よろめきながら立っていることと、フル・フルが苦しそうに息をつきながら、目の前に身を横たえ、彼のほうへ頭を向けながら、その美しい目でじっと自分を見つめていることだけであった。それでもまだ、ヴロンスキーはなにごとが起ったのか、はっきりのみこめないで、馬の手綱をぐいと引っぱった。馬はまた小魚のように、全身を震わせ、鞍の両翼をはためかせながら、前足を立てようとしたが、尻を持ちあげるだけの力がなく、たちまち、よろめいて、その場にまた横だおしに倒れてしまった。ヴロンスキーは、興奮のあまり醜くなった顔をまっ青にして、下顎をがくがく震わせながら、靴の踵《かかと》で馬の腹をけり、再び手綱を引っぱりはじめた。しかし、馬は身じろぎもせず、鼻面を泥の中へおしつけて、例のものいうような目つきで、ただじっと主人の顔を仰ぎみるのであった。
「ああ!」ヴロンスキーは頭をかかえながら、うめき声をたてた。「ああ! おれはなんということをしたんだ!」彼は叫んだ。「競馬にも負けてしまった。しかも、それはこのおれの、恥ずベき、許すべからざる罪なのだ!しかも、あんなかわいい馬を台なしにしてしまった! ああ! おれはなんということをしたんだ!」
大勢の人や、医者や、衛生兵や、同じ連隊の将校たちが、彼を目がけて走って来た。運悪く、彼は自分が無事で、少しも負傷していないことを感じた。馬は背骨を折っていたので、射殺されることにきまった。ヴロンスキーは、人びとの質問に答えることもできなければ、だれとも口をきくこともできなかった。彼は身をひるがえすと、頭から落ちた軍帽を拾おうともしないで、自分でもどこへ行くというあてもなく、競馬場から出て行った。彼は自分を不幸に感じた。彼は生れてはじめてもっともみじめな不幸を、自分が因《もと》となった、取り返しのつかない不幸を、体験したのであった。
ヤーシュヴィンは軍帽を持って彼に追い着き、家まで送って行った。三十分後に、ヴロンスキーはわれに返った。しかし、この競馬の思い出は、彼の生涯においてもっともみじめな、痛ましい思い出として、長く彼の心に刻みつけられた。
26
妻に対するカレーニンの態度は、表面上、以前と少しも変っていなかった。たった一つ変ってきたのは、彼が以前よりもっと多忙になったことである。例年どおり、彼は春になると、冬のあいだ酷使してそこなわれた健康を回復するために、外国の温泉に出かけた。そして、いつものとおり、七月にもどって来ると、ただちに、前にも増した精力をもって、相も変らぬ自分の仕事にとりかかった。妻も、例によって、別荘へ移り住み、彼はペテルブルグにとどまった。
トヴェルスコイ公爵夫人邸の夜会のあとで、あのような話をして以来、彼はもう二度とアンナに自分の疑いや、嫉妬《しっと》については話さなかった。そして、例の、だれかの役を演じているような、彼のいつもの調子は、妻に対する現在のような関係にとっては、このうえなく便利なものであった。彼は、妻に対して前よりいくらか冷淡になった。彼はあの晩、はじめてゆっくり話し合おうとしたのに、妻がそれを避けたことに対して、少し不満をいだいているようであった。妻に対する彼の態度には、いまいましさの感じがあったが、それ以上のものではなかった。《おまえは、わしとうちとけて話し合おうとしなかったね》彼は心の中で妻に向って、こういっているようだった。《でも、そうするのは、おまえの損なんだよ。もう今となっちゃ、おまえのほうから頼んでも、わしは話し合いなんかしないからね。ますます、おまえの損になるばかりさ》彼は心の中でつぶやいた。それはまるで、火事を消そうとしてむなしい努力をしたあげく、自分のむなしい努力に腹を立てて、《えい、これはおまえが悪いんだ! もう勝手に燃えちまえ!》そうどなってる人に似ていた。
彼のような勤務にかけては聡明《そうめい》で、細かい神経をもった人物でも、妻に対するそうした態度がまったく愚かしいものであることは、理解できなかった。彼がそれを理解しなかったのは、自分のほんとうの立場を理解するのが、あまりに恐ろしかったからである。だから彼は、自分の家族、つまり、妻とむすこに対する自分の感情をおさめた胸の小箱の蓋《ふた》をしめ、鍵《かぎ》をかけ、さらに封印までしてしまったのである。それまでかなり注意ぶかい父親であった彼も、この冬の終りごろから、むすこに対してひどく冷淡になり、わが子に対しても、妻に対するときと同じような、小ばかにしたような態度をとるようになった。「やあ! お若いの!」彼はこんな調子でむすこに話しかけるのであった。
カレーニンは、今年ほど役所の仕事が忙しいことはないと、考えもし、人にも語っていた。しかし、彼は今年はわざと自分で仕事を考えだしたのであり、それは妻子に対する感情と考えのはいっている例の小箱を、あけない方便の一つであるとは意識していなかった。しかも、そうした感情や考えはその小箱に長くはいっていればいるほど、ますます恐ろしいものになるのであった。もしだれかがカレーニンに、あなたは奥さんの行状をどう考えているのかと、きく権利をもっているとしたら、柔和で温厚なカレーニンは、なんにも返事をしないで、そんなことをきいた男にひどく腹を立てたにちがいない。いや、こうしたことのために、妻の健康をきかれたときのカレーニンの表情は、なにかしら傲慢《ごうまん》でいかめしくなるのであった。カレーニンは妻の行状や感情については、なにも考えたくなかったし、実際、そうしたことについては、なにひとつ考えなかった。
カレーニンがいつも行く別荘はペテルゴフにあって、毎年夏になると、リジヤ伯爵夫人が隣家に来て、アンナと親しいつきあいをすることになっていた。ところが、今年は伯爵夫人はペテルゴフで暮すのを断わり、一度もアンナを訪《たず》ねず、カレーニンに向って、アンナがベッチイやヴロンスキーと親しくするのはおもしろくない、とほのめかす始末であった。カレーニンはきびしく相手をおしとめて、妻はそんな疑いを超越しているといいきったが、それ以来リジヤ伯爵夫人を避けるようになった。彼は、社交界で多くの人びとが、妻を横目でにらんでいるのを、見ないようにしたし、また見もしなかった。また、妻が、ヴロンスキーの連隊の野営地に近い、ベッチイの住んでいるツァールスコエへ移ろうと、とくにいいはったわけを、理解しようともしなかったし、事実、理解しなかったのである。彼はそんなことを考えるのを、いさぎよしとしなかったし、そう考えもしなかった。しかし、それと同時に、彼はけっして自分で自分にそんなことをいいもせず、またそれに対する証拠はおろか、疑いさえ持たなかったにもかかわらず、心の奥底では、自分が欺かれた夫であることをちゃんと承知していて、そのために心から不幸であった。
過去八年間の妻との幸福な結婚生活のあいだに、カレーニンは世間の不貞な妻や欺かれた夫を見て、幾度こうつぶやいたことだろう。《なぜあんなになるまで、ほっといたんだろう? なぜあんなみっともない状態を解消しないんだろう?》ところがいまや、その不幸が自分の頭上に落ちて来たとき、彼はその状態を解消しようと考えなかったばかりか、その状態を認めようともしなかった。彼がその事実を認めようとしなかったのは、それがあまりにも恐ろしくあまりにも不自然だったからである。
外国から帰って以来、カレーニンは二度別荘へ行った。一度は食事をし、もう一度は客と夕べを過したが、今までの習慣に反して、一度も泊らなかった。
競馬の当日は、カレーニンにとってひじょうに忙しい日であった。しかし、朝からもう一日の予定をきめて、夕食を早めにすませ、すぐ妻のいる別荘へ行き、そこから陛下が顕官を従えて臨御されるはずの競馬場へ顔を出さなければならないと決心していた。妻のところへは、世間体のために週に一度行くことにきめていたからである。そのほか、この日には十五日というきめに従って、生活費を渡さなければならなかったからである。
彼は自分の思いを支配する習慣から、妻についてこれだけのことを考えると、もうそれ以上は妻に関したことを考えないようにした。
その日、カレーニンは午前中とても忙しかった。前の日に、リジヤ伯爵夫人は、目下ペテルブルグ滞在中の有名な中国旅行家のパンフレットを送って来て、当の旅行家に会ってもらいたい、それはいろいろな点から考えて、なかなか興味のある、有用な人物だから、と、走り書きの手紙をよこした。カレーニンは昨晩、そのパンフレットを読み終ることができなかったので、けさになってその残りを読んだ。それから、請願人がやって来て、報告、面接、任命、免職、賞与や年金や俸給の割振り、往復書簡など――カレーニンのいわゆるふだんの仕事がはじまって、それがひじょうに手間どった。そのあとは私用で、医者が来たり、執事がやって来たりした。執事はあまり手間をとらせなかった。彼はただカレーニンに必要な金を渡して、あまりかんばしくない財政状態を簡単に報告しただけであった。というのは、今年は社交界の出入りが多くて、支出がかさみ、赤字になったからである。一方、カレーニンと友だちづきあいしているペテルブルグの有名な医者は、ひどく時間をとった。カレーニンはきょうこの医者が来るとは思っていなかったので、その来訪にはびっくりした。しかも、相手がひどくていねいに、彼の健康状態をくわしくたずね、胸部を聴診したり打診したり、肝臓をおさえてみたりしたので、なおさらびっくりしてしまった。じつは、彼の親友であるリジヤ伯爵夫人が、今年はカレーニンの健康が思わしくないと見て、病人を診察して来てほしいと、この医者に依頼したのであった。『どうか、あたしのために、そうしてくださいまし』リジヤ伯爵夫人は医者にいった。
「私はロシアのためにいたしますよ、伯爵夫人」医者は答えたものである。
「ほんとに、かけがえのない方ですもの!」リジヤ伯爵夫人はいった。
医者は、カレーニンの健康状態にひどく不満であった。診察の結果、肝臓はいちじるしく肥大していたし、栄養状態も悪く、温泉の効果も少しも認められなかった。医者は、なるべく肉体運動をして、精神的緊張を減らし、なによりも絶対に心配事をしてはいけないと命じた。しかし、ほかならぬそのことは、カレーニンにとっては、息をしないでいろというのと同様、まったく不可能なことであった。こうして、その医者はカレーニンの心に、自分の内部にはなにかよくないものがあるが、それをなおすことは不可能だという、不愉快な意識を残して、帰って行った。
カレーニンのもとを辞してから、医者は、玄関の階段のところで、カレーニンの事務主任で、かねてから懇意にしていたスリュージンに、ぱったり出会った。ふたりは大学時代の友だちで、めったに会うことはなかったが、互いに尊敬しており、ひじょうに親しい間がらであった。したがって、医者としては病人について忌《き》憚《たん》のない意見を述べるのに、スリュージンほど適当な人物はなかった。
「きみが彼をみに来てくれて、ほんとによかった」スリュージンはいった。「どうも、先生、ぐあいがよくないらしい。ぼくの見るところじゃ……でも、どうなの?」
「いや、じつはね」医者はスリュージンの頭越しに、自分の御者に手を振って、馬車をまわすように合図しながら、いった。「じつはね」医者はその白い手にキッド皮の手袋の指を一本つまみ、それをぴんと引っぱってみせながら、いった。「絃《いと》を強く張らないでおいて、それを切ろうとしても、なかなかむずかしいが、もうこれ以上だめというところまで張っておいて、その張りつめた絃を一本の指でおさえてみたまえ、すぐぷつんと切れてしまうよ。ところが、あの人は辛抱強くて、仕事に対して良心的だから、もうこれ以上だめというところまで張りつめているわけだね。しかも、そこへ、わきのほうから圧迫が加えられている、それもかなり重いやつがね」医者は意味ありげに眉を上げて、こう結んだ。「で、きみは競馬へ行くの?」彼はまわされた馬車のほうへおりて行きながら、つけ加えた。「ええ、そりゃ、もちろん、たいへんな暇つぶしだよ」医者はスリュージンのいった言葉がよく聞えないままに、なにかこんなことを答えた。
ひどく時間のかかった医者につづいて、有名な旅行家が姿を現わした。カレーニンは今読んだばかりのパンフレットと、この方面に関する前からの知識を活用して、自分の造詣《ぞうけい》の深さと文化的視野の広さで、旅行家を驚かした。
この旅行者と同時に、ペテルブルグへ出て来たある県の貴族団長の来訪が取次がれたが、この人とも用事があったのである。この人が帰ってから、今度は事務主任といっしょにふだんの仕事を片づけ、それからさらにある重大な用件で、さる名士を訪問しなければならなかった。カレーニンはようやく、いつもの五時の食事までに帰ることができた。そして、事務主任と食事をすると、彼を誘って、別荘と競馬に同行させることにした。
カレーニンは、自分でもそれを意識しないまま、最近妻と会うときには、なるベく、第三者にいてもらうようにしていたのである。
27
アンナは二階の鏡の前に立って、アンヌシカに手伝ってもらいながら、最後のリボンを服につけようとしていたが、ふと、車寄せのあたりで砂利をかむ車輪の音を聞きつけた。
《ベッチイにしてはまだ早すぎるわ!》彼女は思った。そして、窓の外をのぞくと、一台の箱馬車が目にはいり、その中から突き出ている黒い帽子と、あのおなじみのカレーニンの耳が見えた。《まあ、間が悪いこと。泊るんじゃないでしょうね?》彼女は考えた。しかし、それから生れる結果を思うと、恐ろしくてたまらなかったので、一刻もそんなことは考えずに、楽しそうに顔を輝かせながら、夫を出迎えに行った。そして、すぐ彼女は、かねてから覚えのある虚偽と欺《ぎ》瞞《まん》の悪魔が自分の中にひそんでいるのを感じながら、さっさと、その悪魔に身をゆだね、自分でもなにをいいだすかもわからぬままに、しゃベりだした。「まあ、うれしいこと!」アンナは夫に手をさしのべ、スリュージンには内輪の人として微笑であいさつしながら、いった。「ねえ、今晩はお泊りしてくださるでしょう?」これが欺瞞の悪魔がささやいた最初の言葉であった。「さ、今からごいっしょにまいりましょう。ただ残念なのは、あたし、ベッチイと約束しましたの。あの人、迎えに来てくれることになってますの」
カレーニンは、ベッチイの名を聞くと、顔をしかめた。
「いや、私は離れがたい仲をひきさこうなんてことはせんよ」彼は例の冗談口調でいった。「私はスリュージン君といっしょに行くから。それに、医者どもが歩けといっているから、途中まで少し歩くさ。まあ、温泉場にでもいると思えばいいさ」
「なにもそうお急ぎになることありませんわ」アンナはいった。「お茶はいかが?」アンナはベルを鳴らした。
「お茶を持って来てちょうだい。それから、セリョージャに、パパがいらっしたといってね。それで、おからだのほうはどうなんですの? スリュージンさん、あなた、ここにおいでになったことはございませんわね。よくごらんになってくださいな、このバルコニーはとても気持がいいでしょう」アンナはふたりにかわるがわる話しかけていった。
アンナはきわめて率直に、自然にしゃべっていた。しかし、言葉があまりに多すぎ、しゃベり方もあまりに早口だった。彼女は自分でもそれを感じた。ことに、自分を見つめるスリュージンの好奇心に満ちたまなざしから、彼女は相手が自分を観察しているらしいのに気づいたので、なおさらそう感じるのだった。
スリュージンはすぐテラスヘ出て行った。
アンナは夫のそばへ腰をおろした。
「あまりお元気そうじゃありませんわね」彼女はいった。
「ああ」彼はいった。「きょう医者がやって来て、一時間も暇をつぶされたよ。どうやら、友だちのだれかが、私のところへさしむけたらしい。私の健康がとても貴重だといってね……」
「まあ、それで、お医者さまはなんとおっしゃいまして?」
アンナは夫の健康や仕事のことを、いろいろとたずねた末、休暇をとって自分のところへ移るように勧めた。
彼女はこうしたことを、さも楽しそうに、早口に、そのひとみに一種特別の光をたたえながら、いった。しかし、今はもうカレーニンもアンナのそうした調子には、なんの意味も認めなかった。ただ彼女の言葉を聞いて、その言葉のもっている直接の意味だけを認めるのだった。だから、彼もふざけた調子ではあったが、率直に答えていた。こうした会話そのものには、なにひとつ特別なものはなかった。しかし、アンナはその後いつになっても、羞恥《しゅうち》の悩ましい痛みを感じずには、この短い一場面を思いだすことができなかった。
セリョージャが、家庭教師に連れられて、はいって来た。もしカレーニンがよく観察したのなら、セリョージャがおどおどした、途方にくれたような目つきで、まず父を、つづいて母を見上げたのに、気づいたであろう。しかし、彼はなにも見たくなかったので、なにひとつ見なかった。
「やあ、お若いの! 大きくなったな。まったく、一人前の男になったな。ごきげんよう、お若いの」
そういって、彼はおびえているセリョージャに手をさしのべた。
セリョージャは、以前から、父親に対してはおどおどしていたが、父が自分を「お若いの」と呼びはじめてから、またヴロンスキーが敵か味方かという疑いが、頭に浮ぶようになってから、前よりいっそう父をよそよそしく感じるようになった。彼は助けを求めるように、母親のほうを振り返った。ただ母といっしょのときだけは楽しかった。そのあいだも、カレーニンは家庭教師と話をしながら、むすこの肩に手をのせていたが、セリョージャはすごく居心地が悪いらしく、今にも泣きだしそうなのを、アンナは見てとった。
むすこがはいって来た瞬間、さっと顔を赤らめたアンナは、セリョージャのばつの悪そうな様子を見ると、急いで立ちあがって、むすこの肩にかかっていた夫の手をはずした。そしてわが子に接吻して、テラスヘ連れ出したかと思うと、すぐ引き返して来た。
「でも、もう時間ですわ」アンナはちらっと時計を見て、いった。「なぜベッチイは来ないのかしら……」
「ああ」カレーニンはいって、いすから立ちあがると、手を組み合せて、ぽきぽきと指を鳴らした。「私はおまえにお金を渡そうとも思って、寄ったんだよ。うぐいすだって、おとぎ話だけじゃ飼えんからね」彼はいった。「おまえもいるだろうと思ってね」
「いえ、いりませんわ……そう、いりますわね」アンナは夫の顔を見ずに、髪の付け根まで赤くして、いった。「じゃ、あなたも競馬のあとで、ここへいらっしゃいますわね」
「ああ、来るとも!」カレーニンは答えた。「ほら、ペテルゴフの花形、トヴェルスコイ公爵夫人のお越しだよ」彼は、ばねの上に小さな車体を恐ろしく上につけ、首輪を用いず皮紐《かわひも》だけで馬をつないだイギリス風の幌《ほろ》馬《ば》車《しゃ》が近づくのを、窓越しに見て、つけ加えた。「まったく、しゃれた車だね! すてきだ!さて、われわれも行くとするか」
トヴェルスコイ公爵夫人は、馬車からおりて来なかった。ただゲートルつきの靴に、肩あてをつけ、黒い帽子をかぶった召使が、車寄せのところで飛びおりたきりだった。
「じゃ、あたし、まいりますわ、ではのちほど!」アンナはいって、わが子に接吻すると、カレーニンに近づいて、手をさしのベた。「ほんとに、よくいらしてくださいましたわねえ」
カレーニンは妻の手に接吻した。
「それじゃ、のちほどまた! お茶を飲みにお寄りになりますわね。けっこうですわ!」アンナはいって、楽しそうに顔を輝かせながら、出て行った。しかし、彼女は夫の姿が見えなくなるやいなや、自分の手に夫の唇がふれた個所を意識して、ぶるっと嫌悪の情に身を震わせた。
28
カレーニンが競馬場に姿を現わしたとき、アンナはもうベッチイと並んで、上流社会の人びとがみんな集まっている桟敷にすわっていた。アンナはまだ遠くのほうから、夫の姿に気づいた。ふたりの男――夫と恋人は、アンナにとって、生活の二つの中心だったので、外的な感覚の助けをかりなくとも、つねに彼らの接近を感知することができた。アンナはまだ遠くのほうから、夫の接近を感じたので、群衆の波をかきわけて来る彼の姿を、思わず、じっと見つめていた。アンナは彼が、ごきげんをとるような会釈に対して、わざとていねいにこたえたり、同僚にはあるいは親しげな、あるいは放心したようなあいさつをかわしたり、この世の権力者には、努めてその視線を待ちうけるようにして、耳の端をおさえつけている大きな丸い帽子を取ったりしながら、桟敷のほうへ近づいて来るのを見ていた。彼女は夫のこうした態度をよく知りぬいていたが、それはなにからなにまでいやらしかった。《ただ名誉欲だけ、ただ成功したいという気持だけなのよ――あの人の心にあるのは。ただそれだけなんだわ》アンナは考えた。《高遠な思想も、文化に対する愛も、宗教も、なにもかもみんな、成功するための武器にすぎないんだわ》
婦人席へ注がれた彼の目つきによって(彼はまっすぐ妻のほうを見ながらも、紗《しゃ》の衣装や、リボンや、羽毛や、パラソルや、花飾りなどの海の中では、妻の姿を見分けることができなかった)、夫が自分を捜しているのを悟った。しかし、彼女はわざと夫に気づかないふりをしていた。
「カレーニンさま!」ベッチイ公爵夫人は叫んだ。「あなたは、きっと、奥さまがお目にとまらないんでしょう。ここにいらっしゃいますわよ!」
彼は例の冷やかな微笑を浮べて、ほほえんだ。
「ここはあんまり華やかなので、目移りがしてしまいますよ」彼はいいながら、桟敷にはいって来た。彼は妻に笑顔を見せたが、それはたった今別れたばかりの妻を見た夫が、当然見せるような笑顔であった。それから、公爵夫人や、その他の知人たちにあいさつをかわしながら、そのひとりひとりにしかるべき応対をした。つまり、婦人たちには軽い冗談をいい、男たちとはあいさつの言葉をかわした。下のほうの桟敷のそばには、カレーニンの尊敬している、知性と教養で名高い侍従武官長が立っていたので、カレーニンは彼を相手に話しはじめた。
それはおりよく競馬の合間だったので、だれもふたりの話のじゃまをしなかった。侍従武官長は競馬を非難した。カレーニンはそれに反駁《はんばく》して、競馬を弁護した。アンナは夫の細い一本調子の声を、一語ものがさず聞いていたが、そのひと言ひと言に誠実味がないような気がして、耳を刺されるような思いだった。
四キロの障害物競走がはじまったとき、アンナは身を乗りだして、ヴロンスキーが自分の馬に近寄り、やがてその背にまたがるのを、わき目もふらず、ながめていた。が、それと同時に、たえず夫の口をついて出る不愉快な声を聞いていた。アンナは、ヴロンスキーの身を気づかう不安に悩まされていたが、それよりもさらに、例の聞きなれたアクセントをつけてしゃべる夫の、かぼそい、やみ間のないように思われる声の響きに悩まされた。
《あたしはいけない女だわ、身を滅ぼした女だわ》彼女は考えた。《でも、あたしはうそをつくのはきらいだわ、うそには我慢できないわ、それなのに、あの人《・・・》(夫)の口にするものといったら、うそばかりだわ。あの人はなにもかも知っているのに、なにもかも見ているのに、しかも、あんなに落ち着いて話ができるなんて、いったい、あの人は、どんなふうに感じているのかしら? もしあの人があたしを殺したら、ヴロンスキーを殺したら、あたしは、きっと、あの人を尊敬するわ。でも、だめだわ。あの人に必要なのは、ただうそと世間体だけなんですもの》アンナは自分は夫になにを望んでいるのだろう、夫がどういうふうであってほしいのだろう、と考えながら、そっと、自分につぶやいた。ところが、アンナはこれほど自分をいらだたせたきょうの夫の饒舌《じょうぜつ》は、単に彼の内心の混乱と不安の表現にすぎないことを、少しも悟っていなかった。けがをした子供が、痛みをまぎらわすために、足をばたばたやって、筋肉を運動させるのと同様、カレーニンにとっては、今妻とヴロンスキーを目の前に見、ヴロンスキーの名がたえず繰り返されるので、いやでも考えざるをえない妻についての思いをまぎらわすために、知的な運動が必要だったのである。子供なら、足をばたばたやるのが自然なように、彼の場合は、じょうずに気のきいた話をするのが自然だったのである。彼はこんなことをしゃべっていた。
「軍人の、つまり、騎兵の競馬に危険が伴うことは、競馬にとっては必須《ひっす》の条件ですよ。もし英国が戦史において、騎兵の輝かしい業績を誇ることができるとしたら、それはただ英国が、こうした馬と人間との力を歴史的に発達させていったおかげですね。スポーツというものは、私の考えでは、大きな意義をもっているものですが、われわれは例によって、そのもっとも皮相な面ばかりを見ているのです」
「皮相だけじゃございませんわ」トヴェルスコイ公爵夫人はいった。「ある将校さんなんか、肋骨《ろっこつ》を二本も折ったという話ですもの」
カレーニンは例の微笑をもらしたが、それはただ歯を見せただけで、なんの意味もなかった。
「じゃ、奥さん、それは皮相なものでなくて、内面的なものだとしましょう」彼はいった。「ところが、問題はそんなところにあるんじゃないのですよ」彼は先ほどからまじめに話をしていた将官のほうへ、再び話しかけた。「どうか、競走に参加しているのは、みずからそれを選んだ軍人たちであることを、お忘れにならないように。ところで、どんな職業にも優勝楯《たて》の裏の面をもっておるということには、ご異議ないでしょうな。これは直接、軍人の義務に属するものですよ。拳闘《けんとう》とか、スペインの闘牛とかいう醜いスポーツは、野蛮のしるしですが、しかし専門化されたスポーツは、文明の進歩の象徴ですよ」
「いいえ、あたしはもう二度とまいりませんわ。あんまりはらはらさせられるんですもの」ベッチイ公爵夫人はいった。「そうじゃなくって、アンナ?」
「はらはらさせられても、そうかといって、目をそらすわけにもいきませんわ」もうひとりの貴婦人がいった。「あたしが古代ローマの女でしたら、どんな闘技場だって欠かしはしなかったでしょうよ」
アンナはひと言もいわないで、双眼鏡を目から放さずに、じっと、一つところを見つめていた。
そのとき、桟敷の中を、ひとりの背の高い将軍が通りぬけた。カレーニンは急に話をやめ、急いで、しかし威厳を失わぬように立ちあがると、そばを通りすぎる将軍に、うやうやしく会釈した。
「あなたは競走に参加されないんですか?」将軍は冗談をいった。
「人生の競走だけでも、もっと骨が折れまして」カレーニンは慇懃《いんぎん》に答えた。
この答えには、べつになんの意味もあるわけではなかったが、将軍は聡明な人から聡明な言葉を聞き、その la pointe de la sauce を十分味わったような顔つきをした。
「これには二つの面があるのです」カレーニンは言葉をつづけた。「競技者と観覧者です。こうした見せものを喜ぶということは、観覧者の文化的発育が遅れているなによりの証拠ですな。私もそれには異存ありませんが、しかし……」
「公爵夫人、賭《か》けをしましょう!」ベッチイに話しかけるオブロンスキーの声が、下のほうから聞えた。「あなたはだれにお賭けになります?」
「あたしとアンナは、クゾヴリョフ公爵にしますわ」ベッチイは答えた。
「私はヴロンスキーです。手袋を一組」
「けっこうですわ!」
「いや、まったく美しいですな! え、このながめは!」
カレーニンは、自分のまわりで話し声のしているあいだは口をつぐんでいたが、すぐにまた話しだした。
「私も同感ですよ、しかし、男性的な競技というものは……」彼は話をつづけようとした。
が、そのとたん、騎手たちがスタートを切ったので、いっさいの会話は、ぴたっと、やんでしまった。カレーニンもまた口をつぐんだ。みんなは総立ちになって、川のほうへ向いた。カレーニンは競馬に興味がなかったので、走って行く騎手たちを見ないで、疲れたような目つきで、観衆をぼんやり見まわしはじめた。彼の視線はアンナの上にとまった。
アンナの顔は青ざめて、きびしかった。彼女は明らかに、ただひとりのほかは、だれひとり、なにひとつ見ていないらしかった。扇を握りしめた手はかすかに震えていた。彼女は息を殺していた。彼はその様子をちらと見ると、あわてて顔をそむけ、ほかの人たちの顔を見まわした。
《いや、あの婦人も、ほかの婦人たちも、ひどくはらはらしているようだが、それもむりない話だ》カレーニンは心の中でつぶやいた。彼は妻のほうを見たくなかったけれど、その視線はひとりでに、そちらへひきつけられてしまうのだった。彼は、妻の顔にはっきりと書かれていることを読まないように努めながら、再びその顔にじっと見入ってしまった。と、彼はそこに自分が知りたくなかったことを読みとって、思わずぞっとした。
川のふちでクゾヴリョフが最初に落馬したとき、すべての観客が騒いだが、しかしカレーニンはアンナの青ざめた顔に、勝ち誇ったような色が浮ぶのを見て、彼女の見ている人は落馬しなかったということをはっきり悟った。マホーチンとヴロンスキーが、大きな柵を飛び越したあと、それにつづいた将校がその場でまっさかさまに落ちて、瀕《ひん》死《し》の重傷を負い、恐怖のざわめきが観衆全体にひろがったときも、アンナはそれさえ気づかず、まわりの人びとがなんの話をはじめたか、ほとんどわからないでいるらしいのを、カレーニンは見てとった。しかも、彼は前よりもっとひんぱんに、もっと執拗《しつよう》に妻の顔にながめいった。疾駆するヴロンスキーの勇姿に、心をうばわれていたアンナも、わきのほうから自分にそそがれている夫の冷たい視線を感じていた。
アンナは一瞬振り返って、もの問いたげに夫の顔を見やったが、かすかに眉をひそめて、すぐまた顔をそむけてしまった。
その様子は《ああ、あたしはどうだってかまわないわ》と、夫にいってるようにも見えたが、彼女はもうそれっきり一度も、夫のほうは見なかった。
それは不幸な競馬だった。十七人のうち半数以上が、落馬して、負傷した。競走が終り近くなったころには、みんなが興奮していた。その興奮は、陛下が不満の色を見せられたので、さらに大きくなっていった。
29
すべての人びとが声高《こわだか》に非難の気持を表明し、だれかの口からもれた『これじゃ、獅子《しし》のいる闘技場と少しも変らないじゃないか』という一句を、口々に繰り返すのだった。すべての人びとが恐怖を感じていたので、ヴロンスキーが落馬して、アンナが思わず大きな声で、あっと叫んだときも、べつに並みはずれたこととは感じられなかった。しかし、それにつづいてアンナの顔に起った変化は、まったくはしたないものであった。アンナはすっかり取りみだしてしまった。まるで捕えられた小鳥のように身をもがきながら、立ちあがってどこかへ行こうとしたり、ベッチイに向ってこんなことを口走ったりする始末だった。
「行きましょうよ、ね、行きましょうよ」
しかし、ベッチイにはその声が耳にはいらなかった。彼女は下のほうへかがみこんで、そばへ寄って来た将軍と話していたからである。
カレーニンはアンナに近づいて、いんぎんに手をさしのべた。
「よかったら行きましょうか」彼はフランス語でいった。しかし、アンナは将軍のいっていることに耳を澄ましていたので、夫に気がつかなかった。
「やっぱり、足を折ったといってますよ」将軍はいった。「いやはや、まったくお話になりませんな」
アンナは夫に答えないで、双眼鏡を取りあげ、ヴロンスキーが落馬した場所を見やった。しかし、かなり遠く離れていたうえに、人びとが大勢群がっていたので、なにひとつ見分けることができなかった。彼女は双眼鏡をおろして、出て行こうとした。が、そのとき、ひとりの将校が駆けつけて来て、なにごとか陛下に奏上した。アンナはぐっと身を乗りだして、耳を澄ました。
「スチーヴァ! スチーヴァ!」彼女は兄を呼んだ。
しかし、兄は彼女の声を耳にしなかった。アンナはまたもや出て行こうとした。
「もしお出になりたいなら、私はもう一度手をかしてあげましょう」カレーニンは妻の手に触れながらいった。
アンナは嫌悪の情を示して、夫から身を避け、その顔も見ないで、答えた。
「いえ、いえ、放っといてちょうだい。あたし、残ってますわ」
そのとき、アンナは、ヴロンスキーの落馬した地点から、ひとりの将校が馬場を横ぎって、桟敷のほうへ走って来るのを認めた。ベッチイはその将校にハンカチを振った。
将校は、騎手にはなんのけがもなかったが、馬は背骨を折った、というニュースをもたらした。
それを聞くと、アンナはいきなり腰をおろして、扇で顔をおおった。カレーニンは妻が泣いているのを、それも涙ばかりか、今にも激しく胸をふるわせてわっと泣きだしそうなのを見てとった。カレーニンは自分のからだで妻をかばいながら、妻が気をしずめるのを待った。
「さあ、もう一度、三度めに手をかしてあげましょう」彼はしばらくたってから妻に話しかけた。アンナは夫の顔を見上げたが、なんと答えていいか、わからなかった。ベッチイ公爵夫人が、助け舟を出した。
「いいえ、カレーニンさま。あたくしが奥さんをお連れしたんですし、お送りするのもお約束したんですの」ベッチイが口をはさんだ。
「いや、奥さん」彼は慇懃《いんぎん》に笑顔を見せながらも、きっと相手の目を見つめながら、いった。「どうやら、アンナはあまりからだのぐあいがよくなさそうですから、私といっしょに家へ帰らせたいと思います」
アンナはおびえたように夫を振り返ると、おとなしく立ちあがって、夫の腕に手をかけた。
「あたし、あの方のとこへ使いをやって、様子を聞いたうえで、お知らせいたしますわ」ベッチイはアンナの耳にささやいた。
桟敷の出口で、カレーニンは、例によって、行き会う人たちと言葉をかわした。アンナも、いつものとおり、返事をしたり、話をしなければならなかった。しかし、彼女は夢でも見ているような心地で、夫と腕を組んで歩いて行った。
《けがをしたのじゃないかしら? 無事だというのはほんとかしら? あの人、来てくれるかしら? 今晩、会えるかしら?》アンナは心の中で考えた。
アンナは黙って、夫の馬車に乗りこみ、無言のまま、馬車のひしめきあっている中を出た。カレーニンは、今あれほどのことを目撃したにもかかわらず、やはり妻の真実の状態を考えようとはしなかった。ひょっとすると、彼は妻の外面的な徴候を見たにすぎなかったかもしれない。ただ妻のはしたない行いを目撃したので、当然の義務としてそのことを妻に注意しようとした。しかし、彼としては、単にそれだけのことをいって、それ以上のことをいわないというのは、ひじょうにつらいことであった。彼は、おまえはずいぶんはしたないまねをしたね、といおうと思って、口を開いたが、思わず、まったく別のことをいってしまった。
「いや、それにしても、なぜ私たちはあんな残酷なものを見たがるんだろうね」彼はいった。「私は気がついたんだが……」
「え、なんのこと? あたし、さっぱり、わかりませんわ」アンナはさげすむようにいった。
彼はむっとなって、いきなり、いおうと思っていたことをいいだした。
「私としてはあなたにいっとかねばならんことがある……」彼はそう切りだした。
《さあ、はじまった、いよいよ話し合いだわ》アンナはちらと考えて、恐ろしくなった。
「私としていっとかなければならんのは、きょうのあなたのふるまいは、まったくはしたないものだということだ」彼は妻にフランス語でいった。
「どんなところが、はしたなかったんですの?」アンナはくるりと夫のほうへ顔を向けて、まともにその目を見つめながら、大きな声でいった。しかし、その様子はもう前のように、なにか隠している浮きうきしたものではなく、もう覚悟をきめたようなきっぱりした面持ちだった。もっとも、彼女はそうした仮面の下に今自分の感じている恐怖を、かろうじて隠していたのであった。
「しめ忘れないように」御者台に向いた窓があいているのを指さしながら、彼は妻に注意した。
彼は立ちあがって、ガラス窓をしめた。
「あたしのどこがはしたないふるまいでしたの?」アンナは繰り返した。
「騎手のひとりが落馬したとき、あなたが包み隠せなかったあの取りみだしたふるまいですよ」
彼は妻の反駁《はんばく》を待った。ところが、アンナは前のほうを見つめたきり、ずっと黙っていた。
「私はもう前にも、いったん、社交界へ出たら、口の悪い連中にもなにひとつうしろ指をさされぬようにふるまってほしいと頼んでおいたはずです。そりゃ、私ももっと内面的な関係について、とやかくいったときもあったけれど、今はそんなことをいってるのじゃありません。今はただ外面的な関係だけについていっているのですから。たしかに、きょうのふるまいは、はしたないものでしたから、もうそうしたことが二度と繰り返されないようにしてほしいのです」
アンナは夫の言葉を半分も聞いていなかった。ただ夫に対する恐怖だけを感じながら、ヴロンスキーが死ななかったというのは、ほんとうだろうか、とばかり考えていた。騎手は無事で、馬だけが背骨を折ったというのは、彼のことをいってたのだろうか? 夫が話しおえたとき、アンナはただわざとらしく、冷やかな笑いを浮べたきりで、なにひとつ返事をしなかった。というのは、夫の話を聞いていなかったからである。カレーニンは思いきって話しはじめたが、自分の話していることをはっきり理解したとき、アンナの感じていた恐怖が彼にも感染した。彼は妻の冷やかな笑いを見ると、ふしぎな錯覚におそわれた。《あれはわしの疑いを笑っているのだ。そうだ、今にもあのときと同じことをいいだすだろう。そんな疑いはなんの根拠もないことで、ただこっけいなだけだ、なんて》
なにもかもいっさいが暴露されようとしている今、彼にとっては妻が今度も以前と同じように、そんな邪推はこっけいですわ、なんの根拠もありませんもの、とあざけるように答えてくれるのをなによりも望んでいた。彼は、自分の知ったことが、あまりに恐ろしかったので、今はどんなことでも、信じようという気になっていた。しかし、妻のおびえたような暗い表情は、もはや、そうした偽りの希望さえ持たせなかった。
「ひょっとすると、私の考え違いかもしれない」彼はいった。「そうだったら、おわびするよ」
「いいえ、お考え違いじゃございません」アンナは夫の冷やかな顔を、絶望的なまなざしで見つめながら、ゆっくりといった。「お考え違いじゃございません。あたしは絶望していました、今も絶望しないではおられません。あたしは、あなたのお話を聞きながらも、あの方のことを考えているのですから。あたしはあの方を愛しています。あたしはあの方の情婦です、あたしにはもう我慢ができません、あたしにはあなたが恐ろしいのです、あたしはあなたを憎んでいるのです……さあ、あなたのお気のすむように、あたしをなんなりとなさってください」
そういうなり、アンナは馬車の片すみに身を投げ、顔を両手でおおいながら、激しく泣きくずれた。カレーニンは身じろぎもせず、まともに見すえた視線を変えようともしなかった。しかし、その顔全体は、不意に、死者のような荘厳な不動の表情を浮べた。そして、この表情は別荘へ着くまで、途中もずっと変らなかった。わが家のそばへ近づくと、彼は前と同じ表情のまま、妻のほうへ顔を向けた。
「そうか! だが、ある時期までは、外面的だけにしろなんとしても体面を保ってもらいたい」彼の声は震えだした。「つまり、私が、自分の名誉を守る方法を講ずるまでは。その点については、いずれ、あなたに知らせよう」
彼は先におりて、妻を助けおろした。召使たちの見ている前で、彼は黙って妻に握手すると、また馬車に乗って、ペテルブルグへ帰って行った。
彼と入れちがいに、ベッチイ公爵夫人の使いが来て、アンナに走り書きの手紙を持って来た。
『あたしはヴロンスキーのところへ使いをやって、からだのぐあいをたずねましたところ、あの人は無事でどこも悪くないが、ただ絶望していると返事をよこしました』
《それなら、あの人《・・・》はやって来る》アンナは考えた。《夫になにもかもいってしまって、ほんとうによかった》
アンナはちらと時計を見た。まだ三時間も間があった。最後に会ったときのこまごました思い出が、彼女の血を燃えたたせた。
《まあ、なんて明るいんだろう! 恐ろしいわ。でも、あたしはあの人の顔を見るのが好きだわ、この幻想的な明りが好きだわ……夫ですって? ああ、そうだわ……ええほんとに助かったわ、あのほうがすっかり片がついて》
30
人の集まる場所というものはどこでもそうだが、シチェルバツキー一家の到着したドイツの小さな温泉場でも、それぞれの人にあるきまった場所を割り当てる、相も変らぬ一種の社会的結晶とでもいうべきものができあがっていた。水の微分子が冷気にあたると、いつもかならずきまって雪の結晶になるように、この温泉場に来た新しい人びとは、さっそく、自分に適した場所に身を落ち着けるのであった。
フュルスト・シチェルバツキー・ザムト・ゲマリン・ウント・トフテルは、その借りた住居と、名声と、そこで見いだした知己とによって、さっそく、前から予定されていた一定の場所に結晶した。
今年この温泉場には、ほんもののドイツの大公妃が来ていたので、そのために例の結晶作用はいっそうさかんであった。公爵夫人はぜひとも、娘を大公妃に紹介したいという気を起して、二日めにははやくもその儀式をすました。キチイはパリから取り寄せた、いわゆる『ごく簡素な《・・・・・》』、その実、ひじょうに豪華な夏服を着て、うやうやしく、しかも優美に会釈した。大公妃は、「そのかわいらしいお顔に、はやくばら色がもどって来るように」といわれた。こうして、シチェルバツキー一家には、もうそこから抜け出すことのできない一定の生活環境が、たちまち、できあがってしまったのである。シチェルバツキー一家は、英国の貴婦人の家族とも、最近の戦争で負傷したむすこを連れたドイツの伯爵夫人とも、スウェーデンの学者とも、 M. Canut とその妹とも知合いになった。しかし、シチェルバツキー家のおもな交際は、ひとりでに、モスクワの貴婦人マリヤ・ルチーシチェヴァとその令嬢(その令嬢は、キチイと同じく失恋のため病気になっていたので、キチイには不愉快であった)、および、モスクワから来ていた大佐ということになった。この大佐はキチイも子供の時分から知っていて、その肩章をつけた軍服姿に見覚えがあったが、小さな目をして、むきだしの首筋に派手なネクタイを締めているので、ここでは並みはずれてこっけいだった。しかも、一度会ったが最後、しつこくつきまとうので、うんざりさせられる人物であった。こうした状態が、はっきりきまってしまうと、キチイはすっかり退屈してしまった。まして、父公爵がカルルスバードへ発ってしまって、母親とふたりでとり残されてからは、なおさらであった。キチイは、前から知っている人びとには、もう興味をもたなかった。そうした人びとからはなにひとつ、新しいことは期待できない、と感じていたからである。今度この温泉場へ来てからも、彼女は主として自分の知らない人びとについて観察したり想像したりすることに心底から興味を感じていた。キチイは生れながらの性質として、いつも他人の中に、とくに、自分の知らない人びとの中に、ありとあらゆる美しいものを想像する傾きがあった。今度の場合も彼女は、あれはだれかしら、あの人たちの間がらはどんなものかしら、あれはどんな人たちかしら、といった推察をしながら、きわめて美しい驚くべき性格を想像し、またその確証を見いだしているのであった。
そうした人びとの中で、ひとりのロシア娘がとくにキチイの興味をひいた。その娘はマダム・シュタールと呼ばれていた病身のロシアの貴婦人といっしょにこの温泉場へ来ていた。マダム・シュタールは、上流社会の人であったが、歩くこともできぬほど病身だったので、ただたまに天気のいいときだけ、車のついた肘《ひじ》掛《か》けいすに乗って、浴場へ姿を見せるのであった。ところが、公爵夫人の解釈によると、マダム・シュタールはただ病気のせいばかりでなく、少しお高くとまっているために、ロシア人のだれとも近づきになろうとはしないのであった。そのロシア娘は、マダム・シュタールの看護をしていたが、そのほか、キチイの見たところでは、この温泉場に大勢いる重病人のみんなと親しくして、ごく自然にそうした病人たちの面倒をみてやっているようだった。ロシア娘は、キチイの観察によると、マダム・シュタールの身内ではないが、さりとて、単に雇われた付添い婦でもなさそうだった。マダム・シュタールが、彼女のことをワーレンカと呼んでいたので、ほかの人たちも『マドモアゼル・ワーレンカ』と、呼んでいた。この娘とシュタール夫人、およびその他の未知の人びととの関係を観察することに、キチイが興味をそそられたのは、もういうまでもないことであるが、これもよくあることながら、キチイはこのマドモアゼル・ワーレンカに対して得体の知れない好意をいだくとともに、時おり出会う相手の目つきから、相手も自分が気に入っていることを感じていた。
マドモアゼル・ワーレンカは、もうあまり若くはないというよりも、まるで若さをもたぬ人のようであった。十九ぐらいにも見えれば、三十ぐらいにも思われた。その顔だちをよく見てみれば、顔色こそあまりすぐれなかったが、不器量というよりも、むしろ美人のほうであった。もしそのからだがこれほどやせぎすでなく、不釣合いに頭が大きくなかったら、中背でスタイルもよかったにちがいない。しかし、彼女はどうみても男好きのするほうではなかった。彼女は、花弁こそそろっているが、もう盛りをすぎて、かおりのなくなってしまった、美しい花に似ていた。そのほか、彼女が男好きのしないもう一つの点は、キチイにはありあまるほどある、あの抑制された生命の炎と、自分の魅力に対する自信が、まったく欠けていたことであった。
このロシア娘はいつも、疑いなどさしはさむ余地のないような仕事に追われていて、そのために、ほかのことにはなにひとつ、興味をもつ暇がないように見えた。キチイは、こうした自分とまるで正反対な点に、とくにひきつけられた。キチイはこの娘の中に、この娘の生活様式の中に、今自分が苦しいほど捜し求めている生活の興味とか、生活の意義などのお手本が見つかるにちがいない、と感じていた。それらはキチイが嫌《けん》悪《お》を感じている現在の社交界の男女関係のほかになければならなかった。そこではまるで年ごろの娘たちが男性の買い手を待ちながら、恥さらしにも顔を並べているように思われた。キチイはこの未知の友を観察すればするほど、この娘こそ、自分の想像に描いていたもっとも完成された人物である、という確信をもつにいたり、ますますこの娘と近づきになりたくなった。
ふたりの娘は、一日に何度も顔を合せたが、そのたびにキチイの目は、《あなたはどなた? どういう方なの? ねえ、ほんとに、あなたは、あたしの想像に描いているような、すばらしい方でしょう? でも、お願いですから》彼女のまなざしはつけ加えるのだった。《あたしがあつかましくお近づきになりたいなんて、お思いにならないでくださいね。あたしはただあなたに見とれているんです。あなたが大好きなので》《あたしもあなたが大好きなのよ。ほんとに、ほんとにかわいい方ねえ。もし暇があったら、もっともっと好きになれるんですけれどね》未知のその娘のまなざしは答えた。いや、事実、キチイの目には、彼女はいつも忙しそうであった。彼女はあるロシア人の家族の子供たちを、浴場から連れて帰ったり、病身の婦人のために膝《ひざ》掛《か》けを持って行って、そのからだをくるんでやったり、いらいらした病人を一生懸命なだめたり、だれかに、コーヒーを飲むときつまむビスケットを選んで買ってやったりしているのだった。
シチェルバツキー家の人びとが到着してからまもなく、朝の浴場に、またふたりの人物が姿を現わして、一同から冷たいまなざしで迎えられた。そのひとりはすごく丈《たけ》の高い、猫背の、大きな手をした男で、背丈にあわぬ、つんつるてんの古外套を着て、純朴そうな、しかも、恐ろしい黒い目をしていた。もうひとりは、ひどく粗末で野暮ななりをした、あ《・》ばた《・・》ながらかわいげな顔だちの女であった。キチイはこのふたりがロシア人だと見てとるや、はやくもふたりについて美しい、感動的なロマンスを、頭の中で組みたてはじめた。ところが、公爵夫人は Kurliste で、それがニコライ・リョーヴィンとマーシャであることを知ると、このリョーヴィンがどんなに悪い人物であるかということを、キチイに説明して聞かせたので、このふたりについての空想は、たちまち、消えてしまった。もっとも、母親からそういう話を聞かされたためというよりも、むしろ彼がコンスタンチン・リョーヴィンの兄であるということによって、キチイにはこのふたりが、急に、このうえもなく不愉快なものに思われた。いまや、このリョーヴィンは例の首を振る癖で、どうしようもない嫌悪の情を、キチイの心に呼びおこすのであった。
キチイには、自分をじっと見つめる彼の大きな恐ろしい目の中に、憎悪とあざけりの色が表われているように思われ、努めて彼に出会うのを避けるようにしていた。
31
その日は天気が悪く、午前中はずっと雨が降っていた。病人たちは傘《かさ》を手にして、回廊に群がっていた。
キチイは母親とモスクワの大佐といっしょに、散歩していた。大佐は、フランクフルトで買った既製品の、ヨーロッパ風のフロックコートを着て、大いに愉快そうであった。三人は、向う側を歩いているリョーヴィンを避けるようにして、回廊のこちら側を散歩していた。ワーレンカは例によって地味な着物に、ふちの下へ曲った黒い帽子をかぶって、盲目のフランス婦人の手をひきながら、回廊を端から端へと歩いていた。そして、キチイと出会うたびに、ふたりはさも親しそうなまなざしを投げかわしていた。
「ママ、あの方に話しかけてもよくって?」キチイは未知の友を目で追いながら、いった。ワーレンカが噴水のそばへ近づいて行ったので、あそこでいっしょになれると考えたのである。
「そうね、そんなにおまえがいうのなら、ママが先にあの人のことを調べてみて、あたしが自分で話しかけてみましょう」母は答えた。「ねえ、あの人に、どんな特別なところがあるっていうの? きっと、お話し相手なんでしょ。なんなら、あたしマダム・シュタールとお近づきになってもいいよ。あの方のbelle-sマur なら知ってるから」公爵夫人は、傲然《ごうぜん》と頭《こうべ》をそらせながら、いった。
キチイは、母がシュタール夫人に対して、相手が自分との交際を避けているらしいと思って、腹を立てていることを知っていた。だから、ぜひにとはいわなかった。
「まあ、ほんとに優しい方ねえ?」キチイはワーレンカがフランス婦人にコップを手渡すのを見て、いった。「ねえ、ちょっとごらんになってよ。あの方のすることはなにもかも、ほんとに飾りけがなくて、お優しいわ」
「おまえの engouements ったら、おかしいくらいね」公爵夫人はいった。「さあ、もう引っ返しましょうよ」向うからやって来たニコライ・リョーヴィンと連れの女をみとめて、夫人はそうつけ足した。リョーヴィンは、やはり連れのドイツ人の医者に、なにか大声で腹立たしげにしゃべっていた。
キチイたちが家へ帰ろうとして踵《くびす》をめぐらしたとき、急に、声高な話し声、というよりも叫び声が聞えた。リョーヴィンが立ち止って、どなっているのであった。医者もすっかり興奮していた。そのまわりには人だかりができた。公爵夫人はキチイを連れて急いで立ち去ったが、大佐は事件の内容を知ろうと、人垣《ひとがき》の中に加わった。
まもなく、大佐はふたりに追い着いた。
「あそこではいったいなにがありましたの?」公爵夫人がきいた。
「いや、まったく恥さらしな話ですよ!」大佐は答えた。「私どもがいちばん閉口するのは、外国でロシア人に出会うことですよ。いや、あののっぽさんときたら、医者の治療のしかたがまちがってるといって、けんかをふっかけ、いろいろ毒づいたあげく、杖《つえ》まで振りまわすんですからねえ。まったく恥さらしですよ!」
「まあ、いやですわねえ!」公爵夫人はいった。「それで、どんなふうにおさまりましたの?」
「ありがたいことに、そのときあの……例の茸《きのこ》のような帽子をかぶった娘が仲にはいりましてね。どうやら、ロシア人らしいですね」大佐はいった。
「マドモアゼル・ワーレンカでしょ?」キチイはうれしそうにきいた。
「ええ、そうです。あの娘がだれよりも落ち着いてましてね、すぐにあの男の腕をとって、連れてってしまったんですよ」
「ほら、ねえ、ママ」キチイは母にいった。「でも、あたしがあの方のことをほめると、お母さまったら、あきれてらっしゃるのね」
その翌日から、キチイがこの未知の友を観察していると、マドモアゼル・ワーレンカがリョーヴィンと連れの女に対して、はやくもほかの prot使市 と同じような態度をとっているのに気づいた。ワーレンカはふたりに近づいて、いろいろと話をしたり、外国語の一つもわからない連れの女のために、通訳の労をとってやったりするのであった。
キチイは前よりも熱心にワーレンカとの交際を許してくれと母親にねだりはじめた。一方、公爵夫人にとっては、なにやらお高くとまっているシュタール夫人に、こちらから近づきを求めようと、その足がかりをつくるように思われるのがしゃくだった。しかし、ワーレンカについていろいろ問い合せをし、詳しい事情がわかってみると、この交際にはそういいこともないかわりに、ベつに悪いこともなさそうだということになり、夫人自身がまずワーレンカに近づいて、知合いになった。
公爵夫人は娘が噴水のそばへ行き、ワーレンカがパン屋の前に立ち止ったときを選んで、ワーレンカのそばへ近づいて行った。
「どうぞ、お近づきにさせてくださいね」公爵夫人は、持ち前の上品な微笑を浮べながら話しかけた。「宅の娘が、もうあなたに夢中でございましてね。あなたは、ひょっとすると、ご存じないかもしれませんが、あたくしは……」
「まあ、なにをおっしゃいますの、公爵夫人」ワーレンカは急いで答えた。
「きのうはあのかわいそうな故国《くに》の人に、ほんとにいいことをしてくださいましたわね」公爵夫人はいった。
ワーレンカはさっと顔を赤らめた。
「もう覚えておりませんわ、あたくし、なんにもしなかったようですけど」彼女はいった。
「まあ、なにをおっしゃるの、あのリョーヴィンさんを、いやな場面から救っておあげになったじゃありませんか」
「ああ、あれは sa compagne が、あたしをお呼びになりましたので、あの方のお気をしずめるように、努めただけですの。あの方はとてもひどいご病気で、お医者さまにご不満があるんですのね。ああいうご病人のお世話をするのが、あたくしの癖でございまして」
「そうですか。あなたはメントナでおばさまの、たしかシュタール夫人とごいっしょに、暮していらっしゃるとかうかがいましたけど。あたし、あの方の belle-seマur を存じあげておりますのよ」
「いいえ、あの方はあたくしの伯母《おば》ではございません。あたくし、あの方を maman と呼んではおりますけど、身内ではございませんの。あたくしは養女ですの」また頬《ほお》をそめながら、ワーレンカは答えた。
そのいい方がいかにも飾りけがなく、正直であけっぱなしなその表情は、まったくかわいかったので、なぜキチイがこのワーレンカを好きになったのか、公爵夫人にも納得がいった。
「それで、あのリョーヴィンさんはどんなふうですの?」公爵夫人はきいた。
「もうお発《た》ちになるそうでございますわ」ワーレンカは答えた。
そのとき、キチイは、母親が未知の友と近づきになったという喜びに顔を輝かせながら、噴水のほうから帰って来た。
「さあ、キチイや、これでやっと、おまえがあれほどお近づきになりたがっていたマドモアゼル……」
「ワーレンカですわ」ワーレンカはにこにこしながら、すぐ言葉をついだ。「みなさまがそう呼んでくださいますの」
キチイはうれしさのあまり頬をそめて、黙ったまま、新しい友の手を長いこと握りしめた。が、その手はキチイの握手にこたえないで、彼女の手の中でじっとしていた。しかし、手こそ握手にこたえなかったけれど、マドモアゼル・ワーレンカの顔は、やや憂いをおびた、静かな喜ばしい微笑をたたえて、大きな、しかも美しい歯を見せていた。
「あたくしのほうも前々から、そう願っておりましたのよ」彼女はいった。
「でも、あなたはとても忙しくしていらっしゃいますから……」
「いいえ、その反対ですわ、なんにも仕事なんかないんですのよ」ワーレンカは答えた。しかし、そういうそばから、彼女は近づきになったばかりの知人をおいて、立って行かなければならなかった。というのは、父親が病気の、小さなふたりのロシア娘が彼女のほうへ走って来たからである。
「ワーレンカ、ママが呼んでるわ!」娘たちは叫んだ。
そこで、ワーレンカはふたりのあとについて行った。
32
公爵夫人が、ワーレンカの生いたちや、マダム・シュタールとの関係や、さらに当のマダム・シュタール自身について知った詳しいことは、次のようなものであった。
マダム・シュタールは、一部では夫を悩ました女《ひと》といわれていたが、また別の方面では、夫の放縦に苦しめられた女ともいわれていた。が、とにかく、いつも病身で、すぐ感激する性質《たち》の婦人であった。夫人がはじめて子供を生んだのは、もう夫と別れた後だったが、その赤ん坊はすぐに死んでしまった。シュタール夫人の身内の人びとは、夫人の感じやすい性質を知っていたので、この知らせが夫人の生命にかかわると思って、その同じ晩に同じ建物の中で生れた、宮廷のコックの娘をもらって来て、死んだ子のかわりにした。それがワーレンカだったのである。その後マダム・シュタールは、ワーレンカが実の娘でないことを知ったが、ひきつづき彼女を養育した。とりわけ、これはその後まもなく、ワーレンカに身内というものがひとりもなくなったので、なおさらのことであった。
マダム・シュタールは、もう十年このかた家に閉じこもったきり、一度も床を離れることなく、南欧で外国生活を送っていた。一部ではマダム・シュタールのことを、徳の高い宗教的な婦人として、たくみにその社会的地位をつくり上げた女《ひと》だといっていたし、また他方では、彼女は単に外見上だけでなく、事実、ただ隣人のためにのみ生きている高徳な婦人であるといっていた。夫人がいかなる宗教を信じているのか――カトリックか、プロテスタントか、それとも、ロシア正教か、だれも知る人はなかった。しかし、ただ一つ、夫人があらゆる教会、あらゆる信仰の最高代表者と、きわめて親密な関係にあることだけは疑いをいれなかった。
ワーレンカは夫人とともに、たえず外国で暮していた。そして、マダム・シュタールを知っているほどの人はだれでも、みんながそう呼んでいた「ワーレンカ」のことをよく知り、かつ愛していた。
公爵夫人はこうした詳しいことをすっかり知ると、娘がワーレンカと交際しても、べつにとやかくいうことはないと判断した。まして、ワーレンカは礼儀作法も正しく、すぐれた教育を受けており、フランス語と英語を流《りゅう》暢《ちょう》に話した。が、公爵夫人がこの交際を許したなによりの原因は、マダム・シュタールが、病気のために公爵夫人と近づきになれずたいへん残念だと、ワーレンカを通して伝えたことである。
キチイはワーレンカと近づきになってから、ますますこの親友に魅せられてしまい、毎日のように、相手の中に新しい美点を発見するのであった。
公爵夫人は、ワーレンカが歌がじょうずだと聞いて、今晩うちへ来て歌ってほしいと頼んだ。
「キチイがひきますわ。それにいいものじゃありませんけど、宅にはピアノもございますし。そうしていただけたら、ほんとに、どんなにうれしいかしれませんわ」公爵夫人はいつものわざとらしい微笑を浮べていった。キチイは、ワーレンカがあまり歌いたくないらしいのに気がついたので、母親のそうした微笑にことさら不快の念を覚えた。ところが、それにもかかわらず、ワーレンカはその晩、楽譜を持ってやって来た。公爵夫人はルチーシチェヴァ母娘《おやこ》と、大佐を招待した。
ワーレンカは、面識のない人たちが同席していてもいっこうに平気らしく、さっそくピアノのそばへ行った。彼女はみずから伴奏することはできなかったが、譜を見ながら見事に歌った。ピアノのじょうずなキチイが伴奏をつとめた。
「すばらしい才能をもっていらっしゃいますのね」公爵夫人はワーレンカが第一曲を歌い終ったとき、いった。
ルチーシチェヴァ母娘《おやこ》も、礼をいって、その歌をほめそやした。
「ほら、ごらんなさい」大佐は窓の外を見ながらいった。「あなたの歌を聞きに、あんなに人が集まってますよ」実際、窓の下にかなり大勢の人が集まっていた。
「みなさまに喜んでいただいて、あたしもほんとにうれしゅうございますわ」ワーレンカは率直に答えた。
キチイは誇らしげに自分の親友をながめていた。キチイはその技巧にも、その声にも、その顔にも夢中になっていたが、なによりも感動したのは、明らかに、ワーレンカが自分の歌のことなど少しも考えず、人びとの讃辞にまったく無関心なことであった。彼女はただ、もっと歌いましょうか、それとも、もうけっこうですか? とたずねているような様子であった。
《もしこれがあたしだったら》キチイは心の中で考えた。《どんなに自慢したかしれやしないわ! あの窓の下の人だかりを見て、どんなにうれしがったかわからないわ。それなのに、この人ったら、いつもとまるっきり変りないんですもの。この人はただママの頼みを断わらないで、喜んでもらおうという気持ばかりでやってるんだわ。いったい、この人の中にはなにがあるのかしら? いったい、なにがこの人にいっさいを無視して、なにものにも左右されない、落ち着きを与えているのかしら? ああ、なんとかその秘密を知って、この人からそれを習いたいものだわ!》キチイは友の落ち着いた顔をながめながら、そう考えた。公爵夫人はワーレンカに、もう一曲歌ってくれと頼んだ。ワーレンカはピアノのそばにまっすぐ立って、そのやせた浅黒い手で、軽くピアノをたたいて拍子をとりながら、相変らずなだらかに、はっきりと、見事に二曲めを歌い終った。
楽譜にのっているその次の曲は、イタリアの歌曲であった。キチイは前奏をひいて、ワーレンカを振り返った。
「これは抜かしましょう」ワーレンカは顔を赤らめていった。
キチイはびっくりして、その理由をききたそうに、じっと、ワーレンカの顔をのぞきこんだ。
「じゃ、ほかのを」キチイは、この曲にはなにかわけがあるのだな、とすぐに察して、楽譜をめくりながら、急いでそういった。
「いえ」ワーレンカは片手を楽譜の上にのせて、微笑を浮べながら答えた。「いえ、やっぱり、これを歌いましょう」そして、彼女はこの曲も、相変らず、落ち着いてさりげなく、しかも見事に、歌い終った。
彼女の歌がすむと、一同は再び礼をいって、お茶を飲みに立った。キチイはワーレンカといっしょに、家の前にある小さな庭へ出て行った。
「ねえ、あの歌にはきっと、なにか思い出があるんでしょう?」キチイはいった。「いえ、お話しくださらなくてもいいんですの」彼女は急いでつけ足した。「ただそれが当ってるかどうか、教えてくださいません?」
「ええ、けっこうですわ。お話ししますわ!」ワーレンカは率直にいって、返事も待たずに、話をつづけた。「ええ、思い出があるんですの。それも、一時はとても苦しい思い出でしたわ。あたしはある男の方を愛して、その方にあの曲を歌って聞かせたんですの」
キチイは大きく目を見ひらいて、無言のまま、感動したように、ワーレンカを見つめていた。
「あたしはその方を愛していましたが、その方もあたしを愛してくださいました。でも、その方のお母さまが不賛成で、その方はほかの女の人と結婚してしまいましたの。その方は今、ここからあまり遠くないところに住んでいらっしゃるので、ときどきお見かけすることもありますわ。あなたはきっと、あたしにはロマンスなんかないとお思いでしたでしょう?」彼女はいった。そして、その美しい顔には、かつてこの人の全身を輝かしたにちがいない、とキチイに思われた輝きが、かすかにひらめいた。
「なぜそんなふうにおっしゃいますの? それどころか、あたしが男の人だったら、あなたを知ったあとでは、もうだれもほかの女の人を愛することなんか、できないと思いますわ。ただあたしにはわかりませんわ、なぜその方はお母さまの気に入るために、あなたのことを忘れて、あなたを不幸にすることができたのかしら――その方には暖かい心がなかったんですのね」
「いいえ、その方はとてもいい人でしたのよ。それに、あたしも不幸じゃありませんわ。それどころか、とてもしあわせですわ。それはそうと、今晩はもう歌はこれだけにしておきましょうか?」ワーレンカは家のほうへ足を向けながら、つけ加えた。
「ほんとに、あなたはいい方ですのね、とってもいい方ですわ!」キチイは叫んだ。そして、彼女をひき止めて、接吻《せっぷん》した。「たとえほんの少しでも、あなたに似たいものですわ!」
「なんのためにほかの人に似なくちゃいけませんの? あなたは今のままで、とてもいい方ですのに」ワーレンカは持ち前のつつましい、疲れたような微笑を浮べながら、いった。
「いいえ、あたしはちっともいい人間じゃないんですの。ねえ、おたずねしますけど……まあ、ちょっとお待ちになって、少し休みましょうよ」キチイはまた友をそばのベンチに並んですわらせながら、いった。「ねえ、教えてくださいません、男の方があなたの愛をないがしろにして、結婚しようとしなかったことを思いだしても、もうお腹立ちになりませんの?……」
「だって、その方はあたしをないがしろにしたんじゃありませんわ。今もあたしはあの方が愛してくださったと信じてますわ、ただ、その方はおとなしいむすこさんでしたの……」
「そうですわね。でも、その方がもしお母さまの意志に従ったんでなくて、ただ自分勝手だったら?……」キチイはそういいかけたが、そのとたん、もう自分が自分の秘密を明かしてしまったことを、羞恥《しゅうち》の紅に燃える自分の顔が、なによりもそれを証明していることを感じた。
「その方は悪いことをしたのですから、あたしなら、そんな人にはもう未練なんてありませんわ」ワーレンカは、これはもう自分のことではなく、明らかにキチイの話だと悟って、そう答えた。
「でも、侮辱はどうなりますの?」キチイはいった。「侮辱は忘れることができませんわ。いいえ、けっして忘れられませんわ」キチイは、あの最後の舞踏会で音楽がやんだとき、自分が彼に注いだまなざしを思いだして、いった。
「いったい、その侮辱ってなんのことですの? だって、あなたはべつに悪いことをなすったんじゃないでしょう?」
「悪いなんてことより、もっとひどいことですわ――思いだすのも恥ずかしいことなんですの」
ワーレンカは首を振って、自分の手をキチイの手の上にかさねた。
「でも、なにがそんなに恥ずかしいんですの?」彼女はいった。「だって、あなたはまさかご自分に冷淡な男の方に、好きだなんておっしゃったわけじゃないでしょう?」
「ええ、もちろん、そんなことありませんでしたわ。あたし一度だって、ひと言だって、口には出しませんでしたわ。でも、その方は知ってましたの。いいえ、だめですわ。だって、目つきだって、そぶりだってありますもの。あたし、百年も長生きしたって、けっして忘れることはできませんわ」
「それは、なぜですの? あたしにはわかりませんわ。だって、問題は、あなたが今でもその方を愛してらっしゃるか、どうかにかかってるんですもの」ワーレンカはなにもかもはっきり言葉に出して、いった。
「あたしはその方を憎んでいますわ。もう自分で自分を許すことができないんですの」
「それは、なぜですの?」
「羞恥ですもの、侮辱ですもの」
「まあ、もしみんながだれもかも、あなたのように感受性が強かったら」ワーレンカはいった。「それと同じことを経験しない娘さんは、この世にはひとりもいないでしょうよ。それに、そんなことはちっとも重大なことじゃありませんわ」
「じゃ、重大なことってなんですの?」キチイは好奇心のまじった驚きの目で、友の顔を見つめながら、たずねた。
「そりゃ、重大なことはたくさんありますわよ」ワーレンカは微笑を浮べながら、答えた。
「でも、どんなことですの?」
「そりゃ、もっと重大なことはたくさんありますわよ」ワーレンカはなんと答えていいかわからないで、そういった。しかし、そのとき窓の中から、公爵夫人の声が聞えた。
「キチイ、冷えてきましたよ! ショールをするか、でなければ、お家の中へおはいり」
「ほんとに、もう時間ですわ!」ワーレンカは立ちあがりながら、いった。「あたくし、まだこれからマダム・ベルトのところへお寄りしなくちゃなりませんの、お頼まれしたことがありまして」
キチイは友の手を握ったまま、情熱的な好奇心と願いをこめながら、そのまなざしで問いかけた。《ねえ、それはなんですの、そんな落ち着きを与えているいちばん重大なものって、いったい、なんですの? あなたはご存じなんですから、どうぞ、あたしに教えてくださいな!》ところが、ワーレンカは、キチイのまなざしがなにをたずねているのか、それすらも理解しなかった。彼女が覚えていたのは、ただ今晩これからマダム・ベルトのところへ寄ってから、お茶に間にあうように、十二時までにママの待っているわが家へ帰らなければならない、ということだった。彼女は部屋の中へはいると、楽譜をまとめ、みんなに別れを告げて、帰りじたくを整えた。
「失礼ですが、お送りしましょう」と大佐がいった。
「そうですとも。こんな夜中にとてもおひとりでは帰れませんわ!」公爵夫人が言葉をあわせた。「せめてパラーシャにでもお送りさせますわ」
ワーレンカは、みんなが自分を送らなければならないというのを聞いて、やっとのことで苦笑をこらえていた。キチイはそれを見てとった。
「いいえ、あたしはいつもひとりで歩いてますけど、けっしてなにもあったためしはございませんわ」彼女は帽子を手にして、いった。それから、もう一度キチイに接吻すると、なにが重大なことであるかは話さないで、楽譜を小わきにかかえ、元気な足どりで、夏の夜の薄闇《うすやみ》の中へ姿を消してしまった。そして、重大なことはなんなのか、なにがあのうらやむべき落ち着きと威厳を彼女に与えているのか、という秘密も身につけたまま、姿を消してしまった。
33
キチイはシュタール夫人とも知合いになった。そして、この交際は、ワーレンカに対する友情とともに、単にキチイに強い影響を与えたばかりでなく、その悲しみをも慰めてくれた。キチイがそこに見いだした慰めというのは、この交際のおかげで、過去とはまったくなんの関係もない、完全に新しい世界が開けたことであった。それは高遠な美しい世界であって、その高みからは、自分の過去を落ち着いてながめることができた。キチイは今まで自分が没頭していた本能的な生活のほかに、精神的な生活もあるのだ、ということに気づいたのである。この生活は、宗教によって開かれたのであったが、それはキチイが子供のころから知っていた宗教とは、なんの共通点ももっていなかった。それは知人のだれかに会える教会のミサとも、『寡婦《かふ》の家』での終夜祈《き》祷《とう》という形式をとる宗教とも、神父といっしょにスラヴ語の聖書を暗記することによって表現されるものとも違っていた。それは一連の美しい思想や感情と結びあわされた崇高で神秘的な宗教であって、そう命じられたから信じられるばかりでなく、みずからすすんで愛することすらできる宗教であった。
キチイがこうしたいっさいのことを知ったのは、言葉によってではなかった。マダム・シュタールがキチイに話しかけるときは、自分の青春を思いだして、思わず見とれずにはいられないかわいい幼児《おさなご》に対するような態度で接していた。たった一度だけ、夫人は人間のあらゆる悲しみを慰めるものは、ただ愛と信仰ばかりであり、わたしたち人間に対するキリストの憐憫《れんびん》にとっては、そんな取るに足らぬ悲しみなどというものは存在しないのだ、といっただけで、すぐ話題を転じてしまった。しかし、キチイは夫人の一挙一動に、その一言一句に、またキチイが名づけた、この世のものとは思われぬまなざしに、とりわけワーレンカから聞いた夫人の身の上話に、いや、そうしたいっさいのものの中に、キチイの今まで知らなかった、《なにが重大であるか》ということを、悟ったのであった。
ところが、マダム・シュタールの性格がいかに崇高であり、その生涯がいかに感動的なものであり、その言葉がいかに高尚で優しいものであっても、キチイは心ならずも夫人の中に、なにかとまどいさせられるような点を認めないわけにいかなかった。キチイは、身内の人たちのことをいろいろたずねられていたとき、マダム・シュタールが見せたキリスト教徒の善良さとは相いれない軽蔑《けいべつ》的な笑いに気づいた。それからまた、キチイはいつか、カトリック神父が来ているところに行きあわせたが、マダム・シュタールは、なるべく顔をランプの笠《かさ》に隠すようにしながら、なにか独特な笑いをもらしていたのにも気づいた。この二つの発見は、きわめて些《さ》細《さい》な取るに足らぬものではあったが、それは彼女をとまどいさせ、彼女はマダム・シュタールにある疑いをいだくようになった。ところが、そのかわり、ただひとりの身寄りもなければ友もなく、わびしい失意をいだきながら、なにひとつ望むでもなく、なにひとつ惜しむでもない、まったく孤独なワーレンカの姿は、キチイがひそかに空想していた、あの完成された人格そのものであった。キチイは、ただ自分のことを忘れて、他人を愛しさえすれば、人は自然に落ち着きができ、しあわせになり、美しくなっていくということを、ワーレンカの例によって悟った。そして、キチイは自分もああいうふうになりたいと思った。なにがもっとも重大なもの《・・・・・》であるかをはっきり悟ったキチイは、この発見に有頂天になるだけでは満足せず、自分の前に開かれた新しい生活に、たちまち全身全霊をささげてしまった。キチイは、ワーレンカが話してくれたマダム・シュタールをはじめ、彼女が名前をあげたその他の人びとの行いの数々を総合して、はやくも、自分の未来の生活設計を試みた。キチイも、ワーレンカからたくさん話を聞かされたシュタール夫人の姪《めい》アリーヌのように、将来どんなところに住もうとも、いつも不幸な人びとを見いだしては、できるだけ援助の手をさしのべ、福音書をわかちあたえ、病人や犯罪人や瀕《ひん》死《し》の人びとに、福音書を読んで聞かせるであろう。アリーヌがしたように、犯罪者に福音書を読んで聞かせるという考えは、とりわけキチイの気に入った。もっとも、こうしたことはすべてキチイの秘密の空想であって、母親はむろん、ワーレンカにも打ち明けていなかった。
そうはいうものの、この計画を大規模に実行する時期のくるまで、キチイは今すぐにでも大勢の病人や不幸な人びとがいるこの温泉場で、ワーレンカにならって、自分の新しい生活方針をつらぬく機会を容易に見いだすことができた。
はじめのうちは公爵夫人も、キチイがシュタール夫人、ことにワーレンカに対するいわゆる engouement に影響されていることだけに気づいていた。母親は、娘のキチイが単に行動の上で、ワーレンカをまねているばかりでなく、知らずしらずのうちに、その歩き方や話し方やまばたきの仕方まで、まねているのを見てとった。ところが、それからしばらくたって公爵夫人は、娘の内部でそうしたあこがれとは関係なく、なにかしらもっとまじめな精神的な転換が完成されていくのに気づいた。
公爵夫人が見ていると、キチイはシュタール夫人からもらったフランス語の聖書を毎晩のように読んでいたが、これは以前にはなかったことであった。また、社交界の知人を避けて、ワーレンカの保護のもとにある病める人びと、ことに病める画家ペトロフの貧しい一家と親しくなった。キチイは、この家族のために看護婦の役割を果しているのを、どうやら、誇りに思っているらしかった。こうしたことはなにもかもけっこうなことだったので、公爵夫人もそれに対してなにも反対はしなかった。まして、ペトロフの妻はどこから見ても、れっきとした婦人であり、大公妃もキチイの活動に目をとめて、彼女を『慰めの天使』といって賞讃されたので、なおさらであった。もしそこに、あまりの行きすぎさえなかったら、そうしたことはなにもかもけっこうなことだったにちがいないが、公爵夫人は娘が極端におちいっているのを見て、こう娘に注意した。
「Il ne faut jamais rien outrer. 」夫人はいった。
ところが、娘は母親になんとも答えず、ただ心の中で、キリスト教の仕事には行きすぎなんてことはありえないと、考えていた。もし片方の頬を打たれたら、もう一方もさしだせとか、外套《がいとう》を取られたら、肌着まで与えよとか、命じている教えに従うのに、行きすぎだなんていっていられるものだろうか? しかし、公爵夫人にはその行きすぎが気に入らなかった。しかも、それよりもっと気に入らなかったのは、キチイが心の秘密をすっかり母親に打ち明けようとしないのを感じたことである。事実、キチイは自分の新しいものの見方や感情を母親に隠していた。キチイがそれを打ち明けなかったのは、母親を尊敬していなかったからでも、愛していなかったからでもなく、ただそれが自分の母親だったからにすぎない。キチイは母親に打ち明けるくらいなら、相手かまわずみんなの人に打ち明けたにちがいない。
「なぜか、アンナ・パーヴロヴナは、もう長いこと、家へお見えにならないね」公爵夫人はある日、ペトロフの妻のことをうわさした。「お呼びしたんだけど、あの人はなにかおもしろくないことがあるようだね」
「いいえ、あたし、気がつきませんでしたわ」キチイはぱっと頬をそめて、いった。
「おまえももう長いこと、あそこへは行ってないんでしょう?」
「あすは、ごいっしょに、お山へ遠足に行くことになっていますわ」キチイは答えた。
「そりゃ、いいわね。行ってらっしゃいよ」公爵夫人は娘の困ったような顔をながめて、その当惑の原因を知ろうと努めながら、答えた。
ちょうどその日、ワーレンカが食事にやって来て、アンナ・パーヴロヴナがあすのハイキングを中止した旨を知らせた。そこで公爵夫人は、キチイがまた顔を赤らめたのに、気づいた。
「キチイ、おまえ、ペトロフさんご夫妻と、なにか気まずいことでもあったんじゃないの?」公爵夫人は娘とふたりきりになったとき、そうきいた。「なぜアンナ・パーヴロヴナは、子供たちもよこさなければ、ご自分でも家へ来なくなったの?」
キチイはそれに対して、自分たちのあいだにはなにも変ったことはなかった、ただアンナ・パーヴロヴナは、あたしになにか不満をいだいているようだけれど、それがなぜかさっぱりわからない、と答えた。キチイは、まったくほんとうのことを答えたのであった。もっとも、彼女は、アンナ・パーヴロヴナの自分に対する態度が変った原因を、はっきり知らなかったとはいうものの、だいたいのところは察していた。その推察というのは、母親に話すことはもちろん、自分自身にさえいいかねるようなことであった。それは自分にわかっていても、自分自身にさえいうことをはばかるような性質をもった推察の一つであった。万が一、まちがったときには、とても恐ろしくて、恥じ入らなければならないことであった。
キチイは何度も何度も記憶を呼びさまして、この家族と自分との関係を、一つ残らずたしかめてみた。彼女はいつも会うたびに、アンナ・パーヴロヴナの人の良さそうな丸顔に表われる、素《そ》朴《ぼく》な喜びの色を思い浮べた。また、病気の画家についてのふたりの内証話や、禁じられている仕事から画家の気持をそらそうとして、散歩に連れだそうとした相談や、『ぼくのキチイ』といって、キチイがそばにいないと寝つかない末の男の子の甘ったれぶりなどを、思い起した。こうしたことはなにもかもとてもよくいっていた! それからキチイは、茶色の上着を着た、首の長いペトロフのひどくやせた姿や、まばらな縮れ毛や、はじめのうちは恐ろしく思われた彼のさぐるような青い目や、彼女の前では努めて元気よく、快活に見せかけようとする病的な努力などを、思いだした。初めのうちは、キチイも、すべての肺病患者に対してと同様、彼に対して感じた嫌悪を克服しようと努めたことや、どんな話をしようかと話題を考えるのに苦心したことなども思い起した。キチイはまた、自分を見るときのペトロフのおずおずした、感動的なまなざしや、そうしたときに自分の味わった同情の念や、ばつの悪さや、さらには自分の善行意識といりまじった奇妙な感情なども、思い起した。こうしたことは、なにもかもとてもよかった! ところが、そうしたことはみな、初めのうちだけであった。今では、四、五日前から急に、なにもかもすっかりだめになってしまった。アンナ・パーヴロヴナは、わざとらしいお愛想《あいそ》でキチイを迎え、たえず彼女と夫を観察するのであった。
キチイがそばへ寄るたびに彼の表わすあの感動的な喜びが、はたしてアンナ・パーヴロヴナが冷淡になった原因なのだろうか?
《そうだわ》彼女は思いだした。《おととい、アンナ・パーヴロヴナが、いまいましそうな口調で、「もうこのとおり、ずっとあなたを待ちこがれていて、あなたがいらっしゃらなければ、コーヒーひとつ飲もうとしないんですのよ、こんなにひどく弱っているのに」といったとき、そこにはなにか、あの人の善良な人がらにまったく不似合いな、不自然なものがあったわ》
《ええ、ひょっとしたら、あたしがあの人に膝掛けを渡したのが、アンナ・パーヴロヴナの気にさわったかもしれないわ。あんなことは別段なんでもないことなのに、あの人がひどく無器用に受け取って、あんなにくどくどとお礼をいうものだから、あたしまでばつが悪くなってしまったわ。それから、あの人がとても見事に描いてくださったあたしの肖像。それになによりも問題なのは、あのはにかんだような、優しい目つき!……ええ、そうだわ、きっと、そうにちがいないわ!》キチイはぞっとしながら、そうひとりで繰り返した。《いいえ、そんなことってないわ、そんなことがあってはいけないわ! あの人はあまりみじめすぎるわ!》彼女はそのあとからすぐこうつぶやいた。
この疑いが、キチイの新生活の魅力をすっかり台なしにしてしまった。
34
もうやがて湯治の日程も終るころになって、当人の言いぐさによると、ロシア気分を満喫するために、カルルスバードから、バーデン、キッシンゲンとロシア人の知人をたずね歩いていたシチェルバツキー公爵が、家族のもとへ帰って来た。
公爵夫妻の外国生活に対する見解は、まったく相反していた。公爵夫人のほうはなにもかもすばらしいといって、自分がロシアの社会でれっきとした地位を占めているにもかかわらず、外国にいるあいだはヨーロッパ式な貴婦人になろうと努めていた。しかし、夫人はもともとロシアの貴婦人であって、ヨーロッパの貴婦人ではなかったから、いくらかばつが悪いようなふりをしていた。一方、公爵はその反対で、外国のものはなにもかもいやなものにきめてしまい、ヨーロッパ式の生活に苦痛を感じ、自分のロシア式の習慣を固持して、外国ではことさら実際以上に、ヨーロッパ人らしく見せまいと努めていた。
公爵はすこしやせて、頬《ほお》に袋のような皮膚をたるませて帰って来たが、しかしきわめて上きげんであった。彼の浮きうきした気分は、キチイがすっかりよくなっているのを見て、いっそうたかまった。もっとも、キチイがシュタール夫人やワーレンカと親しくしているという知らせや、キチイの身にある変化が生れたという公爵夫人の話は、公爵を当惑させた。彼は自分の知らぬ間に娘が心をひかれるすべてのものに対して、彼のいつも感じる例の嫉妬《しっと》と、娘が自分の影響力を脱して、どこか手のとどかないところへ行ってしまうのではないか、という恐れにかられた。しかし、こうしたおもしろくない知らせも、彼がいつも持ち合せており、とくにカルルスバードの温泉でさらにたかまってきた、あの人の良い楽しい雰《ふん》囲《い》気《き》の中に没してしまった。
帰って来た翌日、公爵はいつもの長い外套《がいとう》を着て、ロシア人らしいしわのよっただぶだぶの頬を、糊《のり》のきいたカラーで突きあげながら、まったく上きげんで、娘を連れて浴場へ出かけた。
それはすばらしい朝であった。小さな庭に囲まれた、こぎれいな楽しそうな家々、ビールのために顔も手もまっ赤にして、愉快そうに働いているドイツ人の女中たちの姿、明るい太陽などは、人の心を浮きうきさせた。しかし、浴場へ近づくにつれて、行き会う病人の数が多くなっていった。よく整ったドイツ人の普通の生活環境の中で、これら病人の姿はひとしおみじめに見えた。キチイはもうこの矛盾にも心を打たれなくなっていた。明るい太陽も、楽しい緑の輝きも、音楽の響きも、彼女にとってはすべての知人たちをつつむ自然の額縁であり、病人たちがよくなったり、悪くなったりする変化の背景であった。キチイはそうした変化にたえず注意をはらっていた。しかし、公爵にとっては、この六月の朝の輝きと光や、流行の楽しげなワルツを奏する音楽の響きや、ことに健康そうな女中たちの姿は、ヨーロッパのすみずみから集まって、わびしげにうごめいている半死の病人たちと一つになって、なにかしら、ぶしつけな醜いものに思われるのだった。
公爵は今愛娘《まなむすめ》と腕を組んで歩きながら、一種の誇りと、なにか青春がよみがえってきたような気分になっていたにもかかわらず、自分の元気な歩きぶりや、まるまると太った大がらな図体《ずうたい》が、なんとなくばつの悪く、気のとがめるような思いであった。彼は、人前で裸になっている人とほとんど同じ気持を経験していた。
「さあ、紹介しておくれ。おまえの新しい友だちにわしを紹介しておくれ」彼は肘《ひじ》で娘の腕を締めつけながら、いった。「わしはね、こんなソーデン水は大きらいだが、おまえをこんなに快《よ》くしてくれたので、好きになったよ。ただどうも陰気くさいね、陰気くさくていけないね。あれはだれだね?」
キチイは、向うからやって来る知人やら、他人やらの名前を父に教えた。公園の入口のそばで、ふたりは付添いの女につれられた盲目のマダム・ベルトに出会った。キチイの声を聞きつけると、この年とったフランス婦人が、感動の表情を浮べたのを見て、公爵はうれしくなった。マダムはさっそく、フランス人特有のお世辞を振りまきながら、公爵に話しかけて、こんなお美しいお嬢さまをおもちでおしあわせですこと、とほめあげ、キチイのことを面と向って、宝物だ、真珠だ、慰めの天使だと呼んで、天にまで持ちあげかねないありさまであった。
「はあ、なるほど。じゃ、この子は第二の天使というわけですな」公爵は微笑しながらいった。「この子はワーレンカを天使第一号と呼んでますから」
「まあ! マドモアゼル・ワーレンカ――あれはほんとうの天使でございますよ、allez 」マダム・ベルトは口をあわせた。
回廊で、ふたりは当のワーレンカに行き会った。彼女は赤い優雅なハンドバッグを手にして、向うからいそいそと歩いて来た。
「ほら、やっと、父が帰ってまいりましたの」キチイは彼女にいった。
ワーレンカは、なにごともそうだが、飾りけのない、自然な態度で、頭を下げるとも、腰をかがめるともつかぬ、その中間の動作をして、すぐ公爵に話しかけたが、それはあらゆる人と話すのと同様、飾りけのない、自然な調子であった。
「もちろん、あなたのことは知っておりますよ。よく知っておりますとも」公爵は微笑を浮べながらいったが、キチイはその微笑によって、親友が父の気に入ったことを悟った。「いったい、そんなに急いでどこへいらっしゃるんです?」
「母がこちらへ来てますの」彼女はキチイのほうへ向いていった。「昨晩ずっと眠れなかったものですから、お医者さまが外出するようにとおっしゃいましたので。今、母のところへ手仕事を持って行くところなんですの」
「なるほど。あれが天使第一号というわけだね」公爵はワーレンカが立ち去ると、いった。
キチイは、父公爵がワーレンカを冷やかしてやろうと思いながら、すっかり気に入ってしまったので、とうとうそれができなかったのを見てとった。
「さて、これから、おまえの友だちを、すっかり見ることができるね」彼はつけ加えた。「マダム・シュタールも、首尾よくわしを思いだしてくれたらな」
「まあ、パパったら、あの方をご存じでいらっしゃいましたの?」キチイはマダム・シュタールの名を口にしたとき、父の目に輝いた嘲笑《ちょうしょう》を見てとって、ぎょっとしながらたずねた。
「ご亭主は知っておったよ。それに、あの人が敬虔主義者《ピエチスト》になる前には、あの人のことも少しは」
「パパ、そのピエチストってなんですの」キチイは自分がシュタール夫人の中に認めて、あれほど高く評価していたものが、一定の名称をもっていることに、はやくもびっくりしながら、こうたずねた。
「わしも自分でよくわからんのだよ。ただ知ってるのは、あの人がなんでもかんでも、どんなふしあわせなことに対しても、神さまに感謝するってことだね。……いや、ご亭主が死んでも、神さまに感謝するってわけさ。でも、おかしなことになってしまうのさ、なにしろ、夫婦の仲がよくなかったからな」
「あれはだれだね? ひどくみじめな顔をしてるな!」彼はベンチに腰かけている、あまり背の高くない病人に気づいて、そうきいた。その病人は茶色の外套を着て、白いズボンをはいていたが、それは肉のこけた足の骨の上に、奇妙なひだをつくっていた。
その人は、まばらな縮れ毛の上にかぶっていた、麦藁《むぎわら》帽子をちょっと持ちあげて、帽子のあとが病的に赤く残っているひいでた額を現わした。
「あれは画家のペトロフさんですわ」キチイは赤くなって答えた。「そして、あれが奥さん」彼女は、アンナ・パーヴロヴナを指さしながら、つけ足した。そのときちょうど、ペトロフの妻はわざとらしく、小道づたいに駆けだした子供のあとを追って行った。
「まったくみじめな感じだが、じつに人の良さそうな顔をしとるな!」公爵はいった。「なんだっておまえはそばへ行ってあげなかったんだ? なにかおまえにいいたそうにしていたじゃないか」
「それじゃ、まいりましょう!」キチイはきっぱりと、踵《くびす》を返しながら、いった。「きょうはおからだのぐあいいかがですの?」彼女はペトロフにたずねた。
ペトロフは杖にもたれて立ちあがると、おずおずと公爵をながめた。
「これはわしの娘ですよ」公爵はいった。「お近づきを願います」
画家は会釈して、輝くばかりの白い歯を見せて、にっこりほほえんだ。
「お嬢さん、私たちはきのうあなたをお待ちしていたんですよ」彼はキチイにいった。
彼はそういいながら、ちょっとよろけた。すると、もう一度その動作を繰り返して、わざとしたのだというふりを見せようとした。
「おたずねしようと思ったんですけど、でも、ワーレンカが、アンナ・パーヴロヴナからお使いがあって、あなた方はいらっしゃらないっていうお話でしたから」
「なに、私たちが行かないんですって!」ペトロフはまっ赤になって、すぐ咳《せ》きこむと、妻を目で捜しながら、いった。「アネッタ、アネッタ!」彼は大声で呼んだ。すると、その細い白い首筋には、太い血管が縄《なわ》のようにふくれあがった。
アンナ・パーヴロヴナがそばへやって来た。
「なんだっておまえは、お嬢さんのところへ、私たちは行かないなんて使いを出したんだね?」彼はもう大きな声が出なくなって、いらだたしそうにささやき声でいった。
「まあ、こんにちは、お嬢さま」アンナ・パーヴロヴナは、わざとらしい微笑を浮べていったが、それは今までの態度とは、似ても似つかないものであった。「お近づきになれて、とてもうれしゅうございます」彼女は公爵のほうへ向いた。「もう長いことお待ち申しあげておりました。公爵さま」
「なんだっておまえはお嬢さんのところへ、私たちは行かないなんて使いを出したんだね?」画家はもう一度しゃがれた声でいったが、それは前よりもっと腹立たしげであった。どうやら、もう声がよく出ないらしく、自分の言葉に思いどおりの表情をつくることができないので、ますますいらだってくるらしかった。
「まあ、どうしましょう! 私たちは行かないものと思ってたものですから」妻はいまいましそうに答えた。
「だって、あのとき……」彼はまた咳きこんで、あきらめたように片手を振った。
公爵はちょっと帽子に手をかけて、娘を連れてそばを離れた。
「いやはや!」彼は重々しく溜息《ためいき》をついた。「まったく、ふしあわせな人たちだね!」
「そうなんですのよ。パパ」キチイは答えた。「それに、ご存じないでしょうけど、お子さんが三人もあって、女中もいなければ、財産もほとんどないんですのよ。美術院《アカデミー》から少しばかりもらってらっしゃるだけで」キチイは自分に対するアンナ・パーヴロヴナの態度のふしぎな変化のために生じた興奮をしずめようとしながら、勢いこんで話しだした。
「あら、向うからマダム・シュタールもお見えになりましたわ」キチイは車のついた肘掛けいすを指さしながら、いった。その中には、クッションにささえられて、なにやらねずみ色と空色の着物につつまれたものが、日《ひ》傘《がさ》の下に横たわっていた。
それがシュタール夫人であった。そのうしろには、車を押す役の、体格のがっしりした、陰気くさい顔のドイツの人夫が立っていた。そばには、キチイが名前だけ知っていた、ブロンドの髪をしたスウェーデンの伯爵がいた。幾人かの病人が、この貴婦人を、なにか珍しいものでも見物するように、肘掛けいすのあたりをうろうろしていた。
公爵はそばへ近づいた。と、たちまち、キチイは父の目の中に、いつも自分を当惑させるあの冷笑の火花がひらめいたのを、認めた。父はマダム・シュタールに近づいて、見事なフランス語で話しかけたが、それはもう今では話す人がきわめて少なくなった、じつに慇《いん》懃《ぎん》で優しいフランス語であった。
「私を思いだしてくださるかどうか存じませんが、私は娘がご親切にしていただいたお礼を申しあげたいと存じますので、なんとか思いだしていただきとう存じます」彼は帽子をとって、手にしたまま、そういった。
「アレクサンドル・シチェルバツキー公爵でいらっしゃいますね」マダム・シュタールは、例のこの世のものとは思われぬようなまなざしを向けて答えたが、キチイはその中に不満の色を読みとった。「ほんとうにうれしゅうございますわ。お宅のお嬢さまがすっかり好きになってしまいましてね」
「おからだのほうはやはりお悪いんですか?」
「ええ、でも、もう慣れてしまいました」マダム・シュタールはいって、スウェーデンの伯爵を公爵にひき合わせた。
「でも、あなたはあまりお変りになりませんな」公爵は夫人にいった。「たしか、もう十年か、十一年もお目にかかっておりませんでしたが」
「ええ、神さまは十字架もおさずけになりますが、それを背負って行く力もお与えくださいますからね。いったい、なんのためにこんな生活がつづいていくのかと、よくふしぎに思うこともございますよ……いえ、そっち側ですよ!」夫人はいまいましそうに、ワーレンカにいった。膝掛けで足をくるむのがまずかったのである。
「きっと、それは善行をするためでしょうな」公爵は目で笑いながらいった。
「そんなことはあたくしどもの考えるべきことではございませんよ」シュタール夫人は公爵の顔に浮んだ微妙な表情に気づいて、いった。「では、そのご本を、あたくしに届けてくださいますね、伯爵? ほんとに、ありがとうごさいました」夫人は若いスウェーデン人にいった。
「やあ!」公爵はそばに立っていたモスクワの大佐を認めると、思わず叫び声をあげた。そして、シュタール夫人に会釈してから、父《おや》娘《こ》は連れになったモスクワの大佐といっしょに、そばを離れて行った。
「あれがわれらの貴族ですよ!」モスクワの大佐は冷笑的な響きをこめて、いった。大佐はシュタール夫人が自分と知合いでなかったので、少々腹を立てていたのであった。
「あの女は相変らずだな」公爵は答えた。
「じゃ、公爵はあの人を病気の前からご存じだったんですか、つまり、あの人が床につく前から?」
「ええ、あの女は私の知ってたころに、床についたんですよ」公爵はいった。
「十年間も起きたことがないそうですな……」
「起きないわけは、足が短いからですよ。なにしろ、あの女はひどく不格好な女でね……」
「パパ、そんなことありませんわ!」キチイが叫んだ。
「いや、口の悪い連中がそういってるのさ。それにしても、おまえのワーレンカはさぞいじめられてることだろうよ」彼はつけ加えた。「まったく、ああいう病気の奥さん連はかなわんからね」
「いいえ、違いますわ、パパ!」キチイはかっとなって、反対した。「ワーレンカはあの方を崇拝してますわ。それに、あの方はとてもたくさんいいことをしていらっしゃいますのよ! だれにでもおききになってごらんなさいまし! あの方とアリーヌ・シュタールを知らない人はありませんもの」
「そうだろうね」公爵は娘の腕を肘で締めつけながらいった。「でも、それよりもっといいのは、だれにきいても、だれひとり知らないといったふうにすることだよ」
キチイは黙っていたが、それはなにもいうことがなかったからではなかった。ただ、父にも自分の秘密の考えを打ち明けたくなかったからである。ところが、ふしぎなことに、彼女は父親の見解に反駁《はんばく》し、自分の聖所に父親をも寄せつけないつもりであったにもかかわらず、まる一カ月のあいだ大切に胸の中にしまっていたシュタール夫人の神々《こうごう》しいおもかげが、あとかたもなく消え失《う》せてしまったのを感じた。それはさながら、その辺に投げだされている着物を人間と勘ちがいしたものが、ふと、それはただの着物がころがっているのにすぎないと、悟ったときのような気持であった。そこに残ったのは、自分の姿が不格好なために寝床から離れずにいる、足の短い女であり、膝掛けのくるみ方が悪いといって、おとなしいワーレンカを苦しめているひとりの女だった。もうどんなに想像力を働かせてみても、もう以前のマダム・シュタールを復活させることはできなかった。
35
公爵はその浮きうきした気分を、家族の者にも、知人にも、シチェルバツキー一家が借りていた家の主人であるドイツ人にまで感染させた。
キチイといっしょに浴場からもどると、公爵はわが家へ大佐と、マリヤ・ルチーシチェヴァと、ワーレンカをコーヒーに招いて、テーブルと肘掛けいすを庭の栗《くり》の木の下へ運ばせ、そこに昼食の用意を命じた。主人も下女も、彼の浮きうきした気分にかぶれて、活気づいてきた。彼らは公爵の気前のいいことを知っていた。そして、三十分もすると、二階に住んでいたハンブルグ出身の病気の医者が、栗の木の下に集まった健康そうなロシア人の一座を窓越しに見て、羨望《せんぼう》の念を覚えたほどであった。輪になって震えている木の葉の茂みの陰には、白いクロースのかかったテーブルに、コーヒー沸かしや、パンや、バターや、チーズや、野《や》禽《きん》の冷肉など並んでおり、薄紫のリボンのついたレース帽をかぶった公爵夫人が、お茶やサンドイッチを配っていた。その反対の端に公爵が席を占めて、健啖《けんたん》ぶりを発揮しながら、大きな声で愉快そうにしゃべっていた。公爵は自分のそばにいろいろな買い物を並べたてていた。それは方々の温泉場で買って来たさまざまな小箱や、抜き取りゲームや、ありとあらゆる種類のペーパー・ナイフなどで、彼はそれをみんなに分けてやった。女中のリースヘンと主人も、その数にもれなかった。彼は主人を相手に、こっけいな、まずいドイツ語で冗談をいいながら、キチイをなおしたのは鉱泉ではなくて、あんたのつくるすばらしい料理、ことに黒すもも入りのスープだ、といってきかなかった。公爵夫人も、夫のロシア的な癖を冷やかしてはいたものの、この温泉場へ来てからついぞないほど元気づいて、浮きうきしていた。大佐は、例によって、公爵の冗談に、にやにやしていた。もっとも、彼が自分で慎重に研究していると考えていたヨーロッパのことになると、彼も公爵夫人の肩をもつのであった。人のいいマリヤは、公爵がこっけいなことをいうたびに、腹をかかえて笑っていた。ワーレンカも公爵の冗談にあてられて、今までついぞキチイが見たこともないほど、弱々しく、しかし長いこと、ほ、ほ、ほと笑いつづけていた。
こうしたことはすべて、キチイの心を楽しませた。しかし、それでもなお彼女は、ある一事に心をいためずにはいられなかった。それは父が娘の親友たちをはじめ、キチイが好きでたまらなくなった新生活を、妙におもしろおかしくながめたことによって、ひとりでにキチイの胸に生れた問題が、なんとしても彼女には解けないからであった。この問題にはさらにペトロフ一家に対する彼女の態度の変化が加わってきた。この変化は、今ではまったく不快なものとなっていた。一座の人びとはみんな楽しそうであったが、キチイはどうしても愉快になることができなかった。それがまたさらに、彼女を苦しめるのだった。彼女はまるで、子供のときに罰として自分の部屋へ閉じこめられ、姉たちの楽しそうな笑い声を聞いたときのような気持を味わっていた。
「まあ、なんだってこうむやみやたらにお買いになりましたの?」公爵夫人は微笑を浮べて、コーヒーの茶碗を夫に渡しながら、いった。
「なに、ちょっと散歩に出かけて、小店に立ち寄ると、すぐにわしを『エルラウヒト・エクスツェレンツ・ドゥルヒラウヒト』とたてまつって、どうぞお買いあげください、とくるのさ。ところがこの『ドゥルヒラウヒト』を聞くと、わしはもう我慢ができなくなって、気のついたときには、もう十ターレルくらいは消えてしまってるのさ」
「それはただ退屈なさってるからですよ」公爵夫人はいった。
「そりゃ、退屈のせいだとも、まったく、その退屈さといったら、おまえ、どうにも身の置き場がないほどだよ」
「まあ、公爵さま、なぜ退屈なんてあそばすんでしょう? 今のドイツには、あんなにおもしろいことがたくさんございますのに」マリヤはいった。
「いや、わしもおもしろいことはなんでも知ってますよ。黒すもも入りのスープも知ってれば、えんどう入りのソーセージも知っておりますからな」
「しかし、公爵、なんといわれても、あの連中の施設には興味がありますな」大佐はいった。
「じゃ、いったい、なにがおもしろいんです? あの連中ときたら、みんな銅貨のように満足していますな、どいつもこいつも負かしたといって。じゃ、このわしは、いったい、なにに満足しろといわれるんです? わしはだれも負かしてはおらん。ただ自分で靴を脱いで、しかも、それを戸の外へ出しておかねばならん。朝になれば起きだして、すぐ着替えをすませ、サロンへまずいお茶を飲みに行かにゃならん始末ですからな。いや、国におればまるっきり別ですよ。朝だって悠々《ゆうゆう》と目をさまして、ちょっとなにかに腹を立てて、小言のひとつもいい、すっかり正気になってから、なにもかもとっくりと考えて、なにごとにもあわてずですよ」
「しかし、時は金なり、ですからな。あなたはそれを忘れていらっしゃる」大佐はいった。
「いや、時がなんです! たとえ五十コペイカでも喜んでくれてやりたい時もあれば、いくら金をつまれたって、三十分もいやだって時がありますからな。そうじゃないかい、キチイ? おまえ、そんなつまらない顔をして、どうしたんだね?」
「なんともありませんわ」
「おや、どこへ? もっとゆっくりしておいでなさい」公爵はワーレンカのほうへ振り向いた。
「あたくし、家へ帰らなくちゃなりませんの」ワーレンカは立ちあがりながらいって、また、ほ、ほ、ほ、と笑いだした。
やっと笑いがおさまると、彼女は暇《いとま》をつげ、帽子を取りに家の中へはいった。キチイはそのあとからついて行った。今はワーレンカさえも、別人のように思われてきた。それはべつに悪くなったわけではなかったが、キチイが前に想像していたのとは違ってきたのである。
「ああ、こんなに笑ったことは、もう長いことなかったわ!」ワーレンカは傘《かさ》や手さげ袋を集めながら、いった。「ほんとに、いい方ですわね、あなたのお父さまって!」
キチイは黙っていた。
「今度はいつお目にかかれまして?」ワーレンカはたずねた。
「ママは、ペトロフさんのお宅へ行きたがっておりますの。あそこにはいらっしゃいません?」
キチイは、ワーレンカをためすつもりで、こういった。
「うかがいますわ」ワーレンカは答えた。「あのお宅は、今帰りのおしたくをしていますから、荷造りのお手伝いをお約束しましたの」
「じゃ、あたしも行きますわ」
「いえ、あなたはよろしいのよ」
「なぜ? なぜですの? それはなぜですの?」キチイは目をいっぱいに見ひらきながら、ワーレンカを行かせまいと、そのパラソルに手をかけて、いった。「いえ、待ってちょうだい。それはなぜですの?」
「たいしたことじゃありませんわ、ただお父さまもお帰りになったことですし、それに、あなたのお手伝いじゃ、あちらも遠慮するでしょうからね」
「いいえ、おっしゃってちょうだい、なぜあたしが、ペトロフさんのところへしょっちゅう行くのはいけませんの? だって、あなたはそれをよくないと思ってらっしゃるんでしょう? なぜですの?」
「そんなことはいいませんでしたわ」ワーレンカは落ち着いて、いった。
「いいえ、お願いですから、教えてちょうだい!」
「じゃ、なにもかもいってしまいましょうか?」ワーレンカはきいた。
「ええ、なにもかも、すっかり!」キチイは答えた。
「いえ、べつになにも、とりたてていうほどのことではないんですのよ。ただミハイルさん(それが画家の名前であった)が、前は早く発ちたいといってらしたのに、今は発つのがいやだといってるんですよ」ワーレンカはほほえみながらいった。
「それで、それから?」キチイは顔をくもらせて、ワーレンカを見つめながら、せきたてた。
「それでね、どうしたわけか、奥さんが、あの人が発ちたがらないのは、あなたがここにいらっしゃるからだって、いったんですのよ。もちろん、それは見当ちがいなことですけど、でも、そのために、つまり、あなたのことからけんかが起ったんですの。あなたもご存じのとおり、ああいう病人は、じきいらいらしてきますのでね」
キチイは前よりいっそう顔をくもらせながら、黙りこくっていた。ワーレンカは、相手の気持を柔らげ、落ち着かせようと努めながら、ひとりでしゃべっていた。彼女はキチイが今にもわっと爆発するのではないかと気づいたからである。もっとも、それが涙になるか言葉になるか、見当はつかなかった。
「そういうわけで、あなたはいらっしゃらないほうがいいんですの……おわかりになるわね、気を悪くなさらないでね……」
「自業自得ですわ、自業自得ですわ!」キチイはワーレンカの手からパラソルを引ったくり、相手の目をまともに見ないで、早口にしゃべりだした。
ワーレンカは、相手の子供っぽいいきどおりを見て、微笑を浮べようとしたが、気を悪くされてはと思いとどまった。
「なにが自業自得なんですの? あたしにはわかりませんわ」彼女はいった。
「だって、あたしのしたことなんかなにもかも偽善だったからですわ。なにもかもみんな真心から出たんじゃなくて、考えだしたことだったからですわ。あたしにはよその人なんか、なんの用もなかったんですわ! 現に、そのために、あたしは夫婦げんかのもとにまでなってしまったんですわ。それというのも、あたしがだれにも頼まれもしないことをしたからですわ。なにもかも偽善だからですわ!偽善ですわ! 偽善ですわ!」
「でも、なんだってそんな偽善的なことをなさる必要があるんですの?」ワーレンカは静かにいった。
「まあ、なんてばかげているんでしょう、ほんとにいやらしいことですわ! だって、なんの必要もなかったんですもの……なにもかもみんな偽善ですわ!」キチイはパラソルを開いたり、つぼめたりしながらいった。
「でも、いったいどんな目的で?」
「みんなをだまして、他人の前で、自分の前で、神さまの前で、もっと自分をよく見せようとしたんですわ。いいえ、これからはもう、そんな気は起しませんわ! たとえ悪い人になっても、とにかく、うそつきだけにはなりませんわ!」
「まあ、だれがうそつきなんですの?」ワーレンカはなじるようにいった。「あなたのお話はまるで……」
しかし、キチイは激情の発作におそわれていた。彼女は相手にしまいまでいわせなかった。
「あたし、あなたのことをいってるんじゃありませんわ、けっしてあなたのことじゃありませんわ。あなたは完成された方ですもの。ええ、ええ、あなたは、完成された方だってことも、よく承知していますわ。でも、あたしがいけない人だからって、どうしようもありませんわ、そりゃ、あたしがいけない人でなかったら、こんなことにはならなかったでしょうよ。ですから、あたしはもう見せかけなんかよして、このままの人間でいることにしますわ。あたし、ペトロフさんの奥さんなんかに、なんにも関係ありませんわ! あの人たちはあの人たちで、好きなように暮せばいいんですよ。あたしはあたしの好きなようにするんですから。だって、あたしはもうほかの人間にはなれませんからね……なにもかもみんな見当ちがいですわ、見当ちがいですわ!……」
「でも、なにがそんなに見当ちがいなんですの?」ワーレンカは納得のいかぬ様子できいた。
「なにもかもですわ。あたしは自分の心の命ずるままにしか、生きられないんです。でも、あなたはちゃんと一つの主義に従って生活していらっしゃるんですわ。あたしはただ単純に、あなたが好きになってしまいましたけど、あなたのほうはきっと、ただあたしを救うために、あたしを教えるために愛してくだすったんですわ!」
「それは違いますわよ」ワーレンカはいった。
「いえ、あたしは人さまのことはなんにもいっておりませんわ、ただ自分のことをいってるだけですわ」
「キチイ!」母親の声が聞えた。「こっちへ来て、パパにあの珊《さん》瑚《ご》を見せておあげなさい」
キチイはきっとなって、親友と仲直りもしないで、テーブルの上から珊瑚の小箱をとると、母のほうへ歩いて行った。
「どうかしたの? そんなまっ赤な顔をして?」母と父は声をそろえていった。
「なんでもありませんわ」彼女は答えた。「すぐもどってまいりますわ」そういって、もと来たほうへ駆けもどった。《あの人まだその辺にいるわ!》彼女は考えた。《ああ、あの人になんていったらいいかしら? あたしは、なんてことをしたんだろう、なんてことをいってしまったんだろう! なんだって、あの人を傷つけるようなことをいったのかしら? どうしたらいいだろう? あの人になんといったらいいかしら?》キチイはそう考えながら、戸口のところで立ち止った。
ワーレンカは帽子をかぶり、傘を手にして、テーブルの前にすわったまま、キチイのこわした傘のばねをいじっていた。彼女はふと顔をあげた。
「ワーレンカ、許してちょうだい、どうか、許して!」キチイはそばへ寄りながら、ささやいた。「あたし自分でもなにをいったのか、もう覚えていませんの。あたし……」
「あたくし、ほんとに、あなたにいやな思いをさせたくなかったんですのに」ワーレンカは微笑を浮べながらいった。
和解は成立した。ところが、父親の帰宅とともに、キチイにとっては、今まで自分が暮してきた世界が一変してしまった。彼女は今度あらたに認識したいっさいのものを、否定はしなかったが、自分がなりたいと望んでいたものになれると思ったのは、一種の自己欺《ぎ》瞞《まん》であったと悟った。それはさながら、ふと目がさめたような気持であった。彼女は自分が達したいと願ったあの高みに、偽善や虚栄心のささえなしに踏みとどまることのひじょうなむずかしさを感じた。そのほか、彼女は、悲しみや、病気や、瀕《ひん》死《し》の人びとに満ちみちている、この自分の住んでいる世界の重苦しさをも感じた。彼女はその世界を愛そうとして、自分が必死に努力していることも、なにか耐えがたいものに思われてきて、一刻も早くさわやかな空気の中へ、ロシアへ、エルグショーヴォ村へ帰りたくなった。そこへは、もう姉のドリイが子供たちを連れて、移っているとの便りがあった。
しかし、ワーレンカに対するキチイの愛は衰えなかった。別れのとき、キチイは彼女に、ぜひロシアの自分の家をたずねてほしいと頼んだ。
「ご結婚なさるときには伺いますわ」ワーレンカは答えた。
「けっして結婚なんかしませんわ」
「まあ、それじゃ、あたくしもけっしてお伺いしませんわ」
「じゃ、あたし、ただそのためだけに結婚しますわ。よくって、この約束はけっして忘れないでくださいね!」キチイはいった。
医者の予言は適中した。キチイはすっかり元気になって、ロシアのわが家へ帰って来た。彼女は以前のようにのんきで、快活ではなくなったが、落ち着いてきた。モスクワでの悲しい出来事も、今はひとつの思い出となってしまっていた。
第三編
コズヌイシェフは、頭の疲れを休めたいと思って、いつものように外国へ行くかわりに、五月の未に、田舎《いなか》の義弟のところへやって来た。彼は、田園生活こそ最高の生活であると確信していた。彼は今この生活を楽しむために、弟のところへやって来たのであった。リョーヴィンはとても喜んだ。彼はもうこの夏は、兄のニコライが来そうもないと思っていた矢先だったので、その喜びはなおさらであった。ところが、リョーヴィンはコズヌイシェフを愛し、かつ尊敬していたにもかかわらず、この兄とふたりで田舎暮しをするのは、なんとなくばつが悪かった。つまり、この兄の農村に対する態度を見るのが、ばつが悪いというよりも、不愉快でさえあったからである。リョーヴィンにとっては、農村は生活の場、すなわち、喜びと、悲しみと、労働の場であった。ところが、コズヌイシェフにとっては、田舎暮しは、一方からいえば、労働のあとの休息であると同時に、いま一方からいえば、堕落を防ぐのに有効な解毒剤であって、彼自身もその効能を認めて、喜んで服用しているのであった。リョーヴィンにとって田舎が好ましかったのは、そこが疑いもなく、有益な労働の道場であったからであり、コズヌイシェフにとって田舎がとくに好ましかったのは、そこではなにもしないでいられるから、いや、なにもしてはならないからであった。そのほか、農民に対するコズヌイシェフの態度は、リョーヴィンにいささか不快な印象を与えた。コズヌイシェフは、自分は農民を愛しかつ理解していると称して、よく百姓を相手に話をした。彼の話術はなかなか巧みで、わざとらしいところや、ぶったところがなく、そうした話をするたびごとに、なにかしら農民の側に有利な一般的資料や、自分は農民を知っているという証拠を引きだすのであった。農民に対するこのような態度は、リョーヴィンの気に入らなかった。リョーヴィンにとっては、農民は共同の仕事にたずさわる重要な協力者でしかなかった。したがって、彼は百姓に対しては深い尊敬をいだいており、自分でもいっているとおり、おそらく百姓女の乳《う》母《ば》の乳といっしょに吸いこんだであろう一種の肉親的な愛情を感じていたので、彼自身も共同の仕事における協力者として、農民のもつ力や、温厚さや、高潔さに、時として有頂天になることもあった。しかし、それにもかかわらず、この共同の仕事においてもっと別な資質が要求される場合には、彼も農民ののんきさや、だらしなさや、のんだくれや、うそつきなどの悪癖に対して、憤慨することもまれではなかった。リョーヴィンは、もし農民を愛しているかときかれたら、それに対してなんと答えたらいいか、さっぱりわからなかったにちがいない。彼は、普通、すべての人に対してと同様、農民を愛すると同時に嫌《けん》悪《お》していた。もちろん、彼は善良な人間のつねとして、人をきらうよりも愛することのほうが多かった。これは農民の場合でも同様であった。しかし、彼は農民をなにか特別なものとして、愛したりきらったりすることは、できなかった。なぜなら、彼は農民とともに生活し、自分のすべての利害が農民に結びつけられていたばかりでなく、自分自身をも農民の一部と考え、自分自身と農民の中になにひとつ特別な美点や欠点を見いだすことなく、したがって、自分を農民と対立させて考えることができなかったからである。そのほか、彼は主人として、調停委員として、また何よりも相談相手として(百姓たちは彼を信頼しており、四十キロも遠いところから、彼のもとへ相談にやって来た)長いあいだ農民ときわめて親密な関係で生活してきながら、農民についてはなんらの定見をももっていなかった。したがって、農民を理解しているかという問いに対しても、農民を愛しているかときかれた場合と同様、その返答に窮したにちがいない。もし農民を理解しているといったら、それは彼にとって、人間を理解しているというのにひとしかった。彼はつね日ごろから、あらゆる種類の人間を観察し、少しずつ認識を新たにしていった。その中には百姓も含まれており、彼は百姓を善良な興味ある人間と考えていたので、彼らの中にたえず新しい特質を発見し、彼らに対する以前の考えを変更することによって、新たな意見を組み立てていった。ところが、コズヌイシェフはその反対であった。彼は自分の好まぬ生活との対照において、田園生活を愛しかつ賞讃《しょうさん》していたが、それとまったく同様に、彼は自分の好まぬ階級の人びととの対照において、農民を愛していたのであり、一般に普通の人間と相反したなにものかとして、農民を理解していたのであった。彼の方法論的なものの考え方の中には、農民生活というものの一定の形式が、ちゃんとつくりあげられていた。それは部分的に農民生活そのものから引きだされたものであったが、しかし、その大部分は、対照的なものの見方から生れたものであった。彼は農民についての意見も、農民に対する同情的態度も、ついぞ一度も変更したことはなかった。
ところが、このふたりの兄弟のあいだで、農民についての見解が生れる場合には、いつもコズヌイシェフが弟を負かすことになるのであった。というのは、コズヌイシェフはいつも農民について、その性格、資質、趣味などについて、ある一定の見解をもっていたのに対して、リョーヴィンには、そうした一定不変の見解というものがまったくなかったからである。したがって、論争となると、リョーヴィンは、いつも自己撞着《どうちゃく》を指摘されるのであった。
コズヌイシェフの目には、弟は、ちゃんと《・・・・》した《・・》(彼はフランス風にこんな表現をした)心情をそなえた、愛すべき好漢ではあったが、ただ知的な面では、頭が敏活に働くとはいうものの、その時々の印象に影響されやすく、そのために、矛盾撞着におちいっているように思われた。彼は兄としての寛大な気持から、ときには、弟に物事の意義を説明してやったが、弟と議論をすることには満足を覚えなかった。相手を負かすのが、あまりにも容易だったからである。
リョーヴィンは、この兄を卓越した知性と教養を備えた人物として、もっともすぐれた意味における高潔な人物として、また万人の福祉のために活動する能力を授けられた人物としてながめていた。しかし、その心の奥底では、自分が年をとって新しく兄という人物を知れば知るほど、ますます次のような考えが頭に浮んでくるのであった。すなわち、自分にまったく欠けていると思われるこの万人の福祉のために活動できる能力というものは、ひょっとすると、けっしてすぐれた資質ではなくて、かえって、なにかの欠如を意味するものなのではあるまいか。もっともそれはなにも善良で、正直で、潔白な願望や、趣味の欠如というのではなく、生命力の欠如とか、心情と呼ばれるものの欠如とか、人びとが自分の前に無数に開けている人生行路のうちからただ一つを選び、ただそれだけを希求するあの衝動の欠如とかいったものなのではなかろうか。彼は兄という人物を知るにしたがって、ますます次のような点に気づいていった。すなわち、コズヌイシェフにしても、また万人の福祉のために働く他の多くの活動家にしても、心の底からそうした万人の福祉のための仕事にひかれていったのではなく、そうした仕事に従事するのはよいことだと理性で判断したうえ、ただそのためにのみそうした仕事にたずさわっているのであった。なおそのほか、リョーヴィンは兄が万人の福祉とか、霊魂の不滅とかいう問題を、将棋の勝負や新しい機械の変った構造の問題以上には、身近なものに感じていないことを見てとり、ますますこの判断に確信をもつようになった。
このほか、リョーヴィンが田舎で兄と暮すのを気まずくさせていた理由が、もう一つあった。それは、田舎にいると、ことに夏場は、リョーヴィンはつねに農事に追われていて、必要ないっさいの仕事をなしとげるには、夏の長い日も足りないほどであるのに、コズヌイシェフはのんびりと休息していたからである。もっとも、彼は今のんびり休息していたが、つまり、著述の筆こそとっていなかったが、いつも知的な労働に慣れっこになっているので、頭に浮んでくる思想を美しく圧縮された形式で表現するのを好み、かつ、それをだれかに聞いてもらうのを喜んだ。ところで、こうした場合、彼にとってもっとも自然な、ふさわしい聞き手は、弟であった。したがって、ふたりの関係は、親しいざっくばらんなものであったにもかかわらず、リョーヴィンは兄をひとりぼっちにしておくのが、なんとなく気まずかった。コズヌイシェフは、日のあたる草の上にねそべったまま、日に照りつけられながら、のんびりとおしゃべりをするのが好きだった。「おまえにはとても信じられないだろうが」彼は弟に話しかけた。「こうした小ロシア風ののんびりした気分は、ぼくにとってこのうえもなく楽しいことなんだよ。頭の中には考えなんてなにひとつなくなって、玉でもころがしたいくらいからっぽだよ」
しかし、リョーヴィンにはその場にすわって、兄の話を聞いているのは退屈だった。とくに、彼は自分のいないあいだに、百姓たちが畝《うね》を切ってもいない畑へどんどん肥料を運んでしまい、監督していなければ、どんなやり方をするかもしれないことや、犁《すき》の歯をねじでよく留めもしないでおきながら、あとでこんな犁なんか愚にもつかない発明だ、アンドレエヴナ婆《ばあ》さんの犁のほうがずっとましだ、などといいだしかねないのを承知していたので、なおさらじっと落ち着いていられなかったのである。
「おまえも、こんな炎天を歩きまわるのは、もうたくさんじゃないか」コズヌイシェフは弟にいった。
「いや、ぼくはちょっと、事務所へ行って来るだけですよ」リョーヴィンは答え、畑のほうへ駆けだして行った。
六月の初めに、ばあや兼家政婦のアガーフィヤが、自分で漬《つ》けたばかりの茸《きのこ》の壺《つぼ》を、穴蔵へ運んで行く途中、足をすべらして倒れたひょうしに、手首の関節を脱臼《だっきゅう》させるという騒ぎが起きた。最近学校を出たばかりの、若い、おしゃべりの郡医がやって来た。医者はアガーフィヤの手を見て、これは脱臼ではないといい、湿布をした。そして、食事に残ると、どうやら有名なコズヌイシェフと話をする機会を喜んでいる様子で、自分の文化的なものの見方を示そうと、郡行政の乱脈ぶりを訴えながら、田舎らしい陰口をさんざんまくしたてた。コズヌイシェフは相手の話を注意ぶかく聞きながら、いろいろ質問したあげく、新しい聞き手ができたのに有頂天になり、すっかり熱をいれて弁じたてた。そして、いくつかなかなかうがった意見を述ベたところ、若い医師がうやうやしく感嘆したので、彼はリョーヴィンのよく知りぬいている、あの溌《はつ》剌《らつ》とした気分になった。医師が立ち去ると、彼は川へ釣りに行きたいといいだした。彼は魚釣りが好きだったが、それはまるで、こんなばかげたことが好きだということを、わざと自慢しているみたいであった。
リョーヴィンは耕地や草場へ、見まわりに行かなければならなかったので、兄を馬車に乗せて送って行こうと申し出た。
それはちょうど夏の峠で、今年の収穫はすでに決定し、もうそろそろ来年の播《ま》きつけのことを心配するときであり、草刈りも近づいていた。裸麦は一面に穂を出してはいたが、まだ十分実っておらず、灰色がかった緑色をして、風に揺られていた。青々とした燕麦《えんばく》は、ところどころに黄色い草の株をまじえながら、遅《おそ》蒔《ま》きの畑に、ふぞろいに頭を出していた。早蒔きのそば《・・》はもう葉を出して、地面をおおっていた。家畜に踏まれて石のように固くなっていた休田も、鋤《すき》の歯のたたぬ道だけを残して、半分ほど鋤き返されていた。畑へ運び出された肥料は日にかわいて、蜜《みつ》のような草のかおりとともに、夕日ににおい、窪《くぼ》地《ち》では大事な草場が、ところどころ抜かれたすかんぽの黒い茎を見せて、今にも鎌《かま》で刈られるのを待ちながら、はてしない海のようにひろがっていた。
それは野《の》良《ら》仕事において、毎年繰り返され、毎年百姓の全力を出させる収穫《とりいれ》を控えて、短い休息が訪れるときであった。収穫は上々だった。そして、明るく晴れわたった暑い夏の日と、露っぽい短い夜がつづいていた。
兄弟は草場へ行くのに、森を抜けて馬車を進めなければならなかった。コズヌイシェフは、こんもりと茂った森の美しさにたえず見とれながら、陰のほうを黒く見せて黄色い托《たく》葉《よう》がまだらになっている、もう花を開くばかりの菩《ぼ》提《だい》樹《じゅ》の古木や、エメラルドのように輝く今年のひこばえなどを、弟に指さして見せるのだった。ところが、リョーヴィンは自然の美しさをみずから語るのも、人から聞かされるのも、好まなかった。彼にいわせると、言葉などというものは、自分がこの目で見たものから美しさをはぎ取るばかりであった。彼は兄の話に相槌《あいづち》をうちながらも、心ならずもほかのことを考えはじめた。ふたりが森から出たとき、彼の注意は、丘の上の休田のながめにひきつけられた。その休田はところどころ草におおわれて黄色くなったり、路み固められたまま格《こう》子《し》形《がた》に区切られたり、肥料が方々に山と積まれたり、すでに耕されたりしているところがあった。野《の》面《づら》には荷車が列をなして動いていた。リョーヴィンは車の数を数えて、必要なだけのものが運ばれているのに満足した。彼は草場を見わたしたとき、草刈りの問題へ移っていった。彼はいつも牧草の収穫のときには、なにか特別心ひかれるものを感じた。草場へ馬車を乗り入れると、リョーヴィンは馬を止めた。
朝露は、厚く茂った草の根もとにまだ残っていたので、コズヌイシェフは足をぬらさないために、川鱸《かわすずき》のとれる楊《やなぎ》の茂みのところまで、草場の中を馬車に乗せて行ってくれと頼んだ。リョーヴィンにとっては、牧草を踏み荒すのは、とても我慢ならなかったが、草場の中へ馬車を入れた。丈《たけ》の高い牧草は、車輪や馬の足にからみつき、ぬれた輻《や》や轂《こしき》にその種子をくっつけるのだった。
兄は釣り道具を整えて、茂みの陰に、腰をおろした。リョーヴィンは馬をひきもどして、立ち木につなぎ、風にそよとも動かぬ草場の、灰色がかった緑の海へはいって行った。熟しはじめた種子をつけた絹のような牧草は、窪地のところでは、ほとんど腰のあたりまであった。
リョーヴィンは草場を横ぎって街道へ出ると、蜜蜂籠《みつばちかご》をかついだ、片目のはれた老人に出会った。
「どうだね? とれたかい、フォミッチ?」彼はきいた。
「どうしてとれるもんですかい。リョーヴィンのだんな! 自分のを逃がさねえようにするのが、やっとでさあ。もう二度も逃げられやしたが、ありがてえことに、若い衆が追っかけてくれやしたよ。だんなのとこの畑を起してたもんで、馬を車から放して、すぐ追っかけてくれたんでさあ……」
「そりゃそうと、フォミッチ、どうしたもんかね、――草刈りをしたものか、それとももう少し待ってみるか?」
「さようでごぜえますな! てめえどものほうでは、ペテロ祭まで待ちますが。でもだんなはいつも早めにお刈りなせえますな。なあに、神さまのおぼしめしで、ええ草が取れますだよ。牛や馬もたっぷり食べられますだよ」
「じゃ、天気ぐあいはどうかね?」
「そりや、神さまのおぼしめししだいでごぜえますよ。きっと、ええ天気になりますとも」
リョーヴィンは兄のそばへ近づいて行った。
獲物は一尾もなかったが、コズヌイシェフは退屈するどころか、きわめて上きげんらしかった。リョーヴィンは、兄が例の医師との会話に刺激されて、まだしゃべりたそうなのを、見てとった。ところが、リョーヴィンはその反対で、一刻も早くわが家へ帰って、あすの草刈り人夫を集める手配をし、とても気になっている干し草刈りの問題を解決したかったのである。
「どうです、もう帰りませんか?」彼はいった。
「どこへそう急ぐんだい? まあ、ちょっとすわれよ。それにしても、おまえはひどくぬれちまったね! 獲物はなくてもいい気分だよ。猟というやつはどれもこれも、自然が相手だからいいなあ。おい、どうだい、あの鋼《はがね》色《いろ》の水の美しさときたら!」彼はいった。
「こういう草場の川岸は」彼は言葉をつづけた。「いつも、ある謎《なぞ》のような文句を思いださせるよ、――知ってるかい? 草が水に、おれたちは揺れている、揺れている、なんていってるのを」
「ぼくはそんな謎は知りませんね」リョーヴィンは気のない返事をした。
「いや、じつは、私はおまえのことを考えていたのさ」コズヌイシェフはいった。「あの医者の話したところじゃ、おまえの郡でやってることは、まったく、ひどいものらしいね。あの男はどうしてなかなか話せるやつじゃないか。いや、これは前にもいったことだし、今またいうんだが、おまえが地方自治会へ顔を出さないのは、いや、一般に地方自治会の仕事から手をひいてしまったのは、よくないことだね。しっかりした人物が手をひいたら、なにもかもめちゃめちゃになるのに、きまってるからね。こちらがいくら税金を払っても、ただ俸給にまわるばかりで、学校もなけりゃ、医者見習もいない、産婆もいなけりゃ、薬屋もない、いや、まったくなにひとつないじゃないか」
「ぼくだってやってはみたんですよ」リョーヴィンは小さな声で、気のない返事をした。「でも、どうにもならないんです! しかたがないじゃありませんか!」
「じゃ、いったい、なにがどうにもならないんだね! 正直なところ、私にはわからないね。無関心とか、無能とかいうことは、認めるわけにいかないね。まさか、ただ面倒くさいってわけじゃないだろうね?」
「それもこれもみんな違いますよ。なにしろ、ぼくだってやってみたうえで、これじゃどうにもならないってことを見きわめたんですからね」リョーヴィンはいった。
彼は兄の話を、あまり身を入れて聞いていなかった。彼は川向うの耕地に目をこらして、そこになにか黒いものを認めたが、はたしてそれが馬か、馬に乗った支配人か、見当がつかなかった。
「なんだっておまえはなにもできないんだろうね? 一度だけやってみて、もうだめだとひとりぎめしたまま、降参しちまったってわけなんだろ。それでも自尊心をもってるのかね?」
「自尊心ですって?」リョーヴィンは、兄の言葉にいささかむっとして、いった。「わかりませんね。そりゃ、大学で、ほかのものは積分計算ができるのに、きみだけはわからないのかといわれりゃ、自尊心だって傷つけられますよ。でも、この場合は、なによりもまず、そういう仕事には一定の能力が必要であり、またそうした仕事はすべてひじょうに重大なものだという、信念をもっていなくちゃなりませんからね」
「それじゃ、なにかい、これは重大なことでない、というわけかい?」コズヌイシェフは、いささかむっとしていった。それは、自分の関心をひいていることを、弟が重大ではないとし、しかもそのうえ、弟がどうやら自分の話にほとんど耳をかしていないらしいからであった。
「とにかく、ぼくには重大なこととは思われませんね。どうにも本気になれないんですよ、しかたがないじゃありませんか」リョーヴィンは自分の見つけたものが支配人であり、その支配人は、どうやら、耕地から百姓を帰すところらしいのを見分けて、こう答えた。百姓たちはみんな鋤を上向きに引っくり返していた。《もう鋤きあげてしまったのだろうか》彼は考えた。
「しかし、まあ、聞けよ」兄はその聡明《そうめい》そうな美しい顔をくもらせて、いった。「ものにはなにごとによらず限度というものがあるんだよ。たとえ変り者でも、誠実な人間として、虚偽を憎むことは、そりゃ、大いにけっこうなことだよ――私だってそんなことはよくわかっているさ。しかし、おまえの意見は、もし無意味でなければ、きわめて危険な意味をもっていることになるんだ。いったい、なぜおまえはそれが重大ではないなんて、平気でいえるんだろうね、おまえは自分でも力説している、心から愛している百姓たちが……」
《おれはけっして力説した覚えはないが》リョーヴィンは心の中で考えた。
「……救いの手をさしのべられずに、死んでゆくのに? 無知な取りあげ婆さんは生れてくる赤ん坊を殺しているし、百姓たちはいつまでも暗愚の中に暮して、どこかそこらの書記どもにあごで使われているじゃないか。それなのに、おまえは彼らを助ける手段をもっていながら、少しも助けてやろうとしない。なぜかというと、おまえの言いぐさでは、それが重大ではないからなんだ」
そういって、コズヌイシェフは弟のジレンマを指摘した。すなわち、おまえは、精神的発達が遅れているために、自分のできることを悟れないのか、それとも、なぜかわからないが、自分の平安と虚栄心を犠牲にしてまでそれをしようとしないのか、そのどちらかだときめつけたのである。
リョーヴィンはもう今となってはいさぎよくかぶとを脱いで、公共事業に対する自分の熱意の不足を認めるよりほかはないと感じた。そして、そう考えると、彼は侮辱を感じ、悲しくなった。
「それもこれも」彼はきっぱりといった。「ぼくの見るところでは、ありうることとは思えませんが……」
「どうして? 金をうまく配分して、農民に医療救助の手をさしのべることができないんだって?」
「できませんね、ぼくの見るところでは。なにしろ、うちの郡は四千方キロもあって、雪解けの水が出たり、雪あらしが吹きつのったり、農繁期というやつもありますからね。すみからすみまでくまなく医療救助の手をさしのベるなんてことは、とてもできるとは思えませんね。それに、だいたい、ぼくはあまり医学の力を信用していないんですよ」
「いや、待ってくれ、それはまちがっているよ……私はその証拠を、何千でもあげることができるよ……それじゃ、学校は?」
「なぜ学校がいるんです?」
「なんてことをいうのだ! 教育の効果に疑いがあるというのかい? もし教育がおまえのためになったとすれば、ほかのだれにだって同じことじゃないか」
リョーヴィンは、自分が精神的に壁ぎわへ押しつめられたような気がした。そのためにかっと逆上して、思わずわれを忘れて、自分が公共事業に対して無関心でいるおもな原因を、白状してしまった。
「たぶん、そうしたことはみんなけっこうなことかもしれません。しかし、なんだってぼくは自分が一度も利用しない診療所や、自分の子供をやるわけでもない、いや、百姓だって子供をやりたがらない学校のことを心配しなくちゃならないんです。それに、ぼくは子供たちを学校へやらなくちゃいかんなんて、まだ確信をもっていえないんですからね」彼はいった。
コズヌイシェフはこの意外なものの見方に、一瞬、とまどった形だった。しかし、すぐさま新しい攻撃をかけてきた。
彼はしばらく口をつぐんで、一本の竿《さお》を引きあげ、それを入れなおしてから、微笑を浮べながら、弟に話しかけた。
「まあ、待てよ……第一に、さっきも診療所が必要になったじゃないか。アガーフィヤのために、郡医を呼びにやったじゃないか」
「なあに、あの手なんか、曲ったまま、なおりゃしませんよ」
「そりゃ、まだ疑問だよ……それから、百姓や人夫だって、読み書きのできるほうがおまえにとっても必要で便利じゃないかね」
「いや、だれにきいてもらってもわかりますがね」リョーヴィンはきっぱりした調子で答えた。「人夫として、読み書きのできるなんてことは、かえって困りものですよ。道路ひとつなおせなければ、橋なんか架けても、すぐなにかしら盗んで行ってしまうんですからね」
「それにしてもだね」コズヌイシェフは相手の矛盾だらけの議論に眉《まゆ》をひそめていった。彼は議論の相手がたえずあれからこれへと飛躍して、なんの脈絡もなく、新しい論拠を引き出し、こちらがなんと返答すべきかわからなくなるのをきらっていた。「それにしてもだね、問題はそんなとこにあるんじゃない。それじゃ、おまえは教育が民衆にとって幸福だということを認めるかね?」
「認めますよ」リョーヴィンはうっかり口をすべらしてから、すぐこれは心にもないことをいってしまった、と気づいた。もしそれを承認することになれば、今自分のいったことは、なんの意味もないたわ言だと証明されるだろう、と感じた。それがどんなふうに証明されるかはわからなかったが、かならず論理的に証明されるにちがいないと思ったので、相手の証明を待っていた。
その論証は、リョーヴィンの予期したよりも、ずっと簡単なものであった。
「もしそれを幸福だと認めるなら」コズヌイシェフはいった。「おまえは誠実な人間として、そういう仕事を愛さないわけにはいかないし、そうしたことに共感しないわけにもいくまい。したがって、そのために努力を惜しんではならないはずだよ」
「でも、ぼくはまだその仕事をいいこととは認めていませんからね」リョーヴィンは顔を上気させながら、いった。
「どうして? だって今そういったじゃないか……」
「いや、つまり、ぼくはそれをよいことだとも、できうることだとも認めてはいないんですから」
「努力もしてみないで、そんなことがわかるはずないさ」
「じゃ、かりに」そんなことを仮定する気はさらになかったのに、リョーヴィンはそう口をすべらした。「まあ、かりにそうとしておきましょう。しかし、それにしても、いったい、なんのためにぼくがそんなことまで心配しなくちゃならないのか、てんで納得できませんね」
「というのは、どういうことかね?」
「いや、もう議論がここまできた以上、ひとつ哲学的な面から説明してくださいよ」リョーヴィンはいった。
「こんな問題になぜ哲学が必要なのか、さっぱりわからんね」コズヌイシェフはいったが、その口ぶりは、おまえなんかに哲学を論じる権利はない、とでもいうようにリョーヴィンには受けとれた。そして、このことがまたリョーヴィンの気持をいらだたせた。
「それはこうなんですよ!」彼はかっとなって、しゃべりだした。「ぼくの考えでは、われわれの行為の原動力となるものは、やっぱり、個人的な幸福というものです。現在、ぼくはひとりの貴族として、地方自治会に、ぼくの幸福を増進してくれるようなものを、なにひとつ見いだすことができないんですからね。道路はちっともよくなりませんし、いや、よくなるはずがないんです。ですから、ぼくの馬は悪い道だってちゃんと引いていきますよ。医者も診療所もぼくには必要じゃありません。治安判事もいりませんね、――そんなところへは相談に行ったこともないし、これからだってけっして行きませんからね。学生だってぼくに不要であるばかりか、さっきもお話ししたとおり、かえって有害なくらいですよ。地方自治制度なるものはぼくにとっては、ただ一ヘクタールについて十八コペイカの税を取られたり、町へ出かけて行って、南《ナン》京虫《キンむし》だらけの宿屋に泊ったり、ありとあらゆるばかげたことや、けがらわしいことを聞かされたりする義務を意味するだけで、ぼくの個人的な利害などとはまるっきり関係がないんですからね」
「ま、待ってくれ」コズヌイシェフは、微笑を浮べながらさえぎった。「われわれはなにも個人的な利害から農奴解放をやったわけじゃないが、それでも努力してきたんだからね」
「いいえ、違いますよ!」リョーヴィンはますます興奮しながら、相手をさえぎった。「農奴解放は別問題ですよ。あれには個人的な利害があったのです。あれはわれわれ善良な人間を圧迫していた軛《くびき》を、自分から振り落そうとしたのですからね。しかし、地方自治会の議員になって、自分が住んでもいない町に、便所のくみ取り人夫が何人いるとか、鉄管の敷設をどうしたらいいとかなんて評議したり、陪審員になって、ハムを盗んだ百姓の裁判に出て、弁護人や検事のこねまわすたわ言を、六時間も聞かされたりしてはね。先日も裁判長が、ぼくの村のばかのアリョーシカという爺《じい》さんに、『被告はハムを盗んだ事実を認めるか?』なんてきくと、爺さんが『なんだねえ?』と答える始末ですからね」
リョーヴィンはもう横道へそれてしまって、裁判長やばかのアリョーシカのまねをはじめた。彼にはそうしたことも問題と関係があるように思われたのであった。
しかし、コズヌイシェフは、ひょいと肩をすくめた。
「それで、おまえはいったいなにがいいたいんだね?」
「ぼくがひと言いいたいのはですね、ぼくはいつだって、自分に……自分の利害に関係のある権利なら、全力をつくして擁護しますよ。ぼくがまだ大学生だったころ、憲兵の捜索を受けて、手紙まで読まれたことがありましたが、ぼくはそういう権利、つまり、教育や自由の権利は、全力を尽して擁護するつもりですよ。また、ぼくは自分の子供や兄弟や、それから自分自身の運命にも深い関係のある兵役の義務については、承知していますよ。自分に関係のあることなら、すすんで評議しますよ。しかし、四万ルーブルという自治会の金をどう割り当てるかとか、ばかのアリョーシカの裁判とかについては、なんにもわかりませんし、わかるはずもありませんよ」
リョーヴィンは、まるで言葉の堤でも切れたように、とうとうと弁じたてた。コズヌイシェフはにやりと笑った。
「それじゃ、あすにもおまえが裁判にかかるとしたら、従来の刑事裁判所で裁《さば》かれたほうがいいとでもいうのかね?」
「ぼくが裁かれるなんてことはありませんよ、ぼくはだれも殺したりしませんから、そんな必要はありませんよ。いや、まったくの話!」彼はまたもや、当面の問題とはなんの関係もない議論に飛躍しながら、言葉をつづけた。「われわれの地方自治制度なんてものは、聖霊降臨祭の日に、森に似せようとして地面にさすあの白樺《しらかば》みたいなものですよ。しかも、この森は、ヨーロッパでは自然に育ったものですからね。ぼくはそんなおまじないの白樺なんかを信じて、水なんかかけてやる気にはなりませんよ」
コズヌイシェフは、ただちょっと肩をすくめて見せた。彼はそのしぐさでそんな白樺がいったいどこから、ふたりの議論の中へ飛びこんできたのか、という驚きを表わしたのだが、弟がそれでなにをいおうとしたかは、すぐに察してしまった。
「まあ、待ってくれ。そんなことをいいだしたら、議論もなにもできやしないじゃないか」彼はたしなめた。
ところが、リョーヴィンは自分でも認めている欠点、つまり、万人の福祉に対する自分の無関心を弁明したかったので、なおも言葉をつづけた。
「ぼくが考えるにはですね」リョーヴィンはいった。「たとえそれがどんな活動であっても、個人的な利害に基づいていなければ、強固なものにはなりえませんよ。これは普遍的な、哲学的な真理ですからね」彼は断固たる調子で、哲学的《・・・》という言葉を繰り返した。それはさながら、自分にもすべての人と同様、哲学について語る権利があることを、示そうとするかのようであった。
コズヌイシェフはもう一度にやりと笑った。《こいつにも、やはり、自分の性癖に都合のいいような一流の哲学があるんだな》彼は考えた。
「まあ、おまえは哲学なんか振りまわさないほうがいいね」彼はいった。「いかなる時代の哲学でも、そのおもな使命は、個人の利益と公共の利益のあいだに存在する、不可欠の関連を発見することにあるんだからね。しかし、そんなことは今の問題とは関係がないさ、今の問題に関係があるのは、おまえの使った比較を訂正することだからね。白樺はなにも地面にさされたものじゃなくて、あるものは植えたのだし、あるものは播《ま》いたのだ。だから、その取扱いには慎重を期さなくちゃいけないね。未来を有する国民とか、歴史的な国民とか呼ばれる資格のあるのは、自分たちの制度の中で、重要かつ有意義なものに対して鋭敏な感覚をもって、それらを尊重する国民だけなんだからね」
それからコズヌイシェフは、リョーヴィンには歯のたたぬ哲学的、歴史的領域へ問題を移し、彼の見解の誤りを徹底的に指摘した。
「いや、それがおまえの気に入らないという点については、失礼だが、それはわれわれロシア人のものぐさや地主気質《かたぎ》からきているのさ。でも、おまえのそれは一時的な迷いにすぎないから、きっと、じきに消滅するだろうがね」
リョーヴィンは黙りこくっていた。彼は自分が八方破れなのを感じたが、それと同時に、自分のいいたかったことが、兄には理解されなかったのを感じた。ただなぜ理解されなかったのかは、わからなかった。それは自分が、いいたいと思うことを、はっきり表現できなかったからだろうか? それとも、兄が理解しようとしなかった、いや、理解することができなかったからだろうか? しかし、彼はこの問題を深く考えてみようともせず、兄に反論もしないで、まるっきり別の、自分自身のことを考えはじめた。
コズヌイシェフは最後の釣竿を片づけ、馬を木から解いた。そしてふたりは家路についた。
リョーヴィンが兄と話しているあいだ、気にかかっていた彼個人の問題というのは、次のようなことであった。去年、あるとき草刈りに出かけて、支配人に腹を立てたとき、リョーヴィンは自分の気持をしずめる独特の方法として、百姓の手から大鎌《おおがま》を取って、みずから草刈りをはじめたのである。
彼はこの仕事がひどく気に入ったので、幾度か草刈りをやり、屋敷の前の草場を全部刈ってしまった。そして、今年は春の初めから、百姓たちといっしょに、毎日朝から晩まで草刈りをしようと、プランをたてていた。兄が到着してから、彼は草刈りをしたものかどうかと、迷っていた。兄を毎日朝から晩まで、ひとりにしておくのも気がとがめたし、そんなことをする自分を兄が笑いはしないか、という心配もあった。ところが、草場を通ってみて、あの草刈りの印象を思いだすと、彼はもう草刈りをすることをほとんどきめてしまった。兄を相手にいらだたしい議論をしたあとだったので、彼はまたこの計画を思いだしたのであった。
《とにかく肉体労働が必要なんだ。さもないと、おれの性格はすっかりだめになってしまう》彼はそう考え、たとえ兄や百姓たちの手前どんなにばつが悪くても、断じて草刈りをしなければならないと心にきめてしまった。
その夕方リョーヴィンは事務所へ行って、仕事の手配をし、あすいちばん広くていちばんいいカリン草場を刈るからといって、村々ヘ草刈り人夫を呼びにやった。
「それから、ぼくの大鎌を、チートのとこへ打ち直しにやって、あす持って来るようにいってくれ。ひょっとしたら、ぼくも自分で草刈りをするかもしれないから」彼は努めて平静をよそおいながら、いった。
支配人はにやりと笑っていった。
「かしこまりました」
その晩のお茶のときに、リョーヴィンはそれを兄にもいった。
「どうやら、天気もさだまったようですから」彼はいった。「あすから草刈りをはじめますよ」
「私もあの仕事は大好きだよ」コズヌイシェフはいった。
「ぼくはとっても好きなんですよ。それでときどき、自分でも百姓たちといっしょに、刈っているんです。あすも一日じゅう草刈りをするつもりですよ」
コズヌイシェフは顔を上げ、好奇心に富んだ表情で弟をながめた。
「というと、どんなふうに? 百姓といっしょに、朝から晩まで?」
「ええ、とても気持のいいもんですよ」リョーヴィンは答えた。
「そりゃ、肉体運動としてはすばらしいが、ただおまえがそれに耐えられるかな」コズヌイシェフは、少しも嘲笑《ちょうしょう》することなく、そうたずねた。
「もうやってみたことがあるんですよ。そりゃはじめは苦しいですが、じきに夢中になってしまいますよ。自分ではひけをとらないつもりですよ……」
「ほう、そうかね! じゃ、ひとつきくがね、百姓たちはそれをどう見ている? きっと、物好きなだんなだと笑うだろうね」
「いや、ぼくはそうは思いませんね。なにしろ、とても楽しくて、それに骨の折れる仕事ですから、そんなことを考えてる暇はありませんよ」
「でも、なんだっておまえは百姓たちといっしょに食事をするんだい? そんなところへラフィットや、七面鳥の焼き肉なんか届けさせるのは、ばつが悪いだろうに」
「なに、ぼくはみんなが休んでいるときに、家へ帰って食べますから」
翌朝、リョーヴィンはいつもより早めに起きた。しかし、農場のさしずで手間どったために、彼が草刈り場へ着いたときには、人夫たちはもう二列めを刈っていた。
まだ彼が丘の上にいるうちから、日陰になった、もう刈り取られた草場の一部が、眼下に望まれた。そこには灰色の列や草刈りをはじめた場所に、人夫たちの脱ぎ捨てた長上着《カフタン》の黒いかたまりが見えた。
彼が馬で近づくにしたがって、百姓たちが互いに間隔をとって、ひとりひとり長い列をなして、てんでに大鎌を振るっているのが見えてきた。百姓たちは長上着《カフタン》を着ているものもあれば、シャツ一枚のものもあった。彼が数えてみると、四十二人いた。
百姓たちは草場のでこぼこした裾《すそ》のほうを、ゆっくりと動いていた。そこは前に堰《せき》のあったところだった。リョーヴィンは、自分の村の百姓をいくたりか見つけた。そこには、背をかがめて鎌を振るっている、恐ろしく長い白のシャツを着たエルミール爺さんもいれば、もとリョーヴィンの御者をしていた若者のワーシカも、力いっぱい、一列一列、刈り取っていた。そこにはまた、草刈りではリョーヴィンの先生格にあたる、小がらでやせた百姓のチートもいた。チートは背中も曲げずに、まるで鎌を玩《がん》具《ぐ》のようにあつかいながら、みんなの先頭に立って、自分の持ち分を大幅に刈っていった。
リョーヴィンは馬からおりて、それを道ばたにつなぐと、チートといっしょになった。チートは茂みの中から、もう一梃《ちょう》の鎌を取り出して、彼に渡した。
「だんな、やっと来ましたよ。まるで剃刀《かみそり》みてえなもんでさ。これじゃ、ひとりでに刈れてしめえますよ」チートはにこにこしながら帽子をとって、鎌を渡しながら、いった。
リョーヴィンは鎌を受け取って、調子を見にかかった。自分の持ち分を刈り終えて、汗だらけになった草刈り人夫たちは、次々に道へ出て来て、大声で笑いながらだんなにあいさつした。みんなはリョーヴィンを見つめていたが、だれひとり口をきかなかった。そのうちにやっと、羊皮の短い上着を着た、ひげのないしわくちゃ顔の、背の高い老人が道へ出て来て、彼に話しかけた。
「ようがすね、だんな、いったん仕事にとっついたら、中途でやめちゃいけねえですよ」老人はいった。すると、人夫たちのあいだで忍び笑いが起ったのを、リョーヴィンは耳にした。
「中途でやめんようにがんばるよ」リョーヴィンはチートのうしろに立って、草刈りのはじまるのを待ちながら、答えた。
「ようがすね」老人は繰り返していった。
チートが場所をあけてくれたので、リョーヴィンはそのあとから刈っていった。そこは道ばただったので、草の丈《たけ》が低く、しかもリョーヴィンは長いこと草刈りをしなかったうえに、今は大勢の視線をあびて照れていたので、はじめのうちは力いっぱい鎌を振るったが、なかなかうまく刈れなかった。うしろのほうからさまざまな声が聞えてきた。
「柄のつけ方がよくねえな、取っ手が長すぎるだよ、ほれ、だんなはあんなにかがみこんでるじゃねえか」ひとりがいった。
「踵《かかと》のほうにもっと力を入れにゃ」いまひとりがいった。
「なあに、たいしたことはねえ、すぐに慣れちまうで」老人はつづけた。「そうれ、調子が出てきた……あんまり大幅に刈ると、くたびれるだよ……なにしろ、ご主人さまだで、てめえのために骨折っていなさるのはむりねえ話さ! あっ、ほれ、刈りのこしだあ! おらたちがあんなことしたら、よく背中をどやされたもんよ」
草はだんだんやわらかくなってきた。そこで、リョーヴィンはチートのいうことを聞きながらも、返事をしないで、できるだけじょうずに刈ろうと努めながら、そのあとについて行った。ふたりは百歩ばかり進んだ。チートは立ち止るどころか、少しの疲れも見せずに、どんどん刈り進んで行った。一方、リョーヴィンはとても最後までやれそうもない気がしてきて、恐ろしくなった。それほど彼は疲れはててしまった。
彼は、自分がもう最後の力をふりしぼって、鎌を振るっているような気がしたので、チートにちょっと休んでくれと頼むことにきめた。ところが、ちょうどそのとき、チートは自分から立ち止り、かがみこんで草をひと握りつかむと、鎌をふいて、研《と》ぎにかかった。リョーヴィンは腰を伸ばして、ほっと溜息《ためいき》をつくと、あたりを見まわした。彼のうしろにひとりの百姓がついて来ていたが、これもやはり疲れたとみえて、リョーヴィンのそばまで来ないうちに、さっさと立ち止って、鎌を研ぎはじめた。チートは自分のとリョーヴィンの鎌を研ぎあげ、ふたりはまた先へ進んで行った。
二回めも同じことであった。チートは立ち止りもしなければ、疲れた様子も見せずに、ひと振りごとに刈り進んで行った。リョーヴィンは遅れぬように努めながら、そのあとについて行ったが、だんだん苦しくなってきた。もうこれ以上力が出ないと感じた一瞬、ちょうどチートも歩みを止めて、研ぎにかかった。
こうして、ふたりは最初の一列を刈り終えた。リョーヴィンにはこの長い一列が、とりわけ骨が折れたように思われた。しかし、そのかわり、その一列を刈り終え、チートが大鎌を肩にかつぎ、ゆっくりした足どりで、自分の踵《かかと》の跡を踏んで後もどりし、リョーヴィンも自分の刈り跡づたいに引き返したときには、汗はあられのように顔を伝って流れ、鼻先からしずくとなってしたたり、背中は水を浴びたようにぐっしょりぬれていたが、彼はそれにもかかわらず、じつにさっぱりした気分であった。とりわけ、おれはもう最後までがんばれそうだという自信のついたことが、彼を一段と喜ばせた。
ただ、自分の刈り跡のかんばしくないことだけが、彼の満ちたりた気分をそこねた。《鎌を手先だけで使わずに、もっとからだ全体で刈っていこう》彼は、きちんとまっすぐに刈られたチートの列と、不規則に乱れている自分の刈り跡とを比べてみながら、そう考えた。
最初の一列は、リョーヴィンの気づいたところによると、チートが主人の力をためそうと思って、ことさら早く刈り進んだらしく、その距離も長かった。その次の列からは、もうだんだん楽になっていった。しかし、それでもリョーヴィンは、百姓たちに遅れないようにするためには、全力を傾けなければならなかった。
彼はいまや百姓たちに遅れないで、できるだけじょうずに仕事をやろうと、ほかのことはなにひとつ考えず、なにひとつ望まなかった。彼は、たださっさっと鳴る鎌の刃音を耳にし、先に立って、一歩一歩進むチートのしゃんとした姿と、刈り跡の半月状になった草と、自分の鎌の刃のまわりにゆっくり波を打って倒れていく草や、その先についた小花と、そこまで行けばひと休みできる、列の終りめとを見るばかりであった。
彼は仕事半ばに、それはなんで、どこから来るのかわからなかったが、焼けるように暑い汗ばんだ肩に、ふと、ひんやりする快い感触を覚えた。鎌を研いでもらっているあいだに、彼は空を仰いだ。重々しい雨雲が低くたれこめてきて、大粒の雨が落ちて来たのだった。百姓たちは、長上着《カフタン》のほうへ走って行って、それをひっかけるものもあれば、リョーヴィンと同じように快い冷気のもとに、うれしそうに両肩をすくめているものもいた。
それから、一列、一列と刈り進んで行った。長い列も、短い列もあり、いい草もあれば、悪い草もあった。リョーヴィンは、時間の観念をすっかりなくしてしまって、今は早いのか遅いのか、まったく見当がつかなかった。彼の労働にはいまや転機が訪れて、大きな喜びをもたらした。彼は仕事半ばに、ふと、自分がなにをしているのか忘れてしまって、ほっとした気分になり、そういうときに刈ったところは、ほとんどチートのと同じくらい、よくそろって、きれいだった。ところが、彼は自分のしていることを思いだして、もっとうまくやろうと努めはじめるや、たちまち、労働の苦痛をひしひしと身に感じて、その刈り跡もきたなくなるのであった。
またもう一列刈り終えて、彼が新しい列にかかろうとしたとき、チートは立ち止って、ひとりの老人のそばへ行き、なにやら小声でささやいた。ふたりはいっしょに太陽を仰いだ。《あのふたりはいったいなんの話をしてるんだろう、なぜチートは新しい列にかからないんだろう?》リョーヴィンは考えた。彼は百姓たちはもう四時間以上もぶっとおしに刈りつづけていたので、もう弁当にする時分だということには、気がつかなかったのである。
「弁当でごぜえますよ、だんな」老人はいった。
「え、もうそんな時分かい? じゃ、弁当にしよう」
リョーヴィンはチートに鎌を渡すと、パンをとりに長上着《カフタン》のおいてあるところへ行く百姓たちといっしょに、軽い雨のしぶきを浴びた刈り草が、幾列も幾列も連なっている広い野原を横ぎって、馬のいるほうへ行った。そのときはじめて、彼は天候を見誤って、雨が干し草をぬらしてしまったのに気がついた。
「干し草がだめになっちまうな」彼はいった。
「なあに、大丈夫でごぜえますよ、だんな、雨降りにゃ刈って、日和《ひより》にゃかきよせろ! っていっとりますだ」老人は答えた。
リョーヴィンは馬を解くと、コーヒーを飲みにわが家へ帰った。
コズヌイシェフは、たった今起きたところであった。リョーヴィンはコーヒーを飲むと、まだコズヌイシェフが着替えをして食堂へ出て来ないうちに、再び草刈りに出かけて行った。
食後は、リョーヴィンももう前の場所でなく、隣に来るように呼んでくれたひょうきんな爺さんと、去年の秋、女房をもらったばかりで、草刈りはこの夏がはじめての若い百姓とのあいだの列に加わった。
老人はからだをまっすぐにして、がに股《また》の足で大股に規則正しく進みながら、先頭に立って行った。彼は一見して、歩くときに手を振るぐらいにしか思われない一様に正確な動作で、まるで遊び半分のように、丈《たけ》の高い草をきちんきちんとそろえながら、刈り倒していった。さながらそれは、彼の仕《し》業《わざ》ではなく、ただ一梃《ちょう》の鋭利な鎌がひとりでに、みずみずしい草をさっさっと切っていくかのようであった。
リョーヴィンのうしろには、若者のミューシュカがつづいていた。新しい草をよじって髪をしばっている、その愛敬《あいきょう》のある若々しい顔は、いつも懸命の色を見せていた。そのくせ、人に見られるたびに、彼はすぐにっこり笑った。若者はつらいなどと白状するくらいなら、むしろ死んだほうがましだとでも思っているらしかった。
リョーヴィンはこのふたりのあいだに立って進んで行った。いちばん暑い盛りでも、草刈りはそれほど苦しいとは思われなかった。からだじゅうを流れる汗はすがすがしい感じで、背中や頭や袖をひじまでたくし上げた腕を照りつける太陽は、仕事に力と根気を与えてくれた。そして、自分のしていることを考えないでいられる、あの無意識状態の瞬間が、ますます多くなっていた。
鎌はひとりでに草を刈った。それは幸福な瞬間であった。しかし、それよりもっとうれしかったのは、草場のはしを流れる川のほとりまで来たとき、老人が、雨にぬれて厚く茂った草で鎌をふき、すがすがしい川水でその刃をすすぎ、ブリキ罐《かん》に水をくんで、リョーヴィンにふるまってくれたことであった。
「さあ、ひとつ、わしのクワスを飲んでくだせえ! え、ようがしょう?」老人は目くばせしながらいった。
実際、そのとおりで、リョーヴィンは今まで一度も、草の葉の浮いた、ブリキ罐の錆《さび》の味がする、この生ぬるい水ほどうまい飲料を、飲んだことはなかった。そして、このあとにはすぐまた、鎌を手にした例の幸福なそぞろ歩きがはじまるのだった。そのときには、流れる汗をぬぐうこともできれば、胸いっぱいに息を吸いこんだり、長々とつづく草刈り人夫たちの列や、まわりの森や畑の様子をながめることもできるのだった。
リョーヴィンは草刈りをつづけるにしたがって、ますますこの忘我の一瞬を感ずることが多くなった。そういうときには、もう手が鎌を振るうのではなく、むしろ鎌のほうが、自意識と生命にみちた肉体を引っぱっていき、まるで魔法にでもかかっているように、仕事のことなどまったく考えてもいないのに、仕事はひとりでに規則正しく、きちんきちんとできていくのであった。これこそこのうえなく幸福な瞬間であった。
ただつらかったのは、この無意識になされる運動をやめて、ものを考えなければならないときであった。それは地面が盛りあがっているところを刈ったり、雑草まじりのすかんぽを取り除いたりするときであった。老人はそれをいともたやすくやってのけた。土が盛りあがっているところへ来ると、老人は動作を変え、時には踵《かかと》で、時には鎌の先で両側から軽い打撃を加えて、そこをくずしていった。しかも、それをやりながら、たえず目の前に現われてくるものを、注意ぶかく観察していた。そして、時には野いちごをむしって食べたり、それをリョーヴィンにもふるまったり、時にはまた、鎌の先で小枝をほうりのけ、時には鎌のすぐ下から雌鳥《めんどり》の飛びたったあとの鶉《うずら》の巣をのぞきこみ、時には行く手に現われた小さな蛇《へび》をつかまえて、まるでフォークでさすように、それを鎌で高々と持ちあげ、リョーヴィンに見せてから、わきへ投げ捨てるのであった。
リョーヴィンにしても、そのあとにつづく若者にしても、このように動作を変えることはむずかしかった。ふたりとも、緊張した動作を繰り返すだけで、ほとんど仕事に精いっぱいだったから、動作を変えると同時に、目の前のものを観察する余裕などはなかった。
リョーヴィンは時間のたつのも気がつかなかった。もしだれかに何時間ぐらい刈ったかときかれたら、きっと、三十分ぐらいと答えたであろう。しかし、もう昼食の時間になっていた。老人は新しい列にかかりながら、四方八方からこちらへ集まって来る女の子や男の子たちに、リョーヴィンの注意を向けた。子供たちは丈《たけ》の高い草を分けて来るので、やっと見分けのつくものもいれば、道路づたいに来るものもいたが、みんなパンの包みや、ぼろきれで栓《せん》をしたクワスの瓶《びん》を、重そうに手にさげていた。
「ほれ、ごらんなせえ、ちび公どもがやって来ますだ」老人は子供たちを指さしていい、手をかざして太陽を仰いだ。
それからまた二列刈り終ると、老人は足を止めた。
「さあ、だんな、飯でがすよ」老人はきっぱりといった。そこで刈り手たちは、川のふちまで行き着くと、刈り草を踏み越えて、長上《カフタ》着《ン》のおいてあるほうへ行った。そこには、弁当を持って来た子供たちが、待ちかねてすわっていた。百姓たちはひとところに集まった。――遠いものは荷車の下に、近いものは刈り草のいっぱいかかっている楊《やなぎ》の木陰に。
リョーヴィンは彼らのそばに腰をおろした。そこを立ち去りたくなかったからである。
だんなに対する遠慮などは、もうとっくになくなっていた。百姓たちは食事のしたくにかかった。あるものは顔を洗い、若い連中は川へ飛びこみ、あるものは休む場所をこしらえて、パンのはいった袋をひらいたり、クワスの瓶の栓を抜いたりした。老人は、茶碗《ちゃわん》の中にパンを粉々にして入れ、それをさじでかきまぜ、ブリキ罐の水をついで、さらにまたパンを砕いて入れ、塩をふりかけたあと、東のほうへ向いてお祈りをはじめた。
「さあ、だんな、わしのパン汁をひとつ」老人は茶碗の前にひざをつきながら、いった。
パン汁があまりにうまかったので、リョーヴィンはわが家へ食事に帰るのをやめてしまった。彼は老人と食事をともにして、すっかり話しこんでしまった。彼は老人の家庭の事情を聞いて、親身に相談にのってやったり、老人に興味のありそうな自分の仕事や、家庭の事情などを話して聞かせた。彼は兄よりもむしろこの老人のほうに、身近な親しみを感じ、相手に対する自分の愛情に、思わず微笑を浮べるのであった。老人が再び立ちあがって、お祈りをささげ、すぐそばの楊の茂みへ横になって、まくら代りに草を頭の下に敷いたとき、リョーヴィンもそれにならった。そして、蠅《はえ》が日盛りをいいことに、うるさくまつわりついたり、小さな虫けらが汗ばんだ顔やからだをくすぐるのも平気で、たちまち、眠りに落ちてしまった。ようやく目がさめたときには、もう太陽は楊の茂みの反対側にまわって、彼のからだに光をあてていた。老人はとうに起きていて、若い者たちの鎌の刃をなおしてやっていた。
リョーヴィンはあたりを見まわしたが、そこがどこだか、ちょっと見当がつかなかった。それほどなにもかもが一変していた。見わたすかぎりの草場はすっかり刈りとられて、夕日の斜めな光線のもとに、はやくもかおりをたてはじめた刈り草は、一種特別な新しい光輝をおびて輝いているのだった。まわりの草を刈り取られた川岸の楊の茂みも、先ほどまでは見えなかったのに今は鋼色《はがねいろ》に輝いている川そのものも、動きまわったり起きあがったりしている百姓たちも、まだ刈られていない草場の境めに壁のように連なっている草も、裸にされた草場の上を舞っている大鷹《おおたか》も、こうしたものがなにもかもまったく新しい趣を呈していた。リョーヴィンはすっかりわれに返って、もうどれだけ刈ったか、これからまだどれだけできるかと、考えはじめた。
四十二人の仕事にしては、驚くほどはか《・・》がいっていた。農奴制時代の賦役の時分には、三十梃の鎌で二日かかった大きな草場を、もうあらかた刈り終っていた。まだ残っているのは、すみのほうの短い列だけであった。しかし、リョーヴィンは、きょうじゅうにできるだけたくさん刈りたかったので、あまりにも早く傾きかけた大陽がいまいましかった。彼は少しも疲労を感じていなかった。ただ少しでも早く、できるだけたくさん、仕事がしたくてうずうずしていた。
「どうだね、もう少し刈ったら、マーシュキン丘のほうも。おまえはどう思うね?」彼は老人に話しかけた。
「さあ、どうしたもんだかね。おてんとうさんももう高くはねえし。まあ、若えもんに酒《さか》手《て》でもはずんでくだせえましたら……」
またみんながすわりこんで、たばこなどをふかしはじめた昼休みに、老人は一同に向って、
「マーシュキン丘を刈ったら、酒手が出るとさ」と、ふれまわった。
「それじゃ、刈らねえでいられねえや! さあ、やろうぜ、チート! 威勢よくやっちまおうぜ! 晩飯は夜中になったってかまやしねえや! さあ、やろうぜ!」みんなは口々にいって、パンの残りをほおばると、仕事にかかった。
「さあ、みんな、しっかりやろうぜ!」チートはいって、ほとんど駆け足で先頭に立った。
「行った、行った!」老人はそのあとにつづき、なんなく追い着きながら、いった。「おめえらを刈り負かしちまうぞ! しっかりしろや!」
若い者も年寄りも、まるで競争のように刈って行った。しかし、いくら急いでも、草を台なしにするようなことはなかった。刈られた草の列は、相変らず規則正しく、きちんと並んでいた。片すみに残っていた一画は五分間で刈りつくされた。しんがりの者が自分の列をまだ刈り終らないうちに、先頭の連中は、もう長上着《カフタン》を肩にひっかけて、街道を横ぎり、マーシュキン丘へ向った。
一同がブリキ罐をがらがら鳴らしながら、マーシュキン丘の森の窪《くぼ》地《ち》へはいったときには、太陽はもう木々の梢《こずえ》に傾いていた。窪地のまん中あたりの草は、腰ほども丈があって、しなやかで柔らかく、葉も大きく、林のところどころには、継《まま》子《こ》菜《な》が色どりを添えていた。
縦に刈るか横に刈るかで、ちょっと相談してから、草刈りの名手で、浅黒い顔をした大男のプローホルが、先頭に立って刈りはじめた。彼は一列だけ先頭に立って刈ったあと、引き返してわきへよけた。そこで、一同もそれにつづいて、まず窪地づたいに丘を下って行き、それから丘の上の森のはしまで登った。太陽は森陰に隠れた。はやくも露がおりて、刈り手が日に照らされているのは丘の上だけで、水蒸気の立ちのぼっている下のほうや、向う側などでは、さわやかな露のおりた日陰の中を刈り進むのだった。仕事は調子づいてきた。
香ばしいにおいを放つ牧草は、みずみずしい音をたててなぎ倒されながら、高い列をなしていった。ブリキ罐をがらがら鳴らしたり、鎌をかち合せたりしながら、短い距離の草場に八方からひしめき集まって来た刈り手たちは、しゅっしゅっという砥《と》石《いし》の音をたてたり、陽気な叫び声をあげたりしながら、互いに競争しあっていた。
リョーヴィンはやはり例の若者と老人とのあいだに立っていた。短い羊皮のジャケツを着た老人は、相変らず陽気で、冗談ばかりいいながら、いとも軽々と刈っていた。森の中では、みずみずしい草におおわれて太った白《しら》樺茸《かばたけ》が、たえず鎌にかかって切り捨てられた。ところが、老人は茸《きのこ》を見つけると、いつもきまってかがみこんでそれを取りあげ、ふところに入れた。『また、婆さんにみやげができた』それが老人の口癖であった。
湿った柔らかい草を刈るのは、とても楽ではあったが、谷のけわしい斜面をのぼったりおりたりするのは、かなり苦しかった。しかし、老人はそれにもへこたれなかった。相変らずの調子で鎌を振るいながら、老人は大きな草鞋《わらじ》をはいた足を、しっかりと小《こ》股《また》に踏みながら、ゆっくりと急坂をよじのぼっていた。そして、からだを震わせながら、股引《ももひき》がシャツの下にずりおちても、行く手のひと株の草も一本の茸も見のがすことなく、例の調子で、百姓たちやリョーヴィンを相手に冗談をいっていた。リョーヴィンは老人のあとにつづいて行ったが、こんなけわしい坂は鎌なしでものぼるのは骨が折れるのに、まして鎌などを持っていたら、きっと、落ちるにちがいない、と幾度も観念した。しかし、それにもかかわらず、彼はそこをのぼりきって、きめられたことをちゃんとやりとげた。彼には、なにか外的な力が自分を動かしているように感じられた。
マーシュキン丘は刈りつくされた。一同は最後の幾列かを片づけてしまうと、長上着《カフタン》を着こんで、陽気そうに家路についた。リョーヴィンは馬に乗り、なごり惜しそうに百姓たちに別れを告げると、わが家へ馬を進めた。丘の上で、彼は一度振り返って見たが、低地から立ちのぼる霧のために、百姓たちの姿は見えなかった。ただ、にぎやかな、荒っぽい話し声と、大きな笑い声と、鎌のふれあう響きが聞えるばかりであった。
リョーヴィンが、乱れた髪を汗で額にべとつかせ、背中や胸を黒々とぬらしたまま、陽気に話しかけながら、兄の部屋へはいって行ったとき、コズヌイシェフはとうの昔に食事をすませて、自分の部屋でレモン入りの氷水を飲みながら、郵便局から届いたばかりの新聞や雑誌に目を通しているところだった。
「やあ、ぼくらは草場をすっかり刈りあげてしまいましたよ! ああ、じつに愉快ですね! ところで、兄さんはなにをしていたんです?」リョーヴィンは、きのうの不愉快な会話などけろりと忘れて、いった。
「おい、どうしたんだ! いったい、なんて格好だい!」コズヌイシェフは、とっさに、なにかむっとして弟をじろじろ見ながらいった。「おい、ドアを、ドアをしめてくれよ!」彼は叫んだ。
「きっと、すくなくとも十匹ぐらいははいったにちがいない」
コズヌイシェフはおそろしく蠅《はえ》がきらいだったので、自分の部屋の窓は夜しかあけず、ドアはまちがいなくしめるようにしていた。
「大丈夫ですよ、一匹もはいりゃしませんでしたから。はいってたら、ぼくがとってあげますよ。兄さんにはちょっと想像もできないでしょうね、あのすばらしい気分なんか! きょうは一日なにをしていたんです?」
「私も愉快だったよ。それにしても、ほんとに、いちんちじゅう草刈りをやってたのかい? それじゃ、狼《おおかみ》のように腹をへらしてるだろうな。クジマーが、すっかり食事のしたくをしておいたよ」
「いや、ぼくは食べたくないんです。向うで食事をしたんで。じゃ、ちょっと行って、からだを洗ってきますよ」
「ああ、早く、行ってきなさい。私もすぐおまえのところへ行くから」コズヌイシェフは首を振りふり、弟をながめながら、いった。「さあ、早く行っておいで!」彼は微笑を浮べながら、いい足すと、もう本を集めて、出かけるしたくをした。彼は急に自分まで愉快になって、弟と離れたくなくなったのである。「じゃ、雨のあいだはどこにいたんだね?」
「あれが雨だなんて! ちょっと、ぱらぱらっとしただけですよ。じゃ、すぐもどって来ますから。それじゃ、兄さんは愉快に一日を過されたんですね? そりゃ、けっこうです」そういって、リョーヴィンは着替えをしに出て行った。
五分後に、兄弟は食堂でいっしょになった。リョーヴィンは食べたくない様子だったが、クジマーの気を悪くさせないために、テーブルについた。ところが、食べだしてみると、食事はすごくうまいように思われた。コズヌイシェフはにこにこしながら、弟の様子をながめていた。
「あっ、そうだ。おまえに手紙がきているよ」彼はいった。「クジマー、すまんが、下から持って来てくれ。それから、忘れずに、ドアをちゃんとしめとくんだよ」
その手紙は、オブロンスキーからであった。リョーヴィンはそれを声をだして読んだ。オブロンスキーは、ペテルブルグから書いてよこしたのだった。
『ぼくはドリイから手紙を受け取った。あれは今エルグショーヴォにいるのだが、どうも、なにもかもうまくいってないらしい。頼むから、出かけて行って、あれの相談にのってくれないか。きみはなんでもよくわかっているのだから、あれもきみに会えたら、大喜びするだろう。かわいそうに、たったひとりぼっちでいるんだ。義母《はは》のほうはみんなといっしょに、まだ外国にいる』
「こりゃ、すばらしい! ぜひ、行ってこなくちゃ」リョーヴィンはいった。「なんなら、いっしょに行きませんか。とてもいいひとですよ。どうです?」
「そこはここからそう遠くないのかね?」
「三十キロばかり、いや、四十キロもあるかな。でも、いい道ですから、愉快な旅ができますよ」
「そりゃ、いいね」コズヌイシェフは相変らず、にこにこしながら、いった。
彼は弟の様子にすっかり圧倒されて、自分まで愉快な気分にさせられるのだった。
「いや、それにしても、すごい食欲じゃないか!」彼は弟が皿の上に突き出している赤銅《しゃくどう》色《いろ》に焼けた顔や、首筋をながめながら、いった。
「まったく、すばらしいもんですよ! 信じちゃくださらないかもしれませんが、くだらん考えをすっかり頭の中から追い出すのには、あれくらい有効な療法はありませんね。ぼくは Arbeitscur という新しい術語をつくって、医学に貢献しようかと思いますよ」
「でも、どうやら、おまえにはそんなものは必要なさそうだね」
「ええ、そりゃいろんな神経病患者用ですがね」
「うん、それは試みてみる必要があるな。いや、じつは私もおまえの様子を見に草刈り場へ行こうとしたんだが、あまりの暑さなので、森のところまでしか行かなかったよ。そこでひと休みして、森づたいに村へ行ったら、おまえの乳母《うば》に会ったので、百姓たちがおまえのことをどうながめているか、ちょっとさぐりを入れてみたがね。私の見たところでは、どうやら、みんなはおまえのああした行動には反対らしいね。乳母は『だんな衆のなさるお仕事じゃありません』といってたよ。一般的にいって、農民の観念の中には、いわゆる『だんな衆』の仕事というものについて、ある種の固定観念がちゃんとできているらしいね。だから、そうした観念で規定されている枠《わく》を、だんな方が踏みはずすのを、あの連中は許そうとしないんだね」
「そうかもしれませんね。でも、とにかく、あれはじつに愉快な仕事で、生れてこのかたあんな経験は一度もしたことがないほどですよ。それに、悪いことなんかなにもないでしょう。ね、そうじゃありませんか?」リョーヴィンは答えた。「たとえ、あの連中の気に入らないとしても、そりゃ、しかたがありませんよ。もっとも、ぼくはたいしたことないと思っていますがね。ねえ?」
「まあ、どうやら」コズヌイシェフはつづけた。「私の見たところでは、おまえはきょう一日に、満足してるらしいね」
「大いに、満足していますよ。なにしろ、ぼくらは草場を一つ、すっかり刈りあげたんですからね。それに、あるひとりの老人と友だちになりましてね! その老人がどんなにすばらしい人物か、兄さんにゃちょっと想像もつかないでしょうね」
「いや、とにかく、きょう一日に満足したんだね。私もご同様だよ。第一、私は将棋の問題を二つ解いたが、その一つはすごくおもしろいやつでね――歩《ふ》からはじめるやつでね。あとで教えてやるよ。それから、きのうの議論のことを考えてみたんだ」
「なんですか? きのうの議論って?」リョーヴィンはさも幸福そうに目を細めて、食後の溜息《ためいき》をつきながら、こういったが、きのうの議論というのはどんなことだったか、まったく思いだせなかった。
「今じゃ、おまえの説も部分的には正しいと思うようになったよ。われわれの意見の相違はだね、おまえが個人的な利害をいっさいの原動力と考えるのに対して、私は相当程度の教養のある人間なら、だれだって万人の福祉のための観念をもつべきだと考える、そこにあるわけだね。もっとも、おまえの説にも一理あるかもしれない。なにしろ、物質的な利害に根ざした活動のほうが、いっそう望ましいかもしれないからね。一般的にいって、おまえの気性は、フランス人の口にする prime-sauti俊e が強すぎるよ。おまえが望んでいるのは、激しい精力的な活動か、それとも無なんだから」
リョーヴィンは兄の話に耳を傾けていたが、まるっきりなにもわからなかったし、またわかろうとも欲しなかった。彼はただ兄になにか質問されて、自分がなにも聞いていなかったことが明らかになりはしないかと、それだけをたえず心配していた。
「いや、そうなんだよ」コズヌイシェフは、弟の肩に手をのせながらいった。
「もちろん、そうですとも。それにまた、ぼくはなにも自説を固持してなんかいませんよ」リョーヴィンは、子供っぽい、さもすまなさそうな微笑を浮べて、答えた。《それにしても、おれはいったいなんの議論をしたんだったっけ!》彼は考えた。《もちろん、おれも正しければ、兄も正しいのさ。それに、なにもかもうまくいってるんだ。ただちょっと事務所へ行って、手配をしてこなくちゃ》彼は伸びをして、にこにこ笑いながら、立ちあがった。
コズヌイシェフも同じように微笑した。
「おまえが行きたいんなら、私もいっしょに行くよ」彼はいった。彼は見るからに新鮮な気分と、若々しさを発散させている弟と、別れたくなかったのである。「さあ、出かけよう。おまえに用があるなら、事務所へも寄って行こう」
「あ、たいへんだ!」急にリョーヴィンは、コズヌイシェフがびっくりするほど、大声で叫んだ。
「どうしたんだい、おまえ?」
「アガーフィヤの手はどうなったかな?」リョーヴィンは自分の頭を自分でたたきながら、いった。「あの人のことをすっかり忘れていましたよ」
「とってもよくなったよ」
「それにしても、ちょっと、見て来よう。兄さんが帽子をかぶるあいだに、もどって来ますよ」
そういうと、彼は玩具《おもちゃ》のがらがらのように靴の踵《かかと》を鳴らしながら、階段を駆けおりて行った。
役所に勤めていない者にはちょっと理解できないが、勤めている者にとってはごく自然な、それがなくては役所勤めができぬほど重要な義務、つまり、自分のことを忘れられないために本省へ顔出しする義務を果すために、オブロンスキーがペテルブルグへ出かけて行き、その義務を遂行するために、家から有り金をほとんど持ちだし、競馬や別荘でおもしろおかしく日を過していたとき、ドリイはできるだけ経費を節約するために、子供たちを連れて田舎《いなか》へひっこんだ。引き移った先というのは、ドリイの持参した財産の一部であるエルグショーヴォ村だった。そこはこの春、森が売られたところで、リョーヴィンのポクローフスコエ村からは、五十キロ離れていた。
エルグショーヴォにあった大きな古い屋敷は、とうの昔に取りこわされて、今はただ一軒の離れが、公爵の手で修繕され、建て増しされていた。この離れは、離れの常として、並木道にも、南にも面していなかったが、二十年ばかり前、ドリイがまだ子供だった時分には、広々していて、住み心地がよかった。ところが、今ではこの離れも古びて、荒れはてていた。この春、オブロンスキーが森を売りに行ったとき、ドリイは夫によく家を見て、必要な修繕をさせるように頼んでおいた。オブロンスキーは、自分で悪いことをした夫の例にもれず、妻の便宜をはかることに懸命だったので、みずから家を点検してから、必要と認められたことをすっかり処理して来た。彼が必要と認めたことは、全部の家具を更《さら》紗《さ》で張りかえ、窓にカーテンをかけ、庭をきれいにし、池に小さな橋をかけ、花を植えることであった。ところが、彼はそのほか肝心なことをたくさん忘れていたので、そうした不備が、あとでドリイを悩ますことになったのである。
オブロンスキーは、自分がよく気のつく父親や夫になりたいといくら努めていても、どうしても自分は妻子のある人間だということを、自覚することはできなかった。彼には独身者の趣味があって、なにごともそれを標準にして行動していた。モスクワへ帰ると、彼はさも得意げに妻に向って、すっかり用意はできた、家はまるで玩具のようにかわいいから、ぜひ行くようにと、勧めた。オブロンスキーにとっては、妻の田舎行きはすべての点で、大いに好都合だった。子供たちの健康にもいいし、経費も節約できるし、自分も前より自由がきくというわけである。ドリイにしても、夏のあいだ田舎へ行くのは子供のために、ことに猩紅熱《しょこうねつ》のあとがはかばかしくない女の子のために、必要であるばかりでなく、いまや苦痛の種となっている薪《まき》屋《や》、魚屋、靴屋などのこまごました借金や、それにともなうつまらない屈辱感からのがれるためにも、必要なことであると考えていた。なおそのうえ、この田舎行きがうれしく思われたのは、妹のキチイを村のほうへ呼びよせようと、空想していたからである。当のキチイは夏の半ばに外国から帰って来るはずであったし、かねて医者から水浴を勧められていたからである。キチイは温泉場から姉のもとへ手紙で、あたしたちふたりにとって、幼いころの思い出に満ちているエルグショーヴォで、お姉さまとごいっしょにひと夏をおくれるなんて、ほんとにうれしいことですわ、と書いてよこした。
田園生活もはじめのうちはドリイにとって、ひどくつらいものであった。ドリイは子供のころ、この村で暮したことがあるので、田舎はありとあらゆる都会生活の不愉快さからの救いであり、田舎の生活は優美でこそないが(この点ではドリイもすぐあきらめがついた)、そのかわり安価で便利であり、物はなんでもあって、なんでも安く、なんでも手に入れることができ、子供たちの健康にもいい、といった印象が残っていた。ところが、今主婦として田舎へやって来てみると、そのいっさいがまるで予想と違っているのに気づいた。
着いた翌日、ものすごい夕立が降って、夜中に廊下と子供部屋に雨もりがしはじめたので、寝台を客間へ移さなければならなかった。女中部屋には料理女がいなかったし、雌《め》牛《うし》は九頭もおりながら、家畜番の女の説明によると、あるものは孕《はら》んでいたり、あるものはまだ子牛だったり、あるものは年をとりすぎていたり、またあるものは乳の出が悪くなったりで、バターもなければ、子供たちに飲ます牛乳さえ足りない始末であった。卵もなかった。鶏も手に入れることができなかった。焼いたり煮たりするのは、いつも紫色に変った、筋だらけの、雄鶏《おんどり》だけであった。床をふくのに百姓女を雇おうと思っても、みんなじゃがいも掘りに行って間にあわなかった。馬車に乗ることもできなかった。一頭きりの馬が強情で、轅《ながえ》につけるとあばれだす始末であった。水浴びする場所もなかった。川岸がすっかり家畜に踏み荒されて、街道からまる見えなのである。いや、それどころか、ちょっと庭先を散歩することもできなかった。こわれた垣根から家畜が庭へはいりこむからであった。その中には恐ろしい雄牛も一匹まじっていたが、ものすごくうなるところからみると、どうやら、角で突くやつにちがいなかった。洋服だんすもなかった。いや、ひとつふたつあるにはあったが、戸がよくしまらず、そばを通ると、ひとりでにあくというしろものであった。鉄鍋《てつなべ》も土壺《つちつぼ》もなかった。洗濯用の大鍋もなければ、女中部屋にはアイロン台さえなかった。
安静と休息のかわりに、こんな恐ろしい、彼女にいわせれば、災難にぶつかったので、はじめのうちは、ドリイも絶望におちいってしまった。彼女は一生懸命やきもきしてみたが、その状態がどうにもならないことを痛感して、たえず目ににじみでてくる涙をおさえていた。美しく上品な風采《ふうさい》のためにオブロンスキーに気に入られて、玄関番から支配人に抜擢《ばってき》された騎兵曹長《そうちょう》あがりの男は、ドリイの困惑にはいっこう同情を示さず、ただうやうやしい調子で、「なんとも、いたしかたございません。なにしろ、みんなしようのないやつらばかりでございますから」といって、なにひとつ力をかそうとはしなかった。
こうした状態は、まったく救いのないもののように思われた。ところが、オブロンスキー家には、どこの家庭にもいるように、たいして目だたないが、重要かつ有益な人物がひとりいたのである。それはマトリョーナであった。老婆は奥さまを慰めて、今になにもかも丸くおさまりますよ《・・・・・・・・・》、(これは老婆の口癖で、マトヴェイも彼女からそれを借用したのであった)といいきかせ、自分はあわてず騒がず、ちゃんと務めをはたしていた。
マトリョーナは、たちまち、支配人の女房と懇意になり、もう着いた日からこの女房と亭主の支配人といっしょに、アカシヤの下でお茶を飲みながら、あらゆる問題を相談した。まもなく、このアカシヤの下にマトリョーナのクラブができあがってしまった。支配人の女房と、村長と、帳場の男からなるこのクラブを通して、厄介な生活上の問題が、少しずつ解決されていき、一週間もたつと、ほんとうに、なにもかも丸くおさまった《・・・・・・・》のであった。屋根は修理され、料理女には村長の懇意にしている女が見つかり、鶏も買い入れ、雌牛も乳を出すようになった。庭の囲いもでき、調理台も大工につくらせ、洋服だんすには鍵《かぎ》をつけたので、もうひとりでにあかなくなった。軍服用のラシャをかぶせたアイロン台も、肘《ひじ》掛《か》けいすの腕木からたんすへかけ渡されて、女中部屋ではアイロンのにおいがするようになった。
「それ、ごらんなさいまし! 奥さまはいつもおこぼしでいらっしゃいましたけれど」マトリョーナは、アイロン台をさしながら、いった。
麦藁《むぎわら》で垣をした水浴小屋まで建てられた。ドリイは水浴をはじめた。こうして、ドリイにとっては、それほど落ち着きこそなかったが、便利な田園生活にかけられた期待が、部分的ながら、実現された。六人の子供をかかえていたドリイには、落ち着きなどはとても望めぬことであった。ひとりが病気になれば、またもうひとりが病気になりそうになるし、ひとりになにか足りないことがあると、もうひとりにはなにかよからぬ性質のきざしが見えてくる、云々《うんぬん》といったありさまで、落ち着いた気分になれるのはほんの時たま、ごく短いあいだであった。もっとも、こうした心づかいや不安が、ドリイにとっては、ただひとつ望みうる幸福でもあった。もしこうしたことがなかったら、彼女は自分を愛してくれぬ夫のことを、ひとりでくよくよと考えていなければならなかったにちがいない。いや、そればかりか、子供の病気を想像する恐怖や、病気そのものや、よからぬ性質のきざしを発見したときの悲しみは、母親にとって耐えがたいものではあるが、しかし今ではもう、子供たち自身が、ささやかな喜びとなって、彼女の悲しみを償なってくれるのであった。そうした喜びは、さながら砂の中の金のように、目だたぬほど小さなものであった。そして、悪いときには、彼女はただ悲しみばかりを、ただ砂ばかりを見ていたが、気持のいいときには、ただ喜びばかりを、ただ金ばかりを見るのであった。
今度、田舎へひっこんでから、彼女はこの喜びを感ずることが、ますます多くなってきた。彼女はよく子供たちをながめながら、自分はまちがっているのだ、母親の欲目でわが子を買いかぶっているのだ、といくら自分にいいきかせようとしたかしれなかった。しかし、やっぱり、自分の子はすばらしく、六人が六人ながらみんなそれぞれ性質は違うけれども、類のないほどいい子供ばかりだ、と自分にいいきかせるのだった。そして、これらの子供たちによって自分を幸福だと考え、子供たちを誇りに思うのであった。
五月の終りに、もうどうやらなにもかも整理がついたとき、彼女が田舎暮しの不便さを訴えた手紙に対して、夫から返事を受け取った。彼は万事に注意の行き届かなかったことをわびながら、機会のありしだい、そちらへ行くと約束してよこした。が、そんな機会は、なかなかなかったので、ドリイは六月の初めまで、ひとりで田舎暮しをしていた。
ペテロ祭週の日曜日に、ドリイは子供たち全部に、聖餐《せいさん》を受けさせるため、馬車で祈《き》祷《とう》式《しき》に出かけて行った。ドリイは妹や母親や友だちなどを相手に、哲学的な話をうちとけてするようなとき、宗教に対して自由主義的な考え方をすることで、よく相手を驚かしたものであった。彼女は輪廻《りんね》という一種独特な宗教をいだいていて、教会のドグマなどにはほとんどおかまいなく、かたくそれを信じていた。ところが、家庭にあっては単にみずから範を示すためばかりでなく、心の底から教会のいっさいの掟《おきて》を厳格に実行していた。そのため、子供たちがもう一年近くも、聖餐を受けていないということが、ひどく気になっていたので、今度マトリョーナの賛成と同情を得て、この夏のうちにそれをすませてしまおうと、決心したのであった。
ドリイはもう幾日も前から、子供たちにどんな着物を着せたらいいかと、思案していた。幾枚かの着物が新しく縫われたり、仕立てなおされたり、洗濯されたり、縫いこみやひだが出され、ボタンがつけられ、リボンで飾られた。ただ、イギリス婦人が仕立てを引き受けてくれたターニャの着物だけが、ひどくドリイの気持をやきもきさせた。イギリス婦人は、縫いなおしをするときに、縫いしろを間違えて、あまり袖《そで》ぐりを深くとりすぎたので、危うくその着物を台なしにするところだった。ターニャは肩のところが窮屈で、見る目も苦しそうだった。しかし、マトリョーナが気をきかして、まちを入れたり、ケープを上にかけることを思いついた。こうして、そのほうはどうやらおさまったものの、イギリス婦人とは、一悶着《ひともんちゃく》起すところであった。しかし、その朝までには、なにもかもうまく運んで、九時には――それまで祈祷式を待ってもらうよう神父に頼んでおいたのである――着飾った子供たちが、うれしそうに顔を輝かせながら、母親が出て来るのを、階段の下の幌《ほろ》馬《ば》車《しゃ》の前に立って待っていた。
幌馬車には、癇《かん》の強い青毛の代りに、マトリョーナのはからいで、支配人の栗《くり》毛《げ》がつけられた。やがて、化粧に手間どったドリイが、純白のモスリンの衣装を着て、階段の下に現われた。
ドリイはいろいろと気をつかって、心をおどらせながら、髪を結《ゆ》ったり、着つけをしたりした。以前は彼女も、美しく装いをこらして、人の気に入られようと思ってみずから進んで化粧したものであった。が、その後、年をとるにしたがって、しだいに身じまいをするのが面倒になってきた。われながら器量の落ちたことに気づいたからである。ところが、今はまた、なにか満ちたりた、心おどるものを感じながら、身じまいをするようになった。今の彼女は自分のためでも、自分を美しく見せるためでもなく、ただかわいい子供たちの母親として、見る人の印象を傷つけないために装いをこらすのだった。そのため、最後にもう一度鏡をながめたとき、彼女は自分の容姿に満足した。彼女は美しかった。もっとも、その美しさは、その昔、彼女が舞踏会などで美しくありたいと願ったような美しさではなかった。しかし、彼女が現にめざしている目的には十分かなった美しさであった。
教会には、百姓や門番と、その女房たちのほかは、だれもいなかった。しかし、ドリイは、彼らが自分や子供たちをうっとりとながめているのを見てとった。いや、見てとったように思われた。子供たちは、華やかに着飾った姿がとても美しかったばかりでなく、しとやかな行儀作法が愛らしかった。もっとも、アリョーシャのふるまいは、申し分ないとはいえなかった。少年はたえず上体をくねらせて、自分のジャケットの背中を見ようとしていた。それにもかかわらず、この少年は並みはずれてかわいらしかった。ターニャはお姉さんぶって、弟や妹の面倒を見てやっていた。しかし、末っ子のリリイは、なにを見てもあどけなく驚くところが、それはかわいらしく、聖餐を受けてから、"Please,some more" といったときには、だれもが思わずほほえまずにはいられなかった。
子供たちは家へ帰る途中、なにか荘厳なことが行われたのを感じた様子で、とてもおとなしかった。
家へ帰ってからも、万事調子よく運んだ。ところが、朝食のとき、グリーシャは口笛を吹きだしたうえ、なによりも悪いことには、イギリス婦人のいうことを聞かなかったので、ついにおいしいパイがもらえなくなってしまった。もっとも、ドリイがその場に居あわせたら、こういう日には罰など与えさせなかったにちがいない。しかし、イギリス婦人のやり方を支持しないわけにはいかなかったので、グリーシャにはおいしいパイをやらないという決定に同意せざるをえなかった。このことはみんなの喜びを少々そこねた。
グリーシャは泣きながら、ニコーレンカも口笛を吹いたのに、ちっとも罰を受けないじゃないか、ぼくはパイがもらえないから泣くんじゃない――そんなことなんか平気だけれど、ぼくだけ不公平にされるのがいやなんだ、と訴えた。その様子はとても見るにしのびなかったので、ドリイはイギリス婦人と話し合って、グリーシャを許してやろうと思い、イギリス婦人の部屋へ出かけて行った。ところがそのとき、彼女が広間を通り抜けようとして、ふと目にした光景は、思わず涙があふれるほどの喜びで、彼女の胸をいっぱいにしたので、彼女はもう母親の独断で、幼い罪人を許してしまった。
罰せられた少年は、広間のすみの窓のところに腰かけており、そのそばには、ターニャがお菓子皿を持って立っていた。ターニャは、お人形にごちそうしてやりたいという口実をつくって、自分のパイを子供部屋へ持って行く許可をイギリス婦人からもらい、そうするかわりに、弟のところへ持って来たのであった。少年は自分に加えられた罰が不公平だといって泣きつづけながら、持って来てもらったパイを食べていた。そして、なおも泣きじゃくりながらときどき「お姉さんもお食べよ、いっしょに食べようよ……ねえ、いっしょに」といっていた。
ターニャは、はじめグリーシャがただかわいそうでならなかったが、やがて自分の善行を意識するようになって、自分でも目に涙を浮べていた。しかし、ターニャは弟の申し出《いで》をこばまないで、自分も食べていた。
母の姿を見ると、ふたりはびくっとしたが、母親の顔の表情から、自分たちはいいことをしているのだとわかると、急に声をたてて笑いだした。そして、口にいっぱいパイをつめこんだまま、微笑にほころびた唇《くちびる》を両手でこすりはじめたので、ふたりの喜びに輝く顔は、涙とジャムですっかりべとべとになってしまった。
「まあ、たいへん こんな新しい白い着物を! ターニャ! グリーシャ!」母親は子供の着物をよごさないように努めながらも、目にいっぱい涙をため、さも幸福そうな歓喜の微笑を浮べながら、こういった。
子供たちは新しい着物を脱がされて、女の子はブラウスを、男の子は古いジャケットを着せられた。そして、馬車のしたくが命ぜられ、支配人の不満をよそに、またもや栗毛がつけられた。それは茸《きのこ》取りと、水浴びに行くためであった。子供部屋には、どっとばかり歓声があがって、それは、水浴びに出かけるときまでやまなかった。
茸は籠《かご》いっぱい取れた。リリイでさえ白樺《しらかば》茸《たけ》を見つけた。以前はミス・グールが見つけて、それをリリイに見せたものであったが、今度はリリイが自分で、大きな白樺茸を見つけたのであった。そこで、みんなは「リリイが茸を見つけたよ!」と声をそろえて歓呼をあげた。
それから川へ行き、馬車を白樺の木陰に止め、水浴小屋へ歩いて行った。御者のチェレンチイは、しっぽで虻《あぶ》をはらっている馬を木につなぐと、草を踏み柔らげて、白樺の木陰に横になり、下等な葉たばこをふかしはじめた。と、水浴小屋からは、子供たちの楽しそうな叫び声が、たえず彼のところまで伝わってきた。
全部の子供たちを監督して、そのいたずらをやめさせるのは面倒なことだったし、大きさのまちまちなみんなの靴下や、ズボンや、靴などを、ちゃんと覚えていて、まちがわないようにしたり、紐《ひも》やボタンをといたり、はずしたり、結んだりするのは、なかなか骨の折れることであった。ところが、ドリイは前々から自分でも水浴びが好きなうえ、子供たちのためにもなると考えていたので、子供たちみんなと水浴びすることほど、楽しいことはなかった。子供たちのふっくらした小さな足を手にとって、靴下をはかせたり、丸裸になった小さなからだを両手に抱いて水に浸《つ》けたり、時にはうれしそうな、時にはおびえたような叫び声を耳にしたり、こわいような、うれしいような目を大きく見ひらいて、息を切らしている顔や、水をぴちゃぴちゃはねかえしているかわいい天使たちの姿をながめたりするのは、彼女にとって大きな喜びであった。
子供たちの半分がもう着物を着てしまったとき、薬草取りに行ってきた着飾った百姓女たちが、水浴小屋のそばに近寄って、おずおずと立ち止った。マトリョーナは、水に落したタオルとシャツを干してもらおうと思って、その中のひとりに声をかけた。ドリイも、女房たちと話をはじめた。女房たちははじめのうちこそなにをきかれているかわからないで、手を口にあてて笑っていたが、じきに臆《おく》することなく、話しはじめ、心底から子供たちに見とれている様子を示したので、ドリイはたちまちこの百姓女たちが気に入ってしまった。
「まあ、なんてべっぴんさんだこと、まるで砂糖でこせえたように色が白いだね」ひとりがターネチカに見とれて、首でうなずきながら、いった。「でも、ちっと、やせてるようだね……」
「ええ、病気だったのでね」
「あれまあ、こんな赤子まで水浴びさせなさっただか?」もうひとりが乳飲み子をさしていった。
「いいえ、この子はまだ三カ月にしかなっていないのよ」ドリイは誇らしげに答えた。
「あれ、まあ!」
「あんたにもお子さんがあるの?」
「四人ありましたが、ふたりになっちめえましたよ。男の子と女の子で。下の女の子が、やっと、この前の謝肉祭に乳離れしましただ」
「その子はいくつになるの?」
「数え年で二つでごぜえますよ」
「どうしてそんなに長くお乳を飲ませたの?」
「そりゃ、うちらのしきたりでごぜえますだよ、斎戒期を三度すまさなくちゃいけねえというのが……」
こうして、話はドリイにとってなによりも興味のある話題に移っていった――お産のときはどうだったか? 子供はどんな病気をしたか? 亭主はどこにいるか? しょっちゅう家に帰って来るか?
