アンナ・カレーニナ(下)
トルストイ/中村白葉訳
目 次
第六編
第七編
第八編
解説
年譜
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第六編
ダーリヤ・アレクサーンドロヴナは子供たちを連れて、ポクローフスコエにある妹キティー・レーヴィナのもとでひと夏を送っていた。彼女の領地にある家は、もうすっかり荒廃《こうはい》していたので、レーヴィンが妻とともに自分たちのところで夏をすごすようにと、彼女を説きつけたのであった。ステパン・アルカジエヴィッチはこの計画に大賛成であった。彼は、家族といっしょに田舎で夏を送ることができたら、どんなに幸福だか知れないのに、公務にさまたげられてそれができないのが残念だと言いながら、自身はモスクワに残って、たまに一、二日ずつ、田舎へやってくるのだった。子供たちの全部と家庭教師とを連れたオブロンスキイ一家のほかに、この夏レーヴィンのところには、|こういう状態《ヽヽヽヽヽヽ》に無経験な娘のめんどうを見るのを自分の義務と心得ていた老公爵夫人も、客に来ていた。そのほかにまだ、キティーが外国で友だちになったワーレニカも、キティーが結婚したら行くといった約束を守って、自分の友のところへ客に来ていた。これらはすべて、レーヴィンの妻の親戚か友だちかであった。彼は、これらの人々をみな愛してはいたけれども、彼のいわゆる「スチェルバーツキイ分子」の流入によって、自分のレーヴィン流の世界と秩序との影がうすれてしまったのが、いくぶん残念であった。彼の身内からは、この夏にはただひとり、セルゲイ・イワーノヴィッチが来ていたが、彼もレーヴィン流の人ではなく、コズヌイシェフ的性格の人だったので、レーヴィン流の精神は、完全に滅ぼされてしまったかたちだった。がらあきだったレーヴィンの家も、今ではあまり大ぜいの人が集まったので、ほとんどすべての部屋がふさがり、そして老公爵夫人はほとんど毎日、食卓につくときに人数を数えて、十三番めの孫むすこか孫むすめかを、別の小テーブルに掛けさせなければならなかった。で、熱心に家政にたずさわっていたキティーにも、お客や子供たちの夏の食欲をみたすためにおびただしくいる鶏や、七面鳥や、カモを手に入れるのに、すくなからぬ配慮を要するのだった。
家じゅうの者は食卓についていた。ドリーの子供たちは、家庭教師やワーレニカといっしょにきのこ狩りの場所のことで相談していた。その知識と学問とで、一同の客のあいだに、ほとんど崇拝に近いほどの尊敬をかちえていたセルゲイ・イワーノヴィッチまでが、きのこ狩りの話にくわわって、一同を驚かした。
「わたしもひとつおともがしたいものですな。わたしもきのこ狩りは大好きですから」と彼は、ワーレニカを見ながらいった。「なにしろ非常にいい仕事ですからなあ」
「ええ、どうぞ、わたくしたちも大喜びですわ」とワーレニカは、心もち顔をあかくして答えた。キティーはドリーと、意味ありげに目を見あわせた。学識の高い、聡明なセルゲイ・イワーノヴィッチが、ワーレニカといっしょにきのこ狩りに行こうと言いだしたことは、このごろすっかりキティーの心をとらえていた、ある予想を裏書きするものであった。彼女は、自分のまなざしを気づかれないように、急いで母と話をはじめた。食事がすむと、セルゲイ・イワーノヴィッチは、弟を相手にはじめられていた会話をつづけながら、そして、そこからきのこ狩りの支度をした子供が出てくるはずになっているドアのほうをしきりに見やりながら、コーヒーの茶わんを手にして、客間の窓ぎわに腰をおろした。レーヴィンは、兄のそばの窓に腰を掛けた。
キティーは夫のそばに立って、なにやら彼に話すために、彼女にはなんの興味もない会話のおわるのを待っていた。
「おまえは結婚してから、ずいぶんいろいろの点で変わったね、いいほうへさ」とセルゲイ・イワーノヴィッチは、キティーに笑顔を見せながら、はじめられた話題にあまり興味をもたないらしい様子でいった。「だが、パラドキシカルなテーマを弁護する熱情だけはあいかわらずだね」
「カーチャ、おまえ立っているのはよくないよ」と、夫は彼女のほうへいすを押しやって、意味ありげに彼女を見ながらいった。
「うん、なるほど、だがもうこうしてはいられない」セルゲイ・イワーノヴィッチは、子供たちのかけだして来たのを見て、言いたした。
一同の先頭には、横っとびに飛びはねながら、長くつ下をぴったりとはいたターニャが、かごとセルゲイ・イワーノヴィッチの帽子とを振りまわしながら、まっすぐ彼のほうへかけてきた。
勢いよく、セルゲイ・イワーノヴィッチのそばまでかけてくると、父親そっくりの美しい目を輝かしながら、彼女はセルゲイ・イワーノヴィッチに帽子をさしだし、自分の無遠慮をおずおずした優しい微笑でやわらげながら、それを彼にかぶせたいという様子をした。
「ワーレニカが待ってらしてよ」と彼女は、セルゲイ・イワーノヴィッチの微笑によってそうしてもいいことを見てとり、彼の頭へそっと帽子をかぶせながら、いった。
ワーレニカは黄いろい|さらさ《ヽヽヽ》の服に着かえ、白いずきんを頭に巻いて、戸口のところに立っていた。
「いま行きます、いま行きます、ワルワーラ・アンドレーエヴナ!」とセルゲイ・イワーノヴィッチは、コーヒーを飲みほして、ほうぼうのポケットへハンケチや巻たばこ入れを入れわけながら、いった。
「ほんとにわたしのワーレニカは、なんといういい人でしょう! ねえ?」とキティーは、セルゲイ・イワーノヴィッチが立ちあがると同時に、夫にいった。彼女はそれを、セルゲイ・イワーノヴィッチに聞こえるような調子でいったが、彼女は明らかにそれを望んでいたのだった。「それにあの人の美しいこと、ほんとに上品な美しさですわね! ワーレニカ!」とキティーは叫んだ。「あなたがたは水車場の森へいらっしゃるの? わたしたちもあとから行きますわ」
「おまえは自分のからだのことをまるっきり忘れておいでのようだね、キティー!」と老公爵夫人は、急いで戸口からとびだして来ながら、叫んだ。「おまえはもうそんな大きな声をだしてはいけませんよ」
ワーレニカは、キティーの声と彼女の母の小言の声とを聞きつけると、軽い足どりで、すばしこくキティーのそばへ近づいた。動作の敏活さと、いきいきした顔をおおうくれないの色――こうしたものはすべて、彼女の内部に何か異常なことの生じつつあることを示していた。キティーは、その異常なことのなんであるかを知っていたので、熱心に彼女に注意していた。彼女がいまワーレニカを呼んだのはただ、キティーの考えでは、この午食《ひるしょく》後に森のなかで行なわれなければならない一大事にたいして、かげながら彼女を祝福したいためにほかならなかった。
「ワーレニカ、もしね、あることさえ実現してくれたら、わたしほんとに、こんなうれしいことはないのよ」と彼女は、ワーレニカを接吻しながら、ささやくようにいった。
「あなたもごいっしょにいらしてくださいますの?」とワーレニカはどぎまぎして、いま自分にいわれた言葉を聞かなかったような様子をしながら、レーヴィンにいった。
「ええ、行きますよ。しかしぼくは、納屋のあるところまでですね、あすこでお別れします」
「まあ、あなた、あんなところになんのご用がおありになるの?」とキティーはいった。
「新しい荷車を調べたり、数えたりしてみなけりゃならないのさ」とレーヴィンはいった。「で、おまえはどこへ行くね?」
「わたし、テラスにいますわ」
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テラスには婦人連中がみな集まった。彼女たちは、午食《ひるしょく》のあとではいつもそこに掛けるのが好きであったが、その日はなお、そこに仕事があった。みんなが子供の肌着を縫ったり、おむつのひもを編んだりするので忙しかったばかりでなく、その日はそこで、アガーフィヤ・ミハイロヴナには初めての製法によって、水をくわえないでジャムが煮られたのである。キティーが、自分の生家でやっているこの新方法を輸入したのであった。ところが、今までずっとこの仕事を任《まか》せられていたアガーフィヤ・ミハイロヴナは、レーヴィン家でやっていたことのわるかろうはずはないと考え、またそうしないではできるはずがないと言いはって、やはり|いちご《ヽヽヽ》や|やまもも《ヽヽヽヽ》のなかへ水をまぜてしまった。彼女はそれを見つけられたので、今、みんなの目の前で、|きいちご《ヽヽヽヽ》が煮られてみると、さすがのアガーフィヤ・ミハイロヴナも、水を入れないでもジャムはけっこうできるものだということを、信ぜざるをえない立場に追いこまれた。
アガーフィヤ・ミハイロヴナは、腹だたしげな悲しそうな顔に髪をほつらせ、やせた両腕を肘のへんまでまくりあげて、|こんろ《ヽヽヽ》の上で鍋《なべ》をぐるぐるかきまわしながら、|いちご《ヽヽヽ》がこげついて、うまく煮えないようにと一心に祈りつつ、暗いおももちで、じっとそれを見つめていた。公爵夫人は、アガーフィヤ・ミハイロヴナの立腹は、|いちご《ヽヽヽ》を煮るについてのおもな相談役である自分にむけられているに相違ないことを感じながら、一生けんめいに、自分はほかのことに気をとられていて、|いちご《ヽヽヽ》のことなどには少しも興味を感じていないというふうに見せようとつとめていた、そして、口ではほかごとを話しながら、やっぱりちょいちょい|こんろ《ヽヽヽ》のほうを横目で見ていた。
「わたしはね、家の女中たちの着物はいつも、特売場で、自分で見たててやるんですよ」と公爵夫人は、はじめられた会話をつづけながらいった。「もうそろそろうわ皮をとってもよくはないかえ、ばあや?」と彼女は、アガーフィヤ・ミハイロヴナに向かって言いたした。「ほんとにおまえが手をだすことはちっともありませんよ、それにあついし」と、彼女はキティーをおしとどめた。
「わたしがしましょう」とドリーはいって、立ちあがると、注意ぶかく、ふつふつとあわだち煮たっている砂糖を、小さじでかきまわしはじめた。ときどきさじにねばりついたのを落とすために、色のちがった黄味がかったばら色のうわ皮におおわれて、底に血のようなシロップの流れている皿へさじを打ちつけながら。『あれたちはお茶といっしょにこれをなめるのを、どんなに喜ぶだろう!』と彼女は、自分が子供の時分に、おとなたちが一ばんおいしいこの表皮をたべないのをふしぎに思ったことを思いだしながら、自分の子供たちのことを考えた。
「スティーワはね、お金でやるのが一ばんいいっていうんですのよ!」と、一方でドリーは、召使たちには何をあたえたらいいかという、さっきからはじめられていた興味ある会話をつづけながら、いった。「でもねえ……」
「お金なんて、どうしてそんな!」と、公爵夫人とキティーとが同音に叫んだ。「ああいう人たちは、品物のほうを喜ぶものですよ」
「例をいえぱさ、わたしが去年、うちのマトリョーナ・セミョーノヴナに、ポプリンではないけれど、それに似よりのものを買ってやったらね」と公爵夫人はいった。
「ええ、わたしも覚えていますわ。あのひとがお母さまの命名日にそれを着ていたのを」
「とてもいい柄ですよ。あっさりしていて上品でね。もしあれのでなかったら、わたしゃ自分でこさえたいと思ったくらい、ちょっとあのワーレニカの着ているような柄だったよ。ちょうど、同じように見てくれがよくて、そのうえおかっこうでね」
「さあ、もうできたようですよ」と、ドリーは、さじからシロップをたらしながらいった。
「たれたのがかたまるようにさえなればいいんだからね。もうすこし煮ていてごらん。アガーフィヤ・ミハイロヴナ」
「ええこのハエが!」とアガーフィヤ・ミハイロヴナは、とがったような調子でいった。「いつまで煮たって同じことでございましょう」と言いたした。
「まあなんてかわいい! 驚かさないでちょうだいよ!」とキティーはふいに、欄干《らんかん》にとまって、いちごのしんをひっくりかえし、それをついばみはじめたすずめのほうを見ながらいった。
「ああ、だけど、おまえ、もうすこし火からはなれていたほうがようござんすよ」と母はいった。
「a propos de ワーレニカ(それはそうとワーレニカのことですけれども)」とキティーは、アガーフィヤ・ミハイロヴナにわからないように、それまでもずっとしていたとおりフランス語でいった。「ねえ、お母さま、わたしはなんだか、今日こそどうにかなりそうな気がしているんですのよ。なんのことだかわかってらっしゃるでしょう。もしそうなったら、それこそどんなにいいでしょうねえ!」
「それはとにかく、このお仲人《なこうど》もなかなか大したものだわね?」とドリーはいった。「ほんとにどんなに慎重に手ぎわよくふたりを近づけたことでしょう――」
「いいえ、どうぞ、いってちょうだいな、お母さま、あなたはどう思っていらっしゃるか?」
「わたしがどう思いましょう? あのひと(あのひととは、セルゲイ・イワーノヴィッチのことであった)はいつでも、ロシア一ばんの縁組みをなさることができたのです。今ではもうあまりお若いほうでないけれど。でも、あのひとなら、今でもやっぱり、たいていのかたが喜んでとつぐだろうと思いますよ……あのかたもたいへんいいかただけれど、あのひとにしてみればねえ……」
「いいえ、お母さま、あなただっておわかりでしょう、あのかたにもあの女《ひと》にも、これ以上のご縁を望むことはできませんわ。第一に――あの女《ひと》はかわいいでしょう!」とキティーは、指を一本折りまげながら、いった。
「あのかたには、あの女がたいへん気にいってるようですよ。それはたしかですわ」とドリーが相づちをうった。
「第二にあのかたは、妻の財産とか地位とかをすこしも必要としないような地位にいらっしゃるでしょう。あのかたにはただ、美しくて、かわいらしくて、そしておちついた奥さんでさえあればいいのですよ」
「ええ、そりゃあの女となら、きっと平和に暮らせますわ」とドリーは賛成した。
「それから第三には、あの女があのかたを愛していることが必要ですわ。ところが、この条件もそろっています……つまり、もしそうなったらほんとに申しぶんないわけですわ!……で、わたしは、あの人たちが森から帰って来て、すべてが決まるのを、心から待っているんですのよ。そのことは、あの人たちの目をひと目見ればわかりますわ。ほんとにそうなったら、わたしはどんなにうれしいでしょう――お姉さまはどうお思いになって、ドリー?」
「だけどおまえ、そんなに興奮してはいけませんよ。おまえにはちっともそんなに興奮することはないのだからね」と母はいった。
「ええ、わたしべつに興奮してなんかいませんわ、お母さま。ただね、わたしにはどうも、今日あのかたが申し込みをなさるような気がしてならないんですのよ」
「ああ、ほんとにふしぎな気のするものね、どういうふうにしていつ男が申し込みをするかっていうことは……何かこう、一種障害物のようなものがあって、それが急にとりのけられてしまうんですものねえ」とドリーは、ステパン・アルカジエヴィッチと自分との過去を回想しながら、感慨無量といった笑顔を見せていった。
「お母さま、お父さまはお母さまにどんなふうにしてお申し込みをなさいましたの?」と、だしぬけにキティーがきいた。
「なにも変わったことはありませんでしたよ。ごくあっさりしたものでしたよ」と、公爵夫人は答えたが、その顔は、その思い出によってはればれと輝いた。
「あら、でもどんなふうでしたのよ? お母さまもやっぱり、なんでしたの、お話をすることを許されるまえから、お父さまを愛してらしたのでしょう?」
キティーは、自分が今、こうした女の一生にとっての最も大切な問題について、母を相手に同等の人にたいするような調子で語ることのできるのに、一種特別の楽しさをおぼえていた。
「愛していましたとも。お父さまはね、よく田舎のわたしの家へ遊びにいらしてたんだもの」
「けれど、どうしてそれがきまりましたの? ねえお母さま?」
「まあ、おまえはなんですね、きっと、おまえたちが新しいことを考えついたように思っておいでなのだね? みんな同じことですよ――目つきや笑顔なんかできまってしまうものですよ……」
「まあお母さまは、うまいことをおっしゃいましたわ! まったく目つきや笑顔ですわね」とドリーも言葉をあわせた。
「けれど、お父さまは、どんなふうにおっしゃいましたの?」
「コスチャはおまえどんなふうに言いましたか?」
「あのひとはチョークで書きましたのよ、とてもすばらしいやりかたでしたわ……けれどわたしには、もうずいぶん前のことのような気がしますわ!」と、彼女はいった。
そして三人の女たちは、同じことがらについて思いにふけった。キティーが最初に沈黙を破った。彼女には結婚する前の冬のことと、ウロンスキイに心をひかれたことなどが思いだされた。
「ただひとつね……それは、ワーレニカの昔のロマンスですけれどね」と彼女は、想念の自然のつながりから、そのことを思いだしながらいった。「わたしそれをなんとかして、セルゲイ・イワーノヴィッチにお話して、その心がまえをしておいていただこうと思ってますのよ。あのかたたち、殿がたというものは、だれしも」と、彼女は言いたした。「わたしたちの過去については、とても嫉妬ぶかいんですものねえ」
「しかし、みんなそうとばかりはきまっていませんよ」と、ドリーはいった。「あなたは自分の夫を標準にして、そんな判断をしているのよ。あのひとは、今でもウロンスキイの思い出に悩まされてるんでしょう? ええ? そうでしょう?」
「そうなのよ」とキティーは思いふかげに、目で笑いながら答えた。
「だけど、わたしにはわからないね」と母なる公爵夫人は、娘にたいする母としての心づかいから言葉をはさんだ。「おまえのどういう過去があのひとを悩ましたりするんでしょうね! ウロンスキイがおまえにつきまとったからどうだというの? そんなことは、どんな娘さんにだってあることじゃありませんか」
「ええ、でもわたしたちは、そのことをいっているのではないんですの」と、キティーはあかくなっていった。
「いいえ、まあお聞きなさい」と母はつづけた。「それでおまえは、その後わたしに、ウロンスキイとの話し合いをしてくれるなと自分でいったじゃありませんか。覚えているでしょう?」
「ああ、お母さま!」と、悩ましげな表情をしてキティーはいった。
「こんにちではだれも、おまえがたをそうそうおさえることはできません……それに、おまえたちの関係は、普通以上に進んだわけではなかったのだからね。わたしだって、自分で、あのひとになんとかいってやりたかったよ。それはそうと、ねえ、おまえは興奮してはいけませんよ。お願いだから、ね、そう思って、心を静めて、ね」
「わたし、ちっとも興奮なんかしてはいませんわ、お母さま」
「ほんとに、あのときアンナがいらしたということは、キティーにしてみればどんなに幸福だったでしょうねえ」とドリーはいった。「そしてあの女《ひと》にすれば、どんなに不幸だったでしょう。今じゃまるで、すっかり反対になってしまったんですものね」と彼女は、自分の想念に胸をうたれながら言いたした。「あの当時は、アンナはたいへんに幸福で、キティーは自分を不幸だと思ってたのね。それがまるきり反対になってしまった! わたしはときどきあの女《ひと》のことを考えるんですよ」
「おやおや、たいへんな人のことを考えるんだね。あんないやな、けがらわしい、情け知らずの女なんか」とキティーがウロンスキイでなくてレーヴィンと結婚したことを、いまだに心のこりにしている母はいった。
「どうしてお母さまは、そんなことがおっしゃりたいの?」と、キティーは心外そうな調子でいった。「わたしは、そんなこと考えてもいませんし、また考えようとも思ってませんわ……ほんとに考えようとも思ってませんわ」と彼女は、テラスの階段をのぼってくる、おぼえのある夫の足音に聞きいりながらいった。
「なんの話だね――考えようともおもわないというのは?」とレーヴィンは、テラスへ足をかけながら、きいた。
が、だれも彼には答えなかったので、彼も、問いをくりかえさなかった。
「いや、これはどうもすみませんでしたね、あなたがた婦人国の調子をみだして」と、彼は不満げに一座を見まわし、何か彼の前でははばかることを話し合っていたのだなと察して、いった。
一瞬間彼は、自分がアガーフィヤ・ミハイロヴナの感情を――水を入れずにジャムを煮るということばかりでなく、一般に親しみのないスチェルバーツキイ流の影響にたいする不満を、わかっていることを感じた。が、彼は笑顔になって、キティーのそばへ歩みよった。
「それで、どうだね?」と彼は、このごろ彼女にたいする人がみな見せると同じ表情をうかべて、彼女を見ながら、問いかけた。
「どうでもありませんわ」と、キティーはにっこりしていった。「で、あなたのほうはどう?」
「うん、あれは荷車の三倍も運ぶよ。ではひとつ、子供たちを迎えに行こうかね? 僕はもうちゃんと馬をつけるように言いつけておいたよ」
「まあなんですって、あなたはキティーをリネイカ(低い四輪馬車)に乗せて行こうとおっしゃるの?」と、母は非難の口ぶりでいった。
「だいじょうぶですよ、ぽつぽつ歩かせていくんですから、奥さん!」
レーヴィンは、世間の婿がするように、公爵夫人をお母さんとはけっして呼ばなかった、これが公爵夫人には不愉快であった。だがレーヴィンは、公爵夫人を非常に愛しもし、また尊敬もしていたにかかわらず、自分の死んだ母にたいする感情をそこなわないでは、彼女をお母さんと呼ぶことができなかったのである。
「あなたもごいっしょにいらっしゃいな? お母さま!」とキティーはいった。
「わたしは、そういう無鉄砲なことは見たくもありませんよ」
「じゃあ、わたしは歩いてまいりますわ。だって、とてもからだのぐあいはいいんですもの」とキティーは立ちあがり、夫のそばへ行って、その手をとった。
「ぐあいがいいったって、何事にも程度というものがありますからね」と公爵夫人はいった。
「おい、どうだね、アガーフィヤ・ミハイロヴナ、ジャムはできたかい?」とレーヴィンは、アガーフィヤ・ミハイロヴナにえみかけながら、彼女の気持をひきたてようとしていった。「新しいやりかたはぐあいがいいかい?」
「そりゃもう、いいにきまっておりますよ、わたくしどものやりかたとしては、少し煮すぎなんですが」
「そのほうがいいのよ、アガーフィヤ・ミハイロヴナ――すっぱくならなくてね。さもないと、うちの氷はもうすっかり溶けてしまったから、しまっておく場所がないからねえ」とキティーは、すぐに夫の気持を読んで、同じ感じをもって老婆のほうへ顔をむけながらいった。
「そのかわり、おまえの塩づけは、お母さまも、あんなおいしいのはどこでもたべたことがないくらいだっておっしゃっててよ」こう彼女はにこやかに笑って、老女のえり巻きをなおしてやりながら、言いたした。
アガーフィヤ・ミハイロヴナは、不きげんそうにキティーの顔をながめた。
「そんなに慰めていただかなくてもけっこうでございますよ、奥さま。わたくしはあなたさまがこうして、このおひととごいっしょにいらっしゃるのを見ているだけで、それだけでもうけっこうなのでございますから」と彼女はいった。そして、|このおかた《ヽヽヽヽヽ》でなくて、|このおひと《ヽヽヽヽヽ》という粗野な言いかたが、キティーの心を動かした。
「みんなでいっしょにきのこ狩りに行かないこと。そしてわたしたちにいい場所を教えておくれよ」
アガーフィヤ・ミハイロヴナはちらと笑って、「あなたさまにはいくら腹をたてようと思っても、どうしてもそれができません」こんなふうにでもいうように、頭を振った。
「どうぞね、わたしのいうようにしてちょうだいな」と、老公爵夫人はいった。「ジャムの上へ紙をかぶせて、ラム酒でしめしておくんですよ。そうすれば、氷がなくても、けっしてかびるようなことはありませんからね」
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キティーは、しばらくでも夫とふたりきりでいられる機会ができたのをとくにうれしく思った。なぜなら、彼がテラスへはいって来て、何を話していたかとたずね、それにたいしてだれも返事をしなかったその瞬間に、どんな感じをもすぐにまざまざと反映するその顔に、悲しみの影を走らせたのをみとめたからであった。
ふたりが徒歩で、ほかの者よりさきに家を出て、踏みかためられた、ほこりっぽい、そして裸麦の穂《ほ》や穀《こく》つぶの散らばっている街道へ出、家からは見えないところまで行くと、彼女はいっそう強く夫の腕によりかかって、その手をぎゅっと自分のほうへ引きよせた。彼はもう瞬間的の不快な印象などすっかり忘れてしまい、彼女とふたりきりになっても、今は彼女の妊娠についての考えがかたときも念頭をさらないので、愛する女のそばにいながら、情欲を超越した、完全に純潔な、彼にとって新しい、喜ばしい快感を感じていた。話すことはこれといってなかったのだが、彼は、いまや妊娠とともに、そのまなざしと同様に変わってしまった彼女の声のひびきが聞きたかった。その声には、そのまなざしにおけると同様に、自分の心をたえずあるひとつの、好きな仕事に集中している人によくあるような、もの柔らかさとまじめさとがあった。
「おまえ、それで疲れやしないかい? もっとよりかかったらいいだろう」と彼はいった。
「いいえ、あなたとふたりきりでいられるのが、わたしはほんとにうれしいのよ。じつをいうと、わたし、みんなといっしょになるのはうれしいけれど、でも、ふたりきりで送った冬の晩のことが思いだされてなりませんの」
「それもいいし、これはなおいいさ。どっちもいいさ」と彼は、彼女の腕をしめつけながらいった。
「あなたがはいっていらっしたとき、わたしたちなんの話をしていたか、ごぞんじ?」
「ジャムのことだろう?」
「ええ、ジャムのことも。だけどあとでは、殿がたが結婚を申し込むときのことを話していましたの」
「ああ!」とレーヴィンは、彼女の話している言葉よりも、その声のひびきに聞きいりながらいった。そして、いまや森のなかへさしかかった道に気をくばって、彼女がつまずきそうなところを避けて歩いた。
「それから、セルゲイ・イワーノヴィッチとワーレニカのことも。あなた気がついてらっしゃるでしょう?……わたしはもう、一生けんめいに、そうなることを望んでいますのよ」と彼女はつづけた。「あなたはどうお思いになって?」こういって、彼女は彼の顔を、じっと見つめた。
「さあ、どう思っていいか、ぼくにはわからんなあ」と、レーヴィンは笑いながら答えた。「こうした問題では、ぼくにはセルゲイはまったくなぞだよ、いつもいっているとおりさ」
「ええ、あのかたが、もうなくなったあるお嬢さんに恋していらしたということでしょう……」
「ああ、それはぼくがまだ小さい時分のことだった。ぼくは人から聞いて知っているのだがね。ぼくはその時分の兄を覚えている。兄は非常にかわいらしい人だった。ところが、それ以来ぼくは、兄の婦人にたいする態度を観察しているのだが、兄は女にはあいそもいいし、なかには気にいった人もあったようだけれど、そういう人たちも、兄にとっては、女としてではなく、単に人間としてうつっているように思われるんだからね」
「ええ、だけど、こんどのワーレニカとのあいだには……何かがあるように思われますわ……」
「そりゃ、あるかもしれない……しかし、兄さんという人を、よく知っておかなければいかんよ……あのひとはちょっと変わった、ふしぎな人だからね。あのひとは、ただ精神的生活だけで生きている人だからね。あのひとは、あまりに心の純潔な高い精神の人だからね」
「だから、どうだっておっしゃるの? こういうことは、あのかたを卑しめることになるとでも、おっしゃるの?」
「いや、そういうわけじゃないさ。だがあのひとは、ただ精神生活だけで生きることにすっかりなれてしまって、現実とは調和できないようになっているからね。ところがワーレニカは、やはりひとつの現実だから」
レーヴィンは、今ではもう、自分の考えを正確な言葉にあらわそうと苦心することなく、大胆にそれを語りだすことになれていた。彼は、今のような愛にみちている瞬間には、妻が彼のいおうとすることを、ちょっとの暗示だけでさとってしまうことを知っていた。そしてじっさい彼女は、彼のいうことをさとった。
「ええ、だけどあの女《ひと》には、わたしほどの現実性はありませんわ。そりゃあのかたは、わたしみたいな女をお愛しなさることはけっしてありませんわ。そこへいくとあの女《ひと》は、完全に精神的ですものね……」
「ところが大ちがいさ、兄さんはおまえを非常に愛しているよ。そしてぼくにはそれがうれしいのさ。ぼくの身内のものがおまえを愛してくれてるのがね……」
「ええ、あのかたはわたしに親切にしてくださいますわ、けれど……」
「けれど、死んだニコライ兄さんとのようではないというのだろう……まったくおまえと兄さんとはお互いに愛しあっていたんだからね」と、レーヴィンは言いきった。「どうしてこれを口に出していけないだろう?」と彼は言いたした。「ぼくはときどき自分を責めてるんだよ。けっきょく忘れてしまうことになるんだからね。ああ、あれはなんという恐ろしい、それでいて魅力のある人だったろう?……ええと、そこで、ぼくたちは何を話していたんだっけね?」とレーヴィンは、ちょっと黙っていたあとで、いった。
「するとあなたは、お兄さまは、恋のできないかただと思っていらっしゃるのね?」とこんどはキティーが、自己流の言葉になおしながらいった。
「あながち恋ができないというわけじゃないさ……」とレーヴィンはほほえみながらいった。「だが兄さんには、恋をするに必要な弱さというものがないんだよ……ぼくはいつもその点で兄さんをうらやましく思っていたものだが、こんなに幸福でいるこのごろでさえ、やっぱりうらやましいと思っている」
「あなたは、あのかたが恋をすることのできないのを、うらやましいとおっしゃるの?」
「ぼくは、兄さんがぼくよりすぐれている点をうらやましいと思っているのさ」と、レーヴィンは依然として笑顔でいった。「兄さんはつねに、自分のためでなしに生活しているんだからね。兄さんの生涯は、義務というものにささげられているんだからね。だからこそ兄さんは、あのとおりおちついて、満足していられるんだよ」
「では、あなたは?」とキティーは、ちゃかすような、愛情のこもった笑いをうかべていった。
彼女は、彼女をほほえませた思想の径路を言いあらわすことは、どうしてもできなかったにちがいない。しかし最後の結論は、兄に夢中になって兄の前に自分を卑下《ひげ》している彼女の夫が、まじめでないということであった。キティーは、夫のこの不まじめは、兄にたいする愛情から、自分があまりに幸福すぎるのを恥じる心から、とりわけ、つねによりよくなろうとする彼のたえまない欲求から生じたものであることを、知っていた――彼女は、彼のそういうところが好きであった、そしてそのために、にっこりしたのであった。
「では、あなたは? 何がご不満なんですの?」と彼女は、同じ微笑をうかべてきいた。
彼の自己不満にたいする彼女の不信は、彼を喜ばした。そこで彼は、無意識のうちに、彼女をしてその不信の理由を言いださせるようにしむけた。
「ぼくは幸福さ、だけど自分というものに不満なのさ……」と彼はいった。
「だって、どうして不満でなんかいらっしゃれるの、幸福だとおっしゃっていながら」
「さあ、どういったらいいかなあ?……ぼくは、じつをいうと、おまえがつまずかないようにというほかには、なんにも願ってはいないのだからね。ああ、そんなにとんだりしてはいけないじゃないか!」と彼は、彼女が小道に横たわっていた木の枝をとび越えようとして、あまりに活発すぎる動作をしたのをたしなめながら、われとわが言葉をさえぎった。「しかし、ぼくはだね、自分のことをいろいろに考えたり、自分をほかの者と、ことに兄さんと比較したりする場合には、自分をだめな人間だと感じないではいられないんだよ」
「それはどういうところがでしょうね?」とキティーは、同じ微笑をうかべてつづけた。「あなただってやっぱりほかの人のために、いろいろのことをしていらっしゃるじゃありませんか? あの農場にしたって、農事にしたって、著書にしたって?……」
「いや、ぼくは、ことに今、それがそうでないことを感じているんだ――というのも、みんなおまえの罪だがね」と彼は、彼女の腕をしめつけながらいった。「ぼくはそれを、まるでうわの空でやっているのだ。で、ぼくは、おまえを愛しているように、こうした仕事をすべて愛することができたらと、しみじみ思うのだよ……じっさい、ぼくは近ごろ、まるで宿題でもやるような気持でやっているんだからね」
「では、あなたは、父のことをどうお思いになって?」とキティーはきいた。「父もだめな人間なんですの? 社会のためになんか、なんにもしていないんですから」
「お父さん? いや、それはちがうよ? 人はみなおまえのお父さんのような単純さと、明るさと、善良さとを持たなければならないのだ。ところで、ぼくにそういうものがあるだろうか? ぼくはすることをしないで苦しんでいる。これがみなおまえのせいなんだ。おまえという者のなかったうちは、そしてまだ|それ《ヽヽ》のなかったうちは」と彼は、ちらと彼女の腹を見やっていった。彼女にはそれがわかった。
「ぼくは全力を仕事に集中していた。が、今じゃそれができない、そして、それが恥ずかしいのだ。いわばぼくは、宿題をやるような気持でやってるんで、つまり、自分を偽っているんだよ……」
「じゃあなたは、いますぐにも、セルゲイ・イワーノヴィッチとかわりたいと思っていらっしゃるの?」とキティーはいった。「そしてお兄さまのように、社会的の仕事をし、宿題を愛してさえいれば、それでいいと思っていらっしゃるの?」
「もちろん、そうじゃないさ」とレーヴィンはいった。「もっとも、ぼくはあんまり幸福すぎて、まるでなんにもわからないんだ。それはそうと、おまえは、兄さんが今日にも申し込みをするように思っているらしいね?」と彼は、ちょっと黙っていてから言いたした。
「そうも思ったり、そうでないようにも思ったりですわ。ただわたしは、そうあってほしいと願ってるだけですわ。あ、ちょっと待ってちょうだい」と、彼女はかがんで、道ばたに咲いていた野生の|かみつれ《ヽヽヽヽ》をつみとった。「さあ、ひとつ数えてごらんなさいな、申し込みをなさるか、なさらないか」と彼女は、花を彼に渡しながらいった。
「する、しない」とレーヴィンは、まっ白な、細長い、内側にくぼみのある花べんをひとつずつむしりながら、いった。
「いけませんわ、いけませんわ」と、胸をおどらして彼の指さきを見まもっていたキティーは、急に彼の手をおさえて、数えるのを中止させた。「二枚いっしょにおとりになったわ」
「じゃそのかわり、こんな小さなのは勘定にいれないことにしよう」とレーヴィンは、まだ育ちきらない花べんをむしりとりながらいった。「おお、とうとう馬車に追いつかれてしまったよ」
「おまえ、疲れやしないかい、キティー?」と公爵夫人が大声で叫んだ。
「いいえ、ちっとも」
「よかったらお乗りよ、おとなしい馬だから、静かに歩かせればいいからね」
が、もう乗るほどもなかった。すぐだったので、みんなも歩いて出かけた。
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黒い髪にまっ白なずきんをかけたワーレニカは、子供たちにとり巻かれながら、優しくいそいそと彼らの世話をしていたが、好きな人と意中をうちあけあうようなはめになりそうだという考えから、明らかに胸をわくわくさせていたので、非常にチャーミングに見えた。セルゲイ・イワーノヴィッチは、彼女とならんで歩きながら、たえず彼女に見とれていた。彼女を見ながら、彼は、彼女から聞いた、いろんなかわいらしい言葉や、彼女について知ったかずかずの美点などを思いおこすと、自分が彼女にたいしてあじわっている感じは、久しい以前の最初の青春期にたった一度経験したことのある、あの特殊な感情と同じものであるということをますますはっきりと意識するのだった。彼女のそばにいるという喜びの情はたえずつのって、ついには、自分の見つけた、細い根の上へ周囲のまくれこんだ、大きなかさのついたシラカバダケを彼女のかごへ入れてやりながら、その目をちらと見やったとき、その顔には、うれしそうな、びっくりしたような混乱の色が、一面にもみじをちらしていたので、自分のほうでもどぎまぎして、おし黙ったまま、あまりに多くを語りすぎた笑顔を、彼女に見せてしまったくらいであった。
『もしそうだとすると』と、彼は腹《はら》のなかでいった。『おれはよく考えて決心しなければならない。子供のように、一時の誘惑に身をゆだねてはならない』
「さあ、こんどはひとつ、みなさんとわかれて、別のほうへとりに行ってみよう。さもないと、いくらとっても、手柄が見えませんからね」彼はこういって、それまでいっしょに歩いていた、絹糸のような背の低い草の上に、ところどころまばらに白樺の老木の生えた林のはずれで、ひとり別れて、白々とした|かば《ヽヽ》の樹幹のあいだに山|ならし《ヽヽヽ》の幹が灰色を点じ、|くるみ《ヽヽヽ》の茂みがくろずんで見える林の奥のほうへと、はいって行った。ものの四十歩ばかりも進んで、ばら色がかった赤い穂花をびっしりつけた|まゆみ《ヽヽヽ》の茂みの陰へはいると、セルゲイ・イワーノヴィッチは、もうだれも見る者のないことを知って、立ちどまった。あたりはまったくひっそりとしていた。ただ、彼の頭上の|かば《ヽヽ》の木のこずえで、蜜ばちの群のように、ハエがたえずうなっているのと、ときおり子供たちの声が聞こえてくるだけであった。
ふと、林のはずれからほど遠からぬあたりで、グリーシャを呼ぶワーレニカのコントラルトの声がひびいてきて、喜ばしげな微笑がセルゲイ・イワーノヴィッチの顔にうかんだ。その微笑に気がつくと、セルゲイ・イワーノヴィッチは、自分の気持にたいして不賛成らしく頭を振り、葉巻を一本取り出して、火をつけようとした。彼は白樺の幹でマッチをすったが、長いこと火を出すことができなかった。白い皮のやわらかな薄片が、燐《りん》にまきついて、火が消えてしまうのだった。やっと一本のマッチが燃えついて、香りの高い葉巻の煙が、ゆらゆらする幅の広いテーブルクロースのようになって、灌木《かんぼく》の茂みの上や白樺のしだれた枝の下を、前へ前へ、上へ上へと一定の方向をとって流れはじめた。煙の帯を目で追いながら、そして自分の気持について思いめぐらしながら、セルゲイ・イワーノヴィッチは静かな歩調で歩きだした。
『だが、どうしていけないのだ?』と彼は考えるのであった。『もしこれが一時のでき心とか、情欲とかいうものだったら、もし自分がこの牽引《けんいん》を――この相互的牽引を(自分は相互的《ヽヽヽ》ということができる)感じているだけだとしたら、それが自分の生活の全傾向に反するものであることを感じているはずだし、もし自分がこの牽引に身をゆだねては、自分の使命と本分にそむくことになるのを感じているのだったら……だが、そんなことはありゃしない。おれが反対をとなえることのできるただひとつのこと、それは、おれがマリイを失ったときに、永久に彼女の記憶にたいして忠実であろうと自分に誓ったこと、あれだけだ。これがおれの、自分の感情に反対することのできる唯一のことなのだ……しかも、これが重大なのだ』とセルゲイ・イワーノヴィッチは、こうした考えは、彼自身にとってもなんの重要さをももちえないものであると同時に、他人の目においては、自分の詩的な役まわりをめちゃめちゃにしてしまうにすぎないものであることを感じながら、こうひとりごちた。『だが、これ以外には、どんなにさがしてみたところで、自分の感情に反対する口実は見いだすことはできないだろう。ただ理性だけで選ぶとすれば、これ以上のものは見いだせないにちがいないから!』
自分の知っているかぎりの婦人や娘たちを、何人思いうかべてみても、彼が冷静に判断して、自分の妻のうちに見いだしたいと望んでいるあらゆる、真にあらゆる資質をこの程度にそなえている娘を考えだすことはできなかった。彼女は、若さの美とみずみずしさとを、遺憾なくそなえていたが、それでいてもう子供ではなかったから、もし彼女が彼を愛しているとしたら、女というものが愛さなければならぬように意識的に愛しているのだった――これがそのひとつであった。第二に彼女は、ただ社交性から遠いばかりでなく、明らかに社交界というものに嫌悪感をいだいていたが、しかも同時に社交界というものを知っていて、セルゲイ・イワーノヴィッチがそれなしには生涯の伴侶を考えることのできなかった、上流婦人としてのあらゆる礼儀作法を心得ていた。第三に、彼女は宗教的であった、しかもそれは――たとえばキティーがそうであったように、子供らしく無意識に宗教的であり善良であるのとはちがって、彼女の生活そのものが、宗教的信念の上に基礎をおいているのだった。セルゲイ・イワーノヴィッチは、自分が妻というものに要求しているいっさいの属性を、微細な点にいたるまでことごとく彼女のうちに見いだした――彼女は貧しいひとりぼっちの女であった。したがって彼女は、キティーの場合のように、自分といっしょに雲のような親類縁者をひき連れて来て、その影響を夫の家庭におよぼすようなことはないであろうし、またすべての点で、夫の恩を感ずるであろう、彼がつねに未来の家庭生活のために望んでいたとおり。しかもこの少女、一身のうちにこれらいっさいの条件をそなえているこの少女が、彼を愛しているのだ。彼は謙遜な男ではあったけれども、それをみとめないではいられなかった。そして、彼もまた彼女を愛していた。が、ただひとつ考えるべきことは、彼の年齢の問題であった。しかし彼の血統は長命で、彼には白髪などは一本もなく、だれも彼を四十歳だと思うものはなかった。それに、彼はまた、ワーレニカのいったこと、五十歳の人々が自分を年よりのように考えるのはロシアだけで、フランスでは五十くらいの人たちは dans la force de l'age(盛りの年)で、四十くらいの人たちは、自分をまだ un jeune homme(青年)のつもりでいるといったことを覚えていた。しかも心では、二十年まえも同様の若々しさで自分を考えている彼にとって、年齢がなんの意味をもとう? ことに彼がいま、別なほうからふたたび森のはずれへ出ながら、太陽の斜めな光線の明るい光のなかに、黄いろい服を着、かごを手にして、軽快な足どりで白樺の老樹のそばを歩いていたワーレニカの優雅な姿を見つけたとき、そしてまた、ワーレニカの印象が、その美しさで彼を驚かしたさんさんたる日光を一面にあびた黄いろいからす麦の畑の光景や、その野の向こうの青々とした遠方にとけこんでいる、黄いろい色でまだらにされた遥かな古い森の光景とひとつにとけあったそのとき、彼が経験したこの感じが、はたして若さでないであろうか? 彼の心臓は、よろこばしさにしめつけられた。感激の情が彼をつかんだ。彼は自分の心の決まったのを感じた。ワーレニカはきのこをとろうとして、身をかがめたばかりだったが、しなやかな身ぶりで立ちあがって、ふりかえった。セルゲイ・イワーノヴィッチは葉巻を投げ捨て、決然とした足どりで彼女のほうへ進んで行った。
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『ワルワーラ・アンドレーエヴナ、わたしはずっと若い時分には、自分の愛する理想の婦人を心にえがいて、それを自分の妻と呼ぶようになったらさぞ幸福だろうと思っていました。わたしは長い年月を送ってきて、いま初めて、あなたのなかに求めていたものを見いだしたのです、わたしはあなたを愛しています。そしてあなたに手をさしのべます』
セルゲイ・イワーノヴィッチは、ワーレニカから十歩のところまで来たときに、こう自分の心にいっていた。彼女はひざをついて、グリーシャに取られないように両手できのこをおおいかくしながら、幼いマーシャを呼んでいた。
「こちらへいらっしゃい! こちらへ! 小さいのが、どっさりありますよ!」こう彼女は、もちまえのかわいらしい、胸から出るような声でいっていた。
セルゲイ・イワーノヴィッチの近づいてくるのを見ても、彼女は立ちあがろうともしなければ、姿勢をかえようともしなかった。とはいえ、すべてのものが彼に、彼女が彼の接近を感じて、それを喜んでいることを語っていた。
「いかがでして、何かお見つけになりまして?」と彼女は、まっ白なずきんのかげから、その美しい、静かなえみをうかべている顔を、彼のほうへむけながらきいた。
「ひとつも」とセルゲイ・イワーノヴィッチはいった。「あなたは?」
彼女は、彼女をとり巻いている子供たちのことにかまけて、それには答えなかった。
「ほら、ここにも、枝のそばに」と彼女は、弾力性のあるばら色の|かさ《ヽヽ》を枯れ草のために横に裂かれて、その下から頭を出している小さいスイロエーシカ(きのこの一種)を、幼いマーシャにさし示した。そしてマーシャがそれを、白い半分ずつにふたつに割ってとりあげたときに、立ちあがった。
「こういう遊びはわたくしに、子供のころのことを思いださせますの」と彼女は、子供たちのそばをはなれて、セルゲイ・イワーノヴィッチと肩をならべたときに、言いたした。
ふたりは無言で五、六歩あるいた。ワーレニカは、彼が何かいおうとしていることを見てとった。彼女はその何であるかを察して、うれしさと恐ろしさの興奮から、たえいりそうな気持になった。彼らはやがて、遠く、もうだれにも話を聞かれる心配のないところまで遠ざかったが、彼はまだ話しはじめなかった。ところで、ワーレニカは黙っていたほうがよかったのである。きのこの話などのあとよりも、沈黙のあとのほうが、お互いの言いたいことをいうのにつごうがよかったのである。ところが、意志にそむいてふと出てしまったもののように、ワーレニカは言いだした。
「では、あなたは、なんにもお見つけになりませんでしたのね? もっとも、森の奥のほうはかえって少ないものですけれど」
セルゲイ・イワーノヴィッチはほっと息をついて、なんとも返事をしなかった。彼には、彼女がきのこのことなどを言いだしたのがいまいましかったのである。彼は、彼女が子供の時分のことを言いだした初めの話のほうへ、彼女を引きもどしたく思ったが、彼もまた、何かなしその意志にそむいて、しばらく黙っていたあとで、彼女のあとの言葉にたいして、|ばつ《ヽヽ》をあわせた。
「ぼくも、白いきのこはおもに森の端にあるものだということだけは聞いていました。しかしぼくには、白いきのこを見わける目はないんですがね」
それからまた何分かが過ぎ、ふたりはさらに子供たちから遠ざかって、完全にふたりきりになった。ワーレニカの心臓は、彼女自身にもその鼓動が聞こえたほどに高鳴った。そして彼女は、自分があかくなり、あおくなり、ふたたびあかくなっていくのを感じた。
シターリ夫人のもとでのああした境遇のあとで、コズヌイシェフのような人の妻になるということは、彼女には幸福の絶頂であるように思われた。のみならず、彼女は、自分が彼に恋していることをも、ほとんど信じていた。そしてそれは、今すぐ決せられなければならぬのであった。彼女にはそれが恐ろしかった。彼がそれを言いだすことも、言いださないことも恐ろしかった。
今こそ、でなければ永久に、うちあけ合う機会はないかもしれない。このことは、セルゲイ・イワーノヴィッチにも感ぜられていた。すべてのもの――ワーレニカのまなざしや、ほおの赤さや、伏目にした目のなかにあるすべてのものが、病的な期待の色をあらわしていた。セルゲイ・イワーノヴィッチはそれを見て、彼女をいとしいものに思った。彼は、いま何もいわないことは、彼女を侮辱することになるだろうとさえ感じた。彼は、自分の心のなかで、自分の決心を助けるあらゆる理由を、すばやく思いかえしてみた。彼はまた、自分の申し込みを言いあらわそうと思っていた言葉をも、心のなかでくりかえしてみた。が、その言葉のかわりに、思いがけなく頭にうかんだある想念にしたがって、彼はたずねた――
「シラタケとシラカバダケとは、どんなふうに違うんですかね?」
彼女が返事をしたとき、ワレーニカのくちびるは、興奮のためにわなわなふるえていた。
「|かさ《ヽヽ》にはほとんど相違はありませんの、ただ根のほうがすこし」
そして、これらの言葉が話されるやいなや、彼も彼女も、事件はもうおわりを告げたこと、いわれなければならなかったことも、もはやいわれないであろうことをさとった。と、それまで極限にまで達していた彼らの興奮は静まりかけた。
「カバタケは――その根が、もう二日もかみそりをあてない、ブリュネットのあごひげを連想させますね」とセルゲイ・イワーノヴィッチは、早くもおちついた調子でいった。
「ええ、ほんとうにそうでございますわ」と、ワーレニカは笑顔になって答えた。そして、ふたりの足の方向は、期せずしてかわっていた。彼らは、子供たちのほうへと近づきはじめた。ワーレニカは苦しくも恥ずかしくもあったが、それとともに、ほっとしたような気持もあじわっていた。
家へ帰って、いっさいの理由を思いかえしてみたときに、セルゲイ・イワーノヴィッチは、自分の判断の正しくなかったことを発見した。彼は、マリイの思い出を裏切ることができなかったのである。
――――
「静かに、みんな、静かに!」とレーヴィンは、子供たちの群が歓声をみなぎらして彼らのほうへ飛んできたときに、妻の身をかばうように彼女の前に立ちはだかって、怒ったかと思われるような調子で叫んだ。
子供たちのあとから、セルゲイ・イワーノヴィッチも、ワーレニカといっしょに森を出て来た。キティーはワーレニカにきいてみる必要はなかった――彼女は、ふたりの顔のおちつきはらった、いくらかはにかんだような表情で、自分の計画の成功しなかったことをさとった。
「さあ、どうだね?」と、彼らがふたたび帰途についたときに、夫が彼女にきいた。
「だめですわ」とキティーは、レーヴィンがしばしば喜びをもって彼女のなかにみとめたところの、彼女の父を思いださせるような微笑と話しぶりとをもって、いった。
「どうしてだめだね?」
「だってねえ、こうなんですもの」と彼女は、夫の手をとって口のところへ持っていき、それをとじたままのくちびるに押しあてながら、いった。
「まるで、僧正さまの手でも接吻するようなんですもの」
「どっちがいったいだめだったんだろう?」と、彼は笑いながらいった。
「どっちもよ。だって、こういうふうにしなくちゃならないんですもの……」
「百姓たちがくるよ……」
「いいえ、見やしませんでしたわ」
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子供たちのお茶のあいだ、おとなたちはテラスへ出て、まるで何事もなかったような調子で話していた。しかも一同は、ことにセルゲイ・イワーノヴィッチとワーレニカとは、不首尾《ふしゅび》にはおわったけれども、きわめて重大な出来事のあったことを非常によく知っていた。ふたりとも、試験に失敗して原級にとどめられるか、学校から永久に除名されるかした学生があじわうような、それによく似た共通の感じをあじわっていた。その場に居あわせた人々も、やはり何事かおこったのを感じながら、それとは無関係な他の問題について、熱心に話し合っていた。レーヴィンとキティーとは、この夕べはとくに自分を愛にみちたもの、幸福なものと感じていた。そして、彼らが自分の愛で幸福だったということは、そのなかに、同じことを願っていて遂《と》げえなかった人々にたいする不快な暗示をふくんでいたので――それが彼らには恥ずかしかった。
「まあ、見ていてごらん――お父さまはおみえになりやしないから」と老公爵夫人はいった。
その晩みんなは、ステパン・アルカジエヴィッチが汽車で来るのを待っていたのである。そして老公爵も、たぶんいっしょに来るだろうと書いてよこしていたのだった。
「わたしには、そのわけもわかっているのさ」と公爵夫人はつづけていった。「お父さまは、若い者は当分は若い者だけにしておかなくちゃいかんなんて、いつもいってらしたんだからね」
「ほんとにお父さまは、今だってわたしたちをうっちゃりぱなしにしてらしてよ。わたしたちはこのごろ、ちっともお父さまにお目にかかりませんもの」と、キティーはいった。「だけど、わたしたちがどうして若い者でしょうね? もうこんな年よりだのに」
「ただね、お父さまがおいでにならないと、わたしもおいとましなければならないからね」と公爵夫人は、悲しげに太息をついていった。
「まあ、何をおっしゃるの、お母さま!」と、ふたりの娘は彼女に矛《ほこ》をむけた。
「まあおまえ、よく考えてごらんよ。お父さまのお心もさ! ほんとに今では……」
そしてとつぜん、まったく思いがけなく、老公爵夫人の声はふるえだした。娘たちは口をつぐんで、互いに顔を見あわせた。『お母さまはいつもご自分で、なにかしら悲しいことをお考えだしになるんだわ』と彼女たちはその目つきで言いあった。彼女たちは、公爵夫人にとっては娘の家にいることがどんなに楽しかろうとも、またどんなに自分をそこで役にたつ者だと感じていようとも、最愛の末娘をかたづけて、家庭の巣がからっぽになったそのときから、自分のためにも夫のためにも、たまらなく寂しい気がしていたのだということを、知らなかったのである。
「なあに、アガーフィヤ・ミハイロヴナ?」とキティーはとつぜん、へんな様子で、ものものしげな顔をしてそこに立っていたアガーフィヤ・ミハイロヴナのほうへ声をかけた。
「お夕食のことでございますが」
「ああ、ちょうどいいわ」とドリーはいった。「あんた行って、そのほうのさしずをしてちょうだい。わたしはグリーシャとあちらへ行って、学課の復習をさせますから。さもないと、あの子は今日は一日なんにもしないことになりますからね」
「そりゃあぼくの受け持ちだ! いいえ、ドリー、ぼくが行きますよ」と、レーヴィンはとびあがっていった。
もう中学へ通っていたグリーシャは、夏のうちは学課の復習をしなければならなかった。まだモスクワにいるうちから、むすこといっしょにラテン語を学んでいたダーリヤ・アレクサーンドロヴナは、レーヴィンの家へ来てからも、少なくとも日に一度ずつは、数学とラテン語とのうち一ばんむずかしい課目を、彼といっしょに復習するという規則をたてていた。レーヴィンは彼女にかわろうと申し出た。が、母は、レーヴィンの教授ぶりを耳にして、それがモスクワの教師のやりかたとはすっかり違っていることに気がついたので、ひどく当惑して、レーヴィンの気をわるくしないようにつとめながらも、学課はやはり教師のするように、教科書によってやらなければならない、だから、彼女が自分でやったほうがいいだろうと、思いきって言いだした。レーヴィンには、ステパン・アルカジエヴィッチが、その無責任な性格から、教育などには少しも理解のない母親に子供の監督を任せきりで、自身は少しもかまいつけないことがいまいましかったし、また教師たちの教えかたのきわめてよくないこともいまいましかったが、しかし義姉にたいしては、その望みどおりに教えようと約束した。――そして、グリーシャを教えつづけたが、こんどはもう自分流儀でなく、教科書どおりにやったので、しぜん気のりがせず、とかくその時間を忘れがちになるのだった。今日もそれだったのである。
「いや、ぼくが行きますよ、ドリー、あなたはここにいらしってください」と彼はいった。「だいじょうぶ、ちゃんと教科書どおりにやっていますから。ただ、スティーワが来て、いっしょに猟《りょう》に出かけるときだけは失敬しますがね」
そしてレーヴィンは、グリーシャのほうへ行った。
これと同じようなことを、ワーレニカもキティーにいった。幸福な、なにからなにまでよく整ったレーヴィン家へ来ていても、彼女はなにかと役にたつすべを心得ていた。
「お夕食の支度はわたしがさせますわ。あなたはすわっていらっしゃいまし」彼女はこういって、アガーフィヤ・ミハイロヴナのほうへ立って行った。
「そうそう、今日は|ひなどり《ヽヽヽヽ》が手にはいらなかったはずですわね。そしたら、うちのでもなんとか……」とキティーはいった。
「ええ、アガーフィヤ・ミハイロヴナとよく相談いたしますわ」とワーレニカは、彼女といっしょに姿を消した。
「なんというかわいらしい娘さんだろう!」と公爵夫人はいった。
「かわいらしいどころじゃありませんわ、お母さま。あんなりっぱなかたって、めったにあるものじゃありませんわ」
「では、あなたがたは今日、ステパン・アルカジエヴィッチを待っておいでなんですね?」とセルゲイ・イワーノヴィッチは、明らかにワーレニカの話のつづくのを望まないらしい様子で、いった。「ここのふたりのお婿さんくらい、お互いに似たところの少ない人たちも珍しいでしょうね」と彼は、微妙な笑いをうかべながらいった。「一方は活動的な人間で、水のなかの魚のように、社会のなかでばかり生活しているのに、もうひとりの――わたしの弟のコスチャときたら、いきいきとして、気が早くて、万事に敏感でありながら、いざ社会へ出たとなると、たちまち陸へあがった魚のように、くたくたになってしまうか、ただむやみにぴんぴんはねるだけですからな」
「ええ、あのひとはなかなかそそっかしやさんですよ」と公爵夫人は、セルゲイ・イワーノヴィッチのほうを向きながらいった。「で、じつはわたくし、あなたにお願いして、あなたからいちおうあのひとに話していただきたいと思っていますのですがね。というのは、この娘《こ》(と彼女はキティーをさして)は、ここにいるわけにはまいりません、どうしてもモスクワへ行かなくてはいけないんでございますからね。あのひとは医者を呼びよせるなんていってますけれど……」
「お母さま、あのひとはどんなことでもしてくださいますわ。どんなことでも異存ないっていってるんですもの」とキティーは、母がこの問題にセルゲイ・イワーノヴィッチなどをひきこもうとするのをいまいましく思いながら、いった。
彼らの話の最中に、並木道のほうにあたって、馬の鼻あらしと、砂利の上をきしる車輪の音とが聞こえだした。
ドリーが夫を出迎えようと、まだ立ちあがりきらないうちに、グリーシャの勉強していた部屋の窓からレーヴィンがとび出して、グリーシャを抱きおろした。
「スティーワですよ!」と、レーヴィンはテラスの下から叫んだ。
「ぼくらはもうすんだのです、ドリー、ご心配なく!」こう彼は言いたして、子供のように馬車のほうへかけだした。
「Is, ea, id, ejus, ejus, ejus!(ラテン語の〔ある〕という動詞の変化)とグリーシャは、並木道を踊るようにかけて行きながら叫んだ。
「まだだれかほかの人もいますよ。きっとお父さんでしょう!」とレーヴィンは、並木道の入口に立ちどまって叫んだ。「キティー、急なほうの階段を降りてはいけないよ。まわっておいで」
しかし、レーヴィンがほろ馬車のなかに掛けていた人を老公爵だと思ったのは、まちがいだった。馬車のほうへ近づいて見て、彼は、ステパン・アルカジエヴィッチとならんでいたのは、公爵ではなく、リボンの長いはしをうしろへさげたスコットランド帽をかぶった、若い、美しい、でっぷりと太った男であったことを発見した。これは、スチェルバーツキイ家のまたいとこにあたるワーセンカ・ウェスローフスキイという、ペテルブルグやモスクワの社交界における花形で、ステパン・アルカジエヴィッチの紹介によれば、「このうえないりっぱな人物で、熱心な狩猟家」であった。
老公爵のかわりに自分の来たことからひきおこされた幻滅の気持には少しもとんじゃくなく、ウェスローフスキイは、古い知人関係を思いださせたりしながら、快活な態度で、レーヴィンとあいさつをかわした。そしてグリーシャを馬車のなかへ抱きとって、ステパン・アルカジエヴィッチがつれて来たポインター種の犬の向こうへ掛けさせた。
レーヴィンは馬車に乗らずに、あとについて歩きだした。親しく知れば知るほど好きになってくる老公爵の来なかったことや、まったく親しみのないよけい者のワーセンカ・ウェスローフスキイなどの来たことが、彼にはちょっといまいましかった。レーヴィンは、おとなや子供たちの活気づいた一団が集まっている入口の階段へ近づいて、ワーセンカ・ウェスローフスキイが、とくに優しいいんぎんな様子で、キティーの手に接吻しているのを見たときに、彼をますます親しみのない、よけい者のように考えた。
「あなたの奥さんとぼくはcousins(いとこ)で、それに古いおなじみなんですよ」とワーセンカ・ウェスローフスキイは、ふたたびぎゅうぎゅうレーヴィンの手を握りしめながらいった。
「どうだい、鳥はいるかね?」とステパン・アルカジエヴィッチは、一同へのあいさつもそこそこに、レーヴィンのほうをむいていった。「ぼくらは野蛮きわまる計画をいだいて来たんだからね。ああ、お母さん、あれ以来先生たちはモスクワへ来なかったんですよ! そこでと、ターニャ、おまえにはいいものをもって来てやったよ! 馬車のうしろのほうにあるものを持っておいで」こう彼は、八方に向かっていった。「おまえはなんてきれいになったものだ。ドーレニカ」と彼は、もう一度妻の手に接吻して、それを片手でおさえた上を、別の手で軽くたたきながらいった。
つい一分まえまで非常に愉快な気持でいたレーヴィンは、今は暗い顔つきで一同に相対した。彼には何もかもが気にいらなかった。
『この男はこのくちびるで、昨日はだれを接吻したのだろう?』と彼は、ステパン・アルカジエヴィッチの妻にたいする優しいそぶりを見て、考えた。彼はドリーの顔を見た。彼女もまた彼には気にいらなかった。
『この女《ひと》だって、彼の愛を信じていないんじゃないか。それだのに、なんだってあんなにいそいそしているんだろう?――いやになっちまう!』とレーヴィンは考えるのだった。
