アンナ・カレーニナ(中)
トルストイ/中村白葉訳
目 次
第三編
第四編
第五編
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第三編
一
セルゲイ・イワーノヴィッチ・コズヌイシェフは、頭の疲れを休めたいと思って、いつもの|でん《ヽヽ》で外国へ行くかわりに、五月の末に田舎の弟のもとへ出かけた。彼の信念によると、最上の生活は田園生活であった。彼は今、その生活を享楽すべく、弟のもとへ来たのである。コンスタンチン・レーヴィンは、この夏にはもう兄は来ないものと思っていたやさきだったので、なおのことそれを喜んだ。けれども、セルゲイ・イワーノヴィッチにたいする愛と尊敬とにもかかわらず、コンスタンチン・レーヴィンには、田舎ではどうも兄とそりが合いにくかった。彼には、田舎にたいする兄の態度を見ることが、なんとなくぐあいがわるく、不愉快ですらあったのである。コンスタンチン・レーヴィンにとっては、田舎は生活の舞台、すなわち、喜びや、悲しみや、労苦の舞台であった。が、セルゲイ・イワーノヴィッチにとっては、田舎は、一面からいえば、労苦のあとの休息であり、他面からいえば、彼がその効果を信じて満足して用いる、頽廃《たいはい》にたいする有効な解毒剤《げどくざい》であった。コンスタンチン・レーヴィンにとっては、田舎は、それが疑いもなく有益な、労働の道場である点でよかったのだが、セルゲイ・イワーノヴィッチにとっては、田舎は、そこでは何もせずにいられたし、また何もせずにいなければならない点でとくによかったのである。のみならず、セルゲイ・イワーノヴィッチの農民にたいする態度も、いくらかコンスタンチンの気分をみだした。セルゲイ・イワーノヴィッチは、農民を愛し、かつ理解していることを口にし、またよく農民たち相手に話をした。彼はそれを、虚偽や|みえ《ヽヽ》でなしに、巧妙にしてのけた。そしてそういう談話のひとつひとつから、一般的材料を農民にとって有利に、自分がそういう農民を理解しているという証明としてひきだすのだった。
農民にたいするこうした態度は、コンスタンチン・レーヴィンには気にいらなかった。コンスタンチン・レーヴィンにとっては、農民はただ共同労働における重要な仲間でしかなかったので、農民にたいしては、まったき尊敬と、彼自身口にしているとおり、たぶん百姓女の乳母の乳といっしょに彼に吸収されたであろう血族的愛情とをいだいていたにもかかわらず、共同の仕事の上の仲間としては、時として、こうした人々の力量と温厚《おんこう》と高潔にたいして、非常な歓喜をおぼえることもあったけれども、またきわめてしばしば、仕事の上でそれ以外の性格の要求される場合には、彼らの不正や、放縦《ほうじゅう》や、飲酒癖や、虚言《きょげん》にたいして、彼らをにくむこともあった。
コンスタンチン・レーヴィンは、もしここに人がいて、彼に、彼は農民を愛しているかどうかをたずねたら、それにたいして答うべき言葉を知らなかったであろう。彼は農民を、一般の人々にたいすると同様に、愛しもすれば、いといもしていた。もちろん、善良な人間である彼は、人にたいしても、憎むよりは愛するほうが多かった。農民にたいしても、それは同様であった。だが、農民を、何か特殊なものとして愛するとか愛しないとかいうことは、彼にはできなかった。なぜなら、彼は自身農民と生活をともにしていたばかりでなく、また彼のすべての利害が農民と密接な関係をもっていたばかりでなく、自分自身をも農民の一部と考えて、自身のなかにも農民のなかにも、なんら特殊な性質や欠陥をみとめず、したがって自分を農民と対立させて考えることができなかったからである。のみならず、彼は主人として、仲裁者として、またとくに相談相手として、(農民どもは彼を信頼していたので、四十ウェルスターさきからでも彼に意見を求めて来た)長年農民にたいして、最も近い生活を送ってきながら、農民については、さらになんらの定見をも持っていないのだった。そして、彼は、農民を理解しているかどうかという質問にたいしてもまた、農民を愛しているかどうかという質問にたいすると同様、返答に窮《きゅう》したにちがいない。農民を理解するということは、彼にとっては、人間を解するということと同じだったにちがいない。彼は日ごろあらゆる種類の人々、そのなかに彼が善良な興味ある人々と数えた農民をもふくめて、それを観察し理解しようとつとめながら、彼らのなかに不断《ふだん》に新しい特徴をみとめ、それによって、彼らについての以前の意見を変更しては、さらに新しい意見を組み立てていた。
ところが、セルゲイ・イワーノヴィッチは反対であった。彼は、自分の好かない生活と対照して、田園生活を愛し賞揚したとまったく同じように、農民をも、彼が好まなかった人々の階級と対照して愛し、またそれと同じ調子で、一般人とは一種相反したものとして農民を理解していた。彼の組織的な知識のなかでは、農民生活についての一定の形式が、明白に組織されていた。それは、一部分は、農民生活そのものからひきだされたものであったが、大部分は、対照的見解からひきだされたものであった。しぜん彼は、農民についての自分の意見および彼らに対する同情的態度を、改めることは断じてなかった。
で、兄弟のあいだに農民についての見解の相違がおこる場合には、セルゲイ・イワーノヴィッチがいつも弟を征服した。というのは、つまり、セルゲイ・イワーノヴィッチには、農民にかんし、その性格・特徴・趣味などにかんして一定の見解があるのに反して、コンスタンチン・レーヴィンのほうには、なんら一定不変の見解というものがなかったからである。こういうわけで、この論争においては、コンスタンチンはいつも、自家撞着《じかどうちゃく》を指摘されてしまうのであった。
セルゲイ・イワーノヴィッチにとっては、彼の末弟はできのいい(彼はフランスふうにこんな言いかたをした)心をもった、が、理性方面では、かなり敏活ではあるが、瞬間的の印象にとらわれやすく、したがって矛盾撞着におちいりやすい、愛すべき男であった。兄としての親切な心をもって、ときどき彼は弟に、事物の意義を説き聞かせたが、言い負かすことがあまりに容易すぎたので、彼と議論をすることははりあいがなかった。
コンスタンチン・レーヴィンは兄を、ひろい知識と教養とをそなえ、生まれのよいという言葉が最も高い意味においてあてはまる、万人の幸福に役だつ活動能力をもったりっぱな人物として見ていた。けれども、その心の奥底では、自分が年をとってより近く兄を知るようになればなるほど、自分にはまったくないものと感じていたこの万人の幸福に役だつ活動能力なるものが、じつはすぐれた特質ではなく、むしろ反対に一種の欠陥、しかし善良で、正直で、高尚な願望や趣味の欠如というのではなくて、生命力の欠如、ハートと名づけられているものの欠如、人をして無数に提供される人生の行路のうちからそのひとつを選ばせ、そのひとつに専念させる衝動の欠如ではなかろうかという疑問が、ますます多く頭にうかぶようになってきた。
こうして、兄を知ることが深くなるにつれて、彼はセルゲイ・イワーノヴィッチをはじめ、他の多くの、万人の幸福のために働いている人たちは、ハートによって万人にたいする愛にむけられているのではなく、それをすることのよいことであるのを理性の上で判断して、その判断だけでそれにたずさわっているにすぎないということを、しだいにはっきりと見てとるようになってきた。この考察において、いっそうレーヴィンの信念を強固にしたのは、彼の兄が、万人の幸福とか、霊魂の不滅とかいう問題をも、将棋《しょうぎ》の勝負や新しい機械の精密な構造以上には心に近く感じていないことをみとめた一事であった。
のみならず、コンスタンチン・レーヴィンには、まだこのほかにも、田舎で兄といっしょに暮らすことにぐあいのわるい理由があった。それは、田舎では、ことに夏期は、レーヴィンは非常に農事が多忙で、必要なことをするだけでも、長い夏の日もたりないくらいであるのに、セルゲイ・イワーノヴィッチは、ゆうゆうと安逸をむさぼっているからであった。しかし彼は、今こそ安逸をむさぼってはいたが、つまり、著述のほうを休んではいたが、知的活動になれた人の常として、頭にうかび出る思想をば、美しい緊縮した形式に盛って表現することを好み、それをだれかに聞いてもらうことを好んだ。そしてこうした場合の、きわめて普通な、自然な聞き手は弟であった。で、ふたりは、親しい遠慮のない仲ではあったが、コンスタンチンには、兄をひとりおきざりにするのがなんとなくぐあいがわるかった。セルゲイ・イワーノヴィッチは、ひなたの草のなかに横になることが、そうしてあたたまりながら、のんきにおしゃべりをすることが、好きであった。
「おまえには信じられないだろうね」と彼は弟にいうのだった。「わしにとっては、この小ロシアふうの怠惰がどれくらいの喜びだか。頭のなかは、考えなんかひとつもなくて玉をころがしてもいいほどからりとしている」
けれどもコンスタンチン・レーヴィンには、すわって兄のおしゃべりを聞いているのが、たいくつであった。ことに彼は、自分がいないあいだに百姓どもが、うねを切ってもない畑へ肥料を運んで、監督者がいないと、どんなやりかたをしてしまうかしれないことや、犂《すき》の歯を螺旋《らせん》でとめないで投げやりにしておいて、あとになってこんなばかげた犂はない、アンドレーエヴナの鋤《すき》のほうがずんとましだなどと、あくたいをつくことを知っていたので、なおさらおちついてはいられないのであった。
「この暑いなかを歩きまわるのはもうたくさんじゃないか」と、セルゲイ・イワーノヴィッチは彼にいうのだった。
「いや、ぼくはちょっと事務所へ行ってくるだけです」レーヴィンはこう言いすてて、野のほうへかけだしていくのだった。
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二
六月初めには、彼の乳母で家政婦であるアガーフィヤ・ミハイロヴナが、自分で塩づけにしたばかりの|きのこ《ヽヽヽ》の壷を穴倉へ運んでいく途中、足をすべらしてころんだ拍子に手くびの関節をはずすという騒ぎが起こった。学校を出たばかりの若い、おしゃべりの郡医が来た。彼は手を診察して、関節がはずれたのではないと言い、湿布をさせてから、昼食に残り、有名なセルゲイ・イワーノヴィッチ・コズヌイシェフと談話をまじえることを喜ぶ様子で、彼に、自分の事物にたいする進んだ見解をほこり顔に、自治会行政の欠陥をこきおろしながら、田舎のうわさ話のありたけを持ちだした。セルゲイ・イワーノヴィッチは熱心にそれをききとったり質問したりしたうえで、新しい聞き役の現われたのにうちょうてんになり、自分でも弁じはじめて、的確で緊要な観察を二、三発表し、若い医師のうやうやしげな賞賛をかちえると、たちまち、あぶらの乗った熱心な話のあとではきまっておこる、弟にはおなじみの、例の興奮状態におちいった。医師が帰ってから、彼は釣りざおをたずさえて河へ行きたいと言いだした。セルゲイ・イワーノヴィッチは魚釣りが好きで、どうやら、そうしたつまらぬことに興味を持ちうるのを誇りとしているらしいあんばいであった。
コンスタンチン・レーヴィンは、畑や草場を見まわりに行かねばならなかったので、兄を馬車で送って行こうと申しでた。
それはちょうど夏の変わり目で、今年の収穫はもはや決定され、翌年の種まきについての配慮がはじまり、草の刈り入れも近づいたころであった。裸麦は一面に穂を出してはいたが、まだ十分みのっていない灰緑色の軽い穂が風にゆれているころであった。緑色したからす麦は、それにまじってまき散らされた黄色い草の株とともに、遅まきの畑に、乱雑に頭を出しているときであった。早まきの|そば《ヽヽ》はすでに芽を出して、地面をおおっているときであった。家畜に踏みつけられて石のようになっていた閑田《かんでん》も、犂《すき》の通らぬ道だけを残して半分がたすき返されているときであった。あたりに運び出されて、かわききった肥料のやまが、蜜草《みつぐさ》といっしょに夕日ににおい、低地には、大鎌を待ちながら、抜き去られた|すかんぽ《ヽヽヽヽ》の葉の黒ずんだ堆積《やま》をまじえた川沿いの草場が、はてしれぬ海のようにひろがっているときであった。
さらにそれは、のら仕事において毎年くりかえされ、毎年百姓の全力をしぼり出させる収穫がはじまろうとするまえの、短い休息期にはいるときであった。収穫は上々であった。そして、からりとした暑い夏の日が、露深い短夜をともなってつづいていた。
草場のほうへ行くには、兄弟は森をぬけて馬車を進めなければならなかった。セルゲイ・イワーノヴィッチは、影になった側は黒く、黄色い托葉《たくよう》でまだらになっている、もう花をひらくばかりの古木のぼだい樹を弟に指さしたり、エメラルドのようにきらめいている、今年生えの木々の芽を指さしたりしながら、暗いほどに繁茂した森の美しさにたえず見とれていた。コンスタンチン・レーヴィンは、自然の美については話すことも聞くことも好まなかった。言葉は、彼にとっては、彼が目にしたものからその美を奪うものであった。で、彼は、兄に同意を表しながらも、いつのまにかほかのことを考えていた。こうして彼らが森を出たとき、彼の全注意は、あるところは草におおわれて黄色く、あるところは踏みにじられたまま格子形にしきられ、あるところは堆肥《たいひ》を積みこまれ、あるところはすきかえされていた丘《おか》の上にある閑田の模様に、すっかりのまれてしまっていた。野には、農用車が列をなして動いていた。レーヴィンは、車の数を数えてみて、必要なものがすべて運ばれているのに満足した。そして彼の考えは、草場を見るとともに、草刈りという問題のほうへ移っていった。彼は、いつも乾草の刈り入れについては、何かしらとくに強く心ひかれるもののあるのを感じるのだった。草場へ近づくと、レーヴィンは馬をとめた。
朝露はまだ、はびこった草の根かたに残っていた。で、セルゲイ・イワーノヴィッチは、足をぬらさないために、その下で河|すずき《ヽヽヽ》のつれる灌木《かんぼく》のそばまで草場の中を馬車でつれて行ってくれと頼んだ。コンスタンチン・レーヴィンには、自分の草を踏み荒らすのがいかにも惜しかったけれども、馬を草場へ乗り入れた。たけ高い草は、車輪や、馬の足にやわらかくまといついて、その種子を、ぬれた車輪の輻《や》や轂《こしき》に残した。
つり具をととのえて、兄は灌木のかたわらに座をしめた。レーヴィンは馬を引きもどし、それをつないでから、風にも動かぬ宏大《こうだい》な、灰緑色の、草場の海へとはいって行った。熟した種子をもった絹のような草は、湿地ではほとんど帯のへんまでも達した。
草場を横ぎって、コンスタンチン・レーヴィンは路上へ出た。そして、はれぼったい目をした、ひとりの老人が、蜂籠《はちかご》を肩にのせてくるのに出くわした。
「どうだ? つかまったかい、フォミーチ?」と彼はきいた。
「何がつかまりましょうぞい、コンスタンチン・ドミートリチ! 自分のを逃さねえだけが、めっけものでごぜえますだよ。もうこれで二度め逃げましただが……でもおかげで子供がつかめえてくれましただよ。あれらは、だんなさまの畑をすいておりましただが、馬をといて、追っかけてくれましただ……」
「それはそうと、どうだろうなあ、フォミーチ――もう刈ったもんだろうか、もうすこし待つか?」
「さようでごぜえますだで! てめえどものほうじゃ、ピョートルさまの日まで待ちますだが。でも、だんなさまあ、いつも早くお刈んなせえますだんべえ。ああに、神さまがお恵みくだせえますだ、草は上できでごぜえますだよ、牛馬どもにゃあ、あまってけえりますだよ」
「だが、天気あんばいはどう思うかね?」
「そいつあ、神さまのおぼしめしでごぜえますだ。たぶんよろしゅうごぜえましょうて」
レーヴィンは兄のほうへ行った。
何も釣れていなかったが、セルゲイ・イワーノヴィッチは、たいくつするどころか、非常な上きげんらしかった。レーヴィンは、兄が医者との会話に刺激されて、しきりに話したがっているのを見た。ところがレーヴィンは反対に、一刻も早く家へ帰って、明日の草刈り人夫を集めるさしずをし、むしょうに気にかかっている草刈り問題を、解決したくてたまらなかった。
「どうです、帰ろうじゃありませんか」と彼はいった。
「どこへそんなに急ぐんだい? もうすこしいようじゃないか。だが、おまえのそのぬれようはどうだ! 何も釣れはしないが、でもいいよ。いったいこの漁《りょう》というやつは、自然を相手にしているというところがいいんだからね。まあ、鋼鉄のような水の美しいことはどうだ!」と、彼はいった。「こういう草場になっている川岸は」と彼はつづけた。「いつでもわしに、あるなぞを思い出させる――知ってるかね? 草が水にいうにはさ――おれは揺れている、揺れている」
「ぼく、そんななぞは知りませんね」と、レーヴィンは気のない口調で答えた。
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三
「じつはね、わしはおまえのことを考えてたのさ」とセルゲイ・イワーノヴィッチはいった。「あの医者の話したところでは、おまえたちの田舎でやっていることは、まるでなっちゃいない。あの男はあれでなかなかばかじゃないよ。で、わしはおまえに、せんにもいったことを、いま一度いうがね――おまえが集会に出なかったり、いちがいに地方自治会の事業から遠ざかったりするのはよくないよ。もししっかりした人物が遠ざかってしまったら、もちろん、何もかもめちゃめちゃになってしまうにきまってるんだからね。そして、われわれがいくら税を払ったところで、それはみな俸給になってしまって、学校もなけりゃ、病院もなけりゃ、産婆もなけりゃ、薬屋もない――何ひとつないことになってしまう」
「ぼくもやってはみたんですよ」と、静かに、ふしょうぶしょうにレーヴィンは答えた。「しかしできないのです! どうもしかたがないじゃありませんか!」
「だが、何がおまえにできないんだね? じつのところ、わしにはがてんがいかないよ。冷淡とか無能とかいうことは認められない。するとあるいは単なる怠惰じゃないかね?」
「それも、これも、みな違います。ぼくはやってみました。そして自分には、なんにもできないことを知ったのです」とレーヴィンはいった。
彼は兄のいったことを、深くは考えてみなかった。彼は川向こうの畑地へ目をやっていて、何やら黒いものを認めたが、それが馬であるか、それとも馬に乗った執事であるか、ちょっと見わけがつかなかったのである。
「どうしておまえになんにもできないのだろう? おまえはちょっとあたってみただけで、もうだめだとひとりぎめして、へこたれてしまったんじゃないか。どうして、もっと自尊心を持たないんだな?」
「自尊心」とレーヴィンは、兄の言葉にちょっとむっとしていった。「ぼくにはわかりませんね。かりに大学かなんかで、他人は積分《せきぶん》計算を理解するのに、おまえだけは理解しないとでもいわれたんなら、自尊心の問題もおこりましょう。だが、この場合では、まず、自分にはこういう仕事に要する一定の才能があるという確信と、それ以上に、この仕事が非常に重大だという信念をえてかかる必要がありますからね」
「それがどうしたというのだ! じゃあ、これは重大でないというのかい?」と、セルゲイ・イワーノヴィッチは、弟が自分の熱中していることに重きをおかぬのに、ことに弟が、自分のいっていることをまるで耳にとめていないらしいのに、侮辱を感じてこういった。
「ぼくには、重大とは思えませんね。どうしても、のりきになれないんだから、しかたがないじゃありませんか?……」とレーヴィンはようやく、彼のみとめたものが執事であったことと、どうやら執事が、数人の百姓に耕作をやめさせたらしいことを見わけてから、こう答えた。彼らは犂《すき》をうわ向けていた。『すると全部すきあげちまったのだろうか?』こう彼は考えた。
「しかし、まあ聞け」と、その美しい聡明らしい顔をしかめて、兄はいった。「なにごとによらず限度というものがある。変わり者であること、まじめな人であること、虚偽を憎むということ、それは、たいへんけっこうなことだ。それはわしも承知している。だが、おまえの口にしていることは、意味のないことか、でなければ、きわめてわるい意味をもったことかだ。どうしておまえは、重大でないなんていっていられるんだろう、おまえが愛していると自分で断言している百姓どもが……」
『おれは一度も断言なんかしたことはない』とコンスタンチン・レーヴィンは腹のうちで考えた。
「救いもなく死んでしまうのを? 無知な取り上げ婆さんはいくらでも子供を死なすし、百姓どもは無学のやみのなかにうろうろして、ろくでもない書記ふぜいの支配下に残されている。ところが、おまえの手には、それを救う手段が与えられてある、しかもおまえは救おうとしない。なぜかといえば、おまえの意見では、それが重大なことでないからだというのだ」
そこでセルゲイ・イワーノヴィッチは、彼のディレンマを追及した――おまえは自分のできることをみとめることもできないほど発達がおくれているのか、それともまた、わしにはよくわからないが、自分の平安とか虚栄とかいうものを犠牲にしてまでそれをする気がないのか、どちらかだろうと。
コンスタンチン・レーヴィンは、こうなった以上もはや自分には、いさぎよく屈伏《くっぷく》して、公共事業にたいする博愛心の不足を告白するしかないような気がした。そしてそれが、彼を侮辱し激昂《げっこう》させた。
「それも、これもです」と、彼は決然たる口調でいった。「ぼくにはできることとは思われませんね……」
「どうして? 金をうまく配分しても、医療的救助を与えることができないって!」
「できない、とぼくには思われるのです……この地方の四千万ウェルスターに、例の雪どけの水が出たり、雪あらしがあったり、忙しい時期があったりするんですもの。ぼくはその全般に、医療的救助が与えられようとは思いません。それにだいいち、ぼくは医療というものに信をおきませんよ」
「いや、待ってくれ、それは正しくないというものだ……わしはおまえに、千の例でも示してやるよ……ところで、学校のほうはどうかね?」
「学校なんかがなんになります?」
「何をいうのだ! おまえは教育の利益に疑問がありうるというのか? もしそれがおまえのためになるものであれば、なんぴとのためにもなるわけじゃないか」
コンスタンチン・レーヴィンは、自分が精神的に壁ぎわまで押しつめられたのを感じた。で、激昂のあまりわれを忘れて、公共事業にたいする自分の無関心の、おもな理由をぶちまけてしまった。
「あるいはそれは、すべてけっこうなことかもしれません。けれども、なぜぼくに、自分がぜんぜん利用しない病院だとか、自分の子供をやる気もなければ、百姓たちにしても子供たちをやりたがらない学校を建てたりすることに、心を労する必要があるんですか。だいいち、ぼくはまだ、子供たちはどうでも学校へやらねばならぬものとも思っちゃいないんですからね」と彼はいった。
セルゲイ・イワーノヴィッチは、この意外なものの見かたに、ちょっとのま毒気をぬかれたかたちだったが、すぐさま攻撃の新戦法を組み立てた。
彼は暫く沈黙し、一本のさおをあげて入れなおしてから、えみをふくんだ顔を弟のほうへむけた――
「まあ、お待ち……第一に、病院はげんに必要になったじゃないか、さっきもわれわれは、アガーフィヤ・ミハイロヴナのために、郡医を呼びにやったじゃないか」
「だが、ぼくは思いますね。あの手はゆがんだままになってしまうだろうと」
「いや、それはまだ疑問だよ……が、それはそれとして、百姓にしろ、労働者にしろ、読み書きのできる者のほうが、おまえにだって必要が多く、価値も多かろうじゃないか」
「いや、だれにでもきいてごらんなさい」と、コンスタンチン・レーヴィンはきっぱりと答えた。「読み書きのできる者は、労働者としてはるかに劣等です。道路の修繕ひとつできやしません。うっかり橋でもかけさせようもんなら、すぐ何かかか失敬して行っちまうんですからね」
「だが」と、矛盾や、とりわけ、のべつあれこれと飛びうつって、どれにたいして返答をしたらいいのかわからないくらい、ぜんぜんなんの連絡もなく新しい論拠をひきだしていくような話しぶりのきらいなセルゲイ・イワーノヴィッチは、しかめつらをつくってこういった。
「だが、問題はそこにあるんじゃないよ。待ってくれ。おまえは教育が、農民にとって幸福であることを承認するかどうかというのだ」
「承認します」とレーヴィンはうっかり口をすべらしてから、すぐ、自分が、心にもないことを明言してしまったことに気がついた。彼は、もし自分がそれを承認すれば、自分のいったことがそら言で、なんら意味をなさないわけになってしまうのを感じた。どういうふうにしてそうなってしまうかはわからなかったが、疑いもなく論理的に立証されるにちがいないことだけはわかっていた。で、彼はその立証を待った。
論証は、コンスタンチン・レーヴィンが予期したより、はるかに簡単であった。
「もしおまえがその幸福であることを承認するなら」とセルゲイ・イワーノヴィッチはいった。「すればおまえは、正直な人間として、そういう事業を愛し、それに同感しないではいられないだろう。ひいては、そのために努力しようと願わないではいられないはずだ」
「しかし、ぼくはまだその事業をいいことだと認めてはいませんよ」とコンスタンチン・レーヴィンはあかくなっていった。
「なぜさ? だって、おまえは、いまげんにいったじゃないか……」
「つまり、ぼくはそれをいいことだとも、できうることだとも認めてはいないです」
「おまえは骨折ってみもしないで、そんなことをいう資格はないよ」
「じゃあ、そうとしておきましょう」とレーヴィンは、そんなことはてんから考えてみたこともないくせに、こう相づちをうった。「それはそうとしておきましょう。ですが、ぼくはやはり、なんのために自分がそんなことに心を労する必要があるのか、その理由がわかりませんよ」
「というのは、つまりどういうわけだ?」
「いや、話がこうなった以上ですね、どうかぼくに、哲学的見地から説明の労をとってください」
「わしには、この場合になんのために哲学をひっぱり出すのか、がてんがいかんよ」とセルゲイ・イワーノヴィッチは、まるで弟には哲学について云々《うんぬん》する資格を認めないかのような(こうレーヴィンには思われた)口ぶりでいった。そしてこれがレーヴィンの気をわるくさせた。
「それはこうです!」と彼は熱して言いだした。「ぼくは、われわれのすべての行動を示唆《しさ》するものは、やはり個人の幸福であると思います。ところが、一貴族としてのぼくは、今日の地方制度のうちに、何ひとつぼくの幸福を増進してくれるものを認めないのです。道路はよくない。しかもこれ以上によくなることはないのです。ぼくの馬は、その悪路の上でも、ぼくを乗せて走ります。医者も、病院も、ぼくには必要ありません。治安判事もぼくには用がありません――ぼくは一度だって彼のごやっかいになったこともなければ、今後だってならないつもりです。学校は、ぼくにとっては、なんら必要がないばかりか、いまお話したように、かえって有害なくらいです。ぼくにとっては、地方制度なるものは、ただ、一デシャティーナ十八カペイカの税を取り立てられることと、都会へ出かけて、ナンキン虫のいる宿へ泊まり、あらゆるむだ話や野卑《やひ》な話を聞かされたりするだけの業務であって、ぼくの個人的利益には、これぽっちも関係がないんですからね」
「おいおい」とえみをふくんで、セルゲイ・イワーノヴィッチはさえぎった。「われわれをして農奴解放に尽力せしめたのは、個人的の利益ではないぜ。しかもわれわれは、それに尽力したじゃないか」
「いいえ、違います!」とますます熱して、コンスタンチンはさえぎった。「農奴解放は別問題です。それにも個人的利益はありました。それはわれわれ、すなわち、あらゆる善良な人々を圧迫していたあのくびきを、自分自身から振り落とそうと望んだのですからね。けれども、地方自治会議員になって、自分が住んでもいない都市に汲み取り人夫が何人いるとか、鉄管をどう敷設《ふせつ》したらいいかなどということを論じたり、陪審官になって、ハムを盗んだ百姓を取り調べたり、弁護人や検事のこねまわすあらゆる愚劣な弁論や論告を六時間も聞かされたり、裁判長があのうすのろのアリョーシャじいをつかまえて――『被告殿、貴下はハムを盗んだ事実を承認されますか?』――『ひゃあ?』なんて問答するのを聞かされたりするのは……」
コンスタンチン・レーヴィンはもう夢中になって、裁判長やうすのろのアリョーシャのまねをしはじめた。彼にはそうしたことが、みな、問題の要点に関係のあるものと思われたのである。
ところが、セルゲイ・イワーノヴィッチは肩をすくめた。
「だが、それで、おまえはいったい何をいうつもりなんだね?」
「ぼくはただ、ぼくは常にぼくを……ぼくの利害に関係のある権利を、全力をあげて守るだろうということを言いたいのです。いつかわれわれ大学生にたいして捜索が行なわれて、憲兵がわれわれの手紙を調べたりしたときにも、ぼくは全力をあげてこれらの権利、ぼくの教育と自由の権利を守る覚悟をしていました。ぼくはわれわれの子供や兄弟や、自分自身の運命に関係の深い兵役義務については、相当理解をもっています。ぼくは、ぼくに関係することについては、批判をくだすだけの準備をもっています。けれども、地方自治会の金四百ルーブリをどういう方法で配分すべきかとか、うすのろのアリョーシャを裁判するとかいうことは、ぼくにはわかりもしないし、できもしません」
コンスタンチン・レーヴィンは、まるで言葉の堤《つつみ》が切れでもしたように、弁じたてた。セルゲイ・イワーノヴィッチは笑いだした。
「すると、明日の日おまえが被告の位置におかれるとしても、おまえは、以前の刑事裁判所で取り調べを受けたほうがましだということになるんだな?」
「ぼくは被告になんかなるわけがありません。ぼくはけっして人を切りなんかしませんから、ぼくにはそんなことは必要でないんです。ときにです!」と彼はまたしても、ぜんぜん当面の問題とはかけ離れた方面へ飛びうつりながら、言葉をつづけた。
「われわれの地方制度とか、すべてそれに類した施設は、五旬節《ごじゅんせつ》の日にわれわれが、森に似せようと思って地面にさす白かばのようなもので、森そのものはヨーロッパで生長したものです。ぼくは一生けんめいにそれに水をやったり、そのさし木を信じたりする気にはなれないですよ」
セルゲイ・イワーノヴィッチは、彼らの論争のなかへ、いったいどこからこんな白かばなどが飛びこんで来たのかわからぬというしぐさをしながら、ただ肩をすくめただけであった。もっとも彼は、それによって弟が何をいおうとしたのかは、すぐ理解していたのだが。
「まあ、待ってくれ、それじゃ議論にならないじゃないか」と彼は注意した。が、コンスタンチン・レーヴィンは、自分でも知っている例の欠点――万人の幸福にたいする自分の無関心を弁護したく思ったので、さらにこう言葉をつづけた――
「ぼくはですね」とコンスタンチンはいった。「いかなる活動も、それが個人的利益に基礎をおくのでなければ、強固ではありえないと思うのです。これは、一般的真理・哲学的真理です」と、彼は断乎とした調子で、自分にもまた、すべての人と同様に、哲学を論ずる資格があることを示そうとでもするように、哲学的《ヽヽヽ》という言葉をとくにくりかえしながら、いった。
セルゲイ・イワーノヴィッチはもう一度微笑した。『この男にもやはり、自分の傾向に奉仕する一種の哲学があるんだな』こう、彼は考えた。
「だが、まあ、哲学なんてことはよしたほうがいい」と彼はいった。「元来、全世紀を通じて、哲学の主題とするところは、つまり、個人の利益と公共の利益とのあいだに介在《かいざい》する欠くべからざる関連を見いだす点にあるのだからね。しかし、これは論点ではない。わしはおまえの比較を正してやりさえすればそれでいいのだ。白かばはさされたのではない。あるものは植えつけられ、あるものは播種《はしゅ》されたのだ。だから、それにはまず、十分注意をはらってやる必要がある。未来を有する国民、または歴史を有する国民と称しうるのは、ただ彼らの制度の重大にして意義あることを感得して、それを尊重する国民にほかならないのだからね」
そしてセルゲイ・イワーノヴィッチは、コンスタンチン・レーヴィンには入りがたい哲学的歴史的領域へ問題をうつして、弟の見解の誤謬《ごびゅう》をいちいち指摘してみせた。
「おまえにそれが気にいらないという点にいたっては、失敬だが、それはわれわれロシア人の怠惰癖と地主かたぎであるというほかないのだ。が、わしは信じて疑わない、おまえのこの一時的|迷妄《めいもう》は、じき消滅してしまうだろうと」
コンスタンチンは黙っていた。彼は、自分が八方から打ち破られたように感じたが、同時にまた、自分のいおうとしたことが、兄に通じなかったようにも感じた。彼は、ただ、どうしてそれが通じなかったのかわからなかった――あるいは彼が、自分の考えをはっきりと言いあらわしえなかったからか、あるいは兄が、彼の言葉を理解しようとしなかったからか、それとも理解できなかったからか。けれども彼は、こうした穿鑿《せんさく》に深入りすることはしないで、兄に言葉をかえすことなく、ぜんぜん別な自分自身のことについて考えはじめた。
セルゲイ・イワーノヴィッチは、最後の釣りざおを片づけて、馬を解いた。そして彼らは乗りだした。
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四
兄と話していたあいだレーヴィンの心をしめていた自分自身のことというのは、つぎのようなことであった――去年のこと、あるとき草刈りに出かけて行き、執事に腹をたてたときに、レーヴィンはいつもの気をやわらげる方法として――百姓の手から大鎌をとり、自身草刈りをはじめたことがあった。
その仕事はいたく彼の気にいったので、その後も再三くりかえしてみた。彼は、家の前の草場をひとりで刈ってしまったことさえあった。で、今年も春のはじめから、百姓たちといっしょに毎日草刈りをしようという計画を立てていた。ところが、兄が来た時分から、彼は刈ろうか刈るまいかとちゅうちょしはじめた。彼には、毎日毎日兄をひとりでうっちゃっておくのが気がとがめたし、そのうえ、そんなことをして兄に笑われはしまいかというおそれもあった。だが、草場を通って、草刈りの印象を思いおこすと、彼はなにかまうものか、刈りに出ようと、ほとんどまったく、心をさだめた。そして兄との刺激的な論争のあとで、彼はまたしても、この計画を思い出したのだった。
『肉体的運動が必要だ、さもないとおれの性質は、確かにだんだんわるくなっていく』と彼は考えた。そしてそれが兄や人々のてまえ、どんなに気がひけても、草刈りをやることに心をきめた。
夕方、コンスタンチン・レーヴィンは事務所へいって仕事のうえのさしずをし、明日は一ばん広くて、一ばんいいカリノフ草場を刈るために、人夫の徴集《ちょうしゅう》に村々へ人をやった。
「それから、ぼくの大鎌を、ご苦労だがティートのところへやって、刃をあわせて、明日もってくるようにしといてくれたまえ――つごうで、明日はぼくも出かけていっしょに刈るから」と彼は、つとめて平気をよそおいながらいった。
執事は、笑いながらいった――
「かしこまりました」
晩のお茶のときに、レーヴィンは兄にもそれを告げた。
「どうやら天気もさだまったらしいから」と彼はいった。「ぼくは明日から草刈りをはじめます」
「わしもそういう仕事は大好きだよ」とセルゲイ・イワーノヴィッチはいった。
「ぼくは非常に好きなんです。ぼくは自分でもときどき、百姓たちといっしょに刈るんですよ。明日も一日やってみたいと思ってるんです」
セルゲイ・イワーノヴィッチは顔をあげて、好奇心をもって弟の顔を見た。
「というと、どうなんだ? 百姓と同じに、一日ずっとかね?」
「ええ、そりゃじつに愉快ですよ」とレーヴィンはいった。
「そりゃけっこうだ、身体の鍛練《たんれん》としては。ただ、おまえにそれがやりおおせるかね」と、なんの皮肉らしい調子もなく、セルゲイ・イワーノヴィッチはいった。
「ぼくはやってみたんですよ。はじめはかなりつらかったが、じきなれました。ぼくは中途でよすようなことはあるまいと思ってるんです……」
「ふん、そうかね! だがどうだろう、百姓たちはそれをどう見るだろう? きっと、妙なだんなだと思って笑うぜ」
「いや、ぼくはそうは思いませんね。とにかく愉快であると同時に、何を考える余裕もないほど骨の折れる仕事ですからね」
「だがおまえ、百姓たちといっしょで、食事はどうするんだい? 赤ぶどう酒や、しちめんちょうのあぶり肉をそこへ運ばせるのも、少々へんなものじゃないかね」
「いや、ぼくは彼らの休んでるうちに、ちょっとうちへ帰って来ます」
翌朝、コンスタンチン・レーヴィンはいつもより早起きをしたが、農事上のいろんなさしずにてまどらせられたので、草刈り場へ乗りつけたときには、草刈り人夫たちはもう二の|うね《ヽヽ》にかかっていた。
まだ彼が丘の上にいるうちから、彼の前には、山の下の日かげになった、刈りあげのすんだ草場の一部が、白茶けたうねうねと、刈り手が刈りはじめた一のうねにあたる辺に脱ぎすてられた上着の黒い山とが、ひとつになってひらけて見えた。
そのほうへ近づくにしたがって、彼には、上着のままや、シャツ一枚でいる百姓たちの姿が、てんでに大鎌をふるいながら、ひとりひとり長い列をつくって進んで行くのが見えてきた。彼はそれを四十二人まで数えた。
彼らは草場の低みの、古い堤防のあった凸凹《でこぼこ》のところを、ゆるゆると動いていた。レーヴィンは自分の村の者を四、五人見つけた。あちらには、おそろしく長い白シャツを着たエルミルじいさんが、前かがみになって鎌をふっているかと思えば、こちらにはまた、若い、かわいらしい、もとレーヴィンのうちで御者をしていたワシカが、一生けんめいに一筋一筋と刈っていた。そこにはまた、草刈りではレーヴィンのお師匠格である、小柄なやせた百姓のティートもいた。彼は、まるで鎌をおもちゃにでもしているように、身をかがめもせず、みんなの先頭に立って、自分の持ち分を大幅に刈りながら、進んでいた。
レーヴィンは馬からおりて、それを路傍につなぐと、ティートのそばへ歩みよった。と、彼は、やぶのなかから第二の鎌を取り出して、彼に与えた。
「できましただよ、だんなさまあ。これならはや、剃刀《かみそり》のように、ひとりでに刈れてしめえますだ」とティートは笑顔で、帽子をぬぎ、彼に鎌を渡しながらいった。
レーヴィンは鎌を受け取って調べはじめた。自分の持ち分を終わって、汗みどろになり、愉快そうな顔をした刈り手たちが、つぎつぎと路上へ出てきて、笑いながら主人にあいさつした。彼らはみな彼のほうをながめていたが、なかにひとり背の高い、ひつじ皮のジャケットを着た、ひげのないしわくちゃの顔の老人が、道路へ出て来て、彼に話しかけるまでは、だれも口をきかなかった――
「ええだかね、だんなさまあ。いちど大鎌にとりついたが最後、中途でやめることはなりましねえだぞよ」と彼はいった。と、レーヴィンは、刈り手たちのあいだに、しのび笑いの声を聞きつけた。
「やめないようにやってみるよ」と彼は、ティートのうしろに立って、仕事にかかる合図を待ちながらいった。
「ええだかね」と老人は念を押した。
ティートが場所をあけてくれたので、レーヴィンはそのあとから進みだした。路傍なので草は短かったし、レーヴィンはしばらく刈らなかったうえに、自分にそそがれている大ぜいの視線に鼻じろんでいたので、力かぎり鎌をふったけれども、はじめのうちはうまく刈れなかった。彼の背後ではいろいろな声が聞こえた――
「柄のつけかたがわりいだ、とっ手が高すぎら。どうだ、あのかがみようは」とひとりがいった。
「かかとのほうへもっと力をいれにゃ」と他のひとりがいった。
「なあにええだよ、じきうまくならっしゃるだあ」と老人がつづけた。「そら、はじめた……そんなに欲ばると、疲れるだによ……なにしろ、ご主人さまだで、自分のために一生けんめいになりなさるのもむりはねえだ! でもまあ、あの刈りあとのむらむらを見なさろ! これがおれたちだったら、一ぺんにぼいんとくらわされるところだわな」
草はしだいに柔らかになってきたので、レーヴィンは彼らの話は耳にいれながら返事はしないで、できるだけ手ぎわよく刈ろうとつとめながら、ティートのあとについていった。彼らは、百歩ばかりも進んだ。ティートはいっこう立ちどまりもせず、疲れたようなさまもなく、ぐんぐんさきへ刈り進んだ。が、レーヴィンには、もうとてもやりきれないという気がしだした――それほど彼はまいってしまった。
彼は、自分がもう最後の力で鎌をふるっているのを感じたので、ティートにちょっと休んでくれるように言いだそうと思った。ところがちょうどそのとき、ティートは自分から立ちどまり、しゃがんで、草をむしりとると、それで鎌をぬぐって、研ぎはじめた。レーヴィンは腰をのばして、ため息をつきながら、四辺を見まわした。彼のうしろから来た百姓が、これも疲れたらしく、レーヴィンのそばまでも追いつかないで、すぐ立ちどまって、鎌を研《と》ぎにかかった。ティートは自分の鎌とレーヴィンの鎌とを研いだ。そしてまた彼らはさきへ進みだした。
二回めも同じようであった。ティートはてんで立ちどまりもしなければ、疲れた様子もなく、鎌のひと振りごとに前へ出ていった。レーヴィンはおくれまいとつとめながら、そのあとにつづいたが、しだいに苦しさがつのってきた――そして、もういよいよこの上の力はないと彼が感じる、ちょうどそのとき、ティートは立ちどまって、鎌を研いだ。
こうして彼らは一のうねを終わった。この長いひとうねがレーヴィンにはことに苦しかったように思われた。が、そのかわりうねが終わって、ティートが鎌を肩にかけ、ゆっくりした足どりで、自分のかかとが残したあとを踏んでひっ返しはじめ、レーヴィンも、自分の刈り跡を、同じようにしてひっ返す時分には、汗はあられのように顔をはしり、鼻頭からしずくがしたたって、背中一面まるで水にひたったようにぐっしょりになっていたが――彼は非常に気持がよかった。ことに、自分はもうこの仕事に堪えることができると知ったことが、彼を一だんと喜ばせた。
彼の満足な思いをそこなうものは、ただ自分のうねがうまく刈れていなかったことであった。『鎌を手先だけで使わないように、からだ全体で刈るようにしよう』と彼は、糸をひいて刈られたようなティートのうねと、模様でもおいたような、でこぼこだらけの自分のうねとを見くらべながら、考えた。
一のうねは、レーヴィンの気づいたとおり、たぶんティートが主人をためそうとして、特別に早く進んだので、うねも長くなったものらしかった。で、あとのうねは、どれもずっとらくであった。でも、レーヴィンはやはり、百姓たちにおくれまいとするには、自分の力のありったけをしぼり出さなければならなかった。
彼は百姓たちにおくれまいと思うことと、少しでも手ぎわよく刈りあげたいということ以外、何事も考えず、何事も願わなかった。彼はただ、さっさっという鎌の刈り音を聞き、自分のさきに立って進んで行くティートのまっすぐな姿と、刈り跡の草の半月形と、自分の鎌の刃の周囲にゆるやかに波うちながら倒れていく草や花の頭と、自分の前方にあたる、そこまで行けば一服することのできるうねの端とを見るだけであった。
それはどうして、どこからくるのかわからぬながらに、仕事なかばにふと彼は、やけるように汗ばんだ肩のあたりに、ひやりとする快い感触をおぼえた。彼は、鎌が研《と》がれているあいだに、空を仰いだ。低い、重い雨雲がおおいかぶさってきて、大粒な雨が落ちてきたのであった。何人かの百姓たちは、上着のあるほうへかけだして、それをはおったが、他の者は、レーヴィンがしたと同じように、その快い冷気の下で、ただ喜ばしそうに肩をすくめていた。
ひとうね、またひとうねと仕事は進んだ。長いうねも、短いうねも、草のよいうねも、わるいうねもあった。レーヴィンは、ぜんぜん時間の観念を失ってしまって、早いのか遅いのか、てんで見当がつかなかった。彼の仕事には、今や、彼に大きな喜びをもちきたす変化がおこりはじめていた。仕事の最中に、彼の上に、ある時間が見いだされるようになり、その時間のあいだは、彼は自分のしていることを忘れていたので、しだいに仕事がらくになってきた。そしてこの時間には、彼のうねも、ほとんどティートのそれのように、平らに、手ぎわよく刈りあげられた。だが、一度彼が自分のしていることを意識し、うまくやろうと努めだすやいなや、たちまち仕事の困難を感じて、仕上げがうまくいかないのだった。
またひとうね刈りおえて、彼がふたたびはじめようとしていると、ティートは立ちどまって、老人のほうへ行き、何やら小声でささやいた。ふたりはそろって太陽を見あげた。『あいつらはいったい何を話してるんだろう。どうしてあいつらは、さきをつづけようとしないんだろう?』とレーヴィンは、百姓たちがもう四時間以上もぶっ通しに刈ったので、食事をする時刻がきたのだということには気がつかないで、考えた。
「小びるでごぜえますだよ。だんなさまあ」と老人はいった。
「もうそんな時間かい? じゃ、たべることにしよう」
レーヴィンは鎌をティートに渡すと、上着のあるほうへパンをとりにいく百姓たちといっしょに、いくらか雨にぬれた細長い刈り跡のうねうねを横ぎって、馬のほうへ行った、そして、そこで初めて彼は、自分が天気を見あやまったことと、雨が乾草をぬらしたことに気がついた。
「乾草が台なしになるだろうな」と彼はいった。
「なあに、だんなさまあ、雨に刈って、日よりに寄せろでがすて」と老人はいった。
レーヴィンは馬を解いて、コーヒーをのみに家へもどった。
セルゲイ・イワーノヴィッチはまだ起きたばかりであった。コーヒーをのみ終わるとレーヴィンは、また草刈り場へとひっ返した、セルゲイ・イワーノヴィッチが着がえをして、食堂へ出てくるまえに。
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五
食後は、レーヴィンはもう以前の場所ではなく、隣りへくるようにと招いたひょうきん者の老人と、去年の秋結婚したばかりで、この夏はじめて草刈りに出た若い百姓とのあいだの列へくわわった。
老人はからだをまっすぐにして、規則正しく大またに、まがった足を運びながら、一見して、歩く拍子に手を振るぐらいにしか思われない、正しい、一様な動作で、まるで遊びごとでもしているように、高い背たけのよくそろった草の列をなぎ倒しながら、さきへさきへと進んで行った。それはちょうど、彼ではない一丁の鋭利な鎌が、ひとりでに水々しい草を切っていくかのようであった。
レーヴィンのあとには、若いミーシカがつづいていた。新しい草をねじって髪のまわりにまきつけた、彼の若いあいきょうのある顔は、たえずけんめいの色を見せていた。そのくせ、人がそのほうを見るやいなや、彼はにこにことほほえんで見せた。彼は仕事の苦しいことを人にけどられるくらいなら、むしろ死んだほうがましだとでも思っているようであった。
レーヴィンは彼らのあいだに立って進んだ。一ばん暑いさかりにも、草刈りはさして苦痛だとは思われなかった。全身をひたした汗は涼味をあたえ、背中や、頭や、ひじまで袖をまくりあげた腕を照らす太陽は、労働の上に力と根気とをあたえた。そしてますます多く、例の、自分のしていることを少しも考えない、無意識状態の瞬間がつづくようになった。鎌がひとりでに草を刈った。それは幸福な瞬間であった。が、それにもまして喜ばしい瞬間は、うねのつきている川のほとりまで刈り進んだとき、老人がぬれた厚い草で鎌をぬぐい、すがすがしい川水でその刃をそそぎ、ブリキかんに水をくんで、レーヴィンにちそうしてくれるときであった。
「どうでがす、わしのクワス(ロシア独特の清涼飲料)は! ええ、ようがしょう?」と、彼は目くばせしながらいうのだった。
じっさいレーヴィンは、草の葉の浮いた、ブリキかんのさびた味のする、この生あたたかい水ほどの飲料を、かつて味わったことがなかった。そしてこのあとへはすぐに、ゆうゆうとした、幸福な、鎌を手にしたままのぶらぶら歩きがつづき、そのあいだには流れる汗をぬぐうことも、胸いっぱいに空気を吸うことも、草刈り人夫の長い列や、周囲の森や野におこっていることなどをながめることも、自由であった。
レーヴィンは長く刈っているにしたがって、いっそう多く忘我の瞬間を感ずるようになった。そのときにはもう、手が鎌をふるうのではなくて、ちょうど鎌自身が、たえず自分を意識している、生命にみちた肉体を引きまわしてでもいるように、まるで魔法にでもかかったように、そのことはぜんぜん念頭になくていながら、正しい、りっぱな仕事が、おのずからになされていくのであった。これが最も幸福な瞬間であった。
ただ、無意識のうちになされているこの動作を中止して、ものを考えねばならぬとき、土の高まりや、雑草まじりの|すかんぽ《ヽヽヽヽ》を刈らねばならぬときだけは、苦痛だった。老人はそれをらくらくとやってのけた。高まりへかかると、老人は動作を変えて、あるところではかかとで、あるところでは鎌のさきで、ちょっとした打撃をくわえては両側からくずしていくのだった。そうしながらも、彼はたえず、自分の前に現われてくるものを注意して観察していた。そして、あるときは野|いちご《ヽヽヽ》をちぎって、それをたべたり、レーヴィンにふるまったり、あるときは鎌のさきで小枝を払いのけたり、あるときはうずらの巣をのぞいて、鎌のま下から雌鳥を飛び立たせたり、あるときは道路へ出てきた|へび《ヽヽ》をつかまえて、フォークで刺すように鎌でもちあげ、レーヴィンに見せて、わきのほうへほうりだしたりした。
レーヴィンにも、彼のあとにつづいた若いあいきょう男にも、こうした動作の転換はむずかしかった。彼らふたりは、ただもう、緊張した運動をくりかえすだけでほとんど精いっぱいだったために、動作を変更したり、同時に自分の前におこることを観察したりするだけの余裕は、なかった。
レーヴィンは時のたつのをおぼえなかった。もしだれかに、何時間ぐらい刈ったかとたずねられたら、彼は三十分ぐらい、と答えたであろう――しかも時は、もう午食《ひる》近くなっていたのである。うねを歩きながら老人は、レーヴィンの注意を、高い草のなかや道路づたいに、頭のさきをのぞかせながら、パンのはいったふくろや、ぼろきれで栓《せん》をしたクワスのびんなどを、八方から重そうに運んでくる男女の子供たちのほうへ、誘うのだった。
「ごらんなされ、てんとう虫どもがはって来ますだ」と彼は、彼らのほうを指さしながらいって、手をかざして太陽を見た。
彼らはまた、ふたうね刈った。そこで老人は立ちどまった。
「さあ、だんなさま、午《ひる》でがすわい!」と、彼ははっきりした口調でいった。で、刈り手たちは、川のところまで行きつくと、刈り跡をひっ返して、上着のおいてあるほうへ行った。そこには、食事を運んできた子供たちが、彼らを待ちながらすわっていた。百姓たちは集まった――遠いものは車の下に、近いものは、その上へ草の投げかけてある灌木の木かげに。
レーヴィンは彼らの近くに腰をおろした。そこを立ち去りたくなかったのである。
主人にたいするいろんな遠慮は、もうずっと前からとれていた。百姓たちは食事の用意にとりかかった。あるものは顔を洗い、若い元気な連中は川へ飛びこみ、あるものは休み場所をつくって、パンのふくろを開き、クワスのびんの栓をぬいた。老人はコップの中へパンをくだいて入れ、それをさじの柄でかきまわして、ブリキかんから水をつぎこみ、もう一度パンをくだいて塩をふりかけると、東のほうへ向かってお祈りをはじめた。「さあよ、だんなさまあ、わしのパン汁をあげますだ」と彼は、コップの前にひざまずきながら、いった。
パン汁がいかにもうまかったので、レーヴィンはうちへ食事に帰ることをみあわせた。彼は老人と食事をともにして話しこみ、彼を相手に彼の内輪話に耳をかたむけたり、老人に興味のある自分の仕事や家庭の事情などについて話して聞かせたりした。彼は自分を、兄よりもこの老人のほうにより近いもののように感じて、この男にたいしておぼえた優しい心もちにわれ知らずほほえまされた。そして老人がふたたび立ちあがって祈りをささげ、同じ灌木のかげに草をまくらに横になったときには、レーヴィンもそのとおりにして、日ざかりのなかでしつこくまつわりつく|はえ《ヽヽ》や、汗ばんだ顔やからだをくすぐる小虫のいるにもかかわらず、すぐに眠りに落ちてしまった。そして太陽が灌木の向こう側へまわって、そこから彼を照らしはじめた時分に、やっと目をさました。老人はずっと前に目をさまして、若い者たちの鎌を見てやりながら、すわっていた。
レーヴィンはあたりを見まわしたが、ちょっとその場所に気がつかなかった――それほど何もかもがすっかり変わっていた。草場の大きなひろがりは、草が刈られて、早くも香気を放ちかけていた乾草のつらなりを見せながら、夕べ近い日の斜めな光線に、一種特別な新しい光輝でかがやいていた。そして、草を刈りとられた川岸の灌木や、さっきは見えなかったが、今はそのまがりめが鋼鉄のようにぴかぴか光って見える川そのものや、動いたり、たたずんだりしている人々や、刈り残された草場の切り立ったような草の壁や、さては、裸になった草場の上を舞っている大|たか《ヽヽ》など――そういうものがすべて、ぜんぜん面目を新たにしていた。十分目がさめると、レーヴィンはもうどれくらい刈れたか、また今日のうちにどれくらい刈れるかと、そんなことを考えはじめた。
四十二人の人数にしては、かなり仕事がはかどっていた。農奴制のころには、三十丁の鎌で、二日かかった大きな草場が、もうあらかた刈られていた。刈られてないところは、ただすみのほうに、短いうねが残っているだけであった。が、レーヴィンは、この日のうちにできるだけよけい刈っておきたかったので、ようしゃなく沈んでいく太陽をうらめしく思った。彼は、なんの疲労をも感じていなかった。彼にはただ、もっともっと早く、そして、できるだけ多く仕事をしたいという意欲があるだけであった。
「どうだね、もうひとつマシキン高地のほうも刈ったら。おまえはどう思うね?」と彼は老人にいった。
「さあ、どんなもんでごわしょうかね、日が高うごわせんで、若えもんに酒手《さかて》でもはずんでやってくだせえましたら?」
午後の休みで一同がまたすわりこみ、たばこを吸う者は吸いはじめたときに、老人が若い者たちに「マシキン高地を刈ること――酒手が出ること」を告げた。
「いやはや、そりゃ刈らねえじゃいられましねえ! 行こや、ティート! しっかりやるべえよ! 飯なんか夜になってから食えばええだ。行こや!」こういう声々が聞こえた。そして、パンの残りを食いながら、刈り手たちは仕事のほうへもどっていった。
「さあ、若え衆、かかってくれ!」こうティートはいって、まるでかけるようにして、まっさきに立った。
「進め、進め!」と老人は、そのあとから刈り進んで、手もなくそれを追い越しながらいった。「足さ切るだぞ! 気いつけろや!」
若い者も、年よりも、まるで競争のようにして刈った。しかも、彼らはどんなに急いでも、草を台なしにするようなことはなかった。草の列はやはり正しく、みごとに積み重ねられていった。片すみのほうに残っていた部分は、五分間に刈りつくされてしまった。まだうしろのほうの連中が自分のうねを刈りあげないうちに、先頭の連中はもう、上着を肩にひっかついで、路を横ぎり、マシキン高地のほうへ向かった。
彼らが、ブリキかんをがらがら鳴らしながら、マシキン高地の木の茂った窪地へはいっていったときには、太陽はすでに木々のこずえのあたり近く落ちかかっていた。草は、窪地のまん中では帯の近くまでもあり、すなおで、柔らかで、ふさふさとしていて、林のなかのほうは、ところどころ|ままこ《ヽヽヽ》菜でまだらにいろどられていた。
縦に刈るか横に刈るかでちょっと相談のあったのち、これも名うての草刈りで、フラホール・エルミーリンという大男の髪の黒い百姓が、先頭に立った。彼はまっさきに持ちうねを刈りあげると、もとへひっ返して、わきへよった――と、一同もそのあとにつづいて、窪地づたいに山すそへくだったり、丘の上の林の突端まであがったりしながら、ならんで進みはじめた。太陽は森のあなたへ落ちた。早くも露がおりはじめて、刈り手たちは、丘の上では日に照らされたが、水蒸気の立ちのぼっている低地や向こう側では、快い、露けのある日かげを進んだ。労働はたぎりたった。
しっとりとした音をたてて刈られながら、かんばしい香をはなつ草は、高い列をつくってならべられた。がらがらと、ブリキかんの音をたてたり、あるいは鎌のふれあう音をさせたりしながら、八方から短いうねのほうへつめよせてきた刈り手たちは、鎌を研《と》ぐ砥石《といし》の笛のような音や、または元気な大声でお互いに追いかけっこをしながら、進んでいった。
レーヴィンはやはり、そのあいだずっと、若いあいきょう男と老人とのあいだにいた。老人は、ひつじ皮のジャケットを着て、例のとおり元気で、ひょうきんで、仕事がいかにも楽しそうであった。森のなかでは、ぬれた草におおわれて、まるまるとふとっている|白かばたけ《ヽヽヽヽヽ》が、たえず鎌にかかって切り捨てられた。が、老人は、|きのこ《ヽヽヽ》を見つけると、そのたびに身をかがめてそれをとりあげ、ポケットへ入れた。「また、ばあさまへおみやげだ」そのたびに彼はこういうのだった。
ぬれた柔らかな草を刈るのはぞうさなかったが、窪地のけわしい斜面をあがったりさがったりするのは苦しかった。が、老人はいっこう平気であった。例のとおりに鎌をふるいながら、彼は、その大きなわらじをはいた足を小またに、しっかりと踏んで、ゆるゆると険峻《けんしゅん》をよじのぼって行った。そして全身をぶるぶるふるわせて、シャツの下へもも引きをずりさげながら、一本の草、一本の|きのこ《ヽヽヽ》も見のがさず、いつも同じ調子で、百姓たちやレーヴィンを相手に冗談口をきいていた。レーヴィンはそのあとにしたがいながら、鎌をもたずとものぼるに困難なほどのけわしい斜面を、鎌を手にしてよじのぼるときには、しばしば、こんどは落ちるだろうと観念したが、しかし、彼はのぼるべきところにのぼり、すべきだけのことをしおおせた。彼は、なにか一種外部的の力が、自分にはたらいているような気がしてならなかった。
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六
マシキン高地は刈りつくされ、最後のうねも終わったので、一同は上着をはおって、楽しげに家路についた。レーヴィンは馬にまたがり、なごり惜しく百姓たちに別れを告げると、家のほうへ馬を進めた。丘の上で彼は振り返って見た――が、低地からあがる霧のために、彼らの姿は見えなかった。ただ、にぎやかな粗野な話し声と、高い笑い声と、鎌のふれあう音とが聞こえるだけであった。
レーヴィンが乱れた髪の毛を汗で額へへばりつかせ、黒くぐっしょりとぬれた背や胸のまま、快活に話しかけながら兄の部屋へはいって行ったときには、セルゲイ・イワーノヴィッチはもうずっと前に食事をすませて、郵便でとどいたばかりの新聞や雑誌に目を通しながら、自分の部屋でレモン入りの氷水を飲んでいるところであった。
「きょう、ぼくらは草場を全部刈っちまいましたよ! ああ、じつに愉快だ。すばらしく愉快だ。ところで、あなたはどうしていました?」とレーヴィンは、昨日の不愉快な論争のことなどすっかり忘れて、こういった。
「おいおい! いったいそれはなんというざまだい!」とセルゲイ・イワーノヴィッチは、はじめは不満げに弟の様子を見ながらいった。
「そのドアを、ドアをしめてくれ!」と彼は叫んだ。「たしかに十匹は入れたにちがいない」
セルゲイ・イワーノヴィッチは、おそろしく|はえ《ヽヽ》がきらいだったので、自分の部屋では、ただ夜だけ窓をあけるようにして、ドアはつとめてしめるようにしていた。
「だいじょうぶ、一匹もはいりゃしませんよ。だが、もしはいったら、ぼくがつかまえます。だが、ぼくの今日の喜びは、あなたにはちょっと想像もつかないでしょうね! あなたはどうして一日を送りました?」
「おれはいい一日を送ったさ。だが、ほんとうにおまえは一日刈ってたのかい? きっとおまえは、おおかみのように腹をへらしてるだろう。クジマがおまえのために、すっかり支度をしていたよ」
「いやぼくはたべものはほしくありません。あちらでやって来たんですよ。が、まあ、行ってからだを洗ってきましょう」
「うん、行ってこい、行ってこい、わしもじきおまえのほうへ行くよ」と、セルゲイ・イワーノヴィッチは頭を振って、弟の顔を見ながらいった。「さあ行きなさい、行きなさい、早く」と彼は笑顔で言いたすと、書物をひとまとめにして、出ていく用意をした。彼もまた、急に晴れやかな気分になってきて、弟とはなれたくなくなったのである。「だが、雨の降ったときには、おまえはどこにいたんだね?」
「なに、雨ですって? 降ったか降らないかわからないくらいでしたよ。じゃ、ぼくはすぐ来ます。するとあなたも、愉快な一日を送ったんですね! いや、それは何よりでした」そしてレーヴィンは、着がえをすべく出ていった。
五分のちに、兄弟は食堂で顔をあわせた。レーヴィンは、食いたくないような気がしていたので、はじめはただ、クジマの気をわるくしないために、食卓についたのだったが、ひと口、口にするやいなや、たちまち食事がやたらにうまく思われだした。セルゲイ・イワーノヴィッチは、笑いながら彼の様子をながめていた。
「ああ、そうだった、おまえのところへ手紙が来ていた」と彼はいった。「クジマ、すまないが下からもって来てくれ。だが気をつけてな、ドアをしめるのを忘れないように」
手紙はオブロンスキイからであった。レーヴィンは声を出してそれを読んだ。オブロンスキイはペテルブルグから書いてよこしたのだった――「ぼくはドリーから手紙を受け取った。あれは、エルグショーヴォにいるのだが、どうも万事つごうがよくないらしい。きみ、ひとつあれのところへ出かけて行って、相談にのってやってくれないか。きみはなんでもよく知っているから。あれもきみに会えば喜ぶだろう。あれはぜんぜんひとりぼっちだ。かわいそうな女だ。義母《はは》はみんなといっしょにまだ外国にいる」
「こいつはいい。ぜひ行ってやろう」レーヴィンはいった。「なんならいっしょに行きましょう、あの女《ひと》はじつに申しぶんのない婦人だ。そうお思いになりませんか?」
「するとなんだね、あまり遠くないところにいるんだね?」
「三十ウェルスターですよ。いや四十ぐらいはあるかな。しかし道はいいです。気持よく乗って行けますよ」
「それはありがたい」依然として、にこにこしながら、セルゲイ・イワーノヴィッチはいった。
弟の顔つきは、いやおうなしに、彼を上きげんにしてしまうのであった。
「それはそうと、どうだ、おまえの食欲は!」と彼は弟の、皿の上にのしかかった、赤黒く日にやけた顔と首とを見ながら、いった。
「すてきですね! あなたはちょっと信じられますまいが、すべてのくだらないことにたいして、これくらい有効な療法はまずありませんね。ぼくは Arbeitscur(労働療法)なる新術語をもって、医学を豊富にしようと思っていますよ」
「だが、おまえにはその必要はなかろうと思われるがね」
「ええ、だが、いろんな神経性の病人には必要ですからね」
「そうだ、そりゃやってみるべきだね。じつはわしも草刈り場へ、おまえの様子を見に行こうと思ったんだが、いかにも暑いので、森からさきへはひと足も出なかったんだ。わしはそこで一服して、森をぬけて村へ行った。そしておまえのばあやに会ったので、おまえにたいする百姓たちのおもわくについて、あれにさぐりを入れてみた、ところが、わしの見るところでは、彼らはおまえの草刈りを、あんまりよくはいっていないらしいよ。あれはこういうのさ――『だんな衆の仕事じゃない』って。で、つまり要するに、彼らの頭には、彼らのいわゆる『だんな衆』の仕事にたいして、非常にかたくなな一種の要求ができている。そして彼らは、だんな衆が彼らの解釈における一定の限度以外に出ることは、あくまでも許すことができない――こういうことになるらしいのだ」
「あるいはそうかもしれません。けれども、これはぼくにとって、今日までかつておぼえなかったくらいの満足なんですからね、それに、べつだん、わるいことでもないし。そうじゃありませんか?」とレーヴィンは答えた。「彼らの気にいらないからって、どうしようがあるもんですか。だが、ぼくはそれほどのことでもあるまいと思うんですがね、いかがですか?」
「とにかく」と、セルゲイ・イワーノヴィッチは言葉をつづけた。「おまえはわしの見るところでは、自分の一日に満足している」
「非常に満足です。なにしろぼくらは、草場を全部刈っちまったんですからね。そのうえ、ぼくはそこで、どんなおやじとなじみになったでしょう! まったく、どんなにすばらしい男だったか、兄さんにゃ、ちょっと想像もつきませんよ」
「うん、おまえは自分の一日にすっかり満足なんだね。ところで、わしもご同様さ。第一に、わしは将棋の問題をふたつ解いたが、ひとつのほうはことにおもしろいんだ――歩開《ふあ》きというやつでね。あとでやってみせてやろう。それから――昨日のわしらの話を考えてみたよ」
「なに? 昨日の話ですって?」レーヴィンは、幸福そうに目をそばめ、食後の太息をつきながら、昨日の話というのはどういうことであったか、てんで思い出す気力もない様子で、こういった。
「そしてわしは、おまえにも正しいところのあるのを発見したのだ。つまりお互いの意見の相違点は、おまえは、個人的の利益を原動力とするのに、わしは、相当に教養ある人にはすべて、万人の福祉という観念があるべきだと思っている――この一事にあるわけだ。あるいはおまえも正しいのかもしれない、物質上の利益に根ざした活動がさらに望ましいというのはね。しかしとにかく、おまえはあまりに、フランス人のいわゆる primesautiere(衝動的)な性質だよ。おまえは激しく精力的な活動を要求するか、それともいっさいを求めないかだ」
レーヴィンは、兄の言葉を聞いてはいたが、まるきり何もわからなかったし、またわかろうとも思わなかった。彼はただ、兄が自分の少しも聞いていなかったことを、ひと目で見ぬくような質問を出さねばいいがと、ひたすらそれを恐れていた。
「そうだろう、おい」とセルゲイ・イワーノヴィッチは、彼の肩に手をふれながら、いった。
「ええ、もちろんです。それに、なんですよ! ぼくは自分の考えを固執《こしつ》はしませんよ」とレーヴィンは、子供らしい、すまなさそうな微笑をうかべて答えた。『だが、いったいおれはどんな議論をしたんだっけ?』と彼は考えた。『もちろん、おれも正しければ、兄も正しいのだ。そして何もかもがけっこうなのだ。それにしても、事務所へ行って、さしずだけはしておかなくちゃ』彼はうんとひとつ背のびをして、ほほえみをうかべながら立ちあがった。
セルゲイ・イワーノヴィッチも同じように微笑した。
「どこかに出かけるなら、いっしょに行こう」と彼は、新鮮の気と元気とを、そのからだから発散させているような弟と別れたくなくて、こういった。「行こう、そして、もしおまえに用があるなら、事務所へもよろう」
「やっ、しまった?」とレーヴィンは、セルゲイ・イワーノヴィッチがびっくりしたほど、大きな声で叫んだ。
「なんだ、どうした、おまえ?」
「アガーフィヤ・ミハイロヴナの手はどうです?」とレーヴィンは、自分の頭をぼいんとひとつくらわしながらいった。「ぼくはあれのことまですっかり忘れちまってた」
「ずっとよくなったよ」
「そうですか、とにかくぼくは、あれのところへひと走りいって来ます。そして、あなたが帽子をかぶる暇もないうちにもどってきます」
そして彼は、おもちゃのがらがらのように靴のかかとを鳴らしながら、階段をかけおりていった。
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七
ステパン・アルカジエヴィッチ(オブロンスキイ)が、局外者にはちょっと見当がつかぬが、勤めをもつ人ならだれしも共鳴する、きわめて自然な、重要な、それがなくては勤めをすることができないという義務――官庁へ顔だしをするという義務をはたすためにペテルブルグへのりだして、その義務遂行のために、ほとんどありたけの金を家からもちだし、のんきに、愉快に、競馬や別荘で時を送っていた一方に、ドリーは、できるだけ費用を節約する目的で、子供たちを連れて田舎へひっこんだ。彼女は、自分の持参財産であるエルグショーヴォ村へ行ったのであるが、そこはこの春、森の売られたところで、ポクローフスコエのレーヴィンのところからは、五十ウェルスターばかりの地点にあった。
エルグショーヴォでは、大きい古い地主邸は、もうずっと以前にこわされて、公爵の手で、はなれが修繕をくわえられ、とりひろげられてあった。そのはなれは、普通のはなれのように、並木道と南に横をむけて立っていたのだが、二十年ほどまえ、ドリーがまだ子供だった時分には、ひろくて住みごこちがよかった。だが、今では、このはなれも古びて荒れくちていた。この春、ステパン・アルカジエヴィッチが森を売りに出かけたとき、ドリーは彼に、家を見まわって、必要な修繕を言いつけて来てくれるようにと頼んだのだった。ステパン・アルカジエヴィッチは、妻にたいして罪を感じている一般の夫の例にもれず、妻のきげんをとることにはきゅうきゅうとしていたので、自分で家を見まわって、自分だけで必要とみとめたことは、いちおうさしずをしてきた。彼の考えによれば、家具全部をさらさでおおい、窓かけをかけ、庭を掃除し、池に橋をかけ、草花を植えることが必要であった。ところが、彼は、そのほかのかんじんなことを、大部分忘れていたので、そうした不備がのちにダーリヤ・アレクサーンドロヴナ(ドリー)を苦しめる種となったのである。
ステパン・アルカジエヴィッチは、自分ではいかに思いやりのある父であり夫であろうと努力しても、どうしても、自分が妻子のある身だということを覚えていることができなかった。彼には独身者の趣味があって、行動はすべてその趣味を基準としていた。で、モスクワへ帰ると、彼はとくとくとして妻の前に、用意万端のととのったこと、家は楽園のようであろうこと、自分はぜひ行くようにすすめるということをならべたてた。ステパン・アルカジエヴィッチにとっては、妻の田舎行きはどの点からいっても好つごうであった。子供たちの健康にも、経費の節減にも、また彼がいっそう自由でありうる点でも。ところが、ダーリヤ・アレクサーンドロヴナはまた、夏のあいだ田舎へ行くことを、子供のため、ことに猩紅熱後の回復のはかばかしからぬ娘のため、なお最後には、彼女を苦しめ通しの、薪《まき》屋や、魚屋や、靴屋にたいする僅かばかりの勘定と、つまらない卑下《ひげ》とをのがれるためにも、ぜひ必要であると考えていた。なお、そのうえ彼女は、夏のなかばには外国からもどるはずになっている、かねてから水浴をすすめられている妹のキティーを、田舎の自分のところへ呼びよせようと空想していたので、田舎行きがいっそう好ましかったのである。キティーは温泉場から彼女のもとへ、ふたりのいずれにも幼年時代の思い出にみちたエルグショーヴォで、ドリーといっしょに夏を送るくらいうれしいことはないと、書いてよこしていたのである。
田園生活の初めの数日は、ドリーにとってずいぶん困難なものであった。彼女は子供のころ田舎に住んだことがあるので、その頭には、田舎はあらゆる都会生活の不愉快からの救いであり、そこの生活はよし美しくはなくとも、(これはドリーには容易にあきらめがついた)そのかわり安価で便利――つまり、なんでもあり、なんでも安く、なんでも手に入れることができるし、子供たちのためにもいい、こういう印象が残っていだ。ところが、いま、主婦として田舎へ来てみると、それらのすべてが、彼女の予想とはかくだんの相違であることを、発見したのである。
彼らが着いた翌日は、どしゃ降りで、夜なかに、廊下や子供部屋へ雨もりがしたので、ベッドを客間へうつさなければならなかった。女中部屋には炊事女がいなかった。九頭の牝牛《めうし》は、牛飼いの女の話によると、あるものははらんでいたり、あるものはまだ子牛だったり、あるものは年をとりすぎていたり、またあるものは乳がとまっていたりして、バターも、乳も、子供たちだけの分にもたりなかった。卵はなかった。雌鶏も手にはいらなかった。年とった紫色した筋っぽい雄鶏が、焼かれたり煮られたりした。床を洗う女を頼むこともできなかった――みんなじゃがいも畑へ出ていた。また、馬車を乗りまわすことも、一頭きりの馬が強情で、|ながえ《ヽヽヽ》につけるとあばれるので、望まれなかった。水浴する場所はどこにもなかった――川の岸はすっかり家畜に踏みあらされて、おまけに道路からまる見えであった。散歩すらが、家畜が垣《かき》の破れから庭内へ侵入してくるので、中に一頭恐ろしい牡牛《おうし》がいて、それがほえたてるので、角で突かれそうな気がして、これもやはりできなかった。衣類を入れる戸だなもなかった。ある分も、戸がしまらなかったり、人がそばを歩くとひとりでに開いたりした。パン焼きがまも土つぼもなかった。洗たく場に|かま《ヽヽ》もなければ、女中部屋に火|のし《ヽヽ》さえなかった。
安静と休息とのかわりに、こういう恐ろしい、彼女の目から見れば、困窮状態におちたので、初めのうちダーリヤ・アレクサーンドロヴナは、すっかり絶望してしまった――全力をあげて気をくばったあげく、彼女はその状態のどうにもならないことを痛感して、一分ごとに目にうかんでくる涙をおさえていた。その風采が堂々として礼儀正しいところから、ステパン・アルカジエヴィッチの気にいって、邸番から抜擢《ばってき》された軍曹あがりの執事は、ダーリヤ・アレクサーンドロヴナの困っていることには、なんの同情をも持たなくて、ただうやうやしくこういうだけであった――「どうにもいたしかたがございません。あのとおりおうちゃく者ばかりでございますから」そして、何ひとつ彼女の力になろうとはしなかった。
その状態は、どう手のくだしようもないもののように思われた。けれどもオブロンスキイ家には、どこの家庭にもあるように、目にはたたないが重要な、そして有益なひとりの人物――マトリョーナ・フィリモーノヴナがいた。彼女は女主人を慰めて、そのうちには何もかもまるくおさまるであろう(これは彼女のいつもつかう言葉で、マトヴェイも彼女からそれを借用していた)ことを説得して、自分は、あせりもせねば心配もせず、活動をつづけていた。
彼女はすぐに執事の妻と懇意《こんい》になり、最初の日にもう、彼女と執事と三人で、アカシヤの木の下でお茶を飲み、いろんな相談ごとをした。まもなくそのアカシヤの木の下に、マトリョーナ・フィリモーノヴナのクラブができあがり、そしてこの、執事の妻と、村の長老と、帳場の男とから組織されているクラブを通して、生活上の困難は少しずつ緩和していき、一週間後にはじっさい、何もかもがまるくおさまってしまった。屋根は修復され、炊事女は村の長老の教母というのが見つかり、雌鶏は買われ、牝牛は乳を出すようになり、庭はくいで垣をゆわれ、調理台は大工に作られ、戸だなには錠がとりつけられて、ひとりでに開くようなことはなくなり、兵隊用のらしゃでおおわれた火のし板は肘掛《ひじか》けいすの腕から|たんす《ヽヽヽ》の上へとかけわたされて、女中部屋では火|のし《ヽヽ》のにおいがするようになった。
「さあ、いかがでございます! 奥さまはずいぶん悲観していらっしゃいましたけれど」とマトリョーナ・フィリモーノヴナは火|のし《ヽヽ》板をさし示しながら、いった。
わら垣をほどこした水浴小屋までが作られた。リーリイは水浴をはじめた。そしてダーリヤ・アレクサーンドロヴナにとっては、平安とまではいかないながらに、安易な田園生活の期待が、一部分ではあったが実現された。六人の子供をかかえて平安でいることは、ダーリヤ・アレクサーンドロヴナには望めないことであった。ひとりが病気にかかれば、つぎのが心配になる、三人めには何かがたりないとか、四人めは不良性のきざしを見せはじめるとか、それからそれへとさまざまなことがわきおこった。ごくまれに、短い平安な時があった。しかし、これらの心づかいや心配が、ダーリヤ・アレクサーンドロヴナにとっては、ただひとつの望みうる幸福であった。もしそれがなかったら、彼女はたえず、自分を愛していない夫のことを、ひとりくよくよと考えさせられたにちがいなかった。まだ、そればかりでなく、病気の不安や、病気そのものや、子供たちのなかにわるい傾向の徴候《ちょうこう》を見る悲しみは、母親にとっていかにつらいものであっても、――すでにこのごろでは、子供たち自身がささやかな喜びをもって、彼女の悲しみをつぐなってくれるようになっていた。これらの喜びは、非常に小さな、砂にまじった金のように目だたないものであって、わるいときには、彼女はただ悲しみばかり、つまり砂ばかりしか見なかったが、また、ただ喜びばかり、金ばかりを見るようなよいときもあったのである。
いまや田園の閑寂《かんじゃく》ななかで、彼女はますますしげくこの喜びを意識するようになった。彼らを見ながら、しばしば彼女は、自分が誤っていること、自分が母のよくめで子供たちを買いかぶっていることを、自分に思い知らせるために、ありたけの力を集めた。でも、やはり彼女は、自分にはいい子供が、それぞれ性質こそちがえ、めったにないほどの子供が六人もあるということを、自分にいわないではいられなかった。――そして彼女は、彼らのために幸福であり、彼らのために誇りをも感じているのであった。
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八
五月の末、やっと何もかもが、まがりなりにも整頓した時分に、彼女は、田舎の不備を書いてやった苦情にたいする夫からの返事を受け取った。彼は彼女に、万事に注意の行き届かなかったことをわびながら、いい機会のありしだいさっそく行くと約束してよこした。が、その機会はなかなかこなくて、ダーリヤ・アレクサーンドロヴナは、六月の初めまで、ひとりで田舎に暮らしてしまった。
聖ペテロ祭週の日曜日に、ダーリヤ・アレクサーンドロヴナは、子供たちに聖餐《せいさん》を受けさせるため、馬車で祈祷式《きとうしき》へ出かけて行った。ダーリヤ・アレクサーンドロヴナは、妹や母や友だちなどと親しく哲学的な話をするときには、しばしば、宗教にかんする自由な見解によって相手を驚かしたものであった。彼女には、輪廻《りんね》(生まれかわり)という彼女独得のきたいな宗教があって、それを堅く信じていたので、教会のドグマなどはほとんど意にかいしなかった。しかし家庭では――単にみずから範を示すというばかりでなく、衷心《ちゅうしん》から――厳格にいっさいの教会の要求を実行した。で、子供たちがもう一年も聖餐を受けないでいることがひどく気にかかっていたので、マトリョーナ・フィリモーノヴナの賛成と同感とをえて、この夏のうちに、それをすませてしまおうと決心したのであった。
ダーリヤ・アレクサーンドロヴナは、何日もまえから、子供たちに着せていくもののことで思案をめぐらしていた。服は縫われたり、仕立てなおされたり、洗たくされたり、縫い目やすそのひだをのばされたり、ボタンが縫いつけられたり、リボンが用意されたりした。ただ、イギリス女が引きうけて仕立てたターニャの服だけが、ひどくダーリヤ・アレクサーンドロヴナのきげんをそこねた。イギリス女は縫いなおすときに、縫いしろをすべて寸法どおりにせずに、袖つけのくりをあまり深く取りすぎたので、その服はまるで片なしになってしまうところだった。それは、ターニャの肩をしめつけて、見ただけでも苦しそうであった。けれど、マトリョーナ・フィリモーノヴナがまちを入れ、長いえりをつけることを思いついた。で、そのほうはどうやらおさまったが、イギリス女とはすんでのことに、ひと悶着《もんちゃく》おこすところであった。が、とにかく、その朝までには、何もかもがひと通りととのったので、九時――それまで待ってもらうようにと僧侶に頼んであった刻限――近くなると、着飾らされた子供たちが、うれしさに輝きながら、玄関の階段下のほろ馬車の前に行列して、母の出てくるのを待ちうけていた。
馬車には、強情なウォローンのかわりに、マトリョーナ・フィリモーノヴナのきもいりで、執事のブールイ(くり毛)がつけられていた。そして、ダーリヤ・アレクサーンドロヴナは、自分の身じまいの心づかいに暇どったあげく、やがて純白なボイルの服をきて、馬車に乗るべくそこへ出てきた。
ダーリヤ・アレクサーンドロヴナは、細心と興奮とをもって髪を結び、衣装をつけた。昔は彼女も美しく、人好きのするようにと自分のために装いをこらしたものであったが、そののち、だんだん年をとるにしたがって、おつくりをするということが、しだいにおっくうになってきた。つまり彼女は、自分の容色の衰えたのを知っていたからであった。が、今は、彼女はふたたび、満足と興奮とをもって装いをこらした。しかし今の彼女は、自分のためではなく、自分の美のためではなく、自分がこれらの美しい子供たちの母親として、一般の印象をそこなうまいために、装いをこらしたのであった。そして、最後にもう一度鏡を見て、彼女は自分に満足をおぼえた。彼女は美しかった。が、それは以前に彼女が、舞踏会などで美しくありたいと望んだような、そういう美しさではなくて、いま、げんにいだいている目的にかなった美しさであった。
教会には、百姓や、屋敷番や、彼らの女房たちのほかには、だれもいなかった。けれどもダーリヤ・アレクサーンドロヴナは、子供たちと自分とが呼びおこした恍惚《こうこつ》を見た。少なくとも、見たと思った。子供たちは、はなやかな服で飾られた姿が美しかったばかりでなく、きちんと行儀よくしているさまが愛らしかった。じつのところ、アリョーシャの立ちかたは、完全にいいとはいわれなかった――彼は、のべつ頭を動かして、自分のジャケットの背中を見ようとした。でも、彼はやはり、なみはずれて愛らしかった。ターニャはおとなのようにしゃんと立って、小さい者たちのめんどうをみてやっていた。しかし、一ばん末のリーリイは、あらゆる物にたいして無邪気な驚異を見せているさまがたまらなくかわいく、聖餐を受けてから、彼女が――「Please some more(どうぞもう少し)」といったときには、だれしもほほえまないではいられなかった。
家路をさして帰りながらも、子供たちは何か崇厳《すうごん》なことの完成したのを感じたらしく、非常におとなしくしていた。
家でも万事がつごうよく運んだが、ただ朝食のときに、グリーシャは口笛を吹きだしたうえ、もっとわるいことには、イギリス女のいうことをきかなかったので、甘まんじゅうがもらえないことになってしまった。ダーリャ・アレクサーンドロヴナは、もしその場にさえいあわせたら、こうした日に罰をあたえることは許さなかったであろう。が、イギリス女の処置をも支持してやらなければならなかったので、グリーシャには甘まんじゅうをあたえないという彼女の断定に、同意するほかはなかったのである。そしてこの一事が、いささかながら一同の喜びを傷つけた。
グリーシャは、ニコーレニカも口笛を吹いた、それだのに彼は罰を受けない、自分は甘まんじゅうのために泣くのではない――自分にはそんなものはどうでもよい――ただ不公平に扱われたのが、くやしいのだと言いながら、泣いた。それはもうあまりにむごたらしかったので、ダーリヤ・アレクサーンドロヴナは、イギリス女と相談のうえグリーシャを許すようにしてやろうと思い、彼女のもとへ出かけていった。ところが、その途中、広間を通ったときに、彼女は、あまりのうれしさに思わず涙の出るような美しい光景を目撃したので、自分だけで罪人を許してしまった。
罰せられた子供は、広間の片すみの、窓じきりに腰掛けていて、そのそばには皿《さら》を手にしたターニャが立っていた。人形にごちそうをしてやりたいという口実のもとに、彼女は、自分の甘まんじゅうを子供部屋へもって行く許しをイギリス女にこい、そのかわりにそれを、弟のところへ持ってきたのであった。自分にくわえられた罰の不公平についてまだ泣きながら、彼はもってこられた甘まんじゅうをたべていた。そしてすすり泣きのなかから、こういっていた――「自分でもおあがりよ、ね、いっしょにたべようよ……ね、いっしょに」
ターニャには、初めは、グリーシャにたいする憐憫《れんびん》だけがはたらいていたのだが、後には、自分の善行についての意識がわいてきて、彼女の目にも、同じような涙がうかんでいた。だが、彼女は、彼の申し出をこばまないで、自分でもたべていた。
母親を見ると、彼らは驚いたが、その顔で、自分たちの行ないのいいことであるのを見てとると、すぐ声をたてて笑いだし、甘まんじゅうをほおばった口をもぐもぐさせながら、両手で、笑っているくちびるをこすりはじめた。そして、喜びに輝く顔を、涙とジャムとですっかり台なしにしてしまった。
「まあ、どうしましょう! 新しい白いおべべを! ターニャ! グリーシャ!」と母親は、服を助けようとつとめながらも、目には涙をいっぱいにため、幸福な歓喜の微笑をたたえながら、こういった。
新しい服ははがれて、女の子たちにはブラウスを、男の子たちには古いジャケットを、そして|きのこ《ヽヽヽ》とりと水浴とに出かけるために馬車に馬を――もう一度、執事のめいわくにもブールイを|ながえ《ヽヽヽ》に――つけるようにという言いつけが出た。と、大歓喜の叫び声が子供部屋におこって、水浴に出かけるまぎわまでやまなかった。
きのこは籠《かご》にいっぱいとれ、リーリイまでが白かばきのこを見つけた。以前にはミス・グーリが見つけて、それを彼女に教えたものであったが、今日は自分で大きな白かばきのこを見つけたのであった、で、一同は歓呼《かんこ》の声をあげた――「リーリイがきのこを見つけた、見つけた!」
その足で川へ行き、馬を白かばの木かげにとめて、一同は水浴小屋のほうへおもむいた。御者のテレンティーは、|はえ《ヽヽ》を追おうとして、しきりにしっぽを振っている馬を木につなぎ、草を踏みしだきながら、白かばの木かげに、横になって、下等な葉たばこをいぶしはじめた。水浴小屋のなかからは、小やみもない子供たちのうれしそうな叫び声が、彼のところまで運ばれてきた。
子供たちみんなに注意をくばり、彼らのいたずらをおさえることは、かなり骨の折れることではあったが、そして、それぞれに違った足にはくくつ下や、ズボン下や、靴をおぼえていて、とりちがえないようにすることや、ひもやボタンをといたりはずしたり結んだりすることは、かなりめんどうなことではあったが、自分自身も日ごろ水浴が好きで、子供たちのためにも有益であると考えていたダーリヤ・アレクサーンドロヴナは、子供たちとともにするこの水浴ぐらい、楽しいと思ったことはなかった。彼らのまるまるした小さい足を手に取って、いちいちくつ下をはかせたり、まる裸になった小さいからだを両手に抱きあげて、水につけてやったり、あるいは喜ばしげな、あるいはおびえたような叫び声を聞いたり、大きく見ひらいた、驚いたようなうれしげな目をもった、せいせい息をきらしながら水をはねとばしている自分の天使たちを見たりすることは、彼女にとって、ひとつの大きな喜びであった。
子供たちの半数がもう服をきてしまった時分に、薬草をとりにきた、着飾った百姓女たちが水浴小屋のほうへよって来て、おずおずと立ちどまった。マトリョーナ・フィリモーノヴナは水の中へ落ちたタオルと下着をほしてもらうために、そのうちのひとりを呼んだ。そこでダーリヤ・アレクサーンドロヴナも、女たちを相手に話をはじめた。女たちは、初めのうちは口に手をあてて笑ってばかりおり、こちらの質問をも解さない様子だったが、じき大胆になって、話をはじめ、心《しん》そこ子供たちに見とれている様子を見せたので、たちまちダーリヤ・アレクサーンドロヴナの気にいってしまった。
「まあ、見なさろや、べっぴんさんでねえだか、まるでお砂糖のようにまっ白だわな」とひとりがターネチカに見とれて、頭を振りながらいった。「だけんど、細っこいこったてなあ……」
「ああ、あの子は病気だったもんだからねえ」
「へえ、これ、おまえさまも、水さへえりなさっただね」とほかのひとりが、赤ん坊を見やりながら、いった。
「いいえ、これはまだ生まれて三月になったばかりだもの」と誇らしい気持で、ダーリヤ・アレクサーンドロヴナは答えた。
「はれ、まあ!」
「おまえ、子供あるの?」
「四人ありましただが、ふたりになっちまいましただ――男と女でござりますだよ。下の|めろ《ヽヽ》は、この謝肉祭に乳をはなしましただ」
「いくつになるの?」
「数え年ふたつでござりますだよ」
「どうしておまえ、そんなに長く乳を飲ませたの?」
「わしらのしきたりでござりますだよ――三斎期《さんさいき》ちゅうのがな……」
こうして話は、ダーリヤ・アレクサーンドロヴナにとって最も興味ふかいものになっていった。――お産のときはどんなだったか? どんな病気だったか? つれあいはどこにいるか? たびたび帰ってくるか?