ドリイはこの女房たちと別れて帰りたくなかった。それほど女房たちとの話はおもしろく、お互いの関心はまったく同じことにあったからである。ドリイにとってなによりも気持がよかったのは、これらの女房たちがみんな、ドリイ自身がたくさんの子持ちで、しかもその子供たちがみんな器量よしなのに感心しているのがはっきりわかったからである。女房たちはドリイを笑わせたが、それと同時に、イギリス婦人をおこらせてしまった。というのは当のイギリス婦人が、自分にとって不可解な笑いの原因となったからである。ひとりの若い女房が、いちばんあとから着物を着ていたイギリス婦人を、つくづくながめていたが、彼女が三枚めのペチコートをはいたとき、ついに我慢しきれないで、「あれまあ、巻きつけるわ、巻きつけるわ、いくら巻いても、きりがねえだね!」と口をすべらしたので、みんなどっとばかり大声で笑いくずれたからである。
水浴びをしてまだ頭のぬれている子供たちにとりかこまれながら、ネッカチーフで頭をしばったドリイが、もう家の近くまで来たとき、御者がいった。
「どこかのだんなが歩いてお見えになりましたよ。どうやら、ポクローフスコエのだんならしいですが」
ドリイは前方に目をこらし、ねずみ色の帽子にねずみ色の外套《がいとう》を着た見覚えのあるリョーヴィンの姿が、向うからやって来るのを見つけて、急に、うれしくなった。彼女はいつもリョーヴィンに会うのが好きだったが、ことに今はこうしたすばらしい幸福につつまれている自分を見てもらえることに、特別な喜びを感じていた。リョーヴィンよりほかに、彼女の偉大さを理解してくれるものはなかったからである。
リョーヴィンは彼女を見たとき、前々から想像に描いていた、将来の家庭生活の一場面をそこに見る思いだった。
「これじゃ、まるで巣ごもりの雌鶏《めんどり》みたいじゃありませんか、奥さん」
「まあ、なんてうれしいんでしょう!」ドリイは相手に手をさし伸べながらいった。
「うれしいなんておっしゃりながら、知らせてくださらないんですからね。ぼくのとこには、いま兄が来ているんですよ。いや、じつは、スチーヴァからの手紙で、あなたがここにいらっしゃることを知ったんですよ」
「まあ、スチーヴァから?」ドリイはびっくりして問い返した。
「ええ、あなたがここへ移ったことを、知らせてよこしたうえ、ぼくがなにかあなたのお役に立つかもしれない、と考えてるようですね」リョーヴィンはいった。そして、そういってしまってから、急に、どぎまぎして、言葉を切り、菩《ぼ》提《だい》樹《じゅ》の若い芽をむしってはかみすてながら、黙々と、馬車の横を歩いて行った。彼がどぎまぎしたわけは、夫のなすべきことに他人の助けをかりるのは、ドリイにとってさぞ不快だろうと気をまわしたからである。実際、ドリイは家庭内のことを他人におしつけようとする夫のやり方が気に入らなかった。そして、彼女もすぐに、リョーヴィンにはそのことがわかっているのだと気づいた。こうした細かい思いやりや感情のデリケートなところがあるので、ドリイはリョーヴィンを愛しているのであった。
「ぼくには、もちろん、わかっていたんです」リョーヴィンはいった。「それはただ、あなたがぼくに会いたがっていらした、という意味にすぎないってことぐらい。それで、ぼくも大いに愉快なんです。きっと、あなたのような都会のご婦人には、ここはさぞ野蛮なところに思われるでしょうが、もしなにかご用があれば、喜んでお役に立ちますよ」
「まあ、どういたしまして!」ドリイはいった。「はじめのうちこそなにかと不自由でしたけれど、うちのばあやのおかげで、今じゃなにもかもうまくいってますの」ドリイは、マトリョーナをさしながらいった。老婆は自分のことが話題になっているのを察して、にこにことさも親しそうな笑顔をリョーヴィンに向けた。老婆はリョーヴィンの人がらを知っており、彼が末の令嬢に似合いの花婿であることを考えて、その話がまとまることを望んでいたのであった。
「どうぞ、お乗りになって。ここを少しつめますから」彼女はリョーヴィンにいった。
「いや、ぼくは歩いて行きますよ。さあ、みんな、だれかぼくといっしょに、馬と駆けっこする子供はいませんか!」
子供たちはほとんどリョーヴィンのことを知らなかったし、いつ会ったかも覚えていなかった。しかし、おとなが見えすいたごきげんとりをするときに、子供たちがよく感ずる、あの奇妙なはにかみや、嫌《けん》悪《お》の色は示さなかった。子供たちはそういう見えすいたおとなたちの態度に手きびしく反応するものである。偽善というものは、それがどんな種類のものであろうとも、きわめて聡明《そうめい》な洞察力《どうさつりょく》のある人さえ、だましおおせることがある。ところが、子供はどんなに知恵の足りないものでも、相手がいかに巧みに偽装していても、すぐに気づいて、そっぽを向いてしまうものである。ところが、リョーヴィンには、たとえどんな欠点があったにしても、そうした偽善的な性質だけはひとかけらもなかったので、子供たちは母親の顔に見つけたのと同じ親愛感を、彼に示した。そこで、彼の呼び声にこたえて、上のふたりはすぐさま馬車から飛びおりて、彼といっしょに駆けだして行った。その様子は、まるで相手がばあやか、ミス・グールか、それとも母親ででもあるかのように、ごく自然な態度だった。リリイまでが彼のところへ行きたいといいだしたので、母親は娘を彼に手渡した。彼はリリイを肩車に乗せて、そのまま、駆けだして行った。
「いや、大丈夫、大丈夫、奥さん」彼は母親に陽気な笑顔を見せながら、いった。「絶対にぶっつけたり、落したりしませんから」
実際、彼の器用そうな、力強い、慎重な、とても緊張している動作を見ていると、母親もすっかり安心して、明るい微笑を浮べて、うなずきながら、彼の姿を目で追っていた。
この村へ来て、子供たちや親切なドリイといっしょにいると、前にもよくあったことだが、リョーヴィンは子供っぽい快活な気分になってきた。ドリイもまた、彼のこういう気分がとくに好きであった。子供たちといっしょに走りながら、彼はみんなに体操を教えたり、まずい英語でミス・グールを笑わせたり、自分の田舎での仕事についてドリイに話をしたりするのだった。
昼食のあと、ドリイは彼とふたりきりでバルコニーにすわり、キチイのことを話しだした。
「ご存じかしら? もうじきキチイがここへ来て、あたしといっしょにひと夏過すことになっていますの」
「ほんとですか?」彼は思わず心をおどらせながら、いった。が、すぐに話題を変えるために、「それじゃ、雌牛を二頭お宅へ送りましょうか? もし勘定をきちんとしたいとおっしゃるなら、月五ルーブルということでけっこうです。もっとも、あなたのほうが気恥ずかしくなかったらのことですが」
「ええ、ありがとうございます。でも、こちらも万事すっかり整いましたから」
「じゃ、とにかく、お宅の雌牛を拝見してみましょう。もしよろしかったら、飼い方もお教えしますよ。なにしろ、それはただもう、餌《えさ》のやり方ひとつにかかっているんですからね」
こうして、リョーヴィンはただ話をそらすために、雌牛というものは、飼料を牛乳に変える機械にすぎない云々《うんぬん》という、乳牛飼養の理論を、ドリイに説明しだした。
彼はそんな話をしながらも、キチイについての詳しい話を聞きたくてたまらなかったが、それと同時に、それを聞くのを恐れていた。彼にはあれほどつらい思いをしてかちえた平安を乱されるのが、恐ろしかったのである。
「そうでしょうね。でも、そんなことにいちいち気をつけるには世話がたいへんですわね。そんなことをしてくれる人がいるかしら?」ドリイは気のない返事をした。
彼女はマトリョーナの手で、一応の家政はととのえたので、今はもうこれ以上なにも変更したくなかったのである。それに、リョーヴィンの農事上の知識も信用していなかった。雌牛は牛乳を製造する機械だという彼の意見も、納得いかなかった。そんな種類の意見は、ただもう家政の仕事を混乱させるだけのことにすぎないように思われた。彼女の目から見ると、そうしたことはすべてずっと単純なものであって、マトリョーナが説明したように、ペストルーハやベロパーハに、もっと飼料と麩《ふすま》の溶き水をやり、料理人が台所の汚水を、洗濯女の雌牛に飲ませないようにすれば、もうそれで十分なことに思われるのであった。それはもうわかりきったことであった。ところが、粉類の餌《えさ》や草の飼料についての彼の意見は、どうも納得がいかず、はっきりわからなかった。いや、それになによりも肝心なことは、彼女はキチイのことを話したかったのである。
10
「キチイが手紙をよこしまして、今の自分には孤独と平安ほど望ましいものはない、なんて書いてきましたのよ」しばらく沈黙してから、ドリイはいった。
「で、どうなんです、おからだのほうは、よくなったんですか?」リョーヴィンは、胸をどきどきさせながら、たずねた。
「おかげさまで、すっかりよくなりましたの。あたしは一度だって、あの子が胸の病だなんてこと、本気になどしませんでしたわ」
「そりゃ、ぼくもほんとにうれしいですよ!」リョーヴィンはいった。彼がそういって、黙ってドリイの顔を見つめたとき、ドリイには彼の顔になにか胸をうつような、哀れっぽい表情が、浮んだように思われた。
「ねえ、リョーヴィンさん」ドリイは持ち前の人の好い、いくらか自嘲《じちょう》の影をおびた微笑を浮べながら、いった。「あなたはなんだって、キチイのことをおこっていらっしゃいますの?」
「ぼくが? いや、ぼくはおこってなどいませんよ」リョーヴィンは答えた。
「いいえ、あなたはおこっていらっしゃいますわ。それじゃ、この前モスクワへおいでのとき、あたしどものとこへも、キチイのとこへも、お寄りにならなかったのはなぜですの?」
「奥さん」彼は髪の根もとまで赤くなりながら、いった。「いや、ぼくには、あなたのように優しい心をもった方が、それを察してくださらないなんて、心外なくらいですよ。なぜぼくのことを、ただかわいそうなやつだと思ってくださらないんでしょう。ああいうことをご存じだったら……」
「あたしがなにを知っておりまして?」
「ぼくが結婚の申し込みをして、断わられたことをご存じじゃありませんか」リョーヴィンは一気にいった。ところが、つい一分前までキチイに対して感じていた優しさが、たちまち、彼の心の中で、侮辱に対する憎《ぞう》悪《お》の念に変ってしまった。
「なぜあたしが知ってるなんて、お思いになりまして?」
「だって、みんなが知っていることなんですから」
「いいえ、その点はあなたのお考え違いですわ。あたしはそんなこと知りませんでしたもの。そりゃ、うすうすは察してはいましたけれど」
「そうですか! じゃ、今はっきりお知りになったわけですね」
「あたしが知ったのはただ、あの子になにかあったために、あの子がひどく悩んでいたことと、もうその話はけっしてしないでくれとあの子があたしに頼んだことだけですわ。あの子は、あたしにさえ話してくれなかったくらいですから、ほかの人には話しっこありませんわ。でも、あなた方のあいだに、いったい、どんなことがありましたの? どうぞ、聞かせてくださいな」
「そのことなら、今お話ししたじゃありませんか」
「いつでしたの?」
「ぼくがいちばん最後にお宅へあがったときですよ」
「じつは、申しあげますけど」ドリイはいった。「あたし、あの子がほんとに、ほんとに、かわいそうでなりませんの、あなたのほうは、ただ自尊心から苦しんでいらっしゃるだけですけれど」
「そうかもしれませんね」リョーヴィンは答えた。「それでも……」
ドリイは相手をさえぎった。
「でも、あたしは、あの子がかわいそうでなりませんの、ほんとに、ほんとに、かわいそうで。今になってみれば、なにもかもすっかりわかりますけれど」
「いや、失礼ですが、奥さん」彼は立ちあがりながら、いった。「ぼくはおいとまします、奥さん、さようなら」
「いいえ、ちょっとお待ちになって」ドリイは彼の袖《そで》をとらえながらいった。「ねえ、お待ちになって。まあ、ちょっとおかけになってくださいまし」
「どうか、お願いですから、その話はもうしないことにしましょう」彼はすわりながらいった。が、それと同時に、彼の胸の中ではいったん葬られた希望が、また頭をもちあげて、かすかに動きだしたような気がした。
「もしあたしがあなたに好意をもってなかったら」ドリイはしゃべりだしたが、その目には涙があふれていた。「もしあたしがこれほど、あなたって方を存じあげていなかったら……」
もう死んでしまったと思われていた感情が、徐々によみがえって、たかまっていき、たちまち、リョーヴィンの胸をいっぱいにしてしまった。
「ええ、今こそあたしには、なにもかもよくわかりましたわ」ドリイはつづけた。「こんなことは、とてもおわかりにならないでしょうけれど、自由な立場で選択のおできになる、あなた方殿方には、自分がだれを愛してるかなんてことは、いつだってはっきりしていることでございましょうね。ところが、ただ待ちうける立場にある年ごろの娘には、処女の羞恥心《しゅうちしん》というものもありますし、あなた方殿方を遠くのほうからながめているばかりで、そういう娘たちはなんでも言葉を真《ま》にうけてしまうものなんですの。で、そういう娘の身になってみると、自分でもなんといっていいかわからないような気持になることも少なくありませんわ」
「ええ、心で語ることができなければですね……」
「いいえ、そりゃ心で語ることもできますわ。でも、まあ、考えてみてもくださいまし。あなた方殿方は、かりにある娘に目をおつけになると、そのお宅へ出入りをして、近づきになったうえ、ご自分の好きなものが相手の中にあるかどうか、十分見きわめをおつけになってから、自分はたしかに愛していると確信されてはじめて、結婚の申し込みをなさいますでしょう……」
「さあ、いつもそうとばかりはいえませんね」
「まあ、そんなこと、どっちだってかまいませんけれど。いずれにしても、ご自分の愛が熟するか、選ばれたふたりのあいだで愛の重みが一方へ傾いた場合、あなた方は結婚の申し込みをなさるんですわ。娘の気持なんか、たずねてもみないで。そりゃ、娘も自分で選ぶべきだといってますけれど、娘が選ぶなんてことできませんわ、ただ『ええ』とか、『いいえ』とか答えるだけですわ」
《そうだ、おれとヴロンスキーとが秤《はかり》にかけられていたのだ》リョーヴィンは考えた。すると、彼の心の中によみがえりかけていた亡霊は再び死んでしまって、ただ苦しいほど彼の胸を締めつけるのであった。
「奥さん」彼はいった。「いや、そうやって選ぶのは、着物とかなにかそういった買い物の場合のことで、愛情の問題は別ですよ。それに、その選択はもうすんでしまったのですから。いや、それでいいんです……もう二度と取り返しはつきません」
「まあ、ほんとに、自尊心のお高いこと!」ドリイはいった。その調子には女だけが知っている別の感情と比べて、相手の感情の卑しさを、さげすむような響きが感じられた。「あなたがちょうどキチイに結婚の申し込みをなすったとき、あの子はご返事ができないような立場にいたんですわ。あの子は迷っていたんですのよ。あなたにしようか、ヴロンスキーにしようか、とね。ヴロンスキーには毎日会っていましたけれど、あなたには長いことお目にかかっておりませんでしたわね。まあ、かりに、あの子がもう少し年をとっておりましたら……たとえば、あたしがあの子の立場にいたとすれば、迷うなんてことはありえませんでしたけど。あたしはあの男がなんとなく虫が好かなかったのですが、やっぱり、ああいう結果になってしまいました」
リョーヴィンはキチイの答えを思いだした。『いいえ《・・・》、そういうわけにはまいりませんの《・・・・・・・・・・・・・・・》』キチイはそういったのである。
「奥さん」彼はそっけない調子でいった。「ぼくを信頼してくださってありがたいとは思いますが、やっぱり、あなたは思い違いをしていらっしゃるようですね。いや、ぼくの態度が正しいか、まちがっているか、それは別として、あなたが現に軽蔑《けいべつ》していらっしゃるぼくの自尊心は妹さんに関するどんな考えをも不可能なものにしているんです。ねえ、おわかりですか、もう絶対に不可能なんです」
「あたしはただもうひと言だけ申しておきますわ。おわかりでしょうが、あたしはわが子のように愛している妹の話をしておるのでございますよ。そりゃ、あたしもあの子があなたを愛していたなどとは申しませんが、あのときお断わりしたのは、べつにあの子の気持がどうってことの証明にはならないってことだけを申しあげたかったんですの」
「ぼくにはわかりませんね!」リョーヴィンはおどりあがりながら、いった。「あなたはぼくをどんなに苦しめていらっしゃるか、ご自分ではおわかりになっちゃいないようですね! まあ、たとえていってみれば、あなたの赤ちゃんが亡《な》くなったのに、あの子はああだった、こうだった、今生きていたら、あなたもそれを見てさぞお喜びになるでしょうに、なんて人からいわれるのと同じことなんですからね。ところが、その赤ちゃんはもう亡くなってしまったんです、亡くなってしまって、生き返っては来ないんですよ……」
「まあ、ほんとに、おかしな方ですのね」ドリイはリョーヴィンの興奮をよそに、もの憂い笑いを浮べながら、いった。「ええ、これであたしもだんだんにわかってきましたわ」彼女は考えぶかそうにつづけた。「それじゃ、キチイがまいりましても、もううちへはいらしてくださいませんのね?」
「ええ、うかがいません。そりゃ、ぼくは妹さんを避けようなんて気はありませんが、でも、ぼくなんかがおじゃまして、あの方を不愉快にさせることのないようにできるだけ努めるつもりですよ」
「まあ、ほんとに、ほんとに、おかしな方ですのね」ドリイは優しく、相手の顔を見つめながら、繰り返した。「じゃ、よろしゅうございます。この話はしなかったことにいたしておきましょう。おや、なにしに来たの、ターニャ?」ドリイははいって来た女の子に、フランス語でいった。
「ママ、あたしのシャベルはどこ?」
「ママはフランス語でお話ししてるでしょ、だからおまえもそうしなくちゃだめよ」
女の子はいおうとしたが、フランス語でシャベルをなんというのか忘れてしまった。母親はそれを教えてやってから、そのシャベルはどこを捜したらいいか、またフランス語でいった。リョーヴィンにはそれが不愉快に思われた。
もう今となっては、ドリイの家庭にしても、その子供たちにしても、そこにあるいっさいのものが前ほど魅力がなくなったように思われるのだった。
《それに、なんだってこの母親は子供たちと、フランス語で話をするんだろう?》彼は考えた。《まったく、不自然で、情がこもっていないじゃないか! 子供たちだって、それを感じているんだ。フランス語を教えこむことで、真心を忘れさせているんだ》彼は心の中で考えた。もっとも、当のドリイにしても、この問題を二十ぺんも考えたあげく、多少の真実を犠牲にしても、この方法で子供たちを教育する必要を認めたのであるが、彼はそれを知らなかったのである。
「まあ、どこへいらっしゃいますの。もう少しおすわりになって」
リョーヴィンはお茶のときまで残ったが、あの楽しい気分はすっかり消えてしまって、妙にばつの悪い思いだった。
お茶のあとで、リョーヴィンは馬車の用意を命じるために、玄関へ出て行った。ところが、もどってみると、ドリイが顔を曇らせ、目には涙までたたえて、なにかひどく興奮していた。リョーヴィンが部屋を出て行ったとき、ドリイにとってきょう一日の幸福と、子供たちを誇りに思う気持を、いっぺんに破壊させるような出来事がとつぜん起ったのである。それはグリーシャとターニャが球《まり》を奪いあって、けんかしたことであった。ドリイが子供部屋の叫び声を聞きつけて、駆けだして行ってみると、ふたりは恐ろしい形相をしていた。ターニャはグリーシャの髪の毛をつかんでいたし、グリーシャは顔がひんまがってしまうほどかんかんになりながら、盲滅法《めくらめっぽう》に拳《げん》固《こ》でターニャをなぐりつけていた。その光景を見たとき、ドリイの胸の中では、なにかが一時に引き裂かれたような気がした。彼女の生活に、さながら闇《やみ》がおおいかぶさってきたような感じであった。彼女は自分があれほど誇りにしていた子供たちも、ごくありふれた子供であるばかりか、粗野で野獣的な傾向をおびた、教育の行き届かない、意地悪で悪い子供たちであることを一瞬にして悟ったのである。
彼女はもうほかのことは、なにひとつ話すことも考えることもできなかった。そして、リョーヴィンに自分の不幸について話さないではいられなかった。
リョーヴィンは、ドリイが不幸なことを見てとって、それはなにも子供たちの性質が悪いことを証明しているのではなく、子供ならだれでもけんかするのはあたりまえだといって、彼女を慰めようと試みた。が、リョーヴィンは自分でそういいながらも、心の中ではこう考えた。《いや、おれは変に気どったりして、自分の子供たちとフランス語なんかでしゃべるのはよそう。とにかく、おれの子供たちはこんなふうにはならないだろう。ただ子供たちを台なしにしないように、不具にしないようにすればいいんだ。そうすれば、みんなすばらしい子供たちになるだろう。そうとも、おれの子供たちはこんなふうにはならないだろう》
彼は別れを告げて、立ち去った。そして、ドリイもそれを引き止めようとはしなかった。
11
七月の中旬に、ポクローフスコエから二十キロ離れた姉の持ち村の村長が、農事の状態や草刈りの報告を持って、リョーヴィンのもとへやって来た。姉の領地のおもな財源は、川沿いの草場からあがる収入であった。先年まで、そこの草は一ヘクタール二十ルーブルの割で、百姓たちに買い取られていたが、リョーヴィンがその領地の管理を引き受けたとき、彼は草場を見まわって、そこがもっと値うちのあることを知り、一ヘクタール二十五ルーブルという値段をきめた。百姓たちは、それだけの値段を出そうとしなかったうえ、リョーヴィンのにらんだところでは、どうやら、ほかの買い手まで追っぱらってしまったようであった。そこで、リョーヴィンはみずから現場へ乗りこんで行って、一部は日雇いで一部は歩合制度で、草場を刈るように手配した。その村の百姓たちは、この改革をあらゆる手段に訴えて妨害したが、仕事はうまくはかどって、最初の年でも、草場の収入はほとんど二倍に達した。一昨年も去年も、百姓たちの妨害運動は相変らずつづけられたが、刈り入れは同じ方法で行われた。ところが、今年になると、百姓たちは三分の一という歩合で全部の草場を引き受けることになった。そこで、今村長がやって来て、草刈りはすっかり終ったが、雨の心配があったので、支配人を呼んで、その立ち会いの上で収穫を分配し、もうご主人の分として十一の稲叢《いなむら》を積み上げた、と報告した。いちばん大きな草場では干し草がどれだけ取れたかとたずねたとき、その返事があいまいだったところからみても、村長が相談もしないで、急いで干し草を分けたところからみても、この百姓の話全体の口調からみても、リョーヴィンはこの分配に、なにか不正な点があると見ぬいて、みずからその調査に出かけることにきめたのである。
昼食のころ村へ着くと、兄の乳母の亭主で、前から知り合いの老人の家に馬を残して、リョーヴィンは干し草の取り入れについて詳しいことをきくために、老人のいる養蜂《ようほう》場へはいって行った。話し好きで、品のいい顔だちのパルメヌイチ老人は、喜んでリョーヴィンを迎え、自分の仕事をすっかり見せたうえ、自分の蜜蜂《みつばち》のことや今年の蜂群のことなどについて詳しい話をしてくれた。ところが、いざリョーヴィンが草刈りのことをたずねると、要領をえない返事をしぶしぶするだけだった。このことがなおいっそう、リョーヴィンの推測に自信を与えた。彼は草場へ行って干し草の山を見た。どの干し草の山も五十車ずつはとてもありそうに見えなかった。そこで、リョーヴィンは百姓たちの不正をあばくために、ただちに、干し草運びの荷車を集めさせ、一つの山を起して、それを納屋へ移すように命じた。ひと山を移してみると、三十二車分しかなかった。村長は干し草がふわふわしているから、積んでいるうちに嵩《かさ》が減ったのだと弁解し、なにもかも真っ正直にやったと神かけて誓ったにもかかわらず、リョーヴィンは自説をゆずらず、干し草は自分の命令なしに分けられたのだから、この干し草をひと山五十車として受けとるわけにはいかない、と主張した。長い押し問答のすえ、この問題は、百姓たちがその十一山を五十車ずつとして、自分たちのほうへ引き取り、地主の分としてはあらためて分けることでけりがついた。この交渉と干し草の山の分配は午後の休みのときまでつづいた。ようやく最後の干し草を分け終ったとき、リョーヴィンはあとのことを支配人にまかせて、自分は楊《やなぎ》の棒でしるしをした干し草の山に腰をおろして、百姓たちが右往左往している草場の様子に見とれていた。
彼の目の前には、小さな沼の向うの川の曲り角《かど》で、百姓女たちが甲高《かんだか》い声で陽気にしゃべりながら、色とりどりな着物を着て、列をなして動いていた。そして、あたりにちらばっている刈り草は、うす緑の草の上に、灰色のまがりくねった土塁となって、見るみるうちに、延びていった。女たちのあとには、叉《また》竿《ざお》を手にした百姓たちがつづき、その刈り草の土塁は幅が広くて、丈《たけ》の高い、ふっくらした干し草の山になっていった。もう取り片づけられた草場の左側には、荷馬車がごろごろと音をたて、禾堆《やま》は次々に大きな熊《くま》手《で》でかきくずされながら、消えてゆき、そのあとに、かおりのいい干し草が馬の尻《しり》が隠れるほど、重い荷車の上に積まれていった。
「取入れにゃ、おあつらえむきの日和《ひより》でごぜえますよ! けっこうな干し草ができますじゃろう!」リョーヴィンのそばに腰をおろしていた老人がいった。「これじゃ、まるで干し草でなくて、お茶みてえでごぜえますな。ほれ、あひるに麦粒まいてやってるみてえに、あっという間に拾いあげるでねえですか!」老人はしだいに高くなっていく干し草の山を指さしながら、こうつけ加えた。「昼飯がすんでから、もう半分方運びやしたよ」
「なあ、それでおしめえかよ?」老人は、荷馬車の御者台に立って、麻の手《た》綱《づな》の端を振りながら、そばを通りかかったひとりの若者に、呼びかけた。
「ああ、おしめえだよ。父《と》っつぁん!」若者は、馬をひきしめながら、大声で答えて、にこにこしながら、やはり笑顔で荷台にすわっていた、頬《ほお》の赤い、陽気そうな百姓女を振り返って、そのまま先へ馬を進めた。
「あれはだれだね? むすこさんかい?」リョーヴィンはたずねた。
「わしの末っ子でごぜえますよ」老人は優しい笑顔を見せて答えた。
「いい若者じゃないか!」
「まあ人並みでごぜえますよ」
「もう女房もちかね?」
「へえ、せんだっての聖フィリップ祭で、まる二年になりやした」
「それじゃ、子供もあるのかね?」
「子供なんぞとても! なんせ、まる一年も、なんにも知らねえでいたくれえですでな。それに、えらく恥ずかしがりやでしてな」老人は答えた。「いや、まったくてえした干し草だ! まるでほんもののお茶でごぜえますな」老人は話題を変えようとして、また同じようなことをいった。
リョーヴィンはワニカとその女房を、注意ぶかく観察しはじめた。ふたりはあまり遠くないところで、干し草を積んでいた。ワニカは荷車の上に立って、器量よしの若い女房がはじめは両手にかかえて、それから叉竿にのせて要領よく手渡す干し草の大きな束を受けとっては、それを平らにならしたり、踏みつけたりしていた。若い女房は楽々と、楽しそうに、要領よく働いていた。大きく固まっている干し草の山は、一度ではなかなか叉竿で起せなかった。彼女はまずそれを平らにほぐしたのち、叉竿を突っこみ、きびきびした素早い動作で、全身の重みを叉竿の上にかけ、すぐさま、赤い帯を結んだ背をそらしてからだを起すと、白い仕事着の下から、豊かな胸をぐっと突き出しながら、器用な身のこなしで、叉竿を持った両手を握り変え、干し草の束を高々と荷車の上へほうり上げるのだった。と、ワニカはどうやら、少しでも女房にむだ骨を折らせまいとするもののように、すぐさま、両手を大きくひろげながら、手渡される干し草を受けとって、それを荷車の上にひろげるのだった。最後の干し草を熊手で渡してしまうと、女房は首筋にかかった干し草のごみをはらって、日焼けしてない白い額をむきだしにしてうしろへずれていた赤いネッカチーフをなおすと、荷を縛るために、荷馬車の下へもぐりこんだ。ワニカは轅《ながえ》に綱をかけるやり方を教えていたが、なにか女房のいった言葉に、大きな声で笑いころげた。ふたりの顔の表情には、力強い、若々しい、目ざめてまもない愛情が、はっきりと見てとれた。
12
荷車は綱がかけられた。ワニカは車から飛びおりて、まるまると見事に太った馬の手綱をとって来た。女房は車の上へ熊手をほうり上げると、輪舞でもするようなかたちに集まっている女たちのほうへ、両手を振りながら、元気な足どりで歩いて行った。ワニカは道路へ出て、ほかの荷車の列に加わった。女たちは熊手を肩にかつぎ、あたりに華やかな色どりをふりまき、甲高い陽気な声をはりあげながら、車のあとについて行った。女のひとりが、荒っぽい、野性的な声で歌をうたいだし、繰り返しのところまでくると、五十人ばかりの、あるいは荒っぽい、あるいはかぼそい、あるいは健康そうな、さまざまの声が、一度に調子をそろえて、また同じ歌をはじめからうたいだした。
女たちは歌声とともに、リョーヴィンのほうへ近づいて来た。と、彼には、喜びの雷鳴をともなった雨雲が、自分に襲いかかってくるような気がした。雨雲は襲いかかるや、たちまち、彼をとらえた。と、彼の寝ころんでいた干し草の山も、そのほかの山も、遠い野につらなる草場全体も――なにもかも、甲高い叫びや、口笛や、はやし声のまじった、この野性的な、すごく陽気な歌の拍子につれて、ぐらぐらっと揺らぎはじめた感じだった。リョーヴィンは、この健康的な陽気さがうらやましくなり、こうした生命の喜びの表現に加わりたくなってきた。しかし、彼はなにもすることができず、ただその場に横たわって、それをながめたり、聞いたりするよりほかどうしようもなかった。女たちが歌声とともに視界と聴覚から消え去ったとき、リョーヴィンは自分の孤独と、肉体的な怠惰と、この世界に対する自分の敵意を思う重苦しい気持を、身にしみて感ずるのだった。
干し草の件でだれよりもいちばん彼と争った幾人かの百姓も、彼が侮辱した百姓も、あるいは、彼をだまそうとした百姓も――そういう百姓たちがみんな、快く彼にあいさつしていったが、その様子を見ると、彼に対してなんの敵意もいだかず、なんの後悔も感じないばかりか、彼をだまそうとしたことさえ、まるっきり覚えていないみたいであった。そんなことはいっさい、楽しい共同作業の海の中に没してしまったのである。神は一日を与え、神はそのための力を与えたもうたのだ。この一日も、その力もすべて労働にささげられ、労働そのものの中に報酬があるのだ。では、だれのための労働なのであろうか? その労働の結果はどうなるのであろうか? いや、こうした考えこそ、第二義的な、取るに足らないものなのだ。
リョーヴィンは今までにもしばしば、こうした生活に惚《ほ》れぼれと見とれ、こうした生活を送っている人びとに、しばしば羨望《せんぼう》の念を味わったものであるが、きょうは生れてはじめて、とりわけワニカとその若い女房との関係を見て受けた印象のために、次のような一つの考えがはっきりと頭の中に浮んできた。すなわち、きょうまで自分の生きてきたあの重苦しい、無為な、個人的で不自然な生活を、こうした労働に満ちた、清らかな、万人にとってすばらしい生活に変えることも、自分ひとりの意志にかかっているのだ、と。
彼といっしょにすわっていた老人は、もうとうに家へ帰ってしまっていた。百姓たちもみんなちりぢりになった。近所のものは家へ帰り、遠くのものは草場で夕食をとり、一夜を明かすために集まっていた。リョーヴィンはみなに気づかれないまま、相変らず干し草の山の上に、寝ころんで、あたりの様子を見たり、聞いたりして、もの思いにふけりつづけた。草場で一夜を明かすために残った連中は、夏の短い夜をほとんど寝ずに過した。はじめのうちは、食事しながらの陽気な話し声や、高笑いが聞えていたが、やがてまた、歌と笑い声に変っていった。
長い労働の一日も、百姓たちにはこうした楽しい気分のほか、なんの陰も残さないのであった。朝焼け近くなって、あたりはひっそりとなった。耳に聞えるものといっては、ただ沼の中で夜をこめて鳴きつづける蛙《かえる》の声と、夜明けに立ちこめる草場の霧の中で、馬が鼻を鳴らす音ばかりであった。リョーヴィンはふとわれに返って、干し草の上から起きあがり、星を仰いだとき、夜が明けたのを知った。
《さて、おれはいったい、どうすればいいのだろう? どんなふうにやったらいいのだろう?》そう彼はつぶやき、この短い夜に考えつくしたいっさいのことを、自分自身のためにはっきりさせようと努めた。彼が何度も考えつくし、感じつくしたいっさいのことは、三つの異なる思索の系列に分れていた。第一は、自分の古い生活を、つまり、無益な知識や不必要な教養を否定することであった。この否定は、彼に喜びをもたらすものであり、彼にはいとも容易で簡単なことであった。第二の思索と空想は、彼が現に生きようと望んでいる生活そのものに関するものであった。彼はその生活の簡素さ、清純さ、正当性をはっきりと感じたので、こうした生活の中にこそ、自分がたえず病的なほどその不足を痛感していた、あの満ちたりた気持と、安らぎと、品位とを、見いだすことができるものと確信していた。ところが、第三の系列に属する思索は、この旧生活から新生活への転換をどうすべきか、という問題のまわりをさまよっていた。しかも、そこではなにひとつはっきりしたものが彼の前には浮んでこなかった。《妻をもつことだろうか? 仕事を、仕事の必要性を感ずることだろうか? ポクローフスコエを捨てたものだろうか? 土地を買うことだろうか? 村の組合に加入したものだろうか? 百姓娘と結婚したものだろうか?いったい、おれはそれをどんなふうにすればいいんだろう?》彼はまた自問してみたが、答えを見いだすことはできなかった。《もっとも、おれはひと晩じゅう眠らなかったんだから、はっきりした考えなんか生みだせないわけだ》彼は自分にいいきかせた。《あとではっきりさせよう。それにしても、ただ一つたしかなことは、このひと晩がおれの運命を決したことだ。今までおれが描いていた家庭生活についての夢は、みんなくだらない、見当ちがいなことばかりだ》彼は自分にいいきかせた。《そんなことはみんなもっとずっと簡単で、しかも、もっとずっとすばらしいことなんだ……》
《ああ、じつにきれいだなあ!》彼は頭の真上の中空《なかぞら》に浮んでいた、小羊のような白雲の真珠貝に似た奇妙な形の雲をながめながら、考えた。《こんな素敵な晩には、なにもかも見るものがじつにすばらしいなあ! あんな真珠貝のような雲は、いったい、いつできたんだろう? ついさっき空を仰いだときには、ただふた筋の白い雲のほか、なんにもなかったのに。そうだ、ちょうどあれと同じように、おれの人生観も、いつのまにか変ってしまったのだ!》
彼は草場を出て、街道づたいに、村のほうへ歩いて行った。そよ風が起って、空は灰色に曇ってきた。いつも闇に対して光が完全な勝利を占める暁を前にした、あのどんよりしたひとときが訪れてきたのであった。
リョーヴィンは寒さに身を震わせ、地面を見ながら、速足に歩いて行った。《あれはなんだろう。だれかが車に乗ってやって来るんだな》彼はふと鈴の音を聞きつけて、顔を上げた。四十歩ばかり離れた向うから、彼の歩いている同じ草ぶかい街道づたいに、四頭立ての箱馬車がやって来るのだった。轅《ながえ》につけられた馬は、轍《わだち》の跡を避けて、轅のほうに寄ってしまったが、御者台の上に横すわりにかけていた熟練した御者は、轅を轍の跡にそって向けなおしたので、馬車はまた平らなところを走りだした。
ただそれだけのことに気づいたリョーヴィンは、だれが乗っているかということなど少しも考えずに、ぼんやりと箱馬車の中に目をやった。
箱馬車の中には、ひとりの老婦人が片すみでまどろんでおり、その窓ぎわにはいましがた目をさましたばかりらしい若い娘が、白い帽子のリボンを両手でおさえながらすわっていた。リョーヴィンの生活とは縁のない、この優雅で、複雑な内容を秘めた、明るい感じの令嬢は、なにか考えこむような風《ふ》情《ぜい》で、彼の頭越しに、朝焼けをながめていた。
その幻影が消えかけた瞬間、誠実さのこもった二つの目が、彼をちらと見た。彼女は、相手がだれであるかに気づいた。と、思いがけない喜びが彼女の顔をぱっと明るくした。
彼が見誤るわけはなかった。あの目こそこの世にただ一つしかありえないものであった。彼のために、生活の光明と意義のすべてを集中する力をもった人は、この世にただひとりしかいないのであった。それは彼女であった。それはキチイであった。彼女は鉄道の駅から、エルグショーヴォへ行くところなのだ、と彼は察した。すると、このまんじりともしなかった一夜に、リョーヴィンの心を興奮させたいっさいのものが、彼の誓ったいっさいの決意が――なにもかもまたたく間に消えてしまった。彼は百姓娘と結婚しようと夢みたことを思いだして、嫌《けん》悪《お》の念にかられた。ただあそこの中に、あのみるみるうちに遠ざかって、道路の反対側へ移って行くあの箱馬車の中にこそ、このところずっと彼を悩まし苦しめている生活上の謎《なぞ》をとく可能性が見いだされるのであった。
彼女はもうそれ以上のぞかなかった。馬車のばねの音は聞えなくなって、鈴の音ばかりがかすかに響いていた。犬のほえ声が、やがて、馬車が村を通り抜けたことを示した、――そして、そこに取り残されたものは、ただがらんとした野原と、行く手の村と、荒れはてた街道をひとり行く、いっさいのものに縁のない、孤独な彼自身だけであった。
彼は空を仰いだ。先ほど見とれたあの真珠貝の雲を捜そうと思ったのである。それは彼にとって、昨晩の思索と感情の動きを、すべて象徴するものであった。が、空には真珠貝に似たものは、もうなにひとつなかった。その、はかり知れぬ高みでは、はやくも神秘的な変化が行われていた。そこには、真珠貝の跡形さえなく、空の半ばをおおう、平らな雲のじゅうたんが一枚、ひろがっていて、その小羊のような模様は先へいくほどしだいに小さくなっていた。空は青みがかって、輝きはじめた。そして、彼のもの問いたげなまなざしに対しては、同じような優しさを示しながらも、しかし相変らず近づきがたいきびしさをもってこたえるのであった。
《いや》彼はつぶやいた。《あの単純で労働にみちた生活がどんなにいいからといっても、おれはもうそこへもどることはできない。おれはあの人《・・・》を愛しているのだから》
13
カレーニンにもっとも近しい人びとのほかは、だれひとり、この一見きわめて冷静で、思慮ぶかい人物が、その性格とは矛盾する一つの弱点をもっていることを、知らなかった。カレーニンは、女子供が泣くのを、平然とながめたり、聞いたりすることのできないたち《・・》だった。涙を見ると、とたんに、どうしていいかわからない気持になり、物事を考える力をすっかり失ってしまうのだった。彼の事務主任や秘書は、それを知っていたので、婦人の請願者に対しては、もし用件をだめにしたくなかったら、けっして泣いてはいけないと、前もって注意していた。『あの方は腹を立てて、とてもあなたのいうことを聞いてはくれませんよ』彼らはそう警告するのだった。いや、実際、こうした場合、涙のためにひき起されるカレーニンの精神的困惑は、性急な怒りとなって表われるのであった。『いや、できません。私にはなにもしてあげることはできません。さっさとお帰りください』そんな場合、彼はいつもこんなふうにどなるのであった。
競馬から帰る途中、アンナが彼にヴロンスキーとの関係を告白してから、いきなり両手で顔をおおって泣きだしたときも、カレーニンの心の中には妻に対する憎悪がわき起ったにもかかわらず、それと同時に、彼は涙を見て起る例の精神的困惑が、潮《うしお》のようにおそってくるのを感じた。彼は自分でもそれを知り、その瞬間における自分の感情の表現が、その場にふさわしくないことを承知していたので、努めて自分の生命感の表現をおさえて、そのために、じっと身じろぎもせず、妻のほうを見ようとはしなかった。その結果、彼の顔には、アンナをぎょっとさせたあの奇妙な、死人のような表情が浮かんだのである。
ふたりが別荘へ帰ると、彼は妻を馬車からおろし、努めて自分をおさえながら、例の慇《いん》懃《ぎん》な態度で別れを告げ、あとで少しも気にかからないおざなりの言葉を口にした。彼はあす、自分の決意を知らせよう、といったのである。
彼の最悪の想像を肯定した妻の言葉は、カレーニンの心に残酷な苦痛を与えた。この苦痛は、妻の涙によって呼び起された妻に対する奇妙な肉体的憐憫《れんびん》感のために、なおいっそう激しくなった。ところが、馬車の中でひとりきりになってみると、カレーニンはその憐憫の情からも、最近ずっと苦しめられていた嫉《しっ》妬《と》の疑いや苦しみからも、まったく解放されているのを感じて、われながら驚くと同時に、とてもうれしかった。
彼は長いこと痛んでいた歯を、やっと抜き取った人のような感じを味わった。病人は恐ろしい苦痛を覚え、なにかしら巨大な、自分の頭よりも大きなものが、あごから引き抜かれたような感じになってから、急に、あれほど長く自分の生活をわざわいし、いっさいの注意を一点に釘《くぎ》づけにしていたものが、もはや存在しなくなったのを感じ、これから自分はまた生活したり、考えたり、自分の歯以外のことに興味をもったりすることができると知って、すぐには自分の幸福を信じられないことがあるが、この感じをカレーニンも味わったのである。その苦痛は奇妙な、恐ろしいものであった。しかし、今はそれもなくなってしまった。彼は、自分が再び生きていくことができ、妻以外のことも考えることができるのを感じた。
《まったく、名誉心もなければ、誠意も宗教心もない堕落した女だ! わしには前々からそれがわかっていたのだ。ただ、あれをかわいそうに思って、自分で自分を欺こうと努めてはいたが、前からちゃんとそれは承知していたのだ》彼は自分にいいきかせた。すると、彼にはほんとうに前々からそれを承知していたように思われるのだった。以前にはそれほど悪いとも思われなかったふたりの過去の生活を、細かい点まで思い起した。すると、今ではその細かい点のひとつひとつが、妻の前々から堕落した女だったことを、はっきりさせるのであった。《あんな女と結婚したのは、わしの誤りだったよ。もっとも、このわしの誤りにはなにひとつ悪いことはないさ。となると、わしは不幸になるわけにはいかん。悪いのはわしじゃなくて》彼は考えた。《あいつなのだから。しかし、わしにはもうあんな女なんて用はないさ。あいつはわしにとってはもう存在しちゃおらんのだ……》
妻とむすこの身にふりかかるであろういっさいのことは、もう彼の関心をひかなくなった。むすこに対しても、彼は妻に対すると同様、従来の感情を一変してしまった。いまや彼の唯一の関心事は、どうしたらいちばんうまく、世間体もよく、また、自分に都合のいいように、したがってもっとも公平なやり方で、妻の醜行によって浴びせられた恥辱の泥をはらい落し、自己の勤勉な、名誉ある有益な生活の歩みをつづけることができるか、という問題にしぼられていた。
《卑しむべき女が罪を犯したからといって、わしまで不幸になるわけにいかん。ただわしは、その女のためにおちいった苦しい立場から抜けだす最善の道を見いださなくてはならんのだ。なに、わしはそれを見つけだすさ》彼はしだいに深く眉《まゆ》をひそめながら、自分にいいきかせた。《こんなことはなにも、わしがはじめてでもなければ、最後でもないんだから》すると、あの美女ヘレネー《・・・・・・・・》によって万人の記憶によみがえった、メネラオスをはじめとする歴史的な実例はいうにおよばず、現代の上流社会における夫に対する妻の不貞の実例が、次々にカレーニンの頭の中に浮びあがってきた。《ダリヤーロフ、ポルタフスキー、カリバーノフ公爵、パスクージン伯爵、ドラム……。そう、ドラムまでが……あれほど潔白で有能な人物でも……。セミョーノフ、チャーギン、シゴーニン》カレーニンは思いだしていった。《まあ、かりに、ある種の不合理な ridicule が、これらの人たちに降りかかったとしても、わしはその中に不幸以外のなにものをも見ようとはしなかったし、そうした人たちにいつも同情をいだいたものだ》カレーニンは考えた。もっとも、これは事実ではなく、彼は今まで一度も、この種の不幸に同情したためしがなかったばかりか、夫にそむいた妻の話が多ければ多いほど、自分というものをますます高く評価していたのであった。《これはどんな人間にも降りかかる可能性のある不幸なのだ。そして今、その不幸がわしにも降りかかってきたわけだ。問題はただ、どうしたらいちばんうまいぐあいに、この状態に耐えられるかということだ》そう考えて彼は自分と同じ状態にあった人びとの行動を、細かいところまでいちいち吟味しはじめた。《ダリヤーロフは決闘をやったな……》
決闘ということは、若い時分、カレーニンの心をとくに強くひきつけたものであるが、それは彼が肉体的に臆病な人間であり、自分でもそれを痛感していたからであった。カレーニンは、ピストルが自分に向けられている光景を、恐怖の思いなしに、想像することができなかったし、これまでに一度も、いかなる武器をも手にしたことはなかった。この恐怖心が若い時分から彼によく決闘ということを考えさせ、自分の生命を危険にさらさねばならぬ場合に対処する心がまえをさせてきたのであった。彼も社会的に成功して、確固たる位置を獲得してからは、長らくこの感情を忘れていた。ところが、感情の習性がたちまち目ざめて、自分の臆病に対する恐怖心が、今なおきわめて強かったので、カレーニンは決闘という問題を長いこと、あらゆる観点から考察し、頭の中でいじくりまわしていた。もっとも、彼はどんなことがあっても、自分は絶対に決闘などしないということを、前もって承知していたのである。
《疑いもなく、われわれの社会はまだまだかなり野蛮だから(イギリスなんかとは比較にもならん)、きわめて多数のものが(このきわめて多数のものの中には、カレーニンがとくにその意見を尊重しているような人びとも含まれていた)、決闘というものを是認するだろう。しかしながら、それからどんな結果がえられるというのか? まあ、かりに、わしが決闘を申し込むとする》カレーニンは心の中で考えつづけたが、決闘をあすにひかえた晩と、自分に向けられたピストルをまざまざと思い描くと、思わずびくっと身ぶるいし、自分にはそんなことはできない、と悟るのだった。《まあ、かりに、わしがやつに決闘を申し込むとしよう。そして、わしはやり方を教えられて》彼は考えつづけた。《定めの位置に立たされて、引き金を引くとしよう》彼は目を閉じながら、つぶやいた。《そして、わしがやつを殺したとしても》カレーニンはそうつぶやいたが、すぐに、こんな愚かな考えを追いはらおうとでもするかのように、頭を左右に振った。
《罪を犯した妻とむすこに対する自分の態度をきめるために、こんな殺人がいったいどんな意味をもつというのだ? あれに対してとるべき処置も、やっぱり、そうした方法できめるべきなのだろうか? いや、それよりもっとたしかなまちがいのないことは、このわしが殺されるか、傷を受けるかということじゃないか。このわしのように、なんの罪もない、単に犠牲者にすぎない人間が、殺されたり、傷を受けたりするなんて。このほうがもっと無意味なことじゃないか。いや、そればかりではない。わしのほうから決闘を申し込むのは、誠意を欠いた行為になるだろう。それに、友だちがわしにそんなことを許さないのは、前からわかりきった話じゃないか。つまり、ロシアにとって必要な国家的人物の生命が危険にさらされるのを、みんなは黙って放っておくはずがないじゃないか。じゃ、いったい、どうなるというのだ? いや、結局のところ、わしは事件が生命の危険というところまでいかないのを、前もって承知のうえ、この挑戦によって、一種の虚偽の見栄をはろうとするだけのことなのだ。これは誠意のない、偽りの行為だし、これでは他人をも、自分自身をも欺くことになる。いや、とても決闘なんて考えられやしないさ。それに、第一、だれもそんなことをこのわしに期待しちゃいない。わしの目的は、自分の活動を順調につづけていくのに必要な名声を保つ、ということなんだから》以前からカレーニンの目に大きな意義をもっていた役所の仕事が、いまや彼にとって、とくに意義ぶかいものに思われるのだった。
決闘という問題を吟味したうえ、それを否定してしまうと、カレーニンは、自分の思い浮べた夫たちの幾人かが選んだ第二の方法たる離婚という問題を取りあげてみた。彼は離婚の場合を、いろいろと記憶の中で調べてみたが(そうした例は、彼のよく知っている最上流社会には、ひじょうに多かった)、しかしカレーニンは、その離婚の目的が自分の今考えている目的に合致するようなものは、一つとして見いだすことができなかった。どんな場合をとってみても、夫は不貞な妻を譲るか、売るかしていた。そして、犯した罪のために正当な結婚をする権利を失った女たちは、新しい夫とうわべだけ合法的な虚構の関係を結んでいた。そこで自分の場合を考えてみると、カレーニンは正式な離婚、つまり、罪を犯した妻だけが追い出されるような離婚の目的を達することは、不可能なことに気づいた。彼は自分のおかれている複雑な生活条件が、妻の罪を証拠だてるために法の要求する、醜悪な事実の証明を許さないことを見てとった。たとえ、そうした証拠があったとしても、彼の生活上のあの洗練された立場が、そうした証拠の適用を許さず、もしあえてそれを適用すれば、彼は妻以上に、社会的な信用を失うことを認めざるをえなかった。
離婚の試みは、単に不体裁な裁判ざたとなって、敵のためにはまたとない誹《ひ》謗《ぼう》の種となり、高い社会的地位を占める彼を傷つけるにすぎないであろう。その肝心な目的は、つまり、騒ぎを最小限度にとどめて、事態を解決することは、離婚によっても達することはできなかった。そればかりか、離婚すれば、いや、単に離婚の試みをすることだけでも、妻が夫との関係を絶って、情夫と結びついてしまうのは、わかりきったことであった。しかも、カレーニンはいまや妻に対して、激しい侮《ぶ》蔑《べつ》と無関心の態度をとっていると自分では思っていたにもかかわらず、その心の底には、妻がなんの障害もなくヴロンスキーと結ばれて、その犯した罪が妻のためにかえって役立つことを、望まない気持が残っていた。こうしたことをちょっと考えただけでも、カレーニンはすっかり気分がいらいらしてしまった。そうしたことを想像するだけで、心の痛みに思わずうめき声をたてて、からだを起し、馬車の中で席を変えたほどであった。そして、彼はその後も長いこと眉をしかめながら、すぐ冷えこみやすい骨ばった足を、毛のふわふわした膝掛けでくるむのであった。
《正式な離婚のほかにも、まだカリバーノフやパスクージンや、あの善良なドラムがやったような方法もあるわけだ。つまり、妻と別居することだ》彼は少し落ち着きを取りもどしてから、なおも考えつづけた。ところが、この方法も離婚の場合と同様、醜聞をまくという不便をともなっていたし、それになによりも、肝心なことはこれまた正式な離婚の場合と同じく、妻をヴロンスキーの抱擁にまかせることになるのであった。《いや、そんなことはできない、断じてできない!》彼はまたもや膝掛けをなおしながら、大声でこういった。《わしは不幸になってはならんし、彼女と彼は幸福になってはならんのだから》
真実のはっきりしなかったあいだ、彼を苦しめていたあの嫉妬の感情は、妻の言葉でひと思いに痛い歯を抜かれた瞬間、消えてしまった。ところが、この感情は別のものに取って代えられた。それは妻に勝利を祝福させないばかりか、おのれの罪に対する報いを受けさせたい、という願望であった。彼もこの感情を自認してはいなかったが、心の奥底では、夫の平安と名誉を傷つけた罰として、妻が苦しむことを望んでいたのである。こうして、再び決闘や離婚や別居の条件を、吟味してみて、それらを改めて否定してから、カレーニンは解決の法はただ一つしかないことを確信した。すなわち、今度の出来事を世間から隠して、ふたりの関係を絶つためにあらゆる手段を講じ、なによりも肝心なことは、これは自分でも気づかなかったことであるが、妻を罰するために、これからも妻を手もとにおくことであった。《わしは自分の決意を言明しなくちゃならん。つまり、あれのおかげで家族のおちいった困難な状態をよくよく考えたすえ、いっさいの他の方法は、外面的なstatu quo より以上に、双方のためにならんから、わしは後者を選ぶことに同意しよう。ただしかし、あれが情夫との関係を絶つという、わしの意志を遂行するというきびしい条件をつけなければならん》この決意が最終的なものとして受けいれられたとき、それを裏書きするような一つの重大な考えが、カレーニンの頭に浮んできた。《この決意によってのみ、わしは宗教とも一致した行動をとることになるのだ》彼はつぶやいた。《この決意によってのみ、わしは罪ある妻をしりぞけないで、改悛《かいしゅん》の可能性を与えることができるのだ。いや、それに――このことはわしにとってどんなに苦しいことであろうとも、妻を改悛させ救うために、自分の力の一部をささげることにしよう》カレーニンは、自分が妻に対して精神的な感化を及ぼしえないから、したがって、この改悛の試みからも虚偽以外のなにものも生れないことを承知しておりながら、また、今この苦しい立場に立たされて、宗教に啓示を求めようなどとは、まったく考えてみたこともなかったにもかかわらず、いまや彼の決意が宗教の要求と一致したかと思うと、この宗教的是認が、彼に十分な満足と、ある程度の落ち着きをもたらしてくれるのだった。これほど重大な生活上の事件においても、彼がつねに世間の冷淡と無関心の中にあって、高々とその旗を掲げてきた、宗教の掟《おきて》に反する行為をしたとは、だれひとりいうものはあるまいと思うと、彼もすっかりうれしくなった。カレーニンはさらにいろいろと細かい点を吟味していくうちに、妻に対する自分の態度が、これまでとほとんど同じものではありえないということすら、わからなくなってしまった。疑いもなく、彼はもう二度と再び、妻に対して尊敬の念をもつことはできないだろう。しかし、妻が悪い女であり、不貞な妻であったために、彼が自分の生活を破滅させ、苦しまなければならないという理由は少しもないし、またありえなかった。《いや、時がたてば、いっさいのものをうまく処理してくれるだろう。そして、以前の関係が復活するだろう》カレーニンは自分にいいきかせた。《まあ、わしが自分の生活の流れに不都合を感じないぐらいには復活するだろうよ。そりゃ、あれが不幸になるのは当然だが、わしにはなんの罪もないんだから、わしが不幸になるわけにはいかんよ》
14
ペテルブルグへ近づいたころには、カレーニンはこの決意をかたく心に秘めていたばかりでなく、妻へ書く手紙の文面まで、頭の中で組み立てていたほどであった。玄関番の部屋へはいると、カレーニンは本省から届いていた書類や手紙に目を走らせ、すぐ書斎のほうへ持って来るように命じた。
「馬をはずしておいてくれ。それから、だれも通さんように」彼は玄関番の問いに答えて、『通さんように』という言葉に力をこめながら、上きげんであることを示す、一種の満足感を表わして、いった。
カレーニンは、書斎の中を二度ほど歩きまわって、大きな仕事机のわきで立ち止った。その机の上には先にはいって来た召使が、もうろうそくを六本ともしてあった。彼は指をぽきぽき鳴らすと、文房具をいじりながら、腰をおろした。彼は机の上に両肘《ひじ》をつき、頭を横にかしげ、ちょっと考えてから、いっときも手を休めず、書きはじめた。彼は妻に対する呼びかけの言葉を書かずに、フランス語で『あなた』という代名詞を用いながら、書いていった。この言葉はロシア語の場合ほど冷やかな響きをもっていなかったからである。
『先ほど話し合ったとき、私はあの話合いの内容について自分の決意をお伝えするということを表明しておきました。私はすべてを慎重に考えたうえ、その約束を果すために、今筆をとりました。私の決意は次のようなものであります。あなたの行為がどのようなものであろうとも、私は神の権威によって結ばれた私たちの絆《きずな》を自分で破る権利はないと考えています。家庭というものは、気まぐれや、わがままや、いや、それどころか、夫婦どちらかの罪によってすらも、破壊さるべきものではありません。したがって、私たちの生活は、今までどおりにつづけられねばなりません。このことは私にとっても、あなたにとっても、私たちのむすこにとっても必要なことであります。私は今、あなたがこの手紙の原因となった事実について、悔悟されたことを、いや、悔悟されつつあることを、また、あなたが私たちの不和の原因を根絶し、過ぎ去ったことを忘れるために、私に協力してくださることを確信しております。もしそうでない場合には、なにがあなたとあなたのむすこを待ち受けているかは、あなた自身もたやすく想像できることと存じます。こうしたいっさいのことについては、いずれお目にかかったおりに、もっと詳しくご相談したいと思います。別荘生活の季節も終りに近づいたことですから、なるべく早く、火曜日までにはペテルブルグへ帰って来てほしいと思います。あなたの引き揚げに必要な用意は、いっさい、させておきましょう。なお、私はこのお願いが実行されることに、特別の意味を認めていることを、一言注意しておきます。
A・カレーニン
追伸 そちらの経費として必要と思われる金額を、この手紙に同封いたします』
彼はその手紙を読み返し、その内容に満足した。とくに、金を同封することを思いついたことに満足を感じた。そこには残酷な言葉づかいもなければ、非難めいた語調もないが、さりとて、卑下したようなところもなかった。なによりも肝心なのは、妻の帰宅のために黄金の橋をかけることであった。手紙をたたみ、大きなどっしりした象牙《ぞうげ》のペーパー・ナイフで、それをひとなでし、それをお金といっしょに封筒へ入れると、彼はいつもよく整った文房具を扱うときのような満足感をいだきながら、ベルを鳴らした。
「これをあす使いの者に渡して、別荘のアンナにとどけるようにいってくれ」
彼はそういって、立ちあがった。
「かしこまりました、閣下。お茶は書斎のほうへお持ちいたしましょうか?」
カレーニンはお茶を書斎へ持って来るように命じ、例のどっしりしたペーパー・ナイフをいじくりながら肘《ひじ》掛《か》けいすのほうへ立って行った。そこにはランプと、読みかけのユギュービアム表に関するフランス語の本がおかれてあった。その肘掛けいすの上には、有名な画家が見事に描いたアンナの肖像画が、楕《だ》円《えん》形《けい》の金の額縁にいれてかかっていた。カレーニンは、ふと、それを見上げた。なにを考えているのかわからないようなひとみが、最後にふたりが話合いをした晩のように、傲然《ごうぜん》とあざけるような表情で、彼を見おろしていた。画家によって巧みに描かれた頭の上の黒レースや黒髪や薬指に指輪をいっぱいはめた美しい白い手などを見ていると、カレーニンは耐えがたいほど厚顔な、挑戦的な印象を受けた。カレーニンはちらと肖像画を見上げただけで、唇《くちびる》が震え、思わず「ぶるっ」という音をたてたほど、激しく身ぶるいして、顔をそむけた。彼は急いで肘掛けいすに腰をおろし、書物を開いた。彼は読もうと努めてみたが、以前のように、エウグビウムの碑文に対するきわめて生きいきした興味を、どうしてもよみがえらすことはできなかった。彼は本をながめながら、ほかのことを考えていた。もっとも彼が考えたのは妻のことではなく、近ごろ彼の政治活動に生じた、ある複雑な事がらについてであった。それは彼の最近の勤務上における主要な関心事だったからである。彼は、自分が今いつにもましてこの複雑な事件の核心に迫り、あるすばらしい考えが頭に浮んだように感じた。この考えこそ問題のすべてを解決し、官界における彼の立場を高め、敵を失脚させ、したがって、国家に大きな利益をもたらすにちがいないと、彼はうぬぼれぬきで断言できるものであった。召使がお茶をおいて、部屋を出て行くと、カレーニンはすぐ立ちあがって、仕事机へ行った。当面の仕事に関する書類のはいっているかばんを、机のまん中へ引き寄せると、彼はかすかな自己満足の微笑を浮べながら、筆立てから一本の鉛筆を抜き取って、目下の複雑な事情に関して取り寄せた書類に読みふけりはじめた。複雑な事情とは次のようなものであった。政治家としてのカレーニンの特質、つまり、だれでもすぐれた官吏に共通の、個人的な特質である、激しい名誉心や、控えめな態度や、誠実さや、自信などとともに、彼の今日の出世を保証した特質は、文書万能の官僚主義を蔑視《べっし》して、往復文書を簡略化し、できるだけ生《なま》の事件にぶつかっていき、すべてを節約することであった。ところで、有名な六月二日の委員会では、たまたまザライスキー県の耕地潅漑《かんがい》の問題が提出された。それはカレーニンの省の管轄で、予算の浪費と事件処理におけるお役所式な公文書取扱いという点で絶好の例であった。カレーニンは、それが問題になるのはもっともだと心得ていた。ザライスキー県の耕地潅漑事業は、カレーニンの前々任者によって着手されたのであった。そして、事実、この事業にはひじょうに多額な金が支出され、今も支出されつつあるのだが、まったく効果はあがらず、この事業がなんの成果をもあげないであろうことは、もはや明らかであった。カレーニンは就任すると同時に、すぐその点を見抜いて、この問題を自分で処理しようと思った。しかし、最初のうちは、自分の立場がまだあまり安定していないのを感じて、あまり多くの人びとの利害にふれるこの事業に手をそめるのは、得策ではないと考えた。その後、彼はほかの仕事に忙殺されて、単にこの問題のことを忘れていた。ただ、事業のほうは、他のすべてのお役所仕事と同様、惰性で進んでいった(多くの人びとがこの事業のおかげで食べていたが、ことに、あるきわめてまじめな、音楽好きな一家族などは、その代表的なものであった。その家の娘たちはみんな弦楽器をひいた。カレーニンはこの家族を知っており、上の娘のひとりの名付け親になったほどであった)。反対派の省がこの事業を問題にしたのは、カレーニンの意見によれば、卑劣なことであった。というのは、どんな省にも、これよりもっとひどい問題があるのだが、世間周知の役人同士の仁義によって、だれも問題にはしないのが普通だからである。しかし、今はもう挑戦の合図として手袋が投げつけられたのであるから、彼は思いきって、それを取りあげ、ザライスキー県耕地潅漑委員会の仕事を研究し、検討するために、特別委員会の制定を要求したのである。しかし、そのかわり、彼は今後もう相手方の連中に対しても、いっさい容赦しないことにきめたのであった。彼は異民族統治の問題についても、さらに特別な委員会の制定を要求した。この異民族統治の問題は、偶然、六月二日の会議で提起されたのであったが、カレーニンは異民族の悲惨な状態を理由に、猶予を許さぬ問題として、熱心に支持したのである。この問題は委員会においていくつかの省の抗議の原因となった。カレーニンと敵対関係にある省は、異民族の状態はきわめて良好であり、予想されている改革は、かえってその繁栄を滅ぼすおそれがあるし、もし現になにか良からぬことがあるとすれば、それは単にカレーニンの省が、法律の命ずることを遂行していないためである、と反論した。そこで今カレーニンは、次のような要求を提出しようともくろんだのである。第一、新しい委員会を組織して、これに異民族の状態の現地調査を行わせること、第二、もし異民族の状態が、実際、委員会の手もとにある公文書の示すようなものであるならば、異民族のこのような悲しむべき状態をもたらした原因を調査するため、改めて、新しい学術委員会を組織し、(a)政治的、(b)行政的、(c)経済的、(d)人種学的、(e)物質的、(f)宗教的見地から検討すること。第三、今日、異民族がおかれている不利な条件を防止するために、反対派の省が最近十年間にどんな政策をとってきたかについて、同省から報告を求めること。第四、最後に、いかなる理由で同省は、委員会に提出された報告、すなわち、一八六三年二月五日付第一七〇一五号、および一八六四年六月七日付第一八三〇八号にあらわれているように、法令集第*巻第十八条および第三十六条但書《ただしが》きの根本精神にまったく反するような行動をとったかについて、同省から弁明を求めること。以上のような腹案のあらましを素早く書きとめていったとき、カレーニンは急に活気づいて、顔を紅潮させた。一枚の紙にびっしり書き終ると、彼は立ちあがって、ベルを鳴らし、必要な事項を調査して届けるようにという走り書きの手紙を、事務主任のもとへ持たしてやった。立ちあがって、部屋の中をひとまわりしてから、彼は再び肖像画にちらっと目をやり、眉をひそめて、さげすむような笑いをもらした。それからエウグビウムの碑文に関する書物をまた少し読んで、その本に対する興味をとりもどすと、カレーニンは十一時に寝室へ足を運んだ。そして、床の中に身を横たえながら、妻との一件を思い起したときには、それはもうそれほど陰鬱《いんうつ》なものとは思われなかった。
15
アンナは、ヴロンスキーからきみが今の立場をとるのはもうこれ以上むりだといわれ、すべてを夫に打ち明けるべきだと説得されたときには、やっきとなって頑強《がんきょう》に反対したものの、心の底では自分の立場を偽りな、恥ずべきものと感じて、心底からそれを一変したいと願っていた。夫といっしょに競馬から帰る途中、アンナは興奮のあまり、すべてを告白してしまった。もっとも、そのときは激しい心の痛みを覚えたものの、アンナはそれをあえてしたことを喜んだ。夫が彼女を残して行ったあと、アンナはこれですべてははっきりするだろう、いや、すくなくとも、虚偽や欺《ぎ》瞞《まん》はなくなるわけだ、と喜んで、自分にそういいきかせた。アンナには、今度こそまちがいなく自分の立場が永久に決定されるような気がしたのである。その新しい立場はひょっとするとよくないかもしれないが、そのかわり、すべてがはっきりして、そこにはあいまいさも虚偽もなくなるだろう。あのようなことを告白して、自分と夫に与えた苦痛も、いまやすべてのことがはっきりするということで償われるだろう、とアンナは考えた。その同じ晩、アンナはヴロンスキーに会ったが、夫とのあいだに起ったことについてはなにも話さなかった。しかし、彼女の立場を決定するためには、それはぜひとも話さなければならないことであった。
翌朝、目をさましたとき、最初に彼女の頭に浮んだのは、自分が夫にいった言葉であった。その言葉はあまりにも恐ろしいものに思われたので、今になってみると、なぜあんな乱暴な言葉を口にすることができたか、自分でも納得がいかなかったし、その結果がどんなことになるか、想像もできないくらいであった。しかし、とにかく、あの言葉はもう口から発せられたのであり、カレーニンはなにもいわずに立ち去ってしまったのである。《あたしはヴロンスキーに会いながら、なにもあの人に話さなかった。あの人が帰りかけたとき、あたしはよほど呼びとめて話そうかと思ったのに、なぜはじめにすぐいわなかったのかと、変に思われそうな気がして、やめてしまった。なぜあたしは話そうと思いながら、やめてしまったのかしら?》さながらこの問いに対する答えのように、燃えるような羞恥《しゅうち》の色が、アンナの顔にひろがった。彼女は自分をおさえたものがなんであるかを悟った。つまり、自分は恥ずかしかったのだと悟った。きのうの晩にははっきりしたように思われた自分の立場が、今になってみると、はっきりしないどころか、逃げ道がないように思われるのだった。前にも考えてもみなかった恥辱ということが、急に恐ろしくなってきた。夫がどういう態度に出るだろう、と考えただけでも、彼女にはこのうえもなく恐ろしい想像が頭に浮んでくるのだった。今すぐにも執事がやって来て、自分を家から追い出し、自分の恥知らずな行いが世間に知れわたる、そんな想像も浮んできた。もし家から追い出されたら、どこへ行ったものだろうと、アンナは自問してみたが、その答えを見いだすことはできなかった。
アンナはヴロンスキーのことを考えても、彼はもう自分を愛してはおらず、かえって自分をもう厄介者に感じているのだから、とても彼に自分をまかせるわけにはいかないような気がして、そのために、彼に対して敵意すら感ずる始末であった。彼女はまた、自分が夫にいったあの言葉、いや、今も自分の心の中でたえず繰り返しているあの言葉は、夫だけでなくすべての人にいったものであり、今はだれもかれもそれを知っているような気がした。そのため、彼女はいっしょに住んでいる人たちの顔を、まともに見る勇気がなかった。小間使を呼ぶ気にもなれなかったばかりか、階下《した》へおりて行って、むすこや家庭教師と顔をあわせることなど、なおさら、思いもよらなかった。
もうかなり前から戸口で様子をうかがっていた小間使は、自分のほうから部屋の中へはいって来た。アンナはもの問いたげに、ちらとその目を見たが、すぐさま、おびえたように頬《ほお》をそめた。小間使は黙ってはいって来たことをあやまり、ベルが鳴ったような気がしたので、といった。小間使は着物と手紙とを持って来た。手紙はベッチイからのものだった。ベッチイは、けさ自分のところへ、リーザ・メルカーロヴァとシュトルツ男爵夫人が、それぞれの崇拝者であるカルジュスキーとストリョーモフ老人を伴って、クロケットをするために集まることになっているからと、わざわざアンナに念をおしてきたのである。『風俗の研究にもなりますから、せめてちょっとだけでもいらしてください。お待ち申しあげております』と、彼女は結んでいた。
アンナはその手紙を読み終えると、苦しそうに溜息《ためいき》をついた。
「なんにも、なんにも、用はないわ」アンナは化粧台の上の香水瓶《こうすいびん》やブラシを、置きかえているアンヌシカに向って、いった。「もう行ってもいいわよ。あたしはすぐ着替えをして、出かけるから。なんにも、なんにも用はないわ」
アンヌシカは出て行った。しかし、アンナは着替えをしようともせず、頭をたれ、両手をだらりと下げたまま、じっと同じ姿勢ですわっていた。そして、時たま、なにかいいたそうに、ある種の身ぶりをするかのように、全身をぴくっと震わせたかと思うと、またもとの不動の姿に返るのであった。アンナはひっきりなしに、『あたしの神さま! あたしの神さま!』と繰り返していた。しかし、その『あたし』も『神さま』も、彼女にとってはなんの意味ももっていなかった。自分の境遇に宗教の救いを求めようという考えは、彼女が宗教的な環境に育って、宗教に対しては一度として疑いをいだいたことがないにもかかわらず、アンナにとっては、あたかもカレーニンその人に救いを求めるのと同じくらい無縁なものであった。彼女は、ただ自分の生活の意義となっているものを断念するという場合にのみ、宗教の救いが可能であることを、あらかじめ承知していた。アンナは今まで一度も経験したことのない新しい精神状態に対してただ苦しいと感ずるばかりでなく、それに恐怖の念さえ覚えはじめていた。彼女はときどき自分の心の中で、すべてのものがみんな二重になっていくような気がした。それは疲れた目に、ときどき、まわりの物がすべて二重に映るようなぐあいだった。ときには、自分がなにを恐れているのか、なにを望んでいるのか、自分でもわからなかった。彼女が恐れたり、望んだりしているのは、もうすでにできてしまったことなのか、それとも、これから起ることなのか、いったい、なにを待ち望んでいるのか、彼女には自分でもわからなかった。
《まあ、あたしったら、なにをしてるんだろう?》アンナはふと頭の両側に痛みを感じて、ひとり言をいった。気がついてみると、両手で自分のこめかみのあたりの毛をつかんで、ぎゅっと締めつけているのだった。彼女はさっと立ちあがって、あちこち歩きはじめた。
「コーヒーのおしたくができました。マドモアゼルもセリョージャさまとごいっしょにお待ちでいらっしゃいます」アンヌシカは再びもどって来て、相変らずアンナが同じ姿勢でいるのを見て、いった。
「セリョージャですって? セリョージャがどうかしたの?」アンナは急に生きいきした顔つきになって、たずねた。それはけさになってからはじめて、わが子の存在を思いだしたからであった。
「なにか、おいたをなすったようでございます」アンヌシカはにこにこ笑いながらいった。
「まあ、おいたをしたですって?」
「あちらのかどのお部屋に桃がおいてありましたの。それをこっそり一つ召しあがったらしいのでございます」
わが子のことを思いだすと、アンナはたちまち、今まで自分が落ちこんでいた救いのない状態から抜けだすことができた。彼女は、かなり誇張もあるが、一部には真実である、子供のために生きている母親の役割を思い起したのである。彼女はここ数年来、この役割を引き受けてきたのであるが、今自分がおちいっているこの救いのない状態にいても、夫やヴロンスキーとの関係に左右されない自分の王国があることをうれしく感じた。この王国とはむすこのことであった。たとえどんな境遇になろうとも、むすこだけは見捨てることはできないだろう。たとえ夫にはずかしめられ、追い出されようと、また、ヴロンスキーが自分に愛《あい》想《そ》をつかして、ひとり勝手な生活を送るようになろうとも(アンナはまたしてもかんしゃくを起して、非難めいた気持で彼のことを考えた)、むすこだけは手放すことはできないだろう。自分には生活の目的があるのだ。なんとか行動しなければならない。わが子との現在の境遇を保障するために、子供を奪われないために、なんとか行動をしなければならない。いや、それもなるべく早く、一刻も早く、子供が自分の手から奪われないうちに、行動しなければならないのだ。さあ、子供を連れて、出かけなければいけないのだ。これが、今自分のしなければならぬただ一つのことなのだ。この苦しい境遇から抜けだして、気持を落ち着ける必要があるのだ。と、わが子に結びついた目前の仕事と、その子供を連れてすぐにもどこかへ行かなければならぬという思いが、彼女に必要な落ち着きを与えた。
アンナは素早く着替えをして、階下《した》へおりて行くと、しっかりした足どりで客間へはいって行った。そこには例によって、コーヒーとセリョージャと女の家庭教師が待っていた。白ずくめの服装《なり》をしたセリョージャは、鏡の下のテーブルのそばに立って、背中と頭をかがめ、緊張した面持ちで、自分が持って来た花をいじくっていた。その様子は、彼女のよく承知しているものであり、父親そっくりのところがあった。
家庭教師は特別きびしい態度をとっていた。セリョージャは、いつもの癖で、甲高《かんだか》い声で、「ああ、ママ!」と叫んだきり、その場に釘《くぎ》づけになった。少年は花を捨てて、母親のそばへあいさつに行ったものか、それとも、花輪を仕上げてから、それを持って行くべきかと、決心がつかなかったのである。
家庭教師はあいさつをしてから、セリョージャのやったいたずらについて、長々と克明に、話しだしたが、アンナは相手の話を聞いていなかった。アンナは、この女《ひと》も連れて行ったものかしら、と考えていたのである。《いいえ、やっぱり、連れて行くのはよそう》アンナはきめた。《あの子とふたりだけで行ったほうがいいわ》
「ええ、それはほんとによくないことですわね」アンナはいって、わが子の肩に手をかけ、きびしいというより、むしろおどおどしたような目つきでその顔をのぞきこみ、接吻《せっぷん》した。むすこはその目つきにちょっとまごついたが、すぐ笑顔をみせた。「ちょっと、子供とふたりだけにしてくださいね」アンナはびっくりしている家庭教師にいって、むすこの手を放さずに、コーヒーの用意のできているテーブルについた。
「ママ、ぼくは……ぼくは……なんにも」少年は桃の一件でどんな罰を受けるかと、母の顔つきで察しようと努めながら、いった。
「ねえ、セリョージャ」アンナは家庭教師が部屋を出ると、すぐに話しかけた。「あんなことをしてはいけないわ。でも、もうあんなことはしないわね……坊やはママが好き?」
アンナは、目に涙があふれてくるのを感じた。《こんなかわいい子を愛さないわけにはいかないわ》彼女はわが子のおびえたような、同時にさもうれしそうな目をじっと見つめながら、そう自分にいいきかせた。《この子が父親といっしょになって、あたしを罰するなんてことがあるかしら? あたしをかわいそうだと思わないなんてことがあるかしら?》もう涙は彼女の頬をつたって流れた。すると、アンナはそれを隠すために、だしぬけに立ちあがり、ほとんど走るようにして、テラスへ出て行った。
この二、三日つづいた雷雨のあとで、涼しい、さわやかに晴れた日和《ひより》が訪れていた。雨に洗われた木の葉を透してくる日ざしは明るかった。大気はひんやりと冷えこんでいた。
アンナはぶるっと身ぶるいした。それは冷気のためと同時に、澄んだ大気の中で新しい力をもって彼女をとらえた恐怖のためでもあった。
「あっちへ行ってらっしゃい。マリエットのところへ行ってらっしゃい」アンナは自分のあとを追って来たセリョージャにいって、テラスに敷いた麦藁《むぎわら》ござの上を歩きはじめた。《ほんとに、あの人たちって、あたしを許してはくれないのかしら? なにもかもみんなこうなるよりほかにしかたがなかったことを、わかってはくれないのかしら?》彼女は心の中でつぶやいた。
アンナはふと足を止めて、冷たい日ざしにまぶしく輝きながら、雨に洗われた木の葉をつけて風に揺れているやまならしの梢《こずえ》をながめたとき、あの人たちは許してはくれまい、だれもかれも、この空のように、この緑のように、今の自分に対しては情け容赦もしないだろう、と悟った。すると、またしても、彼女は自分の心の中が二重になっていくのを感じた。《もうしかたがないわ。もう考えたってしかたがないわ》アンナは心の中でつぶやいた。《さあ、出かけるしたくをしなくちゃ。でも、どこへ? いつ? だれを連れて行こうかしら? そうだわ、モスクワへ、夜の汽車がいいわ。アンヌシカとセリョージャに、ごく必要なものだけにして。でも、その前に、あのふたりに手紙を書かなくちゃ》アンナは急いで家の中へもどって、自分の居間へはいると、テーブルにすわって、夫への手紙を書きはじめた。
『あのようなことがございましたからには、あたくしはもうあなたさまのお家《うち》にとどまっているわけにはまいりません。あたくしはセリョージャを連れて、出て行きます。あたくしは法律を知りませんから、むすこは両親のうちどちらの側に行くべきものか存じません。ただ、あたくしがあの子を連れてまいりますのは、あの子なしには生きて行くことができないからでございます。どうぞ、寛大なお心をもって、あの子をあたくしの手もとへお残しくださいますように』
ここまでは彼女もすらすらと自然に書けた。ところが、自分でも認めていない夫の寛大な心に訴える言葉を書き、なにか感動的な文句で手紙を結ばなければと考えたとき、彼女はふと手を止めた。
『あたくしは自分の罰のこととか、悔悟とかいうことについてはなにも申しあげるわけにはまいりません。というのは……』
アンナは、また、自分の頭に浮んだことに脈絡を見いだすことができずに、手を休めた。《いいえ》彼女はつぶやいた。《もうそんな必要はないわ》そして、書きかけの手紙を破り、寛大な心云々《うんぬん》というところをけずって書きなおした。封をした。
もう一通、ヴロンスキーへあてて書かなければならなかった。『あたくしは主人に打ち明けてしまいました』アンナはそう書いたが、先をつづける気力がなく、長いことじっとすわっていた。それはあまりにも乱暴で、あまりにも女らしくなかった。《このうえ、あの人にいったいなにを書くことができるかしら?》彼女は考えた。と、再び羞恥《しゅうち》の紅《くれない》がその頬をそめ、彼の落ち着きはらった態度が思いだされた。すると、彼に対する無念の思いが、一行だけ書いた便箋《びんせん》をずたずたに引き裂かせた。《もうそんな必要はないわ》アンナは心につぶやいた。それから紙挟《かみばさ》みを畳んで、二階へあがり、家庭教師と召使たちに、今晩モスクワへ発《た》つと申しわたして、すぐに荷物の準備にかかった。
16
別荘の部屋という部屋を、庭番や、植木屋や、下男たちが、荷物を運び出しながら、歩きまわっていた。戸《と》棚《だな》やたんすはあけ放しになっていた。使いの者が二度も小店へ、細引きを買いに駆けだして行った。床には新聞紙がちらかっていた。二つのトランクをはじめ、いくつかの旅行袋や物をくるんだ膝《ひざ》掛《か》けなどが、玄関わきの控室へ運び出された。一台の箱馬車と一台の辻馬車《つじばしゃ》が、入口の階段の下に待っていた。荷造りの忙しさにまぎれて内心の不安を忘れていたアンナは、居間のテーブルの前に立って、旅行袋に物をつめていた。と、不意にアンヌシカが、馬車の近づく音がすると彼女の注意をうながした。アンナはちらと窓の外を見ると、カレーニンの使いが入口の階段に立って、ベルを鳴らしているのが、目にはいった。
「行って、なんの用だか、聞いてきてごらん」アンナはいって、どんなことにも覚悟のできている落ち着きを示しながら、両手を膝の上に組み合せて、肘《ひじ》掛《か》けいすに腰をおろした。下男が、カレーニンの手で上書《うわが》きされた小さな包みを持って来た。
「使いの者はご返事をいただいてくるようにと申しつかったそうでございます」下男はいった。
「いいわ」アンナはいった。そして、下男が出て行くのを待って、震える指先で手紙の封を切った。帯封をかけた、折り目のない紙幣の束が、その中から落ちた。彼女は手紙を取り出して、終りのほうから読みはじめた。『あなたの引揚げに必要な用意は、いっさい、させておきましょう。私はこのお願いが実行されることに、特別の意味を認めている』と彼女は読んだ。彼女はその先に目を走らせ、前へもどり、全部を読み通したが、さらにもう一度、はじめから読みなおした。アンナは読み終ってしまうと、急に寒けを覚えて、夢にも思わなかった恐ろしい不幸が、自分の上におそいかかってきたような感じをうけた。
けさは、アンナも夫にあんなことをいったのを後悔して、あんな言葉さえいってなかったらとそればかりを望んでいた。ところがいまや、この手紙はあんな言葉がいわれなかったものと見なして、彼女の望んでいたものを与えてくれたのである。ところが、今になってみると、この手紙は彼女の想像しうるかぎりのもっとも恐ろしいものに思われたのであった。
《あの人は正しいんだわ! 正しいんだわ!》アンナはつぶやいた。《もちろん、あの人はいつだって正しいんだわ。あの人はキリスト教徒だし、心のひろい人ですもの! でも、卑劣でいやらしい人間だわ! でも、そのことは、あたしのほか、だれひとりだってわかってはいないし、また、わかりっこないことだわ。あたしにだって、ちゃんと説明なんかできやしないわ。そりゃ、世間では、あの人のことを信心ぶかい、道徳的な、誠実な、聡《そう》明《めい》な人物だといってるけど、世間の人はあたしの見たことに気づいていやしないんだもの。あの人が八年間もあたしの生活を窒息させてきたことも、あたしの心の中に生きていたいっさいのものを窒息させたことも、あたしが愛情を必要とする生きた女だってことを、あの人は一度も考えてみてくれたことがなかったことも、世間の人はそれもこれもまったく知ってはいないんだわ。あの人がことごとにあたしを侮辱しながら、自分ひとり悦《えつ》に入っていたことを、だれも知らないんだわ。あたしは生活の意義を見いだそうとして、一生懸命に努力しなかったとでもいうのかしら? あたしはあの人を愛そうと努めなかったかしら? もうあの人を愛することができなくなったときも、あたしは子供を愛そうと努めなかったかしら? でも、もう潮時がきたんだわ。あたしもこれ以上は自分を欺くことができないと悟ったんですもの。あたしだって生きた人間なのだから、神さまがあたしをこんな女につくってくださったからといって、あたしが悪いわけじゃないし。あたしだって愛さなくちゃならない、生きなくちゃならないんだわ。そうよ、それなのに、今のこの状態はどういうことなの? たとえ、あの人があたしを殺したとしても、彼を殺したとしても、あたしはきっと、なにもかも我慢して、すべてを許したにちがいないわ。でも、もうだめだわ、だってあの人は……》
《なぜあたしは、あの人のしそうなことがわからなかったのかしら? だって、あの人は自分の卑劣な性格にふさわしいことをするにきまっていたのに。あの人は自分だけ正しい人でおしとおしながら、もう破滅した女のあたしを、もっと手ひどく、もっとみじめに破滅させようとしているんだわ》『なにがあなたとあなたのむすこを待ちうけているかは、あなた自身もたやすく想像できることです』という手紙の文面を彼女は思いだした。《これはあの子を奪ってやるぞというおどかしなんだわ。それに、きっとあの連中のばかげた法律では、それが可能なことなんだわ。それにしても、なんだってあの人がこんなことをいうのか、あたしにはそれがわからないとでも思ってるのかしら? あの人はむすこに対するあたしの愛情を信じていないか、でなければ軽蔑《けいべつ》しているんだわ(あの人がいつも物事をせせら笑っているあの調子で)。でも、あの人は、あたしのそうした感情を軽蔑しながら、あたしがあの子を捨てはしない、捨てることはできないってことを、ちゃんと承知しているんだわ。あの子がいなくては、たとえ愛する人といっしょになってもあたしには生活なんてありえないってことも、もしあの子を捨てて、夫のもとを逃げだしたら、あたしがだれよりも卑しい、けがらわしい女になるってことも、ちゃんと承知しているんだわ。ええ、あたしにそれをする気力がないってことも承知ずみなんだわ》
『私たちの生活は今までどおりにつづけられねばなりません』アンナはまた別の文面を思いだした。《ふたりの生活は前だってとても苦しいものだったけれど、ことに近ごろではもう恐ろしいものになっているのに、これから先はどうなっていくのかしら? それに、あの人はそのことをなにもかも承知しているんだわ。あたしが息をついたり、愛したりすることを、後悔なんかするわけにいかないってことを、ちゃんと承知しているんだわ。そんなことをしてみたって、うそとごまかしのほかに、なにひとつ成果のないってことも、知っているくせに、あの人はこれからもずっとあたしを苦しめなければ、気がすまないんだわ。あたしにはあの人の正体がちゃんとわかっているわ。あの人は水をえた魚のように、虚偽の中にすいすい泳ぎまわって、楽しんでいるんだわ。でも、もうだめ。あたしはそんな楽しみなんかさせておかないわ。あの人はあたしを虚偽の蜘蛛《くも》の巣でしばろうとしているけれど、あたしはそんなものを破ってやるわ。もうどうなってもかまわないわ。どんなことだって、うそやごまかしよりはましですもの!》
《でも、どうしたらいいのだろう? ねえ、あたしの神さま! あたしのように不幸な女が、この世にいたことがございましょうか?……》
「いいえ、破ってやるわ、なんとしても、破ってやるわ!」アンナはおどりあがって、涙をおさえながら、叫んだ。そして、また夫あてに別の手紙を書くつもりで、文机《ふづくえ》のそばへ近づいた。しかし、心の奥底では、自分にはなにひとつ破る力のないことを、それがどんなに虚偽に満ちた恥ずべきものであっても、今までどおりの境遇から抜けだす力はないということを、はやくも感じていた。
彼女は文机に向って腰をおろしたが、手紙を書くかわりに、机の上に両手を重ね、その上に頭をのせて、まるで子供のように、しゃくりあげながら、胸を震わせて泣きはじめた。彼女が泣きだしたのは、自分の立場を明らかに決定しようと思った夢が、永久にくずれさったのを悲しんだからであった。すべてはもとのままで、いや、もとのままどころか、いっそう悪くなるということが、アンナには前からわかっていたのである。彼女は今まで自分が享受してきた、そしてけさほどはなんの価値もないように思われていた社交界の地位が、自分にとっては貴重なものであり、夫とむすこを捨てて情夫といっしょになった恥ずべき女の立場に、それを見返るだけの力はないであろうことも、どんなに苦しんでみたところで、結局は今の自分自身以上に強くはなれないだろうということも、感じたのである。彼女はいつになってもけっして愛の自由を味わうことなく、罪ぶかい女としてとどまるだろう。彼女は生活をともにすることのできない、勝手気ままな、他人にもひとしい男と恥ずべき関係をつづけていくことによって夫を欺き、たえずおのれの罪証が明るみに出されることにおびえていかなければならないだろう。アンナはそうなるであろうことを承知しながらも、それと同時に、それがあまりに恐ろしかったので、それがどんな結末をつげるか、想像することもできなかったのである。彼女はついに我慢できなくなって、罰を受けた子供のように、泣きくずれた。
近づいて来る下男の足音に、アンナはわれに返った。そして、彼女は顔を見せないようにして、手紙を書いているようなふりをした。
「使いの者がご返事をいただきたいと申しております」下男はいった。
「返事ですって? ああ、そう」アンナはいった。「ちょっと、待たせておいてちょうだい。ベルを鳴らすから」
《あたしになにを書くことができるというの?》彼女は考えた。《あたしひとりでなにがきめられるというの? あたしにはなにがわかってるのかしら? あたしはなにを望んでるのかしら? あたしはなにを愛してるのかしら?》彼女はまたもや、自分の心が二重になっていくのを感じた。彼女はまだこの気持にぎょっとして、自分のことばかり考えたがる思いからそらしてくれるような、ある行為が頭に浮ぶと、すぐそれにとびついた。《あたしはアレクセイ(彼女は心の中でヴロンスキーをそう呼んだ)に会わなくちゃならないわ。あたしがなにをしなければいけないか、それがいえるのはあの人だけですもの。ベッチイのところへ行ってみよう。もしかしたら、あそこであの人に会えるかもしれない》彼女はつぶやいた。アンナはついきのうのこと、あたしはトヴェルスコイ公爵夫人のところへは行きませんといったら、彼もそんならぼくも行かない、といったことをすっかり忘れてしまっていた。彼女は文机へ行って、『お手紙を拝見しました。A』と夫あてに書くと、ベルを鳴らして、下男に手渡した。
「出発はとりやめにしたわ」アンナははいって来たアンヌシカにいった。
「まあ、すっかりおとりやめになるんでございますか!」
「いいえ、あすまで荷物はとかないでおいてちょうだい。馬車のほうもそのままにしておいて。あたしはこれから公爵夫人のとこまで行ってくるから」
「お召し物はどれになさいますか?」
17
トヴェルスコイ公爵夫人がアンナを招待したクロケット競技の面々は、ふたりの貴婦人とその崇拝者たちの予定であった。このふたりの貴婦人というのは、なにかの模倣を模倣するところから、Les sept merveilles du monde と呼ばれていた、新しいペテルブルグ社交界の選《え》り抜きのグループの代表者たちであった。このふたりは、事実、社交界でも最高のグループに属していたが、それはアンナの出入りしていたグループとは、敵対関係にあった。いや、そればかりか、リーザ・メルカーロヴァの崇拝者であり、ペテルブルグの有力者のひとりであるストリョーモフ老人は、その勤めの関係からいってカレーニンの敵であった。こうしたいっさいのことを考慮したうえで、アンナはこの招待に気がすすまなかった。だから、アンナが断わったことに対して、トヴェルスコイ公爵夫人が手紙でわざわざ念をおしてきたのも、じつはこの点を気にしていたからである。ところが、いまやアンナは、ヴロンスキーに会えるかもしれないという希望のために、出かける気になったのである。
アンナはほかの客たちよりも先に、トヴェルスコイ公爵夫人のところへ着いた。
アンナが中へはいって行こうとしたとき、頬《ほお》ひげをきれいになでつけ、侍従武官然としたヴロンスキーの召使が、これまたはいって行くところだった。召使は戸口に立ち止って、帽子を脱ぎ、アンナを先に通した。アンナは相手がだれだか気づくと、そのときはじめて、ヴロンスキーがきのういったことを思いだした。たぶん、彼はそのことで、手紙を持たせてよこしたのであろう。
アンナは、控室で上着を脱ぎながら、その召使がRの音までを侍従武官式に発音しながら、『伯爵から公爵夫人へ』といって、手紙を渡しているのを耳にした。
アンナはこの男に、だんなさまはどこにおいでかとたずねたかった。いや、すぐ引き返して、ヴロンスキーが自分のところへ来てくれるか、自分のほうから彼のところへ出かけて行くかするように、手紙をこの男にことづけたかった。しかし、それもこれもとても不可能なことであった。もう向うのほうでは、彼女の訪問を告げるベルの音が聞え、トヴェルスコイ公爵夫人の召使が、はやくもドアのところで、からだを半ば横向きにして、彼女が部屋へ通るのを、待ちかまえていたからである。
「奥さまはお庭ですが、今すぐお取次ぎいたします。なんならお庭のほうへいらしってはいかがですか?」別の部屋にいた別の召使がこう申し出た。
なにかはっきりしない、あいまいな状態は、家にいたときとまったく変らなかった。いや、もっとひどかった。というのは、ここではなにひとつ試みることもできず、ヴロンスキーに会うこともできず、縁もゆかりもない、今の自分の気分とはそぐわない人びとの中に残っていなければならないからであった。それでも、アンナは自分がよく似合う服装《なり》をしていることを承知していたし、そこではひとりぼっちでもなかった。彼女をとりまいていたのは、いつものなじみぶかい、華やかな、遊惰な雰《ふん》囲《い》気《き》だったので、家にいるよりは気が楽であった。彼女はなにをしなければならぬか、などと頭を悩ます必要はなかった。なにもかもひとりでにはかどっていった。はっとするほど優雅な白い服をつけたベッチイがアンナのほうへ歩みよって来たとき、アンナはいつものようににっこりとほほえんだ。トヴェルスコイ公爵夫人はトゥシュケーヴィチと、親戚《しんせき》の令嬢を伴って歩いて来たが、田舎《いなか》にいるこの娘の両親は、娘が有名な公爵夫人のもとで夏を過しているというので、すっかり喜んでいたのである。
たぶん、アンナはなにか変ったところがあったのだろう。ベッチイがすぐそのことをいいだしたからである。
「あたし、よく眠れなかったんですの」アンナは向うからやって来る召使をじっと見つめながら、答えた。彼女はその召使がヴロンスキーの手紙を持って来たものと考えたふうだった。
「でも、ほんとによく来てくださいましたわね」ベッチイはいった。「あたし、疲れたものですから、みなさまがお見えになるまでに、今お茶をひとついただこうと思っていたところでしたの。じゃ、あなたはいらしてくださいますわね」彼女はトゥシュケーヴィチのほうを向いていった。
「マーシャといっしょにクロケットのグラウンドへ。あの刈りこんだところをためしてごらんになってくださいね。そのあいだに、あたしたちはお茶をいただきながら、打ち明け話をいたしましょうよ。we'll have a cosy chat.ねえ、いかがですの」彼女はパラソルを持ったアンナの手を握りながら、笑顔で話しかけた。
「けっこうですわ。それに、きょうはこちらに長くおじゃまできませんから、なおさらですわ。どうしても、ヴレーデ老夫人のところへ伺わなければなりませんの。なにしろ、もう百年も前からのお約束なので」アンナはいった。こんなうそをつくことは彼女の性質とはまるっきり縁のないことだったのに、今では社交界でうそをつくことなんかいとも自然で簡単なことであるばかりでなく、彼女はそのことに満足すら覚えているのであった。
アンナはつい一秒前まで考えてもいなかったこんなことを、なんのために口にしたのか、自分でもとても説明できなかったにちがいない。彼女がこんなことをいったのは、ヴロンスキーがこないからには、自分の自由を確保しておいて、なんとか彼に会う手段を講じなければならないと、考えたからにすぎなかった。それにしても、ほかの多くの人びとと同様、少しも用のない老女官のヴレーデのことをなぜ持ちだしたのかは、彼女にも説明できなかった。が、それと同時に、これはあとでわかったことだが、ヴロンスキーと会うために、どんなに巧妙な手段を考えだそうとしても、これ以上いい方法はなかったのである。
「いいえ、どんなことがあっても、あなたを帰しゃしませんわ」ベッチイはアンナの顔を注意ぶかく見つめながら、答えた。「ほんとに、もしあなたのことが好きでなかったら、あたし、腹を立てるところですわよ。だって、あなたは、うちへ集まる人たちとつきあったら、ご自分の名誉にかかわるとでもおっしゃるみたいなんですもの。さあ、あたしたちのお茶を、小さいほうの客間に用意しといてちょうだい」彼女はいつも召使にものをいうときの癖で、目を細めながら、いった。ベッチイは召使から手紙を受け取って、それに目を通した。「アレクセイはあたしどもにうそをつきましたわ」彼女はフランス語でいった。「こられないっていってよこしましたの」彼女はそうつけ足したが、その口ぶりはまるでアンナにとってヴロンスキ―は、クロケットをして遊ぶ以外になにか特別の意味があるとは考えてもみないような、ごく自然で率直な調子だった。
アンナはベッチイがなにもかも知っているのを承知していた。しかし、ベッチイが自分の前でヴロンスキーのことを話題にすると、いつも一瞬、ベッチイはなんにも知ってはいないのだ、と思いこんでしまうのだった。
「あら、そう!」アンナはそっけなくいうと、そんなことにはたいして興味がないように、微笑を浮べながら、言葉をつづけた。「なぜお宅へ集まるお客さまとつきあったら、どなたかの名誉にかかわるんですの?」こうした言葉の遊びや、他人行儀の話は、すべての婦人同様、アンナにとっても大きな魅力であった。彼女の心をひきつけたものは、それを秘密にする必要でもなければ、その目的でもなく、それを秘密にする経過そのものであった。「あたくし、ローマ法王より信仰の厚いカトリック信者にはなれませんわ」ベッチイはいった。「ストリョーモフとリーザ・メルガーロヴァは、社交界の粋の粋ですわね。それに、あの方たちは、どこでも歓迎されていらっしゃいますわ。あたくし《・・・・》もそうですけど」彼女はあたくし《・・・・》という言葉にとくに力を入れた。「どんなときでもけっしてやかましいことを申しませんし、短気も起しませんものね。あたしにはただ暇がないだけですの」
「ねえ、あなたはひょっとしたら、ストリョーモフさんと顔をあわすのが、おいやなのかもしれませんわね? いえ、あの人とカレーニンさんは、勝手に委員会でけんかをさせておけばいいんですよ――そんなことはあたしたちに関係ないことですもの。でも、あの方は社交界じゃ、あたしの知っているかぎり、いちばんの好人物ですわ。それに、クロケット気ちがいなんですもの。ごらんになったら、すぐわかりますわ。それに、今はリーザに老いらくの恋をして、そりゃこっけいな立場にいらっしゃいますけど、あの方がそのこっけいな立場をなんとかうまく切り抜けていらっしゃるところは、買ってあげなくちゃなりませんわ! とても気持のおやさしい方ですの。あなた、サフォ・シュトルツをご存じかしら? こちらは新しい、まったく新しいタイプの方ですけど」
ベッチイはこんなことを次々にしゃべっていったが、アンナは相手の楽しそうな利口そうな目つきから、彼女がある程度、アンナの立場をのみこんでいて、なにかたくらんでいるような気がした。ふたりは小さいほうの書斎にいたのである。
「それにしても、アレクセイに返事を書かなくちゃなりませんわね」ベッチイはそういってテーブルに向うと、二、三行書いてから、封筒に入れた。「あの人に食事に来るようにって書きましたわ。うちでは、ご婦人がひとり、食事に残ることになってるんですけど、お連れの男の方がいらっしゃらないとね。まあ、ちょっと、ごらんになって。これでいいかしら? 失礼、ちょっと席をはずしますけど。どうぞ、封をして、使いに持たしてやってくださいまし」ベッチイは戸の外からいった。「あたし、すこし世話をやかなければなりませんので」
すぐさま、アンナはベッチイの手紙を持ってテーブルに向うと、内容を読みもせずに、その下へ、『ぜひともお目にかかりたいことがございます。ヴレーデさんのお庭までいらしてくださいまし。あたしは六時にそちらへまいります』と書き添えた。アンナが封をしたところへ、ベッチイがもどって来て、目の前で使いの者に手紙を渡した。
涼しい小さな客間へ、お茶が小さな台にのせられて運ばれて来たとき、ふたりの婦人のあいだには、ベッチイがお客の集まるまでと約束した、例の a cosy chat が実際にはじまった。ふたりがまもなくやって来るお客たちの品定めをしているうちに、話はリーザ・メルカーロヴァのことに落ち着いた。
「あの方はほんとにおやさしい方ですわね。あたし、いつも好感をもってましたの」アンナがいった。
「あの方を好きになってあげなくちゃいけませんわ。だって、あの方はあなたのことを、夢にまで見るんですって。きのう、競馬のあと、あたしのところへ来て、あなたにお会いできなかったので、すっかりしょげていらっしゃいましたのよ。リーザったら、あなたのことをほんとうに小説のヒロインみたいな方だ、もしあたしが男だったら、あの方のために、どんなばかげたことでもやりかねないわ、なんていうんですのよ。そしたら、ストリョーモフさんが、あなたはそうでなくても、ばかげたことばかりやってますね、っていったんですの」
「じゃ、一つおききしますけど、あたしにはどうしても、わからないことがありますの」アンナは、しばらく口をつぐんでから、切りだした。その言葉の調子から、それが単に暇つぶしの質問でないどころか、本人にとって考えられる以上に重要なことであることが、はっきりとわかった。
「ねえ、お願いですから、教えてくださいな。いったい、あの方とカルジュスキー公爵、つまり、ミーシュカとの関係はどうなんですの? あのおふたりには、ほとんどお目にかかったことがございませんけど。どうなんですの?」
ベッチイは目で笑って、アンナをじっとながめた。
「新しいスタイルなんですの」彼女はいった。「あのおふたりは、そのスタイルを選んだわけなのね。見栄も外聞もけとばしてしまって。でも、そのけとばし方にも、いろんなスタイルがあるわけですけど」
「そうね。でも、あの方とカルジュスキー公爵との関係は、どうなんですの?」
ベッチイはいきなり、さもおもしろそうに、こらえきれなくなって、笑い声をたてた。こんなことは彼女として珍しいことであった。
「まあ、そんなこといったら、ミャフキー公爵夫人のお株をとることになってしまいますわ。それは恐るべき子供の質問ですわね」そういって、ベッチイはこらえようとしたらしかったが、ついに、こらえきれずに、他人にまで感染させずにはおかないような笑いを爆発させた。そんな笑い方はめったに笑わない人しかしないものである。「そりゃ、あのおふたりにきかなくちゃわかりませんわ」彼女は笑いに誘われた涙を浮べながら、いった。
「いえ、あなたはそうお笑いになるけど」アンナも思わず笑いをうつされながら、いった。「あたしにはどうしても納得がいきませんの。そうした場合のご主人の役割はどんなものなのかしら、その点がわかりませんの」
「まあ、ご主人ですって? リーザ・メルカーロヴァのご主人はあの方のあとから膝掛けを持って歩いて、いつでもご用を務める用意をしていますわ。でも、それから先はほんとのところどうなのか、だれもそんなことは知りたいなんて思いませんわ。だって、りっぱな社会では、だれもお化粧の詳しい秘《ひ》訣《けつ》のことなんか口に出しませんし、考えもしないじゃありませんか。これもそれと同じことですわ」
「それはそうと、ロランダキ夫人のお祝いにはいらっしゃいます?」アンナは話題を変えるために、たずねた。
「行くつもりはありませんわ」ベッチイは答えた。そして、友だちのほうを見ないで、小さな透《す》きとおったコップに用心ぶかく、かおりの高いお茶を注《つ》ぎはじめた。彼女はコップをアンナのほうへ勧めて、とうもろこしの葉につつんだ巻たばこを取りだすと、銀のパイプへさして、吸いはじめた。「ねえ、ごらんのとおり、あたしはしあわせな立場におりますから」彼女はもう笑わずに、お茶のコップを手に取って、しゃべりはじめた。「あたしにはあなたのこともわかってますし、リーザのこともわかってますわ。あのリーザという人は、とても素朴な性質《たち》でしてね。まるっきり子供みたいに善悪の区別がつかないんですの。すくなくとも、ごく若い時分には、あの人にそれがわからなかったことだけはほんとうですわ。ところが今じゃ、そのわからないってことが、自分には似合いのことだって承知しているんですのね。今は、ひょっとしたら、わざとわからないふりをしてるのかもしれませんわ」ベッチイはかすかな微笑を浮べながら、いった。「でも、とやかくいっても、やはり、それがあの人には似合っているんですわ。ねえ、おわかりになって。同じ一つのことを、悲劇的に見て、そのために苦しむこともできれば、もっと単純にながめて、いえ、それどころか、楽しくながめることもできるんですのよ。どうやら、あなたは物事をあまりに悲劇的に見るほうかもしれませんわね」
「あたしはただ自分に自分のことがわかってるように、ほかの人のことも知りたくてたまらないんですけど」アンナはまじめくさって、考えこむような調子でいった。「あたしはみんなより悪い人かしら、それとも、いい人かしら? 悪いような気がしますけど」
「恐るべき子供、そう、恐るべき子供ですよ!」ベッチイは繰り返した。「それはそうと、みなさまがお見えになりましたわ」
18
人の足音と男の声が聞え、それから女の声と笑い声がしたかと思うと、それにつづいて待たれていたお客たちがはいって来た。サフォ・シュトルツと、はちきれるばかりの健康に輝く、ワーシカと呼ばれている青年であった。一見して、この青年には、血のたれるようなビフテキや、松露や、ブルゴーニュ産の赤ぶどう酒などの栄養が十分役立っていることが見てとれた。ワーシカは婦人たちに会釈して、その顔をちらと見たが、それもほんの一瞬のことであった。青年はサフォにつづいて客間へはいると、まるで彼女に縛りつけられているかのように、彼女のあとにぴたりとつきながら、まるで彼女を食べてしまいたいといわんばかりに、ぎらぎら光る目を彼女から放さずに、客間の中を歩きまわった。サフォ・シュトルツは、黒いひとみをしたブロンドだった。彼女はハイ・ヒールをはいた足を、小刻みに元気よく運びながらはいって来ると、まるで男のように、きつくふたりの婦人の手を握った。
アンナは一度も、この有名な社交界の新星に会ったことがなかったので、その美《び》貌《ぼう》と、思いきった化粧ぶりと、大胆なものごしに驚かされた。サフォの頭には自分の毛と入れ毛のまじった柔らかな金髪が、台座ほどもある大きな髷《まげ》に束ねられていたので、その頭の大きさは、形のいい、豊かな、ぐっと開いた胸と同じくらいになっていた。彼女は身のこなし方も激しかったので、歩くたびに、ひざから腿《もも》の形が着物を透して、はっきり描きだされた。そのため、上半身が思いきりあらわにされ、下半身や背後がすっかり隠されている、その小がらな、すらりとしたからだそのものは、この美しく揺れ動く山のような衣装のどの辺で終っているのか、と思わず疑問をいだかずにはいられないほどであった。
ベッチイは急いで彼女をアンナに紹介した。
「ねえ、たいへんでしたのよ。あたしたち危うく兵隊さんをふたり、轢《ひ》き殺すところでしたの」彼女は目くばせしたり、ほほえんだりしながら、いきなり物語をはじめた。と同時に、あまり横のほうへさばきすぎたスカートの先を、さっと引きもどしたりした。「あたしはワーシカといっしょに乗ってまいりましたんですが……あら、まだご存じじゃなかったんですわね」そこで、彼女は苗字《みょうじ》をいって、青年を紹介した。それから、顔をぱっと赤らめて、自分の誤りを笑いとばした。誤りというのは、未知の人に向って、連れの青年をいきなりワーシカと呼んだからである。
ワーシカはもう一度アンナに会釈した。が、なんともいわなかった。青年はサフォに話しかけた。
「賭《か》けはあなたの負けですよ。ぼくたちのほうが早く着いたんですから。さあ、お金を払ってください」彼はにやにやしながら、いった。
サフォはいっそうおもしろそうに笑いだした。「なにも、今でなくたって」彼女はいった。
「どっちみち、同じことですよ。じゃ、あとでもらいますよ」
「ええ、けっこうですとも。あら、そうだわ!」彼女はいきなり女主人のほうへ振り向いた。「まあ、あたしったら、……すっかり、忘れていましたわ……こちらにお客さまをお連れして来たんですのに。ほら、あの方ですわ」
サフォが連れて来て忘れていたとつぜんの来客というのは、まだ年こそ若かったけれど、とても身分の高い人だったので、婦人たちは、相手を迎えに席を立った。
それはサフォの新しい崇拝者であった。彼は今もワーシカと同様、彼女のあとをつけまわしているのであった。
まもなくカルジュスキー公爵とリーザ・メルカーロヴァが、ストリョーモフを伴ってやって来た。リーザ・メルカーロヴァは、東洋風の物憂げな顔だちをしたやせぎすのブリュネットで、みんなのうわさどおり、えもいわれぬ美しいひとみをしていた。その地味づくりな衣装の好みは(アンナはすぐにそれに気づいて、高く評価した)彼女の美しさと完全に調和していた。サフォがすごくてきぱきして、すらりとしているのと対照的に、リーザはふっくらして、しまりのない感じだった。
しかし、アンナの好みとしては、リーザのほうがずっと魅力があった。ベッチイはアンナにリーザはおぼこ娘のようにふるまっているのだといった。アンナは、今彼女に会ってみて、それがまちがっていることを感じた。リーザはたしかに無知で、頽廃《たいはい》的なところはあったが、しかし、愛すべき、従順な女であった。もっとも、彼女の調子もサフォのそれと同じで、サフォの場合と同様、リーザのあとにもふたりの崇拝者が、縛りつけられたようにつきまとって、むさぼるような目つきで彼女をながめていた。ひとりは青年で、ひとりは老人だった。しかし彼女には、自分をとりまいているものをなにか抜きんでたところがあった。彼女にはガラスにまじる本物のダイヤモンドのような光輝があった。この光輝はまったく、えもいわれぬほど美しいそのひとみから発しているのであった。暗い輪でくまどられた、疲れたような、と同時に情熱的なそのまなざしは、非の打ちどころのない誠実さで人を打った。そのひとみをひと目見たものは、だれでも彼女のすべてを知ったような気がして、それを知ったが最後、愛さないわけにはいられないのだった。アンナを見ると、たちまち、彼女の顔はさっとうれしそうな微笑に輝いた。
「まあ、お目にかかれて、ほんとうにうれしゅうございますわ!」彼女は近よりながらいった。「きのう競馬場で、やっとあなたのお席までたどり着いたと思ったら、もうお帰りになったあとなんですもの。きのうぜひともお会いしとうございましたの。ほんとに恐ろしいことでございましたわねえ?」彼女は心の底まですっかり開いてみせるかと思われるような目つきで、じっとアンナを見つめながら、いった。
「ええ、あんなに興奮させられるとは、あたしも思いもよりませんでしたわ」アンナは頬をそめながら、いった。
そのとき一座の人びとは、庭へ出ようとして、席を立った。
「あたしはまいりませんわ」リーザは微笑を浮べて、アンナのそばへ腰をおろしながら、いった。「あなたもいらっしゃいませんでしょう? クロケットなんか、どこがおもしろいんでしょうね!」
「あら、あたしは好きですのよ」
「まあ、あなたって方はそんなふうにして、退屈でないようになさるんですのね? あなたのお顔を拝見してるだけで、楽しくなってまいりますわ。あなたは生きいきと暮していらっしゃるのに、あたしときたら、それは退屈なんですの」
「どうして退屈なんですの? いえ、あなた方はペテルブルグでも、いちばん楽しそうなお仲間じゃございませんか」アンナはいった。
「ひょっとすると、あたしどものお仲間以外の方は、もっと退屈してらっしゃるのかもしれませんわね。でも、すくなくともあたしは、楽しいどころか、とっても、とっても退屈していますの」
サフォは巻たばこに火をつけると、ふたりの青年といっしょに庭へ出て行った。ベッチイとストリョーモフはお茶に残った。
「どうなさいました、退屈していらっしゃいますの?」ベッチイはいった。「サフォのお話では、きのうはお宅でみなさんとてもにぎやかだったそうじゃございませんか」
「いいえ、それどころか、すっかり気がめいってしまいましたわ!」リーザ・メルカーロヴァはいった。「競馬のあとで、みんなが、宅へ集まりましたの。でも、いつもいつも、まったく同じ顔ぶればかりで、いつもいつもすることはまったく同じことばかりなんですものね。ひと晩じゅう、みんな長いすの上でごろごろしていましたわ。そんなことしてて、なにがおもしろいもんですか! ねえ、あなたは退屈しないために、どんなことをなすっていらっしゃいますの?」彼女はまたアンナに話しかけた。「だって、あなたのお顔を拝見していますと、ああ、これこそ幸不幸はともかく、けっして退屈していないご婦人だ、と思いますものね。ねえ、どんなふうにしていらっしゃるか、教えてくださいな」
「べつに、なんにもいたしておりませんわ」アンナはそのしつこい問いに顔を赤らめながら、答えた。
「いや、それがいちばんいい方法なんですとも」ストリョーモフが会話に口をはさんだ。
ストリョーモフは五十がらみの、半ば白髪《しらが》頭《あたま》のまだ元気いっぱいの人物で、男前こそひどく悪かったが、個性的な、聡明《そうめい》そうな顔をしていた。リーザ・メルカーロヴァは、彼の妻の姪《めい》であったが、暇さえあれば、彼はいつも彼女と時を過しているのであった。彼はアンナ・カレーニナに出会うと、その勤務上からカレーニンとは敵対関係にあったものの、聡明な社交家として、政敵の妻である彼女に、とりわけ愛《あい》想《そ》よくしようと努めていた。
「なんにもしない、か」彼はかすかにほほえんで、彼女の言葉を引き取った。「いや、それこそ最上の方法なんですよ。前々からあなたにもそういっておいたでしょう」彼はリーザ・メルカーロヴァのほうへ顔を向けた。「退屈しないようにするためには、退屈だろうなんて考えちゃいけないってね。それは不眠症を心配するのなら、寝つかれないのじゃないかなんて心配してはいけないのと、まったく同じことですよ。カレーニン夫人のおっしゃったのは、まさに、そのことなんですよ」
「あたしがそう申したのでしたら、ほんとにうれしゅうございますけど。だって、それは機知に富んでるばかりか、真理でこざいますものね」アンナは微笑を浮べながら、いった。
「でも、それよりなぜ寝つくことができないのか、なぜ退屈しないではいられないか、教えてくださいましな」
「寝つくためには、働かなくちゃなりません。楽しい気分になるためにも、やはり、働かなくちゃなりませんよ」
「あたしの働きなんかだれにも必要ないとしたら、いったい、なんのために働かなければならないんでしょう? それに、わざと働くふりをするなんてこと、あたしにはできませんし、そんなことしたくありませんわ」
「あなたにはどうにも救いの見込みがありませんな」ストリョーモフは相手を見ないでいってから、またアンナに話しかけた。
彼はほとんどアンナに会うことがなかったので、月並みなことしかなにも話題がなかった。そこで、いつペテルブルグへ引き揚げるつもりかとか、リジヤ伯爵夫人はどんなに彼女が気に入っているかとか、そんな月並みな話をはじめた。しかも、彼はそう語りながらも、心の底から相手に好感を与え、自分の尊敬を、いや、それ以上のものまでを示そうと努めているのが、その表情に読みとれた。
トゥシュケーヴィチがはいって来て、みながクロケットをする人びとを待っていると告げた。
「あら、どうか、お帰りにならないで」リーザ・メルカーロヴァは、アンナが帰ると聞いて、そう頼んだ。ストリョーモフもそれに口をあわせた。
「あまりにコントラストが激しすぎますよ」彼はいった。「こんな連中のところから、ヴレーデ婆さんのところへいらっしゃるなんて。第一、あなたがいらっしゃればあの婆さんにただ悪口をいう機会をつくっておやりになるだけのことですよ。ところが、ここにいらっしゃれば、それとはまったく別な、悪口なんかとは正反対の、世にもすばらしい感情を、呼び起してくださるばかりですからね」彼はアンナにいった。
アンナはちょっと決しかねるように考えこんだ。この聡明な人物のこびるような言葉や、リーザ・メルカーロヴァの示してくれた子供っぽい好意や、このなじみぶかい社交界の雰《ふん》囲《い》気《き》などは、どれもこれもとても気楽なものであったし、それにひきかえ、彼女を待ちうけているものは、あまりにも苦しいことだったので、彼女はこのままここに居残って、苦しい話合いのときをもう少し先へのばすことにしようかと、一瞬、心を決しかねたのである。しかし、もし自分がなんの決断もつけなかったら、わが家でひとりきりになったとき、どんなことが自分を待ち受けるであろうかと考え、あの思いだしてさえぞっとする、自分の髪の毛を両手でひっつかんだときのありさまを思い起すと、アンナは別れを告げて、立ち去った。
19
ヴロンスキーは、表面いかにも軽薄な社交生活を送っていたにもかかわらず、だらしのないことの大きらいな男であった。まだ幼年学校時代の若いころに、金に困って借金を申し込んだところ、きっぱり断わられて赤恥をかいたため、それ以来、けっして一度も自分をそういう立場に立たせたことがなかった。
自分の財政をいつもきちんとしておくために、彼はその時々の状況に応じて、その回数を増減するものの、だいたい、年に五回ばかり一室に閉じこもって、自分の財政状態をはっきりさせることにしていた。彼はそれを「勘定する」あるいは faire la lessive と名づけていた。
競馬の翌日、ヴロンスキーは遅く目をさますと、ひげも剃《そ》らず、風呂も浴びないで、夏の白い軍服をひっかけたまま、机の上に金やそろばんや手紙をひろげて、仕事にかかった。ペトリツキーは、こんな場合のヴロンスキーが、おこりっぽいのを承知していたので、目をさまして、友人が文机《ふづくえ》に向かっているのを見ると、そっと着替えをして、じゃまをしないように、部屋を出て行った。
どんな人でも、自分をとりまいている条件の複雑さを、とことんまで知りつくすと、その条件の複雑さや、それを解明することのむずかしさは、つい自分だけの、偶然な特殊なものだと考えがちで、ほかの人も自分とまったく同じように、それぞれ個人的に複雑な条件にとりかこまれているなどとは、夢にも考えないものである。ヴロンスキーもやはりそんな気がしていた。そして、彼はいくらか内心の誇りを感じながら、もしほかのものがこんな苦しい条件におかれたら、とっくの昔にあごを出して、よくない行動をとったにちがいないと考えていたが、それはあながち根拠のないことでもなかった。しかし、ヴロンスキーは先へ行って、窮地におちいらないために、今こそ自分の状態をよく考えて、はっきりさせておかなければならないと感じていた。
ヴロンスキーがいちばん楽な仕事として、まず手をつけたのは金銭上の問題であった。彼は自分の借金を便箋《びんせん》に、細かい筆跡ですっかり書きだすと、合計してみて、一万七千ルーブルなにがしの借金があることを発見した。はしたの何百ルーブルかは、計算をはっきりさせるために、切り捨てたのである。現金と銀行通帳を計算してみて、彼は手もとに千八百ルーブルしか残っていないことを発見した。しかも、新年まで金は一文もはいる見込みがなかった。借金のリストを読みなおしてみて、ヴロンスキーはそれを三種類に分けて清書した。第一は、今すぐ払わなければならないか、あるいは請求され次第、一刻の猶予もなく、支払えるだけの金を用意していなければならない負債であった。この種の負債が、約四千ルーブルあった。すなわち、馬の代金が千五百ルーブルと、同僚の若いヴェネフスキーが、ヴロンスキーの見ている前で、カルタのいかさま師にやられて負けたとき、保証にたった金が二千五百ルーブルであった。ヴロンスキーはそのとき、すぐ金を払おうとしたのだが(それだけの金は手もとにあった)、ヴェネフスキーとヤーシュヴィンが、それは自分たちで払う、勝負にも加わらなかったヴロンスキーに払ってもらうわけにはいかない、といい張ったからである。それはそれでけっこうであった。しかし、ヴロンスキーはこのけがらわしい事件については、言葉の上でヴェネフスキーの保証をした、というだけの関係でしかなかったとはいうものの、とにかく、二千五百ルーブルの金を握っていなければならない、と承知していた。それはいかさま野郎にその金をたたきつけて、もうそんなやつとはあれこれ面倒な口をきかないためであった。こうしたわけで、この第一のもっとも重要な種類の金として四千ルーブル用意しておかなければならなかった。
第二の八千ルーブルという金は、それほど重要でない借金であった。それらは主として、競馬場の廐《うまや》とか、燕麦《えんばく》や干し草の請負商人とか、イギリス人の調教師とか、馬具商などから借りた金であった。これらの借金についても、一応きりをつけておくためには、やはり二千ルーブルくらいは支払わなければならなかった。借金の最後の部類は、あちこちの商店やホテルや仕立屋などの支払いで、それらはそう重大に考える必要のないものであった。こういったわけで、さしあたって、すくなくとも、六千ルーブルの金が必要だったが、手もとにわずか千八百ルーブルしかなかった。世間でいわれているように、ヴロンスキーの収入が年十万ルーブルもあるのなら、それほどの財産家にとっては、これくらいの借金など少しも困ることはないはずであった。ところが、問題は、彼の年収がこの十万ルーブルに遠くおよばないということであった。父の遺《のこ》した莫大《ばくだい》な財産は、年に二十万からの収益をあげていたが、これはふたりの兄弟に分配されていなかった。しかも、山のような借財を背負っていた兄が、一文の財産もない十二月党員のチルコフ公爵の令嬢ワーリヤと結婚したとき、アレクセイは年に二万五千ルーブルだけもらえばいいといって、父の領地からあがる全収入を兄に譲ってしまったのであった。アレクセイはそのとき兄に向って、結婚するまでは、これだけの金で十分だろうし、それに第一、けっして結婚なんかしないだろう、といったのである。兄は当時、もっとも費用のかかる連隊の長をしていたうえ、結婚したばかりでもあったので、この申し出《いで》を受けないわけにはいかなかった。ところが、自分自身の財産を持っている母は、この規定の二万五千ルーブルのほかに、さらに毎年二万ルーブルほどの金をアレクセイにくれたので、彼はそれをみんな使いはたしてきたのであった。最近になって、母はむすこの情事と彼が勝手にモスクワから帰って来たことに腹を立て、その金を送らなくなったのである。その結果、ヴロンスキーはもう四万五千ルーブルの生活に慣れていたところへ、今年はたった二万五千ルーブルしかはいらなかったので、いまや、すっかり窮地に追いこまれてしまったのである。この窮地から抜けだすために、母に金をねだるわけにはいかなかった。前の日に母から受けとった最後の手紙は、とりわけ彼の気持をいらいらさせた。というのは、その手紙の中で母は、あたしがおまえの力になってあげようと思っているのは社交界や勤務上で成功させてやりたいからで、上流社会に迷惑をかけるような生活のためではない、と思わせぶりなことを書いてよこしたからである。彼を買収しようという母親の願いは、彼に心底から侮辱を感じさせ、母に対する気持をますます冷たいものにしてしまった。しかし、もう今となっては、彼もカレーニナとの関係から、なにか事件が生ずるのを予想して、兄にいったあの寛大な言葉があまりにも軽率であり、独身の自分にも、年収十万ルーブル全部が必要になる場合もありうるだろう、といかに痛感してみても、いったん口から出してしまったあの寛大な言葉を、いまさら取り消すわけにはいかなかった。いや、そんなことはなんとしてもできなかった。それには、ただ兄嫁のことを思いだすだけでよかった。あの愛すべきワーリヤがおりあるごとに、あたしはあなたの寛大なお心をいつも覚えていて、ありがたく思っていますというのを思いだすだけで、いったんあげるといったものを、今になって取り返すわけにいかないことが、納得されるのだった。それは女の人をなぐったり、盗みを働いたり、うそをついたりするのと、同じくらい不可能なことであった。ただ一つ可能であり、しかも当然であると思われる手段があった。そこで、ヴロンスキーは一刻の猶予もなく、その手段をとることにきめた。すなわち、高利貸から一万ルーブルの金を借りること、それにはなんの面倒もないはずだった。一般的に経費を節約すること、競馬用の馬を売ることなどであった。彼はそう決心すると、さっそく、これまで一再ならず馬を売ってくれと使いをよこしたロランダキに手紙を書いた。それから、イギリス人と高利貸のところへ使いをやり、手もとの金を勘定書の高に応じて、分けた。こうした仕事を片づけてしまうと、彼は母の手紙に対して冷やかな、辛辣《しんらつ》な返事を書いた。それから、紙入れの中からアンナの手紙を三通取りだし、もう一度読み返してから、焼きすてた。そのとき、彼はきのうアンナとかわした話をふと思いだして、もの思いに沈んでいった。
20
ヴロンスキーの生活は、自分がしなけれはならぬことと、してはならぬことを、すべて明瞭《めいりょう》に決定する規範が、ちゃんとできあがっていたので、とくに幸福であった。これらの規範は、きわめて狭い範囲の生活を包容するものにすぎなかったが、そのかわり、規範そのものは、疑いをいれないものであった。そのため、ヴロンスキーはけっしてその範囲から踏みだすことなく、しなければならぬことを実行するのに、かつて一分たりとも躊躇《ちゅうちょ》したことはなかった。これらの規範は一点の疑念もなく、次のことを規定していた。すなわち、トランプのいかさま師には負けた金を払わなければならないが、仕立屋には払う必要がない。男にはうそをついてはいけないが、女ならばかまわない。どんな人をも欺いてはいけないが、相手の女の夫だけはこの限りでない。侮辱を許すことはできないが、他人を侮辱するのはかまわない、等々である。すべてこうした規範は、不合理であり、よくないことかもしれなかったが、しかしそれらは疑う余地のないものであったので、ヴロンスキーはそれを実行しながら、心安らかに、昂然《こうぜん》と頭をそらしていくことができたのである。ただ、ごく最近、アンナとの関係が原因になって、自分の規範がかならずしもすべての生活条件を規定するものではない、と感じはじめ、将来に困難と疑惑が起りそうな気がしてきたけれども、ヴロンスキーはもはやそれに対処する導きの糸を見いだすことはできなかった。
アンナとその夫に対する彼の現在の関係は、彼にとって単純明瞭なものであった。それは彼を導いている規範で、明瞭かつ正確に規定されていた。
アンナは、彼に愛をささげた、れっきとした婦人であり、彼もまた彼女を愛していた。したがって、アンナは彼にとって法律上の妻と同様の、いや、それ以上の尊敬に値する婦人であった。彼はアンナを侮辱することはもちろん、単に婦人に対する当然の尊敬が表われていないような言葉を口にしたり、あるいは、そうしたほのめかしをするくらいだったら、むしろその前に、自分の手を切り落してもらったであろう。
社会に対する関係もまた明瞭であった。世間の人はだれでもふたりの情事を知ることも、想像することも自由であるが、それがだれであろうと、あえてそれを口に出すことは許されなかった。そうした事態が起れば、彼はそんなことを口にする連中を沈黙させ、自分の愛している婦人のありもしない名誉を尊重させるだけの覚悟をもっていた。
夫に対する関係はなによりも明瞭であった。アンナがヴロンスキーを愛するようになってから、彼はアンナに対する自分の権利だけは、犯すべからざるものと見なしていた。夫は単によけいな邪魔者にすぎなかった。夫がみじめな立場に立たされていることは疑いもなかったが、しかし、いまさらどうすることもできなかった。夫の有する唯一の権利は、武器を手にして償いを望むことであり、それに対してはヴロンスキーも最初の瞬間から、覚悟をきめていた。
ところが、最近になって、ヴロンスキーと彼女のあいだには、新しい内面的な関係が表われてきて、そのなかにはっきりしないところが、彼に無気味な感じを与えるようになった。きのうはじめて、アンナは妊娠していると打ち明けた。すると彼は、この知らせと、アンナが彼に期待しているものとは、今まで自分の生活の指針としてきた例の規範では、はっきりと規定されないなにものかを要求しているような気がした。いや、事実、彼はまったく不意をつかれたので、最初、彼女が自分の妊娠について打ち明けた瞬間、彼の心はすぐ夫を捨てるようにと彼にささやいた。彼はそれを口にしたが、今になって考えてみると、そんなことをせずにすましたほうがよかったことが、はっきりしてきた。が、それと同時に、そう自分にいいながらも、これは醜いことではなかろうか、と心配するのだった。
《夫を捨てろといったことは、おれといっしょになれということだ。だが、おれにはそうする用意ができているだろうか? 今は金もないのに、どこへ彼女を連れて行くというのだ? まあ、かりに、なんとかなるとしても……いや、軍務のあるおれが、どうやって彼女を連れて行けるというのだ? もっとも、ああいったからには、その用意だけはしておかなくちゃならない。つまり、金をつくって、退職することだ》
そこで彼は考えこんだ。退職すべきかどうかという問題は、もう一つの秘密な、彼だけしか知らない利害と結びついていたからである。それはかたく秘められていたが、彼の全生活におけるもっとも重大な事がらともいうべきものであった。
名誉心は彼の少年時代および青年時代を通じて、長いあいだの夢であった。もっとも、彼はそれを自分では認めようとしなかったが、しかし、その夢はきわめて激しいものであって、今でもこの情熱は彼の愛情と戦っているほどであった。社交界と軍務における第一歩は成功をおさめたが、二年前に、彼はとんでもない誤りを犯してしまった。自分の独立心を示すことによって、昇進を早めようと期待しながら、勧められたある地位を断わったのである。彼はそれを断わることで、自分の株がさらにあがるものと考えていた。ところが、その結果はただ彼があまりに大胆すぎたということで終り、彼の地位はそのままに放っておかれた。そのため、彼はいやおうなしに、独立心にもえる人間という立場に立って、きわめて微妙な態度を巧みにとらざるをえなかった。つまり、自分はだれにも腹を立ててはいない、だれにも侮辱されたとは考えていない、ただ、そっとしておいてもらいたい、自分はこういう立場が愉快なのだから、とでもいったような態度をとっていたのである。しかし、正直なところ、もう去年モスクワへ去ったころから、彼は少しも愉快ではなくなっていたのである。彼は、何事もしようと思えばできるのだが、ただなにもしたくないのだという、この独立心にもえる人間の立場も、しだいに、その箔《はく》がはげてきて、多くの人は自分のことを、ただ誠実で善良な青年という以外、なんの能もない人間だと評価するようになってきたことを感じていた。あれほど世間を騒がして、みんなの注意をひいたアンナとの関係は、彼に新しい光輝を与え、彼の心を蝕《むしば》む名誉心の虫を一時おさえつけていた。ところが、一週間ばかり前に、この虫がまた新たな力をもって目ざめたのであった。というのは、彼の少年時代からの友人であり、同じ環境、同じ社会の出身で、幼年学校でも同窓で、教室でも、体操場でも、いたずらでも、名誉心の夢でも、いつも彼の競争相手だったセルプホフスコイが、最近、中央アジアから、二階級昇進して、こんな年若い将官には、めったに授けられない勲章をもらって帰還したからである。
彼がペテルブルグへ到着すると、たちまち、まるで新しく天空にさし昇った一等星かなにかのように、人びとはそのうわさをしあった。ヴロンスキーと同い年で同級であった男が、もうすでに将官となり、一国の政治にも影響を与えうる地位に任命されるのを待っていた。一方、ヴロンスキーは独立心にもえる人間として、美しい女性に愛されている華やかな存在ではあったが、しかし、いまだに一介の騎兵大尉であり、いつまでも好きなだけ独立心にもえているがよいと、いうわけなのであった。《そりゃ、おれはなにもセルプホフスコイのことをうらやんだりしないし、うらやむこともできないさ。ただ、しかし、あの男の出世ぶりは、時期さえ待てば、おれのような人間の出世がひじょうに早いものだってことを示している。三年前には、あの男もまだおれと同じ地位にいたのだ。今退職するのは、自分で自分の船を焼きはらうようなものだ。おれも軍務に止まっていれば、なにひとつ失うものはないわけだ。いや、彼女だって自分の境遇を変えたくないといっていた。それに、おれは彼女の愛をかちえているのだから、なにもセルプホフスコイをうらやむにはあたらないさ》そう考えると、彼はゆっくり口ひげをひねりながら、テーブルから立ちあがって、部屋の中をひとまわりした。彼の目は一段ときらきら輝き、いつも自分の状態をはっきりさせたあとに経験する、あのしっかりした、安らかな、喜ばしい気持を覚えた。なにもかも、先ほどの計算のあとと同様、きれいさっぱりして、明瞭であった。彼はひげを剃《そ》り、冷水を浴び、服を着替えて、出かけて行った。
21
「おい、ぼくはきみを迎えに来たんだぜ。きょうはまた洗濯がばかに長くかかったじゃないか」ペトリツキーがいった。「どうだい、もうすんだのかい?」
「ああ、すんだよ」ヴロンスキーは、目だけで笑いながら、そう答えると、口ひげの先を用心ぶかくひねった。そのしぐさは、まるで自分の仕事をきちんと整理したあとでは、何事にせよ、あまり思いきった素早い動作は、それをぶちこわすおそれがある、とでもいうふうであった。
「いつもきみはあれをやったあとは、まるで風呂からあがったみたいじゃないか」ペトリツキーはいった。「ぼくは今グリーツカ(彼らは連隊長のことをこう呼んでいた)のところから来たのさ。みんなが、きみのくるのを待ってたぜ」
ヴロンスキーは返事もせずに、ほかのことを考えながら、友だちの顔を見つめていた。
「じゃ、あの音楽は連隊長のところかい?」彼は聞えてくる、聞きなれた軍楽隊の奏するポルカやワルツの響きに耳を傾けながら、きいた。「いったい、なんのお祝いだい?」
「セルプホフスコイがやって来たのさ」
「なーるほど!」ヴロンスキーはいった。「そいつは知らなかった」
彼の目の微笑は、さらにきらきらと輝きだした。
一度みずから、自分は恋をえて幸福なのだから、そのために名誉心を犠牲にしたのだと、決心した以上、いや、すくなくとも、そういう役割を自分に選んだからには、ヴロンスキーは、もはやセルプホフスコイに対する羨望《せんぼう》も、彼が連隊へ到着していちばんに彼を訪問しなかった無念さも、感じるわけにいかなかった。セルプホフスコイは善良な友人だったから、彼は友人の来訪を喜んだ。
「やあ、そいつはうれしいね」
連隊長のジョーミンは、大きな地主邸を借りていた。一同は階下の広々としたバルコニーに集まっていた。邸内にはいって、すぐヴロンスキーの目についたものは、ウォトカの小《こ》樽《だる》のそばに立っていた白い夏服の唱歌手たちと、将校連にとりかこまれた連隊長の健康そうな、きげんのいい姿であった。連隊長はバルコニーの一段めへおり立って、オッフェンバッハのカドリールをかなでていた軍楽隊にも負けぬほどの大声で、わきのほうに立っていた兵士たちに、なにやら命じながら、手を振っていた。一団の兵士と、曹長《そうちょう》と、幾人かの下士官が、ヴロンスキーといっしょにバルコニーへ近づいた。テーブルへ引き返した連隊長は、またもや杯を手にして入口の階段のところへ出て来て、乾杯の音頭《おんど》をとった。「われらのかつての同僚にして、勇敢な将軍たるセルプホフスコイ公爵の健康を祝して。乾杯!」
連隊長のうしろから、杯を手にして、微笑を浮べながら、セルプホフスコイも姿を現わした。
「ボンダレンコ、おまえは相変らず若いな」彼は自分の正面の、二度めの勤務についている、頬の赤い、元気溌剌《はつらつ》たる曹長に向って、話しかけた。
ヴロンスキーは三年間、セルプホフスコイに会わなかった。彼は頬ひげをたくわえて、いくらか老《ふ》けたように見えたが、相変らず、すらりとしていて、その顔かたちの美しさよりもむしろ、そこにただよう優しい気品で人目を惹《ひ》いた。ヴロンスキーの気づいたただ一つの変化は、なにかある事に成功して、その成功が万人に認められていると確信している人の顔に自然とにじみでる、あのおだやかな不断の輝きであった。ヴロンスキーはこの輝きを知っていたので、すぐそれを、セルプホフスコイの顔に認めたのであった。
セルプホフスコイは階段をおりて来ながら、ヴロンスキーに気づいた。喜びの微笑がぱっとセルプホフスコイの顔を明るくした。彼は首でうなずいて、ヴロンスキ―を歓迎する意味で、杯をさし上げた。それと同時に、この身ぶりで、さっきから不動の姿勢で、接吻《せっぷん》しようと唇をつぼめていた曹長のほうへ、先に行かなくてはならないことを示した。
「やあ、やっと来たな!」連隊長はいった。「ヤーシュヴィンの話じゃ、きみは例の憂鬱《ゆううつ》にかられてるそうだな」
セルプホフスコイは、元気溌剌たる曹長の湿って生きいきした唇に接吻すると、ハンカチで口をぬぐいながら、ヴロンスキーのそばへやって来た。
「やあ、じつにうれしいね!」彼はいって、ヴロンスキーの手を握ると、わきのほうへ連れて行った。
「あの男のことは頼んだぞ!」連隊長はヴロンスキーを指さしながら、ヤーシュヴィンにいうと、兵士たちのほうへおりて行った。
「なぜきみはきのう、競馬に来なかったんだね? あすこで会えると思っていたのに」ヴロンスキーは、セルプホフスコイを見まわしながら、いった。
「行ったんだが、遅かったのさ。いや、失敬したよ」彼はつけ加えて、副官のほうを振り返った。「ひとつ、おれからだといって、みんなに平等に分けてやってくれ」
そういって、彼は急いで紙入れから百ルーブル札《さつ》を三枚取りだし、顔を赤らめた。
「ヴロンスキー! なにか食おうか、それとも、飲むかい?」ヤーシュヴィンがきいた。「おい、ここへなにか伯爵の食べるものを持って来い! さあ、こいつを飲めよ」
連隊長邸での宴会は長いことつづいた。
一同はすごく飲んだ。セルプホフスコイは胴上げされて、投げおとされた。それから、連隊長も胴上げされた。そのあとで、連隊長がみずからペトリツキーといっしょに唱歌手の前で踊りだした。つづいて、もう少々疲れてきた連隊長は、庭のベンチに腰をおろして、プロシャに比べてロシアのすぐれている点、とくに騎兵攻撃における優越を、ヤーシュヴィンを相手に論証しはじめたので、宴席はいっとき静かになった。セルプホフスコイは屋敷へはいって、手を洗いに化粧室へ行くと、そこでヴロンスキーを見つけた。ヴロンスキーは水を浴びているところだった。彼は上着を脱ぎ、毛ぶかい赤い首筋を水栓《すいせん》の下へ突き出して、両手で首と頭を洗っていた。洗いおわるとヴロンスキーはセルプホフスコイのそばに腰をおろした。ふたりはそこにあった小さな長いすに腰をおろすと、ふたりにとって、とても興味のある会話がはじまった。
「きみのことは、女房からいつも聞いていたよ」セルプホフスコイはいった。「きみがよくあれをたずねてくれて、うれしいよ」
「きみの奥さんは兄嫁のワーリヤと友だちでね。あのふたりの女性は、ペテルブルグでぼくが気楽につきあえる唯一の人たちなんだよ」ヴロンスキーは微笑しながらいった。彼が微笑したのは、話の糸口を見つけて、話題の予想ができたのがうれしかったからである。
「唯一の人たちだって?」セルプホフスコイは、にやにやしながら、きき返した。
「ぼくだってきみのことは知っていたよ。でも、それは奥さんを通してばかりじゃないよ」ヴロンスキーは急にきびしい顔の表情で、相手の思わせぶりをおさえながら、いった。「きみの成功はすごくうれしかったよ。しかし、少しも驚きはしなかったさ。だって、ぼくはもっとそれ以上のことを期待していたからね」
セルプホフスコイはにっこり笑った。彼は、どうやら、自分に関する相手の意見に気をよくして、それを隠す必要も認めないらしかった。
「いや、白状するとね、ぼくが予期していたのは、その反対に、あれ以下のものだったのさ。でも、うれしいよ、じつにうれしいよ。ぼくは名誉心が強くてね。これは欠点だが、自分でも認めているさ」
「いや、もし、きみが成功していなかったら、自分じゃ認めなかったかもしれないね」ヴロンスキーはいった。
「そんなことはないよ」セルプホフスコイは、また微笑しながら答えた。「それがなくちゃ生きる価値がないとまではいわないが、それでも寂しいだろうな。そりゃ、これはひょっとすると、ぼくがまちがっているのかもしれないが、ぼくは自分の選んだ活動舞台では、ある程度の才能があるらしい。それに、ぼくの手もとにある権力は、たとえそれがどんなものであろうと、もしそうしたものがあるとすれば、ぼくの知っている多くの人の手中にあるよりも、ぼくの手にあるほうがいいと思っているよ」セルプホフスコイは自分の成功を意識する晴れやかな気持で、こういった。「そういう意味で、ぼくはその権力に近づけば近づくほど、満足を覚えるのさ」
「たぶん、きみにとってはそうかもしれないが、その考えはすべての人にあてはまるというわけじゃないよ。ぼくもやはり昔はそう思っていたが、今じゃこんな生活をしながら、そんなことのためばかりでは生きる意味がないと思うようになったよ」ヴロンスキーはいった。
「それ! それ!」セルプホフスコイは、笑いながらいった。「だから、ぼくはいきなり、きみについて聞きこんだ話、つまり、例の拒絶の一件から話を切りだしたのさ……そりゃぼくはきみの考えに賛成した。でも、そのやり方にはいろいろあるからね。ぼくの考えじゃ、きみの行為そのものはよかったんだが、やり方はまちがっていたよ」
「もうすんだことはすんだことさ。きみも知ってるとおり、ぼくは自分のしたことに対してはけっして否定しない男だ。いや、それだから、そのあとでもいい気持でいられるのさ」
「いい気持でいられるのは――一時だけのことだよ。しかも、きみはそれに満足できやしないのさ。そりゃ、ぼくもきみの兄貴にはこんなことはいわないがね。あの人はここのご主人と同様、愛すべき子供だからね。や、やって来だぜ」彼は『ウラー』の叫びに耳を傾けながら、いった。「あの人ならそれでも愉快だろうが、きみはそんなことに満足できやしないさ」
「ぼくも満足できるとはいってないさ」
「いや、そればかりじゃない。きみのような人間は必要なんだ」
「だれに」
「だれにだって? 社会にさ。ロシアには人材が必要なんだ。政党が必要なんだ。でなければ、なにもかもだめになっていく、いや、なりつつある」
「というと、どういうことだね? ロシアのコムニストに反対するベルテニョフ党のことかい?」
「いや」セルプホフスコイはそんなくだらぬことを口にしていると疑われた無念さに、眉《まゆ》をひそめて、いった。「Tout 溝 est une blague. そんなことは、いつだってあったし、これからもあるだろうよ。コムニストなんて、まるっきり、存在してやしないさ。しかし、陰謀をたくらむ連中にとっては、いつだって、有害で危険な党派を考えだす必要があるのさ。そんなことはもう古いお話さ。いや、ぼくのいってるのは、きみやぼくのように独立心にもえている人間の権力をもった政党が必要だということさ」
「でも、いったい、なぜだい」ヴロンスキーは、権力をもっている数人の名前をあげた。「でも、なんだってこうした連中は独立心にもえていないというんだね?」
「それはただ、あの連中が財政的に独立していないからさ。いや、生れながらにして、持っていなかったからさ。まったく財産を持っていなかったんだね。われわれのように太陽に近いところで生れなかったからさ。あの連中は金なり恩義なりで、買収することができる。だから、あの連中は自分の地位を維持するために、主義主張を考えだす必要があったわけさ。そのために、自分でも信じていない、この世に害毒を流すような思想や主義を振りまわすが、そうした主義もただ官舎とか、いくらかの俸給にありつくための手段なんだからね。あの連中のトランプの手をのぞいてみれば Cela n'est pas plus fin que 溝. ひょっとすると、ぼくはあの連中よりばかで、劣っているかもしれないが、しかし、ぼくがあの連中より劣っていなくちゃならんという理由も、ベつに見あたらないね。ところが、ただ一つまちがいなく重大な長所は、われわれはあの連中よりずっと買収しにくいってことだよ。そういう人間が今とても必要なんだよ」
ヴロンスキーは注意ぶかく相手の話を聞いていた。しかし、彼が興味をひかれたのは、言葉の内容そのものよりも、セルプホフスコイのそうした問題に対する態度であった。ヴロンスキーの軍務上の興味といえば、ただ自分の中隊だけに限られているのに、相手はもう政治的なことに自分の好《こう》悪《お》をもち、はやくもそうした権力と戦うことを考えているのだ。ヴロンスキーはまた、セルプホフスコイほど物事を深く考察し、すぐれた理解力をもち、自分などの住んでいる世界ではめったに見られない知力と天与の弁舌を備えていたら、さぞかし有力な人物になれるだろう、ということを理解した。そのため、彼は恥ずかしいこととは思いながら、相手をうらやまずにはいられなかった。
「そうはいっても、ぼくにはそのために必要なもっとも重大なものが一つ欠けているんだ」彼は答えた。「権力に対する熱望が欠けているんだ。そりゃ、昔はあったが、もうなくなってしまったよ」
「失敬だが、それはほんとうじゃないね」セルプホフスコイは、笑いながら、いった。
「いや、ほんとうだ、ほんとうだとも……すくなくとも今のところは、正直にいってね」ヴロンスキーはつけ加えた。
「そりゃ、今のところ《・・・・・》はそうかもしれない。それは別問題さ。しかし、その今のところ《・・・・・》はなにも永久にってわけじゃないからね」
「そうかもしれないね」ヴロンスキーは答えた。
「きみはそうかもしれない《・・・・・・・・》といってるけど」セルプホフスコイは相手の胸のうちを察したかのように、つづけた。「ぼくなら、たしか《・・・》に《・》というね。いや、このためにこそきみに会いたかったのさ。きみは当然そうしなければならなかったとおりに行動した。それはぼくにもわかるよ。しかし、きみは我を張るべきではないよ。きみに頼みたいことはただcarte blanche ということさ。ぼくはなにもきみに対して保護者めいた態度をとろうってわけじゃない……もっとも、保護者めいた態度をとっていかん、というわけもないがね。きみにしたってこれまでずいぶんぼくを保護してきてくれたからね! ぼくらの友情は、そんなことを超越してると信じたいよ。そうだろう」彼はまるで女のように優しい微笑を浮べながら、いった。「ぼくにその carte blanche を貸してくれ。ここの連隊をやめたまえ。ぼくが目だたぬように、きみを引っぱりあげるから」
「しかし、まあ、考えてみてくれ。ぼくは今なんにも求めてはいないんだぜ」ヴロンスキーはいった。「ただ、なにもかも、今のままであればいいのさ」
セルプホフスコイは腰をあげると、彼の真正面に立ちはだかった。
「なにもかも今のままであればいい、ときみはいったね。それがどんな意味か、ぼくにもわかってるよ。しかし、ぼくの話も聞いてくれ。ぼくらは同い年だが、おそらく、その数からいえば、きみのほうがよけい女を知ってるだろう」セルプホフスコイの微笑と身ぶりは、ヴロンスキ―に対して、いや、なにも恐れるにはあたらない、ぼくはきみの弱みにそっと、やさしくふれるだけだから、といってるみたいであった。「しかしね、ぼくは結婚してるから、まあ、信用してほしいな。だれかも書いていたけれど、自分の愛しているひとりの女房をちゃんと理解すれば、何千という女を知るよりも、はるかにすべての女を理解できるようになるっていうからね」
「ああ、今行くよ!」ヴロンスキーは、部屋の中をのぞきこんで、連隊長のところへ行こうと誘った将校に向って、叫んだ。
いまやヴロンスキーは、セルプホフスコイがどんなことをいうか、最後まで耳を傾けて、聞いていたくなった。
「さて、そこで、ぼくの意見はだね。女というやつは男の活動に対して、大きなつまずきの石になるんだ。女を愛しながら、なにかしようというのは、実にむずかしいことだよ。そのためには、つまり、さしさわりなしに女を愛しうる唯一の便法は――結婚ということさ。ところで、どんなふうにいったら、ぼくの考えていることを、うまくきみに伝えられるかなあ」たとえ話の好きなセルプホフスコイはいった。「ま、待ってくれ! そうだfardeau を運びながら、両手でなにかすることができるのは、ただその fardeau が背中に縛りつけられたときだけだね。いや、つまり、それが結婚というものさ。ぼくも結婚してみて、それを感じたよ。急に手が自由になっちゃってね。しかし、結婚しないで、この fardeau を引っぱって行けば、どうしても両手はふさがってしまって、なにひとつすることもできやしない。マザンコフやクルーポフを見たまえ。ふたりとも女のために、出世を棒に振っちまったじゃないか」
「たいした女どもだよ!」ヴロンスキーは、今名前をいわれたふたりと関係のあったフランス女と女優を思いだしながら、いった。
「しかも、女の社会的地位がしっかりしていればいるほど、かえってまずいんだよ。だってそれはもう fardeau を両手で引きずって行くどころじゃなくて、他人の手からひったくるのも同じことだからね」
「きみは一度も恋をしたことがないんだね」ヴロンスキーはじっと目の前を見つめて、アンナのことを考えながら、静かにいった。
「そうかもしれないね。しかし、今ぼくのいったことを思いだしてみてくれ。それから、もう一つ。女ってやつはだれでもみんな男よりも物質的だってことさ。われわれ男性は愛からなにか雄大なものを造りだすが、女ときたら、いつだって terre--terre だからね」
「今すぐ、今すぐ行くよ!」彼ははいって来た召使にいった。しかし、召使は、彼が考えたように、ふたりを呼びに来たのではなかった。その召使はヴロンスキーに手紙を持って来たのであった。
「トヴェルスコイ公爵夫人からの使いが、これをあなたさまに持ってまいりました」
ヴロンスキーは手紙の封を切ると、さっと赤くなった。
「ぼくは頭が痛くなってきた、家へ帰るよ」彼はセルプホフスコイにいった。
「そうか、じゃ失敬。きみの carte blanche はくれるね?」
「そのことはあとでまた話そう。ペテルブルグで会えるはずだから」
22
もう五時を過ぎていた。そこで、うまく時間に間にあうためと、だれもが知っている自分の馬車を避けるために、ヴロンスキーはヤーシュヴィンの辻馬車に乗って、できるだけ急ぐように命じた。古風な四人乗りの辻馬車は、ゆったりしていた。彼は片すみに腰をおろすと、前の席へ足を伸ばして、じっと考えこんだ。
自分の仕事が一段落して、さっぱりしたという漠然《ばくぜん》たる意識や、自分を有為な人物と認めてくれたセルプホフスコイの友情と愛《あい》想《そ》のいい言葉をぼんやり思いだす気持や、それからなによりも目前に控えたあいびきへの期待など、それもこれもすべてのものが、生の喜びという一つの印象に溶けあっていた。この感情はあまりにも強烈だったので、彼は思わず微笑をもらしたほどであった。彼は両足を下へおろして、片足を膝《ひざ》にのせ、片方の足を手でおさえて、きのう落馬したとき打ち身をした、弾力性のあるふくらはぎにさわってみた。それから、うしろへ身を投げるようにして、五、六ぺん、胸いっぱいに溜息《ためいき》をついた。
《すばらしい、じつにすばらしい!》彼はつぶやいた。彼は今までにもよく自分の肉体に対して喜ばしい気持を味わったことがあるが、しかし、今ほどわが身を、わが肉体をいとおしく思ったことはかつてなかった。たくましい足に軽い痛みを覚えるのも快かったし、呼吸するたびに胸の筋肉が動く感覚も気持よかった。アンナにあれほど絶望的な感じを与えた、からりと晴れて、ひんやりした八月の日そのものも、彼には身をひきしめるような新鮮なものに感じられ、冷水を浴びてほてっている顔や首筋を快く冷やしてくれるのだった。彼の口ひげから発散するポマードのにおいは、この新鮮な空気の中で、とりわけ快く感じられた。馬車の窓に見えるすべてのもの、このひんやりした清澄な空気につつまれ、日没の青白い光を受けたすべてのものが、彼自身と同じように、さわやかで、楽しげで、力強く見えた。落日の光線に輝いている家々の屋根も、塀《へい》や建物の角《かど》のはっきりした輪郭も、まれに行き会う人や馬車の姿も、草木のじっと動かぬ緑も、きちんと畦《あぜ》をきってあるじゃがいも畑も、家や、木や、藪《やぶ》や、じゃがいも畑の畦の投げている斜めの影も、なにもかもすべてのものが、たった今描き終って、ニスを塗られたばかりの、すばらしい風景画のように美しかった。
「さあ、急いでくれ、急いでくれ!」彼は窓から身を乗りだして、御者にいった。そしてポケットから三ルーブル取りだすと、振り向いた御者の手に握らせた。御者の手がランプのそばでなにかをさぐったと思うと、鞭《むち》の鳴る音が聞えて、馬車は平坦《へいたん》な大通りを、勢いよく走りだした。
《なんにも、なんにも、おれはいらないよ、この幸福さえあれば》彼は窓と窓のあいだにあるベルのボタンをながめ、最後にアンナの姿を見たときのことを思い描きながら、考えた。《時がたつにつれて、おれはますます彼女のことがかわいくなってくる。おや、あれはもうヴレーデの国有別荘の庭じゃないか。いったい、あの女《ひと》はどの辺にいるんだろう?どの辺に? どんなふうをして? でも、なんだってこんなところをあいびきに選んだのだろう。いや、またなんだってベッチイの手紙に書きそえたんだろう?》彼は今やっとそのことに思いあたった。しかし、もう考えている暇はなかった。彼は並木道まで乗り入れないうちに御者にいって、ドアを開き、まだ動いている馬車から飛びおりて、別荘へ通ずる並木道へはいって行った。並木道にはだれもいなかった。が、ふと右手のほうを見ると、彼女の姿が目にはいった。彼女の顔はヴェールに包まれていた。しかし、彼はすぐ歓喜に満ちたまなざしで、彼女独特の歩きぶりや、なだらかな肩の線や、首のかしげ方などを見てとった。と、たちまち、まるで電流のようなものが、彼の全身をつらぬいた。彼はまたもや弾力に満ちた足の動きから、呼吸するたびに動く心臓にいたるまで、自分自身を、はっきりと力強く感じた。そして、なにかに唇《くちびる》をくすぐられるような感じがしてきた。
彼といっしょになると、アンナはかたく彼の手を握った。
「お呼びたてなんかして、おおこりになってはいらっしゃいませんの? あたし、どうしてもお目にかからなくちゃならなかったものですから」アンナはいった。そのとき、彼がヴェールの下に認めたまじめにきっとしまった唇の形は、たちまち、彼の気分を一変させてしまった。
「ぼくがおこるだなんて! でも、なんだってここへやって来たんです? これからどこへ?」
「どこだってかまいませんわ」アンナは彼の手の上へ自分の手を重ねながら、いった。
「さあ、まいりましょう。少しお話がございますの」
彼はとっさに、これはなにか起ったな、このあいびきは喜ばしいものではなくなるだろう、と悟った。彼はアンナの前に出ると、もう自分の意志をもたなくなるのだった。まだ彼女の狼狽《ろうばい》の原因はわからないながらも、それと同じ不安な気持が、思わず自分にも伝わってくるのを感じた。
「どうしたんです、え、どうしたんです?」彼は肘《ひじ》で彼女の腕を締めつけて、その顔色に心の中を読みとろうと努めながら、たずねた。
アンナは気をひきたてようとして、無言のまま、五、六歩あるいて行った。と、不意に立ち止った。
「きのうはお話ししませんでしたけど」彼女は苦しげにあえぎながら、しゃベりだした。「主人といっしょに家へ帰る途中、あたし、なにもかもいってしまいましたの……あたしはもうあの人の妻ではいられないって、いってしまいましたの……そして、なにもかもすっかりいってしまったんですの」
彼は思わず上体を傾けながら、彼女の言葉に聞き入った。その様子はまるでそうすることによって、少しでも相手の立場の苦しさを軽くしようと願っているみたいであった。ところが、アンナが話し終ってしまうが早いか、彼は急にきっと身をそらした。と、その顔は傲然《ごうぜん》とした、きびしい表情になった。
「ええ、ええ、そのほうがいいんです。千倍もいいんです! どんなにかつらかったでしょうね、ぼくにもわかりますよ」彼はいった。
しかし、アンナは彼の言葉を聞いていなかった。彼女は相手の顔の表情で、その心の中を読みとろうとした。が、アンナはその表情が彼の頭へまっ先に浮んだ思い、つまり、もう今となっては決闘は避けられないという思いにつながっていたとは、知るよしもなかった。決闘などという考えは一度も彼女の頭に浮んだことがなかったからである。そのために、彼の顔に一瞬浮んで消えたいかめしい表情を、彼女は別な意味にとったのであった。
夫の手紙を受け取ったとき、アンナはすでに心の奥底では、なにもかも今までどおりになってしまうだろう、自分は現在の地位を無視し、むすこを捨てて、情人のもとに走るだけの勇気が欠けているのだ、と、ちゃんと承知していた。トヴェルスコイ公爵夫人のもとで過した朝のひとときは、いっそう彼女のこの考えを強めた。しかしながら、このあいびきはやはり彼女にとって、きわめて重大であった。彼女は、このあいびきがふたりの状態を変え、自分を救ってくれるものと、期待していた。もし彼がこの知らせを聞いて、ただちに、一刻の猶予もなく、断固とした情熱的な態度で、『なにもかも捨てて、ぼくといっしょに行こう』といってくれたならば、彼女もむすこを捨てて、彼のもとに走ったであろう。ところが、この知らせは、彼女の期待していたような印象を彼には与えなかった。彼はただ、なにかに侮辱されたような態度を見せたばかりであった。
「あたし、ちっともつらいことなんかありませんでしたわ。だって、ひとりでにそうなったんですもの」アンナはいらいらしながら、いった。「それなのに、こんなものを……」彼女は手袋の中から、夫の手紙を取りだした。
「わかってます、わかってますよ」彼は手紙を受けとりながらも、それを読みもしないで、相手の気持をしずめさせようと努めながら、さえぎった。「ぼくはただ一つのことを願っていました。ただ一つのことを望んでいたんです。つまり、こんな状態をぶちこわして、自分の生活をあなたの幸福にささげたいんです」
「なぜそんなことをおっしゃいますの?」アンナはいった。「あたしがそれを疑うことがあって? もし疑っているのだったら……」
「あすこへ来るのはだれです?」ヴロンスキーはこちらへやって来るふたりの婦人を指さしながら、だしぬけにこういった。「ひょっとすると、ぼくたちのことを知ってるのかもしれない!」彼はアンナを引っぱって、大急ぎでわきの小道へそれて行った。
「ああ、もうどうなってもかまわないわ!」アンナはいった。その唇はぶるぶる震えだした。と、ヴロンスキーは、彼女の目がふしぎな憎《ぞう》悪《お》をこめて、ヴェールの中から自分を見つめているような気がした。「だから、いってるじゃありませんか、そんなことは問題じゃないって。そんなことは疑うはずもありませんわ。でも、あの人ったら、こんなことを書いてよこしたんですのよ。さあ、読んでください」アンナはまた立ち止った。
またしても、ヴロンスキーは彼女と夫との決裂を聞かされた瞬間と同じように、その手紙を読みながら、あのごく自然な気持におそわれた。それははずかしめられた夫のことを考えたとき、彼の胸に呼びおこされた気持であった。いまや、彼はその手紙を握りしめながら、ひとりでに、おそらくきょうあすにも自分のところへ届けられるであろう決闘の挑戦状と、決闘そのものを心に描いていた。決闘にのぞむ場合、自分は今も顔に浮べているような冷やかな傲然たる表情で、空中へ向けてピストルを放ち、はずかしめられた夫の射撃の前に立つであろう。が、そう考えたとたん、彼はつい先ほどセルプホフスコイが口にし、自分でもけさがた考えた、自分で自分を縛るようなことはしないほうがいいという思いが、ちらと頭の中をかすめた。もっとも、こんな考えを彼女に打ち明けるわけにはいかないことは、彼も承知していた。
手紙を読み終ると、彼は目を上げてアンナを見た。が、彼のまなざしには、きっぱりしたところがなかった。アンナはすぐに、相手がもうこのことを前に自分ひとりで考えたにちがいない、と察した。彼が今なにをいおうとも、それは自分ひとりで考えたすべてではないと、見てとった。アンナは最後の望みが裏切られたのを知った。それは彼女の期待していたこととは違っていたからである。
「ねえ、あなた、ほんとになんて人でしょうね」アンナは震える声でいった。「あの人ったら……」
「ま、待ってください。でも、ぼくはむしろこうなることを喜んでるんですよ」ヴロンスキーはさえぎった。「ねえ、後生ですから、ぼくに最後までいわせてください」彼はどうか自分の言葉を説明する時間を与えてくれといわんばかりの目つきをしながら、こうつけ加えた。「ぼくが喜んでいるという意味は、これが不可能なことだからですよ。あの人が考えているように、今のままでいるなんてことは、絶対に不可能なことだからですよ」
「じゃ、どうして不可能なんですの?」アンナは涙をこらえながらいったが、どうやら、もう彼の言葉にはなんの意義も認めないような調子だった。彼女はもう自分の運命が決せられたのを感じたのである。
ヴロンスキーは、もう避けることができないように思われる決闘のあとでは、今までどおりの状態をつづけることは不可能だといおうとした。しかし、口をついて出たのは、まったく別のことであった。
「もう今までどおりつづけるなんて不可能なことです。こうなったら、あなたもあの人を捨ててくださるでしょうね。ぼくはそれを期待しているんです」彼はどぎまぎして、赤くなった。「ねえ、ぼくがふたりのこれからの生活をよく考えて、うまくきりまわすことを、許してくださるでしょうね。あす……」彼はそういいかけた。
が、アンナはしまいまでいわせなかった。
「じゃ、むすこはどうなりますの?」彼女は叫んだ。「あの人がどんなことを書いてるかおわかりでしょう? あの子を捨てて行かなければならないって。でも、そんなこと、あたしにはできませんし、したくもありませんわ」
「しかし、お願いですから、よく考えてください。いったい、どっちがいいか、むすこさんをおいて行くか、それとも、この屈辱的な状態をつづけていくか」
「だれにとって屈辱的な状態なんですの?」
「みんなにとって、いや、だれよりもあなたにとって」
「あなたは屈辱的っておっしゃいますのね……どうか、そんなことはいわないで。そんな言葉はあたしにとって、なんの意味もないんですから」アンナは声を震わせていった。もう今となっては彼にうそをいってもらいたくなかった。彼女に残されているのは、ただ彼の愛情だけであり、彼女は彼を愛したかったからである。「ねえ、おわかりになって、あたしにとっては、あなたが好きになったあの日から、なにもかもすっかり変ってしまったんです。あたしにとってたった一つのもの、それはあなたの愛情なんですもの。もしその愛情があたしのものだったら、あたしは自分をとても高潔に、しっかりしたものに感じるでしょうから、そんな屈辱的なものなんか、あたしにはなにひとつありえないんです。あたしは自分の状態を誇りに思ってますわ、だって……誇りに思ってるのは……誇りに思って……」彼女はなにを誇りに思っているのか、しまいまでいいきれなかった。羞恥《しゅうち》と絶望の涙が、その声をかき消してしまった。アンナは立ち止まって、泣きくずれた。
ヴロンスキーもまた、なにかがのどへこみ上げてきて、鼻の中が刺されるような気がした。彼は生れてはじめて、自分が今にも泣きだしそうなのを感じた。なにがいったい彼の心をうったのか、自分でもはっきりいうことはできなかったであろう。彼は相手がかわいそうになってきたが、自分も力をかしてやることができないのを感じていた。が、それと同時に、彼は自分が相手の不幸の原因であり、自分がなにか悪いことをした、ということも知っていた。
「離婚ができないなんてはずはないのに?」彼は弱々しい声でいった。アンナはそれに答えず、ただ頭を左右に振った。「むすこさんを引き取ったうえで、あの人のところを逃げだすわけにはいかないんですか?」
「そうね。でも、そういったことはみんな、あの人の出方にかかっているんですわ。さあ、これからすぐ、あたしはあの人のとこへ行かなければなりませんわ」彼女はそっけない調子でいった。なにもかも今までどおりだろうという彼女の予感は、やはり、誤りではなかった。
「火曜日に、ぼくはペテルブルグへ行きます。そしたら、なにもかも解決しますよ」
「ええ」彼女はいった。「でも、もうこの話はしないことにしましょうね」
アンナの馬車が近づいて来た。彼女は帰してやるときに、ヴレーデの庭の格《こう》子《し》のところへ迎えに来るように、命じておいたのである。アンナはヴロンスキーに別れを告げると、家路についた。
23
月曜日に、六月二日の委員会の定例会議が行われた。カレーニンは会議室へはいると、例のとおり、議員たちや議長にあいさつをして、自分の席につき、目の前に用意してあった書類の上に片手をのせた。それらの書類の中には、必要な参考資料や、これからしようと思っている提案のあらすじを書いた紙片などがまじっていた。もっとも、彼にはそんな参考資料など必要なかった。彼はすっかり覚えこんでいたので、これから話そうとすることを、頭の中で復習してみる必要さえ認めなかったほどである。彼は、やがて番がきて、自分の目の前に、平然たる様子を示そうと、やっきになっている反対者の顔を見たら、自分の演説は今準備しうるものよりもはるかに弁舌さわやかに、自然に流れだすであろうと、承知していた。彼は、自分の演説の内容がじつにすばらしいものであって、その一語一語が意味をもつようになるだろうと感じていた。しかも、定例の報告を聞いているうちは、彼もきわめて無邪気な、おだやかな顔つきをしていた。その長い指先で、前に置いてある白い紙の両端を、優しくなでている血管のふくれあがった白い手や、疲れたような表情で首を横にかしげたところを見ていると、今にも彼の口から、すさまじいあらしを巻きおこして、議員たちを絶叫させたり、相互に罵《ば》倒《とう》させたりして、議長に秩序の維持を宣告させるような弁舌がほとばしり出ようとは、だれひとり想像することもできなかった。報告が終ったとき、カレーニンは例の静かな細い声で、異民族統治問題について若干私見を述べたい、といった。一同の注意は彼へ向けられた。カレーニンは咳《せき》ばらいをしてから、いつも演説をするときの癖で、わざと自分の反対者を見ず、自分の正面にすわっている男――委員会でかつて一度も自分の意見を発表したことのない、小がらなおとなしい老人の顔を目標に選んで、自分の意見を述ベはじめた。問題がいよいよ根本的かつ有機的な法規のことにふれると、反対者はおどりあがって、反駁《はんぱく》をはじめた。同じく委員会の一員であり、同じく急所をつかれたストリョーモフも弁明をはじめた。いや、一言にしていえば、議場はあらしのような騒ぎとなった。しかし、カレーニンは凱《がい》歌《か》を奏した。彼の提案は採択され、新たに三つの委員会が組織されることになったからである。その翌日、ペテルブルグの有力者たちのあいだでは、この委員会のうわさでもちきりであった。カレーニンの成功は、彼自身の予期した以上のものであった。
翌火曜日の朝、カレーニンは目をさますと、きのうの勝利を快く思い起した。そして、事務主任が、長官たる彼のごきげんをとろうと、自分の耳にはいった委員会のうわさを伝えたときには、平静を装おうと思いながらも、つい顔をほころばさずにはいられなかった。
事務主任を相手に仕事をしながら、カレーニンはきょうが火曜であり、アンナに引っ越しを命じた日であることをすっかり忘れていた。そのため、召使が妻の帰宅を告げにはいって来たとき、彼はびっくりして、不快な気分におそわれた。
アンナはペテルブルグへ朝早く着いた。電報を打っておいたので、迎えの馬車が来ていた。つまり、カレーニンは、妻の帰宅を知ることができたはずである。ところが、彼女が着いたとき、彼は迎えに出なかった。だんなさまはまだお出かけにならないで、事務主任とお仕事の最中ですという話だった。アンナは、自分の着いたことを夫に知らせるようにと命じ、自分の居間へはいって、夫がやって来るのを待ちながら、荷物の整理をした。ところが、一時間過ぎても、彼は姿を見せなかった。やがて、彼女はなにか世話をやくことにかこつけて食堂へ行き、夫がそこへ出て来るのを待ちながら、わざと大きな声で話をした。しかし、彼が事務主任を送って、書斎の戸口まで出て来た気配は、ちゃんとアンナの耳へ達したにもかかわらず、彼はやはり、そこへも出て来なかった。彼女は夫が例のとおり、まもなく出勤することを知っていたので、その前に会って、自分たちの関係をはっきりさせたいと思っていたのである。
彼女は広間をひとまわりしてから、意を決して夫のところへ行った。彼女が書斎へはいったとき、彼はもう明らかに出かけるばかりの制服姿で、小さなテーブルのそばに腰をかけ、その上に両肘をつき、ぼんやりと目の前を見つめていた。アンナは相手が自分を見るよりさきに彼を見た。そしてすぐ、彼が自分のことを考えているのを悟った。
妻の姿を見ると、彼は立ちあがろうとしたが、すぐ思いなおしてやめた。と、彼の顔は、アンナがついぞ今まで見たことがないほど、ぱっと赤くなった。そして今度は素早く立ち上がり、妻の目をまともに見ないで、その額か髷《まげ》のあたりを見ながら、歩いて来た。そばへ来ると、その手をとって、すわるようにいった。
「帰って来てくれて、とてもうれしいよ」彼は妻のそばに腰をおろしながら、いった。どうやら、まだなにかいおうとして、口ごもったらしかった。何度も口を開こうとしながら、そのたびに思い止まってしまった。アンナはこの対面にそなえて、夫を軽蔑《けいべつ》し非難しようと、自分にいいきかせていたにもかかわらず、もう相手になんといっていいかわからず、気の毒にさえなってきた。こうして、その沈黙はかなり長くつづいた。「セリョージャは元気かい?」彼はいったが、返事を待たずに、すぐつけ足した。「きょうは家で食事をしないよ。もうすぐ出かけなくちゃならない」
「あたし、モスクワへ行ってしまうつもりでございました」アンナはいった。
「いや、ここへ帰って来たのはいいことです、とてもいいことです」彼はいって、また口をつぐんだ。
夫が話を切りだす勇気がないのを見てとって、アンナは自分のほうから話しだした。
「ねえ、あなた」彼女は夫の顔を見上げ、自分の髷に注がれているその視線を受け止めて、ひとみを伏せることなく、いった。「あたしは罪ぶかい女です、あたしは悪い女です。でも、あたしはこの前のとおりの、あのとき申しあげたとおりの女でございます。もう今となってはなにひとつ改めることはできません。それを申しあげようと思って、帰って来たのでございます」
「そんなことはたずねませんでした」彼は不意にきっぱりした調子で、憎悪をこめて妻の目をじっと見つめながら、いった。「たぶん、そんなことだろうと思っていました」憤《ふん》怒《ぬ》にかられたために、彼はまた完全に自己の全能力を駆使することができるようになった。「いや、しかし、あのときもいったとおり、また手紙にも書いたとおり」彼は鋭い細い声でしゃべりだした。「いや、今また繰り返しておきますが、私にはそんなことを知る義務はないのです。そんなことは黙殺します。あんな愉快な《・・・》知らせを、あんなに急いで夫に伝えるほど、世間の奥さんたちは、あなたのようにお人好しではありませんよ」彼は『愉快な』という言葉に、特別力を入れた。「私は社交界がこの件を知って、私の名声に泥が塗られるまでは、黙殺するつもりです。だから、私としてはただ次のことを、あらかじめいっておきましょう。つまり、私たちの関係はこれまでどおりでなければならない。ただ、あなたが自分で自分の顔に泥を塗るようなふる《・・・・・・・・・》まいをする《・・・・・》場合にかぎり、私は自分の名誉を守るために、しかるべき方法を講じなければなりません」
「でも、あたしたちの関係は、もう今までどおりにはまいりませんわ」アンナはおびえたように夫の顔を見ながら、おどおどした声でいった。
アンナは今また、夫の落ち着きはらった態度を見、子供のように甲高《かんだか》い皮肉な声を聞くと、相手に対する嫌悪の情を覚え、先ほどまでの憐憫《れんびん》の情も消えてしまった。彼女はただもう恐ろしいと思うばかりであった。しかし、なんとしても自分の立場をはっきりさせたいと願った。
「あたしはもうあなたの妻でいることはできません。だって、あたしは……」アンナはいいかけた。
彼は意地の悪い、冷やかな笑いをもらした。
「いや、あなたの選んだ生活は、あなたのものの考え方にまで影響を与えているようですね。私はそのどちらを尊敬するにしろ、軽蔑するにしろ……私はただ、あなたの過去を尊敬し、現在を軽蔑しています……あなたが私の言葉に対して与えた解釈は、私の気持とは縁遠いものでした」
アンナは溜息《ためいき》をついて、うなだれた。
「いや、それにしても、私に納得いかないのは、あなたのような独立心をもっている婦人が」彼はしだいに興奮しながら、言葉をつづけた。「自分の不貞をあからさまに夫に告白して、しかも、どうやら、それが非難さるべき恥ずかしいこととは感じていないらしいのに、なぜ夫に対して妻の義務を履行するのにはばかるところがあるのですか」
「じゃあ、あなたはあたしにどうしろとおっしゃるのですか?」
「私が要求したいのは、あの男がここで私の目にふれないようにすることと、あなたが社交界からも、召使たちからも、非難されないように行動することと……それから、あなたがあの男に会わないこと。これだけです。これくらいのことなら、たいしたことじゃないでしょう。そうすれば、あなたは妻としての義務を果さないでいても、貞淑な妻としての権利を享受することができるのです。私がいいたいと思っていたのは、これだけです。もう出かける時間です。食事は家でしません」
彼は立ちあがって、ドアのほうへ歩きだした。アンナも立ちあがった。彼は無言のままうなずいて、彼女を先に通してやった。
24
リョーヴィンが干し草の禾堆《やま》の上で過した一夜は、彼にとって無意味には終らなかった。自分のやっている農事経営さえいやになって、すっかり興味のないものとなってしまった。すばらしい収穫だったにもかかわらず、今年ほど多くの失敗をかさね、百姓たちとの関係も敵対的なものになったことはなかった。いや、すくなくとも、彼にはそう思われた。それに、そうした失敗や敵対的な関係の原因も、今では、すっかり納得できるのだった。彼が仕事そのものの中に味わった魅力や、その結果として生れた百姓たちとの交際や、百姓たちやその生活に対して彼のいだいた羨望《せんぼう》や、あの夜、彼にとってもはや空想ではなく、一つの意向となって、その実行の細部まで考慮したほどの、百姓たちの生活に踏みこみたいという願望など、こうしたいっさいのことが、彼の行なっている農事経営に対する見方を一変し、彼はもうその中に、以前のような興味を見いだすこともできなければ、すべての仕事の基礎である労働者との不愉快な関係をも、認めないではいられなくなった。パーヴァのように改良された雌《め》牛《うし》の一群、よく耕されて肥料を施された土地、生垣《いけがき》をめぐらした平坦《へいたん》な九カ所の畑、深く耕されて肥料も十分な九十ヘクタールの耕地、かずかずの播《は》種《しゅ》機《き》、その他――これらすべてのものは、ただ彼自身か、あるいは彼に共鳴する友人たちと協同でやる場合には、りっぱなものになったであろう。ところが、彼はいまやはっきりと次のことを悟ったのである(農事経営の主たる要素は労働者でなければならぬ、という趣旨で執筆している、彼の農業に関する著述の仕事は、この点において、大いに彼を啓発した)。彼が行なっている農事経営は、単に彼と労働者のあいだの執念ぶかい残忍な闘争であり、この闘争では、一方の側、つまり、彼の側は、すぐれたものとされている模範に、いっさいのものを改良しようと、不断の緊張した努力をつづけているのに、一方の側には、単に事物の自然な秩序があるばかりであった。そのことを、いまや彼は悟ったのである。しかも、この闘争において、一方はその力を最大限に緊張させるのに反して、他方はなんの努力もはらわず、なんの意向さえもたずに仕事をし、その結果として、得られるものは、仕事がどちらの思うようにもはかどらず、りっぱな農具や、すばらしい家畜や土地がそこなわれるばかりであった。そのことに彼は気づいたのである。しかし、それよりさらに重大なことは、この事業に向けられたエネルギーが、まったく無意味に消耗されるばかりではなく、自分の農事経営の意義がむきだしにされた今となっては、そのエネルギーの目的さえきわめて無価値なものであることを、彼は感じないわけにはいかなかった。では、結局のところ、この闘争の目的はどういう点にあるのだろうか? 彼は収益の面では些《さ》細《さい》な金額を争った(いや、争わずにはいられなかったのである。なぜなら、彼が少しでもエネルギーを加減すると、たちまち、百姓たちに払う金が足りなくなるからであった)。一方、百姓たちは落ち着いて気持よく、つまり、今までの習慣どおりに働くことを、主張するのだった。彼の利害の点からいえば、労働者ひとりびとりができるだけ多く働いて、しかも分別をわきまえ、回《かい》転《てん》簸《ひ》や、耙《まぐわ》や、打穀機などをこわさないように気をつけ、自分の仕事にたえず気を配っていることが必要であった。一方、労働者のほうはできるだけ愉快に、休みながら働きたい、なによりも第一に、のんきにすべてを忘れて、なにひとつ考えることなく働きたいのである。今年の夏、リョーヴィンはどんな場合にもすぐそのことに気づいた。彼はうまごやしを干し草にしようと、雑草や刺《いら》草《くさ》がまじっていて、種子を取るには不向きな草場へ、人をさしむけたところ、種子用にとっておいた優秀な草場を、どんどん刈ってしまい、支配人がそう命じたのだと弁解しながら、なに、いい干し草ができますよ、などと気休めをいう始末であった。もっとも彼は、その草場のほうが刈るのに楽だったので、そういうことになったのを承知していた。また、干し草をかわかすために、乾燥機を持たせてやったところ、使いはじめてすぐこわしてしまった。というのは、頭の上で翼がまわっている機械の運転台にすわっているのが、その百姓にとってどうにも退屈だったからである。しかも、リョーヴィンに向って、「ご心配にゃおよびませんとも。女どもがちゃんとやってくれますから」という始末だった。犂《すき》も役に立たないことがわかった。上げてある刃をおろすということが、作男には考えもつかなかったので、ただやたらにひきずりまわして、馬をくたびれさせ、畑を台なしにしてしまったからである。しかも、リョーヴィンには、なにも心配しないでくれというのである。小麦畑も馬で荒されてしまった。それは作男がだれもかれも、馬の夜番に出ることをきらって、きつくさし止められていたにもかかわらず、交替で夜番をはじめたので、一日じゅう働いたワニカが、疲れてぐっすり寝こんでしまったからである。ワニカは自分の罪をざんげしながら、「どうとでもしておくんなさい」といった。また、三頭の良種の子牛が、水槽《すいそう》も置いてない、うまごやしの草場へ放されたために、まいってしまった。しかも、百姓たちは、子牛がうまごやしに、中毒したのだとは、どうしても信じようとはしないで、隣村でも三日間に、百十二頭も倒れてしまったと、気休めをいうのだった。こうしたことはすべて、リョーヴィンなり、彼の農事経営なりに対して、だれかが悪意をもってしたのではなかった――いや、それどころか、百姓たちは彼を愛して、さっぱりしただんなだ(これは最大の讃辞である)と見なしていることを、彼は承知していた。ただ、みんなは愉快に、のんきに働きたかったのであり、また、リョーヴィンの利害が彼らに無縁で、理解できなかったばかりか、彼ら自身の正当な利害と、宿命的に相反していたからにすぎなかった。もうだいぶ前からリョーヴィンは、農事経営に対する自分の態度に不満を感じていた。彼は、自分の小舟が浸水しているのを知りながら、その浸水口を見つけもしなければ、捜そうともしなかった。ひょっとすると、わざと自分で自分を欺いていたのかもしれなかった。しかし、今となっては、もうこれ以上自分を欺くわけにはいかなかった。自分の行なってきた農事経営に、ただ興味がなくなったばかりでなく、嫌悪の念さえ感ずるようになったので、もうこれ以上それに従事することができなくなっていたのである。
さらにそのうえ、三十キロ離れたところには、彼が会いたいと思いながらも会うことのできぬキチイがいた。ドリイは、彼がたずねて行ったとき、また来るようにと招いてくれた。これは、妹へもう一度結婚を申し込むために来てくれ、という意味であり、彼女は妹も今度は彼の申し込みを受けいれるだろうとにおわしていた。リョーヴィン自身も、キチイを見たとき、自分が相変らずキチイを恋していることを悟った。しかし、キチイがいるのを承知のうえで、オブロンスキー家へ行くことはできなかった。彼が結婚を申し込み、彼女がそれを拒絶したということは、ふたりのあいだに越えがたい垣を築いてしまっていた。《おれは、あの人が望んでいた人の妻になれないからという理由だけで、ぼくの妻になってくださいと頼むわけにはいかないさ》彼は心の中でつぶやいた。そう考えると、彼はキチイに対して冷やかな、敵意を感ずるのだった。《おれはあの人に対して非難の気持なしに、話をすることはできないし、悪意なしに、あの人を見ることもできない。それに、あの人だって、今までよりもずっとおれを憎むようになるだろう。それが当然のことなのだ。しかも、ドリイがあんな話をしてくれた今となっては、もうとても出かけてなんか行けないさ。あの人が話してくれたことを、知らないようなふりをするなんてことが、このおれにできるだろうか? それに、行くからには、おれはあの人を許し、あの人に同情する寛大な心をもって出かけて行くわけだ。おれはあの人の前に、罪を許して愛を恵んでやる男の役割で現われるわけだ!……いや、なんだってドリイは、あんなことをこのおれにいったんだろう? これがもし偶然あの人に会うのだったら、そのときはなにもかも自然に運んだかもしれないのに。しかし、もう今となっては不可能だ、絶対に、不可能だ!》
ドリイは、キチイのために婦人用の鞍《くら》を貸してほしいと手紙で頼んできた。『お宅には鞍があるとうかがいましたので』彼女は書いていた。『あなたさまがご自分でお持ちくだされば、幸甚《こうじん》に存じます』
これにはもう彼も我慢できなかった。なぜあんなに賢い、繊細な神経をもった婦人が、これほどまで妹を侮蔑することができるのだろう! 彼は手紙を十通も書きなおしたが、みんな破り捨ててしまい、結局、なにも返事を書かずに、鞍だけを送った。伺いますと書くことはできなかった。なぜなら、彼は行くわけにいかないからである。そうかといって、なにか都合があるとか、旅に出るとかいって、伺えないと書くのは、もっとまずかった。彼は返事もつけずに鞍を送ったが、自分でも、なにか恥ずかしいことをしたような感じになり、翌日はすっかりいや気のさした農場の仕事を、なにもかも支配人にまかせて、遠い郡にいる親友のスヴィヤジュスキーのもとをたずねて行った。その近くには、田《た》鴫《しぎ》のいるすばらしい沼がいくつもあって、つい先日も、前々からの計画どおり、しばらく遊びに来るようにという手紙をもらったところだったからである。スロフスキー郡の田鴫沼は、以前からリョーヴィンを誘惑していたのであるが、農事に追われて、彼はいつもその旅行を延期していたのである。が、今度という今度は、シチェルバツキー家の姉妹のそばから、いや、なによりも農事からのがれて、彼にとってあらゆる悲しみに対する最善の慰みである狩猟に出かけられることをとても喜んでいた。
25
スロフスキー郡へは、鉄道も駅逓便《えきていびん》もなかったので、リョーヴィンは自分の旅行馬車に乗って出かけて行った。
ちょうど道のりの半分ほど来たところで、彼は馬に飼料をやるために、一軒の裕福な百姓家へ立ち寄った。頬《ほお》のあたりが白くなっている、赤い大きな顎《あご》ひげをはやした、はげ頭の元気な老人が門をあけ、柱に身をよせながら、三頭立て《トロイカ》を通してくれた。きれいに片づいた、新しく作ったらしい、広々とした内庭のひさしの下へ、馬車を入れるようにと御者に教えた。そこにはまわりの焦げた鋤《すき》などが置いてあった。老人はリョーヴィンに、どうぞ客間へ通ってくれといった。こざっぱりしたなりの、素足に雨靴をはいた若い百姓女が、前かがみになって、新しい玄関の床をふいていた。その女はリョーヴィンのうしろから駆けこんで来た犬に驚いて、叫び声をあげたが、犬がなにもしないので、今度は自分が驚いたことに、きゃっきゃっと笑いだした。袖《そで》をまくった片手で、リョーヴィンに客間への入口を教えると、女はまたかがみこんで、その美しい顔を隠し、ふき掃除をつづけた。
「サモワールはいかがです?」彼女はたずねた。
「ああ、お願いします」
客間は、オランダ風の暖炉と間仕切りのある大きな部屋だった。聖像の下には、色模様のテーブルと、長いすと、二つのいすが置いてあった。入口のところには、小さな食器棚《だな》があった。鎧戸《よろいど》がしまっているので、蠅《はえ》もほとんどいなかった。じつに清潔だったので、リョーヴィンは、道々ずっと走って来て、泥水を浴びた犬のラスカが、床の上を泥だらけにしないかと気をもんで、戸口のそばの片すみに、居場所を指定したほどであった。リョーヴィンは部屋の中をひとわたり見まわしてから、裏庭へ出た。オーヴァシューズをはいた、器量よしの若い百姓女は、天秤棒《てんびんぼう》に空《から》の水桶《みずおけ》をぶらぶらさせながら、彼の先に立って、井戸ばたへ水くみに駆けだして行った。
「早いとこするんだよ!」老人はきげんよく大声で彼女にいうと、リョーヴィンのそばへ寄って来た。「それじゃ、だんなはスヴィヤジュスキーさまのところへおいでになるんで? あのだんなもよくここへお見えになりますよ」老人は入口の階段の手すりに肘をつきながら、話好きらしく、しゃべりだした。
老人が、スヴィヤジュスキーとのつきあいについて話している最中に、門の戸が再びきしんで、野《の》良《ら》がえりの百姓たちが、鋤や耙《まぐわ》を引いて内庭へ乗りこんで来た。鋤や耙をつけられた馬はよく肥えていて、大きかった。百姓たちは明らかに家の者らしかった。そのうちのふたりは更《さら》紗《さ》のルバーシカを着て、大黒帽子をかぶった若者だった。大麻のルバーシカを着た、あとのふたりは作男らしく、ひとりは老人、ひとりは若者だった。老人は入口の階段を離れて、馬のほうへ近づき、鋤や耙を解きにかかった。
「なにを耕してきたんだね?」リョーヴィンはきいた。
「じゃがいも畑を耕してきましたんで。これでも、ちっとばかり土地を持っとりますんでね。フェドート、おめえ、去勢馬《メーリン》は連れ出さねえでな、飼秣耙槽《かいばおけ》のところへつないどいて、ほかのやつをつけるんだぞ」
「そりゃそうと、父っつぁん、おら、鋤頭《すきさき》を持って来いっていっといたが、持って来たかい?」どうやら、老人のむすこらしい背の高い、頑丈《がんじょう》そうな若者がこうたずねた。
「ほれ……あの橇《そり》の中にあるさ」老人ははずした手綱《たづな》をぐるぐる巻いて、地面へ放りだしながら、答えた。「みんな飯食ってるあいだに、つけちまうんだぞ」
器量よしの若い百姓女が、水のいっぱいはいった桶を肩にめりこませながら、玄関の中へはいって行った。どこからともなく、また女たちが現われた――若くてきれいな娘や、中年の女や、醜い婆さんや、子供連れや、子供を連れないのや、さまざまだった。
サモワールが、煙突からしゅうしゅう音をたてはじめた。作男も家のものも、馬の始末をつけて、食事をしに行った。リョーヴィンも馬車の中から弁当を取りだし、お茶をいっしょに飲まないかと老人を誘った。
「はあ、どうも。じつは、きょうは飲んじまったんですが」老人はどうやら喜んでこの申し出《いで》を受けるらしく、いった。「それじゃ、おつきあいに」
お茶を飲みながら、リョーヴィンは老人から農事についていろいろときいた。老人は十年前に、ある女地主から百二十ヘクタール借り、去年その土地を買いとって、さらに近所の地主から三百ヘクタール借りうけた。その中の小部分で、いちばん土地の悪いところを貸地にして、四十ヘクタールの畑をふたりの作男といっしょに家族の者たちで作っていた。老人は仕事がうまくいかないとこぼしていた。しかし、リョーヴィンはそんな泣き言はほんのお体裁で、農事はなかなかうまくいっていることを見てとった。もし実際にうまくいってなかったら、老人は百五ルーブルの割で土地を買ったり、三人のむすこや甥《おい》に嫁をとってやったり、二度も火事にあいながら、新築できるはずがなかった。しかも、それはあとになるほどりっぱな普請だった。老人は泣き言をいいながらも、わが家の裕福なことをはじめ、むすこや甥や嫁や、あるいは牛馬のことや、ことに、これだけの大世帯をやりくりしていくことを自慢にしていたが、それももっともな話だった。リョーヴィンは老人との話から、相手が新式の農法をも、一概にしりぞけていないらしいのを知った。老人はじゃがいもも作っていた。しかし、リョーヴィンがそこへ来る途中見たところでは、そのじゃがいもはもう花時を過ぎて、実をつける時季になっていた。リョーヴィンの畑では、ようやく花をつけたばかりだった。老人はじゃがいも畑を、地主のところから借りて来た新式の犂《ブルーク》(彼はそれをプルーガと呼んでいた)で耕したといった。老人は小麦もまいていた。老人は裸麦を間引くとき、その間引き麦を馬の飼料にするといったが、そうした細かい点に、リョーヴィンはとりわけびっくりした。リョーヴィンもこれまで、このすばらしい飼料がむだに捨てられるのを見て、何度それを集めようと思ったかわからないが、いつの場合も、結局、それは不可能ということになった。ところが、この百姓のところでは、それが実行されているのであった。老人もその飼料はいくら自慢しても、自慢しきれないふうであった。
「女どもがなにをやるかですと? 束にして道ばたへ運び出しゃ、あとは車が運んで行きますだ」
「いや、どうも、われわれ地主のところでは、作男たちとの折り合いがいつもうまくいかなくてね」リョーヴィンは老人にお茶を勧めながら、いった。
「ありがとうごぜえます」老人は答えて、コップをとったが、砂糖は、残しておいた小さなかじりかけのかたまりを見せて、辞退した。「作男なんか使って仕事ができるもんですかい?」老人はいった。「荒されるのが関の山でごぜえますよ。なに、早い話が、スヴィヤジュスキーさまのところもそうですがね。わしらはよく存じてますが、そりゃ、たいした土地ですがね。まるで芥《け》子《し》粒《つぶ》みてえに黒々してますよ。ところが、やっぱり収穫《とりいれ》はたいして自慢するほどのこたあねえですよ。それもこれも目がよく届かねえからですな!」
「そんなこといっても、おまえさんだって作男を使ってるじゃないか?」
「わしらの仕事はなにぶん百姓仕事だで、なんでも自分でやっとりますだ。役に立たないやつはさっさと追い出しちまって、家のもんでやっとりますだ」
「父っつぁん、フィノゲンがタールを届けてくれっていってたよ」オーヴァシューズをはいた若い女がはいって来て、いった。
「まあ、そういうわけですがな、だんな」老人は立ちながらいって、長いこと十字を切って、リョーヴィンに礼をいうと、部屋を出て行った。
リョーヴィンが御者を呼びに行こうとして、勝手口のほうへはいって行くと、そこでは男どもが食事をしているところだった。女たちは立ったまま、給仕をしていた。頑丈そうなからだつきの若いむすこが、粥《カーシヤ》を口いっぱいつめこんで、なにやらこっけいな話をしているらしく、みんな大声で笑っていた。そして、汁を椀《わん》についでいた雨靴をはいた若い百姓女が、特別にぎやかに笑い声をたてていた。
リョーヴィンがこの百姓家から受けた豊かな印象には、このオーヴァシューズをはいた若い百姓女の美しい顔が大いに影響を与えていたかもしれない。しかし、とにかく、その印象はきわめて強烈なものだった。リョーヴィンはいつまでたっても、それを忘れることができなかった。そして、老人の家から、スヴィヤジュスキーのところへ行く途中ずっと、彼はこの農事経営のことを思い浮べていた。それはさながら、この印象の中に、なにか彼の特別な注意を求めるものがひそんでいるかのような感じであった。
26
スヴィヤジュスキーは自分の郡の貴族団長をつとめていた。彼はリョーヴィンより五つ年上で、もうずっと前に結婚していた。彼の屋敷には細君の妹で、リョーヴィンが好意をもっていた若い娘がいた。リョーヴィンも、スヴィヤジュスキー夫妻がこの娘を自分に嫁《とつ》がせたがっているのを承知していた。彼は、世間で花婿候補者と呼ばれている若い人と同様、そのことを他の人に話すほどの決心はつかないまでも、ちゃんとまちがいなくそれを知っていた。が、それと同時に、彼は、自分でも結婚したいと思っていながら、またあらゆる点から見て魅力のあるこの娘は、きっと、すばらしい妻となるだろうと考えていたにもかかわらず、自分がこの娘と結婚するということは、たとえ自分がキチイに恋していないとしても、空へ飛んで行くのと同様、ほとんど不可能なことも承知していた。そして、こうした意識があるために、スヴィヤジュスキー家をたずねるにあたって彼が期待していた満足感は、そこなわれるのであった。
狩猟に来るようにというスヴィヤジュスキーの手紙を受け取ると、リョーヴィンはすぐこのことを考えた。しかし、それにもかかわらず、スヴィヤジュスキーが自分に対してそういう考えをいだいていると推察するのは、なんの根拠もない憶測にすぎないときめて、とにかく、出かけて行くことにしたのであった。いや、そればかりか、彼の心の奥底では、ひとつ自分をためしてみよう、もう一度この娘のことで自分の気持を計ってみよう、という気持も動いていた。それに、スヴィヤジュスキーの家庭生活は、きわめて好ましい雰《ふん》囲《い》気《き》であった。スヴィヤジュスキー自身も、リョーヴィンの知っているかぎり、地方自治体の活動家としては、もっともすぐれたタイプであり、リョーヴィンにとってはいつもひじょうに興味ぶかい人物であったからである。
スヴィヤジュスキーは、リョーヴィンにとってつねに驚異的な人物のひとりであった。こうした人びとのものの考え方は、独創的であったためしはないが、しかし、きわめて順序だっており、ひとりでに進んで行くが、生活はひじょうにはっきりきまっていて、方向もちゃんと固定しており、その思想とはまったく無関係に、いや、ほとんどいつも正反対の方向に向って、ひとりでに進んで行くものである。スヴィヤジュスキーは、きわめて自由主義的な人間であった。彼は貴族階級を軽《けい》蔑《べつ》しており、貴族の大部分は臆病なために、口に出してはいわないが、内心は農奴制主義者であると見なしていた。彼はまた、ロシアをトルコ同様の亡国と考え、ロシアの政府に対しては、その施政をまじめに批判することさえいさぎよしとしないほど、ひどいものであるとしていた。しかも、それと同時に、彼は役人であり、模範的な郡貴族団長として、旅に出かけるときには、いつもかならず徽章《きしょう》をつけた、赤い縁の帽子をかぶっていた。彼は人間らしい生活ができるのは、ただ外国ばかりだと考えて、機会あるごとに、外国へ行って暮していた。しかも、それと同時に、ロシアにおいてひじょうに複雑な、完璧《かんぺき》ともいうべき農事経営を行い、ロシアで起ったことはなにごとによらず、ひじょうな興味をもって見守り、したがって、どんなことでも知っていた。彼はロシアの百姓を、その発達から考えて、猿から人類への過渡期的な段階にあるものと見なしていた。しかも、それと同時に、地方自治会の選挙のときなどには、ほかの人に先だって、百姓たちと握手をかわし、その意見に耳を傾けるのであった。彼は悪魔も死も信じていなかったが、僧侶《そうりょ》階級の生活改善や教区の削減などといった問題には大いに奔走し、教会が自分の村に残るように、わざわざ運動までしたほどであった。
婦人間題においても彼は、婦人の絶対的自由、とくに、婦人の労働権拡張に対する極端な賛成論者の側に立っていた。しかも、妻との間がらは、だれでも見とれるほどむつまじい、子供のない夫婦生活をおくっていた。そして、彼は妻が自分との共通の問題に気を配る以外、ただできるだけ気持よく、楽しく生活するようにと、なにひとつしたり、また、しようと思ってもできないように、その生活を律していた。
もしリョーヴィンが他人をその長所から説明する特質をもっていなかったら、彼にとってスヴィヤジュスキーの性格を説明することは、なんの困難も、なんの問題もありえなかったにちがいない。ただ心の中で「ばか」とか「やくざめ」とかいってしまえば、もうそれでなにもかもはっきりしてしまったはずである。ところが、彼には「ばか」ということができなかった。なぜなら、スヴィヤジュスキーは疑いもなく聡明《そうめい》な人物であったばかりでなく、きわめて高い教養を身につけていながら、少しもその教養を鼻にかけない人物だったからである。およそ彼の知らないことはなにひとつなかった。しかも、彼は必要に迫られたときでなければ、その知識を示そうとはしなかった。さらにリョーヴィンが彼のことを「やくざめ」といえなかったのは、スヴィヤジュスキーが疑いもなく誠実で、善良で、聡明な人物で、いつも愉快そうに元気に仕事をし、その仕事はまわりのすべての人びとから高く評価されており、自分で意識して悪いことなど一度もしたことがなかったし、また、することもできなかったからである。
リョーヴィンは彼を理解しようと努力したが、理解することはできず、いつも生きた謎《なぞ》を見るような思いで、彼とその生活をながめていたのであった。
彼はリョーヴィンと親しい仲だったので、リョーヴィンも思いきってスヴィヤジュスキーを問いつめ、その人生観の根底を見きわめようとしたこともあった。しかし、それはいつも徒労に終った。リョーヴィンは、つねに万人に開放されているスヴィヤジュスキーの知性の客間から一歩奥へ踏みこもうとするたびに、スヴィヤジュスキーがちょっと狼狽《ろうばい》の色をみせるのに、気づいた。彼のまなざしには、恐怖のかげがさし、それはリョーヴィンに自分の本心を悟られはしないかと恐れているかのようであり、彼は人のいい陽気な態度で相手を突っぱなすのであった。
今度は農事経営に幻滅を味わったあとだったので、リョーヴィンはスヴィヤジュスキーの屋敷にいるのが、とくに気持よかった。このお互い同士にも、またすべてのものにも満足している、鳩《はと》のように幸福な夫婦や、気持よく整っているその巣の光景が、彼に楽しい印象を与えたのはもちろんのことながら、自分の生活に大きな不満をいだいていた彼は、スヴィヤジュスキーの生活に、これほど明るい、はっきりした楽しさを与えている、彼の秘密はなんとか突きとめたい気持だった。このほか、リョーヴィンはスヴィヤジュスキーのところへ行けば、近隣の地主たちに会えることを知っていた。今の彼は、とくに収穫とか、作男の雇い入れとかいった農事上の話がしたくもあり、ききたくもあった。そうした話は、普通、なにかひどく低俗なものに考えられているのは、リョーヴィンも承知していたが、今の彼にとっては、それだけがきわめて重大なものに思われるのであった。《こりゃ、きっと農奴制の時代には重大なことではなかったかもしれないし、イギリスでも重大なことではないかもしれないさ。どちらの場合も、条件そのものがはっきりしすぎているから。ところが、わがロシアのように、なにもかも混乱していて、今ようやく整理にかかったばかりのところでは、こうした問題にどうけりをつけるかが、唯一の重大な問題なんだ》リョーヴィンは考えた。
狩猟は、リョーヴィンが期待していたほどの成果はなかった。沼はかれてしまっていて、田《た》鴫《しぎ》はさっぱりいなかったからである。彼は一日じゅう歩きまわって、わずか三羽しか持ち帰らなかった。しかし、そのかわり、いつも狩猟を終えたあとのように、すばらしい食欲と、すばらしい気分と、激しい肉体運動にいつもつきものの高揚した精神状態をもって帰って来た。彼は猟をしていても、自分ではなにひとつ考えていないつもりなのに、ふと、あの老人とその家族のことが、また心に浮んでくるのであった。そして、この印象はまるで彼自身になにか注意を喚起しているばかりでなく、彼に関連したなにものかの解決を求めているかのようであった。
その晩、お茶のときに、なにか後見の用事でやって来たふたりの地主も加わって、リョーヴィンの期待していた、例の興味ある話がはじまった。
リョーヴィンは主婦のそばの茶卓にすわったので、主婦と正面にいるその妹を相手に、話をしなければならなかった。主婦は、丸顔の、あまり背の高くない金髪女で、えくぼと微笑で顔を輝かせていた。リョーヴィンはこの夫人を通じて、その夫が秘めている彼にとって重大な謎《なぞ》の解決をはかろうと努めたが、彼は落ちついて十分考えることができなかった。というのは、苦しいほどばつが悪かったからである。苦しいほどばつが悪かったというのは、正面に主婦の妹が、どうやら、わざわざ彼のために、白い胸のところを四角にあけた服を着て、すわっていたからである。その胸もとが白かったにもかかわらず、いや、そこがあまりにも白かったためかもしれないが、とにかく、この四角い胸あきがリョーヴィンから思考の自由を奪ったのである。たぶん、これは彼の思いすごしだったろうが、彼にはこの胸あきが自分を目当てに作られたような気がしたので、自分にはそれを見る権利がないものと考えて、なるべく見ないように努めていた。ところが、彼にはすでにこのあきが作られたという点だけでも、自分に罪があるように感じられるのだった。リョーヴィンは、自分がだれかをだましているような気がして、なにか説明しなければならないと思ったが、そんなことを説明するのは、とてもできなかった。そのため、彼はたえず赤面しながら、なんとなく落ち着かず、ばつが悪かったのである。この彼のばつの悪さは、かわいらしい妹にも感染した。しかも、主婦はそれに気づかないふうで、わざわざ妹を話の仲間へひきこむ始末だった。
「あなたのお話では」主婦は、さきほどの話をつづけた。「うちの主人はロシアのものにはなにも興味がもてないとおっしゃいますけど、それは逆ですわ。そりゃ、あの人は外国でも楽しそうにしてはいますが、それでもロシアにいるときのようにはまいりませんわ。ロシアにいると、やはり、自分の縄《なわ》張《ば》りにいるような気がするのでございましょうね。なにしろ、とてもたくさんの仕事がありますし、それに、あの人にはなんにでも興味をもつ才能がありますので。あら、あなたはまだ、あたくしどもの学校へはおいでになりませんでしたわね?」
「いや、拝見しました……たしか、常春藤《きづた》のからんだ小さな建物でしたね?」
「ええ、あれはナスチャの仕事になってますの」主婦は妹をさしながらいった。
「ご自分で教えていらっしゃるんですか?」リョーヴィンは、胸のあきから努めて目をそらすようにしながら、たずねた。しかし、彼はどこに目をやっても、その胸あきが見えるような気がした。
「ええ、自分で教えてまいりました。今も教えております。でも、あそこには、ひとりとてもいい女の先生がおりますの。それで、体操もはじめることにいたしました」
「いえ、けっこうです。もうお茶はたくさんです」リョーヴィンはいった。そして、それが無作法なことと知りながら、もうそれ以上話をつづける気力がなくなったので、顔を赤らめながら、席を立った。「あそこでとてもおもしろそうな話がはじまったようですので」彼は弁明して、主人がふたりの地主を相手にすわっていた、テーブルの反対の端に近づいて行った。スヴィヤジュスキーは、はすかいにテーブルに向って、肘《ひじ》をついた手で茶碗《ちゃわん》をぐるぐるまわしながら、もう一方の手で顎《あご》ひげを一つにつかんで、まるでそのにおいでもかぐように、鼻のそばへ持っていっては、またぱっと放していた。彼は黒い目を輝かせながら、むきになってしゃべっているごま塩ひげの地主を、まともに見つめ、どうやら、その話をおもしろがっている様子であった。その地主は、百姓たちのことをこぼしていた。スヴィヤジュスキーはこの地主の泣き言に対して、徹底的に反撃を加えうる答えを心得ていながら、自分の立場として、それをすることができないので、多少の興味を感じながら、地主のこっけいな話を聞いているのであった。そのことはリョーヴィンにもはっきりわかった。
ごま塩ひげの地主は、どうやら、骨の髄まで農奴制主義者で、村の古老であると同時に、熱心な農場の主人らしかった。リョーヴィンはそうした証拠を、その旧式な、あまり地主にそぐわないすりきれたフロックコートにも、その賢そうな目をしかめた様子にも、その流《りゅう》暢《ちょう》なロシア風の話しぶりにも、明らかに、長年の経験で身につけたらしい命令的な調子にも、古いエンゲージ・リングを薬指にはめた、りっぱな、日に焼けた、たくましい手を、さっと動かす身ぶりにも、認めたのである。
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「いや、これまでやってきたことを……さんざ苦労して築いてきたものを……きれいさっぱり捨ててしまうことができたら、私だってぽいと手を振って、なにもかも売りとばして、あのニコライ・イワーノヴィチのように、旅に出かけるんですがねえ……『美女ヘレネー』でも聞きにね」地主は、賢そうな年寄りじみた顔を、気持のいい微笑で輝かしながら、そういった。
「ところが、実際は、なかなか捨てる気にならないってわけですな」スヴィヤジュスキーはいった。「つまり、そろばんがとれるからですな」
「なに、そろばんがとれるといっても、自分の家に暮して、買ったり、借りたりしないで、ただ自分のとこでできたものでやっているだけの話ですよ。それからもう一つ、いつかは百姓どもも、話がわかるようになるだろうと、心頼みをしてるんですな。ところが、今のところは、まったくのんだくれの、ひどい暮しですからなあ!……いや、なにもかも飲み代《しろ》にしちまって、馬も、牛も、一頭だっておらん始末ですからな。今にも飢え死にってとこですがね。そんなやつでも、仕事に雇おうものなら、今度はありったけの迷惑を人にかけて、こっちが治安判事の前へひっぱりだされるのが落ちですよ」
「でも、そのかわり、あなたも治安判事に訴えることはできますよ」スヴィヤジュスキーはいった。
「私が訴えるんですって? いや、こんりんざい、そんなまねはしませんな! 世間がやかましくって、とても訴訟どころの話じゃありませんよ! 現に、連中はうちの工場でも、手付金だけ取って、逃げてしまいましたがね。治安判事がなにをしたと思います? 無罪放免ですぜ。まあ、村の裁判所と村長とで、どうにか、やってるようなもんですよ。村長は昔ながらに、鞭《むち》でぶんなぐってますからな。いや、これでもなかった日には、なにもかもおっぽりだして、世界のはてへでも逃げて行かなくちゃなりませんとも!」
その地主は、どうやら、スヴィヤジュスキーをからかっているふうだった。しかし、スヴィヤジュスキーは腹を立てないばかりか、それをおもしろがっているように見えた。
「しかし、私どもは現に、そんな処置をとらずに、農場をやっておりますがね」彼は微笑しながらいった。「私にしても、リョーヴィン君にしても、この方にしても」
彼はもうひとりの地主を指さした。
「なるほど、ミハイル・ペドローヴィチのとこは、うまくいってますよ。しかし、どんなやり方をしているのか、おききしたいもんですな。あんなのが合理的な経営といえるんですかね!」地主は明らかに『合理的』という言葉をひけらかしながら、いった。
「なに、私のやり方はごく簡単なもんですよ」ミハイル・ペトローヴィチはいった。「ありがたいことに、私のところでは、ただ秋の年《ねん》貢《ぐ》を払う金がありさえすればいいんでね。百姓どもがやって来て、だんなさま、どうかお頼みしやす! なんていわれると、百姓だって隣人ですからな、かわいそうになるんで。そこで、まず、三分の一にだけ年貢を課して、なあ、みんな、いいかね、わしはおまえらを助けてやったんだから、こっちが困ったときには頼むよ。燕麦《えんばく》の播《ま》きつけとか、干し草の取入れとか、麦刈りとかいうときには、忘れずに、わしを助けてくれよ、といってやるんでさあ。そこで、年貢からいくらかずつ引いてやるんですよ。そりゃ、あの連中の中にも、不正直なやつがおりますがね、いや、ほんとうですとも」
リョーヴィンは、もうずっと前から、この族長時代のやり方を知っていたので、スヴィヤジュスキーと顔を見合せ、ミハイル・ペトローヴィチをさえぎって、ごま塩ひげの地主に話しかけた。「それじゃ、あなたのご意見は?」彼はたずねた。「これからは、どんなふうに農場を経営したらいいんでしょうかね?」
「なに、ミハイル・ペトローヴィチと同じやり方をすりゃいいんですよ。収穫《とりいれ》を山分けにするか、それとも、百姓に土地を貸すかですな。それでもいいんですが、ただそうなると、国家全体の富というものは、まったく度外視されてしまいますからね。いや、現に私のところでも、農奴制時代にはやり方さえよければ、九倍の収穫のあった土地も、山分けということになったら、三倍の収穫しかありませんからな。農奴解放がロシアを滅ぼしてしまったわけですよ!」
スヴィヤジュスキーは、微笑をたたえた目でリョーヴィンの顔をながめ、かすかな嘲笑《ちょうしょう》の合図さえしてみせた。しかし、リョーヴィンは、その地主の言葉をこっけいだとは思わなかった。彼には、この地主の言葉のほうが、スヴィヤジュスキーの意見よりも理解できた。地主がさらに話を進めて、なぜロシアは農奴解放によって滅ぼされたかを説明していったとき、その言葉の多くは、たしかに核心をついたものであり、リョーヴィンにとって、耳新しい、否定すべからざるもののように思われた、地主は明らかに、自分自身の思想を語っているのであった。これは、今時珍しいことであり、しかも、それは、暇にまかせてなにかしてみようという動機からひねりだした思想ではなく、彼の生活環境から生れ出たものであり、田園の孤独の中で、あらゆる面から検討した末に生れた思想であった。
「いや、失礼ですが、問題は要するに、進歩的なものはすべて、ただ権力によってのみ実現される、という点にあるのですよ」彼は、どうやら、自分も教養に無縁な人間でないことを示そうとして、こうしゃべりだした。「まあ、ピョートル大帝でも、エカテリーナ二世でも、アレクサンドル一世でも、その改革を例にとってみればわかりますがね。いや、ヨーロッパの歴史でも同じことですよ。まして農事経営の進歩では、それはなおさらのことですよ。たとえば、あのじゃがいもにしても、あれはロシアへは強制的に移植されたものですよ。鋤《すき》にしたところで、いつもあれで耕していたわけじゃありませんからな。あれもたぶん、まだ公侯時代にはいって来たものでしょうが、きっと、強制的に入れられたものにちがいありませんよ。ところが、現代になっても、私ども地主たちは農奴制のもとに、乾燥機だとか、回《かい》転《てん》簸《ひ》だとか、肥料運搬機とかいった改良農具を使って、農業を経営してきたわけですが、それもこれもみんな、自分たちの権力でやりだしたことなんです。百姓たちもはじめのうちこそ反対してましたが、そのうちに、こちらを見習うようになりましたよ。ところが、今は、農奴制の廃止とともに、私どもの権力も奪われてしまったので、高い水準に達していた農事経営も、きわめて野蛮な、原始的な状態に転落していかねばならん始末ですよ。いや、私はまあ、そんなふうに考えてるんですがね」
「でも、それはまたどういうわけでしょうな? もし合理的なものであれば、みなさんは小作制度でもやっていけるはずじゃありませんか」スヴィヤジュスキーはいった。
「それには権力というものがありませんからな。私はいったいだれの力を借りてやっていけばいいんです? ひとつうかがいたいもんですよ」
《そりゃ、労働力さ。これこそ農事経営の最大の要素さ》リョーヴィンは心の中で考えた。
「労働者の力ですよ」
「ところが、その労働者は、ちゃんと働くことも、いい農具で働くこともきらいなんですからね。わが国の労働者が知っているのは、ただ一つ――まるで豚みたいに酒をくらって、酔っぱらったあげく、こちらのあてがうものを、かたっぱしからこわしてしまうってことですよ。馬には水をやりすぎて病気にするし、上等の馬具はめちゃめちゃにしてしまうし、車の輪まではずして飲んでしまうし、打穀機の中へ車の心棒を突っこんでしまう。いや、あの連中ときたら、自分の流儀でないものは、なんでも、見るのさえ気にくわないんですからな。いや、このために農業の水準が下がったわけなんですよ。土地はほっぽりだされたまま、にがよもぎの茂るのにまかせるか、百姓たちに分けてしまうかで、昔は百万ブッシェル取れたところが、今じゃ何万ブッシェルしかできんという始末ですよ。つまり、国全体の富が減ってしまったわけですよ。いや、同じことをするにしても、もっとよく考えてすりゃ……」
そこで彼は、同じ農奴解放をするにしても、そういう不便を除きうるような私案を述べはじめた。
その話はリョーヴィンの興味をひかなかった。しかし、地主が話し終ったとき、リョーヴィンはまた自分の最初の話題にかえって、スヴィヤジュスキーにまじめな意見を吐かせようと、彼に話しかけた。
「農業の水準が低下しているということと、現在のような対労働者関係では、有利で合理的な経営をいとなむことは不可能であるということ――これはまったく公正な意見ですね」彼はいった。
「いや、私はそうは思いませんね」今度はもうまじめな調子で、スヴィヤジュスキーは反《はん》駁《ばく》した。「すくなくとも、私の見るところでは、それは単に私どもの経営がへたなだけであって、むしろ、農奴制時代に私どものやっていた経営は、水準が高すぎるどころか、きわめて低いものだったんですよ。私どもは機械もなければ、耕作用のいい家畜もいないし、ちゃんとした管理法も知らないし、いや、計算さえ満足にはできないんですからねえ。まあ、ためしにどこのご主人にでもきいてごらんなさい――なにがもうかって、なにが損かさえ、知っちゃいないんですからね」
「イタリア式の簿記ですからね」地主は皮肉たっぷりにいった。「あれじゃ、いくら計算してみても、てんでものになりゃしませんよ。利潤なんか一文だってありゃしませんとも」
「なぜものにならないんです? そりゃ、やくざな打穀機や、ロシア製の踏み車などは、こわれるでしょうが、私の持ってる蒸気式のやつは、こわれやしませんよ。ロシア馬なら、ええと、なんといいましたかな、あのしっぽをつかまえて引っぱらなくちゃ動かないような、引っぱり種の馬なら、めちゃめちゃにされてしまうでしょうが、ペルシュロン種か、せめて改良輓《ばん》馬《ば》をつけてごらんなさい。そんな心配はありませんから。いや、万事がこのとおりなんですよ。私どもは、農業の水準を、今よりぐっと上げなくちゃなりませんよ」
「それも金があればの話ですよ、スヴィヤジュスキーさん! あんたはそれでいいでしょうが、私のとこなんか、上のむすこは大学だし、下の連中も中学校へ通ってますからな、とても、ペルシュロン種を買う余裕なんてありませんよ」
「いや、そのために、銀行というものがあるんですよ」
「じゃ、なけなしの身上《しんしょう》を競売にかけろとおっしゃるんで? いや、それだけはご勘弁願いたいですな!」
「農業の水準を今よりもっと引き上げなくちゃならんし、それは可能なことだという説には、賛成できませんね」リョーヴィンはいった、「現に、ぼくはそう努めていますし、資金もあるんですが、結局、今までできませんでしたからね。銀行はだれのためにあるのか、ぼくにもわかりませんよ。すくなくとも、農場関係のものは、なにに投資してみても、みんな欠損ですからね。家畜も欠損なら、機械も欠損です」
「そりゃ、まったくですな」ごま塩ひげの地主は、さも満足そうに笑い声までたてながら、相槌《あいづち》を打った。
「それもぼくひとりだけの話じゃありませんよ」リョーヴィンは言葉をつづけた。「なんなら、合理的な経営をやっているすべての地主を、例にあげることだってできますよ。だれもかれも、ごく少数の例外を除いて、みんな損をしながらやっているんです。じゃ、うかがいますが、あなたの農場は利潤が上がっていますか?」リョーヴィンはたずねた。そのとたん、リョーヴィンはスヴィヤジュスキーのまなざしに、一瞬、おびえたような表情を読みとった。それは、スヴィヤジュスキーの知性の客間から一歩奥へ踏みこもうとするとき、彼がいつも認めるあの表情であった。
そればかりか、この質問は、リョーヴィンにとっても、あまり良心的なものとはいえなかった。主婦がつい先ほどのお茶のときに話してくれたところによると、この家では、夏にモスクワから、ドイツ人の簿記の権威を招き、五百ルーブルのお礼をして農場の会計を調べてもらったところ、三千ルーブルなにがしかの欠損になっていたということだったからである。主婦は、正確な数字を覚えていなかったが、ドイツ人はたしか、四分の一コペイカまで計算したらしかった。
地主は、スヴィヤジュスキーの農事経営における利潤という話が出たので、にやりと笑った。どうやら、彼は隣人であり貴族団長であるこの家の主人に、どんな利潤がありうるかを、ちゃんと心得ているらしかった。
「たぶん、利潤はあがってないでしょうな」スヴィヤジュスキーは答えた。「でも、これは要するに、私がつたない経営者であるか、それとも、地代を上げる意味で資金をつぎこんでいるか、そのいずれかを証明しているわけですよ」
「え、地代ですって!」リョーヴィンはぎょっとしながら叫んだ。「そりゃ、ヨーロッパでは、つまり、投入された労働力のために土地のよくなっているところでは、地代なんてものもあるかもしれませんが、わが国じゃ、投入された労働力のために、かえってどんな土地でも悪くなっているんですから、つまり、耕してかえって土地をやせさせているんですから、とても地代なんて考えられないわけですよ」
「どうして地代がないんです? これは法則できめられていることじゃありませんか」
「それじゃ、われわれは法則の圏外にいるんでしょうよ。地代なんて、われわれに対して、なんの説明にもなりゃしませんよ。いや、かえって、問題を混乱させるばかりです。いや、そんなことより、ひとつ、地代論はいかに存在しうるか教えてくださいよ……」
「ヨーグルトでもいかがです? マーシャ、こちらへヨーグルトか、木いちごでも持って来ておくれ」彼は妻に声をかけた。「今年は木いちごが驚くほど長持ちしますな」
そういって、スヴィヤジュスキーはすこぶる上きげんで立ちあがり、席を離れて行った。どうやら、彼は、リョーヴィンにははじまったばかりのように思われた会話が、もう終ったものと思いこんでいるらしかった。
話し相手がなくなったのでリョーヴィンは地主相手に話をつづけながら、厄介な問題はすべて自分たちが労働者の性質や習慣を知ろうとしないことから起っているのだ、と論証しようと試みた。ところが、その地主は、たったひとりでこつこつものを考える人のつねとして、他人の思想を理解することが鈍く、なによりも自分の考えにばかりこだわるのであった。彼は次のような自説を主張してやまなかった。すなわち、ロシアの百姓は豚だから、豚のような生活が好きなのだ、もしこの連中をその豚のような生活から引き出すためには、権力が必要だが、いまやその権力がないから、鞭《むち》が必要なのだ。しかも、われわれはすっかり自由主義者になってしまったので、千年からの歴史をもつ鞭を、いきなり、弁護士だとか、禁《きん》錮《こ》だとかいうものに代えてしまって、やくざな、悪臭ふんぷんたる百姓を上等なスープで養ったり、ひとりあたり必要な空気は何立方フィートだ、なんて計算している始末だ、というのであった。
「なんだって、そんなふうにお考えになるんです?」リョーヴィンは先ほどの問題にもどろうと努めながら、いった。「労働を生産的にするような、労働力に対する関係を見いだすことは不可能だとおっしゃるんですね?」
「ロシアの百姓を相手にしているかぎり、そんなことはとてもできっこありませんよ! なにしろ、権力がないんですから」地主は答えた。
「じゃ、どうしたら新しい条件を見いだすことができるんです?」スヴィヤジュスキーはヨーグルトを食べ、巻たばこに火をつけ、議論しているふたりのそばへ近づきながら、いった。「労働力に対して考えうるかぎりの関係は、もう研究しつくされ、決定してしまってるんですからね。野蛮時代の遺物である原始的な連帯責任制の村団は、自然に崩壊していますし、農奴制も廃止されましたから、残ってるのはただ自由労働ばかりですからね。いや、もうその形式もできあがっていて、決定ずみですから、それを採用するより仕方ありませんよ。作男、日雇い、農場主――いや、だれだって、この範囲から抜けだすことはできませんよ」
「しかし、ヨーロッパは、その形式に不満なんですよ」
「ええ、それで、新しい形式を捜していますね。きっと、それを発見するでしょうよ」
「ぼくがいいたいのも、ただそのことなんですよ」リョーヴィンは答えた。「なんだって、われわれも、自分たちの立場から、それを捜さないんでしょうね?」
「どっちみち同じだからですよ。つまり、新たに、鉄道敷設の方法を考えだそうとするのと同じでね。それはもうできあがってしまっていて、考える余地がないんですよ」
「でも、それがわれわれに適さなかったら、またばかげたものだったら?」リョーヴィンはいった。
と、彼はまたしても、スヴィヤジュスキーのまなざしに、あのおびえたような表情を読みとった。
「ええ、それはですね。あの例の、おれたちはそんなことなんか朝飯前にやってのけるとか、ヨーロッパの求めているものを、ちゃんと発見しちまったとか、いったやつですよ。私もそんなことはなにもかも承知してますよ。しかし、失礼ですが、あなたは労働者組織の問題に関してヨーロッパで行われていることをすっかりご存じですか?」
「いや、よく知りませんね」
「この問題は今でもヨーロッパの識者の頭を悩ましているんですからね。シュルツェ・デーリチュの一派とか……それから、もっとも自由主義的なラッサール一派の、労働問題に関する厖大《ぼうだい》な文献とか……ミュルハウゼンの制度とか――これはもうれっきとした事実ですよ、たぶん、ご承知のことと思いますが」
「だいたいのことは知ってますが、それもごく漠然《ばくぜん》たるものですね」
「いや、そんなことをおっしゃるだけで、あなたはきっと、私に劣らず、なにごともご存じのことと思いますよ。私はもちろん、社会学の教授じゃありませんが、ただこれに興味をひかれたものですから。いや、まったくの話、もし興味がおありでしたら、研究なさってごらんなさい」
「それで、どんな結論をえられたんですか?」
「ちょっと失礼……」
地主たちが席を立ったので、スヴィヤジュスキーは、自分の知性の客間の奥をのぞきこもうとするリョーヴィンの不愉快な癖を、またしてもおし止めて、客たちを見送りに出かけて行った。
28
リョーヴィンは、その晩、婦人たちといっしょにいるのが、耐えがたいほど退屈であった。彼が今経験している農事経営に対する不満は、彼ひとりの例外的な状態ではなく、ロシアにおける一般的な条件であり、そうした状態を、彼がきょう途中で見受けた老人一家におけるような、労働者との関係を変えることは、もはや単なる空想ではなく、かならず解決しなければならぬ問題であった。彼はそう考えると、今までにないほど激しい興奮を覚えた。そして彼には、この問題は解決することができるし、またぜひともそう試みなければならないように思われた。
婦人たちにあいさつをすませ、あすはみんなといっしょに馬で、官有林の中にあるおもしろい洞穴《ほらあな》を見物に行くため、もう一日滞在することを約束してから、リョーヴィンは眠りにつく前に、スヴィヤジュスキーの勧めた労働問題の本を借りに、彼の書斎を訪れた。スヴィヤジュスキーの書斎は本棚に囲まれた大きな部屋で、二つのテーブルが置いてあった――一つはどっしりした仕事机で、部屋のまん中に置いてあり、もう一つの丸テーブルには、まん中に置いたランプのまわりに、諸外国の新刊の新聞雑誌が、放射状に並べられてあった。仕事机のそばには書類入れがあって、その引出しには、種目別に金紙のレッテルがはってあった。
スヴィヤジュスキーは本を取りだすと、ローリング・チェアに腰をおろした。
「なにを見ているんです?」彼は、丸テーブルのそばに立って、雑誌を見ていたリョーヴィンに、声をかけた。
「ああ、そこにはなかなかおもしろい論文が出てますよ」スヴィヤジュスキーはリョーヴィンの手にとっていた雑誌についていった。「どうやら、それによると」彼は愉快そうに、活気づいてつけ足した。「ポーランド分割の主たる責任者は、まったくフリードリッヒじゃなくって、それによると……」
それから彼は例の明快な調子で、この新しい、きわめて重大な、興味ある発見を手短かに説明した。今のリョーヴィンはなによりも、農業問題についての考察で頭がいっぱいだったにもかかわらず、思わず彼の話に耳を傾けながら、《この男の心にはなにがひそんでいるんだろう? いや、それにしてもなんだってこの男には、ポーランド分割のことなんかがおもしろいんだろう?》そう、自問してみるのだった。スヴィヤジュスキーが話し終えたとき、リョーヴィンはつい「それがいったいどうしたというんです?」とたずねてしまった。しかし、べつに、なにもあったわけではなかった。ただ『こういうことだった』ということがおもしろいだけなのだった。しかも、スヴィヤジュスキーは、なぜそれが自分におもしろいのか、説明もしなければ、また説明する必要も認めていなかった。
「いや、それにしても、ぼくはあのおこりっぽい地主に、ひどく興味をもちましたよ」リョーヴィンは溜息《ためいき》をついて、いった。「あれはなかなか頭の切れる人ですね。ずいぶんうがったことをいいましたよ」
「いや、とんでもない! あれは隠れたる、骨の髄までの農奴制主義者ですよ。ほかの連中と同じですよ!」スヴィヤジュスキーはいった。
「でも、きみはそうした連中の貴族団長じゃありませんか……」
「そうですよ。ただ、私は反対の方向へ指導していますがね」スヴィヤジュスキーは笑いながらいった。
「ぼくが大いに興味を感じたのはね」リョーヴィンはしゃべりだした。「われわれの事業、すなわち、合理的な農事経営なんてものはうまくいきっこない、ただうまくいってるのは、あのおとなしい地主のやっている高利貸的な農事経営か、それとも、きわめて単純なもののいずれかだ、というあの地主の意見は真実ですよ……こうなると、いったいだれの罪なんでしょうね?」
「もちろん、われわれ自身ですよ。でも、合理的な農事経営がうまくいってないというのは、うそですね。ワシリチコフのところではりっぱにやっていますからね」
「そりゃ、工場は別ですよ」
「いや、それにしても、あなたはなにをそうびっくりしてるのか、とんとわかりませんな。百姓どもは物質的にも精神的にも、じつに発達が遅れているので、どうやら、自分に必要なものには、なんでも反対すりゃいいと思ってるんですよ。ヨーロッパで合理的な農事経営がうまくいくのは、百姓たちに教養があるからですよ。だから、わが国でも百姓たちを教育しなければ――いや、ただそれだけの話ですよ」
「でも、どうやって百姓どもを教育するんです?」
「百姓たちを教育するには、三つのものが必要ですな、つまり、学校、学校、学校、の三つが」
「しかし、今ご自分でも、百姓どもは物質的にも発達が遅れている、といわれたじゃありませんか。それなのに、どうして学校が役に立つんです?」
「いや、あなたの話を聞いていると、あの病人への忠告という小話を思いだしますね。『きみは下剤をかけたらいいでしょう』『やってみたんですが、かえって前より悪くなったんですよ』『それじゃ、蛭《ひる》をつけてごらんなさい』『それもやってみたんですが、もっと悪くなったんです』『じゃ、もうあとは神さまにお祈りするんですな』『それもやってみたんですが、もっと悪くなってしまったんです』今の私とあなたも、まさにこれと同じじゃありませんか。私が経済学をもちだすと、あなたはもっと悪くなるとおっしゃる。私が社会主義をもちだすと、もっと悪くなるとおっしゃる。じゃ、教育だというと――これまた、もっと悪くなるといって」
「それにしても、学校なんてなんの役に立つんです?」
「あの連中に別な要求を感じさせるようになりますからね」
「そいつがぼくにはどうしてもわからないんですがね」リョーヴィンはかっとなって反駁《はんばく》した。「学校はどうすれば百姓たちの物質的状態をよくする助けになるんです? あなたのお話だと学校や教養というやつは、あの連中に新しい要求を感じさせるそうですが、それがかえってよくないんですよ。だって、あの連中にはそれを満足させる力がないんですから。足し算や引き算や、教理問答なんてものが、どうして百姓の物質的状態を改善するのに役立つのか、ぼくは一度だって納得したことはありませんよ。一昨日《おとつい》の晩、赤ん坊を抱いた百姓女に出会ったので、どこへ行くのかときいたんですが、その返事はこうですよ。『まじない婆さんのとこへ行ってきました。子供に虫が起きたので、なおしてもらいに行ったんです』そこでぼくがどうやって婆さんはなおしたかときくと、『この子を鶏小屋のとまり木の上にすわらせて、なにかおまじないを唱えてくれました』という始末ですよ」
「それ、ごらんなさい。あなたはご自分でもそういってらっしゃるじゃありませんか! 赤ん坊の虫をなおすのに、鶏のとまり木などにすわらせないようにするために、いや、そのために必要なのは、つまり……」スヴィヤジュスキーは愉快そうに、微笑しながらいった。
「いや、違います!」リョーヴィンはいまいましそうに答えた。「そういった療法は、ぼくにいわせれば、百姓たちを学校で治療しようとするのとまったく同じことなんですよ。そりゃ、百姓たちは貧乏で無教育ですよ――それは、あの百姓女が赤ん坊の泣いているのを見て、これは虫だと考えたのと同様、われわれにもちゃんとわかっていますよ。それにしても、この不幸、つまり、貧乏と無教育を、どうやって学校が救ってくれるかってことは、わかりませんね。それはちょうど、なぜとまり木の鶏は赤ん坊の虫をなおしてくれるのか、それがわからないのと同じことですよ。なぜ百姓たちは貧乏なのか、その点をつきとめてから、救わなくちゃいけないんですよ」
「いや、その点に関しては、あなたの意見はすくなくともスペンサーと一致していますね。あなたは彼のことがひどくきらいなようですがね。彼もやはり、教育は生活の大いなる安寧と便宜の結果、彼のいうひんぱんな洗滌《せんじょう》の結果から生れるべきものであって、けっして読書や計算ができるということではない、といってますからね……」
「いや、なるほど。それじゃ、ぼくは自説がスぺンサーと一致したと知って、大いに愉快になるか、あるいは、その反対に、大いに不愉快になるか、どっちかですね。ただ、その点については、ぼくもずっと前から知っていたんですがね。いや、学校なんて助けにはなりませんよ。助けになるのは、百姓たちがもっと金持になって、もっと暇ができるような経済組織ですよ――そうなれば、学校だってできますよ」
「しかし、ヨーロッパじゃどこへ行っても、もう現在では学校が義務となっていますよ」
「じゃ、ご自分はどうなんです。この点はスペンサーの意見に賛成なんですか?」リョーヴィンはきいた。ところが、スヴィヤジュスキーの目には、一瞬、おびえたような表情がひらめき、彼は微笑しながらいった。
「いや、それにしても、その虫というたとえ話は傑作ですね! ほんとうにご自分で聞いたんですか?」
リョーヴィンは、この調子ではとても、この男の生活と思想のつながりを見いだすことは、不可能だと見てとった。どうやら、彼には自分の議論がどんな結論になろうが、まったく気にしないらしかった。彼に必要なのは、ただ議論の過程だけであった。そして、その議論の過程が出口のない袋小路へ追いこまれると、彼は不快になるのだった。彼はただそれがいやなので、なにか気持のいい、愉快な話へ話題を転じて、それを避けるようにしていた。
この日一日の印象は、途中で出会った百姓の印象をはじめとして、どれもこれもリョーヴィンをひどく興奮させた。なによりも例の百姓の印象は、きょう一日のすべての印象と思索の基礎となった感じだった。ただ社交用に役立つ思想のみを用意して、その生活の基礎には、リョーヴィンなどのうかがいしれない、なにか別のものをもっていると同時に、「多数者」と呼ばれる群衆とともに、自分にはなんの縁もない思想を手段として、世論を指導している、この愛すべきスヴィヤジュスキー。実生活の苦しみから生れてきた意見の面ではまったく正しいが、階級全体に対する、つまり、ロシアのもっともすぐれた階級に対する憎《ぞう》悪《お》の面では正しいといわれない、あの辛辣《しんらつ》な地主。それに、自身の活動に対する彼自身の不満と、これらいっさいのことを改善できそうに思われる漠然たる希望――これらすべてのものが内心の不安と近い将来の解決を期待する気持に溶けあっていくのであった。
リョーヴィンは用意された部屋にひきこもり、ちょっと手足を動かしても、すぐはねあがるスプリングのきいた寝台に、身を横たえてからも、長いこと寝つかれなかった。スヴィヤジュスキーとの話は、なかなか気のきいたせりふがとびだしてきたにもかかわらず、どれ一つとしてリョーヴィンの興味をひかなかった。しかし、あの地主の意見については考えてみる気になった。リョーヴィンはわれともなしに、彼のいった言葉を一つ一つ思い浮べ、彼に対する自分の答えを、心の中で訂正するのだった。
《そうだ、おれはこういうべきだったのだ。われわれの農事経営がうまくいかないのは、百姓たちが改良ならどんなものでもきらっているからであり、だからそうした改良は、権力によって導入しなければならないと、あなたはおっしゃるんですね。ところで、もし農事経営が、そうした改良なしにはまるっきりだめだというなら、あなたの説は正しいことになりますよ。しかし、私が途中で出会ったあの老人のところみたいに、すくなくとも労働者が自分の習慣に従って働いているところでは、うまくいっているんですからね。あなたや私が自分の農事経営に不満だということは、ただその責任がわれわれ自身にあるのか、あるいは、労働者の側にあるのか、そのどちらかであることを意味しているんですよ。われわれはもうずっと前から、労働力の本質にはおかまいなしに、自己流に、ヨーロッパ式に押して来ています。ひとつ、この辺で、この労働力を観念的な労働の力ではなく、本能をもったロシアの百姓《・・・・・・》と認めて、その点を考慮しながら、経営をやってみたらどうでしょうかね。まあ、かりに、――とおれはいうベきだったのだ――あなたの農場が、あの老人のところと同じように経営されているとして、あなたは、百姓たちが仕事の成功に興味をかきたてられる方法を発見し、あの連中の認める中庸を得た改良法を発見された、と仮定してみましょう。あなたは土地を荒すことなしに、以前の二倍、いや、三倍もの収穫を得られるでしょう。それを二つに分けて、半分を労働力に与えてごらんなさい。すると、あなたの手もとに残る分は前よりも多くなりますし、労働力の受けとる分も多くなるわけです。でも、これをするためには、経営の水準を引き下げて、労働者がその成功に興味をいだくようにしなくちゃだめなんです。どんなふうにこれをするかは、もはや細かい技術的な問題ですが、それが可能だということだけは、疑いをいれる余地もありませんね》
この考えはリョーヴィンをひどく興奮させた。彼はこの考えを実現するための細かい点を熟考しながら、その晩は半分ぐらいしか眠らなかった。翌日はまだ帰宅する予定ではなかったが、今はもう朝はやく、家に帰ることにきめてしまった。なお、そのほか、例の胸に四角いくり《・・》をあけた服をきた主婦の妹が、彼の心になにかまったく悪いことをしたあとの羞恥《しゅうち》と悔恨に似た気持を、呼びおこしていた。なによりも肝心なことは、ただちに、一刻の猶予もなく、出発しなければならぬということであった。まだ秋《あき》蒔《ま》きのはじまらない前に、この新しい計画を百姓たちに示し、新しい基礎のもとに、播《ま》きつけをしたかったからである。彼は、今までの農事経営を、がらりと変えてしまおうと決心したのである。
29
リョーヴィンの計画を実行するには、多くの困難がともなっていた。しかし、彼は力のおよぶかぎりがんばって、望みどおりとはいかないながらも、その仕事が労力に値するということを、みずから欺くことなしに、信じられるだけにはこぎつけることができた。なによりも困難だったのは、仕事がもはやはじまっていたために、それを全部中止して、新しく初めからやりなおすわけにはいかず、すでに運転している機械を改造しなければならないことだった。
彼がその晩わが家へ帰って、すぐ支配人に自分の計画を話して聞かせたとき、支配人はさも満足そうに、今までやってきたことは、無意味であり、不利であったことを証明する主人の言葉に賛意を表した。支配人は、自分は前々からそういっていたのですが、あなたがいっこうに聞き入れようとなさらなかったのです、といった。ところが、自分も仲間のひとりとして百姓たちといっしょになって、すべての農事経営の計画に参与するというリョーヴィンの提案に対しては、支配人はただ深い落胆の色を浮べるばかりで、なにひとつはっきりした意見を吐かず、すぐにあすは残っている裸麦の山を運んで、二度鋤《す》きに人を出さねばならぬといいだした。そこで、リョーヴィンは今はそれどころの話ではないのだな、と悟った。
百姓たちとその話をして、新しい条件のもとに土地をみんなに分け与える提案をしたとき、彼はここでも例の大きな困難にぶつかった。百姓たちはその日その日の仕事に追われていて、その計画の利害得失を、ゆっくり考えてみる暇がなかったからである。
素《そ》朴《ぼく》な百姓の家畜番のイワンは、どうやら、家族とともに家畜場の利益分配にあずかるというリョーヴィンの提案を、ちゃんと、のみこんで、その計画に心から賛成したように思われた。ところが、リョーヴィンが将来の利益について、懇々と説明をはじめると、イワンの顔には不安そうな色が浮び、最後まですっかり聞く暇がないのが残念だ、といった表情が表われた。そして彼は、なにかしらのっぴきならぬ用事を見つけだしては、小屋の中から残った干し草をかきだすために叉竿《またざお》を手に取ったり、畑に水をかけたり、こやしの掃除をしたりするのだった。
もう一つの困難は、百姓たちのどうしようもない猜《さい》疑《ぎ》心《しん》であった。地主というものは、自分たち百姓を徹底的に搾取する以外には、なにかほかの目的をもっていようなどとは、どうしても信じられないのであった。地主のほんとうの目的は(本人がなんといおうと)、自分たちにはけっして話さないところにあるのだと、百姓たちはかたく信じきっていた。いや、彼ら自身にしても、ずいぶんいろんな意見をいったが、自分たちのほんとうの目的がどこにあるかは、けっして口に出さなかった。そればかりか、(リョーヴィンはあの短気な地主がまちがっていなかったことを痛感した)たとえどんな種類の協定を結ぶにしても、その第一の条件として、新しい耕作法や、新式の農具の使用を強制しないということを、かならず持ち出すのであった。百姓たちは、犂《すき》のほうが鋤《すき》よりもいいことや、速耕機のほうが仕事にはか《・・》がいくことは認めながらも、そのどちらも使うことができないという、たくさんの理由を並べたてた。そのため、リョーヴィンは、経営の水準を下げなければならぬと覚悟しながらも、みすみす有利とわかっている改良法を断念するのが残念でたまらなかった。こうした困難があったにもかかわらず、とにかく、彼は自分の考えを通して、秋にはいくらか仕事がはかどった。いや、すくなくとも、彼にはそう思われた。
初めリョーヴィンは、経営全体を新しい組合組織のもとに、現在のままの形で百姓と日雇いと支配人に引き渡す考えであった。ところが、まもなく、それが不可能であると確信したので、経営はいくつかに分けることにきめた。いくつかに分けられた家畜小屋、果樹園、菜園、草場畑は、それぞれ別個の項目を編成しなければならなかった。リョーヴィンの目には、だれよりもいちばんよく事情をのみこんだように思われた、例の素朴な家畜番のイワンは、主として自分の家族で組合をつくり、家畜場を引き受けることになった。八年間も閑田として放っておかれた遠方の畑は、頭のいい大工のレズノフの協力によって、六世帯の百姓が新しい組合組織のもとに、引き受けることになった。さらに、百姓のシュラーエフは、菜園全部を同じ条件で引き受けた。そのほかすべて昔のままであったが、これら三つの項目は、新しい組織の第一歩として、完全にリョーヴィンの要求を満たしたのであった。
もっとも、家畜小屋のほうは、今までのところ、前と比べて少しも成果があがっていないのも事実である。イワンは牛小屋を暖かくすることと、バターを作ることには、猛烈に反対した。彼はその理由として、牛は寒いところのほうが飼秣《かいば》が少なくてすむし、酸乳のほうがもうかる、と力説した。しかも、昔と同じように、給料を要求し、受け取った金が給料ではなくて、利益分配の前渡しだといわれても、そんなことには少しも興味を示さなかった。
レズノフの組合が期間の短いことを口実に、契約どおり、播《は》種《しゅ》前の二度鋤きをしなかったのも事実である。この組合の百姓たちは、新しい基盤によって仕事をはじめると契約したにもかかわらず、その土地を共有物と思わず、地主と百姓で山分けしたものと称して、普通の百姓たちばかりか、レズノフ自身までが、一度ならず、リョーヴィンに向って『これで、地代を取ってくだせえましたら、だんなさまもご安心だし、わしらも片がつくんでごぜえますのに』といったものである。そればかりか、これらの百姓たちは、契約に従ってその土地に家畜小屋と穀倉を建てるのを、いろんな口実をつくっては引き延ばし、ついに冬まで遅らせてしまった。
さらに、シュラーエフが、自分の引き受けた菜園を細かく仕切って、百姓たちに分け与えようとしたのも事実である。彼は、どうやら、その土地をまかされた条件をまったく反対に、あるいは、わざと反対に解釈したらしかった。
リョーヴィンはよく百姓たちと話をして、この企業の有利なことについて、長々と説明してやっても、百姓たちのほうは、まるで主人の歌でも聞いているみたいな顔で、腹の中では『だんながなんといったところで、こちらはそんなことにだまされるものか』と思いこんでいるらしいことを、感じたのも事実である。とくに彼がそれを痛感したのは、百姓の中でもいちばん賢いレズノフと話したときであった。レズノフの目の中には、一種のひらめきが認められた。それはリョーヴィンに対する嘲笑と、もしだまされるものがあるとしても、それはけっしてこのレズノフではないぞ、という確信を物語るものであった。
しかし、こうしたいろんなことがあったにもかかわらず、リョーヴィンは事業がはかどっているものと認め、厳密な計算をしながら、どこまでも自説を主張すれば、こうした経営の有利なことがいつかは証明できるだろうし、そのときには仕事のほうも、ひとりでに進展して行くだろうと考えた。
こうした仕事は、彼の手に残されていた農場や、書斎における著述の仕事とともに、夏じゅうずっとリョーヴィンを束縛したので、彼はほとんど猟にも出かける暇もないくらいであった。彼は八月の終りに、オブロンスキー一家がモスクワへ引き揚げたことを、鞍《くら》を返しに来た使いの男から知った。ドリイの手紙に返事も書かず、今思いだしても、恥ずかしさに顔を赤くせずにはいられないような、無作法をして、自分で船を焼いてしまったからには、もう二度とあの家へは行かれない、と感じていた。いや、スヴィヤジュスキー一家に対しても、彼はそれと同じようなふるまいをやっていた。というのは、彼はちゃんとあいさつもしないで帰って来てしまったからであった。あの家へもけっして二度と行くことはないだろう。もっとも、今となってはもう、そんなことはどうでもよかった。新組織による経営の仕事は、今まで例のないほど、すっかり彼の心をとらえてしまったからである。彼は、スヴィヤジュスキーの貸してくれた本を残らず読んだうえ、手もとにない本は取り寄せ、この問題に関する経済学や社会主義の本も、読みなおした。が、彼が予期したように、自分の企てた事業に関係のあるようなことは、なにひとつ発見できなかった。経済学の本では、たとえば、第一に研究したミルなどでは、自分に関心のある問題の解決が、今にも出てきはしないかと、彼はひじょうな熱意をもって読んでみたが、ただヨーロッパの農業状態から抽出した法則を発見したばかりで、ロシアに適用することのできないこれらの法則が、なにゆえ一般共通の法則でなければならぬのか、彼にはなんとしても納得がいかなかった。彼はそれと同じことを、社会主義の本の中にも見いだした。それは、彼が学生時代に夢中になった、実際に適用できない、美しい空想にすぎないか、あるいは、当時のヨーロッパがおかれていた状態の修正にとどまっており、ロシアの農業とはなんの共通点ももっていないものであった。経済学によれば、ヨーロッパの富がそれによって発達した、いや、現に発達しつつある法則こそ、一般に不変なものであった。ところが、社会主義の教えによると、これらの法則による発達は破滅に通じているということだった。そのいずれにしても、リョーヴィンをはじめ、すべてのロシアの百姓と地主は、どうしたら一般の福祉のために、その数千万の労働力と土地を、もっとも生産的に活用しうるかという問いに対して、答えはおろか、ほんのわずかの暗示さえ与えていないのであった。
もういったんこの仕事に手をつけた以上、彼は自分の研究テーマに関してありとあらゆる文献を読破し、さらに実地について研究し、これまでいろんな問題についてしばしば味わったようなことが、もう二度と生じないように、秋になったら外国へ出かけようと計画した。今までによく彼は話し相手の思想を理解して、いざ自分の意見を述べようとする段になると、不意に相手は、「じゃ、カウフマンは、ジョンズは、デュボアは、ミッチェルは? あなたはこの連中のものを読んでいないんですね。まあ、ひとつ読んでごらんなさい。彼らはこの問題についてはずいぶん研究していますからね」というのだった。
いまや彼は、カウフマンも、ミッチェルも、なにひとつ自分に語るべきものをもっていないのをはっきりと悟った。彼は自分が求めているものを知っていた。ロシアはすばらしい土地と、すばらしい労働者をもっており、ある場合には、あの途中で見かけた老人のところのように、労働者も土地も豊かに生産しているが、大部分の場合は、ヨーロッパ風に資本を投入することによって、生産率の低下をきたしているが、それもただ労働者が自分たちに固有の方法で働こうとし、現に、そう働いていることに原因があるので、この反作用は偶然なものではなく、国民性そのものに根ざしている恒久的な現象であることを、彼は理解した。広漠たる処女地に植民し、耕作する使命をもったロシアの農民は、すべての土地が耕されるまでは、それに必要な方法を意識的に固執するであろうが、この方法は普通に考えられているほど悪いものではない、と彼は考えた。そして彼は、この点を理論的にはその著述のうえで、実践的には自分の農事経営を通じて証明してみようと思ったのである。
30
九月末に、組合に与えられた土地に家畜小屋や倉を建てるため、木材が運びこまれ、雌牛からとったバターが売られて、その利潤が分配された。農事経営の実際面で、仕事はうまく進んでいた。いや、すくなくとも、リョーヴィンにはそう思われた。ところが、これらいっさいの問題を理論的に解明して、自分の著述を完成させるためには、ただ外国へ行って、この分野でなにがなされているかを実地に視察し、そこで行われていることがすべて不要のことであるという、確証をつかんで来さえすればよかったのであった。この著述というのは、リョーヴィンの空想によれば、経済学上に一大転機をもたらすばかりでなく、この学問を根底からくつがえし、農民と土地の関係を明らかにする新しい学問の基礎をおくはずであった。リョーヴィンは金を手に入れて、外国への旅にのぼるために、ただ小麦の納入を待つばかりであった。ところが、あいにく、雨が降りはじめて、畑に残った小麦やじゃがいもの取り入れができなくなり、すべての畑仕事はもちろん、小麦の納入まで中止しなければならなくなった。道路は、歩くこともできぬようなぬかるみとなり、水車場は二つも水に流されて、天候はますます悪くなるばかりであった。
九月の三十日には、朝から太陽が顔を出したので、天気になるものと思って、リョーヴィンは思いきって出発の準備にかかった。彼は小麦をはかるように命じ、金を受け取るために支配人を商人のところへやり、自分は出発前の最後の手配をするために、農場の見まわりに出かけて行った。
とにかく、するだけのことをすましてしまったリョーヴィンは、皮外套《かわがいとう》を小川のように伝って流れる水が、首筋や長靴の胴にはいって、全身ずぶぬれとなりながらも、すごく元気な興奮した面持ちで、夕方近く家路についた。悪天候は夕方になってますますひどくなった。全身ずぶぬれになって、耳と首を震わせている馬を、あられが痛いほどたたきつけたので、馬はからだをななめにして進んだ。しかし、リョーヴィンは頭《ず》巾《きん》をかぶっていたので、なにごともなかった。彼はさも愉快そうに、自分のまわりを、轍《わだち》の跡を伝って流れる泥水や、葉を落した木々の枝の一本一本にたれさがっているしずくや、橋板の上に溶けずに白く残っているあられの粒や、裸になった木のまわりにうずたかくつもっている、まだ水分のある、肉の厚い楡《にれ》の葉などをながめまわしていた。まわりの自然が陰気くさかったにもかかわらず、彼はひどく興奮している自分を感じていた。遠い村の百姓とかわした会話は、百姓たちが自分たちの新しい関係に慣れてきたことを示すものであった。彼が着物をかわかしに立ち寄った家の、年とった門番は、明らかにリョーヴィンの計画に賛意を表して、自分も家畜を買って組合にはいりたいと申し出た。
《ただ自分の目的に向って、たゆまず進んで行けばいいのだ。そうすれば、かならず初志を達することができるだろう》リョーヴィンは考えた。《いや、働くにも、苦労するにも、張り合いが出てきたよ。だって、これはなにもおれひとりの仕事じゃなくて、万人の福祉の問題だからな。農事経営全体が、いや、なによりも農民全部の生活状態が一変されなければならない、貧乏のかわりに、万人の富と満足が、敵視のかわりに、利害の調和と一致が生れなければ。いや、一口にいえば、無血革命が必要なんだ。それこそもっとも偉大な革命で、はじめはこの郡だけの小さな範囲にすぎないが、やがて県にひろがり、ロシア全体となり、全世界の革命となるんだ。だって、正しい思想は、かならず豊かな実りをもたらさずにはいないからだ。そうだ、これこそ努力に値する目的ではないか。それを考えたこのリョーヴィンが、黒のネクタイをしめて舞踏会へ出かけて行き、キチイから肘鉄砲《ひじでっぽう》をくらった、われながらみじめで、意気地《いくじ》のない男だとしても、そんなことはなんの関係もありゃしない。あのフランクリンだって、自分のことをすっかり思い起したら、きっと、おれと同じように、自分をつまらないものに感じ、自分の力を信じられなかったにちがいない。いや、おれはそう確信するよ。こんなことはなんの意味もないことだ。いや、フランクリンにも、きっと、アガーフィヤのような人がいて、自分の秘密を打ち明けていたんだろう》
こんなことを考えながら、もう暗くなってから、リョーヴィンはわが家へ帰った。
商人のところへ行った支配人も、帰って来て、小麦代の一部をもらって来た。宿屋の主人との契約も成立した。また、支配人が途中で見て来たところによると、穀物は野良のいたるところに、置きっぱなしになっていて、まだ取り入れのすまない自家《うち》の百六十堆《やま》は、よそのとは比べものにならないほどいいということであった。
食事を終えると、リョーヴィンは、例によって、本を手にして肘掛けいすに腰をおろし、それを読みながら、目前に迫った旅行のことを、その本の内容と関連させて考えていた。その晩はとくにはっきりと、自分の仕事の意義が描きだされて、自分の思想の本質を表現する複雑な文章が、ひとりでに頭の中で組み立てられていくのだった。《こりゃ、書きとめておかなくちゃ》彼は考えた。《これを短い序説にしなくちゃいけないな。前にはそんなものは必要ないと思っていたけれど》彼は立ちあがって、仕事机のほうへ行こうと思った。と、彼の足もとに寝ていた犬のラスカが、伸びをしながら、同じように起きあがり、どこへ行くのかと、たずねでもするように、彼の顔を見上げた。ところが、書きとめている暇はなかった。頭株の百姓たちがさしずを仰ぎにやって来たからである。そこで、リョーヴィンも、百姓たちの待っていた控室へ出て行った。
さしず、つまり、あすの仕事の割当てをして、彼のところへ用事で来た百姓たちの話を聞いてから、リョーヴィンは書斎へ引き返し、仕事にかかった。ラスカはテーブルの下に寝そべった。アガーフィヤは靴下の編物を持って、いつもの自分の場所にすわった。
しばらく書いているうちに、リョーヴィンはふとキチイのことを、彼女に拒絶されたことを、最後に会ったときのことを、ひどくなまなましく思いだした。彼は立ちあがって、部屋の中を歩きはじめた。
「なにも、そうくよくよしなさることはございませんですよ」アガーフィヤはいった。「ほんとに、なんだって家の中にばかり、こもっていらっしゃるんでございます? たまには、温泉にでもいらっしゃるといいんですのに。おしたくもできているんですから」
「ああ、いわれなくっても、あさっては出発するよ、アガーフィヤ。その前に仕事を片づけておかなくちゃ」
「まあ、そんなお仕事だなんて! 百姓たちに、あれだけよくしておやりになってるのに、まだ足りないんでございますか! いいえ、それでなくっても、だんなさまはきっと皇帝さまから、ごほうびをおもらいになるだろうって、みんなはうわさしてるくらいでございますよ。ほんとに、なんだってそんなに百姓たちのことを、心配なさるんです?」
「あの連中のことを心配しているんじゃないよ、みんな自分のためにやってるのさ」
アガーフィヤは、リョーヴィンの農事経営に関する計画を、なんでも細かい点まで知っていた。リョーヴィンはよく自分の考えを、細かいところまで、老婆に話して聞かせ、相手の解釈に反対しながら、議論することがあった。ところが、今はアガーフィヤも、彼のいったことを、まるっきり別の意味に解釈したのである。
「ご自分の魂のことは、むろん、なによりもまず第一番に考えなくちゃいけませんとも」彼女は溜息《ためいき》をつきながらいった。「ほれ、あの、パルフョンも、読み書きはできませんでしたが、人がうらやむような死に方をいたしましたよ」彼女は最近死んだ召使のことをいった。「聖餐《せいさん》の式も受けましたし、塗油式もいたしました」
「ぼくはそんなことをいってるんじゃないよ」彼はいった。「ただ自分の利益のためにやるんだといってるのさ。百姓がよく働けば、ぼくのほうもそれだけ得になるんだから」
「でも、だんなさまがいくら努めなさったところで、あの連中がなまけ者でしたら、なにもかも骨折り損のくたびれもうけでございますとも。良心があれば働くでしょうが、それのないものは、どうにも仕方ありませんからねえ」
「それでも、おまえは、イワンが前より家畜の世話をよくするようになったと、いったじゃないか」
「いいえ、あたくしがいってるのは、いつも一つことでございますよ」アガーフィヤは、どうやら、ふとした思いつきではなく、とっくりと考えたあげくらしく、こう答えた。「もう身をおかためにならなくちゃいけませんよ。それが第一でございますよ!」
自分がたった今考えていたことを、アガーフィヤにいいあてられたので、彼はしょげるとともに、侮辱をも感じた。リョーヴィンは顔をしかめると、返事もしないで、自分の仕事の意義について考えたことを、心の中でもう一度すっかり考えなおしながら、また仕事にかかった。ただ時おり、静けさの中に響くアガーフィヤの編み針の音に耳を傾けながら、思いだしたくないことを思いだして、再び眉《まゆ》をしかめるのだった。
九時に、鈴の音と、ぬかるみの中を馬車の車体が揺れる鈍い響きが聞えた。
「まあ、お客さまがお見えになりましたよ。これでもう、くよくよなさることはございませんよ」アガーフィヤは立ちあがって、戸口のほうへ向いながら、いった。しかし、リョーヴィンもすぐ老婆を追い越して行った。今はもう仕事がはかどらなかったので、相手がだれでも、客の来たことがうれしかったのである。
31
階段を中途まで駆けおりたところで、彼は控室の中で聞きおぼえのある咳《せき》ばらいがするのを耳にした。しかし、自分の足音にまぎれて、はっきりとは聞えなかったので、それが自分の聞きちがいであってくれと願った。しかし、すぐに、背の高い、骨ばった、なじみぶかい姿全体が見えたので、もうとても自分を欺くことはできないように思われたが、それでもなお、毛皮外套を脱ぎながら、咳ばらいをしている、そののっぽの男が、兄のニコライでなければいいがと願っていた。
リョーヴィンはこの兄を愛してはいたが、兄といっしょにいるのは、いつも彼にとって苦痛であった。ことに今は、自分の心に浮んだ思いと、アガーフィヤにいわれたことに影響されて、リョーヴィンはあいまいな、いらいらした気持になっていたので、今すぐ兄と顔をあわせるのは、とりわけ心苦しく思われた。彼がひそかに期待していた、自分のあいまいな気分をまぎらわしてくれる、にぎやかで健康な他人の客のかわりに、彼という人間をすっかりのみこんでいて、彼の心にあるもっとも大切な思想を呼び起して、なにもかもいわせてしまわずにはおかない兄と、顔をあわせなければならないからだった。それが彼にはやりきれなかったのである。
リョーヴィンは、こんな忌わしい気持をいだいた自分に、自分で腹を立てながら、控室へ駆けおりて行った。が、兄を見たとたん、この個人的な幻滅感はたちまち消えてしまい、憐憫《れんびん》の情と変った。以前の兄も、やせ細って病的な感じで、とても恐ろしく思われたものだが、今の兄はそれよりもさらにやせて、もっと弱りきっていた。それはまさに、皮をかぶっている骸骨《がいこつ》であった。
彼は控室の中に立って、頭から襟《えり》巻《ま》きを取ろうとして、その長いやせた首をしきりにしゃくりながら、奇妙にみじめな微笑を浮べていた。このおとなしい忍従の微笑を見ると、リョーヴィンは痙攣《けいれん》でのどを締められるような思いであった。
「やあ、とうとうおまえのところへやって来たよ」ニコライは一刻も弟の顔から目を放さないで、かすれた声でいった。「だいぶ前から来たいと思っていながら、どうもからだの調子が悪くてね。今はもうとてもよくなったよ」彼は大きなやせた掌《てのひら》で、自分の顎《あご》ひげをしごきながら、いった。
「そうですか、そうですか!」リョーヴィンは答えた。が、接吻《せっぷん》しながら兄のからだがかさかさしているのを自分の唇《くちびる》に感じ、その妙にぎらぎら光っている大きな目を間近で見たとき、彼はますます身のちぢむ思いがした。
これより二、三週間前に、リョーヴィンは兄に手紙を書いて、まだ分けずにあった家の中のものの一部を売ったから、兄さんには、今約二千ルーブルの取り前がある、と知らせてやったのであった。
ニコライは、自分はその金を受け取るために、いや、なによりも自分の生れた巣にしばらく暮して、昔話の英雄のように、将来の活動に必要な力をたくわえる目的で、大地にふれるためにやって来たのだ、と説明した。彼は前よりいっそう猫背になり、その背《せ》丈《たけ》に比べて驚くほどやせていたにもかかわらず、その動作は相変らず敏捷《びんしょう》で、突発的だった。リョーヴィンは兄を書斎へ案内した。
兄は昔と違ってとくに念入りに着替えをし、その薄くなった、くせのない髪の毛をとかして、にこにこしながら、二階へあがった。
兄は、リョーヴィンが少年時代によく見かけたことのある、いたってやさしい、朗らかな気分になっていた。コズヌイシェフのことを話すときも、例の憎《ぞう》悪《お》に満ちた口調ではなかった。アガーフィヤの顔を見ると、彼は冗談をいい、昔の召使のことなどをたずねた。パルフョンが死んだという話は、彼に不快なショックを与えた。その顔にはおびえたような表情が浮んだが、彼はすぐ気分をとりなおした。
「でも、あれはもうずいぶん年取っていたからなあ」彼はいって、話題を変えた。「いや、こうやっておまえのとこで一、二カ月も暮したら、モスクワへ行くよ。じつはね、ミャーフコフのやつが就職の世話をしてくれると約束してね。おれも勤めることにしたのさ。今度こそ、生活をすっかり新しく建てなおすつもりだよ」彼はつづけた。「じつはね、あの女にも暇をやってしまったのさ」
「え、マーシャを? どうして、なんだってまた?」
「いや、どうにもしようのないやつでね! 次から次へと、不愉快な思いばかりさせるもんだから」しかし、それがどんな不愉快なことだったかは、彼も話さなかった。マーシャを追い出した理由が、薄いお茶を出したからだとは、さすがの彼もいえなかった。もっともいちばんの原因は、彼女が彼を病人扱いにしたからなのであった。「とにかく、おれは今度こそ生活を一変したいと思っているよ。もちろん、おれはみんなと同様、ずいぶんくだらないこともやってきたが、しかし、財産なんてことは、末の末だよ。そんなものなんか惜しいとは思わないね。ただ健康でさえあればと思っていたが、その健康もどうやら回復したんでね」
リョーヴィンは兄の話を聞きながら、なんといったものかと考えていたが、結局、うまい返事が思いつかなかった。どうやら、ニコライも同じことを感じていたらしい。彼は弟に仕事のことをいろいろとたずねた。リョーヴィンも自分のことを話すのはうれしかった。それならなにも虚勢をはる必要がなかったからである。彼は自分の計画や行動を、兄に話して聞かせた。
兄はじっと耳をすましてはいたが、どうやら、そんなことには興味がないらしかった。
このふたりは肉親であり、互いにきわめて近しい間がらだったので、ほんのちょっとした動作や、声の調子だけでも、ふたりにとっては、言葉で表現しうる以上のことを語ることができた。
いまや、このふたりには、一つの共通した思いが支配していた。それは、ほかでもなく、ニコライの病気とその死期が切迫しているという思いであり、それは他のいっさいの思いを圧倒していた。しかも、ふたりのうちどちらも、あえてそれを口に出す勇気はなかったので、心にかかっている唯一のことを口にしない以上、もうなにを話しても、そらぞらしいうそになってしまうのであった。リョーヴィンは夜がふけて寝る時刻になったのを、このときほどうれしく思ったことはなかった。彼はどんな赤の他人を相手にしているときでも、どんな公式的な訪問の際にも、今夜のように不自然で、わざとらしくつくろっていたことはなかった。自分が不自然にふるまっているという意識と、それに対する慚《ざん》愧《き》の念が、なおさら彼を不自然なものにするのだった。彼は死に瀕《ひん》している愛する兄のために、涙を流したかったにもかかわらず、これからの自分の生き方について語る兄の話に耳を傾けながら、それに相槌《あいづち》をうたなければならないのであった。
家の中は湿っていて、暖炉を焚《た》いている部屋は一つしかなかったので、リョーヴィンは自分の寝室に仕切りをして、兄を寝かせることにした。
兄は床についたが、眠ったのか、眠らないのか、ときどき病人らしく、寝返りをうっては咳ばらいをしていた。咳ができないときには、なにかぶつぶつつぶやくのだった。ときには重々しく溜息《ためいき》をついて、「ああ、神さま!」といったり、また痰《たん》で息がつまりそうになると、いまいましそうに、「えい、悪魔め!」と舌うちした。リョーヴィンはそれが耳について、長いこと眠れなかった。彼の頭に浮んだ思いは、種々雑多であったが、どんな思いも帰するところは、ただ一つ――死ということであった。
すべてのものにとって避けることのできない終末である死が、今はじめて抗しがたい力をもって、彼の前に現われた。そしてこの死は、彼の前に夢うつつの中でうめきながら、つい習慣から、神と悪魔をかわるがわる無差別に呼んでいる愛する兄の中にひそんでいる死は、けっしてこれまで彼が考えていたように、縁遠いものではなかった。そうした死は彼自身の中にもいるのだった――彼はそれを感じた。それはきょうでなければあす、あすでなければ三十年後のことかもしれなかったが、それでも結局は、同じことではないか!では、この避けることのできない死とは、いったい、なにものであろうか、彼はそれを知らなかったばかりでなく――かつて一度も考えたことがなかった。いや、それを考えるすべも知らなければ、考えるだけの勇気もなかったのである。
《おれは今働いている。なにかをしでかそうと欲している。しかし、すべてのものには終りがあるということを、死というものがあることを、すっかり忘れていたのだ》
彼は暗闇《くらやみ》の中でベッドの上に起きあがり、上体をかがめて、膝《ひざ》を抱いたまま、はりつめた思いに息さえ殺しながら、じっと考えこんだ。しかし、彼がはりつめた思いになればなるほど、ますます次のことがはっきりしてくるのだった。すなわち、それは疑いもなく、そのとおりなのであり、人生におけるたった一つの小さな事実――死がやってくれば、すべては終りを告げるのだから、なにもはじめる値うちはないし、しかも、それを救うことも不可能なのだ。自分はこの事実を忘れていたのだ。ああ、それは恐ろしいことだが、事実には違いないのだ。
《それにしても、おれはまだ生きてるじゃないか。もうこうなったら、なにをしたらいいのだ。いったいなにをしたらいいんだ?》彼は絶望的な調子で叫んだ。彼はろうそくをともして、用心ぶかく立ちあがり、鏡のところへ行って、自分の顔や髪の毛をながめはじめた。ああ、鬢《びん》には白いものがまじっていた。彼は口をあけてみた。奥歯はだめになりかけていた。彼は筋骨たくましい腕を出してみた。いや、まだ力はたくさんある。しかし、今あすこに横たわって、むしばまれている肺の一部でやっと息をしているニコライだって、かつては健康な肉体をもっていたではないか。ふと、彼は昔のことを思いだした。ふたりは子供の時分いっしょに寝ていたが、フョードル・ボグダーヌイチが戸の外へ出て行くのを待ちかねて、お互いにまくらを投げあい、大きな声できゃっきゃっと止めどなく笑いころげたものである。フョードル・ボグダーヌイチに対する恐怖さえも、この生の杯の縁をあふれて沸きたつ幸福の意識を、おさえることはできなかった。
《それなのに、今ではあのひん曲ったような空洞《くうどう》な胸だけが……いや、このおれも、なんのために、どんなことが自分の身に起るか、それさえ知らないでいるのだ》
「ごほん! ごほん! えい、悪魔め! なにをそこでごそごそやってるんだい、眠れないのかい?」兄が声をかけた。
「ええ、どうしてだか、眠れなくって」
「おれのほうはよく眠ったよ。このごろはもう寝汗もかかないよ。ちょっと、シャツにさわってごらん。汗をかいてないだろう?」
リョーヴィンはシャツにさわってから、仕切り板の向うへもどり、ろうそくを消した。が、それからもまだ長いこと寝つかれなかった。いかに生きるべきかという問題がようやくいくらかはっきりしてきたかと思うと、たちまち、解決のできない新しい問題――死が現われてくるのだった。
《ああ、兄さんは死にかけている。きっと、春まではもたないだろう。じゃ、いったい、どうやって救いの手をさしのべたらいいのか? 兄さんにはなんといったものだろう? この問題についておれは、なにを知っているというのだ? いや、これがなにかってことさえ、おれは忘れていたんじゃないか》
32
リョーヴィンは、相手の必要以上の謙遜《けんそん》や従順に、ばつの悪い思いをさせられると、今度は逆に、そのあまりのわがままと意地の悪いからみぶりに、やりきれなくなることがあることに、もうずっと前から気づいていた。彼は、兄の場合にもこれと同じことが起るのではないかと思っていた。そして実際、ニコライのおとなしさは、ほんのわずかしかつづかなかった。彼はもうさっそくあくる日の朝から、いらいらしはじめて、弟にからんできては、そのもっとも痛いところにさわるのであった。
リョーヴィンは、自分が悪いと感じながらも、それを改めることができなかった。彼は、もし自分たちふたりが虚勢をはらずに、いわゆる、胸襟《きょうきん》を開いて語り合うならば、つまり、自分が考えたり、感じたりしていることをありのまま口にしたら、ふたりはただお互いに顔を見合せて、自分はただ、『あなたは死ぬのだ、あなたは死ぬのだ、あなたは死ぬのだ!』というだろうし、兄はただ、『死ぬってことはわかっているさ。でも、こわいんだ、こわいんだ、こわいんだ!』と答えるにちがいないと、感じていた。もしふたりが、胸襟を開いて語り合うならば、それ以外のことはけっしていわないであろう。しかし、とてもこんなふうに暮すことはできなかったから、リョーヴィンはこれまで何度もやってみながら、一度だってうまくいったためしのないことをやろうと試みた。それは、彼の観察によると、多くの人がじつに見事にやっていることであり、それをしなくては生きていけないものであった。つまり、彼は心にもないことをいおうとしたのである。しかし、それはいつもそらぞらしく聞えるような気がしたうえ、兄はそれを悟って、なおいっそういらいらするように思われた。
三日めになると、ニコライは弟を呼んで、またその計画を説明させ、それを非難するばかりでなく、わざとそれを共産主義と混同する始末だった。
「おまえは他人の思想を借りてきたばかりか、それを歪曲《わいきょく》して、適用できないものに適用しようとしてるだけじゃないか」
「ねえ、これはそんなものとはなんの関係もないって、いってるでしょう。あの連中は私有財産や資本や相続権を否定していますが、ぼくはなにもそんな重大な動機《スチムル》を退けやしませんよ(リョーヴィンはこんな言葉を使うのは自分でもいやだったが、著述に没頭して以来、知らずしらずのうちに、こうしたロシア語でない言葉をひんぱんに用いるようになっていた)。ぼくはただ、労働を調整したいと思ってるだけですよ」
「それそれ。だから、おまえは他人の思想を借りているっていうのさ。その思想の力となっているものを全部切りすててしまって、それがなにか新しいもののように思いこませようとしているのさ」ニコライは腹立たしげにネクタイの下で首をしゃくりながら、いった。
「でも、ぼくの思想はそれとはなんの関係もないんで……」
「あれには」意地悪そうに目を輝かし、皮肉なうす笑いを浮べながら、ニコライはしゃべりつづけた。「共産主義には、すくなくとも、幾何学的な美しさといったものがある――明快で、毫《ごう》も疑いを許さぬところに。ひょっとすると、それはユートピアかもしれない。しかし、かりに、過去のいっさいから tabula rasa つまり、私有財産もなければ家族もない、という状態をつくりだせるとしたら、そのときには彼らのいう労働も調整されるだろうよ。しかし、おまえの説にはなんにもありゃしないよ」
「なんだってそうごっちゃにするんです? ぼくは一度だって共産主義者だったことはありませんよ」
「ところが、おれはそうだった。だから、それは時期尚早ではあるが、合理的で将来性があると思ってるよ。ちょうど初期のキリスト教のようにね」
「ぼくが考えているのはただ、労働力というものは、自然科学の観点から検討されなければならない、つまり、それを研究して、その特質を認識して……」
「でも、そんなことはまったくむだ骨だよ。労働力というものは発達するにしたがって、自分で一定の活動形態を見いだすものなんだ。どこにだって奴隷がいたが、その後metayers になったのさ。わが国にだって、折半式の労働もあれば、借地もあり、日雇い仕事もある――いったい、おまえはなにを求めているんだい?」
リョーヴィンはこうした言葉を聞くと、急にかっとなった。というのは、彼も心の奥底では、それが真実ではないかと恐れていたからである。彼が共産主義と在来の形式とのあいだに、均衡を計ろうとしたことは事実だが、それはほとんど不可能なことであった。
「ぼくは自分にとっても、労働者にとっても、生産的に働ける方法を求めているんですよ。ぼくが組織したいのは……」リョーヴィンはやっきとなって答えた。
「いや、おまえはなんにも組織したくはないのさ。ただ、これまでずっとやってきたように、自分は単に百姓どもを搾取しているのではなく、理想をもってやってるってことを、もったいぶって、見せびらかしたいのさ」
「いや、兄さんがそう思ってるのなら、それでもいいですから――ぼくのことを放っといてくださいよ!」リョーヴィンはそう答えて、左の頬《ほお》の筋肉がひどく痙攣《けいれん》するのを感じた。
「おまえは信念なんてものを、もったことがないし、今ももっちゃいない。ただ自尊心を満足させたいのさ」
「いや、けっこうですとも。ぼくのことは放っといてくださいよ!」
「放っといてやるよ! もうとっくにここを発《た》たなくちゃならなかったんだ。とっとと失《う》せやがれか! まったく、こんなところへ来たのを後悔してるよ!」
リョーヴィンがどんなに兄の気持を落ち着かせようと努めてみても、ニコライはなにひとつ耳に入れようとせず、自分たちは別れてしまったほうがずっといいのだ、というばかりであった。そこで、リョーヴィンも、兄はもう、ただ生きているということに耐えられなくなってきたのだと悟った。
ニコライがもうすっかり出発の準備を終ったとき、リョーヴィンはまた兄のところへ行って、もしなにか気にさわったことがあったら許してくれと、不自然な調子でわびをいった。
「ほう、寛大だね!」ニコライはいって、にやりと笑った。「もしおまえが自分は正しかったのだと思いたいのなら、おまえにその満足感を味わわせてやってもいいよ。おまえのほうが正しいよ。でも、とにかく、おれは発って行くからな」
いよいよ出発というときになって、はじめてニコライは弟と接吻をかわし、急に、いやにまじめな目つきで弟の顔を見つめながら、いった。
「なあ、とにかく、おれのことを悪く思わないでくれよ、コスチャ!」彼の声は震えていた。
それが彼の誠心から発せられた唯一の言葉であった。リョーヴィンはこの言葉の陰に、《おまえも見てわかっているとおり、おれはからだがよくないから、ひょっとしたら、もうこれきり会えないかもしれないな》という意味が隠されているのを悟った。リョーヴィンはそれを悟ると、両の目から涙がこぼれた。彼はもう一度兄を接吻したが、なにもいわなかった。いや、いえもしなかったのである。
兄の発った翌々日、リョーヴィンも外国への旅にのぼった。汽車の中で、偶然、キチイの従兄《いとこ》のシチェルバツキーに会ったとき、リョーヴィンの暗い顔は、ひどく相手を驚かせた。
「きみ、どうしたんだい?」シチェルバツキーは彼にたずねた。
「いや、べつに。ただ、この世の中にはおもしろいことってあまりないからな」
「とんでもないよ。それじゃ、そんなミュルハウゼンなんてとこよりも、ぼくといっしょにパリへ行こうじゃないか。この世がどんなにおもしろいか、わかるよ!」
「いや、もうぼくにはなにもかも終ってしまったのさ。そろそろ死ぬ時分だもの」
「いやあ、こいつは驚いた!」シチェルバツキーは、笑いながらいった。「ぼくなんか、これからはじめようとしているのに」
「ああ、ぼくもついこのあいだまでは、そう思っていたけれどね。今はもうじき死ぬってことがわかったのさ」
リョーヴィンは、近ごろずっと真剣に考えていたことを口にしたのである。彼はなにを見ても、ただその中に死か、死への接近だけを見るようになっていた。しかし、いったん計画した仕事は、そのためにかえって、ますます彼の心をとらえていった。死が訪れるまでは、なんとかしてこの人生を生きぬいていかなければならなかった。暗黒がすべてのものを彼の目からおおいかくしてしまった。しかし、ほかならぬこの暗黒のために、彼はその中の唯一の導きの糸は、自分の仕事であることを感じ、最後の力をふりしぼって、それをつかみ、しっかりとそれにしがみついたのであった。
第四編
カレーニン夫妻は、相変らず、同じ家に暮して、毎日顔をあわせていたが、お互いにまったくの他人同士であった。カレーニンは、召使たちに勝手な憶測を許さないために、毎日、妻に会うことを原則としていたが、家で食事をするのは避けるようにしていた。ヴロンスキーはけっしてカレーニン家を訪れることはなかったが、アンナは家の外で彼と会っており、夫もそれを承知していた。
こうした状態は三人のだれにとっても、苦しいものであった。この状態はじき一変して、ほんの一時的な悲しむべき境遇として過ぎ去って行くだろう、という期待がもしなかったら、彼らの中のだれひとりとして、たとえ一日でも、こんな状態を耐え忍ぶことはできなかったにちがいない。カレーニンは、すべてのものが過ぎ去って行くように、この情熱も過ぎ去って行き、世間の人もこんなことは忘れてしまって、自分の名もよごされないですむだろう、と期待していた。アンナはこうした状態をもたらした当人であり、そのためにだれよりもいちばん苦しんでいたが、こうしたことはなにもかもごく近い将来に解決のめどがつき、すっきりするだろうと、単に期待していたばかりでなく、堅くそれを信じて疑わなかったので、じっとその境遇に辛抱していた。もっともアンナは、こうした状態を解決してくれるものがなんであるかは、まるっきり、わかっていなかったが、なにかそうしたものが近い将来にやってくるだろうことだけは堅く信じて疑わなかった。ヴロンスキーも、知らずしらずのうちに、アンナの影響を受けて、自分と直接関係のない、なにごとかが起って、いっさいの困難を解決してくれるものと、同じように期待していた。
冬の半ばに、ヴロンスキーはひどく退屈な一週間を過した。彼はペテルブルグを訪問したある外国の王子の接待役を命ぜられ、ペテルブルグの名所旧跡を案内しなければならぬことになった。当のヴロンスキーは風采《ふうさい》がりっぱだったばかりでなく、上品で慇懃《いんぎん》な態度をとるすべも心得ており、こういう人たちとの応対にも慣れていたので、この王子の接待役を命じられたわけであった。ところが、この任務は彼にとって、ひどくつらいものに思われた。王子は国に帰ってから、ロシアではあれを見たかと人にきかれそうなものは、なにひとつ見落すまいと心がけていた。さらに、王子自身も、できるだけ、ロシア的歓楽を味わおうと希望していた。ヴロンスキーはこの両方とも案内しなければならなかった。午前中は、名所旧跡の見物に出かけ、夜はロシア的歓楽の席につらなった。この王子は、王子たちのあいだでもまれにみる健康の持ち主だった。王子は体操や周到な健康法によって驚くべき精力をたくわえており、ずいぶん過度な歓楽にふけっていたにもかかわらず、まるで青い、大きな、つやつやした、オランダきゅうりのように若々しかった。王子は方々を旅行していたが、彼は最近の交通機関の発達がもたらしたおもな利点の一つは、各国特有の快楽を容易に味わえるようになったことだと考えていた。スペインに行ったときには、そこでセレナードを実演し、マンドリンひきのスペイン女と親しくなった。スイスでは、かもしか《・・・・》を撃った。イギリスでは真紅の燕《えん》尾《び》服《ふく》を着て、馬を駆って高い柵《さく》を飛び越えたり、賭猟《かけりょう》で二百羽の雉《きじ》を射とめたりした。トルコではハーレムを訪れ、インドでは象を乗りまわした。そして今度は、ロシアであらゆるロシア特有の歓楽を味わいたいと望んでいるのであった。
ヴロンスキーはこの王子に対する式部長官ともいうべき位置にあったので、さまざまな人から王子に提供される、ありとあらゆるロシア的歓楽を割り振りするのが一苦労であった。ロシアには駿馬《しゅんめ》あり、薄餅《プリン》あり、熊狩りあり、トロイカあり、ジプシー女あり、食器をたたきこわすロシア式の酒宴ありというありさまだったからである。王子はいともたやすくロシア気質《かたぎ》を身につけてしまい、食器ののった盆をたたき落したり、ジプシー女を膝《ひざ》にのせたりして、さあ、次はなにかね、それともロシア気質ってのはもうこれだけかね?とでもたずねているふうだった。
結局のところ、あらゆるロシア的歓楽の中で、いちばん王子のお気に召したのは、フランスの女優たちと、バレエの踊り子と、ホワイトラベルのシャンパンであった。ヴロンスキーは皇族たちには慣れていたが、彼自身が最近すっかり変ってしまったせいか、あるいは、この王子とあまり近づきになりすぎたせいか、とにかく、この一週間が彼にとってはおそろしくつらいものに思われた。彼はこの一週間というもの、危険な狂人の付添いをまかされた人が、狂人を恐れるのと同時に、その狂人のそばにいることから、自分の正気までが心配になってくる、といった感じをたえず味わっていた。ヴロンスキーは、この王子から軽蔑《けいべつ》されないために、厳格な儀式ばった態度を一瞬たりともゆるめてはならぬという気持を、たえずいだいていた。ヴロンスキーの驚いたことには、ロシア色豊かな歓楽を提供しようと懸命に努めている人びとに対する王子の態度は、かなり侮《ぶ》蔑《べつ》的なものであった。王子はロシア女性を研究したがっていたが、それに対する彼の批評は、ヴロンスキーが一度ならず憤激に顔を赤らめずにはいられないほどのものであった。しかし、この王子がヴロンスキーにとってとくにやりきれなく思われた最大の原因は、彼がこの人物の中に、いやでも自分自身の姿を見いださずにはいられなかったからである。しかも、この鏡の中に見た自分は、彼の自尊心を喜ばすようなものではなかった。それはきわめて愚劣な、きわめてうぬぼれの強い、きわめて健康で、きわめて身ぎれいな男であり、それ以上のなにものでもなかった。彼は紳士であった。たしかに、そのとおりである。ヴロンスキーもそれを否定するわけにはいかなかった。彼は、目上の者に対しても落ち着いた態度で、けっしておもねることはなく、対等の者に対しては自由でざっくばらんであり、目下の者に対しては、自己の優位を意識した愛《あい》想《そ》のよさを見せるのだった。ヴロンスキー自身もまさにそのとおりで、しかも、そうした態度を以前はすぐれた美徳と考えていた。ところが、王子に対しては、彼のほうが目下であったので、そうした自己の優位を意識した愛想のよさを示されると、ひどく腹が立ってくるのだった。
《愚劣な牛肉野郎め! おれもほんとにあんなふうなんだろうか?》彼はそう考えた。
なにはともあれ、七日めになって、モスクワに発つ王子と別れのあいさつをかわし、相手からお礼の言葉をいわれたときには、彼もこの居心地の悪い立場や、不愉快きわまる鏡からのがれられたことを、心からうれしく思った。彼は、夜を徹してロシア式の勇猛さが披《ひ》露《ろう》された熊狩りからの帰途、停車場でこの王子と別れたのであった。
ヴロンスキーが家へ帰ってみると、アンナから手紙がきていた。アンナはこう書いていた。『あたくしは病気で、つらい思いをしております。外出するわけにはまいりませんが、でも、もうこれ以上あなたにお目にかからずにはいられません。今晩いらしてくださいまし。主人は七時に会議へ出かけ、十時まではもどって来ないはずでございます』夫から家に入れてはならぬときつくいわれているにもかかわらず、アンナが自分を直接自宅へ招くのは変だと、一瞬、考えたものの、彼は行くことにきめた。
ヴロンスキーはその冬、大佐に昇進したので、連隊を出て、ひとり暮しをしていた。軽い食事をとると、彼はすぐソファの上にごろりと横になった。と、五分あまりのあいだ、この数日間に見たあの数々の醜悪な場面の思い出が、アンナの姿や、熊狩りで重要な役割を演じていた勢《せ》子《こ》の百姓たちの姿ともつれあい、からみあっていたが、やがていつのまにか、ヴロンスキーは眠りにおちた。彼はふと恐ろしさに身を震わせながら、暗闇《くらやみ》の中で目をさまし、急いでろうそくに火をつけた。《なんだろう? なんだったっけ? 夢に見たあの恐ろしいものはなんだろう? そうだ、そうだ。顎《あご》ひげをぼうぼうはやした、むさくるしい、どうやら、あの小がらな勢子の百姓らしかったが、そいつが、かがみこんでなにかやっていたんだ。するといきなり、フランス語でなにか妙なことをしゃべりだしたんだ。そうだ、夢といってもただそれだけだったな》彼はひとり言をいった。《でも、それがなんだって、あんなに恐ろしかったんだろう?》百姓と、その百姓が口にしたわけのわからないフランス語を、なまなましくまた思い浮べると、彼は背筋に冷水を浴びたようにぞっとした。
《ちぇっ、くだらん!》ヴロンスキーはそう考えて、時計をちらっと見た。
もう八時半になっていた。彼はベルを鳴らして下男を呼び、急いで着替えをすると、夢のことなどすっかり忘れて、ただ遅れたことばかり気にしながら、表階段へ出て行った。カレーニン家の車寄せに近づいたとき、時計を見ると、九時十分前であった。二頭の葦《あし》毛《げ》馬《うま》をつけた、細っそりとした車体の高い馬車が車寄せで待っていた。彼はそれをアンナの馬車と見た。《アンナはおれのところに来るつもりなんだな》ヴロンスキーは思った。《そのほうがいいな。この家にはいるのは不愉快だし。でも、どっちみち同じことさ。いまさら、逃げ隠れするわけにもいかないよ》彼はそうつぶやき、子供のころから身につけていた、なにも恥じることはないんだといった、落ち着きはらった態度で、橇《そり》をおりると、戸口に近づいた。と、中からドアが開き、膝《ひざ》掛《か》けを手にした玄関番が、馬車を呼んだ。いつもは細かいことに気のつかないヴロンスキーも、このときばかりは、自分を見たときの玄関番のひどくびっくりした表情に気づいた。戸口のところでヴロンスキーは、あやうくカレーニンとぶつかるところだった。ガス燈の光は、黒い帽子の下からのぞいている、血の気のない、げっそりこけた顔と外套《がいとう》の海獺《ラッコ》の襟《えり》の陰に光って見える白いネクタイを、まともに照らしていた。どんよりして、じっと動かぬカレーニンの目が、ヴロンスキーの顔に注がれた。ヴロンスキーは頭を下げた。と、カレーニンはちょっと唇《くちびる》を動かし、片手を帽子にかけ、そのまま、通り過ぎた。ヴロンスキーが見ていると、彼はあとを振り返りもせず、馬車に乗りこむと、窓から膝掛けとオペラ・グラスを受け取り、姿を消してしまった。ヴロンスキーは控室に通った。彼の眉《まゆ》は八の字に寄り、その目は怒りに燃えた誇らしげな光に輝いていた。
《まずいじゃないか……》彼は思った。《もしあの男に戦う気があって、断固として自分の名誉を守ろうというのだったら、このおれもしかるべき行動をとって、自分の感情を表わすこともできるんだが。それにしても、あの臆病さ、あの卑劣さはどうだ……あの男はこのおれをペテン師にしたてようとしているのだ。おれはそんなやつになるのは昔からいやだったし、今もごめんだ》
ヴレーデの庭でアンナと話し合って以来、ヴロンスキーの考えはずいぶん変ってしまっていた。アンナが彼に身も心もまかせて、この先どんなことになろうと、あくまで彼に従う覚悟で、自分の運命をきめてくれとすがってきた、そのいじらしい気持を思うと、ヴロンスキーも、あのとき考えたように、もうふたりの関係がいつかは終りを告げるだろうなどとは、とうに考えなくなっていた。彼の野望に満ちた計画は再び陰に隠れて、彼は万事がきちんと規定されている活動圏の外へ出たことを感じながら、自分の感情に、一身をゆだねてしまった。すると、この感情は、ますます強く彼をアンナに結びつけるのであった。
まだ控室にいるうちに、彼は遠ざかって行く彼女の足音を聞きつけた。アンナは耳をすまして、彼の来るのを待っていたが、ついに、あきらめ、今客間へもどって行くところなのだと彼は悟った。
「もういやです!」彼の姿を見るや、アンナは叫び声をあげた。そう叫ぶとほとんど同時に、その目には涙があふれた。「いやです、こんなふうにつづいていったら、ずっとずっと早くあのことが起ってしまいますわ!」
「ねえ、どうしたんです?」
「どうした、ですって? お待ちしていたんですわ、苦しい思いをしながら、一時間、二時間と……。いえ、よしましょう!……あなたといい争ったりするなんていやですわ。きっと、来られないわけがあったんですのね。いいえ、もうよしましょう!」
アンナは両手を彼の肩にかけ、喜びに燃えた、と同時に、さぐるような、深いまなざしで、長いことじっと彼を見つめていた。アンナは彼と会わずにいたあいだに、彼の顔をあれこれ心に描いていたのである。アンナは、いつもあいびきのたびにするように、頭に思い描いていた彼の姿(それは、現実にはありえない、とても比べものにならないほどりっぱなものだった)を、現実の彼と一つに溶けあわせようと努めていた。
「ねえ、あの人にお会いになりまして?」ふたりがランプの下のテーブルのそばにすわったとき、アンナはたずねた。「それ、ごらんなさい、遅れていらした罰よ」
「ええ。でも、どうしたんです? あの人は会議に出ているはずだったのに?」
「一度出かけたんですけど、もどって来て、またどこかへ出かけて行ったんですわ。でも、そんなことかまいませんわ。もうその話はしないで。それより、あなたはどこにいらしたの? ずっとあの王子さまとごいっしょ?」
アンナはヴロンスキーの生活をすみずみまで知っていた。彼はゆうべはひと晩じゅう眠らなかったので、つい寝すごしてしまったのだといおうとしたが、相手の上気した、幸福そうな顔を見ると、とてもそんなことをいうのは気恥ずかしくなってきた。それで、王子の出発を報告に行かなければならなかったので、といった。
「でも、もうすっかりおすみになったんでしょう? 王子さまもお発ちになったんでしょう?」
「おかげさまで、やっとすみましたよ。あの役目がどんなにつらかったか、ちょっとご想像もつかないでしょうね」
「まあ、なぜですの? だって、それはあなた方のようにお若い殿方なら、だれでもいつもなさっている生活じゃありませんか」アンナは眉をひそめていった。そして、テーブルの上にあった編み物を取りあげて、ヴロンスキーのほうは見ずに、その中から編み棒を抜きだしにかかった。
「ぼくはとうの昔に、あんな生活とは縁を切りましたからね」彼はアンナの顔の表情の変化に驚いて、その意味を読みとろうと努めながら、いった。「それに、正直のところ」彼は微笑に口もとをほころばせて、きれいにそろった白い歯を見せながら、いった。「ぼくはこの一週間というもの、ああいう生活をながめているうちに、まるで鏡でものぞいているような気がしてきましてね、じつに不愉快でしたよ」
アンナは編み物を手にしていたが、編もうとはせず、なにかよそよそしい、きらきら光る、奇妙なまなざしで彼をじっと見つめていた。
「けさ、リーザが寄ってくれましたわ――あの人は、リジヤ伯爵夫人などかまわずに、今でもあたくしのところへ来てくれますのよ」アンナは言葉をはさんだ。「そうしてね、あなた方のご乱行のことを話して行きましたよ。ほんとにいやらしいわ!」
「ぼくも今ちょうどそのことをいおうとしていたところなんですが……」
アンナは彼をさえぎった。
「お相手は、昔なじみのテレーズだったんですって?」
「いや、ぼくがいおうと思ったのは……」
「男の方って、ほんとにいやらしいのね! 女にはそういうことが忘れられないってことが、どうしてあなた方には察しがつかないんでしょうね」アンナはますます激しい口調になっていったが、そうなることによって、自分がいらだっているわけをはっきりさせるのだった。「ことに、あなたの生活を知ることのできない女にとっては、なおさらのことですわ。あたくしがなにを知っているでしょう? なにを知っていたでしょう?」アンナはいった。「あなたのおっしゃることだけですわ。でも、あなたのおっしゃることがほんとうかどうか、あたくしにはわかりようもないんですものね……」
「アンナ! きみはぼくを侮辱しようというの。ぼくのことが信じられないのかい? 前にもいったじゃないか――ぼくの胸の中には、きみに打ち明けられないような考えはひとつもないって!」