彼は、一分まえまで自分にとって非常になつかしい人だった公爵夫人を見た。と、彼には、まるで自分の家でもあるような態度で、このリボンをひらひらさせているワーセンカを歓迎している彼女の様子が、気にいらなかった。
みんなといっしょに入口へ出て来たセルゲイ・イワーノヴィッチさえも、彼がステパン・アルカジエヴィッチを迎えるのに、よそおった親しさをもってしたことが不愉快だった。レーヴィンは、兄がオブロンスキイを愛しても尊敬してもいないことを知っていたので。
ワーレニカもまた、いつものとりすました sainte nitouche(ねこかぶり)で、この紳士とあいさつをしている様子が、彼にはいやらしく思われた。腹《はら》のなかでは、どうかして結婚したいということばかり考えているくせに。
そして、だれよりも一ばんいやに思われたのは、この紳士が、田舎への自分の来訪を、自分にも一同にも、まるで祭りかなにかででもあるように思っている、うわっ調子な態度に、キティーがひきいれられていることであった。ことに不愉快だったのは、彼女が彼の微笑に答えたその一種特別な微笑であった。
にぎやかに話しあいながら、一同は家のなかへはいって行った。が、一同が席につくやいなや、レーヴィンは踵《きびす》を返して、出て行ってしまった。
キティーは、夫がどうかしているらしいのを見てとった。彼女は、夫とふたりきりで話しのできる機会を見つけたいと思ったが、彼は、事務所に用があるからといって、急いで彼女のそばを離れてしまった。もう久しいあいだ彼には、農事のことが今日のようにこんなに重大に思われたことはなかった。『あちらにいる連中は、いつでもお祭りのような気分でいる』と彼は考えた。『が、こちらの仕事はお祭り騒ぎじゃないからな。それは待っていてくれないからな。それなしには生きていくことができないからな』
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レーヴィンは、晩餐の迎えを受けてはじめて家へ帰って来た。入口の階段の上には、キティーとアガーフィヤ・ミハイロヴナとが、晩餐に出すぶどう酒のことを相談しながら立っていた。
「いったい、なんだってそんなfuss(大騒ぎ)をやってるんだね? いつものとおりに出しときゃいいじゃないか」
「いいえ、スティーワはめしあがりませんわ……コスチャ、ちょっと、あなたどうかなすったの?」とキティーは、彼について歩きだしながら言いかけたが、彼はそっけなく、彼女を待たないで、大またにさっさと食堂へはいって行き、すぐに、ワーセンカ・ウェスローフスキイとステパン・アルカジエヴィッチとがはじめていた、にぎやかな世間話の仲間入りをした。
「ところで、どうだね、明日ひとつ猟《りょう》に行こうじゃないか?」と、ステパン・アルカジエヴィッチはいった。
「どうか、そう願いたいものですな」とウェスローフスキイは、別のいすに横向きに腰掛けなおして、ふとった一方の足をほかの足の上へのせながらいった。
「ぼくも大賛成です、おともしましょう。あなたは、今年もう猟をなさいましたか?」とレーヴィンは、注意ぶかく彼の足を見やりながら、キティーのよく知っていた、彼にはきわめて不似合いな、いつわりの愉快さをうかべて、ウェスローフスキイにいった。「田シギはいるかどうかわからないが、シギならたくさんいますよ。ただ、朝早く出かけなきゃならないんですがね。あなたはお疲れになりませんか? きみは疲れてやしないかね、スティーワ?」
「ぼくが疲れたかって? はばかりながら、ぼくはかつて疲れということを知らんよ! なんならこのまま寝ないでいようか! 少し散歩にでも出かけよう!」
「ほんとに、ひとつ徹夜しましょう! こいつは思いつきだ!」と、ウェスローフスキイは調子をあわせた。
「ええええ、そりゃもう、あなたが寝ないでいることのおできになるかただということも、ひとさまを寝かせないでおおきになることのおできになるということも、わたしたちよく知ってますわ」とドリーは、心もち皮肉と思われる調子で、夫にいった。この調子で彼女は、近ごろずっと自分の夫にたいしているのであった。「だけど、もうやすむ時間ですからね……わたしは失礼しますよ。お夜食もいたしませんから」
「いや、おまえはちょっとお待ち、ドーレニカ」とステパン・アルカジエヴィッチは、人々が晩餐をしていた大テーブルの、彼女の側へ席をうつしながらいった。「おまえにはまだだいぶ話すことがあるんだから」
「お話なんかあるはずがないわ」
「じゃあおまえ知ってるかね、ウェスローフスキイはアンナのところへ行って来たんだぜ。そしてまた、そちらへもどっていくんだぜ。なにしろふたりは、ここから七十ウェルスターとはないところにいるんだからね。ぼくもぜひ一度行くつもりさ。ウェスローフスキイ、こっちへ来たまえ」
ワーセンカは婦人たちのほうへうつって、キティーとならんで腰をおろした。
「ああ、どうぞお話しくださいまし、あなたはあの女《ひと》のところへいらっしゃいましたんですって? あの女《ひと》はどうしていまして?」とダーリャ・アレクサーンドロヴナは、彼のほうへ顔をむけた。
レーヴィンはテーブルの向こうはしに残って、公爵夫人やワーレニカとの会話をつづけながら、ステパン・アルカジエヴィッチや、ドリーや、ウェスローフスキイのあいだに、いきいきとした秘密めかしい会話がはずんでいるのを見ていた。が、そこには、秘密めかしい会話がはずんでいるばかりではなかった、何か熱心に話しているワーセンカの美しい顔を、目もはなさずに見ている自分の妻の顔に、まじめな表情のあるものをも彼はみとめた。
「あの人たちのところは非常にうまくいっていますよ」とワーセンカは、ウロンスキイとアンナとについて話していた。「ぼくはもちろん、批評がましいことをいう気はないのですがね、しかし、あの人たちのところへ行っていると、まるで自分の家にいるような感じがしますよ」
「あの人たちは、これからどうしようというのでしょう?」
「冬になったらモスクワへ行くつもりでいるようですな」
「われわれがうまく向こうでいっしょになれたら、さぞおもしろいだろうなあ! きみは、いつ行くつもりなんだね?」と、ステパン・アルカジエヴィッチはワーセンカにきいた。
「ぼくは、七月いっぱいあすこにいるつもりです」
「おまえ、行くかい?」と、ステパン・アルカジエヴィッチは妻のほうへ顔をむけた。
「わたしはもう、前から行きたいと思っていたのですから、ぜひまいりますわ」とドリーはいった。「わたしはね、あの女《ひと》が気の毒でなりませんの、わたしは、あの女《ひと》をよく知っているのですから。あの女《ひと》はりっぱな婦人です。わたしは、あなたがお帰りになってからひとりでまいりますわ、そして、このことでだれにもめいわくをかけたくありませんの。ですから、あなたのいらっしゃらないほうが、かえってつごうがいいくらいですわ」
「それもよかろう」とステパン・アルカジエヴィッチはいった。「で、きみは、キティー?」
「わたし? わたしが、どうしてまいりましょう?」と、キティーは全身まっ赤になって、夫のほうを見やった。
「じゃ、あなたも、アンナ・アルカジェヴナとはお知り合いでおいでなんですか?」と、ウェスローフスキイが彼女にたずねた。「あのかたはまったく美しいご婦人ですな」
「ええ」と彼女はいっそう顔をあかくして、ウェスローフスキイに答えた。そして立ちあがって、夫のほうへ行った。
「ではあなたは、明日|猟《りょう》にいらっしゃるのね?」と彼女はいった。
彼の嫉妬は、この数分のあいだに、ことに彼女がウェスローフスキイと話していたとき、そのほおを染めたくれないによって、すでにかなり進んでいた。で、今、彼女の言葉を聞いて、彼はそれをすっかり自分勝手に解釈した。後になってこのことを思いだすと、まったくふしぎな気がしたが、そのとき彼には明らかに、彼女が彼の猟に行くかどうかをたずねたことは、ただ、彼の解釈にしたがうと、彼女のはやくもほれこんだワーセンカ・ウェスローフスキイに、彼がその満足をあたえてやるかどうかを知りたいためにほかならない――こういうふうに思われたのである。
「ああ、行くよ」と彼は不自然な、われながら不愉快な声で彼女に答えた。
「いいえ、明日はいちんち家にいらしたほうがようござんすよ。そうでないと、ドリーがしみじみお兄さまの顔を見ることもできませんもの。猟は明後日になさいませよ」とキティーはいった。
キティーの言葉の意味は、レーヴィンによって、またつぎのように翻訳された――『わたしと|あのかた《ヽヽヽヽ》とをひきはなさないでくださいまし。あなたのお出かけになることは――どうでもいいんですけれど、わたしはただ、この美しい若いかたとの交際を、楽しませていただきたいんですの』
「ああ、おまえがそうしたいんなら、明日は家にいることにしようよ」とレーヴィンは、ことさら愉快らしい調子で答えた。
ところが、ワーセンカのほうでは、自分の来訪がひきおこしたこうした苦痛を、つゆほども疑ってみなかったので、キティーにつづいてテーブルをはなれると、微笑をふくんだ優しいまなざしで、彼女の姿を追いまわしながら、彼女のあとについてきた。
レーヴィンはそのまなざしを見た。彼はまっさおになり、ちょっとのまは呼吸《いき》をつくこともできなかった。『人の妻に向かって、よくもあんな目つきができたものだ!』と、彼の心中は煮えくりかえった。
「では明日ですね? どうぞそう願います」とワーセンカは軽くいすに腰をおろして、またしても癖の、足を組み合わせながらいった。
レーヴィンの嫉妬はいっそうさき走った。彼は、早くも自分を、妻とその情人とが生活の便宜と満足をうるために必要としているにすぎない、欺かれた夫であるように思いこんでしまった……しかも、それにもかかわらず、彼はあいそよく、いんぎんに、ワーセンカに向かって、彼の猟のこと、猟銃のこと、長ぐつのことなどをたずねて、翌日猟に行くことに同意してしまった。
レーヴィンにとって幸福なことに、老公爵夫人が立ちあがって、キティーに寝に行くように注意してくれたので、彼の苦悶は救われた。が、それでもまだレーヴィンには、新しい苦痛なしにはすまなかった。主婦と別れのあいさつをかわしながら、ワーセンカはふたたび彼女の手に接吻しようとした。ところが、キティーはさっとあかくなって、手をひっこめながら、あとで母親から注意されたようなナイーヴなあらあらしさをもって、こういった。
「わたくしどもでは、そういう風習《ならわし》はございませんの」
レーヴィンの目には、彼女が相手にそうした態度をとるようにさせたことが、彼女の罪であるように思われたが、なおそれにもまして彼女が、それを好まないことを、あんなにまずい態度で表明したことが、いっそうの罪であるように思われた。
「ああ、なんだって寝床へなんぞはいりたいんだろうな!」晩餐にぶどう酒の数杯をかたむけて、このうえなく愉快な、詩的な気分になっていたステパン・アルカジエヴィッチは、こういった。「ごらんよ、キティー」と彼は、ぼだい樹の陰からのぼって来た月を指さしながらいった。「なんという美しさだ。ウェスローフスキイ、セレナーデにはもってこいの晩じゃないか。ところでこのひとはね、そりゃ声がいいんだよ、ぼくたちはみちみち歌いながら来たのさ。このひとは新しい美しい曲をふたつ持って来てるからね。ひとつワルワーラ・アンドレーエヴナといっしょにうたってもらいたいと思ってるのさ」
――――
みんなが別れ散じてからも、ステパン・アルカジエヴィッチはなお長いこと、ウェスローフスキイとつれだって、並木道を歩いていた。そして、新しい小うたを合唱する彼らの声が聞こえていた。
この声を聞きながら、レーヴィンは、しかめつらをして、妻の寝室にある肘掛けいすに掛けたまま、どうしたのかという彼女の質問にたいしても、頑固におし黙っていた。が、ついに彼女のほうから、おずおずと微笑しながら、「何かウェスローフスキイのことで、お気にさわったことでもあったんじゃないの?」ときいたときに、その沈黙は破れて、彼はすべてをうちあけてしまった。と、このうちあけたことが彼をはずかしめ、したがって、いっそう彼をいらだたせるのだった。
彼は、ひそめた眉の下に恐ろしく目を光らせながら、彼女の前につっ立って、自分をおさえるのに全力を集中しているような様子で、たくましい腕でしっかり胸を抱きしめていた。彼の顔の表情は、もしそこに彼女の心を動かした苦悶の色がなかったならば、きびしく無情にさえ見えたであろう。彼のほお骨はがくがくふるえて、声はきれぎれになるのだった。
「いいかね、ぼくは嫉妬しているわけじゃないんだよ、嫉妬なんていやな言葉だ。ぼくは嫉妬などということはできないし、また信ずることもできないよ。そんな……どうも自分の感じていることがうまくいえないが、とにかくそれは恐ろしいことだよ……ぼくは嫉妬してるんじゃない、が、他人があんな目つきをして、おまえを見たり、おまえのことを考えたりすることを思うと、ぼくは侮辱《ぶじょく》を感じ、屈辱を感じないではいられないのだ……」
「というと、どんな目つきなんですの?」とキティーは、できるだけ誠意ある気持で、その晩のすべての会話や、身ぶりや、陰影やを思いだそうとつとめながら、いった。
彼女は心の奥深いところで、彼が彼女につづいてテーブルの他の端へ席をうつしたあのときに、何かあったのを発見した。が、彼女はそれを、自分自身にすら承認するだけの勇気がなかった。ましてや、夫にそれをうちあけて、彼の苦悶を増す決心はつかなかった。
「ですけれど、今のこのわたしに、どこに人をひきつけるようなところがあるのでしょう?……」
「ああ」と頭をかかえながら、彼は叫んだ。「もうそんなことはいわないでくれ!……とすると、もしおまえが人をひきつけるような女だったら……」
「まあ、いいえ、コスチャ、ちょっと待ってちょうだい、きいてちょうだい!」と彼女は苦しげな、同情にみちた表情で、しげしげと彼を見ながら、いった。「ほんとにあなたは、何をお考えになるのでしょう? わたしにとっては世界じゅうに、ほかに人はひとりもないのに、ないのに、ないのに!……じゃあわたしはこれから、だれにも会わないようにしましょうか?」
はじめ彼女には、彼の嫉妬が侮辱に感ぜられた。ちょっとした気ばらしも、なんの罪もない戯《たわむ》れも、自分には禁じられているのだと思うと、いまいましかった。しかし、いまや彼女は、彼がなめている苦悶をとり除いて、彼の心に平和をあたえるためには、こんな些細《ささい》なことはもちろん、どんなことでも犠牲にしていいという気になった。
「おまえは、今のぼくの立場の恐ろしさとこっけいさとを察してくれなけりゃ困るよ」と彼は、絶望的なささやき声でつづけた。「あの男はぼくの家にいる、しかもあの男は、あの無遠慮に足を組み合わせることのほかには、礼儀にもとるようなことはべつに何もしていない。そしてあの男は、それを一ばんいい調子だと思っている。で、ぼくもあの男にたいしては、あいそよくしていなければならないのだ」
「だけど、コスチャ、あなたはあんまり大げさすぎますわ」とキティーは、心の底では、いま彼の嫉妬のうちに言いあらわされた自分にたいする愛の力強さを喜びながら、いった。
「何よりも一ばん恐ろしいのは、おまえはいつものとおりのおまえで、ぼくにとって、このうえない神聖なものであり、そして、われわれがこんなに幸福で、こんなにもなみはずれて幸福であるときに、だしぬけにあんなやくざな……いや、やくざではない、なんだってぼくはあの男をわるくいうのだろう! ぼくはあの男と何も関係はないのだ。だが、しかし、なんでぼくの、おまえの幸福が?……」
「あ、あなた、わたしよくわかりましたわ、どうしてこんなことになったのか」とキティーは言いだした。
「どうしてだい? どうしてだい?」
「晩餐の時にわたしたちが話しているのを、あなたはじっと見ていらしたわね。わたしちゃんと知ってましたわ」
「うむ、それそれ、うん、そこだよ!」と、レーヴィンはびっくりしたように言った。
彼女は、彼らの話していたことを彼につたえた。それを話しながら彼女は、興奮から息をはずませた。レーヴィンはしばらく黙っていたが、やがて彼女のあおざめた、おびえたような顔を見つめて、だしぬけに頭をかかえた。
「カーチャ、ぼくはおまえを苦しめたね! ね、かわいいカーチャ、許しておくれ! これはもう狂気のさただ! カーチャ、まったくぼくがわるいんだ。だが、よくまあ、こんなくだらないことに、こんなに苦しんだものだよ」
「いいえ、わたしはあなたがお気の毒でならないのよ」
「ぼくが? ぼくが? ぼくはなんという気ちがいなのだ……ほんとに、なんだっておまえを? これは考えるだけでも恐ろしいことだよ、なんの関係もない赤の他人が、ぼくたちの幸福を破壊することができるなんて」
「ほんとに、それこそ腹のたつことですわ……」
「ようし、じゃあひとつ、ぼくはあべこべに、あの男をわざと夏じゅうここへひきとめておいて、できるだけ好意を示してやろう」こうレーヴィンは、彼女の手に接吻しながらいった。「まあ見ていてくれ。明日は……そうだ、ほんとうに、明日はひとつ出かけてやろう」
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翌日は、婦人たちがまだ起きないうちに、狩猟用の馬車と、小馬車と、荷馬車とが、車寄せのところに立っており、そして、朝早くから猟に出かけることを感づいていたラスカは、思うさまうなったり、かけまわったりしたあげく、御者のそばの小馬車の上にすわって、人々のぐずぐずしているのがもどかしく、不賛成らしい様子で、猟人《かりゅうど》たちのまだ出てこない戸口のほうを見まもっていた。まっさきに出て来たのは、ふとい|もも《ヽヽ》の中ほどまでもあるような、長い新しい長ぐつをはき、緑色のブルーザにぷんと革のにおいのする新しい弾帯《だんたい》をしめ、リボンのついた例の帽子をかぶって、負い革《かわ》なしのイギリス式の新しい銃をたずさえた、ワーセンカ・ウェスローフスキイであった。ラスカは彼のそばへ飛んで行き、うれしそうに彼を迎え、そしてひとつとびあがって、自分一流のやりかたで、みんなもつづいて出てくるかどうかをたずねたが、返事がえられなかったので、自分の見張り場所へもどり、頭をわき腹につけ、片方の耳をひっ立てて、ふたたびじっとうずくまってしまった。ついに、ばたんと音高くドアが開いて、ステパン・アルカジエヴィッチの黄褐色の斑《ふ》のあるポインター種のクラークが、ぐるぐるまわったり宙返りしたりしながらとびだしてき、そしてステパン・アルカジエヴィッチ自身も、両手に銃を持ち、口に葉巻をくわえた姿を現わした。
「待て、待てクラーク!」と彼は優しく、獲物ぶくろにからまりながら彼の腹や胸に前足をかけようとしている犬に叫んだ。ステパン・アルカジエヴィッチは、粗末な靴にゲートル、破れたズボンに短い外套といういでたちであった。頭には、形ばかりの帽子の廃墟がのっていたが、最新式の銃はおもちゃのようだし、弾薬盒《だんやくごう》も獲物ぶくろも、いたみ損じてはいたが、このうえなしの上等品であった。
ワーセンカ・ウェスローフスキイは、これまではこうした真の猟人の気どり――着ているものはぼろでも、猟具は最良のものを持つという気持を解しなかった。彼はそれを今、こうしたぼろをまといながら、その端麗《たんれい》な、色つやのいい、快活な、貴族的の姿で輝いているステパン・アルカジエヴィッチを見て、はじめてそれを了解した。そして、このつぎの猟には、自分もきっとこういうふうにしようと決心した。
「ときに、こちらのご主人はどうしたんですかな?」と彼はきいた。
「若い細君がね」と、ステパン・アルカジエヴィッチはにやにやしながらいった。
「ああ、なにしろあの美人ですからね」
「もうすっかり支度はしてたんだがね、きっとまた細君のところへかけつけたってわけだろうよ」
ステパン・アルカジエヴィッチは言いあてた。レーヴィンは、妻が昨日のばかげた行ないにたいして自分を許すかどうかをもう一度彼女に確かめ、それからさらに、彼女がいっそうからだに気をつけてくれるようにと頼むために、ふたたび妻のもとへかけよったのであった。大切なことは、子供たちからできるだけ遠く離れていることであった――彼らは、いつなんどきどしんとぶっつかってくるかしれなかったから。つぎに彼は彼女から、二日間不在にすることにたいして、彼女が怒っていないという確証をえ、なおそのうえに、ただのふた言でもいいから彼女が無事だということがわかるような手紙を、ぜひとも明朝、騎馬の使いに持たしてよこしてくれるようにと、頼まなければならなかったのである。
キティーは、いつものとおり、二日間夫と別れているのがつらかった。が、猟用の長ぐつと白い外套とに身をかためて、とくに大きくたくましく見える夫のいきいきとした姿と、自分にはわからない、猟人らしい興奮からくる一種の輝きとを目にすると、夫の歓喜のために自分の悲しみなど忘れてしまって、快く別れのあいさつをかわした。
「失敬しました、諸君!」と彼は、入口の階段へ走りだしながら、いった。「弁当は入れたかね? なぜくり毛を右にしたのだい? だがまあ、どっちでもいいや。ラスカ、おまえはあっちへ行ってすわれ!」
「それは牡牛《おうし》の群のなかへ入れておけ!」と彼は、若い去勢牛《きょせいうし》のことで彼に何かきこうとして、入口の階段のそばで待っていた家畜係の男のほうをふりかえった。「やあ失敬、またあんなやつがやって来た」
レーヴィンは、もうすわりかけていた馬車から、ものさしを手にして階段のほうへやって来た請負《うけお》い大工のほうへ飛びおりた。
「おまえは昨日事務所へ来もしないでいて、今ごろおれのじゃまをしちゃ困るじゃないか。いったい、なんの用だ?」
「じつは、もうひとつ曲がり段をこさえさせておもらいしたいんで。みんなで三段、段をふやしてもらえばいいんで。ちゃんと、うまくしてお目にかけますよ。そして、そのほうがずっとぐあいがよくなるんです」
「だから、おれの言うことをきけばいいんだ」と、レーヴィンはいまいましそうに答えた。「おれはいっといた、まず階桁《けた》をつけて、それから段をはめろって。もうなおすわけにゃいきゃしない。おれの言いつけたとおりにやれ、――新しく作りなおすんだ」
それはこういうことであった。いま建てかけている離れへ階段をつけるのに、大工が、最初によく考えないで、材木をべつべつに切ったため、それを現場へとりつけてみると、段々が全部斜めになって、階段がぶちこわしになってしまった。で、大工はいま、その階段はそのまま使って、それに段々を三段ふやそうというのであった。
「そうすればずっとよくなりまさあ」
「だが、おまえのいうとおりだと、その三段もふやした階段は、いったいどこへ出るんだい?」
「そりゃ、だいじょうぶでございますよ、だんな」と大工は、さげすむような微笑をうかべていった。「そりゃ、ちょうどいいところへ出まさあ。まず、下からこうあがるとしてですな」と彼は、自信たっぷりな身ぶりをしていった。「それからこう行って、こう行って、こう出るんでさあ」
「それにしろ、その三段だけ長さも長くなるわけじゃないか……それはどこへ行くんだい?」
「ですから、つまり下からこう行くと、こう出るんでさ」と大工は強情に、確信ありげに言いはった。
「それじゃ天井につかえて壁につきあたるだろう」
「とんでもない。だからずっと、下からとりつけるんですよ。で、こう行って、こう行って、こう出るんでさあ」
レーヴィンは銃の槊杖《さくじょう》をぬいて、ほこりの上へ階段の図を描いて見せた。
「どうだ、わかったろう?」
「だんなのお言いつけどおり」と大工は、やっとすべてがわかったという様子で、急に目を輝かしながらいった。「けっきょく、やっぱり新規のを切らなくちゃなりませんなあ」
「ああ、だからおれの言いつけどおりすればいいのだ」とレーヴィンは、小馬車に腰をおろしながら叫んだ。
「さあ、やれ! 犬をおさえてろよ、フィリップ!」
レーヴィンはいまや、家事上および農事上のすべてのわずらわしさを見すてて、口をきく気もしないほどの生の喜びや期待の情をあじわっていた。そればかりでなく彼は、活動の場所へ近づくにしたがってすべての猟人が経験するような、集中された興奮感をおぼえていた。もしいま何か、彼の心をしめているものがあったとすれば、それはただ、コールペンスコエ沼ではどんな獲物が見つかるだろうか、ラスカはクラークと比較してどんな働きをするだろうか、自分は今日はうまく撃《う》てるだろうか――こういう問題だけであった。どうかして新来の客の前で恥をかきたくないものだ。どうかしてオブロンスキイに打ち負かされないようにしたいものだ――こういう考えもまた頭にうかぶのだった。
オブロンスキイも、同じような気持をあじわっていて、同じように無口だった。ひとりワーセンカ・ウェスローフスキイだけは、のべつ愉快そうにしゃべっていた。いま彼のおしゃべりを聞いているとレーヴィンは、昨日自分が彼にたいしてどんなに正しくなかったかを思いだして、恥ずかしくなった。ワーセンカはじっさい単純な、善良な、きわめて快活な、愛すべき好青年だった。もしレーヴィンが独身時代に彼と会ったのだったら、彼はきっと彼と親密になったにちがいなかった。もっともレーヴィンには、人生にたいする彼の遊戯的態度と、一種優雅の気らくさともいうべきものが、多少不愉快であった。見うけるところ彼は、長いつめだの、例の帽子だの、その他それに相応したものを身につけていることにたいして、絶対的の、高尚な意義を認めているかのようであった。しかしそれは、彼の善良さと礼儀正しさとによって、許されうべきことであった。彼は、そのすぐれた教養と、英語、フランス語に堪能なこと、および自分と同じ世界の人であったという事実によって、レーヴィンの気にいったのである。
ワーセンカには、左側につけられたステップ(草原)産のドン馬が非常に気にいった。彼はのべつその馬をほめそやした。――「こういうステップ馬に乗ってステップを乗りまわしたらどんなにいいでしょう。ええ? そうじゃありませんか?」こう彼はいうのだった。彼は、ステップ産の馬を乗りまわすということのうちに、なんの役にもたたぬが、一種野性的な、詩的なものを想像しているのだった。しかし、彼の天真爛漫《てんしんらんまん》は、ことにその美貌や、愛きょうのある微笑や、動作の優雅などと結びついたときに、いっそう蠱惑《こわく》的であった。彼の性質がレーヴィンの気にいったためか、あるいはまたレーヴィンが、昨日の罪の償《つぐな》いに彼のなかによいところばかりを見いだそうとつとめたためか、レーヴィンには彼といっしょにいることが快かった。
三ウェルスターほど行ったところで、ウェスローフスキイは急に葉巻と紙入れのないのに気がついたが、それは途中で落としたのか、テーブルの上へ置き忘れたのか、わからなかった。紙入れには三百七十ルーブリはいっていたので、そのままにしておくわけにもいかなかった。
「ねえ、レーヴィン、ぼくこのドンの副馬《そえうま》に乗ってひと走り、家まで行って来ようと思うんですが。きっとすばらしいと思うんですがね?」と、彼は早くも馬車をおりようとしながらいった。
「いや、なんであなたが?」とレーヴィンは、ワーセンカの体重が六プード(一プードは約一六キロ)より軽いはずはないと考えながら、答えた。「ぼくが御者をやりますよ」
御者は副馬に乗ってひっ返した。レーヴィンは、自分で二頭の馬を御しはじめた。
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「ときに、われわれの道順はどうなんだね? よく話してくれたまえ」ステパン・アルカジエヴィッチはいった。
「計画はこうだ。ぼくたちはまずグヴォーズジェヴォまで行くのだ。グヴォーズジェヴォには、こちら側に田シギ沼があるし、グヴォーズジェヴォの向こうには、すてきなシギ沼がいくつもあるんだ。そしてそこには、田シギもいるんだよ。今はまだ暑いから、われわれは夕方までにそこへ着くようにしよう(二十ウェルスターだ)。そして夕猟をやろう。そして、そこでひと晩あかして、明日は大沼へ出むくんだ」
「だが、途中には何もないのかい?」
「ある。だが、まあ割愛《かつあい》するんだね、暑いからね。ちょっとしたところが二か所ばかりあるにはあるんだが、はたしているかどうかもわからないからね」
レーヴィン自身にも、そのちょっとしたところへたちよってみたい気はあったのだが、そこは家から近く、彼はいつでも行かれたし、それに、場所が狭すぎて、――三人ではちょっと撃ちようがなかった。で、彼は、良心をねむらせて、いるかどうかわからないといったのだった。小さい沼と並行したとき、レーヴィンはさっさと通り過ぎようとしたが、ステパン・アルカジエヴィッチの経験ある猟人の目は、すぐに、道から見える|あし《ヽヽ》の茂みを見つけた。
「どうだ、ひとつよってみようじゃないか?」と彼は、小沼をさしていった。
「レーヴィン、どうぞ! なかなかすてきじゃありませんか?」とワーセンカ・ウェスローフスキイも頼みだしたので、レーヴィンも同意しないわけにはいかなかった。
彼らがまだ馬車をとめないうちに、二匹の犬はさきを争いながら、いちはやく沼のほうへとんで行った。
「クラーク! ラスカ!……」犬どもはもどって来た。「三人で撃つには狭いよ、ぼくはここで待っていよう」とレーヴィンは、彼らが、犬のためにとび立って宙返《ちゅうがえ》りしながら沼の上で悲しげにないているタゲリ以外には、何も見つけはしないだろうと思いながら、いった。
「いやごいっしょしましょう、レーヴィン、ぜひごいっしょしましょう!」とウェスローフスキイは呼んだ。
「じっさい、狭いんですよ。ラスカ、おもどり! ラスカ! だって、犬は一匹でたくさんでしょう?」
レーヴィンは馬車のそばに残って、うらやましそうに猟人たちをながめていた。猟人たちは沼じゅうを歩きまわった。小鳥とタゲリと、その一羽をワーセンカが撃《う》ちとめたが、そのほかには沼には何もいなかった。
「それ、ぼくがこの沼を撃たれるのを惜しんだのでないことがおわかりでしょう」と、レーヴィンはいった。「ただ時間を浪費するだけのことですよ」
「いや、やっぱりおもしろかったですよ。あなた、見ておいででしたろう?」ワーセンカ・ウェスローフスキイは、銃とタゲリとを両手に持って、あぶなっかしいかっこうで小馬車にはいあがりながら、いった。「ぼくがうまくこいつを撃ちとめたのを? そうじゃありませんか? それはそうと、目あての場所はもうじきですか?」ふいに馬が走りだしたので、レーヴィンはだれかの銃身に頭をぶっつけた。と、轟然《ごうぜん》と弾丸が飛び出した。轟音は、じつはその前にとどろいたのだが、レーヴィンにはそう思われたのであった。それはワーセンカ・ウェスローフスキイが、引き金をおろすときに、一方の安全機をしめて、別の引き金をそのままにしておいたからであった。弾丸は地中にめりこんで、だれにもけがをさせなかった。ステパン・アルカジエヴィッチは頭を振って、ウェスローフスキイのほうへ非難するように笑いかけた。しかしレーヴィンは、彼を責めるような気力はもたなかった。第一に、すべての非難は、いま過ぎたばかりの危険と、レーヴィンの額にできたこぶのためのものと思われたであろうし、第二に、当のウェスローフスキイが、はじめのうちは、きわめて子供らしくしょげかえっていたのが、やがてみんなの驚きにつりこまれて、いかにも人のよさそうな様子で笑いだしたので、こちらも笑わないではいられなかったからである。
やがて第二の沼――かなり大きな、ずいぶん暇をとりそうな沼へ近づいたときも、レーヴィンはまた、おりないでおこうと言いだした。が、ウェスローフスキイがまた彼を拝み倒した。で、こんどもレーヴィンは、沼が狭かったので、客あしらいのよい主人として、馬車に残った。
そこへ着くやいなや、クラークはまっしぐらに、沼のなかの土の高まりのほうへかけだして行った。ワーセンカ・ウェスローフスキイは、第一ばんに犬のあとからかけだした。ステパン・アルカジエヴィッチがまだ行き着かないうちに、一羽の田シギが早くも飛びたった。ウェスローフスキイが射そんじたので、田シギは刈り残された草場のなかへ飛びうつった。この田シギはしかし、ウェスローフスキイの手中のものであった。クラークがふたたびそれを見つけて立ちどまったので、ウェスローフスキイはそれを撃ちとめて、馬車のほうへもどってきた。
「こんどはあなたいらっしゃい、ぼくが馬といっしょにいましょう」と彼はいった。
レーヴィンは、猟人らしい羨望《せんぼう》にとらわれはじめていた。彼は手綱をウェスローフスキイに渡して、沼のなかへはいって行った。
もうだいぶ前から、きゅんきゅんないて、不当なとり扱いを訴えていたラスカは、さっそく、クラークのまだ行かなかった、レーヴィンのよく知っている有望な土の高まりのほうへ、まっしぐらに飛んで行った。
「なぜきみはあれを止めないのだ?」とステパン・アルカジエヴィッチは叫んだ。
「あいつは驚かすようなことはしないよ」とレーヴィンは、自分の犬に喜びを感じて、そのあとから急ぎながら答えた。
獲物さがしにかかったラスカは、なじみの土の高まりへ近づくにつれて、ますます真剣さをくわえてきた。沼の小鳥は、ほんのちょっとしか彼女の注意をひきつけなかった。彼女は土の高まりの前で一つ円をかき、二度めの円をかきはじめたところで、ふいに身ぶるいして、凍りついたようになってしまった。
「来たまえ、来たまえ、スティーワ!」とレーヴィンは、自分の心臓がいっそうはげしく鼓動しはじめたことと、緊張した聴覚を閉ざしていたかんぬきようのものが取りさられでもしたように、とつぜん、すべての物音が、距離感を失って無秩序に、だが、明瞭に耳を打ちはじめたこととを感じながら、叫んだ。彼はステパン・アルカジエヴィッチの足音を遠い馬の足音のように聞きちがえ、自分の踏みかけた土の高まりの端が草の根のままにくずれるしゃがれた音を、田シギの飛び立つ音のように聞きちがえ、またほど近い後方でおこる水のぼちゃぼちゃはねる音を聞いても、それがなんであるかを判断することができなかった。
彼はひろい足をしながら、犬のほうへ近づいて行った。
「よし!」
田シギではなくてシギが、犬の足もとから飛び立った。レーヴィンは銃をとりなおしたが、ねらいをつけた瞬間に、例の水のはねる音がいよいよ高く近づいてきて、それに、ウェスローフスキイの何やら異様な大声で叫んでいる声がくわわった。レーヴィンは、自分の銃が少しシギの後方へそれたと思ったが、とにかく発射した。
確かに仕そんじたと思いながら、レーヴィンはあたりを見まわして、小馬車をひいた馬が、道でない沼のなかへ踏みこんでいるのを見た。
ウェスローフスキイは、射撃を見たいと思って沼地へ乗りこみ、馬を踏みこませてしまったのだった。
「ちょっ、なんという男だ!」とレーヴィンは、泥のなかへはまりこんだ馬車のほうへもどりながら、自分にいった。
「なんだってこんなところへはいって来たんです?」と彼はそっけない調子で彼にいって、御者を呼び、馬を引きだしにかかった。
レーヴィンには、射撃をさまたげられたことも、馬を泥のなかへ踏みこまされたこともいまいましかったが、なかでも一ばんいまいましかったのは、馬を引きだしたり車からはなしたりするのに、ステパン・アルカジエヴィッチも、ウェスローフスキイも、馬具の扱いかたがぜんぜんわからないというので、彼と御者とを助けようともしなかったことであった。あすこはまったく乾《かわ》いていたので、などというワーセンカの言いわけにはひと言も答えないで、レーヴィンは馬を放すために、御者を相手にむっつりとして働いていた。だが、やがて仕事に熱中してきたうえ、ウェスローフスキイが熱心のあまり泥よけをこわしてしまったほど、それをつかんで馬車を引きだそうとしたのを見ると、レーヴィンは、自分が昨日の感情の影響から、ウェスローフスキイにたいしてあまりに冷酷すぎたことを心に責めた。で、彼はことさらにあいそよくして、その冷淡を償おうとつとめた。万事がもとどおりに片づいて、馬車が路上へ引きだされたときに、レーヴィンは弁当を取りだすように命じた。
「Bon appetit――bonne conscience! Ce poulet va tomber jusqu' au fond de mes bottes. (よき食欲はよき良心なりですよ! このひなをいただくとずっと長ぐつの底までおりて行くような気がします)」と、ふたたび快活になったワーセンカは、ふたつめのひな鶏をたべながら、フランスの格言をひいていった。「さあ、これでぼくたちの不幸はおわりました。これからは万事好つごうにいきますよ。が、ただぼくは、自分の罪ほろぼしに御者台に乗る義務がありますね。そうじゃありませんか? ええ? いやいや、ぼくはアフトメドン(御者の意味。アフトメドンはアキレスの御者であった)です。まあひとつ見ていてください、ぼくがどんなにあなたがたを運んで行くか!」と彼は、レーヴィンが御者に手綱を渡すようにと頼むようにいっても、それをはなさないで答えた。「いや、ぼくは自分の罪を償わなければならないんです。それにぼくは、御者台にいるほうがけっこうなんです」そして彼は馬を進めた。
レーヴィンは、彼が馬どもを、とくに彼には御しきれそうにない左手の|くり《ヽヽ》毛馬を弱らせはしまいかと、いくらか心配だったが、しかし、いつともなく相手の快活さにまきこまれて、御者台にかまえたウェスローフスキイがみちみちうたった小うたや、おしゃべりを聞いたり、イギリス式の four in hand(四頭立て)を御すにはどうしなければならぬかという仕かた話に気をとられたりしていた。こうして彼ら一同は、食後の最も快適な気分で、グヴォーズジェヴォ沼へ到着した。
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ワーセンカがあまりに早く馬を追ったので、彼らは早く沼へ着きすぎて、まだ暑かった。
旅行の主要目的であるその沼へ近づくにつれて、レーヴィンはいつのまにか、どうしたらワーセンカからのがれて、彼のさまたげなしに自由な行動がとれるだろうかと考えていた。ステパン・アルカジエヴィッチも、明らかに同じことを望んでいる様子で、レーヴィンは彼の顔に、真の猟人が猟をはじめる前によく見せる心配らしい表情と、彼独特の人のよいずるさとがあるのをみとめた。
「どういうふうに行こうかね? すばらしい沼のようだね。おや、大タカもいるぜ」とステパン・アルカジエヴィッチは、スゲの茂みの上空に円をえがいていた二羽の大きな鳥をさして、いった。
「大タカのいるところには、かならず野禽もいるからね」
「さあ、そこでだね、諸君」とレーヴィンは、いくらか憂うつな表情で、長ぐつをひきあげたり、銃の撃発《げきはつ》装置を調べたりしながらいった。「あすこにスゲが見えるだろう?」と彼は、沼の右側にひらけている大きな、半分刈られているじめじめした草場のなかの、濃緑色にくろずんで見える小島をさし示した。「沼はちょうどあすこからはじまってるんだ。われわれのまっ正面のね、ほらあの、緑の濃くなっているところからさ。沼はあすこから右手のほうへ、いま馬が歩いているほうへ行ってるんだ。あすこには土の盛りあがりがいくつもあって、田シギがよくいる。それから、あのスゲの周囲からあのハンノキの辺までと、あの水車のところまでがいいのだ。それからあすこに、ほら、入江になっているところがあるだろう。あの辺が一ばんいいところだ。あすこでぼくは一度、シギを十七羽撃ったことがある。そこでと、ぼくらはここで、犬を連れてふた手にわかれよう、そしてあの水車のところで、おちあうことにしよう」
「じゃ、だれが右へ行って、だれが左へ行こう?」とステパン・アルカジエヴィッチはきいた。「右のほうが広いから、きみたちふたりで行きたまえ、ぼくは左へ行く」と、むとんじゃくらしく彼はいった。
「けっこう! ひとつふたりで大将の鼻をあかしてやりましょう。さあ、行きましょう、行きましょう!」と、ワーセンカは調子をあわせた。
レーヴィンは同意しないわけにはいかなかった。そこで、彼らはふた手にわかれた。
彼らが沼へはいるとすぐ、二匹の犬はいっしょに獲物を捜しはじめて、さび水のほうへ進んで行った。レーヴィンは、ラスカのこうした注意ぶかい、定まらない捜しぷりを知っていた。彼はまた場所をよく心得ていたので、シギの群を待ちうけていた。
「ウェスローフスキイ、ならんで、ならんで行くようにしてください!」と、彼は消えいりそうな声で、うしろから水をぼちゃぼちゃはねあげてくる友に向かっていった。コールペンスコエ沼でだしぬけの発射をうけてからというもの、彼はこの友の銃の方向が、とかく気になってならないのだった。
「いや、ぼくはあなたのじゃまはしますまいよ。どうぞぼくのことはおかまいなく」
しかしレーヴィンは、「よく気をおつけになってちょうだいね、お互いに撃ちあったりするようなことのないように」と出しなにいったキティーの言葉を思いだして、気にしないではいられなかった。――二匹の犬は、自分の進路を守って、さきを争いながら、しだいに目的地へと近づいて行った。レーヴィンは、シギを期待する心があまり強かったので、沼の|さび《ヽヽ》泥からひきぬくときの自分の靴のかかとの音までが、シギの鳴き声のように思われた。そして、そのつど彼は銃をあげて、その台じりを堅く握りしめるのだった。
バッ! バッ! と、彼の耳もとで銃声が鳴りひびいた。それはワーセンカが、それまで沼の上を舞っていて、そのとき着弾距離以外の遠くを猟人たちのほうへ向かって飛んで来たカモの群に向かって発射したのだった。レーヴィンがあたりを見まわすまもなく、一羽のシギが舌うちでもするようなつばさの音をたてたかと思うと、一羽また一羽とつづいて、八羽ばかりのシギが、あいついで飛び立った。
ステパン・アルカジエヴィッチはそのなかの一羽を、それがジグザグをえがこうとした瞬間に撃ちとめた。シギはまるくなって、沼沢地《しょうたくち》の上へ落ちた。オブロンスキイは、スゲのほうへまだ低く飛んでいた他の一羽に、ゆうゆうとねらいを定めた。と、発射の轟音とともに、このシギもばさりと落ちた。そして傷つかないほうの下部の白いつばさをひらめかしながら、刈られたスゲのなかからのがれ出ようとしているのが見えた。
レーヴィンはそれほど運がよくなかった――彼は第一のシギを、あまり近い場所から撃って失敗した。で、それがもう高く舞いあがりかけてから、もう一度ねらいをつけたが、と、ちょうどそのときまた、別の鳥が足もとから飛びたって彼の注意をひいたので、またしても失敗してしまった。
彼らが弾丸をこめているあいだに、また一羽飛びたった。と、もう二度めの弾丸をこめおわっていたウェスローフスキイが、またしても二発の霰弾《さんだん》を、水のなかへ撃ちこんでしまった。ステパン・アルカジエヴィッチは、自分の撃ったシギを拾い集めて、輝かしい目をしてレーヴィンを見た。
「さあ、ここで別々になろう」と、ステパン・アルカジエヴィッチはいった。そして左足をびっこひくようにしながら、いつでも撃てるように銃をかまえ、犬に向かって口笛を吹きながら、一方のほうへ歩きだした。レーヴィンとウェスローフスキイとは、別のほうへ向かった。
レーヴインにはいつも、最初の一発を撃ちそんじると、かっとなって気があせり、その日一日うまくいかないという癖があった。今日も、その例にもれなかった。シギは非常に多かった。犬の追うさきからも、猟人たちの足もとからも、たえず飛び立った。だからレーヴィンは、十分立ちなおることができるはずだったのに、撃てば撃つほど、距離の適不適などにかまわずぽかぽか撃って、一羽も仕止めないでも平然として愉快そうにしているウェスローフスキイの前に恥を感じるばかりだった。レーヴィンは気をいらだたせ、自制力を失って、ますますとりのぼせたようになり、しまいには、発射しながら、その弾丸《たま》のあたることをほとんど期待しないまでになってしまった。ラスカにも、どうやらそれがわかったようであった。ラスカは、だんだん捜すのをなまけはじめて、いぶかるような、または責めるような目で猟人たちをふり返ってばかりいた。発射は発射につづいた。火薬の煙は猟人たちのまわりに立ちこめたが、獲物ぶくろのひろびろとした大きな網のなかに、僅かに軽い小さなシギが三羽はいっているきりであった。しかもそのうちの一羽は、ウェスローフスキイに撃たれたもの、一羽はいっしょに撃ったものであった。そのあいだにも、沼の別の側では、そうたびたびではないが、レーヴィンの耳には確かに命中とひびいたステパン・アルカジエヴィッチの銃声が聞こえて、ほとんどそのたびに、「クラーク、クラーク、取ってこい」という声が聞こえた。
これがいっそうレーヴィンを興奮させた。シギどもはたえず、スゲの上空を飛びまわった。地上近く舌うちでもするようなつばさの音と、空中での鳴き声とは、ひっきりなしに八方から聞こえた。初めに飛び上ったシギの一群は、空中を一巡して、ふたたび猟人たちの前へおりてきた。前には二羽だった大タカが、今では数十羽、細い声でなきながら、沼の上で舞っていた。
沼の大半を歩きまわったあとで、レーヴィンとウェスローフスキイとは、百姓たちの草地が、スゲのところまでとどいている、長いしまのようになっているところまで来た。その草地は、あるところは踏みつけられた草のすじで、またあるところは草の刈られた列で、しるしをつけられていた。そしてそうしたしまの半分は、もう刈りとられていた。
まだ刈られていない場所では、刈られた場所よりは鳥の見つかる望みは少なかったけれども、レーヴィンは、ステパン・アルカジエヴィッチとおちあう約束になっていたので、連れといっしょに、刈られたところ刈られないところの差別なく、さきへさきへと進んで行った。「おおい、猟の衆」と、馬を解きはなした荷馬車のそばに腰をおろしていた百姓たちのひとりが、彼らに向かって叫んだ。「ここまで来て、何かひとつやんなされや! 一杯やんなされや!」
レーヴィンはふり返った。
「おいでなされ。かまわねえだよ!」と、まっ赤な顔をした、ひげづらの陽気な百姓が、白い歯をむき出して、日に輝く青みがかった角びんをもちあげながら叫んだ。
「Qu'est ce qu'ils disent?(あの百姓たちは何をいってるんです?)」と、ウェスローフスキイはたずねた。
「ウォーツカを飲みに来いといってるんです。たぶん草場を分けてるんでしょう。ぼくもやりたいんだが」とレーヴィンは、ウェスローフスキイがウォーツカに誘惑されて、彼らのほうへ行けばいいと考えながら、まんざらずるい気持なしでもなしに、いった。
「なんだって、ぼくらにごちそうしようとするんでしょう?」
「そりゃ、いいきげんになってるからですよ。ほんとに、ひとつ行ってやってごらんなさい。おもしろいですよ」
「Allons, c'est curieux.(行きましょう、そいつはおもしろい)」
「いらっしゃい、いらっしゃい、水車へ行く道なんかすぐわかりますから!」とレーヴィンは叫んだ。そしてふり返って、ウェスローフスキイが身をかがめ、疲れた足をひきずりひきずり、さしのべた片手に銃をささえて、沼地から百姓たちのほうへと出て行くのを、満足の思いをもって見おくった。
「おまえさまも来なされや!」とひとりの百姓がレーヴィンに向かって叫んだ。「えんりょはいらねえだ! ピローグでもやんなされ!」
レーヴィンは、ウォーツカを一杯やって、パンをひときれたべたい欲求を強く感じた。彼は、疲れて、泥土から足をぬくのがやっとの思いなのを感じていたので、ちょっとのまためらっていた。しかし、犬が立ちどまった。で、すぐにいっさいの疲労を忘れて、泥のなかを軽く犬のほうへ歩いて行った。彼の足もとから一羽のシギが飛び立った。彼は撃って、撃ち止めた――が、犬はなお立ちつづけている。「取ってこい!」犬の足もとからまた一羽飛び立った。レーヴィンは発射した。が、それはよくよく不運な日であった、彼はそれをも撃ちそんじ、いま仕止めたのを捜しに行ったが、それも見つからなかった。彼はスゲのなかをくまなく捜しまわったが、ラスカは彼の撃ち止めたのを信じないで、捜しにやっても、捜すさまをよそおうだけで、捜さなかった。
レーヴィンは、自分の不成功をワーセンカのせいにしていたが、その彼がいなくても、やはりうまくいかなかった。シギはその辺にもたくさんいたが、レーヴィンは撃ちそんじてばかりいた。
斜めの陽光はまだ暑かった。ぐっしょり汗にぬれた服はからだにへばりつき、水のいっぱいはいった左の長ぐつは重くなってぐしょぐしょ音をたて、火薬の|かす《ヽヽ》によごれた顔には、汗が玉をなして流れ、口のなかはにがく、鼻には火薬とさび水のにおいがし、耳にはたえず舌うちするようなシギの羽音が聞こえた。銃身にはさわれなかった、それほど熱くなっていた。心臓は早く短く鼓動し、両手は興奮のためにふるえ、疲れた足は、土の盛りあがりや泥濘《ぬかるみ》につまずいたり、よろめいたりしたが、彼はなお歩きつづけ、撃ちつづけた。ついに、見ぐるしい失策をしたあとで、彼は銃と帽子とを大地へ投げだしてしまった。
「いや、気をしずめなくちゃいけない!」と彼は自分にいった。彼は、銃と帽子とを拾いあげると、ラスカを足もとへ呼びよせて、沼地からあがった。乾いたところへ出ると、彼は土の盛りあがりの上へ腰をおろし、長ぐつを脱いで水を出した。それから沼へもどって、さびた味のする水を思うさま飲み、熱くなった銃身を水で冷やして、顔と両手とを洗った。こうしてさっぱりした気持になると、彼は、こんどこそ熱してはならぬという堅い決心をいだきながら、ふたたびシギのうつったほうへもどって行った。
彼は心をおちつけたいと思ったが、やはり同じことであった。彼の指は、彼が鳥にねらいをつけるよりさきに、引き金をひいてしまうのだった。ますますわるくなる一方であった。
彼が沼から出て、ステパン・アルカジエヴィッチとおちあうはずになっていたハンノキのほうへ行ったとき、彼の獲物ぶくろには、僅かに五羽の獲物しかなかった。
ステパン・アルカジエヴィッチを見るまえに、彼は彼の犬を見つけた。くさい沼の泥で全身まっ黒になったクラークは、ハンノキのまがりくねった根もとから飛び出てくると、勝利者のような顔つきをして、ラスカと互いに嗅《か》ぎあった。クラークにつづいて、ハンノキの木かげに、ステパン・アルカジエヴィッチのかっこうのいい姿も現われた。彼はまっ赤な汗まみれの顔をして、えりのボタンをはずしたまま、依然として少しびっこをひくような足どりで、レーヴィンのほうへ歩いて来た。
「どうだったかね? さかんにぽんぽん撃ってたようだね!」と彼は、快活な笑顔を見せながら、いった。
「きみは?」とレーヴィンはたずねた。しかし、きくまでもなかった。彼はもう、ふくれかえった獲物ぶくろを見ていたのだから。
「なあに、大したこともない」
彼の獲物は十四羽であった。
「じつにすばらしい沼だね! きみはきっとウェスローフスキイにじゃまされたんだろう。それに、ふたりに一匹の犬ではやりにくいよ」とステパン・アルカジエヴィッチは、自分の勝利をやわらげながらいった。
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十一
レーヴィンとステパン・アルカジエヴィッチとが、いつもレーヴィンが泊まることにしている百姓家へ着いたときには、ウェスローフスキイはもうちゃんとそこへ来ていた。彼は、その小舎《こや》のまん中にかまえこみ、両手でベンチのもたれにつかまって、この家の主婦の弟の兵隊あがりの男に、泥まみれの長ぐつをひっぱってもらいながら、例の伝染的な、快活な笑い声をたてていた。
「ぼくも今きたばかりですよ。Ils ont ete charnants.(愉快な連中でしたよ)まあ、考えてみてください、あの連中はぼくに酒をふるまったり、ごちそうしたりしてくれたんですよ。しかもそのパンときたら、じつにすてきなパンでしたっけ! Delicieux!(じっさいすてきです!)それからウォーツカ――ぼくはあんなうまいのを飲んだことがありませんね! それでいて、なんといっても金を取ろうとしないんですからね。そしてしょっちゅう――『わるく思わねえで』なんてばかりいってるんだから」
「なんで金なんぞ取るもんですかね? やつらあ、だんなにごちそうしたんですもの。だんなあ、やつらが売物のウォーツカでも持ってるとお思いになったですかね?」と兵隊はやっと、まっ黒になったくつ下といっしょにぬれた長ぐつをひっこ抜いていった。
小舎《こや》のなかは、猟人たちの長ぐつと、からだをなめまわす、よごれた犬どものためにきたなくされ、沼と火薬の臭気にみたされていたうえ、なおナイフもフォークもなかったが、猟人たちは、猟でなければあじわうことのできない味覚をもって、お茶を飲んだり夕食をしたためたりした。からだを洗ってさっぱりすると、彼らはきれいに掃除されて、御者たちが主人たちのために寝床の用意をしておいた乾し草納屋へとはいって行った。
もう暗くなってきたけれども、猟人たちはだれも眠ろうとは思わなかった。
射撃のことや、犬のことや、以前の猟についての思い出や物語のあいだをさまよったすえに、会話は、一同に興味のある題目の上へ落ちていった。こうした夜の泊まりや、乾し草の匂いのよさや、こわれた農用車のりっぱなことや(その車は前輪がはずしてあったので、彼にはこわれたものと思われたのだった)、彼にウォーツカをふるまった百姓たちの人のいいことや、めいめいの主人の足もとにねている犬のことなどについて、ワーセンカがすでに何度となくくりかえした賛美の言葉をきっかけに、オブロンスキイは、自分が去年の夏行ったマリトゥスのもとでの猟のすばらしさについて、物語った。マリトゥスは有名な鉄道|成金《なりきん》であった。ステパン・アルカジエヴィッチは、このマリトゥスがトヴェルスカーヤ県でどんなにいい沼を手に入れたかということ、それがどんなふうに管理されているかということ、猟人たちを乗せて運んだ馬車がどんなだったかということ、食事の用意をととのえて沼のほとりにはられたテントがどんなにりっぱだったかということなどについて、物語った。
「だが、ぼくにはきみがわからないね」とレーヴィンは、乾し草の上に立ちあがりながらいった。「どうしてそういう人間が、きみには不快でないんだろう? ラフィート酒つきの食卓は大いにけっこうにちがいない。それはぼくにもわかる。が、とにかく、そういうぜいたくが、よくきみには不愉快でないね? すべてああした連中ときたら、昔の酒類専売人のようなもので、世人の侮蔑《ぶべつ》にあたいするような手段で金もうけをやる。彼らは世人の侮蔑なんか|へ《ヽ》とも思わない。そしてそのあとで、その不正にもうけた金で、それまでの侮蔑をあがなおうとするやつだ」
「いや、まったくおっしゃるとおりです!」と、ワーセンカ・ウェスローフスキイは調子をあわせた。「まったくですよ! そりゃもちろん、オブロンスキイは bonhomie(淡泊な心)からそんなことをされたんでしょうが、世間の人たちは、オブロンスキイでさえ、あんなやつのところへ出入りするなんて言いますからねえ……」
「いや、けっして」こう言いながらオブロンスキイのにやりと笑ったのを、レーヴィンは感じた。「ぼくはただ、あの男を、裕福な商人や貴族のだれかれ以上に不正な人間だと思っていないだけだ。かれだってこれだって、みんな一様に、知恵と労力とで金もうけをしたんだからね」
「なるほど、しかしどんな労力で? 利権をえたり、転売したりすることが、はたして労力といえるだろうか?」
「もちろん、労力さ、という意味は、もしあの男、もしくはああいう種類の男がいなかったら、鉄道なんか敷設されなかったにちがいないからね」
「しかし、彼らの労力は、百姓とか学者とかのそれから見ると、およそ違ったものだからねえ」
「そういえばそうだ。しかし、その活動がひとつの結果――鉄道というものをあたえたという意味では、確かに労力だよ、だが、きみはなんだろう、鉄道なんか無用だと考えてるんだろう」
「いや、それは別問題だ。ぼくだって鉄道の有益なことくらいは認めている。だが、しかし、くわえられた労力に相当しないような利得は、すべて不正というべきだからね」
「なるほど、だが、だれがその相当というところをきめるんだね?」
「不正な手段、狡猾《こうかつ》な方法による利得は」とレーヴィンは、正と不正の限界をはっきりきめる力の自分にないことを感じながら、いった。「つまり銀行の利得というようなものは」と彼はつづけた。「それは罪悪だよ。労力なしに巨万の富を獲得するということは、専売人の場合と同じで、ただ形が変わっているにすぎないんだからね。La roi est, vive le roi!(王は死んだが、別の王が健在だ)つまり、やっと専売制度が廃止されたと思うと、さっそく鉄道や銀行が現われたのだ。――同様労力なしの金もうけがね」
「なるほど、そりゃまったく真実でもあり、またうがった見かたでもあるだろう……こら寝ろ寝ろ、クラーク!」と、明らかに自分の主張の正しいことを信じているらしいステパン・アルカジエヴィッチは、おちつきはらって、あわてず騒がず、からだをかいたり乾し草をかきまわしたりしている犬に向かって叫んだ。「しかしきみは、正当な労力と不正な労力との限界を決定しなかったかね。で、きくが、ぼくの書記長は、仕事にかけては、ぼくよりずっと明るいのに、ぼくのほうが俸給をよけいもらっている、これは不正かね?」
「ぼくにはわからん」
「うん、じゃ、ひとつぼくがいおう――いいかね、いまかりに、きみはきみの農事における労力にたいして、五千ルーブリよけいな利益を受けるとする。ところが、この家の主人の百姓は、いかに骨を折ってみても、五十ルーブリ以上は得られないのだ。とすると、これも、ぼくが書記長以上の俸給を受け、マリトゥスが線路工夫長以上の収入を得るのと同様、不正ということになるだろう。ところが、かえってぼくはそこに、これらの人々にたいする社会の、なんの根拠もない、一種敵意ある態度を認めるのだ。そしてぼくには、そこに、羨望の念さえあるように思われるのだ……」
「いや、それは公平じゃありませんね」と、ウェスローフスキイはいった。「羨望などありようはずがありませんよ、ああいう仕事のなかには、なんとなく不純なところがありますからね」
「いいや、まあ待ってくれ」と、レーヴィンはつづけた。「きみは、ぼくが五千ルーブリ取って、百姓が五十ルーブリしか取らないのは不公平だという――まったくそのとおりだ。それは不公平だ、ぼくもそれを感じている。だが……」
「そりゃまったくそうですな。われわれは食ったり、酒を飲んだり、猟をしたり、なんにもしないで始終ぶらぶらしているのに、あの百姓は、年がら年じゅう働いている、これはいったいどうしたことだろう?」とワーセンカ・ウェスローフスキイは、明らかに生まれて初めてこんなことを考えたらしく、したがって、きわめてまじめな調子でいった。
「なるほど、きみは感じている。だが、きみはきみの領地を、あの百姓にやろうとはしないじゃないか」とステパン・アルカジエヴィッチは、わざとレーヴィンを傷つけるような口ぶりでいった。
最近、このふたりの義兄弟のあいだには、秘められた敵意といったようなものができあがっていた。彼らが姉と妹との夫になってからというもの、彼らのあいだには、どちらがよりよく自分の生活をととのえるかということについて、競争心が生じたもののようであった。で、いま会話がお互いの個人的陰影をおびるようになってくると、さっそくその敵意が現われてきたのだった。
「ぼくは、だれひとりぼくに向かって要求する者がないからやらないのさ。またよし、ぼくがやろうと思っても、ぼくにはやることはできないよ」とレーヴィンは答えた。「やるような人がないからね」
「この家の百姓にやりたまえ。あの男なら遠慮はしまいよ」
「ああ、だがぼくは、どうしてやったらいいんだい? あの男といっしょに行って、不動産登記証でもつくってやるのかい?」
「ぼくは知らん。が、もしきみがきみにその権利のないことを信じるのなら……」
「ぼくはけっして信じちゃいないさ。むしろやる権利のないことを感じているくらいだ。土地にたいしても、家族にたいしても、ぼくは自分に義務のあることを感じているのさ」
「いや、まあ待ちたまえ。とにかくだね、きみがもし不平等を正しくないと考えているのだったら、なぜそれを実行しないんだね?」
「ぼくは、消極的にではあるが、実行はしているよ、自分と彼らとのあいだに存在する地位のへだたりを、これ以上増さないようにつとめているという意味でね」
「いや、失敬だが、それは詭弁《きべん》というものだよ」
「そう、それはなにやら詭弁的な説明ですな」と、ウェスローフスキイが相づちをうった。「ああ、大将!」と彼は、ぎいと戸口のきしむ音をさせて納屋へはいって来た百姓にいった。「きみもまだ寝ないでいたのかね?」
「いいや、眠るどころでございますかい! わしゃまた、だんながたこそやすんでなさることと思っとりましたのに、来てみりゃまだ話していなさるだね。わしゃここへ鉤《かぎ》をとりに来ましただよ。その犬はかみつきゃしませんかね?」と彼は、注意ぶかくはだしの足を踏みながら言いたした。
「で、おまえはどこへ寝るんだね」
「わしらあ夜飼い(夜、馬を放牧すること)に行くんでさあ」
「ああ、なんといういい晩だ!」と、今はあけはなしになっている戸口の大きな額縁《がくぶち》のなかに、空やけの薄明かりの下に見えている小舎《こや》の一角や、馬をとかれた馬車の一部などを見ながら、ウェスローフスキイはいった。「ほら、おききなさい、女たちの声がうたっていますよ。なかなかうまいもんだ。おい、ありゃだれがうたってるんだね? 大将!」