ダーリヤ・アレクサーンドロヴナは、この女たちと別れたくない気がしだした――それほど、彼ら相手の会話には興味があり、それほど、彼らの興味は、完全に共通したものであった。なかでも、ダーリャ・アレクサーンドロヴナにとって何より愉快だったのは、それらの女たちがみな、何にもまして、彼女の子だくさんなことと、それがそろいもそろってきりょうよしであるのに驚いているのが、明らかに見えたことでもあった。女たちはダーリヤ・アレクサーンドロヴナを笑わせ、イギリス女を怒らせた。それは、彼女が、彼女にとっては不可解なこの笑いの原因になっていたがためであった。若い女のなかのひとりが、一ばんあとで服をきていた彼女のほうを見ていたが、彼女が三番めの下着をつけたときには、こういわずにいられなかった――
「あれまあ見さっせえ、巻いたわ、巻いたわ、いくら巻いても巻ききれねえだ!」こういったので、みんなが声をあげて、腹をかかえて笑ったのである。
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九
水浴のあとの、まだ頭のぬれている子供たちにとりかこまれながら、ダーリヤ・アレクサーンドロヴナがずきんで頭をくるんで、もう家近く乗って来たときに、御者がいった――「どこかのだんながおいでになりましたよ、ボクローフスコエのらしいですが」
ダーリヤ・アレクサーンドロヴナは前方をながめやり、灰色の帽子に灰色の外套といういでたちで、こちらへ向かってやってくる、なじみの深いレーヴィンの姿をみとめて、喜んだ。彼女はいつでも彼を見ることを喜んだが、わけてもこのときは自分の全盛の姿を相手に見てもらえるのがうれしかったのである。なんぴともレーヴィン以上に、彼女の偉大さを理解してくれる人はなかったから。
彼女を見ると、彼は、自分が将来において想像している家庭生活の光景のひとつを、そこに見たような心地になった。
「あなたはまるで巣ごもりの雌鶏《めんどり》のようですね、ダーリヤ・アレクサーンドロヴナ」
「ああ、ほんとになんてうれしい!」と彼女は、彼のほうへ手をさしのべながら、いった。
「うれしい、だってあなたは、知らせてくださらなかったじゃないですか。ぼくのところにはいま兄が来ていますよ。ぼくはスティーワから、あなたがここに来ていらっしゃるというたよりをもらったのですよ」
「スティーワから?」と、意外という面《おも》もちで、ダーリヤ・アレクサーンドロヴナは問い返した。
「ええ、先生が、あなたのこちらへ来ていらっしゃることを知らせてくれたのです。ぼくが何かあなたのお役に立つことがあるだろうと思って、書いてよこしたんですよ」こうレーヴィンはいったが、いってしまうと、急にどぎまぎして、言葉をきり、ぼだい樹の若芽をむしって、それをかみながら、黙々として馬車のそばを歩きつづけた。彼がどきまぎしたのは、ダーリャ・アレクサーンドロヴナにしてみれば、その夫によってなされねばならぬことに他人の助力を借りるのは、さぞ不快だろうと思いやったからであった。ダーリヤ・アレクサーンドロヴナには、じっさい、自分の家庭内のことを他人におわせるというステパン・アルカジエヴィッチのこのやり口が気にいらなかった。そして彼女はすぐに、レーヴィンがそれに気がついていることを理解した。この理解の行きとどいたことと、感情のデリケートなこととにたいして、ダーリヤ・アレクサーンドロヴナはつねにレーヴィンを好いていたのであった。
「ぼくだって、もちろんそれは」とレーヴィンはいった。「ただあなたがぼくに会いたがっていらっしゃるという意味にすぎぬことは察しましたよ。そしてぼくも、非常に喜んでいるんです。もちろん、ぼくは、あなたのような都会の婦人には、ここの生活が殺風景に思われるだろうことはお察ししますが、もし何かご用があったら、喜んでお役にたちたいと思ってるんです」
「いいえ、どういたしまして!」とドリーはいった。「初めのあいだはね、それはずいぶん困りましたけれど、今ではもう何もかも、うちの年よりの乳母のおかげで、すっかりよくなってしまいましたの」彼女は、自分のことの話されているのを知って、楽しく親しげな笑顔をレーヴィンのほうへ向けていたマトリョーナ・フィリモーノヴナのほうをさし示しながら、いった。乳母は、彼を知っていたばかりでなく、彼が末の令嬢の似合いのつれあいであることを知っていて、その縁談のまとまるのを願っていたひとりであった。
「ごいっしょにお乗りなさいましな、少しここをおあけいたしますから」と彼女は彼に言いかけた。
「いやぼくは歩きます。みなさんのなかで、だれかぼくといっしょに、お馬とかけっこをする人はありませんかねえ?」
子供たちはレーヴィンをよく知らなかったし、いつ会ったかも覚えていなかったが、彼にたいしては、子供がよく偽善的なおとなにたいして示す、そして、そのためにおうおう手痛い罰を受けることのある、はにかみと嫌悪とのまじった一種奇妙な感情は、現わさなかった。偽善は、何事にかぎらず、最も聡明な、洞察力《どうさつりょく》のある人をも欺くことのできるものだが、子供ばかりは、たとえきわめて知力のとぼしいものでも、それがいかにたくみに隠されていても、すぐそれを感知して、排斥する。ところが、レーヴィンには、よしんばどんな欠点があったにしても、偽善だけは少しもなかったので、子供たちは彼にたいして、彼らが母親の顔に見つけたと同じ親愛感を現わした。で、彼の招きに応じて、上のふたりはさっそく彼のまわりにとびおり、彼といっしょに、まるで乳母や、ミス・グーリや、母親といっしょにかけているような、へだてのない調子でかけだした。リーリイまでが、彼のそばへ行きたいと言いだしたので、母親は彼女を彼に手渡した。彼は、彼女を肩の上にのせて、そのまま走りだした。
「心配いりません、心配いりません、ダーリヤ・アレクサーンドロヴナ!」と彼は母親のほうへ、元気な笑顔をむけながらいった。「ぼくが落としたり、けがをさせたりする気づかいは断じてありませんよ」
彼の敏捷《びんしょう》な、力強い、注意ぶかく心をくばった、緊張しすぎるほど緊張した動作を見て、母親もすっかり安心したので、彼のほうを見ながら、快活に、はげますように微笑した。
こういう田舎で、子供たちや自分の好きなダーリヤ・アレクサーンドロヴナといっしょになると、レーヴィンは彼の上にしばしばおこる例の子供のような快活な気分になったし、ダーリヤ・アレクサーンドロヴナもまた、彼のこの気分がとくに好きであった。子供たちといっしょにかけながら、彼は彼らに体操を教えたり、怪しい英語でミス・グーリを笑わせたり、ダーリヤ・アレクサーンドロヴナに、田舎での自分の仕事の模様を話して聞かせたりした。
昼食のあとで、ダーリヤ・アレクサーンドロヴナは、彼とふたりきりテラスへ出て、キティーのことを話しはじめた。
「あなたごぞんじ? キティーはここへ来て、わたくしといっしょに夏を送るはずになっていますのよ」
「ほんとうですか?」と彼はあかくなっていったが、すぐ話題を変えるために、言いついだ。「じゃ、牝牛を二頭こちらへよこしましょうか? で、もし、どうでも代をとおっしゃるなら、どうぞ月に五ルーブリずつお払いください。あなたが気はずかしくなかったら」
「いいえ、ありがとうございます、けれど、こちらももうすっかり整理がつきましたから」
「じゃ、とにかく、ぼく一度お宅の牛を見てみましょう。そして、お許しくださるなら、その飼いかたをさしずしていきましょう。すべて、飼養法しだいですから」
そしてレーヴィンは、ただ話題を変えるためだけに、ダーリヤ・アレクサーンドロヴナに向かって、牝牛とは単に飼料を乳に変えるための機械にすぎない、云々《うんぬん》という乳牛飼養の理論を説きはじめた。
こういう話をしながらも、彼は熱烈にキティーについての詳細な話を聞きたいと思い、そして同時に、それを恐れていた。彼には、あれほどまでの苦痛をへて、ようやくかちえた平安をみだされるのが、いかにも恐ろしかったのである。
「ええ、ですけれど、そうするにはずいぶんめんどうをみなければならないでしょう、わたくしどもで、だれがそれをしてくれましょう?」とダーリヤ・アレクサーンドロヴナは、気のりのしない調子で答えた。
彼女は、今では、マトリョーナ・フィリモーノヴナの手で、いっぱし家事の整理をつけていたので、このうえもう何を変えようとも思わなかった。それに彼女は、レーヴィンの農事上の知識をも、信用していなかった。牛が乳をつくる機械だという意見も、彼女には疑わしいものに思われた。彼女には、こんなふうの意見は、ただ家事を混乱させるだけだというふうに考えられていたのである。彼女には、それらのことはみな、もっとずっと簡単であり――マトリョーナ・フィリモーノヴナの説明したように、ただペストルーハやペロパーハにもっと飼料と水をやり、料理人が台所の汚水《おすい》を洗たく女の牝牛のために持ち出さないようにさえすれば、それでもう十分だと思われていた。それは明白なことであった。が、粉類や草の飼料についての理くつは、何やら疑わしくて要領をえなかった。何はともあれ、彼女には、キティーのことが話したかったのである。
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十
「キティーはね、わたくしに、孤独と平安ほど望ましいものはない、なんて書いてよこしましたんですのよ」とドリーは、ややしばらくの沈黙の後にいった。
「が、あのひとの健康はどうなのです、いいほうですか?」と胸をさわがせながら、レーヴィンはたずねた。
「ええ、おかげさまで、もうすっかり回復しましたそうですよ。もっとも、わたくしは、あのひとに胸の病いがあるなんて、けっして信じませんでしたけれど」
「ああ、ぼくは非常にうれしいです!」とレーヴィンはいった。彼がこういって黙って彼女を見つめたときに、ドリーはその顔に、なにやら感情的な、頼りなげなものがあるように思った。
「ですけれどねえ、コンスタンチン・ドミートリチ」とダーリヤ・アレクサーンドロヴナは、もちまえの善良な、心もちあざけるような調子の微笑でほほえみながら、いった。「なんであなたは、キティーにたいして腹をたてていらっしゃるの?」
「ぼく? ぼくは腹なんかたてちゃいませんよ」とレーヴィンはいった。
「いいえ、腹をたてていらっしゃいますわ。では、どうしてあなたは、モスクワにいらしたとき、わたくしどもへも、あちらへも、お見えになりませんでしたの?」
「ダーリヤ・アレクサーンドロヴナ」と彼は、髪の根もとまであかくなりながら、いった。「ぼくは、あなたのような善良なかたが、それを察して下さらないなんて、むしろ意外なくらいですよ。どうしてあなたは、単純にぼくをあわれんでくださらないんでしょう。そうして、何もかもごぞんじのくせに……」
「何をわたくしが知っているとおっしゃるんですの?」
「ぼくが結婚を申し込んで拒絶されたことをです」とレーヴィンは言いはなった。と、一分まえに彼がキティーにたいして感じていた優しい気持が、たちまち、彼の心の中で、侮辱にたいする憤りの情に変わってしまった。
「どうしてあなたは、わたくしがそれを知っているとお思いになりますの?」
「だれも知らない者はないからです」
「ほら、それからしてあなたは、誤解していらっしゃるんですわ。わたくしだって知ってたんじゃありません。たいがい察してはいましたけれど」
「ああ、ですから、そのとおり、今ではすっかりごぞんじなんだ」
「わたくしの知っていましたのはね、ただ、何事かあったということと、あの子が何やらひどく苦しんでいたことと、あの子がそのことはもうけっして言いだしてくれるなと、わたくしに頼んだことだけでした。わたくしにさえ話さなかったくらいですから、ほかの人に話すはずはありません。ですけれど、いったいあなたがたには、どういうことがおありでしたの? どうぞ聞かせてくださいましな」
「ぼくはもうあなたにはお話しました」
「いつ?」
「ぼくが最後にお宅へあがったときに」
「では、わたくしあなたに申しあげますわ」とダーリヤ・アレクサーンドロヴナはいった――「わたくしにはもう、あの子がかわいそうでかわいそうでなりませんのよ。あなたはただ自尊心から苦しんでらっしゃるだけですけれど」
「あるいはそうかもしれません」とレーヴィンはいった。「しかし、……」
彼女はそれをさえぎった。
「けれど、あの子は、かわいそうなあの娘は、わたくしはもうほんとうにあの子が、かわいそうでかわいそうでならないんですわ。今こそわたくしは、何もかもよくわかりましたの」
「では、ダーリヤ・アレクサーンドロヴナ、失礼ですが」と彼は、立ちあがりながらいった。「ぼくはおいとまします。ダーリヤ・アレクサーンドロヴナ、またお目にかかります」
「まあ、ちょっとお待ちくださいまし」と彼女は、彼の袖をとらえながらいった。「もうちょっとお掛けになって」
「お願いです、お願いです。そのことについてはもういっさいおっしゃらないでください」と彼は腰をおろすと同時に、今まで葬りさられたものと思っていた希望が、彼の胸の底でにわかに頭をもたげて、むくむくと動きだすのを感じながらいった。
「もしわたくしがあなたに好意をもっていませんでしたら」とダーリャ・アレクサーンドロヴナはいった。その目には涙がうかんでいた。「もしわたくしがあなたを知っているように、知っているのでなかったら……」
死んだと思っていた感情は、ますますいきいきと復活してきた。そして、頭をもたげると見るまに、たちまちレーヴィンの心をしめてしまった。
「ええ、今こそわたくし、何もかもがはっきりとわかりましたの」とダーリヤ・アレクサーンドロヴナはつづけた。「けれどあなたは、ちょっとおわかりにならないでしょうね。あなたがた、ご自身で自由に選択のおできになる殿がたには、ご自分がだれを愛していらっしゃるかということは、いつの場合でもはっきりしております。けれど、何かを待っているような状態にある娘は、あの女らしい、娘らしい羞恥心《しゅうちしん》をもって、あなたがた殿がたを遠くから見て、言葉どおりにすべてを信じてしまう娘は――そういう娘の身にしてみると、自分でなんといっていいかわからないような感情を経験することがよくあるものでございますからね」
「そう、もし、ハートがものをいわないものでしたらね……」
「いいえ、ハートはものを申します。けれどもよく考えてごらんあそばせ――あなたがた殿がたは、ある処女に目をつけると、その家へおでかけになり、接近して、よく見きわめ、ご自分が愛する者を見つけるのを待ったうえで、しかもその女を愛していることを十分にたしかめたうえで、申し込みをなさいます……」
「さあ、ぜんぜんそうとばかりもいえませんがね」
「同じことでございますわ、とにかく、あなたがたは、あなたがたの愛が熟するか、選択しようとする双方のあいだに愛の重さがきまるかした場合に、お申し込みになるのでしょう。ところが娘のほうは、そんなこときいてももらえません。女も自分で選ぶようにとはいわれておりますけれど、とても、選ぶなんてことはできませんわ、ただ――『ええ』とか『いいえ』とか答えるのがせきのやまですわ」
『そうだ、おれとウロンスキイとが秤《はかり》にかかったんだ』とレーヴィンは考えた。と、彼の心中でよみがえりかけていた死人はふたたび死んでしまって、ただ彼の心を悩ましくしめつけた。
「ダーリヤ・アレクサーンドロヴナ」と彼はいった。「人は、服とか、何かそんなふうの買物を選ぶ場合には、そうもしましょう。が、愛の場合はまったく違います。選択はされたのです。しかも、そのほうがよかったのです……二度とくりかえすことは不可能です」
「ああ、傲慢《ごうまん》、傲慢!」とダーリャ・アレクサーンドロヴナは、女だけが知っている感情とくらべてみて、その感情の低さにたいして、彼をさげすむような口ぶりでいった。「あなたが申し込みをなすったときには、キテイーはちょうど、お返事のできないような位置におかれていたんですわ。あの子の心には動揺があったのです。あなたかウロンスキイか、という動揺が。あの子は、ウロンスキイのほうは毎日見ていましたけれど、あなたには長いことお目にかかりませんでした。かりにもしあの子が、もう少し年がいっていましたら……つまり、わたくしなんかでしたら、あの子の位置に立たせられても迷うようなことはなかったでしょうけれど。もともとわたくしには、ウロンスキイは虫が好かなかったのでしたけれど、はたしてこういうことになってしまいました」
レーヴィンはキティーの返事を思いおこした。彼女はいった――『いいえ、そういうわけにはまいりませんの……』
「ダーリヤ・アレクサーンドロヴナ」と、彼はそっけない調子でいった。「ぼくはぼくにたいするあなたのご信頼をかたじけないと思います。けれどぼくは、あなたは誤解していらっしゃると思いますよ。とにかく、ぼくが正しくないにしろ、あなたがそんなにまでおさげすみなさる傲慢なるものは、ぼくのために、カテリーナ・アレクサーンドロヴナについてのいっさいの考えを不可能なものにしています……いいですか、ぜんぜん不可能なものにしているんですよ」
「わたくしはもうひと言だけ申しあげます――あなたもおわかりでしょうけれど、わたくしはわが子のように愛している妹のことを申しているんでございますよ。そりゃわたくしだって、あの子があなたを愛していたとは申しません。ただわたくしは、あの時のあの子のおことわりは、なんの証明にもならないものだということだけを申しあげたいのです」
「ぼくにはわかりません!」とレーヴィンは、びくりととびあがりながら、いった。「ああ、もしあなたに、あなたが今どんなにぼくを苦しめていらっしゃるかがおわかりでしたらねえ! それはちょうど、あなたのお子さんがなくなった場合に、他人があなたに向かって、こういうのと同じことです――あのお子さんはこんなお子さんになられたろうとか、こうだったら生きていられたろうとか、あなたもそれを見てお喜びなすったろうとか。が、当の子供は死んでしまったのです。死んでしまったのです。死んでしまったのです……」
「なんてまあ、あなたは妙なかたでしょう」とダーリヤ・アレクサーンドロヴナは、悲しげな微笑をうかべてレーヴィンの興奮を見やりながら、いった。「ああ、わたくし、今になってますますすべてがわかるようになってきました」と彼女は、考えぶかそうな口調でつづけた。「ではあなたは、キティーがまいりましても、わたくしどもへはいらしてくださいませんの?」
「ええ、まいりません。しかし、ぼくは、カテリーナ・アレクサーンドロヴナを避ける意志は少しもありませんよ、が――できるかぎり――ぼくは、ぼくというものの同席からおこる不快から、あのひとを救うことにつとめます」
「まあ、ほんとに、ほんとにあなたは妙なかたね」とダーリヤ・アレクサーンドロヴナは、柔和な目つきで彼の顔を見ながらくりかえした。「では、よろしゅうございますわ。これならわたくしたちは、このことについては、まるで何もお話しなかったと同じですもの。おや、おまえどうして来たの、ターニャ?」とダーリヤ・アレクサーンドロヴナは、おりからはいって来た女の子に向かって、フランス語でこういった。
「わたしの|シャベル《ヽヽヽヽ》はどこにあるの? お母さま!」
「わたしはフランス語でいっていますよ。そしたら、おまえもそうしなければ」
女の子はいおうとしたが、|シャベル《ヽヽヽヽ》というフランス語を忘れていた。母は彼女に助言した、そしてあらためてフランス語で、シャベルはどこで捜したらいいかを教えてやった。この一事が、レーヴィンには不愉快に思われた。
と、彼には、ダーリヤ・アレクサーンドロヴナの家庭および、彼女の子供たちのなかにあるいっさいのものが、まるで、以前のようなかれんさを失ってしまったように思われた。
『どうしてこの女は子供にフランス語なんかで話すのだろう?』と彼は考えた。『なんという不自然、なんというごまかしだろう! 子供たちもそれを感じているのだ。フランス語を教えこんで、真実を追いだしているのだ』彼は、ダーリヤ・アレクサーンドロヴナが、すでに二十ぺんも考えに考えたあげく、なお、多少の真実を犠牲にしても、こういう方法によってわが子を育てることを必要と認めたのだとは気づかないで、ひとりはらのうちでこう考えた。
「それにしても、あなたにどこへいらっしゃるさきがあるのでしょう? まあ掛けていらっしゃいましよ」
レーヴィンはお茶の時まで居のこったが、彼の快活な気分はすっかり失せて、彼には居ごこちがわるかった。
―――
お茶がすむと、彼は馬車の用意を命じに玄関へ出ていったが、やがてもどってくると、ダーリヤ・アレクサーンドロヴナが暗い顔をして、目に涙をたたえ、ひどく興奮しているのに出くわした。ちょうどレーヴィンが出ていったときに、ダーリヤ・アレクサーンドロヴナにとっては、今日一日の彼女の幸福と、子供たちについていだいた誇りとを根こそぎ破壊してしまうような出来事が、ふいに生じたのであった――それは、グリーシャとターニャとが|まり《ヽヽ》を奪いあって、けんかをしたことであった。ダーリヤ・アレクサーンドロヴナは、子供部屋の叫び声を聞いてかけつけて、恐ろしい様子をしたふたりを見いだしたのであった。ターニャはグリーシャの髪をつかんでおり、彼は激怒のために顔をひんまげて、こぶしをかため、ところきらわず彼女を打っていた。それをひと目見ただけで、ダーリヤ・アレクサーンドロヴナは、心の中で何かが一時に引き裂けたような気がした。まるでまっ暗なやみが、彼女の生活の上へおおいかぶさってきたような気がした――彼女は、あれほど誇りにしていた自分の子供たちが、単にきわめて普通の子供であったばかりでなく粗暴な野獣的傾向をもった、教育の行きとどかぬ、ろくでもない、よこしまな子供たちですらあったことを、さとったのだった。
彼女はもうそれ以外のことは、語ることも考えることもできなかった。そしてレーヴィンに、自分の不幸をうったえないでいられなかった。
レーヴィンは彼女の不幸な様子を見て、そんなことは少しもわるい傾向の証拠にはならない、けんかぐらいはどんな子供でもするのだということをいって、彼女を慰めようと努めた。けれども、そういうかたわらから、レーヴィンは腹のうちで考えた――『いや、おれはへんに気取って自分の子供とフランス語で話したりすることはすまい――だが、おれには、こんな子供はできないだろう。台なしにしないばかりじゃない、子供を不具にしないことが必要だ。そうすれば、彼らはよくなるにきまっている。そうだ、おれの子供はこんなふうにはならないだろう』
彼は別れを告げて、乗り去った。彼女は彼を引きとめなかった。
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十一
七月の中旬に、ボクローフスコエから二十ウェルスターほどの距離にある、姉の村の長老が、仕事の模様や草刈りについての報告をもたらして、レーヴィンのもとへやって来た。姉の領地のおもな収入は、川岸の草場からあがるものだった。先年までそこの草は、一デシャティーナ二十ルーブリの割で百姓たちに買い取られていたが、レーヴィンは、それを自分の管理下にうつしたときに、草地を見まわって、もっと価値のあることを発見し、一デシャティーナ二十五ルーブリという値をきめた。ところが、百姓どもはその値を出さなかったうえに、レーヴィンの疑ったとおり、ほかの買い手をも追いのけてしまった様子であった。そこでレーヴィンは、直接そこへ出むいて行って、一部分は日雇い人の手で、一部分は歩割《ぶわり》制度で、草場を処理する手配をした。土地の百姓たちは、さまざまな手段をつかってこの新方法のじゃまをしたが、仕事はどしどしはかどって、最初の年にはその草場から、ほとんど二倍の収入があがった。一昨年も昨年も、同じ百姓たちの反対はつづけられたが、収穫は同じ割で上げられた。で、今年は百姓たちが、三分の一という配当で、草場全部の刈り入れを引き受けた。そしていま村老が、草刈りの終了したことと、雨が案じられたので、番頭を呼びよせて、その立ちあいのうえで収穫を区分し、地主の分をもう十一|堆《やま》かき集めたという報告に来たのである。一ばん大きい草場ではどれくらいの乾草が取れたかという質問にたいするあいまいな返事や、許可も待たずに分配を行なった村老の急ぎかたや、彼の全体の調子などによって、レーヴィンはこの分配に何か不正のあるのを見ぬき、自身その調査に出かけることに決心した。
昼食時に村へ着くと、レーヴィンは、兄の乳母のつれあいである知り合いの老人の家へ馬を残して、その口から、草刈りについてのくわしい模様を知りたいと思いながら、養蜂場《ようほうじょう》にいた老人のところへはいって行った。話好きで、ととのった顔をした老爺のパルメヌイチは、喜んでレーヴィンを迎え、彼に自分の仕事をすっかり見せて、自分の蜜蜂のことや、今年の蜂群についてくわしい話をして聞かせた。が、草刈りについてのレーヴィンの質問には、要領をえない、気のりのしない返事をした。この場合、これがなおいっそうレーヴィンの予想を強めた。彼は草刈り場へ行って、草の堆積《やま》を調査した。その堆積にはいずれも、五十車ずつのものはありそうになかったので、レーヴィンは百姓たちの罪跡をあばくために、その場で、乾草を運搬する車を持ってこさせ、ひと堆積《やま》を起こし、それを納屋へ運ぶようにと命じた。その堆積からは、たった三十二車分しか出なかった。で、乾草はかさの減りやすいものであることや、積んであるうちに減ったことについて、村老がしきりに弁解したにもかかわらず、それにまた、いっさいは神の前でなされたのだからという彼の誓言にもかかわらず、レーヴィンは、乾草は自分の命令なしに分配されたものだから、それを一|堆《やま》五十車として引き取ることはできないと主張した。長い押し問答の末に、この紛争は、問題の十一|堆《やま》を五十車ずつとして百姓たちが自分のほうへ引き取り、地主の分は改めて分配するということで落着した。これらの押し問答と堆積の分配とは、|おやつ《ヽヽヽ》の時までつづいた。いよいよ最後の乾草が分配されてしまうと、レーヴィンは残りの見はりを番頭にまかせて、自分は|えにしだ《ヽヽヽヽ》の|しん《ヽヽ》でしるしをつけた乾草の堆積《やま》の上に腰をおろして、人でわきかえっている草場の様子に見とれはじめた。
彼の前には、小さい沼の向こうの川のまがり角に、かん高い声を陽気にひびかせながら、女たちの色とりどりの列が動き、そして散らばった乾草は、灰色のまがりくねった壁となって、淡緑色の草の上へ、みるみるのびて行きつつあった。女たちの背後には、叉竿《またざお》をもった百姓たちがつづいて、その壁から、幅の広い、たけの高い、ふくれあがった草堆《くさやま》ができあがっていった。左のほう、もう取り片づけのすんだ草場には、荷車がごろごろ音を立てていて、草の堆積はひとつひとつ、大きな叉竿《またざお》でかきくずされて消えていき、そのあとへは、馬のしりまで隠れるほどに、重い車の上へ、香りの高い乾草が積みあげられた。
「草の取り入れにゃ、もってこいの日でござりますな! すばらしい乾草ができましょうぞい!」と老人はレーヴィンのそばへ来て、腰をおろしながらいった。「まるでお茶でがすだ――乾草じゃありましねえ! まあ、見なさろ、あの拾いあげようは。まるで|かも《ヽヽ》に穀粒《こくつぶ》まいてやったようなもんでごぜえますて!」と彼は、積みあげられていく草の堆積を指さして、言いたした。「昼飯後からけっこう半分は運びましたのう」
「おいよ、そりゃ、おしめえの荷かや、ん?」と彼は、車の箱《はこ》の前に立って、麻の手綱のはしを振りながら、かたわらを通る若い農夫に呼びかけた。
「おしめえだよ。とっつあん!」と若者は馬をひかえながら叫んで、にこにこしながら、車の箱の中にすわって、同じように晴れやかな笑顔を見せている、赤いほおをした、百姓女のほうをふり返った。そして馬を追い進めた。
「あれはだれだい? むすこかい?」とレーヴィンはきいた。
「わしの末っ子でがすよ」と、優しい笑みをたたえて老人はいった。
「いい若者だね!」
「いや、もうかわいい奴でごぜえますだ」
「もう嫁があるんだね?」
「へえ、このあいだのフィリップ祭でちょうどまる二年めになりますだよ」
「ほう、そうか、で、子供は?」
「どうして子供なんど! 野郎ははあ、まる一年も、なんにも知らねえでいたでがんすよ。恥ずかしがりでごぜえやしてね」と、老人は答えた。
「それはそうと、あの乾草! まったくはあ、お茶でごぜえますだね」と彼は、話題を変えようとして、こうくりかえした。
レーヴィンはさらに注意ぶかく、イワン・パルメノフとその女房のほうへ目をこらした。ふたりは、彼から遠くないところで、乾草を積んでいた。イワン・パルメノフは車の上につっ立って、その若いべっぴんの女房が、最初はひとかかえにして、つぎには叉竿《またざお》で、上手に彼に手渡しする乾草の大きな束を受け取っては、平らにならべたり、その上を踏みつけたりしていた。若い女房はらくらくと、楽しそうに、ぬけめなくたち働いていた。大きくかたまっていた乾草は、一度では叉竿《またざお》にかからなかった。彼女はまず、それを平らにならしてから、叉竿を突っこみ、つぎにはしなやかなすばやい動作で、その上へ自分のからだの重味を押しつけ、そしてまたすぐに、あかい帯を結んだ背をそらしてからだを起こし、白い前掛けの下のふっくらした胸をあらわしながら、器用な身ごなしとともに、両手で叉竿をもちかえて、草の束を高く車の上へ投げあげた。と、イワンは、見るから彼女を少しでもよけいな骨折りから救ってやろうとつとめながら、大急ぎで、投げられた束を大手をひろげて受け取り、それを車の上へならべてゆく。最後の草を熊手《くまで》で渡してしまうと、女房は首筋にかかっていた草っぱを払い落とし、日やけのしない、白い額もあらわにずれていた赤いずきんをなおして、荷をしばるために、車の下へはいこんだ。イワンは彼女になわのかけかたを教えていたが、そのとき彼女のいった何かにたいして、大きな声で、あははと笑った。ふたりの顔の表情には、近く目ざめたばかりの、力強く若々しい愛が読まれた。
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十二
荷造りはすんだ。イワンはとびおりて、栄養のいい、まるまるとふとった馬の手綱をとった。女房は熊手《くまで》を荷の上へ投げあげてから、元気な足どりで両手を振りながら、輪舞《りんぶ》でもするようなかっこうに集まっている女たちのほうへ行った。イワンは路上へ乗りだして、ほかの荷車の列へ加わった。女たちは熊手を肩にかつぎ、はなやかな色に輝いて、かん高い、はしゃいだ声をはりあげながら、車のあとからついていった。やぼったい、ひなびた女の声が、ひとくさりの歌をうたって、それをくりかえすところまでいくと、こんどはすぐそれについて、やぼったいのや、細っこいのや、健康そうなのや、五十にあまるとりどりの声々が、一せいに、また同じ歌を初めからくりかえした。
女たちは、歌声とともに、レーヴィンのほうへ近づいて来た。彼には、歓喜の雷鳴をともなった雨雲が、自分の上へ襲いかかってくるような気がした。雨雲は襲いかかるやたちまちにして彼をつかみ、彼が横たわっていた草の堆積《やま》も、そのほかの堆積も、荷車も、遠い野につらなった草場全体も――何もかもが、叫び声と、口笛の音と、拍子の音との入り乱れた、このひなびて、はしゃぎきった歌声の下におおいつくされて、ゆらゆらと揺れはじめた。レーヴィンには、この健康な悦楽がうらやましくなり、こうした生の歓喜の現われの仲間入りがしたくなった。が、彼は、どうすることもできなかった。依然として横になったまま、見たり聞いたりしているほかはなかった。そして人々が、歌声とともに、視界と聴覚から消え去ってしまうと同時に、自分の孤独と、自分の肉体的|無為《むい》と、この世界にたいする自分の反感を思う重苦しい憂うつの感じが、レーヴィンをとらえたのであった。
乾草のことで、ほかのだれよりもがんこに彼と争った当の百姓の何人かも、彼が侮辱した者たちも、また彼をだまそうとした連中も――そういう百姓たちがみな、こころよげに彼にあいさつをして、明らかに彼にたいしてなんの悪意もいだかず、また彼をだまそうとしたことにたいしても、単なる悔悟はおろか、その思い出すら持っていなかったように、また持つことができなかったように見えた。つまり、そうしたものはいっさい、共同労作の楽しさの海の中におぼれてしまったのであった。神は一日を与え、神は力を与えた。そしてその一日も、力も、労働にささげられて、報酬は労働そのもののなかにあったのである。だれのための労働か? 労働の結果はどうであるか? そういうことは、的《まと》をはずれた無用な考察であらねばならない。
レーヴィンはこれまでにもしばしば、こういう生活に見とれ、こういう生活をいとなんでいる人々にたいして、羨望《せんぼう》の情をあじわったものであるが、今日は生まれてはじめて、わけてもイワン・パルメノフとその若い女房との態度を見て受けた印象のおかげで、自分のこれまで生活してきた煩雑《はんざつ》な、無為な、人工的な個人的生活を、この労働的で、清浄《せいじょう》で、共同的で、美しい生活に変えることも、自分の意志ひとつにあるのだという考えが、はっきりと頭にはいってきた。
彼といっしょに腰をおろしていた老人は、もうとっくに家へ帰ってしまった。人々ものこらずちりぢりになった。近い者はうちへ帰ったし、遠くの者たちは草場のなかで夕食をとり、一夜をすごすために集まった。人々から認められなかったレーヴィンは、草の堆積《やま》の上に横たわったまま、ながめ、聞き、考えつづけた。草場で一夜を明かすべく残った人々は、短い夏の夜をほとんど眠らないですごした。はじめ、夕食のあいだは、にぎやかな話し声と笑い声とが聞こえていたが、やがてそれらは、またしても歌や大笑いの声にかわった。
終日長い労働の一日は、彼らの上に、上きげんのほか、なんの痕跡をも残さなかった。夜明け近くなって、すべては静まった。聞こえるのはただ、沼のなかで鳴きつづけている|かえる《ヽヽヽ》と、夜明け前の霧のなかに、草場のあちこちで鼻を鳴らしている馬との、夜のひびきだけであった。われにかえると、レーヴィンは草の堆積《やま》から立ちあがり、星を仰いで見て、夜の過ぎ去ったことを知った。
『さて、おれはどうしたものだろう! どういうふうにやっていったものだろう?』と彼はこの短か夜のうちに考えたこと感じたことを、自分自身にはっきりしようとつとめながら、こう自分にいってみた。彼が考えたこと感じたことは、すべて、三つの異なった思想的系列にわかれていた。第一は――自分の古い生活の否定、なんの役にもたたない教養の否定であった。この否定は彼に喜びをもたらし、彼にとって、たやすく簡単であった。第二の思想と空想は、彼が現在生きたいと願っている生活そのものにかんするものであった。その生活の簡素、純潔、正当を、彼は明らかに感じていた。そして彼は、その生活のなかでこそ、自分があれほど病的にその不足を痛感していた喜びと、平安と、品位とを見いだすことができるであろうと確信していた。けれども思想の第三列は、旧生活から新生活への転向の一歩を、どう踏み出したらいいかという問題の上をさまよっていた。そしてそこには、彼の前になんの明白なものも現われていなかった。『妻を持つこと。労働と労働の必要を持つことだ。ポクローフスコエを捨てたものだろうか? 地面を買ったものだろうか? 村組合へ加入したものだろうか? 百姓女と結婚したものだろうか? いったい、おれはどうしてそれをしたらいいのだろう?』ふたたび彼は、こう自分にたずねてみたが、解答は見つからなかった。『もっとも、おれは夜っぴて眠らなかったので、はっきりした判断を生みだすことができないのだ』こう彼は自分にいった。『あとでよく考えよう。ただ、この一夜がおれの運命を決定してくれたことだけは確実だ。おれがこれまで描いていた家庭生活の夢などは、すべて無意味だった。ほんものでなかった』と彼は自分にいった。『何もかもがはるかに簡単で、はるかにすぐれているのだ……』
『なんという美しいことだろう!』と彼は、空のただなかに、彼の頭のま上にかかっている白い羊毛のような雲のなかに、ちょうど真珠貝《しんじゅがい》のような形をしたふしぎな一片を見いだしながら考えた。『この美しい晩には、見るもの聞くものがみな美しい。いつのまにあの貝の形はできたのだろう? ついいましがた、おれは空を見たばかりだが、そのときには、ふた筋の白い帯のほか、何もありはしなかった。そうだ、これと同じように、おれの人生にたいする見解も、いつのまにか変わってしまったのだ!』
彼は草場を出て、広い道を通って村のほうへ行った。微風がおこって、空は灰色に曇ってきた。やみにたいする光の完全な勝利である暁にさきだって、かならず訪れるあの暗いひとときが来たのである。
寒さに身をひき締めながら、レーヴィンは、地面へ目をおとして足ばやに歩いた。『おや、なんだろう? だれか来るんだな』と彼は、小鈴の音を聞きつけて考えた。そして頭をあげた。四十歩ばかり向こうからこちらへ向かって、彼の歩いて行く草深い広い道を、四頭引きの箱馬車が進んできた。轅《ながえ》馬はわだちの跡のために|ながえ《ヽヽヽ》のほうへ押しつけられたが、熟練した御者は、御者台の上に斜めにすわったまま、わだちの跡にそうて|ながえ《ヽヽヽ》をささえたので、車はうまく平らなところを走りだした。
レーヴィンはそれらのことを見ただけで、乗っている人のことなど考える気もなく、ぼんやりと馬車のなかをながめやった。
馬車のなかには、一方のすみに、老婦人がまどろんでいた。窓ぎわには、見たところ、いま目をさましたばかりらしい若い娘が、両手で白い帽子のリボンをおさえながら、すわっていた。輝かしい、もの思わしげな、レーヴィンには察しもつかない、はなやかで複雑な内部生活にみたされているような姿で、彼女は彼の上を越して、日の出まえの空やけをながめていた。
その光景が消えると同時に、真実のこもった目が彼のほうを見た。彼女は彼をみとめた。と、びっくりしたような喜びの色が、その顔を明るくした。
彼は見あやまることはできなかった。その目は、この世にただひとつしかないものであった。この世に、生活の光明と意義とを彼のために集中しうるものは、ただひとつしかなかった。それは、彼女であった。それはキティーであった。彼は、彼女が停車場からエルグショーヴォへ乗って行くのであることを察した。と、不眠の一夜じゅう、レーヴィンの心を動揺させていたすべての計画、彼のいだいたすべての決意――それらはたちまちにして消えさってしまった。彼は、嫌悪の心もちをもって、百姓女と結婚しようと考えた自分の空想を思いうかべた。ただそこに、あのみるみる遠ざかって、道路の反対側へうつってしまった馬車のなかに――ただそこにのみ、最近あんなにまで彼を苦しめていた、生活上の|なぞ《ヽヽ》を解く可能性は見いだされたのであった。
彼女はのぞかなかった。車の音はたえだえになって、ただかすかに鈴の音だけが聞こえた。犬のほえ声が、やがて、馬車の村を通りすぎたことを告げた。――そしてそこに残されたものは、空虚な野と、前方に見える村落と、落莫《らくばく》たる大道にひとりさびしくあゆみを運んでいる、いっさいのものと絶縁した、孤独な彼自身とだけであった。
彼は、さきほど自分が嘆賞し、自分のためにその夜の想念と感情との動きの象徴であった、あのかいがら雲を見いだそうと思って、空を見あげた。が、空にはもはや、かいがらに似たものはひとつもなかった。その達しうべからざる高みでは、すでに神秘な変動が行なわれていた。かいがらはもはや跡かたさえなかった。あるものはただ、空の半面にわたって敷かれた、刻々に小さくなっていく、平らな羊毛状の絨緞《じゅうたん》だけであった。空は青くなり、明るくなってきた。そして同じやさしさと、しかし同じ近づきがたさとをもって、彼のもの問いたげなまなざしに答えていた。
『いや』と、彼は自分にいった。『この単純で、労働的な生活がいかによくても、自分はもうそこへもどって行くことはできない。おれは|あの女《ヽヽヽ》を恋しているのだ』
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十三
アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチに最も近しい人をのぞいては、だれひとり、この一見あくまで冷静で思慮ぶかげな人物が、その性格の一般的な傾向とは反対な、ひとつの弱点をもっていることを知るものはなかった。アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチは、子供や女の涙を、平気で見聞きすることのできない人であった。涙を見ると、彼はたちまち放心状態にみちびかれて、まるで判断力を失ってしまうのだった。彼の役所の書記長や秘書官は、よくその点をのみこんでいて、女の請願者に向かっては、もし彼女たちが自分の用件をうちこわしたくなかったら、けっして泣いてはいけないということを、あらかじめ言いふくめておくのだった。「あのかたはお怒りになる、と、あなたの申したてを聞いてくださらなくなるから」こう、彼らはいった。そしてじっさい、そういう場合、涙によってアレクセイ・アレクサーンドロヴィッチのうちにひきおこされる精神的混乱は、性急な怒《いか》りとして表現されるのが常であった。「わたくしには何もできません。どうぞ出て行ってください!」そういう場合には、彼はいつもこう叫ぶのだった。
競馬から帰るみちすがら、アンナが彼にウロンスキイとの関係を宣言して、すぐそのあとで、両手で顔をおおって泣きだしたときに、アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチは、彼女にたいする憤怒がうず巻くようにおこったにもかかわらず、同時に、涙がもたらす例の精神的混乱のみなぎり襲ってくるのを感じた。それを知り、またその瞬間の自分の感情の表現が、時の状態に不適当であることを知って、彼は生命のあらゆる表現を自分のうちにおさえようとつとめ、その結果、身うごきもしなければ、妻のほうを見もしなかったのである。そしてまたこのことから、あれほどアンナの心をうった、あの奇怪な死人のような表情が、彼の顔面に現われたのであった。
家へ着くと、彼は彼女を馬車からたすけおろしてやり、つとめて自分をおさえながら、いつものとおり、いんぎんな態度で彼女に別れを告げ、例の何事にも自分を束縛しないお座なりの言葉を口に出した。彼は彼女に、自分の決心は明日告げるであろうと言い残した。
彼の最悪の疑惑を裏書きした妻の言葉は、アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチの心に、むごたらしい痛みをあたえた。この痛みは、妻の涙が彼の心におこした彼女にたいする肉体的|憐憫《れんびん》という例の奇怪な感情によって、さらにいっそう強められた。けれども、馬車のなかでひとりきりになると、アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチは、われながら驚きもし喜びもしたことに、自分がその憐憫からも、最近彼を苦しめていた疑惑と嫉妬の苦痛からも、まったく自由になっているのを感じたのである。
彼は、長く痛んだ歯を抜きさった人と同じ感じを経験した。恐ろしい痛みと、何かこう巨大な、自分の頭よりも大きなものが、あごからぐいともぎとられたような感じのあとで、患者は急に、まだ自分の幸福を信じかねながら、あれほど長く自分の生活にわざわいし、全注意をその上へくぎづけにしていたものが、もはや存在しなくなって、自分はふたたび生き、考え、自分の歯以外のことがらに興味を持ちうるであろうことを感ずる――この感じを、アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチは経験したのである。痛みは、奇怪な、恐ろしいものであったけれども、いまやそれは去った。彼は自分がふたたび生きることができ、もはや妻ひとりのことばかりでなく、考えることができるのを感じたのである。
『名誉心もなければ、人情もない、宗教心もない堕落女だ! これは、わしもふだんから知っていたのだ。ふだんからわかっていたのだ。もっとも、あれをあわれんで、みずから欺こうとはしていたけれども』こう彼は、自分にいった。すると、彼にはじっさい、自分がふだんからそれを知っていたような気がした――彼は、以前にはべつだんわるいとも思わなかったふたりの過去の生活を、詳細にわたって思いおこしてみた。と、今ではその一つ一つが、彼女が以前から堕落女であったことを、はっきりとさして見せた。『わしが自分の生活を、あの女と結びつけたのはまちがいだったのだ。だが、わしのあやまちのうちには、なんらわるいことはない、だから、わしは不幸者になるわけにはいかぬ。わるいのはわしではなく』と彼はいった。『あれなのだから。しかし、わしはもうあれのことなんかどうでもいい。わしにとっては、あれはもう存在しないものなのだ』
彼女と、彼女にたいすると同様に、彼の愛情が一変してしまったむすことにかんすることは、いっさい彼の心をひかなくなった。現在彼の心をひくものといっては、彼女がその堕落するみちで彼にはねかけた泥を振り落として、活動的な、名誉ある、有利な自分の生活のみちをあゆみつづけるには、どうするのが最もよく、最も礼儀にかない、自分のために最も有利で、したがって正当であるかという問題、ただひとつだけであった。
『とるにたらぬ一個の女が罪を犯したからとて、わしが不幸になってはいられない。わしはただ、あれがわしをおとしいれた不愉快な状態からのがれ出る最善の方法を、見いだしさえすればいいのだ。だから、わしはそれを発見する』と彼は、いっそう深く眉をひそめながら自分にいった。
『こんなことは、わしが最初でもなければ、また最後でもないのだ』すると、|美しいエレーナ《ヽヽヽヽヽヽヽ》によって万人の記憶に新たなメネロウスをはじめとする、歴史的な事例についてはふれないでも、現代の上流社会の夫にたいする妻の不貞の実例が、ずらりとアレクセイ・アレクサーンドロヴィッチの想像にうかびあがった。『ダリヤーロフ、ポルスターフスキイ、カリバーノフ公爵、パスクーディン伯爵、ドゥラーム……そうだ、ドゥラームでさえ……ああいう実直な、有為《ゆうい》な人物さえがそうだ……セミョーノフ、チャーギン、シゴーニン』とアレクセイ・アレクサーンドロヴィッチは数えあげるのだった。『まあかりに、これらの人々の上に、一種の不合理な ridicule(嘲笑)が投げられたにせよ、しかしわしはそのうちに、けっして、不幸以外の何ものをも見たことがなかった。そしてどういう場合にも、その男に同情してきた』こうアレクセイ・アレクサーンドロヴィッチは自分にいったが、しかし、それは事実ではなかった。彼はけっして、この種の不幸には同情せず、夫にそむいた妻の話を聞けば聞くほど、いっそう高く自分のねうちを評価していたのであった。『これはいわば、どんな人にもおこりうる不幸なのだ。その不幸がわしにもきたのだ。で、問題はただ、最善の方法をつくして、この状態から切り抜けることだ』そして彼は、自分と同じ境遇に落ちた人々のとった方法を、詳細に検討しはじめた。
『ダリヤーロフは決闘をやった……』
決闘ということは、彼が本能的におくびょうであり、かつ自分でもよくそれを承知していたので、若い時分にはとくに、アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチの心を引きつけたものであった。アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチは、恐怖の思いなしに、自分にむけられた拳銃について考えることができなかった。そしてこれまではただの一度も、どんな武器をも使用したことはなかった。この恐怖心が、若い時分からしばしば彼に決闘について考えさせ、自分の生命を危険にさらさねばならぬような場合に処する心がまえをつくらせていたのである。社会的に成功して確乎《かっこ》たる地位をおさめえてからは、彼は、久しくこの感情を忘れていた。が、感情の惰性は、すぐその方向をとりもどして、自分のおくびょうにたいする恐怖の観念が、またしても鋭く現われてきたので、アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチは、自分はどんなことがあっても決闘などしないということを十分予知していながら、なお決闘という問題を、あらゆる角度から観察し、心のなかでひねくりまわさないではいられなかった。『疑いもなくわれわれの社会は、まだまだかなり野蛮だから、(イギリスなどとは比較にならない)大多数の連中が、(この大多数のなかには、アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチがその意見をとくに尊重していたような人々もふくまれていた)決闘というものを是認《ぜにん》するだろう。だが、どういう結果がえられるというのだ? かりにわしが決闘を申し込むとして』とアレクセイ・アレクサーンドロヴィッチは、ひとり考えつづけたが、申し込みのあとですごす一夜と、自分にむけられる拳銃とをまざまざと思いえがくと、思わずびくりと身ぶるいして、自分はけっしてそんなことはしないにちがいないことをさとった。『かりにわしがあの男に決闘を申し込むとする。みんながわしに教えるとする』と彼は考えつづけた。『立たせられる、わしは引き金をひく』と、彼は目を閉じてひとりごちた。『そしてわしがあの男をたおすことになる』こうアレクセイ・アレクサーンドロヴィッチは自分にいった。そして、このばかげきった想念を追いのけようとして、頭を振った。『罪ある妻と子供にたいする自分の態度を決定するために、人を殺すということになんの意味があるのか? あれにたいしてとるべき処置もやっぱり、そうした方法で決定しなければならないのだろうか? しかし、それよりもずっと確かな疑いのない事実は、わしのほうが殺されるか傷つけられるかするだろうということだ。わし、このなんの罪もない人間、犠牲が、殺されるか傷つけられるかするのだ。いっそう無意味な話ではないか。が、まだ、そればかりではない――わしのほうから決闘を申し込むということは、不正直な行為になるだろう。いったいわしは、わしの友人たちが、どんなことがあってもわしに決闘なんかさせないことを予期していないといえるだろうか――ロシアにとってなくてならない一政治家の生命が、危険にさらされるのを人々が許すはずのないことを? すると、けっきょくどうなる? つまりわしは、事件が危険なところまで行かないことを承知しながら、その申し込みでもって、ある種の虚名を得ようとするだけの結果におわるのだ。これは不正当だ、これは欺瞞《ぎまん》だ、これは他人をも自分をも欺くことだ。決闘なんて考えるまでもないことだ。そしてだれひとり、わしからそんなものを予期してはいないのだ。わしの目的は、わしの活動を支障なくつづけていくために必要な名声を、落とさないようにさえすればいいのだから』これまでにもアレクセイ・アレクサーンドロヴィッチの目に大きな意義をもっていた公務上の活動ということが、今はいっそう彼にとって、意義ふかいものになったのである。
決闘を批判し否定してしまうと、アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチは、こんどは離婚という、彼が思いうかべた事例中の夫の数人によって選ばれた、今ひとつの出口のほうへ考えを向けた。記憶のうちで、世間に知れわたっている離婚の例をことごとくひるがえしてみて(そういう例は彼のよく知っている上流社会には非常に多かった)、アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチは、その離婚の目的が、彼が現在考えている目的と同じような例をひとつも見いださなかった。どの例の場合に見ても、すべて夫は、その不貞な妻をゆずるか売るかしていた。そして、その当の相手である、犯した罪のために正当の結婚をする権利を失った女は、かりの夫とかりの法律にかなったでたらめの関係を結んでいるのであった。が、アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチは、自分の場合、そうした法律上の、つまり罪ある妻が捨てられるだけにとどまる、そうした離婚を実現することの不可能であるのを見てとった。彼はまた、彼の住んでいる生活上の複雑な事情が、妻の犯行の証拠として法律の要求する、あの醜悪《しゅうあく》な証明を許さないであろうことをも、見てとった。なお彼は、こうした生活につきものの優雅ともいうべきものが、よしんば証跡があるにしても、そうした立証の適用を許さないであろうこと、および、そうした立証の適用は、世評の前に、彼女よりもかえって彼自身を多くおとしめるであろうことを見てとった。
離婚のこころみは、単に外聞のわるい訴訟事件となって、敵のために、すなわち、彼の高い社会的地位を誹謗《ひぼう》し攻撃するために、もっけの幸いとなるにすぎないであろう。かんじんの目的――騒ぎを最小限度にとどめて、自分の地位を擁護すること――は、離婚を通しても達せられなかった。のみならず、離婚してしまえば、いや、離婚の手続きをとっただけでも、妻が夫との関係をはなれて、その恋人といっしょになることが明瞭であった。しかもアレクセイ・アレクサーンドロヴィッチの心にも、彼自身はいま妻にたいして十分|蔑視的《べっしてき》に無関心でいるものと思っていたにもかかわらず、彼女にたいする気持のなかには、ひとつの感情――彼女がなんの障害もなくウロンスキイといっしょになって、その犯した罪が彼女のために有利になるというようなことを望まない感情が残っていた。そしてこのひとつの感情が、アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチを極度にいらだたせたので、彼は、それを考えだすやいなや、内心の痛みに思わずうめきながら立ちあがって、馬車のなかで席をかえ、その後も長いこと眉をひそめて、寒気を感じやすい、骨ばった両足をしっかりと、毛ばだった膝掛けでくるんでいたほどであった。
『正式の離婚以外にも、まだ、カリバーノフやパスクーディンや、あのお人好しのドゥラームのとったような手段をとることもできる。つまり、妻との別居だ』と彼は、ややおちついてから考えつづけた。けれどもこの手段もまた、離婚の場合同様の、不名誉という不便をともなっていた。それにだいいち――これもまた、正式の離婚の場合と同じく、彼の妻をウロンスキイの抱擁《ほうよう》のなかへ投げこむものであった――『いや、そんなことはできない、できない!』と彼は、またしても膝掛けをなおしながら、大声に叫んだ。『わしは不幸であってはならない。だが、あれも、あの男も、幸福であってはならない』
真相のはっきりしなかったあいだ、彼を悩まし苦しめていた嫉妬の情は、妻の言葉でひと思いに歯を抜きさられた瞬間に、消え失せてしまった。けれども、そのあとにはすぐほかの願望――彼女に勝たせたくないばかりか、その罪の報いを受けさせたいという願望がいれかわった。彼はその感情を、みずから意識してはいなかった。が、心の奥底では、彼女が彼の平和と名誉とを破壊したことにたいして、苦しみ悩ませてやりたかったのである。そこで、またあらためて、決闘・離婚・別居の条件を考えなおし、あらためてそれを否定してから、アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチは、とるべき方法は、ただひとつしかないことをたしかめた――それは事件を世間に秘して、彼らの関係を断たせるためと、なおかんじんなことは――これは自分では自覚していなかったが――彼女を罰するためとに、あらゆる手段をつくして、彼女を現在のまま自分の手もとへとどめておくことであった。『わしは、あれが一家の者をおとしいれた困難な状態を熟慮した結果、他のいっさいの方法が表面的 statu quo(現状維持)よりも双方のためによくないだろうという自分の決心を、そしてあれがわしの意志を実行する、つまり情人との関係を断つという断乎《だんこ》とした条件のもとにのみ、わしがその現状維持を承諾するという決心を、あれに向かって言明しなければならぬ』この決心が絶対のものとして受けいれられたときに、その裏書きとしてアレクセイ・アレクサーンドロヴィッチの頭に、いまひとつの重大な考えがうかんできた。
『この決心によってのみ、わしは宗教にかなった行動をとることができるのだ』と彼は自分にいった。『この決心によってのみ、わしは罪ある妻を自分から遠ざけないで、あれに悔悟《かいご》の可能をあたえ、そのうえ――それがわしにとっていかに忍びがたいことであろうとも――わしの力の一部を、あれの悔悟と救済にささげてやることになるのだ』アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチは、自分が妻にたいして精神的感化力をもちえないことや、こうした悔悟のこころみからは、一片の虚偽以外何ものも生まれ出ないことを承知していながら、また、この苦しい数分をすごすあいだ、宗教に指導を求めようなどとはぜんぜん考えもしなかったにかかわらず――今、彼の決心が宗教の要求と一致する(と彼には思われた)と同時に、彼の決心のこの宗教的是認は、彼に十分の満足といくぶんの平安とをあたえた。そして、これほど重大な人生の事件にも、彼が日ごろ、一般社会の冷淡と無関心とのなかに高くその旗《はた》をかかげていた、例の宗教の教義にしたがって行動しなかったとは、なんぴとも言いえないであろうと考えると、うれしくてたまらなかった。それから、アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチは、なおいろいろと思いめぐらしているうちに、妻にたいする自分の関係が、このさき、なぜ以前のそれと同じであってはならないか、その理由までがわからなくなってきた。疑いもなく、彼はもはや、彼女にたいする敬意をとりもどすようなことはあるまい。が、彼女がよからぬ女であり不貞な妻であったがために、彼が自分の生活を破壊したり苦しんだりせねばならぬ理由は少しもなかったし、またあるはずもなかった。『そうだ、時が過ぎて行く。何ものをも巧みに処理する時が過ぎて行く。そして、この関係もいつかはまた以前のようになるだろう』とアレクセイ・アレクサーンドロヴィッチは自分にいった。『つまり、わしが自分の生活の流れに不調和を感じなくなるくらいの程度には、回復されるだろう。あれは不幸でなければならない、けれどわしに罪はない、したがって、わしは不幸であってはならない』
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十四
ペテルブルグへ近づいた時分には、アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチは、この決心の上にどっしりと腰をすえたばかりでなく、妻に書き送る手紙まで、頭のなかで組み立てていた。玄関番の部屋へはいると、アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチは、役所からとどいていた手紙や書類にちらと目をやって、すぐ自分の書斎へもってくるようにと命じた。
「馬は解いていい、それからだれも通さないようにな」と彼は、『通さないように』という言葉にとくに力を入れて、上きげんでいることを示すある満足の色をうかべながら、玄関番の問いにたいしていった。
書斎へはいると、アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチは、二度あちこちと歩きまわってから、彼よりさきにはいって来た従僕の手で、もうちゃんと、六本のろうそくがともされていた大きな書卓のそばに立ちどまって、指をぼきぼきと鳴らし、文房具をいじりながら、座についた。テーブルの上に肘をつき、頭をかしげてちょっと考えてから、こんどは一秒も休まずに、彼は手紙を書きはじめた。彼は、彼女に呼びかけないで、フランス語で『あなた』という代名詞を用いながら、書いた。しかし、この代名詞は、ロシア語で持つほどの冷やかさは持っていなかったのである。
[#ここから1字下げ]
われわれの最後の話し合いで、わたしはあなたに、話し合いの内容にたいするわたしの決定は、後ほどお知らせする考えであるむね申しておきました。いっさいを熟考したうえで、わたしは今あなたに、その約束をはたす目的をもって、この手紙をしたためます。わたしの決心はつぎのとおりであります。あなたの行為がよしいかなるものであったにせよ、わたしは自分を、われわれが神のみ力によって結ばれたきずなをたちきる権利あるものとは考えません。家庭は、でき心や、気ままや、夫婦のうちひとりの罪によってすらも、破られてよいものではありません。そしてわれわれの生活は、それが以前に進んでいたとおりに、進まなくてはならないのであります。これはわたしのためにも、あなたのためにも、またわれわれの子供のためにも、欠くべからざるものであります。わたしはあなたが、この手紙の原因となっている事実にたいして、すでに悔悟《かいご》し、また悔悟しつつあること、およびわれわれの不和の原因を根絶し、過去を忘れさるために、わたしとともに力をいたされるであろうことを、あくまでも信じておるものであります。もし、さもない場合には、あなたおよびあなたの子供を待っているもののなんであるかは、あなた自身十分にご考察できることとぞんじます。なお、これらのことについては、すべて、面会のうえ十分詳細にご相談いたしたく希望しております。もはや別荘生活の季節も終わりに近づいたことゆえ、わたしはあなたが少しも早く、遅くも火曜日までには、ペテルブルグへお帰りなさるよう願いあげます。あなたの帰宅に必要な用意は、いっさいいたさせておきます。なお、わたしが、このわたしの希望の実行されることにとくに意味をおいていることを、ご注意願いたいとぞんじます。ア・カレーニン
二伸。そちらの費用にご入用と思われるだけの金子《きんす》、この手紙に同封いたします。
[#ここで字下げ終わり]
彼は手紙を読みかえしてみて、それに満足した。とくに、自分が金を同封することを思いついたのに満足した。あらい言葉もなければ、叱責《しっせき》もなく、それかといって卑下《ひげ》の言葉もなかった。とにかくそれは――妻の帰宅にとって黄金の橋であった。手紙を折りたたみ、大きな分厚《ぶあつ》な象牙のペーパーナイフでそれを平らたくして、金といっしょに封筒へおさめると、彼は、日ごろよく整頓している文房具を使うたびに、いつもよびおこされる満足の情を味わいながら、ベルを鳴らした。
「これを明日、別荘にいるアンナ・アルカジエヴナのところへ届けるように、使いに渡してくれ」と彼はこういって、座を立った。
「かしこまりましてございます、閣下。それから、あの、お茶はご書斎のほうへおはこびいたしましょうか?」
アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチはお茶を書斎へもってくるように命じて、重いペーパーナイフをもてあそびながら、肘掛けいすのほうへ行った。そこにはランプと、エジプトの象形文字にかんする読みさしのフランスの書物とが、用意されてあった。いすのま上には、楕円形の金ぶちの額にはいった、有名な画家の手でみごとに描かれたアンナの肖像画がかかっていた。アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチは、それを見やった。底の知れないような彼女の目は、ちょうどあの最後のじか談判の晩のように、あざけるように、また傲然《ごうぜん》と、彼を見おろしていた。画家の手で巧みに描かれた頭の上の黒いレース、黒い髪、それから指輪におおわれたくすり指をもった、まっ白な美しい手、それらのおもかげは、アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチにたいして、堪えがたく傲慢《ごうまん》な、挑戦的作用をあたえた。ちょっとのまその肖像を見ていただけで、アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチは、くちびるがおどって「ぶるる」というひびきを発したほどはげしく身ぶるいして、顔をそむけた。そして、急いで肘掛けいすに身を投げて、書物をひらいた。
彼は読もうとしたが、この時ばかりはどうしても、エジプトの象形文字にたいする以前のあのいきいきした興味を、よびおこすことができなかった。彼は本を見ていながら、ほかのことを考えていた。彼は、妻のことではなく、最近彼の政治上の仕事の上にもちあがってきて、当時彼の勤務上の重要な興味を形づくっていた、あるめんどうな事情について考えていた。彼は、自分が今ではいつにもまして、この複雑な事情を明らかにし、ひいて自分の頭のなかに、この事件のいっさいを解決して、官界における彼の地位を高め、敵をおとしめ、したがって国家のために絶大の利益をもたらすにちがいない根本的の思想――こう彼はみずから欺くことなしにいうことができた――が生じていることを、感じていた。
従僕がお茶をおいて部屋を出ていくやいなや、アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチは立ちあがって、書卓のほうへ行った。一件書類のはいった紙ばさみをまん中のほうへ引きよせ、やっと認められるくらいの得意のえみをもらしながら、彼は、ペン立てから鉛筆をぬきとって、目下の複雑な事情にかんして要求して取りよせた書類に読みふけりはじめた。複雑な事情というのはこうであった――もともと政治家としてのアレクセイ・アレクサーンドロヴィッチの特質、一般の有為な官吏に共通の、彼一個にとっては本質的である異色ある特質、彼の執拗な名誉心と克己心《こっきしん》、廉直《れんちょく》および自信とともに彼の栄達を作ったところの特質は、皮相な官僚風を蔑視すること、往復文書を簡略にすること、生きた事実にたいしてはできるだけ直接な関係をもつようにすること、および、倹約ということからなりたっていた。ところで、六月二日の有名な委員会では、たまたまザラーイスキイ県の原野|灌漑《かんがい》という問題が提出されたが、それはアレクセイ・アレクサーンドロヴィッチの管下に属した事業で、実《み》のない浪費と、事業にたいするお役所式態度の好適例であった。アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチは、この非難を正当と認めていた。ザラーイスキイ県の原野灌漑事業は、アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチの前々任者によって着手されたものであった。そして、事実この事業のためには莫大な金が消費され、いまなお消費されつつあるのであるが、いまだにぜんぜん無生産で、この事業は明白になんの役にもたちそうになかったのである。アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチは、就任と同時にそれを知って、この事業に手をそめてみたいと考えた。が、彼は、自分の地位のまだ不安定に思われていた最初のあいだは、それはあまりに多くの人の利害に触れることであり、したがって、知恵のあるやりかたでないことを知っていた。が、そのうち彼は、ほかの事業に気をとられて、この事業のことをすっかり忘れてしまっていた。しかしそれは、すべての事業と同じく、惰性でひとりでに進行していったのであった(この事業のおかげで生計を立てている人はたくさんあった。ことにそのなかにひとつ、きわめてまじめな、音楽好きな一家があった――そこの娘たちは、そろって弦楽器がうまかった。アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチは、この一家とは懇意《こんい》で、姉娘のひとりの命名親になっていた)。ところで、この問題が、彼に反対側の省の手で提出されたということは、アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチの意見によると、正しいことではなかった。なぜなら、いずれの省にも、一定の官吏社会の礼儀によって、だれもが取りあげないような、これよりもっとひどい問題もあるものだからである。ところが、いますでに挑戦の手ぶくろが彼に向かって投げられた以上、彼はいさぎよくそれを取りあげて、ザラーイスキイ県の原野灌漑にたいする委員会の仕事を探究し、検証するための特別委員会の任命を要求するほかなかったが、そのかわり、彼はもはや相手の連中にたいしても、なんの容赦もしないことにした。なお彼は、異種族厚生問題にたいしても、特別委員会の任命を要求した。異種族厚生についての問題は、六月二日の委員会で偶然に取りあげられ、異種族の悲惨な状態のため遅延《ちえん》を許さないものとして、アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチによって熱心に支持されたものであった。この問題は、委員会の席上で、二、三の省の抗議の原因となった。アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチに反対側の省は、異種族の状態のきわめて良好であること、予想されている改革は、かえって彼らの繁栄を阻害するものであること、だから、もしそこに何かよからぬ点があるとすれば、それはただ、法令の指示する方法が、アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチの省によって実行されていない結果にすぎないことを証明した。そこでいま、アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチは、つぎのような要求を提出しようと計画しているのであった――第一に、即時異種族の状態の現地調査を委嘱《いしょく》すべき新委員会を組織すること。第二に、もし異種族の状態が、じじつ、委員会の手にある公文書に見えているような性質のものであれば、異種族のその慰めなき状態の原因がどこにあるかを、(イ)政治的、(ロ)行政的、(ハ)経済的、(ニ)人種学的、(ホ)物質的、(へ)宗教的の各見地から検討するため、さらにひとつの新しい学術委員会を任命すること。第三に、こんにち異種族がおかれているような不利な事情を防止するため、最近の十か年間同省ではどんな方法を講じてきたか、その報告を反対側の省から要求すること。そして第四には、最後として、なにゆえに省が委員会に提出された報告、一八六三年十二月五日付および一八六四年六月七日付第一七〇一五号、および一八三〇八号に見えているように、××法の第十八条および第三十六条付記の根本精神にぜんぜん相反するごとき行動をとったかということについての説明を、同省に求めること、以上の考案の要領を、手ばやく書きとめたとき、アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチの顔は、活気にみちた、くれないにおおわれた。一枚の紙を書きおわると、彼は腰をあげてベルを鳴らし、彼のために必要な調査をしておくようにという覚え書きを、役所の書記長のもとへ持たせてやった。それから立ちあがって、部屋のなかを歩きまわりながら、彼はふたたび肖像画を見あげ、眉《まゆ》をひそめて、さげすむようなえみをうかべた。それから象形文字の本に目をさらしてみて、それにたいする興味を回復してから、アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチは、十一時に寝室へ行った。そして床《とこ》のなかに横たわって、妻との事件を思いうかべたときには、それはもうまったく、さして陰うつな形では想像されなかった。
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十五
アンナは、ウロンスキイが彼女の地位のぬきさしのならないことをいって、すべてを夫にうちあけるように説いたときには、やっきとなって頑強《がんきょう》に反対したけれども、心の底では、自分の地位を、虚偽なもの恥ずべきものと考えて、心からその変わることを願っていた。夫と同車して競馬場からもどるみちすがら、興奮のあまりすべてを彼にうちあけてしまったが、そのとき彼女は、心にはげしい痛みをあじわったにもかかわらず、それを喜んだのであった。その後、夫が彼女を残して行ってしまうと、彼女は、ああ、うれしい、こんどこそいっさいが解決する、すくなくとも、もはや虚偽や欺瞞《ぎまん》はなくてもすむだろうと、ひとり心につぶやいた。彼女には、いまこそ自分の地位が永久に決定するだろうということが、疑いないもののように思われた。この新しい地位は、あるいはよくないものであるかもしれない、しかし、とにかく決定的なものとなって、そこにはもはや、曖昧も虚偽もなくなるであろう。彼女がああいうことをうちあけて、自身と夫とにあたえた苦痛も、いまや万事が決定するということで償われるであろう、こう彼女は考えたのである。その夜、彼女はウロンスキイと会ったが、彼には、自分と夫とのあいだにおこったことについては何も語らなかった。自分の地位を決定するためには、ぜひともそれを話す必要があったのだけれども。
翌朝目をさましたとき、最初に彼女の頭にうかんだことは、彼女が夫にいった言葉であった。そして、それらの言葉は彼女に、どうしてあんな奇怪な、乱暴な言葉を口にすることができたか、いまでは考えもつかぬほど、そして、その言葉からどんなことが起こるか、その想像もつかないほど、恐ろしいものに思われた。が、その言葉はもう語られて、アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチは、何もいわずに行ってしまったのである。『わたしはウロンスキイに会いながら、あのひとには話さなかった。あのひとが帰りかけたときに、わたしはよほど呼び返して、話そうかと思ったけれど、初めにいわなかったのが、なんだかへんに思われそうだったので、思いなおしてやめてしまった。ほんとにわたしは、あれほど話そうと思っていながら、どうして話さなかったのだろう?』と、この質問にたいする答えとして、燃えるような羞恥《しゅうち》の色が、彼女の顔一面にみなぎった。
彼女は、自分を引きとめたものがなんであるかをさとった。つまり、自分は恥ずかしかったのだということをさとった。昨日の夕方には、りっぱに解決がついたものと思われていた彼女の境遇が、いまは急に、ぜんぜん反対なばかりでなく、のがれ道もないもののように思われだした。彼女には、まえにはてんで考えもしなかった名誉の失墜《しっつい》ということが、恐ろしくなってきた。夫がどんな態度に出るだろうと考えたばかりで、彼女の頭には最も恐ろしい想念が思いうかべられた。いまに執事が彼女を追い出すためにやって来て、彼女の名誉の失墜が世界じゅうに知れわたるだろう、こういう想念もうかんできた。もし家を追い出されたら、自分はどこへ行くだろう、彼女はこう自問してみて、その答えを見いださなかった。
ウロンスキイのことを考えると、彼女は、彼がもう自分を愛してはいないような、自分をもてあましかけているような、自分ももはや彼には身をまかせることができないような気がして、そのため、彼にたいして敵意を感じた。彼女は、自分が夫に向かっていったあの言葉、たえず自分の想像裡でくりかえしていたあの言葉は、自分がすべての人に語ったものであり、すべての人に聞かれてしまったもののような気がした。彼女は、いっしょに暮らしている人たちと、顔をあわせる決心がつかなかった。小間使を呼ぶことはおろか、下へおりて、子供や家庭教師を見る決心は、なおさらつかなかった。
もうさっきから戸口で様子をうかがっていた小間使が、自分のほうから彼女の部屋へはいって来た。アンナはいぶかしげにその目を見て、びっくりしたようにあかくなった。小間使は、ベルが鳴ったような気がしたのでといって、無断ではいって来たことを詫びた。彼女は服と手紙とをもって来た。手紙はベーッシからであった。ベーッシは彼女に、今朝自分のところへ、リーザ・メルカーロワと男爵夫人シトリツとが、自分たちの崇拝者のカルジュスキイとストゥレーモフ老人といっしょに、クリケットをするためにあつまることになっているのを、彼女に念を押してよこしたのである。「風俗研究にもなりますから、せめてごらんになるだけにでもおこしくださいませ。お待ちしております」こう彼女は筆をむすんでいた。
アンナは手紙を読み終わって、重苦しげに太息をもらした。
「なんにも、なんにも用はありませんよ」と彼女は、化粧台の上のフラスコやブラッシュを置きかえていたアーンヌシカにいった。「もう行っていいよ。わたしもすぐ着がえをして、そちらへいくから。なんにも、なんにも用はありませんよ」
アーンヌシカは出て行った。が、アンナは着がえをしようともせず、頭と手とをだらりとたれたまま、同じ姿勢で腰掛けていた。ときどき何かの身ぶりでもしたそうに、また何か言いたそうにしながら、すぐまた動かなくなっては、総身をびくびくふるわせていた。彼女はひっきりなしにこうくりかえしていた――『わたしの神さま! わたしの神さま』――だが、『神さま』も、『わたしの』も、彼女にとってはなんの意味ももっていなかった。自分の境遇にたいする救いを宗教に求めるという考えは、自分の教育されてきた宗教をこれまでについぞ一度も疑ったことがなかったにもかかわらず、アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチその人のなかに救いを求めると同様に、彼女には縁どおいことであった。彼女は、宗教の救いはただ、彼女のために生活の意義を形づくっているすべてのものを拒否するのでなければ、ありえないことを承知していた。彼女は、今日までついぞ経験したことのない、新しい精神状態のまえに、ただ苦しいばかりでなく、恐れを感じはじめていたのである。彼女は、疲れた目にはときとして事物が二重になって映るように、自分の心でも、すべてのものが二重になりかけているのを感じた。彼女はときどき、自分が何を恐れているのか、何を願っているのか、それさえわからなくなることがあった。彼女が恐れたり願ったりしているのは、すでにあったことなのか、それともこれからおこってくることなのか、しかも、いったい自分は何を願っているのか、それもまるでわからなかった。
『ああ、わたしは何をしているのだろう!』彼女はふと、頭の両側に痛みを感じて、こう自分にいった。そしてわれにかえってみると、彼女は、自分が両手でこめかみのあたりの毛をつかんで、それをおさえているのに気がついた。彼女はさっと立ちあがって、歩きはじめた。
「コーヒーのお支度ができましてございます。先生もセリョージャとごいっしょにお待ちでいらっしゃいます」アーンヌシカはふたたびひき返してきて、ふたたび同じ様子でいるアンナを見いだして、こういった。
「セリョージャ? セリョージャがどうしたの?」とアンナは急に元気づき、朝になってからはじめて自分に子供のあったことを思い出しながら、たずねた。
「何かおいたをあそばしたらしいのでございますよ!」と、アーンヌシカはにこにこしながら答えた。
「どんなおいたを?」
「あちらのかどのお部屋に|もも《ヽヽ》が置いてございました。それを、こっそりひとつめしあがったらしいのでございます」
子供についての回想は、たちまちアンナを、いままで落ちこんでいた絶望的な境地から救いだした。彼女は、近年自分の上にとってきた、たぶんに誇張されたものではあるが、一部は真実な、子供のために生きている母としての役目を思いだした。そして自分が、現在落ちている境地のなかでも、夫やウロンスキイにたいする関係からはなれた独自の王国をもっていることを、うれしく感じた。その王国は子供であった。たとえどんな境地におちいろうとも、彼女は子供を捨てることはできないだろう。夫は思うままに彼女をはずかしめ、放逐させるがいい。また、ウロンスキイは彼女にたいして冷淡になり、彼自身の勝手な生活をつづけさせるがいい(彼女はまたしても憤怒と非難とをもって彼のことを考えた)。しかし彼女は、子供を見すてることはできないだろう。つまり、彼女には生活の目的があるのだ。そこで、彼女は行動しなければならない。自分の手もとから子供を奪いさられないために、子供とのこの境遇を安全にするために、適当な行動をとらなければならない。いや、少しも早く、できるだけ早く、子供を奪いさられないうちに、行動をおこさなければならない。子供を連れて、たちのかなければならない。これがいま、彼女のしなければならぬただひとつのことである。彼女は気をおちつけて、この苦しい境遇からのがれ出なければならなかった。そして、子供に結びついている当面の問題についての考えと、いますぐにも彼を連れて、どこかへたち去ろうという考えとが、このおちつきを彼女にあたえた。
彼女は手ばやく着がえをすますと、下へおりて、しっかりとした足どりで、いつものとおりコーヒーと、セリョージャと、家庭教師とが待っていた客間へとはいって行った。セリョージャは純白の服を着て、鏡の下のテーブルのそばに立ち、背と頭とを前かがみにして、彼女のよく知っていた、それをすると父親そっくりになる、緊張した表情をして、自分でもってきた草花で、しきりに何かをこしらえていた。
家庭教師はひどくきびしい顔をしていた。セリョージャは、彼の癖の刺すような声でこう叫んだ――「ああ、お母さま!」そして思いまどうように立ちどまった――花を捨てて母のほうへあいさつをしに行ったものか、それとも花輪を作ってしまってから、それを持って行ったものか?
家庭教師は、あいさつをしてしまうと、セリョージャのしたいたずらについて、ながながと、てきぱきした口調で話しだしたが、アンナは聞いていなかった。彼女は、この女も連れていったものかどうかと、そんなことを考えていた。『いいえ、連れては行くまい』と、彼女は思案をさだめた。『わたしひとりで行きましょう、子供だけを連れて』
「そうね、それはほんとによくありませんね」とアンナはいって、子供の肩をおさえ、きびしいところなどはみじんもない、かえって子供の心をさわがせ喜ばせたような、おどおどしたまなざしで、彼の顔を見て接吻した。「この子はわたしにまかせておいてください」こう彼女は、あっけにとられている家庭教師に向かっていって、子供の手を握ったまま、コーヒーの支度のできていたテーブルの前に腰をおろした。
「お母さま、ぼくは……ぼくは……なんにも……」と彼は、|もも《ヽヽ》の一件のために彼を待っているもののなんであるかを、彼女の表情から読み取ろうとつとめながら、いった。
「セリョージャ」と彼女は、家庭教師が部屋を出ていくやいなや、いった。「それはいけないことですよ。だけどおまえはもう、そんなことはしませんね?……おまえはお母さまが好きでしょう?」
彼女は、涙が目にうかんでくるのをおぼえた。『どうしてわたしが、この子を愛さないでいられよう?』と彼女は、彼の驚いたような、同時にうれしそうな目もとに見いりながら、自分にいった。『この子が父親といっしょになってわたしを罰するなんて、そんなことがあるだろうか? わたしを気の毒に思わないなんて、そんなことがあるだろうか?』涙はもう彼女の顔を流れていた。それをかくすために、彼女は急に立ちあがり、ほとんどかけるようにして、テラスのほうへ出て行った。
この二、三日の雷雨のあとで、涼しい、からりとしたひよりになった。洗われた木の葉を通して照りつける、きらきらした日光のなかでも、戸外の空気はひえびえとしていた。
彼女は、寒さのためと、清新な空気にふれると同時に新しい力をもって彼女をつかんだ心内の恐怖のためとに、ぶるぶると身ぶるいした。
「あちらへおいで、マリエットのところへおいで」と彼女は、自分のあとについて出て来ようとしたセリョージャにいって、テラスの麦わらござの上を歩きはじめた。『あの人たちがわたしを許してくれないなんてことがあるだろうか、これがみんなこうなるよりしかたのなかったことを、わかってくれないなんてことがあるだろうか?』こう彼女は自分にいった。
立ちどまって、冷たい日光を受けてきらきらと輝いている、洗われた葉をもって|やまならし《ヽヽヽヽヽ》のこずえの、風に揺れているのを見やるうち、彼女は、彼らが自分を許すまいということ、すべてのものすべての人が、いまではこの空のように、またこの緑のように自分にたいしてつれないだろうということをさとった。と、またしても、自分の心のなかでものが二重になりだしてきたのを感じた。『しかたがない。考えたってしかたがない』と、彼女は自分にいった。『それより出かける支度をしなければならない。どこへ? いつ? だれを連れて? そうだ、モスクワへ。夜汽車で。アーンヌシカとセリョージャと、さしあたりなくてはならぬものだけを持って。だが、そのまえに、あの人たちふたりへの手紙を書いておかなければならない』彼女は急いで家へはいると、自分の部屋へ行き、テーブルに向かって座をしめると、夫にあててペンをとりあげた――
『ああいうことのありました以上、わたくしはこのうえあなたのお宅にとどまっていることはできません。わたくしは出て行きます。子供は連れてまいります。わたくしは法律をぞんじませんから、男の子は両親のどちらにつくべきものかはぞんじません。でも、わたくしはあの子を連れてまいります。なぜなら、わたくしはあの子なしには生きていられないからでございます。どうぞ、寛大なお心をもって、あの子はわたくしにおまかせくださいませ』
ここまで彼女は、すらすらと自然に書いてきた。が、彼の心にあろうとも思えぬ寛容を求めることと、この手紙をなにか感傷的な文字でむすぶべき必要とが、ちょっと彼女を引きとめた。
『わたくしの罪と、わたくしの悔悟《かいご》について申しあげることは、わたくしにはできません。と申しますのは……』
ふたたび彼女は、自分の思想につながりを見いだしかねて、ペンをとめた。『いいえ』と彼女は自分にいった。『もう何もいう必要はない』こう考えて、手紙を引き裂き、寛大|云々《うんぬん》のところをのぞいて、書き改めて封をした。
もう一本の手紙は、ウロンスキイにあてて書かねばならなかった。『わたくし、夫にいってしまいましたの』と彼女は書いた。そしてそのさきをつづける力がなくて、長いことじっとすわっていた。これではあまり乱暴で、あまりに女らしくなかった。『だけど、あのひとにたいして、わたしに何を書くことができよう!』こう彼女は自分にいった。またしても羞恥の色が、さっと彼女の顔をおおった。彼の平静な態度が思いだされた。と、彼にたいするいまいましさが、彼女をして、書きかけた手紙をずたずたに引き裂かせてしまった。『なんにも書く必要はないわ』こう、彼女は自分にいって、すいとり紙つきの紙ばさみをたたんで二階へ行き、家庭教師はじめ一同に、今日モスクワへ立つと言いわたして、すぐさま荷造りにとりかかった。
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十六
別荘の部屋という部屋を、屋敷番や、園丁や、下男たちが、荷物を運び出しながら歩きまわっていた。戸だなやたんすはあけはなたれ、細引きを買うために、使いが二度も小店へ走らされた。床には新聞紙が散らばっていた。ふたつの箱や、いくつもの袋や、ゆわえられた膝掛けなどが、玄関へ運び出された。一台の箱馬車と二台のつじ馬車とが、入口の階段の下に立っていた。アンナは荷造りの忙しさに心の混乱を忘れて、自分の部屋のテーブルの前に立ち、手さげ袋にものをつめていたが、そのときアーンヌシカが近づいてくる郵便馬車のひびきのほうへ、彼女の注意を呼びむけた。アンナは窓からのぞいてみて、アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチの使いが、玄関の戸口でベルを鳴らしているのをみとめた。
「早く行って、なんだか見てきておくれ」彼女はこういって、何事にも驚かないだけの心がまえをし、両手を膝において肘掛けいすに腰をおろした。下男がアレクセイ・アレクサーンドロヴィッチの手でうわ書きされた、厚い封書をもってきた。
「使いはご返事をいただいてくるように申しつかっておりますそうで」と彼はいった。
「ああそう」と彼女はいった。そして彼が出ていくやいなや、おののく指さきで封を切った。おび封をかけた、まだ折りめもついていない紙幣の束が、そのなかから落ちた。彼女は手紙をぬきだして、しまいのほうから読みはじめた。「あなたの帰宅に必要な用意は、いっさいいたさせておきます。なお、わたしが、このわたしの希望の実行されることにとくに意味をおいている」こう彼女は読んだ。それから逆に、前のほうへ目を走らせ、ひとわたり読み終わってから、もう一度はじめから読みなおした、彼女は、それを読み終わると、全身がぞうっと寒けだって、まったく予期しなかった恐ろしい不幸が、自分の上へ落ちかかってきたような感じに打たれた。
今朝彼女は、夫にうちあけたことを後悔して、あんなことさえいってなかったらと、ひたすらそればかりを願っていた。そしてこの手紙は、その言葉は語られなかったものとして、彼女の望みのものを彼女に与えているのであった。それにもかかわらず、いまこの手紙は、彼女が想像しうるかぎりの最も恐ろしいものとして、彼女の目に映じたのである。
『あのひとは正しい! 正しい!』と彼女はひとりごちた。『もちろん、あのひとはいつでも正しい。あのひとはキリスト教徒だわ、あのひとは寛大だわ! そう、卑劣《ひれつ》な、いやな人間だわ! そしてこれはわたし以外に、だれひとり知っている人もなければ、このさきだって知る人はないにきまっていることだわ。しかもわたしは、それを説明することはできない。世間ではいっている――宗教心のあつい、道徳的な、正直な、聡明な人だと。けれどもその人たちは、わたしの見たことを見てはいないのだ。その人たちは、あのひとがこの八年間に、どれほどわたしの生命を圧迫したか、わたしのなかに生きているものを圧迫したかということを知らないのだわ。――つまりわたしが、愛なしではいられない生きた女であるということを、あのひとがただの一度も考えてくれなかったということを知らないのだわ。あのひとがことごとにわたしを侮辱して、自分ひとり満足していたことを知らないのだわ。わたしは、努めなかっただろうか、自分の生活に意義を見いだそうとして、全力をあげて努めなかっただろうか? わたしはあのひとを愛そうとこころみなかっただろうか? そしてもはやあのひとを愛することができなくなったときには、子供を愛そうとこころみなかっただろうか? けれども時がきた。わたしは、自分がこのうえ自分を欺いてはいられないことや、自分が生きてる女であることや、自分に罪のないことや、神さまがわたしというものを、愛したり生きたりしなければならぬものにおつくりになったということをさとった。ところが、今のありさまはどうだろう? あのひとがもしわたしを殺すとか、あのひと(ウロンスキイ)を殺すとかしてくれたら、わたしはどんなことでもがまんして、どんなことでも許してあげただろうに、それだのに、ああ、あのひとは……』
『どうしてわたし、あのひとのすることが察しられなかったのだろう? あのひとはあの卑劣な性格に相応したことをするにきまっていたのだのに。そしてあのひとは、どこまでも正しい人で通って、破滅の淵にのぞんでいるわたしを、ますますひどく、ますますわるく滅ぼしてしまうにちがいないのだのに……』『あなたおよびあなたの子供を待っているもののなんであるかは、あなた自身十分にご考察できることと』彼女はこういう手紙の文句を思いうかべた。『これは子供を取りあげてしまうぞという、おどし文句だわ。そしてたぶんあの人たちのばかげた法律では、そういうことができるのだろう。だけど、あのひとがどういう気でこんなことをいうのか、それがわたしにわからないと思ってるのだろうか? あのひとは、子供にたいするわたしの愛をも信じないか、それとも軽蔑しているかだわ。(いつも物事をせせら笑うあの調子で)つまりわたしのこの感情を軽蔑しているのだわ。だけど、あのひとは知っている、わたしが子供を捨てないことも、捨てえないことも。子供なしでは、たとえ愛する人といっしょになっても、わたしにとって生活がありえないということも。なおまた、もしわたしが子供を捨てて、夫のもとを去ってしまえば、それこそわたしは、最も卑しい、いまわしい女として行動することになるということも。こういうことを、あのひとはみな知っているのだわ。そして、わたしがそういうことのできる人間でないことも見ぬいているのだわ』
『われわれの生活は、以前のとおりに進まなくてはならないのであります』彼女はまた、手紙のなかの別の文句を思いおこした。『この生活は、以前でさえずいぶん苦しいものだった。ことに近ごろは、恐ろしいものになっていた、それだもの、このさきは、どんなものになることやら? しかもあのひとは、何もかも知っているのだ。わたしが呼吸することや愛することを悔いることのできないのを、知っているのだ。また、あのひとは、そんなことをしてみたところで、うそとごまかしのほか、何ひとつ生まれてこないことも知っているのだ。でもあのひとには、いつまでもわたしを苦しめることが必要なのだわ。わたしはあのひとを知っている。わたしはあのひとが、水のなかの魚のように、うそのなかを泳ぎまわって、喜んでいるのを知っている。だからわたしは、どんなことがあっても、あのひとにそんな喜びをあたえはしない。わたしは思いきって、あのひとがわたしをつつみこもうとしている、あの虚偽の|くも《ヽヽ》の巣を破ってやるわ。どうなってもいい、なるようになるがいい。どんなものだって、虚偽や、欺瞞よりはましだわ』
『だけど、どうして? おお、神さま! わたくしのようにこんな不幸な女が、いつかこの世にありましたでしょうか?』
「いいえ、わたしは破ってやるわ、破ってやるわ!」と彼女はおどりあがり、涙をおさえながら叫んだ。そして、彼にもう一通手紙を書こうと思って、書卓のほうへあゆみよった。が、彼女は、その心の奥底では、自分には何も破る力のないこと、またこの今までの境遇から、それがいかに虚偽にみちた恥ずべきものであっても、のがれ出る力のないことを、もう十分に承知していた。
彼女は書卓の前に腰をおろしたが、ペンをとるかわりに、テーブルの上に両手をかさねて、その上へ頭をのせ、すすりあげて、胸をふるわせながら、子供のように泣きだした。彼女は、自分の立場をあきらかにし、決定しようという空想が、永久に破れてしまったことを泣いたのである。彼女はかねて、すべてがもとのままに残るだろうということを、いやむしろ、もとよりもはるかにわるいものとして残るだろうということを、知っていた。そして、自分が今日まで受けてきた、そして今朝は、あんなにも無用なものと思われたあの社会的地位が、自分にとってとうといものであり、自分にはとうていそれを、夫や子供をふりすてて恋人のもとへ走るという卑しむべき女の立場に見かえるだけの力のないことや、自分がどんなに努めてみても、しょせん自分自身より強くなることはできないだろうということなどを、感じたのである。彼女はけっして、愛の自由を経験しないであろう。そして永久に、生活をともにすることのできない、頼りにもならぬ男との恥ずべき関係のために、夫を欺いて罪深い妻として、たえまない罪証の威嚇《いかく》のもとに残るだろう。彼女は、それがそうなるだろうということを知っていた。そして同時に、それは、その結果を想像してみることすらできないほど、恐ろしいことに思われた。で、彼女は、ちょうど罰せられた子供が泣くように、心ゆくまで泣いたのである。
近づいてくる下男の足音が、彼女をわれにかえらせた。で、彼女は、彼から顔をかくすようにして、手紙を書いているさまをよそおった。
「使いがご返事をいただきたいと申しておりますが」と下男はいった。
「ご返事? はい」とアンナはいった。「もう少し待たせておいておくれ。わたしのほうからベルを鳴らすから」
『わたしに何を書くことができるだろう!』と彼女は考えた。『わたしひとりで何を決めることができよう? わたしは何を知っているだろう? わたしは何を望んでいるのだろう? わたしは何を愛しているのだろう?』またしても彼女は、自分の心が、二重になりはじめるのを感じた。彼女はいまも、この感情に驚かされた。そして、自分にかまけた考えから自分をひきはなしてくれそうな、頭にうかんだ第一の行動計画にしがみついた。『わたしはどうしても、アレクセイ(こう彼女は心のなかでウロンスキイを呼んだ)に会わなければならない。わたしのしなければならぬことを教えてくれることのできるのは、あのひとだけだわ。ベーッシのところへ行ってみよう、あすこへ行ったら、たぶんあのひとに会えるだろう』こう彼女は、まだ昨日のこと彼女が彼に、トゥヴェルスコーイ公爵夫人のところへは行かないといったときに、彼が、では自分も行くまいと答えたのをすっかり忘れてしまって、自分にいった。彼女はテーブルのそばへ行って、夫に書いた――「お手紙いただきました。A」そしてベルを鳴らして、下男にそれを渡した。
「もう立つのはみあわせたよ」と彼女は、はいって来たアーンヌシカにいった。
「あら! ではすっかりおやめなのでございますか?」
「いいえ、明日までそのままにしといておくれ。それから箱馬車もそのままにして。わたしはちょっと公爵夫人のところへ行ってくるからね」
「では、おめしものはどれにいたしましょう」
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十七
トゥヴェルスコーイ公爵夫人がアンナを招いたクリケットの勝負仲間は、ふたりの貴婦人と、その崇拝者たちとであるはずだった。このふたりの婦人は、何かの模倣をやるところから les sept merveilles de monde(世界の七不思議)と呼ばれている、選ばれたる、新ペテルブルグ社交界のおもな代表者であった。この婦人たちはじつのところ、地位は高いが、アンナの属していた社交界とは、ぜんぜん敵対の関係にある社交界に属していた。そればかりか、ペテルブルグの有力者のひとりで、リーザ・メルカーロワの崇拝者のストゥレーモフ老人は、職務上でアレクセイ・アレクサーンドロヴィッチの敵手であった。すべてこういう関係から、アンナは気がすすまなかった。それに、彼女が最初にそれをことわった気持には、トゥヴェルスコーイ公爵夫人の手紙に見えた暗示が大いにはたらいていた。ところが、いまになってアンナは、ウロンスキイに会えるという希望のために、急に出かける気になったのである。
アンナは、ほかの客たちよりさきに、トゥヴェルスコーイ公爵夫人の別荘へ着いた。
彼女がはいって行くと同時に、ほおひげをきれいになでつけた、侍従のような風采をしたウロンスキイの従僕もはいって来た。彼は戸口に立ちどまると、帽子をとって、彼女に道をゆずった。アンナはその男をそれとみとめた。そして、そこではじめて、ウロンスキイが昨日、今日は来ないといっていたことを思いだした。たぶん、彼はそのことで、手紙でも持たせてよこしたのであろう。
彼女は、玄関で上着を脱ぎながら、従僕がエル《P》の音の出しかたまで侍従ふうに発音して、「グラフ(伯爵)から公爵夫人へ」こう言いながら、書いたものを渡しているのに、耳をとめた。
彼女はその男に、主人がどこにいるかをたずねたかった。彼女はひき返して、彼が自分のほうへ来てくれるか、自分が彼のほうへ出かけるかするための手紙を、彼にとどけたいと思った。が、それも、これも、第三の案も、実行するわけにはいかなかった――それよりさきにもう、彼女の到着を告げるベルの音が聞こえて、トゥヴェルスコーイ公爵夫人の従僕が、すでに、彼女が中の部屋へはいるのを待ちながら、開かれたドアのかげに、ななめに立っていたからである。
「奥さまはお庭にいらっしゃいます。すぐにお知らせいたします。それとも、お庭のほうへおこしくださいましてはいかがでございましょう?」と他の部屋で、他の従僕が申し出た。
不安定なあいまいな状態は、家にいたときとぜんぜん同じであった。いやむしろいっそうわるかった、というのは、何事を計画することもできず、ウロンスキイに会うこともできないこんなところに、まるきり関係のない、いかにも今の気分にそぐわぬ連中のなかに、やむなく止まらねばならないはめにおちいってしまったからである。でも彼女は、自分によく似合うことを承知の服装をしていたし、ひとりぼっちでもなかった。周囲には例の、なじみの深い、華美な、遊惰《ゆうだ》な空気がかもされていたので、家にいるよりは気分がらくであった。彼女は、自分のすべきことについて、頭をつかう必要もなかった。いっさいのことが、ひとりでに運ばれていった。その優美さで彼女を驚かした雪白の装いをして彼女のほうへ近づいてきたべーッシを迎えると、アンナはいつものとおり、にっこりと笑ってみせた。トゥヴェルスコーイ公爵夫人は、トゥシュケーヴィッチと、もうひとり親戚《しんせき》の令嬢といっしょに歩いて来たが、その令嬢の田舎の両親にとっては、娘が有名な公爵夫人のもとで夏を送るということが、大きな幸福となっていたのである。
たぶんアンナには、どこか変わったところがあったにちがいない。ベーッシはすぐそれを言いだした。
「わたくしよく眠れなかったものですから」とアンナは、彼らのほうへやって来た、彼女の想像によるとウロンスキイの手紙をもってきたらしい従僕のほうを見ながら、答えた。
「あなたがいらしてくだすって、わたくしほんとうにうれしゅうございますわ」とベーッシはいった。「わたくし、疲れてしまいましたのよ。で、皆さんのいらっしゃるまえに、お茶をひとついただこうと思っていたところですのよ。では、あなたはいらしてくださいますわね」と彼女はトゥシュケーヴィッチに向かっていった。「マーシャといっしょにクリケット・グラウンドを調べてみてくださいますわね。ほら、あの、草の刈ってあるところですよ。そのあいだにわたくしたちは、お茶を飲みながら遠慮のないお話ができますわ、We'll have a cosy chat.(おもしろいおしゃべりをいたしましょうよ)そうじゃありませんか?」こう彼女は、アンナのほうへ笑顔をむけて、日傘をもっていた彼女の手を握りながら、いった。
「そうね、ましてわたくしが、今日は長くこちらにおじゃましていられないとしてみると、なおさらですわね。じつはわたくし、ウレーデ老夫人のところへ伺わなければなりませんのよ。わたくしもう百年もまえからお約束しているんですもの」とアンナはいった。彼女にとっては、その性質に反したうそが、いまや社交界へ出るとともに、簡単な自然なものとなったばかりでなく、喜びをすらもたらすようになっていた。なんのために彼女は、一分まえまで思ってもいなかったことを口にしたか、それは彼女自身にも、とうてい説明はできなかったであろう。彼女がそれをいったのは、ただ、ウロンスキイが来ないものとすれば、自分の自由を保留して、どうにかして彼と会う方法を、講じなければならぬと思ったからにほかならなかった。が、なぜ彼女が、かくべつほかの多くの人たち以上に用があるでもなかった老女官ウレーデの名をとくにあげたかは、彼女にもちょっと説明ができなかったであろう。とはいえ同時に、後になって考えてみると、ウロンスキイに会うための最善の方法として、それ以上の何ものをも考えつくことはできなかったのである。
「いいえ、わたくしは、どんなことがあってもあなたを放しませんよ」とベーッシは、まじまじとアンナの顔を見ながら答えた。「ほんとにわたくし、もしあなたを愛していなかったら、きっと腹をたてると思いますよ。あなたはまるで、わたくしたちの仲間があなたの名誉を傷つけるのを恐れてでもいらっしゃるように見えますもの。じゃあね、小さい客間のほうでわたくしたちにお茶を」と彼女は、従僕に向かうといつものとおり目をそばめながらいった。
彼女は、従僕から何か書いたものを受け取って、それに目を通した。
「アレクセイがわたしたちの前で、虚偽の跳躍をしていますわ」こう彼女はフランス語でいった。「来られないなんて、いってよこしたのですよ」と彼女は、アンナにとってはウロンスキイがクリケットの遊戯以外にある意味をもっていることなど、てんで思ってみたこともないような、きわめて自然な、単純な調子で言いたした。アンナは、ベーッシが何もかもしりぬいていることを承知していたが、彼女が自分の前でウロンスキイのことをいうのを聞いていると、いつもその瞬間には、この女《ひと》はなんにも知らないにちがいないと、信じさせられるのであった。
「そうですか!」とアンナは、そんなことにはいっこう興味のなさそうな、無関心な調子でいってえみをふくみながら、こうつづけた。「どうしてあなたがたのお仲間が、他人の名誉を傷つけることがおできになるでしょうか?」
こういうふうな言葉のたわむれ、こういう秘密のかくしごとは、あらゆる女にとってと同様、アンナにも大きな魅力であった。しかも、彼女の心を引きつけたのは、かくさねばならぬ必要でも、そのためにかくすという目的でもなくて、かくすということそのことの過程であった。
「わたくし、法王以上にカトリック的にはなれませんわ」と、ベーッシはいった。「ストゥレーモフやリーザ・メルカーロワ――このかたたちは社交界の粋《すい》の粋でいらっしゃいます。それにあのかたたちは、どこへおいでになっても歓迎されます、わたくしだって」と彼女は、わたくしという言葉にとくに力を入れて、「けっして堅くるしくも短気でもございませんわ。ただ暇がないだけですわ。いいえ、あなたはたぶんストゥレーモフと会うのがおいやなんでしょう? かまわないじゃありませんか。あのひととアレクセイ・アレクサーンドロヴィッチとの委員会での衝突なんか、勝手にさせといたらいいのですわ、――わたくしたちの知ったことではないんですもの。けれど社交界でのあのかたは、わたくしの知ってるかぎりでは、ほんとにいいかたでいらっしゃいますよ。それにクリケットの熱心家ですもの。いまにあなたにもおわかりになってよ。そりゃ、リーザを思っていらっしゃるあのかたの老年の恋人という地位はこっけいですけれど、それでいてあのかたが、こっけいな地位をうまく切り抜けていらっしゃるところは、買ってあげなけりゃなりませんわ! あのかたはほんとにいいかたですのよ。サフォ・シトリツを、あなたはごぞんじなくって? このかたは――新しい、ぜんぜん新しいタイプですのよ」
ベーッシはこんなことをしゃべっていたが、そのあいだにアンナは、彼女の楽しそうな、利口そうな目つきで、彼女が多少は自分の立場を察していて、何か考えていてくれるらしいことを感じた。彼女たちは小さいほうの客間にはいっていたのである。
「それはそうとわたくし、アレクセイに返事を書かなければ」こういってからベーッシは、テーブルの前に腰掛けて、二、三行書くと、それを封筒に入れた。「わたくしね、あのひとに、食事にくるようにって書いてやりましたのよ。わたくしのところに、ご婦人のかたがひとり、お相手の殿がたなしに食事に残っていらっしゃいますってね。いかが、これでよろしいでしょう? ごめんあそばせ、わたくしちょっと失礼しますわ。あなたすみませんけれど、封をして、持たせてやってくださいましな」こう彼女は戸口からいった。「わたくし、いろいろさしずしなければなりませんの」
一分も考えないで、アンナはベーッシの手紙をもってテーブルの前にすわり、読みもせずに、下のほうへこう書き添えた――『ぜひお目にかかりたいことがございます。ウレーデの庭までおこしくださいまし。わたくしは六時にそこへ行っています』彼女が封をしたところへ、ベーッシがもどってきて、彼女の前でそれを使いの者に渡した。
じっさい、涼しい小さい客間の小テーブルの上へ運ばれてきたお茶のあいだに、ふたりの婦人のあいだには、客のくるまでとトゥヴェルスコーイ公爵夫人が約束したあの|おもしろいおしゃべり《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》がとりかわされた。彼女たちは待っている人々のうわさをした。そして話は、リーザ・メルカーロワの上でとまった。
「あのかた、たいへんかわいらしいかたですのね。わたくしはいつもあのかたが好きでしたわ」とアンナはいった。
「あなたはあのかたを愛しておあげにならなければいけませんわ。あのかたはあなたに夢中なんですもの。昨日あのかたは、競馬がすんでからわたくしどもへおよりになって、あなたがいらっしゃらなかったので、すっかりしょげてらっしゃいましたわ。あのかたはあなたのことを、ほんとうにロマンスのヒロインだって。自分がもし男だったら、あなたのためにはどんなばかなことでもしかねなかったろう、なんていってらっしゃるんですのよ。そしたらね、ストゥレーモフがあのかたに、あなたはそうでなくても、そんなふうのことばかりやってらっしゃるでしょうって」
「ですけれど、どうぞ聞かせてくださいましな、わたくしにはどうしても判断がつきませんの」とアンナは、しばらくだまっていてから、自分はどうでもよいような質問をしているのではない、自分のたずねたのは、自分にとって実質以上に重要なことであるということを、明瞭に示すような調子でいった。「どうぞ聞かせてくださいましな、いったいあのかたとカルジュスキイ公爵――あのミーシカというかたとの関係はどうなんですの? わたくしあのかたがたにはあんまりお目にかかったことはありませんのよ。で、いったいどういうふうなんですの?」
ベーッシは目で笑って、アンナの顔をじっと見た。
「新しいやりかたなんですよ」と彼女はいった。
「あのかたがたはみなそろって、このやりかたをお選びなさるんですわ。みえも、外聞《がいぶん》もけとばして、おやりになるんですよ。もっとも、そのけとばしかたにも、いろいろの流儀がありますけれどね」
「ええ、ですけれど、じっさいはどうなんですの、あのかたとカルジュスキイとの関係は?」
ベーッシはとつぜんおもしろそうに、たまらなそうに笑いだした。こんなことは、彼女にはめったにないことであった。
「それはあなた、ミャーフキイ公爵夫人の権内へ侵入なさるというものですわ。それは恐ろしい赤ちゃんの質問ですわ」こういってベーッシは、いくらおさえようとしてもおさえきれないというふうに、まれにしか笑わない人が笑うときの、あの伝染的の笑いでもって、たてつづけに笑いこけた。「それはご当人たちにうかがってみなければね」こう彼女は、笑いに誘われた涙のなかから、やっといった。
「いいえね、あなたは笑ってらっしゃいますけれど」とアンナは、自分でもいつか笑いに感染しながら、いった。「でも、わたくしにはまったくわかりませんのよ。そういう場合のご主人のお役目が」
「ご主人? リーザ・メルカーロワのご主人はあのかたのあとから膝掛けを持ってついて歩いて、いつでもご用をたす支度をしていらっしゃいますわ。ですけれど、じっさい、そのさきに何があるかということは、だれも聞きたいとは思いませんわ。ごぞんじのとおり、りっぱな社会では、お化粧の秘訣《ひけつ》でさえ、言いもしなければ考えもしないくらいでしょう。どちらも同じ理くつですものね」
「あなたはローランダック夫人のお祝いにいらっしゃいます?」とアンナは、話題をかえるためにこうたずねた。
「まいらないつもりでございますの」とベーッシは答えて、友だちのほうは見ないで、注意ぶかく、小さい透明な茶わんに、香りの高いお茶をつぎかけた。そして、アンナのほうへ茶わんを押しやり自分は巻たばこをつまんで、銀のパイプへさして吸いはじめた。「まあね、このとおりわたくしはしあわせな地位におります」とこんどはま顔で、茶わんを手に取りあげながら、彼女は口をきった。「わたくしには、あなたのこともわかりますし、リーザのこともわかります。リーザ――あのかたは、まだいいもわるいもわからない子供のような、無邪気な性質を持ったかたのひとりですわ。少なくとも、ずっとお若い時分には、なんにもおわかりにならなかったにちがいないのですよ。このごろでこそあのかたも、この無理解ということが、ご自分にふさわしいことをごぞんじでいらっしゃいますけれどね。ですから今では、ことによると、わざとわからないふりをしていらっしゃるのかもしれませんわ」とベーッシは、微妙なえみをふくみながらいった。「でも、とにかくあのかたには、それが一ばんよく似合いますわ。まあ同じひとつのものにしたところで、悲劇的な見かたをして、そのために苦しむこともできれば、ただあっさりと、むしろおもしろいこととして見ることもできるのですものね。もしかするとあなたは、物事をあまり悲劇的にごらんなさるほうかもしれませんのね」
「ああ、わたくしはどんなに、自分で自分がわかるように、人さまのことを知りたがっていることでしょう」とアンナは真剣な、思い沈んだ調子で言った。「いったいわたくしは、人さまよりわるい人間でしょうか、いい人間でしょうか? 自分ではわるいほうだと思っているのですけれど」
「恐ろしい赤ちゃん、恐ろしい赤ちゃん!」と、ベーッシはくりかえしていった。「それはそうと、ほら、みなさんがいらっしゃいましたわ」
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十八
足音と男の声、それから女の声と笑い声とが聞こえ、それにつづいて、待ち受けられていた客人たちがはいって来た――それはサフォ・シトリツと、ワシカと呼ばれるありあまる健康に輝いている青年とであった。一見してこの男には、血のたれるようなビフテキや、松露《しょうろ》や、ブルゴン酒などの栄養物が、十分にとられていることが明瞭だった。ワシカはふたりの婦人にえしゃくをして、彼らの顔を見たが、それもただ一秒間のことであった。彼はサフォのあとから客間へ通り、まるで彼女に縛りつけられてでもいるように、客間じゅうをそのあとそのあととついて歩きながら、彼女をたべてでもしまいたそうに、輝いた目を彼女からはなさなかった。サフォ・シトリツは、黒い目をもった金髪婦人であった。彼女はかかとの高い半靴《はんぐつ》の足を、小またに活発にはこんで部屋へはいると、男のように強く、ふたりの婦人の手を握った。
アンナはまだ一度も、この新来の有名な人に会ったことがなかったので、その美しさと、思いきった化粧ぶりと、ものごしの大胆さとに心をうたれた。彼女の頭には、自毛と入れ毛とのまじった柔らかな金色の髪が、大きな台座みたいにたばねられて、その頭の大きさがちょうど、かっこうよく前へはりだされて、思いきりあけはだけられた胸と同じくらいになっていた。そして、その足のはこびがあまり急激だったので、その一歩一歩に、ひざや足の上部の形が、服の下からくっきりと描きだされて、その小さな形のいい、上部のほうは思うさまむき出しにされ、下のほうと背後とがすっかりおおわれている真の肉体が、じっさい、このうしろにもりあがって揺れ動く衣装の山のどこで終わっているのだろうかという疑問を、いだかせずにはおかないほどであった。
ベーッシは急いで、彼女をアンナに紹介した。
「まあこうなんでございますよ、わたくしどもはね、すんでのことに兵隊さんをふたり、ひき殺すところだったんでございますよ」と彼女は、目くばせをしたり、ほほえんだり、最初にあまりひどく一方へさばきすぎたスカートをもとへ引きもどしたりしながら、さっそく話をはじめた。「わたくしはワシカといっしょにまいりましたんでございますからね……ああ、そうそう、あなたがたはまだごぞんじなかったんでございますわね」こういって彼女は、その苗字《みょうじ》を呼んで、若い男をひきあわせた。そして顔をそめて、かん高い声で、自分の過失、つまり未知の婦人の前で彼をワシカと呼んだことを笑った。ワシカはもう一度アンナにおじぎをしたが、べつに言葉はかけなかった。彼はサフォのほうへ顔をむけた――
「賭《かけ》はあなたの負けですよ。ぼくたちのほうがさきに着いたんですから。さ、お払いください」と彼は笑いながらいった。
サフォはいっそうおもしろそうに笑いだした。
「いまでなくたっていいでしょう」と彼女はいった。
「そりゃかまいません。あとになったってもらいますから」
「ようござんすとも、ようござんすとも、おお、そうだった!」と、彼女は、やにわに主婦のほうへねじ向いた。
「わたくしとしたことが……すっかり忘れてしまって……わたくしね、お客さまをひとりお連れして来たんですのよ。ほら、このかたですわ」
サフォが同道して来て忘れていたという思いがけない若い客人は、年こそ若いけれど、非常に身分の高い人だったので、ふたりの婦人は立ちあがってそれを迎えた。
それはサフォの新しい崇拝者であった。彼もいまでは、ワシカと同じく、彼女のあとをつけまわしているのであった。
まもなくカルジュスキイ公爵と、ストゥレーモフを同伴したリーザ・メルカーロワとが、到着した。リーザ・メルカーロワは、東洋ふうのなまけ者らしいタイプの顔と、みんなのうわさどおり、えもいわれぬ美しい目とをもった、やせぎすな、髪の黒い女であった。彼女の黒っぽい衣装の好みは、(アンナはすぐそれをみとめて、いいと思った)完全に彼女の美と調和していた。サフォがしっかりして、てきぱきしていると同じ程度に、リーザはしなしなした、しめくくりのない女であった。
しかし、アンナの趣味には、リーザのほうがはるかに魅惑的であった。ベーッシは彼女のことをアンナに、彼女はわざと無邪気な子供の調子をまねているのだといった。けれどもアンナは、彼女を見た瞬間に、それが真実でないことを感じた。彼女はじっさい無邪気な頽廃的《たいはいてき》な、しかし愛すべき柔順な女であった。じじつ、彼女の調子は、サフォのそれと同一であった。サフォにたいすると同様、彼女にたいしても、ひとりは若くひとりは年よりである崇拝者が、縫いつけられたようにつきまとって、目で彼女をむさぼり食おうとしていた。しかし彼女には、彼女をとりまいているものより、どことなく高いところがあり――ガラスにまじる真のダイヤモンドの光輝があった。この光輝は、彼女の美しい、たとえようもない目のなかからひらめき出るのであった。暗い色の輪でくまどられたその目の、疲れたような、同時に情熱的なまなざしは、非の打ちどころのない真実さで、人を打った。この目を見ると、人はだれしも、自分は彼女を知りつくしたものと思い、知った以上、愛さないではいられなかった。アンナをみとめると、たちまち、彼女の顔は喜びの微笑で輝きわたった。
「ああ、わたくしあなたにお目にかかれて、こんなうれしいことはございませんわ!」と彼女は、アンナのほうへ歩みよりながらいった。「きのう競馬場でわたくしがあなたのおそばへまいろうとしますと、いつかもうあなたはお帰りになってしまっていました。わたくし、ほんとにきのうは、あなたにお目にかかりたかったのでございますよ。それにしても、ほんとに恐ろしいことだったじゃございませんか?」と彼女は、腹の底まですっかり開いて見せるような例のまなざしで、アンナの顔を見ながらいった。
「ええ、わたくしもね、あんなことで、あんなに心を痛められようとは、夢にも思っていませんでしたの」と、アンナは顔をあからめながらいった。
一座はちょうどこの時、庭へ出ようとして席を立った。
「わたくしはよしますわ」とリーザは笑顔で、アンナのそばへすわりなおしながら、いった。「あなたもいらっしゃいませんでしょう? 正直なところ、クリケットなんかねえ!」
「あら、わたくし大好きなんでございますよ」とアンナはいった。
「まあ、ほんとにあなたは、どうしてそんなに、ものにたいくつなさらないでいらっしゃれるのでしょうねえ? あなたのお顔を拝見していますと――こちらまで気がうきうきしてまいりますわ。あなたは、ほんとに生きていらっしゃいます。それだのにわたくしは、たいくつばかりしておりますの」
「どうしてたいくつだなんておっしゃいますのでしょうね? だってあなたがたは――ペテルブルグの一ばんはなやかな社交界のかたじゃありませんか」とアンナはいった。
「そういえば、わたくしどものお仲間以外の人たちは、もっとたいくつしてらっしゃるかもしれませんわね。けれど、とにかくわたくしどもには、正確に申せばわたくしには、おもしろくないどころか、むやみに、むしょうにたいくつなんでございますわ」
サフォは、巻たばこに火をつけて、ふたりの若い人々といっしょに、庭のほうへ出て行った。ベーッシとストゥレーモフとは、お茶の前に残った。
「どうしておたいくつなんですの!」とベーッシは口を入れた。「サフォがいってらっしゃいましてよ、昨日はお宅でたいへんおもしろかったって」
「まあ、あんなにたいくつでしたのに」とリーザ・メルカーロワはいった。「競馬がすんでから、わたくしたちはそろって、わたくしの宅へ集まりましたの。けれど、それからは、人間も同じなら、することもすっかり同じなんですものね。ほんとに何から何まで。そしてひと晩じゅう、長いすの上にごろごろしているだけなんですもの。おもしろいなんてことのありようがございませんわ。ほんとにあなたは、たいくつしないためにどうしていらっしゃいますの?」と彼女は、ふたたびアンナのほうへ顔をむけた。「だれでもあなたをひと目見た者はすぐこう思いますわ――これこそ、幸不幸はともかくとして、たいくつということを知らないご婦人だと。どうぞ、わたくしにお教えあそばして下さいまし、どうしてあなたは、そういうふうにしていらっしゃれるんだか!」
「べつに、どうするわけでもございませんわ」とアンナは、こういうしつこい質問に、顔をあかくしながら答えた。
「いや、それこそ最上の方法というものですよ」とストゥレーモフが、口をはさんだ。
ストゥレーモフは五十年ぱいの、髪はなかば白くなっているが、まだ若々しい、男ぶりはひどくわるいが、特色のある、聡明らしい顔をした男であった。リーザ・メルカーロワは彼の妻の姪《めい》であった。そして彼は、自分の自由の時の全部を、彼女とともに送っていた。アンナ・アルカジエヴナに会うと、彼――勤務上でのアレクセイ・アレクサーンドロヴィッチの敵――は社交的な如才《じょさい》のない男として、彼女、自分の敵の妻にたいして、ことさらあいそよくしようと努めるのだった。
「どうもしない」こう彼は、にやにや笑いながら言葉をあわせた。「それこそ最上の方法ですよ。わたしはもう前からあなたにいっている」と、彼はリーザ・メルカーロワのほうをむいて、「つまり、たいくつしまいというには、たいくつするだろうなんて考えを絶対におこさないようにしなければいけないって。それは、不眠を恐れるなら、眠れないだろうなどと気にしてはならないと同じ理くつです。アンナ・アルカジエヴナのおっしゃったのも、ちょうどそこの意味さ」
「わたくしも、もしそういうふうに申せましたら、こんなうれしいことはございませんわ。なぜといって、それは賢明な言葉であるばかりでなく――真実の言葉でございますもの」と、アンナはほほえみながらいった。
「いいえ、それより、なぜ眠ることができないのか、なぜたいくつしないではいられないのか、それをお聞かせくださらなくては?」
「眠るためには働かなければなりません、楽しむためにもまた働かなければなりません」
「だって、わたくしの働きがだれにも必要でないときに、なんのために働くのでしょう? それに、わざとそんなふうをよそおうことは、わたくしにはできもしませんし、またしたくもありませんわ」
「あなたはとても救われませんね」とストゥレーモフは、彼女のほうは見ないでいって、ふたたびアンナのほうへ顔をむけた。
彼はアンナとはたまにしか会わないので、彼女に向かっては、ひと通りの会話以外には何も話すことがなかった。けれども彼は、彼女がいつペテルブルグへ帰るつもりかとか、伯爵夫人リディヤ・イワーノヴナがどんなに彼女を愛しているかなどというきわめてありふれたことをも、彼が衷心から彼女に好感をあたえ、彼女に自分の尊敬ないしそれ以上のものまでささげようと願っていることを示すような表情をたたえて、語るのだった。
そこへトゥシュケーヴィッチが、クリケットのゲームをはじめるために、一同が待っているむねを告げにはいって来た。
「あら、いけませんわ、どうぞお帰りにならないでくださいまし」とリーザ・メルカーロワは、アンナが帰りそうにしているのを知って、こう頼んだ。ストゥレーモフも、それに口をそえた。
「それではあまりに対照がひどすぎますよ」と彼はいった。「こういう一座にいらしたあとで、ウレーデ婆さんのところへいらっしゃるなんて、そしてその結果は、あのひとにかげ口をきく機会をあたえておやりになるにすぎませんが、ここにいらっしゃれば、ぜんぜん違った、きわめて美しい、かげ口などとは正反対の感情をおおこしなさるだけですからね」こう彼は彼女にいった。
アンナはちょっとのま、心を決しかねて考えこんだ。この聡明な男のこびるような言葉、リーザ・メルカーロワが彼女にたいして示した子供らしい無邪気な同情、それからこのなじみの深い社交的な空気――それらはいずれも、きわめて気やすいものであったが、それにひきかえて、このさきに彼女を待ちうけているものは、もう少し残っていてはいけないだろうか、いっさいをうちあける苦しい時を、少しでもさきへのばしてはいけないだろうかと、彼女がひとしきり思いまどったほど、それほど重苦しいものであった。けれども、もし自分が決心をつけなかったら、そのとき家で彼女を待ちうけているもののなんであるかを思いおこし、あの両手で髪をひっつかんだときの、思っただけでもぞっとするような自分の様子を思いおこすと、彼女はいとまを告げてそこを出た。
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十九
ウロンスキイは、表面いかにも軽薄な社交的生活を送っていたにもかかわらず、だらしのないことの大きらいな人間であった。まだ幼年学校時代の年少のころに、彼は一度金につまって、借用を申し込み、拒絶の侮辱をあじわわされたことがあった。それ以来彼は一度も、自分をそういう立場においたことがなかった。
いつも自分の財政を整然としておくために、彼は、その場合に応じてかげんはするが、まず年に五度くらい一室に閉じこもって、すべての自分の財政を整理した。彼はこれを決算とか faire la lessive(大掃除)とか名づけていた。
競馬の翌日、おそくなって目をさますと、ウロンスキイは、ひげもそらず、ゆあみもしないで、白地の夏服をひっかけたまま、テーブルの上へ、金や、請求書や、手紙などをならべて、仕事にとりかかった。ペトリーツキイは、そういう場合の彼が怒りっぽくなっていることを知っていたので、目をさまして、友だちが書卓に向かっているのを見ると、そっと着がえをすまして、じゃまをしないように出ていった。
すべての人は、自分をとりまいている、こみいった事情の詳細を知るとともに、それらの事情の複雑さと、それを解明することの困難を、つい自分だけの偶然な、特殊なものと考えがちで、彼以外のすべての人々もまた、彼と同じく、彼ら自身の複雑な事情にとりまかれているのだとは、どうしても考えられないものである。ウロンスキイにも、そういうふうに思われていた。で、彼は、心ひそかな誇りと、多少の根拠もあって、もしこれがほかの連中だったら、こうした困難な事情に出会ったが最後、とうの昔にろうばいして、よくない行動をとらされたにちがいないと、想像しないではいられなかった。とはいえ、ウロンスキイは、いまこそ自分も、後日ろうばいしたりしないために、自分の状態を整理し明確にしておかなければならないと、痛切に感じているのだった。
一ばんたやすい仕事として、ウロンスキイが着手した第一のものは、金銭上の問題であった。その細かい手跡で書簡箋《しょかんせん》の上へ、自分の負債を残らず書きあげ合計してみて、彼は、自分が一万七千ルーブリと、ほかに計算をわかりよくするために切り捨てた数百ルーブリの債務をおうていることを発見した。それから手もとにある金と、銀行の通帳とを調べてみて、彼は、自分には一千八百ルーブリ残っているだけで、新年までには、一文も金のはいってくる見こみのないことを知った。そこでウロンスキイは、負債表を改めて計算し、それを三つに分類して、書きかえた。
第一の部類には、すぐに支払わなければならぬか、あるいは請求しだいいつでも、一分の猶予もなく、ただちに支払えるだけの金の用意していなければならぬ負債を入れた。そういう負債が約四千ルーブリあった――千五百は馬代で、残りの二千五百は、ウロンスキイの目の前でカルタのいかさま師にしてやられた、若い同僚のヴェネーフスキイにたいする保証であった。ウロンスキイは、そのとき即座に金を出そうとした(それだけは彼の手もとにあった)のだけれども、ヴェネーフスキイとヤーシュヴィンとが支払うのは自分らであって、勝負にも加わらなかったウロンスキイではないと主張してやまなかったのである。それはそれでけっこうであった、しかし、ウロンスキイは、自分がそれにかかわりあったのは、ただ口でヴェネーフスキイの保証をするといっただけにすぎないけれども、このけがらわしい事件にたいしては、自分はぜひともその金を、いかさま師の面前へたたきつけて、それ以上ぷつりともいわせないために、二千五百ルーブリという金額を、つねに用意していなければならぬことを知っていた。こうしたわけで、この第一の、最も重要な部類の金が、どうしても四千ルーブリなくてはならなかった。
第二の部類の八千ルーブリは、それより少し重要さの少ない負債であった。これは主として、競馬にかんした借財で、厩《うまや》や、からす麦や乾草《かんそう》の請負い商人や、イギリス人や、馬具商などにたいするものであった。これらの負債にたいしても、ぜんぜんめんどうをなくするためには、やはり二千ルーブリくらいは、分配しなければならなかった。負債の最後の部類――商店や、ホテルや、仕立屋などへの支払い――は、なんらの考慮をも要しない程度のものであった。それで、さしあたり、少なくとも、六千ルーブリの金が必要だったのだが、手もとには僅かに一千八百ルーブリしかなかったのである。
世間の人の推定どおり、ウロンスキイの収入が、ほんとうに十万ルーブリあったならば、これくらいの借財は困難であるはずがなかった。ところで問題は、彼の実際収入が、十万ルーブリには、はるかに遠いということであった。二十万ルーブリという年収をもたらす莫大《ばくだい》な父の遺産は、兄弟たちのあいだに分配されていなかった。それに、兄が、自身非常な借財を背負っていながら、一文の財産もない十二月党員(一八二五年十二月に事件を起こした進歩的政治結社)某公爵の娘ワーリャ・チルコーワヤと結婚したときに、アレクセイは、自分は年に二万五千ルーブリもらえばいいといって、父の領地からの全収入を兄に譲ってしまったのだった。アレクセイはそのとき兄に向かって、結婚するまでは、自分はそれでたくさんだろうといった。その結婚も、たぶんいつになってもしないだろうと。そこで、当時最も費用のかかる連隊の一つに長官として在職していたうえに、結婚したばかりだった兄は、その贈り物を受けないではいられなかったのである。が、これまでは、自分自身の財産を所有していた母が、定められた二万五千ルーブリのほかに、毎年二万ルーブリほどの金をアレクセイにくれたので、彼はそれをみなつかってきたのだった。ところが、最近になっては母は、彼の情事とモスクワを立って来てしまったこととにたいして彼と争ったあげく、彼への送金を絶ってしまった。その結果ウロンスキイは、すでに四万五千ルーブリの生活になれてしまっていたところへ、今年にかぎって二万五千ルーブリだけしか収入がなかったので、はたと当惑してしまったのである。しかし彼は、この窮境からのがれ出るために、母に送金をこうことはできなかった。前夜彼のもとにとどいた彼女の最近の手紙は、とりわけそのなかで彼女が、正しい社会を破壊するような生活のためでなく、彼の社会上や職務上の成功のためなら、いつでも補助する用意があるという暗示をあたえていることによって、ひどく彼の気持をいらだたせていた。彼を買収しようという母の願望は、腹のどん底まで彼を侮辱して、彼女にたいする彼の心を、いっそう冷たいものにしてしまった。けれども、もはや今となっては、カレーニン夫人との関係から生ずべき二、三の事件を予想して、あの寛大な言葉があまり軽率にすぎたことや、未婚の彼にも、十万ルーブリ全部の収入が必要である場合もありうることなどをいかに痛感したところで、いったん口から出てしまった寛大な言葉を、いまさらとり消すわけにはいかなかった。そんなことはどうしてもできなかった。それにはただ、兄の妻のことを思い出すだけでたくさんだった。あの愛すべき、すぐれたワーリャが、いう機会のあるたびごとに、彼の寛大を忘れないこと、それを感謝していることなどをくりかえして、いったん与えたものをとり返すことの不可能なのをさとらせようとした、その一事を思い出すだけでたくさんだった。それは、婦人を打ったり、盗みをしたり、うそをついたりするのと同じく、不可能なことであった。
で、できることで、しなければならぬことは、ただひとつだった。それにたいしてウロンスキイは、一刻のちゅうちょもなく決心をしたが、それは、なんのめんどうもありえない高利貸から、一万ルーブリの金を借りることと、一般に費用を節減することと、競馬馬を売却することであった。この決心がきまると、彼はすぐに、それまで再三彼の馬を買いたいと申し込んできていたローランダックへ手紙を書いた。それから彼は、イギリス人と高利貸とを迎えにやり、勘定書の高に応じて、手もとにあった金を分けた。こうした仕事を片づけてしまうと、彼はこんどは、冷たい辛らつな返事を母に書いた。それから、紙入れからアンナの手紙を三通取り出して、一度読みかえしてから焼いてしまい、彼女との昨日の会談を思い出して、もの思いに沈んでいった。
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二十
ウロンスキイの生活は、彼がすべきことすべからざることのすべてをはっきり決定する規則をもっていることによって、とくに幸福であった。これらの規則は、きわめて小範囲の生活を包含《ほうがん》するにすぎなかったけれども、そのかわり規則そのものは、疑いのないものだったので、ウロンスキイは決してこの範囲から踏みだすことなく、かつて一分といえども、なさねばならぬことの実行にちゅうちょしたことはなかった。これらの規則は、つぎのことをはっきりと規定していた――カルタのいかさま師には支払わなければならぬが、仕立屋には払うにおよばぬ。男にはうそをついてはならないが、女にはこのかぎりでない。なんぴとをも欺いてはならぬ、しかし夫だけはこのかぎりでない。侮辱を許してはならぬが、侮辱することはこのかぎりでないなど。こうした規定は、すべて不合理であり、賞すべきものではありえなかったが、しかしそれは疑いのないものだったので、それを実行しながらウロンスキイは、自分の心に平安を感じ、昂然《こうぜん》と頭を高くあげていることのできるのを、感じていた。ただ最近になり、アンナとの関係が原因になって、ウロンスキイは、彼の規則もまた十分にすべての条件を解決しかねることを感じはじめ、しぜん、将来には、もはやそれに処する手引きの糸を見いだしえないような、困難と疑惑とが起こりそうな気がしだしているのだった。
アンナとその夫とにたいする彼の現在の関係は、彼にとっては単純明確なものであった。それは、彼が自分をみちびいてきた主義の法典によって、明白かつ正確に定められているものであった。
彼女は、彼に自分の愛をささげた見あげた婦人であった。で、彼もまた、彼女を愛した。したがって、彼女は彼にとって正当な妻と同様の、いや、それにもまして尊敬にあたいする婦人であった。彼は、言葉や暗示で彼女を侮辱することはもちろん、彼女が要求しうるだけの尊敬を彼女にたいして欠くくらいなら、そのまえにまず、自分の手をきりはなしてしまったであろう。
社会にたいする関係も、同様明白なものであった。世間の人はみな、それを知ることもできれば、それを疑うこともさしつかえなかった。けれども、だれもあえて、それを口にしてはならなかった。が、もし口にした場合には、彼はそういう連中を沈黙させ、自分の愛する女のすでに実在しない名誉を、尊重させるだけの覚悟を持っていた。
夫にたいする関係は、何よりも明白なものであった。アンナがウロンスキイを愛するにいたった瞬間から、彼は、彼女にたいする自分の権利を、おかすべからざるものと考えていた。夫は単によけいなじゃま物にすぎなかった。疑いもなく、彼は気の毒な地位にあったけれども、それだからとて、どうすることができよう。ただひとつ、それにたいして夫が権利を持っていたこと、それは、武器を手にして満足を要求することであった。そして、これにたいしてもウロンスキイは、最初の瞬間から覚悟していた。
ところが、最近彼と彼女とのあいだには、新しい内面的な関係がわりこんできて、その不明瞭な点でウロンスキイを驚かした。昨日になってはじめて彼女は、彼に妊娠していることを告げた。そして彼は、この報告と、彼女が彼に期待していたものとが、彼が今日まで生活を指導してきた主義の法典では十分に決定されていないあるものを、要求していることを感じた。じっさい彼はふいに捕えられたのであって、彼女がその妊娠について話して聞かせた最初の瞬間に、彼の心は彼に、夫を捨てよという要求をささやいた。彼はそれを口に出したが、今になって考えてみると、そんなことはしないですましたほうがよかったのだということを明らかに知り、そして同時に、それを口に出してひとりごちながら、それはわるいことではないだろうかと心配するのだった。
『もし夫を捨てなさいといえば、それはおれといっしょになれということになる――おれにその用意ができているだろうか? どうしておれに今、あの女を連れ出せようか、この金のないやさきに? しかしそのほうはどうとも方法がつくとしよう……しかし、どうしておれに、あの女を連れ出すことができよう、公務についているおれに? だから、それを言いだす日には、どうしてもまず、それだけの用意をしてかからねばならぬ。つまり金を調達して職をやめなければならぬ』
そこで彼は考えはじめた。退職するかいなかという問題は、今ひとつの秘密な、彼にだけわかっている、かくれたものではあるがかなり重大な、彼の全生活にたいする利害のほうへと彼をつれていったのである。
功名心《こうみょうしん》は彼の少年時代、青年時代を通じての古い空想であった。その空想は、自分自身にもそれと意識はしなかったけれども、今日なおその情熱が彼の恋とたたかっているほど、強烈なものであった。社交界と職務の上での彼の第一歩は、成功であったが、二年前に、彼はとほうもないまちがいをしでかしてしまった。ほかでもない、自分の独立心を示して昇進を早くしようという下心《したごころ》から、拒絶したほうがかえって自分の価値を高めるだろうと考えて、せっかく提供されたある地位を拒絶してしまったのである。ところが、その結果は、彼があまりに勇敢だったことを証明しただけで、人々は彼をそのままにしてしまった。そこで彼は、しかたなしに、独立の人という立場を自分につくり、べつにだれにたいしても不満などいだいていないような、また、だれに侮辱されたとも思っていないような、ただもう干渉せずにほうっておいてもらいたい、自分にはそれが愉快なのだからとでもいったような、きわめて細心、聡明な態度をとって、その立場を守ってきたのであった。が、事実は、彼が去年モスクワへ行った時分から、そんな気持はとうにやんでしまっていたのである。そして彼は、すればなんでもできるくせに、なんにもしないでいる男の、この独立した境地なるものが、早くも箔《はく》がはげはじめて、多くの人が彼を、正直で善良な好人物である以外、なんの能《のう》もない男だと評価しはじめているのを感じていたのである。
世間の物議《ぶつぎ》をかもし、一般の注意をわきたたせたカレーニン夫人との関係は、彼に新しい光輝をあたえて、一時彼にくい入っていた功名心の虫をしずめていたが、一週間ばかり前からまた、この虫が新しい力をもって目ざめてきた。というのは、彼の少年時代からの友だちで、同じ仲間、同じ社会の出で、幼年学校でもいっしょ、卒業もまた同時であって、クラスにおいても、運動においても、いたずらにおいても、また功名的空想においても、つねに競争の相手としてきたセルプホフスコイが、二つの官位と、彼のように若い将校にはめったに授けられない勲章とをもらって、最近に中央アジアからもどって来たからであった。
彼がペテルブルグへくるやいなや、人々は彼のことを、まるで新しくのぼった一等星か何かのように語りあった。自分とは同年で、同級生であった彼が将官になり、いまや政治的にも勢力を持ちうる任命のくだるのを期待しているというのに、彼ウロンスキイは自主独立で、はなばなしく、美しい女の愛をかちえているとはいうものの、じつは、自分の勝手で独立でいることをよぎなくされている、一騎兵大尉にすぎなかった。『もちろん、おれはセルプホフスコイをうらやみもしなければ、またうらやむこともない。しかし、あの男の栄達は、おれに、ただ時機を待ちさえすればいいのだということを、おれのような男の栄達はしごく早いものだということを教えてくれる。三年前には、あの男もまだ、おれと同じ地位にいたのだ。軍職をしりぞくのはおれにとって、自分の船を焼くにひとしい。軍隊にさえとどまっていれば、おれは何ひとつ失うことはない。あの女は自分でも、今の境遇を変えたくないといっている。ところで、おれにしたって、あの女との愛がある以上、セルプホフスコイをうらやむことはないのだ』そこで彼は、ゆうゆうとした手つきでひげをひねりながら、テーブルから立ちあがって室内を歩きまわった。彼の目はとくにきらきらと輝いていた。そして彼は、自分の状態をはっきりさせたあとでいつも感ずる、しっかりした、おちついた、心楽しい気分を感じていた。何もかもがさっきの計算のあとのように、さばさばとして、明瞭であった。
彼はひげをそり、冷水浴をし、服を着かえて、出かけて行った。
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二十一
「ぼくはきみの迎えに来たんだよ。今日はまた洗たくがばかに長かったじゃないか」とペトリーツキイはいった。「どうだ、もうすんだのか?」
「すんだ」とウロンスキイは目だけで笑いながら、そして仕事を整然と片づけたあとでは、あらゆる元気にすぎる迅速な行動は、それを破壊してしまう恐れがあるとでもいったように、十分注意してひげのさきをひねりながら、答えた。
「きみはいつでも、これをやったあとは、まるで風呂からあがって来たようだぜ」とペトリーツキイはいった。「ぼくはグリーツコ(彼らは連隊長をこう呼んでいた)のとこから来たんだ。みんながきみを待っているよ」
ウロンスキイはそれには答えずに、何かほかのことを考えながら、同僚の顔を見ていた。
「じゃあ、あの音楽はあすこなんだね?」と彼は、そこまでひびいてくる管弦楽の、ポルカやワルツの聞きなれた音色に耳をかたむけながら、いった。「何か祝いごとでもあるのかい?」
「セルプホフスコイが来てるんだよ」
「ああ!」とウロンスキイはいった。「ぼくはちっとも知らなかった」
彼の目の微笑は、いっそうはればれと輝きはじめた。
一度みずから、自分は恋あるがゆえに幸福である、自分はそのために功名心を犠牲にしたのだ、こう決心した以上――少なくとも、そうした役割を自分にひきうけた以上――ウロンスキイはもはや、セルプホフスコイにたいして羨望《せんぼう》を感じることもできなければ、彼が連隊へ帰って来ながら、まっさきに自分のところへ来なかったということにも、なんの不快をもいだくことはできなかった。セルプホフスコイは親友であったから、彼は彼の来たことをうれしく思った。
「ああそうか、大いに愉快だ」
連隊長デミンは大きな地主邸に住んでいた。一同はみな、ひろびろとした下のバルコンに集まっていた。庭内で、まずウロンスキイの目に映じた第一のものは、ウォーツカの樽《たる》のそばに立っている白い夏服を着た歌手たちと、将校連にとりまかれている連隊長の、健康そうな、きげんのいい姿とであった。彼は、バルコンの第一段までおりてきて、オッフェンバックのカドリールを吹奏している音楽にも劣らないような蛮声《ばんせい》で、片側に立っている数名の兵卒に、何事か手を振って命令していた。兵卒の一隊と、騎兵曹長と、二、三の下士とが、ウロンスキイといっしょにバルコンへ近づいた。いったんテーブルのところまでひっ返した連隊長は、シャンペン酒杯を手にふたたび階段の上へ出てきて、乾杯の辞を述べた――「われわれの以前の同僚にして、勇敢なる将軍セルプホフスコイ公爵の健康のために。ウラー!」