「ええ、そうでしたわね」アンナはどうやら、嫉妬《しっと》の思いをはらいのけようと努めながらいった。「でもね、あたくしがどんなに苦しい思いをしているか、わかってくださったらねえ! あなたを信じますわ、ええ、信じますわ……それで、あなたはなにをおっしゃろうとしていらしたの?」
ところが、彼には、自分のいおうとしていたことが、すぐには思いだせなかった。彼は、最近ますますひんぱんにアンナをおそうようになったこの嫉妬の発作に戦慄《せんりつ》を覚え、嫉妬の原因が自分に対する愛だとわかっていても、彼女に対して冷《さ》めていく自分の気持を隠そうにも隠しおおせなかった。彼女の愛は幸福だ、と彼は幾度自分にいいきかせたことだろう。そして実際、アンナは、愛を人生のあらゆる幸福の上においている女だけが愛しうる仕方で彼を愛してくれているのだが、彼はアンナのあとを追ってモスクワを発ったときよりも、幸福からはるかに遠ざかっているのだった。あのとき、彼は自分を不幸だと感じたが、しかし、幸福は未来にあった。ところがいまや、最高の幸福はすでに過去のものになってしまったことを感じていた。アンナは、はじめて会ったときの彼女とはまるで別人のようになっていた。精神的にも、肉体的にも、悪くなっていた。からだ全体が横に広くなって、あの女優のことを話したときなど、意地の悪い表情が浮んで、その顔だちをゆがめていた。彼は、花の美しさにひかれて、ついそれを摘みとって台なしにしてしまった人が、いまやかつての美しさを見いだしかねて、しぼんでしまった花を茫然《ぼうぜん》とながめているような思いで、彼女をながめていた。それにもかかわらず、彼は、自分の愛情がもっと激しかったころでさえ、もし強《し》いてその気にさえなれば、自分の胸からその恋心をもぎり取ることもできたであろうが、彼女に愛を感じられないように思われる今、かえって、彼女との関係は断ち切ろうにも断ち切れなくなってしまっていることを感じていた。
「ねえ、それで王子さまのことで、どんなお話をなさろうとしたの? もう悪魔は追いはらってしまいましたわ、ほんとに、追いはらってしまいましたわ」アンナはつけ加えた。ふたりのあいだでは、嫉妬のことを悪魔と呼ぶことにしていたのである。「ほんとよ、それで、王子さまのどんなお話をなさりたかったの? なぜそんなにつらかったんですの?」
「ああ、じつに、やりきれなかった!」彼は、とぎれた思考の糸口をつかまえようと努めながら、いった。「あの王子は、親しく知れば知るほどいやなところが目についてくるといったタイプなんですよ。まあ、一口にいうと、品評会に出せば一等賞をもらえるような、それは見事に肥えふとった動物、いや、ただそれだけなんですね」彼はいまいましそうにいったが、その口ぶりがアンナの興味をひいたらしかった。
「まあ、それはまたどうしてですの?」アンナはききかえした。「なんといっても、あの方は、見聞も広く、教養もおありなんでしょう」
「いや、それがまったく別の教養なんですよ――ああいう連中の教養というのは。あの連中は、動物的な快楽以外はすべて軽蔑しているんですが、あの男も、どうやら、教養を軽蔑する権利をうるためにだけ、教養を身につけたらしいですね」
「でも、あなた方はみんな、その動物的な快楽とやらが、お好きなんじゃありませんか」アンナはいった。そのときまたもや、彼は自分の視線を避けようとする相手の暗いまなざしに気づいた。「なんだってそうあの男を弁護するんです?」彼は微笑しながら、いった。
「べつに弁護するわけじゃありませんけど。だって、あたしにはどっちだってかまわないことですもの。ただ、ご自身がそういう快楽をお好きでなかったら、お断わりになってもよかったんじゃないかしら。でも、あなたは、イヴの衣装をつけたテレーズを見るのがおもしろいので……」
「そら、また悪魔がでた!」ヴロンスキーはアンナがテーブルの上に置いた手をとって、それに接吻《せっぷん》しながらいった。
「ええ、でも、あたくし、いわずにはいられないんですの! あたくしがどんなにつらい思いをして、あなたのおいでをお待ち申しあげていたか、ご存じないんですもの! あたくし、自分じゃけっして嫉妬ぶかい女だとは思っていませんわ。嫉妬ぶかい女じゃありませんわ。あなたがこうしてここに、あたくしといっしょにいてくださると、あなたが信じられますの。でも、あなたがどこかひとりで、あたくしにはわからないご自分だけの生活をなさっていらっしゃると……」
アンナは彼から身を放して、やっと、編み物から編み棒を抜きだすと、人差指の助けをかりながら、器用な手つきで、ランプの光に輝いている白い毛糸の目をひと編みひと編みかがってゆき、刺繍《ししゅう》のある袖口《そでぐち》から出ているきゃしゃな手首を、すばやく、神経質に動かすのだった。
「それで、どうでしたの? どこで主人にお会いになりまして?」彼女の声はいきなり不自然に響いた。
「戸口のところでばったり」
「じゃ、あの人は、あなたにこんなおじぎをしまして?」
アンナはぐっと顔を突き出し、目を半ば閉じて、素早く顔の表情を変え、両手を組みあわせた。と、ヴロンスキーはその美しい顔の中に、思いがけなく、カレーニンが自分に会釈したときとまったく同じ顔の表情を読みとった。彼が微笑を浮べると、アンナはその魅力の一つとなっている、あの愛らしい、胸から出るような笑い声をたて、さもおもしろそうに笑いだした。
「ぼくにはあの人の気持がさっぱりわからないな」ヴロンスキーはいった。「別荘できみからぼくとの関係を打ち明けられたあと、あの人がきっぱりときみと別れるなり、ぼくに決闘を申し込むなりしたのなら、わかるんだけど……。しかし、どうしてもぼくにはわからないな、あの人はなんだってこんな状態に耐えていられるのか? そりゃ、あの人が苦しんでいるのは、わかるけれど」
「あの人が?」アンナはさげすむような笑いを浮べていった。「あの人はすっかり満足しているんですわ」
「なんだってぼくたちはみんな苦しんでいるんでしょう、丸くおさめようと思えば万事うまくいくはずなのに?」
「でも、あの人だけは別ですわ。まあ、あの人がすっかりうそで凝りかたまっているということを、あたくしが知らないとでもおっしゃるの?……いいえ、人間らしい気持が少しでもあったら、あの人が今あたくしとつづけているような生活なんか、とってもできるものではありませんわ。あの人にはなんにもわからないんです、なんにも感じないんです。多少ともまともな感情をもってる人だったら、自分を裏切った妻と、一つの家に住めるでしょうか? どうしてそういう妻と口がきけるでしょうか? そんな妻に向って、『おまえ』なんて親しい口がきけるでしょうか?」
そこでまたしても、アンナは思わず夫の口まねをして、『おまえ、ma ch俊e おまえ、アンナ!』といった。
「あれは男じゃありませんわ。人間じゃありませんわ、あれは人形ですよ、だれも知らなくっても、あたくしにはわかってます。ああ、もし、あたくしがあの人みたいな立場に立ったら、そんな女は、あたしのような女は、とっくに、殺していたでしょうに。八つ裂きにしたでしょうに。おまえ、ma ch俊e アンナ、なんていうもんですか。あれは人間じゃありませんわ。あれは長官の仕事をする機械ですわ。あの人には、あたしがあなたの妻だってことが、自分は赤の他人で、余計者だってことがわからないんですわ……もうよしましょう、よしましょう、こんな話は……」
「それはきみ、違うよ。まちがっているよ、アンナ」ヴロンスキーは相手の気持をしずめようとしていった。「でも、そんなことはもうどうだってかまわないさ。あの人の話はやめにしよう。それより、きみがなにをしていたか、それを話してください。え、どうしたの? 病気って、どんな病気なの? 医者はなんといってるの?」
アンナは皮肉な喜びの色を浮べて、彼をじっとながめていた。どうやら、彼女はまた夫の中にこっけいで醜悪な面をいくつか見つけて、それを口に出す機会を待っているらしかった。
しかし、ヴロンスキーは話をつづけた。
「ぼくの感じじゃ、これは病気じゃなくて、きみのからだのせいだと思うな。で、あれはいつになるの?」
と、皮肉な輝きは彼女の目から消えた。しかし、すぐ別の微笑が――なにか相手にはわからないものを自覚し、それと同時に、静かな悲しみを覚えて生れた微笑が、それにとって代った。
「じきよ。じきですわ。あなたは、こんな境遇はたまらない、なんとか結末をつけなくちゃ、っておっしゃいましたわね。でも、こんな境遇があたくしにとってどんなにつらいかってことは、おわかりにはなってないのよ!自由に、だれはばかることなくあなたを愛するためなら、あたくしはどんな犠牲だってはらいますわ。そうなれば、嫉妬で、自分を苦しめたり、あなたにまで苦しい思いをさせることなんかなくなりますわ……そうなるのも、もうじきでしょうけど……でも、あたくしたちが考えているふうにはなりませんわ」
そこで、それがどんなふうにやって来るかを考えると、アンナはわれながら自分が哀れになってきて、思わず涙が目にあふれて、話をつづけることができなかった。アンナは、ランプの光に輝く指輪をはめた白い手を、彼の袖《そで》の上においた。
「それは、あたくしたちが考えているふうにはいかないでしょうね。こんなことはお話ししたくなかったんですけど、あなたがいわせておしまいになったんですわ。もうじき、ほんとに、もうじき、なにもかもけりがついて、あたしたちはみんな落ち着いて、もうこれ以上苦しむことはなくなるんですわ」
「ぼくにはわからないな」ヴロンスキーはその意味がわかっているくせに、わざとそういった。
「さっき、おたずねになりましたわね、いつ、って? もうじきですわ。それに無事にすみっこありませんわ。いえ、どうか、すっかりいわせてちょうだい!」アンナは急いで言葉をつづけた。「あたくしにはそれがわかっているんです。ええ、ちゃんと、わかっているんですわ。あたくしは死ぬんですわ。でもあたくし、とってもうれしいんです、あたくしが死んだら、自分とあなたを救えるんですもの」
アンナの両の目からは涙があふれ落ちた。ヴロンスキーは自分の不安を隠そうと努めながら、アンナの手にかがみこんで、接吻しはじめた。この不安にはなんの根拠もなかった。彼はそれを自分でも承知しながら、それに打ち勝つことはできなかった。
「ええ、そうなるんですわ。でも、そのほうがいいんですわ」アンナは、激しい動作で彼の手を握りしめながら、いった。「それだけが、それだけが、あたくしたちに残されているたった一つの道なんですわ」
ヴロンスキーはわれに返って、頭を上げた。
「なんてばかげたことを! なんてつまらないたわ言をいうんです!」
「いいえ、これはほんとうのことですわ」
「なにが、なにがほんとうのことなんです?」
「あたくしが死ぬってこと。あたくし、夢を見ましたの」
「夢ですって?」ヴロンスキーは鸚《おう》鵡《む》返《がえ》しにいって、一瞬、自分が夢の中で見たあの百姓のことを思いだした。
「ええ、夢ですわ」アンナはいった。「その夢を見たのはもうずっと前のことですけど。こんな夢でしたの――あたくし、自分の部屋に駆けこんで行ったんですの、なにか取りに行くか、捜し物があって。ねえ、夢ではよくそんなことがありますでしょう」アンナは恐怖に目を大きく見ひらきながらいった。「そうしたら、寝室のすみっこに、なにかが立っているじゃありませんか」
「いや、ばかばかしい! なぜそんなことを信ずるんです?」
しかし、アンナは彼に口をはさませなかった。アンナが今話していることは彼女にとってあまりにも重大なことだったからである。
「すると、そのなにかがくるっとこちらを向いたんですの。見ると、それはひげぼうぼうの小がらな、恐ろしいお百姓なんですの。あたくし、逃げようとしたんですが、そのお百姓は袋の上にかがみこんで、両手でもってしきりになにかごそごそやっているんですの……」
アンナは、その百姓が袋の中をかきまわしているしぐさをして見せた。その顔には恐怖の色が浮んでいた。ヴロンスキーも自分の夢を思い浮べて、同じような恐怖が、心の中いっぱいにひろがっていくのを感じた。「そのお百姓はごそごそやりながら、それはそれは早口のフランス語で、それもね、Rの音をのどにひっかけるようにして、《Il faut le battre le fer, le broyer, le p師rir ……》ってしゃべるじゃありませんか。あたくしはもう恐ろしくて恐ろしくて、早く目をさましたいと思ったとたん、やっと目がさめましたの……でも、目がさめたのもやっぱり夢の中なんですの。それで、これはいったいどういうことなのかしら、って自分で自分にたずねましたの。すると、コルネイがあたしに、『お産で、お産でお亡《な》くなりになりますよ、奥さま、お産で……』っていうじゃありませんか。そこでやっと目がさめましたの……」
「そんなばかな。いや、まったくばかげてますよ!」ヴロンスキーはいった。しかし、自分でもその声に一片の説得力もないことを感じないわけにはいかなかった。
「でも、もうこんなお話はやめましょう。ベルを鳴らしてちょうだい、お茶を持ってこさせますから。あ、ちょっと待って。あたくし、今すぐに……」
といったまま、アンナは不意に言葉を切った。その顔つきは、一瞬のあいだに変化した。恐怖と興奮にかわって、とつぜん、静かな、きまじめな、さも幸福そうなはりつめた表情が表われた。ヴロンスキーにはその変化の意味が理解できなかった。アンナは自分の体内に、新しい生命の胎動をききつけたのであった。
カレーニンは、わが家の表階段でヴロンスキーに会ってから、予定どおり、イタリア歌劇へ出かけて行った。彼は二幕めがすむまでそこにいて、用事のあった人にも全部会った。家へもどると、注意ぶかく外套掛けに目をやり、軍人外套がないのをたしかめて、例によって自分の書斎へ通った。もっとも、いつもと違って、彼はすぐ床へつこうとはせず、夜中の三時まで、書斎の中を歩きまわっていた。自分の体面を保とうともせず、情夫をわが家へ呼びいれてはならぬという唯一の条件さえ履行しない妻に対する怒りで、彼は落ち着くことができなかった。妻は彼の要求を履行しなかったのだ。もうこうなったからには、妻を罰し、離婚を請求して、むすこを取りあげるという、かねての威《い》嚇《かく》を実行に移さねばならなかった。彼も、そうするためにはさまざまな困難があることを承知していたが、そうするといった以上、今の彼としては、その威嚇を実行しなければならなかった。リジヤ伯爵夫人は、それこそ現在の苦境を脱する最善の方法である、と幾度もほのめかしたし、また最近は、離婚が多く、その手続きもほとんど完全といっていいものになっていたので、カレーニンも形式上の困難を克服するのは、そうむずかしいことではないと見てとった。いや、そればかりか、不幸はひとりでやって来るものではないというたとえのとおり、異民族統治の問題でも、ザライスキー県の灌漑《かんがい》問題でも、勤務上ひじょうに不快な目にあっていたので、彼はこのところずっと、極度にいらだたしい気分になっていたのである。
彼はひと晩じゅう眠らなかったため、その憤激は急に増大していき、夜の明けるころには、その極限にまで達した。彼は急いで着替えをすますと、まるで憤激をいっぱいに満たした杯を手にして、それを少しでもこぼさないように気づかい、また同時に、その憤激とともに妻との話合いに必要なエネルギーを失うのを恐れながら、妻が起きたと聞くやいなや、すぐ妻の居間へはいって行った。
アンナは、日ごろ夫のことならなにもかも知りぬいていると思っていたが、自分の部屋にはいって来たときの彼の様子には、思わずぎょっとした。その額にはしわがより、その目は妻の視線を避けて、陰鬱《いんうつ》に自分の前方を見つめ、口はさげすむように堅く閉ざされていた。その歩きぶりにも、動作にも、声の響きにも、アンナがついぞ見たことのない決意を秘めた、毅《き》然《ぜん》とした態度が感じられた。彼は部屋に通ると、妻にあいさつもしないで、まっすぐに妻の文机《ふづくえ》に近づき、鍵《かぎ》をとって、引き出しをあけた。
「なにがお入り用ですの?」アンナは叫んだ。
「あなたの情夫の手紙です」彼はいった。
「そんなものはここにありませんわ」アンナは引き出しをしめながらいった。が、妻のその動作から、彼は自分の推察が正しかったことを悟った。そして、乱暴に妻の手をおしのけて、素早く折りかばんをつかんだ。その中には妻のいちばん大切な書類がしまってあるのを、彼は知っていたからである。アンナは、折りかばんを取り返そうとしたが、彼は相手をつきのけた。
「すわりなさい! あなたに話さなければならないことがあるのです」彼はいって、折りかばんを小わきにかかえたが、あまり強くそれを肘《ひじ》で締めつけたので、片方の肩がもちあがったほどであった。
アンナはびっくりして、無言のまま、おずおずと夫の顔を仰いだ。
「情夫は家へ呼び入れてはならんと、いっておいたはずですね」
「あの人に会わなければならない用事ができたので、それで……」
アンナはなんにも考えつくことができぬまま、そこで言葉を切った。
「女が情夫に会わねばならん必要など、詳しくきこうとは思いません」
「あたくしは、あたくしはただ……」アンナはかっとなっていった。夫の乱暴な態度が彼女をいらだたせ、かえって勇気を与えたのであった。「あたくしを侮辱することなんか、あなたにはなんでもないことだと思っていらっしゃるんでしょう」アンナはいった。
「相手が潔白な男や女なら侮辱することもできます。しかし、泥棒に向って、泥棒といってやるのは、ただ la constatation d'un fait にすぎんからね」
「まあ、あなたにそんな残酷な性格があろうとは、あたくしもまだ存じませんでしたわ」
「夫が妻に対してただ体面さえ守ればいいという条件で、妻の名誉を保護してやったうえ、自由まで与えているのを、あなたは残酷というんですね。これが残酷というものですかね?」
「それは残酷よりもっと悪いものですわ、お望みなら申しますが、それは卑劣というものですわ!」アンナは憤激を爆発させて、そう叫ぶと、立ちあがって、出て行こうとした。
「いかん!」彼は持ち前の金切り声を、ふだんよりもう一音だけ高くはりあげて叫ぶと、その大きな指で、腕輪の跡が赤く残るほど強く妻の手をつかんで、むりやりに、もとの席にすわらせた。「卑劣だと? いや、もしそんな言葉を使いたいなら、教えてあげるが、卑劣というのは、情夫のために夫やむすこを捨てながら、平気で夫のパンを食ってることをいうのですよ」
アンナは頭をたれた。その瞬間、彼女は前の晩情夫に向っていったあの言葉、あなた《・・・》こそあたしの夫で、あんな夫は余計者ですわ、という言葉を、口にしなかったばかりでなく、そんなことを考えつきもしなかった。アンナは、夫の言葉の正しさを身にしみて感じながら、やっと、低い声でこういった。
「いくらあたくしの境遇を、悪《あ》しざまにおっしゃっても、あたくしが自分で感じている以上には、悪くおっしゃれないでしょうね。でも、なんだってそんなことをおっしゃいますの?」
「なんだってそんなことをいうかだと? なんのためだと?」彼は相変らず憤激にもえて、つづけた。「世間体だけでも守ってくれという私の意志を、あなたが履行しない以上、こうした状態にけりをつけるために、私はしかるべき方法をとることにしたと、あなたに知ってもらうためです」
「そんなことをなさらなくっても、もうすぐ、けりがつきますのに」アンナは口走った。と、もう今ではかえって望ましいものとなった死の間近いことを考えて、またしても涙が目にあふれるのであった。
「いや、こちらのけりは、あなたが情夫とふたりで考えついたことより、もっと早くなるでしょう! あなた方に必要なのは、ただ動物的欲望の満足だけなんですから……」
「そりゃ、あたくしも、それが寛大でないなんて申しませんが、でも、あんまりごりっぱなことではありませんわね――倒れているものを打つなんて」
「なるほど、あなたは自分のことばかり考えていて、あなたの夫であった人間の苦しみなんかには興味がないんですね。その人間の、一生がめちゃめちゃになったって、その人間がどんなにくり《・・》……くり《・・》……、くり《・・》しんでも、平気なんでしょう」
カレーニンは、あまり早口でいったので、舌がもつれて、どうしても『苦しむ』という言葉が発音できず、やっとのことで『くり《・・》しむ』といったのである。アンナはおかしくなったが、それと同時に、こんな場合に、たとえそれがなんであろうと、おかしく思ったことを、恥ずかしく感じた。その瞬間、アンナははじめて相手の身になってものを感じ、相手の立場になって考えた。と、夫が気の毒になってきた。それにしても、彼女としてはなにをしゃべり、なにをすることができただろう? アンナはうなだれて、黙っていた。相手もしばらく黙っていたが、やがてあまりきいきい響かない、冷やかな声で、でまかせの、べつにたいして意味もない言葉にわざと力を入れながら、しゃべりだした。
「あなたに話しておくことがあって来たのです……」彼はいった。
アンナはちらと彼の顔を見た。《いいえ、あれはただあたしの思い違いだったんだわ》夫が『くり《・・》しむ』という言葉で、舌がもつれたときの表情を思いだしながら、彼女は心の中で考えた。《いいえ、こんなどんよりした目をして、自己満足に落ち着きはらっている人間に、なにを感ずることができるもんですか》
「あたくし、なにひとつ変えるわけにはまいりません」アンナはつぶやいた。
「私はあすモスクワへ発って、もうこの家へは帰って来ません。あなたは弁護士を通じて私の通告を受け取るようになるでしょう。私は離婚の手続きを弁護士に一任しますから。それから、私のむすこは姉のところへあずけます。これだけをいいに来たのです」カレーニンはむすこについていおうと思ったことを、やっと思い起しながら、こういった。
「あなたにはあたくしを苦しめるために、セリョージャが必要なんでしょう」アンナは上目づかいに夫を見ながら、いった。「あなたはあの子を愛してはいらっしゃいません……セリョージャは残して行ってください!」
「ああ、私はむすこに対する愛情さえなくしてしまった。それも、あれがあなたに対する嫌《けん》悪《お》の情と結びついているからです。しかし、やはり、私はあの子を連れて行きます。では失礼!」そういって、彼は出て行こうとした。が、今度はアンナがそれを引き止めた。
「ねえ、あなた、セリョージャは残していってくださいまし!」アンナはもう一度ささやくようにいった。「もうこのうえ、なにも申しあげることはありません。ただセリョージャは残していってください、あたくしのあれまで……もうじき、あたくし、お産をしますから。あの子は残していってくださいまし!」
カレーニンはかっとなって、妻の手を振りはらうと、黙って部屋を出て行った。
ペテルブルグの有名な弁護士の応接室は、カレーニンがはいって行ったとき、人でいっぱいだった。三人の婦人――老婆と若い婦人と商人の妻――と三人の紳士――指輪をはめたドイツ人の銀行家と、顎《あご》ひげをはやした商人と、首に十字章をかけた、いかにもおこったような顔つきの制服の官吏――は、どうやら、もうだいぶ前から、待たされているらしかった。ふたりの助手が、ペンをきしませながら、テーブルに向って書きものをしていた。カレーニンは日頃から文房具に趣味をもっていたが、そこにおいてあったものは、ずばぬけていいものだった。彼はすぐそれに気がつかずにはいられなかった。助手のひとりは、立ちあがりもしないで、目を細めながら、カレーニンのほうへおこったような顔を向けた。
「なにかご用ですか?」
「ご主人にお目にかかりたいのですが」
「主人は今忙しいんです」その助手は待っている人びとをペンでさしながら、きっぱりとした調子で答えると、また、書きものをつづけた。
「ちょっと時間をさいてもらうわけにはいきませんか?」カレーニンはいった。
「暇な時間がないんです。いつでも忙しいんですから。まあ、しばらくお待ちください」
「では、ひとつ、この名刺を渡してくださいませんか」カレーニンはもう人目をしのぶわけにはいかなくなったのを知って、もったいぶって、こういった。
助手は名刺を受け取ったが、どうやら、その内容には賛成しかねるという態度で、戸の中へはいって行った。
カレーニンは、原則として、裁判の公開制には賛成であったが、ロシアにおけるその適用という点になると、自分が高官であるという関係から、その細部の点に関しては若干同意しかねるところがあった。そして、勅令によって制定されたものを非難しうる程度には、彼もそれに対して不満をもらしていた。彼はこれまでずっと官吏生活を送ってきたので、たとえなにかに賛成できない場合でも、不賛成な気持は、なにごとにも誤りはありうるものであり、それは匡正《きょうせい》しうるものだという認識によって、和らげられるのであった。新しい裁判制度においては、弁護士のおかれている条件に不賛成だった。もっとも、彼は、これまで弁護士と交渉をもつことがなかったので、それもただ理論上のことだったのである。ところが今は、弁護士の応接室で受けた不快な印象のために、その不賛成な気持がさらに強まった。
「今おいでになります」助手はいった。そして実際、二分ばかりすると、戸口のところに、弁護士と相談していた背の高い、年配の法律家と、当の弁護士が現われた。
弁護士は突き出た額の下に、薄く長い眉《まゆ》をみせ、茶色っぽい顎ひげをはやした、小がらで、ずんぐりした、はげ頭の男だった。そのネクタイや時計の二重鎖をはじめとして、エナメルの短靴にいたるまで、まるで花婿のように、めかしこんでいた。その顔は小利口そうな、百姓面《づら》だったが、身なりばかりしゃれていて、しかも趣味が悪かった。
「どうぞ」弁護士はカレーニンのほうに向きなおって、いった。そして、顔をくもらせてカレーニンを先に通すと、戸をしめた。
「さあ、どうぞ」書類がいっぱい置いてある仕事机のそばの肘《ひじ》掛《か》けいすをさし、自分は議長席のようなところへ腰をおろして、短い指に白いうぶ毛のはえた小さな手をこすりながら、首を横にかしげた。ところが、そういう姿勢に落ち着いたとたん、テーブルの上を小さな蛾《が》が一匹飛びすぎた。と、弁護士は、思いがけない敏速さで、さっさと両手をひろげて、その蛾を捕えると、また前の姿勢にもどった。
「私の用件についてお話しする前に」カレーニンは、驚いて弁護士の動作を目で追ってから、話を切りだした。「ぜひお断わりしておかねばならんのは、これからお話しする要件は、かならず秘密にしていただきたいということです」
かすかな微笑が、弁護士の赤っぽい口ひげを動かした。
「依頼された事件の秘密が守れないようでしたら、弁護士ではいられませんよ。しかし、強《し》いてなにか保証でもお望みでしたら……」
カレーニンはその顔をちらと見て、その灰色の利口そうな目が笑いをふくみ、なにもかも心得ているらしいのに気がついた。
「私の名前はご存じでしょうな?」カレーニンは言葉をつづけた。
「存じあげております。お名前ばかりかその有益な」彼はまた蛾を捕えた。「ご活躍も存じあげております。すべてのロシア人と同様に」弁護士はちょっと頭を下げて答えた。
カレーニンは気力をふるいおこしながら、ほっと溜息《ためいき》をついた。しかし、もういったん決意をかためたからには、彼も臆せず、口ごもりもせず、ある言葉には力さえこめながら、例の金切り声でつづけた。
「じつは、不幸にして」カレーニンは切りだした。「私は裏切られた夫なのです。そこで、法律的に妻との関係を断ちたい、つまり、離婚したい、と思うのですが、ただその場合、むすこを母親のほうへやりたくないのです」
弁護士の灰色の目は、笑うまいと努めていたが、おさえきれぬ喜びに輝いていた。カレーニンもそこにひそんでいるものが、有利な注文を受けた人間の喜びばかりではないことを、見てとった。そこには勝ち誇ったような、歓喜の色が見えた。彼がかつて妻の目に認めたあの不吉な輝きを思わすような、一種の光輝があった。
「あなたは離婚されるために、私の助力をお望みなんですね?」
「ええ、そのとおりです。ただ、前もってお断わりしておきますが、私はあなたのお骨折りをむだにするようなことになるかもしれないのです。じつは、きょう伺いましたのは、あらかじめご相談したいと思いましたので。むろん、離婚は望んでおりますが、ただ、私には、それを遂行する形式が重大なんでして。もしその形式が私の考えに合わない場合には、法律に訴えることを断念するつもりです」
「いや、それはいつの場合でもそうしたものです」弁護士はいった。「それに、それはいつの場合でも、あなたのご一存にかかっていることなんですから」
弁護士はカレーニンの足もとへ目をふせたが、それは自分のおさえきれない喜びの色が依頼者の気持を悪くするかもしれないと感づいたからであった。彼はまたつい鼻の先を飛んでいる蛾を見つけて、片手を出そうとしたが、カレーニンの位置に敬意を表して、捕えるのをやめた。
「もっとも、この問題に関するわが国の法律は、だいたいのところ、承知しておるつもりですが」カレーニンはつづけた。「ただ、一般的に、この種の事件が実際に処理される形式を伺いたいのです」
「つまり、お望みというのは」弁護士はまんざらいやでもない様子で、依頼者の話の調子にあわせながら、目も上げないで答えた。「あなたのご希望を実現しうる方法を、ご説明すればよろしいのですな」
そして、カレーニンがうなずいたのを見て、彼は言葉をつづけた。ただときどき、赤いしみが点々と浮んでいるカレーニンの顔を、ちらと見るばかりであった。
「わが国の法律による離婚は」わが国の法律に対する軽い非難の調子を声に響かせながら、彼はいった。「ご承知のとおり、次の場合に限られておりまして……ちょっと、待ってくれ!」彼は戸口へ顔を出した助手にそういったが、それでも立ちあがって行き、二言《ふたこと》三《み》言《こと》話してから、また席にもどった。「つまり、次の場合というのは、夫婦に肉体的欠陥がある場合、それから五年間消息不明の場合」彼はうぶ毛のはえた短い指を折った。「それから姦通《かんつう》(この言葉を彼はさもうれしそうに発音した)。これをさらに細別すると次のとおりです(彼はそういいながら、その太い指を折りつづけたが、場合と細別をいっしょに分類することができないのは、明らかなことであった)。夫あるいは妻の肉体的欠陥、それから夫あるいは妻の姦通」そこで指は全部折りまげられてしまったので、今度はそれをのばしながら、話をつづけた。「これは理論的な観点ですが、しかし、わざわざおいでいただいたのは、実際には、どんなふうに適用されているか、それをお知りになりたいためと存じますから、私は判決例を参照して、こう申しあげねばなりません。つまりですな、離婚の場合はすべて次の点に限られるのでして。では、肉体的欠陥はございませんな? 同様に、消息不明ということもございませんな?」
カレーニンは同意するように、頭を下げた。
「で、つまり、次の点に限られます――夫婦いずれかの姦通と、双方の合意による罪証の提出、それから、そうした合意なしに、不本意に罪証の発覚する場合。お断わりしておきますが、最後の場合は、実際問題として、ほとんど例がありませんな」そういって、弁護士はちらとカレーニンの顔をのぞくと、口をつぐんだ。その様子はまるでピストルを売る商人があれこれとその武器の長所を並べたてて、買い手の選択を待ちうけるといった調子であった。しかし、カレーニンが黙っていたので、弁護士は先をつづけた。「もっともありふれていて、手っとり早く、かつ合理的なのは私の考えでは、双方合意による姦通証明の場合ですな。私も教養のない人と話しているのでしたら、こんなぶしつけないい方はしないのですが」弁護士はいった。「しかし、あなたにはおわかりいただけると思いますので」
ところが、カレーニンはひどく頭が混乱していたので、双方の合意による姦通の証明が合理的なことが、すぐにはのみこめなかったらしく、その不審を目の色に表わした。と、弁護士はすかさず説明を補足した。
「そうなってはだれもいっしょに暮せないということは――これはもう一つの事実ですな。もしふたりともその点に異議がなければ、細かい点や、形式などはどうでもいいのです。それと同時に、これがもっとも確実な方法でもあるのです」
カレーニンも今度ははっきりわかった。ところが、彼は宗教的な要求をもっていたので、それがこの方法の容認を妨げた。
「それはこの場合、問題外です」彼はいった。「そうなると、可能なのはただ一つの場合しかなくなるわけですな。つまり、私の手もとにある手紙で証明される、不本意な罪証の発覚という」
手紙という言葉が出たとき、弁護士は唇をぐっとひきしめて、同情するような、ばかにしたような、かぼそい声を出した。
「よろしゅうございますか」彼はいいだした。「この種の事件は、ご承知のとおり、宗務省で決定されるものです。ところが、坊さんや司祭長たちは、この種の事件となると、きわめて細かい点まで知りたがりましてね」彼は司祭長たちの趣味に対する同感を微笑に表わしていった。
「手紙というものは、もちろん、ある程度まで事実をたしかめることができます。しかし、証拠は直接の方法によって、つまり、証人から得られたものでなければならないのです。要するに、もしご信頼いただけるならば、どんな方法をとるかは、私に一任していただきたいのですが。結果を望むものは、手段をも容認するわけですから」
「そのことでしたら……」カレーニンは、とつぜん、まっ青になって、しゃべりだした。しかし、そのとき弁護士は立ちあがって、また戸口から顔を出して、話の腰を折った助手のほうへ立って行った。
「あの婦人にいってくれ、こちらでは安物の事件は扱いませんて!」彼はいって、カレーニンのほうへもどって来た。
席へもどりながら、彼はそっと目につかぬように、蛾をもう一匹つかまえた。《この分じゃ、おれの絹壁掛けも夏までには台なしになっちまうな!》彼は顔をしかめながら考えた。
「それで、あなたのおっしゃいますのは……」彼はいった。
「いや、私は自分の決定を手紙でお知らせすることにします」カレーニンは、立ちあがりながらいって、テーブルの端をおさえた。ちょっと無言のまま立っていたが、また話をつづけた。「では、あなたのお話から、私は離婚は可能だと結論していいわけですな。それから、あなたのほうの条件もついでにお知らせ願えると幸いです」
「私に全面的な行動の自由を許していただければ、なんだってできます」弁護士は相手の問いには答えず、そういった。「ご通知はいつごろいただけますでしょうな?」弁護士は戸口のほうへ近づいて行きながら、目とエナメル靴を光らせてきいた。
「一週間後に。では、この件についてご尽力いただけるかどうか、またその条件はどうかというあなたのご返事も、恐縮ですが、どうかお知らせ願います」
「承知いたしました」
弁護士は会釈して、依頼人を戸口から送りだした。そして、ひとりきりになると、自分の喜ばしい感情に身をまかせた。彼はすっかり、ごきげんになったので、つい、日頃の原則に反して、手数料を負けてくれという婦人の願いをきいてしまった。そして、この冬までにはシゴーニンのところのように、家具をビロードで張りかえようときめて、もう蛾をとることもやめてしまった。
カレーニンは八月十七日の委員会で、輝かしい勝利をおさめた。ところが、その勝利の結果が彼を裏切ってしまったのである。異民族の生活状態をあらゆる点から研究する新しい委員会は、カレーニンの督促によって、めざましい早さと意気ごみで編成され、現地へ派遣された。その三カ月後に、報告がもたらされた。異民族の生活状態は、歴史的、行政的、経済的、人種的、物質的、宗教的な方面から研究された。あらゆる問題に対して、りっぱに解答や報告が作成された。それらは一点の疑いをはさむ余地もなかった。なぜなら、それらはつねに誤謬《ごびゅう》におちいりやすい人間の思想の産物ではなくて、公務上の活動の所産だったからである。それらの解答はすべて、公の資料、つまり、郡長や教区管長の報告に基づいた、知事や大主教の報告であったし、郡長や教区管長の報告もまた、村役場や区教会の僧侶《そうりょ》の報告を基礎としたものであった。したがって、それらの解答は疑う余地のないものであった。たとえば、なぜときどき凶作が起るか、なぜ住民は自分たちの宗教に固執するか、といった、公共機関という便利なものがなくてはとても解決されない、いや、幾世紀かかっても解決されえない疑問までが、疑うべからざる明瞭《めいりょう》な解決をえられたのであった。しかも、そうした解決はすべてカレーニンの意見にとって有利であった。ところが、ストリョーモフはさきの会議で、痛いところをつかれたので、委員会の報告を受け取ると、カレーニンの思いもかけぬ術策をめぐらしたのである。ストリョーモフは他の数人の委員を抱きこんで、いきなり、カレーニンの味方に変じて、カレーニンによって提唱された政策の実行を、熱心に支持しただけでなく、さらに同じ趣旨の、極端な政策まで提唱した。これらの政策は、カレーニンの根本思想をゆがめるほど極端なものであったから、それが実施されたときはじめて、ストリョーモフの術策は表面に現われてきたのである。そのあまりに極端な政策は、とつぜん、その愚劣さを露呈したので、当局も、世論も、聡明《そうめい》な婦人たちも、新聞も、すべてがいっせいにこの政策そのものに対して、またその政策の生みの親であるカレーニンに対して、憤激を表明しながら、総攻撃を開始したのである。ストリョーモフは、自分はただ盲目的にカレーニンの政策に従ったばかりで、今ではこうした事態にわれながら驚きあきれている、といった顔をしながら、さっと身をひいてしまった。これはカレーニンにとって、ひじょうな打撃であった。しかも、カレーニンは健康も衰え、家庭的な悩みがあったにもかかわらず、なかなか屈服しなかった。委員会の内部に分裂が生じた。ストリョーモフを頭にいただく一部の委員たちは、自分たちの誤りを弁護するために、カレーニンの指導する調査委員会の提出した報告を信用したからだといって、あんな報告はまったくでたらめで、ただ書きつぶした紙きれにすぎないと主張した。公の書類に対するこのような革命的態度の危険を見てとった、カレーニンとその一党は、調査委員会の提出した資料を支持しつづけた。この結果、政界の上層部をはじめ、一般社会にいたるまで混乱が生じた。だれもがこの事件に異常な興味をいだいていたにもかかわらず、だれひとりとして、異民族ははたして破滅に瀕《ひん》するほど困窮しているのか、それとも、繁栄しているのか、理解することはできなかった。カレーニンの立場は、この一件と、一部には妻の不貞のために、侮辱的な目で見られるようになったので、ひどく不安定なものになってきた。そして、こうした立場に立ったカレーニンは、ある重大な決意をかためた。彼は事件を実地に調査したいから、自分自身を派遣してくれと申し出て、委員会の人びとを驚かしたのである。やがて、許可をえると、カレーニンは遠隔の諸県へ出かけて行った。
カレーニンの出発は、大いに世間を騒がした。ことに出発のまぎわに、目的地までの旅費として支給された駅馬十二頭の代金を、正式な書面をもって返納したので、うわさはますます大きくなった。
「あれはとってもきれいなやり方でしたわね」ベッチイは、この件について、ミャフキー公爵夫人にいった。「それにしても、今はどこにだって鉄道があるのは、周知の事実ですのに、なんだって駅馬の代金なんか支給するんでしょうね?」
ところが、ミャフキー公爵夫人はそれに賛意を示さなかった。トヴェルスコイ公爵の意見は、夫人の癇《かん》にさわったほどであった。
「そりゃ奥さまはそんなのんきなお話がおできになりますけど」夫人はいった。「だって、何百万か存じませんけど、たいした財産家でいらっしゃいますもの。でも、あたしなんか、主人が夏の視察旅行に出かけるのは、大歓迎でございますよ。主人のからだのためにもなりますし、第一、旅をするのは楽しみですし、こちらはまたそのお金を馬車の修理代や、御者の手当てにあてることに、ちゃんときめてあるんですもの」
遠隔の諸県へ向う途中、カレーニンは三日間、モスクワに滞在した。
着いた翌日、彼は総督を訪問しに出かけた。いつも自家用馬車や辻馬車が群がっている新聞横丁の四つ角《かど》で、カレーニンは、ふと、自分の名を呼んでいる愉快そうな甲高《かんだか》い声を耳にして、思わず、振り返らずにはいられなかった。と、歩道の角に、流行の短い外套《がいとう》を着て、流行の鍔《つば》の狭い帽子を横っちょにかぶったオブロンスキーが、赤い唇のあいだからまっ白い歯を見せて、笑いながら、陽気な、若々しい、元気いっぱいの姿で立ちはだかり、やけに強い調子で声をはりあげ、執拗《しつよう》に、馬車を止めようとしているのであった。彼は角に待たしてあった馬車の窓に、片手をかけていた。窓の中からはビロードの帽子をかぶった婦人の頭と、ふたりの子供の頭がのぞいていた。すると、彼はにこにこ笑いながら、片手で義弟をさし招くのであった。婦人も人のよさそうな微笑を浮べて、これまたカレーニンに手を振っていた。それはドリイと子供たちであった。
カレーニンは、モスクワではだれにも会いたくなかったが、だれよりも妻の兄には会いたくなかった。彼はちょっと帽子を持ちあげて、通りすぎようとした。しかし、オブロンスキーは御者に停車を命じ、雪を踏んで、カレーニンのほうへ駆けよって来た。
「やあ、知らせてくれないなんてけしからんじゃないか! もうずっと前から? きのうホテル『デュソー』へ行ったら、記名板に『カレーニン』と書いてあったが、まさかそれがきみだとは夢にも思わなかったよ!」オブロンスキーは、馬車の窓へ首を突っこみながら、いった。「そうと知っていたら、部屋へたずねて行ったのに。でも、会えてじつにうれしいよ!」彼は雪を落すために、足と足をぶっつけながら、いった。「知らせないとは、ほんとにけしからんよ!」彼は繰り返した。
「暇がなくってね。とにかく忙しいんでね」カレーニンはそっけない調子でいった。
「さあ、家内のところへ行こう。あれはとてもきみに会いたがっているんだよ」
カレーニンは、冷え性の足をくるんでいた膝掛けを取って、馬車から出て来ると、雪を踏んで、ドリイのところへ歩いて行った。
「まあ、どうしたんですの、カレーニンさん。なんだってそうあたしどもを避けていらっしゃいますの?」ドリイは微笑を浮べながら、いった。
「とても忙しかったものですから。でも、お目にかかれてうれしいですよ」彼はこうした出会いを、さもまずいといわんばかりの調子でいった。「お元気ですか?」
「それよりか、あたしの大好きなアンナはどうしていますの?」
カレーニンはなにかうめくようにいって、そのまま立ち去ろうとした。しかし、オブロンスキーはそれを引き止めた。
「それじゃ、あすはこういうことにしよう。ドリイ、この人を食事にお招きして、コズヌイシェフとペスツォフを呼ぼうじゃないか! この人にモスクワのインテリゲンチャをごちそうするんだ」
「では、どうぞ、いらしてくださいまし」ドリイはいった。「五時にお待ち申しあげておりますから。でも、ご都合によっては、六時でもけっこうでございます。ねえ、あたしの大好きなアンナはどうしておりまして? もうずいぶん長いこと……」
「達者ですよ」カレーニンは顔をしかめながら、うめくようにいった。「いや、じつに愉快でしたよ!」彼は自分の馬車のほうへ歩きだした。
「いらしてくださいますね?」ドリイは大きな声でいった。
カレーニンはなんとかいったようだったが、ドリイは馬車の響きに妨げられて、よく聞きとれなかった。
「あす、寄るからね!」オブロンスキーは相手に叫んだ。
カレーニンは馬車に乗ると、その中に深く腰をおろして、自分でも見えなければ、人にも見られないようにした。
「変った男だな!」オブロンスキーは妻にいった。それから時計を見ると、顔の前で、妻と子供たちに愛情を示すしぐさを片手でやって、さっそうと歩道を歩きだした。
「スチーヴァ! スチーヴァ!」ドリイは顔を赤くして叫んだ。
彼は振り返った。
「ねえ、あたし、グリーシャとターニャに、外套を買ってやらなくちゃなりませんの。お金をくださいな」
「なに、かまやしないよ、勘定は私がするといっときなさい!」そういうと、彼はおりから通りかかった知人のほうへ頭を振って、そのまま見えなくなってしまった。
翌日は日曜日だった。オブロンスキーは劇場のバレエの稽《けい》古《こ》に立ち寄り、新しく彼の世話で入座したマーシャ・チビーソヴァというかわいい踊り子に、前の晩約束した珊瑚《さんご》珠《じゅ》を渡した。そして、劇場の昼の暗さにまぎれて、楽屋で、そのかわいらしい顔に接吻《せっぷん》した。この珊瑚珠の贈り物のほか、彼にはバレエがはねたあと、この踊り子と会う約束をする必要があったのである。彼は開幕には間にあわぬわけを説明し、最後の幕までにはきっと来て、あとで食事に連れて行ってあげようと約束した。オブロンスキーは劇場からまっすぐに、オホートヌイ街へ立ち寄って、みずから晩餐《ばんさん》用の魚とアスパラガスを選び、十二時にはもうホテル・デュソーへ着いた。そこで彼は、幸いにも同じホテルに泊っていた、三人の知人をたずねることにしていたのである。ひとりは、最近外国の旅から帰って、ここに滞在しているリョーヴィン、もうひとりは今度栄転して、モスクワへ視察にやって来た彼の属する局の新長官、もうひとりはどうしても晩餐に連れて来なければならない、義弟のカレーニンであった。
オブロンスキーは宴会が好きであったが、とりわけ自宅で宴会を催すのは大好きであった。それも、そうおおげさなものではなくても、料理にしても、飲み物にしても、客の選び方にしても、よく吟味するのが好きであった。今夜のプログラムは、自分でも大いに気に入っていた。つまり生きた鱸《すずき》、アスパラガス、それから la pi縦e de r市istance としては、すばらしい味だが、さっぱりしたローストビーフと、それにふさわしい数々の酒。これらは料理と飲み物の話であるが、客としては、キチイとリョーヴィンが来るのだが、ただその組み合せを目だたないようにするために、従妹《いとこ》と若いシチェルバツキーを呼んであった。さらに、客の la pi縦e de r市istance としては、コズヌイシェフとカレーニンというわけである。コズヌイシェフはモスクワっ子の哲学者、カレーニンはペテルブルグっ子の実務家である。このほかもうひとり、有名な変り者で、感激家で、自由主義者で、おしゃべりで、音楽家で、歴史家である、このうえもなく愛すべき五十歳の青年、ペスツォフを呼んであった。これは、コズヌイシェフとカレーニンのためにソースともなり、つま《・・》ともなるべき人物であった。この男なら、きっと、ふたりをけしかけて、うまくかみあわせてくれるにちがいなかった。
森の代金の二回めの払いは、例の商人から受け取って、まだそっくり残っていたし、ドリイは近ごろとても優しく、愛《あい》想《そ》がよかったので、こうした宴会の企ては、あらゆる点からみて、オブロンスキーを喜ばせた。彼はこのうえもなく上きげんであった。もっとも、いささかおもしろくない事情が二つあったけれども、それは二つとも、オブロンスキーの胸で、人のいい、ごきげんの海の中に沈んでしまっていた。この二つの事情というのは、こうであった。第一は、きのうカレーニンに往来で会ったとき、相手が自分に対していかにもそっけなく、つんとしていたのに気づいたことである。カレーニンの顔に表われたこの表情と、モスクワへ来ていながらたずねて来るどころか、知らせてもよこさなかったことを、かねてアンナとヴロンスキーについて耳にはさんだうわさと思いあわせて、オブロンスキーは、あの夫婦のあいだがなにかうまくいってないことを、察したのであった。
これが第一の不快事であった。もう一ついささかおもしろくないのは新しい長官が、すべての新任長官の例にもれず、朝は六時に起きて馬車馬のごとく働き、部下にもそれと同じ働きを要求するという、恐ろしい人間だとの評判をはやくもたてられたことである。この新長官は熊のように粗野な態度で人に接し、うわさによれば、前長官が属していたばかりでなく、今日までオブロンスキー自身も属している傾向とはまったく反対の人だということであった。きのうオブロンスキーは制服を着て出勤したところ、新長官はひじょうに愛想がよく、まるで旧知のごとく、オブロンスキーと話しこんだ。そこで、オブロンスキーはきょうはフロック姿で彼を訪問することを、自分の義務と心得たのであった。新長官は、ひょっとして、自分をあまり歓迎しないかもしれぬという思いが、第二の不快な事情であった。もっとも、オブロンスキーは本能的に、なにもかも丸くおさまる《・・・・・・》だろうと直感した。《だれだってみんな、われわれと同じように、罪の深い人間なんだ。なんでおこったり、けんかしたりするわけがあろう》彼はホテルへはいりながら、考えた。
「やあ、ワシーリイ」彼は帽子を横っちょにかぶって、廊下を通りながら、顔なじみのボーイに声をかけた。「頬《ほお》ひげをはやしたな?リョーヴィンは――七号室だったね、え? ひとつ、案内してくれ、それから、アニーチキン伯爵が(これが新長官だった)会ってくれるかどうか、うかがってみてくれ」
「かしこまりました!」ワシーリイはにこにこしながら答えた。「ずいぶん長いことこちらへお見えになりませんでしたね」
「きのうも来たよ。ただ別の口からはいったからね。ここが七号室かい?」
リョーヴィンがトヴェーリの百姓を相手に、部屋のまん中に立って、まだなまなましい熊の毛皮をものさしで計っているところへ、オブロンスキーははいって行った。
「ほう、射とめたのかい?」オブロンスキーは叫んだ。「すばらしいものだなあ! 雌かい? やあ、アルヒープ!」
彼は百姓の手を握ると、外套も帽子もとらずに、そのまま腰をおろした。
「まあ、帽子でもとって、ゆっくりしろよ!」リョーヴィンは相手の頭から帽子をとってやりながら、いった。
「いや、そんな暇はないんだ。ほんの一分間だけ寄ったんだから」オブロンスキーは答えた。彼は外套の前をぱっとひろげたが、やがてそれも脱いでしまって、リョーヴィンを相手に、猟のことや、親密な打ち明け話をしながら、まる一時間もすわりこんでしまった。
「まあ、ひとつ、聞かせてくれよ。きみは外国でなにをしてたんだい? どこに行ったの?」オブロンスキーは百姓が出て行くと、そうたずねた。
「いや、ぼくはドイツにも、プロシャにも、フランスにも、イギリスにも行ったよ。でもその首都にいたんじゃなくて、工業都市にいたんだ。ずいぶん新しいものを見て来たよ。行ってよかったと思っている」
「なるほど、きみが労働者の組織問題を考えてるってことは知ってるよ」
「いや、それはまるで見当違いだよ。ロシアにはまだ労働者の問題なんかありえないよ。ロシアにあるのは土地と百姓たちとの関係という問題さ。そりゃ、この問題は向うにもあるさ。ただ向うじゃ、ただこわれたものをつくろうぐらいのところだが、こちらじゃ……」
オブロンスキーは注意ぶかく、リョーヴィンの話を聞いていた。
「うん、なるほど!」彼はいった。「きみの説はたしかにほんとかもしれないね」彼はつづけた。「いや、きみが元気でぼくもうれしいよ。熊狩りをしたり、仕事をしたり、なんにでも熱中できるんだから。じつは、シチェルバツキーの話だと――やっこさん、きみに会ったんだろう――きみはえらくしょげていて、死ぬってことばかりいってたそうじゃないか……」
「それがどうだっていうんだい? 今でも、ずっと死について考えているよ」リョーヴィンはいった。「もうそろそろ死ぬ時分だってのはほんとのことだよ。いや、こんなことはみんなくだらんことだよ。ほんとのことをいえば、ぼくは自分の思想も仕事も高く評価しているけれど、実際、考えてみると、このおれたちの世界なんて、ちっぽけな遊星の上にはえた小さなかび《・・》じゃないか。それなのに、おれたちは、この上になにか偉大なものが、偉大な思想とか事業とかが、生れるような気がしているんだからね? そんなものはみんな砂粒みたいなもんさ」
「なに、そんな考えは、この世界同様、古い言いぐさだよ!」
「古くさいかもしれんよ。でも、いったんそうはっきり理解すると、いっさいのものがなにかつまらなくなるんだね。きょうあすにも死んじまって、なんにも残らないと思うと、なにもかもつまらなくなってくるのさ。そりゃ、ぼくだって、自分の思想は大いに重大なものと思っているけれど、たとえそれが実現されたところで、この雌熊を射とめるのと同様、つまらなくなってしまうんだよ。けっきょく、人はただ死ということを考えたくないばかりに、猟や仕事で気をまぎらしながら、この一生を送っているわけなんだね」
オブロンスキーはリョーヴィンの話を聞きながら、かすかに優しい微笑を浮べていた。
「そりゃ、もちろんさ! でも、きみはこの前ぼくのところへやって来て、なんていった? え、覚えてるだろう、ぼくがこの人生にあまり快楽ばかり求めてるといって、攻撃したじゃないか! いや、『モラリストのきみよ、そうかたくなりたもうな』だよ」
「いや、そりゃ、やっぱり、この人生にもいいことはあるさ……」リョーヴィンは口ごもった。「ぼくにもわからないがね。ただわかっているのは、人間なんてもうじき死んでしまうってことさ」
「なぜもうじきなんだい?」
「しかしね、死ということを考えると、人生の魅力は減るかもしれないけれど、そのかわり、気持はずっと落ち着いてくるね」
「そりゃ、反対だよ。いや、終りに近づくほど、よけいに楽しくなるものさ。ところで、ぼくはそろそろ、行かなくちゃ」オブロンスキーは十度めにやっと腰を上げながら、いった。
「まあ、いいじゃないか。もうちょっと、話して行けよ!」リョーヴィンは相手を引き止めながらいった。「じゃ、今度はいつ会えるね? ぼくはあす発《た》つんだが」
「おれもやきがまわったな! やって来た用事を忘れるなんて……今晩はぜひ家へ食事に来てくれ。きみの兄貴も来るし、ぼくの義弟のカレーニンも来るんだ」
「へえ、あの人がここにいるのかい?」リョーヴィンはいって、キチイのことをききたいと思った。彼は、キチイが冬の初めにペテルブルグへ行って、外交官夫人になっている姉のところに滞在していると聞いたが、もうもどって来たのかどうかは知らなかった。しかし、思いなおして、きくのをやめた。《来ようと来まいと同じことじゃないか》
「じゃ、来てくれるね?」
「ああ、もちろんさ」
「じゃ、五時に、フロックでね」
そういってオブロンスキーは立ちあがると、階下の新長官のところへおもむいた。オブロンスキーの直感はまちがっていなかった。恐ろしいという評判の新長官は、会ってみると、きわめて温厚な人で、オブロンスキーは彼といっしょに、昼食をとり、つい長居をしてしまって、カレーニンのところへ行ったときには、もう三時をまわっていた。
カレーニンは祈《き》祷《とう》式《しき》からもどって来ると、午前中ずっとホテルで過した。その朝、彼には二つの用件があった。第一は、目下モスクワに滞在中で、これからペテルブルグへ発つ異民族の代表団に会い、適切な指導を行うことであり、第二は、例の弁護士あてに約束の手紙を書くことであった。代表団のほうは、カレーニンが音《おん》頭《ど》をとって呼んだのではあるが、いろんな困難や危険の恐れさえあったので、カレーニンはモスクワで彼らに会えたことを、とても喜んだ。代表団の人びとは、自分の役割や任務について、まるっきり理解をもっていなかった。彼らは自分たちの仕事は、ただ窮状を訴え、実情を述べて、政府の援助を請願することであると単純に信じきっており、ある種の陳述や要求は、かえって敵側を利することを、まるっきり理解していなかった。彼は長いこと代表団の人たちのために時間をつぶし、この枠《わく》からはみ出てはいけないと、一定の行動プランをこしらえてやり、彼らを帰してから、代表団の指導を依頼する手紙を、ペテルブルグへ書いた。この件については、リジヤ伯爵夫人が主として力をかしてくれることになっていた。夫人は代表団のことに関してはひとかどの専門家で、夫人ほど代表団のために気をくばって、適切な方向へ指導できるものは、ほかにいなかった。この件を片づけると、カレーニンは弁護士あての手紙をも認《したた》めた。彼は少しもためらうことなく、相手に、独断で行動してよいという許可を与えた。その手紙の中に、彼は例のむりやりに取りあげた折りかばんの中にあった、ヴロンスキーがアンナにあてた三通の手紙を同封した。
カレーニンがもう二度と帰らぬ決心で、家を出てから、弁護士を訪問して、たとえ彼ひとりだけでも自分の意図を打ち明け、そうした人生上の問題を、書類上の事件にすりかえて以来、彼はしだいに自分の意向に慣れてゆき、もう今では、その実行の可能性を、はっきりと認めるようになっていた。
彼が弁護士あての手紙に、封をしていたとき、オブロンスキーの声高《こわだか》な話し声が耳にはいった。オブロンスキーは、カレーニンの召使といい争って、すぐ主人に取次げといい張っていた。
《どっちみち同じことさ》カレーニンは考えた。《いや、かえって好都合なくらいだ。今すぐ、あの男の妹に対するおれの立場を打ち明け、おれがあの男の家で食事をするわけにはいかない理由を、説明してやろう》
「お通ししろ!」彼は書類を集めて紙ばさみにしまいながら、大きな声でいった。
「それみろ、きさまはうそをついたな。ちゃんとおいでになるじゃないか!」通してくれなかった召使に向って、オブロンスキーのそう答える声が聞えた。やがて当のオブロンスキーが、外套を脱ぎながら、部屋の中へはいって来た。「やあ、きみに会えて、じつにうれしいよ。じゃ、待ってるからね……」オブロンスキーは愉快そうにしゃべりだした。
「私は伺うわけにはまいりません」カレーニンは立ったまま、客をすわらせもしないで、冷やかにいった。
カレーニンは、離婚の訴訟を起そうとしている妻の兄に対して、当然とるべき態度を、今すぐにでもとれるものと考えていた。ところが、彼もオブロンスキーの心の中からあふれ出る、海のような善意だけは、計算に入れていなかったのである。
オブロンスキーは、その輝かしい明るい目を、大きく見ひらいた。
「なぜ来られないんだい? それはどういう意味だね?」彼はけげんそうにフランス語でいった。「いや、もう、いったん約束したことじゃないか。みんなはきみのことを心待ちしてるんだからね」
「お宅へ伺えないわけは、これまで私たちのあいだにあった親戚《しんせき》関係が、近く断たれなければならないので、それで行くわけにいかないのです」
「えっ? そりゃまたどうして? なぜだい?」オブロンスキーは、微笑しながらたずねた。
「なぜなら、私はあなたの妹さんと、つまり、私の妻と、離婚の訴訟を起そうとしているからです。私としてはやむをえず……」
ところが、カレーニンが話し終えぬうちに、もうオブロンスキーは、彼にとってまったく予想外の態度に出た。オブロンスキーは「あっ」と叫んで、肘掛けいすに腰をおろしてしまったからである。
「いや、きみはなにをいってるんだ!」オブロンスキーは叫んで、その顔に苦痛の色が表われた。
「これは事実です」
「失礼だが、とてもそんなこと信ずることはできない、できないよ……」
カレーニンは腰をおろしたが、心の中では自分の言葉が予期していた効果を奏さなかったからには、なんとしても、くわしい説明をしなければならぬが、どんなに説明したところで、この妻の兄と自分との関係は依然として変らないだろう、と感じていた。
「いや、とにかく、私は離婚を要求しなければならない苦しい立場に追いこまれたのです」彼はいった。
「それじゃ、ぼくにもひと言だけいわせてくれ。そりゃ、きみがりっぱな、公明正大な人物だってことは知ってるが、ぼくはアンナのことも知っているからね。いや、失礼だが、今でも妹についての自分の意見を変えるわけにはいかないね。あれはとても美しい、りっぱな婦人だよ。だからぼくにはとてもそんなことを信じるわけにはいかないね」
「そう、ほんとにこれが単なる誤解だったら」
「失敬、いや、きみの気持もわかるよ」オブロンスキーはさえぎった。「しかし、これはいうまでもないことだけど……ただひと言いっとくと、けっしてあわてちゃいけない。絶対に、あわててはいけない!」
「私はあわてませんでしたよ」カレーニンは冷やかにいった。「でも、こうした問題では、だれとも相談できませんからな、私はかたく決心したんです」
「いや、こりゃ、たいへんなことだ!」オブロンスキーは、重苦しく溜息《ためいき》をついていった。「ひとつだけ、ぼくにやらせてくれよ、カレーニン君。頼むから、それをやってくれたまえ!」彼はいった。「ぼくの見たところ、手続きはまだはじめられてはいないようだね。ねえ、手続きをはじめる前に、うちの女房と会って、話をしてくれたまえ。あれはアンナを妹のように愛しているし、きみのことも愛しているんだ。とにかく、驚くべき女なんだ。後生だから、あれと話をしてみてくれたまえ! それくらいの友情は示してくれてもいいじゃないか、こうやって頼んでいるんだから!」
カレーニンはじっと考えこんだ。オブロンスキーもその沈黙を妨げずに、同情の目で相手を見つめていた。
「うちへ来てくれるね?」
「さあ、どうしたものかな。そういうわけだから、お宅へも寄らなかったのさ。われわれの関係も当然変るべきものだと思うけれどね」
「それはまたなぜだい? ぼくはそう思わないね。いや、ぼくとしては、失礼だが、こう思っているよ。われわれの親戚関係を別にしても、ぼくがいつもきみに対していだいている友情と、……心からの尊敬の、せめて何分の一かでもきみがぼくに対してもっていてくれたら、とね」オブロンスキーは、相手の手を握りしめながらいった。「たとえきみの最悪な想像が、万一、ほんとだった場合にも、ぼくはきみたちのどちらがいいとか、悪いとかそんな批判はしないつもりだし、将来ともしやしないよ。だから、ぼくとしては、われわれの関係を一変しなくちゃならない理由なんて認められないね。しかし、それはともかく、今は、この一つだけ頼むよ。うちの女房のところへ来てくれたまえ」
「いや、この問題については、われわれの見方が違うんですよ」カレーニンは、冷やかにいった。「しかし、もうこの話はしないことにしましょう」
「いや、それにしても、なぜうちへ来られないんだね? 今晩、飯を食べるだけでも? 女房は待ちこがれていたよ。どうか、来てくれたまえ。とにかく、あれと話し合ってもらいたいんだ。あれは驚くべき女なんだから。後生だから、膝《ひざ》をついて頼むよ!」
「それほどまでいわれるなら、行きましょう」カレーニンは、ほっと溜息をついて、いった。
そして話題を変えるために、彼はふたりに興味のある問題について、質問をはじめた。それはまだそう年配でもないのに、とつぜん、あのような高い地位に任命された、オブロンスキーの新しい長官のことであった。
カレーニンは以前からアニーチキン伯爵がきらいだったし、いつも意見を異にしていたので、いまや、勤務に失敗した人間が、出世した同僚に対していだく、勤め人なら容易に理解できる、あの憎悪の念を、禁ずることができないのであった。
「それで、どうしたね、もうあの男に会ったのかね?」カレーニンは、毒を含んだ微笑を浮べながら、きいた。
「もちろんさ。きのう役所へやって来たからね。でも、あの人は、どうやら、仕事もよくわかってる、なかなかの活動家らしいね」
「そうだろうね。それにしても、その活動は、どういう傾向のものかね?」カレーニンはいった。「ほんとに仕事をするためか、それとも、人のやったことをやりなおすためかね?わが国の不幸は、書類上の行政ということだが、あの男はその方面でのりっぱな代表者だからね」
「じつのところ、ぼくには、あの人のどこを非難すべきか、よくわからないね。そりゃ、あの人がどんな傾向の人物かは知らないけれど、ただ一つわかってるのは――あの人がなかなか話せる男だってことさ」オブロンスキーはいった。「今、あの人のとこへ寄って来たんだが、いや、まったく話せる人でね。いっしょに昼飯を食ってね、きみはあの飲み物を知ってるかい? オレンジ入りのぶどう酒を? いや、あいつを伝授して来たところなんだ。なにしろ、あれはじつにさっぱりした飲み物だからね。ところが、驚いたことに、あの人はそれを知らないんだからね。いや、ほんとに、あの人は話せるよ」
オブロンスキーはちらと時計を見た。
「や、これはいかん、もう四時をまわってる。これからまだドルゴヴーシンのところへ寄らなくちゃならないんだよ! じゃ、まちがいなく、食事にやって来てくれよ。もし来なかったら、ぼくも女房もどんなにがっかりするか、きみにはちょっと、想像もつかないだろうよ」
カレーニンは義兄を送りだしたが、その態度は迎えたときと、すっかり変っていた。
「約束したからには、きっと行くよ」彼は力のない声で答えた。
「いや、まったく、恩に着るよ。きみだって後悔しないだろうと思うがね」オブロンスキーは、にこにこしながらいった。
それから、彼は歩きながら外套を着ようとして、片手がボーイの頭にさわると、笑い声をたてて、出て行った。
「五時に、フロックでね。頼んだよ!」彼は戸口まで引き返して、もう一度こう叫んだ。
もう五時をまわっていたので、当の本人が帰宅したときには、すでに二、三人の客が来ていた。彼は車寄せのところで落ち合ったコズヌイシェフとペスツォフといっしょにはいって来た。このふたりは、オブロンスキーの言葉によれば、モスクワ知識人の主要な代表者であった。ふたりとも、その性格からいっても、頭脳からいっても、尊敬に値する人物であった。もっとも、ふたりは互いに尊敬しあってはいたものの、ほとんどあらゆる点で、まったくどうにもならぬほど、意見を異にしていた。それは、ふたりが互いに相反する党派に属していたからではなく、かえって、同じ陣営に属していながら、(敵はふたりを一つに混同していた)その陣営の中にあって、それぞれ自分のニュアンスをもっていたからである。しかも、この、半ば抽象的な問題に関する意見の相違ほど、一致させにくいものはないので、ふたりはいまだかつて、意見の一致を見たことがないばかりか、もうずっと前から、互いに相手の手もつけられぬ頑迷《がんめい》さを、腹も立てないで、笑いとばす習慣になっていた。
ふたりが天気の話をしながら、戸口へはいろうとしたときに、オブロンスキーは彼らに追い着いた。客間にはもう、ドリイの父親たるシチェルバツキー老公爵、若いシチェルバツキー、トゥロフツィン、キチイ、それにカレーニンが席についていた。
オブロンスキーはすぐに、自分がいないために、客間の空気がなんとなく気づまりなのを、見てとった。ドリイは、ねずみ色の絹の晴着を着ていたが、子供部屋で別に食事をさせなければならぬ子供たちのことや、夫がいつまでも帰って来ないことに、気をもんでいたらしく、夫の助けなしには、この一座の空気を和《なご》やかにすることができないでいた。来客たちは、まるでお客に呼ばれた坊さんの娘のように(これは老公爵の言いぐさであった)、なぜこんなところへやって来たのかしらという顔つきをしながら、ただ黙っているわけにもいかないので、なにかしら言葉をひねりだしていた。好人物のトゥロフツィンは、明らかに、とんでもない場違いの世界へ舞いこんだものだと感じているらしく、オブロンスキーを迎えたとき、厚い唇に浮べた微笑は、まるで『やあ、きみ、えらい人たちのあいだにすわらしたもんだなあ! これが Ch液eau des fleurs で一杯やるのなら、おれも調子が出るんだが』と、言葉でいっているみたいであった。老公爵は無言のまま、ぎらぎら光る小さな目で、カレーニンをわきからながめていた。そこでオブロンスキーは、老公爵がはやくも、このまるでッ魚《ちょうざめ》かなんかのように客たちのごちそうにされている天下の名士を、形容するにふさわしい言葉を思いついたらしいのを、見てとった。キチイは、リョーヴィンがはいって来ても、顔を赤らめないように、緊張した面持ちで戸口のほうをながめていた。だれもカレーニンに紹介してくれなかった若いシチェルバツキーは、そんなことは少しも気にしていないというそぶりを、見せようと努めていた。当のカレーニンは、婦人同席の晩餐《ばんさん》におけるペテルブルグの習慣どおり、燕《えん》尾《び》服《ふく》に白ネクタイを締めていた。オブロンスキーはその顔つきを見て、彼はただ約束を守るために来たのであって、こういう席にいるのはつらい義務を果しているのだと悟った。彼こそは、オブロンスキーが帰って来るまで、来客一同の気持を冷やかなものにしていた張本人なのであった。
客間へはいると、オブロンスキーはまず平あやまりにあやまってから、ある公爵に引き止められていたのでと弁解した。もっとも、その公爵というのは彼が遅刻したり、不参したりするとき、いつもだし《・・》に使われる身代りの山羊《やぎ》なのであった。つづいて、彼はあっという間に、一同を紹介して、カレーニンとコズヌイシェフを組み合せて、ポーランドのロシア化という話題をあてがうと、ふたりはさっそく、ペスツォフともども、それにとびついていった。さらに彼は、トゥロフツィンの肩をたたいて、なにかこっけいなことをささやいてから、妻と公爵のそばへすわらせた。それから、キチイに向って、きょうは特別きれいだねといって、若いシチェルバツキーをカレーニンに紹介した。実際、彼は、またたく間に、一座の人びとの気持をほぐしたので、客間はどこへ出しても恥ずかしくないものになり、人びとの声も生きいきと響きはじめた。ただひとり、リョーヴィンだけが見えなかった。もっとも、それはかえって幸いであった。というのは、オブロンスキーが食堂へ出てみると、驚いたことに、ポートワインとシェリー酒はレヴェーの店のものでなく、デプレの店のものであった。そこで、彼は一刻も早く、御者をレヴェーの店へやるように手配して、また客間へ引き返した。
と、食堂でリョーヴィンにばったり出会った。
「遅れたかい?」
「きみが遅れないってことがあるかよ」オブロンスキーは、彼の腕をとっていった。
「大勢来ているのかい? だれとだれ?」リョーヴィンは手袋と帽子の雪をはらいながら、思わず、顔を赤らめて、きいた。
「なに、みんな内輪の人ばかりさ。キチイも来ているよ。さあ行こう、カレーニンに紹介するから」
オブロンスキーは、自由主義的な傾向にもかかわらず、カレーニンと近づきになるのは、だれにとってもうれしいはずだと思っていたので、親しい友人たちにはいつもそれをごちそうと心得ていた。ところが、この瞬間のリョーヴィンは、そうした知己の喜びを感じる余裕はなかった。もしあの街道で見かけたときのことを計算に入れなければ、彼はヴロンスキーに会った、あの記憶すべき夜会以来、キチイには一度も会っていないのであった。彼は心の奥底では、ひそかにきょうここで会えるだろうと感じていたものの、自分はそんなことは知らないのだと、むりに自分にいいきかせていた。ところが今、キチイがここにいると聞くと、リョーヴィンはとつぜん、なんともいえぬ喜びと、それと同時に、同じくらいの恐怖を感じ、思わず息がつまって、いおうと思うことも口から出ないのであった。
《あの人はどんなだろう、どんなふうになっているだろう? 前と同じだろうか、それとも、あの馬車で見かけたときのようだろうか? ドリイのいったことがもしほんとだったら? でも、ほんとでないってわけもないけれど?》彼は考えた。
「ああ、どうか、カレーニンに紹介してくれたまえ」彼はやっとのことでいうと、やけに決然たる足どりで、客間へはいって行き、すぐ彼女の姿を認めた。
キチイは前のようでもなければ、馬車の中で見かけたときのようでもなく、まったく別人のようであった。
彼女はなにかおびえたような、おずおずした、はにかんだような風《ふ》情《ぜい》だったが、そのためにさらにいっそう美しかった。彼女も、リョーヴィンが部屋へはいって来た瞬間に、すぐ彼を認めた。彼を待ちうけていたからである。キチイはとてもうれしかったが、そのうれしさにわれながらとまどって、リョーヴィンがドリイのそばへ寄って行きながら、自分のほうをもう一度振り返ったときには、キチイ自身も、リョーヴィンも、いっさいの様子を見ていたドリイも、彼女がこらえきれなくなって泣きだすのではないかと、心配したくらいであった。キチイは、ぱっと頬《ほお》をそめたかと思うと、今度はまっ青になり、また頬をそめて、かすかに唇を震わせながら、彼の来るのを、そのまま、じっと待ちうけていた。リョーヴィンは彼女のそばへ行って、会釈すると、黙って手をさしのべた。もし唇が軽く震えて、目がうるんで輝きを増していなかったら、彼女が次のように話しかけたとき、その微笑はほとんど平静そのものだったといえたであろう。
「ずいぶんお久しぶりでございましたわね!」そういってキチイは、やけに決然たる態度で、リョーヴィンの手を自分の冷たい手で握りしめた。
「あなたはごらんにならなかったかもしれませんが、ぼくはあなたをお見かけしましたよ」リョーヴィンは幸福の微笑に顔を輝かせながらいった。「あなたが停車場から馬車でエルグショーヴォへいらっしゃるときに、お見かけしたんです」
「まあ、いつですの?」キチイはびっくりしてたずねた。
「あなたが、エルグショーヴォへ馬車でいらっしゃったときですよ」リョーヴィンは胸にあふれる幸福感にむせかえるような気がしながら、いった。《なぜこのおれはこんなしおらしい少女に、なにか無《む》垢《く》でないような考えを、結びつけることができたんだろう? そうだ、ドリイのいったことは、きっと、ほんとうだろう》彼は考えた。
オブロンスキーはリョーヴィンの手をとって、カレーニンのところへ連れて行った。
「さあ、ご紹介しよう」彼は双方の名前をいった。
「かさねてお目にかかれて、とても愉快です」カレーニンはリョーヴィンの手を握りながら、冷やかにいった。
「え、きみたちはもう知合いだったの?」オブロンスキーはびっくりして、たずねた。
「汽車の中で、三時間もいっしょに過したんだよ」リョーヴィンは微笑しながらいった。「ところが、まるで仮面舞踏会にまきこまれたようなことになってしまってね――いや、すくなくとも、ぼくのほうだけは」
「へえ、なるほど! では、みなさん、どうぞこちらへ」オブロンスキーは、食堂のほうを指さしながら、いった。
男の連中は、食堂へはいると、前菜《ザクースカ》の置いてあるテーブルへ近づいた。そこには六種類のウォトカと、同じく六種類のチーズ――それには大きな銀の匙《さじ》のついているのも、ついていないのもあった――イクラ、鰊《にしん》、各種の罐詰《かんづめ》類、それに薄切りのフランスパンを盛った皿などが並べられていた。
男の連中は、かおりの高いウォトカと前菜のまわりを、立ったまま、とりかこんだ。そこで、コズヌイシェフと、カレーニンと、ペスツォフのあいだでかわされていた、ポーランドのロシア化という論議は、食事を待つあいだに、しだいにしずまっていった。
コズヌイシェフは、きわめて抽象的で、まじめな議論にひとまずけりをつけるために、いきなり、アテネの塩をふりかけ、話し手の気分を一変させてしまうことにかけては、だれもその右に出るもののない名手であったので、今も、さっそく、その手を用いた。
カレーニンは、ポーランドのロシア化はただロシア政府によって導入されるべき高遠な主義主張の結果としてのみ達成されうるものであると論証した。
一方ペスツォフは、一つの国民が他国民を自国に同化させることができるのは、その国が他国より人口密度が稠密《ちゅうみつ》な場合に限る、と主張して譲らなかった。
コズヌイシェフはその両方とも認めたが、しかし条件つきであった。彼らが客間を出て行くとき、コズヌイシェフは話にけりをつけるために、微笑を浮べながら、こういった。
「したがって、異民族をロシア化するためには、たった一つの方法しかないんです。つまり、できるだけたくさん子供をつくることですね。いや、この点では私や弟なんかは、だれよりも働きがないわけですよ。ところで、みなさんのように結婚された方々は、ことにオブロンスキー君などは、完全に愛国的な働きをしておられることになりますな。お宅は何人でしたっけ?」愛《あい》想《そ》よく主人にほほえみかけて、小さな杯をさしだしながら、たずねた。
一同は声をたてて笑いだしたが、とりわけオブロンスキーは楽しそうに笑った。
「うむ、それがいちばんいい方法ですなあ!」彼はいって、チーズをかじりながら、なにか特別の種類のウォトカを、さしだされた杯に注いだ。議論は例によってしゃれでおしまいになったのである。
「このチーズは悪くないでしょう、どうです?」主人はいった。「きみはまた体操をやりだしたのかい?」彼はリョーヴィンのほうへ向いて、左手で彼の筋肉をさわってみた。リョーヴィンはにっこり笑って、その腕に力を入れた。と、オブロンスキーの指の下には、フロックの薄地のラシャ地の下から、鋼鉄のような肉のかたまりが、まるでチーズ玉のように、盛りあがった。
「や、こりゃ、たいした二頭筋だね! サムソンばりだね!」
「熊狩りには、ずいぶん体力がいるんでしょうな」猟についてはほとんどなにも知らないカレーニンは、蜘蛛《くも》の巣のように薄いパンの柔らかいところにチーズを塗って、それに穴をあけながら、たずねた。
リョーヴィンはにっこり笑った。
「いや、その反対で、子供にだって熊ぐらいは殺せますよ」彼はいって、主婦といっしょに前菜のテーブルへ近づいて来た婦人たちに、軽く会釈をしながら、わきへよけた。
「熊をお撃ちになったそうでございますわね」キチイは、すべっていうことをきかぬ茸《きのこ》を何度もフォークで刺そうと努めながら、白い腕が透いて見えるレースの袖《そで》を震わせて、たずねた。「お宅の近くにはほんとに熊がおりますの?」彼女は美しい顔を少し彼のほうへ向けて、にこやかにつけ加えた。
キチイの口にしたことには、なにも特別変ったところはなさそうであった。しかし、彼女がそういったとき、その言葉の一つ一つの響きにも、唇やひとみや手などの一つ一つの動きにも、なにか言葉ではいい表わせぬ意味があるように、リョーヴィンには思われた。そこには許しを願う思いも、彼に対する信頼も、親しみのこもった、優しい、おずおずした親愛の情も、約束も、希望も、彼に対する愛もあった。いや、彼はその愛を信じないわけにはいかなかった。彼はその愛のために幸福感で息がつまりそうであった。
「いや、ぼくたちはトヴェーリ県へ行ったんです。その帰りに、汽車の中であなたの義兄《ボー・フレール》に、いや、あなたの義兄《ボー・フレール》の義弟にお会いしたわけですよ」彼は微笑を浮べながらいった。「そりゃ、こっけいな出会いでしたよ」
それから、彼は愉快そうに、おもしろおかしく、ひと晩じゅう眠らなかったうえ、半外套のまま、カレーニンの車室へ闖入《ちんにゅう》した模様を話しだした。
「車掌のやつは、ことわざとは反対に、ぼくの身なりを見て、追い出そうとしたので、こちらも、ことさら高尚な言葉をつかって、まくしたてたんですよ。それに……あなたもやはり」彼は相手の名前を忘れて、カレーニンに話しかけた。「はじめは半外套なんかを着ていたために、ぼくを追い出そうとされましたが、しまいにはぼくの味方になってくださいましたね。その点大いに感謝しております」
「一般的にいって、乗客が座席を選ぶ権利なんて、まったく、漠然《ばくぜん》としたものですからな」カレーニンは、ハンカチで指の先をふきながら、いった。
「どうやら、ぼくのことは、なんともきめかねていらっしゃいましたね」リョーヴィンは、人のよさそうな微笑を浮べながら、いった。「だから、ぼくは半外套の名誉を挽回《ばんかい》するために、あわてて利口そうな話をはじめたんですよ」
コズヌイシェフは主婦と話をつづけながら、同時に、片方の耳で弟の話に注意をはらい、横目で彼をにらんでいた。《あいつ、きょうはどうしたんだろう? あんなに勝ち誇ったような態度をして》彼は考えた。彼は、リョーヴィンが心に翼がはえたような気持でいることを、知らなかったのである。ところが、リョーヴィンは、キチイが自分の話を聞いていることも、また聞くのが楽しいことも、ちゃんと知っていたので、ただそのことだけしか考えていなかった。いや、単にこの部屋ばかりでなく、全世界において彼のために存在しているものは、彼にとってにわかに大きな意義と重大性をおびてきた彼自身と、彼女だけであった。彼は、自分が目もくらむばかりの高みに立っており、どこかはるか下のほうに、あの善良な愛すべきカレーニンや、オブロンスキーや、その他もろもろの世界が存在しているような気がしていた。
オブロンスキーはそっと気づかれぬように、ふたりのほうには目もくれず、もうどこもすわれるところがないようなふうをして、リョーヴィンとキチイを並べてすわらせた。
「まあ、ここにでもかけろよ」彼はリョーヴィンにいった。
料理は、オブロンスキーが趣味をもっている食器類と同様、なかなかけっこうなものであった。マリー・ルイズ式のスープもすばらしかったし、口の中ですぐ溶けるような小さなピロシキも、申し分なかった。白ネクタイを締めたふたりの召使とマトヴェイは、そっと、目だたぬように、静かに、しかも手っとり早く、料理と酒の世話をやいていた。この晩餐は物質的な面では大成功だったが、精神的な面でも、それに劣らず成功だった。座談は、時には全部が加わり、時には個人的にはずんで、いっときも休むことなくつづき、食事の終りごろには、すっかり活気づいて、男の連中はしゃべりつづけたまま、テーブルから立ちあがり、カレーニンさえも生きいきとしてきたほどであった。
10
ペスツォフは、とことんまで議論することが好きだったので、コズヌイシェフの言葉には満足しなかった。ことに、彼は自分の意見の正しくないことを感じていたので、なおさら不満であった。
「私はけっして」彼はスープのときに、カレーニンに話しかけた。「単に人口の稠密《ちゅうみつ》ということばかりを申しあげたのではありませんよ。それは主義主張ではなく、もっと根本的なものと結びついての話ですから」
「私の思うには」カレーニンは少しもあわてず、張りのない声で答えた。「それは要するに、同じことですよ。私の意見では、他国民を同化させうるのは、ただ一段と高い発達を遂げている国民だけでして、そうした国民は……」
「いや、その点が問題なんですよ」ペスツォフは、持ち前のバスで相手をさえぎった。彼の話しぶりはいつも急《せ》きこんでおり、自分の話している事がらに、全精神を傾けているといった調子だった。「その一段と高い発達というものは、どういう点をいうんでしょうね? たとえば、イギリス人と、フランス人と、ドイツ人とでは、いったい、だれが一段と高い発達を遂げているんです? この中で、他国民を同化させるのはだれでしょう? ラインがフランス化されたのは、現に、われわれの知ってるところですが、しかし、それだからといって、ドイツ人が劣っているとはいえませんからね」彼は叫んだ。「そこには別の法則があるんですよ!」
「私の思うには、感化力というものはつねに真の教育を身につけた側にあるということですな」カレーニンは、かすかに眉《まゆ》を上げながら、いった。
「それでは、そうした真の教育のしるしを、どういう点に求めればいいんでしょう?」ペスツォフは反論した。
「いや、それは周知の事実だと思いますがね」カレーニンはいった。
「でも、それがまったく周知の事実とはいえるでしょうかね?」コズヌイシェフは皮肉な微笑を浮べて、話に口を入れた。「最近では、真の教育とは純古典教育でなければならぬ、と認められていますが、しかし、二つの陣営で激烈な論争がかわされているのは、ご承知のとおりですからな。しかも、反対側も自説を擁護するにたる有力な論拠があることは、否定することができませんからね」
「あなたは古典教育派ですな、コズヌイシェフさん。ときに、赤ぶどう酒はいかがです?」オブロンスキーはいった。
「私は古典、実科のいずれの教育についても、自分の意見を述べるわけにはいきません」コズヌイシェフはコップをさしだしながら、まるで子供に対するような、寛容の微笑を浮べて、いった。「私にいえるのはただ、双方とも有力な論拠をもっている、ということだけですね」カレーニンのほうへ向きながら、言葉をつづけた。「私は、自分の受けた教育からいえば、古典派ですが、しかし、私個人としては、この論争に自分の立場を見いだすことはできませんね。なぜ古典的な学科が、実科的なものに比べて優越を認められているか、私にはその明確な論拠がわかりかねますから」
「自然科学もそれに劣らず、啓蒙《けいもう》的な面では影響力をもっておりますよ」ペスツォフがひきとった。「たとえば、天文学にしても、植物学にしても、一般法則のシステムをもった動物学にしても、そうじゃありませんか!」
「私はその見解にまったく賛成しかねますな」カレーニンは答えた。「私の思うには、言語形態を研究する過程そのものが、すでに精神的発達にきわめて好影響を与えていることを認めざるをえませんからな。いや、そればかりか、古典作家の影響は高度に道徳的であるのに対して、自然科学の教育には、現代の病毒を形づくっている有害な、偽りの教義が結びついている事実も、否定することができませんよ」
コズヌイシェフはなにかいおうとした。しかし、ペスツォフは持ち前の太いバスでそれをさえぎった。彼はすっかり興奮しながら、カレーニンの見解のあやまりを論証しはじめた。コズヌイシェフは悠然《ゆうぜん》として、その言葉が終るのを待っていた。どうやら、彼は相手の説を徹底的に粉砕できる反論を用意しているらしかった。
「しかしですね」コズヌイシェフは、かすかに笑いを浮べて、カレーニンのほうへ向きながらいった。「古典と実科の両教育の利害得失を完全に評価するのは困難であるということには同意せざるをえませんし、まして、そのいずれをとるべきかという問題は、そうあわてて最後的な解決をつけることはできないわけです。とくに、古典教育の側にも、ただいまあなたのおっしゃった道徳的な優越性disons le mot 反虚無主義《アンチ・ニヒリズム》的な感化力がなければの話ですがね」
「もちろんですとも」
「もし古典教育の側に、この反虚無主義的な感化力という優越性がなかったら、私どもは両方の論拠をはかりにかけて、もっとよく考えたうえで」コズヌイシェフは微笑を浮べながら、いった。「両方の主張にもっと耳を傾けるでしょうな。ところが、現在、私どもはこの古典教育という錠剤には、反虚無主義の特効があることを承知しているので、思いきって、それを患者たちにあてがっているんですよ……ところで、もしその特効がなかったら?」彼は例のアテネの塩をふりまきながら、こう結論した。
コズヌイシェフが錠剤を持ち出したときには、みんながどっと一時に笑いだした。とりわけ、トゥロフツィンは大声で、愉快そうに笑った。それはみんなの話に耳を傾けながら、なにかこっけいな言葉が出るのを、今かいまかと待ちうけていた矢先だったからである。
オブロンスキーがペスツォフを招待したのは、やはり、まちがってはいなかった。ペスツォフが一座にいるために、知的な会話はいっときもやむ間がなかった。コズヌイシェフが例のしゃれで話に結論をつけるやいなや、ペスツォフはさっそく新しい話題を持ち出した。
「いや、政府がそうした目的をもっていたということにも、賛成するわけにはいきませんな」彼はいった。「政府は明らかに一般的な判断に基づいて行動しているのであって、自分の採用している政策がどんな影響をおよぼすかということには、いっこうに無関心なんですから。たとえば、女子教育の問題などは、当然、有害であると認めるべきであるのに、政府は婦人のために各種の専門学校や、大学まで開放しているのですから」
そこで、会話はすぐに、女子教育という問題へ移っていった。
カレーニンは、女子教育は普通、婦人の自由の問題と混同されているので、ただそのために有害視されているのだと、自分の意見を述べた。
「いや、私はその反対に、この二つの問題は、切っても切れぬ関係にあると思いますな」ペスツォフはいった。「これは一つの悪循環ですな。つまり、婦人は教育の不足のために権利を奪われている。ところが、教育の不足は権利の欠如からきているんですから。婦人が隷属してきた歴史は、あまりに古くかつその根が深いので、私どもは自分たちと婦人を隔てている深淵《しんえん》を、理解しようとしないことがしばしばあるってことも忘れてはなりませんな」彼はいった。
「あなたは権利といわれましたが」コズヌイシェフはペスツォフが口をつぐむのを待って、いった。「それは、つまり、陪審員の地位につく権利とか、市町村の議会の議長になる権利とか、官公吏に就職する権利とか、国会議員に選出される権利とかいったものですな……」
「もちろんですとも」
「ところが、もし婦人が、少数の例外として、たとえ、そうした地位につくことができたとしても、あなたは『権利』という言葉をまちがって使われているようですな。もしそれなら、『義務』といったほうが正確でしょうな。いや、これにはだれもご異存はないと思いますが、私どもはなにかの職務、たとえば、陪審員とか、町会議員とか、電信局員とかの職務を履行するときには、自分が義務を果しているという感じがするものですよ。ですから、もっと正確には、婦人は義務を求めているのだと、いうべきなのであって、しかも、それはまったく法にかなったものなのです。いや、私どもとしては、一般男子の労働を援助したいという婦人たちのこの希望には、ただ同感するよりほかありませんな」
「まったく、お説のとおりです」カレーニンは相槌《あいづち》をうった。「問題はただ、婦人たちがはたしてこの義務を遂行する能力があるか、どうかにかかっているようですね」
「おそらく、その点は大丈夫でしょうな」オブロンスキーが口をはさんだ。「婦人のあいだに、教育が普及したあかつきには。いや、現に、われわれはそれを見ていますからな」
「それでは、あのことわざはどうなりますかな?」もうだいぶ前からみんなの話に耳を傾けていた公爵は、その小さな、皮肉そうな目を輝かせながら、いった。「なあに、娘たちの前だからかまやしませんとも。髪は長いが……」
「いや、黒人についても、解放前はそう考えられていたものですよ!」ペスツォフはおこったようにいった。
「私はただ婦人が新しい義務を求めているのが、腑《ふ》におちないといっているだけですよ」コズヌイシェフはいった。「なにしろ、われわれ男性は、遺憾ながら、いつもそうしたものから逃げようとしている始末ですからね」
「義務は権利と結びついていますからね。権力、金銭、名誉――これを婦人は求めているんですよ」ペスツォフはいった。
「それじゃ、たとえわしが乳母《うば》になる権利を手に入れても、女どもには給金をやっているのに、わしにはくれんといって、腹を立てるようなものですな」老公爵はいった。
トゥロフツィンは、わっと、大声をたてて、笑いくずれた。そして、コズヌイシェフは、それをいったのが自分でないのを残念がった。カレーニンまでがにっこりと微笑を浮べた。
「そうですな。ただ男性は乳を飲ませることはできませんがね」ペスツォフはいった。「ところが、婦人は……」
「いや、あるイギリス人は汽船の中で、自分の赤ん坊をミルクでりっぱに育てていましたよ」老公爵は娘たちの前で、わざとこんな話を持ち出して、いった。
「そういうイギリス人の数だけ、婦人も官吏になれるわけですよ」今度はコズヌイシェフがいった。
「なるほど。でも、家庭をもたぬ娘は、どうしたものでしょうな」オブロンスキーは、いつも念頭にあるチビーソヴァのことを思いだして、ペスツォフの説に同感し、それを支持しながら、いった。
「そういう娘の身の上をよく調べてみれば、きっと、その娘は自分の家か姉の家を捨てて、出て行ったことがわかるでしょうよ。家にいれば、女らしい仕事もできたでしょうにね」思いがけなくドリイが話に口をはさみながら、いらいらした調子でいった。どうやら、夫のオブロンスキーが、どんな娘を念頭においていったかを、察していたらしかった。
「しかし、なんといっても、われわれは主義、理想を擁護していますからね!」ペスツォフは、よくとおるバスで反駁《はんばく》した。「婦人は教育のある独立した人間になる権利を、得たいと望んでいるのです。しかし、それが不可能だという意識のために、かえって、圧倒され、屈服させられているんですよ」
「でも、わしは、産院に乳母として採用してもらえんので、かえって、圧倒され、屈服させられておるんですよ」また老公爵はそういって、トゥロフツィンをすっかり喜ばせた。彼は笑ったひょうしに、一本のアスパラガスの先を、ソースの中へ落してしまった。
11
一座のものは、みんなこの話に加わっていたが、キチイとリョーヴィンだけは別だった。はじめに、ある国民が他国民におよぼす影響力という問題が話題になったとき、リョーヴィンはその問題について意見をもっていたので、ついそのことが頭に浮んできた。ところが、以前にはひどく重大なものに思われていたこれらの思想も、今ではただ夢の中のようにぼんやり頭をかすめただけで、いささかの興味も呼び起さなかった。いや、それどころか、なぜみんなは、だれにも用のないことを、ああやっきになって、しゃべっているのか、ふしぎに思われてくるのだった。キチイにしてもそれとまったく同じ気持で、みんなが論じている婦人の権利や教育の話には、興味を感じなければならないはずであった。彼女も以前には、外国で友だちになったワーレンカのことを思いだして、その苦しい隷属の生活について幾度も考えてみたし、もし自分が結婚しなかったらどうなるだろうかと、自分自身のことについても、よく考えてみたものだが、いや、この件については姉と何度いい争いをしたかしれなかった。ところが、今はそんなことも少しも興味をひかないのであった。キチイはリョーヴィンとふたりだけで、自分たちの話をしていた。いや、それは話といったものではなく、なにかしら神秘的な魂の交流であった。それは刻一刻とふたりを近く結びあわせ、ふたりがいまにもはいって行こうとする未知の世界に対する喜ばしい恐怖の思いを、お互いの胸に呼び起すのであった。
はじめにリョーヴィンは、どうして去年、自分が馬車で行くところを見かけたのか? というキチイの問いに答えて、草刈りの帰りに街道を歩いていて、ふと、彼女を見かけたときの様子を物語った。
「いや、それはまだほんの明け方でしたよ。あなたもきっと、まだ目をさましたばかりだったでしょうね。お母さまはすみのほうで、眠っていらっしゃいましたから。それにしても、すばらしい朝でしたよ。ぼくは歩いて行きながら、あの四頭立てでやって来るのは、だれだろう? と、ふと考えました。なにしろ、鈴をつけた、りっぱな四頭立ての馬車でしたからね。その瞬間、あなたの姿がちらっと目の前にひらめいたのです。窓をのぞくと、あなたはちょうどこんなふうにすわって、両手で帽子のリボンを持ったまま、なにやらすっかり考えこんでいらっしゃいましたよ」彼は微笑しながらいった。「あのとき、なにを考えていらしたか、知りたいものですねえ。なにか重大なことでしたか?」
《あたし、とり乱してはいなかったかしら?》キチイは一瞬考えた。しかし、こうしたくわしい思い出につれて、彼の顔に浮んだ歓喜の微笑を見て、自分の与えた印象はむしろすばらしかったのだ、と直感した。キチイはぱっと頬をそめると、うれしそうに笑い声をたてた。
「ほんとに、覚えておりませんのよ」
「トゥロフツィンはよく笑いますねえ!」リョーヴィンはトゥロフツィンのうるみをおびた目と、大きく揺れ動くからだに見とれながら、いった。
「もう前からあの方をご存じですの?」キチイはたずねた。
「あの人を知らないものはありませんよ!」
「それに、あなたは、どうやら、あの方のことを、悪い人だと思っていらっしゃるんでしょう?」
「悪い人じゃないけれども、つまらない人ですね」
「まあ、それは違いますわ! もうそんなお考えは一刻も早く変えてくださいね!」キチイはいった。「あたしもあの人のことについては、とてもいけない考えをしていましたの。でも、あの方はとても優しい、びっくりするほど親切な方ですのよ。まるで玉のような美しい心をもった方ですわ」
「どうしてあの人の心までご存じなんですか?」
「あの方とは大の仲よしなんですもの。あの方のことなら、よく存じあげておりますわ。去年の冬、あれからまもなく……あなたがうちへいらしたあとで」キチイはなにかわびるような、と同時に、信頼しきったような微笑を浮べながら、いった。「ドリイの子供たちが猩紅熱《しょうこうねつ》にかかりましたの。ちょうど、あの方が偶然たずねていらっしゃいましてね。それで、どうなったかおわかりになって?」キチイはささやくような声でいった。「あの方は、すっかり姉に同情して、そのままずっと、子供たちの看病の手伝いをしてくださいましたの。ええ、まる三週間も、姉のところに寝泊りなすって、まるで保母のように、子供たちの面倒をみてくださいましたの」
「あたし、今ね、リョーヴィンさんに、猩紅熱のときトゥロフツィンさんのしてくだすったことを、お話ししているところなの」キチイは姉のほうへ身をかがめていった。
「ええ、そりゃ、よくしてくださいましたわ、ほんとにごりっぱでしたわ!」ドリイは、自分の話をしているなと感じていたトゥロフツィンの顔をながめて、つつましやかにほほえみかけながら、いった。リョーヴィンはもう一度トゥロフツィンのほうを振り返った。そして、自分はなぜこの男のすばらしさを理解できなかったのかと、われながら怪しむのだった。
「失敬、失敬、もうこれからはけっして、他人のことは悪く思いませんよ!」彼は愉快そうにいったが、それは彼が今心に感じていることを、素直に告白したまでであった。
12
婦人の権利に関してはじめられた会話には、結婚生活における男女の権利の不平等という、女性の前ではちょっといいにくい問題が含まれていた。ペスツォフは食事のとき、何度もこの問題に飛びつこうとしたが、コズヌイシェフとオブロンスキーは、用心ぶかくその話を避けるようにしていた。
一同が食卓から立って、婦人たちが出て行ったとき、ペスツォフはそのあとへついて行かずに、カレーニンに向って、その不平等のおもな原因について意見を述べはじめた。夫婦間の不平等は、彼の意見によれば、同じ不貞でも夫と妻の場合では、法律上からいっても、社会の世論からいっても、不平等に罰せられる点にあるというのだった。
オブロンスキーはあわてて、カレーニンのそばへ行って、たばこをすすめた。
「いや、たばこはやりません」カレーニンは落ちつきはらっていって、そんな話など平気だということを、わざわざ誇示するかのように、冷やかな微笑まで浮べて、ペスツォフのほうを向いた。
「私の考えでは、そういう見方の基となるものは、物事の本質それ自体の中に含まれていると思いますね」彼はいって、客間へ立って行こうとした。ところが、そのとき、トゥロフツィンがだしぬけに、カレーニンに向って、こんなことをしゃべりだした。
「あなたは、プリャーチニコフのことをお聞きになりましたか?」シャンパンを飲んで活気づいたトゥロフツィンは、先ほどから苦にしていた沈黙を破るいい機会がきたとばかりに、こういった。「ワーシャ・プリャーチニコフですよ」彼はおもに正客のカレーニンに顔を向けながら、うるみをおびた赤い唇に、人の良さそうな微笑を浮べて、いった。「きょう聞いた話では、トヴェーリでクヴィツキーと決闘をして、相手を殺したそうですよ」
人はよく、わざと痛いところばかりをつつかれるような気がするものだが、今もそのとおりで、オブロンスキーは、今晩はまずいことに、話がいつも、カレーニンの痛いところばかりに進展していくような気がした。彼はまた、義弟をほかへ引っぱって行こうとしたが、当のカレーニンは好奇心にかられて、こうたずねた。
「なんだってプリャーチニコフは決闘したんです?」
「細君のことからですよ。男らしくやりましたよ! 決闘を申し込んで、相手をやっつけたんですから!」
「ほう!」カレーニンは気のない調子でいうと、眉《まゆ》をつりあげて、客間へはいって行った。
「まあ、ほんとによくいらしてくださいました」ドリイは通路になっている客間で、彼に出会って、おびえたような微笑を浮べながら、いった。「ちょっと、お話がございますの。さあ、どうぞ、ここへおすわりになって」
カレーニンは、つりあげた眉によって相変らず無関心な表情を浮べて、ドリイのそばに腰をおろし、わざとらしくにっこりと笑った。
「や、これは好都合です」彼はいった。「私も失礼して、お暇《いとま》しようと思ってたところですから。じつは、あすは発たなくちゃなりませんので」
ドリイはアンナの潔白をかたく信じていたので、こんなに平然として罪もない親友を破滅させようとしているこの冷酷な、思いやりのない男に対する怒りのために、自分の顔が青ざめて唇が震えているのを感じていた。
「カレーニンさん」彼女はやけにきっとなって、相手の目を見つめながら、こう切りだした。「きのう、アンナのことをおたずねしましたけれど、ご返事をなさいませんでしたわね。アンナはどうしておりますの?」
「あれは、どうやら、達者らしいですよ、奥さん」カレーニンは、ドリイの顔を見ないで、答えた。
「失礼ですけど、ほんとにこんな権利はないのでございますけれど……でも、あたしはアンナを、実の妹のように愛してもいれば、尊敬もしているものですから。どうか、お願いですから、おふたりのあいだには、いったい、どんなことがあったのか、お聞かせねがえませんか。あなたさまはなんでまた、アンナを責めていらっしゃいますの?」
カレーニンは眉をひそめ、ほとんど目を閉じて、頭をたれた。
「なぜ私がアンナに対する関係を変えなければならないと考えたかは、たぶん、ご主人からお聞きになったことと思いますが」彼は相手の目を見ないようにして、そのとき客間を通りぬけようとしたシチェルバツキーを、思わず、じろっとながめながら、いった。
「信じられませんわ、信じられませんわ。とても、そんなことがほんとうだなんて!」ドリイは骨ばった両手をぎゅっと握りしめながら、力のこもった身ぶりをして、いった。彼女は素早く立ちあがると、片手をカレーニンの袖《そで》へかけた。「ここではじゃまがはいりますから、どうぞ、あちらへまいりましょう」
ドリイの興奮は、カレーニンの気持にも感染した。彼は席を立つとおとなしくドリイのあとから子供の勉強部屋へ通った。ふたりは、ペン・ナイフで傷だらけになっているオイル・クロース張りのテーブルに、腰をおろした。
「あたし信じられません。とてもそんなこと信じられませんわ!」ドリイは自分を避けている相手の視線を捕えようと努めながら、そう口をきった。
「事実は信じないわけにはまいりませんよ、奥さん」彼は事実《・・》という言葉に力を入れながら、いった。
「でも、あの人はいったい、なにをしたというんですの?」ドリイはいった。「ほんとに、なにをしたというんですの?」
「あれは自分の務めをないがしろにして、夫を裏切ったのです。そういうことをあれはしたのです」彼は答えた。
「いいえ、いいえ、そんなことってあるはずがございませんわ! いいえ、どうぞそんなことをおっしゃらないで。それはたしかに、あなたさまの思い違いでございますわ」ドリイは両手でちょっとこめかみにさわって、両の目を閉じて、いった。
カレーニンは唇に冷やかな笑いをもらした。彼はそうすることによって、相手にも自分自身にも、自分の確信が揺るがぬものであることを示そうと思ったのである。ところがこうした熱烈な弁護は、彼の気持を動揺こそさせなかったが、かえって彼の傷口をかきたててしまった。彼はますます興奮してしゃべりだした。
「妻が自分からそのことを夫に申し立てているんですから、思い違いをしようにもできませんな。なにしろ、八年間の夫婦生活も、むすこも、みんな誤りだった、自分ははじめから生活をやりなおしたいと、申し立てているんですから」彼は鼻を鳴らしながら、腹立たしそうにいった。
「アンナと不品行――あたしにはどうしても、この二つを結びつけて考えることはできませんわ」
「奥さん!」彼はもうまともに、ドリイの興奮した善良そうな顔を見つめながら、しゃべりだした。彼は自分の舌がひとりでにほぐれていくのを感じた。「まだ疑いをいだく余地があったら、私としてもどんなにうれしいかしれませんよ。疑っていたときは、そりゃ苦しくはありましたが、でも、今よりは楽でしたからね。疑っていたときには、ひょっとしたら、という希望がありましたから。しかし、今はもうその希望さえありません。でも、そのくせ、なんでもかんでも疑うようになりましたよ。いや、なにもかも疑わずにいられなくなったものですから、むすこのことさえ憎らしくなりましてね。どうかすると、これははたして自分の子だろうかとさえ疑うようになりましたからね。じつに不幸なことです」
彼には、こんなことをいう必要はなかった。ドリイは相手が自分の顔を見た瞬間、それを察したからである。彼女は相手が気の毒になってきて、親友の潔白を信ずる気持が動揺しはじめてきた。
「ああ、これはほんとになんてことでしょう、なんてことでしょう! でも、あなたさまが離婚を決心なすったというのは、ほんとなんでございますの?」
「私は最後の手段をとることにしました。ほかにどうしようもないのです」
「どうしようもないんですって、どうしようもないんですって……」ドリイは目に涙を浮べて繰り返した。「いいえ、しようがなくはありませんわ!」彼女はいった。
「いや、まったくその点がやりきれないんでして。この種の悲しみというものは、ほかの、たとえば失敗とか死とかという場合のように、ただ十字架を負って行けばいいというわけにはいかなくて、どうしてもなんらかの行動に出なければならないんでして。いや、その点がまったくやりきれないのですよ」彼は相手の気持を察したかのように、こういった。「自分のおかれている屈辱的な立場から、出て行かなければならないのですよ。三人いっしょに暮していくわけにはいきませんから」
「わかりますわ、そのことはあたしにもよくわかりますわ」ドリイはいって、うなだれた。彼女は自分のことを、自分の家庭の悩みのことを考えながら、しばらく黙っていた。と、不意に、さっと顔を上げて、祈るようなしぐさで、両手を組み合せた。「でも、お待ちになってくださいまし! あなたさまはキリスト教徒なんですもの。あの人のことを考えてあげてくださいまし! あなたさまに捨てられたら、あの人はどうなりますでしょう?」
「いや、私も考えたんですよ、奥さん。ずいぶん考えてみたんですよ」カレーニンはいった。その顔にはところどころ赤いしみが現われ、どんよりした目は、まともに彼女を見すえていた。ドリイはもう心の底から相手がかわいそうになった。「私もあれの口から、自分の恥辱を告げられたあとで、今おっしゃったとおりのことをしたんですよ。つまり、なにもかも元どおりということにしたのです。悔い改める機会を与えてやったのです、あれを救おうと努めました。それが、どうでしょう? あれは世間体をつくろうといういちばん楽な条件さえ、実行してはくれなかったんですからねえ」彼はかっとなりながら、いった。「そりゃ、破滅したくないと思ってる人間なら、救うこともできますよ。しかし、すっかり性根が腐ってしまって、もう破滅そのものを救いだと思っているような堕落しきった人間は、どうにも手がつけられませんよ」
「なんでもようございますが、ただ離婚だけはどうか思いとどまってくださいまし!」ドリイは答えた。
「しかし、なんでもとおっしゃっても、いったい、なにができましょう?」
「でも、それじゃ、あんまりですわ。あの人はもうだれの妻でもなくなって、身を滅ぼしてしまいますわ!」
「私になにができるとおっしゃるんです?」カレーニンは肩と眉をつりあげて、きき返した。妻の最後の仕打ちを思いだすと、彼はまた気持がいらいらしてきて、話しはじめたときと同じように、冷やかな態度になった。「ご同情には感謝いたしますが、もうそろそろお暇しなくてはなりません」彼は立ちあがりながら、いった。
「いえ、お待ちになってくださいまし! あの人の身を滅ぼすようなことはなすってはいけませんわ。まあ、お待ちになって。あたし、自分のことを申しあげますから。あたしは結婚いたしましてから、夫に裏切られました。もう腹が立つのと嫉《しっ》妬《と》のために、なにもかも投げ捨てて、出て行く気になりましたの、自分だけで……ところが、はっと、正気にもどりましたの。それはだれのおかげだとお思いになりまして? アンナが救ってくれたのでございますよ。ですから、今、あたしは、このとおり、生きていられるんですわ。子供たちも大きくなりましたし、主人も家庭へもどり、自分の悪かったことに気づいて、今では、前に比べれば、それは潔白な、いい人になってくれました。それで、あたしも生きがいがあるんですの……あたしも許してきたのですから、あなたさまも許してやってくださらなければいけませんわ!」
カレーニンは、じっと聞いていたが、ドリイの言葉はもう彼の気持に、なんの作用もおよぼさなかった。彼の胸の中には、離婚を決意したあの日と同じ敵意に満ちた気持がまたわき起ってきた。彼はちょっと身震いすると、よく透る、甲高《かんだか》い声でしゃべりだした。
「許してやることはできません。いや、そうしたくもありません。それは正しくないことだと思いますね。あの女のためにはなにもかもしてやったのですが、あの女はそれをすっかり、泥まみれにしてしまったのですから。いや、泥まみれになるのはあれの性に合っているのですよ。私は意地の悪い男ではありませんから、今まで一度も人を憎んだことはありません。しかし、あの女だけは心の底から憎んでいます。許してやることはできません。あれが私に投げつけた敵意に対しては、もう憎んでも憎みきれない思いです!」彼はその声に憤激の涙までこめて、そういいきった。
「なんじを憎むものを愛せよ、と申しますのに……」ドリイは恥じ入るような声で、ささやくようにいった。
カレーニンはさげすむように、にやりと冷笑をもらした。そんなことは、彼もとうに承知していたが、とても彼の場合にはあてはまらないものであった。
「なんじを憎むものを愛せよ、ならわかりますが、自分の憎んでいるものを愛することはできません。お騒がせをしてすみません。だれでも自分の不幸だけでも、たいへんなことですからな!」カレーニンはそれだけいうと、気をとりなおし、静かに別れを告げて立ち去った。
13
一同が食卓から立ちあがったとき、リョーヴィンはキチイのあとを追って客間へ行こうと思った。しかし、彼は自分があまり露骨にキチイのあとを追いまわして、相手に不快な感じを与えはしないかと心配した。そこで、彼は男の連中の中に残って、みんなの話に仲間入りした。が、キチイのほうは見ないでいても、その動作も、まなざしも、客間の中の彼女の席も、ひとりでにわかるのだった。
今の彼はもういささかの努力をはらわないでも、キチイとかわした約束、つまり、つねにすべての人をよく思い、つねにすべての人を愛することができた。一座の話題は農村共同体におよんだ。ペスツォフはそれにある特殊な根源を認めて、『合唱的根源』と名づけた。リョーヴィンはペスツォフにも、またロシアの共同体の意義を認めているような、いないような態度をとっていた兄にも、賛意を表さなかった。ただリョーヴィンはこのふたりと話し合いながら、ふたりを調停させ、その反駁《はんばく》を柔らげようとだけ努めた。彼は自分でいっていることにも、まして、ふたりのいっていることには、少しの興味も感じていなかった。ただこのふたりをはじめとして、みんなが和気あいあいと気持よくなるようにと、そればかりを念じていた。いまや彼は自分にとってただ一つのものだけが重大であると知っていた。そして、そのただ一つのものは、はじめ向うの客間にいたが、だんだん近づいて来て、戸口のところに立ち止った。彼はそちらへ顔を向けてはいなかったが、自分に注がれている視線と微笑を感じて、思わず、振り向かずにはいられなかった。キチイはシチェルバツキーといっしょに、戸口のところにたたずんで、彼のほうをじっと見つめていた。
「ピアノのほうへいらっしゃるのかと思ってましたよ」リョーヴィンは彼女のそばへ近よりながら、話しかけた。「田舎《いなか》の生活に欠けているのは、なによりも音楽でしてね」
「まあ、あたしたちはただ、あなたをお呼びしにまいりましたのよ」キチイは、まるで感謝の意をこめた贈り物でもするように、彼へ微笑を投げかけるのだった。「ほんとに、よくいらしてくださいました。議論するなんて、物好きなことですのね。どっちみち、相手をいい負かすことなんかできないでしょうに」
「ええ、まったくそのとおりですとも」リョーヴィンはいった。「いや、たいていの場合、相手がなにを論証したがっているのか、わからないものですから、そのために、むきになって議論することになるんですよ」
リョーヴィンはよく、こんなことに気づいた。つまり、きわめて聡明《そうめい》な人たちが議論するときでさえ、さんざん骨を折ったり、精巧な論理やおびただしい言葉をつかいはたしたあげく、論者はやっとのことで、自分たちが互いに長いこと論証しあっていた事がらは、とうの昔に、論争のはじめからわかりきっていたのだが、どちらも、その好みが異なっているために、相手から弱点をつかまれまいとして、自分の好みを口にしないのである。いや、どうかすると、もう論争の途中で、互いに相手の好みを悟って、急に、自分でもそれと同じものが好きになり、ただちに、論敵に同意してしまうことがある。そうなると、もう今までの論証はすべて無用なものとなってしまうことも、彼はよく経験していた。ときには、それと反対の経験もあった。つまり、やっとのことで自分の好みを口に出し、なにかうまい論証を思いつき、しかも、それをたまたまじょうずに真実味にあふれて表現すると、急に、論敵がそれに賛意を表して、議論をやめてしまうのである。いや、彼のいいたかったのは、ほかならぬこのことであった。
キチイは彼のいうことを理解しようとして、額にしわをよせていた。しかし、彼が説明しかけるや、すぐ悟ってしまった。
「ええ、わかりますわ――まず相手がなんのために議論しているのか、なにを愛しているのか、それを知らなくちゃいけないんですわね。そうすればもう……」
キチイは、リョーヴィンがへたくそに表現した思想を、完全に推察して、それをはっきりと表現した。リョーヴィンはうれしそうにほほえんだ。彼はペスツォフと兄を相手にひどくこみいった、口数ばかり多い論争のあとで、いきなり、こうしたいとも簡単明瞭《めいりょう》な、ほとんど言葉も用いず、しかもきわめて複雑な思想を表現しうる心と心の交流へ移ったことに、われながらびっくりするのであった。
シチェルバツキーは、ふたりのそばを離れて行った。すると、キチイはそこに用意されてあったトランプ台へ近づいて、そのわきにすわった。そして、チョークを手にとって、新しい緑色のテーブル・クロースの上に、いろんな円をいくつも描きはじめた。
ふたりは食事のときに出た話、つまり、婦人の自由と職業という話題をまたはじめた。リョーヴィンは、年ごろの娘は結婚しなくても、女らしい仕事を家庭の中に見いだすことができるというドリイの意見に賛成した。彼はその意見を支持するために、どんな家庭でも、手伝いをする女なしではやっていけない、貧乏な家庭でも、金持の家庭でも、雇い人なり、身内のものなりの違いはあっても、とにかく、婆やがいるし、またいなければならない、といった。
「違いますわ」キチイは頬をそめながらも、かえってそのために勇敢に、心のこもったまなざしで、彼を見つめながらいった。「年ごろの娘ってものは、自分を卑下しなければ、家庭にはいって行けないようにできているのかもしれませんわ。自分だけでは……」
リョーヴィンは、この暗示だけで、キチイの心を読みとった。
「ああ、そうですね!」彼はいった。「ええ、そうですとも、そうですとも。おっしゃるとおりです、それにまちがいありません!」
そして、彼はキチイの胸に処女の恐怖と卑下を認めたことによって、ペスツォフが食事のときに論証しようとした婦人の自由に関する意見を、はじめてすっかり理解することができた。リョーヴィンは彼女を愛する気持から、この恐怖と卑下を感じとり、たちまち、自分の論拠を撤回したのであった。
沈黙が訪れた。キチイはなおもテーブルの上にチョークで線を書いていた。そのひとみは静かな輝きにきらきらしていた。リョーヴィンも彼女の気分にひきこまれて、わが身のすみずみまで、たかまっていく張りつめた幸福感を、ひしひしと感じていた。
「あら、すっかりテーブルにいたずら書きをしてしまいましたわ!」キチイはいって、チョークを置くと、立ちあがりそうなそぶりを見せた。
《この人に行かれて、自分ひとりとり残されたらどうしよう?》彼はおびえて、すぐチョークを取った。「あ、待ってください」彼はテーブルの前に腰をおろしながら、いった。「ずっと前から一つだけおたずねしたいことがあったのです」
彼は、キチイの優しげな、でもなにかにおびえたようなひとみを、まっすぐに、じっと見つめた。
「どうぞ、おっしゃってくださいまし」
「こういうことなんです」彼はいって、次のような頭文字を書いた。い、あ、ぼ、そ、で、お、あ、け、い、そ、あ、? これらの文字は、こういう意味であった。『い《・》つかあ《・》なたはぼ《・》くに、そ《・》んなことはで《・》きないとお《・》っしゃいましたが、あ《・》れはけ《・》っしてというい《・》みですか、そ《・》れとも、あ《・》のときだけのことですか?』彼女がこんな複雑な文句を解くことができるとは、まったく思いもよらぬことであった。しかし、彼はキチイがそれを解いてくれるかどうかに、自分の生命がかかっているような面持ちで、じっと彼女を見つめていた。
キチイは真剣な様子で彼をながめたが、やがてしかめた額を片手でささえて、読みはじめた。ときどき、《あたしの考えていることはあたってるかしら?》とでもたずねるようなまなざしで、彼の顔を仰ぎ見た。
「わかりましたわ」キチイは頬をそめていった。
「じゃ、これはなんという言葉?」彼は『けっして』を意味する『け』の字をさしながら、たずねた。
「これはけっして《・・・・》って字ですわ」キチイはいった。「でも、それは違いますわ!」
彼はすばやく自分の書いた字を消すと、相手にチョークを渡して、立ちあがった。彼女は、あ、あ、ご、し、な、と書いた。
ドリイはこのふたりの姿を見かけたとき、カレーニンとの話し合いで生れた悲しみを、すっかり慰められてしまった。キチイはチョークを手にして、おずおずした幸福そうな微笑を浮べ、リョーヴィンを仰ぎ見ていたし、テーブルの上に美しい姿勢でかがみこんだリョーヴィンは、テーブルとキチイをかわるがわるそのもえるような目でながめていた。と、不意に、リョーヴィンの顔がさっと輝いた。彼にはわかったのだ。それは『あ《・》のときはあ《・》れよりほかにご《・》返事のし《・》ようがな《・》かったのです』という意味であった。
リョーヴィンはおずおずともの問いたげなまなざしを、彼女の顔に走らせた。
「じゃ、ただあのときだけですか?」
「ええ」キチイの微笑が答えた。
「じゃ、い……いまは?」彼はたずねた。
「それじゃ、ほら、これを読んでくださいまし。あたくし、自分の望んでいることを申しあげますから。心の底から望んでいることですのよ!」キチイはまた頭文字を書いた。『も、あ、あ、わ、お、く、で』それはこういう意味であった。『も《・》しあ《・》なたがあ《・》のときのことをわ《・》すれて、お《・》許しく《・》ださることがで《・》きましたら』
彼は、緊張のあまり震える指でチョークを取ると、それを折って、次のような意味の頭文字を書いた。『ぼくは忘れることも、許すこともなにひとつありません。ぼくはずっとあなたを愛しつづけていたのです』
その瞬間、キチイはさっと微笑を浮べ、その微笑をくずさずに、彼の顔を見た。
「わかりましたわ」ささやくような声がもれた。
リョーヴィンは腰をおろして、長い文句を書いた。キチイにはなにもかもわかった。そして、こうかしら? ともたずねないで、チョークを取ると、返事を書いた。
リョーヴィンは、キチイの書いたことが長いことわからなかったので、幾度も相手の目をのぞきこんだ。彼は幸福のためにぼうっとなっていたのだった。そして、どうしても、彼女の書いた文字に言葉をあてはめることができなかった。しかし、彼女の美しい、幸福に輝くひとみの中に、自分の悟るべきことをなにもかもすっかり読みとった。そこで、彼は三つの文字を書いた。ところが、彼がまだ書き終らないうちに、キチイはもうその手の動きから自分でその先を読みとって、『ええ』という返事を書いた。
「secr師aire のまねごとでもやっているのかね?」老公爵はそばへ寄って来ていった。「でも、芝居に行きたかったら、そろそろ出かけなくちゃならんよ」
リョーヴィンは立ちあがって、戸口までキチイを見送った。
このふたりの会話で、なにもかもすっかりいいつくされた。キチイが彼を愛していることも、彼があすの朝、あらためて訪問することを、両親に伝えておくということも、なにもかも、語りつくされたのであった。
14
キチイが出かけてしまって、自分ひとりになったとき、リョーヴィンは彼女のいない不安を激しく感じ、再び彼女に会って、永久に彼女と結びつくことのできるあすの朝が、一刻も早くやってくればいいという、矢もたてもたまらない焦燥を覚えた。そして、彼女なしに過さねばならぬこれからの十四時間が、まるで死かなにかのように、恐ろしく思われるのだった。彼はひとりぼっちにならないために、時間をまぎらすために、だれかといっしょに話をしていなければならなかった。オブロンスキーは、そのためにはまたとない話し相手であったが、彼はその言によれば夜会へ、その実、例のバレエへ出かけてしまった。リョーヴィンは彼に向ってただ、ぼくは幸福だ、ぼくはきみを愛している、きみがぼくのためにしてくれたことは、けっして、けっして忘れないよ、としかいう暇がなかった。リョーヴィンはオブロンスキーのまなざしと微笑を見て、相手が自分の気持をまちがいなく理解していることを悟った。
「どうだい、まだ死ぬときじゃないだろう?」オブロンスキーは感動をこめてリョーヴィンの手を握りしめながら、いった。
「も、もちろんだとも!」リョーヴィンは答えた。
ドリイも彼に別れのあいさつをしながら、まるでお祝いでも述べるように、こんなことをいった。
「あなたがまたキチイと会ってくだすって、ほんとにうれしゅうございますわ。お互いに古い友情は大切にしなくちゃいけませんわね」
しかし、リョーヴィンは、ドリイのこうした言葉は不愉快であった。この晩のことは彼にとってじつに厳粛な、ドリイなどにはとても理解できぬものなのだから、かりそめにも、そんなことは口に出してはいけないのだった。
リョーヴィンは一同に別れを告げた。しかし、ひとりぼっちになるのがいやだったので、兄にすがりつこうとした。
「兄さんは、これからどちらへ?」
「会議だよ」
「じゃ、ぼくもいっしょに行くよ。いいでしょう?」
「そりゃ、いいよ。いっしょに行こう」コズヌイシェフは微笑を浮べながらいった。「今夜はどうかしているね?」
「ぼくが? ぼくは幸福なんですよ!」リョーヴィンは乗りこんだ馬車の窓をあけながら、いった。「あけてかまいませんか? でないと、息苦しくって。とにかく幸福なんですよ。なぜ兄さんはずっと結婚しなかったんです?」
コズヌイシェフはにっこり笑った。
「いや、おれも大いにうれしいよ。あの人はどうやらとてもいいむす……」コズヌイシェフはいいかけた。
「いわないで、いわないで、いわないでくださいよ!」リョーヴィンは両手で兄の外套《がいとう》の襟《えり》をつかみ、それをばたばたさせながら、叫んだ。『あれはとてもいいむすめさんだね』などというせりふは、今の彼の気持にまったくふさわしくない、あまりに平凡で低級な言葉だったからである。
コズヌイシェフは、珍しいことに、声をたてて愉快そうに笑いだした。
「いや、それにしても、おれも大いにうれしいよ、ぐらいはいったってかまわないだろう」
「それもあす、あすのことですよ。もうなんにもいわないで! なんにも、なんにも、いわないで」リョーヴィンはいって、もう一度兄の毛皮外套の襟をかきあわせると、こうつけ加えた。「ぼくは兄さんが大好きですよ!ねえ、会議に行ってもかまいませんか?」
「もちろん、いいさ」
「きょうはどんな話があるんです?」リョーヴィンは相変らず微笑しながらたずねた。
ふたりは会議の場所へ着いた。リョーヴィンは、秘書がどうやら自分でも内容がわかっていないらしい記録を、どもりどもり読みあげるのを聞いていた。しかし、リョーヴィンはその顔つきから、その秘書がじつに愛すべき、りっぱな若者であることを見てとった。そのことは、記録を読みながら、まごついて、もじもじしている様子でも明らかであった。それから演説がはじまった。人びとはある金額の支出と、なにか鉄管の敷設のことで議論していたが、コズヌイシェフはふたりの委員を徹底的に攻撃して、勝ち誇ったように、長々としゃべった。すると、もうひとりの委員がなにか紙きれに書いてから、はじめはおじけづいたが、やがてひどく毒を含んだ答弁を、慇懃《いんぎん》な調子でやった。そのあとでスヴィヤジュスキーが(彼もそこにいたのである)、やはりなにかしら、とても美しい上品な言葉で述べた。リョーヴィンはみんなの話に耳を傾けていたが、彼には、金額の支出も、鉄管の敷設も、そんなものはいっさい問題ではなく、みんなはけっして腹も立てず、だれもかれも善良な愛すべき人びとであって、したがって、なにもかもこれらの人びとのあいだでは円満に、和気あいあいのうちに進行しているのだ、とはっきり見てとった。みんなはだれのじゃまもせず、愉快な気分でいるのだった。とりわけリョーヴィンの気づいたことは、今夜に限って、これらすべての人びとの気持が腹の底まで手にとるようにわかり、以前は気のつかなかったささやかな徴候から、ひとりびとりの魂を知ることができ、みんなが善良な人びとであることを、はっきりと理解したことであった。今夜みんなは、だれよりも彼リョーヴィンを、並みはずれて愛してくれた。そのことは、彼に対するみんなの口ぶりからも、いや、未知の人びとまで優しく愛情のこもったまなざしで彼をながめていることからも、明らかであった。
「どうだい、おもしろかったかい?」コズヌイシェフは彼にたずねた。
「とっても。こんなにおもしろいとは、夢にも思いませんでしたよ。だんぜん、すてきですね」
スヴィヤジュスキーがリョーヴィンのところへやって来て、お茶に招いた。リョーヴィンは自分がなぜスヴィヤジュスキーに不満を感じていたのか、なにを彼に求めていたのか、われながら理解することも、思いだすこともできなかった。彼は聡明な、驚くほど善良な人物であった。
「喜んで伺います」リョーヴィンはいって、夫人やその妹のことをたずねた。と、奇妙な連想作用の働きで、彼の頭の中ではスヴィヤジュスキーの義妹についての考えが、結婚という問題に結びつき、今の自分の幸福を語る相手として、スヴィヤジュスキーの妻と義妹より以上に適当な人はいないような気がしてきた。彼は喜んで、招かれて行った。
スヴィヤジュスキーは農事経営について彼にたずねたが、それは例によって、ヨーロッパで発見できなかったものを、ロシアで発見できるはずがない、といった調子であった。しかし、今夜はそんな調子もリョーヴィンには、少しも不愉快ではなかった。いや、それどころか、彼は心の中で、スヴィヤジュスキーの意見はほんとうだ、そんなことはみんなつまらぬことだ、と感じていた。また、スヴィヤジュスキーが驚くほど繊細な心づかいと優しさをもって、自分の正しさを誇示するのを避けようとしているのに気がついた。スヴィヤジュスキー家の婦人たちは、とくに愛すべき人たちであった。リョーヴィンには夫人もその妹も、もうすべてを知っていて同感しているくせに、ただ婦人のつつましさから、それを口に出さないように思われた。彼はいろんなことを話しながら、一時間、二時間、三時間と長居をしてしまったが、自分では心の中にあふれているただ一つの思いだけを、暗に語っているつもりであった。そのため、みんなが自分の話にすっかりあきあきしてしまっていることも、とうに寝る時間がきていることにも、気がつかなかった。スヴィヤジュスキーは、あくびをしながら、玄関まで送りだしたが、友人のおちいっている奇妙な心理状態に、内心、びっくりしていた。もう一時をまわっていた。リョーヴィンはホテルへ帰って来た。が、今からたったひとりきりで、まだ残っている十時間を、耐えがたい待ちどおしさで、過さなければならないと気づいて、愕然《がくぜん》とした。当直のボーイが、ろうそくに火をつけて、出て行こうとしたが、リョーヴィンはそれを呼びとめた。エゴールというそのボーイは、リョーヴィンも前には気づかなかったが、今見ると、とても利口そうな、感じのいい、それになによりも人の良さそうな男であった。
「どうだね、エゴール、寝ずにいるのはたいへんだろう?」
「しかたありませんよ。勤めなんですから。そりゃ、お屋敷だと、ずっと楽ですが、そのかわり、こちらのほうが収入が多うございまして」
話を聞くと、エゴールは家族もちで、三人の男の子と、縫い物をしている娘があって、彼はその娘をある馬具屋の番頭のところへ嫁にやりたい、ということだった。
リョーヴィンはそれをきっかけにして、結婚に対する自分の考えをエゴールに話して聞かせ、結婚で何より大切なのは愛情であり、愛情さえあれば、いつでも幸福でいられるが、それは幸福というものはただ自分自身の中にあるものだから、と説明した。
エゴールは熱心に聞いていた。そして、どうやら、リョーヴィンの考えがはっきりのみこめたようだった。ところが、彼はその意見の正しさを実証するために、リョーヴィンには思いがけない話をはじめた。彼は以前、りっぱなお屋敷に奉公していた時分には、そこのだんな方に満足していたが、ここの主人はフランス人であるが、やはり心から満足しているというのであった。
《驚くほど善良な男だ!》リョーヴィンは思った。
「それじゃ、エゴール、おまえは女房をもらったとき、女房を愛していたのかい!」
「もちろんですとも」エゴールは答えた。
すると、リョーヴィンは、エゴールもまた歓喜にあふれた心持ちになって、胸に秘めている感情を、すっかり吐き出してしまいたい気分になっているのを見てとった。
「わたしの身の上も、これでなかなか変ったものでして。いや、小さい餓《が》鬼《き》の時分から……」彼はまるであくびが他人に伝染するように、どうやら、リョーヴィンの歓喜に感染した様子で、こうしゃべりだした。
しかし、ちょうど、そのとき、ベルの音が聞えた。エゴールは行ってしまい、リョーヴィンひとりになった。彼は晩餐のとき、ほとんど何も食べなかったし、スヴィヤジュスキーのところでも、お茶も夜食も辞退した。それでもなお、夜食のことなどとても考えることはできなかった。前の晩もまんじりともしなかったのに、今もって眠るどころの騒ぎではなかった。部屋の中はすがすがしかったのに、彼はむし暑さで、息がつまりそうな気がした。彼は通風口を二つともあけて、その正面のテーブルに腰をおろした。雪におおわれた屋根の陰から、鎖をつけた、模様のある十字架が見え、さらにその上には、黄色っぽい光輝を放つカペラ星を擁する三角形の御者座がしだいに高くのぼって行くのがながめられた。彼はその十字架と星とを、かわるがわるながめながら、規則正しく室内に流れこむ、すがすがしい凍《い》てついた空気を吸いこんでいた。そして夢見心地で、頭の中へわきあがってくる映像や思い出を追っていた。三時を過ぎたころ、廊下に足音が聞えたので、彼は戸口からのぞいてみた。それは顔なじみのトランプ師のミャースキンが、今クラブから帰って来たところだった。彼は暗い顔をしかめ、咳《せき》ばらいをしながら、歩いていた。《気の毒な、ふしあわせな男だ!》リョーヴィンは思った。と、その男に対する愛と憐憫《れんびん》のため、目頭《めがしら》に涙があふれてきた。リョーヴィンは彼と言葉をかわして、慰めてやりたくなった。しかし、自分が肌着一枚でいるのに気づくと、思いなおして、また通風口の前に腰をおろし、冷たい空気を浴びながら、あのおし黙ってはいるが、自分にとって深い意味を秘めた、絶妙な形をしている十字架や、しだいに高くのぼって行く黄色っぽい光輝を放つ星をながめはじめた。六時過ぎになると、掃除人夫たちがごそごそとざわめきはじめ、どこかの礼拝を知らせる鐘が鳴りはじめた。と、リョーヴィンはからだが冷えてきたのに気づいた。彼は通風口を閉じて、顔を洗い、着替えをすると、町へ出て行った。
15
町はまだ人通りがなかった。リョーヴィンは、シチェルバツキー家へ出かけて行った。表玄関のドアはしまっていて、なにもかもしんと寝静まっていた。彼は引き返して、またホテルの部屋へはいり、コーヒーを注文した。もうエゴールと交替した当番のボーイが運んで来た。リョーヴィンは、そのボーイと話がしたかったが、ベルが鳴ったので、ボーイは行ってしまった。リョーヴィンはコーヒーを飲もうとして、丸パンを口へ入れたが、そのパンをもてあまして、どうにもならぬ始末であった。リョーヴィンは丸パンを吐き出すと、外套《がいとう》を着こんで、また外へぶらつきに出かけた。彼が二度めに、シチェルバツキー家の表階段のところへ着いたのは、九時すぎであった。家の中は、たったいま起きだしたばかりで、料理人が食料品を買い出しに出かけるところだった。まだすくなくとも、二時間は我慢しなければならなかった。
前の晩から朝にかけて、リョーヴィンはまったく無意識のうちに過してしまったので、自分が物質生活の諸条件からすっかり解放されたような気がしていた。彼はまる一日なにも食べず、ふた晩もまんじりともせず、上着を脱いだまま幾時間も寒気の中で過したにもかかわらず、彼はかつて知らぬほど、生きいきとした、健康な気分を味わっていた。いや、そればかりでなく、自分がまったく肉体から超越してしまったように感じていた。彼は筋肉の力をかりずに動きまわり、どんなことでもできるような気がした。もし必要とあれば、空高く飛ぶことも、家の一角ぐらい動かすこともできるにちがいないと信じて疑わなかった。彼は残された時間を、たえず時計をのぞいたり、あたりを見まわしたりしながら、往来を歩きまわっていた。
そして、そのとき彼が見たものは、その後もう二度と再び見ることのできぬものであった。とりわけ、学校に行く子供たちや、屋根から歩道へ舞いおりた鳩《はと》や、姿の見えない人の手がショウ・ウィンドウに並べていた粉まみれの白パンなどは、彼に深い感動を与えた。その白パンも、鳩も、ふたりの男の子も、みなこの世のものとは思えないような存在であった。しかも、そうしたことがみんなほとんど同時に起った。ひとりの男の子が鳩のほうへ走って行き、にこにこしながら、リョーヴィンの顔を見た。と、鳩はばたばたと羽ばたきして、宙に震えている粉雪のあいだを、日の光に翼を輝かせながら、ぱっと飛びたった。すると窓の中から、焼きたてのパンのにおいがぷんとにおってきて、白パンが陳列された。こうしたことがそろいもそろって、つねになくすばらしかったので、リョーヴィンはあまりのうれしさに、思わず明るい感動の涙を浮べたくらいだった。新聞通りからキスローフカへとたいへんなまわり道をして、彼はまたホテルへ帰って来た。そして目の前に時計を置いて、十二時がくるのを待ちかねながら、じっと、すわっていた。隣の部屋では、なにか機械のことや詐欺についての話をしながら、朝の咳《せき》をやっていた。こうした連中は、時計の針がもう十二時に近づいているのを知らないでいるのだ。針はついに十二時をさした。リョーヴィンは表玄関へ出た。御者たちは、どうやら、なにもかも承知しているらしく、幸福そうな顔つきで、先を争って自分の馬車をすすめながら、リョーヴィンをとりまいた。リョーヴィンは、ほかの御者たちをおこらせないように、またこの次に頼むからと約束して、その中のひとりを選んで、シチェルバツキー家へやってくれと命じた。その御者は、血色のいい、頑丈《がんじょう》そうな首を、白いシャツで包み、その襟《えり》が長外套《カフタン》の下からのぞいているところがとてもしゃれていた。この御者の橇《そり》は腰が高く軽快で、その後リョーヴィンが二度と乗りあわせたことのないようなものであった。馬もすばらしく、ずいぶん駆けたくせに、まるで動いているとは思えないほどであった。御者はシチェルバツキー家を知っていた。そして、乗っている客に対して敬意を表するために、とくにうやうやしく両腕をまるくして、「どうどう」といいながら、車寄せのところで橇を止めた。シチェルバツキー家の玄関番はどうやら、なにもかものみこんでいたらしい。それは彼の目に浮んだ微笑からも、口にした次のような言葉からも、明らかであった。
「これは、これは、リョーヴィンさま、お久しぶりでございますな!」
彼はなにもかも知っていただけでなく、明らかに、小《こ》躍《おど》りせんばかりに喜んでいたにもかかわらず、わざと、その喜びをおし隠そうと努めているようだった。リョーヴィンは相手のその年寄りじみた目を見ると、自分の幸福の中に、またなにか新しいものを、見いだしたようにさえ思われるのであった。
「みなさん、お起きになったかね?」
「どうぞ! それはこちらへお置きあそばして」彼はリョーヴィンが帽子を取りに引き返そうとしたとき、にこにこしながら、そういった。これもなにか意味があるのだった。
「どなたにお取次ぎいたしましょう?」召使はたずねた。
その召使は、まだ新顔の若い伊達男《だておとこ》であったが、見るからに善良そうな、感じのいい男で、やはり、なにもかも心得ていた。
「奥さんに……いや、ご主人に……あのう、お嬢さんに……」リョーヴィンはいった。
彼が会った最初の人は、マドモアゼル・リノンであった。彼女は広間を通りぬけて来たが、その巻髪も顔も、晴ればれと輝いていた。彼がひと言ふた言話しかけると、不意に、戸の向うで、衣《きぬ》ずれの音が聞えた。と、マドモアゼル・リノンはリョーヴィンの目の前から消えて、彼は近づいて来る幸福に、思わず喜ばしい恐怖の戦慄《せんりつ》を覚えた。マドモアゼル・リノンは急にそわそわして、彼をおいたまま、別の戸口へ歩み去った。彼女が出て行くとほとんど同時に、せかせかと小刻みに嵌《はめ》木《き》床《ゆか》を歩む軽快な足音が響きはじめた。そして、彼の幸福が、彼の生命が、彼自身が、いや彼自身よりもすぐれている、彼があれほど長いあいだ願い求めていたものが、彼を目ざして、刻一刻と近づいて来るのであった。彼女は歩いているのではなく、なにか目に見えぬ力によって、彼のほうへ運ばれて来るのであった。
リョーヴィンはただ、彼女の澄みきった、真心のこもったひとみを見たばかりであった。そのひとみには、彼の心を満たしている同じ愛の喜びに、おびえたような輝きを見せていた。その二つのひとみは、もえるような愛の光で彼の目をくらませながら、いよいよ間近に輝いて来た。彼女はすぐそばへ、彼のからだにふれんばかりのところへ来て、立ち止った。彼女の両手があがったかと思うと、彼の肩におろされた。
キチイは、自分にできるかぎりのことは、なにもかもやってしまった。彼のそばへ駆けよって、おどおどしながら、しかし歓喜にもえながら、身も心も彼にゆだねた。彼はキチイを抱きしめ、接吻《せっぷん》を求めているその口に、自分の唇をおしあてた。
キチイも同じくひと晩じゅうまんじりともしないで、朝からずっと彼を待っていたのであった。父と母も、一も二もなく同意し、娘の幸福を自分たちの幸福と感じていた。彼女は彼を待ちわびていた。彼女はだれよりもさきに、自分たちふたりの幸福を、自分の口から、彼に告げたかったのである。彼女はひとりで彼を迎える用意をし、その思いつきに胸をおどらせながらも、なにか気おくれがして、恥ずかしかった。そして、自分でもどうしたらよいのかわからなかった。彼の足音と声を聞きつけると、戸の外に立って、マドモアゼル・リノンが出て行くのを待っていた。マドモアゼル・リノンは出て行った。と、彼女はもうなにをどんなふうに、などとは考えもしなければ、自分にたずねてもみないで、いきなり、彼のそばへ駆けよって、今したとおりのことを、やったのである。
「ママのところへまいりましょう!」キチイは彼の手を取って、いった。彼は長いこと、なにひとつ、いうことができなかった。それは自分の感情の気高さを、言葉によってそこなわれるのを恐れたからというよりも、むしろ、なにか口にしようとするたびに、言葉のかわりに、幸福の涙があふれ落ちそうになるのを感じたからであった。彼はキチイの手をとって、接吻した。
「ああ、これがほんとのことだろうか?」彼はやっと、低い声でいった。「きみがぼくを愛してくれるなんて、とても信じられない!」
キチイはこの『きみ』という親しい呼びかけと、自分をながめたときのおずおずした相手の様子に、思わず、にっこりと、ほほえんだ。
「そうですのよ!」彼女は意味ありげに、ゆっくりと答えた。「あたくし、とっても、幸福ですわ!」
キチイは彼の手を放さないで、客間へはいって行った。公爵夫人はふたりの姿を見ると、急に息づかいが激しくなって、いきなり、感きわまってわっと泣きくずれたが、すぐまた笑いだして、リョーヴィンの思いもかけぬ力づよい足どりで、ふたりのほうへ駆けよって来た。そして、リョーヴィンの頭を抱くと、彼に接吻し、その頬をあふれる涙でぬらしてしまった。
「これでなにもかもすみましたわ! まあ、うれしいこと! この娘《こ》をかわいがってやってくださいね。まあうれしいこと!……キチイ!」
「こりゃ、ばかに手まわしがいいじゃないか!」老公爵はわざと平静を装いながら、そういった。しかし、リョーヴィンは相手が自分のほうへ顔を向けたとき、その目がうるんでいるのに気づいた。
「わしはもうずっと前から、いつもこうなってほしいと願っていたのだ」老公爵はリョーヴィンの手をとって、自分のほうへ引き寄せながら、いった。「わしはもうあのときから、このおてんばさんがあんな考えを起して……」
「パパ!」キチイは叫んで、父の口を両手でおさえた。
「なに、もういわんよ!」老公爵はいった。「いや、わしは、じつに、じつに……うれし……ああ、わしはなんてばかな……」
老公爵はキチイを抱きしめ、その顔に、手に、さらにまた顔に接吻してから、十字を切ってやった。
こうして、キチイが父親の肉づきのいい手に長いこと優しく接吻しているのを見たとき、リョーヴィンは今まで赤の他人であったこの老公爵に、心の底から新しい愛情を覚えたのであった。
16
公爵夫人は無言のまま肘《ひじ》掛《か》けいすに腰かけて、ほほえんでいた。公爵はそのそばへ腰をおろした。キチイはなおも父の手を放さないで、そのいすのかたわらに立っていた。みんなが黙っていた。
やがて公爵夫人がまっ先に、ふだんと変りない話しぶりで、みんなのいだいていた考えや思いを実生活の問題として話題にした。と、最初のうちは、だれにとってもそうしたことが奇妙な、なにか心の痛みを覚えることのようにさえ思われた。
「それで、いつにしたらいいでしょうね? 婚約の式や、その披《ひ》露《ろう》もしなくちゃなりませんし。で、結婚式はいったいいつがよろしいでしょうね? どうお思いになって、アレクサンドル?」
「この人がいるじゃないか」老公爵はリョーヴィンを指さしながら、いった。「この問題では、この人が主人公だからな」
「いつですって?」リョーヴィンは赤くなりながら、いった。「あすですね、ぼくの意見をおききになるのでしたら、ぼくの考えは、きょう婚約の式をして、結婚式はあすということですね」
「まあ、あなた、たくさんですよ、そんなご冗談は」
「それじゃ、一週間後」
「まあ、気でも違ったんですの」
「いや、なぜです?」
「ねえ、考えてもくださいまし!」母親は相手のこの性急さに、喜びの微笑を浮べながら、いった。「じゃ、おしたくはどうするんですの」
《したくだの、なんだのって、そんなものがいるんだろうか?》リョーヴィンは、ぞっとしながら考えた。《いや、それにしても、したくだとか、婚約の式だとか、そういったさまざまのことが、まさか、おれの幸福を傷つけるわけでもあるまい? いや、どんなことだって、それを傷つけるわけにはいかないさ!》彼はキチイの顔をちらとのぞいて、したくなどという考えも、彼女の誇りを少しも傷つけていないのを見てとった。《すると、やっぱり、これも必要なんだな》彼は考えた。
「いや、ぼくにはなんにもわからないんですよ。ただ、自分の希望をいってみたまでなんですから」彼はわびるようにいった。
「それじゃ、みんなでよくご相談しましょう。そりゃ、婚約の式や披露は、今すぐにでもできますよ。それはそのとおりでございますよ」
公爵夫人は夫に近づいて、接吻すると、そのまま、出て行こうとした。しかし、老公爵は夫人を引き止めると、まるで恋する若者のように、優しく抱きかかえて、微笑を浮べながら、幾度も接吻した。老夫婦は、どうやら、一瞬、頭が混乱して、再び恋におちたのが自分たちなのか、それとも、娘だけなのか、よくわからないふうであった。公爵夫妻が出て行ってしまうと、リョーヴィンは自分の許婚《いいなづけ》のそばへ近づいて、その手を取った。彼も今は正気に返ったので、話をすることもできたし、話すべきこともたくさんあった。ところが、彼の口にしたことは、いわねばならぬこととはまったく違ったことであった。
「こうなるだろうってことは、ぼくにはちゃんとわかっていましたよ! そりゃ、一度も期待はしていませんでしたが、心の底ではいつも確信していたんです」彼はいった。「こういう宿命だったんだと信じますよ」
「でも、あたしは」キチイはいった。「あのときでさえ……」彼女はここでちょっと言葉を切ったが、例の誠実さのこもった目で、じっと彼を見つめながら、またつづけた。「あたしが自分の幸福を自分から突き放したあのときでさえ、あたしはいつも、ただあなただけを愛していましたの。でも、あのときは魔がさしたんですわ。お話ししてしまわなくちゃなりませんわ……あのときのことをお忘れになることができまして?」
「いや、ひょっとすると、あれがかえってよかったのかもしれませんね。ぼくにはあなたに許していただかなくちゃならんことがたくさんあるんです。どうしてもあなたにお話ししておかなければならないのは……」
それは、彼がキチイに打ち明けようと決心したことの一つであった。彼はいちばん最初の日から、二つのことを打ち明けようと決心していた。一つは、自分が彼女ほど純潔でないということであり、もう一つは、自分が信仰をもたない人間だということであった。これはつらいことであったが、彼はそのどちらも話さなければならないと考えていた。
「いや、今でなく、あとにしよう!」彼はいった。
「けっこうですわ、あとでも。でも、きっと、話してくださいね。どんなことでも驚きませんから。あたし、なんでもみんな知っておかなくちゃなりませんもの。もうこれで、なにもかもきまってしまったんですもの」
彼は最後までいってしまった。
「じゃ、ぼくを受けいれてくださるってことがきまったわけですね。たとえぼくがどんな人間であっても、もう拒んだりはしないってことが? そうですね?」
「ええ、ええ」
ふたりの会話は、マドモアゼル・リノンが来たので中断された。彼女は、つくり笑いではあったが、優しい微笑を浮べながら、愛する教え子を、祝福するためにやって来たのだった。まだ彼女が出て行かないうちに、もう召使たちがお祝いにやって来た。それから、親戚《しんせき》の人たちも乗りつけて来て、おきまりのうれしいてんやわんやの騒ぎがはじまった。リョーヴィンは結婚の翌日まで、この騒ぎから抜けだすことができなかった。リョーヴィンはたえずばつの悪い思いをして、退屈だった。しかし、はりつめた幸福感は、ますますつのっていくばかりであった。彼はいつも、自分の知らないことを、むやみに要求されているような気がした。そこで、彼は人にいわれるままに動いていたが、彼はそうすることによって、かえって幸福感を味わうのだった。彼は心の中で、自分の結婚はほかの人びとの結婚とはなんの共通点もないのだから、世間並みの結婚の条件は、自分の特別な幸福をそこなうものになる、と考えていた。しかし、結局のところ、彼もほかの人びとと同じことをすることになってしまったが、彼の幸福は、そのためにかえって増大するばかりで、ますますほかに類のない、いや、かつて例を見なかったような、特別なものになっていくのであった。
「さあ、今度は、みんなでお菓子をいただきましょう」マドモアゼル・リノンはいった。そこで、すぐリョーヴィンはお菓子を買いに出かけた。
「いや、じつにうれしいね」スヴィヤジュスキーはいった。「とにかく、フォミンの店から花束を買って来なくちゃ」
「ああ、いるかね?」そういって、彼はフォミンの店へ出かけて行った。
兄はまた、これから贈り物やなにやらで、莫大《ばくだい》な費用がかかるから、お金を借りておかねばならない、といった。
「ああ、贈り物がいるの?」そういって、彼はフルデのところへとんで行った。
菓子屋でも、フォミンの店でも、フルデのところでも、彼は自分が歓迎され、自分の来訪が喜ばれ、自分の幸福が祝福されているのをまざまざと見てとった。これは彼がこの数日間に交渉をもったすべての人びとと同様であった。また、とてもふしぎなことには、すべての人が彼を愛してくれたばかりでなく、以前には少しも同情してくれなかった、冷淡で無関心な人たちまでが、彼のことで有頂天になり、どんなことでも彼のいうままになって、優しく細かいことにまで気のつく態度で、彼の感情をいたわり、自分の許婚《いいなずけ》は完全無欠の人格以上の存在であるから、自分こそは世界一の幸福者であるという、彼の信念に共感を示してくれたのであった。キチイもそれと同じことを感じていた。一度ノルドストン伯爵夫人が、あたしはもっとりっぱな方を期待していたと大胆にもほのめかしたときには、キチイもかっとなって、リョーヴィンよりりっぱな人はこの世にいるはずがないと、憤然として反駁《はんばく》したので、ノルドストン伯爵夫人も、それを認めないわけにいかなくなり、それからはキチイのいるところでリョーヴィンに会うと、かならず感嘆の微笑を浮べるようになった。
彼の約束した告白は、その時期における一つの重苦しい出来事であった。彼は老公爵と相談して、その許可を受けてから、自分を悩ましたことの書かれてある日記を、キチイに渡した。彼は当時この日記を、未来の妻のためにもと思って書いていたのであった。彼を悩ました二つの事がらとは、自分が童貞でないことと、信仰をもたぬ人間であるということであった。信仰をもっていないという告白は、たいして気にもとめられずにすんだ。キチイは信心ぶかく、かつて一度も宗教の真理を疑ったことはなかったが、彼が表面的に信仰をもっていないということは、いささかも彼女の心を動揺させなかった。彼女はその愛情によって、彼の心をすっかり知りつくしていたので、彼の心の中に、自分の求めていたものを見てとっていたし、また、そうした精神状態が、無信仰といわれるべきものであっても、彼女にとっては、いっこうに平気であった。しかし、もう一つの告白に、彼女は苦い涙を流した。
リョーヴィンは、内心の戦いをいくらか感じながらも、キチイに自分の日記を渡したのである。彼は自分と彼女のあいだには、秘密などありえないし、またあるべきでないと考えていたので、そうすべきだときめたわけであった。しかし、それが彼女にどんな作用をおよぼすかということは、考えてみなかった。つまり、相手の身になって考えることを、しなかったのである。その晩、芝居へ行く前に、キチイの家を訪れ、その部屋へはいって行き、そこに、彼の与えた取り返しのつかぬ悲しみのために、目を泣きはらし、さも不幸そうな、痛々しい、しかもいじらしいキチイの顔を見たとき、彼ははじめて自分の恥ずべき過去と、彼女の鳩のような純潔さとを隔てている深淵《しんえん》を悟って、自分のした行いに愕然《がくぜん》としたのであった。
「持ってってくださいまし、こんな恐ろしい本は、みんな持ってってくださいまし!」キチイは自分の前のテーブルの上にのっていたノートをおしやりながら、いった。「なぜこんなものをあたしにお見せになりましたの!……でも、やっぱり、そのほうがよかったんですわね」彼女は相手の絶望したような顔つきに、同情を覚えて、こうつけ加えた。「でも、恐ろしいことですわ、恐ろしいことですわ!」
彼は頭をたれて、黙っていた。彼はなにひとついうことができなかった。
「ぼくを許してはくださいませんか」彼はささやくようにいった。
「いいえ、もう許しましたわ。でも、これはやはり恐ろしいことですわ!」
そうはいうものの、彼の幸福はあまりに大きかったので、この告白も彼のそうした気持にひびを入れるどころか、かえって新しいニュアンスを加えたばかりであった。キチイは彼を許した。しかし、そのとき以来、彼は前にもまして自分を妻に値しないものと感じ、道徳的に彼女の前にますます頭をたれ、自分の分不相応な幸福を、さらに高く評価するようになった。
17
晩餐《ばんさん》のあいだや、そのあとでかわされた座談の印象を、われともなく心の中で思い返しながら、カレーニンは、寂しいホテルの一室へ帰って来た。許してやってくれというドリイの言葉は、ただいまいましさを彼に感じさせたばかりであった。キリスト教の掟《おきて》を、自分の場合に適用するかしないかということは、軽々しく口にするにはあまりに重大な問題であったし、しかも、この問題はとうの昔に、カレーニンによって否定的解決をみていたからである。その晩いろいろ話された言葉の中で、彼の心をもっとも強く刺激したのは、あの愚かなお人よしのトゥロフツィンが『男ら《・・》しくやりましたよ。決闘を申し込んでやっつ《・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・》けたんですから《・・・・・・・》』といった言葉であった。みなは礼儀上から口にこそ出さなかったが、明らかに、それに同感しているようだった。
《もっとも、この事件はもう解決してしまったのだから、いまさらなにも考えることはないわけだ》カレーニンは自分にそういいきかせた。そこで、彼は目前に迫った出発と、調査の仕事のことばかり考えながら、部屋へはいると、そこまで送って来た玄関番に、召使はどこにいるか、とたずねた。玄関番は、召使ならたったいま出て行ったばかりです、と答えた。カレーニンは、お茶を持って来るように命じ、テーブルに向って腰をおろすと、フルームの案内記を取りだして、旅行のコースをあれこれ考えはじめた。
「電報が二通まいっております」帰って来た召使は、部屋へはいりながらいった。「閣下、お許しください、たった今、ちょっと表へ出ておりまして」
カレーニンは電報を受け取って、封を開いた。第一の電報は、カレーニンが前々から望んでいた地位に、ストリョーモフが任命されたという知らせであった。カレーニンはその電報をほうりだし、顔を紅潮させながら、立ちあがると、部屋の中を歩きはじめた。《Quos vult perdere dementat 》彼はそうつぶやいたが、その quos という言葉は、この任命に助力した連中を意味するものであった。彼は、自分がその地位を手に入れることができなかったことに、つまり、あきらかに、自分が除《の》け者《もの》にされたことに、腹を立てたわけではなかった。いや、彼にはただあのおしゃべりでほら吹きのストリョーモフが、ほかのだれよりもこの地位に不適任であることを、当局が見過していることが、なんとしても合《が》点《てん》がいかず、ふしぎでならなかったのである。このような任命をしたら、それこそ自分たちの威信を落すことにほかならないのに、なぜそれがわからないのであろうか?
「これもまた、なにか似たようなことだろう」彼はもう一通の電報を開きながら、にがにがしくつぶやいた。それは妻からの電報であった。青い鉛筆で書かれた『アンナ』という署名が、まず第一に彼の目に映った。『シニカケテイマス ナニトゾ オカエリクダサイ オユルシクダサレバ ラクニシネマス』と彼は読んだ。彼はにやっと笑うと、電報をほうりだした。これはなんといううそであり、奸《かん》計《けい》であることか。いや、もうそれにちがいない。最初の瞬間、彼にはそう思われた。
《あれはどんなうそでも平然といってのけるからな。もっとも、お産を控えていたから、ひょっとすると、お産からきた病気かもしれんな。いや、それにしても、いったいどんな目的があるんだろう? 赤ん坊の籍を入れて、おれの顔に泥を塗って、離婚を妨げようという気かな》彼は考えた。《だが、なんとか書いてあったな――死にかけています、か……》彼はまた電報を読みなおした。と、そこに書かれている言葉の直接的な意味が、いきなり、彼の心をうった。「もしこれがほんとうだったら?」彼はつぶやいた。《もしあれが瀕《ひん》死《し》の苦痛の中で、ほんとうに心から悔い改めているのに、おれがそれをうそだとして、帰るのを断わったら? それは残忍な行為として、みんなから非難されるばかりでなく、おれの立場からいっても、愚かなことじゃないか》「ピョートル、馬車を止めといてくれ、おれはぺテルブルグへ帰るから」彼は召使にいった。
カレーニンはペテルブルグへ行って、妻に会おうと決心した。もし妻の病気が仮病だったら、なんにもいわずに、発ってしまおう。もしほんとうに瀕死の病人であり、死ぬ前にひと目自分に会いたいと願っているのだったら、息のあるうちに会えれば許してやろうし、万一、間にあわなかった場合には、最後の義務を尽してやろう。
道中ずっと、彼は自分のすべきことについては、それ以上なにも考えなかった。
車中で一夜を過したために、疲労と不潔な感じをいだきながら、カレーニンはペテルブルグの朝霧の中を、人気のないネフスキー通りに馬車を走らせながら、自分を待ちうけていることについてはなにも考えずに、じっと前方をながめていた。彼にはそのことが考えられなかったのである。というのは、これから先のことを心の中でいろいろ考えるたびに、妻の死は自分のおかれている困難な状態を、一挙に取り除いてくれるという想像を、なんとしてもはらいのけることができなかったからである。パン売りや、まだしまっている店や、徹夜の辻《つじ》待《ま》ち御者や、歩道を掃いている庭番などが、彼の目にちらついた。そして彼は、自分を待ちうけていること、自分としてはあえて望んではならぬことだが、やはりひそかに望まずにいられないことについての考えを打ち消そうと努めながら、目にふれるそれらのものを観察していた。やがて彼はわが家の表玄関に乗りつけた。一台の辻馬車と、居眠りしている御者を乗せた箱馬車が車寄せのそばに止まっていた。玄関へはいりながら、カレーニンはまるで脳の奥ふかくから、例の決心を引っぱり出すようにして、もう一度それをたしかめてみた。それは《もしうそだったら、平然と軽蔑《けいべつ》して立ち去ること。もしほんとうだったら、しかるべく体面をつくろうこと》というのであった。
カレーニンがまだベルを鳴らさないうちに、玄関番は戸をあけた。玄関番のぺトロフは、一名カピトーヌイチと呼ばれていたが、古びたフロックコートにネクタイもつけず、スリッパをはいた奇妙な格好をしていた。
「家内はどうかね?」
「きのう、ご安産なさいました」
カレーニンは立ち止って、さっと青ざめた。彼は、自分が妻の死をどんなに期待していたかを、今こそはっきりと悟ったからである。
「で、からだのぐあいは?」
コルネイが朝の前だれかけ姿で階段を駆けおりて来た。
「たいへんお悪うございます」彼はいった。「きのうはお医者さま方がお集まりになって、診察なさいました。今もおひとり見えていらっしゃいます」
「荷物を取って来てくれ」カレーニンはいって、とにかくまだ死ぬ望みがあるという知らせに、いくらかほっとした気持になりながら、控室へはいって行った。
帽子掛けには、軍人の外套《がいとう》がかかっていた。カレーニンはそれに気づいて、たずねた。
「だれが来ているのかね?」
「お医者さまと、産婆と、ヴロンスキー伯爵でございます」
カレーニンは奥の間へはいった。
客間にはだれもいなかった。アンナの居間から、彼の足音を聞きつけて、紫のリボンのついた室内帽をかぶった産婆が出て来た。
産婆はカレーニンのそばへ来ると、一刻を争う病人のためか、いきなり、なれなれしく彼の手をとって、寝室へ引っぱって行った。
「まあ、お着きになって、ほんとうにようございました! ただもうあなたさまのことばかり、あなたさまのことばかりおっしゃいますので」産婆はいった。
「さあ、早く氷をください!」寝室の中から医者の命ずる声が聞えた。
カレーニンは妻の居間へはいった。妻のテーブルのそばの、低いいすに、ヴロンスキーが横向きに腰をかけて、両手で顔をおおったまま、泣いていた。彼は医者の声に飛びあがって、顔から両手を放したとたん、カレーニンの姿を見た。彼は夫を見ると、すっかりどぎまぎしてしまい、まるでどこかへ消え入りたい風《ふ》情《ぜい》で、両肩のあいだへ首をひっこめて、また腰をおろした。しかし、やっと勇気を出して、立ちあがると、こういった。
「あの人は死にかかっています。医者たちも絶望だといいました。私はすべてをあなたにゆだねますが、ただここにいることだけはお許しください……もっとも、それもあなたのお心しだいですが、私は……」
カレーニンはヴロンスキーの涙を見ると、いつも他人の苦しみを見るときに起る精神的混乱が、いきなりわき起るのを覚えた。そこで、彼は顔をそむけ、相手の言葉を終りまで聞かずに、急いで戸口のほうへ歩きだした。寝室の中から、なにかしゃべっているアンナの声が聞えた。その声は楽しげで、生きいきとしており、おそろしくはっきりした調子だった。カレーニンは寝室へ通って、寝台へ近づいた。アンナは、彼のほうへ顔を向けて寝ていた。その頬《ほお》は紅《くれない》にもえ、目はきらきらと輝き、小さな白い手は、寝間着の袖口《そでぐち》から飛びだして、毛布の端をまるめながら、いじくりまわしていた。見たところ、アンナは元気溌剌《はつらつ》としているばかりでなく、このうえもなく上きげんでいるように思われた。彼女は早口の甲高《かんだか》い調子で、並みはずれて正確な、感情のこもった抑揚をつけながら、しゃべっていた。
「なぜって、アレクセイは――あたしアレクセイ・カレーニンのことをいってるんですのよ(ふたりともアレクセイだなんて、まあ、なんてふしぎな恐ろしい運命でしょうね。そうじゃありません?)アレクセイなら、あたしの頼みを拒んだりなんかしませんわ。あたしも忘れてしまうでしょうし、あの人も許してくれるでしょうよ……でも、あの人はなぜ帰って来てくれないんでしょう? あの人はいい人ですわ、自分がどんなにいい人かってことを、あの人は自分で知らないんですのよ。ああ、ほんとに、気が滅入《めい》ってしまうわ! 早くお水をちょうだい! あら、そんなことしたら、あの子に毒ですわね。でも、いいわ。じゃ、乳母《うば》をつけてやってね。ええ、あたしは賛成よ、そのほうがかえっていいくらいですわ。あの人が帰って来たら、赤ちゃんを見るのが、つらいでしょうね。さ、赤ちゃんをかして」
「アンナさま、だんなさまがお帰りになりましたよ。ほら、こちらに」産婆はアンナの注意をカレーニンに向けようと努めながら、いった。
「まあ、うそばっかり!」アンナは、夫のほうを見ないで、こうつづけた。「さあ、赤ちゃんをかして、赤ちゃんをあたしにかしてちょうだいったら! あの人はまだ帰って来なかったのね。あの人は許してはくれないってあなたはいうけど、それはあの人を知らないからですよ。だれも知らないんだわ。知ってるものはあたしだけなの。それでよけいに苦しくなってしまったの。だって、あの人は、セリョージャとまったく同じ目をしているのよ。それだから、あたし、あの人の目を見ていられないの。セリョージャにご飯を食べさせたかしら? だって、みんなは忘れてしまうんですもの。でも、あの人だったら、忘れないわ。セリョージャを角《かど》の部屋へ移して、マリエットにいっしょに寝てもらってね」
不意に、アンナは身をちぢめて、黙ってしまった。そして、おびえながら、なにか打撃を待ちうけて、その打撃から身をかばうように、両手を顔のほうへ持ちあげた。夫の姿を認めたのである。
「いいえ、いいえ!」アンナはまたしゃべりだした。「あたし、あの人を恐れたりしませんわ。あたしは死ぬのが恐ろしいの。アレクセイ、もっとこっちへいらして。あたしがこんなに急いでるのは、もうあまり時間がないからなの。もういくらも生きていられませんもの。今に熱が出て来たら、もうなんにもわからなくなるんですもの。でも、今ならわかりますわ、なにもかもわかりますわ、なにもかも見えますわ」
カレーニンのしわのよった顔は、受難者のような表情になった。彼は妻の手をとって、なにかいおうとしたが、どうしても口がきけなかった。下唇《したくちびる》がぶるぶる震えていた。しかし、彼はなおも自分の興奮と戦いながら、ただときどき妻をのぞきこんでいた。そして、そちらへ目をやるたびに、彼は今までついぞ見たことがないほどかわいらしい感動的な優しさをたたえて自分をながめている妻のひとみを見いだすのだった。
「お待ちになって、あなたはご存じないんですわ……ね、お待ちになって、どうか、お待ちになって……」アンナは考えをまとめようとするように、ちょっと言葉をきった。「そう、そう、そうでしたわ。あたし、こういうことがいいたかったんですわ。どうか、びっくりなさらないでね。あたしは相変らず前と同じ女なんですの……でも、あたしの中には、もうひとりの女がいるんですの。あたしにはその女《ひと》が恐ろしいんですの。その女《ひと》があの人を好きになったんですの。それで、あたし、あなたを憎もうとしたんですけど、昔の自分が忘れられなかったんです。その女はあたしじゃありませんわ。今のあたしは、ほんとうのあたしですわ。なにからなにまですっかり。あたしはいま死にかかっています、もう死ぬんだってこと、自分でもわかりますわ。あの人に聞いてごらんなさいまし。今でも、もうなにやら大きな錘《おもり》が、手の上にも、足の上にも、指の上にものってるような気がするんですの。ほら、この指なんて――こんなに大きいでしょう! でも、こんなことはもうすぐおしまいになってしまうんですわ……ただ一つお願いしたいのは、あたしを許してくださること、なにもかもすっかり許してくださることなの! あたしは恐ろしい女ですけど、いつか婆《ばあ》やがいったように、神聖な受難者なんですの――あれはなんて名前だったかしら? いいえ、あの女《ひと》のほうが、もっと悪い女だったんですわ。あたしもローマへまいりますわ。あそこは砂《さ》漠《ばく》ですから、あたしもうだれのじゃまにもならなくなりますわ、ただセリョージャと赤ちゃんを連れて行くわ……やっぱり、あなたは許してはくださらないのね! わかりますわ。そんなこととても許すわけにいかないってこと! いや、いや、出て行ってくださいまし、あなたはあんまりいい方なんですもの!」アンナは熱っぽい片手で彼の手をおさえ、もう一方の手で彼を追いやろうとするのだった。
カレーニンの精神的混乱は、ますます激しくなってきて、今はもうそれと戦う気力もないほどになってしまった。そのとき、彼は急に、今まで精神的混乱とばかり思っていたものは、その逆に、かつて味わったことのない新しい幸福感を不意にもたらしてくれた法悦的な心境であることに気づいた。彼は自分が生涯従って行こうとしたキリスト教の掟《おきて》が、自分に敵を許し、かつ愛するように命じたのだとは思わなかったが、敵に対する愛と許しの喜ばしい感情が、彼の心を満たした。彼はひざまずいて、妻の腕の肘《ひじ》のところに頭をのせた。その腕は寝間着ごしに、彼の顔を火のように焼き、彼は子供のようにすすり泣いた。アンナは相手のはげかけた頭を抱いて、身をすりよせ、いどむような誇らしさで、目を上へ向けた。
「ほら、このとおり、この人は帰って来たんだわ、あたしにはちゃんとわかっていたのよ! じゃ、みなさん、さようなら、どうもお世話さまでした!……まあ、またあの連中がやって来たわ、なぜ行ってしまわないのかしら? さあ、早くこんな毛皮外套《がいとう》はみんなどけてくださいな!」
医者はアンナの両手をはずして、そっとまくらの上にのせ、肩まで毛布をかけてやった。彼女はおとなしく仰向きになって、輝かしいまなざしでじっと前を見つめていた。
「ねえ、あたしがお願いしているのは、あなたのお許しだけだってこと、それだけはお忘れにならないでね。そのほかのことは、なんにも望みませんわ……なぜあの人《・・・》は来ないのかしら?」アンナは戸の外のヴロンスキーのほうを向いて、いった。「さあ、こっちにいらして、こっちにいらしてくださいな! この人に手をさしのべてくださいな」
ヴロンスキーは寝台のはしに近づいたが、アンナを見ると、また両手で顔をおおった。
「顔から手を放して、この人をごらんになって、この人は聖者ですのよ」アンナはいった。「さあ、顔から手を放して、手を放してくださいな!」アンナは腹立たしげにいった。「あなた、この人の顔から手をとってくださいな。この人の顔を見たいんですの」
カレーニンはヴロンスキーの手をつかんで、恐ろしい苦悩と恥辱の表情をたたえた彼の顔から取りのけた。
「この人にお手をさしのべてくださいな。この人を許してやってくださいな」
カレーニンは、両の目からあふれ落ちる涙をおさえようともせず、ヴロンスキーに手をさしのべた。
「ああ、ありがたいことですわ、ありがたいことですわ」アンナはしゃべりだした。「もうこれでなにもかもすみましたわ。ただもうちょっと足をのばさしてくださいな。ええ、それでけっこうですわ。まあ、この花はなんて不細工にできてるんでしょう。ちっともすみれらしくないわね」アンナは壁紙をさしながらいった。「ああ、神さま、これはいつになったらけりがつくんでしょう? モルヒネをくださいな。ねえ、お医者さま! モルヒネをくださいな。ああ、神さま、ああ、苦しい!」
そういって、アンナは寝台の上で身をもがきはじめた。
主治医もほかの医者たちも、これは産褥熱《さんじょくねつ》だから、百のうち九十九までは助からない、といっていた。その日はずっと、熱と、うわ言と、意識不明の状態がつづいた。真夜中近くなると、病人はもう感覚を失ったまま、脈《みゃく》搏《はく》さえほとんど絶えてしまっていた。
一同は臨終の時を今かいまかと待っていた。
ヴロンスキーは、いったん、わが家へ帰ったが、翌朝再び、様子をききにやって来た。カレーニンは控室で彼を迎えると、いった。
「こちらにいてください。ひょっとすると、あなたに会いたいというかもしれませんから」そして、自分から彼を妻の居間へ案内した。
朝になると、アンナは、また興奮して、活気づき、思想と言葉が敏捷《びんしょう》になったが、再び人事不省になってしまった。翌々日もそれと同じ状態だったが、医者たちは望みが出て来たと言った。その日、カレーニンは、ヴロンスキーの控えている居間へはいって来ると、ドアに鍵《かぎ》をかけて、その真向いに腰をおろした。
「カレーニンさん」ヴロンスキーは、話合いのときがきたのを感じて、こう切りだした。「私は今お話しすることも、理解することもできません。どうか、お許しください! もちろん、あなたもどんなにかお苦しいでしょうが、しかし、私のほうがもっとずっと恐ろしい立場にいることを信じてください」彼は立ちあがろうとした。しかし、カレーニンはその手を取って、いった。
「どうか、私の話も聞いてください。それはぜひとも必要なことです。あなたが私のことについて誤解をなさらんためにも、今まで私を支配してきた、いや、将来とも支配するであろう感情を、あなたに説明しておかなくてはなりませんから。ご存じのとおり、私は離婚を決意して、その手続きさえはじめかけています。なにもかも申しあげますが、私は手続きをはじめるにあたって、決断がつきかねました。それは苦しみました。白状しますがあなたと妻に復讐《ふくしゅう》しようという願いが、頭を離れなかったのです。電報を手にしたときも、私は依然として同じ気持で、ここへ帰って来たのです、いや、もっとあからさまにいえば、私は妻の死を願っていたのです。ところが……」彼は自分の感情を打ち明けようか、打ち明けまいかと、思いまどいながら、口をつぐんだ。「ところが、私は妻の顔を見て、すべてを許してやりました。すると、許すことの幸福感が、私の義務をはっきりさせてくれたのです。私はすっかり許してやりました。私はもう一方の頬をさしだしたい気持です。いや、上着を剥《は》ごうとするものには、下着までくれてやりたい気持です。ただ神に向って、許すことの幸福を自分から奪わないでほしいと、ただそれだけを祈っているのです!」その目に涙があふれ、明るい、落ち着いたまなざしが、ヴロンスキーの心を打った。「これが私の立場です。あなたは私を泥の中に踏みにじることも、世間の笑いぐさにすることもできます。でも、私は妻を見捨てませんし、あなたにも、けっしてひと言たりとも非難の言葉は吐かぬつもりです」彼はつづけた。「私のなすべき義務は、私にはっきりわかっています。私はあれといっしょにいなければなりませんし、自分でもそうしようと思います。あれがあなたに会いたいといえば、お知らせいたします。しかし今のところは、少し遠ざかっておられたほうがあなたのためにもよいと思います」
彼は立ちあがった。が、わっと泣きくずれて、言葉をとぎらせた。ヴロンスキーも立ちあがろうとしたが、前かがみの姿勢のまま、上目づかいに相手の顔を見ていた。彼にはカレーニンの気持が理解できなかった。しかし、彼はそれがなにかしら崇高な、自分の世界観などではとてもうかがいしれぬ境地であるかのように感じたのであった。
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カレーニンと話し合ったあとで、ヴロンスキーはカレーニン家の表玄関へ出たが、いったい自分はどこにいるのか、これからどこへ行かなければならないのか、それも歩いてか、車に乗ってか、それを一心に思いだそうと努めながら、ちょっと足を止めた。彼は自分がはずかしめられ、卑下させられながら、しかもその屈辱をそそぐ可能性さえ奪われた罪ぶかい人間であるように感じた。彼はまた、自分が今まであれほど誇らしく、軽々と歩んでいた軌道から、はじきだされたように感じた。あれほど強固なものに思われていた自己の生活の習慣や規則が、いきなり虚偽の、通用しないものに思われてきた。いや、今までは自分の幸福を妨げる偶然の、いささかこっけいな、みじめな存在だと思われていた裏切られた夫が、とつぜん、ほかならぬ彼女自身の手によって、敬虔《けいけん》の念を感じさせるほどの高みに持ちあげられてしまったのである。しかも、その夫は高みにのぼってしまうと、もはや腹黒い人間でも、偽善的な人間でも、こっけいな人間でもなくなって、善良で、素直な、神《こう》々《ごう》しいくらいの人間になってしまったのである。そのことはヴロンスキーも、感じないわけにはいかなかった。ふたりの役割が急に変ってしまったのである。ヴロンスキーは相手の高潔さと自分の卑劣さを、相手の正しさと自分の不正とを痛感した。彼は、夫が苦悩の中にありながらも寛容なのに比べて、自分はこうした虚偽の中にあっても卑劣で、くだらないことを痛感した。しかも、彼が今まで不当にも軽蔑《けいべつ》していた相手に比べて、自分が卑小であるという意識も、彼の悲哀のごく一部分を占めているにすぎなかった。彼が今自分を言葉につくせぬほど不幸に感じていたのは、最近冷《さ》めてきたように思われていたアンナヘの情熱が、永久に彼女を失ってしまったと知った今になって、かつてないほど激しくもえてきたからであった。彼は病気のあいだずっとアンナを見守ってきて、彼女の魂を知るにおよんで、これまで自分は彼女をほんとうに愛していたのではない、と思うようになった。しかも、彼が彼女のほんとうの姿を知り、真実の愛情で愛しはじめた今となって、彼は彼女の前ではずかしめを受け、ただ自分についての恥ずべき記憶を彼女の心にとどめて、永久に彼女を失ってしまったのである。なによりもたまらないのは、カレーニンが、恥じ入っている自分の顔から両手を引き放した、あの、こっけいな恥さらしな場面であった。彼はカレーニン家の表玄関に、途方にくれたように突っ立ったまま、なにをしていいかわからなかった。
「辻馬車をお呼びいたしましょうか?」玄関番がたずねた。
「ああ、呼んでくれ」
三晩も眠らずに夜を過して、わが家へ帰ったヴロンスキーは、着換えもせずに、両手を組み合せて、その上に頭をのせ、長いすにうつ伏せになった。頭が重かった。まったく奇怪な想像や追憶や想念が、異常な速度と鮮明さで、入れかわり立ちかわり浮んできた。すなわち、自分が病人に与えようとした薬を思わず匙《さじ》からこぼしたかと思うと、それが産婆の白い腕に変ったり、また寝台の前にひざまずいているカレーニンの、奇妙な格好が浮んだりするのだった。
「眠ることだ! 忘れることだ!」彼は、疲れて眠くなれば、すぐにでも寝つける健康な人間の落ち着いた自信をもって、こうつぶやいた。そして事実、その瞬間に頭が混乱してきて、彼は忘却の深淵《しんえん》の中へ落ちて行った。意識されない生命の波が、彼の頭の上に集まったかと思うまもなく、とつぜん、まるでもっとも強力な電流が彼の身内に流れたかのようであった。彼はばねのきいたソファの上でからだごととび上がったほど、びくっと激しく身ぶるいし、両手をつっぱり、おびえたように、膝《ひざ》をついてとび起きた。その目は、まるで一睡もしなかったように、大きく見ひらかれていた。一分前まで感じていた頭の重さも、手足のだるさも、たちまち、消えてしまった。
《あなたは、私を泥の中へ踏みにじることもできるのです》彼はカレーニンのそういう言葉を聞き、その姿を目の前に見た。さらに、熱病患者のように頬を紅潮させ、目をぎらぎら輝かして、優しく愛情をこめて、自分ではなくカレーニンを見つめているアンナの顔を見た。いや、彼はまた、カレーニンが彼の顔から手を取りのけたときの、想像してみても愚かしくこっけいな自分の姿を見た。彼は再び両足を伸ばし、前と同じ姿勢でソファの上に身を投げだすと、目を閉じた。
《眠ることだ! 眠ることだ!》彼は心に繰り返した。しかし、いくら目を閉じてみても、あの記憶すべき競馬の夕べに見たアンナの顔が、なおいっそうはっきりと目の前に浮んでくるのだった。
「こんなことはもうなくなってしまったし、将来ともないんだ。あの人はこんなことを、思い出からぬぐい去ろうとしているんだ。でも、おれはこれがなくちゃ生きていけないんだ。どうしたら和解ができるだろう、ああ、いったい、どうしたら和解ができるだろう!」彼は声に出していうと、無意識にその同じ言葉を繰り返しはじめた。そう同じ言葉を繰り返すことは、頭の中に群がっているような気がした新しい影像や思い出がわき出てくるのを、おさえる力となった。しかし、同じ言葉の繰り返しが新しい影像の誕生をおさえていたのは、ほんの束《つか》の間《ま》であった。またしても、かつての幸福だった瞬間と、同時につい先ほどの屈辱が、目まぐるしいほどの早さで、次々と頭に浮んできた。《手を放して》アンナの声がそう話しかける。と、彼は手を放し、自分の顔の屈辱的な愚かしい表情をまざまざと感じるのだった。
彼はなおも身を横たえたまま、ひとかけらの望みもないのを感じながら、しかしなおも眠りにつこうと努めた。そして、なにか考え事をして偶然生れた言葉を、ささやき声でたえず繰り返しながら、それによって新しい影像が浮ぶのを、おさえようと願った。彼は耳を澄ました。と、奇妙な、気ちがいじみたささやき声で繰り返している自分の言葉が、耳にはいった。《値うちを知らなかったんだ、利用することができなかったんだ。値うちを知らなかったんだ、利用することができなかったんだ》
《これはどうしたことだ? それとも、おれは気が狂っているのだろうか?》彼は心につぶやいた。《そうかもしれんな。人はなんだって気が狂ったり、ピストル自殺をするんだろう?》そう自問自答して、目をあけると、兄嫁のワーリヤの刺繍《ししゅう》したクッションが、頭のそばにあるのを見て、はっとした。彼はクッションの房《ふさ》にちょっとさわってみて、ワーリヤのことや、最後に彼女と会ったときのことを、思いだそうと努めた。しかし、なにかほかのことを考えるのは苦しかった。《いや、とにかく、眠ることだ!》彼はクッションをぐっと引き寄せて、頭をそれにおしつけた。しかし、強《し》いて努力をしなければ、目をつぶっていられなかった。彼はとび起きて、すわりなおした。「これはおれにとって、もうけりがついてしまったのだ」彼はつぶやいた。《これからどうしたらいいか、とっくり考えなくちゃならない。今はなにが残っているんだろう?》彼はアンナに対する愛情を除いた自分の生活について、素早く心の中で考えてみた。《名誉心か? セルプホフスコイか?社交界か? 宮廷か?》彼はそのどれ一つにも心をひかれなかった。それらはすべて、以前はなんらかの意味をもっていたが、もう今となっては、そんなものはなにひとつ意味をもたなくなってしまった。彼はソファから立ちあがって、フロックコートを脱ぎ、ベルトをはずして、もっと楽に息をするために、毛ぶかい胸をひろげて、部屋の中を歩きはじめた。《人はこうやって、気ちがいになるんだな》彼は繰り返した。《いや、こんなふうにして、ピストル自殺をやるんだな……屈辱を感じないために》彼はゆっくりつけ足した。
彼は戸口に近づいて、ドアをしめた。それから、目をすえたまま、歯を食いしばって、テーブルのそばへ行くと、ピストルを手にとり、ちらっとながめて、装填《そうてん》してある銃の安全装置をはずし、じっと考えこんだ。二分ばかり、張りつめた思いを顔に表わしながら、頭をたれ、ピストルを握りしめたまま、じっと棒立ちになって、考えていた。「もちろんだ」彼はさながら、論理的に筋道のたった慎重な思考が、一点の疑いもない結果を導いたように、こうつぶやいた。もっとも、実際のところ、彼にとって確信に満ちたこの『もちろんだ』も、一時間ばかりのあいだに、もう数十回も繰り返した思い出や想像の堂々めぐりを、さらにもう一度繰り返した結果にすぎなかった。それは相変らず、永遠に失われた幸福の思い出であり、将来の生活がすべて無意味だという想像であり、やはり自分の屈辱を意識する気持であった。これらの想念や感情の順序もまた同じであった。
《もちろんだ》彼は自分の考えが、例の思い出と思考の魔法の輪を、三度めにたどりはじめたとき、こう繰り返した。そして、ピストルを左の胸にあて、こぶしの中でそれを握りつぶそうとでもするように、ぐっと手いっぱいの力をこめて、引き金を引いた。彼は発射の音を耳にしなかったが、胸に強い衝撃を受けて、足をすくわれた格好であった。彼はテーブルの端につかまろうとして、ピストルを落し、ちょっとよろめいたかと思うと、床に尻餅《しりもち》をつき、驚いてあたりを見まわした。彼は下のほうからテーブルの曲った足や、紙くず籠《かご》や、虎《とら》の皮の敷き物などを見たので、われながら自分の部屋を見まちがえる思いだった。靴をきしませながら急ぎ足で客間を歩いて来る召使の足音に、彼はわれに返った。彼は懸命になって考え、自分が床の上にすわっていることを納得し、虎の皮の敷き物や自分の手についている血を見て、自分がピストル自殺をはかったことを悟った。
「みっともない! しくじったのだ」彼は片手でピストルを捜しながら、こう口走った。ピストルはすぐ目の前にあったのに、彼はもっと先のほうを捜していた。彼はなおも捜しながら、反対の方向へ身を伸ばそうとしたが、からだの平均を失い、血を流しながら、その場にばったりと倒れてしまった。
頬ひげをはやしたおしゃれの召使は、いつも自分の気の弱さを、知合いのものにこぼしていたが、床の上に倒れている主人の姿を見ると、すっかり度《ど》胆《ぎも》をぬかれてしまい、出血の手当てもしないで、助けを求めに飛びだして行った。一時間後に、兄嫁のワーリヤが駆けつけて来た。ワーリヤは八方へ使いを出したので、一度に三人も駆けつけて来た医者の助けをかりて、病人を寝台に寝かしつけ、彼女はそのまま看護のために居残った。
19
カレーニンの犯した誤りは、彼が妻に会う心がまえをしたとき、妻の悔悟が真実なものであり、自分がその罪を許し、しかも妻が死なずにすむ、という偶然の場合を予想しておかなかったことにあった。この誤りは、彼がモスクワから帰ってから二カ月もたつと、あますところなく明らかになった。しかも、彼の犯した誤りは、この偶然を予想しなかったためばかりでなく、彼は瀕死の妻と会うその日まで、自分の本心を知らなかった、ということにも起因していた。彼は妻の病床で、生れてはじめて、優しい思いやりの感情に身をまかせてしまった。この感情は彼がいつも、他人の苦痛を見るたびに、呼びさまされたものであり、以前は有害な弱点として恥じていたものであるが、妻に対する哀れみと、自分が妻の死を願ったという後悔の思いと、それになによりも、許すということの喜びのために、彼は急に、おのれの苦悩が癒《いや》されるのを覚えたばかりでなく、以前には一度も味わったことのない心の安らぎすら感じたのであった。彼は思いがけなく、自分の苦悩の原因そのものが、精神的な喜びのみなもとに変ったのを感じた。いや、彼が非難したり、責めたり、憎んだりしていたときには、とても解決することができないように思われたものが、許しかつ愛しはじめるや、たちまち、単純明白なものになってくるのを感じた。
彼は妻を許し、その苦悩と悔悟のために、妻を哀れんだ。彼はヴロンスキーを許し、彼が絶望的な行為をしたといううわさを耳にしてからは、いっそう彼を哀れんだ。彼はまたむすこをも、以前にまして哀れんだ。そして、今まではほとんど子供をかまってやらなかったことを、自分に責めるありさまであった。しかし、新たに生れた女の子に対しては、ただ哀れみばかりでなく、優しさのいりまじった、なにか特殊な感情をいだいていた。はじめのうち彼は単なる同情の念から、実の娘でもない、母親の病気で放りだされて、もし彼が心配しなかったら、死んでしまったかもしれない、生れたばかりの弱々しい女の子の世話をやきはじめた。彼はこの女の子を愛しはじめたのを、自分では気づかなかった。彼は一日に何度も、子供部屋へ行き、長いことそこにすわりこんでいたので、はじめはご主人の前でおどおどしていた乳母《うば》や婆やも、じきに慣れっこになったくらいであった。彼はときには、三十分あまりも、産《うぶ》毛《げ》におおわれて、しわだらけなサフラン色がかった赤ん坊のかわいい寝顔を、黙ったままのぞきこんで、妙にしかめた額の動きや、指を握りしめた、ふっくらした小さな手の甲で、目や鼻筋をこすっている様子を、じっと観察することがあった。そんなとき、カレーニンは自分の心がまったく落ち着いていて、自分自身にぴったり調和しているのを感じ、自分の境遇になにひとつ異常なところも、またなにひとつ変更しなければならないところも認めなかった。
ところが、時がたつにつれて、彼には、こうした境遇が今の自分にとってどんなに自然であろうとも、世間は自分をここに長くは止めてくれないだろう、ということがしだいにはっきりとわかってきた。彼は自分の魂を導いている幸福な精神力のほかに、彼の生活を導いている、もう一つの荒々しい力があり、それは前者と同程度に、いや、それ以上に支配的な力であり、この力は、自分の望んでいる和《なご》やかな安らぎを与えてはくれまいと感じた。彼は、みんながけげんそうな、びっくりした顔つきで自分をながめ、自分を理解してはくれないで、なにものかを自分に期待しているのを感じた。とりわけ、彼は、妻に対する自分の関係のもろさや不自然さを痛感した。
死を間近にして、アンナの内部に生れた心のやわらぎが去ってしまうと、カレーニンはアンナが自分を恐れ、自分をはばかり、自分の顔をまともに見つめることができないでいるのに気づいた。アンナはなにか彼にいいたいのに、それをいいだしかねているようで、やはりふたりの関係がこのままつづくわけにいかないのを予感して、なにやら彼に期待しているようであった。
二月の末に、やはりアンナと名づけられた赤ん坊が、たまたま病気になった。カレーニンは朝のうちに子供部屋へ行って、医者を呼ぶようにさしずをし、役所へ出かけて行った。彼は仕事をおえて、三時すぎに家へもどった。控室へ通ると、金モールに熊《くま》の皮の飾り襟《えり》をつけた美男の召使が、スピッツの毛皮で仕立てた白い婦人外套を手にして立っているのが目に映った。
「だれが見えているのかね?」カレーニンはたずねた。
「トヴェルスコイ公爵夫人でございます」召使は答えたが、カレーニンには、相手がにやっと笑ったような気がした。
この耐えがたい数カ月のあいだずっと、彼は社交界の知人、とりわけ、婦人たちが、自分たち夫婦のことに特殊な関心を示すようになったことに気づいていた。彼は、これらすべての知人が、なにかうれしいことがあるのに、それをやっとの思いでこらえているように思われた。彼はそれと同じ喜びの色をかつてあの弁護士の目にも見たし、今またこの召使の目にも認めたのであった。まるでみんなは、だれかを嫁にでもやるように、有頂天になっているみたいであった。そして彼に出会うと、やっとのことでその喜びの色を隠して、アンナの健康をたずねるのであった。
トヴェルスコイ公爵夫人の訪問は、この夫人と結びついた思い出からも、また、もともとこの夫人がきらいだというせいもあって、カレーニンには不愉快だった。そこで、彼はまっすぐに子供部屋へ通った。最初の子供部屋ではセリョージャが、テーブルにもたれかかって、両足をいすにのせ、なにかおもしろそうに、ひとり言をいいながら、絵を描いていた。アンナの病気中に、フランス婦人と替ったイギリス婦人は、肩掛けを編みながら、少年のそばにすわっていたが、あわてて立ちあがると、軽く会釈して、セリョージャを引っぱった。
カレーニンは片手で少年の髪の毛をなでて、妻の健康をたずねる家庭教師の問いに答えてから、医者はベビイのことをなんといったか、ときいた。
「お医者さまはなにも心配なことはないから、お湯をつかわせるように、とおっしゃいました」
「それにしては、いつもむずかってるじゃないか」カレーニンは隣の部屋から聞える赤ん坊の泣き声に耳を傾けながら、いった。
「あたくしは、乳母がよくないのではないかと思いますが、だんなさま」イギリス婦人はきっぱりといった。
「なぜそう思うんだね?」彼は歩みを止めながらきいた。
「ポール伯爵夫人のところでも、これと同じことでございましたので、だんなさま。いろいろと治療をしてみたのでございますが、ただ、赤ちゃんのお腹《なか》がすいていただけでございましたよ。乳母のお乳が足りませんで」
カレーニンはじっと考えこんで、その場にしばらくたたずんでいたが、次のドアへはいって行った。赤ん坊は乳母の手の中で身をちぢめ、頭をそらせながら、さしだされたふっくらした乳房をくわえようともしなければ、その上にかがみこんでいる乳母と婆やがふたりがかりで、いくら口であやしてみても、いっこうに泣きやもうとはしなかった。
「相変らずよくならないかね?」カレーニンはたずねた。
「とてもおむずかりなんでございますよ」婆やはささやくような声で答えた。
「ミス・エドワードの話によると、ひょっとしたら、乳母のお乳が足りないのじゃないか、というんだがね」彼はいった。
「あたくしもそう思いますよ、だんなさま」
「それじゃ、なぜそういわないんだね?」
「でも、どなたに申しあげればよろしいんでございますか? 奥さまはずっと、お加減がすぐれませんし」婆やは不服そうにいった。
婆やは家に古くからいる召使であった。しかも、カレーニンはこの単純な言葉のうちにさえ、自分の立場に対するあてこすりがあるような気がした。
赤ん坊はからだをゆすり、声をからしながら、前よりいっそう激しく泣きだした。婆やは、さも困ったといわんばかりに片手を振ると、そのそばへかけ寄り、乳母の手から抱きとって、歩きながらあやしはじめた。
「とにかく乳母を医者に診《み》てもらう必要があるな」カレーニンはいった。
見た目は健康そうな、めかしこんだ乳母は、暇を出されはしないかと驚いて、なにやら口の中でぶつぶついうと、大きな乳房を隠しながら、あたしの乳の出を疑うなんてといわんばかりに、にやっとさげすむような笑いをもらした。カレーニンはこの薄笑いの中にも、自分の境遇に対する嘲笑《ちょうしょう》を見てとった。
「おかわいそうな赤ちゃんですこと!」婆やは泣きやませようとして口であやしながら、そういって、また歩きつづけた。
カレーニンはいすに腰をおろし、苦しそうな、しょげた顔つきで、あちこち歩きまわる婆やをながめていた。
ようやく泣きやんだ赤ん坊を、縁の高い小さな寝台に寝かしつけ、まくらをなおしてから、婆やがそばを離れたとき、カレーニンは腰をあげ、そっと爪先《つまさき》立ちで赤ん坊のほうへ近づいた。しばらくのあいだ彼は黙ったまま、相変らずしょげた顔つきで赤ん坊をながめていた。しかし、不意に、微笑が額の髪の毛や皮膚を震わせて、その顔に浮んできた。彼は相変らず静かな足どりで子供部屋を出て行った。
食堂で彼はベルを鳴らし、はいって来た召使に、もう一度医者を呼ぶように命じた。彼にはあんなにすばらしい赤ん坊に少しも心を配らなかった妻が、いまいましく思われた。こんないまいましい気持で、妻のところへ行く気はしなかったし、それに公爵夫人ベッチイにも会いたくなかった。しかし、アンナがなぜいつものしきたりと違って、彼が自分の部屋へ来ないのかと、ふしぎに思うといけないと考え、わざと自分の気持をはげましながら、寝室へ向った。柔らかいじゅうたんを踏んで戸口に近づいたとき、彼はふと、耳にしたくなかった話を聞いてしまった。
「そりゃ、あの人が行ってしまうのでさえなかったら、あたしだってあなたがお断わりするのも、あの人が遠慮なさるのも、わかりますけれどもね。でも、ご主人は、そんなことは超越していらっしゃるはずじゃありませんか」ベッチイはいった。
「あたくし、主人のためじゃなくて、自分のためにいやなんですの。その話はもうしないでくださいな!」アンナの興奮した声が答えていた。
「そうですか。でも、あなたのためにピストル自殺までしようとした人に、お別れのあいさつがしたくないなんてことはないでしょうに……」
「だから、かえっていやなんですの」
カレーニンはぎょっとした、すまなさそうな表情をして歩みを止め、そのままそっと引き返そうとした。しかし、それは卑しむべき行為だと考えなおして、またまわれ右をし、咳《せき》ばらいをひとつして、寝室へ足を向けた。話し声がぴたりとやんだところへ、彼ははいって行った。
灰色のガウンを着たアンナは、短く切った黒い髪を太いブラシのように、丸い頭の上にそろえて、寝いすに腰かけていた。夫の姿を見たときのいつもの例にもれず、その顔からは急に生気が消えた。アンナは頭をたれて、不安そうにベッチイを振り返った。ベッチイは、流行の最先端をいく服装で、まるでランプの笠《かさ》のような帽子は、頭の上にふんわりとのっかっていたし、鳩《はと》羽《ば》色《いろ》の服にはくっきりした斜めの縞《しま》が、胴の部分では一方から、スカートの部分では別のほうに向って走っていた。夫人はやせた上半身をまっすぐにそらして、アンナと並んですわっていたが、首を横にかしげて、あざけるような薄笑いを浮べて、カレーニンを迎えた。
「まあ!」夫人は、びっくりしたように、いった。「お家にいらっしゃるなんて、ほんとうにうれしゅうございますわ。あなたはどこへもおいでになりませんから、あたし、アンナさんのご病気以来、ぜんぜんお目にかかりませんでしたもの。でも、すっかりお聞きしましたの――あなたの優しいお心づかいを、ええ、ほんとに、すばらしいだんなさまでいらっしゃいますわ!」夫人はまるで妻に対する彼の態度に対して、寛容の勲章でも授けるかのように、意味ありげな、優しい顔つきでいった。
カレーニンは冷やかに会釈した。そして、妻の手に接吻《せっぷん》すると、ぐあいはどうかとたずねた。
「いくらかいいようでございますわ」アンナは夫の視線を避けながら、答えた。
「それにしても、どうも、熱病患者のような顔色をしているね」彼は『熱病』という言葉に力を入れながら、いった。
「あまりおしゃべりしすぎたせいでしょうね」ベッチイは口をはさんだ。「どうやら、あたしのほうが身勝手なような気がいたしますわ。もうお暇《いとま》しますわ」
夫人は立ちあがった。しかし、アンナは急に頬をそめて、急いで相手の袖をつかんだ。
「いえ、もう少しいてくださいな、お願いですから。あなたにお話があるんですの……いえ、あなたにですの」アンナはカレーニンのほうを振り向いたが、その首筋から額まで、さっと紅にそまった。「あたし、なにひとつ、あなたに隠し事をしたくありませんし、そうもできませんから」アンナはいった。
カレーニンは指をぽきぽき鳴らして、頭をたれた。
「ベッチイのお話ですと、ヴロンスキー伯爵は今度タシケントへお発《た》ちになる前に、うちへお別れに来たいといってらっしゃるんですって」アンナは夫のほうを見なかった。そして、これがどんなにつらいことであっても、一気にいってしまおうと、明らかに急いでいるふうであった。「あたしはお会いできませんていいましたの」
「まあ、さっきはだんなさまのお心しだいだ、とおっしゃったじゃありませんか」ベッチイが訂正した。
「いいえ、違いますわ。あたしはあの人にお会いできません。そんなことをしてもなんにもならないことですもの……」アンナは不意に言葉をきって、たずねるような目つきで、夫をちらっとながめた(彼は妻のほうを見ていなかった)。「一口にいって、あたし、いやなんですの……」
カレーニンは身を乗りだして、妻の手を取ろうとした。
アンナはとっさに、自分の手を求めている、太い血管のふくれあがった、しっとりした夫の手から、さっと自分の手をひっこめた。しかし、どうやら、むりに自分をおさえつけた様子で夫の手を握った。
「そんなに信頼してくれるとはじつにありがたいことだが、しかし……」彼は困惑といまいましさを覚えながら、いった。自分ひとりの場合なら、簡単明瞭《めいりょう》に解決できることが、トヴェルスコイ公爵夫人がいるので、はっきり判断がつきかねるのを、自分でも感じていたからである。この夫人は、社交界の注視の中で彼の生活を導き、彼が愛と許しの感情に身をゆだねることを妨げている、あの粗暴な力の権《ごん》化《げ》のように思われた。彼はトヴェルスコイ公爵夫人のほうをながめながら、言葉をきった。
「それじゃ、さよなら、お大事に」ベッチイは席を立ちながら、いった。夫人はアンナに接吻すると、出て行った。カレーニンは夫人を見送りにたった。
「カレーニンさん! あなたはほんとにお心の広い方でいらっしゃいますのね」ベッチイは小さな客間に立ち止って、もう一度、とくにきつく彼の手を握りしめながら、いった。「あたしは第三者にすぎませんけれど、奥さんが好きなだけでなくあなたも尊敬しておりますので、どうか、ひとついわせていただきとうございます。あの人を来させてくださいまし、ヴロンスキーさんは名誉の権化ともいうべき方で、今度タシケントへ行っておしまいになるんですもの」
「いろいろお心づかいやご忠告には感謝しております。しかし、あれがだれかに会う会わないの問題は、あれが自分できめるでしょう」
彼は例によって眉《まゆ》をつり上げて、威厳をつけながら、そういった。しかし、すぐに、彼はどんな言葉を吐いたところで、自分のような境遇では威厳などありえない、ということを悟った。そのことはまた、ベッチイが彼の言葉を聞き終るや、ちらっと彼を見たときの、あのおさえつけたような、毒のある、あざけるような薄笑いによっても、それと知ることができた。
20
カレーニンは広間でべッチイに別れのあいさつをして、妻のところへ引き返して来た。アンナは横になっていたが、彼の足音を聞きつけると、急いでもとの姿勢に身を起し、おびえたように彼をながめた。彼はアンナが泣いているのを見てとった。
「おまえに信用されて、じつにありがたい」彼はベッチイのいる前でフランス語でいったせりふを、もう一度やさしくロシア語で繰り返して、妻のそばに腰をおろした。彼がロシア語で話をはじめ、妻に対して『おまえ』と親しく呼びかけたとき、その『おまえ』という呼び方が、たまらなくアンナをいらいらさせた。「また、おまえの決心もありがたく思っている。私もヴロンスキー伯爵は任地に向うのだから、ここへやって来る必要は少しもないと考えている。ただ……」
「ええ、もうそう申しあげてしまったんですから、いまさらなにもそんなことを繰り返していうことはないじゃありませんか?」アンナはいらだたしさをおさえることができずに、いきなり、そうさえぎった。
《そんな必要は、少しもないですって》アンナは考えた。《自分の愛している女のところへ、別れのあいさつに来る必要は少しもないんですって。その女のために自殺までしようとして、一生を台なしにしてしまったのに。それに女のほうでも、その人なしでは生きていかれないというのに。そんな必要は少しもないんですって!》アンナは唇を食いしばり、血管の浮き出ている夫の手に、そのぎらぎら輝く目を落した。夫はその手をゆっくりとこすりあわせていた。
「こんなお話はもう二度としないようにいたしましょう」アンナはいくらか落ち着いて、つけ足した。
「この問題の解決はおまえにまかせたのだが、私としてはひじょうにうれしいよ、だって……」カレーニンはいいかけた。
「あたしの望みが、あなたのお望みと同じだってことをおっしゃるんでしょう」アンナは早口に終りまでいってのけた。夫の話すことはすっかり自分にわかっているのに、相手がいかにものろのろとしゃべるのにいらいらしてしまったのである。
「そうだとも」彼は相槌《あいづち》を打った。「それにしても、トヴェルスコイ公爵夫人は、ずいぶん厄介な家庭内の問題にまで、よけいな口だしをする人だね。なにしろ、あの人は……」
「あたしはあの人が世間でなんといわれていようと、ほんとうにしませんわ」アンナは素早くいった。「あの人が心からあたしを愛してくださっていることは、よくわかりますもの」
カレーニンは溜息《ためいき》をついて、口をつぐんだ。アンナは、夫に対する肉体的な嫌《けん》悪《お》の情に悩まされながら、じっとその顔をながめ、いらいらしてガウンの房をいじっていた。アンナは夫に対してそんな嫌悪の情をいだく自分を責めてはみたが、どうしてもそれをおさえることができなかった。いまや彼女が望んでいるのはただ一つ――いやな夫から一刻も早くのがれたいということであった。
「今医者を呼びにやったよ」カレーニンはいった。
「あたし、もう元気ですのに。なぜお医者さまなんかお呼びしたの?」
「いや、赤ん坊があまり泣くんでね。乳母のお乳が足りないからというので」
「それじゃ、なぜあたしがお乳をやるのを、許してくださいませんでしたの、あんなにお願いしましたのに。もう、どうでもけっこうですけど。(カレーニンは、この『もう、どうでもけっこうですけど』が、なにを意味するかを悟った)あれはまだほんの赤ん坊ですから、それじゃ干ぼしになってしまいますわ」アンナはベルを鳴らして、赤ん坊を連れて来るようにいいつけた。「あたしがお乳をやりたいとお願いしたのに、それを許してくださらないで、今になってあたしをお責めになるんですのね」
「なにも責めてはおらんよ……」
「いいえ、責めていらっしゃいますわ! ああ、なんだってあたしは死ななかったんでしょう!」そういって、アンナは泣きくずれた。「許してくださいまし、あたし、気がいらいらしてるもんですから。あたしがいけなかったんですわ」アンナはわれに返っていった。「でも、もう出て行ってください……」
「いや、もうこのままではとてもやっていけぬわい」カレーニンは妻の部屋を出ると、きっぱりとこうつぶやいた。
社交界の手前、彼の立場がもうのっぴきならぬものであることや、彼に対する妻の憎《ぞう》悪《お》や、つまり、一般的にいって、彼の気持とは正反対に彼をひきずりまわして、おのれの意思の実行と妻に対する彼の態度の変更を求めている、あの荒々しい神秘的な力の偉大さが、きょうほどはっきりと彼の前に姿を現わしたことはなかった。彼は世の中のすべての人びとと妻とが、自分に対してなにものかを要求しているのを、はっきりと見てとったけれども、それがいったいなんであるかは、どうしても理解することができなかった。そのために、彼の心には邪念が生れて、その落ち着きをも寛容な態度をも破壊してしまうのを感じた。彼は、アンナにとってヴロンスキーとの関係を絶つことが最善の道であると思ったが、もし世間のすべての人びとがそれを不可能とするなら、自分としてはもう一度ふたりの関係を許してやってもいいと思っていた。ただその場合は、子供たちをはずかしめたり、子供たちを失ったり、現在の状態を変えたりさえしなければよいと考えていた。たとえそれがどんなによくないことであろうとも、離婚よりはまだましであった。離婚ともなれば、妻は救いのない恥さらしな境遇におちいることになるし、彼自身としても自分が愛していたいっさいを失ってしまうわけであった。それにしても、彼はつくづく自分の無力を感じた。彼は、みんなが自分の敵にまわり、今の彼の目にはきわめて自然で、良いと思われていることの実行を妨げ、ほんとうは悪いことでありながら、みんなの目には当然と思われることを、彼に強制させるであろうことを、予感したのである。
21
ベッチイがまだ広間を出るか出ないうちに、新しい牡蠣《かき》の入荷したエリセーエフの店からたった今やって来たオブロンスキーは、戸口のところで彼女に出会った。
「やあ! 公爵夫人! これはちょうどいいところでお目にかかれましたな!」彼は話しかけた。「いまお宅へうかがったところですよ」
「せっかくお目にかかれても、もう時間がありませんの。だって、もうお暇《いとま》いたすところですから」ベッチイは微笑を浮べて、手袋をはめながら答えた。
「いや、公爵夫人、まあ、手袋をおはめになるのはお待ちください。とにかく、お手に接吻させてくださいよ。ご婦人の手に接吻するという古い習慣の復活ほど、ありがたいことはありませんからね」彼はベッチイの手に接吻した。「じゃ、いつお目にかかれるでしょうな?」
「そんなことをおっしゃる資格はありませんわ」ベッチイはほほえみながら答えた。
「いや、大いにありますとも。だって、私はすっかりまじめな人間になったのですから。なにしろ、自分の家庭ばかりでなく、他人《ひと》の家庭までも丸くおさめようとしているんですからね」彼は意味ありげな面持ちでいった。
「まあ、それはほんとにけっこうでございますわ!」ベッチイはすぐにそれがアンナのことだと悟って、そう答えた。それから、ふたりは広間へ引き返して、その片すみにたたずんだ。
「あの人はアンナをだめにしてしまいますわ」ベッチイは意味ありげなささやき声でいった。「とてもたまりませんわ、とてもたまりませんわ……」
「あなたがそう思ってくださるとは、じつにうれしいですな」オブロンスキーはまじめな受難者らしい同情の色を浮べて、首をひねりながらいった。「私もそのために、ペテルブルグへやって来たようなわけですからな」
「町じゅうもそのうわさでもちきりなんですからね」ベッチイはいった。「あんな境遇って、たまりませんわ。アンナさんは、毎日目に見えてやせていくばかりですもの。あの人は、アンナさんが自分の感情をおもちゃにすることのできない女のひとりだってことを、まるっきりわかっちゃいないんですもの。もうこうなったら、二つに一つの方法しかありませんよ。アンナさんを連れだして、きっぱりした態度をとるか、さもなければ、離婚してしまうか。しかし、あれではアンナさんの首を締めるようなもんですわ」
「ええ、ええ……まったくそのとおりですな……」オブロンスキーは、溜息をつきながらいった。「私もそのためにやって来たんですから。いや、その、わざわざそのためばかりってわけじゃありませんが……侍従に任命されましたので、まあ、そのお礼をかねてですがね。しかし、肝心なことは、これを丸くおさめることですよ」
「では、神さまがあなたをお助けくださいますように!」ベッチイはいった。
公爵夫人ベッチイを玄関まで見送り、もう一度手袋をはめた手の、少し上の脈の見えるあたりに接吻して、夫人がおこったものか、笑ったものか見当のつかないような、いかがわしい冗談をいってから、オブロンスキーは妹の部屋へはいって行った。見ると、アンナは涙にくれていた。
オブロンスキーは今にも踊りあがらんばかりの上きげんであったにもかかわらず、すぐさま、妹の気分にふさわしい、なにか詩的な興奮した、同情あふれる態度に早変りした。彼は容体《ようだい》をたずねてから、朝のうちはどんなふうに過したかときいた。
「とっても、とっても悪いんですの。昼も、朝も、今までずっと、これからもずっと、いつまでも」アンナは答えた。
「どうやら、気が滅入りすぎてるようだね。もっと気をたしかにもって、生活をまともに見なくちゃいけないね。そりゃ、つらいだろうが、しかし……」
「女の人って相手の欠点のためにさえ、男を愛するものだって、いつか聞いたことがありますけど」不意に、アンナはしゃべりだした。「でも、あたし、あの人のことはその善行のためにかえって憎みますの。もうあの人といっしょに暮してはいけませんわ。ねえ、わかってくださいます? あたし、あの人を見ただけで、生理的にやりきれなくなって、前後の見境を忘れてしまいますの。もうどうしてもあの人といっしょに暮すことはできませんわ。できませんわ。ねえ、いったい、どうしたらいいんでしょう? あたしは不幸な女で、もうこれ以上不幸にはなれないと思っていましたけれど、今のように恐ろしい境遇を、想像することもできませんでしたわ。兄さんには信じられないでしょうけど、あの人が親切な、りっぱな人で、あたしなんかあの人の爪の垢《あか》ほどの値うちもないってことはちゃんと知っていながら、それでも、あたしはあの人を憎んでいるんですの。あの人があまり寛大だから、憎らしいんですの。ですから、もうあたしに残されているものといったら、ただ……」
アンナは『死』といいたかったが、オブロンスキーは相手に最後までいわせなかった。
「おまえは病気だから、気分がいらいらしているんだよ」彼はいった。「ねえ、おまえは少し物事を誇張しすぎているんだよ。なにもそんなに恐ろしいことはないじゃないか」
そういって、オブロンスキーはにっこり笑った。だれでもオブロンスキーの立場にあって、そんな絶望的な様子を見たら、とても微笑などもらすことはできなかったにちがいない(そんな微笑は礼を失したものに思われたであろう)。ところが、彼の微笑には、あふれるばかりの善良さと、ほとんど女性的とさえいえる優しさがこもっていたので、それは相手を侮辱しないどころか、かえってその心を和らげ、落ち着かせるのだった。彼のおだやかな、落ち着かせるような話しぶりと微笑は、扁《へん》桃《とう》油《ゆ》のように、相手の心を和らげ、しずめる働きをした。アンナもじきにそうした感じを味わった。
「いいえ、スチーヴァ」アンナはいった。「あたしはもう身を滅ぼしてしまったんだわ、ええ、滅ぼしてしまったんだわ! いいえ、それより、もっといけないのよ。あたしはまだ滅びちゃいないわ。なにもかも終ってしまったとはいえませんわ。いいえ、その反対に、まだ終ってはいないってことを感じますわ。あたしは張りつめた絃《いと》みたいに、いつかは切れなくちゃならないんですわ。でも、まだ切れちゃいないんですわ……切れるときは、さぞ恐ろしいでしょうね」
「なあに、たいしたことはないさ、その絃を少しずつゆるめればいいんだから。救いのない境遇なんてものはありゃしないよ」
「あたしもさんざん考えに考えたんですけど、やっぱり救いはただ一つ……」
彼は再びこの唯一の救いが、妹の考えによれば、死であることを、そのおびえたような目つきで、見てとったので、今度も相手に最後までいわせなかった。
「なにも心配ないさ」彼はいった。「いいかね、おまえはぼくのようには、自分の境遇をはっきりながめることはできないんだからね。ざっくばらんにぼくの意見をいうとだね」彼はまた例の扁桃油のような微笑を浮べた。「まあ、一番のはじめからいうとだね、おまえは二十も年上の男と結婚した。愛情もなく、というよりか愛情というものを知らないで結婚したわけだ。まあ、かりにこれがまちがいだった、としておこう」
「とんでもないまちがいだったんですわ!」アンナはいった。
「しかし、もう一度いうが、それはもうすんでしまった事実だからね。それから、おまえは、まあ、いってみれば、夫以外の男に愛情を感ずる不幸に見舞われたわけだ。それはたしかに不幸なことだが、やはりもうすんでしまった事実だ、おまえの夫もそれを認めて、許してくれた」彼は一句ごとに相手の反駁《はんばく》を待って言葉をとめたが、アンナはひと言も答えなかった。「つまり、こういうわけなんだ。で、今の問題はただ、おまえが夫といっしょに暮らすことができるかどうか、ということにかかっている。おまえがそれを望むか、それとも、あの人がそれを望むか、ということなんだ」
「あたし、なんにも、なんにも、わかりませんわ」
「だって今おまえは、もうあの人のことを我慢できないって、自分でいったじゃないか」
「いいえ、そんなことはいいませんわ。じゃ、取り消しますわ。あたし、なんにも知りません、なんにもわかりませんわ」
「いや、わかった。しかし、ちょっと待ってくれ……」
「兄さんにはあたしのことなんかわからないのよ。あたし、自分がまっさかさまに、底なしの深みへ落ちて行くような気がするんですもの。でも、もうそれから助かるわけにはいかないんですわ。そうすることもできないんですわ」
「なあに、大丈夫だよ。みんなで下に網を張って、おまえを受け止めてやるからね。おまえの気持はわかってるよ、おまえが思いきって、自分が望んだり感じたりしていることを打ち明けられないのは、ちゃんとわかってるんだから」
「あたし、なんにも、なんにも望んじゃいませんわ……ただ一刻も早くけりがついてしまえばいいと思ってるだけ」
「しかしね、あの人も自分でそれを見て、知っているんだよ。おまえには、あの人がおまえに劣らずこの問題で苦しんでいるのがわからないのかい? おまえも苦しんでいるが、あの人も苦しんでいるのさ。それじゃ、どうしたらいいのかね? 離婚が、なにもかも解決してくれるだろうよ」オブロンスキ―は、ひるむ心をいくらかはげましながら、このいちばん肝心な考えを述べると、意味ありげにじっと妹の顔を見つめた。
アンナはなんとも答えなかった。ただ、否定するように、髪を短く切った頭を横に振った。しかし、不意に昔と同じような美しさに輝きわたった妹の顔の表情から、彼は、妹がそれを望まないのは、それがとても実現できない幸福のように思われたからにほかならないことを悟った。
「ぼくにはおまえたちがとっても気の毒でたまらないんだよ! もしこれを丸くおさめることができたら、ぼくはどんなに幸福かしれないよ!」オブロンスキーは、前よりもおおっぴらに微笑を浮べながら、いった。「いや、もういわなくってもいい、なんにもいわなくってもいいよ! ただなんとかして、今ぼくの感じていることを伝えたいものだなあ。じゃ、あの人のところへ行ってくるよ」
アンナは思いに沈んだきらきらしたひとみで兄の顔を見たが、なんともいわなかった。
22
オブロンスキ―は、ふだん役所で長官の席につくときのような、いくぶんもったいぶった顔つきをしながら、カレーニンの書斎へはいって行った。カレーニンは両手をうしろに組んで、部屋の中を歩きまわりながら、たった今オブロンスキーが妹と話し合ったのと、同じことを考えていた。
「おじゃまじゃありませんか?」オブロンスキーは義弟の顔を見ると、彼としては珍しい当惑を感じながら、いった。彼はその当惑を隠すために、今買ってきたばかりの、新式のあけ方のシガレットケースを取りだし、ちょっと皮のにおいをかいでから、たばこを一本抜きとった。
「いや、なにかご用ですか?」カレーニンは気のすすまぬ様子で答えた。
「いや、じつは、その……ぼくはその……お話があって来たんですが」オブロンスキーはあまり味わったことのない、こうした気おくれをわれながらびっくりしながら、いった。
その感じは、あまりにも思いがけなく奇妙なものだったので、オブロンスキーは、それがこれから自分のしようとしていることは悪いことだ、とささやいている良心の声であるとは、とても信ずることができなかった。オブロンスキーは勇気をふるって、急におそいかかった臆病風を追いはらった。
「ぼくが妹を愛していると同時に、きみに対して心から親愛と尊敬の気持をいだいていることは信じてくれるだろうね」彼は顔を赤らめながらいった。
カレーニンは足を止めたが、なんとも答えなかった。しかし、その顔に浮んでいた、従順な犠牲者のような表情は、オブロンスキーを思わずはっとさせた。
「ぼくが話そうと思ったのは、いや、話したかったのは、妹ときみとの相互の立場のことなんだ」オブロンスキーはなおも不慣れな気おくれと戦いながら、いった。
カレーニンはさびしげな微笑を浮べて、義兄の顔をちらっとながめ、テーブルに近づくと、その上から書きかけの手紙を取りあげて、義兄に渡した。
「私もこのところ、それと同じことをずっと考えているんです。で、こういう手紙を書きかけていたところです。手紙で書いたほうが話しやすいし、私がそばにいると、あれがいらいらしますのでね」彼は手紙を渡しながらいった。
オブロンスキーは手紙を受け取ると、じっと自分に注がれているどんよりした目を、けげんそうにながめ返してから、読みはじめた。
『私がそばにいると、どうやら、あなたは苦しい思いをするようです。そう信ずるのは、私としてもたいへんつらいことですが、それはまさにそのとおりであって、それ以外ではないのです。私はあなたをとがめようとは思いません。神かけていいますが、あなたが病床にいたとき、私はわれわれふたりのあいだにあったことをすっかり忘れて、もう一度新しい生活をはじめようと決心しました。私は自分のしたことを後悔などしていませんし、今後ともけっして後悔しないつもりです。しかし、私が望んでいたのはただ一つ――あなたの幸福、あなたの魂の幸福でした。でも、今になってみれば、私はその目的を達しえなかったわけです。あなたに真の幸福と魂の平安を与えるのはいったいなんであるか、自分でいってみてください。私はすべてをあなたの意思と正義感にゆだねたいと思います』
オブロンスキーは手紙を返すと、なんといっていいやらわからぬまま、相変らず、けげんそうな面持ちで、ずっと義弟をながめていた。この沈黙はふたりにとって、とてもばつが悪かった。オブロンスキーは、カレーニンの顔から目を放さず黙りこくっているあいだに、その唇には病的な痙攣《けいれん》が起ったほどであった。
「いや、ざっと、こんなふうに、あれにいおうと思っていたのです」カレーニンは顔をそむけながらいった。
「ああ、そうですか……」オブロンスキーは涙がのどもとへこみ上げてきたので、返事をすることもできず、ただこういった。「いや、なるほど。きみの気持はわかりますよ」彼はやっとのことで、こうつけ足した。
「私はあれがなにを望んでいるのか知りたいのです」カレーニンはいった。
「ぼくはあれが自分でも自分の立場がわからないんではないかと心配しているんです。あれは裁判官じゃありませんからね」オブロンスキーは、気をとりなおしていった。「あれはきみの寛大な心にすっかり圧倒されているんですよ。まったく、圧倒されているんですよ。あれがこの手紙を読んだら、もうなんにもいう力はなくなるでしょうよ。ただもう、前にもまして頭を低く下げるばかりでしょう」
「ええ、しかしその場合、いったいどうすればいいんです?……なんと説明してやったら……どうしたらあれの希望を聞くことができるんでしょうね?」
「もしぼくに意見を述べることを許してくださるならば、こうした状態を終らせるために必要な手段を断固としてとるかとらないかは、一に、きみの決断にかかっていると思いますがね」
「それじゃ、あなたはこうした状態を終らせる必要があると思っているんですね?」カレーニンは相手をさえぎった。「それにしても、どんなふうに?」彼はいつになく目の前で両手を振りながら、こうつけ足した。「実際に可能な解決法はまったくないように思われますがね」
「いや、どんな状態にだって、解決の道はあるものですよ」オブロンスキーは活気づき、腰を浮かしながら、いった。「きみも離婚したいと思われたこともあったのです……きみが今、お互いに幸福になることはできないと確信されているとすれば……」
「幸福というものは、いろいろに解釈することができますからね。かりに、私がどんなことにも同意し、なにごとも要求しないとしたら、こうした状態にいったいどんな解決の道が残っているんでしょうかね?」
「ぼくの意見をききたいというのなら」オブロンスキーはアンナと話したときのような、相手の心をやわらげる、例の扁桃油のように優しい微笑を浮べながら、いった。その人のよさそうな微笑は、あまりに説得力をもっていたので、カレーニンは思わず気が弱くなって、その微笑に圧倒されながら、オブロンスキーのいうことをなんでも信ずる気になった。「あれはけっして自分からはいわないでしょうが、あれもきっとそれを望んでいる、ただ一つの解決法があるのです」オブロンスキーはつづけた。「それはふたりの関係を絶ってしまって、それにまつわるいっさいの記憶をなくしてしまうことです。ぼくの考えでは、きみたちの状態に新しい相互関係をはっきりさせることですよ。そうした関係は双方の自由によってのみはじめて確定されるものですがね」
「離婚ですね」カレーニンは嫌悪の情を浮べてさえぎった。
「ええ、ぼくの考えでは離婚ですね。いや、離婚ですとも」オブロンスキーは顔を紅潮させながら、繰り返した。「これはきみたちのような状態にいる夫婦にとっては、もっとも合理的な解決法ですよ。夫婦たるものがいっしょに暮すことができないと認めた場合には、もうどうにもならないじゃありませんか? これはよく起りうることですしね」カレーニンは重々しく吐息をついて、目を閉じた。
「その場合、ただ一つ考えなければならないことがあるんです。つまり、夫婦のうちひとりが、別の結婚を望んでいるかどうかということです。もしそうでなければ、これはまったく簡単なことですからね」オブロンスキーは、しだいに遠慮がなくなって、こういった。
カレーニンは興奮のあまり顔をしかめて、なにかひとり言をいったが、なんとも返事はしなかった。オブロンスキーにとっては、いともたやすいと思われたことを、カレーニンはもう何千回となく考えてみたのであった。そして、彼の目には、それがけっしてたやすいことどころか、まったく不可能なことに思われた。いまや細かい点まで知り尽している離婚が、彼にとって不可能に思われたのは、自尊心と宗教に対する敬意とが、身に覚えのない姦通罪《かんつうざい》を負うことを許さなかったからであり、さらにそれにもまして、自分が許してやった愛する妻が、その罪をあばかれ、恥をさらすことが耐えられなかったからである。離婚はそのほかまた別な、もっと重大な理由によっても、不可能であった。
離婚ということになったら、いったい、むすこはどうなるだろう? 母親といっしょにさせておくことはできない。離婚された母親は、すぐ内縁関係を結ぶだろうが、そうした環境における継《まま》子《こ》の位置と教育は、どの点からみても、悪いにきまっている。それでは、自分の手もとへ残しておくか? それは自分の側からいえば一種の復讐《ふくしゅう》になることは、彼も承知していたが、彼はそうはしたくなかった。しかし、このほかに、カレーニンにとって離婚が不可能に思われた最大の原因は、離婚の承諾は、とりもなおさず、アンナを滅ぼすことを意味するからであった。カレーニンの胸には、モスクワでドリイが彼に向って、もしあなたが離婚を決意されたとすれば、あなたはご自分のことばかり考えていらして、離婚によってアンナを永久に破滅させるということを考えておられないのだ、といったあのひと言が、深く刻まれていた。そして、彼はこの言葉を自分の赦罪と、子供たちに対する愛情に結びつけて、今では自分なりに解釈していた。離婚を承諾して、アンナに自由を与えることは、彼の解釈によると、自分にとっては愛する子供たちの生活との最後の絆《きずな》を失うことであり、またアンナにとっては、善の道を歩むための最後の支柱が奪われ、破滅におちいることを意味していた。アンナが離婚された妻となれば、ヴロンスキーといっしょになることはわかりきっていたが、その結びつきは非合法の、罪ふかいものになるわけだ。なぜなら、教会の掟《おきて》によれば、妻は夫が生きているかぎり、結婚することができないからであった。《あれはあの男といっしょになるだろう。そして、一、二年もすれば、男に捨てられるか、あるいは、また自分でだれかと新しい関係を結ぶかするだろう》カレーニンは考えた。《そうなればおれも、非合法の離婚を承諾したことによって、あれの破滅に責任があるわけだ》彼はこうしたことを、何百回となく考えたあげく、離婚ということは、義兄のいうほどたやすいものでないばかりか、まったく不可能であると確信した。彼はオブロンスキーの言葉を、一つとして信じなかった。そのひと言ひと言に、何千という反駁《はんばく》を試みることができた。しかし、義兄の言葉に耳を傾けながら、彼はそこに自分の生活を導いている力、いや、自分として服従しなければならぬ、あの強力な、荒々しい力が表現されているのを感じて、黙っていた。
「問題はただ、きみがどんなふうに、どんな条件で、離婚を承諾するかにあるのさ。あれはなにも望んでいない、あれのほうからむりしてきみに頼むわけにはいかないんだから。あれはすべてをきみの寛大な心に任しているんだよ」
《ああ、神さま! ああ、たまらん、いったい、なんのために?》カレーニンは、夫がその罪を引き受けなければならぬ離婚手続きの細かい点を思い起しながら、心の中で考えた。そして、ヴロンスキーがやったと同じような身ぶりで、羞恥《しゅうち》のあまり両手で顔を隠した。
「きみが興奮しているのは、ぼくにもよくわかるよ。しかしだね、よく考えてみれば……」
《右の頬《ほお》を打たれたら、左の頬もさしだし、上着を奪われたら下着も渡せ、ということか》カレーニンは考えた。
「ああ、いいとも」彼は甲高い声で叫んだ。「私は恥辱を引き受けるよ、むすこも渡してやろう。ただ、しかし……このままにしておいたほうがいいんじゃないかな? もっとも、きみの好きなようにしてくれたまえ……」
そういうと、彼は義兄に顔を見られないように、くるりと背を向けて、窓ぎわのいすに腰をおろした。彼は胸を締めつけられるような思いで、恥ずかしかった。しかし、その胸の痛みと羞恥とともに、彼は自分の柔和な心の気高さに対する喜びと感激を味わっていた。
オブロンスキーは相手の態度に感動して、ちょっと口をつぐんだ。
「ねえ、きみ、ぼくを信じてくれたまえ。あれはきっときみの寛大な心を、ありがたく思うだろうよ」彼はいった。「しかし、これはどうやら、神さまのみ心らしいね」そうつけ加えた。もっとも、そういってしまってから、彼はわれながらそれがばかげていると感じて、自分の愚かさに苦笑するのを、やっとのことでこらえていた。
カレーニンはなにか答えようとしたが、涙のためにできなかった。
「これは宿命的な不幸というやつだから、それを認めないわけにはいかないよ。ぼくもこの不幸はもうできてしまった事実と認めて、妹にもきみにも、力をかそうと思って努めているんだから」オブロンスキーはいった。
オブロンスキーは義弟の部屋を出たとき、かなり感動していたが、もはやカレーニンが自分のいったことを取り消すことはないと確信していたので、われながらうまくこの仕事を片づけたという自然な満足感をいだいた。この満足感に加えて、もう一つこんな考えが浮んだ。もしこれがうまくいったら、ひとつ、女房や親しい人びとにこんな謎《なぞ》をかけてやろう。《おれと陛下ではどんな違いがあるか?陛下が軍隊の配置転換《ラズヴォード》をしても、そのためにだれひとりしあわせにならない。ところが、おれが離婚《ラズウォード》をさせたら、三人ともしあわせになった……いや、それとも、おれと陛下では、どんな共通点があるか、とするか? そのときには……いや、これはもっとよく考えてみよう》彼は微笑を浮べながら、そうつぶやいた。
23
ヴロンスキーの負傷は、心臓こそそれていたが、危険なものであった。そして数日間、彼は生死の境をさまよっていた。彼が初めて口がきけるようになったとき、病室に居あわせたのは、兄嫁のワーリヤひとりだった。「ワーリヤ!」彼はきびしく兄嫁の顔を見つめながらいった。
「ぼくは思わずかっとなって撃ったんだから、どうか、けっしてこの話はだれにもしないように。みんなにもそういってくださいよ。でないと、あんまりばかばかしいから」
その言葉には答えないで、ワーリヤは彼の上へかがみこむと、うれしそうな微笑を浮べて、その顔をのぞきこんだ。彼の目は明るく輝いて、熱もないみたいだったが、その表情はきびしかった。
「まあ、よかったわねえ!」彼女はいった。「もう痛くありません?」
「ここがちょっと」彼は胸をさした。
「それじゃ、包帯をかえてあげましょう」
彼は兄嫁が包帯をかえてくれているあいだ、広い頬骨《ほおぼね》をひきしめて、無言のまま、相手の顔を見つめていた。それがすむと、彼はいった。
「これは、うわ言じゃありませんよ。お願いですから、ぼくがピストル自殺をしようとしたなんてうわさが、ひろがらないようにしてくださいよ」
「だれもそんなことはいってませんよ。でも、もう二度と、ついかっとなって引き金を引くなんてことはしないでしょうね」彼女は問いかけるような微笑を浮べて、いった。
「たぶん、もうしないでしょうよ。でも、いっそのこと……」
そういって、彼はふと暗い微笑をもらした。
こうした言葉や微笑は、ワーリヤをひどく驚かしたが、それにもかかわらず、炎症がなおって、しだいに健康が回復してくると、彼は自分の悲しみの一部から、完全に解放されたような気がした。それはまるで、彼があのような行為によって、それまで感じていた羞恥と屈辱とを、すっかり洗い落したみたいであった。彼も今では落ち着いた気持で、カレーニンのことを考えることができた。相手の寛大さを十分に認めながらも、彼はもう自分を卑下されたものとは感じなかった。いや、そればかりか、彼はまたもとの生活の軌道にもどり、羞恥の念なしに人びとの顔をながめたり、昔ながらの習慣に従って、暮すことができるようになった。ただ一つ、彼はいまもなおその愛情と闘っていたにもかかわらず、なんとしても自分の胸の中から取り除くことのできなかったのは――永遠にアンナを失ってしまったという、ほとんど絶望的ともいえる哀惜の情であった。いまや彼は夫に対する罪を償った以上、アンナのことは思いきって、今後は、悔い改めた彼女と夫のあいだにけっして立たぬ、と堅く心に誓った。しかし、彼はアンナの愛を失ったという哀惜の気持を、自分の胸から取り除くこともできなければ、アンナとともに過した幸福のおりおりを、記憶の中からぬぐい去ることもできなかった。その幸福も、当時はそれほどとも思わなかったのに、今ではその魅力の限りを尽して、たえず彼の心に迫ってくるのだった。
セルプホフスコイが彼のために、タシケントへの赴任を考えだしてくれたとき、ヴロンスキーはいささかの躊躇《ちゅうちょ》もなく、すぐその申し出を受けいれた。ところが、出発のときが近づくにつれて、彼が義務と信じてささげた犠牲が、ますます苦しいものに感じられてきた。
彼は負傷が癒《い》えたので、もうタシケント行きの準備のために外出するようになった。
《たった一度だけ彼女に会えれば、あとはもうすっかり身を隠すなり、死ぬなりしてもかまわないな》彼はそう考え、暇乞《いとまご》いのあいさつに行ったとき、この考えをベッチイに打ち明けた。ベッチイはこの要件で、アンナをたずね、拒絶の返事をもたらしたわけである。
《いや、そのほうがいいんだ》ヴロンスキーはこの知らせを受けとって、考えた。《あれは弱気だったんだ。もう少しで、最後の力まで台なしにするところだった》
その翌朝、ベッチイは自分からヴロンスキーをたずね、カレーニンは離婚に同意したから、ヴロンスキーはアンナに会うことができる、という承諾の返事をオブロンスキーを通じて受け取ったと説明した。
と、ヴロンスキーは今までの決心をすっかり忘れて、いつならいいのか、夫はどこにいるのか、そんなこともきかずに、ベッチイを見送ることさえしないで、いきなりカレーニン家へ車を飛ばした。彼は階段を駆けあがると、なにひとつ、だれひとり目にはいらぬまま、やっと駆けだすのを我慢しながら、足速にアンナの部屋へはいって行った。そして、部屋の中にだれかいるのかどうかも、まるっきり考えもしなければ気もつかずに、彼はいきなりアンナを抱きしめると、その前に、両の手に、首に接吻の雨を降らせた。
アンナは前々からこの対面の心がまえをして、話すことなどもちゃんと考えていたのだが、なにひとつそれを口に出す暇もなかった。彼の情熱が、すっかりアンナをとりこにしてしまったからである。アンナは彼の気持を、さらに、自分の気持をおししずめようとした。しかし、それはもう手遅れだった。彼の感情がもう移ってしまったからである。その唇は激しく震えて、アンナはもう長いこと、なにひとつものをいうことができなかった。
「ああ、あなたはあたしをとりこにしておしまいになりましたわ。あたしはもうあなたのものですわ」アンナは自分の胸へ彼の両手をおしあてながら、やっとのことで、いった。
「やっぱり、こうならなければならなかったんですよ!」彼はいった。「ぼくたちが生きているかぎり、これがあたりまえなんです。今やっとそのことがわかりましたよ」
「ほんとにそうね」アンナはしだいに青ざめながらも、相手の顔を両手にいだいて、いった。「でも、あんなことがあったあとだから、これにはなにか恐ろしいことがあるような気がしますわ」
「いえ、なにもかもすんでしまいますよ、すんでしまいますよ。ぼくたちはきっと幸福になれますよ! ぼくたちの愛がもっと強くなるとしたら、それはそこになにか恐ろしいことがあるからこそ、強くなるんですよ」彼は頭を上げ、微笑を浮べて、大きな歯を見せながらいった。
アンナも、彼の言葉に対してではなく、その恋するまなざしに対して、微笑で答えないわけにはいかなかった。アンナは彼の手をとって、それで自分の冷たくなった頬や、短く刈った髪をなでるのであった。
「こんなに髪を短く刈って、ぼくはすっかり見違えてしまいましたよ。前よりきれいになりましたね。男の子みたいだな。でも、すごく青い顔をしていますね!」
「ええ、とても弱ってるのよ」アンナはほほえみながらいった。と、その唇は再び震えだした。
「イタリアへ行きましょう。そしたら、あなたのからだもよくなりますよ」
「まあ、そんなことができまして、あたしたちが夫婦みたいにふたりだけで、家庭をもつなんてことが?」アンナは彼の目をちかぢかとのぞきこみながら、いった。
「いや、ぼくには今までそうでなかったことが、むしろふしぎに思われるくらいですよ」
「スチーヴァは、あの人《・・・》がなにもかも承知したっていってますけど、あたし、あの人《・・・》の寛大な心にすがることはいやなんですの」アンナは考えこむようにヴロンスキーの顔から視線をそらしながら、いった。「離婚なんてしてもらいたくありませんわ、今となったらもう同じことですもの。ただ気がかりなのは、あの人がセリョージャのことをどうきめるか、それがわからないんですの」
彼にはこんなあいびきのときにまで、なぜアンナが子供のことや、離婚のことを考えたり、思いだしたりできるのか、なんとしても理解できなかった。そんなことは、もうどうでもいいことではないだろうか。
「そんな話はしてないで、いや、そんなことは考えないで」彼は自分の手の中にあるアンナの手をひねって、彼女の注意を自分のほうへひきつけながら、いった。しかし、アンナはなおも彼のほうを見なかった。
「ああ、なんだってあたしは死ななかったんでしょう、そのほうがよかったのに」アンナはいった。と、泣き声のない涙がその両の頬をつたって流れた。しかし、アンナは彼をがっかりさせまいとして、むりに笑おうと努めた。
魅力があると同時に危険なタシケント行きを断わるのは、ヴロンスキーの従来の解釈によれば、恥ずかしい、また不可能なことであった。しかしいまや、彼はただの一分も思案することなく、すぐ断わってしまった。そして上官たちが、この行為を不満に思っているのに気づくと、さっさと退官してしまった。
一カ月後、カレーニンは自分の家に男の子とふたりでとり残された。一方アンナは離婚せず、それをはっきり拒絶したまま、ヴロンスキーとともに、外国への旅に出かけて行った。
第五編
シチェルバツキー公爵夫人は、もう五週間後に迫った大斎期までに、結婚式をあげることはとてもできないと考えた。というのは、花嫁の持参する調度の半分もそれまでには、間にあいそうもなかったからである。ところが、夫人は大斎期のあとではあまりに遅すぎるという、リョーヴィンの意見にも賛成しないわけにはいかなかった。なぜなら、シチェルバツキー公爵の年老いた実の伯母《おば》が重態で、いまにも死ぬ恐れがあったので、もしそんなことにでもなれば、喪のために挙式がいっそう遅れるからであった。こうしたわけで、花嫁の持参する品々を大小二つに分けることにきめて、公爵夫人は、大斎期の前に式をあげることに同意した。夫人は小に属する分は、今すぐ全部整え、大のほうはあとから送ることにきめた。そして、リョーヴィンがそのことに賛成かどうか少しもまじめな返事をしないといって、夫人はひどく腹を立てた。この思いつきは、若いふたりが式のすみしだい、大のほうの品々を必要としない田舎《いなか》へ行くことになっていたので、とりわけ好都合であった。
リョーヴィンは相変らず、まだ無我夢中の状態にいた。彼には、自分と自分の幸福こそが、この世に存在するいっさいのもののもっともたいせつな唯一の目的であるかのように思われ、今はもうなにひとつ考えたり、心配したりする必要はないような気がするのだった。そんなことはみんな、ほかのものが自分の代りにしてくれているし、今後もしてくれるだろうとたかをくくっていた。いや、それどころか、彼の将来の生活に対しても、なんの計画も、目的ももっていなかった。彼はなにもかもうまくいくことを信じていたので、そうした決定はすべて他人まかせにしていた。兄のコズヌイシェフをはじめ、オブロンスキーや公爵夫人が、なすべきことをちゃんと指導してくれた。彼は人から勧められることはなんでも、ただ賛成するばかりであった。兄は彼の代りに金を借りてくれたし、公爵夫人は式がすんだらすぐモスクワを発《た》つように勧めてくれた。オブロンスキーは外国旅行に出かけるようにと勧めた。彼はそのすべてに賛成した。《もしきみたちがそれをいいと思ったら、なんでもしたいようにしてくれたまえ。ぼくは幸福なんだから、きみたちがなにをしようと、そのために、ぼくの幸福が増えたり減ったりすることはないからね》彼は考えた。彼はキチイに、外国旅行へ行けというオブロンスキーの勧めを伝えたとき、キチイがそれに反対し、将来の生活について、なにかしらはっきりした考えをもっているのに、びっくりした。キチイは、リョーヴィンが田舎に愛する仕事をもっているのを承知していた。リョーヴィンの見るところでは、キチイはその仕事を理解していなかったばかりでなく、それを理解しようとさえ思っていないらしかった。しかしながら、そうしたことはキチイにとって、この仕事がきわめて重大なものであると考えることのじゃまにはならなかった。こうしたわけで、キチイは自分たちの住む家が田舎にあることを知っていたから、長く住みもしない外国などではなく、わが家のあるところへ行きたがったのである。このはっきりと表明された意向は、リョーヴィンを驚かした。しかし、彼としてはどちらでもよかったので、オブロンスキーに向って、それが義兄の義務ででもあるかのように、ポクローフスコエ村へ行ったうえ、持ち前の豊富な趣味を生かして、いっさいを思いどおりに整えてきてくれと頼んだ。
「ところでね、ひとつきいとくがね」オブロンスキーは、若いふたりの帰宅のため、いっさいの準備を整えて、田舎から帰って来ると、リョーヴィンにいった。「きみは痛悔礼儀に行ったという証拠《しるし》を持っているかね」
「持ってないよ。それがどうかしたのかい?」
「それがなければ、結婚式があげられないんだよ」
「おい、そりゃ、たいへんだ!」リョーヴィンは叫んだ。「なにしろ、ぼくはもう九年も精進したことがないらしいからね。そんなことは考えもつかなかったよ」
「おめでたいよ!」オブロンスキーは、笑いながらいった。「それでよく、ぼくのことをニヒリストだなんていえるね! それにしても、そんなことじゃだめだよ。精進しなくちゃ」
「いったい、いつ? もうあと四日しかないぜ」
オブロンスキーは、この点もうまくはからってくれた。そこで、リョーヴィンも精進をはじめた。リョーヴィンは信者でなかったが、それと同時に、他人の信仰を尊敬する人間として、教会の儀式に出席などするのは、ひじょうに苦痛であった。とくに今は、すべてのことに対して感じやすい、やわらいだ気持になっていたので、自分の本心を偽らなくてはならぬということが、リョーヴィンにとっては単に心苦しいどころか、まったく不可能なことのように思われた。いまや彼ははなばなしい栄光の中にあって、うそをついたり、神聖冒涜《ぼうとく》をしなければならないのであった。彼はそのいずれをも、できそうにないと感じた。しかし、彼は精進せずに証明をもらう方法はないかと、いくらオブロンスキーにきいてみても、それはとても不可能だと、申しわたされるのであった。
「ねえ、それぐらいのことが、我慢できないのかい、たった二日じゃないか? それに、坊さんもじつに優しくて、頭の切れる年寄りだよ。なあに、きみが気づかないうちに、その痛い歯を引き抜いてくれるさ」
最初の聖体礼儀に列したとき、リョーヴィンは十六、七の青年時代に経験したあの強烈な宗教的感情の追憶を、新たにしようと試みた。しかし、それは絶対に不可能だと、すぐ確信してしまった。そこで今度は、そうした儀式を他人の家をたずねる習慣などのように、なんの意味もない、空虚な習慣と見なすように努めた。しかし、それさえなんとしてもできないことのように感じた。リョーヴィンは現代の大多数の人びとと同様、宗教に対して、あいまいな態度をとっていた。彼は信ずることはできなかったが、そうかといって、それはすべてまちがっていると強く確信することもできなかった。したがって、彼は自分のしていることの有意義を信ずることもできなければ、それを空虚な形式として無関心に見すごすこともできずに、この精進のあいだずっと、自分でも理解できないことをしながら、居心地の悪い、恥ずかしい思いを味わっていた。それはまるで、内なる声が、これはなにかしら偽りのよからぬ行為であると、彼にささやいているみたいであった。
公祈《き》祷《とう》のあいだも、彼は祈祷に耳を傾けながら、自分の見解にそむかないような意味を見つけようと努めたり、自分にはそれを理解する力がないのだから、非難するのが当然だと感じて、努めて祈祷を耳に入れないようにして、自分の想念や、観察や、追憶に没頭したりした。そうしたものは、教会の中にぼんやり立っている自分の顔に、きわめて生きいきとあざやかに浮んでくるのであった。
彼は聖体礼儀、徹夜祷、晩課を全部守って、翌日はいつもより早く起き、お茶も飲まずに、早課を聞いて痛悔をするために、八時に教会へ出かけた。
教会には、兵隊あがりの乞食と、ふたりの老婆と、堂務者たちのほか、だれもいなかった。
薄い祭袍《さいほう》下着の下から、長い背筋の右左がくっきりと透いて見えている若い補祭が、彼を迎えると、すぐ壁ぎわの小さなテーブルのそばへ行き、時課を読みはじめた。それを読み進むにしたがって、とくに《ポミーロス、ポミーロス》と聞える『主よ、哀れみたまえ《ゴースポジ・ポミールイ》』という同じ言葉を、何度も何度も早口に繰り返すところになると、リョーヴィンは自分の思索が閉ざされ、封じられてしまって、今はもうそれにふれたり、揺すぶったりもできず、もしそんなことをすれば、混乱が生れるような気がするのだった。したがって、彼は補祭のうしろに立ったまま、相変らず祈りには耳もかさず、注意もはらわずに、自分のことばかり考えていた。《彼女の手は驚くほど表情に富んでいるな》彼はきのうふたりですみのテーブルにすわっていたときのことを思いだして、こんなことを考えた。このところはほとんどいつもそうであるが、ふたりにとってはもうなにも話すことがなかった。そこでキチイはテーブルの上に片手をのせて、それを開いたり、閉じたりしながら、自分でもその動きを見て笑いだした。彼は、その手を接吻《せっぷん》してから、あとでばら色の掌《てのひら》についている筋を調べたことなどを思いだした。《また、ポミーロスだな》リョーヴィンは十字を切り、礼拝をし、これまた礼拝をする補祭の背の、しなやかな動きを見つめながら、こんなことを考えた。《彼女はそれからおれの手をとって、手筋を見ると、まあ、りっぱなお手ですこと、といったっけ》それから彼は自分の手と、補祭の短い手とを見た。《さあ、もうじきだぞ》彼は考えた。《いや、どうやら、またはじめからやりなおしらしい》彼は祈りの言葉に聞き入りながら、こう考えた。《いや、やっぱりおしまいだ。ほら、もう床に額をつけて、礼拝しているじゃないか。終りの前にはいつもああするんだから》
目立たぬように片手で三ルーブル札を受け取って、綿ビロードの袖《そで》の折り返しの中に隠すと、補祭は記帳しておきますといって、がらんとした会堂の石畳に新しい靴の音を響かせながら、元気よく至聖所の中へはいって行った。と、じきそこから顔を見せて、リョーヴィンを手招きした。そのときまで閉じこめられていた想念が、リョーヴィンの頭の中で、動きはじめたが、彼はすぐそれを追いはらった。《なんとかなるさ》彼はそう考えて、升《しょう》壇《だん》のほうへ進んだ。階段をのぼって右へ曲ると、司祭の姿が目についた。老司祭はうすい半白の顎《あご》ひげをはやし、疲れたような、人のよさそうな目つきをして、経案のそばに立ち、祈祷書のページをめくっていた。司祭はリョーヴィンに軽く会釈すると、すぐ慣れた声で祈りを唱えはじめた。それがすむと、額が床につくほどうやうやしく礼拝し、それからリョーヴィンのほうへまともに向きなおった。
「ここには目に見えぬキリストが、あなたの痛悔をお受けになろうとして、立っておられます」司祭ははりつけの像を指さしながらいった。「あなたは、聖使徒によって建てられた教会の教えを、すべて信じておられますか?」司祭はリョーヴィンの顔から目をそむけて、両手を襟飾《えりかざ》りの下で組み合せながら言葉をつづけた。
「私はすべてを疑っておりましたし、今でも疑っています」リョーヴィンはわれながら不愉快な声でいって、口を閉じた。
司祭は、相手がまだなにかいうかと、数秒間じっと待っていたが、やがて目を閉じると、O《オー》をはっきり発音するウラジーミルなまりで、早口にしゃべりだした。
「疑うということは人間の弱点として避けられぬものですな。しかし、私どもは慈悲ぶかい主に力づけていただくために、お祈りをしなければなりません。あなたはなにかこれという罪をおもちですかな?」司祭は努めて一刻もむだにしまいとしているかのように、間をおかずにこうつけ加えた。
「私の一番の罪は疑いです。私はなにもかも疑っています。多くの場合、私は疑いの中に暮しています」
「疑うということは人間の弱点として避けられぬものですな」司祭は前と同じ言葉を繰り返した。
「しかし、おもにどんなことを疑われますかな?」
「私はなにもかも疑っております。時には、神の存在さえ疑うことがございます」リョーヴィンは思わずそういったが、すぐ自分が口をすべらしたことの無作法さにはっとした。ところが――
「神の存在に、なんの疑いがありえましょう?」司祭はかすかな微笑を浮べて、急いでそう答えた。
リョーヴィンは黙っていた。
「あなたは神の創造を自分の目で見ていながら、その創造主についてどんな疑いをいだくことができるのです?」司祭はもの慣れた早口でつづけた。「天なる穹隆《きゅうりゅう》をもろもろの星で飾ったのは、いったい、どなたでしょう?大地をこうした美しさでおおったのは、どなたでしょう? いや、創造主でなくて、どなたにできましょう」司祭は問いかけるようにリョーヴィンを見ながら、いった。
リョーヴィンは司祭と哲学的な議論をするのは、礼を失すると感じたので、ただその質問に直接関係のあることだけを答えた。
「存じません」彼はいった。
「ご存じない? では、あなたはなぜ、神が万物を創造したことを疑われるのです?」司祭は愉快そうに納得のいかぬ面持ちでたずねた。
「私にはなにもわかりません」リョーヴィンは自分の言葉がばかげていることを、いや、こうした立場にあっては、ばかげた答えしかできないことを感じて、顔を赤らめながらいった。
「神に祈って、頼まれるがよい。聖者と呼ばれる神父たちでさえ、つねに疑いをいだいて、おのれの信仰をたしかめようと、神に祈られたくらいですから。悪魔は大きな力をもっていますが、私どもはそれに負けてはなりません。神に祈って、頼まれるがよい。神に祈りなさい」司祭は早口に繰り返した。
司祭はなにか考えこむように、しばらくのあいだ黙っていた。
「お聞きしたところでは、あなたはうちの教区の神の子であるシチェルバツキー公爵のお嬢さんと、結婚なさるそうですな?」司祭は微笑を浮べながら、つけ加えた。「すばらしい女《おな》子《ご》じゃ」
「ええ」リョーヴィンは司祭の前に顔を赤らめながら、答えた。《なんだって痛悔のときに、こんなことをきく必要があるんだろう?》彼は考えた。
と、まるでその疑問に答えるかのように、司祭は彼にいった。
「あなたは、今結婚されようとしておられる。やがて神はあなたにきっと、子孫を恵まれるでしょう。違いますかな? もしあなたが自分を不信心にみちびく悪魔の誘惑に打ち勝てなければ、あなたはいったいお子さんに、どんな教育を授けるおつもりですか?」司祭はかすかな非難をこめていった。「もしあなたがお子さんを愛しておられるなら、善良な父親として、あなたはお子さんのために単に富や、ぜいたくや、名誉だけを、希望されるようなことはないでしょう。あなたはお子さんが救われることを、真理の光で魂が照らされることを望まれるでしょう。違いますかな?もしその無垢《むく》な幼児《おさなご》があなたに向って『お父さん、この世で私たちを喜ばしてくれる大地や、水や、花や、草などはみんな、だれがつくったの?』ときいたとき、あなたはなんと答えますか? まさか『知らないよ』とは答えないでしょう。あなたは主の神が、偉大なるみ恵みによって、あなたに啓示されたこれらすべてのことを、知らずにいられるわけはないのですから。また、お子さんから『死んだらどうなるの?』ときかれたとき、あなたはなにも知らなかったら、いったい、なんというつもりですか? いったい、なんと答えるのですか? お子さんをこの世の快楽や、悪魔の誘惑にまかせてしまうのですか? それはよくありませんな!」司祭はいって、口をつぐむと、頭を傾けて、善良そうなつつましいまなざしでリョーヴィンをながめた。
リョーヴィンも今度はなんとも答えなかった。それは、僧侶《そうりょ》と議論がしたくなかったからではなく、だれも彼にそんな質問をするものがいなかったからである。それに、自分の子供たちがこんな質問をするまでには、まだまだ時間があるから、なんと答えたものかゆっくり考えることもできると思ったからである。
「あなたは今、人生の盛りにはいろうとしているのです」司祭はつづけた。「今こそ、自分の進むべき道を選んで、それをしっかり守っていかねばなりません。神がその大いなるみ恵みによって、あなたを助け、哀れみをたれてくださるよう、お祈りなさい」司祭は結んだ。『われらが主なる神イエス・キリストは、その豊かなる慈悲と愛とによりて、子なるなんじらを許したまわん……』こうして、司祭は許しの祈りを唱え終ると、リョーヴィンを祝福して、放免した。
この日、宿へ帰ると、リョーヴィンはすっかりうれしくなった。それは、なんとなくばつの悪い状態が終り、しかもうそをつかないですんだからである。しかもそのうえ、彼の心の中には、あの善良で優しい老司祭のいったことは、彼がはじめ感じたほどばかげたものではなく、そこにはなにかはっきりさせなければならぬことがあるような漠然《ばくぜん》とした思いが残ったからである。
《そりゃ、今すぐというわけじゃない》リョーヴィンは考えた。《いつかそのうちに》リョーヴィンはいまや自分の心の中が、なにかしらはっきりせず、不純なものがあり、宗教に対する態度においても、自分が他人の中にはっきりと見て不快に感じ、そのために友人のスヴィヤジュスキーを非難したのと同じものがあるのをいつにもまして自覚したのであった。
その晩、リョーヴィンはドリイのもとで、許婚《いいなずけ》といっしょに過しながら、とりわけ快活であった。そして、彼は自分の興奮している状態を、オブロンスキーに説明しながら、ぼくは輪を飛び越すことを教えられた犬が、ようやく納得がいって、求められたことをちゃんとやってのけ、もううれしさのあまり、きゃんきゃん鳴いたり、しっぽを振ったり、テーブルや窓の上へとびあがったりするのと同じような気持だ、と語る始末だった。
結婚式の当日、リョーヴィンは慣習に従って(公爵夫人とドリイは、すべての慣習を厳重に守るよう主張した)許婚《いいなずけ》には会わずに、宿へ偶然やって来た三人の独身者、コズヌイシェフと、往来で会ってむりに連れて来た、大学時代の友だちで今は自然科学の教授をしているカタワーソフと、モスクワの治安判事で、リョーヴィンの熊狩り仲間である介添人のチリコフといっしょに食事をした。この会食は、ひじょうに愉快であった。コズヌイシェフはすこぶる上きげんで、カタワーソフの風変りな話しぶりをおもしろがっていた。カタワーソフも、自分の風変りなところがみんなに買われて、理解されているのを感じて、やたらにそれをひけらかした。チリコフは、愉快そうに愛《あい》想《そ》よく、どんな話にも調子をあわせていた。
「では、いいですか」カタワーソフは講義で身につけた癖で言葉を長く引っぱりながら、いった。
「われらの友リョーヴィン君は、このように才能ある青年でした。私は、この席におらぬ人のことをいっているのです。なぜなら、その彼はもういないからであります。彼も当時は学問を愛し、大学卒業後も、人間的な興味をもっておりました。ところが、いまやその才能の半分は、おのれを欺くことに向けられ、残りの半分は、その虚偽を弁護することに向けられているのであります」
「いや、あなたのように徹底した結婚反対論者は、ついぞ見たことがありませんよ」コズヌイシェフはいった。
「いや、私は結婚反対論者じゃありませんよ。分業の味方なんですから。なんにもすることのできない人間は、せめて人間でもこしらえなければいけませんよ。その他の連中は、そうしてできた人間の教化と、幸福に協力すべきですね。いや、これが私の意見ですよ。この二つの仕事を混同する連中は、数えきれないほどいますが、私はそんな連中の仲間じゃありませんからね」
「そういうきみが恋をしたと知ったら、ぼくはさぞうれしがるだろうね」リョーヴィンはいった。「どうかぼくを結婚式に呼んでくれよ」
「ぼくはもう恋をしているよ」
「ああ、烏賊《いか》にね」リョーヴィンは兄に話しかけた。「ねえ、このカタワーソフ君は、今栄養に関する著述をやってるんですが……」
「おい、そうまぜかえしちゃいけないね! そりゃなんの著述だってかまわないけれどね。肝心なことは、ぼくがほんとうに烏賊を愛してるってことですよ」
「でも、烏賊はきみが細君を愛するじゃまをしないかね」
「いや、烏賊のほうはしないが、女房がじゃまをするってわけさ」
「なぜだい」
「まあ、今にわかるよ。今のきみは農場や猟を愛しているけれど、まあ、そのうちにわかるさ!」
「きょうアルヒープがやって来てね、プルードノエには大鹿がうんといる。熊も二頭いるといってたぜ」チリコフがいった。
「じゃ、きみたちはそれをぼく抜きでとるわけだね」
「いや、まったくそのとおりだね」コズヌイシェフはいった。「つまりこれからはもう、熊狩りにもおさらばをしなくちゃならないってわけさ、女房が出してくれないんだから!」
リョーヴィンはにっこり笑った。女房が出してくれない、と考えただけで、リョーヴィンはすっかりうれしくなって、もう熊の姿を見るという喜びを永久に断念してもいいと思った。
「いや、それにしても、その二頭の熊を、きみ抜きでとるのはなんとも残念だね。このまえのハピーロヴォでのことを覚えているかい? きっと、すばらしい猟になるんだがなあ」チリコフはいった。
リョーヴィンは、猟をしなくても、なにかもっといいことがどこかにころがっているかもしれない、などといって、相手をがっかりさせたくなかったので、なんともいわなかった。
「こうやって独身生活に別れを告げるならわしがあるのも、無意味なことじゃないね」コズヌイシェフがいった。「どんなにしあわせになるといっても、やっぱり自由を失うのはつらいことだからねえ」
「おい、正直に白状しろよ、やっぱり、あのゴーゴリの書いてる花婿みたいに、窓からとびだしたくなるような気持があるんじゃないか」
「きっと、あるだろうね、ただ白状しないだけだよ!」カタワーソフはいって、大声でからからと笑いだした。
「おい、どうだね、窓はあいてるぜ……今からトヴェーリへ行こうじゃないか! 雌熊一匹だけだから、穴まで行けるんですよ。ねえ、行こうじゃないか、五時の汽車で! あとは、どうぞお好きなように」チリコフは微笑しながらいった。
「でも、ほんとのところ」リョーヴィンも微笑しながらいった。「ぼくは自分の心の中に、自由を惜しむ気持なんか見いだすことはできないんだよ!」
「いや、今のきみの心の中は混沌《こんとん》としているので、なにひとつ見つけることができないのさ」カタワーソフはいった。「まあ、しばらく待ちたまえ、そのうち気持が落ち着いたら、見つかるだろうから」
「いや、そんならぼくは自分の幸福感(彼は友だちの前で愛という言葉を口にしたくなかった)以外に、たとえ少しでも自由を失う悲しみを感じそうなものだけれど……かえってその反対に、自由の喪失を喜んでいるくらいだからねえ」
「ひどいもんだね! まったく手に負えないしろものだね!」カタワーソフはいった。
「じゃ、ひとつ彼の健全なる回復のために、いや、彼の空想がせめて百分の一でも実現するように、乾杯しよう。もしそうなったら、それこそこの世にまたとない幸福というものだからね」
食事がすむとまもなく、客たちは結婚式に出るための着替えに、帰って行った。
ひとりきりになると、独身者たちのこうした会話を思い起しながら、リョーヴィンはもう一度、自分自身にたずねてみた――あの連中の話していた自由を惜しむ気持が、自分の心の中にあるだろうか? が、彼はこの質問に微笑をもらした。《自由だって? なんのための自由なんだ? 幸福というものはただ、彼女を愛して、彼女の望むことを望み、彼女の考えることを考えることなのだ。つまり、そこにはなんの自由もないのだ――いや、これこそ幸福じゃないか!》
《それにしても、このおれは彼女の考えや望みや気持を知ってるだろうか?》不意にある声が彼に、こうささやいた。微笑はその顔から消えて、彼は考えこんでしまった。そして、とつぜん、彼は奇妙な感情におそわれた。彼は恐怖と疑惑に――すべてのものに対する疑惑におそわれたのであった。
《もしキチイが、おれを愛していなかったらどうだろうか? もしただ結婚したいためにだけ、おれと結婚するんだったら、どうしよう? もし彼女が、自分のしていることが、よくわからないとしたら、どうしよう?》彼は自分にただした。《ひょっとしたら、彼女はふとわれに返って、結婚してはじめて、おれを愛していないことを悟るかもしれない、いや、愛するわけのなかったことを、悟るかもしれない》こうして、キチイについての奇怪な、きわめて不愉快な考えが、彼の頭に浮んできた。彼は、一年前にヴロンスキーといっしょのキチイを見たあの晩が、ついきのうのことのように思われ、ヴロンスキーと結びつけてキチイを嫉《しっ》妬《と》した。いや、キチイは本心を全部打ち明けていないのかもしれない、と疑ったりした。
彼はぱっととび起きた。《いや、このままじゃいけない!》彼は絶望的につぶやいた。《すぐ出かけて行って、きいてみよう。最後にもう一度だけ、ぼくたちは自由なんだから、結婚は思いとどまったほうがよくはないかと、いってみよう。どんなにつらくても、一生不幸になって、恥をさらし、不貞に耐えるよりはまだましだもの》彼は絶望的な気持で、すべての人に対して、自分にも、また彼女にも、憎《ぞう》悪《お》を覚えながら、宿を出て、キチイの家へ出かけて行った。
キチイは奥のほうの部屋にいた。彼女はトランクに腰かけて、いすの背や床の上にひろげた、色とりどりの着物を選《よ》り分けながら、なにやら小間使にさしずをしていた。
「まあ!」キチイはリョーヴィンに気づくと、喜びに顔を輝かせながら、叫び声をあげた。「あんたどうなさったの、あなたどうなさったの? (この最後の日まで、キチイはリョーヴィンを『あんた《トゥイ》』と親しく呼んだり、『あなた《ヴイ》』と改まったりしていた)。まあ、思いがけなかったわ! 今、娘時代の着物を選り分けてますの、どれをだれにあげるかって……」
「ほう! それはいいですね!」彼は暗い顔つきで小間使を見ながら、いった。
「あっちへ行っておいで、ドゥニャーシャ、またあとで呼ぶから」キチイはいった。「あんたどうかなさったの?」キチイは小間使が立ち去るが早いか、思いきって『あんた』と親しく呼びかけながら、たずねだ。キチイは相手が妙に興奮して暗い顔をしているのに気づいて、思わずはっとしたのであった。
「キチイ! ぼくは苦しいんです。ひとりで苦しんでいるのが、我慢できなくなって」彼は彼女の前に立って、祈るようにその目をのぞきこみながら、絶望的な声でいった。彼はその愛情あふれる誠実な顔を見ただけで、自分のいおうとしていることが、無意味なことを、すぐ見てとったものの、やはり彼女自身の口から、その疑いをといてもらいたかったのである。「ぼくがやって来たのは、まだ手遅れではないってことを、いうためなんです。つまり、なにもかもすっかりご破算にして、はじめからやりなおすこともできますからね」
「まあ、なんですって? さっぱりわかりませんわ。あんた、どうかしたの?」
「いや、ぼくがこれまで千べんも口にして、今なお考えずにはいられないこと……つまり、ぼくはきみにふさわしくないってことですよ。きみはぼくとの結婚を承諾するはずがなかったんですよ。よく考えてごらんなさい。きみはまちがっていたんですよ。ねえ、よく考えてごらんなさい。きみにはぼくを愛することなんてできませんよ……もしも……そうだったら……正直にいってくれたほうがいいんです」彼はキチイを見ないでいった。「でなければ、ぼくは不幸になりますからね。とやかくいいたい人にはいわせておけばいいんですよ。そんな不幸にあうよりはまだましですからね……まだ手おくれにならない今のうちなら、そのほうがいいんです……」
「わかりませんわ」キチイはおびえたように答えた。「つまり、お断わりしたいとおっしゃるの……結婚する必要はないって?」
「ええ、もしぼくを愛していないんだったら」
「頭が変になってしまったのね!」キチイはいまいましそうに、顔をまっ赤にして叫んだ。
しかし、彼の顔があまりにもみじめだったので、彼女はいまいましい気持をおさえて、肘《ひじ》掛《か》けいすにかかっていた着物を投げ捨てると、彼のそばに腰をおろした。「なにを考えていらっしゃるの? ねえ、なにもかもいってちょうだい」
「きみがぼくを愛するはずがないと、思っているんですよ。なんのためにぼくを愛することができるんです?」
「まあ、ほんとに、なんといったらいいの……」キチイはいって、泣きだした。
「ああ、ぼくはなんてことをしたんだろう!」彼は叫んで、キチイの前にひざまずいて、その両手に接吻した。
五分ほどして、公爵夫人が部屋へはいって来たときには、ふたりはもうすっかり仲直りしていた。キチイは、自分が彼を愛していることを、納得させたばかりでなく、なんのために愛するのかという質問にも答えて、それをちゃんと説明した。自分があなたを愛するのは、あなたという人をすっかり理解しているからだし、あなたが愛してくださるにちがいないことも知っており、しかも、あなたの愛するものは、なにもかもみんないいことばかりだから、といった。このことは彼にとってこのうえなく明瞭《めいりょう》なことに思われた。公爵夫人がはいって行ったとき、ふたりはトランクの上に並んですわり、着物を選り分けていた。そして、リョーヴィンは自分が結婚の申し込みをしたときキチイの着ていた茶色の着物を、キチイがドゥニャーシャにやろうというのに、リョーヴィンはこの着物はだれにもやってはいけない、ドゥニャーシャには空色のをやりなさい、といい争っている最中であった。
「どうしてわからないんでしょうね! あの子はブリュネットだから、そんなものは似合わないのよ……あたしはもうちゃんと考えていたんですもの」
公爵夫人は、彼のやって来たわけを知ると、冗談ともまじめともつかぬ調子で腹を立てて、さあ、宿へ帰って着替えをなさい、もうすぐシャルルが来るはずだから、キチイが髪を結《ゆ》うじゃまをしないでください、といった。
「この娘《こ》はそうでなくても、この、二、三日なんにも食べないので、器量がおちたのに、あなたはそんなばかげたことをいって、この娘《こ》の気持を乱すなんてとんでもない」夫人は彼にいった。「さあ、とっとと帰ってちょうだい、とっとと帰ってちょうだい、お利口だから」
リョーヴィンは悪いことをしたような、恐縮した気持で、それでもすっかり安心して宿へ帰った。兄も、ドリイも、オブロンスキーも、みんな盛装して、もう聖像で祝福するばかりにして待ちうけていた。もう一刻の猶予もなかった。ドリイはもう一度わが家へ帰って、花嫁に付き添って聖像を運ぶことになっていた、髪にポマードをつけカールさせた長男を、連れて来なければならなかった。さらに、介添人を迎えに、馬車を一台出さなければならなかったし、コズヌイシェフを送って行くもう一台の馬車も、ここへ帰してよこさなければならなかった……つまり、ひじょうにこみいった手配が、とてもたくさんあったのである。ただ一つ疑いのないことは、もう六時半になるから、まごまごしていられない、ということであった。
聖像での祝福の式は、なにごともなくすんだ。オブロンスキーはこっけいな気どったポーズで妻と並んで、聖像を持ち、リョーヴィンに床に額《ぬか》ずいて礼拝するように命じてから、人のよさそうな、しかし皮肉な微笑を浮べて、祝福を与え、三度彼を接吻した。ドリイもそれと同じことをやって、すぐ急いで出かけようとしたが、またもや馬車のやりくりで、こんがらかってしまった。
「それじゃ、こうしよう。おまえはうちの馬車に乗って、あの子を迎えに行きなさい。コズヌイシェフさんには、ご面倒でも家へ寄っていただいて、そのあとでおまわしすることにしよう」
「もちろん、それでけっこうですとも」
「じゃ、私はいまごいっしょに行くことにしよう。荷物は出したかね?」オブロンスキーはいった。
「ああ、出したよ」リョーヴィンは答えて、クジマーに着替えのしたくを命じた。
大勢の人びとが、とりわけ女たちが、結婚式のために明るく照らされている教会を、とりまいていた。中へもぐりこむことのできなかった人びとは、押しあったり、口論したり、格《こう》子《し》越しにのぞきこんだりしながら、窓のまわりに群がっていた。
もう二十台以上の馬車が、憲兵のさしずで、往来に沿って並んでいた。警部は、厳寒をものともせずに、制服を輝かせながら、入口に立っていた。まだあとからあとから、たえまなく馬車が乗りつけて来た。そして、花を飾った裳《も》裾《すそ》を高くかかげた貴婦人たちが、あるいは男たちが制帽や黒いソフトを脱ぎながら、教会の中へはいって行った。会堂の中は、一対の釣り燭台《しょくだい》も、それぞれの聖像の前のろうそくも、もうあかあかとともされていた。聖障の緋《ひ》の地にはえる金色の輝きも、金箔《きんぱく》に輝く木彫りの聖像も、多聖燭や燭台の銀も、石畳の床も、じゅうたんも、詠隊席の上の凱旋《がいせん》旗《き》も、升壇の階段も、黒ずんだ古い書物も、祭袍《さいほう》下着も、祭衣も、なにもかもいっぱいに光を浴びていた。暖かい会堂の右側には、燕《えん》尾《び》服《ふく》や、白ネクタイや、制服や、花《はな》緞《どん》子《す》や、ビロードや、繻《しゅ》子《す》や、髪や、花や、あらわな肩や、胸や、長い手袋などが群がっている中で、控えめながら活気のある会話がかわされて、それが高い丸天井に奇妙にこだましていた。ドアのあく音がするたびに、人びとの話し声はぴたりとやんで、はいって来る新郎新婦の姿を見ようと待ちかまえて、いっせいに振り向くのだった。ところが、ドアはもう十ぺん以上も開かれたにもかかわらず、いつもそれは右手の招待席へつらなる遅れて来た男女の客たちか、でなければ、警部をだますか拝みたおすかして、左手の一般席にはいりこむ見物の女たちであった。こうして、親戚《しんせき》のものも見物人も、もう待ちどおしいといった状態を通り越していた。
はじめのうちは、今にも新郎新婦が来ると思って、遅れていることを気にもとめずにいた。そのうちに、だんだんとひんぱんにドアのほうを振り返って、なにか起ったのではないかと話すようになった。やがて、遅いことがなにかばつが悪くなってきて、親戚のものも客たちも、もう花婿のことは考えないで、自分たちの話に夢中になっているようなふりをしようと努めていた。
長補祭は、自分の時間の貴重なことを思い知らせようとするかのように、じりじりしながら、窓ガラスが震えるほど、大きな咳《せき》ばらいをした。詠隊席では、しびれをきらした歌手たちが声ならしをしたり、洟《はな》をかんだりするのが聞えた。司祭は、しょっちゅう花婿はまだかと、堂役や補祭を次々に見にやって、自分でも紫の祭袍に刺繍《ししゅう》した帯を締めた姿で、ますますひんぱんにわきの戸ロへ出かけて行っては、花婿の到着を待ちわびていた。ついに、ひとりの貴婦人がちらっと時計を見て、「それにしても変ですわね!」といった。すると、客はみんな不安にかられて、自分たちの驚きや不満を声高《こわだか》にもらしはじめた。介添人のひとりが、なにごとが起ったのか様子を見に出かけて行った。キチイは、その時分にはもうとっくに着つけをすましていて、純白の衣装に長いヴェールをつけ、橙《だいだい》の花を飾った冠をかぶり、仮親となった姉のリヴォフ夫人といっしょに、シチェルバツキー家の広間に立って、介添人から花婿が教会へ着いたという知らせが来るのを、もう三十分以上もむなしく待ちながら、じっと窓の外をながめていた。
一方、リョーヴィンはそのころ、ズボンをはいただけで、チョッキもフロックも着ずに、やたらに戸の外をのぞいたり、廊下を見まわしたりしながら、部屋の中をあちこち歩きまわっていた。しかし、廊下には、待ちうけている人の姿がいっこう現われないので、しょげたような顔つきで引き返して来ては、落ち着きはらってたばこをふかしているオブロンスキーに、両手を振りまわしながら、こう食ってかかるのだった。
「いや、まったく、こんなひどいばかげた目にあった人間なんているもんか!」彼はいった。
「ああ、ばかげているね」オブロンスキーは、とりなすような微笑を浮べて、相槌《あいづち》をうった。
「でも、まあ、落ち着けよ、今に持って来るだろうよ」
「いや、とんでもない」リョーヴィンは腹にすえかねながら、いうのだった。「それに、このばかばかしいほど胸のあいたチョッキはどうだい! とっても、我慢ができないよ」彼はワイシャツのしわになった胸のあたりを見ながらいった。「それにしても、もう荷物が停車場へ出されてしまったあとだったら、どうしよう!」彼は絶望的に叫んだ。
「そのときはぼくのを着りゃいいよ」
「そんなら、もっと前にそうすりゃよかったよ」
「おかしな格好に見えちゃよくないからな……まあ、もう少し待ちたまえ、丸くおさまる《・・・・・・》だろうよ《・・・・》」
じつは、こういうわけであった。リョーヴィンが着替えをしようとしたとき、老僕のクジマーは、燕尾服やチョッキやそのほか必要なものをいっさいそろえて持って来た。
「ワイシャツはどうした?」リョーヴィンは叫んだ。
「ワイシャツはお召しになっていらっしゃいますよ」クジマーは平然と微笑を浮べながら、答えた。
クジマーは新しいシャツを残しておくということに思いいたらなかったので、すっかり荷造りして、シチェルバツキー家へ送れという命令を受けると、燕尾服を一着だけ残して、あとは全部荷造りしてしまった。若いふたりは今晩すぐ、シチェルバツキー家から発《た》つことになっていたからである。朝から着ていたワイシャツはもうしわくちゃになっていたので、胸の大きくあいた流行のチョッキを着ることは、とてもできなかった。シチェルバツキー家へ使いを出すのは遠すぎてできなかった。そこで、ワイシャツを買いにやらせたところ、ボーイがもどって来て、日曜なのでどこもしまっている、という返事だった。オブロンスキー家へ使いを出して持って来てもらったワイシャツは、お話にならぬほど大きくて、丈《たけ》が短かかった。結局、シチェルバツキー家へ使いをやって、荷物を解くことにしたのである。こうして、みんなが教会で花婿を待っているというのに、ご当人は檻《おり》に閉じこめられた獣のように、廊下をのぞいたり、さっきキチイに話したことを思いだしたり、今ごろキチイはどんなことを考えているだろうか、と想像しながら、恐怖と絶望にかられて、部屋の中をあちこち歩きまわっているのであった。
ようやくクジマーが申しわけなさそうな顔をして、息も絶えだえに、ワイシャツを手にして部屋の中へとびこんで来た。
「やっとこさ間にあいましたよ。もう車に積んでるところでございました」クジマーはいった。
三分後に、リョーヴィンはわざと傷口にふれないように時計も見ないで、廊下を駆けだして行った。
「いや、いまさらそんなことをしたって、たいした違いはないさ」オブロンスキーはゆっくり彼のあとからついて行きながら、微笑を浮べて、いった。「丸くおさまるよ《・・・・・・・》、いや、丸くおさまる《・・・・・・》っていうのに……」
「ほら来た!」「あれですよ!」「どの人?」「あの若いほうかしら?」「まあ、花嫁さんのほうは、生きた心地もなさそうね!」リョーヴィンが車寄せで花嫁を迎えて、いっしょに教会へはいって行ったとき、群衆の中でこんなささやきが起った。
オブロンスキーは、遅れたわけを妻に話して聞かせた。客たちは微笑を浮べて、お互いにささやきかわしていた。リョーヴィンはなにひとつ、だれひとり気づかなかった。彼はずっと目を放さずに、花嫁を見つめていた。
みんなは、花嫁がこの二、三日のあいだにひどく器量が落ちて、せっかくの花嫁姿がいつもよりずっと見劣りがすると話していた。しかし、リョーヴィンにはそう思われなかった。彼は、キチイの長いヴェールをかぶって白い花で飾られた高い髪型や、とりわけ処女らしく長い首の両わきを隠して、前のほうだけ見せている襞《ひだ》の多い立襟や、驚くばかりほっそりした腰を見て、彼女がいつもよりかえって美しいような気がした。が、それは、こうした花や、ヴェールや、パリから取り寄せた衣装などが、キチイの美しさになにものかを加えたからというのではなく、こうした人工的な装いの華やかさにもかかわらず、その愛らしい顔や、まなざしや、唇《くちびる》の表情が、相変らず、彼女独特の清純な誠実さを表わしていたからであった。
「もう逃げだしたくおなりになったのかと思いましたわ」キチイはいって、にっこり笑った。
「あんまりばかげたことが起って、お話しするのも気がひけるくらいですよ」彼は赤面しながらいったが、そのときそばへ寄って来たコズヌイシェフのほうへ振り向かなければならなかった。
「おまえのワイシャツの一件はなかなか傑作だね!」コズヌイシェフは、頭を振って、微笑しながらいった。
「え、ええ」リョーヴィンはなにをいわれているのかもわからずに答えた。
「さて、コスチャ、今すぐ決断を下さなくちゃならんことがあるんだよ」オブロンスキーが、わざとびっくりしたような顔をしていった。「こりゃ重大問題だからね。今こそきみは、その重大性を評価しうる立場にあるんだからね。いいかい、ろうそくは使いかけのにするか、それとも新しいのにするか、と今きかれたんだよ。値段の違いは十ルーブル」彼は今にも微笑しそうな唇をしながら、こうつけ足した。「ぼくは断を下したんだが、きみに異存があるんじゃないかと気がかりでね」
リョーヴィンはそれが冗談だとわかったが、しかし笑うことはできなかった。
「さあ、どうなんだい? 新しいのにするか、使いかけのにするか? これが問題なんだよ」
「うん、わかった! 新しいやつを」
「いや、そりゃ、けっこうだね! 問題は解決したよ」オブロンスキーは、微笑しながらいった。「それにしても、人間はこんな場合ずいぶんばかになるもんだなあ」彼はリョーヴィンが放心したようにこちらへ顔を向けて、花嫁のほうへ歩きだしたとき、チリコフにいった。
「キチイ、よくって、あなたが先にじゅうたんにひざまずくのよ」ノルドストン伯爵夫人は、そばへ近寄りながらいった。「まあ、ごりっぱですこと!」夫人はリョーヴィンにいった。
「ねえ、こわくないかい?」年とった伯母《おば》のマリヤ・ドミートリエヴナがきいた。
「寒くないの? まっ青な顔をして。ちょっと、頭を下げておいで!」姉のリヴォフ夫人はキチイにいうと、肉づきのいい見事な両腕を丸くしながら、微笑を浮べて、妹の頭の花をなおしてやった。
ドリイが近づいて来て、なにかいおうとしたが、言葉にならず、泣きだしたかと思うと、すぐぎごちなく笑い声をたてた。
キチイもリョーヴィンと同じく、放心したような目つきでみんなをながめていた。自分に話しかけられるすべての言葉に対して、ただ幸福の微笑で答えることしかできなかった。その微笑は今の彼女にとって、いかにも自然であった。
そのうちに、堂務者たちは祭服をつけ、補祭を従えた司祭は、会堂の正面にある経案のそばへ進み出た。司祭はなにやらいってリョーヴィンのほうへ向いた。リョーヴィンは司祭のいったことが、よく聞きとれなかった。
「花嫁の手をとって、前へお連れしなさい」介添人がリョーヴィンにいった。
リョーヴィンは長いこと、なにをいわれているのか、わからなかった。人びとは、何度も彼のすることをなおそうとし、ついにはもう見切りをつけようとした。というのは、彼はいくらいっても、いつも違う手を出したり、違う手を取ったりしたからである、そのとたん、彼はやっと、右手で、位置を変えずに、花嫁の右手を取らなければならないことを悟った。ようやく彼が、ちゃんと花嫁の手を取ったとき、司祭は五、六歩ふたりの前へ進み出て、経案のそばに立ち止った。身内のものや知人たちが、ざわざわささやきあったり、さらさら裳《も》裾《すそ》を鳴らしたりしながら、そのあとにつづいた。だれかが、かがみこんで、花嫁の裳裾をなおした。会堂の中はしんと静まりかえって、蝋《ろう》のたれる音が聞えるほどであった。
老司祭は椀帽《カミラフカ》をかぶり、銀髪を二つに分けて、耳のうしろにはさみ、背に金の十字架をつけた重そうな銀の祭服の下から、年寄りじみた小さな両手を出して、経案のそばで、なにかを取りだしていた。
オブロンスキーは用心ぶかく、司祭のそばへ行って、なにかささやくと、リョーヴィンに目くばせして、またうしろへもどった。
司祭は、花模様のろうそくを二本ともして、蝋がゆっくりたれるように傾けて左手で持つと、新郎新婦のほうに向きなおった。その司祭は、リョーヴィンの痛悔をきいたのと同じ人であった。司祭は疲れたような、ものうい目つきで新郎新婦をながめると、ほっと溜息《ためいき》をつき、祭服の下から右手を出して、その手で花婿を祝福してから、今度は同じようではあるが、いくらか慎重な優しさをこめて、組み合せた指を、キチイの下げた頭にのせた。そして、司祭はふたりにろうそくを渡して、振り香炉をとると、ゆっくりふたりのそばを離れた。
《ほんとに、これは夢ではないのだろうか?》リョーヴィンは考えて、花嫁を振り返った。彼は少し上のほうからその横顔を見た。そして、それと知られる唇とまつげのわずかな動きから、相手が自分の視線を感じたことを知った。キチイは、振り向かなかったが、その高い襞襟《ひだえり》が動いて、ばら色の耳のほうへ持ちあがった。彼女の溜息が胸の中で止って、ろうそくを持っている長い手袋をはめた小さな手が、震えだしたのが見えた。
ワイシャツの一件や遅刻さわぎも、知人や親戚との会話も、彼らの不満も、自分のこっけいな立場も、なにもかもいっぺんに消えてしまって、彼はうれしいような、恐ろしいような気持におそわれた。
銀色の祭衣をつけ、左右に長い巻毛をみせた、美しい長身の長補祭は、元気よく前へ進み出て、慣れたしぐさで、二本指で聖帯を持ちあげると、司祭に向き合って立ち止った。
『主よ、祝福をたれたまえ!』ゆっくりと、次々に荘重な音が、あたりの空気を震わせながら、響きはじめた。
『われらが神は、今も、のちの世も、とこしえに、祝福されん』老司祭は、経案の上でなにかを選《え》り分けながら、おだやかに、歌うような口調で応じた。すると、目に見えぬ詠隊の完全な和音が、会堂から丸天井まで満たしながら、調子よく広々とわき起って、一瞬やんだかと思うと、静かに消えていった。
例によって、天よりの平和と救いのために、宗務院のために、皇帝のために祈りがささげられた。また、きょう結びあわされる神の僕《しもべ》コンスタンチンとエカテリーナのためにも祈りがささげられた。
『ああ、神よ、このふたりによりよき愛の心と助けとをたまわらんことを、われら祈らん』という長補祭の声に、会堂全体が呼吸しているようであった。
リョーヴィンはこうした言葉に耳を傾けていたが、思わずはっとした。
《なぜあの人たちは、助けということに気づいたんだろう、たしかに、助けが必要だな!》彼は最近の恐怖と疑惑を思いおこしながら、そう考えた。《おれの知ってることってなんだろう? こんな恐ろしいことをしながら、おれにはいったいなにができるだろう?》彼は考えた。《助けがなかったら? いや、今のおれには助けが必要なんだ》
補祭が祈りを終えたとき、司祭は祈祷書を手にして、結び合されたふたりのほうを向いた。『離れておりしものを一つに結びたもう、永遠《とわ》なる神よ!』司祭はつつましい、歌うような声で唱えた。『犯すべからざる聖なる愛の結びをふたりに授け、イサクとレベッカに世継ぎを与え、聖約を示されし神よ。願わくば、みずから、なんじが僕コンスタンチンとエカテリーナに祝福をたれ、よき行いにみちびきたまえ。なんじはみ恵みぶかく、人の子を愛したまえば、父と子と聖霊の御名《みな》によりて、今も、のちの世も、とこしえに、栄えをば送らん』『アーメン』と、また目に見えぬコーラスがあたりに響きわたった。
《『離れておりしものを一つに結びたもう、愛の結びを授けたもう』ああ、これはなんと意味ぶかい言葉だろう、今自分が感じていることに、なんとよくあてはまっていることだろう!》リョーヴィンは考えた。《キチイもおれと同じことを感じているのだろうか?》
そう思って、振り返ったとたんに、彼はキチイの視線に出会った。
そして、彼はそのまなざしの表情から、キチイも自分と同じふうに理解していると見てとった。しかし、それはまちがっていた。キチイは祈りの言葉を、ほとんどまったく理解しなかったばかりか、礼拝のあいだじゅう、それに耳も傾けていなかったのである。いや、そんなものに耳を傾けたり、理解したりすることはできなかった。ある一つの感情が彼女の心を満たして、いやが上にも強まっていったからである。それは、もう一月半も前に彼女の心に生れて、この六週間というものたえず彼女を喜ばしたり、苦しめたりしていたことが、いまや完全に成就したという喜びの感情であった。彼女が茶色の服を着て、アルバート街のわが家の広間で黙って彼に近づき、彼の腕に身を投げたあの日あの時、彼女の心の中では、それまでのいっさいの過去の生活と絶縁し、まったく別な、新しい、未知な生活がはじまったのである。ところが、現実には、まだ古い生活がつづいていた。この六週間は、彼女にとってもっとも幸福であると同時に、もっとも苦悩に満ちたときであった。彼女の生活はすべて、その希望も、期待も、まだ自分によくわからないひとりの男性に集中された。しかも、この男性とは、その当人以上に不可解な、ときには接近させ、ときには反撥させる感情によって結ばれていたが、それと同時に、彼女は相変らず昔と同じ生活条件の中で暮していた。彼女は昔ながらの生活をつづけながら、自分自身に対しても、また、過去のいっさいのもの――その品物や、習慣や、自分を愛してくれた人びとや、現に愛してくれている人びとや、娘の無関心を悲しんでいる母親や、かつてはこの世のだれよりも愛していた優しい父親に対しても、どうしようもなく無関心になってしまったことに、われながらぞっとした。いや、彼女もこうした無関心にぞっとすることもあったが、時には、自分をこうした無関心にさせたものを喜んだりした。彼女はこの男性との生活を除いては、なにひとつ考えることも望むこともできなかった。しかも、その新しい生活はまだはじまらないので、それをはっきり想像することさえできなかった。あるのはただ、新しい未知のものに対する恐怖と喜びのいりまじった期待だけであった。ところが、今まさに、その期待も、未知なことも、昔の生活と手を切るという悟りも――なにもかも終りを告げて、新しいものがはじまろうとしているのだ。この新しいものは、未知なるがゆえに、恐ろしくないはずはなかった。しかし、それが恐ろしくても、恐ろしくなくても――それはもう六週間前に、心の中に生れたのであり、いまや心の中でとっくにできあがってしまい、単にそれが聖化されただけのことであった。
司祭はまた経案のほうへ向くと、キチイの小さな指輪を、やっとのことでつかんで、リョーヴィンの手を出させ、指の第一関節にはめた。『神の僕コンスタンチンは、神の僕エカテリーナと結ばれぬ』それから、司祭は、キチイの痛々しいほど小さなばら色の指に、大きな指輪をはめて、また同じことを唱えた。
新郎新婦は何度もどうすればいいのか察しかねて、まちがってばかりいたので、司祭は小声で、それをなおしてやっていた。やっと、必要なことをすますと、司祭は指輪でふたりに十字を切ってから、またキチイに大きな指輪を、リョーヴィンには小さいほうを手渡した。と、またふたりはまちがって、二度も指輪を手から手へ渡したが、それでも、ちゃんとしたふうにはいかなかった。
ドリイとチリコフとオブロンスキーは、それをなおそうとして、前へ進み出た。あたりがざわついて、ささやきと微笑が生れたが、結びあわされたふたりの感動に満ちた厳粛な表情は、相変らず、変らなかった。いや、それどころか、手のやり方をまちがえながらも、ふたりは前よりもさらにいっそうまじめくさって、ものものしい顔つきになった。オブロンスキーは、めいめい自分の指輪をはめるようにと、微笑を浮べてささやいたが、その微笑は唇の上に凍《い》てついてしまった。さすがの彼も、この瞬間にはどんな微笑もふたりを侮辱するにちがいないと、感じたのであった。
『神よ、なんじははじめより男と女とをつくりたまえり』司祭は指輪の交換がすむと、唱えはじめた。『なんじの御《み》手《て》によりて、妻はその助けとなり、その子を養わんがために、夫に結びあわさるるなり。われらの主なる神よ、なんじの御《み》業《わざ》と聖約のために、選ばれてなんじの僕となりしわれらが父祖に真実を授けたまいし神よ。なんじの僕コンスタンチンとエカテリーナとを守りて、ふたりの婚姻を、その信仰と、魂の一致と、真理と、愛の中に固めさせたまえ……』
リョーヴィンは、結婚について自分のいだいていたすべての空想、つまり、自分の生活をどのように築いていこうかという空想は、なにもかもまったくの子供だましのようなものにすぎないと思った。そして、結婚というものは、自分が今まで理解していなかった何ものかであり、それはいまや自分の身の上に成就されようとしているにもかかわらず、今は前よりさらにいっそう不可解になっているなにものかであると、ますます強く感じるのであった。彼の胸の中にはますます激しい戦《せん》慄《りつ》が生れて、おさえきれない涙が、両の目にあふれてくるのだった。
教会には、モスクワじゅうの親戚《しんせき》や知人が集まっていた。そして、結婚の儀式が行われているあいだ、燈火の明るく輝いた会堂の中では、着飾った婦人や令嬢たち、また白ネクタイにフロックコートや制服姿の紳士たちが、互いに、行儀よく静かな会話をつづけていた。もっとも、話をしていたのは主として紳士たちで、婦人たちはいつ見ても強く心を動かされる神聖な儀式の細かい観察に、すっかり気をとられていた。
花嫁にいちばん近い一団の中には、ふたりの姉がいた。長姉のドリイと、外国からかけつけて来た、しとやかな美人のリヴォフ夫人である。
「まあ、なんだってマリイときたら、結婚式だというのに、まるで黒に見える紫の服を着てるんでしょうね?」コルスンスカヤがいった。
「あんな顔色ですもの。あれがたった一つの救いなんですよ……」ドルベツカヤが答えた。「でも、晩に結婚式をあげるなんて驚きましたわ。商家のしきたりですわ……」
「そのほうがきれいに見えるからでしょ。あたしのときもやっぱり晩でしたわ」コルスンスカヤは答えた。そして夫人はその日の自分のあで姿と、おかしなくらい自分に夢中になっていた夫のことを思いだすと、それが今はなにもかもすっかり変ってしまったことに気づいて、ほっと溜息《ためいき》をもらした。
「世間じゃ、十ぺん以上介添人をやった者は、結婚できないっていってますね。私も結婚からのがれるために、十ぺんめを務めたいと思ったんですが、チャンスがありませんでしてね」シニャーヴィン伯爵は、自分に気のあるらしい美しい公爵令嬢チャールスカヤに話しかけた。
チャールスカヤは、それにただ微笑だけで答えた。令嬢はキチイの姿をながめながら、自分がいつかシニャーヴィン伯爵と並んで、今のキチイの立場に立つことになるだろうことや、そのときにはどんなふうにして今の冗談を思いださせてやろうか、などと考えていた。
シチェルバツキーは、老女官のニコラーエヴァに、あの子が幸福になるように、キチイの付け髷《まげ》の上に花冠をかぶせてやるつもりだ、といっていた。
「付け髷なんかしなければよろしかったのに」ニコラーエヴァは答えたが、彼女は自分の見つけた年とった寡夫《かふ》と結婚するようなことになったら、式はごく簡単なものにしようと、前々からきめこんでいたのである。「あたしはおおげさなことがきらいでしてね」
コズヌイシェフは、ドリイを相手に、式のあとで旅行に出かける風習がひろまったのは、新郎新婦というものはいつもいくらか気恥ずかしい思いをするからだと、冗談まじりに説得していた。
「弟さんは、ご自慢なすってもよろしゅうございますわね。あんなにかわいいお嫁さんですもの。あなた、おうらやましくはありません?」
「いや、もうそんな時代は過ぎてしまいましたよ」彼は答えたものの、その顔は思いがけなく沈んだ、かたい表情になった。
オブロンスキーは義妹に、例の《ラズヴォード》にかんする語呂《ごろ》あわせを話して聞かせた。
「花冠をなおさなくちゃいけませんわ」相手は彼の話を聞きもしないで、いった。
「あんなにご器量が落ちてしまって、ほんとに残念ですわね」ノルドストン伯爵夫人は、リヴォフ夫人にいった。「それにしても、花婿さんは、あの方の小指だけの値うちもありませんわね。そうじゃございません?」
「いいえ、あたし、あの方のこと、とても気に入っておりますの。これはなにも、あの方が義弟《ボー・フレール》になるから申してるのじゃありませんわ」リヴォフ夫人は答えた。「ねえ、ほんとうにごりっぱな態度じゃありませんか! あんな立場に立って、りっぱな態度をとるってことは、そりゃむずかしいものですわ、ちっともこっけいに見えないってことは。あの方はこっけいでもなければ、固くもならないで、さも感動しているみたいなんですものねえ」
「ずいぶん、この日が待たれたことでしょうねえ?」
「ええ、それは。あの子も、ずっとあの方をお慕いしておりましたし」
「さあ、これから、どちらが先にじゅうたんの上へ立つんでしょうね。あたし、キチイに教えておいたんですけど」
「どっちみち同じことですわ」リヴォフ夫人は答えた。「あたしたちはみんなおとなしい妻ですもの。これはわが家の血筋なんですのね」
「あたしのときは、わざとワシーリイより先に立ちましたけど。ドリイ、あなたはどうでしたの?」
ドリイはふたりのそばに立って、その話を聞いていたが、なんとも返事をしなかった。すっかり感動していたからである。目には涙があふれていて、もうなにかひと言いっても、泣きださんばかりであった。キチイとリョーヴィンのことがうれしくてたまらなかったのである。心の中で、自分たちの結婚式のことを思いだしながら、顔を輝かせている夫のオブロンスキーをちらとながめて、現在の境遇をすっかり忘れてしまい、あの清らかな初恋のころのことばかりを思いだしていた。ドリイは自分ひとりばかりでなく、身近な親しい婦人たちのことをすっかり思い起した。その婦人たちがキチイと同じように、過去の生活と別れて、神秘な未来へ踏みこむために、胸の中に愛と、希望と、恐怖をいだきながら冠をかぶって立ったときの、あの生涯にただ一度の厳粛な瞬間における彼女たちの姿を思い起したのであった。ドリイは心に浮んできた多くの花嫁たちにまじって、あの愛すべきアンナのことも思い浮べ、つい先ごろ聞いたばかりの離婚話の一部始終を思いだした。アンナもかつて同じように金柑《きんかん》の花飾りとヴェールをかぶって、清らかな姿をして立っていたのだ。それが、今はどうだろう?