「ありゃ、邸づとめの娘っ子どもが、すぐそこでうたってるんでさ」
「ひとつ散歩に行こうじゃありませんか! どうせ、眠れやしませんよ。オブロンスキイ、行きましょうよ!」
「寝ていて散歩ができるといいんだがなあ」と、伸びをしながらオブロンスキイは答えた。「まあ寝ているほうがよさそうだ」
「じゃ、ぼくひとりで行こう」と、ウェスローフスキイは元気よく起きあがって、靴をはきながらいった。「じゃあ失敬、諸君。もしおもしろかったら、迎いに来ますよ。おかげでおもしろい猟をさせていただきました、ぼくはあなたがたを忘れませんよ」
「どうだいきみ、まったくいい男だろう?」とオブロンスキイは、ウェスローフスキイが出て行って、百姓がそのあとの戸口をしめたときにいった。
「ああ、いい男だね」とレーヴィンは、たった今まで話題になっていたことについて、考えつづけながら答えた。彼には、自分はずいぶん明瞭に自分の思想感情を表明しえたつもりだのに、彼らふたりは、ばかでもなければ不まじめでもないのに、声をそろえて、自分が詭弁を弄《ろう》してみずから慰めているのだといったように思われた。そして、このことが彼の気持をさわがした。
「それはそうとねえ君! こんにちのわれわれとしては、ふたつのうちひとつ――つまり現在の社会制度を正しいものと認めて、この立場から自分の権利を擁護するか、あるいはぼくのやっているように、自分が不正な特権を利用していることを認めながら、満足してそれを利用するか――このふたつのうちひとつをとるよりしかたがないさ」
「いや、それはいけない、もしそれが不正なものであるなら、きみはその利益を満足して利用することはできないはずだ。少なくともぼくにはできない。ぼくには何よりまず、自分に罪のないことを感じておく必要があるんだ」
「それはそうと、ほんとうに、ひとつ出てみようじゃないか?」とステパン・アルカジエヴィッチは、明らかに思想の緊張から疲れたらしい調子でいった。「とても寝られやしないよ。ほんとにひとつ出かけてみよう!」
レーヴィンは答えなかった。消極的な意味でではあるが正しく行動しているつもりだと、話のなかで自分のいった言葉が、彼の心をとらえていたのだった。『するとほんとうに、消極的以外には、正しくしていることはできないのだろうか?』こう彼は自分にたずねた。
「それにしても、この新しい乾し草のにおうことはどうだ!」とステパン・アルカジエヴィッチは、身を起こしながらいった。「とても寝つかれやしないよ、ワーセンカ先生、あすこで何かはじめたにちがいない。ほら、笑い声が、あの男の声が聞こえるじゃないか? 行かないかね! 行こうよ!」
「いや、ぼくは行かない」とレーヴィンは答えた。
「すると、これもきみの主義というわけかね?」とステパン・アルカジエヴィッチは、くらがりで自分の帽子をさぐりながら、笑い声でいった。
「まさか、主義でもないさ。しかし、なんのために行くんだね?」
「そうら、きみはわれとわが身で自分を不幸にしているんだ」と、ステパン・アルカジエヴィッチは帽子をさがしあてて、立ちあがりながらいった。
「なぜさ?」
「すると、きみは何かね、きみの細君にたいする態度を、ぼくが知らないとでも思ってるのかね? ぼくは聞いて知ってるよ、君が二日間の猟に行くか行かないかということが、君たちのあいだでは非常な大問題だったっていうことをさ。そうしたことはすべて、牧歌としてはこのうえなしだが、生活全体としてはいささか困りものだよ。男子はどこまでも、自主独立でなくちゃならないからね――男子には男子の興味があるのだ。男は男らしくしなければならない」と、戸口をあけながらオブロンスキイはいった。
「というと、なにかね、これから行って、邸づとめの娘どものしりを追いまわさなくちゃならんというわけかね?」と、レーヴィンはたずねた。
「じゃ、なぜ行ってはいけないのだね、それがおもしろいのに。Ca ne tire Pas a consequence.(なにもべつに結果の心配なんかないじゃないか)ぼくの妻がそのためになんの害をうけるじゃなしさ、ぼくは愉快な思いができようというんだからね。大切なことは、家庭の神聖をたもつことさ。家庭では何事もないように。が、自分の手はいつも自由であるように」
「そうかもしれない」とレーヴィンはそっけない調子でいって、くるりとそっぽを向いてしまった。「明日は早く出かけなくちゃならん。ぼくはだれも起こさないで夜明けに出かけるよ」
「Messieurs, venez vite!(みなさん、早くいらっしゃい)」と、ひっ返して来たウェスローフスキイの声が聞こえた。「Charmante!(すばらしい女です)ぼくが発見したんですがね。すばらしい女、正真正銘のグレイトヘンですよ。ぼくはその女ともう友だちになったのです。じっさい、すてきなしろ物ですよ!」彼はまるで、彼女がとくに彼のために美しい女に創造されでもしたかのような、また自分のためにこうした美女を用意してくれた人にたいして満足の思いにたえぬかのような、気おいたった調子でいった。
レーヴィンは寝たふりをしていたが、オブロンスキイは上ぐつをひっかけ、葉巻に火をつけながら、納屋から出て行った。と、じき彼らの声はやんでしまった。
レーヴィンは長いこと寝つけなかった。彼は自分の馬どもが乾し草をかむ音を、やがて、この家の主人が総領《そうりょう》むすこといっしょに支度をして夜飼いに出てゆくけはいを、耳にした。それからまた例の兵隊が、甥《おい》にあたるここの主人の下のむすこといっしょに、納屋の向こう側で寝る支度をしている物音を聞いた。彼はまた、その男の子が細い声で叔父に向かって、子供には大きく、恐ろしいものに見えた犬どもについての印象を語っているのを耳にした。それからまた男の子が、あの犬どもは何を捕えるのだろうときいているのや、兵隊がしゃがれた眠そうな声で、猟人たちは明日沼へ行って鉄砲を撃つのだなどと話しているのを聞き、それからまた兵隊が、子供の質問からのがれようとして、こういっているのを聞いた。――「もう寝るだよ、ワーシカ、寝るだよ、でねえとおっかねえぞ!」そして自身まずいびきをかきはじめて、やがてすっかり静まりかえった。と、あとはただ馬のいななきと、シギの鳴き声とが聞こえるだけであった。『どうしても消極的以外にしかたがないのだろうか?』と彼はまた自分の心にくりかえした。『だが、それがどうだというのだ? おれがわるいんじゃないや』そして彼は、明日のことを考えはじめた。
『明日はひとつ早く出かけてやろう。そしていらいらしないように気をつけよう。シギは無尽蔵だ。田シギもいる。そして帰ってくると、キティーから手紙が来ている。そうだ、やはりスティーワのいうことがほんとうかもしれん――おれは彼女にたいして男らしくない、おれはいくじなしになってしまった……しかし、これもどうもしかたがない! ほい、また消極的だ!』
彼は、ゆめうつつのうちに、ウェスローフスキイとステパン・アルカジエヴィッチとの愉快げな話し声と笑い声を聞きつけた。彼はちょっとのま、目を開いた――月がのぼっていて、彼らはその光にくっきりと照らされて、あけはなった戸口に、話しながら立っていた。ステパン・アルカジエヴィッチが百姓娘のういういしさを、皮をむいたばかりの新鮮な|くるみ《ヽヽヽ》にたとえて、何やらしきりにいっていると、ウェスローフスキイも、例の伝染的な笑い声をたてながら、何やらぶつぶつとくりかえしていた。たぶん、どの百姓の口からか「おまえさま、気にいったのがあったら、思いきり口説《くど》くがええだよ!」とでもいわれたというのだろう。レーヴィンはなかば夢のなかでいった――
「諸君、明日は暗いうちに出かけるよ!」そして寝いった。
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十二
夜のひき明けに目をさますと、レーヴィンは仲間を起こそうとしてみた。ワーセンカは腹ばいになり、長くつ下のままの片足を長く投げだして、とても返事などしそうもないほど、ぐっすりと寝こんでいた。オブロンスキイはゆめうつつで、そんなに早く行くのはごめんだといった。乾し草の端にまるくなって寝ていたラスカまでが、ふしょうぶしょうに起きあがり、ものうげに、あと足を一本ずつ伸ばしたりまっすぐにしたりするのだった。
靴をはき、銃をとって、きしむ納屋のドアを注意ぶかくあけると、レーヴィンは往来へ出た。御者どもは馬車のそばに眠っており、馬どももうとうとしていた。それでも一匹の馬は、鼻づらで飼料桶《かいばおけ》のなかをかきまわしながら、たいぎそうにからす麦を食《は》んでいた。戸外はまだ灰色であった。
「なんだってまあこんなに早く起きなすっただよう、だんなさまあ?」と小舎《こや》から出て来たこの家の主婦であるばあさんが、まるで古い知り合いにでもたいするような、親しげな調子で彼にいった。
「ああ、猟に行くんだよ、おばさん。ここを行けば沼へ出られるだろうね?」
「うちの裏をまっすぐに、穀物納屋の前を通って、それから麻畑を抜けると、そこに小道がありますだよ」
日やけしたはだしの足を注意ぶかく踏みながら、老婆はレーヴィンを案内して、彼のために穀物納屋のそばの垣を押しわけてくれた。
「ここをまっすぐに行きなさりゃ、沼へ出ますだ、うちの若えもんらも、昨夜《ゆうべ》からそこへ行っておりますだよ」
ラスカはさきに立って、元気よく小道を走っていた。レーヴィンは、軽快な早い足どりで、たえず空を仰ぎ見ながら、そのあとについて進んだ。彼は、なるべく太陽ののぼらないうちに沼へ行きつきたいものだと思ったのである。しかし、太陽はぐずぐずしてはいなかった。彼が家を出たときにはまだ光っていた月が、今は水銀の一片のように、わずかに鈍く光っているばかりで、前にはひとりでに目にはいった朝やけの色が、今では捜さなければわからないほどになり、前には遠い野のはてのなんとも定めがたかった斑点が、今ではもうはっきりと見えてきた。それは裸麦の堆積《やま》であった。もう雄茎《おぐき》をえりぬいたあとの、匂いのいい、たけの高い大麻にやどっていて、日の光を受けないのでまだそれと見えなかった露は、レーヴィンの両足と上着とを、ベルトの上までぐっしょりとぬらした。澄みきった朝の静けさのなかでは、きわめて小さな物音までが、はっきりと聞こえた。一匹の蜜蜂が、弾丸のようなうなりをたてて、レーヴィンの耳もとをかすめ過ぎた。目をすえて見まわして、彼は第二、第三の蜜蜂をも見いだした。彼らはみな、養蜂所の編み垣のかげから飛びだして、麻畑の上を、沼のほうへと消えていくのだった。
小道はまっすぐ沼へと通じていた。沼のありかは、立ちのぼる水蒸気によってそれと知られ、その水蒸気は、あるところは濃く、あるところは薄く立ちのぼっているので、スゲやエニシダの茂みは、まるで島ででもあるように、その水蒸気の上に浮動していた。沼の岸や道ばたには、夜飼いの百姓や男の子供たちが、横になって上着をかぶり、夜明けまえのひと眠りをやっていた。彼らからあまり遠くないところで、いっしょにつながれた三頭の馬が歩きまわっていた。その一頭は、足かせをがちゃがちゃ鳴らしていた。ラスカは前に出たがって、しきりにあたりを見まわしながら、主人とならんで歩いていた。眠っていた百姓たちのそばを通り、最初の沼沢地へさしかかると、レーヴィンは銃のぐあいを調べてみて、犬を放した。三頭のうちのひとつ、肥えふとったくり毛の三歳駒《さんさいごま》は、犬を見るととびあがり、しっぽを高くあげて、鼻を鳴らした。と、あとの二頭もまた驚いて、つながれた足で水をはねあげ、深い粘土からひづめを抜きだすたびに、拍手のような音を立てながら、沼のなかから飛び出した。ラスカは立ちどまって、あざけるように馬をながめ、物問いたげにレーヴィンを見あげた。レーヴィンはラスカをなでてやり、もうはじめてよいというあいずに、口笛を鳴らした。
ラスカはうれしそうに、しかし心配そうな様子で、足の下で揺れ動く泥土の上を、いっさんにかけて行った。
沼のなかへかけこむと、ラスカはすぐにかぎなれた木の根や、沼の草や、水さびや、かぎなれない馬《ば》ふんのにおいのなかに、鳥のにおい――あたり一面にただよっている、他の何ものよりも強く彼女を興奮させる、においの強い鳥のにおいを、かぎつけた。沼の苔地《こけち》や草地のここかしこに、そのにおいの非常に強いところがあったが、どの方向が強くてどの方向が弱いかを、決定することが困難だった。その方向を知るためには、遠く風しもへ行ってみなければならなかった。ラスカは足の動きも感じないほどの勢いで、しかも必要に応じては、いつでもぴたりと止まりうる緊張したギャロップで、東から吹いてくる夜明けまえの微風を避けて、右手のほうへ飛んで行き、そして風に向かって身をひるがえした。はりひろげた鼻孔で空気をひと息すいこむと、たちまち彼女は、鳥どもの痕跡ばかりでなく、鳥そのものが自分の前に、しかも一羽や二羽でなく無数にいることを感じた。ラスカは走る速度を弱めた。鳥どもはそこにいた。が、それはどこであるか、彼女はまだ決定しかねた。その場所をはっきり確かめるために、彼女は早くも輪をかきはじめたが、そのときふいに、主人の声が彼女の気を散らした。「ラスカ! そこだ!」と彼は、反対の方向をさしながら彼女にいった。彼女は、自分がやりかけたとおりにしたほうがよくはあるまいかとたずねるような顔つきで、ちょっとのま、そこに立っていた。しかし彼は、何もいそうにない水をかぶった土の盛りあがりをさしながら、怒ったような声で、その命令をくりかえした。彼女は彼に満足をあたえるために、彼のいうことにしたがって、捜すようなふうをよそおい、いちおう土の盛りあがりを歩きまわってみて、もとのところへもどってくると、すぐまた、鳥どものいることをかぎつけた。こんどは彼がじゃまをしなかったので、彼女は即座になすべきことを知り、自分の足もとには目もくれず、いまいましくも土の高まりにつまずいたり、水のなかへ踏みこんだりして、そのたびにしなやかな丈夫な足で立ちなおりながら、彼女のためにいっさいを解決してくれる例の輪をかきはじめた。彼らのにおいはますますつよく、ますますはっきりと、彼女の嗅覚を刺激した。と、やにわに彼女には、一羽がそこに、その土の高まりのうしろに、彼女から五歩ばかりのところにいるのが、はっきりとわかった。で、彼女は立ちどまって、全身こおりついたようになってしまった。その低い背丈《せたけ》では、彼女は目の前に何物をも見ることはできなかったが、においによって、鳥が五歩とははなれないところにいるのを知ったのである。彼女はますますはっきりとそれを感じながら、そして期待の情をたのしみながら、立っていた。緊張したしっぽはぴんとひき伸ばされて、その尖端《さき》だけがわずかにふるえて動いていた。彼女の口はこころもち開かれ、耳はひき立てられていた。片方の耳は走っていたあいだに裏返しになり、彼女は重々しく、しかし注意ぶかく呼吸し、そしていっそう注意ぶかく、頭よりもより多く目で主人のほうをふり返った。彼は、彼女にはなじみのふかい顔つきで、が、例の恐ろしい目つきをして、土の高まりにつまずきつまずき、彼女の見るところでは、いかにもそっと歩いて来た。彼女には、彼はそっと歩いているように思われた。が、彼はかけていたのだった。
ラスカが、全身を地面におしつけ、軽く口をあけたまま、ちょうどあと足で大きくかき集めるようなかっこうをする、例の特殊な捜しかたを認めると、レーヴィンは、彼女が田シギどもをねらっていることをさとった。で、彼は、心のうちで、とくに最初の一羽にうまく成功することを神に祈りながら、彼女のほうへかけて行った。そのそばへぴたり近づきながら、彼は自分の背の高さから目の前をながめはじめて、彼女が鼻で見たところのものを、目で見いだしたのであった。そこから一サージェン(二メートル強)ばかりのところの、ふたつの土の高まりのあいだに、一羽の田シギが見えていた。田シギはちょっと首をまわして、聞き耳をたてる様子であった。やがて、ちょっと羽づくろいして、ふたたびつばさを重ねてから、不かっこうに尾をひと振りして、片すみにかくれてしまった。
「行け! 行け!」とレーヴィンは、うしろからラスカをつっつきながら叫んだ。
『だってわたしは行けやしない』とラスカは考えた。『どこへ行けばいいのだろう? ここからならわたしは鳥のいることがわかるけれど、ひと足でも動いたが最後、鳥どもがどこにいるのか、それがなんだか、かいもくわからなくなってしまう』が、そのとき彼は、彼女を膝でつっついて、興奮したささやき声でいった。「行け、ラーソチカ、行け!」
『しかたがない、そんなにおっしゃるならやってみましょう。しかしわたしはもう、責任はおいませんよ』こう彼女は考えて、一足《いっそく》飛びに土の高まりのあいだへ突進した。彼女は、今はもう何物をも感じなかった。なんにもわからずに、ただ見たり聞いたりするだけであった。
前の場所から十歩ばかりのところで、ほろほろというあぶらっこいような鳴き声と、この鳥特有のふくらみのある羽音を聞かせて、一羽の田シギが飛びたった。と、一発の銃声とともに、彼は、ぱさりと重たく、湿った泥へまっ白な胸を打ちつけて、落ちた。つぎの一羽は、待ちきれなくて、レーヴィンの背後から、犬を待たずに飛びたった。
レーヴィンがそのほうをふり返ったときには、彼はもう遠くへ行っていた。が、発射はみごとにそれを射止めた。二十歩ばかりも飛びさってから、第二の田シギは、一時、棒のように舞いあがったが、と思うまもなく、投げられた|まり《ヽヽ》のようにまわりながら、重たくどさりと乾いた土の上へ落ちた。
『さあ、これならどうやらうまくいきそうだぞ!』とレーヴィンは、まだ暖かい、よくふとった田シギを、獲物ぶくろのなかへ入れながら考えた。『どうだ、ラーソチカ、うまくいきそうだな?』
レーヴィンが銃に装填《そうてん》して、さらにさきへ進んだときには、雲にかくれてまだ見えなかったけれども、太陽はもうのぼっていた。月はすっかり光を失って、雲の一片のように、空に白くなっていた。星はもうひとつも見えなかった。前には露で銀色に光っていた沼沢地が、今は黄金色に輝いていた。さびた水は、すっかり|こはく《ヽヽヽ》色にそまっていた。草の青さは、黄色がかった緑にかわった。水鳥どもは、小流れのほとりの、露に輝き、長い影を投げている灌木《かんぼく》の茂みの上に群れ動いていた。一羽の大タカは目をさまして、首を左右にまわし、不満げに沼をながめながら、乾草の堆《やま》の上にとまっていた。からすどもは野のほうへ飛んでゆき、はだしの男の子は、上着の下から身を起こしてからだをかいているじいさんのほうへ、早くも馬を追いたてていった。鉄砲の煙は、牛乳のように、草の緑の上に白くただよっていた。
子供のひとりは、レーヴィンのそばへかけて来た。
「おじさん、カモが昨日そこにいたよ!」男の子はこう叫んで、遠くはなれてついてきた。
そしてレーヴィンには、自分の手ぎわに感心しているこの男の子の前で、なおたてつづけに三羽のシギを仕止めたことが、二重の愉快さであった。
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十三
最初の獣なり鳥なりを撃ちそこねさえしなければ、その日の猟はうまくいくものだという猟人の言いならわしは、やはり正しかった。
三十ウェルスターも歩きまわって、疲れて飢えた幸福なレーヴィンは、十九羽のみごとな野禽《やきん》と、獲物ぶくろへはいりきれないでベルトにゆわえつけた一羽のカモとを持って、朝の九時過ぎに宿へもどってきた。ふたりの仲間はもうずっと前に目をさまし、ひもじくなったので、朝食をさきにすましていた。
「ちょっと待ってくれたまえ。待ってくれたまえ。たしか十九羽あるはずだから」とレーヴィンは、今は空を飛んでいたときにもっていた、あのりっぱな形を失って、からだをまげ、かわきちぢまって、血によごれ、ぐったりと頭を横にたれている田シギとシギとを、もう一度数えなおしながら言った。
勘定は確かだった。そしてステパン・アルカジエヴィッチの羨望が、レーヴィンには愉快だった。なお彼には、宿へ帰ってみると、キティーから送られた手紙を持った男が、もう着いていたことが愉快だった。
「わたくしはいたって健康で元気でおります。もしわたくしのことを心配していてくださるようでしたら、前よりもいっそう安心していてくだすって、だいじょうぶでございます。わたくしのそばには今、マーリヤ・ヴラーシエヴナという新しい護衛者がつきそっていてくれますの(これは産婆で、レーヴィンの家庭生活における新しい重要な人物であった)。わたくしの見舞いに来てくれたので、わたくしはいたって丈夫なのだそうですが、わたくしたちはあなたのお帰りまでいてもらうことにいたしましたの。みんな元気で達者でおりますから、あなたもどうぞお急ぎにならないで、もし猟がおもしろうございましたら、もう一日くらいおのばしあそばしてもよろしゅうございますわ」
しあわせな猟と、妻からの手紙という、このふたつの喜びがあまりに大きかったので、猟のあとでおこったふたつの不快事も、レーヴィンにとってはきわめて手がるく過ぎてしまった。そのひとつは、くり毛の副馬《そえうま》が、たしかに昨日あまり働きすぎた結果であろう、飼料《かいば》も食わずにふさぎこんでいることであった。御者は、彼女は内臓を痛めているのだといった。
「昨日はちと走らせすぎましたからな。コンスタンチン・ドミートリチ」と彼はいった。「なにしろ、道もないところを十ウェルスターも駆けさせたんでございますから!」
初めは彼のいい気分をこわしたが、後には大いに笑ってすましたもうひとつの不快事というのは、一週間かかっても食いつくすわけにはいくまいと思われたほど、ふんだんにキティーが持たしてよこした食物が、何ひとつ残っていなかったことであった。飢え疲れて猟から帰って来ながら、レーヴィンは、あまりピローグのことばかり空想してきたので、家へ着くと同時に、ラスカが野禽をかぎつけると同様に、その香をかぎ、その味を口に感じたほどであった。で、すぐそれを持ってくるようにとフィリップに命じた。ところが、ピローグどころか、ひな鶏肉さえないしまつであった。
「いやもう、この男の食欲ときたら!」とステパン・アルカジエヴィッチは、ワーセンカ・ウェスローフスキイをさして、笑いながらいった。「ぼくも食欲不振に苦しむことはないが、しかし、この男には驚いた……」
「ふむ、それもどうもしかたがない!」とレーヴィンは、暗い顔つきをしてウェスローフスキイのほうを見ながらいった。「ではな、フィリップ、牛肉を持ってきてくれ」
「牛肉もめしあがってしまいまして、骨は犬にくれました」とフィリップは答えた。
レーヴィンはあまり腹だたしかったので、思わずいまいましげに、こういってしまった――「何かちっとくらい残しといてくれてもよかったろうになあ!」――彼はほんとうに泣きだしたかった。
「じゃあその獲物《えもの》の臓《はら》を出してな」と彼は、つとめてワーセンカのほうを見ないようにしながら、ふるえ声でフィリップにいった。「|いらくさ《ヽヽヽヽ》でもかけておいてくれ。そして、おれには牛乳でももらってきてくれ」
だが、やがて、牛乳を十分飲んでしまうと、彼は、腹だちを他人の前にぶちまけたことが恥ずかしくなってきた。で、空腹からきた自分の怒りっぽさにたいして、笑いだしてしまった……
夕方に、彼らはまた猟に出かけた。そのときには、ウェスローフスキイも数羽を射落とし、夜に入ってから帰途についた。
帰り道も、往《い》きと同様に愉快であった。ウェスローフスキイは歌をうたったり、自分にウォーツカをごちそうしてくれながら、「わるく思わねえで」などといった百姓たちのところでの冒険を、楽しい気持で言いだしたり、また亭主持ちの女たちや、百姓娘や、百姓たちを相手にした夜の冒険について話したりした。そのとき百姓のひとりは、彼に妻があるかときいて、彼がまだ独身なのを知ると、「なら、おまえさま、ひとのかかあばかりねらっていねえで、早くきまったのをひとりこせえなされ」といった。この一言は、とくにウェスローフスキイをおかしがらせた。
「要するにです、こんどの旅行には、ぼくはこのうえなく満足しました。が、あなたはいかがです、レーヴィン?」
「わたしもたいへん満足でした」と、レーヴィンはまじめにいった。彼には、家にいたあいだワーセンカ・ウェスローフスキイにたいしておぼえた例の敵意を、今は少しも感じなかったばかりか、反対に、彼にたいしてこのうえない親しい気持を感じていることが、とくにうれしかったのである。
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十四
翌日の十時には、レーヴィンはすでに家で農事をひととおり見まわって、ワーセンカの泊まっていた部屋のドアをノックしていた。
「Entrez(おはいりなさい)」と、ウェスローフスキイは彼に叫んだ。「ごめんください、わたしは、いまやっと ablutions(水浴)をおわったところなんです」と彼は、シャツ一枚で彼の前に立って、にこにこしながらいった。
「どうぞ、ご遠慮なく」とレーヴィンは、窓のところへ腰をおろした。「昨夜はよくおやすみでしたか?」
「まるで死んだようでした。それで、今日のような日は、猟にはどんなものでしょう?」
「あなたは何をあがります――お茶ですか、コーヒーですか?」
「いや、どちらもたくさんです。それより朝食をいただきましょう。ぼくはじつにどうも恥ずかしいですよ。婦人がたはたぶんもうお起きになったでしょうな? こんなときには、少し歩くのが一ばんですな。ひとつわたしに馬を見せてくださいませんか」
庭を散歩しながら、厩舎《きゅうしゃ》へ行き、それから平行棒の上でいっしょに体操までしてから、レーヴィンは客と家へもどって、つれだって客間へはいって行った。
「われわれはすてきな猟をしてまいりましたよ、いやそのおもしろさといったら!」とウェスローフスキイは、サモワールのかげに座をしめていたキティーのほうへ歩みよりながら、いった。「ご婦人がたがこういう楽しみをおもちにならないというのは、まったくお気の毒なことですな」
『ふん、なるほど、この男は、その家の女主人になんとかかとかいわずにはいられないものとみえる』とレーヴィンは自分にいった。と、彼にはまたしても、この客がキティーに話しかけるときに見せる勝利者のような表情と微笑のうちに、何かあるような気がしたのだった……
マーリヤ・ヴラーシエヴナやステパン・アルカジエヴィッチといっしょに、テーブルの他の側に掛けていた公爵夫人は、レーヴィンを自分のそばへ呼びよせて、キティーのお産のためにモスクワへひき移ることや、住居を準備することについての相談をはじめた。レーヴィンにとっては、結婚のさいと同様、完成されつつあるものの偉大さを、くだらないことでそこなう、すべての準備というものが不愉快であったが、そのさいよりもいっそう多く、その時を指折りかぞえて待っている、未来の出産のためにする準備がきわめて屈辱的なものに思われるのだった。彼はしょっちゅう、生まれてくる子供の襁褓《むつき》の巻きかたなどという種類の会話はなるべく聞かないようにつとめ、なんともえたいのしれぬ、恐ろしく長い包帯や、ドリーがとくに大切なもののように扱っていた三角|巾《きん》とかいったふうなものからは、目をそらして見ないようにつとめていた。男の子が生まれるということ(彼は、男の子が生まれるものと思いこませられていた)、人々はそういってくれたけれども、彼自身はやはり信じきることのできなかったこと(それほど異常なことに思われたのである)、それは、一方からはあまり大きすぎて、ありうべからざるほどの幸福に思われ、また一方からは、いかにもこのうえない神秘的な出来事のように思われたので、このさきを見こしたような空想的な知識や、その結果としての、人工的な普通のことにたいするような準備などが、彼には悩ましく屈辱的なものに思われたのであった。
しかし、公爵夫人は彼の気持を解しなかったので、彼がこうしたことを考えたり話したりするのを好まないのは、軽率で冷淡なためだと解釈し、そのために、しぜん彼に平安をあたえないことになるのだった。彼女はかねてステパン・アルカジエヴィッチに家を見つけることを頼んでいたが、こんどは、レーヴィンを自分のそばへ呼びよせたのであった。
「わたしには何もわからないんですよ、奥さん、どうぞいいようになすってください」と彼はいった。
「だけど、いつ移るかということは、あなたがたがきめてくださらなければ」
「わたしにはほんとにわからないのです。わたしの知っているのはただ、何百万という子供たちが、モスクワだの医者だのというものなしで、りっぱに生まれているということだけです……いったいなんだって……」
「ああそう、もしそういうわけなら……」
「いや、しかしなんですよ、どうぞ、キティーの好きなように」
「キティーにはこんな話はできませんよ! ではなんですね、あなたはわたしがあの子をこわがらせるのを望んでらっしゃるのですね? げんにこの春も、ナターリヤ・ゴリーツィナは、わるい産科医のために殺されていますよ」
「ですから、あなたのおっしゃるとおり、わたしはなんでもいたしますよ」と、暗い顔をして彼はいった。
公爵夫人は、なお何か言いはじめたが、彼は聞いていなかった。公爵夫人との会話は、彼の気分をそこねはしたが、彼を陰うつにしたのは、その話でなく、サモワールのところに見かけた光景であった。『いや、こいつはいけない』と彼は、キティーのほうへ身をまげて、もちまえの美しい笑顔を見せながら、彼女に何かいっているワーセンカと、顔をあかくしてわくわくしているような彼女とを、たまにちらちらと見やりながら考えていた。
ワーセンカの姿勢や、目つきや、笑顔のなかには、なんとなく不純なものがあった。レーヴィンは、キティーの姿勢や目つきにすら、なにやら不純なものをみとめていたのである。で、またしても、彼の目の光は消えてしまった。そして、またしても前日のように、とつじょとして、なんの連絡もなく、幸福と平安との得意の絶頂から、絶望と憎悪と屈辱の深淵へ、投げこまれたような自分を感じた。またしても彼には、すべての人、すべての物が、不快なものになってきた。
「どうぞ、奥さん、どうぞよろしいようになすってください」と彼は、またしてもふり返りながらいった。
「王冠は重いものだな(プーシキン作『ボリス・ゴドゥノフ』のせりふ)」と、ステパン・アルカジエヴィッチは明らかに、公爵夫人との話ばかりでなく、自分の気のついたレーヴィンの心の悩みを諷《ふう》しながら、たわむれて彼にいった。
「や、おまえは今日はずいぶん遅いんだね、ドリー」
一同は、ダーリヤ・アレクサーンドロヴナを迎えるために、立ちあがった。ワーセンカはちょっと立って、近ごろの新しい青年たちに特有な、婦人にたいするいんぎんさの欠けた態度で、軽く頭をさげたきり、そのまま、また、なにかしら笑いながら話をつづけた。
「わたしね、すっかりマーシャに困らされましたの。あの子はよく寝なかったものですから。今日はおそろしくむずかりましてね」とドリーはいった。
ワーセンカとキティーとのあいだでかわされていた会話は、またしても前日の話題、アンナのことや、恋は社会の約束を超越しうるものかどうかということなどについてであった。キティーにはこの話題は不愉快であった、それは、内容そのものによっても、その語られている調子によっても、わけてもそれが夫におよぼす影響を早くも彼女が知っていたことによって、彼女の心を波だたせた。しかし彼女は、この話にうまくきりをつけるには、そればかりでなく、この青年のあらわな注意が彼女にあたえた外面的な満足をかくすのにさえ、あまりに単純で、あまりに無邪気だった。彼女は、この話をやめたいと思ったが、どうしていいかわからなかった。彼女は、自分が何をしてみたところで、そのすべてはみな夫にみとめられて、わるいほうへばかりとられるであろうことを知っていた。はたして、彼女がドリーにマーシャのことをたずね、そしてワーセンカが、彼にとってたいくつなその話のおわるのを待ちながら、無関心な態度でドリーのほうをながめはじめたとき、この質問がレーヴィンには、不自然な、いとわしい狡知《こうち》のように思われたのであった。
「いかがですの、今日もひとつ|きのこ《ヽヽヽ》狩りに行こうじゃありませんか?」とドリーが言いだした。
「ええ、ぜひね、わたしもまいりますわ」とキティーはいって、まっ赤になった。彼女は、礼儀としてもワーセンカに、彼も行くかどうかをたずねたいと思った、が、たずねなかった。「あなたどこへいらっしゃるの、コスチャ?」と彼女は、夫が決然とした足どりで、自分のそばを通り過ぎようとしたときに、罪ある者のような顔つきをしてたずねた。この罪ある者のような表情が、彼のすべての疑惑を裏書きした。
「るすに、機械師が来てたんだが、わたしはまだ会っていないから」こう彼は、彼女のほうを見ないでいった。
彼は階下へおりて行ったが、まだ書斎から出きらないうちに、不注意きわまる早足で彼のほうへやってくる、耳なれた妻の足音を聞きつけた。
「何か用かね?」と彼は、そっけない調子で彼女にいった。
「われわれは忙しいんだよ」
「ちょっとごめんくださいましね」と彼女は、ドイツ人の機械師に向かっていった。「たくに少し話があるものですから」
ドイツ人は出て行こうとしたが、レーヴィンが彼にいった――
「いや、それにはおよびませんよ」
「汽車は三時でございましたな?」とドイツ人はきいた。「なるべく遅れたくないと思いまして」
レーヴィンはそれには答えずに、自分から妻といっしょに室外へ出た。
「さあ、あなたはぼくになんの話があるんですね?」と彼は、フランス語で言いだした。
彼は彼女の顔を見なかった。また、彼女が妊娠の身で、顔じゅうをふるわせながら、哀れっぽい、踏みつけられたような顔つきをしているのを、見たいとは思わなかった。
「わたしね……わたし、こんなふうな生活はたまらないと思って、それをお話して、こんな苦しみは……」と彼女は言いだした。
「人がいますよ、そこに、食器室に」と、彼は腹だたしげにいった。「へんなまねはしないでください」
「では、ここへはいりましょう!」
ふたりは通りぬけのできる部屋に立っていたのである。キティーはその隣室へはいろうとした。が、そこは、イギリス婦人がターニャを教えていた。
「では、庭へまいりましょう!」
庭へ出ると、ふたりは、小道を掃除していた園丁に行きあった。が、もうその男が彼女の涙にぬれた顔や、彼の興奮した顔を見るということも考えなければ、自分たちがある不幸からのがれてきた人のような様子をしているということも考えないで、ただただ何もかもうちあけあって、互いの誤解をとき、自分たちだけになり、そして、なめていた苦悶からのがれなければならぬということだけを感じながら、足ばやにさきのほうへ歩いていった。
「こんなふうにして生活してはいられませんわ! これは苦しみですわ! わたしも苦しめば、あなたも苦しんでいらっしゃるのですもの。いったいなんのためでしょう!」と彼女は、ふたりがついにぼだい樹の並木道の片すみに、ひとつきりぽつんと立っていたベンチのところまで来たときに、いった。
「だがね、ただひと言ぼくに話しておくれ――あの男の調子には、どこやら不謹慎な、不純な、卑しい、恐ろしいところがあったじゃないか?」と彼は、前の夜彼女の前に立ったときと同じように、またしても両のこぶしを胸に組みあわせた姿勢で、彼女の前につっ立ちながらいった。
「ありましたわ」と、彼女はふるえ声でいった。「ですけれど、コスチャ、あなたはまさか、それがわたしの罪でないことはおわかりでしょう? わたしは朝から、二度とあんなことのないようにと思ってましたの、けれど、ああいう人たちは……ああ、なんだってあんな人が来たんでしょうねえ? わたしたちはあんなに幸福だったのに!」と彼女は、少しふとってきた全身をゆるがせるすすり泣きのために、息づまりながらいった。
園丁は、これといって何もふたりを追ってきた者はなく、また何者から逃げだす必要もなかったらしいのに、それにまた、ベンチの上などにかくべつ愉快なもののあるはずがなかったのに、彼らがやがて、すっかりおちついた、朗らかな顔つきになって、自分のそばを通って家のほうへもどって行くのを見て、あっけにとられた。
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十五
妻を二階へ送っていってから、レーヴィンはドリーの部屋へ行った。ダーリヤ・アレクサーンドロヴナは、この日はひどく悲観的な気分になっていた。彼女は室内を歩きまわりながら、部屋の片すみに立って泣きわめいている女の子に、腹だたしげにいっていた。
「今日は一日、そうしてそのすみに立ってらっしゃい。食事もひとりでするのです。お人形さんなんかも、もうひとつも持たせてはあげないし、新しい服も作ってはあげません」こう彼女は、もうどうして子供を罰したらいいかわからないで、いっていた。
「いいえ、これはいやな子ですわ!」と彼女は、レーヴィンのほうへ顔を向けた。「ほんとに、どこからこんないやな気質をもって来たんでしょうねえ?」
「いったい、何をしたというんです?」とレーヴィンは、かなり冷淡な調子でいった。彼は、自分のことで相談しようと思ってやってきたのに、あいにくな場合に出くわしたのが、いまいましかったのである。
「この子はグリーシャといっしょに|いちご《ヽヽヽ》畑へ行きましてね、そこで……ああほんとに、なんということをしたのでしょうねえ、わたしにはいうことさえできませんわ。こうなってみると、ますますミス・エリオットが思いだされます。こんどの人ったら、ちっとも気をつけてくれないんですもの、まるで機械ですよ……Figurez vous, que la petite(まあ考えてもみてくださいな、あんな小さな娘が……)」
そしてダーリヤ・アレクサーンドロヴナは、マーシャの罪を物語った。
「そんなことはなんでもありませんよ、そんなことがわるい気質なもんですか。ただのいたずらじゃありませんか」と、レーヴィンは彼女をなだめた。
「それはそうと、あなたはどうかなすってらっしゃるようね? 何か、ご用がおありなんでしょう?」と、ドリーはたずねた。「あちらで何かありましたの?」
と、この問いの調子によって、レーヴィンは、自分のいおうと思ってきたことが、気やすく言いだせるような気がした。
「わたしはあすこにはいなかったのです。キティーとふたりで庭にいたのです。わたしたちは、もう二度もけんかをしたのですよ、その、あれ以来……スティーワが来たとき以来ですね」
ドリーは、聡明らしい、物わかりのよさそうな目で彼を見ていた。
「そこでです、ひとつ胸に手をあてて、わたしに話してくださいませんか、その、キティーにではありません、あの紳士にですね、なんとなくこうおもしろくない、いや、おもしろくないというよりも恐ろしい、夫たるものにとって侮辱と感じられるような調子があったかどうか?」
「というと、さあ、なんといったらいいでしょうね……あ、立っておいで、そのすみにちゃんと立ってるんです」と彼女は、母の顔にかすかな微笑のうかんだのを見て、からだを動かしかけたマーシャのほうをふり向いて、いった。「社交上の考えかたからいえば、あのかたのやりかたは、一般の若いかたたちのやりかたと、べつに違ったところはないということになるでしょうね。Il fait la cour a une jeune et jolie femme, (あのひとは若い美しい女にじゃれついているのですわ)だから、世間なれた夫なら、かえって気をよくするだけでしょうけれどね」
「そうです、そうです」とレーヴィンは、暗い顔をしていった。「しかし、あなたもそれに気がついていらっしゃるんですね?」
「そりゃもう、わたしばかりじゃありませんわ。スティーワも気がついていますのよ。お茶のあとですぐ、わたしにこう申しましたもの――je crois que Veslovsky fait un petit brin de cour a Kitty.(おれはどうもウェスローフスキイの先生、すこしキティーにじゃらついているように思うがね)って」
「そうですか、そいつはすてきだ。それですっかり安心しました。ぼくは、あの男を追んだしてやります」とレーヴィンはいった。
「まあ、あなたは、気でもちがったんですか?」と、ドリーはびっくりして叫んだ。「まあ、あなた、コスチャ、しっかりしてくださいよ!」と彼女は、笑いながらいった。「ではね、もういいから、おまえはファンニイのところへおいで」と、彼女はマーシャにいった。「ですけれどね、あなたがもしそうしたいとお望みでしたら、わたしがスティーワに申しますわ。すれば、あの人がうまく連れだしてくれましょうから。こちらへたくさんお客が来ることになっているからとかなんとかいってね。どのみち、あの人はこちらには不向きな人ですものね」
「いや、いいです、ぼくが自分で言います」
「でも、あなただとけんかになりはしなくって?」
「いや、だいじょうぶ。そうしたほうがぼくは気持がよかろうと思いますから」と、じっさい楽しそうに目を輝かしながら、レーヴィンはいった。「そこでと、もうこの子は許しておあげなさいよ、ドリー! もうこれからはしませんからね」と彼は、まだファンニイのところへも行かずに、額ごしに母の視線を待ち求めながら、もじもじと母の前に立っていた、小さい罪人《つみびと》のためにいった。
母はちらと彼女の顔を見た。と、少女はわっと泣きだして、母の膝に顔をうずめた。ドリーは彼女の頭へ、そのやせた柔らかな手をのせた。
『いったいわれわれとあの男とのあいだに、どんな共通点があるのだろう!』とレーヴィンは考えだした、そしてウェスローフスキイをさがしに出かけた。
玄関を通りながら、彼は停車場へ行くためのほろ馬車を支度するように命じた。「昨年|ばね《ヽヽ》が折れましたので」と従僕は答えた。
「そうか、じゃあ旅行馬車でいい、しかし大急ぎでね。お客さんはどこにいる?」
「お部屋のほうへいらっしゃいました」
レーヴィンは、ちょうどワーセンカが鞄《かばん》のなかからいろいろの品物を選りだし、新しい唄の本なども取りだして、馬で出かけるために革ゲートルをつけているところへ行きあわせた。
レーヴィンの顔に何か特別な表情があったからか、それともまたワーセンカ自身、自分のやった ce peit brin de cour(ちょっとしたじゃれつき)が、この家庭に合わないのを感じていたためか、とにかく彼は、レーヴィンのはいって来たのを見ると、いくらか(社交界の人として許される程度に)どぎまぎしたようであった。
「あなたは、革ゲートルをつけてお乗りになるんですか?」
「ええ、そのほうがずっとよごれませんからね」とワーセンカは、ふとった足をいすの上へのせて、下方のホックをかけながら、快活な、人のよさそうな微笑をうかべていった。
彼は、疑いもなく善良な若者であった。レーヴィンは彼のまなざしに、おどおどしたような色をみとめると、彼が気の毒になり、一家の主人としての自分が恥ずかしくなってきた。
テーブルの上には、ふたりが今朝いっしょに体操をしたとき、水にしめった平行棒を持ちあげようとして折った棒きれがころがっていた。レーヴィンはそれを取りあげて、どうきりだしていいかわからぬままに、そのさきの裂けたところを折りはじめた。
「じつは……」と彼は言いしぶったが、急にキティーのことや、今までにあったことを思いだすと、思いきって彼の目を見ながら、いった。「わたしはあなたのために、馬車を支度するように命じておきました」
「とおっしゃると」とワーセンカは、びっくりしてきき返した。「いったいどこへ行くんですか?」
「あなたに停車場へ行っていただきたいのです」レーヴィンは、棒きれの端をむしりながら、陰うつにいった。
「あなたがどこかへおいでになるのですか、それとも何事かおこったのですか」
「おこったのです、お客が大ぜいくることになったのです」とレーヴィンは、力強い指さきで、ますますはげしく、裂けた棒きれの端を折りながら、いった。「いや、客がくるのではありません、何事もおこったのではないのです。だが、わたしはあなたに、お帰りになっていただきたいのです。わたしの無作法はなんとでもいいようにおとりください」
ワーセンカはきっと身を起こした。
「ぼくは|あなたに《ヽヽヽヽ》理由の説明を願います……」彼は、ようやくがてんがいった様子で、こう威厳をつくりながらいった。
「わたしはそれを申しあげることはできません」とレーヴィンは、自分のほおのふるえるのをかくそうとつとめながら、静かにゆっくりといった。「あなたもまた、それはおたずねにならないほうがいいでしょう」
そのうちに、裂けた棒きれの端がすっかり折れてしまったので、レーヴィンはふとい裂けめに指をかけて、棒をふたつにひき裂き、その一方の落ちそうになったのを、とっさにつかんだ。
これらの緊張した腕や、今朝、体操をしたときに見せた筋肉や、輝く目や、静かな声や、ふるえるほおなどの様子が、たぶん、言葉以上にワーセンカを納得させたのであろう。彼は肩をすくめて、さげすむような微笑をうかべ、ぴょこりとひとつ頭をさげた。
「オブロンスキイに会うことはできませんか?」
肩をすくめたことも、笑顔も、レーヴィンを怒らせはしなかった。
『この男にこのうえ何をすることがあるのだろう?』と彼は考えた。
「今すぐにこちらへよこしましょう」
「なんというばかばかしいことだ!」とステパン・アルカジエヴィッチは、友だちから彼がこの家を追われようとしていることを聞き知ってから、客の出て行くのを待ちうけながら庭をぶらぶらしていたレーヴィンを見つけていった。「Mais c'est ridicule!(だって少しおかしいじゃないか)どんなハエがきみを刺したんだ? Mais c'est du dernier ridicule!(いや、まったくばかげきった話だ!)きみにはいったいどう思われたんだ、かりに若い男がさ……」
しかし、レーヴィンがハエに刺された個所はますます痛みを増してきたように見えた。なぜなら彼は、ステパン・アルカジエヴィッチがその理由を彼に説明しようとしたとき、ふたたびまっさおになって、急いで彼をさえぎったから。
「どうか、理由なんか説明しないでくれたまえ! ぼくにはもうどうしようもないのだ! ぼくはきみにたいしても、あの男にたいしても、非常に恥ずかしく思っている。しかしだね、この家を去ることなんか、あの男にとってはかくべつ大きな悲しみでもないだろう。ところが、ぼくとぼくの妻にとっては、あの男のいることが、とても不快の種なんだからねえ」
「しかし、あの男にとっては侮辱だよ! Et puis c'est ridicule!(のみならず、ばかげた話だ!)」
「ところがぼくにとっては、侮辱でもあれば、苦痛でもあるんだ! ぼくにはなんにも罪はない、苦しまねばならぬわけがないのだ!」
「ああ、ぼくはまさか、きみがこんなことをやらかそうとは思わなかった! On peut etre jaloux, mais a ce point c'est du dernier ridicule!(そりゃやきもちをやくのもいいさ。しかしこうなっちゃ、まったくばかげきっている!)」
レーヴィンはくるりと踵《きびす》を返して、彼のそばから並木道の奥へのがれ、ひとりであちこちと歩きつづけた。まもなく彼は、旅行馬車のわだちの音を聞きつけた。そして、例のスコットランド帽をかぶったワーセンカが、乾し草の上に腰をおろして(あいにく旅行馬車には座席がなかったので)、ごとごとと揺られながら並木道を乗って行くのが、木のまがくれに見えた。
『おや、まだ何かあるのか?』とレーヴィンは、召使が家からかけだして、馬車を止めたのを見て、考えた。それは、レーヴィンがすっかり忘れていた機械師であった。機械師はしきりに頭をさげながら、なにやらウェスローフスキイにいっていたが、やがて馬車に乗りこんで、いっしょに出て行った。
ステパン・アルカジエヴィッチと公爵夫人とは、レーヴィンの行為に憤慨していた。彼自身も、自分をひどくridicule(ばかげて)感じたばかりでなく、ことごとく自分がわるいような、面目なさを感じていた。しかし、自分と妻との受けた苦痛がどんなに大きかったかを思いおこすと、彼は、ふたたびこういうことが起こったら、自分はどうするだろうと自問してみて、やはり同じことをするにちがいないと自答した。
こうしたことがあったにもかかわらず、この日の暮れがた近くには、レーヴィンのこの行為を許さなかった公爵夫人だけを除いて、一同はみな、ちょうど罰を受けたあとの子供か、あるいは重苦しい儀式ぱった接客の後のおとなのように、異常にいきいきした、快活な気分になっていた。で、その晩、公爵夫人がひっこんでしまうと、一同はワーセンカの追いだされたことを、まるで遠い昔のことのように話しあうのだった。父親からおもしろおかしく話をする才能をうけついでいたドリーは、彼女が客のためにわざわざ新しい蝶《ちょう》ネクタイをつけて客間へ出て行ったところが、そのときとつぜん、がらがらという(がた《ヽヽ》馬車の音が聞こえたという話をするのに、三度でも四度でも、いつも新しいユーモラスなつけたしをして、ワーレニカを笑いこけさせた。(がた《ヽヽ》馬車なんかに乗って、いったいだれだろう?――こう思ってみると、あのワーセンカが、例のスコットランド帽をかぶり、革ゲートルを着け、新しい唄の本を手にして乾し草の上にすわっているではないか。
「あなたも、せめて、ほろ馬車を仕立てるように言いつけておあげになればよかったのにねえ! ところが、しばらくすると、『待ってください』という声が聞こえるじゃありませんか。で、ああ気の毒になってひき止めるんだなと思って見ていると、馬車は、あのふとったドイツ人を、あのひとのそばへ乗せて行ってしまったというわけでしょう……それで、せっかくのわたしの蝶ネクタイも、おじゃんになってしまったんですわ!」
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十六
ダーリヤ・アレクサーンドロヴナは、自分の思い立ちを実行して、アンナのところへ馬車を駆った。彼女には、妹を悲しませたり、妹の夫に不快な思いをさせたりするのは、非常に心ぐるしいことであった――彼女は、レーヴィン夫妻が、ウロンスキイとは絶対になんの交渉をも持ちたくないと思っているのを、いかにももっともであると了解していた。しかし彼女は、アンナのもとを訪れて、たとえ彼女の境遇がどう変わろうとも、自分の感情はけっしてかわらないということを彼女に示すのを、自分の義務だと考えたのだった。
ダーリヤ・アレクサーンドロヴナは、この旅行ではレーヴィンの世話になるまいと思って、馬をやとうために村へ人をやった。ところが、レーヴィンはこれを知ると、彼女のところへ苦情をもちこんできた。
「どうしてあなたは、あなたのいらっしゃるのがわたしに不愉快だろうなんてお考えになるんです? また、よしですね、わたしにとってそれが不愉快だからって、あなたがわたしの馬を使ってくださらなければ、なおいっそう不愉快だろうじゃありませんか」と彼はいった。「あなたはまだわたしに、どうでも行くということをおっしゃったことはありませんでしたよ。それにまた、村で馬をやとおうなんて、だいいちわたしにとって不愉快だし、なおかんじんなことは――村の者はよしひきうけても、先方まで送り届けてくれませんよ、馬ならわたしどもにいくらでもあります。ですから、わたしにいやな思いをさせまいとお思いでしたら、どうぞうちの馬を使ってください」
ダーリヤ・アレクサーンドロヴナも、同意しないではいられなかった。で、定められた日に、レーヴィンは、義姉のために、駄馬《だば》や乗馬のなかから選りぬいて、見た目はあまりよくないが、これならダーリヤ・アレクサーンドロヴナを、その日のうちに先方まで送り届けられるだろうと思われる、四頭立ての馬車とかえ馬とを用意した。ちょうどそのときは、立って行く公爵夫人のためにも、産婆のためにも、馬の必要なときだったので、こうすることは、レーヴィンにはかなり骨の折れることだったが、しかし彼は、客にたいする義務として、自分の家にいるダーリヤ・アレクサーンドロヴナに、よそから馬をやとわせることはできなかったし、そればかりでなく、その馬代としてダーリヤ・アレクサーンドロヴナに請求された二十ルーブリは、彼女にとってなかなか容易ならぬ金額であることを知っていた。かなり苦しい状態にあったダーリヤ・アレクサーンドロヴナのふところぐあいが、レーヴィン夫妻にはわがことのように感じられていたからであった。
ダーリヤ・アレクサーンドロヴナは、レーヴィンの勧めにしたがって、夜明けまえに出発した。道はよく、馬車は穏やかで、馬は元気よく走った。御者台には御者のほかに、召使のかわりとして事務所の男――万一の場合のためにとレーヴィンのつけてよこした事務所の男が、従僕がわりにすわっていた。ダーリヤ・アレクサーンドロヴナは、ついとろとろとなった。そして、もう馬をとり換える立て場へ着くころになって、やっと目をさました。
レーヴィンがかつてスヴィヤーズスキイを訪ねたときにたちよったことのある、あの裕福な百姓の家でお茶を飲み、その家の女たちとは子供のこと、例の老人とは、彼がひどくほめそやしたウロンスキイ伯のことを話しあったあとで、ダーリヤ・アレクサーンドロヴナは、十時を聞いてさきへ馬を進めた。家では彼女は、子供たちのことにかまけて、ものを考える時間が少しもなかった。そのかわり今は、この四時間の旅のうちに、これまでおさえられていたさまざまな想念が、急に彼女の頭のなかにむらがりおこってきたので、彼女は生まれてはじめて自分の全生活について、さまざまの方面から考えてみた。彼女の想念は、彼女自身にもふしぎなものであった。はじめ彼女は、子供たちのことを考えた。子供たちのことは、公爵夫人や、とりわけキティーが(彼女はキティーのほうをよけい頼みにしていた)気をつけてくれることになっていたが、彼女はやはり心配であった。『マーシャがまたあんないたずらをはじめはしまいか、グリーシャが馬にけられはしまいか、リリーの胃があのうえわるくならなければいいが』しかし、やがて現在の問題は、近い将来の問題にかわっていった。彼女は、この冬はモスクワで新しい家を借りなければならないこと、客間の家具をとり換えなければならないこと、長女に毛皮外套をこしらえてやらなければならないことなどについて、考えはじめた。つぎに彼女には、いっそう遠い未来の問題が考えられてきた――それは、子供たちをどうして世のなかへ出したらいいかということであった。『女の子はまあいいとして』と彼女は考えるのだった。『男の子は?』
『さいわいに、今はわたしがグリーシャを教えていられるけれど、しかしこれも、わたし自身が自由なからだで、おなかに子供がないからのことだわ。スティーワなんか、もちろん、なんの頼みにもなりはしない。だからわたしが、親切な人の力を借りて、子供たちを見てやらなければならない。だけど、もしまた子供ができるようなことがあったら……』すると彼女の頭には、世間で女には産みの苦しみというのろいがかけられているといっていることは、まちがいだという想念が、うかんだ。『産むのはなんでもありゃしない。ただ身おもでいること――これがつらいのだわ』こう彼女は、自分の最後の妊娠と、その子の死とを思いうかべて、考えた。と、彼女には、さっき立て場で若いお嫁さんとした話が思いだされた。彼女には子供があるかという問いにたいして、美しいお嫁さんは快活にこう答えた――
「ひとりの女の子がありましたけれど、神さまが連れて行ってくださいましたで、斎戒期《さいかいき》に葬ってしまいました」
「まあ、じゃあおまえ、ずいぶんその子がかわいそうだったでしょう?」とダーリヤ・アレクサーンドロヴナはきいた。
「なんでかわいそうなものですか! おじいさんのとこには、ずいぶんどっさり孫があるんですもの。ただやっかいがふえるだけですわ。働くことも何することもできなくなってしまいますからね。ほんとにじゃまになるばかりでございますもの」
若いお嫁さんは、気だてのよさそうな、かわいらしい顔をしていたにもかかわらず、彼女のこの返事は、ダーリヤ・アレクサーンドロヴナにいまわしい印象をあたえた。が、いま彼女は、心にもなくこれらの言葉を思いだした。思えば、こうした恥知らずな言葉のなかにも、一面の真理はあったのである。
『そうだわ、ほんとに』とダーリヤ・アレクサーンドロヴナは、十五年にわたる自分の結婚生活をかえりみて考えるのだった。『妊娠、つわり、知力の衰え、すべてのことにたいするむとんじゃく、とりわけ――あの醜さ。キティーでさえ、若くて美しいキティーでさえ、あんなにきりょうが落ちるのだもの。わたしなどが妊娠したらどんなに醜くなるか、もうちゃんとわかっている。出産、苦しみ、醜い苦しみ、あのいよいよという最後の瞬間……それから授乳、あの不眠の夜な夜な、あの恐ろしい痛み……』
ダーリヤ・アレクサーンドロヴナは、ほとんどどの子供の場合にも経験した、乳房にひびのきれる痛さを、思いだしただけでふるえあがった。
『それから子供の病気、あのたえまない不安、それからあの思い出、いまわしい性癖(彼女は、いちご畑での幼いマーシャの罪を思いだした)、教育、ラテン語――何もかも、ちっともわからない、むずかしいことばかりだわ。そうしたことの上にくわえて――この子供たちが死ぬということ』と、またしても、彼女の胸には、母としての、心を永久にいたましめるむごたらしい記憶、ジフテリーで死んだ一ばん下の男の赤ん坊の記憶、葬式、小さいばら色の棺を前にしての人々の無関心な態度、金モールの十字架のついたばら色の蓋《ふた》で棺をおおうたとき、そのなかにのぞいて見えた、波うつ巻き髪のふりかかった、青ざめた小さい額や、びっくりしたようにあいていた小さい口を前にしたときの、あの自分ひとりの寂しい胸の痛みなどが、思いうかんだ。
『だけど、こんなことはいったいみんななんのためだろう? こんなことがいったいなんになるのだろう? わたしは、いっときも心の安まるひまもなく、それ妊娠、やれ育児と、永久に、怒りっぽい、小言好きな女になって、自分も苦しみ、他人を苦しめ、夫にもきらわれながら一生を過ごし、子供たちは、ろくな教育も受けないで、不幸な、こじきのような人間に育っていく。げんに今だって、レーヴィン家で夏を送るのでなかったら、わたしたちはどうして暮らしていたかしれやしないわ。むろん、コスチャとキティーとは、細《こま》かく気のつく人たちだから、そんなこと少しも気がつかないようにしててくれるけれど、いつまでもこうしているわけにはいきやしない。あの人たちにもつぎつぎ子供ができれば、そうそうわたしたちにかまってもいられなくなるにちがいない。今だってあの人たちはきゅうくつにちがいないもの。それかって、自分にはほとんど何ひとつ残していらっしゃらないお父さまが、どうしてわたしたちを助けられよう? だからといってわたしには、自分で子供を仕立てあげる力はないし、といって、他人の力を借りて卑下《ひげ》するのもつらいし。してみると、このうえなく幸福にいくということは――このうえ子供が死なないで、わたしがどうかして育てあげるということだけだわ。一ばんいい場合で、子供がやくざ者にならないということだけだわ。つまり、これがわたしの望むことのできる全部なのだわ。しかも、ただそれだけのことのために、どれだけの苦痛、困難……そしてわたしの一生は、滅ぼされてしまうのだわ!』彼女にはまたしても、あの若いお嫁さんのいったことが思いだされ、またしてもそれを思いだすことがいとわしかったが、しかし彼女は、その言葉のなかに、一面の粗野な真理のあることを、認めないではいられなかった。
「どう、まだよほどあるのかえ、ミハイラ?」とダーリヤ・アレクサーンドロヴナは、自分に恐怖をふきこむような想念から気をちらそうとしながら、事務所の男にこうきいた。
「この村から七ウェルスターだということでございます」
馬車は村の街道を、橋のほうへと進んで行った。橋の上には、わら束を背負った陽気な百姓女の一団が、高調子に、おもしろそうに話しあいながら、歩いていた。女たちは橋の上にちょっと足をとめて、ものめずらしそうに馬車を見ていた。彼女のほうへ向けられた彼らの顔は、いずれもみな健康で快活で、あふれるような生の歓喜で彼女を刺激するように、ダーリヤ・アレクサーンドロヴナには思われた。『みんな生きているのだわ。みんな生活を楽しんでいるのだわ』とダーリヤ・アレクサーンドロヴナは、女たちのそばを通り過ぎ、山路へさしかかると、馬の急歩につれて、ふたたび古い馬車の柔らかい|ばね《ヽヽ》に快く身をゆられながら、考えつづけた。『それだのにわたしは、まるで牢からでも出てきた者のように、いろんな心配でわたしを殺してしまいそうな世界からのがれ出て、やっと今、ちょっとのま正気づいただけなのだ。みんな生きている――今の女たちでも、妹のナタリーでもワーレニカでも、これからたずねて行くアンナでも、ただわたしだけがそうでないのだわ』