連隊長につづいて、同じく酒杯を手にして微笑をふくみながら、セルプホフスコイもそこへ出てきた。
「おい、おまえはますます若くなるね、ボンダレンコ」と彼は、自分のま正面に立っている、二度めの勤務についているのだというのに、まだわりに若く見える、赤いほおをした曹長に向かっていった。
ウロンスキイは三年間、セルプホフスコイを見なかった。彼はほおひげなどをたくわえて、いくらかふけて見えはしたものの、あいかわらずすらりとして、かくべつの美貌というではないが、その顔や姿の柔和さ上品さで人の心を打つのであった。ただひとつ、ウロンスキイが彼の中にみとめた変化は、いわゆる成功をして、その成功を衆人にみとめられていると確信している人の面《おもて》に見る、あの静かな、たえまのない輝きであった。ウロンスキイはそうした輝きを知っていた。で、すぐにそれを、セルプホフスコイの上にみとめたのである。
階段をおりようとして、セルプホフスコイはウロンスキイを見つけた。歓喜の微笑が、セルプホフスコイの顔にみなぎった。彼は頭を上向きに振って、ウロンスキイを迎える意味で、酒杯をあげた。そしてその挙動で、さっきから不動の姿勢をとり、接吻するためにくちびるをもがもがさせていた曹長のほうへさきに行かなければならぬことを示した。
「おお、来ているんだね!」と連隊長は叫んだ。「ヤーシュヴィンの話では、きみは例によって憂うつになってるということだったが」
セルプホフスコイは、若々しい顔をした曹長の湿っていきいきしたくちびるに接吻すると、ハンケチで口をふきまわしながら、ウロンスキイのほうへ歩みよった。
「いや、じつにうれしい!」と彼は、彼の手を握りしめて、わきのほうへ引っぱって行きながら、いった。
「きみは、あの男の世話をしてやってくれたまえ!」と連隊長は、ウロンスキイのほうをさしながらヤーシュヴィンにいって、兵卒たちのほうへおりて行った。
「どうしてきみは、昨日競馬に来なかったんだ? ぼくはあすこできみに会えることと思っていたのに」とウロンスキイは、セルプホフスコイをじろじろ見まわしながらいった。
「行くには行ったんだが、遅かったんだ。失敬したね」と彼は言いたして、副官のほうへ顔をむけた。「どうか、ぼくからだといって、ここにいるだけの人に分配するようにいってくれたまえ」
こういって彼は、気ぜわしなげに、紙入れから百ルーブリ札を三枚取り出して、少し赤い顔をした。
「ウロンスキイ! 何かたべるか、それとも飲むか?」とヤーシュヴィンがきいた。「おい、伯爵に何かたべるものをここへ持って来てやれ! まあひとつこれを飲め」
連隊長邸での饗宴《きょうえん》はかなり長くつづいた。
人々は非常に多く飲んだ。セルプホフスコイを胴上げしてほうりだした。そのあとで、連隊長をも胴上げした。それから、唱歌隊の前で、連隊長自身ペトリーツキイといっしょに踊った。ついで連隊長は、もういくらか疲れぎみで、庭のベンチに腰をおろすと、ヤーシュヴィン相手にプロシアにたいするロシアのすぐれた点、とくに騎兵の攻撃におけるすぐれた点について、論証しはじめた。で、饗宴は一時静かになった。セルプホフスコイは手を洗いに、家の中の化粧室へ行き、そこでウロンスキイを見つけた。ウロンスキイは水を使っていた。彼は上着を脱ぎ、毛ぶかい赤い首を、洗面台の水の出口へ突き出して、頭と首とをこすっていた。それをすますとウロンスキイは、セルプホフスコイのそばへ来て、腰をおろした。彼らふたりは、そこで、長いすの上に肩をならべた。そして、ふたりの間には、ふたりにとって非常に興味のある会話がはじまった。
「ぼくは、きみのうわさはしじゅう家内から聞いていた」と、セルプホフスコイはいった。「きみがたびたびあれに会ってくれたのはうれしい」
「細君はワーリャと仲よしでね、そしてこのふたりは、ぼくが会って愉快に思うふたりきりのペテルブルグ婦人なんだ」と、にこにこしながらウロンスキイは答えた。彼が笑ったのは、話の向かっていくテーマが予知されたからで、そして、それが愉快だったからであった。
「ふたりきりのだって!」と、これもえみをふくみながら、セルプホフスコイはきき返した。
「いやぼくもね、きみのことは知っていたんだ。もっとも、きみの細君を通してばかりでなくね」とウロンスキイは急にいかめしい表情を見せて、この暗示をたちきりながらいった。「ぼくはきみの成功を非常に喜んでいた。しかし少しも驚きはしなかったよ。ぼくはより以上のものを期待していたんだからね」
セルプホフスコイは微笑した。彼には明らかに、自分についてのこの意見が快かったのである。そして彼は、それをかくす必要を認めなかったのである。
「ぼくは反対に、正直なところ、より以下のものを予期していたんだ。しかしぼくはうれしいさ、非常にうれしいさ。ぼくは野心家だ、これがぼくの欠点だ、そしてぼくはみずからそれを認めている」
「だがきみ、きみもおそらく、そんなことはいわなかったかもしれないぜ、もし成功していなかったら」とウロンスキイはいった。
「ぼくはそうは思わんね」と、ふたたび微笑をうかべながら、セルプホフスコイはいった。「ぼくだって、それがなくては生きる価値がないなどとはいわないさ、しかし、さぞ寂しいだろうとは思うよ。もちろん、ぼくはまちがっているかもしれない。しかしぼくは、自分の選んだ活動圏内では、ある程度の才能をもっているつもりだから、それがよしどんなものにせよ、ぼくの手にはいった権力は、ぼくの知っている多くの人の手中にあるよりは、発展するだろうとは思っているね」こう、輝かしい成功の意識をもって、セルプホフスコイはいった。「だから、それに近づけば近づくほど、ぼくもいっそう満足なわけさ」
「なるほど、きみにしてみれば、おそらくそれはそうだろう。しかし、それをすべての人にあてはめるわけにはいかないよ。ぼくもかつては同じ意見をもっていたが、このとおりちゃんと生きていて、そのためにのみ生きる価値があるのでないことをみとめている」とウロンスキイはいった。
「そこ、そこ! そこだよ、きみ!」と笑いながら、セルプホフスコイはいった。「だからぼくは、きみのことで聞いた話――例の拒絶一件からはじめたのさ……もちろん、ぼくはきみを是認した。しかし物事にはなんでも方式というものがある。で、ぼくが思うのに、きみは、行動そのものはよろしかったのだが、その方式を誤ったんだよ」
「すんだことはすんだことさ。ぼくは、きみも知ってるとおり、自分のしたことをけっして否定しない人間なんだ。だから、ぼくはあとでもいい気持なんだ」
「いい気持――一瞬はね。しかしきみは、それで満足してはいないよ。もっともぼくだって、きみの兄貴にはこんなことはいわないさ。あれは――愛すべきねんねえだからね、ちょうどここの主人と同じように。ほらあすこにいるさ!」こう彼は『ウラー』という叫び声に耳をかたむけながら、言いたした。「あのひとはあれで愉快なんだ、しかしきみは、それでは満足のできる人じゃないよ」
「ぼくだって、なにも満足しているとは言やしないさ」
「ああ、もちろんそれだけのことじゃないさ。きみのような人物は必要なんだよ」
「だれに?」
「だれに? 社会にさ。ロシアにさ。ロシアには人物が必要だ。政党が必要だ。さもなければすべてが台なしになってしまう。いや、なりつつある」
「というと、どういうことになるんだね? ロシア共産党に対抗している、ベルテネフ党のことなんかかい?」
「いいや」とセルプホフスコイは、自分がそんな愚劣なことを口にしていると疑われたいまいましさに、しかめつらをして、いった。「Tout ca est une blague(こんなことみなたわごとさ)そんなものは今までにもあったし、これからもあるだろう。共産党なんてものはいつだってありはしないのだ。しかし、陰謀《いんぼう》好きな連中にはいつでも、有害で危険な党派を考えだす必要があるのさ。そんなことはもう古い話だ。ぼくのいうのはそれではなくて、きみやぼくのような、独立|不羈《ふき》な人々の政党が、必要だということだよ」
「しかしどうしてだね?」とウロンスキイは、二、三の有力な人物の名をあげた。「どうしてこの連中が独立した人の部類でないのだろう?」
「それはただ、彼らには経済的の独立というものがないからさ。いや、あるいは生まれながらにしてなかったからさ。名がなかったからさ。つまり、われわれのように太陽に近いところに生まれなかったからさ。彼らを買収しようと思えば金なり、恩誼《おんぎ》なりで意のままになる。ところで、彼らが自分の地位を擁護するには、かっこうな目的を考えださなければならない。そこで彼らは、自分でも信じていない、有害で無益な抱負《ほうふ》や、政策をかつぎだす。が、こういう種類の政策は、すべて、ただ官舎にありついたり、なにがしかの俸給にありついたりしようという手段にすぎないんだからね。彼らのカルタをのぞいて見ると、Cela n'est pas plus fin que ca(それ以上の何ものでもないんだよ)もっとも、ぼく自身は、自分が彼らより劣るとはつゆいささか思わないけれど、ことによると、彼らよりわるくて、愚劣であるかもしれない。けれども、ぼくにしてもきみにしても、ただひとつしっかりした、重大な優越点をもっているからね――つまり、容易に買収されないということさ。そして現在では、ことにこういう人物が必要なのだよ」
ウロンスキイは注意ぶかく傾聴《けいちょう》していたが、言葉の内容そのものは、自分がまだ、自分の騎兵中隊以外にはかくべつ興味をもたないときにあたって、早くもこうしたことに好悪をもったり、権力とたたかうことを考えたりしているセルプホフスコイの事物にたいする態度ほどには、彼の興味をひかなかった。ウロンスキイは同時にまた、セルプホフスコイが事物を考察し理解するすぐれた能力と、彼の住んでいる社会にはまれにしか見られない、その知力と弁舌の天賦《てんぷ》とで、有力な人物になるであろうことを了解した。そして、いかにも恥ずかしいこととは思いながら、彼をうらやまずにはいられなかった。
「それはとにかく、ぼくにはそれに要する最も重要なものがひとつ、欠けてるんだよ」と、彼は答えた。「権力獲得の欲望がてんでないことさ。一時はあったのだが、いまじゃあ、すっかりなくなってしまった」
「失敬だが、それは真実じゃないね」とほほえみながら、セルプホフスコイはいった。
「いいや、真実だよ、真実だよ!……今のところはさ――正直にいえばね」とウロンスキイは言いたした。
「ああ|今は《ヽヽ》真実だろう、それは別問題さ。この今は永久じゃないからね」
「そりゃそうかもしれない」と、ウロンスキイは答えた。
「きみは|そうかもしれない《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》という」とセルプホフスコイは、相手の心を察したかのように言葉をつづけた。「が、ぼくはきみに確かだというよ。このためにも、ぼくはきみに会いたいと思ってたんだからね。きみは当然しなければならなかったとおりに行動した。それはぼくもよくわかるさ。だが、きみは、それをいつまでもつづけてはならないよ。ところで、ぼくがきみに頼みたいのは carte blanche(行動の自由)を許してもらうことだ。ぼくはなにも、きみを保護するとは言やしない……しかし、ぼくにどうしてきみを保護してならないことがあろう――きみだって何度ぼくを保護してくれたかしれないんだからね! ぼくはふたりの友情が、これ以上に出ているものと信じているのだ。そうだ」と彼は、女のように優しく彼にえみかけながら、いった。「ぼくに行動の自由を与えたまえ。連隊をやめたまえ。すれば、ぼくが目だたないように引き上げるよ」
「いやしかし、ぼくはいま何も求めてはいないんだからねえ」とウロンスキイはいった。「ぼくにはきみ、すべてが現在のままでいればそれでいいんだよ」
セルプホフスコイは立ちあがって、彼の前に立ちはだかった。
「きみはいま、すべてが現在のままでいればいいといったね。その意味は、ぼくにもちゃんとわかっているよ。だがだ、まあ聞きたまえ――われわれは同年だ、そして数においては、おそらくきみのほうがぼくよりよけいに女を知っているだろう」こういうセルプホフスコイの微笑とそぶりとは、ウロンスキイに、その病所へ優しく注意ぶかく触れられるのを恐れてはならぬということを、伝えていた。「しかし、ぼくは既婚者だ。だから、信じてもらいたいんだが、(そら、だれかが書いていたじゃないか)おまえの愛するひとりの妻を知ることは、おまえが千人の女を知る以上に、よくすべての女を知ることだって」
「すぐ行きます!」とウロンスキイは、部屋をのぞいてふたりを連隊長のもとへと呼んだ将校に向かって、いった。
ウロンスキイはいま、セルプホフスコイのいおうとすることを最後まで聞いて、彼が何をいおうとしているのかを知りたくなったのである。
「そこでぼくの意見をきみにいうがだ。女――というものは、男の活動にとっての、大なるつまずきの石であるんだ。女と恋をしながら、何かをしようということはむずかしい。ところが、そういうさまたげなしに、女を愛する方法がただひとつある――それは結婚ということだ。ええと、ところで、どうしたらきみに、ぼくの考えてることがうまく伝えられるかなあ」と、たとえ話の好きなセルプホフスコイはいった。「待ちたまえ、待ちたまえ! そうだ、fardeau(重荷)を運びながら両手で何かすることができるのは、ただ重荷《ヽヽ》を背中へ結びつけたときだけだ――そしてそれが結婚なんだ。ぼくはそれを、結婚してみてはじめて感じた。つまり、急に手が自由になったもんだからね。ところが、結婚しないでこの重荷《ヽヽ》を引きずっていたひには――手がふさがっていて、何をすることもできやしないさ。マザンコフを見たまえ、クルーポフを見たまえ。彼らは女のために、栄達の道をすっかりこわしてしまったじゃないか」
「なんたる女どもだ!――」とウロンスキイは、そのふたりが関係していたフランス女と女優とを思いだしながら、いった。
「ところが、じつは反対で、女の社会上の地位がかたければかたいほど、結果はかえってわるいのだよ。それはちょうど、両手で重荷《ヽヽ》を引きずるのでなくて、他人の手からひったくるも同然だからね」
「きみは一度も恋なんかしたことはないんだろう」とウロンスキイは、自分の前をじっと見て、アンナのことを考えながら、静かにいった。
「そうかもしれない。しかし、ぼくがいまいったことを、よく覚えといてくれたまえ。で、もうひとついうがね――女はすべて、男より物質的なものなんだ。われわれは恋から何かしら偉大なものを創造するが、彼らはつねに terre-a-terre(ふだん着姿)だ」
「いますぐ、いますぐ!」こう彼は、はいって来た従僕に向かっていった。だが従僕は、彼が考えたように、ふたたび彼らを呼びに来たのではなかつた。従僕は、ウロンスキイに手紙を届けに来たのであった。
「トゥヴェルスコーイ公爵夫人から、使いの者がもってまいったのでございます」
ウロンスキイは手紙を開いて、さっとあかくなった。
「ぼくは頭が痛くなってきた。失敬してうちへ帰ろう」と彼は、セルプホフスコイにいった。
「そうか、じゃさようなら。carte blanche(行動の自由)をあたえるね?」
「そのことはいずれあとで話そう。ペテルブルグできみを見つけるよ」
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二十二
もう五時をすぎていたので、ちょうどの時間にまにあうように、同時に、だれもが知っている自分の馬車を用いないために、ウロンスキイはヤーシュヴィンのつじ馬車に乗って、できるだけ急げと命じた。古ぼけた四人乗りのつじ馬車は、がらんとしていた。彼は片すみに腰を掛け、前の席へ足を伸ばして、考えに沈んだ。
仕事がひと通り片づいたという例のからりとした気持のぼんやりとした意識、彼を有為な人物と数えたセルプホフスコイの友情とおせじについての漠《ばく》とした思い出、それから、主としては密会の期待――すべてこれらのものが、生の喜びというひとつの印象ととけあった。この感情は、彼がわれ知らず微笑をもらしたほどに、強烈なものであった。彼は足を下へおろして、一方の足を一方の膝の上にのせ、それを手でおさえて、きのう落馬したときに痛めた弾力性のあるふくらはぎにさわってみた。そしてこんどは、うしろざまに身を投げだすようにして、何度か胸いっぱいのため息をついた。
『すてきだ、じつにすてきだ!』と彼はひとりごちた。彼はこれまでにもしばしば、自分の肉体にたいして喜ばしい意識を経験したが、しかし、今ほどにわが身を、わが肉体を、愛し、いつくしんだことはかつてなかった。強靱《きょうじん》な足に軽い痛みをおぼえるのも快ければ、呼吸するたびに胸の筋肉の動く感覚も快かった。あの、アンナにはあれほどにも絶望的に作用した、からりと晴れた寒いほどの八月の日も、彼には、目のさめるほどいきいきしたものに感ぜられ、水を浴びたためにあかくなっている彼の顔や首に、さわやかな気持をあたえた。自分のひげからくる香料の香りは、この新鮮な空気のなかで、彼にはとりわけ快く感ぜられた。彼が馬車の窓からながめたすべてのもの、このひえびえとした清澄な空気のなかのすべてのものは、青白い日ぐれ時の外光を受けて、彼自身のようにさわやかに、楽しげに、力強く思われた――沈みゆく太陽の光線にきらきらと輝いている家々の屋根、垣《かき》や建物のかどの鋭い輪郭、まれに出会う人かげや馬車の姿、木や草の動かない緑、正しく区画された|あぜ《ヽヽ》をもったじゃがいも畑や、家や、木や、やぶや、さてはまた、じゃがいも畑の|あぜ《ヽヽ》から落ちている斜めな影――何もかもが、いま仕あがって漆《うるし》を塗られたばかりの、美しい風景画のようにみごとであった。
「早くやれ、早くやれ!」と彼は、窓から首を出して御者にいった。そして、ポケットから三ルーブリ札《さつ》を取り出して、ふり返った御者の手に握らせた。御者の手がランプのそばで何かをさぐったと思うと、鞭《むち》のひゅうと鳴る音が聞こえて、馬車は矢のように坦々《たんたん》たる敷き石道を走りだした。
『なんにも、なんにも、おれは望まん、この幸福さえあれば』と彼は、窓と窓とのあいだにあるベルの骨ボタンを見ながら、最後に見たときの姿でアンナを思いえがきながら、考えた。『さきへ進むにしたがって、おれはますますあの女がかわいくなってくる。おお、ここはもうウレーデの国有別荘の庭だ。あの女《ひと》はどこにいるかしら? どこに? どうして? なんだってあの女《ひと》は、こんなところで会うことにしたのだろう、そしてまた、なんだって、ベーッシの手紙などに書きこんでよこしたのだろう?』と彼は、いまになってはじめて、それを考えた。
が、もう考えている暇はなかった。彼は、並木道まで行かないうちに御者をとめて、ドアを開き、まだ動いているうちに馬車から飛びおりて、家のほうへみちびく並木道へはいっていった。並木道にはだれもいなかった。が、右手のほうを見ると、彼女の姿が目にはいった。彼女の顔はヴェールでつつまれていたが、彼はすぐ歓喜のまなざしで、彼女独得の歩きぶり、肩のなだらかさ、頭のおきかたなどを見てとった。と、たちまち、一種電流のようなものが、彼の全身を走り通った。彼は新しい力をもって自分自身を弾力のある足のはこびから呼吸するたびの肺の動きまでを感じた。と、何ものかが彼のくちびるをくすぐりはじめた。
彼といっしょになると、彼女はかたく彼の手を握った。
「あなた、わたしがお迎いをあげたのを、お怒りになりはしないわね? わたし、どうしてもお目にかからなければならなかったんですもの」と彼女はいった。その時、彼がヴェールの下にみとめた、まじめにきっとした彼女のくちびるの形は、たちまち彼の気分を一変した。
「ぼくが怒るって! だが、あなたはどうしてここへ来たんです、そして、これからどこへ行くんです?」
「そんなことどうだってよござんすわ」と彼女は、彼の手の上へ自分の手をかさねながらいった。「まいりましょう、わたし少しお話があるのよ」
彼は、何事か起こったこと、そしてこの密会は、喜ばしいものでないことを見てとった。彼女の前では、彼は自分の意志をもたなかった。彼は、彼女の心痛の原因はわからないながらに、いつかもうそれと同じ不安が、自分にもつたわっているのを感じた。
「どうしたんです、え、どうしたんです?」と彼は、肘で彼女の腕をしめつけて、その顔色で心を読もうとつとめながら、たずねた。
彼女は、心をおちつけようとしながら、無言のまま二、三歩あるいた。そしてにわかに立ちどまった。
「わたし、昨日はお話しませんでしたけれど」と彼女は早口に、重苦しげに息をつきながら、言いだした。「アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチといっしょに家へ帰る道で、わたし何もかもいってしまいましたの……あの、わたしはもうあのひとの妻ではいられないということまで……そして、洗いざらいいってしまったんですわ」
彼はわれにもなく全身をかたむけ、それでもって彼女の立場の重苦しさを軽くしてやろうと願うかのようにして、彼女の言葉にききいっていた。けれども、彼女がこう言いおわるやいなや、彼はやにわに身を起こした。と、彼の顔は、傲然《ごうぜん》とした、きびしい表情をとった。
「そうさ、そうさ、そのほうがいいんです。千倍もいいんです! だが、それがどんなにつらかったかは、ぼくにもわかる」こう彼はいった。けれども彼女は、その言葉は聞いていなかった。その顔つきによって、彼の心を読んでいた。彼女は、しかし、その顔つきが、まっさきに彼の頭にうかんだ考え、決闘は避けがたいという考えにつながっていたのを、知るよしもなかった。彼女の頭には、決闘などという考えのうかんだことは、一度もなかった。で、その一瞬にして過ぎ去った彼のきっとした表情をば、まるで別の意味にとってしまった。
夫の手紙を受け取ったときから、彼女はすでに心の底で、何もかも以前のままで残るだろうということと、地位を捨て子供を捨てて恋人のもとに走るだけの力が、自分にないこととを知っていた。トゥヴェルスコーイ公爵夫人のもとですごしたこの朝が、いっそう彼女のこの考えを強めた。けれどもこの密会《みっかい》は、やはり彼女にとって、このうえなく重大なものであった。彼女は、この密会がふたりの境遇を一変して、自分を救ってくれることを望んでいた。で、もし、彼がこの報告を聞くと同時に、断乎《だんこ》として、熱烈に、いささかもためらうことなく、いっさいをすてて自分と走れといったなら、彼女は子供を捨てて、彼とともに走ったであろう。けれども、この報知は彼に、彼女が期待したような変化をおこさせなかった――彼はただ、何事かに憤慨したような態度を見せただけであった。
「わたしは少しもつらいなんてことありませんでしたわ。だって、ひとりでにそうなってしまったのですもの」と、彼女はじれたような調子でいった。「まあこれを……」こういって彼女は、手ぶくろの中から夫の手紙を取り出した。
「わかります、わかります」と彼は、手紙を受け取りながら読もうともしないで、彼女をおちつかせようとつとめながら、さえぎった。
「ぼくの願っていたのは、ぼくの望んでいたのは、ただひとつ――自分の生活をあなたの幸福にささげるために、この境遇を破壊することだけだったのですから」
「なぜあなたはわたしにそんなことをおっしゃるの?」と彼女はいった。「わたしがそれを疑うとでもお思いになるの? もし、わたしが疑っているのだったら……」
「あすこへくるのはだれだろう?」こう突然にウロンスキイは、彼らのほうへ向かってくるふたりの婦人をさしながらいった。「ひょっとすると、われわれを知ってる人かもしれん!」と彼は、彼女を自分のかげにかくすようにして、急いでわき道のほうへそれた。
「あら、わたしもう、ちっともかまやしませんわ!」と彼女はいった。彼女のくちびるはふるえだした。と、彼には彼女の目が、一種異様な悪意をふくんで、ヴェールの下から自分を見ているような気がした。「だからわたし、そんなことは問題じゃないというのですわ。だって、それを疑うことなんか、わたしにはとてもできませんもの。ですけれどねえ、あのひとはこんなことを書いてよこしてますのよ。まあ、読んでみてくださいまし」こういって彼女は、またしても足をとめた。
ウロンスキイは、手紙を読んでいるうちにまたしても、最初彼女と夫との決裂を聞いた瞬間のように、裏切られた夫との関係から彼のうちによびおこされた例の自然な感銘のなかへ、知らず知らず引きこまれて行った。いま、こうして彼の手紙を手にしていると、彼は、今日か明日かのうちにきっと、自分の手もとに見いだされるであろう挑戦状や、自分がいまも顔にうかべている、冷たい傲然《ごうぜん》とした表情をもって、空に弾丸《たま》を放っておいてから、裏切られた夫の発射のもとに立つという段どりになるであろう決闘そのものまでをも、思いえがかないではいられなかった。と同時にまた、さきほどセルプホフスコイから聞かされたばかりのことや、その朝自分自身でも考えたこと、すなわち自分を拘束しないほうがいいということ、こうした想念がちらりと頭にひらめいた。が、彼は、そういう考えを彼女につたえることの自分にできないことを知っていた。
手紙を読みおわると、彼は彼女のほうへ目をあげた。そのまなざしには、なんら、しかとした色はなかった。彼女はたちまち、彼もひとりで、前からそれを考えていたことを見てとった。彼女は、彼がよし何を言いだしたにしろ、その考えを残らずうちあけそうにないことを見てとった。そして彼女は、自分の最後の望みのあだになってしまったことを知った。これは、彼女が期待していた結果ではなかったのである。
「あなたはそれで、あのひとがどんな人だかおわかりになったでしょう」と、彼女はふるえ声でいった。「あのひとったら……」
「まあ、待ってください。しかし、ぼくはこれを喜んでいるんですよ」とウロンスキイはさえぎった。「お願いだから、ぼくにしまいまでいわせてください」こう彼は目で、この言葉を説明する余裕をあたえてくれるようにと彼女に懇願しながら、言いたした。「ぼくの喜んでいるというのは、それができない相談だからです。あのひとの考えどおり、今のままでいるなんてことは、とうていできないことだからです」
「どうしてそれができないんでしょう?」とアンナは涙をおさえながら、もう明らかに彼のいうことには重きをおかないで、いった。彼女はこれで、自分の運命も決せられたのだと思った。
ウロンスキイは、彼の考えではどうしても避けがたく思われる決闘の後には、今のままの状態をつづけることはとてもできない、こう言いたかったのであるが、しかしほかのことをいってしまった。
「そりゃあとてもできませんよ。だからぼくは、いまあなたに、あのひとを捨ててもらいたいのです。ぼくは切望する――」言いさして彼は、ろうばいしてあかくなった。「あなたがぼくに、ふたりの生活をよく考えて、よく設計させてくださるように。明日……」と、彼は言いかけた。
彼女は彼にしまいまでいわせなかった。
「では、子供は?」と彼女は叫んだ。「あなた、あのひとの書いてることをごらんになったでしょう――子供も捨てなけれはならないって。けれど、わたしにはそんなことできもしないし、またしたくもありませんわ」
「しかし、後生だからよく考えてください、どちらがいいか――子供を手ばなすか、この卑屈《ひくつ》な状態をつづけるか?」
「だれにとって卑屈な状態なんですの?」
「みんなにとってさ、なかでも一ばん多くあなたにとって」
「あなたは卑屈っておっしゃるのね……そんなことおっしゃるのはよしてくださいな。そんな言葉はわたしにはなんの意味もありませんから」こう彼女はふるえ声でいった。彼女は、いま彼にうそをいわれるのがいやだったのである。彼女に残されているのはただ、彼の愛だけであり、彼女は、彼を愛したいと思っていた。「あなただってごぞんじでしょう、あなたを愛するようになってから、わたしにとっては何もかもがすっかり変わってしまったことを。わたしにはただもう、ひとつのことがあるきりです。ひとつのこと――それはあなたの愛ですわ。ですから、それがわたしのものでありさえすれば、わたしは、どんなことでも卑屈だなんて思われないほど、自分を思いあがった、しっかりしたものに感じているのです。わたしは、自分の境遇を誇らしくさえ思っています。なぜといって……それは……その誇りは……」彼女は自分の誇りのなんであるかを、言いきることができなかった。羞恥《しゅうち》と絶望の涙がその声をおし殺してしまった。彼女は立ちどまって泣きだした。
彼もまた、何かがのどもとへこみあげてきて、鼻を刺されるような感じをおぼえた。そして、生まれてはじめて、いまにも泣きそうになっている自分を感じた。彼はしかし、それほどに自分を動かしたもののなんであるかを、明言することはできなかったであろう。彼は、彼女がいじらしくなったのである。しかも彼女を救うことは、とてもできないような気がしたのである。と同時に、彼女を不幸にした者は自分であって、自分は何かよくないことをしたのだ、こういうこともわかっていた。
「じゃあ、離婚はとうていだめかなあ?」と彼は力なげにいった。彼女は、返事はせずに、頭だけを振って見せた。「じゃ、子供だけ引き取って、あの人と別れるというわけにはいきませんか?」
「ええ、だけどそれもみな、あのひとしだいですからね。これからわたしは、あのひとのところへ行かなければなりませんの」と、彼女はかわいた調子でいった。けっきょく、すべてはもとのままだろうという彼女の予感は、ついに彼女を欺かなかった。
「火曜日には、ぼくもペテルブルグへ行きますからね。そしたら万事きまりがつくでしょう」
「ええ」と彼女はいった。「だけど、このお話はもうしないことにいたしましょうよ」
アンナが返してやるときに、ウレーデの庭の柵《さく》のほうへもどってくるように命じておいた彼女の馬車が、近づいて来た。アンナはウロンスキイと別れて家路についた。
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二十三
月曜日に、六月二日の委員会の例会が開かれた。アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチは、会議室へはいると、いつものとおり、議員たちや議長にあいさつをして、自席につき、自分の前に用意されてあった書類の上に片手をおいた。その書類のなかには、彼に必要な参考資料や、彼がしようと企てていた提案の、大づかみな要領などが書きとめてあった。しかし、彼には、それらはもはや必要でなかった。彼はすべてをよく覚えていたので、これから説明しようとすることがらを記憶のなかでくりかえしてみることすら、必要とは思わなかった。彼は、やがて時がきて――自分の前にいたずらに平静な表情をよそおおうとしている反対者の顔を見たときには、彼の弁舌は、彼がいま準備しうるものよりも、はるかによくすらすらと自然に流れ出るであろうことを知っていた。彼は、自分の演説の内容は、一語一語が意味をもっているほどに、りっぱなものであるような気がしていた。しかし一方では、型のごとき報告に耳をかたむけながら、しごく罪のなさそうな平和な顔つきをしていた。で、だれしも、その前に置かれてある白い紙の両端を静かになでている、血管のふくれた、指の長い白い手や、その、疲れたような表情をして、やや横にかたむけられている頭を見ただけでは、いまにもその口から、議員たちを絶叫させたり、罵倒《ばとう》のしあいをさせたりしたあげく、議長に秩序の維持を宣告させるような、すさまじいあらしをまきおこす弁舌が、ほとばしり出ようとは思わなかった。報告が終わったとき、アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチは、例の穏やかな細い声で、異種族厚生問題にかんし、二、三の意見を述べたいむねを申し出た。注意は彼の上にむけられた。アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチは、咳ばらいして、自分の反対者のほうは見ないで、演説するときにはいつもきまってするように、自分のまん前に陣どっている男――委員会ではかつて一度も意見をいったことのない、小柄な、おとなしい老人の顔を対象に選んで、自分の意見を述べはじめた。問題が根本的な系統的な法規のことになると、反対者はおどりあがって、抗弁をはじめた。同じく委員の一員であり、同じく急所をつかれたストゥレーモフも弁解をはじめて、会場はたちまち、あらしのようになってしまった。けれども、アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチは勝利をおさめた。彼の提案はいれられて、三つの委員会が新しく任命された。翌日のペテルブルグの一部社会は、ただこの会議の話でもちきりであった。アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチの成功は、彼の予期以上ですらあった。
翌朝の火曜日に目をさますと、アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチはまず、満足の情をもって昨日の勝利を思いおこした。そして、役所の書記長が長官のごきげんをとろうと思って、耳にはいった委員会のうわさを伝えたときには、彼は平気をよそおおうとつとめながら、つい、ほほえまないではいられなかった。
書記長と仕事をしながら、アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチは、今日が火曜日であること――つまりアンナ・アルカジエヴナに帰れといってやった日であることをすっかり忘れていた。で、家僕が彼女の到着を告げにきたときには、彼はびっくりして、ちょっと不快な気分におおわれた。
アンナは、朝早くペテルブルグへ着いた。彼女の電報によって、迎えの馬車はちゃんとさしまわされてあった。だから、アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチは、彼女の到着を知ることはできたはずなのだが、彼女の着いたときには、彼は迎えに出なかった。そして彼女にはただ、彼がまだ出勤しないで、書記長と仕事をしているむねが告げられた。彼女は、自分の着いたことを夫に告げるように言いつけておいて、自分の部屋へはいり、彼のくるのを心まちにしながら、荷物の整理にとりかかった。ところが、一時間すぎても、彼は姿を見せなかった。彼女は、何かのさしずにかこつけて食堂へ出、彼がそこへ出てきそうなものだと思ってわざと高調子にものをいった。それでも彼は、書記長を送りだして書斎の戸口まで出てきたらしいけはいはしながら、やはり出てこなかった。彼女は、例によって彼が、じき勤めに出て行くことを知っていたので、お互いの関係を決定するために、それまでに一度会いたいと思ったのである。
彼女は広間をひとまわりしてから、思いきって夫のもとへおもむいた。彼女が彼の書斎へはいったとき、彼は出かけるばかりの制服姿で、小テーブルのそばに腰掛けて、その上に両肘を突き、沈んだ様子で自分の前を見つめていた。彼女は彼が彼女を見るよりさきに、彼を見た。そして彼が、彼女のことを考えているらしいのを見てとった。
彼女を見ると、彼は立とうとしたが思いなおした。と、彼の顔は、アンナがついぞ見たこともないほど、一時にかっと赤くなった。彼はすばやく立ちあがり、彼女の目ではなく、その上の額と髪とを見ながら、彼女を迎えるべく進み出た。彼は彼女のそばへよると、その手をとって、そこへ掛けるようにといった。
「あんたが帰ってくれて、わたしは非常にうれしい」こう彼は、彼女のそばへ腰をおろしながらいって、明らかにまだ何か言いたそうにしながら口ごもった。彼は、何度も話しだしそうにしては、やめた。彼女は、あらかじめこの会見に心がまえをして、彼をさげすみ責めてやるつもりでいたのに、面と向かってみると、いうべき言葉が、見つからなかったばかりか、彼が気の毒にさえなってしまった。こうしてふたりのあいだには、かなり長い沈黙がつづいた。「セリョージャはたっしゃですか?」と彼はいった。そして、返事は待たずに、言いたした。「わたしは今日はうちで食事をしませんよ。それに、もうすぐ出かけなくちゃならんのです」
「わたくしはモスクワへまいろうと思っていましたのです」と彼女はいった。
「いや、あんたが帰って来てくれたのは、非常に、非常によかったのです」彼はこういって、ふたたび黙ってしまった。
彼女は、彼に話をきりだす気のないのを見て、こちらから口をきいた。
「アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチ」と彼女は彼を見ながら、自分の髪の上にこらされている彼のまなざしから目をそらさないで、言いだした。「わたくしは罪のある女です、わたくしはわるい女です。ですけれど、わたくしはまだ以前のとおりの、いつぞやあなたに申しあげたとおりの女です。それでわたくしは、もうこのうえ、なんにも変えることはできません、それを申しあげようと思ってまいったのでございます」
「わたしはそんなことをきいたのではありません」と彼は、にわかにきっとした態度になって、憎さげに彼女の目をひたと見すえながら、いった。「わたしもそうだろうと思っていたのだ」憤怒の影響で、彼は明らかに自分の全能力をふたたび十分に回復したようであった。「しかし、あの時あんたに口でいったり、手紙に書いてあげたりしたように」と彼は、鋭い細い声で言いだした。「わたしは、そんなことを知らねばならぬ義務はないのだということを、くりかえし申しあげておきます。わたしは、そんなことは知らないことにしておきます。あんたのように善良な細君も少ないですね、こういう愉快な通知を、急いで夫に知らせるなんて」と彼は、『愉快な』という言葉にとくに力を入れていった。「わたしは、世間がそれを知らずにいるあいだは、わたしの名が汚されないでいるあいだは、知らないことにしておきます。で、わたしはまえもって、ふたりのあいだはこれまでどおりにしておかねばならないということと、もしあんたが、あんた自身を汚すようなことをした場合には、猶予なく、自分の名誉を擁護する方法をとらなければならぬということを、一言申しあげておきます」
「ですけれど、わたくしどものあいだは、これまでどおりでいられるわけがないじゃございませんか」とアンナは、びっくりしたように彼を見て、おどおどした声でいった。
こうしてふたたび、夫のおちついた態度を見、この刺すような、子供じみた皮肉な声を聞くと同時に、彼女の心のなかでは、彼にたいする嫌悪の情が、今までの憐憫《れんびん》の情をうち消してしまって、彼女はただもう恐ろしいと思うだけになった。けれども彼女は、いまはどうでもこうでも、自分の立場を明らかにしたいと思った。
「わたくしはこのうえ、あなたの妻でいることはできませんわ、わたくしがああいう……」と、彼女は言いかけた。
彼はいじのわるい、冷やかなえみをもらした。
「あんたのお選びになった生活の様式は、あんたの理性に反映しているにちがいない。わたしはそれを尊敬しているか、経蔑しているか、あるいはそのどちらでもあるようだが……とにかく、わたしはあんたの過去は尊敬しているが、現在は軽蔑している……わたしは、あんたがわたしの言葉にたいしてあたえられた解釈からは、遠いものだったのですよ」
アンナはため息をついて、うなだれてしまった。
「しかしわたしは了解に苦しみますね。あんたほどにりっぱな独立心をもっていて」と、彼は熱してきてつづけた。「自分の不貞を夫の前におおうところなく暴露《ばくろ》して、しかもなんら自責を感じないでいるらしい人が、夫にたいする妻の義務を遂行《すいこう》するのに、はばかるところがあるなんて?」
「アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチ! いったいあなたはわたくしに、どうしろとおっしゃるのでございますか?」
「わたしに必要なのは、わたしがここであの男に会わないことと、あんたが世間《ヽヽ》からも、|召使たち《ヽヽヽヽ》からも非難されることのないように、身を処してくれることと……それから、あんた自身もあの男に会わないことと、これだけです。これくらいのことは、なんでもないことだと思います。しかも、そのかわりには、あんたは妻としての義務をはたさないでいて、りっぱな妻としての権利を利用することができるのですからね。わたしがあんたに言いたいことはこれだけです。もう出かけなければなりません。食事は家ではしませんよ」と彼は立ちあがって、戸口のほうへ行こうとした。
アンナも同じく立ちあがった。彼は黙ってえしゃくをして、彼女に前を通らせた。
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二十四
レーヴィンが乾草の堆積《やま》の上ですごした一夜は、彼にとって無意味にはすぎなかった――これまで彼がやってきた農事経営までが、いやになってきて、少しも興味のないものになってしまった。みごとな収穫があったにもかかわらず、今年ほど彼と百姓たちとのあいだに、失敗や敵意のかもされた年はなかった。いや少なくとも、彼にそんな気のしたことはなかった。そして、その失敗と敵意との原因が、今ではすっかりわかってきた。労働そのもののなかで彼が経験したところの喜び、その結果として生じた百姓たちとの接近、彼らにたいし、彼らの生活にたいして経験したところの羨望、その夜の彼にとっては、もはや空想ではなくて計画であったところの、そういう生活にうつりたいという願望、彼が思いめぐらした実行|細工《さいく》――すべてそれらのものは、彼の今までとってきた農事そのものにたいする見解を根底から変えてしまったので、彼はもはやそのなかには、いかにしても以前の興味を見いだすことができなくなり、またすべての事業の根源となっていた労働者たちとの自分の不愉快な関係を、認めないではいられなくなった。パーワのような良種の牝牛《めうし》の一群、よく耕されて肥料をほどこされた土地、生垣をめぐらされた九か所の平坦な野、深く耕されて肥料をほどこされた九十デシャティーナの畑地、かずかずの播種機《はしゅき》、その他――すべてそれらのものは、もしそれが彼自身か、あるいは彼と彼に同情のある仲間との共同でなされたのだったら、りっぱなものだったであろう。けれども、いまや彼は明らかに(農業の主要な要素は労働者であらねばならぬという、農業にかんする著述の仕事が、この場合、非常に彼を助けたのである)いまや彼は明らかに、自分の行なってきた農事経営は、彼と労働者たちとのあいだに、ただ残酷で執拗《しつよう》な闘争をかもしだしたにすぎないこと、およびこの闘争において、一方、彼のほうには、いっさいをよいと思った型にしたがって改良しようとする不断の緊張した努力があり、他の一方には、事物の自然の秩序というもののあるのを見た。そしてこの闘争において、彼はまた、彼の側の異常に緊張した努力と、他の側のなんの努力も計画すらもないこととがひとつになって得られたものは、ただその仕事がだれの思うようにもいかなくて、りっぱな農具や申しぶんない家畜や地面が、ぜんぜん無益にそこなわれたにすぎなかったのを見た。なおそれよりもかんじんなことは、――自分の事業の意味が自分にとって明白になった今では、彼は、この事業にそそぎこまれた精力が、ぜんぜん徒労におわったばかりでなく、その精力の目的すらが、きわめて無価値なものであったことを、痛感しないではいられなかったことである。
じっさい、なんのための闘争であったろう? 彼は、自分の零細な金のために立っていた(彼はそうしないではいられなかったのである。なぜなら、彼が少しでも精力をゆるめると、百姓たちに払う金が不足するかもしれなかったから)。が、彼らはただ仕事を、おちついて愉快に、すなわち彼らの慣習どおりにするために立っていた。彼の利害のなかには、百姓たちができるだけ多く働き、そのうえ箕《み》や、馬耙《まぐわ》や、打穀機《だこくき》などをこわさないようにつとめることを忘れず、自分たちのしていることにたえず気をくばっているようにということがあった。が、一方の百姓たちには、できるだけ心楽しく、やすみやすみ、とりわけむとんちゃくに、すべてを忘れて、考えることなく働くことが要求された。この夏レーヴィンは、一歩ごとにそれを目にしたのであった。彼は、雑草や|いらくさ《ヽヽヽヽ》がまじっていて、種子にはむきそうもない不良な畑を選《よ》って乾草にするクローバーを刈りに人をやった――ところが彼らは、管理人の言いつけだということを口実にして、種子になるよい場所を何デシャティーナも刈ってしまい、そのかわりいい乾草ができますからと彼を慰めた。けれども彼は、彼らがそうしたのは、その場所のほうが刈るにらくだったからだということを、ちゃんと見ぬいていた。彼はまた、乾草をさばく機械をあてがった――ところがそれは、第一列でもうこわされてしまった。そのわけは、百姓たちには、頭の上で機翼《つばさ》の舞っている下の台に、ただ腰を掛けているのがたいくつだったからである。そして、彼らは彼にいうのだった――「ご心配にはおよびましねえ、女《あま》っ子どもが器用にさばきますだ」犂《すき》も、使用してみると、不適当なことがわかった。というのは、百姓たちの頭には、もち上げた刃《は》をおろすという考えがつかないので、力まかせに押しまわして、馬を苦しめ、地面を台なしにしたからである。しかも彼らは、レーヴィンに向かって、案じてくれるなというのである。また、百姓たちが、だれもかれも夜番になることをきらって、そんなことをしてはならないと命じたにもかかわらず、交代で夜番をはじめたので、馬はどしどし小麦畑のなかへ踏みこんだ。ワニカは一日働いたあげくなので、ぐっすり寝こんでしまって、自分の罪を懺悔《ざんげ》してこういった――「どうともしてくだされ」三頭の良種の子牛は、水槽《みずおけ》なしに二番生えのクローバーのなかへ放されたために死んでしまったが、彼らはそれを、クローバーに中毒したのだとは、どうしても信じないで、その慰めに、隣家では三日間に、百十二頭死んだなどという話をした。すべてこれらのことは、だれかがレーヴィンにたいし、または彼の農事経営にたいして、悪意あってしたことではなかった――いやむしろその反対に、彼は、彼らが彼を愛し、彼をいいだんな(最上の賛辞である)といっていることを知っていた。しかも、結果がこうなってしまったのは、ただ、彼らがおもしろ半分に、気やすく働きたがったことと、彼の利害が、彼らにとって没交渉《ぼつこうしょう》であり、かつ不可解であったばかりでなく、宿命的に、彼らの最も正しい利害と、相反していたからであった。
すでに久しいことレーヴィンは、農事にたいする自分の態度に不満を感じていた。彼は、自分の小舟の浸水するのを見ながら、おそらくわざと自分を欺いてであろう、その洩《も》り口を見つけもしなければ捜そうともしなかった(もしそれに幻滅しようものなら、彼には何ひとつなくなってしまうからであった)。けれども今は、もはや、自分を欺くことはできなかった。彼がこれまでやってきた農業が、彼には興味がなくなったばかりでなく、むしろ、いとわしくさえなってきたので、このうえ彼は、それをつづける気力がなくなってしまったのだった。
さらにそのうえへ、彼から三十ウェルスターのところに、彼が会いたくていながら会えないでいるキティー・スチェルバーツカヤのいるという一事が加わった。ダーリヤ・アレクサーンドロヴナ・オブロンスカヤは、彼が訪ねていったときに、また来るようにとすすめてくれた。――いまではきっと彼を受けいれるにちがいない(こんなふうに彼女はほのめかした)妹にたいして、もう一度結婚を申し込むために。それに、レーヴィン自身もまた、キティー・スチェルバーツカヤを偶然見かけて、自分が彼女を依然として恋していることをさとった。けれども彼には、彼女がそこにいると知りながら、オブロンスキイ家へ出かけて行くことはできなかった。彼が彼女に申し込みをし、彼女がそれを拒絶したという事実は、彼と彼女とのあいだに、越えがたい垣《かき》を築いていた。『おれは、彼女が望んでいた人の妻になれないからというだけの理由で、自分の妻になってくれとは頼めない』こう彼はわれとわが心にいった。この考えは彼を、彼女にたいして敵意ある、冷やかなものにしてしまった。『おれは、責める感じなしにあのひとと話すことはできないだろう、また、憤怒なしにあのひとを見ることも、できないだろう。したがって、あのひとだって、なおのことおれをきらうようになるにちがいない。それはもう当然のことだ。そればかりか、ダーリヤ・アレクサーンドロヴナにあんなことをいわれたあとで、いまさらどうしてあすこへ行けよう? 彼女にいわれたことを知らん顔でいるなんて、おれにそれができるだろうか? おれがひろい心になって、彼女を許したり、あわれんだりしに行くなんて。おれが彼女の前で、彼女を許して、彼女を愛する人の役目を演ずるなんて!……なんだってまたダーリヤ・アレクサーンドロヴナは、おれにあんなことをいったのだろう? 偶然になら、おれも彼女に会うことができる。そして、そういう場合になら、何もかもが自然に片づいたかもしれない。しかし、いまとなっては、それはもう不可能だ、不可能だ!』
ダーリヤ・アレクサーンドロヴナは彼に手紙で、キティーのために婦人用の鞍を貸してくれと頼んでよこした。『あなたさまは婦人用の鞍をお持ちになっておられるとのこと』と彼女は書いていた。『あなたさまがご自身でお届けくださいましたら、何よりとぞんじます』
それはもうレーヴィンには、堪えがたいことであった。あんなに聡明なデリケートな婦人が、どうしてこう妹をはずかしめることができるのだろう! 彼は手紙を十通も書いたが、みんな破ってしまった。そしてなんの返書もそえずに、鞍だけを送ってやった。彼は、自分が行きますと書くことはできなかった。なぜなら、行くことはできなかったから。何かさしつかえがあって行けないとか、ほかに出かけるさきがあるから行けないとかと書いてやることも、いっそうぐあいがわるかった。で、彼は返事はそえずに、なにやら恥ずべきことをしたような気持で、鞍だけを送り届けてやった。そしてつぎの日、すっかりいや気のさした仕事を執事にわたして、友人のスヴィヤーズスキイを訪ねるために遠い郡へ旅立った。その友人の領地の近くには、田|しぎ《ヽヽ》のいるすてきな沼がいくつもあった。そしてその友人は、ついさきごろ彼に、一度訪ねるという古い計画を実行してくれと書いてよこしていたのであった。スーロフスキイ郡の田|しぎ《ヽヽ》沼は、すでに久しいこと、レーヴィンには誘惑の種となっていたが、彼は、農事のためにずっとこの旅行を延ばしていたのであった。で、いまや彼は、スチェルバーツキイ一家の隣地から、わけても仕事からのがれて、彼にとってはあらゆる悲しみにたいする最上の慰めである猟に出かけて行くことを、このうえなく喜んだのであった。
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二十五
スーロフスキイ郡へは、鉄道も駅馬の便もなかったので、レーヴィンは、自分の旅行馬車に乗って出かけた。
ちょうど半分みち行ったところで、彼は馬に飼料をあたえるために、一軒の裕福な百姓家へ立ちよった。ほおのあたりが白くなっている、濃く赤いあごひげをはやした、はげ頭の元気な老人が、三頭立ての馬車を通すために、門柱へ身を押しつけて門を開いた。新しくて手入れのよく行きとどいている、広いきれいな庭の、まわりのこげた犂《すき》などの入れてある、ひさしの下の場所を御者に教えておいて、老人はレーヴィンに、客間へ通ってくれるようにとこうた。小ざっぱりとした身なりの、素足にオーバーシューズをはいた若女房が前かがみになって、新しい玄関の床を洗っていた。彼女は、レーヴィンのあとからかけこんで来た犬に驚いて叫び声をたてたが、犬がどうもしないことを知ると、こんどは、自分のびっくりしたことを笑いだした。そでをまくった片手で、レーヴィンに客間の入口をさし示すと、彼女はまたも身をかがめて、その美しい顔をかくし、せっせと床を洗いつづけた。
「サモワールはどうですか?」と彼女はきいた。
「ああ、どうぞ願います」
客間は、オランダふうの暖炉と仕切り板のある大きな部屋であった。聖像の下には、色模様のついたテーブルと、ベンチと、二脚のいすとがおいてあった。入口に近く、食器のはいった戸だながあった。よろい戸がしまっていて、はえも少なく、すべてが清潔だったので、レーヴィンは、途中かけ歩いてどろ水を浴びてきたラスカが床をよごしはしまいかと気づかって、戸口に近い片すみに、その居場所をさしずしてやったほどであった。客間をひとわたり見まわしてから、レーヴィンは後ろ庭へ出てみた。木ぐつをはいた、器量よしの若女房は、天びんぼうのさきで、からの桶《おけ》をぶらぶら振りながら、井戸のほうへ水を汲みにと、彼の前をかけていった。
「やあ、さっさとしろよ!」と老人は、彼女に向かってきげんよく叫んで、レーヴィンのそばへあゆみよった。「なら、だんなさまあ、ニコライ・イワーノヴィッチ・スヴィヤーズスキイのところへ行かっしゃるだね? あのだんなもよく、わしらへおよりなせえますだよ」こう彼は、階段の欄干《らんかん》に肘をもたせて、話ずきらしく話しだした。
老人がスヴィヤーズスキイとのつきあいについて話しているさいちゅうに、門がまたもや音をたてて、野良がえりの百姓たちが、犂《すき》や耙《まぐわ》をひいて庭へ乗りこんで来た。犂や耙につけた馬は、ふとって大きかった。百姓たちは、てっきり家の者らしかった――ふたりは、さらさのシャツに縁なし帽子をかぶった若者、ほかのふたりは、大麻のシャツを着た雇い百姓で、ひとりは老人、ひとりはあいきょうのある顔をした若者であった。
老人は階段からはなれて、馬のほうへ近よると、それを馬車からときにかかった。
「何を鋤《す》いてきたんだね?」とレーヴィンはたずねた。
「じゃがいも畑を鋤きましただよ。ちっとばかり地面を持っておりますんでねえ。おい、フェドート、去勢《きょせい》馬は連れ出さねえでな、かいば桶《おけ》のそばへやっといて、別なのをつけるがええ」
「そりゃそうと、おとっつあ、おら犂頭《すきさき》を持ってこいっていっといただが、持って来たろうか、ああ?」と老人のむすこらしい、大柄な、がんじょうそうな男がたずねた。
「ええと……橇《そり》んなかにあるだよ」と老人は、はずした手綱をぐるぐるまきにして、地面へ投げだしながら答えた。「みんなが飯食ってるまにつけちまえや」
器量よしの若女房は、水のいっぱいはいった、彼女の肩を押しひろげる桶《おけ》をになって、玄関のほうへ通っていった。そのうちに、どこからともなく、別の女たちが――若いのや、器量のいいのや、中年のや、年とったきたない婆さんや、子供を連れたのや、連れないのやが、ぞろぞろと出てきた。
サモワールは煙突に音をたててたぎりはじめた。百姓や家の者たちは、馬の始末をすますと、食事をしに行った。レーヴィンは、馬車のなかから食物を取り出して、いっしょに茶を飲むようにと老人を招いた。
「わしらあはあ、今日はもうやりましたんでごぜえますが」と老人は、明らかにその申し出を喜びながらいった。「まあ、おつきあいに一ぺえいただきましょうかな」
お茶のあいだにレーヴィンは、老人の農事経営法をすっかり聞いた。老人は、十年まえに、ある女地主から百二十デシャティーナの土地を借りたが、去年それを買い取ったうえ、さらに隣家の地主から、三百デシャティーナの土地を借り受けた。その地面の一小部分、一ばんわるい部分を、彼は貸地にして、四十デシャティーナの畑地を、自分で、家族の者とふたりの雇い人とで耕していた。老人は、仕事のうまくいかないことをこぼしていた。けれどもレーヴィンは、それは老人が、ただおていさいにいっただけで、じつはなかなかうまくいっていることを承知していた。もし事実、それが思わしくないのだったら、彼は百五ルーブリも出して地面を買いもしなかったろうし、三人のむすこと|おい《ヽヽ》に嫁をとってやったり、二度まで火事にあいながら、二度とも、しかも、だんだんよい家を建てたりはしなかったにちがいない。老人のくり言にもかかわらず、彼が自分の裕福なことや、むすこたちや|おい《ヽヽ》や、さては馬のことや牛のこと、わけても、これだけの百姓仕事をりっぱにやってのけていることについて、誇っているらしいのはもっともであった。老人との話から、レーヴィンは、彼が新式の方法をも、べつに毛ぎらいしていないことを知った。彼はじゃがいもをたくさん作っていた。そして、このじゃがいもは、レーヴィンが馬車でくるみちみち見たところでは、レーヴィンの畑ではまだようやく花をつけかけたばかりだったのに、もう花どきを過ぎて実《み》を結ぶときになっていた。彼はまた、じゃがいも畑を耕すのに、地主のところで借りた新式の犂《すき》、彼のいわゆるブローを使っていた。彼は小麦もまいていた。なお、はだか麦をまびくときに、そのぬいた麦で馬を飼《か》っているという老人の細心な用意は、とくにレーヴィンを驚かした。何度レーヴィンは、この申しぶんのない飼料のむだにされているのを見て、それをかき集めたいと思ったかしれないけれど、いつもそれはできずにしまった。それがこの百姓のところではできたのだ。そして彼はその飼料を、いくら誇っても誇りきれなかった。
「女《あま》っ子どもに、なにができましょうぞ? 束にして道ばたまで運んでしまや、あとは馬車が運んで行きますだよ」
「いや、どうもわれわれ地主のところでは、作男たちとの折りあいがうまくいかないんでね」とレーヴィンは、お茶のはいったコップを彼に渡しながらいった。
「や、おそれいりますだ」と老人は、答えながらコップを受け取ったが、砂糖のかたまりの残りをさして、砂糖をことわった。
「雇人《やといにん》どもにやらしていいことは、まあどこへ行ってもありましねえだ」と彼はいった。「ただ|わや《ヽヽ》にされるだけでさ。はええ話が、スヴィヤーズスキイの地面を見なされ。わしらはあれがどんな土地だかよく知っていますだ――大したものでさ。それでいて、ほめるほどの収穫はありましねえ。みんなしまりがとどかねえからでごぜえますだよ!」
「しかし、おまえだって作男を使ってやってるじゃないか?」
「わしらの仕事は百姓仕事でさ、何もかも自分でやりますだよ。役にたたねえやつはさっさとことわっちまって、自分たちでやっていきますだ」
「おとっつあ、フィノーゲンが|かばやに《ヽヽヽヽ》を持って来てくれろっていっただよ」と、オーバーシューズをはいた女房がはいって来ていった。
「それでは、だんなさま!」こう老人は立ちあがりながらいって、つづけざまに十字を切り、レーヴィンに礼をのべて出て行った。
レーヴィンは、自分の御者を呼びに台所へはいっていったときに、家内じゅうの男たちが食卓についているのを見た。女たちは立って、給仕役をつとめていた。若い丈夫そうなむすこは、|かゆ《ヽヽ》を口いっぱいにほおばりながら、何やらおもしろそうな話をしていて、一同は笑っていたが、なかでも、シチューを茶わんについでまわっていたオーバーシューズの女房が、一ばんおもしろそうに笑っていた。
この農家のレーヴィンにあたえた秩序整然とした印象に、このオーバーシューズをはいた女房の美しい顔が、大いに影響していたということは、きわめてありそうなことであった。とにかく、この印象は、レーヴィンにとって、いつになっても忘れさることのできないほど、力強いものであった。で、老人のもとからスヴィヤーズスキイの家まで行きつくあいだ、彼はのべつ、まるでその印象のなかに何か特別の注意を求めるものでもあるように、くりかえしくりかえし、この農家のことを思いうかべた。
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二十六
スヴィヤーズスキイは自分の郡の貴族会長であった。彼はレーヴィンより五つ年上で、ずっと以前に結婚していた。彼の家には、彼の細君の妹で、レーヴィンの大好きな娘がいた。そしてレーヴィンは、スヴィヤーズスキイ夫妻が非常にこの娘を彼にめあわせたがっているのを、知っていた。彼はそれを、世間の花婿候補者と呼ばれている若人たちが、口にだして人に話す気にはなれないまでも察してはいるように、よく知っていた。しかも同時に彼は、自分でも結婚をのぞんでおり、かつどの点から見ても、このきわめて魅力にとんだ少女が、かならず美しい妻となるだろうことを察していながら、彼女と結婚することは、よし彼がキティー・スチェルバーツカヤを思っていなかったとしても、ちょうど空へ飛びあがるほどに、不可能なことであるのを知っていた。そしてこの事情は、彼がスヴィヤーズスキイを訪問するにあたって心にいだいていた満足感をそこなうものであった。
猟に来いというスヴィヤーズスキイの手紙を受け取ると、レーヴィンはすぐにそのことを考えたが、それにもかかわらず彼は、スヴィヤーズスキイが自分にたいしてそういう考えをいだいていると思うのは、なんの根拠もない自分の空想にすぎないのだと断定して、やはり出かけることにしたのだった。のみならず、心の底では、ひとつは自分をためしてみたい、この少女のことで、もう一度自分をはかってみたい、こういう希望も動いていた。それに、スヴィヤーズスキイ一家の家庭生活が、また非常に愉快なものであって、スヴィヤーズスキイその人も、レーヴィンの知るかぎりでは、模範的な地方政治家であるばかりでなく、レーヴィンにとっては、いつも非常に興味ある人物であったからである。
スヴィヤーズスキイは、レーヴィンにとって、つねにふしぎに思われる人物のひとりであった。そういう人の思想は、独創的であることはけっしてないが、きわめて順序だっており、自分自身の道を進んでいくのに、生活そのものは、非常にはっきりした、方向の固定したもので、その思想とはぜんぜん独立して、ほとんどつねに正反対の方向をとって進んでいた。スヴィヤーズスキイはいたって自由主義的な人であった。彼は貴族を蔑視《べっし》して、貴族の大部分は、おくびょうから面《おもて》に現わさないだけの、かくれたる農奴主義者であるといっていた。彼はまたロシアを、トルコと同様な亡国と考え、ロシア政府にたいしては、その施政をまじめに批評することすら、いさぎよしとしないほど、とるにたらぬものとしていた。しかも、それと同時に彼は官吏であり、模範的な貴族会長であって、外出するときには、かならず帽章のついた、赤い縁の制帽をかぶっていた。彼は、人間の生活はただ、外国でだけ可能であるという見解から、機会さえあれば、さっさと外国へ出かけて生活した。けれども、それと同時にロシアにおいても、きわめて複雑な、完全な農場を経営し、かつひとかたならぬ興味をいだいて、ロシアに行なわれているすべてのことがらに注意し、しぜん何事でもちゃんと、心得ていた。彼はまた、ロシアの農民をさして、猿から人間への進化の道程にあるものと考えていたが、それと同時に、地方自治会の選挙場では、人にさきだって百姓たちと握手をし、彼らの意見に耳をかたむけた。彼は悪魔をも死をも信じなかったが、僧侶階級の生活改善、教区信徒の減少というような問題を非常に心にかけ、教会を自分の村に存置することには、とくに力を入れたものであった。
婦人問題でも、彼は婦人の絶対自由、とくに婦人の労働権拡張にたいして極端な賛成者の側に立ってはいたが、しかも妻とは、あらゆる人が、子供のないそのむつまじい家庭生活に見とれたほど、幸福に暮らしていた。そして自分の妻の生活を、彼女が夫との共同生活をできるだけよく、愉快にすごすこと以外に何もせず、またできもしないように、導いているのだった。
もしレーヴィンが、人を一ばんよい方面からだけ見る特性をもたなかったならば、スヴィヤーズスキイの性格は、彼になんの困難をも、疑問をもあたえなかったであろう。彼は自分にいったであろう――「|ばか《ヽヽ》か、さもなければやくざものだ」と。そしていっさいが明白になったであろう。けれども彼は、|ばか《ヽヽ》というわけにはいかなかった。というのは、スヴィヤーズスキイは疑いもなく聡明な男であるばかりでなく、きわめて高い教養をもった、そしてその教養を、なみはずれて単純にとり扱っている人だったからである。彼の知らないということはなかった。だが、彼は自分の知識を、よぎない場合のほかは外へ出さなかった、それかといって、彼をやくざものとみることは、レーヴィンにはなおさらできなかった。というのは、スヴィヤーズスキイは、疑いもなく正直な、善良な、聡明な人であって、たえず、愉快に活発に仕事をはげみ、まわりのあらゆる人々から高く評価され、いやしくも不信らしいことなどは、かつて、意識してしたこともなく、また不正なことなどは、てんでできない人だったからである。
レーヴィンは、彼を理解しようとつとめて理解しえず、いつも、生きた|なぞ《ヽヽ》にたいするように、彼と彼の生活とを見ているのであった。レーヴィンと彼とは親密な間柄だったので、レーヴィンはよく平気でスヴィヤーズスキイを試み、その人生観の根底をきわめようとしたが、それはいつも徒労におわった。レーヴィンは、すべての人にたいして開かれてあるスヴィヤーズスキイの知性の客間から、一歩奥へ踏みこもうとするたびに、スヴィヤーズスキイがきまって心もちろうばいの色を見せるのに気がついていた。彼の目には、あたかもレーヴィンにとらえられるのを恐れるような、からくも認められるくらいの驚きがあらわれて、彼は心のよさそうな、快活らしい抵抗を見せるのであった。
自分の農事に幻滅を感じたあとだけに、こんどはことにレーヴィンは、スヴィヤーズスキイのもとに滞在するのが快かった。自分にも人にも満足しているこの幸福なハトたちの姿と、よく整頓したその巣とが、なんということもなく彼に快く作用したことはいうまでもなく、現在自分の生活に不満を感じている彼にとっては、生活の上でこれほどの明朗さ、確実さ、快さをとらえているスヴィヤーズスキイの秘訣のなかへ、わけいりたい願いがやまやまだったのである。
なおそのほかレーヴィンは、スヴィヤーズスキイのところへ行けば、近隣の地主たちに会えることを知っていた。そして彼には、とくに今その人たちと話すこと、その人たちから、収穫がどうとか、作男の賃金がどうとかという、農事についての話を聞くのが興味があったのである。もっとも、それらの話は、ふつうなぜともなく、きわめて卑しむべきこととされていることは、レーヴィンも知ってはいたが、現在のレーヴィンにとっては、ただそれだけが重大なことのように思われたのであった。『おそらくこんなことは、農奴制時代には必要でなかっただろう。またイギリスでは、現在でも必要でないだろう。つまり、これらの二つの場合では、条件そのものがちゃんと一定しているからだ。ところがわが国では――すべてこれらのことが一転して、やっと立ちなおりかけている今日のロシアでは、これらの条件がどうおさまるかという問題は、唯一の重大問題なのだ』こうレーヴィンは考えていたのである。
猟は、レーヴィンの期待したほど思わしくなかった。沼はかわいていて、田しぎはさっぱりいなかった。彼は終日歩きまわって、わずかに三羽撃って帰っただけだったが、そのかわり、猟の帰りにはきまってそうであるように、すばらしい食欲と、すばらしい気分と、激烈な肉体運動にともなっていつもおこる、発らつたる精神状態とを持って帰った。なお猟場では、自分では何も考えていないと思っているときに、ときどきふいとあの老人とその家族とのことを思い出していたのだった。そしてこの印象は、あたかも、彼に向かって注意を要求しているばかりでなく、それに関連した何事かの解決を求めているかのようであった。
晩には、お茶のときに、後見《こうけん》にかんする何かの用むきで来訪したふたりの地主もくわわって、レーヴィンが期待していた例の、最も興味ある談話がはじまった。
レーヴィンは、茶卓についたとき主婦のそばに座をしめたので、いきおい彼女や彼の正面にすわっていた義妹と話をしなければならなかった。主婦はまる顔の、髪の白っぽい、背の高くない顔じゅうえくぼと微笑とで輝いているような女であった。レーヴィンは彼女を通して、彼女の夫が提供した例の彼にとって重大な|なぞ《ヽヽ》の解決を試みようとつとめたが、苦しいほどに|ばつ《ヽヽ》がわるかったので、完全な思考の自由をもつことができなかった。苦しいほどに|ばつ《ヽヽ》がわるかったというのは、とくに彼のために(こう彼には思われた)、まっ白な胸のところを四角にあけた上着を着た義妹が、彼のま正面にすわっていたからであった。そして、この四角な胸のあけかたが、胸そのものはこのうえなくまっ白だったにもかかわらず、いや、あるいはそれがあまりに白かったために、レーヴィンに思考の自由を失わせてしまったのであった。彼は、たぶん思いすごしではあろうが、この胸のあけかたは、彼を勘定に入れてなされたもののように想像し、自分はそれを見る権利のないものだと考えて、つとめてそのほうを見ないようにしていた。けれども、こういうあけかたがなされたということだけで、彼はもう自分に罪があるように感じたのである。レーヴィンは、自分がだれかを欺いているような、何やら説明しなければならぬことがあるような、それでいて、どうしてもその説明ができないような、へんな気持だった。で、そのために、彼はたえずあかくなって、おちつかず、|ばつ《ヽヽ》がわるかった。彼のこの|ばつ《ヽヽ》のわるさは、美しい義妹のほうへもうつった。けれども主婦は、どうやらそれには気づかない様子で、わざと彼女を話のなかへひきいれるのだった。
「あなたはそうして」と、主婦ははじめられた話をつづけた。「主人がロシアのことにはなんにも興味を持つことができないなんておっしゃいますけれどね、それはまるで反対でございますわ。なるほど、主人は外国でも元気ではいますけれど、とても、ここにいるときのようにはまいりませんの。ここでは主人は、ほんとうに自分の居場所にいるような気持になるんですもの。主人は、仕事が山のようにございますし、そのうえ、なんにでも興味をもつ天分をもってますのですからね。ああ、あなたは、わたくしどもの学校へおこしになったことはございませんでしたわね?」
「拝見しましたよ……ほら、|きづた《ヽヽヽ》のいっぱいからんでいる、小さい建物でしょう?」
「ええ、あれがナスチャの仕事なんですのよ」と彼女は、妹のほうをさしながらいった。
「あなたご自身で、教えてらっしゃるんですか?」とレーヴィンは、つとめて、あけた胸のわきのほうを見ようとしながら、こうたずねた。しかし彼には、そのほうさえ見ればどこを見ていても、ひとりでに目がそちらへいくような気がしてならなかった。
「はあ、わたくし自分で教えてまいりましたの、そして、これからもそのつもりでおりますの。ですけれど、ただいまでは、たいへんいい女教師がひとりまいっておりますのよ。で、体操もはじめましたのでございます」
「いや、ありがとう。ぼくはもうお茶は十分にいただきました」とレーヴィンはいった。そしていささかぶしつけだとは思いながら、もうこのうえ同じ話をつづける勇気がなくて、顔をあかくしながら立ちあがった。「たいへんおもしろそうなお話ですね」こう言いたして、彼は主人と、ふたりの地主の陣どっていたテーブルの、ほかの端のほうへ近づいた。スヴィヤーズスキイは横向きにテーブルに向かって、肘をついたほうの手で茶わんをおもちゃにしながら、いっぽうの手であごひげをひとひねりに集めて、それをまるで、においでもかぐように、鼻のところまでもちあげては、はなしていた。彼は輝かしい黒い目で、熱をおびた調子でしゃべっているごま塩ひげの地主の顔にひたと見いり、明らかにその話につりこまれている様子であった。地主は百姓のことをこぼしていた。レーヴィンには、スヴィヤーズスキイは、地主の不平にたいして、その言葉の意義をたちどころに粉砕《ふんさい》してしまうような返事を知っていながら、彼の立場としてそれを口にだすことができずに、しかも、まんざらいやでもなく、地主の喜劇的な言葉を聞いているのであることが、明らかにわかっていた。
ごま塩ひげの地主は、みるからに腹からの農奴主義者で、田舎の故老《ころう》で、熱心な農家の主人であった。それらの証拠をレーヴィンは、その服装――昔ふうな、毛のすり切れた、ふだん着でないことの明瞭なフロック・コートにも、そのさかしげな眉の下に深くひそめた目にも、その流暢《りゅうちょう》なロシアふうの話ぶりにも、長いあいだの経験で習慣性になっていることの明らかな命令的な調子にも、くすり指に古い結婚記念の指輪をはめた、日やけのした、あかい、大きな、りっぱな手の、決然とした動作にも、見てとったのである。
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二十七
「これまでやってきたことを……さんざ苦労してやってきたことを……捨てるのに未練さえなかったら、わたしも、何事にたいしても手を振って、手ばなしてしまって、ニコライ・イワーノヴィッチのように出かけて行くんですがなあ……|エレーナ《ヽヽヽヽ》でも聞きにね」と地主は、そのさかしげな年よった顔を、愉快そうな微笑で輝かしながらいった。
「ところがなかなか、お見かぎりはなさらない」とニコライ・イワーノヴィッチ・スヴィヤーズスキイはいった。「してみると、何かいいことがおありになるにちがいないですな」
「いいもわるいも、ただ、買ったのでもなけりゃ借りたのでもない自分の家に住んでいるというだけのことですよ。せめて、百姓どもがもう少し、ものがわかるようになってくれたらと思うのですが、なかなかどうして、あれらの乱酒とふしだらときたら、話にならんですからな!――何もかも分け取りしてしまって、馬も牛もありゃしません。まあ、飢えて死にそうになってるようなやつでも雇いこんでごらんなさい――それこそそいつはあなたに、ありたけのめいわくをかけて、そのあげくは、こちらが治安判事の前までひっぱり出されるのがおちでさ」
「そのかわり、あなたのほうでも、治安判事に訴えたらいいでしょう」と、スヴィヤーズスキイはいった。
「わたしが訴える? そんなことはとてもだめですよ! そんなことでもしてごらんなさい、世間がやかましくて、とてもたまったもんじゃありませんわ! げんにわたしの工場では――やつらは手つけだけとって、逃げてしまったですよ。そのとき、治安判事が何をしてくれたでしょう? 無罪にしちまったじゃありませんか、まあ頼みになるのは、村の裁判所と村老だけで。そこへ行けば、昔ふうに相手を鞭《むち》でびしびしやっつけますからな。そうでもなかったひにゃ、――何もかもぽーいですて! 世界の端までつっ走れですて!」
明らかに地主は、スヴィヤーズスキイをからかっているのであったが、スヴィヤーズスキィは怒るどころか、かえっておもしろがっていた。
「しかしわれわれは、そうまでしないでも、めいめいの仕事をやっていますぜ」と、彼は笑いながらいった。「わたしにしろ、レーヴィンにしろ、この人たちにしろ」
彼はこういって、ひとりの地主をさし示した。
「さよう・ミハイル・ペトローヴィッチのところでもやっていなさるだろ。まあひとつきいてごらんなさい。それがいったい合理的な経営といえるかどうだか?」こう地主は、明瞭に『合理的』という言葉で、自分の説を飾りながらいった。
「わたしのやりかたは、しごく簡単なものですよ」と、ミハイル・ペトローヴィッチはいった。「おかげさまでね。わたしのやりかたというのは、ただ秋の年貢《ねんぐ》までに金を用意しておくというだけのことですよ。百姓どもがやってくる――だんなさま、おやじさま、助けてくだされ! なんていってですな。ところで、自分の使っている百姓どもは、みんな隣人ですからな、かわいそうです。そこで、三分の一だけくれてやるんですが、ただそのときに、こういうことをいってやるのです――よく覚えておくんだぞ、おまえがた、おれはおまえがたを助けてやるから、おまえがたも、いざという場合にはおれを助けてくれなくちゃならんぞ――からす麦をまくときでも、乾草を刈るときでも、収穫のときでもな。こういって、一戸分いくらときめてやるんです。もっとも大ぜいのなかにゃ、良心のないのもありますがね、それはまったくの話ですがね」
レーヴィンは、すでに久しい以前から、こうした族長時代式のやりかたを知っていたので、スヴィヤーズスキイと目を見あわせて、ミハイル・ペトローヴィッチをさえぎり、ふたたび、ごま塩ひげの地主のほうへ顔をむけた。
「すると、あなたのご意見はどうなんですか?」と彼はきいた。「こんにちでは、どういうやりかたが必要だとおっしゃるんですか?」
「さよう、それはやはり、ミハィル・ペトローヴィッチのようにすればいいでしょう――収穫を山分けにするとか、地代で貸すとかですな、これならできますよ。もっともこの方法は、国家一般の富を害することにはなりますがね。げんにわたしどもの地面でも、農奴時代には、やりかたさえよければ、九倍の収穫を生んだものが、山分けとなると、三倍の収穫しかあげません。つまり農奴解放は、ロシアを台なしにしたわけですよ!」
スヴィヤーズスキイはえみをふくんだ目でレーヴィンを見て、かすかな嘲笑《ちょうしょう》の合図をさえして見せたくらいだったが、しかしレーヴィンは、地主の言葉を笑うべきものとは思わなかった、――彼は、スヴィヤーズスキイの言葉を解する以上に、地主の言葉を理解したのであった。なお彼には、それにひきつづいて地主が、何がゆえに農奴解放がロシアを疲弊《ひへい》させたかを示そうとして語った言葉の大部分が、きわめて真実な、彼にとっては新しい、争うべからざるもののように思われた。地主はたしかに、自分自身の考えをいっているのであった――こういうことは、ごくまれなことである――そしてその考えたるや、ひまな頭脳を何かではたらかせたいというような願いから生じたものではなく、彼の生活条件から生まれ出たものであり、彼がその田舎の孤独裡で、あらゆる方面から思いめぐらしてえた思想であった。「要するに、問題はですな、いっさいの進歩は、権力によってのみ作られるということにあるんですよ」と彼は明らかに、自分が教養にとぼしい人間でないことを示そうとしながら、いった。「ピョートルや、エカテリーナや、アレクサンドルの改革を考えてごらんなさい。ヨーロッパの歴史を考えてごらんなさい。まして、農業状態の進歩を考えてごらんなさい。早い話が、じゃがいもですよ、――あれだってわが国へは、強制的に移植されたものですよ。また唐犂《からすき》にしてからがですな、われわれは以前からあれで耕していたわけじゃあありません。たぶんあれも、封建時代に持ちこまれたものでしょうが、やはり強制的に持ちこまれたのにちがいありません。こうして、われわれの時代になっても、われわれ地主は、農奴制のもとに、改良器具を用いて、農業をいとなんでいました。乾燥器にしろ箕《み》にしろ、肥料運搬器にしろ、そのほかすべての農具――それはみなわれわれが自分の権能で持ちこんだので、百姓どもは初めは反対しましたが、後にはわれわれを見ならうようになりました。ところが今は、農奴制廃止とともに、われわれは権力を奪われてしまったのです――それで、いったん高い標準まで引きあげられた農業も、またまた最も野蛮な、原始的な状態にたちもどらねばならぬはめになったのですて。と、まあ、わたしは考えるんですがね」
「しかし、それはまたどういうわけでしょう? もしそれが合理的であるとしたら、賃金制度ででも仕事はできるでしょうに」とスヴィヤーズスキイがいった。
「権力がありませんからな。ではうかがいますが、いったいわたしは、だれを相手に仕事をしたらいいでしょうね?」
『うん、ここだ――労働力、これが農業上の最大要素だ』とレーヴィンは考えた。
「むろん、労働者相手ですよ」
「ところが労働者は、よく働くことや、上等な農具で働くことをいやがるんですよ。わが労働者諸君の知ってることは、ただひとつ――ぶたのように酒をくらって、酔っぱらって、われわれがあてがうものを片っぱしから台なしにしてしまう、それだけのこってすよ。馬には水をやりすぎる、いい馬具はめちゃめちゃにする、車の輪まではずして飲んでしまう。打穀機のなかへはそれをこわすために鉄棒を突っこむ。やつらには、自分の流儀《りゅうぎ》にないものは、どんなものでも気にいらんのですからな。いったい農業の標準がさがったのも、みなこのせいですて。地面はなげやりになり、雑草がはびこるか、百姓どもに分けどりにされて、百万チェーツベルチ(一チェーツベルチは約二二・五キログラム)という収穫のあった場所が、十万くらいしか産出しない。つまり、国全体の富が減ってしまったわけですて。しかし、もし同じことをするにしても、相当注意してやりさえすりゃね……」
そして彼は、これらの不便を除きうるであろう農奴解放にかんする自分の私案を述べはじめた。
この段は、レーヴィンの興味をひかなかった。が、それが終わるとレーヴィンは、最初の話題へひき返し、スヴィヤーズスキイに話しかけて、彼が自分の真剣な意見を発表するように水をむけながら、いった――
「農業の標準が低下しつつあることと、われわれ対農民たちのような関係では、有益にして合理的な農業をいとなむ可能性がないということ――これはまったく真実だね」と、彼はいった。
「ぼくはそうは思わない」とスヴィヤーズスキイは、こんどは真顔で言いかえした。
「ぼくはただ、われわれには農業をいとなむ能力がないということと、われわれが農奴制時代にやってきた農業は、水準が高すぎるどころか、むしろあまりに低級なものだったということを思うだけだよ。われわれは、機械もなければ、よい家畜もなし、真の管理も知らなければ、計算さえできないというありさまなんだからね。まあ、どこの主人にでもきいてみたまえ、――彼らは自分にとって何が利益で、何が不利益だか、それすらわきまえないしまつだから」
「イタリア式の簿記法ですかね」と、地主が皮肉らしく口をはさんだ。「あんなものじゃあ、どんなに勘定したところで、何もかも形《かた》なしになってしまうだけで、利益などあがりっこはありませんやね」
「どうして形なしになるんです? ろくでもない打穀機や、あなたがたのロシア式踏み車などこそ破損もしましょうが、わたしの蒸気機械にはそんな憂いはありませんよ。ロシア馬なら――ええと、なんといったらいいかな? しっぽをつかまえてひっぱるようなひっぱり馬なら――すぐにへたばってしまいもしようが、ペルシア馬か、せめて挽馬《ばんば》をつけてごらんなさい。そんな心配はありませんよ。問題はそれだけです。われわれは農業の水準を、もっともっと高めなければならないんですよ」
「さよう、その方法さえつきましたらね、ニコライ・イワーノヴィッチ! そりゃ、あなたなんかはけっこうでしょうが、わたしはせがれを大学へ入れ、小さいやつらを中学へやっています、――とてもペルシア馬を買う余裕がありませんで」
「でもそのために、銀行というものがありますよ」
「すると、何もかもを競売にでもかけろとおっしゃるんですかね? いやはや、これはどうもおそれいった」
「ぼくは、農業の水準を高めることが緊要だとか、また、やればできるとかいう説には同感しないね」とレーヴィンはいった。「ぼくはげんにそれをやっているし、またそれだけの方法もつく。けれどもぼくは、それをどうすることもできなかった。銀行なんてものも、いったいだれにとって有益なものだかわからない。少なくとも、ぼくが農業に費やした金は、けっきょくみんな損失だった――家畜――これも損、機械――これも損」
「そりゃまったくのこってすよ」とごま塩ひげの地主は、満足げに笑いだして、言葉をあわせた。
「しかも、それはぼくひとりじゃないですよ」とレーヴィンはつづけた。「ぼくは合理的経営をやっているすべての地主のことをいっているのだ。彼らはすべて、まれに例外があるだけで、仕事の上ではみんな損失をこうむっているのだ。そこで、きみひとつ話してみたまえ、きみの農業は利益かどうか?」とレーヴィンはいった。そしてすぐ、スヴィヤーズスキイの目のなかに、いつもスヴィヤーズスキイの心の客間からその奥へ侵入しようとするときに見る、例の驚きの瞬間的表情をみとめた。
のみならず、この質問は、レーヴィンとしては、ぜんぜん善意のものともいわれなかった。というのは、たったいまお茶の席で、主婦が彼に向かって、彼らはこの夏、モスクワからドイツ人の簿記の大家を招き、五百ルーブリの報酬で彼らの事業を調査させた結果、それが三千なにがしかの損失になっていることを発見した、こういう話をして聞かせたばかりだったからである。彼女はその額をはっきりとは記憶していなかったが、ドイツ人は、四分の一カペイカまで計算していたらしい話であった。
地主は、スヴィヤーズスキイの農業の利益という話題が出ると、隣人で郡貴族会長である彼にどれくらいの利益があったかということは、ちゃんと知っているという様子でにやにや笑った。
「そりゃまあ、不利益であるかもしれんさ」と、スヴィヤーズスキイは答えた。「が、それはただ、ぼくがよくない主人であるか、あるいはぼくが地代のあがり高を増すために資金をねかしたかの、いずれかを証明するにとどまるよ」
「ああ、地代!」とレーヴィンは恐ろしげに叫んだ。「もっともヨーロッパでは、つまり、くわえられた労力によって土地がよくなったところでは、地代というものもありうるかもしれぬ。ところがわが国では、くわえられた労力のために、すべての土地がますますわるくなりつつある。つまり、地味をあらす一方なんだ――としてみれば、地代なんてもののあるはずがないよ」
「どうして地代がないのだね? それは法律じゃないか」
「それなら、われわれは法律の圏外《けんがい》にいるんだ――地代なんてものは、われわれにたいしてなんの説明もしてくれない。いやむしろ反対に、頭を混乱させるくらいだ。――いやまったく、きみひとつ説明してくれたまえ、そもそも地代論というものは……」
「みなさんヨーグルトはいかがです? マーシャ、ここへヨーグルトか木|いちご《ヽヽヽ》でも持たしてよこしてくれないか」と彼は、妻のほうへ顔をむけた。「今年は、木|いちご《ヽヽヽ》がだいぶ長くもっているね」
そしてスヴィヤーズスキイは、このうえない上きげんな様子で立ちあがって、わきのほうへ行った。この様子で見ると、彼は、レーヴィンには今はじまったばかりのように思われている話を、もう終わったものと思いこんでいるらしかった。
相手を失ったのでレーヴィンは、こんどは地主に向かって、すべての困難は、われわれが労働者の特性や慣習をきわめようとしないことから生じるのだという事実を立証しようとつとめながら、話をつづけた。けれども地主は、こつこつと自分ひとりで考えている人のつねとして、他人の意見にたいしては理解が鈍く、自分の意見にたいしてはあくまで執拗《しつよう》であった。彼はつぎのような説を主張するのだった。ロシアの百姓は|ぶた《ヽヽ》である。|ぶた《ヽヽ》のような境涯が好きなのである、だから、それを|ぶた《ヽヽ》の状態から引きあげるには、権力が必要である。が、それはない、鞭《むち》が必要である、ところが、こんにちのわれわれは、自由主義者になってしまって、千年来用いきたった鞭を、とつぜん、えたいの知れぬ弁護士だの禁錮《きんこ》だのというものに変えてしまった。そしてやくざな、くさいような百姓どもを、上等なスープで養ったり、彼らのために何立方フートかの空気を算出したりしている。
「どうしてあなたは、そうお考えになるのでしょう?」とレーヴィンは、かんじんの問題のほうへたちもどろうとつとめながら、いった。「その労働を生産的ならしむるような、対労力関係を見いだすことができないなんて」
「ロシアの百姓相手じゃ、とてもそんなことは望まれませんな! 権力がないんですからな」と地主は答えた。
「いったいどうしたら、新しい条件を見いだすことができるんですかね?」とスヴィヤーズスキイは、ヨーグルトをすすってから巻きたばこに火をつけて、またぞろ議論家のほうへ仲間入りしながらいった。「労力にたいして希望しうるいっさいの関係は、もはや研究しつくされ、決定しつくされている」と、彼はいった。「野蛮時代の遺物《いぶつ》――相互保証なんて原始的な地方自治制はいつか自然に消滅し、農奴制も撤廃されて、残るものはただ、自由労働ばかりです。そして、その形式は決定し整頓しているのだから、ぜがひでも、それを採用しなければなりません。雇い農夫、日雇《ひやとい》人、農場主、――こういう形式の圏外へは、もうあなたがたは踏みだすわけにいきませんよ」
「しかしヨーロッパは、その形式にも満足しなくなっていますよ」
「満足しなくなって、新しいものを求めているのです、そして発見するでしょうよ、おそらく」
「ぼくがいってるのも、ただそのことだけなんだよ」と、レーヴィンは答えた。「いったいどうしてわれわれは、みずからそれを捜してならないんだろう?」
「それはなにさ、つまり、新規に鉄道敷設法を考案するようなものだからなんだよ。それはもう、ちゃんと考案され整理されているんだからね」
「しかし、もしそれがわれわれに適さなかったら、もしとるに足らぬものだったら?」と、レーヴィンはいった。
そして、彼はふたたびスヴィヤーズスキイの目に、例の驚きの表情をみとめた。
「ああ、それなのさ――われわれはそんなもの鼻であしらっちまう。われわれはヨーロッパが求めているものをちゃんと見つけたのだ! こう世間じゃいっている。ぼくはそんなこと百も承知しているよ。ところで失礼だが、労働組織の問題にかんして、現在ヨーロッパで行なわれていることを、きみはすっかり知っていますか?」
「いや、よくは知らない」
「これは、現下のヨーロッパでも識者の頭をしめている問題です。シェリツ・デーリチの流派……それからあの最も自由主義的なラッサール派の労働問題にかんするぼうだいな文献……ミリハウゼンの制度――これらはすでに、りっぱな事実なんですよ。きみもたぶんご承知だろうが」
「ぼくも観念だけは持っているが、はなはだ漠然《ばくぜん》たるものだ」
「いや、きみはただそういうだけで、こんなことはみな、ぼく以上にくわしいにちがいない。ぼくは、いうまでもなく、社会学の教授ではない。が、ぼくは、この問題には興味をもっている。じっさい、もしきみも興味をもっているなら、研究するがいいじゃないか」
「だが、それで彼らはけっきょく、どういう結論に到達したのかね?」
「ちょっと失敬……」
地主たちが座を立ったので、スヴィヤーズスキイはまたも、その心の奥底をのぞこうとする不快なレーヴィンの習慣をさえぎっておいて、客の見送りに立って行った。
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二十八
レーヴィンにはこの晩、婦人たちといっしょにいるのが堪えがたいまでにたいくつであった。彼がいま経験している農業上の例の不満は、彼一個の特別な状態ではなく、ロシアの農業に共通した一般的条件であることおよび、労働者がどこで働くにしろ、その状態を、彼が途中で目にした百姓のもとにあったように整理することは、もはや空想ではなく、即座に解決しなければならぬ問題であること――そうした考えが、これまでにはかつてなかったほどに彼の心を動揺させていたからである。そして彼には、この問題は解決されうる性質のもので、またぜひともそうしてみなければならぬものであるように思われた。
婦人たちにあいさつをすませて、明日は馬でみんなといっしょに、官有林のなかにある、おもしろい|くずれ《ヽヽヽ》穴を見に行くために、もう一日滞在することを約束してから、レーヴィンは床《とこ》へはいるまえに主人の書斎へ、スヴィヤーズスキイがすすめた労働問題の書物をとりにたちよった。スヴィヤーズスキイの書斎は、周囲を書物でとりかこんだ大きな部屋で、そこにはふたつのテーブルがおいてあった――ひとつは室の中央にある大きな書卓で、いまひとつは、ランプのまわりに諸外国の新刊の新聞雑誌を星のようにならべた、丸テーブルであった。書卓のそばには、さまざまな書類を入れた、金のレッテルで標示した、引出しつきの箱がすえてあった。
スヴィヤーズスキイは書物を取り出して、揺りいすに腰をおろした。
「何を見ているんだい?」と彼は、丸テーブルのそばに立ちどまって雑誌のぺージをひるがえしていたレーヴィンに、いった。「ああ、そうだ、そのなかにおもしろい論文があったっけ」とスヴィヤーズスキイは、レーヴィンが手にしていた雑誌を見て、いった。
「けっきょくなんだよ」と彼は、愉快らしく、発剌とした調子で言いたした。「ポーランド分割の主たる責任者はぜんぜん、フリードリヒではなかったのだ。それでけっきょく……」
そして彼は、彼特有の明快な口調で、簡単に、この新しい、きわめて重大な、興味ある発見を物語った。いまレーヴィンは、農事についての考察で何より多く心をしめられていたにもかかわらず、主人の言葉を聞いているうちに、こう自問してみた――『いったい、この男の心には何がひそんでいるんだろう? いったいどうして、どういうわけでこの男は、ポーランドの分割なんてことに、興味をもっているんだろう?』そして、スヴィヤーズスキイが話を終わったときに、レーヴィンはわれ知らずこうたずねた――「それで、どうしたというんだね?」けれどもそれは、なんでもなかった。ただ『けっきょく、そうなった』ことがおもしろかっただけであった。しかしスヴィヤーズスキイは、なぜそれが彼に興味があったのか、説明もしなかったし、またその必要をも認めなかった。
「そう、だがぼくには、あの怒りっぽい地主が非常におもしろかったね」とレーヴィンは、ため息をつきながらいった。「彼は賢い男だ、そして真実のことをずいぶん語った」
「おやおや、何をいってるんだ! あれはかくれたる生まれながらの農奴主義者だよ。あの連中がみんなそうであるように!」と、スヴィヤーズスキイはいった。
「だって、きみはそういう連中の貴族会長じゃないか……」
「そうだ。しかしぼくは、別の方向へ彼らを指導しているだけさ」と、笑いながらスヴィヤーズスキイはいった。
「ぼくがおもしろいと思ったのはだね」とレーヴィンはいった。「あの男のいうことが真実だからさ。われわれの事業、すなわち合理的な農業なんてものは、じじつ行なわれない。行なわれているのはただ、あのもの静かな地主のやっているような、高利貸的な農業か、それともきわめて単純な農業かだ……こうなるといったい、罪はだれにあることになるんだろうね?」
「もちろん、われわれ自身にさ。しかしそれがうまく行なわれていないというのは真実じゃないね。ワシリチコフのところでは、りっぱにやっているものね」
「工場だけは……」
「しかし、ぼくにはやはり、何がそんなにきみを驚かしてるんだかわからないね。農民は、物質的にも精神的にも、発達の程度がきわめて低いのだから、彼らが自分たちに必要なすべてのものに反対したからって、少しもふしぎはないんだよ。ヨーロッパで合理的農業がうまく行なわれているのは、農民に教育があるからだ。してみれば、ロシアでも、農民の教育はゆるがせにできないわけさ――要はこれだけさね」
「だが、農民を教育するって、どうすればいいんだい?」
「農民を教育するには、三つの条件が必要なのさ――学校、学校、そして学校」
「しかし、きみはいま自分で、農民は物質的にも発達の程度がきわめて低いと明言したじゃないか――そこへ学校をもちだして、なんの助けになるんだね?」
「まあ待ちたまえ、きみの言葉はぼくに、あの病人への忠告というアネクドート(逸話)を思いださせるよ――『下剤をかけてみたらいいでしょう。やってみました――わるくなるばかり。水|びる《ヽヽ》をつけてごらんなさい。やってみました――わるくなるばかり。じゃ、もう神さまに祈るよりほか道がありませんね。やってみました――わるくなるばかり』今のぼくときみとが、ちょうどそれだ。ぼくが経済政策を云々《うんぬん》する、と、きみはわるくなるばかりだという。ぼくが社会主義をもちだす――わるくなるばかり。教育――わるくなるばかり」
「じゃあ、学校がなんの助けになるんだね?」
「彼らに新しい要求をあたえることになるさ」
「そら、それがぼくには、どうしてもふに落ちないのだ」と、レーヴィンは熱して反駁《はんばく》した。「どうすれば学校が、彼らの物質的状態を改善する助けになるだろう? きみはいう――学校は、教育は、彼らに新しい要求をあたえることになると。しかし、それはいっそうわるいよ、なぜなら、そうなっても、彼らにはその要求をみたすだけの力がないからだ。だから、ぼくは、寄せ算引き算や、また教理問答などというものが、どうすれば彼らの物質的状態を改善する助けになるのか、それがどうしても理解できないのだ。一昨日の夕方、ぼくは、赤子をかかえたひとりの百姓女に会って、どこへ行くのだとたずねてみた。すると女は答えた――『巫女《みこ》さまんとこへ行って来ました。この子が虫で泣きますだで、なおしてもらいにつれて行きましただ』そこでぼくはまたたずねた――『巫女《みこ》はどうして虫をなおすんだね?』――『子供を鶏のとまり木の上にすわらせて、何やら唱えてくれますだよ』」
「そら、みたまえ。きみ自身でいってるじゃないか! そういう女が虫をなおすために、子供をとまり木などにすわらせたりするのをやめさせるには、さしずめ……」と、愉快そうに笑いながら、スヴィヤーズスキイはいった。
「ああ、いや!」と、レーヴィンはいまいましげな顔をしていった。「ぼくにいわせると、学校で農民を啓発《けいはつ》しようというのが、ちょうどこの療法と同じなのさ。農民は貧乏で無知だ――このことをわれわれは、その女が子供が泣くので虫が出たと思うと同様に、確かに知っている。けれども、どうしてこの不幸から――貧困と無知から――学校が農民を救うかということは、鶏のとまり木が、なぜに虫の薬になるかわからないと同様に、不可解なことなのだ。救済しなければならぬのは、農民が貧乏になる原因そのものにあるのじゃないか」
「すると、きみは、少なくともその点では、きみのあんなにきらいなスペンサーと一致しているぜ。彼もやはり、教育は生活の大なる幸福と便宜の結果、つまり、彼のいわゆる頻繁《ひんぱん》なる洗滌の結果であるべきで、読書や計算ができるということではない。こういっているからね……」
「なるほど、ところでぼくは、自分の説がスペンサーと一致しているということになると、非常にうれしいか、あるいは反対に、非常にうれしくないかどちらかだ。とにかくぼくは、そういうことはずっとまえから知っているのだ。学校なんてものは、なんの役にもたちはしない、役にたつのは、農民がもっと裕福になり、もっと暇をうるようになる経済組織だ――そうなれば、学校もしぜんにできるさ」
「しかし、ヨーロッパじゅうどこへ行っても、現在では、学校は義務とされているぜ」
「では、きみ自身はこの問題で、どの程度までスペンサーに賛成しているんだい?」と、レーヴィンはたずねた。
と、スヴィヤーズスキイの目には、ちらりと驚きの表情がひらめいた。彼は笑顔になっていった。
「いや、しかしその虫という例は傑作だね! ほんとにきみ自身で聞いた話かね?」
レーヴィンは、このぶんではとうてい、この男の生活とその思想とのつながりを見いだすことはむずかしいと思った。明らかに彼には、自分の理論がどちらへ向かっていこうと、ぜんぜん問題にならないらしかった。彼にはただ、理論の過程だけが必要なのであった。そしてその過程が、彼をふくろ小路へみちびく場合には、彼はそれを喜ばなかった。喜ばなかったばかりでなく、なにか気持のいい愉快な方向へと話題を変えてそれを避けた。
この日のいっさいの印象は、今日一日の全印象、全思想の基調となったかの感がある、途中で会った百姓の印象からはじまって、強くレーヴィンの心を動かした。その心に、社交的利用にだけ役だつような思想をいだき、レーヴィンにうかがい知ることのできない一種の生活基調をもち、――同時に、「多数者」と呼ばれる群集とともに、彼には関係のない思想によって世論を導いている、この愛すべきスヴィヤーズスキイ。実生活で苦しんできたその意見ではまったく正しいが、ロシアの完全な階級、最高階級にたいする憤激では正しくない、あの激しやすい地主。仕事にたいする自分自身の不満と、すべてのことに改善の跡を見いだそうとする漠然《ばくぜん》とした希望。――それらすべてのものが、内心の動揺と、近い解決の期待という感じのなかへ、いっしょに流れこんだのである。
自分にあてがわれた部屋にひとりになって、手足を動かすごとに思いがけなく動揺する、ばねつきのベッドに身を横たえてからも、レーヴィンは長いこと眠らなかった。スヴィヤーズスキイとの会話は、気のきいた言葉がたくさん語られたくせに、レーヴィンには少しもおもしろくなかった。けれども、地主の説は、彼の考慮をうながした。レーヴィンはいつともなく、彼の言葉を残らず思いうかべて、彼に答えた言葉を、自分の心のうちで訂正してみた。
『そうだ、おれはこういわなければならなかったのだ――あなたは、わが国の農業が進歩しないのは、農民自身があらゆる改良をいとうからだ。だから、権力でもって彼らを強制しなければならぬのだとおっしゃる。しかしです、もし農業というものが、そういう改良なしにはぜんぜん進歩しない性質のものだったら、あなたのご意見は正しいです。しかし、なにしろ今日では、途中でぼくが見かけたあの老人のところのように、農民たちが自分の習慣にしたがって働いているところだけが、うまくいってるんですからね。で、あなたにもわたしにも共通な農事上の不満というやつは、とりもなおさず、わるいのはわれわれか労働者か、どちらかだということを立証することになるのです。われわれはすでに久しいこと、労働力の本質に問うところなく、自己流のやりかたで、ヨーロッパふうのやりかたで、押しています。ですから、今後はひとつ、労働力を観念上の労働力でなく、本能をそなえた|ロシアの百姓《ヽヽヽヽヽヽ》として認めて、それに適応するように農業を整理してみようじゃありませんか。まあひとつ、考えてみてください。こうおれはいうべきだったのだ。いまかりに、あなたがあの老人と同一方針をとられるとして、そこで仕事の成功ということにたいして労働者に興味をもたせる方法を発見し、彼らが承認する改良のうちに、管理法の中庸《ちゅうよう》を発見されることになると、あなたはもう土地を荒らすことなしに、以前にくらべて二倍三倍の収穫を得られるようになる。そこでそれを折半《せっぱん》して、一半を労働者に与える。すると、あなたの手に残る分の差も大きくなるでしょうし、労働者の得る分も多くなるわけです。が、それを実行するためには、経営の水準をひきさげて、労働者をして経営の成功に興味をもたせるようにしなければなりません。では、どうしたらいいかということになると、それはもう詳細の問題になりますが、しかし、それが可能だということには、疑いをいれる余地はありません』
この考えはレーヴィンを、はげしい興奮に引きいれた。彼は、この考えを実現するための細目について思いめぐらしながら、その夜のなかばを眠らないですごした。彼は、翌日帰るつもりではなかったのだが、そのとき急に、夜が明けたらさっそく帰途につこうと決心した。そればかりでなく、胸のあいた服をつけたあの義妹が、彼の心に、非常によくないことをしたという羞恥《しゅうち》と悔恨《かいこん》に似た感情をおこさせていた。とにもかくにも――彼には、猶予なく帰路につくことが必要であった。――彼は、種まきが新組織のもとに実行されるように、秋まきのはじまるまえに新しい案を百姓に申しわたしておかねばならなかった。彼はこれまでの経営方針を、ぜんぜん一変してしまおうと決心したのであった。
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二十九
レーヴィンの計画の実行は、多大の困難をともなったが、彼は力のかぎり奮闘して、希望どおりにはいかなかったけれども、その仕事が労力にあたいするということを、みずから欺くことなしに信ずることができるだけの程度には達しえた。ただひとつ、何より困難なことは、農事がすでにはじめられていて、それを中止して、最初からやりなおすわけにはいかなかったので、運転中に機械を改造しなければならないことであった。
彼がその晩家へ帰って、自分の計画を執事に話して聞かせたとき、執事は満足を面《おもて》に現わし、レーヴィンの言葉のうち、今日までしてきたことはすべて愚劣な不利益なことであったと告白した部分にたいして、賛意を表した。執事は、自分はもうとうからそういっていたのだけれど、だれも自分の意見をいれてくれなかったのだといった。レーヴィンによってなされた提案――自分も仲間のひとりとして、農業上すべてのもくろみに、百姓たちといっしょに、すべての農産企画に一株主として参与《さんよ》しようという提案にたいしては、執事は、はっきりした意見は一言ももらさず、ただ深い悲しみの色をあらわしただけで、すぐに、明日は裸麦の残りの束を運んでしまい、二度|鋤《す》きに人を出さねばならぬということを話しだしたので、レーヴィンは、今はそれどころでないことを感じたのであった。
百姓たちにそれと同じことを告げ、彼らに、新しい条件のもとに土地を分配するという申し出をしたときにも、彼はまた、彼らが日々の仕事におわれていて、その計画の利害得失を考える暇をもたないという、例の大きな困難につきあたった。
ぼくとつな百姓の家畜番イワンは、レーヴィンの申し出――家族も同様に牧場からあがる利益の分配にあずかるという申しわたしを、十分によく了解して、その計画にぜんぜん同感したように見えた。けれども、レーヴィンが彼に将来の利益について、こんこんと説明しかけると、イワンの顔には、不安の色がうかび、とても最後まで聞いてはいられないというような当惑の表情があらわれた。そして彼は、自分のために大急ぎで、何かのっぴきならぬ仕事を考えだした。――牛小屋から乾草を投げ出すために叉竿《またざお》を手にとったり、水をやったり、|ふん《ヽヽ》掃除にかかったりするのだった。
いまひとつの困難は、一般地主の目的が、できるだけ多く彼らから取り上げようという欲望以外には断じてありえないと思っている百姓たちの、絶対的な不信のうちにあった。彼らは、地主の真の目的は、(彼が口ではなんといおうと)いつでも、彼らにいわないことのうちにあるのだと、堅く信じきっていた。で、彼ら自身も、自分の意見としては、ずいぶんさまざまなことを申し出しはしたが、けっして自分たちの真の目的がどこにあるかは、口にしなかった。そればかりでなく(レーヴィンは、例の短気な地主の正しかったことを痛感した)、百姓たちは、どういう種類の契約をむすぶにしても、新式の耕作法や、新式の機械の使用を強制されないということを、第一の絶対条件として提出した。彼らは、新式の犂《すき》のほうがよく犂《す》けることにも、速耕器のほうが仕事にはかがいくことにも、賛成だった。それでいて、いざとなると彼らは、そのどちらをも使用することができないという理由を、かぎりなくならべ立てるのであった。で、彼は、農業の水準をひきさげなければならないことは十分覚悟のまえとはいえ、その利益がこれほどはっきりしている改良法をいれないのが、心外でならなかった。けれども、こうした多くの困難にもかかわらず、彼は自分の意見を遂行《すいこう》して、その秋には、多少とも事業の進捗《しんちょく》を見るにいたった。少なくとも、彼にはそう思われた。
はじめレーヴィンは、新組合組織のもとに、いっさいの事業を現在のままで、百姓と、労働者と、執事とにひき渡そうと考えていた。が、じき、その不可能なことを確信して、経営をいくつにも分けることに決定した。家畜牧場、庭園、菜園、草場、いくつにも区画された畑地などが、それぞれ別な項目を編成しなければならなかった。この仕事にたいしては、だれよりも一ばん理解をもっているとレーヴィンの考えていた、ぼくとつな家畜番イワンは、とくに自分の家族から組合員を選んで、家畜牧場を引き受けた。八年間|閑田《かんでん》としてほうってあった遠い畑地は、利口者の大工フョードル・レズノフの協力によって、新組合組織のもとに、六家族の百姓に受け持たれ、百姓のシュラーエフは、同じ条件のもとに、菜園全部を引き受けることになった。そして残りの土地は、従前どおりであったが、この三つの項目は、新組織の第一歩として、十分にレーヴィンの心をみたしたものであった。
もっとも、家畜牧場では、今日までのところ、仕事がまえよりもうまく運んでいないことは事実である。イワンは、牛は冷たい場所におけば飼料を多くたべないし、バターにしても、酸乳皮製のほうが徳用だと主張して、牛を暖かい小屋に入れることと、乳皮からバターをとることには、猛烈に反対した。そして、昔どおりの給料を要求し、自分の支給される金が、給料ではなくて、利益の分けまえの前渡しであるなどということには、てんで興味をもたなかった。
フョードル・レズノフの仲間が、時間が短かったという口実のもとに、契約どおり、播種《はしゅ》まえに二度すき返すことをしなかったのも事実である。じっさい、この組合の百姓たちは、この仕事を、新しい基礎によって行なう契約をしておきながら、その土地を仲間の共有物とせず、山分けしたもののように考えて、レズノフ自身までが、一度ならずレーヴィンにこういった――「これで、だんなが地代をとってくださったら、だんなのほうもつごうがよかろうし、わしらのほうも願ったりかなったりのわけですがなあ」そればかりでなく、この組合の百姓たちは、さまざまな口実をもうけて、ちゃんと契約ずみになっている、家畜小屋や納屋《なや》を建てることをなおざりにして、とうとう冬まで遅らせてしまった。
また、シュラーエフが、自分の引き受けた菜園をこまかく仕切って、百姓たちに分けようとしたことも事実である。彼は明らかに、自分がその土地をまかされた条件を、ぜんぜんまちがって、いやおそらくは、わざとまちがって、解釈していたのであった。
また、レーヴィンが、しばしば百姓たちと話をし、彼らに新計画の利益について、くわしく説明してやりながら、そういうさいにも、百姓たちが、ただ彼の声のひびきを聞いているだけで、彼がなんといおうとも、自分たちはけっして、そんなことにだまされるものではないと確信しているらしいことを、感じていたのも事実である。とくに彼はそれを、百姓たち仲間での一ばんの利口者レズノフと話をする場合に感じた。そしてレーヴィンは、彼の目のなかに、自分にたいする嘲笑《ちょうしょう》と、よし、だまされるやつがあったとしても、それはけっしてこのレズノフではないぞという堅い信念を明らかに示す、一種の火花とをみとめたのだった。
しかし、こうしたすべての事実にもかかわらず、レーヴィンは、事業が軌道にのったことを思い、将来、勘定を厳重にして、あくまで自説を通し、いずれは彼らに、この方式の有利なことを証明してやる、そうすればかならず、仕事はしぜんにはかどっていくにちがいない、こうひとりで考えていた。
これらの仕事は、彼の手に残されたそれ以外の農事とともに、また書斎での著述という仕事とともに、ひと夏ずっとレーヴィンの心をしめていたので、彼は、ほとんど猟にも出かけなかったほどであった。八月の終わりに、彼は、オブロンスキイ一家がモスクワへ帰ったことを鞍を返しにきた使いの男から知った。彼は、ダーリヤ・アレクサーンドロヴナの手紙にたいして返事も送らず、いま思いだすだけでも恥ずかしさに顔をそめずにはいられないような無作法をあえてして、かんじんの船を焼いてしまった以上、もう二度とあの人たちのところへ行く機会はないような気がした。思えば彼は、ちょうどそれと同じようなふるまいを、いとまごいもしないで立って来てしまったことによって、スヴィヤーズスキイにたいしてもしていたのであった。彼は、彼らのもとへも、もうけっして行かないであろう。
が、いまの彼にとっては、そんなことはもうどうでもよかった。自分の農業の新組織という仕事が、世にこれ以上のものは何ものもないかのように、彼の心を占領してしまったのである。彼は、スヴィヤーズスキイから借りた書物に目を通して、手もとになかったものを書き抜き、その題目によって、政治経済の書物や社会主義の書物を通読したが、しかし彼の予期したとおり、彼の着手しつつある仕事に関係のあることがらは、何ひとつ見いだせなかった。政治経済書のなかでは、たとえば、彼が最初に非常な熱心をもって、自分の心をしめている問題の解決を見いだそうと、たえず希望をかけながら研究したミルにおいて、彼は、ヨーロッパの農業状態からひきだされた法則は発見したけれども、ロシアに適用されないこの法則が、どうして一般的でなければならぬのか、彼にはどうしてもわからなかった。また、それと同じことを、彼は社会主義の書物においても見た――そこには、彼がまだ学生であった時分に心をひかれた、美しくはあるが実現されそうもない空想か、あるいは、当時のヨーロッパがおかれていた状態の改良修正にとどまって、ロシアの農業とはなんの共通点ももたぬものかがあった。政治経済書は彼に、ヨーロッパの富がそれによって発展し、また発展しつつある法則こそは、一般的不変的な法則にほかならないことを語った。社会主義の書物は、また彼に、このような法則による発達は、滅亡への導火線であることを語った。そしてそのいずれもが、彼レーヴィンをはじめ、すべてのロシア農民および地主らにたいして、彼らがその数百万の手と土地とをもって、一般の福祉《ふくし》のためにできるかぎり生産的であろうとするには、いったいどうすればいいのであるか? この疑問にたいする解答はもちろん、最小限度の暗示をすら、あたえなかったのである。
一度この仕事に手をそめた以上、彼は熱心に、自分の思う題目にかんするあらゆる書物を読破し、そしてこの事業を、実地について研究し、もって、これまで雑多な問題にぶつかって、しばしばなめたような困難を、この問題については未然に防ぐことができるように、秋になったら外国へ出かけようと計画していた。これまでによく彼は、自分がやっと話し相手の思想を理解して、自分の意見を述べはじめるやいなや、とつぜんこんなふうにいわれることがあった――「しかし、カウフマンは、ジョーンズは、デュブアは、ミチェリは? あなたはそれを読んでいませんね。読んでごらんなさい――彼らはこの問題については、ずいぶん研究しているんですから」
彼はいまやはっきりと、カウフマンやミチェリは、自分に語る何ものをも持っていないことを見てとった。彼は、自分が何を欲しているかを知っていた。彼は、ロシアが優秀な土地と優秀な労働者とを有していること、ときには、例の途中の百姓のところで見たように、労働と土地とが多額の生産をもたらしている場合もあるのに、ヨーロッパふうに資金が供給されている多くの場合には、かえってその生産が減少すること、そしてそれはただ、百姓たちが自分勝手に働きたがったり、またげんに働きつつある結果にほかならないこと、およびこの反作用は偶発的のものでなく、国民性そのものに根ざしている、恒久《こうきゅう》的の現象であることなどを見てとった。彼は、広漠《こうばく》たる無人の野に植民し開墾する運命をもっているロシア国民は、すべての土地に手をつけてしまうそれまでは、意識的に、その使命に必要な方法を固執《こしつ》して動かないのであろう、けれども、この方法なるものも、ふつうに人々が考えているように、けっしてそれほどわるいものではないということを考えた。そして彼は、理論的には著述によって、実際的には自分の農業によって、それを証明してみようと考えたのである。
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三十
九月の末には、組合に分担された土地に納屋を建てるための木材が運びこまれ、牝牛《めうし》からとったバターが売却されて、その利益が分配された。こんどのやりかたは、実践の上では、きわめてうまく事がはこんだ。少なくともレーヴィンには、そう思われた。もはやこのうえは、自分の空想どおり、農政経済学上に一大転化をひきおこすばかりでなく、その科学を根底からくつがえして、農民と土地との関係についての新しい科学の基礎を定めるにちがいない例の著述を完成し、理論的にいっさいの問題を説明するために、彼はただ外国へ出かけて、そこで、この問題についてなされつつあるいっさいのことを実地に視察し、そこに行なわれていることはすべて不要であるという確証をつかんできさえすればよかったのである。で、レーヴィンは、金を受け取って外国への旅にのぼるために、ただ小麦の納入を待つばかりであった。ところが、あいにく、野に残した穀類やじゃがいものとり片づけを許さぬような雨が降りだして、畑仕事はもちろん、小麦の搬入《はんにゅう》まで中止させてしまった。道には歩行もならぬような泥濘《ぬかるみ》ができ、ふたつの水車は水のために流されて、天候はますます険悪になっていった。
九月の三十日には、朝から太陽が見えたので、天候も回復するだろうと思い、レーヴィンは決然として出立の準備にとりかかった。彼は小麦を袋《ふくろ》につめるように言いつけ、金の調達に執事を商人のもとへ走らせて、自身は、出立まえに最後のさしずをしておくために、農場の見まわりにでかけた。
ともかくも、するだけのことをすっかりおわって、革《かわ》外套をつたってくび筋や長ぐつの中へ流れこむ雨水にぬれそぼちながらも、ひどく緊張し興奮した気分で、レーヴィンは夕方近く家路に向かった。天候は、夕方になってまたいっそうわるくなってしまった――あられがいかにも痛く、全身ずぶぬれになって耳と頭をぶるぶるふるわせている馬を打ったので、馬は横ざまになって飛んだ。けれども、レーヴィンはずきんをかぶっていたので、何事もなかった。彼はさも快げに、自分の周囲の、ときにはわだちに沿うて走り流れる泥水《どろみず》を、ときには、葉の落ちつくした枝にたれさがっているしずくを、ときには、橋板の上にとけずにいるあられの白い粒を、ときには、裸になった木のまわりにうずたかい層をなして落ち重なっている、水分の多い肉の厚いにれの葉をながめまわした。周囲の風物の陰気なのにもかかわらず、彼は、何やら妙に気分がたかぶっていることを感じていた。遠くの村の百姓とかわした会話は、彼らがその新しい関係にようやくなれはじめてきたことを示すものであった。彼が服をかわかしにたちよった家の老人の屋敷番は、明らかにレーヴィンの計画に賛意を表して、自分も家畜を買って仲間に加わりたいと申し出た。
『ただ自分の目的に向かって一路|邁進《まいしん》することだ、すれば必ず目的を達する』と、レーヴィンは考えた。『働くにも骨を折るにも、はりあいがあるというものだ。だいいちこれは、おれひとりのことではない。そこには万人の幸福という問題がある。農業全体もそうだが、第一に全農民の生活が、根本から改革されなくてはだめだ。貧乏のかわりに――万人の富と満足。敵視のかわりに――利害の調和と一致。ひと口にいえば、血を流さない革命である。けれども、それは、はじめこそわが地方の一小地域のことだけれど、やがては県におよび、ロシアにひろがり、さらに全世界におよぶべき大革命だ。なぜなら、正当な思想は、結果なしにはありえないからだ。そうだ、これこそ、骨を折るだけの価値ある目的なのだ。そしてそれを行なう者が、黒いネクタイをしめて舞踏会へ行き、スチェルバーツカヤに拒絶されて、われとわが身をあわれみ、あいそをつかしているおれ、すなわちコスチャ・レーヴィンであったところで、それはなんの証明にもならないことだ。おれは信じているが、フランクリンもやはり、自分というものをすっかり思いかえしてみたときには、おれ同様自分というものがとるにたらぬ者のように考えられて、自分が信じられなかったものらしい。ところが、そんなことはなんの意味もないことだったのだ。そして彼もまたきっと、自分の秘密をうちあける相手、アガーフィヤ・ミハイロヴナをもっていたにちがいないのだ』
こんなことを考えながら、もう暗くなってから、レーヴィンはわが家へ帰りついた。
商人のところへ行った執事ももどってきて、小麦代の一部をもってきた。屋敷番との契約も成立した。そして執事は、穀物がいたるところの野づらに積んであることや、したがってまだ取り入れられないうちの百六十|堆《やま》は、他人のところのとは比較にならないことなどを、途中の様子で知ったのだった。
食事をすますと、いつものとおりレーヴィンは、書物を手にして肘掛《ひじか》けいすにより、それを読みながら、その書物と関連のある、目前に迫った自分の旅行について考えつづけた。その夜は彼には、彼の事業の全意味がことさらはっきりと描きだされ、そして彼の思想の本質を表現する主要点が、ひとりでに、彼の頭脳のなかで組み立てられていった。『これは書きとめておかなければならんぞ』と彼は考えた。『これでひとつ、まえには不必要だと思っていた簡単な緒言《しょげん》を書かなくちゃならん』彼が書卓のほうへ行こうとして立ちあがると、彼の足もとに寝そべっていたラスカも、伸びをしながら、同じように身を起こして、どこへ行くのかとたずねでもするように、彼を見あげた。けれども、彼は書きとめている暇がなかった。というのは、おもだった百姓たちが、命令を聞きにやって来たからで、レーヴィンはそれに会うために、玄関へと出て行った。
命令、すなわち翌日の仕事のさしずをすまし、彼に用があって来た百姓たちにも会ってしまうと、レーヴィンは書斎へもどって、仕事にかかった。ラスカはテーブルの下に寝そべった。アガーフィヤ・ミハイロヴナは長くつ下を手にして、いつもの場所に座をしめた。
しばらく書いているうちに、レーヴィンはとつぜん、なみなみならずいきいきと、キティーのこと、彼女の拒絶、最後に会ったときのことなどを思いうかべた。彼は立ちあがって、部屋のなかを歩きはじめた。
「なにもくよくよなさることはございませんですよ」と、アガーフィヤ・ミハイロヴナは彼にいった。「まあどうしてあなたさまは、うちにばかりひっこんでいらっしゃるのです? 温泉へでもお出かけなさるがよろしいじゃございませんか、もう支度もすっかりできておりますのに」
「ああ、いわれなくても明後日出かけるよ、アガーフィヤ・ミハイロヴナ。だから、それまでに仕事を片づけなくちゃならんのだよ」
「やれまあ、あなたさまになんの仕事がございましょう? では、あなたさまは、百姓衆にあれだけにしてやって、まだ足りないとおぼしめすんですか! それでなくても、みんなそういってるんでございますよ――うちのだんなはこのことできっと、皇帝さまからご褒美《ほうび》をいただきなさるだろうって。それだのに、おかしいじゃございませんか――どうしてあなたさまは、そう百姓衆のことばかり気になさるんでございます?」
「おれは、あの連中のことを気にしてるんじゃない、みんな自分のためにしているんだ」
アガーフィヤ・ミハイロヴナは、レーヴィンの農業上の計画を、細かな点まで承知していた。レーヴィンはときどき自分の考えを、くわしく彼女に説明して聞かせた。そしてよく彼女と衝突して、彼女の解釈に同意しなかった。けれどもこの場合は、彼女は彼の言葉を、まるで違った意味にとったのだった。
「自分の魂のことは、それはいうまでもございません。何よりもさきにお考えにならねばならぬことでございますよ」と彼女は太息とともにいった。「それ、あのパールフェン・デニースイチは、読み書きもできぬ男でございましたが、人にうらやまれるような死にようをいたしました」と彼女は、このごろ死んだ召使のことについていった。
「聖餐礼《せいさんれい》も受けましたし、聖油礼も受けましたし」
「おれはそんなことをいってるんじゃないよ」と彼はいった。「おれはね、自分は自分の利益のためにしているのだといってるのだ。百姓たちさえよく働いてくれたら、それはつまりみんな、おれのとくになることなんだからな」
「なんの、あなたさまがどんなになされたところで、相手がもしなまけ者だったら、やっぱり何もかもかたなしでございますよ。良心のある者は、働かずにゃおりませんが、それのない者は、どうにもしかたがございませんからねえ」
「だっておまえは、イワンが家畜の見まわりをたいへんよくするようになったって、自分でいってたじゃないか?」
「わたしはひと言申しあげておきます」とアガーフィヤ・ミハイロヴナは、明らかにその場の思いつきでない、十分考えたうえの意見らしく、こう答えた。「あなたさまは、奥さまをお迎えなさらなくてはいけません。これが何よりなことでございます!」
彼がたったいま考えたばかりのことを、アガーフィヤ・ミハイロヴナが言いあてたことは、彼を悲しませ、いきどおらせた。レーヴィンはしかめつらをし、彼女には答えないで、ふたたび仕事のほうへ向きなおり、その仕事の意義だと思って考えていたことを、もう一度くりかえして考えてみた。まれに彼は、しーんとしたなかで、アガーフィヤ・ミハイロヴナの編み針の音に耳をすました。と、たちまち、思いだしたくないと思っていたことを思いだして、またしても眉《まゆ》をひそめた。
九時ごろに、鈴の音と、泥濘《でいねい》のなかを駆けきしってくる馬車の、鈍い揺れ音とが聞こえた。
「おや、お客さまがおいでなすったらしい。ごたいくつもなくなりますよ」とアガーフィヤ・ミハイロヴナは、立ちあがって戸口のほうへ行きながら、いった。が、レーヴィンは彼女を追いこした。ちょうど仕事が思うように進まないときだったので、彼はだれかれなしに、訪客のあるのを喜んだのだった。
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三十一
階段を中途までかけおりたところで、レーヴィンは、玄関のほうにおぼえのある咳《せき》の声を聞きつけた。だがそれは、自分の足音にまぎれて、はっきりとは聞こえなかったので、彼はそれを、自分の思いちがいであるようにと願った。やがて彼は、ひょろ長い、骨ばった、見おぼえのある姿全体を見たので、もはや自分を欺くことはできないように思われたのに、やはりまだ、それが自分のまちがいであって、このひょろ長い、外套を脱ぎながら咳をしている男が、ニコライ兄でないようにと願っていた。
レーヴィンは、この兄を愛してはいたのだが、彼といっしょにいることは、いつも苦痛であった。ことにいまレーヴィンが、むらがりおこってくる想念や、アガーフィヤ・ミハイロヴナの忠言の影響で、はっきりしないくさくさした気分になっている場合、目前にせまった兄との会見は、わけてもやりきれないことに思われたのである。彼が心ひそかに望んでいた、快活で、健康で、彼のもつれた気分をも一掃してくれそうな他人の客のかわりに、いまや、彼を心の底まで見ぬいていて、彼の心にあるあらゆる思想を呼びおこし、彼に何もかもをうちあけさせずにはおかないような兄と、顔をあわせなければならないのだ。彼にはそれがやりきれなかったのである。
このいむべき感情にたいして、自分で自分に腹をたてながら、レーヴィンは玄関へかけおりた。そして身近く兄を見るやいなや、そのわがままな幻滅感は、たちどころに消え失せて、同情の念と入れかわった。以前にもニコライは、その憔悴《しょうすい》した病的な姿が、見る目も恐ろしいようであったが、いまではいっそう衰弱が目だって、いっそう力なげになっていた。それはまさしく、皮膚におおわれた骸骨であった。
彼は玄関に立って、長いやせた首をのばしながら、えり巻きをとろうとしていた。そして、妙にあわれっぽい微笑をうかべていた。このおとなしい、謙遜な微笑を見ると、レーヴィンは、痙攣《けいれん》が自分ののどをしめつけるような気がした。
「ほら、とうとうおまえのとこへやって来たよ」とニコライは、一刻も弟の顔から目をはなさないで、うつろな声でこういった。「とうから来たいとは思ってたのだが、どうもからだが思わしくなくてな。ところが近ごろになって、たいへんによくなったんだよ」と彼は、その大きな痩《や》せたてのひらで、あごひげをしごきながらいった。
「そうです、そうです!」とレーヴィンは答えた。そして接吻をしながら、そのくちびるで兄の肉体のかさかさにかわいているのを感じ、つづいてずっと近く、その大きな怪しく光る目を見ると、彼はいっそう恐ろしくなった。
この時より二、三週間まえに、コンスタンチン・レーヴィンは兄のもとへ、まだ分配されずにそのままになっていた財産の小部分の売却によって、兄がその取り分として約二千ルーブリの金を受け取ることになっているむねを書いてやったのであった。
ニコライは、その金を受け取るために、いやそれよりも、自分の巣にしばらく滞在するために、または昔の勇士のように、当面の活動にたいして力を蓄積する目的で、土を踏むために来たのだといった。ひどく度をましてきたねこ背のかがみと、背が高いためにいっそう目にたつ憔悴《しょうすい》とにもかかわらず、彼の動作は、以前のとおり性急で発作的であった。レーヴィンは彼を書斎へみちびいた。
兄は、以前にはついぞ見なかったほどに、とくべつ念いりに着がえをすまし、その薄い癖のない髪をとかすと、にこにこしながら二階へあがって来た。
彼は、レーヴィンが少年時代にしばしば見たことのある、いたって優しい上きげんな様子をしていた。彼は、セルゲイ・イワーノヴィッチのことすら、いささかの恨みがましい口ぶりもなく話した。アガーフィヤ・ミハイロヴナを見ると、彼は彼女に冗談口をきいたり、古い召使たちのことをたずねたりした。パールフェン・デニースイチの死の知らせは、彼に不快なショックをあたえた。彼の顔には、驚きの色がえがきだされたが、彼は、すぐ気分をとりなおした。
「しかし、あれはもう、だいぶいい年だったからな」と彼はいった。そして話題を変えた。「ところで、こんどおれは、おまえのところにふた月ほどいて、それからモスクワへ行くつもりにしている。じつはミャーフコフが職を見つけてくれるというのでね、おれもちょっと譲歩して、勤める気になったのさ。こんどはおれも、自分の生活をすっかり変えてみようと思っているのだ」と彼はつづけた。「それでじつは、あの女も遠ざけてしまったわけなんだよ」
「マリヤ・ニコラエヴナをですか? どうして、なんだってまた?」
「いや、あいつはしようのない女なんだ! おれに山ほど不愉快なことをしやがった」けれども彼は、その不愉快なことがなんであったかは語らなかった。まさか彼も、茶のいれかたが薄かったから、とりわけ彼を病人扱いにしたから、それでマリヤ・ニコラエヴナを追いだしたとはいえなかったのである。「とにかく、おれはこんどこそ、生活を一変したいと思ってるんだからね。おれはもちろん、多くの人のようにばかなまねをした。しかし、財産なんかは末の末のものだ。おれはそんなもの少しも惜しいとは思わない。なあに、健康でさえあれば、それでたくさんだよ。ところが、おかげでその健康も近ごろではすっかり回復した」
レーヴィンは、聞きながらしきりに考えたが、うまい返事を思いつくことはできなかった。たぶん、ニコライも同じことを感じたのであろう。彼は弟に、その事業についてたずねはじめた。で、レーヴィンは、喜んで自分のことを話した。これならば、偽ることなしに話すことができたからであった。彼は兄に、自分の計画と活動とについて、話して聞かせた。
兄は聞いてはいたけれど、明らかに、そんなことに興味はないらしかった。
このふたりは親身で、互いに近しいあいだがらだったので、微細な身ぶりや声の調子だけでも、言葉が伝えうるよりははるかに多くのことを、語りあうことができるのだった。
いま彼らふたりには、同じ考えがあった――それは、ほかのいっさいのものをおしつぶしてしまったニコライの病気という観念と、死期が近いという観念であった。しかしふたりとも、さすがにそのことは口にしえなかった。したがって、何を話しあっても、ふたりの心をしめているそのことをいわないあいだは、すべてがうそになってしまうのだった。で、レーヴィンはこのときほど、夜がふけて床《とこ》につく時間のきたのを、喜ばしく思ったことはなかった。どんな他人と会っているときでも、どんな形式的の訪問にさいしてでも、彼は、このときほど不自然で、虚飾《きょしょく》的であったことはなかった。そして、この不自然にたいする意識と、それにたいする悔恨《かいこん》の念とが、彼をますます不自然なものにしてしまった。彼は、明日をも知れないような愛する兄のために、泣いてやりたい気がやまやまだった。それでいて、兄の将来の生活などという問題について、聞いたり、話したりしていなければならなかったのである。
家のなかがいったいに湿っているうえに、ひと間だけしか暖めてなかったので、レーヴィンは兄を、自分の寝室を仕切って寝かせた。
兄は床《とこ》へはいった。が、さて、眠ったのか眠らないのか、ときどき、病人らしく寝がえりをうっては咳《せき》をした。が、咳のうまく切れなかったときには、何事かむにゃむにゃとつぶやいた。そして、ときどき、重々しく息をついては、――「ああ、神さま!」と、口にだしていった。またときどき、痰《たん》に呼吸をふさがれると、彼はいまいましげに――「ええ、悪魔め!」と舌うちした。レーヴィンはそれが耳について、長いこと眠れなかった。彼の胸にわく想念は、きわめて雑然たるものであったけれども、すべての想念の終結は、ただひとつ――死であった。
死、すべてのものの避けがたい終末は、はじめて抗しがたい力をもって、彼の前にあらわれた。そしてこの死――なかば夢中で、なんの意味もなく、ただ習慣から神を呼んだり悪魔を呼んだりしてうめいている、この愛すべき兄のうちにある死は、これまで彼が考えていたように、縁どおいものではなかった。それは、彼自身のなかにあった――彼はそれを感じた。今日でなければ――明日、明日でなければ――三十年後、いずれにしても、けっきょく同じことではないか! しかし、この避けがたい死とはそもそもなんであるか、ということになると、彼はそれを知らなかったばかりでなく、またかつてそれについて考えてみたこともなかったばかりでなく、それを考えてみるだけの能力も勇気もなかったのである。
『おれは働いている。何かしでかしたいと思っている。しかし、おれは忘れていた。すべてが終わるということを、死があるということを』
彼は暗いなかで、ベッドの上に起きなおり、上体をかがめて膝をかかえ、思想の緊張から息を殺しながら考えた。けれども、彼が心を緊張させればさせるほど、それがもはや疑いのない事実であるということが、じっさい彼は、人生の上でひとつの小さい事実――死がくればいっさいが終わるという事実、何事もはじめる価値のないものであるという事実、何ものもそれを救うことはできないという事実、それを忘れ、見おとしていたのだということが、いっそう明瞭になるばかりであった。そうだ、これは恐ろしいことである、しかし、これは事実である。
『しかし、このとおりおれはまだ生きている。いったいこれからどうしたらいいんだろう、何をしたらいいんだろう?』こう彼は、絶望して叫んだ。彼はろうそくに火をつけ、そっと起きあがって、鏡の前へ行った。そして、自分の顔と髪とをうつしてみた。うん、両のこめかみには白髪がある。口をあけてみた。奥歯はだめになりかけている。彼は筋骨たくましい腕を出してみた。うん、力はずいぶんあるらしい。けれども、そこに横たわって、肺の残った部分だけで呼吸をつづけているニコーレニカにも、かつては同じすこやかな肉体があったではないか。と、ふいに彼には、彼らが子供の時分、いっしょの床《とこ》へはいって、まくらを投げつけあってふざけるために、フョードル・ボグダーヌイチが部屋から出ていくのばかりを待っていたこと、そしてフョードル・ボグダーヌイチにたいする恐れさえもが、人生の幸福にたいするこの度はずれな、脈うち、わきたつような意識をおさえることができなかったほどに、とめ度もなく笑いあったことなどが思いだされた。『それがもう今では、あの折れ曲がったようなうつろな胸……それから、このさき自分がどうなるのか、それすら見当もつかないでいるようなおれ……』
「ごほん! ごほん! ええ畜生! おい、おまえは何をごそごそしてるんだい、なぜ寝ないんだい?」こう兄の声が彼に呼びかけた。
「ああ、なぜですかね。どうも眠くないんですよ」
「おれはずいぶんよく寝たよ。おれはもう寝あせをかかなくなったよ。これごらん、シャツにさわってごらん。あせなんか出ちゃいないだろう?」
レーヴィンはそれにさわってみてから、仕切りの向こうへもどって、ろうそくを吹き消したが、なお長いこと眠れなかった。彼の前には、いかにして生きるかという問題が、いくらかはっきりしてきたかと思うと、すぐにまた新しい解きがたい問題――死が、忽然《こつぜん》として現われてくるのであった。
『ああ、兄は死にかけている。おそらく春まではもたないだろう。だが、なんといって慰めてやればいいのだろう? おれは兄に、何をいうことができるだろう? このことについて、おれが何を知ってるだろう? おれは、それがあることさえ、忘れていた人間ではないか』
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三十二
レーヴィンはもう以前から、人を相手にして、その度をすぎた謙遜や従順に|ばつ《ヽヽ》のわるい思いをさせられるようなときには、急にこんどは逆に、そのあまりのわがままと言いがかりにやりきれなくなるようなことがあるものだという観察をもっていた。彼は、兄にもこの現象が起こったのではないかと思っていた。そしてじっさい、ニコライ兄のおとなしさは、ほんの僅かの間しかもたなかった。彼は、翌朝はもういらだたしい人にかわってしまい、ことさら弟にたてついて、彼の一ばん痛いところに、ようしゃなくさわるのであった。
レーヴィンは自分がわるいと感じながらも、それを改めることができなかった。彼は、もし自分たちふたりがなんら感情を偽ることなく、いわゆる衷心《ちゅうしん》を披瀝《ひれき》して語りあったら、つまり自分たちの考えていること、感じていることを、ありのままにうちあけあったら、ふたりはただ互いに目と目を見あわすだけで、自分はただ『あなたは死にかかっている、あなたは死にかかっている!』とだけ言い、兄はただ『死ぬことは知っている、だが恐ろしい、恐ろしい』とだけ答えたであろうことを感じた。そして、もし衷心を披瀝して語るとしたら、そのうえに何もいうことはなかったであろう。けれども、それでは生きていくことができなかった。で、コンスタンチンは、彼がそれまでずっとしようと努めながらしえなかったこと、彼の見るところでは、多くの人が巧みにしおおせていることで、それなしには生活ができないことをいま一度やってみようと試みた――つまり彼は、考えてもいないことを、口に出そうと試みたのである。そして、それがいつでも虚偽になってしまうこと、および、兄がそれをさとって、そのためになおいらいらしていることをたえず感じた。
着いて三日めに、ニコライはまた弟に、その計画を話させるようにしむけ、そして、それを非難しはじめたばかりでなく、わざと共産主義と混同しはじめた。
「おまえはただ、他人の思想を借用したにすぎないのだ。しかもそれを不具にして、応用のできないところへ応用しようとしているだけだ」
「いや、ぼくは断言します。それは、そういうものとはなんの関係もありません。彼らは財産・資本・遺産の正当性を否認しますが、ぼくはこういう重要なスチミューラ(動機)(レーヴィンは、こういう言葉をつかうことをみずから好まなかったが、例の著作に夢中になってからというもの、いつとはなしに、しだいに多く、こういうロシア語でない言葉を用いるようになったのである)を否定はしません。ぼくはただ、労働を調整したいと思ってるだけです」
「そうれみろ、おまえは他人の思想を借用して、その思想から、その力を組織しているすべてのものを切りはなしてしまい、その残りを、なにか新しいもののように思いこませようとしているんだ」と、ニコライは腹だたしげに、ネクタイの下で首を動かしながら、いった。
「しかし、ぼくの思想は、それとはなんの関係もありませんよ……」
「そこには」と、いじわるげに目を輝かして、皮肉な笑いをうかべながら、ニコライ・レーヴィンはいった。「そこには、少なくとも、いわば幾何学的の明快さとか、正確さとかいう美しさがある。あるいはそれは理想郷かもしれないがね。しかし、かりにあらゆる過去から tabula rasa(白紙状態)――無財産、無家族というものを創造することができるとしたら、労働も調整されるだろう。しかし、おまえの説には、いっこう何もありそうにないね……」
「どうしてあなたは、それをごっちゃにしてしまうのですかね? ぼくは一度だって、共産主義者だったことなんかありませんよ」
「ところが、おれはそうだったんだ。そして、少し時期|尚早《しょうそう》ではあるけれども、合理的だし、将来性はあると思っている。ちょうど初期のキリスト教のようにな」
「ぼくの考えているのは、ただ、労働力は自然科学の見地から検討されなければならないもの、すなわち、それを研究してその特質を知り、そして……」
「いや、しかし、それはぜんぜんむだなことだよ。そういう力は、その発達の度に応じて、みずから一定の活動形式を見いだすものだ。はじめは、いたるところに奴隷がいたのが、後には metayers(折半小作人)になったんだからね。だから、わが国にも、折半法《せっぱんほう》もあれば、借地法もあり、日雇《ひやとい》法もあるというわけじゃないか――おまえはいったい、何を求めてるんだね?」
レーヴィンは、この言葉を聞くと、急に熱してきた。なぜなら、彼は、心の底で、それが真実であることを恐れていたからで――つまり彼が、共産主義と在来の形式とを平均化しようとしているのも真実だし、それがとうてい実現されそうにないことも真実であるのを、恐れていたからである。
「ぼくは、自分のためにも労働者のためにも、生産的に働く方法を求めているのです。ぼくが組織したいと思っているのは……」と、彼はやっきとなって答えた。
「おまえの心は、何ひとつ組織しようなんて要求はもっちゃいないよ。おまえはただ、おまえがこれまで生活してきたと同じやり口で、おれはただ単に百姓たちを利用しようとしているのではない、理想をもってやっているのだと、こう、もったいをつけて、人に見せつけたいと思ってるまでのことなんだ」
「いや、そうお思いになるなら、そうとしときましょうよ!」とレーヴィンは、左のほおの筋肉がおさえがたく痙攣《けいれん》するのを感じながら、答えた。
「おまえには以前から、確信というものがなかった。いまだってありゃしない。おまえはただ、自分の自尊心を慰めさえすればたりるのだ」
「いやどうもありがとう、いいから、かまわないでおいてください!」
「ああ、かまうまいよ! もうとっくに帰るべきだったのだ、とっととうせやがれか! おれはいまさら、こんなところへ来たことを悔んでるよ」
そして、それからはもう、レーヴィンがどんなになだめようとつとめても、ニコライは耳にもいれないで、別れていったほうがどれくらいいいかしれぬと言いはった。そこで、コンスタンチンは、兄はもう生きていることに堪えきれなくなったのだろうと考えた。
コンスタンチンがふたたび彼のもとへやって来て、もし何か気にさわることがあったら、どうか許してくれるようにと、不自然な調子で許しをこうたときには、ニコライはもうすっかり出立の支度をしていた。
「ほう、寛大だね!」と、ニコライはいって微笑した。「もしおまえが正しくありたいと思うのだったら、おれはおまえにその満足を譲ってあげるよ。おまえは正しい。しかしおれはやっぱりもう出かけるよ」
が、いよいよもう立つというばかりになって、弟と接吻をかわすと、ニコライは急に奇妙にまじめになって、弟の顔をしげしげと見つめながら、こういった――
「とにかく、おれをわるく思わないでくれよ、な、コスチャ!」こういった彼の声はふるえた。
これが、彼によってまじめに語られた唯一の言葉であった。レーヴィンはこれらの言葉のかげに、『おまえはおれの病気の思わしくないことをこのとおり見て知っている。たぶんわれわれには、もうこれきり会う機会はないだろう』こういう意味のこめられてあることを感じた。レーヴィンはそれを感じた。と、涙が両の目ににじみ出てきた。彼は、もう一度兄を接吻したが、ひと言も口がきけなかった、なんといっていいかもわからなかった。
兄の出発後三日めに、レーヴィンも外国への旅にのぼった。そして汽車のなかで、キティーのいとこにあたるスチェルバーツキイに出会って、その沈うつな顔つきで、ひどく相手を驚かした。
「きみはどうかしたんじゃないか?」と、スチェルバーツキイは彼にきいた。
「いや、べつに。しかし世のなかには、いいことは少ないもんだよ」
「どうして少ないんだい? じゃ、ぼくといっしょにパリへ行こう。ミルザなんかへ行くことはよしてさ。そうすりゃ、うんとおもしろいことが見られるよ」