「まったくわからないものだわ」ドリイはつぶやいた。
この神聖な儀式の一部始終をじっと見守っていたのは、姉たちや、友だちや、親戚の者ばかりではなかった。まったく縁のない見物の婦人たちまでが、息を殺して、胸をおどらせながら、新郎新婦の一挙一動から顔の表情まで見のがすまいとして、目をこらしていた。そして、冗談をいったり、関係のないことをしゃべったりする無関心な男たちの話には、わざといまいましそうに、返事をしなかったり、まるっきり耳もかさない始末であった。
「なんだってあんなに目を泣きはらしてるんでしょうね? いやいやお嫁入りするのかしら?」
「あんなりっぱな男ですもの、いやいやってこともないでしょう。公爵ですって?」
「あの白い繻《しゅ》子《す》の衣装を着ているのは、お姉さんかしら? まあ、あの補祭ったら『されば、なんじの夫を恐れ』だなんて唱えていますよ」
「チュードヴォ修道院の詠隊かしら?」
「いえ、宗務院の方たちですわ」
「召使にきいてみたんですけど、すぐご自分の領地へ連れて帰られるんですって。たいへんなお金持なんですって。それで、お嫁にやったんでしょ」
「でも、お似合いのご夫婦ですわ」
「ねえ、マリヤ・ヴラーシエヴナ、あなたはいつかクリノリンは離して着るものだっていってらしたけど、ほら、ごらんなさい、あの鳶色《とびいろ》の服を着てる方、なんでも公使夫人だそうですけど、あんなにくっついてるじゃありませんか……ほら、だからまたあんなふうになるんですわ」
「ほんとにかわいい花嫁さんですこと。まるで花の飾りをつけた小羊みたいですね! なんといっても、あたしはやっぱり女の方に同情してしまいますわ」
教会の入口からうまくすべりこんだ見物の婦人たちの中では、こんな話が取りかわされていた。
結婚の儀式がすんで、堂務者が会堂のまん中の経案の前に、ばら色の絹の小さな敷物を敷いたとき、詠隊は、バスとテノールが交互に響きわたる、こみいった、むずかしい聖歌を歌いはじめた。すると、司祭は新郎新婦に向って、今敷かれたばら色の敷物を指さした。先にこの敷物の上に立ったほうが、その家庭を牛耳《ぎゅうじ》るという話は、ふたりともこれまで何度もずいぶん聞いたものであるのに、リョーヴィンもキチイも前へ五、六歩進み出ながら、そのことを少しも思いださなかった。あるものは、男のほうが先だったといい、またあるものは、ふたりいっしょだったと声高に話し合ったり、議論したりしていたが、それもふたりの耳にははいらなかった。
ふたりは結婚を望んでいるか、ほかに約束した人はいないかという、例のおきまりの質問があり、それに対してふたりが自分ながら妙に思われる答えをすると、今度は新しい勤《ごん》行《ぎょう》がはじまった。キチイはその意味を知ろうと思って、祈りの言葉に耳を傾けたが、やはりわからなかった。式がすすむにつれて、勝ち誇ったような気持と、晴ればれした歓喜の情とがいよいよ強くその心を満たして、彼女から注意力を奪ってしまったからである。
祈りの言葉はこうつづいた。『ふたりの僕《しもべ》のために、貞操と母胎のみのりを授けたまえ。ふたりにむすこと娘を与えて、心を楽しませたまえ』それから、神はアダムの肋骨《ろっこつ》から妻をつくりたもうたと唱えて、『このゆえに、人は父母を離れて妻と結ばれ、ふたりは一体とならん』とつづき、『そは大いなる神秘なり』といい、さらに、神はふたりにイサクとレベッカ、ヨセフ、モーゼ、セポーラのように、多産と祝福とを与えたまわらんことを、ふたりに子孫を見る喜びを与えたまわらんことを、と祈った。《なにもかもみんなすばらしいことだわ》キチイはこうした言葉を聞きながら、心の中で思った。《なにもかもみんなこうでなくてはいけないんだわ》と、喜びの微笑が、彼女の明るい顔に輝き、キチイを見ている人びとにいつのまにか伝わっていった。
「ちゃんとかぶらせてあげてくださいね!」司祭がふたりに冠をかぶせたとき、こう注意する声が方々から聞えた。そこでシチェルバツキーは、三つボタンの手袋をはめた手を震わせながら、キチイの頭上たかく冠をささげた。
「かぶらせてね!」キチイは微笑しながら、ささやいた。
リョーヴィンはキチイのほうを振り返って、その顔にあふれている喜びの輝きに、心を打たれた。キチイのその気持は、そのまま彼にもうつった。彼もキチイと同じような明るい楽しい気持になった。
ふたりは聖使徒の書札の朗読を聞いたり、一般の見物客たちがしびれをきらして待っていた、最後の詩篇を朗唱する長補祭の、うなるような声を聞いたりするのが、楽しかった。浅い杯で、水割りした生ぬるい赤ぶどう酒を飲むのも、楽しかった。さらに、司祭が祭服をはらい、ふたりの両手をとって、『イサク喜びたまえ』と、うたうバスの重々しい響きにつれて、経案のまわりを一周したときには、なおいっそう楽しい気持になった。冠をささげ持っていたシチェルバツキーとチリコフは、花嫁の長い裳《も》裾《すそ》に足をからまれながら、やはり笑《え》顔《がお》でなにか喜びながら、歩調をゆるめたり、司祭が足を止めるたびに、新郎新婦につまずいたりしていた。キチイの心をもえたたせた喜びの火花は、会堂に居あわせたすべての人びとに感染したようだった。リョーヴィンには、司祭や補祭までが、自分と同じように、微笑したがっているように思われるのだった。
ふたりの頭から冠をとると、司祭は最後の祈りを唱え、若いふたりを祝福した。リョーヴィンはちらとキチイのほうを見たが、彼はいまだかつてそんな彼女を見たことがなかった。キチイは、その顔にあふれる新しい幸福の輝きで、またとなく美しかった。リョーヴィンはなにか言葉をかけたかったが、もう式がすんだかどうかもわからなかった。と、司祭は当惑している彼に助け舟を出してくれた。司祭は人のよさそうな口もとでにっこり笑い、小さな声でいった。
「妻に接吻《せっぷん》なさい、あなたは夫に接吻なさい」そういって、ふたりの手からろうそくをとった。
リョーヴィンは慎重に、微笑を浮べている妻の唇に接吻し、手をさしのべた。そして、なにかふしぎな身近さを感じながら、教会を出て行った。彼には、こうしたことがほんとうだとは信じられなかった。なんとしても信ずることができなかった。やっとふたりのびっくりしたような、おずおずした視線が出会ったとき、はじめて彼は信ずることができた。彼は自分たちがもはや一心同体であることを感じたからである。
晩餐《ばんさん》がすむと、その晩すぐ若いふたりは田《いな》舎《か》へ向けて出発した。
ヴロンスキーとアンナはいっしょにもう三カ月も、ヨーロッパを旅行していた。ふたりはベニス、ローマ、ナポリをまわり、今イタリアのある小さな町へ着いたばかりのところだった。そこにしばらく滞在しようと思ったのである。
好男子の給仕頭《きゅうじがしら》は、ポマードをぬった濃い髪を、首筋の辺からきれいに分け、燕《えん》尾《び》服《ふく》の胸から白麻のワイシャツを大きくのぞかせ、大きな太鼓腹に時計の飾りをぶら下げ、両手をポケットに突っこんだまま、ばかにしたように目を細めて、そこに立っている紳士に、きびしい口調で、なにやら返事していた。車寄せの反対側から、階段をのぼって来る足音を聞きつけると、給仕頭はそちらを振り返った。そして、そのホテルでもいちばん上等の部屋におさまっているロシアの伯爵を見ると、うやうやしく、両手をポケットからぬきだし、小腰をかがめ、先ほど使いがやって来て、邸《パラッ》宅《ツオ》を借りる話がまとまったと報告した。もう支配人が、契約に署名するばかりになっていたのである。
「ほう! そりゃけっこうだね」ヴロンスキーはいった。「で、奥さんはいるかね、それとも出ているかね?」
「散歩にお出かけになりましたが、今しがたおもどりになられました」給仕頭は答えた。
ヴロンスキーは頭から鍔広《つばびろ》のソフトを脱いで、汗ばんだ額と、はげを隠すために耳の半ばまでたらしている、バックにした髪を、ハンカチでふいた。そして、まだそこに立ったまま、自分のほうを見つめている紳士をぼんやりながめて、彼はそのまま通り過ぎようとした。
「あの方はロシア人で、あなたさまのことをたずねていらっしゃいますが」給仕頭はいった。
どこへ行っても、知人からのがれられないといういまいましさと、どんなことでも単調な生活をまぎらすものを見つけたいという希望の入りまじった妙な気持で、ヴロンスキーは、いったん出て行こうとしてまた立ち止った紳士を、もう一度振り返った。と、ふたりのまなざしが、同時にさっと明るくなった。
「ゴレニーシチェフ!」
「ヴロンスキー!」
実際、それはヴロンスキーの貴族幼年学校時代の仲間、ゴレニーシチェフであった。ゴレニーシチェフは、学校時代に自由主義者の党に属し、文官の資格で学校を出たが、どこにも勤務しなかった。ふたりは、卒業してから別々の道を歩んで、その後はたった一度しか会ったことがなかった。
その再会のとき、ヴロンスキーは、ゴレニーシチェフがなにか高尚な、自由主義的な活動をしていて、そのためにヴロンスキーの仕事や身分を軽蔑《けいべつ》しようとしているのを悟った。ヴロンスキーも、ゴレニーシチェフに会ったとき、冷やかな傲然《ごうぜん》とした反撥《はんぱつ》の態度をとった。彼は他人に対して、そんな態度をとることがじょうずで、それは、『ぼくの生活様式がきみの気に入ろうと入るまいと、ぼくにとっては、どっちみち同じことさ。もしぼくのことが知りたければ、ぼくを尊敬しなくちゃいかんよ』という意味であった。ところが、ゴレニーシチェフは、ヴロンスキーのこうした態度に対して、さげすむような無関心ぶりをみせた。そのために、この再会はさらに、ふたりの間を引き離すはずであった。ところが、今ふたりは互いに相手の顔に気づくと、喜びに顔を輝かせて、思わず叫び声をたてた。ヴロンスキーも、ゴレニーシチェフとの邂逅《かいこう》がこんなにうれしいとは、われながら予期していなかった。しかし、どうやら、彼は自分がどれほど退屈しているかを、自分で知らなかったのであろう。彼はこの前会ったときの不愉快な印象をけろりと忘れて、うちとけた、うれしそうな顔をして、旧友に手をさしのべた。と、それと同じような喜びの色が、ゴレニーシチェフの顔にも、それまでの不安な表情にとってかわった。
「きみに会えるなんて、じつにうれしいね!」ヴロンスキーは友情の微笑を浮べて、白い大きな歯並みを見せながら、いった。
「いや、ぼくもヴロンスキーと聞いたものの、どこのヴロンスキーかわからなくてね。ほんとに、じつにうれしいよ!」
「まあ、はいろうじゃないか。で、きみはなにをしてるんだい?」
「もう足かけ二年、ここで暮してるんだよ。仕事でね」
「ほう!」ヴロンスキーは興味をひかれていった。「まあ、とにかくはいろうよ」
そして、ロシア人共通の習慣によって、使用人に隠したいと思うことをロシア語で話すかわりに、フランス語で話しだした。
「きみはカレーニン夫人を知っていたかい?ぼくらはいっしょに旅行してるんだよ。今そこへ行くところさ」彼は注意ぶかくゴレニーシチェフの表情に見入りながら、フランス語でいった。
「ほう! そりゃ知らなかったな(そのくせ、彼は知っていたのである)」ゴレニーシチェフはさりげなく答えた。「もうずっと前に着いたのかい?」彼はつけ足した。
「ぼくかい? 四日めになるよ」ヴロンスキーはもう一度じっと友人の顔をのぞきこみながら、答えた。
《いや、こりゃちゃんとした人間だ、物事を正しく見ているな》ヴロンスキーはゴレニーシチェフの表情と、彼が話題を変えた意味を悟って、こう考えた。《この男ならアンナに紹介してもいいな、ちゃんとした物の考え方のできる人間だから》
ヴロンスキーは、アンナと外国で過したこの三カ月のあいだ、未知の人びとに出会うたびに、その人物が、自分とアンナとの関係をどんなふうに見るかという問いをいつも自分に発していたが、たいていの場合、ちゃんと《・・・・》した《・・》理解を示すのは相手が男の場合であった。しかし、そのような理解とはどのようなものであるかと、彼が人にきかれたら、いや、その『ちゃんと』理解している人びとも、だれかにそうきかれたら、彼もその人びとも、きっと返答に窮したにちがいない。
実際のところ、ヴロンスキーが『ちゃんと』理解していると考えた人びとも、そんなことはまるっきりわかってはいなかったのである。ただそれらの人びとは、この人生をとりまいているいっさいの複雑な、不可解な問題に対して、育ちのいい人たちがとると同様、あてこすりや不快な質問を避けながら、礼儀正しい態度を守っているにすぎなかった。それらの人びとはそうした境遇の意義や真意を完全に理解して、単にそれを是認するだけでなく、賛成さえしているのだが、ただそうしたことをはっきりさせるのをぶしつけな、よけいなことと、思っているような顔つきをしているのだった。
ヴロンスキーは、ゴレニーシチェフがそうした人間のひとりであることを、すぐに悟ったので、彼に会えたことが二重にうれしかった。実際、ゴレニーシチェフはカレーニナの部屋へ案内されたとき、彼女に対して、ヴロンスキーの望みうるかぎりの態度をとった。彼は明らかに、少しの努力もはらわずに、ばつの悪いことになりそうな話題はすべて避けているようだった。
彼は前にアンナを知らなかったので、その美しさに一驚したが、それにもまして、アンナが自分の立場をさばいている飾りけのなさに心を打たれた。ヴロンスキーが、ゴレニーシチェフを連れて行ったとき、アンナは顔を赤らめたが、その無邪気な美しい顔をそめた子供っぽい紅《くれない》の色は、とりわけ、彼の気に入った。しかし、なによりも彼の気に入ったのは、アンナが他人に誤解されないようにと、わざと、すぐにヴロンスキーのことを親しくアレクセイと呼び、自分たちは今度借りた家、この土地の言い方によれば邸宅《パラッツオ》へ、移るつもりだ、といったことである。自分の立場に対するこうした率直な、飾りけのない態度に、ゴレニーシチェフはすっかり気に入った。アンナの善良で快活な、しかも精力的な動作を見ていると、夫のカレーニンとヴロンスキーを知っているゴレニーシチェフには、すっかり彼女を理解してしまったような気になった。彼には、アンナがどうしてもわからないでいることが、わかったような気がした。それはつまり、夫を不幸にし、夫とむすこを捨て、華やかな名声を失ってしまった彼女が、どうして精力的で快活な、幸福な気持でいられるのか、ということであった。
「それならガイド・ブックにも出ているよ」ゴレニーシチェフは、ヴロンスキーの借りるという邸宅について、いった。「あそこにはチントレットの名画があるんでね。晩年の作がね」
「ねえ、どうです、すばらしい天気だし、もう一度あそこへ行ってみませんか」ヴロンスキーはアンナに話しかけた。
「まあ、うれしい。今すぐ帽子をかぶって来ますからね。外はお暑いっておっしゃったわね?」
アンナは戸口に立ち止って、たずねるようにヴロンスキーを見やりながら、いった。と、またもやあの明るい紅がその顔をそめた。
ヴロンスキーはアンナの目つきから、彼女にはヴロンスキーがゴレニーシチェフと、どんな関係を結ぼうとしているかわからないので、自分の態度が彼の希望にそわないのではないかと、心配しているのを見てとった。
彼は優しいまなざしで、長いことじっとアンナをながめた。
「いや、そんなでもありません」彼はいった。
そこで彼女は自分がなにもかもすっかり悟ったような気がした。なによりも彼が自分の態度に満足しているように思われたので、彼女はにっこり笑って、素早い足どりで戸の外へ出て行った。
友だち同士は、互いに顔を見合せたが、どちらの顔にも困惑の色が表われた。それはちょうど、ゴレニーシチェフは明らかにアンナに見とれていたので、なにか彼女のことをいおうと思ったものの、なんといっていいか考えつかないふうだったし、ヴロンスキーのほうもそれを望みながら、同時に恐れているふうだったからである。
「それじゃ、なんだね」ヴロンスキーは会話の糸口を見つけるために、こう話しかけた。「きみはここに落ち着いてるわけなんだね?それで、相変らず例の仕事をやってるのかい?」彼はゴレニーシチェフがなにか書いているといううわさを思いだして、言葉をつづけた。
「ああ、『二つの起源』の第二部を書いているんだ」ゴレニーシチェフはこの質問を聞いて、満足そうにさっと顔を赤らめながら、答えた。「いや、正確にいえばね、まだ書いているのじゃなくて、いろいろ準備のために、材料を集めているところなんだ。これは前のものよりずっと広範な、ほとんどあらゆる問題を包含するようなものになる予定でね。なにしろ、わがロシアでは、われわれがビザンチンの後継者だってことを、理解しようとしないんでね」彼は長々と熱心に説明をはじめた。
ヴロンスキーもはじめのうちは、著者がなにか周知のものとして語っている『二つの起源』の第一部さえ知らなかったので、少々ばつが悪かった。しかし、その後、ゴレニーシチェフが、自分の思想を述べはじめ、ヴロンスキーもその話についていくことができるようになると、彼は『二つの起源』を知らないながらも、少なからぬ興味をいだいて、相手の話に耳を傾けることができるようになった。それには、ゴレニーシチェフの雄弁も手伝っていた。しかし、ゴレニーシチェフが自分の研究しているテーマを話すときの、いらいらと興奮した態度は、ヴロンスキーを驚かすと同時に、失望させた。話が進むにつれて、彼の目はますます輝き、仮想の敵に対する論駁《ろんばく》はますます性急となり、その表情はますます落ち着きのない、腹立たしいものとなっていった。ゴレニーシチェフが、幼年学校では、いつも首席を通し、活溌で、善良で、上品なやせぎすの少年であったことを思いだすと、ヴロンスキーにはどうしても、そのいらだちの原因を察することができず、なにか相手を是認しかねる思いであった。とくに気に入らなかったのは、ゴレニーシチェフが良家の出でありながら、自分をいらいらさせた三文文士と同じレベルに立って、彼らに腹を立てていることであった。はたしてそんな値うちがあるのだろうか? ヴロンスキーにはそれが気に入らなかったが、しかしそれにもかかわらず、彼はゴレニーシチェフがふしあわせなような気がして、同情を覚えた。アンナの出て来たのにも気がつかずに、彼がせかせかと熱中しながら、自分の思想を述べつづけていたとき、変化の激しい、かなり美しいその顔には不幸、というよりも、ほとんど狂気にちかいものが見られた。
アンナが帽子をかぶり、ケープを羽織って現われ、美しい手を素早く動かして、パラソルをおもちゃにしながら、ヴロンスキーのそばに立ったとき、彼はほっとしたような気持で、自分にじっと注がれている、訴えるようなゴレニーシチェフの目から、のがれることができた。そして、彼は新しい愛情を覚えながら、生命と喜びにあふれた、自分の美しい人生の伴侶《はんりょ》をながめた。ゴレニーシチェフもようやくわれに返ったが、はじめのうちはうちしおれて、暗い顔をしていた。しかし、だれに対しても愛《あい》想《そ》のいいアンナが(そのとき彼女はそういう状態だった)、例の飾りけのない快活な態度で、じき彼の心をひきたてた。いろんな話題を試みたあとで、アンナは話を絵画にもっていった。彼も絵については大いに話したので、彼女はその話に耳を傾けた。一同は借りた家まで歩いて行くと、そこを検分した。
「ねえ、一つとてもうれしいことがあるんですのよ」アンナはもう帰りかけたとき、ゴレニーシチェフにいった。「アレクセイに、りっぱなアトリエができるってことですの。あんた、ぜひこの部屋をお使いなさいね」アンナはロシア語で、親しく『あんた《トゥイ》』と呼びかけながら、ヴロンスキーにいった。それというのもアンナはもうゴレニーシチェフが、世間を離れた自分たちだけの生活では親しい人となるであろうから、なにも隠しだてする必要のないことを悟ったからであった。
「ほんとに、きみは絵を描くのかい?」ゴレニーシチェフは、ヴロンスキーのほうをいきなり振り向きながらいった。
「ああ、昔からやっていたんだが、今度またはじめたんだよ」ヴロンスキーは顔を赤らめながら答えた。
「この人はとても才能があるんですのよ」アンナは、うれしそうに微笑を浮べながらいった。「そりゃ、あたしは批評家じゃありませんけど……でも、専門の批評家がそう申しましたの」
アンナは、自由の身となってどんどんと健康が回復していった最初のころは、われながらすまないと思うほど幸福で、わが身に生の喜びがあふれているように感じた。夫の不幸を思いだしても、彼女はいささかも傷つかなかった。その思い出は、一方からいうと、あまりに恐ろしくて、考えることもできなかった。が、他方からいえば、彼女の夫の不幸は、後悔するにはあまりに大きな幸福を、彼女に与えたのであった。例の病気のあとでアンナの身に起ったいっさいの思い出、つまり、夫との和解、決裂、ヴロンスキーの負傷の知らせ、彼の出現、離婚の準備、夫の家からの出奔、むすことの別れなど、こうしたいっさいの思い出は、熱病患者の悪夢のように思われた。彼女がようやくその悪夢からさめたのは、ヴロンスキーとふたりきりで外国へ旅立ったときであった。アンナは自分が夫になした悪を思いだすと、なにか嫌《けん》悪《お》に似た感情を味わった。それはおぼれかかった人間が、自分にしがみついた人を突き放したときに、味わうような気持であった。その人はおぼれ死んでしまった。もちろん、それは悪いことにちがいない。しかし、それは自分の助かる唯一の手段であったのだから、いまさらそんな恐ろしいことをとやかく思いださないほうがいいのである。
夫と決裂した当時、自分の行動について、気休めになるような一つの理屈が、彼女の頭に浮んだ。そして今、これまでのいっさいの過去を思いだしてみても、ただその一つの理屈しか思いだせなかった。
《あたしがあの人を不幸にしたのはどうにものっぴきならないことだったんだわ》彼女はそう考えるのだった。《でも、あたしはその不幸を利用しようとは思わないわ。あたしだって苦しんでいるのだし、これからも苦しむだろう。あたしは、なによりもいちばんたいせつに思っていたものを失ってしまった――自分の名声も、ひとりむすこも。自分で悪いことをしたのだから、もう幸福なんて望みはしないわ。離婚も望まないわ。ただ、恥をさらしながら、わが子と別れて苦しんでいくんだわ》ところが、アンナはどんなに心から苦しもうと思っても、事実は苦しんでいなかった。恥さらしなどということは少しもなかった。ふたりとも、なかなか気転がきいたので、外国へ来てからは、ロシアの貴婦人たちを避けるようにして、けっして自分たちを気まずい立場に立たせるようなことはなかった。ふたりはいたるところで、自分たちの関係を、当人たちよりずっとよく理解しているといった顔をしている人たちばかりに会っていた。愛するひとりむすことの別れも、はじめのころは彼女を苦しめなかった。ヴロンスキーの子である幼い娘がとてもかわいく、その子だけが手もとに残ってからは、アンナもすっかりその子にひきつけられてしまったので、むすこのことはめったに思いださなかったからである。
健康が回復するにつれてますますつのってきた生の要求があまりにも強烈で、しかも生活条件があまりにも新鮮でかつ快適だったので、アンナはわれながらすまないと思うほど幸福に感じていた。アンナはヴロンスキーの人がらを知れば知るほど、ますます深く愛していった。アンナは、彼そのもののためとともに、自分に対する彼の愛のために、彼を愛したのであった。ヴロンスキーを完全に独占したことは、アンナにとってたえざる喜びであった。彼が身近にいるということが、アンナには快かった。彼の性格のひとつびとつが、知れば知るほど、アンナには言葉につくせぬほど愛らしかった。平服を着たために一変した彼の風貌《ふうぼう》は、アンナにとって、まるで恋せる若い乙女《おとめ》のように魅力があった。彼が話したり、考えたり、行なったりするいっさいの中に、アンナはなにか特別上品な、高尚なものを見いだすのだった。彼のことを讃美する気持は、しばしば彼女自身をはっとさせた。アンナは彼の中になにか美しからぬものを捜したが、どうしてもそれを見いだすことはできなかった。アンナには、彼に比べれば自分などつまらない女だと相手に思い知らす勇気はなかった。彼女はもし相手がそれを知ったら、じきに自分を愛さなくなってしまうような気がした。今の彼女には、べつにそれを恐れる理由など少しもなかったにもかかわらず、彼の愛を失うことほど恐ろしいものはなかった。しかも彼女は、自分に対する彼の態度に、感謝せずにはいられなかったし、またそれを自分がどんなにありがたく思っているかを、示さずにもいられなかった。アンナの考えによると、彼は国家的な仕事に対してある使命をもち、当然それによってめざましい役割を演ずべきであったが、彼女のためにその名誉を犠牲にし、しかも一度として残念そうな様子を見せたことがなかった。彼は以前よりももっとアンナに愛情あふれるうやうやしい態度をとり、彼女が今の境遇のために、ばつの悪い思いをしないようにと、片時も忘れずに、気を配るのだった。彼はまったく男性的な人間であったが、アンナに対しては、反対しなかったばかりか、自分の意思をもたずに、ただひたすらアンナの望みを察することばかりに没頭しているみたいであった。したがって、アンナも、それをありがたく思わずにはいられなかったが、彼のそうした心づかいがあまり高じてくると、自分をとりかこむそうした雰《ふん》囲《い》気《き》に、時としてわずらわしく思うこともあった。
一方ヴロンスキーは、あれほど長いあいだ待ち望んでいたものが、完全に実現されたにもかかわらず、まったく幸福であるとはいえなかった。彼はじきにそうした欲望の実現は、前々から期待していた幸福の大きな山に比べれば、そのわずか一粒の砂をもたらしたくらいにしか感じなかった。この実現は、幸福というものを欲望の実現であると考えている人びとが犯す例のあやまりを彼にも思い知らせたのであった。彼はアンナといっしょになり、平服に着かえた当座は、それまで知らなかった一般的な自由というものの魅力や、恋の自由の魅力を味わって、満足を感じたが、それも長くはつづかなかった。彼はじきに、自分の心の中に欲求、つまり、ふさぎの虫が、頭を持ちあげてくるのを感じた。彼は自分の意思とは無関係に、刹《せつ》那《な》的な気まぐれを欲望や目的のように見なして、それにとびついていった。一日のうち十六時間は、なんとかしてつぶさなければならなかった。というのは、ペテルブルグ生活では時間つぶしになっていた社会生活の枠《わく》が、今はなかったので、まったく自由に暮していたからである。前の外国旅行のときに、ヴロンスキーの興味をひいた、ひとり者にとっての楽しみなどは、考えてみることもできなかった。なぜなら、そうした楽しみについて、ちょっと口をすべらしただけでも、アンナは知人たちと遅い夜食をとっているときでさえ、急に、場ちがいなしょげ方をするからであった。ふたりの立場がはっきりしていなかったので、土地の社交界やロシア人との交際も、うまくいかなかった。名所旧跡は、もうのこらず見てしまったことは別にしても、しかし、彼はロシア人として、また聡明《そうめい》な人間として、イギリス人ならそうした行為に巧みにつけ加えるであろう、あのもったいぶった意味を見いだすこともできなかった。
こうして、飢えた獣がなにか食べ物を見つけようと、手あたりしだいあらゆるものに食いつくのと同様、ヴロンスキーはまったく無意識に、時には政治に、時には新刊の書物に、時には絵画にと手を出してみるのだった。
彼には子供の時分から絵の才能があったし、今はなにに金を使ったものかわからなかったので、版画の収集をはじめたが、やがて絵を描くようになり、それを仕事にしだした。そして、彼はなにかしたくてうずうずしている余分な精力をすべて、絵画に打ち込むようにした。
彼には絵画を理解する能力があり、正確に、しかもじょうずに作品を模倣する能力があったので、自分で画家としての素質があると思いこみ、自分はどんな流派の絵を選ぶべきか、宗教画か、歴史画か、風俗画か、それとも写真画か、としばらく思い迷ったあげく、とにかく描きはじめてみた。彼はあらゆる流派の絵画を理解し、そのいずれにも感動することができた。ところが、彼は絵画にはどんな流派があるかということを、まるっきり知らなくても、また自分の描くものがどんな流派に属するか、そんなことは気にかけなくても、自分の心にあるものから、じかに霊感を受けることができるのだとは想像してみることもできなかった。彼はそれを知らなかったので、直接に人生そのものからではなく、すでに絵画によって具現された間接的な人生から霊感を受けた。したがって、彼はきわめてすみやかに容易に霊感を覚え、それと同時に、きわめてすみやかにかつ容易に得られた結果は、彼の描いたものが、彼の模倣しようと思った流派に、きわめてよく似てきたことであった。
彼はどんな流派の絵よりも、優雅で効果的なフランスの流派が気に入ったので、イタリア風の衣装を着たアンナの肖像を、そういった流派で描きはじめた。そして、その肖像は彼自身にも、それを見たすべての人びとにも、きわめて成功した作品に思われた。
古い荒れはてた邸宅《パラッツオ》――漆喰《しっくい》装飾のある高い天井や、壁画や、モザイクの床や、高い窓にかかった黄色い花《はな》緞《どん》子《す》の重そうなカーテンや、花《か》瓶《びん》ののっている飾《かざ》り棚《だな》とマントルピースや、木彫りのあるドアや、たくさんの絵のある陰気な広間などのあるこの邸宅は、ふたりがそこへ移って以来、その外観そのものによってヴロンスキーの心の中に、自分はロシアの地主とか、退職した主馬寮官《しゅめりょうかん》とかいったものよりも、むしろ教養ある芸術の愛好者であり、パトロンであって、しかもそのうえ、自分は愛する女のために、社交界も、係累も、名声も、すべて捨ててしまった、謙虚な芸術家であるという快い錯覚を起させた。
ヴロンスキーの選んだ役割は、邸宅へ引き移るとともに、完全にうまくいったし、ゴレニーシチェフの紹介で、二、三の興味ある人物とも近づきになれて、はじめのうちはかなり落ち着いていた。彼はあるイタリア人の絵画教授の指導のもとに、モデルを写生した習作を描いたり、中世イタリア風俗の研究を行なったりした。中世イタリア風俗は、最近すっかりヴロンスキーの気に入って、彼は帽子やマントまで、中世風な着方をしたが、それがまたとてもよく似合った。
「ぼくたちはここに暮していながら、まったく知らなかったわけだよ」ヴロンスキーはある朝、やって来たゴレニーシチェフにいった。「きみはミハイロフの絵を見たことがあるかい?」彼はけさ届いたばかりの新聞を渡しながら、あるロシアの画家についての記事を指さした。その画家は、同じこの町に住んでいて、最近ある絵を完成したばかりだが、それはもうだいぶ前から評判になっており、買い手もついていた。その記事には、こうしたすぐれた画家が奨励金も、補助金も与えられていないことに対して、政府やアカデミーを非難していた。
「見たとも」ゴレニーシチェフは答えた。「もちろん、彼は天分がないわけじゃないが、まったく誤った道を進んでいるんだ。だって彼のキリストや宗教画に対する態度は、相も変らず、イワノフ的だったり、シュトラウス的だったり、ルナン的だったりするんだからね」
「その絵はなにを描いたものなんですの?」アンナはたずねた。
「ピラトの前に立つキリストですよ。しかも、そのキリストは、新派のリアリズムを縦横に駆使して、一個のユダヤ人として描かれているんですよ」
こうして、絵の内容に関する質問を受けると、ゴレニーシチェフはそれがもっとも得意とする話題の一つだったので、大いに弁じはじめた。
「ぼくにはあの連中が、どうしてああいうとんでもない誤りをするのか、まったく納得がいきませんね。だって、キリストはすでに昔の巨匠たちの芸術作品によって、一定不変の形象化がなされているんですからね。だから、もし神でなく、革命家とか、賢人とかを描きたいのなら、歴史の中から、ソクラテスでも、フランクリンでも、シャルロット・コルデでも、選べばいいんですよ。ただ、キリストだけはいけませんね。あの連中はよりによって、芸術のために選んではいけない人物をもってきて、しかも……」
「それはそうと、そのミハイロフという男はひどく困っているというのは、ほんとかね?」ヴロンスキーはたずねた。彼は自分がロシアの芸術保護者として、その絵の良否にかかわらず、画家を助けなければならない、と考えたからであった。
「さあ、どうかね。とにかく、りっぱな肖像画家だよ。きみはあの男の描いたヴァシーリチコヴァの肖像を見たことがないかい? でも、今後も、どうやら、もう肖像画は描かないらしいね。いや、ひょっとしたら、そのために、ほんとに困っているかもしれないね、ぼくがいうのは、つまり……」
「じゃ、その男に、アンナの肖像を描いてもらうわけにはいかないかね?」ヴロンスキーはいった。
「なぜあたしの肖像なんか?」アンナはいった。「あなたに描いてもらったあとですもの、もうほかの肖像なんかいりませんわ。それより、アーニャのがいいわ(アンナは自分の娘をそう呼んでいた)。ほら、あそこにいますわ」アンナは窓ごしに、女の子を庭に連れだした美しいイタリア人の乳母《うば》を見ると、そっとヴロンスキーのほうを振り返って、こうつけ足した。ヴロンスキーは、その美しい乳母の顔を絵に描いたが、それはアンナの生活にとって唯一の秘められた悲しみとなっていた。ヴロンスキーは、そのイタリア女を写生して、その美しさと中世的な風貌に、すっかり惚《ほ》れこんでしまった。ところがアンナは、自分がこの乳母に嫉《しっ》妬《と》を感じそうになっていることを自覚する勇気がなかったので、乳母とその小さな男の子を、特別にかわいがって、甘やかしているのであった。
ヴロンスキーもまたちらと窓の外を見、アンナの目の色をうかがったが、すぐにゴレニーシチェフのほうを振り向いて、いった。
「それで、きみはそのミハイロフを知っているの?」
「会ったことはあるよ。でも、あの男は変人で、まるっきり教養がないんだよ。いや、近ごろよく見かける例の新しい野蛮人のひとりってわけさ。早い話、不信仰と、否定主義と、唯物主義の観念で d'embl仔 教育された自由思想家のひとりなんだね、以前は」ゴレニーシチェフは、アンナとヴロンスキーがなにか話したがっているのに気づかないのか、あるいはわざと気づかぬふりをしているのか、そのまま話しつづけた。「以前は、自由思想家といわれた人物は、宗教や、法律や、道徳の観念で教育されたあと、みずからの闘争と労苦とによって、自由思想にまで到達したのだったけれど、今では生れながらの自由思想家という、まったく新しいタイプが現われてきたんだね。この連中は、道徳や宗教の掟《おきて》があったということも、権威というものがあったということも、まったく知らずに成長して、いきなり、いっさいのものを否定するという観念の中で成長した、いわば野蛮人なんだよ。あの男がつまり、それなんでね。たしか、モスクワの貴族の執事のせがれで、教育はまったく受けなかったらしい。ところが、アカデミアへはいって、世間に知られるようになると、もともとばかなやつじゃないから、自分で教養をつけようという気になったのさ。そして、教養の源だと信じたものに、つまり、雑誌にとびついたってわけさ。それで、どうだい、昔なら教養を身につけたいと考える人間は、まあ、かりにそれがフランス人なら、あらゆる古典を、神学者のも、悲劇詩人のも、歴史家のも、哲学者のも、まあ、早い話、自分の前にあるいっさいの知的労作を、片っぱしから研究したにちがいない。ところが、わが国のことだから、あの男は、いきなり、否定の文学にぶつかったわけだ。そして、たちまち、その否定主義の学問のだいたいのところを自分のものにしてしまって、もうそれで終りというわけさ。そればかりか、これが二十年も前なら、あの男もこの文学の中に権威や、何世紀にもわたる思潮との闘争の徴候を認めて、その闘争の中からなにか別のものがあったことを、悟ったにちがいないけれどね。ところが、今じゃ、古くさい思潮なんか論ずる価値もないとする学問に、いきなり、飛びこんで行って、『なんにもありゃしない、あるのは思olution 、自然淘《とう》汰《た》、生存競争――これだけじゃないか』という始末さ。ぼくは自分の論文の中で……」
「あの、いかがでしょう?」アンナは、もうだいぶ前からそっとヴロンスキーに目くばせしながら、ヴロンスキーにはその画家の教養なんか少しも興味がなく、ただ画家を援助するために肖像画を注文したい気持でいるのを察して、いった。「あの、いかがでしょう?」アンナはむきになってしゃべっているゴレニーシチェフをさえぎった。「その方のところへ行ってみましょうよ!」
ゴレニーシチェフもわれに返って、喜んで同意した。しかし、その画家が遠い地区に住んでいたので、馬車を雇うことにきめた。
一時間後に、アンナはゴレニーシチェフと並んで馬車にすわり、ヴロンスキーは前の席に腰をかけて、遠い地区にある新しいこぎれいな家へ乗りつけた。出て来た庭番の女房から、ミハイロフはいつも客をアトリエへ通すのだが、今は目と鼻の先にある住居のほうへ行っていると聞かされたので、一行はその女房に名刺を持たせて、ぜひ作品を見せてもらいたいと頼んでやった。
10
画家のミハイロフは、ヴロンスキー伯爵とゴレニーシチェフの名刺が届けられたとき、例によって仕事をしていた。朝のうち彼はアトリエで、大きな作品を描くことにしていた。住居へ帰ると、彼は借金の催促に来た家主のかみさんをうまく撃退しなかったといって、妻に腹を立てはじめた。
「もう二十ぺんもいったじゃないか、くどくど言いわけなんかするんじゃないって。たださえばかなおまえが、イタリア語で言いわけなんかしたら、三倍もばかになってしまうんだから」彼は長い口論の末にいった。
「そんなら、いつまでもうっちゃっとかないでくださいよ。なにもあたしが悪いんじゃありませんからね。あたしだってお金さえあれば……」
「頼むからおれをそっとしておいてくれ!」ミハイロフは涙声で叫ぶと、耳をふさいで、仕切り壁の向うの仕事部屋へはいり、戸に錠をかけた。「ものわかりの悪いやつだ!」彼はつぶやいて、机に向い、紙ばさみを開いて、たちまち特別熱心に、描きかけのデッサンにとりかかった。
彼は、生活状態が悪いときほど、とくに妻と口論したときほど、仕事に熱中し、しかも順調にはかどるのだった。
《畜生っ! どこへでも消えうせろ!》彼は仕事をつづけながら考えた。彼は、憤激の発作にかられた男のデッサンをしていたのである。このデッサンは、以前にも描いたことがあるのだが、彼はそれに不満だった。《いや、あのほうがよかったかな……あれはどこにやったかな?》彼は妻のところへ行き、しかめ面《つら》をしながら、妻のほうは見ないで、上の女の子に、前にやった紙はどこにあるか、とたずねた。描き捨てたデッサンの紙は、見つかるには見つかったが、ひどくよごれて、ろうそくのしみがいっぱいついていた。それでも、彼はそのデッサンを持って来て、自分の机の上に置き、少し離れたところから、目を細くして、じっとながめた。と、不意に、彼はにっこり笑って、うれしそうに両手を振りまわした。
「そうだ、そうだ!」彼はいって、いきなり鉛筆をにぎると、素早く描きはじめた。ろうそくのしみが、その絵の人物に新しいポーズを与えていたのである。
彼はその新しいポーズを描き出したが、不意に、自分がいつも葉巻を買う店の主人の、あごの突き出た、精力的な顔を思いだして、その顔を、そのあごを、デッサンの人物の中に描き加えた。彼はうれしさのあまり、大声で笑いだした。今まで生気のない、死んだつくりもののような人物が、急に、生気があふれて、もう変更の余地のないものとなったからである。その人物は生命の息吹《いぶ》きが感じられ、一点の疑いもなく明瞭《めいりょう》に決定されていた。その人物の要求に応じて、デッサンを修正することができた。両足のひろげ方をなおし、左手の位置をすっかり変え、髪をうしろへなでつけることができるばかりでなく、そうする必要があった。しかも、こうした修正を行いながらも、人物そのものには手を加えず、ただその人物の真の姿を隠しているものを取り去っただけであった。それはちょうど、全体を見ることを妨げていたおおいを、画面から取り除くようなぐあいであった。新しい線を一つ加えるだけで、精力的な、力にあふれた人物そのものが、いよいよ明瞭に現われてくるのだった。それはろうそくのしみのために、いきなり彼の目に現われたものであった。名刺が届いたのは、彼が慎重に人物の仕上げをしていたときであった。
「ああ、今すぐ、今すぐだ!」
彼は妻のところへ行った。
「さあ、もうたくさんだよ、サーシャ、もうおこるのはたくさんだよ!」彼はおずおずと優しくほほえみながら、妻にいった。「おまえも悪ければ、おれも悪かったのさ。だが、万事おれがうまくやるからな」こうして、妻と仲直りすると、彼はビロードの襟《えり》のついたオリーヴ色の外套《がいとう》を着て、帽子をかぶり、アトリエへ出かけて行った。うまく描けたデッサンのことなどは、もうけろりと忘れていた。いまや彼は、馬車で乗りつけた身分の高いロシア人の訪問に、すっかり喜び、興奮していたのである。
彼は今画架にかかっている自分の作品については、心の奥底に一つの信念をもっていた。つまり、こうした作品は今までだれひとり描いたためしはなかった、という信念である。彼はむろん、自分の絵がラファエルの全作品よりもすぐれているなどとは考えなかったが、彼がこの絵で表現しようと思い、事実表現しえたものは、今までだれも表現したことがないことを承知していた。そのことは、この絵を描きはじめた時分から、はっきりと承知していたのである。しかしながら、他人の批評は、それがどんなものであろうと、やはり彼にとって大きな重要性をもっていて、彼を心の底から興奮させるのだった。彼が自分の絵の中に認めたもののごく小部分でも、他人が認めたということを証明するような批判は、たとえそれがきわめて些《さ》細《さい》なものでも、深く彼の心を興奮させるのであった。彼はそうした批評をする人をいつも自分より深い鑑賞眼をもっているように考えた。そして彼は、自分自身でさえその作品の中に認めていないようななにものかを、いつも、そうした人びとの批評から期待していた。そして事実彼はよく鑑賞者の批評の中に、そうしたものを発見するような気がした。
彼は足速にアトリエのドアに近づいた。と、彼はかなり興奮していたにもかかわらず、車寄せの陰に立って、なにやら熱心にしゃべっているゴレニーシチェフの話に耳を傾けながら、それと同時に、近づいてくる画家を振り返って見ようとしているらしいアンナの姿の柔らかな輝きに、思わずはっとした。彼は自分でもそれと気づかずに、一行に近づきながら、この印象をとらえて、それをのみこんでしまった。それはちょうど、あの葉巻を売っている商人のあごと同様、どこか頭の中へ隠しておいて、他日必要なときにそこから引き出すためであった。ゴレニーシチェフの話で、もうあらかじめこの画家に幻滅を感じていた一行は、その風貌をひと目見て、さらにいっそうその幻滅を深くした。ずんぐりした中背で、こせこせした歩きぶりの、茶色の帽子にオリーヴ色の外套を身にまとい、もうとうに太いズボンがはやっているのに細いズボンをはいたミハイロフは、ことにその平べったい顔の平凡なところと、おどおどしているくせに、威厳をつくろうとする気持のまじった表情が、不愉快な印象を与えていた。
「さあ、どうぞ」彼はわざと落ち着きはらった態度を見せようとしながら、いった。そして、玄関へはいると、ポケットから鍵《かぎ》を取り出して、ドアをあけた。
11
アトリエへはいると、画家のミハイロフはすぐ、もう一度客たちを見まわして、さらにヴロンスキーの表情を、ことにその頬骨《ほおぼね》の表情を、自分の頭の中へしまいこんだ。彼の画家としての感情は、素材を集めながらたえまなく働いていたにもかかわらず、また自分の作品の批評されるときが近づいてくるために、ますます興奮が激しくなっていたにもかかわらず、彼はほとんど目につかぬほどの特徴から、これら三人の人物についての概念を、すみやかに、かつ細かい点までつくりあげていった。あれ(ゴレニーシチェフ)は、この土地のロシア人だが、ミハイロフはその姓名も、どこで会ったかも、なにを話し合ったかも覚えていなかった。彼はどんな顔でも、一度見れば覚えてしまうので、ゴレニーシチェフの顔だけは見覚えがあった。さらにその顔が彼の記憶の中では、真の表情にとぼしい、うすっぺらな顔として、きわめて大きな部門に属している顔の一つであることも、また覚えていた。そのたっぷりした髪の毛と、ひどくあけっぴろげの額は、その顔に外面的な表情を与えていたが、その実、ただちっぽけな、子供っぽい不安げな表情が狭い鼻筋に集まっているだけであった。ヴロンスキーとアンナは、ミハイロフの想像によると、金持のロシア人の例にもれず、芸術など少しもわからないくせに、その愛好家かつ鑑賞家を気どっている身分の高い、金持のロシア人にちがいなかった。《きっと、もう古いところはすっかり見つくしてしまって、今はドイツの三文画家や、イギリスのラファエル前派のばか者どもなど新しい流派のアトリエを見てまわっているので、見聞を充実させる意味で、おれのところへもやって来たんだろう》彼はそう思った。彼はこうしたディレッタントたちの態度を、よく知りぬいていた(この連中は賢ければ賢いほど、なおいっそう始末が悪いのである)。こうした連中が現代のアトリエを見てまわる目的は、ただ、芸術も堕落したものだ、新しい作品を見れば見るほど、古い巨匠たちの模倣を許さぬ偉大さが理解できる、と語る権利をうるためにすぎなかった。彼はそれを予期していたばかりでなく、彼らの顔つきにもそれを見てとったし、また彼らが互いに話し合ったり、模像や胸像をながめたり、今にも画家が作品のおおいをとるのを待ちながら、自由にその辺を歩きまわっている、そのさりげない無造作な態度にも、それをまざまざと見てとった。ところが、それにもかかわらず、彼はデッサンをめくって見せたり、ブラインドをあげたり、おおい布を取りのけたりしているあいだ、激しい胸騒ぎを覚えた。そして、身分の高い金持のロシア人は、みんな畜生同然のばかにきまっていると日頃見なしていたにもかかわらず、ヴロンスキーと、とりわけ、アンナに好意を感じたので、その胸騒ぎはいよいよ激しくなってきた。
「さあ、これはいかがですか?」彼は、例のこせこせした歩きぶりでわきのほうへ避けて、一つの絵をさしながらたずねた。「これはピラトの訓戒です。マタイ伝第二十七章の」彼は、興奮のために唇が震えるのを感じながら、いった。彼はそこを離れて、みなのうしろに立った。
訪問客たちが黙って画面をながめていた幾秒かのあいだ、ミハイロフもまた他人のようなさりげない目つきでながめていた。この幾秒かのあいだに、彼はもっとも公平な高度の批評が、つい一分前まであんなに軽蔑《けいべつ》していた、これらの訪問客たちによってなされるにちがいない、ともう堅く信じきっていた。彼は以前その絵を描いていた三年のあいだ、その絵について考えていたことを、すっかり忘れてしまった。彼は今まで自分にとって、一点の疑いの余地もなかったその絵の価値を、なにもかも忘れてしまった。彼はいまや他人のような、さりげない、新しい目でながめ、そこになにひとついいところを見いだせなかった。彼は前景にピラトのいまいましそうな顔と、キリストのおだやかな顔を、そのうしろにはピラトの家来たちの姿と、その場の様子に見入っているヨハネの顔を見た。どの顔もなみなみならぬ探求と、多くの失敗と修正をかさねて、それぞれ特殊な性格をそなえて、彼の心に生れたものであり、彼にひじょうな苦《く》悶《もん》と喜びを与えたものであった。また、全体の調和のために、幾度となく置き換えられたこれらの顔や、異常な努力の末に到達したすべての色彩と調子のニュアンス――これらいっさいのものも、今これらの訪問客の目には、千べんも繰り返された俗悪なものに見えるような気がするのだった。彼にとってもっとも貴重な顔、それを発見したときには、あれほど歓喜した、画面の中心であるキリストの顔も、いまや訪問客の目で見ると、彼にはまったく無価値になってしまった。彼はただよく描かれた(いや、それさえよくとばかりはいえない、今では無数の欠点が目についた)、チチアン、ラファエル、ルーベンスなどの無数に描いているキリストや、兵士たちや、ピラトの絵の模倣を見るばかりであった。それらはどれもこれもみんな俗悪で、貧弱で、古くさくて、描き方さえもまずかった――色がめちゃめちゃで、力も弱かった。彼らは画家の前では、わざと慇懃《いんぎん》な文句を並べたて、さて自分たちだけになると、今度は画家を哀れんだり冷笑したりするのだろうが、それも、もっともなことかもしれないと思われてきた。
彼には、この沈黙があまりにも苦しくなったので、(そのくせ、それは一分もつづいていなかった)その沈黙を破り、自分は興奮などしていないということを示すために、みずから努めて、ゴレニーシチェフに話しかけた。
「たしか、お目にかかったことがあるように存じますが」彼は不安そうに、アンナとヴロンスキーを、かわるがわる振り返りながら、ふたりの顔の表情を一点たりとも見おとすまいとして、いった。
「ええ、もちろん! ロッシのとこでお会いしましたよ。ほら、覚えていませんか、あの新しいラシェルといわれるイタリアの女優さんが朗読をした夕べのことを」ゴレニーシチェフはいささかの未練もなく画面から目を放して、画家のほうへ振り向きながら、自由な調子でしゃべりだした。
しかし、ミハイロフが絵の批判を期待しているのに気がつくと、彼はこうしゃべりだした。
「あなたの絵は、このまえ拝見したときからみると、たいへんはかどりましたね。あのときもそうでしたが、今もピラトの姿には、とても心を打たれますね。善良で気のいい男でありながら、自分で自分がなにをしているかわからない、骨の髄まで役人であるこの人物が、じつによく出ていますよ、ただ、私にはそれが……」
ミハイロフのよく表情の変る顔は、不意に、さっと明るく輝いた。両の目は生きいきと光りだした。彼はなにかいいたそうだったが、興奮のあまり口がきけなかったので、咳《せき》ばらいをするようなふりをした。彼は、ゴレニーシチェフの絵に対する理解力を、きわめて低く評価していたにもかかわらず、いや、役人としてのピラトの顔の表情が的確であるというしごく公平な指摘は、つまらないものであったにもかかわらず、また、もっとも重大な点にふれず、こんなつまらない点をまっ先に問題にされたのは、ずいぶん不服なことだったにもかかわらず、ミハイロフはこの批評に、すっかり有頂天になってしまった。彼自身もピラトの姿については、ゴレニーシチェフが指摘したのと同じことを考えていた。このような批評は、いずれもあたりさわりのないものにちがいない他の幾千万という批評の一つにすぎないことは、ミハイロフ自身も承知していたが、それでもこのゴレニーシチェフの言葉は、彼にとってすくなからぬ価値をもった。彼はこの批評のために、ゴレニーシチェフに好意を感じ、意気消沈した状態から、いきなり、有頂天になってしまったのである。と、たちまち、その絵全体は、生きとし生けるものの名状しがたい複雑さをそのまま表わして、彼の目の前で生気を取りもどしてきた。ミハイロフはまた、自分もピラトをそのように解釈している、といおうとしたが、唇《くちびる》は、心ならずもぶるぶると震えて、口がきけなかった。ヴロンスキーとアンナも何か小声でいった。それは画家を侮辱しないための心づかいと同時に、また、絵の展覧会などで美術を語る場合、よく人がうっかり口にするばかげたことを、大声でしゃべらない用心のためでもあった。ミハイロフには、自分の絵がこのふたりにも感銘を与えたように思われた。で、彼はふたりのそばへ近づいて行った。
「キリストの表情がよく出ていますわねえ!」アンナはいった。今まで見た中で、アンナはこの表情がいちばん気に入ったうえ、これは絵の中心であるから、こうした讃辞は画家にとってもうれしいだろう、と思ったのである。「ピラトを哀れんでいるのが、よくわかりますわね」
こうした批評もまた、彼の絵の中にもキリストの姿の中にも見いだすことのできる、幾千万というあたりさわりのない批評の一つであった。アンナは、キリストがピラトを哀れんでいる、といった。キリストの表情には、もちろん、憐憫《れんびん》の情もあったであろう。なぜなら、その表情には愛と、この世ならぬ安らぎと、死の覚悟と、言葉のむなしさを自覚した表情とが読みとれたからである。もちろん、ピラトには役人のような表情があり、キリストには憐憫の情がある。一方は欲望的生活の権《ごん》化《げ》であり、他方は精神的生活の権化だからである。すべてこうしたことや、そのほか多くの考えが、ミハイロフの頭にひらめいた。と、またもや、彼の顔はさっと歓喜の色に輝いた。
「ええ、たしかに、この人物はよくできていますね。空間もよく出ていて、まるであの辺を歩けそうですね」ゴレニーシチェフはいったが、明らかに、その批評によって、この人物の内容と思想とを是認していないことを、示そうとしているようだった。
「まったく、すばらしい腕前だな!」ヴロンスキーはいった。「あの背景の人物なんか、まるで浮きだしてるみたいじゃないか! これこそ技法というものさ」彼はゴレニーシチェフに向っていったが、彼はその言葉によって前にふたりで話し合ったとき、自分がこの技法を修得するのに絶望したということを、ほのめかしたのであった。
「ええ、ほんとに、すばらしいですね!」ゴレニーシチェフとアンナは、相槌《あいづち》を打った。ミハイロフは興奮していたにもかかわらず、この技法についての批評は、ひどく彼の気持をかきみだした。そこで、彼はおこったようにヴロンスキーをちらと見て、急に、しかめ面《つら》をつくった。彼はよくこの技法という言葉を耳にしたが、その言葉の陰には、どんな意味が隠れているのか、まったく理解できなかった。彼は、この言葉の陰には、絵の内容とはぜんぜん無関係な、描いたり塗ったりする機械的な才能を意味しているのだ、と承知していたからである。彼は今の讃辞でもそうだが、技法というものを内面的な価値に対立するものとして、つまらないものでも巧みに描く才能としていることに、しばしば気づいていた。彼は、真の対象を隠しているおおいを取るとき、作品そのものをそこなわないためには、また、そのおおいをすっかり取り除くためには、ひじょうな注意と細心の心づかいが必要なことを知っていた。しかし、そこには描くための技術、つまり、技法とかいったものはなにひとつないのだ。もし幼い子供や台所女中に、彼の見たのと同じものが啓示されたなら、彼らもまた自分の目に映ったものの真の姿をちゃんと表わして見せるにちがいない。ところが、どんなに経験に富んだ巧妙な技巧派の画家でも、描くべき内容の限界があらかじめ啓示されない以上、単にその機械的な能力だけでは、なにひとつ描くことはできないにちがいない。いや、そればかりか、技法ということを云々《うんぬん》する以上、彼はもうその点では自分がほめられる資格がないのを、ちゃんと知っていた。彼は自分の描きつつあるもの、またすでに描きあげたもののすべてに、一見して目につく幾多の欠点を認めていた。それらは、真実を隠すおおいを取り除くときの不注意から生れたもので、もう今となっては、作品全体をそこなわずに、それを修正することはできなかった。ほとんどすべての姿や顔に、まだ完全におおいが取り除かれてない痕跡《こんせき》があり、それが画面をそこねているのを、見てとった。
「批評を許していただければ、一つだけ申しあげたいことがあるんですが……」ゴレニーシチェフがいった。
「ほう、それはありがたいですね。どうぞ」ミハイロフは、わざとらしく微笑を浮べながらいった。
「それはですね、あなたのキリストは神人ではなくて人神だということです。そりゃ、あなたがその点をねらわれたのも、わかりますがね」
「私は自分の心にもないキリストを、描くことはできなかったのです」ミハイロフは顔をくもらせて答えた。
「なるほど、でも、もしそういうことでしたら、私の考えをいってよろしければですね、あなたの絵はじつにりっぱですから、私の批評なんかで、その価値が傷つけられることはありませんし、それに第一、これは私の個人的な意見ですからね。そりゃ、あなたには別のご意見がおありでしょう。モチーフそのものも別ですからね。まあ、かりにイワノフを例にとってみましょう。もしキリストを歴史上の人物として扱うのなら、イワノフとしてはもっと別な、新しいだれも手をつけてない歴史的なテーマを選ぶべきだったと思いますね」
「でも、これが芸術に与えられた最大のテーマだとしたらどうでしょう?」
「いや、捜せば、もっとほかのテーマが見つかりますよ。ただ問題なのは、芸術というものは論争や批評を超越しているということですね。イワノフの絵の前では、信仰のある者もない者も、これは神なりや否やという疑問がわいてきて、印象の統一を妨げますからね」
「なぜでしょうね? 教養のある人びとにとっては」ミハイロフはいった。「もう論争なんかありえないと思われますがね」
ゴレニーシチェフはそれに同意しなかった。そして、芸術には印象の統一が必要だという自分の最初の意見を固執して、ミハイロフを論破した。
ミハイロフは興奮したが、自分の意見を弁護するためにはなにひとついうことができなかった。
12
アンナとヴロンスキーは、もうかなり前から、ゴレニーシチェフが物知りぶってまくしたてているのにうんざりしながら、互いに顔を見合せていたが、とうとう、ヴロンスキーは主人の案内を待ちきれずに、次の小さな絵に移った。
「ああ! すばらしい、ほんとに、すばらしい! 奇《き》蹟《せき》ですね! まったく、すばらしい!」ふたりは声をそろえて叫んだ。
《なにがそんなに気に入ったんだろう?》ミハイロフは思った。三年前に描いたこの絵のことなんか、すっかり忘れていたからである。彼は何カ月かのあいだ、寝てもさめても、この絵のことが気がかりだった時分に味わったいっさいの苦悩も、歓喜も、すっかり忘れていた。彼は完成してしまった絵のことはいつも忘れてしまうのであった。彼はその絵をながめることさえ好まなかったが、それを買いたいというイギリス人を待っていたので、飾っていたにすぎなかった。
「これはもうだいぶまえに描いた習作です」彼はいった。
「じつに、すばらしい!」ゴレニーシチェフもまた、心からその絵の美しさに打たれたようにいった。
ふたりの男の子が楊《やなぎ》の木陰で魚を釣っていた。年上のほうは、たったいま竿《さお》を投げこんだばかりで、懸命に茂みの中から浮きを引き出しながら、すっかり夢中になっていた。年下のほうは、草の上にねころんで、金髪の頭に頬杖《ほおづえ》をついて、なにか考えこんでいるような空色の目で、水面をながめていた。いったい、なにを考えているのだろう?
この絵に対する一同の賞讃は、ミハイロフの心にかつての興奮を呼びおこした。ところが、彼はこうしたおめでたい懐旧の念を恐れると同時にきらっていたので、そのほめ言葉はうれしかったが、彼は客たちを三番めの絵のほうへ連れて行こうとした。
しかし、ヴロンスキーは、その絵を売ってもらえないか、とたずねた。訪問客のために興奮している今のミハイロフにとっては、金銭の話はひじょうに不愉快であった。
「そりゃ売るために飾ってあるんですから」彼は暗い顔に眉《まゆ》をひそめながら答えた。
客たちが立ち去るとミハイロフは、ピラトとキリストの絵の前にすわりこんで、客のいったことや、口には出さないまでも、暗にほのめかしたことを、心の中で繰り返してみた。ところが、ふしぎなことに、客たちが目の前にいて、彼もひそかに彼らの見地に立ってながめていたときは、あれほどの重みをもっていた言葉も、たちまち、いっさいの意味を失ってしまった。彼は自分の芸術観によって、自分の絵をながめはじめ、その絵が完璧《かんぺき》であり、したがって、重大な意義をもっていると確信した。こうした自信は、他のいっさいの興味をしりぞける緊張感のために必要であり、彼はそういう状態においてのみ、仕事をすることができるのであった。
それにしても、遠近画法によって描かれたキリストの片方の足は、やはり難点があった。彼はパレットをとって、仕事にかかった。彼はその片足をなおしながら、背景のヨハネの姿に見入っていた。その姿こそ訪問客は気づかなかったが、完成の極致であることを、彼は知っていた。足を仕上げると、この人物にとりかかろうとしたが、その仕事をするためにはあまりにも興奮しすぎていることを感じた。彼は心が冷静なときも、またあまり感じやすくなって、なにもかも見えすぎるときも、同じように仕事ができなかった。仕事ができるのは、この冷静な状態から興奮へ移って行く、その中間のただ一つの時期においてであった。それにしても、今はあまりに興奮しすぎていた。彼は絵におおいをかけようとしたが、ちょっとその手を休めて片手におおい布を持ったまま、幸福そうに微笑を浮べながら、長いことじっとヨハネの姿に見入っていた。やがて、なにか悲しそうに目を放すと、おおい布をかけ、疲れてはいたが幸福な気持で、わが家へ帰って行った。
ヴロンスキーと、アンナと、ゴレニーシチェフは、帰る道すがら、いつもと違って快活であった。三人は、ミハイロフのことやその作品について話し合った。彼らは才能という言葉を好んで使ったが、彼らはその言葉の意味を理性や感情を超越した、生れながらの、ほとんど肉体的ともいうべき能力として受け取り、この言葉によって画家の体験するいっさいのことを名づけようとした。なぜなら、この言葉は自分たちがなんの観念ももっていないくせに、話したくてたまらないことを形容するのに、ぜひ必要だったからである。彼らの見解によれば、ミハイロフの才能は否定できないが、ロシアの画家すべてに共通な不幸である教養の不足のために、彼の才能も十分のびることができない、というのであった。しかし、例の男の子を描いた絵は三人の記憶に深く刻まれていたので、話はともすればそれに返っていった。
「じつに、すばらしかったね! いや、まったく見事で、しかもすごく簡潔だったな。あの男には、あの絵のすばらしさがわかってないのさ! そうだ、なんとしても、あれは買わなくちゃいかんな」ヴロンスキーはいった。
13
ミハイロフはヴロンスキーに自分の絵を売って、アンナの肖像を描くことを承知した。彼は指定された日にやって来て、さっそく仕事にかかった。
その肖像は、五回めあたりから、みんなを、とりわけヴロンスキーを驚かした。それは、ただよく似ているからだけではなく、その一種特別な美しさのためであった。ミハイロフがどうしてアンナ特有の美しさを見いだすことができたか、ふしぎなくらいであった。《あれのこうした美しい精神的な表情を発見するためには、おれと同じように、あれを知り、あれを愛さなければならないはずだが》ヴロンスキーは考えた。そのくせ、彼はこの肖像画によって、アンナのそうした美しい精神的な表情を、はじめて知ったのであった。しかし、その表情があまりにも真実味にあふれていたので、彼にしても、ほかの人びとにしても、もうずっと前からそれを知っているような気がしたのであった。
「ぼくなんかもう長いこと苦心しているのに、なにひとつできやしない」彼は自分の肖像画についていった。「それなのにあの男ときたら、ちょっとながめて、すぐ描いてしまった。これがつまり技法ということなんだな」
「なに、そのうちにできますよ」ゴレニーシチェフはヴロンスキーを慰めた。彼の考えによると、ヴロンスキーは才能、ことに教養があるから、これが芸術に対して、高度の見解を与えるというのであった。そのほか、ゴレニーシチェフがヴロンスキーの才能を評価していたのは、自分の論文や思想に対してヴロンスキーの同感や賞讃が必要だったからでもあった。彼は、賞讃や支持というものは、相互的なものであるべきだと、感じていたからである。
ミハイロフは他人の家では、とくにヴロンスキーの邸宅《パラッツオ》では、自分のアトリエにいるときとは、まるっきり別人のようであった。彼はまるで自分の尊敬しない人びとと接近するのを恐れるかのように、反感を秘めたようなうやうやしさをみせていた。彼はヴロンスキーのことを閣下と呼び、アンナやヴロンスキーがいくら招待しても、けっして食事に残ることもなく、仕事に来る以外には、たずねることもなかった。アンナはほかのだれに対するよりも彼に愛《あい》想《そ》よくして、自分の肖像画のことを感謝していた。ヴロンスキーも彼に対しては、慇懃《いんぎん》以上の態度をとり、明らかに、自分の絵に対するこの画家の批評に興味をもっているようだった。ゴレニーシチェフは、ミハイロフに対して真の芸術観を吹きこむ機会を、のがそうとはしなかった。一方、ミハイロフはだれに対しても、同じように冷淡であった。アンナは相手の目つきによって、彼が自分をながめるのを喜んでいることを感じたが、彼のほうはアンナと話すのを避けるようにしていた。ヴロンスキーが彼の絵の話をしても、彼はかたく沈黙を守っていたし、ヴロンスキーの絵を見せられても、同じく無言のままであった。ゴレニーシチェフの弁舌にも明らかにまいっていたようだったが、けっして反駁《はんばく》はしなかった。
要するに、ミハイロフは、その控えめな、まるで敵意でもいだいているような不愉快な態度のために、彼をもっとよく知るようになってから、かえって三人の不興を買ってしまった。したがって、仕事が終って、すばらしい肖像画が手もとに残り、彼がもうやって来なくなったとき、一同はほっとして喜んだ。
ゴレニーシチェフは、みんなが心に秘めていた考えを、まっ先に口に出した。つまり、ミハイロフはただヴロンスキーをうらやんでいたのだというのであった。
「いや、うらやむとこまではいってないだろう。なにしろ、あの男には才能《・・》があるんだから。しかしね、宮内官で、金持で、おまけに伯爵(なにしろ、あの連中はこういうことをひどく憎んでいるからね)、こういう人間が、苦労もしないで、この道に一生をささげたあの男より、すぐれた仕事とはいえないまでも、同じようなことをしているのが、しゃくなんだよ。それになによりも肝心なのは、教養だからね。あの男のもっていない教養だよ」
ヴロンスキーはミハイロフのことを弁護したが、心の奥底では、その説を信じていた。なぜなら、彼の見解によれば、自分より低級な別の世界の人間は、羨望《せんぼう》するのが当然だったからである。
彼とミハイロフによって、直接モデルから同じように描かれたアンナの肖像画は、彼とミハイロフとのあいだに存在する相違を、当然、ヴロンスキーに思い知らせるはずであったが、彼はそれに気づかなかった。彼はただミハイロフの作品ができあがると、もうむだなことだとして、自分でアンナの像を描くのをやめてしまった。一方、中世風俗を主題とした絵は、相変らず、つづけていた。彼自身も、ゴレニーシチェフも、とりわけアンナは、その作品がたいへんよくできていると考えた。なぜなら、それはミハイロフの絵よりも、有名な作品にもっと似ていたからであった。
ミハイロフもまた、アンナの肖像には心から打ち込んでいたにもかかわらず、その絵を完成して、もうゴレニーシチェフの芸術論を聞く必要もなく、ヴロンスキーの絵を見る必要もなくなったときには、彼ら以上に喜んだ。彼は、ヴロンスキーが絵をなぐさみものにするのを、止めるわけにはいかないことを承知していた。彼は自分にしても、またすべてのディレッタントにしても、なんでも自分の好きなものを描く十二分の権利があることを承知していたが、それでもやはり、彼はそのことが不愉快であった。ある人が大きな蝋人形《ろうにんぎょう》をつくって、それに接吻《せっぷん》するのを止めるわけにはいかない。しかし、この人がその人形を持って来て、愛する男の前にすわりこみ、その男が恋人を愛《あい》撫《ぶ》するように、その人形を愛撫したとしたら、その男はきっと不愉快になるにちがいない。ミハイロフはヴロンスキーの絵を見るたびに、これと同じような不快感を覚えたのであった。彼はおかしくもあれば、いまいましくもあり、みじめでもあれば、侮辱されたような気にもなったのである。
絵画と中世風俗に対するヴロンスキーの心酔も、そう長くはつづかなかった。彼は絵に対してかなり趣味をもっていたので、かえって自分の絵を完成することができなかった。作品は中断されてしまった。はじめのうちこそあまり目だたない欠点も、つづけていくうちに、人を驚かすようになるだろう、とおぼろげながら感じたのである。彼は、ゴレニーシチェフと同じような気持になった。つまり、ゴレニーシチェフは、自分でなにもいうことがないと感じながらも、たえず自らを欺いて、自分の思想はまだ熟さないから、今のところそれを練りながら、材料集めをしているのだ、といっていた。しかし、ゴレニーシチェフはそのために腹を立てて、自分で苦しんでいたが、ヴロンスキーは自分を欺いたり、苦しめたり、とりわけ腹を立てたりすることができなかった。彼は決断力に富んだ性質だったので、なんの説明も弁解もせずに、絵を描くことをやめてしまった。
ところが、こうした仕事がなくなると、イタリアの町におけるヴロンスキーとアンナとの生活は、まったく退屈きわまりないものに思われてきた。ヴロンスキーはアンナもあきれるほど退屈していた。邸宅《パラッツオ》はとつぜん、いかにも古ぼけてきたなく感じられ、カーテンのしみや、床の割れ目や、蛇腹《じゃばら》の漆喰《しっくい》の剥《は》げたところが、ひどく不愉快になってきた。そして、相も変らぬゴレニーシチェフや、イタリア人の教授や、ドイツ人の旅行者などがどうにも鼻についてきたので、生活を一変する必要に迫られた。ふたりはロシアの田舎《いなか》へ帰ることにきめた。ペテルブルグで、ヴロンスキーは兄と遺産分配の話をきめ、アンナはむすこに会いたいと考えていた。ふたりはこの夏をヴロンスキーの大きな領地で過すつもりであった。
14
リョーヴィンが結婚してから、三月めになった。彼は幸福だったが、それは期待していたようなものとは、まるっきり違っていた。彼はことごとに以前の空想の幻滅と、新しい思いがけない魅惑を感じていた。彼は幸福だったが、いざ結婚してみると、自分が想像していたものとはまったく違うということを、ことごとに思い知らされた。彼がことごとに味わった感じというのは、湖上をなめらかにすべる小舟の、幸福そうな動きに見とれていた人が、そのあとで実際にその小舟に乗ったときの感じと同じようなものであった。つまり、それはからだを動かさずに、じっと平均を保っているだけではだめで、どの方向へ行かねばならぬとか、足の下には水があり、その上を漕《こ》いで行かねばならぬとか、慣れぬ腕にはそれがつらいことだとか、ただ見た目には楽しそうだが、いざ自分でやってみると、とても楽しいものの、なかなかむずかしい仕事だとかいうことを、片時も忘れずに、ずっと気を配っていなければならないと悟ったからである。
彼も独身だったころには、よく他人の結婚生活をながめながら、そのくだらない心配やら、いさかいやら、嫉《しっ》妬《と》やらを見ると、内心そっとさげすみの笑いを浮べ、自分の未来の結婚生活には、そうしたことはいっさいありえないばかりか、その外面的な形式までが、あらゆる点において、他人の生活とはまったく違っていなければならないと確信していた。ところが、いざとなると、その期待に反して、彼と妻との生活は特別な形式をとらなかったばかりか、かえって以前あれほど軽蔑《けいべつ》していた、取るに足らない、くだらないことで成り立ってしまったのである。しかも、そのくだらないことが、今では彼の意思に反して争いがたい、なみなみならぬ意義をもっているのであった。リョーヴィンは、こうしたいっさいの取るに足りないことを築きあげていくのが、以前考えていたほど、そう簡単なものではないことを悟った。リョーヴィンは自分が結婚生活について、きわめて正しい観念をもっているように思いこんでいたにもかかわらず、やはりあらゆる男性と同様、結婚生活を、いつのまにか、なにものからも妨害されない、またくだらない心づかいにわざわいされない、単なる愛の享楽と考えるようになっていた。彼の見解によれば、自分は仕事にいそしんで、その休息を愛の幸福の中に求めればよかったのである。妻は愛せられるものとして、それ以上のものであってはならなかった。ところが、彼はあらゆる男性と同様、妻も働かなければならないということを、忘れていたのである。そのため、リョーヴィンは、この詩的で美しいキチイが、結婚生活の最初の週から、いや、それどころか最初の日から、テーブル・クロースや、家具や、来客用のふとんや、お盆や、料理人や、食事その他のことを考えたり、覚えたり、心配したりすることができたのには、すくなからずびっくりした。まだ婚約時代にも、キチイが自分にはほかになにか大事なことがあるからと、外国旅行を断わって、田舎行きを決意したときの決断ぶりに、また恋以外の別のことを考えることもできたその余裕のある態度に、驚いたものである。そのときも、彼はそのことに腹立たしさを覚えたが、今も彼はキチイがこまごましたくだらぬことに心を労しているのを見て、腹立たしくなった。しかし、彼はキチイにとって、それがやむをえないことを悟った。したがって、彼はキチイを愛していたので、それがなぜかはわからず、またそうした心づかいを冷笑していたにもかかわらず、やはり、それに見とれないわけにはいかなかった。彼はキチイがモスクワから持って来た家具を並べたり、自分と夫との部屋を新しく模様がえしたり、カーテンをかけたり、来客やドリイのために、あらかじめ部屋の割当てをしたり、自分の新しい小間使に部屋を整えてやったり、年寄りの料理人に食事をいいつけたり、食料の買いこみにアガーフィヤを除《の》け者《もの》にして、老婆といい争ったりしているのを見た。彼はまた、年寄りの料理人がキチイに見とれながら、そのいかにも不慣れなとてもできない命令を聞いて苦笑しているのも、またアガーフィヤが、若奥さまの食品貯蔵に関する新しいやり口に驚いて、考えぶかそうに、優しく首を振っているのも見た。さらにキチイが、泣き笑いしながら、小間使のマーシャが前からの習慣で、自分をお嬢さんと呼ぶので、だれも自分のいうことをきいてくれないといって、彼のところへ泣きついて来たときには、彼女がいつにもましてかわいらしかったことを見てとった。彼にはこうしたことがかわいらしくも、それと同時に、奇妙なことにも思われた。彼はいっそこうしたことはないほうがいいのにと考えた。
彼は、キチイが結婚してから境遇の変化によって経験した感情を、知らなかったのである。キチイは実家にいたころには、ときにクワスを添えたキャベツやお菓子をほしいと思うことがあっても、そういうものをあれもこれも自由に手に入れることはできなかった。ところが、今はなんでも好きなものを注文することができるし、お金も好きなだけ使うことができ、ケーキなども山ほど、なんでも好きなのを注文することができたのである。
キチイは今、ドリイが子供たちを引き連れてやって来るときのことを、楽しい気持で待ちわびていた。それがとくにうれしかったのは、子供たちにめいめい好きなケーキをつくってやろう、それに、ドリイは、きっと、自分の新しい世帯ぶりをほめてくれるだろう、と思ったからであった。キチイは自分でもそれがどういうわけか、またなんのためか知らなかったが、家政という仕事に、否応《いやおう》なくひかれていった。彼女は本能的に、春が近づくのを感じながら、それと同時に、不幸や災厄の日があることも知っていたので、分相応に、巣ごしらえに努め、巣ごしらえをすると同時に、そのこしらえ方をも覚えようと、一生懸命であった。
このようなキチイのこまごました心づかいは、リョーヴィンがはじめいだいていた崇高な幸福の理想に反していたので、彼の味わった幻滅の一つとなった。もっとも、このかれんな心づかいは、その意義こそ彼に理解できなかったが、彼には愛さないではいられない新しい魅力の一つとなった。
もう一つの幻滅と魅力は、いさかいであった。リョーヴィンには、自分と妻とのあいだに優しい愛と尊敬以外の別の関係がありうるとは、とても想像することができなかった。ところが、結婚早々から、ふたりはけんかをはじめて、キチイは彼に向って、あなたはあたしを愛しているのではなくて、ただご自分をかわいがっているだけだといって、泣きくずれ、両手を振りまわす始末であった。
このふたりの最初のいさかいは、リョーヴィンが新しい農園を見に出かけ、近道をしようとして道に迷い、半時間ばかり遅れて帰って来たのが原因だった。彼はただキチイのことや、彼女の愛のことや、自分の幸福のことばかり考えながら、わが家へ急いでいたので、家へ近づくにつれて、彼の心の中にはキチイに対する優しい気持が、ますます激しくもえたっていた。彼はかつて結婚の申し込みをしに、シチェルバツキー家へ出かけたときのような、いや、それよりもっと激しい愛情をいだきながら、部屋の中へ駆けこんで行った。すると、いきなり、彼を迎えたのは、今までついぞ見たこともないほど暗い妻の表情であった。彼は接吻《せっぷん》しようとしたが、キチイは彼をつきのけた。
「どうしたんだい?」
「あなたはご気分がよろしくて結構ですこと……」キチイは毒を含んだ落ち着きはらった態度を装いながら、いった。
しかし、キチイがいったん口を開くと、無意味な嫉妬と、彼女が窓に腰かけて身じろぎもせずに過した半時間のあいだ、その胸を苦しめていたありとあらゆるものが、激しい非難の言葉となって、とびだしてきた。そのときになってはじめて、彼は式のあとでキチイを教会から連れだしたときに、どうしても理解できなかったことを、ようやくはっきりと悟ったのであった。彼は、キチイが自分にとって身近な存在であるばかりでなく、今ではもうどこまでが彼女で、どこまでが自分なのかわからないということを理解したのであった。彼はこのことを、その瞬間に経験した苦しい自己分裂の感情から理解したのであった。はじめは彼も少しむっとなったが、すぐその瞬間、自分は妻に腹を立てることはできない、彼女は自分自身にほかならないのだからと、感じたのであった。彼が最初の瞬間に味わった気持というのは、いきなり、うしろから強打された人が、かっとなり、仕返しのために相手を見つけようと思って、うしろを振り向いてみたところ、それはなにかのはずみに自分で自分を打ったので、だれに腹を立てるわけにもいかず、その痛みをじっとこらえて、しずめなければならない、と悟ったときに、味わうような妙な気持であった。
その後はもう彼もそれほど強くそうした感じを味わわなかったが、はじめてのときは、長いことわれに返ることができなかった、彼は自然な気持として、自分を弁護して、彼女にその非を悟らせようとした。ところが、彼女に非を悟らせることは、ますます彼女をいらだたせて、すべての不幸の原因となったその決裂を、いよいよ大きくするばかりであった。彼はその罪を自分から取りのけて、彼女のほうへ移そうと、つい今までどおりの習慣で考えたが、いったん生じた決裂を大きくさせないで、早いところ、いや、一刻でも早く、それをしずめなければならぬという気持に激しくおそわれた。そうした不当の非難に甘んずることは、苦しいことであったが、自己弁護をして彼女に痛みを与えることは、それよりもさらに悪いことであった。夢うつつのうちに、痛み苦しんでいる人のように、彼はその痛みの個所をひきちぎって、投げ捨ててしまいたいと思った。が、われに返ってみると、その痛みの個所は彼自身であることを感じた。もう今はただできるだけ辛抱して、その痛みを楽にすることよりしかたがなかった。そこで、彼はそうするように努めた。
ふたりは仲直りした。キチイは自分の罪を悟ったが、それを口に出してはいわず、ただ前よりも、彼にいっそう優しくなった。こうしてふたりは旧に倍した新しい愛の幸福を味わった。しかも、こうした事態は、このような衝突が繰り返されるのを、防ぐ助けにはならなかった。いや、それどころか、まったく思いがけない、些《さ》細《さい》な原因で起ることが、よくあった。このような衝突は、お互いにとってなにが大事なのかを、ふたりが知らないためでもあったし、またはじめのころふたりともふきげんでいることが多かったからでもあった。一方が上きげんで、他方が不きげんという場合には、平和は破られなかった。ところが、ふたりそろって不きげんのときには、まったく納得がいかぬような、つまらない原因からでも衝突がはじまるので、あとになってなんでいい争ったのか、まったく思いだせないほどであった。もちろん、ふたりながら上きげんのときには、生活の喜びはいつもの何倍にもなった。しかし、なんといっても、この結婚したてのころは、ふたりにとって苦しい時期であった。
最初のころはずっと、ふたりが互いに結び合されている一本の鎖を、両方から引っぱっているような緊張が、とくにはっきりと感じられた。世間一般の話によって、リョーヴィンがあれほど多くのものを期待していた蜜月《みつげつ》、つまり結婚後の一カ月は、生涯におけるもっとも重苦しい屈辱の時期として、お互いの記憶に残ったほどであった。ふたりはともに、その後の生活にはいってから、この不健全な時期の、醜く恥ずかしい数々の出来事を、記憶の中からかき消そうと努めた。それほどこの時期のふたりは正常な気分でいることがまれで、ふたりながら自分を失っていたのであった。
ようやく結婚生活三月めになって、ふたりがひと月ばかりモスクワへ行ってきてから、ふたりの生活は前より順調になった。
15
ふたりはモスクワから帰って来たばかりで、自分たちだけになれたことを喜んでいた。彼は書斎で仕事机に向って、書きものをしていた。彼女は濃い紫の服を着て、(それは結婚当時着ていたものであり、きょうまた取り出して着たので、彼にとってはことさら思い出ぶかく貴重なものに感じられた)、リョーヴィンの父や祖父の時代から、ずっと書斎に置かれていた、例の古風な皮張りの長いすに腰かけて、broderie anglaise をしていた。彼は妻の存在をたえず楽しく感じながら、考えたり書いたりしていた。彼は農事経営の仕事も、新しい農事経営の基礎を明らかにするはずになっている著述の仕事も、放棄していなかった。もっとも、前にはこうした仕事も、自分の生活全体をおおっている暗黒に比べて、些《さ》細《さい》な取るに足らぬもののように思われていたのと同様、今でもそうした仕事は幸福の光をいっぱいに浴びている未来の生活に比べると、まったく些《さ》細《さい》な取るに足らぬもののように思われるのであった。彼は相変らずそうした仕事をつづけていたが、今では注意の焦点がほかへ移って、その結果として彼は事態をもっと違ったふうに、もっと明瞭《めいりょう》にながめるようになったことを感じていた。以前はこの仕事が彼にとって、人生からの救いであった。以前には、この仕事がなかったら、自分の人生はあまりにも暗いものになるであろう、と彼は感じていた。ところが、いまやこの仕事が彼に必要だったのは、その生活をあまり単調な明るすぎるものにしないためであった。彼は再び原稿を手にとって、内容を読み返すと、その仕事がやりがいのあるものであることを確認して、満足した。その仕事は新しい有益なものだった。以前いだいていた思想の中には、よけいで極端なものと思われるものが多かったが、彼が頭の中でその問題に新しい光をあてたとき、今まで空白だった多くの点が、明らかになった。彼は今、ロシアにおける農業の不振の原因について新しい章を書いていた。ロシアの貧困は単に私有地の誤った分配や、誤った傾向に起因するだけでなく、最近、変則的にロシアに持ちこまれた表面的な文化、とくに、交通機関である鉄道が、いっそうこれを助長しているのであり、その結果として都市中心主義となり、奢《しゃ》侈《し》の風潮がたかまり、さらに、農村を荒廃させる工業や金融業の発達などを招来したのであると論証しようとした。彼の見解によれば、一つの国家において富が正常な発達をとげる場合、すべてこれらの現象は、すでに農村に対して相当の労力が注入され、農業が正しい、すくなくとも、一定の条件におかれたときにのみ起るものであった。一国の富は平均して成長すべきであって、とくに富の他の部門が農業を上まわらないことが必要であり、交通機関も農業の一定段階に対して、それ相応なものでなくてはならない。ところが、現在のわが国のように、土地の利用が誤っている場合には、経済的必要からではなく政治的必要から生れた鉄道などは、まだ時期尚早であり、それは期待されたように農業を助成するどころか、かえって農業を追い越して、工業と金融業の発達をうながし、農業の発展を阻止してしまうのである。したがって、動物の器官の一つが、一方的な早期発達をとげた場合、その全体的な発達を妨げるのと同様、金融業や交通機関や工業の発達は、これが時宜に適しているヨーロッパでは、疑いもなく必要なものであるが、わがロシアの国富の全般的な発達のためには、当面の重大問題である農業の改良をあとまわしにしたという点で、かえって有害だったのである。
一方、彼がこんな原稿を書いているあいだ、キチイは次のようなことを考えていた。モスクワを発《た》つ前の晩、若いチャルスキー公爵が、ひどく気のきかないやり方で、彼女にまつわりついたが、そのとき夫は相手に対してなにか不自然に注意を向けていた。《たしかに、うちの人は、やきもちをやいているんだわ!》彼女は考えた。《まあ、ほんとにうちの人はなんてかわいいおばかさんなんでしょう! あたしにやきもちをやくなんて! あたしにとってはあんな人たちなんか、料理人のピョートルとちっとも変らないってこと、知ってくれたらねえ》キチイはわれながらふしぎなことだったが、夫の後頭部や赤い首筋を自分のもののように感じながら、こう考えた。《お仕事のじゃまをしちゃ悪いけれど(でも、きっと、大丈夫だわ!)ひと目でもいいからお顔が見たいわ。あたしが見てるのを、感づいてくださるかしら? こっちを向いてくださるといいんだけれど!……ちょっとでも、ねえ!》キチイはそう思うと、目をさらに大きく見ひらいて、視線の効《き》き目《め》をいっそう強めようとした。
「いや、あんな連中は、いっさいの甘い汁を自分たちばかりで吸い取ってしまって、虚偽の光を放っているんだ」彼は書く手を休めて、つぶやいた。と、妻が自分のほうを見ながら、にこにこ笑っているのを感じて、振り返った。
「なんだい?」彼は微笑を浮べて立ちあがりながら、たずねた。
《まあ、お向きになったわ》彼女は思った。
「いいえ、なんでもないの。ただ、こっちをお向きになればいいなって、思ってただけなの」
彼女はじっと夫の顔を見つめ、自分が仕事のじゃまをしたのを、夫がいまいましく思っているかどうか知ろうとして、答えた。
「ねえ、ふたりだけでいるのは、ほんとに楽しいねえ! いや、これはぼくだけのことだがね」
彼は妻のそばへ近づいて、幸福の微笑に顔を輝かせながら、いった。
「あたしも! もうどこへも行かないわ、とくにモスクワなんかには」
「じゃ、なにを考えていたんだい?」
「あたしが? あたしの考えてたことはね……いや、いや、さあ、行ってお仕事なさいな、気を散らさないで」キチイは唇をすぼめながらいった。「あたし今、ほら、この穴を切り抜かなくちゃならないの」彼女は鋏《はさみ》をとって、切り抜きはじめた。
「ねえ、なにを考えてたか、ほんとに、いってごらん」彼はそばに腰をおろして、小さな鋏が丸く動くのを見ながら、いった。
「あら、なにを考えていたのかしら? そうだわ、モスクワのことや、あなたのことだわ」
「でも、なんだって、ぼくはこんなに幸福なんだろう? すこし不自然だな。あんまり楽しすぎて」彼はキチイの手に接吻しながらいった。
「あら、あたしはその反対に、楽しければ楽しいほど自然な気がするわ」
「あ、おまえの編んだ髪が」彼はそっと妻の頭を自分のほうへ向けながらいった。「編んだ髪が、ほら、こんなになって。いや、いや、ふたりとも仕事をしなくちゃ!」
しかし、仕事はもうつづけられなかった。そしてふたりは、クジマーがお茶の用意ができたと知らせにはいって来たとき、まるで悪いことでもしていたように、さっと離れた。
「町からもどって来たかい?」リョーヴィンはクジマーにたずねた。
「いましがたもどってまいりまして、荷を選《よ》り分けております」
「さあ、早くいらっしゃいよ」キチイは書斎を出ながら、夫にいった。「でないと、あたしひとりで手紙を読んでしまってよ。それから、いっしょにピアノをひきましょうよ」
彼はひとり残って、ノートを妻の買ってくれた新しい折りかばんにしまうと、キチイが持って来た新しい優雅な品々の置かれてある、新しい洗面所で手を洗いはじめた。リョーヴィンは、自分の思いに微笑すると同時に、その思いに承服しかねるといったふうに、首を振った。彼は悔恨に似た気持に悩まされていたのである。なにかしら恥ずかしい、遊惰な、彼がカピュア的と名づけたものが、彼の今の生活の中には見いだされたからである。《こんなふうに暮すのはよくないな》彼は考えた。《もうまもなく結婚して三月になるが、おれはほとんどなにもやってない。さあ、きょうはじめて、まじめな気持で仕事にかかったのに、これはどうだ! はじめたとたんに、すぐやめてしまうなんて。これまでずっとやっている仕事さえ、ほとんどほっぽりだしている。農場の見まわりだって、ほとんど出かけて行かない。キチイをかまってやらないのはかわいそうな気がしたり、時には退屈そうな姿が目にはいったりするからな。おれは、結婚前の生活なんかいいかげんなもので、とりたてていうほどのこともないが、結婚すれば、それこそほんとうの生活がはじまると思っていたんだ。ところが、もうすぐ三カ月になるというのに、おれはいまだかつてないほど遊惰な、無益な生活を送っている。いや、これじゃいけない。仕事をはじめなくちゃ。もちろん、キチイが悪いわけじゃない。あれにはなにひとつ非難するところはなかった。おれがもっとしっかりしていて、男性としての独立を守らなくちゃいけなかったんだ。いや、こんなことをしていたら、自分でも慣れっこになってしまうし、あれにもこんな習慣をつけることになってしまう……そりゃ、あれが悪いわけじゃないが》彼は自分にいいきかせた。
しかし、不満をもっている人が、自分の不満の原因について、だれか他人を、それももっとも身近な人間を責めずにいるのは、とてもむずかしいことである。そこで、リョーヴィンの頭にも、漠然とした次のような考えが浮んだ。そりゃ、あれ自身が悪いというわけじゃないが(彼女はどの点からみても悪いはずはない)ただあれの受けたあまりにも表面的で、軽薄な教育が悪いのだ。《あのチャルスキーの野郎め。おれにはちゃんとわかっているが、キチイはあの男の無礼を止めようと思いながら、それができなかったのだ》《うむ、あれには、家庭に対する興味と(それはたしかにある)、化粧と、broderie anglaise のほかには、興味というものがないんだ。あれは自分の仕事にも、家政にも、百姓にも、かなりじょうずな音楽にも、読書にも、べつになんの興味ももっちゃいないんだ。あれはなにもしないくせに、すっかり満足しきっているんだ》リョーヴィンは心の中でこんな非難を浴びせながら、彼女がきたるべき活動の時期にそなえているのだということをまだ理解していなかった。そうした時期になれば、彼女は夫の妻として、同時にまた、一家の主婦として、子供を産んだり、養ったり、教育したりしなければならないのである。彼は、妻がそれを本能的に察知し、この恐ろしい労働に対する準備として、未来の巣を楽しそうにつくりながら、愛の幸福にあふれた、のんびりした毎日を楽しんでいる自分を、責める気にならぬことを理解できなかったのである。
16
リョーヴィンが二階の部屋へはいって行ったとき、妻は新しい紅茶セットを前に、新しい銀のサモワールのそばにすわっていた。そして、アガーフィヤを小さなテーブルの前にかけさせ、紅茶をついでやり、自分は、たえずひんぱんに文通しているドリイからの手紙を、読んでいた。
「ほら、奥さまがここにすわらせてくださいましたよ。ご自分といっしょにすわれとおっしゃいまして」アガーフィヤはさも親しそうに、キチイにほほえみかけながら、いった。
リョーヴィンは、アガーフィヤのこの言葉によって、つい最近、この老婆とキチイのあいだに起った悶着《もんちゃく》が丸くおさまったことを感じた。キチイは新しい主婦として、アガーフィヤから一家の支配権を取りあげて、老婆にいろいろと悲しい思いをさせたが、それにもかかわらず、キチイは相手の心をおさえて、自分を愛するようにしむけたのである。彼はそれを見てとった。
「今ね、あなたへのお手紙を見てたとこなの」キチイは無学な人が書いたらしい手紙を夫に渡しながら、いった。
「これは、きっと、お兄さまの女の方から来たのね……」彼女はいった。「まだ読みはしなくってよ。ねえ、これは実家《さと》から、これはドリイから来たの。まあ、あきれた! ドリイはサルマツキー家の子供舞踏会に、グリーシャとターニャを連れて行ったんですって。ターニャが侯爵夫人に扮《ふん》したなんて」
ところが、リョーヴィンは妻の話を聞いていなかった。彼は顔を紅潮させながら、兄ニコライの情婦であったマーシャの手紙をとって、読みはじめていたからであった。これはもう、マーシャから来た二度めの手紙であった。マーシャは最初の手紙で、兄がなんの罪もないのに、自分を追い出したことを知らせ、自分はまた乞《こ》食《じき》のような境遇に落ちたが、なにもお願いしたり、望んだりはしない、ただニコライさまはからだが弱いから、自分がそばにいなかったら、きっと倒れてしまうだろうと思うと、居ても立ってもいられないと、胸を打つような素朴な調子で書き、どうか兄上に気をつけてほしい、と結んでいた。が、今度は別のことを書いてよこした。彼女はまたモスクワでニコライにめぐりあって、同棲《どうせい》するようになったが、彼がある県庁所在地に勤め口ができたので、いっしょにそこに赴任した。ところが、彼は上官とけんかをやり、またモスクワへ帰ろうとした。しかし、その途中で発病して、今はもうほとんど再起の望みがなくなった、と彼女は書いていた。『たえずあなたのことばかりいっていらっしゃいます、それに、お金ももうありません』
「ねえ、お読みになって、ドリイがあなたのことを書いてますわ」キチイは微笑を浮べながらいいかけたが、ふと、夫の顔色が変ったのに気づいて、言葉を切った。
「どうなすったの? ねえ、なにごとですの?」
「この手紙によると、兄のニコライは、死にかけているそうだ」
キチイの顔色もさっと変った。ターニャの侯爵夫人のことも、ドリイのことも、すっかり消しとんでしまった。
「で、いつお出かけになりますの?」彼女はたずねた。
「あした」
「あたしもごいっしょして、いいかしら?」彼女はいった。
「キチイ! それはどういうつもりなんだね」彼は非難をこめていった。
「どういうつもりですって?」夫がしぶしぶと、さもいまいましそうに自分の申し出《いで》を受けたのに腹を立てて、「なぜあたしが行っちゃいけないんです? おじゃまになるわけじゃなし、あたしだって……」
「ぼくが行くのは、兄貴が死にかかっているからだよ」リョーヴィンはいった。「なんのためにおまえまでが……」
「まあ、なんのためですって? そりゃ、あなたと同じわけじゃありませんか」
《おれにとってこんな重大なときに、あれはひとりになったらさびしいなんてことばかり考えているんだ》リョーヴィンは考えた。そして、これほど重大な場合に、そんな口実を聞いて、すっかり腹を立てた。
「そんなことはできないよ」彼はきびしい調子でいった。
アガーフィヤは、けんかになりそうなのを見てとると、そっと茶碗を置いて、出て行ってしまった。キチイはそれに気づかぬほどであった。夫が最初の言葉を口にした調子は、彼女の癇《かん》にさわった。ことに、彼女のいったことを、どうやら、信じていないらしいことがとりわけしゃくであった。
「はっきりいいますけど、あなたがいらっしゃるなら、あたしもごいっしょします。かならず、まいります」彼女は腹立たしげに早口でいった。「どうしてできないんですの? どうしてできないなんて、おっしゃるんですの?」
「だって、どんなところへ行くのか、どんな道のりか、どんな宿屋なのかてんでわかっちゃいないんだからね……おまえがいると、なにかにつけて面倒だからね」リョーヴィンは、努めて冷静になろうとしながら、いった。
「いいえ、ちっともご心配なく。あたし、なんにもいりませんもの。あなたの我慢できるところなら、あたしだって平気ですわ……」
「いや、それに向うには、おまえなんかつきあうわけにはいかない例の女もいることだし」
「向うにだれがいるとか、なにがあるとか、そんなことはちっとも知りませんし、知ろうとも思いませんわ。あたしが知っているのは、夫の兄が死にかかっていて、夫がそこへ行くということだけですわ。だから、あたしも、自分の夫といっしょに行くんです。つまり……」
「キチイ! そう腹を立てないでおくれ。しかしね、考えてもごらん、これはまったく重大なことなんだよ。それなのに、おまえはひとりで残りたくないという女々《めめ》しい気持と、ごっちゃにしているんだから。いや、そう思うと、ぼくはたまらないよ。ねえ、ひとりでいるのがさびしいと思ったら、モスクワへでも行けばいいじゃないか」
「ほら、あなたはいつだって《・・・・・》あたしに、そんなあさましい、よくない考えを結びつけるんですのね」キチイは侮辱と憤激の涙にくれながら、しゃべりだした。「あたしなんでもありませんわ、女々しいだなんて、いいえ……ただ、夫が悲しんでいるときには、夫といっしょにいるのが、妻の務めなんだと感じているんですの。それなのに、あなたときたら、わざと、あたしを傷つけようとして、わざとあたしの気持を誤解なさろうとするんですもの……」
「いや、こりゃ、たまらん。まるで奴隷になるのと同じじゃないか!」リョーヴィンは、もう自分のいまいましさを隠す力もなく、つと席を立ちながら、こう叫んだ。しかし、その瞬間、彼は自分で自分をなぐっていることを感じた。
「それじゃ、どうして結婚なすったんです?せっかく自由な身でいらっしゃれたのに。後悔なさるくらいなら、いったい、どうして?」彼女はいうと、席を立って、客間のほうへ駆けだして行った。
彼があとを追って行ってみると、キチイは泣きじゃくっていた。
彼は妻を納得させるというよりも、とにかく、落ち着かせるような言葉を捜しだそうとしながら、いろいろとしゃべりだした。しかし、彼女はそれを聞こうともせず、なんといっても承知しなかった。彼は妻のほうへ身をかがめて、振りはらおうとするその手を取った。そして、その手に接吻し、さらに、その髪に接吻し、もう一度、その手に接吻した。が、妻はなおもおし黙っていた。が、彼が妻の顔を両手にかかえて、「キチイ!」といったとき、彼女はふとわれに返って、ひと泣きしてから、仲直りした。
翌日ふたりはいっしょに出かけることにした。リョーヴィンは妻に、おまえがいっしょに行きたいのは、ただなにかの役に立ちたいからだということを信じている、といい、兄のそばにマーシャがいても、べつに世間体の悪いことではない、ということにも賛意を表した。しかし、彼は心ひそかに、妻にも自分にも不満な気持をいだきながら、出発した。妻に不満だったのは、いざというときに、自分ひとりを送りだしてくれなかったからである。(それにしても、よく考えてみると、これはまったくおかしなことであった。というのは、つい最近まで、彼は自分が妻から愛されるという幸福を信じかねる気持だったのに、今は妻があまりにも自分を愛しすぎるといって、わが身の不幸を嘆いているのだった!)また自分に不満だったのは、自分の我をおし通すことができなかったからであった。いや、それよりなおいっそう、彼は心の奥底では、兄といっしょにいる女のことなどは関係ないというキチイの意見に、同意できず、起りうべき衝突の数々を予想して、ぞっとするのであった。彼は自分の妻であるキチイが、娼婦《しょうふ》と同じ部屋にいるということを考えただけでも、嫌《けん》悪《お》と恐怖の念にかられて、思わず身震いせずにはいられなかった。
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ニコライが病身を横たえている県庁所在地の旅館は、清潔と、快適さと、さらに優美さをもかねそなえようという最上の意図によって、最新式の完璧《かんぺき》なプランによって建てられた地方旅館の一つであった。ところで、こうした旅館は、そこを訪れる客たちのために、驚くべき早さで、きたならしい居酒屋に変じてしまうのであった。が、それにもかかわらず、そのモダン建築を売りものにしているので、かえってそのうぬぼれのために、ただ単にきたない旧式の宿屋よりも、いっそう始末の悪いものになるのであった。この旅館も、もうそうした状態になっていた。きたない軍服を着て、ドア・ボーイ気どりで入口でたばこを吸っていた兵隊あがり、陰気で不愉快な、すかし模様のついた鉄の階段、よごれた燕《えん》尾《び》服《ふく》を着た、ぞんざいなボーイ、ほこりまみれの蝋《ろう》細《ざい》工《く》の花束がテーブルを飾っている大広間、さらに、いたるところで目につくほこりも、不潔さも、だらしなさも、それと同時に、この旅館のなにかしら新式の、モダンな、文明開化式の、ひとりよがりなしたり顔――こうしたすべてのものが、若々しい新婚生活を送ってきたリョーヴィン夫妻の心に、なんともいえぬ重苦しい感じを与えた。とりわけ、この旅館の与えるちゃちな印象が、ふたりを待ちうけているものと、なんとしても調和しなかったので、そうした感じはなおさらであった。
例によって、どんな値段の部屋がよろしいでしょう、という質問のあとで、上等の部屋は一つもあいてないことがわかった。上等の部屋の一つには、鉄道の検察官がはいっていたし、もう一つはモスクワの弁護士、もう一つは田舎《いなか》から出て来たアスターフィエフ伯爵夫人が、それぞれはいっていた。あいていたのはきたない部屋ひとつで、その隣にもうひとつ、晩までにあくというのがあった。リョーヴィンは予想どおりのことになったので、内心妻をいまいましく思いながら、あてがわれた部屋へ妻を連れて行った。というのは、兄の容体《ようだい》を案じて、気もそぞろになっているときに、すぐ兄のところへとんで行くかわりに、到着早々から、このように妻の心配をしてやらなければならなかったからである。
「さあ、いらっしゃいよ、いらっしゃいよ!」妻はおどおどした、すまなそうな目つきで、彼を見ながらいった。
彼は黙って部屋の外へ出た。と、そのとたん、マーシャにばったり出会った。マーシャは彼の到着を知ったものの、中へはいりかねていたのであった。彼女はモスクワで会ったときと、まったく変っていなかった。同じ毛織りの服に、むきだしの腕と首筋、それに、例の善良そうで、気のきかなそうな、いくらか太ったあばた顔。
「やあ! どうしました? 兄貴はどうなんですか? 容体は?」
「とても悪いんでございますよ。もうお起きになれないんですの。ずっとあなたのことを待っていらっしゃいましたよ。あの方は……じゃ……奥さまとごいっしょで」
リョーヴィンははじめ相手が、なにをもじもじしているのかわからなかったが、すぐ彼女のほうからそれを説明した。
「あたしはちょっと、台所のほうへ行っております」彼女はいった。「あの方もさぞお喜びになるでしょう。おうわさは聞いて、ご承知でいらっしゃいますもの。外国でお会いになったことも、ちゃんと覚えていらっしゃいますよ」
リョーヴィンは、相手が妻のことを、いっているのだと気づいたが、なんと答えていいか、わからなかった。
「さあ、行きましょう、行きましょう!」彼はうながした。
しかし、彼が足を一歩踏みだしたとたん、部屋の戸がさっとあいて、キチイが顔をみせた。リョーヴィンは恥ずかしさと、いまいましさに、さっと顔を赤らめた。妻が自分自身をも、夫をも、こんな苦しい立場に立たせたのがいまいましかったのである。ところが、マーシャは、もっと赤くなった。彼女はすっかり身をちぢめて、泣きだしそうなほどまっ赤になり、両手で肩掛けの端をきつく握りしめ、なんといったらいいか、なにをしたらいいかもわからずに、赤い指先でその端をよじりまわしていた。
最初の瞬間、リョーヴィンは、キチイが自分にとって不可解なこの恐ろしい女を見る目つきに、むさぼるような好奇心のひらめきを読みとったが、それはほんの一瞬であった。
「ねえ、いかがなんですの! お兄さまのおからだはいかがなんですの?」キチイははじめ夫に、それからマーシャにたずねた。
「それにしても、こんな廊下で立ち話するわけにはいかないね!」リョーヴィンは、そのときさも用事ありげに、靴音をばたばたたてながら廊下を通りかかった紳士のほうを、むっとして振り返りながら、いった。
「それじゃ、どうぞ、おはいりになって」キチイは気を取りなおしたマーシャに向っていったが、夫のびっくりしたような顔に気づくと、「いえ、行ってらっしゃい、行ってらっしゃいませ。あとで、あたしを呼びによこしてくださいまし」そういって、部屋の中へ姿を消した。
リョーヴィンは兄のところへ出かけて行った。
彼が兄の部屋で見たり、感じたりしたことは、まったく予期しないことであった。彼は兄が相変らず、例の自己欺《ぎ》瞞《まん》の状態でいるものと思っていた。そうした状態は、肺病患者にありがちなものだときかされていたが、去年の秋、兄が来たときも、彼はひどく驚かされたものであった。彼は死期の切迫してきた肉体的徴候が、さらにはっきりと表われ、衰弱もいっそう激しくなり、もっとやせこけているだろうが、しかしそれにもかかわらず、ほとんど前と同じような状態だろうと考えていた。また、彼は自分のあのとき経験したのと同じような、愛する兄を失う哀惜の情と、死の恐怖を感ずることだろうが、今度はただその程度がいっそう激しいだろう、と想像していた。そして、それに対する心がまえまでしていたのだが、彼がそこで目撃したものは、まったく別なものであった。
壁につばがやたらに吐き散らしてある、ペンキを塗った小さなきたならしい部屋の中は、薄い仕切り壁の向うに話し声が聞え、あたりは息づまるような汚物の臭気に満ちていたが、その壁から少し離れた寝台の上に、毛布にくるまった一個の肉体が横たわっていた。その肉体についている一方の手は、毛布の上にのっていたが、熊手のような大きなその手首が、元から中ほどにかけて同じ太さの細長い橈骨《とうこつ》にくっついているのがなんとも奇妙であった。頭は横向きに、まくらの上にのっていた。リョーヴィンの目にはそのこめかみの上の汗ばんだ薄い髪と、皮膚がぴんと張って透き通るような額が、すぐ映った。
《この恐ろしい肉体がニコライ兄さんだなんて、そんなばかなことが》リョーヴィンは思った。が、近づいて顔を見たとき、それはもう疑う余地はなかった。人相は恐ろしいほど変ってしまっていたにもかかわらず、はいって来た人の気配にちらっと上を仰いだその生ける目を見、ぴったりくっついた口ひげの下でかすかに動く口もとを見ただけで、もうこの死せる肉体が生ける兄であるという、恐ろしい真実を理解するのに十分であった。
そのぎらぎらと光っている目は、はいって来た弟をきびしく非難するように見つめた。と、たちまち、この視線によって、生ける者同士の生きた関係が生れた。リョーヴィンは、自分に向けられた視線の中に、非難の色をすぐ読みとって、わが身の幸福に悔恨の情を覚えた。
リョーヴィンが兄の手をとったとき、ニコライはにっこり笑った。その微笑は、ようやくそれと知られるほどの弱々しいものだったので、そうした微笑にもかかわらず、きびしい目の表情は、変らなかった。
「おれがこんなになっていようとは、思わなかったろう」兄はかろうじて口をきいた。
「ええ……いや……」リョーヴィンは、言葉につまって、いった。「なぜもっと前に知らせてくれなかったんです。つまり、ぼくが結婚したてのころに? 方々たずねさせたんですよ」
沈黙を避けるためには、なにか話していなければならなかった。ところが、彼にはなにを話したらいいかわからなかった。まして、兄のほうはなんとも返事をせずに、ただじっと、目をそらさずに弟を見つめながら、明らかに、一語一語の意味をせんさくしようとしていたので、それはなおさらであった。リョーヴィンは、兄に妻もいっしょに来たことを知らせた。ニコライは満足の色を浮べたが、こんな姿を見せて、驚かせてはかわいそうだといった。沈黙が訪れた。とつぜん、ニコライは身動きして、なにかしゃべりだした。リョーヴィンはその表情から、なにかとくに重大な意味のあることをいうのかと期待したが、ニコライは自分のからだのことをいいだした。彼はかかりつけの医者を責めて、モスクワの名医がいないことを残念がった。そこでリョーヴィンは、やはり兄がまだ生きる望みをもっていることを悟った。
沈黙が訪れるとすぐ、リョーヴィンは一分でも苦しい気持からのがれたいと願って立ちあがり、妻を連れて来るから、といった。
「ああ、いいとも。じゃ、そのあいだに、おれはここを少しきれいにするようにいいつけるから。ここはきたなくて臭いだろう。マーシャ、少し片づけてくれ」病人はやっとのことでいった。「それから、片づいたら、おまえはあっちへ行っておいで」彼は弟の顔をうかがうようにながめながら、こうつけ加えた。
リョーヴィンはなんとも答えなかった。廊下へ出ると、彼はその場に立ち止った。彼は妻を連れて来るといったものの、自分のいまの気持を吟味してみて、逆に、妻が病人のところへ行かないように、なんとか説き伏せようと決心した。《なにも、あれまでおれと同じように苦しむ必要はないさ》彼は考えた。
「ねえ、どうでした? どんなふうですの?」キチイはおびえたような顔つきで、たずねた。
「ああ、たまらん、じつに、たまらん。なんだっておまえはやって来たんだ?」リョーヴィンはいった。
キチイはしばらく無言のまま、おずおずと哀れっぽく夫を見上げていた。やがて、そばへ寄って、両手で彼の肘をつかんだ。
「ねえ、コスチャ、あたしをお兄さまのところへ連れてって。ふたりのほうが気が楽ですもの。ただ、どうか連れてってちょうだい、連れてってね、そしたら、あなたは出て行って」キチイはいいだした。「だって、あなたを見ていて、お兄さまに会わないでいるのは、かえってつらいんですもの。あたしが行けば、あなたのためにも、お兄さまのためにも、なにかお役に立つことがあるかもしれませんもの。お願いだから、わがままを許してね!」まるで一生の幸福が、この一事にかかっているかのように、キチイは夫に哀願するのだった。
リョーヴィンは承知しないわけにはいかなかった。そして、気を取りなおすと、もうマーシャのことはすっかり忘れて、再びキチイといっしょに、兄の部屋へ出かけて行った。
キチイは足音を忍んで、たえず夫のほうを振り返り、雄々しくも同情に満ちた顔を見せながら、病人の部屋へ通ると、ゆっくりうしろ向きになって、音のしないように戸をしめた。彼女は足音をたてずに、すばやく病人の寝床へ近づくと、病人が首をまわす必要のない側へまわりながら、すぐに自分の新鮮な若々しい手で、病人の大きな骨ばった手をとって、握りしめた。それから、女らしい、人の気を悪くしないような、同情に満ちた、静かな生きいきした口調で、彼に話しかけた。
「ソーデンでお会いしたことがございますね、お近づきにはなりませんでしたけど」彼女はいった。「あたしがあなたの妹になるなんて、きっと、お思いにはなりませんでしたでしょうね」
「すぐにはわからなかったでしょうな」彼はキチイがはいってくると同時に、輝くような微笑を浮べて、いった。
「いいえ、そんなことありませんわ。ほんとうに、よくお知らせくださいましたわ! コスチャはただの一日だって、お兄さまのことを思いだして、気をもまない日はございませんでしたもの」
しかし、病人が活気づいていたのはそう長いあいだではなかった。
キチイがまだ話し終らないうちに、彼の顔にはまたもや、あの瀕《ひん》死《し》の者が生きている人をうらやむような、きびしい、なじるような表情が凍りついた。
「ねえ、このお部屋はあまりよくないんじゃございません?」彼女はじっと自分に注がれたまなざしから顔をそむけて、部屋の中を見まわしながら、いった。「宿の主人に話して、ほかの部屋にしてもらいましょうよ」彼女は夫に話しかけた。「それに、なるべくならあたしたちの部屋へ近くなるようにね」
18
リョーヴィンは、落ち着いた気持で、兄を見ることもできなかったし、兄の前では、落ち着いた自然な態度でいることもできなかった。彼は病人の部屋へはいって行くと、その目もその注意力も、無意識のうちに曇ったようになってしまい、兄の状態のこまごました点を見ることも、見分けることもできなかった。彼はただ恐ろしい臭気を感じ、不潔と無秩序と悲惨なありさまを見、うめき声を耳にして、これではとても救いがたい、と感ずるばかりであった。まして病人の状態をくわしく調べてみようなどとは、とても考えもつかなかった。つまり、毛布の下に、兄のからだがどんなふうに横たわっているのか、あのやせほそった脛《すね》や、腰や、背を、どんなふうに曲げて寝ているのか、どうしたらそれをもっとぐあいよくすることができるのか、せめてよくすることができないまでも、いくらかでも今より楽にする方法はないのか、などという考えはまったく思い浮ばなかった。少しでもそんなこまごました点を考えだすと、背筋のあたりに悪《お》寒《かん》が走るのだった。彼はもうどんなことをしても、生命をのばすことも、苦しみを軽くすることもできないと、堅く信じきっていた。しかも、もうとても助ける道はないという彼の意識が、病人にも感じられるので、それがいっそう病人をいらいらさせた。そのために、リョーヴィンはますます苦しい思いをするのだった。病人の部屋にいることも苦しかったが、いなければもっと悪かった。そのため、彼はたえずいろんな口実をつくっては病室を出て行ったが、そのくせひとりでいるのに耐えられなくなって、また舞いもどって来るのであった。
ところが、キチイは彼とはまったく違ったふうに、考えたり、感じたり、行動した。彼女は病人を見たとき、相手がかわいそうになった。しかも、その女らしい心に生れた憐憫《れんびん》の情は、夫の場合のように、恐怖や嫌悪の念を呼びさますことなく、逆に、行動を開始して、病人の状態をくわしく知り、彼を助けなければならない、という欲求を呼びさました。そして、彼女は、助けなければならないということを、少しも疑わなかったので、それが可能であるということも、また少しも疑わなかった。そこで、さっそくその仕事にとりかかった。彼女の夫には考えただけでもぞっとするこまごました点が、たちまち、彼女の注意をひいた。彼女は医者を迎えにやり、薬屋へ使いを走らせ、自分が連れて来た小間使とマーシャに、部屋の掃除をさせ、自分でもいろいろと洗ったり、すすいだり、毛布の下へなにかさしこんだりした。彼女のさしずによって、病室へはなにやら持ちこまれたり、持ちだされたりした。彼女自身も、幾度となく自分の部屋へ足を運んだが、そんなときにも、行きずりの人にはなんの注意もはらわずに、敷布とか、まくらおおいとか、タオルとか、シャツとかを取りだしては、運んで来た。
広間で技師たちに食事を出していたボーイは、彼女に呼ばれて、幾度も仏頂面《ぶっちょうづら》をしてやって来たが、そのいいつけを果さないわけにはいかなかった。彼女の頼み方がいかにもやさしく、しかも執拗《しつよう》な調子だったので、適当に逃げだすわけにいかなかったからである。リョーヴィンはそうしたことをあまり感心していなかった。そんなことが、病人のためになろうとは、とても信じられなかったからである。なによりも彼は、病人が腹を立てないかと心配していた。ところが、病人はそれに対して、一見、無関心を装っていたものの、べつに腹も立てず、ただ恥ずかしそうにしていた。いや、要するに、彼女がいろいろと自分に尽してくれることに、興味を感じているらしかった。キチイにいわれて、医者を迎えに行ったリョーヴィンが、帰って来て病室の戸をあけると、ちょうど病人はキチイのさしずで、肌着を着替えているところであった。大きくとびでた肩甲骨と肋骨《ろっこつ》と背骨の突き出たひょろ長い白い背中はあらわになっており、マーシャとボーイは、だらりとたれさがったその長い腕を、シャツの袖《そで》に通すことができないで、まごまごしていた。キチイは、リョーヴィンのはいって来たうしろの戸を急いでしめると、そっちを見ないようにしていた。しかし、病人がうめき声をたてると、急ぎ足で病人のところへ行った。
「さあ、早くなさって」彼女はいった。
「ああ、来ないでください」病人は腹立たしげに口走った。「自分ひとりで……」
「なんですの?」マーシャがききかえした。
ところが、キチイはそれを聞き分けて、病人が彼女の前で裸になっているのがきまり悪く、不愉快なのだということを悟った。
「見やしませんわ、見ちゃいませんたら!」彼女は、腕をなおしてやりながらいった。「マーシャ、さあ、向う側へまわって、なおしてあげて」彼女はそうつけ加えた。
「ねえ、あなた、お願いだから、取って来てちょうだい。あたしの小さい袋の中に、ガラスの瓶《びん》がはいってますから」キチイは夫に話しかけた。「ねえ、あのわきのポケットのところよ。さあ、後生ですから、取って来てちょうだい。そのあいだに、ここをすっかり片づけときますから」
リョーヴィンがガラスの小瓶を持ってもどって来ると、病人はもう毛布にくるまっていたし、まわりの様子もすっかり変っていた。例の臭気は、香水をまぜた酢のにおいに代っていた。それをキチイは口をとがらせて、ばら色の頬をふくらませながら、小さな管で吹いているところだった。どこにもほこりひとつ見えず、寝台の下にはじゅうたんが敷いてあった。テーブルの上には薬瓶やフラスコがきちんと並べられ、必要な肌着や、キチイの手仕事の broderie anglaise などが重ねてあった。病人の寝台のそばのもう一つのテーブルには、飲み物や、ろうそくや、粉薬などがおいてあった。当の病人はからだをふいてもらい、髪の毛をといてもらって、清潔な敷布の上に、さっぱりしたシャツの襟《えり》から、不自然に細い首をのぞかせながら、高く重ねたまくらをして、横たわっていた。そして、ついぞ今まで見られなかった希望の色を浮べながら、じっと目を放さずに、キチイを見守っていた。
リョーヴィンがクラブにいたのを見つけて連れて来た医者は、それまでニコライが診《み》てもらっていて、不満に思っていた医者とは、別人であった。新しい医師は聴診器を取りだして、病人を診察すると、ちょっと首を振ってから、処方箋《しょほうせん》を書いた。そして、まずはじめに薬の飲み方を、つづいて、どんな食事をすべきかと、特別くわしく説明した。彼は、生卵か半熟を、またソーダ水と、適度に暖めた牛乳を飲むようにすすめた。医者が帰ってしまうと、病人は弟になにかいった。しかし、リョーヴィンは最後の『おまえのカーチャ』という言葉しか聞きとれなかった。が、キチイを見た兄の目つきで、リョーヴィンは兄が彼女をほめたことを悟った。兄はキチイをカーチャと呼んで、そばへ呼び寄せた。
「もうずいぶんよくなりましたよ」彼はいった。「あなたに看病してもらってたら、もうとっくになおっていたでしょうね。じつにいい気持だ!」彼はキチイの手をとって、自分の唇のほうへ引き寄せた。が、相手にいやな感じを与えないかと心配し、すぐ思いなおして手を放し、ただなでるだけにした。キチイは両手で病人の手を取って、握りしめた。
「じゃ、今度は左向きに寝返りさせてください。それでもう、寝てくださいよ」彼はいった。
だれひとり彼がいったことを聞き分けられなかったが、キチイだけにはわかった。キチイにそれがわかったのは、たえず病人に必要なことを気にかけていたからであった。
「あちら向きにしたいんですって」彼女は夫にいった。「いつも、あちら向きでお休みになるんですの。ねえ、向きを変えておあげになってね、ボーイなんか呼ぶのはいやですもの。あたしにはできませんの。あなたもおできになりません?」彼女はマーシャに問いかけた。
「あたし、こわいんです」マーシャは答えた。
リョーヴィンには、両手でこの恐ろしい肉体をかかえて、考えることすらはばかられた毛布の下の部分に手をかけるのは、なんとしても気味悪く思われたが、妻の意気込みに引きこまれて、彼女にはおなじみのあの決然たる表情を浮べて、両手をさしこんで、抱き起そうとした。ところが、彼は力持ちだったにもかかわらず、そのやせ衰えた肢《し》体《たい》のふしぎな重さに驚かされた。リョーヴィンが、病人の大きなやせた片腕で自分の首を巻かれるのを感じながら、兄を寝返りさせているあいだに、キチイはすばやく、音のしないように、まくらをひっくり返し、それを軽くたたいた。それから、病人の頭と、またもやこめかみにくっついた薄い髪の毛をなおしてやった。
病人は、弟の手を自分の手の中にじっとつかんでいた。リョーヴィンは、兄がその手をどうかしようとして、どこかへ引っぱって行くのを感じていた。リョーヴィンは胸のしめつけられる思いで、なすにまかせていた。すると、兄はその手を自分の口にもっていって、接吻した。リョーヴィンは、慟哭《どうこく》に身を震わせたかと思うと、なんにもいうことができぬまま、部屋を出て行った。
19
『神はその御《み》業《わざ》を賢者に隠して、幼児と知恵なきものに顕《あら》わしたまえり』リョーヴィンはその晩、妻といろいろ話をしながら、妻のことをそう思った。
リョーヴィンが聖書の箴言《しんげん》について考えたのは、なにも自分が賢者だと考えたからではなかった。彼は自分を賢者だとは考えていなかったが、しかし自分が妻やアガーフィヤよりは賢いということも、認めざるをえなかった。また、彼が死について考えたとき、自分は精神力の限りをつくしたということも、知らないわけにはいかなかった。さらに彼は、この死という問題について、多くの偉大な男性の思想家が書いた書物を読んでみたが、彼らも死という問題については、妻やアガーフィヤの知っている百分の一も知らないでいるということを承知していた。アガーフィヤとカーチャ(これは兄ニコライの呼び方であったが、今はリョーヴィンもこう呼ぶのが気持よかった)のふたりは、お互いにずいぶんかけ離れた人間であったが、この点に関してだけは、まったく似かよっていた。ふたりとも、生とはなんであり、死とはなんであるかを、疑う余地のないほど知っているのだった。もっとも、ふたりともリョーヴィンの当面しているような疑問には、答えることはおろか、その意味を理解することさえできないであろうが、死という現象の意義には疑いをさしはさまず、単にふたりのあいだばかりでなく、幾百万という人びとと同じ見解をとりながら、まったく一様に、死をながめているのであった。彼女たちが、死とはなにかをはっきり知っているという証拠は、瀕死の人びとに対してはどんなふうにしなければならないかを、一分一秒も疑うことなく、ちゃんと心得ていて、けっしてそれらの人びとを恐れたりしないという点にあった。ところが、リョーヴィンやその他の人びとは、死についていろんなことを口にすることはできても、明らかに、その本質は知らなかったにちがいない。というのは彼らは死を恐れていたので人が死にかかっているときにはどうしなければならないか、まるっきり知らないからであった。かりに今リョーヴィンが、兄ニコライとふたりきりでいたとしたら、ただ恐怖の念をもって兄をながめ、さらにもっと大きな恐怖をいだいてきたるべきものをじっと待ちうけているだけで、それ以外には、なにひとつなしえなかったにちがいない。
いや、そればかりか、彼はなにをいったらいいか、どんなふうに見、どんなふうに歩いたらいいかさえ、知らなかった。まるで関係のない話をするのは、兄を侮辱するようで、できなかった。そうかといって、死のことや、暗い話をするのも、やはり、できなかった。また、じっと黙っていることも、できなかった。《おれがじっと顔を見ていれば、兄はおれが病人の様子を調べている、きっと、こわがっているんだなと思うだろうし、そうかといって、見ないでいれば、なにか自分と関係のないことを考えていると思うだろう。そっと、爪《つま》立《だ》ちで歩けば、かえって兄は不満だろうし、そうかといって足をいっぱいにつけてばたばた歩くのは気がひけるな》一方、キチイは明らかに自分のことなど考えていなかったし、またそんなことを考えている暇もないようだった。彼女はなにごとかを心得ていたために、病人のことばかりを考えていた。そして、なにもかもうまくいった。彼女は自分のことも、自分の結婚式のことも話した。そして、たえず微笑を浮べたり、気の毒がったり、優しくいたわりながら、全快したときの話もしたので、なにもかもうまくいったのであった。つまり、彼女はそれを承知していたのだ。キチイやアガーフィヤの行為が、本能的な、動物的な、不合理なものでなかったという証拠には、アガーフィヤもキチイも単に肉体の看護や、苦痛を軽くするということ以外に、瀕死の病人のために、もっと重大なあるもの、つまり、肉体的な条件とはまったく関係のないものを求めていたのであった。アガーフィヤは死んだ老人のことを話しながら、「まあ、ありがたいことに、あの人は聖餐《せいさん》の式も塗油の式もしてもらいましたよ。どうか神さまが、だれにもあんな死に方をさせてくださいますように」といった。キチイもこれとまったく同様で、肌着や、床ずれや、飲み物などを心配するほかに、もう着いた日にさっそく病人に、聖餐式と塗油式の必要なことを納得させた。
夜もふけて、病人のところから、二間つづきの自分の部屋へもどって来ると、リョーヴィンはなにをしたものかわからぬままに、ただうなだれてすわっていた。夜食をしようとか、寝じたくをするとか、これからさきのことを考えるとか、そんなことはもちろん、妻と話をすることさえできなかった。彼は自分が恥ずかしかったのである。一方、キチイはそれと反対に、いつにもまして、活動的であった。いや、それどころか、いつもより生きいきしているくらいだった。彼女は夜食を持ってくるように命じ、自分で荷物をといたり、寝床をのべる手伝いをしたり、その上に虫取り粉をふりかけることさえ忘れなかった。彼女は興奮して思考活動が敏活になっていたのである。それは、男性が、戦争や闘争の前のような、生涯の運命を決する危険な瞬間に、つまり、男子たるものが、一生にただ一度自分の価値を示して、これまでの自分の過去も無意味なものでなく、すべてこの瞬間に対する準備であったと、証《あかし》をたてるときに表われるような状態であった。
どんな仕事でも、彼女の手にかかると、うまく片づいた。まだ十二時にならぬうちに、荷物はすっかり清潔に、きちんと、なにか特別なおもむきに整理されたので、旅館の一室がまるでわが家の、彼女の居間のような感じになった。寝床が整えられ、ブラシや、櫛《くし》や、小鏡などが並び、ナプキンまでがひろげられた。
リョーヴィンはそのときになっても、食べたり、寝たり、話したりするのを、まだ許すべからざることのように思っていた。そして、自分の一挙一動が、ぶしつけなように感じられた。ところが、キチイは、ブラシを選り分けていたが、それもべつに人の気持を傷つけるようなことではない、といった態度をとっていた。
そうはいうものの、いざ夜食となると、ふたりはなにひとつのどへ通らなかった。そして、長いあいだ眠ることもできなかった。いや、長いあいだ床につくことさえできなかった。
「ほんとにうれしいわ、あす、塗油式をなさるようお兄さまを納得させたんですもの」ブラウス姿のキチイは、組立て式の鏡台の前にすわって、柔らかい香りの高い髪を、目の細かい櫛でとかしながら、いった。「あたしは一度も見たことありませんけれど、ママの話じゃ、あれは病気のなおるお祈りなんですって」
「おまえは、兄貴がなおるかもしれないとほんとに思ってるのかい?」リョーヴィンは妻が櫛を前へ持って行くたびに隠れて見えなくなる、まるい小さな頭のうしろの細い分け目を見ながら、たずねた。
「お医者さまにうかがったら、三日以上はもたないっておっしゃってたわ。でも、あんな人たちにはなにもほんとのことはわからないのよ。とにかく、あたしはうれしくてしようがないのよ、お兄さまを納得させたんですもの」キチイは髪の陰から、夫を横目に見ながらいった。「どんなことだって、起らないとはかぎりませんものね」キチイは一種特別な、ややずる賢い感じのする表情で、つけ加えた。それは、彼女が宗教の話をするとき、いつもその顔に浮ぶ表情であった。
ふたりがまだ婚約時代に宗教の話をして以来、彼のほうからも彼女のほうからも、一度もこの問題について、話をはじめたことはなかった。しかし、キチイは教会へ出かけるとか、祈《き》祷《とう》するとかの勤めはかかさずすませて、しかもそれは必要なことだと、つねに変らぬ落ち着いた意識をもっていた。また、夫が自分と反対の信念をもっているといっても、彼女は夫が自分と同じキリスト教徒であるどころか、むしろ自分よりもっとすぐれた信者であって、この問題に関して、彼のいうことなどは、彼の男らしいこっけいな放言の一つにすぎないとかたく信じきっていた。たとえば彼は broderie anglaise のことを、善良な人間は穴をつくろっていくのに、おまえときたら、わざと穴をあけているじゃないか、とからかったが、これもそうしたものにすぎないと思っていた。
「まったくだね、あの女じゃ、マーシャでは、そんなことはちょっとできなかっただろうからね」リョーヴィンはいった。「それに……白状するとね、ほんとに、ほんとにうれしく思っているんだ、おまえが来てくれたことを。おまえはまったく純潔そのものなんで……」彼は妻の手を取ったが、接吻はしなかった。(死期の迫っているこんなときに、妻の手に接吻するのは、なんとなく不謹慎なように思われたからである)そして、妻の明るくなった目をじっと見つめながら、さもすまなそうに、ただその手を握りしめた。
「おひとりきりでしたら、さぞおつらかったことでしょうね」キチイはいった。そして、高く両手をかざして、うれしさに赤くなった頬《ほお》を隠しながら、うしろ頭の髪をぐっとねじって、ピンで留めた。「いいえ」彼女はつづけた。「あの人は知らないだけなんですのよ……あたしは幸い、ソーデンでいろんなことを習ったものですから」
「じゃ、あそこにもやっぱり、あんな病人がいるのかい?」
「もっとひどいくらいですわ」
「兄貴の若い時分の姿を、思いださずにはいられないってことは、まったくたまらないね……兄貴がどんなに魅力ある青年だったか、とてもおまえには信じられないだろうね。でも、あの時分は、ぼくにもそれがわからなかったのさ」
「いえ、信じますとも、かたく信じますとも。ねえ、あたしたち、お兄さまと仲よく暮すこともできた《・・・》でしょうにねえ」彼女はいったが、自分のいった言葉にはっとして、夫のほうを振り返った。と、その目には涙があふれた。
「ああ、できた《・・・》とも」彼は顔をくもらせていった。「いや、兄貴こそ、よく世間でいう、この世の人とも思われない人なんだよ」
「それはそうと、まだこれからさき幾日もあるんですから、もう休まなくちゃいけませんわ」キチイは自分の小さな時計を見て、いった。
20 死
その翌日、病人は聖体機密と聖伝機密の式を受けた。儀式のあいだ、ニコライは熱心に祈った。色のついたナプキンをしいたトランプ机の上に置いてある聖像に注がれた彼の大きな目の中には、激しい祈りと希望の色が表われていたので、リョーヴィンはそれを見るのが恐ろしいほどであった。この激しい祈りと希望は、彼があれほど愛していた生との別れを、ただいっそう苦しいものにすることを、リョーヴィンは承知していたからである。リョーヴィンには兄の人がらも、思想の遍歴もわかっていた。彼は兄の無信仰も、信仰をもたぬほうが生きやすいからではなく、この世のあらゆる現象を現代科学が次々に解明していって、ついに一歩一歩信仰をしりぞけていった結果であることを承知していた。したがって、今兄が信仰に帰ったのは、同じ思想の過程をふんで行われた合法的なものではなく、病気をなおしたいという狂おしい希望から発したほんの一時的な、利己的なものにすぎないことも、リョーヴィンにはわかっていた。リョーヴィンはまた、キチイが自分の聞いた大病がなおったという異常な物語を話して、兄の希望をさらに強めたということも知っていた。リョーヴィンにはそうしたことが、みんなわかっていた。そのために、その希望に満ちた祈るようなまなざしや、やっと上へ持ちあげて、ぴんと皮膚の張った額に十字を切るそのやせこけた手や、突きだした肩や、病人がこれほど求めてやまない生命をもう保つことのできない、ぜいぜいあえいでいるうつろな胸などを見ているのは、心をかきむしられるような苦しさであった。秘儀が行われているあいだじゅう、リョーヴィンもまた祈りをささげ、信仰をもたぬ彼が、もう千度もやったことを、また繰り返したのであった。彼は神に向って、こう話しかけた。『神さま、もしあなたがこの世に実在するものであるなら、どうか、この男の病気をなおしてください。(いや、こうしたことこそこれまでたびたび繰り返されたことではないか)、そうなれば、あなたはこの男ばかりか、私をも救ってくださるのです』
聖伝機密の式がすむと、病人は急にぐっとよくなった。まる一時間、一度も咳《せき》をしないで、にこにこしながら、キチイの手に接吻して、涙を浮べて礼をいい、自分はとてもいい気持で、どこも痛くない、食欲もあるし、力も出たようだ、といった。スープが運ばれて来たときには、自分から起きあがり、おまけにカツレツまで食べたいといった。彼の容体《ようだい》はまったく絶望的であって、ひと目見ただけでももうとても全快の望みがないのは、明らかであったにもかかわらず、リョーヴィンとキチイはこの一時間のあいだ、同じような幸福を味わいながらも、ひょっとしてまちがいではないかというびくびくした興奮にかられていた。
「よくなったみたいだね?」「ええ、とても」「ふしぎだね」「なにもふしぎなことはありませんわ」「とにかく、よくなったんだね」ふたりは互いにほほえみあいながら、ささやき声で、こんなことをいっていた。
が、この惑いもそう長くつづかなかった。病人は安らかに眠っていたが、三十分ほどすると、咳で目をさました。するととつぜん、いっさいの希望は、まわりの者にとっても、彼自身にとっても、跡形もなく消えうせてしまった。一点の疑う余地もない、いや、さきほどの希望のかげすらとどめぬ苦《く》悶《もん》という現実が、リョーヴィンと、キチイと、病人自身のいだいていた希望を、一挙に、破壊しつくしたからであった。
病人は三十分前まで自分がなにを信じていたのか、それさえわからずに、いや、そんなことを思いだすのさえ恥ずかしいといった様子で、ヨードの吸入をしてくれといった。リョーヴィンは、小さな吸入穴のいくつもあいた紙で蓋《ふた》をしたヨード入りの小瓶を、取って渡した。と、あの聖油を塗ってもらったときと同じ希望に満ちたまなざしが、今度は弟の顔にひたと注がれて、ヨードの吸入は奇蹟的な効果をもたらすことがあるといった医師の言葉を肯定してほしいと訴えるのであった。
「おや、キチイはいないんだね?」病人は、リョーヴィンが仕方なしに、医師の言葉を肯定したとき、あたりを見まわしながら、しゃがれた声でいった。「いないんだね、それじゃ、いってしまおう……あれのためにおれはあんな喜劇をやったんだ。ほんとにかわいい女だね。でも、おれとおまえじゃ、いまさら自分を欺いたってしようがない。いや、こいつなら、おれも信じられるさ」彼はいって、骨ばった手で瓶を握りしめながら、それで吸入をはじめた。
その晩の七時すぎに、リョーヴィンが妻とともに自分の部屋でお茶を飲んでいると、マーシャが息せききって駆けつけて来た。その顔はまっ青で、唇は震えていた。
「もうだめですわ!」彼女はささやくようにつぶやいた。「もう今にも息をひきとられるのじゃないかと思ってびくびくしてますの」
ふたりは病室へとんで行った。病人は床の上に起きあがり、片肘《かたひじ》をついて、長い背中を曲げ、頭を低くたれていた。
「気分はどうです?」ややしばらく黙っていてから、リョーヴィンはささやくようにたずねた。
「いよいよおさらばだという気分だよ」ニコライは苦しそうに、しかし、恐ろしくはっきり一語一語言葉をしぼり出すような調子でいった。彼は首を持ちあげずに、ただ上目づかいで見たが、その視線は弟の顔まで届かなかった。「カーチャ、どいていておくれ!」彼はさらにいい足した。
リョーヴィンはさっととびあがって、小声で命令するような調子で、妻を出て行かせた。
「いよいよおさらばだよ」彼はまたいった。
「なんだってそんなことを考えるんです?」リョーヴィンはいったが、それはただなにかいうためであった。
「だって、いよいよおさらばだからね」まるでこの表現が気に入ったように、彼はまたそう繰り返した。「もうおしまいだよ」
マーシャがそばへ寄って来た。
「横におなりになったら、そのほうがお楽ですのに」彼女はいった。
「もうすぐ静かに横になるさ」彼は口走った。「死《し》骸《がい》になってな」彼はあざけるように、腹立たしげにいった。「それじゃ、横にしてもらおう、お望みなら」
リョーヴィンは兄を仰向けに寝かせると、そばへ腰をおろして、息を殺して、じっと、その顔を見つめはじめた。瀕死の病人は目を閉じて、横たわっていた。しかし、その額の筋肉は、まるでなにか深いもの思いにふけっている人のように、ときおり、ひくひくと動くのであった。リョーヴィンは思わず、今兄の内部にあって完成しつつあることを、兄といっしょに考えてみようとした。しかし、兄と歩調をあわせようと、いくら努力してみても、兄の落ち着いたきびしい顔の表情や、眉《まゆ》の上の筋肉の動きなどから察して、自分にとっては相変らず不明なことが、今まさに死んでいく人には、しだいしだいに、はっきりとわかってくるらしいことを悟った。
「うむ、そう、そうだよ」瀕死の病人は一語一語に間をおきながら、ゆっくりといった。「待ってくれ」それからまたしばらく黙っていた。「そうだ!」不意に、まるで自分にとっていっさいのことが解決したかのように、彼は安らかな調子で言葉をのばしていった。「ああ、主よ!」彼はそういって、重々しく溜息《ためいき》をついた。
マーシャは病人の足にさわってみた。
「冷たくなってきました」彼女はささやいた。
長いあいだ、ひじょうに長いあいだ(そうリョーヴィンには思われた)、病人は身じろぎもせずに横たわっていた。しかし、彼はなおも生きていて、時には溜息をついた。リョーヴィンは激しい精神の緊張からもう疲れていた。彼はどんなに精神を緊張させてみても、なにが『そうだ《・・・》』なのか、自分には理解できないと感じていた。彼は自分がもうとっくに、死んでいく人から取残されたような気がしていた。彼はもう死という問題そのものを考えることはできなかった。しかし、彼は心にもなく、これから自分のしなければならないことを、つまり、目を閉じてやったり、経帷子《きょうかたびら》を着せてやったり、棺を注文したりしなければならぬ、といった思いが浮んでくるのだった。それに、ふしぎなことには、彼は自分がすっかり冷淡になっているのを感じ、もう悲しみも、肉親の失われた嘆きもなく、ましてや兄に対する憐憫《れんびん》の情などは、露ほどもなかった。もし兄に対して今なんらかの感情をもっていたとすれば、それはむしろ、瀕死の兄がもはやかちえたところの、自分には手のとどかない知識に対する羨望《せんぼう》ぐらいのものであった。
彼はなおもまだ長いあいだ、兄の最後を待ちながらまくらもとにすわっていた。が、その最後はなかなか訪れなかった。戸があいて、キチイが姿を現わした。リョーヴィンは相手をとめようとして、立ちあがった。ところが、立ちあがった瞬間、彼は死者の動く気配を感じた。
「行かないでくれ」ニコライはいって、片手をさしのべた。リョーヴィンは兄に自分の手を握らせ、腹立たしげに、片手を振って、妻を出て行かせた。
彼は自分の手で死んだような兄の手を握ったまま、三十分、一時間、さらにまた一時間と、じっとすわっていた。彼は、もう今となっては死のことなんか、まるで考えていなかった。彼はキチイはなにをしているだろうとか、隣の部屋にはだれがいるのだろうとか、医者の住んでいる家は自分の持ち家だろうかなどと考えていた。彼は腹がへって、眠くなってきた。彼はそっと手を抜いて、足にさわってみた。足はもう冷たかったが、病人にはまだ息があった。リョーヴィンはまた爪立ちになって出て行こうとした。が、病人はまた身を動かすと、いった。
「行かないでくれ」
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夜が明けた。病人の容体は、相変らず同じことであった。リョーヴィンはそっと手を放して、瀕死の兄の顔は見ないで、自分の部屋へ帰ると、すぐ寝こんでしまった。彼は目をさましたとき、予期していた兄の死んだという知らせのかわりに、病人は前と同じ状態になったと聞かされた。彼はまた起きなおって、咳《せき》をしたり、また食べたり、話したり、また死については口にしなくなった。また全快の希望を見せたり、前よりいっそういらいらして、気むずかしくなったりした。リョーヴィンも、キチイも、だれひとりとして、兄をなだめることはできなかった。彼はだれに対しても腹を立てた。そして、みんなが自分の苦痛に対して責任でもあるかのような口ぶりで、すべての人に不愉快なことをいい、モスクワから名医を呼んでくれと、要求するのだった。彼は気分がどうかときかれるたびに、いつも憎《ぞう》悪《お》と非難の表情を浮べて「すごく苦しい、とてもやりきれん!」と答える始末だった。
病人は、ますます苦しみを訴えるようになった。ことに、もうどうにも手の施しようのない床ずれのために苦しんで、ますます周囲の者に、ことごとに腹を立て、とりわけ、モスクワから医者を呼んでくれぬといっては非難の言葉を浴びせた。キチイはなんとかして彼を楽にさせて、慰めようと努めたが、すべては徒労であった。そして、リョーヴィンは、キチイが自分では口に出していわなかったが、肉体的にも精神的にも、すっかりまいっているのを見てとった。病人が弟を呼びよせた晩、この世との別れを告げて、みんなの胸に感動を呼び起したあの死の感じは、今はもう跡形もなく破壊されてしまった。もっとも、彼が近いうちにまちがいなく死ぬということも、もう半ば死骸も同然だということも、みんなは承知していた。みんなの望んでいたただ一つのことは、彼が少しでも早く死んでもらいたい、ということであった。が、みんなはそれを秘め隠して、薬瓶《くすりびん》から水薬を飲ましたり、薬や医者を捜しまわったりして、病人をも、自分をも、また、お互い同士をも欺いているのだった。こうしたことはすべて虚偽であった。いまわしい、人を侮辱するのもはなはだしい、冒涜《ぼうとく》的な虚偽であった。リョーヴィンはその性格からいっても、また、だれよりも病人を愛していたことからいっても、この虚偽をとりわけ痛切に感じていた。
リョーヴィンはもうかなり前から、せめて臨終のときにでも、兄たちを和解させたいと望んでいたので、兄のコズヌイシェフに手紙を書いてやったところ、返事がきたので、その手紙を病人に読んで聞かせた。コズヌイシェフは、自分では出かけて行けないがと書いて、感動的文句を並べて弟に許しを請うていた。
病人はひと言もいわなかった。
「兄さんにはなんと書いてやったらいいでしょうね?」リョーヴィンはきいた。「もう、まさか腹を立てちゃいないでしょうね?」
「ああ、ちっとも!」ニコライは、こんな質問をされて、さもいまいましそうに答えた。「ただ、おれのところへ医者をよこしてくれるように書いてくれ」
それからまた、苦しみに満ちた三日が過ぎた。病人は相変らず同じ容体であった。もう今では病人をひと目見たものはだれでも、その死を望む気持にかられた――宿のボーイたちも、主人も、すべての泊り客も、医者も、マーシャも、リョーヴィンも、キチイも。ただ当の病人だけは、そうした気持を表わさなかった。いや、それどころか、医者を呼ばないといってはあたりちらし、薬を飲みつづけ、生きながらえることの話ばかりしていた。ただまれに、阿《あ》片《へん》の注射で、ほんのひととき、そのたえまない苦痛を忘れることができると、ほかのだれよりも強く彼の心にあった思いを、夢うつつのうちに、口走るのであった。
「ああ、早くけりがつけばいいのに!」とか、「いったい、いつになったら、おしまいになるんだ?」とか。
苦痛は、一歩一歩、激しさをまし、着々とその力を発揮して、病人を死へ近づけていった。彼にとっては苦しまずにいられる状態もなければ、自分を忘れることのできる瞬間もなく、痛み苦しまない肉体は一個所とてなかった。いや、もはやこの肉体についての記憶や印象や考えすらも、彼の心にからだそのものと同じく、嫌悪の情を呼びさますばかりであった。他人の姿も、その話し声も、自分自身の追憶も、――すべてこうしたものはなにもかも、彼にとっては、苦悩のたねにすぎなかった。周囲の人びともそれを察して、無意識のうちに、病人の前では自由に動きまわったり、話をしたり、自分の望みを明らかにするのをつつしんでいた。彼の全生活は苦悩の感情と、それからのがれたいという欲望に集中されていた。
彼の心には明らかに一つの転機が生れたらしく、そのために、彼は死というものを、すべての欲望の充足であり、幸福であると感ずるようになった。以前、彼の苦痛や欠乏によって呼び起された個々の欲望は、飢餓や、疲労や、渇《かわ》きなどと同じく、自分に快感を与える肉体的な機能の遂行によって満足感を与えられていた。ところが、いまや欠乏と苦痛はそのような満足感をもたらさず、かえって満足感を得ようとする試みは、新たな苦痛をひき起すばかりであった。こうして、すべての欲望は、すべての苦痛とその源である肉体からのがれたい、という一つの欲望に集中された。ところが、この解放の欲望を表現するために、彼は適切な言葉が見つからなかったので、それを口に出してはいわずに、ただこれまでの習慣どおり、もはや満たすことのできない欲望の満足を求めるのだった。彼は『寝返りをさせてくれ』といったかと思うと、すぐそのあとで、元どおりに寝かしてくれと要求した。『スープをくれ、いや、スープなんか持って行け。なにか話をしてくれ、なんだってそう黙りこくっているんだ』といった調子だった。そのくせ、だれかが話をはじめるが早いか、彼は目を閉じてしまって、疲労と、無関心と、嫌悪の情を表わすのだった。
この町へ来て十日めに、キチイは病気になった。頭痛がして、吐き気をもよおしたので、朝のうちはずっと床から起きあがることができなかった。
医者は、疲労と興奮が病気の原因だと説明して、精神的安静を保つよう命じた。
しかし、昼食後、キチイは起きあがって、いつものように、手仕事を持って病人のところへ出かけて行った。キチイがはいって行ったとき、病人はきびしい目つきで彼女をながめた。そして、キチイが病気だったというと、ばかにしたように、にやりと笑った。その日、彼はひっきりなしに洟《はな》をかんだり、哀れっぽくうなったりしていた。
「ご気分はどうですの?」キチイはたずねた。
「前より悪いです」彼はやっとのことでいった。「痛むんですよ!」
「どこがお痛みですの?」
「どこもかもですよ」
「きょうが最後でしょうね、きっと」マーシャはささやくようにいったが、リョーヴィンの気づいたところでは、えらく敏感になっている病人の耳にはそれが聞えたらしかった。リョーヴィンはじっと彼女を制して、病人のほうを振り返って見た。ニコライはその言葉を耳にしたが、それは彼になんの感銘も与えなかった。そのまなざしは、相変らず、人を責めるような、緊張した表情をおびていた。
「なぜそう思われるのです?」リョーヴィンはマーシャのあとから廊下へ出たとき、たずねた。
「自分のからだをつまむようになりましたもの」マーシャはいった。
「つまむってどんなふうに」
「こうですわ」彼女は自分の毛織りの服の襞《ひだ》をところどころ引っぱりながら、いった。実際、リョーヴィンも、病人がその日一日じゅう、自分のからだをあちこちつまんでは、なにか引きちぎろうとしているようなのに気づいた。
マーシャの予言は正しかった。夜には、病人はもう手を上げるだけの力もなく、ただ、注意を一点に集中したようなまなざしを変えずに、じっと、目の前を見すえているばかりであった。弟なりキチイなりが、いやでも目にはいるように、彼の前にかがみこんでも、病人の目つきは、やっぱり変らなかった。キチイは、臨終の祈《き》祷《とう》をしてもらうために、司祭を迎えにやった。
司祭が臨終祝文を唱えているあいだ、瀕《ひん》死《し》の病人は、少しも生きている徴候を見せなかった。目は閉ざされていた。リョーヴィンとキチイとマーシャは、寝台のそばに立っていた。司祭がまだ祈祷を終らぬうちに、病人はぐっと伸びをして、溜息をつくと、目をひらいた。司祭は祈祷を終ると、冷たい額に十字架をあて、それからゆっくりとそれを聖帯につつんで、なお二分ばかり無言のまま立っていてから、もう冷たくなった、血の気のない、大きな手にさわった。
「ご臨終です」司祭はいって、そばを離れようとした。が、そのとたん、ぴったりくっついていた死者の口ひげがかすかに動いて、胸の奥からしぼりだされたような、きっぱりと鋭い響きが、あたりの静けさの中に、はっきりと聞えた。
「いや、まだだ……もうすぐだ」
それから一分後に、その顔はさっと明るくなって、口ひげの下には微笑が浮んだ。と、集まっていた婦人たちが、かいがいしく死体の始末にとりかかった。
兄の様子と死期の切迫は、リョーヴィンの心に、兄が自分の家へやって来たあの秋の晩、不意におそって来た恐怖の念を、また呼びさました。それは死という不可解なものを前にしたときの、と同時に、死の切迫と不可避とに対する恐怖の念であった。いまやこの感情は、前よりもっと強くなった。彼は自分が前よりもいっそう死の意義を解く力のないことを痛感し、しかもそれが不可避であることをさらにいっそう恐ろしく感じていた。しかし、今は妻が身近にいるおかげで、この感情も彼を絶望におとしいれなかった。彼は、死というものが存在していても、生きかつ愛さなければならないと感じていた。彼は愛こそが自分を絶望から救い、絶望の脅威にさらされることによって、この愛がさらに強烈にさらに純粋になっていくことを感じていた。
彼の目の前で死という一つの神秘が、不可解のまま完成されるかしないうちに、それと同様に、不可解な、愛と生とにみちびくもう一つの神秘が生れたのである。
医師はキチイの健康について自分の診断を確認した。健康がすぐれないのは、妊娠のせいだったのである。
21
カレーニンは、ベッチイやオブロンスキーとの話し合いから、みなが自分に期待しているのは、妻を解放して、いつまでも自分という存在で妻を悩ませないようにすることであり、それは妻自身も望んでいることであると知った瞬間から、彼はすっかり途方にくれてしまい、もう自分ではなにひとつ決断を下すことはおろか、自分が今なにを望んでいるのかもわからなくなってしまった。そこで彼は、しごく満足の体《てい》で自分の事件にたずさわってくれている人びとの手になにもかもまかせてしまい、なにをきかれてもただ同意の返事をしていた。ただアンナが家を出てしまってから、家庭教師のイギリス婦人が小間使をよこして、これからいっしょに食事をしてもいいか、それとも別々にしたほうがいいかとたずねて来たとき、彼ははじめて自分の立場をはっきりと自覚して、思わず愕然《がくぜん》としたのであった。
こうした境遇になって、なによりもつらかったのは、彼が自分の過去と現在をつなぎ合せて、ひとつに融和させることができなかったことである。それは、彼が妻と幸福に暮していた過去が現在の彼の心を乱した、というわけではなかった。その過去から、妻の不貞を知るにいたった過程は、すでに苦悩のうちに体験してしまった。この状態はつらいにはつらかったが、とにかく理解することができた。もしあのとき、妻が自分の不貞を告白すると同時に、夫のもとを去ってしまっていたら、彼は悲観し、不幸におちいったであろうが、それでも今のように、われながら納得のいかない袋小路の境遇に追いこまれることはなかったであろう。現在の彼は、つい先ごろの赦罪や、感動や、病める妻とその不義の子供に示した愛情とを、現在の状態、つまり、そうしたことのいっさいの報いででもあるかのように、気づいてみると、自分の顔に泥をぬられ、世間の笑いものとなり、だれにも用のない、だれからも軽蔑《けいべつ》されるような、孤独な人間になったという事実と、融和させることができなかったからである。
妻が家を出て行ってから最初の二日間は、カレーニンもいつものとおり、請願者と応対したり、事務主任に会ったり、委員会へ出席したり、食堂へ食事に出かけたりしていた。彼はなんのためにそんなことをしているのか自分でもはっきりわからずに、その二日間というもの、精神力の限りを尽して、落ち着きはらった無関心な態度さえとろうと努めた。そして奥さまのお荷物やお部屋はどう始末したらいいでしょうという問いに対しても、そんなことはべつに意外なことでもなければ、とくに異常な出来事でもない、といった態度をとるために、なみなみならぬ努力をし、その目的を達したのであった。だれひとりとして、彼の顔に絶望の影を見いだすことはできなかった。しかしアンナの家出の翌日、彼女が支払い忘れた洋品店の勘定書きをコルネイが持って来て、番頭がそこで待っていると取次いだとき、カレーニンはその番頭を自分のところへ呼ぶように命じた。
「閣下、どうも、お騒がせして申しわけございません。もし奥さまのほうへ行けとおおせでございましたら、恐れ入りますが、どうか奥さまの所番地をお教え願いとうございます」
カレーニンは考えこんだ。いや、番頭にはそう思われた。が、急に、うしろ向きになると、机の前に腰をおろした。彼は両手で頭をかかえて、長いことじっと、そのままの姿勢ですわっていた。幾度か口をきこうとしては、やめてしまった。
コルネイは主人の気持を察して、番頭に、次のときにしてくれと頼んだ。カレーニンはまたひとりきりになると、もうこれ以上、自分をしっかりと落ち着きはらった人物に見せる力のないことを自覚した。彼は待たせてあった馬車から馬をはずすように命じ、だれにも会わぬからといいつけて、食事時にも姿を現わさなかった。
彼はもう侮《ぶ》蔑《べつ》と冷酷という世間一般の重圧に、耐えていくだけの力がないことを感じた。それは、あの番頭の顔にも、コルネイの顔にも、その他この二日間に会ったすべての人びとの顔に、例外なく、はっきりと認められたものであった。彼は、もう人びとの憎悪をわが身からはらいのけることができないのを感じた。というのは、この憎悪は、彼が悪いからではなく(もしそうであれば、彼はよくなるように努めることもできた)、彼の不幸がまったく恥さらしな、忌わしいものであるからであった。そのために、つまり、彼の心がめちゃめちゃに引き裂かれているために、彼は人びとが自分に対して情け容赦がないことを知っていた。彼は犬の群れが、傷ついて悲鳴をあげている一匹の犬をいじめ殺すように、人びとが自分を破滅させてしまうだろうと感じていた。こうした人びとの手をのがれる唯一の手段は、自分の傷口を隠すことであった。そこで、彼は二日間というもの、無意識のうちに、それを試みたが、今はもう、この圧倒的な敵と戦いをつづける気力がないのを感じていた。
彼のこの絶望感は、自分は悲しみを胸に秘めたまま、まったくの孤独なのだという自覚によって、さらにいっそう激しくなった。彼には自分の味わっているいっさいの苦しみを打ち明けられるような人は、つまり、高官としてでも、社会の一員としてでもなく、単に一個の苦しめる人間として彼を哀れんでくれるような人は、単にペテルブルグばかりでなく、どこを捜してもひとりとしていなかった。
カレーニンは孤児として成長した人であった。ふたり兄弟のひとりであった。ふたりとも父親の顔を知らず、母親は彼が十歳のときに死んだ。財産もたいしてなかった。政府の高官で、先帝の寵臣《ちょうしん》だった伯父《おじ》のカレーニンが、ふたりを養育したのである。
カレーニンは中学と大学を優等で卒業すると、伯父のひき《・・》で、ただちに、華々しい官吏生活にはいり、それ以来、もっぱら栄達の道にはげんだ。彼は中学でも、大学でも、またその後、勤務についてからでも、だれとも親しい関係を結ばなかった。ひとりの兄だけは、もっとも近しい心の友であったが、外務省に勤めて、いつも外国に暮していたが、彼が結婚してまもなく、勤務先の外国で死んでしまった。
彼が県知事のときに、その地方の富裕な貴婦人であったアンナの伯母が、もう年こそ若くはなかったが、知事としては若手のほうであった彼に、自分の姪《めい》をひきあわせて、彼が結婚の意思を表明するか、その町を立ち去るかしなければならぬ羽目に追いこんでしまった。カレーニンは長いこときめかねていた。当時、その決断を下すにあたっては、それを是とする理由と、非とする理由とが、同程度であったし、疑わしい場合にはさしひかえるという、彼の原則にそむくほどの、確固たる根拠も見いだせなかった。ところが、アンナの伯母は知人を通じて、彼はもう若い娘の名誉を傷つけたも同然だから、名誉を重んずる義務として、彼は結婚の申し込みをしなければならないと思いこませた。彼は結婚を申し込み、許婚《いいなずけ》として、また妻としてのアンナに、できるかぎりの愛情をささげたのであった。
彼がアンナに対して覚えた親愛の情は、他人と心の底から親密な関係を結ぼうという最後の望みを、彼の心から追いだしてしまった。今でも彼の知人の中には、ひとりとして親しい人間はいなかった。いわゆる縁故と称する連中はたくさんいたが、親友と呼べる者はひとりとしていなかった。カレーニンは自宅へ食事に招いたり、自分が関心をもっている仕事に協力を求めたり、請願者に対する保護を依頼したり、他人の行為や政府の施策について、ざっくばらんに論じあったりするような人は、かなりたくさんいたけれども、こうした人びとに対する関係は、習慣や風習によって、はっきりきめられた一定の枠《わく》に限られていて、そこから一歩も踏みだすことはなかった。ひとり、大学時代の友だちで、卒業してから親しくなり、個人的な不幸についても、語りあえる間がらの男がいたが、今は遠い地方で学区主任を勤めていた。ペテルブルグにいる人びとの中で、もっとも親しくしていて、打ち明け話のできそうなのは、事務主任と医師とであった。
事務主任のスリュージンは、気さくで、聡《そう》明《めい》で、善良で、道義心の強い男だったし、カレーニンは、相手が自分に対して個人的な好意をよせているのを感じていた。ところが、五年間の役人生活はふたりのあいだに、心を打ち明けて話のできない壁をきずいてしまった。
カレーニンは書類の署名を終えると、スリュージンをながめながら、長いことおし黙っていた。幾度も口をきこうとしたが、どうしてもいいだせなかった。彼はもう心の中で『きみも私の不幸について聞いただろうね?』という文句まで用意していた。しかし、結局のところ、いつものように「じゃ、それをやっといてくれたまえ」といって、そのまま、帰してしまった。
もうひとりは医者で、これまた彼に好感をもっていた。ところが、ふたりのあいだには、とうの昔から、お互いに忙しい身だから、ぐずぐずしちゃいられない、といった気持が暗黙のうちに承認されていた。
女友だちについては、なかでもいちばん親しいリジヤ伯爵夫人については、カレーニンもまるっきり考えてみなかった。すべての女は、単に女であるという理由だけで、彼にとっては恐ろしく、忌わしい存在であったからである。
22
カレーニンは、リジヤ伯爵夫人のことを忘れていたが、夫人のほうでは彼のことを忘れていなかった。この孤独な絶望の中でもっとも激しい苦悩を味わっていたときに、夫人は彼をたずねて来て、取次ぎも待たずに、いきなり彼の書斎へはいって来た。夫人がはいって見ると、彼は先ほどからの姿勢のまま、両手で頭をかかえこんですわっていた。
「J'ai forc la consigne. 」夫人は足速にはいって来て、興奮と激しい運動のために重々しく息をつきながらいった。「なにもかもうかがいましたわ、まあ、カレーニンさん!」夫人は両手で彼の手をしっかり握りしめ、美しいもの思いに沈んだ目で、彼の目をじっと見つめながら言葉をつづけた。
カレーニンは眉《まゆ》をひそめて立ちあがると、握られた手を放して、夫人にいすをすすめた。
「さあ、どうぞ、奥さん。今はどなたにもお会いしないことにしてるんです。病気でしてね、奥さん」彼はいったが、その唇《くちびる》は震えだした。
「まあ、あなた!」リジヤ伯爵夫人は、彼の顔から目を放さないで、こう繰り返した。と、急にその眉が、目頭《めがしら》のほうからつりあがって、額に三角形をつくった。すると、そのあまり美しくない黄色い顔はさらに醜くなった。が、カレーニンは相手が自分を哀れんで、今にも泣きだしそうなのに気づいた。と、彼は感動におそわれた。彼は夫人のふっくらした手をとって、接吻した。
「まあ、あなた!」夫人は興奮のあまりとぎれがちの声でいった。「ねえ、悲しみにお負けになってはいけませんよ。あなたの悲しみはそりゃたいへんなものですけれども、慰めをお見つけにならなくてはいけませんわ」
「私はうちひしがれてしまったんです。殺されたのも同然です、いや、私はもう生ける屍《しかばね》です!」カレーニンは、夫人の手を放しはしたものの、なおも涙にあふれたその目を見つめながら、いった。「私の立場は、どこを捜しても、いや、自分の中にさえ、ささえを見つけることのできないほど、まったく恐ろしいものです」
「いえ、ささえは見つかりますとも。でも、あたしなんかをあてになさってはいけませんわ。そりゃ、あたしの友情は信じていただきとうございますけど」夫人は溜息をついていった。「あたしどものささえは愛でございますよ。キリストがあたしどもに、お約束してくださいました愛でございますよ。主の重荷は軽うございますよ」夫人は、カレーニンにはなじみぶかい、例の感動的なまなざしでいった。「主はあなたさまをおささえくださいますわ。きっと、お力をかしてくださいますとも」
こうした言葉の中には、自分自身の崇高な感情に自己陶酔しているようなところがあり、また、最近、ペテルブルグで流行している、カレーニンなどにはなくもがなと思われる、新しい神秘主義的な感動の調子が感じられたにもかかわらず、今のカレーニンの耳には快く響いた。
「私は弱い人間です。もうすっかり破滅させられてしまいました。なにひとつ予想していなかったので、今でもなにがなんだかわからないのです」
「まあ、あなた!」夫人は同じ文句を繰り返した。
「いや、なにもそれはいなくなったものを失ったと、いっているのじゃありません。そんなことじゃありません」カレーニンはつづけた。「そんなことに未練はありませんよ。ただ私は今自分のおかれている境遇のために、世間に恥ずかしい思いをしないわけにはいかないのです。そりゃ、それがよくない考えだってことぐらい知ってますが、でも、私は恥じずにはいられないのです。なんとしても」
「ねえ、あたしばかりか、世間のみなさまが感動されているあの気高い赦罪の行いは、あなたさまがなすったんじゃなくて、あなたさまのお心に宿っている神さまが、なすったのでございますよ」夫人は、さも感動的に顔を仰ぎながらいった。「ですから、ご自分の行いをお恥じになることはございませんよ」
カレーニンは顔をしかめた。そして、両手を曲げて、指をぽきぽき鳴らしはじめた。
「とにかく、こまごました事情をすっかり、知っていただかなくちゃなりません」彼はかぼそい声でいった。「奥さん、人間の力には限界がありますからね。私も自分の力の限界を知ったんです。きょうなんか一日じゅう、今度ひとり暮しをはじめてから生れた(彼は生れた《・・・》という言葉に力を入れた)家事にかんする雑用で、いろんなさしずをしなければなりませんでしたからね。召使たちや、家庭教師や、勘定取りなど……こうした些《さ》細《さい》な用事が私をくたくたにしてしまうのです。まったく、やりきれませんよ。食事をしていても……きのうなんか、もう少しで食事の途中で立つところでしたよ。むすこに顔を見られるのが、とても我慢がならなかったのです。あの子は、今度の事件がどういうことかなにもたずねはしませんでしたが、でもききたがっていたのです。それで、私もあの子の目つきを見ていられなかったのです! あの子のほうでも、私を見るのをこわがっています。いや、そればかりじゃありません……」
カレーニンは、先ほど持ってこられた勘定書きのことをいおうとしたが、声が震えたので、そのまま口をつぐんだ。あの青い紙に書かれた、帽子やリボンの勘定は思いだしただけでも、自分自身に対する哀れさをもよおすからであった。
「ええ、わかりますとも、あなた!」リジヤ伯爵夫人は答えた。「なにもかもわかりますわ。そりゃ、あたしにはお救いすることも、お慰めすることもできませんでしょうけど、それでもできるかぎり、お力になりたいと思ってこうしてまいったのでございますよ。もしあたしがなんとか、そうした、こまごました、お気にさわるようなわずらわしさを取り除くことができましたらねえ……ええ、さようでございますとも、そうしたことには主婦の言葉と女手が必要でございますからね、あたしにまかせていただけまして?」
カレーニンは無言のまま感謝の意をこめて夫人の手を握りしめた。
「では、ごいっしょにセリョージャのお世話をいたしましょう。もっとも実際面のことはあまり得意じゃございませんけど、でもお引き受けしましょう。ええ、お宅の家政婦になりますわ。いえ、お礼なんかおっしゃらないで、なにも自分ひとりでやるのではありませんから……」
「いや、お礼をいわずにはいられませんよ」
「でも、ようございますか、さっきおっしゃったようなお気持にはけっしてお負けになってはいけませんよ。『おのれを卑しくするものは高められん』というのはキリスト教の最高の徳ですのに、それを恥ずかしくお思いになるなんて。それから、あたしにお礼などおっしゃってはいけませんよ。神さまに感謝されて、主の救いをお願いなさいまし。ただ神さまの中にだけ、安らぎも、慰めも、救いも、愛もあるのでございますから」夫人はそういうと、天井を仰いだ。カレーニンは、夫人がそれっきり黙ってしまったので、きっと、祈《き》祷《とう》をはじめたのだと悟った。
カレーニンも、今はじっと夫人の言葉に耳を傾けていた。以前は不愉快に思われていた、というよりも、なくもがなと感じられていた表現が、今では自然に聞え、しかも慰めをおびて響いたからであった。カレーニンは、最新流行のこの新しい感動的な調子を好まなかった。彼はおもに政治的な意味で宗教に興味をもっていた信者だったので、いろいろと新しい解釈を許す新しい教義は、それが宗教に対する論争と解剖をもたらすという意味で、原則として、不愉快であった。彼は以前、この新しい教義に冷淡で、むしろ敵意さえいだいていたので、この教義に夢中だったリジヤ伯爵夫人とも議論などはせず、夫人のほうからしかけてきても、努めて沈黙によって避けるようにしていた。ところが、今はじめて、彼は夫人の言葉を喜んで聞き、心の中でもそれに反駁《はんばく》しなかった。
「いや、ほんとに、感謝にたえません、いろいろなお力添えに対しても、ただいまのお言葉に対しても」彼は夫人が祈祷を終ったとき、いった。
リジヤ伯爵夫人はもう一度、親友の両手を握りしめた。
「さあ、今から仕事にかかりますわ」夫人はしばらく無言でいてから、涙のあとを顔からふきとって、にっこり笑いながら、いった。「セリョージャのとこへ行って来ますわ。ただ、なにかよくよくのときだけご相談いたしますからね」夫人はいって立ちあがり、部屋を出た。
リジヤ伯爵夫人は、セリョージャの部屋へ行き、びっくりしている男の子の頬に、涙を浴びせかけながら、パパは聖人みたいな方だし、ママはもう亡《な》くなってしまったのよ、と話して聞かせた。
リジヤ伯爵夫人は約束を守った。夫人は実際、カレーニン家の家政や、整理などいっさいの面倒を引き受けた。しかし、夫人が実際面のことは得意でないといったのは、誇張ではなかった。夫人のさしずしたことは、どれもこれも変更しなければならなかった。というのは、そのいずれも実行不可能なことばかりだったからである。それを変更したのは、カレーニンの召使であるコルネイであり、今ではそっと目だたないように、カレーニン家のいっさいをきりもりしていて、主人が着替えをするときに、落ち着きはらって、重々しく、必要なことを報告するのであった。そうはいっても、夫人の助力は、やはりこのうえもなく役に立った。それはカレーニンにとっては、精神的なささえとなったからである。このことは、彼が夫人は自分を愛し尊敬している、と意識するためでもあったが、とりわけ夫人が、彼をほとんどキリスト教に引き入れたためであった。夫人はそれを考えると、まったく慰められる思いだった。つまり、夫人は無関心なものぐさな信者であった彼を、最近ペテルブルグで流行している新しい解釈のキリスト教の、熱心で強力な味方に引き入れたのであった。カレーニンにとってそれを確信することは、たやすいことであった。カレーニンは、夫人や、そのほか同じ見解をもっている人びとと同様、想像力があまりたくましくなかったからである。こうした精神的能力によってはじめて、想像によって呼び起された観念が、強い現実性をおびてきて、他の観念や現実との一致を要求するのである。彼は、信仰のない者には存在する死も、自分には存在しないし、また自分は完全無欠な信仰をもっていて、その信仰の尺度をはかる裁《さば》き手《て》は自分自身であるから、もう自分の魂には罪などないし、自分ははやくもこの地上で、全き救いを味わっているというような考え方には、少しも不可能なところも、不合理なところも認めないのであった。
たしかに、自分の信仰に関するこうした観念が浅薄で誤りなこともカレーニンは漠然《ばくぜん》と感じていたので、自分の赦罪が至上の力の働きであるとは考えずに、単にこうした感情をゆだねていたときのほうが、現在のように、自分の魂の中にはキリストが生きているとか、書類に署名することは神の意思を実行することだ、などといつも考えているときよりも、むしろもっと多くの幸福を味わっていたのを、自分でも承知していた。しかし、カレーニンにとっては、なんとしてもそう考えることが必要であったし、今の屈辱的な立場にあっては、たとえそれが架空のものであろうとも、みんなから軽蔑されている自分は、他人を軽蔑しうるような崇高な境地に立つことが必要だったので、彼は自分のあいまいな救いを真実の救いと思いこんで、必死にそれにすがりついたのであった。
23
リジヤ伯爵夫人は、まだごく若い、すぐ物事に感激する娘時分に、ある裕福で、名門で、善良で、しかしきわめて放埒《ほうらつ》な陽気な男のところへ嫁にやらされた。が、もう二月めに、夫は彼女を捨ててしまい、夫人がいくら感動的な言葉で愛を誓っても、ただ冷笑、というよりもむしろ敵意をもってこたえる始末だった。もっとも、伯爵の善良な心を知り、かつ感激家のリジヤに、なんの欠点も認めることのできなかった人びとは、夫のこうした態度を、なんとしても説明することができなかった。それ以来、ふたりは離婚こそしなかったけれども、ずっと別居生活をつづけていた。そして、夫は妻に出会うたびに、かならずわけのわからない毒々しい冷笑を浮べて、妻をながめるのだった。
リジヤ伯爵夫人はもうずっと前から、夫に愛情を感じなくなっていたが、それ以来いつも、だれかを恋しつづけていた。夫人はよく幾人もの男や女に惚《ほ》れこむことがあった。いや、とくになにかすばらしいところのある人なら、ほとんどだれにでも惚れこんだ。夫人は、新たに皇族となったすべての妃殿下や殿下にも熱をあげた。いや、ある大僧正にも、ある副主教にも、ある司教にも惚れこんだ。あるジャーナリストにも、三人のスラヴ人にも、コミサーロフにも惚れこんだ。ある大臣にも、ある医者にも、あるイギリスの宣教師にも、そしてカレーニンにも惚れこんだ。すベてこのような愛情は、さめたり、熱したりしながらも、夫人が宮廷や社交界できわめて広範囲にわたる複雑な関係をつづけていくじゃまにならなかった。ところが、カレーニンが例の不幸に見舞われて、彼の面倒をとくにみるようになってこのかた、いや、夫人がカレーニンの平和な生活を心にかけて、カレーニン家で骨折るようになってこのかた、夫人は今までの恋はすべて本物ではなく、今の自分はただカレーニンひとりに、心の底から惚れこんでいるような気がした。夫人がいまやカレーニンに対していだいている感情は、これまでのどの場合よりも激しいように思われた。夫人は自分の感情を分析し、それをこれまでのものと比較してみて、はっきりと次のことを見てとった。すなわち、もしコミサーロフが皇帝の生命を救わなかったら、夫人は彼に恋しなかったにちがいない。もしスラヴ問題がなかったら、リスチック・クジツキーなどには恋しなかったにちがいない。しかし、カレーニンについては、彼という人間そのものを愛したのであった。いや、彼の崇高にして不可解な魂を、自分にとってなつかしい、あの引き延ばすようなアクセントをもつかぼそい声を、その疲れたようなまなざしを、その性格を、その血管の浮いた柔らかな白い手を、愛したのであった。夫人は、彼に会うのを喜んだばかりでなく、相手の顔に自分の与えた印象が表われるのを、捜すまでになった。夫人は単に自分の話だけでなく、自分という人間そのものが彼に気に入られたいと願った。夫人はいまや、これまでかつてないほど、彼のために、化粧に憂《うき》身《み》をやつすようになった。いや、時には、もし自分が人妻でなく、彼も自由の身だったら、どんなになったろうと空想している自分に気づくことがあった。夫人は、彼が部屋へはいって来ると、胸がわくわくしてまっ赤になった。そして、夫人はなにか自分にうれしいことをいわれると、喜びのあまり微笑を禁ずることができないほどであった。
もうこの数日というもの、リジヤ伯爵夫人は興奮の頂点に達していた。アンナとヴロンスキーがペテルブルグにいることを聞きおよんだからであった。カレーニンがアンナと顔を合さないように手はずを講じなければならなかった。いや、そればかりか、あの恐ろしい女が彼と同じ町にいるから、いつなんどき顔を合さぬともかぎらないという知らせを聞いて、彼が心を悩まさないように守ってやらなければならなかった。
リジヤ伯爵夫人は幾人もの知人を通して、夫人のいわゆるけがらわしい人たち《・・・・・・・・・》、つまり、アンナとヴロンスキーがなにをしようとしているかをさぐり、この数日、自分の親友がふたりに出会わないように、その行動を一から十までさしずするように努めた。夫人は、ヴロンスキーの友人の若い副官を通して、いろいろの情報を手に入れていたが、この男もまた、夫人を通して利権を得ようと期待していたので、もう例のふたりは用事を終えて、あす発《た》つことになっている、と夫人に知らせてきた。夫人は、やっと安心しかけていた。ところが、その翌日届いた手紙の筆跡を見て、夫人は思わずはっとした。それはアンナの筆跡だったからである。細長い黄色い封筒は、菩《ぼ》提《だい》樹《じゅ》の皮のように厚い紙でできていて、そこには大きなイニシアルの組み合せ文字が打ち出されてあった。そして、手紙は快いかおりをただよわせていた。
「だれが持って来たのかい?」
「旅館の使いでございます」
リジヤ伯爵夫人はその手紙を読むために、長いことすわることができなかった。夫人は興奮のあまり、持病の喘息《ぜんそく》の発作を起したほどであった。夫人はやっと落ち着きを取りもどして、フランス語で書かれた次のような手紙を読んだ。
『Madame la Comtesse あたくしは、あなたさまのキリスト教徒としてのお情けにおすがりして、われながらまことにあつかましい、このようなお手紙をあえて認《したた》めることにいたしました。あたくしはむすこと別れましたので、不幸を味わっております。どうかここを発ちます前に、ただひと目あの子に会わせてくださるよう、心の底からお願いいたします。どうか、このようなお手紙をさしあげて、あなたさまをおわずらわせいたしますことをお許しくださいませ。あたくしがこのことについてアレクセイ・カレーニンでなく、あなたさまにお願い申しあげますのは、あたくしのようなもののことを思い起させて、あの寛大なみ心の持主を苦しめるに忍びないからでございます。あの方に対するあなたさまのお優しいお心持を存じあげておりますので、あなたさまもあたくしのこの気持をお察しくださるものと存じます。あなたさまがセリョージャをあたくしのところまでおつかわしくださいますなり、あたくしがご指定の時刻にあの家へまいりますなり、どちらでもけっこうでございます。それともまた、あの家以外のところでしたら、いつ、どこであの子に会えますでしょうか、お知らせくださいませ。あたくしは自分がおすがりしている方の、寛大なみ心を存じあげておりますので、かならずやこのお願いをかなえてくださるものと心待ちしております。あたくしがどんなにあの子に会いたがっておりますかは、失礼ながら、あなたさまもお察しがつかぬことと存じます。それゆえ、あたくしが、あなたさまのお力添えをどんなに感謝いたしますかは、きっと、ご想像のほかと存じます。
アンナ』
この手紙に書かれていることは、なにからなにまで、リジヤ伯爵夫人の気にさわった。その内容も、相手の寛大さをほのめかした書き方も、とりわけ、妙になれなれしい(と夫人には思われた)調子も。
「ご返事はありません、といっておくれ」リジヤ伯爵夫人はいった。そして、すぐに紙ばさみを開くと、カレーニンにあてて、きょうの十二時すぎに、宮中の祝賀式でお会いしたい、と認《したた》めた。
『あたくしは、ある重大な、わずらわしいことについて、ご相談申しあげなければなりません。場所をどこにするかについては、その節おきめいたしましょう。いちばん好都合なのは、あたくしの宅であなたさま《・・・・・》にお茶をさしあげながら、お話しすることです。ぜひそのようにお願いいたします。主《しゅ》は十字架をお負わせになりますけれど、また力をもお授けくださるのです』夫人は少しでも相手に心がまえをさせるために、こうつけ加えた。
リジヤ伯爵夫人は毎日二、三通カレーニンあてに手紙を認めた。夫人は、彼と直接会って話すときには得られない優雅さと、秘密めいた感じがあるので、このような形で彼と交際するのを好んでいたのである。
24
祝賀式は終った。退出する人びとは、知人と顔を合せては、その日のニュースを、新たに発表された授賞のことや、高官の異動などについて言葉をかわしあっていた。
「いや、マリヤ伯爵夫人を陸軍大臣にして、ワトコフスキー公爵夫人を参謀総長にしたらどんなものでしょうな」金モールの大礼服を着た白髪の老人は、今度の異動のことについてたずねた背の高い美しい女官に、こんな返事をしていた。
「じゃ、あたくしは副官にでも」女官は微笑しながらいった。
「いや、あなたはもうちゃんときまってますよ。宗務大臣ですね。次官はカレーニンでね」
「やあ、公爵、ごきげんよう!」老人はそばへ寄って来た男の手を握りながらいった。
「カレーニンについて、なにをいってらしたのです?」公爵はたずねた。
「彼とプチャトフは、アレクサンドル・ネフスキー勲章をもらいましたね」
「彼はもうとっくにもらってると思ってましたがね」
「ほら、彼の様子をごらんなさい」老人は金モールのついた帽子でさしながらこういった。そちらを見ると、大礼服の肩に新しい赤い綬《じゅ》をかけたカレーニンが、参議院の有力議員のひとりと、大広間の戸口のところで立ち話をしていた。「まるで新しい銅貨のように、幸福で満ちたりたような顔つきをしてますな」彼はスポーツマンのような体格をした美男の侍従と、握手するために足をとめながら、こうつけ加えた。
「いや、彼は老《ふ》けましたよ」侍従はいった。
「苦労のせいですな。なにしろ、あの男はいま法案という法案をみんなひとりで書いてますからな。いや、まったく、今でも彼につかまろうものなら、逐条的な説明がすむまで、けっして放免してはくれませんからな」
「老けたですって? Il fait des passions. どうやら、リジヤ伯爵夫人は、今やっこさんの細君のことでやきもちを焼いているようですね」
「まあ、とんでもない! ねえ、どうか、リジヤ伯爵夫人のことは、悪くおっしゃらないで」
「ほう、それじゃ、あの夫人がカレーニンに熱をあげてるっていうのが悪いことなんですか?」
「ねえ、カレーニナがここにいるっていうのはほんとうですの?」
「いや、ここといっても、宮中じゃなくて、ペテルブルグのことですよ。私はきのう、あの人がアレクセイ・ヴロンスキーと、bras dessus, bras dessous, モルスカヤ通りを歩いてるのにぶつかりましたよ」
「C'est un homme qui n'a pas ……」侍従はそういいかけたが、すぐに言葉をきって、ちょうどそこを通りかかった皇族のひとりに、道をゆずって、敬礼した。
こうして、人びとはひっきりなしに、カレーニンのうわさをしながら、非難したり、笑いものにしたりしていた。一方、当人は、うまくつかまえた参議院議員の行く手をふさぐようにして、相手に逃げられないように、次から次へと休むまもなく、自分の財政法案を逐条的に説明していた。
妻が家出をしたのとほとんど同時に、カレーニンの身には、官吏としてもっともつらいこと、つまり、昇進の停止ということが起った。この昇進の停止ということはもはや、既定の事実であって、だれもがはっきりとそれを見てとったが、カレーニン自身は、自分の栄達が終りを告げたとはまだ自覚していなかった。ストリョーモフとの衝突が原因なのか、妻との不幸な出来事がもとなのか、それとも単にあらかじめ予定されていた限界まで出世してしまったのか、とにかく、官吏としての、彼の活躍が終りを告げたことは、もう今年にはいってから、だれの目にも明らかであった。彼はまだ重要な地位を占めていたし、多くの委員会や、会議の一員でもあった。しかし、彼はもはやすべてを出しきってしまった人間であり、彼から期待できるものはなにもなくなっていた。いや、もはや彼がなにをいっても、なにを提議しても、みんなはまるで、とうの昔にわかりきった、なんの必要もないことをいまさら持ちだしているといった顔をして、聞き流していた。
ところが、カレーニンはそれを感じないばかりでなく、かえって、直接に政府の仕事にたずさわらなくなったために、他人の仕事の欠点や誤謬《ごびゅう》が今までよりいっそうはっきりと目につくようになり、それを是正する方法を示すのが、自分の義務であるかのごとく考えた。彼は妻と別れてからまもなく、新しい裁判制度について一つの覚え書を書きはじめたが、それは彼が執筆することになっていた、だれにも必要のない国政全般にわたる無数の覚え書の一つであった。
カレーニンは、官界における自分の地位が絶望的なことに気づかぬばかりか、いや、それを悲観しなかったばかりか、かえって、いつにもまして、自分の活躍ぶりに満足していた。
『妻ある者は妻を喜ばさんとて、この世のことを思いわずらい、妻なきものは主を喜ばさんとて、主のことを思いわずらう』使徒パウロはそういっているが、いまやすべてのことについて、聖書の教えに従っているカレーニンは、よくこの聖句を思い起した。彼には妻と別れて以来、こうした法案を起草することによって、前よりもさらにいっそう主のために奉仕しているような気がするのだった。
相手の参議院議員が、なんとか逃げだそうとじりじりしているのがはっきりしていたにもかかわらず、カレーニンはいっこうに、平気だった。やっと、皇族が通りかかったのをしお《・・》に、議員がうまくすべり抜けたとき、彼ははじめて説明をやめた。
カレーニンは、ひとりきりになると、うなだれて、考えをまとめていたが、やがて放心したような顔つきであたりを見まわし、戸口のほうへ歩きだした。そこでリジヤ伯爵夫人に会えるものと思ったからである。
《いや、それにしても、あの連中はなぜあんなに元気で、健康そうなんだろう》カレーニンは、香水をふりかけた頬《ほお》ひげを右左に分けている頑丈《がんじょう》なからだつきの侍従や、ぴったりした大礼服を着た公爵の赤い首を、通りすがりにながめながら、考えた。《この世のすべてのものは悪なり、とはよくいったものだ》彼は侍従のふくらはぎを、もう一度横目でにらみながら、考えた。
カレーニンは、ゆっくり足を運びながら、例の疲れたような、もったいぶった態度で、自分のうわさ話をしているこれらの人びとに会釈した。そして、戸口のほうをながめながら、リジヤ伯爵夫人の姿を目で捜していた。
「やあ! カレーニンさん」小がらな老人は、カレーニンがそのそばを通りかかって、素っ気ない態度で、頭を下げたとき、意地悪そうな目を輝かしながら、いった。「まだお祝いを申しあげませんでしたな」老人は、彼の新しくもらった綬をさしながらいった。「ありがとうございます」カレーニンは答えた。「きょうはまったくすばらしい《・・・・・》天気ですな」彼はいつもの癖で『すばらしい』という言葉に特別力を入れながら、つけ加えた。自分がみんなから笑われていたのは、彼も承知していた。しかも、彼は他人から敵意以外のなにものをも期待していなかったし、もうそれにも慣れてしまっていた。
戸口からはいって来るリジヤ伯爵夫人の、袖《そで》なしのブラウスから飛びだしている黄色い肩と、さし招くような美しいもの思わしげなひとみを見ると、カレーニンはいつまでも若々しい白い歯並みを見せながら、にっこり笑って、夫人のそばへ近づいて行った。
リジヤ伯爵夫人の盛装は、最近の夫人の盛装がいつもそうであるように、とても凝ったものであった。夫人の盛装の目的は、いまや三十年前に求めたものとはまるで正反対であった。当時、夫人はわが身をなにかで飾りたかったし、そう飾れば飾るほど美しくも見えた。ところが、今ではその反対に、夫人はいつもその年齢や容貌《ようぼう》に不似合いな飾り方をしなければならないので、そうした飾り方と容貌との対照が、あまりひどいものにならないようにと、ただそのことばかりに気を配っていた。そしてカレーニンに対しては、首尾よくその目的を達して、夫人は彼には魅力のある女性に映っていた。彼にとって夫人は、自分の周囲をとりまいている敵意と嘲笑《ちょうしょう》の海の中にある単なる好意以上の、愛情の島であった。
彼はあざけりの視線の中をくぐりぬけながら、光に向う植物のように、夫人の愛に満ちたまなざしへひとりでにひかれていった。
「おめでとうございます」夫人は彼の綬を目にとめながら、いった。
彼は満足の微笑をおさえながら、目をとじたまま、肩をすくめた。その様子は、こんなことぐらいで喜ぶわけにはいかない、といっているみたいであった。もっとも、夫人は、彼がけっして白状したことはないが、こうしたことが彼にとって、大きな喜びの一つであることを、よく承知していた。
「あたくしどもの天使はどうしていますか?」リジヤ伯爵夫人はセリョージャのことをこんなふうにたずねた。
「どうも、あの子のことは、すっかり満足しているとはいえませんな」カレーニンは眉《まゆ》をつり上げて、目を見ひらきながらいった。「いや、シートニコフも不満でしてね(シートニコフは、セリョージャの普通教育をまかされている教師だった)。いつかもお話ししたとおり、あの子には、どんな人でもどんな子供でも当然感動するようなひじょうにたいせつな事がらに対して、なにか冷淡なところがありましてね」彼は勤め以外に、興味をもっている唯一の問題であるむすこの教育について、こう意見を述べはじめた。
カレーニンは、夫人の助けによって、再び平常の生活と仕事にもどったとき、手もとに残されたむすこの教育をすることを、自分の義務と考えた。彼はこれまで一度も、教育問題について考えたことがなかったので、しばらくのあいだ、この問題の理論的研究に時を費やした。こうして、カレーニンは人類学や、教育学や、教授法に関する本を五、六冊読み終えると、みずから教育計画をたて、ペテルブルグでも有数の教師を招いて、この仕事にとりかかった。そのため、この仕事は、いつも彼の気にかかっていた。
「ええ。でも、心のほうは? あたくしの見るところでは、心はお父さまそっくりでございますわ。あんな心をもった子供が、よくないなんてことはございませんよ」夫人は、例の感動的な調子でいった。
「なるほど、そうかもしれませんな……いや、私はただ、自分の義務を果しているだけのことですがね。とにかく、私にできるのはそれだけですよ」
「じゃ、うちへいらしてくださいますわね」夫人は、しばらく口をつぐんでから、いった。「あなたにとってわずらわしいことを、ご相談しなくちゃなりませんの。あたくしはなんとしても、あなたをつまらない思い出からお守りしようとしていますけれど、ほかの人はそう考えてはおりませんので。あたくし、あ《・》の人《・・》からお手紙をいただきましたの。あの人《・・・》はここに、ペテルブルグにいらっしゃいますよ」
カレーニンは妻のことをいわれたとき、思わず、はっと身震いした。しかし、すぐその顔には、死人のような不動の表情が表われた。それは、この件について彼がまったく無力であることを示していた。
「いや、そんなことだろうと思っていました」彼はいった。
リジヤ伯爵夫人は、感動的なまなざしで相手をながめた。と、彼の魂の偉大さに感激する涙が、両の目にあふれてきた。
25
カレーニンが、古風な陶器や、いくつも肖像画の飾ってあるリジヤ伯爵夫人のこぢんまりした、居心地のよさそうな書斎へはいって行ったとき、当の女主人はまだそこに姿をみせていなかった。夫人は着替えの最中であった。
テーブル・クロースのかかった丸い卓の上には、中国製の茶器と、アルコール・ランプのついた銀の湯わかしがのっていた。カレーニンは、書斎を飾っている、すでにおなじみの無数の肖像画を、ぼんやりとながめまわしてから、卓に向って腰をおろして、そこにのっていた聖書を開いた。と、夫人の衣《きぬ》ずれの音で、彼はわれに返った。
「さあ、これでやっと落ち着くことができましたわ」リジヤ伯爵夫人はわくわくしているような微笑を浮べて、せかせかと卓といすのあいだをすり抜けながら、いった。「お茶でもいただきながら、ゆっくりお話しいたしましょう」
夫人は、相手に心がまえをさせるような言葉を、二《ふた》言《こと》三《み》言《こと》いってから、重々しく息をついて、顔を赤らめながら、自分の受け取った手紙をカレーニンに手渡した。
彼は手紙を読み終ると、長いこと黙っていた。
「私にはこれを拒絶する権利はないように思いますが」彼は目を上げて、臆病そうにいった。
「まあ、あなた! あなたって方はどんな人にも、よこしまな心をお認めになりませんのね!」
「いや、その反対に私はこの世のものはなにもかも悪であると思っていますよ。しかし、そうするのが、はたして正しいことかどうか……」
彼の顔にはなにか決しかねる色と、われながら不可解なこの件について、相手の忠告と、支持と、指導を求める表情が浮んだ。
「いいえ」夫人は相手をさえぎった。「なにごとにも限度というものがございますよ。そりゃ、あたくしにも不義ということだけならわかりますがね」夫人はいったが、それは完全に正直な答えとはいえなかった。というのは、夫人にはなにが女を不義にみちびくかは、とうてい理解できないことだったからである。「でも、この残忍な気持だけはわかりませんわ。しかも、それがほかならぬあなたに向けてなんですのよ! あなたのいらっしゃる同じ町に、どうして滞在することができたんでしょう? いえ、それにしても、長生きすれば、それだけいろんなことを学ぶものですわねえ。あたくしもこれで、あなたさまの気高さと、あの女の卑しさを思い知りましたもの」
「でも、だれが石を投げることができましょう?」カレーニンは、明らかに、自分の演ずる役割に悦に入っている様子で、いった。「私はすべてを許してやったのですから、あれの愛の求めるものを、わが子に対する愛の求めるものを、あれから奪うことはできません……」
「でも、あなた、これが愛といえるでしょうか? まことの心といえるでしょうか? たとえあなたがお許しになったとしても、いいえ、許していらっしゃるとしても……あの天使のような子供の魂をかき乱す権利を、あたくしどもはもっているでしょうか? あのお子さんは、あの人を死んだと思っているのです。あの人のためにお祈りして、あの人の罪を神さまが許してくださるように祈っているのです。……そのほうがどんなによろしいかしれませんわ。それなのに、今になってそんなことをしたら、お子さんはなんと思うでしょう?」
「私もその点は考えませんでした」カレーニンは、どうやら、夫人の意見に賛成らしく、いった。
リジヤ伯爵夫人は両手で顔をおおって、しばらくのあいだ黙っていた。夫人は祈《き》祷《とう》をしていたのである。
「それで、あたくしの忠告をお望みになるのでしたら」夫人は祈祷をおえて、顔から手を放しながら、いった。「そんなことお勧めいたしかねますわ。そのためにまた、あなたの傷口がうずいて、お苦しみになるのが手にとるようにわかっておりますもの。いえ、まあ、かりにあなたがいつものように、ご自分のことは忘れていらっしゃるといたしましょう。でも、そんなことをなさったら、どういうことになるとお思いですの? あなたにとっては、新しい苦しみになりますし、お子さんにとっても、つらい思いをさせるばかりですよ。もしあの人に、なにか少しでも人間らしいところが残っていたら、自分のほうからそんなことは望まないと思いますね。ええ、あたくしも少しも迷うことなく、そんなことはお勧めいたしません。もしお許しがいただければ、あたくしがあの人に手紙を書きましょう」
カレーニンはそれに同意した。そこで、リジヤ伯爵夫人は次のようなフランス語の手紙を書いた。
『拝啓
あなたさまについての思い出は、お子さまの心に、神聖であるべきものに対する非難の精神を植えつけることなしには、答えることのできないさまざまな疑問をもたらすことになるかもしれません。したがって、ご主人が拒絶されましたことは、キリスト教徒としての愛の精神から出たものと、ご了解くださるようお願い申しあげます。あなたさまの上に神のみ恵みが、ゆたかにあらんことを。
リジヤ伯爵夫人』
リジヤ伯爵夫人はこの手紙によって、自分自身にさえ隠していた、秘められた目的を達した。それは心の底から、アンナをはずかしめることであった。
ところが、カレーニンは、夫人のもとからわが家へ帰ってからも、その日、いつもの仕事に没頭して、今まで感じていた救われた信者としての心の安らぎを、見いだすことはできなかった。
リジヤ伯爵夫人が、いみじくも語っているとおり、妻は彼に対してとても罪ぶかいことをしたのであり、彼は妻の前には聖者のようであったから、その妻についての思い出が、彼の心を騒がせるはずはなかった。いや、それにもかかわらず、彼は落ち着いていることはできなかった。彼は読んでいる本の内容を理解することができず、妻に対する自分の態度や、今考えれば妻に対して自分の犯したように思われる過《あやま》ちなどについての苦い思い出を、追いはらうことができなかった。彼はあの競馬からの帰り道、妻から不貞の告白を聞いたとき自分がどんな態度をとったか(とくに妻に世間体のみを要求して、決闘を申し込まなかった)を思いだすと、悔恨の情に心をかきむしられるのであった。さらに、妻にあてて書いた手紙を思いだすことも、彼にはつらかった。とりわけ、だれにも必要のなかった自分の許しや、不義の子に対する心づかいは、羞恥《しゅうち》と悔恨の情によって彼の心を焼き尽すのだった。
そして、彼は、今アンナとの過ぎし日を思い起しながら、長いためらいの末に、求婚したとき口にした、あのぎごちない言葉を思い起して、そのときと同じ羞恥と悔恨の念を味わったのである。
「それにしても、いったい、おれにはなんの罪があるのか?」彼はつぶやいた。と、この疑問は例によって、また別の疑問を呼び起すのであった。《あのヴロンスキーとか、オブロンスキーとか……あの太いふくらはぎをした侍従などといった連中は、自分とは違った感じ方をしたり、違った恋をしたり、違った結婚をしたりしているのだろうか?》彼の頭の中には、いつもいたるところで、われともなく好奇心にかられずにはいられないあの溌《はつ》剌《らつ》たる、元気いっぱいの、自分を疑うことを知らない連中の姿が、無数に浮んできた。彼はこうした考えを頭から追いはらって、自分は束《つか》の間《ま》のこの世のためではなく、永遠の世界のために生きているのであり、自分の魂の中には安らぎと愛とがあるのだと、自分で自分に信じこませようと努めた。いや、それにもかかわらず、彼が束の間のこの世で犯した、つまらない(と彼には思われた)過ちは、彼の信じていた永遠の救いなどまるでないかのように、彼の心を悩ました。もっとも、その誘惑は長くはつづかなかった。まもなく、カレーニンの心には、いつもの落ち着きと気高さがよみがえってきた。そのおかげで、彼は覚えていたくないことを忘れてしまうこともできた。
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「ねえ、どうしたの、カピトーヌイチ?」セリョージャは、誕生日をあすに控えた散歩からもどると、高い所から小さな自分を見おろして、にこにこしている年とった背の高い玄関番に、襞《ひだ》のはいった外套《がいとう》を手渡しながら、楽しそうに頬《ほお》を紅潮させて、話しかけた。「ねえ、きょうもあの包帯をした役人は来た? パパはお会いになったかい?」
「お会いになりましたよ。事務主任さんがお帰りになったばかりのところへ、お取次ぎいたしましたので」玄関番は愉快そうに目くばせしながらいった。「さあ、どうぞ、お脱がせしましょう」
「セリョージャ!」スラヴ人の家庭教師が、奥の部屋へ通ずる戸口に立ち止って、いった。「ご自分でお脱ぎなさい」
ところが、セリョージャは家庭教師の弱々しい声を耳にしても、先生のほうにはなんの注意も向けなかった。少年は片手で、玄関番の帯につかまったまま、その顔をじっとながめていた。
「じゃ、なにかい、パパはあの役人にちゃんとしておやりになったの?」
玄関番は少年にうなずいてみせた。
もう七へんも、カレーニンのところへなにやら頼みにやって来た包帯をした役人のことを、セリョージャも玄関番も興味をもっていた。一度セリョージャはこの男に玄関で会い、彼が、自分は子供たちをかかえてもう飢え死にしそうですと哀れっぽい声でいいながら、玄関番に取次ぎを頼みこんでいるのを聞いたことがあった。
その後、もう一度この役人に玄関で会ったので、セリョージャは、すっかりこの役人に興味をもってしまった。
「ねえ、どうだった、とても喜んでいた?」少年はきいた。
「喜んだのなんのって! とびあがるようにして、帰って行きましたよ」
「それから、なにか届いたかい?」セリョージャはちょっと口をつぐんでから、たずねた。
「ええ、坊っちゃん」玄関番は頭を振りながら、ささやくような声でいった。「伯爵夫人からなにかまいっておりますよ」
セリョージャはすぐに、玄関番がいっているのは、リジヤ伯爵夫人から届いた誕生日の贈り物だと悟った。
「ほんとかい? じゃ、どこにあるの?」
「コルネイが、お父さまのところへ持ってまいりましたよ。きっと、けっこうなものでございますよ」
「どのくらいの大きさ? このくらいかい?」
「もう少し小さいようでしたが、でも、けっこうなものでございますよ」
「ご本かな?」
「いいえ、別のものでございましょう。もう、さあ、あちらへいらっしゃいまし、ほれワシーリイが呼んでおりますよ」玄関番は家庭教師が近づいてくる足音を聞きつけて、自分の帯につかまっている、手袋が半分脱げかかった小さな手をそっと放して、ワシーリイのほうに目くばせしながら、いった。
「先生、今すぐ行きます!」セリョージャは楽しそうな、愛らしい微笑を浮べて答えたが、きちょうめんなワシーリイも、この微笑にかかると、負けてしまうのであった。
セリョージャはとても楽しくて幸福だったので、親友の玄関番に、夏の公園《レートニイ・サード》で、リジヤ伯爵夫人の姪《めい》から聞いた家庭的な喜びを分たずにはいられなかった。この喜びは、包帯をした役人の喜びと、おもちゃを持って来てもらった自分の喜びといっしょになったために、少年には特別重大なことに思われた。セリョージャにはきょうという日はみんなが喜んで、楽しくしなければならない日であるように思われた。
「ねえ、パパがアレクサンドル・ネフスキー勲章をおもらいになったのを知ってる?」
「もちろん、存じておりますとも、もう大勢お祝いにお見えになりましたよ」
「じゃ、パパも喜んでいらっしゃる?」
「陛下のお恵みは喜ばずにはおられませんとも。つまり、それだけのお働きをなさったのでございますからね」玄関番はきびしい、まじめくさった顔つきをして、答えた。
セリョージャは、細かい点まで知り尽している玄関番の顔を、ことに、その頬ひげのあいだからさがっている頤《おとがい》をながめながら、じっと考えこんだ。この頤は、いつも下からながめているセリョージャのほかは、だれも見たものがいなかった。
「それじゃ、おまえの娘も、もうとっくにやって来たかい?」
玄関番の娘はバレエの踊り子であった。
「ふだんの日に来られるはずがないじゃありませんか? あれだってレッスンがあるんですよ。さあ、坊っちゃんも、もうお勉強のお時間ですよ、早くいらっしゃいまし」
セリョージャは部屋へはいると、勉強机に向わずに、きょう届いた贈り物は、きっと、機械にちがいないという自分の予想を家庭教師にしゃべりだした。「先生はどう思います?」少年はきいた。
しかし、ワシーリイは、二時にやって来る教師のために、文法の予習をしておかなければならないと、ただそのことばかり考えていた。
「じゃ、先生、これだけ教えてください」少年はもう勉強机に向って、本を手にとりながら、急にいいだした。「アレクサンドル・ネフスキーより上の勲章はなんというんですか? ねえ、パパがアレクサンドル・ネフスキーをおもらいになったことを知ってますか?」
ワシーリイは、アレクサンドル・ネフスキーの上はウラジーミル勲章だ、と答えた。
「じゃ、その上は?」
「いちばん上はアンドレイ・ペルヴォズヴァンヌイ勲章です」
「じゃ、そのアンドレイの上は?」
「知りません」
「え、先生でも知らないんですか?」そういうと、セリョージャは両肘《りょうひじ》をついて、じっと考えこんでしまった。
少年はきわめて複雑な、さまざまなことを考えこんだ。少年は次のようなことを空想した。もしパパがいっペんに、ウラジーミルもアンドレイももらったらどうだろう、そうしたら、きょうの勉強の時間はもっと優しくしてくれるだろう、ぼくも大きくなったら、全部の勲章を残らずもらおう、いや、アンドレイより上のものも考えだそう、考えだしたら、ぼくはすぐもらってしまうんだ。それよりもっと上のを考えだしても、ぼくはすぐそれをもらうんだ、と。
そんなことを考えているうちに、どんどん時間がたってしまった。そして、教師がやって来たときには、時と、場所と、行為の状況語についての宿題ができていなかった。そのために、教師は不満に思ったばかりか、情けなさそうな顔をした。この教師の情けなさそうな顔つきを見て、セリョージャも胸が痛くなった。少年は宿題をやらなかったのを、悪いとは思っていなかった。いくら努力しても、どうしてもできなかったからだ。教師が説明しているあいだは、それを信用して、自分でもどうにかわかったような気がしていた。ところが、ひとりになるとたちまち、『とつぜん』という短いわかりきった言葉が、行為の《・・・》ありさまを示す状況語《・・・・・・・・・・》だということは、どうしても思いだすことも、理解することもできなかった。しかし、それにしても、少年は教師に情けない思いをさせたのが、気の毒でたまらなかった。
少年は、教師が黙って本を見ていたときにしゃべりだした。
「ねえ、先生の名の日はいつですか?」少年は不意にたずねた。
「きみはそんなことより、自分の勉強のことを考えればいいんですよ。だいたい、理性をもった人には、名の日なんてなんの意味もありませんからね。ほかの日とまったく同じことで、その日もやっぱり勉強しなくちゃいけないんです」
セリョージャは教師の顔をじっと注意ぶかく見つめ、そのうすい顎《あご》ひげや、鼻の段よりずり落ちている眼鏡《めがね》などをながめながら、すっかり考えこんでしまったので、もう教師の説明していることなど、なにひとつ耳にはいらなかった。少年は、教師が心にもないことをいっているのを悟った。それは教師のしゃべっている口調で感じられた。
《それにしても、みんなはなぜこんなに、まるで申し合せたように、いつも同じような退屈な、要もないことばかりしゃべっているんだろう? なんだって先生は、ぼくのことを突き放すようにするんだろう、なぜぼくをかわいがってくれないんだろう?》セリョージャは、もの悲しい気持で自分にきいてみたが、その答えを考えつくことはできなかった。
27
教師の授業がすむと、父の授業があった。父がまだ来ないあいだに、セリョージャは机に向って、ナイフをいじりながら、いろんなことを考えはじめた。セリョージャの好きな仕事の中には、散歩のときに母を捜すということがあった。この少年は一般に死というものを信じなかったが、とりわけ自分の母の死については、いくらリジヤ伯爵夫人が母は死んだといい、父もはっきりそういったにもかかわらず、とてもそれは信じられなかった。そこで、母は死んでしまったのだと聞かされたあとも、散歩のときにいつも母を捜すのであった。ふくよかで、優雅な、黒っぽい髪の婦人は、だれでも母に見えた。そんな婦人を見かけると、少年の心には、なんともいえぬやさしい感情がこみあげてきて、胸がいっぱいになり、目には涙があふれてくるのだった。そして、今にも母がそばへ寄って来て、顔のヴェールを上げてくれるだろうと、じっと心待ちに待った。そしたら、母の顔がすっかり見えて、にっこり笑うと、ぼくを抱きしめてくれるだろう。ぼくはあのなつかしいかおりをかいで、そのしなやかな手ざわりを感じるだろう。すると、ぼくは、いつかの晩、母の足もとに寝て、母にくすぐられ、きゃっきゃっと笑いころげながら、指輪をはめた母の白い手をかんだあのときと同じように、すっかりうれしくなって、泣きだすにちがいない。その後、少年は偶然の機会に、婆やから、母は死んだのではないと聞かされた。すると、父とリジヤ伯爵夫人は、お母さんはおまえにとって死んだのも同じだ、なぜなら、お母さんはよくない女なのだから、と話して聞かせた。(しかし、そんなことはとても信じられなかった。少年は母を愛していたからである)それでも、少年は相変らず母を捜し求めて、ひそかに待ちうけていた。きょうも夏の公園《レートニイ・サード》で、紫のヴェールをかけたひとりの婦人を見かけると、その婦人が小道づたいに、自分のほうへ近づいて来るあいだ、少年は胸をしめつけられるような思いをしながら、あれはきっと母に違いないと心待ちしていた。が、その婦人は少年のところまで来ないうちに、どこかへ姿を消してしまった。きょうはいつにもまして、少年は激しく母恋しさの気持がつのっていたので、今も父を待つあいだになにもかも忘れてしまって、目をきらきら輝かしてじっと前方を見つめ、母のことばかり考えながら、ナイフで机の端をすっかり傷つけてしまった。
「パパがお見えになりましたよ」ワシーリイが、少年の空想を破った。
セリョージャはとびあがって、父のそばへ行き、その手に接吻《せっぷん》すると、アレクサンドル・ネフスキー勲章をもらった喜びのしるしを捜しだそうと、じっと父の顔を見つめた。
「散歩は楽しかったかね?」カレーニンはいって、肘掛けいすに腰をおろし、旧約聖書を手もとへ引き寄せて、それを開いた。カレーニンは、キリスト教徒はだれでも聖史をよく知っていなければならないと、一度ならずセリョージャにいいきかせていたにもかかわらず、自分でも旧約聖書の話をしながら、よく本を開いて調べていた。セリョージャもそれに気づいていた。
「ええ、とてもおもしろかったですよ、パパ」セリョージャは、とめられていたことであるのに、いすの上へはすかいにすわって、それをぐらぐらゆすりながらいった。「ナージェンカに会ったんです(ナージェンカは、リジヤ伯爵夫人の養育している姪であった)。ナージェンカから聞いたんですけど、パパは新しい勲章をおもらいになったんですって。うれしいでしょう、パパ」
「さあ、まず第一に、頼むから、そういすをゆすらないでおくれ」カレーニンはいった。「それから、第二に、たいせつなことはほうびじゃなくて、仕事だよ。おまえにもそれがわかってもらいたいね。いや、おまえだってほうびをもらいたいために勉強するなら、そんな勉強は苦しいだろうよ。しかし、その仕事を愛するようになれば」カレーニンは、けさ、百十八通の書類に署名するという、あの退屈な仕事をつづけながら、ただ義務の意識だけで自分をささえていたことを思いだした。「その仕事の中にほうびを見つけることができるんだよ」
優しさと楽しさに輝いていたセリョージャの目は、光を失い、父の視線を受けて、うつむいてしまった。それは、いつも父がむすこに対して示す、もう昔からおなじみの調子だったので、セリョージャもそれにうまく調子をあわせていくすべを心得ていた。父がいつも少年に話しかける態度は――セリョージャの感じたところによると――父が勝手に頭の中でつくりあげた子供、よく本などに出てくるような子供で、セリョージャとはまったく似ても似つかぬ子供に話しかけているように思われた。それで、セリョージャのほうも父に対しては、わざとそうした本に出てくる子供のように、ふるまうことを努めていた。
「このことはわかるだろうね、わかるね!」父はいった。
「ええ、わかります、パパ」セリョージャは空想の子供の役割を演じながら答えた。
授業は聖句をいくつか暗唱し、旧約のはじめのところを復習することであった。セリョージャも聖句はかなりよく知っていたが、暗唱しているうちに、こめかみのところがぐっと曲っている父の額骨を見たとたん、少年は急に頭が混乱してしまって、似ている聖句の終りの言葉を、別な聖句のはじめの言葉とごっちゃにしてしまった。少年が自分のいっている聖句の意味を理解していないのは明らかだったので、カレーニンはいらいらしてきた。
父は眉をひそめると、セリョージャがもう幾度も聞かされながら、あまりわかりきったことのために、どうしても覚えられない事がらを説明しはじめた。それはちょうど、『とつぜん』という言葉が行為のありさまを示す状況語であるといったようなことであった。セリョージャは、びっくりしたような目つきで父をながめながら、ただ一つのことを考えていた。父が今までときどきさせるように、きょうも父のいったことをもう一度繰り返させられるのではなかろうか? いや、そう思うと、セリョージャはもうそわそわしてしまって、なにひとつ頭にはいらなかった。ところが、父は繰り返させることはしないで、旧約の授業に移っていった。セリョージャは事がらそのものはじょうずに話したが、その事がらがどんな未来のことを予言しているのかという質問に答えなければならなくなると、今までにもそれができずに一度罰をくったことがあるにもかかわらず、まるっきりわからなかった。少年が、なにひとつ答えることができず、もぞもぞして、ナイフで机を傷つけたり、いすの上でからだをゆすったりしていたのは、大洪水以前の族長について話をしなければならないときであった。その人たちの中では、生きながら昇天したというエノック以外のことはだれのことも知らなかった。前には彼もいろんな名前を知っていたが、今はすっかり忘れてしまっていた。とりわけ、エノックが旧約の中でもいちばん好きな人物であり、彼が生きながら昇天したという事実は、少年の頭の中で、一連の長い思索の過程と結びつけられていた。少年は父の時計の鎖と、半分だけかけられたチョッキのボタンを、じっと動かぬ目で見つめながら、その思索に没頭していた。
セリョージャは、人からよく聞かされていた死というものを、まったく信じていなかった。少年は自分の好きな人が死んだり、とくに自分が死んだりするということは、とても信じることができなかった。そんなことは、少年にとってまったく不可能なことであり、不可解なことであった。ところが、少年は、だれでも死ぬものだと聞かされたので、自分が信用している人たちにたずねてみたが、やっぱりその答えは同じだった。いや、婆やでさえも、しぶしぶながらそう認めた。しかし、エノックは死ななかった。そうすると、やはりだれもかれも死ぬわけではないのだ。《だれでもあんなふうに、神さまの思召《おぼしめ》しにかなって、生きながら昇天できないものだろうか?》セリョージャは考えた。悪い人、つまりセリョージャのきらいな人びとは、死んでもいいけれど、いい人はみんな、エノックのようになってもいいわけだ。
「さあ、どうだね。どんな族長たちがいたかね」
「エノック、エノス」
「いや、それはもういったよ。だめだね、セリョージャ、どうもだめだね。キリスト教徒にとって、なによりもいちばんたいせつなことを覚えようとしないとすれば」父は腰をあげながらいった。「じゃ、おまえにはなにがおもしろいんだね? おまえの勉強ぶりには満足できないね。ピョートル・イグナーチッチ(それは主任の教師であった)も、おまえの勉強ぶりには不満だよ……おまえに罰をしなくちゃいけないね」
父も教師もふたりとも、セリョージャの勉強ぶりに不満であった。いや、実際、少年はとても不勉強であった。しかし、この少年をできない子供ということは、まったく不当であった。それどころか、教師がセリョージャに模範とさせようとした子供たちよりも、はるかに素質があった。父には、むすこが自分の教えることを覚えようとしないように見えた。実際、少年にとっては、そんな勉強などすることはできなかった。少年の心の中には、父や教師の教えようとする課題よりも、もっと必然的な課題があった。これらの課題が互いに矛盾するために、少年は直接、自分の教育者たちと戦っているのであった。
少年は九つであった。まだほんの子供であった。しかし、少年は自分の魂を知っており、それは自分にとって貴重なものであった、少年は、それをさながらまぶたがひとみを守るようにたいせつにしていて、愛の鍵《かぎ》を持たない者は、だれひとり自分の魂の中へは入れなかった。教育する人たちは少年のことを、不勉強だといって嘆いたが、少年の心は知識欲でいっぱいだった。彼は普通の教師たちからでなくカピトーヌイチや、婆やや、ナージェンカや、ワシーリイなどから学んだ。父と教師が、自分たちの水車に期待していた水は、とうの昔に漏れてしまって、別のところで働いていたのであった。
父は罰として、セリョージャをリジヤ伯爵夫人の姪の、ナージェンカのところへ行かせなかった。ところが、その罰はかえってセリョージャにとってさいわいとなった。ワシーリイが上きげんだったので、風車の造り方を教えてくれたからである。その晩はずっと、その仕事と、どうしたら自分が乗ってくるくるまわれるような風車をつくることができるか、両手で翼《はね》につかまったものか、それともからだを縛りつけたものかという空想にふけっているうちに過ぎてしまった。その晩は、セリョージャも母のことを考えなかった。ところが、少年は床へはいってから、急に母のことを思いだした。どうかあしたの誕生日には、お母さんも隠れるのをやめて、ぼくのところへ来てくださいますようにと、自分で考えた言葉でお祈りをした。
「ねえ、ワシーリイ、ぼくがきまったお祈りのほかに、なにをお祈りしたか、知ってる?」
「もっと勉強がよくできるように、でしょう?」
「違うよ」
「じゃ、おもちゃのこと?」
「違う、当りゃしないよ。すばらしいことだもの。でも秘密だよ! ほんとにそうなったら、教えてあげるよ。わからないでしょ?」
「ええ、わかりませんね。教えてくださいよ」ワシーリイは珍しく、微笑しながらいった。「さあ、もうおやすみなさい、ろうそくを消しますよ」
「ねえ、ぼくはろうそくなんかないほうが、お祈りしたものがよく見えるんだよ。あ、もうちょっとで秘密をしゃべっちゃうとこだった!」セリョージャは楽しそうに、笑いながらいった。
ろうそくが持ち去られてしまうと、セリョージャは母の声を聞き、母の姿を感じた。母はまくらもとに立って、いつくしむようなまなざしでセリョージャをいたわってくれた。しかし、風車やナイフが現われてきて、なにもかもごっちゃになってしまった――そして、少年は眠りにおちた。
28
ペテルブルグへ到着すると、ヴロンスキーとアンナは一流のホテルの一つに落ち着いた、ヴロンスキーは別に階下へ部屋をとり、アンナは赤ん坊と、乳母《うば》と、小間使を連れて四部屋からなる一画を借りた。
着いたその日に、ヴロンスキーは兄のところへ出かけて行った。そこで、彼は、モスクワから用事で来ていた母に出会った。母と兄嫁はいつもと変りなく、彼を迎えた。ふたりは外国旅行のことをたずねたり、共通の知人のうわさなどをしたが、アンナとの関係については、ひと言もふれなかった。ところがその翌朝兄は、ヴロンスキーのもとをたずねて来て、自分のほうからアンナのことについてたずねた。そこでヴロンスキーは、自分はカレーニナとの関係を結婚と見なしているし、アンナも夫と離婚できると思うから、そのときには、ちゃんと正式に結婚する、それまではアンナを世間一般の妻と同様、自分の妻と認めているから、母にも兄嫁にもそのことを伝えてほしいと、きっぱりいった。
「たとえ、世間がそれをとやかくいったところで、ぼくは平気ですよ」ヴロンスキーはいった。「ただ、ぼくの身内の人たちが、ぼくと親戚《しんせき》関係を保っていきたいのなら、ぼくの妻に対しても、同じ態度をとってもらわなくちゃ困りますね」
いつも弟の判断を尊重している兄は、世間がこの問題の決着をつけるまでは、弟の意見の是非がよくわからなかった。兄自身としては、べつに異論はなかったので、ヴロンスキーといっしょに、アンナの部屋へたずねて行った。
ヴロンスキーは兄の前でも、ほかのすべての人間と同様、アンナに『あなた《ヴィ》』言葉で呼びかけて、親しい知人という態度で応対した。しかし、その言外には兄が自分たちふたりの関係を承知しているということをにおわせて、アンナがヴロンスキーの領地へ行くということなどを話した。
ヴロンスキーは、社交界でかなりの経験をつんでいたにもかかわらず、自分が現在おかれているような新しい境遇のために、妙な錯覚におちいっていた。彼には、社交界が自分とアンナに対して門戸を閉ざしているということぐらい、わかっていそうなものであった。ところが、今の彼には、なにかぼんやりした考えが生れていた――そんなことは昔の話で、今では世の中も急速に進歩しているのだから(彼はいつの間にか、今では進歩の味方になっていた)、社会の見方も一変しているし、したがって、自分たちが社交界に受けいれられるかどうかは、まだはっきりきまった問題ではない、と思っていた。《もちろん》彼は考えた。《宮廷の社交界はアンナを入れてくれないだろうが、親しい人たちは事態をちゃんと理解してくれるだろうし、またそうしなくちゃならないはずだ》
人間というものは、もしその姿勢を変えてもかまわないと知っていれば、かえって、何時間でもずっと足を折ったまますわっていられるものである。ところが、人間は足を折ったままじっとすわっていなければならぬと知ったなら、じきに痙攣《けいれん》が起って、伸ばしたいと思うところへ、足がぴくぴくと、伸びていったりするものである。これとまったく同じような経験を、ヴロンスキーは社交界との関係で味わったのである。もっとも、彼は心の底では、社交界が自分たちに門戸を閉ざしている、と知っていたけれども、今は社交界も変ってしまっているだろうから、自分たちを受けいれてくれるのではなかろうか、とさぐりを入れてみた。ところが、彼はすぐに、社交界は彼ひとりのためには開かれているが、アンナのためには閉ざされていることを悟った。まるで『猫と鼠《ねずみ》』の遊びのように、彼のために上げられていた手も、アンナの前では、たちまち、おろされてしまうのだった。
ヴロンスキーがはじめて会ったペテルブルグ社交界の婦人のひとりは、従妹《いとこ》のベッチイであった。
「まあ、お久しぶりね!」彼女はうれしそうにヴロンスキーを迎えた。「で、アンナは?まあ、うれしいこと! どこに泊っていらっしゃるの? すばらしいご旅行のあとでは、このペテルブルグなんかさぞつまらないことでしょうね。あたしには、あなた方のローマでのハネ・ムーンが想像できましてよ。離婚のほうはどうなりまして? もうすっかり片がついたの?」
離婚はまだすんでいないと知ったとき、ベッチイの喜びが薄らいだのを、ヴロンスキーは見のがさなかった。
「きっと、世間はあたしに石を投げるでしょうよ」ベッチイはいった。「でも、アンナをおたずねしますわ。ええ、かならず伺いますわ。そう長くはここにいらっしゃらないんでしょう?」
実際、ベッチイはその日すぐにアンナをたずねて来た。しかし、その調子はもう先ほどとはすっかり変っていた。どうやら、ベッチイは自分の大胆な行いを誇りとして、アンナにその変らざる友情を認めてもらいたいらしかった。ベッチイは社交界のニュースを話しながら、十分くらいしかいなかったが、帰りがけに、こんなことをいった。
「いつごろ離婚できるか、おふたりともおっしゃいませんでしたわね。まあ、かりに、あたしなんかそんなことちっとも気になりませんけれどね。でも、お高くとまっている連中は、おふたりが結婚なさらないうちは、きっと、つらくあたりますよ。それに、そんなことは今じゃとても簡単にできるんですのよ。B se fait. それじゃ、金曜日にお発ちになるんですね? もう一度お目にかかれなくて、残念ですこと」
ヴロンスキーはベッチイの言葉の調子からもう社交界がどんな態度をとるか、悟れそうなものであったが、彼は自分の家族の中で、もう一度このさぐりをいれてみた。彼も母親には望みをかけていなかった。はじめて知り合ったときには、あれほどアンナに有頂天になって喜んだ母親が、今はむすこの出世を台なしにした張本人としてアンナに対してかたくなな気持になっていることは、ヴロンスキーも知っていたからである。しかし、彼は兄嫁のワーリヤに、大きな期待をかけていた。彼はワーリヤならアンナに石など投げるようなことはせずに、さりげない態度で、すすんでアンナのところへ出かけて行き、アンナを受けいれてくれるような気がしていた。
到着した翌日、ヴロンスキーはワーリヤのもとをたずねて行った。そして、おりよくひとりきりだったので、いきなり自分の希望を打ち明けた。
「ねえ、アレクセイ」ワーリヤは彼の言葉を聞き終るといった。「あたしがあなたをどんなに愛しているか、あなたのためなら、どんなことでも喜んでしてあげたいと思っていることはご存じですわね。でも、あたしがずっと黙っていたのは、あなたのためにも、アンナさんのためにも、なにひとつお役に立つことができないのを知っていたからなんですの」と、彼女は『アンナさん』という言葉を、とりわけ、念入りに発音しながらいった。「でも、どうか、あたしがとやかく思っているなんて、そんなことは考えないでくださいね。そんなことはけっしてありませんわ。たぶん、あたしだって、あの方の立場におかれたら、同じことをしたでしょうね。あたし、立ち入ったことはいえませんし、そうもできませんけれど」ワーリヤは相手の暗い顔をおずおずと見上げながら、いった。「それにしても、いうべきことはちゃんといわなくちゃいけませんわ。あなたは、あたしがあの方のところへ行ったり、あの方を家へお招きしたりして、それでもってあの方を社交界に復活させようとお望みなんでしょうけれど、あたしには、そんなことできませんわ《・・・・・・》。ねえ、おわかりになって。娘たちもだんだん年ごろになってまいりますし、それにあたしも主人のために、社交界で生きていかなくてはなりませんもの。まあ、たとえあたしが、アンナさんをおたずねするとしても、あの方を家へお招きするわけにはいかないのは、あの方もわかってくださるでしょう。いえ、お招きするからには、あの方を変な目で見ている人にぶつからないようにしなくちゃなりませんし。でも、そんなことをするのは、かえって、あの方を侮辱することになりますわ。あたしには、あの方をお引き上げすることはできませんもの……」
「いや、それにしても、あなたが家でお会いになってる何百人という婦人よりも、あれがもっと堕落してるとは思いませんがね!」ヴロンスキーはさらに暗い顔をして、相手の言葉をさえぎり、兄嫁の決意が動かしがたいことを悟って、黙って席を立った。
「アレクセイ! どうか、あたしに腹を立てないでね。お願いだから、あたしになんの罪もないってことを、わかってくださいね」ワーリヤは微笑を浮べながら、いった。
「べつにあなたに腹なんか立てちゃいませんよ」彼は相変らず暗い顔をしていった。「でも、ぼくは二重につらいんですよ。だって、このことが、ぼくたちの友情をこわすことになるからなんです。いや、こわすとこまでいかないまでも、薄らぐことはたしかですからね。ぼくにとっても、そうするよりほかどうしようもないことは、あなたもわかってくれるでしょうね」
こういって、彼は兄嫁のもとを辞した。
ヴロンスキーも、もうこれ以上の試みはむだだと悟り、ここ数日をペテルブルグで過すためには、まるで知らない町にでもいるように暮さなければならないから、自分にとって耐えがたい不愉快な事がらや、侮辱にあわないように、以前の社交界との交渉を、いっさい避けなければならないと考えた。こんな状態で、ペテルブルグ滞在をつづけていくにあたっての不愉快な事がらの一つは、カレーニンとその名が、いたるところにひそんでいるように思われることであった。どんな話をはじめても、話題がカレーニンにふれないようにするわけにはいかなかったし、また彼に会うまいとすれば、どこへも行かれなかった。すくなくとも、ヴロンスキーにはそう思われた。これはちょうど指を痛めた人が、いつもわざとでもするように、その痛い指ばかりが物にぶつかるような気がするのと、同じことであった。
ペテルブルグ滞在が、ヴロンスキーにいっそう耐えがたいものに思われたのは、そのあいだいつもアンナが、なにか彼には不可解な新しい気分でいるのが認められたからであった。時には、彼にすっかり惚《ほ》れこんでいるように見えたり、また時には冷淡になって、たえず、いらいらしながら、まったくわけのわからぬ人のようになるのだった。アンナはなにかに苦しみ、彼になにごとかを隠していた。そして、彼の生活を毒し、あれほど繊細な理解力をもっているアンナなら、自分自身にとっても、とても耐えがたいはずの侮辱をも、まるで気づいていないかのようにふるまっていた。
29
アンナにとって、ロシアへ帰る目的の一つは、わが子に会うことであった。イタリアを発《た》ったその日から、アンナはこのことを思うと、いっときも心をわくわくさせずにはいられなかった。そして、ペテルブルグへ近づくにつれて、この対面の喜びと重大性が、ますます大きくなっていくように思われた。アンナはどうやってわが子に会ったらいいか、などというようなことは、まったく考えてもみなかった。わが子の住んでいる同じ町に行けば、わが子に会うことなどはまったく自然で、簡単なことのように思われた。ところが、いざペテルブルグへ着いてみると、思いがけなく、自分の社交界における現在の立場がはっきりわかってきて、わが子と会う段取りをつけることも、そう容易なことではないと悟った。
アンナはもうペテルブルグへ来てから、二日を過した。わが子を思う心は、片時も頭を去らなかったが、アンナはいまだにわが子に会えずにいた。アンナはカレーニンに出会うおそれのある屋敷へいきなりたずねる権利は、自分にないものと感じていた。いや、門前払いをされて、侮辱を受けるおそれもあった。手紙を認《したた》めて夫と交渉をもつことは、考えただけでも心苦しかった。アンナは夫のことを考えないでいるときだけ、落ち着いていられるからであった。わが子がいつ、どこへ散歩に行くかを知って、散歩の途中で会うのでは、もの足りなかった。アンナはこの対面について、いろいろと心がまえをしていたので、わが子にいいたいこともたくさんあったし、しっかり抱きしめたり、接吻《せっぷん》したりしたかった。セリョージャの年とった婆やがいたら、アンナの力になって、なにかいい知恵をかしてくれたかもしれない。しかし、この婆やはもうカレーニン家にいなかった。こんなふうにあれこれ迷ったり、婆やの行くえを捜したりしているうちに、二日は過ぎてしまった。
アンナは、カレーニンが、リジヤ伯爵夫人と親しくしていることを知ると、着いて三日めに、とても苦しい思いをしながら、例の手紙を書く決心をした。アンナはその中で、わが子に会えるかどうかは、一にかかって夫の寛大な心によるものだと、ことさらに書いた。もしこの手紙を夫が見れば、例の寛大な人間としての演技をつづけようとして、彼は断わったりなどしないことを、アンナは承知していたからである。
手紙を届けに行った使いの者が、返事はありません、というこのうえもなく残忍な、思いがけない返事をもたらした。アンナはその使いの者を部屋に呼び寄せて、その口から、使いの者がさんざん待たされたあげく、「べつにご返事はありません」といわれたときの様子をくわしく聞いたときほど、激しい屈辱を感じたことはなかった。アンナははずかしめられ、踏みにじられたように感じたが、しかしリジヤ伯爵夫人の立場からすれば、それもむりからぬことだと思った。アンナの悲しみは、それをひとりで耐えねばならぬものであるだけに、なおいっそうこたえた。アンナはその悲しみをヴロンスキーと分つこともできなければ、また分ちたくもなかった。ヴロンスキーは、自分がアンナの不幸の原因となっているにもかかわらず、アンナがわが子と会うという問題などは、彼にとってまったく取るに足らぬことに思われるだろうと、アンナも承知していたからである。いや、ヴロンスキーには、自分の苦しみの深刻さなどを、とても理解する力のないことを、アンナも知っていた。もしこんなことをいいだして、彼から冷淡な調子であしらわれでもしたら、そのためにきっと彼を憎むようになるにちがいないと、承知していた。そして、アンナはそのことをなによりも恐れていたので、わが子に関することは、いっさい彼に隠すようにしていたのである。
まる一日ずっと部屋にこもっていて、わが子に会える方法をいろいろと考えた末、アンナは夫に手紙を出すことにきめた。アンナはリジヤ伯爵夫人の手紙が届けられたときには、もう手紙の文面はできていた。伯爵夫人の沈黙はアンナをあきらめさせ、おとなしくさせたのであるが、その手紙とその行間に読みとれたいっさいは、すっかりアンナを激昂《げっこう》させた。そこに含まれていた悪意は、わが子に対する熱烈な正当な愛情に比べて、あまりにも残酷なことのように思われたので、アンナは他人を責める気持でいっぱいになり、みずから責めるのをやめてしまったほどであった。
《こんな冷淡さは、感情を偽るものだわ!》アンナは心の中でつぶやいた。《あの人たちはただあたしを侮辱して、小さい子どもをいじめさえすれば、あたしがおとなしくなるとでも思ってるんだわ! とんでもない! あんな女《ひと》はあたしより悪い女だわ。あたしはすくなくともうそだけはつかないんだから》そこでアンナは、あす、ちょうどセリョージャの誕生日にいきなり夫の家に乗りこんで行き、召使たちを買収するなりだますなりして、なんとしてでもあの子に会って、かわいそうなあの子をとりまいている醜い虚偽を、打ち砕いてしまおう、と決心した。
アンナはおもちゃ屋へ出かけて、いろんなおもちゃをたくさん買いこみ、行動計画を練った。朝早く、八時ごろ、まだきっとカレーニンが起きていない時分に、着くようにしよう。手にお金を用意して行き、玄関番や召使にやって通してもらおう。そして、顔からヴェールを上げずに、あたしはセリョージャの名付け親のかわりに、お祝いにやって来たのだが、お子さんのまくらもとへおもちゃを置いてくるように頼まれたから、といおう。アンナは、ただわが子にいうべき言葉だけは用意できなかった。どんなに考えてみても、なにひとついい言葉が考えつかなかった。
翌日、朝の八時に、アンナはただひとり、辻馬車からおりて、かつて自分が住んでいた屋敷の大きな車寄せに立って、ベルを鳴らした。
「なんのご用だか、行ってうかがってごらん。どこかの奥さんだよ」まだ着替えもせずに、外套《がいとう》とオーヴァシューズという格好のカピトーヌイチは、戸のすぐそばに立ってヴェールで顔を隠した婦人を、窓越しに見ながら、いった。
玄関番の見習いで、アンナの知らない若者が、戸をあけたかと思うと、彼女は素早く中へはいって、マフの中から三ルーブル札を出して、急いで若者の手に握らせた。
「セリョージャ……セルゲイ・アレクセーヴィチ」アンナはそう口走って、どんどん歩いて行こうとした。玄関番の見習いは、札をよくあらためてから、次のガラス戸のところでアンナをひきとめた。
「どなたさまにご用で?」若者はたずねた。
アンナはその言葉が耳にはいらなかったので、なんとも答えなかった。
見知らぬ婦人が、当惑している様子に気づいて、カピトーヌイチは自分で出て来て、婦人を戸の中へ入れてから、なんのご用ですかとたずねた。
「スコロドゥモフ公爵から、セルゲイ・アレクセーヴィチへお使いにまいりました」アンナはいった。
「若さまはまだおやすみになっておられます」玄関番は注意ぶかく、相手をじろじろ見ながらいった。
アンナは、自分が九年間住んでいた屋敷の、まったく少しも変っていない玄関の控室のたたずまいが、これほどまでに強く自分の心を動かそうとは、夢にも考えてみなかった。喜ばしくも悩ましい追憶の数々が、次から次へ心にわいてきて、アンナは一瞬、自分がなんのためにここへ来たかすら、忘れるほどであった。
「しばらくお待ちいただけますでしょうか」カピトーヌイチは、アンナの毛皮外套を脱がせながらいった。
カピトーヌイチは外套を脱がせて、相手の顔をちらとのぞきこむと、すぐアンナだということに気づいて、無言のまま、低く腰をかがめた。
「さあ、どうぞ、奥さま」彼はいった。
アンナはなにかいおうとしたが、ひと言も口がきけなかった。アンナはすまなさそうな、祈るようなまなざしで、ちらと老人に目をやると、軽々とした素早い足どりで、階段をのぼって行った。カピトーヌイチほ、からだを前へかがめ、オーヴァシューズを階段にひっかけながら、アンナを追い越そうとして、そのあとから駆けあがって行った。
「そちらには先生がいらっしゃいます。きっと、まだお召し替えなさっていないかもしれません。わたくしがお取り次ぎいたします」
アンナは、老人がなにをいってるのかもわからずに、なじみぶかい階段をのぼりつづけた。
「さあ、こちらへ。どうぞ左のほうへ。ちらかしていて、申しわけございません。若さまは今は昔の長いす部屋のほうにいらっしゃいますんで」玄関番は息を切らしながらいった。「失礼ですが、奥さま、ちょっとお待ちくださいまし。わたくしが見てまいりますから」彼はそういうと、アンナを追い越して、高いドアを細めにあけ、ドアの陰に隠れてしまった。アンナは心待ちしながら、じっとたたずんでいた。「たった今お目ざめになったところでございます」玄関番は、またドアの中から現われて、いった。
玄関番がそういったとたん、アンナは子供らしいあくびの音を聞きつけた。いや、そのあくびの音を聞いただけで、アンナはそれがわが子だと気づき、まるでその姿を目の前にありありと見る思いであった。
「さあ、入れておくれ、入れてちょうだい、おまえはあちらへお行き!」アンナはいって、高いドアの中へはいった。ドアの右手に寝台が置かれてあり、その上には、ボタンをはずしたシャツ一枚の男の子が、起きあがってすわっていた。男の子は小さなからだを曲げるようにして、伸びをしながら、あくびを終えようとしていた。男の子の唇が合わさったとたん、いかにも幸福らしい眠たそうな微笑が口もとに浮んで、その微笑とともに、男の子はまたゆっくりと、さも気持よさそうに、仰向けに倒れた。
「セリョージャ!」アンナはそっと音のしないように近づいて、ささやいた。
アンナはわが子と別れて以来ずっと、ことに近ごろたえず味わっている子供恋しさの情がつのってくるたびに、自分がいちばん好きだった四つ時分のわが子の姿を、心に描いていた。が、いまや、ここで見るわが子は、自分が残していった時分と比べても、すっかり変っていた。まして四つのときから見ると、すっかり変ってしまって、さらに背が伸びて、やせていた。これはどうしたことだろう! まあ、顔のやせこけたこと、髪もこんなに短くなって! まあ手だけ長くなって! この子を残して行ってから、なんと変ったものだろう! それにしても、この子こそわが子だ。その頭の格好も、唇も、柔らかい首筋も、幅の広い肩も、なにもかもわが子であった。
「セリョージャ!」アンナは、子供の耳もとに口を寄せて、ささやいた。
と、少年はまた片肘《かたひじ》をついて身を起し、なにかを捜し求めるように、髪の毛のもつれた頭を左右に振って、目を見ひらいた。数秒間、少年は静かにけげんそうな目つきで、目の前に身じろぎもせず立っている母親をながめていたが、やがてとつぜん、さも幸福そうににっこり笑った。と、またひとりでにくっついてくるまぶたをとじて、身を倒した。しかし、今度はうしろのほうへではなく、母のほうへ、母の腕の中へ身を投げかけた。
「セリョージャ! あたしのかわいい坊や!」アンナは息を切らしながら、少年のふっくらしたからだを両手に抱きしめて、口走った。
「ママ!」少年は自分のからだのいろんな部分で、母の腕にさわろうと、その腕の中であちこち身をもがきながら、いった。
少年は、眠たそうに微笑を浮べながら、なおも目をとじたまま、ふっくらした小さな両手を、寝台の背から放して母の肩にしがみつき、子供特有の夢のようなかおりと暖かみを浴びせかけながら、ぴったり身を寄せて、母の首や肩に顔をこすりつけるのであった。
「ぼく、知ってたんだ」少年は目をあけながらいった。
「きょうはぼくの誕生日だもの。ママの来るのを知ってたんだ。今すぐ起きるよ」
そういいながら、少年はまた眠りかけた。アンナはむさぼるようにわが子をながめていた。自分のいないあいだに、わが子がすっかり大きくなって、変ってしまったのを見てとった。アンナは毛布の下から出ている、いまやこんなにも大きくなっているあらわな足に、見覚えがあるような、ないような気がした。そのやせこけた頬や、前にはよく接吻してやった、頭のうしろの短く刈った巻毛には、見覚えがあった。アンナはそれらを残らず手でさわってみながら、ひと言も口がきけなかった。涙のためにのどがつまってしまうのであった。
「なにを泣いているの、ママ?」少年はすっかり目をさまして、いった。「ママ、なにを泣いているの?」今度は涙声で叫んだ。
「もう泣きませんよ……ママはね、うれしくて泣いているのよ。だって、もうずいぶん長いこと、坊やと会わなかったでしょう。もう泣きませんよ、泣きませんたら」アンナは顔をそむけて、涙をのみこみながらいった。「さあ、もうそろそろ着替えをしなくちゃだめよ」アンナは気をとりなおして、しばらく黙っていてから、こうつけ加えた。そして、わが子の手を放さずに、寝台のそばのいすに腰をおろした。そのいすの上には、少年の服が用意されてあった。
「ママのいないときは、どうやって着替えているの? どんなふうにして……」アンナはさりげなく、快活に話しかけようとしたが、やはりそれができなくて、また顔をそむけてしまった。
「ぼく、もう冷たい水で顔を洗ってないよ、パパがいけないとおっしゃったから。ママ、ワシーリイを見かけなかった? じきに来ますよ。あ、ママったらぼくの服の上にすわっちゃった!」そういって、セリョージャは大きな声で笑いだした。
アンナはその様子を見て、にっこりとほほえんだ。
「ママ、ぼくの大好きな、大好きなママ」少年はまた母に飛びついて、抱きしめながら叫んだ。少年は今母の微笑を見て、やっとこの出来事の意味を、はっきりわかったかのようであった。「こんなものいらないよ」少年は母から帽子をとりながら、いった。そして、帽子をとった母を見ると、今はじめて見でもしたように、母に接吻するために、またもや飛びかかっていった。
「でも、坊やはママのことをなんと思ってたの? もう死んでしまったと思ってなかった?」
「そんなことは一度だってほんとうにしなかったよ」
「まあ、ほんとうにしなかったって?」
「ぼく知ってたんだ。ちゃんと知ってたんだよ」少年はお得意のせりふを繰り返していった。そして、自分の髪をなでている母の手をつかむと、掌《てのひら》のほうを自分の口へおしあてて、接吻しはじめた。
30
一方、ワシーリイは最近雇われたので、はじめこの婦人がだれであるか知らなかったが、ふたりの話の様子から、この婦人こそ、自分は知らないが、あの夫を捨てて行った少年の母親にちがいないと知って、中へはいって行ったものかどうか、またカレーニンに取り次いだものかどうか、と思い迷っていた。が、結局のところ、きまった時間にセリョージャを起すのは自分の義務であるから、だれが中にいようが、それが母親であろうとほかの人であろうと、そんなことをとやかくいう必要はない、自分はただ義務を果せばいいのだと結論して、服を着替え、戸口に近づいて、ドアをあけた。
ところが、母と子のむつまじいありさまや、ふたりの話し声や、ふたりの語り合っていることや、――こうしたすべてのことが、彼の考えを変えさせてしまった。彼はちょっと頭を振り、ほっと吐息をついて、ドアをしめた。《もう十分待ってみよう》彼は咳《せき》ばらいをして、涙をふきながら、心の中でつぶやいた。
ちょうどそのとき、屋敷の召使たちのあいだには、激しい動揺が起っていた。みんなは奥さまがやって来て、カピトーヌイチが中へ通したので、今は子供部屋にいらっしゃるということを知っていた。ところが、八時過ぎになれば、だんなさまはいつも子供部屋へ行かれることになっていたので、まさか夫妻が顔をあわすわけにはいかないから、なんとかしてそれを防がなければならないと、思っていた。召使のコルネイは、玄関番の部屋へおりて来て、だれがどういうふうに奥さまを通したのかをたずねた結果、カピトーヌイチが迎えて、案内したことを知ると、老人に小言をいった。玄関番は頑《がん》固《こ》に黙りこくっていた。しかし、コルネイが、そんなことをすれば、もうここを出て行ってもらわなくちゃならんといったとき、カピトーヌイチは相手のそばへとんで行って、その目の前で両手を振りまわしながら、こうまくしたてた。
「なるほど、おまえならお通ししなかったろうよ! でも、わしは十年もご奉公していても、いつもお情けばかりかけていただいて、一ペんだっていやな目にはあったことはねえぞ。じゃ、おまえは今すぐあちらへ行って、どうか、さっさとお帰りをっていってくりゃいいじゃねえか。なにしろ、おまえはなかなか小利口なところがあるからな。そうともよ! ちっとは自分のことも考えてみるがいいや。だんなさまをたぶらかして、洗熊《あらいぐま》の外套《がいとう》なんかせしめたりしやがったくせによ!」
「この兵隊野郎め!」コルネイは小ばかにしたようにいって、そこへはいって来た婆やに話しかけた。「なあ、婆や、ひとつ知恵をかしておくれよ、こいつがだれにもいわないで、勝手にお通ししてしまったんだがね」コルネイは婆やにいった。「ところが、ご主人さまは、今にもお部屋を出て、子供部屋へおはいりになろうとしているんだよ」
「まあ、そりゃたいへん、たいへん!」婆やはいった。「それじゃ、コルネイ、あんたはなんとかして、だんなさまをお引き止めしておくれよ。あたしゃ、あちらへとんでって、なんとかして奥さまをお帰しするから。さあ、たいへん、たいへん」
婆やが子供部屋へはいって行ったとき、セリョージャは母に向って、ナージェンカといっしょに山から手《て》橇《ぞり》ですべったとき、途中でひっくり返って、三度もとんぼ返りをしたことを話していた。アンナはわが子の声の響きを聞き、その顔や表情の変化をながめ、その手の感触を楽しんでいたが、子供の話していることはなにもわからなかった。もう帰らなければならない、この子を残して行かなければならない――アンナはただそのことばかりを考え、また感じていた。アンナは戸口に近づいて咳ばらいをしたワシーリイの足音も耳にしたし、近づいて来た婆やの足音も、ちゃんと聞いていた。しかし、アンナはもう口をきく力も、立ちあがる気力もないままに、まるで石と化した人のように、じっとすわっていた。
「まあ、奥さま!」婆やはアンナのそばへ近づいて、その手や肩に接吻しながら、しゃべりだした。「きっと、神さまがお坊っちゃまのお誕生日なので、お恵みをかけてくださいましたんですよ。でも、奥さまはちっともお変りになりませんこと」
「あら、婆や。おまえが家にいるとは知らなかったわ」アンナはふと、われに返っていった。
「いえ、お屋敷におるのではございませんよ。娘といっしょに暮しておりますんで。きょうはお祝いにあがりましたので。ほんとにおなつかしいことで!」
婆やはいきなり泣きだして、またアンナの手に接吻した。
セリョージャは、目を輝かし、明るい微笑を浮べながら、片手で母をつかまえ、片手で婆やをおさえたまま、裸のふっくらした小さな足を、じゅうたんの上でばたばたさせはじめた。少年は自分の大好きな婆やが、母に優しくするのを見て、すっかり有頂天になってしまったのであった。
「ママ! 婆やはね、よく来てくれるんだよ。そして、来るとね……」少年はいいかけたが、婆やがなにか母にそっとささやくと、母の顔におびえたような表情と、母にはまったく似つかわしくない羞恥《しゅうち》の色が表われたのに気づいて、そのまま口をつぐんでしまった。
アンナはセリョージャに近づいて、
「かわいい坊や!」といった。
アンナはさようなら《・・・・・》といえなかった。しかし、母の顔色は、そのことを語っていたし、セリョージャもそれを悟った。「かわいい、かわいいクーチックちゃん!」アンナは、小さいときに呼んでいた名をいった。「ママのことを忘れないわね? 坊や……」アンナはもうそれからさきをいうことができなかった。
あとになってから、アンナはわが子にいえばよかった言葉を、どんなにたくさん思いついたことだろう。でも、今はなにひとつ思いつかなかったし、いうこともできなかった。しかし、セリョージャは母が自分にいおうと思ったことを、なにもかもすっかり悟った。母はふしあわせであり、自分を愛してくれていることを悟った。いや、そればかりか、婆やがひそひそ声でささやいたことまで悟った。「いつも八時過ぎになると」という言葉を耳にしたとき、少年はそれが父親のことをいっているのであり、母は父と会うわけにはいかないのだということも悟った。それは少年にもわかったけれども、なぜ母の顔に恐怖と羞恥の色が表われたのか、それだけはどうしてもわからなかった。……ママには罪はないんだけれども、パパを恐れて、なにかを恥ずかしく思っているんだな。少年は質問をして、その疑いをはっきりさせたいと思ったが、そうきくだけの勇気がなかった。ただ母が苦しんでいる様子を見て、母のことがかわいそうになった。少年は黙ったまま、ぴったりと母に身を寄せて、ささやくようにいった。
「まだ行っちゃいや。パパはそんなにすぐにはいらっしゃいませんよ」
母は、わが子が今口にしたことをほんとうに考えているのかどうか、見きわめようと思って、わざと自分のからだからわが子をおし放すようにした。と、少年のおびえたような顔には、少年が父親のことをいっているばかりでなく、父親のことをどう考えたらいいのかと、母にたずねてでもいるような表情が浮んでいた。
「ママの大好きなセリョージャ」アンナはいった。「パパを好きになってね。パパはママより、もっとりっぱな、もっといい方なんだから。ママはパパにとても悪いことをしたのよ。坊やも大きくなったら、自分でわかるけれど」
「ママよりいい人なんかいないよ!……」セリョージャは涙にむせびながら、夢中になって叫んだ。そして、母の両肩にしがみつくと、緊張のあまり震えている両手で、力いっぱいに自分のほうへ引き寄せようとした。
「ママの大好きな、かわいい坊や!」アンナはいって、わが子と同じように、子供っぽく、弱々しい声で泣きだした。
そのときドアがあいて、ワシーリイがはいって来た。と、もう一つの戸口に足音が聞えた。すると、婆やはおびえたようなささやき声で、「お見えになりますよ」といいながら、アンナに帽子を渡した。
セリョージャは寝床の上にがっくりすわりこむと、両手で顔をおおって、すすり泣きはじめた。アンナはわが子の手を引き離して、その涙にぬれた顔にもう一度接吻すると、足速に戸口へ出た。と向うから、カレーニンがやって来た。アンナの姿を見ると、足を止めて、軽く頭をさげた。
アンナはたった今、パパはママよりももっとりっぱな、もっといい方だ、といったばかりだったのに、ちらと夫のほうへ視線を投げて、全身をすみずみまで残らず見てとると、夫に対する嫌《けん》悪《お》と憎《ぞう》悪《お》と、わが子を独占されているという羨望《せんぼう》の念にかられた。アンナは急いでヴェールをおろし、足を速めて、ほとんど走るようにして、部屋を出て行った。
アンナはきのう、あれほど愛情と悲しみをこめて、店屋で選んだおもちゃを、取りだす暇もなく、そのまま持ち帰って来てしまった。
31
アンナは、わが子との再会を心から望んで、もう長いことそのことについて考え、いろいろと心がまえをしていたのだが、この再会がこれほど深い感銘を自分に与えようとは、夢にも思わなかった。ホテルのさびしい部屋へもどると、アンナはなぜ自分はこんなところにいるのか、長いこと納得がいかなかった。《ええ、もうなにもかもすんでしまった。あたしは、またもとのひとりぼっちなんだわ》アンナはそう心につぶやいて、帽子もとらず、暖炉のそばの肘《ひじ》掛《か》けいすにすわった。アンナは窓と窓とのあいだに置かれたテーブルの上の青銅の時計に、じっと目をすえたまま、いろいろなもの思いにふけりはじめた。
外国から連れてきた小間使のフランス娘が、お召し替えなさいませんかといって、はいって来た。アンナはびっくりしたようにその顔をながめて、いった。
「あとで」
ボーイが、コーヒーはいかがですとききに来た。
「あとで」アンナはそう繰り返した。
イタリア人の乳母が、女の子に服を着替えさせて、はいって来ると、アンナのそばへ連れて来た。丸々と栄養のいい女の子は、いつものように母を見ると、手首を糸でくくったようにむっちり太ったあらわな手を、掌を下に向けてさしだし、まだ歯のはえぬかわいい口もとでにっこり笑いながら、魚が鰭《ひれ》を動かすように、その小さな両手で刺繍《ししゅう》のしてある糊《のり》のきいたスカートの襞《ひだ》をかくようにしながら、さらさらと音をたてた。と、ついこちらもにっこり笑って、女の子に接吻《せっぷん》しないわけにいかなかった。いや、指を一本突きだして、女の子がその指につかまって、きゃっきゃっと笑いながら、からだごと踊りあがるようにしないわけにいかなかった。さらに、唇《くちびる》を突きだして、女の子が接吻でもするような格好で、それをかわいい口もとへもっていくようにしないわけにはいかなかった。そこで、アンナはそれをなにもかもしてやった。そして、両手で女の子を抱きかかえ、ひょいと踊りあがるようにさせたり、その初々《ういうい》しい頬《ほお》や、むきだしの肘に、接吻したりした。しかし、アンナは、この子を見るにつけても、セリョージャにいだいている気持に比べれば、この子に感じている気持などは、愛情とすらいえないものであることが、ますますはっきりしてくるのであった。この女の子はどこもかしこもかわいかったけれど、なぜか少しも心を打つものがなかった。はじめての子供は、たとえそれが愛を感じていない夫の子であっても、どんなに愛しても愛したりない深い愛情がそそがれた。ところが、この女の子は、もっともつらい境遇の中で生れたために、はじめての子の場合の百分の一も心づかいがはらわれなかった。いや、そればかりか、女の子のなかに見いだされるものは、なにもかもまだ将来への期待だけであった。が、セリョージャはもうほとんど一人前の人間であったし、しかも愛すべき人間であった。少年の心の中には、もう思想と感情との戦いがあった。少年は理解する力も、判断する力も、もっていた。アンナはわが子の言葉や目つきを思いだしながら、そう考えた。しかも、アンナは肉体的ばかりでなく、精神的にも、わが子と引き離されてしまったので、もうそれを取り返すことは不可能であった。
アンナは女の子を乳母に渡して、相手をさがらせたあと、胸のロケットを開いた。その中には、今の女の子とほとんど同じ年ごろのセリョージャの写真がはいっていた。アンナは立ちあがって、帽子を脱ぐと、小さなテーブルの上のアルバムを手にとった。その中には、いろんな年ごろのセリョージャの写真があった。アンナは、それらの写真を見くらべようと思って、アルバムから抜き取りはじめた。アンナは最後に、一枚、とてもいい最近の写真を残してすっかり抜き取ってしまった。それは、白いシャツを着たセリョージャが、いすに馬乗りになって、目を細め、口もとに笑いを浮べているのだった。それは少年にとっていちばん特徴的な、いちばんかわいい表情だった。アンナは器用そうな小さな手で、きょうはとくに緊張して動く白いしなやかな指で、幾度も写真のかどをつまみおこそうとしたが、どうしてもうまくいかなかった。ペーパー・ナイフがテーブルの上に見あたらなかったので、アンナはその隣にあった写真を抜き取り、(それはローマでとったヴロンスキーの写真で、山高帽の下から、長い髪がのぞいていた)、それでわが子の写真をおしだした。《まあ、あの人だわ!》アンナはヴロンスキーの写真をながめて、いった。と、急に自分の今の悲しみの原因がだれであるかを思いだした。アンナは、この朝、まだ一度も彼のことを思いださなかった。ところが今、この男らしい、上品な、すっかりなじんでしまったなつかしい顔を見ると、アンナは不意に彼に対する愛情が、潮《うしお》のごとくわき起ってくるのを感じた。
《それにしても、あの人はどこにいるのかしら? なぜあの人はこんな苦しい思いをしているあたしを、ひとりぼっちにさせておくのかしら》アンナは自分がわが子に関するいっさいを彼に隠しているのも忘れて、急にそう非難がましい気持で考えた。アンナは、彼のところに今すぐ来てほしいと使いを出した。アンナは彼になにもかもいってしまおうと、その言葉までいろいろ考えたり、彼が自分を慰めてくれるときの愛情の表現をあれこれ想像しながら、胸のしびれる思いでじっと待っていた。使いはもどって来ると、今はお客がいるけれども、すぐそちらへ行くという返事をもって来たが、それと同時に、今ペテルブルグへ来ているヤーシュヴィン公爵を連れて行ってもいいかとたずねてよこした。《ひとりで来てはくれないんだわ。きのうの食事のときから、一度も会ってないというのに》アンナは考えた。《なにもかも話したいと思っていたのに、ヤーシュヴィンといっしょじゃ、だめだわ》とつぜん、アンナの頭には妙な考えが浮んできた。もしあの人があたしのことをきらいになったらどうしよう?