『ところが、世間の人たちはみなアンナを攻撃している。なぜだろう? いったいわたしのほうがましだとでもいうのだろうか? わたしには少なくとも、自分の愛している夫がある。十分思うような愛しかたではないけれど、とにかくわたしは愛している。ところが、アンナは自分の夫を愛さなかった。いったいあの女《ひと》が、どうわるいというのだろう? あの女《ひと》は生きたいと思っている。神さまはわたしたちの魂に、そういう気持を植えつけてくだすったのだもの。わたしだってきっと、同じようなことをしたにちがいないわ。あの女《ひと》が、そのためにモスクワのうちへ来てくれたあの騒ぎのときに、わたしがあの女《ひと》のいうとおりになったのが、はたしてよかったのかどうか、わたしにはいまだに判断がつかない。わたしはあのとき夫を捨てて、もう一度生活を立てなおさなければならなかったのだわ。すれば、わたしはほんとうに愛しもし、愛されることもできたにちがいないのだわ。いったい、今のほうが少しでもましなのだろうか? わたしはあのひとを尊敬してはいない。あのひとがわたしに必要なので』と、彼女は夫のことを考えるのだった。『わたしのほうでもしんぼうしているだけのことだもの。どうしてこれがましであろう? あのときだったら、わたしもまだ人の気にいったかもしれなかった、少しは美しさも残っていたから』と、ダーリヤ・アレクサーンドロヴナは考えつづけたが、すると、ちょっと鏡が見たくなった。彼女の手もとには、手さげ袋《ぶくろ》のなかに旅行用の小さい鏡がはいっていたので、彼女はそれを取りだしたいと思った。が、御者と、ゆらゆらしている事務所の男とのうしろ姿を見ると、彼女は、だれにふり返って見られても、ずいぶん恥ずかしいだろうと思ったので、鏡を出すことはやめにした。
しかし、鏡にうつして見ないでも、今だってまだ遅くはないと考えたので、彼女は、自分にとくに親切であるセルゲイ・イワーノヴィッチのことや、スティーワの友だちで、子供たちの猩紅熱《しょうこうねつ》のときに自分といっしょにその看病をしてくれた、かねて自分に思いをよせている、人の好いトゥローヴツィンのことなどを思いおこした。それからもうひとり、まだ若い男で、夫が冗談に彼女にいったところによると、彼女を姉妹じゅうで一ばん美しいと思っている青年があった。と、きわめて情熱的な、ありうべからざるようなロマンスが、ダーリヤ・アレクサーンドロヴナの前にえがきだされた。『アンナのしたことはりっぱなのだわ。わたしはもうけっしてあの女《ひと》を非難するようなことはすまい。あの女《ひと》は幸福だ、そして他人をも幸福にしているし、わたしのようにいじいじしていなくて、きっといつものように、いきいきとして、利口で、何にでもからりとした態度でいることだろう』こうダーリヤ・アレクサーンドロヴナは考えた。と、ずるそうな微笑が、彼女のくちびるにしわをつくった。それはとくに、彼女が、アンナのロマンスについて考えながら、それと並行して、自分を恋している想像で作りあげた男性との、ほとんど同じような自分自身のロマンスを、思いえがいたからであった。彼女もまた、アンナと同じように、すべてのことを夫にうちあけてしまう、と、それを聞いたときのステパン・アルカジエヴィッチの驚きと混乱――それが彼女をほほえませたのであった。
こうした空想のうちに、彼女は、ヴォズドゥヴィジェンスコエへみちびく大街道の曲がり角へと近づいた。
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十七
御者たちは四頭馬車をとめて、農用車のかたわらに百姓たちがすわりこんでいた右手の裸麦畑のほうをふり返った。事務所の男は飛びおりようとしたが、やがて思いなおし、ひとりの百姓を自分のほうへまねきながら、命令するような口調で叫んだ。走っているあいだに吹いていた微風は、馬車がとまると同時にやんでしまった。|あぶ《ヽヽ》は、腹だたしげに彼らを追っぱらおうとする、ぐっしょり汗ばんだ馬どものからだにまつわりついた。農用車のほうから聞こえてくる、鎌をとぐ金属性の音も静まった。ひとりの百姓が立ちあがって、馬車のほうへ歩いて来た。
「おい、ずいぶん|たが《ヽヽ》がゆるんでやがるなあ!」と事務所の男は、車で乗りならされてない、ぱさぱさに乾《かわ》いたでこぼこ道をひろうようにして、はだしでのろのろと歩いてくる百姓に向かって、怒ったように叫んだ。「おい、早く来ないかよ!」
ぼだい樹の皮で髪をしばったちぢれ毛の百姓は、ねこ背の背中を汗で黒くしながら、足を早めて馬車に近づくと、日やけのした手で馬車の泥よけにつかまった。
「ヴォズドゥヴィジェンスコエの地主邸へ? 伯爵さまのところへですね?」と彼はくりかえした。「その小山を越したらすぐ左のほうへ曲がりなされ。そしてまっすぐ広い道を行きなされば、どすんとお邸へつきあたりますだ。だが、おまえさまあ、いったいどなたを訪ねなさるだね? 伯爵さまかね?」
「ああ、みなさんおうちにいらっしゃること、おじいさん?」とダーリヤ・アレクサーンドロヴナは、こんな百姓にさえ、アンナのことをなんといってたずねたらいいかわからないので、あいまいにいった。
「ああ、おいでなさるだよ」と、百姓ははだしの足をはこんで、ほこりの上へ五本の指のついたはっきりした足あとを残しながら、いった。「きっとおいでなさるだよ」と彼は、話をつづけたそうな様子でくりかえした。「昨日もお客さまがたが来なさっただよ。いつもはあ、たいへんなお客さまですだ……おう、なんだよう?」と彼は、農用車のほうから何やら彼に叫んでいる若者のほうをふり返った。「うん、そうじゃ! ちょっくら前にも、みなさまで麦刈りを見に、馬でここんとこをお通りなされただよ。したが、今ごろはもうきっとうちにおいでなさりますだ。そりゃそうと、おまえさまがたは、どなたさまですね?……」
「おらたちゃあ遠くのもんだよ」と、御者台へあがりながら、御者はいった。「じゃあもう遠かねえんだね?」
「だからさ、すぐそこだといってるじゃねえか。走りだしたと思うと……」と彼は手で馬車の泥よけをいじりながらいった。
若い、健康そうな、ずんぐりとした若者も、同じようにそばへやって来た。
「おいよ、何かとり入れの仕事でもあるんじゃねえか?」と彼はきいた。
「おら、知らねえよ」
「だから、つまり、左のほうへ行きなさるだ、するとすぐ行き着くだよ」と百姓は、明らかにこの旅人たちを手ばなしたくない様子で、もっと話したそうにしながらいった。
御者は馬を進ませた。が、彼らがやっと道を曲がるか曲がらないかに、百姓が叫びだした――
「待ちなされ! これ、そこの衆、待ちなされてば」こうふたりの声が叫んだ。
御者は馬をとめた。
「みなさまこっちへ来なさるだよ! ほらあすこへ来なさるだよ!」と百姓は叫んだ。「見なされ、こっちへ来なさるだ!」と彼は、その道をやってくる、馬に乗った四人と、四輪馬車に乗ったふたりの人を指さしながら叫んだ。
それは、騎馬の従者をしたがえたウロンスキイと、ウェスローフスキイと、アンナとが馬上で、ワルワーラとスヴィヤーズスキイとが四輪馬車に乗って来たのであった、彼らは運動かたがた、新しく備えられた刈り取り機の運転を見に出かけたのであった。
馬車がとまると、騎馬の連中は歩調をゆるめて近づいて来た。まっさきにはアンナが、ウェスローフスキイとくつわをならべていた。アンナは、たてがみを刈りこんだ、しっぽの短い、背のあまり高くない、がっしりとしたイギリス種の馬に乗って、静かに歩ませていた。高い帽子の下から漆黒の髪のたれさがっている彼女の美しい頭、肉づきのよい肩、黒い乗馬服をつけた細い腰、おちついた優雅なその乗馬姿が、ドリーに心の目をみはらせた。
はじめ彼女には、アンナが馬に乗っているということが、不謹慎であるように思われた。ダーリヤ・アレクサーンドロヴナの見解では、女の乗馬という観念は、つねに、若い軽率なコケットリーの観念と一致した。そして、彼女の意見によると、それはアンナの境遇には、ふさわしくないものであった。が、お互いに近くなってからよく見ると、彼女はすぐ、その乗馬をも是認《ぜにん》してしまった。その優美さにかかわらず、その姿勢も、服装も、動作も、すべてが、何ものもこれ以上に自然ではありえまいと思われるほどに、単純で、おちついていて、気品があった。
アンナとならんで、気おいたった灰色の騎兵馬にまたがり、ふとった両足を前へつき出して、われとわが風姿を楽しむかの様子で、例のスコットランド帽にリボンをひらひらさせたワーセンカ・ウェスローフスキイが、乗って来た。ダーリャ・アレクサーンドロヴナは、彼をみとめると、快い微笑をおさえることができなかった。彼らのあとから、ウロンスキイが乗って来た。彼の下には、見るからにギャロップのためにいきりたっている良種の濃いくり毛馬があった。彼は、彼女をおさえるように、手綱をさばいていた。
彼のあとからは、騎手の服装をつけた小男が乗って来た。スヴィヤーズスキイと公爵令嬢とは、大きな黒毛のだく馬にひかせた新しい四輪馬車で、騎馬の人々に追いついて来た。
古ぼけたほろ馬車の一隅に身をおしつけるようにして乗っている小柄なひとの姿をドリーとみとめると、アンナの顔は、たちまち喜びの微笑で輝きわたった。彼女はああと叫んで、鞍の上で身ぶるいした。そしてギャロップで馬を駆った。馬車に近づくと、彼女は、だれの助けも借りないでひらりと馬から飛びおり、乗馬服のすそをかかげながら、ドリーのほうへかけよった。
「わたし、そうらしいとは思ったけれど、よもやという気もしましたのよ。ああ、なんてうれしい! わたしがどんなにうれしいか、あなたには想像もつかないくらいよ」と彼女は、ドリーに顔をおしつけて接吻したり、また急に離れて笑顔で彼女を見つめたりしながら、いった。「ああ、ほんとにうれしいわ、アレクセイ!」と彼女は、馬からおりて彼らのほうへ進んで来たウロンスキイをかえりみていった。
ウロンスキイは、山の高い灰色の帽子を脱いで、ドリーのそばへ歩みよった。
「わたくしどもがあなたのおいでをどんなに喜んでいるか、ちょっとお信じになれますまい」と彼は、一語一語に特別の意味をふくませて、微笑で丈夫そうな歯をみせながらいった。
ワーセンカ・ウェスローフスキイは馬からおりないで、帽子だけをとり、頭の上でうれしそうに例のリボンをうち振って、女客を歓迎した。
「あれはね、公爵令嬢ワルワーラですのよ」とアンナは、四輪馬車が近づいて来たときに、ドリーのたずねるようなまなざしに、こう答えた。
「ああ!」とダーリヤ・アレクサーンドロヴナはいった。と、彼女の顔は、心にもなく不満の色をあらわした。
公爵令嬢ワルワーラは、彼女の夫の伯母で、彼女は前から知っていたが、尊敬してはいなかった。彼女は、公爵令嬢ワルワーラがその全生涯を、裕福な親戚たちのあいだで食客として送ってきたことを知っていたが、彼女が今、彼女には他人であるウロンスキイのところで暮らしているということは、彼女が夫の身よりであるだけに、ドリーの気持をはずかしめた。アンナは、ドリーの顔色を読むと、当惑してまっ赤になり、うっかり乗馬服のすそを手からはなして、それにつまずいた。
ダーリヤ・アレクサーンドロヴナは、止められた四輪馬車のほうへ行って、公爵令嬢ワルワーラと冷やかにあいさつした。スヴィヤーズスキイもやはり知りあいであった。彼は変わり者の友人が若い妻とどんな暮らしをしているかをたずね、すばやい一瞥《いちべつ》で、不ぞろいな馬や、つぎはぎだらけの泥よけをつけたほろ馬車を見てしまうと、婦人たちに四輪馬車に乗ることをすすめた。
「そして、わたしがその馬車で行きますよ」と彼はいった。「馬はおとなしいし、公爵令嬢は馬のあつかいがお上手だから」
「いいえ、今までどおりでいらしてください」とそばへ来たアンナがいった。「わたしたちはほろ馬車でまいりますわ」そして彼女は、ドリーの腕をとって、連れさった。
ダーリヤ・アレクサーンドロヴナの目は、このりっぱな、まだ見たこともないような馬車や、これらのみごとな馬具、彼女の身辺をとり巻いているこれらの優美な、輝かしい人々の上をはせまわった。が、何よりも強く彼女を驚かしたのは、自分のよく知りかつ愛しているアンナのうちにおこっていた変化であった。これがもしもっと注意力のとぼしい、以前のアンナを知らない、とくにダーリヤ・アレクサーンドロヴナがみちみち考えてきたようなことを考えたことのないほかの女であったら、アンナのうちにかくべつ特殊なものをみとめるようなことはなかったであろう。しかし、いまドリーは、自分がアンナの顔にみとめた、恋をしているときにのみ女の顔にあらわれる、あの一時的な美しさにはっと胸をうたれたのであった。彼女の顔にあるすべてのもの――ほおに深くできるえくぼ、あご、くちびるのかっこう、顔のまわりを飛びまわっているように思われる微笑、目の輝き、動作の優美さと敏捷《びんしょう》さ、声音の豊かさ、それから、ウェスローフスキイが彼女の牝馬《めうま》にギャロップを右足から踏むように教えたいから乗らせてくれといったときに、怒ったように、しかも優しく答えた態度まで――すべてが、水ぎわだって魅惑的であった。そして、彼女自身もそれを知って、喜んでいるもののように思われた。
ふたりの婦人がほろ馬車に乗ったとき、ふたりともその心に急に混乱を感じた。アンナは、ドリーが自分を見ている例の注意ぶかい、いぶかしげなまなざしのためにまごついたのだし、ドリーは・スヴィヤーズスキイが馬車のことをあんなふうにいったあとなので、アンナが自分といっしょに乗ったこのきたない古馬車のことが、われにもなく恥ずかしく感じられたからであった。御者のフィリップと事務所の男も、同じ感情を経験していた。事務所の男は、自分の混乱をかくすために、婦人たちを助け乗せようとしてあたふたしたが、御者のフィリップは、気むずかしげな顔をして、こうした外見のりっぱさに負けたりしてはならないと、あらかじめ心がまえをした。彼は黒毛のだく馬を見て、早くも心のうちで、この四輪馬車をひいている黒馬どもは、ただ散歩用くらいによいだけで、とても暑いところをひと息に四十ウェルスターも駆け通せるものではないときめてしまい、にたりと皮肉な笑いをもらした。
百姓たちはみな農用車から立ちあがって、思い思いの批評をしながら、もの珍しげに、おもしろそうに、客人たちの出会いを見ていた。
「やっぱりうれしがってるだ、長いこと会わなかっただな」と、ぼだい樹の皮ではち巻きをした、ちぢれ毛の老爺がいった。
「のうゲラシムのおっさんよ、あの黒の種馬で穀束《こくたば》を運んだら、ずいぶんはかがいくだろうて!」
「見ろよ。あのもも引きはいてるのは女だろかのう?」と彼らのひとりが、女鞍《おんなぐら》に腰掛けているワーセンカ・ウェスローフスキイをさしながらいった。
「いいや、男よ。ほうれ、なんて上手に馬を追うだか」
「さあ、どうだの、みんな、もう昼寝でもあるまいのう?」
「もう昼寝どころかやい!」と老爺はいって、横目づかいに日ざしをながめた。「ほい、もう昼は過ぎただ! さあ鉤《かぎ》を持って出かけた出かけた」
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十八
アンナは、やせた、やつれた、|しわ《ヽヽ》のなかにほこりのたまったドリーの顔をながめて、自分が心に考えたこと、つまりドリーがやせたということをいおうとしたが、自分自身が美しくなっていること、ドリーのまなざしがそれを語っていることを思いだすと、ひとつほっとため息をついて、自分のことを話しはじめた。
「あなたはわたしを見て」と彼女はいった。「わたしがこんな境遇にいて、どうして幸福でいられるのだろうと、ふしぎに思っていらっしゃるのね? そうでしょう、でもね! こんなことをいうの、ずいぶん恥ずかしいのですけれど、わたし……わたしは申しわけのないほど幸福なんですのよ。わたしにはなにやらこう、夢のような、魔術のようなことがおこったんですわ。ちょうど、恐ろしさに息苦しくなって急に目をさましてみると、恐ろしいことなど少しもないのだということを感じる、あのときのような気持なんですの。わたしは夢からさめたんですわ。わたしは、苦しい恐ろしい生活を通ってきて、今ではもうずっと前から、とくにここへ来てからというもの、すっかり幸福になってしまいましたの!……」と彼女は、もの問いたげな、おずおずした微笑をうかべて、ドリーの顔を見ながらいった。
「わたしだって、どんなにうれしいでしょう!」と、心にもなく自分で思ったより冷淡な調子になって、ドリーは笑顔でこういった。「わたし、あなたのためにほんとにうれしいと思いますわ。どうしてお手紙をくださらなかったの?」
「どうしてって?……だってわたし、それまではしかねたんですもの……あなたはわたしの立場を忘れていらっしゃるのね……」
「このわたしに? しかねたんですって? もしあなたがごぞんじでしたらねえ、わたしがどんなふうに……わたしはね、こんなふうに考えておりますのよ……」
ダーリヤ・アレクサーンドロヴナは、今朝の自分の考えを言いだそうと思ったが、なぜか今は、それが場所がらでないように思われた。「けれど、そのことはまたあとでお話しますわ。これは、ここいらの建物はみんななんですの?」と彼女は、話題をかえようとして、アカシヤやライラックの生けがきの緑のかげにのぞいて見える、赤や緑の屋根をさしながらたずねた。「まるで小さな都会みたいね」
しかし、アンナはそれには答えなかった。
「ちょっとちょっと、だめよ! あなたはわたしの立場をどう考えていらっしゃるの? どんなふうに思っていらっしゃるの、え?」と彼女はきいた。
「わたしね……」とダーリヤ・アレクサーンドロヴナは言いかけたが、そのときワーセンカ・ウェスローフスキイが、例の牝馬《めうま》に右足から踏みだすギャロップをやらせて、短いジャケツにくるまったからだで、女鞍のなめし革に重そうな音をたてながら、彼女たちのそばを走り過ぎた。「うまくいきますよ、アンナ・アルカジェヴナ!」と彼は叫んだ。アンナは、彼のほうは見もしなかった。しかし、またしてもダーリヤ・アレクサーンドロヴナには、馬車のなかでこうした長話をはじめるのは、おもしろくないように思われたので、彼女は、自分の考えを省略してしまった。
「わたしはなんにも考えてなんかいませんわ」と彼女はいった。「ただわたしは、いつもあなたを愛していますの。ところで、人を愛するということは、ありのままのその人全体を愛するので、その人がこうであってくれたらということではないのですものね」
アンナは友の顔から目をはなし、それを細めて(これは、ドリーのまだ知らなかった彼女の新しい癖であった)、これらの言葉の意味を、よく了解しようとして考えこんだ。そして、どうやら思ったとおりにその言葉がとけたらしく、ドリーの顔をちらと見やった。
「もしあなたに罪があったとしても」と彼女はいった。「それは、あなたの来てくだすったことと、今のお言葉とですっかり消えてしまいますわ」
そしてドリーは彼女の目に、涙がうかんだのを見てとった。彼女は黙ってアンナの手を握った。
「それはそうと、この建物はなんですの? ずいぶんたくさんあるじゃありませんか!」と彼女は、短い沈黙の後に自分の問いをくりかえした。
「これはね、うちに勤めている者の住居や、工場や、厩《うまや》なんですの」とアンナは答えた。「そして、ここからが遊園地になっていますの。すっかり荒れてしまってたのを、アレクセイが手を入れてよくしたんですわ。あのひとは、ここの領地がたいへんお気にいりでしてね、わたしほんとに思いがけなかったんですけれど、あのひとは領地のことにすっかり熱中してしまいましたのよ。けれど、これはあのひとの豊かな性質なんですわ! あのひとは何をやっても、りっぱにやってのけますのよ。あのひとはあきるということを知らないばかりでなく、それは熱心にやるんですからねえ。あのひとは――わたしの知っているかぎりでは――綿密な、りっぱな主人になってしまいました。あのひとは、農事のことでは、つましくさえなってしまいましたのよ。でも、それはただ農事にかんしたことだけですの。何万ということになるとあのひとは、もう勘定なんかしなくなるんですのよ」と彼女は、女が自分にだけわかっている、愛人の秘密な性質を語る場合によく見せる、あのうれしそうな、ずるそうな微笑をうかべていった。「ほら、あそこに大きな建物が見えるでしょう?――あれは新しい病院なんですのよ。わたし、あれは十万ルーブリ以上かかるだろうと思っていますの。これが今のところあのひとの dada(道楽)なんですわ。それもね、どんなことがきっかけではじまったとお思いになって? あるとき、百姓たちが来て、牧場の草をもっと安くまけてくれと頼んだんですよ。ところが、あのひとがそれをことわったらしいので、わたしが吝嗇《けち》だといって責めたのです。むろん、そのためだけではありませんわ、いろんなことがいっしょになったからではありますけれど、とにかくあのひとは、自分がいかに吝嗇《けち》でないかを見せるために、あの病院を建てはじめたわけなんです。まあ、いってみれば c'est une petitesse.(こんなことはつまらないことです)でもわたしは、そのためにいっそうあのひとを愛していますの。ああ、もうすぐにうちが見えてきますわ。それは、いまだに祖父時代のままなんですのよ。あのひとは、外がわは少しも変えませんでしたから」
「まあ、なんてけっこうな!」とドリーは、庭の老樹の色とりどりな緑のあいだからのぞいている、円柱の立ちならんだりっぱな建物を、われにもなく驚きの目で見やりながらいった。
「ほんとにいいでしょう、ね? それに、あの家の二階からながめた景色がまたすばらしいのよ」
彼女らは、砂利が敷かれ、花で飾られ、そしてふたりの職人が、人工を加えない孔《あな》だらけの自然石で、くずれやすい花壇のふちをきずいていた庭へ、馬車を乗り入れた。そして、ひさしのある車寄せのなかへはいってとめた。
「ああもうみんな来ていますわ」とアンナは、入口の階段からひきはなされたばかりの乗馬を見やりながらいった。「ほんとに、いいでしょう、あの馬は? あれカップですのよ。わたしの愛馬ですわ。ここへ連れてきて、お砂糖をやってちょうだいな。伯爵はどこにいらっして?」と彼女は、走り出てきたふたりの接客係の従僕にたずねた。「ああ、あそこね?」と彼女は、ウェスローフスキイといっしょに自分のほうへ出てきたウロンスキイを見つけて、いった。
「あなたは公爵夫人をどこへお通しします?」と、ウロンスキイはアンナにフランス語でいったが、その返事は待たずに、もう一度ダーリヤ・アレクサーンドロヴナとあいさつして、こんどは彼女の手に接吻した。
「わたしはバルコンのある広間がいいと思うのだが?」
「まあ、いいえ、あすこは遠すぎますわ! それより、あの角《かど》部屋のほうがよろしいでしょう、そのほうがよけいお会いできますもの。では、さあまいりましょうよ」とアンナは、従僕がもってきた砂糖を自分の愛馬にあたえてから、いった。「Et vous oubliez votre devoir. (あなたはご自分の義務をお忘れですのね)」と彼女は、同じく入口階段へ出てきたウェスローフスキイにいった。
「Pardon, J'en ai tout plein les poches.(ごめんください、わたしはポケットにいっぱい持っておりますから)」と彼は、チョッキのポケットに指をつっこんで、にこにこしながらいった。
「Mais vous venez trop tard. (だって、いらっしゃりようがおそすぎましたわ)」と彼女は、馬が砂糖をなめてぬらした手を、ハンカチでぬぐいながらいった。
アンナはドリーのほうをふり返った――「ゆっくりお泊まりになれるんでしょう? それとも一日? そんなことはだめですわ!」
「でも、わたしそういう約束で来たんですもの、それに子供たちが……」とドリーは、ほろ馬車から手さげ袋を持って来なくてはならないことと、自分の顔がきっとほこりまみれになっているにちがいないと思うことから、なんとなく混乱した気持を感じながらいった。
「いいえ、ドリー、お姉さま……まあそれはそれとして。とにかく、まいりましょう、まいりましょうよ!」とアンナは、ドリーを彼女の部屋へ連れて行った。
その部屋は、ウロンスキイのいった表向きの客間ではなくて、ドリーなら許してくれるだろうとアンナがいったような部屋であった。しかも、その許しをこわねばならなかったほどの部屋ですら、ドリーなどの一度も住んだことのないような、そして、彼女に外国のりっぱな旅館を思いおこさせたほどの、ぜいたくにみたされた部屋であった。
「ほんとにねえ、あなた、わたしはどんなに幸福でしょう!」とアンナは乗馬服のままで、ちょっとのあいだ、ドリーのそばに腰をおろしながら、いった。「あなたも子供たちのことをお話になってちょうだいな。わたし、スティーワにはちょっと会いましたけれど。だってあのひとには、子供の話はできないでしょう。わたしの大好きなターニャはどうしていまして? すっかり大きくなったでしょうね?」
「ええ、すっかり大きくなりましたわ」とダーリヤ・アレクサーンドコヴナは、自分が子供のことをこんな冷淡な調子で答えているのに、われながら驚いて、簡単に答えた。「わたしたちはレーヴィンのところで楽しく暮らしておりますのよ」と彼女は言いたした。
「ああ、もしわたしがそのことを知っていたら」とアンナはいった。「あなたがわたしをさげすんでいらっしゃらないってことをね……あなたは、みなさんでいらしてくださればようござんしたのにねえ。だってスティーワは、アレクセイの古い親しいお友だちじゃありませんか」と彼女は言いたして、急にまっ赤になった、
「ええ、ですけれど、わたしたちはほんとにけっこう……」と、ドリーはどぎまぎしながら答えた。
「ああ、ほんとにわたしったら、うれしまぎれにつまらないことばかりいっていて。ただねえ、あなた、わたしあなたにお目にかかれて、こんなうれしいことありませんのよ!」とアンナは、またしても彼女に接吻しながらいった。「それはそうと、あなたはまだわたしのことを、どんなふうに、どう考えていらっしゃるか、話してくださいませんでしたわね。わたしはどうしてもそれがうかがいたいのよ。だけどわたしには、あなたがありのままのわたしを見てくださるのが、何よりの喜びですわ。わたしは、なにはともあれ人さまに、わたしがなにか証明《あかし》でもたてようとしているように思われたくはないんですの。わたしは、何ひとつそんな証明《あかし》をたてようなどとは思っていません。わたしはただ、生きたいと思っているだけですわ。自分以外のどんな人にも、わるいことをしたくないと思ってるだけですわ。わたしにだって、それくらいの権利はありますわね、そうじゃありませんか? ですけれど、このことはちょっとでは話しきれませんわ、ですから何もかも、あとでゆっくりお話いたしましょうよ。では、わたしちょっと、着がえをしてまいりますからね。そして、こちらへはすぐ小間使をよこしますから」
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十九
ひとりになると、ダーリヤ・アレクサーンドロヴナは、主婦としての目で自分の部屋をながめまわした。すべてのもの――彼女が家のほうへ近づきながら見、そのなかを通りながら見、今また自分のこの部屋で見たすべてのものは、彼女の心に、ただイギリスの小説で読んだ以外、かつて一度もロシヤでは、ことにこんな田舎では、ついぞ見たこともないような、新しいヨーロッパ風のぜいたくと、華美《かび》と、豊富との印象を刻みつけた。フランス製の新しい壁紙から、部屋じゅうに敷きつめられた絨毯《じゅうたん》にいたるまで、すべてが新しいものずくめであった。ベッドはばね仕掛けで、そこには小さい敷きぶとんと、特別な枕《まくら》ぶとんとが備えてあり、重ねた小さいクッションの上には、カナウソ絹の枕かけがかけてあった。大理石の洗面器、化粧テーブル、小さいソファ、テーブル、壁炉《かべろ》の上の青銅の時計、窓かけ、ドアかけ、――何もかもが、高価な、新しいものばかりであった。
なんでも用を言いつけてもらうようにといってきたおしゃれな小間使は、髪の結《ゆ》いかたから服装まで、ドリーよりもずっとモダンで、その部屋全体と同じく、新しく、高価なものであった。ダーリヤ・アレクサーンドロヴナには、この小間使のていねいなこと、清楚《せいそ》なこと、親切なことが快かったが、彼女といっしょにいることは、なんとなく気づまりであった。運わるくまちがって入れてきた、つぎのあたったジャケットが彼女にたいして恥ずかしかったのである。自分の家ではあんなにも誇らしく思っていた、そのつぎやつくろった個所が、ここでは恥ずかしかったのである。家では、六枚のジャケットを拵《こしら》えるには六十五カペイカずつの生地が二十四アルシンいる、つまり、仕立てや飾りを別にしても、十五ルーブリ以上の金がかかる、その十五ルーブリが倹約されているのだ――こういうことがはっきりしていた。それが、この小間使の前では、恥ずかしいというのでもないが、なんとなく|ばつ《ヽヽ》がわるかったのである。
ダーリヤ・アレクサーンドロヴナは、古いなじみのアーンヌシカが部屋へはいって来たときには、心《しん》そこ助かったような気がした。おしゃれな小間使は、奥さまのほうへ呼ばれて行ったので、ダーリヤ・アレクサーンドロヴナは、アーンヌシカとふたりきりになった。
アーンヌシカは明らかに、夫人の来訪をひどく喜んでいる様子で、ひっきりなしにしゃべりつづけた。ドリーは、この女が女主人の身の上について、とりわけアンナ・アルカジエヴナにたいする伯爵の愛と信服とについて、自分の意見を述べたがっていることに気がついたが、相手がそのほうへ話を持っていくと、つとめてそれをさえぎるようにした。
「わたくしはアンナ・アルカジエヴナとごいっしょに育ちましたので、わたくしにはもう奥さまが何より大切なのでございます。そりゃもう、わたくしどものとやかく申すことではございません。けれど、なにしろあんなに思い……」
「ではね、すまないけれど、これを洗たくに出してもらいたいのだけれど」と、ダーリヤ・アレクサーンドロヴナは、彼女の言葉をさえぎった。
「かしこまりました。こちらのお邸では、洗たくだけにふたりの女が別に雇ってあるのでございますが、白い物はみんな機械でいたしますんでございますよ。伯爵はどんなことでもご自分で、いろいろおさしずなさいますので、ほんとに珍しいだんなさまで……」
ドリーは、アンナがはいって来て、その来たことでアーンヌシカのおしゃべりを中絶させてくれたことをうれしく思った。
アンナは、きわめてあっさりとした細麻の服に着がえていた。ドリーは注意して、このあっさりとした服を見た。彼女はこの淡泊《たんぱく》さが何を意味し、それにどれだけの金がかかっているかを知っていた。
「古いおなじみですわね」とアンナは、アーンヌシカのことをいった。
アンナは今はもう、心を乱されてはいなかった。彼女はすっかり自由な、おちついた人になっていた。ドリーは、彼女がいまはもうまったく、自分の来訪が彼女にあたえた感動からぬけ切って、彼女の感情やまことの心のしまわれてある胸のとびらをとざしてしまったような、うわっつらな、よそよそしい調子になっているのをみとめた。
「それはそうと、あなたの女のお子さんはどうなすって、アンナ?」とドリーはきいた。
「アニーですか?(彼女は自分の娘のアンナをそう呼んでいた)丈夫でおりますわ。たいへんよくなりましてね。あなた、あれを見てやってくだすって? ではまいりましょう、お目にかけますわ。ほんとにあの子ではいろいろ心配させられましたのよ」と彼女は話しはじめた。「乳母《うば》のことでね。わたしどもではイタリア人の乳母をおいたんですのよ。いい女なんですけれど、お話にならないおばかさんでね! わたしたちは返してやろうと思ったんですけれど、あの子がすっかりなついてしまっているので、やっぱりまだおいてありますの」
「ときに、あなたがたはどうなすって?……」とドリーは、その小さい娘がどちらの姓を名のることになるかをたずねようとしかけたのだったが、アンナの顔が急にさっと曇ったのをみとめて、急いで質問の意味をかえた。「どうなすって? もうお乳はおはなしになって?」
しかし、アンナは気がついた。
「あなたは、そんなことをおたずねになるおつもりではなかったんでしょう? あの娘《こ》の苗字《みょうじ》のことを、おたずねになりたかったんでしょう? そうでしょう? そのことでは、アレクセイも苦しんでるんですわ。あの娘《こ》には苗字がありません。つまり、あの娘はカレーニン家の者なんですもの」とアンナは、とじあわされたまつ毛だけしか見えないほどに、思いきり目を細めていった。「ですけれど」と急にまた顔を輝かして、「このことは何もかも、あとでよくお話いたしましょうよ。それより、さあまいりましょう。わたし、あなたにあの娘《こ》をお目にかけますわ、Elle est tres gentille.(それはかわいらしいんですのよ)もう、はいはいができますの」
子供部屋では、家じゅうどこへ行ってもダーリヤ・アレクサーンドロヴナを驚かしたぜいたくが、ひときわ彼女を驚かした。そこには、イギリスから取りよせたおもちゃの車も、歩くことを教える器械も、はいまわるのにつごうよくつくられた玉突き台ふうの長いすも、ゆりかごも、特殊な新しい浴槽《よくそう》までもあった。これらはすべてイギリス製の、堅牢な、できのよい、明らかに非常に高価なものであった。部屋は大きく、非常に高くて、明るかった。
彼女たちがはいって行ったとき、女の子は肌着一枚で、テーブルのそばの小さい肘掛けいすの上にすわり、胸じゅうぬらしながら、スープをすすっていた。子供部屋づきのロシヤ人の女中は、その子をやしなってやりながら、どうやら自分もいっしょにたべていた様子であった。乳母も保姆《ほぼ》もいなかった。ふたりは隣室にいて、そこから彼らの奇妙なフランス語の話し声が聞こえていた。この女たちは、そうした言葉でやっとお互いの意志を通じあうことができるのだった。
アンナの声を聞きつけると、しゃれたなりをした、背の高い、不快な顔つきと不純な表情をしたイギリス女が、明色の巻き毛を振りたてながら、あわただしく、戸口へはいって来て、アンナがべつにとがめだてもしないのに、すぐさま自分の弁解をはじめた。アンナがひと言いうたびに、このイギリス女は、急いで何度もこういうのだった。――「yes, my lady.(はい、さようで、奥さま)」
眉毛の黒い、髪の黒い、|とり《ヽヽ》肌の、健康そうな、赤いからだをした、血色のいい女の子は、見なれない顔を見たときの、そのむずかしい表情にもかかわらず、すっかりダーリヤ・アレクサーンドロヴナの気にいってしまった。彼女は、その子の健康そうな様子をうらやみさえしたほどであった。この子のはいまわる様子もまた、たいへん彼女の気にいった。彼女の子供は、ひとりもこんなふうにははわなかった。この子が絨毯《じゅうたん》の上へすわらされて、着物のうしろをはしょられたときには、なんともいえないかわいらしさだった。彼女は小さい野獣のように、その光る黒い目でおとなたちを見まわし、明らかに自分が愛玩《あいがん》されていることを喜んでいる様子で、にこにこしながら、両足を横のほうへ投げだし、両手を勢いよく前へつっぱり、すばやく胴体をそのほうへ引きよせては、ふたたび手を前のほうへおきかえるのだった。
しかし、子供部屋全体の空気、わけてもイギリス女は、ダーリヤ・アレクサーンギロヴナにはひどく気にいらなかった。ただ、今のアンナの家庭のような、こうした正常でない家庭へは、りっぱな婦人は来ないにちがいないという理由によってのみ、ダーリヤ・アレクサーンドロヴナは、人を見る目をもったアンナがどうしてこんなにも感じのわるい、いやしげなイギリス女をわが子のために雇っておくのかという疑問に、やっと自分に答えることができた。そればかりでなく、ふた言み言話すうちに、たちまちダーリヤ・アレクサーンドロヴナは、アンナと、乳母と、保姆と、子供とが、互いにしっくりいっていないこと、母親のここへくることがきわめてまれであることを見てとった。アンナは、子供におもちゃをとってやろうとしたが、それを見つけることさえできなかった。
何より驚かれたのは、この子には歯が何枚生えているかという問いにたいして、アンナがまちがった答えをし、最近に生えた二枚の歯のことを、ぜんぜん知らなかったことであった。
「わたしはときどき情けない思いをすることがあるんですのよ、ここでは、自分がまるでよけい者のような気がしたりしましてね」と、アンナは子供部屋を出ながら、戸口にあったおもちゃを避けるために、長すそをかかげながらいった。「はじめの子のときは、こんなふうじゃなかったんですけれど」
「わたしはまた、反対のことばかり考えておりましたのよ」とダーリヤ・アレクサーンドロヴナは、おくびょうらしい調子でいった。
「ところが大ちがい! あなたはごぞんじでしたわね、わたしがあの子に、セリョージャに会ったことは」とアンナは、何か遠くのものでも見るように目を細くして、いった。「ですけれど、このことはあとでゆっくりお話しましょう。あなたはおわかりにならないかもしれないけれど、わたしは今ちょうど、急に山ほどのごちそうを出された飢えた人と同じなんですよ。まるで何から手をつけていいかわかりませんの。山ほどのごちそうというのは、それはあなたと、あなたに向かってこれからしようという、今まではだれともできなかったお話のことですのよ。じっさいわたしは、何から話していいかわからないんですわ。Mais je ne vous ferai grace de rien(けれど、わたしは何も遠慮しているわけじゃありませんのよ)わたしは、何もかもお話しなければなりませんの。そうね。まずあなたがここでお会いになる人たちのことを、ひと通り、お話しなければなりませんわね」と、彼女は話しはじめた。「婦人のほうから申しましょうね。公爵令嬢ワルワーラ。あなたはごぞんじでしたわね。わたしもあのかたについてのあなたのお考えや、スティーワの考えを知っていますわ。スティーワは、あのかたの生きている目的はただカテリーナ・パーヴロヴナおばさまにたいする自分の優越を証明したいばかりだといっています。それはまったくそうですわ。けれど、あのかたはいい人です、それにわたしは、あのかたにとても感謝していますの。ペテルブルグにいましたとき一度わたしに、どうしても un chaperon(付添い夫人――若い婦人が公開の席などへ出るとき必要なもの)の必要だったことがありましたの。そのとき、ちょうどあのかたが現われたってわけですわ。でも、ほんとにあのかたはいいかたですわ。あのかたは、わたしの境遇の苦しさをずいぶん軽くしてくださいましたわ。たぶんあなたには、わたしの境遇の苦しさはおわかりにならないでしょうけれどね……ほら、あの、ペテルブルグにいたときの、ね」と彼女は言いたした。「ここではわたしはすっかりおちついて幸福でおります。ですけれど、これも後にいたしましょう。ほかのかたたちのことをお話しなくてはなりませんからね。こんどはスヴィヤーズスキイ――このかたは貴族長で、非常にりっぱな人ですが、何かアレクセイに頼みごとでもおありになるご様子なんですのよ。こうして田舎に住むようになった今では、あの財産のおかげで、アレクセイはたいへんな勢力をもつようになってしまったんですわ。それから、トゥシュケーヴィッチ――この人は、あなたもごぞんじですわね。ベーッシにつきまとっていた人で、今では見はなされて、わたしどもへ来ていらっしゃるんですのよ。この人は、アレクセイにいわせると、自分で見せかけようとなさるとおりに受け取っておけば、たいへん愉快な人のひとりだそうですし、公爵令嬢ワルワーラにいわせると、et puis, il est comme il faut(だから、りっぱな人)なんだそうですわ。つぎはウェスローフスキイ――このかたも、あなたごぞんじですわね。たいへんかわいらしいお坊ちゃん」と彼女はいった。と、ずるそうな微笑が、彼女の口辺に刻まれた。「それはそうと、レーヴィンとのあの野蛮な話は、いったいどうしたことなんですの? ウェスローフスキイがアレクセイにお話になったんですけれど、わたしたちには信じられませんでしたわ。Il est tres gentil et naif.(あのひとはほんとにおとなしい無邪気な人なんですものね)」と、彼女はふたたび同じ微笑をうかべながらいった。「殿がたには気ばらしというものが必要なので、アレクセイにもいろんな人が必要なんですわ、ですから、わたしはこういう人たちを、みんな大切にしていますの。つまりね、わたしは家庭を、いつもいきいきとにぎやかにしておかなければなりませんのよ、アレクセイがなんにも新しいものを望んだりしないように。それから、もうひとり執事がおりますわ。とてもいいドイツ人で、自分の仕事をよく知っておりますの。で、アレクセイは、この人をとても大切にしております。それから、お医者、若い人で、根っからのニヒリストというのではないんですけれど、でもナイフでものをたべるんですのよ……けれど、たいへんいいお医者なんですわ。それから建築師……Une petite cour.(ちょっと小さな宮廷ですわね)」
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二十
「さあおばさま、ドリーをお連れ申しましてよ、あなたがあんなに会いたがっていらしった」とアンナは、ダーリヤ・アレクサーンドロヴナとつれだって、大きな石のテラスへ出ながら、いった。そこには、日かげのところに、刺繍台《ししゅうだい》を前にして、アレクセイ・キリーロヴィッチ伯爵のために肘掛けいすのカバーを刺繍しながら、公爵令嬢ワルワーラが座をしめていた。「このひとは晩餐までは何もほしくないなんていってらっしゃるんですけれど、何かちょっとでもさしあげるように、言いつけてくださいましな。わたしはアレクセイをさがしに行って、みなさんをお連れしてまいりますから」
公爵令嬢ワルワーラは、やさしく、いくらか保護者気どりの態度でドリーを迎えて、さっそく彼女に、自分がアンナのところへ来ているのは、自分の姉カテリーナ・パーヴロヴナ、あの、アンナを育てあげた婦人以上に、つねに彼女を愛していたからである。ことに、すべての人がアンナを見捨ててしまった今は、この最も苦しい、過渡的な時期における彼女を助けることを、自分の義務と考えたからであると、説明しはじめた。
「そのうちには、夫があれを離縁してくれましょうからね。そうすれば、わたしはまた、自分のひとり住まいへ帰ります。けれど今は、わたしが役にたつこともありますから、それがどんなにつらいことだろうと、わたしは自分の義務をつくすつもりでいるんですよ。なんといっても、他人とはちがいますからね。それにしても、あなたはお優しい、ほんとによく来てやって下さいましたよ! ふたりはほんとに、一ばんいい夫婦のように暮らしておりますよ。ふたりをさばくのは神さまで、わたしどもではありません。だって、ピリニゾーフスキイとアヴェーニェワだって……ニカンドロフだって、ワシーリエフとマモーノワだって、リーザ・ネプトゥーノワだって……みんなそうだったじゃありませんか。それでも、だれひとりあの人たちのことをいう者はなかったんですもの! そしてけっきょくは、だれもがあの人たちと交際することになってしまいました。それに、c'est un interieur si joli, si comme il faut. Tout-faita a l'anglaise. On se reunit le matin au Breakfast et puis on se separe.(この家にはたいへん楽しい、礼儀にかなったふうが行なわれております。まったくのイギリスふうなのですよ。朝、食事のときに、みんな顔をあわせて、それからてんでに別れてしまいます)そして、晩餐のときまではみんなめいめい好きなことをします。晩餐は七時です。スティーワがあなたをここへよこしたのはほんとに上|でき《ヽヽ》だったんですよ。あのひとには、ここの人たちの力を借りることも必要ですからね。あなたもごぞんじでしょう、あのひとは、お母さんや兄さんを通して、どんなことでもできる地位にあるんですから。それで、あのひとたちは、いろいろいいことをしていますよ。あのひとはあなたにまだ病院のことを話しませんでしたか? Ce sera admirable(りっぱなものができましょうよ)――何もかもパリから取りよせてるんですものね」
ふたりの話は、球突き室で男たちの一団を見つけて、彼らとつれだってテラスへもどってきたアンナによって、とぎらされた。晩餐までには、まだだいぶ時間があったし、それに天気もよかったので、残った二時間をすごすために、いろんな方法がもちだされた。時間をつぶす方法は、ヴォズドゥヴィジェンスコエにはいくらでもあった。そしてそれらはみな、ポクローフスコエで行なわれているものとは、すっかりおもむきをことにしていた。
「Une partie de lawn tennis.(ローンテニスをひと勝負)」とウェスローフスキイは、例の美しい微笑をうかべながら提議した。「またふたりで組になりましょう、アンナ・アルカジエヴナ」
「いや、暑いから、それよりも少し庭を歩いて、ボートを出して、ダーリヤ・アレクサーンドロヴナに川岸を見せてあげるほうがいいだろう」とウロンスキイが言いだした。
「わたしはなんでも賛成です」と、スヴィヤーズスキイはいった。
「わたしはまた、ドリーには散歩が一ばんいいだろうと思いますわ。ねえ、そうじゃなくって? そして、それからボートに乗りましょうよ」とアンナはいった。
で、そういうことに話がきまった。ウェスローフスキイとトゥシュケーヴィッチとは水浴場へ行き、そこでボートの用意をして、待っていると約束した。
彼らはふた組になって小道を歩きだした――アンナはスヴィヤーズスキイと、ドリーはウロンスキイと。ドリーは、自分が今そのなかへはいってしまった、自分にとってまったく新しい周囲のために、いくらかどぎまぎして、不安な気持をおぼえていた。抽象的、理論的には、彼女はアンナの行為を是認したばかりでなく、はげますような気持にさえなっていた。道徳的な生活の単調に疲れた、一点非のうちどころもない貞淑な女によくあるように、彼女は遠くから、罪深い恋を許したばかりでなく、それをうらやみさえしていたのである。そればかりでなく、彼女はまた、心からアンナを愛していた。しかし現在目の前に彼女を、これらの、彼女にとっては他人であり、ダーリヤ・アレクサーンドロヴナにとっては新しい、上品な調子にみたされているような人々のあいだに見いだしてみると、彼女はなんとなく|ばつ《ヽヽ》のわるい気がしないではいられなかった。わけても彼女に不愉快だったのは、自分の利用している便宜のためにすべてを許しているような、公爵令嬢ワルワーラを見ることであった。
つまり、抽象的にはドリーは、アンナの行為を是認していたのであるが、アンナがこうした行為に出た相手の男を見ることは、彼女にとっては不愉快であった。そのうえ、ウロンスキイは、昔から彼女の気にいらなかった。彼女は彼をひどく傲慢《ごうまん》な男だと考えて、彼のうちに、富以外に何ひとつ誇るに足るもののあることをみとめていなかった。ところが、ここ、彼自身の家にあっては、心にもなくその男は、前にもまして彼女に圧迫をくわえるかたちになり、しぜん彼といっしょにいては、彼女は自由な気持でいることができなかった。彼女は彼にたいして、さきほどジャケットのことで小間使にたいして経験したと同じような感情を、経験した。彼女には、その|つぎ《ヽヽ》のあててあることが、小間使にたいしてかくべつ恥ずかしいというわけではなかったけれど、しかし、なにやらぐあいがわるかった。それと同じように、彼といっしょにいると、自分自身というものが、恥ずかしいというのではないが、なにやらたえず|ばつ《ヽヽ》のわるい気がしてならなかったのである。
ドリーは、自分のどぎまぎしていることを感じていたので、しきりに話題をさがし求めた。彼女は、彼の傲慢《ごうまん》から推して、この家や庭園などをほめることはきっと彼を不快にするだろうと思ったけれど、ほかに話題が見つからなかったので、しかたなく、自分にはこの家が非常に気にいったと彼に言いだした。
「ええ、これはたいへん美しい建築ですよ。ことにそのおちついた古風な様式がね」と彼はいった。
「わたくしには、あの正面の階段前のお庭がすっかり気にいってしまいましたの、あれは昔からあのとおりだったのでございますか?」
「いや、どうしまして!」と彼はいった。その顔は満足の色で輝いた。「あの庭をこの春お目にかけたかったですなあ!」
そして彼は、初めは控えめがちだったが、やがてしだいに夢中になって、家と庭の装飾のさまざまな細かい点にまで、彼女の注意をうながしはじめた。ウロンスキイは、自分の荘園《しょうえん》の改良と装飾に多くの力をささげてきたので、新しい客にたいしては、それを誇らずにいられない様子で、ダーリヤ・アレクサーンドロヴナの賛辞をも心から喜んだのであった。
「もしちょっとでも病院をごらんになる気がおありでしたら、そして、お疲れでありませんでしたら、それほど遠くはないのです。おともしましょう」と彼は彼女の顔をのぞきこんで、彼女がじっさいたいくつしていないかどうかを確かめようとしながら、いった。
「おまえは行くかね、アンナ?」と彼は、彼女のほうをふり向いた。
「わたくしどももまいりましょう。よろしいでしょう?」と彼女は、スヴィヤーズスキイをかえりみていった。「Mais il ne faut pas laisser pauvre Veslovsky et Toushkievitch se morfondre Ia dans le bateau.(けれどウェスローフスキイやトゥシュケーヴィッチを、あの舟のなかで待ちぼうけさせちゃお気の毒ですわね)あのひとたちにもそういってあげなくてはいけませんわ。――ええ、これはあのひとがいま建てかけている記念碑ですのよ」とアンナは、さっき病院のことを話したときに見せたと同じ、のみこみ顔のずるそうな微笑をうかべて、ドリーのほうをふり返りながらいった。
「いや、なかなかの大事業ですなあ!」とスヴィヤーズスキイはいった。が彼は、ウロンスキイに調子を合わせているように思われないために、すぐさま、軽い非難の言葉を言いそえた。「わたしはしかし、ふしぎに思っているんですがね、伯爵」と彼はいった。「あなたは農民のために、衛生的方面ではこれほど多くのことをされていながら、学校にたいしては、いっこう、むとんじゃくでいらっしゃる」
「C'est devenu tellement commun, les ecoles.(学校なんかあまり月なみになってしまいましたよ)」」」と、ウロンスキイはいった。「しかし、なんですよ、だからどうというわけではなく、ついこうなってしまったので、要するに、わたしが夢中になってしまったのですよ。病院へはこちらの道を」と彼は、並木道からわきへそれる小道をさしながら、ダーリヤ・アレクサーンドロヴナのほうへ顔を向けた。
婦人たちは日がさをひらいて、横手の小道へはいって行った。いくつかの角を折れまがり、木戸口から外へ出ながら、ダーリヤ・アレクサーンドロヴナは、前方の小高いところに、もう九分通りできあがっていた、大きな、りっぱな、こった型の建物を見いだした。まだ塗られてない鉄屋根は、強烈な日光に、まぶしいほどきらきら光っていた。もうできあがった建物のそばに、いまひとつ足場にかこまれた建物が建ちかかっていて、前掛けをした職人たちは、足場の上でれんがを重ね、桶《おけ》からしっくいをそそいでは、それをこてでならしていた。
「こちらではずいぶん仕事がはかどりますね!」とスヴィヤーズスキイがいった。「わたしがこのまえ伺ったときには、まだ屋根はできていませんでしたがなあ」
「秋までにすっかりできあがるだろうと思いますの。内部はもうほとんどできあがっているんでございますから」とアンナがいった。
「が、あの新しいほうはなんですか?」
「あれは医者の住居と薬局ですよ」とウロンスキイは答えたが、そのとき、短外套を着た建築師が自分のほうへやってくるのを見つけると、婦人たちにえしゃくして、そのほうへ進んで行った。
労働者たちが石灰を運び出していた石灰坑《せっかいこう》をぐるりとまわると、彼は建築師といっしょに立ちどまって、なにやら熱心に話しはじめた。
「破風《はふ》がまだやはり低いんだよ」と彼は、どうしたのかとたずねたアンナに答えた。
「だから、わたしが申しあげたじゃありませんか、土台をあげなければいけないって」と、アンナはいった。
「いや、もちろん、そのほうがよろしかったんでございますよ。アンナ・アルカジエヴナ」と、建築師はいった。「しかし、もういたしかたがございません」
「ええ、わたしはこういうことに、たいへん興味をもっておりますのよ」とアンナは、彼女の建築上の知識にたいして驚きを表明したスヴィヤーズスキイに答えた。「あの新しい建物は、病院とつり合うようにしなければいけなかったんですわ。ところが、なにしろ、あとからの思いつきで、設計なしではじめたものですからね」
建築師との話をすますと、ウロンスキイは婦人たちのほうへもどって来て、彼らを病院のなかへ案内した。
外部はまだ軒《のき》じゃばらをつけつつあるところだったし、階下《した》のほうはペンキを塗っているさいちゅうだったが、二階のほうはもうほとんどできあがっていた。広い鋳鉄《ちゅうてつ》の階段を階上の広場へと、あがって行きながら、彼らはとっつきの大きな部屋へはいった。壁は大理石まがいにしっくいが塗られ、窓にはもう大きな一枚ガラスがはめられて、ただはめ木の床が、仕上っていないだけであった。そして、立てかけた角板にかんなをかけていた指物師たちは、頭にはち巻きしていた紐《ひも》をとり、主人たちにあいさつするために、仕事の手をとめた。
「これは応接間です」と、ウロンスキイはいった。「この部屋には、デスクとテーブルと戸だなのほか何も置かないつもりです」
「こちらへ、ここへはいりましょう。窓のそばへおよりにならないでね」とアンナは、ペンキがかわいたかどうかをためしてみながら、いった。「アレクセイ、ペンキはもうかわきましたわ」と彼女は言いたした。
応接間から彼らは廊下へ出た。そこでウロンスキイは、新式の換気装置を見せた。それから、大理石の浴槽や、特別の|ばね《ヽヽ》のついたベッドを見せた。つぎには、ずらりとならんでいる病室を、貯蔵室を、洗たく物を入れておく室を、それから新式の暖炉を、必要な品をのせて廊下を運んでも少しも音を立てないようなターチカ(一輪車)を、そのほかいろんなものを見せた。スヴィヤーズスキイは、すべての新しい改良品に目のある人だけに、あらゆるものに感心した。ドリーは、これまで一度も見たことのないものに、ただただ驚嘆するばかりであった。そして、すべてのことを知ろうとして、いちいち細かに質問したが、それがまたウロンスキイには非常な満足をあたえるのだった。
「いや、おそらくこれができあがったら、それこそロシア唯一の、設備の完備した病院になることでしょうな」とスヴィヤーズスキイはいった。
「で、あの産室は、お拵《こしら》えにならないんですの?」とドリーはきいた。「田舎ではそれがたいへん必要でございますがね。わたくしはたびたび……」
と、ウロンスキイは、いつものいんぎんさにも似ず、彼女の言葉をさえぎった。
「これは産院ではなくて、病院ですからな。そして、伝染病以外のあらゆる病気のために建てられたものですからな」と彼はいった。「まあひとつ、これをごらんください……」と彼は、回復期にある患者用として新しく取りよせた車つきいすを、ダーリヤ・アレクサーンドロヴナのほうへ押しやった。「こういうわけですよ」と、彼はそのいすに掛けて、それを動かしはじめた。「まだ衰弱がとれないとか、足の病気とかで歩くことのできない人が、外気を吸う必要のある場合には、これに乗って自分で動かして行けばいいんです……」
ダーリヤ・アレクサーンドロヴナはすべてのものに興味を感じ、すべてのものが非常に気にいったが、なかでも最も彼女の気にいったのは、こうした自然な、無邪気な熱中ぶりを見せた、ウロンスキイその人であった。『そうだわ、これはたいへんかわいい、いい人だわ』と彼女は、どうかすると、彼のいっていることはうわの空で、彼の顔を見て、その表情に注意しながら、心のうちで自分をアンナの地位においてみながら、考えるのだった。彼は、いまやそのいきいきとした様子で、すっかり彼女の気にいってしまったので、彼女は、アンナが彼を思いつめた理由をも、なるほどと了解した。
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二十一
「いや、奥さんはお疲れだったろうし、また馬などには興味がおありなさるまい」とウロンスキイは、新しく買った牡馬《おうま》をスヴィヤーズスキイが見たいというので、育馬場へ行こうと言いだしたアンナにいった。「じゃあ、ふたりで行ってきなさい、わたしは奥さんを家のほうへお送りして、少しお話でもしていよう」と彼はいった。「もしあなたさえ、およろしかったら?」と、彼は彼女のほうへ顔を向けた。
「わたくしは、馬のことはなんにもわかりませんから、そのほうがたいへんけっこうでございます」とダーリヤ・アレクサーンドロヴナは、いくらかびっくりしたような調子でいった。
彼女は、ウロンスキイの顔つきで、彼が自分に用のあるらしいのを見てとったのだった。彼女は誤らなかった。木戸を通ってふたたび庭のなかへはいるとすぐ、彼はアンナの行ったほうをふり返って、彼女がもう自分たちを見ることもできなければ、聞くこともできないのを確かめてから、こうきりだした。
「わたしがあなたにお話したいことのあるのは、もうお察しくだすっていることと思います」と彼はえみをふくんだ目で、彼女の顔を見やりながらいった。「わたしがあなたをアンナの親友だと信じていることも、まちがいでないと思います」と彼は帽子を脱いで、ハンケチを取り出し、そのはげかかった頭をふいた。
ダーリヤ・アレクサーンドロヴナはなんとも答えないで、ただびっくりしたように彼を見ていた。彼とふたりきりになってみると、彼女は急に恐ろしくなってきた――彼のえみをふくんだまなざしと、きびしい顔の表情とが、彼女を恐れさせたのだった。
彼が彼女にいおうとしていることがらについての、きわめて雑多な想像が、彼女の頭にひらめいた。――『この人はわたしに、子供をみんな連れて、こちらへひき移って来てくれなどと、言いだすのじゃないかしら。もしそんなことがあったら、わたしはどうでもことわらなきゃならない。それともまたわたしに、モスクワでアンナのためのサークル(社交界)をつくってくれとでもいうつもりかしら……それともまた、ワーセンカ・ウェスローフスキイのこと、あのひとのアンナにたいする態度とでもいったようなことではないだろうか? が、ひょっとすると、キティーのことであるかもしれない。キティーにたいして自分の罪を感じているというようなことであるかもしれない?』彼女は、とかく不愉快なことばかり予想したが、彼のいおうとしていることは、推測することができなかった。
「あなたはアンナにたいして非常な勢力をもっておいでですし、あれも、あなたを非常に愛しています」と彼はいった。「どうぞわたしにその力をお貸しください」
ダーリヤ・アレクサーンドロヴナは、もの問いたげなおずおずした様子で、彼の精力的な顔を見ていた。その顔は、ときには全部、ときにはところどころ、ぼだい樹の葉かげをもれる日の光に照らされたり、ふたたびかげに暗くされてしまったりした。そして彼女は、彼がさきをいうのを待っていたが、彼はステッキで砂利をかきまわしながら、黙って彼女とならんで歩いた。
「アンナの以前のお友だちのなかの唯一の婦人であるあなた、――ワルワーラ公爵令嬢、あれは別です、――そのあなたが、わたしどもをお訪ねくだすったのはですね、それはあなたが、わたしどもの立場を正常なものとお認めくだすったからではなくて、こうした境遇の苦しさを十分ご了解くだすったうえで、依然としてあれを愛して、あれを助けてやろうとお思いになって、それで来てくだすったことと、わたしは解釈しております。いかがでしょう、この解釈はあたっておりましょうか?」と彼は、彼女をかえりみながらきいた。
「はあ、そうでございますわ」日がさをすぼめながら、ダーリヤ・アレクサーンドロヴナは答えた。「ですけれど……」
「いや」と、彼は彼女をさえぎった。彼は、そんなことをすれば相手をぐあいのわるい位置に立たせることになることを忘れて、無意識にそこへ立ちどまってしまった。で、彼女もつい歩みをとめないではいられなかった。「だれにしろ、アンナの境遇のつらさ苦しさを、わたし以上に強く深く感じている者はありませんよ。あなただって、もしわたしをハートのある人間だと思ってくださりさえすれば、それはよくおわかりくださることと思います。こうした境遇をつくった原因は、わたしにあるのです。そしてわたしは、痛切にそれを感じています」
「ええ、よくわかりますわ」とダーリヤ・アレクサーンドロヴナは、彼がこういうことを、非常にまじめな、しっかりした調子で言いだした様子に、われ知らず見とれながら、いった。「ですけれど、それは、あなたがいつもご自分が原因だとばかり思っていらっしゃるので、つい大げさにお考えすごしになるのではないでしょうか」と彼女はいった。「そりゃあのひとの境遇は、社交界ではずいぶんつらいものにちがいありません、それはわたくしにもよくわかっております」
「社交界では、地獄ですよ!」と彼は陰うつに眉をひそめて、早口にいった。「二週間のペテルブルグ滞在中にあれが受けたよりひどい精神上の苦痛は、ちょっと想像もできないくらいです……どうぞ、これだけは信じてください」
「ええ、ですけれど、ここでアンナも……あなたも、社交界の必要をお感じにならないあいだは、それまでは……」
「社交界!」と、彼はあざけるようにいった。「わたしが社交界にどんな必要を感じましょう?」