「いや、ぼくはもうだめだよ。ぼくはもう死んでいい時分だ」
「はは、こいつはどうも!」と、笑いながらスチェルバーツキイはいった。「ぼくはまた、やっとこれからはじめる支度をしたばかりだぜ」
「ああ、ぼくもついこのごろまで、そう考えていたのさ。ところが、最近になってやっとわかったんだ。自分の遠からず死ぬものであるということがね」
レーヴィンは、自分がこのごろ真剣に考えていたことを語ったのである。彼は何を見ても、そのなかにただ、死か、あるいは死への接近だけを見るのだった。けれども、彼の企てた計画は、そのためにいっそう強く彼の心をしめていた。死が訪れてくるまでのあいだは、どうにかしてこの生を生きていかなければならない。彼にとっては、すべてのものが暗黒におおわれていた。しかし、この暗黒があればこそ彼は、自分の事業が、この暗黒裡における唯一のしるべの糸であることを感じて、全力をあげてそれをつかみ、しっかりとそれにしがみついたのであった。
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第四編
一
カレーニン夫妻は、あいかわらずずっと同じ家に住んで、毎日顔をあわせてはいたが、お互いにまるで他人同士であった。アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチは、召使たちに勝手な臆測《おくそく》を許さないため、毎日妻に会うのを規則のようにしていたが、家で食事をすることは避けていた。ウロンスキイは、アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチの家へはけっして足ぶみしなかったけれど、アンナは、家以外のところで彼に会っていて、夫もそれを承知していた。
こういう状態は、三人のだれにも、苦しいものだったので、もし、こんなことはじき変わるだろう、やがては過ぎ去ってしまうほんの一時的の悲しい苦境にすぎないだろう、こういう期待がなかったら、彼らはいずれも、一日として、こんな境遇のうちに生活をつづけていくことはできなかったにちがいない。
アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチは、すべてが過ぎ去ってしまうように、この情熱も過ぎ去ってしまい、だれもかれもこんなことは忘れてしまって、自分の名も汚されないですむであろう、こう期待していた。アンナはまた、この境遇をひきおこした当事者であり、そのため、だれよりも一ばん苦しんでいながら、こんなもつれは、じきにとけて解決がつくであろうと期待していたばかりか、堅く信じて疑わなかったので、この境遇に堪えていた。彼女は、何がこの境遇を解決してくれるかということは、少しも知らなかったのだが、ただ、今すぐにも何事かが起こるであろうと、堅く信じて疑わなかったのである。で、ウロンスキイも、知らず知らず彼女の影響を受けて、同じように、自分とは無関係な何事かが起こって、すべての困難を解決してくれるであろうと期待していた。
冬のなかばに、ウロンスキイは、ひどくたいくつな一週間を過ごした。彼は、ペテルブルグを訪問して来たある外国の皇族の接待役を仰せつかって、その皇族に、ペテルブルグの名所旧跡を見せて歩かなければならなかった。ウロンスキイは、風采《ふうさい》がりっぱだったばかりでなく、そのうえ、天性として、上品でいんぎんな態度をとるすべを心得ていて、こういう人々との応対にはなれていたので、この皇族の接待をも仰せつかったのであった。しかし、この任務は、彼には非常に重苦しいものに思われた。皇族は、ロシアであれを見てきたかと帰国後にきかれそうなものは、何ひとつ見おとすまいと心がけていたばかりでなく、自分自身でも、できるだけロシア的|享楽《きょうらく》を体験しようと考えていた。で、ウロンスキイは、そのどちらへも、彼を案内しなければならなかった。
彼らは毎日、朝のうちは馬車を駆って名所旧跡を見物し、夜はロシア特有の歓楽の世界へ顔を出した。この皇族は、皇族たちのあいだですらまれにみる健康の持ち主だった。体操や、細心な健康法によって異常な精力を貯えていて、歓楽にふけってどんなにそれを消耗《しょうもう》しても、青々として|つや《ヽヽ》のあるオランダ産の大きゅうりのように、いきいきした新鮮さをたもっていた。皇族はなかなかの旅行家で、近ごろ交通が容易になったということのおもな利益のひとつは、あらゆる国々に特有の快楽をあじわうことができることにあると考えていた。スペインへ行ったときには、彼はそこでセレナードを催して、マンドリン弾《ひ》きのスペイン女と親しくなった。スイスでは『かもしか』を殺した。イギリスでは、真紅の燕尾服を着て、馬で木柵《もくさく》を飛び越えたり、賭《かけ》で二百羽の|きじ《ヽヽ》を射止めたりした。トルコではハレムへはいり、インドでは象を乗りまわし、いま、ロシアでは、あらゆるロシア特有の歓楽をあじわおうと望んでいるのであった。
いわば、この人にたいする歓迎の式部長官であったウロンスキイには、各方面の人々によって皇族に申し出される、あらゆる種類のロシア式娯楽をあんばいするのが、非常な骨折りであった。ロシアには|だくぶみ《ヽヽヽヽ》(馬車やそりをひかせて非常に早く走る馬)もいれば、ブリンもあり、熊狩りや、トロイカ(ロシヤ特有の三頭立て馬車)や、ジプシーや、ロシアふうに食器を打ちこわす躁宴もあった。皇族はじつにやすやすと、ロシア気質《かたぎ》を自分のものとして、食器ののっている盆《ぼん》もたたき落とせば、ジプシー女も膝の上にのせた。そして彼は、ロシア気質というのは、ほかにまだどんなものがあるのか? それとも、もうこれだけか? とたずねてでもいるようであった。
だが、じっさいにおいて、すべてのロシアふうの歓楽のうち、最も皇族の気にいったのは、フランス女優たちと、バレーの踊り子と、白封のシャンペン酒とであった。ウロンスキイは、皇族たちにはすっかりなれていたにもかかわらず、彼自身がこのごろ変わったためか、それとも、この皇族にあまり接近しすぎたためか、ともかくこの一週間は、彼にとっておそろしくつらいものに思われた。彼は、この一週間というものたえず、危険な狂人の世話をまかされた人が、その狂人を恐れると同時に、狂人と接近しているということから、自分の理性をも気づかうといったような感じをおぼえていた。
ウロンスキイは、自分が軽蔑されるようなことのないように、厳格な公式儀礼の調子を一瞬たりともゆるめてはならないと、たえず心に感じていた。ウロンスキイの驚いたことには、ロシア的遊興を彼に提供するために、骨身も惜しまずつとめている人々にたいする皇族の態度は、かなり侮蔑《ぶべつ》的であった。彼が研究したいと望んでいるロシアの女についての意見は、一度ならずウロンスキイをして、憤懣《ふんまん》の極、顔をまっ赤にさせたくらいであった。この皇族が、ウロンスキイにとくにたまらなく思われたおもな理由は、彼がその皇族のうちに、自分自身をみとめないではいられなかったことであった。そして、彼がこの鏡のなかに見たところのものは、彼の自尊心を喜ばさなかった。それはきわめて愚劣な、きわめてうぬぼれの強い、きわめて健康で、きわめて身だしなみのいい人間であった、が、それ以上の何ものでもなかった。彼は紳士であった――それは真実である。ウロンスキイもそれをいなむわけにはいかなかった。彼は、目上の者にたいしても平静な態度で、こびるような態度は見せなかったし、同輩《どうはい》にたいしては、自由で率直であり、目下の者にたいしては、天くだり的に親切であった。ウロンスキイ自身も、このとおりで、彼はそれを、大なる美徳と考えていた。しかし、この皇族にたいしては、彼は目下の者であった。で、彼にたいするこういう天くだり的親切は彼の心をかき乱した。
『ばかな牛肉め、おれもほんとにあんなふうなんだろうか?』と彼は考えた。
とにかく、そういうふうで、七日めにモスクワへ立って行く皇族に別れを告げて、そのお礼をいわれたときには、彼は、こういう居ごこちのわるい境遇と、不愉快な鏡とからのがれえたことを、少なからず幸福に思ったものであった。彼は、終夜ロシア式武勇の演じられた|くま《ヽヽ》狩りからの帰途、停車場でその皇族と別れたのであった。
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二
家へもどって来て、ウロンスキイは、自分の部屋でアンナからの手紙を見いだした。彼女は書いていた。――「わたくしは病気で不幸でおります。わたくしは外出することができませんの。けれど、もうこれ以上お目にかからずにはいられません。今晩いらしてくださいまし。アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチは、七時に会議へ出て、十時までは帰りませんから」
彼を家へ引き入れてはいけないという夫からの要求があるにもかかわらず、彼女が直接家へ来いといってよこしたのを、少しへんだと考えないではなかったが、とにかく彼は行くことにきめた。
ウロンスキイは、その冬、大佐に昇進したので、連隊を出て、ひとり住まいをしていた。ランチをすますと彼はすぐ長いすの上に横になった。と、五分間ばかりのあいだ、この数日間に彼が目にしたいとうべき光景の回想が、アンナの姿や、|くま《ヽヽ》狩りで大切な役を演じた農夫の姿とごっちゃになり、もつれあって、彼の前に現われたが、やがてぐっすりと眠ってしまった。ふと彼は、恐ろしさに身ぶるいしながら、暗やみのなかで目をさまし、急いでろうそくに火をつけた。――『ありゃ、なんだ? なんだろう? 夢に見たあの恐ろしいものはなんだろう? そうだ、そうだ。ひげをぼうぼうとさせた、小さな、小さなきたない百姓が、腰をかがめて何かしていた。そしてとつぜんフランス語で、なにやら妙なことを言いだした。そうだ、夢はそれきりのことだったんだ』と、彼は自分にいった。『だが、なんだってそれが、あんなに恐ろしかったのだろう?』彼はそこでまたしても、例の百姓と、その男がいった、わけのわからぬフランス語とを思いだした。と、ぞっとするような恐怖の念が、悪寒《おかん》となって彼の背筋を走り通った。
『なんという、ばかげたことだ!』ウロンスキイはこう考えて、時計を見た。
もう八時半であった。彼はベルを鳴らして召使を呼び、大急ぎで着がえをすますと、早くも夢のことなどすっかり忘れてしまって、遅くなったことばかり気づかいながら、入口の階段へ出て行った。カレーニン家の玄関へ近づきながら、彼はふたたび時計を見て、九時十分前であることを知った。灰色の二頭の馬をつけた、背の高い細い馬車が、車寄せの前に立っていた。彼はそれが、アンナの馬車であることをすぐ見知った。『おお、おれのところへ行こうとしているのだ』と、ウロンスキイは考えた。『それならそのほうがいい。おれにはどうも、この家へはいるのは不愉快だ。が、しかし、同じことだ。どうせ、かくれることはできやしない』こう彼は自分にいった。
そして、子供の時分から身につけていた、恥じることをもたない人のような態度で橇《そり》を出ると、ドアのほうへ近づいた。と、ドアがあいて、膝掛けを手にした玄関番が馬車をさしまねいた。ウロンスキイはがんらい、細かいことには気のつかない男であったが、この時ばかりは、玄関番がちらと彼を見たときの、びっくりしたような表情に気がついた。ドアのすぐそばで、ウロンスキイは危うく、アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチと衝突するところであった。ガスの光は、黒い帽子の下の血の気のないやせた顔と、ビーバー皮の外套の下に光って見える白いネクタイとを、まともに照らしていた。どんよりとして動かないカレーニンの目は、じっとウロンスキイの顔にすえられた。ウロンスキイは頭をさげた。と、アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチは、ちょっと口を動かし、帽子のへんまで片手をあげて、そのままつっと通り過ぎた。ウロンスキイは、彼がふり返りもせずに馬車に乗り、窓から膝掛けとオペラグラスとを受け取って、姿を消してしまったのを見た。ウロンスキイは玄関へはいった。彼の眉《まゆ》はひそみ、その目は、毒々しげな、傲然《ごうぜん》とした光で輝いていた。
『やっかいなことだ!』と彼は思った。『もしあの男にたたかう気があるなら、自分の名誉をまもろうという気があるなら、おれにもやりかたもあれば、自分の感情を言いあらわすこともできるわけだが、あの弱さ、あの卑劣さでは……あの男は、おれをかたりの地位におこうというのだ。おれはそんなものになることは、もともと大きらいだったし、いまも大きらいなのに』
ウレーデの庭でアンナと話しあったときから、ウロンスキイの考えはすっかり変わっていた。彼に一身をささげつくして、将来もどんなことにでもしたがうつもりで、自分の運命の決定を彼にのみ期待していたアンナの弱みに、彼も知らず知らず引きこまれてしまって、ふたりの関係が、あのとき自分が考えたように結末がつこうなどとは、もうずっと前から考えなくなっていた。彼の野心的な計画は、ふたたび後方へ退いてしまった。そして彼は、いっさいのことが決定されていく活動の世界から外へはみだしてしまったような気がしながら、ひたすら一身を、自分のその感情にささげていた。そしてこの感情は、ますます強く彼を彼女に結びつけるのであった。
まだ玄関にいるうちから、彼は、彼女の遠ざかって行く足音を聞きつけていた。彼は、彼女が自分を待っていたこと、耳をそばだててきいていたこと、そしていま客間のほうへもどって行きつつあるのだということをさとった。
「いいえ!」と彼女は、彼を見ると叫んだ。そして、その声がひびくと同時に、彼女の目には涙がうかんでいた。「いいえ。こういうふうでつづいていったら、それこそずっと早く、ずっと早くあれがおこってしまいますわ!」
「どうしたのです、あなたは?」
「どうしたのですって? わたしは苦しい思いをして、あなたをお待ちしていたのですわ、一時間、二時間と……いいえ、わたしもう何も申しますまい……わたしには、あなたと争うことはできませんもの。たぶんあなたは、早くおいでになれなかったのでしょう。ですから、わたしはもう何も申しませんわ!」
彼女は両手を彼の肩の上において、長いことまじまじと、その深い、歓喜にみちた、同時に何かをさぐり試みるようなまなざしで、彼を見ていた。彼女は、会わなかったあいだに、彼の顔を研究していた。彼女は、いつも彼と会うたびにするように、じっさいの彼の姿を、自分ひとりの想像にえがいている姿(現実にはとうてい、ありえないような、くらべものにならないほどりっぱな姿)とを対照して考えているのだった。
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三
「あなた、あのひとにお会いになったでしょう?」と彼女は、ふたりがランプの下のテーブルのそばに座をしめたときに、たずねた。「それはねえ、こんなに遅くいらした罰ですわ」
「ええ、しかし、どうしたわけなんです? あのひとは、会議に行ってるはずだったじゃありませんか?」
「行って、帰って来て、またどこかへ出かけて行ったんですわ。でも、こんなことはなんでもありません。こんな話は、もうよしましょうよ。それよりもあなたは、今までどこにいらっしたの? ずっとあの皇族とごいっしょでしたの?」
彼女は、彼の生活はどんなに細かいことでも知っていた。彼は昨夜ひと晩眠らなかったので、つい寝こんでしまったのだといおうとしたが、彼女のわくわくしているような、幸福らしい顔を見ていると、そんなことをいうのが気恥ずかしくなってきた。で、彼は、皇族の出立を報告に行かねばならなかったので、といった。
「でも、それはもうおすみになったんでしょう? そのかたはお立ちになったんでしょう?」
「ありがたいことに、やっとすみましたよ。それがぼくにとって、どのくらいつらいことだったか、あなたにはちょっと信じられないでしょう」
「あら、なぜでしょう? だってそれはあなたがた、若い殿がたの、日常生活じゃありませんか?」こう、彼女は眉《まゆ》をひそめていった。そして、テーブルの上に置いてあった編み物を取り上げて、ウロンスキイのほうは見ないで、そのなかから編み棒をぬきだしはじめた。
「ぼくはもうそういう生活は、とうの昔にやめてしまいましたよ」と彼は、彼女の顔の表情の変わったのに驚いて、その意味を読もうとつとめながら、いった。「それに、じつをいうと」と彼は笑顔《えがお》になり、こまかくそろったまっ白な歯を見せながらいった。「ぼくはこの一週間というもの、そうした生活を見ながら、まるで、鏡を見ていたようなものでした。そしてぼくにはそれが、不愉快でならなかったんですよ」
彼女は編み物を手にしながら、編もうとはしないで、異様な光をもった親しみのないまなざしで、まじまじと彼を見ていた。
「けさリーザがいらっしゃいました――あの女《ひと》はリディヤ・イワーノヴナ伯爵夫人にはかまわずに、平気でわたしのところへ来てくれますのよ」と彼女は言葉をはさんだ。「そして、あなたがたのいらしたアテネの夜(飲めや歌えの大さわぎの宴)のことを、すっかり話してくれましたわ、ほんとにいやな!」
「ぼくも今ちょうどそれをいおうと思っていたところ……」
彼女は彼をさえぎった。
「それは前からおなじみの、あのテレーズだったんでしょう?」
「ぼくも今それをいおうと……」
「まあ、あなたがた殿がたって、なんていやなものでしょうね! どうしてあなたがたには、それだけの察しがつかないんでしょう。女はどうしても、そういうことを忘れることができないものだということが?」と彼女はますます熱してきて、それでもって、自分のいらだたしさの原因を、彼の前に開いて見せながら、いった。「ことに、あなたがたの生活をまるで知ることができないでいる女にしてみれば、なおさらですわ。わたしが何を知っているでしょう? 何を知っていたでしょう?」と彼女はいった。「あなたのおっしゃることだけじゃありませんか。それも、あなたがほんとうのことをおっしゃってるかどうか、わたしには知りようがないじゃありませんか?」
「アンナ! あなたはぼくを侮辱するんですね。じゃあ、あなたはぼくを信じないというんですね? すると、ぼくはあなたにいわなかったですかね、あなたにうちあけない考えなんか少しもないということを?」
「ええ、ええ」と彼女は明らかに、嫉妬深い想念をおいのけようとつとめながら、いった。「ですけれど、もしあなたが、わたしがどんなに苦しい思いをしているかってことを、知ってくださいましたらねえ!……わたしは信じています、あなたを信じていますわ……では、あなたのおっしゃろうとしたのは、どういうことでしたの?」
しかし彼は、自分の言いたいと思っていたことを、すぐには思いだすことができなかった。最近になってますます彼女におこるようになったこういう嫉妬の発作《ほっさ》は、彼に恐怖の念をいだかせ、しぜん彼女にたいする彼の態度を冷やかにせずにはおかなかった、彼はその嫉妬の原因が、自分にたいする愛にほかならないことを知ってもいれば、そういう態度を顔に出すまいとして、ずいぶんつとめもしたのだけれども。何度彼は、彼女の愛を幸福だと自分にいったことであろう。そしてじっさい彼女は、人生のあらゆる幸福よりも恋を重く見ている女だけが愛することのできるように、彼を愛しているのだった。しかも、彼のほうは、彼女のあとを追ってモスクワから帰って来たころからみると、そうした幸福からははるかに遠いものになっていた。その当時は彼は、自分を不幸だとは思っていたが、とにかく幸福が前途にあった。ところが、今では、最上の幸福は、もはや過去のことになってしまったような気がするのだった。
彼女はもうまったく、彼が初めて見た時分の彼女ではなくなっていた。精神的にも、肉体的にも、彼女はわるいほうへ変わっていた。彼女は、全身的にだらけてしまった。そして、いましがた例の女優のことを話したときには、その顔に底いじのわるい、容貌を醜くするような表情が現われたくらいだった。彼は、人が花の美しさをめでて、それを手折《たお》って台なしにしてしまい、いまさらその美しさを見いだしかねて、自分の手のなかでしぼんでしまった花をながめているときのように、彼女を見ていた。しかし、それにもかかわらず彼は、自分の愛がもっと強烈だった時分には、しいて望めば、自分の心臓からその恋をもぎとってしまうこともできるような気がしていたのに、今――自分では彼女にたいしていっこう愛を感じていないような気のしている今になって、彼はかえって、自分と彼女との関係は、いかにしても破ることのできないものであることを知ったのだった。
「それで、それで、あなたが皇族のことでお話なさろうと思っていらしたのは、どういうことなんですの? わたしは追っぱらってしまいました。悪魔を追っぱらってしまいましたわ」と彼女は言いそえた。ふたりは嫉妬のことを悪魔と名づけていたので。「ねえ、ほんとに、皇族のことで何をお話なさろうと思っていらしたの? どうしてそれが、そんなにおいやだったんでしたの?」
「いや! まったくやりきれなかったんですよ!」と彼は、失われた思想の糸をとらえようとつとめながらいった。「あのひとは、親しくすればするほど光を失うといったふうの人なのです。あのひとに定義をくだすとしたら、品評会へだしたら一等メダルを受けられるくらい、みごとに肥えふとった家畜というだけで、それ以上の何ものでもありませんよ」と彼はいかにもいまいましげにいって、その調子で彼女を興がらせた。
「まあ、どうして、そんなことが?」と彼女は反駁《はんばく》した。「とにかくそのかたは、見聞の広い、教育のあるかたじゃありませんか?」
「ところが、それがまったく別の教育なんですよ――あの人たちの教育というのはね。あのひとはただ、教育を軽蔑する権利を持つためだけに教育されたようなものなんです。ああいう人たちが、動物的な快楽以外のものは、すべて軽蔑しているように」
「ですけれど、あなたがたはみんな、そういう動物的快楽を、好いていらっしゃるんじゃありませんの」と彼女はいった。そこでふたたび彼は、彼を避けた彼女の暗いまなざしに気がついた。
「だが、なんだってあなたは、そうあのひとを弁護するのです?」と、彼は微笑しながらいった。
「わたしなにも弁護なぞいたしませんわ。わたしにはどっちにしたって、まったく同じことなんですもの。ですけれど、あなたご自身が、もしそういう快楽を好いてらっしゃるんでなかったら、おことわりになることもできただろうと思いますわ。ところがあなたは、イヴの衣装をつけたテレーズを見ることがうれしいもんだから……」
「また、また、悪魔が!」とウロンスキイは、彼女がテーブルの上においた手をとって、それに接吻しながらいった。
「ええ、ですけれど、わたしはそう思わないではいられませんのよ! あなたにはおわかりにならないでしょうけれど、わたしはあなたを待ちながら、どんなつらい思いをしたことでしょう! わたしは、自分はけっして嫉妬ぶかい女ではないと思っています。わたしは嫉妬ぶかい女ではございません。あなたがこうして、わたしのそばにいてくださるあいだは、わたしすっかりあなたを信じていますわ。けれどね、あなたがひとりどこかで、わたしにはわからないご自分の生活を送っていらっしゃるときには……」
彼女は彼のそばをはなれて、とうとう編み物から編み棒をぬきだした、と、人さし指の助けをかりて、ランプのあかりに輝くまっ白な毛糸の輪が、みるみるあとからあとからとできはじめて、縁飾りのついたそで口のなかのきゃしゃな手くびは、敏速に、神経質らしく動きはじめた。
「それでどうでしたの? どこでアレクセイ・アレクサーンドロヴィッチにおあいになって?」と急に、不自然に、彼女の声がひびいた。
「戸口のところで、ばったりぶつかっちまったんですよ」
「そこで、あのひとはあなたに、こういうふうにおじぎをしましたでしょう?」
彼女は顔をひきのばし、目を半眼にして、すばやく顔の表情をかえ、手を組み合わせた。と、ウロンスキイはとつぜん、彼女の美しい顔に、アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチが彼にえしゃくをしたときのそれと同じ表情を見た。彼はほほえんだ。と、彼女は、彼女のおもな魅力のひとつである、例のかわいらしい、胸から出るような笑いで、快活に笑いはじめた。
「ぼくには、あのひとの心もちがちっともわからないんですよ」と、ウロンスキイはいった。「もし別荘でのあなたの告白のあとで、あなたと別れてしまったとでもいうなら、またもし、あのひとがぼくに決闘を申し込んできでもしたのだったら、わかりますがね。どうもこれではわかりませんよ。ほんとうにあのひとは、どうしてこんな境遇をがまんしていられるんだろう? あのひとも苦しんではいます、それはぼくにもよく見えていますがね」
「あのひとが?」と、彼女は冷笑をうかべていった。「あのひとは、すっかり満足してるんですわ」
「何もかも、しようとさえ思えば、どんなにも、けっこうにできるのに、どうしてわれわれは、みんなこう苦しんだり悩んだりしているんでしょう?」
「ただあのひとだけは違いますわ。だって、どうしてわたしがあのひとを、あのひとがひたりきっているあの虚偽を、知らないでいられるでしょう? だいいち、少しでも人間らしい感情をもっていて、あのひとがわたしと暮らしているような生活ができるでしょうか? あのひとは、なんにもわからないんですわ。なんにも感じていないんですわ。多少でも何か感じている人間が、どうして不貞な妻とひとつ家に暮らしていくなんてことができるでしょう? その妻と口をきくなんてことができるでしょう? その女に『おまえ』なんて、うちとけた口がきけるでしょう?」
そこで彼女はまたしても、夫の口まねをしないではいられなかった。『おまえ、ma chere(ねえ)おまえ、アンナ!』
「あれは男ではありませんわ、人間ではありませんわ――人形ですわ。だれも知らないことですけれど、わたしはよく知っていますの。ああ! もしわたしがあのひとのような境遇にたったら、わたしはもうとうに殺してしまったでしょう。ずたずたに引き裂いてしまったでしょう、わたしのようなこんな妻は。ましてやおまえ、ma chere(ねえ)アンナ、なんてことは、どんなことがあっても言いはしませんわ。ほんとに、あれは人間ではありません。あれは役人をする機械ですわ。あのひとは、わたしがあなたの妻だということ、自分がのけ者だ、よけい者だということを知らないんですわ……だけど、もうよしましょう、もうよしましょう、こんな話は!」
「それはまちがいです、あなたのまちがいですよ。アンナ!」とウロンスキーは、彼女をなだめようとつとめながらいった。「しかし、どちらにしても同じことです、あのひとのことをいうのはもうよしましょう! それより、このごろじゅうあなたは何をしていたか、それを話してください? いったい何事があったんです? その病気というのはなんなんです、そして、お医者はなんと言いました?」
彼女は、皮肉な喜びの色をうかべて彼を見ていた。明らかに彼女は、夫のうちにまだほかにも、笑うべき、醜悪な一面を見いだして、それを言いだす機会を待っていたのであった。
しかし、彼は話しつづけた。
「ぼくは、それは病気ではなくて、あなたのからだのせいだと思いますよ。だがいったい、あれはいつなんです?」
皮肉な光は、彼女の目のなかで消えてしまったが、別の微笑――彼にはわからない何ものかの意識と、静かな悲しみの微笑――が、それまでの表情にとってかわった。
「じきですわ、じきですわ。あなたはこんな境遇はたまらないから、早くなんとかきまりをつけなくてはいけないとおっしゃいます。けれど、わたしにとってそれがどんなにつらいか、知ってくだすったらと思いますわ。それこそわたし、自由に大胆にあなたを愛することができるためなら、どんな犠牲でもはらう覚悟でいますの! そしたらわたしも、もうこんな嫉妬であなたを苦しめたり自分を苦しめたりするようなことは、しなくなるだろうと思います……そしてそうなるのも、もうまもなくだと思いますわ、ただ、わたしたちの考えているとおりではないけれど」
だが、どんなふうにして、そうなるだろうかと考えると、彼女は、自分自身がひどく哀れに思われてきて、目には涙がいっぱいになり、そのさきをつづけていうことができなくなった。彼女は、指輪と色の白さとでランプのあかりに輝いている自分の手を、そっと彼のそでの上においた。
「それはね、わたしたちの考えているとおりではないでしょう。わたしは、こんなことあなたに言いたくはなかったのですけれど、あなたがいわせておしまいになったんだから。ほんとにじき、じき何もかもかたがついてしまいますわ。そして、わたしたちはみんな、みんなおちついて、このうえ苦しむことなんかないようになりますわ」
「ぼくにはどうもわからない」と彼は、よくわかっていながらいった。
「あなたは『いつ』っておききになりましたわね? じきですわ。そしてわたしは、それを無事には越せませんわ。まあ、わたしにいわせてくださいまし!」こう、彼女は急いで言葉をつづけた。「わたしはそれを知っていますの。確かにちゃんと知っていますの。わたしは死にますわ。死んで自分とあなたとを救うということが、わたしにはたいへんうれしいのですわ」
涙が彼女の目から流れ落ちた。彼は彼女の手の上に身をかがめて、自分の興奮をおおいかくそうとつとめながら、接吻しだした。彼は、その興奮がなんの根底をも持っていないことを知ってはいたが、どうしてもそれを制することができなかったのである。
「ええ、そうですわ、そのほうがいいんですわ」と彼女は、はげしい動作で彼の手を握りしめながら、いった。「それがただひとつの――わたしたちに残されたただひとつの方法ですわ」
彼はわれにかえって頭をあげた。
「なんです、くだらない! なんというばかなことをいうんです!」
「いいえ、これは真実ですもの」
「何が、何が真実です?」
「わたしの死ぬということですわ。わたし、夢を見ましたのよ」
「夢を?」とウロンスキイはくりかえして、すぐに、夢のなかで見た百姓のことを思いだした。
「ええ、夢を」と彼女はいった。「わたしがその夢を見たのは、もうよほどまえのことですの。なんでもね、わたしは何か取ってくる必要があって、さがし物があって、自分の寝室へかけこんで行きましたのよ。ご承知のとおり、夢ではよくこんなことがあるもんですわね。わたしの夢がそれだったんですよ」と彼女は、恐ろしさに大きく目を見ひらきながらいった。「するとどうでしょう、寝室のすみっこに、何かが立ってるじゃありませんか……」
「ああ、なんというばかばかしい! どうしてそんなことが信じられますか?」
しかし彼女は、自分の言葉をさえぎらせてはおかなかった。彼女のいっていることは、彼女にとってはあまりに重大なことだったのだから。
「そうして、その何かが、くるりとこちらをふり返りましたの。と、それは、ひげのぼうぼうと生えた、小さな、恐ろしい百姓なんです。わたしは逃げようとしましたけれど、その男は、ふくろの上へ身をかがめて、両手でしきりに何かごそごそやっているんですわ……」
彼女は、その男がふくろのなかをかきまわしている様子をまねてみせた。彼女の顔には、恐怖の色があった。と、ウロンスキイも、自分の夢を思いだしながら、心いっぱいにひろがってくるような、同じ恐怖を感じていた。
「その男はごそごそやりながら、とても早口のフランス語で、何かとなえるように、しきりにしゃべってるのですよ。Il faut le battre le fer, le broye, le petrir……(その鉄を打って、くだいて、練りあげなければいけない)って。わたしはあまりの恐ろしさに、早く目をさましたいと思うと、すぐ目がさめました……ところが、それがやっぱり、夢なんですのよ。そしてわたしは、これはいったいどういう意味なんだろうと、自分にたずねはじめました。するとコルネイが、わたしに、『あなたはお産でなくなるでしょうよ、お産でね、お産で、奥さま……』こういうんですよ。そしてそこで、わたしはほんとうに目がさめたのですわ……」
「なんてくだらない、なんてつまらん!」と、ウロンスキイはいった。しかし彼は自分でも、その声になんの説得力もないのを感じないではいられなかった。
「だけど、こんな話はもうよしましょうね。それよりちょっと、ベルを鳴らしてくださいな。お茶をいれさせますから。あ、ちょっと待ってちょうだい、すぐですわ、わたし……」
が、急に、彼女は言葉をとぎらせた。彼女の表情はみるみる変わった。恐怖と興奮とがにわかに、静かな、まじめな、幸福そうな注意の表情と入れかわった。彼はその変化の意味を解することができなかった。彼女は自分のうちに、新しい生命の動くのを感知したのだった。
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四
アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチは、わが家の入口階段でウロンスキイと出くわしてからも、予定どおりイタリア歌劇へと馬車を駆った。彼はそこに二幕すむまでいて、会わなければならない人には全部会った。家へもどると、彼は注意ぶかく帽子掛けを調べ、そこに、軍人外套がかかっていないのをたしかめてから、いつものように、自分の部屋へ通った。しかし、いつもと違って、すぐ眠りにつこうとはせず、夜なかの三時までも、書斎のなかをあちこちと歩きまわっていた。体面をまもろうともせず、家へ情人を引き入れるようなことをしてはならぬという唯一の条件をも無視してしまった妻にたいする憤激の情が、彼に平安をあたえなかったのである。彼女は、彼の要求を履行《りこう》しなかった。で、彼は彼女を罰し、離婚を要求して、子供を取り上げるぞという、かねてのおどし文句を、実行にうつさねばならぬはめになった。
彼は、それがなかなか容易なわざでないことを知っていた。しかし彼は、それをするぞといっておいた。そしていまや、その脅迫を実行せねばならぬはめにたちいたったのである。伯爵夫人リディヤ・イワーノヴナは、彼の境遇からのがれるには、それが最善の方法だと何度も彼にほのめかしたし、それにまた近ごろでは、離婚の実行がきわめて完全に行なわれるようになっていたので、アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチも、形式上の困難がうちかてないものでもないことを知るようになっていた。しかも、不幸は単独にやってくるものではなくて、例の異種族厚生問題とザラーイスカヤ県の土地灌漑問題とが、アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチの上に、公務上でも非常な不快をもたらしていたので、そのために彼は、このごろずっと、極度にいらだたしい気分のうちにいたのだった。
彼は終夜眠らなかったので、彼の怒りは、急激に増大してきて、朝までにはその極限に達した。彼は急いで着がえをすまし、そして、あたかも憤怒をみたした茶わんを持ち運んでいて、少しでもそれをこぼすのを気づかうような態度で、同時にまた、その憤怒とともに、妻と談判するに必要な精力を失うのを恐れるかのような態度で、妻の起きたのを知るとすぐ、妻の部屋へはいって行った。
アンナはつねづね、自分は夫のことはなんでも知りぬいていると思っていたが、彼が自分のところへはいって来たときの顔つきには、少なからず驚かされた。彼の額はしわみ、目は彼女の視線を避けて、陰うつに自分の前を見つめ、口は堅くきっと、さげすむように結ばれていた。そしてその歩きかたにも、身ぶりにも、声のひびきにも、妻が見たこともなかったような、決然さと断乎《だんこ》さとがこもっていた。彼は彼女の部屋へはいると、彼女にはあいさつもしないで、まっすぐ彼女の書卓のほうへ行き、鍵をとって引出しをあけた。
「あなた、何がご入用なんですの?」と彼女は叫んだ。
「あんたの情人の手紙です」と彼はいった。
「そんなものはここにはございません」と、彼女は引出しをしめながらいった。しかし彼は、彼女のその動作によって、自分の推測の正しいのを知り、手あらく彼女の手を押しのけて、かねて彼女が大切な書類を入れているのを知っていた紙ばさみを、すばやくつかんだ。彼女は紙ばさみを取り返そうとしたが、彼は彼女を突きのけた。
「おすわりなさい! わたしはあんたにいわなけりゃならぬことがあるのだ」と彼は、紙ばさみをわきの下にはさんで、肩がもちあがるほどしっかりと肘でしめつけながら、いった。
彼女はびっくりして、黙って、おずおずと彼を見ていた。
「わしはあんたに、情人を家へ引き入れてはならんと、ちゃんといっておいたはずだ」
「わたくし、じつはあのひとに会わなければならぬ用があったものですから、というのは……」
彼女は、どんな理由をも思いつけなかったので、言葉をとぎらした。
「女が情人に会わねばならぬ理由などを、くだくだしく聞いている必要はない」
「わたくしは思ったのです、わたくしはただ……」と、彼女はかっとなっていった。こうした彼のあらあらしさが、彼女をいらだたせ、勇気をあたえたのであった。「いったいあなたは、ご自分がわたくしをたやすく踏みにじりうる立場にあることを、感じていらっしゃらないと見えますのね?」と、彼女はいった。
「正しい男や正しい女なら、侮辱することもできようが、どろぼうに向かって、きさまはどろぼうだというのは、la constation d'un fait(事実の確証)にすぎませんよ」
「あなたにこうした新しい残酷な性質のあることは、わたくしもまだぞんじませんでしたわ」
「夫が妻に、体面さえまもればいいという条件で、りっぱに名誉を保護してやりながら自由をあたえていることを、あんたは残酷だというんですね。これが残酷というものですかね?」
「それは残酷よりもっとわるいものですわ。あなたが、たって知りたいとおっしゃるなら申しますがね、それは卑劣というものですよ!」とアンナは、憎悪の情を爆発させてこう叫ぶと、立ちあがりざま、さっさと出て行こうとした。
「いけない!」と彼は、もちまえの金切り声を、常よりもいっそうはりあげて叫ぶと、その大きい手の指で、彼女の腕を、腕輪の上から、そのあとがまっ赤に残ったほど強くつかんで、むりやりにもとの席へ掛けさせた。「卑劣? もしあんたがそういう言葉をつかいたいといわれるなら、いくらでも言いますがね、情人のために夫や子供を捨てながら、平気で夫のパンを食っているということ――それこそ卑劣というべきですよ」
彼女は頭をたれた。彼女は前の夜、情人に、彼こそ彼女の夫であって、今の夫はよけい者だなどといったことは、口に出さなかったばかりでなく、出そうとすら考えなかった。彼女は、彼の言葉のあくまで正しいことを感じた。で、ただ静かにこういった――
「あなたがなんとおっしゃってみたところで、わたくし自身が考えているよりわるく、わたくしの境遇をお考えになることはできませんわ。ですけれど、いったいなんのためにそんなことをおっしゃいますの?」
「なんのためにわしがそんなことをいうかって? なんのためだって?」と彼は、同じ腹だたしげな調子で言いつづけた。「世間ていだけでもまもってくれというわしの希望を、あんたが実行してくれなかったから、いよいよわしも、この境遇にきまりをつける手段をとることにしたということを、あんたに知らせるためですよ」
「このままだって、じきに、じきにきまりがつきますわ」と彼女はいった。そして、いまでは願わしいものになっている近い死のことを考えると、彼女の目にはふたたび涙がうかんだ。
「そりゃあんたが、情人とふたりで考えてるよりは、早くきまりがつくでしょうよ! あんたがたには動物的の情欲を満足させることが必要なんだから……」
「アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチ! わたくしはそれを寛大でないとは申しませんけれど、あんまり男らしくないわけですわね。――倒れている者を打つなんて」
「そうだ、あんたは自分のことばかり考えている! かつてあんたの夫であった人間の苦悩などは、あんたにはもう問題ではないのだ。あんたには、その人の一生が台なしになろうが、その人が、その人が、苦……苦……くしんで、いようが、少しも痛痒《つうよう》は、ないんだろう」
アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチは、あまり早口にしゃべったので、舌がもつれて、どうしてもこの『苦しむ』という言葉を発音することができなかった。そしてとうとう、くしんでなどと発音してしまった。彼女はおかしくなった。が、すぐに彼女は、こういう瞬間に自分が、何にしろ、おかしみを感ずることができたということにたいして、恥ずかしく思った。そしてはじめて、ちょっとのま、彼にたいして同情を感じ、彼の身になってみて、彼を気の毒に思いはじめた。しかし彼女に、何を言い、何をすることができよう? 彼女はただ、頭をたれて黙っていた。彼もまた、しばらくのあいだ黙っていた。が、やがてこんどは、きしむようなひびきの少ない、冷やかな声で、かくべつなんの意味もない、自分勝手に選んだ言葉に、わざと力を入れながら話しだした。
「わしは、あんたにいおうと思って来たのだ……」と、彼はいった。
彼女は彼をちらと見やった。『いいえ、これはわたしにそう見えただけなんだわ』と、彼女は、彼が『苦しむ』という言葉を言いそこねたときの表情を思いだしながら考えた。『そうとも、こんなどんよりとした目をして、自己満足におちつきはらっている人間に、何を感ずることができよう』
「わたくしは、何もかえることはできませんわ」と、彼女はささやくようにいった。
「わしは明日、モスクワへ行く。二度とふたたびこの家へは帰って来ない。で、あんたは、わしが離婚の手続きを依頼する弁護士から、わしの決定報告を聞くようになるだろう、これだけのことを言いに来たのです。それから、わしの子供は、姉のところへ預けるからね」とアレクセイ・アレクサーンドロヴィッチは、子供についていおうと思っていたことを、つとめて思いだしながらいった。
「あなたには、わたくしを苦しめるためにセリョージャが必要なのです」と彼女は、額ごしに彼を見ながらいった。「あなたは、あの子を愛してはいらっしゃいません……どうぞ、セリョージャはおいていってくださいまし!」
「そうだ、わしは子供にたいする愛すらも失ってしまった。それは、あんたにたいする嫌悪《けんお》の情が、あの子にも結びついていくからですよ。だが、とにかくわしは、あの子を連れて行く。さようなら!」
こういって、彼は出て行こうとした、が、こんどは彼女が彼をひきとめた。
「アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチ! セリョージャはおいていってくださいまし!」と彼女はもう一度ささやくようにいった。「わたくしはもうこのうえ何も申しあげることはございません。ただセリョージャを、わたくしの|あれ《ヽヽ》までおいていってくださいまし……わたくしはまもなく子供を生みます。あの子はおいていってくださいまし!」
アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチはかっとなって、彼女から手をもぎはなすと、無言で部屋を出てしまった。
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五
有名なペテルブルグの弁護士の応接間は、アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチがはいって行ったときには、人でいっぱいであった。三人の婦人――老婆と、若いのと、商人の妻と、三人の紳士――ひとりは指輪をはめたドイツ人の銀行員、ひとりはあごひげのある商人、ひとりは制服の首に十字架をかけた、ぶっちょうづらの官吏――とは、確かにもう、かなり長いあいだ待たされているらしかった。
ふたりの助手は、ペンのきしむ音をたてながら、テーブルに向かって書きものをしていた。アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチが日ごろ一方ならず趣味をもっていたそのへんにある文房具は、非常にりっぱなものであった。彼は、それに気をとめないではいられなかった。助手のひとりは立ちあがりもせず、目を細めて、怒ったようにアレクセイ・アレクサーンドロヴィッチのほうへ顔をむけた。
「何かご用ですか?」
「ご主人にお目にかかりたいのですが」
「主人はただいま執務中です」と助手は、ペンで待っている人たちをさしながら、おごそかに答えた。そして書きつづけた。
「ちょっと時間をつごうしてもらうわけにはいきませんか?」と、アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチはいった。
「主人には暇な時間というものがありません。いつも忙しいのです。しばらくお待ちください」
「では、ごめんどうだが、ひとつわたしの名刺をご主人にあげてくださらんか」とアレクセィ・アレクサーンドロヴィッチは、名をひめておくわけにはいかないのを知って、威厳をつくってこういった。
助手は名刺を受け取ると、明らかにその内容に不賛成の様子で、ドアのなかへはいって行った。
アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチは、原則的には、裁判の公開に同感をもっていたが、それをロシアに適用するについては、自分のたずさわっている高い公務上の関係から、末端のある部分にたいしては、ぜんぜん同感するわけにいかなかった。そして、なんにしろ最高の権威によって制定されたものを非難しうる程度で、それを非難していた。彼の全生活はあげて行政上の活動のうちに流れていたので、彼が何事かに同感をもたないときでも、その不同意は、何事にもまちがいはありうるものだし、それは修正しうるものだという認識によって、やわらげられていたのであった。新しい裁判制度では、彼は、弁護士というもののおかれた条件にあまり感心しなかった。しかし彼は、今日まで弁護士に用がなかったので、ただ理論の上でだけ感心しなかったのである。ところが、いまやその感情は、彼が弁護士の応接間で受けたこの不快な印象によって、いっそう強められたのであった。
「ただいまおいでになります」と助手はいった。そしてじっさい、二分ばかりすると、戸口に、弁護士と用談をしていた老法律家のひょろ長い姿と、弁護士その人の姿とが、あらわれた。
弁護士は暗褐色のあごひげと、白っぽい長い眉と、たれたような額とをもった、小柄な、ずんぐりした、頭のはげあがった男であった。彼は、ネクタイや時計の二重鎖から、エナメルの編み上げぐつにいたるまで、まるで花婿のようなめかしかたをしていた。顔は小利口らしい、百姓づらであったが、服装はいやににやけた、低級な趣味であった。
「どうぞ!」と弁護士は、アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチに向かっていった。そして、沈うつな様子でカレーニンに自分のそばを通らせて、ドアをしめた。
「いかがです、お掛けなさいませんか?」と彼は、さまざまな書類のごちゃごちゃとのっている事務卓のそばの肘掛けいすをさし、そして自身は、議長席のようなところについて、短い指に白いむく毛の一面に生えた小さな手をこすりながら、頭をかしげた。が、彼がそういう姿勢におちつくかおちつかないかに、テーブルの上を一匹の蛾《が》が飛びすぎた。と、弁護士は、この人にはとても期待しうべくもなかった敏捷《びんしょう》さをもって、さっと手をほどいてその蛾をとらえ、そしてふたたび以前の姿勢にかえった。
「わたくしの用件をお話するまえに」とアレクセイ・アレクサーンドロヴィッチは、びっくりしたように弁護士の挙動を見おわってから、いった。
「あらかじめ申しあげておきたいのは、わたくしがあなたにお願いする事件については、絶対に秘密を守っていただきたいので」
やっと見えるくらいの微笑が、だらりとたれた弁護士の赤い口ひげを動かした。
「自分の依頼された事件の秘密が守れないようでは、わたくしも弁護士ではいられませんですよ。しかし、もし何か証明でもご入用でしたら……」
アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチは彼の顔をちらと見やって、その灰色の、利口そうな目が笑っているのを、もう何もかもちゃんと知っているらしいのを、見てとった。
「わたくしの名は、ごぞんじでしょうな?」とアレクセイ・アレクサーンドロヴィッチはつづけていった。
「ぞんじております。それからあなたが」と、彼はまたしても蛾《が》をとらえた。「りっぱな活動をなすっていらっしゃることも、すべてのロシア人同様ぞんじております」と、弁護士は頭をさげていった。
アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチは気力を集めながら、ほっとひとつため息をついた。しかし、一度心をきめると、彼はもうわるびれず、口ごもることもなく、二、三の言葉には力をこめたりしながら、例の金切り声で話しつづけた。
「わたくしには不幸なことがあるのでしてな」と、アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチははじめた。「わたくしは欺かれた夫なのです。で、法律的に妻と関係をたとう――つまり、離婚をしたいと思うのですが、ただその場合に、むすこを母親の手へ渡したくないと思うのです」
弁護士の灰色の目は、笑うまいとつとめていたが、制しきれない喜ばしさにおどっていた。そしてアレクセイ・アレクサーンドロヴィッチは、そこに、ひとり有利な注文を受けた人の喜ばしさばかりでなく、勝利と歓喜とのあることを、彼がかつて妻の目のなかで見たことのある、あのまがまがしい輝きにも似た輝きのあることを、見てとった。
「では、あなたはなんですね、離婚遂行のために、わたくしの力をかりたいと、こうおっしゃるのですね?」
「そうです、そのとおりです。しかし、まえもっておことわりしておきたいのは、わたくしがあなたの注意を悪用しているかもしれないということです。わたくしが伺ったのは、ただあらかじめあなたにご相談を願いたいと思ったからで。わたくしは離婚を望んではいます、けれども、わたくしにとって大切なのは、それを遂行する形式なのです。ですから、もしその形式がわたくしの要求に合致しないとなると、わたくしは法律上の手続きをとることを中止してしまいそうな気がするのです」
「いや、それはいつの場合にもそうしたものです」と、弁護士はいった。「それにその点は、いつだってお心しだいでよろしいのですから」
弁護士は、自分のおさえきれない喜びを色に出しては、訴訟依頼者の気をわるくすることになるかもしれないと感じながら、目をアレクセイ・アレクサーンドロヴィッチの足もとへ落とした。彼は自分の鼻さきを飛んでいる蛾《が》を見つけてちょっと手を出しかけたが、アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチの地位にたいする尊敬から、それをとらえることはあきらめた。
「この問題についての法律上の概略は、わたくしにもわかっているのですが」と、アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチはつづけた。「それにしてもじっさいには、こういうふうの問題は、どんなふうに処理されているか、その形式を知りたいと思いましてね」
「つまり、あなたのお望みというのは」と弁護士は目をあげないで、まんざらいやでもない様子で自分の訴訟依頼者の話の調子を受けながら、答えた。「あなたのご希望を実現しうる方法を、くわしく申しあげればよろしいわけでしょう」
そして、アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチのうなずくのを見て、彼は言葉をつづけた。ただときどきちらと、アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチの顔の赤いしみをぬすみ見ながら。
「わが国の法律によりますと、離婚はですな」と彼は、わが国の法律という言葉にちょっと不賛成らしい調子をひびかせていった。「ご承知のとおり、つぎのような場合にだけできることになっております……ちょっと待ってくれ!」と彼は、戸口へ顔を出した助手のほうへ向かっていったが、やはり立って行って、ふた言み言話してから、ふたたび席についた。「つまり、こういう場合ですな、夫婦相互の肉体上の欠陥、それから無消息の五年間の不在」と彼は、むく毛の一面に生えた短い指を折りながらいった。「それから姦通。(この言葉を彼は、いかにも満足げに発音した)そして以上をなお細別すればですな、(彼はなおその太い指を折りつづけた。この三つの場合と細別とは、同一視すべきでないことが明白だったにもかかわらず)すなわち夫ないし妻の肉体上の欠陥、それから、夫ないし妻いずれかの姦通」と五本の指が全部ふさがってしまったので、彼はそれを開きながら、言葉をつづけた。「もっとも、これは理論上の見かたですが、しかし、あなたはいま、それがじっさいに適用される場合のことをご承知になりたいために、わざわざおはこびくだすったこととぞんじます。で、わたくしとしましては、先例を参照しまして、実際上の離婚はすべて、つぎのような場合におこることを申しあげなければならないのであります。まずわたくしの考えるところでは、肉体上の欠陥などという問題は、そうざらにあることではなし、無消息の不在ということも、そんなにありうることではありませんから……」
アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチは、同意するように頭をさげた。
「で、つまり、つぎのような場合にかぎられることになるのですな。すなわち、配偶者のいずれかが姦通した場合、相互の同意による罪証明示の場合、およびこのような同意を無視した不本意な罪証明示の場合。しかし、最後の場合は、じっさいにはあまりないものといわなければなりません」と弁護士はいった。そして、アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチの顔をちらと見やって、口を結んだ。ちょうど拳銃を売る人が、あれこれと違った武器の性能をのべたてたあとで、客の選択を待つときのように。しかし、アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチが黙っていたので、弁護士はまた言葉をつづけた。
「一ばん普通にある単純な、そして合理的なやりかたは、わたくしの考えるところでは、双方の合意による姦通の場合ですな。もっとも、わたくしにしましても、教養のない人と話す場合には、こんなふうの言いかたはいたしませんがね」と弁護士はいった。「しかし、あなたは十分おわかりのことと思いますので」
ところが、アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチは、かなり頭が混乱していたので、双方の合意による姦通の合理性なるものを、すぐには理解することができなかった。そして、その目のなかに疑惑の色をあらわした。しかし、弁護士はすかさず彼を助けた。
「そうなってはもうだれしも、いっしょに暮らしていくことはできません。――それは事実です。で、もし双方が、その点で一致さえすれば、あとのいろいろな細かいことや形式などは、まったくなんでもなくなります。そして同時に、これが最も単純な、最も確実な方法なのです」
アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチは、そこで初めてはっきりと理解した。しかし彼には、宗教上の要求があって、それがそうした方法の容認をさまたげた。
「それは、わたくしの場合では問題外ですな」と彼はいった。「すると、わたくしにとって可能である場合はただひとつしかありません。すなわち、わたくしの手もとにある数通の手紙によって確認される、不本意な罪証明示というやつですな」
手紙という言葉に、弁護士は口もとをひきしめ、そして細い、あわれむような、さげすむような声をだした。
「なるほど、しかしですな」と、彼は言いだした。「こういう種類の事件になりますと、ごぞんじのとおり、宗務局によって決定されるものですからね。そして坊さんというものは、こういう種類の事件になると好んで、きわめて微細な点にまで立ち入ってせんさくしたがるものですからね」と彼は、僧侶たちの趣味に同情するような微笑をうかべていった。「もちろん、手紙というものも、ある程度の証明にはなります。しかし、証拠というものは、直接の方法、すなわち証人というものによってえられなければならないのです。で、要するに、もしあなたがわたくしにご信頼くださるのでしたら、適用すべき手段の選択は、いっさいわたくしにおまかせくださいませんか。結果を望む者は、手段をも容認するわけですからな」
「とすると」と、急に青くなって、アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチは言いかけた。が、そのとき弁護士は立ちあがり、ふたたび戸口のほうへ、話をさえぎった助手のほうへ、出て行った。
「その婦人にいってくれたまえ。わたくしどもは安事件はあつかいませんて!」彼はこういって、アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチのほうへもどってきた。
その席へもどってくるみちで、彼は目だたないように、また一匹の蛾《が》をとらえた。『このぶんではおれのレップス(絹布のカーテン)も、夏までにはみごとなものになってしまうぞ!』と彼は、しかめつらをしながら考えた。
「それで、あなたのおっしゃいますのは……」と彼はいった。
「いや、わたくしの決心は、書面でお知らせすることにしましょう」と、アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチは立ちあがりながらいって、テーブルにつかまった。そしてしばらく無言で立っていてから、彼はいった。「あなたのお言葉によると、わたくしは、どうやら離婚を行なうことができるという結論に達しられそうです。ところで、あなたのほうの条件もひとつ、ついでにうかがっておきたいのですが」
「なんだってできますとも、あなたのほうで、完全な行動の自由さえわたくしにお与えくだされば」と弁護士は、問いには答えないでいった。「それで、そのご通知は、おおよそいつごろいただけることになりましょうな?」と弁護士は、ドアのほうへ動きだしながら、そして、目とエナメルの編みあげぐつとを光らせながら、たずねた。
「一週間後に。では、そのせつこちらからも、この事件をお引き受けくださるかどうか、そしてどういう条件でお引き受けくださるか、そのへんのこともご返事願いたいと思います」
「いや、承知いたしました」
弁護士はうやうやしくえしゃくをして、その訴訟依頼者をドアの外へ送り出し、そしてひとりになると、自分の喜びに身をまかせた。こうしてすっかり上きげんになってしまったので、つい日ごろの規則をも破って、手数料をまけてくれという婦人にはまけてやるし、ついには、なあにこの冬までには、シゴーニンの家のように、調度類を全部ビロード張りにしてしまうからと決心して、蛾《が》をとらえることもやめてしまった。
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六
アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチは、八月十七日の委員会では輝かしい勝利をおさめたが、その勝利の結果は彼を欺いた。異種族の生活状態をあらゆる関係において研究するための新しい委員会が、アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチの刺激によって異常な速度と意気ごみとで組織され、目的地へ派遣された。三か月後に、報告がもたらされた。異種族の生活状態は、政治的・行政的・経済的・人種学的・物質的および、宗教的見地から研究された。あらゆる問題にたいして、りっぱな解答があたえられ、その解答は、少しも疑う余地のないものであった。というのも、それがみな、つねに誤謬《ごびゅう》におちいりやすい人間の思想の産物ではなくて、職務上の活動の所産だったからである。それらの解答はいずれもみな、村役場や牧師の報告を基礎にした郡長や牧師監の報告、そのまた報告を土台にした知事や僧正の報告という、公けの材料の結果であった。したがって、それらの解答はすべて、疑う余地のないものだったのである。たとえば、なぜときどき凶作があるか、なぜ住民が自分たちの信仰に固執《こしつ》しているのかというようなすべての問題――公務機関という便宜がなくてはとうてい解決されない、また永久に解決の見こみのない問題にたいして、明瞭な、疑う余地のない解決がえられたのである。そしてその解決がみな、アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチの意見にとって、有利であった。
ところが、ストゥレーモフは、このまえの会議のときに手いたい口惜しさをなめていたので、委員の報告を受け取るとともに、アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチの思いもかけぬ術策をめぐらした。ストゥレーモフは、数人の委員たちを自分のほうへ抱きこんで、とつぜんアレクセイ・アレクサーンドロヴィッチの味方に変わり、カレーニンが提出した法案の実現を熱心に援護したばかりでなく、精神は同じものであるが、なおいっそう極端な法案まで提出した。これらの法案は、アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチの根本思想から見ると、むしろ反対の方向へ強められているものであったが、それが実施されることになってはじめて、ストゥレーモフの術策だったことがわかってきた。つまり、これらの方法は、あまり極端に走っていたので、たちまちその愚劣さを暴露《ばくろ》するにいたり、政府当局も、世論も、聡明な婦人たちも、新聞も、すべてのものが、その法案そのものにたいし、またその法案の生みの親であるアレクセイ・アレクサーンドロヴィッチにたいして、思い思いの憤懣《ふんまん》を投げつけながら、一せいにこの法案を攻撃しはじめた。
と、ストゥレーモフはストゥレーモフで、自分はただ、めくらめっぽうにカレーニンの計画にしたがっただけなのだ、で、いまでは自分も、こうなったことに驚きとまどっているという顔をして、身を退いてしまった。このことは非常にアレクセイ・アレクサーンドロヴィッチを傷つけた。が、アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチは、健康はおとろえ家庭には深い悲しみがあったにもかかわらず、なかなか屈服しなかった。委員のなかには分裂が生じた。ストゥレーモフを頭にいただいている一部の委員たちは、自分たちはアレクセイ・アレクサーンドロヴィッチに主宰されている、報告をもたらした調査委員会を信じたのがわるかったのだと称して、自分たちのあやまちを弁解し、そして、その委員会の報告は愚劣なもので、ただ書きちらされた|ほご《ヽヽ》にすぎないと言いはった。アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチは、報告書類にたいするこういう革命的な態度の危険を認めた一部の委員たちを味方として、調査委員の作成した材料を支持しつづけた。その結果として、上流社会はもちろん、一般の社会においても、いっさいの見解が混乱してしまい、そしてこの問題は、あらゆる人々に極度の興味をいだかせたにもかかわらず、だれひとりとして、はたして異種族が貧窮と滅亡におちいっているのか、それとも繁栄しつつあるのか、わかるものはなかったのである。
アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチの立場はそのために、また一部は、妻の不貞から彼の上へ降りかかってくる侮辱のために、はなはだ不安定なものになってきた。そのためにアレクセイ・アレクサーンドロヴィッチは、ひとつの重大な決心をとった。委員会の驚いたことに、彼は親しくその事件を調査するために、みずから同地方へ出張する許可をこうむねを申し出た。そしてその許可をうると、アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチは、遠い地方にある数県へ向かって出発した。
アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチの出発は、非常な人気をよびおこした。そればかりでなく、彼は、いよいよ出発というまぎわになって、目的地までの旅費として支給された駅馬十二頭の代を、書面をもって正式に返却したので、人気はさらにわきたった。
「あれはたいへん、りっぱななさりかただと思いますわ」と、このことについてベーッシは、ミャーフキイ公爵夫人と話し合った。「いまでは、どこにだって鉄道が通じていることを、だれ知らぬものもないのに、なんで駅馬代なんか支給する必要がありましょうね?」
しかし、ミャーフキイ公爵夫人は不同意であった。トゥヴェルスコーイ公爵夫人の意見は、彼女の心をいらだたせさえした。
「あなたなどは、そうおっしゃるのもよろしゅうございますがね」と彼女はいった。「なにしろ、何百万という、わたしなぞには見当もつかないほどのお金持ちでいらっしゃるんですから。けれど、わたしなどは、たくが夏期巡察に出張するのが、それはそれは楽しみなんでございますよ。たくには旅行は健康にもよろしいし、楽しみでもありますし、わたしのほうではまた、そのときの出張費で馬車や御者の雑用を出すことに、ちゃんときめてあるんですから」
遠隔の諸県へ向かうみちすがら、アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチは、三日間モスクワに滞在した。
モスクワ到着の翌日、彼は総督を訪問するため馬車で出かけた。いつも馬車やつじ馬車がごたごた集まっているガゼートヌイ(新聞)横丁の四つつじで、アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチはとつぜん、とてもふり向かないではいられないような高調子の、愉快げな声で、自分の名の呼ばれたのを聞きつけた。と見ると、そこの歩道の片すみに、流行の短い外套を着、同じ流行の山の低い帽子を横っちょにかぶったステパン・アルカジエヴィッチが、赤いくちびるにかこまれた白い歯の微笑で輝きながら、いかにも快活な、若々しい、そして輝くような様子で立っていて、切迫した執拗《しつよう》な調子で叫びながら、馬車をとめさせようとしているのだった。
彼は、そのかどに立ちどまっていて、ビロードの帽子をかぶった婦人の頭と、ふたりの子供の小さい頭とがつき出ていた馬車の窓に片手でつかまり、にこにこしながら義弟をさしまねいていたのである。と、その婦人もまた、善良らしい微笑をうかべて、同じように、アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチを手まねきしていた。それは、子供たちを連れたドリーであった。
アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチは、モスクワではだれにも会いたくないと思っていたが、とりわけ妻の兄には会いたくなかった。彼は軽く帽子をあげて、通りすぎようとしたが、ステパン・アルカジエヴィッチは、彼の御者に馬車をとめるように命じて、雪の上を彼のほうへかけてきた。
「やあ、知らせもしないなんてけしからんじゃないか! もうまえから来てるのかね? ぼくは昨日デュッソへ行って、記名板の中に『カレーニン』という名を見たんだけれど、まさか、きみだとは思わなかったよ!」とステパン・アルカジエヴィッチは、馬車の窓へ頭をつっこみながらいった。「でなけりゃ、むろん押しかけたんだがね。しかし、とにかく、きみに会えて、じつにうれしい!」と彼は、雪を払い落とすために、足と足とをうち合わせながらいった。「だが、知らせてもくれないなんて、じつにけしからんよ!」と、彼はくりかえした。
「時間がなかったんですよ、非常に忙しいんでね」とアレクセイ・アレクサーンドロヴィッチはぶあいそうに答えた。
「とにかく、家内のところまで行こう。あれもきみには非常に会いたがってるんだから」
アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチは、寒さに感じやすい足をつつんでいた膝掛けをとって、馬車から出ると、ダーリヤ・アレクサーンドロヴナのほうへ、雪の上を渡って歩いて行った。
「まあ、どうしたことなんでしょう、アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチ。なんだってあなたは、そんなにわたくしどもから逃げようとなさいますの?」と、ドリーはほほえみながら、いった。
「どうも、非常に忙しかったもんですからね。でも、お目にかかれてうれしいですよ」と彼は、こうなったのに当惑していることをはっきりと示すような口調でいった。「ご健康はいかがですか?」
「それよりも、あの、わたくしのかわいいアンナはいかがですの?」
アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチは、なにやらうめくようにいって、そのまま行ってしまおうとした。しかし、ステパン・アルカジエヴィッチが彼をひきとめた。
「では、明日、わたしたちはこうすることにしよう。ドリー、このひとを晩餐にお招きしなさい! そして、コズヌイシェフとペスツォーフとを呼んで、このひとにモスクワのインテリゲンチャ(知識階級)をごちそうしよう」
「ではどうぞ、お出かけくださいまし」と、ドリーはいった。「五時に宅のほうでお待ちすることにいたしますわ。もっとも、ごつごうで六時でもよろしゅうございます。それから、あの、わたくしのかわいいアンナはどうでございますの? もうずいぶん久しく……」
「あれは大丈夫です」アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチは、眉《まゆ》をひそめながらうめくようにいった。「じつにうれしいです!」こういって彼は、自分の馬車のほうへ歩きだした。
「おこしくださいますでしょうね?」とドリーは叫んだ。
アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチはなにかつぶやいたが、行きかう車馬の音にさまたげられて、ドリーはそれを聞きわけることができなかった。
「ぼくは明日訪問するよ!」と、ステパン・アルカジエヴィッチが彼に叫んだ。
アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチは馬車に乗ると、自分も見ず、人にも見られないように、そのなかに深く身をうずめた。
「へんな男だね!」とステパン・アルカジエヴィッチは妻にいって、時計を見てから、顔の前で、妻と子供たちとに愛情を示すしぐさを手でして見せて、歩道の上を元気よく歩きだした。
「スティーワ! スティーワ!」と、ドリーは顔をあかくして叫んだ。
彼はふり返った。
「わたし、グリーシャとターニャとに、外套を買ってやらなければなりませんのよ。少しお金をくださいな」
「だいじょうぶだよ、勘定はわたしがすると言いなさい!」そして彼は、おりから馬車で通りかかった知人のほうへ、快活にひとつ頭を振って、そのまま見えなくなってしまった。
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七
翌日は日曜であった。ステパン・アルカジエヴィッチは、途中大劇場のバレーの練習にたちよって、あらたに彼の世話で入座した美しい踊り子のマーシャ・チビーソワに、前の晩約束しておいたさんご珠《じゅ》をあたえ、劇場の昼の暗さを利用して、贈り物をもらった喜びで輝いている、かわいい彼女の顔に、きわどいところで接吻した。さんご珠の贈り物をするほかに、彼には、踊りのすんだあとで彼女と会ううちあわせをする必要があったのである。彼は、踊りのはじまるまでにはどうしても来ることのできない理由を彼女に説明してから、最後の幕までにはかならず来て、彼女を晩餐に連れて行こうと約束した。
劇場からステパン・アルカジエヴィッチは、アホートヌイ街へまわって、自分で、晩餐の用意に魚とアスパラガスとをえらんで求め、そして十二時にはもう、デュッソに着いていた。そこで彼は、さいわいにも同じ旅館に滞在していた三人の人を訪問しなければならなかった。――つまり、最近外国から帰ってきてそこに泊まっていたレーヴィンと、まだこのごろ、やっと高い地位にのぼったばかりで、モスクワへ視察に来ている彼の局の新長官と、それから、どうしても晩餐に連れて帰らなければならない義弟のカレーニンと、この三人であった。
ステパン・アルカジエヴィッチは、会食をすることが好きであったが、とりわけ自宅で、あまり大げさでない、食物にも飲み物にも、客の選びかたにも、心を用いた食卓をととのえることが好きであった。今日の晩餐の献立は、自分でも大いに気にいっていた――生きている河すずきとアスパラガス、la piece de resistance(おもなごちそう)としては――すばらしいがあっさりしたローストビーフ、そして、それらにふさわしい酒、以上は食物と飲み物とのことであるが、客としては、キティーとレーヴィンがくるので、それを目だたなくするために、いとこがひとりと、若いスチェルバーツキイが来ることになっており、またお客の|おもなごちそう《ヽヽヽヽヽヽヽ》としては、コズヌイシェフと、アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチとが来るはずになっていた。セルゲイ・イワーノヴィッチ・コズヌイシェフはモスクワっ子で哲学者、アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチはペテルブルグっ子で実際家であった。彼はまだそのほかに、有名な変わり者の熱情家で、自由思想家で、饒舌家で、音楽家で、歴史家で、愛すべき五十歳の青年で、コズヌイシェフやカレーニンのためにソースともなり|つま《ヽヽ》ともなるべき、ペスツォーフをも招くてはずをしていた。この男なら、きっと彼らを興奮させて、うまくかみあわせるにちがいなかった。
森にたいする二回目の支払金は商人の手からはいって、まだそっくりそのまま残っているし、ドリーもこのごろは、とてもやさしく、あいそがよかったので、この晩餐の企《くわだ》ては、あらゆる点で、ステパン・アルカジエヴィッチを喜ばした。彼はこのうえない上きげんになっていた。もっとも、いくぶんおもしろくない、ふたつの事情があるにはあったが、そのふたつの事情も、ステパン・アルカジエヴィッチの心で波うっている善良な上きげんの海のなかにおぼれてしまっていた。そのふたつの事情というのは、こうであった――第一は、きのう往来でアレクセイ・アレクサーンドロヴィッチに会ったとき、彼が自分にたいしていかにもよそよそしく、峻厳《しゅんげん》だったのに気がついたこと、そして、そのときのアレクセイ・アレクサーンドロヴィッチの顔色と、モスクワへ来ていながら訪ねても来ねば、来ていることすら知らせてもよこさなかったことを、かねてうわさに聞いていたアンナとウロンスキイとの事件と結びあわせて、彼ら夫妻のあいだにおもしろくない事情があるに相違ないと推定したことであった。
これがひとつの不快事であった。もうひとつのいくぶん不愉快なことというのは、こんどの長官があらゆる新任長官のごたぶんにもれず、朝は六時に起きて馬のように働き、部下にも同じ働きを要求する、恐ろしい人間だという評判を、早くもたてられていた点であった。そればかりではなかった、この新長官にはなお、礼儀知らずの|くま《ヽヽ》のような男だという評判もあったし、なおそのうえ、うわさによると、彼は、前長官が属していたばかりでなく、ステパン・アルカジエヴィッチ自身も今日まで属していた傾向とは、正反対の側に属する人だということであった。きのうステパン・アルカジエヴィッチは、制服を着用して出勤したが、すると新長官はたいへんにあいそよく、まるで旧知のような態度でオブロンスキイと話しこんだ。で、ステパン・アルカジエヴィッチは、今日フロック・コートで彼を訪問することを、自分の義務と考えたのであった。そこで、新長官がへんな態度で自分を迎えはしまいかという考えが、つまり、もうひとつの不愉快な事情であった。しかし、ステパン・アルカジエヴィッチは本能的に、何もかもがまるく|おさまるであろう《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》ことを感じていた。『どんな人だって、どんな人間だって、みんなわれわれ同様に罪人《つみびと》なのだ。なんでいじわるをしたり、けんかをしたりする必要があろう?』こう彼は、旅館へはいって行きながら考えた。
「よう、ワシーリイ」と彼は、帽子を横っちょにかぶって廊下を通って行きながら、顔なじみのボーイに向かっていった。「きみはほおひげを生やしたね? レーヴィンは七番だったね、うん? どうかひとつ案内を頼むよ。それからアニーチキン伯爵は(これが新長官であった)ご面会くださるかどうか、きいてみてくれないか」
「かしこまりました」と、ワシーリイは笑顔で答えた。「ずいぶんお見かぎりでございましたね」
「いや、昨日も来たよ。ただ、別の入口からはいったからね。これが七番だね?」
ステパン・アルカジエヴィッチがはいっていったとき、レーヴィンは部屋のまん中に立ち、トゥヴェーリの百姓を相手に、ものさしでなまなましい|くま《ヽヽ》の毛皮をはかっていた。
「やあ、きみたちがとったのかい?」と、ステパン・アルカジエヴィッチは叫んだ。「すばらしい毛皮だね! 牝《めす》かい? いよう、アルヒープ!」
彼は百姓の手をひとつ握っておいて、外套も帽子もぬがずに、どかりといすに腰をおろした。
「まあ、帽子でもとって、ゆっくりしたまえ!」とレーヴィンは、彼の帽子をとってやりながらいった。
「いや、どうも、その暇がないんだよ。いまもほんの一分間のつもりでよっただけなんだ」と、ステパン・アルカジエヴィッチは答えた。彼は外套の前をはだけたが、やがて脱いでしまって、レーヴィンを相手に、猟のことや、身のはいった親しい話をしながら、まる一時間もすわっていた。
「さあ、聞かせたまえ。外国では何をしてきたのか? どこにいたのか?」とステパン・アルカジエヴィッチは、百姓が出て行ったときに、いった。
「ああ、ぼくはドイツにも、プロシアにも、フランスにも、イギリスにもいたよ。しかし、首都にいたのではなく、工業地にいたんだ。そして珍しいものをどっさり見てきた。とにかく、行ってみてよかったと喜んでるよ」
「ああ、労働者の厚生問題にたいするきみの思想はぼくも知ってるさ」
「いいや、まるで違うよ。ロシアには労働者の問題なんぞてんでありゃしないよ。ロシアにあるのは小作百姓と土地との関係という問題だけだよ。そりゃあちらにも、こういう問題もあるにはあるがね。しかしあちらのは、こわれたものを修繕するのだ、われわれのは……」
ステパン・アルカジエヴィッチは、注意ぶかくレーヴィンの言葉をきいていた。
「そうだ、そうだ!」と彼はいった。「そりゃまったく、きみの説は正しいかもしれない」と、彼はいった。「しかし、ぼくは、きみが非常に元気なのが何よりうれしいよ。|くま《ヽヽ》狩りをしたり、仕事をしたり、いろんなことに興味をもってるのがうれしいよ。が、スチェルバーツキイはこんなことをいっていたぜ、――きみはあの男に会ったそうだね、――きみがなんだかばかにしょげていて、たえず死ということばかり口にしていたなんて……」
「ああ、それがどうしたというんだね? ぼくはいまだって、死について考えることをやめてはいないよ」とレーヴィンはいった。「じっさい、もう死んでいいときだよ。何もかもつまらんからねえ。ついでにひとつ、きみにぼくの真情を披瀝《ひれき》しようか――そりゃぼくだって、自分の思想や仕事は非常にとうといものだと思っている。しかしだ、まあ、ようくこのことを考えてみたまえ。だいいち、われわれのこの世界にしてからがだ、ひとつの小さい遊星の上に生じた、ひとつの小さな黴《かび》にすぎないじゃないか、そしてわれわれはこの世界に、なにか偉大なもの――思想とか事業とかがありうるように考えている。が、そんなものはみんな、砂粒のようなものなんだ」
「おいおい、そんなことはきみ、この世界みたいに古い考えだよ!」
「うん、古いさ。しかしだ、いいかね、はっきりとそれがわかってくると、なんとなく、すべてのことがつまらなくなってくるんだよ。自分は今日明日のうちに死んで、あとに何ひとつ残らないということがわかると、何もかもが非常につまらなくなるんだよ! そりゃぼくにしたって、自分の思想は非常に重大なものだと信じている。が、それが万一実行されたところで、この牝《め》|ぐま《ヽヽ》をひねくるように、けっきょく、つまらないことになるのだ! そこで人は、ただ死ということを考えまいためばかりに、猟や仕事に気をまぎらせながら一生を送っていくのだ」
ステパン・アルカジエヴィッチは、レーヴィンの話を聞きながら、優しくいたわるようなえみをうかべた。
「うむ、もちろんそうさ! つまりきみもぼくのほうへ近よってきたことになるのだ。きみは、ぼくが人生に快楽を求めているといって、さかんに攻撃したものだった。覚えてるだろう? だからさ、なあ道徳家、そうむやみに、いかめしいことばかりいってるもんじゃないんだよ!……」
「いや、しかし、人生にはやはりいいこともあるさ……」とレーヴィンはまごついた。「いや、ぼくにはわからん。ぼくの知ってるのはただ、人はじきに死んでしまうということだけだ」
「なんで、じきなんていうんだい?」
「しかしだ、いいかね、死ということを考えると、人生の魅力は少なくなるが、そのかわり心はずっとおちついてくるよ」
「いや、どうしてどうして、しまいになるほど、かえって楽しいものだよ。それはそうと、ぼくはもう行かなくちゃならん」とステパン・アルカジエヴィッチは、十度めの腰をあげながらいった。
「ああ、いや、まあいいじゃないか!」とレーヴィンは、彼をひきとめながらいった。「じゃあ、こんどはいつ会おう? ぼくは明日帰るんだが」
「やあ、ぼくのおめでたさかげんはどうだ! そのために、わざわざこうして来ていながら……今日はぜひひとつ、うちへ晩餐にやって来てくれ。きみの兄貴もくるし、ぼくの義弟のカレーニンもくるよ」
「じゃああのひとは、ここにいるのかい?」とレーヴィンはいった。そして、キティーのことをききたいと思った。彼は、彼女がこの冬の初めに、外交官の妻になっているペテルブルグの姉のもとへ行っていたことを聞いていたが、もう帰って来ているかどうかは知らなかった。しかし彼は、それをたずねることは思いかえした。『来たって、来なくたって――同じことだ』
「では、くるかね?」
「ああ、むろんだ」
「では五時に、平服でね」
そして、ステパン・アルカジエヴィッチは立ちあがると、階下の新長官のほうへおりて行った。本能はステパン・アルカジエヴィッチを欺かなかった。恐ろしいという評判の新長官は、きわめて温厚な人であったことがわかった。ステパン・アルカジエヴィッチは、彼とランチをともにして、ついそこにすわりこんでしまい、三時すぎになってやっと、アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチのところへ行った。
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八
アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチは祈祷式からもどってくると、その朝は宿で時を過ごした。その朝彼には、ふたつのさしせまった用件があった――第一は、ペテルブルグへ行く途中で現在モスクワに滞在している異種族の代表者たちと会見して、適当な指導をあたえてやることであり、第二は、例の弁護士に約束した手紙を書くことであった。その代表者たちは、アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチの発議で呼びよせられたのであったが、いろんな不安と危懼《きぐ》の念をすら蔵していたので、アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチも、モスクワで彼らに会うことのできるのを、非常に喜んでいたのであった。この代表者連中は、自分たちの役目や義務については、なんらの理解をも持っていなかった。彼らはただいちずに、自分たちの要求と、じっさいの状態とを陳述《ちんじゅつ》して、政府の援助をこうことが自分たちの使命だと確信していて、その陳述や要求のあるものが、かえって反対党を支持することになり、したがって、かんじんの問題を台なしにしてしまうことになることなどは少しもわきまえていなかったのである。アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチは、長い時間彼らと会談して、彼らのために彼らがその範囲を逸脱《いつだつ》してはならぬプログラムを作ってやり、さらに彼らを返してから、ペテルブルグへあてて、彼らの指導を依頼してやる手紙を書いた。この問題についての最も有力な援助者は、伯爵夫人リディヤ・イワーノヴナでなければならなかった。彼女は、代表団のことにかけては専門家で、なんぴとといえども、彼女のように代表者たちを励ましたり、彼らにとるべき真の方向を示したりしうるものはなかったのである。
その件を片づけてから、アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチは、弁護士への手紙をしたためた。彼はいささかのちゅうちょもなく、相手に、彼の独断によって行動する自由をあたえた。その手紙のなかへ、彼は、アンナから取り上げた紙ばさみのなかにあった、ウロンスキイからアンナにあてた三通の手紙を封入した。
アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチは、二度と家族のもとへは帰るまいという覚悟で家を出たときから、ついで弁護士のところへ行って、たったひとりの人ではあるが、自分の計画について話してしまったときから、ことにこの人生の一事実を、紙の上の問題にうつしてしまったときから、しだいにその計画になれてきて、今ではもうはっきりと、その実行の可能を認めるようになっていたのである。
彼がステパン・アルカジエヴィッチの声の高らかなひびきを聞きつけたのは、ちょうどこの弁護士への手紙に封をしていたときであった。ステパン・アルカジエヴィッチは、アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチの従僕と言い争って、自分の来たことを主人に取り次がせようと言いはっていた。
『同じことだ』と、アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチは考えた。『いや、かえってそのほうがいいだろう。すぐこの場で、あの男の妹にたいするおれの立場を説明してやろう。そして、なぜおれはあの男のところで食事をすることができないのか、その理由を説明してやろう』
「お通ししていい!」と彼は書類をかき集めて、それを吸取り紙つき紙ばさみのなかへはさみながら、声高にいった。
「そら、どうだ、きさま、うそをつきやがって。おいでになるじゃないか!」とステパン・アルカジエヴィッチの声が、彼を通すまいとした従僕に答えた。そして歩きながら外套をぬぎぬぎ、オブロンスキイは部屋へはいって来た。「ああ、きみが家にいてくれてじつにうれしい。ではひとつどうか……」とステパン・アルカジエヴィッチは快活に言いはじめた。
「わたしは行くわけにはまいりませんよ」と、アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチは立ったまま、客を掛けさせもしないで、冷やかにいった。
アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチは、自分がいま離婚の訴訟を起こそうとしている妻の兄にたいして、いつかはそうならなければならない冷やかな態度を、いますぐにとろうと思ったのだったが、それにしては、ステパン・アルカジエヴィッチの心の岸からあふれ出る好意の海を、考えに入れていなかったのである。
ステパン・アルカジエヴィッチは、その輝かしい、朗らかな目を広くみはった。
「なぜこられないんだい? 何か理由があるのかね?」と彼は、困ったような顔をして、フランス語でいった。「だって、それはもう約束ずみの話じゃないか、われわれはみなきみのくるのをあてにしてるんだからねえ」
「では、ひとつ、あなたのところへ行かれない理由をお話しましょう。それは、これまでわたしたちのあいだにあった親戚関係が、早晩、断たれなければならないからです」
「どうして? それはまたどうしてだ? どういうわけだ?」と、ステパン・アルカジエヴィッチは微笑をうかべていった。
「その理由は、わたしがあなたの妹、わたしの家内と、離婚の訴訟を起こしているからです。わたしはどうしても……」
しかし、アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチがまだ自分の言葉を言いつくさないうちに、ステパン・アルカジエヴィッチは早くも、まったく彼の思いもうけなかった態度に出ていた。ステパン・アルカジエヴィッチは、おおと叫んで、どかりと肘掛けいすに腰をおろした。
「いや、アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチ! きみは、何をいってるんだ!」と、オブロンスキイは叫んだ。と、その顔には、苦痛の色がえがきだされた。
「しかし、それは事実です」
「失礼だが、ぼくは、とてもそんなことを信ずることはできない、できない……」
アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチは、自分の言葉が、自分の期待しただけの効果をもたなかったこと、これはどうしても、もう少しくわしい説明をしなければなるまいということ、が、いかに説明したところで、自分とこの義兄との関係は、依然として変わらないであろうということなどを感じながら、腰をおろした。
「そうです、わたしは、離婚を要求せねばならぬ苦しいはめにおちいらされたのですよ」と、彼はいった。
「ぼくにひと言いわせてくれたまえ、アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチ! ぼくはきみが、りっぱな公明な男だということを知っている。またアンナだって――失礼だが、ぼくは、彼女にたいする自分の考えを変えるわけにはいかない――彼女だって、美しい、りっぱな女だということを知っている。というわけで、失礼ではあるが、ぼくはそれを信ずることができないんだよ。どうも何か、誤解があるのだとしか思われないのだ」と、彼はいった。
「そうですよ。もしこれが単に誤解でしたらねえ」
「いや、よろしい、ぼくにもわかる」と、ステパン・アルカジエヴィッチはいった。「だが、もちろん……ひと言だけ――急いではいけないよ。急いでは、ね、急いでは!」
「べつに急いだわけではありませんよ」と、アレクセイ・アレクサーンドロヴイッチは冷やかにいった。「だが、こういうことがらは、だれとも相談のできないことですからね。わたしは堅く決心しているんですよ」
「それは恐ろしいことだ!」とステパン・アルカジエヴィッチは、苦しげにため息をついていった。「だが、ぼくはもうひとつしてみたいことがある。ねえ、アレクセイ・アレクサーンロドロヴィッチ、お願いだから、ひとつそれをやってみてくれたまえ!」と、彼はいった。「ぼくの解するかぎりでは、手続きはまだはじめられたのではないようだ。だから、その手続きをはじめるまえに、一度ぼくの妻に会ってみてくれたまえ。そして、彼女に話してみてくれたまえ。彼女はアンナを妹のように愛しているし、またきみをも愛している。そして彼女は、ふしぎな女だ。お願いだ、ひとつ彼女に話してみてくれたまえ! どうか、お願いだ。ぼくへの友情としても、ぜひひとつ!」
アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチは考えに沈んだ。ステパン・アルカジエヴィッチは、彼の沈黙をさまたげずに、同情をもって彼の顔を見まもっていた。
「あれのところへ来てくれるね?」
「さあ、どうにもわかりませんね。これまで伺わなかったのも、じつはそのためなんですからね。わたしは、わたしたちの関係も当然かわるべきものと思ってるんですから」
「そりゃまたどうして? ぼくにはそれがわからないよ。失敬だがぼくは、きみがぼくにたいして、単なる親戚関係以外に、ぼくが常にきみにたいしていだいている友情と――心からなる尊敬との、たとい何分の一をでも、持っていてくれることを信じている」とステパン・アルカジエヴィッチは、彼の手を握りながらいった。「だからさ、万一きみのそのいまわしい想像が正しいとしても、ぼくはけっしてどちらをもいいとかわるいとか批判しないし、また将来もしようとは思わない。いぜん、ぼくには、ぼくたちの関係が、何がゆえに変えられなければならないのか、その理由がわからないんだ。しかしまあ、それはともかくとして、そうしてみてくれたまえ、妻のところへ来てみてくれたまえ」
「してみると、われわれは、この問題にたいしてはぜんぜん見解を異にしていますよ」と、アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチは冷やかにいった。「しかし、このことはもう口にしないことにしましょう」
「いや、それはいけない、なんできみにできないんだね? 今夜ちょっと食事にくるくらいのことが? 家内はきみをお待ちしているんだよ。お願いだ、来てくれたまえ、そして何よりまず、彼女にそのことを話してみてくれたまえ。彼女はふしぎな女だ。ほんとにお願いする。ぼくはひざまずいてきみに祈る」
「あなたがそんなに望まれるなら、あがることにしましょう」とアレクセイ・アレクサーンドロヴィッチは、ため息とともにいった。
そして話題を変えようと思って、彼は双方に興味のある問題――まださほどの年配でもないのに、急にそうした高い地位に任命されたステパン・アルカジエヴィッチの新長官についてたずねはじめた。
アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチは、前からアニーチキン伯爵を好まず、彼とはいつも意見を異にしていたが、いまは、勤務の上で打撃を受けた人の、地位のあがった人にたいする憎悪の念――勤めをしている者にはよくわかる憎悪の念を、おさえることができなかったのである。
「じゃあ何かね、きみはあの男に会ったのかね?」と、アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチは、いじのわるい嘲笑をうかべていった。
「ああ、会ったとも、昨日ぼくらの役所へやって来たからね。あれでなかなか、仕事もよくわかってるらしいし、たいへんな活動家らしいね」
「そう、だが、その活動力は、いったいなんに向けられているかねえ?」と、アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチはいった。「ひと仕事はじめようということにか、それとも、すでになされていることをやりなおすことにか? わが国の不幸は――紙の上の行政というやつだが、あの男はそのりっぱな代表者ですからね」
「しかし、ぼくは、まったく、あの人にたいしては非難すべきことを知らないね。もっともぼくは、あの人の傾向は知らない。が、ただこれだけは――あれはなかなかりっぱな人だということだけは、確かなもんだ」とステパン・アルカジエヴィッチは答えた。「ぼくはつい今まで、あの人のところにいたのだが、いやまったく、りっぱな人だよ、ぼくはいっしょにランチをしたので、あの人にオレンジ入りのぶどう酒の作りかたを教えてあげたよ。きみも知ってるだろう、この飲み物のことは。あれは非常にせいせいするからね。だから、あの人がそれを知らないなんて、ちょっとふしぎではあるがね。それがとても気にいってね。いや、じっさい、あれはいい人だよ」
ステパン・アルカジエヴィッチは時計を見た。
「や、これはたいへん、もう四時過ぎだ。ぼくはまだこれから、ドルゴヴーシンのところへよらなくちゃならん! では、どうぞ、食事に来てくれたまえ。きみにはちょっとわからんだろうが、きみはどんなにぼくや妻を失望させるかもしれないんだからね!」
アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチはいつかもう、彼を迎えたときとはぜんぜん違った態度で、義兄を送り出していた。
「約束した以上、きっと行くよ」と、彼はものうげに答えた。
「信じてくれたまえ。ぼくは恩にきるよ。ただぼくは、きみにしても後悔する気づかいはないと思うよ」と、ステパン・アルカジエヴィッチは笑顔で答えた。
そして彼は、歩きながら外套を着、従僕の頭を軽く片手でたたいて、笑いながら出て行った。
「五時に、平服でね、じゃあどうぞ!」と彼はもう一度、戸口のところまでひっ返して来て、叫んだ。
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九
もう五時をまわっていたので、主人自身がもどって来たときには、すでに二、三の客が来ていた。彼は車寄せのところで同時におちあったセルゲイ・イワーノヴィッチ・コズヌイシェフやペスツォーフといっしょになって家へはいった。このふたりは、オブロンスキイのいわゆる、モスクワ知識階級の主要なる代表者であった。このふたりは、性格からいっても、知能からいっても、尊重さるべき人物であった。彼らはまた、お互い同士でも尊敬しあっていたのだが、それでいて、ほとんどすべての問題で、ぜんぜんどうにもしようのないほど、互いに意見を異にしていた――が、それは、ふたりが互いに相反する党派に属していたからではなく、かえって、同じ陣営に属しながら、そのなかでおのおの特殊の陰影をもっていたがためであった(彼らの敵は、それを混同していたが)。しかも、このなかば抽象的な問題にかんする意見の相違くらい、始末のつけにくいものはないのであるから、彼らはいまだかつて一度も、意見の一致したことがなかったばかりでなく、もうとうの昔に、腹もたてないで、ただ相手の度しがたい迷妄《めいもう》をひそかに笑っているような習慣になっていた。
ステパン・アルカジエヴィッチが彼らに追いついたのは、ちょうど彼らが天気のことなど話しながら、戸口をはいったときであった。客間にはもう、公爵アレクサンドル・ドミートリエヴィッチ・スチェルバーツキイと、若いスチェルバーツキイと、トゥローヴツィンと、キティーと、カレーニンとが座についていた。
ステパン・アルカジエヴィッチはすぐに、彼がいないために客間の空気がうまく動いていないのを見てとった。ダーリヤ・アレクサーンドロヴナは、ねずみ色の絹の晴れ着をつけてはいたが、どうやら、子供部屋で別に食事をさせねばならぬ子供たちのことや、夫がまだ帰って来ないことなどに気をとられていて、夫がいなくては、この一座をうまくつきまぜていくことができなかった。
来客たちはみな、お客によばれた坊さんの娘のように(これは老公爵の言いぐさであった)どうしてこんなところへ来たのかしらといった顔つきで、ただ沈黙を避けるためだけに言葉をしぼり出しながら、すわっていた。人のいいトゥローヴツィンは、見るから自分を、勝手の違った世界へ来ているように感じているらしく、ステパン・アルカジエヴィッチを迎えたときの、その厚いくちびるの微笑は、口でいうように、こういっていた。「おいおい兄弟、きみはおれをえらい人たちのなかへ割りこませてしまったね!『花の城』(料理屋の名)で一杯《いっぱい》やるとでもいうのだったら――それならわがはいの畑だがねえ」
老公爵はそのよく光る目で、横からカレーニンのほうを見ながら、黙々として座についていた。そこでステパン・アルカジエヴィッチは、老公が早くもこの、さながら|ちょうざめ《ヽヽヽヽヽ》ででもあるように、お客たちの注目の的《まと》になっている政治家にたいして、うまくあてはまる譬喩《ひゆ》を思いついているらしいことを見てとった。キティーは、いつコンスタンチン・レーヴィンがはいって来てもあかくなったりしないようにと、一生けんめいに気をはって、戸口のほうを見つめていた。若いスチェルバーツキイは、まだカレーニンに紹介されていなかったけれど、そんなことはちっとも気にしてはいないように見せかけようとつとめていた。カレーニン自身は、婦人客と同席の宴席におけるペテルブルグの習慣にしたがって、燕尾服に白ネクタイといういでたちで列席していたので、ステパン・アルカジエヴィッチは、その顔つきによって、彼がただ約束をはたすためだけに来たのであること、および、こういう席へ顔を出すことで、つらい義務をはたしているのであることをさとった。まさしく彼こそ、ステパン・アルカジエヴィッチが顔を出すまでのあいだ、一同の客を凍りつかせていた冷たい空気の、おもな醸造者であったのである。
客間へはいるとステパン・アルカジエヴィッチは、例の公爵にひきとめられたのだと弁解しながら、謝罪した。この公爵は、いつのときにも彼の遅参と不在の身代り|ひつじ《ヽヽヽ》になる人であった。そして彼は即座に、一同を相互にひきあわせ、アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチにはセルゲイ・コズヌイシェフを結びつけて、ポーランドのロシア化というテーマを投げ与えると、ふたりはさっそく、ペスツォーフともども、それにとびついた。彼はさらに、トゥローヴツィンの肩をたたき、彼に何やら冗談らしいことをささやいて、彼を自分の妻と公爵とのそばへ掛けさせた。そのあと、こんどはキティーに、彼女が今夜はとてもきれいであることを言い、ついで、スチェルバーツキイをカレーニンにひきあわせた。こうしてまたたくまに、彼は巧みにこれらの交際のねり粉をまぜあわせたので、客間はたちまちみごとな夜会の席になり、話し声がいきいきとひびきはじめた。ただひとり、コンスタンチン・レーヴィンだけが、まだ見えなかった。が、それはかえって好都合だった。というのは、ステパン・アルカジエヴィッチが食堂へ行ってみると、驚いたことに、とりよせられていたポート・ワインとヘレース酒とが、レーヴェのでなくてデプレのであることがわかったからであった。で、彼は、大至急御者をレーヴェへやるように命じておいて、ふたたび客間へととってかえした。
食堂で彼は、コンスタンチン・レーヴィンとばったり出会った。
「ぼくは遅刻しやしなかったかしら?」
「じゃあ、きみが遅刻しないなんてことがあるのかね?」とステパン・アルカジエヴィッチは、彼の腕をとっていった。
「大ぜい来ているようだね? だれとだれだね?」とレーヴィンは、われにもなくあかくなって、手ぶくろで帽子の雪をはらい落としながら、たずねた。
「みんなうちわの連中だ。キティーも来ているぜ。さあ、来たまえ、ひとつカレーニンに紹介しよう」
ステパン・アルカジエヴィッチは、その自由主義にもかかわらず、カレーニンと知己になるということが人の心を喜ばせないはずはないと思っていたので、親しい友人たちには、いつもこれをふるまった。しかしこのとき、コンスタンチン・レーヴィンは、こういう知己をつくる喜びを感じるだけの心の状態にいなかった。彼は、ウロンスキイに会ったあの記念すべき夜以来、あの田舎の街道でちらりと見たことをかぞえなければ、一度もキティーを見ていなかった。彼の心の底ではひそかに、今夜ここで彼女に会うであろうことを知っていた。しかし彼は、心の自由をたもっておくために、自分はそんなことは知らないのだと思いこもうとつとめていた。ところで、いま彼女がここに来ていることを聞き知ってみると、彼は急に、呼吸がつまって、いおうと思っていたこともいわれないほどの、歓喜と恐怖とを同時に感じた。
『あの女はどんなだろう、どんなになっているだろう? 昔のまんまでいるだろうか、それとも、あの馬車のなかで見たときのようだろうか? もしダーリヤ・アレクサーンドロヴナのいったことがほんとうだったら、どうだろう? しかし、それがほんとうでないという理由がどこにあるだろう?』と彼は考えた。
「ああ、どうぞ、カレーニンに紹介してくれたまえ」彼はやっとこういって、やけに決然とした足どりで、つかつかと客間へはいって行った。そして彼女を見た。
彼女は昔のままでもなければ、また馬車のなかで見たときのようでもなかった――ぜんぜん別の人であった。
彼女はものに驚いたような、おずおずした、はにかんだような様子をしていたが、そのためにいっそう魅惑的であった。彼女は、彼が部屋へはいって行った瞬間に、彼を見つけた。彼女は彼を待っていたのだ。彼女は喜んだ、そしてその喜びのためにかっとなり、一瞬間、彼が主婦のそばへ歩みよってふたたび彼女のほうを見やったとき、彼女自身にも、彼にも、すべてを見ていたドリーにも、彼女が堪えきれないで、いまにも泣きだすだろうと思われたほどであった。彼女はあかくなり、あおくなり、それからまたあかくなって、かすかにくちびるをふるわせながら、麻痺《まひ》したようになって、彼がそばへくるのを待っていた。彼は彼女のそばへ歩みよると、おじぎをし、黙って手をさしだした。もしくちびるの軽いふるえと、目をおおったうるおいと、そのために加えられた輝きとがなかったら、彼女がつぎのようにいったときの彼女の微笑は、ほとんど平静なものであった。
「ずいぶんしばらくでございましたわね」こういって彼女は、ひどく思いきった態度で、その冷たい手で彼の手を握った。
「あなたはお気がつかなかったでしょうが、ぼくは一度あなたをお見かけしたことがありますよ」とレーヴィンは、幸福の微笑で輝きながらいった。「停車場からエルグショーヴォへ馬車でいらっしゃるところをお見かけしたんですよ」
「いつだったでございましょう?」と彼女は、びっくりしたような様子でたずねた。
「あなたがエルグショーヴォへ馬車でいらしたときですよ」とレーヴィンは、胸にあふれる幸福感にむせかえるような気持を感じながら、いった。『どうしておれは、こんなかれんなひとに、あのような、無邪気とはいえないような考えを、結びつけることができたのだろう! してみると、ダーリヤ・アレクサーンドロヴナのいったことは、どうやらほんとうだったとみえる』こう彼は考えた。
ステパン・アルカジエヴィッチは彼の手をとって、カレーニンのそばへ連れていった。
「さあ紹介させてくれたまえ」――そして彼はふたりの名をいった。「かさねてお目にかかれて非常に愉快です」とアレクセイ・アレクサーンドロヴィッチは、レーヴィンの手を握りながら、冷やかにいった。
「やあ、きみたちは知り合いなのか?」とステパン・アルカジエヴィッチは、驚いてたずねた。
「汽車のなかで、三時間ほどごいっしょになったことがあるんだよ」とレーヴィンは、ほほえみながらいった。
「だが、まるで、仮装舞踏ででもあるような、へんなぐあいになってしまってね、――少なくともぼくのほうだけは」
「おやおや、それは! では、どうぞみなさん」とステパン・アルカジエヴィッチは食堂のほうをさし示しながらいった。
男客たちは食堂へはいると、ザクースカのテーブルへ近づいた。そこには六種のウォーツカと、同じく六種の銀さじつきと、さじなしのチーズと、イクラと、にしんと、各種の罐詰類と、フランスパンの薄きれをもった皿とがならべられてあった。
男客たちは、かおりの高いウォーツカや、ザクースカのまわりに立った。そしてセルゲイ・イワーノヴィッチ・コズヌイシェフと、カレーニンと、ペスツォーフとのあいだに論ぜられていたポーランドのロシア化という問題も、食事を待つ予想のうちにしずまってしまった。
セルゲイ・イワーノヴィッチは、きわめて抽象的な論争にひとかたつけるために、いきなりアゼンス塩(気のきいたしゃれの意)をふりかけて、対談者の気持を一変させてしまうという、ちょっと類とまね手のない芸当を、心得ていたので、いまさっそくそれを用いたのであった。
アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチは、ポーランドのロシア化は、ただ政府によって行なわれる最高政策の結果としてのみ成功すべきものであると、論証した。
ペスツォーフは、一国民を自国に同化させることのできるのは、自分のほうの人口がより稠密《ちゅうみつ》な場合にかぎると主張した。
コズヌイシェフは、双方の説を認めたが、それはある制限を付してであった。彼らが客間から出たときに、コズヌイシェフは議論に|けり《ヽヽ》をつけようとして微笑をふくみながらいった――
「だからです。異種族のロシア化ということには、手段はただひとつ――つまり、できるだけたくさん子供をこしらえるということきりないわけですな。とすると、さしずめわたしや弟は、だれよりも働きがないというわけです。が、諸君のような、結婚されたかたがたは、なかでもステパン・アルカジエヴィッチ、あなたなどは、十分愛国的に働いておられるわけになる。あなたはお幾人でしたっけね?」と彼は、あいそよく主人に笑いかけて、彼に小さなコップをさしだした。
一同が笑いだした。なかでも、ステパン・アルカジエヴィッチは愉快げに笑った。
「なるほど、そいつは一等いい方法ですな!」と彼は、チーズをむしゃむしゃかみながら、さしだされたコップに一種特製のウォーツカをつぎながら、いった。議論は、この冗談でまったく腰を折られてしまった。
「このチーズはわるくない。いかがですな?」と主人はいった。「や、きみはまた体操をやりだしたってわけじゃないのか?」と彼は、レーヴィンのほうをむいて、左手で彼の筋肉にさわりながらいった。レーヴィンはにっこりして、腕をはった。と、ステパン・アルカジエヴィッチの指のなかで、フロック・コートの薄いらしゃの下から、まんまるいチーズのように、鋼鉄のような力こぶがもりあがった。
「や、こいつは二頭筋だ! サムソンだ!」
「|くま《ヽヽ》狩りには非常な力が必要でしょうな!」と、猟についてはいたって漠然《ばくぜん》とした理解しかもたなかったアレクセイ・アレクサーンドロヴィッチは、くもの巣のように薄いパンのやわらかなところにチーズをぬって、それに穴をあけながらいった。
レーヴィンは笑顔になった。
「いや、ちっとも。それどころか、赤ん坊にだって、|くま《ヽヽ》ぐらいは殺せますよ」と彼は、主婦といっしょにザクースカのテーブルのほうへ近づいて来た婦人たちに、軽く頭をさげて道をゆずりながら、いった。
「あなたは|くま《ヽヽ》をお打ちになったそうでございますね。わたくし、人から聞きましたんですけれど」とキティーは、腕の白くすけているレースをふるわせて、いうことをきかなくて、すべりまわるきのこをフォークでとらえようと、しきりにむだ骨を折りながら、いった。「でも、あなたのほうには、ほんとに|くま《ヽヽ》なんかがおりますの?」こう彼女は、そのかわいい頭を彼のほうへかしげぎみにし、にこやかな笑顔になって、言いたした。
彼女のいったことのなかには、かくべつ変わったところなどは、少しもなかったようであったが、彼にとっては、その一語一語のひびきのなかに、そのくちびるや、目や、手のひとつひとつの動きのなかに、言葉では言いあらわせない、ある意味がこもっていたのである! そこには、許しをこう願いもあれば、彼にたいする信頼もあり、優しさ――女らしい、おずおずした優しさも、誓いも、希望も、彼にたいする愛さえもがあったのである。彼は、その愛を信じないではいられなかった。そしてそれは、幸福感で彼を窒息させた。
「いいえ、ぼくらはトゥヴェルスカーヤ県へ出かけたんですよ。そして、その帰りだったんです、あなたのお姉さんのご主人――いや、あなたのお姉さんのご主人の義弟《おとうと》さんに、汽車のなかでお会いしたのは」と彼は、笑顔になっていった。「あれはまったくこっけいな邂逅《かいこう》でしたよ」
こういって彼は、快活に、おもしろおかしく、自分が終夜|一睡《いっすい》もしないであかしたあとで、半外套を着たまま、アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチの乗っていた車室へ飛びこんでいったときのことを話した。
「車掌のやつ、ことわざにあることも忘れて、服装でわたしを外へ押し出そうとしました。そこで、ぼくも大げさな言葉で、まくしたてました。すると……あなたも」と彼は、彼の名を忘れてしまって、カレーニンに向かっていった。「はじめは、半外套なんか着ていたので、わたしを押し出そうとなさいましたが、しまいには、わたしの味方になってくださいましたっけ……そのことでは、わたしは非常に感謝しております」
「一般に、乗客の席を選ぶ権利なるものが、ひどくあいまいなものになっていますからな」とアレクセイ・アレクサーンドロヴィッチは、指さきをハンケチでぬぐいながらいった。
「わたしには、あなたがわたしのことで迷っていらしたのがわかりましたよ」とレーヴィンは、気心のいい微笑をうかべながらいった。「で、わたしは、自分の半外套をかばうために、即座にむずかしい会話をはじめたのでした」
セルゲイ・イワーノヴィッチは、主婦との会話をつづけながら、一方の耳で弟の話をきいていて、横目でちらりとその顔を見やった。『今日はあいつ、いったいどうしたというんだろう? ばかに得意になっている』と彼は考えた。彼は、レーヴィンが羽でも生えたような気持でいることを知らなかったのだ。レーヴィンは、彼女が自分の言葉をきいていること、そして、それが彼女に愉快であることを知っていた。そしてこのことが、すっかり彼を占領していたのだった。ひとりこの部屋ばかりでなく、全世界を通じて、彼にとって存在しているのは、ただにわかに大きな意味と価値とをあたえられた彼自身と、彼女とのふたりきりであった。彼は、自分だけは目まいがするような高所にいて、これらすべての善良ないい人たち、カレーニンのような人や、オブロンスキイのような人や、全世界などは、どこかずっと遠い、下のほうにあるような気がしていた。
少しも目だたないように、ふたりのほうは見もしないで、ほかにはもう席がないといったような態度で、ステパン・アルカジエヴィッチは、レーヴィンとキティーとをならんで掛けさせた。
「さあ、きみはまず、ここへなりと掛けてくれたまえ」と彼は、レーヴィンにいった。
食事は、ステパン・アルカジエヴィッチがその愛玩家《あいがんか》である食器同様に、なかなかけっこうなものであった。マリー・ルイズ式のスープは、この上なしのできであり、口へ入れると溶けてしまうような、ごく小さいピローグも、申しぶんないものであった。ふたりの給仕とマトヴェイは、白ネクタイといういでたちで、目だたぬように、静かに、敏捷に、料理や飲み物をはこぶ役目をはたした。饗応は、物質的方面では大成功だったが、非物質的方面でも、それに劣らず成功だった。会話は、ときには一般に、ときには一部分のあいだにたえまなくかわされ、食事のおわりに近づくにしたがって、まれに見る生気を帯びてきたので、男客たちは話をやめずに食卓から立ちあがり、アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチまでが、一段といきいきしてきたほどであった。
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十
ペスツォーフは、最極限まで論じつめることが好きだったので、セルゲイ・イワーノヴィッチの言葉に満足しなかったが、それは、彼が自分の意見の正しくないことを感じていたので、なおさらであった。
「わたしはけっして」と彼は、スープのときに、アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチに向かっていった。「単に人口の稠密《ちゅうみつ》ということだけを申したのではありません。主義や政策でない、もっと根本的なものと結びつけてのことなんです」
「わたしには」とアレクセイ・アレクサーンドロヴィッチは、おちつきすまして、ものうげな様子で答えた。「それはけっきょく、同じもののように思われますがね。わたしの考えでは、他の民族を同化するということは、ただより高い文化をもっている民族だけがなしうることなのであります。そして、その民族は……」
「しかし、それがまた問題ですよ」と、話をするときにはいつもせきこんで、自分の話すことに全心をうちこんでいるように見えるペスツォーフは、もちまえのバスでこうさえぎった。「そのより高い文化というものが、どう解釈したらいいのでしょう? イギリス人、フランス人、ドイツ人、このうちだれが文化のより高い段階に立っているのでしょうか? そのうちのだれが他国民を同化するのでしょうか? われわれは、ライン地方がフランス化しているのを見うけるが、ドイツ人の文化がより低いとはいわれませんからな!」と彼は叫んだ。「そこに他の法則があるわけですよ」
「しかし、わたしにはですね、感化力というものはつねに、真の教養を有するもののほうにあるように思われるのです」と、アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチは、わずかに眉をあげていった。
「しかし、その真の教養のしるしなるものをですな、われわれは何において見いだしたらいいのでしょうか?」と、ペスツォーフはいった。
「そのしるしは周知のはずです」とアレクセイ・アレクサーンドロヴィッチは応じた。
「さあ十分に周知といえるでしょうか?」とセルゲイ・イワーノヴィッチが、皮肉な微笑をうかべて口をはさんだ。「真の教養が、純粋に古典的のものでなければならぬということは、こんにち認められてはいますけれども、われわれは各方面に激烈な論争を見うけますから、したがって、反対者のほうにも、有力な論拠のあることを否定することはできません」
「あなたは古典派ですね。セルゲイ・イワーノヴィッチ、赤ぶどう酒はいかがです?」と、ステパン・アルカジエヴィッチはいった。
「わたしは、古典・実科いずれの教育についても、自分の意見を述べているのではありませんよ」とセルゲイ・イワーノヴィッチは、子供にたいするような微笑をうかべて、自分のコップをさしだしながらいった。「わたしのいっているのは、ただ、そのいずれにも有力な論拠があるということだけです」と彼は、アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチのほうに向かって、つづけた。「わたしは、受けた教育からいえば、古典派ですが、しかしわたし個人としては、この論争に自分の立場を見いだすことができません。わたしには、古典的学問がどうして実科的学問にまさっているのか、その明確な論拠がわかりませんから」
「自然科学も、それに劣らぬ教化開発の影響力をもっていますよ」と、ペスツォーフがひきとっていった。「まず天文学をごらんなさい。植物学をごらんなさい。一般的法則のシステムをもつ動物学をごらんなさい」
「わたしは、そのお説にはぜんぜん賛成ということはできませんね」とアレクセイ・アレクサーンドロヴィッチは答えた。「わたしには、言語の形式を研究するあの過程こそ、精神的発達の上にとくに好影響をおよぼしているものと、認めないわけにいかないと思われるのですから。そればかりでなく、古典作家の影響は、きわめて道徳的であるのに反して、不幸にして、自然科学の教育法には、現代の病弊《びょうへい》を形づくっている、有害な虚偽の教えが結びついていることを否定するわけにいかないですからね」
セルゲイ・イワーノヴィッチは何かいおうとしたが、ペスツォーフが厚みのあるバスで、それをさえぎった。彼は熱心に、その意見の正しくないことを論証しはじめた。セルゲイ・イワーノヴィッチは、明らかに必勝的|駁論《ばくろん》を用意しているらしく、おちつきはらって、その言葉のおわるのを待っていた。
「しかしですね」とセルゲイ・イワーノヴィッチは、意味深長に微笑しながら、カレーニンのほうをむいていった。「古典的学問と実科的学問のいっさいの利害得失を十分に計量することは、きわめて困難であるということ、および、いずれの教育法を選ぶべきかという問題も、もしあなたが今おっしゃったような、道徳的――disons le mot(早くいえば)――反虚無主義的影響という優越点が古典的教育のほうになかったとしたら、そうすみやかに決定的には解決されないだろうということを、承認しないわけにはいかないじゃありませんか」
「もちろんです」
「もし古典的学問に、反虚無主義的影響という優越点がなかったとしたら、われわれは双方の論拠を、もっとよく比較し、考量してみなければなりますまい」とセルゲイ・イワーノヴィッチは、なおも微笑をふくんでいった。「そして、われわれはこの両者の傾向に、自由をあたえたことでしょう。ところが、現在われわれは、古典的教育という丸薬に、反虚無主義という特効のあることを知っているので、大胆にそれを自分の患者にあたえているというわけですが……しかし、特効がないとしたらどうなるでしょう?」と彼は、例のアゼンス塩をふりまきながら、議論を結んだ。
セルゲイ・イワーノヴィッチの丸薬には、一同がどっと笑いだした。わけても、トゥローヴツィンは、議論に耳をかたむけながら、ただそれだけを待ちもうけていた諧謔《かいぎゃく》がとうとう出たので、だれよりも声高に、愉快そうに哄笑《こうしょう》した。
ステパン・アルカジエヴィッチが、ペスツォーフを招待したのは成功だった。ペスツォーフのおかげで、賢明な会話は一刻もやむときがなかった。セルゲイ・イワーノヴィッチが例の諧謔でその言葉を結ぶとすぐ、ペスツォーフはすかさず、新しい話題を提供した。
「わたしはですね」と彼はいった。「政府がある目的をもっているということにも、賛成することはできませんね。政府は明らかに、自分の採用している方針が、いかなる影響をおよぼすかということにはいっこう無関心で、ただ漠然とした考えによって導かれているにすぎません。たとえばです、婦人教育などという問題は、有害と認めなければならないのに、政府は婦人のために、各種の学校や大学までも開放している」
これで、会話はすぐに、婦人教育という新しい題目のほうへとびうつった。
アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチは、婦人教育という問題は、ふつう、婦人解放という問題と混同されているので、ただそのためだけに有害視されているにすぎないのだという意見を述べた。
「ところが、わたしはその反対に、このふたつの問題は、切っても切れぬ関係で結びつけられていると思いますな」とペスツォーフはいった。「これは虚偽の連鎖です。婦人は教育の不足によって権利を奪われていますが、その教育の不足は、権利の欠如からきていることなのですからね。婦人の束縛ということは、非常に古く根底の深いものであって、われわれ男子は、われわれと婦人とを区別している深淵を知ろうとすら思わないことがしばしばあるほどだということを、忘れてはならないのです」と彼はいった。
「あなたは権利とおっしゃいましたが」とセルゲイ・イワーノヴィッチは、ペスツォーフの沈黙するのを待って、いった。「それは陪審官の地位につく権利や、市会議員や議長になる権利、官吏たるの権利、国会議員たるの権利……」
「むろんです」
「しかしですね、もし婦人が、珍しい例外として、そうした地位をしめることができるとしても、わたしには、あなたがいま用いられたこの『権利』という言葉は、正しくないように思われますがね。むしろ義務といったほうが、妥当ではないでしょうか? はやい話が、陪審官や、市会議員や、電信官吏などの職務を執行しながら、われわれは何か一種の義務をはたしているような気持になっている、ということには、だれしも同感であろうと思う。ですから、婦人たちは義務を求めているのだ、しかも完全に、合法的に求めているのだといったほうが妥当なのです。したがって、一般男子の労働を助けようという彼女たちのこの希望には、同感するほかないということになるんですよ」
「まったく、お説のとおりです」とアレクセイ・アレクサーンドロヴィッチは賛成した。「そこで、問題は、婦人がこういう義務を遂行する能力ありやいなやという点においてだけ、なりたつわけだと思いますな」
「そりゃ、たぶん大いに遂行しうるようになるでしょうよ」と、ステパン・アルカジエヴィッチが口をはさんだ。「教育が彼女たちに普及したときにはですね。げんに、こんにち見るとおり……」
「ところが、例のことわざはどうですな?」と、もう長いあいだ、彼らの議論に耳をすましていた公爵が、その小さな皮肉な目を光らせながらいった。「なあに、娘たちの前だってかまやしない――髪は長いが……」(髪は長いが知恵は短いということわざ)
「ニグロ解放前にも、われわれは彼らについて、ちょうどそんなふうに考えていたものですよ」とペスツォーフは不満げにいった。
「わたしにはですね、婦人が新しい義務を求めるということが、ただただふしぎでならないんですよ」と、セルゲイ・イワーノヴィッチはいった。「われわれの見るところでは、遺憾《いかん》ながら、男子はたいていそういう義務をのがれようとしているのに」
「義務は権利と結びついていますからな。権力・金力・名誉――婦人たちの求めているのは、つまりこういったものなのですよ」と、ペスツォーフはいった。
「すると、なんですな、わたしが乳母《うば》になる権利を求めて、婦人にばかり金を払って、自分に払ってくれないのをいまいましく思う。――これと同じことになるわけですな」と、老公爵はいった。
トゥローヴツィンはわっと大声にふきだした。で、セルゲイ・イワーノヴィッチは、そういったのが自分でなかったことを残念に思った。アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチさえ微笑をもらした。
「さよう、しかし男には、乳を飲ませることはできませんよ」と、ペスツォーフはいった。「ところが、婦人は……」
「いや、船中で自分の赤ん坊をりっぱに育てあげたイギリス人がありますよ」と老公爵は、自分に娘たちの前でこんな話をするわがままを許しながら、いった。
「そういうイギリス人の数だけ、婦人が官吏になるわけですよ」とセルゲイ・イワーノヴィッチは、さっそくこんなことをいった。
「なるほど、しかし家族をもたぬ未婚の娘は、どうしたらいいのでしょう?」とステパン・アルカジエヴィッチは、たえず自分の心にあるチビーソワのことを思いながら、ペスツォーフに同情して、その説に同意しながら、口をはさんだ。
「けれども、そういう娘の経歴をようく調べてごらんになったら、その娘は、そのなかで女としての仕事を見つけることのできる家庭なり、姉妹の家なりを捨てたものだということが、おわかりになるだろうと思いますわ」とダーリヤ・アレクサーンドロヴナが、だしぬけに話のなかへ割ってはいり、いらいらした調子でこういった。おそらくは、ステパン・アルカジエヴィッチがどういう娘を心においていたかを察したのにちがいなかった。
「しかしわれわれは、主義のため、理想のために立っているのです!」とペスツォーフが、朗々としたバスで反駁《はんばく》した。「婦人は、独立した教育ある人間になるための権利を得たいと望んでいるのです。ところが、それが不可能だという意識に圧倒され、屈伏させられているのです」
「ところが、わたしはまた、育児院でわたしを乳母《うば》に採用してくれないというので、圧倒され、屈伏させられているのですよ」と老公爵がいってのけたので、トゥローヴツィンはすっかり喜んでしまい、アスパラガスのふといほうを、ソースの中へぼちゃりと落とした。
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十一
一座は、みんながその話に加わっていたが、キティーとレーヴィンとだけは別であった。初めのうち、一国民の他国民におよぼす影響ということが話されていたときには、レーヴィンの頭にも、この題目については自分にもいうべきことがある、という考えがうかんでいたが、しかし、以前には彼にとって非常に重大なものと思われていたそれらの思想が、いまは夢のなかのようにぼんやり頭にうかんでくるだけで、いささかの興味をもおこさせなかった。むしろ、なんのために彼らがあんなにやっきとなって、だれにも用のないことを論じているのか、ふしぎに思われたほどであった。
キティーもまた同様で、婦人の教育や権利について語られている談話は、彼女にも興味がなければならぬはずであった。彼女は、外国で友だちになったワーレニカのことを思い、彼女の苦しい隷属《れいぞく》の生活を思って、何度この問題について考えたかしれなかったし、また自分自身のことについても、もし結婚しなかったらどうなるだろうと思って、何度考えたかしれないばかりか、そのことで、何度姉と争ったかしれなかった! それだのに、いまはこのことが少しも彼女の興味を動かさなかった。
彼女はレーヴィンと、自分たちだけの話をしていた。いや、それは話ではなかった。一種の神秘な交感で、――それは一刻ごとに、しだいに近くふたりを結びつけ、ふたりの心に、ふたりがはいって行こうとしていた未知の世界にたいする喜ばしい恐怖の念をおこさせるものであった。
初めにレーヴィンは、どうして去年、馬車のなかの彼女を見かけることができたかというキティーの問いにたいして、自分が草刈りの帰りに街道を歩いていて彼女を見かけたときのことを、彼女に物語った。
「それはまだほんの明けがたでした。あなたはきっと、お目ざめになったばかりのところだったでしょう。お母さまは、すみのほうでよく眠っていらっしゃいました。ほんとにすばらしい朝でしたっけ。わたしは歩きながら、あの四頭立ての馬車にはどんな人が乗ってるんだろう? こんなことを考えていました。小鈴をつけた、四頭立てのりっぱな馬車でしたからねえ。と、ちらりとあなたの姿が目にとまりました。で、窓をのぞいて見ると、あなたは両手でこう帽子のひもをおもちになって、なにやらすっかり考えこんでいらっしゃいましたよ」と、彼はほほえみながらいった。「いまでもわたしはどんなに、あのときあなたの考えておいでになったことを知りたいと思うでしょう。重大なことだったんでしょう?」
『あたし、とり乱したりしてはいなかったかしら?』と彼女は考えてみた。しかし、こういうくわしい思い出話につれてうかべられた、うれしそうな彼の微笑を見ると、彼女は、自分のあたえた印象が、むしろ、きわめていいものであったことを感じた。彼女はぼうっと顔をあかくして、うれしそうににっこりした。
「ほんとに、わたくし覚えておりませんのよ」
「トゥローヴツィンはじつによく笑いますね!」とレーヴィンは、彼女のうるんだ目と、揺れるからだとに見とれながらいった。
「あなたは前からあのかたをごぞんじでいらっしゃいますの?」とキティーはきいた。
「あのひとを知らないなんて人があるもんですか!」
「そうしてあなたは、あのかたをわるい人だと思ってらっしゃるでしょう?」
「わるい人ではありませんよ。が、つまらない人ですね」
「いいえ、それはまちがっておりますわ。これからはもう、けっしてそんなふうにお考えにならないでくださいまし!」とキティーはいった。「わたくしもあのかたについては、たいへん卑《いや》しめた考えをもっておりましたの。でもあのかたは、それはそれはほんとうにお優しい、いたって善良なかたでございますわ。まったく黄金のようなハートを持っていらっしゃいますのよ」
「しかし、どうしてあなたは、あのひとのハートをお知りになることができたのですか?」
「わたくし、あのかたとはとても仲よしなんですもの。わたくしは、あのかたのことはほんとによく知っていますの。去年の冬、そら……あなたがわたくしどもへいらっしゃいました……あの後まもなく……」と彼女はいかにもすまなそうな、同時に信頼しきったような微笑をうかべていった。「ドリーのところで、子供たちがみんな猩紅熱にかかったことがございましたの。そのとき、あのかたがちょうど姉のところへいらっしゃいましてね。そして、まあどうでしょう」と彼女はささやき声でいった。「あのかたはすっかり、姉に同情してくだすって、そのまま滞在して、姉を助けて、子供たちの看病をしてくださいましたの。それこそ三週間もいて、乳母《うば》のように子供たちのめんどうを見てくださいましたんですわ」
「わたし、いまね、あの猩紅熱のときのトゥローヴツィンのことを、コンスタンチン・ドミートリチにお話してるところなのよ」と彼女は、姉のほうへ身をねじっていった。
「ええそりゃ、ほんとうに、おりっぱな態度でしたわ!」とドリーは、自分のことが話されているのを感じていたらしいトゥローヴツィンのほうをふり返って、優しくほほえみかけながらいった。レーヴィンはもう一度、トゥローヴッィンのほうを見やった。そして、自分がどうして今まで、この人の美点に気がつかないでいられたかに驚いた。
「すみません、すみません、これからはもうけっして、ひとのことをわるく思うようなことはしません!」と彼は、自分のいま感じたことを、心からうちあけながら、快活にいった。
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十二
婦人の権利ということについてはじめられた会話のなかに、結婚における権利の不平等という、婦人たちの前では遠慮すべき問題があった。ペスツォーフは、食事のあいだにも何度か、そういう問題にはしろうとしたが、セルゲイ・イワーノヴィッチとステパン・アルカジエヴィッチとが、注意ぶかくそれを避けさせた。
一同が食卓から立ちあがり、婦人たちが出て行くと、ペスツォーフはそのあとにはついて行かずに、アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチに向かって、その不平等の主要な原因について述べはじめた。彼の意見によれば、夫婦間の不平等は、妻の不貞、夫の不貞が、法律上からも、社会の世論からも、不平等に罰せられる、その点に根ざしているというのであった。
ステパン・アルカジエヴィッチは、急いでアレクセイ・アレクサーンドロヴィッチのそばへ行き、彼にたばこをすすめた。
「いや、わたしはやらない」と、アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチはおちついて答え、そして、自分がそういう談話を恐れていないことを、ことさら示そうとするかのように、冷やかな微笑をふくんで、ペスツォーフのほうへ顔をむけた。
「わたしは、そういう意見の根本は、事物の本質そのもののうちにふくまれているのだと考えますよ」彼はこういって、客間のほうへ行こうとした。ところがそのとき思いがけなく、トゥローヴツィンがふいに、アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチに向かって話しかけた。
「あなたは、プリャーチニコフのことをお聞きになりましたですか?」と、シャンペン酒を飲んだので陽気になり、もうさっきから自分を苦しめている沈黙をやぶる機会をねらっていたトゥローヴツィンは、こう言いだしたのである。「ワーシャ・プリャーチニコフのことですよ」と彼は、しめった赤いくちびるに、例の人のいい微笑をうかべながら、とくに主賓であるアレクセイ・アレクサーンドロヴィッチに向かって、いうのだった。
「今日わたしはあの男が、トゥヴェーリでクヴィーツキイと決闘して、相手を殺してしまったという話を聞きましたよ」
人はよく、わざと痛いところをつつかれるように思うものであるが、いまもそのとおりで、ステパン・アルカジエヴィッチは、不幸にも会話が、事ごとにアレクセイ・アレクサーンドロヴィッチの痛いところへばかり落ちかかっていくように感じた。で、彼はもう一度、義弟をその場から連れ出そうと試みたが、当のアレクセイ・アレクサーンドロヴィッチは、好奇心をもってこうたずねた――
「なんだってまたプリャーチニコフは、決闘などしたんでしょう?」
「細君のことからですよ。男らしくやりましたよ――決闘を申し込んで、やっつけてしまったんですよ!」
「ははあ」とアレクセイ・アレクサーンドロヴィッチは、無関心らしく答え、そして眉をあげて、客間のほうへはいって行った。
「まあ、よくいらしてくださいましたこと」とドリーは、通りぬけのできる客間で彼を迎えながら、びっくりしたような微笑をうかべていった。「わたくし、ちょっとあなたにお話したいことがございますのよ。ここへでもお掛けくださいまし」
アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチは、つりあげた眉が彼にあたえていた同じ無関心の表情をもって、ダーリヤ・アレクサーンドロヴナのそばにすわり、わざとらしく微笑した。
「それにわたしも」と、彼はいった。「お許しを願って、すぐおいとましたいと思っていたところですから、なおさら好都合だったわけです……わたしは、明日出立しなければなりませんのでね」
ダーリヤ・アレクサーンドロヴナは、アンナの潔白をかたく信じていたので、罪のない自分の親友をこうも平気で滅ぼそうと企てている、この冷酷な、無情な男にたいする憤怒のために、自分がしだいにまっ青になって、くちびるをぶるぶるふるわせているのを感じた。
「アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチ!」と彼女は、やけに決然とした態度で、彼の目をきっと見すえながらいった。「わたくしはあなたにアンナのことをおたずねしましたけれど、あなたはなんともおっしゃってくださいませんでした。あのかたはどうしていらっしゃいますの?」
「たっしゃでいるでしょうよ。ダーリヤ・アレクサーンドロヴナ」とアレクセイ・アレクサーンドロヴィッチは、彼女の顔は見ないで答えた。
「アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチ! まことに失礼ですけれど、わたくしにそんな権利はないんでございますけれど……わたくしはアンナを妹のように思って、愛してもいれば、尊敬もしているのでございます。ですから、どうぞ、おふたりの仲がどうなっているのか、わたくしにお話しなすってくださいませんか。お願いでございますわ、ほんとに、どういうことであなたはあのかたをわるく思っていらっしゃるのでしょうか?」
アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチは眉をひそめ、そして、ほとんど目を閉じて、頭をたれた。
「どうしてわたしが、アンナ・アルカジエヴナにたいする今日までの関係をかえなければならぬと考えたか、その理由は、ご主人からお聞きになったことと思いますが」と彼は、彼女の目は見ないで、おりから客間を通りかかったスチェルバーツキイのほうを不満げに見やりながら、いった。
「わたくし、信じませんわ、信じませんわ。そんなこと信じることはできませんわ」とドリーは、その骨ばった両手を自分の前で組合わせながら、力をこめた身ぶりとともに、こういった。彼女はさっと立ちあがると、片手をアレクセイ・アレクサーンドロヴィッチのそで口にかけた。「ここでは人がじゃまになります。どうぞ。こちらへいらしてくださいまし」
ドリーの興奮は、アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチの心にもはたらきかけた。彼は立ちあがって、彼女にしたがい、すなおに、子供の勉強部屋へはいって行った。彼らは、方々にペン・ナイフの切り傷のついた油布ばりのテーブルに向かって、腰をおろした。
「わたくし信じませんわ、そんなこと信じませんわ!」と、自分を避けている彼の視線をとらえようとつとめながら、ドリーはいった。
「事実を信じないわけにはいきませんよ、ダーリヤ・アレクサーンドロヴナ!」と彼は事実《ヽヽ》という言葉に力をこめていった。
「ですけれど、あのひとが何を、どんなことをしたのでしょう?」とダーリヤ・アレクサーンドロヴナはいった。「ほんとにどんなことをしたのでしょう?」
「あれは自分の義務をないがしろにして、自分の夫を裏切ったのです。つまり、これがあれのしたことですよ」と彼はいった。
「いいえ、いいえ、そんなことのあるはずがございません! いいえ、それは確かにあなたのお思いちがいでございます」とドリーは、両手でこめかみをおさえ、目を閉じていった。
アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチは、彼女にも、また自分自身にも、自分の確信の強さを示そうと思って、くちびるだけで冷やかに笑った。しかし、この熱烈な弁護は、彼の心を動揺させはしなかったけれど、その傷口を大きくしたことは事実であった。彼も、ひどく熱した態度になって話しだした。
「その事実を、妻自身が夫の前に言明したときに、思いちがいをすることはきわめて困難ですよ。なにしろあれは、八年間の生活も、子供も、何もかもまちがいだから、わたしはもう一度、初めから生活をやりなおしたい――こう言明してるんですからねえ」と彼は、鼻を鳴らしながら、腹だたしげにいった。
「アンナと不品行――わたくしにはどうしても、それをひとつに考えることはできません。信じることはできません」
「ダーリヤ・アレクサーンドロヴナ!」と彼は、こんどはドリーの善良そうな興奮した顔をまともに見つめて、いつともなく自分の舌がほぐれていくのを感じながら、いった。「まだ疑問をはさむ余地があるというのだったら、わたしはどんなにうれしいでしょう。疑っていたあいだは、ずいぶん苦しかったですが、それでも今よりはらくだったのですよ。疑っていたあいだは、まだ希望がありましたからねえ。しかし、今はもう、なんの希望もありません。しかもわたしは、やはり何もかもを疑っているのです。何もかもを疑って、子供までを憎むようになり、ときには、あれが自分の子であることすら、信じなくなることがあります。わたしはじつに不幸ですよ」
彼には、それをいう必要はなかった。ダーリヤ・アレクサーンドロヴナは、彼が彼女の顔を見たと同時に、早くもそれをさとっていた。そして彼女には、彼が気の毒になってきて、友の潔白を信ずる心も、しだいに動揺しはじめた。
「ああ、これはほんとうに恐ろしい、恐ろしいことですわ! けれど、離婚なさることにご決心なすったとかいうのは、まさかほんとうではございませんでしょうね?」
「わたしは、最後の手段としてそれを決心したのです。わたしにはもうほかに、どうしようもないものですから」
「ほかにしようがない、ほかにしようがない……」と彼女は、双の目に涙をうかべていった。「いいえ、ほかにしようがないことはありませんわ!」と彼女はいった。
「こういう種類の悲しみの恐ろしいのは、ほかの、喪失とか死とかいう場合のように、十字架を負って堪えているだけですまなくて、どうでも何らかの手段に訴えなければならないということです」と彼は、彼女の心を察しているかのような調子でいった。「つまり、自分のおとしいれられた屈辱的境地から脱けださなければならないですからな。三角関係のままで生活していくことは不可能ですからな」