そして、アンナはこの数日来の出来事を思い返してみると、そのどれにも、この恐ろしい考えを裏書きするものが見いだせるような気がした。彼がきのう、宿で食事をしなかったことも、このペテルブルグでは、部屋を別々にするよう主張したことも、今も自分とふたりきりになるのを避けでもするかのように、ひとりでやって来ないということも。
《でも、そうなら、そのことをあたしにいうはずだわ。あたしだってそれを知っておかなくちゃならないわ。もしそれが事実だとわかったら、あたしだってどうしたらいいかぐらいは、ちゃんとわかるわ》アンナは、彼の愛がさめたことを知ったとき、自分がどんな状態になるかを考えるだけの気力がなくて、こんなことを心の中でつぶやいた。アンナは彼の愛がさめたものと考えて、自分がほとんど絶望的な立場に追いこまれたように感じ、そのために、さらにいっそう興奮してきた。アンナはベルを鳴らし、小間使を呼んで、化粧室へはいった。アンナは着替えをしながら、常にもまして、念入りに化粧をした。その様子はまるで、いったん愛情のさめた彼も、アンナがもっと似合う着物を着て、もっと似合う髪型に結《ゆ》ったら、再び自分を愛してくれるようになる、とでもいうように見えた。
アンナはまだすっかり化粧ができあがらないうちに、ベルの音を聞いた。
アンナが客間へ通ったとき、彼女を注目して迎えたのは、彼でなくてヤーシュヴィンであった。ヴロンスキーは、アンナがテーブルの上に置き忘れたセリョージャの写真をながめまわしていて、すぐには彼女のほうを振り向こうとはしなかった。
「あたしたちは、もうお近づきでしたわね」アンナは自分の小さな手を、もじもじしている(彼の大きな図体《ずうたい》や無骨な顔に似合わず、それはいかにもこっけいに見えた)ヤーシュヴィンの大きな手の上にのせた。「去年の競馬のときからでしたわね。さあ、それを貸して」アンナはいって、素早い手つきで、ヴロンスキーの見ていたわが子の写真を取りあげ、そのきらきら輝いているひとみで意味ありげに彼を見つめた。「今年の競馬はようございましたか? あたしはそのかわりといってはなんですけど、ローマで、コルソの競馬を見ましたわ。そうそう、あなたは外国の生活がおきらいでしたわね」アンナはやさしく微笑を浮べながらいった。「あなたのことはよく存じておりますわ。ご趣味だって、残らず承知していますわ。そりゃ、幾度もお会いはいたしませんけれど」
「そりゃ、残念ですな。なにしろ、ぼくの趣味ときたら、ほとんど悪いものばかりですからね」
ヤーシュヴィンは、左の口ひげをかみながらいった。
ヤーシュヴィンは、しばらく話をしているうちに、ヴロンスキーが時計を見たのに気づくと、アンナに向って、まだペテルブルグには長いことご滞在ですかとたずね、大きなからだを伸ばして、軍帽に手をかけた。
「そう長いことはないと思いますの」アンナはちょっとヴロンスキーのほうを向いて、どぎまぎしながら答えた。
「それじゃ、もうお目にかかれませんね?」ヤーシュヴィンは立ちあがり、ヴロンスキーのほうを向いて、話しかけた。「きみはどこで食事するんだい?」
「どうぞ、あたくしのところへお食事にいらしてくださいまし」アンナはきっぱりした調子でいったが、その様子はわれながら自分の当惑に腹を立てているようなふうであった。もっとも、アンナはいつも初対面の人の前で自分の境遇をあきらかにするときの常として、顔を赤らめた。
「ここのお食事はおいしくありませんけれど、とにかく、この人とはお会いになれますもの。アレクセイは連隊のお友だちの中で、だれよりもあなたが好きなんですから」
「そりゃ、うれしいですね」ヤーシュヴィンは微笑を浮べて答えたが、ヴロンスキーは、その微笑からアンナがすっかり彼の気に入ったのを見てとった。
ヤーシュヴィンは会釈をして出て行った。ヴロンスキーはあとに残った。
「あなたもお出かけになるの?」アンナはきいた。
「これでも、もう遅いくらいだよ」彼は答えた。「おい、先に行ってくれ! すぐに追いつくから!」彼はヤーシュヴィンに向って叫んだ。
アンナは彼の手をとると、じっと目を放さずにその顔を見つめながら、相手を引き止めるために、なんといったものかと、心の中で考えていた。
「ね、待ってちょうだい。ちょっとお話ししたいことがあるの」そういって、アンナは相手の短い手をとって、それを自分の首へおしつけた。「ねえ、あの方をお食事にお招きしたの、かまわなくて?」
「なに、上出来だったよ」彼は落ち着いた微笑を浮べ、きれいな歯並みを見せて、アンナの手に接吻しながら、いった。
「アレクセイ、まさかあたしのことをきらいになったんじゃないでしょうね?」アンナは両手で相手の手を握りしめながら、いった。「アレクセイ、あたし、ここへ来てからすっかりまいってしまいましたわ。あたしたち、いつ、発つんですの?」
「いや、もうすぐだよ。ほんとに。ぼくだってここの生活がどんなにつらいか、とてもきみには信じられないくらいだよ」彼はいって、自分の手をひっこめた。
「じゃ、行ってらっしゃい、行ってらっしゃい!」アンナは侮辱でもされたようにいって、さっと彼のそばを離れた。
32
ヴロンスキーが宿へもどったとき、アンナはまだ帰って来ていなかった。彼が出かけてからまもなく、ある婦人がたずねて来て、アンナはその婦人といっしょに出かけた、ということであった。アンナが行き先も告げずに出かけたことも、こんな時分まで帰って来ないことも、けさほどもなんともいわないで、どこかへ出かけたことも、――こうしたいっさいのことは、けさのアンナの妙に興奮した顔色や、ヤーシュヴィンの目の前でほとんどひったくるようにしてわが子の写真をとったときの、あの敵意に満ちたような態度の思い出とひとつになって、ヴロンスキーを考えこませてしまった。彼はぜひともアンナとよく話し合わなければならないと決心した。そこで、彼は客間でアンナを待っていた。ところが、アンナはひとりきりでなく、叔母《おば》にあたるオブロンスキー公爵令嬢という、オールド・ミスを連れて帰って来た。それはけさほどたずねて来て、アンナがいっしょに買い物に出かけた婦人であった。アンナは、ヴロンスキーの心配そうな、いかにもけげんな顔色に、気づかないようなふりをして、けさの買い物について、おもしろそうに彼に話しだした。彼は、アンナの内部でなにか変ったことが起りつつあるのを見てとった。彼の上にちらと止ったアンナのきらきら輝くひとみの中には、はりつめた注意があったし、その話し方にも、しぐさにも、神経質な敏速さと優美さとがあった。それらのものは、ふたりが知り合ったころには、彼をとても魅了したものであったが、今ではなにか不安を感じさせ、おびやかすようなものになっていた。
食卓は四人前用意されていた。みんながもう顔をそろえて、小さな食堂へ行こうとしたとき、トゥシュケーヴィチが公爵夫人ベッチイからアンナへの伝言をもってたずねて来た。ベッチイは、健康がすぐれないので、お別れにうかがえなかったことをわびたうえ、六時半から九時までのあいだに、アンナに来てほしい、といってよこした。ヴロンスキーは、だれにも出会わないように、ちゃんと用意ができていることを示すこうした時間の指定を聞くと、ちらとアンナの顔を見た。しかし、アンナはそれに気づかないふうであった。
「まあ、残念ですこと。ちょうど六時半から九時までのあいだは、あたくしも都合が悪いんですの」アンナはかすかな微笑を浮べていった。
「公爵夫人はさぞ残念がられるでしょう」
「そりゃ、あたくしだって」
「じゃ、きっと、パッチイをお聞きにいらっしゃるんですね?」
「まあ、パッチイですって……いいことを教えてくださいましたわね。桟《さ》敷《じき》の切符さえ手にはいりましたら、あたくしもまいりとうございますわ」
「私が手に入れてさしあげますよ」トゥシュケーヴィチは申し出た。
「それはどうも、ほんとにありがとうございます」アンナはいった。「それはそうと、ごいっしょにお食事をなさいません?」
ヴロンスキーは、ちょっと目につかぬくらいに、肩をすくめた。彼は、アンナがなにをしようとするのか、まったく納得がいかなかった。なぜ、こんなオールド・ミスの公爵令嬢を連れて来たのか、なぜトゥシュケーヴィチを食事に引き止めたのか、いや、なによりも驚くべきことは、なぜトゥシュケーヴィチを桟敷をとらせにやろうとするのか。アンナのような境遇にあるものが、顔なじみの社交界の全員が集まっている、パッチイの公演に出かけて行くなどということは、いったい正気のさたであろうか? 彼はまじめな目つきでアンナをながめた。しかし、アンナは相変らずいどむような、楽しいのか、やけになっているのかわからぬようなまなざしで、彼に答えるばかりであった。彼にはその意味が見当もつかなかった。食事のあいだじゅう、アンナはとてもきげんがよかった。まるでトゥシュケーヴィチにも、ヤーシュヴィンにも、わざとこびているかのように見えた。一同が食卓を離れて、トゥシュケーヴィチは桟敷をとりに出かけて行き、ヤーシュヴィンがたばこを吸いに外へ出たとき、ヴロンスキーは彼を誘って自分の部屋へおりて行った。しばらく休んでから、彼は階上《うえ》へ駆け上った。アンナはもうパリで仕立てた、ビロードをあしらった、明るい色の胸あきのひろい、絹の衣装を着て、高価な白いレースの髪飾りをつけていたが、それは顔をくっきり浮きださせて、そのきわだった美《び》貌《ぼう》を、さらに効果的にしていた。
「ほんとに芝居へ行くつもりですか?」彼はアンナの顔を努めて見ないようにしながら、たずねた。
「なぜそんなにびっくりしたようにおききになるんですの?」アンナは相手が自分の顔を見なかったので、またもや侮辱を感じながら、答えた。「ねえ、なぜあたしが行っちゃいけないんですの?」
アンナはまるで彼の言葉の意味がわからないみたいであった。
「いや、なに、べつに理由はありませんよ」彼は眉《まゆ》をしかめていった。
「だから、あたしもそういってるんじゃありませんか」アンナはわざと相手の皮肉な調子を理解しないふうに、いいかおりのする長い手袋を、静かに折り返しながら、いった。
「アンナ、お願いだよ! きみはどうかしたのかい?」彼は相手の目をさまさせようとするかのようにいったが、それは、いつか夫がアンナにいったのとまったく同じ調子であった。
「なんのお話をしてらっしゃるのか、ちっともわかりませんわ」
「とても行かれないってことは、自分でもわかってるんでしょうね」
「どうしてですの? なにもあたしはひとりでまいるわけじゃありませんわ、公爵令嬢のワルワーラさんも着替えにお帰りになったし、ごいっしょしてくださることになってるんですのよ」
彼は当惑とも絶望ともつかぬ様子で、肩をすくめた。
「それにしても、きみにはわからないんですか……」彼はいいかけた。
「ええ、そんなことはわかりたいとは思いません!」アンナはほとんど叫ぶようにいった。「思いませんとも! 自分でしたことをあたしが後悔するなんて? いいえ、いいえ、ちっとも! たとえもう一度はじめからやりなおしたところで、やっぱり同じことになったでしょうよ。あたしたちにとって、あたしにも、あなたにも、大事なことはただ一つ、あたしたちがお互いに愛しあっているかどうかってことですわ。もうそれ以外になんにも考えることなんてありませんわ。なんだってあたしたちはここで別々に暮して、顔も合せないでいるんですの? あたしはあなたを愛しているんですから、あたしにはそんなことどうだってかまわないんです」アンナは一種独特の、彼には不可解な輝きを目に浮べて、ちらと彼の顔をのぞきながら、ロシア語でいった。
「あなたさえ心変りをなさらなければ。ねえ、なんだってあたしの顔をごらんにならないの?」
彼はアンナの顔をながめた。そして、その顔といつもながらよく似合う衣装の美しさを、すっかり見てとった。が、今はその美しさも、優雅さも、ただ彼の心をいらだたせるばかりであった。
「ぼくの気持が変るなんてことはありませんよ。あなただってそれは知ってるじゃありませんか。でも、お願いですから、行かないでください」彼は優しい哀願の気持を声にこめて、またフランス語でいったが、しかしそのまなざしには冷たいものがあった。
アンナはその言葉に耳をかさないで、まなざしの中の冷たい色だけを見た。そして、いらだたしげに答えた。
「じゃ、なぜ行っちゃいけないのか、そのわけを説明してくださいな」
「なぜって、ひょっとするとあなたは……」彼はいいよどんだ。
「なんだか、ちっともわかりませんわ。ヤーシュヴィンは、n'est pas compromettant 公爵令嬢のワルワーラさんだって、なにもほかの人より悪いってことはありませんもの。あら、もういらした」
33
ヴロンスキーは、アンナがわざと自分の境遇を理解しようとしないことに対して、今はじめて、いまいましさ、というよりも、ほとんど憎《ぞう》悪《お》に近い感情を覚えた。この気持は、彼が自分のいまいましさの原因を、アンナに説明することができなかったので、なおさら激しくなった。もし彼は自分で考えていることを率直にいうことができたなら、きっとこういったにちがいない。《そんな目だつ格好をして、あのだれひとり知らぬもののない公爵令嬢と劇場に姿を現わしたら、それは自分が身を滅ぼした女であることを自分から認めることになるばかりでなく、社交界に挑戦することに、つまり永久に社交界と絶縁することになるんだよ》と。
彼もアンナにそこまではいえなかった。《いや、それにしても、なんだってあれにはこんなことがわからないんだろう。あれの心の中にはなにが起っているんだろう?》彼は心の中でつぶやいた。彼は、アンナを尊敬する気持が薄らいでくるのと同時に、アンナを美しいと思う気持がますます強くなってくるのを感じた。
ヴロンスキーは顔をしかめて、自分の部屋へもどると、ヤーシュヴィンのそばに腰をおろした。彼はいすの上に長い足をのばして、ソーダ水で割ったコニャックを飲んでいた。ヴロンスキーもそれと同じものを注文した。
「きみはランコフスキーの『モグーチイ』のことを話してたね。ありゃいい馬だよ。きみ、買ったらいいじゃないか」ヤーシュヴィンは友人の暗い顔をちらと見て、いった。「尻がちょっと下がり気味だが、足と首は申し分ないからね」
「ぼくも買おうと思ってるよ」ヴロンスキーは答えた。
馬の話は彼の興味をひいたが、彼は片時もアンナのことが忘れられなかったので、われともなしに廊下の足音に耳をすましたり、暖炉の上の時計に目をやったりしていた。
「アンナさまが、劇場へお出かけになりますから、そう申しあげるようにとのことでございます」
ヤーシュヴィンは、泡《あわ》立《だ》つソーダ水の中へ、もう一杯コニャックを入れて、ぐっと飲みほすと、ボタンをかけながら、立ちあがった。
「さあ、もう出かけようじゃないか」彼は口ひげの陰にかすかな微笑を浮べながらいった。彼はこの微笑で、自分はヴロンスキーのふさいでいるわけを知っているが、そんなことはべつにたいしたことじゃない、という気持を表わしたのであった。
「ぼくは行かないよ」ヴロンスキーは暗い顔をしていった。
「でも、ぼくは行かなくちゃならんよ。約束しちまったんだから。じゃ、またあとで、なんなら、平土間へでも来いよ、クラシンスキーの席があるから」ヤーシュヴィンは出がけに、こうつけ加えた。
「いや、用があるんだ」
《女房も厄介なものだが、女房でないやつは、もっと厄介だな》ヤーシュヴィンは宿を出ながら、考えた。
ヴロンスキーはひとりきりになると、いすから立ちあがって、部屋の中を歩きまわりはじめた。
《それにしてもきょうは、なにがあるんだっけ? 公演の四日めだな……エゴール兄さんも、細君といっしょに行ってるだろうし、きっと、おふくろもいっしょだろう。いや、つまり、ペテルブルグ社交界の全員があそこに集まってるってわけさ。今ごろあれは中へはいって、毛皮の外套を脱ぎ、明るいところへ姿を現わしたところだろう。トゥシュケーヴィチ、ヤーシュヴィン、ワルワーラ公爵令嬢か……》彼は想像してみた。「じゃ、このおれはどうしたっていうんだ? びくびくしているっていうのか、それとも、あれの保護役をトゥシュケーヴィチに頼んだっていうのか? いや、どう考えてみたって、ばかげてるさ、まったくばかげているとも……いや、そうはいっても、なんだってあれはおれをこんな立場に追いこんだんだろう?」彼は片手を振って、つぶやいた。
彼はそのひょうしに、ソーダ水とコニャックのフラスコが置いてあった小さなテーブルにぶつかって、危うく倒すところだった。彼はそれをおさえようとしたが、落してしまったので、いまいましそうにテーブルを足でけとばして、ベルを鳴らした。
「おい、ちゃんと奉公するつもりなら」彼は、はいって来た召使にいった。「自分の仕事をよく覚えておけよ。こんなことのないようにな。さあ、ちゃんと片づけなくちゃだめじゃないか」
召使は、自分には罪はないと思ったので、言いわけをしようとした。が、主人の顔を見たとたん、その顔色から黙ってるにかぎると悟ったので、急いでぺこぺこしながら、じゅうたんの上にひざをつき、グラスや瓶《びん》の無事なのやこわれたのを、選《よ》り分けはじめた。
「そんなことはおまえの仕事じゃない。ボーイを呼んで片づけさせればいいんだ。おまえは、おれの燕《えん》尾《び》服《ふく》を用意しろ」
ヴロンスキーは八時半に劇場へはいった。舞台はまさに最高潮であった。小がらな老人の座席係は、ヴロンスキーの外套を脱がせると、彼であると気づき、『閣下』と呼びかけて、どうか番号札などとらないで、ただフョードルとお呼びください、と申し出た。明るい廊下には、ひとりの座席係と、外套を手にして、戸口で聞いているふたりの召使のほかは、だれもいなかった。細めに開かれたドアの中からは、断音的なオーケストラの慎重な伴奏の響きと、はっきりと歌詞を歌うひとりの女性歌手の声が聞えてきた。ドアが開いて、ひとりの座席係がすべりこんだとき、終りに近づいていた歌詞が、驚くほどはっきりとヴロンスキーの耳に達した。が、ドアはすぐしまってしまったので、ヴロンスキーにはその歌詞と結尾装飾《カデンツァ》の終りが聞えなかったが、ドアの中から聞えてくる雷のような拍手の響きによって、結尾装飾《カデンツァ》が終ったことを悟った。彼が、シャンデリヤや青銅《ブロンズ》のガス燈でまぶしいほど照らされた場内へはいったとき、どよめきはまだつづいていた。舞台にはひとりの女性歌手が、あらわな肩とダイヤモンドを輝かせながら、身をかがめて、微笑を浮べながら、片手をあずけたテノールの助けをかりて、フットライト越しに乱れ飛んでくる花束を集めていたが、やがて、ポマードでかためた髪を半分に分けた紳士が、フットライト越しに、なにやら品物を持った長い手をさしだしているほうへ近づいて行った。と、平土間の観客も、桟敷の人たちも、いっせいにみんなどよめきたって、前のほうへ乗りだしながら、大声をはりあげたり、拍手したりしていた。台の上の指揮者は、それを取り次いでやりながら、自分の白ネクタイをなおしていた。ヴロンスキーは、平土間のまん中まで行くと、足を止めて、あたりを見まわした。今夜の彼はこのなじみぶかい、いつもながらの光景――舞台や、人びとの騒ぎや、すしづめの場内の、もう知りぬいてしまっておもしろくもない、色とりどりの観客の群れなどには、いつもほどの注意さえはらわなかった。
いつもながら桟敷の奥には、相も変らぬどこかの貴婦人が、どこかの将校と並んでいたし、相も変らず、どこのだれともわからぬ色とりどりな装いのご婦人たち、軍服姿、フロックの紳士たち、天井桟敷の相も変らぬきたならしい聴衆。こうした群衆の中にも、桟敷と平土間の前列あたりには、ほんものの《・・・・・》紳士淑女が四十人ばかりいた。ヴロンスキーはさっそくこのオアシスへ注意を向け、すぐその仲間へはいって行った。
彼がはいって行ったとき、第一幕が終った。そこで、彼は兄の桟敷へ寄らずに、第一列めまで進み、フットライトのそばのセルプホフスコイの横に立ち止った。セルプホフスコイは片ひざを曲げて、踵《かかと》でフットライトを軽くこつこつたたいていたが、遠くから彼を見つけて、微笑を浮べて呼んだからである。
ヴロンスキーはまだアンナを見かけなかった。いや、彼はわざとそちらを見なかったのである。しかし、彼は人びとの視線の動きによって、アンナがどこにいるかわかっていた。彼は、目につかぬようにちらとあたりを振り向いたが、アンナは捜さなかった。彼はもっと悪い場合を想像して、目でそれとなくカレーニンを捜した。が、幸いなことに、今夜、カレーニンは劇場に来ていなかった。
「もうきみには軍人らしいところが、ほとんどなくなってしまったね!」セルプホフスコイは彼にいった。「外交官か、芸術家か、まあ、そういったところだね」
「ああ、家へ帰るとさっそく、燕尾服を着たってわけさ」ヴロンスキーは微笑を浮べて、ゆっくりとオペラ・グラスを取りだしながら、答えた。
「いや、じつをいうと、その点がぼくにはうらやましいのさ。なにしろ、ぼくは外国から帰って、こいつをつけたときには」彼は参謀肩章をさわってみせた。「まったく自由が惜しかったよ」
セルプホフスコイは、ヴロンスキーの軍人としての栄達には、もうずっと前からあきらめていたが、相変らず彼に好意をもっていたので、今夜もとくに愛《あい》想《そ》がよかった。
「きみが一幕めに遅れたのは残念だったね」
ヴロンスキーはそれを片方の耳で聞きながら、一階桟敷から二階桟敷へとオペラ・グラスを移して、桟敷の中をよく見まわした。ヴロンスキーは、ターバンをした婦人と、オペラ・グラスを向けられて、腹立たしげにまたたきをしているはげ頭の老人のそばに、とつぜん、アンナの顔を見つけた。それはレースで縁どられた、目のさめるほど美しい、傲然《ごうぜん》とほほえんでいる顔であった。アンナは彼から二十歩ほど離れた、一階桟敷の五つめにいた。アンナは前の列にすわって、軽くからだをひねった姿勢で、なにやらヤーシュヴィンに話していた。美しい幅広な肩の上にのった頭の格好や、そのひとみや顔全体の控えめな、しかも興奮した輝きは、モスクワの舞踏会で見たときのアンナの容姿を、そっくりそのまま思い起させた。しかし、今の彼は、その美しさをまったく違ったふうに感じた。いまやアンナに対する彼の感情の中には、少しも神秘的なものがなかったので、その美貌は前よりもさらに激しく彼をひきつけながらも、それと同時に、彼の気持を侮辱するものであった。アンナはヴロンスキーのほうを見なかったが、彼はアンナがもう自分に気づいているのを感じていた。
ヴロンスキーがまたそちらへオペラ・グラスを向けたとき、彼はワルワーラ公爵令嬢がひどくまっ赤になって、不自然に笑いながら、隣の桟敷をたえず振り返っているのに気づいた。一方アンナは、扇をたたんで、それで手すりの緋《ひ》のビロードをたたきながら、どこかあらぬ方をながめていて、隣桟敷のほうへは見向きもしなかった。どうやら、そこで起っていることを、見たくないらしかった。ヤーシュヴィンの顔には、例のトランプに負けたときのような表情が浮んでいた。彼はしかめ面をして、左の口ひげを、だんだん深く口へおしこみながら、横目をつかって、やはり隣桟敷を見ていた。
その左隣の桟敷には、カルターソフ夫妻がいた。ヴロンスキーはこの夫妻を知っていたし、アンナが夫妻と知合いであることも承知していた。やせて小がらなカルターソフ夫人は、桟敷のまん中で、アンナに背を向けて、夫のさしだすマントを羽織っていた。夫人は青ざめて、腹立たしげな表情で、なにやら、興奮してしゃべっていた。太ったはげ頭の紳士カルターソフは、たえずアンナのほうを振り返りながら、妻をなだめようと努めていた。妻が出て行ってからも、夫は長いこときょろきょろ見まわしながら、アンナの視線を捕えようとしていた。どうやら、アンナに会釈したかったらしい。ところが、アンナは明らかに、わざとそれに気づかないふりをしながら、うしろ向きになったまま、自分のほうに短く刈った頭を突きだしているヤーシュヴィンに、なにやら話していた。カルターソフはついに会釈もせずに出て行き、桟敷はからっぽになった。
ヴロンスキーは、カルターソフ夫妻とアンナとのあいだにいったいなにが起ったのかは、わからなかった。しかし、彼はそれがなにかアンナにとって屈辱的なことであるのを悟った。彼がそれを悟ったのは、目撃したことにもよるが、それ以上にアンナの顔色から悟ったのである。アンナが、いったん自分で引き受けた役割を最後まで果そうと、必死になっていることは、彼の目にも明らかだった。そして、この外面的な落ち着きを装おうという役割は、見事に果されていた。アンナとその境遇を知らない人びと、また彼女が大胆にも社交界へ姿を現わしたばかりか、人目につきやすいレースの髪飾りをして、その美貌を見せびらかしたのに対して、婦人たちが哀れみや、怒りや、驚きの言葉を口にしたのを聞かなかった人びとは、アンナの落ち着きと美貌に見とれて、彼女が柱に縛りつけられたさらし者の気持を味わっているなどとは、夢にも疑ってみなかったであろう。
ヴロンスキーは、なにか起ったということはわかっていても、はたしてそれがなんであるかわからなかったので、不安を覚え、なにか聞き出せるかと期待しながら、兄の桟敷へ出かけて行った。彼はわざとアンナの桟敷とは反対側になる平土間の通路を選んで、外へ出ようとしたが、そのひょうしに、ふたりの知人と話をしていた自分の昔の連隊長に出くわしてしまった。ヴロンスキーは、カレーニン夫妻の名が話に出ているのも耳にしたし、連隊長が急いで話し相手に意味ありげに目くばせをして、大きな声でヴロンスキーを呼んだのにも、気づいた。
「おい、ヴロンスキー! いったい、いつ連隊へ来てくれるんだね? 一度飲まなけりゃ、発《た》たしてやらんぞ。なにしろきみは連隊じゃ最古参だからな」連隊長はいった。
「どうにも都合がつかないんです。まことに残念ですが、また次の機会にしていただきましょう」ヴロンスキーはいって、兄のいる二階桟敷へ、階段を駆けのぼって行った。
ヴロンスキーの母である青みがかった黒い巻髪の老伯爵夫人は、兄の桟敷にすわっていた。ソローキン公爵令嬢を連れたワーリヤが、二階の廊下で彼と出会った。
ワーリヤはソローキン公爵令嬢を、義母《はは》のところまで連れて行くと、義弟に手をさしのべて、さっそく彼の聞きたがっていたことを話しだした。ワーリヤは、彼がめったに見たことがないほど興奮していた。
「あんなことをするなんて、ほんとに卑劣な忌わしいことですわ。だってマダム・カルターソフなんかには、なんの権利もないんですもの。マダム・カレーニンは……」
ワーリヤは話しだした。
「いったい、どういうことなんです? ぼくは知らないんですよ」
「まあ、あなたはお聞きにならなかったの?」
「だって、そんな話はいちばんあとにぼくの耳にはいるんですからね」
「ほんとに、あのカルターソフの奥さんくらい意地が悪い人はいませんわ!」
「いったい、あの人がなにをしたんです?」
「主人から聞いたんですけど……あの人はカレーニン夫人を侮辱したんですもの。あの人のご主人が、桟敷越しにアンナさんとお話をなさりかけたら、カルターソフ夫人がご主人に食ってかかったんですって。なんでも、あの人は大きな声でなにやら失礼なことをいって、さっさと出て行ってしまったんですって」
「伯爵、お母さまがお呼びでいらっしゃいますよ」ソローキン公爵令嬢が、桟敷のドアから顔をのぞかせて、いった。
「あたしはずっとおまえを待っていたんですよ」母はあざけるような笑いを浮べながらいった。
「おまえがどこにも見えないんだもの」
むすこは母が喜びの微笑をおさえかねているのを、見てとった。
「今晩は、お母さん。今あがろうと思っていたところですよ」彼は冷やかな調子でいった。
「なんだって、おまえはfaire la cour Madame Karenine? 」母はソローキン公爵令嬢がそばを離れたとき、こうつけ加えた。「Elle fait sensation. On oublie la Patti pour elle. 」
「お母さん、そのお話はぼくにしないようにお願いしたはずですが」彼は眉をひそめながら答えた。
「なに、みなさんのいってることをいったまでですよ」
ヴロンスキーはなんとも答えなかった。そして、ソローキン公爵令嬢に二言三言言葉をかけてから、外へ出た。戸口のところで、彼は兄に会った。
「よう、アレクセイ!」兄はいった。「なんてひどいことだ、ありゃばかな女だよ、それだけの話さ……今あの人のところへ行こうと思ってたところだ。いっしょに行こう」
ヴロンスキーは兄の言葉を聞いていなかった。彼は、足速に階下へおりて行った。彼はなにかしなければならないと感じながら、それがなんであるかわからなかった。彼は、アンナが自分自身をも彼をも、こんな不自然な立場に追いこんだのが、いまいましかったが、それと同時に、アンナの苦悩を哀れむ気持を覚えて、すっかり取り乱してしまった。彼は平土間へおりて行って、まっすぐにアンナのいる桟敷のほうへ歩いて行った。桟敷のそばには、ストリョーモフが立ったまま、アンナと話をしていた。
「もうあれ以上のテノールはおりませんな。Le moule en est bris. 」
ヴロンスキーはアンナに会釈して、ストリョーモフにあいさつしながら、立ち止った。
「あなたは遅れていらしたので、いちばんいいアリアをお聞きにならなかったようですわね」
アンナはあざけるように(ヴロンスキーにはそう思われた)彼をちらっと見て、いった。
「音楽にはどうせたいした耳をもっていませんからね」ヴロンスキーはきびしくアンナを見つめながら、答えた。
「ヤーシュヴィン公爵と同じですわね」アンナは微笑を浮べながらいった。「公爵ったら、パッチイの歌い方は声があんまり大きすぎるんですって」
「ありがとう」アンナはヴロンスキーが拾ってくれたプログラムを、長い手袋をはめた小さな手で受け取りながら、いった。が、そのときとつぜん、アンナの美しい顔がぴくっと震えた。アンナは立ちあがって、桟敷の奥のほうへひっこんだ。
次の幕がはじまっても、アンナの桟敷がからのままなのに気づくと、ヴロンスキーは、アリアがはじまったのにつれてひっそりと静まりかえった場内に、「しっ、しっ」という制止の声を受けながら、平土間を抜けて、帰途についた。
アンナはもう帰っていた。ヴロンスキーがその部屋へはいって行ったとき、アンナは劇場へ行ったままの衣装で、壁ぎわにいちばん近い肘掛けいすにすわって、じっと目の前を見つめていた。彼の顔をちらと見ると、すぐまたもとの姿勢に返った。
「アンナ」彼は声をかけた。
「あなたが、あなたがみんな悪いのよ!」アンナは立ちあがりながら、絶望と憤激の涙を声にこめながら、叫んだ。
「だから、行かないようにとあれほど頼んだじゃないか。きみがいやな目に会うことはわかっていたんだ……」
「いやな目ですとも!」アンナは叫んだ。「ほんとにひどいことだわ! あたし、死ぬまで、あれだけはけっして忘れませんわ。あたしと並んですわるのがけがらわしいとまで、あの人はいったんですよ」
「ばかな女の言いぐさだよ」彼はいった。「でも、わざとあんな冒険を、いや、挑戦をしなければ……」
「あなたがそうやって落ち着きすましているのが憎らしいわ。あなたがしっかりしていれば、あんなとこまであたしを追いつめずにすんだはずだわ。あたしをほんとに愛していたら……」
「アンナ! いったい、どんなつもりで、ぼくの愛情のことなんか今持ちだすんだ……」
「だって、あなたがあたしと同じくらい愛していらしたら、あたしと同じくらい苦しんでいらしたら……」アンナはおびえたような表情で相手の顔を仰ぎながら、いった。
ヴロンスキーはアンナをかわいそうに思ったが、それにしても、やはりいまいましかった。彼はアンナに自分の愛を誓った。というのは、今はただそれだけが、アンナの気持をしずめることができたからであった。彼は言葉に出してアンナを責めなかったが、その心の中ではアンナを責めていた。
彼には、口にするのも照れるような俗っぽい愛の誓いを、アンナはむさぼるように受けいれて、少しずつ落ち着いていった。その翌日、ふたりはすっかり仲直りをして、田舎《いなか》へ向けて発《た》って行った。
第六編
ドリイは子供たちを連れて、リョーヴィン夫人となった妹キチイのポクローフスコエの領地でひと夏を過した。彼女自身の領地の屋敷は、すっかり荒れはててしまっていたので、リョーヴィン夫婦が、自分たちのところで夏を過すように、説得したからであった。夫のオブロンスキーはその申し出《いで》に大賛成であった。彼は家族といっしょにひと夏を田舎《いなか》で暮せたら、どんなに幸福かしれないが、勤めのためにそれができないのは大いに残念だとこぼしながら、自分はモスクワに居残り、時おり一日か二日泊りがけで、田舎へやって来た。子供たち全員と、女の家庭教師を連れたオブロンスキー一家のほかに、その夏リョーヴィン家には、身重なからだでいる《・・・・・・・・・》無経験な娘の面倒をみてやるのを、自分の義務だと心得ている老公爵夫人も滞在していた。いや、そのほか、キチイが外国で親友になったワーレンカも、キチイが結婚したらたずねるという約束を守って、親友のもとに滞在していた。こうした人たちはみんなリョーヴィンの妻の親《しん》戚《せき》や友だちであった。リョーヴィンはこうした人たちがみんな好きであったが、自分のリョーヴィン的な世界と秩序が、彼のひそかに命名した『シチェルバツキー分子』の氾濫《はんらん》によって、いささか圧倒されているのが気になっていた。彼の親戚のもので、この夏お客に来ているのは、コズヌイシェフひとりきりであったが、この人物もリョーヴィン的というよりは、コズヌイシェフ独特の風格をもっていたから、リョーヴィン的な精神はまさに全滅の形であった。
長いことがらあきだったリョーヴィン家も、今では満員の盛況で、ほとんどどの部屋もふさがっていた。そして、老公爵夫人はほとんど毎日食卓につくとき、全員の数をかぞえて、十三番めにすわっている孫むすこか孫娘を、別の小卓にすわらせなければならなかった。また、熱心に家政にたずさわっていたキチイにとっても、たくさんの鶏や、七面鳥や、あひるなどを手に入れるのは、かなり骨の折れる仕事だった。なにしろ、夏場なので、おとなも子供たちもすごく食欲が旺盛《おうせい》だったからである。
家族全員が食卓についていた。ドリイの子供たちは女の家庭教師とワーレンカといっしょに、どこへ茸狩《きのこが》りに行こうかと、プランをねっていた。コズヌイシェフは、その頭脳と学識のために、お客一同のあいだで崇拝に近いほどの尊敬をかちえていたが、茸狩りの話にいきなり口をはさんで、みんなを驚かした。
「私もいっしょに連れてってくださいよ。茸狩りは大好きなんですよ」彼はワーレンカを見ながらいった。「あれはなかなか楽しい仕事ですからね」
「ええ、どうぞ。あたしたちもたいへんうれしゅうございますわ」ワーレンカは頬《ほお》をそめて答えた。キチイは、意味ありげにドリイと目を見合せた。学識の高い聡明《そうめい》なコズヌイシェフがワーレンカといっしょに茸狩りに行きたいと申し出たのは、最近、とくにキチイの注意をひいていたある種の想像を、裏書きするものであった。キチイは、自分の目つきを気づかれないように、急いで母親に話しかけた。食事がすむと、コズヌイシェフはコーヒー茶碗《ぢゃわん》を手にして、客間の窓ぎわに陣どり、弟を相手に先ほどの会話をつづけながら、茸狩りのしたくのできた子供たちが出て来るはずの戸口を、しきりにじろじろとながめていた。リョーヴィンも兄のそばの、窓ぎわに腰をおろした。
キチイはなにか夫に話があるらしく、自分に少しも興味のない話が終るのを待ちながら、そばに立っていた。
「結婚してからおまえもずいぶん変ったね、いいほうへだがね」コズヌイシェフは、キチイにほほえみかけながらいったが、どうやら、はじめた会話にはあまり興味がない様子だった。「それにしても、きわめて逆説的なテーマを弁護する情熱だけは、相変らずじゃないか」
「カーチャ、立ってちゃからだによくないよ」夫は妻にいすをすすめながら、意味ありげにその顔をのぞきこんでいった。
「そうだとも。でも、もうこうしちゃいられない」コズヌイシェフは駆けだして来た子供たちを見ると、そうつけ足した。
その先頭に立って、長い靴下をぴったりはいたターニャが、茸入れの籠《かご》とコズヌイシェフの帽子を振りまわし、横っ飛びに飛びはねながら、まっすぐに彼のほうへ駆け寄って来た。
少女は勢いよくコズヌイシェフのそばまで駆け寄って来ると、父親そっくりの美しいひとみを輝かせながら、コズヌイシェフへ帽子をさしだし、それを彼の頭にかぶせたいというそぶりをした。が、少女はすぐ臆病そうな優しい微笑で、その無遠慮さを和《やわ》らげようとした。
「ワーレンカが待ってらしてよ」少女は、コズヌイシェフの微笑から、そうしてもかまわないのだと察して、そっと相手に帽子をかぶらせながら、いった。
ワーレンカは黄色い更紗《さらさ》の服に着替え、白いネッカチーフを頭にして、戸口のところに立っていた。
「行きますよ、今すぐ、行きますよ」コズヌイシェフはコーヒーを飲みほして、あちこちのポケットへ、ハンカチやシガレットケースを入れながら、いった。
「ねえ、あたしのワーレンカはほんとにすばらしいでしょう! ねえ?」キチイの声はコズヌイシェフの耳にも聞えるくらい大きかったが、どうやら、キチイはそれを望んでいるらしかった。「ほんとに美しいわ、それも上品な美しさですわ! ワーレンカは!」キチイは叫んだ。「水車小屋の森へいらっしゃるんですの? じゃ、あたしたちもあとからまいりますわ」
「キチイ、おまえはすっかり自分のからだのことを忘れておしまいだね!」老公爵夫人は、急いで戸口から出て来ていった。「そんな大きな声を出しちゃだめじゃないの」
ワーレンカは、キチイの声と、母親の小言を聞きつけると、素早く軽い足どりで、キチイのところへやって来た。そのすばしこい動作も、生きいきした顔をそめている紅《くれない》の色も、なにもかも、彼女の心の中になにかなみなみならぬものが生れていることを物語っていた。キチイは、そのなみなみならぬものが、なんであるかを知っていたので、注意ぶかく彼女の様子を目で追っていた。キチイが今わざわざワーレンカを呼んだのは、キチイの想像によると、きょう食事がすんでから、森の中で行われるであろう一大事に対して、前もって心ひそかにワーレンカを祝福したいためにほかならなかった。
「ねえ、ワーレンカ、もしある一つのことが実現したら、あたし、とってもうれしいんだけれど」キチイは相手に接吻《せっぷん》しながら、ささやくようにいった。
「あなたも、ごいっしょしてくださいます?」ワーレンカはどぎまぎしながら、今自分にいわれたことを聞かなかったようなふりをして、リョーヴィンにたずねた。
「ええ、ごいっしょしますよ。でも、打穀場《こなしば》のところまでですがね、あそこに残ってますよ」
「まあ、あなたももの好きな方ねえ?」キチイはいった。
「新しい荷車をちょっと見て、数をあたらなくちゃならないんだよ」リョーヴィンは答えた。「じゃ、おまえはどこにいるんだい?」
「テラスにいますわ」
テラスには、婦人たちがみんな集まっていた。婦人たちはいつだって食後そこに腰かけるのが好きであったが、きょうはさらにそこで仕事があった。みんなは子供の下着を縫ったり、おむつカバーを編んだりするので忙しかったばかりでなく、きょうはアガーフィヤも知らない、水を加えずにジャムを煮る新しい製法が試みられていた。キチイは実家《さと》でやっているこの新しい作り方をとりいれることにした。ところが、今までこの仕事をまかされていたアガーフィヤは、リョーヴィン家でやっていたことが悪いなんてはずはないと考え、また、そうしなければとてもできるものではないといいはって、結局、いちごややま《・・》もも《・・》に水を入れてしまった。しかし、それがわかったために、今はみんなの見ている前で、ジャムが煮られているのであり、アガーフィヤも水なしでりっぱにジャムができるということを、認めざるをえない立場になっていた。
アガーフィヤは情けなさそうな顔つきで、興奮して髪を振り乱し、やせた両腕を肘《ひじ》までまくりあげて、こんろにかけた鍋《なべ》の中をぐるぐるかきまわしていたが、心の中では、どうかジャムが焦げついて、うまく煮えないようにと祈りながら、顔を曇らせて、じっといちごを見つめていた。公爵夫人は、自分がジャムを新しい製法で煮るようにいいだしたそもそもの張本人であるから、アガーフィヤの怒りを一身に浴びているものと感じながら、わざとほかの仕事をして、まったく関係のない話をしていたが、しかしときどき、横目でこんろのほうをながめていた。
「家の女中たちの着物は、あたしがいつも自分で特売場で買うことにしているんですよ」公爵夫人は、先ほどの話をつづけながらいった。「ねえ、婆や、もうそろそろ、泡《あわ》をすくったらよくはないかい?」夫人はアガーフィヤのほうを向きながら、つけ足した。「なにもおまえなんか自分で手を出すことはないんだよ。こんなに暑いのに」夫人はキチイをおしとめた。
「あたしがやってみますわ」ドリイはいって、立ちあがると、泡だっている砂糖を、ていねいにスプーンでかきまわしはじめた。ときどき、スプーンにねばりついた泡を落すために、皿をこつこつたたいた。その皿はもう色とりどりの黄やばら色の泡におおわれていて、その底には、血のような色をしたシロップが流れていた。《みんなはきっと大喜びして、これをお茶のときになめるわ!》ドリイは、自分も子供のころ、なぜおとなたちはいちばんおいしい泡を食べないのだろうと、ふしぎに思ったことを思いだしながら、自分の子供たちのことを考えていた。
「スチーヴァにいわせると、お金をやるのがいちばんいいっていうんですけど」ドリイは使用人たちに祝儀をやるには、なにがいちばんいいかという先ほどからの興味ある会話をつづけながら、いった。「でもねえ……」
「まあ、お金だなんて!」公爵夫人とキチイが声をそろえていった。「女中たちは着る物のほうがいいといってますよ」
「いえ、たとえば、あたしなんか、去年はうちのマトリョーナに、ポプリンでなくて、こんなようなものを買ってやりましたがね」公爵夫人はいった。
「ええ、覚えてますわ。あの娘《こ》はお母さまの名の日に、それを着ていましたわね」
「気のきいた柄でしてね――あっさりしていて、それで上品で。あれのにしなかったら、あたしは自分でこしらえてもいいと思ったくらいですよ。ワーレンカのと、ちょっと似ていますね。ほんとに気のきいた柄で、しかもお安くてね」
「さあ、もうどうやら、できたようですよ」ドリイはスプーンからシロップをたらしながら、いった。
「シロップをたらしてみて、それが渦巻パンのような形になれば、いいんですよ。もう少し煮てごらん、アガーフィヤ」
「まあ、この蠅《はえ》ったら!」アガーフィヤは、ぷりぷりしながら、いった。「いつまで煮つめても、同じことでございますよ」老婆はいい足した。
「あら、かわいいわねえ、びっくりさせないでね!」キチイは一羽のすずめが、手すりに止って、木いちごの茎をひっくり返して、ついばみはじめたのを見て、いきなりこういった。
「まあ、ほんと。でも、おまえはもっとこんろから離れているようにおし」母親はいった。
「A propos de ワーレンカ」キチイはまたフランス語でいった。みんなは、アガーフィヤにわからないように、それまでずっとフランス語で話していたのである。「ねえ、ママ、あたし、なんだかきょうきまるような気がしますの。なんのことかおわかりになって? でも、そうなったら、うれしいわ!」
「それにしても、あんたもたいした仲人《なこうど》さんねえ!」ドリイがいった。「慎重に、しかもじょうずにふたりを近づけるところなんかたいしたものよ……」
「あら、そんなこと。ねえ、聞かせて。ママはどうお思いになって」
「まあ、なにをどう思うの? あの方は(あ《・》の方《・・》というのはコズヌイシェフのことであった)、いつだって、ロシア一番の縁組みをなさることがおできになったんだからね、そりゃ、今では、もうそれほどお若くはいらっしゃらないけれど。いえ、それにしても、今だってあの方のとこなら、行きたい人はたくさんあるでしょうね、そりゃ、あの娘さんはほんとにいい方だけれど、あの方ならもっと……」
「いいえ、ママ、おわかりでしょ、あのおふたりにとって、これ以上のご縁は考えられないくらいですのよ。第一――あんなすばらしい女の方はいませんもの!」キチイは、指を一本折り曲げながら、いった。
「あの方には、あの娘さんがたいへんお気に入りのようね、これはたしかよ」ドリイが相《あい》槌《づち》を打った。
「それに、あの方は社会でりっぱな地位を占めていらっしゃるから、ご自分の奥さんの財産だの、社会上の地位なんか、まるっきり必要ないんですもの。あの方に必要なのはただ、美しい、気立てのやさしい、落ち着いた奥さんだけですわ」
「そうね、あの人となら、平和に暮せるわね」ドリイがまた相槌を打った。
「第三に、あの女《かた》があの人を愛していなくちゃだめですけれど。その点も大丈夫ですし……つまり、これがまとまったら、もう申し分ないんですけどねえ。あたしったら、今にもあのおふたりが森から出ていらして、なにもかもきまってしまうのが待ち遠しくてならないの。あたしはその目つきをひと目見ればわかってしまうわ。そうなったら、どんなにうれしいでしょう。ねえ、ドリイ、どうお思いになって?」
「まあ、そう興奮しちゃいけないよ。おまえはけっして興奮しちゃいけないんですよ」母親はいった。
「なにも、ママ、興奮なんかしてませんよ。ただきょうにも、あの人が申し込みをなさりそうな気がするんですよ」
「ほんとに、ふしぎなものですわねえ、男の人がどんなふうにいつ結婚の申し込みをするかってことは……なにか堰《せき》みたいなものがあって、それが不意に破れてしまうようなものなのね」ドリイはもの思わしげにほほえみながら、自分と夫のオブロンスキーとの昔を思いだして、いった。
「ママ、パパはどんなふうに申し込みをなすったの?」いきなりキチイがたずねた。
「なにも変ったことはありませんでしたよ、ごく普通でしたよ」公爵夫人は答えたが、その顔は思い出のために、さっと明るく輝いた。
「あら、そんな。ねえ、どんなふうでしたの? でも、とにかく、正式におつきあいする前から、ママはパパのことを愛してらしたんでしょう?」
キチイは、女の一生にとってもっとも重大な問題について、いまや母と対等の立場で話ができることに、一種特別の魅力を感じていた。
「そりゃ、愛していましたとも。お父さまはあたしの田舎へ、よくいらっしゃいましたからね」
「でも、どんなふうにしてきまったんですの、ママ?」
「まあ、おまえったら、きっと、自分たちだけがなにか新しいことを考えついたとでも思ってるんだろう? でもね、そんなことはいつだって同じことなんですよ。目つきや笑顔できまってしまうのさ……」
「あら、ママったら、ずいぶん気のきいたことをおっしゃいますのね。ほんとに、目つきと笑顔ですわ」ドリイは相槌を打った。
「それにしても、パパはどんなことをおっしゃったの?」
「じゃ、リョーヴィンさんはどんなことをいったの?」
「うちの人はチョークで書いたんですの。とってもすばらしかったわ……でも、もうずいぶん昔のことみたいな気がするわ!」キチイはいった。
こうやって、三人の女たちは同じことをじっと考えこんでしまった。キチイがまず沈黙を破った。キチイは、結婚前の最後の冬のことと、自分がヴロンスキーに夢中だったことを、ふと思いだしたからであった。
「ただ一つ気がかりなのは……ワーレンカの昔のロマンスなんですけど」キチイはふと自然な連想でそのことを思い起して、いった。「いつかそれについて、コズヌイシェフにお話しして、その心がまえをしておいていただこうと思いますの。男の方ってだれもみんな」キチイはつけ足した。「あたしたちの過去についてそれはひどく嫉《しっ》妬《と》なさるんですもの」
「みんながみんなそうとはかぎらないわよ」ドリイはいった。「あんたは自分のだんなさまを標準にして、そう思っているんでしょ。あの人ったら、今でもヴロンスキーのことを思いだして、悩んでいるんでしょう。ねえ?そうじゃない?」
「そうなの」キチイは考えこむような顔つきで、目だけで笑いながら答えた。
「それにしても、あたしにはわからないね」公爵夫人は、娘に対する母親としての心づかいを示しながら、言葉をはさんだ。「いったい、おまえのどんな過去が、あの人の気をもませるんだね? ヴロンスキーがおまえのあとを追いまわしたってことかい? そんなことはどんな娘にだってあることですよ」
「ええ。でも、今話してるのは、そんなことじゃないのよ」キチイは頬をそめていった。
「いえ、まあ、お聞きよ」母親はつづけた。「それに、おまえときたら、あたしにヴロンスキーと話し合ってはいやだといったじゃないかい? 覚えておいでだろうね?」
「まあ、ママったら!」キチイは苦しそうな表情でいった。
「近ごろでは、若い娘どもをそうそうおさえることはできないんだからねえ……おまえたちの交際も、普通のおつきあいより先へすすむわけにはいかなかったんですよ。あたしは自分であの人を呼んで、そのことをいっておきたかったんだけど。それはそうと、おまえは興奮しちゃよくありませんよ。ねえ後生だから、そのことを覚えていて、気をしずめておくれ」
「あたし、ちっとも興奮なんかしていませんわ、ママ」
「あのときアンナが来てくれたのは、キチイにとってほんとにしあわせだったわね」ドリイはいった。「でも、あの人にとっては、ほんとに不幸なことだったけれど。命じゃまるで反対になってしまいましたもの」ドリイはわれながら自分の考え方にはっとしながら、こうつけ加えた。「あの時分はアンナがとてもしあわせで、キチイは自分のことを不幸だと思っていたのに、今じゃ、まるっきりその反対になってしまったんですからねえ! あたし、よくアンナのことを考えるんですの」
「まあ、考える人に事欠いて、あんな人のことを。あんないやな、けがらわしい、情けしらずの女のことなんか」母親は、キチイがヴロンスキーでなく、リョーヴィンと結婚したことがいまだに心のこりらしく、こういった。
「なんだってそんなお話をなさりたいの?」キチイはいまいましそうにいった。「あたし、そんなこと考えたこともないわ、それに考えたくもないわ……ええ、考えたくもないわ」キチイはテラスの階段をのぼって来る、聞きなれた夫の足音に耳をすましながら、いった。
「なんの話をしてるんだい、考えたくもないなんて?」リョーヴィンはテラスへはいりながら、たずねた。
ところが、だれもそれに答えなかったので、彼も質問を繰り返さなかった。
「いや、どうも、みなさんの女性王国をお騒がせしてすみません」彼はむっとして一座を見まわし、みんなが自分の前ではなにかいいにくい話をしていたのを察していった。
その瞬間、彼はアガーフィヤに同情している自分自身を感じた。老婆はいちごに水を入れずに煮ることや、だいたい、わが家とは縁のないシチェルバツキー家の家風が幅をきかせていることに対して、不満を感じていたからである。それでも、彼はにやっと笑って、キチイのそばへ近づいた。
「それで、からだの調子は?」彼は、近ごろキチイに声をかけるとき、だれもが浮べるような表情で、妻をながめながら、きいた。
「なんでもありませんわ。とてもいい気分よ」キチイはほほえみながら答えた。「じゃ、あなたのほうではどうでした?」
「あれは荷車の三倍もよけいに運べるよ。それじゃ、子供たちを迎えに出かけるか? もう馬車の用意はさせといたよ」
「まあ、あなたときたら、キチイを馬車に乗せて行くおつもりなんですか?」母親は非難がましくいった。
「ええ、ゆっくり行きますから、公爵夫人」
リョーヴィンは世間一般の婿がいうように、公爵夫人のことを『お母さん』とは一度も呼んだことがなかった。そして、このことは公爵夫人にはおもしろくなかった。もっとも、リョーヴィンも公爵夫人を心から愛し、尊敬していたのであるが、夫人をお母さんと呼ぶことは、亡《な》き母に対する自分のひたむきな気持をけがすような気がして、できなかった。
「ママ、いっしょに行きましょうよ」キチイはいった。
「そんな無分別なまねは見たくありませんよ」
「それじゃ、あたし歩いて行きますわ。だって、あたしはとてもからだの調子がいいんですもの」キチイは立ちあがると、夫に近づいて、その手を取った。
「いくらからだの調子がいいといっても、ものには限度というものがありますよ」公爵夫人はいった。
「そりゃそうと、アガーフィヤ、ジャムはできたかい」リョーヴィンは老婆の気持を明るくしてやろうと思って、にこにこ笑いかけながら、声をかけた。「新しい方法でうまくいったかい?」
「どうやら、よろしいようでございますよ。そりゃあたくしどもの感じですと、すこし煮すぎでございますがね」
「そのほうがいいのよ、アガーフィヤ、腐らないから。それに、家じゃ氷がみんな溶けてしまったから、しまっておく場所がないんですもの」キチイはすぐに夫の気持を悟って、それと同じ気持で老婆に話しかけた。「そのかわり、婆やのつけ物はとてもおいしくて、お母さまも、ほかではとても食べられないって、おっしゃってたわ」キチイは微笑を浮べて、老婆の肩掛けをなおしてやりながら、つけ加えた。
アガーフィヤはおこったような顔つきで、キチイを見た。
「そんな気休めはおっしゃらないでくださいまし。あたしは、奥さまがこの人といっしょにいらっしゃるところを見ているだけで、もううれしいのでございますからね」老婆はいった。そして、老婆がこのお方《・・・・》でなくこの人《・・・》と、ぞんざいな口をきいたことに、キチイはかえって心を打たれた。
「あたしたちといっしょに茸狩りに行きましょうよ。いい場所を教えてちょうだいよ」
アガーフィヤはにっこり笑って、首を振ったが、その様子はちょうど、《あなたにはいくら腹を立てようと思っても、できませんね》とでもいってるみたいであった。
「お願いだから、あたしのいうようにしておくれ」老公爵夫人はいった。「ジャムの上に紙をかぶせて、ラム酒でしめしておくんですよ。そうすれば、氷がなくても、けっしてかびやしませんから」
キチイは、夫とふたりきりになれたのが、とくにうれしかった。というのは、夫がテラスへはいって来て、なんの話をしていたのかとたずねたのに、だれも返事をしなかったとき、すぐ感情を顔色《いろ》に出す夫の顔に、悲しみの影が走ったのを、認めたからであった。
ふたりが徒歩でほかのものよりひと足さきに家を出て、裸麦の穂や穀粒がちらばっている、ほこりっぽい、踏みかためられた街道へさしかかり、もうわが家が見えなくなったとき、キチイはいっそうぴったりと夫の腕によりかかって、その腕を自分のほうへ引き寄せた。彼はもう一時的な不快な印象を忘れてしまっていた。そして、今はただ妻の妊娠をいたわる心が、ひとときも頭を去らなかったので、愛する女とふたりきりで身を寄せ合っていても、肉感的な気持をまったく超越した、彼にとって新しい、喜ばしい純粋な快感を覚えていた。彼にはなにも話すことはなかったが、こんど妊娠してからそのまなざしと同様、変ってきた妻の声の響きが聞きたくてたまらなかった。その声の中には、まなざしと同様、なにかもの柔らかさとひたむきなものが感じられた。それは、たえず一つの好きな仕事に熱中している人に、よく見られるようなものであった。
「こんなふうで疲れやしないかい? もっと寄りかかったらいいのに」彼はいった。
「いえ、大丈夫。こうしてあなたとふたりきりになれて、ほんとにうれしいわ。ねえ、ほんとをいうと、みんなといっしょに暮すのもそりゃ楽しいけれど、ずっとふたりきりで過した冬の夜がとてもなつかしく思われるの」
「あのころもよかったけど、今のほうがもっといいよ。どっちもいいさ」彼は妻の腕を締めつけながらいった。
「ねえ、あなたがはいってらしたとき、あたしたちがなんの話をしていたかご存じ?」
「ジャムの話かい?」
「ええ、ジャムの話もしてましたけど。でも、そのあとで、男の方がどんなふうに結婚の申し込みをするかについて話してましたの」
「ほう!」リョーヴィンは、妻のしゃべっている言葉よりも、声の響きに耳を傾けながら、いった。やがて、道が森にさしかかってきたので、たえず気を配りながら、妻のつまずきそうなところを避けて歩いていた。
「それから、コズヌイシェフさんとワーレンカのことも。お気づきになって?……あたし、そうなることを、とても望んでますのよ」キチイはつづけた。「どうお思いになって?」そういうと、キチイは夫の顔をのぞきこんだ。
「どう考えたらいいのか、ぼくにはわからないね」リョーヴィンは微笑を浮べながら答えた。「兄貴もこういう話になると、ぼくなんかにはとてもふしぎに思われるところがあるんだよ。ほら、いつか話してやったことがあるだろう」
「ええ、ある娘さんにすっかり夢中になっていらしたけれど、その娘さんがお亡《な》くなりになったとか……」
「それは、ぼくがまだ子供の時分の話でね、ぼくも人の話でしか知らないんだよ。でも、あのころの兄貴を覚えているけれど、そりゃすごく魅力的な人だったよ。ところが、それ以来、女の人に対する兄貴の態度を観察していると、兄貴も女の人にはなかなか愛《あい》想《そ》がよくて、時には気に入った女の人もいたようだけれど、結局、そうした女性も兄貴にとっては単なる人間にすぎなくて、女の人じゃなかった、という気がするね」
「そう。でも、今度のワーレンカとの場合は……なにかあるみたいね……」
「そりゃ、あるかもしれないね……しかし、いずれにしても、兄貴の人がらをよく知っておく必要があるね……なにしろ一種特別な、驚嘆すべき人物だからね。精神生活ばかりで生きているような人だよ。あまりにも純潔で、高邁《こうまい》な精神をもった人なんだから」
「それがどうしたの? まさか、恋をしたからといって、あの方の人格にかかわるわけじゃないでしょう?」
「いや、そういう意味じゃないよ。兄貴は精神生活だけで生きるのにすっかり慣れてしまっているから、なかなか現実と妥協することができないんだよ。ところが、ワーレンカは、やはりなんといっても、ひとつの現実だからね」
リョーヴィンも今ではもう大胆に、自分の思想を述べることに慣れていたので、自分の考えを正確な言葉で表わすことになんの苦心もはらわなかった。彼は今のように愛情に満ちているときには、妻が自分のいおうと思っていることを、ただその暗示だけで悟ってくれることを、承知していたし、事実、キチイはちゃんとそれを悟ったのである。
「そうね。でも、あの方には、あたしほどの現実性はないわね。あたしにはわかりますけれど、お兄さまはけっしてあたしみたいなものには恋をなさらないわ。でも、あの人は、どこからどこまでも、精神的なんですもの」
「いや、そんなことはないさ。兄貴はおまえをとても愛しているよ。それに、ぼくは自分の身内のものがおまえを愛してくれているってことは、いつだってとても愉快なことなんだよ……」
「ええ、あたしに親切にしてくださいますわ、でも……」
「でも、死んだニコライ兄さんほどじゃない……なにしろおまえとニコライ兄さんは、お互いに愛し合っていたからな」リョーヴィンは最後までいってしまった。「いや、なにもこんなことをいってはならないって法はないさ!」彼はつけ加えた。「ぼくはときどき自分を責めることがあるんだよ。結局は、忘れてしまうことになると思ってね。ああ、まったく、あの兄貴はなんて恐ろしい、りっぱな人間だったろうね……ええと、なんの話をしていたんだっけ?」リョーヴィンはしばらく黙っていてから、いった。
「じゃ、お兄さまには恋愛はできないとお考えなんですの」キチイは、自分の言葉になおしながら、たずねた。
「恋愛ができないという意味じゃないけれど」リョーヴィンは微笑を浮べながらいった。「しかし、兄貴には、そのために必要な弱さがないんだね……ぼくはいつも兄貴のことをうらやんでいたが、こんなに幸福になった今だって、やっぱりうらやましいよ」
「じゃ、お兄さまが恋のできないってことがうらやましいんですの?」
「いや、兄貴がぼくよりすぐれた人間なのがうらやましいのさ」リョーヴィンは微笑しながら答えた。「兄貴は自分のために生きてるんじゃないからね。生活はすべて義務にささげられているんだ。そのために、落ち着いて満ちたりていられるんだよ」
「じゃ、あなたは?」キチイは、からかうような、愛情に満ちた微笑を浮べながら、たずねた。
キチイは、自分が微笑を浮べるようになった心の動きを、どうしても言葉に表わすことができなかったにちがいない。しかし、キチイが最終的にえた結論は、夫が兄のことに感激しながら自分を卑下している態度は、けっして心底からのものではないということであった。キチイは夫がこうした偽りの態度をとる原因は、夫が兄に対して愛情をいだいているためであり、また、自分があまりにも幸福なことに気がさしているためであり、さらには、今なおたえず自己完成をしたいと望んでいるためであることを、見てとった。キチイは夫のそういうところが好きだったので、つい微笑を浮べてしまったのである。
「じゃ、あなたは? いったい、なにがご不満なんですの?」キチイは相変らず微笑を浮べたまま、たずねた。
彼は、妻が自分の不満を信じてくれないのをうれしく思った。そこで、彼は無意識のうちに、妻がそれを信じないわけをいいだすようにしむけた。
「そりゃ、ぼくは幸福だけれど、自分自身には不満なんだ……」彼はいった。
「幸福なのに不満だなんて、それどういうことですの?」
「いや、なんていったらいいかな?……じつをいえば、今はおまえがつまずかないようにということよりほか、なにも望んじゃいないんだよ……あっ、そんなに飛び越したりしちゃ、だめじゃないか!」彼は妻が道にころがっていた木の枝をまたごうとして、あまり活発な動作をしたので、そうたしなめながら、話をきった。「しかしね、自分のことをいろいろと批判して、他人と、とくに、あの兄貴と比べてみると、ぼくはまだだめだと思うのさ」
「それにしても、なにがだめなんですの?」キチイは相変らず微笑を浮べたまま、つづけた。「でも、ご自分だって他人のために尽していらっしゃるじゃありませんか。あの農園だって、農場だって、著述だって……」
「いや、ぼくはこう感じているんだ。とくに今はね――これはおまえが悪いんだがね」彼は妻の腕をぐっと締めつけて、いった。「そうしたことがみんなそうじゃないってのは。ぼくはなにもかも上《うわ》の空でやってるだけなのさ。もしああした仕事を、おまえを愛するのと同じように愛していたらね……いや、近ごろときたらまるで宿題でもやるように、いやいややっているんだからね」
「まあ、それじゃ、うちのパパのことなんか、なんとおっしゃいますの?」キチイはたずねた。「ねえ、じゃ、パパもだめなんですのね? だって、公のお仕事なんか、なにひとつしていないんですもの」
「お父さんだって? いや、そうじゃない。みんなはおまえのお父さんのように、素朴で、明朗で、善良でなくちゃいけないんだよ。でも、ぼくにははたしてそれがあるだろうか?ぼくは仕事もしないで煩悶《はんもん》しているけれど、それもみんなおまえのせいだよ。まだおまえというものがいなくて、これ《・・》がなかったときには」彼は妻の腹に目をあてていった。が、キチイはすぐその意味を察した。「ぼくも仕事に全力を注いでいたんだよ。でも、今はもうそれができない。それで気がさしているんだよ。今じゃまったく宿題でもやるように、いやいややってるんだからね、つまり、自分を偽っているのさ……」
「それじゃ、今すぐにでもコズヌイシェフさんと代りたいなんて思っていらっしゃるの」キチイはいった。「お兄さまのように、社会的なお仕事をして、その宿題を愛していさえすれば、それだけで十分だとおっしゃるんですの?」
「もちろん、そうじゃないさ」リョーヴィンは答えた。「なにしろ、ぼくはあまりに幸福すぎて、もうなにがなんだかわからないんだからね。じゃ、なにかい、おまえはきょう兄貴が申し込みをすると思ってるんだね?」彼はしばらく口をつぐんでから、こうつけ足した。
「そう思ったり、そうでないような気がしたり。ただね、そうなればいいなって、とても願っているんですの。あ、ちょっと待って」キチイは身をかがめて、道ばたに咲いていた野生のカミツレの花をつみとった。「さあ、数えてみて。申し込みをなさるか、なさらないか」キチイは夫に花を手渡しながらいった。
「する、しない」リョーヴィンは細長い、まっ白な、まん中に筋の通っている花弁を一つずつむしりとりながら、数えていった。
「いえ、それじゃだめよ!」キチイは、胸をおどらせながら夫の指の動きを見守っていたが、急に、その手をつかんで、おしとどめた。「二枚いっぺんにちぎったわよ」
「じゃ、そのかわり、この小さいやつは勘定に入れないことにしよう」リョーヴィンはまだ育ちきらない小さな花弁をむしりながら、いった。「やあ、ついに馬車に追いつかれたな」
「キチイ、くたびれやしないかい?」公爵夫人が大きな声で叫んだ。
「いえ、ちっとも」
「なんなら、乗ったらどう? 馬をおとなしく、ゆっくり歩かせればいいんだからね」
しかし、もう乗るほどもなかった。すぐそばまで来ていたので、みんなも歩いた。
黒い髪を白いネッカチーフでつつんだワーレンカは、子供たちにとりかこまれながら、優しく楽しそうに、その面倒をみていたが、好きな人と意中を打ち明けあうようなことになるかもしれないという意識のためか、上気した顔をして、いつにもましてとても魅力的に見えた。コズヌイシェフは、ワーレンカと並んで歩きながら、たえず彼女に見とれていた。彼女の顔をながめながら、彼女の口にしたさまざまな優しい言葉や、自分が知ることのできた彼女のいっさいの美点などを思い起すと、彼は自分のいだいている感情はなにか特別なものであって、遠い遠い昔、まだ青春時代のはじめにたった一度だけ味わった感情と同じものであることを、ますます意識するようになった。彼女の身近にいるという喜びの情は、たえずつのってきて、ついには、自分の見つけた大きな茸《きのこ》(大きな笠《かさ》のまわりがまくれ、足の細い白樺茸《しらかばたけ》)を、彼女の籠《かご》に入れながら、ふとその目をのぞきこんだとたん、相手の顔に喜ばしげな、と同時におびえたような困惑の紅《くれない》の色が、さっと走るのを見て、われながらどぎまぎしてしまい、無言のまま、にっこり笑いかけたが、その微笑は、あまりにも多くのことを物語っていた。
《もしそうだとしたら》彼は心の中でつぶやいた。《よくよく考えて、腹をきめなくちゃならない。まさか、子供のように、一時の迷いに身をまかせてはならないからな》
「さあ、今度はひとつ、みなさんから離れて、ひとりで茸をとりに行ってみますよ。さもないと、私のとったのが、いっこうに目だちませんからね」彼はいって、今までみんなといっしょに、まばらにおい茂っている白樺の老樹のあいだを縫いながら、絹糸のような低い草を踏んで歩いていた森のはずれから、奥のほうをめざして、ひとりで歩いて行った。そのあたりには、白樺の白い幹のあいだから、やまならし《・・・・・》の灰色の幹や、胡桃《くるみ》の黒っぽい茂みが望まれた。四十歩ばかり進んで、ばら色がかった赤い穂花が、今を盛りと咲いている、檀《まゆみ》の茂みの陰へはいると、コズヌイシェフは、もうだれにも見えないと思って足を止めた。あたりはまったくひっそりと静まりかえっていた。ただ、頭上の白樺の梢《こずえ》で、蜜蜂《みつばち》の群れのように、おびただしい蠅《はえ》が、たえずうなっているのと、時おり子供たちの声が聞えてくるばかりであった。と、不意に森はずれからほど遠くないあたりで、グリーシャを呼ぶワーレンカのコントラルトの声が響いた。そのとたん、さもうれしそうな微笑が、コズヌイシェフの顔に浮んだ。その微笑を意識すると、彼は今の自分の気持に、さも困ったものだというように頭を振り、葉巻を一本取りだして、口にくわえた。彼は白樺の幹でマッチをこすったが、長いこと火がつかなかった。白樺のしなやかな薄い皮が、燐《りん》に巻きついて、すぐ火が消えてしまうのであった。ようやく一本のマッチが燃えついた。そして、かおりのたかい葉巻の煙がゆらゆらと揺れる幅の広いテーブル・クロースのようになって、潅木《かんぼく》の茂みの上や、白樺のしだれた枝の下を縫いながら、前へ前へ、上へ上へと一定方向にただよいはじめた。コズヌイシェフは煙の流れを目で追って、自分の気持をあれこれ思いめぐらしながら、静かな足どりで歩きだした。
《だが、なぜそれがいけないんだ?》彼は考えた。《もしこれが一時的な出来心だとか、単なる情欲だとかいうものだったら、もしおれが単にこの愛着を、つまり、相互的愛着を(おれはあえてそれを相互的《・・・》ということができる)味わっているだけだとしたら、それはおれの生活全体の傾向に反するものだと、直感するはずだし、もしおれがこの愛着の思いに身をまかせることによって、自分の使命や義務にそむくことになると感じているのだったら……しかし、そんなばかなことはありゃしない。ただこれに反対をとなえることのできるただひとつの根拠は、おれがあのマリイを失ったとき、もう生涯、彼女の思い出に忠実に生きようと自分に誓ったことだけだ。たしかに、これだけは、今の自分の感情に反対する唯一の根拠としてあげることができるものだ……たしかに、これはたいせつなことだ》コズヌイシェフは心につぶやいた。が、それと同時に、この考えは自分ひとりにとっては、なんらの重要性ももちえないことを感じた。それはただ他人の目から見て、彼の詩的な役割がそこなわれるくらいのものであった。《いや、このほかには、いくら捜してみたところで、おれは自分の気持を否定するに足る口実を見つけることはできないだろう。おれがもし理性だけで選ぶとしたら、これ以上のものはなにひとつ見いだすことはできないだろう!》
彼は自分の知っている婦人や令嬢たちを、いくら思い起してみても、彼が冷静に判断した場合、自分の妻に望ましい性質をすべてあの程度にそなえている娘は、ひとりとして思い浮べることができなかった。ワーレンカは青春の魅力と初々《ういうい》しさとを、完全に兼ねそなえていたが、そうかといって子供ではなかった。だから彼女がもし自分を愛しているとすれば、それはもう意識的に愛しているのであって、女性としての当然の愛し方であった。これがまずその一つであった。次には、彼女は社交的でないばかりか、明らかに社交界に対して嫌《けん》悪《お》の情すらいだいているが、それと同時に社交界というものを知っていて、上流婦人としての礼儀作法をすべて心得ていた。それがなければ、コズヌイシェフの伴侶《はんりょ》などということは、とても考えることができなかった。第三に、彼女は信仰をもっていたが、たとえばキチイなどのように、子供っぽく無意識に宗教的で、善良なのとは違っていた。しかし、その生活は宗教的信仰に基礎をおいていた。きわめてささやかな点にいたるまで、コズヌイシェフは妻に望んでいたすべてのものを、彼女の中に見いだした。彼女は貧しく孤独な身の上だから、キチイの場合と違って、身内のものを大勢引き連れて来て、生家《さと》の影響を夫の家へ及ぼすような心配もないであろうし、あらゆる点で夫に感謝するであろう。このこともまた彼が未来の家庭生活にとって、いつも望んでいたところであった。しかも、そのいっさいの特質をそなえた娘が、現に自分を愛しているのだった。彼は謙虚な男であったが、それを認めないわけにはいかなかった。また彼も彼女を愛していた。ただ一つ問題な点は、彼の年齢であった。しかし、彼の家系は長命の血筋で、彼自身も一本の白《しら》髪《が》もなく、だれも四十歳には思わなかった。しかも、彼はワーレンカが五十の人を老人扱いにするのはロシアだけで、フランスでは五十の人は、dans la force de l'曳e であり、四十の人は un jeune homme と考えられている、といったことを覚えていた。しかも、彼自身が二十年前のように、若々しい心をもっていると感じていたら、もう年勘定などなんの問題になろう? 彼が今いだいている感じこそ、青春というものではなかろうか? 彼が別のほうから再び森のはずれへ出て、斜陽の明るい光線の中に、黄色い服を着、籠を手にして、軽い足どりで白樺の老樹のそばを通りすぎるワーレンカの優雅な姿を認めたとき、そのワーレンカの印象は、一面に斜陽の光線を浴びている黄ばみはじめた燕麦畑《えんばくばたけ》と、その向うの青々とした野末に溶けるような、黄色のまだらになったはるかな古い森の、はっとするほど美しいながめと、一つに溶け合った。彼の心は喜ばしさに締めつけられ、感動を味わった。もう決心がついたような気がした。茸をとろうとして身をかがめたばかりのワーレンカは、ふとしなやかな身ぶりで立ちあがって、うしろを振り返った。コズヌイシェフは葉巻を投げすて、決然たる足どりで、彼女のほうへ歩いて行った。
《ワーレンカ、私がまだずっと若かったころ、自分の理想の女性像をつくって、その女性を愛し、もしそれを自分の妻と呼ぶことができたら、どんなに幸福だろうと思ったものです。私は長い生涯を送って来て、今はじめてあなたの中に、自分の求めていたものを見いだしたのです。私はあなたを愛し、この手をあなたにさしだします》
コズヌイシェフは、もうワーレンカまで十歩のところへ来たとき、心の中でつぶやいた。彼女はひざをついて、グリーシャに取られないように、両手で茸をおおいかくしながら、幼いマーシャを呼んでいた。
「こっち、こっちよ! ほら、ちっちゃいのがたくさんあるわよ!」ワーレンカは持ち前のかわいらしい、胸の奥から出るような低い声で、いった。
彼女はコズヌイシェフが近づいて来るのを見ても、立ちあがろうとも、その位置を変えようともしなかった。しかし、あたりのすべてのものは、彼の耳に、彼女は自分が近づくのを感じて、喜んでいると、ささやいていた。
「いかがでした、なにかお見つけになりまして?」ワーレンカは白いネッカチーフの陰から、静かなほほえみを浮べた美しい顔を向けながら、声をかけた。
「いや、一つも」コズヌイシェフはいった。「じゃ、あなたは?」彼女は自分のまわりにいる子供たちに気をとられて、返事をしなかった。
「ほら、この木のそばにもあるわよ」ワーレンカは幼いマーシャに、小さな茸を指さして見せた。それは、枯れ草を押し分けて出たために、弾力のあるばら色の笠《かさ》を横に裂かれていた。マーシャがそれを二つに割って、白い部分を取りあげたとき、はじめてワーレンカは立ちあがった。「こんなことをしていると、幼い時分のことを思いだしますわ」彼女は子供たちのそばを離れて、コズヌイシェフと肩を並べたとき、こうつけ足した。
ふたりは無言のまま五、六歩歩いて行った。ワーレンカは、彼がいおうとしていることを悟った。いや、それがなんであるかを察して、喜びと恐怖の興奮から、胸がしびれる思いであった。ふたりは先へ先へと進んで、もうだれにも話を聞かれる心配のないところまで来ていた。が、彼はなおも話を切りださなかった。ワーレンカには、彼が黙っているほうがよかった。黙っていたあとのほうが、茸の話をしたあとよりも、お互いにいいたいことを打ち明けやすかったからである。しかし、ワーレンカは自分の意思に反して、ふと口をすべらしたかのように、こう話しかけた。
「では、なにもお見つけになりませんでしたのね? もっとも、森の中はいつも少ないもんですけれど」
コズヌイシェフはほっと溜息《ためいき》をついて、なんとも返事をしなかった。彼女が茸のことなんかいいだしたのが、残念だったのである。彼は、幼年時代のことをいいかけた、はじめの話に、ワーレンカを引きもどそうとした。ところが、彼もまたまるで自分の意思にそむくもののように、しばらく黙っていてから、彼女の最後の言葉に対して、こんな返事をした。
「白い茸はおもに森のはずれにあるものだと、ちょっと聞いたことがあるんですよ。もっとも、私は白い茸の見分けさえつかないんですがね」
さらに五、六分過ぎて、ふたりはいっそう子供たちから遠ざかり、完全にふたりきりになってしまった。ワーレンカの心臓は激しく動《どう》悸《き》して、自分でもその音が聞えるくらいであった。彼女は、自分の顔が上気して赤くなったり、青白くなったり、また赤くなったりするのを感じた。
コズヌイシェフのような人の妻になることは、シュタール夫人のもとであんな境遇を味わったあとでは、幸福の絶頂であるように思われた。いや、そればかりか、彼女は自分が彼に恋しているものと、信じて疑わなかった。しかも、それが今にもきまってしまうのだ。彼女には恐ろしかった。彼がそれをいいだすのも、いいださないのもこわかった。
今こそ打ち明けなければ、もう二度と機会はめぐってこないだろう。コズヌイシェフもそれを感じた。ワーレンカのまなざしにも、頬の紅《くれない》にも、伏せたひとみにも、すべての中に病的な期待が表われていた。コズヌイシェフはそれを見てとって、彼女が哀れになった。彼は今なにもいわなければ、彼女を侮辱することにさえなる、と感じた。
彼は心の中で、自分の決心をよしとするいっさいの根拠を、素早くたしかめてみた。自分の求婚を表現しようと思った言葉も、心の中で繰り返してみた。しかし、そうした言葉のかわりに、彼はふと、なにかしら、頭に浮んだ考えにつられて、こんなことをたずねた。
「白茸と白樺茸とは、どこが違うんですか?」
ワーレンカの唇《くちびる》は、それに答えたとき、震えていた。
「笠はほとんど区別がつかないんですけど、足のところが違いますの」
そして、こうした言葉が口から出たとたん、彼も彼女も、もうなにもかもおしまいになったことを、いわなければならなかったことも、ついにいわずじまいになるにちがいない、ということを悟った。それまで頂点に達していたふたりの興奮も、だんだんしずまっていった。
「白樺茸の足は、ちょっと見たところ、二日もひげを剃《そ》らないブリュネットの顎《あご》みたいですね」コズヌイシェフは、もう落ち着いた態度でいった。
「ええ、そうですわね」ワーレンカは微笑しながら答えた。そして、ふたりの足の向きは、ひとりでに変った。ふたりはしだいに子供たちのほうへ近づいて行った。ワーレンカは胸の痛みと羞《しゅう》恥《ち》を感じていたが、と同時に、ほっとした気持をも覚えていた。
家へもどって、いっさいの根拠をたしかめてみたとき、コズヌイシェフは、自分の判断が誤っていたと結論した。彼はやはりマリイの思い出を裏切ることができなかったのである。
「静かに、みんな、静かに」リョーヴィンは子供たちの群れが歓声をあげながら、どっと自分たちのほうへ飛んで来たとき、妻の身をかばうように、その前に立ちはだかって、まるでおこったような調子で叫んだ。
子供たちのあとから、コズヌイシェフとワーレンカも森の中から出て来た。キチイは、ワーレンカにたずねるまでもないと感じた。ふたりの落ち着きはらった、いくらか恥じ入ったような表情から、キチイは自分の計画が実現しなかったことを悟った。
「ねえ、どうだった?」夫はまた家路をさして帰る途中、彼女にたずねた。
「だめでしたわ」キチイはいったが、その微笑や話しぶりは、父親を連想させた。リョーヴィンはよく妻の中にそれを気づいて、満足を覚えたものであった。
「どうだめなんだね?」
「こういうふうですわ」キチイは夫の手を取って、自分の口もとへ持っていき、閉じたままの唇に押し当てながらいった。
「僧正さまのお手に接吻《せっぷん》するみたいなんですもの」
「どっちがだめなんだね?」
「どちらも。こういうふうでなくちゃいけないのよ……」
「百姓たちが来るよ……」
「いえ、見えやしませんでしたわ」
子供たちのお茶のあいだ、おとなたちはバルコニーに腰かけて、まるでなにごともなかったような調子で、話をしていた。そのくせ、みんなは、ことにコズヌイシェフとワーレンカは、不首尾に終ったけれど、きわめて重大な事態が生れたことを、はっきりと承知していた。ふたりとも、試験に落ちて原級にとどまったか、それとも永久に除名されたかした生徒のような気持を味わっていた。その場に居あわせたすべての人も、やはり、なにごとかが起ったのを感じて、わざとにぎやかにまったく関係のないことを話し合っていた。リョーヴィンとキチイは、この晩、とくに幸福な、愛情に満ちあふれた気持になっていた。しかも、ふたりが互いの愛情によって幸福であるということは、同じものを望んで得られなかった人びとに対して、不愉快な暗示を与えることになるので、ふたりともなんとなく気がさしていた。
「まあ、見ていてごらん、お父さまはお見えになりませんよ」老公爵夫人はいった。
今晩の汽車で、オブロンスキーが来ることになっていたが、老公爵ももしかしたらいっしょに行くかもしれない、と手紙をよこしていたからである。
「そのわけもちゃんと知っているんですから」公爵夫人は言葉をつづけた。「お父さまの言いぐさじゃ、はじめのうちは若い者たちを放っとくにかぎるっていうお話だからね」
「ええ、そうでなくても、パパはあたしたちを、ほったらかしていらっしゃるわ。もうずいぶんお会いしないわね」キチイはいった。「それにあたしたち、もう若い者どころか、いいかげん年とってますわ」
「ただね、お父さまがおいでにならなければ、あたしはもうお暇《いとま》しますよ」公爵夫人は悲しそうに、息をついていった。
「まあ、どうしてですの、ママ」ふたりの娘が、同時にくってかかった。
「だって、よく考えてごらん。お父さまがどんなにお困りだか? なにしろ当節じゃ……」まったく思いがけなく、老公爵夫人は声をつまらせた。娘たちは口をつぐんで、互いに顔を見合せた。《ママはいつも、なにかしら悲しいことをご自分で見つけだすのね》ふたりは、その目つきで語り合った。しかし、娘たちは公爵夫人が、娘の家がどんなに居心地がよくても、またそこで自分が必要な人間だということを、どんなによく承知していても、末の愛娘《まなむすめ》を嫁にやって、家庭の巣がからっぽになって以来、自分にとっても、また夫の心を思いやっても、たまらなく寂しい気持でいたことを、知らなかったのである。
「なんの用なの、アガーフィヤ?」キチイはなにかしら秘密めかした、意味ありげな顔つきで、そこに立っていたアガーフィヤを見て、急にたずねた。
「お夜食のことでございますが」
「ああ、ちょうどよかったわ」ドリイがいった。「あんた行って、そのほうのさしずをしてちょうだい。あたしはグリーシャとあちらへ行って、勉強を見てやりますから。だって、きょうこの子は、なんにもしなかったんですもの」
「いや、そりゃぼくの仕事ですよ! いけません、ドリイ、ぼくが行きますよ」リョーヴィンは勢いよく立ちあがって、そういった。
グリーシャはもう中学へはいっていたので、夏休みのうちに学課の復習をしておかなければならなかった。まだモスクワにいる時分から、むすこといっしょにラテン語を勉強していたドリイは、リョーヴィン家へ来てからも、たとえ一日に一ぺんでもわが子を相手に、学課の中でいちばんむずかしい算数と、ラテン語を復習することに、ちゃんと規則をきめていた。ところが、リョーヴィンはその代りを務めようと申し出た。しかし、母親は一ぺんリョーヴィンの授業ぶりを聞いて、モスクワで教師が教えていたのと違うのに気づき、ひどく困惑した。そこで、リョーヴィンの気を悪くしないように努めながらも、教師がやっていたように、教科書どおりにしなければならないから、自分で見てやったほうがいいと、きっぱりした調子で申し出た。リョーヴィンはオブロンスキーがだらしないために、子供の勉強も自分で見てやらないで、何もわからない母親に押しつけているのが、しゃくだったし、それに、子供にまちがった教え方をしている教師にも腹が立った。ところが、リョーヴィンは義姉に、お望みどおりの教え方をするからと約束して、グリーシャの勉強を見てやっていたが、今度は、もう自分の考えどおりでなく、教科書どおりにやっていった。したがって、もうあまり気のりもせず、よく勉強時間を忘れがちであった。きょうもそうだったのである。
「いや、ぼくが行きますよ。ドリイ、あなたはそこにすわっていらっしゃい」彼はいった。「ちゃんと予定どおり、教科書のとおりにやりますから。ただ、もしスチーヴァがやって来たら、ぼくたちは猟に行きますからね。そのときは勘弁してもらいますよ」
そういって、リョーヴィンはグリーシャのところへ行った。それと同じことを、ワーレンカがキチイにいった。ワーレンカは、なにもかもよく整った、幸福なリョーヴィンの家庭にいても、重宝がられる存在であった。
「お夜食はあたしがいいつけますから、どうぞ、あなたはすわっていらして」彼女はいって、アガーフィヤのところへ行った。「そう、そう。きっと、雛《ひな》が見つからなかったのよ。そうだったら、うちのを……」キチイはいった。
「アガーフィヤとよく相談してみますわ」そういって、ワーレンカは、老婆といっしょに姿を消した。
「ほんとに、かわいらしい娘さんだね!」公爵夫人はいった。
「まあ、ママったら、かわいらしいだなんて。あの方はめったに見られないほどすばらしい人よ」
「それじゃ、みなさんは今晩、オブロンスキーさんを待ってらっしゃるんですね?」コズヌイシェフはいったが、それはどうやらワーレンカの話をつづけたくない様子からであった。「お宅のお婿さんたちほど、お互いに似たところが少ないのも、ちょっと珍しいですね」彼はかすかなほほえみを浮べながらつづけた。「ひとりは活動的で、ただ世間へ出たときだけ、水を得た魚のように、生きいきとなりますし、弟のコスチャときたら、元気で、すばしこくて、どんなことにも敏感なくせに、世間へ出たが最後、たちまち麻痺《まひ》したようになって、陸《おか》へ上がった魚よろしく、ただわけもわからず、もがいているだけなんですからね」
「ええ、あの人はどうも上っ調子でしてね」公爵夫人はコズヌイシェフのほうを向いて、いった。「じつは、あの人にぜひよく話していただきたいんですがね。あの子は(と、キチイをさして)、ここにずっといるわけにはまいりませんの、どうしてもモスクワへ行かなくちゃなりませんの。あの人は医者を呼べばいいといっておりますけど……」
「ママ、うちの人はなんでもちゃんとやってくれますわよ。どんなことでも承知してくれてるんですもの」キチイはこんな問題に、コズヌイシェフを裁《さば》き役《やく》にしようとする母親をいまいましく思いながら、いった。
こんな会話をしているうちに、馬の鼻あらしと砂利《じゃり》に車輪のきしむ響きが、並木道のほうから聞えて来た。
ドリイが夫を迎えにまだ立ちあがる暇もなく、もうグリーシャの勉強していた階下の部屋の窓から、さっとリョーヴィンが飛びおりて、グリーシャを抱きおろした。
「スチーヴァだよ!」リョーヴィンはバルコニーの下で叫んだ。「授業はすみましたよ、ドリイ、ご心配なく!」彼はそうつけ加え、子供のように馬車に向って駆けだして行った。
「Is, ea id, ejus, ejus, ejus! 」グリーシャは並木道をとんで行きながら、ラテン語で叫んだ。
「あ、まだほかにだれかいる。きっと、パパだよ!」リョーヴィンは並木道の入口に立ち止って、叫んだ。「キチイ、そんな急な階段をおりちゃだめだよ、まわっておいで」
しかし、リョーヴィンが幌《ほろ》馬《ば》車《しゃ》の中にすわっている人を老公爵と思ったのは、まちがいであった。馬車へ近づいて行ったとき、彼はオブロンスキーと並んでいるのは公爵でなくて、長いリボンをうしろにたらしたスコットランド風の帽子をかぶっている、でっぷりした美青年であることに気づいた。それはシチェルバツキーの又《また》従兄《いとこ》にあたる、ワーセンカ・ヴェスロフスキーという、ペテルブルグやモスクワの社交界では、有名な若手の花形で、オブロンスキーの言葉をかりれば、『一点非のうちどころのない青年で、熱心な狩猟家』であった。
ヴェスロフスキーは、自分が老公爵でなかったためにひきおこされた相手の失望などには少しも気にかけず、快活な調子でリョーヴィンにあいさつすると、自分たちが昔からの知合いであることを思いださせた。それから、グリーシャを幌馬車の中へ抱き入れて、オブロンスキーの連れて来たポインター種の犬の頭ごしにすわらせた。
リョーヴィンは馬車に乗らずに、そのあとから歩いて行った。彼は少しいまいましい気がしていた。それは親しく知れば知るほど好きになってきた老公爵が来ないで、まったく親しみのない、よけいなヴェスロフスキーがやって来たからであった。リョーヴィンは、おとなや子供たちが大勢集まって騒いでいた入口の階段に近づいたとき、このヴェスロフスキーが、とくに優雅な身のこなしで、キチイの手に接吻しているのを見て、ますますこの青年が親しみのないよけいなものに思われてきた。
「ぼくと奥さんとは、 cousins でして、昔からの知合いなんですよ」ヴェスロフスキーは再びリョーヴィンの手を固く握りしめながら、いった。
「どうだい、鳥はいるかね?」オブロンスキーは、ひとりびとりにあいさつをすませるのももどかしく、リョーヴィンに話しかけた。「なにしろ、ぼくたちは、残忍きわまる計画をもって来たんでね。お母さん、このふたりはあれっきりモスクワへ出て来ないんですからねえ。ターニャ、さあ、おみやげをあげるよ! 馬車のうしろにある荷物を取っておいで」彼はあちこちへいった。「ドーレンカ、とても元気そうになったじゃないか」彼はもう一度妻の手に接吻して、その手を握ったまま、もう一方の手でその甲を軽くたたきながら、いった。
リョーヴィンはつい先ほどまでとても楽しい気分でいたのに、今は暗い顔をして一同をながめていた。彼にはなにもかも気に入らなかった。
《きのうはあの唇で、いったいだれを接吻したことやら?》彼はオブロンスキーの妻に対する優しいしぐさを見て、心の中でつぶやいた。彼はドリイのほうも見たが、義姉も気にくわなかった。
《ねえ、義姉《ねえ》さんは、亭主の愛情を信じていないくせに。そんなら、いったい、なにをあんなにうれしがっているんだろう? けがらわしいことだ!》リョーヴィンは考えた。
彼は公爵夫人のほうを見た。と、つい先ほどまで、あれほど優しく思われた姑《しゅうとめ》であるのに、今ではまるでわが家にいるような調子で、あのリボンをたらしたヴェスロフスキーを歓待している態度が気に入らなかった。
いや、同じように玄関口へ出て来たコズヌイシェフまでが、さも親しそうにオブロンスキーを迎えたのが不愉快だった。なぜなら、リョーヴィンは、兄がオブロンスキーを好きでもなければ、尊敬してもいないことを、承知していたからであった。
ワーレンカもまた、彼にはいやらしく感じられた。なぜなら、彼女はどうかして早く結婚したいと、ただそのことばかり考えているくせに、いつもの sainte nitouche 、青年紳士とあいさつをかわしていたからであった。
それにしても、いちばんいやらしく思われたのは、キチイであった。この青年紳士は自分が田舎へやって来たのを、自分にとっても一同にとっても、まるでお祭りかなにかのように思って、すっかり調子づいていたが、キチイもついそれにつりこまれているからであった。とりわけ、不愉快に感じられたのは、青年の微笑にこたえたキチイの一種特別な微笑であった。
みんなはにぎやかに話し合いながら、家の中へ通った。しかし、みんながすわるが早いか、リョーヴィンはくるりと向きを変えて、部屋を出てしまった。
キチイは、夫になにかあったらしいのを見てとった。彼女はおりをみて、夫とふたりきりで話したいと思っていたが、彼は事務所に用があるといって、急いで妻のそばを離れてしまった。きょうほど農場の仕事が重大に思われたことは彼にはしばらくぶりであった。《あそこにいる連中はみんないつもお祭り気分でいるが》彼は考えた。《こちらはお祭りどころか、いつも待ったなしの、それをしなくちゃ生きて行けない仕事があるんだからな》
リョーヴィンは、夜食だという迎えが来てから、やっと家へ帰った。階段のところでキチイとアガーフィヤが立ち止って、夜食に出す酒のことを相談していた。
「なんだって、そんな fuss をやっているんだ、いつもと同じものを出せばいいじゃないか」
「いいえ、スチーヴァはあんなものはお飲みになりませんわ……コスチャ、ちょっと待って、いったいどうしたというんですの?」キチイは夫のあとを追いながら、話しかけたが、彼は意地悪く妻を待たずに、大股《おおまた》でさっさと食堂へはいって行き、ヴェスロフスキーとオブロンスキーが話の中心となっていた、にぎやかな世間話にすぐ加わった。
「で、どうかね、あすは猟に出かけるかね?」オブロンスキーはいった。
「ええ、出かけたいですね」ヴェスロフスキーは別のいすへ横向きにすわりながら、太った足で片あぐらをかいて、いった。
「ぼくも大賛成です。出かけましょう。それで、今年はもう猟にいらしたんですか?」リョーヴィンは注意ぶかく相手の足をながめながら、ヴェスロフスキーに話しかけたが、それはキチイの知りぬいていた、彼にはまったく不似合いな、心にもないお愛《あい》想《そ》をいっているのだった。「田《た》鴫《しぎ》は見つかるかどうかわかりませんが、鴫ならたくさんいますからね。ただ朝早く出かけなくちゃなりませんよ。お疲れじゃありませんか? スチーヴァ、きみは疲れちゃいないかい?」
「ぼくが疲れたかって? ぼくはね、いまだかつて疲れたなんてことはありゃしないさ。なんなら、今夜はひと晩じゅう、起きていることにしようじゃないか! さあ、散歩に行こう!」
「いや、ほんとに徹夜しましょう! こりゃ、すばらしい!」ヴェスロフスキーは相槌《あいづち》を打った。
「ええ、そうですとも。あなたがひと晩じゅう眠らないで、ほかの方も寝かせないのはようく存じておりますわ」ドリイは、かすかに気づくほどの皮肉をこめて、夫にいった。もう今では、なにか夫にいうとき、ドリイはたいていこうした皮肉の調子であった。「でも、あたしの考えじゃ、もうそろそろやすむ時分だと思いますわ。では、失礼。お夜食はいただきませんわ」
「いや、ドーレンカ、もう少しすわっておいでよ」オブロンスキーはみんなが夜食をしていた大きな食卓をぐるりとまわって、妻のほうの側に足を運んで、いった。「まだおまえにはだいぶ話があるんだから」
「お話なんて、あるわけありませんわ」
「じゃ、知ってるかい、ヴェスロフスキーはアンナのところへ行ってきたんだよ。いや、また、あのふたりのところへ出かけて行くんだから。なにしろ、あのふたりは、ここから七十キロばかりのところにいるんだからね。ぼくも必ずたずねて行くつもりだよ。ヴェスロフスキー、ちょっと、こっちへ来いよ」
ヴェスロフスキーは婦人たちの席へ移って来て、キチイと並んですわった。
「ねえ、どうかお話を聞かせてくださいな。あなたはアンナのところへいらしたんですって? どんなふうでした?」ドリイは彼に向って話しかけた。
リョーヴィンは食卓の反対側のはしに残って、公爵夫人やワーレンカとたえず話をつづけながらも、オブロンスキーと、ドリイと、キチイと、ヴェスロフスキーたちのあいだでなにか秘密めいた話がはずんでいるのを、見てとった。いや、秘密めいた話がはずんでいるばかりでなく、なにか調子づいて話してきかせているヴェスロフスキーの美しい顔を、じっと目を放さず見つめている妻の顔に、真剣な表情が浮んでいるのを見てとった。
「おふたりはとてもうまくいってますよ」ヴェスロフスキーは、ヴロンスキーとアンナのことを話した。「ぼくは、もちろん、とやかく批判するのはよしますが、あそこへ行くと、まるでわが家にいるような気持がしますからね」
「それにしても、あの人たちはどうするつもりなんでしょう?」
「この冬にはモスクワへいらっしゃりたいようですがね」
「あそこできみとうまく落ち合えたら、さぞ愉快だろうね! きみはいつたずねるつもりかね?」オブロンスキーはヴェスロフスキーにきいた。
「七月いっぱいあそこにいるつもりです」
「おまえも行くかい?」オブロンスキーは妻にきいた。
「ええ、ずっと前から行きたいと思ってたんですから、ぜひうかがいますわ」ドリイは答えた。「あの人が気の毒でなりませんの。あたし、あの人のことをよく知ってるんですもの。りっぱな婦人ですわ。あなたがお帰りになってから、あたしひとりでまいりますわ。そうすれば、どなたのご迷惑にもなりませんし。それに、かえって、あなたがいらっしゃらないほうがいいくらいですわ」
「ああ、けっこうだとも」オブロンスキーはいった。「じゃ、キチイは?」
「あたし? なんのために行くんですの?」キチイはさっと顔をまっ赤にして、夫のほうを振り返った。
「アンナ・アルカージエヴナをご存じですか?」ヴェスロフスキーはキチイにたずねた。「とても魅力のあるご婦人ですよ」
「ええ」キチイは前よりいっそう赤くなりながら、ヴェスロフスキーに答えると、席を立って、夫のそばへ歩いて行った。
「それじゃ、あした猟にいらっしゃるのね」キチイはいった。
リョーヴィンの嫉妬《しっと》は、この数分のあいだに、ことに、キチイがヴェスロフスキーと話しながら、その頬《ほお》をまっ赤にそめたとき、すっかり激しくなってしまった。今はもう妻の言葉を聞きながらも、それをまったく自己流に解釈していた。あとでこのことを思いだすと、われながらふしぎな気がしたが、そのときには、もう次のことが疑う余地のないことのように思われた。妻があした猟に行くかときいたのは、もう妻が惚《ほ》れてしまった(と彼は考えた)ヴェスロフスキーに、夫がその楽しみを与えてくれるかどうか知りたかったのであろう、と。
「ああ、行くとも」彼は不自然な、われながら不快な声で答えた。
「だめよ、それよりあしたは家にいてちょうだいよ。だって、ドリイはゆっくりだんなさまの顔も見ることができないじゃありませんか。あさってになさいよ」キチイはいった。
キチイの言葉の意味は、もう今度はリョーヴィンによって、次のように翻訳された。《あたしとあの人《・・・》を引き裂かないでくださいね。あなたがいらっしゃるのは、どうだってかまわないけれど、あのすばらしい青年といっしょに談笑する楽しみを奪わないでくださいね》
「ああ、おまえがそういうなら、あすは家にいるよ」リョーヴィンは、わざと愉快そうな調子で、答えた。
一方ヴェスロフスキーは、自分の存在がこうした苦しみの種子《たね》になっているとは思いもよらずに、キチイのあとから食卓を離れると、微笑を浮べた優しいまなざしでずっとキチイを見守りながら、そのあとからついて行った。
リョーヴィンはその目つきに気がついた。彼はさっと青ざめて、その瞬間、息もつけなかった。《おれの女房を、よくもあんな目つきで見られたもんだな!》彼の胸の中は煮えくりかえるばかりであった。
「じゃ、あしたですね? 喜んで、おともします」ヴェスロフスキーはいすにちょっと腰をおろして、また例の癖で片足を腿《もも》の下へ入れながら、いった。
リョーヴィンの嫉妬はさらに激しくなった。彼はもう自分が裏切られた夫であると思いこんでしまった。自分が妻と情夫に必要なのは、ただふたりに生活上の便宜と満足を与えるためにすぎないのだ……が、それにもかかわらず、彼は愛想よくヴェスロフスキーに向って、猟のことや、鉄砲のことや、靴のことなどについて、いろいろとたずねたあげく、あす出かけることに同意した。
リョーヴィンにとってさいわいなことに、老公爵夫人は自分から席を立って、キチイに早くおやすみと注意したので、彼の苦しみは断ち切られた。ところが、それでもリョーヴィンは、新しい苦しみを味わわずにはすまなかった。ヴェスロフスキーは主婦とおやすみのあいさつをかわしながら、またその手に接吻しようとしたからである。しかもキチイは頬をそめてその手を引っこめながら無邪気な、ざっくばらんな態度で(母親は、あとでこのことで彼女をしかった)、いった。
「あたしどもでは、そういう習慣はございませんの」
リョーヴィンの目には、相手にそんな態度をとるようにしむけたのは、やはりキチイが悪いように思われた。いや、それよりもっと悪いことは、みんなが気に入らないということを、あんな気まずい態度で表わしたことであった。
「へえ、眠るなんてもの好きだねえ!」オブロンスキーは夜食のときに何杯も杯を重ねたおかげで、例のひどく愛嬌《あいきょう》のある、詩的な気分になって、いった。「キチイ、見てごらんよ」彼は菩《ぼ》提樹《だいじゅ》の陰からのぼった月をさしながら、いった。「すばらしいながめだなあ!ヴェスロフスキー、今こそセレナーデを奏《かな》でるときだよ。ねえ、彼はすばらしい声をしているんだよ。ぼくらは来る道々いっしょに歌って来たんだ。彼はね、すばらしいロマンスの楽譜を持って来たんだ。新しいやつを二つもね。ワーレンカと合唱してもらいたいものだ」
みんなが引きあげてしまってからも、まだオブロンスキーは長いこと、ヴェスロフスキーといっしょに、並木道を歩きまわっていた。そして、新しいロマンスを合唱するふたりの声が聞えていた。
リョーヴィンは妻の寝室で、肘《ひじ》掛《か》けいすに腰かけたまま、その歌声を聞きながら、むずかしい顔をして、どうかしたのかという妻の問いに対しても、かたくなにおし黙っていた。しかし、とうとうキチイが臆病そうに微笑を浮べて、自分のほうから《ひょっとしたら、ヴェスロフスキーさんのことで、なにか気にくわないことでもあったんですの?》ときいたとき、彼はもうかっとなって、なにもかもしゃべってしまった。もっとも、彼は自分がしゃべってしまったことに侮辱を感じ、そのためにますますいらだってくるのであった。
彼はひそめた眉《まゆ》の下から、恐ろしく目をぎらぎらさせて、まるで自分で自分をおさえつけるために、全身の力を緊張させているかのように、たくましい腕を胸の上に組んで、妻の前に突っ立っていた。その顔の表情はきびしかった。いや、もしそれと同時に、妻の心を感動させた苦悩の色が表われていなかったら、その表情はむしろ残忍なくらいであった。彼の頬骨《ほおぼね》は震え、声はとぎれがちであった。
「おまえにわかってほしいんだ、ぼくはなにも嫉妬しているんじゃないんだから。嫉妬なんて忌わしい言葉だ。第一、ぼくは嫉妬なんかすることもできないし、信じることもできない。だって……ぼくは今の自分の気持を打ち明けるわけにはいかないけれど、これは恐ろしいことだ……ぼくはなにも嫉妬しちゃいないけれど、それがだれであろうと、失礼にも、おまえをあんな目つきでながめたり、おまえのことをあんなふうに考えたりするのを見ると、侮辱を感じ、自分を卑下せずにはいられなくなったのだ……」
「まあ、いったいどんな目つきですの?」キチイは今晩の話や身ぶりや、そのニュアンスをなにもかも、できるだけ良心的にすっかり思いだそうと努めながら、たずねた。
キチイは心の奥底で、ヴェスロフスキーが自分のあとを追って、食卓の反対側のすみへ移ったとき、なにかあったのに気づいたが、そんなことは自分自身にさえ、白状する勇気がなかった。まして、それを夫に打ち明けて、彼の苦悩を激しくさせる決心はつかなかった。
「それにしても、このあたしにどんな魅力があるとおっしゃいますの? あたしがどんな女だっていうんですの?……」
「ああ!」リョーヴィンは、頭をかかえながら叫んだ。「そんなことならいわないでおくれ……それじゃ、もしおまえに魅力があった場合にはだな……」
「いえ、そういうつもりじゃないのよ、コスチャ、まあ、待って。ねえ、聞いてちょうだい!」キチイはさも苦しそうな同情に満ちた表情を浮べて、夫の顔をながめながら、いった。「ねえ、いったい、なぜそんなことを考えてらっしゃるんですの? あたしにはあなたよりほかの人はだれもいないのに。ええ、いませんわ、いませんとも! それじゃ、あたしはだれもほかの人に会っちゃいけないとおっしゃるのね?」
はじめのうち、キチイは夫の嫉妬が侮辱に感じられた。ほんのちょっとした、まったく罪のない気晴らしも、自分には禁じられているかと思うと、いまいましい気がした。が、いまや、キチイは夫のなめているような苦しみを取り除き、夫の心を安らかにさせるためには、そんなつまらないことはもちろん、なにもかも喜んで犠牲にしてもいい、という気になった。
「ねえ、ぼくの今の立場がとんでもない、こっけいなものだってことを察してくれよ」彼は、絶望的な、やっと聞えるくらいな声でつづけた。「そりゃあの男はお客さんだし、ざっくばらんで、片足を腿《もも》の下に敷く癖よりほかに、べつに無作法なまねをしたわけじゃないさ。あの男はあんな調子でやるのがいちばんだと心得てるんだから、こちらもあの男に愛想よくしなくちゃならないってわけさ」
「でも、コスチャ、あなたはちょっとおおげさに考えすぎてるのよ」キチイは今夫の嫉妬のうちに表現された自分に対する愛の強さに内心ひそかに喜びを覚えながらいった。
「なによりもたまらないのは、おまえはいつものとおりのおまえであって、ぼくにとってこのうえなく神聖なものであり、ぼくたちはとても幸福で、いや、こんなに幸福であるというのに、いきなり、あんなくだらない男が……いや、くだらない男じゃない、なんだってぼくはあの男の悪口をいってるんだろう?あんな男とはなんの関係もありゃしない。それにしても、ぼくの、いや、おまえの幸福っていったいなんなんだろう?……」
「ねえ、あたし、やっとわかったわ、なぜこんなことになったか」キチイがいいだした。
「なぜだね? え、なぜだね?」
「お夜食のとき、あたしがあの人と話していたら、あなたはこちらをじっと見てらっしたでしょ。あたし気がついてたの」
「ああ、それで、ええ、それでどうしたんだね?」リョーヴィンはおびえたようにいった。
キチイは自分たちがなんの話をしていたかを物語った。そして、彼女はその話をしながら、興奮のあまり息を切らした。リョーヴィンはしばらく黙っていたが、やがて妻の青ざめた、おびえたような表情をじっと見つめて、不意に頭をかかえこんだ。
「カーチャ、ぼくはおまえを苦しい目にあわせてしまったね、ねえ、許しておくれ! 魔がさしてしまったんだ! カーチャ、なにもかもぼくが悪かったんだ。そんなくだらないことで、あんなに苦しむなんて」
「いえ、あなたがお気の毒でならないわ」
「ぼくが? ぼくのことが? ぼくがなんだっていうんだ? まるで気違いじゃないか!……そんなら、おまえはなんのために苦しんだんだ? ああ、考えるだけでもたまらないな、まるっきり縁もゆかりもない連中がだれでも、ぼくたちの幸福を破壊することができるなんて」
「そりゃ、もちろん、腹の立つことですわ」
「ようし、こうなったら、ぼくは逆に、あの男を夏じゅう家へおいて、ありったけのお愛想をふりまいてやるよ」リョーヴィンは、妻の手に接吻しながらいった。「まあ、見ててごらん。あすは……そうだ、ほんとにあすはみんなで出かけてやろう」
翌朝、婦人たちがまだ起きないうちに、もう狩猟用の馬車や、小馬車や、荷車などが、車寄せで待っていた。そして、もう朝早くから狩猟に行くことを感づいたラスカは、思いきりわんわんほえたり、駆けまわったりしたあげく、小馬車に御者とならんで乗りこみ、出発が遅れるのでいらいらしながら、さも困ったものだというように、首をかしげて、猟人たちがいっこうに現われぬ戸口のほうをながめていた。最初に、姿をみせたのはヴェスロフスキーで、太股《ふともも》の半分まで届く大きな新しい長靴をはき、緑色のジャンパーに、皮のにおいのぷんぷんする新しい弾帯を締め、例のリボンつきの帽子をかぶり、負い皮なしの新式のイギリス銃を持っていた。ラスカは彼のそばへ飛んで行き、敬意を表して、ちょっととびあがってから、もうみんな出て来るんですかと、自分一流のやり方でたずねてみたが、返事がもらえなかったので、また自分の待ち場所へもどった。そして、首を脇腹へくるりと曲げ、片方の耳をそばだてて、再びじっとうずくまってしまった。ようやく、ドアが騒々しくあいて、オブロンスキーの愛犬でクラークという名の、淡黄色の斑《ぶち》のあるポインター種の犬が、ぐるぐるまわったり、宙返りをしたりしながら、飛びだして来たかと思うと、主人のオブロンスキーも猟銃を両手にかかえ、葉巻を口にくわえた姿で現われた。「待て、待て、クラーク!」彼は獲物袋にからみつきながら、自分の腹や胸に前足をかけようとする犬を、優しくしかりつけた。オブロンスキーは皮のサンダルにゲートルを巻き、破れたズボンに短い外套《がいとう》を着ていた。頭には、なにか帽子の残骸《ざんがい》とでもいうようなものがのっていたが、しかし、最新式の猟銃は玩《がん》具《ぐ》のようにぴかぴかだったし、獲物袋も弾薬盒《だんやくごう》も使い古したものではあったが、とびきり上等の品であった。
ヴェスロフスキーは、これまでこうした本物の猟師らしいおしゃれ、つまり、身にはぼろをまとって、猟具は最高のものを持つ、という気持を解さなかった。ところが、今こういうぼろを着ながら、優雅な、でっぷりした、快活な貴族的な風貌《ふうぼう》をした、輝くばかりのオブロンスキーの姿を見て、はじめてそのことを理解した。で、この次の猟には、ぜひああいう格好をしようと決心した。
「ときに、こちらのご主人はどうしました?」彼はきいた。
「若い細君なんでね」オブロンスキーは、にやにやしながらいった。
「ああ、なるほど。なにしろ、すごい美人ですからねえ」
「やっこさん、もうしたくはできたんだから、きっと、また細君のところへでもとんで行ったんだろう」
オブロンスキーが想像したとおりであった。リョーヴィンはまた妻のところへ駆けつけて、きのうあんなばかなまねをしたのを許してくれるかどうかと、もう一度たずねたうえ、後生だから、くれぐれもからだに気をつけてくれ、と注意したのであった。なによりも、子供たちのそばから離れているように、あの連中ときたらいつぶつかってこないともかぎらないからと念をおした。それから、二日も家を明けることに妻が腹を立てていないという確証をえたうえ、明朝だれかに馬を飛ばさせて、おまえが無事だということがわかるように、ほんのひと言でも手紙を書いてくれ、と頼む始末であった。
キチイは、例によって、二日も夫と別れるのはつらかった。しかし、狩猟用の長靴をはき、白いジャンパーを着た、いつもより特別大きくたくましく見える、さっそうとした夫の姿を見、女の自分にはわからない猟師特有の興奮を見ると、夫の喜びのために、自分の悲しみも忘れてしまい、楽しく別れをかわした。
「やあ、失敬、失敬!」彼は入口の階段へ駆けだしながら、いった。「弁当は入れたね?なんだって栗《くり》毛《げ》を右につけたんだい? いや、まあ、どっちだっていいけど。おい、ラスカ、やめろ、さあ、あっちへ行ってすわってろ!」
「あれは雄牛の群れの中へ入れておけ」彼は若い去勢牛のことをききに来て、入口の階段のところで待ちかまえていた家畜番に、いった。「いや、失敬、またあんな野郎がやって来た」
リョーヴィンは、もういったんすわった小馬車から飛びおりて、物差しを持って階段のほうへやって来た大工の請負師のそばへ行った。
「おい、きのうは事務所へやって来もしないでおいて、今ごろおれのじゃまをしちゃ困るね。で、用事ってなんだい?」
「じつは、もう一つの曲り段を作らしていただきたいんでして。全部で三段もふやせばよろしいんですから。ちゃんとうまいぐあいにしてごらんにいれますよ。そのほうがずっとぐあいがよくなりますんで」
「だから、おれのいうことを聞いてりゃいいんだ」リョーヴィンはいまいましそうに答えた。「はじめに桁《けた》だけとりつけておいて、あとから段々をつけろとあれほどいっておいたじゃないか。今となっちゃなおせやしない。おれのいったとおりにしろ、新しく作りなおすんだ」
それは、こういうことであった。現在、普請中の離れへ階段をつけるのに、請負師が角度をよく計らないで、別々に材料を切ってしまったので、いざそこへ取りつけてみると、段々が斜めになって、階段がすっかり台なしになってしまった。そこで、今請負師はその階段を、もう三段ふやして、なんとか体裁を整えようというのだった。
「そりゃ、そのほうがずっとよくなりますな」
「それにしても、そんなに三段もふやしたら、階段はいったいどんなふうにとりつけるんだね?」
「そりゃ、大丈夫ですとも」大工は、ばかにしたような薄笑いを浮べて、答えた。「ちょうどうまいぐあいに、とりつけてお目にかけますよ。まず、下からこうやってのぼって行きますと」彼は自信たっぷりな身ぶりでいった。「とんとんとあがって行って、うまく上に着くんでさあ」
「だって、三段も縦にふやしたら上のはしはどうなるんだ……」
「つまり、ですな、下からこうのぼってまいりますと、ちょうどうまいとこへ出ますんで」請負師は自信たっぷりに、頑《がん》固《こ》にいいはった。
「天井の下の壁につき当ってしまうさ」
「いや、とんでもございません。なにしろ、下からこうのぼってまいりますと、とんとんといって、うまいとこへ出ますんで」
リョーヴィンは銃の槊杖《さくじょう》を抜いて、ほこりをかぶったところに階段の図を描いてみせた。
「どうだ、わかったろう?」
「はあ、おおせのとおりで」大工はやっとのみこめたらしく、急に目を輝かせて、いった。「新しく作りなおさにゃなりませんですな」
「そうさ、だからいわれたとおりにやりゃいいんだ!」リョーヴィンは小馬車に乗りながら、叫んだ。「さあ、やった! フィリップ、犬をしっかりおさえてろ!」
リョーヴィンは、いまや、家庭や農場のわずらわしいことをみんなあとへ残して来たので、激しい生の喜びと期待の念を覚えて、口もききたくないほどであった。いや、そればかりか、猟師ならだれもが目的の場所へ近づくにつれて感ずる、あの一点に集中された興奮を覚えていた。もし今なにか彼の心にかかっているものがあるとすれば、それはただ、コルペンスコエの沼ではどんな獲物が見つかるだろうか、ラスカはクラークと比べてどんな働きをするだろうか、きょうの自分の当りはどうだろうか、などという問題にすぎなかった。どうしたら新来の客の前で、恥をかかないようにできるだろうか? なんとかしてオブロンスキーに、撃ち負かされないようにしなければ――そんな考えもまた頭に浮んできた。
オブロンスキーも似たような気持を味わっていて、同様に口数が少なかった。ひとりヴェスロフスキーばかりは、たえず愉快そうにしゃべりまくっていた。リョーヴィンは今彼の話に耳を傾けながら、彼に対する昨夜の自分の態度が、まちがっていたことを思いだして、なんとなく気がとがめてきた。ヴェスロフスキーは実際ざっくばらんな、気だてのいい、とても陽気な、愛すべき青年であった。リョーヴィンはもし独身持代にこの青年と知り合ったなら、きっと、親しい間がらになったにちがいない。ただ、ちょっとリョーヴィンが気になったのは、彼の人生に対するうわついた態度と、優雅な物腰に、なにかなれなれしすぎるところがあることであった。彼は爪を長くのばして、例の帽子をはじめ、その他いずれもそれにふさわしい身なりをしているのを、どうやら、とても価値のあることのようにうぬぼれているらしかった。しかし、それも、彼が気だてがよく、ちゃんと礼儀を守っていることのために、許すことができた。彼はすぐれた教養を身につけ、フランス語と英語が堪能《たんのう》で、しかも自分と同じ世界の人間であるという意味で、リョーヴィンに気に入った。
ヴェスロフスキーは、左の側馬《わきうま》につけられていた草原《ステップ》育ちのドン馬が、えらく気に入った。彼はやたらにその馬をほめそやしていた。
「この草原育ちの馬に乗って、草原をかっ飛ばしたら、どんなに気持がいいでしょうね!ねえ? そうじゃありませんか?」彼はいった。
彼は、草原育ちの馬に乗るということ自体に、なにかしら野性的な詩的なものを想像していた。もっとも、そんなことをしてみても、なにひとつ得るところはないのだが、彼の素直なところが、ことにその美《び》貌《ぼう》と、優しい微笑と、優雅な身のこなしと結びついて、非常な魅力となっていた。彼の性質が、リョーヴィンの気に入ったためか、それともリョーヴィンがきのうの罪の償いに、彼の人がらの中にあるいいところを、残らず見いだそうと努めたためか、いずれにしても、リョーヴィンは彼といっしょにいるのが愉快だった。
三キロばかり行ったとき、ヴェスロフスキーはとつぜん、葉巻と財布がないのに気がついた。途中で落したものか、テーブルの上に置き忘れて来たのか、自分でもわからなかった。財布の中には、三百七十ルーブルはいっていたので、そのままにしておくわけにはいかなかった。
「ねえ、リョーヴィン、ぼくはこのドン産の副馬《そえうま》に乗って、ひと走り、家まで行ってこようと思うんですが? こりゃ、きっとすばらしいですよ、ねえ」彼ははやくも馬車からおりる身がまえをしながら、いった。
「いや、そんなことはしないでけっこうですよ」リョーヴィンはヴェスロフスキーの体重が六プード以下ではあるまいと見たので、そう反対した。「御者を使いにやりますよ」
御者が副馬に乗って引き返して行った。そこで、リョーヴィンは自分で二頭立てを御しはじめた。
「そりゃそうと、どんな道順で行くんだね?ひとつ、よく話してくれよ」オブロンスキーはいった。
「いや、計画はこうなんだ。今、これからグローズジェヴォまで行くんだ。グローズジェヴォの手前に、田《た》鴫《しぎ》のたくさんいる沼があるんだ。それから、グローズジェヴォの先のほうには、すばらしい鴫沼がいくつもあってね、田鴫もいるんだ。なにしろ、今は暑いから、夕方までに着くようにして(二十キロばかりだがね)、夕方の猟をしよう。そこでひと晩明したら、あすはいよいよ大沼へ行くとしよう」
「その途中にはなにもないのかね?」
「あるにはあるが、遅くなるからね、それに暑いし。ふたとこばかり、ちょっとした場所があるけれど、さあ、獲物がいるかどうか」
リョーヴィン自身も、そのちょっとした場所には立ち寄りたかったが、そこは家からも近いところなので、いつでも行くことができるし、それに狭い場所で、三人づれではちょっと撃ちようがなかった。そんなわけで、彼は獲物がいるかどうか、などととぼけたのであった。小さな沼の横まで来たとき、リョーヴィンは素通りしようとした。が、オブロンスキーの経験をつんだ猟師の目は、たちまち、道ばたから見える葦《あし》の茂みに目をつけた。
「ひとつ、寄ってみようじゃないか?」彼は小さな沼を指さしながらいった。
「リョーヴィン、頼みますよ! じつにすばらしいですね!」ヴェスロフスキーも頼んだので、リョーヴィンも承知しないわけにいかなくなった。
馬車が止るまもなく、もう二匹の犬は互いに追っかけっこしながら、沼をめざして飛んで行った。
「クラーク! ラスカ!……」
二匹の犬はもどって来た。
「三人じゃ狭すぎるだろう。ぼくはここへ残るよ」リョーヴィンは、犬におどかされてぱっと飛びたち、沼の上を哀れっぽく鳴きながら、ゆらめくように飛んでいるたげり《・・・》のほかは、なにも見つからないだろうと期待しながら、いった。
「いや、いっしょに行きましょう! リョーヴィン、さあ、いっしょに行きましょう!」ヴェスロフスキーは呼びかけた。
「ほんとに、狭いでしょう。ラスカ、おもどり! ラスカ! おい、きみたち、犬は一匹で十分だろう?」
リョーヴィンは馬車のそばに残って、ふたりの猟師をうらやましそうに、ながめていた。猟師たちは沼をひとまわりした。沼には一羽の小さな鴫とたげり《・・・》のほかはなにもいなかった。たげり《・・・》一羽はヴェスロフスキーが撃ちとめた。
「ほらね、べつにぼくがこの沼を惜しがったわけじゃないってことがわかったでしょう」リョーヴィンはいった。「ただ時間つぶしになるばかりですから」
「いや、それでもやっぱり愉快でしたよ。ごらんになったでしょう?」ヴェスロフスキーは銃とたげり《・・・》を持って、不格好に小馬車へはいりながら、いった。「ぼくがこいつを見事にしとめたところを! たいしたもんでしょう? さて、もうそろそろ目的の猟場へ着くころじゃないですか?」
とつぜん、馬がさっと駆けだしたので、リョーヴィンはだれかの銃身に額をぶっつけた。と、発射の轟音《ごうおん》が鳴り響いた。発射の轟音は、じつは、その前だったのだが、リョーヴィンにはそう思われた。それは、先ほどヴェスロフスキーが引金をおろしたとき、一方の撃鉄を締めたものの、もう一方をそのままにしておいたからであった。弾丸は地面にはいって、だれもけがはしなかった。オブロンスキーはちょっと頭を振って、ヴェスロフスキーを責めるようににやっと笑った。しかし、リョーヴィンには彼を責めるだけの気力がなかった。第一、どんなふうに文句をつけてみたところで、もう過ぎてしまった危険や、リョーヴィンの額にできた瘤《こぶ》に、こだわっているように思われるからであった。第二に、はじめはいかにも無邪気にしょげていたヴェスロフスキーが、やがてみんなのあわて方を見て、まったく人のよさそうな笑い声をたてたので、ついこちらもつりこまれて、笑わずにはいられなかったからであった。
やがて馬車が、かなり大きい、ずいぶん時間をとりそうな、第二の沼へ近づいたときも、リョーヴィンは馬車をおりないようにしようと力説した。しかし、ヴェスロフスキーがまたも拝みたおした。今度も沼が狭かったので、リョーヴィンはお客を歓待する主人として、馬車の中に残った。
そこへ着くと、クラークはいきなり、沼地の中に方々土が盛りあがっているあたりをめざして駆けだして行った。ヴェスロフスキーが、第一番に犬のあとから駆けだした。オブロンスキーがまだそばまで行き着かないうちに、はやくも一羽の田鴫が飛びたった。ヴェスロフスキーが撃ち損じたので、田鴫は刈り残されていた草場の中へ飛び移った。この田鴫は、ヴェスロフスキーにまかすことになった。クラークがまたそれを見つけて、追いたてた。そして、ヴェスロフスキーはついにそれをしとめて、馬車へもどって来た。
「さあ、今度は、行ってらっしゃい、ぼくが馬を番していますから」彼はいった。
リョーヴィンも、猟師として羨望《せんぼう》を感じはじめていた矢先だったので、手《た》綱《づな》をヴェスロフスキーに渡して、沼をさして歩いて行った。
ラスカはもうだいぶ前から悲しそうにくんくん鳴いて、不当な扱いを訴えていたが、今度は、リョーヴィンになじみの深い、有望な場所をめざして、まっすぐに駆けだして行った。そこは、まだクラークの踏みこんでいない、土の盛りあがりのたくさんある場所であった。
「なんだってあれを止めないんだね?」オブロンスキーは叫んだ。
「やたらに驚かすようなことはしないからね」リョーヴィンは愛犬の行動を喜んで、そのあとを追って行きながら、答えた。
ラスカの捜しぶりは、なじみぶかい土の盛りあがりへ近づくにつれて、ますます真剣になってきた。ただほんの一瞬、小さな沼鳥に気をとられたばかりであった。犬は土の盛りあがりの前で、くるりとひとまわり、次にもうひとつくるりとまわりかけたが、とつぜん、ぶるっと身ぶるいして、そのままじっと動かなくなった。
「おい、来いよ、来いよ、スチーヴァ!」リョーヴィンは自分の心臓が激しく打ちはじめたのを感じながら、叫んだ。と、まるで緊張した耳の栓《せん》がとれでもしたように、ありとあらゆるものの響きが、距離感を失って、めちゃくちゃに、しかしはっきりと、彼の耳を打ちはじめた。彼はオブロンスキーの足音を、遠い馬《ば》蹄《てい》の響きだと勘ちがいしたり、自分の踏んだ土の盛りあがりのはしが、草の根といっしょに落ちる音を、田鴫の飛ぶ羽音にまちがえたりした。またあまり遠くないうしろのほうで、なにか水のばちゃばちゃはねる音がしたが、それがなんであるか彼にはわからなかった。
彼は足場を選びながら、犬のほうへ近づいて行った。
「よし!」
田鴫でなく本物の鴫が、犬の足もとからさっと飛びたった。リョーヴィンが銃をかまえ、ねらいをつけようとしたとたん、水のばちゃばちゃはねる音がいよいよ激しく近づいて来た。そして、なにか奇妙に大声でわめきたてているヴェスロフスキーの声が、その響きにまじった。リョーヴインは、鴫をうしろからねらっているのに気づいたが、それにかまわず、引金を引いた。
リョーヴィンは撃ち損じたことを確認してから、うしろを振り返った。と、小馬車を引いた馬が、街道ではなく、沼地の中へはいりこんでいるのを見た。
ヴェスロフスキーは射撃ぶりを見ようと思って、沼地のほうへ車を乗り入れ、馬をぬかるみへはめこんでしまったのであった。
「ちぇっ、しょうがねえ野郎だな!」リョーヴィンはぬかるみへはまった馬車のほうへとって返しながら、つぶやいた。「なんだってこんなところへ乗り入れたんです?」リョーヴィンはそっけない調子で彼にいって、御者を呼んで、馬を引き出しにかかった。
リョーヴィンは、射撃のじゃまをされたことも、馬をぬかるみへはめこまされたことも、いまいましかったが、なによりもいまいましかったのは、オブロンスキーもヴェスロフスキーも、馬具の心得が少しもなかったために、馬を引き出したり、馬車から離したりするとき、彼と御者の手伝いをまったくしないことであった。ヴェスロフスキーがそこはまったくかわいていたのでと、一生懸命に弁解するのにもひと言も答えないで、リョーヴィンは馬を引き出すために、御者とふたりで黙々と働いていた。しかし、まもなく、あまり働いてすっかりからだが暖まったうえ、ヴェスロフスキーが熱心のあまり泥よけを引っぱって、こわしてしまったのを見たとき、リョーヴィンは自分が昨夜の気持に影響されて、ヴェスロフスキーにあまり冷淡だったわが身を責めた。そこで、彼は自分のそっけなさを償うために、とりわけ愛想よくしようと努めた。やっと、なにもかも元どおりに片づいて、馬車が街道へ引き出されたとき、リョーヴィンは弁当を出すように命じた。
「Bon app師it - bonne conscience! Ce poulet va tomber jusqu'au de fond de mes bottes. 」また陽気になったヴェスロフスキーは、ふたつめの若鶏を平らげながら、フランス語でしゃれをいった。「さあ、これでわれわれの災難もすんだんですから、これからは万事がうまくいきますよ。もっとも、ぼくひとりは罪滅ぼしに、御者台にすわる義務がありますがね。そうでしょう? え? そんなのだめです、だめですよ。ぼくがアウトメドンです。いや、見ててください、ちゃんとあなたがたを連れてってあげますから!」彼はリョーヴィンが御者と代ってくれと頼んだとき、手綱を放さずに答えた。「いや、ぼくはどうしても罪滅ぼしをしなくちゃならないんです。それに、御者台にいると、すごくいい気持ですからね」彼はそういって、馬車を進めた。
リョーヴィンは、彼が馬どもを、ことに彼が扱い方を知らない栗毛の左の側馬を、弱らせはしないかと、すこし心配だったが、つい相手の陽気な調子につりこまれて、ヴェスロフスキーが御者台に腰かけたまま、道々ずっと歌ったり、しゃべったりしたロマンスや世間話を聞いたり、イギリス式に four in hand を御すにはどうしたらいいか、という身ぶり手まねをまぜての話に気をとられていた。こうして、一同は食後のもっとも快適な気分で、グローズジェヴォの沼へ着いた。
10
ヴェスロフスキーがあまり速く馬を追ったので、一同は早く着きすぎて、まだ暑かった。
今度の猟のおもな目的地であるだいじな沼へ近づくにつれて、リョーヴィンはわれともなしに、どうしたらヴェスロフスキーからのがれて、気ままに歩きまわれるか、と考えていた。オブロンスキーもどうやら同じことを望んでいるらしく、リョーヴィンは彼の顔になにか気がかりな表情を見てとった。それは、本物の猟師がいつも猟をはじめる前に見せるものであった。そのほか、彼独特の人のいいずるさも表われていた。
「さて、どんなふうに行こうかね? すばらしい沼だね、大鷹《おおたか》も見えるし」オブロンスキーは、菅《すげ》の茂みの上空に輪を描いていた二羽の大きな鳥を指さしながらいった。
「大鷹がいるところには、かならず野《や》禽《きん》がいるものだからね」
「さて、諸君、あれが見えますかね」リョーヴィンはいくぶん暗い表情で、長靴を引き上げたり、銃の撃発装置を調べたりしながら、しゃべりだした。「あそこに菅《すげ》が見えますね?」彼は川の右手にひろがっている、半ば刈りとられた、じめじめした広い草地の中に、黒ずんだ緑色の小さな島を指さした。「沼はすぐここから、このまん前から、はじまってるんですよ、ほら、その緑の濃いところから。ここから右のほうへ、いま馬が歩きまわっているあたりへひろがってるんです。あの沼に土の盛りあがったところがたくさんあって、いつも田鴫がいるんです。それから、この菅の茂みのまわりから、あの榛《はん》の木の茂みと、あの水車場のあたりまで。ほら、入江になったところが見えるでしょう。あのあたりがいちばんいいとこなんですよ。あそこでぼくは一度、鴫を十七羽撃ったことがありますよ。さて、ぼくらはここでそれぞれ犬を連れて、ふた手に分れ、あの水車場のとこで落ち合うことにしましょう」
「それじゃ、だれが右へ行って、だれが左へ行くんだね?」オブロンスキーはきいた。「右のほうが広いから、きみたちふたりで行きたまえ、ぼくは左へ行くから」彼は無頓着《むとんじゃく》らしくいった。
「けっこうですとも! ひとつ、ぼくらで、やっこさんを撃ち負かしてやりましょう。さあ、出かけましょう、出かけましょう!」ヴェスロフスキーが調子をあわせていった。
リョーヴィンも承知しないわけにいかなかった。そこで、彼らはふた手に別れた。
一同が沼へはいるや、たちまち、二匹の犬はいっしょに獲物を捜し求めて、沼の中の赤く濁った水たまりのほうへひかれて行った。リョーヴィンはこうした慎重な、まだ方向のきまらないラスカの捜しぶりを、よく承知していた。彼はこの場所もよく知っていたので、鴫の群れを待ちうけていた。
「ヴェスロフスキー、ぼくと並んで、並んで進むように!」彼はあとから水をぴちゃぴちゃいわせながらやって来る仲間に向って、消え入りそうな声でいった。コルペンスコエ沼で暴発されてから、彼はこの仲間の銃の方向が、とかく気がかりでしかたがなかった。
「いや、おじゃまはしませんから、どうかぼくのことなんか放っといてください」
しかし、リョーヴィンは、ひとりでに考えずにはいられなかった。それに、キチイが自分を送りだすときに『よく気をつけてね、お互いに撃ち合ったりしないように』といった言葉が、自然と頭に浮んできた。二匹の犬は、互いにやりすごしながら、それぞれ自分の進路を守って、目的地へ近づいて行った。リョーヴィンは鴫を期待する念があまりに強かったので、水が赤く濁った沼地から引き抜く靴の踵《かかと》の音までが、鴫の鳴き声のように思われた。そのたびに、彼は銃の床尾をつかんで、握りしめた。
「どん! どん!」彼の耳もとで銃声がとどろいた。ヴェスロフスキーが鴨《かも》の群れに向って、引金を引いたのであった。鴨は沼の上をぐるぐるまわっていたが、ちょうどそのとき、やたらに猟師たちのほうへ向って飛んで来たのであった。リョーヴィンが振り返る暇もなく、一羽の鴫が舌打ちでもするような音をたてたかと思うと、二羽、三羽、とつづいて八羽ばかりの鴫が、次々に飛びたった。
オブロンスキーは、その中の一羽の鴫がジグザグを描こうとしたとたん、見事に射とめた。と、鴫はつぶてのように沼沢地へ落ちた。オブロンスキーは菅の茂みへ向って低く飛んでいたもう一羽に、悠々《ゆうゆう》とねらいをつけたかと思うと、この鴫も発射の轟音とともにばさっと落ちた。そして、まだ傷つかない下のほうの白い翼で羽ばたきながら、刈りとられた菅の中から、のがれでようともがいているのが見えた。
リョーヴィンはそれほど運がよくなかった。彼ははじめの鴫はあまり近いところからねらいすぎて、失敗した。そこで、彼は鳥がさらに高く舞いあがりかけたとき、もう一度ねらいをつけたが、そのとき、もう一羽が足もとから飛びたったのでそれに気をとられて、またしても失敗してしまった。
彼が弾丸《たま》をこめているあいだに、また一羽が飛びたった。と、もう二度めの弾丸ごめをすましていたヴェスロフスキーが、またもや二発の霰弾《さんだん》を、水の中へ撃ちこんでしまった。オブロンスキーは自分の獲物を拾い集めて、目を輝かせながら、リョーヴィンをちらりとながめた。
「さあ、今度は別れて行こう」オブロンスキーはいって、左足で軽くびっこをひくようにし、いつでも撃てるように銃をかまえて、口笛で犬を呼びながら、一方に向って歩きだした。リョーヴィンとヴェスロフスキーは別のほうへ向った。
リョーヴィンは最初の一発に失敗すると、かっとなって腹を立てるために、一日じゅううまくいかないのが常であった。きょうもまさにそのとおりだった。鴫はとてもたくさんいて、犬のそばからも、猟師たちの足もとからも、たえず飛びたったにもかかわらず、リョーヴィンは立ちなおることができなかった。いや、かえって撃てば撃つほど、ヴェスロフスキーの前で恥をかく始末だった。もっともヴェスロフスキーもまた、距離の適不適などにはいっこうおかまいなく、おもしろ半分にぽんぽん撃って、一羽もしとめなかったが、それでも少しも悪びれたりはしていなかった。リョーヴィンはあせってしまい、自制力を失って、すっかりのぼせあがってしまったので、ついには引金を引きながらも、もう命中することをほとんど期待しないまでになってしまった。ラスカにも、どうやら、それがわかったようだった。捜しぶりがだんだんぞんざいになって、いぶかるような、また、非難するような表情を浮べて、猟師たちを振り返っていた。発射はあとからあとからつづいた。火薬の煙は猟師たちのまわりに立ちこめていたが、大きなゆったりした獲物袋の網の中には、わずかに小さな軽い鴫が三羽はいっているばかりだった。それも、一羽はヴェスロフスキーが撃ったものであり、一羽はふたり共同の獲物であった。ところが、沼の反対側では、そうひんぱんではないが、たしかに手ごたえのありそうな(とリョーヴィンには思われた)オブロンスキーの銃声がとどろき、ほとんどそのたびに、「クラーク、クラーク、取って来い!」という声が聞えた。
これがいっそうリョーヴィンを興奮させた。鴫はたえず菅の茂みの上空を舞っていた。地上に響く舌打ちするような羽ばたきの音や高空に聞える烏《からす》に似た鳴き声は、ひっきりなしに四方八方から聞えた。前に驚いて飛びたって、空中を舞っていた鴫の群れは、猟師たちの前へおりて来た。前には二羽だった大鷹《おおたか》が、今では幾十羽となく、かぼそい声をたてながら、沼の上を舞っていた。
リョーヴィンとヴェスロフスキーは、沼の大半をまわったとき、菅の茂みのところに出たが、そこは長い縞《しま》になっていて、それとわかる百姓の草場がつづいていた。その縞には、足で踏みならしたすじのところもあれば、刈草の列のところもあった。刈草の大半はもう刈りとられていた。
まだ刈ってないところでは、刈られた場所ほど獲物を見つけることは期待できなかったが、リョーヴィンはオブロンスキーと落ち合う約束がしてあったので、仲間といっしょに、刈り取られたところや刈り取られないところを、草場づたいに、先へ先へと進んで行った。
「おーい、猟をなさっているだんな!」馬をはずした荷車のそばにすわっていた百姓たちのひとりが、叫んだ。「おらといっしょにひと休みしねえかよ、酒を一杯やんなせえ!」
リョーヴィンは振り返った。
「さあ、おいでなせえ、かまやしねえだよ!」赤い顔をした陽気なひげ面《づら》の百姓が、白い歯をむきだして、太陽に輝く青みがかった角瓶《かくびん》を持ちあげながら、どなった。
「Qu'est ce qu'ils disent ? 」ヴェスロフスキーはたずねた。
「ウォトカを飲みに来いって呼んでるんですよ。きっと、あの連中は草場を分けているんですよ。ぼくも一杯飲みに行くかな」リョーヴィンはヴェスロフスキーがウォトカに誘惑されて、百姓たちのほうへ行けばよいがと期待して、いくらかずるい気持でいった。
「でも、なんだってあの連中はごちそうしようっていうんです?」
「なに、ただ一杯きげんでいるからですよ。ほんとに、ひとつ、行ってやってごらんなさい、おもしろいですよ」
「Allons, c'est curieux. 」
「行ってらっしゃい、行ってらっしゃい、水車場へ出る道なんかすぐわかりますよ!」リョーヴィンは叫んだ。そして、彼は振り返って、ヴェスロフスキーが背中をかがめ、疲れた足をひきずりながら、だらりとたらした片手に銃を持ち、沼地から百姓たちのほうへ出て行くのを満足の思いで見送った。
「おまえさんもおいでな!」ひとりの百姓がリョーヴィンに叫んだ。「遠慮はいらねえだ! 肉饅頭《ピローシカ》でもおあがりな!」
リョーヴィンはウォトカを一杯ひっかけて、パンをひときれ食べたくてたまらなかった。彼はすっかり弱ってしまい、もつれる足を沼地から引き抜くのがやっとの思いなのを感じ、一瞬ためらった。しかし、そのとき犬が歩みを止めた。すると、たちまち、疲れはどこかへ消し飛んで、彼は泥の中の犬のほうへ軽々と歩いて行った。と、その足もとから一羽の鴫が飛びたった。彼は引金を引き、見事命中した。犬はなおもじっと立ったままでいた。「取って来い!」犬のすぐそばから、またもう一羽が飛びたった。リョーヴィンは発射した。しかし、運の悪い日であった。彼は撃ち損じたうえ、前にしとめた獲物を捜しに行っても、それさえ見つからなかった。彼は菅の茂みの中をすっかりはいまわってみたが、ラスカは主人がしとめたことを信じないで、捜しにやっても、ただ捜しているようなふりをするだけで、少しも本気になって捜さなかった。
リョーヴィンは自分の失敗を、心の中でヴェスロフスキーの責任としていたが、彼がいなくても、いっこうにその調子はなおらなかった、そこにも鴫はたくさんいたが、リョーヴィンはなおも失敗に失敗を重ねた。
斜めの日ざしはまだ暑かった。べっとり汗にぬれた服は、からだに粘りつき、水のいっぱいはいった左の長靴は重く、歩くたびにぐちゃぐちゃと音をたてた。火薬のすすで黒くよごれた顔には、玉の汗が流れ、口の中は苦い味がして、鼻の中には火薬と鉄錆《てつさび》のにおいがし、耳には舌打ちに似た鴫の羽音がたえず聞えていた。銃身は、さわることもできないほど、火のように熱くなっていた。心臓は小刻みに早く打っていた。手は興奮のあまり震えて、疲れた足は、土の盛りあがりや泥の中で、たえずつまずいたりもつれたりした。それにもかかわらず、彼はなおも歩きまわって、撃ちつづけた。が、ついにわれながら恥ずかしい失敗をやったとき、彼は銃と帽子を地面へたたきつけた。
《いや、とにかく気をしずめなくちゃいかん!》彼は自分にいいきかせた。彼は銃と帽子を拾いあげ、ラスカを足もとへ呼んで、沼地から抜けだした。かわいた場所へ出ると、土の盛りあがったところに腰をおろし、靴を脱いで、中の水をこぼした。それから、沼の岸に近づいて、錆《さ》びた味のする水をたっぷり飲んで、熱くなった銃身を水で冷やし、顔と手を洗った。彼はさっぱりした気持になると、もう今度こそあがったりしないぞと堅く決心して、また鴫の移った場所へ歩いて行った。
彼は気をしずめようとしたが、やはり前と同じことであった。彼がまだ鳥にねらいをつけないうちに、もう彼の指は引金を引く始末であった。事態はますます悪くなる一方であった。
彼が沼から抜けだして、オブロンスキーと落ち合うはずになっていた榛《はん》の木の茂みまで来たとき、彼の獲物袋の中には、たった五羽しかなかった。
彼はオブロンスキーの姿を見つけるよりさきに、その犬が目にはいった。榛の木の掘りかえされた根もとの陰から、沼の臭い泥で全身まっ黒になったクラークが飛びだして、勝利者然とした顔つきで、ラスカと嗅《か》ぎ合っていた。クラークのあとから、オブロンスキーのすらりとした姿も、榛の木の陰から現われた。彼は汗まみれのまっ赤な顔で、襟《えり》のボタンをはずしたまま、相変らず少しびっこをひきながら、リョーヴィンのほうへやって来た。
「おい、どうだった? ずいぶんぽんぽんやってたな!」彼は愉快そうにほほえみながら、話しかけた。
「で、きみのほうは?」リョーヴィンはたずねた。しかし、もうきくまでもなかった。いっぱいにふくれた獲物袋を、はやくも見てとったからである。
「なに、たいしたことはないさ」
彼の獲物は十四羽であった。
「たいした沼だね。きみは、きっと、ヴェスロフスキーにじゃまされたんだろう。ふたりに一匹の犬では、やりにくいからね」オブロンスキーは自分の勝利を和らげようと努めながらいった。
11
リョーヴィンとオブロンスキーが、いつもリョーヴィンが泊ることにしている百姓家へ着いたとき、ヴェスロフスキーはもうちゃんとそこに来ていた。彼は小屋のまん中の長いすに腰かけて、そこに両手でつかまりながら、おかみさんの兄にあたる兵隊あがりに、泥のつまった長靴を引っぱってもらっていたが、相変らずまわりのものに感染するような快活な笑い声をたてていた。
「ぼくもたった今着いたばかりなんですよ。 Ils ont 師 charmants. なにしろ、ぼくにさんざ飲ませて、ごちそうしてくれたんですからね。それに、そのパンときたら、じつに、すばらしいんですよ。D四icieux ! いや、ウォトカも、あんなうまいやつは、一度も飲んだことがありませんね! それに、いくらいっても、金を取ろうとしないんですよ。ただもう『とやかくいいなさんな』とかなんとかいうばかりでね」
「金なんか取るわけがねえじゃないですか。だって、あの連中はだんなにふるまったんですぜ。いや、まさかあの連中が、売りもんのウォトカを持ってでもいるというんですかい?」兵隊あがりは、ようやく、黒くなった靴下といっしょに長靴を引き抜いて、こういった。
小屋の中は、猟師たちの長靴や、からだじゅうをなめまわしている泥だらけの犬でよごされ、沼と火薬の臭気がいっぱいたちこめ、さらに、ナイフもフォークもなかったにもかかわらず、猟師たちは猟のときでなければ味わえないような味覚で、夜食をとったり、お茶を飲んだりした。一同はからだを洗って、さっぱりすると、干し草を敷いた納屋へ行った。そこには御者がだんな方のために、寝床を用意しておいた。
もう暗くなっていたが、猟師たちはだれひとり眠ろうとはしなかった。
射撃のことや、犬のことや、以前の猟のことなどについての思い出や物語をあれこれしたあげく、会話はひとりでにみんなに興味のある話題に落ち着いた。ヴェスロフスキーが、こうした夜の泊りや、干し草のかおりや、こわれた荷車のりっぱさや(前輪がはずしてあったので、彼はこわれたものと思ったのである)、自分にウォトカをごちそうしてくれた百姓たちの人のよさや、めいめい主人の足もとに寝ている犬のことなどについて、もう何度も繰り返して讃美の言葉を吐いたのをきっかけに、オブロンスキーは、去年の夏出かけて行ったマリトゥスのもとでの猟のすばらしさを話してきかせた。マリトゥスは、有名な鉄道成金であった。オブロンスキーは、このマリトゥスがトヴェーリ県にどんな沼を手に入れていて、それがどんなふうに管理されており、どんな馬車が猟師たちを乗せて行き、どんなテントが食事を用意して沼のそばに張られていたかを、話して聞かせた。
「きみの気持はわからんね」リョーヴィンは干し草の上に起きあがりながら、いった。「なぜそんな連中がきみにはいやらしくないんだろう? そりゃ、ラフィート酒つきの食事が悪いものじゃないってことはわかるけれど、しかし、そんなぜいたくが、なぜきみにはいやらしく感じられないんだろう? そんな連中はみんな、昔の専売商人と同じようなやり方で、金をもうけているんだよ。世間の軽蔑《けいべつ》を買いながら、金もうけをするんだが、あの連中にとっちゃ、世間の軽蔑なんて問題じゃないのさ。そのあとで、今度は不正にもうけた金で、以前の軽蔑を臆面もなく買いもどすってわけさ」
「いや、まったくそのとおりですよ!」ヴェスロフスキーが調子をあわせた。「名言です! そりゃ、オブロンスキーは bonhomie で出かけたんでしょうが、世間の人は『オブロンスキーまでがあんなやつのところへ出入りする』なんて、いいますからね」
「そんなことはないよ」オブロンスキーはいって、にやっと笑ったように、リョーヴィンには感じられた。「ぼくにはただあの男を、金持の商人や貴族のだれかれ以上に、不正な人間と思わないまでのことさ。いや、そういう連中だって、これまた勤労や知恵で金をもうけたんだからね」
「そうさ。しかしね、それはどんな勤労だい? 利権を獲得して、それを転売するのが、はたして勤労といえるかね?」
「もちろん、勤労だとも。もしあの男か、あるいはあんなふうの男がいなかったら、鉄道も敷かれなかったろう、という意味でね」
「しかし、そういう勤労は、百姓や学者の勤労とは質の違うものだよ」
「まあ、そうしておこう。しかしね、彼の活動は鉄道というひとつの結果をもたらす、という意味での勤労なのさ。もっとも、きみは鉄道なんて無益だといってたね」
「いや、それは別問題だよ。ぼくだって鉄道を有益と認める用意はあるよ。しかし、投下された労力に不相応な利潤は、すべて不正なものだよ」
「それじゃ、いったいだれがその当不当をきめるんだね?」
「いや、不正な方法や、狡猾《こうかつ》さで獲得した収益は」リョーヴィンは自分が正不正の境界をはっきりきめられそうもないのを感じて、いった。「銀行の収益みたいなもんさ」彼はつづけた。「それは罪悪だよ。勤労なしに巨万の富をつくるのは、専売人の場合と同じで、ただ形式が変っただけにすぎないんだからね。Le roi mort, vive le roi ! 専売制度をやっと全廃したかと思うと、今度は鉄道や銀行が現われた。これまた勤労なしの金もうけがね」
「なるほど、それはみんなそのとおりで、うがった見方かもしれないね……こら、寝てろ、クラーク!」オブロンスキーは、ごそごそからだをかいて、干し草をすっかり散らかしてしまった犬をしかったが、どうやら、自説の正しさを確信しているらしく、少しもあわてず落ち着きはらっていた。「それにしても、きみは正しい勤労と不正な勤労との境界を、はっきりさせなかったね。それじゃ、ぼくが、仕事にかけてはぼくよりずっとくわしい係長よりよけい俸給をもらっているのは、いったい不正なことかね?」
「わからんね」
「それじゃ、いうがね。きみが自分の農場で、まあ、かりに五千ルーブル余分にもうけたとしよう。ところが、この家の主人はどんなに働いたところで、五十ルーブル以上は取れやしない。すると、これはぼくが係長よりよけいに俸給を取ったり、マリトゥスが線路工夫監督よりよけいに取るのと、同じことじゃないか。だが、ぼくの見るところでは、その反対に、社会全体がそうした連中に対して、なんの根拠もない一種の敵意をいだいているみたいだね。いや、そこには羨望《せんぼう》の念さえあるみたいだね……」
「いや、それは正しくありませんね」ヴェスロフスキーがいった。「羨望なんてありえませんよ。そこにはなにかしら不純なものがありますね」
「いや、ちょっと待ってくれ」リョーヴィンはつづけた。「きみはぼくが五千ルーブルもうけて、百姓が五十ルーブルしかかせげないのは、不当だというんだね。そりゃ、そうさ。そうした不正はぼく自身感じているんだが、しかし……」
「まったくですよ。ぼくらは食って、飲んで、狩りをするばかりで、なにひとつしないでいるのに、百姓ときたら年がら年じゅう働いているんですからね。これはどういうことなんです?」ヴェスロフスキーはいったが、どうやら、生れてはじめて、こうした問題をはっきり考えたらしく、まったく真剣そのものであった。
「それじゃ、きみはそれを感じていながら、自分の領地を百姓にやらないんだね」オブロンスキーは、わざとリョーヴィンの痛いところを突くようにいった。
最近、このふたりの婿同士のあいだには、なにか秘められた敵対関係といったものができあがってしまったふうであった。ふたりが姉妹と結婚してこのかた、ふたりのあいだには、どちらがよりたくみに生活を整えるかということで、競争でもしているみたいであった。そして今も、会話が個人的なニュアンスを帯びるにつれて、さっそくこの敵意が表われてきたのであった。
「ぼくがやらないのは、だれもそんなことを要求しないからさ、いや、たとえぼくがそうしたくてもそうはできないんだ」リョーヴィンは答えた。「やる相手もないからね」
「ここの百姓にやったらいいじゃないか。辞退はしないだろうよ」
「ああ、しかし、どんなふうにしてやったらいいんだね? やっこさんといっしょに出かけて行って、登記でもするのかね?」
「そんなことは知らんよ。ただね、もしきみがそう確信しているのなら、そうしない権利はないだろう……」
「いや、ぼくはちっとも確信なんかしてやしないさ。かえって、そんなものをやる権利はないと感じているね。なにしろ、ぼくは土地に対しても、家族に対しても、義務があるんだから」
「まあ、待ってくれ。もしきみがその不平等を不正なものだと認めているんなら、なぜそういうふうに行動しないんだね?」
「ぼくも行動はしているんだが、ただ消極的なのさ。という意味は、ぼくとあの連中とのあいだにある境遇の差を、これ以上大きくしないように努めているんだから」
「いや、失敬だが、それは逆説というものだよ」
「ええ、それはなにか詭《き》弁《べん》的な弁明ですね」ヴェスロフスキーは相槌《あいづち》を打った。「あ、ここのおやじさんだ!」
彼はドアをきしませて、納屋へはいって来た百姓に向って、いった。「どうしたんだい、まだ寝ないのかい?」
「ええ、とても寝るどころじゃありませんよ! わしゃ、だんな方こそもうお休みかと思っとりましたら、話し声が聞えるじゃありませんか。わしゃ、ここへ鉤《かぎ》を取りに来たんでして。この犬はかみつきやしませんかね?」彼ははだしで用心ぶかく歩きながら、そうつけ加えた。
「じゃ、いったい、どこで寝るんだい?」
「わしらは馬の夜番に行くんでさあ」
「ああ、すばらしい晩だなあ!」ヴェスロフスキーは今あけ放しになった戸口を大きな額縁にして、空焼けの薄明りの中に見える百姓家や馬を放した馬車の片端などをながめながら、いった。「ほら、聞いてごらんなさい。女たちが大勢歌ってますよ。それに、なかなかうまいじゃありませんか。おやじさん、ありゃだれが歌ってるんだね?」
「お屋敷勤めの娘っ子どもが、ほれ、すぐ隣で歌ってるんでさあ」
「さあ、ひとつ出かけて行って、遊んで来ようじゃありませんか! どっちみち眠れやしないんですから。オブロンスキー、さあ、行きましょう!」
「いや、こうやって、寝たまま行かれるといいんだがなあ」オブロンスキーは、のびをしながら答えた。「寝ているのもすばらしいじゃないか」
「じゃ、ぼくひとりで行きますよ」ヴェスロフスキーは勢いよく起きあがり、靴をはきながらいった。「では、失敬。もし愉快だったら、呼びに来てあげますよ。あなた方はぼくに鴫をごちそうしてくれたんですから、あなた方のことは忘れませんよ」
「ねえ、愛すべき青年だろう?」オブロンスキーはヴェスロフスキーが出て行って、百姓がそのあとのドアをしめたときいった。
「ああ、愛すべき青年だね」リョーヴィンはつい先ほどの話題をなおも考えつづけながら、答えた。彼はできるだけはっきりと自分の思想と感情を述べたつもりだったのに、かなり頭のいい誠実な人間が、ふたりとも声をそろえて、おまえは詭弁を弄《ろう》しているのだといったので、気になっていたのである。
「いや、そういうわけなんだよ、きみ、われわれは二者択一を迫られているのさ。現在の社会制度を正しいと認めて、自分の権利を擁護するか、さもなければ、ぼくのやっているように、自分が不当な特権を利用していることを認めて、それを喜んで利用するかだね」
「いや、もしそれが不正なものであれば、きみはその特権を、喜んで利用することはできないはずだがね。すくなくも、ぼくにはそんなことはできないね。ぼくにとって、なにより肝心なことは、自分には罪がないと感じることなんだから」
「それはそうと、ひとつ、行ってみないか?」オブロンスキーはどうやら、あまり緊張して物事を考えて疲れたらしく、こういいだした。「どっちみち、寝つかれやしないんだから。ほんとに、行ってみようじゃないか!」
リョーヴィンは返事をしなかった。会話の中で自分の行動はただ消極的な意味でのみ正しいのだといったひと言が、彼の心をとらえてはなさなかったのである。《ほんとに、ただ消極的にしか、正しい行動はできないのだろうか?》彼は自問した。
「それにしても、新しい干し草はずいぶんにおいが強いもんだね!」オブロンスキーは、身を起しながらいった。「これじゃとても寝つかれやしないよ。ヴェスロフスキーがあちらでなにかおっぱじめたらしいな。ほら、大きな笑い声と、あの男の声が聞えるだろう?行ってみないかね? え、行ってみようじゃないか!」
「いや、ぼくは行かないよ」リョーヴィンは答えた。
「それも、やっぱり、きみの主義に基づくのかね?」オブロンスキーは暗がりの中で自分の帽子を捜しながら、笑い声でいった。
「いや、主義のためじゃないけれども、ぼくが行ったってしようがないさ」
「ねえ、そんなふうだと、きみは自分でわが身に不幸を招くようになるよ」オブロンスキーは帽子を見つけて、立ちあがりながら、いった。
「なぜだい?」
「だって、ぼくはきみが細君に対して、どんな態度をとってるか、ちゃんと知ってるんだからね。きみたちふたりのあいだでは、きみが二日泊りで猟に行くかどうかということが、とても重大な問題だというじゃないか。そりゃ、そうしたことも牧師としてならけっこうだが、長い一生をそれじゃとてもやりきれないよ。男子たるものはどこまでも自主独立でなくちゃいけないよ。だって、男には男としての興味があるんだからね。男はあくまでも男らしくなくちゃだめだよ」オブロンスキーはドアをあけながらいった。
「それじゃ、なにかい、今から出かけて行って、屋敷勤めの娘のしりでも追いまわせっていうのかね?」リョーヴィンはたずねた。
「おもしろければ、行っちゃいかんという法もないさ。B ne tire pas cons子uence. 家の女房がそのために困るわけじゃなし、ぼくがおもしろい目をするだけだからね。なによりも肝心なのは、家庭の神聖を守ることさ。家庭の中には、なにごともないようにしておくんだ。でも、自分で自分を縛る手はないさ」
「そうかもしれないね」リョーヴィンはそっけなくいって、くるりと寝返りを打った。「あすは早く出かけなければならないからね。ぼくはだれも起さないで、ひとりで夜明けに出かけるよ」
「Messieurs, venez vite ! 」引き返して来たヴェスロフスキーの声が聞えた。「Charmante! あの娘はぼくが見つけたんですよ。Charmante. まったくほんもののグレートヘンですよ、もうその娘と近づきになりましたがね。まったく、たいした美人ですよ!」彼はまるでその娘を、ほかならぬ自分のために、こんなお膳《ぜん》立《だ》てをしてくれた人間に、満足の意を表するかのように、しごく満悦の体で、しゃべりたてた。
リョーヴィンは眠っているふりをした。オブロンスキーは上靴をひっかけ、葉巻に火をつけて、納屋を出て行ったが、まもなく、ふたりの話し声は聞えなくなった。
リョーヴィンは長いこと、寝つかれなかった。彼は自分の馬が干し草を食べる音や、ややしばらくして、この家の主人が総領むすこといっしょにしたくをして、馬の夜番に出かけて行く気配を、耳にした。それから、例の兵隊あがりの男が、自分の甥《おい》にあたるこの家の末っ子とふたりで、納屋の反対側に、寝じたくを整えている物音を聞いた。と、その少年が、かぼそい声で、猟犬がものすごく大きくて、こわかった、と自分の印象を叔父《おじ》さんに話している声が耳にはいった。それから少年が、あの犬はなにをつかまえるのかとたずねると、兵隊あがりはしゃがれた眠そうな声で、猟のだんな方はあす沼へ行って、鉄砲をどんどん撃つんだよ、といってから、少年の質問からのがれるために、「さあ、ワシカ、もう寝なよ。早く寝ねえと、おっかねえぞ」といったが、まもなく、そういう自分のほうがいびきをかきはじめた。と、あたりはしんと静まりかえって、ただ馬のいななきと、鴫の鳴き声とが聞えるばかりであった。《どうしてもただ消極的にしかやれないんだろうか?》彼は繰り返して自問した。《いや、それがどうだというんだ。なにもおれの罪じゃないさ》彼はそう心につぶやいて、またあすのことを考えだした。
《あすは朝早く出かけて、もうのぼせないように気をつけよう。鴫は無尽蔵だし、田鴫もいるんだ。それに、宿に帰って来れば、キチイからの手紙も届いているだろう。そうだ、ひょっとすると、スチーヴァのいうとおりかもしれない。おれはキチイに対して男らしくないな。これじゃ女の腐ったのみたいじゃないか……それにしても、どうにもならんな!こりゃまた消極的じゃないか!》
彼は夢うつつのうちに、ヴェスロフスキーとオブロンスキーの笑い声と楽しそうな話し声を聞いた。彼は一瞬、目を見ひらいた。月がのぼっていた。そして、あけ放された戸口に、月の光に明るく照らされたふたりが、なにやら話しながら立っていた。オブロンスキーはひとりの娘のみずみずしさを、むきたての新鮮な胡桃《くるみ》にたとえながら、なにやらいっていた。すると、ヴェスロフスキーは、例の、まわりのものにまで感染させるような笑い声をたてながら、どうやら、百姓のだれかにいわれたらしい『気に入ったのがあったら、思いきり、口説《くど》きなせえよ』という言葉を繰り返していた。リョーヴィンは夢うつつのなかで、「諸君、あすは暗いうちに出かけるよ」といって、眠りに落ちた。
12
リョーヴィンは朝やけと同時に目をさますと、仲間たちを起そうと試みた。ヴェスロフスキーは腹ばいになって、靴下をはいた片足を、突きだしたまま、とても返事などしそうもないほどぐっすりと寝こんでいた。オブロンスキーは、夢うつつで、そんなに早く出かけるのはごめんだ、といった。干し草の端にからだを丸めて寝ていたラスカまでが、しぶしぶ起きあがって、だるそうに後足を片方ずつ、かわるがわる伸した。リョーヴィンは靴をはき、銃を取って、きしむ納屋の戸を用心ぶかくあけると、外へ出た。御者たちは馬車のそばで眠っており、馬どももまどろんでいた。ただ一頭だけは、鼻面《はなづら》で飼秣《かいば》槽《おけ》をひっかきまわしながら、だるそうに燕麦《えんばく》を食っていた。外はまだ薄暗かった。
「なんだってこんなに早く起きなすったんだね、だんなさん?」そのとき小屋から出て来たかみさんが、まるで古なじみのような親しさで、彼に話しかけた。
「なに、猟に行くんでね、おばさん。ここを行けば沼に出るだろうね?」
「裏道づたいに、まっすぐ、うちの打穀《こなし》場《ば》を通って、大麻畑《たいまばたけ》を抜けると、そこに小道がありますだね」
その老婆は日焼けした素足で用心ぶかく歩きながら、リョーヴィンを案内して、打穀場のそばの仕切りを押しあけた。
「ここをまっすぐ行けば、沼へ出ますだよ。うちの若えもんたちも、ゆうべっから沼へ夜番に行っただよ」
ラスカは喜び勇んで、小道を先にたって走りだした。リョーヴィンはたえず空を仰ぎながら、軽い足どりでそのあとを追った。彼は日がのぼらないうちに、沼へ着きたかったのだ。しかし、太陽は待っていてくれなかった。彼が出かけたときには、まだ光っていた月も、今はもう水銀の一片のように、わずかに鈍く光っているにすぎなかった。少し前にはすぐ目にはいった朝やけの色も、今では捜さなければわからなかった。さっきまでぼんやりとして、なんとも定めがたかった遠い野末の斑《はん》点《てん》が、今はもうはっきりと望まれた。それは、裸麦の禾堆《にお》であった。もう雄茎を選《よ》り抜いたあとの、かおりの強い丈《たけ》の高い大麻に宿る露は、日の光を受けないために、まだ目には見えなかったけれど、リョーヴィンの足ばかりか、ジャンパーの腰の上まで、ぐっしょりぬらした。朝の澄みきった静けさの中では、どんな小さな物音でも、はっきり聞えた。一匹の蜜蜂《みつばち》が、弾丸のようなうなりをたてて、リョーヴィンの耳もとをかすめて行った。彼がじっと目をこらして見つめると、また一匹、さらにもう一匹、見いだした。それらはみんな、養蜂場《ようほうじょう》の編《あ》み垣《がき》の陰から飛びだして、大麻畑の上を、沼のほうへ姿を消して行った。小道はまっすぐに沼へ通じていた。沼はたちのぼる水蒸気で、すぐそれと知れた。水蒸気は、濃いところや、薄いところがあるので、小島のような菅《すげ》や楊《やなぎ》の茂みが、その水蒸気の中で揺れて見えた。沼の岸や道ばたには、馬の夜番をした男の子や百姓たちが、ごろごろ寝ころんでいたが、みんなは長外套《カフタン》をかぶって、夜明け前のひと眠りをしていた。そこからあまり遠くないところに、足をゆるく縛られた三頭の馬が、歩きまわっていた。その中の一頭は、足かせをがちゃがちゃ鳴らしていた。ラスカは主人と並んで進んでいたが、早く先へ行きたがって、あたりをきょろきょろ見まわしていた。リョーヴィンは眠っている百姓たちのそばを通りぬけて、最初の沼地へ出たとき、撃発装置をしらべて、犬を放してやった。三頭の一つで、よく肥えた栗毛の三歳駒《ごま》は、犬を見るとちょっととびあがり、しっぽをぴんと上げて、鼻を鳴らした。ほかの二頭もびっくりして、縛られた足で水をはねかせたり、ねばっこい泥からひづめを抜きだすたびに、平手打ちのような音をたてたりしながら、沼の中から躍《おど》りでた。ラスカは立ち止って、あざけるように馬をながめると、もの問いたげにリョーヴィンの顔を仰いだ。リョーヴィンは、ラスカをなでてやって、もう仕事をはじめてもいいという合図に、口笛を吹いた。
ラスカは足もとのふわふわする泥土の上をさもうれしそうに、また注意ぶかく踏みながら、駆けだして行った。
ラスカは沼の中へ駆けこむと、たちまち、嗅《か》ぎなれた草の根や、水草や、水錆《みずさび》などのにおいや沼地では不似合いな馬《ば》糞《ふん》の臭気などの中に、そこここにただよっている鳥のにおいを、なによりも強く興奮させられる、ほかならぬ鴫のにおいを嗅ぎ分けた。沼の苔《こけ》地《ち》や草地のそこここでは、このにおいがとくに強かった。しかし、どの方向に強く、どの方向に弱いかは、はっきりきめることはできなかった。その方向を知るためには、遠く風下へ行ってみなければならなかった。ラスカは足の動きも感じないほど、いつでも必要なときには、すぐ止れるような緊張した駆け足で、東から吹いてくる夜明け前のそよ風を避けて、右手へ走って行き、今度は風に向って身をひるがえした。ラスカは鼻孔をひろげて空気をひと息吸いこむと、目の前には鳥の足跡だけでなく、鳥そのもの《・・・・・》がいることを、それも一羽でなく、たくさんいることを、すぐ感づいた。ラスカは速度をゆるめた。鳥どもはそこにいた。しかし、正確にどこにいるかは、まだきめかねた。ラスカはその場所を見つけるために、もう輪を描きはじめた。と、不意に主人の声に気をとられた。「ラスカ! そこだ!」彼はいって、別の方向を指さした。ラスカは、あたしのやりかけたとおりにしたほうがよくはないですか、とたずねでもするように、ちょっと、立ち止った。ところが、主人は、なにもいるはずがない、水をかぶった土の盛りあがりを指さしながら、おこったような声で、同じ命令を繰り返した。ラスカはただ主人を満足させるために、その命令に従って、捜しているようなふりをしながら、土の盛りあがりをひとわたり歩きまわってから、またもとの場所へ引き返した。と、すぐまた、鳥どもの気配が感じられた。今はもう主人のじゃまもはいらないので、ラスカは自分の足もとには目もくれず、小高い土の盛りあがりにつまずいたり、水たまりへ踏みこんだりして、いまいましく思いながらも、すぐ強靭《きょうじん》な足で立ちなおっては、一心に輪を描きはじめた。この輪がいっさいを解決してくれるはずであった。鳥ども《・・・》のにおいはますます強くなり、ますますはっきりとラスカの鼻を打った。と、不意にラスカは、一羽がすぐそこに、土の盛りあがりの陰に、わずか五歩の距離にいることを、はっきりたしかめた。ラスカは立ち止って、その場にぴたりと動かなくなった。ラスカは足が短いので、目の前にはなにも見えなかったけれど、鳥が五歩と離れていないところにいるのを、そのにおいで知ったのであった。ラスカはいよいよ鳥のいることを感じ、期待に胸をおどらせながら、じっと立ち尽していた。その緊張したしっぽはぴんとのびて、ただその先だけがかすかに震えていた。その口は心もち開き、耳はきっと立っていた。片方の耳は、まだ走っているあいだに、裏返しになっていた。やがてラスカは重々しく、しかも用心ぶかく息を吸いこみながら、それよりもさらに用心ぶかく、首を向けるというよりも、むしろその目だけで主人の顔を振り返った。主人は見なれた顔ながら、たえず恐ろしい目つきをして、土の盛りあがりにつまずいては、並みはずれてゆっくり歩いていた。いや、ラスカにはそう思われたのである。ラスカには主人がゆっくり歩いて来るように思われたが、その実、彼は走っていたのであった。
リョーヴィンは、ラスカが後足で大きく土でもかくようなしぐさをしながら、心もち口をあけたまま、全身をぴったり地面にくっつけ、この犬独特の捜し方をしているのに気づくと、ラスカが田鴫をねらっているのを悟った。彼は心の中で、どうかうまくいきますように、なによりも、最初の鳥を撃ち損じないように、と神に念じながら、犬のほうへ駆け寄った。彼はラスカのそばへぴったり駆けつけると、背が高かったので、犬が鼻で感じたものを、目で見たのであった。そこから二メートルばかりしか離れていない、ふたつの土の盛りあがりのあいだに、田鴫の姿が見えた。田鴫は首をひねって、聞き耳をたてていた。それから、翼をちょっとひろげたと思うと、また畳んだ。田鴫は不格好に尾をひと振りすると、陰にかくれてしまった。
「よし! 行けっ!」リョーヴィンはラスカをうしろからこづいて、叫んだ。
《そんなこといったって、行けないじゃないか》ラスカは考えた。《どこへ行ったらいいんだろう? ここにいるから、ちゃんと感じるんだけれど、前へ行ったら最後、どこになにがいるのか、てんでわからなくなってしまうんだから》ところが、リョーヴィンはひざでラスカをとんとつついて、うわずったようなささやき声で、「さあ、ラスカ、行けっ!」といった。
《ねえ、そんなにお望みなら行きますけど、もうこうなったら、責任はもてませんよ》ラスカはそう考えて、土の盛りあがりのあいだを、ぱっと前へ駆けだした。ラスカはもうなにも感じなかった。ただなにひとつわからないままに、見聞きするばかりだった。
前の場所から十歩ばかり離れたところに、ほろほろというねっとりした鳴き声と、この鳥独特のまるみのある羽音をたてながら、一羽の田鴫が飛びたった。と、一発の銃声とともに、それはばさっと重々しく落ちて来て、白い胸を湿った沼土にぶつけた。もう一羽は待ちきれずに、犬も来ないうちに、リョーヴィンのうしろから飛びたった。
リョーヴィンが振り返ったとき、二番めの田鴫はもう遠く離れていた。しかし、射撃は命中した。それは二十歩ばかりの距離を飛んだとき、まっすぐ上へ舞いあがったかと思うと、たちまち、球《たま》でも投げたように、くるくると回転しながら、かわいた場所へ落ちた。
《この分じゃ、うまくいきそうだぞ!》リョーヴィンはまだ生暖かい、脂《あぶら》ののった田鴫を獲物袋へしまいながら、思った。《なあ、ラスカ、これならうまくいきそうだな?》
リョーヴィンが銃に弾丸《たま》をこめて、先へ歩きだしたとき、太陽は雲に隠れて見えなかったけれど、もうのぼっていた。欠けた月はすっかり光を失って、一片の雲のように、空に白く浮んでいた。星はすでに一つも見えなかった。さっきまで露で銀色に光っていた湿地が、今は金色に輝いていた。錆びた水は一面、琥《こ》珀色《はくいろ》に染まっていた。草の青は、黄味がかった緑に変っていた。水鳥の群れは、露に輝きながら長い影を投げている川べの潅木《かんぼく》の茂みの上で騒いでいた。一羽の大鷹が目をさまして、干し草の禾堆《にお》の上に止って、小首を左右にまわし、不満げに沼をながめていた。烏《からす》の群れは野末へ飛んで行った。そして、はだしの小僧っ子が、もう馬を追いたてて、長外《カフタ》套《ン》の下から身を起して、からだをぼりぼりかいている老人のほうへ駆けて行った。射撃の煙が、牛乳のように、草の緑の上に白くただよっていた。
男の子のひとりが、リョーヴィンのそばへ駆け寄った。
「おじさん、きのうそこに鴨《かも》がたくさんいたよ!」男の子は大声でいうと、彼のあとから遠まきについて来た。
やがてリョーヴィンは、自分の腕前に感心しているこの男の子の前で、たてつづけに三羽の鴫をしとめたので、楽しさが倍加する思いであった。
13
最初の獣なり鳥なりを撃ち損じなければ、その日の猟はうまくいくという猟師仲間の迷信は、やはり正しかった。
すでに三十キロ以上も歩きまわって、空腹でへとへとに疲れながらも、内心ひどく幸福だったリョーヴィンは、十九羽の鴫と、もう獲物袋にははいらなかったので、腰にぶらさげた一羽の鴨を持って、朝の九時すぎに、宿へもどって来た。ふたりの仲間はとっくに目をさまして、腹がへったといって、朝飯もすましていた。
「まあ、待ってくれ、待ってくれ。たしか十九羽のはずなんだから」リョーヴィンははやくも飛びたったときの威容を失い、こちこちに縮みあがって、かわいた血がところどころこびりついている、首を横に向けた鴫や田鴫を、もう一度数えなおしながら、いった。
勘定はまちがっていなかった。そして、リョーヴィンにはオブロンスキーの羨望《せんぼう》が快かった。さらにうれしかったのは、彼が宿へ帰ってみると、もうキチイからの手紙を持った使いが、到着していたことであった。
『あたくしはいたって元気で、気分もすぐれております。あたくしのからだを心配していらっしゃるようでしたら、前よりもっと安心してくだすってけっこうです。あたくしのためにマリヤ・ヴラーシエヴナという新しいお守《も》り役が来たからでございます(これは産婆で、リョーヴィンの家庭生活に新たに重大な意義をもつ人物であった)。あたくしの様子を見に来てくれたのですが、少しも心配することはないとの見立てでございました。ついては、あなたのお帰りまで、いてもらうことにいたしました。みんな元気で楽しく過していますから、どうか、あなたもお急ぎにならないで。もし猟がおもしろいようでしたら、もう一日くらいおのばしになってもけっこうです』
幸運な猟と妻からの手紙というこの二つの喜びが、あまりに大きかったので、このあとで起った二つのささやかな不快事も、リョーヴィンにはたいしてこたえなかった。一つは、栗毛の側馬が、どうやら、きのう働きすぎたためであろう、飼秣《かいば》も食わずに、元気がないことであった。御者は、むりがたたったのだ、といった。
「なにしろ、きのうはちと追いたてすぎましたからね、だんなさま?」彼はいった。「とにかく、十キロの道のりをめちゃめちゃに追いたてたんですからなあ!」
もう一つの不快事は、はじめのうちはせっかくの上きげんをすっかり台なしにしてしまったが、あとになってはただ大笑いしてすませることができた。それは、一週間かかっても食べきれそうもないほどたくさんキチイが持たしてよこした食糧が、なにひとつ残っていなかったことであった。リョーヴィンはへとへとに疲れ腹をすかせて、猟から帰る道々、肉饅頭《ピローシカ》のことばかり考えていたので、宿に近づいたころには、まるでラスカが野《や》禽《きん》のにおいを感じるように、はっきりと肉饅頭《ピローシカ》のにおいを感じ、それを口で味わう思いであった。彼はすぐにフィリップに食事の用意を命じた。ところが、肉饅頭《ピローシカ》はおろか、若鶏《わかどり》さえも残っていなかったのである。
「いや、そりゃすごい食欲でね!」オブロンスキーは笑いながら、ヴェスロフスキーをさしていった。「ぼくだってべつに食欲不振で困るようなことはないけれど、やっこさんには驚いたよ……」
「じゃ、しかたがない!」リョーヴィンはふきげんな顔つきで、ヴェスロフスキーを見ながらいった。「フィリップ、そんなら牛肉をくれよ」
「牛肉も召しあがってしまわれたので、骨は犬にやってしまいました」フィリップは答えた。
リョーヴィンは腹立たしさのあまり、いまいましそうにいった。「なにかひとつぐらいは残しておいてくれてもいいじゃないか!」彼はそういって、泣きだしたかった。
「それじゃ、とって来た鳥の臓物を出してな」彼はヴェスロフスキーのほうを見ないように努めながら、震える声でいった。「それに刺《いら》草《くさ》をつめるんだ。それから、おれに牛乳でも頼んでもらって来い」
彼は牛乳をたらふく飲んでしまうと、もうそのあとは、他人にあんなふうに腹を立てたことが、恥ずかしくなってきた。彼はひもじさのあまり立腹したことが、われながらおかしくなった。
その晩も猟をして、ヴェスロフスキーでさえ幾羽かしとめたほどであった。一同は夜中に宿へ帰った。
帰り道も、行きと同じように楽しかった。ヴェスロフスキーは歌をうたったり、例のウォトカをごちそうしてくれて、『とやかくいいなさんな』といった百姓たちのところでの思い出をなつかしく語ったり、それからまた、屋敷勤めの、むきたての胡桃《くるみ》のような娘っ子相手の夜遊びの追憶談をしたりした。そのとき、ひとりの百姓が彼に、奥さんもちかねとたずね、ないと聞くと、「そんなに人の女房にばかり色目をつかわねえで、自分の女の子でもこせえたらどうだね」といったが、この言葉がとりわけヴェスロフスキーをおもしろがらせたのであった。
「とにかく、今度の旅行はじつに愉快でしたよ。あなたはどうでした、リョーヴィン?」
「ぼくも大いに愉快だったよ」リョーヴィンは正直に答えた。彼はわが家にいたとき、ヴェスロフスキーにいだいていた敵意を、今は少しも感じなかったばかりか、逆に、このうえもない親しみを感じるようになったのが、とくにうれしかった。
14
その翌日の朝十時ごろ、リョーヴィンはもう農場をひとまわりしてから、ヴェスロフスキーの泊っていた部屋のドアをたたいた。
「Entrez! 」ヴェスロフスキーは彼に大声で叫んだ。「失礼、たった今 ablutions をしたところなんで」彼は下着一枚の姿でリョーヴィンの前に立ったままにこにこしながらいった。
「いや、どうぞ、ご遠慮なく」リョーヴィンは窓のそばに腰をおろした。「よく寝られましたか?」
「まるで死んだように寝ましたよ。きょうはまたすごい猟日和《びより》じゃないですか?」
「なにを飲みます、お茶ですか、それともコーヒーですか?」
「いや、どちらも、けっこうです。朝飯にしますから。でも、まったく気がとがめますね。ご婦人方はもう起きているんでしょう? 今ごろちょっと散歩したら気持がいいでしょうね。馬を見せてくださいよ」
リョーヴィンは庭をひとまわりして、厩《うまや》に寄り、平行棒でいっしょに体操までしてから、お客とともに家へ帰り、いっしょに客間へ通った。
「まったく、すばらしい猟で、数えきれない印象をもって帰りましたよ!」ヴェスロフスキーはサモワールのそばにすわっているキチイに近づきながら、いった。「ご婦人方がこの楽しみをおもちにならないのは、ほんとにお気の毒なことですね」
《なに、たいしたことはないさ。あの男だって一家の主婦には、なにか口をきかなくちゃならないからな》リョーヴィンは心の中で考えた。彼はまたしても、客がキチイに話しかけたときの微笑や、勝利者然とした態度の中に、なにかあるような気がした……
マリヤ・ヴラーシエヴナやオブロンスキーといっしょに食卓の反対側にすわっていた公爵夫人は、リョーヴィンをそばへ呼んで、キチイのお産のためにモスクワへ移らねばならないとか、そのために住居の準備をしなければならないとか、話しはじめた。リョーヴィンにとっては、あの結婚のときと同じように、それがどんなことであれ、準備などということは、そのくだらなさのために、完成されんとするものの偉大さを侮辱するものとして不愉快であった。しかも、今度のお産の準備は、なにかその時期を指おり数えてでもいるようなところがあるので、なおさら侮辱されたように感じていた。彼はいつも、未来の赤ん坊の産《うぶ》着《ぎ》の着せ方がどうのといった話は、努めて聞かないようにしていた。また、なにかしら神秘めいた毛糸の腹帯とか、ドリイがとくにだいじがっている三角巾《きん》とかいったものには、できるだけ目をそらして、見ないように努めていた。むすこの誕生(彼は男の子が生れるものと、信じこんでいた)という出来事は、みんながそういってくれているにもかかわらず、彼はやはり、それが信じられなかった。それほど彼の目には、なみなみならぬことに思われたのであった。したがって、この事実は一方からいうと、まったく巨大な、不可能とさえ思われるほどの幸福であると同時に、また他方からいえば、あまりにも神秘的な出来事であったので、先を見越したような想像の知識や、それを基にして、みんながやっている、なにかありふれたことのようなものに対する準備などは、彼にとってまったく腹立たしい、屈辱的なものに思われるのであった。
ところが、公爵夫人は彼の気持が理解できなかったので、彼がそうしたことを考えたり話したりしたがらないのを、軽率で冷淡なためと解釈して、ますます彼を落ち着かせないことになった。夫人はオブロンスキーに住居を見る役目を命じたのだが、今度はリョーヴィンをそれで呼んだのであった。
「ぼくはなんにもわかりませんよ、公爵夫人。どうぞ、お考えどおりになすってください」彼はいった。
「いつお引越しするか、それもきめなくちゃいけませんし」
「ほんとに、ぼくにはわからないんですよ。ただぼくの知っていることといったら、モスクワも医者もなくたって、何百万という子供たちが生れているってことですが……いったい、なんのために……」
「まあ、もしそんなふうにいうのなら……」
「いや、そうじゃないんです。なんでもキチイの好きなようにやってください」
「キチイにはこんな話はできませんよ! まあ、それじゃ、あなたは、あたしにあの娘《こ》をびっくりさせろっておっしゃるんですの? 現に、この春も、ナタリイ・ゴリーツィナが、悪い産科医にかかったばかりに、亡《な》くなりましたからね」
「ぼくはなんでもおっしゃるようにしますよ」彼は顔を曇らせて答えた。
公爵夫人はまたいろいろしゃべりだしたが、彼は聞いていなかった。公爵夫人の話も、彼の気分をこわしたことは事実だが、彼が暗い気分になったのはその話のためではなく、彼がサモワールのそばに見た光景であった。
《いや、こりゃいかん》彼はヴェスロフスキーがキチイのほうへかがみこんで、持ち前の美しい微笑を浮べながら、なにやら話しこんでいる姿と、顔を赤く上気させている妻のほうを、時おり見やりながら、心の中で考えた。
ヴェスロフスキーのポーズにも、その目つきにも、その微笑にも、なにかしら不純なものがあった。いや、それどころか、リョーヴィンは、キチイのポーズやまなざしの中にさえ、なにかしら不純なものを見た。と、またもや彼の目の光が消えた。またもやこの前と同様、いきなり、なんの筋道もなく、彼は自分が幸福と、平安と、得意の絶頂から、絶望と、敵意と、屈辱のどん底へ投げこまれたような気がした。またしても、だれもかも、なにもかも忌わしく思われてきた。
「どうか、公爵夫人、お好きなようになすってください」彼はまたふたりを振り返りながらいった。
「さても王冠は重きものかな」オブロンスキーは彼に冗談をいったが、それはどうやら、公爵夫人との会話ばかりでなく、いち早く感づいたリョーヴィンの興奮の原因をも、ほのめかしたものらしかった。「ドリイ、きょうはまたずいぶん遅かったね?」
一同は、ドリイを迎えて席を立った。が、ヴェスロフスキーはちょっと腰をあげて、近ごろの新しい青年に特有な、わざと婦人に対してぞんざいにふるまうやり方で、ほんのちょっと会釈しただけで、なにやら笑いながら、再び会話をつづけた。
「マーシャのことで手をやいていたんですの。ゆうべよく眠らなかったので、きょうはひどくむずかりましてね」ドリイはいった。
ヴェスロフスキーとキチイがかわした会話は、またこの前と同じく、アンナのことと、恋愛は社会の条件を超越しうるかということであった。キチイには、この話題は不愉快であった。それは内容そのものからいっても、調子からいっても、とくに、これが夫にどんな影響を与えるかを、ちゃんと知っている点からいっても、この会話は、キチイの心を騒がせずにはおかなかった。しかも、キチイはあまりにも単純で無邪気だったので、この話をうまく切りあげることもできなければ、相手の青年が明らかに自分に関心をもっていることを感じて、そのために思わず浮べた満足の表情を、隠すことさえできない始末であった。キチイはこの会話をうちきりたいと思ったが、どうしたらいいかわからなかった。キチイは自分がなにをしようとも、みんな夫の注意をひいて、なにもかも悪いほうへとられることを、ちゃんと承知していた。そして実際、キチイがドリイに、マーシャはどんなふうかとたずねたとき、ヴェスロフスキーは自分にとってつまらないその話がいつ終るかと待ちかねながら、気のない顔つきでドリイをまじまじ見つめたので、リョーヴィンには妻の質問がひどく不自然な、いとわしいごまかしのように思われた。
「ねえ、どうしましょう、きょうも茸狩りに行きましょうか?」ドリイはたずねた。
「ええ、行きましょうよ。あたしもまいりますわ」キチイはいってから、頬《ほお》をそめた。キチイは礼儀上ヴェスロフスキーにも、いらっしゃいませんか、ときこうと思ったが、それは口に出せなかった。「コスチャ、どこへいらっしゃるの?」キチイは夫が決然たる態度でそばを通りすぎようとしたとき、すまなそうな顔つきをしてたずねた。このすまなそうな表情が、かえって、彼の疑いをすっかり裏づけてしまった。
「ぼくの留守に機械技師がやって来たのに、まだ会っていないんだよ」彼は妻の顔も見ずにいった。
彼は階下へおりて行った。ところが、彼がまだ書斎を出る暇もなく、身重なからだもかまわず、足速にあとを追って来る妻の聞きなれた足音を耳にした。
「どうしたんだい?」彼はそっけなくいった。「ぼくたちは忙しいんだよ」
「ちょっと、失礼ですが」キチイはドイツ人の技師に向っていった。「あたくし、主人に少し話がございますの」
ドイツ人は立ち去ろうとしたが、リョーヴィンは相手に声をかけた。
「いや、それにはおよびませんとも」
「汽車は三時でしたね?」ドイツ人はたずねた。「遅れたらたいへんですから」
リョーヴィンはそれには答えないで、妻といっしょに部屋を出て行った。
「さあ、いったい、どんな話があるんだい?」彼はフランス語で話しだした。
彼は妻の顔を見なかった。いや、見たくなかったのである。身重の妻は顔じゅうを震わせて、みじめな打ちのめされたような表情をしていたからであった。
「ねえ、……あたくしがお話ししたいのは、こんなふうではとても暮していけないってことですの、これは拷問ですわ……」キチイはいいだした。
「そこの食器室には召使がいるんだよ」彼は腹を立てていった。「泣きべそをかくのはやめてほしいね」
「じゃ、こっちへ行きましょう!」
ふたりは通りぬけのできる部屋に立っていたのである。キチイは隣の部屋へはいろうとした。しかし、そこでは家庭教師のイギリス婦人がターニャの勉強をみていた。
「じゃ、庭へまいりましょう」
ふたりは庭へ出ると、小道の掃除をしていた庭番に行き会った。しかし、もう彼らはキチイの泣きはらした顔や、リョーヴィンの興奮した顔を庭番に見られるのもかまわずに、自分たちが、なにか不幸からのがれようとする人のような顔でいることも考えずに、ただ心の中にあることを打ち明けて、お互いに疑いを解かなければならない、そのためにしばらくふたりきりでいて、自分たちがいま味わっている苦しみからのがれなければならないと感じながら、足速に先へ先へと進んで行った。
「こんなふうではとても暮していけませんわ。これは拷問ですわ! あたくしも苦しんでいれば、あなたも苦しんでらっしゃるんですもの。なんのためですの?」キチイはふたりがようやく菩《ぼ》提樹《だいじゅ》の並木道の曲り角にある、ぽつんと離れたべンチのところまでたどり着いたとき、いった。
「でも、たったひと言だけいっておくれ――あの男の態度にはなにか無作法で、不純な、人をはずかしめるような恐ろしいものはなかったかい?」彼はまたあの晩と同様、胸の前に両手を握りしめたポーズで、妻の前に立ちはだかりながら、いった。
「ええ、ありましたわ」キチイは震える声でいった。「でもね、コスチャ、あたしになんの罪もないってことが、あなたにはおわかりになりませんの。あたしは朝からずっと、ちゃんとした態度をとろうと思っていたのに、ああいう人たちときたら……なぜあの人はやって来たんでしょう? あたしたちはあんなにしあわせだったのに!」キチイは泣きじゃくって、息をつまらせながら、太ってきたからだ全体を激しく揺するのであった。
庭番は、びっくりしてふたりの姿を見送った。はじめはなにもふたりを追いかけて来たものはいなかったし、またそれを避けて逃げなければならぬようなものもなかった。ところが、今度は、ベンチの上になにもとくにうれしいようなものもあるはずがなかったのに、ふたりはすっかり落ち着いて、目を輝かしながら、自分のそばを通りぬけて、屋敷のほうへもどって行ったからである。
15
リョーヴィンは妻を二階へ送ってから、ドリイの部屋へ行ってみた。ドリイもまた、この日はひどく悲観的な気分になっていた。彼女は部屋の中を歩きまわりながら、すみっこに立って泣きじゃくっている女の子に、おこったような声でこういっていた。
「きょうは一日じゅうそうやって、立ってらっしゃい。ご飯もひとりで食べるんですよ。お人形さんだって一つも持っちゃいけませんよ。新しい服も縫ってあげませんからね」ドリイはもう娘にどんな罰をしたらいいかもわからないままに、いった。
「ほんとに、この子ときたら、まったく愛想《あいそ》がつきてしまいますわ!」ドリイはリョーヴィンのほうへ顔を向けていった。「いったい、どこから、こんないやな性質が出て来るんでしょうねえ?」
「いったい、なにをしたというんです?」リョーヴィンは、かなりさりげない調子でたずねた。彼は自分の問題を相談しようと思って来たのに、とんだところに出くわしたので、いまいましかったのである。
「この子ったら、グリーシャといっしょに、木いちご畑へ行って、そこで……いえ、この子のしたことなんか、とても口ではいえませんわ。今になってみると、つくづくミス・エリオットが惜しまれてなりませんわ。今度の家庭教師ときたら、ちっとも気をつけてくれないんですもの、まるで機械みたいですわ……Figurez vous, que la petite ……」
そこでドリイはマーシャの犯した罪を物語った。
「そんなことはたいしたことじゃありませんよ。それは困った性質だなんてものじゃなくて、ただのいたずらですよ」リョーヴィンは、相手をなだめようとした。
「それはそうと、あなたはどうかなさったようね? なんのご用でいらしたの?」ドリイはたずねた。「あちらはどんな様子ですの?」
と、リョーヴィンはこの問いの調子に、自分のいおうと思っていることをたやすくいいだせそうな気がした。
「あちらにはいなかったんです。キチイとふたりで庭にいたもんですから。もうこれで二度もあれとけんかをしてしまいましたよ、あの……スチーヴァがやって来てから……」
ドリイはものわかりのよさそうな、賢そうな目で彼を見ていた。
「ねえ、ちょっと、うかがいますが、ひとつ胸に手をあてて、答えてくださいませんか。というのは、キチイではなくて、あの青年紳士の態度に、夫にとって不愉快な、いや、不愉快というより、なにかぞっとする、侮辱と感じられるようなものはありませんでしたか」
「さあ、なんといったらいいでしょうね……いえ、立ってらっしゃい、すみっこに立ってらっしゃい!」ドリイはマーシャに向っていった。マーシャは、母の顔にかすかな微笑が浮んだのを見てとると、からだを動かそうとしたからである。「社交界の考え方からすれば、あの方の態度は、若い人たちの態度としては普通のものかもしれませんわね。Il fait la cour une jeune et jolie femme. 社交界になれた夫なら、かえってそれを得意としなくちゃいけませんわね」
「ええ、なるほど」リョーヴィンは顔を曇らせていった。「でも、あなたはそれに気づいていらしたんですね?」
「あたしばかりじゃありませんわ。スチーヴァも気づいていますわ。うちの人はお茶のあとで、はっきりいいましたもの、Je crois que Veslovsky fait un petit brin de cour Kiti. って」
「いや、それはどうも。これでぼくもひと安心です。やっこさんを追っぱらってやりましょう」リョーヴィンはいった。
「まあ、どうしたっていうんですの、気でも狂ったんですか?」ドリイは度《ど》胆《ぎも》をぬかれて叫んだ。「どうしたんですの、コスチャ、しっかりしてくださいよ!」ドリイは笑いながらいった。「さあ、もうファニイのとこへ行ってもいいわ」ドリイはマーシャにいった。「そんなこといけませんわ。でも、どうしてもとおっしゃるんなら、あたしからスチーヴァにいいますわ。うちの人が体よく連れ帰ってくれるでしょうよ。ほかにお客さまが見えるから、とでもいって。まあ、どのみち、あの方はこの家には不向きですものね」
「いえ、けっこうです。ぼくが自分でいいますから」
「でも、あなたならけんかになってしまうでしょ?」
「とんでもない。かえって愉快なくらいですよ」リョーヴィンは実際愉快そうに、目を輝かせながらいった。「さあ、この子を許してやりなさいよ、ドリイ! もうこれからはしないからね」彼は幼い犯人のことをいった。マーシャは、ファニイのところへ行こうとしないで、なおも決しかねるような顔つきで、母の前に立ったまま、もじもじしながら、上目づかいに母の視線を捕えようとしていたからである。
母親はちらと娘を見た。と、女の子は、わっと泣きだしながら、母親のひざに顔を埋めた。ドリイは娘の頭の上に、やせたしなやかな手をのせた。
《それにしても、われわれとあの男のあいだには、どんな共通点があるというのだ?》リョーヴィンはそう考えて、ヴェスロフスキーを捜しに出かけた。
彼は控室を通りぬけるついでに、停車場へ行くための幌《ほろ》馬《ば》車《しゃ》の用意を命じた。
「きのうばねがこわれてしまいましたので」召使がいった。
「それじゃ、旅行馬車でいい。ただ、早くしてくれ。お客さんはどこだね?」
「ご自分のお部屋のほうへいらっしゃいました」
リョーヴィンがはいって行ったとき、ちょうどヴェスロフスキーはトランクの中から、いろいろな物を取り出し、新しいロマンスの譜などもひろげて、馬に乗るために、皮ゲートルを足につけているところであった。
リョーヴィンの表情に、なにか特別なものがあったのか、それとも当のヴェスロフスキーが、自分のやった ce petit brin de cour が、この家庭に合わないと感じたのか、とにかく彼は、いくぶん(社交界に出入りする人間として許される程度に)リョーヴィンの出現にどぎまぎした。
「皮ゲートルなんかつけて、馬に乗るんですか?」
「ええ、このほうがずっときれいですからね」ヴェスロフスキーは、太った足をいすにのせて、下のボタンをかけながら、快活な人のよさそうな微笑を浮べて、いった。
彼はたしかに愛すべき青年であった。リョーヴィンも、ヴェスロフスキーのまなざしにおどおどしたような色を認めると、相手がかわいそうになり、一家の主人としての自分に、われながら気がさしてきた。
テーブルの上には、けさふたりが体操をしたとき、水でしめった平行棒を持ち上げようとして折ってしまった、棒きれがのっていた。リョーヴィンはその棒きれを取り上げて、どう切りだしたらいいかわからぬままに、そのささくれだった先端を折りはじめた。
「じつはね……」彼はいって、いいしぶったが、ふとキチイと、今まであったことをすっかり思いだすと、思いきって相手の目を見つめながら、いった。「きみのために馬車の用意をさせましたよ」
「とおっしゃると、なんのためです?」ヴェスロフスキーはびっくりして聞き返した。「いったい、どこへ行くんです?」
「きみに停車場へ行っていただきたいんです」リョーヴィンは棒の端をむしりながら、暗い顔をして答えた。
「じゃ、あなたがどこかへ行かれるんですか、それとも、なにか起ったんですか?」
「お客がやって来ることになったんですよ」リョーヴィンはささくれた棒の先端を、ますます早くむしりながら、いった。「いや、お客が来るんじゃありません、なにも起ったわけじゃありません。しかし、きみに帰ってもらいたいんです。ぼくのこの無作法は、なんとでも解釈なさってください」
ヴェスロフスキーはきっと身を起した。
「ぼくはあなた《・・・》から理由を説明していただきたいですな……」彼はやっと事情をのみこんで、威厳を示しながら、いった。
「説明なんかできませんね」リョーヴィンは頬骨の震えを隠そうと努めながら、静かにゆっくりといった。「それに、きみもきかないほうがいいでしょう」
そのとき、もうささくれだった先端は、すっかりむしりとられてしまったので、リョーヴィンは太いほうの端に指をかけて、棒を二つに引き裂き、落ちかけた一方をさっとおさえた。
たぶん、この緊張した両腕と、けさ体操をしたとき自分でさわってみた筋肉と、ぎらぎら光る目と、静かな声と、震える頬骨とが、言葉で語る以上にヴェスロフスキーを納得させたらしかった。彼はちょっと肩をすくめて、ばかにしたように、にやっと笑うと、おじぎをした。
「オブロンスキーに会っちゃいけませんか?」
肩をすくめたことも、そのにやっとした笑いも、リョーヴィンをいらだたせなかった。《こいつには、そうするよりほかに手がないんだからな》彼は考えた。
「今すぐ呼びにやりましょう」
「ばかげたことにもほどがあるじゃないか!」オブロンスキーは、友人から、彼がこの家を追い出されようとしていることを聞くと、リョーヴィンが客の出発を待ちながら、庭を散歩しているのを見つけて、いった。「Mais c'est ridicule! いったい、どんな魔がさしたんだい? Mais c'est du dernier ridicule! じゃ、きみにはどんな気がするんだい、つまり、もし若い男が……」
ところが、リョーヴィンの魔がさした原因は、どうやら、まだ彼に痛みを感じさせるらしかった。というのは、オブロンスキーがその原因を説明しようとしたとき、まっ青になってあわててそれをさえぎったからである。
「頼むから、そんな原因は説明しないでくれ! ぼくとしてはほかに方法がないんだから! そりゃぼくはきみに対しても、あの男に対しても、とても気がとがめているけれどね。しかし、あの男にとっては、ここを発《た》って行くことなんかたいしてつらいことじゃないだろうからね。でも、ぼくと女房にとっては、あの男がいるのは不愉快なんだよ」
「しかし、これはあの男にとって侮辱だぜ!Et puis c'est ridicule.」
「いや、これはぼくにとっても侮辱であり、苦痛なんだ! ぼくだってなにも悪いことをしないのに、苦しまなくちゃいけないんだからね!」
「いや、まったく、きみがこんなことをするとは、ぼくにも思いがけなかったよ! On peut 腎re jaloux, mais ce point, c'est du dernier ridicule! 」
リョーヴィンはすぐくるりとうしろを向いて、並木道の奥をめざして、義兄のそばを離れて行き、ひとりあちこち歩きつづけた。まもなく、彼は旅行馬車のとどろきを耳にしたかと思うと、ヴェスロフスキーが干し草の上にすわって(あいにく、その旅行馬車には座席がなかった)、例のスコットランド風の帽子をかぶって、ごとごと揺られながら、並木道を通りすぎるのが木の間がくれに見えた。