「ですから、それまでは――それは永久にそうなるだろうと思いますけれど――それまでは、あなたがたは幸福で、平和でいらっしゃれるだろうと思いますのよ。わたくしはアンナのご様子を見て、あのひとが幸福で、まったく幸福でいることがわかりました。あのひとは自分でももうわたくしにそう申しましたわ」とダーリヤ・アレクサーンドロヴナは笑顔になっていった。が、それを言いながら彼女はいま、われにもなく、アンナはじっさい幸福だろうかと疑ってみないではいられなかった。
しかしウロンスキイは、それを疑ってはいないようであった。
「そうです、そうです」と彼はいった。「わたしは、あれは苦悶という苦悶をへて、復活したのであることを知っています。あれは幸福です。あれは現在においては幸福です。しかしわたしは?……わたしは、わたしたちを待っているものが恐ろしいのです……いや、これはどうも失礼しました、あなたはお歩きになりたくていらしたのでしょう?」
「いいえ、どちらでもよろしゅうございますわ」
「そうですか、では、ここへでも掛けていただきましょうか」
ダーリヤ・アレクサーンドロヴナは、並木道の一角にあったベンチに腰をおろした。彼は彼女の前に立ちどまった。
「わたしはあれは幸福だと思っています」と彼はくりかえした。と、彼女がはたして幸福かどうかという疑いが、いっそう強くダーリヤ・アレクサーンドロヴナの心をうった。「しかし、これがいつまでつづくでしょうか? わたしたちのしたことがよいかわるいか?――それは別問題です。しかし、運命はすでに決せられたのです」と彼は、ロシア語からフランス語へうつりながらいった。「そしてわたしたちは、生涯を結びつけられてしまったのです。わたしたちにとって最も神聖な愛のきずなで結びつけられてしまったのです。わたしたちには子供がひとりあります、これからもっとできるかもしれません。しかし、法律とわたしたちの境遇のあらゆる事情とは、幾千の紛乱《ごたごた》を生みださずにはおかないようなものですが、いまさまざまな苦悶と経験とをへたあとで心から休んでいる彼女は、それを、見もしなければ見たいとも思わないのです。これももっともなことなのです。ですがわたしは、見ないわけにはいきません。わたしの女の子は、法律上では――わたしの子でなく、カレーニンの子になっています。わたしはこういう虚偽を好みません!」と彼は、力のこもった否定的な身ぶりをしていった。そして、暗い、もの問いたげな目つきをして、ダーリヤ・アレクサーンドロヴナの顔を見つめた。
彼女はなんとも答えないで、ただ彼を見ているだけであった。彼はつづけた――。
「明日にでも男の子が生まれる、わたしのむすこがですよ、ところがその子も、法律上ではカレーニンの子であって、わたしの姓の継承者でもなければ、わたしの財産の相続者でもないのです。そして、わたしたちは家庭的にどんなに幸福であっても、また、わたしたちに何人子供が生まれようとも、わたしと彼らとのあいだには、結びつきというものがないのです。彼らはカレーニンなのですからね。こういう境遇の苦しさと恐ろしさとは、あなたもおわかりくださるでしょう! わたしはこのことを、アンナにいおうかとも思ってみました。しかしこれは、あれの気持を刺激するだけです。あれはそれを理解しないし、わたしにしても|あれに《ヽヽヽ》何もかもいってしまうことはできません。ではこんどはひとつ、別の方面から見ていただきましょう。わたしは幸福です、あれの愛によって幸福です。しかしわたしにしても、何か仕事を持たないではいられません。そして今の仕事を見つけて、それを誇りともしていれば、宮廷や軍隊における以前の同僚たちの仕事にくらべて、はるかにりっぱなものだとも思っています。そして、もうこうなった以上、どんなことがあっても、この仕事を以前の仕事に見かえるようなことはしないつもりです。わたしはここで、おちつくところにおちついて働いています。わたしは幸福です、満足です。そしてわれわれには、幸福のために、これ以上なんにもいらないのです。わたしはこの仕事を愛します。Cela n'est pas un pis-aller.(それはけっしてこれ以上のものがないからではないのです)むしろ反対に……」
ダーリヤ・アレクサーンドロヴナは、ここまできて、彼の説明が混乱してきたのに気がつき、話がどうしてこんな横道へそれてしまったのか、よくはわからなかったが、でも彼が、アンナとは話すことのできなかった自分たちの深く心に秘めた関係について、いったん口をきったために、つい何もかもさらけだしてしまったのであって、彼の田舎での仕事という問題も、アンナにたいする関係と同様に、同じ深く心に秘めた考えの部門に属するものであったことを、感じていた。
「というしだいで、わたしはつづけますが」と彼はわれにかえっていった。「大切なことは、そのなされている事業が、自分といっしょに滅びるものではない、自分には後継者があるという確信を、働く一方に持たなければならんということです――ところが、わたしにはそれがないのです、まあ考えてもみてください、自分と自分の愛する女とのあいだに生まれた子供が、自分のものでなくて、だれかほかの、彼らを憎み、彼らを知ることさえ望んでいないようなある男のものになるということをあらかじめ知っている人間の境遇を。じっさい、これは恐ろしいことじゃありませんか……」
彼は黙ってしまった。明らかにはげしい興奮にとらわれた様子で。
「ええ、もちろん、それはよくわかりますわ。ですからって、アンナにしたって、どうすることができましょう?」とダーリヤ・アレクサーンドロヴナはきき返した。
「そうです、それこそわたしを、この話の目的のほうへ連れて行くものなのです」と彼は、つとめておちつこうとしながらいった。「アンナにはできるのです、これはあれの心ひとつにかかっているのです……養子にするために皇帝に請願するにしたところで、やはり離婚は必要なのです。そうしてそれはアンナの心ひとつにあることなのです。夫は離婚に同意してくれました――それ、いつかお宅のご主人がすっかり話をつけかけてくだすったあのときに。ですから、今だって、よもやこばむようなことはあるまいと思います。ただあのひとに一筆書いてやればいいのです。あの当時あのひとは、あれのほうからその希望を表明さえすれば、自分は拒絶しないと、りっぱに返事をしたんですからね。もちろん」と、彼は陰うつにいった。「それは、ああいうハートを持たない人間であって初めてできる、偽善的残酷のひとつではありますがね。あのひとは、あのひとのことを思いだすのが彼女にとってどんなに苦痛かということは、ちゃんと承知しているのです、承知していながら、彼女からの手紙を要求しているのです。わたしは彼女が苦しんでいることは知っています。しかし、なにしろ、ことがらが重大なのですから、どうしても passer pardessus toutes ces finesses de sentiment. Il y va du bonheur et de l'existence d'Anne et de ses enfents.(感情のデリカシーは、超越しなけれぱなりません。アンナと子供たちの幸福と運命にかかっていることなんですからね)わたしは、自分のことは申しますまい、わたしだってつらいのですが、ずいぶんつらいにはつらいのですが」と彼は、自分のつらいということにたいして、だれかを威嚇するような表情でいった。「こういうわけですから、ねえ奥さん、わたしは恥を忘れ、救いの錨《いかり》と思って、あなたにおすがりするのです。どうかひとつ、助けると思って、あのひとに離婚要求の手紙を書かせるように、あれを説きつけてくださいませんか!」
「ええ、ようござんすとも」とダーリヤ・アレクサーンドロヴナは、アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチと最後に会ったときのことをまざまざと思いうかべて、思い沈んだような調子でいった。「ええ、ようござんすとも」と彼女は、アンナのことを思いうかべて、きっぱりとこうくりかえした。
「あれにたいするあなたのお力を利用して、ぜひあれが書くようにしてやってください。わたしはどうも、あれとこのことについて話すのを好みませんし、またできそうもないんですから」
「よろしゅうございます、わたくしがお話しいたしましょう。ですけれど、あのひとはどうしてそれを自分で考えないんでしょうね」とダーリヤ・アレクサーンドロヴナは、そのとき急に、なぜともなく、アンナの目を細める奇妙な新しい癖を思いだしながら、いった。と、彼女には、アンナが目を細めたのは、いつも、話が生活の内的方面にふれてきたときであったことが思いだされた。『まるであのひとは、なんにも見まいとして、自分の生活にたいして目を細めているようなものだわ』とドリーは考えた。「わたくしは、わたくし自身のためにも、あのひとのためにも、きっとお話しいたしますわ」とダーリヤ・アレクサーンドロヴナは、彼の感謝の表情にたいして答えた。
ふたりは立ちあがって、家のほうへ歩いて行った。
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二十二
もう家へもどっていたドリーを見ると、アンナは、彼女がウロンスキイとした話についてたずねようとでもするように、じっと彼女の目を見つめたが、口に出してはなんともいわなかった。
「どうやらもう食事時間らしいわね」と彼女はいった。「わたしたちはまだろくにお顔も見られませんでしたのね。わたしは晩になったらと、それを楽しみにしているんですのよ。今はわたし、着がえに行かなくちゃなりませんの。あなたもそうなさるでしょう。わたしたちはみんな普請場《ふしんば》でよごされてしまいましたものね」
ドリーは自分の部屋へ行ったが、と、急におかしくなってしまった。彼女はもう一ばんいい服を着ていたので、着がえをするものがなかったからである。しかし、せめて正餐《せいさん》にたいする自分の用意を示すために、彼女は、小間使に頼んで服にブラシをかけてもらい、カフスとネクタイをとりかえて、頭にはレース飾りをつけた。
「これがわたしのできる精《せい》いっぱいなのですよ」と彼女は笑顔で、これで三度めの、あいかわらずきわめてあっさりとした衣装をつけて彼女のところへはいって来たアンナに、いった。
「ええ、ここではわたしたち、ひどく儀式ぱっておりますのよ」と彼女は、自分の盛装をわびるような調子でいった。「アレクセイはあなたのいらしてくだすったのを、とても喜んでおりますのよ。こんなに喜ぶなんて、あのひとにはめったにないことなんですわ。あのひとったらあなたにすっかりほれこんでしまって」と、彼女は言いたした。「あなた、疲れていらっしゃりはしなくって?」
食事までにはもう何を話す時間もなかった。客間へはいって行くと、そこにはもう公爵令嬢ワルワーラや、黒のフロック・コートを着た男たちが、ずらりと席についていた。建築師は、燕尾服を着ていた。ウロンスキイはこの婦人客に、医師と執事とを紹介した。建築師だけはもう病院で紹介ずみだったから。
でっぷりとふとった給仕頭が、きれいにそった丸顔と、白ネクタイの糊《のり》のきいた蝶結びとで輝きながら、食事の支度のできたことを知らせて来たので、婦人たちは立ちあがった。ウロンスキイはスヴィヤーズスキイに、アンナ・アルカジエヴナに腕を貸すことを頼んで、自分はドリーのほうへ行った。ウェスローフスキイは、トゥシュケーヴィッチの先《せん》をこして、公爵令嬢ワルワーラに腕を貸したので、トゥシュケーヴィッチは、医師と執事といっしょに、自分たちだけで歩いて行った。
食卓も、食堂も、食器も、ボーイも、酒も、料理もみな、この家全体の新しいぜいたくな調子によく調和していたばかりでなく、むしろ、それら以上に新しいぜいたくであるように見えた。ダーリヤ・アレクサーンドロヴナは、自分にとって新しいこのぜいたくを観察して、一家を切り盛りしている主婦として、それらのなかのひとつをでも、わが家へ応用しようなどという気はなかったけれど、――それほどここのすべてのぜいたくは、彼女の生活様式からははるかに高いところにあった、――彼女は知らず知らず、それらすべての細かな点にまで注意をはたらかして、だれがどんなふうにして、こういうぐあいにしたのだろうかと、われとわが心に疑問をはさまないではいられなかった。ワーセンカ・ウェスローフスキイや彼女の夫はもちろん、スヴィヤーズスキイや彼女の知っている多くの人々さえも、けっしてこんなことは考えず、すべての身分のある主人が自分の客たちに感じさせようと願っていること――すなわち彼の家のこんなによく整っているのも、主人たる自分にはなんの労力にもあたいしたものでなく、ひとりでにそうなったのだということを、言葉どおりに信じていた。が、ダーリヤ・アレクサーンドロヴナは、子供たちへの朝食の|かゆ《ヽヽ》さえ、ひとりでにできるものでないこと、ましてや、これほど手のこんだりっぱな支度には、だれかの熱心な注意がはらわれていなければならないことを承知していた。で、彼女は、アレクセイ・キリーロヴィッチが食卓を見まわしたときのまなざしによって、また、給仕頭に頭であいずをしたり、ダーリヤ・アレクサーンドロヴナにボトゥヴィーニヤ(野菜と魚肉のはいった冷たいスープ)とスープとの選択を申し出たりしたその態度によって、すべてのことが主人自身の心づかいによってなされ、保たれていることを察した。こうしたことはすべて、アンナには、ウェスローフスキイにたいすると同様に、明らかに没交渉《ぼつこうしょう》であった。彼女も、スヴィヤーズスキイも、公爵令嬢も、ウェスローフスキイも、一様に、自分たちのために用意されたものを、楽しくうけているにすぎなかった。
アンナはただ、会話をみちびいていく点でだけ、女主人であった。執事とか建築師とかいったような、ぜんぜん別の世界に属する人々、自分たちのなれないぜいたくの前におじけづくまいとつとめたり、また一同の会話のなかに長くまじっていることのできなかったりするような人々をまじえた小さな食卓での、その家の女主人にとってきわめて困難なものとされているこの会話――このむずかしい会話を、アンナは例の機転と、自然らしさと、なおダーリヤ・アレクサーンドロヴナのみとめるところによれば、一種の満足とをもって、巧みにみちびいていくのだった。
会話は、トゥシュケーヴィッチとウェスローフスキイとが、ふたりだけでボートをこいだことに、うつっていった。と、トゥシュケーヴィッチは、ペテルブルグのヨットクラブで行なわれた最近のレースについて話しはじめた。ところがアンナは、話のとぎれるのを待って、すぐに、建築師を沈黙からひきだすために、そのほうへ顔を向けた。「ニコライ・イワーノヴィッチはね、そりゃ驚いていらっしゃるんですよ」と彼女は、スヴィヤーズスキイのことをいった。「この前いらしたときから見ると、あの新しい建物がたいへんはかがいったっておっしゃってね。ですけれど、わたしだって、毎日あすこへ行っていながら、あまり仕事のはかどるのに、毎日のように驚いているんですものね」
「なにしろ閣下のお仕事は、まったくやりようございますからな」と建築師はにこにこしながらいった(彼は自分の価値を意識している、いんぎんな、おちついた男であった)。「県庁の仕事などとはまったくわけがちがいますから。書類をひと束も写さなければなりませんところを、わたくしが伯爵に申しあげますと、ほんのみ言ですっかり|らち《ヽヽ》があくんでございますからな」
「アメリカ式のやりかたですな」と、スヴィヤーズスキイがにこにこしながらいった。
「さようで、あちらでは、建物はすべて合理的に建てますんで……」
会話は、合衆国における官権|濫用《らんよう》の問題にうつっていったが、アンナはすぐさまそれを、執事を沈黙から呼びだすために、別の題目のほうへもっていった。
「あなたは刈取り機をごらんになったことがあって?」と彼女は、ダーリヤ・アレクサーンドロヴナのほうをかえりみていった。「あなたにお会いしたときね、あのときちょうどわたしたちは、それを見に行って来たところでしたの。わたしもじつは初めて見たんですのよ」
「どんなふうに動くものなんですの?」とドリーはたずねた。
「まるで鋏《はさみ》のようなものですわ。一枚の板に小さな鋏がどっさりついているんですの、ちょうどこんなふうに」
アンナは、その指輪でおおわれているような、まっ白な、美しい両手にナイフとフォークとをとって、そのかっこうをして見せた。彼女は、自分の説明ではなんにもわかってもらえないことを、ちゃんと承知していた様子だったが、自分が気持よく話していることと、自分の手の美しいこととを知っていたので、かまわず説明をつづけるのだった。
「いや、むしろペンナイフのようだというべきでしょうね」とウェスローフスキイは、彼女から目をはなさないで、からかうような口調でいった。
アンナは、やっとわかるくらいにほほえんだ。が、彼には答えなかった。
「ねえ、そうじゃないこと、カルル・フェオドロヴィッチ、ちょうど鋏《はさみ》のようですわね?」と、彼女は執事のほうへ話を向けた。
「O ja,(はい、さようでございます)」とドイツ人は答えた。「Es ist ein ganz einfaches Ding.(それはとても簡単なものでございます)」そして彼は機械の構造を説明しはじめた。
「惜しいことに、あれはしばるようにはなっておりませんな、わたしはウィーンの博覧会で、針金でしばるようになっているのを見ましたっけ」とスヴィヤーズスキイがいった。「そのほうがいっそう便利なようですな」
「Es kommt drauf an…… Der Preis vom Draht muss ausgerechnet werden.(そうとしましても……針金の値段と相談でございますからな)」と、沈黙から呼びだされたドイツ人は、ウロンスキイのほうへ顔を向けて、いった。「Das laesst sich auslechnen, Erlaucht.(ちょっとあたってみましょうか、ご前)」こういってドイツ人は、早くもポケットへ手をつっこみ、いろんな計算を書きつける、鉛筆のはさんである手帳を取り出そうとした。が、自分はいま食卓についているのであることを思いだし、またウロンスキイの冷やかなまなざしに気がついたので、思いとまった。「Zu complicirt, macht zu viel Klopot.(しかし、あまりこみいっておりますから、あまりめんどうになりますから)」と、彼は話をむすんだ。
「Wuenscht man Dochots, so hat man auch Klopots,(金がほしいと思ったら、めんどうもしなくちゃなりますまいよ)」とワーセンカ・ウェスローフスキイが、ドイツ人をからかいながらいった。「J'adore l'allemand, (わたしはドイツ語崇拝です)」と、彼は同じ微笑をうかべながら、ふたたびアンナのほうへふり向いた。
「Cessez,(しっ)」と彼女は、冗談めかしくきびしい調子で彼にいった。
「わたしたちはあなたに、畑でお目にかかるだろうと思ってましたのよ、ワシーリイ・セミョーヌイチ」と彼女は、病身らしい顔をした医師のほうへ話しかけた。「あなたはあすこへいらしったのでしょう?」
「まいるにはまいりました。が、すぐ逃げだしてしまいましたのです」と医師は、陰うつな諧謔《かいぎゃく》の調子で答えた。
「では、あなたはいい運動をなさいましたわけですね」
「ええ、すてきな!」
「それはそうと、あのおばあさんはどんなでございます? チフスでなければよろしゅうございますがね?」
「チフス――チフスではありませんが、どうもあまりいいほうではありませんな」
「まあかわいそうに!」とアンナはいった。こうして、雇い人の側にある人たちへのひと通りの礼儀の貢ぎ物をすませてから、彼女は客のほうへ顔を向けた。
「しかし、あなたのお話では、どうも機械の組立てがうまくいきませんな、アンナ・アルカジエヴナ」とスヴィヤーズスキイは冗談をいった。
「まあ、どうしてですの?」と、アンナは微笑をうかべていったが、その微笑は、機械の構造についての彼女の話のなかに、何かかわいらしいところがあって、それがスヴィヤーズスキイの目にとまったのを彼女が承知していることを、語っていた。若々しい媚《こ》びを見せたこの新しいコケットリーは、不愉快にドリーの心をうった。
「が、そのかわり、アンナ・アルカジエヴナの建築上の知識には、まったく驚くべきものがありますよ」と、トゥシュケーヴィッチがいった。
「いや、まったく、わたしは昨日アンナ・アルカジエヴナが、柱脚《ちゅうきゃく》だの側石《そくせき》だのといっておられるのを聞きましたっけ」とウェスローフスキイがいった。「そのとおりでしょう?」
「なにもお驚きになることなんかございませんわ、毎日のように見たり聞いたりしているんですもの」とアンナはいった。「ですけれど、あなたはどうやら、家というものが何からできるかということすら、ごぞんじなくていらっしゃるようですね?」
ダーリヤ・アレクサーンドロヴナは、アンナ自身、自分とウェスローフスキイとのあいだに見られるこうしたふざけた調子に不満でいながら、心ならずもそのなかへ落ちこんでいるのであることを、見てとった。
ウロンスキイは、こういう場合にも、レーヴィンとはまったく反対の態度をとっていた。彼は、ウェスローフスキイの饒舌《じょうぜつ》には、明らかに少しも重きをおいていないどころか、かえって反対に、そうした戯れに油をさしている様子であった。
「なるほど、ではね、ウェスローフスキイ、石をくっつけるには何を使うか知っていますか?」
「むろん、セメントですよ」
「えらい! ですが、セメントはいったいどんなものですか?」
「それは糊《のり》のような……いや、|しっくい《ヽヽヽヽ》のようなものですよ」とウェスローフスキイは、一同の哄笑《こうしょう》をよびおこしながら、いった。
食卓をかこむ人たちのあいだの会話は、陰うつな沈黙に沈んでいる医者と、建築師と、執事とを除いて、ときにはすべったり、ときにはひっかかったり、ときにはだれかの痛いところをちくりと刺したりしながら、かたときも休まなかった。一度はダーリヤ・アレクサーンドロヴナが痛いところを刺されて、かっとしてまっ赤になったが、あとでは、何かいわでもの不愉快なことを言いはしなかったかと思いかえした。スヴィヤーズスキイは、レーヴィンのことを話しだして、ロシアの農業には機械はただ害があるばかりだという彼の奇怪な意見を披露した。
「わたしはまだレーヴィン氏を知る喜びをもっていないのですが」とウロンスキイは、にこにこしながらいった。「しかし、おそらくその人は、自分の非難しているそれらの機械を、まだ一度も見たことがないんじゃないですか。よしまた見たこと使ったことがあるとしても、どうせそれは、いいかげんのロシアもので、外国製のものではないにちがいありません。そこにどんな意見がありうるでしょうか?」
「要するに、トルコ式意見ですよ」とウェスローフスキイは、アンナのほうへ笑顔を向けながらいった。
「わたくしにはあのひとの考えを弁護する力はございません」とダーリヤ・アレクサーンドロヴナは、かっとなって言いだした。「けれど、あのひとが非常に教育のある人だということは申せますわ。ですから、もしあのひとがここにおりましたら、あなたがたにもりっぱに答弁をなさったでしょうけれど、わたくしにはそれができませんから」
「わたしはあの男を非常に愛しています、わたしたちは大の親友なんです」とスヴィヤーズスキイは、人のよさそうな笑顔で、いった。「Mais pardon, il est un petit peu toque;(しかし、失礼ですが、あの男は少し気ちがいじみていますよ)たとえばです、あの男は、自治会も治安裁判もみんな不必要だなんて断言して、そのいずれにも関係しようとしないのですからね」
「それは、われわれロシア人に共通の無関心というやつですよ」とウロンスキイは、足つきの薄いコップに、氷のびんから水をつぎながらいった。「われわれの権利がわれわれに負わせる義務を感じないで、したがって、それらの義務を否定するというのはね」
「ですけれど、わたくしは、自分の義務をはたすのに、あのひとくらい厳格な人をぞんじませんわ」とダーリヤ・アレクサーンドロヴナは、ウロンスキイのこの優越的な調子にいらだたせられながら、いった。
「わたしは、反対に」とウロンスキイは、なぜかこの話に刺激されたらしい調子でつづけた。「わたしはごらんのとおり、反対に、ニコライ・イワーノヴィッチ(と彼は、スヴィヤーズスキイをさした)のおかげで、尊敬すべき治安判事に選ばれたという名誉にたいして、深く感謝しているのです。で、わたしは、自分が集会に出かけて、馬をどうこうという百姓どもの事件をさばいてやる義務が、わたしのなしうるすべてのことと同様に、わたしにとってきわめて重要なことだと思っているのです。ですから、わたしは、もしわたしが県会議員に選ばれるようなことがあれば、それをも名誉と考えるでしょう。わたしは、ただこうすることによってだけ、地主としてうけている利益の代償を払うことができるんですからね。ところが、不幸にも人々は、大地主たちが国家にたいしてもたねばならぬ義務の意義を、まるで理解していないんですよ」
ダーリヤ・アレクサーンドロヴナには、彼が自宅の食卓で正しいものとしておちつきはらっている様子が、妙にふしぎな気がしてならなかった。彼女は、まるで反対の意見をいだいているレーヴィンも、やはりわが家の食卓で自分の意見を述べるにあたって、同じような確信にみちた調子であったことを思いだした。しかし、彼女はレーヴィンを愛していたので、彼の味方をした。
「では、伯爵、われわれはこのつぎの集会に、あなたをあてにしてよろしいでしょうな?」とスヴィヤーズスキイはいった。「しかし、八日にはもうあちらへ行っているように、少し早めにお出かけくださらなくてはいけませんよ。もしわたしどもへおよりいただけるとすればですな?」
「わたくしはいくらか、あなたの beau-frere(義弟さん)に賛成でございますわ」とアンナはいった。「ただあのかたと同じではございませんけれど」と、彼女は微笑をうかべて言いたした。「わたくしには、近ごろではこの社会的義務というものが、ちと多すぎはしないかと思われますのよ。以前には、お役人があまりたくさんいたので、何事にもお役人お役人でしたが、今ではそれと同じように、何もかもが社会事業なんですものね。アレクセイなども、こちらへ来てまだ半年にしかならないのに、もうなんでも、五つ六つの公共団体の役員なんでございますよ――監事だとか、判事だとか、議員だとか、陪審員だとか、馬匹《ばひつ》なんとかだとか。Du trein que cela va,(この調子でいくと)年がら年じゅうそれにかかりきっていなければなりませんわ。で、わたくしなんか、こうした仕事がこんなに多くなっていくと、けっきょくは、ただ形式だけになってしまいはしないかとよけいな心配をしていますの。あなたはいくつくらい役員になっていらっしゃいまして、ニコライ・イワーヌイチ?」と彼女は、スヴィヤーズスキイのほうをむいていった。「きっと二十以上でしょうね?」
アンナは冗談めかしていっていたが、その調子にはいらいらした気持が感ぜられた。アンナとウロンスキイとを注意ぶかく観察していたダーリヤ・アレクサーンドロヴナは、すぐそれに気がついた。彼女はまた、ウロンスキイの顔が、この話を耳にすると同時に、まじめで、かたくなな表情をとったのを見のがさなかった。このことと、それからまた、公爵令嬢ワルワーラが、話題をかえるために、あわててペテルブルグの知人のことを話しだしたのをみとめ、さらにまた、さっき庭園でウロンスキイが、なんのきっかけもなく、自分の仕事について話しだしたことを思いあわせて、ドリーは、この社会的活動の問題には、アンナとウロンスキイとのかくれた争いがからまっているらしいことを察した。
料理も、酒も、食卓の設備も――そうしたものはすべて申しぶんないものであったが、それらはみな、ダーリヤ・アレクサーンドロヴナが、近ごろ遠ざかっている招待の宴席や、舞踏会などでよく見かけたと同じもので、同じく個人の人格を認めないような、ゆとりのない性質のものであった。したがって、なんでもない日の小さい集会だけに、これらのものはみな、彼女に不快な印象をあたえたのだった。
食後、一同はしばらくテラスにとどまっていた。それからテニスを遊びはじめた。遊戯者たちは二組にわかれて、念入りに平らにならされたクロケットグラウンドの、金色にぬられた|くい《ヽヽ》にぴんと張られたネットの両側にわかれて立った。ダーリヤ・アレクサーンドロヴナも仲間になってやってみようとしたが、長いこと遊戯の仕方をのみこむことができず、やっとのみこんだ時分には疲れてしまって、公爵令嬢ワルワーラのそばへ腰をおろし、遊戯者たちを見ているだけであった。彼女のパートナーだったトゥシュケーヴィッチも、同様にやめてしまったが、残りの者は、なお長いこと遊びつづけた。スヴィヤーズスキイとウロンスキイとは、ふたりともなかなかうまく、かつまたまじめに技をたたかわした。彼らは自分たちのほうへ打たれるボールの行くさきを目ざとく見きわめて、あわてずためらわず、巧みに球のそばへ飛んで行き、そのバウンドするのを待って、ねらい正しく確実にラケットで球をたたき、ネットの向こうへ打ち返すのであった。ウェスローフスキイは他の人たちよりへただった。彼はあまり熱しすぎるのだったが、そのかわり、もちまえの快活さで、遊戯者たちを活気づけた。彼の笑い声と叫び声とは、一刻もやまなかった。彼も、ほかの男たちと同様に、婦人たちの許しをうけて、フロックコートを脱いだので、シャツの純白なそでを見せて、赤い汗ばんだ顔をした彼の大柄な美しい姿は、そのはげしい動作とともに、はっきりと人々の記憶に刻みこまれた。
その夜ダーリヤ・アレクサーンドロヴナは、床について目を閉じると、クロケットグラウンドを飛びまわっているワーセンカ・ウェスローフスキイの姿を、はっきりと見た。
遊戯のあいだも、ダーリヤ・アレクサーンドロヴナは愉快ではなかった。彼女には、そこでもなおつづけられているワーセンカ・ウェスローフスキイとアンナとのふざけた態度や、子供もいないのに、おとなばかりで子供らしい遊びをやっている全体の不自然さが、いやであった。が、他人の気持を損わないためと、ひとつには、何かして時間を過ごすために、ひと休みするとまた遊びに加わって、愉快らしいさまをよそおっていた。その日一日、彼女は、自分より上手な役者と芝居をしているような、そして自分のまずい演技が舞台全体をぶちこわしているような気持を味わっていた。
彼女は居ごこちさえよかったら、二日|逗留《とうりゅう》するつもりで来たのであった。が、夕方遊戯をやっているあいだに、明日は帰ろうと決心した。来る道ではあんなに憎みきらってきた母親としてのあの苦しい心づかいが、子供たちなしで過ごした一日のあとの今では、早くも別の光に照らしだされて、彼女を彼らのほうへひきつけたのであった。
夕方のお茶と夜の船遊びのあとで、ひとりで自分の部屋へ退いて、着物を脱ぎ、寝る支度にその薄い髪をとかそうと腰をおろしたときに、ダーリヤ・アレクサーンドロヴナは、初めてほっとした気やすさをおぼえた。
彼女には、アンナがじきやってくるだろうと思うことが、不愉快ですらあった。彼女は自分の考えだけを相手に、ひとりきりでいたいと思ったのである。
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二十三
ドリーが床《とこ》へはいろうと思っているところへ、アンナが夜の服装で、彼女の部屋へはいって来た。
この日アンナは、何度も心内の問題について話しはじめたが、そのつど、ふた言み言で中止してしまった。「あとで、ふたりきりになってからすっかりお話しますわ。わたしにはあなたにお話しなければならないことがたくさんありますのよ」と彼女はいっていた。
いまや彼らはふたりきりになったが、アンナは何を話していいかわからなかった。彼女は窓ぎわに腰掛けて、ドリーの顔を見まもりながら、前にはいくら話しても話しきれないように思われたつもるうちあけ話を、心のなかでくりひろげてみたが、何ひとつ見いだすことができなかった。彼女には、この瞬間、もう何もかもが話されてしまったような気がしたのである。
「あの、キティーはどうなすって?」と彼女は、ほっと重苦しげな息をついて、すまなさそうにドリーの顔を見やりながらいった。「ほんとうのことをおっしゃってちょうだいね、ドリー、あのかたはわたしのことを怒っていらっしゃりはしなくって?」
「怒って? いいえ!」とダーリヤ・アレクサーンドロヴナは、笑顔になりながらいった。
「ですけれど、憎んではいらっしゃるでしょう、さげすんではいらっしゃるでしょう?」
「まあ、どうしてそんな! けれどあなたも、ああいうことの許されることでないのはごぞんじですわね」
「ええ、ええ」と、アンナは顔をそむけて、あけはなされていた窓を見ながらいった。「ですけれど、わたしの罪ではありませんわ。では、だれの罪なのでしょう? また、罪とはいったいどういうことでしょう? だいいち、ほかにどうなりようがあったでしょう? あなたはどうお思いになって? あなたが、スティーワの奥さんにおなりにならずにすんだなんてことが、考えられることでしょうか?」
「ほんとうに、わたしにもわかりませんわ。ですけれどわたしがあなたにうかがいたいのは……」
「ええ、ええ、でも、わたしたちはまだキティーのお話をすませませんでしたわね。あのかたは幸福でいらっして? だんなさまはおりっぱなかただというお話ですけれど」
「りっぱどころではありませんわ。わたしはまだ、あれ以上にりっぱな人を見たことがありませんの」
「まあなんてうれしい! わたし、こんなうれしいことはありませんわ! りっぱどころではないなんて」と彼女はくりかえした。
ドリーはほほえんだ。
「それはそれとして、あなたのことを聞かせてちょうだいな。わたしたちには長いお話があるんですもの。そしてわたしは、あの……あのかたとお話しましたのよ……」とドリーは、彼をなんと呼んでいいかわからなかった。伯爵と呼ぶことも、アレクセイ・キリーロヴィッチと呼ぶことも、なんとなく|ばつ《ヽヽ》がわるかったのである。
「アレクセイと」と、アンナはいった。「わたし知っていますわ、おふたりの話してらしたことは。でもわたしは、あなたから直接お聞きしたいの、あなたがわたしのことを、わたしの生活をどういうふうに考えていらっしゃるか?」
「まあ、そう急におっしゃられたって、どういっていいかわかりませんわ。それにじつのところ、わたしはなんにもわかってないんですもの」
「いいえ、とにかくおっしゃってくださらなければ……あなたはわたしの生活を見ていらっしゃるんですもの。ですけれどあなたは、あなたのいらしたのがちょうど夏で、わたしたちが、わたしたちだけで暮らしているのでないことをお忘れなさらないでくださいね……わたしたちは、この春そうそうここへ来て、まったくふたりきりで暮らしてきました。そしてこれからも、ふたりきりで暮らすことになるでしょうが、わたしにはもうそれ以上に望ましいことはないんですのよ。けれどまた、あのひとがいなくてわたしひとりで、ひとりぼっちでいるときのことも、考えてみてくださいな。しかもそれは今後もあることですわ……なにかのことから考えて、わたしは、そういうことはこれからもたびたびあるだろう、あのひとが時間の半分はうちの外で暮らすことになるだろうと思っておりますの」と彼女は立ちあがって「ドリーのそば近く席を移しながら、いった。
「そりゃ、もちろん」と彼女は、何か言いだそうとしたドリーをさえぎって、いった。「もちろんわたしは、どうでもこうでも、あのひとをつなぎ止めておこうというのではありません。わたしは止めなんかいたしませんわ。こんども競馬があって、あのひとの馬が出ますから、あのひとも出かけて行きます。わたしもたいへん喜んでいますの。ですけれどあなた、わたしのことも考えてちょうだいね、わたしの立場もどうぞ想像してちょうだい……ああ、わたしとしたことが、なんだってこんなことを言いだしたんでしょうね!」と、彼女はにっこり笑った。「それで、あのひとはあなたにどんなことを話しまして!」
「あのかたは、わたしのほうでも言いたいと思っていたことをお話しなすったのですから、あのかたの代弁人になることは、わたしにはなんでもありませんわ。――ほかでもありません、あなたの境遇を改……」とダーリヤ・アレクサーンドロヴナは口ごもった。「改善するとか修正するとかいうことは、むずかしいだろうか、できないことだろうか、これだけのことだったんですのよ……そしてあなたもごぞんじですわね、これについてのわたしの意見は……けれど、それはとにかくとして、あなたはやはり、できることなら、結婚なさらなければいけませんわ……」
「つまり、離婚ね?」とアンナはいった。「あなたは、ペテルブルグでわたしをたずねてくれたただひとりの女《ひと》が、ベーッシ・トゥヴェルスコーイだったことはごぞんじでしょう? あなたはあの女《ひと》を知ってらっしゃるはずでしたわね? Au fond c'est la femme la plus depravee qui existe.(じっさいのところ、あの女《ひと》は、この世で一ぱん堕落した女ですわ)あの女《ひと》は、このうえもない卑しいやりかたで夫を欺きながら、トゥシュケーヴィッチと関係していたひとですわ。それでいて、あの女《ひと》はわたしに言いました、わたしの境遇があいまいであるあいだは、わたしとおつきあいはできないって。もっとも、こんなことをいったからって、わたしがあの女《ひと》とあなたとをくらべているなんて考えないでくださいね……わたしはあなたのお心はよくぞんじております。わたしは、ただふっと思いだしただけなんですから……それはそうと、あのひとはあなたに、それで、どんなふうに申しましたの?」と彼女はくりかえした。
「あのかたはね、あなたのこととご自分のこととで、苦しんでいるっておっしゃってましたわ。ひょっとすると、あなたはそれをエゴイズムとおっしゃるかもしれないけれど、それはあくまで正しい、とうといエゴイズムですわ! あのかたはまず第一に、ご自分のお子さんを、法律上正しい自分の子にし、あなたの正しい夫となって、あなたにたいして、ちゃんとした権利をもちたいと思っていらっしゃるんですもの」
「どんな妻にしたって、奴隷にしたって、今の境遇のわたしほど、これほどの奴隷がどこにあるでしょうね?」と彼女は、暗い調子で言葉をはさんだ。
「あのかたが望んでいらっしゃる一ばん主なことは……あなたが苦しまないですむようにということですのよ」
「それはとても不可能ですわ! それで?」
「それで、一ばんごもっともなことは、おふたりのなかのお子さんたちに、正当な姓をもたせたいと思ってらっしゃることですわ」
「お子さんたちって、どんな?」とアンナはドリーのほうは見ないで、目を細めながらいった。
「アニーや、これから生まれてくる……」
「そのことなら、あのひとに心配はいりませんわ。わたしにはもう子供はできませんから」
「できないって、どうしてそんなことがおっしゃれるのでしょう?」
「できませんわ、わたしがそれを望みませんもの」
そして、ドリーの顔に、好奇心と、驚きと、恐怖のいりまじったナイーヴな表情をみとめると、彼女自身はげしい興奮にかられていたにもかかわらず、アンナはにっこりとほほえんだ。
「あの病気のあとで、お医者がわたしに申しましたの……」
………
「そんなことってあることだろうか!」と、ドリーは大きく目を見ひらいてつぶやいた。彼女にとって、これは大きな発見のひとつであった。その結果や結論があまりに大きすぎるので、初めのあいだは、とてもすべてをのみこむことはできないような気がしながら、しかし一方、それについては、なおよくよく考えてみなければならぬような気のする、そうした発見のひとつであった。
これまで彼女にとって不可解であった、ひとりかふたりしか子供をもたぬ多くの家庭の秘密を、とつじょとして、彼女の前に説きあかしてくれたこの発見は、無数の考えや、想像や、矛盾した感情を彼女の心に呼びさましたので、彼女はなんとも口がきけずに、ただ目を大きく見ひらいて、びっくりしたようにアンナを見つめているだけであった。これは、今まで彼女がしきりに空想していたことであった、が、今、それが実行できることであるのを知ると、彼女は急に恐ろしくなった。彼女は、それはあまりに複雑な問題の、あまりに簡単な解決であると感じた。
「N'est ce pas immoral?(それは不道徳ではないでしょうか?)」と彼女は、しばらくしてから、やっとこれだけのことをいった。
「どうしてでしょう? まあ、考えてみてちょうだいな、わたしはふたつのうちのひとつを選ばなければならないのよ。身おもになる、つまり病人になるか、自分の夫の、夫といってもいいでしょうね、その夫のお友だち、お相手になるか」と、アンナはわざとうわついた、軽っぽい調子でいった。
「そうね、そうね」ダーリヤ・アレクサーンドロヴナは、自分でも考えたことのある同じ理論に耳をかしながらいったが、そこにはもはや、以前のような説得力は見いだされなかった。
「そりゃ、あなたやほかのかたにとっては」とアンナは、彼女の心を察したかのようにいった。「まだまだ疑いがあるかもしれませんけれど、わたしにとっては……ようござんすか、わたしは妻ではないんですのよ。そしてあのひとは、愛のあるあいだだけ、わたしを愛してくれるんですのよ。としてみれば、わたしはどうしてあのひとの愛をつないでいったらいいのでしょう? これでですか?」
彼女は、まっ白な両腕を腹の前へのばして見せた。
興奮したときによくあるように、さまざまな思い出が、ダーリヤ・アレクサーンドロヴナの頭のなかに、異常な早さをもってむらがりおこった。『わたしは』と彼女は考えるのだった。『スティーワを自分にひきつけておかなかった。あのひとは、わたしから別な女のほうへいってしまった。が、あのひとがわたしを見かえた最初の女も、その女がいつも快活で美しいというだけでは、あのひとをつなぎとめておくことはできなかった。あのひとはその女を捨てて、また別の女を手に入れた。はたしてアンナが、そういうものでウロンスキイ伯をひきつけて、つなぎとめていくことができるだろうか? あのひとがもしそんなものを求めているのだったら、もっともっと魅力の強い、快活な化粧なり様子なりを見つけるだろう。この女《ひと》のむき出しにしている腕がどんなに白くて、どんなにきれいであろうと、またこの女《ひと》の肉づきの豊かなからだや、黒い髪の下に燃えている顔がどんなに美しかろうと、あのひとはもっともっといいものを見つけるにちがいない。ちょうどわたしのひどい、情けない、かわいい夫が見つけだしたと同じように』
ドリーはなんとも答えないで、ただほっと太息をもらした。アンナは、この不同意をあらわしている太息をみとめながら、言葉をつづけた。彼女の胸には、なお多くの、なんとも答えようのないような、非常に力強い論証の持ちあわせがあった。
「あなたは、それはよくないとおっしゃるのね? けれど、もっとよく考えていただかなければいけませんわ」と彼女は言いつづけた。「あなたは、わたしの境遇を忘れていらっしゃるのよ。どうしてわたしに、子供がほしいなんて望まれましょう? わたしは、苦しみのことなどいっているのじゃありませんよ。そんなものちっともこわかありませんわ。それよりね、わたしの子供がどうなるか、それを考えてみてくださいな。他人の姓をもたなければならない不幸な子供たちですわ。そしてゆくゆくは、自分の生まれたということのために、父や、母や、自分の出生までを、恥じなければならないようになるのですわ」
「ええ、ですから、そのためにも、離婚が必要なんじゃありませんか?」
しかし、アンナはそれをきいてはいなかった。彼女は、これまでに何度となく自分を説得してきたそれらの論証を、残らず口に出してしまいたかったのである。
「せめて、不幸な者をこの世へ送り出さないためにでも使うのでなければ、理性というものがわたしにあたえられたかいがどこにありましょう?」
彼女はちょっとドリーの顔を見たが、返事は待たずに言葉をつづけた――
「そういう不幸な子供たちの前に、わたしはいつも、自分の罪を感じていなければなりませんわ」と彼女はいった。「この世へ生まれてきさえしなければ、子供たちは、少なくとも不幸ではありませんけれど、もし子供たちが不幸だったら、その罪は、わたしひとりにあることになるんですものね」
これは、ダーリヤ・アレクサーンドロヴナが自分自身に考えたのと、まったく同じ論法であった。が、今はそれを聞いても、その意味がわからなかった。『現に存在していない者の前に、どうして罪を感じるのだろう?』と彼女は考えるのだった。と、とつじょとして彼女の胸に、ひとつの想念がうかびあがった――たとえどんな場合にしろ、彼女の最愛のグリーシャにとって、生まれなかったほうがよかったなどというようなことがありうるだろうか? と、この想念が彼女には、いかにも奇怪な、とほうもないことに思われたので、彼女は、このぐるぐるまわるような狂気じみた思想の混乱を追っぱらうために、思わず頭をゆすぶったほどであった。
「いいえ、わたしにはわかりませんけど、それはいいことではありませんわ」彼女は、顔に嫌悪の色をうかべて、やっとこれだけをいった。
「ええ、ですけれど、あなたはこれをお忘れになっちゃだめよ、あなたのご身分とわたしの身分ということをね……それに、そればかりでなく」とアンナは、自分の論証は豊富で、ドリーのそれは薄弱であるにもかかわらず、とにかく、それがよくないことであるのを承認した様子で、言いたした。「あなたは、今のわたしはあなたと同じ境遇にいるのではないという、一ばんかんじんなことをお忘れになっちゃいけませんのよ。あなたにとっては、問題は、あなたがもうこのうえ子供をもたないように願っていらっしゃるかどうかということにあるのですし、わたしにとっては、自分が子供をもつことを望んでいるかどうかということにあるんですもの、たいへんな違いですわ。そして、おわかりでしょうけれど、今の境遇では、それを望むことはできないんですもの」
ダーリヤ・アレクサーンドロヴナは反駁《はんばく》しなかった。彼女はにわかに、自分とアンナとはもうあまりに遠く離れてしまったので、ふたりのあいだには、永久に合致することのできない、したがって言いださないほうがいいような疑問の壁が立っているような気がしたのである。
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二十四
「それならなおのこと、あなたは、ご自分の地位を確かなものにしておおきにならなければいけませんわ、できるものなら」とドリーはいった。
「ええ、できるものならね」とアンナは急に、すっかり違った、静かな、もの悲しげな声でいった。
「じゃあ、離婚はできないとでもおっしゃるの? あなたのご主人は承知していらっしゃるんだって、わたしは聞いていますけれど」
「ドリー、わたしはこのお話はもうしたくありませんの」
「じゃあ、よしましょう」とダーリヤ・アレクサーンドロヴナは、アンナの顔に苦悩の表情をみとめて、急いでいった。「ただね、わたしには、あなたはあまり暗いほうばかり見ていらっしゃるように思われるのよ」
「わたしが? いいえ、ちっとも。わたしはたいへん愉快で満足しておりますわ。ごらんのとおり、Je fais des passions.(わたし恋に成功していますのよ)ウェスローフスキイが……」
「ええ、じつをいえば、ウェスローフスキイの態度がわたしにはいやなんですのよ」とダーリヤ・アレクサーンドロヴナは、話題をかえようとしていった。
「まあ、ちっともそんなことありませんわ! あれはアレクセイをくすぐるだけで、それ以外にはなんの意味もないんですもの。けれど、あのひとはまだ子供で、まるでわたしの手につかまれてるようなものなんですよ。ごらんのとおり、わたしはあのひとを、自分の思うようにあやつっているんですもの。あのひとなんかまったく、お宅のグリーシャも同じですよ……ねえドリー!」と急に彼女は言葉をあらためた。「あなたは、わたしが、暗いほうばかり見てるっておっしゃいましたわね。それはね、あなたにはちょっとおわかりになりませんのよ。それはあんまり恐ろしいことですもの。わたしは何も見ないようにしているのですわ」
「でも、わたしには、それは必要だと思われますわ。できるだけのことはなさる必要がありますわ」
「ですけれど、できることってなんでしょう? なんにもありはしませんわ。あなたは、わたしはアレクセイと結婚すべきだのに、それを考えていないようにおっしゃいます。わたしがそれを考えていないなんて!」と彼女はくりかえした、と、濃いくれないがぱっと彼女の顔にみなぎった。彼女は立ちあがって、胸をはり、ほっと重いため息をしてから、例の軽やかな足どりで、ときどき立ちどまりながら、部屋のなかをあちこちと歩きはじめた。「わたしが考えていないでしょうか? 一日だって、一時間だって、わたしはそれを考えないでいることなんかありませんわ、考えるために自分を責めないでいることなんかありませんわ……だって、それを考えると、気がちがいそうになるんですもの、気がちがいそうに」と彼女はくりかえした。「わたしはそれを考えだすと、もうモルヒネなしには寝つかれなくなってしまいますの。ですけれど、ようござんすわ。おちついてお話しましょうね。どなたでもきっと離婚のことをおっしゃいます。けれど第一に、|あのひと《ヽヽヽヽ》がそれを許しませんわ。|あのひと《ヽヽヽヽ》は今では、リディヤ・イワーノヴナ伯爵夫人の支配下にあるんですもの」
ダーリヤ・アレクサーンドロヴナは、いすの上でしゃんと身をのばして、苦しげな同情のおももちで、頭をめぐらしながら、歩いているアンナの姿を目で追っていた。
「でも、やってみる必要はありますわねえ」と彼女は静かにいった。
「ではまあかりに、やってみるとしましょう。で、それはどういうことになるでしょう!」と彼女は、明らかにもう千べんも考えに考えて、いまでは暗誦してしまっているような考えを言いだした。「それは、こういうことになるんですわ。あのひとを憎んではいるけれど、とにかくあのひとの前に自分の罪を認めているわたし――そして、わたしはあのひとを寛大なひとだと思っていますの――そのわたしが、屈辱をしのんであのひとに手紙を書かねばならぬということになるんですわ……が、まあかりに、すべてをしのんでそれをやってみるとします。と、わたしは侮辱にみちた返事を受け取るか、あるいは承諾されるかですわ。が、まあようござんす、かりに承諾を受けたとしましょう……」アンナはこのとき、部屋の向こうの端へ行っていて、カーテンに何かしながら、そこに足をとめた。「わたしは承諾を受けます。が、子……子供は? あのひとたちは、あれをわたしに渡してはくれないでしょう。そしてあの子は、わたしが捨ててきた父のもとで、わたしをさげすみながら大きくなるでしょう。ところが、ようござんすか、わたしはどうやらふたつの者――セリョージャとアレクセイとを、同じ程度に、しかも、どちらもわが身以上に愛しているような気がしてるんですものねえ」
彼女は部屋のなかほどへ出て来て、両手で胸を抱きしめながら、ドリーの前に立ちどまった。まっ白な化粧着をつけたその姿は、とくに大きく幅広く見えた。彼女はじっとうなだれて、額ごしにきらきらと輝く涙にぬれた目で、|つぎ《ヽヽ》のあたったジャケットを着てナイトキャップをつけた姿のみすぼらしく見える、興奮から全身をわなわなとふるわしている、小柄な、やせたドリーを見ていた。
「ただこのふたつの者だけを、わたしは愛しているのですわ。それだのにこのふたつは、両立しないものなのです。わたしはこのふたつをいっしょにすることはできません。しかもわたしに必要なのは、それだけですわ。ですから、もしそれができないなら、あとはもう同じことです。何もかも、何もかも同じことですの。そして、いずれなんとかきまりがつくでしょう。ですからわたしは、このことをかれこれ言いたくもなければ、またできもしないのですわ。そういうわけですから、あなたもどうぞ、わたしをお責めにならないでちょうだい。何事にしろ、わたしを非難しないでちょうだい。あなたの純潔なお心では、わたしの苦しんでいるようなことは、ちょっとおわかりにならないでしょうからねえ」
彼女は歩みよって、ドリーとならんで腰をおろした。そしてすまなさそうなおももちで、彼女の顔をのぞきこみながら、その手を握った。
「あなたはどう思っていらしって? わたしのことをどう思っていらしって? どうぞ、わたしをさげすんだりしないでくださいね。わたしは、さげすまれる値うちもない者ですから。わたしはただ不幸なのですわ。もし不幸な人間というものがあるなら、それはこのわたしのことですわ」こう彼女は言いさして、顔をそむけて泣きだしてしまった。
ひとりになると、ドリーはお祈りをして、床についた。アンナと話をしていたあいだは、彼女には、心からアンナが気の毒に思われたが、今ではどうつとめてみても、自分に彼女のことを考えさせることはできなかった。家のことや子供たちの思い出が、特別な、彼女にとって新しい魅力をもって、一種新しい光輝をあびて、その胸にうかびあがってきた。この自分の世界が、いまや彼女にとって、いかにもとうとく、なつかしいものに思われてきたので、彼女は、もうどんなことがあっても、この世界以外のところで、よけいな一日を過ごそうとは思わなくなった。で、明日はどうあってもここを立とうと決心した。
一方アンナは、自分の部屋へもどってくると、コップをとって、そのなかへ、モルヒネが主剤になっている薬の数滴をそそいだ。そして、ぐっとひと息に飲みほすと、しばらくじっとそこにすわっていてから、やがて穏やかな、楽しい気分になって、寝室へはいって行った。
彼女が寝室へはいると、ウロンスキイは注意ぶかくじろじろと彼女をみつめた。彼は、彼女があんなに長くドリーの部屋にいた以上、きっと交わされたにちがいないと彼にわかっていた、例の話の痕跡を、そこにさぐったのである。しかし彼は、心の興奮をじっとおさえて、何かをかくしているような彼女の表情には、見なれていても、ますます彼をとりこにしないではおかない美しさと、その意識と、その美しさを彼に作用させようという願望のほかには、何ひとつ見いだすことはできなかった。彼は、彼女たちが何を話していたかをきこうとは思わなかったが、彼女のほうからなんとか言いだすだろうと、心待ちにしていた。が、彼女はただこういっただけであった。
「わたしね、ドリーがあなたのお気にいったので、ほんとに喜んでいるんですのよ。ねえ、そうじゃありませんこと?」
「ああ、だってぼくは、ずっと前からあのひとを知っているんだもの。それにたいへん気心のいい人らしいものね。Mais excessivement terre-a-terre(もっとも、ごく散文的な女だがね)しかし、とにかくぼくは、あのひとの来てくれたのが非常にうれしい」
彼はアンナの手をとって、たずねるようにじっとその目をみつめた。
彼女はそのまなざしを別な意味にとって、にっこりと彼にほほえんで見せた。
――――
翌朝、ダーリヤ・アレクサーンドロヴナは、主人たちの懇請《こんせい》にもかかわらず、帰り支度にとりかかった。例の古ぼけた長外套を着、半分穴のあいた帽子をかぶったレーヴィンの御者は、つぎはぎだらけの泥よけのついた馬車を不ぞろいな馬どもにひかせて、小砂利の敷かれた、屋根のある車寄せのほうへ、陰うつな、やけくそな態度で乗りこんで来た。
公爵令嬢ワルワーラや男の人たちと別れを告げるのが、ダーリヤ・アレクサーンドロヴナには不愉快であった。一日を過ごしてみたあとで、彼女も主人たちも、彼らが互いにしっくりしないこと、だから、彼らは早く別れたほうがいいのだということを、はっきりと感じていた。ただ、アンナだけは悲しかった。彼女は、ドリーがいま行ってしまえば、だれももう、この会見をよびおこしてくれたような感情を、自分の心にかきたててくれる者のないことを知っていた。こうした感情をかきたてられることは、彼女には苦痛であった。しかしなお彼女は、それが彼女の魂の一ばんよい部分であること、そして彼女の、心のこの部分は、彼女の送っているこういう生活のなかでは、すみやかに消滅してしまうものであることを知っていたのである。
野へ出ると、ダーリヤ・アレクサーンドロヴナは、ほっとしたような快い感じをおぼえたので、さっそく御者たちに、ウロンスキイの家が気にいったかどうかをきいてみたくなった。と、そのとき、御者のフィリップがだしぬけに、自分のほうから言いだした――
「金持なことは金持でございましょうが、|からす《ヽヽヽ》麦はたった三杯しかくれませんでしたよ。鶏の鳴くまでにゃ、ひと粒だって残りゃしません。三杯とはどういうわけでしょうかね? ほんの口よごしでさあ。きょう日《び》|からす《ヽヽヽ》麦なんざあ、旅籠屋《はたごや》でも四十五カペイカじゃござんせんか。あっしどものお邸じゃ、お客さまの馬にゃあ、いくらでもたべるだけくれてやってまさあ」
「まったく|けち《ヽヽ》なだんなさね」と、事務所の男も口をあわせた。
「でも、おまえ、あすこの馬は気にいっただろう?」とドリーはきいた。
「馬は――それほどでもありませんや。たべ物もけっこうでさ。でも、あっしにゃ、なんだかしんきくさくていけませんでしたよ。ダーリヤ・アレクサーンドロヴナ! 奥さまのほうはどうだったか、あっしにゃあわかりませんがね」と彼は、そのととのった、人のよさそうな顔を、彼女のほうへ向けていった。
「わたしもやっぱりそうだったよ。どうだろうね、夕方までには着けるだろうかね?」
「どうでも着かなけりゃなりませんよ」
家へかえり、一同の、心から幸福そうな、かくべつなつかしげな顔を見ると、ダーリヤ・アレクサーンドロヴナは、自分の旅のことや、歓迎されたことや、ウロンスキイ家の生活のぜいたくさや、すぐれた趣味、彼らの娯楽などについて、ひどくいきいきした調子で話しはじめ、だれにも反対の口をきかせなかった。
「アンナとウロンスキイとが、どんなに親しみのもてる愛すべき人かということを理解するには、あのひとをよく知らなければなりませんわ。――わたしはこんど行って、たいへんよくあのウロンスキイという人がわかりましたの」と彼女は、いまはすっかり真剣な調子で、自分がそこでおぼえた不満や居ごこちわるさなどの漠然とした感じは忘れてしまって、こういうのだった。
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二十五
ウロンスキイとアンナとは、依然として同じ条件のもとに、依然として離婚についてはなんの手段も講じないで、その夏いっぱいと秋の初めとを、田舎で暮らした。彼らのあいだには、お互いにどこへも行くまいという相談ができていたが、ふたりきりで暮らす日がだんだん長くなるにつれ、とりわけ秋になって客がいなくなると、彼らはふたりとも、自分たちがこういう生活にはとうてい堪ええないであろうこと、さきの決定を変更しなければならなくなるであろうことを感じはじめた。
生活は、それ以上には望みようもないほど、申しぶんのないもののようであった――十二分の財産はあり、健康ではあり、子供はあり、そのうえ、ふたりとも仕事を持っていた。アンナは、客がいなくなってからも同じように、化粧にうき身をやつし、大部分の時間を読書についやした――小説でもかたい書物でも、評判になったものならなんでも手あたりしだいに。彼女は、自分の手もとへくる外国の新聞雑誌に推賞して書かれてある書物はことごとく取りよせて、孤独な生活をしている場合にだけあるような、読み物にたいする深い注意をもって、それらのものを読破した。そればかりでなく、彼女はウロンスキイがたずさわっていることはなんでも、書物や専門の雑誌によって研究していたので、彼はしばしば、農学上や建築上の問題から、ときには牧畜や遊猟にかんする問題まで、いきなり彼女にたずねることがあった。彼は彼女の知識と記憶力とに驚き、初めは疑って、その証明を求めたが、すると彼女は、彼の質問したことがらを書物のなかに見いだして、彼に示すのであった。
病院の設備もまた、彼女の心をしめていた。彼女はそれを助けたばかりでなく、自分でもいろいろ設計したり、工夫したりした。しかし、彼女の一ばんの心づかいは、やはり彼女自身のことであった――つまり、自分はどの程度にウロンスキイにとって大切なものであり、どの程度に彼の見捨てたものを彼のためにつぐなうことができるかということであった。