「わかりました、よくわかりましたわ」ドリーはこういって、うなだれた。彼女は自分自身のことや、自分の家庭の悲しみを考えながら、しばらくおし黙っていた。がとつぜん、りんとした身ぶりで頭をもたげると、祈るようなかっこうに両手を組合わせた。「ですが、まあ少しお待ちくださいまし! あなたはキリスト教徒でいらっしゃいますわね。あのひとのことも、ちっとは考えてあげてくださいまし! あなたが捨てておしまいになったら、あのひとはどうなっておしまいでしょう?」
「わたしも考えましたよ。ダーリヤ・アレクサーンドロヴナ! ずいぶんよく考えましたよ」とアレクセイ・アレクサーンドロヴィッチはいった。彼の顔にはところどころ赤いしみができ、どんよりした目は、まっすぐにじっと彼女を見すえた。ダーリヤ・アレクサーンドロヴナは、もう心底から彼が気の毒になった。「わたしは、あれ自身の口から、このわたしの屈辱が表明されたときから、いまおっしゃったことをしてきたんですよ。わたしは何もかももとのままにしておきました。わたしはあれに改心の猶予《ゆうよ》をあたえました。わたしは努力してあれを救おうとしました。ところが、どうでしょう? あれはきわめて容易なわたしの要求――体面をまもるということすら、してはくれなかったんですからね」と、彼はかっと熱していった。「みずから滅びたくないと思っている人間なら、救うこともできますが、すっかり性根がくさって堕落してしまって、破滅そのものを救いのように考えている人間に、どう手のつけようがありましょうか?」
「ですから、どんなことでもいいけれど、ただ離婚ということだけは!」と、ダーリヤ・アレクサーンドロヴナは答えた。
「しかし、どんなことでもとは、どういう意味ですか?」
「いいえ、それは恐ろしいことですわ! あのひとはもうだれの妻でもなくなって、破滅してしまいますわ!」
「だって、わたしにどうしようがありましょう?」とアレクセイ・アレクサーンドロヴィッチは、肩と眉とをあげていった。妻の最後のしうちについての思い出が、極度に彼を激昂《げっこう》させたので、彼はまたもや話の初めのような、冷たい人になってしまった。「わたしは、あなたのご同情にたいしては非常に感謝しております。しかし、もうおいとましなければなりません!」と、彼は立ちあがりながらいった。
「いいえ、もう少々お待ちくださいまし! あなたは、あのひとを殺すようなことをなすってはいけませんわ。もう少々お待ちくださいまし、わたくしはあなたに、自分のことを申しあげます。わたくしは、こちらへ縁づいてまいりました、ところが、夫はわたくしを欺きました。怒りと嫉妬のために、わたくしは何もかもを捨ててしまおうと思いました、自分の身さえも……けれど、わたくしはふとわれにかえりました。それは、だれのおかげでしょう? アンナがわたくしを救ってくだすったのですわ。そして、わたくしは、このとおり生きております。子供たちは育っていき、夫は家庭へもどって来て、前非をさとり、前よりも潔白な、いい人になってくれ、わたくしはこうして、生きております……わたくしは許しました。ですから、あなたも許しておあげなさらなければ!」
アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチはじっと耳をかたむけていたが、彼女の言葉はもはや、なんの作用をも持たなかった。彼の心中にはふたたび、彼が離婚を決心したあの日の毒念が、そのまま頭をもたげてしまった。彼は身をふるうようにして、鋭い高い声で話しだした。
「許すということはわたしにはできません、また許したいとも思いません。わたしはそれをよくないことだと思っています。わたしはあの女のために、あらゆる手段をつくしました。それをあれは何もかも、自分の性《しょう》にあう泥のなかへ踏みにじってしまったのです。わたしはわるい人間ではありません、わたしはかつて一度も人を憎んだことはありません、しかし、あれだけは、心底から憎みます。とても許す気にはなりません。それは、あれがわたしにたいしてした悪行にたいして、あまりにあれを憎むからです!」と彼は、声に毒念の涙をふくませていった。
「なんじを憎む者を愛せよ、ですわ……」とダーリヤ・アレクサーンドロヴナは、きまりわるげにいった。アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチはさげすむように冷笑した。それくらいなことは、彼ももうとうの昔から承知していたが、しかしそれは、彼の場合にはあてはまらないものであった。
「なんじを憎む者を愛せよ、それはそのとおりですが、しかし、自分が僧んでいる者を愛することはできませんよ。いや、どうもとんだご心配をかけてすみませんでした。人はだれしも、自分の悲しみだけでたくさんなものですのにねえ!」こういうと、気をとりなおして、アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチは、静かに別れを告げて立ち去った。
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十三
一同が食卓をはなれたときに、レーヴィンは、キティーのあとについて客間のほうへ行きたいと思ったが、それでは、自分のつけまわしかたがあまり露骨になりすぎて、彼女に不快をあたえはしまいかと恐れた。で、彼は、男客たちのなかに残って、みんなの話の仲間入りをした。そして、キティーのほうは見ないでいて、彼女の動作や、彼女のまなざしや、客間のなかで彼女のしめている席のことなどを、それと感じていた。
彼はさっそくもう、なんの努力もはらわずに、彼女に約束したこと――常にすべての人のことをよく考え、常にすべての人を愛することを、実行していた。談話は、ペスツォーフが一種特別の根源と認めて、「合唱の根源」と名づけている村落共同体(一小地域の住民の自治機関)のことにおよんだ。レーヴィンは、ペスツォーフにも賛成せず、また、例によってロシアの村落共同体の意義を認めているようないないような兄の説にも、賛成しなかった。が、彼はただ、ふたりを調停させ、ふたりの反対論をやわらげようとつとめながら、話をしていた。彼は、自分のいっていることにも、少しも興味を感じなかったし、彼らのいっていることはなおさらであったが、ただ彼は、ひとつのこと――彼らにも、すべての人にもいいように、快いようにということだけを念じていた。
いまや彼は、ただひとつのものだけが大切であることを知っていた。そして、そのひとつのものは、初めは向こうに、客間にいたが、やがてしだいに近くへ動いて来て、戸口のところに立ちどまった。彼は、ふり向きはしないでいて、自分の上にそそがれたまなざしと微笑とを、それと感じたので、ついそのほうを見ないではいられなかった。彼女は、スチェルバーツキイといっしょに戸口に立って、彼のほうを見ていた。
「ぼくは、あなたはピアノのほうへいらっしゃるのだと思いました」と、彼は彼女のほうへ進みよりながらいった。「音楽――それこそぼくが田舎にいて、飢えている唯一のものですよ」
「いいえ、わたくしたちはただ、あなたをお呼びしにまいっただけですわ。ですから、わたくしお礼を申しますわ」と彼女は、贈り物でねぎらうように、微笑で彼をねぎらいながらいった。「あなたがこちらへいらしてくださいましたことを。ほんとに議論をするなんて、なんてもの好きなんでしょうね? どうせ相手を納得《なっとく》させることなんかできはしないのに」
「ええ、まったくですよ」と、レーヴィンはいった。「ただ、相手のいおうとしていることが、どうしてものみこめないので、ただそのためにむやみに熱して、議論しているというようなことが、よくあるものですからねえ」
レーヴィンは前にもよく、最も賢明な人たちの論争においても、論者たち自身は、異常な努力と、論理的技巧や言葉のおびただしい量を浪費したあとでやっと、自分たちが長い時間をつぶして互いに論証しあっていたことがらは、もう前から、じつは議論の初めから双方にわかりきっていたことだったのに、それを自分たちが互いに好むところを異にしていたため、ただ相手に乗ぜられまいとして、その好むところを口に出さなかったまでだという事実に気がつくものらしい――こういうことのあるのを認めていた。彼はまた、しばしば人と議論のさいちゅうに、つい相手の好むところがはっきりわかって、急に自身もそのことが好きになり、てもなく相手に同意してしまう、すると、いままでの論証が、すべてぜんぜん無用なものになってしまうものであることも、経験していた。が、ときにはまたその反対に、自分の論証の根底になっている自分の好むところのものを、思いきって言いだしてみると、そして、それがうまく切実に表現されると、相手が急にそれに同意して、論争をやめてしまうことのよくあるのをも、経験していた。そして、彼が言いたく思ったのは、じつにこのことだったのである。
彼女は一生けんめいに理解しようとして、額にしわをよせた。しかし、彼が説明しかけるとすぐ、彼女は早くもそれを理解した。
「わたくし、わかりましたわ――何よりまず、相手がなんのために議論をしているのか、また相手の好むものがなんであるか、それを知らなければならない、そうすれば……」
彼女は、不器用に言いあらわされた彼の思想をすっかり理解して、それをうまく表現してみせた。レーヴィンはうれしそうに笑った――それほど彼には、この、ペスツォーフと兄を相手のもつれからんだ饒舌《じょうぜつ》な論争から、一足飛びに、こうした、簡単明瞭な、ほとんど言葉の力を要せずに、きわめて複雑な思想を言いあらわしうる心と心の交流へうつったことが、胸にひびいたのである。
スチェルバーツキイは彼らのそばをはなれていった。と、キティーは、そこにおいてあったカルタテーブルのそばへいって、そこにすわった。そして、片手にチョークを取りあげて、それで、新しい緑色のらしゃの上へ、でたらめな円をいくつもかきはじめた。
彼らは食事のあいだに行なわれた話題、婦人の自由や職業という問題について、ふたたび話しはじめた。レーヴィンは、未婚の娘は家庭で女らしい仕事を見いだすべきだという、ダーリヤ・アレクサーンドロヴナの意見に賛成であった。彼はその意見を、つぎのような理由、すなわち、いかなる家庭もそれを助ける女なしには立っていくものではない、いかに貧しい家庭にも、富裕な家庭にも、雇った者なり身内の者なり、とにかく、ばあやがいる、またいなければならぬものだ、こういう理由によって、たしかめた。
「いいえ」とキティーは顔をあかくして、けれども、そのためにかえって大胆に、真実のこもったまなざしで彼のほうを見ながら、いった。「女というものは、屈辱感《くつじょくかん》なしには、家庭にはいることができないようにつくられているのかもしれませんわ。でも、そのひと自身は……」
彼は、この暗示だけで彼女を理解した。
「ええ、そうです!」と、彼はいった。「そうです、そうです、そうです。あなたのおっしゃるとおりです。あなたのおっしゃるとおりです!」
そして彼は、キティーの心に処女の恐怖と屈辱とをみとめたことによって、はじめて、ペスツォーフが食事中に論じたてていた婦人の自由という問題を解することができた。と、彼女を愛する気持から、彼は、その恐怖と屈辱感とに同情して、すぐに自分の論証をやめてしまった。
沈黙がおとずれた。彼女はたえず、チョークでテーブルの上へかいていた。彼女の目は、静かな光で輝いていた。その彼女の気分に引き入れられて、彼も、自分の全存在のうちに、たえずつのりゆく幸福感の緊張を感ずるのだった。
「ああ、わたくし、テーブルじゅうかきちらしてしまいましたわ!」と彼女はいった。そして、チョークをおくと、立って行こうとするようなそぶりを見せた。
『おや、この女《ひと》に行かれて、ひとりになったらどうするのだ?』と彼はぎょっとして考えた。そしてチョークを取りあげた。「ちょっと待ってください」と彼は、テーブルのそばへ腰掛けながらいった。「ぼくはもうとうから、あなたにおたずねしたいことがあったんですがね」
彼は、彼女の優しげな、けれどもびっくりしたような目を、まっすぐにひたと見いった。
「どうぞ、おっしゃってくださいまし」
「こういうことですよ」彼はこういって、頭文字だけを書いて見せた。「い、あ、わ、そ、で、お、そ、え、い、そ、あ、い?」その意味はこうであった。『いつぞや、あなたは、わたしに、そんなことは、できないと、おっしゃいましたが、それは、えいきゅうにという、いみでしたか、それとも、あのときはという、いみでしたか?』彼女がこの複雑な文句を解しえようとは、とても望めないことであったが、彼は、彼女がこれらの言葉を解しうるかどうかということに、自分の全生命がかかっているような面もちで、じっと彼女の顔を見つめた。
彼女も、真剣な様子で彼を見ていたが、やがてしわをよせた額を片手でささえて、読みはじめた。たまに彼女は、彼の顔を見あげて、目つきで彼にたずねた――『これは、わたくしの考えているとおりでございましょうか?』
「わたくし、わかりましたわ」と彼女はあかくなっていった。
「じゃあ、これはなんという言葉です?」と彼は、|永久に《ヽヽヽ》という意味をあらわした|え《ヽ》の字をさして、いった。
「それは『|永久に《ヽヽヽ》』という意味でございますわ」と彼女はいった。「けれど、それはほんとうでございませんわ!」
彼はすばやく、自分の書いた文字を消すと、彼女にチョークを渡して、立ちあがった。彼女は書いた――「あ、わ、そ、ご、し、な」
ドリーはこのふたりの姿を見かけると、アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチとの話し合いからひきおこされた悲しみを、すっかりまぎらされてしまった。チョークを手にし、おずおずした幸福らしい微笑をうかべて、下からレーヴィンの顔を見あげていたキティーと、テーブルの上へよりかかって、燃えるような目でテーブルを見たり、彼女を見たりしているレーヴィンの美しい姿とを見ているうちに、彼の顔が急にさっと輝いた。彼はわかったのであった。それはこういう意味だった――『あのときは、わたくしには、それよりほかに、ごへんじの、しようが、なかったのですわ』
彼はけげんそうに、おずおずと彼女を見やった。
「じゃあ、あのときだけのことですか?」
「ええ」と、彼女の微笑が答えた。
「それでは……今は?」と、彼はたずねた。
「では、これをお読みくださいまし。わたくしの願っていることを申しあげますから、心から願っていることですのよ」こう言いながら、彼女は頭文字を書いた――「あ、あ、わ、く、こ、で、そ、ゆ、く、こ、で」その意味はこうであった――『あなたが、あのときのことを、わすれて、くださる、ことが、できたら、そして、ゆるして、くださる、ことが、できたら』
彼は緊張したふるえる指でチョークをつかみ、それを折って、つぎのような意味の頭文字を書いた――『わたしには、なにも忘れるの、許すのということはありません、わたしは、依然として、あなたを愛しているのです』
彼女は、凍りついたような微笑をふくんで、彼を見やった。
「わかりましたわ」と、ささやくように彼女はいった。
彼は腰をおろして、ながい文句を書いた。彼女はもう、こうですかなどときかないで、すべてを理解し、自分でも、チョークを取りあげてすぐに返事を書いた。
彼には長いこと、彼女の書いたことがわからなかったので、しばしば彼女の目をのぞきこんだ。彼の頭は、幸福のためにうっとりとなっていたのである。彼は、どうしても、彼女の意味した言葉を思いあてることができなかったが、彼女の幸福に輝いた美しい目のなかで、彼は、自分の知らなくてはならぬことはみんな知った。で、彼は、三つの頭文字を書きだした。ところが、彼がまだ書きおわらないうちに、彼女はもう、彼の手つきでそれを読んでしまって、しまいのほうは自分でおぎなった。そして『ええ』という返事を書いた。
「ほう、書記のまねでもしとるのかね?」と、老公爵がそばへ来ていった。「だが、芝居にまにあいたいのだったら、もう出かけなくちゃならんよ」
レーヴィンは立ちあがって、キティーを戸口まで送っていった。
これだけの会話で、彼らのことは残らず話されてしまった。彼女が彼を愛しているということも、彼が明日の朝あらためて出かけてくることを両親につたえておこうということも、何もかも話されたのであった。
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十四
キティーが行ってしまって、自分ひとりになると、レーヴィンは、彼女とはなれたためのはげしい不安と、ふたたび彼女と会って、永久に彼女と結びつくべき明日の朝が、一時《いっとき》も早く、一刻も早くくればいいという堪えがたい焦燥《しょうそう》をおぼえて、彼女なしに過ごさねばならぬそれまでの十四時間を、死か何かのように恐ろしく感じた。自分ひとりきりにならないために、また、なんとかして時をまぎらすために、彼には、だれでもいい、いっしょにいて話す相手が必要であった。ステパン・アルカジエヴィッチは彼にとって、きわめて愉快な話相手であったが、彼は、彼のいうところによると夜会へ、そのじつバレーへと行ってしまった。で、レーヴィンは彼に向かってわずかに、自分は幸福であるということ、自分は彼を愛しているということ、そしてまた、自分のために彼のしてくれたことは、けっしてけっして忘れないということだけを言いえたにすぎなかった。ステパン・アルカジエヴィッチの微笑とまなざしとは、彼がその感情をまちがいなく理解したことを、レーヴィンに示してくれた。
「どうだい、まだ死ぬときではないだろう?」とステパン・アルカジエヴィッチは、感動をもってレーヴィンの手を握りしめながら、いった。
「うううん!」と、レーヴィンはいった。
ダーリヤ・アレクサーンドロヴナも、彼と別れのあいさつをかわすときに、彼を祝福するような調子でいった――「あなたがまたキティーと会ってくだすって、わたくしはほんとにうれしゅうござんすわ。お互いに古い友情は尊重しなければなりませんものねえ」レーヴィンには、ダーリヤ・アレクサーンドロヴナのこうした言葉が不愉快であった。彼女は、このことがすべてどんなに高く、彼女にとってどんなに近づきがたいものであるかということを、理解できなかったのだから、軽々しくそれを口にしてはならないはずであった。レーヴィンは彼らに別れを告げた。が、自分ひとりぼっちにならないために、彼は自分の兄につきまとった。
「あなたはどこへいらっしゃるんです?」
「おれは会議に行くよ」
「では、ぼくもいっしょに行きましょう、いいでしょう?」
「ああ、いいとも、いっしょに行こう」とセルゲイ・イワーノヴィッチは、にやにやしながらいった。「今日はおまえ、いったいどうしたというんだい?」
「ぼくですか? ぼくは幸福なんですよ!」とレーヴィンは、乗った馬車の窓をおろしながら、いった。「あけてもいいでしょう? でないと息苦しいんです。ぼくは幸福なんですよ! なぜあなたは、いままで結婚なさらなかったんです?」
セルゲイ・イワーノヴィッチはほほえんだ。
「いや、おれもたいへんうれしいよ。あのひとはどうやらいい|むす《ヽヽ》……」と、セルゲイ・イワーノヴィッチは言いかけた。
「いわないで、いわないで、いわないでください!」とレーヴィンは、両手で兄の毛皮外套のえりをつかんで、それをかきあわせながら、叫んだ。
「あのひとはいい娘だ」という言葉は、彼の気持にそぐわない、いたってありふれた、低級な言葉だったからである。
セルゲイ・イワーノヴィッチは、この人にしては珍しく、愉快そうに笑いだした。
「だが、とにかく、おれも大いにうれしいということくらい、いったっていいだろう」
「いや、それも明日です、明日のことです。もう何もいわないでください! なんにも、なんにも、黙っていてください!」とレーヴィンはいった。そして、もう一度兄の毛皮外套をかきあわせながら、言いたした。「ぼくはあなたを非常に愛しています! それはそうと、ぼくが会議に行ってさしつかえないですか?」
「ああ、さしつかえないとも」
「あなたは今日はどういうお話をなさるんです?」とレーヴィンは、微笑をつづけながらきいた。
ふたりは会場へ着いた。レーヴィンは、秘書が、どうやら自分自身にもわからないような記録を、つかえつかえ読むのをきいた。しかしレーヴィンは、その秘書の顔つきによって、その男がいかにも愛すべき、善良な、いい人間であることを見てとった。それは、彼が記録を読みながら、まごついてもじもじしている様子で明らかであった。それから演説がはじまった。人々はある金額の支出と、ある鉄管の敷設について論じあい、セルゲイ・イワーノヴィッチは、ふたりの議員を痛撃して、勝ちほこったような調子で、なにやらながながと論じたてた。と、もうひとりの別の議員が、何か紙に書きつけてから、初めは臆《おく》していたが、後には非常に毒々しい言葉で、しかも気持よく彼に答弁した。そして、それからまたスヴィヤーズスキイが(彼もそこへ出席していたのである)、やはり何事かを、非常に優雅な上品な言葉で述べた。レーヴィンは彼らの話を傾聴《けいちょう》していて、その支出された金額も、鉄管も、そんなものはみな、なんでもないのだということや、彼らは少しも腹をたてているのではなく、みな非常にいい善良な人々だということや、したがって彼らのあいだでは、そういうことがすべて気持よく、円滑《えんかつ》に進行しているのだということなどが、はっきりとわかってきた。彼らはだれのじゃまもしなかった。そして、みんながみんな愉快そうであった。わけても、レーヴィンにとって一ばんはっきりしたことは、彼らのすべてが、今日の彼には腹の底まで見えすいて、以前には目にもつかなかったような小さなしるしからでも、ひとりひとりの心を知ることができ、彼らがみな善良な人間であることが、明らかにわかることであった。なおこの日は、彼ら一同はとくに、彼レーヴィンをことのほかに愛していた。それは、彼らが彼と話すときの態度や、知らぬ人までがみな優しく、あいそよく彼を見る様子によって、明らかであった。
「おい、どうだ、おもしろかったかね?」と、セルゲイ・イワーノヴィッチが彼にたずねた。
「ええ非常に。こんなにおもしろいものだとは、まったく思いもよりませんでした。なかなかいいです。すてきです!」
スヴィヤーズスキイがレーヴィンのそばへ来て、家へお茶を飲みにくるようにと招いた。レーヴィンは、自分がいままで、なんでスヴィヤーズスキイに不満を感じていたのか、何を彼から求めていたのか、どうしても、理解もできなければ思いだすこともできなかった。彼は聡明な、驚くべく善良な人間であった。
「どうもありがとう」と彼はいった。そして彼の細君のことや、義妹のことなどを彼にたずねた。と、思考上の奇妙な連想から、彼の想像では、スヴィヤーズスキイの義妹についての考えが、結婚ということに結びつき、彼には、スヴィヤーズスキイの細君と義妹以上に、自分の幸福をうちあけて話すいい相手は、ほかにはないように思われた。で、彼は、彼らのところへ行くことを、非常によろこんだのであった。
スヴィヤーズスキイはいつものように、ヨーロッパで発見されなかったものが、こちらで発見できるわけがないという予想をもって、レーヴィンに、田舎での彼の仕事についてたずねたが、いまはそのことも、レーヴィンには少しも不愉快でなかった。むしろ反対に彼は、スヴィヤーズスキイの説を正しく思い、そういう仕事はいっさいつまらないものだと感じたうえ、スヴィヤーズスキイが自分の説の正しいことをはっきり表明することを避けている、驚くべき優しさと心のやわらかさとに気がついた。スヴィヤーズスキイ家の婦人たちはとくに愛すべき人たちだった。レーヴィンには、彼女たちはもう何もかも知っていて、彼に同情しているのだが、ただつつましさから口にださないだけだというふうに思われた。彼は彼らのもとに一時間、二時問、三時間と、いろんなことを話しながら、すわりこんでしまったが、何かにつけてにおわせるのは、自分の心をいっぱいにしている、あるひとつのことばかりで、自分が彼らをひどくあきあきさせていることや、もうとうに彼らの寝るべき時間になっているということなどには、てんで気がつかなかったのである。
スヴィヤーズスキイは、あくびをしながら、そして友のかわったそぶりに驚きながら、彼を玄関まで送り出した。もう一時過ぎであった。レーヴィンは旅館へ帰ったが、なお残された十時間を、これからひとりきりで、堪えがたい待ちどおしさをいだきながら、どうして過ごそうかと考えて、愕然とした。不寝番《ふしんばん》にあたっているボーイは、彼のためにろうそくをつけておいて、出て行こうとしたが、レーヴィンは彼を呼びとめた、エゴールというそのボーイは、レーヴィンは前には気もつかなかったのであるが、非常に利口そうな、善良な、とりわけ気持のいい男であった。
「どうだね、エゴール、寝ずにいるのはつらいだろう?」
「どうもしかたがございませんよ。これがわたくしどもの職務なんでございますから、そりゃお邸がただと、もっとらくでございますがね。そのかわり、こちらのほうが収入《みいり》が多うございますよ」
エゴールは家族もちで、男の子が三人と、裁縫をする娘がひとりあり、彼はその娘を、馬具屋の番頭のところへ嫁にやりたい気でいることなどがわかった。
レーヴィンはそれをきっかけにして、エゴールに、結婚で一ばん大切なのは愛である、愛さえあれば、人はつねに幸福でいられる、なぜなら、幸福というものは、ただ自分自身のうちにあるものであるから――こういう自分の考えを話して聞かせた。
エゴールは熱心にきいていた。そしてレーヴィンの意見が、よくわかったようであったが、彼はそれを裏書きしようとして、レーヴィンにはまるで思いもかけなかったようなことを話しだした。それによると、彼はりっぱな邸にいたころは、いつもその主人たちに満足していたし、また今の主人はフランス人ではあるが、やはり心底から満足しているというのであった。
『こいつは驚くべき善良な男だ!』と、レーヴィンは考えた。
「ところで、エゴール、おまえは女房をもったときには、女房を愛していたのかね?」
「どうして愛さないでいられましょう?」と、エゴールは答えた。
そこで、レーヴィンは、エゴールもまた感激にみちた心の状態にあり、その心にひめた感情を思うさま吐《は》きだしたい気分になっていることを、見てとった。
「わたくしの身の上も、これでなかなか変わったものでございましてね。わたくしは子供の時分から……」と彼は、あくびが人にうつるように、あきらかにレーヴィンの歓喜に感染して、しゃべりだした。
が、そのときベルの音が聞こえた。エゴールは行ってしまい、レーヴィンはひとりきりになった。彼は、晩餐にもほとんど何もたべなかったし、スヴィヤーズスキイのところでもお茶も夜食も辞退したのだったが、それでもまだ、夜食のことなど考えることもできなかった。彼は前夜は眠らなかったのに、眠ることを考える気にもなれなかった。部屋のなかはすがすがしかったが、彼は暑さに息がつまるようであった。彼は二か所の通風口をあけて、その前のテーブルの上へ腰をおろした。雪におおわれた屋根のかげから、鎖のついたような模様のある十字架が見え、さらにその上に、黄ばんだ光をはなっているカペラ星(御者座の第一星)と、御者座のしだいに高まって行く三角形とが、見えていた。彼はその十字架と星とを、かわるがわるにながめやり、そして、一様に室内へ流れこんでくる、すがすがしい厳寒の空気を吸いこみながら、夢見ごこちで、想像のなかへわきあがってくる心像や思い出を、あとづけていた。三時すぎに、彼は廊下に足音を聞きつけて、戸口からのぞいて見た。それは知り合いであるカルタ師ミャースキンが、クラブから帰って来たのであった。彼は、陰うつな様子でしかめつらをし、咳《せき》をしながら歩いていた。『気の毒な、不幸な男だ!』とレーヴィンは思った。と、その男にたいする愛情と憐憫《れんびん》とから、彼の目には涙がうかんできた。彼はその男と話をして、慰めてやりたいと思ったが、自分がシャツ一枚でいることに気がついて、思いかえし、ふたたび冷たい空気をあびながら、このじっとおし黙ってはいるが、彼にとっては意味ぶかい、異様な形の十字架や、ますます高くのぼっていく、黄いろく光っている星をながめるために、通風口のそばへ行って腰をおろした。六時過ぎになると、床掃除人たちが音をたてはじめ、何かの勤行《ごんぎょう》に人を呼ぶ鐘が鳴りはじめて、レーヴィンは寒さが身にしみるのを感じだした。彼は通風口を閉じ、顔を洗い、着がえをして、町へ出ていった。
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十五
町はまだがらんとしていた。レーヴィンは、スチェルバーツキイ家のほうへ歩いていった。表玄関のドアはまだしまっていて、いっさいがしんと寝しずまっていた。彼は旅館へひっ返して、ふたたび自分の部屋へはいり、コーヒーを命じた。当番のボーイ――もうエゴールではなかった――が、それをもって来た。レーヴィンは、彼と話をしようと思ったが、おりからベルが鳴ったので、彼は行ってしまった。レーヴィンはまたコーヒーを飲もうとして、輪パンを口へ入れてみたが、彼の口は、そのパンをどうしていいかをまるで知らなかった。レーヴィンはパンを吐きだすと、外套を着て、またもや外へ歩きに出かけた。彼が二度めにスチェルバーツキイ家の入口の階段近くへ来たのは、九時過ぎであった。家のなかでは、人々がやっと起きだしたばかりで、料理人が食料品を買い出しに出かけるところであった。少なくともまだ二時間は、がまんしなければならなかった。
レーヴィンは、その夜から朝へかけてを、まったく無意識に送ってしまって、自分を物質生活の諸条件からはすっかり解放されたもののように感じていた。彼は終日何もたべず、ふた晩まんじりともせず、おまけに上着を脱いだまま、数時間を厳寒の外気のなかでおくりながら、かつてないようないきいきとした、健康な気分を感じたばかりでなく、自分というものを、ぜんぜん肉体から超越してしまったもののように感じていた――彼は、筋肉の力をまたずに動き、そして、どんなことでもできるような気がしていたのである。彼は、もし必要とあれば、天をかけることでも、家の一角ぐらいを取り除けることでも、できると信じて疑わなかった。彼は残りの時間を、のべつ時計を出して見たり、あたりを見まわしたりしながら、往来を歩きまわって過ごした。
そして、そのとき彼の見たものは、その後もう二度と見ることはできなかった。なかでも小学校へ行く子供たち、屋根から歩道へ飛びおりた暗藍色《あんらんしょく》の|はと《ヽヽ》、見えない手がならべていた粉《こな》まみれの白パン、これらのものが、彼に深い感動をあたえた。それらの白パンや、|はと《ヽヽ》や、ふたりの男の子は、みな地上の者ならざる存在であった。そしてそれらはみな、同時に現われたのであった。――ひとりの男の子は|はと《ヽヽ》のそばへ走っていって、にこにこしながらレーヴィンを見やり、|はと《ヽヽ》ははたはたと羽ばたきして、空中にふるえている粉雪のなかを、日に輝きながら飛びたち、窓のなかからは、焼きたてのパンのにおいがしてきて、白パンがそこへならべられたのである。これらのことは、すべてが、そろいもそろっていかにもよかったので、レーヴィンは思わず笑いだし、うれしさのあまり泣きだしたくらいであった。新聞横町からキスローフカ街と、とほうもないまわり道をして、彼はまた旅館へもどり、そして自分の前へ時計をおいて、十二時になるのを待ちながらすわっていた。隣室では、なにやら機械のことや、詐欺《さぎ》のことが話されていて、朝らしい咳《せき》の音がしていた。彼らは、時計の針がもう十二時に近づいているのを知らないでいるのだ。針は十二時近く進んだ。レーヴィンは入口の階段へ出た。御者たちは何もかもを承知しているらしかった。彼らは幸福そうな顔をして、さきを争って自分の橇《そり》をすすめながら、レーヴィンをとりかこんだ。レーヴィンは、ほかの御者たちを怒らせないように、このつぎ雇うからと約束しながら、そのうちのひとりを選んで、スチェルバーツキイ家へやってくれと命じた。その御者は、血のめぐりのいい、まっ赤な、がんじょうそうな首にぴったりくっついているまっ白なシャツのえりの、外套の下からつき出ているところが、小ぎれいに見える男であった。この御者の橇《そり》は、高く、軽快で、その後レーヴィンが二度と乗ったことのないようなものであった。馬もよかった。そしてずいぶん駆けたが、動いているとは思えないほどであった。御者はスチェルバーツキイ家を知っていた。そして、乗客にたいしてとくにうやうやしく、両手をまるくまわして「どうぞ」と言いながら、車寄せのところへ橇《そり》をとめた。スチェルバーツキイ家の玄関番は、きっと何もかもを知っていたにちがいなかった。それは、彼の目の微笑によっても、彼がいったつぎの言葉によっても、明瞭であった。
「これはこれは、お久しぶりでございますな、コンスタンチン・ドミートリエヴィッチ!」
いや、彼はすべてを知っているばかりではなく、明らかに喜んでいながら、その喜びをかくそうとつとめているようであった。レーヴィンは、彼の年よりらしい、かわいげのある目を見ると、自分の幸福に、さらに何か新しく加わったものがあるようにさえ思うのだった。
「みなさん、お起きになったかね?」
「どうぞ! それはこちらへお置きあそばして」と彼は、レーヴィンが帽子を取りにもどろうとしたときに、にこにこしながらいった。それにも何かの意味があった。
「どなたへお取りつぎいたしましたら?」と、家僕がたずねた。
その家僕は、若いしゃれ者で、新顔のひとりではあったけれども、いたって善良ないい男で、やはり何もかもを承知していた。
「夫人に……公爵に……お嬢さんに……」と、レーヴィンはいった。
彼が会った最初の人は、マドモアゼル リノンであった。彼女は広間を通っていた。彼女の巻き髪や顔は輝いていた。彼が彼女とひと言ふた言話しはじめると、ふいにドアの向こうできぬずれの音が聞こえた。と、マドモアゼル リノンの姿は、レーヴィンの目から消えさって、自分の幸福の近づいてきた喜ばしい恐怖が、びりびりと彼の心につたわった。マドモアゼル リノンはそわそわしだして、彼をおいて、別の戸口のほうへ行った。彼女が出ていくと同時に、早い早い、軽快な足音が、はめ床の上に聞こえだした。そして彼の幸福が、彼の生命が、彼自身が、いや彼自身よりもよい、彼が長いあいだ求め願っていたものが、早く早く彼のそばへ近づいてきた。彼女は歩いて来たのではなかった、何かの目に見えない力によって、彼のほうへ運ばれて来たのであった。
彼はただ、彼女のぱっちりとした、真情のこもった目、彼の心をみたしているのと同じ愛の喜びに驚かされているような目だけを見た。その目は、愛の光で彼をめしいさせながら、ますます近く輝いてきた。彼女は、彼のすぐそばに、彼にふれながら、立った。彼女の両手はあがって、そして彼の肩の上へおりた。
彼女は、彼女にできるだけのことをあまさずした――彼のそばへかけよって、おどおどしながら、そしてまた歓喜に燃えながら、全身を彼に投げだしたのである。彼は彼女を抱いて、彼の接吻を求めているその口へ、自分のくちびるをおしつけた。
彼女も終夜眠らなかった。そして、朝じゅう彼を待っていたのであった。父も母も、一も二もなく同意して、彼女の幸福によって幸福であった。彼女は彼を待っていた。彼女は自分の口から第一に、自分と彼の幸福を彼に告げたいと思ったのであった。彼女は、自分ひとりで彼を迎える心ぐみをして、その考えに喜んだり、臆《おく》したり、恥ずかしがったりしたものの、われながらどうしていいかわからなかった。彼女は、彼の足音と声とを聞きつけると、ドアの外で、マドモアゼル リノンの出ていくのを待っていた。マドモアゼル リノンは出ていった。彼女は、何をどうするかということは、考えもしなければ、自分にたずねてみもしないで、いきなり彼のそばへ来て、今したことをしたのであった。
「お母さまのところへまいりましょう!」と、彼女は彼の手をとっていった。彼はしばらくは、何をいうこともできなかった。それは彼が言葉によって自分の感情の崇高《すうこう》さを汚すのを恐れたからというよりも、むしろ、何かいおうとするたびに、言葉のかわりに、幸福の涙がほとばしり出そうになるのを感じたからであった。彼は彼女の手をとって接吻した。
「ああ、ほんとにこれが真実でしょうか?」とついに彼は、うつろな声でいった。「ぼくはとても信じることができない。きみがぼくを愛してくれるなんて!」
彼女は、この親しい言葉の調子と、彼が自分を見たときのおずおずした様子とに、にっこりとほほえんだ。
「ええ!」と意味ありげに、ゆっくりと彼女はいった。「わたくし、ほんとうに幸福ですわ!」
彼女は、彼の手をはなさないで、そのまま客間へはいっていった。公爵夫人は彼らを見ると、急に息づかいをあらくし、急に泣きだしたかと思うと、急に笑いだして、レーヴィンの思いもかけなかった力づよい足どりで、彼らのそばへかけよるなり、レーヴィンの頭を抱いて、彼に接吻し、彼のほおを涙でぬらした。
「ああ、これで何もかもすみましたわ! わたしはうれしい。あの子をかわいがってやってくださいましよ。わたしはうれしいよ……キテイーや!」
「や、なかなかすばしこくやりおったな!」と老公爵は、つとめて平気をよそおいながらいった。が、レーヴィンは、彼が自分のほうをむいたときに、その目のうるんでいるのに気がついた。「わしはもうずっと前から、いつもこうなるのを望んでいたのだ!」と公爵は、レーヴィンの手をとって自分のほうへ引きよせながら、いった。「わしはもうあの時分から、ほら、このおてんば娘があんなつまらない……」
「お父さま!」とキティーは叫んで、両手で彼の口をおさえた。
「では、いうまい!」と彼はいった。「わしはほんとに、ほんとに……うれ……あ、なんてわしはばかな……」
彼はキティーを抱きよせて、彼女の顔に、手に、また顔に接吻して、彼女に十字を切ってやった。
こうしてキティーが長いこと、優しく、父のむくむくふとった手に接吻するのを見るとともに、これまでは他人であったこの老公爵にたいする新しい愛情が、たちまちレーヴィンの心をとらえた。
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十六
公爵夫人は黙ってにこにこしながら、肘掛けいすに掛けていた。公爵はそのそばに腰をおろした。キティーはまだ父の手をはなさないで、父のそばに立っていた。みんな黙っていた。
一ばんさきにいろんなことを言葉にして、すべての思想や感情を実生活の問題にうつしたのは、公爵夫人であった。と、初めのうちは、だれもいちように、それがふしぎな、痛いことのようにさえ思われた。
「いつにしましょうね? 祝祷《しゅくとう》や告示もしなくてはなりませんからね。婚礼はいつがよろしいでしょうね? あなたはどうお考えになります、アレクサンドル?」
「それはこのひとだ」と老公爵は、レーヴィンをさしながらいった。
「こんどのことでは、このひとが一ばんたいせつな人だよ」
「いつですって?」と、レーヴィンはあかくなっていった。「明日ですな、もしぼくにおたずねでしたら、ぼくの考えでは、今日|祝祷《しゅくとう》をすまして、明日式をすることに……」
「まあとんでもない、mon cher(親愛なかたよ)そんなたあいのない」
「では、一週間ぐらいたったら」
「まあ、このひとはまるで気ちがいだわね」
「とんでもない。どうしてです?」
「でも、まあ考えてごらんなさいよ!」と母夫人は、この急ぎかたをうれしそうに笑いながらいった。「では、支度はいったいどうするんですの?」
『支度だの、なんだのっていったい、そんなものがあるのかしら?』とレーヴィンはびっくりして考えた。『だが、その支度だの、祝祷だのっていうものが、そうしたものがみな、おれの幸福を傷つけることができるのだろうか? いや、おれの幸福を傷つけうるものは何もありはしない!』彼はキティーの顔をちらと見やって、支度についての考えが、彼女を少しもはずかしめていないことをみとめた。『してみると、やっぱり必要なんだな』と彼は考えた。
「だって、ぼくはなにも知らないんですから、ぼくはただ、自分の希望を申しあげただけですから」と、彼はわびるようにいった。
「では、よく相談してすることにしましょう。もっとも、祝祷や告示は、いますぐにでもできますわね。それはそうですわ」
公爵夫人は夫のそばへ行き、彼に接吻して、出て行こうとした。が、彼は彼女をひきとめ、抱いて、恋する若者のようににこにこしながら、何度も彼女に接吻した。老人たちは、どうやら、ちょっと頭が混乱して、自分たちがもう一度恋をしているのか、それとも自分たちの娘だけが恋をしているのか、よくわからないような様子であった。公爵と夫人とが出て行ってしまうと、レーヴィンは、自分の許嫁《いいなずけ》のそばへ行って、彼女の手をとった。いまは彼もわれに返って、ものをいうことができた。そして彼には、彼女にいわねばならぬことがたくさんあった。しかし彼は、ぜんぜん必要でないことばかりを言いだすのだった。
「これがこうなることは、ぼくはちゃんと承知していました! もっとも、ぼくは一度も希望をもったことはなかったけれど、しかし、心のうちでは、つねに信じて疑いませんでした」こう彼はいった。「ぼくは、これは前から定められていたことだと信じています」
「ところが、わたくしはどうでしょう?」と、彼女はいった。「あのときだって……」こう言いかけて、彼女はちょっと言葉をきったが、例の真実のこもった目できっと彼を見ながら、ふたたびつづけた。「わたくしが自分の幸福を自分からおしのけてしまったあのときだって、わたくしは、いつもあなただけを愛していましたわ。でもわたくし、あのときは気が迷っていたんですわ。わたくし、ぜひお話しなければなりませんの……あなたは、あのことをお忘れになることが、おできになりまして?」
「いや、ひょっとすると、ああいうことのあったほうがよかったのかもしれません。ぼくにはたくさん、あなたに許していただかなくちゃならんことがあります。ぼくのあなたにお話しなければならんのは……」
それは、彼が彼女にいおうと決心していたことのひとつであった。初めから彼は彼女に、ふたつのことをいおうと決心していた。ひとつは、彼が彼女のように純潔でないということで、いまひとつは、彼が信仰をもたない人間だということであった。それは苦しいことであったが、彼は、このふたつはどうでもいわなければならぬと決心していた。
「いや、いまでなく、あとで!」と、彼はいった。
「けっこうですわ、あとでだって。けれど、ぜひ話してくださいましね、わたくしは、どんなことだってこわがりはいたしませんわ。どんなことだって、知っておく必要がございますもの。もう何もかもきまってしまったんですからね」
彼がそのあとを言いたした――
「ぼくがどんな人間であろうと、ぼくといっしょになるときまったからにはね……まさか急にいやだなんておっしゃりはしないでしょうね? ね?」
「ええ、ええ」
ふたりの話は、マドモアゼル リノンのために中断された。彼女は、つくり笑いではあったが、優しげに微笑しながら、自分の愛する教え子を祝うために来たのであった。彼女がまだ出ていかないうちに、召使たちもお祝いを言いにやって来た。そのうちに、こんどは、親戚の人たちが乗りつけてきて、例の幸福なてんやわんやがはじまり、レーヴィンは婚礼の翌日まで、それからのがれ出ることができなかった。レーヴィンは終始きまりがわるいづめで、たいくつであったが、幸福の緊張はますますつのっていくばかりであった。彼はたえず、自分の知らない多くのものを、求められているような気がしていた。そして、いわれることはなんでもしたが、すると、それがことごとく、彼に幸福をもたらすのだった。彼は、自分の結婚にはけっして世間なみのことはすまい、そうした世間なみの条件は、自分の特殊な幸福を傷つけるものだから、こうひとりで考えていたが、しかし、けっきょくはやはり彼も、世間の人と同じことをすることになってしまった。しかも彼の幸福は、そのためにかえって増大し、今までのどんな結婚とも類似点をもたない、特殊なものとなっていた。
「さあ、こんどはボンボンをたべましょうよ」とマドモアゼル リノンはいった。するとレーヴィンは、その菓子を買いに橇《そり》を飛ばした。
「ああ、ぼくはほんとにうれしい」と、スヴィヤーズスキイはいった。「花束は、なんだね、フォミンの店で買うがいいね」
「ああ、そうかね?」そして彼は、フォミンの店へ橇を駆った。
兄はまた彼に、巨額の費用と贈り物がいるから、金を用意しておく必要があるといった。
「ああ、贈り物がいるのですか?」こういって彼は、フリデの店へ馬を走らせた。
そして、菓子屋でも、フォミンの店でも、フリデの店でも、みんなの者が彼を待ってい、彼のために喜んで、この数日間に彼が交渉をもったすべての人と同じように、彼の幸福を祝ってくれているのを見た。なお、ふしぎなことには、すべての人が彼を愛してくれたばかりでなく、以前には同情を持たなかった、冷淡な、無関係な人々までが、彼のために喜んで、何事にも彼の意にしたがい、彼の感情を優しく注意ぶかくとり扱ってくれて、彼の許嫁《いいなずけ》が完全以上の女性であるから、彼こそは世界じゅうでの果報者《かほうもの》であるという彼の信念を、分けあってくれた。
それと同じことを、キティーもやはり感じていた。一度ノルドストン伯爵夫人が、無遠慮に、もっといい人を望んでいたということをほのめかすと、キティーは非常に怒って、世のなかにレーヴィンよりいい人はあるはずがないときっぱり言いきったので、ノルドストン夫人もそれを認めないではいられなくなり、キティーの前では、喜びの微笑なしにはレーヴィンに接することができなくなってしまった。
彼によって約束された告白は、その期間の、ひとつの重苦しいできごとであった。彼は老公爵に相談して、彼の許しをうけると、自分の心を苦しめていることの書かれてある日記を、キティーに渡した。彼は当時この日記を、未来の妻のためにと思って、書いていたのであった。彼を苦しめていたのは、ふたつのことがらであった。――自分が純潔でないということと、信仰を持たぬということであった。信仰をもたないという告白は、いっこうに注意をうけないですんだ。彼女は宗教的な女で、かつて宗教の真理を疑ったことはなかったが、しかし、表面上の彼の無信仰は、少しも彼女の心をさわがせなかった。彼女は、愛によって彼の全精神を知りつくし、彼の心のうちに自分の望んでいるもののあるのを知っていたので、そうした精神状態が無信仰というべきものであっても、そんなことはどうでもよかったのである。が、もうひとつの告白は、彼女をひどく悲しませた。
レーヴィンは、まんざら内心のたたかいなしに自分の日記を彼女にわたしたわけではなかった。彼は、自分と彼女とのあいだに秘密などあるはずがないし、またあってはならないと考えていたので、どうでも、そうしなければならぬと決心したのであった。しかし彼は、それが彼女にたいしてどんな作用をもつかということは、よく考えてもみなかった。つまり、彼女の身になって考えることをしなかったのである。で、彼はその夕方、芝居へいく前に彼女の家へたちよって、その部屋へはいって行き、そこに、彼がつくりだした悲しみのために不幸になり、目を泣きはらしている、哀れな、いじらしい彼女の顔を見たときに、はじめて、自分の恥ずべき過去と、彼女の|はと《ヽヽ》のような純潔とをおしへだてている深淵に気がつき、自分のしたことに愕然《がくぜん》となったのであった。
「持って行ってくださいまし、こんな恐ろしいもの、みんな持っていってくださいまし」と彼女は、自分の前のテーブルの上においてあったノートを押しやりながら、いった。「なんだってあなたは、こんなものをわたくしに見せてくだすったんですの?……いいえ、でも、やっぱり、このほうがよかったんですわ」と彼女は、彼の絶望したような顔つきに、心を動かされて言いたした。
「でも、これは恐ろしゅうございますわ!」
彼は頭をたれて黙っていた。何もいうことができなかったのである。
「あなたはぼくを許してはくださらないでしょうね」と彼は、ささやくようにいった。
「いいえ、わたくしは許しましたの、けれど、これは恐ろしゅうございますわ!」
とはいえ、彼の幸福は、この告白にもそこなわれず、かえって、新しい陰影をくわえたほど、偉大なものであった。彼女は彼を許した。が、そのときからというもの、彼は彼女の前にいっそう自分を彼女にあたいしないものと感じ、彼女にたいして道徳的にますます低く屈服《くっぷく》し、そして、自分の分不相応な幸福を、ますます高く評価するのであった。
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十七
晩餐のあいだやそのあとでかわされた談話の印象を、われともなく心のうちでひるがえしながら、アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチは、さびしい旅館の一室へ帰っていった。許しておあげなさいといったダーリヤ・アレクサーンドロヴナの言葉は、彼の心にただいまいましさをあたえたにすぎなかった。キリスト教の法則が自分の場合に適用されるかどうかということは、あまりにむずかしい問題で、そうかるがるしく口にすべきことではなかった。しかも、この問題は、すでにとうの昔に、アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチによって、否定的に解決されていたものである。いろいろ話された言葉のなかで、最も強く彼の心を刺激したのは、あのまぬけでお人よしのトゥローヴツィンの言葉であった。――|男らしくやりましたよ《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、|決闘を申し込んで《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》、|やっつけてしまったんです《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。――礼儀を思う心から、だれも口にだしてはいわなかったが、一同も明らかにそれに同感していたようであった。
『しかしこの事件は、もう解決してしまったのだ。いまさら考える必要はない』こうアレクセイ・アレクサーンドロヴィッチは自分にいった。彼はただ、明日に迫る出立のことや、調査事業のことばかり考えながら、自分の部屋へはいって行き、そして、送ってきた玄関番に、従僕はどこにいるかとたずねた。玄関番は、従僕はいま出て行ったところだと答えた。アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチは、お茶をもってくるように言いつけてから、テーブルのそばへ腰をおろし、フルームの案内記をとりあげて、旅の道程を考えはじめた。
「電報が二通まいっております」ともどって来た従僕が、部屋にはいって来ながらいった。「ごめんくださいまし、閣下、ちょっと出てまいったものですから」
アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチは、電報を受け取って、封を抜いた。最初の電報は、かねて彼が望んでいた地位に、ストゥレーモフが任命されたという通知であった。アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチはその電報をほうりだし、顔をあかくして立ちあがると、部屋のなかを歩きはじめた。――Quos vult perdere dementat(神は滅ぼさんと欲するものをまず狂せしむ)彼はそのquos(彼ら)という言葉に、この任命に協力した人々をあてはめながら、こういった。彼には、自分以外の人がこの地位に任命されたこと、つまり自分がみごとに除外されたということが、残念だったのではなかった。彼にはあの、饒舌家《じょうぜつか》でだぼらふきのストゥレーモフが、その地位には他のだれよりも不適任である事実を、彼らがどうして認めなかったのか、それが不可解でふしぎでならなかったのである。彼らはどうして、この任命こそ彼ら自身を、自分たちの名声を滅ぼすものだということをさとらなかったのであろう!
『これも同じようなことだろう』彼は、つぎの電報を開きながら、にがにがしげにこうひとりごちた。その電報は、妻から来たものであった。青い鉛筆で書かれた『アンナ』という署名が、まっさきに彼の目へ飛びこんだ。「死にそうです。お願い、お帰りください、お許しくだされば、らくに死ねます」と彼は読んだ。彼はさげすむように笑って、電報をほうりだした。なんといううそだろう、奸計《かんけい》だろう、もうそれにきまっている――最初の瞬間、彼にはまずこう思われた。
『あれがちゅうちょする|うそ《ヽヽ》なんか、ありえないからな。きっとお産にちがいない、ひょっとしたら、お産からきた病気かもしれない。だが、いったいどういう目的なんだろう? 生まれた子を正当の子として、おれの名誉を毀損《きそん》し、離婚をさまたげようというのかしら』と、彼は考えた。『だが、なんだかへんなことが書いてあったな。――死にそうです……か』彼は電報を読みかえした。と、そこに書かれてあった言葉のほんとうの意味が、にわかに彼を驚かした。「が、もしこれがほんとうだったら?」と彼は、ひとりごとをいった。『もし瀕死の苦痛のなかで、彼女が心から後悔しているのに、それを自分がうそだと思って行かないとしたら、それはただ残酷であるばかりでなく、世間から非難されるし、おれとしてもばかげたことだ』
「ピョートル、馬車をとめといてくれ。わしはペテルブルグへ帰ってくる」と彼は従僕にいった。
アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチは、ペテルブルグへ行って妻に会おうと決心した。もし彼女の病気がうそだったら、何もいわずに出てきてしまうまでである。が、じじつ病気であり、死ぬまえに彼を見たいと望んでいるのだったら、彼は彼女を許すであろう――息のあるうちに会えさえすれば。が、万一まにあわなかったら、最後の義務をつくすであろう。
道中ずっと彼は、自分のすべきことについては、それ以上何も考えなかった。
車中で一夜を過ごしたための疲労と不潔の感じをいだいて、アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチは、ペテルブルグの朝ぎりのなかを、がらんとしたネーフスキイ街に馬車をやりながら、自分を待っていることについては何も考えずに、自分の前だけを見ていた。彼は、それについては考えることができなかった。なぜなら、これから起こることを考えるだんになると、妻の死が、彼の境遇の重苦しさを一挙にとり除いてくれるであろうという想像を、おいのけることができなかったからである。パン屋や、まだしまっている店や、夜橇《よぞり》の御者や、敷石を掃いている邸番などが、彼の目にちらついた。そして彼は、彼を待っているもの――あえて望みはしないけれども、やはり望まずにはいられないものについての考えをうち消そうとつとめながら、それらのものを観察していた。彼は玄関の階段へ乗りつけた。眠っている御者を乗せた箱《はこ》馬車と、ほかに一台のつじ馬車とが、車寄せのところにとまっていた。玄関へはいりながらアレクセイ・アレクサーンドロヴィッチは、頭のずっと奥からでも引き出すように、例の決心を引き出して、もう一度よく調べてみた。その決心は――『もしうそだったら、平然と軽蔑して立ってしまうこと、もしほんとうだったら、適当の処置をとること』こういうのであった。
玄関番は、アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチがまだベルを鳴らさないうちに、ドアを開いた。玄関番のペトロフ、またの名カピトーヌイチは、古ぼけたフロック・コートに、ネクタイなしのスリッパばきという奇妙なかっこうをしていた。
「奥さんはどうだね?」
「昨日、ご安産でいらっしゃいました」
アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチは、立ちどまって顔色をかえた。自分がどんなに強く彼女の死を望んでいたかということを、今こそはっきりと知ったのである。
「が、からだのぐあいは?」
コルネイが朝の前掛け姿のまま、階段をかけおりて来た。
「だいぶ、おわるくいらっしゃいます」と彼は答えた。「昨日はお医者さまの立会いがございまして、ただいまもおひとかたお見えになっております」
「荷物を頼むよ」と、アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチはいった。そして、まだ死の望みがあるという知らせに、いくぶんの気やすさを感じながら、玄関の間《ま》へはいっていった。
帽子掛けには、軍人の外套がかかっていた。アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチは、それを見てたずねた。
「だれだね、来ているのは?」
「お医者さまと、産婆と、ウロンスキイ伯爵とでございます」
アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチは、奥の部屋へ通った。
客間にはだれもいなかった。彼の足音を聞きつけて、彼女の居間から、ふじ色のリボンのついた室内帽をかぶった産婆が出てきた。
彼女は、アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチのそばへくると、死の迫っている場合のなれなれしさで彼の手をとり、彼を寝室のほうへ連れていった。
「ほんとにようこそお帰りくださいました! ただあなたさまのことばかり、あなたさまのことばかりおっしゃって」と、彼女はいった。
「氷を早くしてください!」と、寝室から医者の命令的な声が聞こえた。
アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチは、アンナの居間へはいった。彼女の机のそばの、背の低いいすにウロンスキイが横向きに腰掛けて、両手で顔をおおうて泣いていた。彼は、医者の声にとびあがり、顔から手をはなして、アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチを見た。夫の姿を見ると、彼はひどくろうばいし、消えいりたいような様子で両肩のなかへ頭をひっこめて、ふたたび腰をおろしてしまった。が、勇気をだして、立ちあがると、いった――
「あのひとがもうむずかしいのです。医者は絶望だといっています。ぼくはお心のままですが、どうか、ここにいることだけはお許しください……しかし、ぼくはお心のままです……ぼくは……」
アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチは、ウロンスキイの涙を見ると、他人の苦悶《くもん》を見ることがいつも彼の心によびおこす精神的混乱のわきあがるのを、おぼえた。で、彼は顔をそむけて、彼の言葉をみなまで聞かずに、急いで戸口のほうへ行った。寝室の中からは、何やらいっているアンナの声がもれ聞こえた。彼女の声は楽しそうで、いきいきして、非常にはっきりした調子だった。アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチは寝室へはいり、ベッドのそばへ歩みよった。彼女は、顔を彼のほうへむけて寝ていた。ほおはぼうと赤くなり、目は輝き、ガウンのそでから出ている、小さい、まっ白な手は、毛布の端をまるめながらもてあそんでいた。見たところ彼女は、健康で発剌としているばかりでなく、このうえない上きげんでいるようにさえ思われた。彼女は、ひどく早口の高調子で、異常に正確な、感情のこもった音調でしゃべっているのだった。
「なぜって、アレクセイは、わたしはアレクセイ・アレクサーンドロヴィッチのことをいっているのよ。(ふたりともアレクセイっていうなんて、なんてふしぎな恐ろしい運命でしょう。そうじゃありませんか?)アレクセイは、わたしのいうことをこばみなんかしませんわ。わたしは忘れますわ、あのひとも許してくれるだろうと思いますの……それはそうと、あのひとはどうして帰ってくれないんでしょう? あのひとは、いい人ですわ。あのひとは、自分がどんなにいい人だか自分では知らないでいるんですわ。ああ、ほんとうになんて苦しさだろう? ああ早く水をちょうだい! だけど、それはあれに、生まれた赤ちゃんにわるいでしょうね! ああいいわ、じゃあ、あの子には、ばあやをつけてちょうだい! そう、わたし賛成よ。そのほうがかえっていいの! あのひとはきっと来ますわ、あのひとには、あれを見るのはつらいでしょうね。あれを渡してちょうだいな」
「アンナ・アルカジエヴナ、だんなさまがお帰りになりましてございますよ。ほらここに」と産婆はアンナの注意を、アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチのほうへむけさせようとつとめながら、いった。
「まあ、なんてつまらないことを!」とアンナは、夫のほうは見ないでつづけた。「ああ、あれをわたしにちょうだい。赤ちゃんをちょうだいってば! あのひとはまだ来やしませんよ。あなたはあのひとをごぞんじないから、許さないなんておっしゃるのよ。あのひとの心を知ってる人はひとりもありませんわ、わたしだけですわ。だから、わたしとてもつらくなったの。あのひとの目はね、それはそれは、セリョージャに生き写しなのよ、だからわたし、どうしてもあの子の目を見ることができませんの。セリョージャにはもう食事をさせたかしら? いいえ、みんなはきっと忘れるでしょうよ。あのひとだったら忘れないでしょうけれど。セリョージャをかどのお部屋へつれて行って、マリエットにいっしょに寝てもらわなくちゃ」
急に彼女は身をちぢめて、黙ってしまい、そしておびえたような顔つきで、なにか打撃でも待ちもうけているように、その身をかばおうとするように、両手を顔のほうへもちあげた。彼女は夫をみとめたのである。
「いいえ、いいえ!」と彼女は言いだした。「わたしあのひとを恐れてはいませんわ。わたしは死を恐れているんですわ。アレクセイ、もっとこっちへよってください。わたしは急いでますのよ。もう時間がないんですから、わたしはもういくらも生きてはいられないんですから。いまに熱が出てくると、わたしはもう何もかもわからなくなってしまいます。今ならよくわかります。なんでもよくわかります、目もはっきり見えます」
アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチのしかめた顔は、苦行者めいた表情をとった。彼は彼女の手をとって何かいおうとしかけたが、どうしても言葉が出なかった。彼の下くちびるはわなわなとふるえていたが、彼はやはり心の動乱とたたかっていて、ただときどき彼女の顔を見るだけだった。そしてそのたびに、彼は、これまでについぞ見たこともないような、なごんだ、よろこばしげな優しさをもって、自分を見ている彼女の目を見た。
「ちょっと待って、あなたはごぞんじないんですわ……ちょっと待って、待ってください……」と彼女は、考えをまとめようとするように言葉をきった。「そう」と彼女は言いだした。「そう、そうですわ、そうですわ。わたしの言いたかったのはこういうことですわ、びっくりなすってはいけませんよ。わたしはやっぱりもとのわたしですわ……けれど、わたしのなかには別の女がいるんですのよ。わたしはその女がこわくてなりませんの。その女があのひとに迷ったので、わたしはあなたをきらおうとしましたの、でもわたしは、それまでのわたしのことを、忘れることができませんでした。その女はわたしではありません。今のわたしが真実のわたし、すっかりもとのわたしなのです。わたしはいま死にかけています。わたしは自分の死ぬのを知っています。あのひとにきいてごらんなさい。わたしはいまも、手や、足や、指の上に、何やら重たいものがのっているような気がしていますの。指だって、ほらこんなに大きいんですもの! でも、これもみんなじき、かたがついてしまいますわ……でもね、わたしには、ひとつだけ入り用なことがあるの――あなた、どうぞわたしをお許しくださいまし、きれいにお許しくださいまし! わたしは恐ろしい女ですわ。けれど、ばあやがわたしに話してくれたことがあります。ある聖《きよ》い女の受難者は――名まえはなんと言いましたかしら?――その女《ひと》はわたしよりもわるい女だったそうですわ。ですから、わたしはローマへ行きます。あすこには荒野《あれの》がありますわね。そうしたら、わたしはもうだれのじゃまにもならずにすみますわ。ただわたし、セリョージャだけは連れていきますわ、それから、こんどの子も……いいえ、でもあなたは、許してはくださらないでしょうね! とてもこれが許せることでないのは、わたしもよく知っていますの! いいえ、いいえ、行ってください。あなたはあんまりいいかたすぎますわ!」と彼女は、燃えるような一方の手で彼の手をとり、もう一方の手で彼をおいのけるようにするのだった。
アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチの心のみだれはますますつのって、いまはもうそれとたたかう力もないくらいの程度に達した。と、彼は急に、自分がそれまで心のみだれとばかり思っていたものが、反対に、これまではついぞ知らなかった、新しい幸福をあたえてくれるような、法悦《ほうえつ》的な心の状態であったことを感じた。彼は、自分が終生それにしたがおうと思っていたキリスト教の教理が、自分に敵を許し愛するように命じたのだとは思わなかったが、しかしとにかく、敵にたいする愛と許しの喜ばしい感情が、彼の心をいっぱいにみたした。彼はひざまずいた。そして、ガウンを通して焼けつくように熱い彼女の腕のまがりめの上へ頭をのせ、子供のようにすすり泣いた。彼女は、彼のはげかかっている頭を抱き、彼のほうへすりよって、いどむような誇らしさをもって、目を上のほうへあげた。
「そら、このとおりこの人は帰って来た、わたしちゃんと知っていましたわ! では、さようなら、みなさん、さようなら……あら、またあの人たちが来ましたわね、なぜ帰ってしまわないんでしょうね?――さあ、こんな毛皮外套、みんなとってくださいな」
医者は彼女の手をはなさせ、そっと彼女をまくらの上になおして、肩まで毛布をかけてやった。彼女はすなおにあおむけに寝て、輝く目でじっと自分の前を見ていた。
「ようございますか、わたしはただひとつお許しさえいただければよろしかったんですからね。もうこのうえ、なんにも望みはありませんのよ……だけど、なぜあのひとは来ないのでしょう?」と彼女は戸口のほうへ、ウロンスキイのほうへ顔をむけながら、いった。「いらっしゃいな、いらっしゃいな、あのひとと握手をしてくださいまし」
ウロンスキイはベッドのほうへ近づき、アンナを見ると、またも両手で顔をおおってしまった。
「顔から手をとって、このひと(夫)を見てくださいな! このひとは聖者ですよ」と、彼女はいった。「ねえ、手をとって、手をとってったら!」こう彼女は、腹だたしげに言いだした。「あなた、アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチ、あのひとの顔から手をのけてくださいまし! わたし、あのひとの顔が見たいんですから」
アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチは、ウロンスキイの手をとると、苦悩と羞恥《しゅうち》の表情によってすごいほどになっていたその顔から、引きはなした。
「そのひとに手を出してあげてください、そして許してあげてください」
アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチは、目から流れでる涙をおさえようともせず、彼に手をあたえた。
「ああ、ありがたいこと、ありがたいこと」と彼女は言いだした。「これでもう何もかもすみました。ただもう少し足を伸ばさしてちょうだいな。ええそう、それでけっこうだわ。それはそうと、この花はなんてぶさいくにできてるんでしょうね、まるですみれのようじゃありませんわ」と彼女は、壁紙をさしていった。「ああ、神さま、神さま! いったい、いつになったら、かたがつくのでございましょう? どうぞわたしに、モルヒネをくださいまし。先生! どうぞモルヒネをくださいまし。ああ、神、神さま!」
そして彼女は、寝床の上でのたうちまわった。
――――
主治医もほかの医者たちも、これは産褥熱《さんじょくねつ》で、百のうち九十九まで助からないものだといっていた。終日、熱とうわ言と失神状態とがつづいた。ま夜中近くには、病人はもうすっかり無感覚になって、脈搏もほとんど絶えてしまった。
人々は一刻一刻に終焉《しゅうえん》を待った。
ウロンスキイは家へ帰ったが、朝になると、様子をききにやってきた。アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチは、彼を玄関で迎えていった。「こちらにいてください、きっとあれがあなたをたずねるでしょうから」そして、みずから彼を妻の居間へ連れていった。朝になるとふたたび、興奮と、活気と、思考と言葉のみだれとがはじまったが、それもまた失神状態でおわってしまった。三日めも同じことであった。医者たちは望みがあると言いだした。この日アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチは、ウロンスキイのいる妻の居間へ出ていって、ドアをとざして彼と相対した。
「アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチ」こうウロンスキイは、話し合いのときの近づきつつあるのを感じながら、言いだした。「ぼくには何もいえません、またなんにもわかりません。どうか、ぼくを許してください! あなたもどんなにかおつらいことでしょうが、ぼくのほうがもっともっと恐ろしいということを、お信じください」
彼は立ちあがろうとした。が、アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチが、彼の手をとっていった。
「どうかお願いです、わたしのいうことをきいてください、これが一ばんたいせつなことなのですから。わたしは自分の心もち、わたしを導いてきた、また今後も導いて行くであろう心もちを、あなたに説明しなければならないのです。それは、あなたがわたしというものについて、誤解なさらないためにですよ。ご承知のとおり、わたしは離婚することに決心して、その手続きさえはじめました。が、つつまず申しあげると、わたしはその手続きをはじめながら、かなりちゅうちょして、苦しみました。じつをいえば、わたしはあなたと彼女とに復讐したい欲求にかられていたのです。で電報を受け取ったときも、わたしは同じ心もちをいだいて、こちらへ帰って来たのでした。いや、一歩つっこんでいえば、わたしは彼女の死をすら望んでいたのです。しかし……」と彼は、自分の感情を彼にうちあけようか、うちあけまいかとためらって、ちょっと黙った。「しかし、彼女を見ると、許しました。そして許すということの幸福感が、わたしの義務を明らかにしてくれました。わたしは完全に許しました。わたしは、ほかのほおをもむけようと思います。上着を取ろうとするものには下着をもあたえたいと思います。わたしはただ、神が、許すということの幸福を、わたしから取りあげてしまわれないようにと、ただそれのみを祈っているのです!」
涙が彼の目にうかんだ、そして、その明るい穏やかなまなざしが、ウロンスキイの心をうった。
「これがわたしの立場です。あなたはわたしを泥土《でいど》のなかへ踏みつけてもよろしい。世の笑いぐさにされてもかまわぬ、わたしは彼女を捨てません、けっしてあなたを責めるようなことは言いません」こうアレクセイ・アレクサーンドロヴィッチはつづけた。「わたしの義務は、わたしにはっきりとわかっています。わたしは彼女といっしょにいなければなりません。また、いようと思います。もし彼女があなたに会いたいといえば、わたしはあなたにお知らせしますが、いまは、少し遠ざかっていられたほうが、あなたのためにもいいとわたしは思うのです」
彼は立ちあがった。と、すすり泣きが彼の言葉をとぎらせた。ウロンスキイもまた立ちあがり、前かがみになった形のわるい姿勢で、額ごしに彼の顔色をうかがった。彼には、アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチの気持がわからなかった。けれども彼は、それがなにか崇高な、自分などの世界観ではとてもうかがい知ることのできないもののように感じたのだった。
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十八
アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチとの話のあとで、ウロンスキイは、カレーニン家の入口の階段の上へ出たが、いったい自分はどこにいるのか、またどこへ行かなければならぬのか、歩いて行くのか、馬車で行くのか、それを思いだそうと、一生けんめいに考えながら、足をとめた。彼は自分を、はずかしめられ、しいたげられながら、その恥辱《ちじょく》をすすぐ力すら奪われた罪深い人間であるように感じていた。彼はまた自分を、いままであんなに誇りやかに、軽快に闊歩《かっぽ》していた軌道から、いきなりほうりだされたもののように感じていた。あんなにも確かなものに見えていた自分の生活のすべての慣習と規則とが、にわかに虚偽な、通用しないものになってしまった。いまでは、彼の幸福の偶然のちょっとした喜劇的じゃま物、みじめな人間とのみ思われていた欺かれた夫が、とつぜん彼女自身によって呼びだされて、こちらの卑劣を思い知らせるような高みへもちあげられ、そしてその夫は、その高みへあがると、もう腹黒い、偽善的な、こっけいな人間ではなくて、善良で、単純で、荘厳《そうごん》な人物になってしまった。それを、ウロンスキイは感じないではいられなかった。
役割は急に変わった。ウロンスキイは、彼の高潔と自分の卑劣とを、彼の公正と自分の不正とを痛感していた。彼は、夫はその悲しみのなかにあっても寛大であるのに、自分は自分の欺瞞《ぎまん》のなかにあって、下劣な、つまらぬ人間であるのを感じた。しかし、彼が不当に侮蔑《ぶべつ》していたその人にくらべて、自分のほうがむしろ卑劣であるというこの意識は、ただわずかに彼の悲哀の一部分を形づくっていたにすぎなかった。彼がいま自分を言いようもなく不幸な人間だと痛感したのは、近ごろさめていたような気がしていた彼女にたいする情熱が、いまや彼女を永久に失ったと知るにおよんで、以前よりもいっそう強く燃えたってきたからであった。彼は、彼女の病気のあいだに彼女の全貌を知るようになり、彼女の心をも知りつくした。と、彼には、自分はこれまでは、少しも彼女を愛していなかったように思われてきた。そして、いまや彼女のすべてを知り、当然愛さなければならぬように愛しはじめたと思うと、その彼女の前で屈辱を受け、彼女の心に自分についての恥ずかしい記憶ばかりをとどめて、永久に彼女を失ってしまったのである。わけても、最も恐ろしく思われたのは、アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチが、恥じいっている彼の顔から彼の手を引きはなしたときの、あのみじめな恥ずかしい自分の立場であった。彼はカレーニン家の正面階段にわれを忘れた人のようにつっ立ったまま、なすべきことを知らないでいた。
「つじ馬車をお呼びいたしましょうか?」と、玄関番がたずねた。
「ああ、つじ馬車を」
三晩の不眠の夜のあとで家へ帰って来たウロンスキイは、服も脱がずに、組合わせた手の上へ頭をのせて、長いすの上へばたりとうつ伏してしまった。彼の頭は重かった。想像や、記憶や、きわめて奇怪な想念が、異常な速度と明瞭さとをもって、あとからあとからうかんできた。それは、あるいは、自分が病人についでやって、さじからこぼした薬のことや、あるいは産婆の白い腕や、あるいはまた、ベッドの前にひざまずいているアレクセイ・アレクサーンドロヴィッチの奇妙なかっこうなどであった。
『眠ることだ! 忘れることだ!』と彼は、疲れたときに眠ろうと思えばすぐにも寝つける健康な人のおちついた自信をもって、こういった。と、じっさい、その瞬間に彼の頭はぼうっとしてきて、彼は忘却の深淵《しんえん》へおちいりはじめた。無意識界の海の波が、早くも彼の頭上でぶつかりはじめたと思うまもなく、とつぜん、あたかも最も強力な電流が、彼の身うちへ放射されでもしたようであった。彼は長いすのばねの上で、全身がとびあがったほどに激しく身ぶるいし、両手をつっかって、びっくりしたようにひざ立ちにとび起きた。彼の目は、まるでちっとも眠らなかったように、大きく見ひらかれた。一分まえまで感じていた頭の重さや手足のだるさは、一時にすっと消えてしまった。
『あなたはわたしを泥土《でいど》のなかへ踏みつけてもよろしい』彼はアレクセイ・アレクサーンドロヴィッチの言葉を聞き、自分の前に彼の姿を見た。それからまた、燃えるような赤い顔をして、優しさと愛にみちた輝く目で、自分でなく、アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチをじっと見ていたアンナの顔を見た。さらにまた彼は、アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチが彼の顔から手を引きはなしたときの、自分の愚かしくこっけいな(と彼には思われた)姿を見た。彼はふたたび足を伸ばすと、前の姿勢で長いすの上へ身を投げて、目を閉じた。
『眠ることだ! 眠ることだ!』と、彼は心にくりかえした。が、目を閉じていながら、彼は、あの思い出ふかい競馬の夜に見たアンナの顔を、いっそうはっきりと目の前に見た。
「これがもうないのだ、これからもないだろう。そしてあの女は、それを記憶からぬぐいさろうとしているのだ。が、おれはそれなしには生きてゆけない。どうしたら和解ができるだろう、どうしたら和解ができるだろう?」彼は声にだしてこう言い、そして無意識に、これらの言葉をくりかえしはじめた。こういう言葉の反覆《はんぷく》は、彼が自分の胸のうちにむらがっているように感じていた、新しい心像《しんぞう》や回想のわきおこるのを、おさえつけた。しかし、この言葉の反覆も、彼の想像をそう長くはおさえつけていなかった。またしてもあとからあとからと、非常なはやさで、最も幸福だった瞬間と、同時にいましがたの恥辱とが、彼の前に現われはじめた。「あの手をとってくださいまし」アンナの声がいう。彼は手をとる。そして自分の顔のはずかしめられた愚かしげな表情を感ずる。
彼は、もはやぜんぜん望みのなくなったことを感じながら、なお眠ろうとして、じっと横になっていた。そして何かの想念から偶然に出てくる言葉を、それによって新しい心像のうかんでくるのをおさえつけようとつとめながら、たえず小声でくりかえしていた。彼は耳をそばだてた――と、異様な、気ちがいじみたささやき声で、こうくりかえしている言葉が聞こえた――『ねうちを知らなかったんだ。利用することを知らなかったんだ。ねうちを知らなかったんだ。利用することを知らなかったんだ』
『こりゃいったいどうしたことだ? それともおれは、気でも狂ったんじゃないだろうか?』と、彼は自分にいった。『そうかもしれない。こういう時こそ、人間は気ちがいになるんじゃないか、自殺なんかもするんじゃないか?』と、彼はわれとわが身に答え、目を開いて、ふしぎな気持で、自分の頭のそばにある、兄よめのワーリャがこしらえてくれた刺繍《ししゅう》のあるまくらを見た。彼はまくらのふさにさわってみて、ワーリャのこと、最後に彼女に会ったときのことを思いだそうと試みた。が、なにしろ、ほかのことを考えるのは苦痛であった。『いや、眠らなくちゃいけない!』彼はまくらを引きよせて、それに頭を押しつけた。が、目を閉じているためには、かなり努力しなければならなかった。彼ははね起きて、すわり直した。『おれにとっては、これはもうすんでしまったことなのだ』と彼は自分にいった。『これからどうするかをよく考えなくちゃならない。いったい何が残っているだろう?』彼の考えは早くも、アンナにたいする愛以外の、自分の生活に走りうつった。『功名心、セルプホフスコイ? 社交界? 宮廷?』彼はそのいずれにも、気をとめることができなかった。それらは、前にはみんなそれぞれに意味をもったものであったが、今はもうなんでもなかった。彼は長いすから立ちあがって、上着をぬぎ、帯革《おびかわ》をとき、呼吸をらくにするために毛深い胸を開いて、部屋のなかを歩きまわった。『うん、人間はこうして気ちがいになるんだな』と彼はくりかえした。『こうしてずどんとやるんだな……恥ずかしい思いをしないために』こう彼は、ゆっくりと言いたした。
彼は戸口へ行って、ドアをしめた。それから、目をすえ、歯を強く食いしばって、テーブルのそばへ進みより、拳銃を取りあげて、ひとわたり見まわしてから、撃発装置にして考えこんだ。二分ばかり、彼は頭をたれ、思考を緊張する努力の表情をうかべながら、拳銃を手にしたまま、身うごきもしないで立っていた。『もちろんだ』と彼は、あたかも道理にかなった、筋道の通った、明瞭な思想のあゆみが、自分を疑いのない結論へみちびいたかのように、自分にいった。が、彼には確実と思われたこの『もちろん』も、事実は単に、ちょっとのまにもう何十回も通ってきた回想や想像の、ぜんぜん同じ範囲をあゆみなおした結果にすぎなかった。それは、永遠に失われた幸福の同じ思い出であり、将来のことはすべて無意義だという同じ考えであり、自分の屈辱の同じ認識であった。それはまた、それらの想像や、感情の同じ連続でもあった。
『もちろんだ』こう彼は、自分の考えが、三度めにまたしても、同じ回想と思想との魔法の圏内へもどってきたときに、くりかえした。そして胸の左側へ拳銃を押しあて、こぶしのなかでそれを握りつぶそうとでもするように、手いっぱいの力で握りしめながら、引き金をひいた。彼は、発射の音は聞かなかったが、胸にうけた強い衝撃が、足をはらったかっこうであった。彼はテーブルの端につかまろうとして、拳銃をとり落とし、よろめいて、しりもちをつくと、びっくりしたように自分の周囲を見まわした。彼は、テーブルのまがった足や、紙くずかごや、|とら《ヽヽ》の皮などを下から見たので、自分の部屋をそれと気がつかなかった。客間を歩いてきた召使の、きしむ早い足音が、彼をわれにかえらせた。彼はけんめいに思考力を緊張させ、自分が床の上にいることをさとるとともに、|とら《ヽヽ》の皮や、自分の胸についている血を見て、自分が拳銃自殺を企てたことがわかった。
「ばかな! しくじったのだ」と彼は、片手で拳銃を捜しながらいった。拳銃はすぐそばにあったが、彼は遠くのほうばかり捜していた。彼は捜しつづけながら、こんどは反対のほうへ身を伸ばした。と、身の平均をたもちかねて、血を流しながら倒れてしまった。
知り合いの者に向かって、いつも自分の神経の弱いことをこぼしていた、ほおひげを立てたしゃれ者の召使は、床の上に倒れている主人を見ると、驚きのあまり、血の流れる主人をおきざりにして、助けを呼びにとびだしてしまった。一時間の後に、兄よめのワーリャがまずかけつけ、彼女が八方へ飛ばした迎いにたいしていっしょにかけつけてきた三人の医者の助けをかりて、負傷者をベッドへ運び、そして自身は、彼の看護のためにそのまま残った。
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十九
アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチの仕でかしたあやまり――彼が妻との会見に心がまえしながら、彼女の悔悟《かいご》が真実のものであり、彼が許し、彼女が死なずにすむような場合のことを考慮しておかなかったというあやまりは、彼がモスクワから帰ってふた月たつと、その完全な力をもって彼の前に立ちあがってきた。しかし、彼が仕でかしたあやまりは、単に彼がこういう場合を考慮しなかったことからのみ起こったのではなくて、同時に、瀕死の妻に会うその日まで、彼が自分の心を知らなかったということからも起こったのであった。彼は病める妻のまくらもとで、生まれて初めて、他人の苦悩が自分の心によびおこすところの、そして彼が以前から有害な弱点として恥じていたところの、あの感傷的な憐憫《れんびん》の情に打ち負かされてしまったのだった。そして、彼女にたいする憐憫と、彼女の死を望んだことにたいする悔悟と、とりわけ、人を許すということの喜ばしさとは、彼をしてにわかにその苦痛の緩和を感じさせたばかりでなく、彼がかつて一度も経験したことのない心のやすらぎをすら感じさせた。彼はとつじょとして、自分の苦悩の源泉だったことが、精神上の歓喜の源泉となったことを感じ、自分が非難したり、叱責《しっせき》したり、憎んだりしていたあいだは解きがたいことと思われていたものが、許して愛するようになってみると、単純で明白なものになってくることを感じたのだった。
彼は妻を許し、彼女の苦悩と悔悟とにたいして彼女をあわれに思った。彼はウロンスキイを許し、とくに彼の絶望的行為についてのうわさが耳にはいってからは、いっそう彼を気の毒に思った。彼はまた子供をも、前よりもいっそうふびんに思った。そしていまでは、あまりかまってやらなかったということで自分を責めた。しかし、あらたに生まれた女の子にたいしては、彼は憐憫ばかりでなく、優しさのまじった一種特別の感情を経験した。はじめは彼は、単に同情という点だけから、このあらたに生まれた弱々しい女の子――彼の子ではない、そして母の病気中はうち捨てられていて、もし彼が心配してやらなかったら、きっと死んでいたにちがいない女の子の世話を見だした。――そして自分では、自分がどんなにその子を愛しはじめたかに気がつかなかった。彼は、日に何度も子供部屋へはいって行って、長いことそこにすわっていたので、はじめは彼にたいしておずおずしていた乳母《うば》や保姆《ほぼ》たちもじきに彼になれてしまった。ときには彼は、半時間も黙って、すやすやと眠っている赤ん坊の、サフラン色した赤い、生毛《うぶげ》のはえた、しわだらけの小さい顔をながめたり、しかめた額の動く様子や、甲のほうで目や鼻をこすっている、指をぎゅっと握りしめた、まるまるふとった手などを見まもったりしていることがあった。こういうときには、アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチはとくに、自分をまったく平穏な、内的調和をもった人のように感じて、自分の境遇に、なんら異常なことや、変えなければならぬ点をみとめなかった。
が、時がたつにしたがって、今は自分にとってこの境遇がどんなに自然であっても、いつまでもこのままでいるわけにはいくまいということが、しだいにはっきりとわかってきた。彼は、自分の魂を導いている幸福な精神的の力のほかに、彼の生活を導いているもうひとつの、あらあらしい、同じ程度か、もしくはいっそう強い力のあることを、そしてその力が、彼の望んでいる謙虚な平安を彼にあたえないのだということを感じたのであった。彼はすべての人が、もの問いたげな驚きの色をうかべて彼を見ていること、彼の気持を解しないで、なお彼から何かを期待しているらしいことを感じていた。とくに、自分と妻との関係のうちに、堅固でないもの、不自然なもののあるのを感じていた。
死の接近によって彼女のうちにかもしだされたやわらいだ気持が去ってしまうと、アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチは、アンナが彼を恐れ、彼をはばかり、まともに彼の目を見ることができないでいることに、気がつきはじめた。彼女は、彼にたいして何か言いたいことがあるのだが、どうも言いだしかねるという様子をしていた。そして彼女もまた、どうやらふたりの関係が、このまま長つづきのできるものでないことを予感して、彼から何ものかを期待しているかのようであった。
二月の末に、こんど生まれたアンナの子供、やはりアンナと名づけられた赤ん坊が病気にかかるという事件が起こった。アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチは、その朝子供部屋へ行って、医者を迎える手配をしてから、馬車で役所へ出かけていった。仕事をすまして、彼は三時過ぎに家へ帰ってきた。玄関の間《ま》へはいりながら、彼は、飾り紐と|くま《ヽヽ》の皮のマントとをつけた美男の召使が、アメリカ犬の毛皮でつくったまっ白な長袖《ながそで》外套を手にして立っているのに、目をとめた。
「どなたが来ておられるのだね?」と、アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチはたずねた。
「エリザヴェータ・フョードロヴナ・トゥヴェルスコーイ公爵夫人でございます」と召使は笑いながら――アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチにはそう思われた――答えた。
この苦しくつらい期間中ずっと、アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチは、社交界での自分の知人、とくに女の知人たちが、自分と妻とに特別な興味をいだいていることに気がついていた。彼は、それらすべての知人たちの目に、かろうじてかくされている一種の満足――いつかはあの弁護士の目に読み、今また召使の目にみとめたと同じ満足の色のあるのに、気がついていた。みんなは、まるで歓喜にひたってでもいるようであった、まるで、だれかを嫁にでもやるようであった。そして彼に会うと、かろうじて満足の色をかくしながら、彼女の健康をたずねるのであった。
トゥヴェルスコーイ公爵夫人の来ているということは、彼女に結びついている回想からしても、もともと彼女を好かないという点からしても、アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチにとっては不愉快であったので、彼はまっすぐに子供部屋へはいってしまった。最初の子供部屋では、セリョージャがテーブルに胸を押しつけて、両足をいすの上へのせ、愉快そうにしゃべりながら、何か絵を描いていた。アンナの病中にフランス人の女教師とかわったイギリス人の女教師は、肩掛けを編みながら、その子のそばに掛けていたが、あわてて立ちあがると、ひざをかがめるおじぎをして、セリョージャをひっぱった。
アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチは、片手で子供の髪をなでてやりながら、妻の健康についての女教師の問いに答えたり、赤ん坊について医者のいったことをたずねたりした。
「お医者さまは、少しも危険はないようにおっしゃいましてございます。そして、お湯をつかわせるようにというお話で、はい」
「だが、まだ苦しがってるようじゃないんですか?」とアレクセイ・アレクサーンドロヴィッチは、隣室の赤ん坊の泣き声に耳をすましながらいった。
「わたくしはどうも、ばあやさんがよくないんじゃないかと、思いますんでございますがね、だんなさま」とイギリス婦人は、きっぱりとした口調《くちょう》でいった。
「どうしてそうお思いになるんですか?」と、彼は立ちどまりながらたずねた。
「ポーリ伯爵夫人のところでも、ちょうど同じようなことがございましたのですよ、だんなさま、赤ちゃまにいろいろお薬などもおあげしたんでございますけれど、だんだん調べてみましたら、そのお子さまはただお腹《なか》がすいてるだけだということがわかりましたのでございます。ばあやさんにお乳がなかったんでございますよ。だんなさま」
アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチは考えに沈んで、数秒間じっと立っていてから、隣室へはいっていった。赤ん坊は、乳母《うば》の手のなかで身をちぢめ、頭をそらして、もがきながら、さしだされたはりきった乳房《ちぶさ》をくわえようともしなければ、乳母と、自分の上へかがみかかっている保姆《ほぼ》とが、ふたりがかりで、いくら口を鳴らして見せても、いっかな泣きやもうともしなかった。
「ずっとよくないのかね?」とアレクセイ・アレクサーンドロヴィッチはいった。
「たいへん、おむずかりなんでございますよ」と、保姆がささやき声で答えた。
「ミス・エドワードは、ひょっとすると、ばあやに乳が出ないのじゃないかというんだがね」と彼はいった。
「わたくしも、そうじゃないかと思いますんでございますよ。アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチ」
「じゃ、なぜそういってくれないんだ?」
「どなたに申しあげたらよろしいんでございますか? アンナ・アルカジエヴナはずっとおわるくていらっしゃいますもの」と、保姆は不満げにいった。
保姆は、古くからこの家の召使であった。で、こういう彼女の簡単な言葉のうちにも、アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチには、自分の立場にたいする諷刺《ふうし》が感じられた。
赤ん坊は身をもみ、しゃがれ声をしぼって、いっそうはげしく泣きたてた。保姆は手を振ってそのそばへ行き、乳母の手からその子を抱きとって、ゆすぶりながら歩きはじめた。
「一度医者に、ばあやを診《み》てもらわなくちゃならんね」と、アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチはいった。
見たところ健康そうな、しゃれ者の乳母《うば》は、自分に暇が出そうなのにびっくりして、何やらぶつぶつとひとりごとを言い、大きな胸をしまいながら、自分の乳にたいする疑いにたいして、さげすむような笑いを見せた。この微笑のなかにも、アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチは、自分の立場にたいする嘲笑を見いだした。
「おかわいそうな赤ちゃま!」と保姆は、赤ん坊をあやしながらいって、なおも歩きつづけるのだった。
アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチは、いすに腰をおろし、せつなげな、悲しそうな顔つきで、あちこちと歩いている保姆を見ていた。
やっと泣きやんだ赤ん坊を、深いベッドのなかへおろし、まくらをなおしてやってから、保姆がそのそばをはなれると、アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチは立ちあがって、大骨折りでつまさき歩きをしながら、赤ん坊のそばへあゆみよった。しばらく、彼は黙々として、同じ悲しそうな顔つきで赤ん坊を見ていた。が、とつぜん、微笑が、その髪と額の皮膚とを動かして、その顔にあらわれた。そして彼は、同じように足音をしのんで、静かに部屋を出ていった。
食堂で彼はベルを鳴らし、はいってきた従僕に、もう一度医者を呼びにやるようにと言いつけた。彼には、妻がこの美しい、かれんな赤ん坊を、少しも注意しないのがいまいましかった。そして、この彼女にたいするいまいましさから、彼女のところへ行く気にはなれず、また、公爵夫人ベーッシにも会いたくなかった。が、しかし妻が、どうしていつものように来てくれないのかと怪しむだろうと思ったので、しいてみずからつとめながら、寝室のほうへ歩みをむけた。そして、柔らかい絨毯《じゅうたん》の上を戸口のほうへ歩いて行くうちに、聞きたくない話を、つい聞いてしまった。
「あのひとが行ってしまうのでさえなければ、あなたのおことわりも、あのひとの遠慮も、もっともだと思いますわ。でもこちらのご主人は、こんなこと、超越してらっしゃるはずじゃありませんか」と、ベーッシはいっていた。
「わたしは夫のためでなく、自分のために望まないんですわ。もう、そのお話はなさらないでくださいまし!」と、興奮したアンナの声が答えた。
「ええ、でもあなたは、あなたのために自殺まで企てた人と、別れを告げたいとおぼしめさないわけにはいきませんわ……」
「それですから、わたしはなおさら、いやなんですわ」
アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチは、びっくりしたような、何かわるいことでもしたような表情をうかべて、立ちどまり、そっとひっ返してしまおうと思った。けれども、それではあまり威厳がなさすぎると考えなおして、ふたたび踵《きびす》を返し、ひとつ咳《せき》ばらいをして、寝室のほうへ歩きだした。話し声ははたとやんだ。で、彼ははいっていった。
アンナは灰色のガウンを着、まんまるな頭の上に、黒い髪の毛を厚い|はけ《ヽヽ》のように短く切りそろえて、寝いすの上に腰かけていた。夫に会うときにはいつもそうであるように、彼女の顔のいきいきした色は、急にさっと消えてしまった。――彼女はうなだれて、不安げにベーッシのほうをちらと見やった。ベーッシは思いきった流行の装いをして、ランプのかさのように頭の上に高くつっ立った帽子をかぶり、はっきりした斜めじまが、一方からは胴《どう》のほうへ、一方からはスカートのほうへ向かってついている|はと《ヽヽ》色の服を着て、その平らべったい細長いからだをまっすぐにたもちながら、アンナとならんで掛けていたが、頭をかしげて、あざけるような微笑をうかべながら、アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチを迎えた。
「あら!」と彼女は、びっくりした様子でいった。「まあうれしいこと、あなたがおうちにいらしって。あなたはどちらへもお顔をおだしになりませんから、わたくしはアンナのご病気以来ちっともお目にかかりませんでしたわ。わたくしすっかりうかがいましたのよ、あなたのお心づかいは。ほんとにあなたは、驚くべきだんなさまでいらっしゃいますわね!」と彼女は、妻にたいする彼の行為にたいして、寛容の勲章でも授けるかのように、意味ありげな、優しい顔つきをしていった。
アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチは冷やかにえしゃくをした。そして妻の手に接吻して、彼女の健康をたずねた。
「いくらかいいように思いますの」と彼女は、彼の視線を避けながらいった。
「しかし、どうもまだ熱でもありそうな顔色だよ」と彼は、『熱』という言葉に力をいれていった。
「きっとあんまりお話がすぎたせいですわね」と、ベーッシがいった。「そういえば、わたくしが少しエゴイズムだったような気がしますわ。これでおいとまいたしましょう」
彼女は立ちあがった。が、アンナが急にあかい顔をして、彼女の手をおさえた。
「いいえ、もう少しいらしてくださいまし、どうぞ! わたし、あなたにお話したいことがありますのよ……いいえ、あなたにですよ」と彼女は、アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチのほうへ顔をむけた。赤い色が彼女の首から額までさっとおおった。「わたし、あなたにたいして、どんな秘密も持ちたくありませんし、また持つことはできませんの」と、彼女はいった。
アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチは、指をぼきぼき鳴らして、頭をたれた。
「ベーッシのお話ですけれど、ウロンスキイ伯は、こんどタシケントへお立ちになるについて、その前に一度うちへお別れに来たいといってらっしゃるんだそうですが」彼女は夫のほうは見なかった。彼女は明らかに、それをいうのがどんなにつらかろうと、どうでも残らずいってしまおうとせきこんでいる様子であった。「で、わたしいま申しましたの、わたしはお目にかかることはできませんて」
「まあちょっと、あなたは、それはアレクセイ・アレクサーンドロヴィッチしだいだっておっしゃいましたわよ」と、ベーッシがアンナの言葉を訂正した。
「ええ、いいえ、わたしはあのかたにお会いすることはできませんわ。それにそんなことしたってなんにもなり……」彼女は急に言葉をきって、うかがうように夫の顔を見やった。(彼は彼女のほうを見ていなかった)「とにかく、わたしお目にかかりたくは……」
アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチは進み出て、彼女の手をとろうとした。
最初の動作で、彼女は、自分の手をとろうとしている、ふとい血管のふくれあがった、湿っぽい彼の手から、自分の手をひっこめたが、すぐ、明らかに自制して、その手を握った。
「わしはあんたの信頼を、非常にありがたく思う、だが……」と彼は、自分だけなら容易に明快に解決のできることを、世間の目の前で彼の生活を指導し、彼が愛と許しとの感情に身をゆだねることをさまたげる、例のあらあらしい力の権化《ごんげ》のように思われるトゥヴニルスコーイ公爵夫人の前では、それとはっきりいうことができないのを、ひどく心外にいまいましく思いながらいった。彼は、トゥヴェルスコーイ公爵夫人を見ながら、黙ってしまった。
「では、わたしは失礼しますわ、アンナ」と、ベーッシは立ちあがりながらいった。彼女はアンナに接吻して出ていった。アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチは彼女を送っていった。
「アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチ! わたくし、あなたは心から寛大なかただということを知っております」とベーッシは、小さいほうの客間で足をとめて、もう一度とくにかたく彼の手を握りしめながらいった。「わたくしは局外者でございます。けれどわたくしは、心からアンナを愛しておりますし、あなたをも尊敬しておりますので、おしてこんなことを申しあげるんでございますがね。あのひとを来させておあげなさいましよ。アレクセイ・ウロンスキイは、ほんとに名誉の権化《ごんげ》でございますわ。あのひとはいま、タシケントへ行ってしまおうとしていらっしゃるんですもの」
「奥さん、あなたのご同情とご忠告は、ありがたくちょうだいいたします。しかし、妻がだれかに会えるとか会えないとかいう問題は、彼女自身で決すべきことがらですからね」
彼はいつものように威厳をたもって、眉《まゆ》をつりあげながらいった。そして、そういう下から、言葉はどうであろうとも、いまの自分の境遇には、威厳なぞのありようはずのないことを考えた。そして、この事実を彼は、ベーッシが彼の言葉のおわったあとで、ちらりと彼を見たときの、おさえたような、人のわるい、あざけるような微笑によっても、見てとったのである。
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二十
アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチは、広間でベーッシに別れると、妻のもとへもどっていった。彼女は横になっていたが、彼の足音を聞きつけると、急いでもとのように身を起こし、驚いたような目で彼を見あげた。彼は、彼女が泣いていたのをみとめた。
「わしにたいするおまえの信頼を、わしは非常にありがたく思う」と彼は、ベーッシの前ではフランス語でいった言葉を、もう一度やさしくロシア語でくりかえして、彼女のそばに腰をおろした。彼がロシア語で口をきき、彼女に向かって『おまえ』というとき、この『おまえ』は、堪えがたいほどアンナをいらだたせた。「それからおまえの決心にたいしても、わたしは非常に感謝している。わしもやはり、ウロンスキイ伯は行ってしまうのだから、なにもここへくる必要はないかと思う。しかし……」
「ええ、だから、わたし申しましたんですわ。それをなんだってまたおっしゃるのでしょう?」とアンナは急に、いらだたしい気持をおさえかねて、さえぎった。『なんの必要もないなんて』こう彼女は考えた。『自分の愛している女――そのためには身を滅ぼすこともいとわないと思い、じじつ、またそのために身を滅ぼした女、そして、女のほうでもまたそのひとなしには生きていくことのできないような女、その女に別れを告げにくることが、そのひとにとってなんの必要もないなんて!』彼女はきっとくちびるをかんだ。そして燃えるような目を、静かにこすりあわせている、血管のふくれあがった彼の手の上に落とした。「もうこんなことは、二度といわないことにいたしましょうよ」と彼女は、いくらか気をしずめて言いたした。
「わしは、この問題の解決は、おまえのほうへ一任した。ところで、わしは非常に喜んでいる、おまえの……」と、アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチは言いかけた。
「わたしの希望が、あなたのと一致したことをとおっしゃるんでしょう」と彼女は、彼のはらのうちがわかりきっているのに、彼があまりにのろのろいっているので、つい気持をいらだたせられて、早口にさきをいってしまった。
「そう」と、彼はうなずいた。「それはそうと、トゥヴェルスコーイ公爵夫人という女《ひと》は、きわめて微妙な家庭内のことにまで、ずいぶんよけいなおせっかいをする女《ひと》だね。ことにあの女《ひと》は……」
「あのかたのことを、だれがなんといおうと、わたしは少しも信じませんわ」とアンナは早口にいった。「わたしは、あのかたがわたしを、心から愛していてくださるのを知っていますから」
アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチは、ため息をついて、黙ってしまった。彼女は、彼にたいする堪えがたい肉体的嫌悪の情をいだいて、彼を見ながら、いらいらとガウンのふさをいじっていた。彼女は、この感情にたいして自分を責めていたが、それにうちかつことはどうしてもできなかった。彼女はいまやただ――いやな彼からのがれたいということだけを望んでいた。
「わしはいま医者を迎えにやったよ」と、アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチはいった。
「わたしだいじょうぶですわ。どうしてわたしにお医者の必要があるんでしょう?」
「いや、小さいのが泣くんだよ。ばあやの乳がたりないという話なんでね」
「なぜあなたは、わたしにお乳をやることを許してくださらなかったんですの? わたしがあんなにお願いしたのに? どうせ同じことですわ(アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチには、この『どうせ同じこと』という意味がよくわかった)。あれは生まれたばかりの赤ん坊です。それをみんなで殺そうとしているんです」彼女はベルを鳴らして、赤ん坊を連れてくるようにと命じた。「わたしはお乳をやりたいとお願いしたのに、そのときには許してくださらないでいて、いまになって、みんなでわたしをお責めになって」
「わしは責めてなんかいない……」
「いいえ、責めていらっしゃいます! ああ! どうしてわたしは死ななかったんでしょう!」そして彼女はすすり泣きをはじめた。「ごめんなさい、わたし興奮してるんですわ。わたし、むりばかりいって」と彼女は、われにかえっていった。「ですけれど、もうあちらへいらしてくださいまし……」
『いや、いつまでもこんなことをしているわけにはいかん』こうアレクセイ・アレクサーンドロヴィッチは、妻の居間をでながら、決然とした口調で自分にいった。
世間のてまえ、彼の立場をこのままつづけていくことが不可能なこと、彼にたいする妻の嫌悪、つまり、彼の精神的傾向に反して彼の生活を指導し、彼の意志の実行と、妻にたいする彼の態度の変更を要求してやまない、あの神秘的なあらあらしい力の威力が、今日ほどはっきりと彼の前に姿を見せたことは、いまだかつて一度もなかった。彼は、世の人のすべてと妻とが、自分から何ものかを求めていることを明らかに知ったが、それがなんであるかは、理解することができなかった。彼はそのために、自分の心に、心の平安と徳義の全功績を破壊する毒念のわきあがってくるのを感じた。彼は、アンナのためには、ウロンスキイとの関係をたつことが上策だと考えていたが、もしすべての人がそれを不可能だと思うなら、彼は、子供たちをはずかしめたり、彼らを失ったり、自分の境遇をかえたりするようなことのないかぎり、以前の関係をあらためて許してもいいとさえ考えていた。よしそれが、どんなによくないことであろうとも、でもまだ、彼女を救いがたい汚辱《おじょく》の境遇におき、彼自身にその愛するもののすべてを失わせるような破裂よりは、ましであった。しかし彼は、自分をしみじみ無力に感じた。そして彼はまえもって、すべての人が自分に反対していること、そして、彼には非常に自然で正しいことのように思われていることをさせてくれないで、わるいことではあるが、彼らが当然と思っていることをさせようとしていることを、知ったのである。
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二十一
ベーッシがまだ広間から出きらないうちに、そこの戸口で、新しい牡蠣《かき》のはいったエリセーエフの店からやって来たばかりのステパン・アルカジエヴィッチが、ぱったり彼女と出くわした。
「やあ、奥さん、これはいいところでお目にかかりましたな!」と彼はいった。「ぼくはお宅へお伺いしたところでした」
「せっかくお目にかかりましたけれど、わたくしは帰るところですから、失礼いたしますよ」と、ベーッシは手ぶくろをはめながら、笑顔になっていった。
「まあお待ちください、奥さん。手ぶくろをはめるのはお待ちください。そしてそのお手に接吻させてください。ぼくは古い習慣の復活といううちでも、この、手に接吻するということほど、ありがたく思っていることはないんですから」彼はベーッシの手に接吻した。「じゃ、いつお会いしましょうね?」
「あなたにはそんな資格はありませんわ」と、ベーッシはにやにやしながら答えた。
「いや、大いにありますよ。ぼくはきわめてまじめな人間になったんですからね。ぼくは自分の家のことばかりでなく、よその家庭内の事件まで、うまくおさめてやろうとしてるんですから」と、彼は意味ありげな表情をしていった。
「ああ、それはわたくしもうれしゅうござんすわ!」と、ベーッシは即座に、彼がアンナのことをいっているのだとさとって答えた。そして広間へもどって、ふたりはその片すみに立った。「あのひとはあの女《ひと》をいじめ殺してしまいますよ」とベーッシは、意味ありげなささやき声でいった。「こんなことはとてもたまりません、こんなことは……」
「あなたがそうお考えくださることは、ぼくも非常にうれしいです」とステパン・アルカジエヴィッチは、まじめな、苦行者《くぎょうしゃ》的同情の表情で、頭を振りながらいった。「ぼくはそのために、わざわざペテルブルグまでやって来たのですから」
「市中《まちじゅう》がもうこのことばかりうわさしてるんですからね」と彼女はいった。「これはとてもたまらない境遇ですわ。あの女《ひと》は衰弱していくばかりです。あのひとには、あの女《ひと》が自分の感情をもてあそぶことのできない女のひとりだということがわかっていないんです。ふたつのうちひとつ――あのひと(ウロンスキイ)があの女《ひと》を連れ出すか、思いきってそうするか、離婚してしまうか、あれではまったく、あの女《ひと》は窒息してしまいますよ」
「そうです、そうです……つまり……」とオブロンスキイは、ため息をつきながらいった。「ぼくはそのためにもやって来たのですよ。というのは、とくにそのためばかりではないので……ぼくは侍従に任命されたので、そのお礼をかねて来たんですからね。しかし、おもな目的は、この問題にきまりをつけることなんですよ」
「では、神さまがあなたをお助けくださいますように!」とベーッシはいった。公爵夫人ベーッシを玄関まで送りだし、もう一度彼女の手の、手ぶくろの上の脈のうっているあたりに接吻して、彼女が、怒っていいのか笑っていいのかわからないような、いかがわしい冗談をあびせかけてから、ステパン・アルカジエヴィッチは、妹の居間へはいって行った。そして彼女が泣いているところへ行きあわせた。
ステパン・アルカジエヴィッチは、いまにも踊りだしそうな上きげんでいたにもかかわらず、とっさに、自然に、彼女の気分によくあうような、感傷的な、詩的に興奮した調子に早変わりをした。彼は、彼女に、健康のことや、今朝の様子などをたずねた。
「たいへん、たいへんわるいんですわ。昼も、朝も、いままでも、これからも、みんな」と彼女はいった。
「どうやらおまえは、ふさぎの虫に負かされているように見えるね。ひとつ、元気をださなくちゃいかんよ、そして、まっすぐに生活を見なくっちゃ。つらいだろう、つらいことはわかっている、しかしだ……」
「わたし、女というものは、悪徳のためにも人を愛するものだって聞いていますけれど」と、アンナはだしぬけに言いだした。「わたしはあのひとの善行のために、あのひとが憎らしくてなりませんのよ。わたしは、あのひとといっしょに暮らしていくことはできません。ねえ、いいこと、わたしはあのひとを見ただけで、生理的にたまらない気持になって、われを忘れてしまうんですもの。わたしにはできません、あのひとといっしょに暮らしていくことはできませんわ。いったいどうしたらいいんでしょう? わたしは前から不幸な女だったので、これ以上不幸になることはあるまいと思っていました。でも、いまあじわっているような恐ろしい境遇は、想像することもできませんでしたわ。兄さんは、わたしがあのひとの善良な、りっぱな人間であることを知りながら、わたしなどはあのひとの爪《つめ》にもあたいしないことを知りながら、やはりあのひとを憎まずにはいられないという、この気持をわかってくだすって? わたしはあのひとの寛大にたいして、あのひとを憎むんですわ。そしてわたしは、もうほかには、どうしようもありませんの、ただ……」
彼女は、死ということをいおうと思った。が、ステパン・アルカジエヴィッチは、彼女にしまいまでいわせなかった。
「おまえは病気なので、興奮してるんだよ」と彼はいった。「そして物事を、とほうもなく大げさに考えてるんだよ。そんなことはなにも、それほど恐ろしいことでもなんでもないのだ」
そして、ステパン・アルカジエヴィッチはほほえんだ。ほかの者ならだれも、ステパン・アルカジエヴィッチのような場合に、こういう絶望的な事件にかかわりあいながら、あえて微笑をうかべるようなものはなかったであろう(その微笑は、礼を失したものとも思われたであろう)。けれども、彼の微笑は、非常に多くの善良さと、ほとんど女のような優しさとを持っていたので、人の気持をそこねなかったばかりでなく、かえって、それをやわらげおちつかせるのであった。彼のもの静かな、心をおちつかせるような話と微笑とは、扁桃油《へんとうゆ》のように、柔らかに、穏やかに、はたらきかけるのであった。アンナもじきにそれを感じた。
「いいえ、スティーワ」と、彼女はいった。「わたしは滅びてしまったんですわ、滅びてしまったんですわ! いいえ、滅びたよりもなおわるいくらいですわ! わたしはまだ滅びきってしまったのではありません。もう何もかも片づいてしまったとはいえませんわ。いいえ、かえって反対に、かたのついていないことを感じていますの。わたしはちょうど、どうしても切れなければならないほどに引っぱられている弦《つる》のようなものですわ。でも、まだ切れてしまったのではありません……そのうちに、恐ろしい切れかたをするんですわ」
「いや、なんでもありゃしないよ。その弦を静かにゆるめることもできるじゃないか。どうしようもない境遇なんてものは、どこにもありやしないよ」
「わたしもさんざん考えましたの、ただひとつ……」
と、またしても彼は、彼女のぎょっとしたようなまなざしによって、そのただひとつの出口というのが、彼女の考えでは死であることを見てとったので、彼女にしまいまでいわせなかった。
「なあに、そんなことが」と彼はいった。「まあお聞き、おまえはぼくのようには、自分の境遇を見ることができないのだ。まあ、ひとつぼくに、ざっくばらんに、ぼくの考えをいわせなさい」と、ふたたび彼は注意ぶかく、例の扁桃油《へんとうゆ》のような微笑をうかべた。「ひとつ、ずっと初めからいうがね。おまえはだ、おまえは、自分より二十も年上の人のところへ、お嫁に来たのだ。おまえは愛なしに、あるいは愛というものを知らずに、お嫁に来てしまったのだ、これがまちがいだった、とまあ、いうことにして」
「恐ろしいまちがいですわ!」とアンナはいった。
「しかし、ぼくはくりかえしていうがね、それはもうできてしまった事実だ。それからおまえは、いってみれば不幸にも、自分の夫でない人を愛するというようなはめになってしまった。これは不幸だ。が、これもまたできてしまった事実だ。そしておまえの夫も、それを認めて、許してくれた」彼は一句ごとに言葉をきって、彼女の反駁《はんばく》を待ったが、彼女はなんとも答えなかった。「まあさ、そういうわけだ。そこで、いまや問題はこういうことになる、つまりおまえが、今の夫といっしょにつづけて暮らしていくことができるかどうか? あのひとがそれを望んでいるかどうか?」
「わたし、なんにもわかりませんわ、なんにも」
「だって、おまえは自分でいったじゃないか、あのひとはがまんできないって」
「いいえ、わたし、そんなこと言いませんわ。とり消しますわ。わたしはなんにも知りませんの、わたしはなんにもわかりませんの」
「うん、しかしだ、いいかね……」
「兄さんにはわかりませんわ。わたしはなんだかこう深淵のようなところへ、まっさかさまに落ちていくような気持なんですのよ。けれどわたしは、自分を救ってはならないのです。また、できもしないのですわ」
「なんでもないことじゃないか、ぼくたちが下に網を張って、うまくおまえを受けてやるよ。ぼくにはおまえの気持はよくわかる、おまえが自分の希望や感情を、自分にいわせることができないでいるのがよくわかるよ」
「わたしはなんにも、なんにも望んでなんかいませんわ……ただ、何もかもが、早くおしまいになってくれればいいと思っているだけですわ」
「だが、あのひともそれを見て、知っているのだ。ではおまえは、この問題で、あのひとがおまえよりいっそう苦しんでいることを考えないのかね? おまえも苦しんでいる、あのひとも苦しんでいる、それでいったいどうしようというのかね? 離婚さえしてしまえば、解決がつくというのに」とステパン・アルカジエヴィッチは、いくらか努力をして、やっとかんじんな考えをもちだし、意味ありげに彼女を見つめた。
彼女はなんとも答えないで、その髪を切った頭を、否定的に振った。しかし、とつじょとして以前の美しさで輝かしくなったその顔つきによって、彼は、彼女がそれを望んでいないのは、ただそれが不可能な幸福のように思われたからにすぎないことを、見てとった。
「ぼくには、おまえたちが気の毒でならないんだよ! だから、もしこの|かた《ヽヽ》をうまくつけることができたら、ぼくもどんなに幸福になれるだろうと思っているんだ!」とステパン・アルカジエヴィッチは、早くもいっそう大胆に笑いながらいった。
「もう言いなさんな、もうなんにも言いなさんな! じっさい神さまが、ぼくの感じていることを、そのままずばずばいえるようにしてくだすったらなあ! じゃあ、これからひとつ、あのひとのところへ行ってくるよ」
アンナは、思い沈んだような、輝いた目で彼を見たが、なんともいわなかった。
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二十二
ステパン・アルカジエヴィッチは、ふだん自分の役所で長官のいすに掛けるときのような、いくぶん厳粛《げんしゅく》な面もちをして、アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチの書斎へはいっていった。アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチは、背後で手を組みあわせ、室内をあちこち歩きながら、ステパン・アルカジエヴィッチが自分の妻と話していたと同じことについて、考えていた。
「おじゃまじゃなかったかね?」とステパン・アルカジエヴィッチは、義弟の顔を見ると急に、彼にしては珍しい困惑の気持をおぼえながらいった。その困惑の色をかくすために、彼は買ったばかりの新式の開きかたをする巻たばこ入れを取り出して、革《かわ》の香をかいでから、巻たばこを一本抜きだした。
「いや、何か用があるんだろう」とアレクセイ・アレクサーンドロヴイッチは、しぶしぶ答えた。
「ええ、ぼくは、その……なにしなければならない……ええ、ちょっとその話さなければならんことが」とステパン・アルカジエヴィッチは、驚きの念をもって、いつにない自分の気おくれを感じながら、いった。
この心持は、あまりに思いがけない、ふかしぎなものだったので、ステパン・アルカジエヴィッチは、それが、自分のこれからしようとしていることの、よくないことであるのを自分に告げてくれる良心の声だとは、信ずることができなかった。ステパン・アルカジエヴィッチは、けんめいに気をはげまして、襲いかかってくるおくびょう風をうち払った。
「ぼくはまず、きみが、妹にたいするぼくの愛と、きみにたいする心からなる友情と尊敬とを、信じてくれることと思う」こう、彼はあかくなりながらいった。
アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチは、立ちどまったまま、なんとも答えなかったが、その顔つきは、そこに読まれた従順な犠牲の表情によって、ステパン・アルカジエヴィッチの心をうった。
「ぼくはその……妹のことと、きみたちふたりの立場のことで、すこし話したいことが、あるんだがね」とステパン・アルカジエヴィッチはあいかわらず、いつにない気おくれとたたかいながら、いった。
アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチは、悲しげな笑顔で義兄を見た、そして、返事はしないで、テーブルのそばへ行き、その上から書きかけの手紙をとって、義兄に渡した。
「そのことについては、わたしもたえず考えている。それで、手紙でいったほうがいいと思って、それに、わたしが行ってはあれをいらだたせるばかりだと思って、いまこれを書きだしてみたんだがね」と彼は、手紙を渡しながらいった。
ステパン・アルカジエヴィッチは手紙を受け取りながら、いぶかしげな驚きの目をみはって、じっと自分の上にそそがれている、どんよりとした相手の目をながめた、そして読みはじめた。
「わたしはわたしの存在が、あなたを苦しめていることを知っている。それを信ずることは、わたしにはずいぶんつらいことだが、それが事実であること、ほかに考えようのないことをわたしは認める。わたしはあなたを責めはしない。わたしが、あの病気のときのあなたを見て、衷心《ちゅうしん》から、わたしたちの間にあったすべての過去を忘れて、新しい生活をはじめようと決心したことは、神さまが証人である。わたしは、自分のしたことを後悔していないし、また今後もけっしてしないだろうと思う。しかし、わたしはただひとつ――あなたの幸福、あなたの魂の幸福ということを望んでいた。そして、いまやわたしは、その希望のとげられなかったことを知ったのである。であるから、どうかあなた自身で、わたしに、あなたに真の幸福を与えるもの、あなたの魂に平安を与えるもののなんであるかを聞かせてもらいたい。わたしはどこまでもあなたの意志と、あなたの正しい感情とにしたがおう」
ステパン・アルカジエヴィッチは手紙を返した。が、さて、なんといっていいかわからなかったので、同じいぶかしげな表情をうかべて、じっと義弟の顔を見ていた。この沈黙は、彼らのいずれにもひどくぎこちないものだったので、ステパン・アルカジエヴィッチのくちびるには、カレーニンの顔から目をはなさないで黙っていたあいだに、病的な痙攣《けいれん》がおこったくらいであった。
「それが、わたしのあれに言いたいと思っていることなのだ」とアレクセイ・アレクサーンドロヴィッチは、顔をそむけていった。
「そう、そう……」とステパン・アルカジエヴィッチはいった。涙がのどをふさいでいたので、答えることができなかったのである。「そう、そうですよ。きみの気持はよくわかりますよ」と、彼はやっとこういった。
「わたしはあれの望んでいることを知りたいんですよ」と、アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチはいった。
「ぼくは、あれは自分でも、自分の立場がわからないのじゃないかと思うんですがね。あれは裁判官じゃないんだから」とステパン・アルカジエヴィッチは、気をとりなおしながらいった。「あれは圧倒されてるんだよ、つまり、きみの寛大な心によって、圧倒されてるんだよ。もしこの手紙をあれが読んだら、あれはなんともいうことができないで、ただ低くうなだれるほかはないと思う」
「なるほど、しかし、そうすると、どうしたらいいんだろう?……どういうふうに説明したら……どうしてあれの希望を知ったら?……」
「もしきみが、ぼくの考えをいうことを許してくれるならだ、あえていうが、こうした境遇に解決をつけるためにきみが必要だと思う手段を率直に指定するのは、すべてきみ自身の胸にあると思うんだがね」
「というと、きみは、これに解決をつけなければならぬと思ってるわけだね?」とアレクセイ・アレクサーンドロヴィッチは彼をさえぎった。「しかし、どういうふうにすればいいんだね?」と彼は目の前へ両手をあげていつにない身ぶりをしながら、言いたした。「どうしようにも、わたしにはまるで見当がつかないんだがね」
「どんな境遇にものがれ道というものはあるものだよ」と、ステパン・アルカジエヴィッチは立ちあがって、元気づきながらいった。「いつかきみは、離婚したいといったことがあったが……もし、現在きみが、双方ともお互いを幸福にすることができないと確信しているんだったら……」
「幸福ということは、どうにでも解釈のできるものだ。しかし、かりにわたしがどんなことにも同意して、なんにも要求しないとしてもさ。わたしたちの境遇に、どういうのがれ道があるだろう?」
「きみがぼくの考えを知りたいというなら」とステパン・アルカジエヴィッチは、アンナと話したときと同じ、相手の心をやわらげないではおかないような、例の扁桃油《へんとうゆ》のような優しい微笑をうかべながら、いった。その善良らしい微笑は、非常に効果的だったので、アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチは、自分の弱点を感じ、その感情に動かされて、つい、ステパン・アルカジエヴィッチのいおうとすることを信じようとしたほどであった。「あれはけっして、そんなことを言いはしない、しかしここに、ひとつできることがある。彼女の望みうることがある」とステパン・アルカジエヴィッチは言いつづけた。「それはきみたちの関係と、それに関連したあらゆる記憶とをたってしまうということだ。ぼくの考えでは、きみの境遇で必要なことは、お互いのあいだの新しい関係を明らかにするということだ。そして、そういう関係はただ、双方の自由ということによって、なりたちうるものなのだ」
「離婚かね」とアレクセイ・アレクサーンドロヴィッチは、嫌悪の色をうかべて言葉をはさんだ。
「そう、離婚だとぼくは思う。そうさ、離婚さ」と、ステパン・アルカジエヴィッチは、あかくなって、くりかえした。「きみたちのような関係にある夫婦にとっては、あらゆる点から見て、これが最も合理的な方法さ。とにかく、夫婦の双方が、いっしょに暮らしていくことができないと感じた場合に、ほかにどうすることができよう? こんなことは、世間にはざらにあることじゃないか」
アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチは、ほっと重苦しい太息をついて、目を閉じた。
「この場合に、ただひとつ考えるべきことは、夫婦の一方が、他の人との結婚を望んでいるかどうかということだ。それさえなかったら、これはしごく簡単な問題さ」とステパン・アルカジエヴィッチは、例の気づまりな気持からますます解放されながら、いった。
アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチは、興奮から顔をしかめ、なにやらひとり言をいっただけで、なんとも答えなかった。ステパン・アルカジエヴィッチにはきわめて簡単にいえたことも、アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチは、もう幾千べん考えてみたかしれなかったのである。そしてこのことは、彼にとってはあまり簡単でなかったばかりでなく、ぜんぜん不可能にさえ思われたのである。すでに詳細な点まで調べてあった離婚ということが、いま彼に、不可能と思われたのは、ほかでもない、自分自身の品位を思う心と、宗教にたいする敬虔《けいけん》の念とが、虚構《きょこう》な姦通罪《かんつうざい》告白というようなことを自分に許さなかったばかりでなく、自分の許し愛している妻が、そのために罪をあばかれて面目を失うようなことは、なおさら許すことができなかったからである。なお離婚ということは、それ以上にもっと重大な理由によっても、不可能に思われたのであった。
万一離婚するとすれば、男の子はいったいどうなるのだろう? 彼を母親といっしょにつけてやることは断じてできない。離婚された母親は、法律の認めない勝手な家庭をつくるだろう、そして、その家庭における|まま《ヽヽ》子としての境遇や教育は、どう考えてみても、よくないにきまっている。では、自分の手もとへとめておくことは? 彼はそれが、自分のほうからの一種の復讐になることを知っていた、そして、それを望まなかった。しかし、こうした理由以外に、アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチに離婚を不可能と思わせたのは、彼が離婚を承諾することは、それによってただちに、アンナを滅ぼすことになるからであった。彼の心には、モスクワでダーリヤ・アレクサーンドロヴナにいわれた言葉――あなたは、離婚の決心をするのに、自分のことばかり考えていて、それによって、アンナを救いがたく滅ぼしてしまうことは、少しも考えていらっしゃらない――こういう言葉が、深く深くしみこんでいたのである。で、彼は今この言葉を、自分の許しや子供にたいする愛着と結びつけて、自己流に解釈していたのである。離婚を承諾して彼女に自由をあたえることは、彼の考えでは、とりもなおさず、自分からは生活にたいする最後のきずな――愛している子供を取りさってしまうことであるし、また彼女からは、善の道への最後の支柱を奪いとって、彼女を破滅におとしいれることであった。もし彼女が離婚された妻となれば、彼女はさっそくウロンスキイといっしょになるであろうことを知っていた。そしてこの結合は、不法な罪深いものである、なぜなら、妻は、教会の掟《おきて》の精神によって、夫の存命中は結婚することができないことになっているからであった。『彼女はあの男といっしょになるだろう、そして一、二年のうちに、あの男が彼女を捨てるか、彼女が新しい関係を結ぶかするだろう』こうアレクセイ・アレクサーンドロヴィッチは考えた。『そしておれは、法律の認めぬ離婚を承諾したというかどで、彼女の破滅の下手人《げしゅにん》になるだろう』彼はこれらの点を、何百回となく考えたあげく、離婚ということは、義兄がいうようにあまり簡単なことでないばかりか、ぜんぜん不可能なことだとさえ、かたく信じてしまったのだった。彼はステパン・アルカジエヴィッチの言葉をひと言も信じなかったし、その一語一語にたいして、何千もの反駁《はんばく》をもっていた。が、彼は、例の自分の生活を導いている、そして自分がしたがわずにはいられそうにない、あの力強いあらあらしい力が、その言葉のうちに表現されていることを感じながら、それに耳をかたむけていた。
「問題はただ、きみがどんなふうに、どういう条件で、離婚を承諾するかということにあるのだ。彼女はなんにも望んではいない。また、あえてきみにお願いするようなことはしえまい。彼女は、万事をきみの寛大な心にゆだねているのだから」
『おお、神よ! 神よ! なんということだ!』とアレクセイ・アレクサーンドロヴィッチは、夫のほうが罪を引きうけねばならぬことになる、あの離婚手続きのくわしい点まで思いだして考えた。そしてウロンスキイが顔をおおうたときと同じ身ぶりで、慚愧《ざんき》のために両手で顔をおおった。
「きみは興奮している、ぼくにはそれがよくわかる。しかし、きみがよく考えてみたならばだね……」
『人もしなんじの右のほおを打たば、左のほおもむけよ。上着をとらんとする者には、下着をもあたえよ』と、アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチは考えた。
「わかった、わかった」と、彼はきしみ声で叫んだ。「わたしは恥辱をも自分に引きうけよう、子供も渡そう。しかしだね、そんなことはしないほうがよくはないだろうか? が、まあ、しかし、どうでもいいようにしてくれたまえ……」
そして彼は、義兄に顔を見られないように顔をそむけて、窓ぎわのいすに腰をおろした。彼はつらかった、恥ずかしかった。が、この悲痛と恥辱と同時に、自分の温順の気高さにたいして、歓喜と感動とを経験していた。
ステパン・アルカジエヴィッチは心を動かされた。彼もしばらくおし黙っていた。
「アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチ、ぼくを信じてくれたまえ。あれはきみの寛大な心をきっとありがたく思うだろうよ」と彼はいった。「しかし、これもみな神のおぼしめしだったのだろう」と彼は言いたした。そして、こういってしまってから、それがいかにも愚劣な言いぐさだったことを感じて、自分の愚かしさにたいする苦笑を、やっとのことでかみ殺した。
アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチはなんとか答えたいと思ったが、涙が彼をさまたげた。
「これは宿命的な不幸だよ、そう思うよりしかたがない。ぼくはこの不幸を、もうできてしまったこととして認めて、あれにも、きみにも、ためになるように骨を折っているんだ」とステパン・アルカジエヴィッチはいった。
ステパン・アルカジエヴィッチは、義弟の部屋を出たときにはだいぶ感動していたけれども、それは、この問題をうまく片づけたという満足をさまたげるものではなかった。というのは、アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチが食言《しょくげん》する心配はないと、信じて疑わなかったからであった。なおこの満足には、この問題が成功したら、妻や親しい知己に向かって、つぎのような質問を出してやろうという考えが頭にうかんだという一事が加わった――『おれと元帥とのあいだにはどんな相違があるだろう? 元帥はラズウォート(軍隊の移動の意)をさせた――そのためにだれひとりよくはならなかったが、おれはラズウォート(離婚の意)をさせて――三人ともいいようにしてやった……それとも――おれと元帥とのあいだには、どんな類似点があるだろう? とするかな……が、まあこのことは、その時になってから、もっとよく考えてみることにしよう』こう彼は、微笑をうかべながら自分にいった。
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二十三
ウロンスキイの負傷は、心臓こそはずれてはいたけれども、危険なものであった。そして彼は数日間、生死の境をさまよった。彼がはじめて口がきけるようになったときには、兄よめのワーリャだけが彼の部屋にいた。
「ワーリャ」と彼は、きびしく彼女の顔を見ながらいった。「ぼくはちょっとしたはずみで自分を撃ったんですからね。だから、どうかこのことは、もうけっしていわないようにしてください。そして、みんなにもそういっといてください。さもないと、あんまりばかげてますからね」
ワーリャはその言葉には答えないで、彼の上へかがみかかると、うれしそうな微笑をうかべ、しげしげと彼の顔を見つめた。彼の目ははっきりしていて、熱があるようでもなかったが、その表情はいかめしかった。
「まあ、よかったわねえ!」と彼女はいった。「痛くはなくって?」
「ここが少し」と、彼は胸を指さした。
「では、わたし包帯《ほうたい》をとりかえてあげましょうね」
彼女は包帯をかえているあいだ、彼は黙って、その広いほお骨をひきしめて彼女を見ていた、彼女が巻きおわると、彼はいった――
「ぼくはうわ言をいってるんじゃないんですからね。どうか、わざと自分を撃ったのだなどという話のでないようにしてくださいよ」
「だれもそんなことをいう者はありませんわ。ただね、あなたもこれからは、ちょっとしたはずみで撃つなんてことは、しないようにしてくださいね」と彼女は、なじるような微笑をふくんでいった。
「もちろん、もうしやしませんよ。だが、いっそ、なにしてしまったほうが……」
そして彼は、陰うつな微笑をうかべた。
ワーリャをひどく驚かしたこうした言葉や微笑にもかかわらず、発熱がなくなって、からだが回復しかけると、彼は自分の悲しみのある部分から、まったく解放されたように感じた。彼はあの行為によって、あたかもそれまでなめていた羞恥《しゅうち》と屈辱とを、その身からぬぐいさりでもしたようなぐあいであった。彼はいまは、アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチのことをも、冷静に考えることができた。彼は、全面的にカレーニンの寛大な心を認めながら、もはや自分を、卑しめられた者とは感じなかった。のみならず、彼はふたたびもとどおりの生活軌道へもどった。彼は恥の思いなしに人々の目を見ることができるようになり、自分の習慣にしたがって、生活することができるようになった。ただひとつ、たえまなくその情とたたかっていたにもかかわらず、どうしても心からもぎとってしまうことのできなかったのは――それは彼が、永久に彼女を失ってしまったということについての、絶望にまで達した哀惜《あいせき》の情であった。夫にたいして自分の罪をつぐなってしまった以上、自分はどうしても、りっぱに彼女と手を切って、今後けっして、悔い改めた彼女と夫とのあいだに立つべきでないということは、堅く彼の心に決せられていた。しかし彼は、自分の心から、彼女の愛を失ったという哀惜感をもぎとってしまうことはできなかったし、彼女とともにして知ったあの幸福のときどき――当時はさほどにも思わなかったけれど、今ではその全魅力をもって彼の心にまつわりつくあの幸福のときどきを、記憶から消しさることもできなかった。
セルプホフスコイが彼のために、タシケントへの派遣を思いついてくれたとき、ウロンスキイは、いささかのちゅうちょもなくその申し出に同意した。しかし、出立の時が近づくにしたがって、自分が義務と感じてささげた犠牲が、ますます苦しいものになってきた。負傷がいえたので、彼は、タシケントへの出発準備かたがた、方々へ出歩くようになった。
『一度彼女に会って、それから身をかくすなり、死ぬなりしよう』彼はこう考えて、いとまごいに行ったついでに、ベーッシに、この考えをうちあけた。この彼の使命をおびて、ベーッシはアンナのところへ行き、そして彼に否定の返事をもたらしたのであった。
『かえっていいや』と、その知らせを受け取ったときに、ウロンスキイは考えた。『これは、おれの最後の力を滅ぼしてしまう弱気だったのだ』
ところが翌朝、ベーッシが自身で彼のところへ出むいてきて、アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチが離婚を承諾したから、ウロンスキイはアンナに会うことができるという確実な知らせを、彼女がオブロンスキイの手をへて入手したむねを伝えてくれた。
と、それまでの決心などはどこへやら、いつなら会えるか、夫はどこにいるかなどということもたずねず、ベーッシを送り出すことさえそっちのけにして、ウロンスキイは即刻、カレーニン家へと馬車を駆った。彼は、だれにも何ものにも目をくれず、階段をかけあがると、ついかけだしそうになるのをやっとおさえながら、足ばやに彼女の居間へはいっていった。そして、部屋のなかに人がいるかいないかということも、考えもしなければ気もつかずに、いきなり彼女を抱きしめて、その顔を、手を、くびを、接吻でおおいはじめた。
アンナはかねてこの会見に心がまえをして、彼にいうべきことをも考えておいたが、それを少しもいうことができなかった。彼の熱情が、彼女をつかんでしまったからであった。彼女は彼をしずめ、自分自身をもしずめようと思ったが、それはもう遅かった。彼の感情は、早くも彼女に感染してしまった。彼女のくちびるははげしくふるえた。で、彼女は長いこと、なんにもいうことができなかった。
「ああ、あなたはわたしを、とりこにしておしまいになりました。わたしはもうあなたのものですわ」と、彼女はとうとう彼の手を、自分の胸へ押しつけながらいった。
「当然こうならなければならなかったのです」と、彼はいった。「ふたりが生きているあいだは、こうならなければならないのです。ぼくは今それを知りました」
「ほんとうにそうですわね」と、彼女はますます青くなって、彼の頭を抱きながらいった。
「けれど、ああいうことのあったあとだから、このなかには、何か恐ろしいものがありそうですわね」
「何もかも過ぎてしまいます。何もかも過ぎてしまいます。ぼくたちは、このままで幸福になりますよ! ぼくたちの恋がもっと強くなるとしたら、そのなかに何か恐ろしいものがあるために強くなるのでしょう」こう彼は頭をあげて、その丈夫そうな歯なみを、微笑によってあらわしながらいった。
で、彼女も、微笑をもって答えないではいられなかった――彼の言葉にではなく、その恋する目にたいして。彼女は彼の手をとり、それで自分のつめたくなったほおや、短く切った髪の毛をなでていた。
「ぼくは、あなたが髪をこんなに短くしてるので、すっかり見ちがえちまいましたよ。とてもかわいらしくなりました。まるで男の子ですね。しかし、ずいぶん青い顔ですね……」
「ええ、わたしはだいぶ弱ってますのよ」と、彼女はほほえみながらいった。と、彼女のくちびるはまたふるえだした。
「ぼくたちはイタリアへ行きましょう、そしたらあなたも丈夫になりますよ」と彼はいった。
「ですけれど、それができることでしょうか。わたしたちが夫と妻のようになるなんて。あなたとふたりで家庭をつくるなんて?」と彼女は、ちかぢかと彼の目に見いりながらいった。
「ぼくにはむしろ、今までそうでなくていたのが、ふしぎに思われるくらいですよ」
「スティーワの話では、|あのひと《ヽヽヽヽ》は何もかも承知だと言いますけれど、わたしは|あのひと《ヽヽヽヽ》の寛大な心を受けいれることはできませんの」と彼女は思いふかげに、ウロンスキイの顔の横のほうを見ながらいった。「わたしは、離婚を望んではおりませんのよ。わたしにはもう、どちらでも同じことですもの。わたしはただ|あのひと《ヽヽヽヽ》が、セリョージャをどうする気でいるか、それがわからないのですわ」
彼は、彼女が、こういう逢《お》う瀬《せ》の瞬間にまで、子供のことや離婚のことを、思い出したり考えたりすることのできるのが、どうしても理解できなかった。そんなことは、どうだっていいことではないか?