《おや、まだなにかあるのかな?》リョーヴィンは召使が屋敷からとびだして、馬車を止めたとき、思った。それは、リョーヴィンがすっかり忘れていた技師であった。技師は何度もおじぎをしながら、ヴェスロフスキーになにか話していたが、やがて馬車に乗りこんで、ふたりいっしょに行ってしまった。
オブロンスキーと公爵夫人は、リョーヴィンの行為に憤慨していた。いや、彼自身も、自分を ridicule だと感じていたばかりでなく、なにもかも自分が悪いような、恥さらしをしたように感じていた。しかし、自分と女房とがさんざん苦しんだことを思いだすと、もし二度とこんなことがあったらどうするだろうと自問してみて、やっぱり同じことをするにちがいないと自答するのだった。
こうしたことがあったにもかかわらず、その日の夕方には、リョーヴィンの行為を許すことのできなかった公爵夫人を除いた一同は、まるで罰をうけたあとの子供が、重苦しい格式ばったお客をしたあとのおとなのように、なみはずれて浮きうきして、快活になっていた。そして晩になって、公爵夫人が引きあげてしまうと、みんなはヴェスロフスキー追い出しの一件を、もうずっと前の出来事のように話し合った。父親ゆずりの、漫談の名手たるドリイは、三べんも四へんも、そのたびに新しいこっけいなおまけをつけながら、次のような話をして、ワーレンカを笑いころげさせた――ドリイはお客さまのために、新しい蝶《ちょう》むすびのリボンをつけて、もう客間へはいろうとしたとたん、いきなり、がらがらと大きな馬車の音がした。いったい、あの馬車にはだれが乗っているのだろう? と思って見ると、当のヴェスロフスキーが、スコットランド風の帽子をかぶり、皮ゲートルをつけ、ロマンスの楽譜をかかえて、干し草の上にすわっているではないか。
「ねえ、せめて箱馬車でも用意してあげればいいのに! ところが、まもなく『待ってください!』っていう声が聞えるじゃありませんか。ああ、やっぱり気の毒になって、引き止めるのかなと思って見ていると、馬車はあのでぶちゃんのドイツ人を乗せて、そのまま行っちまったの……おかげで、あたしのせっかくの蝶むすびのリボンもむだになっちゃった……」
16
ドリイは自分の計画を実行して、アンナのもとへ出かけて行った。ドリイは、妹につらい思いをさせたり、その夫に不愉快な感じを与えるのは、とても心苦しいことであった。ドリイはリョーヴィン夫婦がヴロンスキーとどんな交渉ももちたくないという気持は、よくわかっていた。しかし、ドリイはちょっとでもアンナのもとを訪れて、たとえアンナの境遇がどう変っても、自分の気持は変っていないということを、相手に示すのを自分の義務であると考えたのであった。
ドリイは、この旅行について、リョーヴィン家に厄介をかけまいと思って、馬車を雇うために、村へ使いをやった。が、リョーヴィンはそれを知ると、ドリイのところへ苦情をいいに来た。「なんだってあなたは、ご自分の旅行がぼくにとって不愉快だろうなんて考えたんです? いや、たとえそれがぼくに不愉快であっても、あなたがぼくの馬を使ってくださらなければ、ぼくにはなおさら不愉快じゃありませんか」彼はいった。「あなたはなんとしても出かけるってことを、一度だってぼくにはいいませんでしたからね。村で馬を雇うなんてことは、第一、ぼくにとって不愉快なばかりでなく、なにより困るのは、あの連中はたとえ引き受けても、先方まで満足に送り届けちゃくれませんからね。いや、とにかく、馬ならぼくのとこにあるんですから。もしぼくにいやな思いをさせたくないとお思いでしたら、うちの馬を使ってください」
ドリイは承知しないわけにいかなかった。そして、当日になるとリョーヴィンは義姉のために、駄馬《だば》や乗馬の中から選《え》り抜いて、四頭立ての馬と替え馬とを用意した。それは見た目はまったくよくなかったけれど、その日のうちにドリイを先方まで送り届けられることは、まちがいなかった。ちょうどそのときは、近く発って行く公爵夫人のためにも、産婆のためにも、馬が必要だったので、これだけのことをするのも、リョーヴィンにとっては楽でなかった。しかし、彼はいまや客をもてなす主人として、わが家に泊っているドリイが、よそで馬を雇うのを見すごすことはできなかった。いや、そればかりか、その馬代として請求されていた二十ルーブルの金が、ドリイにとってなかなか容易ならぬ金額であることを、彼はよく承知していた。ドリイのはなはだかんばしからぬ財政状態は、リョーヴィン夫婦にとって、人ごとではなく感じられていたからであった。
ドリイは、リョーヴィンの忠告を聞いて、夜の明けぬ前に出発した。道がよかったので、馬車の乗り心地もよく、馬は軽快に走った。御者台には御者のほかに、リョーヴィンが万一のためにといって、召使の代りにつけてよこした事務所の男がすわっていた。ドリイはいつかうとうとまどろみはじめたが、ふと目をさますと、もう馬車ははやくも、馬を替えなければならない、旅籠《はたご》屋《や》へ近づいていた。
ドリイは、かつてリョーヴィンがスヴィヤジュスキーのところへ行くとき立ち寄った例の裕福な百姓の家で、たっぷりお茶を飲み、そこの嫁たちと子供の話をしたり、老人とヴロンスキー伯爵のうわさをしたあげく(老人はヴロンスキーのことをたいへんほめていた)、十時の声をきいて、また馬を先へ進めた。ドリイも家にいては、子供の世話にまぎれて、ものを考える暇など少しもなかった。ところが、今はこの四時間の道のりのあいだに、それまでおさえられていたさまざまの考え事が、とつぜん、一時に頭の中にわいてきて、ドリイは生れてはじめて、自分の生活をあらゆる面から考えなおしてみた。その考えは彼女自身にとっても、ふしぎなものであった。はじめのうち、ドリイは子供たちのことを考えた。子供たちのことは、公爵夫人や、とりわけキチイが(ドリイは妹のほうをよけいに頼りにしていた)、面倒を見てくれると約束してくれたものの、やはり心配であった。《マーシャがまたあんないたずらをしなければいいけど、グリーシャも馬にけられたりしなければいいけど、リリイの胃もあれ以上ひどくならなければいいけれど》しかし、まもなく現在の問題が、近い将来の問題にとってかわった。ドリイはまた、この冬はモスクワで新しい住居を借りなければならないとか、客間の家具を取替えなければならないとか、上の娘に毛皮外套《がいとう》を買ってやらなければならないとか、いろいろと考えはじめた。次に、ドリイの頭には、もっと遠い将来の問題が浮んできた――どうやって子供たちを世の中へ出したらいいだろう? 《女の子のほうはまだたいしたことはないけど》ドリイは考えた。《男の子はどうしたもんだろう?》《そりゃ今はあたしが、グリーシャの勉強を見てやっているからいいけれど、でもこれはただあたしが今のところ妊娠していなくて自由の身だからだわ。スチーヴァなんか、もちろん、なんのあてにもなりゃしない。だからあたしが、親切な人たちの力を借りて、あの子たちを世の中へ出してやらなくちゃならないんだわ。でも、またひょっとしてお産でもしたら……》こんな考えがふとドリイの頭に浮んできた。世間では女は産みの苦しみというのろわれた役目を背負っているといっているけれど、それはとんでもないまちがいだ。《産むなんてことはたいしたことじゃないけど、育てあげるということ――これがつらいんだわ》ドリイは自分が最後に妊娠したときのことや、そのとき産んだ赤ん坊の死を思いだして、こう考えた。すると、ドリイは例の旅籠屋で若い嫁とかわした会話が思いだされた。お子さんはあるのという問いに対して、その美しい若い嫁は快活にこう答えたものである。
「女の子がひとりおりましたけど、神さまがお召しになってくだせえました。斎戒期に、お葬式をすませましたよ」
「まあ、それであんたそのお子さんがかわいそうじゃないの?」ドリイはたずねた。
「かわいそうだなんて? そうでなくても、爺《じい》さまには孫がたんといますからね。世話がやけるばかりですよ。仕事もなにもできやしませんし。ただじゃまになるだけですよ」
この答えは、若い嫁が気立てのよさそうなかわいらしい顔つきをしていたにもかかわらず、ドリイには忌わしく思われた。ところが、今はひとりでにこの言葉が思いだされた。こうした無恥な言葉の中にも、一面の真理があったからである。
《ええ、なんといっても》ドリイは結婚してから十五年間の自分の生活を顧みて、こう考えた。《妊娠、つわり、知能の衰え、あらゆることに対する無関心さ、それになによりも、あの醜さときたら。キチイだって、あの若くてきれいなキチイだって、すっかり器量が落ちてしまった。あたしも妊娠すると、そりゃ醜い女になってしまうわ、自分でも知ってるけれど。お産の苦しみ、あの見る目も醜い苦しみ、あの最後の一瞬……それから、授乳、あのおちおち眠れない晩や、あの恐ろしい痛み……》
ドリイはほとんどどの子供の場合にも経験した、ひびのはいった乳首の痛みを思いだしただけで、思わず身ぶるいした。《それから、子供たちの病気、あのたえまない心配、それにつづく教育、忌わしい性質(ドリイは、幼いマーシャが畑で犯した罪を思いだした)、勉強、ラテン語――こうしたことはなにもかもよくわけのわからない、しかも骨の折れる仕事だ。そのうえになお、こうした子供たちもいつかは死ぬということだ》またしてもドリイの頭には、自分の心を永久に苦しめてやまぬ、クルップ病で死んだいちばん末の乳のみ子だった男の子の、あのむごたらしい追憶が浮んできた。その葬式のことも、小さなばら色の棺《ひつぎ》を前にしての人びとの無関心な態度も、金モールの十字架のついたばら色の蓋《ふた》をしようとしたとき、棺の中に見えた、こめかみに巻毛の渦巻いていた青ざめた小さな額や、びっくりしたようにあいていた小さな口を見たときの、胸を裂かれるような、自分ひとりだけの心の痛みが思いだされた。
《それにしても、こうしたことはみんななんのためだろう? こんなことがいったいどうなって行くのだろう? あたしは、いっときも心の安まる暇もなく、妊娠したり、子供を養ったりしながら、年がら年じゅう腹を立てて、ぶつぶつ小言をいったりして、自分でも苦しみ、他人も苦しめて、夫にもきらわれながら、一生を過して行くんだわ。子供たちもろくな教育を受けずに、貧しく、不幸な人間に育って行くんだわ。現に今だって、もしリョーヴィン家で夏を過さなかったら、あたしたちはどんな暮しをしていたかわかりゃしないわ。そりゃ、コスチャもキチイも、よく気のつく人たちだから、そんなことは少しもわからないようにしてくれているけれど、いつまでもこうしているわけにはいかないわ。あのふたりにも、子供が次々にできるようになれば、あたしたちをかまっていられなくなるわ。今だってあのふたりは、窮屈な思いをしているんだもの。それに、お父さまだって、ご自分にほとんどなにひとつお残しになっていないんだから、とても助けていただくわけにもいかないわ。そう考えれば、あたしはひとりじゃ、とても子供たちを一人前にすることはできっこないから、結局、自分を卑下して、他人の力でも借りるよりしかたがないんだわ。まあ、かりにいちばん運のいい場合を考えてみても、もうこれから子供たちがひとりも死なないで、あたしがどうにかこうにか育て上げる、ってことぐらいだわ。まあ、いちばんいい場合で、ただあの子たちがやくざ者にならずにすむってことだわ。あたしの望むことができるのは、まあ、それくらいのところだわ。たったそれだけのことに、あたしはどれだけ苦しんだり、働いたりしなければならないのかしら……こうしてあたしの一生はめちゃめちゃになってしまうんだわ》ドリイはまたもや、あの若い嫁のいったことを思いだした。と、今度もまた思いだすのさえ忌わしかったが、しかし、その言葉の中には、粗野なものとはいえ、一面の真理があることを、認めないわけにはいかなかった。
「ねえ、まだよほどあるの、ミハイラ!」ドリイはわれながら空恐ろしくなるような思いから、気をまぎらすために、事務所の男に声をかけた。
「この村から、七キロということでございます」
馬車は村の通りを進んで、小さな橋にさしかかった。橋の上には、背負《しょい》籠《こ》を背負った百姓女の一団が、大声でにぎやかにしゃべりあいながら、歩いていた。女たちはもの珍しそうに、馬車を振り返りながら、橋の上に足を止めた。ドリイには、自分のほうへ向けられた顔が、どれもこれもみな健康で、さも楽しそうで、その生の喜びを見せびらかして、自分をからかっているように思われた。《みんな生きているんだわ、みんな生活を楽しんでいるんだわ》ドリイは女たちのそばを通りぬけ、坂道へさしかかったとき、古馬車の柔らかいばねに快く身をゆすぶられながら、なおもそう考えつづけた。《それなのに、あたしときたらまるで牢獄《ろうごく》からでも出て来た者のように、いろんな心配事で自分の命をちぢめてしまう世界からのがれて、今やっといっとき、人心地がついたところなんだわ。みんなちゃんと生きているんだわ。あの女たちも、妹のナタリイも、ワーレンカも、これからたずねて行くアンナも。ただあたしだけが違うんだわ》
《でも、世間の人はアンナを攻撃している。それはなぜかしら? それじゃ、あたしのほうがましだとでもいうのかしら? そりゃ、あたしには、すくなくとも、自分の愛している夫がいるわ。それも、あたしの望んでいるような愛し方じゃないけれど、とにかく愛しているわ。しかし、アンナはご主人を愛していなかったんだわ。それじゃ、いったいあの人のどこが悪いんだろう? あの人はちゃんと生きて行きたいんだわ。それは神さまがあたしたちの魂に植えつけてくだすったものなんだわ。あたしだって、きっと、あれと同じようなことをしたかもしれないわ。あたしは今でもわからないわ――あの人がモスクワの家へたずねて来てくれた、あの恐ろしい騒ぎのとき、あの人の忠告を聞いたのは、はたしてよかったことなのかどうか? あのときあたしは夫を捨てて、新しい人生をはじめるべきだったんだわ。そうすれば、ほんとに愛し愛されることもできたのに。ほんとに、今のほうがましだといえるのかしら? あたしは夫なんか尊敬していないけど、ただあの人が必要なために》ドリイは夫のことを考えた。《それで辛抱しているだけなんだわ。ほんとに、そのほうがましだとでもいうのかしら?まだあのころなら、あたしも人に愛されたかもしれないのに。少しはあたしの美しさも残っていたから》ドリイは考えつづけたが、ふと鏡をのぞいて見たくなった。ドリイは手さげ袋の中に、旅行用の小鏡を持っていたので、それを取り出したかった。しかし、御者と、ゆらゆら揺れている事務所の男のうしろ姿を見ると、ひょっとしてどちらかが振り向いたら、ずいぶんきまりが悪いだろうと思って、とうとう鏡を取り出さなかった。
しかし、鏡を見なくとも、ドリイは今でもまだ遅くないと考えた。そして、ドリイは自分に対してとくに愛想《あいそ》のいいコズヌイシェフや、スチーヴァの友人で、子供の猩紅熱《しょうこうねつ》のときいっしょに看病をしてくれて、自分に惚《ほ》れこんだトゥロフツィンのことなどを思い浮べた。それにもうひとり、夫が冗談半分にいったところによれば、自分のことを姉妹じゅうでいちばん美人だといった、まだとても若い青年がいた。と、すごく情熱的な、ほとんどありえないようなロマンスが、ドリイの頭に浮んできた。《アンナのやったことはりっぱだわ。あたしなんかもうとても、あの人を非難できないわ。あの人は自分ばかりか、相手の人まで幸福にして、しかもあたしみたいに、びくびくしちゃいないんだわ。きっと、いつものように、あの人はみずみずしくて、聡明《そうめい》で、どんなことに対してもおおらかな態度をとっているでしょうよ》ドリイは考えつづけた。と、なにかずるそうな薄笑いが、その唇《くちびる》にしわをよせた。それはほかでもない、ドリイは、アンナのロマンスを考えているうちに、それと平行して、自分に恋している想像上の、集合名詞的な意味での男性と自分との、ほとんど同様のロマンスを思い描いたからであった。ドリイもアンナと同じく、なにもかも夫に告白してしまったのである。すると、それを聞いたときのオブロンスキーの驚きと狼狽《ろうばい》ぶりに、ドリイは思わず薄笑いを浮べてしまったのであった。
こんな空想をしているうちに、ドリイは大街道からヴォズドヴィジェンスコエ村へ向う曲り角《かど》に近づいた。
17
御者は四頭立ての馬車を止めて、右手の裸麦畑をちらと見た。そこには百姓たちが荷車のそばにすわりこんでいた。事務所の男は飛びおりようとしたが、やがて考えなおして、ひとりの百姓を自分のほうへさし招きながら、命令するような口調で叫んだ。馬車が走っているあいだ吹いていた微風は、止ると同時に、ぴったりやんでしまった。虻《あぶ》は、汗ばんだ馬がいくら腹立たしげに追いはらっても、そのからだにびっしりへばりついていた。荷車のほうから聞えてきた、鎌《かま》を研《と》ぐ金属性の音も、ぴったりとやんだ。百姓たちのひとりが立ちあがって、馬車のほうへやって来た。
「こりゃまた、ひどくかわいちまったもんだな!」事務所の男はまだ十分車で乗り固められていない、ぱさぱさにかわいたでこぼこ道を、はだしでのろのろと歩いて来る百姓に向って、おこったようにどなった。「おい、早くやって来い!」
菩《ぼ》提樹《だいじゅ》の皮で髪を縛ったちぢれ毛の老人が、猫背の背中を汗で黒くよごして、歩みを速めながら馬車に近づくと、日焼けのした手で馬車の泥よけにつかまった。
「ヴォズドヴィジェンスコエの、だんなさんのお屋敷ですな? 伯爵さまのとこですな?」老人は繰り返した。「あの丘を一つ越えたら、すぐ左に曲るんでさあ。そして、広い道をまっすぐに行きゃ、いやでも突き当りまさあ。ときに、おめえさまはどなたにご用で? 伯爵さまかね?」
「じゃ、おじいさん、みなさんお家にいらっしゃるかしら?」ドリイは、そんな百姓にさえ、アンナのことをどうきいたものかわからないで、あいまいな調子でたずねた。
「たぶん、お屋敷でさあね」百姓ははだしの足を踏み替えながら、ほこりの上に五本の指までくっきりと足跡を残して、答えた。「たぶん、お屋敷でさあね」百姓はどうやらなにかしゃべりたそうな様子で、繰り返した。「きのうもお客さんがお見えでしたよ。いつもたいへんなお客さんでな……おう、なんだね?」百姓は荷車のそばから、なにやらどなっている若者のほうを振り返った。「うん、そうじゃ! さっきみなさん馬で、麦刈り見物にここを通って行ったがね。もう今ごろはきっとお屋敷にいらっしゃるとも。ときに、おめえさま方はどなたさんですね?」
「おれたちゃ遠くのもんだよ」御者は御者台にあがりながら、いった。「それじゃ、もうすぐだな?」
「すぐそこだって、いってるでねえか。ひとっ走りすりゃ……」百姓は手で馬車の泥よけをいじりながら、いった。
丈夫そうな、ずんぐりした若者も、同じようにそばへやって来た。
「なあ、取入れの仕事でもあるんじゃねえか?」老人はきいた。
「知らねえよ、じいさん」
「その、つまり、左に曲りゃ、もうお屋敷でさあ」百姓はいったが、その様子は旅人たちと別れるのが心残りで、もっとしゃべっていたいみたいであった。
御者は馬車を進めた。が、車が曲り角にさしかかるや、いきなり、百姓がどなりだした。
「待ちなせえ! おーい、お客さん! 待ちなせえったら!」今度はふたりが声をそろえて叫んだ。
御者は馬車を止めた。
「お屋敷のみなさんがこっちへ来なさるだよ! ほうれ、あそこんとこに!」百姓は叫んだ。「ごらんなせえ、大勢さんでやって来なさるだよ」百姓は街道づたいに進んで来る騎馬の四人と、二輪馬車に乗ったふたりを指さしながら、叫んだ。
それは騎馬のヴロンスキーが騎手を従え、これまた騎馬のヴェスロフスキーとアンナといっしょにやって来たのと、二輸馬車に乗ったワルワーラ公爵令嬢と、スヴィヤジュスキーとの一行であった。一同は散歩のついでに、今度備えつけた麦刈り機のぐあいを、検分に来たのであった。
馬車が止ると、騎馬の人びとは、ゆっくりと歩みを進めた。先頭をアンナとヴェスロフスキーが轡《くつわ》を並べて進んでいた。アンナは、たてがみを刈りこんだ、尾の短い、背の高くない、がっちりしたイギリス種の馬に乗って、落ち着いた並み足で進んで来た。シルクハットの下から、黒髪をはみださせた美しい首、肉づきのいい肩、黒い乗馬服に包まれた細腰、それに全体的に落ち着いた優雅な乗馬姿は、思わずドリイをはっとさせた。
もっとも最初の瞬間は、アンナが馬に乗っているのが、無作法なことのように思われた。婦人の乗馬という観念は、ドリイによれば、若い娘の軽薄な媚《び》態《たい》と結びついていたので、アンナの境遇にはふさわしくないように思われたからである。しかし、ドリイはアンナの姿を近くで見たとき、すぐに、彼女の乗馬を是認してしまった。アンナはその優雅な姿にもかかわらず、そのポーズも、服装も、動作も、すべてなにもかもじつに単純で落ち着いていて、気品があったので、もうそれ以上にはできないほど自然であった。
アンナと並んで、ヴェスロフスキーがスコットランド風の帽子のリボンをなびかせながら、勇みたった灰色の騎兵馬にまたがり、太った両足を前へ突きだして、どうやら、われとわが姿に見とれているような様子で、進んで来た。ドリイは彼に気づくと、浮きうきした微笑を禁じえなかった。みなのあとから、ヴロンスキーが馬を進めて来た。彼の馬は、駆歩のために勇みたっているらしい、純血種の濃い栗毛であった。彼ははやる馬をおさえながら、手《た》綱《づな》をさばいていた。
一同のあとには、騎手姿の小がらな男がつづいていた。スヴィヤジュスキーと公爵令嬢は、大きな黒馬《あお》に引かせた新しい二輪馬車に乗って、騎馬の人びとに追いついて来た。
古ぼけた幌馬車のすみにちぢこまっていた小がらな婦人が、ドリイだと気づいた瞬間、アンナの顔は一瞬、喜ばしい微笑に輝いた。アンナはあっと叫んで、鞍《くら》の上で身震いし、馬を駆歩で走らせた。幌馬車のそばまで来ると、だれの助けも借りずに、馬から飛びおりて、乗馬服の裾《すそ》をおさえながら、ドリイに向って駆けだして来た。
「あたし、そうだろうとは思ってたんですけど、まさかという気がして。まあ、なんてうれしいんでしょう! あたしがどんなにうれしいか、あなたにはとてもご想像もつかないでしょうね」アンナはドリイに顔をおしつけて接吻《せっぷん》したり、また急に身を放して、笑《え》顔《がお》でドリイを見まわしたりしながら、いった。
「ねえ、うれしいわ、アレクセイ!」
アンナは馬からおりて、こちらへ近づいてくるヴロンスキーを振り返って、声をかけた。
ヴロンスキーは、灰色のシルクハットを脱いで、ドリイのそばへやって来た。
「あなたの訪問をぼくたちはどんなに喜んでいるか、とても信じてはくださらないでしょうね」彼は自分の口にした言葉に特別の意味をこめて、微笑で大きな白い歯を見せながらいった。
ヴェスロフスキーは、馬からおりずに、例の帽子をとると、さもうれしそうに頭の上でリボンをひらひらさせながら、お客に歓迎の意を表した。
「こちらはワルワーラ公爵令嬢ですの」アンナは二輪馬車が近づいたとき、ドリイのもの問いたげな視線にこたえて、いった。
「ああ、そう!」ドリイはいったが、その顔はひとりでに、不満の色を表わした。
ワルワーラ公爵令嬢は、自分の夫の叔母《おば》にあたり、以前から知っていたが、べつに尊敬してはいなかった。ドリイはまた、ワルワーラ公爵令嬢が、これまでの生涯をずっと、金持の親戚《しんせき》の居候《いそうろう》として過したことも知っていた。それが今はまったく赤の他人であるヴロンスキーのところにいるということに、ドリイは夫の身内として、侮辱を感じたのであった。アンナはドリイの顔色に気づくと、どぎまぎして顔をあからめ、つい乗馬服の裾を放して、それにつまずいた。
ドリイは、そばに止った二輪馬車に近づいて、ワルワーラ公爵令嬢とそっけなくあいさつをかわした。スヴィヤジュスキーもやはり知合いであった。彼は、変り者の友だちが若い妻を迎えてどんな暮しをしているかとたずねてから、ふぞろいな馬や、つきはぎだらけな泥よけをつけた幌馬車をちらっと一瞥《いちべつ》して、ご婦人方は二輪馬事にお乗りになったら、と勧めた。
「いや、ぼくはその乗り物で行きますよ」彼はいった。「馬はおとなしいですし、公爵令嬢は御者としてすばらしいですからね」
「いえ、あなた方はそのままにしていらっしゃい」アンナはそばへ寄りながらいった。「あたしたちはこの幌馬車でまいりますから」彼女はドリイの腕を取って、連れて行った。
ドリイは、このまだ見たこともないような華麗な馬車や、すばらしい馬や、自分をとりまく目を見はるような優雅な人びとを見て、まばゆい思いであった。しかし、なによりもびっくりさせられたのは、自分のよく知りぬいている、大好きなアンナに生れた変化であった。もしそれほど注意ぶかくなく、以前のアンナを知らない、とりわけ、ドリイが道々考えて来たようなことを考えなかった婦人だったら、アンナの中になにも特別変ったところを認めるようなことはなかったであろう。しかし、ドリイはいまや、ただ恋をしている女にだけ表われる一時的な美しさに、アンナの顔に見いだしたその美しさに、思わずはっと目を見はったのであった。アンナの顔のすべて、つまり、頬《ほお》にくっきりと表われるえくぼも、顎《あご》も、唇《くちびる》のむすび方も、顔のまわりを飛びまわっているようなほほえみも、ひとみの輝きも、優雅で機敏な動作も、声音の豊かさも、さらにヴェスロフスキーが彼女に、右足からの駆歩を教えたいからそのイギリス馬に乗せてほしいといったとき、腹立たしげな、しかも優しく答えた態度も、なにもかもがとりわけ魅力的であった。しかも、アンナ自身それを知っていて、喜んでいるふうに思われた。
ふたりの婦人が幌馬車に乗りこんだとき、ふたりとも急にどぎまぎしてしまった。アンナがどぎまぎしたのは、ドリイが自分に注意ぶかい、もの問いたげなまなざしを注いでいるためであった。ドリイは、スヴィヤジュスキーから『乗り物』などといわれたあとだけに、アンナが自分といっしょに乗った、そのきたならしい古馬車が、われともなく恥ずかしく思われたからであった。御者のフィリップと事務所の男も、同じことを感じていた。事務所の男は自分の困惑を隠して、婦人たちをうまくすわらせるために、あたふたしはじめたが、御者のフィリップは顔を曇らせて、もうこんな外観のよさには圧倒されまいと、あらかじめ心がまえをした。彼はすばらしい黒馬《あお》を見て、皮肉らしくにやっと笑ったが、それはこの二輪馬車を引いている黒馬《あお》は散歩《プロム》道《ナード》にはよくても、暑さの中を一気に四十キロも走れはしないと、はやくもひとりぎめしてしまったからであった。
百姓たちはみんな荷車のそばから立ちあがって、客の出迎えをもの珍しく、楽しそうに見物しながら、思いおもいの感想を述べていた。
「やっぱりうれしいんだな、長えこと会わなかったんだな」菩提樹の皮でちぢれ毛を縛った老人がいった。
「なあ、ゲラシムおじさんよ、あの黒馬《あお》で穀束を運んだら、はかがいくだろうな!」
「おい、見ろや! あの股引《ももひき》はいてるのは、女かいな!」ひとりの百姓は女鞍《おんなぐら》にまたがったヴェスロフスキーをさしながら、いった。
「いいや、男だあね。ほれ、あんなにうまいこと突っぱしってるでねえか!」
「どうだい、みんな、もう昼寝でもあるめえな?」
「もう昼寝なんてとんでもねえ!」老人は横目づかいに太陽を仰いで、いった。「もう昼は過ぎちまったでねえか! さあ、鉤《かぎ》を持って、仕事だ、仕事だ!」
18
アンナは、ドリイのやせて、やつれはてた、小じわにほこりのたまった顔をながめて、自分の心に思ったこと、つまり、ドリイがやせたということをいおうとした。が、そのとたん、自分が前より美しくなったことを思いだし、ドリイのまなざしもそれを語っていることに気づくと、溜息《ためいき》をつきながら、自分のことを話しだした。
「あなたはあたしを見て」アンナは切りだした。「あたしのような境遇にいてもしあわせになれるのかしらとお思いでしょう? でも、けっこうですわ。こんなこというのはとても恥ずかしいんですけど、でも、あたしは……あたしは申しわけないほど幸福なんですのよ。あたしの身には、まるでなにか魔法にかかったみたいなことが起ったんですの。よく夢の中なんかで、恐ろしさで息苦しくなっても、ふと目をさましてみると、こわいことなんかなにもないってことがあるでしょ。あたしも夢からさめたような気持なの。そりゃ、あたしはとても苦しい、せつない思いをしましたけれど、今はもうかなり前から、とりわけここへ移って来てから、それはそれは幸福なんですの……」アンナはもの問いたげな、おずおずした微笑を浮べて、ドリイを見ながら、いった。
「あたしもほんとにうれしいわ!」ドリイはほほえみながらいったが、それはなぜか自分で望んでいた調子よりも冷やかなものになった。「あなたのために、とてもうれしいわ。なぜお手紙をくださらなかったの?」
「なぜって?……だって、あたしにはそれだけの勇気がなかったのよ……あたしの境遇を、あなたも忘れていらっしゃるんだわ……」
「相手があたしでも? 勇気がなかったんですって? まあ、ほんとにわかっていただきたいわ。あたしがどんなに……ええ、あたしが思うのには……」
ドリイは、けさ考えたことをいおうとしたが、なぜか今はそれが場所がらでないように思われた。
「いえ、この話はあとにいたしますわ。ああいう建物はなんですの?」ドリイは話題を変えたいと思って、アカシヤやライラックの緑の生垣《いけがき》ごしに見える、赤や緑の屋根を指さしながら、たずねた。「まるで小さな町みたいじゃないの」
しかし、アンナはそれに答えなかった。
「いえ、だめ! ねえ、あなたはあたしの境遇を、どんなふうに考えていらっしゃるの、どんなふうに、さあ?」アンナはきいた。
「あたしの考えじゃ……」ドリイはいいかけたが、ちょうどそのとき、イギリス馬に右足から駆歩を踏ませることに成功したヴェスロフスキーが、例の短いジャケツを着て、女鞍《おんなぐら》のなめし皮に重々しい音をたてながら、ふたりのそばを駆歩で走りすぎようとした。
「ほら、できましたよ。アンナ・アルカージエヴナ!」彼は叫んだ。
アンナは彼のほうを見向きもしなかった。ところが、ドリイはまたしても、馬車の中でこんな長話をするのは、ばつが悪いように思ったので、自分の考えを手短かに話した。
「あたしはなんとも考えちゃいませんわ」彼女はいいだした。「あたしはいつだってあなたが好きなんですもの。だって、人を愛するってことは、その人のありのままを、そっくり愛するってことで、なにもその人にあれこれ注文をつけることじゃありませんもの」
アンナは友の顔から目をそらし、その目を細めて(これはドリイの今まで知らなかった新しい癖であった)、この言葉の意味をはっきり理解しようとして、じっと考えこんだ。やがて、アンナはそれを自分の希望どおりに理解したらしく、ちらとドリイの顔をながめた。
「たとえあなたに罪があったとしても」アンナはいった。「あなたが来てくださったことと、今おっしゃってくださったお言葉のために、きっと、そんな罪なんて消えてしまいますわ」
と、ドリイは、友の目に涙があふれるのを見てとった。ドリイは無言のままアンナの手を握りしめた。
「それはそうと、あの建物はなんですの? ずいぶんたくさんあるのねえ!」ちょっと口をつぐんでから、ドリイは前の問いを繰り返した。
「あれは使用人たちの住居や、工場や、厩《うまや》なんですの」アンナは答えた。「そして、ここから公園になってますの。なにもかもすっかり荒れはてていたのを、アレクセイがみんな元どおりにしましたの。あの人はこの領地が大好きで、あたしも思いがけなかったんですが、あの人ったらとても夢中になって、農場の経営に打ち込んでいますのよ。とにかく、才能の豊かな人でしてね! なにをやっても、りっぱにやってのけてしまいますの。あの人は退屈なんかしないどころか、それは熱心に仕事をしていますわ。あたしの知っているかぎりでは、あの人はけっこう勘定だかい、りっぱな農場主になってしまいましたわ。だって農場経営にかけては、けちなくらいですもの。でも、それは農場経営のほうだけですけど。それがいったん何万というお金に関係したことになると、もう勘定なんかしないんですからねえ」アンナはさもうれしそうな、しかもずるそうな微笑を浮べていった。それはよく女の人が、自分の恋人の性質で、自分だけが発見した秘密を語るときに見せる微笑であった。「ほら、あそこに大きな建物が見えるでしょう? あれは新しくできる病院なんですの。きっと、十万以上はかかるでしょうね。これがあの人の今の dada なんですの。それも、どんなことがきっかけではじまったとお思いになって? 百姓たちが草場をもっと安く譲ってくれと頼んだところ、たしか、あの人はそれを断わったんですの。それで、あたしはあの人のことを、けちだといって攻撃したんです。もちろん、そのためばかりじゃなくて、いろんなことがいっしょになったんですけど、あの人はとにかくこの病院の建築をはじめたんですのよ。自分がけちでないってことを見せるためにねえ。そりゃ c'est une petitesse かもしれませんけど、あたしはそのために、前よりもっとあの人を愛するようになりましたわ。もうすぐ屋敷が見えますけど、それはお祖父《じい》さん時代からの屋敷で、外見はなにひとつ変っていませんのよ」
「まあ、りっぱねえ!」ドリイは、庭園のさまざまの緑の老木のあいだから見える、円柱の並んだりっぱな屋敷を見て、思わず讃嘆の声をあげた。
「ね、りっぱでしょう? それに、あの家の二階から見たながめがまたすばらしいんですの」
ふたりを乗せた馬車は、小石を敷きつめ、花壇で飾った玄関前の庭へはいって行った。そこではふたりの職人が、柔らかく土をならした花壇を、穴だらけの自然石で囲っていた。馬車は屋根のある車寄せに止った。
「まあ、もうあの人たちは帰っていますわ」アンナはたった今入口の階段のそばから引かれて行く乗馬を見て、いった。「ねえ、この馬、いいでしょう? あれが小馬《コップ》ですの。これ、あたしの愛馬なんですの。こっちへ引いて来て、お砂糖をやっておくれ。伯爵はどちらにいらして?」アンナはとびだして来たふたりの接客係の召使に、たずねた。「ああ、あそこにいますわ!」アンナは、ヴェスロフスキーと連れだってこちらへやって来るヴロンスキーを見て、いった。
「公爵夫人はどこへお通ししましょう?」ヴロンスキーはフランス語で、アンナのほうを向いていった。が、彼はその返事を待たないで、もう一度ドリイにあいさつすると、今度はその手に接吻した。「あのバルコニーに面した大きな部屋がよくはないかな」
「いえ、あそこは遠すぎますわ! それより、あの角のお部屋がようございますわ。そのほうがしょっちゅうお会いできますもの。さあ、まいりましょう」アンナは、召使の持って来た砂糖を愛馬にやりながら、いった。
「Et vous oubliez votre devoir. 」アンナは同じく入口の階段へ出て来たヴェスロフスキーにいった。
「Pardon, J'en ai tout plein les poches. 」彼はチョッキのポケットに指を突っこみながら、笑顔で答えた。
「Mais vous venez trop tard. 」アンナは砂糖をやったとき馬になめられた片手を、ハンカチでふきながら、いった。アンナはドリイのほうを振り向いた。「あなたは、ごゆっくりおできになるんでしょう? それともひと晩きり? そんなこといけませんわ!」
「でも、そういう約束で来たんですの、子供たちのこともありますし……」ドリイはどぎまぎしながらいった。それは、幌馬車の中から手さげ袋を取ってこなければならなかったのと、自分の顔がほこりまみれなのを知っていたからであった。
「いえ、だめよ、ドリイ、そんなこと……まあ、それはあとにして、さあ、まいりましょう、まいりましょう!」アンナはドリイを部屋へ案内して行った。
その部屋は、ヴロンスキーのすすめた正式の客間ではなく、アンナの言葉によれば、ドリイに許しをこわなくてはならぬような部屋であった。しかも、その許しをこわなくてはならないような部屋でさえ、ドリイがついぞ今まで住んだことのないようなぜいたくな調度で、外国の一流のホテルを思わせるものがあった。
「ねえ、ドリイ、あたし、ほんとにしあわせだわ!」アンナは乗馬服のまま、ドリイのそばにちょっと腰をおろしながら、いった。「さあ、子供たちのことを話してちょうだいな。スチーヴァにはちょっと会いましたけど、でもあの人には、子供の話なんかできないんですもの。あたしの大好きなターニャは元気? もう大きくなったでしょうね?」
「ええ、とても大きくなったわ」ドリイは言葉短かに答えたが、子供のことをこんなそっけない調子で答える自分に、われながらあきれていた。「あたしたちは今、リョーヴィン家で楽しく暮していますの」彼女はつけ加えた。
「まあ、そうだったら」アンナはいった。「あなたがあたしのことをさげすんでいらっしゃらないってことがわかっていたら……みんなで来てくださればよかったのに。だって、スチーヴァは古くからアレクセイの大の仲よしだったんですもの」アンナはいい足して、急にまっ赤になった。
「ええ、でも、あたしたちとても楽しくやってますの……」ドリイはどぎまぎしながら答えた。
「そうね。あたしったら、うれしまぎれに、ばかなことをいったりして。ただ、ほんとにお目にかかれてうれしいわ」アンナは、またドリイに接吻しながらいった。「でも、あたしのことをどんなふうに、なんと考えていらっしゃるか、あなたはまだおっしゃいませんでしたわ。ぜひ、それを聞かせてくださいな。でもね、ありのままの自分をあなたに見ていただけるのが、あたしにはとてもうれしいんですの。でも、あたしはなによりも、自分がなにか証明《あかし》をたてたがっているなんて、人さまから思われたくありませんの。あたしは、なにも証明《あかし》なんかたてようとは思いませんわ。ただ生きて行きたいだけなんですの。自分以外のだれにも、悪いことをしたくないと思ってるだけですわ。そのくらいの権利は、あたくしにだってありますわ、そうじゃなくって? でも、こんなお話をはじめたら、長くなってしまいますから、あとでなにもかもゆっくりお話ししましょうね。あたしはちょっと着替えしてまいりますわ。あなたへもすぐ小間使をよこしますから」
19
ひとりきりになると、ドリイは主婦としての目で自分の部屋をながめまわした。彼女が屋敷へ近づいて来る道すがら、またその中を通って来たとき、さらに、自分の部屋へ落ち着いた今、その目にふれたものはなにもかも、これまでイギリスの小説で読んだ以外には、かつて一度もロシアでは、とりわけこんな田《いな》舎《か》では、見たこともないような、豊富さと華美と新しいヨーロッパ風のぜいたくさとの印象を彼女に与えた。フランス製の新しい壁紙をはじめとして、部屋じゅうに敷きつめられたじゅうたんにいたるまで、なにもかもすべて新しいものばかりであった。寝台はスプリングがきいてマットレスも敷かれていたし、まくらには特別な飾りがついており、いくつか重ねた小さなクッションには絹のカバーがかかっていた。大理石の洗面台、化粧台、小さなソファ、テーブル、マントルピースの上の青銅の置時計、薄いカーテンや厚いカーテンなどすべて高価な新しい調度であった。
ご用を承りに来たおしゃれな小間使は、その衣装から髪かたちまで、ドリイよりもずっとモダンで、部屋全体と同様、ま新しい高価な装いをしていた。ドリイは、この小間使がていねいで、清《せい》楚《そ》で、よく気がつくのが快かったけれど、なんとなくばつが悪かった。あいにく、まちがって持って来たつぎのあたったブラウスのために、ドリイは小間使の手前きまりの悪い思いをさせられた。わが家ではあれほど自慢にしていたそのつぎはぎが、ここでは恥ずかしかったのである。つまり、家では六枚のブラウスをつくるのに、一アルシン六十五コペイカの生地が二十四アルシンいる、したがって飾りや仕立てを別にしても、合計十五ルーブル以上もかかるわけだが、その十五ルーブルを倹約したことがそれではっきりしていた。ところが、この小間使の前では、それが恥ずかしいというほどではないが、ばつが悪かったのである。
ドリイは、古なじみのアンヌシカが、部屋の中へはいって来たとき、すっかりほっとした。おしゃれの小間使は、アンナに呼ばれて行ったので、アンヌシカはドリイとふたりきりになった。
アンヌシカは、どうやらドリイの来訪がとてもうれしくてたまらぬ様子で、ひっきりなしにしゃべりつづけていた。ドリイは、彼女が自分の奥さまの境遇や、とりわけ奥さまに対する伯爵の愛情と信服について、自分の考えを述べたがっているのに気づいた。しかし、ドリイは相手がその話をはじめそうになると、努めてそれをおさえるようにした。
「あたしは、アンナさまとごいっしょに育ちましたので、あたしにとっては、だれよりもあの方がたいせつなんでございますよ。そりゃ、もう、あたしどもがとやかく口出しすることではございませんけれど。あんなに激しく愛していらっしゃるんですから……」
「それじゃ、すまないけれど、これを洗濯に出してちょうだいね」ドリイは相手の話をさえぎった。
「かしこまりました。お屋敷では洗濯だけに、別にふたりも女の人が雇ってあるんでございますよ。それに、白いものはみんな機械でやるんでございますよ。伯爵さまがなにもかもご自分でおさしずをなさいましてね。まったく、あんなだんなさまは……」
幸い、そのときアンナがはいって来て、アンヌシカがおしゃべりをやめたので、ドリイはほっとした。
アンナは、きわめて簡素な薄い麻服に着替えていた。ドリイはその簡素な服を、注意ぶかくながめた。ドリイはそうした簡素な趣味がどういうものであり、どれほどお金がかかっているかを、ちゃんと承知していたからである。
「古いおなじみですわね」アンナはアンヌシカのことをいった。
アンナも今はもう少しもとり乱していなかった。すっかり落ち着いて、自由にふるまっていた。ドリイは、自分の訪問が与えた印象からアンナがもはや解放されて、自分に対して表面的な、よそよそしい態度をとっているのに気づいた。アンナはそうした態度をとることによって、自分の感情や心の思いを秘めている胸の扉《とびら》を、固く閉ざしてしまっているようであった。
「じゃ、アンナ、女のお子さんはお元気?」ドリイはたずねた。
「アニイのこと? (彼女は娘のアンナをそう呼んでいた)ええ、丈夫ですわ。すっかり元気になりましたの。ごらんになります? じゃ、まいりましょう。お目にかけますわ。ずいぶんいろんな面倒がありましたの、保母のことではね」アンナは話しはじめた。「イタリア人の乳母《うば》を雇ったんですの。いい女《ひと》なんですけど、なにしろ頭が悪くてね! もう国へ帰そうかと思ったんですが、アニイがすっかりなついてしまったので、そのままおいてありますの」
「でも、あのほうはどうなさったの?……」ドリイは女の子がどちらの姓を名のることになったのかきこうとしたが、アンナの顔が急に曇ったのに気づいて、質問の意味を変えてしまった。「どうなさって? もうお乳はお離しになって?」
しかし、アンナは悟ってしまった。
「おききになりたいのは、そんなことじゃないでしょう? あの子の名前のことがおききになりたかったんでしょう? そうでしょう? そのことでは、アレクセイも苦しんでいますの。だって、あの子には名字がないんですもの。つまり、まだあの子はカレーニン家の娘になってるんですの」アンナは閉じた上下のまつげしか見えないほど目を細めて、いった。「でもね」急に明るい顔になって、「このお話はあとでゆっくりしましょうね。さあ、まいりましょう、あの子をお目にかけますわ。Elle est tr市 gentille. もうはいはいしていますわ」
子供部屋では、家じゅうどこへ行ってもドリイをびっくりさせた例のぜいたくさが、ひときわ彼女の目を見はらせた。そこには、イギリスから取り寄せたおもちゃの車や、歩行器や、はいはいするのに便利なようにわざわざ作られた玉突台みたいなソファや、揺りかごや、一種特別な新しい浴槽《よくそう》などがあった。それらはみんなイギリス製の、がっちりした、できのよい、一見してきわめて高価なものらしかった。部屋も大きく、天井がひじょうに高くて、明るかった。
ふたりがはいって行ったとき、女の子は肌着一枚の姿で、テーブルのそばの小さな肘《ひじ》掛《か》けいすにすわって、スープをすすっていたが、胸のあたりはびしょびしょにぬれていた。子供部屋のご用を勤めるロシア人の女中は、女の子に食べさせてやりながら、どうやら、自分もいっしょに、食べていた様子であった。乳母も保母もいなかった。ふたりは隣の部屋にいて、そこから奇妙なフランス語の話し声が聞えていたが、ふたりはそうした言葉でやっとお互いの意思を通じ合うことができるのであった。
アンナの声を聞きつけると、しゃれたなりをした、背の高い、無《ぶ》愛想《あいそ》な顔になにか不純な表情を浮べたイギリス婦人が、ブロンドの巻髪を振りみだしながら、急いで中へはいって来て、アンナがべつに小言をいったわけでもないのに、すぐさま弁解をはじめた。アンナがひと言いうたびに、イギリス婦人は急いで「Yes, my lady. 」と何度もいう始末であった。
眉《まゆ》毛《げ》と髪が黒く、柔肌《やわはだ》で、丈夫そうな赤いからだをした血色のいい女の子は、見なれない顔を見て、きびしい表情をつくっていたけれども、ドリイの気に入ってしまった。いや、その子の丈夫そうな様子が、うらやましくなってしまった。その子がはいはいする様子も、またひどく気に入ってしまった。自分の子供はひとりも、こんなはい方はしなかった。その子が、じゅうたんの上におろされて、着物の裾《すそ》をからげてもらったときは、なんともいえぬくらいかわいらしかった。その子はまるで小さな獣のように、きらきらした黒いひとみで、おとなたちをながめまわしながら、自分がみんなからかわいがられていることが、いかにもうれしそうな様子で、にこにこしながら、足を横っちょにひろげ、両手を勢いよく前へつっぱると、さっと胴体を前へ乗りだし、さらに両手を前のほうへおきかえるのであった。
それにもかかわらず、子供部屋全体の雰《ふん》囲《い》気《き》と、なによりもイギリス婦人は、ドリイにはひどく気にくわなかった。ドリイは、あれほど人を見る目をもったアンナが、こんな感じの悪い、下品なイギリス婦人をわが子のために雇っているのは、今のアンナのところのように正常でない家庭にはちゃんとした婦人が来ないのだろうと解釈するよりほかなかった。いや、そればかりか、ドリイはアンナと、乳母と、保母と、赤ん坊とは、どうやら互いにしっくりいっていないことを、また、母親がここをたずねて来るのもきわめてまれであることを、言葉の端ばしから、悟った。アンナは子供におもちゃをとってやろうとしたが、それを見つけることもできなかった。
なによりも驚いたことには、この子には歯が何本はえているかときいたとき、アンナはまちがった答えをして、最近はえた二本の歯については、まったく知らなかったことである。
「あたしはときどき、ここではなにか自分がよけいな人間みたいに感じられてつらい思いをするのよ」アンナは子供部屋を出ながら、戸口にあったおもちゃをよけるために長《なが》裳《も》をかかげて、いった。「はじめての子供のときは、こんなじゃなかったんですけど」
「あたしかえってその反対かしらと思ってましたわ」ドリイはおずおずといった。
「まあ、とんでもない! あなたはご存じでしたわね、あたしがあの子に、セリョージャに会ったことを」アンナは、なにか遠くのものをながめるかのように、目を細めながらいった。「でも、そのお話はあとにしましょうね。とても信じられないことかもしれませんけど、あたしったらまるで、急に山ほどのごちそうを目の前に出された飢えた人みたいに、いったい、なにから手をつけていいのか、まるっきりわからない始末なんですの。その山ほどのごちそうっていうのは、よくって、あなたのことと、これからあなたとしたいと思っている、いろんなお話のことなんですのよ。だってそんなお話は、ほかのだれともできませんものねえ。それに、なにから話していいかわからないんですの。Mais je ne vous ferai gr営e de rien. あたしはなにもかもお話ししてしまわなくちゃなりませんもの。そうでしたわ、これからここでお会いになる人たちのことを、一応、お話ししておかなくちゃなりませんわね」アンナはしゃべりだした。「女の方から申しましょうね、まず、ワルワーラ公爵令嬢ですけど、あなたはご存じでしたわね。あの人についての、あなたとスチーヴァの意見も、あたしちゃんと承知していますわ。スチーヴァにいわせれば、あの人の人生の目的はただ、カテリーナ・パーヴロヴナ伯母《おば》さまより、自分のほうが偉いってことを、証明することなんだそうですけど、そして事実そのとおりかもしれませんが、あの人はいい人ですし、あたしはあの人に感謝していますの。ペテルブルグにいたとき、一度どうしてもun chaperon が必要なことがありましてね。そのときちょうど、あの人が現われたんですの。でも、ほんとうに、あの人はいい人ですのよ。あの人のおかげでずいぶんあたしの境遇も楽になったんですもの。どうやら、あなたにはあたしの境遇の苦しさが、よくわかっていらっしゃらないようね……。あの、ペテルブルグにいた時分の」アンナはつけ足した。「でも、ここでは、あたしもすっかり気持が落ち着いて、しあわせですわ。まあ、この話はあとにしましょうね。ほかの方たちのことも、お話ししなくちゃなりませんものね。次はスヴィヤジュスキーですけど、あの方は貴族団長で、なかなかりっぱな人なんですのよ。ただ、今はなにかアレクセイに頼み事がおありになるらしいんですの。おわかりでしょうけど、あたしたちが今度こちらへ落ち着くことになってから、アレクセイも財産のおかげで、かなりの有力者になったんですの。それからトゥシュケーヴィチですけど、あなたはお会いになったことがあるでしょう。前はベッチイにつきまとっていたんですけど、今は見はなされてしまったので、あたしどものところへ来たってわけですの。あの人は、アレクセイにいわせると、本人が見せかけようとしているとおりの人間として受け取れば、とても気持のいい人間のひとりなんだそうですけど、ワルワーラ公爵令嬢なんかは、et puis, il est comme il faut. っておっしゃってますわ。それから、あのヴェスロフスキー……あの方のことはあなたもご存じですわね。とってもかわいいお坊ちゃんですわ」アンナはいって、いたずらっ子らしい微笑でその唇にしわをよせた。「でも、あのリョーヴィンとの一件は、ずいぶん乱暴なお話ですわね。ヴェスロフスキーがアレクセイに話して聞かせましたけど、あたしたちは本気にできませんでしたわ。Il est tr峻 gentil et na蒜. 」アンナはまた、例の微笑を浮べていった。「男の方には、気晴らしというものが必要ですから、アレクセイにもいろんなお仲間がいるんですの。ですから、あたしもあの人たちをみんなたいせつにしていますわ。家の中をいつも生きいきとにぎやかにしておいて、アレクセイがなにも新しいことを望まないように、しなければなりませんもの。それからまた、支配人がおりますわ。ドイツ人ですけれど、とてもいい人で、仕事もよくできるんですの。アレクセイはとてもこの人を高く買ってますわ。それから、お医者さまもいますわ。まだ若い人で、根っからのニヒリストじゃありませんけど、でも、ナイフでものを食べたりするんですのよ……もっとも、お医者さまとしては、なかなかしっかりしているんです。それから、もうひとり建築技師がいますわ……Une petite cour.」
20
「さあ、おばさま、ドリイをお連れしましたわ、とてもお会いになりたがっていらっしゃいましたわね」アンナはドリイといっしょに、大きな石畳のテラスへ出ながら、いった。そこの日陰になったところには、ワルワーラ公爵令嬢が刺繍台《ししゅうだい》に向って、ヴロンスキーのために、肘掛けいすのカバーを刺繍していた。「この方は、夜のお食事まで、なにもほしくないっておっしゃってますけど、なにかちょっとしたものを召しあがっていただくように、いいつけてくださいな。あたしはアレクセイを捜しに行って、みなさまをお連れして来ますから」
ワルワーラ公爵令嬢は愛想よく、そしていくらか保護者気どりの態度で、ドリイを迎えると、さっそく自分の立場を説明して聞かせた。つまり、自分がアンナのところへ移り住んだのは、もう前から、アンナを育てあげた姉のカテリーナ・パーヴロヴナよりも、アンナを愛していたからであり、みんながアンナを見捨ててしまった今となっては、このいちばんつらい時期にアンナを助けてやるのが、自分の務めだと心得ているからであるといった。
「いずれあの人のご主人が離縁を承知してくれましたら、あたしもそのときはまたもとのひとり暮しに返りますわ。でも、今のところは、あたしも役に立ちますから、たとえどんなにつらくても、自分の務めを尽すつもりですよ。なにしろ他人とは違いますからね。それにしても、あなたはおやさしいんですね。ほんとによく来てくださいましたこと! あのふたりはちゃんとりっぱな夫婦のように暮しておりますよ。ふたりを裁《さば》くのは神さまで、あたしどもじゃありませんからね。ビリュゾフスキーとアヴェーニエヴァにしたって……あのニカンドロフのことだって、ワシーリエフとマーモノヴァにしたって、それからリーザ・ネプトゥノヴァにしたって……だれもあの人たちのことを、なんともいっちゃおりませんでしょう? そして結局、みんなはあの人たちと交際するようになったんですよ。それに、C'est un int屍ieur si joli, si comme il faut. Tout--fait l'anglaise. On se r志nit le matin au breakfast et puis on se s姿are. 夜のお食事のときまでは、みんな好き勝手なことをすることになっているんですよ。夜の食事は七時ですけれどね。ほんとによくスチーヴァはあなたをここへよこしてくれましたわね。あの人もここのふたりとつきあってたほうがいいですからね。だって、ヴロンスキーは母上や兄上を通じて、どんなことでもおできになるんですからね。それに、あの人たちはずいぶんいいことをしていますよ。あの人はご自分の病院のことを話しませんでしたか? Ce sera admirable. 。なにもかも、パリから取り寄せるんですからねえ」
ふたりの会話は、アンナが来たので中絶した。アンナは男の連中を玉突き部屋で見つけて、みんなといっしょにテラスへ引き返して来たのであった。夕食までまだかなり時間があったし、それに天気もすばらしかったので、この残りの二時間を過すために、いくつかの方法があげられた。時間をつぶす方法はヴォズドヴィジェンスコエには、いくらでもあったが、それらはすべてポクローフスコエで行われているものとはおもむきが違っていた。
「Une partie de lawn tennis. 」ヴェスロフスキーが例の美しい微笑を浮べながら提案した。「アンナ・アルカージエヴナ、またあなたと組になりましょう」
「いや、暑いから、それより庭を散歩して、ボートにでも乗ったほうがいいですよ。ドリイ夫人に、川岸の景色でもお見せしたら」ヴロンスキーはいいだした。
「私はなんでも賛成ですよ」スヴィヤジュスキーはいった。
「ドリイには散歩が一番じゃないかしら、ね、そうじゃありません? それからあとでボートに乗りましょうよ」アンナはいった。
そういうことに話がきまった。ヴェスロフスキーとトゥシュケーヴィチは、川岸の水浴場へ行き、ボートの準備をして、みんなを待っていると約束した。
一同は二組になって、小道づたいに歩きだした。アンナとスヴィヤジュスキー、ドリイとヴロンスキーという組み合せであった。ドリイは、今自分がまったく新しい環境に身をおいたので、いくらか気づまりを感じて、落ち着かなかった。ドリイは抽象的というか、理論的には、アンナの行為を是認していたばかりでなく、一歩すすんでそれをいいことのようにさえ思っていた。一般的にいって、一点非の打ちどころのない貞淑な婦人というものは、よくその貞淑な生活の味気なさに疲れると、よく遠くのほうから不倫の恋をながめて、それを許すばかりか、うらやみさえするものである。しかも、ドリイは心からアンナを愛していた。ところが現在ドリイは、自分にとって縁のない人びとにとりまかれているアンナを見、またこれらの縁のない人びとの上品な態度に接すると、どうもばつが悪かった。とりわけ不愉快だったのは、自分の享受している生活の便宜さのために、すべてを許しているワルワーラ公爵令嬢を見ることであった。
一般的に、つまり、抽象的には、ドリイもアンナの行為を是認していたのであるが、その行為の原因となった当の人物を見るのは、彼女にとって不愉快であった。いや、そればかりか、ヴロンスキーは昔からドリイの気に入らなかった。ドリイはヴロンスキーを、ひどく高慢な人間と見なしていたが、しかも彼には財産以外になにひとつ誇るべきものを見いだすことができなかったからである。ところが、彼のほうもわが家にいるために、心ならずも、前よりもっとドリイを威圧するようなところがあったので、ドリイは彼といっしょにいると、なんとなく肩が張る思いであった。もっとも、ドリイが彼に対して感じた気持は、例のブラウスのために、小間使に対していだいた気持に似ていた。ドリイは小間使の前で、自分のつぎはぎのために、べつに恥ずかしいというほどではないが、なにかしらばつの悪い思いをしたのと同様、ヴロンスキーといっしょにいると、ドリイはいつも自分自身のために、恥ずかしいというほどではないが、なんとなくばつの悪い思いをするのであった。
ドリイは、自分がどぎまぎしているのを感じて、なにか話題を見つけようとした。ドリイは、屋敷や庭をほめたりするのは、彼の傲《ごう》慢《まん》な性質からいって、気に入らないだろうとは思ったけれども、ほかになにも話題を考えつくことができなかったので、とうとう相手に向って、あたしはお屋敷がとても気に入りました、といった。
「ええ、あれはとても美しい建物ですよ。趣味のいい、古風な様式のところが」彼はいった。
「お玄関の前の広いお庭がとても気に入りましたけれど、あれはもとからああなっておりましたの?」
「いや、そうじゃありません!」彼はいって、満足のあまり顔じゅうを輝かせた。「この春のあの庭を、お目にかけたかったですねえ!」
それから彼は、はじめのうちこそ控えめだったが、しだいに夢中になって、屋敷や庭の装飾の細かい点に、ドリイの注意をうながしはじめた。どうやら、ヴロンスキーは自分の領地の改良と美化に、大いに力を注いだので、新しい客の前でそれを自慢せずにいられぬらしく、ドリイの讃辞を心から喜んでいた。
「もし病院をごらんになりたいとお思いでしたら、それにお疲れでなかったら、ここからすぐなんですが。じゃ、行ってみましょう」彼は相手がほんとに退屈していないかどうかたしかめるために、顔色をうかがいながら、いった。
「きみも行くかい、アンナ?」彼はアンナのほうを振り向いた。
「ごいっしょしましょう。よろしいでしょう?」アンナは、スヴィヤジュスキーをかえりみた。
「Mais il ne faut pas laisser le pauvre Veslovsky et Touchkevitch se morfondre l dans le bateau. 。だれか使いをやって、そう教えてあげなくちゃいけませんわね。――ええ、これはね、あの人がここへ建てようとしている記念碑ですの」アンナは前に病院の話をしたときと同じような、いかにも万事のみこんでいるといった顔つきで、ずるそうな微笑を浮べながら、ドリイのほうを向いていった。
「ほう、こりゃ大事業ですな!」スヴィヤジュスキーはいった。しかし、彼はヴロンスキーに調子をあわせていると思われたくなかったので、すぐさま軽く非難をこめた調子でつけ加えた。「でも、伯爵、私がふしぎでならないのは」彼はいった。「あなたは百姓たちのために衛生方面でこれだけ多くのことをなさりながら、学校に対しては、いっこう無関心でいらっしゃいますな」
「C'est devenu tellement commun, les 残oles. 」ヴロンスキーはいった。「いや、じつはですね、ぼくはそんなつもりじゃなくて、つい夢中になってしまったんですよ。では、病院はこっちのほうです」彼は並木道から横へそれる小道を、ドリイに指さしていった。
婦人たちは日《ひ》傘《がさ》を開いて、横の道へそれた。いくつか角《かど》を曲って、小さな木戸をくぐると、ドリイは前方の高台に、もう九分どおりできあがった、大きな、美しい、凝った建物を見た。まだペンキを塗ってない鉄ぶきの屋根が、明るい日光にまぶしく輝いていた。完成された建物のそばには、もう一つ新しいのが起工されて、まわりに足場がかけてあった。前掛けをした職人たちは、板張りの台の上で煉《れん》瓦《が》積みをしながら、桶《おけ》から漆喰《しっくい》を流しては、それをこてでならしていた。
「こちらでは仕事がずいぶんはかどりますな!」スヴィヤジュスキーはいった。「この前うかがったときは、まだ屋根ができていませんでしたのに」
「秋までには、すっかり完成する予定ですの。内部の細かいところは、もうおおかたできあがっていますから」アンナはいった。
「じゃ、あの新しいほうはなんですか?」
「あれは医者の住居と薬局ですよ」ヴロンスキーは答えたが、短い外套を着た建築技師がこちらへやって来るのを見ると、婦人たちに断わってから、そのほうへ歩いて行った。
彼は職人たちが石灰を取り出していた坑《あな》をひとまわりすると、建築技師といっしょに立ち止って、なにやら熱心にしゃべりだした。
「破風《はふ》はやっぱりまだ低いんだよ」彼はどうかしたのかというアンナの問いに対して、答えた。
「だからあたし、土台を上げなくっちゃいけないと申しましたでしょう」アンナはいった。
「ええ、もちろん、そうすれはよかったんでございますよ、アンナ・アルカージエヴナ」技師はいった。「しかし、もう手おくれでございますからな」
「ええ、あたしも、こういうことにとても興味があるんですの」アンナは彼女が建築のことにくわしいのに驚いているスヴィヤジュスキーに、いった。「あの新しい建物は、病院と調和させなければならなかったんですけれど、なにしろあとから考えついたものですから、設計もせずにはじめてしまいましてね」
ヴロンスキーは建築技師との話を終えると、婦人たちのほうへもどって来て、病院の内部へ案内した。
外部はまだ軒蛇腹《のきじゃばら》をつけているところだったし、階下ではペンキを塗っていたのに、二階はもうほとんど全部できあがっていた。広い、鋳鉄の階段をのぼって、踊り場へ出ると、一同はとっつきの大きな部屋へ通った。壁は大理石まがいに漆喰が塗られ、もう窓という窓には大きな一枚ガラスがはめられて、ただ寄せ木の床が完成していないだけであった。そして、立てかけた角材に鉋《かんな》をかけていた指《さし》物《もの》師《し》たちは、仕事の手を休めて、髪を縛っていた細紐《ほそひも》をとり、お屋敷の人たちにあいさつをした。
「ここが受付の部屋ですよ」ヴロンスキーはいった。「ここには仕事机と、テーブルと、戸《と》棚《だな》のほかは、なにも置かないつもりです」
「どうぞ、こちらへまいりましょう、窓のそばへ寄らないで」アンナは、ペンキがかわいたかどうかためしながら、いった。「アレクセイ、ペンキはもうかわいてますわ」彼女はつけ足した。
受付の部屋から、一同は廊下へ出た。そこでヴロンスキーは、みんなに新式の換気装置を見せた。それから、大理石の浴槽《よくそう》や、変ったばねのついた寝台を見せた。さらに、次々と、病室、物置き、洗濯物を入れておく部屋などを見せてから、新式の暖炉、それから、必要な品を廊下づたいに運んで少しも音をたてない手押し車、その他いろんなものを見せた。スヴィヤジュスキーは新式の改良品には目のある人だったので、これらすべてのものに敬意を表した。ドリイは、これまで見たこともないものばかりだったので、ただもう驚嘆の目を見はるばかりであった。そして、なにもかも知ろうとして、どんなものにもいちいちくわしく質問を浴びせたが、それがどうやら、ヴロンスキーにはまたとてもうれしそうであった。
「いや、これはきっとロシアで唯一の、もっとも設備の完備した病院になるでしょう」スヴィヤジュスキーはいった。
「でも、こちらには、産科はお置きになりませんの?」ドリイはたずねた。「田舎《いなか》でも、とても必要でございますけれど。あたしもよく……」
すると、いつもの慇懃《いんぎん》さにも似合わず、ヴロンスキーはドリイの言葉をさえぎった。
「ここは産院じゃなくて、病院なんですよ。つまり、伝染病以外のあらゆる病気を治療するわけです」彼はいった。「まあ、これをひとつ見てください……」彼は回復期の患者用に新しく取り寄せた肘掛けいすをドリイのほうへおしやった。「さあ、よくごらんください」そういって、彼はそのいすに腰かけて、それを動かしはじめた。「病人は歩くことができないんですね。まだ体力がないか、それとも足の病気で。しかし、病人にとっては、新鮮な空気が必要です。そこで、病人はこれにすわって、自分で動かして行けばいいんです……」
ドリイはすべてのものに興味をもち、なにもかも気に入ったが、なによりもいちばん気に入ったのは、こうした自然で素朴な熱中ぶりをみせているヴロンスキーその人であった。《そうね、この人はとても愛すべき好人物なんだわ》ドリイは時おり彼の言葉には上の空で、その顔をながめながら、思った。そして、彼の表情にじっと注意ぶかく見入りながら、心の中で自分をアンナの立場においてみた。彼の生きいきとした態度は、いまやすっかりドリイに気に入ってしまったので、彼女はアンナが彼に魅せられた理由を納得した。
21
「いや、公爵夫人はお疲れになったようだから、馬なんかには興味がおありにならないと思うよ」ヴロンスキーは、スヴィヤジュスキーが新しい雄馬を見たいといったので、養馬場まで行こうといいだしたアンナにいった。「きみたちで行って来たらいいよ。ぼくは公爵夫人を家までお連れして、ふたりでお話ししてるよ」彼はいった。「そのほうがおよろしかったら?」彼はドリイのほうを振り返った。
「ええ、馬のことはなんにもわかりませんから、そうしていただければ、とてもうれしゅうございますわ」ドリイはいくらか驚いたような調子で答えた。
彼女はヴロンスキーの顔つきから、なにか自分に用事があるらしいのを見てとった。ドリイの勘はまちがっていなかった。ふたりがくぐり戸を抜けて、再び庭へ出ると、彼はすぐアンナの行ったほうをちらりと振り返って、彼女がもう自分たちを見ることもできなければ、自分たちの話を聞くこともできないのをたしかめた後、こう切りだした。
「どうやら、ぼくがあなたにお話ししたいことがあるのをお察しくださったようですね」彼は笑いを含んだ目つきで、ドリイを見ながらいった。「やっぱり、ぼくの考え違いじゃなくて、あなたはアンナの親友でしたね」彼は帽子を脱いで、ハンカチを取り出し、はげかかった頭をふいた。
ドリイは一言も返事をしないで、ただびっくりしたように相手の顔を見ていた。彼とふたりきりになると、彼女は急に恐ろしくなった。相手の笑いを含んだ目つきや、きびしい顔の表情が、彼女をおびやかしたのであった。
相手は何を自分にいいだそうとしているのだろうと考えると、きわめて種々雑多な想像が、頭の中にひらめいた。《この人はあたしに、子供たちを連れてこちらへ引き移ってくれといいだすのじゃないかしら。もしそうなら、なんとしても断わらなくちゃならないわ。それとも、モスクワでアンナのための社交グループでもつくってくれというのかしら……でなければ、ヴェスロフスキーのことを、あの青年とアンナの関係でもきこうというのかしら。いや、ひょっとすると、キチイのことかもしれない。自分はキチイに対して申しわけないと思っている、なんてことを》ドリイは、不愉快なことばかりいろいろ想像したが、しかし彼のいおうと思っていることは、推測することができなかった。
「じつは、あなたはアンナに対して、とても影響力をもっていらっしゃいますし、あれもあなたをひじょうに愛していますから」彼はいった。「なんとかぼくを助けていただきたいんです」
ドリイは、もの問いたげなおずおずした表情で、相手の精力的な顔をながめていた。その顔は、菩《ぼ》提樹《だいじゅ》の葉陰をもれる日ざしに、時には全部、時にはところどころ照らしだされたかと思うと、また陰になり、暗くなってしまった。彼女は、相手がその先をつづけるのを、待っていた。しかし、彼はステッキの先で小石を突っつきながら、黙って彼女と並んで歩いていた。
「アンナの以前の友だちの中で、ここへたずねて来てくださったのは、あなたただひとりですが、――あのワルワーラ公爵令嬢は別ですよ――あなたがそうしてくださったのは、ぼくたちの境遇が正常なものと、お思いになったからじゃなくて、こうした境遇の苦しさを十分に理解されたうえで、なおかつあれを愛して、あれの力になってやろうとお思いになったからでしょうね。ぼくはそう解釈してるんですが、これは当たっているでしょうか?」彼はドリイをかえりみて、たずねた。
「ええ、そうですとも」ドリイは、日《ひ》傘《がさ》をたたみながら答えた。「でも……」
「いや」彼はさえぎった。そして、この動作が相手をばつの悪い立場におくことを忘れて、ついひとりでに立ち止ってしまった。そこで、彼女も足を止めなければならなかった。「そりゃ、ぼく以上にアンナの境遇の苦しさをはっきりと強く感じているものはおりませんよ。もしぼくを誠意のある人間と認めてくださるならば、これは当然の話ですがね。なにしろ、ぼくはそうした境遇の原因となった当の人間ですから、それを感じるのはあたりまえですよ」
「ええ、わかりますわ」ドリイはそれをいったときの誠意ある、きっぱりした彼の態度に思わず見とれながら、答えた。「でも、あなたはご自分をその原因だと感じてらっしゃるために、少しおおげさに考えすぎていらっしゃるんじゃないでしょうか」彼女はいった。「そりゃ、社交界でのアンナの立場はさぞつらいものだろうってことは、あたしにもわかりますわ」
「社交界では、まさに地獄ですよ!」彼は暗い顔に眉《まゆ》をひそめながら、早口でいった。「あれがペテルブルグで二週間あまり経験した精神的な苦しみのひどさときたら、ちょっと想像もつきませんよ。どうか、それだけは信じてください」
「ええ、でも、ここでは、……アンナも……あなたも、社交界の必要をお感じにならないあいだは……」
「社交界ですって!」彼はさげすむようにいった。「ぼくは社交界なんかに、なんの必要も感じちゃおりませんよ!」
「ですから、そのあいだは――いえ、それは永久につづくことだってできるわけですが――あなた方はしあわせに、おだやかにお暮しになれますわ。あたし、アンナを見て思いましたけど、あの人は幸福ですわ、ほんとに幸福ですわ。自分でもあたしにそういいましたもの」ドリイは微笑を浮べながらいった。が、そういいながら、彼女はふとわれともなく、アンナはほんとに幸福なのかしら、と疑ってみた。
ところがヴロンスキーは、それを疑う様子もなかった。
「ええ、そうですとも」彼はいった。「あれがあの恐ろしい苦しみをへて生き返ったことは、ぼくも承知しています。あれは幸福です。現在に幸福を感じています。しかし、ぼくはどうでしょう?……ぼくは将来のことが気がかりなんです……いや、失礼、お歩きになってたほうがよろしいですか?」
「いいえ、どっちでも同じことですわ」
「それじゃ、ここにかけましょう」
ドリイは、並木道の角《かど》にあるベンチに腰をおろした。彼はその前に立ち止った。
「あれが幸福なのは、ぼくにもわかっています」彼は繰り返した。すると、アンナはほんとに幸福なのだろうかという疑問が、さらに激しくドリイの心を打った。「でも、こんなふうにいつまでもつづくでしょうか? ぼくたちふたりのしたことがいいか、悪いか、それは別問題です。いずれにしても、運命のさいころはもう投げられたんですから」彼はロシア語からフランス語に移りながらいった。「それに、ぼくたちは一生涯結び合わされてしまったのです。ぼくたちふたりは自分たちにとってもっとも神聖な愛の絆《きずな》で結びつけられてしまったのですから。もう赤ん坊もいますし、これから先ももっとできるかもしれません。しかし、法律的にいっても、こうした境遇のいろんな条件からいっても、ありとあらゆる厄介な問題が表われてくるのはたしかなのですが、今はあれもさまざまな悩みや苦しみをへて、心の底から休息しているので、そうしたものも見えないのです。いや、見ようとしないのですね。そりゃむりもありませんよ。でも、ぼくは見ずにはいられないのです。ぼくの娘だって、法律的にはぼくの娘じゃなくて、カレーニンの娘になっているんですからね。ぼくにはその虚偽がたまらないんですよ!」彼は力づよく承服できかねるという身ぶりをして、もの問いたげな暗い表情でドリイをながめた。
ドリイはひと言も答えないで、ただ相手の顔をじっと見つめていた。ヴロンスキーは言葉をつづけた。
「あすにも、男の子が生れるかもしれません。それはぼくのむすこでも、法律的には、カレーニンの子供なのです。その子はぼくの名字も、ぼくの財産も相続できないんです。ですから、ぼくたちが家庭の中でいくら幸福であっても、またいくら子供ができても、ぼくと子供たちのあいだにはなんの関係もないわけなんです。なにしろ子供たちはみんなカレーニン家の者なんですから。どうか、こうした立場の苦しさ、みじめさを察してください!ぼくはこのことを、アンナにいおうとしたんですが、こうした話はあれをいらだたせるばかりなんです。あれはそのことがよくわからないんですが、ぼくもなにもかもはっきりとあれ《・・》にはいえないんです。じゃ、今度は別の角度からながめてください。ぼくはたしかにあれの愛情のおかげで幸福です。しかし、ぼくは仕事をもたなくちゃなりません。ぼくはその仕事を見つけて、それを誇りとしています。そして、ぼくはこの仕事を、宮廷や軍隊にいる昔の友だちがやっている仕事よりも、高尚なものだと思っています。いや、もちろん、ぼくはこの仕事を、もうあんな連中の仕事に見返るなんて気は毛頭ありません。ぼくはここでじっと落ち着いて働いていますが、もうそれだけで幸福であり、満足しています。ぼくたちは幸福のために、もうこれ以上なにもいりません。ぼくはこうした事業を愛しているんですから。Cela n'est pas un pis-aller, 、それどころか……」
ドリイは彼がそこまで説明してきて、しどろもどろになったのに、気がついた。それに、なぜこんな横道へそれたのか、よく納得がいかなかった。それでも、彼女は、ヴロンスキーがアンナにもいえないような、心の秘め事をいいだしたからには、もうなにもかもいってしまったのであって、この田舎での事業という問題も、アンナとの関係と同じく、心に秘めていた考えに属するものにちがいないと、感じていた。
「それじゃ、先をつづけますが」彼はわれに返っていった。「仕事をしていくうえに、なによりも肝心なのは、自分の仕事は、自分といっしょに滅んでしまうのじゃなくて、ちゃんとした後継者がいるという信念をもつことなんです。ところが、ぼくにはそれがないんです。自分と自分の愛する女のあいだに生れた子供が、自分のものじゃなくて、だれかほかの自分たちを憎んでいて、洟《はな》もひっかけないような人間のものになるってことを、あらかじめちゃんと知っているなんて、いや、そんな男の立場をひとつ想像してみてください。まったく、ひどいことじゃありませんか!」
彼は、どうやら、激しい興奮にかられたらしく、口をつぐんだ。
「ええ、もちろんですとも、あたしにもよくわかりますわ。でも、アンナにはいったい、なにができまして?」ドリイはたずねた。
「そうです。そのお言葉こそ、ぼくの話の核心にふれてくるのです」彼は強《し》いて落ち着こうとしながら、いった。「アンナにはできるんです、これはあれの心がまえひとつにかかっているんですから……養子にするために皇帝に請願するにしても、離婚は必要なんです。しかも、それはアンナの気持しだいでできるんですから。あれの夫は離婚を承知したんです――あのときあなたのご主人はなにもかもすっかりうまく話をつけてくださったのですから。今だってきっと、いやだとはいわないでしょう。ただあの夫に手紙を一通書いてやればいいんです。現に、あのときだって、夫のほうは、あれが意思表示をやりさえすれば、自分はそれを拒絶しないと、はっきりと返答したんですから。そりゃ、もちろん」彼は暗い顔をしていった。「そういうことは、ああいう魂をもたない人間にしかできない、偽善者流の残酷な行為の一つには違いありませんがね。あの男は自分に関する思い出の一つ一つが、あれにどんな苦しみを与えるかってことを、ちゃんと承知していながら、わざとあれの手紙を要求しているんですよ。それがあれに苦しいってことは、ぼくにもよくわかっています。しかし、とにかく、じつに重大なことなんですから、passer pardessus toutes ces finesses de sentiment. Il y va du bonheur et de l'existence d'Anne et de ses enfants. 。ぼくは自分のことなんかいいませんよ。そりゃ、ぼくだってつらいですよ、とてもつらいんですがね」彼は自分がつらいということに対して、まるでだれかを威《い》嚇《かく》するような表情を浮べていった。「いや、じつはこういうわけで、ぼくはあつかましくも、あなたを救いの錨《いかり》と思って、おすがりするしだいです。どうか、あれを説得して離婚を要求する手紙を書かせてください。このぼくを助けてください!」
「ええ、ようございますとも」ドリイは最後にカレーニンと会ったときのことを、まざまざと思い起しながら、もの思いに沈んだ調子でいった。「ええ、ようございますとも」彼女はアンナのことを思い浮べて、きっぱりした調子でもう一度繰り返した。
「どうか、あれに対するご自分の影響力を利用して、あれが手紙を書くようにしてください。ぼくはこの問題についてあれに話したくありませんし、それにそんなことはとてもできないんですから」
「けっこうですとも。あたしがお話しいたしましょう。それにしても、なぜあの人は自分でそのことを考えないのでしょうね?」ドリイはいったが、そのときふとなぜか、あの目を細めるアンナの奇妙な新しい癖を思いだした。しかも、アンナが目を細めるのは、話がいつも生活の秘められた内面にふれたときであることも、いまさらのように思いだされた。《まるであの人ったら、自分の生活をはっきり見たくないために、わざと目を細めているみたいだわ》ドリイは考えた。「あたしは自分のためにも、あの人のためにも、かならずお話しいたしますわ」ドリイは感謝の表情を浮べた相手に対して答えた。
ふたりは立ちあがって、屋敷のほうへ歩いて行った。
22
アンナはドリイがもう家へ帰っているのを見ると、彼女がヴロンスキーとどんな話をしたのか、さもききたそうな表情で、注意ぶかくじっと相手を見つめたが、言葉に出してはなにもいわなかった。
「もう夜のお食事の時間らしいわ」アンナはいった。「まだお互いに顔もろくろく見られませんでしたわね。今晩が楽しみですわ。今は着替えに行かなくちゃなりませんけど。あなたもそうなさるでしょう。みなさんあの普請場でほこりだらけになりましたものね」
ドリイは自分の部屋へ行ったが、われながらおかしくなってしまった。着替えようにも、着替えるものがなかったのである。なぜなら、いちばんいい着物はもう着てしまったからであった。しかし、せめて晩餐《ばんさん》のために身なりを整えたことを示すために、ドリイは小間使に頼んで、着物にブラシをかけてもらい、カフスと蝶結びのリボンを取り替えて、頭にレース飾りをつけた。
「これだけするのが、あたしには精いっぱいだったのよ」ドリイは微笑を浮べながら、アンナにいった。アンナはもうこれで朝から三度めの着替えをして、相変らずとても簡素な服を着て、ドリイの部屋へはいって来た。
「ええ、ここではあたしどもとても儀式ばっていますの」アンナは自分の盛装をわびるような口調で、いった。「アレクセイは、あなたが来てくださったので、ほんとに喜んでいますわ。こんなことってめったにありませんのよ。あの人ったら、すっかりあなたに惚《ほ》れこんでしまって」アンナはつけ足した。「それはそうと、あなたはお疲れじゃありません?」
晩餐までには、もうなにを話す暇もなかった。ふたりが客間に通ってみると、そこにはもうワルワーラ公爵令嬢をはじめ黒いフロックコートを着た男たちがそろっていた。建築技師は燕《えん》尾《び》服《ふく》を着ていた。ヴロンスキーはドリイに、医者と支配人を紹介した。建築技師のほうはもう病院で紹介ずみであった。
でっぷり太った給仕頭《きゅうじがしら》が、剃《そ》りたての丸顔と、糊《のり》のきいた白い蝶ネクタイを輝かせながら、食事の用意ができた旨を知らせに来たので、婦人たちは立ちあがった。ヴロンスキーはスヴィヤジュスキーに、アンナに腕を貸してくれと頼んでから、自分はドリイのそばへ行った。ヴェスロフスキーはトゥシュケーヴィチより先に、ワルワーラ公爵令嬢に腕をさしだしたので、トゥシュケーヴィチは支配人や医者たちといっしょに、相手のないまま、歩いて行った。
晩餐、食堂、食器、給仕、酒、料理といったものはすべて、この屋敷全体にただよっている新しい豪華な雰《ふん》囲《い》気《き》にふさわしかったばかりでなく、それよりさらにいっそう豪華で新式に見えた。ドリイは、自分にとってもの珍しいこの豪華さを観察しながら、そこで見たもののうちなにひとつとして自分の家に応用しようなどという望みはいだかなかったし、それらのぜいたくぶりからいって、とても彼女の生活様式などにはおよびもつかないものばかりであったが、家政をつかさどる一家の主婦として、ひとりでにそのいっさいのことをこまごまとながめて、いったいこれはだれが、どんなふうにやったんだろうと、自問するのだった。ヴェスロフスキーも、自分の夫も、いや、スヴィヤジュスキーでさえも、彼女の知っている多くの人びとは、かつて一度もこんなことは考えずに、ただちゃんとした家の主人ならだれでも、自分の家はこのとおりなにもかもりっぱにととのっているが、主人たる自分なんかなにひとつ骨を折ってはいない、なにもかもひとりでにできてしまうのだと、お客たちに感じさせようとするものだが、それをみんな額面どおり信じているのであった。ところが、ドリイは、子供たちにやる朝のお粥《かゆ》だってひとりでにはできやしないのだから、こんなすばらしい手のこんだ晩餐をととのえるには、だれかの細心の注意がはらわれていなければならないはずだと承知していた。ところで、ヴロンスキーが食卓を一《いち》瞥《べつ》した目つきや、給仕頭にうなずいて合図した様子や、自分に冷たいスープと暖かいスープのどちらがいいかとたずねた態度などから、ドリイはこれらのすべてのものが主人みずからの配慮によってつくりあげられ、また保たれていることを理解した。こうした仕事はアンナにとって、ヴェスロフスキーにとってと同様、まったくなんの関係もないことは、一見して明らかであった。アンナも、スヴィヤジュスキーも、公爵令嬢も、ヴェスロフスキーも、自分たちに用意されたものを楽しく利用するという点では、同じようにお客さまであった。
アンナは、一座の会話をうまくすすめていくという点でだけ、主婦であった。この会話をうまくすすめる仕事も一家の主婦として、きわめて気骨の折れることであった。なにしろ、食卓はそう大きくないのに、支配人や建築技師のような、まったく別の世界に属している人びとや、ふだん慣れないこんな豪華さに圧倒されまいと努めている人びとや、一座の会話に長いこと仲間入りしていられない人びとをかかえている、この気骨の折れる会話を、アンナは例によって独特な手ぎわよさで自然に、ドリイの気づいたところでは、一種の満足すら感じながら、りっぱにやってのけているのだった。
話題は、トゥシュケーヴィチとヴェスロフスキーが、ふたりだけでボート遊びをしたことに移っていった。と、トゥシュケーヴィチが、ペテルブルグのヨット・クラブで行われた最近のレースについて話しだした。ところが、アンナは話のとぎれるのを待って、さっそく建築技師を沈黙から引き出すために、彼に向って話しかけた。
「スヴィヤジュスキーさんは、そりゃびっくりしていらっしゃいましたよ」アンナはスヴィヤジュスキーのことをいいだした。「この前にいらしたときからみて、あの新しい建物がとてもはかがいっているとおっしゃいましてね。いえ、あたしなんかも、毎日見に行っておりながら、あまり仕事の進みぐあいが早いので、驚いている始末ですわ」
「なにしろ、こちらさまのお仕事はやりようございますからね」技師は、微笑しながらいった(彼は自分の価値を自覚している、慇懃《いんぎん》な、落ち着いた人間であった)。「県庁の役人相手の仕事とは、まるっきり違いますからな。書類を山のように書くかわりに、私が伯爵にじきじきご報告して、説明申しあげれば、ほんのひと言二言でけり《・・》がついてしまうんですから」
「そりゃアメリカ式のやり方ですな」スヴィヤジュスキーは、微笑しながらいった。
「さようでございます。あちらでは、建築はすべて合理的に行われておりますから……」
話題は、合衆国における官権濫用《らんよう》の問題に移っていったが、アンナはすぐさまそれを、支配人を沈黙から引っぱりだすために、別の話題へもっていった。
「ねえ、あなたはいつか麦刈機をごらんになったことがあって?」アンナはドリイに話しかけた。「あなたにお会いしたときね、あたしたち、ちょうどそれを見に行ったところでしたの。あたし、生れてはじめて見たんですけど」
「どんなふうに動くものですの?」ドリイはきいた。
「まったく鋏《はさみ》と同じことなんですの。一枚の板に小さな鋏がたくさんついているんですの。ほら、こんなふうに」
アンナは、美しいまっ白な、指輪のたくさんはまった両手で、ナイフとフォークを取って、その格好をしてみせた。アンナは自分の説明では、なんにもわかってもらえないことを、どうやら、承知しているらしかったが、自分の話しぶりが好感を与えていることと、自分の手が美しいことを心得ていたので、そのまま説明をつづけていった。
「いや、むしろペンナイフといったほうがよさそうですね」アンナから目を放さずにいたヴェスロフスキーは、からかうようにいった。
アンナはかすかに微笑をもらしたが、返事はしなかった。
「いえ、鋏みたいですわね、カルル・フョードロヴィチ?」アンナは支配人のほうを振り返った。「O ja. 」ドイツ人は答えた。「Es ist ein ganz einfaches Ding. 」彼はいって、機械の構造を説明しはじめた。
「あれが束に縛るようになっていないのは、ちょっと残念ですな」スヴィヤジュスキーはいった。「私はウィーンの博覧会で縛るようになってるのを見ましたがね。このほうがもっと便利だと思いますな」
「Es kommt drauf an …… Der preis vom Draht muss ausgerechnet werden. 」沈黙を破ったドイツ人は、ヴロンスキーのほうを振り向いて、いった。「Das l郭st sich ausrechnen, Erlaucht. 」ドイツ人はポケットへ手をいれて、いつも計算をやる、鉛筆をはさんだ手帳を取りだそうとした。が、そのとたん彼は自分が晩餐の席にいることを思いだし、ヴロンスキーの冷やかなまなざしに気づいて、それを思いとどまった。「Zu complicirt, macht zu viel Klopot. 」彼はそう言葉を結んだ。
「W殤scht man Dochots, so hat man auch Klopots.」ヴェスロフスキーが、ドイツ人をからかいながら、いった。「J'adore l'allemand.」彼はまた同じような微笑を浮べて、アンナを振り返った。
「Cessez.」アンナも冗談半分にわざとこわい顔をしていった。
「あたしたち、あなたには畑でお目にかかれるものと思っておりましたのよ、ワシーリイ・セミョーヌイチ」アンナは病身らしい医者に話しかけた。「あなたもあそこへ行ってごらんになりまして?」
「まいるにはまいりましたが、すぐ逃げだしてしまいましたよ」医者は顔を曇らせて、冗談めかして答えた。
「それじゃ、いい運動をなさったってわけですのね」
「ええ、すばらしかったですとも!」
「それはそうと、あのおばあさんの容体《ようだい》はどうなんですの、まさかチフスじゃないでしょうね?」
「いや、チフスじゃありませんが、あまりいいとは申せませんね」
「まあ、かわいそうに!」アンナはいった。アンナはわが家の人たちにひととおり愛想《あいそ》のいい言葉をかけてから、お客たちのほうへ話しかけた。
「それにしても、あなたのお話では、どうも機械を組み立てるのはむずかしそうですな、アンナ・アルカージエヴナ」スヴィヤジュスキーが、冗談半分にいった。
「まあ、どうしてですの?」アンナは、微笑を浮べながらいったが、その微笑には、自分が機械の構造を説明したとき、スヴィヤジュスキーさえも認めたほど、なにかわれながらかわいげなところがあった、という意味が含まれていた。今までアンナに見られなかった、このような若々しい媚《び》態《たい》に、ドリイは思わず不快な感じを受けた。
「でも、そのかわり、建築に関するアンナ・アルカージエヴナの知識は、まさに驚くべきものですよ」トゥシュケーヴィチがいった。
「そりゃたしかですね。いや、きのうもぼくはアンナ・アルカージエヴナが、柱脚《ストローバ》だの、側石《プリントウス》だのといっておられるのを耳にしましたよ」ヴェスロフスキーがいった。「そうでしたね」
「そんなこと、ちっともふしぎじゃありませんわ。だって、しょっちゅう見たり聞いたりしているんですもの」アンナはいった。「あなたなんか、きっと、家はなんでつくるのか、それさえご存じないんじゃありません?」
ドリイは、アンナが、自分とヴェスロフスキーのあいだに見られる、こうしたふざけた調子に、不満でいるくせに、心ならずも自分から、その調子に巻きこまれていくらしいのに、気づいていた。
ヴロンスキーは、こういう場合にも、リョーヴィンとはまるで違った態度をとっていた。彼はどうやら、ヴェスロフスキーの饒舌《じょうぜつ》を、まったく問題にしていないどころか、かえってそうした冗談を、奨励しているみたいであった。
「それじゃ、うかがいますが、ヴェスロフスキーさん、石と石はなんでくっつけるんですの?」
「もちろん、セメントですよ」
「まあ、えらいわねえ! じゃ、セメントって、どんなもんですの?」
「つまり、その、どろどろした液体みたいな……いや、漆喰《しっくい》みたいなもんですね」ヴェスロフスキーは一座の爆笑を呼びおこしながら、いった。
食卓をかこむ人びとのあいだの談笑は、陰気に黙りこくっている、医者と、建築技師と、支配人を除いて、少しもたえまなく、時には軽快に運んだり、時にはなにかひっかかったり、時にはだれかの急所にふれたりしながら、進行した。一度はドリイも急所にさわられて、思わずかっとなってまっ赤になった。が、あとになって、自分はなにかよけいな、不愉快なことをいいはしなかったかと反省した。スヴィヤジュスキーがリョーヴィンの話を持ちだして、ロシアの農業においては、機械はただ害になるばかりだという彼の奇怪な意見を披《ひ》露《ろう》したからであった。
「ぼくはまだ残念ながらリョーヴィン氏を存じあげておりませんがね」ヴロンスキーは、微笑を浮べながらいった。「しかし、たぶん、彼は自分の非難している機械を、一度も見たことがないんじゃありませんか。いや、たとえ自分で見て、実験したとしても、どうせいいかげんなやり方で、それも外国製じゃなくて、そこらへんのロシア製の機械だったんじゃないですか。そんなことじゃ、正式の意見は述べられませんよ」
「つまり、トルコ式の意見ってわけですよ」ヴェスロフスキーは微笑を浮べて、アンナをかえりみていった。
「そりゃ、あたしには、あの人の意見を弁護するなんて力はありませんけれど」ドリイはかっとなって、いった。「あの人がたいへん教養のある人だってことは、申しあげられますわ。あの人がこの場に居あわせましたら、きっとちゃんとしたご返事をなさったことでしょうが、あたしにはできませんわ」
「私もあの男が大好きでしてね、私たちは親友なんですよ」スヴィヤジュスキーが、人のよさそうな微笑を浮べていった。「Mais pardon, il est un petit peu toqu. 。たとえば、あの男ときたら、地方自治体や治安裁判所なんてものは、みんな不必要だといいはって、自分ではそのいずれにも関係しようとしないんですからな」
「それは、われわれロシア人に共通の無関心というやつですよ」ヴロンスキーは、氷のはいっているフラスコから、足のついた薄いグラスに水をつぎながら、いった。「われわれの権利から生れる義務を感じていないので、そのために、その義務までを否定してしまうんですよ」
「あたしはあの人くらい、自分の義務を厳格に実行する人を、ほかにちょっと存じませんけれどね」ドリイはヴロンスキーのこの優越的な態度が癇《かん》にさわって、いった。
「いや、ぼくはその反対に」ヴロンスキーは、なぜかこの話で急所をつかれたらしく、言葉をつづけた。「ごらんのとおり、スヴィヤジュスキー氏の(彼はスヴィヤジュスキーを指さした)おかげをもちまして、名誉治安判事に選ばれた光栄を、深く感謝しております。ぼくは、集会へ出かけて行って、百姓たちの馬に関する事件を審理する義務を、自分のなしうるいっさいのことと同様、重大なことだと考えています。ですから、もし県会議員に選ばれるようなことがあったら、ぼくはそれを名誉なことだと思うでしょう。ぼくはただそうすることによって、地主として享受している利益に、報いることができるのですから。ところが、不幸なことに、大地主として、国家に対して当然もたなければならぬこの義務の意義を、理解していない人がかなりいるんですね」
ドリイにとっては、彼がわが家の食卓で、自分の正しさを信じて平然としている様子が、ふしぎでならなかった。彼女はふと、それとまるで反対の意見をいだいているリョーヴィンも、わが家の食卓で自分の意見を述べるにあたっては、やはり断固たる態度をとっていたことを思いだした。しかし、彼女はリョーヴィンを愛していたので、その味方をした。
「それでは、伯爵、次の集会には、あなたをあてにしてもよろしいんですね?」スヴィヤジュスキーはいった。「しかし、八日には向うへ着いているように、少し早めにお出かけくださる必要がありますな。もし私どもへお寄りくださるとすればですな」
「あたしはあなたの beau-fr屍e の意見にいくらか賛成いたしますわ」アンナはドリイにいった。「でも、ただあの方がお考えになるような意味じゃございませんけど」アンナは微笑を浮べながら、つけ足した。「最近ロシアにも、そういった社会的な義務が少し多すぎるんじゃないかしら。以前はお役人が大勢いて、なにをするにもお役人でしたけれど、このごろはなにもかも、社会活動家に頼っているんですからねえ。アレクセイなんか、こちらへ来てまだ六カ月にしかなりませんのに、もうたしか五つ六つかの公共団体の役員なんですもの――監査役だとか、判事だとか、議員だとか、陪審員だとか、馬匹なんかとかだとか。Du train que cela va, そのためにすっかり時間をとられてしまいますわ。それに、こうした仕事がこう多くなったら、なにもかも単なる形式だけになってしまうんじゃないかしら。ねえ、あなたなんか、いくつぐらいの委員をしていらっしゃいますの、スヴィヤジュスキーさん?」アンナはスヴィヤジュスキーに話しかけた。「きっと、二十以上でしょうね?」
アンナは冗談半分でしゃべっていたが、その調子にはいらいらした響きが感じられた。ドリイはアンナとヴロンスキーを、注意ぶかく観察していたので、すぐそれに気づいた。また、ブロンスキーの顔がこうした話になると、たちまち、きまじめでかたくなな表情をおびてくるのを悟った。さらに、ドリイはワルワーラ公爵令嬢が話題を変えようとして、急いでペテルブルグの知人たちの話を持ちだしたことにも気づいたし、それからまた、さっき庭でヴロンスキーがいきなり自分の社会的活動のことを話しだしたことを思い起して、この社会的活動に関する問題には、アンナとヴロンスキーのあいだになにかしら微妙ないさかいが結びついていることも悟ったのであった。
料理も、酒も、食器も――なにもかもすばらしかったが、それらはみなドリイがもう長いこと遠ざかっている招待宴や舞踏会などで、以前よく見かけたような、まったく個性のない、少しもゆとりのない性質のものであった。そのために、それが普通の日の、ささやかな集《つど》いであるだけに、ドリイは不愉快な印象を受けた。
食後、一同はしばらくテラスで休息した。それからローンテニスをはじめた。みんなは二組に分れ、きれいにならされたクロケット・グラウンドの、金色に塗った柱に張られたネットの両側に、陣取った。ドリイもやってみたが、長いことやり方がのみこめなかった。ようやくわかったときには、すっかり疲れてしまい、ワルワーラ公爵令嬢と並んで腰をおろし、ただみんなの見物をするばかりであった。ドリイのパートナーであったトゥシュケーヴィチも、やはりやめてしまったが、そのほかの連中は、長いことテニスをつづけていた。スヴィヤジュスキーとヴロンスキーはふたりとも、なかなかじょうずに真剣に勝負していた。ふたりは、自分のほうへ飛んで来るボールのゆくえをよく見きわめて、急ぎもしなければ遅れもせず、巧みにボールのそばへ駆け寄り、バウンドするのを待って、正確にラケットでボールをネットの向うへ打ち返すのだった。ヴェスロフスキーはだれよりもまずかった。あまり熱中しすぎるためであった。しかしそのかわり、彼は陽気に騒いで、みんなを活気づけた。彼の笑いと喚声は、絶えることがなかった。彼もほかの連中と同様、婦人たちの許しを得て、フロックコートを脱いだ。そして、まっ白なシャツの袖《そで》をみせ、紅潮して汗ばんだ顔をした彼の大がらな美しい姿は、その激しい動作とともに、はっきりと人びとの印象にきざまれた。
その晩、ドリイは床について、目を閉じるとたちまち、クロケット・グラウンドを飛びまわっているヴェスロフスキーの姿が浮んできた。
テニスをやっているあいだも、ドリイは陽気になれなかった。彼女にはそのときも、依然としてつづいていたヴェスロフスキーとアンナのふざけたような態度も、子供もいないのにおとなばかりで子供っぽい遊びをやっている、その雰《ふん》囲《い》気《き》全体の不自然さが、気に入らなかった。しかし、ほかの人たちの気持を傷つけないためと、自分でもなんとかして暇をつぶさなければならないために、彼女はひと休みすると、また遊びに加わって、さも楽しそうなふりをしていた。その日一日、ドリイは自分よりじょうずな役者といっしょに芝居をして、自分のつたない演技が、芝居全体をそこねている、といったような気がしてならなかった。
ドリイは、居心地さえよかったら、二日間逗留《とうりゅう》するつもりで、やって来たのであった。しかし、その日の夕方、テニスをやっているあいだに、あすは帰ろうと決心した。来る道すがらあれほど憎《ぞう》悪《お》した、母親としてのあの悩ましい心づかいも、子供たちの世話をやかずに過した今となってみると、はやくも別の光に照らされたように思われてきて、子供たちに心がひかれるのであった。
夜のお茶を飲んで、ボート遊びをすると、ドリイはひとりで自分の部屋へひきこもり、着物を脱ぎ、寝る前に薄い髪をとこうと腰をおろしたとき、はじめて心からほっと気安さを覚えた。
いや、それどころか、今にもアンナがやって来るのかと思うと、不愉快ですらあった。ドリイは自分ひとりで、いろいろともの思いにふけりたかったのである。
23
ドリイがもう床につこうと思っているところへ、アンナが夜の身じたくではいって来た。
この日、アンナは幾度も胸の奥にしまっていたことを話しだそうとしながら、いつも二《ふた》言《こと》三《み》言《こと》いいかけては、やめてしまった。「あとで、ふたりきりになってから、なにもかもお話ししましょうね。あなたに聞いていただきたいことが、山ほどあるんですもの」アンナはそういっていた。
今やっとふたりきりになれたのだが、アンナはなにから話していいのか、わからなかった。アンナは窓べに腰かけて、ドリイの顔をじっとながめながら、いくら話しても話しきれないように思われた、つもる打ち明け話を、心の中であれこれと残らず捜してみたが、なにひとつ見つからなかった。そのとき、アンナにはなにもかも話してしまったような気がしたのであった。
「じゃ、キチイはどんなふうですの?」アンナは重々しく溜息《ためいき》をついて、さもすまなそうにドリイの顔を見ながら、切りだした。「ねえ、ほんとのことをいってちょうだい。ドリイ、あの人はあたしのことをおこってなくって?」
「おこってるんですって! まあ、とんでもない!」ドリイは微笑を浮べていった。
「でも、憎んでるでしょう。いいえ、軽蔑《けいべつ》してるんでしょうね?」
「まあ、なぜそんなことを! でもね、おわかりでしょうけど、ああいうことは許せるものじゃないわ」
「ええ、そうね」アンナは顔をそむけて、開いていた窓のほうを見ながらいった。「でもね、あたしに罪があったわけじゃないのよ。じゃ、だれに罪があるんでしょう? でも、罪って、どんなことかしら? あれ以外に、どうしようがあったかしら? ねえ、あなたはどうお思いになって? あなたがスチーヴァの奥さんにならずにすんだなんてことが、考えられるかしら?」
「ほんとに、わからないわ。でも、あなたにおうかがいしたいのは……」
「ええ、ええ。でも、あたしたちはキチイのことについて、まだすっかりお話をすませませんでしたわね。あの人はしあわせですの?リョーヴィンはりっぱな人だってお話ですけど」
「りっぱどころじゃもの足りないわ。あたしなんか、あの人よりもすぐれた人を知らないくらいですもの」
「まあ、それを聞いて、あたしもうれしいわ。ほんとに、よかったわねえ! りっぱどころじゃもの足りないんですって」アンナは繰り返した。
ドリイはにっこり笑った。
「でも、あなたのことを聞かせてちょうだいよ。お互いに長いお話があるんですもの。それに、あたしもお話合いをしたのよ、あの……」ドリイはヴロンスキーをなんと呼んでいいかわからなかった。伯爵とか、アレクセイ・キリーロヴィチとか呼ぶのも、なにかぐあいが悪かった。
「アレクセイとね」アンナはいった。「あたし、知ってますわ、あなた方がお話しされたことを。でもね、あたしは直接あなたにお聞きしたいんですの、あなたはあたしのことを、あたしの生活をどう思っていらっしゃるの?」
「でも、いきなりそんなふうにきかれたって、困りますわ。あたし、ほんとに、なにもわからないんですもの」
「だめ、とにかく、なにかいってちょうだい……だって、あなたはあたしの生活をごらんになったんですもの。でもね、忘れないでいただきたいのは、あなたがごらんになったのは、あなたがいらした夏の生活で、あたしたちふたりっきりのときではなかったってことを……ところが、あたしたちがここにやって来たのは春のはじめで、それこそふたりっきりで暮したんですの。いえ、これからさきも、ふたりっきりで暮すつもりですわ。あたしにはそれ以上に望ましいことはないんですの。でもね、考えてみてちょうだい、あたしに、あの人がいなくて、ひとりきりで暮すことがあるんですの、それこそまったくのひとりぼっちで。これからもあることなんですけど……あたし、いろんなことから考えて、こうしたことがしょっちゅう繰り返されるってことを、あの人が生活の半分を外で過すようになるだろうってことを、知ってますの」アンナは席を立って、ドリイのそばに腰をおろしながらいった。
「ええ、もちろん」アンナはなにかいい返そうとしたドリイをさえぎった。「あたしだって、あの人をむりに引き止めなんかしませんわ。今度も競馬があって、あの人の馬が出るものですから、あの人も出かけて行きますわ。そりゃあたしだって、うれしいですわ。でもね、あたしのことを考えてみてちょうだい、あたしの境遇がどんなものかって……でもね、こんなお話をしてもしようがありませんわね!」アンナはにっこり笑った。「それで、あの人はあなたにどんな話をしたんですの?」
「あの人のお話というのは、あたしのほうでもお話ししたいと思ったことなんですの。ですから、あの人のお話を代弁するのは、あたしにとっても気が楽なんですよ。つまり、なんとかならないものだろうか、その可能性はないだろうか……」ドリイはいいよどんだ。「あなたの境遇をよくする、いえ、もっとよくすることはできないものだろうか……っていうんですの。あたしがどんな見方をしているかってことは、あなたもご存じでしょう……でも、やっぱり、できることなら、結婚することに越したことはありませんからね……」
「つまり、離婚というわけね?」アンナはいった。「ねえ、ペテルブルグで、あたしをたずねて来たたったひとりの女の方は、ベッチイ・トヴェルスカヤなんですのよ。あなたなら、あの人のことをご存じでしょう? Au fond c'est la femme la plus d姿rav仔 qui existe. 。だって、あの人ときたら、そりゃけがらわしいやり方で、ご主人をだましながら、トゥシュケーヴィチと関係していたんですものね。そのベッチイまでが、あたしに向って、あなたの境遇がちゃんとしないかぎり、おつきあいはできません、っていう始末ですからね。あたしがほかの人を引き合いに出してるなんて、思わないでちょうだいね……ねえ、ドリイ、あたしにはあなたの気持はよくわかってるんですから。でも、あたし、ふと思いだしただけなんですもの……それで、あの人いったい、なんていいましたの?」アンナは繰り返した。
「あの人はね、あなたのためにも、ご自分のためにも苦しんでいるって、おっしゃいましたわ。ひょっとすると、あなたはそれをエゴイズムだっていうかもしれませんけれど、でもそれは正当な尊いエゴイズムですわ! あの人はなによりもまず、ご自分の娘をちゃんと法的に自分の子供にして、あなたの夫になり、あなたに対して権利をおもちになりたいんですのよ」
「どんな妻だって、どんな奴隷だって、こんな境遇にいるあたしほど、こんなに奴隷的な生き方をしているものはありませんわ!」アンナは暗い顔で相手をさえぎった。
「あの人がなによりもいちばん望んでいるのは、あなたが苦しまないようにすることなんですよ」
「そんなこと、できっこありませんわ! それで?」
「それで、あの人が望んでいるいちばんおもなことは、あなた方のお子さんたちにちゃんと名字をもたせたいってことなんですよ」
「お子さんたちってだれのこと?」アンナはドリイの顔を見ないで、目を細めながら、いった。
「アニイと、これから先できる……」
「そのことならもう心配いらないわ。だって、あたしにはもう子供はできませんもの」
「なぜ、もうできないっていえるの?」
「できませんとも、だって、あたしがほしくないんですもの」
そういってしまうと、アンナはひどく興奮していたにもかかわらず、ドリイの顔に浮んだ好奇心と、驚きと恐怖のいりまじった無邪気な表情に気づいて、思わずにっこりとほほえんだ。
「あの病気のあとで、お医者さまにそういわれましたの……」
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「そんなことってないわ!」ドリイは、大きく目を見ひらいていった。それはドリイにとって、異常な発見の一つであった。その結果と結論があまりにもそら恐ろしかったので、とっさには、そうしたことをすっかり理解することができないような気がしながら、それと同時に、それについてはなおよくいろいろと考えてみなければならない、といったような感じだった。
今までドリイにとって不可解であった、ひとりかふたりしか子供のいない家庭の秘密を、突如として明らかにしたこの発見は、あまりにも多くの考えと、想像と、矛盾した感情をその心に呼びさましたので、ドリイはなにひとつ口をきくことができず、ただ大きな目を見ひらいて、びっくりしたようにアンナの顔をながめているばかりであった。それは、ドリイが今度も来る道すがら自分で空想していたことであったが、今それが可能であることを知ると、思わずぞっとした。それはあまりにも複雑な問題の、あまりにも簡単な解決であると思われたからであった。
「N'est pas immoral ? 」ドリイはしばらくしてから、きいた。
「なぜですの? ねえ、考えてみてちょうだい、あたしには二つに一つの方法しかないんですのよ。身重になるか、つまり、病身になるか、それとも自分の夫の、夫といってもいいでしょうね、その夫の友だち、仲間になるか、ですもの」アンナはわざとうわついた、軽はずみな調子でいった。
「ええ、そうね、そりゃそうね」ドリイは、自分でも考えたことのある論理に耳を傾けながら、今はもうそこに以前ほどの説得性を見いだすことができずに、いった。
「あなたにとっては、ほかの女の人にとっては」アンナはさながら相手の考えを見抜いたように、いった。「まだ疑う余地があるかもしれませんけど。でも、あたしにとっては……ねえ、おわかりになって、あたしは妻じゃないんですのよ。そりゃあの人はあたしに愛情を感じているあいだは、あたしを愛してくれるでしょう。それなら、あたしはどうやってあの人の愛情をささえていったらいいんですの? まさか、こうやってささえてもいられないでしょう?」
アンナは白い両手を腹の前へのばして見せた。
興奮したときによく見られるような、恐ろしいほどの速さで、さまざまな思想と追憶が、ドリイの頭にわきおこって来た。《あたしは》ドリイは考えた。《スチーヴァを自分にひきつけておけなかった。あの人はあたしを離れて、ほかの女のところへ行ってしまった。あの人があたしに見かえた最初の女は、いつも陽気な美しい人だったけれど、それでも、あの人をつなぎ止めておくことができなかった。あの人はその女を捨てて、ほかに女をこしらえた。いや、アンナも、そんなものでヴロンスキー伯爵をひきつけて、いつまでもつなぎとめていけるだろうか? もしあの人がそんなものだけを求めているとすれは、お化粧にしてもしぐさにしても、もっと魅力のある、もっと快活な女の人を見つけるにちがいないわ。アンナのあらわな手がどんなに白く、どんなに美しくても、あの肉づきのいいからだ全体がどんなにきれいで、あの黒髪の下に見える興奮した顔が、どんなにあでやかであっても、あの人はもっと美しい人を見つけるにちがいないわ。だって、あのいやらしい、みじめな、でもあたしにはいとしいスチーヴァだって、いつでも捜しては見つけだしているんですもの》
ドリイはひと言も返事をしないで、ただほっと溜息《ためいき》をついた。アンナは、不賛成を表わすその溜息に気づいたが、なおも言葉をつづけた。アンナには、まだ数々の論証の手持ちがあり、しかもそれらは、なんとも答えようがないほど強力なものばかりであった。
「そんなことはよくないとあなたはおっしゃるのね? でも、もっとよく考えていただかなくちゃいけませんわ」アンナは言葉をつづけた。「あなたはあたしの境遇のことを忘れていらっしゃるんですよ。このあたしが、どうして子供をほしがることができるんですの? あたし、産みの苦しみのことなんかいってるんじゃありませんわ。あんなことこわかありませんもの。でもね、よく考えてみてちょうだい、あたしの子供たちはどんな人になるんでしょう? 他人の名字を名のる不幸な子供たちですわ。自分の出生そのもののために、結局は父母や自分の誕生すら恥じなくちゃならない立場に追いこまれるんですのよ」
「だからそのためにこそ、離婚が必要なんですわ」
ところが、アンナはその言葉を聞いていなかった。アンナは、幾度となく自分を説得してきた論理を、最後までいってしまいたかったのである。
「あたしがこの世に不幸な人間を生みださないためにでも使わなかったら、理性なんていったいなんのために授かっているんでしょう?」
アンナはちらとドリイの顔を見たが、返事も待たずに、言葉をつづけた。
「あたしはきっと、そうした不幸な子供たちに対して、いつも罪を感じていなければならないでしょうよ」アンナはいった。「でも、この世に生れて来なければ、すくなくとも、不幸にはならないですむんですからね。もしその子供たちが不幸だったら、それはあたしひとりに罪があるわけですものね」
それは、ドリイが自分自身にいってきかせたのとまったく同じ論理であった。ところが、今はそれを聞いても、なんのことかわからなかった。《現に存在しないものに対して、罪を感じるなんてどういうことかしら?》ドリイは考えた。と、こんな考えがふと頭に浮んできた。《たとえどんな場合にしろ、あたしのかわいいグリーシャがこの世に生れなかったほうが、あの子のためにしあわせだなんて、いえるだろうか?》でも、それはドリイにとってあまりにも変てこな、奇妙なことだったので、頭の中で堂々めぐりをしている、こんがらがった、気ちがいじみたこんな考えを追いはらうために、首を振ったほどであった。
「いいえ、あたしにはわからないけど、それは、いいことじゃありませんわ」ドリイは嫌《けん》悪《お》の情を顔に浮べながら、ただそういった。
「ええ、でも、忘れないでね、あなたの立場とあたしの立場とでは違うってことを……それにまだ……」アンナは自分の論理が豊富で、ドリイの論理が貧弱なのにもかかわらず、やはりそれがよくないことを認めた様子でこうつけ足した。「とにかく、いちばん肝心なことを忘れないでちょうだいね。今のあたしはあなたのような境遇にいるんじゃないんですのよ。あなたにとって問題なのは、もうこれ以上子供がほしくないかどうかということですけど、あたしにとっては、子供がほしいかどうか、という問題なんですもの。これはたいへんな違いですのよ。あたしは今の境遇でいるかぎり、そんなことを望むわけにいかないってことは、おわかりになりますわね」
ドリイは反駁《はんぱく》しなかった。彼女は急に、自分がアンナとはもうあまりに遠く離れてしまったのを直感し、ふたりのあいだにはもうけっして意見の一致することのない、したがって口に出さないほうがいいような疑問が立ちはだかっているのを感じたのであった。
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「それならなおのこと、あなたは、ご自分の立場をちゃんとしたものにしなくちゃいけないんですよ、もしできるものなら」ドリイはいった。
「そうね、もしできるものならね」アンナは不意にまったく別の、低い、ものうげな声で答えた。
「じゃ、離婚はどうしてもできないとおっしゃるの? ご主人のほうは承知だというお話だけれど」
「ドリイ! あたし、その話はしたくないんですの」
「それじゃ、よしましょう」ドリイはアンナの顔に苦痛の表情を認めて、急いでいった。「あたしには、ただ、あなたがあまり悲観的に見すぎているように思えるんだけれど」
「あたしが? いいえそんなこと。あたし、とっても楽しくって、満足していますわ。ごらんのとおり、Je fais passion. ヴェスロフスキーと……」
「ええ、でも、ほんとのことをいうと、あたし、あのヴェスロフスキーの態度がいやなんですの」ドリイは、話題を変えようとしていった。
「まあ、けっしてそんなことはありませんわ! あれはアレクセイをくすぐるだけで、それ以上のことはありませんわ。ただ、あの人はまだお坊っちゃんで、あたしの手の中にしっかりつかまえられているんですの。おわかりでしょう、あたしがあの人を思いのままにあやつっているのを。まあ、あの人なんかお宅のグリーシャと同じですわ……ドリイ!」不意に、アンナは話題を変えた。「ねえ、あなたは、あたしが悲観的な見方をしているとおっしゃったわね。それはあなたにはとてもわからないからですよ。あんまり恐ろしいことなんですもの。あたしはもうなにも見ないようにしているんですの」
「でもね、あたしはやっぱり、必要だと思うの。できるだけのことは、なんでもしておかなくちゃいけませんわ」
「でも、いったい、なにができるでしょう?なにもできやしませんわ。あたしはアレクセイと結婚しなければいけないのに、あたしがそれを考えていないって、あなたはおっしゃるのね。あたしがそれを考えていないんですって!」アンナは繰り返した。と、紅の色がさっとその顔にみなぎった。アンナは立ちあがって、ぐっと胸を張り、重々しく吐息をつくと、例の軽い足どりで部屋の中をあちこち歩きまわり、時おり立ち止るのであった。「あたしが考えないんですって? いいえ、ただの一日だって、一時間だって、あたしがそれを考えないでいることはありませんわ。それどころか、また考えているといって、自分で自分を責めているほどですもの……だって、そんなことを考えると、気が狂いそうになるんですもの。ほんとに、気が狂ってしまいますわ」アンナは繰り返した。「そんなことを考えだしたが最後、もうモルヒネがなくては寝つかれなくなってしまいますの。でも、もうけっこうですわ。もっと落ち着いてお話ししましょうね。どなたも離婚するようにといってくださいますが、第一、あの人《・・・》が許してはくれませんよ。だって、あの人《・・・》は今、リジヤ伯爵夫人に牛耳られているんですから」
ドリイはいすの上でぐっと身をそらして、さも苦しそうな同情の面持で首をあちこちまわしながら、歩きまわるアンナの姿を目で追っていた。
「でも、やるだけはやってみなくちゃいけませんわ」ドリイは静かにいった。
「じゃ、かりに、やってみることにしましょう。でも、それはどういうことになるんですの?」アンナは、どうやらもう何千回となく繰り返して、今では暗記しているらしい考えをしゃべりだした。「いえ、つまりそれは、あの人を憎んでいながら、とにかくあの人には申しわけないことをしたと感じているこのあたしが――そりゃ、あたしあの人を寛大な人間だと思っていますわ――そのあたしが恥をしのんで、あの人に手紙を書かなくちゃならないってことなんですのよ……、まあ、かりに、あたしがどうにかそれをするとしましょう。その結果、あたしは侮辱にみちた返事を受け取るか、承諾してもらえるかですわ。まあ、かりに、承諾してもらえたとしましょう……」アンナはそのとき、部屋の遠い片すみへ行って立ち止り、窓のカーテンをいじっていた。「承諾してもらったとしても、あの、あの子はどうなるんですの? けっしてあの子を渡しちゃくれませんわ。すると、そうなれば、あの子はあたしの捨てて来た父親のもとで、あたしをさげすみながら、大きくなっていくんですわ。ねえ、おわかりになって、あたしはどうやらふたりのものを同じくらいに愛しているような気がするんですの。しかも、このふたり――セリョージャとアレクセイを自分以上に愛しているんですわ」
アンナは部屋の中ほどへ来て、両手で胸を抱きしめながら、ドリイの前に立ち止った。まっ白なガウンを着たその姿は、とくに大きく、太って見えた。アンナはうなだれて、額ごしに、涙できらきら輝く目でつぎの当ったブラウスを着てナイトキャップをかぶり、興奮のあまり全身を震わせているドリイのやせた小がらなみじめな姿を、見つめていた。
「ただこの二つのものだけを愛しているんですけれど、この二つのものは両立しないんですの。あたしには、それをひとつに結び合わすことはできません。しかも、あたしに必要なのは、それだけなんですもの。もしそれができないなら、もうなんでもいいんですの。ほんとに、もうどうだってかまわないんですの。いずれそのうちに、なんとか片がつくでしょう。ですから、あたしはこのお話をあれこれすることもできなければ、そうしたくもありませんの。そういうわけですから、どうか、あたしを責めないでちょうだいね。どんなことでも、悪く思わないでちょうだい。あたしの苦しんでいるようなことは、あなたの純潔なお心では、とてもわかりっこありませんもの」
アンナは歩み寄って、ドリイと並んで腰をおろし、すまなさそうな面持で、相手の顔をのぞきこみながら、その手を取った。
「ねえ、なにを考えていらっしゃるの? あたしのことをどうお思いになって? どうか、あたしをさげすんだりしないでちょうだいね。だって、あたしはさげすまれる値うちもないんですもの。あたし、ほんとにふしあわせなんですの。もしこの世にだれか不幸な人間がいるとすれば、それはこのあたしのことですわ」アンナはそういうなり、顔をそむけて、泣きだした。
ひとりになると、ドリイはお祈りをして、床についた。アンナと話をしていたときは、心の底からアンナがかわいそうでたまらなかったが、今はどんなに努めてみても、アンナのことを考えることはできなかった。わが家と子供たちについての思いが、なにか新しい魅力をもって、一種の新しい光輝につつまれて、ドリイの胸の中にわき起って来たからであった。この自分の世界が、いまやなんともいえずに尊い、なつかしいものに思われてきたので、それ以外のところでは、もうどんなことがあっても、一日たりともよけいに過す気にはなれなかった。そこで、あすはなんとしても帰ることにきめた。
一方、アンナは自分の部屋へもどると、グラスをとって、モルヒネが主成分になっている薬を幾滴かその中へたらした。それから、それをぐっと飲み干すと、しばらくじっとすわっていたが、やがて落ち着いた明るい気分になって、寝室へはいって行った。
アンナが寝室へはいって行くと、ヴロンスキーは注意ぶかくじっと彼女をながめた。アンナがあんなに長くドリイの部屋にいたからには、きっとかわされたにちがいない、例の話の影響をさぐろうとしたのであった。しかし、興奮をじっとおさえて、なにか隠しているようなアンナの表情には、見なれているとはいえ、依然として彼を魅惑してやまぬ美しさと、その美しさを意識する気持と、その美しさで相手に働きかけようという願望のほかには、なにひとつ見いだすことはできなかった。彼はふたりがどんな話をしたのかとアンナにたずねたくはなかったが、彼女のほうからなにかいいだすだろうと期待していた。ところが、アンナはただこういったばかりであった。
「ドリイがお気に召して、あたしもほんとにうれしいわ。ねえ、そうでしょう?」
「ああ、だって、ぼくはあの人のことを前から知っているんだよ。ほんとにいい人らしいね。Mais excessivement terre--terre. 。いや、それにしても、あの人が来てくれたのは、ほんとにうれしかったね」
彼はアンナの手を取って、もの問いたげにその目をじっと見つめた。
アンナはそのまなざしを別の意味にとって、にっこりほほえんでみせた。
翌朝、ドリイは主人たちがいくら引き止めても、帰りじたくにとりかかった。例の古ぼけた長外套《カフタン》を着て、ちょっと駅馬車の御者みたいな帽子をかぶったリョーヴィンの御者は、つぎはぎだらけの泥よけをつけた幌《ほろ》馬《ば》車《しゃ》に、毛色のふぞろいな馬をつけて、陰鬱《いんうつ》な、しかし毅《き》然《ぜん》たる面持で、砂のまいてある屋根つきの車寄せへ乗りつけて来た。
ワルワーラ公爵令嬢や、男の客たちと別れのあいさつをするのは、ドリイにとって不愉快であった。一日暮してみて、彼女も主人たちも、自分たちはお互いにしっくりいかないから、早く別れたほうがいいと、はっきり感じていたからであった。ひとりアンナだけは悲しかった。ドリイが発《た》ってしまえば、ふたりで話し合ったときに呼びさまされたような感情を、自分の胸の中にかきたててくれるものはもういないとわかっていたからであった。この感情をかきたてられるのは、アンナにとって苦しかったが、しかしそれでもなおアンナは、それが自分の魂のもっともすぐれた部分であり、この魂のすぐれた部分も、今のような生活をつづけていれは、じきに消えてなくなってしまうにちがいないと承知していたからであった。
野原へ出ると、ドリイはほっとして、快い気分になったので、さっそく、御者たちにヴロンスキー家が気に入ったかどうか、きいてみたくなった。すると、御者のフィリップが、いきなり自分のほうからしゃべりだした。
「金持なことは金持にちげえねえでしょうが、燕麦《えんばく》はたった三プードしかくれませんでしたよ。鶏の鳴くころまでにゃ、きれいさっぱりたいらげちゃいましたよ。三プードやそこらで足りるもんですかい? おやつみてえなもんでさあ。近ごろは旅籠《はたご》屋《や》でも、燕麦なんざ四十五コペイカですからね。うちのお屋敷じゃ、お客さまの馬には、いくらでも食うだけやっとりますよ」
「けちなだんなさんですな」事務所の男も相《あい》槌《づち》を打った。
「じゃ、あそこの馬は気に入ったのね?」ドリイはきいた。
「そりゃ、馬はもうなにもいうことありませんや。それに食べ物もけっこうでさあ。でも、わしはなにかおもしろくねえ気がしましたよ。奥さまはどうお思いか知りませんがね」御者は美しい善良そうな顔をドリイに向けて、いった。
「あたしもやっぱりそうだったよ。で、どうだろうね、夕方までに着けるかい?」
「どうでも着かなくちゃなりませんよ」
家へ帰ると、みんながとても元気で、しかも特別なつかしそうな顔をしていたので、ドリイは急に活気づいて、旅の話をはじめ、自分が大歓迎されたことや、ヴロンスキー家の生活がぜいたくで趣味のいいことや、みんなのしている遊びなどについて語り、だれにも彼らの悪口などいわせなかった。
「アンナとヴロンスキーとがどんなに気持のいい、親しみのもてる人かってことを納得するためには、ふたりをよく知らなくちゃなりませんわ。あたしも今度行って、ヴロンスキーって人がよくわかりましたわ」ドリイは向うにいるあいだ感じていた漠然《ばくぜん》とした不満や、ばつの悪さを今はすっかり忘れてしまって、心の底からそういうのであった。
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ヴロンスキーとアンナは、相変らず同じ環境のもとで、依然として離婚についてはなんの方法も講じないまま、その夏いっぱいと秋のはじめを田舎《いなか》で過した。ふたりのあいだには、どこへも行かないという相談ができていたが、ふたりで暮す日が長くなるにつれて、とりわけ秋になって客がいなくなると、こんなふうに暮していくことはとてもやりきれない、なんとか生活を変えなければならないと、ふたりとも感じはじめていた。
もっとも生活はそれ以上望めないと思われるほど、申し分ないもののように見えた。収入は十分だったし、健康で、子供もあり、ふたりともそれぞれ仕事をもっていた。アンナは客のいないときでも、相変らず化粧に念を入れ、それと同時に読書に専念して、小説でも、かたい本でも、評判になったものは、どんどん読んでいた。アンナは、自分が購読している外国の新聞雑誌に推賞されている書物は、かたっぱしから取り寄せて、孤独な生活をしているときでなければとてもできないような注意ぶかさで、それらの書物を読破していった。いや、そればかりか、アンナはヴロンスキーが関心をよせている仕事はなんでも、書物や専門の雑誌で研究していたので、彼はよく農業や建築のことばかりでなく、馬匹飼育やスポーツに関することまで、いきなり彼女にたずねることがあった。彼はアンナの知識と記憶力にびっくりして、はじめのうちは半信半疑で、その真否をたしかめようとした。すると、アンナは質問されたことを書物の中に見つけて、彼に見せるのであった。
病院の設備も、アンナの興味をひいた。彼女は単に手伝ったばかりでなく、自分でもいろいろと整えたり、くふうしたりした。しかし、なんといっても、彼女がいちばん気を使ったのは、自分自身のことであった。つまり、自分はどの程度ヴロンスキーにとって貴重な存在であり、彼が捨てたいっさいのものをどの程度まで償うことができるか、という意味における自分自身のことであった。ヴロンスキーは、アンナの生活の唯一の目的となった、単に彼に気に入ろうとするばかりでなく、彼の役に立とうとする希望を、ありがたいと思いながらも、アンナが愛の網で彼を縛っておこうとするのを、重荷に感ずるようになった。時がたつにつれて、彼はますます自分がそうした網にからまれていることに気づくようになり、その中から抜けだしたいというほどではないが、それが自分の自由を妨げているのではないだろうか、とためしてみたい気持にだんだんかられるようになった。もしたえずつのってくる、自由になりたいというこの欲望がなく、また、会議や競馬のために町へ行こうとするたびに、いつもかならず起る悶着《もんちゃく》がなかったなら、ヴロンスキーは自分の生活に、まったく満足していたといえるであろう。彼が選んだ役割、つまり、ロシア貴族の中核をなしている、金持の地主の役割は、単に彼の好みにぴったり合ったばかりでなく、こうして半年も過した今となっては、たえず増大していく満足を彼に与えるのであった。そして彼の仕事は、ますます彼の興味をそそり、いよいよ深く彼の心をとらえながら、順調に進んで行った。彼が、病院や機械や、スイスから取り寄せた雌牛や、その他多くのものにかけた費用は莫大《ばくだい》なものであったが、彼は、自分が財産を蕩尽《とうじん》するどころか、かえってふやしたのだと確信していた。領地の収入とか、森や穀物や羊毛の売却とか、土地の貸付とかいう問題になると、ヴロンスキーは火打石のように頑《がん》固《こ》になり、けっして値段をまけることはなかった。大きな農場の経営にかけては、ここの領地でも、ほかの領地でも、彼はきわめて単純な、危険性の少ない方法を採用し、極度に倹約をむねとし、細かいことにまでそろばんをはじいていた。ドイツ人の支配人は、ひじょうに狡猾《こうかつ》な抜け目のない男で、いつもはじめの見積りではうんと高く吹っかけておいてから、あとでよく計算してみたら、同じものがずっと安くできるから、すぐにももうけになる、などといって、いろいろと買い物をすすめたが、ヴロンスキーはけっしてその手に乗らなかった。彼は支配人の話に耳を傾け、詳しく根ほり葉ほりたずねてから、これから取り寄せるものなり、造るものなりが、まだロシアに知られていない最新式のもので、人を驚かすに足りるようなものである場合にかぎり、同意するのであった。いや、そればかりか、彼は余分の金があるときでなければ、大口の支出はしないようにし、そうした支出をするときにも、ありとあらゆる点を細かく調べて、その金で最上のものを手に入れなければ承知しなかった。こうして、彼の仕事ぶりを見ただけでも、彼が自分の財産を蕩尽しているどころか、かえってふやしていることは明らかであった。
十月に、カシン県では貴族団の選挙が行われた。この県にはヴロンスキーやスヴィヤジュスキーやコズヌイシェフやオブロンスキーなどの領地があり、リョーヴィンの領地も少しばかりあった。
この選挙は、いろんな事情やこれに関係している人びとの顔ぶれから、世間の注意を集めていた。さまざまのうわさが流れて、人びともそれに対して準備を怠らなかった。今まで一度も選挙に出たことのないモスクワやペテルブルグの人びとばかりでなく、外国にいる人たちまでが、この選挙のために集まって来た。
ヴロンスキーは、もうずっと前からこの選挙に出かけることを、スヴィヤジュスキーに約束していた。
選挙の前になると、ヴォズドヴィジェンスコエをたびたびたずねていたスヴィヤジュスキーが、ヴロンスキーを迎えに立ち寄った。
その前日にはもう、ヴロンスキーとアンナのあいだには、前々から予定されていたこの旅行のことで、ほとんどけんかに近いことが起った。それはちょうど田合でいちばん退屈な、重苦しい秋の季節だったので、ヴロンスキーはアンナと争う覚悟をしながら、アンナと話をするときについぞ見せたことのないような、きびしく冷やかな表情を浮べて、旅立ちのことを申しわたした。ところが、彼の驚いたことには、アンナはその知らせを、とても落ち着きはらって聞いたうえ、ただお帰りはいつですか、ときいたばかりであった。彼にはその落ち着いた態度が納得いかなかったので、注意ぶかくその様子をながめた。と、アンナはそのまなざしに気づいて、にっこりとほほえんだ。彼はアンナがこうしてよく自分の殻の中に閉じこもってしまうことを、承知していたし、また彼女がそうなるのは、自分の計画を彼に知らさないで、なにかひそかに決意したときに限るということも知っていた。彼はそれを恐れたが、悶着《もんちゃく》を避けたい気持が強かったので、自分の信じたいと願っているもの、つまりアンナの分別を信じているようなふりをした。いや、ある程度それを心から信じたのであった。
「退屈しなければいいけれどね?」
「大丈夫ですわ」アンナはいった。「きのうゴーチエから本が一箱届きましたもの。きっと、退屈なんかしませんわ」
《例の調子でいこうというんだな、そりゃ、そのほうがかえってけっこうだ》彼は考えた。《でないと、またいつもと同じことになるばかりだからな》
こうして、彼はアンナとうちとけた話し合いをしないまま、選挙に出かけてしまった。ふたりが関係を結んで以来、とことんまでお互いの気持を打ち明けないで別れたのは、これが最初であった。一方からいえば、彼にはその点が気になっていたが、また一方からは、そのほうがいいと思った。《そりゃはじめのうちは今みたいに、なにかすっきりしないで、隠しだてでもしてるような気がするだろう。でも、そのうちにあれも慣れてしまうさ。どっちみち、おれはあれになんでもささげてしまうわけだが、おれの男性としての独立だけは、そうはいかないからな》彼はそう考えた。
26
九月にリョーヴィンは、キチイのお産のために、モスクワへ移った。彼はもうまるひと月、なすこともなくモスクワで暮していた。そのころ、カシン県に領地を持っていて、近づいた選挙に大きな関心をもっていたコズヌイシェフは、選挙に出かけるしたくを整えていた。彼は、セレズネフ郡の関係で一票を持っていた弟のリョーヴィンに、同行を勧めた。このほか、リョーヴィンは外国に住んでいる姉のために、どうしてもカシンへ行かなければならぬ用事があった。それは後見問題と償還金受け取りに関する用件であった。
リョーヴィンは、それでもなお決心がつきかねていたが、キチイは夫がモスクワで退屈しているのを見て、この旅行を勧め、夫にはいわずに、八十ルーブルもする貴族団の制服を注文してしまった。そして、制服のために支払われたこの八十ルーブルが、リョーヴィンを旅立たせたおもな原因であった。彼はカシンへ向けて旅立った。
リョーヴィンはカシンへ来て、もう六日めになるが、毎日集会へ出かけたり、なかなかうまく片がつかない姉の用件で奔走したりしていた。貴族団長たちはだれも選挙のことで忙殺されていたので、後見に関するようなきわめて簡単な事件でさえ、いっこうに片がつかないのであった。もう一つの用件である償還金の受け取りも、同じような障害にぶつかった。禁令解除のために長いこと奔走した末、ようやく金を支払ってもらえることになったが、公証人はきわめて親切な人間であったにもかかわらず、支払い命令書を交付してくれることができなかった。なぜなら、それには議長の署名が必要だったのに、議長は事務の引き継ぎもしないで、会議へ出かけてしまっていたからであった。すべてこのようなわずらわしい手数や、役所から役所へお百度を踏むことや、請願者の立場の不快さを十分に承知しながら、しかもそれを助けることのできない、まったく善良で親切な人たちとの話し合いや、なんの結果をももたらさないすべてこうしたむなしい緊張などは、まるで夢の中で腕力をふるおうとするときに経験する、あの腹立たしい無力感に似た悩ましさを、リョーヴィンに味わわせるのであった。彼は自分が依頼したとても人のいい代理人と話しているとき、よくこの感じを味わった。この代理人は、リョーヴィンを困難な立場から救い出そうと、できるだけのことをし、自分の全知能を緊張させているように見えた。「では、ひとつ、こうやってごらんなさい」彼は一度ならずいった。「これこれのところへ行ってごらんなさい」代理人はそういって、すべての障害となっている根本的な原因を避けるために、さまざまのプランをたててくれるのであった。が、そういうそばから、「でも、やっぱり、そう早くはいかんでしょうな。しかし、まあ、やってみてごらんなさい」とつけ加える始末だった。そこで、リョーヴィンもやる気になって、あちこち歩きまわったり、馬車でとびまわったりした。みんな善良で、愛想もよかったけれども、結局、うまく避けて通れたかと思われた障害が、最後にまたもや立ちはだかって、また行く手をふさいでしまうのであった。なによりもリョーヴィンにとってしゃくだったのは、自分はいったいだれと戦っているのか、自分の一件が片づかないために、いったいだれの利益になるのか、なんとしても理解できないことであった。この点になると、もうだれにもわからないようであった。代理人にもわからなかった。もしリョーヴィンが、停車場の出札口へ近づくには、かならず一列に並ばなければならないという理由を納得するのと同じように、この場合もその理由がはっきりわかっていたら、べつに腹を立てたり、いまいましく思ったりしなかったにちがいない。ところが、彼がこの一件で遭遇した障害は、いったいなんのために存在しているのか、だれひとりとして彼に説明することはできなかった。
しかし、リョーヴィンは結婚して以来、すっかり人間が変ってしまっていた。彼はとても辛抱強くなり、なぜそんなふうになっているのか、納得がいかないときにも、自分はなにもかもを知っているわけではないから、とやかく判断をくだすことはできない、きっと、そうなる必要があるのだろうと自分にいいきかせて、努めて憤慨しないようにしていた。
今度も彼は選挙に立ち会って、親しくそれに参加したとき、やはり批判したり、議論したりしないように努め、自分の尊敬している簡潔でりっぱな人たちが、あれほど真剣に夢中になってやっている仕事を、できるだけよく理解しようと努めた。リョーヴィンは結婚してから、以前は軽薄な態度をとっていたので、つまらぬものに思われていたことに、いろいろと新しいまじめな面を発見して、この選挙という仕事にもまじめな意味があるのだろうと考え、それを見いだそうとしていたのであった。
コズヌイシェフは、今度の選挙に予想されている改革の意義を、彼に説明してきかせた。県の貴族団長――法律によって多くの重要な公共事業も後見問題も(今リョーヴィンが悩まされている当の問題)、貴族団に属している莫大《ばくだい》な金銭も、女子、男子、軍人などの中等学校も、新条令による国民教育も、それから最後に地方自治体までを掌握している、県貴族団長のスネトコフは、莫大な財産を蕩尽《とうじん》した、善良な、ある意味では正直な人物であるけれども、新時代の要求をまったく理解しない、古いタイプの貴族のひとりであった。彼は骨の髄まで貴族階級の味方で、国民教育の普及には頭から反対し、元来きわめて重大な意義をもつべきはずの地方自治体に、階級的な性格を与えるというありさまであった。したがって、彼の地位にはなんとしても、溌《はつ》剌《らつ》とした、現代的な、活動的な新人を据えて、単に貴族階級の一員としてでなく、地方自治体の一分子として、貴族階級に与えられているいっさいの権利から、できうるかぎり自治上の利益を引き出すように、仕事をしていかなければならなかった。すべての点で、いつも他県に先んじている豊かなカシン県には、いまや驚くべき力がたくわえられてきたので、このさい、仕事がきちんと実施されることは、他県のために、いや、全ロシアのために、模範となることができるはずであった。こうして、すべてのことは、ひじょうに大きな意義を有していた。そこで、スネトコフのあとがまには新しい貴族団長として、スヴィヤジュスキーか、それとも、ネヴェドフスキーを推したほうがもっとよくはないか、と予想が行われていた。ネヴェドフスキーはもと大学教授で、きわめて聡明《そうめい》な人物であり、コズヌイシェフとは大の親友であった。
会議は知事の開会の辞ではじまった。彼は貴族一同に向って、諸君はすべからく個人的情実にとらわれず、祖国の利益のために、しかるべき功績によって役員を選挙されたい、カシン県の名誉ある貴族諸君は、従来の選挙と同様、神聖にその義務を遂行し、かならずや君主の厚いご信任にこたえるものと期待していると、演説した。
演説を終ると、知事は会場から出て行き、貴族たちもがやがやと活気づいてそのあとに従った。中には、感激して有頂天になっているものさえあったが、一同は知事が外套《がいとう》を着ながら、県の貴族団長と親しげに話をしているそのまわりをとりかこんでいた。リョーヴィンはすべての事態を見きわめ、なにひとつ見落すまいと思ったので、その場の群衆の中に立ちまじって、「どうか、マリヤ・イワーノヴナによろしくお伝えください。妻は養育園へまいりますために、お会いできないことをたいへん残念がっております」と知事が話しているのを聞いた。それから、貴族たちはにぎやかにめいめい外套を着て、町の大会堂へ馬車を駆った。
大会堂では、リョーヴィンもほかの人びとといっしょに、片手をあげて司祭長の言葉を繰り返しながら、知事が期待したいっさいを履行する旨を、きわめて恐ろしい文句で宣誓した。教会の礼拝は、いつもリョーヴィンに影響を与えたので、『われ十字架に口づけせん』という言葉を唱えながら、同じことを繰り返しているこの老若《ろうにゃく》さまざまな人びとの群れをかえりみたとき、彼は強い感動を覚えた。
二日めと三日めは、貴族団の財産と女学校に関する議題が討議されたが、それはコズヌイシェフの説明によると、少しも重要なものではなかった。リョーヴィンも自分の奔走している事件に忙しかったので、それにはたいして注意をはらわなかった。四日めには、団長のもとで県貴族団の財産の検査が行われた。そのときはじめて、新旧両党のあいだに衝突が起った。財産の監査を託されていた委員会は、財産が完全に保管されていると報告した。県貴族団長は立ちあがって、貴族たちの信任を感謝しながら、涙を流したほどであった。貴族たちは声高にあいさつして、団長の手を握った。ところが、そのときコズヌイシェフの党に属するひとりの貴族が立ちあがって、委員会は在庫金の検査をすることを団長に対する侮辱と考えて、検査を実行しなかったという話を聞いた、と発言した。委員のひとりが軽率にもそれを肯定した。すると、一見きわめて若そうではあるが、なかなか辛辣《しんらつ》な小がらな貴族が、その在庫金の正確な報告を提出するほうが、団長にとって気持のいいことにちがいない、委員たちのよけいな配慮は、団長からこの精神的満足を奪うものである、といいだした。すると、委員たちは、その声明を撤回した。コズヌイシェフも、貴族団の財産が委員会によって監査されたものと認めるか、それとも、されていないものと認めるか、まず第一にその認定が必要であると、論理的に証明をはじめ、この矛盾を詳細に解明した。反対党の饒舌家《じょうぜつか》がコズヌイシェフの発言に反駁《はんぱく》した。それからスヴィヤジュスキーが発言し、さらに例の辛辣な紳士が一席弁じた。論争は長引いて、結局、なんとも決定をみずに終った。リョーヴィンは、なぜこんなことを、こんなに長々と論争するのか、ふしぎでならなかった。とりわけ彼がコズヌイシェフに向って、あなたは財産が濫《らん》費《ぴ》されていると思っているのか、とたずねたとき、コズヌイシェフが次のように答えたので、その驚きはなおさらであった。
「いや、とんでもない! あの男は潔白な人間だからね。しかし、貴族団の古い家長的な事務管理を、少しゆすぶってやる必要があるのさ」
五日めには、郡貴族団長の選挙が行われた。この日は、二、三の郡では、かなり騒々しかった。セレズネフ郡では、スヴィヤジュスキーが無投票の満場一致で選出されたので、その晩、彼のところでは宴会が催された。
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六日めには、県貴族団長の選挙が行われることになっていた。大小の広間はすべて、さまざまな制服を着こんだ貴族たちでいっばいであった。多くの人びとは、ただこの日だけを目あてにやって来たのであった。久しく顔をあわせなかった知合いたちが、ある者はクリミヤから、ある者はペテルブルグから、またある者は外国からやって来て、あちこちの広間であいさつをかわしていた。皇帝の肖像のもと、県貴族団長の席では、論戦が行われていた。
貴族たちは大小の広間に、それぞれの陣営に分れて集まっていた。その敵意に満ちてうたぐりぶかそうなまなざしや、他人がそばへ寄るとぴたりやんでしまう話しぶりや、数人の者がひそひそとささやきあいながら、わざわざ遠い廊下へ人を避けて行く様子などから、双方ともそれぞれ相手に対して秘密をもっていることが明らかであった。外見から見ても、貴族たちははっきりと新旧二つの種類に分れていた。旧派に属する人びとは、たいてい、貴族の旧式なボタンかけの礼服に、剣をさげ、帽子をかぶっているか、または各自の出身に応じて、海軍なり、騎兵なり、歩兵なりの礼装をしていた。年配の貴族たちの礼服は肩のつり上がった、旧式な仕立て方であった。それらは見るからに小さく、腰の辺が短くて狭いらしく、まるで着ている当人が、服を作ってから大きくなったように見えた。一方、若い連中は、裾《すそ》の長い、肩の広い、ボタンをかけない貴族団の制服に、まっ白なチョッキを着ているか、あるいは司法省の記章である月《げっ》桂冠《けいかん》を刺繍《ししゅう》した、黒い襟《えり》の礼服を着用していた。また、若い連中のあいだには宮中服姿もまじっていて、群衆のそこここで異彩を放っていた。
しかし、老若の区別は、党派別とは一致していなかった。リョーヴィンの観察によると、若手のあるものは旧派に属していたし、その反対に、いちばん年配の貴族でも、スヴィヤジュスキーとなにやらひそひそ語り合って、新派の熱烈な味方らしいものもいた。
リョーヴィンは、人びとが喫煙したり軽い食事をしたりしている小さな広間で、自分の仲間たちのそばに立って、みんなの話に耳をすましながら、その内容を理解しようとして、いたずらに精神力を緊張させていた。コズヌイシェフは、またそこに集まっていた別なグループの中心になっていた。彼は今、スヴィヤジュスキーの話と、同じ党派に属する別の郡貴族団長フリュストフの話に耳を傾けていた。フリュストフは、自分の郡の貴族たちを引き連れて、スネトコフのところへ行き、ぜひ立候補してくれと頼むのはごめんだ、といっていたが、スヴィヤジュスキーはぜひそうしてくれと説き伏せようとしていたし、コズヌイシェフも、その提案に賛成していた。リョーヴィンには、いったいなんの理由で反対党が、当選を望んでもいない貴族団長に、立候補を懇請する必要があるのか、どうしても納得がいかなかった。
オブロンスキーは、たった今軽い食事をとり、一杯飲んだばかりであったが、香水のにおいのぷんぷんする、縁縫いのしてある薄い麻のハンカチで口もとをふきながら、侍従の制服姿で、彼らのそばへやって来た。
「まあ、陣地は確保しつつあるね」彼は両頬のひげを左右になでながら、いった。「コズヌイシェフさん!」
そういって、彼は人びとの会話に耳を傾けてから、スヴィヤジュスキーの意見に賛成した。
「一郡だけで十分さ。なにしろスヴィヤジュスキーが反対派だってことはもうはっきりしているんだから」彼はリョーヴィン以外の人びとにはわかりきっている言葉を吐いた。
「どうだね、コスチャ、きみもこのおもしろみがわかってきたようだね?」彼はリョーヴィンのほうを振り向いてつけ足しながら、その腕を取った。リョーヴィンもおもしろみがわかればうれしいのだが、なんのことかどうしても納得がいかなかった。そこで、彼は話し合っていた人びとから数歩離れたとき、なんの理由で貴族団長に立候補を頼むのかという自分の疑問を、オブロンスキーに打ち明けた。
「O sancta simplicitas ! 」オブロンスキーはいって、ことの真相を簡単明瞭にリョーヴィンに説明してきかせた。
もしこれまでの選挙のときのように、すべての郡がこぞって県の貴族団長に立候補を懇請したら、彼は満場一致で選出されてしまうだろう。そんなことになっては困るのだ。ところがいまや、八つの郡が懇請に同意しているが、もし二つの郡がそれを拒絶すれば、スネトコフは立候補を断念するかもしれない。すると、旧陣営は自党の中から別の人物を選ぶにちがいないが、それでは彼らの予定がすっかり狂ってしまうことになる。しかし、もしスヴィヤジュスキーの郡だけが、懇請に加わらなかったならば、スネトコフも、きっと立候補するにちがいない。そこで、彼に投票して、わざと彼を選ぶように見せかける。すると反対党は計算をまごついて、こちら側が候補者を出したとき、その候補者へ投票することになるだろう。
リョーヴィンはやっと納得したものの、まだ完全ではなかったので、もう二つ三つ質問しようとしていると、いきなり、みんなががやがやしゃべりだして、大広間をさして歩きだした。
「どうしたんだ? なんだって? だれを?」「信任だって? だれを? なんで?」「反《はん》駁《ぱく》しているって?」「信任じゃないよ」「フレーロフの資格を認めないんだ」「裁判を受けてるからって、それがなんだ?」「そんなこといったら、だれひとり認められやしないさ。そりゃ卑劣だ」「法律だからな!」リョーヴィンは四方八方からこういう叫びを聞きながら、なにひとつ見のがすまいとして、どこかへ急ぐ人びとといっしょに、大広間へはいって行った。そして、貴族たちにぐいぐい押されながら、貴族団長のテーブルに近づいて行くと、そこでは県貴族団長と、スヴィヤジュスキーと、そのほかの指導者たちが、なにやら熱心に激しい議論を戦わしていた。
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リョーヴィンはかなり遠く離れて立っていた。彼のそばで重苦しくはあはあと息をするひとりの貴族と、厚い靴底をぎいぎいきしませるもうひとりの貴族とが、彼にはっきり聞き分けることを妨げた。彼は遠くのほうから、貴族団長のもの柔らかな声と、例の辛辣《しんらつ》な貴族の金切り声と、それからスヴィヤジュスキーの声を、耳にするばかりであった。リョーヴィンの理解したかぎりでは、彼らはある法文の意義と、予審を受けているもの《・・・・・・・・・・》という言葉の意味について、論じ合っているようであった。
と、群衆はさっと左右に分れて、そのテーブルへ近づこうとしたコズヌイシェフに道を開いた。コズヌイシェフは、例の辛辣な貴族の話が終るのを待って、実際に法文を調べてみるのがなによりも肝心なことだと思うといって、秘書にその条文を捜しだすように頼んだ。その条文には、意見不一致の場合には、投票によるべき旨が記《しる》されてあった。
コズヌイシェフは条文を読みあげて、その意味を説明しはじめたが、そのとき、猫背だが、背の高い、太った、口ひげを染めた、襟《えり》が首筋をうしろからつき上げるような窮屈そうな制服を着たひとりの地主が、いきなり、彼をさえぎった。その男はテーブルのそばへ寄って、指輪でひとつその上をたたくと、大声で叫んだ。
「採決だ! 投票だ! なにもとやかくいうことはない! 投票だ!」
そのとき、急に数人の声が、がやがやしゃべりだしたので、指輪をはめた背の高い貴族は、ますます激昂《げつこう》して、いよいよ声を張りあげてどなった。しかし、なにをいっているのかは、まったく聞きとれなかった。
彼はコズヌイシェフが提案したのと同じことをいっているのであったが、どうやら彼自身は、コズヌイシェフとその一派を憎んでいるようであった。そして、この憎《ぞう》悪《お》感は党全体に感染すると同時に、反対党からも、かなりおだやかではあったが、対抗的に、同じような憤激が起った。喚声が四方に起って、一時はなにもかも混乱してしまったので、県貴族団長はとにかく秩序を保つよう注意をうながさなければならなかった。
「採決、採決だ! 貴族なら、わかってるはずだ」「われわれは血を流してもかまわん……君主のご信任を……貴族団長を責めてもしようがない、団長は番頭じゃないんだから……いや、そんな問題じゃない……それでは、ご投票願います! けがらわしい!……」こうした毒を含んだ、狂暴な叫び声が四方八方から聞えてきた。人びとの顔や目つきは、こうした罵《ば》声《せい》よりもさらに毒毒しく、狂暴であった。それらは、和解の余地のない憎悪を表わしていた。リョーヴィンは、なにがなんだかさっぱりわからなかったが、人びとがフレーロフの一件を、投票に付すべきか否かを論議しているこの熱狂ぶりにただあきれてしまった。彼は、あとでコズヌイシェフが説明してくれたとおり、次のような三段論法を忘れていたのであった。すなわち、公共の福祉のためには、現在の貴族団長を落選させる必要があり、団長を落選させるためには、過半数の票を獲得する必要があり、過半数の票を獲得するためには、フレーロフに投票権を与える必要があった。ところが、フレーロフの資格を認めるためには、法文をいかに解釈するかを、はっきり説明する必要があったのである。
「ただの一票の差で事態を決することもできるのだから、公共の福祉に奉仕しようと思ったら、真剣にちゃんと順序を踏まなくちゃいけないんだ」コズヌイシェフはそう言葉を結んだ。
しかし、リョーヴィンはそのことを忘れてしまっていたので、これらの尊敬する善良な人びとが、このような不愉快な毒々しい興奮におちいっているのを、見るのがたまらなかった。彼はこの重苦しさをのがれるために、論争の終るのを待たずに、小さな広間のほうへ出て行った。そこには、片すみの喫茶部のそばにボーイたちが立っていたほか、だれもいなかった。リョーヴィンは、食器をふいたり、皿や杯を片づけたりして忙しく働いている人たちをながめ、その落ち着いた、しかも生きいきした顔を見ると、彼はまるで悪臭ふんぷんたる室内から、すがすがしい大気の中へ出たように、思いがけなくほっと気が軽くなるのを覚えた。彼はさも満足そうに、ボーイたちをながめながら、あちこち歩きはじめた。彼には、白い頬ひげをはやしたひとりのボーイが、自分をからかっているほかの若い連中に、侮辱の色を見せながら、ナプキンのたたみ方を教えていたのが、とても気に入った。リョーヴィンは、この老給仕に話しかけようとしたが、ちょうどそのとき貴族後見所の秘書で、県内の貴族の姓名を残らず知っているという特技の持ち主である老人が、彼の注意をひいた。
「リョーヴィンさま」老人はいった。「兄上がお呼びでございます。投票がはじまりましたので」
リョーヴィンは大広間へはいって、小さな白い玉を受け取ると、兄のコズヌイシェフのあとについて、テーブルのそばへ歩み寄った。そこにはスヴィヤジュスキーが、意味ありげな、皮肉な顔つきで、顎《あご》ひげをひと握りににぎって、そのにおいをかぎながら立っていた。コズヌイシェフは箱の中へ片手を突っこんで、自分の王をどこかへ入れると、リョーヴィンに場所をゆずって、そのままそばに立ち止った。リョーヴィンはそばへ近づいたが、なにがなんだかすっかり忘れてしまったので、まごまごしながら、コズヌイシェフのほうを振り返って、「どこへ入れるんでしたっけ?」ときいた。リョーヴィンは、こんな質問を人に聞かれたくなかったので、まわりの人が話をしているときをねらって、小さな声でいった。ところが、しゃべっていた人たちがぴたりと口をつぐんでしまったので、彼のみっともない質問は、聞かれてしまった。コズヌイシェフは眉《まゆ》をひそめた。
「そりゃ各個人の信念の問題だね」彼はきびしい調子でいった。
幾人かの人びとはにやっと笑った。リョーヴィンは赤面して、急いでラシャの下へ片手を入れて、右側へ玉を置いた。玉が右手にあったからである。彼はもう玉を置いてしまってから、左手も入れなければならないことを思いだして、そうしたが、もう手おくれであった。そのために、なおいっそうどぎまぎしながら、あわてていちばんうしろの列へひきさがった。
「賛成百二十六票! 反対九十八票!」Rの音を発音しない秘書の声が響きわたった。つづいて笑い声が起った。投票箱にはボタンがひとつと胡桃《くるみ》が二つ、はいっていたからであった。例の貴族は資格を認められて、新派が勝利したのである。
しかし、旧派も自分たちが負けたとは思わなかった。リョーヴィンは、彼らがスネトコフに立候補してほしいと頼んでいるのを小耳にはさみ、貴族の一団がなにやらいっている県貴族団長をとりかこんでいるのを見かけた。リョーヴィンはそばへ近づいてみた。スネトコフはその貴族たちに対して、自分は諸君の信頼と愛情を感謝しているが、自分はもはやそうしていただく価値のない者であり、自分の功績といえば、貴族階級のために、十二年間も勤務生活をつづけたぐらいのものだ、と答えていた。彼は何度も、「私はできるかぎり、信念と真実とをもって奉仕してまいりました。諸君のご好意はありがたく、感謝しております」と繰り返していたが、とつぜん、涙のためにのどがつまって話ができなくなり、そのまま大広間を出て行ってしまった。その涙は、自分が人びとから不当な扱いを受けたことを意識したためか、貴族階級に対する愛情のためか、自分が敵に包囲されているのを感じて、あまりに緊張したためか、その点ははっきりしなかったが、とにかく、彼の興奮はしだいに感染していき、大部分の貴族は感動してしまった。リョーヴィンもまた、スネトコフに対して優しい愛情を覚えた。
戸口のところで、例の貴族団長はリョーヴィンと鉢合《はちあわ》せした。
「や、失礼、ごめんください」彼は、見知らぬ人に対するようにいったが、相手がリョーヴィンだと気づくと、おずおずと微笑した。リョーヴィンは、彼がなにかいおうとしたのだが、興奮のあまり言葉にならなかったように、見受けた。急ぎ足で出て来たときの、彼の顔つきも、制服の胸に十字勲章を下げ、金モール入りの白ズボンをはいたその容姿全体も、こりゃもうだめだと追いつめられた野獣の姿を、リョーヴィンに連想させた。貴族団長の顔に表われたこの表情は、とりわけリョーヴィンの心を打った。というのは、ついきのう、後見の件で彼の屋敷をたずね、善良な家庭人としての彼のりっぱな姿を見たばかりであったからである。古風な祖先伝来の家具のある大きな屋敷、どうやら昔の農奴制のころからずっと主人を変えずに仕えているらしい、あまりしゃれたなりもしていない、むしろきたならしい感じの、慇懃《いんぎん》な、年とった召使たち。娘の娘であるかわいい孫娘をあやしていた、レースの飾りのついた室内帽をかぶり、トルコ風のショールをかけた、でっぷり太った気立てのよさそうな夫人。学校から帰って来て、父親にあいさつしながら、その大きな手に接吻《せっぷん》した中学六年生のむすこ。父親の噛《か》んで含めるような優しい言葉や身ぶり――すべてこうしたことは、きのうリョーヴィンの心に、知らず知らず、尊敬と同感を呼びおこしたのであった。リョーヴィンは今、この老人が痛ましく気の毒に思われた。そのために、彼はこの老人に、なにか気持のいいことをいってやりたかった。
「すると、あなたはまたわれわれの貴族団長におなりになるんでしょうね」彼はいった。
「さあ、それはどうも」貴族団長はおびえたように、うしろを振り返って、いった。「私は疲れましたよ、それにもう老人ですからな。私なんかより適任の若い人がいるんですから、そんな人にやってもらいたいですよ」
そういって、貴族団長はかたわらのドアの陰に姿を消してしまった。
ついに、もっとも厳粛な瞬間が訪れた。ただちに選挙にかからなければならなかった。両党の指導者たちは、白と黒を指折り数えていた。
フレーロフに関する論争は、新党のためにフレーロフの一票を加えたばかりでなく、なおそのうえ時間をかせいでくれたので、旧派の奸計《かんけい》で選挙に参加できなくなった三人の貴族を、連れて来ることに成功した。酒に目のないふたりの貴族は、スネトコフ一派によって酔いつぶされていたし、もうひとりは貴族団の制服を持ち逃げされてしまっていたのであった。
この間の事情をかぎつけると、新派はさっそくフレーロフに関する論争のあいだに、仲間を辻馬車で駆けつけさせて、ひとりの貴族には制服を着させ、酔いつぶれたふたりのうちのひとりを、首尾よく会場へ連れて来ることができた。
「ひとりは引っぱって来ました。頭から水をぶっかけてやりましてね」迎えに行ったひとりの地主が、スヴィヤジュスキーのそばへ寄って、いった。「なに大丈夫ですよ。役には立ちますよ」
「ぐでんぐでんじゃないでしょうね、倒れるようなことはありませんかね?」スヴィヤジュスキーは、首をかしげながら、たずねた。
「なあに、しっかりしてますよ。ただここで飲まされさえしなけりゃね……私は食堂のボーイに、どんなことがあっても絶対に飲ませちゃいかん、といっときましたがね」
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人びとが喫煙したり軽い食事をとったりしていた細長いホールは、貴族たちでいっぱいになっていた。興奮はしだいに激しくなっていき、だれの顔にも不安の色が認められた。なかでも、いっさいの細かい事情や票の数を知り尽していた指導者たちは、ひどく興奮していた。彼らはまさに、目前に迫った戦闘の指揮官のようであった。その他の人びとは、戦闘前の一兵卒のように、戦いの覚悟だけはできていても、今のところは気晴らしを求めていた。あるものは立ったり、いすに腰かけたりして、なにかもぐもぐ食べていたし、あるものは巻たばこをくわえて、細長いホールをあちこち歩きまわりながら、長いこと会わなかった友だちと話をしていた。
リョーヴィンは食べたくもなかったし、たばこもすわなかったが、それかといって、仲間の者たち、つまり、コズヌイシェフや、オブロンスキーや、スヴィヤジュスキーその他の連中といっしょになる気もしなかった。というのは、その連中の中には、主馬寮長《しゅめのりょうちょう》の制服を着たヴロンスキーが、活発な会話をまじえながら、立っていたからであった。きのうもリョーヴィンは、選挙場で彼の顔を見かけたが、顔をあわせたくなかったので、なるべく出会わないように避けていたのであった。彼は窓べに腰をおろして、いろんなグループをながめまわしながら、自分のまわりで語られていることに耳をすましていた。彼は憂鬱《ゆううつ》でたまらなかったが、それは見たところ、だれもかれも活気に満ちて、そわそわと忙しそうにしているのに、自分ひとりだけは、そばにすわっていた海軍の礼服を着て、歯のない口をもぐもぐさせていた、まったく老いぼれた老人といっしょに、なんの興味ももたず、なすこともなく、すわっていたからであった。
「ありゃひどい悪党ですな! 私はあいつにいってやったんですが、やっぱりだめですよ。あたりまえですよ。あいつは三年もかかっても、集められなかったんですからねえ」ポマードを塗りたくった髪を、金モールの礼服の襟にたらした、背のあまり高くない、やや猫背の地主が、どうやら選挙のためにおろしたらしい新調の長靴の踵《かかと》で床を強くたたきながら、精力的な声でいった。この地主もリョーヴィンに不満げな一瞥《いちべつ》をくれると、くるりとうしろを向いてしまった。
「ええ、ありゃ臭いとこのある事件ですな。いうまでもありませんが」小がらな地主が、細い声でいった。
そのあとから、地主の一団が太った将軍をとりまきながら、急ぎ足でリョーヴィンのほうへ近づいて来た。地主たちはどうやら、人に聞かれないで話のできる場所を捜しているらしかった。「私があの男のズボンを盗むように命じたなんて、よくもそんな失敬なことがいえたもんだ! あの男は、きっと、ズボンまで飲んじまったんだよ! 公爵だからどうだっていうんだ、あんな野郎! よくもそんな失敬なことがいえたもんだ。こんちくしょう!」
「まあ、ちょっと待ってください! とにかく、あの連中は条文を楯《たて》にとっているんですからね」別のグループでは話していた。「妻も貴族として登録されるべきですがね」
「条文がなんだっていうんです! 私は誠意をもっていってるんですよ。ありがたいことに、私たちは生れながらの貴族ですからな。信頼してもらいたいもんですよ」
「閣下、ひとつ fine champagne をやりに行きましょう」
また別の一団が、なにやら大声でわめいているひとりの貴族のあとから、ついて行った。それは酔いつぶされた三人の中のひとりであった。
「私はいつもマリヤ・セミョーノヴナに、土地を貸したほうがいいと忠告してたんですがね、なにしろ、あの人ときたらもうけ方を知らないんでね」昔の参謀大佐の制服を着た、白い口ひげをはやした地主が、気持のいい声でいった。それは、リョーヴィンがスヴィヤジュスキーの家で会った例の地主であった。彼はすぐそれに気づいた。地主のほうもリョーヴィンを認めたので、ふたりはあいさつをかわした。
「やあ、これは愉快ですな! もちろんですとも! よく覚えておりますとも。去年、貴族団長のスヴィヤジュスキーさんのお宅でお会いしましたな」
「ときに、お宅の農場はいかがですか?」リョーヴィンはきいた。
「いや、どうも相変らず欠損しとりますよ」地主は彼のそばに立ち止ったまま、おだやかな微笑を浮べて答えたが、その顔には、それが当然だといったような、落ち着きと確信に満ちた表情が表われていた。「ところで、あなたはなぜわれわれの県に来られたのです?」彼はたずねた。「われわれの coup d'Etat に加わるために来られたんですか?」彼はまずいながらもフランス語を、はっきり発音しながら、いった。「全ロシアのお歴々がここへ集まったようですな。侍従も、大臣級ほどの人たちまで」彼は白ズボンに侍従の制服を着て、将軍といっしょに歩きまわっているオブロンスキーの堂々たる姿を指さした。
「お恥ずかしいしだいですが、ぼくには貴族団の選挙の意味が、よくわからないんですよ」リョーヴィンはいった。
地主はリョーヴィンの顔をちらっとながめた。
「なに、わかるもわからんもありませんよ。もともと意味なんかないんですからな。もう時勢おくれの、ただ惰性で動いているにすぎない制度ですよ。まあ、あの制服をごらんなさい――あれが雄弁に語ってますよ、ここは治安判事や常任委員やその他の連中の集会で、貴族の集会じゃないってことを」
「それじゃ、あなたはなんのためにお出かけになったんです?」リョーヴィンはきいた。
「それこそただの習慣ですよ。それに、つきあいを保っていく必要がありますからな。まあ、一種の精神的義務ですからな。それに、正直のところ、自分の利害もからんでいるんですよ。娘の婿のやつが、常任委員に立候補したがっているのですが、なにしろ金のない連中ですから、少しはうまく引きまわしてやらなくちゃならんのです。でも、あんな連中はなんのためにやって来たんでしょうな?」彼は貴族団長のテーブルの前でなにやら論じたてている例の辛辣な紳士をさしながら、いった。
「あれは貴族階級の新しい世代ですよ」
「新しいことは新しいかもしれませんがね。しかし、貴族階級じゃありません。あの連中は単なる土地所有者で、われわれは地主なんです。あの連中は貴族として、みずからわが身を破滅させているんですよ」
「でも、これは時勢おくれの制度だってあなたもおっしゃってたじゃありませんか」
「そりゃ、時勢おくれのことは時勢おくれですがね。でも、もう少し敬意をはらって遇すべきですよ。たとえあのスネトコフにしても……いい悪いは別にして、とにかくわれわれには千年以上の歴史があるんですからな。いや、これはつまり、たとえてみれば、あなたがお宅の前にちょっとした庭を造ろうとして、いざ測量してみると、ちょうどそこに、何百年もたった古い木がはえてるとしましょう……たとえそれが曲りくねった老木であったとしても、まさか、ちょっとした花壇をつくるために、そんな古い木を切り倒さないで、むしろ、その木を生かすように、花壇のプランをかえなくちゃいけませんね。とにかく、そんな木は、一生やそこらで育てるわけにはいかないんですからな」彼は用心ぶかい調子でいって、すぐに話題を変えた。「じゃ、あなたの農場はいかがですか?」
「いや、よくありません。五分ぐらいのところですね」
「なるほど。しかし、あなたは、ご自分を勘定に入れていらっしゃらないですな。あなただってなにかご自分の報酬を要求なさっていいわけじゃありませんか。ところで、私のことを申しあげましょう。私も農事に手を出すまでは、勤めに出て、年俸三千ルーブルをもらってました。今は勤めてたころよりずっと働いてますが、あなたとご同様、五分の収益しかあがりませんな。いや、それだっていいほうなんですよ。それで、自分の働きなんか、ただになってしまうんですよ」
「それじゃ、なんだってそんなことをなさるんです? もしはじめから損とわかっていたら?」
「いや、だれでもそうやってるんですよ。どうにもならんのですよ。習慣というやつでね。それに、そうしなくちゃいられないということなんですな。いや、もっと詳しくお話しすればですね」地主は窓に頬杖《ほおづえ》をついて、ようやく話にあぶらがのった様子で、言葉をつづけた。「せがれのやつは農事にまったく関心がないんでして。どうやら、学者にでもなる気なんですな。ですから、跡をつぐものがないわけなんですが、それでもやっぱり、私はつづけておりますよ。現に今年なんかも、また果樹園をつくりましてね」
「はあ、なるほど」リョーヴィンはいった。「たしかに、おっしゃるとおりです。私なんかも、自分の農場ではほんとうの意味の採算などありえない、といつも感じていますが、やっぱり仕事をつづけてますからね……まあ、土地に対する一種の義務みたいなものを感じているんですね」
「そうですな。いや、こんな話もありますよ」地主はつづけた。「隣の商人が私どもへやって来ましてね、いっしょに、畑や果樹園を歩いたことがあるんですよ。すると、その男が『ステパン・ワシーリッチ、お宅ではなにもかもちゃんと行きとどいていますが、庭だけは手がまわらんようですな』というじゃありませんか。ところが、うちの庭はちゃんと手入れをしているんですよ。『私の考えでは、あんな菩《ぼ》提樹《だいじゅ》はお切りになったほうがよろしいですな。ただ肥料を吸うばかりですよ。あの千本くらいある菩提樹を切れば、一本からいい樹皮が二枚ずつは取れるでしょうな。このごろは樹皮も値が出ていますから、私は樹皮用に菩提樹をどんどん切ってしまうんですがね』という始末ですよ」
「いや、そういう連中はその金で家畜でも買うか、それとも、土地を捨て値で買って、百姓たちに貸しつけでもするんですね」リョーヴィンは微笑を浮べながら、話のきりをつけたが、どうやら、もう一度ならず、こういう話にぶつかったことがあるらしかった。「そうやって、商人どもは財産をつくっていくんですよ。私やあなたなんかはただ持ってるものをなくさないで、子供たちに残してやることができれば、運がいいほうなんですからね」
「あなたはご結婚なさったとか。そんなうわさを聞きましたが?」地主はいった。
「ええ」リョーヴィンは誇らしげな満足の顔色を浮べて答えた。「いや、どうもこりゃ妙な話ですね」彼はつづけた。「われわれはこうやって、なんの採算もないのに、まるでご神火を守る昔の巫子《みこ》かなんぞのように、土地にかしずいて暮しているんですからね」
地主は白い口ひげの陰でにやっと笑った。
「私どもの中にも同じような連中がいますよ。そら、あなたもご存じのスヴィヤジュスキーとか、今度こちらへ来られたヴロンスキー伯爵とかは、農業をひとつの企業としてやっていこうとしておりますがね。もっとも今までのところは、ただ資本をつぎこむだけで、なんの結果も得られておりませんがね」
「ところで、われわれはなぜ商人みたいにしないんでしょうね? なぜ樹皮を取るために、庭の立木を切らないんでしょう?」リョーヴィンは強い感銘を受けた話に立ちもどりながら、いった。
「そりゃつまり、あなたのお言葉じゃありませんが、ご神火を守るためですな。そうでなくても、ありゃ貴族のなすべき仕事じゃありませんからな。われわれ貴族のなすべき仕事は、こんな選挙場ではなくて、それぞれの領地の片すみにあるんですからな。また、なにをなすべきで、なにをなすべきでない、とかいうことについても、ちゃんと階級的な本能があるんですな。それは百姓にしても同じことなんで、私はときどきあの連中を観察しておりますがね、いい百姓であればあるほど、かならずできるだけ多くの土地を借りようとしていますよ。それがどんなに悪い土地でも、どんどん耕しておりますよ。これもやはり採算がとれないどころか、欠損になるのがわかっているんですがね」
「われわれもそれと同じことなんですね」リョーヴィンはいった。「いや、お目にかかれて、じつに、じつに愉快でしたよ」彼は自分のほうへやって来るスヴィヤジュスキーの姿を認めて、こうつけ足した。
「お宅でお近づきになって以来、きょうはじめてお目にかかったんですが」地主はいった。「すっかり話がはずんでしまいましてね」
「じゃなんですか、新しい制度の悪口でもいってらしたんですか?」スヴィヤジュスキーは微笑を浮べていった。
「それもありましたな」
「大いに鬱憤《うっぷん》を晴らしたってわけですね」
30
スヴィヤジュスキーはリョーヴィンの腕を取って、いっしょに自分の仲間のほうへ行った。
今となってはもう、ヴロンスキーと顔をあわせないわけにはいかなかった。彼はオブロンスキーとコズヌイシェフと並んで立って、近づいてくるリョーヴィンをまともに見つめていた。
「じつに愉快です。たしか一度お目にかかったことがありましたね……そう、シチェルバツキー公爵のお宅で」彼はリョーヴィンに手をさしのべながら、いった。
「ええ、あのときのことはよく覚えております」リョーヴィンは答えると、紫色に見えるほどまっ赤になって、すぐさまくるりと向きをかえ、兄と話をはじめた。
ヴロンスキーは、やっと薄笑いを浮べて、スヴィヤジュスキーと話をつづけたが、どうやらリョーヴィンと話をしようという希望は少しももっていないようだった。ところが、リョーヴィンは兄と話をかわしながらも、たえずヴロンスキーのほうをながめて、先ほどの無作法を償うために、彼とどんな話をしたらいいかと、思いめぐらしていた。
「今問題となってるのはなんです?」リョーヴィンはスヴィヤジュスキーとヴロンスキーのほうを振り返りながら、声をかけた。
「スネトコフのことですよ。あの男が承知するか、辞退するか、どちらかにきめてもらいたいんですよ」スヴィヤジュスキーは答えた。
「で、あの人はどうなんです、承諾したんですか、それとも、しないんですか?」
「いや、そのどちらでもないんで困ってるんですよ」ブロンスキーはいった。
「じゃ、あの人が辞退したら、だれが立候補するんです?」リョーヴィンは、ヴロンスキーのほうを振り返りながら、たずねた。
「そりゃ立ちたい人ですよ」スヴィヤジュスキーが答えた。
「じゃ、あなたは?」
「いや、私は別ですよ」スヴィヤジュスキーはどぎまぎして、コズヌイシェフのそばに立っていた例の辛辣な紳士に、おびえたような視線をちらっと投げて、いった。
「それじゃ、だれが立つんです? ネヴェドフスキーですか?」リョーヴィンは、われながらしどろもどろになったのを感じながら、いった。
ところが、それはもっとまずかった。ネヴェドフスキーとスヴィヤジュスキーは、ふたりながら候補者だったからである。
「私なんかはどんなことがあっても、ごめんですな」例の辛辣な紳士はいった。
それはほかならぬネヴェドフスキーであった。スヴィヤジュスキーは、彼にリョーヴィンを紹介した。
「ほう、きみもだいぶ熱中してきたようですな?」オブロンスキーは、ヴロンスキーに目くばせしながらいった。「これも一種の競馬みたいなものだからね。賭《か》けだってできるさ」
「ああ、こりゃ熱中させられるよ」ヴロンスキーは答えた。「一度手を出したが最後、とことんまでやりたくなるね。まさに、闘争だね!」彼は眉《まゆ》をひそめ、たくましい頬骨をぐっとひきしめて、いった。
「スヴィヤジュスキーはなかなかやり手ですね! あの男にかかると、万事がはっきりするからね」
「そりゃ、まあ」ヴロンスキーは、気のない返事をした。
沈黙が訪れた。そのあいだに、ヴロンスキーは目のやり場に困ったので、リョーヴィンのほうをちらと見て、足を、制服を、それから顔をながめたが、自分に注がれている暗い目つきを認めると、ただもうなにか口をきくために、こう話しかけた。
「あなたはずっと田舎《いなか》暮しをされながら、いったいなぜ治安判事をなさらないんです? お見受けしたところ、治安判事の制服を着ていらっしゃいませんが」
「いや、私は治安判事なんてばかげた制度だと思ってるからですよ」リョーヴィンは暗い顔をして答えた。そのくせ彼は先ほどの無作法を償うために、ヴロンスキーと大いに語り合おうと、その機会を待っていたのであった。
「私はそうは思いませんね、むしろその反対です」ヴロンスキーは、落ち着いた驚きの色を見せていった。
「いや、あんなものはおもちゃですよ」リョーヴィンは相手をさえぎった。「治安判事なんて、われわれには必要ありませんよ。私は八年間に、ただの一度も訴訟なんか起したことはありません。一度ちょっとしたことがありましたが、まるっきり反対の判決を受けましたからね。治安判事は、私の家から四十キロも離れたところにいるんです。それで、わずか二ルーブルの事件のためにも、十五ルーブルも礼を払う代理人を頼まなくちゃならん始末ですからね」
それから彼は、ひとりの百姓が水車場で粉を盗んだので、水車場の主人がそれをなじったところ、その百姓は逆に誹《ひ》謗罪《ぼうざい》で主人を訴えたという話をした。それはわざととってつけたようで、いかにも間が抜けていた。リョーヴィンも話をしながら、自分でもそれを感じた。
「いやどうも、きみは相変らず変ってるじゃないか!」オブロンスキーは、例の扁桃《へんとう》油《ゆ》のような微笑を浮べていった。「でも、もうそろそろ出かけようじゃないか。どうやら、投票がはじまってるらしい……」
そこで、彼らは別れわかれになった。
「どうにもわからんね」コズヌイシェフは、弟のまずいやり口を認めて、いった。「いや、どうしてこうも政治的な勘がないんだろうねえ。もっとも、これがわれわれロシア人に欠けているものだがね。県の貴族団長はわれわれの敵だというのに、おまえはあの男と ami cochon で、立候補してくれなんて頼んでるんだからな。ところでヴロンスキー伯爵だが……そりゃ私だって、あの男を親友にしようとは思わないさ。晩餐《ばんさん》にも呼ばれたが、行く気はないさ。しかしね、あの男は味方なんだから、なにも敵にすることはないんだよ。それからまた、おまえはネヴェドフスキーに、立候補しますかなんてきいてたけど、あんなことをいうもんじゃないよ」
「ああ、ぼくにはなにがなんだかちっともわからないんですよ! でも、こんなことはみんなくだらないじゃありませんか!」リョーヴィンは暗い顔をして答えた。
「そんなふうに、おまえはなにもかもくだらないっていってるが、いざ自分でやってみれば、なにもかもごっちゃにしてしまうんだから」
リョーヴィンは黙ってしまった。そしてふたりはいっしょに、大広間へはいって行った。
県貴族団長は、自分のためにわな《・・》が設けられているという不穏な空気を感じ、自分に立候補を懇請したのが全員でなかったにもかかわらず、それでもなお立候補を決意した。大広間はしんと静まりかえった。書記は雷のような大声で、スネトコフ近衛騎兵大尉が県貴族団長の選挙において票決に付される旨を宣言した。
郡貴族団長は、小さな玉のはいった皿を持って、それぞれのテーブルから県貴族団長のテーブルへ歩きはじめた。こうして、選挙がはじまった。
「右のほうへ入れるんだよ」オブロンスキーは、リョーヴィンが兄とともに貴族団長のあとからテーブルへ近づいたとき、その耳にささやいた。ところが、リョーヴィンはさっき説明してもらった例の計画をもう忘れてしまって、オブロンスキーが『右のほうへ』といったのはまちがいではないか、と不安になってきた。なんといっても、スネトコフは敵だったからである。彼も投票箱のそばまで行ったときは、玉を右手に持っていたが、一瞬それがまちがいだと思って、投票箱のすぐ手前で、玉を左手に持ちかえて、堂々とそれを左のほうへ入れた。投票箱のそばに立っていたこの道の専門家は、ひじの動きを見ただけで、だれがどちらへ入れたか察してしまうのであったが、思わず眉《まゆ》をひそめた。自分の千里眼の威力を活用するまでもなかったからである。
あたりはしんと静まりかえって、玉を数える音だけが聞えた。やがてひとりの声が、賛否両票の数を読みあげた。
貴族団長はかなり多数の票を集めて選出された。一同はがやがやとわめきたって、まっすぐに戸口のほうへ突進した。スネトコフが姿を現わすと、貴族たちは彼をとりかこんで、祝辞を述べた。
「さあ、もうこれで終ったんでしょう?」リョーヴィンはコズヌイシェフにきいた。
「いや、やっとはじまったばかりだよ」コズヌイシェフのかわりに、スヴィヤジュスキーが微笑を浮べながら答えた。「ほかの候補者のほうが、もっとよけいに票数を獲得するかもしれないからね」
リョーヴィンはまたもや、そのことをすっかり忘れていたのであった。彼は今になってやっと、そこにはなにか微妙な取り引きがあったことを思いだしたが、それがどんなことであったか、考えだすのは面倒くさかった。彼は気分が滅入《めい》ってきたので、こうした群衆の中からのがれだしたくなった。
リョーヴィンはだれも自分に注意をはらっておらず、どうやら、自分はだれにも用がないらしいのを見てとって、喫茶部になっている小さい広間へ、そっと抜けだした。そして、再びボーイたちの姿を見たとき、彼はほっと心の休まる思いがした。老人のボーイが、なにかいかがですかといったので、リョーヴィンはうなずいた。リョーヴィンはいんげん豆をそえたカツレツを一皿食べ、そのボーイを相手に昔の紳士連の話をすると、不愉快でたまらない大広間へ行く気になれなかったので、傍聴席へ出かけてみた。
傍聴席は、階下《した》で話されていることを、一つとして聞きもらすまいと、手すりから乗りだしている着飾った婦人たちでいっぱいだった。婦人たちのまわりには、しゃれた格好をした弁護士や、眼鏡《めがね》をかけた中学教師や、将校たちが、立ったりすわったりしていた。いたるところで、選挙のことや、貴族団長がすっかりまいっていることや、討論がおもしろかったことなどが話題になっていた。ある一団の中で、リョーヴィンは兄に対する讃辞を聞いた。ひとりの婦人がある弁護士に向って、話していた。
「コズヌイシェフさんの演説が聞かれて、あたし、ほんとにうれしゅうございましたわ!あんな演説なら、少々お腹《なか》をすかせても平気ですわ。すてきでしたわねえ! ほんとに弁舌さわやかで、よく声がとおるんですのね!弁護士さん仲間でも、裁判所であれほどしゃべれる人はひとりもおりませんよ。まあ、マイデリひとりくらいのものですけれど、あの人だってとてもあれほど雄弁じゃありませんわ」
手すりのそばに空席を見つけて、リョーヴィンは上半身を乗りだして、見たり聞いたりしはじめた。
貴族たちはみなそれぞれの郡に分れて、小さな仕切りの陰にすわっていた。大広間の中央には、制服姿の男が立って、細い甲高《かんだか》い声でふれまわっていた。
「県貴族団長候補者として、アプーフチン騎兵二等大尉が票決に付されます!」
死のような沈黙が訪れた。と、ひとつの弱々しい年寄りの声が聞えた。
「辞退します!」
「ボーリ七等官を票決に付します」また例の声がいった。
またもや同じことをふれまわって、また『辞退します』が聞かれた。こんなことが一時間ばかりつづいた。リョーヴィンは手すりに肘《ひじ》をついて、見たり聞いたりしていた。はじめのうち彼はびっくりして、それがどんな意味か知ろうと努めていたが、まもなくそんなことはとても理解できないと悟ると、退屈になってきた。やがて、みんなの顔に認められた興奮と憎悪の色を思いだすと、彼はやりきれなくなってきたので、帰ることにきめて、下へおりた。彼は傍聴席への入口を通り抜けようとしたとき、はれぼったい目をした中学生が、元気なくあちこち歩いているのに出会った。また階段の上では、ハイ・ヒールで気ぜわしく走って来る婦人と、身軽そうな検事補の一組に会った。
「遅れやしませんと、私がいったでしょう」その検事補はリョーヴィンが婦人を通そうとして、わきへ寄ったとき、いった。
リョーヴィンは、もう出口の階段まで来て、チョッキのポケットから外套《がいとう》の番号札を取りだしたとき、書記につかまった。
「リョーヴィンさん、どうぞあちらへ、投票がはじまっております」
団長の候補者として、あんなにはっきり辞退していたネヴェドフスキーが、票決に付されていた。
リョーヴィンは大広間の入口に近づいた。そのドアはしまっていた。書記がノックすると、ドアがあいて、中からまっ赤な顔をしたふたりの地主が、リョーヴィンのそばをすべり抜けて行った。
「もうわしにはやりきれん」まっ赤な顔をした地主のひとりがいった。
その地主のあとから、県貴族団長の顔がのぞいた。その顔は疲労困憊《こんぱい》と恐怖のために、見るも無惨であった。
「だれも出しちゃいかんと、いっておいたじゃないか!」彼は守衛にどなりつけた。
「わたくしは中へお入れしたのでございます、閣下!」
「ああ、かなわん!」県貴族団長は重苦しく溜息《ためいき》をついて、例のまっ白なズボンをはいた足を、さも疲れたようにちょこちょこ動かしながら、うなだれたまま、広間の中央にある大きなテーブルのほうへ歩いて行った。
ネヴェドフスキーは、かねての計算どおり、多数の票を獲得して、県貴族団長になった。多くの人びとは陽気になった。いや、満足して幸福そうだったばかりか、有頂天にさえなった。しかし、不満で、ふしあわせな者も少なくなかった。これまでの県貴族団長は絶望の色を隠すことができなかった。ネヴェドフスキーが広間を出て行くと、群衆は彼をとりかこんで、歓声をあげながら、そのあとにつづいて行った。それはちょうど第一日に、開会を宣した知事のあとについて行ったと同様であり、またスネトコフが貴族団長に選ばれたとき、彼のあとについて行ったと同様であった。
31
新たに選ばれた貴族団長と勝ち誇った新党の多くの人びとは、その晩、ヴロンスキーのところで晩餐をした。
ヴロンスキーが選挙にやって来たのは、田舎暮しが退屈だったのと、アンナに対して自分の自由の権利を明らかにしておくためでもあったが、また地方自治体の選挙のとき、スヴィヤジュスキーが自分のために奔走してくれたことに対する礼として、今度の選挙で彼を支持するためであった。しかし、なによりもいちばんの理由は、自分みずから選んだ貴族兼土地所有者としてのあらゆる義務を、厳格に履行するためであった。しかし、ヴロンスキーはこの選挙という仕事がこんなに自分の興味をひき、こんなに自分を熱中させ、しかも、自分がこれほど巧みに、この仕事をやってのけられようとは意外であった。彼はここの貴族社会では、まったくの新顔であったが、しかし、どうやらある種の成功をおさめ、貴族たちのあいだにはやくもある勢力を獲得したと考えても、誤りではなかった。彼のこの勢力を助けたのは、彼の富と家がらと、町にある豪壮な邸宅と(この邸宅は、カシンでとても繁盛している銀行を創設した、財政関係の仕事をしている、古くからの知人シルコフから譲ってもらったのである)、村から連れて来た屋敷の腕ききのコックと、ヴロンスキーが面倒をみたことのある、単なる友人以上の関係にある知事との交友などであった。しかしなによりもいちばん力となったのは、だれに対しても分け隔てのない、彼のざっくばらんな態度であり、これがはやくも貴族の大多数をして、彼は傲慢《ごうまん》だという根拠のない意見を一変させたのであった。彼は自分に対して propos de bottes なんの役にも立たぬばかげた言葉を浴びせた、あの気ちがいじみたリョーヴィンという、キチイの夫以外は、自分と近づきになったすべての貴族が、ひとりのこらず自分の味方になったことを感じていた。ネヴェドフスキーの成功も彼の助力に負うところが多いのは、彼自身もはっきり承知していたし、ほかの人びともそれを認めていた。したがって、彼は今もわが家の食卓に向いながら、みずから選んだ当選者のために、勝利の快感を味わっていた。選挙そのものにもすっかり興味をそそられて、もしこれから先三年のあいだに正式な結婚ができたら、自分でもひとつ立候補してみようという気にさえなった。これはちょうど、持ち馬の騎手の活躍で賞品を得た後、今度は自分みずから競馬に参加したくなるのと同じことであった。
今まさに、その騎手の勝利を祝っているところであった。ヴロンスキーは食卓の上座に陣どり、その右手に、侍従将官である若い知事がすわっていた。居あわせたすべての人びとにとってこの男は、きょうの選挙でも開会の辞を述べ演説を行い、ヴロンスキーの見受けたところ、みんなに尊敬と畏怖《いふ》の念をいだかせている、この県の主人であったが、ヴロンスキーにとっては、自分の目の前でまごまごしているので、なんとか mettre son aise と努めていた、マースロフ・カーチカ(これは貴族幼年学校時代のあだ名であった)にすぎなかった。左手には、ネヴェドフスキーが、例の若々しい、犯しがたい、辛辣《しんらつ》な顔つきをしてすわっていた。ヴロンスキーは彼に対して、ざっくばらんながら、ちゃんと尊敬の念を示す態度をとっていた。
スヴィヤジュスキーは、自分の失敗にくよくよしていなかった。それは、彼自身も語っていたとおり、失敗ですらなかった。彼はシャンパンの杯をあげて、ネヴェドフスキーのほうを向きながら、貴族階級の支持すべき新しい党派の代表者として、これ以上の適任者は望めない、といった。したがって、彼の言明したとおり、すべて公正の士は今日の成功の味方であり、それを祝賀しているのであった。
オブロンスキーもまた、自分も愉快に時を過し、みんなも満足しているので、大喜びであった。すばらしい晩餐のあいだ、選挙に関する挿《そう》話《わ》が次々と披《ひ》露《ろう》された。スヴィヤジュスキーは、旧貴族団長の涙ながらの演説を、おもしろおかしくまねてみせ、ネヴェドフスキーに向って、閣下は在庫金の検査をするにあたって今度は涙なんかよりもっと手のこんだ演出をしなければなりませんね、といった。と、もうひとりの冗談好きな貴族が、旧貴族団長は舞踏会を見越して、長靴下をはいたボーイたちを狩り集めてあるから、もし新団長が長靴下をはいたボーイたちのいる舞踏会を開かないとすれば、今のうちにボーイたちを帰してやらなければならない、と物語った。
晩餐のあいだ、人びとはたえずネヴェドフスキーのほうを向いて、『わが県の貴族団長』とか、『閣下』とか呼んで話しかけていた。
これはちょうど、新婚の若い婦人をだれそれの『マダム』と、夫の姓をつけて呼びかけるのと同じ満足感をもって、繰り返されたのであった。ネヴェドフスキーは、そんな呼びかけには少しも興味がないばかりか、むしろそんなものを軽蔑《けいべつ》しているような態度をとっていた。しかし、その実、内心ではたしかに幸福を感じながら、一同の属している新しい自由主義的なグループにはふさわしくない有頂天の気持を表わすまいと、自粛していることは明らかであった。
晩餐のあいだに、選挙の経過に興味をもっている人びとに、何通かの電報が打たれた。オブロンスキーもすっかり上きげんになっていたので、ドリイに次のような電報を打った。『ネヴェドフスキー二十票ニテ当選、オメデトウ、伝言サレタシ』彼は「うちの連中も喜ばしてやらなくちゃならん」といって、この文句を口述させた。一方、ドリイは電報を受け取ると、電報代の一ルーブルのために、ひとつ溜息《ためいき》をついただけであった。そして、これは晩餐の終りごろに打ったのだなと察した。スチーヴァが晩餐の終りに 《faire jouer le t四使raphe 》趣味があるのを、承知していたからであった。
すばらしい晩餐といい、ロシアの酒屋からでなく、直接外国で瓶詰《びんづめ》にした酒といい、なにもかもが、きわめて上品で、しかもさっぱりしていて、楽しかった。二十人ばかりの列席者は、いずれもスヴィヤジュスキーが選んだ人びとで、思想を同じゅうする、自由主義的な、新しい、と同時に、それぞれ機知に富んだ、しかもりっぱな活動家ばかりであった。乾杯もなかば冗談で、新しい県貴族団長のためにも、知事のためにも、銀行の頭取のためにも、『愛想のいいわれらの主人』のためにもあげられた。
ヴロンスキーも満足していた。田舎でこんな愉快な雰《ふん》囲《い》気《き》に接しようとは、まったく思いがけなかったからである。
晩餐が終りに近づくと、さらに陽気になった。知事はヴロンスキーに向って、同胞《・・》のための慈善音楽会にぜひ出席してくれと頼んだ。それは知事の妻が主催していたもので、妻もヴロンスキーと近づきになりたいと望んでいたからであった。
「そこでは舞踏会もあるんだ。この町の美人が見られるよ。ほんとにおもしろいんだから」
「Not in my line.」このいいまわしの好きなヴロンスキーは答えたが、しかしにっこり笑って、出席すると約束した。
もうそろそろみんなが食卓を離れようとして、たばこを吸いだしたとき、ヴロンスキーの召使が手紙を盆にのせて、そばへ近づいた。
「ヴォズドヴィジェンスコエから急ぎの使いがまいりまして」召使は意味ありげな顔つきでいった。
「こりゃ驚いた。あいつ、検事補のスヴェンチツキーにそっくりじゃないか」客のひとりは、ヴロンスキーが顔をしかめながら手紙を読んでいるあいだに、召使の姿を認めて、フランス語でいった。
手紙はアンナからのものであった。彼にはまだ読まぬ先から、その内容がわかっていた。彼は選挙が五日間で終るものと考えて、金曜日には帰ると約束して来たのであった。きょうは土曜日であるから、手紙の内容は、彼が約束どおり帰らなかったことを、責めたものにちがいなかった。彼が昨晩出した手紙は、きっと、届いていないのだろう。
内容は彼の予期したとおりのものであったが、その書き方は思いがけない、特別不愉快なものであった。『アニイの病気がとても悪くて、医者は肺炎になるかもしれないと申しております。あたしひとりで、どうしてよいか、途方にくれております。ワルワーラ公爵令嬢は力になってくれるどころか、かえってじゃまになっております。あたしはおとといときのう、あなたのお帰りをお待ちしておりましたが、きょうあなたはどこでなにをしていらっしゃるかと、この使いをさしむけました。あたしは自分から出かけて行こうと思いましたが、かえってあなたのお気にさわってもと存じまして、思いとどまりました。なにはともあれ、あたしはどうしたらよいか、ご返事をお聞かせくださいまし』
子供が病気だというのに、あれは自分で出かけて来ようとしたのだ。娘は病気だというのに、この敵意を含んだ調子!