ウロンスキイは、彼女の生活の唯一の目的となっている、この、単に彼の気にいろうとするばかりでなく、役にたとうとする願いを尊重していた、けれども同時に、彼女が彼をとらえようとする愛の網は、少なからず重荷にしていた。日がたつにつれ、そうした網にとらわれている自分の姿に気のつくことが多くなるにしたがって、彼はしだいに、それからのがれ出たいというのではないが、それが自分の自由をさまたげはしないかどうかためしてみたいという気を、だんだん多く感じるようになってきた。もしこのたえずつのっていく欲望、――自由でありたい、集会とか競馬とかで都会へ行かねばならぬ場合に、いつもきまってひと騒ぎおこすようなことのないようにしたいという欲望さえなかったら、ウロンスキイは自分の今の生活に、十分満足していられたであろう。彼が選んだところの役割――ロシア貴族の中堅でなければならない富裕な地主という役割は、すっかり彼の趣味にあったばかりでなく、こうして半年を過ごしたあとの今では、刻々に増大する満足を彼にもたらすのであった。そして彼の仕事は、ますます彼の興味をわきたたせ、彼の心をひきつけながら、みごとに進行していった。病院や、機械や、スイスから取りよせた牝牛《めうし》や、その他いろいろのものに、彼が費やした金額は莫大なものだったにかかわらず、彼は、自分はけっして空費したのではない、財産をふやしたのだと確信していた。ところが、収入にかんすること、材木や、穀類や、羊毛の売却とか、土地の貸付とかいうだんになると、ウロンスキイはひうち石のように堅くなって、あくまでその値段を主張することができた。そして大規模の農業問題では、ここの領地でもその他の領地でも、彼はきわめて単純な、危険のおそれのない方法を採用し、極度に倹約で、ささいなことにも勘定高かった。ドイツ人の執事は、非常に狡猾《こうかつ》なぬけ目のない男で、初めはうんと高くふっかけておいて、しかしよく調べてみたら、同じものがずっと安くできるから、それだけでもこれこれの得がいくなどといって、彼に買物をすすめたが、ウロンスキイは、その手にはのらなかった。彼は執事の言葉に耳をかたむけ、いろんなことを根ほり葉ほりしてから、取りよせるものなり、組立てるものなりが、きわめて新しい、ロシアではまだ知られていない、人を驚かすに足るようなものである場合にだけ、それに同意するのだった。そればかりでなく彼は、余分な金のあるときにしか、大きな支出はしないようにし、そうした支出をする場合にも、各方面から微細な点まで研究して、その金で最上のものを手に入れるのでなければ承知しなかった。しぜん、彼のこのやり口にしたがえば、彼は自分の財産を浪費しているどころか、ふやしていることが明瞭であった。
十月には、カシンスカヤ県に貴族団の選挙があったが、その県には、ウロンスキイや、スヴィヤーズスキイや、コズヌイシェフや、オブロンスキイの領地があり、レーヴィンのそれも少しばかりあった。
この選挙は、諸種の情勢や、それにたずさわる人々の顔ぶれから、一般の注意をあつめているものであった。それについては、さまざまのことが語られたり、準備されたりしていた。今まで一度も選挙に出たことのないモスクワや、ペテルブルグや、外国にいる人たちまで、この選挙には集まって来た。
ウロンスキイは、もうずっと前からそこへ行くことを、スヴィヤーズスキイと約束していた。
選挙の前になると、それまでにもたびたびヴォズドゥヴィジェンスコエへたずねて来たスヴィヤーズスキイが、ウロンスキイのもとへたちよった。
その前日にもう、ウロンスキイとアンナとのあいだには、この予想された旅立ちのことで、ほとんどけんかに近いことがおこった。それは、田舎では一ばんたいくつな、重苦しい秋の季節だったので、ウロンスキイは、争いにたいする心がまえをしながら、それまでには一度も見せたことのないような、冷やかな、きびしい表情をして、アンナに旅立ちのことを申しわたした。ところが、驚いたことに、アンナはきわめておちついた態度でその知らせを受けて、ただいつ帰るかということをきいただけであった。彼には、彼女のこうしたおちつきが解《げ》せなかったので、まじまじと彼女の顔を見つめた。彼女は、彼のまなざしにたいしてにっこり笑った。彼は、彼女がこういうふうにして、自分の内へもぐりこんでしまうことを知っていた。そして、こういうことは、彼女が、彼にはその計画を告げずに、自分ひとりで何か決心したことのある場合にだけあることなのを知っていた。彼はそれを恐れていたが、争いを避けたい欲望が強かったので、自分の信じたいと思うこと――すなわち彼女の理性の正しさを信じているようなさまをよそおい、またある程度までは、心からそれを信じたのであった。
「おまえがたいくつしなければいいがね?」
「ええ」と、アンナはいった。「でもね、昨日ゴーチエからご本がひと箱、届きましたからね。だいじょうぶ、たいくつなんかしないだろうと思いますわ」
『なるほど、この調子でいこうとしているのだな、そのほうがかえっていい』と彼は考えた。『さもないと、また同じことになるばかりだからな』
こうして彼は、彼女とうちとけた話しあいをしないままに、選挙にと立って行った。彼が最後までぴったりとうちとけないで、彼女と別れてしまったのは、ふたりが関係を結んで以来、これが初めてのことであった。一方からは、それは彼を不安にしたが、一方からは、そのほうがいいと思われた。『初めのうちは、今のように、なにやらはっきりしないものが残ったような気もするだろう。が、そのうちには、あれもなれてくる。おれは、どんな場合にでも、あれにはなんでもあたえることができるが、自分の男としての独立だけは、そういうわけにいかないからな』こう彼は考えるのだった。
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二十六
九月にレーヴィンは、キティーの出産のためにモスクワへ移った。彼はもうまるひと月、なすこともなくモスクワに暮らしていた。そのとき、カシンスカヤ県に領地があって、こんどの選挙に大きな関係をもっていたセルゲイ・イワーノヴィッチは、選挙に出かける支度をしていた。彼は、セレズニェーフスキイ郡に選挙権をもっていた弟を、自分といっしょに行くように誘った。そればかりでなく、レーヴィンには、外国にいる姉のために、どうでも始末をつけてやらなければならない後見問題と、償還《しょうかん》金受取りにかんする用件とがカシンにあった。レーヴィンは、それでもなお心を決しかねていたが、かねて彼がモスクワでたいくつしていることを見て、彼に行くことをすすめていたキティーが、彼にはいわずに、彼のために八十ルーブリもする貴族の制服を注文してしまった。この制服のために支払われた八十ルーブリが、レーヴィンを行かせることにした主要な原因となった。彼はカシンをさして出発した。
レーヴィンはもう六日もカシンにいて、毎日集会へ顔を出したり、どうもうまくはこばない姉の用件について奔走したりしていた。貴族長たちはみな選挙のことで忙殺されていたので、後見にかんするような、ごく簡単な事件さえ、なかなかかたがつかないのだった。もうひとつの用件――金の受取り――もまた、同様の障害に出あった。禁令解除についての長い奔走のすえに、金はようやく交付されることになったが、公証人は、すこぶる親切な男だったのに、金銭交付書を発行することができなかった。なぜなら、それには議長の署名がいるのに、議長は職務のひきつぎをしないで、会議に出むいていたからであった。すべてこうした心づかい、役所から役所への奔走、請願者の立場の不快さを十分に知っていながら、それを助けることのできない、善良一方な、親切な人々との会談、なんらの効果をももたらさない、すべてのこうした緊張は、レーヴィンの心に、人が夢のなかで体力を利用しようとするときに経験する、あの腹だたしい無力感に似た、悩ましい感じをなめさせた。彼はこの気持を、よく、非常に親切な自分の代理人と話をしているときにも、感じた。この代理人は、レーヴィンを困難から救いだすためにできるだけのことをし、全知能を緊張させているように思われた。
「では、ひとつ、こうやってみてごらんなさい」と、一度ならず彼はいった。「あすことあすこへおいでになってごらんなさい」そして、代理人は、事件全体の障害になっている根本の原因を避けるための案を無数に提供するのだった。が、彼はそういう下からすぐこうつけ加える――「とにかくまだ、早急のまにはあいますまいが、まあやってごらんなさいまし」
で、レーヴィンはやってみた、歩きまわった、乗りまわった。みんな善良で親切だった。が、けっきょくはやはり、避けて通ったものが、いざというときにまた頭をもたげて、ふたたび道をさえぎることになるのだった。ことにレーヴィンにとって心外だったのは、自分はだれと争っているのか、自分の仕事の長びくことがいったいだれの利益になるのか、それがいっこうにはっきりしないことであった。この点は、だれにもわからないようであった。代理人も知らなかった。もしレーヴィンが、停車場の出札口ではなぜ一列にならばなければならないかという理由を理解するように、これを理解することができたら、かくべつの侮辱や腹だたしさは、感じなくてすんだであろう。ところが、彼がこの問題で出あった障害については、だれひとり、それがなんのためにあるのか、説明のできる者はなかったのである。
しかし、レーヴィンは結婚してからすっかり人間がかわっていた。彼はしんぼうづよくなっていて、なんのためにこういう組織になっているのかのみこめないようなことがあっても、すっかり知ってからでなくては、ぜひの判断をくだすことはできない、たぶんそうなる必要があったのだろう、こう心にいって、腹をたてまいとつとめるのだった。いま、選挙に出席して、それに参加しながらも、彼は同じく批判したり、争ったりしないように、自分の尊敬している、名誉あるりっぱな人々が、非常なまじめさと熱意とをもってたずさわっている仕事を、できるだけよく理解するようにつとめていた。結婚したそのときから、レーヴィンには、それまでは軽薄な態度をとっていたために愚劣なもののように思われていたものにも、新しい、まじめな方面が開けてきたので、彼はいまや、選挙ということにも、まじめな意味のあることを考えて、それを探求しているのだった。
セルゲイ・イワーノヴィッチは、彼に、こんどの選挙に予想される改革の性質や意味などを説明してくれた。県の貴族長――法律によって多くの重要な社会事業、後見問題(レーヴィンがいま悩まされている当の問題)も、貴族団の所有にかかる莫大な金子も、女子、男子、軍人の中等学校も、それから新様式の国民教育も、最後には地方自治会のことまでも掌握している県の貴族長スネートコフは、莫大な財産を浪費した、性質のいい、正直な男ではあるけれども、新しい時代の要求には理解をもたない、旧派の貴族のひとりであった。彼は、何事にもつねに貴族の肩をもって、国民教育の普及には頭から反対し、本来非常に重大な意義をもっていなければならない地方自治会に、階級的性質をあたえていた。であるから、彼の地位には、どうしても、現代的な、発剌とした、活動的な新人をすえて、単なる貴族としてではなく、地方自治会の一要素としての貴族にあたえられているすべての権利から、引き出せるだけ自治の利益を引き出すように、事をはこばなければならなかった。すべての点でつねに他県より一歩さきんじていた富裕なカシンスカヤ県には、いまや非常な勢力ができていたので、ここで適宜《てきぎ》に実行されたことは、他県はもちろん、ロシア全体の模範となることができるのだった。しぜん、すべてのことが重大な意味をもっていた。で、貴族長のいすには、スネートコフのかわりにスヴィヤーズスキイか、なお欲をいえば、もとの大学教授で、聡明をもって天下に聞こえている、セルゲイ・イワーノヴィッチの大の親友であるニェヴェドーフスキイをすえようということになっているのだった。
会議は知事によって開かれた。彼は貴族一同に向かって、彼らが一点の私心をはさむことなく、祖国の福祉のために、その功績によって議員を選挙するように、そして、カシンスカヤ県の名誉ある貴族が、これまでの選挙のとき同様に、神聖にその義務を履行《りこう》して、君主の高い信任に報いたてまつることを希望する――こう演説した。
演説をおわると、知事は会場から出て行き、貴族たちはがやがやと騒がしく、ある者は感きわまったというふうで、彼のあとを追い、彼が毛皮外套を着て、親しげに県の貴族長と話をしていたときに、その周囲をとりかこんだ。レーヴィンは、すべての事態を見きわめ、何ひとつ見のがすまいと思いながら、その群集のなかに立ちまじって、知事がこういっているのを聞いた。――「どうぞ、マーリヤ・イワーノヴナにお伝えください。家内は、養育院へ行くのでお会いできないのを非常に残念がっておりますって」その話のあと、貴族たちは上きげんで、めいめいの毛皮外套を選りわけて、大会堂へと馬車を駆った。
大会堂でレーヴィンは、他の者といっしょに手をあげて、祭司長の言葉を反覆《はんぷく》しながら、きわめて恐ろしい宣誓《せんせい》とともに、知事の希望をすべて履行するむねを誓った。教会の儀式はレーヴィンにたいして、つねに大きな影響力をもっていた。で、彼は、「われ十字架に接吻《くちづけ》す」という言葉を発音しながら、同じことをくりかえしている、この老若いりまじった人々のほうをかえりみたときには、強い感動を胸におぼえた。
二日めと三日めには、貴族団の財産と女学校についての問題が討議されたが、それは、セルゲイ・イワーノヴィッチの説明によると、なんら重大な意味をもっていなかったし、レーヴィンは、自分の用件の奔走に忙しかったので、あまり注意をはらわなかった。四日めには県庁のテーブルで、県貴族団の財産の検査が行なわれた。そしてそのときはじめて、新旧両党の衝突がおこった。財産の監査を委任されていた委員会は、財産がすべて完全に保たれているむねを報告した。県の貴族長は起立して、貴族たちに向かって信任を感謝しながら、涙を流した。貴族たちは、声高く彼にあいさつして、彼の手を握った。が、そのとき、セルゲイ・イワーノヴィッチ党の一貴族が立ち、自分は、委員会がそういう検査を行なうのを貴族長にたいする侮辱だと考えて、在庫金の検査は行なわなかったということを耳にしている、と言いだした。と、不注意にも委員のひとりが、その言葉を裏書きした。そのとき、ひとりの小柄な、見たところ非常に若い、けれども恐ろしく辛《しん》らつな紳士が、県の貴族長にとっては、おそらく在庫金の計算報告をすることは愉快なことであるにちがいない、委員たちのよけいな遠慮は、彼のこの精神的満足を奪うことになるだろうと言いだした。そこで委員たちは、自分たちの声明を撤回し、セルゲイ・イワーノヴィッチが立って、その財産監査なるものが、はたしてなされたものかなされなかったものか、まず第一に、それを認定する必要があると、論理的に論断しはじめて、詳細にこの矛盾を指摘した。セルゲイ・イワーノヴィッチには反対党の饒舌家が答弁した。ついでスヴィヤーズスキイが発言し、そしてふたたび、例の辛らつな紳士が発言した。論争は長くつづいて、いつおわるとも思われなかった。レーヴィンは、こんなことのために、なぜこんなに長く争っているのかとふしぎに思ったが、それは、とくに、彼がセルゲイ・イワーノヴィッチに向かって、あなたは財産が濫費《らんぴ》されていると思っているのかとたずねたときに、セルゲイ・イワーノヴィッチがつぎのように答えたからであった。
「いや、どうしてどうして! あれは廉直《れんちょく》な男だよ。しかし、貴族の事業の管理方法として、父親が家庭をおさめるようなこの旧式なやりかたは、少しゆすぶってみなければならないのさ」
五日めには、郡の貴族長の選挙があった。この日は、二、三の郡ではかなり騒がしい日であった。セレズニェーフスキイ郡では、スヴィヤーズスキイが無投票の満場一致で選出されたので、この日彼のところで饗宴が行なわれた。
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二十七
六日めには、県の選挙があることになっていた。大小の広間は、さまざまな制服をつけた貴族たちでいっぱいであった。多くの人は、ただこの日だけを目あてに出かけて来たのであった。久しく会わなかった知り合いの人たちが、ある者はクリミヤから、ある者はペテルブルグから、またある者は外国から来て、これらの広間で落ちあった。県貴族長のテーブルのところ、皇帝の肖像の下では、論戦が行なわれていた。
貴族たちは、大広間にも小広間にも、一団一団になってたむろしていた。その目つきの敵意ありげな、猜疑《さいぎ》ぶかげな色や、他人がそばへくるとやめてしまう話しぶりや、二、三の者が何かひそひそとささやきながら、わざわざ遠い廊下のほうまで行ったりする事実から見て、各派のものがそれぞれに、他聞《たぶん》をはばかる秘密をもっていることが明らかであった。
その外見によって貴族たちは、はっきりと新旧二つの組にわかれていた。旧派のほうの人たちは、大部分、旧式なボタンかけの貴族の制服を着、剣をさげて、つばのある帽子をかぶっているか、あるいは各自の出身に応じて、海軍なり、騎兵なり、歩兵なりの制服を着用しているかであった。古い貴族たちの制服は、肩にわたなどを入れた、旧式仕立てのものであった。それらの服はいかにも小さく、腰きりの、短い、きゅうくつなもので、それを着ている人たちが、それをつくった後に大きくなったかのように見えるものであった。若い人たちは、まっ白なチョッキの上へすその長い、肩の広い、ボタンをかけない貴族の制服を着ているか、あるいは黒えりの、司法省の徽章《きしょう》を刺繍した制服を着ているかであった。が、この若手のほうにはまた、そこここに、異彩をはなっている宮内官吏の制服姿もまじっていた。
しかし、老若の区別は、党派の別とは一致していなかった。レーヴィンのみるところでは、若手のなかでもある人々は旧党に属し、その反対に、二、三の最も老年の貴族が、スヴィヤーズスキイなどと何やらひそひそささやきあっている、みるからに新党の熱心な味方であった。
レーヴィンは、人々が喫煙したり、軽い食物をとったりしている小さい広間の、自分たちのグループのそばに立ち、彼らの話に耳をすましながら、話されていることを理解しようとして、いたずらに自分の知力を緊張させていた。セルゲイ・イワーノヴィッチはひとつの群の中心で、他の連中はその周囲に集まっていた。彼はいま、他の郡の貴族長で、彼らの党派に属しているフリュストフとスヴィヤーズスキイとの話に耳をかたむけていた。フリュストフは、自分の郡をひきいてスネートコフに立候補をこうことに不同意であったが、スヴィヤーズスキイはぜひそうするようにと、しきりに彼を説いており、セルゲイ・イワーノヴィッチも、その案に賛成しているのであった。レーヴィンは、なんの理由で、反対党が当選を望んでもいない貴族長に立候補をこう必要があるのか、どうしてもがてんがいかなかった。
軽い食事をとり一杯やってきたばかりのステパン・アルカジエヴィッチは、香水の香りのぷんぷんする縁のついた細麻のハンケチで口もとをぬぐいながら、侍従の制服姿で、彼らのほうへやって来た。
「陣地占領確実なりだよ」と、両方のほおひげをなでつけながら、彼はいった。「ねえ、セルゲイ・イワーノヴィッチ!」
そして、ちょっと人々の会話に耳をかたむけてから、彼は、スヴィヤーズスキイの意見を裏書きした。
「一郡だけで十分さ、スヴィヤーズスキイはもう明瞭に反対側なんだから」と彼は、レーヴィンを除いては、だれにもわかっている言葉をいった。
「どうだコスチャ、きみもどうやらこのおもしろみがわかってきたようだね?」と彼は、レーヴィンのほうをふり向きながら言いたして、彼の腕をとった。レーヴィンは、自分におもしろみがわかってくるならうれしかったが、まださっぱりわけがわからなかったので、話している人たちから数歩はなれてから、なぜ県の貴族長に立候補をこわねばならないのか、その点の疑問を、ステパン・アルカジエヴィッチにもちだしてみた。
「O sancta simplicitas!(おお聖なる単純さよ)」と、ステパン・アルカジエヴィッチはいった。そして手短かに、明瞭に、その間《かん》の消息を説明して聞かせた。
もしこれまでの選挙のときのように、各郡がこぞって、県の貴族長に立候補を要請《ようせい》したら、彼は満場一致で選出されてしまう。そんなことがあってはならない。しかも今では、八つの郡がこれに同意している。が、もし二つの郡がそれをこばめば、スネートコフは立候補を拒否するかもしれない。すると旧党は、自党のなかから別の候補者を選ぶようになるにちがいない。それでは、すべての段どりがくずれてしまうことになるのである。しかし、もし彼の立候補を要請しないのがスヴィヤーズスキイの郡だけになれば、スネートコフはむろん立つにちがいない。と、こちらでは、わざと彼に投票して、今にも彼を選出しそうにする。すると反対党は計算をあやまって、こちらから候補者を立てたときに、それに投票することになるだろう。レーヴィンは理解したが、まだ十分ではなかったので、なお二、三質問をしようとしていると、そのとき一同が急にしゃべりだし、騒ぎだして、大広間のほうへ動いて行った。
「どうしたのだ? なんだ? だれを?」――「信任? だれに? なんだ」――「反駁《はんばく》している?」――「信任じゃない」――「フレーロフが通されないのだ」――「なに、裁判を受けてるからって?」――「そんなことをいや、だれだって通されやしない。それは卑劣だ」――「法律だ!」レーヴィンは八方からこういう声を聞きながら、何かを見のがすのを恐れてどこかへ急いでいる一同といっしょに、大広間へはいって行った。そして、大ぜいの貴族たちにおしつけられながら、県の貴族長や、スヴィヤーズスキイや、その他の指導者連が、何事か熱心に言い争っている大テーブルのほうへ進んでいった。
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二十八
レーヴィンはかなり遠くのほうに立っていた。彼のそばにいたひとりの貴族の、重苦しくしゃがれた音を立てて呼吸するのと、もうひとりの、厚いくつ底をきしませるのとが、彼にはっきり聞くことをさまたげた。彼は遠くのほうから、貴族長のもの柔らかな声と、つぎに例の辛らつな貴族の金切り声と、つづいてスヴィヤーズスキイの声とを聞いただけであった。彼の解しえたかぎりでは、彼らはある法文の意味と、|予審を受けつつ《ヽヽヽヽヽヽヽ》ある者という言葉の意味について、論じあっているのであった。
テーブルのほうへ行こうとするセルゲイ・イワーノヴィッチに道をあたえるために、群集は両側へわかれた。セルゲイ・イワーノヴィッチは、辛らつな貴族の言葉のおわるのを待って、何より確かなことは、法文を調べてみることだと思われると言い、書記にその条文を出してもらうように頼んだ。その条文には、意見不一致の場合は投票によるべきむねが述べられてあった。
セルゲイ・イワーノヴィッチは条文を読みあげて、その意味を説明しはじめたが、そのとき、背の高い、ふとった、ねこ背の、口ひげをそめた、その首をうしろからささえているようなえりのついた、きゅうくつそうな制服を着たひとりの地主が、彼をさえぎった。彼はテーブルのほうへ進んで、指輪でひとつそれをたたくと、大声に叫びだした――
「投票すること! 投票だ! かれこれいう必要はない! 投票、投票!」
と、にわかに数人の声ががやがや言いだした。指輪をはめた背の高い貴族は、ますます激昂《げっこう》して、いよいよ大声に叫びたてた。が、何をいっているのか、聞きとることはできなかった。
彼は、セルゲイ・イワーノヴィッチが提議したのと、同じことをいっているのであったが、彼自身は明らかに、セルゲイ・イワーノヴィッチとその党派を憎んでいた。そしてこの憎悪感は、その党全体にひろがると同時に、反対党のあいだにも、やや穏当ではあるが、同じような憤懣《ふんまん》の対抗をひきおこした。叫び声が四方におこって、しばらくはいっさいが混乱してしまったので、県の貴族長は、秩序の回復をうながさなければならなかった。
「投票、投票! いやしくも貴族ならわかるはずだ」――「われわれは、事あるときには血を流すものだ……」――「君主の信任だ……」――「貴族長を責めることはない、彼は番頭ではないのだから」――「そんなことは問題ではない」――「投票に願います! なんというざまだ……」こうした毒念にみちた、狂暴な叫び声が八方から聞こえた。目つきや顔つきは、言葉以上に毒々しく狂暴だった。それらは、とうてい融和《ゆうわ》しがたい憎悪をあらわしていた。レーヴィンは、何がなんだかさっぱりわからなかったが、人々がフレーロフについての意見を投票に付すべきかいなかを決するために見せている熱狂ぶりには、ただ驚くばかりであった。彼は、あとでセルゲイ・イワーノヴィッチが説明してくれたとおり、つぎのような三段論法を忘れていたのであった。つまり、一般の福祉のためには、現在の県貴族長を落選させることが必要であり、貴族長を落選させるためには、投票の多数を獲得することが必要であり、投票の多数を獲得するためには、フレーロフに投票権をあたえることが必要であり、フレーロフの権利を認めるためには、法文をいかに解釈すべきかを明らかにすることが必要であったのである。
「一票の差が万事を決することもありうるからね。公共の仕事に奉仕しようと思ったら、まじめで、しっかりしていなければならないのさ」とセルゲイ・イワーノヴィッチは言葉をむすんだ。が、レーヴィンは、それをすっかり忘れていたので、自分の尊敬するこれらのりっぱな人々が、こうした不愉快な腹だたしげな興奮状態にあるのを見るのが、重苦しかった。この重苦しい気持からのがれるために、彼は討論のおわるのを待たないで、別の広間のほうへ去った。そこには、食器だなのそばにボーイたちがいるだけで、ほかにはだれもいなかった。食器をふいたり、皿《さら》やコップを片づけたりしているボーイたちの忙しそうな様子を見、彼らのおちついたいきいきした顔を見ると、レーヴィンは、まるで悪臭のたてこめた部屋から、すがすがしい空気のなかへ出たような、思いがけない安易な気持をあじわった。彼はさも満足げに、ボーイたちの姿をながめながら、あちこちと歩きはじめた。彼には、半白なほおひげをはやした、ひとりのボーイが、自分にからかいづらの他の若い連中に軽蔑の色を見せながら、ナフキンのたたみかたを教えていたのが、非常に気にいった。レーヴィンは、この老ボーイに何か話をしかけようと思ったが、ちょうどそのとき、貴族後見所の秘書で、県内の貴族の名や父称をことごとく知っているという特色をもった老人がやって来て、彼の注意をひいた。
「ちょっとおいでください。コンスタンチン・ドミートリチ」と、彼はレーヴィンにいった。「お兄さまがさがしていらっしゃいます。投票がはじまりましたので」
レーヴィンは、広間へはいって、白い球を受け取ると、兄のセルゲイ・イワーノヴィッチにしたがって、テーブルのそばへ歩みよった。そこにはスヴィヤーズスキイが、意味ありげな皮肉な顔をし、あごひげをひと握りにして、それをかぎながら立っていた。セルゲイ・イワーノヴィッチは、片手を箱のなかへさし入れ、自分の球をどこかへ置くと、レーヴィンに場所をゆずって、そのままそこに立ちどまった。レーヴィンはそばまで進んだが、事のしだいをすっかり忘れてしまったので、まごまごしながら、セルゲイ・イワーノヴィッチのほうをふり返って、「どこへ置くんでしたっけ?」とたずねた。彼は、この質問を他人に聞かれたくないと思ったので、近くの人々が話をしているおりを見はからって、静かにこうきいたのだった。ところが、話していた連中が急に黙ってしまったので、彼の無作法な質問は聞かれてしまった。セルゲイ・イワーノヴィッチは顔をしかめた。
「それは各自の信念にあることだ」と、彼はきびしい語調でいった。
二、三の人々がにやりと笑った。レーヴィンは顔をあかくし、急いで片手をらしゃの下へさし入れ、右手に球を持っていたので、右のほうへそれを置いた。置いてしまってから、左手をもさし入れなければならなかったことに気がつき、それを入れたが、もう遅かったので、ますますきまりのわるい思いをしながら、急いで一ばんあとのほうへひきさがった。
「賛成百二十六票! 否定九十八票!」と、エル(P)の音を発音しない秘書の声がひびきわたった。そのあとで笑い声がおこった――ボタンがひとつと|くるみ《ヽヽヽ》がふたつ、箱のなかから出てきたからであった。例の貴族は投票権を認められて、新党が勝利をえた。
しかし旧党側では、自分たちが負けたとは思わなかった。レーヴィンは、彼らがスネートコフに立候補を要請しているのを小耳にはさみ、一団の貴族たちが、何やらいっている県貴族長をとりかこんでいるのを目にした。レーヴィンはそのほうへよって行った。貴族たちに答えながら、スネートコフは、自分にたいする彼らの信任と愛について語り、自分の功績のごとき、ただ、勤務の十二年間をささげてきた貴族にたいする忠誠にあるにすぎないから、自分にそれだけの価値はないといっていた。何度も彼はつぎの言葉をくりかえしていた――「わたしはただ、信仰と真実とをもって極力任にあたってきたまでです。ありがとうございます。感謝します」そのうち、ふいに、こみあげてきた涙のために話をやめて、広間の外へ出て行ってしまった。その涙は、自分が不当の扱いを受けているという意識からきたものか、貴族にたいする愛からきたものか、それともまた、自分が敵の包囲のなかにあることを感じているその立場の緊張からきたものか、それははっきりしなかったが、とにかく彼の興奮は、貴族の大部分にもつたわって、彼らを感動せしめた。レーヴィンもまた、スネートコフにたいして、優しい感情をおぼえた。
戸口のところで、県の貴族長はレーヴィンにつきあたった。
「や、これは失礼、ごめんください」と、彼は見知らぬ人にたいするような口調でいったが、それがレーヴィンだと気がつくと、おじけたような微笑をうかべた。彼は何かいおうとしたが、興奮のあまり言葉が出なかったように、レーヴィンには思われた。急ぎ足に出て行く彼の顔つきと、制服の胸に十字勲章をかけつらね、金モールのはいった白ズボンをはいたその姿全体の表情とは、レーヴィンに、追いつめられて進退きわまったことを知ったときの野獣を思いおこさせた。貴族長の顔にあったこの表情は、レーヴィンにはとくに感動的であった。というのは、まだ昨日のこと、彼は例の後見の用件で、彼の私宅を訪れて、善良な家庭人としてのりっぱな姿を、その人に見たばかりだったからである。古めかしい伝来の家具をそなえた大きな家。明らかに以前の農奴制時代から主人を変えずに仕えているらしい、しゃれたところなど少しもない、むしろ、うすぎたない|なり《ヽヽ》をした、しかし礼儀正しい年よりの従僕たち。娘の娘であるかわいい孫娘をあやしていた、レースのついた頭飾りにトルコふうの肩かけをかけていた、でっぷりふとった気心のよさそうな夫人。学校から帰って来て、父にあいさつしながら、彼の大きな手に接吻した中学の六年生だという若いむすこ。主人の言いふくめるような、温情にみちた言葉と身ぶり――これらはみな、昨日レーヴィンの心に、おのずからな尊敬と同情をよびおこしたものであった。で、レーヴィンにはいま、この老人がひどく気の毒な、いたましい人のように思われたので、彼はこの老人に、何か気持のいいことをいってやりたくなった。
「するとまたあなたは、われわれの貴族長におなりなさるんでしょうね」と彼はいった。
「いや、それはどうも」と、びっくりしたようにふり返って、貴族長はいった。「わたしは疲れましたよ、それにもう老骨です。もっと若いりっぱな人が、いくらもあります。そういう人にやってもらうがいいんですよ」
こういって貴族長は、かたわらのドアのなかへかくれてしまった。
いよいよ最も厳粛な時がやってきた。すぐ選挙に着手しなければならなかった。両党の指導者たちは、指で白と黒とを数えていた。
フレーロフについての論争は、新党にフレーロフの一票をあたえたばかりでなく、なおその時間を利用する利益をあたえてくれたので、新党では、旧党の奸策《かんさく》によって選挙に参加できなくされていた三人の貴族を、呼びもどすことに成功した。酒となると目のなかったふたりの貴族は、スネートコフ一派のために盛りつぶされ、もうひとりは、制服を持ち逃げされてしまったのだった。
これをみると、新党ではさっそく、フレーロフにかんする論争のあいだに、仲間の者をつじ馬車で送って、ひとりの貴族には制服を着せ、盛りつぶされたうちのひとりをも、首尾よく会場へ連れもどした。
「ひとりは連れて来ました、水をぶっかけてやりましたよ」と、その男を迎いに行ったひとりの地主は、スヴィヤーズスキイのそばへ来ながらいった。「だいじょうぶ、役にたちます」
「ひどく酔ってるんじゃないんですか。倒れたりするようなことはありませんか?」と、頭を振りながらスヴィヤーズスキイはいった。
「いや、確かなものです。ただここで飲ませさえしなければね……どんなことがあっても飲ませちゃいかんぞって、食堂係によく言いつけておきましたよ」
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二十九
人々がたばこを吸ったり、軽い食事をとったりしていた狭いホールは、貴族たちでいっぱいになっていた。興奮は刻々に増大して、だれの顔にも不安の色がみとめられた。なかでも、細かい事情や、球の数をよく知っている指導者たちが、ことにひどく興奮していた。それは、目前に迫りつつある戦闘の指揮者であった。その他の人たちは、戦いの前の兵卒のように、同じく戦闘準備はしているといっても、なおそのあいまに、気ばらしになるものを求めている。ある人は立ったまま、またはテーブルにもたれて、ものを食っているし、ある人は巻たばこをくわえて、細長い室内をあちこちと歩きながら、久しく会わなかった友だちと話をしていた。
レーヴィンはたべたいとも思わなかったし、たばこものまなかったが、また知人たち、つまりセルゲイ・イワーノヴィッチや、ステパン・アルカジエヴィッチや、スヴィヤーズスキイその他の人たちといっしょになることも好まなかった。というのは、主馬寮長《しゅめりょうちょう》の制服を着たウロンスキイが、彼らの熱心な会話の仲間に加わって立っていたからであった。レーヴィンは、昨日も選挙場で彼を見かけたのだったが、彼には会いたくなかったので、つとめて避けてきたのだった。彼は窓のほうへ行き、腰をおろして、人々の群を見やりながら、自分のまわりで話されていることに耳をかたむけた。彼は気が沈んでならなかったが、それはことに、見たところ、だれもかれもが気もそぞろにわくわくして、夢中になっているらしいのにひきかえ、自分ひとりは、自分のそばに腰掛けてくちびるをもぐもぐさせている、海軍の制服をつけた、もう歯の一本もないようなひどいおいぼれじいさんといっしょに、なんの興味も持たず、なすこともなく、まごまごしていたからであった。
「なにしろ、あいつはひどいならずものですからねえ! わたしはあいつにいってやったのですが、なんにもなりやしない。いやはや、じつにどうも! あいつは三年もかかって、それを集めることができなかったんですからねえ!」と、香油を塗りたてた髪の毛を、刺繍のある制服のえりへたらした、背のあまり高くないねこ背の地主が、選挙だというのでとくにはいてきたらしい新しい長ぐつのかかとで、床板を強くたたきながら、精力的な声でいっていた。そしてこの地主は、不満げなまなざしをレーヴィンのほうへちらと投げてから、くるりと背を向けてしまった。
「さよう、少々くさいところがありますよ、いうまでもありません」と小柄な地主は、細い声で相づちをうった。
それにつづいて一団の地主たちが、ひとりのふとった将軍をかこんで、急ぎ足にレーヴィンのほうへ近づいて来た。地主たちは明らかに、人に聞かれないで話のできるような場所を求めているのであった。
「あいつめ、人があいつのズボンを盗ませたなんて、よくもそんなことがいえたもんだ! きっと自分で飲んじまったにちがいないんだ。あんなやつが公爵だなんて、つばでも吐きかけてやりたいよ。やつなんて、あんなことをいえた義理じゃないんだ。とんちき野郎め!」
「しかし、ちょっと待ってください! 彼らは条文によっているのですからね」と、別の一団のほうではいっていた。「妻はやはり貴族として記録されなければならないのですよ」
「だが、条文なんかわたしにとっちゃ、くそくらえですよ! わたしは衷心《ちゅうしん》の声にしたがっていっているのです。ありがたいことに、われわれは生まれながらにして貴族だ。信用しなくちゃいけないよ」
「閣下、fine champagne(上等のシャンパン)をやりにまいりましょう」
また別の一団が、なにやら高調子にわめきたてているひとりの貴族のあとについて、やって来た。この貴族は、さっき盛りつぶされた三人のうちのひとりであった。
「わたしはいつもマーリヤ・セミョーノヴナに、地代をとって貸すようにすすめているんですよ。なにしろあの女《ひと》ときたら、もうけることを知らないんですからね」と、古い参謀《さんぼう》大佐の制服を着た、半白の口ひげのあるひとりの地主が、気持のいい声でこういっていた。それはレーヴィンが、スヴィヤーズスキイの家で会ったあの地主であった。彼はすぐそれとわかった。地主のほうでもレーヴィンのほうをときどき見たので、ふたりはあいさつをかわした。
「いや、これは愉快ですな。どうしまして! ようく覚えとりますよ。去年ほら、貴族長のニコライ・イワーノヴィッチのところで」
「ところで、あなたの農事はその後いかがですか?」と、レーヴィンはきいた。
「いや、どうもあいかわらずで、いつも損ばかりでな」と地主は、つつましやかな微笑をうかべて彼のそばに立ちどまりながら答えたが、しかしその顔には、それよりしかたがないのだという、おちつきと確信にみちた表情があった。
「それはそうと、あなたはどうしてわれわれの県へおいでになったのです?」と彼はきいた。「われわれの coup d'etat(クーデター)に参加するために来られたんですか?」と彼はきっぱりと、しかし、へたくそにフランス語を発音しながらいった。「全ロシアが集まった形ですな。侍従や大臣格の人たちさえ見えてますからな」と彼は、将軍とならんで歩いていた、侍従の制服に白ズポンをつけたステパン・アルカジエヴィッチの堂々たる姿をさし示した。
「お恥ずかしいしだいですがね、じつをいうと、わたくしにはどうも、貴族の選挙の意味がよくわからないんでしてね」とレーヴィンはいった。
地主は彼の顔をみつめた。
「いやなに、わかるもわからぬもあるもんですか? なんにも意味なんかないんですよ。ただ惰性で動いているにすぎない、もうすたれかかった制度ですからな。まあ、あの制服をごらんなさい――それが雄弁に語っていますよ、治安判事や、常任幹事や、そういった連中の集会で、貴族の集会じゃないということを」
「じゃあ、あなたはなんのために出かけておいでになったのですか?」とレーヴィンはきいた。
「これも習慣で、それきりですよ。もっとも、連絡をたもつということは必要です。まあいわば一種の道徳的義務ですな。それにまた、じつをいうと、自分の利害もあるというものです。じつは、わたしの婿が常任幹事に選出されたい希望をもっていますのでね。なにしろ、金のない連中ですから、少しは引きまわしてもやらなきゃならないのですよ。しかし、ああいう紳士たちこそ何しにやって来たのですかな?」と彼は、県貴族長のテーブルのほうでしきりに何やらしゃべっている、例の辛《しん》らつな紳士のほうをさしながらいった。
「あれが貴族の新世代ですよ」
「なるほど、新しいことは新しい。しかし貴族ではありませんな。彼らは土地の持ち主で、われわれこそ地主なんです。彼らは、貴族としてわれとわが身に手をくだしているようなものですよ」
「だってあなたは、それはもう時代おくれの制度だっていってらっしゃるじゃありませんか」
「時代おくれは時代おくれですが、しかしとにかく、もっと敬意をもってとり扱わるべきことですよ。よしスネートコフにしてもですね……われわれはとにかく、よかれあしかれ、数千年の歴史をもっているものですからな。ところで、いいですか、かりにわれわれが、自分の家の前へ小さな庭をひとつつくろうというようなことがおこった場合、ちょうどそこに、百年もたった樹木があるとします……とすると、たとえその木がいかに曲がりくねった老木であったとしても、あなたは、花壇をつくるために、その老木を切り倒すようなことはなさらないで、かえってその木を利用するように花壇をお拵《こしら》えになるでしょう。一年やそこいらでそんな木を育てあげるわけにはいきませんからな」と彼は、用心ぶかい調子でいって、すぐに話題を変えた。「ところで、あなたのほうの農事はいかがですかな?」
「いや、あんまりおもしろくありません。五分くらいにしかなりませんね」
「なるほどね、しかしあなたは、まだご自分を勘定に入れていらっしゃらないのですよ。だって、あなたご自身も、相当の報酬を要求なさっていいわけじゃありませんか? ところで、わたし自身のことを申しあげてみましょう。わたしは自分で農事に手を出すまでは、勤めに出て三千ルーブリもらっていました。現在わたしは、その時分よりずっとよけいに働いていますが、やはりあなたと同様に、五分の利益しか得ておりません。しかし、それでもいいほうなんです。自分の労力はただですよ」
「じゃあ、なぜあなたは、そんなことをしていらっしゃるんです? 損とわかりきっているのに?」
「ところが、だれでもそれをやるんですよ! では、どうすればいいといわれるんですかな! 習慣ですよ。つまり、そうしないではいられないんです。もう少しくわしくいえばですな」と地主は、窓にほおづえをつきながら、ようやく話に油がのってきたふうで、しゃべりつづけた。「わたしどもでは、せがれが農事に少しも趣味をもっていないのですよ。どうやら学者肌の人間でしてな。そんなわけで、こちらはもうだれにあとをつがせるものもないのですが、それでもわたしは、やらずにはいられないのですよ。げんに今年は、果樹園まではじめましてな」
「そうです。そうです」とレーヴィンはいった。「確かにおっしゃるとおりです。わたしもつねづね、自分の農業に真に採算などないことを感じています。それでやっぱりやっているんですからね……いわば、土地にたいして一種の義務を感じているとでもいうんでしょうかね」
「ああ、まだこんな話がありますよ」と地主はつづけた。「あるとき、隣りの商人が家へやって来ましてね。わたしどもはいっしょに農場や果樹園を歩きました。すると、その男がいうには、『いや、ステパン・ワシーリエヴィッチ、こちらでは万事よく行き届いておりますが、お庭のほうはいっこうおかまいにならんようですな』だなんて。ところが、わたしどもでは、庭はかなり手が入れてあるんですよ。『わたしの考えでは、あのぼだい樹はお切りになったほうがよかろうと思うんですがな。養分がむだになるだけですから。ところが、この千本もある木を切ってしまうとすると、一本からりっぱな樹皮が二枚ずつとれますからな。きょう日《び》にゃその樹皮がばか値なんですから、わたしならどしどし切ってしまいますがなあ』こうなんですよ」
「つまり、そういう男は、そうした金で家畜を買うか、いくらかの土地を捨て値で買って、それを百姓たちに貸付けるといったようなことをするんでしょうね」とレーヴィンは、にこにこしながらひき取っていった。明らかにもう何度も、そうしたやり口には出くわしたことがあるという様子で。「つまり、そういう男は、そうして財産をつくるんですね。ところが、あなたやわたしは、ただ持っているものを失わないで、子供たちに残してやれば上々なんですからね」
「あなたはご結婚なすったとか、うわさに聞きましたが?」と、地主はいった。
「ええ」とレーヴィンは、誇らしげな満足の色を見せて、答えた。「いやどうも、まったくおかしな話ですよ」と、彼は言葉をつづけた。「こうしてわたしたちは、無計算に、昔の巫女《みこ》のように、何かの火を守る役目でも仰せつかっているつもりで、暮らしているわけですからね」
地主は、白い口ひげの下でにやりと笑った。
「われわれのなかにも、同じような人がありますよ。お互いの友人ニコライ・イワーノヴィッチとか、このごろこちらへ来られたウロンスキイ伯爵とか、この人たちは、農業をひとつの企業としてやろうとしているんですからな。しかしこれも、今までのところでは、資本をつぎこむだけのことで、なんのたしにもなっちゃおりませんがね」
「しかしですね。なんのためにわれわれは、商売人のようにやらないのでしょう? どうしてまたわれわれは、樹皮をとるために、庭を裸にしてしまわないのでしょう?」とレーヴィンは、強い感銘《かんめい》をあたえられた想念のほうへたちもどりながら、いった。
「それそれ、それこそあなたのいわれたとおり、火を守るためですよ。でなくとも、貴族らしくない仕事ですからな。そして貴族としてのわれわれの仕事は、こんな選挙場にあるのではなく、自分たちの郷里の、自分たちの家にあるのです。またなすべきこととなすべからざることを定めるについても、階級特有の本能があります。この点は百姓だって同じことで、わたしはときどき彼らを注意して見ておりますが、いい百姓であればあるほど、かならずできるだけ多くの土地を借りようとします。どんなわるい土地でも、どしどし耕しています。同様無計算というわけですよ。損はわかりきっているのです」
「われわれもそのとおりですね」と、レーヴィンはいった。「いや、あなたにお目にかかれて、じつにじつに愉快でした」と彼は、自分のほうへ近づいてくるスヴィヤーズスキイを見つけて、言いたした。
「ああ、わたしたちはお宅でおちあって以来、初めて会ったわけですよ」と、地主はいった。「そしてずいぶんおしゃべりをしましたな」
「ははあ、ではきっと、新制度の攻撃でもしてらしたんでしょう?」とスヴィヤーズスキイは、にこにこしながらいった。
「いや、まあそれもありましたな」
「大いにうっぷんを晴らされたわけですね」
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三十
スヴィヤーズスキイはレーヴィンの腕をとって、いっしょに自分たちの仲間のほうへ行った。
今はもう、ウロンスキイを避けるわけにはいかなかった。彼は、ステパン・アルカジエヴィッチやセルゲイ・イワーノヴィッチといっしょに立って、近よってくるレーヴィンのほうをまともに見ていた。
「じつに愉快です。いつぞやも拝顔の光栄をえたと思いますが……そうそう、たしかスチェルバーツキイ公爵のお邸で」と彼は、レーヴィンに手をさしだしながらいった。
「はあ、わたくしもお目にかかったことはよく覚えております」レーヴィンはこういったが、たちまち紫色に見えるほど赤くなると、すぐにくるりと身をひるがえして、兄と話をはじめた。
ウロンスキイもちらと笑って、スヴィヤーズスキイとの会話をつづけた。明らかにレーヴィンと言葉をまじえたい希望は少しももっていない様子で。しかしレーヴィンは、兄と話をしながらも、たえずウロンスキイのほうへ目をやっていた。自分の無作法を償《つぐな》うために、どうして彼と話をはじめたらよかろうかと考えながら。
「で、いま問題はどうなっているんですか?」とレーヴィンは、スヴィヤーズスキイとウロンスキイとを見やりながらたずねた。
「スネートコフのことだよ。あのひとが拒絶するか、承諾するか、どちらかに決定しなければならないのだ」とスヴィヤーズスキイが答えた。
「で、あのひとはいったいどういうのです。承諾するんですか、しないんですか?」
「つまり、それが問題なんですよ。まだどちらともきまらないので」とウロンスキイがいった。
「が、もしあのひとが拒絶したら、いったいだれが立つのです?」とレーヴィンは、ウロンスキイのほうを見ながら、きいた。
「立ちたい者はだれでも」とスヴィヤーズスキイがいった。
「きみはどうです?」とレーヴィンはたずねた。
「いや、ぼくだけは違います」とスヴィヤーズスキイはどぎまぎして、セルゲイ・イワーノヴィッチのそばに立っていた例の辛《しん》らつな紳士のほうへ、おびえたようなまなざしを投げながら、いった。
「じゃあだれなんです? ニェヴェドーフスキイですか」とレーヴィンは、自分がしどろもどろになってきたのを感じながら、いった。
しかし、それはいっそうわるかった。ニェヴェドーフスキイとスヴィヤーズスキイとは、ふたりとも候補者だったから。
「いやもう、わたしなんか、どんなことがあろうとも」と辛らつな紳士は答えた。
この紳士が、ニェヴェドーフスキイその人であった。スヴィヤーズスキイは、彼とレーヴィンとを紹介した。
「やれやれ、きみまでがだいぶ熱中してきたようだね?」とステパン・アルカジエヴィッチは、ウロンスキイに目くばせしながらいった。「まるで、競馬だね。|かけ《ヽヽ》でもできそうだ」
「ああ、かなり刺激が強いからね」とウロンスキイはいった。「一度手を出したが最後、とても中途ではやめられやしない。まるで戦争だ!」と彼は眉をひそめて、がっしりしたほお骨をぎゅっとひきしめながらいった。
「いや、なかなかやり手だね、スヴィヤーズスキイは! このひとには万事がはっきりしている」
「ああ、そうだね」とウロンスキイは、放心したような調子でいった。
沈黙が落ちてきた。そのあいだにウロンスキイは――何も見ないでいるわけにはいかなかったので――レーヴィンを、その足を、その制服を、それからその顔を、ながめて、自分のほうへ向けられている陰うつな目をみとめると、なんでもいい口をきくために、こういった――
「どうしてあなたは、ずっと田舎にお住まいなのに、治安判事になられないのでしょう? 治安判事の制服をつけておいでになりませんが」
「それは、わたしが治安判事なるものを愚劣な制度だと思っているからですよ」とレーヴィンは、初めて顔をあわせたときの自分の無作法を償うために、ウロンスキイと大いに語りあう機会をたえず待っていたくせに、陰うつな調子で答えた。
「わたしはそうは思いませんな。まったく反対ですな」とウロンスキイは、おちついた驚きの色を見せていった。
「いや、あんなものはおもちゃですよ」と、レーヴィンは彼の言葉をさえぎった。「治安判事なんか、われわれにはちっとも必要はないんです。わたしは、八年間にまだ一度も、なんの事件も起こしたことはありません。一度ちょっとしたことがありましたが、まるであべこべの判決を受けてしまいましたよ。それに、治安判事は、わたしの家からでは四十ウェルスターもあるところにおります。で、わたしは、わずか二ルーブリの事件に、十五ルーブリから礼の出る代理人を頼まなければならぬことになるのです」
それから彼は、ひとりの百姓が水車場で粉を盗んだので、水車場の主人がそれをなじると、百姓は逆に、誹謗罪《ひぼうざい》で彼を訴えたという話をした。この話は、場所と時にそぐわぬ、いかにも愚劣なものだった。レーヴィン自身も、話しながらそれを感じていた。
「いやはや、あいかわらず変わってござるね!」とステパン・アルカジエヴィッチは、例の|はたんきょう《ヽヽヽヽヽヽ》のような微笑をうかべていった。「それはそうと、もう行こうじゃないか。――どうやら投票がはじまっているらしい……」
そこで彼らは別れた。
「わたしにはどうもわからんね」と、弟のまずいやり口を見ていたセルゲイ・イワーノヴィッチはいった。「どうしたら、あんなに政治的のタクトを欠くことができるものか、わたしにはわからん。われわれロシア人の欠点はそこにあるのだ。県の貴族長はわれわれの敵だ。それだのにおまえは、あの男と ami cochon(親しい仲)になって候補に立ってくれなんて頼んでいる。ところで、ウロンスキイ伯爵だが……そりゃわたしだって、あの男と友だちになろうとは思ってやしない。あの男から晩餐の招待を受けたけれど、わたしは行きはしないがね。しかしなんといっても、あの男はわれわれの味方だ。なんであの男を敵視することがあろう? それからおまえは、ニェヴェドーフスキイに立つかどうかってきいていたが、あんなことはするものじゃないよ」
「ああ、ぼくはなんにもわからないんです! そして、そんなことはみんなつまらないことです」と、レーヴィンは陰うつに答えた。
「おまえはじきなんでもつまらないなんていうが、自分でやるだんになると、何もかもめちゃめちゃにしてしまう」
レーヴィンは黙ってしまった。ふたりはいっしょに大広間へはいって行った。
県の貴族長は、自分にたいして設けられている|わな《ヽヽ》を空気中に感じていたにもかかわらず、また自分に立候補を要請したのが全員ではなかったにもかかわらず、やはり立つことに決心した。広間のうちはひっそりと静まりかえった。書記が大声で、これから、近衛騎兵大尉ミハイル・ステパーノヴィッチ・スネートコフが、県の貴族長として選挙に付されるであろうむねを告示した。
郡の貴族長たちは、球のはいった皿を持って、自分たちのテーブルから、県の貴族長のほうへ動きだした。そして投票が開始された。
「右のほうへ置くんだよ」とステパン・アルカジエヴィッチは、レーヴィンが兄といっしょに貴族長のあとからテーブルのほうへ近づいたときに、その耳へささやいた。しかしレーヴィンは、そのときにはもう、前に説明してもらった例の計画を忘れていたので、ステパン・アルカジエヴィッチが「右のほうへ」といったのは、まちがったのではなかろうかと心配しだした。スネートコフは彼らの敵だったからである。投票箱のほうへ近づくときには、彼は球を右手に持っていたが、どうもまちがいらしいと思ったので、箱まで行ってから、球を左手に持ちかえ、そして、はっきりとそれを左のほうへ置いた。箱のそばに立っていた、肘の動きかたひとつで、だれがどちらへ置くかを知るというこの道の専門家は、不満げに眉をひそめた。彼の眼力も、役だてようがなかったのである。
すべてがひっそりとして、球を数える音がよく聞こえた。やがてひとつの声が、賛否両票の数を布告した。
貴族長は大多数の人に選挙されていた。一同はがやがやとざわめきながら、まっしぐらにドアのほうへつき進んだ。スネートコフがはいってくると、貴族たちは祝辞をあびせかけながら、彼をとりかこんだ。
「さあ、もうこれで終わったんですね?」とレーヴィンは、セルゲイ・イワーノヴィッチにたずねた。
「いや、やっとはじまったところですよ」とスヴィヤーズスキイがにこにこしながら、セルゲイ・イワーノヴィッチにかわって答えた。「ほかの候補者のほうが、もっとよけい投票をうるかもしれないからね」
レーヴィンはまたしても、そのことをすっかり忘れていたのだった。彼は今になってやっと、そこに何かこみいった事情のあったことを思いだしたが、それがどんなことであったか、考えだすのはめんどうであった。彼は気分がめいってきたので、こうした群集のなかからのがれ出たくなった。
だれも彼に注意している者はなかったし、まただれも彼を必要とする者はなさそうに思われたので、彼は静かに、食堂になっていた小さい広間のほうへはいって行った。そしてふたたびボーイたちの姿を見ると、大きな心やすさをおぼえた。老ボーイが何かたべることをすすめたので、レーヴィンはそれに同意した。いんげん豆をそえたカツレツをひと皿たべ、そのボーイを相手に昔のだんなのことなどを話してから、レーヴィンは、あんな不愉快をあたえられた広間へは二度とはいって行く気になれなかったので、傍聴席のほうへぶらつきに出かけた。
傍聴席は、階下で話されている言葉をひと言も聞きもらすまいと欄干ごしに身をのりだしている着飾った婦人たちでうずまっていた。婦人たちのまわりには、しゃれたかっこうをした弁護士たちや、めがねをかけた中学教師や、士官たちが立ったり掛けたりしていた。いたるところで、選挙のことや、貴族長がへとへとになっていることや、討論のおもしろかったことなどが話されていた。ある一団のなかでレーヴィンは、自分の兄にたいする賞賛の声を聞きつけた。ひとりの婦人が弁護士にこういっていた。
「わたしコズヌイシェフの演説をきいて、とても喜んでおりますのよ! 少しくらいおなかをすかす値うちは十分にありますわ。まったく、なんていいんでしょうね! ほんとにはっきりした、よくわかるお話しぶりですわ! あなたがた法廷関係のかたたちのなかにも、あれだけに演説のできるかたはありませんわね。ただひとりマイデリがいますけれど、この人だって、とてもあれだけの雄弁ではありませんもの」
欄干のそばに空席を見つけたので、レーヴィンは半身をのりだして、見たり聞いたりしはじめた。
貴族たちはみな、めいめいの郡にわかれた仕切りのかげに陣どっていた。広間の中央には、制服姿の男がひとり立って、細い、高い声でふれていた――
「県の貴族長候補者として、陸軍騎兵二等大尉エヴゲーニイ・イワーノヴィッチ・アプーフティンを推挙します!」
死のような沈黙がおそいかかったかと思うと、ひとつの弱々しい年よりの声が聞こえた――
「謝絶します!」
「七等官ピョートル・ペトローヴィッチ・ボーリを推挙します」と、同じ声がいった。
「謝絶します!」と、若々しい金切り声がひびいた。
また同じことがいわれると、また「謝絶します」が叫ばれる。そんなことが一時間ばかりつづいた。レーヴィンは欄干に肘をついて、それを見たり聞いたりしていた。最初彼は驚きを感じて、その意味するところを知りたいと思ったが、やがて、自分にはとてもわかりそうにないことがはっきりすると、たいくつになってきた。ついで、あらゆる人の顔に見た興奮と敵意の色を思いだすと、なさけなくなってきたので、彼はもう帰ろうと決心して、階下へおりた。傍聴席の入口を通るときに、彼は、目を充血させてあちこちと歩いている、沈んだ顔つきの中学生と出くわした。また、階段の上では一組の夫婦――小さいかかとで気ぜわしなく、すばやくかけていく夫人と、軽快な検事補とに出くわした。
「遅れるようなことはないといっているのに」と検事補は、レーヴィンが夫人に道をゆずってわきへよったときに、いった。
レーヴィンは、もう出口の階段へ出て、チョッキのポケットから外套の番号札を取り出していた。そのとき、書記がいきなり彼をとらえた。――「どうぞ、コンスタンチン・ドミートリチ、投票がはじまっておりますから」
候補者としては、あんなにきっぱりと拒否していたニェヴェドーフスキイが立っていた。
レーヴィンは広間の入口へ歩みよった。ドアはぴったりと閉ざされていた。書記がノックするとドアは開かれ、まっ赤な顔をしたふたりの地主が、レーヴィンにぶっつかるような勢いで飛びだしてきた。
「もう、とてもとても、わたしはがまんがならない」と、まっ赤な顔をしたひとりの地主はいった。
地主たちのすぐあとから、県の貴族長の顔がつきだされた。その顔は、困憊《こんぱい》と恐怖とのために、見るも恐ろしげになっていた。
「だれも出しちゃいけないって、あんなにいっといたじゃないか」と、彼は守衛に叫んだ。
「わたくしはなかへ入れたのでございます。閣下!」
「おお、主よ!」貴族長はほっと重苦しげな太息をもらし、まっ白なズボンの足を、さも疲れたように小またに動かしながら、頭をたれて、広間の中央の大テーブルのほうへ行った。
予想されたとおり、ニェヴェドーフスキイは多数の投票をえて、県の貴族長となった。多くの人々は、上きげんだった。多くの人々は、満足して幸福だった。多くの人々は、うちょうてんになっていた。が、他の多くの人々は、不満足で不幸だった。県の貴族長は、おおいがたい絶望にひたっていた。ニェヴェドーフスキイが広間から出て行くと、群集は彼をとり巻き、夢中になってそのあとについて行った。ちょうど彼らが第一日に開会を宣した知事のあとについて行ったと同じように、また、スネートコフが選挙されたとき、彼のあとについて行ったと同じように。
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三十一
新たに選挙された県の貴族長と、勝ち誇った新党の多くの人たちとが、その日ウロンスキイのところで正餐《せいさん》をともにした。
ウロンスキイが選挙に出てきたのは、ひとつには田舎住まいがたいくつだったので、アンナの前に自分の自由の権利を示す必要があったためと、ふたつにはまた、スヴィヤーズスキイが地方自治会の選挙のときに自分のためにつくしてくれた配慮にたいして、こんどの選挙で彼を助けて、それにむくいるためと、なおそれよりも何よりも、彼がみずから選んだ、貴族としてまた地主としてのあらゆる義務を、厳格にはたそうとするためとであった。しかし彼は、選挙ということがこれほど自分の興味をひき、これほど心を動かそうとは、また、自分がこうした仕事を、これほどうまくなしとげえようとは、ぜんぜん思いもかけなかったのである。彼は、ここの貴族社会では、まったく新参ものであったが、成功をおさめたことも確実であり、早くも貴族たちのあいだにある勢力を獲得したと考えたことも、誤りではなかった。
彼の勢力に力をそえたのは、その富と名声、それから古い友人で、財界の仕事にたずさわっていて、カシンに非常にはんじょうする銀行をもっているシルコフからゆずってもらった市《まち》のりっぱな邸宅、田舎から連れてきたすぐれた料理人、単なる同窓という以上に、彼の庇護を受けたことのある同窓であった県知事との親交などであった。が、何より力があったのは、だれにたいしても平等な、さっぱりとした彼の態度で、それが、非常に早く、貴族の大多数にたいして、彼はいやに傲慢《ごうまん》だという日ごろの意見を一変させたのである。彼は自分でも、あのキティー・スチェルバーツカヤと結婚した気ちがいじみた紳士――a propos de bottes(なんの理由もなく)狂暴な毒念をもって、なんの役にもたたない愚劣な言葉のかずかずを彼にあびせかけたあの男以外は、彼の知り合いになった貴族はみな、彼の味方になったことを感じていた。ニェヴェドーフスキイの成功にも、彼があずかって大いに力のあったことも、彼ははっきりと知っていたし、またほかの者も、それをみとめていた。で、いまも彼は、自分の家の食卓で、ニェヴェドーフスキイの当選を祝しながらも、自分の選んだ者のための勝利の快感を経験しているのだった。そして、選挙そのものが非常に彼の興味をそそりたてたので、彼は、この三年(貴族長の任期)のあいだに、うまく正式の結婚ができたら、自分もひとつ候補に立ってみようとさえ考えていた。――それはちょうど、騎手を競馬に出して、勝利の賞品を得たあとで、自分が出てみたくなるのと同じものであった。