「そんなことはいわないで、考えないで」と彼は、自分の手のなかにある彼女の手をひっくりかえして、その注意を自分のほうへ引きつけようとつとめながら、いった。しかし、彼女はなお彼のほうを見なかった。
「ああ、なぜわたしは死ななかったのでしょう、いっそ、そのほうがよかったのに」と、彼女はいった。と、声のない涙が、彼女の両ほおをつたって流れたが、彼女は、彼を悲しませないために、しいて笑顔をつくることにつとめた。
タシケントへの誘惑的で危険な任命をことわることは、ウロンスキイの従来の解釈では恥ずかしい、そして不可能なことであった。しかし、今は、一分間も考えないで、彼はそれをことわってしまった。そして上官たちのあいだに、自分の行為にたいする不満の色のあるのを見てとると、さっさと退職してしまった。
一か月後には、アレクセイ・アレクサーンドロヴイッチは自分の家に、男の子とふたりきりでとり残され、アンナとウロンスキイとは、離婚を受けず、きっぱりとそれをしりぞけて、外国への旅にのぼってしまった。
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第五編
一
スチェルバーツキイ公爵夫人は、あと五週間しかない斎戒節《さいかいせつ》までに婚礼をあげることは、とてもできない相談だと考えた。というのは、花嫁の婚礼持参品がそれまでには、半分もととのうまいと思われたからであったが、それかといって、斎戒節後ではあまり遅くなりすぎるというレーヴィンの意見にも、同意しないわけにはいかなかった。スチェルバーツキイ公爵の年老いた肉親の叔母《おば》が重態で、いまにも死にそうになっていたので、そうすれば、その喪《も》がいっそう婚礼を延ばすことになるからであった。そこで公爵夫人は、持参品を大小ふたつに分けることにきめて、とにかく婚礼は斎戒節までにあげることに同意した。彼女は、小口の持参品のほうは今すぐに全部を用意し、大口のほうはあとから送ることにきめた。そして、レーヴィンがそれにたいして承知したともしないとも、どうしてもまじめに返事をすることができないでいると、彼女は彼にたいしてひどく腹をたてた。というのも、つまりは、若いふたりは婚礼がすむとすぐ、大口のほうの持参品の必要でない田舎へ帰ってしまうことになっていたので、この思いつきがいっそう好つごうだったからである。
レーヴィンは、ひきつづきずっと、同じ無我夢中の状態にあったので、彼には、自分と自分の幸福とが、世のなかのあらゆるものにとって最も大切な、唯一の目的を構成しているように思われて、何事にしろ、いまの自分には、考えたり気をくばったりする必要はなく、何事も他人《ひと》がやってくれるような気がしていた。彼は将来の生活のためのプランや目的さえも、少しも持っていなかつた。彼はすべてがうまくいくものと信じて、その決定を他人まかせにしていた。兄のセルゲイ・イワーノヴィッチと、ステパン・アルカジエヴィッチと、公爵夫人とが彼に、彼のなすべきことをさしずしてくれた。彼はただ、自分にいわれることにはなんでも、そのとおりに同意するだけであった。兄は彼のために金を調達してくれたし、公爵夫人は式がすんだらモスクワを立つことをすすめた。ステパン・アルカジエヴィッチは外国へ行くことをすすめた。彼はそのすべてに同意した。『それがあなたがたに愉快でしたら、お好きなようになすってください。ぼくは幸福です。そしてぼくの幸福は、あなたがたが何をなさろうと、ふえもしなければ減りもするものではないのですから』こう彼は考えた。彼は、外国へ行けというステパン・アルカジエヴィッチのすすめをキティーに伝えたときに、彼女がそれには賛成しないで、ふたりの未来の生活について彼女自身のあるはっきりした要求をもっていたのに、少なからず驚かされた。
彼女は、レーヴィンには田舎に仕事があり、彼がそれを愛していることを知っていた。彼女は、彼の見るところでは、ただその仕事を理解していなかったばかりでなく、理解しようとも思っていないようであった。しかし、このことは、彼女がその仕事を大切なものだと考えることをさまたげなかった。それに彼女は、自分たちの住居が田舎になることを知っていたので、自分の住むべきところでもない外国へよりは、自分たちの家になるところへ行きたいと思ったのである。このはっきりと言いあらわされた意向は、レーヴィンを驚かした。しかし彼は、自分にはどちらでもよかったので、さっそくステパン・アルカジエヴィッチに向かって、まるでそれが彼の義務ででもあるように、田舎へ出むいて、そこで、彼の豊富な趣味によって、彼の知っていることを万事うまく整えてきてくれるようにと頼んだ。
「そこでだ、ね、きみ」とステパン・アルカジエヴィッチは、新夫婦帰住のために必要ないっさいの準備を整えにいってきた田舎から帰ってから、あるときレーヴィンにこういった。「きみは懺悔《ざんげ》をすましたという証書をもっているだろうね?」
「いや。どうして?」
「それがなくちゃ、式があげられないよ」
「おやおやおや!」とレーヴィンは叫んだ。「ぼくはもう九年ばかり精進《しょうじん》をしなかったように思うよ。ぼくはそんなことは考えてもいなかった」
「あきれたもんだね」と、笑いながらステパン・アルカジエヴィッチはいった。「ぼくのことをニヒリストだなんていってるくせに! だが、とにかくそれじゃいけないよ。きみはどうでも精進をしなくっちゃ」
「じゃあいつ? あと四日しかないんだからね」
ステパン・アルカジエヴィッチは、このほうもうまくやってくれた。そこでレーヴィンは、精進をはじめた。レーヴィンには、自分は信仰をもたないけれども他人の信仰は尊敬している人のつねとして、教会のすべての儀式に参列したり、たずさわったりするのが、非常に苦しいことであった。今のように、気分のやわらいだ、何事にも感じやすくなっている場合には、この自分をいつわらねばならぬということは、ただ苦痛だったばかりでなく、まったく不可能なことのようにさえ思われた。いまや彼は、その光栄と盛運のときにあたって、うそをつくか、神聖|冒涜《ぼうとく》をあえてするかしなければならぬ場合にたちいたったのである。彼は、自分にはとても、そのどちらもできそうにない気がした。そこで彼は、精進をしないで証書をもらうことはできないかと、何度となくステパン・アルカジエヴィッチにきいてみたが、ステパン・アルカジエヴィッチは、それはできないと言明した。
「何を、きみはそんなにごたいそうに考えてるんだ――たった二日のことじゃないか? それに相手は、とても人の好い、如才《じょさい》ないじいさんだよ。あのひとなら、きみがちっとも気がつかないでいるうちに、その歯をうまく抜いてくれるよ」
最初の祈祷式に立ったとき、レーヴィンは十六、七のころに経験した、あの強い宗教的感情の若々しい思い出を、心のなかで新たにしようとしてみた。が、すぐに、それがぜんぜん不可能であることを確信させられた。彼はそれらのすべてを、人を訪問する習慣のような、なんの意味もない、空虚な習慣としてみようとしてみた。が、それすら彼には、どうしてもできないような気がした。レーヴィンは、対宗教の関係では、同時代の大多数の人々と同様に、きわめてあいまいな境地にあるのであった。彼は信ずることができなかったが、同時にまた、それらのことがすべてまちがいであると確信しているわけでもなかった。で、彼は、自分のしていることの意味を信ずることもできなければ、またそれを空虚な形式として平気で見すごすこともできないので、この精進《しょうじん》のあいだじゅう、自分自身にもわけのわからない、そのために、彼の心内の声のささやくところにしたがうと、なにやら偽善的な、よくないことをしているような、妙に|ばつ《ヽヽ》のわるい、恥ずかしい感じを経験していた。
勤行《ごんぎょう》の行なわれているあいだ、彼は、あるいは、自分の見解にそむかないような意味を祈祷《きとう》につけたそうとつとめながら、じっとそれに耳をかたむけたり、あるいは、自分にはとてもわからないから、非難するのが当然だと感じながら、つとめてそれを聞かないようにして、自分の思想や、観察や、また教会の中でなんのなすこともなくぼんやり立っているこのときにあたって、なみなみならぬ生彩《せいさい》をもってその頭にうかび出てくる回想などに、没頭していた。
彼は昼の祈祷、夜の祈祷、夕べの戒律《かいりつ》とをすませ、そして翌日は、いつもより早く起きでて、お茶も飲まずに、朝の戒律をきいて懺悔をするために、八時に教会へ出かけて行った。
教会には、ひとりのこじき兵士と、ふたりの老婆と、寺男たちのほか、だれもいなかった。
薄い法衣《ころも》の下の長い背中がはっきりとふたつにわかれて見える若い助祭《じょさい》が彼を迎えて、すぐに壁際の小テーブルのそばへ行き、戒律を読みはじめた。彼が読みあげていくにつれて、とくに『パミーロス、パミーロス(許された、許された)』と聞こえる、「ゴースポジ、パミールイ(神よ、あわれみたまえ)」という同じ言葉が、早口に何度となくくりかえされるのを聞いていると、レーヴィンは、自分の思想は閉じこめられ、封印されていて、いまはそれに触れることも動かすことも許されず、うっかりすればめちゃめちゃになってしまうことを感じた。で、彼は、助祭の後ろに立ちながら、それを聞きもしなければ追求もしないで、ただ自分だけのことを考えつづけた。『まったくあの女《ひと》の手には、非常に豊富な表情があるなあ』と彼は、昨日彼女とふたりで隅《すみ》のテーブルのそばに掛けていたときのことを思いだして、考えた。そういう場合には、このごろはほとんどそうであるように、ふたりには何も話すことがなかった。で、彼女は、テーブルの上へ片手をのせ、それを開いたり閉じたりして、その運動に見いりながら、ひとりで笑いだした。彼は、その手に接吻してやったことや、そのあとでばら色のてのひらの筋をみてやったことなどを思いうかべた。『おや、また許された、だな』と彼は、十字を切ったり、礼拝したり、同じく礼拝している助祭の背中のしなやかな動きを見たりしながら、考えた。『それからあの女《ひと》は、おれの手をとって筋を見た、そして――まありっぱなお手ですこと――なんていったっけ』そこで彼は、自分の手と助祭の短い手とを見くらべた。『ああ、もうじき終わりだな』と、彼は思った。『いや、また初めからやるらしいぞ』と彼は、祈祷の声に聞きいりながら考えた。『いや、やっぱりおしまいだ。そら、あのとおり地面につきそうなおじぎをしている。あれはいつもおしまいのときにやるやつだ』
毛長ビロードのそでおりのなかの片手で、そっと三ルーブリ紙幣を受け取ると、助祭は、書きとめておきますと言い、がらんとした教会の敷き石に、元気よく、新しい長ぐつの音を立てながら、祭壇の中へはいっていった。一、二分すると、彼はそこから顔をのぞけて、レーヴィンを手まねきした。と、このときまで閉じこめられていた思想が、レーヴィンの頭のなかで動きはじめたが、彼は急いでそれをおいのけた。『まあどうにかなるだろう!』こう考えて説教台のほうへ歩きだした。階段に足をかけて、右のほうをふりむくと、司祭の姿が見えた。まばらなごま塩のあごひげと、疲れたような人のよさそうな目とをもった老司祭は、聖書テーブルのかたわらに立って、聖礼記《せいれいき》のページをめくっていた。彼は、かるくレーヴィンにえしゃくをして、すぐに、習慣になった声で祈祷文の朗読をはじめた。そしてそれがすむと、地面にとどくほど低く礼拝して、レーヴィンのほうへ顔をむけた。
「あなたの懺悔をきこしめしながら、キリストさまは人知れず、ここにお立ちになっておられます」と彼は、十宇架上のイエスの像をさしながら、いった。「あなたは、聖使徒教会の教義をことごとく信じておいでになりますかな?」と司祭は、レーヴィンの顔から目をはなし、両手を肩帯の下で組みあわせながら、つづけた。
「わたしはすべてのことを疑ってきました。今も疑っています」とレーヴィンは、われながら不愉快な声でいって、口をつぐんだ。
司祭は、彼がもっと何かいうかと思って、数秒間待っていてから、ふたたび目を閉じて、Oの音を早く発音するウラジーミルふうの発音でいった――
「疑いは、人の弱点としてありがちのことですが、しかしわれわれは、慈悲ぶかい神さまがわれわれの心を堅固にしてくださるように、お祈りをしなければなりません。あなたはとくにこれというような罪をおもちですかな?」と彼は、つとめて時間を空費しまいとでもするように、少しのまもおかずにつけくわえた。
「わたくしの一ばん大きな罪は疑いであります。わたくしはすべてのことを疑っています。そして多くの場合、疑いのなかにおります」
「疑いは、人の弱点としてありがちのことです」と、司祭は同じ言葉をくりかえした。「あなたはおもにどういうことを疑っておられますかな?」
「わたくしは、すべてのことを疑っております。ときには、神の存在をすら疑うことがあります」レーヴィンは思わず口をすべらして、自分の言葉のあまりの無作法さに、われながらぎょっとした。が、見たところ、司祭には、レーヴィンの言葉はなんの印象をもあたえなかったらしい。
「神の存在にどういう疑いがありえましょう?」と、司祭はやっと見えるくらいの微笑をうかべて、急いでいった。
レーヴィンは黙っていた。
「あなたは、神の創造を見ていながら、その創造主にたいしてどんな疑いをもつことができますか?」と司祭は、習慣になった早口の話しぶりでつづけた。「では、大空のドームをいろいろの発光体で飾られたのはどなたですかな? 大地をこの美しさでおおわれたのはどなたですかな? どうして創造主がなくていられましょう?」と彼は、いぶかしげにレーヴィンを見ていった。
レーヴィンは、司祭を相手に哲学的議論をはじめるのはよくないと思ったので、その問題に直接関係のあることだけを答えとして、いった。
「わたくしはぞんじません」と彼はいった。
「ごぞんじない? それならどうしてあなたは、神が万物をおつくりになったという事実をお疑いなさるのだな?」と司祭は、楽しげなけげんな色をうかべていった。
「わたくしには、なんにもわからないのです」とレーヴィンは顔をあからめて、自分の言葉のいかにもばかげていることを、こういう場合にはそうならざるをえないことを、感じながらいった。
「神にお祈りなさい、神におすがりなさい。聖と呼ばれる神父たちさえ、疑いがあればこそつねに、自分の信仰の強化を神に祈っておられました。悪魔は大きな力をもっております。われわれはそれに負かされてはなりません。神にお祈りなさい。おすがりなさい。神にお祈りなさい」と、彼は気ぜわしそうにくりかえした。
司祭は、何か考えこんだように、しばらく黙っていた。
「あなたは、わたくしの教区民で神の子なる、スチェルバーツキイ公爵の令嬢と、ご結婚なさるのだそうですね?」と、彼は笑顔になってつけくわえた。「なかなか美しい娘さんだ」
「ええ」とレーヴィンは、司祭のためにあかくなりながら答えた。『どうして懺悔式にこんなことをたずねる必要がこの人にあるのだろう』こう彼は考えた。
と、まるでその考えに答えるかのように、司祭は言いだした――
「あなたは結婚生活にはいろうとしていられる。神はきっと、子孫というものをもってあなたに恵まれるに相違ない。そうじゃありませんか? ところで、もしあなたが、あなたを不信仰にさそおうとする悪魔の誘惑にうちかつことができぬとしたら、あなたはあなたのお子さんがたに、どんな教育をあたえることができますかな?」と彼は、優しい非難の調子でいった。「もし、あなたが自分の子供を愛しておられるのだったら、あなたは善良な父として、その子のために、単なる富や、ぜいたくや、名誉を望むばかりでなく、そのお子さんの救われることを、真実の光でお子さんの魂の照らされることをお望みなさるだろう。そうではないですかな? そこで、罪も穢《けが》れもない幼いお子さんが、あなたに向かって、『お父さん、この世の中でわたしをひきつけるすべてのもの――大地や、水や、太陽や、花や、草などといういろいろなものは、いったいだれがつくったの?』こうたずねられたら、あなたはなんとお答えになりますかな?『わしは知らん』などといわれますかな? 神はその大いなるみ恵みによって、あなたの前にそれを開いてくだされているのに、あなたはそれを知らんでいるわけにはいきますまい。それからまた、あなたのお子さんが『死んでからわたしたちはどうなるの?』ときかれたときに、もしあなたが何もごぞんじなかったら、なんと答えますか? なんといってお答えなさるおっもりか? あなたはお子さんを世間や悪魔のまどわしにまかせておしまいなされますか? それはよろしくないことですぞ!」彼はこういって、言葉をきり、頭を一方へかしげて、善良そうな柔和な目で、レーヴィンを見つめた。
レーヴィンはもうなんとも答えなかった――それは司祭と争いたくなかったからではなく、今までは自分にこんな質問を提出したものはなかったし、また、自分の子供がこんな質問を発するようになるまでには、まだ十分返答を考える余裕があると思われたからであった。
「あなたは今、人生の本舞台へかかろうとしておられるところだ」と司祭はつづけた。「今こそあなたは道を選んで、それをしっかりと踏んで行かなければなりません。神にお祈りなさい、そのお慈悲をもって、力をお貸しくださるよう、み恵みをたれさせたもうように」と、彼は言葉をむすんだ。「われらの主なる神、イエス・キリストは、あふるるばかり豊かなる愛とみ恵みとをもって、子なるなんじを許したまわるべし……」と司祭は、救済の祈祷をおわると、彼を祝福して放免《ほうめん》した。
その日、宿へ帰ってくるとレーヴィンは、このぎこちない用件がすんだことから、しかも、うそをつかねばならぬはめにもならずにすんだことから、非常に喜ばしい感じをあじわった。そればかりでなく、彼の心には、あの善良な愛すべき老人のいったことが、最初彼が考えたようなばかばかしいものではなく、そこには何か明らかにせねばならぬことがあるような、ぼんやりした記憶が残った。
『むろん、今すぐではない』とレーヴィンは考えた。『が、いつかあとで』レーヴィンはこのとき、以前よりもいっそう強く、自分の魂のなかに何か不純なもののあることと、そしてその魂が、宗教にたいする関係では、彼が他人のなかに明らかにみとめて、いやだと思い、そのために友人のスヴィヤーズスキイを非難した、あれと同じ心境にさまよっていることを、痛感した。
レーヴィンは、その晩|許嫁《いいなずけ》といっしょにドリーのもとで時を過ごして、とくに愉快であった。そしてステパン・アルカジエヴィッチに興奮した気持をうちあけて、自分はまるで、輪を飛び抜けることを教えならされた犬が、とうとうそのこつをのみこんで、求められた芸をうまくやってのけ、叫んだり、しっぽを振ったりしながら、うれしさのあまり、テーブルの上や、窓の上へ飛びあがったりする、あれと同じようにうれしいのだといった。
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二
婚礼の日には、レーヴィンは習慣にしたがって(公爵夫人やダーリヤ・アレクサーンドロヴナはすべての習慣を守ることをかたく主張してゆずらなかった)、許嫁の顔は見ず、旅館の自分の部屋で、偶然におちあった三人の独身者――セルゲイ・イワーノヴィッチと、大学時代の友人で、今では自然科学の教授をしているカタワーソフと(レーヴィンはこの男と往来で出会って、自分のところへひっぱって来たのであった)、それから、彼の結婚の介添人《かいぞえにん》で、モスクワの治安判事で、レーヴィンの|くま《ヽヽ》狩り仲間であるチリコフ――といっしょに食事をした。会食は非常に愉快だった。セルゲイ・イワーノヴィッチはおそろしく上きげんで、カタワーソフの風変わりなところをおもしろがった。カタワーソフは、自分の風変わりなところが重んじられ理解されているのを感じて、得意になっていた。チリコフは、快活な人のいい調子で、あらゆる話に相づちをうつのだった。
「いいですか」とカタワーソフは、講壇でえた癖によって、言葉を長く引き伸ばしながらいうのだった。「われわれの友人であるコンスタンチン・ドミートリチは、じつに前途有望な青年でありました。が、ぼくはここにいない人のことをいっているのですよ。なぜといって、今その人はいないからです。あの当時、大学を出る時分には、彼は科学を愛し、人間らしい興味をもっていた。それが今では、その能力の一半は自分を欺くことにむけられ、他の一半はこの自己欺瞞を弁護することにむけられているのです」
「いやはや、あなたのように徹底的な結婚の敵もないものですねえ」と、セルゲイ・イワーノヴィッチはいった。
「いや、ぼくは敵ではありません。ぼくは分業の味方なのです。なんにもすることのできない人々は、人間をこさえなければならない。けれども、そのほかの者は、その教化と福祉《ふくし》とに力をつくすべきであります。と、こうまあぼくは考えてるんですよ。ところで、このふたつの仕事を混同するような手合いは無数にあるが、ぼくはそんな人間ではないんですよ」
「そういうきみが恋をしたと知ったら、ぼくはどんなに幸福だろうと思う!」と、レーヴィンはいった。「どうぞ結婚式にはぜひぼくを呼んでください」
「ぼくはもう恋をしていますよ」
「なるほど、|いか《ヽヽ》にね。あなたもごぞんじでしょうが」と、レーヴィンは兄のほうへ顔をむけた。「ミハイル・セミョーヌイチは栄養にかんする著述をやってるんですよ、そして……」
「ああ、でたらめをいっちゃ困るよ! なんの研究であろうと、そんなことはどうでもいいのです。問題は、ぼくがまさしく|いか《ヽヽ》を恋しているということにあるのですからな」
「しかし、そんなことは、きみが細君を愛するさまたげにはなりませんよ」
「そりゃ、|いか《ヽヽ》のほうはさまたげませんがね、細君のほうがさまたげますよ」
「どうして!」
「いや、これはじきわかるようになりますよ。きみは今は農事や猟を愛している。が、まあ見ていてごらんなさい!」
「あ、今日、アルヒープが来ましてね、ブルードノエには|しか《ヽヽ》が無数にいる、くまも二匹いたといってましたぜ」とチリコフがいった。
「じゃ、ぼくぬきで、諸君はそれを捕《と》るわけでしょうね」
「なるほど、そうだよ」とセルゲイ・イワーノヴィッチはいった。
「おまえはこれからは|くま《ヽヽ》狩りにもおさらばしなければなるまいね――細君が許すまいから」
レーヴィンはほほえんだ。妻が自分を行かせないだろうという予想は、非常に愉快だったので、彼は|くま《ヽヽ》を見るという喜びを、もう永久に見すててしまおうとさえ思ったほどであった。
「しかし、なんですね、やはり、きみぬきで、その二匹の|くま《ヽヽ》を捕るのは残念な気がしますね。きみは、このまえのハピローウォでのことを覚えていますか! きっとすばらしい猟ができるでしょうよ」とチリコフはいった。
レーヴィンは、猟のないところででも何かしらおもしろいことはありうる、こういう想念で相手の幻想を破りたくなかったので、ひと言も口をださなかった。
「独身生活におさらばをするというこの習慣は、無意味にできたものじゃないよ」とセルゲイ・イワーノヴィッチはいった。「どんなに幸福であるにしても、やはり自由は惜しいものだよ」
「白状なさいよ。ゴーゴリの書いた花婿のように、窓からとびだしたいというような気持のあるということをさ」
「そりゃあるにきまってますさ、だが、白状はしませんや!」とカタワーソフはいって、声高に笑いだした。
「どうです、窓は開いていますよ……すぐ、トゥヴェーリへ出かけようじゃありませんか! 牝《め》|ぐま《ヽヽ》が一匹いるんです。しかも穴まで行けるんですからね。ほんとに、五時の汽車で出かけようじゃありませんか! あとは好き勝手なまねができますぜ」と、にこにこしながらチリコフがいった。
「だが、ぼくはじっさい」と、レーヴィンもにこにこしながらいった。「自分の心のなかに、自由を惜しむという感情を見いだすことができないんですよ」
「いや、きみの心のなかには今、なんにも見わけられないほどのカオス(混沌)がたちこめてるんですよ」とカタワーソフはいった。「まあ、しばらく待ってごらんなさい、少し気分がしずまれば、見つけられますよ」
「いや、それならたとえ少しでも、ぼくは自分の感情や(彼は、人の前で恋ということを口にしたくなかった)、……幸福のほかに、やはり自由を失うのは惜しいということを感じそうなものなんですがね……それどころか、かえってぼくは、この自由を失うということに、喜びを感じているくらいですよ」
「いやはや! とても手のつけられないしろ物ですね!」とカタワーソフはいった。「ではひとつ、レーヴィンの全快のために乾杯しましょう、それともただ、同君の空想の百分の一でもが実現されるように祈りますかな。もしそうなったひには、今までこの世になかったような、大した幸福が実現することになるわけですからな」
食事がすむと客たちは、式にのぞむ支度にまにあうように、帰っていった。
ひとりになると、レーヴィンは、いまの独身者たちの話を思いだしながら、もう一度自分の心にたずねてみた――自分の心に、はたして彼らの話したような、自由を愛惜する気持があるかどうかを。
彼はこうたずねてみて、にっこり笑った。『自由? なんのための自由だ? 幸福はただ、彼女の希望、彼女の思想を、愛し、願い、考えるということだけにあるのだ。つまり、自由というものは少しもないのだ――これが幸福というものなのだ!』
『だが、おれは彼女の思想を、彼女の希望を、彼女の感情を知っているだろうか?』こうとつぜん、ひとつの声が彼にささやいた。微笑は彼の顔から消えて、彼は考えに沈んだ。と、とつじょとして彼の心に、きたない感じが現われた。恐怖と疑惑――すべてにたいする疑惑が彼の心に現われたのである。
『彼女がおれを愛していないとしたらどうだろう? ただ結婚しなければならないために、おれのところへくるのだとしたらどうだろう? もし彼女自身が、自分のしていることを知らないとしたらどうだろう?』と彼は、われとわが心にたずねた。『彼女ははっとわれにかえって、もう結婚してしまってから、おれを愛していないこと、愛するわけのなかったことを理解するかもしれない』すると、彼女についての奇怪な、きわめてよからぬ考えが、彼の頭にうかんできた。彼は、一年まえのように――ウロンスキイといっしょにいた彼女を見たあの晩がまるで昨日ででもあったように、ウロンスキイにたいして彼女を嫉妬《しっと》しはじめた。そして、彼女が自分にうちあけたことも、全部ではないかもしれぬと疑ったりした。
彼はやにわにとびあがった。『いや、このままにしてはおけない!』こう彼は絶望して、自分にいった。『彼女のところへ行って、これを最後にたずねたり、いったりしてみよう――わたしたちは自由です、結婚は思いとどまったほうがよくはないでしょうか? と。どんなことだって、永久の不幸や、屈辱や、不信よりはましだからな!』彼は心に絶望をいだき、すべての人間にたいし、自分にたいし、彼女にたいして憎悪の念をいだきながら、旅館を出て、彼女のもとへと馬車をとばした。
彼は、奥のほうの部屋で彼女を見つけた。彼女はトランクに腰掛けて、いすの背や床板の上にちらばっているいろんな色の着物を選りわけながら、女中を相手に何かの始末をしていた。
「あら!」彼女は彼を見ると、喜びから全身を輝かして叫んだ。「まあ、どうしてヴイ(あなたは)、どうしてあなたは?(この最後の日まで彼女は彼に対して、親しい呼びかたの『ツイ』と、他人行儀の『ヴイ』との両方を用いていた)ほんとに思いもかけませんでしたわ! わたくしね、いま、娘時代の着物を選りわけてるところですのよ、だれにどれをやったらいいかと思って……」
「ああ! それはたいへんけっこうなことです!」と彼は、暗い顔つきで女中のほうを見ながらいった。「あちらへ行っておいで、ドゥニャーシャ、用があれば呼ぶからね」とキティーはいった。「あなた、ほんとうにどうなすったの?」と彼女は、女中が出ていくとすぐ、彼にたいしてきっぱりと『ヴイ』を使いながらいった。彼女は、彼の興奮した、陰うつな、妙な顔つきに気がついた。と、恐怖が彼女の心をつかんだ。
「キティー、ぼくは苦しんでいるのです。そして、ひとりで苦しんでいるのに堪えられないのです」と彼は、彼女の前に立ちどまって、祈るように彼女の目を見ながら、声に絶望をひびかせていった。彼は、彼女の愛らしい、真実のこもった顔つきによって、早くも自分のいおうとしてきたことからは、何事も生じえないことをさとったが、でもやはり彼には、彼女自身の手で迷いをといてもらうことが必要であった。「ぼくは、まだ時がさってしまったのでないことをいおうと思って来たんですよ。まだ何もかも|ほご《ヽヽ》にして、出なおすこともできますからね」
「まあ、なんですの? わたくしにはちっともわかりませんわ。あなた、どうかなすったの?」
「それはぼくがもう千度もいったことで、どうしても考えずにはいられないことで……ぼくにはあなたといっしょになる資格はないということです。あなたはぼくとの結婚を承諾なさるはずはなかったのです。よく考えてみてください。あなたはまちがいをされたのです。ほんとによく考えてみてください。あなたがぼくなどを愛してくださるはずがありませんよ……もしなんだったら……いってくだすったほうがいいのです」こう彼は、彼女を見ないでいった。「ぼくは不幸な身になるでしょう。他人《ひと》にはなんとでもいわせるがいいのです。何事も不幸よりはまだましです……何事も、まだ時間のある今のうちのほうが……」
「わたくしにはわかりませんわ」と、彼女はびっくりして答えた。「つまりあなたは、破談にしたいとおっしゃるのね……結婚する必要はないって?」
「ええ、もしあなたがぼくを愛していないのだったら」
「あなたは気がへんにおなりになったのよ」と彼女は、いまいましさに顔をまっ赤にして、叫んだ。しかし彼の顔があんまりみじめだったので、彼女は自分のいまいましさをおさえ、着物を肘掛けいすから投げだして、彼の近くへ掛けなおした。「ほんとに、何をお考えなすったのよ? すっかりお話してちょうだい」
「ぼくは、あなたがぼくを愛するなんて、あるはずのないことだと、考えているんです。なんのとりえがあって、ぼくのような人間を、あなたに愛することができるでしょう?」
「ああ、神さま、わたくしはどうしたら、よろしいのでしょう?……」彼女はこういって、泣きだした。
「ああ、おれはなんということをしたのだ!」と彼は叫んだ。そして彼女の前にひざまずいて、その手を接吻しはじめた。
五分後に公爵夫人が部屋へはいって来たときには、彼女は、もうすっかり仲直りのすんだふたりを見いだした。キティーは、自分が彼を愛していることを彼に確かめたばかりでなく、なお彼の問いに答えて、何にたいして彼を愛しているかという、その理由までも説明した。彼女は彼に向かって、自分の彼を愛する理由は、彼を十分理解しているからであること、彼の好むはずのことを全部知っており、また、げんに好んでいることが、すべて申しぶんないことばかりであるのを知っているからであることを、説明した。そしてそれが、彼には十分に、はっきりとのみこめたような気がした。公爵夫人がはいって来たときには、ふたりはトランクにならんで掛けて、着物を選りわけながら、キティーは、レーヴィンが彼女に結婚を申し込んだときに彼女が着ていた肉桂《にっけい》色の着物をドゥニャーシャにやろうというのに、彼は、その着物はだれにもやらないで、ドゥニャーシャにはあのそら色の着物をやるようにと言いはって、争っていたところであった。
「どうしてあなたにはおわかりにならないんでしょうね? あれはブリュネットですもの、それでは似合わないんですよ……わたくしはもうすっかり考えてあるんですのに」
彼の来訪の理由を知ると、公爵夫人はなかば冗談、なかば真剣に腹をたてて、もうじきシャルルがくるから、キティーの髪を結ぶじゃまをしないように、そして、自分も服を着かえるようにと、彼を宿へ追いかえした。
「あの子は、それでなくてさえ、このごろはなんにもたべないので、きりょうがさがっているのに、そのうえあなたがまた、つまらないことをいって、あの子をお苦しめなさるなんて」彼女は彼にいった。「さあさあ早くお帰りなさいよ、お帰りなさい、しようのない人ね」
レーヴィンは悪いことをしたような、ひどく恥をかいたような顔をして、しかし、すっかり慰められて、旅館へもどって来た。彼の兄と、ダーリヤ・アレクサーンドロヴナとステパン・アルカジエヴィッチとが、すっかり支度をととのえて、聖像で祝福するために、彼の帰りを待っていた。もうぐずぐずしてはいられなかった。ダーリヤ・アレクサーンドロヴナは、もう一度家へ帰って、花嫁といっしょに聖像をはこぶ役を勤める、ポマードをつけて髪を縮らした自分の男の子を、連れて来なければならなかった。それから、一台の馬車は、結婚の介添人《かいぞえにん》を迎えにやらなければならなかったし、もう一台のセルゲイ・イワーノヴィッチを送っていったほうも、ひっ返して来させなければならなかった……要するに、きわめて混みいっためんどうなことが、非常にたくさんあったのである。そして、ただひとつ疑いのない事実は、もう六時半になっているから、ぐずぐずしてはいられないということだけであった。
聖像をもってする祝福は、何事もなくすんでしまった。ステパン・アルカジエヴィッチは、喜劇的に荘重な態度で妻とならんで立ち、聖像を手にとって、レーヴィンに、地面までぬかずくようにと命じてから、優しい皮肉な微笑をうかべて彼を祝福し、三度彼を接吻した。ダーリヤ・アレクサーンドロヴナも同じことをして、さっそく馬車で出かけようと急いだが、と、またしても馬車のやりくりのことで、めんどうが起こってしまった。
「ええと、ではこうしようじゃないか――おまえはうちの馬車であれを迎えに行く、セルゲイ・イワーノヴィッチは、ごめんどうでも、あちらへいらしたら、すぐに馬車をお返しくださることと」
「なあに、それでけっこうですよ」
「じゃあ、ぼくはすぐあれといっしょに出かける。荷物は送り出したかね?」とステパン・アルカジエヴィッチはいった。
「ああ、出した」とレーヴィンは答えた。そしてクジマに着がえの支度を命じた。
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三
人々の群、とくに女たちが、結婚式のために明るくあかりのついている教会をとりかこんでいた。なかにはいることのできなかった人々は、窓のところに集まって、押しあったり、争ったり、格子ごしにのぞきこんだりしていた。
もう二十台以上の馬車が、憲兵のさしずで、街路にそって配置されていた。警部は厳寒をものともせず、制服を輝かしながら、入口のところに立っていた。まだひっきりなしに馬車が乗りこんできた。そして、あるいは花につつまれて裳《も》すそを高くかかげた婦人たちが、あるいは軍帽や黒い帽子を脱ぎながら男子たちが、会堂のなかへとはいって行つた。会堂のなかでは早くも、一|対《つい》のつり燭台も、あちらこちらにある聖像の前のろうそくも、みなあかあかとともされていた。聖壇前のとばりの緋《ひ》の地にはえる黄金色の輝き、聖像の金箔ばりの彫刻、有枝燈架《ゆうしとうか》と燭台との銀、床の石だたみ、絨毯《じゅうたん》、唱歌席の上の長旗、説教台の階段、黒ずんだ古い書籍、袈裟《けさ》、法衣――すべてのものが、燈火の光をあびていた。暖かい会堂の右側の燕尾服や、白ネクタイや、制服や、花どんすや、ビロードや、しゅすや、髪や、花や、むき出しの肩や、腕や、長い手ぶくろの群集のなかでは、控えめながらにぎやかな会話がかわされて、それが高い円天井に異様な反響をおこしていた。ドアの開かれるきしり音が聞こえるたびに、人々の話し声はぴたりとやみ、だれもかれも、はいってくる新郎新婦を見ようとして、ふりかえるのだった。しかし、ドアはもう十ぺん以上も開かれたのに、いつもそれは、遅れて来て右側の招待席へ行く男女の客たちか、または警部をだますか、おがみたおすかして、左側の一般会衆席へはいりこむ見物の女かであった。そして親戚の者も、一般の見物人も、みんなもう、待ちどおしさの域《いき》を通りこしていた。
はじめのうち人々は、新郎新婦はすぐにやってくるものと思って、この遅参にはなんの意味をもあたえなかった。やがて人々は、しだいに頻繁《ひんぱん》に戸口のほうをふりかえって、何事かおこったのではないかと話しあうようになった。するうちに、この遅参がなんとなくへんに思われてきたので、親戚の者も、来賓たちも、彼らは新郎のことを考えているのではない、自分たちの話に夢中になっているのだというふうに、見せかけようとつとめはじめた。
助祭長は、自分の時間の値うちを気づかせようとでもするように、窓ガラスをふるわせながら、待ちきれぬといったふうの咳《せき》ばらいをしていた。唱歌席では、待ちあぐんだ歌手たちの、声をためしたり、鼻をかんだりする音が聞こえた。司祭はのべつ、寺男をやったり助祭をやったりして、新郎がまだ来ないかどうかを見させ、そして自身も、ふじ色の袈裟《けさ》と刺繍をした帯をつけたままの姿で、新郎を待ちかねて、何度となく横手の戸口へ顔をだした。とうとう婦人連のひとりが、時計をのぞいて見て、こういった――「でも、これはあんまりおかしいですわ」すると、来賓たちも一様に不安な気持におそわれて、めいめいの驚きや不満やを、高調子にもらしはじめた。介添人のひとりが、事情を確かめるために馬車を走らせた。キティーは、このときにはもうすっかり支度ができていて、雪白の衣装に長いヴェールと|きんかん《ヽヽヽヽ》の花冠をかぶり、仮親《かりおや》である姉のリヴォフ夫人といっしょに、スチェルバーツキイ家の広間に立って、もう半時間以上もいたずらに、新郎が教会へ着いたという自分の介添人からの報告を待ちながら、じっと窓をながめていた。
レーヴィンはそのとき、ズボンをはいただけで、チョッキも燕尾服もつけずに、たえず窓から首を突きだしたり、廊下をのぞいたりしながら、自分の部屋のなかをあちこちと歩きまわっていた。しかし廊下には、彼の待つ人の姿が見えないので、失望してひっ返しては、やけに両手を振りまわしながら、悠然《ゆうぜん》とたばこをふかしているステパン・アルカジエヴィッチに呼びかけるのだった。
「ほんとにこれまで、こんなばかげた目にあった人があるだろうか!」と彼はいうのだった。
「ああ、ばかげてるね」とステパン・アルカジエヴィッチは、慰めるような微笑をうかべながら、相づちをうつ。「しかし、まあおちついていたまえ、もうくるだろうから」
「いや、どうしてきみ!」とレーヴィンはかんしゃく玉をおさえつけながらいうのだった。「それにこのばかばかしく胸のあいたチョッキ! やりきれないよ!」と彼は、自分のシャツの胸のしわになっているのを見ながらいった。「もしこれで、ぼくの荷物がもう停車場へ出されちまったあとだったらどうしよう!」と、彼は絶望的に叫んだ。
「そのときはぼくのを着るさ」
「もうとっくにそうしなければならなかったんだ」
「だが、おかしなかっこうになっちゃいけないからな……もう少し待ちたまえ、|まるくおさまるだろう《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》よ」
それはこういうわけであった。レーヴィンが着がえをするといったときに、レーヴィンの老僕のクジマは、燕尾服や、チョッキや、その他必要なものを全部そろえて持ってきた。
「シャツは?」とレーヴィンは叫んだ。
「シャツはおめしになっていらっしゃいます」と、クジマはおちつきはらった笑顔で答えた。
新しいシャツを残しておくことに気がつかなかったので、クジマは、荷物をまとめて、今夜のうちに新夫婦がそこから田舎へ立つことになっていたスチェルバーツキイ家へ運んでおけという命令をうけたとき、燕尾服のひとそろいだけを残し、その他はみな荷造りして、言いつけられたとおりにしたのであった。ところが、朝から着ていたシャツはもうしわくちゃになっていたので、胸あきのひろい流行のチョッキを着ることは、とてもできなかった。スチェルバーツキイ家へ人をやるには道が遠かった。で、新しいのを買いに人を走らせた。ボーイはもどって来て――どこもかしもしまっているという、日曜日なのだ。ステパン・アルカジエヴィッチの家へ人をやって、シャツをもって来させたが、それは、着られないほどにだぶだぶで短かった。で、けっきょく、スチェルバーツキイ家へ人をやり、荷物をとかせることにした。そのため、教会では人々が新郎を待っているのに、彼は檻《おり》のなかの獣のように、廊下をのぞいたり、さっき自分がキティーにいったことや、彼女が今ごろどう考えているだろうかなどということを、恐怖と絶望の思いで思いだしたりしながら、部屋のなかを歩きまわっているのだった。
ついに、罪つくりのクジマが、シャツをもって、あえぎあえぎ部屋へとびこんで来た。
「やっとまにあいました。もう車に積んでいるところでございました」とクジマはいった。
三分の後、レーヴィンはその痛手にふれないために、時計も見ずに、大急ぎで廊下を飛んでいった。
「走ってみたってどうにもなりゃしないよ」とステパン・アルカジエヴィッチは、彼のあとから悠々として急ぎながら、微笑をうかべていった。「|まるくおさまるよ《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》、|まるくおさまるよ《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》……だいじょうぶだったら」
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四
「来ました来ました!」――「そら、花婿だ!」――「どれですか?」―「まだ若いようですね、え?」――「まあ、ちょいと彼女《あのひと》は、生きてるのか死んでるのかわからないようですわねえ!」――レーヴィンが入口で花嫁を迎えて、いっしょに会堂のなかへはいって行ったとき、群集のなかではこんなふうのささやきがおこった。
ステパン・アルカジエヴィッチが、遅れた理由を妻に話したので、客たちは微笑しながら、自分たちのあいだでささやきかわした。レーヴィンは、なんぴとをも何ものをもみとめなかった。彼は目もはなたずに、自分の花嫁を見つめていた。
一同は、彼女がこのごろ、たいへんきりょうが落ちたこと、花冠をつけた姿がふだんよりもひどく見おとりのすることを話していた。が、レーヴィンはそうは思わなかった。彼は彼女の、長いヴェールをかけて白い花で飾った高い結髪や、とくに処女らしく両側をかくして長いくびの前だけを開いているひだのついた高えりや、驚くばかりほっそりとした腰つきなどをながめて、いつもよりもかえって美しいと思っていた。が、それは、そうした花や、ヴェールや、パリからとりよせた衣装などが彼女の美に何ものかをくわえていたからではなくて、服飾のこうした人工的のはなやかさにもかかわらず、彼女の愛くるしい顔や、まなざしや、くちびるの表情が、依然として彼女特有の、清純な、真実味のあふれた表情だったからであった。
「わたくしもう、あなたは逃げようと思ってらっしゃるのだと思いましたわ」彼女はこういって、彼ににっこりと笑って見せた。
「いやもう、じつにばかばかしい目にあったんですよ、お話するのも恥ずかしいくらいです!」と、彼は顔をあかくしていったが、そこで、そばへ来たセルゲイ・イワーノヴィッチのほうへ、ふりむかなければならなかった。
「おまえのシャツ物語はなかなか傑作だね!」とセルゲイ・イワーノヴィッチは、頭を振ってにこにこしながらいった。
「ええ、ええ」とレーヴィンは、何をいわれたかもわからないで答えた。
「ところで、コスチャ、今すぐ決定しなければならんことがあるんだがね」とステパン・アルカジエヴィッチは、わざと困ったような顔をしていった。「大問題だよ。今こういう状態にいるからこそ、きみはこの問題の重大性を、十分に理解することができるのだ。そこで、いいかね、みんながぼくにきくにはだ、ろうそくは、使いさしのでがまんするか、それとも新しいのにするか? こういうんだがね。違いは十ルーブリのことなんだ」と彼は、いまにも笑いだしそうなくちびるをしながら、こうつけくわえた。「ぼくの考えはきまってるんだが、きみが同意してくれないと困るからね」
レーヴィンは、それが冗談であることを見ぬきはしたが、笑うことはできなかった。
「それで、どうするかね――つかわないのにするか、つかいさしのにするか? これが問題だ」
「そう、そうだ! つかわないのだ」
「そうか、それはうれしい! 問題は決せられた!」とステパン・アルカジエヴィッチは、笑いながらいった。「それにしても、こういう場合、人はなんて|とんま《ヽヽヽ》になるものだろうね」と彼は、レーヴィンがぼんやりと自分の顔を見て、花嫁のほうへ行ってしまったときに、チリコフにいった。
「よくって、キティー、あなたは一ばんさきに敷き物の上へ立つのよ」と、ノルドストン伯爵夫人がそばへ来ていった。「まあおりっぱですこと!」と、彼女はレーヴィンにも声をかけた。
「どう、こわくないかい?」と、年とった叔母《おば》のマーリヤ・ドミートリエヴナがいった。
「あんた寒くないの? 顔があおいことよ。ちょいと、頭をさげていらっしゃい!」と、キティーの姉のリヴォフ夫人がいった。そして、肉づきのいい、美しい両腕を輪にして、笑顔で彼女の頭の花をなおしてくれた。
ドリーはそばへ来て、なにやらいおうとしたが、口がきけず、泣きだしたかと思うと、不自然に笑いだしたりした。
キティーは、レーヴィンと同じように、気の遠くなったようなまなざしでみんなを見ていた。自分にむけられるすべての言葉にたいして、彼女はただ、今ではそれがいかにも自然に見える幸福の微笑で答えうるだけであった。
そのあいだに、寺男たちは法衣をつけ、司祭は助祭をしたがえて、会堂の正面にもうけられてある聖書台のほうへ進み出た。司祭はなにやらいって、レーヴィンのほうをふりかえった。レーヴィンには、司祭のいったことがよく聞きとれなかった。
「新婦の手をとって、お連れになるんですよ」と、介添人がレーヴィンにいった。
長いこと、レーヴィンは、自分に求められたことを理解することができなかった。長いこと人々は彼をなおそうとして、もう投げだしてしまおうとさえ思った――なぜなら、彼はいくらいっても、違うほうの手でとったり、違うほうの手をとったりするからであった――そのときになって、彼はやっと、右の手で、位置をかえずに、彼女の右手をとらなければならないのだということをがてんした。こうして、彼がやっと新婦のとるべきほうの手をとると、司祭は、彼らより数歩前へ歩み出て、聖書台のかたわらに立ちどまった。親戚や知己の一群が、低い話し声をたてたり、裳《も》すその音をさせたりしながら、ふたりの後について行った。だれかが、腰をかがめて新婦の裳《も》すそをなおした。会堂のなかは、|ろう《ヽヽ》のしたたり落ちるのまでが聞こえるほどに、しんとなった。
老司祭はまるい僧帽の下に、耳のうしろでふたつに分けられた銀白の巻き髪を輝かしながら、背に黄金の十字架のついた重い銀色の法衣の下から老人らしい小さな手を出して、聖書台のかたわらで何かをひるがえしていた。
ステパン・アルカジエヴィッチは、注意ぶかくそのそばへあゆみよって、何やらささやき、レーヴィンに目くばせして、ふたたびもとの位置へもどった。
司祭は、花模様で飾られた二丁のろうそくに火をつけ、|ろう《ヽヽ》が静かにしたたり落ちるように、横にして右手にもって、新郎新婦のほうへ顔をむけた。司祭は、レーヴィンを懺悔させたのと同じ人であった。彼は、疲れたような悲しげなまなざしで新郎新婦を見ながら、ほっとひとつため息をついて、右手を法衣の下から出し、まず新郎を祝福し、それから同じように、しかし、いくぶん慎重なやさしさを見せて、組みあわせた指を、うなだれているキティーの頭においた。やがて、彼はろうそくを彼らに渡し、振り香炉《こうろ》をもって、静かに彼らのそばを離れた。
『ほんとうにこれは事実だろうか?』レーヴィンはこう思って、新婦のほうをふりむいて見た。彼には彼女の横顔が、いくらか下のほうに見え、そして彼は、彼女のくちびるとまつ毛との、かすかな動きによって、彼女が自分の視線を感じていることを、知った。彼女はふりむきはしなかったが、高いひだのあるえりが、ばら色したかわいらしい耳のほうへもちあがりながら、少し動いた。彼はため息が彼女の胸のなかでとめられて、ろうそくをもっている長い手ぶくろをはめた小さい手が、わなわなとふるえだしたのを見た。
ワイシャツのこと、遅刻さわぎ、知人たちや親身の者との会話、彼らの不満、自分の笑うべき立場――すべてのことがにわかに消えてしまって、彼は、うれしいような、恐ろしいような気持になった。
銀色の法衣をつけ、うずを巻いたちぢれ髪を左右に黒くすき分けている、美しい、背の高い助祭長は活発につかつかと前へ進み出て、なれきった身ぶりで、二本の指で聖帯《せいたい》を持ちあげ、司祭と向きあって立ちどまった。
「主よ――祝福を――たれたまえ――」ゆっくりと、一語一語、空気の波をゆすぶりながら、合唱の荘厳な声がひびきはじめた。
「われらが神は常にほめたたえられたもう、いまも、つねに、とこしえに!」と、ひきつづき聖書台のところで何かをひるがえしながら、穏やかな、歌うような語調で、老司祭が答えた。と、姿の見えない唱歌隊の和音《わおん》が、窓から円天井までいっぱいに、調子よく広くひびきわたって、しだいに強くなり、ちょっとのまやんだと思うと、静かにすうっと消えて行った。
彼らはしきたりどおり、天よりの平和と救済とのため、宗務院のため、皇帝のために祈り、さらに今日結婚する神の下僕《しもべ》コンスタンチンとカテリーナとのために祈った。
「おお、神よ、彼らによりよき、より平和なる愛をあたえ、彼らを助けたまわんことを、われらは祈る」あたかも、全会堂が、助祭長の声を呼吸しているかのようであった。
レーヴィンはその言葉をきいていて、その言葉に驚かされた。『助けだ、ほんとに助けだ、これをどうしてこの人たちは察したのだろう?』と彼は、このごろの自分の疑惑と恐怖とを思いだしながら、考えた。『おれが何を知っていよう? こんな恐ろしいことをしながら、おれに何をすることができよう』と彼は考えるのだった。『もし助けというものがなかったら? そうだ、今のおれには、助けこそ必要なものなのだ』
助祭が祈祷をとなえおわると、司祭は書物を手にして、結婚せんとする者のほうへむいた。
「離れおりしふたりをひとつに結びつけたもう永遠なる神よ!」と彼は、優しい歌うような声でとなえた。「わかつべからざる、神聖なる愛の結びを彼らにあたえ、イサクとレベッカとに子孫を授けて聖約を示したまいし神よ。願わくばなんじの下僕《しもべ》なるこのコンスタンチンとカテリーナとに祝福をたれて、すべてのよき行ないに導きたまえ、なんとなれば、なんじは恵み深く人の子を愛したまえばなり。父なる神、子なる神、聖き精霊なる神、なんじに栄えを送らん、いまも、つねに、とこしえに」――「アーメン」と、ふたたび姿の見えぬ合唱が空中にひびきわたった。
『離れおりしふたりをひとつに結びつけたもう、愛の結びを定めたもう。なんて意味ふかい言葉だろう、こんな場合に人間の感じることに、なんてよくあてはまっているんだろう!』とレーヴィンは考えた。『彼女もおれと同じことを考えているだろうか?』
そしてふりかえると、彼は彼女の視線にぱったり出会った。
その目の表情から彼は、彼女もまた自分と同じことを考えていたという結論を見いだした。しかし、それは正しくなかった。彼女はほとんど祈祷の言葉を理解しなかったばかりか、むしろ婚約の祈祷のときには、それをきいてさえいなかったからである。彼女はそれをきいたり、理解したりすることができなかった――彼女の胸をみたしていたひとつの感情、たえず、ますますつのりいく感情が、それほど強かったのである。その感情は、もうひと月半もまえから彼女の心のうちに完成して、この六週間のあいだ、たえず彼女を喜ばせたり苦しめたりしていたことが、いま、とどこおりなくすまされたという喜びであった。彼女の心のなかでは、あの肉桂《にっけい》色の着物を着て、アルバーツスキイ街のわが家の広間で、黙って彼のそばへ歩みより、彼に手をあたえたその日に、――その心のなかでは、その日その時に、それまでのあらゆる生活から完全にぬけきって、ぜんぜん別な、新しい、彼女にはまったく未知の生活がはじまったのだが、現実にはふるい生活がつづいていた。この六週間は彼女にとって、最も幸福な、最も苦しいときであった。彼女のあらゆる生活、あらゆる欲求、あらゆる希望は、この、彼女にとってまだ気心の知れない、ひとりの男の上に集中されていたが、その男に彼女を結びつけているのは、その男そのものよりもなおいっそう不可解な、あるときは近づけ、あるときは押しのけるような感情であり、そして、それと同時に彼女は、ふるい生活条件のなかで生活をつづけていたのであった。ふるい生活のなかに生きながら、彼女は自分自身を、すべての自分の過去――品物や、習慣や、自分を愛してくれた、また愛してくれている人たちや、自分の冷淡になったのを悲しんでいる母や、今までは世界じゅうの何ものよりも好きであった、なつかしい優しい父にたいして、どうしようもなく冷淡になってしまった自分の心を、恐ろしく思った。彼女は、ときには、この冷淡を恐ろしく思ったり、またときには、自分をこの冷淡にみちびいたものを喜んだりした。その人との生活をよそにしては、彼女は何ひとつ考えることも、望むこともできなかった。が、その新生活は、現実にはまだないものだったので、彼女はそれを、はっきりと思いえがくことすらできなかった。あるものはただ期待の情――新しい未知なものにたいする恐怖と歓喜とだけであった。それが、今こそその期待も、未知も、ふるい生活を捨てるという悔恨《かいこん》も――すべてがおわって、新しいものがはじまろうとしているのである。が、この新しいものも、その未知であるという点で、恐ろしくないわけにはいかなかった。しかし、恐ろしいにしろ恐ろしくないにしろ、――それはもう、六週間以前に彼女の心のうちですっかり完成されてしまったことで、今はただ、とうに心のなかでできあがっていたそのことが、聖化されただけのことであった。
ふたたび聖書台のほうへ向きなおると、司祭は、大骨折りでキティーの小さい指輪をぬき、それをレーヴィンの手を求めて、指の最初の関節にはめた。「神の下僕《しもべ》コンスタンチン、神の下僕カテリーナと結婚を約す」そして、こんどは大きな指輪を、キティーの小さい、ばら色をした、あまりの弱々しさにいじらしいような指にはめて、また同じことをくりかえした。
新郎新婦は何度も、自分たちのせねばならぬことを推察しようとしたが、そのたびにまちがったので、司祭はいつもささやき声でふたりをなおすのだった。やっとすべきことをしてしまうと、指輪で十字を切ってから、彼はふたたび、キティーには大きい指輸を、レーヴィンには小さい指輪を渡した。と、またしても彼らはまごつき、指輪は二度も手から手へと渡し返されたが、でも、やはり、求められたようにはならなかった。
ドリーと、チリコフと、ステパン・アルカジエヴィッチとが、それをなおそうとして前へ進み出た。混雑と、ささやきと、微笑とがおこったが、結婚するふたりの顔の、感動にみちた厳粛な表情はかわらなかった。いや、それどころか、そうして手をもつらせながらも、ふたりは前よりもいっそうまじめに、いっそう厳粛な目つきをしていた。で、ステパン・アルカジエヴィッチが、こんどはお互いに自分の指輪をはめるのだとささやいたときの微笑は、ついそのまま彼のくちびるの上に凍りついてしまった。さすがに彼にも、いま少しでも笑っては、ふたりを侮辱することになるだろうという気がしたのであった。
「神よ、なんじは初めより男と女とをつくりたまえり」と司祭は、指輪の交換にひきつづいて、読誦《どくしょう》した。「なんじのみ手より、妻は男の助けたるべく、また子を産むべく夫に授けられたり。われらの神なる主よ、なんじの後裔《こうえい》となんじの聖約とに真実の祝福をあたえたまい、選ばれしなんじの下僕《しもべ》なるわれらが父祖に幾年かわらざる祝福をあたえたまいし神よ。なんじの下僕コンスタンチンとカテリーナとにあわれみをたれ、彼らの結婚を、信仰において、心の一致において、真理において、愛において固めさせたまえ……」
レーヴィンは、結婚についてのあらゆる自分の考え、自分の生活をどう立てるかについての自分の空想、こうしたものが、いずれもみな子供らしいものであったこと、それがなにやら、彼が今日まで理解しないでいたもの、いまは自分の上でなしとげられていながら、かえってわからなくなっている何ものかであることを、感じた。彼の胸には、ますます高く戦慄《せんりつ》がこみあげてきて、おさえきれぬ涙が、その目のなかににじみ出てきた。
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五
教会には、モスクワじゅうの親戚や知人が全部集まっていた。そして結婚式のあいだ、燈火の照り輝いた会堂のなかでは、着飾った婦人や令嬢や、白ネクタイに燕尾服、あるいは制服姿の男子たちの一団のあいだに、主として男子たちによってなされた、行儀のいい、静かな会話が絶えなかった。そして婦人たちのほうは、いつ見ても彼女たちの心を強く動かす儀式のこまごました観察に、すっかり心を奪われていた。
新婦に一ばん近い一団のなかには、彼女のふたりの姉がいた――長姉のドリーと、外国からかえってきた、しとやかな美人のリヴォフ夫人とであった。
「いったいマリーはなんだって、ご婚礼だというのに、まるで黒のように見える紫色の服なんか着てるんでしょうね?」とコルスンスキイ夫人がいっていた。
「あの顔色ですもの、あれが唯一の救いですわ……」と、ドルーベツキイ夫人が答えた。「それはそうと、わたくし驚いてますのよ、こんな夕方に結婚式をあげるなんて。まるで商人じゃありませんか……」
「このほうが美しく見えますもの。わたくしもやっぱり夕方にいたしましたわ」と、コルスンスキイ夫人が答えた。そして、その日には自分がどんなにういういしかったか、夫がどんなにか、おかしいほど自分におぼれていたかを思いだし、それが今ではすっかり変わってしまったことを思いだして、ほっとひとつため息をついた。
「結婚の介添人を十ぺん以上もした人は、もう結婚することができないって言いますね。で、ぼくは自分を保障するために、十ぺんめをやりたいと思ったんですがね。いい機会がありませんでしたよ」と、シニャーヴィン伯爵が、自分におぼしめしのあるらしい美しいチャールスキイ公爵令嬢に向かっていった。
チャールスカヤは、ただ微笑だけで彼に答えた。彼女は、自分がシニャーヴィン伯爵と、今のキティーの位置に立つときのことや、そしてそのとき、自分が彼に今の冗談を思い出させてやることなどを考えながら、キティーを見ていた。
スチェルバーツキイは、老女官のニコラーエワに、自分はキティーが幸福であるように、彼女のつけまげの上へ花冠をかぶせてやるつもりだといっていた。
「つけまげなんかすることはなかったんですよ」と、自分の見つけた年よりのやもめが、もし自分と結婚するようなことがあったら、式はごく簡単にしようと、ずっと以前からきめていたニコラーエワは、答えた。「わたくしは、そんな大げさなことは好きませんよ」
セルゲイ・イワーノヴィッチは、ダーリヤ・ドミートリエヴナを相手に、結婚後に旅行に出る風習のひろまったのは、新夫婦はだれしもいくらか恥ずかしく思うからにちがいないと、冗談に彼女を説得しながら話していた。
「あなたの弟ごさんは、ごじまんなすってもよろしゅうございますわ。あの子はほんとにかわいらしいんですもの。わたくし、あなたがおうらやましいでしょうと思いますのよ!」
「ぼくはもう、そんな時代は通り越してしまいましたよ。ダーリヤ・ドミートリエヴナ」と、彼は答えた。と、彼の顔つきは、思いがけなく、もの悲しげなまじめな表情をとった。
ステパン・アルカジエヴィッチは、義妹にたいして、例の離婚《ラスウォード》云々《うんぬん》で、なにやら冗談をいっていた。
「花冠をなおしてやらなくちゃ」と彼女は、彼の言葉をきかずに答えた。
「ほんとに惜しいことですわね、あんなにごきりょうがさがって」とノルドストン伯爵夫人は、リヴォフ夫人にいった。「それにしても、あのひとなんか、あのかたの指だけのねうちもありませんわ、そうじゃありませんか?」
「いいえ、あのひとはわたくし、とても気にいってるんでございますよ。それもあのひとが未来の beau-frere(義弟)だからではございませんのよ」とリヴォフ夫人は答えた。「あのひとの態度はじつに見あげたものじゃございませんか! こういう場合に、りっぱな態度をもつということは――こっけいじみて見えないようにすることは、なかなかむずかしいものですわ。それをあのひとは、こっけいでもなければ、固くなってもおりませんもの。感動していることはたしかですけれど」
「では、あなたはこうなることを待っていらしたんでしょうね」
「まあそうですわ。あの子はいつもあのひとのことを思っていたんですもの」
「さあ、どちらがさきに敷き物の上へ立つか見ていましょう。わたくし、キティーにはお教えしといたんですけれど」
「どちらでも同じことですわ」とリヴォフ夫人は答えた。
「わたくしどもはみんな従順な妻なのです。それがわたくしどもの家風なんですもの」
「あら、わたくしはわざとワシーリイよりさきに、敷き物の上へ立ってやりましたよ。あなたはどう? ドリー」
ドリーは、彼らのそばに立って話を聞いていたが、なんとも答えなかった。彼女は、すっかり感動していた。その目には涙があり、泣かずにはひと口も口がきけそうでなかった。彼女は、キティーとレーヴィンのことを喜び、心で自分の結婚当時にかえりながら、ステパン・アルカジエヴィッチの輝かしい姿を見やり、現在のことはすべて忘れてしまって、ただもう、自分の罪のない初恋ばかりを思いだしていた。彼女は自分のことばかりでなく、あらゆる女の友だちや知人のことを思いだしていた。彼女はその人たちが、こんにちのキティーのように、心に愛と希望と恐怖とをもち、過去からはなれて、神秘な未来へ踏みこもうとしながら、花冠をかぶって立ったときの、あの一生に一度の厳粛な場面の姿を思いおこしたのである。記憶にうかんできたこれら多くの花冠のうちに、彼女は、その離婚話のもちあがっていることを近ごろにくわしく聞いた、あの愛らしいアンナの姿を思いうかべた。彼女もかつては同じように、|きんかん《ヽヽヽヽ》の花とヴェールにつつまれた純潔な姿で立っていたのだ。それが今はどうだろう? 『ほんとうにふしぎなものだ!』と彼女は思わずひとりごちた。
こうした儀式の詳細にいちいち目をつけていたのは、花嫁の姉妹や、友だちや、身内のものばかりではなかった。まったく無関係な女たち、見物の婦人たちまでが、花嫁花婿の一挙一動、表情のひとつひとつをも見おとすまいと、わくわくして、胸をおどらせ、息を殺して、そのほうを注視していた。そして、冗談をいったり、ほかごとをしゃべったりしている無関心な男たちの言葉には、いまいましそうな様子で返事をしなかったり、しばしば耳をかさなかったりしていた。
「なぜ、あんなに目を泣きはらしてるんでしょうね? いやがるのをむりにでもやられるのでしょうか?」
「あんなりっぱな人のところへ嫁《ゆ》くのに、なんでいやがることがありましょう? それに、公爵なんでしょう、ええ?」
「あの白じゅすの服を着ているのはお姉さんでしょうね? まあ、お聞きなさいよ、助祭がふとい声で、『しこうして夫を恐れ』なんていっていますわ」
「チュドーの寺院の人たちですの?」
「宗務院の人たちですわ」
「わたし、召使の人にきいたんですのよ。そしたらね、すぐに田舎の自分の領地へ連れて行くんですって。たいへんなお金持だって話ですよ。だから、お嫁にやったんですわね」
「いいえ、いいご夫婦ですわ」
「ほら、マーリヤ・ワシーリエヴナ、あなたはいつか、クリノリン(かた布製のペチコート)ははなして着るものだって、がんばってらしたことがありましたわね。だけど、まあ、あの茶がかった紫色の服を着たかたをごらんなさい――公使の奥さんだそうですけど、あのかたのは、あんなにはねかえってるじゃありませんか……だから、またあんなふうになったんですわ」
「なんてかわいいお嫁さんでしょうね、まるで花で飾った小|ひつじ《ヽヽヽ》みたいだわ! なんといったって、わたしたちはやっぱり女のかたに同情がありますわね」
教会の戸口からうまくすべりこんだ見物の女たちのなかでは、こんなことが話されていた。
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六
結婚式が終わって、寺男が、会堂の中央の聖書台の前にばら色の絹の織物を敷き、コーラスがバスとテノールとのよびかわすような形になっている、複雑な賛美歌をうたいはじめると、司祭はふりかえって新婚のふたりに、敷かれたばら色のきれをさし示した。ふたりとも、以前から何度となく、さきに敷き物を踏んだほうが一家の頭《かしら》になるものだということを聞かされてはいたものの、レーヴィンもキティーも、そのほうへ二、三歩歩きだしたときには、それを思いだしている余裕がなかった。彼らはまた、彼のほうがさきだったとか、ふたりいっしょだったとかいう人々の、声高な批評や争いをも、てんで耳にいれなかった。
ふたりは結婚を望んでいるか、ほかに約束した人はないかというお定まりの質問と、それにたいして彼ら自身にも異様にひびいた答えがすむと、また新しい勤行《ごんぎょう》がはじまった。キティーはその意味を知りたいと思って、祈祷の言葉に耳をかたむけたが、けっきょく、わからなかった。式が進むにつれて、勝ち誇ったような感じと、はればれとした歓喜の情とが、しだいに強く彼女の心をみたし、彼女の注意力を奪ってしまったのである。
彼らは祈った――『彼らのために貞操と母胎とをあたえたまえ。むすことむすめを見ることによって、彼らを楽しましめたまえ』そして、神がアダムの肋骨から妻をつくったことに言いおよんで、『このゆえに人は父母をはなれてその妻にあい、二人一体となるべし』と言い、『これ一の大なる神秘なり』と述べ、さらに、神が彼らに、イサクとレベッカ、ヨセフ、モーゼとセプホーラのように、多産と祝福をあたえたまうよう、子孫を見る喜びをあたえたまうようにと、祈った。『ほんとにみんないい言葉だこと』とキティーは、これらの言葉をききながら考えた。『ほんとに何もかも、このとおりでなくてはならないわけだわ』そして歓喜の微笑が、彼女を見ていたすべての人にいつのまにかつたわりながら、はればれとしたその顔に輝きわたった。
「十分にかぶせてあげてくださいよ!」こういう注意が、司祭が彼らに冠をかぶせかけたときに聞こえた。で、スチェルバーツキイは、三つボタンの手ぶくろをはめた手をふるわせながら、彼女の頭上高く冠をささげた。
「かぶせてくださいませ!」と彼女は、にっこりしてささやいた。
レーヴィンは彼女を見やって、その顔にあった喜びの輝きに心をうたれた。この気持はいつともなく彼につたわった。彼も、彼女と同じように、明るい喜ばしい気分になった。
ふたりには、使徒伝の朗読を聞くことも、無関係な見物人たちが待ちきれない気持で待っていた最後の詩篇《しへん》を朗唱《ろうしょう》する助祭長のふとい声のひびきを聞くことも、楽しかった。浅い杯から、水を割った暖かい赤ぶどう酒を飲むことも楽しかった。が、それにもまして楽しかったのは、司祭が袈裟《けさ》の前をはだけて、ふたりの手をとり、『イサク喜べ』をうたっているバスの急調につれて、聖書台の周囲をまわらせたときであった。冠をささげていたスチェルバーツキイとチリコフも、同じようににこにこして、なにやらうれしそうに、ときどき花嫁の裳《も》すそにつまずきながら、司祭が立ちどまるたびに、あるいはあとへさがったり、あるいは新夫婦につきあたったりした。キティーの胸に燃えていた喜びのほのおは、会堂内のすべての人につたわったように見えた。レーヴィンには、司祭も、助祭も、自分と同じように、にこにこしたがっているように思われた。
司祭は、ふたりの頭から冠をとると、最後の祈祷をとなえて、若いふたりを祝福した。レーヴィンはキティーを見やった。彼は、今までについぞ一度も、このときのような彼女を見たことがなかった。彼女は、その顔にうかんでいた幸福の新しい輝きで、いつにもまして美しかった。彼は、彼女になんとか言いたかったが、式が終わったのかどうかがわからなかった。と、司祭が彼を、この困惑から引きだしてくれた。彼は、例の善良そうな口もとにえみをふくんで、静かにいった――「妻に接吻をなさい、あなたは夫に接吻をなさい」そしてふたりの手からろうそくを受け取った。
レーヴィンは慎重に、彼女の微笑しているくちびるに接吻して、彼女に手をあたえ、そして新しいふしぎな親近感をおぼえながら、教会から出て行った。彼は、これが事実であることを信じなかった。信ずることができなかった。やっと、ふたりのびっくりしたような、おずおずしたまなざしが出会ったときに、彼ははじめてそれを信じた。なぜなら、自分たちがもう一心同体であることを感じたからであった。
その夜、晩餐がすむとすぐ、若いふたりは田舎へ向けて出発した。
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七
ウロンスキイとアンナとは、もう三《み》月もいっしょに、ヨーロッパを旅して歩いていた。ふたりは、ヴェネチア、ローマ、ナポリを見てまわったあげく、しばらくそこに滞在しようというイタリアの、あるあまり大きくない町へやって来たばかりであった。
ポマードをつけた濃い髪をくび筋のところからきれいに分けて、燕尾服に、白麻のワイシャツの胸をひろく見せ、まるまるとふくれた腹の上に、時計のさげ飾りをぶらさげた好男子の給仕頭は、両手をポケットへつっこんだまま、さげすむように眉《まゆ》をしかめて、そこに立っている紳士に、なにやら、いかめしい調子で答えていた。給仕頭は、車寄せの別の側から階段をあがってくる足音を聞きつけて、ふりかえった。そして、彼らのホテルで一ばん上等の部屋を占領しているロシアの伯爵を見かけると、うやうやしくポケットから両手を出して、小腰をかがめ、使いの来たこと、パラッツオを借りる話のまとまったことなどを報告した。支配人は、その契約に署名するばかりにしていた。
「ほう! これはありがたい」と、ウロンスキイはいった。「奥さんはいるかね、いないかね」
「さきほどご散歩にお出ましになりましたが、いましがたお帰りになりましてございます」こう給仕頭は答えた。
ウロンスキイは、頭からつばびろのソフト帽をとり、汗ばんだ額と、耳のなかばまでおおいかぶさっている、逆になでつけられて、頭のはげたところをかくしている髪を、ハンケチでふいた。そして、なお立ったままじっと彼を見つめていた紳士のほうへ、ぼんやりとした視線を投げながら、そのまま行き過ぎようとした。
「このロシアのだんなも、あなたさまをおたずねなんでございますが」と、給仕頭はいった。
どこへ行っても知人の目をのがれることができないといういまいましさと、なんでもいい、生活の単調をまぎらすものを見いだしたいという希望とのいりまじった気持で、ウロンスキイはもう一度、いったん立ち去りかけて、たたずんでいたその紳士のほうをかえりみた。と同時に、ふたりの目は、いきいきと輝きだした。
「ゴレニーシチェフ!」
「ウロンスキイ!」
じっさいそれは、ウロンスキイが貴族幼年学校時代の友だちのゴレニーシチェフであった。ゴレニーシチェフは、学校時代には自由主義派に属し、学校からは文官の資格で出たが、どこにも勤務はしなかった。ふたりの友だちは、学校を出ると同時にまったくはなれてしまって、その後一度会ったことがあるきりであった。
その邂逅《かいこう》のときに、ウロンスキイは、ゴレニーシチェフがなにか高尚ぶった自由主義的仕事を選んで、そのためにウロンスキイの仕事や身分を、見さげようとしていることをさとった。で、ウロンスキイはそのとき、ゴレニーシチェフにたいして、だれにでも上手《じょうず》に見せたところの、あの冷やかな、傲然《ごうぜん》とした反発の態度をとったが、その意味はこうであった。――『おれの生活ぶりがきみがたの気にいろうがいるまいが、おれにとってはまったくどうでもいいことだ。もしおれを知りたいと思うなら、おれを尊敬しなくちゃいけない』するとゴレニーシチェフのほうでも、ウロンスキイのこの態度にたいして、さげすむような無関心ぶりを見せたものであった。だから、その邂逅は、ふたりの仲をいっそう気まずいものにしていなければならないはずであった。ところが、いまやふたりは、お互いにそれと気がつくと、さっと顔を輝かせて、うれしさに大声をだしたほどであった。ウロンスキイは、ゴレニーシチェフとの再会がこんなにうれしかろうとは、まったく意想外だったが、たぶん彼は、自分自身でも、今どんなにたいくつしているかということには、気がついていなかったのであろう。彼は、このまえ会ったときの不快な印象などけろりと忘れて、うちとけたうれしそうな顔をして、旧友のほうへ手をさしだした。と、ゴレニーシチェフの顔でも同じような歓喜の表情が、それまでの不安な表情といれかわった。
「ああ、どうも、なんといううれしさだ!」とウロンスキイは、親しげな微笑をふくんで、丈夫そうな白い歯を見せながらいった。
「ぼくも、ウロンスキイとはきいたのだが、きみだか兄さんだかわからなかったのさ。じつに、じつにうれしい!」
「まあ、はいろうじゃないか。ところで、きみは何をしているのだね?」
「ぼくは、ここへ来てもう二年めなんだがね。仕事をしてるのさ」
「ほう!」と、ウロンスキイは同情的な口調でいった。「まあ、はいろうじゃないか」
そして、ロシア人に共通の習慣によって、使用人たちにかくそうと思うことは、ロシア語で話すかわりに、フランス語で話しだした。
「きみはカレーニン夫人を知ってたかね? ぼくはあのひとといっしょに旅行してるんだよ。いま彼女のところへ行くところさ」と彼は、注意ぶかくゴレニーシチェフの顔をのぞきこみながら、フランス語でいった。
「へえ、ぼくはちっとも知らないよ(じっさいは知っていたのだが)」とゴレニーシチェフは、あっさり答えた。「きみはよほど前にここへ来たのかね?」と彼は言いたした。
「ぼく、今日で四日めさ」とウロンスキイは、もう一度注意ぶかく友だちの顔をのぞきこみながら答えた。
『そうだ、この男はしゃんとした人間だ。物事を正しく見ている』とウロンスキイは、ゴレニーシチェフの顔の表情と、話題をかえた意味とをさとって、こう自分にいった。『この男なら、アンナにひきあわせてもいいだろう。正しい見かたをしてくれるだろう』
ウロンスキイは、アンナといっしょに外国で過ごしたこの三《み》月のあいだ、新しい人と出会うたびにいつも、その新しい人物が自分とアンナとの関係をどう見るだろうという問題を、自分に提出してみた。そして相手が男である場合にはたいてい、|正しいと思う《ヽヽヽヽヽヽ》理解を見いだした。が、もし、どうしてそういう見解がなりたつかとたずねられたら、彼も、『そうあらねばならぬ』ように理解していた人々も、答えにつまったにちがいない。
またじじつ、ウロンスキイの考えでは、『そうあらねばならぬ』ように理解していた人々も、じつは、なんにもわかっていたのではなく、いわば、しつけのいい上品な人々が、四方八方から人生をとりまいているあらゆる複雑な、解決のつかぬ問題にたいしてとると同じ、礼儀正しい態度をたもって、諷刺《ふうし》や不快な質問を避けているにすぎなかった。彼らは、そういう境遇の意味と価値とを十分に理解して、それを承認するばかりか、賛成さえしているのであるが、それを口にだしていうことは、場所がらをわきまえぬ、よけいなことだと思っているような顔つきをしているのだった。
ウロンスキイはすぐに、ゴレニーシチェフもこういう人々のひとりであることを察したので、彼にたいして二重のうれしさを感じた。そしてじっさい、ゴレニーシチェフは、カレーニナのところへ連れて行かれたとき、彼女にたいして、ウロンスキイが望んでいたとおりの態度をとってくれた。彼は、明らかに少しの努力もはらわないで、|ばつ《ヽヽ》のわるい気分をさそいだすような会話は、すべてそれを避けていた。
彼は、前にはアンナを知らなかったので、その美しさと、わけても、彼女が自分の立場にたいしてとった単純な態度に、強く心をうごかされた。彼女は、ウロンスキイがゴレニーシチェフを連れてはいってくるのを見ると、ぱっと顔をそめたが、この、彼女の開放的な、美しい顔をおおった子供らしいくれないは、非常に彼の気にいった。が、なかでも、とくに彼の気にいったのは、彼女がすぐに、他人の前で誤解をうけまいとする心づかいかららしく、ことさらウロンスキイを親しくアレクセイと名で呼んだり、自分たちはこれからいっしょに、ここではパラッツオと呼んでいる、新しく借りた家のほうへひき移ることになっていると語ったりしたことであった。自分の境遇にたいする、この率直でさっぱりした態度は、ひどくゴレニーシチェフの気にいった。アンナの善良で快活な、精力的な態度を見ているうちに、アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチをもウロンスキイをも知っていたゴレニーシチェフには、彼女というものがすっかりわかったような気がした。彼女にはどうしてもわからないでいること――つまり、夫を不幸にし、彼と子供とを捨ててしまって、名誉も何もかも失っていながら、どうしてこんなに発剌とした、朗らかな幸福な気持でいられるのだろうかということが、彼にはわかったような気がしたのである。
「それなら案内記にもあるよ」とゴレニーシチニフは、ウロンスキイが借りたという例のパラッツオについていった。「そこにはみごとなチントレットがかかっている。晩年の作品でね」
「あのね、どうです? たいへん天気もいいから、ひとつ出かけていって、もう一度見てみようじゃありませんか?」とウロンスキイは、アンナのほうをむいていった。
「まあ、うれしい。じゃわたくし、すぐ帽子をとってまいりますからね。あなたは暑いっておっしゃいましたわね?」と彼女は戸口に立ちどまって、もの問いたげにウロンスキイを見ながらいった。と、またしてもあざやかなくれないが、彼女の顔をおおいつくした。
ウロンスキイはそのまなざしによって、彼女は、彼が今後ゴレニーシチェフとどういう関係にたとうとしているかわからないでいるということと、したがって、彼女の態度が彼の希望にそわないのではないかと案じているらしいこととを見てとった。
彼は優しく、長い凝視《ぎょうし》で彼女を見つめた。
「いや、そんなでもありませんよ」と彼はいった。
と、彼女には、すべてがはっきりとのみこめたような、わけても、彼が自分に満足していることがわかったような気がした。で、にっこりと笑って見せて、足ばやに戸口から出ていった。
ふたりの友は、互いに顔を見あわせた。と、ふたりの顔には、ちゅうちょの色が現われた。ゴレニーシチェフは明らかに、彼女に魅《み》せられてしまったらしく、彼女についてなんとか言いたいのだが、なんといっていいかわからないというふうだったし、ウロンスキイも、それを望みながら、恐れているといったようなぐあいであった。
「するとなんだね」とウロンスキイは、なんでもいい、話をはじめるためにいった。「きみはここにずっと暮らしているわけだね? あいかわらず同じ仕事をやってるのか?」と彼は、ゴレニーシチェフが何か書いているといううわさを耳にしたことを思いだして、言葉をつづけた。
「ああ、ぼくは|二つの起源《ヽヽヽヽヽ》の第二部を書いてるんだよ」と、この質問をうけたことに満足したらしく、ゴレニーシチェフは顔をあかくしていった。「いや、正確にいえば、まだ書いてはいない、準備中で、材料を集めているのだ。それはずっと広汎《こうはん》な、ほとんどあらゆる問題を取り入れるものになるだろうよ。がんらいロシアでは、われわれがビザンチンの後継者だということを理解しようとしないがね」と彼は、長い熱心な説明をやりだした。
ウロンスキイは、著者みずから何か有名なもののことでも話すようにして話している|二つの起源《ヽヽヽヽヽ》の第一部すら知らなかったので、はじめは|ばつ《ヽヽ》がわるかった。が、やがて、ゴレニーシチェフが自分の思想を述べはじめて、その内容をたどることができるようになると、ウロンスキイは、|二つの起源《ヽヽヽヽヽ》は知らないながらに、ゴレニーシチェフの話がうまいので、まんざらでもなくそれに耳をかたむけた。しかしウロンスキイは、ゴレニーシチェフが自分の没頭している題目について話したときのいらいらした興奮に、驚きもすれば悩まされもした。話がすすむにつれて、彼の目はますます輝き、架空の反対者にたいする論駁《ろんばく》はますます急になり、その顔の表情は、ますます不安らしく腹だたしげになってきた。貴族幼年学校ではいつも首席をしめていた活発な、気だてのよい、名門出の、やせ形な少年だったゴレニーシチェフを思いだすと、ウロンスキイはどうしても、その焦燥の理由を解しかねたと同時に、それを是認する気にはなれないのだった。わけても彼におもしろくなく思われたのは、ゴレニーシチェフがりっぱな階級の人でありながら、彼をいらだたせた三文文士どもと同じレヴェルにおり立って、彼らに腹をたてていることであった。いったい、それだけの価値があるのだろうか? こう思うにつけても、それは、ウロンスキイの気にいらなかったが、それにもかかわらず、彼はゴレニーシチェフを不幸と感じ、彼が哀れに思われてならなかった。不幸が、ほとんど精神錯乱ともいうべきものが、アンナの出てきたことさえ気づかずに、早口に、熱心に、自分の意見を述べつづけている彼の、おちつきのない、かなり美しい顔に現われていた。
アンナが帽子をかぶり、半|外套《がいとう》をはおって出てきて、美しい手を早く動かしてパラソルをもてあそびながら、自分のそばに立ちどまったとき、ウロンスキイはほっとした気持で、じっと自分の上にそそがれているゴレニーシチェフの訴えるような目からのがれて、新しい愛情を感じながら、美しく、愛らしい、生と歓喜とにみちみちた自分の同伴者のほうを見やった。ゴレニーシチェフはやっとわれにかえったものの、はじめのうちは、悲しげな暗い顔をしていたが、だれにもあいそよく接することのできたアンナは(この時分、彼女はそんなふうの女になっていた)、例の単純な快活な態度で、まもなく彼の心をひきたたせた。いろんな話題をこころみたあとで、彼女は話を絵画のほうへもっていった。すると、彼がとうとうとしゃべりだしたので、彼女は熱心にそれを傾聴した。彼らは徒歩で、新しく借りた家へ行きつき、そしてそれを見てまわった。
「わたくしね、ひとつそりゃうれしいことがありますのよ」とアンナは、彼らがもう帰途についたときに、ゴレニーシチェフに向かっていった。「アレクセイにいいアトリエができるだろうと思いましてね。あなた、ぜひあのお部屋をお使いなさいね」と彼女はウロンスキイに、ロシア語で親しく彼を『あなた』と呼びながらいった。というのは、彼女が早くも、ゴレニーシチェフが、自分たちの隠棲《いんせい》では親しい人になるであろうこと、だから、彼の前には何もかくしだてをする必要はないということを、見てとったからであった。
「じゃきみは、画をやるのかい?」とゴレニーシチェフは、くるりとウロンスキイのほうへ向きながら、いった。
「ああ、ぼくはずっと前にやったことがあるんでね。このごろまた少しずつはじめてみたところさ」とウロンスキイは、顔をあからめながらいった。
「このひとにはたいへん天分がございますのよ」とアンナは、うれしそうな微笑を見せていった。「もちろん、わたくしは批評家ではございませんわ。けれど、一流の批評家のかたたちが、そういってらっしゃいましたの」
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八
アンナは、身が自由になり、すらすらと健康の回復したその当座は、自分でもすまないと思うほど幸福な、生の歓喜にみちみちているような自分を感じた。夫の不幸の思い出も、彼女の幸福をきずつけなかった。この思い出は、一方からは、考えるのもあまりに恐ろしいことであり、また他方からは、彼女の夫の不幸が、後悔するにはあまりに大きな幸福を彼女にあたえたのであった。病後わが身におこったいろいろの事件についての思い出――夫との和解、決裂、ウロンスキイが負傷したという報告、彼の来訪、離婚の準備、家出、子供との別離――そうしたことはみな、彼女がウロンスキイといっしょに外国へ来て、はじめてさめた苦しい夢のように、彼女には思われた。夫にあたえた災厄についての思い出は、おぼれかかった人が自分にしがみつくのをふり捨てたときおぼえるような、なんともいえない嫌悪に似た感じを彼女におこさせた。ふり捨てられた人はおぼれ死んだ。もちろん、それはわるいことである、が、それは、自分の助かる唯一の手段だったのだ。だから、そんな恐ろしいことは、くよくよ考えないほうがいいのである。
夫との決裂の最初の瞬間に、彼女の心には、自分の行為について、ひとつの気やすめ的な理くつが考えだされた。で、いま過去のすべての出来事を思いかえしたとき、彼女の思いうかべたのは、その理くつだけであった。『わたしは、ほかにどうすることもできなくて、あのひとを不幸にしたんだわ』と、彼女は考えるのだった。『でも、わたしはその不幸を利用しようとは思わない。わたしもやっぱり苦しんでいるし、これからだって苦しむにちがいないんだもの。――わたしは何より大切にしていたものを失ったんだもの――りっぱな名と子供とを失ったんだもの。わたしはわるいことをしたのだから、幸福も望まなければ、離婚を望むこともしないわ。そして恥辱と、子供に別れることで、いつまでも苦しんで暮らすのだわ』
しかし、どんなに真剣に苦しもうと思っても、アンナは苦しむことができなかった。恥辱というものも少しもなかった。お互いに多分にもっていた手腕によって、彼らは外国では、ロシアの貴婦人たちを避けて、けっして自分を虚偽の位置に立たせるようなことはせず、いつも、彼ら自身が理解しているよりもはるかによく、ふたりの境遇を理解しているように見せかけている人々にだけ、いたるところで会っていた。あんなにも愛していた男の子との別離、それすら、はじめのうちは彼女を苦しめなかった。彼の子供である女の子がいかにも愛くるしくて、そして、この子が自分に残された唯一のものとなって以来、アンナはすっかりそのほうへひきつけられてしまったので、男の子のことはめったに思いださなかったのである。
健康の回復とともに、ますますつのってきた生の要求がきわめて強烈であるうえに、生活状態も非常に新しく愉快だったので、アンナはわれながらすまないと思うほど、自分を幸福に感じていた。彼女はウロンスキイを知れば知るほど、ますます彼を愛するようになった。彼女は彼を、彼そのものと、彼の自分への愛とにたいして愛した。彼を完全に自分のものにしたという事実が、彼女にはたえざる喜びであった。彼が身ぢかにいるということが、彼女にはいつも愉快であった。そして、日ましに多く知るようになった彼の性格のあらゆる点が、彼女にはいうにいわれずなつかしかった。平服に着かえたために変わって見える彼の容貌は、彼女に、恋する乙女にとってのように魅惑的であった。彼が話したり、考えたり、したりするすべてのことに、彼女は、どこかとくに上品な、高尚な点のあるのを見た。彼にたいする彼女のおぼれかたは、しばしば彼女自身を驚かした。彼女はさがしてみたが、彼のなかには何ひとつ、美しくないものを見いだすことはできなかった。彼女は、彼にたいする自分の劣等感を、あえて彼に示す勇気がなかった。彼女には、もし彼がそれを知ったら、すぐにも自分を愛しなくなってしまうような気がしたのである。彼女には、いまかくべつそれを恐れるような理由はなかったけれども、彼の愛を失うことほど恐ろしいものはなかったのである。しかし彼女は、自分にたいする彼の態度に、感謝せずにはいられなかったし、またいかに自分がそれをありがたく思っているかを、示さずにもいられなかった。彼――彼女の意見によると、顕要《けんよう》な役目を演じなければならない国家的の仕事にたいして、りっぱな使命をもっていた彼――その彼が、彼女のために、その名誉心を犠牲にして、いささかのみれんげをも見せないのである。彼は彼女にたいして、以前よりいっそうねんごろに、いっそう愛情ぶかくなり、そして、彼女が今の境遇の|ばつ《ヽヽ》のわるさを感じないようにという心づかいは、一刻も彼の念頭を去らないのだった。あんなにも男性的な男である彼が、彼女にたいしては、けっして反対しなかったばかりか、自分の意志すらもたなくて、ひたすら彼女の希望を察することにばかり気をつかっているようであった。で、彼女は、自分にたいする彼の注意のこの極端な緊張と、彼女をつつんでいる配慮のこのふんい気とに、ときとしてわずらわされはしたものの、それを感謝しないではいられなかったのである。
ところが、ウロンスキイのほうは、彼があんなにも長いこと望んでいたことが完全に実現されたにもかかわらず、完全に幸福というわけにはいかなかった。じき彼は、その希望の実現が、自分の期待していた幸福の山から、わずかに一粒の砂を自分にもたらしたにすぎないことを感じた。この実現は、幸福とは希望の実現であるというように考えながら多くの人々がやっている、あの永遠の錯誤《さくご》を彼に示した。彼女といっしょになり、平服に着かえたその当座は、彼も、自分のこれまで知らなかった一般的の自由、恋の自由の魅力を感じて、満足したのだったけれども、それは長くはつづかなかった。じき彼は、心のうちに希望の要求――憂愁が頭をもたげてくるのを感じた。自分の意志とは関係なく、そのときそのときに起こって消える気まぐれを、彼は希望や目的と考えて、それをつかむようになった。一日の十六時間を、なんとかして暮らさなければならなかった、というのは、ペテルブルグでは時間の大部分をしめていた社会生活のさまざまな約束からはなれて、外国でまったく自由な生活をしていたからであった。かつての外遊でウロンスキイが興味をもった独身生活の享楽などは、考えることすらできなかった。なぜなら、そうしたことを口にしただけでも、アンナの心に、知人との遅い晩餐の席には不似合いな、思いもよらぬ悲しみを、ひきおこしたからであった。土地の社交界やロシア人との交際も、ふたりの位置がはっきりしていないために、やはり結ぶことはできなかった。名所旧跡の見物も、もう残らず見てしまったということは別にしても、聡明なロシア人である彼にとっては、イギリス人ならこういうことに上手につけるような、もったいぶった意味を持つことはできなかった。
で、ちょうど飢えた動物が何かたべるものを見つけようと思って、手あたりしだいにあらゆるものに手を出すと同じように、ウロンスキイもまたまったく無意識に、あるいは政治を、あるいは新刊書を、あるいは絵画をと、いろんなものに手をだしてみるのだった。
彼には、子供の時分から画才があったし、それに金の使いみちにも困って、版画の蒐集《しゅうしゅう》などをはじめていたので、彼は絵をかくことにおちつきを見いだし、それに興味をもちだして、満足を求めてやまない例の要求の余分な蓄積を、それに向かって集中した。
彼には、美術を理解する才能と、正確に趣味をもって絵画を模写する才能があったので、彼は、自分には画家に必要な素質があると思いこみ、いかなる種類の画を選ぼうか、宗教画か、歴史画か、風俗画か、それとも写実画かと、しばらく思いまよったあげく、とにかく描きはじめてみた。彼は、どの種類の絵画をも理解し、そのいずれからも霊感をうけることができた。が、彼は、絵画にどんな種類があるかなどということをぜんぜん知らず、自分の描くものが既成のどういう流派に属するかなどということにもぜんぜん心を労しないで、直接自分の心にあるものによって霊感をうけることもありうるのだということを、想像することができなかった。彼はこういうことを知らず、直接人生からでなく、すでに美術によって具象《ぐしょう》されている間接の人生から霊感をうけるのだったので、その受けかたも非常に早く、きわめて容易で、そして、それと同じ早さと容易さとをもって、彼の描いたものが、彼の似せようと思った流派のものに、非常によく似る程度にまで到達したのである。
他のどんな流派よりも、彼には、優雅で効果的な、フランス流派が気にいっていたので、彼はそれをまねて、イタリア服をつけたアンナの肖像を描きはじめた。そしてその肖像は、彼にも、それを見たすべての人にも、すばらしいできばえのように思われた。
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九
古い荒れはてたパラッツオ、しっくい細工のある高い塗り天井や、壁画や、モザイクの床や、高い窓の重たそうな黄いろい、花どんすの窓かけや、飾りだなと暖炉の上の花びんや、彫刻のあるドアや、いろんな絵画のかかっている陰気な広間などのある――このパラッツオは、ふたりがここにひき移って以来、その外観そのものによって、ウロンスキイの心に、自分はロシアの地主とか、職をはなれた主馬寮官《しゅめりょうかん》とかいうよりも、教養ある美術の愛好者でありパトロンであり、しかも自身、愛する女のために社会をも、係累《けいるい》をも、功名をもすててしまった、謙虚な一美術家であるというような、愉快な幻想をおこさせてしまった。
ウロンスキイによって選ばれた役割はパラッツオにひき移るとともに、完全に成功したし、彼は、ゴレニーシチェフの仲介で、二、三の興味ある人々とも知己になって、はじめのうちはおちついていられた。彼は、あるイタリア人の絵画教授の指導で、自然をモデルにして習作を描いたり、中世のイタリア人の生活を研究したりした。中世のイタリア人の生活は、最近になって、非常にウロンスキイの心をひいたので、彼は、中世紀ふうに、帽子やひきまわしマントまでつけるほどになったが、それは彼に非常によく似合った。
「ぼくたちはこうして生きていながら、なんにも知らないでいるんだね」と、ある朝ウロンスキイは、彼らのところへやって来たゴレニーシチェフにいった。「きみは、ミハイロフの絵を見たかい?」と彼は、その朝受け取ったばかりのロシア新聞をゴレニーシチェフに渡して、この同じ町に住んでいて、前からうわさのあった、買い手のきまっていたその作品を完成したというロシアの画家についての論評を、さし示しながらいった。その論評は、こうしたすぐれた画家が、なんの奨励も受けず補助を与えられずにいることにたいして、政府やアカデミーを攻撃したものであった。
「見たさ」と、ゴレニーシチェフは答えた。「もちろん、彼は天才を持たぬわけではないが、しかし、まったく邪道《じゃどう》に向かっているよ。彼のキリストや、宗教画にたいする態度は、イワーノフ式、シュトラウス式、ルナン式といったようなものだからね」
「その画は、何を描いたものなんでございますの?」
「ピラトの前のキリストというんですがね。どこまでも新派の写実主義でもって、キリストが一個のユダヤ人として描かれているんですよ」
こうして、作品の内容の質問によって、自分の得意の主題のひとつへ水を向けられたゴレニーシチェフは、のり気になってしゃべりだした。
「彼らはいったいどうしてあんな乱暴なまちがいをなしうるのか、ぼくにはわからん。キリストは、偉大な老大家の作品中で、すでにりっぱな一定の肉体化をもっている。だから、もし彼らが、神でない革命家とか賢人とかを描いてみようというのなら、歴史から、ソクラテスとか、フランクリンとか、シヤルロット・コルデイ(一七六八〜九三。フランスの女流革命家、マラーを殺してギロチンにかけられた)とかいうものをもってくればいいのだ。しかし、キリストだけはいけない。彼らはまったく、美術のために選んではならないその人物をとってきて、そして……」
「それはそうと、そのミハイロフという男が、そんなに困ってるというのはほんとうかね?」とウロンスキイは、その作品のよいわるいにかかわらず、自分はロシアの芸術保護者として、美術家を助けてやらねばならぬと考えながら、たずねた。
「さあ、どうかね。とにかく、あの男はりっぱな肖像画家だよ。きみは、あの男のワシーリチコフ夫人の肖像を見たかね? しかし彼はもう、肖像を描くのをいやがっているらしいから、そのためにあるいは、困っているというのがあたっているかもしれないね。で、あえていうが、その……」
「どうだね、ひとつその人に、アンナ・アルカジエヴナの肖像を描いてもらうわけにはいくまいかね?」とウロンスキイはいった。
「どうして、わたくしの肖像なんか?」とアンナはいった。「あなたがお描きになったのがあるんですもの、もうほかのかたのはいりませんわ。それよりアーニャ(彼女は自分の娘をこう呼んでいた)を描いていただくほうがようござんすわ。ほら、あの子はあすこにおりましてよ」と彼女は言いたして、窓ごしに、庭へ子供を連れだしていた、美しいイタリア人の乳母のほうを見やったが、すぐまたそっとウロンスキイのほうをながめた。ウロンスキイが自分の画のために、その頭をモデルにつかった美人の乳母は、アンナの生活における、ただひとつのかくれた悲しみであった。ウロンスキイは、彼女をモデルに描いてしまうと、その美しさと中世ふうとをほめそやした。が、アンナもさすがに、自分がこの乳母にたいして嫉妬を感じそうになっているとは、みずから認める気になれなかったので、このため彼女はとくに、彼女とその幼い男の子とに目をかけて、かわいがっているのだった。
ウロンスキイもまた窓を見、アンナの目を見たが、すぐにゴレニーシチェフのほうをむいて、いった。
「きみはそのミハイロフという人を知ってるのかね?」
「会ったことはある。だが、どうも変人で、そのうえぜんぜん教養がないときている。つまり、このごろよく見かける例の野蛮な新人のひとりさ。つまり、無信仰や、否定主義や、唯物主義などの見解のなかで、d'emblee《ひといきに》に教育された自由思想家のひとりなのさ。昔は」とゴレニーシチェフは、アンナとウロンスキイとが何か話したがっていることに気がつかないで、あるいは気をつけようともしないで、言いつづけた。「昔は、自由思想家というのは、宗教や、法律や、道徳の見解によって養われて、闘争と労苦とによって、みずから自由思想にまで到達した人のことだったが、今日では、生まれながらの自由思想家という新しいタイプが現われていて、そういう連中は、道徳とか宗教とかいう法則のあることにも、権威というもののあることにも、てんで耳をかさないで、頭からいっさいを否定するという見解のなかで育てられた、つまり、野蛮人として育てられた人間なのだ。あの男がすなわちそれなのさ。あの男は、たしかモスクワのある給仕長のせがれで、教育というものはぜんぜん受けなかったらしい、で、アカデミーへはいって名をなすようになると、さすがにばかではないのだから、みずから教養をつけようと思った。そこで彼は、自分が教養のみなもとだと思ったもの――つまり、雑誌にたいして心をそそいだ。昔は、教養をえようと思った人は、たとえばフランス人のごとくさ、あらゆる古典から、つまり神学者であろうと、悲劇作者であろうと、歴史家であろうと、哲学者であろうと、自分の前にあるあらゆる精神上の労作から、研究してかかったものだ。ところが、わが国のことだから、彼はいきなり否定主義の文学に親しんで、否定主義の学問の概略を、たちまち自分のものとして――それでおわりなんだ。いや、そればかりではない、二十年ばかり前には、人間はその文学のうちに権威や時代思潮との闘争の跡を見いだして、その闘争のなかから、他の何ものかの存在をさとったものだが、いまは、てっとり早く、古い時代思潮などは論じようとすらしないような学問のほうへ走ってしまって、いきなり、なんにもなりゃしないじゃないか、evolution(進化)と、自然|淘汰《とうた》と、生存競争と――それで全部なんじゃないかなどという。ぼくは自分の論文のなかで……」
「ではねえ」とアンナは、もうかなり前から、注意ぶかくウロンスキイと顔を見あわせて、この美術家の教養ということは、少しもウロンスキイに興味があるわけではなく、ただ彼を助けるために、彼に肖像を依頼するという考えだけが彼をしめていることを知って、こういった。「ではねえ」と彼女は、きっぱりした調子で、しきりにしゃべっているゴレニーシチェフをさえぎった。「その人のところへ行ってみようじゃございませんか!」
ゴレニーシチェフは気がついて、喜んで同意した。しかしその画家は、遠くの区に住んでいたので、彼らは馬車で行くことにした。
一時間の後、アンナはゴレニーシチェフとならんですわり、ウロンスキイはその前の座席に掛けて、遠い区の、新しくはあるが、あまり美しくない、とある家へ乗りつけた。そして、出てきた屋敷番の女房から、ミハイロフはいつも画室へ客を通すのだが、いまはそこからひと足の住居のほうにいると聞いたので、彼らは彼女に自分たちの名刺をもたせて、彼の画を見せてもらいたいと頼んでやった。
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十
画家のミハイロフは、ウロンスキイ伯爵とゴレニーシチェフとの名刺がもってこられたとき、いつものとおり仕事をしていた。朝のうち彼は画室で、大きな画の制作をしていた。そして住居へ帰ってくると、金を請求にきた家主のかみさんを妻がうまくおい返さなかったといって、彼女に腹をたてはじめた。
「二十ぺんもおまえにいってあるじゃないか、へたな言いわけなんかするんじゃないって。おまえは元来ばかなんだが、イタリア語でしゃべりだすと、三倍もばかになってしまう」と彼は、長い争いのあとで彼女にいった。
「それなら、あなたのほうでうっちゃっとかないでくださいな。わたしのせいじゃありませんよ。わたしだって、お金さえあれば……」
「ああ、おれの気持をみださんでくれ、お願いだ」とミハイロフは涙声で叫んで、耳をふさいで仕切り壁の向こうの仕事部屋へはいると、ドアに鍵をかけてしまった。『ばかな女だ!』と彼は自分にいって、テーブルの前にすわり、厚紙を開いて、すぐさま、非常な熱心さで、描きかけの画に着手した。
彼は、自分の生活状態がわるいとき、わけても妻と口論したときくらい、熱心に、そしてうまく仕事のできることはなかった。『ええい! どこへでもうせろ!』と彼は、仕事をつづけながら考えた。彼は、憤怒《ふんぬ》の発作状態における人物の姿を写しているのだった。その画は、前にもひとつできたのだが、彼はそれに満足しなかった。『いや、あのほうがよかった……あれはどこへやったろう?』彼は妻のほうへ行き、しかめつらをしながら、彼女のほうは見ないようにして、さっきくれた紙はどこへやったかと長女にたずねた。書き捨ての画ほごはあるにはあったが、それはよごれて、ステアリンの|しみ《ヽヽ》だらけになっていた。でも彼は、やはりそれを持ち帰って、テーブルの上に置き、少しはなれて目をほそめながら、それに見いりはじめた。急に、彼はにこにこして、うれしそうに両手を振った。
「そうだ! そうだ!」と彼はいって、さっそく鉛筆をとり、さらさらと描きはじめた。ステアリンの|しみ《ヽヽ》がその人物に新しいポーズをあたえていたのだった。
彼はこの新しい姿勢を描いていた。とつぜん、いつも巻たばこを買う店の主人の、あごの突きでた精力的な顔が思いだされたので、彼はその顔、そのあごを、画中の人物に描きくわえた。彼はうれしさから笑いだした。その画が急に、生命のない拵《こしら》えものから、いきいきとした、それ以上動かしようのないものになったからであった。その人物は生きてきて、疑いもなく、明瞭に決定されてしまったのである。画は、この人物の要求に応じて修正することができ、そして両足の位置をかえること、左手の状態をぜんぜんかえること、髪をなであげることが、できるばかりでなく必要ですらあった。しかしこの修正を行ないながらも、彼はけっしてその人物はかえず、ただその人物をおおっているものを取りのけただけであった。つまり彼は、そのために全体が見えなかったおおい布を画面から取りのけたようなぐあいであった。そして、新しい線はひと筋ごとに、ただその人物の全姿態を、ステアリンのつくった|しみ《ヽヽ》から、にわかに彼の心にうかび出た精力的な力いっぱいに、よりよく浮きださせただけであった。例の名刺がもってこられたのは、彼がちょうど、入念にその画の仕上げをしていたところであった。
「いますぐ、いますぐ!」
彼は妻のところへ行った。
「さあ、もうたくさんだよ、サーシャ、もう怒らないでくれ……」と彼は、おずおずと優しく微笑しながら、彼女にいった。「おまえもわるかった。おれもわるかった。が、万事おれがうまくやってやるよ」こうして妻と仲なおりをしておいて、彼はビロードのえりのついたオリーヴ色の外套に帽子をかぶり、画室のほうへ行った。成功した人物画のことなどは、もうすっかり忘れられていた。いまは、馬車でやって来たという、この身分の高いロシア人の画室訪問が、彼の心を喜ばせ、おどらせていたのである。
いま画架《がか》にかかっている例の自分の作品については、彼の心の底にひとつの信念があった――それは、こんな画はこれまでにだれひとり描いたためしがないという信念であった。彼はその作品を、ラファエロの全作品よりすぐれたものだとは思わなかったが、自分がその画であらわそうとしたところのものは、今日までにだれひとりあらわしたことのないものであるということを、知っていた。その点を、彼は確かに知っていた。もう久しいまえ、それを描きはじめた当時から、ちゃんと知っていたのである。けれども、世人の批判は、たとえどんなものであっても、彼にとってはやはり大きな意義をもっていて、心の底まで彼を動揺させた。どんなにくだらない批評でも、それが、彼が画のなかに見ていたものの一部分でもその批評家が見ていることを示すものであれば、ことごとく、彼を心の底まで動揺させた。彼はつねに、自分の作品の批評家は、彼自身が持っている以上に、はるかに深い理解力を持っているものと考えていたので、いつも、自分の作品のなかに自分自身さえ見ないでいたような何ものかを、彼らから期待しているのだった。また彼には、単なる観覧者の批評のなかに、しばしばそれを見いだしているような気がしていた。
彼は急ぎ足で、自分の画室の戸口のほうへ近づいて行った。と、心が動揺していたにもかかわらず、入口の影に立って、なにやら熱心に話しかけているゴレニーシチェフの話をききながら、同時に明らかに、近づいてくる画家のほうをふりむいて見たそうにしていたアンナの姿の柔らかな輝かしさが、彼をうった。彼は、自分でもそれと気がつかないで、彼らのほうへ近づきながら、たばこを売っていた商人のあごと同じように、いつのまにかその印象をつかみ、それをのみこんで、他日必要な場合に取りだしてくるために、どこかへしまいこんでしまった。画家については、ゴレニーシチェフの話によって、もうまえもって幻滅を感じていた訪問者たちは、彼の外貌《がいぼう》によって、いっそうひどく幻滅させられてしまった。がっしりとした中背の、こせこせした歩きぶりの、とび色の帽子にオリーヴ色の外套を着て、もうとうから太いズボンが流行しているのに、細いズボンをはいていたミハイロフは、わけても、その幅のひろい顔の平凡さや、おずおずした気持と威厳をたもちたいという気持とがいっしょになった表情で、不快な印象をあたえたのだった。
「どうぞ、おはいりください」と彼は、むとんじゃくな態度をとろうとつとめながら、いった。そして玄関へはいりながら、ポケットから鍵を取りだして、ドアを開いた。
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十一
画室へはいりながら、画家のミハイロフは、もう一度訪客たちのほうをかえりみて、想像のなかでウロンスキイの顔の表情、とりわけ彼のほお骨を描いてみた。彼の画家としての感情は、自分のために材料を集めながら、たえまなくはたらいていたにもかかわらず、そしてまた、自分の労作についての批評の瞬間が近づいてくることから、ますます強くなる興奮を感じていたにもかかわらず、彼は心のうちで、目にもつかないような特徴から、この三人の人たちについての概念を、すみやかに巧みに組み立てていた、この男《ゴレニーシチェフ》は、この土地に住んでいるロシア人であった。ミハイロフはその男の姓をも、またどこで会って、どんな話をしたかも覚えてはいなかった。彼はただ、一度でも見たことのある顔はみな覚えているように、その顔だけを覚えているにすぎなかった。しかもその顔は、自分の記憶のなかでは重要でないもの、表情にとぼしいものとして、問題にもしていない顔のひとつであることを覚えていた。たっぷりある髪の毛と、えらくあけっぱなしの額とが、狭い鼻柱《はなばしら》の上に集中されている、貧弱な、子供らしい、不安げな表情だけをもった顔に、外面的なものものしさをあたえていた。ウロンスキイとカレーニン夫人とは、ミハイロフの考えによれば、身分のある富裕なロシア人で、すべてそういうロシア人がそうであるように、芸術についてはなんの理解も持たないくせに、いっぱしその愛好者、鑑識者として自任しているような人たちにちがいなかった。『きっと古いものはみんなもう見てしまって、いまでは新しい人たちや、ドイツのへぼ絵かきや、イギリスのラファエル前派のばか者どもの画室を見てまわってるので、こうしておれのところへ来たのも、ただ見聞を十二分にするのが目的でやって来たのにちがいない』こう彼は考えた。彼は――美術は堕落した、新しい作品を見れば見るほど偉大な昔の名匠《めいしょう》がいかに模倣《もほう》しがたいものであるかがうなずける、こういうことを口にする権利をうるだけの目的で、現代の美術家のアトリエを見てまわっているにすぎないディレッタント(彼らは賢ければ賢いほど、ますますわるいのである)の態度を、非常によく知っていた。彼はそれを予期したばかりでなく、彼らの顔に、彼らが互いに話しあったり、模像や胸像を見たり、彼が画のおおい布を取りのけるのを待ちながら、自由に歩きまわったりしている、そのむとんじゃくな、つつしみのない態度のなかに、それを見てとったのである。しかし、それにもかかわらず、自分の習作を一枚一枚はぐったり、窓かけをあげたり、おおい布を取りのけたりしているあいだ、彼は強い胸さわぎを感じていた。そしてこの感じは、彼は日ごろ、身分の高い富裕なロシア人などはすべて、畜生同然のばかでなければならぬと確信していたにもかかわらず、ウロンスキイが、とりわけアンナが気にいったことで、ますます強められたのだった。
「さあ、これはいかがですか?」と彼は、こせこせした足どりで身を避けて、ひとつの作品を示しながらいった。「これはピラトの訓戒《くんかい》です。マタイ伝の二十七章ですな」と彼は、興奮から自分のくちびるのふるえだすのを感じながら、いった。彼はあとへさがって、彼らの背後に立った。
訪問者たちが黙って画を見ていた数秒のあいだ、ミハイロフもまた無関心な傍観者の目でそれを見ていた。その数秒のあいだに彼は、最も高い正当な批判が、彼らによって、すなわち自分が一分まえまであんなに軽蔑していたこれらの訪問者によって、述べられるであろうことを、まえもって信じこんだ。彼は、以前その画を描いていた三年のあいだ、それについて考えていたことを、きれいに忘れてしまった。自分にとって疑いのなかったその画の価値をすっかり忘れてしまって、――彼はその画を、無関心な傍観者の新しい目で見た。そしてそのなかに、一点の美をもみとめなかった。彼は、前景にはピラトのいまいましげな顔と、キリストの穏やかな顔とを、後景には、ピラトの従者の姿と、何事が起こったかとのぞき見ているヨハネの顔とを見た。非常な探求と失敗と、それから修正とをかさねて、彼の心にようやく特殊な性格をそなえてうかびあがったすべての顔、彼に非常な苦悶と歓喜とをあたえたすべての顔、そして、全体の調和のために幾度も幾度も描きかえられたすべての顔、なお異常な努力によって、ようやくこれまでになった色彩と調子のすべての陰影――それらいっさいのものが、いま傍観者の目で見ると、彼には、今までに千度もくりかえされた、きわめてつまらないもののように思われた。彼にとって一ばん大切な顔、その作品の中心であり、それを発見したときには、あれほどの歓喜をもたらしたキリストの顔も、いま、彼らの目で見ると、その価値のすべてを失ってしまった。彼はそこに、ティチアーノや、ラファエロや、ルーベンスなどの無数に描いているキリストや、同じ兵士たちとピラトの画の、よく描かれた複写を見るのであった(いや、いいとばかりいわれない――今では彼はそのなかに、明らかに無数の不満を見るのであった)。すべてはそれらはつまらない、貧弱な、古い、拙劣なできばえであった――色彩に調和がなく、力が弱かった。彼らが画家の面前では、うまくていさいのいいことを言いながら、自分たちだけになると、彼をあわれみ、嘲笑《ちょうしょう》するようなことがあっても、むりとはいえないであろう。
彼にはこの沈黙が、あまりに苦しいものになってきた(そのじつ、それは一分間とはつづかなかったのだが)。彼はそれを破って、自分が興奮していないことを示すために、努力してゴレニーシチェフのほうへ顔をむけた。
「あなたにはお目にかかったことがあるように思いますが」と彼は、彼らの顔の表情の一点一画をも見のがすまいとして、ウロンスキイとアンナとを交互に不安げな目つきでふりかえって見ながら、ゴレニーシチェフにいった。
「ありますとも! ローシイのお宅でお目にかかりましたよ。ほら、ご記憶でしょう、あのイタリアの娘さん――新しいラシェルが朗読をした夜会の晩ですよ?」とゴレニーシチェフは、いささかのみれんげもなく画面から視線をはなして、画家のほうへふりむきながら、自由な調子でいった。
が、彼は、ミハイロフが作品の批評を待っていることに気がついたので、こういった。
「あなたのお作は、このまえ拝見したときからみると、たいへんな進歩ですね。とくにわたしが心をうたれるのは、あのときもそうでしたが、いまでもあのピラトの形ですよ。この人物、善良で気持のいい男ではあるが、自分のしていることに理解をもたない、魂の底の底まで役人的な人間であるこの人物がじつによくわかります。しかし、わたしの考えるところでは……」
変わりやすいミハイロフの顔は、たちまちはればれと輝いて――両の目がいきいきと光りはじめた。彼はなにやらいおうとしたが、興奮のために口がきけなかったので、咳《せき》をするようなふうをよそおった。彼は、ゴレニーシチェフの美術にたいする理解力をどんなに低く評価したとしても、官吏としてのビラトの顔の表情の的確さを指摘したその公平な批評が、どんなにとるにたらぬものであったとしても、また、大切な点をそっちのけにして、こうしたつまらないことをまっさきに述べたてた相手の批評が、彼にはどんなに不満なものであったとしても、とにかくミハイロフは、この批評によって、すっかりうちょうてんにされてしまった。ピラトの形については、彼もまた、ゴレニーシチェフのいったと同じことを考えていた。この評言は、ミハイロフがはっきり知っていたとおり、いつも判で押したような他の無数の批判のひとつにすぎなかったという事実も、彼のために、ゴレニーシチェフの言葉の意味を弱めはしなかった。彼はこの言葉のためにゴレニーシチェフが好きになり、意気|銷沈《しょうちん》の気持から、たちまち歓喜の状態にうつってしまった。と、見るまに、その画面全体が、ありとあらゆる生気の、言いあらわしようもない複雑さをもって彼の前に躍動してきた。ミハイロフはふたたび、自分もピラトをそういうふうに解釈しているといおうとしたが、心ならずもくちびるがぶるぶるふるえるので、口をきくことができなかった。ウロンスキイとアンナもやはり、低い声で何か話していたが、それは、ひとつには画家の感情をそこねないためであり、ひとつには、絵画展覧会などで美術について口にする場合、むぞうさにいってのける愚劣な言葉を、大声でいうまいとするためであった。ミハイロフには、自分の作品が彼らにもある印象をあたえたように思われた。彼は彼らのそばへ歩みよった。
「ほんとに、なんというみごとさでしょう。キリストのこの表情は!」とアンナはいった。彼女には、彼女の見たもののうちで、この表情が一ばん気にいったのであった。そして彼女は、これが作品の中心であるから、したがってこの賛辞は、画家にとってもきっと愉快であろうと考えたのだった。「ピラトをあわれんでいることがひと目でわかりますものね」
これもまた彼の画のなかに、キリストの像のなかに見いだすことのできる、判で押したような無数の評言のひとつであった。彼女はいった、キリストはピラトをあわれんでいると。なるほど、キリストの表情には、憐憫《れんびん》の表情もあったにはちがいない。というのは、そこには、愛や、この世ならぬ安らかさや、死にたいする覚悟や、言葉のむなしさを意識する表情などがあったからである。もちろん、一方は肉的生活の権化《ごんげ》であり、他方は精神生活の権化なのであるから、ビラトに官吏的の表情があり、キリストに憐憫の表情があるのは、当然のことである。すべてこういうふうの考察と、その他のさまざまの想念が、ミハイロフの心にひらめいた。と、彼の顔はまたしても、歓喜の色に輝きわたった。
「そうですよ、そしてこの人物のできばえはどうです。それになんという空気でしょう。あのうしろがまわれそうですね」とゴレニーシチェフは明らかに、この言葉によって、自分はその人物の内容や思想に賛成していないことを示しながら、いった。
「いやまったく、驚くべき大手腕だ!」とウロンスキイはいった。「あの背景の人物なんか、まるで浮きだしているようじゃないか! ここが技巧のあるところさね」と彼は、ゴレニーシチェフのほうを向きながら、この言葉によって、さっきふたりで話し合った会話、自分はもうこういう技巧をうることに絶望している、ということについて話し合った会話をほのめかしながら、いった。
「ええ、ほんとに驚くべきです!」と、ゴレニーシチェフとアンナが調子をあわせた。
ミハイロフは、すっかり興奮していたにもかかわらず、技巧|云々《うんぬん》の評言は、痛いほど彼の心をかきむしった。で、彼は腹だたしげにウロンスキイの顔を見て、急に顔をくもらせた。彼はよくこの技巧という言葉を聞いたが、それがどういう意味でいわれているのか、彼にはいっこうに解釈がつかなかった。彼は、この言葉によって人々は、内容とはぜんぜん無関係な、描いたり塗ったりする機械的能力を意味していることを知っていた。彼はまたたびたび、いまの賛辞と同じように、人々は、技巧というものをまるでわるいものをよく描くことのできる能力ででもあるように、内的価値に対立させていることに気がついていた。彼は、おおい布を取りのけるのに作品そのものを傷つけないようにするには、また、すべてのおおい布を取りのけるには、多くの注意と慎重さが必要であることを知っていた。けれども、描くという技術――そこにはなんの技巧もなかった。もし幼い子供なりわが家の女中なりに、彼が見たと同じものが啓示《けいじ》されたならば、彼らもやはり、彼らの見たものの殻をりっぱにむいてのけたであろう。が、それと反対に、最も経験あるたくみな本職の画家であっても、その描くべき内容の限界があらかじめ啓示されなかったならば、単なる機械的の才能だけでは、何ひとつ描き出すことはできないにちがいない。のみならず、もし技巧ということを問題にする以上、彼はその点ではとうてい賞賛をえる資格のないことを知っていた。彼は、自分の描きつつあるもの、描きおわったもののすべてのうちに、おおい布を取りのけるにあたっての不注意から生じた、そして今となってはもはや作品全体をそこなうことなしには修正することのできない、自分の目を刺すような多くの欠点を認めていた。そして、ほとんどあらゆる姿、あらゆる顔の上に、彼はまだ、その絵を傷つけている、完全に取りのけられていないおおい布の痕跡の残っているのを認めていた。
「もうひとつ申しあげることのできるのは、ですね、もっとも、あなたがお許しくださればです……」と、ゴレニーシチェフが言いだした。
「いや、非常にけっこうです。ぜひどうぞ!」と、ミハイロフはつくり笑いをしながらいった。
「ほかでもありません、それは、あなたのキリストは、神人ではなくて、人神であるということです。もっとも、それがあなたのねらわれたところであることはわかってますがね」
「しかし、わたしにしても、自分の心にないキリストを描くことはできませんからね」と、ミハイロフは暗い顔つきになっていった。
「なるほど、しかし、そうとすれば、もしわたしに意見をのべることをお許しくださるなら申しますが……あなたの作品は、わたしごときの批評くらいではとても傷つけることができないほど完全なものですし、それにまたこれは、わたし一個の意見です。あなたにはまた、あなたのご意見がおありでしょう。つまり、モティフが違うのですから。しかしまあかりに、イワーノフを例にとってみましょう。もしキリストを史的人物のレベルまでひきさげるくらいなら、イワーノフとしては何かもっと別な、新しい、まだだれも手をつけていないような歴史的テーマを選んだほうが、よくはなかったかと思うのですがね」
「しかしですね、もしこれが芸術にあたえられる最大のテーマだとしたら、どうします?」
「おさがしになれば、別のテーマも見つかりますよ。しかし、かんじんなことは、芸術は論議や批評を超越しているということにあります。ところが、イワーノフの作品の前に立って見ると、それが信者であるといなとに関係なく、これは神であるか、神でないか? という疑問がおこって、印象の統一が破られてしまうのです」
「どうしてそんなことがあるのでしょう? 教養のある人々にとっては」と、ミハイロフはいった。「論争などということは、ありえないはずですがね」
ゴレニーシチェフはそれには同意せず、芸術に必要な印象の統一についての自分の最初の意見をおし通して、ミハイロフを粉砕した。
ミハイロフは興奮したが、自分の思想を擁護しようにも、何ひとついうことができなかった。
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十二
アンナとウロンスキイとは、同行者の利口ぶった饒舌《じょうぜつ》をにがにがしく思いながら、もうさっきからお互いに顔を見あわせていた。ついにウロンスキイは、主人の案内を待たずに、別の、あまり大きくない作品のほうへうつっていった。
「ああ、なんという美しさだろう、じつに美しい! 奇跡だ! じつに美しい」とふたりは声をあわせて叫んだ。
『何があんなに気にいったんだろう?』とミハイロフは考えた。彼は、三年まえに描いたその画のことはすっかり忘れていたのである。数か月のあいだ夜となく昼となく、それだけに没頭して、その画を描いていたあいだになめたあらゆる苦悶と歓喜とを、すっかり忘れていたのである。いつも描きあげた画のことは忘れてしまうように、忘れてしまっていたのである。彼はその画は、見ることすら好まなかったが、ただ、それを買いたいというイギリス人がくるはずになっていたので、そのために出しておいたにすぎなかったのである。
「それはなんですよ、古い習作ですよ」と彼はいった。
「ああ、これはじつにいい!」とゴレニーシチェフもまた、明らかにその作の美に心からひきつけられた様子で、いった。
男の子がふたり、|えにしだ《ヽヽヽヽ》の木かげで釣りをしていた。年かさのほうのひとりは、いま竿《さお》を投げこんだばかりのところで、全精神をそれにうちこみながら、|やぶ《ヽヽ》のかげから、けんめいに|うき《ヽヽ》を引きよせていた。と、もうひとりの少年のほうは、草の上に寝そべって、もつれた金髪の頭にほおづえをつき、思い沈んだような空色の目で、じっと水面を見つめていた。何を考えているのだろう?