当選を祝うこの無邪気な楽しい雰囲気と、これから自分が帰って行かねばならぬあの陰鬱な重苦しい愛の巣とは、その対象のあまりの激しさで、ヴロンスキーの心に衝撃を与えた。しかし、とにかく帰らなければならなかったので、彼はその晩、いちばん早い汽車で帰途についた。
32
ヴロンスキーが選挙に出かける前、アンナは彼が出かけるたびに繰り返される悶着《もんちゃく》は、ただ彼の愛情を冷《さ》ますばかりで、けっして彼の心を自分に引き止めることにはならないと悟ったので、できるかぎり努めて、彼との別離をおだやかに耐えようと決心した。ところが、彼が出発を告げにやって来て、自分を見たときのあの冷たくきびしいまなざしは、アンナに侮辱を感じさせた。そのため、彼がまだ出かけない前から、アンナの心の平静ははやくも破られていたのであった。
その後ひとりになってから、アンナは自由の権利を主張するようなそのときの目つきを思い返してみて、いつものとおり、ただ一つの結論、わが身の卑下を意識する気持に到達した。《あの人はいつどこへでも行きたいところへ出かけて行く権利をもっている。いや、ただ出かけて行くばかりでなく、あたしを残して行く権利をもっているんだわ。あの人はあらゆる権利をもっているのに、あたしにはその一つだってないんだわ。でも、あの人はそれを承知なのだから、そんなことをしてはいけないはずだわ。それなのに、あの人はいったいなんてことをしたんだろう?……あの人ときたら、あんな冷たい、きびしい目つきで、あたしをじろりとながめたりして。そりゃ、あれは漠然としていて、はっきりした意味もつかめなかったけれど、前にはあんなこともなかったから、あの目つきにはいろんな意味が含まれているんだわ》アンナは考えた。《あの目つきは、愛情が冷めだしているなによりの証拠だわ》
そしてアンナは、愛情が冷めだしていると確信したものの、どうすることもできなかった。いや、どんな点でも、彼に対する自分の態度を変えることはできなかった。相変らず今までどおりに、ただ自分の愛情と魅力で彼をつなぎとめておくことしかできなかった。そして今までどおり、アンナは昼間は仕事、夜はモルヒネの力をかりて、もし彼の愛が冷めたらどうしようという、恐ろしい思いをまぎらすほかにどうしようもなかった。もっとも、もう一つの方法があるにはあった。つなぎとめておくのではなく――そのためなら、アンナは彼の愛よりほかなにひとつ望まなかった――彼に接近して行き、もはや捨てられないような境遇になることであった。その方法は、まず離婚してから、正式に結婚することである。そこで、アンナもそれを望むようになり、彼なりスチーヴァがそれをいいだしたら、すぐに承諾しようと決心していた。
アンナはこんなことを考えながら、彼の不在ときまった五日間を、ひとりで過したのであった。
散歩とか、ワルワーラ公爵令嬢との話とか、病院の見まわりとか。それになによりも読書、それも手あたりしだいの読書とかで、アンナの時間はつぶされた。しかし、六日めに御者が、自分だけで帰って来たとき、アンナはもうどうしても彼のことを思い、彼が出先でなにをしているかを考えずに、過すことはできないと感じた。ちょうどそのときに娘が病気になったのである。アンナは娘の看病をはじめたが、それでも気分はまぎれなかった。ましてそれは危険な病気でなかったので、なおさらであった。アンナはどんなに努力してみても、この娘を好きになれなかったし、愛しているふりをすることもできなかった。その日の夜ひとりぼっちになったとき、アンナは彼のことがあまり気がかりになったので、町へ出かけてみようと決心したくらいだったが、よく考えたあげく、ヴロンスキーの受け取った、あの矛盾だらけの手紙を書くと、読み返しもせず、急ぎの使いを出したのであった。翌朝、アンナは彼の手紙を受け取って、自分のしたことを後悔した。アンナは彼が帰って来たとき、ことに女の子が重態でないと知ったとき、彼が出発前に投げたあのきびしい目つきが、もう一度繰り返されるだろうと予想して、思わずぞっとした。ところがそれにもかかわらず、アンナは彼に手紙を書いたことをうれしく思った。アンナは彼が自分を重荷に感じていることも、自由を捨てて自分のもとへ戻って来ることを残念がっているであろうことも、みずから認めていたにもかかわらず、とにかく、彼が帰って来ることがうれしかった。たとえあの人が自分を重荷に感じたとしても、あの人は自分のそばにいるのだから、自分はあの人をながめたり、あの人の一挙一動を知ることができるからだ。
アンナは客間のランプの下で、テーヌの新刊書を手にしてすわり、戸外の風の音に耳を傾け、馬車が乗りこんで来るのを、今かいまかと待ちわびていた。幾度も車輪の音が聞えたような気がしたが、それは空耳であった。が、ついに、車輪の音ばかりでなく、御者の馬を叱《しっ》する声や、屋根のある車寄せに響くにぶい物音まで聞えた。トランプのひとり占いをしていたワルワーラ侯爵令嬢までが、そういったので、アンナはさっと顔を紅潮させて、立ちあがった。ところが、前には二度も階下へおりて行ったくせに、今度は階下へおりようともしないで、その場にたたずんでいた。アンナは急に自分のうそが恥ずかしくなった。しかし、なによりもいちばん恐ろしかったのは、彼が自分にどんな態度をとるかということであった。侮辱された感じはもはやなくなってしまい、アンナはただ、彼の不満げな表情を見るのが恐ろしかったのである。ふと、女の子がもうきのうからすっかりよくなってしまったのを思いだした。いや、女の子が、ちょうど手紙を出したときからよくなってしまったのが、いまいましいくらいであった。それから、アンナは彼のことを思いだした、彼がすぐそばに、その手も、その目も、なにもかもそっくりもった彼がいることを。
アンナは彼の声を耳にした。と、なにもかも忘れてしまって、うれしさでいっぱいになって、彼を迎えに駆けだして行った。
「やあ、アニイの容体《ようだい》は?」
彼は駆けおりて来るアンナを、下から見上げながら、おずおずした調子できいた。
彼はいすに腰をおろして、召使がその足から防寒用の長靴を脱がしているところであった。
「もう大丈夫、たいへんよくなりましたわ」
「じゃ、おまえは?」彼はからだをゆすりながらいった。
アンナは両手で彼の手を握ると、彼の顔から目を放さずに、その手を自分の細腰のほうへ引き寄せた。
「そりゃ、よかったね」彼はアンナの髪のかたちから着物まで、じろりと冷やかに見まわしてから、いった。彼はその服が自分を迎えるためにわざわざ着替えたものだということを承知していた。
それらはなにもかも彼の気に入ったが、それにしても、もう幾度それが繰り返されたことであろう! と、アンナがあれほど恐れていた、きびしい、石のような表情が、彼の顔に凍《い》てついた。
「いや、けっこうだとも。じゃ、おまえのほうは元気なんだね?」彼はぬれた顎《あご》ひげをハンカチでふいて、アンナの手に接吻《せっぷん》しながら、いった。
《もうなんだっていいわ》アンナは思った。《この人がここにいてくれさえしたら。だって、ここにいれば、この人はあたしを愛さないわけにいかないんですもの。ええ、愛さないではいられやしないんだから》
その晩は、ワルワーラ公爵令嬢もいっしょになって、幸福に楽しく過ぎた。公爵令嬢は、留守のあいだにアンナがモルヒネを飲んだと彼に訴えた。
「じゃ、どうすればいいんですの? とても眠られなかったんですもの……とりとめのない考えにじゃまされてね。でも、この人さえ家にいてくだされば、けっして飲みませんわ。まあ、たいていはね」
彼は選挙の話をはじめた。アンナは巧みに質問をはさんで、彼を喜ばせたおもな事がらへ、つまり、彼の成功に話題を向けることができた。また、アンナは彼の興味がありそうなわが家のニュースを話した。そして、アンナの報告はすべて、きわめて愉快なことばかりであった。
ところが、その晩遅くなって、ふたりきりになったとき、アンナは再び自分が相手を完全に支配していることを見きわめて、例の手紙が与えたいやな印象をぬぐいとりたくなった。そこで、アンナはこういった。
「ねえ、ほんとのことをおっしゃって。あの手紙を受け取られたときはいやな気がなさったでしょう、きっと、ほんとになさらなかったでしょう?」
アンナはそういったとたんに、彼が今自分に対してどんなに優しい気持になっているとしても、あのことだけはけっして許すことができないでいることを悟った。
「ああ」彼はいった。「なにしろ、まったく変てこな手紙だったからね。アニイが病気だというのに、おまえは自分で出かけて来ようというんだから」
「でも、みんなほんとのことだったんですの」
「そりゃ、ぼくも疑ってはいないがね」
「いえ、あなたは疑ってらっしゃるわ。あなたはご不満なのよ。あたしにはちゃんとわかってますわ」
「いや、いっときだって疑ったことはないよ。ただぼくが不満なのはね、これはほんとの話だが、おまえはまるで人には義務があるってことまで、認めようとしないらしいからね……」
「音楽会へお出かけになるのも義務ですのね……」
「いや、もうこの話はよそう」彼はいった。
「まあ、なぜよすんですの?」アンナはいった。
「いや、ぼくがただいいたいのは、やむをえない用事だって起りうるってことさ。現に今度も、ぼくはモスクワへ行かなくちゃならないんだよ。家の用事でね……ねえ、アンナ、どうしてそういらいらしてばかりいるんだね? ぼくがおまえなしには生きていかれないってことぐらい、おまえだってわかってるだろうに?」
「もしそうなら」アンナは、急にがらりと変った声でいった。「あなたはこの生活を重荷に感じてらっしゃるんですのね……だって、あなたはちょっと一日だけ帰って来て、すぐまたお出かけになるんですもの、まるで世間の人たちと同じように……」
「アンナ、そのいい方はあんまりだよ。ぼくはおまえのために、一生をささげる覚悟でいるというのに……」
しかし、アンナは彼の言葉に耳をかさなかった。
「あなたがモスクワへいらっしゃるのなら、あたしもごいっしょします。あたしはここでお留守居なんかしていませんわ。あたしたちはいっそ別れてしまうか、それとも、いつもいっしょに暮すかですわ」
「いや、それだけがぼくの望みだってことは、おまえも知ってるじゃないか。しかし、そのためには……」
「離婚が必要なんでしょう? あたし、あの人に手紙を書きますわ。もうこんなふうに暮してはいけないってことが、あたしにもわかったんですの……でも、モスクワへはごいっしょにまいりますわ」
「まるでぼくをおどかしてるみたいじゃないか。いや、とにかく、おまえと別れていたくないってことは、ぼくがいちばん望んでることだからね」ヴロンスキーは微笑を浮べながらいった。
しかし、彼がこの優しい言葉を口にしたとき、そのまなざしにひらめいたのは、単なる冷やかさ以上の、追いまわされて残忍な気持をいだいた人の憎悪に満ちた表情であった。
アンナはこのまなざしを見て、その意味をまちがいなく悟った。
《もしそんなことになったら、それこそ不幸だ!》彼のまなざしは語っていた。それは束《つか》の間《ま》の印象であったが、アンナはもうけっしてそれを忘れなかった。
アンナは離婚を求める手紙を夫に書いた。そして、十一月の末、ペテルブルグへ用事で行くワルワーラ公爵令嬢と別れて、ヴロンスキーといっしょにモスクワへ移った。ふたりは毎日、カレーニンの返事と、それにつづく離婚を待ちかねながら、今は夫婦同様に、いっしょに暮していた。
第七編
リョーヴィン夫妻は、もう足かけ三カ月モスクワで暮していた。その方面に詳しい人たちのもっともたしかな計算によると、キチイの出産予定日は、もうとうに過ぎてしまっていた。キチイは依然としてまだ大きなお腹《なか》をかかえていて、ふた月前より今のほうが産期に近づいているという気配は見えなかった。医者も、助産婦も、ドリイも、母親も、またとりわけ、目前に迫った出来事を恐怖の思いなしには考えられなくなったリョーヴィンも、焦燥と不安を感じはじめていた。ただひとりキチイだけは、すっかり落ち着いて幸福な気分を味わっていた。
キチイはいまや未来の、いや、もうある程度実在のものとなっている赤ん坊に対する、新しい愛情が自分の内部に芽生えたのをはっきりと意識して、その感情に身をまかせながら、ひとり楽しんでいた。胎児も今はもう完全に彼女の一部ではなくなり、時には母親から独立した生活をいとなむこともあった。そのために、キチイはしばしば苦痛を覚えたが、しかしそれと同時に、この異様な新しい喜びに声をたてて笑いたくなることもあった。
自分の愛しているすべての人びとが身近におり、だれもが自分に優しく気をつかってくれ、何事につけても楽しいようにと心がけてくれたので、もしこうした状態がまもなくおしまいになるということを知りもせず、感じもしなかったなら、キチイはもうこれ以上気持のいい、楽しい生活を望まなかったにちがいない。ただ一つ、この生活のすばらしさをそこなっていたものは、夫が自分の好きだったような、つまり、田舎《いなか》にいたころのような夫ではなくなったことである。
キチイは、田舎にいたころの夫のような、落ち着いた、優しい、客好きな態度が好きであった。ところが、夫は都会に出て来てから、たえず不安そうで、緊張していて、だれかが自分を、いや、だれよりも妻をはずかしめはしないかと、ただそれを恐れているかのようであった。田舎にいたころは、明らかに、自分が自分にふさわしい場所にいることを承知していたと見え、どこへ行くにも急ぐことはなかったし、なにか仕事をしていないときはなかった。ところが、この都会に来てからは、なにか手落ちはないかといったふうに、いつもせかせかしていたが、そのくせ実際には、なにひとつすることがないのであった。で、キチイは夫を気の毒に思った。しかし、他の人には彼もみじめな人間には見えなかった――それはキチイも承知していた。それどころか、キチイは世間の人が自分の恋人が他人に与える印象をたしかめるために、まるで赤の他人でもながめるような目つきで恋人をながめるように、愛する人を社交界でながめてみたが、夫はみじめでないどころか、その上品さといい、婦人に対するときの、幾分旧式な、遠慮ぶかい慇懃《いんぎん》さといい、たくましいその風《ふう》貌《ぼう》といい、キチイにはとりわけ特徴的と思われた、表情のゆたかな顔のために彼がたいそう魅力的であることを知って、われながら嫉《しっ》妬《と》にかられて、恐怖の思いでながめるほどであった。しかし、キチイは夫を外面からでなく、内部からながめて、夫がここでは本来の姿の夫ではないことを見てとっていた。キチイには、そうとしか夫の状態を定義することができなかった。彼女は夫が都会生活をうまくできないことを時には心の中で責めたが、また夫には、ここで自分の生活を満足に築くことはまったくむりなのだ、と認めてみたりするのであった。
実際、彼はどうすればよかったのだろう?トランプ遊びはきらいだったし、クラブへも出入りしなかった。オブロンスキーのような陽気な男たちとつきあうことが、どんなことを意味するかは、もう今はキチイにもわかっていた。……それは酒を飲むことであり、飲んだあげくにどこかへ繰り出すことであった。そういう場合、男の連中がどんなところへ出かけるかを考えると、キチイは怖《おぞ》気《け》をふるわずにはいられなかった。では、社交界に出入りしたら? しかし、そのためには若い女性に近づくことに喜びを見いださねばならない……ということがわかっていたので、キチイはそれも望むわけにはいかなかった。じゃ、家にいて自分や、母親や、姉妹たちの仲間入りをしたら? しかし、相も変らぬ同じ話、老公爵が『アリーナ・ナージナ』と呼んでいた姉妹同士の話がキチイにとってどんなに気持よく楽しいものであろうと、夫にとっては退屈にちがいないことはキチイにもわかっていた。では、他にどんなことが残っているだろう? 自分の著述をつづけたら? いや、夫は実際それをやろうとして、はじめのころは、著述のための書き抜きや調べものをしに、図書館へ通っていた。ところが、キチイに話してくれたところによると、夫はなにもしないでいればいるほど、ますます暇がなくなっていくというのであった。しかも、夫はここへ来てから自分の書物のことについてあまりにしゃべりすぎたので、すっかり思想が混乱してしまい、興味が失われてしまった、とキチイに訴える始末であった。
この都会生活のありがたさの一つは、ここへ来てから夫婦のあいだに一度もいさかいが起らないことであった。都会生活の条件が田舎とは別なためか、それとも、この点について夫婦双方が用心ぶかくなり、分別がついてきたためか、いずれにしてもモスクワに来てからは、上京するについてあれほど心配していた、嫉妬がもとの夫婦げんかがふたりのあいだに起らなかった。
しかもこの点では、夫婦双方にとってきわめて重要な一つの事件さえ起った。それはほかでもない、キチイとヴロンスキーとの出会いであった。
キチイの名付け親で、いつも彼女をたいへんかわいがっていたマリヤ・ボリーソヴナ老公爵夫人が、ぜひとも彼女に会いたいといって来たのである。それまで身重のためにどこにも出かけなかったキチイも、父親に伴われて、この尊敬すべき老夫人をたずね、そこでヴロンスキーに出会ったのである。
この出会いについて、キチイになにか自分を責めるべき点があったとすれば、それは、彼女がかつてあれほど親しみを覚えていた彼を平服姿で見いだした一瞬、思わずはっと息がつまり、血が心臓に集まって、自分でもわかるほど顔をまっ赤に染めたという、ただそのことだけであった。しかも、それは、わずか数秒間つづいただけであった。わざと大声でヴロンスキーと話をはじめた父親がまだ話し終らぬうちに、キチイにはもうヴロンスキーをまともにながめ、必要とあれば、公爵夫人と話したときとまったく同じ調子で、彼と話し合えるだけの心がまえができていた。それどころか、言葉の抑揚や微笑の端ばしにいたるまですべて、この瞬間、姿は見えないが、自分をじっと見ているように感じられた夫からも認めてもらえるような態度で話すことができる自信があった。
キチイは彼と二言《ふたこと》三《み》言《こと》言葉をかわし、彼が『われわれの議会』と呼んだ選挙について冗談をとばしたとき、落ち着いて微笑を浮べることさえできた(その冗談がわかったことを示すために、微笑してみせる必要があったのである)。が、すぐに公爵夫人のほうに顔を向け、彼が立ちあがって別れのあいさつをいうまで、一度も彼のほうを見なかった。あいさつのときだけは彼の顔を見たが、それはたぶん、相手がおじぎをしているのに、その顔を見ないのは失礼にあたるという、ただそれだけのためであったにちがいない。
キチイは、父親がヴロンスキーとの出会いについてひと言もいわなかったことを、ありがたいと思った。しかも訪問をおえて、いつもの散歩をしたとき、父が自分に示してくれた特別な優しさから、キチイは父が自分に満足していることを悟った。キチイ自身も自分の態度に満足していた。ヴロンスキーに対する以前の感情の思い出を、どこか心の奥のほうにしっかりおさえつけて、彼に対してまったく無関心で落ち着いた態度を見せる、いや、事実、まったくそうした気持でいられる力が、自分にあろうとは、キチイもわれながら予想しなかったところであった。
リョーヴィンは妻の口から、マリヤ・ボリーソヴナ公爵夫人の屋敷でヴロンスキーに会ったことを聞かされると、彼女よりもっと顔を赤くした。キチイにとってこの話を夫に伝えるのは、とてもむずかしいことだったが、それにもまして、出会いの一部始終を語りつづけることはとくにむずかしかった。というのは、夫は質問もさしはさまずに、ただ顔にしわを寄せながら、じっと妻の顔を見つめているばかりであったからである。
「あなたがいらっしゃらなくて、あたし、ほんとに残念でしたわ」キチイはいった。「あなたがあのお部屋にいらっしゃらなかったことじゃないの……あなたのおそばにいたら、あたし、きっとあんな自然な態度はとれなかったでしょうからね……あたし、今のほうがずっと、ええ、ずっと、ずっと、赤くなっているのよ」キチイは涙の出るほど顔を赤らめながらいった。「つまり、あなたにすきまからでも見ていただけなくて残念だったの」
キチイの誠意のこもったまなざしは、彼女が自分に満足していることを語っていたので、リョーヴィンは、キチイが顔を赤らめたにもかかわらず、すぐさま胸をなでおろして、いろいろと質問をはじめた。キチイもそれを待ちかねていたのであった。キチイからなにもかも――はじめの瞬間だけは赤くならずにいられなかったが、その後は、はじめて出会った人に接するように、素直な軽い気持でいられたというような細かいことまで聞きおよぶと、リョーヴィンはすっかり陽気になってしまい、自分はとてもうれしい、もう選挙のときのような愚かなまねはしない、今度ヴロンスキーに出会ったらできるだけ愛想よくしよう、などといった。
「その人と顔をあわせるのもつらいという、ほとんど敵みたいな人がいるなんて考えるのは、ほんとにたまらないことだからね」リョーヴィンはいった。「ぼくはとても、とてもうれしいよ」
「それじゃ、どうかボーリ伯爵のお宅にお寄りになってくださいね」キチイは、十一時ごろリョーヴィンが外出しようとして部屋にやって来たとき、夫にいった。「クラブでお食事をなさることは存じておりましてよ。パパがあなたの席も予約なさったんですもの。じゃ、午前中はどうなさいますの?」
「ちょっとカタワーソフのところへ寄るのさ」リョーヴィンは答えた。
「まあ、こんなに早くに?」
「メートロフに紹介するって約束してくれたんでね。仕事のことでメートロフには前々から話がしてみたいと思っていたんだよ。なにしろ、彼はペテルブルグの有名な学者だからね」リョーヴィンはいった。
「そうそう、その方の論文をあなたはいつかずいぶんほめていらっしゃったわね? じゃ、そのあとは?」キチイはきいた。
「また裁判所へ、ひょっとしたらまわるかもしれないね。例の姉の件で」
「じゃ、音楽会へは?」キチイはきいた。
「ひとりで行ったってしようがないじゃないか!」
「いえ、そんなことおっしゃらずに、いらっしゃいよ。きょうはいろいろと新しい曲目を演奏するって話ですもの……あんなに興味をもっていらっしゃったくせに。あたしならぜひともまいりますわ」
「まあ、とにかく、夕食までにはちょっと帰るよ」リョーヴィンは時計を見ながらいった。
「じゃ、フロックを着ていらっしゃいよ、まっすぐボーリ伯爵夫人のところへおまわりになれるように」
「ほんとに、どうしても行かなければいけないのかい?」
「ええ、どうしても! あちらさまも家《うち》にお見えになったんですもの。そんなに面倒なことじゃないでしょう? ちょっとお寄りして、腰をかけて、五分ばかりお天気のお話でもされて、それから立って失礼なされば、それでいいんですもの」
「いや、おまえにはわからないだろうが、このところそういうことはやりつけてないものだから、そのなんでもないことがぼくにはどうも気恥ずかしくてね。だって、変じゃないか? 縁もゆかりもない赤の他人がやって来て、すわりこみ、なんの用事もないくせに腰をすえるなんて。向うさまでも迷惑だろうし、こちらも居心地が悪くなって、それでは失礼、なんていうのはね」
キチイは笑いだした。
「でも、まだ独身のころは、よく訪問をなすったじゃありませんか?」キチイはいった。
「そりゃ、することはしたよ。でもいつだって気恥ずかしい思いをしていたのさ。ところが、このごろときたら、そういうことをやっていないから、そんな訪問をするくらいなら、いっそ、二日も飯を食わないでいるほうがましなくらいだよ。なにしろ、気恥ずかしくてね! なんだか先方が腹を立てて、おまえさんはなんだって用もないのにやって来たんだ、っていいそうな気がしてねえ」
「まあ、そんなこと。腹なんか立てやしませんよ。その点はあたしがちゃんと保証いたしますわ」キチイは、笑《え》顔《がお》で夫の顔を見ながらいった。キチイは夫の手をとった。「じゃ、行ってらっしゃい……ほんとうに、寄ってらしてくださいませね」
リョーヴィンが妻の手に接吻《せっぷん》して、もう出かけて行こうとしたとき、キチイはそれを呼び止めた。
「コスチャ、じつはね、あたしの手もとにもう五十ルーブルしか残っていないんですの」
「ああ、それじゃ、銀行へ寄って取って来よう。どのくらいいる?」彼はキチイのよく知っている不満そうな表情を浮べていった。
「だめ、ねえ、ちょっと待ってちょうだい」キチイは夫の手をとって、引き止めた。「よくお話ししなければ、あたし、気がかりなの。なにもむだづかいなんかしていないつもりですのに、お金のほうはどんどん出て行ってしまうんですもの。なにかあたしたちのやり方がまずいのね」
「いや、絶対そんなことないさ」彼は咳《せき》ばらいをして、上目づかいに妻の顔を見ながら、いった。
この咳ばらいの意味をキチイはよく承知していた。それは夫がひどく不満な証拠だった。もっとも、それは妻に対してではなく、自分自身に対して不満なのであった。彼は実際、不満であった。しかし、それは、出費が多いからというためではなく、そこになにかうまくないことがあると知りながらも、忘れていたいと願っていることを、思いださせられたからであった。
「ソコロフのやつに、小麦を売ることと、水車場の使用料を前金で取りたてることをいいつけておいたからね。お金のほうはいずれにしても、大丈夫だよ」
「でも、あたし、心配ですわ、だってお金があまりたくさん……」
「いや、絶対にそんなことはないよ。絶対に」彼は繰り返した。「じゃ、キチイ、行ってくるよ」
「待って。ほんというと、あたし、ママのいうことを聞くんじゃなかったって、ときどき後悔しているのよ。田舎にいたほうがずっとよかったんですもの! だって、あたしはみんなに心配はかけるし、お金は使うしで……」
「いや、いや、絶対にそんなことはないさ。ぼくは結婚して以来、こうじゃないほうがよかったなんて思ったことは、一度だってなかったからね……」
「まあ、ほんと?」キチイは、夫の目を見つめながらいった。
彼はただ妻を慰めたいばかりに、よく考えもせずに、そういったのである。しかし、妻の顔をながめて、その愛らしい、心のこもったまなざしが、問いかけるように自分に注がれているのを見ると、今度は心の底からそう思うのであった。《おれはすっかりこれのことを忘れている》彼は思った。そして彼は、もうじき自分たちふたりを待ちうけていることを思いだした。
「もうじきだろう? からだのぐあいはどう?」彼は妻の両手を握って、ささやくようにいった。
「あんまりしょっちゅう考えていたので、今はもうなにも考えてないの。だから、わかりませんわ」
「こわくはない?」
キチイは相手を軽蔑《けいべつ》するようににやっと笑った。
「ちっとも」キチイはいった。
「それじゃ、もしなにかあったら、ぼくはカタワーソフのところにいるからね」
「いえ、なにもありゃしませんよ。そんなこと心配なさらないで。あたし、パパと並木通りへ散歩に行きますわ。ドリイのところに寄ってみるつもりですの。じゃ、お夕食前にはお帰りになりますわね。ああ、そうそう! あなたご存じ、ドリイのところがもうどうにもならないほど、すっかりいけなくなっているのよ。あっちこっち借金だらけで、お金がないんですって。きのう、ママやアルセーニイ(キチイは姉の夫リヴォフのことをそう呼んでいた)とお話しして、あなたとアルセーニイからスチーヴァによくいってもらおうってことにしたの。とにかく、お話にならないくらいひどいのよ。パパにはそんなお話できませんし……でも、もしあなたとアルセーニイが……」
「じゃ、ぼくたちになにができるというんだい?」リョーヴィンはいった。
「いえ、とにかく、アルセーニイのところへ行って、よく話し合ってみてちょうだい。どんなことをあたしたちがきめたかは、アルセーニイが話してくれますわ」
「そりゃ、アルセーニイのいうことなら、ぼくは聞かない前からなんでも賛成だよ。じゃ、彼のところへも寄って来るよ。もしかして、音楽会へ行くことになったら、ナタリイといっしょに行くよ。じゃ、行ってくるよ」
リョーヴィンが入口の階段に出ると、独身時代から奉公していて、今はモスクワ生活の采配《さいはい》をふるっている老僕のクジマーが彼を呼び止めた。
「クラサーフチック(これは田舎から連れて来た左の轅馬《ながえうま》であった)のやつは、蹄鉄《ていてつ》を直してやりましたが、やっぱりびっこをひいておりますが」彼はいった。「どうしたらよろしいでしょうな?」
モスクワへ来た最初のころ、リョーヴィンは田舎から連れて来た馬のことで気をつかっていた。この方面をできるだけうまくやって、金のかからぬようにしたいと思ったからである。ところが、自家用の馬車は辻馬車よりも高くつくことがわかったので、そこでやはり辻馬車を雇っているのであった。
「じゃ、獣医を呼びにやってごらん。ひょっとすると、ひづめの裏にけがでもしているんだろう」
「はあ、では奥さまの馬はどうしましょう?」クジマーはきいた。
モスクワ生活の最初のころは、ヴォズドヴィジェンカからシフッェフ・ヴラジョークへ行くのに、がっちりした箱馬車にたくましい二頭立てをつけ、雪でぬかった泥道を四分の一キロほど走らせ、そこで四時間も待たせて、その報酬に五ルーブルも支払わねばならぬということに、リョーヴィンはびっくり仰天したものであった。が、今はもう、それがあたりまえみたいに思われていた。
「辻馬車屋へ行って、家の箱馬車につなぐ馬を、二頭頼んだらいい」リョーヴィンはいった。
「かしこまりました」
こうして、田舎でなら自分でたいへんな労力と注意とをはらわねばならぬ難問を、都会暮しのおかげでいとも簡単に解決してから、リョーヴィンは入口の階段に出ると、辻馬車の御者を呼んで、それに乗りこみ、ニキーツカヤ街へ走らせた。その途中、彼はもう金のことなどいっさい考えずに、社会学を専攻しているペテルブルグの学者とどんなあいさつをかわし、自分の著述についてどんな話をしたものかと、あれこれ考えはじめた。
モスクワへ移ったごくはじめのころだけは、リョーヴィンも田舎住まいの者にはふしぎでならない出費や、あちこちから要求される非生産的な、しかし避けることのできない出費に、驚いたものであった。ところが今ではもう、彼もそれに慣れっこになっていた。この場合、彼の心に起ったことは、世間で酒飲みについてよくいう、一杯めは棒杭《ぼうぐい》のようにのどにつかえるが、二杯めは鷹《たか》のように突っ走り、三杯めからは小鳥のように軽やかに通っていく、というあの心理状態と同じものであった。リョーヴィンは召使と玄関番の仕着せを購入するために、はじめて百ルーブル紙幣をくずしたとき、彼は心ならずもこんなことを考えたものであった――こんな仕着せなどだれにも必要のないものであるが、しかし仕着せなんかなくてもすむだろうとほのめかしたときの、公爵夫人とキチイの驚きようから判断すると、どうやら、それなしではすまされぬらしい仕着せは、夏場の雇い男のふたり分の賃金と同じなのだ。つまり、復活祭週から大斎期のはじまりまで、約三百日の労働に匹敵するのだ。しかも、毎日朝早くから晩遅くまでという重労働の三百日分に相当するのだ。そう思うと、彼はこの百ルーブ紙幣が棒杭のようにのどにつかえた。しかし、次に、親戚《しんせき》の者を晩餐《ばんさん》に招こうと、全部で二十八ルーブルかかった食料品を購入するために、百ルーブル紙幣をくずしたとき、二十八ルーブルという金額は、燕麦《えんばく》九チェトヴェルチに相当し、それを作るには、汗水たらして、うんうんうなりながら、刈ったり、束ねたり、打穀したり、簸《ひ》にかけたり、ふるいわけたり、袋につめたりしなければならないということが心に浮んだものの、それでもとにかく、この百ルーブル紙幣は前のものより楽にのどを通った。そして、近ごろでは、くずして使う紙幣は、もうとっくにそんな思いを呼びおこすこともなく、小鳥のように、どんどん飛んで行ってしまうのだった。金を手に入れるため費やされた労力が、その金で購入されるものの与えてくれる満足に相当するかどうか――そんな考慮はもうとっくの昔に失われてしまった。一定量の穀物には一定の価格があり、それ以下では売ってはならない、という農場経営上の採算もまた忘れられていた。彼が長いこと値を維持することに努めてきた裸麦も、ひと月前の相場に比べ、一チェトヴェルチにつき五十コペイカも安く売られてしまった。それどころか、こんな出費があっては、借金せずに一年も暮せまいという胸算用――そういう胸算用さえ今はもうなんの意味もなかった。ただ一つのことだけが要求された――どこからはいる金であるかは問わないが、とにかく、あすの牛肉を買う金には困らない、という安心感をもつために銀行に預金がなければならなかった。そしてこの胸算用は、これまでのところ守られてきた。彼はいつでも銀行に預金があった。ところが今度は、銀行預金がすっかりなくなってしまい、どこから金を手に入れたものか、彼にはよくわからなかったからである。いや、ほかならぬそのことのために、キチイが金のことをいいだしたとき、彼は一瞬気分をこわしたのであった。しかし、彼はもうそんなことを考えている暇はなかった。彼は馬車に揺られながら、カタワーソフのことや、目前に迫ったメートロフとの対面のことを思いめぐらしていたからである。
リョーヴィンは、今度モスクワへ出て来たのを機会に、大学時代の旧友で結婚以来会わなかったカタワーソフ教授とまた親しく交際するようになった。カタワーソフは、単純明快な人生観の持ち主であったので、リョーヴィンには気持がよかった。リョーヴィンは、カタワーソフの人生観の明快さはその天性の貧しさに由来するものだと考えていた。一方カタワーソフは、リョーヴィンの思想が首尾一貫していないのは知的な訓練が足りないためだと考えていた。しかし、カタワーソフの明快さはリョーヴィンにとって気持がよかったし、たとえ訓練されていないにしろ、リョーヴィンの思想の豊かさはカタワーソフにとって気持がよかったので、ふたりは時々会って議論するのを好んでいた。
リョーヴィンが自分の著述の一部をカタワーソフに読んで聞かせたところ、それはカタワーソフの気に入った。きのう、公開講義の席で出会ったさい、カタワーソフはリョーヴィンに向って、きみがひどく気に入っていた論文の著者たる有名なメートロフは今モスクワに来ているが、ぼくがきみの仕事について話したところたいへん興味をいだいた旨を語り、あす十一時に自分のところへ来ることになっているから、彼もきみと近づきになれたら大いに喜ぶだろうと、伝えたのであった。
「いや、きみはまったくきちょうめんになったね。やあ、よく来てくれた」カタワーソフは小さな客間にリョーヴィンを迎えていった。「ベルの音を聞いても、まさかきみが時間どおりに……なんて思ってたところさ。それはそうと、モンテネグロの連中はすごいね? ありゃ、生れつきの軍人だね」
「え、なんの話?」リョーヴィンはたずねた。
カタワーソフは簡単に最近の戦況を伝えてから、書斎にはいると、あまり背の高くない、がっちりした体格の、とても感じのいい顔だちの人物をリョーヴィンに紹介した。それがメートロフであった。しばらくのあいだ、政治のことと、最近の事件をペテルブルグの政界上層部はどのように見ているかという問題を中心に話し合った。メートロフは、この件に関して皇帝とある大臣の口から出たという言葉を、信頼すべき筋からの情報として披《ひ》露《ろう》した。ところが、カタワーソフのほうも、皇帝がそれとはまるで反対のことをいわれたという情報を、これまたたしかな筋のものとして聞きおよんでいた。リョーヴィンが、両方とも事実でありうるような状態を、考えつこうと苦心しているうちに、この問題に関する会話はとぎれてしまった。
「ところで、この人が土地に対する労働者の自然的条件について、一冊の本にできるくらいの著述をしたんですよ」カタワーソフはいった。「私はその方面の専門家ではありませんが、この人が人間というものを動物学的な法則の外にあるものとしないで、むしろその反対に、人間の環境に対する依存性を認めて、その依存性の中に発展の法則を求めている点が、自然科学者としての私には気に入ったのですがね」
「そりゃ、じつにおもしろいですな」
「じつをいうと、私は農事経営の本を書きはじめたのですが、農事経営の重要な手段である労働者の研究をやっているうちに、知らず知らず」リョーヴィンは顔を赤らめながらいった。「まったく予想外の結果に到達してしまったのです」
それからリョーヴィンは、まるで足場をさぐりながら進むように、用心ぶかく自分の見解を説明しはじめた。彼はメートロフが経済学の定説に逆らうような論文を書いたことを承知していたが、自分の新しい見解に対する同感を、どの程度までこの相手から期待していいかもわからなかったし、それはこの学者の聡明《そうめい》な、落ち着いた顔つきからも察することはできなかった。
「しかし、あなたはいったいどういう点に、ロシアの労働者の特質を認めておられるのですか?」メートロフはいった。「いわば、その動物学的特性にですか、それとも、彼らのおかれている条件にですか?」
リョーヴィンは、すでにこの問いの中に自分には賛同しがたい思想が表われているのを見てとった。しかし、彼はなおも自分の思想を説明していった。それは結局、ロシアの労働者は他の国民とはぜんぜん異なった土地観念をもっているという点であった。そして、彼はこの論理を立証するために、自分の考えでは、ロシア国民のこのような観念は、東方にひろがっている広大な無人地帯に植民すべき自己の使命を自覚していることから来ているのだ、と急いでつけ足した。
「国民全体の使命なんかについて結論を下そうとすると、どうしても誤謬《ごびゅう》におちいりがちですがね」メートロフはリョーヴィンをさえぎりながらいった。「労働者の状態は、土地と資本に対する彼らの関係につねに依存しているものですからね」
そう切りだすと、メートロフはもうリョーヴィンに自分の思想をしまいまでいわせないで、彼の学説の特質を説きはじめた。
彼の学説の特質がどこにあるのかリョーヴィンには理解できなかった。理解しようと努力しなかったのである。メートロフも、論文の中でこそ一般の経済学者たちの学説に反駁《はんばく》を加えているにもかかわらず、他の学者たちと同様、やはりロシアの労働者の状態を資本、賃金、地代という観点からのみながめているのを見てとったからである。ロシアの大部分を占めている東部では、地代はまだ無いも同然であり、八千万を数えるロシア人口の十分の九の者にとっては賃金もようやくその日の糧《かて》をうるだけのものであり、資本といってももっとも原始的な道具という形態でしかまだ存在していないということを、メートロフは認めるべきであったにもかかわらず、彼は、多くの点で一般の経済学者たちと意見を異にし、今、リョーヴィンに説明したような新しい賃金理論をもちながらも、やはり、こうした従来の観点からのみ、すべての労働者の状態をながめているのであった。
リョーヴィンはそれをいやいや聞きながら、はじめのうちは反駁していた。彼はメートロフの話をさえぎって、自分の見解を述べてしまいたいと思った。それさえいってしまえば、彼の考えでは、もうそれ以上の説明は不要となるはずであった。ところが、そのあと、自分たちふたりはひどく違った物の見方をしているのだから、もうお互いに理解し合うことはけっしてないだろうと確信すると、彼はもう反対もせずに、ただ相手の話に耳を傾けていた。今はもうメートロフの話にまったく興味がなかったけれども、それでもなお彼は相手の説明を聞きながら、多少の満足感を味わっていた。これほど学識のある人が、こうも注意ぶかく、みずから進んで、リョーヴィンの知識に信頼して、時にはほんの暗示だけで問題の大きな一面を示しながら、彼に自分の思想を述べているという点で、彼の自尊心は満足させられたのであった。リョーヴィンは自分がそうされるだけの値うちのある人間だ、と思ったが、じつは、メートロフはこの問題について親しい人たちとはすっかり語り尽してしまっていたので、今はとくに好んで新しく会う人ごとにこの話を持ちだしていたのであった。いや、一般に、彼は関心を有しているものの、まだ自分自身にもはっきりしていない問題についてだれとでも話すことを好んでいたのである。
「しかし、もう遅れますよ」カタワーソフはメートロフが説明を終るやいなや、時計を見ていった。
「ああ、きょうは学術愛好協会でスヴィンチッチの五十年記念祭の集まりがあるんでね」カタワーソフはリョーヴィンの質問に答えていった。「ぼくもメートロフさんと行くことになっているんだ。スヴィンチッチの動物学の分野での業績についてぼくが講演する約束になっていてね。いっしょに行こうじゃないか、きっとおもしろいから」
「なるほど、ほんとにもう時間ですね」メートロフはいった。「ごいっしょにまいりましょう。それから、もしよろしかったら、私のところへお寄りくださいませんか。あなたの著述のお話をぜひ聞きたいと思いますので」
「いや、そりゃかまいませんが、なにしろあれはまだあのとおりのもので、完結しておりませんし。しかし、記念祭へは喜んでお伴します」
「どうです、お聞きになりましたか? 私は別の意見を提出したんですがね」カタワーソフは別室でフロックコートに着替えて来て、いった。
こうして大学問題に関する話がはじまった。
この大学問題というのは、この冬、モスクワにおける一大事件であった。三人の古参教授が教授会で若手の教授たちの意見を採用しなかったので、若手の教授たちは別の意見書を提出した。この意見は、ある人びとにいわせればまったくひどいものであり、他の人びとの考えではきわめて単純かつ正当な意見であって、そのために教授たちは二派に別れたのであった。
カタワーソフの属する一派は、反対派の態度にいやしい密告行為と欺《ぎ》瞞《まん》とがあるとし、反対派は反対派で、相手のやり方が不《ふ》遜《そん》で権威を軽んずるものだと見なしていた。リョーヴィンも大学には関係していなかったが、モスクワ住まいをはじめてから、もう幾度かこの事件については人から聞きもし自分でも話していたので、この件に関して自分なりの意見をもっていた。彼はその話の仲間入りをしたが、話は表へ出てからもやまず、三人で大学の古い建物に着くまでつづけられた。
会はもうはじまっていた。カタワーソフとメートロフが着席したラシャの掛けてあるテーブルの前には、六人の人がすわっており、その中のひとりが、原稿の上に低くかがみこむようにして、なにやら読んでいた。リョーヴィンはテーブルのまわりに置かれていた、あいたいすの一つに腰をおろし、そばにすわっていた学生に、今はなにを読んでいるのかと小声でたずねた。学生は不満げにリョーヴィンをじろりと見て、いった。
「伝記ですよ」
リョーヴィンは、この学者の伝記などには興味がなかったけれども、聞くともなく耳を傾けているうちに、この著名な学者の生涯について二、三の興味ぶかい新事実を教えられた。
読み手が終ると、議長は彼に謝意を表して、この記念祭のために寄せられた詩人メントの詩を朗読し、詩人に対する謝辞を二言三言述べた。それからカタワーソフが、例の大きな甲高《かんだか》い声で、故人の学問的業績に関する自分の原稿を読んだ。
カタワーソフが読み終えたとき、リョーヴィンは時計をのぞいて、もう一時をまわっていることを知り、音楽会のはじまるまでに自分の著述をメートロフに読んで聞かせる暇はもうないと悟った。それに、今ではもうそんなことをする気もなかった。彼は講演の合間にも、先刻の話について考えつづけていたのであった。メートロフの思想もたぶん意義のあるものだろうが、自分の思想だって同様に意義がある、これらの思想は、各自がそれぞれ選んだ道を進んで、別個に研究した場合にはじめて明瞭《めいりょう》となって、なんらかの結論に達することができるかもしれないが、これらの思想を交流しあってみたところでなにひとつ成果があがるものではない、ということがいまや彼には明らかとなった。そこで、リョーヴィンはメートロフの招きは断わることにして、会の終りに彼のところへ行った。メートロフは、政治上のニュースを語り合っていた議長にリョーヴィンを引き合わせた。そのさいメートロフは、リョーヴィンにけさ話したと同じことを議長にもいい、リョーヴィンのほうも、すでに話したのと同じ意見を述べたが、その話に少しでも変化をもたせるために、ちょうどそのとき頭に浮んだ新しい意見をも述べた。それからまた、大学問題に関する話がはじまった。リョーヴィンはもうこの話には聞きあきていたので、残念ながらお招きに応じかねる旨を急いでメートロフに伝え、会釈をして、リヴォフの家へ向った。
キチイの姉ナタリイの夫であるリヴォフは、今までずっと両首都と外国で暮し、そこで教育も受ければ、外交官として勤めてもきたのであった。
昨年、彼は外交官の職を辞したが、それは不愉快な事情のためではなく(彼はだれとも一度としていざこざを起したことがなかった)、ふたりの男の子に最上の教育を授けるために、宮内庁勤務となってモスクワへ移って来たのであった。
習慣も考え方もまるっきり正反対であり、リヴォフのほうがリョーヴィンより年長だったにもかかわらず、ふたりはこの冬すっかり意気投合してしまい、お互いに相手が好きになってしまった。
リヴォフは家にいたので、リョーヴィンは案内も待たずに、彼の部屋へ通った。
リヴォフは、部屋着にベルトを締め、スエード皮の靴をはいて、肘《ひじ》掛《か》けいすに腰をおろし、半分ほど灰になった葉巻を美しい手で、用心ぶかくちょっとからだから離すようにして持ちながら、青いレンズの鼻眼鏡《パンスネ》をかけて、書見台にのせた本を読んでいた。
まだ若々しく、きゃしゃで美しいその顔は、波うった輝くばかりの銀髪のために、いっそう気品を感じさせたが、リョーヴィンの姿を見ると、さっと微笑に輝いた。
「こりゃ、よかった! ちょうどお宅へ使いを出そうと思っていたところですよ。で、キチイのぐあいはいかがです? さあ、こちらへおすわりください、もっとお楽になすって……」彼は立ちあがって、揺りいすを勧めた。「Journal de St. P師ersbourg にのった最近の公報をお読みになりましたか? すばらしいものじゃありませんか」彼はいくらかフランス語くさい訛《なま》りでいった。
リョーヴィンはカタワーソフから聞いたペテルブルグのうわさを伝え、ちょっと政治の話をしてから、メートロフと知合いになったいきさつや、記念祭の集まりへ出かけたことなどを話した。リヴォフは、その話にひどく興味をもった。
「そういうことが私にはうらやましいんですよ。あなたはそうした興味ぶかい学問の世界に出入りできるんですから」彼はいった。そして、話に熱がはいってくると、例によって、すぐさま自分の話しやすいフランス語に変った。「いや、たしかに、私には暇がありませんよ。勤務と、子供たちの面倒をみるのとで、そんな時間はなくなってしまうんですね。それに、率直にいって、私の教養はあまりにも不十分でしてね」
「そんなことはないと思いますね」リョーヴィンは微笑を浮べて、義兄の謙虚な自己評価にいつもながら感動していった。これはけっして、わざと謙虚に見せかけようとか、いや、それどころか、謙虚でありたいと願う気持からのものではなくて、まったく心の底からの思いであった。
「いや、そうなんですよ! 私は自分の教養が足りないことを、このごろつくづく感じているんです。子供の教育のために、いろいろと記憶をひっくり返してみたり、まるっきり新しい事がらまで習い覚えたりしなくちゃいけないんですから。というのは、教師だけでは不十分なんで、どうしても監督する者が必要ですからね。これはお宅の農場で労働者と監視人が必要なのと同じことですよ。現に、私は今これを読んでいるんですがね」彼は書見台にのっていたブスラーエフの文法書を指さした。「ミーシャがこれをやらされているんですが、なかなかむずかしいもんですね……ひとつ、ここのところを説明してくださいませんか。ここで著者はこんなことをいっているんですが……」
リョーヴィンは、そんなことはとても理解できないことで、ただ覚えればいいのだと納得させようとした。しかし、リヴォフはそれでは承知しなかった。
「そら、あなたはこんなことなぞとばかにしていらっしゃる!」
「とんでもない。あなたにはご想像もつかないでしょうが、ぼくはいつもあなたを見ながら、これから自分のしなくちゃならんことを教えられているんですよ――つまり、子供の教育ということを」
「なあに、習うことなんてありゃしませんよ」リヴォフはいった。
「とにかく、ぼくの知ってることは」リョーヴィンはいった。「お宅のお子さんたちぐらいしつけのいい子供は見たことがありませんし、それ以上の子供なんてとても望めっこないと思ってますよ」
リヴォフは、どうやら、うれしさを表わすまいと懸命にこらえていたようだったが、こらえきれずに、その顔は微笑に明るく輝いた。
「まあ、せめて自分よりもましなものになれば、と思ってるだけですよ。望むのはそれだけですね。あなたなんかにはまだ」彼はいいだした。「うちの坊主みたいに、外国暮しですっかり放任されていた子がどんなに手のかかるものかご存じないでしょうね」
「そんなことぐらい、すぐ取り返しがつきますよ。みんなできのいいお子さん方じゃないですか。肝心なのは道徳教有ですよ。ぼくは、お宅のお子さんたちを見ながら、それを教えられているんですがね」
「いや、あなたは一口に道徳教育とおっしゃいますがね。それがどんなにむずかしいかちょっと想像もつかないくらいですよ! やっと一つ問題が片づいたかと思ったら、もうすぐ別のやつが持ちあがって来て、それと取っ組まなくちゃならないんですからね。宗教というささえがなかったら――この問題についてはいつかふたりで話し合いましたね――いや宗教の助けがなかったら、どこの父親だって、自分の力だけでは子供の教育はできないでしょうね」
いつもリョーヴィンに興味を感じさせるこの話は、美しいナタリイ夫人がもう外出のしたくをしてはいって来たので、中断された。
「まあ、存じませんでしたわ、あなたがお見えになっていらっしゃったなんて」彼女は、ふたりの話を中断したことにいっこう平気なばかりか、むしろ喜んでさえいる様子でいった。その話は前々から聞かされていて、もう耳にたこができるほどになっていたからであった。「で、キチイはどうですの? あたし、今晩のお食事はお宅におよばれしていますの。ねえ、アルセーニイ」彼女は夫に話しかけた。「あなたは馬車でいらっしゃるんでしょう……」
それから夫婦のあいだでは、きょう一日をどうやって過すかという相談がはじまった。夫は勤めの関係である人を迎えに行かねばならなかったし、妻は音楽会と南東委員会の集まりに行かねばならなかったので、いろいろとよく考えて、きめておかねばならぬことがたくさんあったのである。リョーヴィンも身内の者としてこの相談に加わらねばならなかった。結局、リョーヴィンがナタリイといっしょに音楽会と集会に行き、そこからアルセーニイのために役所へ馬車をまわすと、次にアルセーニイが妻を迎えに来て、キチイのところへ送りとどける、もし彼の仕事が片づかない場合は、馬車だけまわして、リョーヴィンがナタリイといっしょに行く、ということにきまった。
「どうもこの人は私をおだてて困るんだよ」リヴォフは妻にいった。「うちの子供たちがりっぱだなんていうんでね。あの子たちに悪いところがたくさんあるってことは、この私がよく承知しているのにさ」
「あたしはいつもいってるんですけど、アルセーニイは少し極端に走りすぎるんですのよ」妻はいった。「完全なものなんか求めていた日には、いつになったって満足できやしませんわ、お父さまのおっしゃることはほんとうですわ――おまえたちを育てていたころは、子供たちを中二階におしこめておいて、両親が二階のいちばんいい部屋に住むといったふうで、それこそ極端なものだったが、今はまるっきりその反対で、両親は物置き部屋にいて、子供たちが二階のいちばんいい部屋を占領している、近ごろはまったく両親が自分の生活を投げだして、なにもかも子供たちのためにささげなくちゃ、という風潮だね、ですって」
「なに、それでいいじゃないか。そのほうが愉快だったら」リヴォフは例の美しい微笑を浮べて、妻の手に触れながら、いった。「知らない人が聞いたら、おまえは実母じゃなくて継母《ままはは》だと思うだろうよ」
「いいえ、極端ってことはなにごとにつけてもよくありませんわ」ナタリイが夫のペーパー・ナイフを卓上のきまった場所に置きながら、落ち着いた声でいった。
「さあ、こっちへおいで、優等生諸君」リヴォフははいって来た美しい男の子たちにいった。子供たちはリョーヴィンにおじぎをすると、どうやら、父親になにかたずねたいらしい様子でそのそばに近づいた。
リョーヴィンは、子供たちと話をしたり、彼らが父親にいうことを聞いたりしたかったが、あいにく、ナタリイから話しかけられてしまった。それにちょうどそのとき、リヴォフの同僚のマホーチンが、彼といっしょにだれかを出迎えに行くために、式部官の制服を着て、部屋へはいって来た。そしてさっそく、ヘルツェゴヴィナのことや、コルジンスキー公爵令嬢のことや、議会のことや、アプラクシン夫人の急死のことなど、次から次へときりのない話がはじまってしまった。
リョーヴィンは頼まれて来た用事をすっかり忘れていた。それを思いだしたのは、もう玄関の控室へ出たときであった。
「ああ、そうだ、オブロンスキーの件についてあなたと相談するようキチイから頼まれていましたっけ」彼は、リヴォフが妻と義弟を送り出そうとして階段に足を止めたとき、いった。
「そうそう、母上はわれわれ les beaux fr俊es にあの人を攻撃させようとなさっていらっしゃるのですよ」彼は顔を赤らめ、微笑しながらいった。「いや、それにしても私がねえ?」
「じゃ、あたくしが代りに攻撃してあげますわ」白い犬の毛皮の袖《そで》なし外套《がいとう》にくるまって、話の終るのを待っていたナタリイ夫人は、微笑を浮べながらいった。「さあ、まいりましょう」
昼の音楽会では、きわめて興味ある曲目が二つ演奏されることになっていた。
一つは『曠《こう》野《や》のリヤ王』という幻想曲であり、もう一つは、バッハの追悼《ついとう》にささげられた四重奏曲であった。二つとも新曲であり、新しい傾向のものだったので、リョーヴィンはそれらについて自分なりの意見をまとめてみたいと思っていた。彼は義姉をその席に案内すると、自分は円柱のそばに立って、できるだけ注意ぶかく、良心的に聞こうとした。音楽に対する注意力をいつも不快にわきへそらしてしまう、白ネクタイの指揮者の手の動きや、音楽会のため特別念入りに留め紐《ひも》を耳にひっかけて帽子をかぶった貴婦人たちや、無念無想の顔や、種々雑多な興味に心を奪われているものの音楽にだけは無関心といった人びとなど、ありとあらゆる顔をながめながら、彼は、なんとかして気を散らすまい、音楽の印象を傷つけまいと、苦心していた。彼は音楽通や饒舌家《じょうぜつか》の連中と顔をあわせるのを避けるようにして、じっと正面を見おろしたまま、立って聞き入っていた。
しかし、彼は、『リヤ王』の幻想曲を聞いていくうちに、はっきりした意見などとてもまとまりそうもない気がしてきた。音楽的な感情表現がはじまって、しだいに凝集するかにみえると、それはたちまちばらばらにくずれて、たくさんの音楽的表現の新形式の断片といったものになってしまった。いや、時には、ただ作曲家の気まぐれ以外のなにものでもないような、脈絡のない、複雑きわまりない音になってしまうのであった。しかし、これらの音楽的表現の断片そのものも、時には美しいものであったが、彼には不愉快であった。というのは、それらはなんの準備もなく、あまりに唐突《とうとつ》に表われてくるからであった。その楽しさも、悲しさも、絶望も、優しさも、勝利感も、まるで狂人の感情のように、まったくなんの必然性もなく表われてくるからであった。そして、また狂人の場合と同様、それらの感情は突如として消えていくのであった。
リョーヴィンは演奏のあいだじゅう、踊っている人びとをながめているつんぼがいだくような感情を味わっていた。やがて演奏が終ったとき、彼はすっかり戸惑ってしまい、いたずらに注意力を緊張させていたことからくる、ひどい疲れを感じた。あちこちから、割れるような拍手が起った。聴衆は立ちあがって、歩きだし、しゃべりはじめた。リョーヴィンは他人の印象を聞いて、自分の疑惑を晴らそうと思い、音楽通たちを捜しに出かけた。まもなく、有名な音楽通のひとりが、かねて知合いのペスツォフと話しこんでいるのを見つけて、彼はうれしく思った。
「すばらしいですな!」ペスツォフは太いバスでいった。「やあ、こんにちは、リョーヴィンさん、あのコーデリヤが近づいて来るのが感じられるところ、女が das ewig Weibliche が運命との戦いにはいるところ、あそこなぞはとくに具象的で、つまり、彫刻的で、色彩が豊かですな。そうじゃありませんか?」
「というと、なぜあそこのとこにコーデリヤなんかが出るんです?」リョーヴィンはこの幻想曲が曠野のリヤ王を描いたものだということをすっかり忘れてしまって、おずおずとたずねた。
「いや、コーデリヤが現われるのは……ほら!」ペスツォフは手にしていた、繻《しゅ》子《す》のような光沢のあるプログラムを指の先でたたいて、それをリョーヴィンに手渡しながら、いった。
そこではじめてリョーヴィンは幻想曲の名前を思いだし、プログラムの裏に刷ってある、露訳のシェークスピヤの詩に、急いで目を通した。
「これがなくちゃ、とてもついて行けませんよ」ペスツォフはリョーヴィンに話しかけた。というのは、今までの相手が立ち去ってしまい、もうほかにだれも話し相手がいなかったからである。
この幕間《まくあい》に、リョーヴィンとペスツォフとのあいだでは、ワーグナー派の音楽の長短をめぐって議論がはじまった。リョーヴィンは、ワーグナーおよびその追随者たちに共通な誤りとして、音楽を他の芸術分野に割り込ませようとしている点を指摘した。それは詩の場合も同様で、絵画が当然やるべき顔の輪郭を描くようなことを、詩でやってはならない、と主張した。またそうした誤りの一例として、台座に立つ詩人像のまわりにただよっている詩的形象の影を、大理石に刻みこもうと企てた彫刻家のことを持ちだした。「こうした影は、いや、彫刻には影なんてほとんどありませんから、それらは台座のまわりの段々のところにまつわりついている始末ですよ」リョーヴィンはいった。この文句はわれながら気に入ったが、しかし以前にもこれと同じ文句を、ほかならぬペスツォフにいったことがあったかどうかはっきり覚えていなかったので、そういってしまってから、彼はどぎまぎしてしまった。
一方ペスツォフは、芸術は一つのものであるから、あらゆる種類のものを結合した場合にはじめて、最高の表現を発揮することができると主張した。
次の曲目を、リョーヴィンはもう聞いていられなかった。ペスツォフがそばに立っていて、その曲の並みはずれて、しつこい、とってつけたような簡潔さを非難したり、それを絵画におけるラファエル前派の簡潔さと比較したりして、ほとんど演奏のあいだじゅう、リョーヴィン相手にしゃべりつづけていたからであった。帰りがけに、リョーヴィンはさらに大勢の知人たちに会い、政治や、音楽の話をしたり、共通の知人たちのうわさをしあった。なかでも、訪問するつもりでいながらすっかり忘れていたボーリ伯爵にも出会った。
「それじゃ、これからすぐ行ってらっしゃいませよ」ナタリイはリョーヴィンからそのことを聞いて、いった。「ひょっとすると、会ってくださらないかもしれませんけど。そのあとで、集会の会場まで迎えに来てくださいね。そこにまだいると思いますから」
「きっと、会ってはくださらないでしょうが?」リョーヴィンはボーリ伯爵家の玄関にはいりながら、いった。
「いえ、お会いになります、どうぞこちらへ」玄関番は客の外套《がいとう》をさっと脱がせながら、いった。《こりゃ、まずいな》リョーヴィンは溜息《ためいき》をついて片方の手袋を脱ぎ、帽子を直しながら、思った。《いや、なんだって通っちまったんだ? おれはなにも話すことなんかないのに?》
最初の客間を通り抜けようとしたとき、リョーヴィンは戸口のところで、気むずかしげな、きびしい顔をして召使になにやらいいつけているボーリ伯爵夫人に出会った。夫人はリョーヴィンを認めると、微笑を浮べて、声のしている次の小さな客間へ招じ入れた。その客間には、この家の令嬢ふたりと、リョーヴィンも顔見知りのモスクワの大佐が肘掛けいすにすわっていた。リョーヴィンはみんなに近づいてあいさつし、ソファのわきに腰をおろして、帽子をひざの上へのせた。
「奥さまのおからだのぐあいはいかがでして? あなたは音楽会へいらっしゃいましたんでしょう? あたしどもはまいれませんでしたの。母が追悼式に出かけなければならなかったものですから」
「はあ、私もうかがいました……ほんとうに突然のご逝去《せいきょ》で」リョーヴィンはいった。
夫人がはいって来て、ソファに腰をおろすと、これまた妻のことと音楽会のことをたずねた。
リョーヴィンはそれに答えてから、アプラクシン夫人が突然だったことについて同じ質問を繰り返した。
「もっとも、あの方はいつもお弱かったですからね」
「昨夜はオペラへおいでになりまして?」
「はあ、まいりました」
「ルッカがとてもすばらしかったですわね」
「はあ、とてもすばらしかったですね」彼はいった。そして、もう自分のことを人がなんと思おうといっこうにかまわない気持だったので、この歌姫の才能の特色について人から何百ぺんと聞いたことを繰り返しはじめた。ボーリ伯爵夫人はそれを聞いているようなふりをしていた。リョーヴィンがかなりしゃべって、やがて口をつぐむと、今度はそれまで黙っていた大佐がしゃべりだした。大佐もやはりオペラのことや照明のことなどを話しはじめた。大佐はいちばん最後に、チューリン家で催されることになっている folle journ仔 のことを話して大笑いすると、騒々しく立ちあがって、帰って行った。リョーヴィンも席を立ったが、夫人の顔つきから、まだ辞去するには早いのだと悟った。もう二分ばかりいなければならなかった。で、彼はまた腰をおろした。
ところがリョーヴィンは、こんなことをしているのがどんなにばからしいことであるか、そればかりを考えていたので、話の種を見つけることができず、おし黙っていた。
「あなたはきょうの大衆集会においでになりませんの? とてもおもしろそうですけれど」伯爵夫人が話しだした。
「はあ、私も belle-sマur を迎えに行く約束はいたしておりますが」リョーヴィンはいった。
沈黙が訪れた。母親は娘ともう一度目を見合せた。
《さあ、今度はもういいだろう》リョーヴィンはそう考えて、腰をあげた。婦人たちは彼の手を握って、奥さまに mille choser 伝えてくれるようにといった。
玄関番は彼に外套を手渡しながら、
「失礼ですが、どちらにお住まいでいらっしゃいますか?」とたずねて、すぐさま、りっぱな装幀《そうてい》の、大きな名簿に書き入れた。
《そりゃ、おれにはどうってこともないがね、しかし、やっぱりなんだか気恥ずかしくて、まったくばかばかしいな》リョーヴィンは考えたが、これはだれでもやることなのだと自分で自分を慰め、委員会の集まりへ馬車を走らせた。そこで義姉と落ち合って、いっしょに家まで行く約束になっていたからである。
委員会の大衆集会には、大勢の人びとと委員のほとんど全員が出席していた。リョーヴィンの到着したときには、まだ報告が全部すんでいなかったが、みんなの話では、それはとてもおもしろいものだったとのことであった。報告の朗読が終ったとき、委員たちは一堂に会した。リョーヴィンはそこでスヴィヤジュスキーに会ったが、彼は今晩農業協会で有名な報告演説があるからぜひ来るようにと誘ってくれた。リョーヴィンはまた、競馬から駆けつけて来たばかりのオブロンスキーにも、その他たくさんの知人にも会い、またもや集会のことや、新しい曲目のことや、訴訟事件のことなどをいろいろとしゃべったり、聞いたりした。ところが、それはきっと自分でも感じはじめていた注意力の疲労のためであろうか、彼は訴訟事件の話をしながら、まちがったことをいってしまった。このまちがいはあとになって幾度も思いだされ、彼を腹立たしい気持にさせた。リョーヴィンは、ロシアで裁判が行われていたある外国人に対する判決のことにふれ、その外国人を国外追放に処することがいかに当を得ないものであるかを論じたのであるが、それは彼がきのうある知人から聞いたことをそっくり請け売りしていったのであった。
「ぼくの考えじゃ、やっこさんを国外に追放するなんてことは、かます《・・・》を罰するのに事欠いて、水中へ放すのと同じですよ」リョーヴィンはいった。あとになってから、彼は、自分の意見のように見せかけて口にしたこの話が、じつは知人から聞いたものであるばかりか、それはクルイロフの寓《ぐう》話《わ》からとられたものであり、その知人もこの話を新聞の時評欄から拝借したのだということを思いだしたが、もうあとの祭りであった。
義姉といっしょに家へいったん帰り、キチイが無事できげんがいいのを見とどけると、リョーヴィンはクラブへ馬車を走らせた。
リョーヴィンはちょうどいい時刻にクラブへ着いた。彼と前後して、客や会員たちが次々と乗りつけて来た。リョーヴィンはもうずいぶん長いことクラブに顔を出さなかった。大学を卒業し、まだモスクワ住まいをしていて、社交界へ出入りしていたころ以来であった。彼はクラブも、その設備の外面的な細かいところも覚えていたが、自分が以前クラブで味わった印象のほうはすっかり忘れてしまっていた。しかし、広々した半円形の庭に乗り入れて、辻馬車をおり、玄関の階段へ足をかけると、肩帯をつけた玄関番が音もたてずにドアを開き彼を迎えて会釈した。その瞬間――オーヴァシューズを上へ持ちこむより、下で脱いだほうが面倒でなくていいと考えた会員たちの、オーヴァシューズや外套を玄関番部屋の中に見た瞬間、彼の到着を先ぶれする神秘的なベルの音を聞き、じゅうたんを敷いたゆるやかな階段をのぼりながら、踊り場に立っている彫像を仰ぎ、二階の戸口で、三人めの、今はすっかり老《ふ》けてしまった昔なじみのクラブの仕着せ姿の玄関番が、ころあいを見はからってドアをあけ、はいって来る客をじろじろながめまわすのを見た瞬間、久しい昔のクラブの印象――休息と、満足と、礼儀正しさの印象が、リョーヴィンの心をとらえた。
「どうぞ、お帽子を」玄関番が、帽子は玄関番部屋に置くというクラブの規則を忘れてしまっていたリョーヴィンにいった。「だいぶおいでになりませんでしたな。公爵さまがもうきのう、あなたさまのことをお申し込みになりました。オブロンスキー公爵さまはまだお見えになっておりません」
玄関番はリョーヴィンばかりか、彼の親類縁者もすっかり承知していて、すぐさま彼に親しい人びとの名前をいった。
衝立《ついたて》を並べて、通路になっている最初の広間と、くだものの売店のある、仕切りをした右手の部屋とを通り抜けると、リョーヴィンは、のろのろ前を歩いている老人を追い越して、大勢の人がざわめいている食堂へ通った。
彼は客の顔を見まわしながら、もうほとんどふさがっていたテーブルに沿って歩いて行った。そこかしこ飛びとびに、年とった顔、若い顔、ほんの見知り程度の顔、親しい顔など、じつにさまざまな人の顔が彼の目にはいってきた。ふきげんそうな顔や気がかりそうな顔は一つも見あたらなかった。どうやら、だれもが自分の不安や心配事は帽子とともに玄関番部屋に置いて来て、今はこの世の物質的幸福をゆっくり楽しもうとしているように見えた。ここには、スヴィヤジュスキーも、シチェルバツキーも、ネヴェドフスキーも、老公爵も、ヴロンスキーも、コズヌイシェフも来ていた。
「やあ、なんだって遅れたんだね!」公爵は微笑を浮べて、肩ごしに片手をさしのべながらいった。「キチイはどうだね?」公爵は、チョッキのボタンのあいだにさしこんだナプキンを直しながら、そうつけ足した。
「べつに変ったこともありません、元気ですよ。今ごろは姉妹三人して、家で食事をしているところですよ」
「ああ、アリーナ・ナージナか。ところで、ここには席がないんだ。あそこのテーブルへでも行って、早いところ席をとりたまえ」公爵はいうと、わきを向いて、カワメンタイのスープを盛った皿を用心ぶかく受け取った。
「リョーヴィン、こっちへ来いよ!」少し先のほうから人の良さそうな声が叫んだ。声の主はトゥロフツィンであった。彼は若い軍人と並んですわり、そのわきにいすが二つ逆にしてあった。リョーヴィンはうれしそうにそのそばへ歩み寄った。彼は常日頃から、人の良いこの遊蕩《ゆうとう》児《じ》トゥロフツィンを愛していたが――この男には、キチイに恋を告白したときの思い出が結びついていた――しかしきょうは、肩の凝るような高尚な話ばかりしたあとだったので、トゥロフツィンの人の良さそうな顔つきが、とりわけ快かったのである。
「ここはきみとオブロンスキーの席なんですよ。あの人もすぐやって来ますよ」
思いきり背筋をまっすぐにのばし、浮きうきした、いつも笑っているような目をした軍人は、ペテルブルグから来たガーギンであった。トゥロフツィンはふたりを引き合せた。
「オブロンスキーは遅刻の常習者だね」
「やあ、やっと現われた」
「きみ、今来たばかりなんだろう?」オブロンスキーは足速に近寄って来ていった。「ごきげんよう、ウォトカを飲んだ? じゃ、一杯やろう」
リョーヴィンは立ちあがって、オブロンスキーと連れだって、各種のウォトカや色とりどりの前菜を一面に並べた大テーブルのそばへ行った。二十種にものぼる前菜の中からは、なんでも好みに合ったものが選べそうであったが、オブロンスキーはなにか特別のものを注文した。すると、そこに立っていた仕着せ姿のボーイのひとりが、すぐさま注文の品を持って来た。ふたりは一杯ずつ飲んで、また自分のテーブルへもどった。
するとさっそく、まだ魚スープも終らぬうちに、ガーギンはシャンパンを取り寄せ、四つのグラスにつがせた。リョーヴィンは勧められるままに酒を飲み干し、もう一本自分で注文した。彼は空腹だったので、さもうまそうに飲んだり食べたりしたあげく、それよりさらに愉快そうに、仲間たちの陽気でたわいない話に加わった。ガーギンは声をひそめてペテルブルグの新しいうわさ話を披露した。その話はいかがわしい、ばかげたものであったが、とにかくたいへんこっけいだったので、リョーヴィンは、隣の人たちが振り向くほど大きな声で笑いころげた。
「これは例の『そんな話はとても聞くにたえん!』といったたぐいのものだがね。きみ、知っているかい?」オブロンスキーがたずねた。「いや、まったく、こいつはすてきな話なんだよ! おい、もう一本くれ」彼はボーイにいいつけると、話をはじめた。
「ヴィノフスキーさまからでございます」小がらな老人のボーイがオブロンスキーの話をさえぎった。ボーイは、まだシャンパンが泡《あわ》をたてている薄手のグラスを二つ、オブロンスキーとリョーヴィンに向ってささげていた。オブロンスキーはグラスを取りあげ、テーブルの向うの端にすわっていた頭のはげた、赤い口ひげの男と目礼をかわして、微笑しながらうなずいてみせた。
「あれはだれだね?」リョーヴィンがたずねた。
「きみはぼくの家で一度会っているじゃないか、覚えているだろう? 愛すべき人物だよ」
リョーヴィンもオブロンスキーと同じことをやって、グラスを取りあげた。
オブロンスキーの一口話も、またたいへんおかしなものであった。リョーヴィンも自分の知っているうわさ話を披露したが、これまたみんなの気に入った。それから話は馬のことに移って、きょうの競馬でヴロンスキーのアトラス号が見事一等賞をかちとった話になった。リョーヴィンは、いつのまに食事がすんだのかも、気づかぬくらいであった。
「やあ、おいでなすったな!」オブロンスキーはもう食事も終りかけたころ、そういうと、いすの背ごしにからだをそらせて、背の高い近《この》衛《え》の大佐を伴ってこちらにやって来るヴロンスキーに片手をさしのべた。ヴロンスキーの顔にも、クラブ全体にみなぎっている、例の浮きうきした、人の良さそうな気分が表われていた。彼は陽気にオブロンスキーの肩へ肘《ひじ》をついてなにごとかささやくと、同じ浮きうきした微笑を浮べて、リョーヴィンに片手をさしのべた。
「お目にかかれてじつに愉快です」彼はいった。「あの選挙のときあなたを捜したんですが、もうお帰りになったといわれましてね」彼はリョーヴィンにいった。
「ええ、あの日のうちに帰ってしまったものですから。ぼくたちはたった今、あなたの馬の話をしていたところですよ。おめでとう」リョーヴィンはいった。「ものすごく速かったそうですね」
「でも、あなただって馬をお持ちなんでしょう」
「いや、父は持っておりましたが。しかし、私も馬のことはいろいろと覚えていますし、知ってますよ」
「きみはどこで食事をしてた?」オブロンスキーがたずねた。
「円柱の向うの、第二テーブルだよ」
「この男のために祝杯をあげてたんですよ」背の高い大佐はいった。「なにしろ、第二回皇帝賞ですからな。この男の馬みたいな幸福が、私のトランプにもまわって来てくれたらねえ」
「さあ、貴重な時間をむだにつぶすって法はないぜ。ひとつ、地獄部屋へ行くとするか」大佐はいって、テーブルを離れた。
「あれがヤーシュヴィンですよ」ヴロンスキーはトゥロフツィンに答えて、そばのあいた席へ腰をおろした。彼は勧められたシャンパン・グラスを飲み干すと、さらにもう一本注文した。クラブの雰《ふん》囲《い》気《き》に影響されたのか、あるいは飲んだ酒のためか、リョーヴィンはヴロンスキー相手に血統のよい馬のことを話しながら、もう今はこの相手になんらの敵意を感じていないのをたいへんうれしく思った。彼はまた話のついでに、家内がマリヤ・ボリーソヴナ公爵夫人のお宅であなたにお会いしたといっていたとまでいった。
「ああ、マリヤ・ボリーソヴナ公爵夫人かね、ありゃまったくいい人だよ!」オブロンスキーはいって、夫人にまつわる小話を披露して、みんなを笑わせた。とりわけ、ヴロンスキーは、まったく人の良さそうな笑い声をたてたので、リョーヴィンは、これですっかり彼とも和解ができたように思った。
「どうだね、話は終ったかい?」オブロンスキーは立ちあがって、微笑しながら、いった。「さあ行こうじゃないか!」
食卓から離れると、リョーヴィンは歩くたびに、両手が特別規則正しく、軽々と振れるのを感じながら、ガーギンと連れだって、天井の高い部屋をいくつか通り抜け、撞球室《どうきゅうしつ》のほうへ行った。彼は大広間を横ぎって行くとき、舅《しゅうと》とぱったり出会った。
「やあ、どうだね? わが逸楽の殿堂は気に入ったかね?」老公爵は彼の腕をとりながら、いった。「さあ、少しぶらつこうじゃないか」
「私も少し見物して歩きたいと思っていたところですよ。おもしろそうですからね」
「そうとも、おまえさんにはおもしろいだろうよ。しかし、わしの興味はもうおまえさんとは別なものでな。ほら、おまえさんはああいう年寄りたちを見て」老公爵は、柔らかい長靴をはいた足をやっと運びながら、向うから来てすれちがって行った、背中の丸い、唇《くちびる》のたるんだ会員を指さしていった。「あれは生れながらのシュリューピックだと思うだろうがね」
「シュリューピックってなんです?」
「おや、おまえさんはこの名前も知らないんだな。これはこのクラブ独特の言葉でね。おまえさんは卵ころがしを知っているだろう。あんまりころがしていると、シュリューピックになってしまう。わしらの仲間もそのとおりで、クラブにしげしげ通ってるうちに、シュリューピックになってしまうのさ。まったくの話、おまえさんは今そうやって笑っているがね、わしらの仲間はもう、自分がいつシュリューピックになるかと用心しているってわけさ。おまえさん、チェチェンスキー公爵を知ってるだろうね?」老公爵はたずねた。リョーヴィンはその顔つきから、相手がなにかこっけいな話をはじめようとしているのだと悟った。
「いや、知りませんが」
「ほう、こりゃ驚いた! だって、あのチェチェンスキー公爵は有名じゃないか。まあ、それはどうでもいいがね。ところで、この公爵はいつも玉突きをやっているんだが、ほんの三年ほど前にはまだシュリューピックの仲間じゃなくて、それがご自慢だったのさ。そして、自分から他の連中をシュリューピック呼ばわりしていたのさ。ところが、あるときクラブへやって来てね、わしらのなじみの玄関番が……おまえさんも知ってるかな、あのワシーリイのやつを? うん、あのでぶ《・・》さ。あれがなかなかの警句家でね。それで、チェチェンスキー公爵があの男に『おい、どうだい、ワシーリイ、だれとだれが来てる? シュリューピックはいるかい?』ってきくと、やっこさん、すまして『あなたさまで三人めでございます』と答えたってわけさ。いや、まったく、おまえさん、こういうわけなのさ!」
行き合う知人たちとあいさつをかわしたり、しゃべったりしながら、リョーヴィンは老公爵といっしょに部屋を残らず見てまわった。大きな部屋にはもうトランプ台が用意され、常連たちが小さな勝負をやっていた。ソファを置いた部屋ではチェスをやっており、コズヌイシェフがすわって、だれかと話をしていた。撞球室では、すみに置かれたソファのわきに陽気なシャンパン党の一団ができていて、ガーギンもその仲間だった。地獄部屋ものぞいてみたが、ヤーシュヴィンのすわっているテーブルのそばにははやくも賭《と》博《ばく》仲間が大勢群がっていた。ふたりは音をたてぬように気を使いながら、薄暗い読書室へもはいってみた。そこには笠《かさ》のついたランプの下に、おこったような顔をしたひとりの青年がすわって、手あたりしだいに雑誌をあさっていたし、はげ頭の将軍が一心に読書にふけっていた。老公爵が『賢者の部屋』と呼ぶ部屋にもはいってみた。この部屋では、三人の紳士が最近の政治に関するニュースについて口角泡を飛ばしていた。
「公爵、どうぞいらしてください。もう用意ができましたから」そのとき勝負仲間のひとりが公爵を見つけていった。そこで、老公爵は立ち去ってしまった。リョーヴィンはしばらくそこにすわって、話をきいていた。が、けさからの話をすっかり思いだすと、急に恐ろしく退屈になった。彼はそそくさと立ちあがり、オブロンスキーとトゥロフツィンを捜しに行った。このふたりといっしょにいれば、陽気になれるからであった。
トゥロフツィンは飲みかけのジョッキを片手に、撞球室の背の高いソファに腰かけており、オブロンスキーとヴロンスキーは、部屋の遠い片すみの戸口に立って、なにやら話し合っていた。
「あれはふさぎこんでいるというほどでもないんだが、なにしろ、あのとおりあれの境遇がはっきりしないのと、それがちゃんときまらないので」そんな言葉が聞えたので、リョーヴィンは急いで出て行こうとしたが、オブロンスキーが呼び止めた。
「リョーヴィン!」オブロンスキーがいった。リョーヴィンは彼の目に、涙とまではいかないが、一種のうるみのあるのに気づいた。これは、一杯やったときとか、ひどく感動したときに、いつも彼の目に現われるものであった。今夜はその両方だったのである。「リョーヴィン、ちょっと待ってくれ」彼はいって、どんなことがあっても放すまいというふうに、リョーヴィンの肘をしっかりとつかんだ。
「これはぼくの真実の、いや、ほとんどいちばんの親友なんだ」彼はヴロンスキーにいった。「それからきみも、ぼくにとってはリョーヴィンにまさるとも劣らない、だいじな友人だ。だからぼくは、きみたちふたりが仲よく、親しくしてもらいたいんだ。いや、そうなるはずだということも知っている。だって、きみたちは、ふたりながらりっぱな人間だからね」
「そうとも。ぼくたちはもうあとは友情の接吻をするだけだよ」ヴロンスキーは人のよい冗談口をたたきながら、片手をさしだした。
彼はさしのべられた手を素早くとって、堅く握りしめた。
「ぼくはほんとに、じつに愉快ですよ」リョーヴィンは相手の手を握り返しながら、いった。
「おいボーイ、シャンパンを一本」オヴロンスキーはいった。
「ぼくもほんとにうれしいですよ」ヴロンスキーはいった。
ところが、オブロンスキーが希望し、当人たちも互いにそれを望んだにもかかわらず、ふたりにはなにも話すことがなかった。ふたりともそれを感じていた。
「ねえ、きみ、リョーヴィンはまだアンナと近づきになっていないんだよ」オブロンスキーはヴロンスキーにいった。「だから、ぼくはぜひ彼をアンナのところへ連れて行きたいんだよ。ねえ、行こうじゃないか、リョーヴィン!」
「ほんとかい?」ヴロンスキーはいった。「あれはとても喜ぶだろうよ。ぼくも今すぐ家へ帰りたいんだが」彼はつけ足した。「ヤーシュヴィンのことが気になってね。あの男が勝負を終えるまで、ここにいてやりたいんだ」
「どうなんだい、かんばしくないのかね?」
「ああ、ずっと負けっぱなしでね。あの男をやめさせられるのはぼくひとりきりだからね」
「それじゃ、ひとつ、ピラミッドでもやったら? リョーヴィン、やらないかね? よし、そいつはすてきだ」オブロンスキーはいった。「ピラミッドの用意をしてくれ」彼はゲーム取りに向っていった。
「とっくに用意してございます」もう玉を三角形に積み上げて、退屈しのぎに赤玉をころがしていたゲーム取りが答えた。
「さあ、やろう」
一ゲームしてから、ヴロンスキーとリョーヴィンはガーギンのテーブルのそばに腰をおろした。そして、リョーヴィンはオブロンスキーの勧めでポイント遊びをやりだした。ヴロンスキーは、ひっきりなしにやって来る知人たちにとりまかれて、テーブルにすわっているかと思えば、今度はヤーシュヴィンの様子を見に地獄部屋へ行くといった調子だった。リョーヴィンは昼間の頭の疲れが快く休まっていくのを感じた。ヴロンスキーとの敵対関係がなくなったことが彼にはうれしく、たえず平安と礼節と満足との印象に支配されていた。
ゲームが終ると、オブロンスキーはリョーヴィンの腕をとった。
「さあ、それじゃアンナのところへ行こう。今すぐに? いいだろう? あれは家にいるんだ。ぼくはもう前から、きみを連れて行くってあれに約束してあるんだよ。きみ、今晩はどこへ行くつもりだったんだね?」
「べつにどこへってこともないさ。農業協会へ行くって、スヴィヤジュスキーに約束はしたけど。まあいいよ、じゃ出かけよう」リョーヴィンはいった。
「そりゃいい、さあ、出かけよう! おれの馬車が来たかどうか見て来てくれ」オブロンスキーはボーイに向っていった。
リョーヴィンはテーブルへ近づいて、ポイント遊びで負けた四十ルーブルを払うと、なにやら秘密めいた方法で、戸口に立っている年寄りのボーイにしかわからないクラブの費用を払って、特別勢いよく両手を振りながら、部屋という部屋を通り抜けて出口へ向った。
「オブロンスキーさまのお馬車!」玄関番がおこったような低音《バス》で叫んだ。馬車が玄関の前に着くと、ふたりは乗りこんだ。馬車がクラブの門を出るまでのほんのわずかなあいだだけ、リョーヴィンはクラブの平安と満足と周囲のものの疑うべからざる上品さとの印象を味わいつづけていたが、馬車が通りに出て、でこぼこ道を行く馬車の震動を感じ、すれちがう辻馬車の御者の怒声を聞き、ぼんやりした灯の下に居酒屋や小店の赤い看板を見いだすが早いか、たちまち、この印象はくずれてしまい、彼は自分の行為を反省しはじめた。今自分はアンナのところへ行こうとしているが、これははたしていいことだろうか、と自問してみた。キチイはなんというだろう? ところが、オブロンスキーはリョーヴィンに考えこむ暇を与えず、まるで相手の疑惑を察しているかのように、それを追いちらしてしまった。
「ぼくはまったくうれしいよ」彼はいった。「もうすぐきみにもあれの人がらがわかってもらえるだろうからね。きみは知ってるかね。ドリイは前からこのことを望んでいたんだよ。それに、リヴォフだってたずねたことがあるし、今でもちょくちょくたずねているんだよ。そりゃあれはぼくの妹だけれどもね」オブロンスキーはつづけた。「ぼくは断言するよ、あれがすばらしい女だって。まあ、今にわかってもらえるがね。あれの境遇はとてもつらいんだよ、とくに今はね」
「なぜだね、とくに今はっていうのは?」
「今はあれの夫と離婚の交渉が進んでいるんでね。先方も同意はしているんだが、むすこの件で、ひとつ面倒なことがあるんだ。ほんとうはもうとうに終ってなければならないこの話が、これで三カ月も長びいている始末なんだから。離婚が成立したら、あれはすぐヴロンスキーと結婚するはずだ。まったく、あの『イザヤ、喜べ』っていう、堂々めぐりの古いしきたりは愚劣なもんだねえ! あんなことはだれも信じちゃいないのに、それが人間の幸福を妨げるんだからな」オブロンスキーは言葉をはさんだ。「まあ、それさえ片づけば、ふたりの立場はちゃんとしたものになるのさ、ぼくやきみと同じようにね」
「面倒って、いったいどういうことなんだね?」リョーヴィンはいった。
「いや、それはじつに長ったらしくて退屈な話なんだよ! わが国じゃ、こういうことがみんなじつにはっきりしてないんだな。しかし、ここが肝心なことなんだが――あれはね、この離婚を待ちながら、知人のたくさんいるこのモスクワで、もう三カ月も暮しているということなんだ。どこへも出かけず、女の人にはドリイをのぞいて、だれとも会わないってわけさ。というのは、きみにもわかるだろうが、あれは人からお情けで訪問してもらうなんてことがきらいでね。あのばかのワルワーラ公爵令嬢ね、あんなやつさえ世間体がまずいって出て行ってしまったからね。こんなぐあいだもの、もしほかの女があんな立場におかれたら、きっと、手も足も出なくなってしまうだろうがね。ところが、あれは、もうすぐきみにもわかってもらえるが、じつにしっかり自分の生活を整えて、落ち着いて、りっぱに暮しているんだからね。左へ、横町をはいって、教会の真向いだ!」オブロンスキーは馬車の窓からからだを乗りだすようにして叫んだ。「いや、なんて暑いんだろう!」彼は零下十二度という寒さにもかかわらず、すでにもう前をひろげた毛皮外套《がいとう》を、さらにいっそうひろげながらいった。
「でも、あの人には女の子がいるじゃないか。きっと、その子の世話にかまけているんだろう?」リョーヴィンはいった。
「きみは、どうやら、女といえばだれでもただ、 une couveuse としか考えていないようだね」オブロンスキーはいった。「かまけているっていえば、きっと、子供のことだときめてしまう。いや、あれは女の子をりっぱに育てているようだが、その子の話は聞いたことがないね。あれはね、第一に、物を書くのに忙しいんだよ。おやおや、もうきみは皮肉な薄笑いを浮べているようだが、そりゃ不当というもんだよ。あれは子供のための本を書いているんだ。このことはほかのだれにもしゃべっちゃいないが、ぼくには読んでくれたよ。で、ぼくがその原稿をヴォルクーエフに渡したところ……知ってるだろう、あの出版屋を……あの男は自分でも作家らしいね。物のわかる男だが、こりゃなかなかの傑作だっていってたよ。しかし、あれを女流作家だなんて考えたら、そりゃ大違いさ。あれはなによりもまず、優しい心をもった女だからね。じきにきみもわかるだろうがね。今あれのところには、イギリス人の少女とその一家がいるんだが、じつはそれで忙しいんだよ」
「そりゃなんだね、なにか慈善事業といったものかい?」
「それそれ、きみはどうもなんでもすぐ悪いほうにばかりとりたがるね。慈善事業なんてものじゃなくて、真心のこもった仕事だよ。あそこに、つまり、ヴロンスキーのところには、イギリス人の調教師がいてね、その道にかけては名人なんだが、ひどいのんべえ《・・・・》なんだ。すっかり酒びたりになって、 delirium tremens ってやつだな。家族のことなんか見向きもしないんだよ。それをあれが見るにみかねて、助けてやったところ、すっかり引きこまれてしまってね、今じゃ家族全員があれの世話になってるってわけさ。だがね、それもただ金を使って、いかにもお恵みをたれてやるっていうようなやり方じゃなくて、男の子は中学に入れてやるために、あれ自身がロシア語の準備をしてやってるし、女の子は手もとへ引き取ったのさ。まあ、行けばきみもすぐわかるだろうがね」
馬車は邸内へ乗り入れた。オブロンスキーは、橇《そり》が一台待っている車寄せで、音高くベルを鳴らした。
そして、ドアをあけてくれた雇い男の召使に、主人が在宅かどうかもたずねずに、玄関の中にはいってしまった。リョーヴィンは、自分のしていることがいいことなのか悪いことなのかとますます疑いにかられながら、そのあとにつづいた。
リョーヴィンは鏡をちらとのぞいて、自分が赤い顔をしているのに気づいた。しかし、酔ってはいないという自信があったので、オブロンスキーのあとから、じゅうたんを敷いた階段をのぼって行った。上にのぼると、親しい客という感じでおじぎをした召使に、オブロンスキーは、アンナのところへ来ているのがだれか、とたずねた。すると、ヴォルクーエフさまですという返事があった。
「どこにいるんだね?」
「書斎でございます」
暗い色の板壁でかこまれた、あまり大きくない食堂を通り抜けると、オブロンスキーとリョーヴィンは柔らかいじゅうたんを踏んで、黒っぽい大きな笠をかぶったランプの光だけで照らされている、薄暗い書斎へ通った。もう一つ反射鏡のついたランプが壁にかかっていて、大きな等身大の婦人像を照らしていた。リョーヴィンは思わずそれに目をとめた。それは、イタリアでミハイロフが描いたアンナの肖像画であった。オブロンスキーがなにか植物の蔓《つる》をはわせた衝立《ついたて》の陰に隠れ、今まで聞えていた男の話し声がとだえても、リョーヴィンは、明るいランプの光に照らしだされて額縁から浮きだしているように見えるその肖像画をながめたまま、そこから目を放すことができなかった。彼は自分がどこにいるのかも忘れて、書斎で話されていることも耳にはいらず、ひたすら、このすばらしい肖像画に見入っていた。それはもはや一幅の絵ではなく、生ける美女であった。黒い髪が波うち、肩と腕はあらわで、柔らかい産《うぶ》毛《げ》におおわれた唇《くちびる》には、もの思わしげな微笑の陰がただよい、相手を当惑させるようなまなざしが、誇らかに、しかも優しく、リョーヴィンをながめていた。それが生ける女ではないという証拠としては、ただそれが現実の女としてはありえないほど、美しいということだけであった。
「まあ、ほんとにうれしゅうございますわ」とつぜんすぐそばで、明らかに、自分に向けられたと思われる声が聞えた。それは彼が肖像画の中で見とれていた当の女の声であった。アンナが衝立の陰から、リョーヴィンを迎えに出て来たのである。そしてリョーヴィンは、書斎の薄明りの中に、地味な、青みがかったまだら色の服を着たほかならぬ肖像画と同じ女を見た。その姿勢も、表情も肖像画のものとは違っていたが、画家が肖像画の中で表現したまさにそのとおりの美しさで立っていた。現実の彼女は絵の中の彼女ほどあでやかではなかったが、そのかわり、生ける彼女の中には、肖像画の中にはない一種の新しい魅力があった。
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アンナは、リョーヴィンに会える喜びを隠そうともせず、いそいそと迎えに立ちあがった。そして、彼女が小さい精力的な片手を彼に向ってさしのべたとき、またヴォルクーエフを彼に紹介し、その場にすわって編物をしていた赤毛のかわいらしい少女を、これはあたくしの養女ですのといって指さしたとき、その落ち着いた物腰の中には、いつもおだやかで気取らぬ上流婦人特有の、リョーヴィンにはなじみぶかい、気持のよい態度がうかがわれた。
「ほんとに、ほんとにうれしゅうございますわ」アンナは繰り返したが、こうしたあたりまえの言葉までが、その口にかかると、なぜか特別の意味を持っているようにリョーヴィンには聞えた。「あたくし、あなたさまのことは前々から存じあげて、お慕い申しあげておりましたの。スチーヴァと親しくしてくださっていることからも、あなたさまの奥さまのことでも……奥さまを存じあげていたのはほんのわずかのあいだでございますけれど、奥さまはあたくしの心に美しい花のような印象を残してくださいましたわ。ええ、まったく、花のような。その奥さまも、もうじきお母さまにおなりになるんですわね!」
アンナは時おりリョーヴィンから兄へ視線を移しながら、よどみないおおらかな態度で話した。リョーヴィンは、自分が相手に与えた印象のよかったことを感じて、たちまち、まるで子供のころからの知合いのように、気楽な、遠慮のない、愉快な気分になった。
「あたしがヴォルクーエフさんとごいっしょにアレクセイの書斎にはいりこんでいたのは」アンナは、たばこを吸ってもいいかというオブロンスキーの質問に答えていった。「つまり、たばこを吸うためなんですのよ」それから、リョーヴィンに目をやって、あなたもお吸いになりますかとたずねるかわりに、鼈甲《べっこう》のシガレットケースを手もとへ引き寄せて、一本抜きだした。
「近ごろからだのぐあいはどうかね?」兄はアンナにたずねた。
「べつに。神経のほうはいつものとおりですけど」
「ねえ、すばらしくいいだろう?」オブロンスキーは、リョーヴィンが肖像画をしきりと見上げているのに気づいて、いった。
「こんなにすばらしい肖像画は見たことがないね」
「それに、すばらしくよく似ているだろう、え?」ヴォルクーエフがいった。
リョーヴィンは肖像画から実物に目を移した。その視線を感じると、アンナの顔は特別の光輝に照り映《は》えた。リョーヴィンは顔を赤らめた。そして、自分の当惑を隠そうとして、ドリイに会ったのはだいぶ前のことかと問いかけた。が、ちょうどそのとき、アンナのほうから話しかけてきた。
「あたくし、今ヴォルクーエフさんと、ワシチェンコフの最近の絵についてお話ししておりましたの。あなた、ごらんになりまして?」
「ええ、見ました」リョーヴィンは答えた。
「失礼いたしました、勝手なことをいいだしたりして。今なにかおっしゃろうとなさいましたでしょう……」
リョーヴィンは、ドリイに会ったのはだいぶ前のことか、とたずねた。
「きのうこちらへお見えになりましたわ。グリーシャのことで、中学校にとても腹を立てていらっしゃいましたわ。ラテン語の先生があの子になにか不公平なことをなさったとか」
「いや、ワシチェンコフの絵はぼくも見ましたけれど、あまり気に入りませんでしたね」リョーヴィンはアンナのはじめた話題にもどっていった。
リョーヴィンも今はもう、午前中のあの事務的な話しぶりとはまるでうって変った調子で話していた。アンナと話していると、どんな言葉もみんな特別の意味をもってくるのであった。アンナと話すのも快かったが、アンナの話を聞くのはもっと快かった。
アンナの話しぶりは、自然であるばかりでなく、聡明《そうめい》であった。いや、聡明であると同時に無造作で、まるで自分の考えにはなんらの価値をも認めないのに、相手の考えには大きな価値を与えるといったふうであった。
話題は芸術の新しい傾向のことや、フランスのある画家が試みた聖書の新しい挿《さし》絵《え》のことに移った。ヴォルクーエフはその画家のリアリズムを非難して、それは粗雑きわまるものだといった。リョーヴィンはそれに対して、フランス人はどの国民よりも芸術における様式性を追究したので、彼らはリアリズムへの復帰に特別の功績を認めているのだ、彼らはもはやうそをつかぬという点に詩的なものを感じているのだ、といった。
リョーヴィンが今まで述べてきた気のきいた言葉の中で、この一句ほどみずから満足感を覚えたものはほかになかった。アンナはとつぜんこの考え方の真価を悟り、その顔は不意にぱっと輝きわたった。アンナは笑いだした。
「あたくし、笑っていますけれど」アンナはいった。「これはね、とてもよく似た肖像画を見たときに笑いだす、あの気持なんですの。あなたのおっしゃったことは、今のフランス芸術の特徴をすっかりいい尽しておりますわ。絵画ばかりか、文学にまであてはまりますわ、ゾラとかドーデーなどの。でも、これはきっといつもそうなのかもしれませんわね。頭で考えだした様式的な人物から conceptions をつくりあげているうちに、やがてcombinaisons がすっかり出尽してしまって、つくりものの人物にいや気がさしてくると、今度はもっと自然な、真実性に富んだ人物を考えだすようになるんですわね」
「いや、まさにお説のとおりですとも!」ヴォルクーエフはいった。
「じゃ、あなた方はクラブにいらっしゃいましたの?」アンナは兄に向っていった。
《いや、まったく、これこそほんとうの女というものだ!》リョーヴィンはわれを忘れて、いまや不意に一変した、美しい変化に富んだアンナの顔をじっと見つめながら、思った。彼女は兄のほうへかがみこんでなにを話しているのか聞きとれなかったけれども、リョーヴィンはその表情の変化にうたれた。先ほどまで落ち着いた美しさを見せていたその顔が、突如として、異様な好奇心と、憤《ふん》怒《ぬ》と、誇りを現わしていたからであった。しかし、それはほんの束の間であった。彼女はなにか思いだそうとするかのように目を細めた。
「そりゃそうですけれど、でも、そんなお話はだれにもおもしろくありませんわね」アンナはいって、イギリス人の少女のほうを振り向いた。
「Please order the tea in the drawing-room.」
少女は立ちあがって、出て行った。
「で、どうなんだね、あの子は試験に受かったのかい?」オブロンスキーはたずねた。
「ええ、りっぱに受かりましたわ。とてもできのいい子で、素直な性質なんですのよ」
「自分の娘よりあの子のほうがかわいいなんてことになるんじゃないかね」
「それは殿方のお考えですよ。愛情には大きい小さいはありませんものね。娘とあの子とでは愛し方が別ですもの」
「私はそれについてアンナ・アルカージエヴナにこう申しあげてるんですがね」ヴォルクーエフはいった。「もしあのイギリス少女に注いでいらっしゃるエネルギーの百分の一でも、ロシアの子供たちの教育という公共事業に注いでくださったら、アンナ・アルカージエヴナはそれこそ有益な大事業を成し遂げられるでしょうに、とね」
「でも、あたくしにはそういうご希望のことができなかったんですの。アレクセイ・キリーロヴィチ伯が(このアレクセイ《・・・・・》・キリーロ《・・・・》ヴィチ《・・・》伯という言葉を口にするとき、アンナは、まるで許しを請うかのようにおずおずとリョーヴィンの顔を見やった。すると、リョーヴィンは思わず、うやうやしく肯定するようなまなざしでそれに答えた)、田舎で学校の仕事をやるようにって、とても勧めてくださいましたので、あたくしも何回か通ってみました。そりゃ子供たちはとてもかわいかったんですけれど、あたくし、その仕事に愛着がもてなかったんですの。あなた方は、そりゃエネルギーの問題だっておっしゃいますけれど、エネルギーはやっぱり愛情がもとになってますわ。ところが、その愛情はどこからも取って来るわけにはまいりませんし、命令できることでもありませんものね。ごらんのとおり、あたくしはあの子が好きになってしまいましたけれど、自分でもそれがなぜなのかわかりませんのよ」
そういうと、アンナはまたリョーヴィンをながめた。その微笑も、まなざしも、なにもかも彼にこう物語っていた――《あたくしはこのお話をあなただけに向ってしているのですわ。あたくしはあなたのご意見を尊重しておりますし、それと同時に、あたくしたちふたりはお互いに理解しあっていることを前もって承知しているんですもの》
「ぼくにはそのお気持がよくわかりますよ」リョーヴィンは答えた。「学校とか、一般に、そのような施設に心血を注ぐなんてことはできないものですよ。ですから、そうした慈善事業のあげる効果はいつもじつに少ないものだ、とぼくは思っています」
アンナはちょっと口をつぐみ、やがてにっこりと顔をほころばせた。
「ええ、そのとおりですわ」アンナは相槌《あいづち》を打った。「あたくしにはどうしてもできませんでしたわ。 Je n'ai pas le cマur assez large 、きたならしい女の子たちばかりの孤児院を愛するなんて。 Cela ne m'a jamais r志ssi 、そういうことでご自分の position sociale を築いた女の方はずいぶんたくさんいらっしゃいますけれどね。それに今じゃなおのことですわ」アンナは、表面は兄に向って、しかし明らかにリョーヴィンだけを相手に、もの悲しげな信じきった表情でいった。「ことに近ごろはどんなお仕事でもいいから、ぜひとももたなければいけないんですが、あたくしにはできませんの」そういうと、アンナは急に眉《まゆ》をひそめて(リョーヴィンには、彼女が自分のことをいいだしたのを恥じて、自分自身に対して眉をひそめたのだとわかった)、話題を変えた。「あたくし、あなたのおうわさを存じあげておりますのよ」アンナはリョーヴィンにいった。「あなたが公民としては感心できないお方だってことを。でも、あたくしは自分でできるかぎりあなたを弁護いたしましたけれど」
「どんなふうに弁護してくださったんです?」
「そりゃ攻撃に応じていろいろですわ。それはそうと、お茶はいかがですの?」アンナは立ちあがって、モロッコ皮で装幀《そうてい》した本を取りあげた。
「それを私にくださいませんか、アンナ・アルカージエヴナ」ヴォルクーエフが本を指さしながらいった。「それは十分出版の価値がありますからね」
「いいえ、だめ、これはまだまだ手を入れなくちゃいけませんもの」
「ぼくはこの男にも話したよ」オブロンスキーはリョーヴィンを指さしながら、妹に向っていった。
「まあ、いやですわ。あたくしの書くものなんて、よくリーザ・メルカーロヴァがあたくしに売りつける、囚人たちの作った籠《かご》や木彫り細工みたいなものですもの。その方はね、あたくしどもの慈善団体で監獄のほうを受け持っていらっしゃいますのよ」アンナはリョーヴィンに向って説明した。「あそこの不幸な人たちが作ったものって、ほんとに忍耐の奇《き》蹟《せき》みたいなものですわね」
リョーヴィンはそこでまた、このなみなみならず気に入った女性の中に、さらに新しい特徴を一つ見つけた。アンナには知性と優雅さと美《び》貌《ぼう》のほかに、誠実さがあったのである。彼女は自分の境遇のつらさを、少しも彼に隠そうとはしなかった。彼女はそのことをいいだすと、ほっと溜息をついたが、その顔は化石でもしたように、とつぜん、きびしい表情に変った。こうした表情を浮べた彼女の顔は前にもましてさらに美しかった。しかし、この表情はリョーヴィンがはじめて見るものだった。それは、画家があの肖像画の中にとらえた幸福に輝き幸福を分け与える表情の外にあるものであった。リョーヴィンはもう一度肖像画をながめ、それから、兄の手をとって高い戸口から出て行く彼女の姿をながめたとき、彼女に対してわれながら驚くほど優しい気持と哀れさとを感じた。
アンナはリョーヴィンとヴォルクーエフに、客間へ先に行ってくれと頼んで、自分は兄となにか相談するためにあとへ残った。《離婚のことか、ヴロンスキーがクラブでなにをしているかということか、それともおれのことだろうか?》リョーヴィンは考えた。彼は、アンナがオブロンスキーとなんの話をしているのかということばかり気になっていたので、アンナの書いた子供のための小説のよさを説くヴォルクーエフの話などほとんど耳にはいらなかった。
お茶のあいだも、相変らず気持のいい、内容の充実した話がつづけられた。話の種を捜さねばならないようなことはただの一分もなかった。いや、それどころか、反対に、いいたいこともいう間がなく、自分をおさえて、相手の話に耳を傾けるといったふうであった。そしてだれがどんなことをいっても、アンナ自身ばかりでなく、ヴォルクーエフやオブロンスキーのいったことまでも、すべてがアンナの心づかいと彼女のさしはさむ言葉のおかげで、特別な意味をおびてくるようにリョーヴィンには思われるのであった。
リョーヴィンは興味ぶかい会話を追いながら、たえずアンナに見とれていた――その美《び》貌《ぼう》や知性や教養ばかりでなく、それと同時に、その率直さや誠実さにも。彼は聞いたり話したりしながらも、たえずアンナの内面生活のことを考え、その感情を推察しようと努めていた。こうして、以前はあれほどきびしく彼女を非難していた彼が、今はなにか奇妙な考えの進むにつれて、彼女を弁護したり、そればかりでなく、彼女をかわいそうに思ったり、ヴロンスキーが彼女を十分に理解していないのではないかと、心配したりしはじめているのであった。十時をまわって、オブロンスキーが帰ろうと腰をあげたとき(ヴォルクーエフはもっと前に辞去していた)、リョーヴィンはついいましがた来たばかりのような気がした。彼はなごり惜しそうに、やはり腰をあげた。
「ごきげんよう」アンナは彼の手をきつく握って、引きつけるようなまなざしで彼の目を見つめながらいった。「あたくし、とてもうれしゅうございましたわ、 que la glace est rompue.」
アンナは彼の手を放して、目を細めた。
「どうぞ、奥さまにお伝えくださいましな――あたくしは昔どおり奥さまを愛していますって。でも、奥さまがあたくしの立場を許せないとおっしゃるなら、どうか永久に許さないでいただきたいって。それがあたくしの望みですの。あたくしを許すためには、あたくしと同じような経験をしなければなりませんけれど、どうかそんなことのありませんように」
「ええ、きっとそのとおり伝えましょう……」リョーヴィンは顔を赤らめながら、いった。
11
《なんてすばらしい女だろう、かわいらしい、しかも気の毒な女だ》リョーヴィンはオブロンスキーといっしょに、凍てついた外気の中へ出ながら、思った。
「え、どうだい? ぼくのいったとおりだろう?」オブロンスキーはリョーヴィンがすっかりまいっているのを見て、いった。
「ああ」リョーヴィンは考えこむようにして答えた。「ありゃ非凡な女性だねえ! ただ賢いというよりは、驚くほど誠実さのある人だ。あの人がとてもかわいそうでならないよ!」
「いや、今度こそ、なにもかもきっとうまく片づくだろうよ。だからさ、いいかい、これからは早まって批評するもんじゃないよ」オブロンスキーは、馬車の戸をあけながらいった。「じゃ、失敬、きみと道順が違うから」
リョーヴィンはアンナのことや、彼女とかわしたまったく単純な話のことや、そのとき彼女の顔に浮んだ表情の細かいところまですっかり思いだしながら、ますます彼女の立場に立って、彼女に対する哀れみの情を覚えながら、わが家へ帰った。
家へ帰ると、クジマーが、奥さまはお元気でいらっしゃいますし、お姉さまがたはついいましがたお帰りになりましたといって、リョーヴィンに二通の手紙を渡した。彼はあとで忘れたりしないようにと、すぐそこの控室で読んだ。一通は支配人のソコロフからのものであった。ソコロフは、五ルーブル半にしか値がつかないから、麦はとても売るわけにいかないし、金もどこからもはいるあてがない、と書いていた。もう一通は姉からであった。姉はいまだに自分の用件がすまないことについて彼を責めていた。
《よし、それ以上値がつかないのなら、五ルーブル半で売ってしまおう》今まですごくむずかしいことに思われていた第一の問題を、リョーヴィンはいとも容易にきめてしまった。《おかしなことだが、こちらへ来てから、まったく暇がありゃしない》彼は第二の手紙のことについてそう思った。彼は、姉に頼まれた件がいまだに片づいていないことを、すまなく思った。《きょうもまた裁判所へ行かなかった。でも、きょうは、ほんとに暇がなかったからなあ》そう考えて、あすこそかならずやろう、と決心して、彼は妻のところへ行った。リョーヴィンは妻の部屋へ行きながらも、頭の中で、きょう一日の出来事を素早く調べてみた。この日の出来事は、すべて会話であった――彼が聞いたり、自分でも仲聞入りした会話だけであった。そうした会話はすべて、田舎《いなか》にひとりでいるときには、けっして興味をひかないようなことであったが、ここではとてもおもしろいのであった。それに、その会話はすべていい話ばかりであった。ただ二カ所だけ、あまりいいものではなかった。ひとつは彼がかます《・・・》のことをしゃべったときであり、もうひとつは、アンナに対していだいた哀れみの情に、なんとなくよくない《・・・・》ものがあった。
リョーヴィンがはいって行くと、妻は沈んだ調子で、退屈していた。三人姉妹での晩餐《ばんさん》はとても楽しいはずだったのに、みんながいくら待っていても、彼がとうとう帰らないので、みんなはつまらなくなって、姉たちは帰ってしまい、妻だけがひとり残されたのであった。
「じゃ、なにをなさっていらしたの?」キチイはなにか特別怪しく輝いている夫の目を見つめながら、たずねた。しかし、彼女は夫がすっかり話してしまうじゃまをしないために、自分の好奇心を隠して、うなずくような微笑を浮べながら、夫がどうやってこのひと晩を過したかという話に耳を傾けていた。
「いや、ヴロンスキーに会えて、ぼくはとても愉快だったよ。あの男といっしょにいてもとても楽な気持で、なんともなかったね。いいかい、ぼくはこれから、あの男とはけっして会わないようにするけれど、しかし、あのばつの悪さだけは、もうおしまいにしたいものだからね」彼はそういったが、あの男とはけっして会わないようにしたい《・・・・・・・・・・・・・・》といいながら、すぐそのあとでアンナをたずねたことを思いだして、彼は顔を赤らめた。「いや、われわれは、百姓が酒を飲むなんていうけれど、百姓とわれわれの階級と、どちらがよけい飲むかはわからないね。百姓はまあ祭日くらいのものだが、われわれときたら……」
しかし、キチイには、百姓がどんなに飲むかなどという話はおもしろくなかった。彼女は夫が赤面したのを見て、そのわけが知りたかったのである。
「そう、それから、いったいどこへいらしたの?」
「スチーヴァがあんまり頼むものだから、アンナ・アルカージエヴナのところへ行ったのさ」
そういうと同時に、リョーヴィンはまたさらに赤くなった。と、アンナのところへ行ったのがいいことか悪いことかという疑問は、最終的にはっきり解決がついた。彼はいまや、あんなことをしてはいけなかったのだと、思い知ったのであった。
キチイのひとみは、アンナの名前を聞くと同時に、とくに大きく見ひらかれ、きらきらと輝いた。しかし、彼女は努めて自分をおさえ、その興奮を隠して、夫を欺いた。
「まあ!」彼女はただそういった。
「ぼくが行ったのにまさか腹を立てはしないだろうね。スチーヴァは頼むし、ドリイもそれを望んでいたんだからね」リョーヴィンはつづけた。
「いえ、ちっとも」キチイはいったが、彼はその目の中に、自分をおさえようとする努力を見た。それは少しもいいことを予想させなかった。
「あの人はとてもかわいい、まったく気の毒な、いい人だよ」彼はアンナのことや、その仕事や、伝言などを話したあとで、いった。
「ええ、もちろん、あの人はほんとに気の毒な人ですとも」キチイはリョーヴィンが話し終ったとき、いった。「その手紙はだれから来たんですの?」
彼はそれに答えてから、妻の落ち着いた調子を信用して、着替えに行った。
彼がもどって来てみると、キチイは前と同じ肘《ひじ》掛《か》けいすにすわっていた。彼がそばへ近寄ると、キチイは彼の顔を仰いで、わっと泣きだした。
「どうしたの? どうしたの?」彼はもうそのときすでに『どうしたのか《・・・・・・》』承知のうえで、そうたずねた。
「あなたはあんないやらしい女に、惚《ほ》れこんでしまったのね、あの人はあなたに魔法をかけてしまったんだわ。あなたの目つきで、ちゃんとわかったわ。ええ、そうよ! これからいったいどうなるんでしょう。あなたはクラブでさんざん飲んで、賭《か》けトランプをして、それから出かけて行ったんでしょ……それもあんな女のところへ! もう、いやだわ、田舎へ帰りましょう……あすにもあたしは帰るわ」
長いことリョーヴィンは、妻の気持を落ち着かせることができなかった。結局、哀れみの情が酒の力といっしょになって彼の心を乱してしまったので、アンナの巧みな感化力に支配されてしまったのだと告白し、もうこれからは彼女を避けるようにするからといって、やっと妻をなだめることができた。ただひとつ、彼が心の底から告白したことは、こんなに長くモスクワ暮しをして、ただ世間話をしたり、飲み食いばかりしているために、頭が変になった、といったことである。ふたりは夜中の三時まで話しこんだ。三時になってようやく、すっかり和解できたので、眠りにつくことができた。
12
客たちを送りだしてしまうと、アンナは腰をおろさないで、部屋の中をあちこち歩きはじめた。彼女は無意識ではあったが(最近彼女がいつも若い男にはだれにでもそうしたように)、リョーヴィンが自分を愛するようにひと晩じゅうあらゆる努力を傾けたにもかかわらず、また妻のある誠実な男に対して、しかもただのひと晩のうちにできるだけ十分その目的を達したことを自分で承知していたにもかかわらず、また、リョーヴィンをとても好ましく思いながらも(ヴロンスキーとリョーヴィンのあいだには、男の立場から見て、ひじょうな相違があったにもかかわらず、アンナは女として、ふたりの中に共通点を見てとった。キチイがヴロンスキーをも、リョーヴィンをも愛したのはそのためであった)、しかしリョーヴィンが部屋を出るやいなや、彼のことについて考えることをやめてしまった。
ただ、たったひとつの思いが、さまざまな形をとりながら、しつこく彼女につきまとうのであった。《あたしがほかの男に、あの妻を愛している家族持ちにさえ、こんなに強い魅力を与えることができるのに、なぜあの人《・・・》はあたしに、ああも冷たいんだろう!……いえ、冷たくなんかないわ、あの人はあたしを愛しているわ、それはちゃんとわかっているのよ。でも、新しいなにものかが、今あたしたちを隔てているんだわ。なぜあの人はひと晩じゅう家にいないんだろう? あの人は、ヤーシュヴィンをうっちゃっとくわけにはいかないから、その勝負を見ていなくちゃならないと、スチーヴァにことづけをしてよこした。じゃ、ヤーシュヴィンは、そんな子供だとでもいうのかしら? まあ、それがほんとうだとしましょう。だって、あの人はけっしてうそなんかつかないんだから。でも、このほんとうのことの中には、なにか別なものがあるんだわ。あの人は、自分には別の義務があるってことを、あたしに思い知らせる機会があると、それをとても喜んでいるんだわ。あたしにはそれがわかっていて、それには異議なんてないわ。でも、なぜそれをあたしに証明したいんだろう? あの人は、自分の愛情も、自分の自由も妨げるわけにいかないってことを、証明したがっているんだわ。でも、あたしには証明なんかいらないわ、あたしに必要なのはただ愛情だけなんですもの。このモスクワ暮しが、あたしにとってどんなにつらいかってことを、あの人はわかってくれてもいいのに。ほんとにこれであたしは生きているといえるのかしら? あたしは生きてなんかいやしない、ただだんだんのびのびになっていく解決を待っているだけだわ。返事は今度もまたありゃしない! スチーヴァまでが、カレーニンのところへは行けない、なんていうんですもの。でも、あたしももうあの人に手紙を出すわけにはいかないわ。あたしはなにひとつすることも、なにひとつはじめることも、なにひとつ変えることもできやしないんだわ。あたしはただじっと自分をおさえて、あのイギリス人の家族だとか、小説を書くことだとか、本を読むことだとかで気をまぎらせながら、待っているだけだわ。でも、こんなことはみんなごまかしだわ、みんなあのモルヒネと同じことよ。あの人はあたしをかわいそうに思っていてくれなくちゃいけないはずだわ》アンナは自分に対する哀れみの涙が目にあふれるのを感じながら、自分にいいきかせるのであった。
彼女はヴロンスキーの鳴らす性急なベルの音を聞くと、急いでその涙をふいた。いや、涙をふいたばかりでなく、ランプのそばにすわって、落ち着きはらったふりをしながら、本を開いた。彼が約束どおりに帰って来なかったので、不満に思っていることを、見せつける必要があったのである。しかし、それは不満だけにして、自分の悲しみは、わけても自分に対する哀れみなどはけっして見せてはならないのであった。自分で自分を哀れむのはかまわなかったが、彼には哀れんでもらいたくなかった。彼女は闘争など望んでいなかったので、彼が戦おうとするのを非難していたが、しかし今は自分でも知らずしらずのうちに、闘争の構えになっていた。
「やあ、退屈しなかったかい?」彼はアンナのそばに近づきながら、活気づいて浮きうきした調子でいった。「いや、じつに恐ろしい欲望だね――賭博《ばくち》というやつは!」
「ええ、退屈なんかしませんでしたわ。もうとっくに、退屈しないように修業をつみましたもの。スチーヴァが見えましたわ。それにリョーヴィンも」
「ああ、あのふたりは、おまえのところへ行きたいといってたよ。じゃ、リョーヴィンは気に入ったかい?」彼はアンナのそばに腰かけながら、たずねた。
「ええ、とっても。ふたりはさっき帰ったばかりですわ。で、ヤーシュヴィンはどうでしたの?」
「はじめは一万七千ルーブルも勝ってたんだがね。ぼくが呼んだので、やっこさんももう帰るばかりになったのに、また引き返して行って、今度は負けという始末さ」
「それじゃ、なんのためにお残りになっていらしたの?」アンナは急に彼の顔へ目を上げて、たずねた。その顔の表情は冷やかで、敵意に満ちていた。「あなたはヤーシュヴィンを連れて帰るために残るって、スチーヴァにことづけたんでしょ。それなのに、あの人をうっちゃってお帰りになるなんて」
同じように冷たい戦いにいどむような表情が、彼の顔にも現われた。
「第一、ぼくはなにもことづけなんか彼に頼まなかったよ。第二に、ぼくはけっしてうそなんかついたことはないよ。いや、ぼくは何よりも、ただ残りたいから残ったのさ」彼は顔を曇らせていった。「アンナ、なんだって、そんなことをいうんだい?」彼はちょっと黙っていてから、アンナのほうへ身をかがめて、片手を開いた。アンナがその上に、自分の手を重ねるのを期待したからであった。
アンナは、こうした優しい誘いをうれしく思った。しかし、なにかしら奇妙な悪の力が、そうした誘いにのることを許さなかった。それはまるで戦いの条件が彼女に降伏を許さないかのようであった。
「そりゃ、お残りになりたかったから、お残りになったのでしょうよ。あなたはご自分のしたいことをしていらっしゃるんですもの。でも、なんだってあたしにそんなことをおっしゃるんですの? ねえ、なぜですの?」アンナはますます激しながら、いった。「ねえ、だれかが、あなたの権利を否定したことがございまして? でも、あなたはご自分だけいい子におなりになりたいんでしょうから、それでよろしいでしょうけど」
彼は手を閉じて、ちょっと身をひいた。その顔には前よりもいっそうかたくなな表情が表われてきた。
「そりゃあなたにとっては、これは強情というだけですむことですけれど」アンナはじっと相手の顔を見つめていたが、不意に、自分をいらだたせるその顔の表情の呼び名を見つけて、いった。「ほんとに、強情ですわね。あなたにとっては、ただあたしに対して勝利者になるかどうかというだけの問題ですけれど、あたしにとっては……」またもや彼女は自分がかわいそうになって、ほとんど泣きださんばかりであった。「あたしにとってこの問題がどういうことなのか、せめてあなたにわかっていただけたらねえ! あなたが今みたいに、あたしに敵意を――ええ、ほんとに敵意ですとも――もってらっしゃるのを感じると、あたしにとってそれがどんな意味をもっているかってことは、とてもあなたにはご想像もつかないでしょうよ! 今この瞬間、あたしがどんなに不幸におちいろうとしているか、どんなにあたしが恐れているか――自分で自分を恐れているか、あなたがわかってくださったらねえ!」アンナは慟哭《どうこく》を隠しながら、顔をそむけてしまった。
「ねえ、いったいぼくたちがどうしたというのだ?」彼はアンナの絶望的な表情に思わずぞっとして、またもや彼女のほうへ身をかがめ、その手をとって接吻しながら、いった。「なにが原因なんだね? ぼくが家の外で楽しみを求めているとでもいうのかい? ぼくが女の人との交際を避けていないとでもいうのかい?」
「そんなことあたりまえじゃありませんか!」アンナはいった。
「ねえ、おまえに安心してもらうためには、いったいぼくはどうしたらいいんだね? おまえがしあわせになるためなら、ぼくはどんなことでもするつもりだよ」彼はアンナの絶望的な様子にうたれて、いった。「今のように、なにかわけのわからない悲しみから、おまえを救い出すためなら、ぼくはどんなことだってやるつもりだよ、アンナ!」彼はいった。
「もういいの、もういいんですの!」アンナはいった。「あたし自分でもわかりませんの、これが孤独な暮しのためか、神経のせいかってこと……いえ、こんな話はもうよしましょう。競馬はどうでしたの? まだ話してくださいませんでしたわね」アンナはやはり自分のものとなった勝利の喜びを隠そうと努めながら、そうたずねた。
彼は夜食を命じてから、アンナに競馬の模様をくわしく話しはじめた。ところが、アンナはその声の調子にも、しだいに冷やかになっていくそのまなざしにも、彼が自分の勝利を許しがたく思っていることを見てとった。そして自分が克服しようと努めた強情さが、またもや彼の中に、根を張ってきたのを感じた。彼は前よりもアンナに対して冷淡になった。それはまるで、自分が折れて出たのを、後悔しているかのようであった。彼女のほうもまた、自分に勝利を与えた《あたしは恐ろしい不幸におちいろうとしているんです、それで自分で自分が恐ろしいのです》という言葉を思い起して、この武器は危険なものであるから、もう二度と使ってはならない、と悟ったのであった。そしてアンナは、自分たちふたりを結びつけている愛と並んで、ふたりのあいだには、なにかしらよこしまな戦いの悪魔がひそんでいて、自分はそれを彼の心からも、ましてや自分の心からはなおさら、追いはらうことはできないのだと感じたのであった。
13
どんな環境でも、人間が慣れることのできないものはないし、とりわけ、周囲のものが自分と同じように暮しているのを見た場合には、それはなおさらのことである。リョーヴィンも三カ月前だったら、今自分のおかれているような環境で、安らかに眠りにつくことができようとは、とても信じられなかったにちがいない。いや、なんの目的もない無意味な生活をして、おまけに収入以上の暮しをしながら、酔っぱらってから(彼はクラブでやったことに、これ以上の名前をつけることができなかった)かつて妻が恋していた男と、わけのわからない親友関係を結び、堕落した女としかいいようのない女を訪問したりして、いっそうわけのわからない行動をしてから、その女に心をひかれて、妻を悲しませた――そういう状況のもとで、自分が安らかに眠ることができようとは、まったく思いもよらぬことであったが、しかし、疲労と、不眠の一夜と、飲んだ酒のおかげで、彼はぐっすりと、安らかな眠りにつくことができたのであった。
五時になって、ドアをぎいとあける音で、彼は目をさました。彼はとび起きて、あたりを見まわした。キチイは隣の寝床にいなかった。しかし、仕切りの向うに揺れうごく灯《ほ》影《かげ》が見え、妻の足音が聞えた。
「ねえ、どうしたんだい?……どうしたんだい?」彼は寝ぼけ声でいった。「キチイ! どうしたんだよ?」
「なんでもないの」キチイはろうそくを手にして、仕切りの陰から出て来ながら、いった。「ちょっと気分が悪くなったものですから」彼女は特別かわいらしい、意味ありげな微笑を浮べていった。
「え? じゃ、はじまったのかい、ほんとに、はじまったのかい?」彼はおびえたようにいった。「すぐ使いを出さなくちゃ」彼は急いで着替えをはじめた。
「いえ、違いますわ」彼女は微笑を浮べたまま、夫の手をおさえながら、いった。「きっと、なんでもありませんわ。ちょっと気分が悪くなっただけで。それももうなおりましたわ」
そういうと、キチイは寝台に近づいて、ろうそくを消し、横になって、そのまま静かになった。なにかわざとおさえつけているような妻の息づかいの静けさも、とりわけ、彼女が仕切りの陰から出ながら「なんでもないの」といったときの特別な優しさと興奮の表情も、彼には疑わしく思われないこともなかったが、とても眠くてたまらなかったので、そのまま寝こんでしまった。ただあとになって、彼は妻の息づかいの静けさを思い起して、妻が女の一生で、もっとも偉大な出来事を待ちながら、身動きもせずに彼のそばに寝ていたとき、その尊くも愛すべき魂の中で生じていたいっさいのことを悟ったのであった。七時ごろ、彼は肩にさわった妻の手とその低いささやきで、目をさました。キチイはどうやら、夫を起すのが気の毒だという気持と、話しかけたいという望みとの戦いに、ひとりで苦しんでいたらしかった。
「コスチャ、ねえ、びっくりしないでね。なんでもないんだから。でも、やっぱりあれらしいの……リザヴェータ・ペトローヴナを迎えにやらなくちゃいけませんわ」
ろうそくがまたともされていた。キチイは寝台の上にすわっていたが、その手には近ごろやっていた編物を持っていた。
「どうか、びっくりしないでね、なんでもないんだから。あたし、ちっともこわくなんかないんだから」キチイは夫のおびえたような顔をちらと見て、いった。そして、夫の手を自分の胸へ、それから唇《くちびる》におしあてた。
彼は急いでとびおきると、ただもう夢中で、妻から目を放さずに、部屋着をひっかけ、たえず妻を見つめながらその場に突っ立っていた。すぐ出かけなければならなかったのに、彼は妻のまなざしから目を放すことができなかったのである。彼は妻の顔をいつくしみ、その表情やまなざしを知り抜いているはずであったが、こういう妻の顔は、今まで一度も見たことがなかった。このような今の妻の前に立って、彼は昨夜、妻を悲しませたことを思いだすと、われながら自分という人間が忌わしく、そら恐ろしいものに感じられた! ナイトキャップからはみ出た柔らかい髪で縁どられた、赤みのさした妻の顔は、喜びと決意に輝いていた。
キチイの性格には、一般的に不自然なところやよけいなものは、ほとんどなかったのであるが、それにもかかわらず、今不意に、いっさいのおおいが取り除かれ、彼女の魂の核心そのものがその目の中に輝いたとき、リョーヴィンは自分の目の前にあらわにされたものに、思わず心を打たれずにはいられなかった。そしてこの単純な赤裸の姿の中に、自分の愛してやまぬ妻が、いっそうはっきりと見える思いであった。キチイはにこにこほほえみながら、彼を見つめていた。しかし、不意に、その眉がぴくっと震えて、頭をぐっと上げ、急いで夫に近づき、その手をとると、全身をすりよせて、熱い息を夫に吹きかけた。彼女は苦しみに身をもがいて、その苦しみを夫に訴えるかのようであった。そして、彼ははじめの瞬間、いつもの癖で、自分が悪いような気がした。しかし、妻のまなざしの中には、あたしはこの苦痛のためにあなたを責めているどころか、かえってあなたを愛しているのです、と語っている優しい表情がこもっていた。《もしおれが悪いのじゃないとすれば、いったいだれが悪いんだろう?》彼はひとりでにこんなことを考えながら、この苦痛の責任者をさがして、その罪人を罰しようと思ったが、そんな罪人はいなかった。妻は苦しみに身をもがき、それを訴えながら、この苦しみに凱《がい》歌《か》をあげ、それを喜びそれを愛しているのであった。妻の魂の中で、なにか美しいものが成就されつつあるのは、彼も見てとっていたが、それがなんであるかは、彼にも理解できなかった。それは彼の理解力を越えたものであった。
「ママのところへは使いを出しましたの。ですから、あなたはリザヴェータ・ペトローヴナを大急ぎで、迎えにいらしてちょうだいな……あっ、コスチャ!……大丈夫、もうなおりましたわ」
キチイは夫のそばを離れて、ベルを鳴らした。
「さあ、早く出かけてちょうだい。パーシャが来ますから。あたしはもう大丈夫ですわ」
そういって、リョーヴィンがびっくりしているうちに、キチイは晩のうちに持って来ておいた編物を取りあげて、また編みはじめた。
リョーヴィンは、一方の戸口から出て行こうとしたとき、もう一方の戸口から、小間使がはいって来る足音を聞いた。彼がドアのそばに足を止めて聞いていると、キチイは小間使にいろいろ細かいさしずをして、自分もいっしょになって寝台の位置をなおしはじめた。
彼は着替えをしたが、辻《つじ》馬《ば》車《しゃ》がまだ来なかったので、橇《そり》に馬をつけさせるあいだに、また寝室へ駆けつけた。それは爪先《つまさき》立ちで走るというよりも、翼をはやして飛んで行くという気持だった。寝室では、ふたりの小間使が心配そうな顔つきで、なにやら置きかえていた。キチイはあたりを歩きまわって、せっせと編物の手を動かしながら、さしずをしていた。
「ぼくは今から医者を呼びに行くよ。リザヴェータ・ペトローヴナのとこへは、もう迎えが行ったそうだから。でも、ぼくも寄ってみるけれどね。なにかいるものはないかい? そうだ、ドリイのところは?」
キチイは夫の顔を見たが、どうやら、彼のいうことは聞いていないらしかった。
「ええ、ええ。どうぞ、行ってちょうだい」彼女は眉をしかめて、夫に片手を振りながら、早口にいった。
彼がもう客間まで出たときに、とつぜん、哀れっぽいうめき声が、寝室で起ったかと思うと、すぐに静まった。彼は足を止めたが、長いことなんであるかわからなかった。
《ああ、あれはキチイの声だ》彼はつぶやくと、頭をかかえて、階下《した》へ駆けおりた。
『主よ、哀れみたまえ! 許したまえ、助けたまえ!』彼はなぜかふと口をついて出た言葉を、幾度も繰り返した。しかも、信仰ももたぬ彼が、この言葉をただ口先ばかりでなく、繰り返したのであった。今この瞬間において、彼は自分のいだいているいっさいの疑惑ばかりでなく、理性によっては信ずることは不可能だという自分の体験までが、神にすがろうとする彼に少しの妨げにならないことを悟った。それらいっさいのものはいまや、塵《ちり》のように、彼の心から消し飛んでしまった。彼は自分自身も、自分の魂も、自分の愛も、すべてその掌中に握られていると感じているものにすがらないで、いったいだれにすがることができたであろう?
馬の用意はまだできていなかった。しかし、彼は一分もむだにしないために、これからなすべきことをやってのけようという体力と注意力との特殊な緊張を身内に感じながら、馬を待たずに徒歩で出かけ、クジマーにあとから追って来るようにいいつけた。
町角《かど》で、彼は急いでやって来る夜の辻待ちの橇に出会った。小さな橇の上には、ビロードの外套《がいとう》を着て、頭にプラトークをかぶったリザヴェータ・ペトローヴナが乗っていた。《ありがたい、ありがたい!》彼は彼女に気がついて、有頂天になりながら、思わず口走った。眉やまつげの白っぽい彼女の小さな顔は、いまやなにか特別きまじめな、きびしいとさえいえる表情をしていた。彼は御者に止めろとも命じないで、彼女と並んで、もと来たほうへ駆けだした。
「では、二時間ばかりでございますね? それ以上ではございませんね?」彼女はたずねた。「ピョートル・ドミートリッチのお宅へいらしても、なにもおせかせするにはおよびませんよ。それから、薬局で阿《あ》片《へん》を買っていらしてくださいまし」
「じゃ、無事にすむとお思いなんですね? 主よ、哀れみたまえ、助けたまえ!」リョーヴィンは門から出て来た自分の馬を見て、口走った。彼はクジマーと並んで橇に乗ると、医者のもとへ馬を走らせた。
14
医者はまだ起きていなかった。そして下男は、「遅くおやすみになりましたので、朝は起さないでくれと、お申しつけでございました。でも、もうじきお目ざめになりましょう」といった。下男はランプのほやを掃除していて、それにすっかり気をとられているようであった。下男がそんなほやの掃除なんかに夢中で、リョーヴィンの家庭で起っていることに冷淡なのが、はじめはひどく彼を驚かせた。しかし、彼はすぐ思い返して、だれも自分の気持を知っているものはないし、また知る義務もないのだから、この冷淡な壁を打ち破って、自分の目的を達するためには、なおさら落ち着いて、よく考えたうえ、断固たる行動に出なければならない、と悟った。《あわてないで、なにひとつ手落ちのないようにしなくちゃ》リョーヴィンは、これからしなければならぬことに対する注意力と体力が、ますます強く身内に盛りあがってくるのを感じながら、自分にいいきかせた。
医者がまだ起きていないことを知ったとき、リョーヴィンは頭に浮んださまざまな計画の中から、次のような手配をすることにきめた。クジマーには手紙を持たせて、別の医者のところへやり、自分は阿片を買いに薬局へ行く。そして、もし自分が帰って来ても、まだ医者が起きていないようだったら、例の下男を買収するか、もし下男がその手に乗らなかったら、力ずくででも医者を起さなければならないというのであった。
薬局ではやせぎすの薬剤師が、あの下男がほや掃除をしていたときと同じような冷淡さで、前から待っていた御者のために、粉薬をオブラートで包んでいたが、阿片は売るわけにいかない、と断わった。リョーヴィンはあわてたり、かっとなったりしないように努めながら、医者と産婆の名をあげて、阿片のいるわけを説明し、薬剤師を説得しようとした。薬剤師は仕切りの陰に向って、ドイツ語で阿片を売ってもいいかと相談し、よろしいという返事をもらうと、薬瓶《くすりびん》とじょうごを取りだして、大きい瓶から小さい瓶へゆっくり移し、レッテルをはり、リョーヴィンがそんなことをしなくてもいい、と頼むのもかまわず、封をしたうえ、さらに包もうとした。これにはリョーヴィンもたまりかねて、思いきってその手から瓶をひったくり、大きなガラス戸の外へ駆けだした。医者はまだ起きていなかった。今度はじゅうたんを敷いていた下男は、起すわけにはいかないと断わった。リョーヴィンはあわてずに、十ルーブル紙幣を取りだすと、ゆっくりと一語一語発音しながら、しかも時間をむだにしないように、素早く紙幣を下男に握らせて、ピョートル・ドミートリッチは(今までそうたいした人物ではないと思っていたこのピョートル・ドミートリッチが、今はリョーヴィンの目にどんなに偉大な、重要な人物に思われたことだろう!)いつでも往診してくださるという約束だから、けっして腹なんか立てることはない、どうかすぐ起しに行ってくれ、と説明した。
下男は承知して、二階へあがって行きながら、リョーヴィンに待合室へ通るようにいった。
リョーヴィンは、ドアの向うで医者が咳《せき》ばらいをしたり、歩きまわったり、顔を洗ったり、なにかいったりしているのを耳にした。三分ばかりたった。リョーヴィンには、もう一時間以上もたったような気がした。彼はもうそれ以上待っていられなかった。
「ピョートル・ドミートリッチ、ピョートル・ドミートリッチ!」彼は開いているドア越しに、祈るような声でいった。「どうか、失礼をお許しください。そのままでけっこうですから、ちょっと会ってください。もう二時間以上になるのですから」
「今すぐ、今すぐですよ!」そう答える声がした。が、リョーヴィンは医者がそれを笑いながらいっているのを聞いて、あきれてしまった。
「ほんの一分だけ」
「今すぐです」
医者が靴をはいているうちに、また二分過ぎた。それから医者が服を着て髪をとかすのに、さらに二分経過した。
「ピョートル・ドミートリッチ!」リョーヴィンはまた哀れっぽい声でいいかけたが、ちょうどそのとき、着替えをすませ、髪をとかした医者が姿を現わした。《こんな連中には良心なんてないのだ》リョーヴィンは考えた。《こちらが生きるか死ぬかってときに、髪なんかとかしやがって!》
「お早うございます」医者は彼に手をさしのべながら、まるで相手をからかうような落ち着きぶりでいった。「なにもそうお急ぎになることはありませんよ。で、ご容体《ようだい》は?」
リョーヴィンはできるだけくわしく話をしようと努めながら、妻の容体について必要もないことをこまごまとしゃべりだしたが、たえず自分で自分の話の腰を折っては、これからすぐ自分といっしょに来てくれ、と頼む始末であった。
「いや、そうお急ぎになることはありませんよ。だって、あなたはなにもかもご存じないじゃありませんか。きっと、私なんかも用はないでしょうがね。でも、お約束したことですから、とにかく伺いますがね。しかし、そうあわてる必要はありません。どうか、おかけください、コーヒーでも一杯いかがです?」
リョーヴィンはじろりと医者を見やったが、その目つきはまるで、あなたは私をからかっているんじゃないでしょうね、とでもたずねているみたいであった。しかし、医者もそんなからかう気持など少しもなかった。
「いや、お察しします、お察ししますとも」医者は微笑しながらいった。「私だって家族持ちですからね。しかしですね、こういう場合には、われわれ亭主族は、じつにみじめな存在ですな。私の病家にも、奥さんのお産のたびに、いつもご主人が厩《うまや》へ逃げこむというのがありますからね」
「でも、ピョートル・ドミートリッチ、あなたはどうお考えです? 無事にいくでしょうか?」
「これまでの経過からみて、ご安産といえますよ」
「じゃ、すぐ来てくださいますね?」リョーヴィンはコーヒーを運んで来た召使を、憎々しげににらみながら、いった。
「一時間ばかりしたら」
「いや、どうかお願いですから」
「それでは、コーヒーだけでも、ゆっくり飲ましていただきましょうか」
医者はコーヒーを飲みはじめた。ふたりともちょっと口をつぐんだ。
「ときに、トルコはひどくやられておりますなあ。きのうの外電をお読みになりましたか?」
医者は白パンをむしゃむしゃ食べながらいった。
「いや、私はもうとてもこうしちゃいられません!」リョーヴィンはとびあがっていった。「じゃ、十五分もしたら、来てくださいますね?」
「三十分もしたら」
「きっとですね?」
リョーヴィンは家へもどったとき、公爵夫人と落ち合い、ふたりはいっしょに、寝室の戸口へ近づいた。公爵夫人は目に涙を浮べ、その手は震えていた。リョーヴィンの姿を見ると、夫人は彼を抱いて、わっと泣きだした。
「ねえ、どうですの、リザヴェータ・ペトローヴナ?」夫人は、艶《つや》のある顔に心配そうな色を浮べて、中から出て来たリザヴェータ・ペトローヴナの手をとって、たずねた。
「順調でございます」産婆は答えた。「どうぞ、あなたさまから横におなりになるようにおっしゃってくださいまし。そのほうがお楽でございますから」
リョーヴィンはけさ目をさまして、事の次第を悟った瞬間から、もうなにごとも深く考えたり予想したりしないで、あらゆる思想と感情をとざして、妻の気持を乱さないように、いや、その反対に、妻の心を落ち着かせ、その勇気をささえるように努めながら、目前に迫っていることを耐え忍ぶ決意をかためたのであった。彼はどんなことが起るだろうかとか、どんな結末を告げるだろうとか、などとは考えることもさし控えて、これは普通どのくらいかかるものかということを、いろんな人にたしかめて判断した結果、リョーヴィンは心の中で、五時間ばかり、自分の気持をわれとわが手にぐっとおさえつけて辛抱しようときめたのであった。また彼にはそれが可能であるように思われた。ところが、彼が医者のもとから帰って来て、また妻の苦しみようを見たとき、彼は『主よ、許したまえ、助けたまえ』をますますひんぱんに繰り返し、溜《ため》息《いき》をついたり、天井を仰いだりした。そして、自分にはもうとてももちこたえられそうもない、今にわっと泣きだすか、逃げだすかするだろうと、恐怖さえ感じはじめた。それほど彼は苦しみを味わったのであった。しかも、まだ一時間しかたっていなかった。
しかし、この一時間のあとで、また一時間、二時間、三時間とたって、ついにまる五時間が過ぎた。それは、彼が忍耐の最大限ときめた時間であったが、状況は依然として変らなかった。彼はなおも辛抱していた。ほかになにもすることがなかったからである。彼は刻一刻と、もうこれで忍耐の局限に達したのだ、もう今にも心臓が妻に対する哀れみから張り裂けてしまうだろう、と考えつづけていた。
ところが、さらに幾分か過ぎ、幾時間かたち、さらにまた、幾時間か過ぎた。そして、彼の苦痛と恐怖の思いは、いやがうえにもつのって、緊張していった。
リョーヴィンにとっては、それを別にしてはなにひとつ考えられない日常生活の条件が、もはやまったく存在しなくなった。彼は時間の観念を失ってしまった。時にはわずか数分間――妻が彼をそばへ呼んで、その汗ばんだ手を握らせ、異常な力で夫の手を握りしめるかと思うと、急にまたおしのけたりした数分間が、数時間にも感じられるかと思うと、今度はまた数時間がわずか数分間にも思われるのであった。彼は、産婆から、衝立《ついたて》の向うにろうそくをつけてくれと頼まれ、もう夕方の五時だと知ったときには、すっかりびっくりしてしまった。もしだれかに今はまだ朝の十時だといわれても、彼はそんなにびっくりしなかったであろう。彼はそのとき自分がどこにいるかということも、いつなにがあったかということも、やはりほとんどわからなかった。彼は時にけげんそうな、時に苦しそうな、時に微笑して夫を落ち着かせようとしている、妻の燃えるような顔を見た。彼はまた、公爵夫人が白《しら》髪《が》を振りみだして、こみあげてくる涙を、唇をかみしめて、一生懸命に飲みこみながら、緊張のあまりまっ赤な顔をしているのを見た。さらにドリイをも、太い巻たばこを吸っている医者をも、しっかりしていて、人びとの気持を落ち着かせずにはいない決然たる顔つきの産婆をも、しかめ面《づら》をして広間を歩きまわっている老公爵をも見た。もっとも、これらの人びとがいつやって来ていつ出て行ったか、またどこにいたのかは、まったく知らなかった。公爵夫人は医者といっしょに寝室にいたかと思うと、いつのまにか、食事の用意のできている書斎にいた。かと思うと、それは公爵夫人ではなく、ドリイであったりした。あとになって、リョーヴィンは自分がどこかへ使いにやらされたのも、覚えていた。一度、彼はテーブルとソファを移すように頼まれた。彼は妻にとって必要なことだと思って、一生懸命やったところ、あとになって、彼は自分のために寝床を用意したにすぎないことがわかった。それから、彼は書斎にいる医者のところへ、なにかたずねにやらされた。医者はその返事をしてから、国会における暴動について話しはじめた。それから、彼は公爵夫人のいる寝室へ、金銀の飾りをつけた聖像を取りにやらされた。彼は公爵夫人の連れて来た老女中といっしょに、聖像を取ろうとして、戸《と》棚《だな》の上へよじのぼって、燈明をこわしてしまった。公爵夫人の老女中は彼に、奥さまのことも、燈明のことも、どうかご心配なさいませんようにとなだめた。そこで、彼は聖像を持って行って、キチイのまくらもとへ置き、一生懸命にそのまくらの下へ押しこんだ。しかし、こうしたすべてのことを、いつ、どこで、なんのためにしたのかは、彼も覚えていなかった。彼はまた、なぜ公爵夫人が彼の手をとって、哀れっぽい目つきでその顔をながめながら、どうか気を落ち着けてくれと頼んだのか、なぜドリイがちょっとでも食事をするようにと説得して、彼を部屋から連れだしたのか、いや、なぜ真剣な面持の医者までが同情の目つきで彼をながめ、水薬を勧めたのか、そのわけがわからなかった。
彼はただ一年近く前に県庁所在地の町の宿屋で、兄ニコライの臨終の床で成就されたと同じようなことが、今また成就されようとしているのを知り、かつ感じただけであった。しかし、あのときは悲しみであり、今は喜びであった。もっとも、あの悲しみもこの喜びも、ひとしく日常生活の条件外にあって、この日常生活におけるすきまとでもいうようなものであり、それを通して崇高なあるものがうかがえるのであった。そして、この成就されつつあるものは、どちらの場合にも、同じように、悩ましく重苦しく近づいて来るのであった。そして、どちらの場合にも、魂はこの崇高なるものを観照すると同時に、同じ不可解な働きによって、もはや理性ではとてもついて行くことのできないような偉大な高みへ昇華されるのであった。
『主よ、許したまえ、助けたまえ』彼はたえず心の中でそう繰り返した。彼はあれほど長いあいだ、もう完全に絶縁されたものと考えていたにもかかわらず、幼年時代や少年時代と同じような信じやすい、単純な心をもって神に向っている自分を感じていた。
このあいだじゅう、彼はたえず二つの別々な気分を味わっていた。ひとつは、キチイのそばを離れて、太い巻たばこを次から次へ吸っては、もういっぱいになっている灰皿のふちでそれを消している医者といっしょにいたり、また食事や、政治や、マリヤ・ペトローヴナの病気などの話をしているドリイや公爵といっしょにいたりするときであった。そういうとき、リョーヴィンはふと、一瞬のあいだ、今なにごとが行われているのかをすっかり忘れてしまって、まるで夢からさめたような気分になるのだった。もうひとつは、キチイのそばに、そのまくらもとにいるときであり、そこでは、妻に対する同情のあまり今にも心臓が張り裂けそうでいながら、やはり裂けもしないで、彼はたえず神に祈っているのであった。そして、寝室からもれる叫び声が、彼を忘却の一瞬から呼びさますたびに、彼ははじめの瞬間に味わったのと同じような奇妙な錯覚におそわれるのであった。すなわち、いつも叫び声を聞くたびに、彼はとびあがって、言いわけのために駆けだすのであったが、その途中で、自分が悪いのではないと思いだしては、なんとかして妻を守ってやりたい、助けてやりたいと思うのであった。ところが、妻の姿を見ると、またもや助けることはできないと悟って、恐怖におののきながら、『主よ、許したまえ、助けたまえ』とつぶやくのであった。そして、時がたつにつれて、この二つの気分は、ますます強まっていった。妻のそばを離れていると、彼は妻のことをすっかり忘れて、ますます落ち着いてくるし、妻のもとにいると、妻の苦しみそのものも、それを救ってやれないという無力感も、さらにいっそう彼を苦しめていくのであった。彼は飛びあがって、どこかへ逃げだしたいと思うのであったが、結局、妻のもとへ駆けつけるのであった。
時として、妻があまり何度も自分を呼びつけるときには、彼も妻を責める気持になった。しかし、微笑を浮べたその従順な顔を見て、「とてもお疲れになったでしょう」という言葉を聞くと、彼は神を責めたくなった。しかし、また神のことを思いだすと、すぐさま許しと哀れみとを祈願するのであった。
15
彼は時間が遅いのか早いのか、まるっきりわからなかった。ろうそくはもうすっかり燃えつきていた。ドリイはついさっき書斎へやって来て、医者に横になるように勧めた。リョーヴィンは、医者が話している山師の催眠術師の物語を聞きながら、そこにすわりこんで、彼の巻たばこの灰をながめていた。それはちょうど陣痛のやんでいるときだったので、彼は忘却の状態にあった。彼は今起っていることを、完全に忘れていた。彼は医者の話を聞きながら、それをちゃんと理解していた。と、とつぜん、なんとも形容のしがたい叫び声が起った。その叫び声は、あまりにも恐ろしかったので、リョーヴィンは飛びあがることもできずに、じっと息を殺したまま、おびえたような、もの問いたげなまなざしで医者の顔を見た。医者は小首をかしげて、聞き耳をたてながら、うなずくような微笑を浮べた。すべてがなにもかもあまりに異常だったので、リョーヴィンはもうなにごとにも驚かなかった。《きっと、こうでなくちゃいけないんだろう》彼はそう考えて、そのまますわっていた。それにしても、あれはだれの叫び声だったんだろう? 彼はつとおどりあがって、爪先立ちで寝室へ駆けて行き、産婆と公爵夫人のうしろをまわって、まくらもとの自分にきめられた場所に立った。叫び声は静まったが、今度はなにやら様子が変っていた。どう変ったのか――彼は見もしなければ、わかりもしなかった。いや、見たいとも、わかりたいとも思わなかった。しかし、彼はそれを、産婆の顔つきで、見てとったのであった。産婆の顔はきびしく青ざめて、下顎《したあご》はこころもち震え、その目はじっとキチイの顔にそそがれていたが、相変らず決然たる表情を浮べていた。汗ばんだ頬《ほお》や額に乱れた髪がねばりついて、上気して燃えるような、苦しみ疲れたキチイの顔は、夫のほうへ向けられて、彼の視線を捜していた。上にあげた両手は、彼の手を求めていた。キチイは汗ばんだ両手で、夫の冷たい手をつかむと、それを自分の顔へおしあてはじめた。
「行っちゃいや、ねえ、行っちゃいや! あたし、こわくないわ、ええ、こわくなんかないわ!」キチイは早口にいった。「ママ、イヤリングをはずして。じゃまだから。あなたこわがってなんかいらっしゃらないわね? もうすぐよ、すぐよ、リザヴェータ・ペトローヴナ……」
キチイはひどく早口にいって、にっこりほほえんでみせようとした。しかし、急に、その顔が醜くゆがんで、キチイは夫を自分のそばからおしのけた。
「だめ、ああ、たまらない! 死にそうだわ、死にそうだわ! あっちに行って、あっちに行って!」キチイは叫んだ。そして、またもや、あのなんとも形容のしがたいような叫び声が聞えた。
リョーヴィンは頭をかかえて、部屋の外へ駆けだした。
「大丈夫、なんでもないわよ、なにもかもうまくいってるわ!」ドリイが彼のうしろから声をかけた。
しかし、みんながなんといおうとも、彼は今こそもうなにもかもしまいだと思った。彼は戸口の柱に頭をもたせかけ、隣の部屋に突っ立ったまま、今までついぞ聞いたこともないような、あるなにものかの叫びと咆哮《ほうこう》を聞いていた。そして、彼はこれがかつてキチイであったものが叫んでいるのだということも知っていた。もうとうに彼は赤ん坊などどうでもよくなっていた。いや、今ではその赤ん坊を憎んでいた。それどころか、もう妻の命さえどうでもよかった。彼はただこの恐ろしい苦痛がやんでくれることばかり願っていた。
「先生! これはいったいどうしたんです?ねえ、どうしたんです? ああ、とてもたまらない!」彼ははいって来た医者の手をつかんで、いった。
「もう終りですよ」医者はいった。そして、その顔つきがあまりに真剣だったので、リョーヴィンは終り《・・》という言葉を、死ぬという意味にとってしまった。
彼はわれを忘れて、寝室へ駆けこんだ。彼が最初に見たものは、産婆のリザヴェータ・ペトローヴナの顔であった。その顔は前よりももっと気むずかしく、きびしい表情を浮べていた。キチイの顔は見えなかった。さっきまでその顔があった場所には、その緊張した様子といい、そこから起る響きといい、なにかしら恐ろしいなにものかがあった。彼は心臓が今にも張り裂けるような気がして、寝台の横木に顔をつっ伏せた。恐ろしい叫び声はやまなかった。いや、それはますますひどくなっていったが、やがてまるで恐怖の頂点にまで達したかのように、とつぜん、ぴたりとやんでしまった。リョーヴィンは自分の耳が信じられなかったが、疑うことはできなかった。叫び声は静まった。そして、静かなざわめきと、衣《きぬ》ずれの音と、あわただしい息づかいとが聞えた。それから、とぎれがちながらも、生きいきとした、優しい幸福そうなキチイの声が、静かに「すんだわ」といった。
彼は顔をあげた。と、いつにもまして美しいおだやかな顔をした妻が、両手をぐったりと掛けぶとんの上に投げだして、無言のままじっと、彼を見つめていた。そして、にっこりほほえもうとしたけれど、できなかった。
と、急にリョーヴィンは、この二十二時間過してきた神秘的な、恐ろしい、この世ならぬ世界から、たちまちもとの住みなれた世界へ、しかし、いまや新しい耐えがたいほどの辛福の光に輝いている世界へ、舞いもどって来たような気がした。張りつめていた弦はすっかりたち切られた。まるで思いもかけなかった喜びの号泣と涙とが、恐ろしい力で彼の身内にわき起り、その全身を震わせたので、彼は長いこと口をきくこともできなかった。
彼は寝台の前にひざまずいて、妻の手を唇に押し当てながら、幾度もそれに接吻した。すると、その手はかすかに指を動かして、夫の接吻に答えるのであった。が、そのあいだも寝台の裾《すそ》のほうでは、リザヴェータ・ペトローヴナの器用な手の中で、まるで燭台《しょくだい》にともる小さな火のように、一個の人間の生命が揺れ動いていた。それは、これまでまったく存在していなかったものであるが、やはり人間として同じような権利を主張し、同じような意義をもちながら生きてゆき、自分と同じような人間を作りだしていくものなのであろう。
「まあ、お元気ですこと! しかも、お坊っちゃまでございますよ! もうご心配はいりませんよ」リザヴェータ・ペトローヴナが、震える手で赤ん坊の背中を軽くたたきながら、こういうのを、リョーヴィンは耳にした。
「ママ、ほんとう?」キチイの声がした。
ただ公爵夫人のすすり泣きだけが、それに答えるのであった。
と、沈黙のただなかに、この母親の問いに対する疑いをいれぬ答えとして、室内のそこここに聞える控えめな話し声とはまったく違った、新しい声が起った。それは、どこからとも知れず現われてきた新しい一個の人間の、勇敢な、あたりかまわぬ、なにものをも顧慮しようとしない叫び声であった。
もしこの少し前に、だれかがリョーヴィンに対して、キチイは死んだ、そしておまえも彼女といっしょに死んでしまったのだ、おまえたちの子供は天使だから、神はその前に立っていられるのだ、といったとしても、彼は少しも驚かなかったにちがいない。しかし、彼もいまや現実の世界へ舞いもどってしまったからには、妻が生きていて健康であり、やけにわめきたてている生きものがわが子である、と理解するために、大いに努力して思考力を働かさなければならなかった。キチイは元気で、苦しみは終った。そして、彼はえもいわれぬほど幸福であった。彼はそれを理解して、そのためにまったく幸福であった。しかし、赤ん坊は? それはどこから、なんのためにやって来たのだろう? いや、そもそも何者なのだろう?……彼はどうしてもそれを理解することができず、この考えになじむことができなかった。彼にはそれがなにやらよけいな不必要なものみたいに感じられて、長いこと慣れ親しむことができなかった。
16
九時をまわったころ、老公爵と、コズヌイシェフと、オブロンスキーは、リョーヴィンの部屋に集まって、ちょっと産婦のことを話してから、よもやまの話に移った。リョーヴィンはみんなの話を聞きながら、いつのまにか、けさまでに起った過去のことを思いだすと同時に、きのうあの事件が起るまでの自分のことを思い起していた。すると、まるであれから、百年もたったような気がした。彼はどこか人間のおよびもつかない高みへのぼってしまったような気持で、今話し合っている人たちを侮辱しないために、努めてその高みからおりようとした。彼は話をしながらも、たえず妻のことや、その現在の状態のこまごましたことや、わが子のことなどを考えていた。彼はこのむすこがいるという考えに、自分を慣らそうと努めていた。結婚してこのかた、彼にとっては新しい、未知の意味をもたらした女の世界というものが、いまや彼の観念の中ではとても高くなってしまい、彼の想像などでは及びもつかないものになってしまった。彼はきのうクラブでの宴会の話を聞きながら、《あれは今どうしているだろう? もう寝ついただろうか? どんなぐあいだろう? なにを考えているんだろう? ドミートリイ坊やは泣いているかな?》などと考えていた。そして、話の途中で、なにかいいかけたまま、彼は急に飛びあがって、部屋から出て行くのであった。
「あれのところへ行ってもいいか、知らせによこしておくれ」公爵はいった。
「承知しました。じゃ今すぐに」リョーヴィンは答えて、立ち止りもしないで、妻の部屋へ行った。
キチイは眠っていなかった。そして、近いうちに行われる洗礼のことについていろいろと計画をたてながら、静かに母親と話していた。
彼女は身じまいをし、髪をとかしてもらって、なにやら空色の飾りのついたしゃれたナイトキャップをかぶって、掛けぶとんの上に両手をのせ、仰向けに寝ていたが、目で夫を迎えると、同じくその目で彼を自分のそばへ招いた。明るいそのまなざしは、夫が近づくにつれて、ますます明るく晴れわたった。その顔には、よく死者の相に見られる、あの、この世的なものからこの世ならぬものへの変化が認められたが、しかし、死者の場合には永《なが》の別れであり、この場合には邂逅《かいこう》であった。と、またしても、あの分娩《ぶんべん》のときと同じような興奮が、彼の胸にこみあげてきた。キチイは夫の手を握って、おやすみになれまして、ときいた。彼は答えることができなかったので、自分の弱さを認めながら、顔をそむけた。
「あたしは少し眠れましたわ、コスチャ!」キチイはいった。「だから、今はとても気分がいいの」
キチイは夫の顔を仰いだが、急に、その顔の表情が変った。
「ねえ、赤ちゃんをかしてちょうだい」彼女は赤ん坊の泣き声を聞きつけて、いった。「さあ、かしてちょうだい、リザヴェータ・ペトローヴナ。うちの人にも見てもらいますから」
「さあ、どうぞ。お父さまにも見ていただきましょうね」リザヴェータ・ペトローヴナは、なにやら赤い、異様な、震えおののくものを抱きあげて、こちらへ持って来ながらいった。「まあ、ちょっとお待ちあそばせ。その前に少しおめかししますから」そういって、産婆は、この震えおののく赤いものを、寝台の上に置いて、一本の指だけで持ちあげたり、向きを変えたりしながら、おしめを開いて、なにかふりかけ、またくるんでしまった。
リョーヴィンは、このちっぽけな、哀れな存在《もの》をながめながら、それに対してなにかしら父親らしい感情のしるしだけでも、自分の中に見いだそうと、むなしい努力をつづけた。が、ただ嫌《けん》悪《お》の情だけを覚える始末であった。しかし、赤ん坊が裸にされて、小さいながらも五本の指をそなえ、やはり一人前に、親指だけはほかの指とは違った形をしている、サフラン色の、とても細いかわいらしいおてて《・・・》とあんよ《・・・》がちらと見えたとき、また産婆がその広げている小さいおてて《・・・》を、まるで柔らかいばねでも扱うように、おさえつけて、リンネルの産《うぶ》着《ぎ》の中におしこもうとしたのを見たとき、彼は急に、この小さな生きものに対して激しい哀れみの情を覚え、産婆がけがでもさせぬかという恐怖におそわれて、思わず彼女の手をおさえてしまった。
リザヴェータ・ペトローヴナは笑いだした。
「ご心配はいりませんよ、ご心配はいりませんよ!」
赤ん坊の身じまいができて、しっかりした人形のような格好になると、リザヴェータ・ペトローヴナは自分の手ぎわを自慢するかのようにそれをひと揺りゆすってから、リョーヴィンがむすこのかわいさを、残らず見られるようにと、わきのほうへ身をひいた。
キチイも目を放さないで、じっと横目づかいに、同じほうをながめていた。
「さあ、かして、かしてちょうだい!」彼女はいって、身を起そうとまでした。
「まあ、奥さま、そんなにお動きになっちゃ、いけませんですよ。まあ、お待ちあそばせ。今すぐさしあげますから。その前にお父さまにお坊っちゃまのお元気なところをお目にかけますからね」
そういって、リザヴェータ・ペトローヴナは、その奇妙な、ぐらぐら揺れながら、産着の襟《えり》で頭を半分隠した、赤い生きものを、リョーヴィンのほうへ、片手で抱きあげて見せた(もう一方の手は、ぐらぐらする後頭部を、ただ指の先でささえていた)。しかし、そこにはやはり鼻も、横目をしている目も、ちゅっちゅっと音をたてている唇もあった。
「おかわいい赤ちゃんでございますこと!」リザヴェータ・ペトローヴナはいった。
リョーヴィンは悲しくなって溜息をついた。この『おかわいい赤ちゃん』は、彼にただ嫌悪と哀れみの情を呼びおこすばかりであった。それは、彼が期待していた感情とは、まったく違ったものであった。
彼は、産婆が赤ん坊を慣れない乳房に吸いつかせようと苦心していたあいだ、顔をそむけていた。
とつぜん、彼は笑い声を耳にして、顔をあげた。それはキチイが笑いだしたのであった。赤ん坊が乳を吸いだしたのであった。
「さあ、もうたくさんでございますよ、たくさんでございますよ!」リザヴェータ・ペトローヴナはいった。しかし、キチイはなおも赤ん坊を放そうとしなかった。赤ん坊はその胸の中で眠ってしまった。
「さあ、よくごらんになって」キチイは、夫によく見えるように、赤ん坊を彼のほうへ向けながら、いった。その小さな年寄りじみた顔は、急に、いっそうくしゃくしゃになったかと思うと、赤ん坊はくしゃみをした。
リョーヴィンは微笑を浮べて、感動の涙をやっとのことでおさえながら、妻に接吻すると、薄暗い部屋から出て行った。
彼がこの小さな生きものに対していだいた感情は、自分が期待していたものとはまったく違っていた。この感情の中には、なにひとつ楽しいものも、喜ばしいものもなかった。いや、その反対に、それは新たに生れた悩ましい恐怖であった。それは、傷つきやすい新しい領域が生れたという意識であった。そして、この意識ははじめのうちとても苦しく、また、このたよりない生きものが苦しむようなことはないかという恐怖があまりにも激しかったので、そうしたことにまぎれて、赤ん坊がくしゃみをしたときに味わったあの奇妙なたわいない喜びも、いや、誇らしい感じまでが、いっこうに目だたないのであった。
17
オブロンスキーの財政は、はなはだかんばしくない状態にあった。
森の代金の三分の二は、もはや使いはたされ、残りの三分の一も、そのほとんど全額を一割引きで商人から受け取っていた。商人はもうそれ以上、金を出そうとしなかった。しかもこの冬は、ドリイがはじめて頑強《がんきょう》に自分の財産権を主張して、森の残りの三分の一に対する代金受領契約書に署名することを拒んだので、なおさらであった。俸給はすべて家庭の費用と、いつもたえまないこまごました借金の支払いに消えてしまい、金というものは一文もなかった。
これはおもしろくない、ぐあいの悪いことで、オブロンスキーの考えによると、こんな状態をつづけていくわけにはいかないのであった。こんなになった原因を、彼は自分のもらう俸給が、あまりに少ないからであると解釈していた。彼の占めている地位も、五年前には、たしかにとてもいいものであったが、今では、もうそれほどではなかった。ペトロフは銀行の頭取で、一万二千ルーブルもらっていたし、スヴェンチツキーは会社の重役で一万七千ルーブルもらっていた。いや、ミーチンにいたっては銀行の創立者として、五万ルーブルももらっていた。《どうやら、おれは居眠りをしていて、世間から忘れられてしまったようだな》オブロンスキーはひそかに考えた。そこで、彼は周囲の情勢に耳を澄まし、目を配りはじめて、その冬の終りに、ひじょうに有利な地位を見つけると、さっそくそれに向って工作を開始した。はじめはまずモスクワから、伯父《おじ》や、伯母《おば》や、友人たちを介して運動し、やがて機熟したころを見はからって、春にはみずからペテルブルグへ乗りこんで行った。それは以前にくらべて近ごろずっと多くなった、年収千ルーブルから五万ルーブルまで、いろいろ段階のあるかなり有利な地位の一つで、南部鉄道と銀行との合併による相互信用代理委員会の一員という地位であった。この地位は、すべてのこうした地位と同様、ひとりの人間が具備することのむずかしいほど広い知識と活動力とを要求していた。もっとも、そうした資質を具備している人間はいるはずがなかったが、せめて非良心的な人間よりも良心的な人間がこうした地位についたほうがまだましであった。ところが、オブロンスキーは、単に(軽い意味での)良心的な人物であったばかりでなく、モスクワにおいて良心的な活動家、良心的な作家、良心的な雑誌、良心的な会社、良心的な傾向などというときに、この言葉がもつ特殊な意味において(強調された意味での)良心的な人物であった。これは、人物なり会社なりが、非良心的でないということを意味するばかりでなく、場合によっては、政治に対して非難の針を刺すだけの実力をもっている、という意味であった。オブロンスキーはモスクワにおいてつねにこの言葉の用いられている社会に暮しており、その社会で良心的な人物と見なされていたから、ほかの人たちよりも、この地位を占める権利をもっていたわけであった。
この地位は、年俸七千ルーブルから一万ルーブルの俸給を約束していたし、しかもオブロンスキーは官職を退くことなしに、その地位を占めることができるのであった。この地位を獲得できるかどうかは、二つの省と、ひとりの貴婦人と、ふたりのユダヤ人にかかっていた。これらの人びとには、もうすでに渡りがついていたのであるが、オブロンスキーはペテルブルグへ行き、じきじきにそれらの人びとに会っておく必要があった。いや、そればかりか、オブロンスキーは離婚について、カレーニンからはっきりした返答をもらってやると、妹のアンナに約束していた。そこで、彼はドリイから五十ルーブルの金をもらうと、ペテルブルグへ出かけて行ったのである。
オブロンスキーはカレーニンの書斎に腰をおろして、相手がロシアの財政窮乏の原因を論じた意見書を読むのに耳を傾けながら、自分の用件とアンナのことを切りだそうと、ただその朗読が終るのをひたすら待っていた。
「なるほど、まったくそのとおりですな」彼は、カレーニンがもうそれなしでは文字を読むことのできなくなった鼻《はな》眼鏡《めがね》をはずして、かつての義兄の顔を、不審の表情でながめたときにいった。「そりゃ細かい点に関してはまったくそのとおりだが、しかし現代の原則はやはり自由ということだからね」
「ええ、しかし私が提唱しているのは、その自由の原則を包括する他の原則ですよ」カレーニンは『包括する』という言葉に力を入れながら、いった。それから、そのことを説明してある場所を、読んで聞かせようと、また鼻眼鏡をかけた。
そして、カレーニンは、広い余白をとって、きれいに書かれた原稿をめくって、もう一度、説得力にみちた個所を読みあげた。
「私は保護関税政策を望まないが、それは個人の利益のためじゃなくて、公共の福祉のためなんだ――下層階級のためにも、上流階級のためにも、同様にね」彼は鼻眼鏡の上からオブロンスキーの顔を見ながら、いった。「しかし、あの連中《・・・・》はこれが理解できないんだね、あの連中《・・・・》はただ個人的利害にのみとらわれて、言葉の表現に気をとられているのさ」
オブロンスキーは、カレーニンが自分の政策を受け入れてくれず、ロシアにおけるあらゆる害悪の原因となっているというあの連中《・・・・》のことを、つまり、彼らがどんなことを行なったり、考えたりしているかを話しはじめれば、もう話が終りにきていることを、ちゃんと承知していた。そのため、彼は喜んで自由の原則を撤回して、すべて相手の説に賛成した。カレーニンは考えこむように、原稿をめくりながら、口をつぐんだ。
「ああ、じつは」オブロンスキーはいった、「きみにひとつお願いがあるんだがね。いつかポモールスキーに会うようなことがあったら、ぼくが南部鉄道相互信用代理委員会に、今度あきのできる地位をひじょうに希望していると、ちょっと口添えしてもらいたいんだがね」
オブロンスキーは、この地位を熱望していたので、その名称にもすっかり慣れっこになっていて、少しもまちがわずに、すらすらといってのけた。
カレーニンは、その新しい委員会の活動がどんなものか詳しくたずねてから、じっと考えこんでしまった。彼はその委員会の活動が、なにか自分の立案に相いれないものがあるのではないかと思いめぐらしていたのであった。しかし、この新しい機関の活動範囲が、きわめて複雑なものであるうえ、彼の立案もまたひじょうに広範囲にわたるものであったので、即座にそれを判断することはできなかった。そこで、彼は鼻眼鏡をはずしながらいった。
「そりゃ、そのくらいのことはいってあげてもいいがね。しかし、きみはいったいなんのために、そんな地位を望んでいるんだね?」
「俸給がいいんでね、九千ルーブルまでは出すだろう、ところで、ぼくの財政ときたら……」
「九千ルーブルかね」カレーニンは鸚《おう》鵡《む》返しにいって、眉《まゆ》をひそめた。この俸給の大きな数字は、この面から予想されるオブロンスキーの活動が、つねに緊縮を旨としている彼の立案の根本意義に反することを思い起させた。
「私はね、いつかも覚え書きに書いたとおり、現代においてそのような巨額な俸給こそは、わが国の政治のあやまれる経済 assiette を示すひとつの兆候だと思うがね」
「それじゃ、きみとしてはどういうことを望んでいるんだね?」オブロンスキーはいった。「いや、早い話、銀行の頭取は一万ルーブルももらっているが、これはつまり、それだけの値うちがあるからじゃないか。また、二万ルーブルももらっている技師だっているんだぜ。なにしろ、これは生きた仕事だからね!」
「私の考えじゃ、俸給というものは商品に対する代価のようなものなんだから、やはり需要供給の法則に従わなくちゃならんと思うね。もし俸給額の決め方が、この法則からはずれると、たとえば、同じ専門学校を出たふたりの技師が、両方とも同じくらい知識と才能があるのに、ひとりは四万ルーブルももらっているのに、もうひとりは二千ルーブルで満足しなくちゃならんような事実とか、あるいは、なんら特別の専門知識を持っていない法律家や軽騎兵などを銀行の頭取に任命して、莫大《ばくだい》な俸給を払っているような事実を目撃した場合、私としては、その俸給が需要供給の法則によらないで、情実に左右されていると結論せざるをえないからね。そしてそこには、それ自身としても重大であると同時に、国政にとっても有害な影響を与えている職権の濫用《らんよう》があるんだね。私の考えでは……」
オブロンスキーはあわてて、義弟の言葉をさえぎった。「なるほどね。しかし、きみだって新たにまぎれもなく有益な機関が開設されることには異論はないだろうね。なんといっても、生きた仕事だからね! とくに、事業を良心的に進めていくことが重要だとされているのだよ」オブロンスキーは力説しながらいった。
しかし、良心的という言葉のモスクワ的な意味は、カレーニンに通じなかった。
「良心的ということはただ消極的な資質にすぎないからね」彼はいった。
「まあ、とにかくきみがね」オブロンスキーはいった。「ポモールスキーにちょっと口をきいてくれたら、ぼくは大いに恩に着るよ。まあ、話のついでにでも」
「でもね、そのことならボルガーリノフのほうがいいんじゃないかね」カレーニンはいった。
「いや、ボルガーリノフはもうすっかり承知しているんだ」オブロンスキーは、顔を赤らめながらいった。
オブロンスキーがボルガーリノフの名を聞いて赤くなったのは、彼がけさこのユダヤ人であるボルガーリノフを訪問して、不愉快な記憶をもっていたからであった。オブロンスキーは、自分が勤めたいと思っている仕事が、新しい、生きた、良心的な事業であることを、確信していた。ところがけさ、ボルガーリノフが、明らかにわざと、彼をほかの請願者といっしょに二時間も応接室で待たせたとき、彼は急にばつの悪い思いになった。
彼がばつの悪い思いをしたのは、リューリックの末裔《すえ》である彼オブロンスキー公爵が、猶太《ジュウ》の応接室で二時間も待たされたためか、それとも生れてはじめて、代々国に仕えてきた祖先の例に反して、新しい舞台へ乗りだそうとしていたためか、ともかく、彼はひどくばつの悪い思いをした。オブロンスキーはボルガーリノフのところで待たされたこの二時間のあいだ、元気に応接室のなかを歩きまわったり、頬《ほお》ひげをひねったり、ほかの請願者と話したり、自分が猶太《ジュウ》のところで待たされたということについて、あとで人に聞かせるためのしゃれを考えたりしながら、自分の味わっている気持を、他人はもちろん、自分自身にまで隠そうと努めていた。
しかし、とにかく彼はそのあいだじゅうずっとばつが悪く、いまいましくてならなかった。しかも、それがなんのためか自分でもわからなかった。やっとひねりだした、《猶太《ジュウ》に用があったので、じゅう《・・・》分待たされた》というしゃれがあまりうまくなかったためか、それとも、なにかほかにわけがあったためか、いっこうにわからなかった。そして、やっとボルガーリノフが会ってくれて、自分の卑下した態度に対して明らかに勝ち誇ったように、ばかていねいながらも、ほとんど拒絶同様の返事をしたとき、オブロンスキーは一刻も早くそれを忘れてしまいたいと願った。そのため、今もそのことを思いだしただけで、顔を赤らめたのであった。
18
「さて、ぼくにはもうひとつ用件があるんだよ。そういえばきみも察してくれると思うけれどね……アンナの件だがね」オブロンスキーはしばらく黙っていてから、この不愉快な印象をぬぐい去りながら、いった。
オブロンスキーがアンナの名を口にするや、カレーニンの顔つきはまったく一変してしまった。つい先ほどまでの生きいきした表情のかわりに、疲労と死んだような表情が浮んだ。
「というと、いったいどんな用件ですか?」彼は肘《ひじ》掛《か》けいすの上でからだの向きをくるりとかえて、鼻眼鏡をしまいながら、いった。
「例の件ですよ、あれのなんらかの解決ですよ。ぼくは今きみを」オブロンスキーは《侮辱された夫としてではなく》といいたかったが、それではまずいと考えなおして、言葉をかえた、「一個の政治家としてではなく(これはどうもとってつけたようであった)、単なる一個の人間として、善良な人間として、キリスト教徒として頼んでいるんだ。きみはあれを哀れんでやらなくちゃいけないよ」彼はいった。
「というと、つまり、どういう点ですか」カレーニンは静かにいった。
「なに、あれをただ哀れんでやればいいのさ。きみがぼくみたいに、あれに会っていたら――ぼくはこの冬ずっとあれといっしょにいたんだが――きみもあれをかわいそうに思うにちがいないよ。あれの境遇はひどいものだよ、まったくひどいものだからね」
「いや、私の考えじゃ」カレーニンはいっそう甲高《かんだか》い、ほとんど金切り声で答えた。「アンナは、自分の望んだすべてのものを得ているように思われますがね」
「ねえ、きみ、頼むから、お互いに罪をなすりあうようなことは、やめようじゃないか!もう過ぎ去ったことだからね。きみも知ってるとおり、今あれが待ちこがれているのは、離婚ということだからね」
「しかしですね、たしか、アンナは、私がむすこを引き取ることを要求する場合には、離婚を断念するということでしたがね。私はそう返事をしたので、この件はもう落着したものと思っていたんですが。私としてはもうこの件はすんだものと考えています」カレーニンは金切り声でいった。
「後生だから、そう興奮しないでくれたまえ」オブロンスキーは、義弟のひざにさわりながらいった。「この件はまだ片づいちゃいないよ。もう一度いわせてもらうと、こういうことなんだよ。きみたちふたりが別れたとき、きみはとてもりっぱで、それは寛大な態度をとって、あれになにもかも、自由も、いや、離婚さえも与えてくれた。あれもそれは感謝していたのさ……いや、きみ、これはほんとうだよ。まったく感謝していたのさ。あまり感謝しすぎたものだから、はじめのうちはきみに対する自分の罪を感じて、すべてのことをしっかり考えなかった、いや、考えることができなかったんだね。あれはなにもかも辞退してしまったんだ。ところが、現実と時間が、あれの境遇の苦しくて、やりきれないものだってことを、だんだんはっきりさせてきたんだよ」
「アンナの生活は、私になんの興味もありませんね」カレーニンは眉をつり上げながら、さえぎった。
「失礼だが、ぼくにはそうは信じられないね」オブロンスキーはおだやかにいい返した。「あれの境遇は、あれにとって苦しいばかりでなく、だれにとっても、なんの役にも立たないんだからね。そりゃきみは、あれの自業自得だというだろう。そんなことはあれも自分で承知している。いまさらきみに頼んでいるんじゃないんだ。あれは自分でもちゃんと、とてもあの人にお願いなんかできない、といっているんだ。しかし、ぼくは、われわれ肉親は、いや、あれを愛しているものはみんな、きみにお願いするんだ、こうやって頼んでいるんだよ。なんのためにあれは苦しまなくちゃならないんだい? そのためにだれも得をしていないんだよ!」
「失敬だが、きみは私を被告の立場においているようだね」カレーニンは言葉をはさんだ。
「いや、とんでもない。けっして、そんなことはないよ。誤解しないでくれたまえ」オブロンスキーはまたもや相手の手にさわりながらいったが、それはまるでこうした相手のからだにさわることで、義弟の心を柔らげることができると、確信しているみたいであった。「ぼくのいいたいのはただひとつ、あれの境遇は苦しいものだけれど、それをきみは救ってやることができ、しかもきみはそのためになにひとつ失うことはない、とただそれだけをいいたいのさ。ぼくがなにもかもうまくやってみせるよ、きみの気がつかないようにね。だって、きみは前にそう約束したんじゃないか」
「そりゃ前には約束しましたがね。私としては、むすこの問題がこの件を解決したものと考えているんです。そればかりか、アンナも、少しは寛大な気持をもってくれてもいいと、思っているんですがね」まっ青になったカレーニンは震える唇で、やっとのことでこれだけいった。
「アンナのほうこそ、きみの寛大な心にすべてをゆだねているんだよ。あれが懇願しているのはたったひとつ――あれが現在置かれているやりきれない境遇から救いだしてほしいということなんだよ。あれはもうむすこを渡してくれとはいってないよ、ねえ、きみ、人のいいきみじゃないか、ほんのいっときでも、あれの立場になってみてくれたまえ。あれのような境遇にいる者にとっては、離婚ということはそれこそ生死の問題だからね。もしきみが以前に約束しなかったら、あれも自分の境遇をあきらめて、田舎《いなか》暮しをしていたかもしれないがね。しかし、きみが一度約束したものだから、あれもきみに手紙を書いて、モスクワへ移って来たわけだからね。そして、今モスクワでは、だれか人に会うたびに、まるで心臓に刀を突き刺されるような気持を味わっているんだが、そのモスクワにも六カ月も暮して、毎日毎日この件が解決されるのを待っているんだからね。これはいってみれば、死刑を宣告された人間が首に繩《なわ》をつけられたまま、もしかしたら殺されるかもしれないが、ひょっとしたら許されるかもしれないといって、何カ月も引っぱっておくのと同じことじゃないか。あれを哀れんでやってくれたまえ。あとはぼくがなにもかもうまくやってのけるから……Vos scrupules ……」
「いや、私はなにもそんなことをいってるんじゃない。そんなことじゃない……」カレーニンは、吐きだすような調子で相手をさえぎった。「だがね、私はひょっとすると、自分には約束する権利のないことを、約束したのかもしれんね」
「それじゃ、きみはいったん約束したことを拒否するんだね?」
「いや、私は今まで一度だって、自分にできることの履行を拒否したことなんかありません。ただ、あの約束がどの程度まで可能か、少し時間をかけて考えてみたいのです」
「そりゃいけないよ、きみ」オブロンスキーは、とびあがりながら、しゃべりだした。「そんなことは信じたくないね! あれは女として考えられるかぎりいちばん不幸な境遇にいるんだよ。きみにはそんなことまで拒絶する権利はないはずだよ……」
「約束がどの程度まで可能かどうか。Vous professez d'腎re un libre penseur, しかし、私は信仰のある人間として、このような重大な問題において、キリスト教の掟《おきて》にそむくような行動をとることはできません」
「しかし、キリスト教の社会でも、わが国でも、ぼくの知っているかぎりでは、離婚は許されているじゃないか」オブロンスキーはいった。「いや、離婚はわが国の教会でも許されているよ。そしてわれわれは現に……」
「そりゃ許されていますが、そんな意味ではありませんね」
「ああ、ぼくにはきみという人間がわからなくなったよ」しばらく間をおいて、オブロンスキーはいった。「いや、キリスト教徒の感情に動かされて、そのすべてを許し、いっさいを犠牲にする覚悟をしたのは、あれはきみじゃなかったのかね? (いや、それに感激したのはぼくらじゃなかったのかね?)現にきみは自分で、下着を奪うものには上着も与えよう、といったじゃないか。それなのに、今となって……」
「どうかお願いです」カレーニンは不意に立ちあがり、まっ青な顔をして、顎を震わせながら、金切り声でいいだした。「どうかお願いです、もうやめてください、やめてください……その話は」
「いや、失礼! もし気にさわったのなら、堪忍《かんにん》してくれたまえ、どうか堪忍してくれたまえ」オブロンスキーはどぎまぎして、片手をさしのべ、微笑を浮べながらいった。「ただぼくは使いとして、頼まれたことをいいに来ただけなんだから」
カレーニンも手をさしだして、ちょっと考えてから、いった。
「私はよく考えてから、指示を求めなければなりません。あさって、はっきりしたご返事をさしあげましょう」彼はなにやら思案しながら、いった。
19
オブロンスキーがもう帰ろうとしているところへ、コルネイが取次にやって来た。
「セルゲイ・アレクセーヴィチさまがおいでになりました!」
「セルゲイ・アレクセーヴィチって、だれだね?」オブロンスキーはいいかけたが、すぐさま思いだした。
「ああ、セリョージャのことか!」彼はいった。《セルゲイ・アレクセーヴィチなんていうから、どこかの局長かと思ったよ。アンナも、おれに会って来てくれって頼んだっけ》彼は思いだした。
すると彼は、アンナが自分を送りだしながら『兄さんはいずれにしてもあの子に会うでしょう。そしたら、くわしくきいて来てね、あの子が今どこにいて、だれがつきそっているかってことを。スチーヴァ……ねえ、もしできたら! だって、そんなことできるでしょう?』といったときの、あのおどおどしたみじめな表情を思いだした。オブロンスキーは、この『もしできたら』がどういうことを意味するかを悟った。つまり、もしできたら、むすこをこちらへ引き取れるように離婚の話をまとめてくれ、というのであった……もう今となっては、そんなことは考えるまでもなかったが、それでもとにかくオブロンスキーは、甥《おい》に会うことがうれしかった。
カレーニンは義兄に対して、むすこにはけっして母親の話をしないことにしているから、どうか母親のことはひと言もいわないようにしてくれと頼んだ。
「あの子は母親に会ってから、ひどい病気をしたものですからね。まさか母親がやって来るとは思わなかったものだから」カレーニンはいった。「一時は命さえあやぶんだぐらいでしたが。今は合理的な治療と夏の海水浴で、すっかり健康を回復して、医者のすすめで、学校へやってみましたがね。ところが、友だちのおかげで、今じゃすっかり元気になって、よく勉強してますよ」
「ほう、すっかりりっぱな若者になったね!いや、これじゃまったくセリョージャじゃなくて、まさしくセルゲイ・アレクセーヴィチだね!」オブロンスキーは、青い上着に長ズボンをはき、悪びれずに、さっそうとはいって来た、からだのがっちりした美しい少年の姿を見ると、にこにこ笑いながらいった。少年は健康で快活らしい様子をしていた。少年は他人のつもりで伯父におじぎをしたが、それと気づくと、さっと顔を赤らめ、まるでなにか侮辱でもされて腹を立てたようにくるりと横を向いた。少年は父のそばへ近づいて、学校からもらって来た成績表を渡した。
「やあ、これならたいしたものだ」父はいった。「もう行っていいよ」
「この子は少しやせたかわりに、背が高くなったね。もう子供じゃなくて、りっぱな少年だ。ぼくはこのくらいの年ごろが好きだよ」オブロンスキーはいった。「どうだね、私を覚えているかい?」
少年は素早く父親のほうを振り返った。
「覚えていますよ、mon oncle」少年は伯父の顔をちらと見て答えたが、また目を伏せてしまった。
伯父は少年を呼びよせて、その手をとった。
「やあ、どうだね、近ごろはどうしている?」彼はいろんな話をしたいと思いながらも、なんといったものかわからないで、こういった。
少年は顔を赤らめ、返事もしないで、自分の手をそっと伯父の手から引き抜こうとした。オブロンスキーがその手を放すと、少年は放たれた小鳥のように、さぐるような目でちらっと父の顔を見て、足速に部屋を出て行った。
セリョージャが最後に母を見てからもう一年たっていた。あれ以来、少年はもう母のことをけっして聞かなかった。そして、同じ年に少年は学校へ入れられ、友だちというものを知り、友だちを愛するようになった。あの対面のあとで、病気になったほどの母親に関する空想や思い出も、今ではもう少年の心をとらえていなかった。そんなものが頭に浮んでくると、少年は男の子であり学生である自分にとって恥ずかしい、女々《めめ》しいものとして、追いはらうように努めていた。少年は、父と母とのあいだに争いがあって、ふたりは別れたのだ、ということを知っていたし、自分は父親といっしょに残る運命になったことを承知していて、その考えに慣れようと努めていた。
母親に似た伯父を見ることも、少年には不愉快であった。というのは、それは、あの恥ずべきものと考えている思い出を、呼び起したからであった。さらに、自分が書斎の入口で待ちながら、耳にした言葉からも、ことに、父親と伯父の顔つきから判断しても、ふたりのあいだで母親の話がかわされていたにちがいないと察したので、少年はなおいっそう不愉快であった。そこで、セリョージャは自分といっしょに暮していて、おかげをこうむっている父親を非難したくないためと、とりわけ、自分で屈辱的なものと考えている感傷にとらわれないために、自分の平安を乱しに来たこの伯父を見ないように、またこの伯父が思いださせたことについて考えないように努めたのであった。
ところが、あとから出てきたオブロンスキーが、階段のところで少年を見つけ、そばへ呼んで、学校では遊び時間になにをしているかときいたとき、セリョージャは父がいなかったので、伯父と話しこんでしまった。
「ぼくたちのところでは今鉄道ごっこがはやっているんです」少年は伯父の質問に答えていった。「それはね、こうやるんですよ、べンチの上にふたりがすわって、それがお客になるんです。そしてひとりはその同じベンチの上に立って、みんながそれにつながるんです。手でつながってもいいし、バンドを握っててもいいんです。こうやって、部屋の中を駆けまわるんです、ドアはもうその前からみんなあけておくんです。でもね、車掌になるのは、とてもむずかしいんですよ!」
「その立ってるやつがかい?」オブロンスキーは、にこにこしながらきいた。
「ええ、とても勇気がいるし、うまくやらなくちゃだめなんですよ。だって、急に止ったり、だれかが落っこちたりすることもありますからね」
「なるほど、そりゃむずかしそうだね」オブロンスキーは、今ではもう子供らしさがうすれて、まったく無邪気といえないような、その生きいきとした母親ゆずりの目を、わびしげにながめながら、いった。そしてカレーニンにアンナのことをいわないと約束しておきながらも、彼は我慢しきれなくなった。
「じゃ、お母さんのことを覚えているかい?」彼は不意にたずねた。
「いえ、覚えていません」セリョージャは早口に答えると、見るまにまっ赤になって、目を伏せてしまった。そして、もう伯父はそれ以上、なにも少年からききだすことはできなかった。
スラヴ人の家庭教師は、それから三十分後に、自分の教え子を階段の上で見つけたが、相手がすねているのか泣いているのか、わからなかった。
「ねえ、どうしたのです、倒れたときにきっとどこか打ったんでしょう?」家庭教師はいった。「だから、いったでしょう、あの遊びはあぶないって。校長先生に申しあげなくちゃいけませんね」
「ころんで打ったんだろうなんていったって、だれにも見られちゃいませんよ。ほんとうですよ」
「じゃ、いったいどうしたんです?」
「放っといてください!……ぼくが覚えていたって、いなくたって……あんな人の知ったことじゃないじゃないか! なんだって覚えていなくちゃならないんだ? ねえ、どうかぼくのことをかまわないでくださいよ!」少年はもう家庭教師にではなく、全世界に向っていっているのであった。
20
オブロンスキーは例によって、ペテルブルグではむだに時を過さなかった。ペテルブルグでは、妹の離婚問題と自分の就職運動という用件のほかに、例によって、彼にはいわゆるモスクワのかびくさいにおいを、洗い落す必要があったのである。
モスクワは、caf市 chantants や乗合馬車があるとはいっても、やっぱりよどんだ沼であった。それはつねにオブロンスキーの感じていることであった。彼はしばらくモスクワにいて、とりわけ家族のそばに暮していたために、気が滅入っていくのを感じていた。長いこと、どこへも出かけずにモスクワ暮しをしていると、結局は妻のふきげんや小言、子供たちの健康や教育、また勤務上のくだらない利害関係などに心が乱されるようになり、ついには、借金をかかえているということさえ、気にかかってくるのであった。ところが、ちょっとペテルブルグへやって来て、モスクワのように人びとが平々凡々と暮しているのと違って、ちゃんと人間らしく生活している仲間の中でしばらくでも暮すと、たちまち、そんな思いはなにもかも、火の前の蝋《ろう》のように溶けて消えてしまうのであった。
妻とはなんぞや?……と、きょうも彼はチェチェンスキー公爵と話し合ったばかりであった。チェチェンスキー公爵には妻も家族もあった。いや、貴族幼年学校の生徒であるもう一人前の子供たちもあった。それにもかかわらず、別に正式でない家庭があって、そこにも子供たちがいた。第一の家庭もりっぱなものではあったが、チェチェンスキー公爵は第二の家庭にいるときに、もっと幸福を味わっていた。しかも彼は長男を第二の家庭へ連れて行ったりして、それをむすこの教育のためになかなか有益な啓発的なことだと思っている、などとオブロンスキーに話してきかせたものである。これがモスクワだったら、人びとはなんというだろう?