いまや、騎手の勝利が祝賀されているのであった。ウロンスキイは食卓の上席に座をしめ、その右手には、侍従将官である若い知事が控えていた。一同にとってはこの男は、おごそかに開会を宣して演説をし、ウロンスキイの目にしたとおり、多くの人の心のうちに、尊敬と屈従の念をいだかせた一県の主人であったが、ウロンスキイにとっては、それはただ、彼の前でもじもじしている、そしてウロンスキイが、mettre a son aise(らくにさせよう)とつとめている、マーロフ・カーチカ(これは貴族幼年学校時代の彼のあだ名であった)にしかすぎなかった。左手には、例の若々しい、剛気《ごうき》らしい、辛らつな顔をしたニェヴェドーフスキイが席についていた。彼にたいしてはウロンスキイは、気がるな尊敬の態度をとっていた。
スヴィヤーズスキイは、自分の失敗を快活にあしらっていた。もっともこれは、彼がシャンペン酒杯を手にしてニェヴェドーフスキイのほうを向きながら、――貴族が将来したがわねばならぬ新傾向の代表者として、これ以上の人物を見いだすことはできないと自分でいったとおり、彼にとっても、失敗どころではないのであった。したがって、彼のいったとおり、公正の士はいずれも、今日の成功の味方にたって、それを祝福しているのであった。
ステパン・アルカジエヴィッチもまた、自分も愉快に時を過ごし、一同も満足していることを喜んでいた。みごとな食事の進むあいだに、選挙にかんするエピソードがつぎつぎとくりひろげられた。スヴィヤーズスキイは、貴族長の涙まじりの演説を、喜劇的にまねて見せて、ニェヴェドーフスキイのほうを向きながら、閣下は涙よりももっと複雑な、別の財産検査法を選ばねばならぬことになりますよと注意した。と、もうひとりのおどけ者の貴族が、県の旧貴族長の舞踏会を見こして、長くつ下をはいたボーイたちが呼びよせられてあるから、もし新貴族長がその長くつ下をはいたボーイたちの必要な舞踏会を開かないとすると、今のうちに早く彼らを帰してやらなければならないと、弁じたてた。
食事ちゅうたえず人々は、ニェヴェドーフスキイのほうをむいては――「われわれの県貴族長」とか、「閣下」とか呼んで話しかけるのだった。
これはちょうど、まだうら若い婦人を、わざと「奥さん」とか、または夫の姓で呼びかけたりするのと同じような満足をもって、いわれているのであった。ニェヴェドーフスキイは、こうした呼びかたにもいっこう無関心なばかりでなく、むしろ軽蔑しているぞというような態度をとっていた。が、そのじつ内心は幸福でありながら、いま一同がひたっている、新しい、自由の空気にふさわしくない歓喜の色を外にあらわすまいとして、みずからおさえていることは、明らかであった。
食事のあいだに、選挙の経過に興味をもっている人々に、数通の電報が発せられた。おそろしく上きげんでいたステパン・アルカジエヴィッチも、ダーリヤ・アレクサーンドロヴナにあてて、つぎのような電報を打った――「ニェヴェドーフスキイ二十票にて当選。祝す。伝言せよ」彼はそれを、「彼らをも喜ばせなくちゃならんよ」と言いながら、声高に書きとらせた。ところが、ダーリヤ・アレクサーンドロヴナのほうでは、電報を受け取ったとき、その電報代の一ルーブリのために、ため息をひとつついただけであった。そして、それが食後の座興であることを察した。彼女は、スティーワが食事のおわりに、「faire jouer le telegraphe(電報ごっこ)」をするわるい癖があるのを知っていたから。
上等な料理といい、ロシアの酒商からでなく、直接外国でびん詰めにした酒といい、すべてが、非常に上品な、さっぱりとした、快いものばかりであった。二十人ほどのこの一団は、いずれも思想をひとつにする、自由主義的な、新しい、同時に、機知に富んだ、身分ある活動家のなかから、スヴィヤーズスキイによって選び出された人々であった。そして、祝杯もまたなかば冗談に、新しい県の貴族長のためにも、知事のためにも、銀行頭取のためにも、また「あいそのいいわれわれの主人」のためにも、あげられた。
ウロンスキイは満足であった。地方でこんな愉快なふんい気をえようとは、彼のまったく予期しないところであった。
食事のおわるころには、いっそう愉快になってきた。知事はウロンスキイに向かって、彼と知己《ちき》になりたがっている自分の妻の主催する同胞《ヽヽ》のための慈善音楽会に、ぜひ出席してくれと頼んだ。
「舞踏会もあるはずだ、この町の美人が見られるぜ。じっさい、なかなかおもしろいよ」
「Not in my line.(少々おかどちがいだね)」この言葉の好きだったウロンスキイは、こう答えはしたものの、にっこりして、行くことを約束した。
一同がもう食卓をはなれるばかりになって、たばこをふかしはじめたところへ、ウロンスキイの従僕が、盆《ぼん》にのせた手紙を持って、彼のそばへ近づいてきた。
「ヴォズドゥヴィジェンスコエから特別のお使いがまいりまして」こう彼は、意味ありげな表情をして、いった。
「こいつは驚いた。あの男、検事補のスウェンチーツキイにそっくりじゃないか」と客のひとりがフランス語で、従僕のことをいった。そのとき、ウロンスキイは眉をひそめて、その手紙を読んでいた。
手紙はアンナからきたものであった。まだ読まないうちから、彼にはその内容がわかっていた。選挙は五日でおわるという予想のもとに、彼は金曜日には帰ると約束をしてきた。今日は土曜日であった。だから彼には、その手紙の内容は、彼が約束どおりに帰らなかったことにたいする非難に相違ないことがわかっていたのである。彼が昨日の夕方だした手紙は、たぶんまだ届いていないにちがいないから。
内容は、彼の予期したとおりであったが、形式はまったく意外な、彼にとって、とくべつ不愉快なものであった。「アニーがたいへんわるくて、お医者は肺炎になるかもしれぬと申しております。わたくしひとりで、ほとほととほうにくれております。ワルワーラおばはじゃまになるばかりで、いっこう役には立ちません。一昨日と昨日ひたすらお待ちいたしましたあげく、どこで何をしていらっしゃるのか承知いたしたく、ただいま使いの者をつかわしました。わたくし自身出むきたいとはぞんじますが、かえってあなたのお気にさわってもとぞんじ、思いとまりました。ついては、いかがいたしたらよろしいか、なにぶんのご返事をお待ち申しあげます」
子供が病気だというのに、彼女は自分で出てこようと思った。娘が病気だというのに、敵意をふくんだこの調子は。
当選を祝うこの罪のない悦楽と、これから帰って行かねばならないあの陰うつな、重苦しい愛と、このふたつは、そのきわだった対照で、ウロンスキイの心に打撃をあたえた。しかし、帰らないわけにはいかなかったので、彼はその夜の一ばん早い列車で帰途についた。
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三十二
ウロンスキイが選挙に出発するとき、アンナは、彼がどこかへ出かけるたびに、ふたりのあいだにくりかえされる悶着が、ただ彼を冷淡にさせるばかりで、自分のほうへひきつける役にはいっこうたたないことを考えて、彼との別れを穏やかにこらえるために、できるだけ自分をおさえようと決心した。が、彼がその出発を告げに来たときに彼女を見た冷たくけわしいまなざしは、彼女の自尊心を傷つけたので、彼がまだ出かけないうちに、彼女の平静はもう破られていたのであった。
ひとりになってから、彼が自由の権利を主張したような、そのまなざしを思いかえしてみて、彼女は、いつものとおり、同じところへ――自分の屈辱の意識のほうへ、もどっていった。『あのひとはいつどこへでも、自分の思うところへ出かけて行く権利をもっている。ただ出かけて行くばかりでなく、わたしをおきざりにする権利をもっている。あのひとはあらゆる権利をもっているが、わたしはなんの権利ももっていない。それを知りながら、あのひとがそんなことをするという法はないのだわ。といって、あのひとはいったい何をしたろう? ……あのひとは、冷たい、きびしい顔つきでわたしを見た。もちろんそれは、はっきりしない、とらえにくいものだったけれど、以前にはあんなことはなかったのだから、あのまなざしはいろんな意味をふくんでいるのだわ』と、彼女は考えるのだった。『あの目つきは、冷却がはじまっていることを示しているのだわ』
で、彼女は、冷却がはじまっているという確信はついたものの、どうすることもできなかった。どんな点でも、彼にたいする自分の態度をかえることはできなかった。依然として今までどおり、愛と魅力だけで彼をつないでおくほかはなかった。で、彼女はやはり今までどおり、昼間は仕事、夜はモルヒネで、彼の愛が冷めてしまったらどうなるだろうという恐ろしい想念をまぎらすよりほかはなかった。もっとも、もうひとつの方法があるにはあった。――彼をつなぎとめておくのではなく、(そのためには彼女は彼の愛のほか何ものも望まなかった)こちらから近づいて行くこと、彼が彼女をすてることのできないような境遇にはいることであった。この方法は、離婚と、結婚とであった。で、彼女はそれを望みだして、こんど彼なりスティーワなりがそのことを言いだしたら、さっそく同意しようと心をきめた。
こんな想念をいだきながら、彼女は、彼が不在であるにきまっていた五日間を、彼なしに過ごしたのであった。
散歩をしたり、公爵令嬢ワルワーラと話をしたり、病院を見に行ったり、が、主としては読書――つぎからつぎへの読書に、彼女の時間はついやされた。しかし六日めに御者が彼を連れずにもどってくると、彼女は、自分にはどうしても、彼を思う心、彼が向こうで何をしているかと思う心を、まぎらす力のなくなったのを感じた。と、ちょうどそのときに、女の子が病気になった。アンナは彼女の看護にとりかかったが、それでも気はまぎれなかった。それに、その病気が危険なものでなかったので、なおさらだった。どんなにつとめても、彼女はこの女の子を愛することができなかった。かといって、愛をよそおうことも彼女にはできなかった。その日の夕方になり、ひとりでぽつねんとしていると、アンナは、彼のことがあまり気がかりになってきたので、すんでのことに、自身で町まで出かけようと決心しかけたくらいだったが、なおよく考えて、ウロンスキイが受け取ったあの矛盾だらけの手紙を書き、読みかえしもしないで、それを特別の使いに持たせてやったのであった。翌朝、彼女は彼の手紙を受け取って、自分のしたことを後悔した。彼女は、彼が出かけるときに自分に投げていった、あのきびしい目つきのくりかえしを、わけても、彼が娘の病気の危険でなかったことを知ったときのそのくりかえしを、ぞっとするような恐怖をもって予想した。しかし、それでもなお彼女は、彼に手紙を送ったことを喜んでいた。今では、アンナはもう、彼が自分のためにわずらわされていること、彼が彼女のところへもどるために、惜しい自由を捨ててくることを承知していたが、それにもかかわらず、彼女には、彼の帰ってくることがうれしかった。彼がうるさく思うなら思うがよい。ただ彼を見、彼の一挙一動を知ることのできるように、彼がそばにさえいてくれればいいのだ。
彼女は、戸外の風の音に耳をすましては、馬車のつくのを今か今かと待ちわびながら、テーヌの新刊書を手にして、客間のランプの下にすわっていた。何度か彼女は車輪の音を聞きつけたように思ったが、それは彼女のそら耳だった。けれども、ついに車輪の音ばかりでなく、御者の叫び声や、屋根のある車寄せの下におこる鈍いひびきを聞きつけた。そして、カルタのひとり占いをやっている公爵令嬢ワルワーラまでがそれを確かめたので、アンナはさっと顔をあかくして、立ちあがったが、こんどは、それまでにもう二度もやったように階下へおりて行こうとはしないで、その場に立ちどまってしまった。彼女には、急に自分のうそが恥ずかしくなったのであるが、それより何より、彼が自分にたいしてどんな態度をとるだろうということが、恐ろしかったのである。侮辱の感じはもはや過ぎてしまい、彼女はただ、彼の不満な表情を恐れたのだった。おまけに彼女は、子供が二日めにはもうすっかり健康になっていたことを思いだした。彼女には、あの手紙を出したちょうどそのときから、子供が快方に向かったのが、いまいましく思われたくらいであった。ついで彼女は彼のことを、彼がそこに、いっさいをもって、その手、その目をもってそこにいることを、思いだした。彼女は彼の声を聞きつけた。と、すべてを忘れて、いそいそと彼を迎えにかけだしていった。
「あ、アニーはどんなだい?」と彼は、自分のほうへかけてくるアンナを見ながら、下からおずおずした調子でいった。
彼はいすに掛けていた。下僕が彼の足から、防寒用の長ぐつを脱がせていた。
「だいじょうぶ、たいへんよくなりましたの」
「で、おまえは?」と、彼はからだをゆすぶりながらいった。
彼女は両手で彼の片手をとって、彼から目をはなさずに、その手を自分の腰のほうへ引きよせた。
「いや、それはじつにうれしいね」こう彼は冷やかに彼女を、その髪を、自分のために着がえたことの明瞭なその着物を、見やりながらいった。
それらはすべて彼の気にいったが、それはもう何度彼の気にいったことであろう! と、彼女があれほどに恐れていた例のきびしい、石のような表情が、彼の顔面にこおりついた。
「いや、じつにうれしい。じゃおまえも達者なんだね?」と彼はぬれたあごひげをハンケチでぬぐって、彼女の手を接吻しながらいった。『もうどうだっていい』と彼女は考えた。『このひとさえここにいてくれれば。ここにいるかぎり、このひとはわたしを愛さないわけにはいかない。愛さないではいられやしない』
その晩は、公爵令嬢ワルワーラもいっしょになって、愉快に幸福に過ごされた。公爵令嬢ワルワーラは、彼のるすのあいだ、アンナがモルヒネをのんで困ったことを彼に訴えた。
「だって、しようがないじゃありませんの? 眠ることができなかったんですもの……いろんな考えにじゃまされてね……このひとさえうちだったら、けっして飲みはしませんわ。まあ決してね」
彼は、選挙の話をし、アンナは巧みに問いをはさんで、彼を喜ばせたことのほうへ――彼の成功のほうへ、彼の話をむけさせることができた。彼女はまた、彼の興味のありそうな家庭のことを残らず話した。じじつ、彼女の話したことはすべて、きわめて愉快なことばかりであった。
が、夜も遅くなってふたりきりになったとき、アンナは、自分がふたたび彼を完全に独占したことを見てとったので、例の手紙にたいする目つきの、あの重苦しい印象をぬぐいさりたいと思った。彼女は言いだした――
「かくさないでおっしゃってちょうだいな。あの手紙のいったとき、あなたはいまいましくお思いになったでしょう。そしてわたしを信用なさらなかったでしょう?」
そういってしまうとすぐ、彼女は、彼が自分にたいしてどんなに優しくなっていたにしても、これだけは許してくれそうもないことをさとった。
「ああ」と、彼はいった。「あの手紙はまったくおかしな手紙だったよ――アニーが病気だというかと思えば、おまえが自分で出てこようと思ってるなんて」
「でも、あれはみんなほんとうだったんですのよ」
「だから、ぼくも疑ってなんかいやしないさ」
「いいえ、あなたは疑ってらっしゃるわ。あなたは不満でいらっしゃるのよ。わたしにはちゃんとわかっていますわ」
「いや、そんなことは断じてないよ。ただね、ぼくが不満に思うのは、じつのところ、おまえが、義務というもののあることまで承認しまいとするような様子を見せることだよ」
「音楽会にいらっしゃるっていう義務……」
「いや、しかし、こんな話はもうよそう」と彼はいった。
「どうしてまた、よすんですの?」と彼女はいった。
「ぼくはただね、人間というものはよく、避けがたい用事に出くわすことがあるものだということを、いおうと思ったにすぎないのさ。ほら、げんにもうじきぼくは、家事上の件でモスクワまで行ってこなけりゃならないだろう……ああアンナ、どうしておまえは、そういらいらしてばかりいるんだね? ぼくがおまえというものなしに生きていられないということくらい、わかってないこともないだろうに?」
「ああ、そんならあなたは」とアンナは、にわかにかわった声音でいった。「いまのこの生活を、重荷に感じていらっしゃるのでしょう……だって、あなたは、ちょっと帰ってらしたかと思うと、もう出かけるなんて、まるで世間なみの人のやるように……」
「アンナ、それはあんまり残酷だよ。ぼくは自分の一生を捨ててもいいつもりでいるのに……」
しかし彼女は、彼の言葉をきかなかった。
「もしあなたがモスクワへいらっしゃるなら、わたしもごいっしょにまいりますわ。わたしはこんなところに残っているのはいや。わたしたちは別れてしまうか、さもなければ、いっしょにいるか、どちらかひとつですわ」
「だから、それひとつがぼくの望みだということは、おまえだってちゃんと知ってるんじゃないか。だが、そのためには……」
「離婚が必要だとおっしゃるんでしょう? わたしあのひとに手紙を書きますわ。わたしも、自分がこんなふうの生活には堪えられないってことがわかりましたの……けれど、こんどはごいっしょにモスクワへまいりますわ」
「おまえはまるでぼくをおどかしてでもいるようだね。が、まあいいさ、ぼくもおまえと別れていたくはないんだから、それが一ばんの望みなんだから」と、ウロンスキイは笑顔になっていった。
しかし、彼がこの優しい言葉を口にしたとき、その目のなかには、単なる冷やかさ以上に、そこいじのわるい、追いつめられて残酷になった人のまなざしがきらりと光った。
彼女は、このまなざしを見て、正しくその意味を推しはかった。『もしそんなことになったら、それこそ不幸だ!』と、彼のまなざしはいっていた。それは瞬間の印象であったが、彼女は永久にそれを忘れなかった。
アンナは夫に離婚を求める依頼の手紙を書き、そして十一月の末に、ペテルブルグへ行かねばならなかった公爵令嬢ワルワーラと別れて、ウロンスキイといっしょにモスクワへ立った。そして、明けくれアレクセイ・アレクサーンドロヴィッチの返事と、それにつづく離婚を待ちながら、今ではすっかり夫婦になった気持で、ウロンスキイといっしょに暮らしていた。
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第七編
レーヴィン夫妻はもう、足かけ三《み》月モスクワで暮らしていた。そして、こうしたことがらにくわしい人たちのきわめて正確な計算によると、キティーがお産をするはずの時期は、もうとうに過ぎていた。が、彼女は依然としてまだそのままで、どの点からみても、ふた月まえより今のほうが産期が近いようには見えなかった。医者も、産婆も、ドリーも、母親も、とりわけ、近づきつつあることがらについて恐怖の思いなしに考えることのできなかったレーヴィンは、焦燥と不安とを感じはじめたが、ただひとりキティーだけは、自分をすっかりおちついた、幸福なものに感じていた。
彼女は、今でははっきりと自分のうちに、やがて生まれ出てくる赤ん坊、彼女にとってはある程度すでに実在のものとなっている赤ん坊にたいする、新しい愛情の目ざめを意識して、楽しくうれしい心をいだきながら、その感情にききいっていた。胎児《たいじ》は今ではもう、完全に彼女の一部分ではなく、ときとすると、彼女から独立した自分自身の生活をいとなんでいた。このために、彼女はしばしば苦痛を感じたが、同時にまた、奇妙な新しい喜びから、笑いたくもなるのであった。
自分の愛していた人はみないっしょにいたし、そのだれもがみな、自分にたいして親切で、自分のめんどうをよく見てくれ、すべてのことに、ただ楽しいものばかり見せるようにしむけてくれたので、もしこうした境涯《きょうがい》もじきおわるのだということを感じていなかったら、それこそ彼女は、これ以上にいい、これ以上に楽しい生活を望まなかったにちがいないと思われたほどだった。ただひとつ、彼女のためにこの生活の美しさを傷つけたのは、夫が、彼女の愛していたような彼、田舎にいたときのような彼でなかったことであった。
彼女は、田舎での彼のおちついた、親切な、人なつこい調子が好きであった。ところが都会では、彼はちっともおちつきのない、まるでだれかが彼を、とりわけ彼女をはずかしめはしまいかと、そればかりを恐れて、警戒しているような人になってしまった。田舎では彼は、自分の場所にいることを明らかに知っていて、せかせかするようなことはなく、何か仕事をしていないようなことはなかった。ところが、都会では、まるで何かを見失うまいとでもするように、たえずそわそわしながら、そのくせ何もすることはなかったのである。
で、彼女は彼を気の毒に思った。しかし彼女は、他人の目には、彼がけっして気の毒な人とは見えないことを知っていた。いや、それどころか、キティーは、人がどうかすると、自分の愛する者の他人にあたえる印象を見さだめるために、つとめて他人を見るようにその人を見ることがある、そんな目で社交界での彼をながめるときには、彼が気の毒でないばかりでなく、そのりっぱな態度と、いくらか旧式な、遠慮がちな、婦人にたいするいんぎんさと、そのたくましい姿と、とりわけ、表情に富むと彼女には思われた、その顔つきとによって、非常に人をひきつけるところのあるのを見て、嫉妬を感じ、そのために恐怖をさえおぼえたほどであった。しかし、彼女は彼を、外からでなく内から見ていた。そしてやはりここでは、彼が真の彼でないことを見てとった。またそうよりほかには、彼女は彼の状態を説明することができなかったのである。ときとすると彼女は心のなかで、都会生活のできない彼を非難することもあったが、また、ときには、ここで自分の生活を彼女の満足するように築きあげることは、彼にはじっさい困難なのだということを認識するのであった。
じっさい、彼に何をすることがあったろう? 彼は、カルタ遊びを好まなかった。クラブへも行かなかった。オブロンスキイのような種類の陽気な男たちと交際すること、――彼女は、今ではもう、それが何を意味するかを知っていた――それは酒を飲むこと、飲んだあとでどこかへ出かけて行くことであった。彼女は、こうした場合の男の行くさきを、恐怖の思いなしに考えることはできなかった。社交界へ出ることはどうだろう? が、そのためには、若い婦人たちとの接近に喜びを見いださなければならないことを、彼女は知っていた。彼女はそれを望むことはできなかった。では、彼女や、母や、姉妹たちといっしょに家にひきこもっていることは? しかしこのいつもいつも同じ話――姉妹のあいだのおしゃべりを老公爵が名づけた「アリーナ・ナジーナ」――が、彼女にとってどんなにおもしろく楽しかろうと、彼にはたいくつにちがいないことを彼女は知っていた。とすると、彼にはほかにどんな仕事があるだろう? 自分の著述をつづけることだろうか? 彼もそれをやってみようとして、初めのうちは、その著述のための書き抜きや、調査のために、図書館へも出かけて行ったが、しかし、彼が彼女に語ったところによると、彼が何もしないでいればいるほど、彼にはますます時間の余裕が少なくなっていくというのであった。そのうえ、彼はここへ来てから、自分の著述についてあまりに多く語りすぎた結果、かんじんの思想がすっかりこんぐらかって、興味がうすれてしまったということを、彼女に訴えていた。
この都会生活の唯一のたまものは、ここの都会では、彼らのあいだに、一度もいさかいがおこらなかったということであった。それは、都会では生活条件が違っていたからか、あるいは彼らふたりがこの方面に用心ぶかく、慎重になっていたためか、ともかく、モスクワでは彼らのあいだに、都会へ移り住むについてあれほど恐れていた嫉妬からくる争いは、たえておこらなかったのである。
しかもこの問題では、彼らふたりにとって非常に重大な一つの事件さえおこったのだった。ほかでもない、キティーとウロンスキイとの邂逅《かいこう》であった。
キティーの名づけ親で、つねから非常に彼女を愛していた老公爵夫人マーリヤ・ボリーソヴナが、ぜひ彼女に会いたいといってきた。キティーは身おもだったので、どこへも出かけないでいたのだったが、父親に連れられて、この尊敬すべき老夫人のもとをたずね、そこでウロンスキイに会ったのである。
この邂逅にさいして、しいてキティーが自分を責める点があったとすれば、それはただ彼女が、その平服姿のうちに、いつかはなじみの深かったウロンスキイをみとめた瞬間に、呼吸がとまり、血が心臓にみなぎって、燃えるようなくれないがさっと顔面をおおった(彼女はそれを感じた)ということだけであった。しかもこれは、ほんの数秒間つづいただけであった。ことさら大声でウロンスキイに話しかけた父親が、まだその話をおわらないうちに、彼女はもうウロンスキイを見、もし必要の場合には、マーリヤ・ボリーソヴナ公爵夫人と話すように、彼と話しうるだけの心がまえを、十分に整えていた。いや、それどころか、いっさいの態度を、声音や微笑のすえにいたるまで、この瞬間、目には見えないが自分の上に感じられたような気のする夫から、励まされたにちがいないようにふるまうだけの心がまえを、整えていた。
彼女はふた言み言彼と口をきき、そのうえ、彼が「われわれの議会」と名づけた選挙についての彼の冗談に、静かに微笑さえ見せたほどであった(その冗談のわかったことを示すために、笑顔を見せる必要があったので)。しかし、じき彼女は、公爵夫人マーリヤ・ボリーソヴナのほうへ向きなおって、彼がいとまを告げて立ちあがるまで、一度もそのほうを見なかった。そこで彼女は彼のほうを見た。が、それは明らかに、ただ人があいさつしているのにそのほうを見ないのは、礼儀にもとるからというだけの理由にほかならなかった。
彼女は、ウロンスキイとの邂逅について、父が自分に何もいわなかったことを感謝した、が、彼女は、この訪問のあとでいつもの散歩をしたときの、父の特別な優しさから推して、彼が自分に満足していることがわかった。彼女自身も、自分に満足であった。彼女は、ウロンスキイにたいする以前の感情の思い出を、心の底のどこかでしっかりおさえて、彼にたいしてあくまで平静な、おちついた態度を見せたばかりでなく、じじつ、そうなりきるだけの力を自分のうちに見いだそうとは、まったく思いがけないことだったのである。
レーヴィンは、彼女が公爵夫人マーリヤ・ボリーソヴナのところでウロンスキイに会ったことを話したときに、彼女よりもはるかに赤い顔をした。この出来事を彼に話すことは、彼女にとって非常な苦痛だったが、邂逅の一部始終について話しつづけることは、いっそう困難なことであった。というのは、彼が自分からたずねることは少しもせず、ただ眉《まゆ》をひそめて、彼女を見ているだけだったからである。
「あなたのいらっしゃらなかったのが、わたしほんとうに残念でしたの」と彼女はいった。「もっともあなたが、同じお部屋のなかにいらっしゃらなかったことをいうのではないんですのよ……わたし、あなたの前だったら、あんなに自然な気持ではいられなかったでしょうからね……わたしは今のほうが、ずっとずっと、ずっとひどく、あかくなっているくらいですもの」と彼女は、泣きださんばかりに、あかくなりながらいった。「けれど、どこか戸のすきまからでも、見ていていただきたかったと思いますの」
真実のこもった目は、レーヴィンに、彼女が自分自身に満足していることを語った。で、彼は、彼女があかくなったにもかかわらず、すぐにおちついて、彼女がひたすらに望んでいた数々の質問をしはじめた。すべてのいきさつ――彼女が最初のうちこそ、あかくならずにいられなかったけれど、あとではじき初対面の人にたいするような、単純な、らくな気持になることができたというような、くわしいことまで落ちなく聞きおわると、レーヴィンはすっかり快活になって、自分もそれが非常にうれしいこと、自分ももう選挙場でやったような|へま《ヽヽ》なふるまいはしまい、こんどウロンスキイと会ったら、できるだけ親しい態度をとるようにしようといった。
「その人と会うのが苦しいという、まるで敵のような人がどこかにいることを考えるほどいやなことはないからね」とレーヴィンはいった。
「ぼくはほんとに、ほんとにうれしいよ」
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「ではね、どうぞ、ボーリのところへおよりになってちょうだいな」とキティーは、十一時ごろ夫が外出しようとして、その前に彼女の部屋へたちよったときにいった。「あなたはクラブで食事をなさるんでしょう。お父さまがあなたの名もいっしょに書きこんでおおきになったんですね。ですけれど、朝のうちあなたはどうなさるおつもり?」
「ちょっとカタワーソフのところへよるのさ」とレーヴィンは答えた。
「どうして、こんなにお早く?」
「あの男が、ぼくをメトロフに紹介してくれる約束になっているからさ。仕事のことで、少しその人と話してみたいことがあるんでね。それはペテルブルグの有名な学者だよ」と、レーヴィンはいった。
「そうそう、あのいつかたいへんほめていらっしたのが、そのかたの論文だったんですわね? で、それから?」とキティーはいった。
「それから、ひょっとすると、姉さんのことで裁判所へまわるかもしれない」
「じゃ、音楽会へは?」と、彼女はきいた。
「ひとりでどうして行けるものか!」
「あら、行ってらっしゃいましよ。新曲をいろいろやるそうですから……いつもあんなにおもしろいといってらっしたじゃありませんか。わたしならなんとしてでもまいりますのに」
「が、まあとにかく、ぼくは食事前に一度どうでも帰ってくるよ」と彼は、時計を見ながらいった。
「フロックをめしていらっしゃいまし、その足で、ずっとボーリ伯爵夫人のところへおまわりになれるように」
「じゃあ、どうしても行かなくちゃならんのかねえ?」
「あら、どうしてもですわ! だってあちらからいらしてくだすったんですもの。まあ、そんなことくらいなんでしょう? ちょっとおよりになって、腰を掛けて、五分間ばかりお天気の話でもして、立って、出ていらっしゃるまでのことじゃありませんか?」
「いや、おまえには信じられないだろうけれど、ぼくは長くそういう習慣からはなれているからね。とても気がさしてできないんだよ。どうしてそんなことが? あかの他人が行って、すわりこんで、用もないのに、ぐずぐずしていて、先方のじゃまをし、自分の気持をも乱して、そして帰ってくるなんて」
キティーは笑いだした。
「だってあなたは、独身時代には、よく訪問をなすったじゃありませんか?」と彼女はいった。
「するにはしたさ、そのかわりいつも恥ずかしい思いをしていた。ところで、今はもうすっかりそうした習慣からはなれてしまったので、そんな訪問をするくらいなら、二日くらいものを食わないでいるほうがましなくらいになっている。じっさい気恥ずかしいことだからね! そしてぼくには、いつもこういう気がしてならないのさ、先方の人たちがぷりぷり怒って、なんだって用もないのにやってくるんだとでも言いそうな気がしてね」
「あらいやだ、怒ったりなんかするものですか。そんなことならだいじょうぶ、わたしがちゃんと保証しますわよ」とキティーは、笑顔で彼の顔を見ながらいった。彼女は、彼の手をとった。「では、ごきげんよう……どうぞお出かけになってちょうだい」
彼は妻の手に接吻して、早くも出て行こうとした。と、彼女が彼を呼びとめた。
「コスチャ、ねえ、あの、わたしの手もとには、もう五十ルーブリきり残っていないんですのよ」
「ああ、そうか、よろしい。じゃ銀行へよって取ってこよう。どれくらい?」と彼は、彼女にはなじみの不満の表情を見せて、いった。
「いいえ、ちょっと待ってちょうだい」と彼女は、彼の手をとってひきとめた。「もう少しお話しましょうよ。わたし、このことが気になってならないんですもの。わたしはなんにもむだづかいなんかしてないつもりなんですけれど、お金がどんどん出ていってしまうんですもの。やっぱり、どこかわたしたちのやりかたがわるいんでしょうね」
「いや、そんなことはないさ」と彼は、咳《せき》といっしょに、うわ目づかいに彼女の顔を見ながらいった。
この咳《せき》を彼女は知っていた。それは彼の――彼女にたいしてでなく、自分自身にたいする強い不満のしるしであった。彼はじっさい不満であった。しかしそれは、支出がかさんだからというのではなくて、そのうちに何かしっくりしないもののあるのを知りながら、自分がしいてそれを忘れようとしていることを、思いださせられたからであった。
「わたしは小麦を売ることと、水車小屋の代をさきに取ることとを、ソコロフに言いつけておいたからね。金の心配は少しもいらんよ」
「いいえ、そんなことはいいんですのよ。ただね、わたし、あんまりお金がいりすぎるので、それで……」
「だいじょうぶ、だいじょうぶ」と、彼は重ねていった。「じゃ行ってくるからね、おまえ」
「いいえ、ほんとうにわたし、お母さまの言いなりになったことを、ときどき後悔してますのよ。田舎にいたほうがどんなによかったかしれませんわ! こんなことをしたばっかりに、わたしはあなたがたみんなを苦しめて、そしてわたしたちはよけいなお金をつかって」
「だいじょうぶ、だいじょうぶ。わたしは結婚してからこっち、現在のやりかたを変えたほうがいいなんていおうと思ったことは、一度だってないんだからね……」
「ほんとう?」と彼女は、彼の目をひたと見つめながらいった。
彼はただ彼女を慰めたい気持から、なんの考えもなくこういったのだった。しかし彼女を見て、例の真実のこもった、かわいらしい目が、もの問いたげに自分の上へそそがれているのを見たときには、もう心の底から、同じ言葉をくりかえした。『おれはすっかり|これ《ヽヽ》のことを忘れていたのだ』と彼は思った。
そこで彼は、近い将来に自分たちを待っていることを思いおこした。
「もうじきだろう? おまえどんな気がしている?」と彼は、彼女の両手をとってささやいた。
「わたし、これまでにあんまり考えてしまったので、今ではもうなんにも考えませんの、そして、なんにもわかりませんの」
「そしてこわくもない?」
彼女はさげすむように笑った。
「これっぽっちも」と、彼女はいった。
「じゃ、もし何かおこったら、ぼくはカタワーソフのところにいるからね」
「いいえ、何もおこりっこありませんわ。そんなことお考えにならないで。わたし、お父さまとごいっしょに並木街へ散歩にまいりますわ。そしてそれから、ドリーのところへまいります。では、お食事まえに一度お帰りになりますのね。おお、そうそう! あなたは、ドリーのところがもうすっかり行きづまってるってことごぞんじ? どこもかしこも借金だらけで、お金というものは一文もないんですって。で、わたしたちは昨日、お母さまやアルセーニイ(彼女は姉の夫リヴォフのことをこう呼んでいた)と相談して、あなたとアルセーニイとで、スティーワに話していただくことにきめましたの。これではほんとに、もうどうにもならないんですものね。でも、このことは、お父さまにはいうわけにいかないでしょう……だけど、もしあなたとあのひととで……」
「だってさ、ぼくたちに何ができるだろう?」と、レーヴィンはいった。
「でも、とにかく、アルセーニイのところへ行って、あのひとと相談してみてくださいな。あのひとがあなたに、わたしたちのきめたことをお話するでしょうから」
「よしよし、アルセーニイとの相談なら、ぼくはもう何にでも同意しておくよ。じゃひとつ、あのひとのところへもよろう。そして、ついでのことに、もし音楽会へ行くんだったら、ぼくはナタリーといっしょに行こう。じゃ、行ってくるよ」
入口の階段で、まだ独身時代から彼に仕えていて、今では都会での家の切り盛りいっさいをやっている老僕のクジマが、レーヴィンを呼びとめた。
「クラサーフチックのやつ(これは、田舎から連れてきた左側の轅馬《ながえうま》のことであった)蹄鉄《ていてつ》を打ちかえてやりましたのに、やっぱりまだびっこをひいとりますが」と、彼はいった。「どういたしましたらよろしゅうございましょう?」
モスクワへ移った当座レーヴィンは、田舎から連れて来た馬を使っていた。彼はこの方面をできるだけうまく、できるだけ安く、やっていきたいと思っていた。が、やってみると、自家の馬のほうがつじ馬車より高くつくし、そのうえやはりつじ馬車もやとわなければならぬことがわかった。
「獣医を呼びにやってごらん、ひょっとすると、ひづめの炎症かもしれない」
「では、カテリーナ・アレクサーンドロヴナ(キティーのこと)のご用のほうはどういたしましょう?」とクジマはきいた。
ヴォズドゥヴィジェンカからシフツェフ・ウラジョークまで行くのに、重い箱《はこ》馬車に屈強《くっきょう》な馬を二頭つけて、それで雪どけのどろどろ道を四分の一ウェルスターあまりもたどったうえ、五ルーブリもの金を払って、四時間も待たせておかなければならないというようなことも、今はもう、モスクワ生活の初めのうちほどには、レーヴィンを驚かさなくなっていた。今ではもうそれも、ふつうのことと思われるようになっていた。
「馬車屋に二頭連れてこさせて、それをうちの馬車につけたらいい」と彼はいった。
「かしこまりました」
都会生活のおかげで、これが田舎だったらどれくらい自分ひとりの苦労と注意を要したかしれないような難問題を、こうも手がるくやすやすと解決して、レーヴィンは入口の階段へ出た。そして、つじ馬車を呼んでそれに乗り、ニキーツスカヤ街へと走らせた。その途中では、彼はもう金のことなどはいっさい考えず、ただ社会学を専攻しているペテルブルグの学者と知り合いになるときのありさまや、自分の著述についてその人と話すときのことなどばかり考えていた。
モスクワへ移り住んだごく最初のころは、例の、田舎に住んでいる人にとっては奇怪きわまる、不生産的な、しかし避けがたい、あらゆる方面から彼に要求される支出が、かなりレーヴィンを驚かしたものであった。しかし今はもう、彼もそれになれた。ちょうどこの場合に彼におこったことは、世間でよくいう酒飲みの場合――最初の一杯は杭《くい》のよう、二杯めは|たか《ヽヽ》のよう、三杯めからは小鳥のようという、あれと同じ気持であった。従僕と門番の仕着せ代として、最初の百ルーブリ紙幣《さつ》を両替《りょうがえ》したとき、レーヴィンはついこう考えずにはいられなかった。こんな、だれにも必要のない、しかし、彼がそんなものはなくてもすむだろうということをほのめかしたときに見せた公爵夫人とキティーの驚きによって察すると、避けがたく必要なものであるらしい仕着せ、この仕着せは、ちょうどふたりの夏期労働者の賃金に相当する、つまり復活祭から謝肉祭までの、ほとんど三百日近いあいだを、毎日毎日朝早くから夜遅くまでつづける労働に相当するのだ――こう考えずにはいられなかった。すなわち、この百ルーブリの紙幣は、杭《くい》のように通ったのである。が、そのつぎに、二十八ルーブリかかった身内の者の正餐《せいさん》の食料を買うために換えられた紙幣は、レーヴィンの心に、この二十八ルーブリさえあれば、これは大ぜいの人が汗を流したり、うなったりしながら、刈って、束ねて、打って、煽《あお》いで、ふるって、つめて、そしてやっとできあがる九チェーツヴェルチ(一チェーツヴェルチは約二二キロ)のからす麦に相当するという連想をよびおこしはしたものの、しかし最初のものよりは気やすく手ばなされた。そして今ではもう、毎日のように両替される紙幣も、さらにそうした連想をおこさせることなく、まるで小鳥のように飛んでいってしまうのだった。金を得るために払われた労力が、その金で買われたもののあたえる満足に相当しているかどうかという考え――そうした考えは、もうとうにどこかへ消えうせていた。一定の穀物には、それ以下では売ることができないという、一定の値段があるものだという農業上の計算も、同じく忘れられていた。彼が長いこと値段をもちこたえてきた裸麦も、一チェーツヴェルチ五十カペイカという、一月以前の相場よりいっそう安値で売られてしまった。こうした失費をつづけていては、借金をしないで一年もちこたえることもむずかしかろうという考え――こうした考えすら、もはやなんの意味ももたなかった。そして、ただひとつのことだけが要求された――ほかでもない、金の出所などおかまいなしに、明日の牛肉代に心配のないように、いつでも銀行に金を持っているということであった。そしてこの考慮は、今日まではとにかく守られてきた――彼には、いつも銀行に金があった。ところが、今は銀行の金も出てしまっていて、しかも彼には、今後どこで金を工面したらいいか、ちょっと見当がつかなかった。そしてこのことが、キティーが金の話をもちだしたときに、ちょっとのま彼の心を乱したのである。しかし彼には、そんなことを考えている暇がなかった。彼はカタワーソフのことや、近く迫っているメトロフとの会見のことを考えながら、馬車を駆って行った。
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レーヴィンは、こんどこちらへ来てから、結婚以来会わなかった大学時代の同窓、カタワーソフ教授とふたたび親しく行き来しはじめた。彼にはカタワーソフが、明快・単純な人生観の持ち主である点で快かった。レーヴィンは、カタワーソフの人生観の明快さは、彼の性情の貧弱さから出ているものと考え、カタワーソフはカタワーソフで、レーヴィンの思想に矛盾の多いのは、彼の知的訓練の不足からきているものと考えていた。しかし、カタワーソフの明快さは、レーヴィンにとって愉快であり、訓練を欠いたレーヴィンの思想の豊富さは、カタワーソフにとって愉快だったので、彼らは、ときどき会って論争することを好んだのである。
レーヴィンは、自分の著述のある部分を、カタワーソフに読んで聞かせたが、それは彼の気にいった。その結果、昨日ある公開講演の席でふたりが会ったとき、カタワーソフはレーヴィンに向かって、いま、かねてレーヴィンが愛読している論文の著者である、有名なメトロフがモスクワに来ていること、カタワーソフがレーヴィンの著述の話をしたら、彼がそれに非常な興味をもったこと、それから、そのメトロフは、明日の十一時に彼の家へくるはずになっていて、レーヴィンと知り合いになるのを喜んでいるむねを告げたのだった。
「いや、きみはすっかりきちょうめんになりましたね、ほんとによく来てくだすった」と、カタワーソフは、小さい客間でレーヴィンを迎えながら、いった。「ぼくは今ベルの音を聞いて考えたのさ、きみが時間どおりにくるなんて、ありうべからざることだって……それはそうと、モンテネグロの人たちはどうです? なにしろ、生まれながらの軍人だからね」
「何がどうしたんですか?」とレーヴィンはきいた。
カタワーソフは、簡単に最近の戦況をつたえた。それから書斎へ案内して、非常に感じのいい容貌をもった、あまり背の高くない、体格のがっしりとした人を彼に紹介した。それがメトロフであった。会話はしばらくのあいだ政治間題と、最近の事変にたいしてペテルブルグの上流社会がどんな見方をしているかという点にとどまっていた。メトロフは、ある確かな出所から彼の耳へはいった言葉、どうやらこの問題について皇帝と大臣のひとりによって語られたという言葉をつたえた。ところが、カタワーソフもまたある確かな筋から、皇帝がそれとはぜんぜん反対のことをいったように聞いていた。レーヴィンはそこで、そういうふた通りの言葉が語られうるような状態を、しいて考えだそうとしてみた。そこで、この題目についての会話は中断された。
「そうです、このひとは、土地にたいする労働者の自然的条件ということについて、ほとんど一冊の書物を書いてるんですよ」と、カタワーソフはいった。「わたしは専門家ではありませんが、しかし自然科学者として、このひとが人類を、生物学上の法則以外のあるものとしてとり扱わないで、反対に、その環境にたいする従属性を認め、その従属のうちに発達の法則を求めていることに、興味を見いだしているんですよ」
「それは非常におもしろいですね」とメトロフはいった。
「じつは、わたしははじめ農業にかんする本を書くつもりだったんですが、農業の主要機関である労働者を研究しているうちに」と、レーヴィンは赤い顔をしながらいった。「ぜんぜん予期しない結果に到達してしまったのです」
そしてレーヴィンは、まるで地面を手さぐりするような用心ぶかさで、自分の見解を述べはじめた。彼はメトロフが一般に認められている経済学の学説に反対する論文を書いたことを知ってはいたが、しかし、自分の新しい見解にたいする同感を、どの程度まで彼に希望していいかははっきりしなかったし、またこの学者の聡明な、おちついた顔つきから、それを推測することもできなかった。
「しかし、あなたはどういう点に、ロシアの労働農民の特質を認めておいでになるのですか?」とメトロフはいった。「いわば、その動物的特質にですか、それともまた、そのおかれている条件にですか」
レーヴィンは、この質問のうちに、すでに自分とは一致しそうもない思想の語られていることを見てとった。しかし彼は、ロシア農民は土地にたいして、他の国民とはぜんぜん異なった見解をいだいているという点を論拠とする、自分の思想を述べつづけた。そして、この主旨を証明するために、彼は急いで、自分の見るところでは、ロシア民族のこうした見解は、東方にある広大無辺な無人の境地に植民すべき各自の使命を自覚するところからきているのだと、つけ加わえた。
「民族の一般的使命なんてことで結論をつけるとなると、とかく誤謬《ごびゅう》におちいりやすいものでしてね」とレーヴィンをさえぎりながら、メトロフはいった。「労働農民の状態は、つねに土地と資本にたいする関係によって、左右されるものですから」
そして、レーヴィンにはもうその思想をしまいまで語らせないで、メトロフは、自分の学説の特質を、彼に述べはじめた。
レーヴィンは、理解しようとつとめなかったので、彼の学説の特質がどこにあるのかはのみこめなかった。が、彼は、メトロフもまた、他の人たちと同じように、あんな論文を書いて経済学者たちの学説を論駁《ろんばく》しているにもかかわらず、やはりロシア農民の状態を、単に資本と、賃金と、地代との見地からだけ見ていることを見てとった。もっとも、彼にしても、ロシアの最大部分である東部では、地代というものがまだまるでゼロだということ、賃金は八千万のロシア人口の十中九まで、単にその日の糧《かて》になっているにすぎないということ、また資本というものも、ただ最も幼稚な原始的な武器の形でしか存在していないということを、認めるべきであったにもかかわらず、また彼は、賃金にかんしては、レーヴィンに説明したような自己一流の新しい学説をもち、多くの点において、一般の経済学者とは意見を異にしているにもかかわらず、やはり、この見地からばかり、あらゆる労働農民を見ているのであった。
レーヴィンは、いやいやそれをきいていて、初めのうちはちょいちょい反駁《はんばく》した。彼はときどき、それさえもちだせば、そのうえの説明を不必要なものにするにちがいないと思われた自分の見解を述べるために、メトロフの言葉をさえぎりたく思った。けれども、やがて、ふたりの見方がとうてい互いに理解しあうことができないほどに相反していることをさとると、彼はもう反駁もしないで、ただきいていた。で、今ではもう、メトロフのしゃべっていることには少しも興味がもてなかったにかかわらず、相手の言葉をきいていると、やはり一種の満足をおぼえた。これだけの学者が、これほどまでに熱心に、これほどまでの注意と、レーヴィンの知識にたいするこれほどまでの信頼とをもって、ときには、ただ暗示だけで事の大きな一面を示しながら、自己の思想を彼の前に披瀝《ひれき》しているという事実が、レーヴィンの自尊心を喜ばせたのである。彼は、これを自分の値うちのせいにしたが、それはじつは、メトロフがすでに、あらゆる周囲の人々を相手に、たびたび議論を戦わせた結果、新しい人の顔さえ見れば、とくに好んでこの問題を口にしたことと、それでなくても、だいたい彼は、自分に興味のある問題であれば、まだ自分自身にもはっきりしないような問題でも、だれかれなしに喜んで語る人であるということを知らなかったからである。
「それはそうと、もう遅くなりますよ」とカタワーソフは、メトロフがその説明をおわるのをまって、時計を見ながらいった。
「ああ、今日はね、愛好者協会でスヴィンティッチの五十年記念祭が催されるのさ」とカタワーソフは、レーヴィンの問いにたいしていった。
「ぼくもピョートル・イワーノヴィッチもそこへ行くことになってるんですよ。ぼくは動物学上の彼の業績について、少し話をする約束なんです。ひとついっしょに行きませんか。なかなかおもしろいですよ」
「なるほど、ほんとに時間ですね」とメトロフはいった。「あなたもごいっしょにいかがです。そして、もしおさしつかえがなかったら、そこからわたしどもへいらしてください、ぜひひとつ、ご著述をお読みきかせ願いたいので」
「いいえ、どういたしまして、それにまだすっかりはできあがっていないのですから。しかし、会のほうへおともするのは、願ってもない喜びです」
「どうです、きみ、聞きましたか。ぼくは別の意見書を提出したんだよ」と、別室でフロックに着かえてきたカタワーソフはいった。
そこで大学問題についての話がはじまった。
大学問題というのは、この冬におけるモスクワでの非常な重大事件だった。三人の老教授が、教授会議で若い教授連の意見をいれなかったので、若い教授連は別の意見書を提出した。一部の人たちの批評によると、この意見は、恐るべきものであり、他の一部の人たちの意見にしたがえば、それはきわめて単純かつ正当な意見であった。そして、教授たちは二派に分裂してしまった。
カタワーソフの属していた一派の人々は、反対側のなかに、卑しむべき讒訴《ざんそ》と欺瞞《ぎまん》とを見、他の側の人々は、権威にたいする不遜《ふそん》と悪戯《いたずら》とを見た。レーヴィンは、大学に関係はなかったけれども、モスクワにきて以来、もう何度も、この事件について聞いたり語ったりしていたので、その問題にたいしては、ひとつの意見を持っていた。で、彼は、三人で大学の古い建物へ行きつくまで、外へ出てからもつづけられていた会話の仲間入りをした。
会はすでにはじまっていた。カタワーソフとメトロフとがついた|らしゃ《ヽヽヽ》のテーブルクロースにおおわれたテーブルには、六人の人が着席して、そのなかのひとりが、草稿の上へ近く身をかがめながら、何かを朗読していた。レーヴィンは、テーブルのまわりにあった空《あき》いすのひとつに腰をおろして、そこに居あわせた大学生に、何を読んでいるのかと小声でたずねた。大学生は、不満そうにレーヴィンをかえりみて、こういった。
「伝記ですよ」
レーヴィンは、学者の伝記に興味はもたなかったけれども、聞くともなくそれにききいっているうちに、いろいろと、有名な学者の生涯についての興味ある新しい事実を知った。
朗読者が読みおわると、司会者はその人に礼を言い、この五十年祭のために彼にあてて送ってきた、詩人メントの詩の何編かを朗読してから、さらに詩人にたいする感謝の辞をふた言み言述べた。そのつぎに、カタワーソフが、もちまえの大きなどなるような声で、故人の学術上の業績にかんする自身の覚え書を朗読した。
カタワーソフが読みおわったときに、レーヴィンは時計を見て、もう一時過ぎであることを知り、音楽会へ行くまでには、とてもメトロフに自分の原稿を読んで聞かせる暇のないことを考えた。それに、今ではもうそんなことをする気はなかった。朗読のあいだにも、彼は依然として、さっきの会話を思いかえしていた。いまや彼には、たとえメトロフの思想に意味があるとしても、自分の思想にもやはり意味はあること、そして、これらの思想が明瞭になったり、何かの役にたったりすることのできるのは、ただめいめいが別個に自分の道で活動する場合にかぎられていて、これらの思想の交換からは何ものも生まれてきはしないということが明らかになったのである。
で、メトロフの招待をことわろうと決心してレーヴィンは、会がおわると、メトロフのそばへ近づいていった。メトロフは、おりから政治上の新事件について話しあっていた司会者に、レーヴィンを紹介した。そのときメトロフは、今朝レーヴィンに話したことを、司会者に話していたので、レーヴィンも、今朝いったと同じことを述べたてたが、少しでも目さきを変えるために、そのとき彼の頭にうかんできた新しい思いつきもいっしょに、発表した。そのあとで、またしても大学問題についての話がはじまった。レーヴィンは、そのことはもうすっかり聞いていたので、メトロフにむかい急いで、残念ながら彼の招きに応じかねるむねをことわり、別れを告げて、リヴォフのもとへと馬車を駆った。
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キティーの姉のナタリーを妻にしていたリヴォフは、それまでの生涯をずっと両首都(ぺテルブルグとモスクワ)と外国で送って、そこで教育も受ければ、外交官として勤めてもきたのであった。
去年、彼は、べつに不快なことがあったわけではなく(彼はだれとでも、けっして不快な関係をもつような男ではなかった)、外交官の職をしりぞき、ふたりの男の子にできるだけりっぱな教育を授けるために、モスクワの宮内省へ転勤してきたのだった。
習慣や見解では、ふたりは極端に反対だったし、またリヴォフのほうが、レーヴィンより年上だったけれども、彼らはこの冬のあいだに、すっかり親密になって、互いに愛し合うようになっていた。
リヴォフは家にいたので、レーヴィンは、取次ぎなしに彼の部屋へはいって行った。
リヴォフは、バンドのついたふだん着のフロックに、|かもしか革《ヽヽヽヽがわ》の靴をはき、肘掛けいすに腰をおろして、半分灰になった葉巻を、美しい手で注意ぶかく、からだからはなして持ちながら、青ガラスの鼻めがねで、見台に立てた本を読んでいた。
ちぢれ毛の、ぴかぴかした銀色の髪がひときわ名門の出らしい表情をそえている、美しい、きゃしゃな、まだ若々しい彼の顔は、レーヴィンの姿を見ると、たちまち微笑に輝いた。
「やあ、これはすてきだ! わたしはいま、あなたのところへ使いを出そうと思っていたところでしたよ。それでどうです、キティーの様子は? さあ、これへお掛けなさい。このほうがらくだから……」と彼は立ちあがって、船底いすを押しやった。「Journal de St. Petersbourg(ペテルブルグの雑誌)に出ていた最近の公報を読みましたか? わたしはすばらしいものだと思うんですがね」と彼は、いくらかフランス語くさいアクセントでいった。
レーヴィンは、カタワーソフから聞いたペテルブルグの風説をつたえ、政治上のことをちょっと話してから、メトロフと知り合いになったことや、記念祭へ列席したことなどを語った。リヴォフはそれに非常に興味をもった。
「そこですよ、わたしがあなたをうらやむのは。あなたはそういう興味のある学者の世界へ、ずんずんはいっていけるんですからね」と彼はいった。が、少し話に夢中になると、さっそくもう、いつものように、自分に話しやすいフランス語にかわった。「もっとも、わたしには暇というものがないんでね。勤めだの、子供の世話だのに、すっかり時間をとられてしまうんですよ。それに、わたしは、こういうのをべつに恥とは思いませんが、自分の教育があまりにたりなさすぎるのでね」
「そんなことはありませんよ」と、レーヴィンはほほえみながらいった。リヴォフの、ことさら謙遜な人間に思われたいとか、謙遜な人間でありたいとかいう気持からくるのではなく、真に心から出るみずからを卑下《ひげ》した考えかたに、いつものように感じいりながら。
「どうして、まったくですよ! わたしは今では、自分の教育のたりないことを、つくづく感じているんですよ。子供を教育するためにも、わたしには、記憶を新たにしなければならないことや、新しく学ばなければならないことがたくさんにあるんですから。というのは、教師だけではたりなくて、どうしても監督者がいりますからね。ちょうど、あなたがたの農事に農夫と監督人がいるように。げんにわたしは、こういうものを読んでいますよ」と彼は、見台の上に立ててあったスラーエフの文典をさし示した。「ミーシャのためによんどころなくね、ところが、これがまたじつにむずかしい……ねえ、ここのところをちょっと説明してくれませんか。ここにこんなことがあるんですがね……」
レーヴィンは、そんなことはとてもわからない、習いなおさなければといおうとしたが、リヴォフは承知しなかった。
「ああ、やっぱり、からかってるんですね」
「どうしてどうして、あなたにはおわかりにならないかもしれないが、わたしはあなたを見るたびにいつも、自分の前に立っている仕事――すなわち、子供の教育ということを教えられているんですよ」
「だって、教えられることがないじゃありませんか」とリヴォフはいった。
「いや、とにかくぼくの知っていることは」と、レーヴィンはいった。「こちらのお子さんたち以上によく教育された子供を見たことがないということと、あなたのお子さんたち以上の子供を望むことはむりだということですよ」
リヴォフは、自分の喜びを色にだすまいとして、明らかに自分をおさえていたが、その顔は微笑で輝きわたった。
「ただ自分よりよくなってくれればと思ってね。これがわたしの希望のすべてなんですよ。あなたはまだごぞんじないでしょうが」と、彼は言いはじめた。「わたしの子供のように、外国生活のために教育のおくれた男の子を扱うのは、かなり骨の折れるものですからね」
「それは、とりかえせますよ、なにしろ、お子さんたちはみんなできがいいから。やはり、大切なのは徳育ですね。ぼくがこちらのお子さんたちを見て教えられるのはそこですよ」
「徳育――とあなたはおっしゃる。が、それがどんなにむずかしいことか、ちょっと想像もおよばないでしょうよ。やっと、一方をうち負かしたと思うと、もう別の方面が伸びてきていて、ふたたび闘争というしまつですからね。万一、宗教の助けがなかったら――そうそう、この問題では、いつかふたりで話したことがありましたね?――まったくこの助けがなかったら、どんな父親だって、自分の力ひとつでは、子供の教育なんかできっこありませんよ」
いつもレーヴィンにとって、興味のあるこの話は、おりからもう外出の支度をしてはいって来た、美人のナタリー・アレクサーンドロヴナによってさえぎられた。
「あら、あなたが来ていらっしゃるとは、わたしちっともぞんじませんでしたわ」と彼女は、もう以前からあきあきするほど聞いてきたこの話をさえぎったことを、明らかにいっこう苦にしないばかりか、かえって喜んでさえいるらしい調子で、いった。「で、どんなあんばいですのキティーは? わたし、今日はね、お宅で晩餐をいただこうと思ってますのよ。それはそうと、アルセーニイ」と彼女は、夫のほうへ顔をむけた。「あなたは馬車でいらっしゃるのでしょう……」
それから夫妻のあいだには、この一日をどうして過ごそうかという相談がはじまった。夫は職務上の用件でだれかと会いに行くことになっていたし、妻は音楽会と、南東委員会の集会へ出むくことになっていたので、そのため、いろいろなことをとりきめたり、詮議《せんぎ》したりしなければならなかった。レーヴィンも、内輪の人として、その相談にあずからなければならなかった。そして、けっきょくレーヴィンは、ナタリーといっしょに音楽会と集会へ行き、そこから馬車をアルセーニイの迎いに役所へやる。すると彼は、それに乗って妻のところへより、彼女をキティーのもとへ送って行く。が、もし彼の用事がまだ片づいていなかったら、そのときは馬車を返してよこす、そしたらレーヴィンがナタリーといっしょに行くこと――そういう順序にきまったのだった。
「どうも、このひとはわたしをからかって困るのさ」と、リヴォフは妻にいった。「うちの子供たちがたいへんできがいいなんて言いはってね。あんなにいけないところだらけなのにさ」
「アルセーニイはね、とかく極端まで行ってしまうんですのよ。わたしいつもいってるんですけれど」と妻はいった。「だいいち、完全なんてものを望んでいたひには、いつになったって満足なんかできっこありませんわ。父がよく、自分たちが育つ時分には、自分たちは中二階に押しこめられていて、両親が、一ばんいい二階に住んでいたというような、ひとつの極端があったものだが、それが今はすっかり反対で、両親は物置き部屋にいて、子供たちは二階にいるなんて申しますけれど、それはまったくほんとうですわね。このせつでは、両親は自分の生活をもってはならない。ただもう、何もかも子供のためということになっているんですものねえ」
「だって、いいじゃないか、もしそのほうが愉快だったら?」とリヴォフは、例の美しい微笑をうかべて、ちょっと妻の手にさわりながら、いった。「おまえを知らない人は、おまえを実の母親でなくて、まま母だと思うぜ」
「いいえ、何事にだって極端ということはよくありませんわ」とナタリーは、夫のペーパーナイフをテーブルの上のきまった場所へ置きながら、おちついた口調でいった。
「おお、さあおいで、申しぶんのないお子さんたち!」とリヴォフは、おりからはいって来た、ふたりの美しい男の子に向かっていった。ふたりは、レーヴィンにおじぎをしてから、明らかに何かききたそうな様子で、父親のそばへ歩みよった。