この作品にたいする嘆賞の声は、ミハイロフの心にかつての興奮をよびおこしたが、しかし彼は、この過ぎ去ったものにたいする無益な感情を、恐れてもいれば、愛してもいなかったので、こうした賛辞は、うれしくはあったけれども、訪問者たちを、三番めの画のほうへ連れて行こうとした。
ところが、ウロンスキイが、その画を売ってもらえないかとたずねた。訪問者たちのために興奮させられていた今のミハイロフには、金銭上の話は非常に不愉快であった。
「それは売るために出してあるのです」と彼は、陰うつに顔をしかめて答えた。
訪問者たちが帰ってしまうと、ミハイロフは、ビラトとキリストの画の前に腰をおろして、心のなかで、今の訪問者たちによっていわれたことや、口に出してはいわれないまでも、暗にほのめかされたことやを思いかえしてみた。と、ふしぎなことに、彼らがここにいて、自分が心理的に彼らの観察点へうつっていたときには、彼のためにあれほど重みをもっていたものが、とつじょとして、そのすべての意味を失ってしまった。彼は自分の作品を、自分の完全な芸術眼で見はじめた。すると、自分の作品が完璧であることを、したがって、りっぱな意味をもっているということを信ずるような気持になった。それは、それ以外のあらゆる興味をうけつけない緊張のために、彼にとって必要な感情であり、その感情ひとつで、彼は仕事をすることができたのであった。
が、下から見あげるように描かれているキリストの片足は、やはり完全ではなかった。彼はパレットをとって仕事にかかった。その足をなおしながらも、彼はたえず、背景のヨハネの姿にながめいった。訪問者たちはそれには目もとめなかったが、彼は、それが完全以上であることを知っていた。足をなおしおわると、彼はそのほうにとりかかろうとしたが、それをするには、自分があまりに興奮しすぎているような気がした。彼は、心が冷静なときにも、また、あまりに感じやすくなって万事がよくわかりすぎるときにも、同様に仕事をすることができなかった。彼が仕事のできるのは、ただ冷静から霊感にうつるあいだの一階段だけであった。ところが今は、あまりに興奮しすぎていた。で、その画におおい布をかけてしまおうと思ったが、ふとその手をとめて、片手におおい布をもったまま、幸福そうな微笑をうかべながら、長いことじっとヨハネの姿を見つめていた。が、とうとう、いかにもなごり惜しげに目をはなしておおい布をおろし、疲れはしたが、幸福な気持で、住居のほうへもどって行った。
ウロンスキイと、アンナと、ゴレニーシチェフとは、家路をたどりながら、とくにいきいきとした愉快な気持になっていた。彼らはミハイロフその人や彼の作品のことを話し合った。タレント(才能)という言葉――それによって彼らは、理性や感情から独立した、生来の、ほとんど肉体的ともいうべき能力を意味したのであり、また、画家によって経験されるすべてのものを言いあらわそうとしたのであるが、その言葉が、とくにしばしば彼らのうちに現われた。というのは、彼らにとってその言葉が、彼らがなんの理解も持っていないくせに、なんとかいってみたいことがらを形容するのに、ぜひ必要だったからである。彼らは、彼に才能のあることを否定するわけにはいかないが、彼の才能は、わがロシアの美術家に共通の不幸である教養のとぼしさのために、十分伸びることができないのだと話し合った。とはいえ、あの子供たちの画は、彼らの記憶に深く刻みこまれていたので、彼らは、ともすれば話題をそのほうへもっていくのだった。
「なんという美しさだろう! まったくあれは成功している、そしてあの単純さはどうだ! あの男は、あれがどんなにいい作だか、自分でも知っていないのだ! そうだ、あれは人手に渡してはならぬ。ぜひとも買い取ってしまおう」とウロンスキイはいった。
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十三
ミハイロフは、ウロンスキイに自分の画を売り、そしてアンナの肖像を描くことを承諾した。定められた日にやって来て、制作にとりかかった。
五回めから、その肖像は一同を、とくにウロンスキイを、単によく似ているばかりでなく、特殊の美しさで驚かした。こういう彼女特有の美を、どうしてミハイロフが発見しえたか、まことにふしぎなことであった。『この彼女のきわめて愛すべき精神的表情を発見するには、おれが愛しているように、彼女を知り、また愛さなければならぬはずだ』とウロンスキイは、自分もこの肖像画によってはじめて、その彼女のきわめて愛すべき精神的表情を発見したくせに、こう考えた。が、この表情は、あまり真に迫っていたので、彼にも他の人々にも、彼らが以前から知っている表情のように思われたのであった。
「ぼくはずいぶん長く苦しんでいるが、何もできやしない」と彼は、描きかけの自分の肖像画のことをいった。「ところがあの男は、見たと思ったら描いてしまった。つまり、技巧というわけだろうね」
「いまにできるさ」と、ゴレニーシチェフは彼を慰めた。彼の見るところでは、ウロンスキイは才能もあれば、ことに、芸術にたいする高度の見解をもたらす教養をも持っていた。が、ウロンスキイの才能についてのゴレニーシチェフの証言は、彼自身の論文や思想にたいしてウロンスキイの同情と賛辞とが必要であったことによっても、ささえられていた。彼は、賞賛や援助は、相互的のものでなければならぬように感じていたから。
他人の家、ことにウロンスキイのいるパラッツオでは、ミハイロフは、自分の画室にいるときとはすっかり別人の感があった。彼は、自分の尊敬していない人々と近しくなるのを恐れるかのように、ぎこちないうやうやしさを見せていた。彼は、ウロンスキイを閣下と呼び、アンナとウロンスキイとがいくら招いても、けっして食事には残らないで、画を描くとき以外には一度も顔を見せなかった。アンナは、だれにたいするよりも彼にやさしい態度を見せて、自分の肖像画にたいして感謝していた。ウロンスキイは、彼にたいしていんぎん以上の態度をとり、そして明らかに、自分の画についてのこの美術家の批評に興味を感じているようであった。ゴレニーシチェフは、芸術についての真の理解をミハイロフにつぎこむ機会をのがそうとはしなかった。が、ミハイロフは、だれにたいしても一様に、冷淡な態度をあらためなかった。アンナは、彼のまなざしによって、彼が自分を見るのを好んでいることを感じていたが、彼は、彼女と話すことを避けていた。ウロンスキイが彼の作品について話すときにも、彼は頑固に黙っていたし、ウロンスキイの作品を見せられたときにも、やはり頑固におし黙っていた。彼は、ゴレニーシチェフの説教には確かに弱らされていたが、しかし反駁はしなかった。
要するにミハイロフは、みずからおさえつけたような、不快な、なにか敵意でもふくんでいるような態度によって、彼らに近くなればなるほど、頭から彼らの気にいらない人物になってしまった。で、彼らは、写生がおわって、手もとにりっぱな肖像が残り、彼が来なくなったときには、大いに喜んだ。
ゴレニーシチェフがまずまっさきに、一同が胸にいだいていた考え――すなわち、ミハイロフはただウロンスキイをうらやんでいたにすぎないのだという考えを、発表した。
「かりにだ、あの男には才能があるのだから、うらやんでいるのではないとしてもだ。とにかく、あの男には、宮内官で金持で、おまけに伯爵(彼らはこういうことをすべて、おそろしく憎んでいるものだからね)、こういう人間が、かくべつそれという苦労もしないで、生涯をそれにささげている彼より、すぐれたものではないまでも、同じような仕事をしているということが、中っ腹なんだよ。いや、何よりもかんじんなのは教育さ。あの男にはそれがないんだからね」
ウロンスキイはミハイロフを弁護したが、彼も、心の深い底では、それを信じていた。なぜなら、彼の見解によれば、低い、階級の異なった人間は、人をうらやむのが当然だったからである。
アンナの肖像画――ともに実在の人物から、彼とミハイロフとのふたりによって描かれた肖像画は、ウロンスキイの目に、彼とミハイロフとのあいだにある相違を示さなければならぬはずだったけれども、ウロンスキイにはそれがわからなかった。ただ彼は、ミハイロフの肖像が完成してしまうと、このうえ描くのはむだだときめて、アンナの肖像を描くことをやめてしまった。が、中世風俗を題材にしたほうだけは描きつづけた。と、彼自身にも、ゴレニーシチェフにも、それからアンナにはとくに、その画が非常なできばえのように思われた。というのは、それがミハイロフの画よりも、はるかによく名画に似ていたからであった。
ミハイロフはまたミハイロフで、アンナの肖像画にひどく心をひかれていたにもかかわらず、その写生がおわって、芸術にかんするゴレニーシチェフの説教を聞く必要がなくなり、ウロンスキイの画を忘れることができるようになると、彼ら以上の喜びを感じた。彼は、ウロンスキイが画をおもちゃにすることを止めるわけにいかないのを知っていた。彼はまた、彼やすべてのディレッタントたちが、彼らの好きなものを描きちらす権利を十分に持っていることを知っていた。が、彼にはそれが不愉快であった。人が蝋《ろう》で大きな人形をつくって、それに接吻するのを禁ずることはできない。けれども、もしその人が人形をもってやって来て、恋する者の前に座をしめ、恋する者が恋している女を愛撫するように、その人形を愛撫しはじめたら、恋する者はきっと不愉快を感じるに相違ない。これと同じような不愉快を、ミハイロフは、ウロンスキイの画を見るたびにおぼえたのだった。彼には、おかしくもあれば、いまいましくもあり、気の毒でもあれば腹だたしくもあったのである。
絵画と中世時代にたいするウロンスキイの心酔も、長くはつづかなかった。彼は、絵画にたいする趣味があったからこそ、自分の画を完成することができなかった。画はそれで中止された。彼は漠然とながら、描き出しにはそれほど目だたなかった欠点が、このまま描きつづけるとすれば、ついには驚くべきものになるであろうことを感じていた。彼の、心には――自分には何もいうべきことはないのだと感じたり、まだ思想が熟さないのだから、いま自分は、それを練りながら材料を集めているのだと考えて、それでたえず自分を欺いたりしているゴレニーシチェフと同じ気持がおこったのである。しかしゴレニーシチェフは、この気持によって自分の心をかきたてたり悩ましたりしていたが、ウロンスキイのほうは、自分を欺くこともできなければ悩ますこともできず、かきたてることなどは、なおさらであった。で、彼はもちまえの、思いきりのいい性質によって、ひと言の弁解も説明もなしに、きっぱりと画を描くことをやめてしまった。
しかし、この仕事がなくなるとともに、このイタリアの町におけるウロンスキイと、彼の幻滅に驚いているアンナとの生活は、彼らにとってひどくたいくつなものに思われ、パラッツオはにわかに、いかにも古ぼけたきたならしいものになり、窓かけのしみや、床の割れめや、軒じゃぱらのはげたしっくいなどが、とても不愉快にながめられて、あいもかわらぬゴレニーシチェフや、イタリア人の教授や、ドイツ人の旅行家などが、たまらなくたいくつになってきたので、いよいよ生活を一変しなければならぬ必要に迫られてきた。そこで彼らは、ロシアの田舎へ帰ろうと決心した。ペテルブルグでは、ウロンスキイは兄と財産分けをしようと思い、アンナは男の子を見たいと思った。そして夏は、ウロンスキイの家の宏大《こうだい》な領地で送ろうと思いたったのである。
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十四
レーヴィンは結婚して三《み》月めになった。彼は幸福だったが、しかしそれは、彼が期待していたようなものとはぜんぜん違っていた。彼は一歩ごとに、昔の空想の幻滅と、新しい思いもかけぬ魅惑を見いだすのだった。レーヴィンは幸福だったが、家庭生活にはいってみて、一歩ごとに、それが自分の想像していたものとはぜんぜん違うことを知ったのだった。一歩ごとに彼は、湖上をすべる小舟のなめらかな、幸福な進みかたに見とれていた人が、その後、自分でその小舟に乗ってみて感ずるような、そんな気持を経験したのである。つまり、からだをゆすぶらないようにして静かに乗っているだけでは足りない――どの方向を指して行くかということや、足の下には水があり、その上をこいで行かねばならないことや、なれぬ手にはそれがつらいこと、ただ見ているときはらくそうだったが、さて自分でやってみると、非常に楽しくはあるけれども、非常に困難な仕事だということなどをまたたくまも忘れないで、考えていなければならないことを知ったのだった。
独身時代には、他人の結婚生活を、そのくだらない心づかいや、争いや、嫉妬を見ると、彼は心の中でたださげすむように微笑するだけであった。彼の確信によると、彼の未来の夫婦生活には、そのようなことはけっしてありえなかったばかりでなく、すべての外部的形式までが、あらゆる点において、他人の生活とはぜんぜん異なったものでなければならぬように思われていた。ところが意外にも、彼と妻との生活は、いっこうに特殊な形をとらなかったばかりでなく、かえってすべてが、彼が以前にはあんなにも軽蔑していた、きわめてつまらない些細《ささい》なことから組み立てられており、そしてそのつまらないことが、今では彼の意志に反して、なみなみならぬ、争いがたい意義をもっているのだった。そのうえレーヴィンは、あらゆるこうした些細なことの整理が、自分が以前に考えていたように、けっして容易なものではなかったことを知った。レーヴィンは、自分は家庭生活についてきわめて正確な観念をもっているように思いこんでいたにもかかわらず、彼もまたすべての男子のように、いつともなく家庭生活を、何ものの障害もありえない、また、こまごました心づかいなどに気をとられるようなことのありえない、愛の享楽としてのみ想像していたのであった。彼の見解によると、彼は自分の仕事にいそしみ、その休息を愛の幸福のうちに求むべきであった。彼女は愛せられるもの、ただそれだけでなければならなかった。しかしここでも彼は、すべての男子と同じように、彼女もまた働かねばならぬということを、忘れていたのだった。で、彼は彼女が、この詩のように美しいキティーが、家庭生活の最初の週はおろか最初の日から、テーブルクロースのことや家具のこと、来客用の寝具のこと、盆《ぼん》のこと、料理人のこと、食事のことその他について考えたり、心にとめたり、気をくばったりすることができたのに、少なからず驚かされた。ふたりがまだ婚約の間柄だったときにも、彼は、彼女が外国行きに反対して、わたしはそれよりほかに大事なことのあるのを知っていますといったような、また、わたしは恋以外のことも考えることができますといったような態度で、田舎行きを主張した、決着のよさに驚かされたものであった。そのことは、当時、彼をおもしろからず思わせたが、今もやはり、彼女のこまごました心づかいや心配が、何度となく彼をおもしろからず思わせるのだった。が、彼は、それが彼女としてはやむをえないことであるのを知った。そして、彼女を愛する心から、なぜという理由はわからず、また、そうした心づかいをわらってはいたけれども、なおそれを嘆美しないではいられなかった。彼は彼女が、モスクワからもって来た調度類を配置したり、新しいやり口で自分の居間と彼の居間とを片づけたり、窓かけを掛けたり、来客のため、ドリーのために、あらかじめ部屋を用意したり、自分の新しい召使に部屋をあてがってやったり、また料理人の|じい《ヽヽ》に食事を言いつけたり、アガーフィヤ・ミハイロヴナを食料係から遠ざけて、彼女と口論をしたりしたそのやり口を、あざ笑った。彼は、料理人の|じい《ヽヽ》が彼女に見とれて、その無経験な不可能な命令をききながらにこにこしているのも見れば、アガーフィヤ・ミハイロヴナが、若い奥さまの貯蔵にかんする新しいやり口にたいして、考えぶかげに、優しく頭を振っているのも見、またキティーが、泣き笑いをうかべながら、侍女のマーシャが彼女をお姫《ひい》さまと呼びなれているために、だれも自分のいうことをきかないで困るといって、彼のところへ訴えにきたときには、彼女がいつにもましてかわいらしかったことをも見た。こういうことは、彼には、かれんでもあったが、また|へんてこ《ヽヽヽヽ》にも思われた。で、彼は、こういうことは、いっそないほうがよかったろうにと考えた。
彼は、彼女が結婚後に経験している変化の感情を知らなかったのである。彼女は、生家にいるころには、ときどきキャベツをそえたクワス(ロシヤ独特の清涼飲料)とか糖菓《とうか》とかほしいと思うことがあっても、あれもこれもなかなか手にいれるわけにはいかなかった。が、今は彼女は、ほしいと思うほどのものは、なんでも言いつけることができ、糖菓などは、山ほど買うことができ、金もいくらでも使うことができ、ピローグなども、好きなのを注文することができたのである。
彼女はいま、ドリーが子供を連れてくるのを、楽しい気持で想像していた。この楽しさは、子供たちのためにはめいめいに、好きなピローグをこさえさせよう、ドリーはきっと自分の新家庭をほめてくれるにちがいない――こう思うにつけて、ひとしおであった。彼女自身は、それがなぜとも、またなんのためとも知らなかったが、とにかく家政という仕事は、抗しがたい力で彼女をひきつけた。彼女は本能的に、春の近づいてくるのを感じ、災厄《やくさい》の日もあることを知って、一生けんめいに巣ごしらえをし、巣ごしらえをすると同時に、そのこしらえかたを学ぶのに大わらわだったのである。
このキティーのこまごまとした心づかいは、レーヴィンの最初の高められた幸福の理想に反するもので、彼の幻滅のひとつであった。が、同時に、このかれんな心づかいは、その意味はわからなかったけれども、愛さないではいられなかった新しい魅惑のひとつであった。いまひとつの幻滅と魅惑は、争いであった。レーヴィンは、自分と妻とのあいだに、優しさと愛と尊敬以外の関係がありえようとは、とても想像することができなかった。ところが、結婚そうそうから、ふたりはもうけんかをはじめてしまい、彼女が彼に向かって、彼は彼女を愛しているのではない、ただ自分自身だけを愛しているのだと、泣いたり、両手を振りまわしたりしたほどであった。
彼らの最初のこの争いは、レーヴィンがあらたにつくった農園を見に出かけて、近道をしようとして道に迷い、半時間ばかり遅れて帰ったことからおこった。彼はただただ彼女のこと、彼女の愛のこと、自分の幸福のことばかりを考えながら、家路を乗って来たので、家へ近づくにしたがい、その心には、彼女にたいする優しい愛情がますます強くわきたってきた。彼は、いつか結婚の申し込みにスチェルバーツキイ家へ出かけていったときのような、いな、それよりももっと強い感情を胸にいだいて、部屋の中へかけこんだのだった。と、いきなり彼を迎えたのは、ついぞ今まで彼女の顔に見たことのない、暗い暗い表情であった。彼は彼女を接吻しようとしたが、彼女は彼を突きのけた。
「どうしたの、おまえ?」
「あなたはお楽しみですわね……」と彼女は、つとめておちついた、毒々しい調子をとろうとしながら、言いはじめた。
しかし、彼女が口をひらくやいなや、無意味な嫉妬と、窓に腰掛けて、身動きもしないですごしたこの半時間のあいだ彼女を苦しめつづけた、あらゆるむしゃくしゃの非難の言葉が、彼女の胸をついてほとばしり出た。と、そこで彼は、式のあとで彼女を教会から連れ出したときに、どうしてもわからなかったことが、初めてはっきりとのみこめたのだった。彼は、彼女が自分に近いものであるばかりでなく、今ではもう、どこまでが彼女でどこからが自分なのか、わからないのだということを理解した。彼はこのことを、自分がこの瞬間に経験した、ふたつにわかれるということの苦しい気持によって、理解したのだった。彼も初めは腹をたてた、が、すぐ、同じ瞬間に、自分は彼女によって腹をたてさせられるという法はないこと、彼女は自分自身なのだということを感じた。つまり、彼が最初の瞬間に感じたのは、ふいに背後からひどくぶたれた男が、いまいましさと仕返しをしたい気持とで、相手を見つけようとしてふりむきはしたものの、それは何かのはずみに、自分で自分をうったのであって、だれに腹をたてることもない、じっと堪えて、痛みをまぎらすほかはないのだということがわかったときにあじわうような感じであった。
その後は一度も、このときほどに力強く、それを感じたことはなかったが、この最初のときには、彼は長いことわれにかえることができなかった。自然の感情は彼から、自分を弁護して、彼女に罪をきせることを要求した。しかし、彼女に罪をきせるということは、いっそう彼女の心をいらだたせ、あらゆる悲しみのみなもとであるこの不和を、ますます大きくするものであった。ひとつの習慣的な感情は、彼をかって、その罪を自分から取りのけ、彼女のほうへうつさせようとした。が、いまひとつの、より力強い感情は、この不和の大きくならないうちに、早く、できるだけ早く、それをもみ消させようとした。こんな不当な非難をうけて、このままにしてしまうことは、いかにもつらいことであったが、自分を弁護して、彼女につらい思いをさせることは、いっそうわるいことであった。なかば夢中で、肉体の痛みに苦しんでいる人のように、彼は自分のからだから、その痛いところを引き裂き、投げ捨ててしまいたいと思ったが、気がついてみると、その痛いところは彼自身であった。ただ、つとめてその痛いところを堪えいいようにするほか方法がなかった。で、彼は一生けんめいに、そうしようと努力した。
彼らは和解した。彼女は、自分の罪をさとったので、口に出してはいわなかったけれども、彼にたいしていっそう優しくなり、そしてふたりは、新しい倍加された愛の幸福を経験した。しかしこのことは、こうした衝突がいたってつまらない、思いがけない原因によって、その後ふたたび、いな、しばしばくりかえされるのを防ぐためには役だたなかった。こうした衝突は、ふたりがまだお互いに相手にとってどういうことが重要であるかを知らなかったことからも、また、この結婚当座には、ふたりともよくすぐれない気分になることがあったことからも、しばしばおこるのであった。ひとりが不きげんでも、ひとりが上きげんでいれば、平和の破れることはなかったが、ふたりともすぐれない気分でいるときには、ほどへてみると、何をあんなに争ったのであったか、どうしても思いだすことができないような、あまりに無意味なわけのわからぬ原因から、衝突がおこるのであった。もっとも、ふたりともいい気分でいるときには、彼らの生活の楽しさは、常に倍加するのであった。しかし、とにかく、この最初の期間は、彼らにとって至難な時期であったのである。
この最初のあいだずっと彼らは、ふたりがお互いに結びつけられている鎖を、両方からひっぱりあっているような緊張を、とくにいきいきと感じていた。要するに、世間の言いつたえによって、レーヴィンが非常に多くを期待していた例の蜜月、つまり結婚後の一か月は、ただ蜜のようでなかったばかりでなく、彼らふたりの記憶に、彼らの生涯を通じての、最も苦しい屈辱の時期として残ったのだった。彼らふたりは、その後の生活において一様に、ふたりとも正常な気分でいることのまれであった、つまり自分自身でいることのまれであったこの不健全な期間の、醜悪《しゅうあく》な、恥ずかしい数々の出来事を、自分たちの記憶から抹殺することに努力した。
やっと結婚後三月めになり、ふたりが一か月滞在したモスクワから帰ってから、ふたりの生活は、初めてやや平調になってきた。
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十五
彼らはモスクワから帰って来たばかりで、自分たちだけになったことを喜んでいた。彼は書斎の書卓に向かって書きものをしていた。彼女は、結婚当時身につけていた例の黒っぽいライラック色の服――彼にはとくに思い出のふかい、貴重なものだったその服を今日も着て、レーヴィンの父や、祖父の代からずっと書斎に置かれてあった、例の革ばりの古めかしい長いすに掛けて broderie anglaise(イギリス刺繍《ししゅう》)の針を動かしていた。彼は彼女の存在をたえず楽しく感じながら、考えたり書いたりしていた。彼は農事上の仕事も、新しい農事の基礎を述べるはずであった著述の仕事も、中絶するようなことはなかった。しかし、以前にはこれらの仕事や思索が、全生活をおおうている暗い影にくらべて、とるにも足らぬことに思われたように、今はまたまぶしいほどな幸福の光にみたされている眼前の生活にくらべて、いかにも愚劣な、ちっぽけなものに思われるのだった。彼は自分の仕事をつづけていたが、今では彼の注意の重心はほかのものにうつり、その結果として、自分がまったく異なった、よりはっきりした目で自分の仕事を見るようになったことを感じていた。以前には、この仕事は彼にとって、人生からの救いであった。以前には彼は、もしこの仕事がなかったら、自分の生活はあまりに陰うつなものになるだろうと思っていた。ところが今では、これらの仕事は、生活をあまりに単調な明るいものとしないために、彼に必要なものとなったのである。ふたたび原稿を取り上げて、書いてあるところを読みかえしてみ、彼はうれしい気持で、その仕事がつづけるに足る価値のあるものであることを発見した。仕事は新しく有益なものであった。以前の思想のなかには、よけいなもの、極端なもののように思われる点も多かったが、問題全部をあらたに自分の記憶のなかでくりひろげてみると、多くの空白がはっきりしてきた。彼はいま、ロシアにおける農業の不利な状態の原因について、新しい章を書いていた。彼は、ロシアの窮乏は、ただ土地所有権の誤った配分や、まちがった傾向からだけおこるのではなく、最近、変則にロシアへ持ちこまれた外国文明、とくに、都市への集中をうながして奢侈《しゃし》の風潮を助長し、したがって、農村を荒廃した交通機関や鉄道の普及、製造工業、金融業、およびその同伴者である投機業の発達などというものからも、おこるのであることを証明しようとしていた。つまり彼には、一国の富が正常な発達をとげている場合には、これらすべての現象は、すでに農業に相当な労力がそそがれて、農業が正しい――少なくとも一定の――状態におちついたときにだけおこるべきものと思われていた。一国の富は均等に成長すべきものであって、とくに富の他の部門が農業を追いこさないことが必要であり、農業の一定状況に応じて、交通機関もそれに相当したものでなくてはならない。しかるに、現在わが国のように土地の利用法が誤っている場合には、経済的必要でなく、政治的必要によって生まれた鉄道などは、時期尚早であって、期待される農業の助成発達のかわりに、農業を追いこして、製造工業や金融業の発達をうながし、農業を阻止してしまう。したがって、動物の器官のひとつが一方的な早期発達をした場合、その全面的発達がさまたげられると同じように、金融業や交通機関や、製造工業の発達は、それが時にあっているヨーロッパでは疑いもなく必要であるが、わがロシアの富の全体的発達のためには、当面の主要問題である農業の整理をあとまわしにした点で、ただ害をなしたにすぎない――こう思われていたのである。
彼がこんなことを考えて書いているあいだに、彼女は夫が、モスクワ出立の前夜、いかにも気のきかない態度で彼女にじゃらついた若い公爵のチャールスキイにたいして、どんなに不自然に注意ぶかかったかということを考えていた。『まあ、このひとはへんに気をまわしていたんだわ』と彼女は考えた。『ああ神さま! なんてこのひとはかわいらしいおばかさんでしょう。わたしにやきもちをやくなんて! ああ、もしこのひとが、あんな人たちはみんな、わたしにとって、料理人のピョートルも同様だということを知っていたら』彼女は、われながらふしぎな所有感をいだいて、彼の後頭部と赤い首とをながめながら、考えた。『お仕事のじゃまをしちゃわるいけれど(だけど、だいじょうぶ、おくれやしないわ!)わたしどうでも一ぺん顔を見せていただかなくちゃ。このひと、わたしが見ていることを感じていらっしゃるかしら? ほんとはこちらを向いてくださるといいんだけれど……ほんとに、ねえ!』と彼女は、精いっぱいに大きく目をみはってみた、それによって視線の作用を強めようと願いながら。
「そうだ。彼らはすべての液汁を自分のほうへばかり集めて、虚偽の光を放っているのだ」と彼は、筆をとめてつぶやいた。そして、彼女が自分のほうを見てにこにこしているのを感じて、ふりかえった。
「なんだね?」と彼は、笑顔になって立ちあがりながら、たずねた。
『ほら、お向きになった』と彼女は考えた。
「なんでもないの、ただね、こちらを向いてくださればいいと思っていただけ」と彼女は、彼の顔をまじまじと見て、自分が仕事のじゃまをしたのを彼が怒っているかどうか、読もうとつとめながらいった。
「ああ、ほんとに、ふたりだけでいるのはいいね! ぼくにはということだがね、つまり」と彼は、彼女のそばへよって、幸福の微笑に輝きながらいった。
「わたしだってようございますわ! わたしはもうどこへも行きませんことよ、なおさらモスクワなんかへは」
「で、おまえは何を考えてたの?」
「わたし? わたしはね、考えてましたのよ……いいえ、いいえ、それよりそちらへ行って書いてちょうだい、ほかのことに気をおとられにならないで、ね」と彼女は、くちびるをすぼめながらいった。「わたしもいま、ここの穴を切り抜かなければならないんですから、ほら、ね?」
彼女は鋏《はさみ》をとって、それを切り抜きはじめた。
「いや、まあ、それをいってごらんよ」と彼は、彼女のそばへ腰をおろして、小さい鋏のまるく動くのを見ながらいった。
「あら、わたし何を考えてたんでしょうね? わたしはモスクワのことを考えてましたのよ。それからあなたのうしろ頭のことを」
「いったいどうして、ぼくにこんな幸福がきたんだろう? 不自然すぎる、けっこうすぎる」と彼は、彼女の手を接吻しながらいった。
「あら、わたしはまたその反対に、よければいいほど自然なように思われますわ」
「ああ、おまえの髪が」と彼は、注意ぶかく彼女の頭を見まわしながらいった。「編み髪が、ね、こんなになって、いや、いや、お互いに仕事をしようね」
が、仕事はもはやつづけられなかった。そして彼らは、クジマがお茶の支度のできたことを告げにはいってきたときには、何かわるいことでもしていた人のように、あわてて互いにとびのいた。
「みんなは町から帰って来たかい?」とレーヴィンはクジマにたずねた。
「いまもどってまいったところで。あちらで荷物を解いております」
「早くいらっしゃいね」と彼女は、書斎から出ながら彼にいった。
「さもないと、わたしひとりで手紙を読んでしまいますよ。それから、ピアノの連弾をいたしましょうよ」
ひとりあとに残って、彼女の買って来てくれた新しい紙ばさみの中へ自分の草稿帳を入れてしまうと、彼は、新しい、これまた彼女といっしょにこの家のものとなった、みごとな付属品のついた洗面器で手を洗いはじめた。レーヴィンは自分の考えに微笑をうかべ、その考えにたいして、自分をとがめるように頭を振った。悔恨に似た感じが彼を悩ますのであった。なにやら恥ずかしいような、柔弱な、彼のいわゆるカピュア式(カピュアはイタリアの古都の名で、カピュア式というのは、遊惰な享楽的なというほどの意)のところが、彼の現在の生活にはあったのである。『こんなふうの生活はよくない』こう彼は考えた。『もうすぐ三《み》月だ。だのにおれは、ほとんど何もしていない。ほとんど今日はじめて、おれはまじめに仕事にとりかかりはしたが、さてどうだ? はじめたと思うと、もう投げだしてしまったじゃないか。自分の日常の仕事さえ――それさえおれは、ほとんどうっちゃってしまった。領地のことだって、これもおれは、歩いてにしろ馬車にしろ、ほとんど出かけたためしがない。それというのも、あれをひとり残して出るのが、かわいそうだったり、さぞ寂しがるだろうと思ったりするからだ。ところで、おれは、結婚前の生活などは、いいかげんなもので、勘定外だが、結婚後には真の生活がはじまるのだと思っていた。それがどうだ、まもなく三月になるというのに、おれは、これまで一度もしたことのないような遊惰な、無益な時間の過ごしかたをしている。いや、これではいけない。仕事をはじめなくてはいけない。むろん、あれがわるいわけではない。あれを責める点はひとつもない。おれ自身がしっかりして、男としての独立をたもっていなくてはならなかったのだ。さもないと、こんなふうでは自分もなれてしまうし、あれにもわるいことを教えこむことになる……むろん、彼女がわるいわけではない』こう彼は自分にいった。
しかし、不満を感じている人にとって、その不満の原因にたいしてだれか他人を、わけても自分に一ばん近い者を責めないようにするのは、至難なわざである。で、レーヴィンの頭にも、漠然《ばくぜん》とながらつぎのような考えがうかんでいた。彼女そのものに罪はない(どういう点からも、彼女に罪のあろうはずはない)が、しかし彼女の教育が、あまりにうわっつらな、くだらない教育がいけないのである。『あのチャールスキイのばか者――おれはちゃんと知ってるが、彼女はあの男に、あのへんな態度をやめさせたいと思ったのだが、できなかったのだ』――『そうだ、家庭にたいする趣味以外(それは彼女も持っている)、自分の化粧やイギリス刺繍《ししゅう》にたいする興味以外、彼女にはまじめな趣味というものがないのだ。おれの仕事にも、農業のことにも、百姓たちにも、かなり上手である音楽にも、読書にも、いっこう趣味をもっていない。彼女は何もしない、それでいてすっかり満足している』レーヴィンは心のなかでそれを非難したが、まだ彼には、彼女が将来の活動時代――同時に、夫の妻となり、一家の主婦となり、やがて子供を手がけたり、養ったり、教育したりしなければならなくなる時分には、必ず来るはずの活動時代のために準備をしているのだということを、わかっていなかったのである。彼はまた、彼女は本能的にそれを知って、その恐ろしい労苦にたいして準備しながら、自分がいま楽しい気持で将来の巣をいとなむかたわら享楽している、のんきさと愛の幸福時代の瞬間にたいして、自分を責めるようなことをしないでいるだけだということに、思いいたらなかったのである。
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十六
レーヴィンが二階の一室へはいって行ったとき、妻は新しい茶器を前にして、新しい銀のサモワールのそばに座をしめ、お茶のいっぱいはいった茶わんを手にうけていた老女中のアガーフィヤ・ミハイロヴナを小テーブルのそばに掛けさせて、自分は、たえず手紙のやりとりをしていたドリーからの手紙を読んでいた。
「ごらんあそばせ、奥さまがわたくしをそこへおすわらせになったのでございますよ。いっしょに掛けろとおっしゃいましてね」とアガーフィヤ・ミハイロヴナはキティーのほうを見て、親しげにほほえみながらいった。
アガーフィヤ・ミハイロヴナのこうした言葉のうちに、レーヴィンは、このごろアガーフィヤ・ミハイロヴナとキティーとのあいだにもちあがったドラマの大詰めを読んだ。彼は、アガーフィヤ・ミハイロヴナは彼女から一家の支配権を取りあげてしまった新しい女主人にたいして、かなり悲しい思いをいだいていたにもかかわらず、キティーがとにかく彼女を征服して、自分を愛させるようにしたのであることを見てとったのである。
「ねえ、わたしあなたのところへ来たお手紙も読んでしまいましたのよ」とキティーは、無学らしい人の手紙を彼に渡しながらいった。
「これはきっと、あの女の人からきたんでしょう、あのあなたのお兄さまの……」と、彼女はいった。「わたし、ほんとは読みはしませんでしたの、それから、これはわたしの家からと、ドリーからきたんですわ。まあどうでしょう、あなた! ドリーは、サルマーツキイ家の子供舞踏会へグリーシャとターニャとを連れて行ったんですって。そしてターニャが、公爵夫人に扮《ふん》したんですって」
しかしレーヴィンは、彼女の話をきいてはいなかった。彼は顔をあからめ、ニコライ兄の情婦だったマリヤ・ニコラエヴナからの手紙をとって、読みはじめた。これはもう、マリヤ・ニコラエヴナからの二度めの手紙であった。最初の手紙では、マリヤ・ニコラエヴナは、彼の兄がなんの罪もないのに彼女をおいだしてしまったことを書き、胸をうつナイーヴな調子で、自分はまたこじきのような境涯にいるけれども、何も乞《こ》いもしなければ、望みもしない、が、ただニコライ・ドミートリエヴィッチは、自分がそばにいなかったら、健康の衰えから倒れてしまうだろうと思うと、たえられない、こうつけくわえて、彼に、兄に気をつけてくれるようにと頼んでいた。が、こんどは、彼女は別のことを書いていた。彼女はニコライ・ドミートリエヴィッチを見つけて、ふたたびモスクワで彼といっしょになり、それから彼とともに、彼がそこで勤め口を見つけたある県庁所在地へ出かけて行った。ところが、彼は長官とけんかをして、またぞろモスクワへ舞いもどりかけたが、途中でひどくぶりかえして、今ではもはや、ふたたび起《た》てるかどうかもわからない、こう彼女は書いていた。『たえずあなたさまのことばかり申しておられます。そのうえもはや一文のお金もなく』
「ちょっと、これを読んでごらんなさいな。ドリーがあなたのことを書いてますから」とキティーはにこにこして言いかけたが、夫の顔の変わった表情に気がついて、急に微笑をおさめてしまった。「どうなすったの、あなた? 何事か、おこりましたの?」
「ニコライが、兄が死にそうだと書いてあるんだ。ぼくは行ってくる」
キティーの顔もさっと変わった。公爵夫人に扮《ふん》したターニャのことも、ドリーのことも、そんなことはみなどこかへ消えうせてしまった。
「で、いつお立ちあそばすの?」と彼女はいった。
「明日」
「では、わたしもおともいたしますわ、いいでしょう?」と彼女はいった。
「キティー! いったいそれはなんということだ?」と彼は、非難をこめた調子でいった。
「何がなんということですの?」と彼女は、彼が自分の申し出を、気の進まぬ、いまいましそうな態度でうけたことに、侮辱を感じてこういった。「どうしてわたしの行くのがいけないんですの? わたし、あなたのおじゃまなんかいたしませんわ。わたしは……」
「ぼくが出かけて行くのは、ね、兄が死にかかっているからなんだよ」とレーヴィンはいった。「それをおまえは、なんのために……」
「なんのためですって? あなたがいらっしゃるのと同じことじゃありませんか」
『おれにとってはこんなに重大なときなのに、あれはただ、ひとりになったら寂しかろうということばかり考えてるんだ』レーヴィンはこう思った。そして、これほど重大な場合におけるこうした口実が、ますます彼をいらだたせた。
「そんなことはできませんよ」と、彼はきびしく言いはなった。
アガーフィヤ・ミハイロヴナは、事件がけんかにまでなりそうなのを見ると、静かに茶わんをおいて、出ていってしまった。キティーはそれには気もつかなかった。夫の最後の言葉の調子が、とりわけ、彼が彼女のいったことを信じていないらしく見えたことによって、いっそう彼女を傷つけた。
「ようございますか、あなたがいらっしゃるなら、わたしもごいっしょにまいりますよ、どうでもまいりますよ」と彼女は、いらいらしながら早口に言いだした。「なぜいけないんですの? なんだってあなた、いけないなんておっしゃるんですの?」
「なぜって、とんでもないところへ、とんでもない道を通って、とんでもない宿屋へ行くんだからさ……おまえがいっしょでは、ぼくを束縛するだけだからさ」とレーヴィンは、つとめて冷静になろうとしながらいった。
「いいえ、ちっとも。わたしにはなんにもいりませんもの。あなたのいらっしゃるところなら、わたしだってなにも……」
「いや、しかしだね、向こうには、おまえの親しくすることのできないあの女がいるということだけでも」
「向こうにどんなかたがいて、何があるか、わたしはなんにも知りませんわ、また知ろうとも思いませんわ。わたしの知っているのはただ、自分の夫のお兄さまが死にかかっていて、夫がそのほうへ出かけて行こうとしているということだけですわ。で、わたしも夫といっしょに行って、そして……」
「キティー! ね、腹をたててはいけないよ。だがおまえも、もう少し考えておくれ。ね、これは、非常に重大なことなんだ。で、ぼくはおまえがそれを、ひとりでるすをするのをいやがるような弱い心とごっちゃにしていると思うのがたまらないほどなんだが、おまえもし、ひとりで寂しいと思ったらモスクワへでも行っていなさい」
「ほら、あなたは|いつでも《ヽヽヽヽ》わたしに、わるい、卑しい意味ばかりおしつけておしまいになる」と彼女は、屈辱と憤怒《ふんぬ》の涙をうかべながら、言いはじめた。「わたしはなんでもありませんわ、弱い気をおこすなんて、そんなことけっしてありませんわ……ただわたしは、夫に悲しみがあるときには、夫のそばについているのが自分の義務だと思ってるだけですわ。それをあなたは、わざとわたしを苦しめようとなさるんですもの、わざとわからないようなふりをなさるんですもの……」
「いや、これはもうたまらない。そんな奴隷のようになることは!」とレーヴィンは立ちあがりながら、そして、それ以上自分の腹だたしさをおさえることができなくて、こう叫んだ。が、その瞬間に彼は、自分で自分をなぐっているような気持を感じた。
「じゃあ、なぜあなたは、結婚なんかなすったんです? ご自由なからだでいらっしゃれたのに、なぜなすったんです……いまになって後悔をなさるくらいなら?」彼女はこういって、とびあがると、客間のほうへかけだしていった。
彼があとを追って行ってみると、彼女はしきりに泣きじゃくっていた。
彼は、彼女を説得するというよりも、ただ彼女をおちつかせることのできる言葉を見つけだそうとつとめながら、話しはじめた。が、彼女は彼のいうことをきかないで、なんといっても承知しなかった。彼は彼女のほうへ身をかがめて、取られまいとするその手を取った。彼は彼女の手に接吻し、髪に接吻し、また手に接吻した、――彼女はしじゅうおし黙っていた。が、彼がその顔を両手で抱いて、「キティ!」といったときに、急にわれにかえってちょっと泣いてきげんをなおした。
ふたりは明日いっしょに出発することにきまった。レーヴィンは妻に、おまえが同行を望んだのは、ただ何かの役にたちたいためだということを信じているといった。そして、マリヤ・ニコラエヴナが兄のそばにいようと少しもぐあいの悪いことなどはないということに同意した。しかし、心の奥底では、彼女にも自分自身にも、不満をいだいている人として出発した。彼女にたいしては、彼だけを行かせなければならなかったときに、彼女がそうできなかったのが不満だったのだし(まだこのころまでは、彼女から愛されうるという幸福を信ずることのできなかった自分が、今は彼女からあまりに愛されすぎて自分を不幸に感じていると考えるのは、彼にとって、なんというふしぎなことであったろう!)、また、自分自身にたいしては、自分の意志を立て通すことのできなかったのが不満だったのである。なお彼は、はらの底ではいっそう、兄といっしょにいる例の女のことなど彼女にとってなんの関係もないという意見に、同意できず、恐怖の思いをもって、おこりうべきあらゆる衝突のことを考えてみた。と、彼の妻、彼のキティーが、ああいう女とひとつ部屋にいることになるという、ただその一事からだけでも、彼は嫌悪と恐怖の情にかられて、戦慄しないではいられなかった。
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十七
ニコライ・レーヴィンが病臥《びょうが》していた県庁所在地の旅館は、清潔で、快適で、そのうえ優美さをもそなえようという最上の企画のもとに、新しい、完備したプランによって建てられた地方旅館のひとつであったが、こうした旅館は、そこを訪れる公衆のために、たちまちにして現代式の完成をねらう不潔な酒場に変わってしまい、そうしたねらいを持つために、かえって、在来のただきたないだけの宿屋よりもいっそうわるいものになってしまうのだった。この旅館も、すでにそういう状態になっていた。ドア番気どりで、よごれくさった軍服を着て、入口でたばこをふかしている兵隊、すかし入り鋳鉄《いもの》づくりの、陰気な不愉快な階段、きたない燕尾服を着たいけぞんざいなボーイ、ほこりまみれの|ろう《ヽヽ》細工の花束がテーブルを飾っている大広間、それから、いたるところにある不潔、塵埃《じんあい》、乱雑など、それにこの旅館の新しい現代式、鉄道式なひとりよがりのサービス顔――こういったものがレーヴィン夫妻の心に、彼らの若々しい新婚生活のあとで、最も重苦しい感じをあたえた。わけても、この感じは、この旅館のあたえるあやしげな印象が、彼らを待っていたものとはぜんぜん調和しなかった点で、なおさらであった。
例によって、どの程度の部屋がいいかという質問のあとで、上等の部屋はひとつもあいていないことがわかった――上等室のひとつは鉄道の検察官に、いまひとつはモスクワから来ている弁護士に、第三室は田舎から来ているアスタフイエフ公爵夫人に、みなそれぞれしめられていた。そしてあいているのは、薄ぎたない部屋がひとつきりで、それと隣りあったもうひとつの部屋は、晩までにはあくということであった。彼が予想していたようなこと、つまり、兄がどうなっているかと思う心配で気もそぞろになっている場合に、すぐさま兄のところへかけつけるかわりに、着くそうそう彼女の心配をしてやらなければならないようなことがおこったのにたいして、妻をいまいましく思いながら、レーヴィンはあてがわれた部屋のほうへ妻を連れて行った。
「いらしてくださいまし、いらしてくださいまし!」と彼女はおどおどした、すまなそうなまなざしで彼の顔を見ながらいった。
彼は黙ってドアの外へ出た。と、そこで、彼の到着を知って、そこまで来ながらなかへはいりかねていたマリヤ・ニコラエヴナとぱったり出会った。彼女は、彼がモスクワで見たときと少しもかわっていなかった。――同じ粗毛《そもう》の服と、むき出しの腕と首、同じ善良で鈍そうな、いくらかふとったあばたのある顔。
「おお! どうしました? 兄はどんなです? どうです?」
「だいぶおわるうございますの。もうお起きになれませんのです。そして、あなたさまばかり、お待ちになっていらっしゃいます。あのかたは……あなたさまは……奥さまと」
レーヴィンははじめのうち、何が彼女をどぎまぎさせているのかわからなかったが、彼女がすぐにそれを明らかにした。
「わたしはあちらへまいっておりますわ。お台所のほうへまいっておりますわ」と、彼女は言いだした。「あのかたはきっとお喜びになりますわ。あのかたはもう聞いて、ちゃんと知っていらっしゃいます、そして外国でお会いになったことまで、よく」
レーヴィンは、彼女が妻のことをいっていることはわかったが、なんと答えていいかはわからなかった。
「行きましょう、行きましょう!」と彼はいった。
が、彼が一歩踏みだすかださないうちに、彼の部屋のドアが開いて、キティーが顔をだした。レーヴィンは、彼女自身と夫とを、こうした苦しい立場におちいらせた自分の妻にたいする恥ずかしさと腹だたしさのためにまっ赤になった。が、マリヤ・ニコラエヴナは、彼以上にまっ赤になった。彼女はちぢみあがって、泣きだしそうなほどまっ赤になり、両手で服のはしをつかんで、何をいっていいか、どうしていいかわからないで、まっ赤な指でそれをよじりまわしていた。
最初の瞬間、レーヴィンは、キティーがこの、彼女にとって不可解な、恐ろしい女を見たまなざしのうちに、むさぼるような好奇の表情のあるのをみとめた。しかし、それはほんの一瞬のことであった。
「それで、いかがですの? お兄さまはどんなでいらっしゃいますの?」と彼女は夫のほうへ、それから彼女のほうへ顔をむけた。
「だが、廊下で話をするわけにはいかないじゃないか!」とレーヴィンは、このときさも何か用事ありげに足をふるわせながら廊下を歩いていた紳士のほうを、いまいましげに見やりながらいった。
「そうね、じゃおはいりになって」とキティーは、ようやくおちついたらしいマリヤ・ニコラエヴナのほうへ顔をむけていった。が、びっくりしたような夫の顔に気がつくと、「それとも、いらっしゃいまし、いらっしゃいまし、そしてわたしを呼びによこしてくださいまし」こういって、部屋のなかへひっこんだ。レーヴィンは兄のほうへ行った。
彼が兄の部屋で見たり感じたりしたことは、彼のぜんぜん予期しないことであった。彼は、つね日ごろ肺病患者にはよくあることと聞いていた、そして、秋に兄が来たときにひどく驚かされたことのある、あの同じ自己|欺瞞《ぎまん》の状態を見いだすことと思っていた。彼はまた、近く迫っていた死の肉体的|徴候《ちょうこう》が、いっそう決定的なものとなり、いっそうの衰弱、いっそうの憔悴《しょうすい》が見えてはきたであろうが、しかしやはり――ほとんど以前と同じ状態でいるであろうと予想していた。なおまた、自分は愛する兄を失う同じ悲しみの情と、死にたいする恐怖、以前にも一度経験はあるが、それよりもいっそう高い程度の恐怖をあじわうであろうと予想していた。そして、それにたいして心がまえをしていたのであったが、彼の見いだしたのは、ぜんぜん違ったものであった。
小さいきたならしい部屋のなか――ペンキ塗りの壁には|つば《ヽヽ》が吐きちらしてあり、薄い仕切り壁の向こうには人の話し声の聞こえている、そして息づまるような汚物の悪臭にひたった空気のなかに、壁から少しはなれたベッドの上に、毛布につつまれた一個の肉体が横たわっていた。この肉体の一本の手は、毛布の上へつきだされていて、その手の|くま《ヽヽ》手のように大きな手くびは、もとも中ほども同じふとさの細く平らべったい長い管《くだ》のさきに、ふしぎな形でくっついていた。頭は横向きにまくらの上にのっていた。レーヴィンの目には、こめかみの上の汗ばんだ薄い髪の毛と、皮膚がぴんとはって、すきとおるように見える額とが映った。
『この恐ろしい肉体がニコライ兄だなんて、そんなことがあってたまるものか』とレーヴィンは考えた。が、さらに近づいてその顔を見ると、もう疑うことはできなかった。恐ろしい相好《そうごう》の変化にもかかわらず、この死骸のような肉体が生きている兄であるという恐ろしい真実を理解するには、レーヴィンは、はいって行った自分の上へあげられた、そのいきいきした目を見ただけで、へばりついた口ひげの下の口のかすかな動きをみとめただけで、十分であった。
きらきらと光る両眼は、きびしく責めるように、はいってきた弟をじっと見た。と、たちまち、この視線によって、生きている者同士の生きた関係が結ばれた。レーヴィンは即座に、自分にこらされたまなざしのうちに叱責を感じ、自分の幸福にたいして悔恨を感じた。
コンスタンチンが手をとると、ニコライはほほえんだ。が、その微笑は弱々しい、やっと見えるくらいのものだったので、この微笑にもかかわらず、きびしい目の表情は、依然として変わらなかった。
「おまえも、おれがこんなになっていようとは思わなかったろう」と、彼はやっとのことでいった。
「ええ……いいえ」とレーヴィンは、言いよどみながらいった。「だが、なぜ兄さんは、もっと早く知らせてくれなかったんです? つまり、わたしの結婚の時分にですよ。わたしはずいぶんほうぼうたずねたんですよ」
沈黙を避けるためには、話をしなければならなかったが、彼は何をいっていいかわからなかった。ことに兄が、なんとも答えないで、ただじっと目をはなさずにこちらを見て、一語一語にその意味をせんさくしているのが明らかだったので、なおさらだった。レーヴィンは兄に、妻もいっしょに来ていることを告げた。ニコライは満足の色をうかべたが、自分のありさまを見せて、彼女を驚かすにはしのびないといった。沈黙が落ちてきた。とつぜんニコライは、少し身うごきして、何やら言いはじめた。レーヴィンは、彼の顔の表情によって、なにか特別に意味ふかい重大なことを、心まちしたが、ニコライは、自分の健康のことを話しだした。彼はしきりに医者のことをわるくいって、モスクワのような名医のいないことを残念がったので、レーヴィンは、彼がまだ希望を持っていることをさとった。
沈黙の最初の瞬間をとらえて、レーヴィンは、一分でも苦しい感じからのがれ出たいと思いながら立ちあがり、妻を呼びに行ってくるといった。
「ああ、それがいい、じゃあおれは、少しここをきれいにさせとこう。ここはきたなくて、いやなにおいがするようだからね。マーシャ、少し片づけてくれ」と、病人はやっとの様子でいった。
「そして片づいたら、おまえはあちらへ行っているんだ」と彼は、もの問いたげに弟のほうを見て、言いたした。
レーヴィンはなんとも答えなかった。廊下へ出ると、彼はあゆみをとめた。彼は妻を呼びに行くといったが、いま自分の感じていることを思いかえしてみて、反対に、彼女が病人のところへ行かないように、説きつけようと決心した。『なんのためにあれまでが、おれと同じ苦しみをなめる必要がある?』と彼は考えた。
「さあ、どうしたの? どんな様子でしたの?」キティーは、びっくりしたような顔をしてたずねた。
「ああ、これは恐ろしいことだ、恐ろしいことだ! なんだっておまえは来たんだろうな?」とレーヴィンはいった。
キティーはおずおずと、悲しげに夫を見ながら、数秒間黙っていた。それからそばへ進みよって、両手で彼の肘にすがった。
「コスチャ、どうぞわたしをあのかたのところへ連れていってください。ふたりのほうがいくぶんでも気がらくでしょうから。ほんとに、わたしを連れていってください。連れていってください、お願いですわ。そしてあなたは出てしまってください」と、彼女は言いだした。「あなたを見ていて、お兄さまを見ないでいることが、わたしにとってどんなにつらいか、わかってくださらなくては困りますわ。あちらへ行けば、わたしはあなたにもお兄さまにもお力ぞえができると思いますの。どうぞ、わたしを行かしてください!」と彼女はまるで、自分の生涯の幸福がこの一事にかかってでもいるような調子で、夫に嘆願した。
レーヴィンは承諾しないではいられなかったので、気をとりなおし、マリヤ・ニコラエヴナのことなどきれいに忘れてしまって、キティーを連れてまた兄の部屋へ行った。
軽く歩をはこびながら、そしてたえず夫に目をそそいで、彼に勇気ありげな同情にみちた顔を見せながら、彼女は病人の部屋へ通ると、ゆっくり身をひるがえして、音のしないようにドアをしめた。そして、足音をしのんですばやく病人の寝床へ近づき、病人が頭をまわす必要のない側へあゆみよりながら、すぐに自分の新鮮な若々しい手に、骸骨のような大きな彼の手をとり、強く握りしめて、女性に特有な、人の気にさわらないような、同情のこもった、静かな、生気にみちた口調で、彼と話をはじめた。
「わたくしたち、ソーデンでお会いしたことがございましたわね。お近づきにはなりませんでしたけれど」と彼女はいった。「わたくしがあなたの妹になるなんて、まさかお考えにはならなかったでしょうね?」
「あなたはわたしがわからないでしょう」と彼は、彼女が来たので、輝くような微笑をうかべていった。
「いいえ、わかりますわ。でも、よくわたくしどもにお知らせくださいましたわね。コスチャはあなたのことを思いだして、案じない日は一日だってございませんでしたのよ」
しかし、病人の元気は長くはつづかなかった。
まだ彼女が話しおわらないうちに、彼の顔にはふたたび、瀕死の人が生きている人をうらやむ、峻厳《しゅんげん》な、非難するような表情がこおりついた。
「わたしね、このお部屋はあんまりよくないように思いますのよ」と彼女は彼の凝視から顔をそむけて、部屋を見まわしながらいった。
「宿の主人に話して、ほかの部屋を借りるようにしなければいけませんわ」と彼女は夫にいった。
「なるべくなら、わたしたちのほうへもっと近いところに」
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十八
レーヴィンは、おちついて兄を見ていることもできなかったし、兄の前では、自然なおちついた態度でいることもできなかった。病人の部屋へはいると、彼の目と注意力とは、無意識にくもったようになってしまって、兄の容態をしさいに見ることも、判断することもできなかった。ただ恐ろしい臭気をかぎ、不潔と無秩序と、苦しげな様子とを見、うめき声を聞いて、とうてい救いがたいという感じをあじわうだけであった。彼の頭には、病人の状態をくわしく調べてみようという考え、あのからだが毛布の下でどんなふうになっているか、あのやせ細った脛《すね》や、腰や、背が、どんなふうに曲がっておかれてあるか、なんとか少しでもうまくなおしてやることはできないものか、今よりよくとはいかないまでも、せめてわるくならないだけに、なんとか方法を講じようというような考えは、てんで思いもうかばなかった。そうして細かい点について考えはじめると、ぞっとする悪寒《おかん》が、背筋を走り通るのだった。彼は生命をのばすためにも、苦痛を軽くするためにも、もはやなんの手段もないように、すっかり思いこませられてしまっていた。しかし、あらゆる救助の不可能を彼が認めているという意識は、やがて病人に感づかれて、彼をいらだたせた。そのためにレーヴィンは、さらに苦しい立場におちいるのだった。病人の部屋にいることが、彼には苦痛だったが、いないことは、さらに苦しかった。で、彼は、たえずいろんな口実をもうけては病室を出たが、そのくせひとりきりではいられなくて、またしてもはいって行くのだった。
しかしキティーは、まったくそんなふうでなく、考え、感じ、ふるまっていた。病人を見ると、彼女には彼がかわいそうに思われた。と、憐憫《れんびん》の情は彼女の女心に、それが彼女の夫の心によびおこした恐怖や嫌悪の情とはまったく違った、病人の容態をくわしく知って、彼の力になることをしてやりたいというのぞみをよびおこした。そして彼女の心には、自分が彼を助けねばならぬということに少しの疑いもなかったので、彼女はその可能性をも疑わなかった。そして、すぐ仕事にとりかかった。それを考えただけでも彼女の夫がおぞけをふるった、同じこまごましたことがらが、すぐに彼女の注意をひいた。彼女は医者を迎えにやったり、薬屋へ人を走らせたり、連れてきた小間使とマリヤ・ニコラエヴナとに、部屋のふき掃除や床《ゆか》洗いをさせたり、自身でも何かを洗ったり洗たくしたり、毛布の下へ何かを入れてやったりした。彼女のさしずにより、病人の部屋からは、何かが持ちだされたり持ちこまれたりした。そして彼女自身も、廊下でいろんな人に出くわすことにはとんじゃくなく、何度でも自分の部屋へひっ返して、シーツだの、まくらおおいだの、タオルだの、シャツだのを出しては、持って来た。
大広間で技師たちに食事を出していたポーイは、ふくれつらをしながらも、彼女の呼ぶがままに何度もやって来て、彼女の命令を実行しないではいられなかった、というのは、彼女が、どうしても逃げだすことのできないような、あいそのいい、しつこさをもって、そうした命令をあたえるからであった。レーヴィンは、こうしたことをすべて、あまりいいとは思わなかった。彼は、そういうことから、病人のためにどんな利益もあろうとは信じていなかったのである。そればかりでなく、彼が何よりも恐れたのは、病人が腹をたてはしまいかということであった。しかし、見たところ病人は、それにたいして無関心でいるようではあったが、べつに怒る様子もなく、ただきまりわるく思いながら、概していえば、彼女がしてくれることに興味をもっているようであった。キティーに言いつけられて出かけた医者のところからもどって来て、ドアをあけると、レーヴィンはちょうど病人が、キティーのさしずによってシャツをとり替えさせられているところへ出くわした。大きなとび出た肩胛骨《けんこうこつ》と、突き出た肋骨《ろっこつ》と背骨とをもったひょろ長い白い背中の骨格がむき出しになり、マリヤ・ニコラエヴナとボーイとが、そのだらりとさがった長い手をシャツのそでへ通すことができなくて、まごついているところであった。キティーは、レーヴィンのはいって来たドアを急いでしめながら、そちらのほうは見ないようにしていたが、病人がうめきだしたので、急いでそのほうへ行った。
「早くしておあげなさいな」と彼女はいった。
「ああ、来ないでください」と、病人は腹だたしげにいった「わたしは自分で……」
「え、なんですって?」と、マリヤ・ニコラエヴナはききかえした。
しかしキティーは、彼には、彼女の前で裸にされているのが恥ずかしくもあり、不愉快でもあるらしいのをみてとった。
「わたし見ちゃいませんわ、見ちゃいませんわ!」と、彼女は手をなおしてやりながらいった。「マリヤ・ニコラエヴナ、あなたはそちらへまわって、なおしてあげてくださいな」と、彼女は言いたした。
「あの、あなたね、わたしの小さい袋《ふくろ》のなかに、小さいガラスびんがはいってますからね、それを取ってきてくださいませんか」と、彼女は夫に向かっていった。「横ポケットだったと思いますの、どうぞ取っていらしてくださいな、そのうちにここをすっかり片づけてしまいますから」
ガラスびんを持ってもどってくると、レーヴィンは、病人がもうちゃんと寝かされて、そのまわりがまるで見ちがえるようになっているのを見いだした。重苦しい臭気は、香水入りの酢《す》の香りにかえられていた。それはキティーが、くちびるをとがらし、赤いほおをふくらまして、小さい管《くだ》から吹き散らしているのであった。ほこりらしいものはどこにも見えず、ベッドの下には毛氈《もうせん》が敷かれてあった。テーブルの上には薬びんや水びんがきちんとならべられ、必要な肌着やキティーの手作りのイギリス刺繍《ししゅう》がとりそろえられてあった。病床のそばのもうひとつのテーブルの上には、飲み物や、ろうそくや、散薬などがのせてあった。病人自身は、からだをぬぐわれ髪をくしけずられ、不自然なほど細い首に、まっ白なえりのついた、ま新しいシャツを着せられて、さっぱりとしたシーツの上に、高いまくらをして寝ていた。そして、新しい希望の色をうかべながら、目もはなたずにキティーのほうを見まもっていた。
クラブにいたのを見つけてレーヴィンが連れて来た医者は、今までニコライ・レーヴィンがかかっていて、不満に思っていたその医者ではなかった。新しい医者は、聴診器を取りだして病人を診察すると、ちょっと頭をひねって、処方を書き、とくにくわしく、薬の飲みようから食餌《しょくじ》のとりかたまでを説明した。彼は、なま卵か半熟を、それから適度にあたためられた牛乳入りのゼルツェル水を飲むようにとすすめた。医者が帰ってしまうと、病人はなにやら弟にいったが、レーヴィンはただ『おまえのカーチャ』という最後の言葉をききわけただけだった。が、兄の彼女を見やったまなざしによって、彼が彼女をほめたのであることを察した。病人は、彼自身のいわゆる、カーチャをもそばへ呼びよせた。
「わしはもう、ずいぶんよくなったようだ」と彼はいった。「あなたに世話をしてもらっていたら、もうとっくになおっていたにちがいない。ほんとにいい気持だ!」と彼は彼女の手をとって、自分のくちびるのほうへもっていったが、彼女のきみわるがるのを恐れたらしく、思いかえして手をはなすと、ただそれをなでだした。キティーは両手でその手をとって、強くそれを握りしめた。
「じゃあ、こんどはわしを左向きに寝がえらせて、やすみにいってください」と彼はいった。
だれも彼のいったことを聞きとらなかった。ひとりキティーだけがそれを察した。彼女がそれを察したのは、たえず心で彼に必要なことを考えていたからであった。
「あちら向きにするんですって」と、彼女は夫にいった。
「いつもあちらがわを向いておやすみになるんですの。寝がえりをさせてあげてくださいまし、ボーイを呼ぶのはいやですから。でも、わたしにはできないんですのよ。あなたにはおできになって?」と彼女は、マリヤ・ニコラエヴナのほうをむいた。
「わたしもどうも」とマリヤ・ニコラエヴナは答えた。
レーヴィンにとっては、この恐ろしい肉体を両手でかかえて、彼が知りたくないと思っている毛布の下になっているほうをもちあげるということは、どんなに恐ろしいことかしれなかったが、レーヴィンは妻の意気ごみに引きこまれて、妻がよく知っている、例の決心したときの顔つきをしながら、両手をさし入れてもちあげにかかった。が、力じまんにもかかわらず、このやせ衰えた肢体《したい》のふしぎな重さに驚かされた。彼が自分の首に、大きなやせた腕の巻きつけられているのを感じながら、病人を寝がえりさせているあいだに、キティーは手ばやく、音のせぬようにまくらを裏がえして、それをたたき、病人の頭と、またしてもこめかみにへばりつく、うすい髪とをなおしてやった。
病人は、自分の手のなかの弟の手をしっかりつかんだ。レーヴィンは、彼がその手をどうかしようとしているのを、どこかへ持っていこうとしているのを感じた。レーヴィンは麻痺《まひ》したようになって、兄のなすに任《まか》せていた。と、兄はそれを自分の口へ持っていって、接吻した。レーヴィンはすすり泣きに身をふるわせ、なんにもいうことができなくて、部屋から出てしまった。
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十九
『聖賢の目よりかくして、嬰児《みどりご》や無知なる者の前にあらわし給えり』レーヴィンはその夜、妻と話をしながら、彼女のことをこう考えた。レーヴィンがこの聖書の箴言《しんげん》について考えたのは、なにも自分を聖賢と考えたからではなかった。彼は、自分を聖賢だとは思わなかったが、妻やアガーフィヤ・ミハイロヴナよりは、自分のほうが賢いと思わないではいられなかったし、また自分が死について考えたときには――魂の全力をあげて考えたと思わないではいられなかった。彼はまた、多くの男子の大知識が(その人たちの死についての考えを書物で読んでいたが)、同じく死のことを考えながら、いま自分の妻やアガーフィヤ・ミハイロヴナが知っている百分の一をも知らないのだということを知っていた。アガーフィヤ・ミハイロヴナとカーチャ(これは兄のニコライの呼びかたであったが、いまはレーヴィンにも、彼女をこう呼ぶことがとくに愉快であった)、このふたりの女は、互いにずいぶんかけはなれた存在ではあったが、このことではまったくよく似ていた。ふたりは人生とはどんなもの、死とはどんなものということを疑いもなく知っていた。そして、レーヴィンの当面しているような問題には、答えることはおろか、その意味を理解することさえできなかったけれども、彼女たちはふたりとも、死という現象の意義については疑いをさしはさまず、そして自分たちのあいだばかりでなく、幾百万の人々と同じ見解をいだいて、まったく一様にそれを見ていた。彼女たちが、死とはいかなるものであるかを確かに知っていたという証拠は、彼女たちが一瞬間も疑うことなしに、瀕死の人々にたいしてはどうしなければならぬかということを心得ていて、その人々を少しも恐れなかったという点にあった。レーヴィンやその他の人々は、死についていろんなことを口にすることはできたが、明らかに何も知っているのではなかった。なぜなら、彼らは死を恐れるばかりで、人が死にかかっているときにはどうしたらいいかということを、少しも知らなかったからである。もしレーヴィンが、いまニコライ兄とふたりきりでいたのだったら、彼はただ恐怖をもって兄をながめ、より大きい恐怖をもって何かを待っているだけで、それ以上のことは何ひとつなしえなかったにちがいないのだ。
そればかりでなく、彼は、何をいったらいいか、どう見たらいいか、どんなふうに歩いたらいいかをさえ知らなかった。よそごとを口にするのは、相手をばかにするようで、できないし、それかといって、死のことや陰気な話をすることも、できなかった。が、また、黙っていることもやはりできなかった。『見ていれば――兄は、おれが彼の様子を見ている、恐れていると思うだろう。が、見ないでいれば――おれが何かほかのことを考えていると思うだろう。つまさきで歩いたら、兄はいやに思うだろう。といって、足をぺったりつけて歩くことは――おれにはしのびない』ところが、キティーのほうは、明らかに自分のことなど考えず、また考える暇もないようであった。彼女は、自分が何事かを心得ていたので、彼のことばかり考えていた。そして、すべてが手ぎわよくはこんだ。彼女は自分のことや、自分の結婚のことを話したり、微笑したり、同情したり、優しく彼をいたわったり、全快の場合のことまで話したりしたので、すべてがうまくいったのである。つまり、彼女はそれを知っていたのだ。彼女やアガーフィヤ・ミハイロヴナの活動が、本能的な、動物的な、無分別なものでなかった証拠としては、アガーフィヤ・ミハイロヴナもキティーも、単に肉体の世話や苦痛を軽くしてやるなどということ以外に、瀕死の人のために、肉体の世話よりももっと重大なあるもの、肉体的のことがらとはぜんぜん関係のないあるものを求めていたという事実があった。アガーフィヤ・ミハイロヴナは、死んだ老人のことを話しながらこういった――「ああ、ありがたいことに、あのひとは聖餐礼《せいさんれい》も受ければ、聖油礼《せいゆれい》も受けました。どうぞ神さま、だれにもああいう死にかたをおさせなすってくださいまし」カーチャもそれと同じく、シャツや、床《とこ》ずれや、飲み物などの心配のほかに、もうここへ来た初めの日に、病人に聖餐礼と聖油礼とを受けることの必要を説いて、成功していた。
夜もふけて、病人の部屋からふた間《ま》つづきの自分たちの部屋へ帰ってくると、レーヴィンは何をしていいかわからないままに、ただうなだれてすわっていた。夜食のことや、ベッドの用意や、自分たちがこれから何をしようかと考えることなどはもちろんのこと、彼は、妻と話をすることすらも、できなかった――彼には恥ずかしかったのである。ところがキティーのほうは、反対に、いつにもまして活動的であった。いつにもましていきいきとさえしていた。彼女は夜食をもってくるように命じ、自身で荷物をといたり、寝床をのべる手つだいをしたりして、それに除虫粉《じちゅうごな》を振りかけることさえ忘れなかった。彼女の心には、戦闘や競技のような、生涯での危険な、決定的な瞬間にさいして――つまり、男が一生に一度自分の真価を示し、全過去が徒労でなく、すべてこの瞬間にたいする準備であったことを示しうるような瞬間にさいして、その心に経験するのと同じ興奮と敏活な思考とがあったのである。
いっさいのことが、彼女の手にかかると手ぎわよくはこばれた。まだ十二時にならないうちに、全部の荷物が、きれいに、整然と、ある特殊な趣味をもって片づけられたので、旅館の一室が、わが家の彼女の部屋に似てきたほどであった。ベッドはととのえられ、ブラッシュや、くしや、鏡はとり出され、ナプキン類もひろげられた。
レーヴィンはそのときでも、食事をしたり、眠ったり、話をしたりすることを許されないことのように思い、そして自分の一挙一動が、無作法のような気がしてならなかった。ところが彼女は、ブラッシュを選りわけていたが、そういうこともすべて、けっして人の気をそこねるようなものではないという態度であった。
とはいえ、彼らは、何ひとつのどへ通すことはできなかったし、長いこと眠ることもできなかった。いや、長いこと、寝床につくことさえもしなかったのである。
「わたしはほんとにうれしゅうございますのよ。明日聖油礼をお受けになるように、お兄さまをうまく説きつけましたから」と彼女は、折りたたみのできる鏡の前にジャケットのままで腰をおろして、細かいくしで、いいにおいのする柔らかい髪をとかしながら、いった。「わたし、一度も見たことはないんですけれどね、母の話で知ってますのよ。病気のなおるご祈祷ですって」
「じゃなにかね、ほんとにおまえは、兄がよくなると思ってるのかね?」とレーヴィンは、彼女がくしを前のほうへ引くたびにかくれる、まるい小さな頭のうしろにある、細い分けめを見ながらいった。
「わたし、お医者さまにうかがいましたのよ。そしたらね、もう三日以上はもつまいというお話でしたの。けれど、お医者さまにだって、じっさいそんなことがわかるでしょうか? とにかくわたしは、喜んでいますのよ。お兄さまにおすすめしたのを」こう彼女は、髪の毛のあいだから横目で夫を見ながらいった。「どんなことだって起こらないとはかぎりませんからねえ」と彼女は、宗教にかんしたことをいうときにはいつもその顔に現われる、例の一種特別な、いくらか狡猾《こうかつ》なところの見える表情で言いたした。
ふたりがまだ許嫁《いいなずけ》同士だったころに、一度宗教について話しあって以来、彼も、彼女も、この問題を口にしたことはなかったが、彼女はつねに、それが非常に必要なことであるという変わらぬ穏やかな意識をもって、教会へ行ったり祈祷をささげたりする自分の儀礼を、実行していた。そして彼の信念は、それとは反対であるにもかかわらず、彼女は、彼がやはり自分と同様、いやむしろ自分よりいっそうすぐれたキリスト教徒であること、そして彼の宗教についての放言などは、たとえば彼が、彼女のイギリス刺繍にたいして、善良な人々は穴をつくろっていくのに、彼女はわざとあけてしまうのだなという、男としての彼の、こっけいな暴言のひとつにすぎないことを、かたく信じて疑わなかった。
「そうだ、あのマリヤ・ニコラエヴナという女では、こんなことはちょっとはからいかねるからね」と、レーヴィンはいった。「で……白状するが、ぼくはおまえが来てくれたことを、非常に、非常に喜んでるんだ。おまえはあまり純潔なので……それで……」と彼女の手をとったが、接吻はしないで(こういう死が旦夕《たんせき》に迫っているような場合に、彼女の手に接吻するということは、彼にはなんとなく不謹慎であるように思われた)、すまなそうな表情をして、彼女の明るくなった目に見いりながら、ただその手を握りしめた。
「あなたがおひとりでいらしたら、さぞお困りになったことでしょうね」と彼女はいった。そしてうれしさから赤くなっていたほおをかくしていた両手を高くあげ、うしろ頭の編み髪をひとつねじて、それをピンでとめた。「いいえ」と彼女はつづけた。「あの女《ひと》は知らないんですわ……わたしは、しあわせなことに、ソーデンで、いろいろ習ったものですから」
「じゃ、そこには、あんなふうの病人もいたの?」
「ええ、ええ、もっとわるいくらいですわ」
「ぼくにとって恐ろしいのは、ぼくが、若い時分の兄の姿を、思いださないではいられないということだよ……おまえには信じられまいが、あのひとはまったく美しい青年だったんだからね。しかしその時分には、ぼくはあのひとがよくわからなかったんだ」
「いいえ、信じますわ、信じますとも。わたしもあのかたとなら、どんなに仲のいいお友だちになっていただろうと、そんな気がするくらいですもの」と彼女はいった、そして自分のいったことに驚いて、夫を見やった。彼女の目には涙がうかんだ。
「ああ、|なっていただろうね《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》」と、彼は悲しげな調子でいった。「つまり兄は、世間のいわゆる、この世の人でないという人のひとりなんだからね」
「それはそうと、まだこれから、何日もあることですから、やすまないといけませんわ」とキティーは、自分の小型の時計を出して見て、いった。
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二十 死
翌日病人は、聖餐礼と聖油礼とを受けさせられた。式のあいだ、ニコライ・レーヴィンは熱心に祈った。花模様のあるナプキンでおおわれたカルタテーブルの上の聖像にそそがれていた彼の大きな目には、レーヴィンには見るのが恐ろしく思われたほどの、熱烈な祈願と希望の色が現われていた。レーヴィンには、この熱烈な祈願と希望とは、彼があんなにも愛している生命との別離を、彼のためにいっそう重苦しいものとするにすぎないことがわかっていた。レーヴィンは兄を――彼の思想の径路を知っていた。彼は、兄の無信仰は、無信仰で生きるほうがらくだったから生じたのではなく、世界のあらゆる現象にかんする近代の科学的解説が、一歩一歩信仰をしりぞけていった結果にほかならないことを知っていた。したがって彼は、兄がいま信仰へもどってきたのも、同じ思想の径路を踏んで完成された合理的なものではなくて、病気をなおしたいという狂おしい希望から出た、ほんの一時の利己的なものであることを知っていた。レーヴィンはまた、キティーが彼女自身の耳にした異常な病気平癒の話をして、この希望をいっそう強めたことをも知っていた。すべてこうしたことを、レーヴィンはよく知っていたので、彼には、兄のこの祈るような希望にみちたまなざしや、ぴんとはった額の上までやっともちあげられて十字の印を切っているそのやせ細った手くびや、つき出た肩や、病人が求めてやまぬ生命を、もはやそのなかに盛っておくことのできなくなった、ぜいぜいあえいでいるうつろな胸などを見ているのが、いかにも苦しくてならなかったのである。聖礼の行なわれているあいだレーヴィンもまた祈り、無信仰者である彼がもう千度もやったことを、またやった。彼は神に向かっていったのである――『なんじもし真におわすならば、この者を癒《なお》したまえ(見よ、これこそ最も多くくりかえされた言葉である)。さらばなんじは、彼と我とを救いたもうなるべし』
聖油礼がすむと、病人は急に容態《ようだい》がぐっとよくなった。彼は一時間のあいだ一度も咳《せき》をせず、にこにこして、涙をうかべてキティーに感謝しながら、彼女の手に接吻したり、自分はとてもよくなった、どこも痛いところはない、食欲も力もついてきたような気がするなどといったりした。スープをもってこられたときには、彼は自分で起きあがり、そのうえカツレツまでも所望《しょもう》した。彼はまったく絶望状態にあり、ひと目見ただけで、とうてい回復の見こみのないのは明らかだったけれども、レーヴィンとキティーとはこの一時間のあいだ、同じ幸福な、しかしまちがいでなければいいがと思う、びくびくした興奮のなかにあった。
「いいんだね?」――「ええ、たいへん」――「ふしぎだね」――「ちっともふしぎなことなんかございませんわ」――「とにかくいいんだね」と、彼らはお互いにえみかわしながら、ささやき声で話しあった。
しかし、このまやかしも長くはつづかなかった。病人はおちついて眠ったが、半時間ばかりすると、咳《せき》が彼の眠りを破った。と、とつじょとしていっさいの希望が、まわりの者にも彼自身にも、消えうせてしまった。現実の苦悶が、疑いもなく、今までの希望の思い出すらないくらいに、レーヴィンと、キティーと、病人自身の心のなかで、その希望を破壊してしまったのである。
病人は、自分が半時間まえに信じていたことすらわからず、また、そんなことは思いだすのも恥ずかしいといった様子で、吸入孔《きゅうにゅうこう》つきの紙でつつまれた、ガラスびん入りの吸入用のヨードをとってくれるようにと求めた。レーヴィンがびんをとって渡すと、聖油礼を受けたときと同じあの熱烈な希望をもったまなざしが、こんどはヨード吸入が奇跡的な効果をもたらすことがあるといった医者の言葉を裏書きさせようとして、じっと弟の上にこらされた。
「ああ、キティーはいないんだね?」と彼は、レーヴィンがしかたなしに医者のいった言葉を確かめたときに、あたりを見まわしながら、しゃがれ声でいった。「いない、そんならいってもかまわんが……おれはじつは、あれのためにこんな喜劇を演じたんだよ。彼女はまったくかわいい女だからね。だが、おまえとおれとはもう自分を欺くことはできん。おれはこっちのほうを信じるよ」と彼はいった。そして骨ばった手でびんをつかんで、その上で呼吸しはじめた。
夜の七時過ぎに、レーヴィンが妻といっしょに自分たちの部屋でお茶を飲んでいたところへ、マリヤ・ニコラエヴナが息せき切ってかけこんで来た。まっさおな顔をして、くちびるをわなわなとふるわせていた。「たいへんでございます!」と彼女はささやくようにいった。「すぐにもいけないんじゃないかと思われます」
ふたりは彼の部屋へかけつけた。彼はベッドの上へ起きあがって片膝をつき、長い背をかがめ、頭をぐったりとたれてすわっていた。
「気分はどうです?」とレーヴィンは、沈黙の後にささやき声できいた。
「いよいよ行くんだという気がしている」とニコライはやっとのことで、しかし異常な確かさをもって、ゆるゆると自分のなかから言葉を絞りだしながらいった。彼は頭はあげないで、ただ目だけを上へむけたが、それは弟の顔にはとどかなかった。「カーチャ、あっちへ行ってくれ」と彼はさらにいった。
レーヴィンはとびあがって、命令するようなささやき声で、彼女を部屋から出て行かせた。
「おれはもう行くよ」と彼はふたたびいった。
「なぜそんなことを考えるんです」とレーヴィンは、何事かをいうためにいった。
「なぜって、もう行くんだからさ」と彼は、この言葉がいかにも気にいったようにくりかえした。「もうおしまいだよ」
マリヤ・ニコラエヴナがそばへ歩みよった。
「横におなりになったほうがいいでしょう、そのほうがらくですわ」と彼女はいった。
「じきすっかり横になるよ」と彼は静かにいった。「死骸になってな」と彼は、あざけるような、怒ったような調子でいった。「だがまあ、寝かしてくれてもいいよ。そうしたいなら」
レーヴィンは兄をあおむけに寝かして、そのそばに腰をおろし、息を殺して、じっとその顔を見つめた。瀕死の人は、じっと目を閉じて横たわっていたが、その額の筋肉は、何事かを思いつめている人のように、ときたまびくぴくと動くのだった。レーヴィンは知らず知らず、いま兄の内部で完成されつつあるものについて、彼といっしょになって考えていたが、兄といっしょに進むためにあらんかぎりの思考力を集中したにもかかわらず、レーヴィンには依然として不明のままで残っていることが、この穏やかな厳粛な顔の表情と、眉の上の筋肉の動きとによって、瀕死の人には、しだいにはっきりしていくらしいのが見てとられた。
「そう、そう、そうだ」と瀕死の人は、まをおきながらゆっくりといった。「ちょっと待ってくれ」彼はふたたびおし黙った。「そうだ!」と、とつぜん、安心したような口調で、声音《こわね》をひいて彼はいった。いっさいの解決が、それでつきでもしたように。「おお、主よ!」こういって、彼は深いため息をついた。
マリヤ・ニコラエヴナは彼の足にさわってみた。
「冷たくなってきましたわ」と彼女はささやいた。
長いあいだ、非常に長いあいだ(レーヴィンにはそう思われた)、病人はじっと動かずに横たわっていた。が、彼はまだ生きていて、ときたまほっと息をつくのだった。レーヴィンは早くも、思考力の緊張に疲れてしまった。彼は、こうした思考力の緊張にもかかわらず、その|そうだ《ヽヽヽ》が何を意味するのか、自分にはわからないような気がした。彼はもうとっくに、瀕死の人からとり残されてしまったような気がした。彼はもう、死の問題そのものすら考えることができなかったが、いつともなく彼の頭には、いまに自分がしなければならなくなるであろうこと――死人の目を閉じたり、着物を着かえさせたり、棺《かん》をあつらえたりする、そうしたことについての考えがうかんできた。そして、ふしぎなことに彼は、自分がまったく冷やかな人間になってしまったことを感じ、悲しみも喪失感もなく、まして兄にたいする憐憫などはなおさらであった。もしいま彼の心に、なにか兄にたいする感情があったとすれば、それはいま瀕死の兄が持っている知識、自分などには持つことのできない知識にたいする、むしろ羨望《せんぼう》ともいうべきものであった。
彼はなお長いこと、兄の最後を待ちながら、そのままそこにすわっていた。が、その終焉《しゅうえん》は、なかなかやって来なかった。ドアが開かれて、キティーの姿が現われた。レーヴィンは彼女を止めようとして立ちあがった。が、彼は立ちあがると同時に、死人の動くけはいを聞きつけた。
「行かないで」ニコライはこういって、手をさし伸ばした。レーヴィンは彼に自分の手をあたえておいて、妻のほうへは、出て行くようにと、腹だたしげに手を振った。
自分の手に死人の手を握ったまま、彼は半時間、一時間、さらに一時間とすわっていた。彼は今はもうまったく、死については考えなかった。キティーが何をしているか、この隣室にはどんな人が住んでいるか、医者の住んでいるのは自分の家だろうか、そんなことを考えた。彼は食事をして眠りたくなった。彼は注意ぶかく手をはなして、兄の足にさわってみた。足は冷たくなっていたが、病人はまだ呼吸をしていた。レーヴィンはふたたび、つまさき立ちをして出て行こうとした、と病人はまたもや身うごきして、「行かないで」といった。
………
明けてきた。病人の状態は同じであった。レーヴィンはそっと手をひいて、瀕死の人のほうは見ないで、自分の部屋へ帰って、眠った。そして目をさましたとき、彼は期待していた兄の死の報告のかわりに、病人がまたもとの状態にもどったということを聞いた。彼はふたたび、すわったり、咳をしたりするようになり、ふたたびものを食べたり、話をしたりするようになり、そして死のことを口にしなくなり、ふたたび快癒《かいゆ》の望みを見せるようになって、前よりいっそう激しやすい、陰うつな人になってしまった。だれひとり、弟も、キティーも、彼をなだめることはできなかった。彼はすべての人に腹をたて、すべての人に不愉快なことを言い、自分の苦悩にたいしてすべての人を責め、そして、モスクワから有名な医者を呼んでくれと、要求した。なお気分はどうかとたずねてくれる人の問いにたいしても、一様に憎悪と非難との表情をもって、こう答えるのだった。「非常に苦しい、とてもたまらん!」
病人の苦しみは刻々に増すばかりであった。ことに、もう手のほどこしようもない床《とこ》ずれのために、彼は悩み苦しんで、事ごとに、とりわけモスクワから名医を呼びよせないということにたいして、ますますまわりの者にあたりちらした。キティーは、彼を救い彼をなだめるために、いろいろと手段をつくしてみたが、すべて徒労におわり、レーヴィンは、彼女自身が、口に出してこそいわないけれど、肉体的にも精神的にも、疲れはててしまったのを見た。ニコライが弟を呼びによこした夜、この世にたいする彼のいとまごいによって、一同の心によびおこされた死の感じは、今はすっかり破られてしまった。一同は、彼がまちがいなくもうすぐに死ぬということ、もうなかば死んでいるも同然であるということを、知っていた。一同はただ、彼が一刻も早く死ぬことばかり望んでいたが、それをかくして、彼にびんの薬をやったり、薬や医者を捜しまわったりして、彼をも、自分自身をも、またお互い同士をも欺いているのであった。こうしたことはすべて、虚偽であった。卑しむべく、侮辱的な、聖物|冒涜《ぼうとく》の虚偽であった。そしてレーヴィンは、その性格の特異さから、また、この病人をだれよりも深く愛していたところから、この虚偽をとくに苦しく感じたのであった。
もうずっと前から、たとえ死のまぎわでもいい、ふたりの兄を和解させたいと考えていたレーヴィンは、兄のセルゲイ・イワーノヴィッチに手紙を送って、彼から返事を受け取ると、それを病人に読んで聞かせた。セルゲイ・イワーノヴィッチは、自身出かけてくることのできない事情を書いて、感動的な調子で弟の前に許しをこうていた。
病人はなんともいわなかった。
「兄さんになんといってやりましょうね?」とレーヴィンはきいた。「たぶんもう兄さんは、大兄さんに腹をたてちゃいないでしょうね?」
「ああ、ちっとも!」とニコライは、こうした質問を受けたことをいまいましげに答えた。「兄貴にひとつ、医者をよこしてくれるようにいってやってくれよ」
さらにまた、苦しい三日の日が過ぎた。病人はなお同じ状態をたもっていた。いまや彼を見た人はだれしも、旅館のボーイでも、その主人でも、滞在客たちでも、医者でも、マリヤ・ニコラエヴナでも、レーヴィンでも、キティーでも、みな彼の死を願う気持を経験した。ただひとり病人だけが、こうした感じをあらわさなかったばかりか、かえって、医者を呼んでくれないといって腹をたてたり、服薬をつづけたり、生について話したりしていた。そしてアヘン注射が、そのたえまない苦痛を一時忘れさせる瞬間だけ、まれに彼は、だれの心にあるよりも強く彼の心にあった声を、夢うつつのうちに口にするのだった。――「ああ早くかたがついてくれたらな!」とか、「いったい、いつになったらこれはおしまいになるのだ!」とか。
苦悩は、一様な歩みでその度をくわえながら、着々と自分の仕事をすすめて、彼を死のほうへとみちびいていった。彼が苦しまないでいる状態というものはなく、彼がおのれを忘れている時間というものもなく、彼の手足やからだのなかで、痛まない、彼を苦しめない個所というものも、一か所もなかった。この肉体についての思い出や、印象や、考慮までが、今は彼の心に、その肉体そのものと同じく、嫌悪の情をおこさせた。他人の姿も、彼らの言葉も、自分自身の追憶も――それらのものがみな、彼にとっては苦悩の種にすぎなかった。まわりの人々もそれに気がついたので、彼の前では、自由な動作も、話をすることも、自分の希望の表明をも、無意識ながらしないようにつとめた。いまや彼の全生活は、苦悩の感じと、それからのがれたい望みとに集中していた。
彼の内部には明らかに、死を、欲望の満足のごとく、また幸福のごとくに見させなければおかないような、例の変化がおこりつつあつた。これまでは、苦悩や喪失感によってよびおこされる個々の欲望は、いずれも、飢えとか、疲労とか、かわきとかと同じく、彼に快感をあたえる肉体的機能によってみたされていた。が、今では、そうした喪失感や苦悩は、みたされるということがなくなり、満足をえようとする試みは、ただ新しい苦悩をよびおこすにすぎなかった。そのため、いっさいの欲望は、ただひとつの欲望――いっさいの苦悩とその源泉である肉体からのがれたいという欲望に集中してしまった。が、こうした解脱《げだつ》の欲望を言いあらわすのに、適当な言葉がなかったので、彼はそのことはいわずに、従来の習慣どおり、もはやとうてい実現の可能のない欲望の満足を、求めるのだった。――「寝がえりさせてくれ」といったかと思うと、すぐそのあとで、前のようにしてもらいたいと言いだす。――「スープをくれ」――「スープなんかそちらへやってくれ」――「何か話をしてくれ、なぜ黙ってるんだ?」が、人々が話をはじめるやいなや、彼はさっそく目を閉じて、疲労と、無関心と、嫌悪の色をあらわすのだった。
この町へ来てから十日めに、キティーは病気になった。頭痛と嘔吐《はきけ》をもよおしたので、朝のうちずっと、床をはなれることができなかつた。
医者は、その病気は疲労と興奮からきたものであると説明して、彼女に精神的安静をすすめた。
が、昼食をすますと、キティーは床をはなれて、いつものように手仕事をもち、病人の部屋へ行った。彼女がはいっていくと、彼はいかめしい顔をして彼女を見、彼女が病気だったことをいうと、さげすむようなうす笑いをもらした。この日は、彼はのべつ鼻をかみ、あわれっぽい声でうめいた。
「ご気分はどんなでございますの?」と、彼女は彼にたずねた。
「だんだんわるいです」と、彼はやっといった。「痛いです!」
「どこがお痛みなさいますの?」
「どこもかも」
「今日はいよいよご臨終でございましょうね。まあ見ていてごらんなさいまし」とマリヤ・ニコラエヴナはいった。それは低いささやき声ではあったが、病人は非常に鋭敏になっていたから、レーヴィンの見るところでは、耳にしたにちがいなかった。レーヴィンは、しっと彼女を制して、病人のほうをふりかえった。ニコライは聞きつけていた、が、こうした言葉も、もはや彼には、なんの印象をもとどめなかった。そのまなざしは依然として、人を責めるような、緊張したものであった。
「どうしてあなたはそう思うんです」とレーヴィンは、彼女が自分のあとについて廊下へ出てきたときにきいた。「自分のからだをつまむようになりましたから」とマリヤ・ニコラエヴナはいった。
「どんなふうにつまむんです?」
「こんなふうに」と彼女は、粗毛《そもう》製の自分の服のひだをひっぱりながらいった。じっさいレーヴィンは、この日は一日病人が、自分のからだをつかんでは、何かを引きはなそうとしていたことに気がついた。
マリヤ・ニコラエヴナの予言は正しかった。夜にはいらぬうちに病人は、もう、手をあげる力もうせ、ただ、注意を集中したような目の表情をかえずに、自分の前だけをじっと見つめていた。そして弟なりキティーなりが、よく見えるようにと彼の上へかがみこんで見せても、彼の目つきは変わらなかった。キティーは、臨終の祈祷を読んでもらうために、司祭を迎えに人をやった。
司祭が臨終の祈祷を読んでいるあいだ、瀕死の人は少しも生きている徴候を見せなかった。目はじっと閉ざされていた。レーヴィンと、キティーと、マリヤ・ニコラエヴナとは、ベッドのそばに立っており、その祈祷がまだ司祭によって読みおえられないうちに、瀕死の人はからだをのばし、おお息をついて、目を開いた。司祭は祈祷をおわると、その冷たい額に十字架をのせ、それから静かにそれを聖帯《せいたい》のなかへ巻きこんで、そしてさらに二分間ばかり、無言で立っていてから、もう冷たくなった、血の気のない、大きな手にさわった。
「ご臨終です」司祭はこういって、出て行こうとした。ところが、とつぜん、ぴったりはりついたようになっていた死人の口ひげがかすかに動いて、しんとしたなかに、はっきりと、胸の底から絞りだされたような、しっかりした、鋭い声がひびきわたった。
「いや、まだだ……もうすぐだ」
そして一分ばかりすると、その顔は急に明るくなり、口ひげの下に微笑がうかんだので、集まっていた女たちは、気ぜわしげに死体の始末にとりかかった。
兄の様子と死の接近とが、レーヴィンの心に、あの秋の夕方、兄が自分を訪ねてきたときに彼の心をとらえたような、不可解なものにたいする、と同時に、死の接近と避けがたさとにたいする、恐怖の情をよびおこした。この感情は、今は前よりもいっそう強かった。彼は前よりもいっそう、自分には死の意味を解する力のないことを痛感し、そしてその避けがたいことが、いっそう恐ろしく彼に思いえがかれた。しかし今は、妻がそばにいるおかげで、この感情も、彼を絶望へはみちびかなかった。彼は、死というものがあるにもかかわらず、生きかつ愛さなければならぬ必然性を痛感した。彼は、愛が自分を絶望から救ってくれたこと、そして絶望の脅威のもとにこの愛が、いっそう強く、いっそう純潔になっていくことを痛感した。
死というひとつの神秘が、彼の目の前に、まだ不可解のままで完成されないでいるうちに、愛と生とへさしまねく同じ程度に不可解な、いまひとつの神秘が現われた。
医者は、キティーについての推定をたしかめた。彼女の不健康は、妊娠のせいだったのである。
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二十一
アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチは、ベーッシや、ステパン・アルカジエヴィッチとの話から、自分の求められているのはただ、妻を解放して、自分の存在で彼女を悩まさないようにすることだということ、そして彼女自身もまた、それを望んでいるのだということをさとった瞬間から、すっかり虚脱《きょだつ》したような気持になって、自分では何ひとつ決定することもできなければ、自分がいま何を望んでいるかも、わからないほどであった。で、彼はすべてを、この事件に異常な満足をもってたずさわっている人々の手にゆだねてしまって、何事にも同意の返事をあたえた。ただ、アンナがもう家を出てしまってから、イギリス婦人の家庭教師が、いっしょに食事をしてもいいか、それとも別々にしたほうがいいかと、人をもってききによこしたときに、彼は初めて、自分の境遇をはっきりと知り、愕然《がくぜん》として驚いたのであった。
こういう境遇における一ばん困難なことは、彼はどうしても、自分の過去と現在とを、結合させ融和《ゆうわ》させることができないことであった。彼の心をみだしたのは、彼が妻とともに幸福に送ったその過去ではなかった。その過去から妻の不貞を知るにいたった過渡期を、彼はすでに苦しみながらも通過していた。その状態は苦しいものではあったが、彼にはまだ理解がとどいた。もしあのとき妻が、その不貞をうちあけるとともに彼のもとを去っていたら、彼はなげき悲しんで不幸になっていたではあろうが、しかし現在彼があるような、われながらどうにも手のつけようのない、不可解な境遇にはおちいらないですんだであろう。彼はいま、どうしても、自分のさきごろの、病める妻と他人の子とにたいする愛や、感動や、許しを、現在の境遇――すなわち、すべてそれらのものにたいする報酬ででもあるように、彼がいま孤独な、不名誉な、世間のもの笑いとなり、だれにも用のない、すべての人に軽蔑されるような人間になりさがったという事実と融和させることができなかったのである。
妻の家出後の最初の二日間、アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチは、請願者や書記長にも会い、委員会へものぞみ、いつものように食堂へ行って食事もした。そして、なんのためにこんなことをするのか、かくべつに考えてみようともしないで、彼はその二日間、ただ、おちついた、平気ですらあるような顔つきを見せかけるためだけに、全精神力を緊張させていたのであった。アンナ・アルカジエヴナの持ち物や部屋をどう処分したらいいかという質問に答えるときにも、彼は、自分の上に異常な努力をくわえて、その出来事はべつに予期しなかったことではない、なにもふつうの出来事の範囲を越えているものではない、こうみている人のように見せかけようと心がけて、またりっぱにその目的を達していた。――だれひとり、彼の上に絶望の色をみとめることはできなかったのである。しかし、妻の家出の二日めにコルネイが、アンナが払い忘れていった婦人帽子店の勘定書をもって来て、その店員がそこに待っていると告げたときには、アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチは、店員をここへ呼べと命じた。
「閣下、どうもとんだおじゃまをいたしまして、あいすみません。で、もし奥さまのほうへというお話でございましたら、まことにおそれいりますが、どうかひとつ、奥さまのおいでになりますおところを」
アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチは考えこんだ。そう店員には思われた。そして急に身をひるがえして、テーブルの前へ腰をおろした。彼は両手で頭をかかえて、しばらくそのままで掛けていた。そして、何度か言いだそうとしては、中止した。
主人の気持を察して、コルネイは、店員に、もう一度出なおしてくれるようにと頼んだ。ふたたびひとりになると、アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチは、自分にはもうこれ以上、しっかりしたおちついた態度をつづけていく力のないことをさとった。彼は、待っていた馬車の馬をとくように命じ、まただれが来ても通すなと命じて、食事にも出て行かなかった。
彼は、あの店員の顔にも、コルネイの顔にも、そのほかこの二日間に会ったすべての人の顔に例外なくはっきりとみとめた、あの侮蔑《ぶべつ》と冷酷の世間的重圧に、もはや堪えられないような気がした。彼は、自分にたいする人々の憎悪を、どうすることもできないような気がしていた。なぜなら、その憎悪は、彼に罪があって生じたのではなく(もしそうだったら、よくなるようにつとめることもできたのであるが)、彼が恥ずべくいまわしい、不幸な人間であるという事実から生じたものであったからである。彼は、この事実――自分の心をずたずたにひき裂いた例の事実のために、彼らが自分にたいして残酷であることを知っていた。彼は、多くの犬がよってたかって、傷をうけて泣き叫んでいる一匹の犬をいじめ殺すように、人々が自分を滅ぼそうとしているような気がしていた。彼は、この人々からのがれる唯一の手段は――彼らに自分の傷をかくすことだと思った。で、この二日間、無意識のうちにそれをやってみたが、いまや、この不つりあいなたたかいをつづける力が自分にないことを痛感したのであった。
彼の絶望は、自分は自分の悲しみにおいてまったくの孤独であるという意識によって、いっそうふかめられた。彼が心になめている苦しみを、すべてうちあけるような人、彼を高官としてでなく、また社会の一員としてでもなく、単に苦しみ悩んでいる一個の人間としてあわれんでくれるような人は、彼には、ただペテルブルグばかりでなく、どこをさがしてもひとりもなかった。
アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチは、みなし子として成長した人であった。彼は、ふたり兄弟であった。彼らには父の記憶がなかったし、母も、アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチが十歳のときにこの世を去った。財産は少なかった。政府の高官で、以前は先帝の寵臣《ちょうしん》であった叔父のカレーニンが、彼らを養育したのだった。
優等の成績で中学と大学の課程をおわると、アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチは、叔父の助けですぐりっぱな官途につき、以来もっぱら勤務上の功名心に身をゆだねた。中学でも、大学でも、その後官途についてからでも、アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチは、だれとも親交を結ばなかった。ひとりの兄だけは、一ばん心に近い人であったが、彼は外務省に勤めていて、いつも外国にばかり暮らしていた。そしてアレクセイ・アレクサーンドロヴィッチの結婚後まもなく、外国で死んでしまった。
彼の県知事時代に、アンナの伯母にあたる地方の富裕な貴婦人が、もう若い人とはいえなかったけれど、知事としては若手であった彼に自分の姪《めい》をひきあわせて、彼が結婚を申し込むか、その町を去るかしなければならないようなはめにおちいらせてしまった。アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチは、長いことぐずぐずしていた。当時は、この一歩を踏みだすことに、賛成する理由と反対する理由とが同程度にあったし、それに、疑わしい場合にはさしひかえるという彼の主義を変更させるに足るだけの、はっきりとした理由がなかったのであるが、アンナの伯母は、知人を通して、彼はもう処女を汚したも同然であるから、しぜん、名誉を思う義務としても結婚を申し込まなければならぬはずだというように、思いこませてしまった。で、彼は申し込みをし、そしてその許嫁《いいなずけ》に、妻に、できるかぎりの情をかたむけつくしたのである。
彼がアンナにたいしておぼえた愛着は、彼の心から、他人にたいして心からの関係を結ぼうという最後の要求をとりのけてしまった。で、現在では、多くの知人のなかにも、親しい人はひとりもなかった。交際と名づくべきものはたくさんにあったが、友人関係というものはなかった。アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチには、食事に招くような人、自分の興味をもっている仕事に助力をこうたり、請願者の保護を頼んだりするような人、他の人の行動や政府の仕事についてざっくばらんに論じ合うことのできるような人は、無数にあったが、こういう人たちにたいする関係は、習慣や風習によって堅く限定された一定の範囲にかぎられたもので、その埒外《らちがい》へ踏みだすことは不可能であった。大学時代の友人で、卒業後に親しくなり、個人的の悲しみをもうちあけることのできるような仲になっていた人がひとり、あるにはあったが、その友人は、遠い地方の教育界で督学官《とくがくかん》をやっていた。こういうわけで、ペテルブルグにいる人のなかで、一ばん親しく、一ばん頼みになりそうなのは、書記長と医者とだけであった。
書記長のミハイル・ワシーリエヴィッチ・スリューディンは、単純で、聡明で、善良で、道徳的な人物だったし、アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチは彼のうちに、自分にたいする個人的な好意をも感じていたが、しかし五年間の勤務生活は、彼らのあいだに、心からのうちあけ話をさまたげる障壁をきずいてしまっていた。
アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチは、書類の署名をすましてしまうと、ミハイル・ワシーリエヴィッチの顔をながめながら、長いこと沈黙していた。彼は、何度も話しだそうとしかけたが、どうしても口をきることができなかった。彼はもう心のなかで、『きみはもうわたしの不幸は聞いてるでしょうね?』こういう文句まで用意していた。が、けっきょく、いつものように、「ではひとつ、これをやっといてくれたまえ」こういって、さがらせてしまった。
もうひとりは、医者であった。その男も、好感をもっていた。が、彼らのあいだには、もう久しい以前から、お互いに仕事の忙しいからだだ、ぐずぐずしてはいられない、こういう気分が、暗黙のうちに承認されていた。
女の友だちについては、なかでも一ばん親しいリディヤ・イワーノヴナ伯爵夫人については、アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチは考えていなかった。あらゆる女は、単に女というだけの理由で、彼には恐ろしく、いまわしいものであった。
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二十二
アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチは、伯爵夫人リディヤ・イワーノヴナのことを忘れていたが、彼女は彼を忘れてはいなかった。彼の孤独な絶望の、最も苦しかったこの瞬間に、彼女は彼のところへやって来て、取次ぎもこわずに、いきなり彼の書斎へ通った。彼女は、彼が前どおりの姿勢で、両手で頭をかかえて、じっと腰掛けていたところへ来あわせたのであった。
「J'ai force la consigne,(お言いつけにそむいてまいりましたの)」と彼女は、足ばやに部屋へはいって来て、興奮と急激な運動のために、苦しそうな息をつきながらいった。「わたくし、もうなにもかもうかがいましたのよ、ねえ、アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチ!」と彼女は、両手でかたくかたく彼の手を握り、その美しいもの思わしげな目でじっと彼の目に見いりながら、言葉をつづけた。
アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチは、しかめつらをして立ちあがり、彼女から手をはなして、いすをすすめた。
「お掛けなさいませんか、奥さん! わたしは気分がすぐれないので、どなたにもお目にかからないことにしてるんですよ、奥さん」と彼はいった、と、彼のくちびるはふるえだした。
「ああ、あなた!」と伯爵夫人リディヤ・イワーノヴナは、彼から目をはなさないでくりかえした。と、急に彼女の眉は、内がわのほうがつりあがって、額に三角形をつくった。その美しくない黄いろい顔は、いっそう美しくなくなった。が、アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチは、彼女が自分のことを気の毒に思って、いまにも泣きだしそうになっていることを感じた。すると、彼の上にも感動が現われた――彼は、彼女のむっちりした手をつかんで、それに接吻しはじめた。
「ああ、あなた!」と彼女は、興奮のためにとぎれがちな声でいった。「あなたは悲しみにお負けになってはいけませんわ。あなたの悲しみは大きいけれど、でも、あなたは慰めをお見つけにならなければいけませんわ」
「わたしはうちひしがれてしまいました。わたしはうち殺されてしまいました。わたしはもう人間ではありません!」とアレクセイ・アレクサーンドロヴィッチは、彼女の手をはなしながら、しかし、涙のいっぱいになった彼女の目を見つづけながら、いった。「わたしの境遇は自分がどこにも、自分自身のうちにも、支柱を見つけることができないために、恐ろしいのです」
「あなたはその支柱をお見つけなさいますわ。わたくし以外のところでそれをお捜しなさいまし。そりゃわたくしだって、わたくしの友情を信じてくださるようにお願いはしますけれど」と、彼女は太息とともにいった。「わたくしたちの支柱は愛ですわ。神さまがわたくしたちにお約束くださいました愛でございます。神さまのお負わせになるものは軽うございます」と彼女は、アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチがよく知っていた、歓喜にみちたまなざしでいった。「神さまはきっとあなたをおささえくださいますわ。お助けくださいますわ」
こうした言葉のなかには、自分の高い感情にたいする感動と、近ごろペテルブルグでひろまっている、アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチにはよけいなものと思われる、新しい、うちょうてんな、神秘的な気分とがあったにもかかわらず、今のアレクセイ・アレクサーンドロヴィッチには、それを聞くことが快かった。
「わたしは弱い人間です。わたしは滅ぼされた人間です。わたしにはなんにもさきのことが見えなかったし、いまもなんにもわからないのです」
「ああ、あなた!」と、リディヤ・イワーノヴナはくりかえした。
「現在ここにいないものをなくしたことなどいっているのではありません。そういうことではありません!」とアレクセイ・アレクサーンドロヴィッチはつづけた。「わたしはそれを惜しみはしません。しかしわたしは、現在自分のおちいっている境遇のために、世間にたいして恥じないわけにはいかないのです。それはよくないことです、が、わたしにはできません、わたしにはできません」
「わたくしばかりでなく、世間の人がみんな感心しているあの気だかいお許しの行為は、あれはあなたがあそばしたのではございませんよ。あなたのお心においでになる神さまがあそばしたことでございますよ」とリディヤ・イワーノヴナ伯爵夫人は、夢見るような目をあげながら、いった。「ですからあなたは、ご自分のあそばしたことを、お恥じになることはできません」
アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチは眉をひそめて、両手をまげ、指をぼきぼき鳴らしはじめた。
「どうか、すべての事情を十分に知っていただきたいものです」と彼は細い声でいった。「人力にはかぎりがありますからな、奥さん。そしてわたしはその極限に達してしまったのです。今日はわたしは一日じゅう、わたしのこの新しい孤独の境遇から流れ出てくる(彼は|流れ出てくる《ヽヽヽヽヽヽ》という言葉を強くいった)いろんなさしずを、家事上のさしずをしなければなりませんでした。下女下男、家庭教師、いろんな勘定……こんなふうの小さな火が、わたしを焼きつくして、わたしにはもう、もちこたえる力がなくなってしまいました。食事の時だって……昨日など……わたしはすんでのことに食卓からはなれてしまうところでした。わたしには、子供のわたしを見る目が、どうにもがまんがならなかったのです。あれはわたしに、こんどの事件の意味については何もたずねはしませんが、ききたそうにはしているのです。わたしには、その目つきがどうにもたまりませんでした。あれはわたしを見ることを恐れています。が、それはまだいいのです……」とアレクセイ・アレクサーンドロヴィッチは、自分のところへ持ってこられた例の勘定書のことをいおうと思ったが、声がふるえだしたので、思いとまった。あの青い紙に書かれた帽子とリボンとの勘定書を、彼は自分自身をあわれむ情なしに、思いだすことはできなかったのである。
「わたくし、よくわかります、ねえ、あなた!」と、伯爵夫人リディヤ・イワーノヴナはいった。「わたくし、何もかもよくわかりますわ。わたくしは、自分のうちにあなたの救いや慰めになるものがあろうとは思いませんけれども、でも、やっぱり、できることなら、少しでもあなたのお役にたちたいとぞんじまして、そのためにわざわざ伺ったんでございますよ。ああ、ほんとうにわたくしに、そうしたつまらない屈辱的なご心配をあなたからとりのけてさしあげることができましたらねえ……まったくこういう場合には、女の言葉と女のさしずとが必要なものでございますからね。わたくしにお任せくださいますわね?」
アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチは無言のまま、感謝するように彼女の手を握りしめた。
「ごいっしょに、セリョージャのめんどうも見ることにいたしましょうね。わたくしは、実際的の方面にはいっこう役にたたないほうですけれど、とにかくわたくしやってみますわ。お宅の家政婦になってみますわ。でも、わたくしにお礼なんかおっしゃることはございませんのよ。これはわたくし自身がやるのではございませんから……」
「わたしは感謝せずにはいられません」
「ですけれど、ねえ、あなた、いまおっしゃったようなそうしたお気持に、お負けになってはいけませんですよ――キリスト教徒の最高の徳である『みずから卑しくするものは高められん』ということを、恥ずかしくお思いになるなんて。そして、わたくしにお礼などおっしゃってはいけませんよ。神さまに感謝し、神さまに救いをお願いなさらなければ。わたくしたちは、神さまのなかにだけ、平和や、慰めや、救いや、愛を見いだすんでございますもの」と彼女はいった、そして、目を天のほうへむけて祈りはじめた。アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチは、彼女の沈黙によってそれをさとった。
アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチも、今はじっと彼女の言葉に耳をかたむけた。と、以前には不愉快というほどではないまでも、少なくとも、よけいなことのように思われたそれらの表現が、今では、いかにも自然な、慰めになるもののように思われた。アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチは、この新しい、うちょうてんな気分を好まなかった。彼は、とくに政治上の意味において宗教に興味をいだくだけの信者だったので、いろんな新しい解釈をあえてする新しい教義は、それが宗教にたいする論争と分析を引き出すという理由から、原則として不愉快であった。彼は以前には、この新しい教義にたいしては冷やかな、むしろ敵対的な態度をすらとっていたが、この教義にすっかりひきこまれている伯爵夫人リディヤ・イワーノヴナとは、まだ一度も争ったことはなく、沈黙によって、つとめて彼女の挑戦を避けていた。ところがいま彼は、はじめて満足な気持で彼女の言葉に耳をかたむけ、はらのなかでも、それに反対しなかった。
「わたしは非常に、非常に、あなたにたいして感謝しております。お力ぞえにたいしても、お言葉にたいしても」と彼は、彼女が祈りおえたときにいった。
伯爵夫人リディヤ・イワーノヴナは、もう一度両手で、友の手を握りしめた。
「ではさっそく、わたくしは仕事にとりかかりましょう」彼女はしばらく黙っていてから、顔から涙のあとをぬぐいながら、微笑をうかべて、こういった。「これからセリョージャのところへまいります。そして、ただよくせきのときだけに、あなたにご相談することにいたしますわ」そして彼女は立ちあがって、出て行った。
伯爵夫人リディヤ・イワーノヴナは、セリョージャの部屋へはいって行き、そしてそこで、びっくりしている子供のほおを涙でぬらしながら、彼に、彼の父は聖人であること、彼の母は死んでしまったことを言いきかせた。
伯爵夫人リディヤ・イワーノヴナは、約束を実行した。彼女はじっさい、アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチの家事の整理やさしずという、すべてのめんどうを、一身にひきうけた。しかし彼女が、自分は実際的のことにはいっこう役にたたないといったのは、誇張ではなかった。彼女のさしずは、なにからなにまで、すべて実行不可能だったので、ことごとく変更しなければならなかった。そしてそれらは、アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチの従僕であるコルネイによって、さっさと変更されていった。彼は現在では、だれにも気づかれないようにカレーニン家のいっさいをきり盛りしていて、主人が着がえをするときなどに、おちつきすまして、注意ぶかく、必要なことを告げるのであった。とはいえ、リディヤ・イワーノヴナの助力は、やはり非常に効果があった。彼女はアレクセイ・アレクサーンドロヴィッチに、彼にたいする自分の愛と尊敬とを意識させることによって、とくに彼をほとんどキリスト教にひき入れたこと(これを考えることは、彼女にどんなに慰めになったであろう)、すなわち彼を冷淡な、ものぐさなキリスト教信者から、最近ペテルブルグにひろまっている、例のキリスト教の新解釈の、熱心で堅実な味方に転向させたことによって、精神的の支柱をあたえた。アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチには、この新解釈を信ずることは容易であった。アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチは、リディヤ・イワーノヴナや、彼女と見解を同じくする他の人々と同様に、想像力の深さ――想像によってよびおこされた観念が、他の観念や実在と一致するほど現実的なものになる精神的能力を、ぜんぜん欠いていたからである。彼は、無信仰者にとって存在する死が、自分にとっては存在しないということ、自分は完全無欠な信仰をもっており、自分自身が信仰の裁判官であるから、自分の精神にはもはや罪というものはありえない、そして、自分はすでにこの地上において、完全な救いを経験している、などということについての想像においても、何ひとつ不可能や不合理を認めていなかったのである。
もっとも、信仰についての自分のこうした観念が浅薄であり、誤りであることは、漠然とながら、アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチに感ぜられていた。そして彼は、自分の許しが神の働きであるなどということは少しも考えずに、その直接な感情に身をまかせていたときのほうが、今のように一分ごとに、自分の精神にはキリストがやどっている、自分は書類に署名しながらも、キリストの意志を遂行《すいこう》しているのだなどと考えているときよりも、はるかに幸福をおぼえていたということを、知っていた。しかし、アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチにとっては、ぜひそう考えることが必要であった。こういう屈辱的な境地にある彼にとっては、よしそれが架空なものであっても、とにかく、すべての人に蔑視されている自分が、あべこべにそこから、他の者を蔑視してやることのできるような高い足場をもつことが、ぜひとも必要であったので、彼は、真の救いにでもとりすがるように、自分の架空の救いにとりすがったのであった。
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二十三
伯爵夫人リディヤ・イワーノヴナは、まだ年若い、うちょうてんな少女時代に、ある富裕な、身分のある、気心のよい、しかし、きわめて放埓《ほうらつ》な、陽気な男にとついだのであった。二か月めに夫は彼女を捨ててしまい、彼女のうちょうてんな愛の誓いにたいして、ただ冷やかな微笑と、そのうえ、伯爵の善良な心を知り、うちょうてんなリディヤになんの欠点をもみとめていない人々には、どうしてもがてんがいかなかったような敵意をもってすら、むくいたのである。そのときから彼らは、離婚こそしなかったけれど、別々に暮らしていた。そして夫は、妻に会うときにはいつもきまって、理由のはっきりしない、お定まりの毒々しい微笑をもって、彼女にたいするのであった。
伯爵夫人リディヤ・イワーノヴナは、もう久しい以前に夫を恋することをやめてしまったが、それ以来、だれかに恋することをやめなかった。彼女はふいに、同時に何人もの人に、男女の別なくほれこんでしまうことがあった。彼女は、なにかとくにすぐれたところのある人であれば、ほとんどすべての人にほれこんだ。彼女は、新しく皇族の列に加わったすべての内親王や親王たちにほれこみ、ある大僧正に、ある副司教に、ある司祭にほれこんだ。なおある雑誌記者、三人のスラヴ主義者、コミサーロフにほれこみ、ある大臣、あるドクトル、あるイギリス人宣教師、そしてカレーニンにほれこんだ。すべてこれらの恋は、ときには弱くなり、ときには強くなりながら、彼女が宮廷と社交界とで、きわめて広い、複雑な関係をつづけていくことをさまたげなかった。しかし、カレーニンに例の不幸があってのち、彼女が彼を自分の特別な保護のもとにとりこんでからというもの、彼の幸福を願ってカレーニン家で働くようになってからというもの、彼女は、ほかのすべての愛は真実のものではなくて、自分はいまカレーニンただひとりに真実の愛をそそいでいるのだと感じだした。彼女がいま彼にたいしておぽえている感情は、以前の感情のどれよりも強いように彼女には思われた。自分の感情をいろいろに分析し、それを以前の感情と比較してみて、彼女は、はっきりとつぎのようなことを知った。もしコミサーロフが皇帝の生命を救わなかったら、自分は彼にほれはしなかったであろう。もしスラヴ問題がなかったら、自分はリスチーチ・クドジーツキイを愛しはしなかったであろう。けれども、自分がカレーニンにほれこんだのは、彼その人にたいしてである。彼の気高い、不可解な魂にたいしてである。自分にとってしたわしい、長くひっぱる調子をもった、彼の声の細いひびきにたいしてである。彼の疲れたようなまなざしにたいしてである。彼の性格と、血管のふくれた柔らかい白い手にたいしてである。彼女は、彼に会うことを喜んだばかりでなく、自分が彼にあたえた印象の現われを、彼の顔にさがし求めた。彼女は、言葉だけでなく、全身で彼の気にいりたいと思った。彼女は今や、彼のために、かつてなかったほど化粧に念をいれた。もし自分が人妻でなく、彼が自由の身であったらどうだろう、こういう空想のうちに自分自身を見いだすことも、しばしばだった。彼女は、彼が部屋へはいってくると、心の動揺からまっかになった。彼に快いことをいわれると、喜びの微笑をおさえることができなかった。