じゃ、子供たちは?……ペテルブルグでは、子供たちは父親の生活を妨げなかった。子供たちは学校で教育されており、モスクワで流行しているような――たとえばリヴォフ家のように――子供たちにはありったけのぜいたくな暮しをさせながら、両親のほうはただ働いて苦労するばかりという、あんなむちゃな考え方は存在しなかった。ここでは、教養ある人間が当然そうするように、人間は自分自身のために生きなければならない、ということをちゃんと理解していた。
じゃ、勤務は?……勤務もここでは、モスクワでやっているように、先の見込みのない、根気一点ばりの、労役ではなかった。ここの勤務にはおもしろみがあった。いろんな人に会ったり、奉仕したり、気のきいたことをいったり、おもしろいことを人前で巧みにやって見せたりして、それだけでブリャンツェフのように、思いがけない出世もできるのであった。彼にはきのうオブロンスキーも出会ったが、今では第一流の高官であった。こんな勤務ならおもしろみがある。
とりわけ、金銭上の問題に関するペテルブルグ人の見解は、オブロンスキーをほっとさせるものであった。バルトニャンスキーは、その train からみて、すくなくとも年五万ルーブルは生活にかけているにちがいないが、きのうこの問題についておもしろいことを話してくれた。
食事の前、オブロンスキーは話がはずんで、バルトニャンスキーにこんなことをいった。
「きみはモルドヴィンスキーと懇意だったはずだね。ひとつぼくを助けると思って、あの男にぼくのことをたったひと言でもいいから口添えしてくれないか。じつは、ぼくがねらっているいすがあるんでね。例の南部鉄道の……」
「いや、ぼくはどうせ忘れてしまうからだめだよ……しかし、きみも猶太《ジュウ》といっしょにあんな鉄道事業をやろうなんて、物好きだね……きみがなんといったって、やっぱりありゃけがらわしいことだぜ」
オブロンスキーは、あれは生きた仕事だとはいわなかった。どうせバルトニャンスキーには、そんなことをいっても、わからないにちがいないからであった。
「なにしろ、金がいるんでね、とても暮していけないんだよ」
「だって、現に暮しているじゃないか?」
「そりゃ暮してるがね、借金で」
「なんだって? じゃ、たくさんあるのかい?」バルトニャンスキーは、同情の面持でたずねた。
「ああ、とてもたくさん。二万ルーブルも」
バルトニャンスキーは、愉快そうにからからと笑った。
「いやはや、幸福な男だよ!」彼はいった。「ぼくなんか百五十万も借金があるのに、無一物なんだぜ。それでも、ごらんのとおり、まだ暮していけるからね」
そしてオブロンスキーはそれが口先ばかりでなく、実際、ほんとうのことであるのを知った。ジワーホフは三十万からの借金があり、ふところには一コペイカもないくせに、ちゃんと暮している。しかもその豪勢な暮しぶりといったら! クリフツォフ伯爵は、もうとっくに社会から葬り去られた身でありながら、女をふたりもかこっている。ペトロフスキーは、五百万ルーブルも蕩尽《とうじん》しながら、いまなお同じような暮しをつづけているばかりか、大蔵省に勤めて、二万ルーブルの年俸をもらっている。しかし、こうしたことのほかに、ペテルブルグは肉体的にもオブロンスキーに快い影響を与えた。つまり、彼を若返らせるのであった。モスクワにいると、彼は時に白髪を見つけたり、食後に居眠りをしたり、伸びをしたり、階段を苦しそうな息をつきながらのぼったり、若い女を相手にしても退屈したり、舞踏会でも踊らなかったりすることがあった。ところが、ペテルブルグへ来ると、彼はいつも骨の髄から、十年は若返るような気がするのであった。
彼がペテルブルグで味わった気分は、外国旅行から帰ったばかりの六十歳のピョートル・オブロンスキー公爵が、ついきのう彼に話してくれたのと同じものであった。
「わしらはここでは、どうもうまく暮せないね」ピョートル・オブロンスキーはいった。「きみは信じないかもしれんが、わしはバーデンでひと夏過したんだが、いや、まったく、すっかり若返ったような気分だったよ。若い女の子なんか見ても、すぐ気が動いたりして……ちょっと飯をくって、一杯やっても、すぐ力がわいて、精がつくんでな。ところが、ロシアへ帰って来たらば、家内のところへも行かにゃならん、いや、田舎《いなか》へも行かにゃならんというわけで、うそのようだが、二週間もすると、もう部屋着なんか着こんで、食事のときにも着替えをしない始末だからな。若い女の子のことなんか考えるどころか、すっかり爺《じじ》くさくなってしまってな。ただもう後生を願うことで精いっぱいさ。これでもパリあたりへ行けば、また元どおりになれるだろうがね」
オブロンスキーも、ピョートル・オブロンスキーとまったく同じ相違を感じた。モスクワにいると、すっかり気分がゆるんでしまって、実際、そんな調子で長く暮したら、それこそ後生願いをはじめないともかぎらなかった。が、ペテルブルグへやって来ると、彼はまた自分をちゃんとした一人前の男だと感ずるのであった。
トヴェルスコイ公爵夫人ベッチイと、オブロンスキーとのあいだには、もうかなり以前から、とても奇妙な関係が生れていた。オブロンスキーはいつも冗談半分に夫人のあとを追いまわして、これまた冗談半分に、とてもぶしつけなことをしゃべっていた。彼はそれがなによりも、夫人の気に入ることを承知していたからであった。カレーニンと例の話合いをした翌日、オブロンスキーは夫人の家へ寄り、すっかり若返った気分になって、例の冗談半分のごきげんとりとほらを吹いているうちに、つい深入りしてしまい、もう引っこみのつかぬ羽目におちいってしまった。しかも、かわいそうなことに、彼は夫人が好きでなかったどころか、どうにもいやでたまらなかったのであった。こんなことになったのは、夫人が彼のことをとても気に入ったからであった。そんなわけで、ミャフキー公爵夫人がたずねて来て、このふたりの差向いにけりをつけてくれたときには、彼は大喜びであった。
「まあ、あなたもいらしていたのね」ミャフキー公爵夫人は、彼を見ていった。「ときに、あのお気の毒なお妹さんはどうしていらっしゃいます? まあ、そんなふうにじろじろあたしをごらんにならないでくださいましよ」夫人はつけ足した。「世間の人が――ええ、あの方より百倍も千倍も劣るような人たちまでが、みんなしてあの方の攻撃をはじめてから、あたしはあの方のなさったことを、りっぱだと思うようになりましたわ。あの方がペテルブルグへいらしたとき、ヴロンスキーが知らせてくれなかったのを、あたしおこっておりますのよ。あたし、あの方をおたずねして、どこへでもお伴したんですのにねえ。どうか、あたしからくれぐれもよろしくとお妹さんにお伝えくださいましな。さあ、あの方のことを話して聞かせてくださいまし」
「ええ、あれの境遇はとても苦しくて、あれは……」オブロンスキーは『お妹さんのことを話して聞かせてくださいまし』というミャフキー公爵夫人の言葉を、持ち前の単純な心から真《ま》に受けて、話しはじめようとした。が、ミャフキー公爵夫人は例によって、すぐさまそれをさえぎって、自分のほうから話しはじめた。
「あの方は、あたしを除いてみんながこっそりしていることをなさっただけですのに。人をだましたくなかったので、それこそりっぱにやっておのけになったんですわ。それに、あの気ちがいのあなたの義弟《ボー・フレール》をお捨てになったのはとりわけごりっぱでしたわね。失礼なことを申してごめんくださいね。みんなはあの人のことをそりゃ聡明《そうめい》だ、聡明だっていってましたが、あたしひとりだけはばかだっていってましたのよ。それを今になって、あの人がリジヤ伯爵夫人や、Landau と結びついたのを見て、みんなはあの人のことを、気ちがいだといいだしたんですよ。あたしは世間のいうことに同意したくないんですけれど、今度ばかりはそうもまいりませんの」
「ほう、ではひとつ私に事情を説明してくださいませんか」オブロンスキーはいった。「これはいったいどういうことなんでしょうね? じつはきのう妹の件で、あの人をたずねて、はっきりした返事をしてくれといったんですがね。あの人は返事をしないで、少し考えさせてくれというんですよ。ところが、けさ、私は返事のかわりに、リジヤ伯爵夫人のところへお越しねがいたい、という招待を受け取ったんですよ」
「ええ、そう、そうなんですよ!」ミャフキー公爵夫人は、さもうれしそうに言葉をつづけた。「あのおふたりはきっと、ランドーの意見を聞くんですよ」
「え、ランドーにですって? なんのために? いったいそのランドーって何者です?」
「まあ、じゃあなたは Jules Landau をご存じないんですの? Le fameux Jules Landau, le clairvoyant? あれもやはり気ちがいですけれど、あなたのお妹さんの運命は、あの男の意のままなんですよ。ほら、ごらんなさい。田舎暮しをしていると、なにもわからなくなるんですよ。このランドーというのは、パリのあるお店の commis だったんですが、ある日お医者さまのところへ行って、そこの待合室でつい居眠りをしたんですって。そして、夢うつつのあいだにそこにいた患者さんひとりびとりに療法を教えはじめたんですよ。しかもそれがふしぎに当りましてね。その後、ユーリイ・メレジンスキー――ご存じでしょう、あのご病人を?――の奥さまが、このランドーのうわさを聞いて、ご主人のところへ連れて来たんですの。今さかんにご主人を治療しているんですけれど、あたしにいわせれば、ちっとも効果はないみたいなんですよ。だって、ご主人は相変らず、ひ弱そうにお見受けしますもの。あのおふたりはすっかり信用しちまって、あの男を方々引きまわしたあげく、とうとうロシアへ連れて帰って来たというわけなんですの。すると、ここでもみんなが争っておしかけましたので、あの男もみんなを治療しはじめたんです。ベズーボフ伯爵夫人なんか、あの男に病気をなおしてもらったために、すっかり惚《ほ》れこんでしまって、とうとう養子にしたくらいですからねえ」
「どうして養子になんかしたんです?」
「とにかく養子にしたんですよ。ですから、あの男も今はランドーじゃなくて、ベズーボフ伯爵なんですの。でも、そんなことはどうでもいいんですが、あのリジヤが――あたしはあの人が大好きなんですけれど、でもあの人の頭はまともじゃないんですのね――あたりまえの話かもしれませんが、このランドーにまいってしまって、今じゃあの人も、カレーニンさんも、あの男の意見を聞かなくちゃなにひとつきめられない始末なんですからねえ。ですから、あなたのお妹さんの運命も、今じゃこのランドー、またの名をベズーボフ伯爵の手に握られているというわけなんですのよ」
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バルトニャンスキーのところで、すばらしい晩餐《ばんさん》をごちそうになり、コニャックをしこたま飲んだあと、オブロンスキーは指定された時間より少し遅れて、リジヤ伯爵夫人のもとを訪れた。
「奥さんのところには、ほかにだれか来ているのかい? フランス人かね?……」オブロンスキーは見なれたカレーニンの外套《がいとう》と、ホック留めの妙に単純な感じの外套をながめながら、玄関番にたずねた。
「カレーニンさまと、ベズーボフ伯爵さまでいらっしゃいます」玄関番はしかつめらしく答えた。
《ミャフキー公爵夫人のいったとおりだな》オブロンスキーは、階段をのぼりながら考えた。《おかしな話だな! しかし、伯爵夫人と親しくなっておくのも悪いことじゃなかろう。なにしろたいした勢力家だからな。もし夫人がポモールスキーにひと言でも口添えしてくれたら、それこそもうしめたものだがな》
外はまだとても明るかったが、リジヤ伯爵夫人の小さな客間は、もう窓掛けがおろされて、ランプがともされていた。
ランプの下の丸いテーブルを囲んで、伯爵夫人とカレーニンが腰かけて、なにやら小声で話しこんでいた。あまり背の高くない、やせぎすの男が、女のような骨盤に、内股《うちまた》の足をして、美しい目をぎらぎら輝かせ、フロックの襟《えり》まで長髪をたらした、美しいが、ひどく青白い顔を見せながら、向うの端に立って、いくつも肖像画をかけた壁をながめていた。オブロンスキーは女主人とカレーニンに会釈をしてから、もう一度思わずその未知な男を見やった。
「Monsieur Landau ! 」伯爵夫人は、オブロンスキーが驚くほどもの柔らかな、用心ぶかい声でその男に呼びかけた。そして、夫人はふたりを引き合せた。
ランドーは急いで振り返って、そばへ寄り、微笑を浮べながら、オブロンスキーのさしのべた手の中に、そのじっと動かない汗ばんだ手を入れると、すぐまた向うへ行って、肖像画をながめはじめた。伯爵夫人とカレーニンは、意味ありげに目を見かわした。
「お会いできて、たいへんうれしゅうございますわ、とりわけ今晩は」リジヤ伯爵夫人は、カレーニンのそばの席をオブロンスキーに指さしながら、いった。
「あたくし、ご紹介するときには、Landau と申しましたが」夫人はフランス人の顔をちらと見て、それからすぐカレーニンに視線を移して、小声でいった。「じつはこの方はベズーボフ伯爵なんですの、きっと、あなたもご存じかと思いますが。ただ、この方はそういう呼び方がお好きでないので」
「ええ、私も聞きました」オブロンスキーは答えた。「たしか、ベズーボフ伯爵夫人のご病気を、すっかりなおされたとか」
「あの奥さんは、きょううちへいらっしゃいましたけれど、それはお気の毒でしたわ」夫人はカレーニンに話しかけた。「今度のお別れは、あの方にはとてもつらいものなんですの。なんといってもひどい打撃ですものね!」
「じゃ、あの人もいよいよ発《た》つんですか?」カレーニンはたずねた。
「ええ、あの人はパリへ帰るんですの。きのうお告げをお聞きになったので」リジヤ伯爵夫人は、オブロンスキーを見ながらいった。
「ああ、お告げをね!」オブロンスキーは鸚《おう》鵡《む》返しにいったが、彼は自分がまだ鍵《かぎ》を握っていないある独特ななにかがここでは行われている、いや、もしくは行われようとしているのだから、自分はできるだけ慎重な態度をとらなければならないと感じていた。
束《つか》の間《ま》の沈黙が訪れた。それが過ぎると、リジヤ伯爵夫人は、いよいよ本題にはいりますといわんばかりに、微妙な笑いを浮べながら、オブロンスキーに話しかけた。「あたくしは、前々からあなたを存じあげておりましたが、こんなに親しくお目にかかれて、ほんとうにうれしゅうございますわ。 Les amis de nos amis sont nos amis. でも、親しいお友だちになるには、その方のお気持をようく考えてあげなくちゃいけませんけれど、あなたはカレーニンさんに対して、それをなさっていらっしゃらないんじゃありませんかしら。あたくしがなんのお話をしているか、おわかりになりますでしょうね?」夫人はその美しいもの思わしげなひとみを上げて、いった。
「ええ、奥さん、ある程度までは。そりゃカレーニン氏の境遇は……」オブロンスキーはなんのことかよくわからなかったが、あたらずさわらずの返事をしようと思いながら、いった。
「変ったのは、なにも外面的な境遇ではございませんよ」リジヤ伯爵夫人は、きびしい調子でいったが、それと同時に、惚れぼれした目つきで、つと立ちあがってランドーのほうへ歩み寄ったカレーニンの姿を、追っていた。「あの方の魂が変ったのですよ。あの方には新しい魂が授かったのです。あたくしが心配しているのは、あなたがあの方の心に起った変化を、まだはっきりとお察しできないのじゃないかということなんですの」
「ええ、つまり、私はだいたいのところなら、その変化を想像することができます。なにしろ、私たちはこれまでずっと親しくしておりましたし、現に今でも……」オブロンスキーは優しい視線で伯爵夫人の目にこたえながら、心の中では、ふたりの大臣のうちどちらに口添えを頼んだらいいだろう、夫人がそのどちらとより親しいのだろうと、思案していた。
「あの方の魂の中に起った変化は、身近なものへの愛情を弱めるものではありません。いいえ、それどころか、あの方の魂に起った変化は、そうした愛情を強めるものにちがいありませんわ。でも、あなたにはこう申しあげている意味が、おわかりにならないのじゃないでしょうか。まあ、お茶をおひとついかがですか?」夫人はお茶をお盆にのせて運んで来た召使に目をとめながら、いった。
「すっかりというわけにはまいりませんが、しかし、そりゃあの人の不幸は……」
「ええ、不幸ですとも。でも、それは、あの方の魂が一新されて、主の祝福で満たされたときに、至高の幸福に変ったのでございますよ」夫人はオブロンスキーの顔を、惚れぼれとながめながらいった。
《この分なら、きっと両方に口添えを頼むことができるぞ》オブロンスキーは考えた。
「ええ、もちろんですとも、奥さん」彼はいった。「しかしですね、そうした変化はひじょうに内密なものですから、だれでも、たとえどんなに親しい人間でも、口に出すのを好まないんじゃないでしょうか?」
「いいえ、その反対ですとも! あたしどもはよくお話しして、お互いに助け合わなくちゃいけませんもの」
「ええ、そりゃいうまでもありませんね。でも、信念の相違というものもありますし、それに……」オブロンスキーは、もの柔らかな微笑を浮べていった。
「神聖な真理の問題に、信念の相違なんてあるはずはございませんよ」
「ええ、そりゃ、もちろんそうですが、しかし……」オブロンスキーはどぎまぎして、口をつぐんだ。彼はやっと宗教の話をしているのだな、と悟ったからである。
「あの人は今にも眠りそうですよ」カレーニンが、伯爵夫人のそばへ来て、意味ありげにささやいた。
オブロンスキーは振り返った。ランドーは窓ぎわの肘《ひじ》掛《か》けいすの腕に肘をつき、その背にもたれながら、首をたれて、すわっていた。彼は自分へ向けられた人びとの視線に気づいて、頭を上げると、子供っぽい無邪気な微笑を浮べた。
「どうぞお気になさらないで」伯爵夫人はいって、そっとカレーニンにいすを押しやった。「あたくしの気づいたところでは……」夫人がなにやらいいだしたとき、召使が手紙を持って部屋へはいって来た。リジヤ伯爵夫人は、素早く文面に目を通すと、ちょっと客に断わって、驚くべき早さで返事を認《したた》め、それを召使に渡して、テーブルへもどって来た。「あたくしの気づいたところでは」夫人はしかけた話をつづけた。「モスクワの方は、とくに殿方は、宗教に対してそれは冷淡ですのね」
「いや、それは違いますよ、奥さん。モスクワ人はいちばん堅実だというのが定評ですよ」オブロンスキーは答えた。
「そうですな。しかし、私の知っているかぎりでは、きみは残念ながら、その冷淡な人の部類に属しているようですがね」カレーニンは疲れたような微笑を浮べて、彼のほうへ向いていった。
「まあ、どうして冷淡でいられるんでしょうねえ!」リジヤ伯爵夫人はいった。
「いや、私はそうしたことに冷淡だというのじゃなくて、ただ時機の到来を待っているんですよ」オブロンスキーは持ち前の人の心を和らげるような微笑を浮べながら、いった。「私はまだその時機ではないと思っているんですよ」
カレーニンとリジヤ伯爵夫人は、目を見合せた。
「われわれとしては、自分がもうその時機になったかどうかということは、けっして知ることができないのです」カレーニンはきびしい調子でいった。「われわれとしては、もう心がまえができているかどうかということは、考えるべきじゃないのです。神のみ恵みというものは、人間の思案によってみちびかれるものじゃありませんから、時には、一生懸命に努めているものには降って来ないで、サウロの場合のように、心がまえのできていないものの上に、降って来ることもあるのですからね」
「いえ、まだ今じゃなさそうですわ」そのあいだずっとフランス人の動作を見守っていたリジヤ伯爵夫人はいった。
ランドーは立ちあがって、みんなのそばへやって来た。
「お話をうかがってもよろしいですか」彼はたずねた。
「ええ、けっこうですとも。あたくし、あなたのおじゃまをしてはいけないと思いましたので」夫人は、優しい目つきで彼の顔をながめながらいった。「さあ、どうぞここにおかけくださいまし」
「光を見失わないようにするためには、ただ目を閉じないようにしていればいいのです」カレーニンは言葉をつづけた。
「ああ、もしあなたが私どもの味わっている幸福をご存じでしたらねえ。私どもはいつも自分の魂の中に、神さまがいてくださるのを感じているんですからねえ」カレーニンは、さも幸福そうに微笑を浮べながらいった。
「でも、人間というものはどうかすると、そんな高みにはのぼっていけないような気がすることがありますからね」オブロンスキーはいった。彼はそうした宗教的な高みを認めるのは、自分の良心をゆがめることであると感じながらも、それと同時に、たったひと言ポモールスキーに口添えしてくれるだけで、待望の地位を手に入れてくれるかもしれぬこの勢力家の貴婦人の前で、自分の自由を表明することを決しかねたのであった。
「というと、罪がその障害になるとおっしゃりたいんですのね?」リジヤ伯爵夫人はいった。「でも、それはまちがった考え方でございますよ。信ずるものにとっては、罪などございませんもの、罪はもうあがなわれておるのですから。Pardon 」夫人はまた別の手紙を持ってはいって来た召使のほうを見て、つけ足した。夫人は手紙に目を走らせて、口頭で返事をした。「あす、太公妃さまのお屋敷で……といっておくれ……信ずるものにとっては罪などございません」夫人は話をつづけた。
「そうですね、しかし行為をともなわぬような信仰は、死んだも同然ですからね」オブロンスキーは教理問答の中の一句を思いだして、今はただ口もとの微笑だけで、自分の自主性を守りながら、いった。
「ああ、それはヤコブの手紙にある聖句ですね」カレーニンは、いくらか非難の調子をこめて、リジヤ伯爵夫人のほうへ向いていった。その様子から見て、これは明らかにふたりのあいだで一再ならず論じた事がらであるらしかった。「この聖句のまちがった解釈が、どれくらい害毒を流しているかわかりませんよ! この解釈くらい、人を信仰から遠ざけるものはありませんからね。『自分にはなすべきことがない、だから信ずることもできない』というわけですが、そんなことはどこにもいってないのですよ。いや、いわれているのは、その正反対のことなんですから」
「神さまのために働いたり、勤労や精進によって自分の魂を救ったりするなんてことは」夫人は、さも嫌《けん》悪《お》にたえないような軽蔑《けいべつ》の色を浮べていった。「わが国の坊さんたちの野蛮な解釈ですよ……そんなことはどこにも書いてなんかありゃしませんよ。これはもっとずっと簡単で、やさしいことなんですから」夫人は持ち前のはげますような微笑を浮べて、オブロンスキーを見ながら、つけ足した。これは夫人が、宮廷の不慣れな環境でまごまごしている若い女官たちをはげますときに見せるものであった。
「私どもは、私どものために受難されたキリストによって救われたのです。私どもは信仰によって救われたのです」カレーニンは目つきで夫人の言葉に賛意を表しながら、相槌《あいづち》を打った。
「Vous comprenez l'anglais ? 」リジヤ伯爵夫人はたずねてから、わかるという返事を聞くと、立ちあがって、小さな書棚の上の本を捜しはじめた。「あたくし『 Safe and Happy 』か、それとも『 Under the wing 』を読んでみたいと思うのですけれど」夫人はたずねるように、カレーニンの顔をちらと見て、いった。そして書物を見つけると、またもとの席にもどって、それを開いた。「これはとても短いものでございますけれど。ここには信仰にいたる道と、その信仰によって魂を満たされる幸福、つまり、いっさいのこの世的なものを超越した幸福のことが書いてございますのよ。信仰をもっている者はけっして不幸になんかなりませんわ、なぜって、その人はもうひとりきりではないからです。まあ、あなたもいまにおわかりになりますわ」夫人が読みはじめようとすると、また召使がはいって来た。「ポロズジン夫人? あすの二時にと申しあげておくれ。ええ、そう」夫人は読もうとしているページに指をはさんで、溜息《ためいき》とともに、その美しいもの思わしげなひとみで前を見つめながら、いった。「ほんとうの信仰というものは、こんな働きをするんでございますよ。ねえ、マリイ・サーニナをご存じでいらっしゃいますか? あの方のご不幸を? あの方はたったひとりの赤ちゃんを亡《な》くされたのですよ。それで、絶望のどん底に突きおとされていらしたんですけれど、それがどうでしょう? あの方はそれに代る親友を発見なさいましてね、今じゃ赤ちゃんの亡くなったことを、神さまに感謝されていらっしゃいますのよ。これこそ信仰の与える幸福でございますよ」
「ええ、それはほんとうですね……」オブロンスキーは、相手が読みはじめたら、ひと息ついて自分の考えをまとめられるだろうと喜んで、いった。《いや、今夜は、どうやら、なにも頼まないほうがいいらしいな》彼は考えた。《ただ、なんとかへまをやらないで、早いところ退散しなくちゃ》
「あなたはご退屈なさいますでしょうね」リジヤ伯爵夫人はランドーのほうを向いていった。「あなたは英語をご存じないから。でも、これはごく短いものですから」
「いや、私にもわかりますでしょう」ランドーは相変らず微笑を浮べながらいうと、目をつぶった。
カレーニンとリジヤ伯爵夫人は、意味ありげに目を見合せた。そして朗読がはじめられた。
22
オブロンスキーは、そこで聞かされた耳新しい、ふしぎな言葉に、すっかり面くらったような気がしていた。ペテルブルグ生活の複雑さは、モスクワ生活の沈滞から彼を引き出すために、概して彼に刺激的な作用を与えた。しかし、彼も自分に近しいなじみぶかい環境では、こうした複雑さを理解し、かつ愛したのであるが、この慣れぬ環境にあっては、ただ面くらって、茫然《ぼうぜん》とするばかりで、とてもすべてを包容することはできなかった。リジヤ伯爵夫人の朗読に耳を傾け、自分の上に注がれているランドーの、美しい、無邪気な、いや、ずるそうな――彼は自分でもよくそれがわからなかった――目を感じているうちに、オブロンスキーはなにかしら頭の中に一種特別の重苦しさを感じはじめていた。
彼の頭の中にはきわめて種々さまざまな考えが、入り乱れていた。《マリイ・サーニナは、自分の赤ん坊が死んだのを喜んでいるって……今ちょっと一服したら、さぞ気持がいいだろうなあ……救われるためには、ただ信じさえすればよいのだが、坊さんたちにはそれをどんなふうにしたらいいのかわからないのに、リジヤ伯爵夫人にはわかっているのだ……それにしても、どうしてこんなに頭が重いんだろう? あのコニャックのせいかな、それとも、ここがあんまり変てこなためかな? それでも、おれはどうやら今までぶしつけなことはなにもしなかったらしいな。でも、やっぱり、もうこうなったら、あの頼みは持ちだすわけにはいかないな。この連中は、他人にお祈りをさせるという話だが、それだけはごめんこうむりたいな。だって、あんまりばかばかしいじゃないか。それにしても、夫人の読んでいるのはなんてくだらないことだろう、でも、発音はなかなかいいな。ランドーはベズーボフなんだな、でも、なんだってベズーボフなんだろう?》とつぜんオブロンスキーは、下顎《したあご》が動きだして、あくびが出そうなのを感じた。彼はあくびを隠そうと頬《ほお》ひげをなでて、ぶるっと身ぶるいした。が、そのすぐあとから、はやくも自分が居眠りしかけて、今にもいびきをかきそうな気がした。その瞬間『あの人は眠ってらっしゃいますわ』というリジヤ伯爵夫人の声に、はっとわれに返った。
オブロンスキーは、自分がなにか悪いことをして、見つかったような気がして、おびえたように目をあけた。が、『あの人は眠ってらっしゃいますわ』という言葉は、自分ではなくて、ランドーのことをいったのだと知って、すぐさまほっとした。フランス人も、オブロンスキーと同じく眠っていた。しかし、オブロンスキーの居眠りは、彼が考えたとおり、ふたりを侮辱したにちがいないが(もっとも、彼としてもべつにはっきりそう考えたわけではなかった。なにしろ、すべてがあまりにも奇妙に思われたからであった)、ランドーの居眠りはふたりを、ことにリジヤ伯爵夫人をひどく喜ばせたのであった。
「Mon ami」夫人は衣《きぬ》ずれの音をたてないように、絹の服の襞《ひだ》を持ちあげながら、興奮のあまり、カレーニンを「アレクセイ・アレクサンドロヴィチ」でなく Mon ami と呼びかけながら、いった。「Donnez-lui la main. Vous voyez? しっ!」夫人はまたはいって来た召使を制した。「今はお会いしません」
フランス人は肘掛けいすの背に頭をもたせて、眠っていた、いや、眠っているふりをしていたのかもしれなかった。そして、ひざの上においた汗ばんだ片手を、まるでなにかをつかもうとするかのように、弱々しく動かしていた。カレーニンは立ちあがると、用心ぶかくしようと努めながら、やはりテーブルの端にぶつかって、フランス人のそばへ歩み守り、その手の上に自分の手をのせた。オブロンスキーも同じく立ちあがると、もし自分がまだ正気に返っていないのなら、早くさましたいと思いながら、大きく目を見開いて、ふたりをかわるがわるながめていた。これはすべて現実の出来事であった。オブロンスキーは、自分の頭がしだいに変になっていくような気がしていた。
「Que la personne qui est arriv仔 la derni俊e, celle qui demande, qu'elle sorte! Qu'elle sorte ! 」フランス人は目を閉じたままで、いった。
「Vous m'excuserez, mais vous voyez …… Revenez vers dix heures, encore mieux demain. 」
「Qu'elle sorte ! 」フランス人は、いらだたしそうに繰り返した。
「C'est moi, n'est ce pas ? 」
そして、そうだという返事を聞くと、オブロンスキーは、夫人に頼もうと思っていたことも、妹の用件もけろりと忘れて、ただ一刻も早くここを逃げだしたい一心で、爪先立ちで部屋を抜け出ると、まるで伝染病患者の家からでも逃げだすように、一目散に往来へ駆けだした。そして、少しでも早く正気になろうと思って、長いこと御者を相手に世間話をしたり、冗談をとばしたりしていた。
フランス劇場では、やっと最後の幕に間に合い、それからタタール人の料理屋へ出かけて、シャンパンの杯を前にしたとき、オブロンスキーはやっと吸いなれた空気にひたって、いくらかほっとした。しかし、それでもやはり、この晩は、どうしてもいつものような気分にはなれなかった。
ペテルブルグでの宿にしているピョートル・オブロンスキーの屋敷へ帰ってみると、オブロンスキーはベッチイから手紙が来たのを知った。彼女は先ほどの話をぜひ片づけたいから、あす来てほしいと書いてあった。彼がこの手紙を読み終えて、顔をしかめたとたん、階下でなにか重いものでも持ち運ぶらしい召使たちのばたばたという足音が聞えた。
オブロンスキーは様子を見に部屋を出た。それは、若返ったピョートル・オブロンスキーであった。彼はすっかり酔っぱらってしまって、階段があがれなかったのである。しかし、オブロンスキーの姿を見ると、自分を立たせてくれと命じて、彼のからだにつかまりながら、いっしょに彼の部屋へ行き、どんなふうにその晩を過したかという話をして、たちまち、眠ってしまった。
オブロンスキーは、めったにないことであるが、すっかり気が滅入ってしまい、長いこと寝つかれなかった。彼はなにを思いだしてもすべて忌わしかったが、なかでもいちばん忌わしく、まるで恥ずべきことのように思いだされたのはリジヤ伯爵夫人の屋敷で過したこの晩のことであった。
翌日、彼はカレーニンからアンナとの離婚を拒絶するというはっきりした返事を受け取った。そして、この決定は、昨晩あのフランス人がほんとうともうそともわからぬ眠りの中でいったことに根ざしていることを悟った。
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家庭生活においてなにかを実行するためには、夫婦のあいだの完全な決裂か、あるいは愛情に根ざした意見の一致が絶対に必要である。ところが、夫婦の関係があいまいで、それがどっちつかずの場合には、どんなことも実行するわけにはいかないのである。
世の中には、夫婦が互いにあきあきしながらも、永の年月をそのままの状態で暮している家庭がたくさんあるが、それはただ完全な決裂も一致もないからにほかならない。
ヴロンスキーにとっても、アンナにとっても、暑さとほこりにまみれたモスクワの生活は耐えがたかった。太陽は春というよりも、むしろ夏のように照りつけていたし、並木通りの木という木はもうとうに若葉をつけて、その葉がはやくもほこりまみれになっていたからであった。それにもかかわらず、ふたりはもうかなり前にきめたヴォズドヴィジェンスコエへの引きあげをのばして、ふたりともいやでたまらないモスクワの生活をつづけていた。それは最近ふたりのあいだに一致というものがなくなっていたからであった。
このふたりのあいだを離ればなれにしているいらだたしさは、外面的にはなんらの原因も持っていなかった。そのため、こうした状態を解決しようとするいっさいの試みは、単にそれを取りのけないばかりか、かえって増大させるばかりであった。こうした内面的ないらだたしさは、アンナにとっては、ヴロンスキーの愛情が減退したことがもとになっていたし、彼にとっては、アンナのために自分がこんな苦しい立場に立たされているという悔悟の情と、その立場をアンナが楽にしようとしないどころか、かえって苦しいものにしているという不満に根ざしていた。ふたりはどちらも、自分のいらだたしさの原因を口にこそ出してはいわなかったが、互いに相手がまちがっていると考えて、口実を見つけては相手にそれを証明しようと努めていた。
アンナにとって彼のすべては、その習慣も、思想も、希望も、精神的また肉体的特徴も、いっさいをひっくるめて、ただひとつのものに、つまり、女性に対する愛情ということに帰結されていた。しかも、この愛情は、彼女の感覚からいえば、自分ひとりにだけ集中されねばならぬものであった。ところが、いまやこの愛情が薄らいだのであった。したがって、彼女の判断によれば、彼はその愛情の一部をほかの女性に、数人もしくはひとりの女性に移したにちがいない、と思って、嫉妬《しっと》した。アンナが彼を嫉妬したのは、特定の女性に対してではなく、彼の愛情が薄らいだからであった。さらに、彼女はまだ嫉妬のはっきりした対象がなかったので、それを捜しだそうとした。ほんのちょっとした暗示だけでも、アンナは自分の嫉妬を、ひとつの対象から別のものへ移した。時には、彼が独身時代からの関係でたやすく交渉をもつことができるいやしい女たちに嫉妬するかと思えば、時には、彼がいつでも会うことのできる社交界の婦人に嫉妬し、また時には、彼が自分との関係にきりをつけて、結婚したいと望んでいる架空の令嬢に嫉妬したりした。そして、この最後の嫉妬が、なによりもアンナを苦しめた。これはとりわけ、彼自身が打ち明け話のとき、母はまったくおれを理解してくれない、こともあろうに、ソローキン公爵令嬢と結婚しろなんて勧めるんだから、とついうっかり口をすべらしたからであった。
こうして、アンナは彼を嫉妬しながら、彼に対して憤慨し、あらゆることに憤慨の口実を見つけた。自分の境遇の苦しさのすべてを彼ひとりの罪として責めた。彼女が天涯孤独の状態でモスクワにおいて味わったあの悩ましい期待の心境も、カレーニンが不決断で返事の遅れたことも、自分の孤立無援さも――なにもかもすべて彼のせいにしてしまった。もし彼に愛情があったなら、彼女の境遇の苦しさを理解して、そこから救い出してくれたであろう。彼女が田舎でなく、モスクワに暮していることも、やはり彼の責任なのであった。彼はアンナの望んでいるように、田舎に埋もれて暮すことができなかったのだ。彼には社交界が必要だったために、自分をこんな恐ろしい状態におきながら、その苦しさを理解しようとはしなかったのだ。そしてまた、自分が永久にわが子と引き裂かれてしまったのも、やはり彼が悪いからであった。
時としてふたりのあいだに訪れる愛情こまやかなときでさえも、アンナを安心させなかった。彼女は相手の愛情の中に、前にはなかった落ち着きと自信のかげを認めて、そのためにかえっていらいらするのであった。
それはもう黄昏時《たそがれどき》であった。アンナは、独身者たちの宴会に出かけた彼の帰りを待ちながら、たったひとりで彼の書斎の中を、あちこち歩きまわっていた(そこは往来の騒音があまり聞えない部屋であった)。そして、きのう自分たちがけんかしたことを、細かいニュアンスまで思い返していた。記憶に刻みこまれていた侮辱的な言葉から次々にさかのぼって、そのいさかいのきっかけとなったところまで引き返し、ついに、そのときの話の発端までたどり着くと、アンナはあんな罪のない、どちらの心にもかかわりのない話から、あんな争いが引き起されたとは、とても信じられなかった。いや、まったくそれはそのとおりであった。事の起りは、彼が女学校なんか不要なものだといって嘲笑《ちょうしょう》し、彼女がそれを弁護したことからであった。彼は女子教育一般を軽蔑《けいべつ》して、アンナが面倒をみているイギリス娘のハンナなどにも、物理の知識などはまったく必要ないといったのである。
それがアンナをいらだたせた。彼女はその言葉の中に、自分の仕事に対する侮蔑的なあてこすりを見たのであった。そして、彼女は自分が受けた苦痛に対するお返しを考えついて、それを口に出してしまった。
「あたしは、自分を愛してくれる人が記憶してくれるようには、あたしというものを、あたしの感情を、あなたに記憶してもらいたいとは思っていませんけれど、でもただのデリカシーぐらいはもっていただけるものと思っていましたのに」アンナはいった。
すると、彼は、いまいましさから顔をまっ赤にして、なにか不快なことをいった。アンナはそれに対して自分がなんと答えたか、もう覚えていなかった。しかし、すぐその場で彼はなんのためか、いや、きっとまた彼女を傷つけようというつもりからだろうが、こんなことをいったのである。
「ぼくはきみがあの娘を溺愛《できあい》していることなんかに興味はないね。そうじゃないか、だって、ひと目でそれが不自然とわかるもの」
アンナが自分の苦しい生活をまぎらすために、やっと築きあげたこの世界を破壊しようとする彼のこの残酷さと、彼女を虚偽だ不自然だといって責める彼のこの不条理とは、ついに彼女を憤激させてしまった。
「あたし、ほんとに悲しいわ。だって、あなたはただ粗野な物質的なものだけ理解されて、それが自然に見えるというんですもの」アンナはそういうと、部屋を出てしまった。
昨晩、彼がアンナのもとへやって来たとき、ふたりはもう争いのことを口にしなかった。しかし、ふたりとも争いはしずまったものの、すっかり過ぎ去っていないことを感じていた。
きょう、彼は一日じゅう、家にいなかった。そしてアンナは彼といがみあっているのだと思うと、さびしく苦しくてたまらなかったので、いっさいを忘れ、彼を許し、彼と和解したくなり、自分が悪かったのだと思い、彼を弁護するような気持になった。
《あたしひとりが悪かったんだわ。いつもいらいらしていて、すぐ意味もなく嫉妬ばかりしているんですもの……あの人と仲直りして、田舎へ帰りましょう、あそこへ行けば、もっと気分も落ち着くでしょうから》アンナは自分にいいきかせた。
『不自然だね!』そのときふと、アンナは自分をなによりも侮辱したひと言を、いや、言葉そのものよりもむしろ、自分を傷つけてやろうという彼の気持を思いだした。《あの人がなにをいおうとしたか、あたし、知ってるわ。自分の娘をかわいがらないで、他人の子をかわいがるのは不自然だ、といいたかったんだわ。子供に対する愛情なんて、あの人にわかるもんですか、あの人のために犠牲にしたセリョージャに対するあたしの愛情が、あの人にわかってたまるもんですか! でも、あれはただあたしの心を傷つけようと思ってしたまでなんだわ! いいえ、あの人はほかの女を愛しているんだわ、きっと、そうにちがいないわ》
こうして、アンナは自分の心を落ち着かせようと思いながら、もう何度も通ったところを、またもや堂々めぐりして、以前のいらいらした気分にもどって来たのに気づくと、思わず自分目身にぞっとした。《ほんとに、どうしてもだめなのかしら? なにもかもあたしひとりが悪いということにできないかしら?》アンナは心につぶやいて、またはじめから出なおした。《あの人には真実があって、正直で、あたしを愛しているんだわ。あたしもあの人を愛しているし、近いうちに夫との離婚もできるんだわ。そのうえになにがいるんだろう? ただ落ち着きと信頼だけだわ。そして、あたしはすべての罪を自分ひとりで引き受けるんだわ。ええ、今度こそあの人が帰って来たらすぐ、あたしが悪かったのよといおう。そりゃ、あたしはべつに悪いのじゃないけれど……そして、ふたりで田舎へ帰ることにしよう》
そして、もうこれ以上考えたり、またいらいらした気分になったりしないために、アンナはベルを鳴らして、田舎へ帰るしたくをするから、トランクを持って来るようにと命じた。
十時に、ヴロンスキーは帰って来た。
24
「ねえ、どうでした、おもしろうございまして?」アンナは彼を出迎えながら、すまなそうな、つつましやかな顔色を浮べてたずねた。
「なに、いつものとおりさ」彼はひと目でアンナのきげんがいいことを見てとって、答えた。彼はもうこうした変化には慣れていたが、きょうは自分も上きげんだったので、とくにそれがうれしかった。
「ほ、ほう! こりゃ、いいね!」彼は玄関の控室にあったトランクを指さしていった。
「ええ、もう帰らなくちゃいけませんわ。あたしちょっと馬車で出かけましたところ、あんまりいい気持なので、急に田舎へ帰りたくなりましたの。ねえ、あなたもべつにおさしつかえはないんでしょう?」
「いや、それこそぼくの望むところさ。すぐもどって来るからね。よく相談しよう。じゃ、ちょっと着替えをして来るから。お茶のしたくをさせておいてくれ」
そういって、彼は書斎へ行った。
彼の口にした『こりゃ、いいね!』という言葉には、まるで、子供がだだをこねるのをやめたときにでもいうような、ちょっと小ばかにしたところがあった。いや、それよりもっと侮辱を感じさせられたのは、彼女のすまなそうな態度と、彼の自信に満ちた態度との対照であった。アンナは一瞬、心の中に闘争意欲がこみあげて来るのを感じたが、ようやくそれをおさえつけて、今までと変らぬ楽しげな態度で、ヴロンスキーを迎えた。
彼がもどって来たとき、アンナはあらかじめ用意しておいた言葉を一部分繰り返しながら、きょう一日の出来事や、出発に関する自分の計画などを話して聞かせた。
「ねえ、あたしにはまるで霊感といってもいいほどの気持がわいてきましたのよ」アンナはいった。「なんだってここで離婚を待っているんだろう? そんなことは田舎にいても同じことじゃありませんか? もうこれ以上待っていられませんわ。あたし、もうそれをあてにしたくありませんし、離婚のことなんか聞きたくもありませんわ。だって、そんなことはあたしの生活になんの影響もありゃしないって、きめてしまったんですもの。あなたも賛成してくださるでしょう?」
「ああ、するとも!」彼はアンナの興奮した顔をちらと不安そうにながめて、答えた。
「クラブではどんなことをなさったの? どんな方たちがいらっしゃいまして?」アンナはちょっと間をおいて、たずねだ。
ヴロンスキーは客の名前をあげた。
「食事はすばらしかったし、それに、ボート・レースもあったので、なかなかおもしろかったよ。しかし、モスクワは ridicule なしじゃすまされないところなんだね。スウェーデン王妃の水泳教師とかいうおかしなご婦人が現われてね、自分の技《わざ》を披《ひ》露《ろう》したりしたよ」
「まあ? 泳いだんですの?」アンナは眉《まゆ》をひそめてたずねた。
「なんだか変に赤い色の costume de natation を着た年とった醜い女でね。それはそうと、じゃいつ出発するね?」
「まあ、なんてくだらない思いつきなんでしょう! それじゃ、その女はなにか特別な泳ぎ方でもするんですの?」アンナは相手の問いに答えないで、いった。
「いや、べつに変ったことはないのさ。だから、いったじゃないか、ひどくばかげたものだって。じゃ、いったいいつ出発しようというんだね」
「いつ出発するかですって? そりゃ早ければ早いほどようございますわ。あすじゃ間に合いませんから、あさってにしましょうよ」
「そうだな……いや、待ってくれ。あさっては日曜日で、ぼくは母のところへ行かなくちゃならないんだ」ヴロンスキーは、どぎまぎしながらいった。というのは、彼が母の名を口にするやいなや、アンナがじっと疑いぶかそうに、自分を見つめたのを感じたからであった。彼がどぎまぎしたのでアンナの疑いを深くする結果となった。アンナはかっとなって、彼のそばから身を離した。今はもうスウェーデン王妃の水泳教師ではなく、ヴロンスキー伯爵夫人といっしょにモスクワ郊外の村に住んでいるソローキン公爵令嬢が、アンナの頭に浮んで来たのであった。
「あすでもいらっしゃれるじゃありませんか!」アンナはいった。
「いや、それがだめなんだ。ぼくの出かけて行く用事に必要な委任状と金があすは受け取れないんでね」彼は答えた。
「そんなら、あたしたち、もう帰るのをすっかりやめましょう」
「え、そりゃなぜだい?」
「あたし、それより遅くなるようなら、もう発つのはやめますわ。月曜日がだめならもうけっして発ちませんわ」
「いったいどういうわけだね?」ヴロンスキーはびっくりしたようにいった。「だって、そんなことまったく無意味じゃないか!」
「そりゃあなたには無意味でしょうよ。だって、あなたにはあたしのことなんか、どうでもいいんですもの。あなたって方は、あたしの生活を、理解しようとなさらないんですもの。ここであたしの気をまぎらしてくれていたのはただひとつ、あのハンナだけですわ。それをあなたときたら、虚偽だなんておっしゃるんですもの。だって、きのうそうおっしゃったでしょう。あたしは自分の娘をかわいがらないで、あんなイギリス娘をかわいがっているようなふりをしているけれど、それは不自然だなんて。それじゃ、あたしがここでどんな生活をしたら自然なのか、教えていただきたいわ」
一瞬、アンナはわれに返って、自分の決意を裏切ったことに、ぞっとした。しかし、彼女は自分で自分を滅ぼすようなことをしていると知りながらも、自分をおさえることができなかった。彼のほうがまちがっていることを、証明せずにはいられなかった。彼に屈服することはできなかった。
「ぼくはけっしてそんなことはいわなかったよ。ただそんな突拍子な愛情には同感できない、といっただけだよ」
「なぜあなたって方はご自分の率直さを自慢なさりながら、ほんとうのことをおっしゃらないんでしょうね?」
「ぼくはけっしてそんなことを自慢した覚えはないし、それにうそをついたこともけっしてないよ」彼はこみあげてくる怒りをじっとこらえながら、静かにいった。「いや、まったく残念だね、もしきみが尊敬しないで……」
「尊敬なんて、ほんとは愛情がなくちゃいけないのに、それがからっぽなので、それを隠すために考えだしたものですわ……、もし、あなたがあたしをもう愛していらっしゃらないのなら、ちゃんとそうおっしゃってくださったほうがいいわ、そのほうがずっと正直ですわ」
「ああ、もうとてもたまらないね!」ヴロンスキーは、いすから立ちながら叫んだ。それから、アンナの前に立ちはだかって、ゆっくりといった。「なんだってきみはぼくの忍耐力をためそうとするんだ!」彼は、まだいろいろいいたいことがあるが、それを我慢しているのだといわんばかりの調子でいった。「忍耐にも限度があるからね」
「それはどういう意味なんですの?」アンナは彼の顔じゅうに、とりわけ、その凄《すご》味《み》をおびた残酷な目に表われた憎《ぞう》悪《お》の色にぞっとしながら、思わず叫んだ。
「ぼくがいいたいのはね……」彼はしゃべりだしたが、すぐやめてしまった。「いったいきみはぼくにどうしてほしいというんだ、それがききたいね」
「あたしになにを望むことができて? いいえ、あたしに望むことができるのは、あなたがあたしを捨てないでほしいってことぐらいだわ、あなたは捨てようと思ってらっしゃるようだけれど」アンナは彼がいいきらなかったことを察して、いった。「でもね、あたしが望んでいるのは、そんなことじゃないんですよ。それは第二義的なことですわ。あたしのほしいのは愛情なのに、それがないんですもの。だから、もうなにもかもおしまいですわ」
アンナは戸口のほうへ歩きだした。
「まあ、お待ち! お……待ちったら!」ヴロンスキーは、眉に寄せた暗いしわを消しはしなかったが、アンナの手をとって引き止めながら、いった。「いったいどうしたというんだ? ぼくが出発を三日のばさなくちゃならないといったら、おまえはそれに対して、ぼくがうそをついてるとか不正直だとかいったりして」
「ええ、もう一度繰り返して申しますが、あたしのためになにもかも犠牲にしたなんていって、あたしを責めるような人は」アンナはまた以前のいさかいのときの言葉を思いだして、いった。「そんな人は不正直よりもっと悪い人ですわ、ええ、それこそ情のない人ですわ」
「いや、もう忍耐にも限度がある!」彼は叫ぶと、さっとアンナの手を放した。
《あの人はあたしを憎んでいる。それはたしかなことだわ》アンナは考えた。そして無言のまま、振り返りもせずに、ふらふらした足どりで部屋を出て行った。
《あの人はほかの女を愛しているんだわ、これはもうなによりもたしかなことだわ》アンナは自分の居間へはいりながら、心の中でつぶやいた。《あたしは愛情がほしいのに、それがないんですもの、もうなにもかもおしまいだわ》アンナは自分で自分の言葉を繰り返した。《だから、片をつけなくちゃ》
《でも、どんなふうに?》彼女はそう自問して、鏡の前の肘掛けいすに腰をおろした。
さて、これから自分はどこへ行ったものだろう――育ててくれた伯母《おば》のところか、ドリイのところか、それとも、ひとりで外国へ行ってしまおうか? とアンナは考え、さらに、あの人《・・・》は今書斎でなにをしてるだろう、このいさかいはほんとうにもう最後のものだろうか、それともまだ仲直りの可能性があるだろうか? それにしても、ペテルブルグの知人たちは、自分のことをなんというだろう、カレーニンはこれをどんなふうに見るだろう、などという思いや、もしこれでほんとに決裂してしまったら、あとはどんなことになるだろうといったようなことについて、さまざまな思いが頭に浮んだが、彼女は心底からそうした考えに没頭したわけではなかった。その心の底にはただひとつ彼女の興味をひきつけるぼんやりした思いがあったが、彼女はまだそれをはっきり意識することができなかった。彼女はもう一度カレーニンのことを思いだすと、産後の病気のころと、そのころたえず頭にあった例の気持を思いだした。《なぜあたしは死ななかったのかしら?》と、そのころ自分のいった言葉と、そのときの気持が記憶に浮んできた。すると、アンナは不意に、自分の心の底にあるものを悟った。そうだ、これこそいっさいを解決するただひとつの考えであったのだ。《そうだ、死ぬことだわ!……》
《カレーニンとセリョージャの恥も名誉も、あたしのひどい恥も――なにもかもこの死によって救われるんだわ。死ぬことだわ。そうすれば、あの人も後悔して、あたしのことをかわいそうに思い、愛してくれるにちがいないわ、あたしのために苦しむにちがいないわ》アンナは自分を哀れむようにこわばった微笑を頬《ほお》に浮べたまま、肘掛けいすにすわって、左手の指輪を抜いたりはめたりしながら、自分が死んだあとの彼の気持を、まざまざと心に描いてみるのであった。
近づいて来る足音が、彼の足音が、アンナをもの思いから呼びさました。指輪をはめるのに気をとられているようなふりをして、アンナは彼のほうを振り返ってみようともしなかった。
ヴロンスキーはアンナのそばへ寄って、その手をとると、静かにいった。
「アンナ、あさって発つことにしよう、もしそうしたいのなら。ぼくはなんでも聞くよ」
アンナは黙っていた。
「どうしたんだね」彼はきいた。
「ご自分でわかってるくせに」アンナはいったが、その瞬間、もうこらえきれなくなって、わっと声をたてて泣きだした。
「あたしを捨ててちょうだい、捨ててちょうだい!」アンナは泣きじゃくりながら、いった。「あたし、あす出て行きます……いいえ、それ以上のことをやりますわ。あたしはどうせふしだらな女ですよ! あなたの首にぶらさがってる重石《おもし》ですよ。でも、これ以上あなたを苦しめたくありませんわ、ええ、そんなことはいやです! あなたを自由にしてあげますわ。あなたはあたしをもう愛しちゃいないんですもの、あなたはほかの女の人を愛しているんですもの」
ヴロンスキーは、どうか気をしずめてくれとアンナに頼み、そんな嫉妬には一片の根拠もないし、自分の愛情はけっして冷《さ》めたことがないし、これからも冷めることはない、現に今は前にもまして強い愛情を感じている、と説得した。
「アンナ、なんだってきみはこんなに自分も、ぼくをも苦しめるんだね?」彼はアンナの手に接吻《せっぷん》しながらいった。いまや彼の顔には、優しい愛情が現われていた。アンナは、彼の声に涙の響きがあるのを自分の耳で聞き、そのしめりを自分の手に感じたような気がした。と、その瞬間、アンナの絶望的な嫉妬は、狂おしい激情的な愛情に変った。アンナは彼を抱きしめて、その頭といわず、首といわず、手といわず、接吻の雨を浴びせた。
25
アンナはもうすっかり和解ができたと感じながら、朝のうちからいそいそと、出発の準備にかかった。昨晩はお互いに譲り合っていたので、出発が月曜日になるか火曜日になるかきまってはいなかったが、今はもう出発が一日ぐらい早かろうが遅かろうが、まったく平気な気持で、アンナはかいがいしく出発の準備をすすめていた。アンナが自分の居間で、開いたトランクの上にかがみこむようにしながら、荷物を選り分けていたとき、もう着替えをすました彼が、いつもより早めにやって来た。
「じゃ、これからちょっと母のところへ行ってくるよ。母はエゴールの手を通して、金を送ってくれるかもしれないし。そうなれば、あすにも発てるよ」彼はいった。
アンナは、まったく上きげんであったにもかかわらず、母の別荘へ行くという言葉を聞くと、なにかちくりと胸に痛みを感じた。
「いいえ、いいのよ、あたしだってしたくが間に合いませんから」アンナはいったが、すぐそのとき、《そんなら、はじめからあたしの望んだとおりにすることもできたのに》と考えた。「いいえ、ご自分でなさろうと思ったとおりにしてちょうだい。さあ、食堂へ行ってらして。あたしもすぐまいりますから。ちょっとこのいらないものだけ選《え》り出してしまいますから」アンナはもう山のようなぼろをかかえているアンヌシカの腕に、またなにやらのせながら、いった。
アンナが食堂へはいって行ったとき、ヴロンスキーはいつものビフテキを食べていた。
「ねえ、本気になさらないかもしれないけど、あたしもうこの家の部屋という部屋が、いやでいやでたまらないんですのよ」アンナは彼と並んで、自分のコーヒーの前に腰をおろしながら、いった。「こういう chambres garnies ほどひどいものはありませんわね。だって、こんな部屋には表情もなければ、魂もないんですもの。あの時計も、カーテンも、それになによりも壁紙はまるで悪夢のようじゃありませんか。あたし、ヴォズドヴィジェンスコエのことを、まるで聖約の地かなんぞのように考えていますのよ。あなた、まだ馬をお送りになりませんの?」
「いや、馬はあとから送らせることにしたよ。きみはどこかへ出かけるのかい?」
「ウィルソンのところへ行ってこようと思ってますの。着物を届けてやらなくちゃなりませんので。それじゃ、あすにきめたんですのね?」アンナは浮きうきした声でいった。が、不意にその顔色がさっと変った。
ヴロンスキーの召使が、ペテルブルグから来た電報の受領証をいただきたい、といってはいって来たからである。ヴロンスキーが電報を受け取ったからといって、なにも特別変ったことはなかったが、彼はなにやらアンナに隠したいことでもあるように、受領証は書斎にあると答えてから、急いでアンナに話しかけた。
「必ずあすのうちに片をつけてしまうよ」
「電報ってだれからですの?」アンナは、彼の言葉には耳をかさないでたずねた。
「スチーヴァからだよ」彼はしぶしぶと答えた。
「なんだってあたしに見せてくださらなかったの? スチーヴァとあたしのあいだには、なにも秘密なんかあるはずないじゃありませんか」
ヴロンスキーは召使を呼びもどして、電報を持って来るように命じた。
「ぼくが見せたくなかったのは、スチーヴァときたらなんでも電報を打つ癖があるからさ。なにもはっきりしないのに、電報なんか打ってもしようがないじゃないか」
「離婚のことですの?」
「ああ、しかし、その電報にはまだなんの結論も得られないが、近いうちに確答があるはず、と書いてあるがね。まあ、ほら、読んでごらん」
アンナは震える手で電報を受け取ると、ヴロンスキーがいったとおりのことを読んだ。最後にこんな文句がつけ加えてあった。「望みは少ないが、できてもできなくても、とにかくやってみる」
「あたしきのうも申しましたとおり、自分がいつ離婚してもらえるか、またほんとうにそううまくいくのかいかないのか、そんなことはもうどうだってかまわないんですの」アンナは顔を赤くしていった。「ですから、あたしにお隠しになる必要なんか、ちっともなかったんですのに」《この分じゃ、この人は女の人からもらった手紙も隠せるわけだわ、いえ、きっと隠しているんだわ》彼女は考えた。
「それはそうと、ヤーシュヴィンがきょうの午前中にヴォイトフといっしょに来たいといってたよ」ヴロンスキーはいった。「どうやら、やっこさん、ペスツォフを徹底的に負かしたらしいよ。いや、なにしろ相手がとても払いきれないほど、まあ六万ルーブルぐらいだろう」
「ねえ」アンナは彼が話題を変えたことで、明らかに自分のいらだちを注意したのだと思って、かえってますますいらだちながらいった。「いったいなぜあなたは、この知らせをあたしに隠しだてしなければならないほど、重大なものだとお思いになりましたの? あたし、そんなことは考えたくもないといったじゃありませんか。ですから、もうあなたもあたしと同じように、こんなことにあまり気をつかわないようになさってくださいね」
「いや、ぼくが気にするのは、なにごともはっきりさせておきたいからだよ」彼はいった。
「はっきりさせておきたいのは、そんな形式的なことじゃなくて、愛情ですわ」アンナは彼の言葉にではなく、その言葉を口にするときの冷やかな落ち着いた態度に、ますますいらだちながら、いった。「なんのために、そんなことをお望みなんですの?」
《いやはや! また愛情談義か》彼は顔をしかめながら考えた。
「きみだってなんのためかってことは知っているじゃないか。きみのためと、これから先できる子供たちのためさ」彼はいった。
「子供なんかもうできませんわ」
「そりゃとても残念だな」彼はいった。
「あなたは子供のことばかり気にして、あたしのことは考えてくださらないんですのね?」アンナは彼が『きみのため《・・・・・》と子供のため』といったのを、すっかり失念して、というよりも、ろくろく耳に入れないで、いった。
子供をつくるかどうかという問題は、もうかなり前からいさかいの原因となって、アンナをいらだたせていた。彼が子供をほしがるのを、アンナは自分の美《び》貌《ぼう》を尊重していない証拠だとひとりぎめしていた。
「いや、だからきみのためにといったじゃないか。なによりもまず第一に、きみのためなんだよ」彼は痛みでも感じたように、顔をしかめながら、繰り返した。「だって、きみがいらいらするのも、もとをただせば、境遇のあいまいさからだってことを確信しているからさ」
《ええ、そうだわ、この人は今はもうとぼけるのもやめて、あたしに対する冷たい憎しみをまるだしにしているんだわ》アンナは彼の言葉を聞こうともせず、自分をからかいながらじっと見つめている彼の中にひそむ冷酷残忍な審判者を、恐怖の念をもってながめながら、考えた。
「そんなことが原因じゃありませんわ」アンナはいった。「あたしがまったくあなたの掌中にあるってことが、なぜあなたのおっしゃるように、あたしのいらいらする原因になるのか、あたしにはとても納得がいきませんわ。なぜそれが、境遇のあいまいさになるんでしょう? まるでその反対じゃありませんか」
「きみが理解しようとしないのはまったく残念だね」彼はあくまで自分の考えをおしつけようとしながら、さえぎった。「あいまいだというのは、きみの目にぼくが自由の身でいるように見えるからだよ」
「そのことでしたら、あなたはまったく安心していらしてけっこうですわ」アンナはいって、くるりと彼から顔をそむけて、コーヒーを飲みはじめた。
アンナは小指だけを離した手つきで、茶碗《ちゃわん》を取りあげて、それを口へもっていった。二口三口飲むと、アンナは彼のほうをちらと見た。そして、その顔の表情から、自分の手つきも、しぐさも、コーヒーを飲むときに唇でたてる音も、彼にいやな感じを与えているらしいのをはっきりと見てとった。
「あたしは、あなたのお母さまがなにをお考えになっていらっしゃろうと、どんなふうにあなたを結婚させようと思っていらっしゃろうと、ちっともかまやしませんわ」アンナは震える手で、茶碗を置きながらいった。
「でも、今はそんな話をしているんじゃないよ」
「いいえ、そのお話をしているんですわ。じゃ、はっきり申しあげておきますけれど、あたしには、情けをもたない女の人は、たとえ年寄りであろうとなかろうと、あなたのお母さまであろうと赤の他人であろうと、ちっとも興味なんてありませんわ。そんな女の人のことは知りたくもありませんわ」
「アンナ、頼むから、母についてそんなひどい口のきき方はしないでおくれ」
「わが子の幸福と名誉がなんであるかを、自分の心で察しられないような女なんかには、情というものがないんですのね」
「もう一度頼むから、ぼくが尊敬している母について、そんなひどい口のきき方はしないでおくれ」彼は声を高めて、アンナをきびしくにらみつけながらいった。
アンナは返事をしなかった。アンナはじっと相手を見つめ、その顔や手に見入りながら、昨晩の仲直りの情景と、彼の情熱的な愛《あい》撫《ぶ》を細かいところまですっかり思い浮べた。《昨晩と同じようなあんな愛撫を、この人はほかの女にも振りまいてきたんだわ、いえ、これからも振りまこうと思っているんだわ!》アンナは考えた。
「あなたは、お母さまを愛してなんかいらっしゃらないくせに。そんなことはみんな口先だけですわ、ええ、そうよ、口先だけですわ!」アンナは憎悪の色を浮べて彼をながめながら、いった。
「もしそんなふうだったら、そのときはどうしても……」
「決心しなくちゃいけないんでしょう。だからあたしも決心したんですわ」アンナはいって、出て行こうとした。しかし、そのとき部屋へヤーシュヴィンがはいって来た。アンナはあいさつをして、立ち止った。
心の中にあらしが吹きすさんで、恐ろしい結末を告げるかもしれない人生の岐路に立っていることを感じながらも、いや、遅かれ早かれ、なにもかも知ってしまうであろう他人の前で体裁を整える必要はさらさらなかったのに、なぜそんなことをしたのか、自分でもわからなかったが、とにかくアンナはすぐ心の中のあらしをおししずめて、腰をかけ、客と話をはじめた。
「ときに、どんなご首尾でした? 貸金はお取りもどしになりまして?」アンナはヤーシュヴィンにきいた。
「いや、たいしたことありませんよ。とても全部はもらえそうもありませんがね、とにかく、水曜日には出発しなきゃなりませんからね。で、きみたちはいつにしたの?」ヤーシュヴィンは目を細めながら、どうやら、今いさかいがあったことを察したらしく、ヴロンスキーにたずねた。
「たぶん、あさってにね」ヴロンスキーは答えた。
「それにしても、ずいぶん前からの話だったな」
「ええ、でも今度こそほんとうなんですの」アンナはまともにヴロンスキーの目をのぞきこみながら、いったが、そのまなざしは、仲直りの望みがあるなんて考えないでくれ、とでもいっているようであった。
「で、あなたはあのお気の毒なペスツォフさんをかわいそうだとはお思いになりませんの?」アンナはヤーシュヴィンとの話をつづけた。
「いや、かわいそうだとか、かわいそうでないとか、そんなことは一度だって自分にきいてみたことはありませんね。なにしろ、ぼくの全財産はここにあるんですからね」彼はわきのポケットをさしてみせた。「だから、今は金持でも、今晩クラブへ出かければ、乞《こ》食《じき》になって帰って来るかもわからないんですよ。だってぼくと勝負をするやつも、やはりぼくをすってんてんの丸裸にしたい、と思ってるんですからね。いや、こちらも同じ気構えですし、そうやって戦うところに勝負のおもしろみがあるんですよ」
「でも、あなたに奥さんがおありだったら」アンナはいった。「奥さんのお気持はどんなでしょうね?」
ヤーシュヴィンは笑いだした。
「いや、それだからこそ、ぼくは結婚しなかったんですし、結婚しようとも思わなかったんですよ」
「じゃ、あのへルシングフォルスは?」ヴロンスキーは話の仲間にはいって、いった。そして、にっこり笑ったアンナの顔を、ちらと見た。
アンナの顔は彼の視線に出会うと、まるで《忘れちゃいませんよ、前と同じことですよ》とでもいうように、冷たいきびしい表情に変った。
「まあ、あなたが恋をなさいましたの?」アンナはヤーシュヴィンにいった。
「ええ、そりゃもちろん! 幾度したかしれませんよ。しかしですね、人によっては、トランプのテーブルに向っていても、ランデヴーの時間がくれば、いつでもそこを立つこともできるんですがね。でも、ぼくは恋をしても、晩ともなれば遅刻しないように勝負の席へ駆けつけることになるんですよ。いや、それがぼくの流儀でしてね」
「いいえ、おたずねしているのはそんなことじゃなくて、あの今の……」アンナはへルシ《・・・》ングフォルス《・・・・・・》といおうとしたが、ヴロンスキーの口にした言葉を繰り返したくなかったので、そのまま口をつぐんだ。
雄《お》馬《うま》を買うことになっていたヴォイトフがやって来た。アンナは立ちあがって、部屋を出た。
家から出かける前に、ヴロンスキーはアンナの居間へやって来た。アンナはテーブルの上でなにか捜しているようなふりをしようと思ったが、そんなわざとらしいまねをするのが恥ずかしくなったので、冷やかなまなざしで彼の顔をまともに見つめた。
「なにかご用ですの?」アンナは彼にフランス語でいった。
「ガンベッタの血統証を取りに来たのさ、あの馬を売ったのでね」彼はいったが、その口調は《おれにはゆっくり話し合ってる暇なんかないよ、それに、そんなことしたってなんの役にも立たないからな》という意味を、言葉よりもさらにはっきりと表明していた。
《おれはアンナに対して、なにひとつ悪いことはしていないさ》彼は考えた。《もしあれが自分で自分を罰しようと思っているとしたら、tant pis pour elle.》しかし、彼が部屋を出ようとしたとき、アンナがなにかいったような気がした。と、不意に彼の胸は、アンナに対する哀れみの情で打ち震えた。
「なにかいったかい、アンナ?」彼はたずねた。
「いいえ、なんにも」アンナは相変らず冷やかに、落ち着きはらって、答えた。
《なんにもか。じゃ、tant pis.》彼はまた冷淡な気持になって、くるりと身を転じて、歩きだした。そして彼は部屋を出しなに鏡の中のアンナの顔を見た。その青白い顔は唇をわなわなと震わせていた。彼は足を止めて、なにか慰めの言葉をかけてやりたいと思ったが、その言葉を考えつく前に、彼はもう部屋の外へ歩きだしてしまった。この日彼は終日、家の外で過した。そして晩おそく帰って来ると、小間使が、アンナ・アルカージエヴナは頭痛がするから、だれも部屋へ通さないようにとのことでございますと彼に伝えた。
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これまでけんかしたまま一日を過したということは一度もなかった。きょうがはじめてであった。しかも、今度はけんかではなかった。これこそ愛情がすっかり冷《さ》めたことの明らかな兆候であった。彼が証明書を取りに部屋へはいって来たときのような、あんな目つきで、あたしを見るなんてことがどうしてできるのだろうか? いいえ、あたしをながめて、あたしの胸が絶望のために今にも張り裂けそうなのを見てとりながら、あんなに平然と落ち着きはらった顔つきで、無言のまま通りすぎてしまうなんてことが、どうしてできるのだろうか? そうだ、あれは愛情が冷めたなんてなまやさしいものじゃなくて、あたしを憎んでいるのだ。それというのも、ほかの女を愛しているからだわ――もうそれははっきりしている。
こうして、アンナは彼の口にした残酷な言葉を、ひとつ残らずすっかり思い浮べながら、なおそのうえ、彼がたしかにいおうと思った言葉、いや、いうことのできた言葉を考えだしてみて、いやがうえにもいらいらしてくるのであった。
《ぼくはきみを引き止めはしないさ》これはあの人のいいそうな言葉だ。《どこへでもきみの好きなところへ行っていいよ。きみは夫との離婚を望まなかったが、それもきっと、また夫のもとへ帰るためだったんだね。さあ、帰りたまえ。お金がいるようだったら、ぼくがあげるよ。何ルーブルぐらいいるんだね?》
粗野な人間だけが口にしうるような残酷きわまる言葉を、想像の中のヴロンスキーはアンナに浴びせるのであった。しかもアンナは、まるで、彼がほんとうにそれをいったかのように、もうとても彼を許せないと思うのであった。
《でも、あの実のある、正直な主人が愛を誓ったのは、つい昨晩のことじゃなかったかしら? あたしがひとり合《が》点《てん》で絶望したのも、これまで幾度もあったことじゃないかしら?》アンナはそのすぐあとから、自分にいいきかせるのであった。
この日アンナは、二時間ばかりウィルソンをたずねたことを除いて、終日、もうこれでなにもかもおしまいになったのだろうか、まだ仲直りの望みがあるだろうか、すぐこのまま出て行ったものだろうか、それとも、もう一度会ってからのほうがいいだろうか、という疑いのうちに過した。アンナは終日彼を待っていた。そして晩になると自分の居間へはいる前に、頭痛がするということづけを命じて、彼の心をはかろうとしたのであった。《もしあの人が、小間使の言葉にもかまわずたずねて来てくれたら、まだ愛してくれている証拠だわ。でも、もしそうでなかったら、もうなにもかもおしまいになった証拠だから、そのときはどうしたらいいか、はっきりと決心をつけなければ!……》
その晩、アンナは彼の馬車が止った音も、彼の鳴らすべルの響きも、彼の足音も、小間使との話し声も耳にした。が、彼はことづけをそのまま信じて、それ以上なにも知ろうとはせず、そのまま自分の部屋へ通ってしまった。したがって、なにもかもおしまいになったわけであった。
すると、死が、彼の胸に自分に対する愛をよみがえらせ、彼を罰し、自分の胸に巣くっている邪悪な精神が、彼を相手につづけてきたこの戦いに勝利を占めるための唯一の手段である死が、はっきりとなまなましく、彼女の目の前に現われたのであった。
もう今となっては、ヴォズドヴィジェンスコエへ行こうと行くまいと、夫から離婚の承諾を得ようと得まいと、そんなことはどうなってもかまわなかった。もうなにもかも不要であった。ただひとつ必要なのは、彼を罰するということであった。
アンナはいつもの量だけ阿《あ》片《へん》をつぎながら、死ぬにはこの一瓶《びん》をぐっと飲みさえすればいいのだと考えると、そんなことはいともたやすい、簡単なことに思われたので、彼女はまたもや一種の快感を覚えながら、もうすべてが手おくれになったときに、彼がどんなに苦しみ、後悔して、自分の思い出をいとおしむだろう、と考えはじめた。彼女は目を見ひらいたまま寝台の上に横たわり、まさに燃え尽きんとする一本のろうそくの光で、天井を縁どる彫刻のある蛇腹《じゃばら》や、天井の一部に映っている衝立《ついたて》の影をながめながら、自分がもういなくなって、自分というものが彼にとって、単なる思い出にすぎなくなったときに、彼はいったいどんな気持を感じるであろうかということを、まざまざと心に思い描いた。《どうしておれはあんな残酷な言葉を口にすることができたのだろう?》彼はそういうだろう。《なんだっておれはあれにひと言も口をきかずに、部屋を出ることができたんだろう? でも、今はもうあれはいないのだ。あれは永久にこの世から去ってしまったのだ。あれはもうあの世にいるのだ……》と、不意に、衝立の影が揺れて、蛇腹も天井もすっかりおおってしまった。すると、今度は反対側から、別の影がさっと襲った。一瞬、影は飛びちってしまったが、すぐまた新たな速力で襲いかかり、揺れ動きながら一つに集まったかと思うと、あたりはまっ暗になってしまった。《死だ!》アンナは思った。と、彼女は異常な恐怖におそわれ、自分がどこにいるのやら、長いこと納得がいかず、ふるえる両手でマッチを捜しだすことも、燃え尽きてしまったろうそくのかわりに、新しいのをつけることも、長いことできなかった。《いいえ、やっぱり、生きてだけは行かなくちゃ! だって、あたしはあの人を愛しているんですもの。あの人だってあたしを愛してくれているし! こんなことは一時的のことで、みんな過ぎ去ってしまうんだわ》アンナは生命を取りもどした喜びの涙が、両の頬を流れるのを感じながら、心の中でつぶやいた。そして、恐怖の思いからのがれるために、アンナは急いで彼の書斎へ行った。
ヴロンスキーは書斎でぐっすり眠っていた。アンナは彼のそばへ近づいて、その顔を上からのぞきこみながら、長いことじっと見入っていた。彼が眠っている今、アンナは彼に深い愛情を感じて、その顔をながめていると、思わずいとしさの涙をおさえかねるほどであった。それにもかかわらず、アンナは、もし彼が目をさましたら、きっと、おのれの正しさを信じきっているあの冷やかなまなざしで自分を見るだろうし、自分も愛情を語る前に、彼が自分に対してどんなにすまないことをしたか、証明してやらなければ気がすまないだろうことを承知していた。アンナは彼を起さないで、自分の居間へ引き返すと、二度めの阿片を飲んでから、ようやく夜明けちかくになって、やっと重苦しい浅い眠りに落ちた。しかし、アンナはそのあいだもたえず自分を意識していた。
朝になってから、まだヴロンスキーと関係をもたない前から、幾度もアンナの眠りに訪れた悪夢が、またもやおそって来て、彼女の目をさました。ひげぼうぼうの小がらな老人が、鉄のかたまりの上にかがみこんで、わけのわからぬフランス語の単語をつぶやきながら、なにやらしていた。と、アンナは、この悪夢を見るときはいつもそうであるが、この小がらな百姓は自分に対してなんの注意も向けていないにもかかわらず、その鉄のなかでなにか恐ろしい仕事を自分めあてにやっているのだと感じるのであった(これがこの夢の恐怖の中心をなしていた)。そしてアンナは冷汗をびっしょりかいて、目をさました。
アンナは床を離れたとき、きのう一日のことがまるで霧に包まれているように、ぼんやりと思いだされた。
《けんかをしたんだわ。もう幾度もあったことが、また繰り返されただけだわ。あたしが頭痛がするといっといたので、あの人はやって来なかったんだわ。あすは発つんだから、あの人に会って、出発の準備をしなくちゃならないわ》アンナは心につぶやいた。そして、彼が書斎にいることを知ると、そこへ出かけて行った。客間を通りぬけながら、車寄せに馬車の止る音がしたので、窓からのぞいてみると、一台の箱馬車が見え、その中から藤色の帽子をかぶった若い令嬢が身を乗りだして、ベルを鳴らしている召使に、なにかいいつけていた。玄関の控室でなにやら話し合う声が聞えたかと思うと、だれかが階上《うえ》へあがって来た。と、客間の隣に、ヴロンスキーの足音が聞えた。彼は足速に階段をおりて行った。アンナはまた窓ぎわへ近づいた。と、彼は帽子もかぶらないで車寄せへ出て、馬車のそばへ歩いて行った。藤色の帽子をかぶった若い令嬢は、彼に一つの包みを渡した。ヴロンスキーは微笑を浮べながら、相手になにやらいった。馬車は動きだした。彼はまた足速に階段を駆けのぼった。
アンナの心をおおっていた霧は、たちまち、晴れてしまった。きのうと同じ感情が、新たな痛みをともなって、病める胸を締めつけた。アンナは、自分が彼の家に彼とともに、まる一日を過すほどどうして自分を卑しくすることができたのか、今となってはもう納得もできなかった。彼女は自分の決意を告げるために、彼の書斎へはいって行った。
「今のはソローキン夫人がお嬢さんを連れて、母からの手紙とお金を持って来てくれたんだよ。ぼくがきのうもらえなかったのでね。頭痛のほうはどうだい、よくなったかね?」彼はアンナの顔に表われている暗い、勝ち誇ったような表情を、見ようとも理解しようともしないで、落ち着きはらった口調でいった。
アンナは部屋のまん中に突っ立ったまま、黙ってじっと彼の顔を見つめていた。彼はちらっとアンナの顔に目をやり、一瞬、眉をひそめたが、すぐまた手紙を読みつづけていった。アンナは身をひるがえして、ゆっくりと部屋から出て行った。彼はまだ呼びもどすこともできたが、アンナが戸口のところまで行っても、彼はなおも黙りこくっていた。そして、手紙をめくる音が、さらさらと聞えるだけであった。
「ああ、ちょうどいい」ヴロンスキーはアンナがもう敷居をまたごうとしたときに、はじめて声をかけた。「あすはいよいよ発つわけだね、そうだったね?」
「ええ、あなたはね。でも、あたくしは違いますよ」アンナは、彼のほうを振り返りながら、いった。
「アンナ、そんなことじゃ、とても暮していけないじゃないか……」
「ええ、あなたはね。でも、あたくしは違いますよ」アンナは繰り返した。
「これじゃ、もうとてもたまらないよ」
「あなたは……あなたはきっと今にこのことを後悔なさいますよ……」アンナはいって、そのまま出て行ってしまった。
彼はアンナがそういったときの絶望的な表情に思わずはっとして、いすから飛びあがって、彼女のあとを追って駆けだそうとした。しかし、彼はふとわれに返って、また腰をおろすと、かたく歯を食いしばって、眉をひそめた。この無礼な(と彼には思われた)おどし文句が、彼の心をいらいらさせたのであった。《おれはもうあらゆる手をつくしたのだ》彼は考えた。《あとはただ――気にかけないでいることだけだ》そして、彼は町へ出かけ、もう一度母のところへ立ち寄るしたくをした。母から委任状の署名をもらう必要があったのである。
アンナは、書斎と食堂を歩きまわる彼の足音を聞いた。彼は客間の前でちょっと足を止めた。しかし、アンナの部屋へは足を向けず、ただ自分は留守でもヴォイトフに牡《お》馬《うま》を渡すようにと命令しただけであった。まもなくアンナは、馬車がまわされ、ドアがあいて、彼がまた出て行った気配を聞きつけた。ところが、彼はまた玄関へとって返し、そしてだれかが階上《うえ》へ駆けのぼって行った。それは召使が彼の忘れた手袋を取りに行ったのであった。アンナが窓べへ寄って見ていると、彼は見向きもせずに手袋を受け取り、片手で御者の背中をぽんとたたいて、なにやら話しかけていた。それから、窓のほうなど振り向きもせずに、馬車にすわって、いつものポーズで、足と足を組み合わせ、手袋をはめながら、町角に隠れて行った。
27
《行ってしまった! もうおしまいだわ》アンナは窓べに立ったまま、心につぶやいた。と、この言葉に対する答えのように、ろうそくの消えた瞬間におそった闇《やみ》と恐ろしい夢の印象が、一つに溶けあいながら、ぞっとするような恐怖でアンナの胸をいっぱいにした。
《いえ、そんなことがあるはずないわ!》アンナは叫ぶと、部屋を通りぬけて、ベルを激しく鳴らした。もう今ではひとりきりでいるのが、とても恐ろしかったので、アンナは召使がやって来るのも待たずに、自分のほうから出かけて行った。
「伯爵はどこへお出かけになったのか、きいて来ておくれ」アンナはいった。
召使は、伯爵さまは厩《うまや》へ行かれたのだ、と答えた。
「もし奥さまがお出かけになるようだったら、馬車はすぐ返すから、そう申しあげるようにとのことでございました」
「じゃ、いいわ。あ、ちょっと待って。今すぐ手紙を書くから。それをミハイルに持たせて、厩まで届けておくれ。大急ぎでね」
アンナは腰をおろして、次のように認《したた》めた。
『あたくしが悪うございました。お家へお帰りくださいまし。お話合いをいたさなければなりません。どうか、後生ですから、お帰りくださいまし。あたくしはこわくてなりません』
アンナは封をして、召使に渡した。
今はもうひとりきりで残っているのが恐ろしかったので、アンナは召使のあとから居間を出て、子供部屋へ行った。
《まあ、なにか変ね、これはあの子じゃないわ! あの子の青い目は、あのかわいらしい、おずおずしたほほえみはどこへいったのだろう?》アンナは頭が混乱してしまって、子供部屋で見られると思ったセリョージャのかわりに、黒い縮れ毛の、むっちり太った頬の赤い女の子を見たとき、すぐこんな考えが浮んだ。女の子はテーブルのそばにすわって、コルクの栓《せん》でテーブルの上をあきずに力いっぱいたたきながら、二つのすぐり《・・・》の実のようにまっ黒な目で、無心に母をながめていた。からだのぐあいがたいへんいいから、あすは田舎へ向けて発つとイギリス婦人に答えると、アンナは女の子のそばに腰をおろして、瓶《びん》の栓のコルクを、その目の前でくるくるとまわしはじめた。ところが、その女の子のよく響く笑い声と、片方の眉を動かす癖が、あまりにもヴロンスキーを思いださせたので、アンナはこみあげてくる涙をおさえながら、そそくさと立ちあがって、部屋を出てしまった。《ほんとに、もうなにもかもおしまいになったのかしら? いいえ、そんなはずはないわ》アンナは考えた。《あの人は帰って来るわ。でも、あのお嬢さんと話したあとのあの笑顔と、あんなにも生きいきした様子を、あの人はなんと弁明するだろう? いえ、弁明なんかしなくても、あたしはやっぱり信じるわ。もし信じられないようだったら、もう残された道はただひとつしかないけれど……でも、そんなことはいやだわ……》
アンナは時計を見た。もう十二分たっていた。
《もう今ごろはあの手紙を見て、あの人は帰り道についているにちがいないわ。もうすぐだわ、あと十分ばかりよ……でも、あの人が帰って来なかったら、どうしよう? いいえ、そんなはずはないわ。とにかく、目を泣きはらしたところなんか、見られたらたいへんだわ。さあ、顔を洗いに行きましょう。そう、そう、あたし髪をとかしたかしら、どうだったかしら?》アンナは自分にたずねてみたが、思いだせなかった。アンナは片手で頭をさわってみた。《そうだわ、ちゃんととかしたんだわ。でも、いつとかしたのかしら、ちっとも覚えていないわ》アンナは自分の手まで信じられなかったので、ほんとに髪をとかしたかどうかをたしかめるために、姿見のほうへ歩いて行った。髪はちゃんととかしてあったが、それをいつやったのかは思いだせなかった。《まあ、これはだれかしら?》アンナは妙にきらきら輝くひとみで、おびえたように自分を見つめている、燃えるような顔を鏡の中に見いだしながら、考えた。《あら、これはあたしじゃないの》アンナはふと気づいた。そして、自分の全身をながめまわしているうちに、とつぜん、彼の接吻《せっぷん》をからだに感じて、ぶるっと身ぶるいしながら、両の肩を動かした。それから、片手を唇へもっていって、それに接吻した。
《まあ、どうしたというんだろう、あたしは気でも狂うのかしら》そう思いながら、アンナは寝室へ行った。そこでは、アンヌシカが部屋を片づけていた。
「アンヌシカ」アンナは小間使の前に立ち止って、自分でもなんといったものかわからないまま、その顔をながめながら、いった。
「奥さまはドリイさまのところへお出かけになりたいとおっしゃってましたけれど」小間使はアンナの気持を察したかのように、いった。
「ドリイのところへ? そうね、じゃ、出かけるわ」
《行きが十五分に、帰りが十五分。あの人はもうあちらを出たにちがいないわ。もうすぐ帰って来るだろう》アンナは時計を取りだしてちらっと見た。《それにしても、あたしをこんな気持にさせておいたまま、よくもあの人は出かけられたものだわね。あたしと仲直りもしないで、どうしてあの人は暮していけるのだろう?》アンナは窓べへ近づいて、往来をながめはじめた。時間からすれば、彼はもう帰って来るころであった。しかし、時間の計算がまちがっていたかもしれなかった。そこで、アンナは改めて彼の出かけて行った時刻を思いだして、細かく計算をはじめた。
アンナが自分の時計をたしかめるために、大時計のそばへ行きかけたちょうどそのとき、だれかが馬車を乗りつけて来た。窓からのぞいてみると、それは彼の幌《ほろ》馬《ば》車《しゃ》であった。ところが、だれも階段をのぼって来ないで、階下で話し声が聞えた。それは、使いの者が馬車で帰って来たのであった。アンナは下へおりて行った。
「伯爵さまにはお目にかかれませんでした……ニジェゴロド線で、お発ちになりましたあとなので」
「まあ、なんですって? それ、ほんとなの?……」アンナは、自分の手紙を返そうとしてさしだしている、血色のいい快活なミハイルに向って、いった。
《まあ、それじゃあの人はあたしの手紙を受け取っていなかったんだわ》アンナはそのとき気づいた。
「ではね、この手紙を持ってすぐ、ヴロンスキー伯爵夫人の別荘まで行っておくれ、知ってるね? そして、すぐにご返事をもらって来てちょうだい」 アンナは使いの者にいった。
《じゃ、このあたしは、いったいどうしたらいいんだろう?》アンナは考えた。《そうだわ、ドリイのところへ行きましょう。それがいいわ。でないと、あたし、気が狂ってしまいそうだわ。それに、まだ電報を打つという手もあるんだわ》そう考えて、アンナは電文を認《したた》めた。
『キュウヨウアリスグオカエリクダサイ』
電報を打ちにやってから、アンナは着替えに行った。もう着替えをすませて、帽子もかぶったとき、アンナはむっちり太っておとなしいアンヌシカの目に、改めてじっと見入った。その小さい、人のよさそうな、灰色の目には、同情の色がありありと浮んでいた。
「ねえ、アンヌシカ、あたしはどうしたらいいんだろうねえ?」アンナはぐったりと肘《ひじ》掛《か》けいすに身をうずめて、泣きじゃくりながら、いった。
「なにもそうご心配なさることはございませんよ、奥さま! よくあることじゃございませんか。さあ、お出かけになってごらんなさいまし、お気も晴れましょうから」小間使はいった。
「ええ、出かけるわ」アンナはわれに返って、腰をあげながら、いった。「あたしの留守に電報が来たら、ドリイのお宅まで届けておくれ……いえ、あたし自分で帰って来るわ」
《そうだわ、あまりくよくよ考えたってしようがないわ。とにかく、なにかしなくちゃいけないわ。出かけることだわ。なによりもまず、この家から出て行くことが第一だわ》アンナは胸の中のすさまじい動《どう》悸《き》の音にぞっとしながら、そう考えると、急いで外へ出て、馬車に乗った。
「どちらへお出かけでございますか?」ピョートルは御者台へすわる前に、たずねた。
「ズナーメンカのオブロンスキーさまのお宅まで」
28
晴れわたった日であった。午前中は、ずっと細かい霧雨《きりさめ》が降りつづいていたが、ついいましがたからっと晴れあがったところであった。屋根の鉄板も、歩道の敷石も、車道の丸石も、馬車の車輪も、皮具も、真鍮《しんちゅう》も、ブリキも――なにもかもが、五月の太陽に明るくきらきら輝いていた。午後の三時で、通りはいちばんにぎやかな時であった。
葦《あし》毛《げ》馬《うま》の速足にもかかわらず、弾力にとんだばねのおかげでほんのわずかしか揺れない、静かな馬車の片すみに腰をおろして、アンナはたえまない車輪の響きを耳にし、清らかな外気の中を目まぐるしく変っていく風物に見とれながら、改めてこの数日間の出来事を、心の中で思い返しているうちに自分の境遇が家で考えたのとは、まったく別なものになっていることに気づいた。もう今では死についての考えも、それほど恐ろしくはっきりしたものには映らなかったし、死そのものも、もはや避けがたいものとは思われなかった。今ではアンナも、自分がみずから卑下して、屈辱に甘んじようとしていることを、自分に責める思いであった。《あたしは、どうか許してくれとあの人に哀願しているんだわ。あの人の前に屈服してしまったんだわ。あたしが悪かったのだと認めてしまったんだわ。でも、なんのためかしら? ほんとにあたしは、あの人なしには生きていけないのかしら?》そう思いながらも、あの人なしにどうして生きてこうか、という問いには答えないで、アンナは看板を読みはじめた。《事務所と倉庫、歯科医……そうだわ、ドリイになにもかも打ち明けてしまおう。あの人はヴロンスキーがきらいだし。そりゃ恥ずかしくて、つらいかもしれないけれど、でもなにもかもあの人に打ち明けてしまおう。あの人はあたしが好きなんだし、あたしもあの人のいうとおりにするわ。あの人なんかには負けないわ。あの人に教育されるなんてまっぴらだわ。フィリッポフ商店、白パン……この店はペテルブルグまでパンのドウ《・・》を出してるって話だわ。モスクワの水はそれほどいいのね。ムイチーシチの井戸とパンケーキ》ふと、アンナはずっと昔のこと、まだ十七歳だったころに、伯母《おば》といっしょにトロイツァへ行ったことを思いだした。《あのときもやはり馬車だったっけ。ほんとに、あの赤い手をしてた小娘が、あたしだったのかしら? あのころ、あんなに美しくて、及びもつかないように思われたもので、今はつまらなくなったものがずいぶん多いけれど、でも、あのころあったもので、今は永久に手の届かなくなったものもたくさんあるわ。あたしがこんなにまで身を落してしまうなんて、あのころはとても信じられなかったわ。あたしの手紙を見たら、あの人はきっとそれは得意になって、満足するにちがいないわ! でも、あたしは今にあの人に思い知らせてやるわ……まあ、このペンキはなんていやなにおいなんだろう! なんだって世間じゃあんなに家を建てたりペンキを塗りたくるんだろう? 洋装店》アンナは看板を読んだ。ひとりの男がアンナにおじぎをした。それはアンヌシカの亭主であった。『うちの居候《いそうろう》』ふと、アンナはヴロンスキーがそういったことを思いだした。《うちのだって? なぜうちのなんだろう? 過去というものを根こそぎできないってことは、ほんとに恐ろしいことだわ。そりゃ、根こそぎすることはできなくても、その思い出を隠してしまうことはできるわ。あたしも隠してしまおう》そのときアンナは、カレーニンとの過去を思い浮べ、それを自分が記憶の中からすっかり消してしまっていたことに気づいた。《ドリイは、あたしのことを、二度めの夫まで捨てるような女なのだから、あたしのほうが悪いと思うだろう。でも、あたしは正しい人間になりたがっているんじゃないわ! あたしにはそんなことなんかできやしないんだから!》アンナはそうつぶやくと、急に泣きたくなった。しかし、すぐそのあとアンナはふたりの少女を見て、なぜあんなににこにこ笑っているのだろう、と考えだした。《きっと恋の話でもしているんだわ? あの娘たちはそんなことがちっとも楽しいものじゃなくって、ほんとに卑しいものだってことを知らないんだわ……あら、並木道に、子供たちだわ。男の子が三人かけまわっている、お馬ごっこをしているんだわ。セリョージャ! ああ、あたしはなにもかも失ってしまうわ、あの子も取りもどせないわ。そうだわ、もしあの人が帰って来なかったら、あたしはなにもかも失ってしまうんだわ。あの人は、ひょっとしたら、汽車に乗り遅れて、今ごろはもう帰っているかもしれないわ。まあ、あたしはまた屈辱を望んでいるのかしら!》アンナは自分自身につぶやいた。《いえ、あたしはドリイのところへ行ったら、いきなり、こういってしまおう。あたしはふしあわせな女なのよ、そりゃ、それが当然で、自分が悪いんですけれど、とにかく、ふしあわせなんだから、あたしを助けてちょうだい、って。こんな馬、こんな馬車――こんな馬車に平気で乗っているなんて、あたしはわれながら愛想《あいそ》がつきてしまうわ――だって、みんなあの人のものなんだもの。でも、あたしはもうけっして、こんなものは見ないわ》
なにもかもドリイに打ち明けてしまうときの言葉を心の中でいろいろと考え、わざと自分の胸をかきむしりながら、アンナは階段をのぼって行った。
「どなたかお見えになってますの?」アンナは玄関の控室でたずねた。
「リョーヴィンさまの奥さまでございます」召使は答えた。
《まあ、キチイだわ、ヴロンスキーが恋したことのあるあのキチイだわ!》アンナは考えた。《あの人が今も愛情をこめて思いだしているあのキチイだわ。あの人はキチイと結婚しなかったことを、後悔しているんだわ。そして、あたしのことなんか、きっと、憎々しい気持で思いだして、あたしみたいな女といっしょになったことを、後悔しているにちがいないわ》
アンナが訪れたとき、姉妹は、赤ん坊の授乳について、相談していた。ドリイはちょうどそのとき相談のじゃまをした女客を迎えにひとりで出て来た。
「あら、あなたまだお発ちにならなかったの? あたし、こちらからおたずねしようと思っていたところなの」ドリイはいった。「きょうスチーヴァから手紙をもらいましたわ」
「うちへも電報が来ましたの」アンナはキチイを見つけようと思って、あたりを見まわしながら、答えた。
「うちの人ったら、カレーニンさんはどういうつもりなのか、ちっともわけがわからないけれど、返事をもらわないうちは帰らないって、そう書いてきましたわ」
「どなたかお客さまじゃなかったの。その手紙、読ませていただけて?」
「ええ、キチイが来てるの」ドリイはどぎまぎしながら、いった。「今子供部屋におりますわ。とてもからだのぐあいが悪かったのよ」
「そうですってね。その手紙、読んでもよくって?」
「今すぐ持って来ますわ。でもね、あの人、断わっているわけでもないのね。それどころか、スチーヴァはまだ望みをかけているくらいですわ」ドリイは、戸口に立ち止っていった。
「あたし、もう望みなんかかけていないわ。それに、自分でもいやになったの」アンナはいった。
《まあ、これはどういうことかしら。キチイはあたしに会うのを、屈辱だとでも思ってるのかしら?》アンナはひとりになって考えた。《ひょっとすると、それがほんとうかもしれないけれど。でも、たとえそれがほんとうでも、あの人が、ヴロンスキーに恋したことのあるあの人が、あたしにそんな態度をとるって法はないわ。あたしみたいな境遇にいる女は、ちゃんとした婦人だったら、だれひとりつきあっちゃくれないわ。そりゃ、あたしも承知しているけれど。あの最初の瞬間から、あたしはなにもかもあの人のために犠牲にしたんだわ、そんなことあたしも知ってるけど。でも、その報いがこれなんだわ! ああ、あたしはあの人が憎くてたまらないわ! それに、あたしはなんだってこんなところへ来たんだろう? かえっていやな気持になって、よけい苦しくなったわ》次の間で姉妹が話し合っている声を耳にした。《これからあたしはドリイになにを話そうというんだろう? あたしはふしあわせな女だといって、キチイを慰めて、あの人の情けにすがろうというのかしら? いいえ、それにドリイだって、なんにもわかりゃしないんだわ。あたしにはなにもあの人に話すことなんかありゃしないわ。ただキチイに会って、あたしがだれもかもなにもかも軽蔑《けいべつ》していて、今となってはなんだって同じだってことを、あの人に見せてやるのはおもしろそうだけれど》
ドリイが手紙を持ってはいって来た。アンナはそれに目を通すと、黙って手紙を返した。
「こんなことはみんな知ってることばかりですわ」アンナはいった。「だから、こんなことはちっとも興味がないわ」
「まあ、それはどうしてなの? あたしはその反対に、まだ望みをかけていますわ」ドリイは好奇心にかられて、アンナの顔をながめながらいった。アンナがこんなに奇妙に、いらいらしているところを、今まで一度も見たことがなかったからである。「で、あなた、いつお発ちになるの?」ドリイはたずねた。
アンナは目を細めて、自分の前のほうをながめたが、返事はしなかった。
「まあ、どうしたの、キチイはあたしから逃げ隠れしているんですの?」アンナは戸口のほうをながめて、顔を赤らめながら、いった。
「まあ、なにをおっしゃるの? あれは今お乳をやっているのよ。どうもそれがうまくいかないので、あたしが教えてやったところなの……あれはとても喜んでいましたわ。今すぐ来ますよ」ドリイはうそをつくことがへたなので、しどろもどろになりながら、いった。「ほら、来ましたわ」
アンナがたずねて来たのを知ると、キチイは顔を出すのをいやだといったが、ドリイが説得したのであった。キチイはやっとの思いで出て来ると、顔を赤らめながら、そばへ近づいて、片手をさしのべた。
「お会いできて、ほんとにうれしゅうございますわ」キチイは震え声でいった。
キチイは、心の中でこの悪い女に対する敵意と、そういう女にも寛大でなくちゃいけないという気持が争っていたので、すっかりどぎまぎしてしまっていた。しかし、アンナの美しい、人好きのする顔を見ると、たちまち、そんな敵意などは消えてしまった。
「あなたが、あたしに会おうとなさらなかったとしても、あたし、べつにふしぎには思いませんわ。あたくし、どんなことにも慣れてしまいましたから。ご病気だったんですってね? そう、あなたもお変りになりましたわね」アンナはいった。
キチイは、アンナが敵意をもって自分をながめているのを感じた。キチイはそれを、以前は自分の保護者の立場に立っていたアンナが、いまや自分の前でひけめを感ずる立場に立たされたためだと解釈して、アンナをかわいそうに思った。
一同は病気のことや、赤ん坊のことや、スチーヴァのことなどを話したが、どうやら、そのどれひとつとしてアンナの興味をひかなかったようだった。
「あたし、お暇乞《いとまご》いにお寄りしましたの」アンナは腰をあげながらいった。
「それで、いつお発ちになりますの?」
しかし、アンナはまた返事をしないで、キチイに話しかけた。
「ええ、あたしも、お目にかかれて、とてもうれしゅうございましたわ。あなたのおうわさは方々から、いろいろ聞いておりましたのよ、お宅のご主人からも。ご主人は宅へお越しくださいまして、あたくし、すっかりあの方が好きになりましたの」アンナはどうやら、なにか悪だくみがある様子で、つけ足した。「今はどこにいらっしゃいますの?」
「田舎へ婦りましたわ」キチイは顔を赤らめながら答えた。
「どうか、あたくしからもよろしくとおっしゃってくださいませね、どうか、きっと」
「ええ、きっと!」キチイは同情の面持ちで相手の目を見つめながら、無邪気に繰り返した。「じゃ、さよなら、ドリイ」そういって、ドリイに接吻し、キチイの手を握りしめると、アンナは急ぎ足で出て行った。
「やっぱり昔のままね。相変らずお美しいわね。ほんとうにお美しいこと!」キチイは姉とふたりきりになったとき、いった。「でも、なにかお気の毒なところがあるのね! とてもお気の毒だわ」
「いえ、きょうはなにか特別だったわ」ドリイはいった。「あたしが玄関の控室まで送って行ったとき、今にも泣きだしそうな顔に見えたもの」
29
アンナは家を出たときよりも、もっといやな気分で馬車に乗った。今までの苦しみに加えて、キチイとの邂逅《かいこう》ではっきりと感じた、あのはずかしめられ、除《の》け者《もの》にされたような感じが新たに加わったからであった。
「どちらへいらっしゃいますんで? お帰りですか?」ピョートルはたずねた。
「ああ、うちへやっておくれ」アンナはもう行く先など考えずに、いった。
《ほんとに、あの人たちときたら、まるでなにか恐ろしい、わけのわからない、珍しいものでも見るように、このあたしをじろじろ見ていたっけ。まあ、あの男はなにをあんなにむきになって、連れの男にしゃべっているんだろう?》アンナはふたりの通行人をながめながら、考えた。《自分の感じていることを、他人に話すことなんてできるのかしら? あたしもドリイに話そうと思ったけれど、話さなくてよかったわ。あたしが不幸だと知ったら、あの人はさぞ喜んだでしょうね! そりゃあの人はそんな気持を隠すにきまっているけれど、なんといっても、常日頃あの人がうらやましがっていた楽しみのために、あたしが罰を受けたということはうれしいにちがいないわ。キチイのほうは、もっとうれしいにきまってるわ。あの人の心の中なんか手にとるようにわかるわ。キチイは、あたしがあの人のご主人に、普通よりも愛想よくしたのを知っているもんだから、あたしにやきもちを焼いて、あたしを憎んでいるんだわ。それに、あたしを軽蔑しているわ。そりゃあの人の目には、あたしが不身持ちな女に見えるでしょうよ。でも、あたしがほんとに不身持ちな女だったら、あの人のご主人を誘惑することもできたんだわ……もしあたしがその気にさえなったら。いいえ、あたしもその気になったんだわ。まあ、あの男はひとりで悦《えつ》に入ってるわ》アンナは向うから馬車でやって来た、太った赤ら顔の紳士のことを考えた。その男は、彼女を知人だと思って、てかてか光った帽子を、てかてか光ったはげ頭の上に持ちあげたが、すぐ自分のまちがいに気づいたらしかった。《あの人はあたしを知ってると思ったんだわ。でも、あの人はあたしのことなんか知りもしないんだわ、世界じゅうのだれだって、あたしのことを知らないけど、それと同じよ。本人のあたしだって知らないんですもの。あたしは、フランス人のいうように、自分の食欲しか知らないわ。まあ、あの子たちときたら、あんなきたならしいアイスクリームが食べたいんだわ。あの子たちもきっとそれは知っているにちがいないわ》アンナはアイスクリーム屋を呼び止めたふたりの男の子を見ながら、思った。アイスクリーム屋は頭から桶《おけ》をおろして、手ぬぐいの端で汗だらけの顔をふいていた。《あたしたちはみんな甘いものやおいしいものがほしいんだわ。もしお菓子がなかったら、きたならしいアイスクリームでもいいんだわ。キチイだって同じことじゃないの。ヴロンスキーがだめなら、リョーヴィンというわけよ。あの人はあたしのことがうらやましいのよ。あたしを憎んでいるのよ。あたしたちはみんなお互いに憎み合っているのよ。あたしはキチイを、キチイはあたしを。これこそほんとうのことだわ。チューチキン Coiffeur ……Je me fais coiffer pas チューチキン。……あの人が帰って来たら、あたしはこの話をしてあげよう》アンナはそう考えて、にっこり笑った。しかし、その瞬間、今となってはもうなにひとつおかしな話をする相手もいないことを思いだした。《そうだわ、もうなにもおかしいことも、楽しいこともありゃしないわ。なにもかもいやらしいわ。晩のお祈りの鐘が鳴っているわ。まあ、あの商人ときたら、なんてきちょうめんに十字を切っているんだろう、まるでなにか落しはしないかと、心配してるみたいじゃないの。こんな教会だとか、鐘の音だとか、こんなうそなんて、いったいなんのために必要なんだろう、ただ、あたしたちがみんなお互いに憎しみ合ってることを、隠すためなんだわ、まるであの辻《つじ》待《ま》ちの御者が口ぎたなくののしりあっているように。ヤーシュヴィンもいってたわ、相手はこちらを下着ぐるみ裸にしようとしているんだし、こちらも相手をそうしてやるつもりだって。それがほんとなんだわ!》
こんなことをいろいろと考えながら、すっかりそれに気をとられて、自分の境遇のことさえ考えなくなっていたとき、馬車はわが家の玄関先に止った。迎えに出て来た玄関番を見たとき、アンナははじめて自分が手紙を持たしてやり、電報を打ったことを思いだした。
「ご返事はあったかい?」アンナはたずねた。
「ただいま見てまいります」玄関番は答え、事務机の中を見て、電報の四角な薄い封筒を取りだし、アンナに渡した。
『十ジ マエニハカエレヌ ヴロンスキー』アンナは読んだ。
「で、使いの者はまだ帰らないのかい?」
「まだでございます」玄関番は答えた。
《ああ、そんなら、あたしどうしたらいいかわかってるわ》アンナは心につぶやくと、身内にこみあげてくる漠然《ばくぜん》とした怒りと復讐《ふくしゅう》の思いにかられながら、二階へ駆けあがった。《あたし、自分であの人のところへ出かけて行こう。永久に別れてしまう前に、なにもかもいってやるわ。あたしはこれまでついぞ一度も、これほど人を憎いと思ったことはないわ!》アンナは考えた。帽子掛けにかかった彼の帽子を見ると、アンナは嫌《けん》悪《お》のあまり身震いした。アンナは、彼の電報が、自分の電報に対する返事であり、手紙はまだ受け取っていないことを、考えおよばなかったのである。アンナはいまや落ち着きはらって母やソローキナ嬢と話をしながら、自分の苦しみを喜んでいるであろう彼の姿を、心に思い描いた。《そうだわ、一刻も早く行かなくちゃいけないわ》アンナはまだどこへ行くのか、自分でもわからないままに、心につぶやいた。ただアンナはこのぞっとする家の中で味わう感情から、少しでも早くのがれたかったのである。この家の召使も、壁も、品物も――なにもかもアンナの心に嫌悪と憎《ぞう》悪《お》を呼びおこして、一種の重圧感となって彼女の上にのしかかるのであった。《そうだわ、停車場へ行かなくちゃならないわ。そして、もしいなかったら、あすこまで行って、現場をおさえてやらなくちゃ》アンナは新聞に出ている汽車の時間表を見た。晩の八時二分発の汽車があった。《ええ、これなら間に合うわ》アンナは馬車に別の馬をつけ替えるように命じて、二、三日の旅にさしあたり必要な品々を、旅行かばんにつめはじめた。アンナは自分がもう二度とここへ帰って来ないことを知っていた。アンナはいろいろと頭に浮んでくる計画の中で、漠然とこんなふうにきめてみた。とにかく、停車場か伯爵夫人の領地でなにかしたあと、ニジェゴロド線で次の駅まで行き、そこに足を止めよう、と。
食卓には、食事のしたくができていた。アンナはそばへ近づき、パンとチーズのにおいを嗅《か》いでみて、すべて食べ物のにおいがいやに鼻につくのをたしかめると、幌馬車の用意を命じて、外へ出た。屋敷ははやくも往来いっぱいにその影を投げていた。日向《ひなた》のところはまだ暖かい、よく晴れた夕べであった。荷物を持って送って来たアンヌシカも、幌馬車の中へ荷物を入れていたピョートルも、明らかにふきげんでいる御者も――だれもかれもアンナには忌わしく、彼らの言葉も動作も、アンナをいらだたせるのであった。
「おまえはいいんだよ、ピョートル」
「じゃ、切符はどうなさいます?」
「そんなら、好きなようにおし、あたしはどっちでもかまわないんだから」アンナはいまいましそうにいった。
ピョートルは御者台に飛び乗ると、両手を腰にあてて、停車場へやるように命じた。
30
《さあ、また馬車に乗ったわ! あたしはまたなんでもわかるんだわ》アンナは幌馬車が動きだして、車道の小さな丸石の上で揺れながら、車輪の響きをたて、またしても外の風物の印象が次次に変りはじめたとき、心の中でつぶやいた。
《ええと、いちばんおしまいに、なんのことをあんなによく考えていたんだっけ》アンナは思いだそうと努めた。《チューチキンの
Coiffeur だったかしら? いえ、そうじゃないわ。あ、そうだわ、ヤーシュヴィンのいったことだったわ。生存競争と憎悪――ええ、これだけが人間を結び合せる唯一のものだって。いいえ、あなた方はどこへ出かけたって、だめなのよ》アンナはどうやら郊外へ遊びに行くらしい、四頭立ての馬事に乗った一行に向って、心の中でいった。《あなた方が連れている犬だって、なんの役にも立ちませんよ。なにしろ、自分というものから、のがれることはできませんからね》ふとアンナはピョートルの振り向いたほうへ視線を投げて、頭をぐらぐらさせながら、なかば死んだように酔いつぶれた職工が、巡査にひかれてどこかへ行く光景が目にはいった。《ほら、あのほうがよっぽど早道だわ》アンナは考えた。《あたしもヴロンスキー伯爵といっしょに、ずいぶん多くのものを期待したけれど、あれだけの満足さえ見いだすことができなかったんだわ》そのときはじめてアンナは、今まで考えることを避けるようにしていた自分たちふたりの関係に、いっさいのものを明らかに照らしだす光線をあててみた。《あの人は、あたしになにを求めたんだろう? 愛情よりも虚栄心の満足だったのね》アンナは、ふたりが結ばれたころの彼の言葉や、従順な猟犬を思わせるようなその表情を思い起した。今となってみれば、なにもかもがアンナの推測を裏書きするものばかりであった。《そうよ、あの人の心の中には、虚栄心の満足という勝利感しかなかったんだわ。そりゃ、もちろん、愛情だってあったにちがいないけれど、虚栄心の満足のほうが勝っていたのよ。あの人はあたしのことを自慢にしていたのよ。でも、今はそれも昔のことで、なにも自慢にするものがないのよ。自慢するどころか、恥ずかしくなったんだわ。あの人は、なにもかも必要なものをあたしから取ってしまって、今じゃもうあたしなんかいらないのよ。あの人はあたしを厄介に思いながらも、あたしに対して破廉恥にならないように、努めているんだわ。きのうだってつい口をすべらして、自分は背水の陣をしくために、離婚して、正式な結婚を望んでいるといったっけ。あの人はあたしを愛している――でも、それはどんなふうだろう? The zest is gone. あの男ったら、みんなをびっくりさせてやろうと思って、ひとりで悦に入ってるんだわ》アンナは調馬場の馬に乗って行く赤ら顔の番頭を見ながら、考えた。《ええ、あの人にとっては、あたしというものに、もうなんの興味もなくなってしまったんだわ。もしあたしがあの人から離れてしまったら、あの人は心の底で喜ぶにちがいないわ》
それは単なる仮定ではなかった――アンナはいまや人生と人間関係の意義を啓示してくれた、あのするどい光によって、はっきりとそれを見たのであった。
《あたしの愛情はますます情熱的に、わがままになっていくのに、あの人の愛情はだんだんに衰えて消えていく。だからこそ、あたしたちはだんだん離れていくんだわ》アンナは考えつづけた。《しかも、それをいまさらどうすることもできないんだわ。あたしにしてみれば、あの人ひとりがすべてなんだから、あたしはあの人がそのすべてをもっともっとあたしにささげてくれることを望んでいるんだわ。それなのに、あの人ときたら、あたしからますます離れようとしているんだわ。あたしたちは結びつくまでは両方からお互いに接近していったんだけれど、それからあとはおさえることのできない力で、別々のほうへ離れていっているんだわ。しかも、もうそれを変えることはできないんだわ。あの人はあたしのことを、むやみにやきもちを焼くといってるし、あたしも自分でそれを認めたけれども、それはまちがってるわ。あたしはやきもちを焼いているんじゃなくて、不満なんだわ。それにしても……》アンナはそのとき不意に、ある想念が浮んだので、興奮のあまり思わず口を開き、馬車の中でからだの位置を変えた。《ああ、あたしがあの人の愛《あい》撫《ぶ》だけを熱烈に望むただの情婦以外の何者かになれたらいいんだけれど、あたしはほかの何者にもなることはできないし、また、なりたくもないわ。それに、あたしはそんな望みをもっているために、あの人にはきらわれるし、あの人のほうでも、あたしに憎らしいという気を起させているんだわ。でも、こうなるよりほかにしかたがなかったんだわ。そりゃあたしだって、あの人があたしをだましたりしていないことを、ソローキンのお嬢さんに色目をつかったりしていないことも、キチイに恋したりしていないことも、あたしを裏切ったりしていないことも承知しているわ。そんなことはなにもかもわかっているけれども、それだからって、あたしの気持は楽にはならないわ。もしあの人がほんとに愛してもいないくせに、ただ義理であたしに優しく親切にするばかりで、あたしの望むものを与えてくれなかったら、それは憎しみよりも千倍も悪いことだわ! そんなの――地獄だわ! でも、今はほんとにそのとおりなんだわ。あの人はもうとうの昔から、あたしを愛しちゃいないわ。しかも、愛情がなくなると、憎しみに変るんだわ。……こんな通りはちっとも見覚えがないわね。どこか丘みたいだし、どこもかしこも家ばかりだわ……それに、家の中には人、人がいるんだわ、いえ、どこへ行っても人、人の波ばかりだわ……しかも、みんなお互いに憎み合っているんだわ。じゃ、あたしはしあわせになるために、いったいなにを望んでいるのか、ちょっと考えてみよう? それでと? あたしは離婚の承諾をえて、カレーニンがセリョージャを渡してくれて、あたしはヴロンスキーと結婚するとしよう》カレーニンのことを思いだすと、アンナはまざまざとその生けるがごとき姿を、目の前に見た。どんよりした、生気のない、小さなその目も、白い手の上に浮いた青い血管も、声の抑揚も、指をぽきぽき折る音も、さらに、ふたりのあいだにあった、やはり愛情と呼ばれていた感情を思い起すと、アンナは嫌悪の念に思わず身震いした。《じゃ、あたしは離婚の承諾をえて、ヴロンスキーの妻になるとしよう。そうしたら、キチイはきょうみたいにあんな目つきで、あたしを見るのをやめるかしら? とても、だめだわ。じゃ、セリョージャは、あたしのふたりの夫のことをたずねたり、考えたりしなくなるかしら? また、あたしとヴロンスキーとのあいだには、どんな新しい感情が生れるというの? もうとても幸福なんてことは望まないけれど、せめて苦しまないですむようなわけにはいかないのかしら?だめだわ、やっぱり、だめだわ!》アンナはいまや少しもためらうことなく、自分の問いに答えた。《とても、むりだわ! あたしたちふたりは生活そのものが別れわかれになっていくんだわ。そして、あたしはあの人を不幸にし、あの人はあたしを不幸にするんだわ。しかも、あの人にしても、あたしにしても、もう別の人間につくりなおすことはできないんだわ。もうありとあらゆる試みをして、ねじを巻けるだけ巻いてしまったんだもの……あら、赤ん坊を抱いた女の乞《こ》食《じき》がいるわ。あの女は、あたしがきっと哀れんでいると思っているだろうけれど、あたしたちはだれもかれもみんな、ただお互いに憎しみ合い、苦しめ合うためだけに、この世に放りだされたんじゃないのかしら? 中学生たちが通っているわ――笑っているわ。じゃ、セリョージャは?》アンナは思いだした。《あたしも自分はあの子を愛していると思って、われながら自分の優しさに感動したものだわ。でも、あたしがそれをほかの愛情に見かえて、あの子なしに暮しながら、その愛情に満足していたあいだは、なにも不平をいわなかったじゃないの》そしてアンナはその愛情と呼んでいたもののことを思い浮べると、思わず嫌悪の情に襲われた。と、アンナはいまや自分の生活だけでなく、すべての人びとの生活を明らかに洞察《どうさつ》することができたが、その洞察力は彼女を喜ばせた。《あたしにしても、ピョートルにしても、御者のフョードルにしても、あの商人にしても、あの広告で観光を呼びかけているヴォルガ川の岸に住んでいる人たちにしても、みんな同じことなんだわ。どこへ行っても、いつの世でも》アンナがそう考えたとき、馬車はもうニジェゴロド停車場の低い建物に近づいていて、赤帽たちが馬車を目がけて駆けだして来た。
「オビラロフカまでお買いすればよろしいんですね?」ピョートルはきいた。
アンナは自分がどこへ、なんのために行くのか、すっかり忘れていたので、その質問をのみこむのに、ひどく骨が折れた。
「ええ」アンナは金のはいった財《さい》布《ふ》を渡しながら答え、片手に小さな赤い手さげ袋をさげて、馬車をおりた。
群衆のあいだをかきわけて、一等待合室のほうへ向いながら、アンナは自分の境遇のいっさいの細かい点と、自分が迷っているさまざまな決心を少しずつ思い浮べていた。と、またしても、希望と絶望が、恐ろしくふるえおののく疲れきった彼女の心の古傷を、あちこち刺激するのであった。放射状の長いすに腰をかけて、汽車を待ちながら、アンナは出たりはいったりする人びとを(彼らはみんな見るのもいやだった)、嫌悪の念をもってながめ、いろんなことを考えた――自分が向うの駅へ着いて、彼に手紙を書くときのことや、自分が書いてやる文面のことや、彼が今ごろ母親に向って(こちらの苦しみも知らないで)自分の境遇の苦しさを訴えていることや、あるいはまた、自分が彼の部屋へおしかけて行って、彼に向っていう文句のことなどを考えたりしていた。そうかと思うと、アンナは自分の生活がまだ幸福でありうるかもしれないということや、自分が苦しいほど彼を愛しかつ憎んでいることや、心臓が恐ろしく鼓動していることなどを考えていた。
31
ベルが鳴りわたると、だれやら、ぶざまでずうずうしく、それと同時に自分の与える印象に気を配っている若い男たちが、通りすぎて行った。それから、ピョートルも、例の仕着せにゲートルつきの靴をはき、愚鈍で動物的な顔をしながら、待合室を横ぎり、アンナを列車まで見送るために、そばへやって来た。アンナがプラットフォームづたいに、騒々しい連中のそばを通りぬけたとき、彼らはぴたりと静かになった。ひとりの男が連れの男に、アンナのことをなにか耳打ちした。もちろん、なにかいやらしいことにきまっていた。アンナは高い踏み段をのぼって、ただひとり、車《ク》室《ペー》の中の、かつては白かったものらしいが、今は薄よごれたスプリングのきいた長いすに腰をおろした。手さげ袋はスプリングのためにぶるっと震えて、その場に落ち着いた。ピョートルはばかのような微笑を浮べて、別れのしるしに、車の外で金モールの帽子を持ちあげてみせた。無遠慮な車掌がドアをばたんとしめて、掛け金をかけた。腰パッドをつけた醜い貴婦人(アンナは頭の中で、この婦人を裸にしてみて、その醜さにぞっとした)と、ひとりの女の子が、不自然な笑いを浮べながら、下のほうを駆けぬけて行った。
「カテリーナ・アンドレーエヴナのところよ、みんなあの人のところにあるのよ、 ma tante! 」女の子が叫んだ。
《まあ、あんな女の子まで、もう変にませて、しな《・・》をつくっているわ》アンナは思った。だれも見たくなかったので、アンナは素早く席を立って、がらんとした車室の反対側の窓ぎわに腰をおろした。縁なし帽子の下から、もじゃもじゃした髪をはみださせた、薄よごれて、醜い百姓が、列車の車輪のほうへ身をかがめながら、窓ぎわを通りぬけて行った。《あの醜い百姓には、どこやら見覚えがあるみたいだわ》アンナは考えた。そして、ふと、例の夢を思いだすと、アンナは恐ろしさに身震いしながら、反対側の戸口のほうへ身をずらした。車掌がドアをあけて、夫婦者の客を通した。
「あなたはお出になるんですか?」
アンナは答えなかった。車掌も、はいって来た乗客も、ヴェールに隠れたアンナの顔に表われた恐怖の色には、気づかなかった。アンナは片すみの自分の席へ引き返して、腰をおろした。夫婦者は、注意ぶかく、しかし、そっと気づかれぬように、アンナの衣装をながめながら、反対側に席を占めた。その夫も妻も、アンナには忌わしく思われた。夫は、たばこを吸ってもよろしいでしょうかとたずねたが、それはどうやらたばこを吸うためではなく、ただアンナに話しかけたいためらしかった。承諾の返事をもらうと、彼は妻を相手に、フランス語で話をはじめたが、それはたばこを吸うことよりもっと必要のなさそうな話であった。ふたりはただアンナに聞いてもらいたいために、いやにすましこんで、愚にもつかないことをしゃべっていた。アンナは、そのふたりがもう互いに鼻についてしまって、お互いに憎み合っていることを、見てとった。そのために、こうしたみじめな醜い夫婦者を、なおさら憎まないではいられなかった。
第二のベルが鳴りわたると、それにつづいて手荷物を運ぶ者や、ざわめきや、叫び声や、笑い声などが聞えてきた。アンナには、だれにもうれしいことなんかなにひとつないのがはっきりしていたので、その笑い声は痛いほど心をいらだたせた。そして、彼女はそれを聞かないために、耳をふさいでしまいたいほどであった。ついに第三のベルが鳴りわたり、汽笛の音が響き、連結部がぴんと引っぱられると、夫のほうは十字を切った。《いったいなんのつもりで、あんなことをしているのか、ご当人にきいてみたいものだわ》アンナは憎悪をこめて、相手の男を見やりながら、心の中で思った。アンナは、夫人の横の窓越しに、プラットフォームに立って汽車を見送っている人びとが、まるでうしろへ流されて行くように見えるのをじっとながめていた。アンナの乗っていた車は、レールの継ぎ目ごとに、規則正しくごとんごとんと揺れながら、プラットフォームを走り過ぎ、石垣を過ぎ、信号所を過ぎ、別の車輛《しゃりょう》のそばを通り過ぎた。車輪はしだいに調子よく、なめらかに、軽い響きをたてながら、レールの上をすべって行った。窓は明るい夕日の光に照らされ、微風がカーテンにたわむれはじめた。アンナは車内の客たちの存在をすっかり忘れて、列車の軽い動揺に身をまかせ、新鮮な空気を吸いこみながら、再びもの思いにふけりはじめた。
《ええと、あたしはどこまで考えていたんだっけ! そうそう、この人生が苦しみでないような状態は考えだせないし、あたしたちはみんな苦しむために生れて来たんだし、みんなはそれを承知していながら、なんとか自分で自分をだまして、その方法を考えだしているってことだわ。でも、もう真実を見抜いてしまった今は、どうしたらいいんだろう?》
「人間に理性が与えられているのは、人間を不安にするものから、のがれさせるためですわね」目の前の夫人がフランス語でいった。それはいかにも自分のいった言葉に満足しているふうで、わざと気取って発音していた。
その言葉はまるでアンナの思いにこたえるかのようであった。
《不安にさせるものからのがれるですって》アンナは心の中で繰り返した。そして頬《ほお》の赤い主人とやせぎすの夫人をちらと見て、アンナは、この病身の夫人が自分を理解されない女だと感じており、主人は妻を欺いて、わざと妻のうぬぼれを支持しているらしいのに気づいた。アンナは例の光をこのふたりにあてて、まるでふたりの生涯とその魂のすみずみまでをすっかりきわめつくしたような気がした。しかし、そこにはなにもおもしろいものはなかったので、アンナは自分のもの思いをつづけた。
《そうだわ、あたしはとても不安にかられているけれど、理性はそうした不安からのがれるために与えられているんだから、なんとしても、それからのがれなくちゃいけないんだわ。じゃ、もうなにも見るものがなくなって、なにを見てもぞっとするようになったとしたら、ろうそくを消してもいいんじゃないかしら? でも、どうやって消したらいいだろう? まあ、なんだってあの車掌は、丸太の上なんか伝って走って行くんだろう? なんだってあの連中は、向うの車にいる若い人たちは、あんなに大声でわめきちらかしているんだろう? なんだってあんなにしゃべったり、笑ったりしているんだろう? みんなまちがいだわ、みんなうそだわ、みんな偽りだわ、みんな悪いことだわ!……》
列車が停車場へ近づいたとき、アンナはほかの客の群れにまじって、外へ出た。そして、まるで癩病《らいびょう》患者でも避けるかのように、人びとをよけながら、プラットフォームに立ち止ると、自分はなんのためにここへ来たのか、なにをするつもりだったのかと、しきりに思いだそうと努めた。前には可能だと思われていたすべてのことも、今では考えてみることさえ困難に感じられ、とりわけ、彼女にいっときの平安も与えない、こうした騒々しい醜悪な人びとの群れの中では、なおさらであった。赤帽が駆けつけて来て、荷物を持たしてくれというかと思えば、若い連中がプラットフォームの床板を靴の踵《かかと》で踏み鳴らしたり、大声でがやがや話したりしながら、じろじろとアンナを振り返って見たり、そうかと思えば、向うからやって来る人が、こちらの避けるほうへ道を避けたりする始末であった。アンナは彼から返事がなかったら、まだ先へ乗って行くつもりだったことを思いだすと、ひとりの赤帽を呼び止めて、その辺にヴロンスキー伯爵あての手紙を持った御者はいないかとたずねた。
「ヴロンスキー伯爵さまでございますか? ついいましがたあのお屋敷から使いの者が見えておりました。たしか、ソローキン公爵夫人とお嬢さまのお迎えに。じゃ、その御者はどんな身なりをした男でございますか?」
アンナが赤帽と話しているところへ、赤ら顔の陽気そうな御者のミハイルが青いしゃれた外套《がいとう》を着、時計の鎖をちらつかせて、見るからにりっぱに使命をはたしたのを自慢している様子で、アンナのそばへ来て、手紙をさしだした。アンナは封を切ったが、もう読む前から、心臓が締めつけられる思いであった。
『きみの手紙が、間に合わなかったのを、とても残念に思っている。ぼくは十時に帰る』ヴロンスキーは無造作な筆跡でこう書いていた。
《やっぱり、そうなんだわ! あたしの思っていたとおりだわ!》アンナは皮肉な薄笑いを浮べながら、心の中でつぶやいた。
「もうけっこう。おまえはうちへお帰り」アンナはミハイルに向って、静かにいった。アンナが静かにいったのは、心臓の鼓動があまりにも早くて、よく息がつけなかったからであった。《いえ、あたしはおまえなんかに苦しめられやしないから》アンナは相手を威《い》嚇《かく》するような気持で考えたが、それはヴロンスキーに対してでも、自分自身に対してでもなく、自分に苦しみを強《し》いる何者かに対してであった。アンナは停車場の建物に沿って、プラットフォームを歩いて行った。
プラットフォームを歩いていた小間使ふうのふたりの女が、うしろを振り返って、アンナをながめ、その衣装についてなにやら声高《こわだか》に品定めをしていた。
「あれは本物だわ」そのふたりはアンナが身につけていたレースのことを、いった。若い男たちは、アンナをそっとさせておかなかった。その連中はまたしても、アンナの顔をじろじろとのぞきこんで、なにやら不自然な声で、笑い声をたててどなりながら、そばを通りすぎて行った。駅長は通りすがりに、汽車にお乗りになるのですか、とたずねた。クワス売りの少年は、アンナの姿から、目を放さずにいた。《ああ、あたしはどこへ行ったらいいんだろう?》アンナはプラットフォームを先へ先へと進みながら、考えた。そのはずれまで来て、アンナは立ち止った。眼鏡の紳士を迎えに来て、大声で笑ったり、しゃべったりしていた幾人かの貴婦人と子供たちは、アンナがそばを通りかかったとき、急に口をつぐんで、アンナをじろじろとながめた。アンナは足を速めて、そのそばを離れると、プラットフォームのはずれへ行った。と、貨物列車がはいって来た。プラットフォームは震動しはじめ、アンナはまた汽車に乗っているような気がした。
と、不意に、アンナは、はじめてヴロンスキーと会った日の、あの轢《れき》死《し》人《にん》のことを思いだし、今自分がなにをなすべきかを悟った。アンナはすばやく軽い足どりで、給水塔から線路のほうへ通じている階段をおりて行くと、通過している列車とすれすれのところに立ち止った。アンナは貨車の底部を見つめ、その螺《ら》旋《せん》や連結部や、ゆっくりと進んでくる第一輛めの高い鋳鉄の車輸に目をこらし、目測でその前輪と後輪との中間にあたる部分と、その部分がちょうど自分のまん前へ来る瞬間を、見定めようと努めた。
《あそこだわ!》アンナは列車の陰とまくら木の上にこぼれていた石炭まじりの砂を見つめながら、心につぶやいた。《あそこだわ、ちょうどあのまん中のところへ飛びこむのよ。そうすれば、あの人を罰して、すべての人から、いえ、自分自身からも、のがれられるんだわ》
アンナは、目の前へ来た第一輛めの中央部の下へ身を投げようとした。が、手からはずそうとした赤い手さげ袋に手間どって、機を逸してしまった。もう第一輛めの中央部は過ぎてしまった。次の車輛を待たなければならなかった。アンナはふと、水浴びをしようとして、いざ水へ飛びこむときにいつも味わうような気持におそわれ、十字を切った。この十字を切るというものなれた動作は、アンナの心に娘時代や子供時代のさまざまの思い出を呼びさました。と、不意に、アンナのいっさいをおおっていた闇が破れて、その瞬間、これまでの生涯がそのありとあらゆる明るい過去の喜びにつつまれて、アンナの目の前に浮んだ。しかし、アンナは近づいて来る二輛めの車輪から、目を放さなかった。そして、車輪と車輪との中間部がちょうど目の前へ来たとき、アンナは赤い手さげ袋を投げだし、首を両肩の中へすくめて、両手をついて車の下へ倒れた。そして、まるですぐ起きあがる用意のためかのように、身軽な動作でひざをついた。すると、その瞬間、アンナは自分のやったことにぞっとした。《あたしはどこにいるんだろう? なにをしているんだろう?なんのために?》アンナは身を起して、うしろへ飛びのこうとした。だが、なんとも知れぬ、巨大な容赦ないものが、アンナの頭をひと突きし、その背中をつかんでひきずった。《神さま、あたしのすべてをお許しください!》アンナは抵抗のむなしさを感じながら、口走った。ひとりの小がらな百姓がなにやらつぶやきながら、鉄の上にかがみこんでなにやらしていた。と、アンナに不安と、欺《ぎ》瞞《まん》と、悲哀と、邪悪に満ちた書物を読ませていた一本のろうそくの光が、いつもにもましてぱっと明るく燃えあがって、今まで闇につつまれていたいっさいのものを照らしだしたかと思うと、たちまち、ぱちぱちと音をたてて暗くなり、やがて、永久に消えてしまった。
第八編
かれこれ二カ月過ぎた。もう暑い夏も半ばになっていたが、ようやく今になって、コズヌイシェフはモスクワを離れる準備をしていたのである。
コズヌイシェフの生活にも、このところ、彼なりにいろいろな事件があった。もう一年ほど前に、六年間の労苦の結晶である、『ヨーロッパならびにロシアにおける国家機構の基礎および形態の概要』と題された著書が完成していた。この著書の若干の章と序論はいくつかの雑誌に時おり掲載されたし、またその他の部分も内輪の人たちはコズヌイシェフから読みきかされていたので、したがって、この著述の思想はもう読書界にとって完全に新しいものとはいえなかった。しかし、それにしてもコズヌイシェフは、この自著の出現が世間に大きな印象を与え、学界においても、学問上の革命とまではいかないまでも、ともかく熱烈な興奮の渦を巻きおこすことは疑いないと期待していた。
この書物は綿密な推敲《すいこう》の後、昨年出版され、方々の書店へ配布された。
コズヌイシェフはこの書のことをだれにもたずねず、本の売れゆきはどうかという友人たちの質問にも、いやいやながら、ことさら無関心そうに答え、本屋にさえ本の売れゆきを問いあわせようとはしなかった。しかし、彼は自分の著書が世間や学界に与える第一印象を見のがすまいと、目を光らせ、注意力を緊張させていた。
ところが、一週間、二週間、三週間と過ぎても、世間にはなにひとつ反響が認められなかった。もっとも、専門家であり学者である友人たちは、明らかにお義理からこの書物の話を持ちだすことはあった。しかし、その他の知人たちは、専門的内容をもった、このような書物には興味がないので、それについて話すようなことはまったくなかった。世間は、とくに今は他の問題に心を奪われていたので、完全に黙殺してしまった。新聞雑誌でも同じく、一カ月間というもの、この書物のことにはひと言もふれなかった。
コズヌイシェフは書評を書くのに必要な日時を詳細に計算して、心待ちしていたが、一カ月たっても、二カ月たっても、相変らず黙殺の状態がつづいた。
ただ、『北方のかぶと虫《セーヴェルヌイ・ジューク》』誌の雑報欄に、声のつぶれてしまった歌手ドラバンチのことをふざけた調子で書いたついでに、コズヌイシェフの著書についても侮《ぶ》蔑《べつ》的な批評が若干述べられていた。これは、この著書がもうとうの昔にあらゆる人びとの不評をかい、世間一般の笑いぐさになっていることを示していた。
ようやく、三カ月めになって、あるまともな雑誌に批評が出た。コズヌイシェフはその論文の筆者も知っていた。一度その男にゴルプツォフの家で会ったことがあった。
この論文の筆者というのは、たいそう年の若い、病弱な雑文家で、ものを書いている分にはなかなか筆がたったが、ひどく教養がなく、個人関係では臆病な男であった。
コズヌイシェフは、この筆者をまったく軽蔑していたにもかかわらず、襟《えり》を正してその批評を読みにかかった。批評はまったくひどいものであった。
明らかにこの雑文家は、この著書全体をとても理解できる代物《しろもの》ではないというふうに曲解したらしかった。しかも、彼はじつに巧妙な抜粋を引用していたので、現にこの本を読んだことのない者には(ほとんどだれひとり読んでいないことは明らかであった)、この本ははじめから終りまで仰々しい、しかもまったく見当はずれな言葉を選びだしただけの代物にすぎず(このことはたくさんの疑問符が示していた)、この本の著者がまったくの無学者であることは疑う余地のないものであった。しかも、その批評ぶりはすべてじつに機知に富んでいて、当のコズヌイシェフでさえ、こういう機知なら捨てがたいと感じたくらいであった。しかし、そういう点こそがおそるべきものなのであった。
コズヌイシェフはこの評者のあげている論証の正否をまったく良心的に調べてみることなく(こうした個所はすべて故意に取りあげられたことは、明瞭《めいりょう》すぎるほど明瞭だった)、すぐさま、知らずしらずのうちに、論文の筆者と会ったときのことや、そのときかわした話などを細かい点まで思い起しはじめた。
《おれはあの男に、なにか腹の立つようなことをいわなかったかな?》コズヌイシェフは自問してみた。
すると、この若い男に会ったときに、彼が無知を暴露するような言葉を使ったのを自分が訂正してやったことを思いだし、この批評の意味するものを了解した。
この批評が現われてからというもの、彼の著書については、活字の上でもうわさ話でも、死のような沈黙が訪れた。コズヌイシェフも、六年間あれほどの愛情と労苦とを傾けて書きあげた著作が、いまや跡形もなく葬り去られてしまったことを認めないわけにはいかなかった。コズヌイシェフの境遇は、この著述を完成したために、今まで一日の大部分を過していた書斎での仕事がもはやなくなっていたので、なおさら苦しいものとなっていた。
コズヌイシェフは、聡明《そうめい》で、教養があり、健康で、活動的な人間であっただけに、自分のありあまる活動力をいったいどこへ向けたらいいのかわからなかった。客間や、大会や、集会や、委員会など、しゃべることのできるところへは、どこへでも出かけて、しゃべるようにしていたが、これも彼の時間の一部を奪うにすぎなかった。しかも、古くからの都会生活者である彼には、無経験な弟がモスクワへ出て来るとよくやっていたように、おしゃべりにすっかり没頭するなどというまねはとてもできなかった。余暇と頭脳の活動力はまだかなりたくさん残っていた。
ところが幸いなことに、自著の失敗で彼がひどくつらい思いをしていたこの時期に、異教徒問題や、アメリカとの親善や、サマーラの飢《き》饉《きん》や、展覧会や、降神術などの問題に代って、それまでは社会の一隅《いちぐう》でくすぶっていたにすぎないスラヴ問題がにわかに脚光を浴びてきた。そして、以前からこの問題の提唱者のひとりだったコズヌイシェフは、それに全身全霊を打ち込んでしまった。
コズヌイシェフの属しているサークルのあいだでは、そのころ、スラヴ問題とセルビア戦争以外のことはなにひとつ話題にのぼらないし、また書かれもしない、というありさまであった。ふだんはのんきな大衆が暇つぶしにやっていたことが、今ではすべてスラヴ民族のために行われるようになった。舞踏会も、音楽会も、晩餐会《ばんさんかい》も、演説会も、婦人の衣装も、ビールも、料理屋も――なにもかもすべて、スラヴ民族に対する同情を表明していた。
この問題について人びとがいったり書いたりしていることの多くは細かい点でコズヌイシェフには不賛成であった。彼は、スラヴ問題が、次から次へと入れ代りながらつねに世間の人びとに仕事のたねを提供する一種の流行の気晴らしの一つとなっているのを見てとった。この仕事にたずさわっている人びとの中には、利欲や虚栄心の満足を求めている人が少なくないことも見てとった。さらに、新聞が自紙にだけ読者の注意を向けさせ、他紙をだしぬこうという唯一の目的を追って、不必要な、誇張された記事をのせていることも認めないわけにはいかなかった。また、この社会一般の昂揚《こうよう》した気分につけこんで、だれよりも前に飛びだし、人に負けじと大声をはりあげてわめいているのは、例外なく、不遇な失意の境遇にある人びと――軍隊を持たない総司令官、管轄する省を持たない大臣、雑誌を持たないジャーナリスト、党員のない党首、といった面面であることも見てとった。そこには軽薄でこっけいなことが多いのも見てとったが、しかし、社会各層をひとつに結びつけている、疑う余地のない、ますますひろがり高まっていく熱情を見てとり、またそれを容認した。これには同感せずにはいられなかったのである。同じ信仰をもち、兄弟の関係にあるスラヴ民族の虐殺は、犠牲者に対する同情と、迫害者への憤激を呼びおこしたのであった。そして、大いなる事業のために戦っているセルビア人やモンテネグロ人のヒロイズムは、もはや言葉ではなしに、その行為によって同胞を助けたいという希望を、全国民の胸の中に呼びおこしたのであった。
しかし、そのほかにもうひとつ、コズヌイシェフにとって喜ばしい現象があった。それは世論の誕生であった。世間ははっきりとその希望を表明したのであった。コズヌイシェフによれば、国民精神がその表現を与えられたというわけであった。こうして、彼はこの仕事にたずさわればたずさわるほど、それが巨大な規模になって、一時代を画するにちがいない事業になるということが、ますますはっきりと感じられてきた。
彼はこの偉大な事業への奉仕に全力をささげて、自分の著書のことは考えることも忘れてしまった。
いまや彼の時間はこの仕事にすっかり奪われてしまい、そのために彼あてに来る手紙や請願にいちいち答えるいとまもないありさまであった。
彼は春いっぱいと夏のはじめを仕事に忙殺されて、ようやく七月にはいってから、田舎《いなか》にいる弟のもとを訪れるしたくにとりかかった。
彼の旅行の目的は、二週間の予定で、民衆の聖地ともいうべき草ぶかい田舎で休息し、彼をはじめとしてすベての都会人が信じて疑わない国民精神昂揚の現実をまのあたり見て、楽しもうということであった。前々からリョーヴィンを訪問するという約束を果そうと願っていたカタワーソフも、彼と連れだって出発した。
コズヌイシェフとカタワーソフが、きょうはとくに群衆でごったがえしているクールスク線の停車場へ乗りつけ、馬車をおりて、あとから荷物を持って来る召使を振り返ったとたんに、義勇兵の一団が四台の辻馬車に分乗して到着した。一同は花束をかかえた貴婦人たちに迎えられ、あとからどっとつづいて来る群衆にとりまかれながら、構内にはいって行った。
義勇兵を出迎えた貴婦人たちのひとりが、待合室から出て来て、コズヌイシェフに話しかけた。
「あなたもやはりお見送りにいらっしゃったのでございますか?」その貴婦人はフランス語でたずねた。
「いいえ、私自身が行くんですよ、公爵夫人。弟のところへ休息にね。あなたはいつもお見送りにいらっしゃるんですか?」コズヌイシェフは、かすかな微笑を浮べていった。
「ええ、そうせずにはいられませんもの!」公爵夫人は答えた。「ここからもう八百人もの人が出征したってほんとうでございましょうね? 私のいうことをマリヴィンスキーさんは信じてくださらないんでございますよ」
「八百人以上ですよ。直接モスクワからでなく出征した人の数も入れれば、もう千人は越していますね」コズヌイシェフはいった。
「やっぱり、そうでございましょうね。あたくしもそう申したんでございますよ!」貴婦人はうれしそうにひきとっていった。「それから、現在、献金がかれこれ百万ルーブルにもなったというのも、やっぱりほんとうでございましょうね?」
「いや、もっとですよ、公爵夫人」
「ときに、きょうの電報はいかがでございます? またトルコ軍を打ち破ったそうじゃございませんか」
「ええ、私も読みました」コズヌイシェフは答えた。ふたりは最近の電報の話をした。それによれば、トルコ軍は三日間続けざまに各地で撃破され、敗走したので、あすにも決戦が予想されるということであった。
「ああ、そうそう、じつはですね、あるひとりのりっぱな青年が志願なさっているんでございますがね。それがどうしたわけか面倒なことになりましてね。あたくし、あなたにお願いしようと思っておりましたの。あたくしもよく存じている方ですから、どうぞ、一筆書いてやってくださいませんか。その方、リジヤ伯爵夫人から紹介された方なんですけれど」
この志願を頼みに来たという青年について公爵夫人の知っているかぎりのことを詳しくたずねた後、コズヌイシェフは一等待合室へ行き、そのほうの実権を握っている人物あてに紹介状を書き、公爵夫人に手渡した。
「あなた、ご存じでしょうね、ヴロンスキー伯爵を、あの有名な……あの方もやはりこの汽車で出征なさるんでございますよ」彼が再び公爵夫人を見つけて、手紙を手渡したとき、夫人は得々として、意味ありげな微笑を浮べながらいった。
「私も彼が出征することは聞いていましたが、いつってことは知りませんでした。じゃ、この汽車でですか?」
「あたくし、あの方をお見かけしましたの。ここにいらっしゃいますのよ、お母さまおひとりだけのお見送りですわ。でも、とにかくあの方としては、そうなさるのがいちばんおよろしいことでございましょうね」
「そりゃ、もちろん、そうでしょうとも」
ふたりが話し合っていたとき、一団の群衆が、そのわきを通って、食卓のほうへなだれて行った。ふたりともそちらへ歩きだしたが、そのとき、グラスを片手に、義勇兵たちに向って演説しているひとりの紳士の大きな声が聞えてきた。『信仰のため、人類のため、わが同胞のために奉仕する』その紳士はますます声をはりあげながらいった。『この偉業に対して、母なるモスクワは諸君を祝福する。万歳《ジヴイオ》!』彼は涙を含んだ大声で演説を結んだ。
一同は『万歳《ジヴイオ》!』を唱えた。と、さらに新しい一群がどっと待合室になだれこんで来たので、公爵夫人はあやうく倒れるところだった。
「やあ、公爵夫人、ごきげんよう!」と、不意に群衆のまん中に姿をみせたオブロンスキーが、うれしそうな微笑に顔を輝かせながらいった。「ねえ、すばらしく暖かみのこもった演説だったじゃありませんか? ブラヴォー! よう、コズヌイシェフさんもごいっしょですね! あなたも、あんなぐあいにひと言いっておやりになったら――何かその、激励の言葉を。なにしろあなたはこういうことがじつにうまいんだから」彼は柔和な、敬意のこもった、用心ぶかい微笑を浮べてコズヌイシェフの手を軽く取って、つけ加えた。
「いや、私はすぐ出かけるんですから」
「どちらへ?」
「田舎の弟のところまで」コズヌイシェフは答えた。
「じゃ、あなたはうちの女房にお会いになりますね。私はあれに手紙を書きましたが、あなたが、お会いになるほうが先になりますな。どうか私に会ったと伝えてください。それから、万事 all right だって、それでわかりますから。ところで、なんですが、まことに相すみませんが、私が合同委員会の委員に任命されたって、伝えてくださいませんか……ええ、それでわかるんですよ! いや、どうも、こりゃ les petites mis俊es de la vie humaine. っていうやつですがね」彼はまるでいいわけでもするように、公爵夫人を振り向いた。「ところで、ミャフカヤですがね、リーザじゃなくて、ビビーシュのほうが、小銃千梃《ちょう》と看護婦十二人分を寄付しましたよ。あなたにお話ししましたっけ?」
「ええ、伺いましたよ」コズヌイシェフは気のない返事をした。
「でも、残念ですな、あなたが行ってしまわれるのは」オブロンスキーはいった。「じつはあす、出発するふたりの友人のために送別会を開くんですよ――ペテルブルグから来たジーメル・バルトニャンスキーと、例のヴェスロフスキー、つまり、グリーシャのためにね。ふたりとも出征するんですよ。ヴェスロフスキーは、最近結婚したばかりなんですがね。いや、まったくえらいやつですよ! そうじゃありませんか、公爵夫人?」彼は貴婦人に向っていった。
公爵夫人はそれには答えず、コズヌイシェフのほうをちらと見た。しかしコズヌイシェフと公爵夫人がいかにも彼からのがれたそうにしているにもかかわらず、オブロンスキーはいささかもひるむ色を見せなかった。彼はにこにこしながら、公爵夫人の帽子の羽根かざりをながめたり、なにごとかを思いだそうとでもするように、あたりを見まわしたりしていた。義金箱を手にしてそばを通りかかった婦人を見つけると、彼はその婦人を呼び止めて、五ルーブル紙幣を入れた。
「どうも私は、この義金箱を黙って見ておれなくてね、手もとに金のあるかぎりは」彼はいった。「ときに、きょうの電報はどうです? モンテネグロ人ってまったくえらいもんですな! えっ、なんですって!」彼は、公爵夫人からヴロンスキーがこの汽車で出征すると聞くや、思わずこう叫んだ。その瞬間、オブロンスキーの顔は悲しみの色を表わした。しかし、しばらくして、一歩、歩くごとに軽くからだをゆすり、頬《ほお》ひげをなでながら、ヴロンスキーのいる部屋にはいったときには、はやくもオブロンスキーは、妹の死《し》骸《がい》にとりすがってあれほど慟哭《どうこく》したことなどもうすっかり忘れてしまって、ヴロンスキーをただ勇士として旧友としてながめたばかりであった。
「いろいろ欠点のある方ですけれど、あの方の人のよさだけは認めないわけにはまいりませんわね」公爵夫人はオブロンスキーがふたりから離れるやいなや、コズヌイシェフにいった。「あれこそ生粋《きっすい》のロシア人気質《かたぎ》、スラヴ魂というものですわね! ただあたくし、ヴロンスキーさんはあの方に会うのが不愉快じゃないかと心配ですけれど、なんと申しましても、あの人の運命には心を打たれますもの。あなた、道中あの人とお話をなさいませな」公爵夫人はいった。
「ええ、たぶん。そういう機会がありましたらね」
「あたくし、これまであの人がどうも好きになれませんでしたけれど。でも、今度のことはだいぶ償いになりますわね。あの人はご自分が出征なさるばかりでなく、自費で、一個中隊編成して、それを引率していらっしゃるんでございますもの」
「ええ、私も聞きました」
ベルが鳴った。一同は入口に群がりはじめた。
「ほら、あそこですわ!」公爵夫人は、長い外套《がいとう》を着て、鍔広《つばひろ》の黒い帽子をかぶり、母親と腕を組んで歩いて行くヴロンスキーの姿を指さしながらいった。オブロンスキーは彼と並んで、なにやらさかんにしゃべりながら歩いていた。
ヴロンスキーはどうやらオブロンスキーのいうことなど耳にはいらぬ様子で、眉《まゆ》をひそめたまま、じっと前方を凝視していた。
たぶん、オブロンスキーに教えられたためであろう、彼は公爵夫人とコズヌイシェフの立っているほうを振り返り、無言のまま、ちょっと帽子をあげた。急に老《ふ》けて苦悩を表わしているその顔は、まるで化石したもののようであった。
プラットフォームに出ると、ヴロンスキーは黙ったまま、母親を先に通して、自分も車室の中へ姿を消した。
プラットフォームでは、『神よ、皇帝を守りたまえ』の歌声が響きわたり、それにつづいて『ウラー!』『万歳!』の喚声がとどろいた。義勇兵のひとりで、背の高い、平べったい胸の、まだとても若い青年が、フェルトの帽子と花束を頭上で振りながら、とくに人目につくおじぎをしていた。その陰からふたりの将校と、脂《あぶら》じみた軍帽をかぶり、大きな顎《あご》ひげをはやした年配の男が同じようにおじぎをしながら、窓から首を出した。
公爵夫人に別れを告げてコズヌイシェフが、そばへやって来たカタワーソフといっしょにすしづめの車内へはいると、じきに列車は動きだした。
ツァリツィン駅で、列車は『栄《は》えあれ!』を歌う若人《わこうど》たちの整然とした合唱に迎えられた。またしても義勇兵たちはおじぎをしたり、窓から乗りだしたりしたが、コズヌイシェフはその様子に注意をはらわなかった。彼はもう義勇兵たちとかなりたくさん交渉をもってきたので、彼らに共通のタイプはもうわかっており、そういうことには興味がわかなかったのである。ところが、学問の研究に没頭していて義勇兵たちを観察する機会をもたなかったカタワーソフは、ひどく彼らに興味をもち、コズヌイシェフにしきりといろんなことをたずねるのであった。
コズヌイシェフはこの友人に、二等車へ行って、直接彼らと話をしたら、と勧めた。次の駅でカタワーソフはこの忠告を実行した。
列車が止ると、彼はさっそく二等車へ移って、義勇兵たちと近づきになった。彼らは車の片すみに陣どって、どうやら、乗客たちの注意も、はいって来たカタワーソフの注意も、自分たちに向けられているのを心得ているらしく、大声で話し合っていた。いちばん大声でしゃべっていたのは、例の背の高い、平べったい胸の青年であった。彼は見たところ酔っているらしく、自分の学校で起ったなにかの事件について話していた。その向いには、オーストリアの近衛《このえ》の軍服を着た、もう中年の将校がすわっていた。彼は微笑を浮べ、青年の話に耳を傾けながら、ときどき口をはさんでいた。いまひとりの、砲兵の軍服を着た男は、ふたりのわきのトランクに腰をかけていた。もうひとりは眠っていた。
カタワーソフはこの青年と話してみて、彼がもとはモスクワの大金持の商人で、二十二歳になるまでに莫大《ばくだい》な財産を蕩尽《とうじん》したことを知った。この青年が、ちやほやあまやかされて育ち、からだも弱そうなところがカタワーソフには気に入らなかった。青年はどうやら、ことに今は一杯きこしめしているらしく、自分が英雄的行為をしているのだと信じこんでいる様子で、きわめて不愉快な態度でそれを自慢しているからであった。
もうひとりの退役将校もやはり、カタワーソフに不愉快な印象を与えた。これはどうも、ありとあらゆることに手を染めた人間のようであった。鉄道に勤めたこともあれば、領地の管理人をやったこともあれば、自分で工場をはじめたこともあるという話で、なんの必要もないのに、しかも的はずれな学術用語などを使いながら、ありとあらゆる話をするのであった。
これに反して、もうひとりの砲兵はたいそうカタワーソフの気に入った。これは控えめな、おだやかな男で、退役近衛将校の知識や、商人の英雄的な自己犠牲にすっかり敬服していると見え、自分のことはなにひとつ進んでしゃべろうとしなかった。カタワーソフが、なんの動機でセルビアへ行く気になったのかとたずねたとき、彼は遠慮ぶかい態度で答えた。
「だって、みなさんが行くんですからね。セルビア人だって助けてやらなくちゃなりませんよ。かわいそうですからね」
「なるほど、ことに向うじゃあなたがた砲兵が足りないんですから」カタワーソフはいった。
「私が砲兵隊に勤務していたのはそう長いことじゃないので、ひょっとしたら、歩兵か騎兵にまわされるかもしれません」
「いや、今はなによりもいちばん砲兵が必要なんですから、歩兵なんぞにまわされるものですか!」カタワーソフはこの砲兵の年配からみて、彼がもう相当の位についているものと考えながらいった。
「私は砲兵隊にはたいして勤務していなかったんですよ。私は退役の見習士官でしてね」彼はいって、それから自分が試験に合格しなかった顛末《てんまつ》を話しはじめた。
こうしたことがすべていっしょになって、カタワーソフに不愉快な印象を与えたので、義勇兵たちが一杯ひっかけに駅のほうへ出て行ったとき、カタワーソフはだれかと話し合って、自分の受けた悪印象の当否をしらべてみたくなった。乗客のひとりで、将校外套《がいとう》を着た老人が、カタワーソフと義勇兵たちとの話にずっと耳を傾けていた。この老人とふたりだけになったとき、カタワーソフは自分から話しかけた。
「いや、まったく、こうして出征して行く人たちの境遇って、じつにさまざまなものなんですねえ」カタワーソフは自分の考えも述べ、それと同時に、老人の考えもさぐりだしたかったので、こうあいまいな口調でいった。
老人は二度の戦役を務めた軍人であった。彼は軍人というものを知っていたので、この連中の外見や話しぶりから、また道中酒をラッパ飲みする豪傑ぶりから、これは質《たち》のよくない軍人だと考えていた。それに、彼はある郡役所所在地に住んでいたので、だれからも、もう雇ってもらえない、ある飲んだくれで盗人の終身兵が、出征したときの様子を話そうと思っていた。しかし、現在の世間一般の空気からして、世論に反するような意見を述べたり、とくに義勇兵を非難したりするのは危険だということを長年の経験で知っていたので、彼もやはりカタワーソフの顔色をうかがっていた。
「なにしろ、向うじゃ人が必要なんですからな」彼は目で笑いながらいった。それからふたりは最近の戦況を話しはじめたが、最近の情報によると、トルコ軍は各地で撃破されているということなのに、あすはいったいだれを相手に戦うのだろうという疑念は、互いにどちらも胸にしまっていた。こうして、ふたりとも自分の意見を述べないままに別れてしまった。
カタワーソフは自分の車室にもどると、思わずしらず良心を偽りながら、義勇兵たちに対する自分の観察をコズヌイシェフに語ったが、それを結論すれば、彼らはりっぱな若者たちだというのであった。
ある町の大きな停車場で、またもや歌声と喚声が義勇兵たちを出迎え、またもや義金箱を手にした男女の募金係が現われた。県の名流夫人連は花束を義勇兵にささげ、そのあとにつづいて食堂へはいった。しかし、そうしたことも、モスクワのそれと比べると、はるかに貧弱であった。
県庁のある町に停車しているあいだ、コズヌイシェフは食堂へは行かずに、プラットフォームをあちこち歩きはじめた。
はじめてヴロンスキーの車室の前を通りかかったとき、窓にカーテンがかかっているのに気づいた。しかし、二度めに通りかかると、車窓に老伯爵夫人の姿が見えた。夫人はコズヌイシェフを呼び止めた。
「ごらんのとおり、あたくしもこうして、クールスクまであの子を送ってまいるところでございますよ」夫人はいった。
「ええ、私もうかがいました」コズヌイシェフは窓のそばに立ち止り、中をのぞきこみながらいった。「ご子息のとられた行動はじつにごりっぱですよ!」ヴロンスキーが車室にいないのを見てとって、彼はそうつけ加えた。
「まったく、あのような不幸のあったあとでは、あの子としても、ほかにどうしようもございませんでしょう?」
「まったく恐ろしい事件でした!」コズヌイシェフはいった。
「ほんとに、あたくしどんなにつらい思いをいたしたことでございましょう! まあ、おはいりになってくださいませ……ほんとにどんなつらい思いをいたしたことでございましょう!」コズヌイシェフが中へはいって、長いすに並んで腰をおろしたとき、夫人は繰り返した。「そりゃもう、想像もできないくらいでございますよ! 六週間というもの、あの子はだれとも口をききませんでしたし、食べることだって、あたくしが拝みたおすようにしてやっと、といったぐあいでございましたからねえ。ですから、一分でもあの子をひとりにしておけませんでしたよ。あの子が自殺に使えそうなものはいっさい取りあげてしまいました。あたくしどもは階下で暮しておりましたけれど、もう先のことはなにひとつ見通せない始末でございましたからね。なにしろ、あなたもご存じでございましょうけれど、あの子はすでに一度、あの女のためにピストル自殺をしかけたことがございましたのでね」老婦人はそういうと、当時のことを思い浮べたらしく眉《まゆ》をよせた。「そうでございますよ、あの女もとうとう死んでしまいました、ああいう女にふさわしい死に方をして。あの女ときたら、死ぬときまで、あんないやらしい、下品な死に方を選んだものでございますよ」
「でも、われわれには人を裁《さば》く資格なんてありませんよ、伯爵夫人」コズヌイシェフは溜《ため》息《いき》をつきながらいった。「そりゃ、あの件があなたにとってさぞおつらかっただろうとは私も十分察しておりますが」
「ああ、もうそれはおっしゃらないでくださいまし! あたくし、あのときは、領地のほうで暮していたのでございますが、ちょうどあの子も来ておりましてね。そこへ女が手紙を持たせてよこしたのでございます。あの子はすぐ返事を書いて、使いに持たせてやりました。あたくしどもは、あの女がすぐそこの停車場にいるなんて、夢にも存じませんでした。ところが、晩になって、あたくしが、居間にひっこみましたところ、いきなり、小間使のメリーが、停車場でどこかの奥さんが汽車に飛びこんだ、って申すじゃございませんか。あたくし、なにか胸を突かれたような気がいたしました! あたくしには、それがあの女だとすぐぴんときたんでございますよ。で、あの子に知らせてはいけない、とすぐみんなにいいつけたのでございますよ。ところが、もうあの子は聞いてしまっておりましてね。あの子の御者が現場に居あわせて、すっかり見ていたんでございますよ。あたくしがあの子の部屋にかけこんだときには、あの子はもう正気ではございませんでした――見るもこわいくらいでございましたよ。あの子はひと言もいわないで、現場へ飛んでまいりました。その場でどんなことがあったか、あたくしはなにも存じませんけれど、あの子はまるで死人のようになって運ばれてまいりました。とてもあの子だなんて思えないくらいでございましたよ。お医者さまは prostration compl春e とか申しておりました。それから、ほとんど気ちがいみたいな状態がはじまったのでございますよ。ああ、いまさらかれこれ申してもしかたございません!」伯爵夫人は片手を振っていった。「恐ろしいご時世でございますね。いいえ、なんとおっしゃろうと、悪い女でございますよ。まあ、あれはなんというめちゃくちゃな情熱でございましょう!それというのも、みんななにか特別なことを証明してみせるためでございますよ。それをあの女はりっぱに証明してみせたってわけでございますね。自分を滅ぼしたばかりか、りっぱな男をふたりまでも破滅させてしまいましたからね――自分の夫とあたしのかわいそうなむすこを」
「ところで、あの人のご主人はどうしてます?」コズヌイシェフはたずねた。
「あの女の娘を引き取りましてね。アリョーシャははじめのうち、なんでも承諾しておりましたが、でも今じゃ、自分の娘を他人さまの手に渡してしまったことにひどく苦しんでおりますよ。しかし、一ぺんいった言葉をあとにひっこめるわけにもまいりませんでね。カレーニンさんはお葬式にいらっしゃいました。でも、あたくしどもは、あの方がアリョーシャと顔をあわせないようにずいぶん苦労いたしましたよ。ともかく、夫であるあの方はこれでずっと気がお楽になりますよ。あの女はあの方の束縛を解いたわけでございますからね。ところが、かわいそうなのはあたくしのむすこで、あの女になにもかもささげ尽してしまったんでございますよ。出世も、このあたくしも、なにもかも捨ててしまったのに、それでもまだあの女はいじめ足りないで、わざわざあの子にとどめを刺したのでございます。いいえ、なんと申されようと、あの女の死に方そのものが、宗教をもたないけがらわしい女の死にざまでございますよ。こんなことを申しては神さまのばちがあたるかもしれませんけれど、むすこの破滅を見ていると、あたくしあの女の思い出を憎まずにはいられないんでございますよ」
「しかし、むすこさんは今どんなふうです?」
「神さまがあたくしどもを助けてくださったようなものでございますよ――このたびのセルビア戦争は。あたくしは年寄りで、こうしたことはなにもわかりませんですけれど、これは神さまがあの子に授けてくださいましたお恵みでございます。もちろん、あたくしも母親としてそりゃ恐ろしゅうございますよ。それにいちばんいやなのは Ce n'est pas tr峻 bien vu Petersbourg.ってうわさでございますの。でも、ほかにどうしようもございません! このことだけがあの子をふるいたたせることができたんでございますものね。ヤーシュヴィン――と申しますのは、あの子のお友だちでございますけれど、その人が賭《か》け事ですっかりすってしまって、セルビアに行くことにしたんでございます。その人がむすこのところに見えて、あれを説き伏せたんでございますよ。今はこのことであの子の頭はいっぱいなんでございますよ。あなた、どうぞ、むすこに声をかけてやってくださいまし。あたくしはあの子の気をまぎらわしてやりたいんでございます。なにしろ、とても沈んでばかりおりますのでね。それに泣き面《つら》に蜂《はち》とでも申しましょうか、歯までが痛みだしましてね。でも、あなたに会えたら、あれもさぞ喜ぶことでございましょう。どうか、あの子に声をかけてやってくださいまし。あの子はこちら側を歩いておりますから」
コズヌイシェフは自分もたいへんうれしいといって、列車の反対側へ出て行った。
プラットフォームに積みあげられた叺《かます》の山が夕日を浴びて斜めに投げている影の中を、長い外套を着て、帽子を目《ま》深《ぶか》にかぶったヴロンスキーが、両手をポケットに突っこんだまま、檻《おり》の中の獣のように、二十歩ばかり歩いては足速にまわれ右をして、行ったり来たりしていた。コズヌイシェフはそのそばへ近づいて行ったとき、ヴロンスキーが自分を見たのにわざと見ぬふりをしているように思われた。コズヌイシェフにはそんなことはどうでもよかった。彼はヴロンスキーに対して、個人的な感情をいっさい超越していたからである。
この場合、コズヌイシェフにとって、ヴロンスキーは、偉大なる事業のために重要な働きをしようとしている人物であった。したがって、コズヌイシェフは、相手を鼓舞激励することが自分の義務であると考えた。彼はヴロンスキーのそばへ近寄った。
ヴロンスキーは足を止めて、じっと目を凝らし、ようやく相手がだれかわかると、コズヌイシェフのほうへ二、三歩進み寄って、その手を固く握りしめた。
「もしかしたら、あなたは私に会いたくなかったのかもしれませんが」コズヌイシェフはいった。「なにか私でもお役に立つことはありませんか?」
「今の私にはあなたとお会いすることが、他のだれと会うのより不愉快さを感じないですみますよ」ヴロンスキーはいった。「こんな私の言い方をお許しください。私にとっては、この人生に愉快なことなどないのですから」
「そのお気持はよくわかります。だから、なにかお役に立てばと思ったのです」コズヌイシェフは、明らかに苦しみ悩んでいるらしいヴロンスキーの顔に見入りながらいった。「リスチッチかミランへの紹介状はいりませんか?」
「いえ、いりません!」ヴロンスキーは、やっと相手のいうことがのみこめたという様子でいった。「もしおよろしければ、いっしょに歩きませんか。車の中はひどくむしむししていますからね。紹介状ですって? お言葉はありがたいですが、いりません。死ぬのになにも紹介状などいりませんからね。なんなら、まあ、トルコ軍あてにでも……」彼は口もとにだけ微笑を浮べていった。その目は依然としていらだたしげな苦しみの表情をたたえていた。
「そりゃ、そうでしょうが、それにしても人との交渉はどのみち避けられませんから、ちゃんと覚悟のできている人と交渉をもたれたほうが少しは楽かもしれませんよ。でも、まあ、それはお好きなように。私はあなたの決意をうかがってたいへんうれしかったですよ。それに、義勇兵に対してもうかなり非難の声があがっておりますので、あなたのような方が参加してくださることは、彼らに対する世間の評価を高めることにもなりますからね」
「私に人間として、とりえがあるとするなら」ヴロンスキーはいった。「それは私にとって生命がなんの価値ももたないという点だけですね。ところで肉体的なエネルギーなら、敵をやっつけるかこちらが倒れるか、とにかく、方陣に切りこんでいくくらいは十分残っていますし、それは自分にもわかっています。私は、自分の生命をささげる目標があるのがうれしいんですよ。生命なんか自分にはいらないというよりも、なんだか生命にいや気がさしてしまったのですね。まあ、だれかの役には立つでしょうよ」
彼はそういうと、たえまなくうずく歯の痛みのために、いらだたしげに頬骨をぴくりとひきつらした。この歯痛のために、彼は自分の望むような表情で話すことさえできなかったのである。
「あなたは生れかわりますよ、私はそう予言しますよ」コズヌイシェフは、自分が感動していることを感じながらいった。「同胞を暴君の圧制から救いだすことは、生死を賭《か》けるに値するりっぱな目的ですからね。どうか神のご加護によって、外面的な成功と内面的な平安をえられますように」彼はそうつけ加えて、片手をさしのべた。
ヴロンスキーはさしのべられたコズヌイシェフの手をしっかりと握った。
「そう、一つの武器としては私もなにかのお役に立つでしょう。しかし、私も人間としては――廃墟《はいきょ》です」彼は一語一語くぎるように間をおいていった。
丈夫な歯のうずくような痛みが口の中をつばで満たして、彼が自由にしゃべるのを妨げるのであった。彼は口をつぐんで、ゆっくりとなめらかにレールの上をすべって行く炭水車の車輪にじっと見入った。
と、とつぜん、まったく別の、痛みとは違ったなにか漠然《ばくぜん》としたたまらなく苦しい内面的な気づまりが、一瞬、彼に歯の痛みを忘れさせた。炭水車とレールを見たとたん、あの不幸な事件以来会っていなかったこの知人との会話に刺激されて、ふと『彼女』というよりもむしろ、彼が狂気のように停車場の廠舎《しょうしゃ》へ駆けこんだとき、まだ彼女から残されていたものが思いだされたのであった。廠舎のテーブルの上に、見知らぬ人びとにとりかこまれて、恥ずかしげもなく、長々と横たわっていた、つい先ほどまで脈打っていた生命が、まだ満ちあふれているように見えた、あの血まみれの胴体。豊かな頭髪やこめかみの上の縮れた巻毛とともに無傷で残った、ぐっとうしろへたれたその首。赤い唇《くちびる》を半ばあけたその美しい顔には異様な表情が固く凍りつき、口もとには哀れっぽいかげがただよい、じっと宙を見すえたまま開いている目もとにはぞっとするような表情が浮んでいて、口争いのときに、アンナが彼に浴びせたあの恐ろしい言葉――『あなたはいつか後悔なさいますよ』という言葉を、まるで口に出していっているかのようであった。
そこで彼は、最後の瞬間に自分の記憶に刻みつけられた、あの残酷で復讐心《ふくしゅうしん》にもえた女としてではなく、やはり停車場ではじめて会ったときのような、神秘に満ちて美しい、幸福を愛し、求め、与えてくれる女としてのアンナを思い起そうと努めた。彼はアンナと過したもっとも楽しい時を思い起そうと努めた。が、いまやそうした瞬間も永久に毒されてしまったのであった。彼はアンナの威《い》嚇《かく》だけを覚えていた。それはもはやだれにも不必要な、しかも見事に成就して、凱《がい》歌《か》をあげている悔恨の威嚇であった。彼はもう歯の痛みを感じなくなり、慟哭《どうこく》がその顔をゆがめた。
彼は黙々と叺《かます》のそばを二度ほど行ったり来たりして自分の気持をおさえると、落ち着いた口調でコズヌイシェフに話しかけた。
「きのうからこっち、新しい電報ははいっておりませんか? これで、敵は三度も撃破されているんですから、あすはいよいよ決戦になるはずですよ」
それからさらにミランの王位宣言や、その宣言がもたらすであろう大きな効果を話し合うと、ふたりは二度めのベルを聞いてから、それぞれ各自の車へ別れた。
いつモスクワを発《た》てるようになるかわからなかったので、コズヌイシェフは迎えを出してくれるようにとは弟のところへ電報を打たなかった。カタワーソフとコズヌイシェフが駅で雇った旅行馬車に乗って、黒ん坊のようにほこりまみれになりながら、昼の十一時をまわったころ、ポクローフスコエ村の屋敷の車寄せに着いたとき、リョーヴィンは家にいなかった。父親と姉といっしょにバルコニーにすわっていたキチイは、義兄と知って、あわてて出迎えに二階から駆けおりて来た。
「まあ、あらかじめ知らせておいてくださらないなんて、ずいぶんひどいんですのね」キチイはコズヌイシェフに手をさしのべ、相手の接吻《せっぷん》を受けるために額をさしだしながら、いった。
「いや、われわれはこうしてりっぱにやって来たんだし、あなた方にもよけいな迷惑はかけなかったですからね」コズヌイシェフは答えた。「なにしろ、私はすっかりほこりだらけなんで、人にさわるのも気がひけるぐらいですよ。とにかく、とても忙しかったんでね、いつ発てるかわからなかったんですよ。ときに、みなさん、お変りありませんかな」彼は微笑を浮べながらいった。「流れの外の静かな入江で、静かな幸福を楽しんでいるようですな。さて、われわれの友人のカタワーソフさんも、とうとう来てくれましたよ」
「しかし、私は黒人じゃありませんから、すぐ洗って来ますよ。そしたら、人間らしく見えるでしょうから」カタワーソフは手をさしのべ、黒い顔の中で特別白く輝いている歯をみせて微笑しながら、相変らず冗談めかしていった。
「コスチャもさぞ喜びますことでしょう。今農場のほうへ行ってますの。もうもどって来そうな時分ですけれど」
「いつも農事経営で忙しいんですね、いや、まったくここは静かな入江ですな」カタワーソフはいった。「われわれのように、都会に住む人間は、セルビア戦争のほかなにひとつ目にはいらないんですからねえ。じゃ、われらの友人はこれをどんなふうに見ていますか? きっと一般の人たちとは違った見方をしてるんじゃないですか?」
「いいえ、そうべつに。みなさんと同じですけれど」キチイはいくらかどぎまぎした様子で、コズヌイシェフを振り返りながら、答えた。「それじゃ、今主人を迎えにやりますわ。今ここには里の父も来ていますの。最近、外国から帰ってまいりましたばかりでしてね」
それから、リョーヴィンを迎えにやることや、ほこりまみれの客たちをひとりは書斎へ、ひとりは前にドリイにあてられていた大きな部屋へ案内して、水を使わせることや、客たちに食事を出すことなどいろいろとさしずすると、キチイは妊娠中とめられていた持ち前の軽快な動作をやってのけて、バルコニーへ駆けこんだ。
「コズヌイシェフさんとカタワーソフ教授がお見えになったのよ」キチイはいった。
「やれやれ、この暑いのにご苦労さまだな!」公爵はいった。
「まあ、パパったら。とてもいい方なのよ、コスチャも大好きなんですよ」父親の顔に冷笑の色を認めたキチイは、まるでなにか哀願するような調子で、微笑を浮べながらいった。
「いや、わしは平気だよ」
「ねえ、お願いだから、みなさんのところへいらして」キチイは姉に向っていった。「お相手してくださいね。あの方たちは停車場で、スチーヴァにお会いになったんですってよ。とても元気でしたって。あたし、ミーチャのところへちょっと行って来ます。あいにく、もうお茶のときからお乳を飲ませてないんですもの。今ごろ目をさまして、きっと、泣いているにちがいないわ」そういって、キチイは乳房が張ってくるのを感じながら、急ぎ足で子供部屋へ出かけて行った。
実際、キチイは単にそう推測したのではなかった(彼女と赤ん坊とのつながりはまだ切れていなかった)。キチイは自分の乳が張ったことによって、赤ん坊がお腹《なか》をすかしていることを、正確に知ったのであった。
彼女はまだ子供部屋へ近づく前に、赤ん坊が泣いていることを知っていた。そして案の定、赤ん坊は泣きわめいていた。その泣き声を聞きつけると、彼女は足を速めた。ところが、彼女が急げば急ぐほど、赤ん坊はいっそう大きな声で泣きわめいていた。その声は健康そうで気持がよかったが、ただ空腹のためにどうにも我慢ができないといった調子であった。
「もうずっと前からなの、婆や、ねえ、もうずっと前から?」キチイはいすに腰をおろして、授乳の用意をしながら、せきこむようにして、いった。「さあ、早く坊やをあたしにかして。まあ、婆や、早くしてよ。さあ、そんなベビー帽なんかあとでかぶせればいいじゃないの!」
赤ん坊はあまりひどく泣いたので、すっかり泣き疲れていた。
「まあ、そうもまいりませんよ、奥さま」ほとんどいつも子供部屋に入りびたりのアガーフィヤはいった。「ちゃんとお着せしておかなくちゃ。よちよち!」老婆は母親のほうには目もくれないで、赤ん坊の上にかがみこんで、歌うような調子でいった。
婆やは、赤ん坊を母親のところへ抱いて来た。アガーフィヤは優しさにとろけそうな顔をして、そのあとからついて来た。
「ほら、おわかりなんですよ、おわかりなんですよ。ねえ、奥さま、あたしの顔をちゃんと覚えておいでなんですよ!」アガーフィヤは、赤ん坊に負けないほどの声を出した。
しかし、キチイは老婆の言葉に耳もかさなかった。彼女のじれったさは、赤ん坊のじれったさと同様、ますますつのっていった。
あまりあせっていたために、授乳は長いことうまくいかなかった。赤ん坊は、見当ちがいのところばかりくわえて、かんしゃくを起す始末であった。
赤ん坊は息も切れそうにわめきたてたり、むなしく口をぱくぱくやったりしたあとで、やっとうまくいくようになった。母親も、赤ん坊も、同時にほっとした気持になって、ふたりとも静かになった。
「でも、まあ、かわいそうに。この子ったら、からだじゅう汗でびっしょりよ」キチイは赤ん坊のからだにさわってみながら、ひそひそ声でいった。「どうしてこの子があんたの顔を覚えているって思うの?」キチイは、目《ま》深《ぶか》にかぶったベビー帽の陰からずるそうに(と彼女には思われた)自分を見つめている赤ん坊の目や、規則正しくふくらんでいるほっぺたや、円を描くようにぐるぐる動かしている掌《てのひら》の赤いかわいらしい手を、じっと横目でながめながら、つけ足した。
「そんなはずないわよ! もし覚えてるとしたら、あたしの顔を覚えてるはずですもの」キチイはアガーフィヤの断定に答えて、にっこりほほえんだ。
キチイがほほえんだのは、自分で赤ん坊が覚えているはずはないといいながらも、心の中では、赤ん坊がアガーフィヤを覚えているばかりでなく、なにもかも知って理解していることを、いや、そればかりか、まだだれも知らないようなことまで、いろいろたくさん知って理解しており、母親の自分でさえこの子のおかげで、はじめて多くのことに気づき、理解しはじめたことを、承知していたからであった。アガーフィヤにとっても、婆やにとっても、祖父にとっても、いや、父親にとってさえも、ミーチャは単に物質的な面倒をかける一個の生きものにすぎなかった。ところが、母親にとっては、それはもうだいぶ前から精神的な存在であって、ふたりのあいだにはもう互いに魂をふれあうりっぱな歴史ができあがっていたのである。
「まあ、今にお目ざめになりましたら、おわかりになりますよ。あたくしがこんなふうにいたしますと、お坊っちゃまはそれはおかわいらしくにっこりなさいますから。まるで明るいお日さまのように、とてもにっこりなさいますよ」アガーフィヤはいった。
「ええ、わかったわ、わかったわ。そのときになったら、わかるでしょうよ」キチイはささやいた。「じゃ、もうあっちへ行ってちょうだい、今寝かかっているところだから」
アガーフィヤは爪先立ちで出て行った。婆やは巻きあげカーテンをおろして、小さな寝台にかけてある蚊帳《かや》の中にいた蠅《はえ》と、窓ガラスにぶんぶんぶつかっていたかすずめばち《・・・・・・》を追い出してから、腰をおろして、白樺《しらかば》の枯れ枝で母子をあおぎはじめた。
「ほんとに暑うございますこと! ちょっと、小雨ぐらい降ってくれてもようございますのに」婆やはいった。
「ええ、そうね、しっ、しっ!……」キチイは軽くからだをゆすりながら、手首のところを細い糸できゅっとしばったような、丸々と太ったミーチャの手を、優しく握りしめて、ただそういった。ミーチャは目を開いたり、閉じたりしながら、たえずその手を弱々しく振っていた。このかわいらしい手はキチイの心をわくわくさせた。彼女はその手に接吻《せっぷん》したかったが、赤ん坊が目をさますのを恐れて、そうはできなかった。が、ついにその手は動かなくなって、目も閉じられた。ただときたま、赤ん坊は乳を吸いつづけながら、長いカールしたまつげをあげて、薄明りの中ではまっ黒に見えるうるんだようなひとみで、母親を仰ぎ見た。婆やはあおぐのをやめて、うたた寝をはじめた。二階からは老公爵の大きな声と、カタワーソフの笑い声が聞えてきた。
《きっと、あたしのいないあいだに、話がはずんでいるんだわ》キチイは考えた。《でも、やっぱりコスチャがいないのは、残念だわ。きっと、また養蜂場《ようほうじょう》へ寄ったんだわ。こんなにしょっちゅう、あそこへ行くのは寂しい気もするけど、でもやっぱり、うれしいわ。だって、あの人には気晴らしになるんだもの。春ごろにくらべて近ごろばずいぶん陽気で、きげんもよくなっているんだもの。だって、以前はとても暗い顔をして、煩悶《はんもん》しているみたいだったので、見ているのも恐ろしいくらいだったわ。でも、ほんとにおかしな人ね!》キチイはほほえみを浮べながら、つぶやいた。
キチイは、夫を煩悶させている原因を知っていた。それは彼が信仰をもっていないことであった。もし彼女が、あなたの夫は信仰をもたないから、来世では滅びるかときかれたら、滅びるだろうと、答えるほかはなかったであろう。いや、それにもかかわらず、夫が信仰をもっていないということは彼女を少しも不幸にさせなかった。そして、キチイは信仰をもたぬ者には救いなどありえないということを認めながらも、夫の魂をこの世でだれよりもいちばん愛しており、夫が信仰をもっていないことを微笑とともに思い浮べて、おかしな人だと心の中でつぶやいたのであった。
《なんだって、あの人は年がら年じゅう哲学書みたいなものばかり読んでいるんだろう?》キチイは考えた。《もしそんなことがなにもかもすっかり本に書いであるとしたら、あの人にはわかるはずだわ。でも、もし本に正しくないことが書いてあるのなら、なんだってそんなものを読む必要があるんだろう? 現に、あの人も自分で、ぼくも信仰をもちたいんだ、といってた。そんなら、なぜ素直に信じないんだろう? きっと、あんまりいろいろなことを考えすぎるからだわ。でも、そんなにいろんなことを考えるのも、孤独のせいだわ。だって、いつもたったひとり、ほんとにひとりぼっちなんだもの。あたしたちが相手じゃ、なにもかもしゃべるわけにはいかないのね。あのお客さまたちなら、あの人もきっと喜ぶわ、とりわけカタワーソフさんのことは。あの方と議論するのは大好きなんだから》キチイは考えた。が、すぐさま彼女の頭は、どこへカタワーソフを寝かせたものか、ひとり別にしたほうがいいか、それともコズヌイシェフといっしょのほうがいいか、という問題に移っていった。そのときとつぜん、ある一つの考えが頭に浮ぶと、彼女は興奮のあまり思わず身震いして、ミーチャをびっくりさせた。ミーチャはこわい目つきでちらと母親を見た。《洗濯女はたしかに洗濯物を持って来てないわ。とすると、お客さま用のシーツはみんな出払ってるわけだわ。もしあたしがさしずをしなかったら、アガーフィヤはきっと一度使ったシーツを出すにきまってるわ》そう思っただけで、キチイの顔にはさっと血がのぼった。
《そうだわ、あたしがさしずをしなければ》キチイは心にきめた。それから、また先ほどのもの思いにもどって、なにかしら重大な精神的な問題が、まだ十分に考えつくしていなかったことを思いだし、それがなんであったかと記憶をたどりはじめた。《そうだわ、コスチャが信仰をもってないことだわ》彼女は再び微笑を浮べながら思い起した。
《ええ、あの人は信仰をもっていないわ! でも、あのシュタール夫人のようだったり、あのころ外国であたしが望んでいたようなふうだったりするより、コスチャはいつまでも今のままでいたほうがいいわ。大丈夫、あの人はわざとらしいようなことは、けっしてしやしないから》
と、近ごろ夫が示してくれたその善良な性格が、まざまざと彼女の心に浮んできた。二週間ほどまえ、ドリイに悔悟の意を表したオブロンスキーの手紙が届いた。彼は妻に対して、借財を返済するために、おまえの領地を売って、自分の名誉を救ってくれと、哀願していた。ドリイはすっかり途方にくれてしまい、夫を憎んだり、軽蔑《けいべつ》したり、哀れんだり、離婚をかけても拒絶しようと決心したが、結局は、自分の領地の一部を売ることを承諾した。そのとき、夫はもじもじしながら、とても気になっているこの問題を、何度も無器用に解決しようとしたあげく、やっとドリイを傷つけないで助けることのできる唯一の方法を考えついて、キチイに自分の領地の一部を姉に与えるよう勧めた。キチイはそんなことを前にはとても思いつかなかった。あとになって、こうしたことを思いだすたびに、キチイは感動の微笑をもらさないではいられなかった。
《あの人に信仰がないなんてとてもいえることじゃないわ! だって、あの人はあんな優しい心をもって、どんな人でも、いえ、小さな赤ん坊にさえいやな思いをさせまいと、あんなに気をつかっているじゃないの! なにもかも人のためばかり考えて、自分のためになにひとつしていないのに。コズヌイシェフさんなんかは、あの人の番頭を勤めるのがコスチャの義務みたいに、きめていらっしゃるくらいだわ。お姉さまだってそのとおりだわ。今じゃ子供たちを連れたドリイまで、あの人の世話になっている。ここの百姓たちだってみんな、自分たちの面倒をみてくれるのがあの人の務めみたいに思って、毎日あの人のところへ大勢おしかけて来るんだわ》
「ねえ、坊やもきっとパパみたいな人になってちょうだいね。どうか、あんな人になってちょうだいね」キチイはミーチャを婆やの手に渡して、そのほっぺたに軽く唇《くちびる》をあてながら、いった。
愛する兄の瀕《ひん》死《し》の姿をまのあたりながめて、リョーヴィンははじめて生と死の問題を、二十歳から三十四歳までのあいだに、いつとはなく青少年時代からの信仰にとってかわった、彼のいわゆる新しい信念を通してながめたときから、彼は思わず慄然《りつぜん》として、死を恐れるというよりも、むしろ、生命がどこから生れて、なんのために与えられ、なにゆえに存在し、またそもそもなんであるか、ということについて、少しも知識がないのに、相変らずそれを享受している生を恐れたのであった。有機体、その崩壊、物質の不滅、エネルギー保存の法則、進化――彼の以前の信仰にとってかわったのはこれらの言葉であった。これらの言葉と、それに結びついた観念は、知的な目的のためにはひじょうによいものであった。しかし、この人生のためにはなにひとつ役立たなかった。そのため、リョーヴィンは突如として、暖かい毛皮外套《がいとう》をモスリンの着物に替えた人と同じような境遇に自分がおかれているのを感じた。彼ははじめて極寒の中で、自分は裸も同然であり、どうしても苦しい最期を遂げなければならないと、理屈ではなく、自己の全存在をもって、はっきりまちがいなく確信させられたのであった。
そのとき以来、自分でそれとはっきり意識しないまま、今までどおりの生活をつづけながら、リョーヴィンは自分の無知に対するこの恐怖を感じないときはなかった。
いや、そればかりか、彼は自分が信念と称しているものは、単に無知であるばかりでなく、自分に必要なものを知ることを許さないような思考形態にすぎないことを、おぼろげながら感じていた。
結婚の当初は、彼がはじめて知った新しい喜びや、義務のために、こうした思いは完全におさえられていた。ところが、最近、妻がお産をしてから、なすこともなくモスクワで暮しているうちに、リョーヴィンの前には解決をせまる疑問がいよいよひんぱんに執拗《しつよう》に現われるようになった。
彼にとってはこの疑問は、次のようなものであった。《もしおれが自分の生命の問題に対して、キリスト教の与える解答を認めていないとしたら、おれはいったいどんな解答を認めているのだろう?》そこで彼は、自分の信念の貯蔵庫をくまなく捜してみたが、その解答はおろか、解答らしきものさえ、なにひとつ発見することはできなかった。
彼は、玩《がん》具《ぐ》や武器を売る店で、食物を求めようとする人に似た立場に立ったのであった。
そこで、いまや彼は、われ知らず無意識のうちに、あらゆる書物、あらゆる会話、あらゆる人びとの中に、これらの疑問に対する態度とその解決を捜し求めているのであった。
この場合、なによりも彼を驚かせ困惑させたのは、彼と同じサークルに属し、彼と同年配の人びとの大多数が、彼と同じく、以前の信仰を新しい信念に取りかえながら、そこになんらの不幸をも見いださず、十分満足して、落ちつきはらっていることであった。そのために、リョーヴィンはこの重要な問題のほかに、さらに他の問題でも苦しめられた。すなわち、あの人たちはたしかに誠実なのだろうか? わざとあんなふうに装っているのではなかろうか? それとも、自分の心を占めている疑問に対して科学が与える解答を、あの人たちはなにかしら自分とは違った見方で、もっとはっきり読みとっているのだろうか?と気をまわしたからであった。そこで、彼はこれらの人びとの意見や、その解答を示している書物を、必死になって研究したのであった。
この疑問が彼の心を占めるようになって以来、彼の発見したことのひとつは、若い大学時代の仲間を思いだしながら、宗教は時代おくれのものであり、もはや存在の価値がないものと考えたのは、自分の誤りであったという一事である。彼の身近でちゃんとした生活を送っている人びとは、すべて信仰をもっていた。老公爵も、すっかり彼の気に入ったリヴォフも、コズヌイシェフも、すべての婦人たちも、信仰をもっていた。妻のキチイは、彼が幼年時代にもっていたと同じような信仰をもっていたし、その生活のために彼が最大級の尊敬をはらっているロシア人の農民の九十九パーセントまでが、いや、その全部が、信仰をもっていた。
もう一つ、彼はたくさんの本を読んでいくうちに、次のことを確信した。すなわち、彼と同じ見解をいだいている人びとは、その見解のもとに、なんら他のものを暗示しようとせず、なんら説明することなく、彼がその解答なしには生きていけぬとまで感じている種々の問題を、単に否定するばかりで、そうしたものとはまったく無関係な、たとえば、有機体の進化とか、霊魂の機械的な説明とかいう、リョーヴィンにはなんの興味もない問題の解決に、一生懸命になっているのであった。
いや、そればかりか、妻の分娩《ぶんべん》の最中に、彼にとって異常な出来事が起った。信仰をもたない彼が祈りはじめて、しかも祈っているあいだは神を信じていたのであった。ところが、その瞬間が過ぎてみると、そのときの気分を受け入れてくれるところは、彼の生活のいかなる場所にもなかった。
いや、彼としても、そのときは真理を知っていたのだが、今は誤っているとは、とてもいえなかった。なぜなら、このことを落ち着いて考えはじめるが早いか、なにもかもすぐばらばらにくずれさってしまうからであった。そうかといって、自分はあのときまちがっていたのだということも、認めることはできなかった。なぜなら、彼はあのときの精神状態を尊重していたからであった。しかも、それを単に人間的な弱点に根ざしたものと認めてしまえば、あの瞬間の思い出をけがすような気がしたからであった。そのため、彼は悩ましい自己分裂におちいって、それからのがれるために、精神力のすべてを緊張させたのであった。
これらの思いは、時に弱く時に強く、彼を悩まし苦しめたが、けっして彼を見捨てるようなことはなかった。彼は読んだり考えたりしたが、読めば読むほど、考えれば考えるほど、自分が追究している問題から遠ざかっていくような気がしていた。
近ごろはモスクワにいても、田舎にいても、彼は唯物論者の中に解答を見いだすことができないと確信して、プラトン、スピノザ、カント、シェリング、ヘーゲル、ショーペンハウエルといった、この人生を唯物的でなく説明する哲学者の書物を読みなおしたり、またあらたに通読したりしていた。
これらの思想は、彼が書物を読んだり、そのほかの学説、とくに唯物論者の学説に対する反駁《はんばく》を自分で考えついたりする場合には、きわめて実り多いものに思われた。ところが、彼が問題の解決を読んだり、自分で考えついたりするが早いか、たちまち、いつもと同じことが繰り返されるのであった。霊魂《・・》とか、意志《・・》とか、自由《・・》とか、実体《・・》とかいうようなあいまいな言葉の長たらしい定義に従って、哲学者なり彼自身なりが自分のために設けた言葉の罠《わな》にわざと落ちこみさえすれば、彼はなにかわかりかけてくるような気がするのだった。ところが、こうした思索の人工的な経路を忘れて、実生活の中から与えられた糸口をたぐりながら考えたとき、自分を満足させてくれたもののほうへ帰っていくが早いか、たちまち、この人工的な殿堂は、まるでトランプで作った家のように、すっかりくずれ落ちてしまい、この殿堂が、人生において、理性以上に重要ななにものかと無関係に、例の置き替えられた言葉から創造されたものにすぎないということが、明らかになるのであった。
一時、彼はショーペンハウエルを読みながら、意志《・・》という言葉のかわりに愛《・》を置き替えてみた。と、この新しい哲学は、彼がそれを見かぎってしまうまでの二日ばかりのあいだ、彼を慰めてくれた。しかし、その後、彼が実生活の中からながめたとき、それもやはりはかなくくずれ去ってしまい、からだを暖めてくれないモスリンの着物であることがはっきりした。
兄のコズヌイシェフは、彼にホミャコフの神学関係の著述を読んでみるように勧めた。リョーヴィンはホミャコフ選集の第二巻を通読し、はじめはその論争的な、しかも優雅で機知に富んだ調子に、反感を覚えたにもかかわらず、その中に述べられていた教会に関する論旨には、思わずはっとさせられた。まず彼が感動したのは、神の真理を会得するのは個人的にではなく、愛によって結ばれた人びとの集まり、つまり、教会によってなされるものだ、という思想であった。現に今存在し、活動しており、あらゆる人びとの信仰をひとつにまとめ、頭に神をいただく教会、この神聖にして侵すべからざる教会を信じ、この教会を通して神、創造、堕落、贖罪《しょくざい》などといったものに対する信仰を受け入れるほうが、崇高にして神秘な神や創造といったものからはじめるよりも、はるかに容易であるという思想が、彼を喜ばした。しかし、その後、カトリック派の教会史と、ロシア正教会派の教会史を読んでみて、本質的に完全無欠であるべき二つの教会が、互いに否認しあっているのをみて、教会に関するホミャコフの教義にも幻滅を味わい、この殿堂も哲学者たちのそれと同様、跡形もなくくずれ去ってしまった。
この春のあいだじゅう、ずっと、彼は正気を失った人みたいになって、何度も恐ろしい瞬間を経験した。
《私とはなにものであるか、なんのために私はここにいるのか、ということを知らないでは、とても生きて行くことはできない。しかも、自分はそれを知ることができないのだ。したがって、生きて行くことはできないのだ》リョーヴィンはそう心の中でつぶやくのであった。
《無限の時間の中に、無限の物質の中に、無限の空間の中に、泡粒《あわつぶ》のようなひとつの有機体がつくりだされる。その泡はしばらくのあいだそのままでいて、やがて消えてしまう。その泡が――このおれなんだな》
それは痛ましい思いちがいであったが、しかしそれは、この方面における人間の思索が、数世紀にわたる苦心の末に到達した、唯一にして最後の結論であった。
それは人間の思索のあらゆる方面において、すべての探究が見いだした最後の信仰であった。それは一世に君臨するような信念であり、リョーヴィンもすべての説明の中で、なんといってもいちばん明瞭《めいりょう》なものだったので、いつどうしてと、自分でも知らないまま、知らずしらずのうちに、ほかならぬこの説明を自分のものにしてしまった。
しかし、それは単にあやまりであるばかりか、なにかしら邪悪な力の、いや、邪悪にして忌わしい、どうしても屈服してはならない力の、残忍な嘲笑《ちょうしょう》であった。
この力からなんとしてものがれなければならなかった。しかも、それからのがれる方法は、各人の手中にあった。そのような邪悪な力に従属することをやめればよいのだ。そして、その方法はただ一つ――死であった。
こうして、幸福な家庭の主人であり、健康な人間であるリョーヴィンも、幾度か自殺のせとぎわまで追いこまれ、首つりをしないように縄《なわ》を隠したり、鉄砲自殺をしないように、銃を持って歩くのを恐れたりするまでになった。
しかし、リョーヴィンは鉄砲自殺もしなければ、首つりもせずに、暮していった。
10
リョーヴィンは、私とはなにものであるか、なんのために生きているのか、ということを考えると、その答えを見いだすことができなくて、絶望におちいった。しかし、もうそれを自問しなくなったときには、私とはなにものであり、なんのために生きているかということも、なにかわかっているような気がした。というのは、彼はしっかりした態度ではっきり行動し、生活していたからである。事実、最近の彼は、以前にくらべてはるかにしっかりした態度で、はっきりした生活を送っていた。
六月のはじめに田舎へ帰ると、彼はまた自分のいつもの仕事にもどった。農事経営、百姓や隣人たちとの関係、家政、彼の手にゆだねられている姉や義兄の件、妻や身内のものとの関係、赤ん坊のための心づかい、この春からすっかり熱をあげている新しい養蜂業などが、彼の時間の全部を占めるようになった。
こうした仕事に彼が気をまぎらわせたのは、以前よくしたように、それらの仕事をなにかしら一般的な見方で是認したからではなかった。今ではその反対に、一方では、公共の福祉のために試みた以前の計画に幻滅を感じたからであり、また他方では、彼があまりにも自己の思索に没頭し、四方八方から降りかかってくるおびただしい仕事に追いまわされていたため、公共の福祉などについて考えることをまったく放棄してしまったからであった。そして、彼がこれらの仕事をやったのは、ただこれはしなければならない、そうするよりほかどうしようもない、というふうに思われたからにすぎなかった。
以前(それはほとんど少年時代からはじまって、すっかり一人前のおとなになりきるまで、たえず大きくなっていった)彼がすべての人びとのため、人類のため、ロシアのため、村全体のために、なにかしら役に立ついいことをしようと努めたときには、そういう考え方がわれながら気持がよいのに気づいていた。しかし、その行為そのものは、いつもぎごちなくて、その仕事が必要欠くべからざるものであるという確信がなく、はじめはひどく重大に思われた行為そのものまでが、しだいしだいに小さくなっていき、ついには無と化してしまうのであった。ところが、いまや結婚して、しだいしだいに自分のために生活範囲を制限しはじめてみると、自分の活動のことを考えても、べつになんの喜びも感じなかったかわりに、自分の仕事が必要欠くべからざるものであるという自信を感じ、また以前よりもずっと仕事のはか《・・》がいき、しかも仕事がしだいに大きくなっていくことを知った。
いまや彼は、まるで鋤《すき》のように、まったく自分の意志に反しながらもますます深く大地に食いこんでいくのであった。今ではもう、畦《あぜ》をくずさなければ、それを引き抜くこともできなくなっていた。
父親や祖父がやって来たように、家族のために生きるということは、つまり、彼らと同じ教養の中で生活し、それと同じ条件で子供たちを教育することが、疑いもなく必要であった。それはまさに食べたいときに食事をするのと同様に、必要なことであった。またそのために、食事の用意をするのと同様に、ポクローフスコエ村の農事経営の機構を、収入をあげるように運転しなければならなかった。借金を返さねばならぬのと同様、先祖伝来の土地をりっぱに維持して、その昔、リョーヴィンが、祖父の建てたり植えたりしたものに対して、感謝したのと同様に、むすこが遺産を相続したとき、自分に感謝するように維持しなければならなかった。そのためには土地を人に貸したりなどしないで、自分で農事経営をやり、家畜を飼い、畑に肥料を施し、植林をしなければならなかった。
コズヌイシェフや姉の件もしなければならなかったし、彼のところへ意見を求めに来て、もうそうすることに慣れっこになっている百姓たちの頼みも聞いてやらなければならなかったが、それは、ちょうど手に抱いている赤ん坊をいまさら捨てるわけにいかないのと同様であった。いや、招かれて来ている子供連れの妻の姉や、赤ん坊をかかえた妻の面倒も、見てやらなければならなかったし、たとえわずかのあいだでも毎日、彼らとともに過さなくてはならなかった。
そして、こうしたさまざまなことが、鳥猟や新しい養蜂熱といっしょになって、リョーヴィンの全生活を満たしていたが、彼がひとたび考えはじめたときには、その生活はなんの意味ももたないものになった。
しかし、リョーヴィンは、自分がなに《・・》をなすべきかをはっきりと知っていたばかりでなく、それらをいかに《・・・》なすべきか、どんな仕事がほかのものより重要であるかを、同じく十分心得ていた。
彼は、労働者をできるだけ安く雇わなければならないということを知っていた。しかし、前渡金をやってほんとの相場よりも安く彼らを縛るのは、たとえそれが有利であってもしてはならないことであった。飼料の足りないときに、百姓たちに藁《わら》を売ることは、かわいそうにはちがいないが、悪いことではなかった。しかし、料理屋や居酒屋はたとえそれがいい収入になっても、廃止すべきであった。森林の盗伐は、できるだけ厳重に取締る必要があったが、家畜が畑を荒したからといって、罰金をとってはならなかった。たとえ番人たちをがっかりさせ、百姓たちのこらしめにならなくても、つかまえた家畜は放してやらないわけにいかなかった。
月一割の利息を高利貸に払っているピョートルには、それを救ってやるために、金を融通してやらなければならなかったが、人頭税を払わない百姓たちに、それを負けてやったり、期限をのばしてやったりするわけにはいかなかった。しかし、草場が刈り取られずにいて、草がむざむざ台なしになっていくのに対して、管理人の責任を見のがすわけにはいかなかったが、苗木を植えつけた八十ヘクタールの草場を刈るわけにはいかなかった。父親が死んだからといって、農繁期に家へ帰った百姓は、たとえどんなにかわいそうであっても、容赦してやるわけにはいかなかった。つまり、大切な二、三カ月を休んだことに対して、それだけ賃金を差し引かなくてはならなかったが、なんの役にも立たない年取った屋敷勤めの下男には、月給を払わないわけにはいかなかった。
リョーヴィンはまた、家へ帰ったときには、なによりもまず、健康のすぐれない妻を見舞ってやらなければならないが、もう三時間も待っている百姓たちは、もう少し待たせてもかまわないということも、知っていた。また、蜜蜂の群れを巣につかせる仕事は、じつに楽しいものではあるが、自分が養蜂場にいることを、百姓たちがかぎつけてやって来たら、その楽しみを係の爺《じい》さんにまかせて、自分は百姓たちと話をしなければならないことも、彼は知っていた。
彼は自分のしていることがいいか悪いか、自分でもわからなかったし、そんなことをいまさら証明してみようとも思わなかったにちがいない。しかし、彼はそれについて、人と話したり考えたりすることを、努めて避けるようにしていた。
いろいろな批判はかえって彼に疑惑をいだかせ、なすべきことと、なすべからざることを、彼が見分ける妨げになった。ところが、なにも考えないで、ただ生活しているときには、彼は自分の内部に、絶対公平な裁判官の存在をたえず感じていた。その裁判官は、二つの可能な行為のうちから、どちらがよくてどちらが悪いかを、はっきり決定してくれた。そして、彼が少しでもまちがった行為をすると、彼はすぐにそれを直感するのであった。
こうして彼は、私とはなにものであり、なんのためにこの世に生きているかを知らずに、いや、それを知る可能性があるとも考えずに、その無知を悩むあまり自殺を恐れるまでになりながらも、それと同時に、この人生における自分独特の一定の道をしっかり切り開きながら、暮していたのである。
11
コズヌイシェフがポクローフスコエ村へ到着したその日は、リョーヴィンにとってもっとも苦しい日の一つであった。
それは百姓ならだれでも、他のいかなる生活条件でも見られないような自己犠牲的な精神を、労働の中に異常に発揮するもっとも多忙をきわめた農繁期であった。そして、この緊張ぶりは、もしそれを発揮する当人たちが評価した場合には、しかもそれが毎年繰り返されることなく、その緊張の結果があまりに単純なものでなかったら、きっと、きわめて高く評価したにちがいないものであった。
裸麦や燕麦《えんばく》を刈り取って、束ねて運んだり、草場を刈りあげたり、閑田をすきかえしたり、種子をたたき落したり、冬越しの畑に種まきをしたり――こうしたことはすべて単純で、あたりまえのことのように思われた。しかし、こうしたことをすべて手ぎわよくやってのけるためには、この三、四週間のあいだ、村じゅうの者が老幼の別なく総出で、クワスと、玉葱《たまねぎ》と、黒パンをかじりながら、夜は夜で穀束を運んだり、たたいたりしながら、一昼夜に二、三時間しか眠らず、ふだんの三倍もよけいに働き通さなければならなかった。しかも、これが毎年、ロシア全土で行われているのであった。
これまでの生涯の大部分を田舎で、百姓たちと近しくつきあってきたリョーヴィンは、いつもこの農繁期になると、この百姓一般に共通の興奮が、自分にも感染してくるような気がしていた。
朝早くから彼は馬に乗って、裸麦の第一回の播《ま》きつけと、燕麦の禾堆《にお》つみを見に出かけ、妻とその姉の起きる時分に家へもどり、みんなといっしょにコーヒーを飲み、今度は徒歩で農場へ出かけた。そこでは種子の用意のために、新たに据えつけられた脱穀機を運転することになっていた。
この日は一日じゅうリョーヴィンは、管理人や百姓たちと話していても、わが家で妻やドリイや、その子供たちや舅《しゅうと》などと話していても、近ごろ農事関係の配慮のほかに、たえず彼の心にかかっていたただ一つのことばかり考えつづけていた。そして、あらゆるものの中に、《私とはいったいなにものであるか? 自分はどこにいるのか? なんのために自分はここにいるのか?》という自分の疑問に対する相互関係を捜しもとめていた。
新しく葺《ふ》きかえた藁葺《わらぶき》屋根の皮をむいたばかりのやまならし《・・・・・》の生木の桁《けた》に、ぴったりついている榛《はしばみ》の木《き》摺《ずり》にはまだかぐわしい葉が散り残っていたが、この脱穀小屋の、ひんやりした中に立ったリョーヴィンは、脱穀のたびに、かわいた、いがらっぽいにおいのするほこりが舞いあがっていくあけ放されたドアを通して、焼けるような日ざしに照らされている脱穀場の草や、たった今納屋から運び出されたばかりの新しい藁や、鳴きながら屋根の下へ飛びこんで来て、翼をばたばたさせながらドアの明り取りのふちに止った、頭が斑《まだら》で胸の白い燕《つばめ》や、薄暗いほこりだらけの小屋の中でごそごそ働いている百姓たちの姿などをながめながら、奇妙なもの思いにふけっていた。《なんのためにこんなことをしているんだろう?》彼は考えた。《なんだっておれはここに突っ立って、あの連中を働かせているんだろう? なんだってあの連中ときたら、みんなあくせくして、おれの前で働きぶりを見せようと骨折っているんだろう? なんだって、あのマトリョーナ婆さんまで、あんなにむきになっているんだろう?(そうだ、あの婆さんは、火事のとき梁《はり》が落ちてきてけがをしたんで、おれが治療してやったんだっけ)》彼は、脱穀場のでこぼこしたかたい土間を、黒く日に焼けたはだしで、力いっぱい踏みながら、熊手《くまで》で穀物をかき集めているやせた百姓女をじっとながめながら、考えた。《あのときは婆さんもなおったけれど、きょうあすでなくても、もう十年もすれば、あの婆さんも土の中に埋められてしまって、そのあとにはなにひとつ残りゃしないんだ。いや、あんなに器用な優しい手つきで穂をたたいている、あの赤い縞《しま》のスカートをはいたおしゃれな女だって、いずれは、埋められてしまって、なにひとつ残りゃしないんだ。あの斑《まだら》の去勢馬だって、もう長いことはないだろう》彼は、腹を波打たせ、鼻孔を大きくふくらまして、はあはあ息をつきながら、足もとの車輪をやっとこ引っぱっている馬をながめながら、考えた。《あいつだってじき土に埋められてしまうんだ。あの縮れた顎《あご》ひげを籾殻《もみがら》だらけにして、シャツの破れ目から肩の白い膚を見せている運び人夫のフョードルも、結局は土に埋められてしまうんだ。それなのに、あいつは穀束を解いたり、なにかさしずをしたり、女どもをどなりつけたり、動力輪のベルトを素早くなおしたりしているじゃないか。それに、なにより重大なのは、なにもあの連中ばかりでなくて、このおれも土に埋められてしまって、あとにはなにひとつ残らないってことだ。これはなんのためだろう?》
彼はこんなことを考えながら、それと同時に、一時間にどれだけ打穀されたか数えるために、時計を出して見た。それをもとにして、一日の仕事を割り当てるために、彼はそれを知っておく必要があったのである。
《もうじき一時間になるというのに、やっと三つめの禾堆《にお》にかかったばかりだ》リョーヴィンは考え、運び人夫のそばへ寄って、機械の轟音《ごうおん》に負けないような声を張りあげながら、もう少し間をおいて入れるようにと注意した。
「少し入れ方が多すぎるな、フョードル! ほら、つまってるじゃないか、だからはか《・・》がいかんのだよ。もっとまんべんなく入れるんだ!」
汗とほこりにまみれて黒い顔をしていたフョードルは、なにか大声で返事をしたが、なおもリョーヴィンの思うようにはしなかった。
リョーヴィンは脱穀機のそばへ近づき、フョードルを押しのけて、自分で麦を差しこみはじめた。
彼はもう間もなかった百姓たちの昼食時まで働いてから、運び人夫といっしょに小屋を出て、種子用に脱穀場に積んであった、黄色い裸麦の禾堆《にお》のそばに立ち止って、そこで連れと話しこんでしまった。
この運び人夫は、遠い村から来たもので、リョーヴィンはその村の土地を、前に組合組織にして貸していたが、今は屋敷番に賃貸しにしていた。
リョーヴィンは、運び人夫のフョードルとこの土地のことを話し合い、来年はその土地を、その村の金持で善良な百姓であるプラトンが借りてくれないものだろうか、とたずねてみた。
「地代が高えですから、プラトンにゃ払えねえでしょうな、リョーヴィンのだんな」フョードルは汗ばんだふところから、麦の穂をつまみだしながら、答えた。
「そんなら、どうしてキリーロフには払えるんだい?」
「ミチュハー(と彼は屋敷番のことを軽蔑《けいべつ》してこういった)に払えねえってことがありますかい、だんな! あいつはしぼれるだけしぼって、抜け目なくもうけてますからな。あいつにかかっちゃ、キリスト信者だって容赦しねえんだから。でも、フォカーヌイチじいさんは(彼はプラトン老人のことをこう呼んだ)人の生皮《いきがわ》をはぐようなまねはしませんや。相手によっちゃ、貸してやるときもありゃ、勘弁してやることもあるんで。とてもみんななんて取りたてられねえですよ。どのみち同じ人間でねえですか」
「じゃプラトンはどうして勘弁してやるんだね?」
「そりゃ、つまり、人間にもいろいろあるからでごぜえますよ。自分の欲得だけで暮して、ミチュハーみてえに、てめえの腹を肥やすことばかり考えてるのもありゃ、フォカーヌイチみてえな正直なじいさんもいるんでさあ。じいさんは魂のために生きてるんで、神さまのことを覚えているんでさあ」
「どんなふうに魂のために生きているんだい?」リョーヴィンはほとんど叫ぶようにしていった。
「どんなふうにって、わかりきったことじゃごぜえませんか、正直に、神さまの掟《おきて》どおりに生きるんでごぜえますよ。いや、人間なんていろいろでごぜえますな、早い話、だんなさまだって、やっぱり人をいじめるようなことはなさらねえし」
「ああ、そうとも、じゃ、さよなら!」リョーヴィンは興奮のあまり、息を切らしながらいうと、くるりと踵《きびす》を返して、ステッキを手にして、急ぎ足でわが家をさして歩きだした。フォカーヌイチが魂のために、正直に、神さまの掟どおりに生きているといった百姓の言葉を聞くと同時に、彼はおぼろげながらも意味ぶかい思いが、群れをなして、今まで閉じこめられていたところから、急にとびだして来たような気がした。そして、それらの思いは一つの目的をさして突進しながら、その光輝で、彼の目をくらませながら、彼の頭の中で渦巻きはじめた。
12
リョーヴィンは、自分の思いというよりも(彼はまだそれを分析することができなかった)今まで、一度も味わったことのない精神状態に、注意をかたむけながら、ひろい道を大股《おおまた》で歩いていた。
あの百姓のいった言葉は、彼の心に電気の火花のような作用を起し、けっしていっときも彼の心を離れたことのない断片的な、力のない、ばらばらなたくさんの思いを、たちまち、変貌《へんぼう》させ、一つに集中させてしまった。これらの思いは、彼が土地の貸しつけの話をしていたときも、自分で意識しないうちに、彼の心を捕えていたのであった。
彼は心の中に新しいなにものかを感じて、それがなんであるかは、まだ知らなかったが、一種の喜びをもって、その新しいなにものかを手さぐりしてみるのであった。
《自分の欲得のためじゃなく、神さまのために生きなくちゃいけないのだ。でも、どんな神さまのために? あの男のいったこと以上に、無意味なことがいえるだろうか? あの男は、自分の欲得のために生きちゃいけないといった。つまり、われわれが理解したり、われわれをひきつけたり、われわれが望んだりすることのために生きるのじゃなく、なにかしら不可解なもののために、だれひとり理解することも、定義することもできない、神のために生きなくてはいけないのだ。で、それがどうだというんだ? おれはあのフョードルのいった無意味な言葉を理解しなかっただろうか? いや、理解しながら、その真理を疑ったのだろうか? それをばかばかしい、あいまいな、不正確なものと思ったのだろうか?
いや、おれはあの男の言葉をあの男が理解しているのとまったく同様に、完全に理解したのだ。これまでの生涯で、おれがなにやら理解したことよりも、ずっとはっきりただこれだけを完全に理解したのだ。今までおれは一度も、それを疑ったことがないし、また疑うこともできないのだ。そして、おれひとりだけでなく、すべての人が、全世界の人が、ただこれだけを理解し、ただこれ一つだけを疑わないで、いつでもこの点で意見が一致しているのだ。
フョードルによれば、屋敷番のキリーロフは自腹を肥やすために生きているのだ。それはよくわかるし、理屈にも合っている。われわれはみんな理性をもっている生物なんだから、自腹を肥やすため以外の生き方なんかできないのだ。ところが、いきなり、その同じフョードルのやつが、自腹を肥やすために生きるのはよくない、真理のために、神さまのために生きなければいけないのだ、というと、おれはただちょっと暗示を受けただけで、すぐそれを理解してしまった! いや、おれにしても、何世紀前に生きていた何百万という人びとにしても、現に生きているすべての人びとにしても――百姓も、心の貧しい人びとも、この問題について考えたり、書いたりした賢人たちも、自分のあいまいな言葉で、同じことをいっている人たちも、だれもかれも、なんのために生きねばならぬか、善とはなんであるか、というこの一点だけでは一致しているのだ。おれもすべての人とともに、ただ一つ確実な、疑うべからざる、明らかな知識をもっている。しかも、この知識は、理性では説明することができないのだ。それは理性を超越していて、いかなる原因も、いかなる結果もありえないのだ。
もし善が原因をもったら、それはもはや善ではないのだ。もしそれが結果として、報酬をもてば、やっぱり善とはいえないのだ。したがって、善は原因結果の連鎖を超越したものなのだ。
しかも、それをおれは知っているのだ。いや、われわれはすべてそれを知っているのだ。
ところが、おれは奇《き》蹟《せき》を求めていた。そして、おれを納得させてくれるような奇蹟に会わないのを、残念がっていた。今ここに奇蹟がある。しかもそれはつねに存在していて、四方からおれをとりかこんでいる、唯一の可能な奇蹟なのだが、おれはそれに気づかなかったのだ!
いや、これ以上大きな奇蹟がまたとありうるだろうか?
はたして、おれは、すべての解決を見いだしたのだろうか、おれの悩みはもうすっかり終ってしまったのだろうか?》リョーヴィンは暑さも疲労も感じないで、長いあいだの悩みが癒《いや》されたという気持をいだいて、ほこりっぽい街道を歩きながら考えた。この気持はあまりにも喜ばしいものだったので、とてもほんとうとは思えない感じだった。彼は興奮のあまり息を切らし、もう先へ歩いて行く気力がなくなったので、街道をそれて森へはいり、やまならし《・・・・・》の木陰の、まだ刈られていない草の上に腰をおろした。彼は汗ばんだ頭から帽子をとり、片肘をついて、水気の多い、葉の大きな、森の草の上に身を横たえた。
《そうだ、これはひとつ自分の心にはっきりさせて、よく理解しなくちゃいけないな》彼は目の前の、まだ人に踏まれていない草をじっと見つめ、かもじ草の茎をのぼって行く途中で、スヌイトカの葉に行く手をさえぎられている青いかぶと虫の運動に目を凝らしながら、考えた。《なにもかもはじめから考えよう》彼は小さなかぶと虫のじゃまをしないように、スヌイトカの葉をよけて、かぶと虫が先へ進めるように、別の葉を折り曲げてやりながら、心の中でつぶやいた。《なにがおれを喜ばせているのだろう? おれはなにを発見したというのだ?
以前おれは、自分の肉体の中でも、この草やかぶと虫のからだの中でも、(こいつ、せっかくおれが折り曲げてやった草をいやがって、羽根をひろげて、飛んで行ってしまったな)物理的、化学的、生理的な法則によって、物質の交換が行われているのだ、といっていたものだ。われわれすべての内部では、もちろん、あのやまならし《・・・・・》の中にも、雲の中にも、星雲の中でも、進化の作用が行われているのだ。いや、進化といっても、なにからなにへ進化するんだ? 無限の進化と闘争だろうか?……まるで無限の中になんらかの方向や、闘争がありうるかのように! そして、おれはこの探求に、おのれの思考力を最大限に発揮したにもかかわらず、やはりなお人生の意義も、自分の意欲や努力の意義も啓示されないといって、ふしぎに思ったものだ。だが、しかし、いまやおれの内的衝動の意義は、きわめて明らかになったので、おれはいつもそれに従って生きているし、あの百姓が、神のため、魂のために生きなければいけない、といったときも、おれはびっくりすると同時に、うれしかったのだ。おれはなにも発見したわけではなかった。おれはただ自分で知っていたことをはっきり認識しただけなのだ。おれは単に過ぎ去った過去ばかりでなく、現に自分に生命を与えてくれるその力を理解したのだ。おれは虚偽から解放されて、ほんとうの主人を見いだしたのだ》
こうして、最近二年ばかりのあいだに味わった思索の流れを、もう一度すっかり心の中で素早く調べてみた。その発端となったものは、愛する兄が不治の病にたおれたのを見たときに、心に浮んだ、死というきわめて明確な思いであった。
そのときはじめて彼は、自分を含めてすべて人間の前途には苦悩と、死と、永遠の忘却のほか、なにひとつないということを、はっきりと理解し、こんなふうでは、とても、生きては行かれない、この人生がなにか悪魔の皮肉な嘲笑《ちょうしょう》だと思われないような解釈を見つけるか、でなければ、ピストル自殺でもするよりほかない、と決心したのであった。
しかし、彼はそのどちらをもしなかった。そして、相変らず生活し、思索し、感じつづけていただけでなく、そのまっ最中に結婚さえして、自分の人生の意義を考えないでいるときには、多くの喜びを味わい、幸福であった。
では、これはいったいなにを意味したのであろう? ほかでもない、彼はすばらしく生活して来たのだが、思索の点では不十分だった、ということであった。
彼は、母親の乳とともに吸いこんだ精神的真理によって(自分ではそれを意識しなかったが)、生活していたのであったが、思索するときには、それらの真理を認めないばかりか、努めてそれらを避けようとしていたのであった。
いまや彼には、自分がこれまで生きて来られたのは、自分をはぐくんでくれた信仰のおかげにほかならないことが、明らかになった。
《もしおれがこの信仰をもたないで、自分の欲のためでなく、神のために生きなくてはならぬということを知らなかったら、おれはいったいどんな人間になっていただろう、どんな生活を送っていただろう? 泥棒を働いたり、うそをついたり、人殺しをやったりしたかもしれない。今のおれの生活で、おもな喜びとなっているものなど、なにひとつなかったにちがいない》そこで、彼は想像力を最大限に発揮して、もし今まで自分の生活目標となっていたものを知らずにいたとしたら、きっと、そうなっていたであろうと思われる野獣的な人間を思い浮べようとしたが、それはできなかった。
《おれは、自分の疑問に対する解答を捜しもとめた。が、思索はその疑問に対する解答を与えてはくれなかった――その思索は疑問とは共通点をもたないものだったのだ。この解答を与えてくれたのは、生活そのものであって、なにが善であり、なにが悪であるかというおれの知識の中に啓示されたのだ。しかも、この知識は、おれがなにものかによって得たものではなく、すべての人びとと同じくおれに授けられた《・・・・・》ものなのだ。つまり、おれが、どこからも手に入れることができなかったからこそ授けられたのだ。
おれはどこからそれを手に入れたのだろう? おれははたして理性によって、隣人は愛すべきものであり、圧迫してはいけない、という真理に到達したのだろうか? おれは子供の時分によくそれを聞かされて、喜んでそれを信じたものだが、それは自分の魂の中にあったことをいわれたからだった。じゃ、だれが、それを発見したのだろう? 理性じゃない。理性が発見したのは生存競争であり、おのれの欲望の満足を妨げるものは、だれでも締め殺してしまえと要求する法則ではないか。これこそ理性の結論なのだ。他人を愛せよという法則を、理性が発見するわけがない。なぜなら、それは不合理なことだから》
《そうだ、傲慢《ごうまん》だ》彼は腹ばいになって、折らないように苦心して、草の茎を輪にむすびながら、心につぶやいた。《いや、知恵の傲慢ばかりでなくて、知恵の愚鈍ということもあるんだ。しかし、なにより問題なのは、欺《ぎ》瞞《まん》だ、ほかならぬ知恵の欺瞞だ。いや、知恵のまやかしだ》彼はそう繰り返した。
13
そこでリョーヴィンはふと、先日ドリイとその子供たちのあいだで演じられた一場面を思いだした。子供たちは自分たちだけになったとき、ろうそくの火で木いちごを焼いたり、牛乳を噴水のように口の中へ注ぎこんだりしはじめた。母親はその現場を見つけると、リョーヴィンの目の前で、お説教をはじめた。そして、おまえたちがこわしているものを作るのに、おとなたちはどれほど骨を折らなくてはならないか、その骨折りもみんな、おまえたちのためだし、もしおまえたちが茶碗《ちゃわん》をこわせば、もう、おまえたちはお茶が飲めなくなってしまうし、もし牛乳をこぼしてしまえば、なにも食べるものがなくなって、おまえたちは飢え死にしなくてはならない、といいきかせた。
そのとき、リョーヴィンがびっくりしたのは、母親のこうした説教を聞いている子供たちの、おとなしい、退屈そうな、不信の表情であった。子供たちはただ、おもしろい遊びをやめさせられたことにしょげていただけで、母親のいうことはひと言も信じてはいなかった。子供たちとしても、そんなことは信じられなかったのだ。なぜなら、子供たちには自分たちの利用している物のすべてを想像することもできなかったし、したがって、自分たちが破壊しているものが生きて行くうえに必要なものであるということを、想像することができなかったのである。
《そんなことぐらい、みんなわかっているよ》子供たちは考えた。《そんなことなんか、おもしろくもなければ、たいせつなことでもありゃしないさ。だって、そんなものはいつでもあるし、これからだってあるにきまっているもの。いつだって、同じことばかりじゃないか。なにもぼくたちがそんなことを考える必要はないんだ。そんなものはいつだってあるんだから。ぼくたちはなにか新しい、自分たちだけのものを考えだしたいんだよ。だから、木いちごを茶碗に入れて、ろうそくの火であぶったり、牛乳をめいめいの口へじかに噴水みたいに流しこむことを、考えついただけじゃないか。このほうが愉快だし、目新しいし、茶碗で飲むのと比べて、なにも悪いことなんかありゃしないさ》
《われわれが理性によって、自然力の意味や人生の意義を探究していることも、これと同じことをやっているんじゃなかろうか、現に、おれもそれをやって来たのだが》彼は考えつづけた。
《いや、哲学的な理論などもすべて、人間にふさわしくない、妙な考え方で、われわれがとっくの昔から知っていることを、いや、それがなければ生きて行けないほど確実に知っていることを知らせようとしているが、これも、それと同じことではないだろうか? どの哲学者の理論のすすめ方をみても、あらかじめこの人生のおもな意義を、あの百姓のフョードルと同じようにまちがいなく、もっともあれ以上はっきりではないが、承知していながら、ただあやしげな知的経路を通って、周知の事実に帰って行くにすぎないことが、はっきりしているではないか?
まあ、かりに子供たちばかりにして、かってに物を手に入れさせたり、食器をつくらせたり、牛乳をしぼらせたりしたら、どんなものだろう? 子供たちはいたずらをするだろうか? きっと、飢え死にしてしまうだろう。さて、そこで、われわれが唯一の神や創造主に関する一片の観念もなく、情欲や思いのままに投げだされたら、どうなるだろう! あるいはまた、善とはなんであるかという観念もなく、道徳的な悪についての説明もなく、投げだされたらどんなものだろう。
なんなら、そうした観念なしに、なにかを建設してみるがいいのだ!
われわれは単に破壊するばかりだが、それは、精神的に満腹しているからだ。まったく子供と同じことではないか!
おれは、魂の平安を授けてくれる、あの百姓と共通の喜ばしい知識をどこから手に入れたのだろう? どこからおれはそれを取って来たのだろう? キリスト教徒として、神という観念の中で育てられて来たおれは、キリスト教のもたらす精神的恩恵によって全生活を満たし、自分の存在のすべてをその恩恵に満たされて生きていながら、まるで子供のようになにもわからず、自分を生かしてくれているものを破壊している。いや、破壊しようとしているのだ。ところが、人生における重大な危機が訪れるやいなや、寒さと飢えに苦しむ子供のように、おれは急に神のほうへ顔を向けるのだ。そして、いたずらをして母親からしかられた子供たちよりも、もっと平然として、勝手気ままにあばれようとした自分の子供じみた試みを、それほどたいしたことではないと、たかをくくっている始末なのだ。
そうだ、おれの知っていることは、理性で知ったものじゃなくて、おれに与えられたものなのだ。おれに啓示されたものなのだ。おれはこれを心で知ったのだ。教会で教えている主要なものに対する信仰によって知ったのだ。
《教会だって? そうだ、教会だ!》リョーヴィンはそう繰り返して、ごろりと寝返りをうち、片肘をついて、遠く向う岸から川のほうへ近づいて来る、家畜の群れをながめはじめた。
《それにしても、おれは教会の教えるいっさいのことを、信ずることができるだろうか?》彼は、自分を試みながら、現在の平安をくつがえす恐れのある事がらを、残らず思い浮べながら、考えた。彼はいつももっとも奇怪に感じられ、自分の心を惑わしていた教会の教えのいくつかをわざと記憶の底から呼びさました。《創造とは? おれは存在ということをいったいなんで説明していたのだろう? 存在によってだろうか、無によってだろうか? じゃ、悪魔と罪は? おれは悪をなんで説明しているだろう? 贖罪者《しょくざいしゃ》とは?……
いや、おれはなんにも、なんにも知らないのだ。ただ、すべての人といっしょに聞かされていること以外には、なにひとつ知るわけにはいかないのだ》
するといまや彼には、教会の信条には一つとして、もっとも重要なもの、つまり、神に対する信仰を、打ち砕くようなものはないように思われるのであった。
教会の各信条には、欲望のかわりに、真理に奉仕するという信仰を、あてはめることができた。そして、各信条は、単にそれに抵触しないばかりか、むしろたえず地上に現われるたいせつな奇蹟が成就されるために、必要欠くべからざるものであった。この奇蹟というのはほかでもない、ひとりびとりが、種々雑多な無数の人びと、つまり、賢者も、愚者も、子供も、老人も、百姓も、リヴォフも、キチイも、乞《こ》食《じき》も、帝王もともにいっしょになって、ただ一つのことを一片の疑いもなく、理解して、われわれがそのためにのみ生きて行く値うちがあり、それだけを尊重すべきである霊の生活を築いて行くことなのである。
彼は仰向けに寝ころびながら、一片の雲もない高い青空をながめていた。《あれが、無限の空間であって、巨大な丸天井でないことぐらい、おれだって知っているさ。しかし、どんなに目を細くしても、どんなに視力を緊張させてみても、あれを丸くないものとも、はてしのないものとも見ることはできない。あれが無限の空間という知識は、ちゃんともっているくせに、今おれが空色のはっきりした丸天井を認めていることも、まさに事実なのだ。いや、あの丸天井のかなたを見きわめようと、むきになっているおれよりも、よっぽど正しいわけだ》
リョーヴィンは、もはや考えることをやめて、なにやら喜ばしげに、熱心に語り合っている神秘な声に、耳をすましてでもいるような気持になった。
《これがはたして、信仰というものだろうか?》彼は自分の幸福を信ずることを恐れながら、考えた。《ああ、神さま、あなたに感謝します!》彼はこみあげてくる号泣をじっとこらえて、両眼にあふれる涙を両手でふきながら、思わずそう口走った。
14
リョーヴィンは前方に目をこらして、家畜の群れを認めたが、黒馬《あお》にひかれたわが家の荷馬車と、家畜の群れのそばで牧夫となにやら話している御者の姿が目にはいった。まもなく、彼は、もう車輪の響きと、肥えた馬が鼻を鳴らす音をすぐそばに聞いた。しかし、彼は自分の思いにすっかり気をとられていたので、なんのために御者がやって来たのか、考えてもみなかった。
彼がようやくそのことに気づいたのは、もう御者がすぐそばまで来て、声をかけたときであった。
「奥さまのお使いでまいりました。お兄さまと、もうひとり、どこかのだんなさまがお見えになりました」
リョーヴィンは馬車に乗って、手《た》綱《づな》を取った。
リョーヴィンは夢からさめたばかりのように、長いことわれに返ることができなかった。彼は腿《もも》のあいだや、手綱のすれる首のあたりに、汗の泡《あわ》を浮べている肥えた馬をながめたり、そばにすわっている御者のイワンを見まわしたりしているうちに、自分が兄の訪れを待っていたことや、自分がなかなか帰らないので、きっと妻が心配しているだろうことなどを思い起して、兄といっしょに来た客はだれだろうと、あれこれ想像をめぐらしてみた。今では兄も、妻も、未知の客も、以前とはまるで別人のように思われてきた。もう彼はすべての人との関係が、いまやまったく別のものになっていくような気がするのであった。
《兄とのあいだも、もう、今までいつもそうだったような、よそよそしさがなくなるだろう――議論もしなくなるだろう。キチイともけっしてけんかをしないだろうし、客に対しても、たとえそれがだれであっても、優しく親切にするだろう。召使たちにも、たとえばこのイワンに対しても、すっかり別の態度をとるようになるだろう》
じれったそうに鼻をならして、しきりに駆けだしたがっている名馬を、リョーヴィンはきつく手綱で引きしめながら、隣にすわっているイワンのほうをじろじろながめまわした。イワンは、仕事を取りあげられて、手のやりばに困って、風にふくらむシャツを引っぱっていた。リョーヴィンはこの男と口をきく適当な口実を捜していた。彼は相手に腹帯の締め方がすこし高すぎたといおうとしたが、それは小言みたいになりそうだった。ところが、リョーヴィンは、もっと愛想のいい話がしたかった。が、そのほかには、なにも話の種が浮んで来なかった。
「どうぞ右のほうへよけてくだせえまし、そこんとこに切り株がありますんで」御者はリョーヴインの持っていた手綱をなおしながらいった。
「おい、頼むから、そんなにさわったり、さしずしたりしないでくれ!」リョーヴィンは御者の干渉にむっとなって、いい返した。やはりいつもと同様、彼は干渉されると、しゃくにさわったので、彼はすぐさま、現在の精神状態は、現実にふれたときの自分を、たちまち一変させるだろうという想像が、どんなに誤りであったかを悟って、悲しい気持になった。
家まで二百メートルばかりのところへ来ると、リョーヴィンは向うから走って来るグリーシャとターニャの姿に気づいた。
「コスチャ叔父《おじ》さん、ママも、おじいさまも、コズヌイシェフおじさんも、こっちへ歩いていらっしゃるわよ。それから、もうひとりだれか知らない人も」子供たちは馬車によじ登りながら、いった。
「ほう、だれだね?」
「とてもこわい人よ! ねえ、手をこんなふうにしたりして」ターニャは馬車の中で立ちあがって、カタワーソフの身ぶりをまねながら、いった。
「じゃ、年寄りかい、それとも若い人?」リョーヴィンはターニャの身ぶりからだれかを思いだしながら、笑顔でたずねた。
《ああ、ただ不愉快な人間でさえなければいいけれど!》リョーヴィンは思った。
道の角《かど》を曲って、こちらへ歩いている人たちの姿を目にしたとたん、リョーヴィンはすぐ、麦藁《むぎわら》帽子をかぶったカタワーソフに気づいた。彼は、ターニャが今やってみせたのとまったく同じように、両手を振りながら、歩いて来た。
カタワーソフは、一度も哲学を勉強したことのない自然科学者たちから得た観念をもって、哲学について語るのが大好きであった。リョーヴィンは最近モスクワで、彼とずいぶん議論をたたかわせたものであった。
そうした議論をしたとき、カタワーソフは、一度たしかに自分の勝ちだと思ったらしいことがあったが、リョーヴィンが彼を見たとたん、まず第一に思い浮べたのは、そのときのことであった。
《いや、おれはもうどんなことがあっても議論をしたり、軽々しく自分の意見を述べたりなんかしないぞ》彼は考えた。
馬車からおりて、兄やカタワーソフにあいさつをしてから、リョーヴィンは妻のことをたずねた。
「あの人、ミーチャをコーロック(これは屋敷のそばにある森のことであった)へ連れて行きましたわ。あそこでお守《も》りをするつもりなんでしょ。なにしろ、家の中は暑いですからね」ドリイはいった。
リョーヴィンはいつも妻に向って、赤ん坊を森へ連れだすのは、危険だからといって、止めていたので、この知らせは不愉快であった。
「あの娘《こ》は赤ん坊を抱いたまま、あちこちと、場所を変えてばかりいるのさ」老公爵は微笑を浮べながらいった。「わしはあの娘に、赤ん坊を氷《ひ》室《むろ》へ連れて行ってみたらと勧めてやったぐらいだよ」
「あの人、養蜂場へ行きたがってましたのよ。あなたがあそこにいらっしゃるかと思って。あたしたちも、今そこへ行くところなんですのよ」ドリイはいった。
「やあ、近ごろはなにをしているんだね?」コズヌイシェフは、ほかの連中から離れて、弟と肩を並べながら、たずねた。
「いや、べつにたいしたことありませんよ。相変らず、百姓仕事をやってますよ」リョーヴィンは答えた。「じゃ、兄さんのほうは、ゆっくりおできになれますか? もうずいぶん前からお待ちしていたんですよ」
「まあ、二週間ばかりだね。なにしろ、モスクワにとてもたくさん仕事があるんでね」
そういった瞬間、兄弟の目がふと、かちあった。と、リョーヴィンはいつもから、とりわけ今は強く、兄と親しい関係を結びたい、いや、ざっくばらんな関係を結びたい、と願っていたにもかかわらず、なんとなく兄の顔を見るのが気づまりに感じられた。彼は目を伏せて、なんといったものかわからずにいた。
リョーヴィンは、コズヌイシェフの喜びそうな話題、つまり、今モスクワの仕事という言葉でそれとなくほのめかしたセルビア戦争やスラヴ問題から兄の気持をそらすことができそうな話題を、心の中であれこれ選り分けながら、コズヌイシェフの著書のことを話しだした。
「ねえ、どうです、兄さんのご本について書評が出ましたか?」彼はたずねた。
コズヌイシェフは、この質問のわざとらしさに思わず微笑をもらした。
「だれも今時そんなものに気をつかっちゃいないよ、第一ぼく自身がその最たるものだからね」彼はいった。「ほら、ドリイさん、ごらんなさいね、ひと雨きそうですよ」彼はや《・》まならし《・・・・》の梢《こずえ》に現われた白い雨雲を、傘《かさ》でさしながらつけ足した。
こうして、あれほどリョーヴィンが避けたがっていた、敵意というほどではないが、妙に冷たい関係が、たったこれだけの会話で、はやくも兄弟のあいだにまた生れてしまった。
リョーヴィンはカタワーソフのそばへ歩み寄った。
「ほんとうに、よくやって来てくれましたね」彼は話しかけた。
「前々から来たいと思っていたんですがね。ねえ、今度はひとつ、大いに語りましょうよ。スペンサーはもうお読みになりましたか?」
「いや、まだ終りまで読んでいません」リョーヴィンは答えた。「もっとも、今じゃスペンサーも、ぼくには必要なくなりましたがね」
「ほう、そりゃ、どうしてです? こりゃおもしろい、いったい、なぜです?」
「つまり、ぼくが興味をもっていた問題の解決は、スペンサーやそれに類した人たちの考えの中には見いだせないってことを、最終的に確信したからですよ。今では……」
ところが、リョーヴィンはカタワーソフの落ち着きはらった、楽しそうな表情を見て、不意にはっとした。彼はこの会話でたしかにぶちこわしてしまった先ほどの気分が、なごり惜しくなったので、ついいましがたの決意を思いだして、急に口をつぐんでしまった。
「まあ、そのお話はあとでしましょう」彼はつけ足した。「もし養蜂場へ行くのでしたら、こちらへ、この小道づたいに行くんです」彼はみんなに向って、いった。
狭い小道づたいに、片側があざやかな三色すみれにおおわれ、その中にところどころ暗緑色の梅「草《ばいけいそう》が、高いくさむらをなして生《お》い茂っている、まだ刈り取られていない森の中の草原へ出たとき、リョーヴィンは、やまな《・・・》らし《・・》の若木のこんもりしたすがすがしい木陰にあるベンチと、木の切り株に客たちを腰かけさせた。これは、養蜂場の訪問者で、蜂を恐れる人のために、とくに用意したものであった。そして、自分は、子供やおとなたちにパンやきゅうりや、取りたての蜂蜜《はちみつ》などを、持って来るために、小屋のほうへ歩いて行った。
リョーヴィンはできるだけ急激な動作をしないように気をつけ、ますますひんぱんにそばをかすめ飛ぶ蜂の羽音に、耳をすましながら、小道づたいに小屋へたどり着いた。入口のすぐそばで、一匹の蜜蜂が彼の顎《あご》ひげにまぎれこんで、ぶんぶんいいだしたが、彼は用心ぶかくそれを放してやった。薄暗いそこの入口へはいると、彼は壁の木《き》釘《くぎ》にかかっていた蜂よけの網をとって頭にかぶり、両手をポケットへ突っこんだまま、垣根をめぐらした養蜂場の中へはいって行った。そこには、草を刈り取られたあき地のまん中に、それぞれ自分の歴史をもった、彼にはなじみ深い古い蜂の巣が、規則正しい列をなして、菩《ぼ》提樹《だいじゅ》の皮で杭《くい》に結びつけられてあり、編み垣には、今年できた若い蜂の巣がかけてあった。巣の入口の前には、遊んでいる蜜蜂と雄蜂が、一つところをぐるぐる飛びまわったり、ぶつかったりして、めまぐるしかった。その中で、獲物をもったり、それを取りに行ったりする働き蜂が、森の中の花ざかりの菩提樹と巣とのあいだを、行ったり来たりしながら、いつも同じ方向に、あちこち飛びかわしていた。
両の耳にはたえず、仕事に追われて、素早く飛んで行く働き蜂や、のらくらとラッパでも吹くような雄蜂や、敵の侵略から自分の財産を守ろうと、いやに興奮して、今にも刺そうと身がまえている護衛蜂など、種々雑多なうなり声が、響いていた。囲いの向う側では、ひとりの老人が箍《たが》を削っていたが、リョーヴィンの姿には気づかなかった。リョーヴィンも老人には声をかけずに、養蜂場のまん中で足を止めた。
彼は、ひとりきりになれたのがうれしかった。それははやくも彼の気持を卑俗なものにしてしまった現実からのがれて、自分自身に返りたかったからである。
彼はもう自分がほんのわずかなあいだに、イワンに腹を立てたり、兄に冷淡なそぶりを見せたり、カタワーソフに軽率な口をきいたりしてしまったことを、思いだした。
《あれは、はたしてほんの束《つか》の間《ま》の気分にすぎなかったのだろうか、もうなんの跡形も残さずに、過ぎ去ってしまったのだろうか?》彼は考えた。
が、その瞬間、彼は再びあのときの気分になり、なにかしら新しい重大なものが、自分の身内に生れたのを感じて、うれしくなってしまった。現実はただほんのいっとき、彼の見いだした精神的平安を曇らせただけで、それは完全に彼の心の中に残っていたのであった。
それはまさに蜜蜂のようなものであった。蜜蜂たちはいまや彼の周囲を飛びまわって、彼を脅《おど》したり、気をまぎらわせたりして、彼の完全な肉体的平安を奪うので、彼はそれを避けるために、身を縮めなければならなかったが、それと同様に、生活上のさまざまな配慮が、馬車に乗ったその瞬間から彼をとりまいて、彼から精神的な自由を奪ったからであった。しかし、これは、彼がその渦中に巻きこまれているあいだのことにすぎなかった。蜜蜂の脅威にもかかわらず、彼の体力が少しもそこなわれなかったように、新たに彼によって認識された精神力は、完全に保たれていたのであった。
15
「そうそう、ねえ、コスチャ、コズヌイシェフさんが、こちらへいらっしゃる途中、だれとごいっしょだったと思って?」ドリイは、子供らにきゅうりや蜂蜜を分けてやってから、いった。「ヴロンスキーとよ! あの人、セルビアへ出征なさったんですって」
「ええ、それも、ひとりじゃなくて、自費で一個中隊を編成して、引率して行ったんですよ!」
カタワーソフはいった。
「あの人のやりそうなことですね」リョーヴィンは答えた。「それにしても、今でもやっぱり、義勇兵が出ているんですか」彼はちらとコズヌイシェフを見て、つけ加えた。
コズヌイシェフはそれに答えないで、白い蜜のかたまりのはいっている茶碗から、蜜にまみれて、まだ生きている蜜蜂を、刃のまるいナイフで用心ぶかく取りだしていた。
「ええ、そりゃ盛んなものですよ! きのうの停車場の光景なんか、きみに見せたいくらいでしたよ!」カタワーソフは、気持のよい音をたててきゅうりをかじりながら、いった。
「ほう、それじゃ、これはなんと解釈すればいいんです? コズヌイシェフさん、後生だから、ひとつ説明してください。その義勇兵たちはどこへ行くんです。だれを相手に、戦争するんです」老公爵はたずねた。どうやら、リョーヴィンのいないあいだにはじまった話のつづきらしかった。
「トルコ軍とですよ」コズヌイシェフは蜜のために黒くなって、弱々しく足を動かしている蜂を救いだして、ナイフからやまならし《・・・・・》の丈夫な葉の上に移しながら、おだやかな微笑を浮べていった。
「じゃ、だれがいったいトルコに宣戦を布告したんです? ラゴーゾフや、リジヤ伯爵夫人が、シュタール夫人などといっしょになってやったんですかね?」
「いや、だれも宣戦布告なんかしませんがね。みんなが同胞の苦しみに同情して、彼らを助けたいと望んでいるだけですよ」コズヌイシェフは答えた。
「しかし、公爵がいっておられるのは、そんな援助のことじゃなくて」リョーヴィンは舅《しゅうと》の肩をもちながら、口をはさんだ。「戦争についてなんですよ。公爵は、政府の許可なしには、個人といえども戦争に参加することはできない、といっておられるのですよ」
「コスチャ、ねえ、気をつけてよ、これ蜜蜂じゃない! ほんとに、あたしたち刺されてしまうわ!」ドリイは黄蜂をはらいのけながらいった。
「いや、こりゃ蜜蜂じゃない、黄蜂ですよ」リョーヴィンはいった。
「さあ、ひとつ、きみの意見を聞きたいもんですな」カタワーソフはどうやら、相手に議論をいどむような調子で、リョーヴィンに笑いながら問いかけた。「なぜ個々の人間はその権利をもっていないんです?」
「いや、ぼくの意見はですね、戦争というものは、一方からいうと、じつに動物的な、残酷な、ひどいものですから、どんな人でも――なにも、キリスト教徒とはいいませんが――とにかく開戦の責任を、個人として引き受けることはできませんよ。それは、ただ、不可避的に戦争に狩りたてられてしまった政府だけにできることなんです。また、一方からいえば、学問的にいっても、常識的にいっても、国家の政治、とくに戦争に関しては、国民は各自の個人的意志を放棄しているんですから」
コズヌイシェフとカタワーソフは、いつでも用意されていた反論を胸の中に秘めて、ふたり同時に口を開いた。
「いや、その点が問題なんですよ。きみ、政府が国民の意志を実行しない場合がありうるんでね。そのときには社会がおのれの意志を表明するというわけですよ」カタワーソフはいった。
ところが、コズヌイシェフは、どうやら、この反駁《はんばく》には賛成できかねるらしかった。彼はカタワーソフの言葉に眉《まゆ》をひそめて、別のことをいいだした。
「いや、おまえの問題のたて方がまちがっているんだよ。この場合、宣戦布告なんて問題じゃなくて、単に人間としての、キリスト教徒としての感情の表明なんだから。血と信仰を同じゅうしている同胞が殺戮《さつりく》されているんだ。いや、たとえそれが信仰を同じゅうした同胞でなくたっていい、ただの子供や、婦人や、老人たちが殺戮されているとしたらどうだね。ロシア人は義憤を感じて、そうした恐怖を根絶させるために、立ちあがるんだよ。まあ、こんな場合を想像してごらん、いいかね、おまえが往来を歩いていて、酔っぱらいが婦人か子供をなぐっているのを見かけたら、そのときはおまえだって、その酔っぱらいに宣戦が布告されてるかどうかなんて考えてみないで、いきなりその男に飛びかかっていって、被害者を守ってやるだろう」
「でも、殺しはしませんよ」リョーヴィンはいった。
「いや、殺すだろうね」
「そりゃ、わかりませんね。そんな場面を見たら、ぼくだって、その場のせっぱつまった感情に身をまかせるでしょうが、でも、前もってどうということはできませんね。それに、スラヴ民族の迫害という事実に対しては、そんなせっぱつまった感情をもちあわせていませんし、だいたいそんなものはありえませんよ」
「そりゃ、おまえにはないかもしれない。しかし、ほかの人たちには、それがあるのさ」コズヌイシェフは思わず眉をひそめながらいった。「民族の心の中には、『異教のサラセン人』の軛《くびき》のもとに苦しんでいるロシア正教の人びとに関する伝説が、生きているんだからね。民族は同胞の苦難を耳にして急に騒ぎはじめたんだからね」
「そりゃ、そうかもしれませんね」リョーヴィンは、あいまいな口調でいった。「しかし、ぼくにはそう思えませんね。ぼく自身も民衆のひとりですが、ぼくはそれを感じていませんからね」
「いや、現に、わしだって」老公爵が口をはさんだ。「外国にいて、新聞を読んでおったが、正直のところ、ブルガリアで恐ろしい事件が持ちあがるまでは、なぜロシア人が急にスラヴの同胞を好きになったのか、わしはどうして、その同胞に愛情を感じないのか、どうにも合点がいかなかったものさ。そして、おれはかたわじゃないか、それとも、カルルスバードの鉱泉が少しききすぎたのかと思って、大いに悲観したものさ。ところが、ここへ帰って来て、安心したというわけさ。なにしろわしのほかにも、ただロシアのことだけ興味をもって、スラヴの同胞には無関心な人間もあることがわかったからな。このリョーヴィンがそうだよ」
「個人的な意見なんか、この場合、なんの意味もありませんよ」コズヌイシェフはいった。「ロシア全土が、つまり、民衆が、意見を表明しているときに、個人的な意見なんか問題になりませんよ」
「いや、失礼だが、わたしにはそう思えませんな。民衆なんてなんにもわかっちゃおらんのだから」公爵はいった。
「いいえ、パパ……どうして知らないなんてことが? じゃ、あの日曜日に教会であったことは?」ドリイがみなの話に耳を傾けながら、口を出した。「ねえ、タオルをかして」ドリイはにこにこしながら子供たちを見ていた老人に、いった。「そんなことってありませんわ、だってみんなが……」
「いったい日曜日に、教会でなにがあったんだね? 司祭はなにやら読むようにといわれて、そいつを読んだが、みんなはさっぱりわからないで、いつものお説教のときと同じように、溜息《ためいき》をついていたばかりじゃないか」公爵はつづけた。「それから、教会で魂の救いになるような仕事をするために、金を集めたい、といったもんだから、やっこさんたちも、一コペイカずつ献金したが、腹の中じゃなんのためやら、さっぱりわかっちゃいないのさ」
「民衆が知らないはずはありませんよ。自分たちの運命を直感する心は、いつも民衆の内部にあるんですから。今おっしゃったような場合には、ひとりでにわかるものですよ」コズヌイシェフは、蜂番の老人を見ながら、断固たる口調でいった。
ところどころ白いものがまじった顎《あご》ひげをたくわえ、銀髪のふさふさした美しい老人は、蜂蜜のはいった鉢《はち》を持ち、背が高いので上から見おろすように、愛想《あいそ》よくおとなしく、だんな方をながめながら、どうやらなにひとつわからず、またわかりたいとも思っていない様子で、じっと突っ立っていた。
「そりゃ、そのとおりでごぜえますとも」この老人はコズヌイシェフの言葉に対して、意味ありげに、頭を振りながら、答えた。
「まあ、ひとつ、このじいさんにきいてごらんなさい。なんにも知らないし、なんにも考えちゃいませんから」リョーヴィンはいった。「なあ、ミハイルイチ、おまえは戦争のことを聞いたかい?」彼はじいさんに話しかけた。「ほら、教会で読んでくれたじゃないか? あれをどう思うね? おれたちはキリスト教徒のために、戦争しなくちゃいけないのかい?」
「わしらが考えるにゃおよばねえですよ? アレクサンドル皇帝さまが、わしらのことを考えてくだせえますだ。皇帝さまはなんでも、ようく考えてくだせえますだ。皇帝さまにゃよくわかってるだよ……もっとパンを持って来ますかね? お坊っちゃんにもっとあげてようごぜえますか?」老人はグリーシャが皮までかじっているのを指さしながら、ドリイに声をかけた。
「ぼくはきくまでもないね」コズヌイシェフはいった。「だって、われわれは、何百、何千という人びとが正義の事業に奉仕するために、すべてを投げうって、ロシアのあらゆるすみずみから集まって来て、端的に明瞭に自分の考えや、目的を表明しているのを見て来たし、いや、現に見ているんだからね。こうした連中はなけなしの金を寄付したり、自分で戦争に出かけたりして、それがなんのためかってことをはっきり表明しているよ。じゃ、この事実は、いったいなにを意味するんだね?」
「つまり、それはぼくにいわせると」リョーヴィンは、はやくも興奮しながら答えた。「そりゃ八千万の民衆の中には、いつだって、その社会的位置を失って、プガチョフの党だろうが、ヒヴァだろうが、セルビアだろうが、どこへでも飛びだして行く無鉄砲な連中が、今のように何百人どころか、何万といるってことですよ……」
「いや、それは何百人どころでもなければ、無鉄砲な連中でもないんだ。それは民衆のすぐれた代表者だと私はいってるんだよ!」コズヌイシェフは、まるで最後の財産でも、守ろうとするような、いらいらした調子でいった。「じゃ、寄付金はどういうことなんだね? いや、この点では、もう民衆のすべてが自己の意志を表明しているんじゃないか」
「その『民衆』という言葉は、まったく漠然としてるんでね」リョーヴィンは答えた。「そりゃ、村役場の書記とか、学校の教師とか、それから百姓の中の千人にひとりくらいは、この問題がなんのことか知っているかもしれませんよ、でも、残りの八千万は、このミハイルイチみたいに、自分の意志を表明しないばかりか、自分の意志を表明すべき事件についてさえ、これっぽっちの観念ももっていないんですからねえ。これを民衆の意志だなんていう権利は、とてもぼくたちにはありませんよ!」
16
討論に経験を積んでいるコズヌイシェフは、それには反駁《はんばく》しないで、すぐさま話をほかのほうへ転じた。
「なるほど、おまえが数学的な方法によって、民衆の精神を知ろうというのなら、もちろん、その目的を達するのは、かなり困難だろうね。なにしろ、わが国には、投票の制度がないし、それを実施するわけにもいかないからね。だって、そんなものじゃ民衆の意志は表明されないからね。しかし、それを知るためには別の方法があるんだ。それは世間の気配でわかるんだ。心によって感じとれるんだよ。民衆のよどんだ海の底を流れている底流、いや、だれでも偏見をもっていない人にははっきりとわかる底流については、私もいまさらいわないが、まあ、狭い意味での社会をちょっとながめてごらん。以前はあれほどいがみあっていたインテリゲンチャの種々雑多な党派が、みんな一つに合流してしまったじゃないか。意見の相違はすっかりなくなってしまって、あらゆる公共機関がまったく同じことをいいだしたじゃないか。だれもかれも自分たちをとらえて、同じ方向へ引っぱって行く自然発生的な力を、直観しているんだよ」
「なるほど、そりゃ新聞はどれもこれも、みんな同じことをいってるさ」公爵が口をはさんだ。「それはそのとおりだよ。いや、あんまり同じことすぎて、まるで、夕立の前の蛙《かえる》みたいなものさ。おかげでなにひとつ聞きとれんよ」
「蛙か蛙でないか――私は新聞を発行していませんから、彼らの弁護はしたくありませんがね。しかし、私が強調しているのは、インテリゲンチャの世界における意見の一致ということだよ」コズヌイシェフは、弟のほうを向いていった。
リョーヴィンがそれに答えようとすると、老公爵がそれをさえぎった。
「いや、その意見の一致ということについても、やはり別のことがいえますよ」公爵はいった。「たとえば、わしの婿のオブロンスキーだがね、ご存じでしょうな。あれが今度ある合同委員会の、わしはよく覚えておらんが、委員になったんですな。ただ、そこじゃなんにもする仕事がないんだよ。――なに、かまわん、ドリイ、これはなにも秘密じゃないんだから――しかも、年俸八千ルーブルだ。そこでためしに、あの男にきいてごらんなさい。その仕事が社会的に有益なものかどうかって、あれはきっと、きわめて重要なものだって断言してみせるでしょうからな。しかも、あれは正直な男ですがね、やはり八千ルーブルのご利益《りやく》は、信じないわけにはいかんのですよ」
「そうそう、私はあの人から就職の話がきまったことを、ドリイさんに伝えてくれと、頼まれたんでしたっけ」コズヌイシェフは公爵が的はずれのことをいっていると思って、不服そうにいった。
「新聞の論調が一致しているのも、これと同じことさ。わしはよく説明してもらったんだが、なんでも、戦争がはじまると、とたんに新聞の収入は、二倍になるそうだよ。だから新聞としては、国民の運命とか、スラヴ民族の運命とか……なんでもそういったものを、勘定に入れないわけにはいかないのさ」
「私もたいていの新聞はきらいですが、しかし、それは少し不公平な見方ですね?」コズヌイシェフはいった。
「わしはただ一つ条件をつけたいですな」公爵はつづけた。「Alphonse Karr が、普仏戦争の前に、こんな名文を書いたことがありますな。『諸君は戦争が絶対に必要だとお考えですか? よろしい。では戦争を主張するものは、先頭の特別部隊に編入して、襲撃にも、突撃にも、全軍の先頭に立たせよう』とね」
「いや、編集者たちは、さぞりっぱにやってのけるでしょうな!」カタワーソフは知合いの編集者たちが、この選抜隊に編入されたところを想像して、大声で笑いながらいった。
「まあ、とんでもない、逃げるのが関の山ですわ」ドリイはいった。「ただじゃまになるだけでしょうよ」
「なに、逃げだしたら、うしろから榴弾《りゅうだん》をくらわすか、コサック兵に鞭《むち》を持たせて、見張らしておけばいいさ」公爵はいった。
「いや、そりゃ冗談です。失礼ですが、公爵、それはよくない冗談ですな」コズヌイシェフはいった。
「ぼくはそれを冗談だとは思いませんね。だって、それは……」リョーヴィンはいいかけたが、コズヌイシェフがそれをさえぎった。
「社会の一員はそれぞれ、自分にふさわしい仕事をする使命をおびているのです」彼はいった。「したがって、思索をする人びとも世論を表明することによって、自分の任務を果しているのです。世論を一つにして、しかもそれを完全に表明するのは、新聞雑誌の功績であるとともに、喜ぶべき現象なのです。これが二十年前だったら、われわれも沈黙していたかもしれませんが、今は迫害されている同胞のために、一個の人間として、立ちあがって、自分を犠牲にしようとしているロシア国民の声が手にとるように聞かれるのです。これは大いなる一歩前進であり、力の証明でもあります」
「しかし、なにもただ犠牲になるばかりじゃなくて、トルコ人を殺すんじゃありませんか」リョーヴィンは、おずおずした調子でいった。「民衆が犠牲になったり、いや、犠牲になる覚悟でいたりするのは、自分の魂の救いのためで、殺人のためじゃありませんからね」彼は、自分の心を占めていた例の思いに、つい話を結びつけながら、つけ足した。
「なに、魂のためだって? こりゃどうも、自然科学者にとっちゃ、厄介な表現ですな。いったいその魂というのはどんなものですか?」カタワーソフは微笑を浮かべながらいった。
「いや、きみはよくご存じじゃないですか!」
「とんでもない、正直のところ、これっぽっちの観念ももっていませんよ」カタワーソフは大声で笑いながら答えた。
「『われは平和にあらずして、剣《つるぎ》を投げこむためにきたれり』とキリストもいってるじゃないか」コズヌイシェフは、福音書のなかでいつもリョーヴィンをもっとも困惑させていたこの一句を、さもわかりきったことのように、さりげなく引用しながら、自分の立場から反駁《はんばく》を試みた。
「そりゃそのとおりでごぜえますとも」そばに立っていた老人は、ふと自分のほうへ投げかけられた視線に答えながら、またこう繰り返した。
「いや、きみ、やられたじゃないか、たしかに、すっかりやられてしまったね!」カタワーソフはさも愉快そうに叫んだ。
リョーヴィンはいまいましさから顔をまっ赤にした。が、それは自分がやられたからではなく、つい我慢できなくて議論をはじめてしまったことに対してであった。
《いや、おれはこの人たちと議論しちゃいけないんだ》彼は考えた。《この人たちは、とても刃のたたないような甲冑《かっちゅう》で身をかためているのに、このおれときたら丸腰なんだから》
リョーヴィンは、兄やカタワーソフを説得することも不可能だが、そうかといって、彼らに同意することはもっと不可能であると見てとった。彼らが説いていることは、危うく彼を破滅させるところだったあの知恵の傲慢《ごうまん》さにほかならなかった。彼は、兄をも含めた数十人の人びとが、両首都へやって来た数百人の口のうまい義勇兵の話したことを基にして、自分たちこそ各新聞とともに、民衆の意志と思想を、それも復讐《ふくしゅう》と殺人とによって表現されている思想を、代表する権利をもっているなどということに、とても同意するわけにはいかなかった。彼がそれに同意できなかったのは、自分もそのひとりである民衆の中に、そうした思想の表現を認めなかったからであり、また自分自身の中にも、そうした思想を見いださなかったからであった(しかも、彼は自分をロシアの民衆を組成している人びとのひとりとして以外には、どうしても考えられなかった)。しかし、なによりもおもな理由は、彼も民衆とともに、公共の福祉とはそもそもなんであるか、ということを知らず、また知ることもできなかったが、この公共の福祉を達成するには、各人に啓示された善の掟《おきて》を、厳格に履行する以外に道のないことを承知しており、したがって、どんな共通の目的があろうとも、彼は戦争を望むわけにいかず、それを宣伝するわけにもいかないからであった。彼はミハイルイチや民衆とともに、ものをいっているのであった。この民衆はワリャーグ人の招待に関する伝説の中に、自分の思想を表明していた。すなわち、『すべからく王となって、われらを治めよ。われらは欣然《きんぜん》として、まったき服従を誓わん。すべての労苦、すべての屈辱、すべての犠牲を、われはこの身に負わん。されど、裁き決するはわれらにあらず』しかし、いまやこの民衆がコズヌイシェフの言葉によると、あれほど高い代価によってあがなわれた権利を放棄しようとしているのであった。
彼はさらに、もし世論というものが神聖侵すべからざる審判者であるならば、なぜ革命やコミューンは、スラヴ救済運動と同じく、合法的なものにならないのであろうか? といいたかった。しかし、これらはすべて、なにものをも解決することのできない思想にすぎなかった。ただ一つ疑いもなくわかっていたことは、現在のところ、この議論はコズヌイシェフをいらだたせているから、これ以上議論するのはよくない、ということであった。そこで、リョーヴィンは口をつぐみ、雨雲がひろがってきたから、雨に会わないうちに帰ったほうがいいと、客たちの注意をうながした。
17
公爵とコズヌイシェフは荷馬車に乗って、帰ってしまった。残りの人たちは足を速めて、徒歩で家路に向った。
しかし、雨雲は白くなったり黒くなったりしながら、見るまに、頭上に迫って来たので、雨にならぬうちに家まで帰り着くには、もっと足を速めなければならなかった。煤《すす》をまぜた煙のようにまっ黒な低くたれこめた先頭の雲は、恐ろしい速さで、空を走っていた。家まであと二百歩ばかりのところで、もう風が起って、今にも驟雨《しゅうう》がやって来そうな気配になった。
子供たちはこわいのとうれしいのとまじりあったような叫び声をあげながら、さきにたって駆けだした。ドリイは、足にまといつくスカートと苦闘しながらも、子供たちからいっときも目を放さずに、もう歩くというよりも駆けだしていた。男たちは帽子をおさえながら、大股《おおまた》で歩いていた。一行がやっと入口の階段のところまで来たとき、いきなり大粒の雨が、鉄樋《てつとい》の端にあたって、飛びちった。子供たちと、それにつづいておとなたちは、にぎやかな話し声をたてながら、屋根びさしの下へ駆けこんだ。
「キチイは?」リョーヴィンは頭《ず》巾《きん》や膝《ひざ》掛《か》けなどを持って、玄関の控室で一行を出迎えたアガーフィヤにたずねた。
「ごいっしょだとばかり思っておりましたが」老婆は答えた。
「じゃ、ミーチャは?」
「たしか、コーロックでございましょう、婆やといっしょに」
リョーヴィンは膝掛けをひったくると、コーロック目ざして駆けだした。
このほんのわずかなあいだに、雨雲はもうその中心で太陽をおおってしまったので、あたりはまるで日食のように暗くなった。風はあくまでおのれを主張するかのように、執拗《しつよう》にリョーヴィンを立ち止らせ、菩《ぼ》提樹《だいじゅ》の葉や花をひきちぎり、白樺《しらかば》の白い枝を醜く異様なまでにあらわにし、アカシヤも、草花も、ごぼうも、雑草も、木々の梢も、なにもかも一様に一方へ押したおそうとするのであった。庭で働いていた女中たちは、金切り声をあげながら、下男部屋のひさしの下へ逃げこんだ。降りそそぐ豪雨の白い帷《とばり》は、はやくも遠くに見える森と、近くの畑の半分をおおって、見るみるうちに、コーロック目ざして迫っていた。細かい雫《しずく》に砕けちる雨の湿気が、大気の中に感じられた。
リョ―ヴィンは頭を前へかがめて、頭巾をむしり取ろうとする風と戦いながら、もうコーロックの近くに駆けつけて、樫《かし》の大木の陰に、なにか白いものを認めたかと思った。が、その瞬間、不意にあたりがぱっと明るくなり、さながら大地が燃えあがって、大空の丸天井が音をたてて張り裂けでもしたかと思われるほどであった。リョーヴィンは一瞬くらまされた目をあけてみて、思わずぞっとした。彼はいまや自分とコーロックを隔てていた厚い雨の帷を透《とお》して、なによりもまず第一に、森のまん中にあったなじみぶかい樫の青々とした頂が、妙にその位置を変えてしまったことに気づいたからであった。《雷にやられたのかな?》リョーヴィンが思う暇もなく、樫の頂は見るみる落下の速度を速めながら、ほかの木立の陰に隠れてしまった。と、ほかの木々の上に倒れかかる巨木の、めりめりという轟音《ごうおん》が耳に達した。
電光と、雷鳴と、冷水を一瞬身に浴びたような感触は、リョーヴィンの中で、恐怖という一つの印象に溶けあってしまった。
「ああ、神さま! どうぞあれたちの上でないように!」彼は口走った。
彼はすぐに、今はもう倒れてしまった樫の木の下敷きに、妻子がならないようにという願いが、どんなに無意味なものかということに気づいたが、この無意味な祈りよりほかになすべきことを知らなかったので、彼はやはりそれを繰り返していた。
彼は妻子がいつもよく行くところまで駆けつけてみたが、そこにはだれもいなかった。
彼らは、森の反対側の端にある菩提樹の老樹の下にいて、彼を呼んでいた。黒っぽい着物(それはさっきまで薄色のものだった)を着た二つの人影が、なにかの上にかがみこむようにして、立っていた。それがキチイと婆やであった。リョーヴィンがふたりのそばへ走り寄ったときには雨はもうやんでいて、空は明るく晴れかかっていた。婆やの着物は、裾《すそ》のほうだけがぬれずにいたが、キチイの着物はずぶぬれで、ぴったりとからだにはりついていた。雨はもうやんでいるのに、ふたりはなおも、雷の落ちたときと同じ姿勢で、立ちすくんでいた。ふたりとも、緑色の幌《ほろ》をかぶせた乳母車の上に、かがみこむようにして、立っていた。
「生きてるんだね! 無事なんだね? ああ、ありがたい!」彼は、水のはいった、脱げそうになる靴で、まだ残っている水たまりの中をびちゃびちゃいわせながら、ふたりのそばへ駆け寄って、行った。
キチイのほのかに赤みのさしたぬれた顔は、彼のほうに向いて、形の変ってしまった帽子の下で、おずおずとほほえんでいた。
「おい、よくもそんなことができたもんだね! よくもそんな不注意なまねができたもんだね、まったくあきれたよ!」彼はいまいましげに妻に食ってかかった。
「いえ、ほんとはあたしが悪いんじゃないのよ。もう帰ろうとしていたとき、この子がだだをこねましてね。おしめを替えてやらなくちゃならなくなったんですの。あたしたちがやっと……」キチイは言いわけをはじめた。
ミーチャは無事で、ぬれもしないで、すやすやと眠りつづけていた。
「いや、まあ、よかった! ぼくは自分でもなにをいっているのかわからないくらいだよ」
ぬれたおしめを集めると、婆やは赤ん坊を乳母車から取りあげて、抱いて歩きだした。リョーヴィンは腹を立てたことをわびるように、婆やの目を盗んで、そっと妻の手を握りしめながら、妻のそばに並んで歩いた。
18
その日は一日じゅう、うわの空でしか仲間入りできないようなきわめて種々雑多な会話をつづけながら、自分の内部にきっと生れるだろうと期待していた変化に幻滅を感じていたにもかかわらず、リョーヴィンはたえず心の充実を知って、喜びを味わわずにはいられなかった。
雨のあとは道があまりぬかっていたので、散歩に出るわけにもいかなかった。そのうえ、雷雲がいつまでも地平線を去らずに、そこかしこ雷鳴をとどろかせたり、黒々と渦巻いたりしながら、天空をさまよっていた。一同はその日の残りを家の中で過した。
議論はもうはじまらなかった。いや、それどころか、晩餐《ばんさん》のあとでは、みんなとても上きげんであった。
カタワーソフは、はじめのうち彼独特のしゃれで、婦人たちを笑わせた。それは、彼とはじめて近づきになった人びとをかならず喜ばせるものであった。しかも、そのあと彼はコズヌイシェフに誘われて、家蠅《いえばえ》の雌雄の性質ばかりか、その外貌《がいぼう》の相違から生態にいたるまで、きわめて興味ぶかい観察を披露した。コズヌイシェフもやはり快活で、お茶のときには弟にけしかけられて、東方問題の将来に関する自分の意見を述べたが、それはとても率直なおもしろいものだったので、みんなは思わず聞き耳をたてたほどであった。
ただキチイひとりは、その話をしまいまで聞くことができなかった。ミーチャにお湯を使わせるからといって、呼びに来られたからであった。
キチイが立ってから四、五分過ぎたとき、リョーヴィンもまた彼女のいる子供部屋に呼ばれた。
飲みかけのお茶をそのままにして、興味ぶかい話が聞けなくなったのを、これまた残念に思いながら、それと同時に、これまでよほど重大なことがなければ呼んだりしなかったので、いったいなにごとが起きたのだろう、と不安の思いにかられて、リョーヴィンは子供部屋へ出かけて行った。
解放された四千万のスラヴ民族の世界は、ロシアとともに、史上に新しい一時代を画するにちがいないという、しまいまで聞けなかったコズヌイシェフの説が、自分にとってまったく目新しいものとして、大いに興味をそそられたにもかかわらず、またなぜ自分を呼んだのだろう、という不安と好奇心とが、胸を騒がせていたにもかかわらず、彼は客間を出てひとりになると、たちまち、けさの自分の考えを思い浮べた。と、世界歴史におけるスラヴ的要素の意義などに関するそんな議論は、自分の心の中で成就されたことに比べて、あまりにも些《さ》細《さい》なものに思われたので、彼は一瞬そんなことはみんな忘れてしまって、けさと同じ気分にひきこまれていった。
彼も今は、以前のように、思索の過程をすべて思い起したのではなかった(そんなことは、彼に不要であった)。彼はいきなり自分をみちびいている、これらの思想と結びつけられていた感情の中へ移って行き、その感情が自分の内部で、以前よりもさらに力強く、明確なものになっているのを発見した。今の彼には、以前ある感情を発見するために、思索の過程をすっかりたどりなおさなくてはならなかったときの、あの無理にこじつけた安心感はなかった。いや、今はその反対に、歓喜と平安の情が前よりも生きいきとしていて、思索が感情に追いつけないありさまであった。
彼はテラスを通って行きながら、もう暗くなりかけた空に現われた二つの星を認めて、ふと思いめぐらした。《そうだ、おれはあの空をながめながら、自分の見ている大空の丸天井はうそではない、などと考えていたんだ。そのとき、おれはまだなにかとことんまで考えないで、なにかしら自分で自分に隠したことがあったようだ!》彼は考えた。《しかし、それがなんであっても、反駁なんてありえないさ。もうちょっと考えたら、なにもかもはっきりするんだから!》
もう子供部屋へはいろうとしているときになって、彼は自分で自分に隠そうとしたものが、なんであったかを思いだした。それはこういうことであった。もし神性のおもな証明が、善は存在するという主《しゅ》の啓示であるとすれば、なぜこの啓示は単にキリスト教会にだけ限られているのか? 同じく善を説き善を行なっている仏教徒や回教徒の信仰は、この啓示に対してどんな関係をもっているのか?
彼はこの疑問に対して、自分が解答をもっているような気がした。しかし、彼はまだ自分自身にはっきりさせる暇もなく、子供部屋へはいってしまった。
キチイは両袖《そで》をたくしあげて、たらいの中でばちゃばちゃやっている赤ん坊の上にかがみこんでいたが、夫の足音を耳にすると、そのほうへ顔を向けて、笑顔で自分のそばへさし招いた。キチイは、湯の中で仰向けになって両足をひろげている、ふっくらした赤ん坊の頭を片手でささえ、もう一方の手で筋肉を一様に緊張させながら、赤ん坊のからだの上で海綿をしぼっていた。
「ほら、ちょっと見てごらんなさいよ、見てごらんなさいよ!」キチイは、夫がそばへ来たとき、いった。「アガーフィヤのいったとおりだわ。ちゃんとわかるのよ」
用事というのは、ミーチャがきょうからはっきりと家じゅうの者の顔を見分けるようになったということであった。
リョーヴィンがたらいに近づくと、さっそくその実験が行われ、しかもそれは見事に成功した。このためにわざわざ呼ばれた台所女が、赤ん坊の上へかがみこむと、赤ん坊は顔をしかめて、いやいやをはじめた。が、キチイがかがみこむと、赤ん坊はさっと笑顔を輝かせ、小さな両手で海綿にしがみついて、キチイや婆やばかりでなく、リョーヴィンさえも、思いがけなく有頂天になるほど、さも満足そうな異様な音をたてて、唇を鳴らすのであった。
赤ん坊は、片手でたらいから取りだされ、あがり湯を浴びせられ、タオルにくるまって、きれいにふかれ、長いこと金切り声をあげたあと、母親の手に渡された。
「まあ、うれしい、あなたがだんだんこの子をかわいがるようになって」キチイは、赤ん坊を胸に抱いて、いつもの場所に落ち着いたとき、夫にいった。「とっても、うれしいわ。だって、もう悲しくなりかけていたんですもの。あなたったら、この子になんの感情もわかないなんておっしゃるんですもの」
「へえ、ぼくがなんの感情もわかないなんて、そんなことをいったかい? ぼくはただ、幻滅を感じた、といっただけだよ」
「まあ、この子に幻滅を感じたんですって?」
「いや、この子にというよりも、むしろ自分の気持に幻滅を感じたのさ。もっと大きな期待をかけていたんでね。ぼくはまるで思いがけない贈り物をもらったみたいに、自分の心の中に今まで知らなかった愉快な感情がぱっと開けてくるのかと期待していたんだよ。ところが、いきなりそのかわりに、いやらしいような、かわいそうな感じがしたんだ……」
キチイは、ミーチャを洗うためにはずした指輪を、かぼそい指にはめながら、赤ん坊ごしに夫のいうことに注意ぶかく耳を傾けていた。
「いや、とにかく、うれしいってことよりも、恐ろしくて、かわいそうな気持がさきになったね。でも、きょうあの雷のときの恐ろしさを味わったら、ぼくは自分がこの子をどんなに愛しているかってことが、やっとわかったのさ」
キチイの顔は、微笑に輝きわたった。
「じゃ、そんなにびっくりなさったの?」キチイはいった。「あたしもよ。でも、あたしはね、もうすんでしまった今のほうが、もっとずっと恐ろしいわ。あとであの樫の木を見に行って来ますわ。それはそうと、あのカタワーソフさんて、とってもいい方ね? それに、なんといっても、きょうは一日じゅうとても楽しかったわ。あなたも、その気におなりになりさえすれば、お兄さまとだってあんなにうまくいくんですもの……さあ、みなさんのところへいらっしゃい。ここはお湯を使わせたあと、いつも湯気でとてもむし暑いんですもの……」
19
リョーヴィンは子供部屋を出て、ひとりきりになると、たちまち、なにやらはっきりしない例の考えを、再び思い起した。
彼は、話し声の聞える客間へ行かずに、テラスに立ち止ると、手すりに肘《ひじ》をつきながら、空をながめはじめた。
もうあたりはすっかり暗くなっていた。彼のながめていた南の空にも、もう雨雲はなかった。雨雲は反対側に群がっていた。そちらのほうからはときどき稲妻《いなずま》がひらめき、遠雷が聞えた。リョーヴィンは、庭の菩提樹から規則正しく落ちる雫《しずく》の音に耳を傾けながら、なじみぶかい三角形の星座と、そのまん中を通っている、銀河とその多くの支流をながめていた。稲妻がひらめくたびに、銀河ばかりか、明るい星までがその光に消えてしまったが、稲妻がやむと、まるでねらいの狂わぬ手で投げ返されでもするかのように、またもとの場所に現われるのであった。
《さあ、おれはいったいなにを困惑しているんだろう?》リョーヴィンは、まだよくわからないながらも、自分の疑いの解決は、もう心の中にできあがっていることを予感しながら、ひとりでつぶやいた。《そうだ、神性に関する明白な疑う余地のない発顕は――全世界に啓示されている善の掟なのだ。それをおれは自分の心の中に感じている。いや、それを認めることによって、おれはほかの人びとといっしょに、教会と呼ばれる信者の仲間に結合している、というよりも、むしろ否応《いやおう》なしに、結合させられているのだ。それじゃ、ユダヤ教徒や、回教徒や、儒教徒や、仏教徒などは、いったいどういうんだろう?》彼は、われながら危険に思われる、ほかならぬこの疑問を、自分に発してみた。《ほんとにこれら何億という人びとは、それなくしては生の意義もなくなるような至福を、奪われているのだろうか?》彼はじっと考えこんだが、すぐに自分の考えを訂正した。《それにしても、おれはなにをたずねているんだろう?》彼は心の中でつぶやいた。《おれは人類全体の、ありとあらゆる信仰が、神に対してどんな関係をもっているのか、たずねているんじゃないか。こんなあいまいな点をもった世界全体のために、神がどのように発顕するかをたずねているんじゃないか。いったい、おれはなにをしているんだろう? おれ個人には、おれの心には、理性では理解しがたい知識が疑いもなく啓示されているのに、おれはまだ執《しつ》拗《よう》にこの知識を、理性や言葉で表現しようと望んでいるのだ。
そりゃおれだって、星が運行するのではないことは、ちゃんと知っている》彼は白樺の上枝のほうへはやくも位置を変えた、明るい遊星をながめながら、自問した。《しかし、おれは星の運行を見ていると、地球の自転なんてとても想像できない。だから、おれが星は運行するといっても、それはまちがいじゃないんだ。
もし天文学者たちが、地球の複雑多様な動きをすべてその計算に入れたら、はたしてなにものかを理解し算定することができるだろうか? 天体の距離や、重量や、運行や、摂動などに関する彼らの驚くべき結論は、すべてただ不動の地球のまわりを動いている発光体の目に映る運動にその基礎をおいているのだ。その運動は、現におれの目の前にあり、これまで何世紀にもわたって、幾百万の人びとの目に同じように映ったのであり、それはつねに同一であったし、これからも同一であろうし、つねに同一なものとして信じられていくであろう。したがって、単一の子午線や地平線に対する関係において、目に見える天空の観察に基礎をおかない天文学者の結論が、空疎であり不安定であるのと同様、おれの結論もまた、万人のためにつねに同一であり、将来もまた同一であろう善の解釈――キリスト教によっておれに啓示され、つねにおれの心の中で信奉されうるであろう善の解釈に基礎をおかなかったら、空疎で不安定なものになるにちがいないのだ。ほかの宗教やその宗教の神に対する関係などについては、おれが決定する権利もなければ、またそんな可能性もないんだ》
「あら、まだいらっしゃらなかったの?」同じ道を通って客間へ行こうとしていたキチイの声が、不意に耳にはいった。「どうなさったの、なにかいやなことでもおありになるんですの?」キチイは、星明りで夫の顔をじっとのぞきこみながら、いった。
しかし、そのとき稲妻が再び、星の光を隠して、彼を照らさなかったら、キチイはとても夫の顔をはっきり見分けることはできなかったであろう。稲妻の光で夫の顔つきをはっきり見きわめて、夫が落ち着いたうれしそうな顔をしているのを見てとると、彼女はにっこり笑った。
《これにはわかっているんだな》彼は考えた。《おれがなにを考えているのか、ちゃんと知っているんだ。これに話してしまおうか、どうしようか? そうだ、話してしまおう》が、彼が話しかけようとしたとき、キチイもやはり口をひらいた。
「あら、そうだわ、コスチャ、お願いだから」キチイはいった。「ねえ、あの角《かど》のお部屋へ行って、コズヌイシェフさんのお休みのしたくが、もうちゃんとできているかどうか、見て来てくださいな。あたしじゃまずいでしょ。新しい洗面台を持って行ってあるかしら?」
「ああ、いいとも。まちがいなく行ってみるよ」リョーヴィンは立ちあがって、妻に接吻《せっぷん》しながら、いった。
《なに、いう必要はないさ》彼は、妻がさきにたって歩きだしたとき、考えた。《これは秘密なんだ。それも、おれひとりだけに必要で、重大な、とても言葉では表わすことのできないものなんだ。
この新しい感情は、おれが空想していたように、急におれを変えてもくれないし、幸福にもしてくれず、そうかといって、心の内部を照らしてもくれなかった。まったくあのミーチャに対する感情とそっくりだ。やっぱり、思いがけない贈り物はなかったわけだ。これが信仰か、信仰でないかは、おれにもわからないが、しかしこの感情は、やっぱり知らずしらずのうちに、苦しみといっしょに、おれの魂の中へはいりこんできて、そこにしっかり根をおろしてしまったんだ。これからもおれは相変らず、御者のイワンに腹を立てたり、相変らず、議論をしたり、とんでもないときに自分の思想を表明したりするだろう。いや、相変らず、おれの魂の聖なるものと他人の魂とのあいだには、たとえそれが妻の魂であっても、きっと、壁があるだろう。そして相変らず、おれは自分の恐怖のために妻を責めたり、すぐまたそれを後悔したりするだろう。いや、相変らず、自分がなんのために祈るかわからないまま、祈りつづけていくだろう――しかしいまやこのおれの生活は、おれの生活全体は、おれにどんなことが起ろうといっさいおかまいなしに、その一分一分が、以前のように無意味でないばかりか、疑いもなく善の意義をもっていて、おれはそれを自分の生活に与えることができるのだ!》
解説
トルストイ 人と作品
レフ・トルストイは、その同時代人たるドストエフスキーと並んで、十九世紀ロシア文学を代表する作家であるばかりでなく、世界文学のなかにあってもきわめて大きな存在であることは、いまさら改めて強調するまでもあるまい。とくに、トルストイの場合は、単に一個の作家としてばかりでなく、現代文明のきびしい批判者、あるいは人生の教師として世界の思想界に大きな影響を与えて、今日に及んでいる。その八十二年にわたる波《は》瀾《らん》にとんだ生涯において彼の創造した芸術的遺産は、たとえ彼自身が晩年になってその価値を否定したとはいえ、現代においても少しも色あせることなく、かえって時代とともに常に新しい評価を要求しているかにみえる。
レフ・ニコラエヴィチ・トルストイは、中央ロシアのトゥーラ市南方約十五キロにあるヤースナヤ・ポリャーナにおいて、一八二八年八月二十八日、ニコライ・イリイッチ・トルストイ伯爵の四男として誕生した。父親ニコライは一八一二年のナポレオン戦争に参加した退役の陸軍中佐であり、母親マリアはロシア屈指の名門ヴォルコンスキー公爵家の一人娘である。この結婚は、金持の娘といっしょになることによってわが家の再興を計ったニコライの一種の政略結婚であった。結婚後、二人は妻の領地たるヤースナヤ・ポリャーナに移り住み、ニコライの母親のほか、妹および遠縁のタチヤーナ・エルゴーリスカヤもともに暮すこととなった。ヤースナヤ・ポリャーナとは、ロシア語で「森の中の明るい草地」を意味しており、文字どおり、豊かなロシアの森にかこまれた広壮な地主屋敷であった。そこで過されたトルストイの幼年時代はきわめて恵まれたものであったが、それと同時に彼は肉親の死というきびしい人生の試練をはやくも経験している。母親マリヤを一歳半で、父親ニコライを九歳のときに失ったからである。その後はタチヤーナ・エルゴーリスカヤが母親がわりをつとめて、五人の子供たちを養育した。トルストイにはニコライ、セルゲイ、ドミートリイという三人の兄と、妹マリヤがあった。首都を遠くはなれたヤースナヤ・ポリャーナでの田園生活は、後年トルストイがみずから「私は百姓たちに肉体的な愛情をおぼえる」と告白するにいたった素地をつくった。彼はヤースナヤ・ポリャーナを熱愛し、長ずるに及んではその希望によって遺産として受継いだため、八十二年にわたる全生涯を通じてこの領地と密接に結びついている。この間の事情を彼は「ヤースナヤ・ポリャーナなしに、私はロシアとロシアに対する私の気持を表現することはできない」と語っているほどである。
十六歳になったトルストイは二人の兄が学んでいたカザン大学の東洋語学科へ入学したが、翌年には進級試験に落ち、法科へ転じたものの、結局、二年足らずで大学を中退してしまった。後年、教育事業にあれほど熱心だったトルストイも、彼自身の受けた正規の教育はこれだけだったのである。
一八四七年の春、十九歳のトルストイは遺産分配によってヤースナヤ・ポリャーナの正式な主人となり、農奴たちの生活改善に乗りだしたが、それはみじめな失敗に終った。世間知らずの理想主義者の敗北であった。この反動もあってか、彼はその後モスクワとペテルブルグにおいて放蕩《ほうとう》無《ぶ》頼《らい》の生活にのめりこんでいった。
しかし、一八五一年の春、コーカサスの砲兵旅団にいた長兄ニコライが休暇で帰省し、弟レフを任地へ連れて帰ることになり、未来の文豪はコーカサスの雄大な自然のなかで文学開眼《かいげん》の機会に恵まれることとなった。彼がそこで一気に書きあげた『幼年時代』は一八五二年九月ネクラーソフの編集する『現代人』誌上に発表され、彼はたちまち新進作家としての名声を博した。
一八五六年の十一月、トルストイは軍務を退き、ヨーロッパを歴訪した後、ヤースナヤ・ポリャーナに居を定めて、創作に打ちこむかたわら、農事経営にも積極的に乗りだしていった。一八六一年五月、彼は詩人フェートの邸《やしき》で先輩作家ツルゲーネフと慈善の偽善性をめぐって激論をたたかわせ、ついに絶交した。以来、二人が和解するまでに十七年もかかった。ツルゲーネフはトルストイが文壇へ登場して以来の先輩作家であり、その二日前には書きあげたばかりの『父と子』を彼のために朗読してくれたほどの仲であった。だが、この事件にもすでに後年のトルストイの〈素顔〉がのぞいているようにみえる。
この事件の翌年、三十四歳になったトルストイは、宮廷医ベルスの娘たる十八歳のソフィヤ・アンドレーエヴナと結婚した。この結婚は、「結婚生活の幸福が私を呑《の》みつくしている」と彼が告白したほど恵まれた出発であり、そのような環境のなかで最初の長編『戦争と平和』(一八六四―六九年)が完成する。さらに、その四年後(一八七三年)には『アンナ・カレーニナ』の執筆に着手、五年の歳月をかけて自己の芸術的頂点を示した。もっともこの間にトルストイは愛する二人の幼ない子供と母親がわりのタチヤーナ・エルゴーリスカヤおよびユシコーフ夫人を失い、〈死〉という深刻な人生の苦悩を味わっている。彼はときには自殺の誘惑にまで駆られながら、次第に素朴な民衆の生き方に、原始キリスト教的なトルストイ独特の宗教に救いを見いだしていった。
一八八二年、トルストイは『懺《ざん》悔《げ》』を発表、それまでの自分の生き方をきびしく批判した。その後は、『要約福音書』(一八八一年)『わが信仰はいずこにありや』(一八八四年)『さらば、われら何をなすべきか』(一八八五年)等々の宗教論文、『イワンのばか』(一八八五年)に代表される一連の民話を書き、「神と人類への奉仕に専念する」求《ぐ》道者《どうしゃ》としての生活をおくった。もっともその後も『イワン・イリイッチの死』(一八八六年)『クロイツェル・ソナタ』(一八八九年)などトルストイ主義的な色彩はあっても、純然たる文学作品も書いた。しかし、『懺悔』発表後は一般に「トルストイ主義」の名で呼ばれている思想に忠実に生き、一八九八年に書いた『芸術とは何か』では転向前の自己の作品をも含む、世界の大文学を否定するなど極端な芸術観を展開した。だが、一八九九年には、カナダに移住した聖霊否定派教徒の援助資金をつくるため、最後の長編『復活』を完成、その衰えぬ作家的情熱を証明した。しかし、晩年のトルストイはその輝かしい世界的名声と業績にもかかわらず、求道者としての自己矛盾とソフィヤ夫人との家庭的葛藤《かっとう》に悩まされた。そしてついに一九一○年十月二十九日「残された人生の最後の日々を孤独と安らぎのなかに生きるため」ヤースナヤ・ポリャーナの屋敷をあとにした。前日の日記の一節に「(妻に対する)嫌《けん》悪《お》と憤激の情ますますつのり、息苦しくなる。脈を計れば九十七なり。もはや横たわっておられず、突如として家出の決意をかたむ」と記《しる》されている。だが、数日後にははやくも急性肺炎にかかり、リャザン・ウラル鉄道の小駅アスターポヴォ駅(現「レフ・トルストイ駅」)の駅長官舎において、八十二年の長い生涯を閉じた。遺《い》骸《がい》は翌々日ヤースナヤ・ポリャーナへ運ばれ、邸内の美しい森かげへ葬られた。遺言どおり、そこには一本の墓標もなく、ロシアの大地の生んだ巨人は、自然の土におおわれて、永遠の眠りについたのであった。
『アンナ・カレーニナ』について
『アンナ・カレーニナ』はトルストイの数多くの作品のなかでも最も広く諸外国で愛読されている作品である。その評価についてもドストエフスキーは「『アンナ・カレーニナ』は文学作品として完璧《かんぺき》なものであり、現代ヨーロッパ文学のなかに比肩するものを見ない」とまで激賞しているし、トーマス・マンも「すこしもむだのない、全体の構図も、細部の仕上げも、一点非の打ちどころのない作品」と最大級の讃《さん》辞《じ》を呈している。さらに、このロマンの愛読者であったレーニンは「トルストイは『アンナ・カレーニナ』のなかでリョーヴィンの口をかりてこの半世紀におけるロシア史の峠がどこにあったかをきわめて明白に表現した」と政治的な立場からの評価をも与えている。いずれにしても、『アンナ・カレーニナ』は文豪トルストイがその円熟期に五カ年の歳月と全精力を傾注して描きあげた作品であり、今後とも永く世界文学の上に君臨する不滅の傑作といえるだろう。
《創作過程》 トルストイが『アンナ・カレーニナ』の構想をえたのは実際の執筆に先だつ約三年前のことである。ソフィヤ夫人は一八七○年二月二十三日の日記に「昨晩、夫は上流社会出身の人妻で道をあやまった婦人のタイプについてある構想が浮んだと語った。夫の語るところによると、夫はその婦人をただ哀れな罪のないものとして描きたいとのことで、その婦人のタイプが浮ぶにつれて、それまでに考えていたさまざまな人物や男性のタイプがたちどころにところをえて、その婦人のまわりを取りまいたということだ」と記している。これは明らかに『アンナ・カレーニナ』を暗示するものであるが、トルストイはすぐには執筆にかからなかった。その後、一八七二年一月、ヤースナヤ・ポリャーナ近くのヤーセンキ駅で一人の婦人が貨車にとびこんで自殺するという事件が起きた。このアンナ・ステパーノヴナ・ピロゴヴァという婦人は、ヤースナヤ・ポリャーナの隣の地主ビビコフの内妻で、情夫である地主が息子の女家庭教師に結婚を申し込んだことを嫉妬《しっと》して自殺したのであった。このとき、トルストイはヤーセンキ駅の検《けん》屍《し》に立ち会っている。秘かにロマンの想を練っていたトルストイにとって、その無惨な屍体を目撃したことは、大きなショックであったにちがいない。この事件は、結果的にはオブロンスキー家での家庭教師の一件と、アンナという名前と、その鉄道自殺のくだり(とくにアンナの屍体の描写)にしか反映していないが、いずれも重要な要素である。さらに、その翌年の三月一日、トルストイはクズミンスキー夫人あての手紙に「あなたは『男・女』"L'homme-femme" をお読みになりましたか。私はこの本にうたれました。結婚というものについて、これ以上深い理解をフランス人から期待することはできません」と書きおくっている。これは『椿姫《つばきひめ》』の作家アレクサンドル・デュマが、夫を裏切った女にはいかに対処すべきか――相手を殺すべきか、それとも赦《ゆる》すべきか、といった問題を論じた論文にふれて書いているのである。デュマはこの論文を発表したあと、戯曲『クロード夫人』を書き、自分を裏切った妻を殺す夫を描いている。トルストイはこの論文に並々ならぬ関心を示し、はじめは作品のなかにもこの論文をめぐる論争を挿入しようと考えたほどであった。だが、最終的には、道をあやまった女を罰するのは人間ではなく、神のなすべきことであるという立場に立って、このロマンのエピグラムとして「復讐《ふくしゅう》はわれにまかせよ、われに仇《あだ》をかえさん」という聖句をかかげたのだと考えられている。この聖句は旧約の申命《しんめい》記《き》三二章三五節(わたしはあだを返し、報いをするであろう)新約の「ローマ人への手紙」一二章一九節(復讐はわたしのすることである。わたし自身が報復する)「ヘブル人への手紙」一○章三○節(復讐はわたしのすることである。わたし自身が報復する)等々に見られるが、原文は教会スラヴ語であり、日本語の口語訳聖書の文章は荘重さに欠けるうらみがあるので、原語を尊重して訳者なりの訳をつけたことをお断わりしておく。もっともこの聖句は、単に女主人公アンナにむけられたものではなく、なによりもまずロマンに描かれている上流社会全体にむけられたものであり、道徳の法則を破壊するものは罰しなくてはならぬという作者トルストイの思想をあらわしたものとする考え方もある。いやこう考えるほうがより幅の広い解釈といえるだろう。
一八七三年三月十八日、トルストイは偶然のことからプーシキンの『ベールキン物語』や未完の小説のはいっている作品集を読み、「私はプーシキンに多くのものを学んでいる。彼こそ私の父親だ。彼に学ばなければならない」と語った。しかもその翌日、ソフィヤ夫人はクズミンスキー夫人あてに「きのうリョーヴォチカ(トルストイ)は急に思いがけなく現代生活を扱ったロマンを書きはじめました。ロマンのテーマは――不実な妻とそれから起るいっさいの悲劇《ドラマ》です」と伝えている。こうしてトルストイはプーシキンの作品を読んだことがきっかけとなって、長いこと秘かに温《あたた》めてきたテーマの執筆に踏みきったのである。しかし、この仕事は彼一流のたびかさなる推敲《すいこう》と新しい筋の展開への誘惑によって、なかなかはかどらなかった。最初の腹案では現在のようにリョーヴィンもキチイも登場していないし、アンナ、カレーニン、ヴロンスキーらの関係も、その名前すら違っていた。いや、ロマンの題名そのものも、『しっかり《モロジエーツ》した女《・バーバ》』『二つの結婚』『二組の夫婦』とつぎつぎに変って、ようやく最後に現在の『アンナ・カレーニナ』に落着いたのである。とくに文章に凝るトルストイはこのロマンの書きだしには十七回も書きなおしたといわれている。全般的にいっても十二回にわたる改作の末、五年の歳月をかけてようやく完成することができたのであり、芸術的完成度という点からみても、文句なく、トルストイの最高傑作となった。
《ロマンの主題》 このロマンの主題を一言にしていえば、もちろん、道ならぬ恋におちた美《び》貌《ぼう》の人妻アンナをめぐる一八七○年代のロシア社会の種々相といえるだろう。だが、なんといってもこのロマンの最も大きな魅力は女主人公アンナの不滅の形象にあるといわねばなるまい。トルストイは数多くの女性像を創造したが、アンナ・カレーニナほどの魅惑的な女性はほかに見当らない。作者が何度も題名を変えた末、最後に『アンナ・カレーニナ』と決定した背後には、アンナに対する作者の異常な愛情があったからではなかろうか。アンナこそ作者が全心全霊をもって創《つく》りあげた一種の理想の女性像なのである。もっとも彼女は決していわゆる外形的な美人ではない。アンナは女らしい優しい魅力と豊かな精神力にみちあふれている。それはヴロンスキーがアンナにはじめて会ったときの印象に早くもあらわれているし、アンナが旅先のイタリアで肖像画を描いてもらったときも、ヴロンスキーはそこに表われている彼女の「美しい精神的な表情」におどろいている。この肖像画の前に立ったリョーヴィンはその息をのむような美しさに魅せられ、「それが生ける女ではないという証拠としては、ただそれが現実の女としてありえないほど美しいということだけであった」と書かれている。ロマン全体を通じてリョーヴィンがアンナに出会うのはこのとき一度きりであるが、彼は変化に富んだ美しいアンナの顔の表情を眺《なが》めながら、心のなかで《まったく、これこそほんとうの女というものだ!》と感嘆の叫びを発するのである。いや、そればかりではない。彼は「さらに新しい特徴をひとつ見つけた。アンナには知性と優雅さと美《び》貌《ぼう》のほかに、誠実さがあったのである」と指摘している。この指摘はアンナの恋人ヴロンスキーではなく、彼女に対して批判的でさえあったリョーヴィンによって行われていることも注目に値する。さらに、アンナはドリイの子供たちからも愛されている。これはアンナの人のよさを証明するものであろう。だが、このように優《すぐ》れた女性であるアンナも、虚偽と欺《ぎ》瞞《まん》にこりかたまった上流社会にあっては、とくにその真実の愛情のない結婚生活にあっては、おのれの感情に誠実であるためにはかえって苦しい闘《たたか》いを挑《いど》まなければならなかったのである。したがって、アンナの悲劇は、夫に対するおのが罪に苦しむ不貞の妻のそれではなく、その恐ろしいまでの孤独な闘いであったといえるのではなかろうか。
いずれにしても作者トルストイは、このロマンをアンナひとりの悲恋にしぼることなく、アンナとヴロンスキーの報われぬ激しい恋に対して、リョーヴィンとキチイとの幸《しあわ》せな結婚を配し、それによって虚偽にみちた上流社会の都会生活と地方地主の明るい田園生活を対比している。すなわち、アンナとヴロンスキーの道ならぬ苦悩にみちた痛ましい恋が激しくすすむにつれて、一方ではリョーヴィンとキチイとの、結婚にいたる万人に祝福された愛の調べが穏やかに奏《かな》でられていく。この二組の、まったく異質な情熱の調べは、オブロンスキー夫妻という存在によって互いに関連しあいながら、全体として一つの統一された緊張した世界を形づくっている。こうして作者はこのロマンの世界をペテルブルグ、モスクワ、農村、外国の四つの舞台にくりひろげ、当時のロシア社会のあらゆる問題を捉《とら》えながら、家庭的・心理的であると同時に、社会的なロマンを完成させたのである。
《手法と描写》 トルストイはこのロマンにおいてロシア語の作家としての可能性を最大限に追究している。そのために彼はダーリのロシア語辞典や古代ロシアのブイリーナ(叙事詩)を読破したり、ロシア語にとって独特な接頭辞や接尾辞の研究にまで打ちこんだといわれている。また、人間心理の微妙なニュアンスを、その人間を取りまく自然描写によって暗示する手法を駆使したり、人体の一切の秘密を熟知し、心理的な動きを肉体的な運動で表現するという天賦の才を発揮している。そのたくましい生命力は、ときには動物的感覚における異常な鋭敏性となってあらわれ、動・植物の描写において他の作家にみられぬ新鮮な色彩を発見している。さらに、百五十人にも及ぶ登場人物の会話においても、とくにその社会的集団や階層の言語の特殊性に細かい注意が払われている。
《モデルについて》 アンナ・カレーニナの外形的なモデルとしては、詩人プーシキンの娘マリヤ・ガルトゥング夫人が知られている。母親ゆずりのその美貌は、油絵の肖像画で見るかぎり細面のかなり冷たい感じの美女である。トルストイはトゥーラの知人宅で偶然このガルトゥング夫人に会い、その恐ろしいまでの美貌にうたれたという。ヴロンスキーについては一定の実在した人物の名前は明らかにされていない。だが、コーカサスでの軍隊生活の経験のあるトルストイにとってこの種のタイプの青年士官はきわめて身近な存在であったように思われる。カレーニンについては遠縁に当る国有財産省に勤務していたイスラーヴィンという人物が伝えられている。リョーヴィンがトルストイの分身であることはロマンに使用されている数々のエピソードが証明しているが、これも限定された意味においてである。なお、リョーヴィンはこれまでわが国ではレーヴィンと訳されてきた。訳者も以前はレーヴィンで通したが、モスクワのトルストイ博物館のA・シフマン博士の教示により今後はリョーヴィンとすることにした。理由は生前のトルストイが自分の名前レフ(Lev)をリョーフ(L宋)と呼び、それから派生した名前としてみずからリョーヴィン(L宋in)と呼んでいたという事実によるものである。先年ザルヒ監督、サモイロヴァ主演で撮《と》られたソヴェト映画『アンナ・カレーニナ』においても、トルストイ学者らの考証によって、俳優たちはリョーヴィンと発音している。この点、奇異に思われる読者もいるかと思い、一言お断りしておく。
キチイはふつうソフィヤ夫人を原型としたものと考えられているが、一部のエピソードを除いてはリョーヴィンが作者の分身と考えられているほどには似ていないようにみえる。むしろ、ドリイのなかに結婚後のソフィヤ夫人の面影を見いだすほうが容易であろう。オブロンスキーについては遠縁に当るモスクワ県知事ペルフィエフという人物が伝えられている。
最後に、『アンナ・カレーニナ』は今後とも全世界の人びとに永く愛読されていくであろうが、その秘密をチェーホフは次のように語っている。「『アンナ・カレーニナ』には問題は一つとして解決されていませんが、すべての問題がそのなかに正確に述べられているために、読者を完全に満足させるのです。問題を正確に呈示するのが裁判官の役目であって、その解答は陪審員たちが、自分自身の光に照らして取出さなけれはならないのです」したがってこのロマンを読む人びとはここに描かれているあらゆる問題に対して、それぞれ自分自身の光を照らして、その解答を見いださなければならないのであり、そこにこのロマンの尽きせぬ魅力と不滅の生命力があるといえるだろう。約百年前に書かれたこのロマンが、少しも色あせることなく、今なおわれわれに新鮮で身近な存在であるのもこのためである。
翻訳に使用したテキストは一九五九年ソ連国立文学出版所版トルストイ十二巻選集の八、九巻であるが、随時、革命前の豪華本その他を参照した。また、この解説および年譜の日付はすべて旧ロシア暦によっており、新暦になおすには十九世紀の場合は十二日、二十世紀の場合は十三日を加えればよい。
一九七一年秋
木村 浩
年譜
一八二八年(文政十一年) 八月二十八日(新暦八月三十日)トゥーラ県クラピヴェンスク郡ヤースナヤ・ポリャーナに、ニコライ・イリイッチ・トルストイ伯爵の四男として生れる。
一八三○年(天保元年)二歳 八月四日、母マリヤ・ニコラーエヴナ、娘マリヤの出産がもとで死去。
一八三七年(天保八年)九歳 六月二十一日、父ニコライ、トゥーラのチェミャーシェフ家近くの路上で脳溢血《のういっけつ》のため急死。五人の子供たちは、父方の叔母アレクサンドラ・オステン = サケン伯爵夫人に養われる、この年、プーシキン、決闘にて死す。
一八四○年(天保十一年)十二歳 一月十二日、現存する最初の詩『優しい叔母さんへ』を書く。
一八四一年(天保十二年)十三歳 後見人のオステン = サケン夫人が死去したため、十一月、父方の叔母ペラゲーヤ・ユシコーフ夫人のカザンの家へ引きとられる。兄ニコライ、カザン大学へ入学。
一八四四年(弘化元年)十六歳 九月、カザン大学東洋語学科(アラブ・トルコ語専攻)へ入学。
一八四七年(弘化四年)十九歳 四月、カザン大学を「健康と家庭の事情により」中途退学。ヤースナヤ・ポリャーナへ戻り、農奴たちの生活改善をめざして働いたが、失敗に終る。
一八四八年(嘉永元年)二十歳 十月、モスクワへ上京、「勤めもせず、勉強もせず、目的も持たず、まったく放縦に」暮す。
一八四九年(嘉永二年)二十一歳 二月、ペテルブルグへ移り、なおも放縦な生活を続けたが、五月、ヤースナヤ・ポリャーナに帰り、農民の子弟のために学校を開く。トゥーラ貴族代議員会へ就職。
一八五一年(嘉永四年)二十三歳 一月、『幼年時代』の構想うかぶ。四月、兄ニコライとコーカサスに向けて発《た》つ。
一八五二年(嘉永五年)二十四歳 一月、コーカサス砲兵旅団へ士官候補生として編入される。六月、『幼年時代』を脱稿、「現代人」誌へ送付。九月、同誌主筆ネクラーソフより手紙をもらい、「現代人」誌九号に「エル・エヌ」の匿名にて発表される。
一八五三年(嘉永六年)二十五歳 一月、チェチェネツ人討伐に参加。
一八五五年(安政二年)二十七歳 クリミヤ各地で転戦。二月十八日、ニコライ一世死去。三月、『青年時代』起稿。十一月、ペテルブルグへ帰還。
『ゲーム取りの手記』『一八五四年十二月のセヴァストーポリ』『森林伐採』
一八五六年(安政三年)二十八歳 一月、ドストエフスキー、詩人マイコフあての手紙の中でトルストイの作品を賞讃する。三月、露土戦争の平和締結なって、十一月に軍務を退く。
『吹雪《ふぶき》』『二人の驃騎兵《ひょうきへい》』『地主の朝』『陣中の邂逅《かいこう》』
一八五七年(安政四年)二十九歳 一月、ヨーロッパ歴訪の旅に発《た》つ。四月、パリで死刑執行を目撃し、深刻な印象をうける。
『リュツェルン』『アリベルト』『青年時代』
一八五八年(安政五年)三十歳 夏、農業に熱中し、その中に「詩的な楽しみ」を見いだす。十二月、熊狩りで、終生消えぬ傷を受ける。
『三つの死』
一八五九年(安政六年)三十一歳 二月、ロシア文学愛好会会員となる。
『家庭の幸福』
一八六○年(万延元年)三十二歳 七月、兄ニコライの見舞いのためドイツへ発つ。九月、兄ニコライ死去。葬式のとき、唯物論者としてのキリストの伝記を書くことを思い立つ。『国民教育論』起稿。
一八六一年(文久元年)三十三歳 イタリア、フランス、イギリス、ベルギーを歴訪。亡命中のゲルツェンに会う。五月、ヤースナヤ・ポリャーナへ帰還。五月末、詩人フェート家にてツルゲーネフと慈善事業の偽善性をめぐって大げんかし、二人の永い不和がはじまる。
一八六二年(文久二年)三十四歳 九月、宮廷医ベルスの娘ソフィア・アンドレーエヴナ十八歳と結婚。
『国民教育論』
一八六三年(文久三年)三十五歳 幸福な結婚生活の中で創作に没頭。秋、『戦争と平和』の構想めばえる。
『コサック』『ポリクーシカ』
一八六四年(元治元年)三十六歳 九月、ステルロフスキー社より二巻選集発刊。『戦争と平和』(最初の部分は『一八○五年』として翌年一月、「ロシア報知」誌に発表)起稿。
一八六六年(慶応二年)三十八歳 『戦争と平和』の執筆に専念。泥酔して隊長を殴打せるかどによって死刑を宣告された兵卒シャブーニンの弁護人となるも、シャブーニン死刑となり、死刑廃止の思想強まる。
一八六九年(明治二年)四十二歳 カントおよびショーペンハウエルの著作に感銘をうける。十二月、『戦争と平和』全十六巻完結す。
一八七三年(明治六年)四十五歳 三月、『アンナ・カレーニナ』起稿。十二月、アカデミー会員となる。
『トルストイ著作集』全八巻
一八七五年(明治八年)四十七歳 一月、『アンナ・カレーニナ』が「ロシア報知」誌上に発表されはじめる。この年、二人の幼児ニコライ、ワルワーラおよび叔母ユシコーフ夫人、相ついで死亡。
一八七七年(明治十年)四十九歳 四月、ストラーホフへ手紙を書き、『アンナ・カレーニナ』は完成し、あとは手をいれるばかりだと報ずる。
『アンナ・カレーニナ』初版
一八七八年(明治十一年)五十歳 ニコライ一世および十二月党事件に関する資料の研究をはじめる。ツルゲーネフ、ヤースナヤ・ポリャーナを訪ね、和解が成立。『懺《ざん》悔《げ》』起稿。
『最初の記憶』
一八八○年(明治十三年)五十二歳 宗教的探求心つのり、新しい観点からの福音書研究はじまる。
『教義神学批判』
一八八一年(明治十四年)五十三歳 三月一日、アレクサンドル二世暗殺さる。二日、ドストエフスキーの死(一月二十八日)を知り、驚く。暗殺参加者の助命をアレクサンドル三世へ願い出たが、いれられない。
『人は何によって生きるか』『要約福音書』
一八八二年(明治十五年)五十四歳 一月、モスクワの民勢調査に参加、都市プロレタリアの悲惨な実状にふれ、ますます宗教的傾向強まる。ストラーホフあての手紙に「ひどく疲れてときどき死にたくなる」と告白。パリに病むツルゲーネフへ見舞いの手紙を書く。
『懺悔』『悪に酬《むく》ゆるに悪をもってするなかれ』『教会と国家』
一八八三年(明治十六年)五十五歳 六月十日、文学復帰を呼びかけたツルゲーネフの死の床からの手紙を受け取る。八月二十二日、ツルゲーネフ死去。ツルゲーネフの作品を耽《たん》読《どく》、ソフィヤ夫人あてに「私はいつもツルゲーネフと暮らしている」と書く。宗教的信念から陪審員を辞す。
一八八四年(明治十七年)五十六歳 孔子および老子を読む。聖書をヘブライ語の原典で読む。六月十七日、家出をするが、身重の妻を思いだし、引き返す。十八日、末娘アレクサンドラ誕生。
『わが信仰はいずこにありや』
一八八五年(明治十八年)五十七歳 ヘンリー・ジョージの『進歩と貧困』を読み、大いに共鳴する。十二月、妻との不和ますます増大し、死の誘惑強まる。著作権を妻に譲る。
『さらば、われら何をなすべきか』『愛あるところ神あり』『イワンのばか』『二人の老人』ソフィヤ夫人編『トルストイ著作集』全十二巻
一八八六年(明治十九年)五十八歳 八月、農作業中に荷車から落ちて、二カ月あまり病床につく。
『イワン・イリイッチの死』『闇の力』『人間にはどのくらいの土地が要るか』『三人の隠者』
一八八七年(明治二十年)五十九歳 三月、モスクワ心理学会で「人生の意義」について講演。四月、スタンダールの「すばらしい」長編『パルムの僧院』を「休息のため」に読み、「早く仕事をかえて、芸術的著作をしたい」と希望をもらす。
『光あるうち光の中を歩め』『人生論』
一八八九年(明治二十二年)六十一歳 三月、チェーホフの作品を読み才能を認める。十一月「私はもはや個人の幸福を考えることはできない」と日記に記《しる》す。
『クロイツェル・ソナタ』『悪魔』
一八九○年(明治二十三年)六十二歳 二月、『クロイツェル・ソナタ』が宮廷で読まれ、アレクサンドル三世は満足の意を表す。『神父セルギイ』執筆。
一八九三年(明治二十六年)六十五歳 『無為』を「ロシア報知」誌九号に発表。老子の翻訳に専心。『神の国は汝らのうちにあり』が発表されると、官憲の圧迫はげしく、トルストイをアナーキストと呼ぶ。
『宗教と国家』『キリスト教と愛国心』『労働者諸君へ』『ヘーグ万国平和会議について』
一八九五年(明治二十八年)六十七歳 三月、最初の遺言状を書く。兵役拒否の聖霊否定派教徒たちの指導者と目され、当局の迫害強まる。九月、チェーホフ、ヤースナヤ・ポリャーナを訪ねる。
『主人と下男』『三つの喩《たと》え話』
一八九六年(明治二十九年)六十八歳 七月、『ハジ・ムラート』の構想うかぶ。『終り近し』を書き、兵役拒否を英雄的行為と賞讃する。
『終り近し』『キリストの教え』『福音書はいかに読むべきか』『現在の社会組織について』
一八九七年(明治三十年)六十九歳 三月二十八日、モスクワに病床のチェーホフを見舞う。七月八日、家出の遺書を書くが、決行せず。
『ヘンリー・ジョージの思想』
一八九八年(明治三十一年)七十歳 六月、ビリュコーフ監修のもとに英国において同志をあつめ「自由言」社を創設。七月、聖霊否定派教徒の援助のため、未完の旧作『復活』の完成に着手。
『芸術とは何か』『トルストイズムについて』『飢《き》饉《きん》とは何か』『二つの戦い』『神父セルギイ』
一八九九年(明治三十二年)七十一歳 三月、『復活』が発表され、大きな反響を呼ぶ。
『復活』『愛の要求』『一曹長に与うるの書』
一九○○年(明治三十三年)七十二歳 一月、ゴーリキー、はじめてヤースナヤ・ポリャーナを訪ねる。
『生ける屍』『愛国心と政府』『殺すなかれ』『現代の奴隷制度』『自己完成の意義』
一九○一年(明治三十四年)七十三歳 二月、宗教会議によりギリシャ正教会から破門される。
『宗務院の決定に対する回答』『皇帝およびその補《ほ》弼者《ひつしゃ》へ』『唯一の手段』『信仰の自由を認めること』
一九○二年(明治三十五年)七十四歳 一月、ニコライ二世へ祖国の現状を訴える一書を捧げる。八月、文学活動五十年記念祭が行われる。
『労働大衆に』『地獄の復興』『宗教論』
一九○三年(明治三十六年)七十五歳 一月、『幼年時代の追憶』起稿。八月二十八日、生誕七十五年祝賀会開催される。
『舞踏会のあと』『シェイクスピア論』『三つの疑問』『労働と病気と死』『それはお前だ』
一九○四年(明治三十七年)七十六歳 日露戦争はじまる。五月、『思い直せ』を発表、道徳的見地より戦争に反対する。
『思い直せ』『ハリスンと無抵抗』『幼年時代の追憶』『ハジ・ムラート』
一九○五年(明治三十八年)七十七歳 第一次ロシア革命おこり、人民の暴動およびそれに対する官憲の弾圧に心を痛める。
『壷のアリョーシャ』『コルネイ・ワシーリエフ』『フョードル・クジミッチの遺書』『祈り』『いちご』『仏陀』『ロシアの社会運動』『世の終り』
一九○六年(明治三十九年)七十八歳 ソフィヤ夫人との不和ますます増大する。六月、徳冨蘆花、ヤースナヤ・ポリャーナを訪ねる。
『一日一善』『ロシア革命の意義』『神のわざと人のわざ』『パスカル』
一九○七年(明治四十年)七十九歳 ヤースナヤ・ポリャーナの学校を復興。ストルイピン首相に土地問題を論ずる手紙を書く。
『真の自由を認めよ』『われらの人生観』『互いに愛せよ』
一九○八年(明治四十一年)八十歳 五月、革命運動の闘士たちに対する死刑執行に反対する一文『黙す能《あた》わず』発表。八月二十八日、世界的規模で生誕八十年祭が行われる。
『暴力の掟』『黙す能わず』『児童のために書かれたキリストの教え』
一九○九年(明治四十二年)八十一歳 春、ペテルブルグで生誕八十年記念トルストイ博覧会開かれる。七月、ストックホルム平和会議への出席を承諾するが、ソフィヤ夫人の反対により中止。
『唯一の掟』『ゴーゴリ論』『浮浪人との対話』『村の歌』『子供の知恵』『死刑とキリスト教』
一九一○年(明治四十三年)八十二歳 七月二十二日(新暦八月八日)最後の合法的遺言書を作成。十月二十八日未明、夫人に別れの手紙を残し、医師マコヴィツキーを伴い、家出。十月三十一日、病にたおれ、リャザン・ウラル線の小駅アスターポヴォ駅(現「レフ・トルストイ」駅)で途中下車。十一月三日、日記に最後の感想を記し、七日午前六時五分、同駅長宅で昇天。十一月九日、ヤースナヤ・ポリャーナの邸の森かげに埋葬。
木村 浩編