ここ数日のあいだ、伯爵夫人リディヤ・イワーノヴナは、はげしい興奮にとらわれていた。アンナとウロンスキイとが、ペテルブルグにいるということを知ったからであった。で、彼女は、どうにかして、アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチを彼女に会わせないようにしなければならなかった。いや、それどころか、あの恐ろしい女が彼と同じ都にいるということ、いつなんどき彼女に出くわすかもしれないということを知る苦しみからも、彼を守ってやらなければならなかった。
リディヤ・イワーノヴナは何人もの知人を通して、この|いまわしい《ヽヽヽヽヽ》人々――彼女はアンナとウロンスキイとをこう呼んでいた――が何をしようとしているかをさぐり、そして、この数日というもの、自分の友が彼らと出くわすことのないように――その行動をみちびくようにつとめていた。ウロンスキイの友人の若い副官――この男を通して彼女は報告をうけ、この男のほうでまた、伯爵夫人リディヤ・イワーノヴナを通して利権を獲得しようとしていた――が、彼女に、彼らはもう用をすましたので、明日立つことになっているという消息をもたらした。リディヤ・イワーノヴナは、やっと胸をなでおろしかけた。ところが、翌朝になると、一通の手紙が彼女のもとへ届けられて、その筆跡が彼女をぎょっとさせた。それは、アンナ・カレーニナの筆跡であった。封筒はぼだい樹皮のように厚い紙でできていて、黄いろい長方形の紙の上には、姓名の略字が大きく書かれてあり、手紙からはぷんといい匂《にお》いがした。
「だれがもって来たの?」
「旅館からの使いでございます」
伯爵夫人リディヤ・イワーノヴナは長いこと、その手紙を読むために腰をおろすことができなかった。彼女は興奮から持病の|ぜんそく《ヽヽヽヽ》をおこしたのであった。そして、やっとおちついてから、つぎのようなフランス語の手紙を読んだ。
『Madame la Comtesse,(伯爵夫人さま)おんもとさまのお心をみたしているキリスト教徒のお情けが、おんもとさまにこうした手紙をさしあげます許されがたい大胆さを、わたくしにあたえてくれましたことと思います。わたくしは子供と別れておりますことから、すっかり不幸な身になっております。どうぞお願いでございます。こちらを立ちます前にただひと目、あの子にお会わせくださいまし。おんもとさまにこのようなことをお願いする罪をどうぞお許しくださいまし。わたくしはあの寛大な心の持ち主を、わたくしごときものの記憶のためにこのうえ苦しめるにしのびませんので、ただそのためだけに、わざとアレクセイ・アレクサーンドロヴィッチにはあてず、おんもとさまにおすがりするしだいでございます。おんもとさまには、あのかたへの日ごろのご友情により、このわたくしの心もちもお察しいただけることとぞんじあげます。セリョージャをわたくしのほうへおつかわしくださいますか、それともご指定の時刻にわたくしのほうからそちらへ出むきましたものでございましょうか、それともまた、家以外のところでしたら、いつどこで会わせていただけますでしょうか? わたくしは、わたくしのこれをお願いしているかたの、寛大なお心をよくぞんじあげておりますので、この願いは必ずかなえていただけるものとぞんじております。失礼ながら、おんもとさまには、わたくしがただいまなめておりますあの子見たさの思いのいかほどせつないものであるか、したがっておんもとさまのお助けが、わたくしの心にどれほどの感銘の念をよびおこしますか、ご推量にもあまることとぞんじあげます。 アンナ』
この手紙にあるものは、なにからなにまで伯爵夫人リディヤ・イワーノヴナをいらだたせた。内容も、寛大についての暗示も、ことに、なれなれしい――と彼女には思われた――調子が。
「返事はありませんといっておくれ」伯爵夫人リディヤ・イワーノヴナはこういうと、すぐさま吸取り紙つきの紙ばさみを開いて、アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチあてに、宮廷における祝賀式の席上で、一時にお目にかかりたいむねを書き送った。
『ある重大な悲しいことがらにつき、ご相談しなければならぬことができました。ご相談の場所は、お目にかかったうえ決めましょう。一ばんいいのは、|あなたの《ヽヽヽヽ》お茶をいれさせながら、わたくし宅ですることでございます。ぜひどうぞそういうことに。神は十字架をおあたえになりますけれど、また力をもお授けになります』彼女は、多少でも彼に心がまえをさせるために、こう書きくわえた。
伯爵夫人リディヤ・イワーノヴナは、たいてい日に二通か三通かの手紙を、アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチに書いていた。彼女は、直接に会って話をするときには見られない、おくゆかしさと秘密めかしさとを持っているこうした方法で、彼と交渉するのを愛していたのだった。
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二十四
祝賀式はおわった。退出する人々は、出会うにつれて、その日の新しい出来事――新たに授けられた褒賞《ほうしょう》のことや、高官の地位の移動などについて、話しあっていた。
「まあ伯爵夫人マリヤ・ボリーソヴナが陸軍大巨で、ワツコーフスキイ公爵夫人が参謀総長だったらどうでしょうなあ」と、金モールで飾られた制服姿の白髪の老人が、こんどの更迭《こうてつ》のことで何か彼にたずねた、背の高い、美しい女官に向かっていっていた。
「そしてわたくしを副官にね」と、女官は笑顔になって答えた。
「あなたはもうきまっていますよ。あなたは宗務省ですよ。そして次官にはカレーニン」
「やあ、ごきげんよう、公爵!」と小柄な老人は、そばへやって来た人の手を握りながらいった。
「あなたはカレーニンのことで何を話していられたのです?」と、公爵はいった。
「あの男とプチャートフとは、アレクサンドル・ネーフスキイ勲章をもらいましたね」
「あのひとはもう前に持っていたと思っていたが」
「いや、まああれをごらんなさい」と老人は、廷臣の制服に新しい赤い綬《じゅ》を肩からかけて、参議院の有力な議員のひとりと、広間の戸口に立ちどまっているカレーニンのほうを、縁飾りのついた帽子でさし示しながら、いった。「まるで新しい銅貨のように、いい気になって喜んでいますわい」と彼は、力士のように骨格のりっぱな、好男子の侍従の手を握るために、立ちどまりながらつけくわえた。
「いや、あのひとも年をとりましたね」と侍従がいった。
「苦労が多いからですよ、あのひとは、いま法案ばかり書いていますからね。今だってあのひとは、すべて個条書きどおりに説明してしまわないうちは、不幸な相手を放免しないですからね」
「どうして年をとったかですって? Il fait des passions.(彼はうまくやったんですよ)伯爵夫人リディヤ・イワーノヴナは、今あのひとの細君のことで、あのひとを妬《や》いてるんだとわたしは思いますがね」
「まあ、なんですって! 伯爵夫人リディヤ・イワーノヴナのことは、どうかわるくおっしゃらないでくださいまし」
「じゃあ、あの女《ひと》がカレーニンにほれているというのがわるいのですか?」
「だが、カレーニン夫人がここにいるというのはほんとうでしょうか?」
「ええ、ここといっても、宮廷ではありませんがね。ペテルブルグにいるのは事実です。わたくしは昨日あの女が、アレクセイ・ウロンスキイとモルスカヤ街を bras dessus, bras dessous.(腕をくみあわせて)歩いているのに出くわしましたよ」
「C'est un homme qui n'a pas……(そしてあのひとは……)」と侍従は言いかけたが、中止し、おりから通りかかった皇族の婦人に道をゆずって、おじぎをした。
こんなふうにして人々が、たえまなくアレクセイ・アレクサーンドロヴィッチのうわさをして、彼を非難したり嘲笑したりしているあいだに、彼のほうは、途中でうまくつかまえた参議院議員の行く手をふさぐようにして、その男に逃げられないために一瞬間も言葉をきらないで、詳細にわたって、自分の財政計画を説明していた。
アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチのもとから妻が姿を消すとほとんど同時に、彼には、官界にあるものにとっての一ばん苦い出来事――昇進の停止ということがおこった。この停止はもう確定したもので、すべての人が明らかにそれを見ぬいていたのに、アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチ自身は、自分の栄達が終わりを告げたとは、まだ自覚していなかった。ストゥレーモフとの衝突のためであるか、妻との不幸のためであるか、それとも単に、アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチがすでに、規定の極限に達してしまったためであるか、いずれにしても、とにかく、今年になってからすべての人に、彼の官吏としての行路のおわったことが明らかになった。彼は、まだ重要な地位をしめており、多くの委員会や会議の一員ではあったが、もはや全部を出しきってしまった人間で、世間はもう彼から、何ものをも期待してはいなかった。彼が何をいおうが、何を提議しようが、彼の提議することは、もうとうにわかりきっている、まったく不必要なものででもあるように、聞き捨てられてしまうのだった。しかし、アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチはそれを感じていなかった。いや、それどころか、自分が政治上の活動に直接関係しなくなってみると、以前よりもいっそうはっきりと、他人の活動の欠点や誤謬《ごびゅう》が見えてきて、それらを改むべき方法を指示してやるのが、自分の義務だと思うようになった。妻と別れてからすぐに、彼は、このさきひきつづいて書く予定になっていた行政上の各分科にわたる、だれにも必要のない無数の法案のひとつである新裁判手続きの第一部の起草にとりかかったのであった。
アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチは、官界における自分の地位の望みのないことに気づかなかったばかりでなく、それを悲しまなかったばかりでなく、むしろ現在までのいつよりも、今は、自分の活動に満足しているのだった。
『妻ある者は妻を喜ばさんとして世のことに思いわずらい、妻なき者は主を喜ばさんとして主の国のために思いわずらう』と使徒ポーロはいっている、そして、いまやすべてのことにおいて聖典の導きをうけていたアレクセイ・アレクサーンドロヴィッチは、しばしばこの句を思いおこした。彼には、妻に去られてからというもの、自分はこれらの仕事そのものによって、前よりもいっそう多く神に奉仕しているような気がしていたのである。
早く逃げだしたいと思って、明らかにじりじりしている議員の態度も、アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチの心をさわがせはしなかった。彼は、議員が皇族の通過を利用して、彼のそばをすべりのがれたときに、やっとその証明を中止した。
ひとりとり残されたアレクセイ・アレクサーンドロヴィッチは、考えをまとめるために頭をたれ、それからぼんやりと自分の周囲を見まわして、ドアのほうへ歩きだした。そこで伯爵夫人リディヤ・イワーノヴナに会えることをあてにしながら。
『ああ、みんななんという強そうな、健康そうな人たちだろう』とアレクセイ・アレクサーンドロヴィッチは、きれいにくしけずられたいい匂《にお》いのするほおひげをたてた、たくましそうな侍従と、しっくりした制服姿の公爵の赤い首とを見ながら、考えた。彼は、いやでもその人たちのそばを通らなければならなかったのである。『世のなかのことは、すべて邪悪であるとは、よくいったものだ』と彼は侍従のふくらはぎを、もう一度横目で見ながら考えた。
ゆっくりゆっくりと歩をはこびながら、アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチは、例の疲れたような、もったいぷった様子で、自分のうわさ話をしていたこれらの紳士たちにえしゃくをした。そして戸口のほうをながめながら、伯爵夫人リディヤ・イワーノヴナを目でさがした。
「ああ! アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチ!」と小柄な老人は、カレーニンがそのそばへ行って冷やかな態度で頭をさげたときに、いじわるそうに目を光らしながら、いった。「わたしはまだあなたにお祝いを申しあげませんでしたね」と、彼の新たにもらった綬《じゅ》をさしていった。
「ありがとう」と、アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチは答えた。「今日はじつに|いい《ヽヽ》日ですなあ」と彼は例の癖で、とくに『いい』という言葉に力をいれて言いたした。
彼らが自分を嘲笑していたことは彼も知っていたが、しかし彼は、彼らから、敵意以外の何ものをも期待してはいなかった。彼はもうそれにはなれていた。
戸口へはいってきた伯爵夫人リディヤ・イワーノヴナの、コルセットからつき出ている黄いろい肩と、自分を招いている美しい、もの思わしげな目とを見つけると、アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチは、いつまでもきれいな白い歯を見せて、ほほえんだ、そしてそのほうへ歩いていった。
リディヤ・イワーノヴナの化粧は、このごろの彼女の化粧がいつもそうであったように、彼女にとって非常に骨の折れることであった。彼女の化粧の目的は、いまでは彼女が三十年まえに求めたものとは、ぜんぜん相反したものであった。そのころの彼女は、ただなんでもいい、自分を飾ることばかりを考えて、そうすればするほどよかったのである。が、今は反対に、むりにも自分の年齢や姿と不似合いな飾りかたをしなければならないので、それらの装飾と自分の容貌との対照が、あまり恐ろしいものになりはしないかと、ただそればかりを気づかっていた。が、アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチにたいしては、彼女はうまく目的を達して、彼には、なかなかに魅惑的に思われた。彼にとっては、彼女は、彼をとりまく敵意と嘲笑の海における、唯一の好意ある島であったばかりでなく、なおじつに、愛の島ででもあったのである。
嘲笑的視線の放列のなかを通り過ぎながら、彼は、植物が日光のほうへ向かうように、しぜんと彼女の愛にみちたまなざしのほうへ引きよせられていった。
「おめでとうございます」と彼女は、目で綬《じゅ》をさし示しながらいった。
彼は満足の微笑をおさえながら、こんなことは自分を喜ばすには足りないとでもいったように、両眼を閉じて肩をすくめた。が、伯爵夫人リディヤ・イワノーヴナは、彼はいつにも口にだして白状したことはなかったけれど、それが彼の大きな喜びのひとつであることをよく承知していた。
「わたくしたちの天使は、どんな様子でございます?」と伯爵夫人リディヤ・イワーノヴナは、セリョージャのことをこんなふうにたずねた。
「どうも、十分満足だとは申されませんな」と眉をあげて目を開きながら、アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチはいった。「シートニコフもあれには不満でおります(シートニコフというのは、セリョージャの普通教育を託されている教師であった)。いつかもお話しましたとおり、どうもあれには、すべての人、すべての子供の心を感動させなければならぬはずの、最も重大な問題にたいして、なんとなく冷淡なところがあります」とアレクセイ・アレクサーンドロヴィッチは、勤務以外では唯一の興味ある問題――子供の教育ということについて、自分の意見を述べはじめた。
リディヤ・イワーノヴナの助力によって、ふたたび生活と活動とへもどったときに、アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチは、自分の手に残された子供の教育にしたがうことを、自分の義務であると感じた。それまでに一度も教育問題にたずさわったことのなかつたアレクセイ・アレクサーンドロヴィッチは、この問題の論理的研究に、まずいくらかの時をささげた。人類学や、教育学や、教授法の書物を何冊か通読するうちに、アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチは、自分で教育のプランを立て、そしてそれを任せるために、ペテルブルグでの優秀な教師を招いて、その仕事に着手した。そして、この仕事はたえず彼の心をしめていた。
「ええ、ですけれど、心は? わたくし、あのお子さんには、お父さまのお心があると思っていますの。そして、ああいう心をもっている子供は、わるくなるはずのないものでございますよ」とリディヤ・イワーノヴナは歓喜の色を見せていった。
「ええ、そうかもしれません……が、まあ、わたしとしては、自分の義務をはたしているのですからな。これがわたしのできるかぎりのことなのですから」
「それはそうと、あなた、宅へいらしてくださいましょうね」と伯爵夫人リディヤ・イワーノヴナは、ちょっと黙っていてからいった。
「あなたにとって憂うつなことがらについて、少しご相談しなければならないことがございますの。何かの思い出からあなたを救うためには、わたくしはどんな犠牲をもいといはいたしませんけれど、他人はそうは考えませんからねえ。わたくしは|あのかた《ヽヽヽヽ》からお手紙をもらいましたの。|あのかた《ヽヽヽヽ》はここに、ペテルブルグにいらっしゃいますのよ」
アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチは、妻についての話を聞くと、ぶるぶると身ぶるいしたが、すぐその顔には、この問題における完全な頼りなさをあらわす、例の死のような不動の表情がこおりついた。
「いや、そんなことだろうと思っていました」と、彼はいった。
伯爵夫人リディヤ・イワーノヴナは、歓喜にたえないようにじっと彼を見つめた。と、彼の魂の偉大さにたいする随喜《ずいき》の涙が、彼女の目にわきあがってきた。
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二十五
アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチが、古い陶器の置物があったり、何枚かの肖像画がかかったりしている、伯爵夫人リディヤ・イワーノヴナの小ぢんまりとした居ごこちのよい書斎へはいったときには、女主人はまだそこにいなかった。
彼女は着がえをしていたのである。
円いテーブルにはテーブルクロースがかかっていて、シナ陶器の茶器と、アルコール・ランプのついた銀製の紅茶わかしとが置かれてあった。アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチは、書斎を飾っている無数のなじみのある肖像を、ぼんやりとながめまわし、そしてテーブルのそばへ腰をおろして、その上に置いてあった福音書を開いた。伯爵夫人のきぬずれの音が彼の注意をひいた。
「さあ、こんどこそおちついて掛けられますわ」と伯爵夫人リディヤ・イワーノヴナは、わくわくしているような微笑をうかべて、テーブルとソファとのあいだを、急ぎ足に通りぬけながらいった。「お茶をいただきながら、ゆっくりとお話いたしましょうね」
ふた言み言、準備の言葉をのべたあとで、伯爵夫人リディヤ・イワーノヴナは、ほっと苦しそうなため息をつき、まっ赤になって、アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチの手に、自分の受け取った手紙を渡した。
手紙に目を通してから、彼は長いことおし黙っていた。
「わたしは、どうも自分にこれを拒絶する権利があるとは思いません」と彼は目をあげて、おくびょうらしくいった。
「ああ、あなた! あなたはどんな人にも邪悪というものをおみとめになりませんのね?」
「いや、どうしまして、わたしは、この世のことはすべて邪悪だと思っているのです。しかしですね、それが正当であるかどうか……」
彼の顔には、決断のつきかねる色と、自分には不可解なこの事件にたいする忠言や、助力や、指示を求めるような色とがあった。
「いいえ」と伯爵夫人リディヤ・イワーノヴナは、彼の言葉をさえぎった。「何事にも限度というものがございます。そりゃわたくしだって、不義だけならわかります」と彼女は、不義にみちびくもののなんであるかをどうしても理解できなかったので、いくらか真実みを欠く調子でいった。「ですけれど、この残酷な気持ばかりは、わかりませんの、それもだれにたいしてでしょう? あなたにですよ! どうしてまああのかたは、あなたのいらっしゃるこの都におちついてなどいられるのでしょう? いいえ、人は長く生きれば生きるだけ、いろんなことを学ぶものです。わたしはこれで、あなたのお心の気だかさと、あのかたの心の低さとをよく学びましたわ」
「ですが、石を投げうるのはだれでしょうか?」とアレクセイ・アレクサーンドロヴィッチは、自分の演ずべき役割に、明らかに満足しながらいった。「わたしはすべてを許したのです、したがってわたしは、あれにとって愛の要求――子供にたいする愛の要求であるものを、あれから奪いさることはできないのです」
「ですけれど、これが愛といえるでしょうか? ねえ、あなた! これが誠の心でしょうか? かりに、あなたはお許しになったとしてもですね、現在もお許しになっているとしてもですね……わたしたちにいったい、あの天使の心をかき乱していい権利があるでしょうか? あのお子はあのかたを、なくなったものと思っています。あのお子は、あのかたのために神に祈って、あのかたの罪の許しを願っています……そして、このほうがどんなにいいかしれません。もしへたなことをしようものなら、あのお子はどんなことを考えるでしょう?」
「わたしはそこまで考えませんでした」とアレクセイ・アレクサーンドロヴィッチは、明らかに同意しながらいった。
伯爵夫人リディヤ・イワーノヴナは、両手で顔をおおって、しばらく黙っていた。彼女は祈っていたのである。
「もしわたくしの意見をお求めになるのでしたら」と彼女は、しばらく祈ったあとで顔から手をはなしながら、いった。「わたくしは、そうあそばせとはお勧め申しあげません。いったいわたくしに、あなたの苦しんでいらっしゃるのが、このことがあなたの傷口をいっぱいに開いてしまったのが、わからないとおぼしめして? けれどまあ、かりにあなたは、いつものとおりご自分のことを忘れていらっしゃるものとしましょう。それにしても、これはいったいなんの益になるでしょうか? あなたには新しい苦しみをあたえ、お子さんのためにも心の悩みをあたえるだけではございませんか? もしあのかたの心に、いくらかでも人間らしいところが残っていたら、ご自分からこんなことは望めた義理ではないのですわ。ええ、ええ、わたくしは少しもためらうことなく、そんなことはお勧めいたしませんわ。そして、もしあなたがわたくしにお許しくださいますなら、わたくしはあのかたに手紙を書きますわ」
アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチは、それに同意した。そこで、伯爵夫人リディヤ・イワーノヴナは、つぎのようなフランス語の手紙を書いた。
『拝復
おんもとさまについての思い出は、幼い者の心に、彼にとって神聖であるべきものにたいする非難の精神を植えつけないでは答えられない問題のほうへ、ご愛児をみちびくようなことになるかもしれません。したがって、ご主人がおことわりになりましたことは、キリスト教の愛の精神からなされたことと、ご了解くださいますようお願い申しあげます。全能なる神のみ恵みのおんもとさまの上にあらんことを祈りつつ。
伯爵夫人 リディヤ』
この手紙は、伯爵夫人リディヤ・イワーノヴナが自分自身にもかくしていた、かくれた目的を達したものであった。つまりこの手紙は、心の底の底まで、アンナをはずかしめたのであった。
アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチも、この日は、リディヤ・イワーノヴナのもとから帰ってからも、ふだんの自分の仕事に没頭して、そこにまえまえから感じていたような、救いと信仰とをえた人の、あの心の平静を見いだすことができなかった。
彼にたいしてあんなに多くの罪を犯した妻、しかも彼自身は、伯爵夫人リディヤ・イワーノヴナが彼にいった正当な評言どおり、それにたいしてあんなにも神聖であったのだから、その妻についての思い出は、彼の心をさわがすべきはずのないものであった。しかも、彼は平静な気持でいることができなかった。彼は、自分の読んでいる書物を理解することもできず、彼女にたいしてとった自分の態度や、彼女にたいして行なった自分の誤り(今ではそう思われる)についてのいろんな苦しい思い出を、おいやることもできなかった。競馬からの帰りみちで彼女のした不貞の告白を、自分がどんなふうに受け取ったかということの思い出(ことに自分が、表面のていさいだけを彼女に求めて、決闘の申し込みをしなかったということの思い出)は、悔恨《かいこん》のように彼の心をかみさいなんだ。同じくまた、彼が彼女に書いた手紙についての思い出も、彼を苦しめた。なかでも、だれにも必要のなかった自分の許しや、他人の子供にたいする自分の心づかいなどは、慚愧《ざんき》と悔恨とをもって、彼の心臓を焼きただらすものであった。
そしていまや彼は、彼女といっしょに送った自分の過去を思いかえしながら、また、長い逡巡のあとで彼女に申し込みをしたときの自分のまずい言葉を思いかえしながらも、これとまったく同じ慚愧と後悔の情をあじわったのである。
『だがいったい、おれになんの罪があるだろう?』と、彼は自身にいってみた。そしてこの質問は、いつも彼のなかに別の質問――いったい世間の人たち、あのウロンスキイやオブロンスキイのような人たち……あの太いふくらはぎをもった侍従のような人たちは、感じかたが違うのだろうか、愛しかたが違うのだろうか、結婚のしかたが違うのだろうか、こういう質問をよびおこした。と、彼の前には、つねにいたるところで、知らず知らず彼の好奇的な注意をひいたそれらの血気盛んな、力強い、疑いというものをもたない人が、列をなして描きだされた。彼はこうした考えを、自分の胸からおいのけようとした。彼は、自分はこの世の一時的な生活のためでなく、永遠の生活のために生きているのだ。自分の心のなかには、平和と愛があるのだということを、自分に信じこませようとつとめた。しかし、自分がこの一時的の、とるに足らぬ生活のなかでした、と彼には思われた、二、三のとるに足らぬ誤りは、彼の信じている永遠の救いというものが、実際にはないかのように彼を苦しめ悩ますのであった。しかし、こうした誘惑は、長くはつづかなかった。まもなく、アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチの心には、ふたたび例の平静な、崇高な感情が復活して、そのおかげで彼は、覚えていたくなかったことを忘れてしまうことができた。
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二十六
「ねえ、どうだい、カピトーヌイチ?」と、自分の誕生日の前日、散歩から帰って来た、赤いほおをした快活なセリョージャは、その背の高さから子供を見おろして、にこにこしていた背の高い、年よりの玄関番に、ひだのついた、そでなし外套を渡しながら、いった。「あの包帯をしたお役人は、今日来たかい? お父さまはお会いになった?」
「お会いになりましてございます。書記長さんがお帰りになったばかりのところへ、お取次ぎいたしましたものですから」と、愉快そうに目くばせして、玄関番はいった。「さあ、おとりいたしましょう」
「セリョージャ!」とスラヴ人の家庭教師が、奥の部屋部屋へ通ずる戸口に立ちどまっていった。「自分でお脱ぎなさい」
が、セリョージャは、教師の弱々しい声を聞きながら、それには注意をむけなかった。彼は、片手で玄関番の帯をつかんだまま立って、じっと彼の顔を見ていた。
「それで、なにかい、お父さまはあのひとのいうことをきいておやりになった?」
玄関番は、そうだというようにうなずいて見せた。
もう七度も、アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチに何か願いごとをしにやってきた、包帯をした官吏は、セリョージャにも、玄関番にも、興味をいだかせていた。セリョージャは、一度玄関でその男に会って、彼が哀れっぽい声をだし、自分も子供たちも死なんばかりになっているのだからといって、玄関番に取次ぎを頼んでいたのを聞いたことがあった。
そのときセリョージャは、二度めにまた玄関で会ったりして、彼に興味をいだくようになったのだった。
「それで、あのひととても喜んでいた?」と彼はきいた。
「どうして、喜ばずにいられましょう! まるで、踊らんばかりにしてここから出て行きましたよ」
「それから、何か来たかい?」とセリョージャは、ちょっと黙っていてからきいた。
「ねえ、若さま」と玄関番は頭を振りながら、ささやき声でいった。「伯爵の奥さまから何かまいっておりますよ」
セリョージャは玄関番のいっているのは、伯爵夫人リディヤ・イワーノヴナから、自分の誕生祝いがきたことだろうとすぐに察した。
「え、なんだって? どこに?」
「コルネイがお父さまのところへ持ってまいりました。きっといいものにちがいございませんよ」
「どのくらいの大きさ? このくらい?」
「もっとちいそうございましたね、でもいいものでございましたよ」
「ご本だろうか?」
「いいえ、品物でございます。まあいらっしゃいまし、いらっしゃいまし、ワシーリイ・ルキーチがお呼びでございますよ」と玄関番は、近づいてくる教師の足音を聞きつけて、自分の帯につかまっている、手ぶくろの半分脱げかかったかわいらしい手を、そっと引きはなしながら、ルキーチのほうへ頭であいずしながら、いった。
「ワシーリイ・ルキーチ、いますぐ行きます」とセリョージャは、きちょうめんなワシーリイ・ルキーチをいつも負かしてしまうあの快活な、愛らしい微笑をうかべていった。
セリョージャは、あまりにも心楽しく、すべてのことがあまりにも幸福だったので、レートニ・サッド(公園。夏の園)を散歩しながら伯爵夫人リディヤ・イワーノヴナの姪《めい》から聞いた家庭的な喜びごとを、自分の親友である玄関番にわかたないではいられなかったのである。この喜びが、あの官吏の喜びや、おもちゃをもらったという自分の喜びといっしょになったことで、彼にはとくに重大なことのように思われたのであった。セリョージャには、今日はだれもかれもが、愉快に、喜ばしく暮らすべき日であるように思われたのである。
「おまえ知ってる? お父さまはね、アレクサンドル・ネーフスキイ勲章をおもらいになったんだよ」
「どうして知らないでいられましょう! もう皆さんがお祝いにおいでになりましたよ」
「それでどう、お父さまは喜んでいらっしゃる?」
「陛下の厚いおぼしめしを、どうしてお喜びにならずにいられましょう。つまり、ご前さまがよくお勤めになったという証拠でございますもの」と玄関番はおごそかに、まじめにいった。
セリョージャは、きわめて微細な点まで研究しつくしていた玄関番の顔、ことに彼の顔をいつも下からしか見たことのないセリョージャ以外には見た者のない、灰色したほおひげのあいだにたれさがっているあごを、じっとながめながら考えこんだ。
「それで、おまえの娘はもうとっくにおまえんとこへ来たの?」
玄関番の娘はバレーの踊り子であった。
「ふだんの日にどうしてあれが来られましょう? あれたちにもやはり勉強がございますからね。さあ、若さま、あなたも早く勉強にいらっしゃいまし」
自分の部屋へはいりながらも、セリョージャは課題にとりかかるかわりに、自分への贈り物はきっと機械に相違ないという予想を、教師に向かって話しだした。
「先生はどうお思いになりますか?」と彼はきいた。
ところがワシーリイ・ルキーチは、二時に教えにくるはずの教師のために、文法の予習をしておかなければならぬということばかり考えていた。
「いいえ、ね、じゃあこれだけ話してください、ワシーリイ・ルキーチ」と、彼はもう勉強机に向かって、両手で書物をもちながら、とうとつにこうたずねた。「アレクサンドル・ネーフスキイより上の勲章はなんですか? 先生は、うちのお父さまが、アレクサンドル・ネーフスキイ勲章をおもらいになったことをごぞんじでしょう?」
ワシーリイ・ルキーチは、アレクサンドル・ネーフスキイより上のは、ウラジーミルであると答えた。
「その上は?」
「一ばん上のはアンドレー・ペルウォズワンヌイです」
「では、アンドレーより上のは?」
「知りませんね」
「どうして? 先生もごぞんじないんですか?」とセリョージャは、両手でほおづえをついて、もの思いにふけりはじめた。
彼のもの思いは、きわめて複雑な、多種多様なものであった。彼は、父がとつぜんウラジーミルとアンドレーとをいっしょにもらうときのことや、そうしたら、今日の課業のときに父がずっと優しくなるであろうことや、自分も大きくなったらすべての勲章をもらうだろうということや、アンドレーの上の勲章が考えだされることなどを空想したのである。そういう勲章が考えだされたらすぐ、自分はそれだけの働きをする。その上のが考えだされたら、すぐまたそれだけの働きをする。
こういうもの思いのうちに時が過ぎたので、教師がやってきたときには、時と、場所と、動作の状況を示す副詞句についての課業が、準備されていなかったので、教師はただ不満に思ったばかりでなく、泣きたいような顔をした。教師のこの悲嘆は、セリョージャの心を動かした。彼は課業を覚えなかったのを、自分の罪だとは思わなかった。どんなに努めてみても、どうしてもうまくできなかったのである。教師の説明を聞いているあいだは、彼はそれを信じ、そしてわかったような気がしていたが、ひとりになるやいなや、たちまち、『とつぜん』といったような、きわめて簡単なわかりやすい言葉が、|動作の状況副詞《ヽヽヽヽヽヽヽ》だなどということを思いだすこと、理解することが、どうしてもできなかったのである。が、やはり彼には、教師を悲しませたということが残念だったので、彼を慰めたいと思った。
彼は、教師が黙って本を見ている瞬間をとらえた。
「ミハイル・イワーヌイチ、先生の命名日はいつですか?」彼はとうとつにこうたずねた。
「あなたは自分の勉強のことを考えたほうがいいのです。命名日なぞは、賢い人にとってはなんの意味ももたないものです。やはり仕事をしなければならないほかの日と同じことです」
セリョージャは注意ぶかく教師の顔を、そのまばらなひげを、鼻の上の段より低くたれさがっている目がねを見ているうちに、いつのまにか、教師の説明などもう少しも耳にはいらないほど、もの思いに沈んでしまった。彼は教師が、心にもないことを口にしているのを知っていた。彼はそれを、教師の話している言葉の調子によって、感じていたのだった。『だけど、こういう人たちは、なんのために、みなそろいもそろって同じやりかたで、同じたいくつな、要もないことばかり話したがるのだろう? なんのためにこのひとは、自分をよせつけないようにするのだろう? なんでぼくをかわいがってくれないのだろう?』と彼は、情けない気持で自分にきいてみたが、考えをだすことはできなかった。
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二十七
教師のあとで父の課業があった。父が来るまでのあいだに、セリョージャはテーブルの前に腰掛けて、ナイフをもてあそびながら、考えにふけりはじめた。セリョージャの好きな仕事のうちには、散歩のときに母をさがすということがあった。彼は、一般に死ということを信じなかったが、わけても母の死は、リディヤ・イワーノヴナが死んだと言い、父がそれを確かめたにもかかわらず、信じることができなかった。で、母は死んだのだと言いきかされた後も、彼は、散歩に出るといつも彼女をさがした。ふとった、優雅な、髪の毛の黒い婦人は、すべて彼の母であった。そういう婦人さえ見れば、彼の心には、なんともいえぬ優しい感情がこみあげてきて、彼は息をつまらせては、両の目を涙でいっぱいにするのだった。そして彼は、すぐにも彼女が自分のそばへ来て、ヴェールをあげるだろうと心まちにした。そしたら、その顔がすっかり見えるだろう。彼女はにっこりして自分を抱いてくれるだろう。自分はそのにおいをかぎ、彼女の手の柔らかさを感じて、幸福な気持からしくしく泣きだすだろう、いつかの晩、母の足もとに倒れていて、母からくすぐられて声をたてて笑いながら、指輪のいくつもはまった白い手をかんだことがあったが、ちょうどそのときと同じように。
その後、乳母の口から母の死んだのでないことを聞かされ、それから父とリディヤ・イワーノヴナから、あれはいけない人だから(彼はどうしてもそれを信ずることができなかった。なぜなら、彼は彼女を愛していたから)、彼にとってはもう死んでしまったも同じだと聞かされてからも、彼は依然として母をたずね、母に会うことを期待していた。今日も彼は公園で、ふじ色のヴェールをかけたひとりの婦人を見かけると、それこそ母であろうと思い、胸のしびれるような思いをして、その婦人がひとりで小道を、自分のほうへ近づいてくるのを見まもっていた。が、その婦人は、彼のそばまでは来ないで、どこかへ姿を消してしまった。で、今日は、セリョージャはいつにもまして切《せつ》に母恋しさをおぼえ、いまも父を待ちながら、すべてのことを忘れてしまって、輝く目でじっと自分の前を見つめ、母のことばかり考えながら、ナイフでテーブルの端をきずだらけにしてしまった。
「お父さまがおいでですよ」とワシーリイ・ルキーチが彼の空想を破った。
セリョージャはとびあがって、父のそばへ近づき、父の手に接吻してから、アレクサンドル・ネーフスキイ勲章をもらった喜びのしるしをさがしながら、注意ぶかく父の顔を見まもった。
「散歩はおもしろかったかね?」とアレクセイ・アレクサーンドロヴィッチは、自分の肘掛けいすに腰をおろし、旧約聖書を手もとへ引きよせて、それを開きながらいった。アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチはセリョージャに向かって、キリスト教徒はすべて聖史をよく知っていなければならぬと再三いって聞かせたにもかかわらず、自身は旧約聖書を教えるのに、しばしばその書物をのぞきこむのだった。セリョージャもそれに気がついていた。
「ええ、とてもおもしろうございました、お父さま」とセリョージャは、いすの上へ横向きに腰をおろして、そういうことは禁じられてあったのに、がたがたといすをゆすぶりながら、いった。「ぼく、ナーデンカに会ったのです(ナーデンカというのは、リディヤ・イワーノヴナの家で育てられている彼女の姪《めい》であった)。そしたらあのひとがぼくに、お父さまが新しい勲章をおもらいになったって話してくれたの。お父さまはうれしいでしょう、ねえお父さま」
「第一に、そういすをゆすぶらないでもらいたいね、どうぞ」と、アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチはいった。「第二に、大切なことは、ご褒美ではなくて、仕事をするということです。それをよくわかってもらいたいもんだね。おまえにしても、もしご褒美をもらうために勉強したり仕事をしたりするのだつたら、その仕事がたいへん苦しいことのように思われる。けれど、おまえが何かするとき(こう言いながらアレクセイ・アレクサーンドロヴィッチは、今朝百八十の書類に署名するというたいくつな仕事をするときに、義務の意識だけで、やっと自分をささえていたことを思いだした)、その仕事を楽しんでやるようにさえすれば、しぜんそのうちに褒美を見つけることになるというものだからね」
優しさと楽しさとに輝いていたセリョージャの目は、光を失って、父の視線のもとにうつむいてしまった。これは、父親がいつも彼にたいしてとる、もう久しいまえからなじみになっている調子だったので、セリョージャもそれに合わせていく方法を心得ていた。父は、彼と話をするときにはいつも――セリョージャにはそう思われた――じっさいのセリョージャとは似もつかぬ、書物のなかにでも出てくるような、彼の勝手に想像した子供にたいするような態度をとった。で、セリョージャも父にたいしては、いつもこうした本のなかの子供のように、見せかけようとつとめるのだった。
「おまえこのことはわかるだろうね、わかるね!」と父はいった。
「ええ、お父さま」とセリョージャは、仮想の子供らしく見せかけながらいった。
課業は、福音書中の二、三の詩を暗誦《あんしょう》することと、旧約聖書の初めのほうを復習することであった。福音書中の詩は、セリョージャもかなりよく知っていたのだが、それを暗誦している最中に、父の額の骨がこめかみのところでひどくまがっているのに気をとられたので、たちまち連鎖を失ってしまい、ある詩句の終句を、似かよった別の詩の初めのほうの言葉とごっちゃにしてしまった。アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチには、子供が自分でいっていることの意味を理解していないことが明らかだった。そしてこのことは、ひどく彼の心をいらだたせた。
彼は眉をひそめて、セリョージャがもう何度となく聞かされた、しかも、――『とつぜん』という言葉が動作の状況副詞であるのと同じように、あまりわかりきったことであるためにかえってどうしても覚えられなかったことがらを、諄々《じゅんじゅん》と説き聞かせはじめた。セリョージャはびっくりしたような目で父をながめながら、ただひとつのこと――今までもときどきさせられたように、父のいまいっていることをくりかえさせられるのではあるまいかということばかり考えていた。と、この考えがあまりセリョージャの心を脅かしたので、彼はもう、何ひとつ理解することができなかった。しかし、父はそれをくりかえさせることはしないで、旧約聖書の課業のほうへうつっていった。セリョージャは、事柄そのものはよく述べたてたが、ある事柄が何を意味しているかという問題に答えねばならぬだんになると、この課業のためにはもう一度罰を受けたことがあったにもかかわらず、何も知ってはいなかった。彼がもう何もいうことができなくて、しりごみしながら、テーブルをけずったり、いすの上でからだを動かしたりした場所は、大洪水以前の族長について話さなければならぬところだった、そのなかで彼は、生きながら昇天したというエノック以外のことは、だれのことも知ってはいなかった。前には彼は、それらの名まえを覚えていたのだが、今はすっかり忘れてしまっていた。それはとくに、エノックは旧約聖書中で彼の一ばん好きな人物であり、そのエノックの生きながら昇天したという事実が、彼の頭のなかで、その長い思想の糸――彼がいま、父の時計の鎖や、半分だけかけられているチョッキのボタンなどを、目をすえてじっと見ながら思いふけっていた思想の糸を、編みだしていたからであった。
しばしば聞かされていた死という事実を、セリョージャはまったく信じなかった。彼は自分の愛している人が死ぬという事実を、わけても自分自身が死ぬという事実を、信じなかった。彼にとって、それはまったく不可能であり不可解なことであった。しかし彼は、すべての人は死ぬということを聞かされていたし、自分でも信頼している人々にたずねてみさえしたのだが、その人たちもそれを裏書きした。乳母も、しぶしぶではあったが、同じことをいった。ところが、エノックは死ななかった。してみると、だれでもかれでも死ぬわけではないにちがいない。『けれど、なぜ人間はみな、同じように、神さまのおためにつくして、生きながら昇天することができないのだろう?』とセリョージャは考えた。わるい人間、つまりセリョージャの愛しない人たちは死んでもいいけれど、いい人はみな、エノックと同じであっていいはずである。
「さあ、それでどんな族長がいたんだね?」
「エノック、エノッス」
「いや、それはもうおまえ、前にいったよ。よくないことです、セリョージャ。たいへんよくないことですよ。もしおまえが信者にとって何より大切なことを覚えようとしないのなら」と、父は立ちあがりながらいった。「おまえにはいったい何がおもしろいのかね? わしはおまえに満足できない。ピョートル・イグナチイチも(これは主任教師だった)、おまえのことを不満足に思っていられる……わしはおまえを罰しなければならない」
父も教師も、ふたりともセリョージャに不満であったが、またじっさい、彼は覚えがわるかった。しかし、彼を頭のわるい子だということは絶対にできなかった。それどころか、教師が模範としてセリョージャに示した子供たちよりも、ずっといい素質をもっていた。父の観察点からすれば、彼は教えられることを覚えようとしないのであった。が、じっさいは、彼はそれを覚える気になれなかったのである。彼は彼自身の心に、父や教師の教えようとすることより、自分にとってはるかに大切な要求があったので、そうした気になれなかったのである。それらの要求は互いに相反していたので、彼は自分の教育者たちとたたかっているのであった。
彼は九歳であった。彼は子供であった。しかし、彼は自分の魂を知っていた。それは彼にとってとうといものであった。彼はそれを、ちょうどまぶたが目を保護するように、まもっていた。そして愛という鍵なしには、なんぴとをも自分の魂のなかへは入れなかった。彼の教育者たちは、彼が学ぶことをきらうといってこぼしたが、しかし彼の魂には、知識欲がみちみちていた。で、彼はカピトーヌイチや、乳母や、ナーデニカや、ワシーリイ・ルキーチから学んで、教師たちからは学ばなかった。父や教師が自分たちの水車のために待っていた水は、もう久しい以前にかれてしまって、別の方面ではたらいていたのであった。
父は罰としてセリョージャを、リディヤ・イワーノヴナの姪《めい》のナーデニカのところへ行かせなかった。ところが、この懲罰は、セリョージヤにとってはかえって幸福になった。ワシーリイ・ルキーチが上きげんで、彼に風車のすえかたを教えてくれたからであった。その晩はひと晩、その仕事と、どうしたら乗ってまわせるような風車が作れるだろうか――両手でつばさにつかまったものだろうか、それとも、自分のからだを縛りつけてまわったものだろうか、こうした空想のうちに過ごされた。母については、セリョージャはひと晩じゅう考えなかった。が、寝床にはいると、とつぜん彼女のことを思いだして、自分の言葉で、母が明日の誕生日にはかくれることをやめて、自分のところへ来てくれるようにと祈った。
「ワシーリイ・ルキーチ、ぼくは、今夜いつものことのほかに、何をお祈りしたか知っていますか?」
「もっとよく勉強ができるようにでしょう?」
「いいえ」
「じゃあ、おもちゃのこと?」
「いいえ、先生にはとてもわからないことですよ。たいへんにいいことなの、だけど秘密なんですよ! だけど、それがほんとうになったら、お話しますよ。わからない?」
「ええ、わかりませんね。お話しなさいな」とワシーリイ・ルキーチは、めったに見せたことのない微笑をうかべていった。「さあ、おやすみなさい。ろうそくを消しますよ」
「ところがね、ぼくには、ろうそくのないほうが、自分の見るものや、お祈りしているものはよく見えるんです。ああ、もうちっとで、秘密をいってしまうところだった!」とセリョージャは、快活に笑いだしながらいった。
ろうそくがもっていってしまわれると、セリョージャは母の声を聞き、母の姿を感じだした。彼女は彼のまくらもとに立って、愛にみちた目で彼を愛撫してくれた。が、やがて風車やナイフが出てきて、それがみなごっちゃになってしまった――そして彼は眠りにおちた。
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二十八
ペテルブルグへ着くと、ウロンスキイとアンナとは、一流旅館のひとつに足をとめた。ウロンスキイは別に階下に、アンナは子供や女中といっしょに、四間からなっている階上の大きな一画に。
着いたその日に、ウロンスキイは兄のもとを訪れた。そこで彼は、モスクワから用事のために来ていた母に会った。母と兄よめとは、いつものように彼を迎えた。彼女たちは、外国旅行のことをたずねたり、共通の知人のことを話したりしたが、彼とアンナとの関係については、ひと言も口にのぼせなかった。が、兄は、翌朝ウロンスキイのもとへやって来て、自分のほうから彼女のことをたずねた。アレクセイ・ウロンスキイは率直に、自分はカレーニン夫人との関係を結婚と見なしている。自分は、離婚を成立させたいと願っている。そして、そのあかつきには彼女と結婚する。が、そのときまでも、世間ふつうの妻と同様な自分の妻だと思っているから、母にも、兄よめにも、そう伝えてもらいたいということを話した。
「よし、世間でかれこれいったところで、ぼくはいっこうかまいません」とウロンスキイはいった。「しかし、親戚の人たちが、ぼくと親戚の関係をたもっていたいと思うのだったら、ぼくの妻とも同じ関係をもってもらわなければなりません」
日ごろ弟の判断を尊重していた兄も、世間がこの問題を解決しないあいだは、彼が正しいかどうかをはっきり知ることができなかった。が、自分自身としては、それに反対する何ものをも持たなかったので、アレクセイといっしょにアンナのところへ行った。
ウロンスキイは、兄の前でもすべての人の前と同様に、アンナを『あなた』と呼び、親しい知己にたいするような態度をとっていたが、兄がふたりの関係を知っていることは言外にちゃんとほのめかされていて、アンナがウロンスキイの領地へ行くことになっていることなども、話された。
ウロンスキイは、社交的経験は十分に持っていたにもかかわらず、自分が現在そのなかにおかれている新しい境遇のために、妙な錯誤《さくご》にとらわれていた。彼は、彼とアンナにとっては、社交界の扉が閉ざされていることを知っていなければならぬはずであったが、いまや彼の念頭には、そんなことは昔にかぎったことだ、こんにちのこの急激な進歩にさいして(彼はいまや自分のために、知らず知らずすべての進歩の味方になっていた)、社会の見解はすっかり一変している。自分たちが社交界にいれられるかどうかということは、まだ決定された問題ではないというような、一種あいまいな考えがうかんでいた。『もちろん』と彼は考えた。『宮廷の社会はあれをいれないだろう。が、親しい人たちはこれを正しく理解してくれるだろうし、また理解してくれなければならないはずだ』
人は、姿勢を変えることのできるのを知っている場合には、同じ姿勢で足を組んだまま、何時間でもすわっていることができる。が、もし、同じように足を組んだままの状態で、いつまでもすわっていなければならぬことを知っている場合には、痙攣《けいれん》がおこって、足がつっぱり、彼が伸ばそうとするほうへ、気持が集中するであろう。ちょうどこれと同じ気持を、ウロンスキイは、社会にたいして経験していた。彼は、心の奥では、社交界の扉が自分たちの前に閉ざされていることを知っていながら、はたして社交界は変わっていないかどうか、自分たちを受けいれてくれないかどうかを、試みてみないではいられなかった。が、彼は非常に早く、社交界の扉が、自分だけには開かれているが、アンナのためには閉ざされていることを知った。ちょうど、ねずみとねことの遊戯のように、彼のためにあげられた手は、アンナの前には、すぐおろされてしまうのであった。
ウロンスキイが一ばんさきに会ったペテルブルグ社交界の婦人のひとりは、いとこのベーッシであった。
「とうとうね」と、彼女は喜ばしげに彼を迎えた。「そしてアンナは? まあうれしい! どこに泊まってらっしゃるの? すばらしい旅をしていらしたあとでは、このペテルブルグは、さぞたいへんなところに見えるでしょうねえ。ローマでのあなたがたのハネムーンが目に見えるようですわ。離婚のほうはどうなすって? もうすっかりかたがつきまして?」
ウロンスキイは、離婚のほうがまだ片づかないことを知るとともに、ベーッシの喜びがうすくなったらしいのを見のがさなかった。
「世間からは石を投げられるでしょう。それはわたしも知っていますわ」と彼女はいった。「けれど、わたしはアンナのところへ会いに行きます。ええ、わたしぜひ伺いますわ、あなたはここにはあまり長くはいらっしゃらないでしょう?」
そしてじっさい彼女は、その日すぐにアンナを訪問した。が、彼女の調子は、もうまったく以前のようなものではなかった。明らかに、自分の大胆さを誇っていて、アンナにその友情の厚さを尊重させたい様子であった。彼女は、社交界の新しい出来事などを話しながらも、やっと十分たらずしかいなくて、帰りぎわに、こういった――
「あなたはわたしに、いつ離婚なさるかおっしゃらなかったわね? まあかりに、わたしなんかはなんとも思っていないとしてもですよ、世間のかた苦しい人たちは、あなたがたが結婚なさらないうちは、きっと冷たくあたりますよ。それに、そんなことはもう今では、わけなくできるんですものね。ca se fait,《なんでもないことですわ》では、あなたは、金曜日にお立ちになるのね? もうこれきりお会いできないのは残念ですけれど」
ベーッシの調子によって、ウロンスキイは、社交界から期待すべきことを理解したはずであったが、なお彼は、自分の家族のなかで試験をしてみた。母にたいしては、彼は望みをおいていなかった。彼は、はじめてアンナと知り合いになったときにはあんなに夢中になって喜んだ母が、今では、彼女が自分のむすこの出世のさまたげになったというので、彼女にたいしてすっかりかたくなな心もちになっているのを、知っていた。しかし彼は、兄の妻のワーリャにたいしては、大きな望みをつないでいた。彼女だけは石を投げるようなことをしないで、単純な思いきった態度で、アンナのところへも来れば、彼女を受けいれてもくれるであろうと、彼には思われたのである。
到着の翌日ウロンスキイは彼女を訪ねて、彼女ひとりのところへ行きあわせ、率直に、自分の希望をうちあけた。
「ねえ、アレクセイ」と彼女は、彼の言葉をきいてしまうと、いった。「あなたも、わたしがあなたをどんなに愛して、あなたのためにはどんなことでもするつもりになっていることはごぞんじですわね。けれどわたしは、自分が、あなたにもアンナ・アルカジエヴナにもなんのお役にもたたないことを知っていたので、これまで何も申しあげないでおりましたのよ」と彼女は、とくに注意して『アンナ・アルカジエヴナ』という言葉を発音していった。「どうぞね、わたしがあなたがたのことを非難するのだなどとは考えないでくださいね。けっしてそんなことはないのですから。たぶんわたしだって、あのかたのような立場になったら、同じことをしたでしょうからね。わたしは深いことにはたちいりもしませんし、また、たちいることもできませんけれどね」と彼女は、彼の暗い顔をおずおずと見あげながらいうのだった。「物事はそれぞれ、その名で呼ばなければなりませんわ。あなたは、わたしがあのかたをお訪ねするように、またあのかたを宅へお招きするように、そして、それによってあのかたを社交界に復活させるようにとお思いなんでしょうけれど、わたしにはそれが|できないのだ《ヽヽヽヽヽヽ》ということを、よく考えてくださいましね。うちでも、娘たちはだんだん大きくなりますし、それにわたしは、夫のために社交界で生活していかなければなりません。そりゃわたしは、アンナ・アルカジエヴナのところへ伺いますわ。けれど、わたしがあのかたを宅へお呼びできないこと、またそれをするには、あのかたをへんな目で見る人たちに会わせないようにしなければならないことを、あのかたもわかってくださるだろうと思います。そんなことをするのは、かえってあのかたを侮辱するものですからね。ですから、わたしにはどうしても、あのかたをおひきあげすることができませんのよ……」
「ええ、しかしですね、ぼくには、あなたがいま受けいれておいでになる何百人もの婦人たちにくらべて、彼女がよけいに堕落しているとは思えませんがね」と、ウロンスキイはいっそう暗い顔をして、彼女の言葉をさえぎったが、兄よめの決心のひるがえしがたいことを知ると、黙然として立ちあがった。
「アレクセイ! どうぞね、わたしに腹をたてないでくださいね。そして、わたしには罪はないということを、よく考えてちょうだいね」とワーリャは、おずおずした微笑をうかべて、彼の顔を見ながらいった。
「ぼくはなにも、あなたにたいして腹をたてたりはしませんよ」と、彼は同じ陰うつな調子でいった。「しかし、ぼくにとっては、これは二重のつらさです。ぼくには、これがぼくたちの友情を裂くだろうということが、もうひとつつらいのです。かりに破れてしまうことはないまでも、うすくなることは確かですからね。ぼくにとっても、これはほかにどうしようもないことを、あなたもご了解ください」
そしてこの言葉とともに、彼は彼女のもとを辞し去った。
ウロンスキイは、このうえの試みはむだであることをさとり、自分にとって何よりも堪えがたい不快と屈辱とを受けないために、以前の社交界とのあらゆる関係を避けながら、まるで見知らぬ町にでもいるようにして、なお数日を、このペテルブルグで送らねばならぬということをさとった。彼にとって、ペテルブルグ滞在にあたっての大きな不快のひとつは、いたるところにあるような気のするアレクセイ・アレクサーンドロヴィッチとその名まえとであった。会話がアレクセイ・アレクサーンドロヴィッチにふれないようにしようと思うと、何事も話しはじめることができなかったし、また彼に会うまいとすれば、どこへも出かけるわけにゆかなかった。少なくとも、ウロンスキイにはそう思われた。ちょうど指をいためている人が、わざとでもするように、とかくその痛い指ばかりが何かにぶつかるような気がすると同じように。
ペテルブルグの逗留は、そのあいだずっとアンナの心に、なにやら彼には不可解な、新しい気持のあることが感ぜられたことによって、ウロンスキイには、いっそう堪えがたいものに思われた。あるときには、彼女はまるで彼におぼれてしまっているように思われたり、また、あるときには急に冷淡になって、気むずかしく、えたいのしれないものになってしまうのだった。彼女は何事かで苦しみながら、何事かを彼にかくしていた。そして、彼の生活を毒し、また微妙な理解力をもつ彼女にとっては、いっそう堪えがたいはずの例の屈辱にも、いっこう気がついていないかのように見えた。
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二十九
アンナにとってロシアへ帰ってきた目的のひとつは、子供に会うことであった。イタリアを出立したその日から、この邂逅《かいこう》についての考えは、彼女の心を動かしつづけてやまなかった。そしてペテルブルグへ近づけば近づくほど、この邂逅の喜びと重大性とが、しだいにましてくるように思われた。彼女は、どうして会ったらいいかという問題については、いっこう心を悩まさなかった。自分がわが子のいる町へ行ったときにそれに会うということは、きわめて自然な、なんでもないことのように思われていた。ところが、ペテルブルグへ着いてみると、彼女には急に、自分の現在の社会上の地位がはっきりしてきて、面会のだんどりをつけることも、なかなか容易でないことがわかった。
彼女は、もう二日の日をペテルブルグで過ごした。子供についての思いは、かたときも彼女の念頭をさらなかったが、彼女はまだ子供に会っていなかった。アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチに会うかもしれない家へじかに行く権利は、自分にはないような気がしていた。だいいち、入れてももらえないで、はずかしめを受けるおそれもあった。手紙を書いて夫に交渉をつけることは――考えるだけでも苦しかった――彼女は、夫のことを考えないときだけ、わずかに安らかな気持でいられるのだったから。子供がいつどこへ散歩に出るかということを知って、そのときに会うのでは、彼女にはあまりにもの足りなかった――それほどに彼女はこの邂逅に期待し、それほどにいわねばならぬことがたくさんあり、それほどに彼を抱いたり接吻したりしたい思いがせつだったのである。セリョージャの年とった乳母がいれば、力をかして、なんとかうまくとりはからってくれたであろう。しかしその乳母は、アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチの家にはもういなかった。こうしてあれこれと迷ったり、乳母をさがしたりしているうちに、はやくも二日の日が過ぎてしまったのである。
アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチと伯爵夫人リディヤ・イワーノヴナとの近しい関係を聞き知ると、アンナは三日めに、思いきって彼女にあて、自分にとって非常な苦痛にあたいした例の手紙を書くことにした。そしてそのなかで、彼女はことさら、自分が子供に会わしてもらえるのも、ひとえに夫の寛大な心によると書いた。もしその手紙が夫に示されたら、彼は、例の寛大な人になりすまそうとして、彼女の要求をこばみはしまいと思ったからである。
手紙をもって行った旅館の使いは、返事はありませんというきわめて残酷な、彼女の予期しない返事をもたらした。で、その使いを部屋へ呼んで、その口から、彼が長いこと待たされたあげく、返事はありませんといわれたときの様子をくわしく聞いた瞬間ほど、はげしい屈辱を感じたことはかつてなかった。アンナははずかしめられ、踏みにじられた自分を感じたが、しかし、その立場からすれば伯爵夫人リディヤ・イワーノヴナの正当であることはわかっていた。彼女の悲しみは、それをひとりで堪えていかなければならないという点でいっそう強められた。彼女はその悲しみを、ウロンスキイとわかつことはできなかった。また、わかちたいとも思わなかった。彼女は、彼こそ自分の不幸のおもな原因であったにもかかわらず、彼にとっては、自分が子供に会うという問題などは、きわめて些細《ささい》なことに思われるであろうことを知っていた。彼女は、彼にはどうしても、彼女の苦痛の底知れぬ深みを理解する力のないことを知っていた。彼女はまた、このことを問題にすると、そのときの彼の冷淡な調子にたいして、自分がきっと彼を憎むようになるだろうということを知っていた。そして彼女は、それを世のなかの何ものよりも恐れていたので、子供にかんしたことは、いっさい彼にかくすようにしていたのである。
終日部屋に閉じこもって、子供に会う方法を考えめぐらしたあげく、彼女はついに夫に手紙を書く決心をつけた。そしてもう、その手紙を書きかけていたところへ、リディヤ・イワーノヴナからの手紙がもってこられた。伯爵夫人の沈黙は、彼女の心を穏やかにし、柔順にしていたが、その手紙は、その行間に読みとられたすべての文句があまりに彼女を激昂《げっこう》させ、そこにふくまれた悪意が、彼女の子供にたいする熾烈《しれつ》な、正当な、優しい情とくらべて、あまりにも残酷に思われたので、しぜん彼女は、他人にたいする反抗がさきにたち、自分を責めることをやめてしまった。
『この冷たさは――感情を偽るものだわ!』と、彼女は自分にいった。『あの人たちは、ただわたしをはずかしめ、子供を苦しめさえすればいいと思っているのに、わたしはそれに服従しようとしている! どうしてそんなことをしていいものか! あの女《ひと》はわたしよりわるい人だわ。わたしは少なくともうそはつかない』そこで彼女は、明日、ちょうどセリョージャの誕生日に、直接夫の家へ出むいて行き、召使たちを買収するなり欺くなりして、よしどんなことがあろうとも子供に会い、彼らがこの不幸な子供をとりまいているその醜い虚偽を、うち破ってやろうと決心した。
彼女はおもちゃ屋へ馬車を走らせて、いろんなおもちゃを買い集め、とるべき行動について思いめぐらした。彼女は、朝早く、アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチがきっとまだ起きないにちがいない八時に、向こうへ着くようにするであろう。そして玄関番や召使たちが自分を通してくれるように、握らせる金を手のなかに用意して行くであろう。そしてヴェールはあげずに、自分はセリョージャの名づけ親から頼まれてお祝いに来たので、あの子のベッドのそばへおもちゃを置いてくるように頼まれて来たのだというであろう。しかし彼女は、子供にいうべき言葉だけは、べつに用意しなかった。そればかりは、どんなに考えてみても、何ひとつ考えだすことができなかったからである。
翌日、朝の八時に、アンナはただひとりつじ馬車からおりて、かつては自分の家であった家の、大きな車寄せのベルを鳴らした。
「早く行って、なんのご用かうかがってごらん。どこかの奥さんのようだ」と、まだ着がえもしないで、外套にオーバーシューズをひっかけただけのカピトーヌイチは、ドアのすぐそばに立っている、ヴェールをかけた貴婦人のほうを、窓ごしにのぞいて見ながらいった。玄関番の助手である、アンナにははじめての若いボーイが、彼女のためにドアを開くやいなや、彼女はすぐになかへはいって、マフのなかから三ルーブリ紙幣を取り出し、急いでその手へ押しこんだ。「セリョージャ……セルゲイ・アレクセーエヴィッチ」(セリョージャは愛称で、セルゲイが本名。わざと他人行儀に呼びなおしたものである)こう彼女は言いすてて、なかへ進み入ろうとした。紙幣を見ていた玄関番の助手は、はいって二つめのガラス戸のところで彼女をひきとめた。
「どなたにご用でいらっしゃいますか?」と彼はきいた。
彼女はその言葉が耳にはいらなかったので、なんとも答えなかった。
見知らぬ婦人のとうわくげな様子を見て、カピトーヌイチが自分で彼女のそばへ出てきて、彼女を第二のドアのなかへ入れ、用むきをたずねた。
「スコロドゥーモフ公爵から、セルゲイ・アレクセーエヴィッチにお使いでございます」と、彼女はいった。
「若さまはまだお目ざめになりませんが」と、注意ぶかく彼女を見ながら玄関番はいった。
アンナには、自分が九年間住んでいたこの家の、少しも変わったところのない玄関口の様子が、こうまで自分の心を動かそうとは、あまりにも予期しないことであった。うれしい苦しい追憶が、あいついで彼女の心にのぼったので、一瞬間彼女は、なんのためにここに来たかをすら忘れていた。
「しばらくお待ち願えますでしょうか?」とカピトーヌイチは、彼女から毛皮外套を脱がせながらいった。
外套を脱がせて、ちらりと彼女の顔をのぞきこみ、それが彼女であることに気がつくと、カピトーヌイチは、黙って低く頭をさげた。
「どうぞ、奥さま」と、彼は彼女にいった。
彼女はなんとかいおうとしたが、声がどんなひびきをだすことも拒絶した。すまなそうな、祈るようなまなざしをちらと老人のほうへ投げると、彼女は敏捷な軽い足どりで、階段をのぼっていった。カピトーヌイチは彼女を追い越そうとつとめながら、全身を前方にまげ、オーバーシューズを段々に打ちつけながら、彼女のあとを追いかけた。
「そちらには先生がおいででございます。まだおめしかえになりませんでございましょう。わたくしがただいま申しあげます」
アンナは、老人のいっていることもうわの空で、なじみの深い階段をのぼりつづけた。
「こちらへ、左手のほうへどうぞ。どうもよごしておりまして、申しわけございません。若さまは今は以前の長いす部屋のほうにおいでなんでございます」と玄関番は息を切らしながらいった。「失礼でございますが、奥さま、ちょっとお待ちあそばして、わたくしがちょっと見てまいりますから」彼はこういって彼女を追い越し、背の高いドアをちょっとあけて、そのなかへかくれてしまった。アンナは、待ちながらたたずんでいた。
「ちょうどお目ざめになったところでございます」と、玄関番はふたたび出てきながらいった。
玄関番がこういったちょうどそのときに、アンナは子供らしいあくびの声を聞きつけた。そのあくびの声だけで、彼女はそれがわが子であることを知り、目の前にまざまざと彼の姿を見た。
「入れて、入れて、あちらへ行って!」と彼女はいって、高いドアのなかへはいった。ドアから右手よりのほうにベッドが置かれてあって、ベッドの上には、ボタンをはずしたシャツ一枚の男の子が、からだを起こしてすわっていた。彼は、その小さいからだをそらしてのびをしながら、あくびをしおわろうとしているところであった。上下のくちびるが合うと同時に、幸福らしい眠そうな微笑をうかべて、その微笑とともに、彼はまたゆるゆると、気持よさそうに、うしろへ倒れてしまった。
「セリョージャ!」と、音のせぬようにそばへよりながら、彼女はささやいた。
彼女は、彼と別れていたあいだずっと、ことにこのごろ、たえずなめているような愛のみなぎりを感じるときには、自分が一ばん好きだった四つくらいの子供として、彼を心に描いていた。が、いまや彼は、彼女が彼を残して家を出た当時とさえも、様子がすっかり変わっていた。まして四歳のころの彼から見ては、ぐっと背たけが伸びて、大きくなり、やせていた。まあなんということだろう! なんという顔のやせようだろう、髪だってあんなに短くして! それになんという長い手だろう! 彼女が残していってから、なんという変わりかたをしたものだろう! しかし、それはやはり彼であった。彼らしいかっこうの頭、彼のくちびる、彼の柔らかなくび、広い肩。
「セリョージャ!」と彼女は、子供の耳もとに口をよせて、くりかえした。
彼はまた肘をついて身を起こし、何かをさがしでもするように、髪のもつれた頭を左右に振って、目を開いた。数秒間、彼は静かに、けげんそうに、自分の前に身じろぎもしないで立っている母をじろじろ見ていたが、やがてにわかに、さも幸福そうににっこりして、そしてふたたび合わさってくる目を閉じてごろりと寝た、が、こんどはあおむけにでなく、彼女のほうへ、彼女の手のほうへころげてきた。「セリョージャ! かわいい坊や!」と彼女は息をはずませながら、両手で彼のふっくらしたからだをかき抱きながら、いった。
「ママ!」と彼は、自分のからだのあらゆる部分で母の手にふれようとして、彼女の腕のなかで動きながら、いった。
眠そうに微笑しながら、あいかわらず目を閉じたままで、彼は、むっちりとしたかわいい手で、ベッドの背ごしに彼女の肩へしがみつき、小児にだけある、あのかわいい眠そうなにおいと温かみとで彼女をおしつつみながら、彼女のほうへころがって、そのくびや肩へ顔をすりつけはじめた。
「ぼくは知ってたの」と、目を開きながら彼はいった。「今日はぼくのお誕生日でしょう。だから、ぼく、お母さまがおいでになるのをちゃんと知っていたの。ぼくすぐ起きます」
こう言いながら、彼はまたしても眠りはじめた。
アンナはむさぼるようにして彼をながめていた。彼女は、自分のいなかったあいだに彼が、どんなに大きくなっていたか、どんなに変わっていたかを見た。彼女は、毛布からつき出ているむき出しの、今はこんなにも大きくなっている彼の足に、見おぼえがあるような、ないような気がした。が、このいくらかやせたようなほおや、何度も接吻したことのある、うしろ頭の上の短く刈られた巻き髪には見おぼえがあった。彼女はそうしたすべてのものにさわってみた。そして、何もいうことができなかった。涙がのどをふさいでしまったのであった。
「何を泣いてらっしゃるの、お母さま?」と、はっきり目がさめると、彼はきいた。「お母さま、何を泣いてらっしゃるのよ?」と、彼は涙声になって叫んだ。
「はいはい、もう泣きませんよ……お母さまはね、あまりうれしくて泣いているのよ。ほんとに長いこと会わなかったわね。もう泣きませんよ、泣きませんよ」と彼女は涙をのみこんで、顔をそむけながら、いった。「さあ、おまえはもう着がえをする時間ですよ」こう彼女は気をとりなおして、しばらく黙っていてから言いたした。そして、彼の手ははなさないで、その上に彼の服が用意されてあったベッドのそばのいすに腰をおろした。
「お母さまがいないあいだ、おまえはどうして着がえをしてたの? どうして……」と彼女は単純に、快活に話をはじめようとしたけれども、できなかったので、ふたたび顔をそむけてしまった。
「ぼくはお水は使わないの、お父さまがお言いつけにならないから。お母さまはワシーリイ・ルキーチをごぞんじないでしょう? もうすぐ来ますよ。ああ、お母さまはぼくの服の上にすわっちゃって!」
こういって、セリョージャは声をたてて笑った。彼女は彼の顔を見て、思わずほほえんだ。
「お母さま、ぼくの大好きなお母さま!」と彼はふたたび彼女に飛びかかって、抱きしめながら叫んだ。彼はいま、彼女の微笑を見てはじめて、どういうことがおこったかが、はっきりとわかったかのようであった。「こんなものいらないや」と彼は、彼女の頭から帽子をとりながら、いった。帽子がとれると、彼はまた新たに彼女を見でもしたように、もう一度彼女に接吻しようとして飛びかかった。
「けれどおまえ、お母さまのことをどう思っていて? お母さまは死んでしまったのだと思ってやしなかった?」
「ぼく、そんなことちっともほんとにしなかった」
「ほんとにしなかったって、坊や?」
「ぼくは知ってたの、ぼくは知ってたの!」と彼は、その好きな言葉をくりかえし、そして彼の髪をなでていた彼女の手をつかむと、そのてのひらのほうを自分の口へ押しつけて、それに接吻しはじめた。
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三十
一方ワシーリイ・ルキーチは、はじめのうち、この貴婦人のだれであるかがわからなかったが、彼らの話のぐあいから、それが夫を捨てて家出をした、自分はそのひとがいなくなってからここの家へ来たために知らなかった、子供の母親にちがいないことを知ったので、なかへはいったものか、さしひかえたものか、それともまた、アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチに知らせなければならないものかと、考え迷っていた。が、ついに彼は、自分の義務は一定の時間にセリョージャを起こすことである、それゆえ、そこにだれがいようと、母親であろうと、他人であろうと、自分には少しも問題はない。自分はただ自分の義務をはたしさえすればいいのだ。こう考えて、着がえをすますと、ドアのそばへ行って、それを開いた。
しかし母と子との愛撫と、彼らの声のひびきと、彼らの話していたこと――こうしたすべてのものが彼に、よぎなく予定を変更させた。彼は頭を振り、太息をついて、ドアをしめた。『もう十分間待つことにしよう』こう彼は咳をしたり、涙をぬぐったりしながら、われとわが心にいった。
家の召使たちのあいだにも、この時はげしい動揺がおこっていた。一同は、夫人が来たということ、カピトーヌイチが彼女を通したということ、そして彼女がいま子供部屋にいるということを知っていた。が、一方、主人はいつも九時には起きて、みずから子供部屋へはいって行くことになっている。ところが一同は、この夫婦を会わせてはならないこと、どうかしてそれを防がなければならないことを知っていた。従僕のコルネイは、玄関番の部屋へおりて行き、だれが、どんなふうにして彼女を通したかをたずね、そして、カピトーヌイチが応対して、案内したことを知ると、この老人を叱りつけた。玄関番は、頑固に沈黙をまもっていたが、コルネイが、この事件のために彼を追いださなければならんといったときには、カピトーヌイチは彼のほうへ飛んで行き、コルネイの鼻さきで両手を振りまわしながら、叫んだ。――
「ふん、なるほど、そりゃな、おまえならお入れ申さなかっただろうさ! だが、十年もご奉公していてよ、お情けのほかにゃ何ひとつ受けたことのねえおらだ。そりゃ、おまえならな、今でものこのこ出かけて行ってよ――どうぞお帰りを、なんていえるだろう! おまえはなかなか世渡りがうめえからなあ! そうともよ! ちったあ自分のことも考えてみるがいいや、だんなさまをたぶらかして、|ひぐま《ヽヽヽ》の外套をせしめたりしやがるくせに!」
「兵隊め!」とコルネイはさげすむようにいって、おりから、そこへはいってきた乳母のほうへふりむいた。「ほら、ちょうどいいや。まあ、ひとつ知恵をかしてくださいよ。マリヤ・エヒーモヴナ――こいつがね、奥さまをお通ししながら、だれにも口をぬぐってやがったんだよ」と、コルネイは彼女に向かっていった。「ところが、アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチは、もうすぐお部屋を出て、子供部屋へいらっしゃろうというわけなんだ!」
「そりゃたいへんです、たいへんです!」と乳母はいった。「おまえさん、コルネイ・ワシーリエヴィッチ、おまえさんはね、なんとかおとめ申しておいてください、だんなさまをさ。そのまにわたしは走っていって、なんとかして奥さまをお帰しするから。まあたいへん、まあたいへん!」
乳母が子供部屋へはいっていったとき、セリョージャは母に、ナーデニカといっしょに橇《そり》で山からすべりおりてきて、倒れて、三度ばかりとんぼ返りをした話をしていた。彼女は彼の声音《こわね》に聞きいり、彼の顔と表情の変化をながめ、その手にさわってみたりしていたが、彼の話していることは少しもわからなかった。自分は出て行かねばならぬ。この子をおいて行かねばならぬ――彼女はただそればかりを、考えたり感じたりしていたのだった。彼女は、戸口へ近づいて咳ばらいをしたワシーリイ・ルキーチの足音をも聞けば、近づいてくる乳母の足音をも聞いたが、ものを言いかける力もなく、立ちあがる力もなくて、ただじっと、化石した人のように腰掛けていた。
「奥さま、おなつかしゅうございます!」と、乳母はアンナに近づいて、その手や肩に接吻しながら言いだした。「神さまがお坊ちゃまのお誕生日に、ほんとうにうれしいことをお授けくださいました。奥さまはちっともおかわりになりませんでございますねえ」
「まあ、ばあや、おまえだったのかい、わたしはまたね、おまえが家にいることは知らないでいましたよ」とアンナは、ちょっとのま、われにかえっていった。
「わたくしはこのごろお邸にいるのではございません。娘といっしょに暮らしておりますのでございますがね、今日はお祝いにあがりましたのでございますよ。アンナ・アルカジエヴナ、ほんとにおなつかしゅうございます!」
乳母は急に泣きだして、またしても彼女の手に接吻しはじめた。
セリョージャはまなざしと微笑とで輝きながら、片手で母を、片手で乳母をおさえたまま、むき出しのふとったかわいい足で、絨毯《じゅうたん》の上を踏みならした。大好きな乳母の母にたいする優しさが、彼をうちょうてんにさせたのだった。
「お母さま! ばあやはね、そりゃよくぼくのところに来てくれるの、そしてくるとね……」と彼は言いかけたが、乳母がなにやらひそひそ声で母に話しかけているのと、母の顔に、驚きの色と、母にはいかにも不似合いな、一種羞恥に似たような表情とをみとめたので、彼は中途で黙ってしまった。
彼女は彼のそばへすりよった。
「かわいい坊や!」と彼女はいった。
彼女は|さようなら《ヽヽヽヽヽ》をいうことができなかったが、彼女の顔の表情はそういっていた。で、彼もそれをさとった。「かわいいかわいいクウチックや!」と彼女は、小さいとき呼びなれていた名で彼を呼んで、いった。「おまえはわたしを忘れはしないわね? おまえは……」が、彼女はそれ以上いうことができなかった。
後になって彼女は、そのとき彼にいえばよかった言葉を、どんなにたくさん思いついたか知れなかった。が、そのときの彼女は、何をいっていいかわからず、また何もいうことができなかった。しかしセリョージャは、彼女が自分に言いたいと思っていたことをすっかりさとった。彼女が不幸であること、自分を愛していることをさとった。なお彼は、乳母がささやき声でいったことまでもさとった。彼は『いつも九時に』という言葉を聞いた。そして彼は、それが父のことであることも、母は父と会うことができないのだということをも、さとった。以上のことはみなわかったが、ただひとつのことがわからなかった。――なぜ母の顔に驚きと羞恥の色がうかんだのか?……彼女は何もわるいことはない。それだのに母は父を恐れ、何かを恥じているようである。彼は、自分のためにこの疑いをはらしてくれるような問いをだしてみようかと思ったが、それをするだけの勇気がなかった――彼は、彼女の苦しんでいるのを見て、彼女が気の毒でならなかったから。彼は、黙って彼女に抱きつき、ささやき声でこういった――
「まだ、行っちゃいや。お父さまはすぐにはいらっしゃりはしないの」
母は、彼が口でいっているとおり考えているかどうか、それを見きわめるために、彼を自分からおしはなした。そして彼のびっくりしたような表情のなかに、彼が父のことをいっているばかりでなく、なお父のことをどう思ったらいいか、それを彼女にたずねているようなのをみてとった。
「セリョージャ、ねえ、坊や」と彼女はいった。「おまえはお父さまをお愛しなさいよ、お父さまはね、わたしよりずっといい、おりっぱなかたですからね。お母さまはね、お父さまにたいして申しわけのないことをしたんですよ。大きくなると、おまえにもわかりますがね」
「お母さまよりいい人なんかありゃしないよ!……」と、彼は涙のなかから絶望的に叫ぶと、彼女の肩をつかみ、興奮からふるえる両手で、力かぎり彼女を自分のほうへ引きよせはじめた。
「おおかわいい、かわいい坊や!」アンナはこういうなり、わが子と同じく、弱々しい声で子供のように泣きだした。
そのときドアがあいて、ワシーリイ・ルキーチがはいって来た。と、別のほうの戸口にも、足音が聞こえだしたので、乳母はおびえたようなささやき声でいった。「おいでになりました」そしてアンナに帽子を渡した。
セリョージャは寝床の上につっ伏し、両手で顔をおおうて、すすりあげはじめた。アンナはその手をおしのけると、もう一度そのぬれた顔に接吻して、足ばやに戸口へ出た。アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチは、彼女と出会いがしらになった。彼女を見ると、彼は立ちどまって頭をさげた。
と、彼女はたったいま、彼は自分よりいい、りっぱな人だといったばかりだったのに、ちらとそのほうへ投げたすばやい一|瞥《べつ》で、彼の全身を細かいすみずみまで見てしまうと、たちまち彼にたいする嫌悪と憎悪、子供のための嫉妬の情が、彼女の心をとらえてしまった。彼女は手ばやくヴェールをおろし、足を早めて、ほとんど走るように部屋を出て行った。
彼女は、前日あれほどの愛と悲しみとをもって、店屋で選んできた例のおもちゃを、取り出してあたえる暇もなく、そのまま持って帰ってしまった。
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三十一
アンナは子供との再会を強く望んで、すでに久しいことそれについて考え、それにたいして心がまえをしていたのだが、この邂逅がこうまで強く自分の心に作用しようとは、まったく思いもかけなかった。彼女は、旅館の寂しい部屋へもどってきてからも、長いこと、自分はなぜこんなところにいるのか、理解することができなかった。『そうだわ、何もかもおわったんだわ。そしてわたしはまたひとりぼっち』こう彼女は自分にいって、帽子もとらず、暖炉のそばにあった肘掛けいすに腰をおろした。そして、窓と窓とのあいだにあるテーブルの上に置かれた青銅の時計のほうへ、じっと動かない目をすえたまま、考えこんでしまった。
外国から連れてきたフランス人の小間使が、彼女に着がえをさせにはいって来た。彼女はびっくりしたように彼女を見て、いった――「あとで」ボーイがコーヒーをすすめに来た。「あとで」こう彼女はいった。
イタリア人の乳母が、女の子にきれいな着物をきせ、それを抱いて、アンナのところへ連れて来た。むっちりとふとった、栄養のいい女の子は、母を見るといつものように、糸で締められすぎたような、あらわなかわいいおててを、てのひらを下にしてさしだし、歯のない口でほほえみながら、魚がひれを動かすように、そのおててで刺繍のあるスカートの糊《のり》のついたひだをしゅうしゅうと鳴らして、ものをつかむようなかっこうをしだした。それを見ると、だれしもほほえまずにはいられず、接吻しないでもいられなかった。そして、彼女の前へ指をさしだし、彼女がきゃっきゃっと言いながら、全身でおどりあがって、それにつかまるようにしてやらないではいられなかった。また、彼女にくちびるをさしだして、彼女がそれを接吻のかたちで、自分の口へもっていくようにしてやらないではいられなかった。で、アンナもそれをみんなしてやった――彼女を抱きあげてもやれば、おどらせてもみれば、そのみずみずしたほおやむき出しの肘に接吻してもやった。が、この子を見るにつけて、彼女には、自分の子にたいしておぼえる情は、セリョージャにたいして感ずるそれにくらべては、とうてい愛とすらもいえないものであるということが、いっそうはっきりしてくるのだった。この子のなかにあるものはすべて、何もかもかわいらしかった。が、そのいずれもが、なぜか、心にぴったりとこなかった。最初の子供にたいしては、愛のない男の子供だったにもかかわらず、いかに愛しても愛しきれない深い愛情がそそがれた。が、この女の子には、このうえない悲しい事情のもとに生まれ落ちた、この子にたいしては、初めの子にそそがれた心づかいの百分の一もそそがれてはいなかった、そればかりでなく、この女の子は、すべてがまだ期待であったが、セリョージャはもうほとんど人間に、愛すべき一人前の人間になっていた。彼のうちにはもはや、思想や感情がたたかっていた。彼は理解もすれば、愛しもし、彼女のことを判断もした。こう彼女は、彼の言葉とまなざしとを思いうかべながら考えた。しかも、彼女はもう永久に、肉体的ばかりでなく精神的にも、彼とはひきはなされてしまったのだった。それをとり返すことはもうできなかった。
彼女は赤ん坊を乳母に渡して、出て行かせると、さげ飾りを開いたが、そのなかには、セリョージャがちょうど今の赤ん坊と同い年くらいのころの写真が入れてあった。彼女は立ちあがり、帽子を脱いで、小テーブルの上の写真帳を取りあげた。そのなかには、年齢の異なった子供の写真が何枚となくはさまれてあった。彼女はそれをくらべて見ようと思い、写真帳から一枚一枚抜きだしはじめた。彼女はそれをみな抜いた。ただ一枚、最近の一ばんいいのだけが残った。彼は、まっ白なシャツを着て、いすに馬乗りになり、目をしかめて、口もとにえみをうかべていた。それは最も特色ある、最もすぐれた彼の表情であった。小さな器用そうな手で、今日はとくに緊張して動いたそのまっ白な指さきで、彼女は何度も写真のすみをはねようとしたが、写真はうまくひっかからなくて、うまく抜きとることができなかった。あいにくべーパーナイフがテーブルの上になかったので、彼女はその写真とならんでいた別の写真を抜きとって(それはローマでとった、まるい帽子をかぶり髪を長くしているウロンスキイの写真であった)、それで子供の写真を押しだした。『ああ、ここにあのひとがいる!』と彼女はウロンスキイの写真をながめていった。と、急に彼女は、自分の今の悲しみの原因がだれであるかを思いだした。彼女は、この朝はまだ一度も彼のことを思いださなかった。が、今ふと、この、男らしい、りっぱな、彼女にとってこのうえない親しいなつかしい顔を見ると、彼女は、彼にたいする愛の、思いがけないみなぎりを感じた。『だけど、あのひとはいったいどこにいるのだろう? どうしてあのひとはわたしひとりを、こんな苦しみのなかへおきざりにしておくのだろう?』と彼女は急に、自分が子供にかんしたことはいっさい彼にかくしていたのを忘れてしまって、非難がましい気持で考えた。彼女は彼のところへ、すぐに来てくれるようにと使いをやった。そして、心臓のしびれるような思いをしながら、自分が彼にいう言葉や、彼が自分を慰めてくれるときの愛の表現などを思いえがきながら、彼の来るのを待っていた。使いの者は、彼のところには客があるが、すぐに来るであろうという返事と、今ペテルブルグへ来ているヤーシュヴィン公爵を連れて行ってもいいかどうかという問いとをもってもどってきた。『ひとりでは来てくれないのだわ、昨日のおひるからずっと会わないでいるのに』と彼女は考えた。『わたしがどんなことでも話せるようにひとりで来ないで、ヤーシュヴィンなどを連れてくるなんて』するととつぜん、彼女の頭には、奇妙な想念がうかび出た――もし彼が自分を愛さなくなったのだったら?
そして、このごろじゅうの出来事をくりかえしてみると、彼女には、すべてのことにこの恐ろしい想念の裏書きが見いだされるような気がした――昨日彼が家で食事をしなかったことも、ペテルブルグでは部屋を別にしようと言いはってきかなかったことも、今また、ふたりさしむかいで会うのを避けるかのように、ひとりでなく彼女のところへ来るということまでも。
『けれど、あのひとはわたしにそれをいわなければならないはずだわ。わたしもそれを知っておかなければならない。それさえわかれば、その時とるべき手段は、わたしにだってちゃんとわかっている』こう彼女は、彼の冷たくなった心を確かめた場合に、自分のおちいるであろう境遇を想像してみるだけの力もないままに、自分にいった。彼女は、彼はもう自分を愛していないものと思い、自分を絶望に近く追いつめられたものと感じて、その結果、自分がかくべつ興奮しやすくなっているのを感じた。彼女はベルを鳴らして小間使を呼び、化粧室へはいって行った。着がえをしながら、彼女は近ごろになく化粧に念を入れた、あたかも、もっとよく似合う服装や髪かたちができれば、いったんは愛しなくなっていても、彼がふたたび愛するようになってくれるかのように。
彼女は、まだ支度が十分できないうちに、ベルの音を聞きつけた。
彼女が客間へはいって行くと、彼ではなくて、ヤーシュヴィンが目で彼女を迎えた。ウロンスキイのほうは、彼女がテーブルの上に置き忘れておいた彼女の子供の写真をしきりに見ていて、なかなか彼女のほうを見ようとはしなかった。
「わたくしたちはもうお近づきでございましたわね」と、彼女は自分の小さい手を、はにかんでもじもじしている(それは、彼の大きなからだや無骨《ぶこつ》な顔と対照して、いかにも不似合いなものであった)ヤーシュヴィンの巨大な手のなかへおきながらいった。「もう昨年、競馬でお目にかかりましてございますわね。ください」と彼女は、ウロンスキイの手からすばやく、彼の見ていた男の子の写真をとりあげ、意味ありげに輝く目で、彼の顔を見ながらいった。「今年の競馬はいかがでございまして? そのかわり、わたくしはローマでコルソーの競馬を見てまいりましたわ。ですけれどあなたは、外国の生活はおきらいでございましたわね」と彼女は、あいそよく笑いながらいった。「まだ何度もお目にはかかりませんけれど、わたくしはあなたのことは、あなたのご趣味は、すっかりぞんじあげておりますのよ」
「いやどうも、そいつは大いに恐縮ですな。なにしろぼくの趣味ときたら、ほんとにわるいものばかりですから」とヤーシュヴィンは、左の口ひげをかみながらいった。
しばらく話をしたところで、ウロンスキイが時計を見たのに気がつき、ヤーシュヴィンは彼女に、まだ長くペテルブルグに滞在するつもりかとたずね、その大きなからだをのばして、帽子をとった。
「さあ、長くはないだろうと思いますの」こう彼女は、ウロンスキイの顔を見て、まごつきぎみにいった。
「では、もうお目にかかれませんな?」とヤーシュヴィンは立ちあがって、ウロンスキイのほうを向きながらいった。「きみはどこで食事をする?」
「どうぞ、お食事はわたくしどもへいらしてくださいまし」とアンナは、われとわがろうばいに腹をたててでもいるように、思いきった調子でいった。が、新しい人の前に自分の位置を示すときにはいつもそうであるように、さっと顔をあかくしながら。「ここの食事はよくはございませんけれど、そのかわり、このひとにだけはお会いになることができますからね。アレクセイは、連隊での古いお友だちのなかでは、あなたほど愛しているかたはひとりもないんでございますから」
「どうもありがたいしあわせです」とヤーシュヴィンは微笑をうかべていったが、その微笑によってウロンスキイは、アンナが非常に彼の気にいったことを見てとった。
ヤーシュヴィンはあいさつをして出て行き、ウロンスキイはあとに残った。
「あなたもお出かけ?」と、彼女は彼にいった。
「ぼくはもう遅くなった」と彼は答えた。「行ってくれたまえ! ぼくはすぐ追いつくよ!」と彼はヤーシュヴィンに叫んだ。
彼女は彼の手をとって、目もはなさずにじっと彼を見ていた。なんといって彼をひきとめたものかと、腹のなかでその口実をさがしながら。
「まあちょっと待ってちょうだいな。わたし、すこしあなたにお話したいことがあるのよ」彼女は彼の短い手をとって、それを自分のくびへ押しあてた。「ねえ、あたし、あのかたを食事にお招きなんかしてかまいませんでしたかしら?」
「いや、けっこうだったよ」と彼は、そのならびのいい歯をみせて、彼女の手に接吻しながら、おちついた微笑をうかべていた。
「アレクセイ、あなたわたしに心がわりなすったんじゃないこと?」と彼女は、両手で彼の手を握りしめながらいった。「ねえ、アレクセイ、わたしもう、ここではへとへとになってしまったのよ。わたしたちはいつここを立つんでしょう?」
「じきだよ、じきだよ。ぼくだってここの生活がどんなにつらいか、おまえにもちょっと信じられないくらいだよ」こういって、彼は自分の手をひっこめた。
「じゃ、行っていらっしゃい、行っていらっしゃい!」と彼女はおこったようにいって、さっさと彼のそばをはなれた。
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三十二
ウロンスキイが宿へ帰ってきたとき、アンナはまだ帰っていなかった。彼に伝えられたところによると、彼が出て行くとまもなく、彼女のところへひとりの夫人がたずねて来て、彼女はその女といっしょに出て行ったとのことであった。彼女が行くさきもいわずに出ていったということ、彼女がこんな時分までも帰って来ないということ、その朝も彼女は彼にひと言もいわずにどこかへ出て行ったということ――こうしたいっさいのことが、その朝の異様に興奮した彼女の顔色や、ヤーシュヴィンの前でほとんどひったくるようにして彼の手から自分の子供の写真をとったときの、あの敵意をふくんだような態度の思い出とひとつになって、彼を考えこませてしまった。
彼は、ぜひともこれは一度よく話し合わなければならぬと思った。で、彼は彼女の客間で彼女を待った。ところがアンナは、ひとりでは帰って来ないで、自分の伯母にあたる老嬢のオブロンスキイ公爵令嬢を連れて来た。これが、今朝ほどアンナをたずねて来て、アンナがいっしょに買物に出かけたという、その婦人であった。アンナは、ウロンスキイの心配げな、いかにもけげんそうな顔つきには気もつかない様子で、彼に向かっていそいそと、今朝の買物のことなど話しだした。彼は、彼女の心になにか特別なことのおこっているのを見てとった――きらきらと輝く目がちらりと彼の上にそそがれたとき、そこには、はりつめた注意があり、その言葉と動作には、あの神経質なすばやさと優美さとがあった。これは、ふたりの接近の初めのころには、非常に彼を魅了したものであったが、今では彼の心をさわがし、おびやかすようになっていた。
食卓は四人まえ用意されていた。一同がもう集まって、小さい食堂へ行こうとしていたときに、トゥシュケーヴィッチが、公爵夫人ベーッシからアンナへの伝言を持ってはいって来た。公爵夫人ベーッシは、自分がお別れに来られないのをわびてよこしたのであった。彼女は気分がすぐれなかったが、アンナに六時半から九時のあいだに自分のほうへ来てくれとのことであった。ウロンスキイは、アンナをほかの人に会わせないための手段がとられたにちがいないこうした時間の制限を聞いて、アンナの顔色をうかがった。が、アンナは、それにはいっこう気がついていない様子であった。
「まあ、ほんとに残念ですこと、わたくしのほうもちょうど、その六時半から九時までのあいだが伺えないんですのよ」と彼女は、かすかなえみをうかべながらいった。
「夫人はさぞ残念がられるでしょう」
「わたくしもご同様ですわ」
「あなたはきっとパッティを聞きにいらっしゃるんでしょうね?」と、トゥシュケーヴィッチはいった。
「パッテイ?……ああ、あなたはわたくしに名案を授けてくださいましたわ。わたくし、喜んでまいりますことよ。もし桟敷がとれるものでしたら」
「わたしがとってさしあげましょう」と、トゥシュケーヴィッチは誘った。
「まあ、それはどうも、ありがとうございます」と、アンナはいった。「それはそうと、ごいっしょにお食事はいかがでございますの?」
ウロンスキイは、ちょっと目につかぬくらいに肩をすくめた。彼にはまったく、アンナのすることがふに落ちなかったのである。なんのために彼女はこんな年増《としま》の令嬢をつれて来たのか、なんのためにトゥシュケーヴィッチなどを晩餐にひきとめたのか、なかでも最も驚かされたのは、なんのために彼を桟敷をとりになどやろうとするのか? いったい、彼女のような境遇にありながら、知り合いの社交界の全部が集まるにちがいないパッテイの慈善演劇などへ行こうなんて、考えられることであろうか? 彼はまじめな目つきで彼女を見やったが、彼女はやはり、いどむような、うれしいでもなければ絶望でもない、彼にはどうしてもその意味のわからないまなざしで、彼に答えた。食事のあいだ、アンナは、挑戦的に上きげんで――トゥシュケーヴィッチにもヤーシュヴィンにも、わざと媚《こ》びを弄《ろう》しているように見えた。食事がおわって一同が立ちあがり、トゥシュケーヴィッチは桟敷をとりに行き、ヤーシュヴィンがたばこを吸いに室外へ出ると、ウロンスキイは彼といっしょに、いったん自分の部屋へおりた。が、しばらく掛けていてから、彼は二階へかけあがった。アンナはもう、パリで仕立てた胸あきの広い、ビロードをあしらった、薄色の絹服を着て、純白な、高価なレースの髪飾りをつけていたが、そのレースは彼女の顔を縁どって、そのあでやかな美しさをとくに効果的にうきださせていた。
「あなたは、ほんとに芝居へ行くつもりですか?」と彼は、つとめて彼女を見ないようにしながら、いった。
「なんだって、あなたは、そんなにびっくりしたようなききかたをなさいますの?」と彼女は、彼が自分の顔を見ないことに、またあらたに気をわるくしながら、いった。「どうしてわたしがまいってはいけないのでしょう?」
彼女は、彼の言葉の意味がわからないかのようであった。
「そりゃむろん、べつに理由はありませんがね」と、彼は眉《まゆ》をしかめていった。
「そうでしょう、だからわたしもいってるんですわ」と彼女は、わざと彼の皮肉な調子に気づかないふりをして、いい匂いのする長手ぶくろを、静かに折り返しながらいった。
「アンナ! お願いです! いったいどうしたというんですか?」と彼は、いつか彼女の夫が彼女にいったと同じように、しきりに彼女を呼びさまそうとしながらいった。
「わたしわかりませんわ。何をきこうとしてらっしゃるんだか」
「そういう場所へ行けないことは、あなただって知ってるじゃありませんか」
「どうしてですの? わたしはひとりで行くのではありませんのよ。ワルワーラおばさまは着物を着かえにお帰りになったんです。あのひとがいっしょに行くんですのよ」
彼は、当惑と絶望の様子で肩をすくめた。
「しかし、じゃあなたは、ほんとうに知らないっていうんですか……」と彼は言いかけた。
「ええ、わたしは知りたくないんですの!」と、彼女はほとんど叫ぶようにいった。「知りたくないんですの。では、わたしは、自分のしたことを後悔しているでしょうか? いいえ、いいえ、いいえ。よしんばもう一度初めからやりなおしてみたところで、どうせ同じことになったでしょうよ。わたしたちにとって、わたしにもあなたにも、大切なことはただひとつ――お互いに愛しあっているかどうかということだけですわ。ほかにはなにも考えることなんかありません。いったいなんだってわたしたちは、ここで別々に住んで、会わないでいるんでしょう? どうしてわたしは行くことができないんでしょう? わたしはあなたを愛しています。ほかのことなんか、もうどうだってよろしいのです」と彼女は、一種特別な、彼には不可解な光を目にうかべて、彼の顔を見ながら、ロシア語でいった。「あなたのお心さえ変わっていなければ。どうしてあなたは、わたしの顔をごらんにならないんですの?」
彼は彼女を見た。彼は、その顔と、いつも彼女によく似合う衣装の美しさを残りなく見た。が今は、その美しさ、あでやかさが、かえって彼の心をいらだたせるたねであった。
「ぼくの心は変わるわけがありません。それはあなたもごぞんじのはずだ。しかしぼくはあなたに、行ってもらいたくないのです。お願いします」こう彼はふたたびフランス語で、声に優しい祈りをこめ、しかし、目には冷やかな色をうかべて、いった。
彼女はその言葉は聞かなかったが、目つきの冷やかさは見てとって、いらだたしい調子で答えた。
「わたしはまた、わたしがなぜ行ってはいけないのか、そのわけが聞かしていただきたいんですの」
「それはですね、わるくするとそれがあなたのために……」と、彼は言いよどんだ。
「なんだかちっともわかりませんわ。ヤーシュヴィンは n'est pas compromettant,(相手として不相応な人ではないし)ワルワーラおばさまだって、ほかのひとよりわるいことなんか少しもありませんもの。あら、もういらっしたわ」
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三十三
ウロンスキイは、アンナにたいして初めて、彼女が心あって理解しないような態度にたいして、いまいましい、ほとんど憎悪に近いくらいの感じを経験した。この感情は、彼が彼女の前にそのいまいましさの原因を言いあらわすことができなかったために、いっそう強められた。もし彼が、思っていることをあからさまにいうことができたら、彼はこういったにちがいなかった――そんなに目にたつなりをして、あのだれ知らぬもののない公爵令嬢などといっしょに芝居に出かけるということは――とりもなおさず、堕落した女としての自分の地位を承認することになるばかりではなく、社交界に向かって手ぶくろを投げることに、つまり永久に社交界と絶縁することになるのだ、と。
彼は、しかし、彼女にそれをいうことはできなかった。『だが、どうしてこの女《ひと》はこれがわからないのだろう。いったいこの女の心には、何がおこっているのだろう?』こう自分にいってみた。彼は、彼女にたいする尊敬の念のうすくなると同時に、彼女を美しいと思う心の強くなるのを感じた。
彼はしかめつらをして自分の部屋へもどると、いすの上に長い足を投げだして、コニャックにゼルツェル水を割ったのを飲んでいたヤーシュヴィンのそばへ腰をおろして、自分にもそれを持ってくるように命じた。
「きみはランコフスキイのマグーチイのことをいってたね。あれはじっさいいい馬だよ。きみなんかひとつ買っとくことだね」とヤーシュヴィンは、友の陰うつな顔を見ていった。「しりは少々さがりぎみだが、足と頭ときたら、あれ以上のものはとても望めないからね」
「ぼくも買おうと思っている」とウロンスキイは答えた。
馬の話は彼をひきつけたが、彼は、一瞬のあいだもアンナのことを忘れなかったので、つい心にもなく、廊下の足音に耳をすましたり、暖炉の上の時計を見やったりした。
「アンナ・アルカジエヴナはお芝居にお出かけになりましたから、そう申しあげるようにとのことでございます」
ヤーシュヴィンは、あわだつゼルツェル水のなかへもう一ぱいコニャックをぶちこんで、ぐっと飲みほすと、ボタンをかけながら立ちあがった。
「どうだ、われわれも行こうじゃないか?」と彼は、口ひげの下にやっとわかるくらいの微笑を見せ、その微笑によって、自分はウロンスキイのふさいでいる理由を知ってはいるが、それにはべつに意味をおいていないということを示しながら、いった。
「ぼくは行かない」と、ウロンスキイは陰うつに答えた。
「ところがぼくは行かなくちゃならん、約束したから。では、失敬するよ。だが、来るんだったら土間へ来たまえ。クラシンスキイの席があるからね」とヤーシュヴィンは、出て行きながら言いたした。
「いや、ぼくは用があるんだ」
『女房てやつはやっかいなもんだが、正当な細君でないからいっそういけないんだ』とヤーシュヴィンは、旅館を出ながら考えた。
ひとりになると、ウロンスキイは、いすから立ちあがって、部屋のなかを歩きはじめた。
『ところで、今日は何があるんだっけ? 特別興行の四日目だ……エゴール(兄)も細君を連れて行ってるだろうし、おふくろもたぶんいっしょだろう。つまり、全ペテルブルグがあそこにあるわけだ。今ごろ彼女ははいっていって、毛皮外套をとり、光のなかへ現われる。トゥシュケーヴィッチ、ヤーシュヴィン、公爵令嬢ワルワーラ……』こう彼は想像にえがいてみた。「ところで、おれはどうしたのだ? おれは恐れているのか、それとも彼女の保護を、トゥシュケーヴィッチにゆずりわたしてしまったのか? どう考えてみても、愚劣だ、愚劣だ……いったいなんのために彼女は、おれをこんなはめに立たせるのだろう?」こう彼は、片手をひと振りしてひとり言をいった。
この動作で、彼は小テーブルにぶつかったが、テーブルの上にはゼルツェル水やコニャックのびんがのっていたので、危うくそれをひっくりかえすところだった。彼はびんを抑えようとして落としてしまったので、いまいましさからテーブルをけとばして、ベルを鳴らした。
「もしおまえがおれに仕えようという気があるなら」と彼は、はいって来た従僕にいった。「自分の仕事をよく覚えておけ。今後こんなことのないように。きさまがかたづけなくちゃだめじゃないか」
従僕は、自分に罪のないことを感じながら、弁解しようと思ったが、主人の顔を見て、その雲行きから、何もいわぬにかぎるとさとったので、急いで身をくねらせながら、敷き物の上へひざまずき、コップやびんの満足なのとこわれたのとを、えりわけはじめた。
「それは、おまえの仕事じゃない。ボーイを呼んでやらせりゃいいのだ。おまえは、おれに燕尾服の用意をしろ」
――――
ウロンスキイは、八時半に劇場へはいった。劇はまさに最高潮であった。小柄な老人の桟敷係は、ウロンスキイの毛皮外套を脱がせながら、彼であることに気がつくと、「閣下」と呼びかけて、彼に、番号札はとらないで、単にフョードルとお呼びになってくださいと申し出た。燈火の明るい廊下には、ひとりの桟敷係と、腕に毛皮外套をかけて戸口できいているふたりの従僕のほか、だれもいなかった。ほそめにあけたドアのなかからは、断音的なオーケストラの注意ぶかい伴奏と、はっきりと歌詞をうたう女の独唱の声とが聞こえていた。ドアが開いて、ひとりの桟敷係をすべりこませたときには、終わりに近づいていた歌詞が、はっきりとウロンスキイの耳を打った。が、ドアはすぐしめられたので、ウロンスキイはその歌詞の終わりと、カデンツ(結尾装飾)は聞かなかった。が、ドアのなかからひびく拍手のとどろきによって、カデンツのおわったことを知った。彼が燭台や青銅のガス燈などで明るく照らされている場内へはいって行ったときには、どよめきはまだつづいていた。舞台の上の歌い女《め》は、あらわな肩と、ダイヤモンドとで輝きながら、小腰をかがめ、微笑をうかべながら、彼女の手をとっているテナーの助けをかりて、フットライトごしに乱雑に投げつけられる花束を集め、それから香油でてかてかした髪をまん中できれいに分けたひとりの紳士が、フットライトごしに手を長くのばして、何かをさしだしているほうへ行った。――と、平土間《ひらどま》の観衆も、桟敷の観衆も、いっせいにどよめきたって前のほうへのりだし、拍手をしたり叫んだりした。一段高い席にいた楽長は、それをとりついでやりながら、自分の白ネクタイをなおしていた。ウロンスキイは平土間のなかほどへはいって行くと、立ちどまって見まわしはじめた。その日彼は、見なれたいつもながらの周囲の有様や、舞台や、こうした騒ぎや、場内にぎっしりつまっている、いつもながらのおもしろくもない、雑多な観客の群などには、いつもほどにも注意をはらわなかった。
桟敷の奥のほうには、例のとおり、いつもと同じどこかの貴婦人たちが、どこかの士官たちといっしょにいた。神のほかにはだれひとり知るもののない、けばけばしい扮装をこらした婦人たち、軍服の人、フロックの人、一ばん高い桟敷のいつもと同じきたならしい群集。そしてこれらすべての群集のなかに、桟敷と土間の前列に、本物《ヽヽ》の男女が四十人ばかりいた。と、ウロンスキイはさっそく、このオアシスのほうへ注意をむけて、すぐに彼らの仲間へはいっていった。
彼がはいっていったときに、その幕はちょうどおわったので、彼は兄の桟敷へはよらないで、一ばん前の列まで行き、セルプホフスコイとならんで、フットライトのそばに立ちどまった。セルプホフスコイは片方のひざをまげ、かかとでフットライトをこつこつたたきながら、遠くから彼を見つけて、笑顔で彼を呼んだのだった。
ウロンスキイはまだアンナを見ていなかった。彼はわざと彼女のほうは見なかったのである。しかし彼は、人々の視線の方向によって、彼女のいる場所を知っていた。彼はそっとあたりを見まわしたが、彼女をさがしはしなかった。もしやと思いながら、彼はアレクセイ・アレクサーンドロヴィッチを目でさがした。が、彼にとってしあわせなことに、アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチは、このときには劇場へ来ていなかった。
「きみは軍人らしいところがほとんどなくなってしまったね」と、セルプホフスコイは彼にいった。「外交官か、美術家か、まあそういったところだね」
「ああ、ぼくは、燕尾服に着かえたときには、家へ帰ったような気がしたよ」とウロンスキイは笑顔で、静かにオペラグラスをとりあげながら、答えた。
「いや、じつをいうと、その点でぼくはきみをうらやんでいるのさ。ぼくも外国から帰ってきて、これを着けたときには」と彼は、飾りひもにさわってみせた。「まったく自由が惜しかったよ」
セルプホフスコイは、もうずっと前から、ウロンスキイの勤務上の活躍には、すっかり望みをたっていたが、依然として彼を愛していて、いま彼にたいしては、とくにあいそがよかった。
「きみが序幕にまにあわなかったのは残念だったよ」
ウロンスキイは、一方の耳だけで話をききながら、高桟敷から二階へとオペラグラスを動かして、桟敷のほうをしさいに見た。ずきんをまいた夫人と、さしむけられたオペラグラスのなかで腹だたしげにまたたきしているはげ頭の老人のそばに、ウロンスキイはとつぜん、傲然《ごうぜん》とした、目のさめるほど美しい、レースの枠《わく》のなかで微笑しているアンナの顔を見いだした。彼女は、彼から二十歩ばかりの高桟敷の五つめにいた。彼女は一ばん前に腰掛けて、軽く身をひねった姿勢で、ヤーシュヴィンになにやら話していた。美しい、広い肩の上にすえられた頭のかっこうと、その目や顔全体の、しいて心をおさえたような興奮の輝きとが、彼に、あのモスクワの舞踏会で見たときとそっくりの彼女を思いださせた。しかし彼はその美しさを、今はまったく別のものとして感じた。彼女にたいする彼の感じのなかには、今では、神秘的なところなどは少しもなかった。いぜん彼女の美しさは、以前よりも強く彼をひきつけたとはいえ、同時に今は、彼に一種の侮辱感をあたえるのであった。彼女は彼のほうを見なかったが、ウロンスキイは、彼女がもう自分を見たことを感じていた。
ウロンスキイがふたたびそのほうへグラスをむけたとき、彼は、公爵令嬢ワルワーラがひどくまっ赤な顔をして不自然な笑いかたをしながら、たえず隣りの桟敷のほうを見ているのに気がついた、ところがアンナは、扇《おうぎ》をたたんで、それで赤いビロードの上をたたきながら、どこかあらぬかたへ目をむけて、隣りの桟敷におこっていることを見ていなかった、いや、明らかに、見たくない様子であった。ヤーシュヴィンの顔には、彼がカルタに負けたときによく見せると同じような表情があった。彼はしかめつらをして、左の口ひげをますます深く口のなかへ押しこんで、横目で同じ隣りの桟敷のほうを見ていた。
左隣りのその桟敷には、カルターソフ夫妻がいた。ウロンスキイは彼らを知っていたし、また、アンナが彼らと知己《ちき》であることも知っていた。やせた、小柄な女であるカルターソフ夫人は、その桟敷のなかに立って、アンナのほうへ背をむけ、夫にわたされた外套をはおっていた。彼女の顔はあおざめ、腹だたしげで、彼女は興奮の様子で何やらしきりにしゃべっていた。ふとった、はげ頭の紳士であるカルターソフは、たえずアンナのほうを見ながら、妻をなだめようとして骨折っていた。妻が出て行ってからも、夫は明らかにアンナにあいさつをしたいという様子で、目で彼女の視線を求めながら、長いこともじもじしていた。が、アンナは、明らかにわざと彼を無視しながら、うしろ向きになって、自分のほうへ短く刈った頭をかしげているヤーシュヴィンに、何やら話しかけていた。カルターソフはあいさつをしないで出て行き、桟敷はからっぽになった。
ウロンスキイは、カルターソフ夫妻とアンナとのあいだにおこったのがなんであるかは知らなかったが、アンナにとってなにか屈辱的なことであるらしいことは察しがついた。彼はそれを、目にした事実から、また何よりも多くアンナの顔色――彼女が自分にひきうけた役割をもちこたえるために、最後の力を集めているのが彼にはちゃんとわかっていたその顔色から、察したのである。しかも、表面上の平静というこの役割は、十分に成功していた。彼女と彼女の周囲を知らなかった人々、彼女があつかましくも社交界へ、しかも、人目にたちやすいレースずくめのいでたちに、もって生まれた美貌を輝かして現われたことにたいする婦人たちの同情や、怒りや、驚きの声を耳にしなかった人々は、この婦人の平静と美貌とに見とれて、彼女がさらし柱《ばしら》にさらされている人の気持をあじわっていようなどとは、疑ってもみなかったのである。
何事かがおこったことを知りながら、しかも、それがどんなことであるかを知らなかったウロンスキイは、胸苦しい不安を感じ、少しは様子が知れるかもしれぬと思って、兄の桟敷のほうへ行った。彼はことさら、アンナの桟敷とは反対側の平土間の通路を選んで、そちらへ出ようとした。と、そこで、ふたりの知人と話していた自分の昔の連隊長にばったり出会った。ウロンスキイは、カレーニン夫妻の名が発音されていたのを耳にし、連隊長が意味ありげに話相手に目くばせして、急いで声高にウロンスキイを呼んだのに気がついた。
「ああ、ウロンスキイ、いつ隊へ来てくれるのかね? われわれは一度もごちそうをしないで、きみを立たせるわけにはいかんよ。きみはわが連隊の最古参者だからねえ」と連隊長はいった。
「どうもつごうがつかないんですよ。はなはだ残念ですが、またいつか」ウロンスキイはこう言いすてて、兄の桟敷へと階段をかけあがった。
ウロンスキイの母である、鋼鉄色の巻き髪をした老伯爵夫人も、兄の桟敷にいた。ワーリャは公爵令嬢サローキナといっしょに、二階の廊下で彼に出会った。
公爵令嬢サローキナを母のところまで送りつけると、ワーリャは義弟に手をあたえて、すぐに、彼の最も関心をもっていたことがらについて話しはじめた。彼女は、彼がかつてほとんど見たこともないほど興奮していた。
「わたしあんなことをするなんて、ほんとに卑劣ないまわしいことだと思いますわ。マダム・カルターソフなんかになんの権利があるでしょう。マダム・カレーニナは……」と彼女は言いだした。
「いったいどうしたというのです? ぼくにはわかりませんが」
「まあ、あなたはまだお聞きにならないの?」
「だって、そういう問題は、ぼくの耳へは最後にはいるわけですからね」
「ほんとにあのカルターソフの奥さんくらい、いじわるな人があるでしょうか!」
「いったい、あの女《ひと》がどうしたというんです?」
「わたしは主人から聞いたんですけれどね……あの女《ひと》はカレーニナを侮辱したんですって。あの女《ひと》のご主人が桟敷ごしにあのかたとお話をなさりかけたら、カルターソフの奥さんが、いきなりご主人に食ってかかったんですって。なんでも、大きな声で何やら失礼なことをいって、さっさと出て行ってしまったんですって」
「伯爵、お母さまがお呼びでいらっしゃいますよ」と公爵令嬢サローキナが、桟敷の戸口から顔を出していった。
「わたしはずっとお前を待っていたんですよ」と母夫人は、あざけるような微笑をうかべて、彼にいった。「おまえがどこにも見えないものだからね」
むすこは、彼女が喜びの微笑をおさえかねているのを見た。
「こんばんは、お母さん。ぼくはあなたのところへ来ようとしてたのですよ」と、彼は冷やかにいった。
「おまえはどうして行かないの、faire la cour a madam Karenine?(カレーニンの奥さんのお世話をしにさ?)」と彼女は、公爵令嬢サローキナがそばをはなれるのを待って、言いたした。「Elle fait sensation. On oublie la Patti pour elle.(あのかたは評判になっていますよ。皆はあのかたのためにバッテイのことも忘れていますよ)」
「お母さん、そのことは、ぼくにいってくださるなって、お願いしてあるじゃありませんか」と、彼は眉《まゆ》をひそめながらいった。
「わたしはただ、みなさんのいってらっしゃることをいっているまでですよ」
ウロンスキイはなんとも答えなかった。そして、公爵令嬢サローキナにふた言み言いって、出て行った。戸口で彼は兄に会った。
「ああ、アレクセイ!」と兄はいった。「なんといういやなこった! ばか女、それ以上の何ものでもありゃしない……わたしは今、あの女《ひと》のところへいこうと思っていたところだ。いっしょに行こう」
ウロンスキイは彼の言葉をきいていなかった。彼は足ばやに下へおりていった。彼は、何かしなければならぬことがあるような気がしながら、それがなんであるかはわからなかった。彼女が自分自身と彼とをこうした虚偽の境地へおくようにしたことにたいするいまいましさが、彼女の苦悩にたいして彼女をあわれむ情といっしょになって、彼の胸をかきむしった。彼は、階下の平土間へおりていって、まっすぐにアンナのいる高桟敷のほうへ進んだ。桟敷のそばにはストゥレーモフが立って、彼女と話していた。
「あれ以上のテナーはありませんね。Le moule en est brise(天下一品ですね)」
ウロンスキイは彼女にえしゃくをして、ストゥレーモフとあいさつをかわしながら、立ちどまった。
「遅くいらして、一ばんいいアリアをお聞きにならなかったようね」とアンナは、ウロンスキイのほうをあざけるように(と彼には思われた)見て、いった。
「ぼくは音楽には耳がないから」と、彼はきびしく彼女を見ながらいった。
「ヤーシュヴィン公爵と同じね」と、彼女はにっこりしながらいった。「あのかたはね、パッテイのうたいかたがあんまり高すぎるなんておっしゃるんですもの。ありがとう」と彼女は、長い手ぶくろをはめた小さい手に、ウロンスキイの拾ってくれたプログラムを受け取りながらいった。と、とつぜん、その瞬間に、彼女の美しい顔はぶるっとふるえた。彼女は立ちあがって、桟敷の奥のほうへ行った。
つぎの幕がはじまっても、彼女の桟敷がからのままなのに気がついて、ウロンスキイは、歌声につれてひっそりとなりをひそめた場内に、『しっ』という叱声《しっせい》をよびおこしながら、平土間から出て帰路に向かった。
アンナはもう帰っていた。ウロンスキイが彼女の部屋へはいっていったときには、彼女は劇場にいたままの服装でひとりでいた。彼女は、壁ぎわに一ばん近い肘掛けいすに腰をおろして、じっと自分の前を見つめていた。彼女は彼をちらっと見たが、すぐもとの姿勢にもどった。
「アンナ」と、彼はいった。
「あなたが、あなたがみんなわるいのよ!」と彼女は、声に絶望と憤怒の涙をひびかせて、立ちあがりながら、叫んだ。
「だからぼくは頼んだのだ。行ってくれるなって頼んだのだ。ぼくはおまえがいやな目にあうことをちゃんと知っていたのだ……」
「いやですわ!」と彼女は叫んだ。「恐ろしいことですわ! わたしは生きているかぎり、このことは忘れませんわ。あの女《ひと》は、わたしとならんで掛けているのが、けがらわしいといったんですわ」
「ばかな女の言いぐさだよ」と、彼はいった。「だが、なんのためにあんな冒険を、いどむようなことを……」
「わたしはあなたのすましていらっしゃるのが憎らしい。あなたはわたしをあすこまで追いやってはならないはずです。もしわたしを愛してくださるんでしたら……」
「アンナ! なんのためにこんなところへ、ぼくの愛の問題なんぞ……」
「ええ、もしあなたが、わたしがあなたを愛しているように、わたしを愛しててくだすったら、わたしが苦しんでいるように、あなたが苦しんでてくだすったら……」と彼女は、びっくりしたような表情で彼を見つめながら、いった。
彼には彼女がかわいそうではあったが、やはりいまいましかった。彼は、彼女に自分の愛を誓った。なぜなら、今ではただひとつが彼女をおちつかせることを見てとったから。だが、言葉では責めなかったけれど、心では彼女を責めていた。
彼には、口にするのも恥ずかしいほどひどく低級に思われた愛の保証を、彼女はむさぼるようにのみこんで、少しずつおちついてきた。こういうことのあった翌日、彼らはすっかり仲なおりをして、田舎へむけて出発した。(つづく)