レーヴィンは彼らと話をしたり、また彼らが父親に話すことを聞いたりしたいと思ったが、あいにくナタリーが彼に話しかけたうえ、そこへまたリヴォフの同僚のマホーティンが、彼といっしょにだれかに会いにゆくために、宮内官の制服姿で、この部屋へはいって来た。そしてたちまち、ヘルツェゴヴィナのことや、コルジンスキイ公爵令嬢のことや、議会のことや、アプラクシン夫人の不慮《ふりょ》の死のことを話題とする、つきない会話がはじまってしまった。
レーヴィンは頼まれてきた用件をすっかり忘れていた。そしてもう玄関へ出てしまってから、やっとそれを思いだした。
「あっ、そうだった。キティーがね、オブロンスキイのことで、何かあなたと相談してくれなんていってましたっけ」こう彼は、妻と彼とを送ってきたリヴォフが、階段の上に立ちどまったときにいった。
「そう、そう、お母さんが、われわれ les beaux-freres(義弟ども)にあのひとを攻撃させたがっているんですよ」と、彼はあかくなりながらいった。「だが、わたしに?」
「じゃあ、わたしがあのひとを攻撃しますわ」と白い犬の袖《そで》なし外套《がいとう》を着て、話のすむのを待っていたリヴォフ夫人が、にこにこしながらいった。「さあ、まいりましょう」
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昼の音楽会では、非常に興味ある曲がふたつ演奏された。
ひとつはファンタジア(幻想曲)「曠野《こうや》のリア王」で、他のひとつはバッハの記念に献じられたクワルテット(四重奏曲)であった。ふたつながら新曲で、新しい内容のものだったので、レーヴィンは、それらについての自分の意見をまとめたいと思っていた。で、義姉をそのボックスへ案内すると、自身は円柱のところに立ち、できるだけ注意して、忠実にそれをきこうと決心した。彼は、いつも自分の音楽にたいする注意を不愉快にあらぬかたへそらせてしまう、白ネクタイをつけた指揮者の、目まぐるしく振りまわされる手や、音楽会だというのでとくに念入りに耳をリボンでおさえて、帽子をかぶった貴婦人たちや、何ものにも心をひかれないでぼんやりしたり、あるいは音楽をよそにさまざまのことに気をとられたりしている人々などを見やりながら、気をちらされ、印象をそこなわれることを、極力避けた。彼はつとめて、音楽通や饒舌家に出会うことを避け、そこに立って、前を見おろしながら、じっと耳をかたむけた。
けれども、リア王のファンタジアに耳をかたむければかたむけるほど、彼は、なんとかまとまった意見を組立てることの可能性からますます遠くはなれていく自分を感じるのだった。感情の音楽的表現がたえずはじまって形をなしかけたと思うと、すぐまたそれが、他の音楽的表現の新しいいとぐちとなるか、ときにはまた、単に作曲家の気まぐれとしか思われないような、なんの脈絡もない、けれども、非常に複雑な音響になって、こなごなにくだけ散ってしまう。そして、この音楽的表現の断片そのものは、ときには美しいこともあったが、概して不愉快であった。なぜなら、それはまったくとうとつで、あまりに脈絡がなさすぎたからである。陽気・憂愁・絶望・優しさ・勝利感といったようなものが、まるで狂人の感情のようにめちゃくちゃに現われるのであった。そしてそれらの感情は、同じく狂人に見るように、あっというまにどこかへ過ぎ去ってしまうのだった。
レーヴィンは、この演奏のあいだじゅう、ちょうど舞踏を見ているつんぼの人のような感じを経験していた。その一幕がおわったとき、彼は完全な疑惑に閉じこめられ、何ものにもむくわれなかった緊張した注意のために、非常な疲労を感じていた。八方からわれるような拍手がおこった。だれもかれも立ちあがって歩きだし、しゃべりはじめた。ほかの人の印象を聞いて自分の疑惑をはらしたいと思い、レーヴィンは音楽通をさがしに出かけた。そして、かねて知り合いのペスツォフと話していた有名な音楽通のひとりを見つけると、彼はうれしく思った。
「いや、驚くべきものですねえ!」と、ペスツォフの幅の広いバスがいっていた。「やあ、こんにちは、コンスタンチン・ドミートリチ。あの、コーデリアの近づいてくるのが感じられるあたり、それからあの、das ewig Weibliche(久遠の女性)が運命との戦いにはいるあたり、あのへんは具象的、いわば彫刻的で、そしてじつに色彩に富んでいる、そうじゃありませんか?」
「というと、なぜあすこへコーデリアが?」と、ファンタジアが曠野《こうや》におけるリア王を描いたものであることをすっかり忘れてしまって、レーヴィンはおずおずとこうたずねた。
「コーデリアが出てくるのは……まあこれをごらんなさい!」とペスツォフは、手にもっていた、|しゅす《ヽヽヽ》でくるんだプログラムを指でたたきながら、それをレーヴィンに渡していった。
そこで初めてレーヴィンは、ファンタジアの標題を思いだし、急いで、その裏に印刷してあるシェイクスピアの詩のロシヤ語訳を読んだ。
「それがなくちゃとてもついてはいけませんよ」と、今までの話相手が行ってしまって、ほかに相手にする人もなかったので、ペスツォフはレーヴィンのほうをむいていった。
この幕間に、レーヴィンとペスツォフとのあいだには、ワーグナー的傾向の音楽上の長所と短所とについての論争が行なわれた。レーヴィンはワーグナーおよびその後継者たちの誤謬《ごびゅう》は、音楽が他の芸術の領域へうつろうとしているところにある。あたかもそれは、詩が、当然、絵画の領分であるべき顔の輪郭を描こうとするときに、誤謬におちいるのと同一であると主張した。そして、そうした誤謬の例として、台石の上の詩人の像の周囲にただよう詩的幻想の影を大理石に刻みだそうと思いついた彫刻家をひきあいにだした。
「こうした影は、彫刻にはあまりないものだから、影が階段につかまっているというようなことになるんですよ」レーヴィンはこういった。この文句は彼の気にいったが、しかし以前にこれと同じ文句を、しかもペスツォフに言いはしなかったかということが、どうもはっきり記憶になかったので、それを口にすると同時に、急にまごついてしまった。
ところがペスツォフは、芸術はひとつであるべきこと、したがってそれは、あらゆる種類の芸術がひとつに融合したときにはじめて、最高の表現に達しうるものであることを主張した。
つぎの曲は、レーヴィンはもう、きくことができなかった。ペスツォフが彼のそばに立っていて、ほとんどのべつ彼に話しかけては、その曲を、よけいな、いやらしい、とってつけたような単純化の点で非難したり、またそれを、絵画におけるラファエル前派の単純さと比較したりしたからであった。帰りがけにレーヴィンは、なお大ぜいの知人に出会って、その人たちとも、政治のことや、音楽のことや、共通の知人のことなどを話しあった。とりわけ、その人を訪問することをすっかり忘れていたボーリ伯爵とも顔をあわせた。
「そう、じゃこれからすぐ行っていらっしゃい」とリヴォフ夫人は、彼からそれを聞いたときにいった。「たぶんおあがりにならなくてもすむでしょうから、そしたらすぐに、わたくしを迎えに会のほうへいらしてくださいまし。だいじょうぶ、まにあいますわ」
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「今日はたぶん訪問はお受けくださらんでしょうな?」とレーヴィンは、ボーリ伯爵家の玄関へはいりながらいった。
「いえ、お受けになりますでございます。どうぞ」と、ちゅうちょなく彼の外套を脱がせながら、玄関番はいった。
『やれやれ、なんということだ』とレーヴィンは、ため息まじりに片手の手ぶくろをとり、帽子をなおしながら、考えた。『なんだってまたおれは来たんだ? いったい、どんな話をすればいいんだ?』
とっつきの客間を通りぬけながら、レーヴィンは戸口のところで、心配らしい、いかつい顔をして、従僕に何やら言いつけていたボーリ伯爵夫人に出会った。レーヴィンを見ると、彼女はにっこりして、なかから人声のもれていた、つぎの小さな客間へ彼を招じた。その客間には、伯爵のふたりの令嬢と、レーヴィンも顔なじみのモスクワの大佐とが、肘掛けいすに掛けていた。レーヴィンは、彼らのほうへ歩みより、あいさつをして、帽子を膝の上へのせながら、長いすのそばへ腰をおろした。
「奥さまはいかがでいらっしゃいまして? あなたは音楽会へいらっしゃいましたのでしょう? わたくしどもはまいれませんでしたのよ。母が追悼式《ついとうしき》にまいらなければならなかったものですから」
「ああ、わたくしもうけたまわりました……ずいぶん急なことでいらしたんですね」と、レーヴィンはいった。
伯爵夫人が来て、長いすに腰をおろすと、同じように、妻のことと音楽会のこととをたずねた。
レーヴィンはそれに答えてから、またアプラクシン夫人のとつぜんな死についての問いをくりかえした。
「もっともあのかたはしょっちゅうお弱いほうでしたからね」
「あなたは昨日のオペラへいらっしゃいまして?」
「ええ、まいりました」
「ルッカがたいへんよろしゅうございましたのね」
「はあ、たいへんよろしゅうございました」と彼はいった。それから、彼らになんと思われようといっこうかまわなかったので、その歌手の技倆《ぎりょう》の特質について、彼らがもう何百回となく聞きふるしていたことをくりかえしはじめた。ボーリ伯爵夫人は、傾聴しているようなふりをしていた。やがて、彼が言いたいことを存分にいってしまって口をつぐむと、こんどは、それまで黙っていた大佐が、しゃべりはじめた。大佐もやはりオペラのことや、照明のことについて話しだした。そして最後に、チューリン家でもくろまれている folle jou nee(ばか騒ぎ)のことを話してから、大佐は笑いだして、騒々しい音をたてて立ちあがると、出て行った。
レーヴィンも同じく立ちあがったが、しかし、伯爵夫人の顔つきによって、まだ自分の立ち去るべき時でないことを読みとった。もう二分はいなければならなかった。で、彼はまた腰をおろした。
しかし彼は、こんなことをしていることがいかにばかげているかということばかりを考えていたので、適当な話題を見つけることができず、ただ黙りこんでいた。
「あなたは集会へはおいでになりませんのですか? たいそうおもしろいというお話でございますけれど」と伯爵夫人が口をきった。
「いや、わたくしは belle-soeur(義姉)を迎えに、そこへ行く約束になっておりますので」とレーヴィンはいった。
沈黙が落ちてきた。母は娘ともう一度目を見あわせた。
『さあ、こんどはどうやらいいらしいぞ』とレーヴィンは考えて、立ちあがった。婦人たちは、彼の手を握って、奥さまに milie chose《よろしく》をつたえてくれるようにと頼んだ。
玄関番は毛皮外套を渡しながら、彼にたずねた――「失礼でございますが、お住まいはどちらでいらっしゃいましょうか」そして、さっそくそれを、大きな、りっぱな帳面に書きつけた。
『もちろん、おれにはどうだっていいことだが、しかしやはり、恥ずかしい、恐ろしい、ばかばかしい気がする』こうレーヴィンは、だれでもみんなしていることだと思うことによって、やっと自分を慰めながら、考えた。そして義姉を見つけて家へ連れて行くために、集会の会場へと馬車を駆った。
集会の会場には、大ぜいの人、社交界のほとんど全部が集まっていた。レーヴィンは、非常におもしろいという評判だった会の報告にまにあった。報告文の朗読がすむと、社交界の人々はひとつところへ集まり、レーヴィンはそこで、今晩有名な報告演説のあるはずになっている農政協会の会合へ、ぜひ出席するようにと彼を誘ったスヴィヤーズスキイにも会えば、たったいま競馬場から来たばかりだというステパン・アルカジエヴィッチにも、その他の知人の多くにも会い、そこでまた公会のこと、新曲のこと、訴訟問題のことなどについて、さまざまな批評を語ったり、また聞いたりした。
ところが、それはたぶん注意力の疲労の結果だったのであろう、彼は訴訟問題のことを話しながら、変なまちがいをしたが、このまちがいはその後もたびたび彼にいまいましい気持で思いだされた。ほかでもない、ロシアで裁判を受けていたある外国人の、やがて科せられるはずの刑罰のことや、また、彼を国外追放に処することのいかに不当であるかということなどについて話しているうちに、昨日ある知人の話のなかで小耳にはさんだことを、ついくりかえしてしまったのだった。
「ぼくはね、彼を外国へ追放するのは、まるで、|かます《ヽヽヽ》を罰するのに水中へ放してやるのと同じことだと思いますがね」とレーヴィンはいった。いってしまってから、いままるで自分のもののような顔をして口にしたその言葉が、自分はある知人から聞いたものであるが、じつは、クルイロフの寓話から出たもので、その知人はそれを、新聞の小品欄《しょうひんらん》から拾いだしてくりかえしたものだということを、思いだしたのであった。義姉といっしょに家へ帰って、元気で無事なキティーの顔を見とどけてから、レーヴィンはあらためてクラブへと馬車を走らせた。
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レーヴィンは、ちょうどよい時間にクラブへ着いた。彼といっしょに、来賓や会員たちがぞくぞくと乗りこんで来た。レーヴィンは、もうずいぶん長いこと、まだ大学の出たてにモスクワに住まって、社交界へ乗りだしたばかりのころ以後、ずっとクラブへ足ぶみしたことはなかった。彼はクラブや、その組織の外部的な細かいことは、よく記憶していたが、しかし、昔クラブであじわった印象などはすっかり忘れてしまっていた。けれども、ひろびろとした半円形の庭へ乗りいれた、つじ馬車をおり、玄関の階段へ足をかけ、肩帯をつけた玄関番が音もなくドアを開いて彼を迎え、彼の前にうやうやしく頭をさげるやいなや、それからさらに、階上へ持っていくよりも、階下へ脱いでいったほうがめんどうが少ないと考えて会員たちが脱いでいったオーバーシューズや毛皮外套を、玄関番の詰め所に見かけるやいなや、また、彼の来着を知らせる神秘的なベルの音を聞き、絨毯《じゅうたん》の敷かれた、斜めの階段をあがって行きながら、中途の踊り場に立っている彫像を見、階上の戸口で、急がずためらわずドアをあけては、通る客をじろじろ見ている、クラブの制服をつけた見知りごしの年よりの、第三番めの番人を目にするやいなや、――遠い昔のクラブの印象――休息と、満足と、礼儀の印象が、とつじょとして、レーヴィンの心をとらえてしまった。
「どうぞ、お帽子を」と玄関番は、帽子は玄関の詰め所へ置いていくことというクラブの規則を忘れていたレーヴィンにいった。「久しくお見えになりませんでございましたね。公爵が昨日あなたさまのお名を書きつけていらっしゃいましてございます。ステパン・アルカジエヴィッチ公爵は、まだお見えになりません」
玄関番は、ひとりレーヴィンばかりでなく、彼の親族縁者のすべてを知っていたので、さっそく彼の近しい人のことをいったのだった。
いくつかのついたてを立てた最初の通りぬけの広間と、右手に仕切りがあって、そこに果物の売店のある室を通りぬけながら、レーヴィンは、のろのろと歩いていく老人を追い越して、大ぜいの人のがやがやしている食堂へはいった。
彼は客人たちを見まわしながら、もうほとんど全部ふさがっていたテーブルにそって歩いて行った。あすこにもここにも、種々雑多な人々――年老いた人や、若い人や、浅い知り合いや、近しい人などが、目にはいった。ひとりとして怒ったような、心配そうな顔をしている者はなかった。すべての人が、心配や苦労は帽子といっしょに玄関番の詰め所へ置いてきて、ゆうゆうと物質生活の幸福を享楽しようとしているように思われた。そこにはスヴィヤーズスキイも、スチェルバーツキイも、ニェヴェドーフスキイも、老公爵も、ウロンスキイも、セルゲイ・イワーノヴィッチもいた。
「やあ! どうして遅れたんだね?」と公爵はにこにこして、肩ごしに片手をさしのべながらいった。「キティーはどうしてるな?」と彼は、チョッキのボタンにはさんでいたナプキンをなおしながら、言いたした。
「かわりません。元気でいます。今ごろは三人で、うちで食事をしていましょうよ」
「ああアリーナ・ナジーナだね。ところで、この辺には席がないが、ああ、あのテーブルへ行って、早く席をとりなさい」公爵はこういうと、くるりと背を向けて、用心ぶかく|ひげ《ヽヽ》(魚の名)のスープのはいった皿を受け取った。
「レーヴィン、こちらへいらっしゃい」と少し向こうのほうで、気心のよさそうな声が叫んだ。それはトゥローヴツィンであった。彼は若い軍人といっしょに掛けていて、そのそばには、二脚のいすが向きをかえて置かれてあった。レーヴィンは喜んで彼らのほうへ行った。彼は日ごろから、この善良な放蕩者のトゥローヴツィンを好いていた――この男には、キティーに申し込みをしたときの思い出が結びついているのだった――しかも今は、ああいう緊張した、高踏《こうとう》的な、さまざまの会話のあとだったので、善良そうなトゥローヴツィンの顔つきが、とりわけ快かったのである。
「ここは、あなたとオブロンスキイのためにとっておいたところなんですよ。あのかたもじきにみえるでしょう」
いつも笑っているような、快活らしい目つきをした、ひどくからだをまっすぐにしていた軍人は、ペテルブルグ人のガーギンであった。トゥローヴツィンがふたりを紹介した。
「オブロンスキイはいつだつて遅いですね」
「ところが、来ました、来ました」
「きみも、いま来たばかりだろう?」と、つかつかと彼らのほうへ歩みよりながら、オブロンスキイはいった。
「よう。ウォーツカはやった? じゃ、行こう」
レーヴィンは立ちあがって、彼といっしょに、数種のウォーツカと、いろいろなザクースカのならべてある大きなテーブルのほうへ歩きだした。二十種からあるザクースカのなかからは、なんでも好きなものを選ぶことができそうに思われたが、しかしステパン・アルカジエヴィッチは、なにやら特別なものを注文した。と、そこに立っていた制服姿のボーイのひとりが、さっそく注文の品を運んで来た、ふたりは一杯ずつひっかけて、食卓のほうへもどった。
と、すぐにまた、まだスープをやっているうちに、ガーギンのところへシャンペンが持って来られて、彼はそれを四つのコップにつぐように命じた。レーヴィンは、すすめられた酒は辞退しないで、お代りのびんを注文した。彼はひどく腹をすかしていたので、非常な満足をもって食いかつ飲み、さらにそれ以上の満足をもって、一同の陽気な罪のない話の仲間入りをした。ガーギンは声を低めて、ペテルブルグの新しい笑話を物語った。笑話は、いかがわしい愚劣なものであったけれど、しかし、あまりにおかしかったので、レーヴィンは近くの人々が思わず彼のほうを見たほど、大きな声をたてて笑った。
「それと同じような種類のもので、『わしにはとてもたまらない』というやつがあるんだがね、きみは知ってるかね?」とステパン・アルカジエヴィッチはたずねた。「いや、じっさいおもしろいんだよ。おい、もう一本くれ」彼はボーイにこう命じてから、話しはじめた。
「ピョートル・イリイチ・ヴィノーフスキイからでございます」と年よりのボーイが、ステパン・アルカジエヴィッチとレーヴィンに向かって、きらきらと光るシャンペン酒のつがれた、きゃしゃなコップをふたつささげて来て、ステパン・アルカジエヴィッチの話をさえぎった。ステパン・アルカジエヴィッチはコップをとり、テーブルの向こうの端にいた、頭のはげた赤ひげの男と目を見かわして、にこにこしながら頭を振って見せた。
「あれはだれだい」とレーヴィンはきいた。
「きみは一度ぼくのところで会ったことがあるじゃないか、覚えてるだろう? 善良な男さ」
レーヴィンは、ステパン・アルカジエヴィッチのしたとおりにして、コップをとりあげた。ステパン・アルカジエヴィッチの笑話も、同じく非常におもしろいものであった。レーヴィンも自分の笑話を物語ったが、それも一同の気にいった。やがて、話は馬のこと、今日の競馬のこと、ウロンスキイのアトラスがいかに剽悍《ひょうかん》に一等賞をかちえたかということに、うつっていった。レーヴィンは、いつのまに食事をすましたかおぼえていないくらいであった。
「やあ! ほら来たよ! ほら来たよ!」もう食事のおわりごろになり、ステパン・アルカジエヴィッチはいすの背ごしにからだをそりかえらせると、背の高い近衛大佐といっしょに彼のほうへやってきたウロンスキイに手をさしだしながら、こういった。ウロンスキイの顔にもやはり、クラブ通有の楽しげな朗かさが輝いていた。彼は快活に、ステパン・アルカジエヴィッチの肩に肘をつき、何やら彼にささやいてから、同じ楽しげな微笑をうかべて、レーヴィンにも手をさしだした。
「またお目にかかれて非常に愉快です」と彼はいった。「わたしはあのとき、選挙場であなたをおさがししたのですが、もうお立ちになってしまったというので」と、彼はいった。
「そうです。わたしはあの日にすぐ立ってしまったものですから。われわれはいま、あなたの馬のことを話していたところですよ。おめでとう」とレーヴィンはいった「ものすごい速力だったそうじゃありませんか」
「ですが、あなたも馬をおもちだそうじゃありませんか」
「いいえ、父が持っていただけですよ。しかしわたしは覚えていますよ、知っていますよ」
「きみはどこで食事をしたんだね?」と、ステパン・アルカジエヴィッチがきいた。
「二番めのテーブルでさ。円柱の向こうの」
「このひとのために祝杯をあげたんでさ」と、背の高い大佐はいった。「なにしろ、皇帝賞の二等なんですからね。このひとが馬でうるような幸福を、わたしもカルタでえられたらと思いましてね」
「さあさあ、黄金の時を空費していられないぞ。ひとつ地獄へくりだそう」大佐はこういって、テーブルからはなれて行った。
「あれがヤーシュヴィンですよ」と、ウロンスキイはトゥローヴツィンに答えて、彼らのそばの空席へ腰をおろした。彼は、すすめられたシャンペンの杯を飲みほしてから、さらに新しい一びんを命じた。クラブの印象の影響でか、それとも飲んだ酒の作用でか、レーヴィンは、家畜の良種について、ウロンスキイと話しながら、自分がこの男にたいしてなんの敵意をも感じないのを、うれしく思った。彼はおまけに、話のなかで、妻がマーリヤ・ボリーソヴナ公爵夫人のところで彼に会ったと話したことまでも、もちだしてしまった。
「ああ、マーリヤ・ボリーソヴナ公爵夫人か、あれはすばらしい女だね?」とステパン・アルカジエヴィッチはいって、彼女にかんする笑話を話し、一同を笑わせた。わけてもウロンスキイは、レーヴィンがすっかり彼と和解したような気持になったほど、人のいい様子で哄笑《こうしょう》した。
「じゃ、これでおしまいだね?」と、立ちあがってほほえみながら、ステパン・アルカジエヴィッチはいった。「さあ、行こうじゃないか」
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食卓をはなれるとともに、レーヴィンは、歩くにつれて両手がとくに規則正しく、軽やかに振られるのを感じながら、ガーギンといっしょに、天井の高い部屋部屋を通って、球突き場のほうへ歩きだした。大きな広間を通り過ぎるときに、彼はしゅうとに出くわした。
「どうだな! われわれの安逸《あんいつ》の殿堂は気にいっただろう!」と公爵は、彼の腕をとりながらいった。「さあひとつ、そこらをまわってみようじゃないか」
「わたしもじつは、方々見て歩きたいと思っていたんですよ。いや、なかなかおもしろいです」
「ああ、きみにはおもしろいだろう。だがわしのおもしろみは、きみとはまた別だよ。ほら、あすこへやってくる、ああいった老人だがね」と彼は、そのとき柔らかい長ぐつをはいた足をむずかしい足どりで踏みかわしながら、彼らのほうへ歩いて来た、くちびるのだらりとたれた、ねこ背のクラブ員をさしながらいった。「きみはあれを見て、彼らは生まれながらにして、あんなシリュピークだと考えるだろう」
「どうしてシリュピークなんです?」
「ああきみは、この名称を知らんとみえるな。これはこのクラブの術語なんだよ。きみは卵ころがしを知ってるだろう。ところで、あれをあんまり長くころがしていると、シリュピークになってしまう。わしらの仲間もそのとおりだ。クラブにばかり入りびたってると、しまいにはシリュピークになってしまうのさ。きみはそうして笑ってるが、われわれ仲間はもう、自分がいつシリュピークになるかもしれぬと思って心配してるのだよ。きみはチェチェンスキイ公爵を知ってたかな?」と公爵はたずねた。レーヴィンは、その顔つきによって、彼が何かこっけいなことをいおうとしていることを見てとった。
「いいえ、知りませんね」
「ほう、これはまたどうだ! チェチェンスキイ公爵は、ずいぶん有名な人物だのに。しかしまあ、そんなことはどうでもいい。その公爵は、年がら年じゅう球を突いてる男だと思えばいい。ところで、彼もまだ三年まえまでは、シリュピーク仲間ではなくて、なかなか威勢がよかったものだ。自分から、人のことをシリュピーク呼ばわりなんかしてね。あのとき、やってくると、わが玄関番がさ……きみも知ってるだろう。ワシーリイを! そら、あのふとった男さ。そいつがなかなかの諧謔家《かいぎゃくか》でね。ところでだ、チェチェンスキイ公爵が、この男にこうきいたものなんだ――『どうだね、ワシーリイ、だれとだれが来ているね。シリュピーク連は来ているかい』ってね。すると彼が彼にいわくさ――『あなたさまでお三人めで』ほんとうに、きみ、こういったんだよ」
そちこちで出くわす知人たちと、あいさつをしたり、話をしたりしながら、レーヴィンと公爵とは、クラブじゅうの部屋を見てまわった。――もういくつものテーブルが用意されて、カルタ仲間の常連が小さい勝負をたたかわせている大広間を。いろんな人々が将棋《しょうぎ》をやり、セルゲイ・イワーノヴィッチがだれかと話しながら掛けていた長いす部屋を。部屋のへこみに置かれた長いすのそばで、そのなかにガーギンをもまじえた陽気なシャンペン仲間が組織されていた球突き場を、それから彼らは、地獄をものぞいて見た。そこには、早くもヤーシュヴィンが構えこんでいた一脚のテーブルのまわりに、大ぜいの連中がむらがっていた。ふたりはまた、音を立てないようにつとめながら、うす暗い読書室にもはいってみた。そこには、笠《かさ》をかけたランプの下に、手あたりしだいにあっちこっちの雑誌をあさっている、怒ったような顔をしたひとりの若者と、読書にふけっているはげ頭の将軍とが腰掛けていた。ふたりはまた、公爵のいわゆる知識の室へもはいって見た。その部屋では、三人の紳士が、最近の政治問題について熱心に論じあっていた。
「公爵、どうぞ、支度ができましたから」と、カルタ仲間のひとりが、そこで彼を見つけていったので、公爵は行ってしまった。レーヴィンは腰をおろして、しばらく耳をかたむけていたが、ふと、今朝の会話の一部始終を思いだすと、急に、恐ろしくたいくつになってきた。で、急いで立ちあがると、さきほどいっしょにいて愉快だったオブロンスキイとトゥローヴツィンとをさがしに出かけた。
トゥローヴツィンは、球突き室の背の高い長いすに、飲み物の柄つきコップを手にしてすわっていたし、ステパン・アルカジエヴィッチは、その部屋の遠いすみのドアのところで、ウロンスキイと何やら話していた。
「あれはべつにふさいでいるというわけではないが、なにしろ不徹底な、あいまいな状態がね」レーヴィンはこういう言葉を耳にしたので、急いで立ちさろうとしたが、ステパン・アルカジエヴィッチが呼びとめた。
「レーヴィン」とステパン・アルカジエヴィッチはいった。と、レーヴィンは彼の目に、涙ではないが、あるうるみのあるのに気がついた。これは彼が、飲んだときか、あるいは深く感動したときかに、いつも見られる現象であった。そして今は、そのいずれでもあったのである。「レーヴィン、行っちゃいかんよ」彼はこういって、明らかに、どんなことがあっても放したくないという様子で、彼の腕を肘のところでしっかり握った。
「これはぼくの真実な、これ以上はないといってもいいくらいの親友だ」と、彼はウロンスキイにいった。「ところできみも、ぼくにとってはいっそう近しい、いっそう貴重な人なのだ。そこでぼくは、きみたちふたりに仲よく親しい人になってもらわねばならぬと思うし、また、そうしてくれることを知ってもいるのだ、なぜなら、きみたちはふたりともいい人ばかりなんだから」
「そうとも、われわれはもう、ただ接吻さえかわせばいいんだよ」と底意のない冗談口調で、ウロンスキイは手をさしだしながらいった。
彼は、さしのべられた手をすばやくとって、それをかたく握りしめた。
「ぼくはじつに、じつにうれしいです」とレーヴィンも、彼の手を握りしめたままでいった。
「ボーイ、シャンペンを一本」とステパン・アルカジエヴィッチがいった。
「ぼくも非常にうれしい」とウロンスキイはいった。
ところが、ステパン・アルカジエヴィッチの希望と、彼ら双方の希望とにもかかわらず、彼らには話すべきことがなかった。そして、ふたりともそれを感じていた。
「きみ知っているかい? この男はまだアンナと知り合ってないんだよ」と、ステパン・アルカジエヴィッチはウロンスキイにいった。「で、ぼくはぜひこの男を、あれのところへ連れて行きたいと思っているんだ。行こうじゃないか、レーヴィン!」
「ほんとかね?」とウロンスキイはいった。「あれがどんなに喜ぶだろう。ぼくもすぐうちへ帰るといいんだが」と彼は言いたした。「どうもヤーシュヴィンのことが気にかかるんでね。彼がすますまでここにいてやりたいんだよ」
「するとなにかい、よくないのかい?」
「しょっちゅう負けてばかりいるのさ。そして、あの男をおさえつけることのできるのは、ぼくひとりなんだからね」
「ところで、一番ピラミートカはどうだい? レーヴィン、きみもやるだろう? よし、すてきすてき」とステパン・アルカジエヴィッチはいった。「ピラミートカの用意をしてくれ」こう彼は、ゲームとりのほうを向いていった。
「とっくに用意してございます」と、もう球を三角形に配置し、暇つぶしに赤い球をころがしていたゲームとりは答えた。
「よし、じゃ行こう」
ひと勝負すんだところで、ウロンスキイとレーヴィンとは、ガーギンのテーブルのそばに腰をおろした。レーヴィンは、ステパン・アルカジエヴィッチのすすめによって、ポイント遊びに加わった。ウロンスキイはたえずやってくる知人たちにとりかこまれて、テーブルのそばに掛けていたり、地獄の底へヤーシュヴィンの様子を見に行ったりした。レーヴィンは、朝の精神的疲労からの快いいこいをおぼえていた。ウロンスキイにたいする敵意の消えさったことが彼を喜ばせ、そして平安と、礼儀と、満足の印象はひきつづき彼を見すてなかった。
勝負がおわると、ステパン・アルカジエヴィッチは、レーヴィンの腕をかかえた。
「さあ、それじゃひとつ、アンナのところへ出かけよう。今すぐさ? いいね? あれはうちにいるよ。ぼくはもうとっくから、きみを連れていくように、あれと約束していたんだよ。きみは今晩はどこへ行くつもりだったのだい?」
「べつに行くところもないんだ。もっとも農政協会へいくことに、スヴィヤーズスキイと約束はしてあるんだがね。まあいいや。行くことにしよう」とレーヴィンはいった。
「大いによろしい。行こう! おい、ぼくの馬車が来ているかどうか見てきてくれ」とステパン・アルカジエヴィッチは、ボーイのほうを向いていった。
レーヴィンはテーブルのほうへ歩みよって、ポイントで負けた四十ルーブリを払い、それから、戸口のところに立っていた老人のボーイだけにわかっているクラブ費をある秘密な方法で払うと、特別に両手を振りながら、ありたけの広間をぬけて、出口のほうへと出て行った。
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「オブロンスキイのお馬車!」と玄関番が、怒ったようなバスで叫んだ。馬車がくると、ふたりは乗った。馬車がクラブの門から乗りだすまでの、ほんの最初の数分間だけ、レーヴィンは、クラブの平安と、満足と、周囲の人たちが疑いもない優雅さの印象を感じつづけたが、馬車が街路へ出て、でこぼこの道路をゆくその動揺を感じると同時に、すれちがうつじ馬車の御者の腹だたしげな叫び声を耳にし、ぼんやりとしたあかりに照らしだされた酒場や小店の赤い看板を目にすると同時に、その印象はたちまちくずれてしまって、自分の行動について反省しはじめ、自分がアンナのところへ行くことがいいことかどうかを自問しはじめた。キティーはなんというであろう? けれども、ステパン・アルカジエヴィッチは、彼に考えこむ余裕をあたえず、あたかも彼の疑惑を察したかのように、それをまぎらしにかかった。
「ああ、ぼくはじつにうれしい」と、彼はいった。「きみがあれを知るようになってくれるのがね。きみも知っていたろうが、ドリーなどはもうとっくからそれを希望していたんだからね。リヴォフもあれのところへ行ったことがあるし、今でもときどき行く。あれはぼくにとっては妹ではあるが」とステパン・アルカジエヴィッチはつづけた。「ぼくはあれがすばらしい女であることをあえて言いうるんだよ。いまにきみにもわかるがね。ところで、あれの境遇は非常に苦しいんだ。とくに今が」
「とくに今というのはなぜだね?」
「じつはね、今われわれは、離婚問題であれの夫と交渉中なんだよ。そして彼も同意しているんだが、ところが、ここにひとつ子供というやっかいな問題があって、そのために、もうとっくに解決していなければならないこの事件が、もう三《み》月もだらだらとつづいているわけなのさ。離婚さえできれば、あれはすぐにウロンスキイと結婚するんだ。じっさい、この、イザヤ喜べ(教会結婚のこと)の古い習慣くらい、ばかばかしいものはないね。だれひとり信ずるものはなくて、ただ人間の幸福をじゃまするばかりが能《のう》だなんて」と、ステパン・アルカジエヴィッチは言葉をはさんだ。「まあ、そうなれば彼らの境遇も、ぼくやきみのようにはっきりするんだがね」
「やっかいって、いったい何がやっかいなんだね?」と、レーヴィンはいった。
「ああ、それはじつに長たらしい、たいくつな話なのさ! わが国じゃ何もかもが、じつにはっきりしていないんだからね。しかし、要するに問題は、あれが、だれひとり彼と彼女を知らない者のないこのモスクワで、離婚の成立だけを待ちながら、もう三月も暮らしてきたという点にあるのさ。どこへも出ないで、女といったら、ドリー以外にはだれひとり見もしないでさ。なぜといって、いいかね、あれはお慈悲で訪ねてもらうことなんか、まっぴらごめんというほうだからさ。そこへもってきて、あのばかな女のワルワーラ公爵令嬢ね、あれまでが不ていさいだなんて考えて、行っちまったというしまつなんだもの。そんなわけだから、もしこれがほかの女だったら、どうすることもできやしなかったにちがいない。ところがあれは、きみにもいまにわかるが、りっぱに自分の生活を整えて、おちつきはらって、十分品位をたもっているんだからね。左へ、教会の前の小道へはいるんだ!」とステパン・アルカジエヴィッチは、馬車の窓へかがみこみながら叫んだ。「ふう! なんて暑さだろう」彼はこういって、氷点下十二度という厳寒にもかかわらず、もうだいぶあけてあった毛皮外套の胸をいっそうはだけた。
「だが、あのひとには女のお子さんがあるじゃないか、その世話だけでもけっこう忙しそうに思われるがね!」とレーヴィンはいった。
「きみはどうも女というものを、すべてただ雌として、une couveuse(巣ごもりの雌鶏)としてばかり考えているようだね」とステパン・アルカジエヴィッチはいった。「女が忙しいといえば、そりゃむろん子供のためにちがいないさ。またじじつ、あれも子供はりっぱに育てているようだが、しかしそのことは、あまり知られていないんだ。あれは第一に、著述の仕事に追われているんだ。あ、どうやらきみは皮肉にわらってるらしいが、しかし、それはいかんよ。あれは子供の本を書いているんだ。だれにもこのことは話さないが、しかし、ぼくには、読んで聞かせたよ。で、ぼくはその原稿をヴォルクーエフに渡してやった……知っているだろう、あの出版屋……もっとも、彼自身も作家らしいがね。で、先生、わかるとみえて、これはりっぱなものだなんていっていた。ところが、こういうと、きみはあれを女流作家だと思うかもしれんね? どうしてどうして。あれは何よりもまず女だよ、ハートをもった女だよ、会えばわかるがね。いまあれのところには、イギリス人の小娘とその家族が養ってあるのでね、これでなかなか忙しいんだよ」
「するとなにかね、それは、慈善的な仕事なんだね?」
「どうもきみは、何事をもすぐわるくばかり見ようとするようだね。慈善的じゃない、誠心の仕事だよ。彼らの家、つまりウロンスキイの家にだね、イギリス人の調馬師がひとりいたんだが、それが腕まえはたしかだったが、飲み助だった。すっかり飲んでしまったあげく、delirium tremens(酒客譫妄症《しゅきゃくせんもうしょう》)になって、家族も何もかもほうりだしてしまった。あれはそれを見て、助力の手をさしのべたんだが、そのうち、だんだんに引きこまれて、今では家族全部があれの手へころがりこんでしまっているのだ。といっても、あれのことだから、頭から金だけで|らち《ヽヽ》をあけるというようなやりかたではない。男の子には、自分で中学校へはいる準備のロシア語を教えてやるし、女の子は手もとにひきとって育てているというありさまなのだ、まあ、きみもいまにあれに会えばわかる」
馬車が邸内へ乗りこむと、ステパン・アルカジエヴィッチは、一台の橇《そり》の立っていた車寄せで、音高くベルを鳴らした。
そして、ドアをあけた一時雇いの従僕に主人の在否もきかないで、ステパン・アルカジエヴィッチは玄関へはいった。レーヴィンは、自分のしていることがいいことかわるいことかという疑惑に、ますます強くとらわれながら、彼のあとからついていった。
鏡を見たときに、彼は自分が赤い顔をしていることをみとめたが、酔ってはいないという確信があったので、ステパン・アルカジエヴィッチについて、絨毯《じゅうたん》を敷いた階段を、階上へとあがって行った。あがってしまうと、ステパン・アルカジエヴィッチは、内輪の人にたいするようなおじぎをした召使に、アンナ・アルカジエヴナのところにはだれがいるかときいて、ヴォルクーエフ氏だという答えをえた。
「どこにいるんだね?」
「お書斎でございます」
暗い色の板壁のあまり大きくない食堂を通りぬけて、ステパン・アルカジエヴィッチとレーヴィンとは、柔らかな絨毯の上を踏みながら、大きな暗い笠《かさ》をかぶせたランプだけに照らされている、ほの暗い書斎へはいっていった。もうひとつの反射器のついたランプは、壁ぎわにかかっていて、女の全身の、大きな肖像画を照らしていて、レーヴィンは知らず知らずそのほうへ注意をひかれた。それは、イタリアでミハイロフに描かれたアンナの肖像画であった。ステパン・アルカジエヴィッチが植物のつるをはわせた格子垣の向こうへはいって行き、男の話し声がはたとやむまでのあいだ、レーヴィンは、明るい光を受けて額縁から浮きだすばかりに見えている肖像画にじっと見とれて、それから離れることができなかった。彼は、自分がいまどこにいるかも忘れてしまい、人の話し声さえ耳にはいらないで、この驚くべき肖像から目をはなさなかった。それは画ではなかった、生きている美しい婦人であった、黒いちぢれ毛の頭髪と、あらわにした肩と腕とを見せ、そして、柔らかいにこ毛におおわれた口もとに、もの思わしげな、かすかな笑いの影をとどめて、人の心をかき乱すようなまなざしで、優しく勝ち誇ったように彼を見つめている、美しい生きた女であった。ただ、彼女が生きていなかったとすれば、それは生きているどんな女にもまさって美しかったからにほかならない。
「まあ、うれしゅうございますこと」彼は、ふいに自分のそばで、明らかに自分に向かっていわれたらしい、こういう声を耳にした。――彼が、肖像画の上で見とれていた、その女の声である。アンナは彼を迎えにつる垣のかげから出てきたので、レーヴィンは、書斎のほの明りのなかで、いろいろに変わる暗緑色の服を着た、肖像画の当の女をまのあたり見た。もとよりそれは、肖像と同じ姿勢、同じ表情を見せてはいなかったけれども、美術家がその肖像の上にとらえたと同じ美の高さに変わりはなかった。現実の彼女は、輝きこそ少なかったが、そのかわり、生きているということのうちに、肖像の上では見られなかった、一種の新しい魅力をそなえていた。
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彼女は、彼に会う喜びをかくそうともしないで、彼を迎えに立った。そして、その小さい力にみちた手を彼にさしだしたと同じおちついた態度で、彼とヴォルクーエフとを紹介し、そこに腰掛けて仕事をしていた赤毛の美しい少女を、自分の育て子だといってさし示したが、その態度には、レーヴィンにとって親しみぶかく快かった、つねに静かで自然な上流婦人の態度が見えるのだった。
「ほんとうに、ほんとうにうれしゅうございますこと」と、彼女はくりかえしたが、彼女の口にのぼると、こうした単純な言葉までが、レーヴィンにとっては、なぜか特別な意味をもってひびくのだった。「わたくしはとうからあなたをぞんじあげていて、おなつかしくぞんじておりましたのよ。だって、スティーワとのご友情からしても、また、あなたの奥さまにたいしても……わたくし、奥さまには、ほんのちょっときりお目にかかったことはございませんけれど、そのときの花のような、美しい花のような印象は、今でもはっきり覚えておりますの。それがもうまもなくお母さまにおなりあそばすんでございますってね?」
彼女はときどきその視線を、レーヴィンから兄のほうへうつしながら、自由な、ゆったりとした態度で話したので、レーヴィンも、自分のあたえた印象が好もしいものであったことを感じて、じき彼女といっしょにいることを、まるで子供時分からの知り合いででもあるように、気やすく、単純に、快く感じはじめた。
「わたくしがこうして、イワン・ペトローヴィッチとアレクセイの書斎にはいりこみましたのはね」と彼女は、たばこを吸っていいかというステパン・アルカジエヴィッチの問いにたいして答えた。「いわば、たばこを吸いたいからなんですわ」こういって、レーヴィンのほうを見ると、彼がたばこを吸うかどうかをたずねるかわりに、べっこう製のシガレットケースを自分のほうへ引きよせて、細巻を一本とり出した。
「今日はからだのぐあいはどうだね?」と、兄は彼女にたずねた。
「なんでもありませんわ、神経はいつものとおりだけど」
「どうだい、すばらしくいいじゃないか?」とステパン・アルカジエヴィッチは、レーヴィンが肖像画を見ているのをみとめていった。
「ぼくは、こんなによくできた肖像画を見たことがない」
「それに非常によく似ている。そうじゃありませんか?」と、ヴォルクーエフがいった。
レーヴィンは、肖像から実物のほうへ目をうつした。アンナがその視線をわが身の上に感じると同時に、一種特別な光輝がその顔をぱっと輝かせた。レーヴィンはあかくなった。そして自分の混乱をかくすために、彼女がダーリヤ・アレクサーンドロヴナに会ったのは、よほど前のことかどうかをたずねようとした。が、ちょうどそのときに、アンナがこう言いだした――
「わたくしいま、イワン・ペトローヴィッチとワシチェンコフの最近の作品について、お話していたところでしたの。あなたごらんになりまして?」
「ええ、見ました」とレーヴィンは答えた。
「失礼いたしました。何かおっしゃろうとしたのをおじゃましてしまって……」
レーヴィンは、彼女がドリーに会ったのは、よっぽど前のことかどうかをたずねた。
「あのひと昨日まいりましたのよ。そしてグリーシャのことで、学校にたいしてたいへん腹をたてていましたわ。ラテン語の教師があの子にたいして、不公平なことでもしたらしいんですの」
「なるほど、それで、わたしもその画は見ましたがね。大して気にいったとは思いませんでしたよ」とレーヴィンは、彼女の言いだした話へもどって、いった。
レーヴィンの話しぶりは、今ではもう、朝のうちの会話に見せたような事務的な調子ではぜんぜんなかった。彼女との会話では、いちいちの言葉が特別の意味をもってくるのだった。そして、彼女と話すことは快く、彼女の話をきくのは、さらに快かった。
アンナの話しぶりは、単に自然で気がきいていたばかりでなく、気がきいているうえに、むぞうさで、自分の思想にはなんらの価値をおかず、相手の思想にはきわめて大きな価値をおくというふうであった。
会話は芸術上の新しい傾向のこと、フランスの画家によって描かれた、聖書の新しい挿絵のことにおよんだ。ヴォルクーエフは、粗野といえるほど行き過ぎた写実主義の点で、その画家を攻撃した。レーヴィンは、フランス人はだれよりも芸術上の制約を重んじすぎたので、その結果、写実主義への復帰に特別の功績をみとめているのだといった。このうえ、うそはつかないということのうちに、彼らは詩を見ているのだといった。
レーヴィンのこれまで口にしたどんな気のきいた言葉も、かつてこれほどの満足を彼自身にあたえたものはなかった。アンナの顔は、彼女がとつぜんこの思想の価値に思いあたると同時に、にわかにさっと輝きわたった。彼女は笑いだした。
「わたくし、つい笑ってしまいましたの」と、彼女はいった。「ちょうど、人があまりよく似た肖像画を見ると、つい笑わずにはいられないと同じように」と、彼女はいった。「あなたがおっしゃったことは、今のフランス芸術の特質を完全に性格づけていますわ。画ばかりでなく、ゾラやドーデの文学までも。けれど、思いつきの類型的な人物から自分の conceptions(概念)をこしらえあげて、やがてすべての combinations(結合)ができあがる、と、こんどはそうした思いつきの人物がいやになって、もっと自然な、ほんとうの人物を考えだしはじめるということは、いつの世にもありがちのことでしょうけれどもね」
「いや、それはまったくそうですな!」とヴォルクーエフはいった。
「じゃ、あなたがたはクラブへ行ってらしたんですね?」と彼女は、兄のほうを向いていった。
『そうだ、そうだ、これこそ女だ!』と、レーヴィンはわれを忘れて、そのとき急にがらりと変わった彼女の美しい、変わりやすい顔に、じっと見いりながら考えた。彼女が兄のほうへ身をかがめて何をいっているのかは聞こえなかったけれども、レーヴィンはその表情の変化に驚かされた。つい今しがたまで、その平静さがあれほど美しかった彼女の顔が、ふいに、異様な好奇心と、憤怒《ふんぬ》と、傲慢《ごうまん》とをあらわしていたからである。しかし、それはほんの一瞬間つづいただけであった。彼女は、あたかも何事かを思いだしてでもいるように、目を細めた。
「でもまあ、こんな話、だれにもおもしろかありませんわね」彼女はこういうと、イギリス少女のほうへ顔をむけた。「Please order the tea in the drawing-room(どうぞね、客間のほうへお茶の用意をするように言いつけてちょうだいな)」
少女は立って、出ていった。
「どうだね、あの子は試験に通ったかね?」
「りっぱに通りましたわ。あれはたいへんできのいい、気だてのかわいらしい子ですのよ」
「そんなことをいっていて、おまえはけっきょく、自分の子より、あの子をかわいがるようなことになるんじゃないかね」
「男のかたって、みんなそんなことをおっしゃるのね。愛情に多いの少ないのということがあるものですか。赤ちゃんを愛するのはひとつの愛だし、あの娘のほうは別の愛ですもの」
「それについて、わたしがアンナ・アルカジエヴナに申しあげたいのはですね」と、ヴォルクーエフが言いだした。「もしです、あなたがあのイギリス少女のためにそそいでいらっしゃる精力の百分の一でも、一般のロシアの児童教育にそそがれたら、それこそはるかに大きな、有益な事業をなさることになるだろう――こういうことですよ」
「ええ、そうおっしゃっていただくのはなんですけれど、わたくしにはできませんの。アレクセイ・キリールロヴィッチ伯爵も、たいへんわたくしを励ましてくれますんですのよ(彼女は|アレクセイ・キリールロヴィッチ《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》伯爵という言葉を発音しながら、さぐるような、おどおどした目でレーヴィンを見た。で、彼もついいんぎんな肯定的のまなざしでそれに答えた)。田舎で学校でも経営したらいいだろうって。で、わたくしも何度か足をはこんでみましたの。そして、子供たちもたいそうかわいらしいんですけれど、わたくしはどうもそういう仕事に愛着をもつことができませんでしたの。あなたは精力っておっしゃいましたわね。けれど、精力は愛が土台になっています。そしてその愛は、どこからも取ってくるわけにはいかないし、命令することもできません。げんにわたくしがあの娘を愛しているのだって、なぜだか、自分でもわからないんですもの」
そして彼女は、またしてもレーヴィンのほうをちらと見やった。彼女の微笑もまなざしも――ありとあらゆるものが彼に、彼女は彼の意見を尊重し、同時に彼らが互いに理解しあっていることをあらかじめ承知のうえで、ただ彼ひとりに向かって話をしているのであることを語っていた。
「ぼくにもその気持はよくわかります」とレーヴィンは答えた。「学校にしろ、なんにしろ、そういったような施設にたいして心を集中するということは、ちょっとできにくいものです。あの慈善事業というやつが、あんまりいい結果をもたらさないのも、つまりこのためだろうと思いますな」
彼女はしばらく黙っていたが、やがてにっこりとほほえんだ。
「そうですわ。そうですわ」と彼女はそれに相づちをうった。「わたくしにはどうしてもできませんでしたの。je n'ai pas le coeur assez large.(それだけの大きな心がわたくしにはございませんのよ)いとわしい女の子の大ぜいいる養育院全体を愛するなんて。cela ne m'a jamais reussi.(わたくしはそういうことには一度でも成功したことはありませんの)世のなかには、こういうことから自分の position sociale(社会的地位)を築いたご婦人がたがかなりたくさんありますけどね。ことに今はこの気持がつのっています」と彼女は、悲しげなよりかかるような表情で、表面は兄のほうへ顔をむけながら、しかし、明らかにレーヴィンのほうへ向かっていった。「ですからいま、どうでも何か仕事をもつ必要のあるときになっても、わたくしにはとてもできませんのよ」こういって、急に眉をひそめると(レーヴィンは、彼女が眉をひそめたのは、自分のことばかりいっている自分自身にたいしてであることを理解した)、彼女は話題をかえた。「わたくし、あなたのこともよくぞんじあげておりますわ」と彼女は、レーヴィンにいった。「あなたがよくない公民でいらっしゃることも。でもわたくし、一生けんめいにあなたを弁護いたしましたのよ」
「どういうふうに弁護してくだすったのでしょう?」
「それは、そのときの攻撃に応じましてね。それはそうと、お茶はいかがでございます?」と彼女は立ちあがって、モロッコ革で装幀《そうてい》された一冊の本を手に取った。
「それをわたしにくださいませんか。アンナ・アルカジエヴナ」とヴォルクーエフは、その書物をさしながら、いった。「それはぜひ一読の価値があります」
「まあ、いいえ、これはまだできあがっておりませんのよ」
「ぼくはこの男にも話したんだよ」とステパン・アルカジエヴィッチは、レーヴィンをさしながら妹にいった。
「まあ、つまらないことをなすったのね。わたくしの書くものなんて――それはリーザ・メルカーロワがたびたびわたしに売りつける監獄製品の手かごや彫刻と同じようなものですわ。そのかたはね、あの協会で監獄係の仕事をしている人なんですの」と彼女はレーヴィンのほうをむいて説明した。「そして、そうした品々は不幸な人たちの生んだ忍耐の奇跡のようなものですわ」
そこで、レーヴィンはまた、このなみなみならず気にいった女のなかに、さらに新しい特性を見いだした。知恵と、優雅と、美とのほかに、なお彼女には深い真実性があった。彼女は、自分の境遇の苦しさを彼にかくそうとはしなかった。それをいってしまうと、彼女はほっとため息をついた、すると、その顔は急にきびしい表情をとって、まるで化石でもしたようになった。顔にそうした表情をもった彼女は、前よりもいっそう美しかった。しかし、この表情は新しいものであった。それは、あの画家によって肖像画の上にとらえられた、幸福に輝いたり、幸福を生んだりする表情の範囲にはないものであった。彼女が兄の手をとり、彼とつれだって高い戸口のほうへ出ていくときに、レーヴィンは、もう一度肖像画と彼女の姿とをながめやった。そして彼女にたいして、われながら驚くような、いとしさとあわれみの情をおぼえた。
彼女は、レーヴィンとヴォルクーエフとに客間へ通ってくれるように招じておいて、自身は何か兄と話すため、そこに立ちどまった。『離婚のことか、ウロンスキイのことか、ウロンスキイがクラブで何をしているかということか、それともおれのことだろうか』とレーヴィンは考えた。すると、彼女がステパン・アルカジエヴィッチと何を話すだろうという疑問が、あまりに激しく彼の心を波だたせたので、彼は、ヴォルクーエフがアンナ・アルカジエヴナの書いた子供のための読み物の価値について話すのも、ほとんど耳にはいらないくらいであった。
お茶のあいだも同様に、愉快な、内容の充実した会話がつづけられた。話題をさがさなければならぬようなことは、ただの一分間もなかったどころか、反対に、言いたいこともいうまがなくて、人の話に耳をかたむけながら、それをおさえているのも快いような気がするくらいであった。そして、ひとり彼女ばかりでなく、ヴォルクーエフやステパン・アルカジエヴィッチまでが、どんなことをいおうとも、それがすべてレーヴィンには、彼女の注意と批評のおかげで、特別の意味をもってくるように思われた。
興味ふかい会話に耳をかたむけながらも、レーヴィンは終始彼女に、――その美しさと、知恵と、教養と、同時にその単純さと、誠実さとに見とれていた。彼は聞いたり語ったりしながらも、同時にたえず彼女の感情を読みとろうとつとめながら、彼女について、彼女の内生活について、考えていた。そして、以前にはあれほどきびしく彼女を非難していた彼が、今は一種ふしぎな思想の進みによって、彼女を弁護し、ウロンスキイが彼女を十分理解していないのではないかと、そんなことまで憂えおそれているようになっていた。十時過ぎになって、ステパン・アルカジエヴィッチが帰ろうとして立ちあがったときにも(ヴォルクーエフはその前に帰っていた)、レーヴィンはまだ、たったいま来たばかりのような気がした。彼は、のこりおしい気持をいだきながら、同じく立ちあがった。
「さようなら」と彼女は、彼の手をしっかり握って、ひきつけるような目つきで、じっと彼の目を見ながらいった。「わたくしほんとうにうれしゅうございますの。que la glace est rompue.(氷がとけて)」
彼女は彼の手をはなして、目を細めた。「どうぞ奥さまにお伝えくださいまし、わたくしは昔のとおりあのかたを愛しておりますって。そして、もしあのかたがわたくしの境遇をお許しくださることができないようでしたら、永久に許してくださらないようにわたくしは希望しておりますって。これを許すためには、わたくしの経験したようなことを経験しなくてはならないのですものね。あのかたに、どうしてそんなことがおさせ申せましょう」
「承知いたしました。たしかに申し伝えます……」と、レーヴィンはあかくなりながらいった。
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十一
『なんというすばらしい、かわいらしい、そして気の毒な女《ひと》だろう』と彼は、ステパン・アルカジエヴィッチとともに、冷えこごえた外気のなかへ出ながら考えた。
「さあ、どうだい? ぼくがいったとおりだろう」と、レーヴィンのすっかりまいっているのを見て、ステパン・アルカジエヴィッチはいった。
「ああ」と、レーヴィンはもの思わしげな調子で答えた。「まったく非凡な女性だね! 聡明というのでもないが、驚くべき真実みのあふれた女《ひと》だ。ぼくは気の毒な気がしてならない!」
「なあに、こんどは神さまがじきうまくやってくれるよ。だからさ、これからはあんまり人を非難しないもんだというのだ」とステパン・アルカジエヴィッチは、馬車のドアをあけながらいった。「じゃ失敬、われわれは道が違うから」
アンナのことや、彼女ととり交わしたすべての会話の、きわめて単純な、なんでもないことまでたえず考えつづけながら、また、そのときの彼女の顔の表情の細かな点まですべて思いかえしながら、ますます深く彼女の境遇に心ひかれ、彼女に憐憫を感じながら、レーヴィンはわが家へ帰った。
―――
家ではクジマが、カテリーナ・アレクサーンドロヴナの無事なこと、姉たちは彼女のもとから、つい今しがた帰って行ったばかりであることを告げて、二通の手紙をレーヴィンに渡した。レーヴィンは、忘れないうちにと思って、すぐその場で、玄関に立ったままそれを読んだ。一通は管理人のソコロフからであった。ソコロフは、小麦を売るわけにはいかないこと、それはたった五ルーブリ半にしかならないこと、が、ほかには金のはいるあてのないことなどを書いていた。他の一通は姉からであった。姉は、彼女の事件がいまだに片づかないことを責めているのだった。
『よし、五ルーブリ半で売ってやろう。それ以上出さないというなら』と、以前にはずいぶん、やっかいなものに思われていた第一の問題を、レーヴィンはただちに、つねになくあっさりと解決してしまった。『ここへ来てから、のべつ忙しいなんておかしな話だ』と彼は、第二の手紙について考えた。彼は、姉に頼まれた事件がまだ片づいていないことを、すまなく思った。『今日もまた裁判所へ行かなかったが、今日はまったく時間がなかったんだから』そして、明日はどうでもそれを片づけなければならぬと決心して、彼は妻のところへ行った。妻のところへ行きながら、レーヴィンは大急ぎで、今日一日のことを記憶のなかでひるがえしてみた。この日の出来事は、すべて会話であった――聞いた会話、仲間入りした会話であった。その会話はすべて、もしひとりで田舎にいるんだったら、けっして見むきもしないような題目にかんするものであったが、しかし、ここではそれが非常におもしろかった。そして、それらの会話は、すべてみないいものばかりであった。ただ、そのなかの二か所だけが、ぜんぜんいいとはいえなかった。ひとつは彼が|かます《ヽヽヽ》のことをいったときで、いまひとつは、アンナにたいして彼が経験した優しい憐憫のうちに、|なんとなくよくない《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》何ものかがあったことであった。
レーヴィンは、もの悲しげな寂しそうな様子をしている妻を見いだした。姉妹三人でした晩餐は、非常に愉快にすますことができたが、そのあと彼女たちは、彼の帰りを待って待って、そのうちしだいにたいくつしはじめ、姉たちは帰っていって、彼女ひとりとり残されたのであった。
「まあ、あなたは、何をしていらしたの?」と彼女は、彼の目のなかに、なんとなくとくに疑わしい光のあるのを見ながらたずねた。しかし、彼がすべてを語るじゃまをしないために、彼女は自分の関心をかくし、励ますような微笑をうかべて、どんなぐあいにこの晩を過ごしたかという彼の話に耳をかたむけた。
「いや、ぼくは非常にうれしかったよ、ウロンスキイに会ったのがね。なにしろ、あの男といっしょにいても、こんどは非常に気がるく、なんでもない気持でいられたんだからね。おまえも知ってるとおり、ぼくは今後もけっしてあのひとには会うまいとつとめるが、あの気まずさだけはおしまいにしたいものだからね」と彼はいった。そして、「|けっして会うまいとつとめながら《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》」すぐその足でアンナのところへ行ったことを思いだして、あかくなった。「われわれは民衆の飲酒ということについて話したんだがね。しかし、民衆とわれわれの階級と、どちらがよけいに飲むかということになると、ぼくにはわからない。民衆は祭日には飲むが、しかし……」
けれどもキティーは、民衆の飲酒にかんする議論などに興味はなかった。彼女は、彼があかくなったのをみとめて、その原因を知りたいと思ったのである。
「で、それからどこへいらしたの?」
「スティーワが、アンナ・アルカジエヴナのところへ行くようにって、むやみにすすめるもんだからね」こういってしまうと、レーヴィンはますますひどくあかくなった。アンナのところへ行ったことが、よかったかわるかったという彼の疑いは、ついに明白に解決された。彼はいま、それがしてはならないことであったのをはっきりさとった。
キティーの目は、アンナの名を聞くと同時に、とくに大きく見ひらかれて、きらきらと輝いた。しかし彼女は、精いっぱい自分をおさえ、興奮をかくして、彼を欺いた。
「まあ!」彼女はこういっただけであった。
「ぼくが行ったことを、おまえ、まさか怒りはしないだろうね。スティーワは頼むし、ドリーもそれを望んでいたんだからね」とレーヴィンはつづけた。
「ええええ、ちっとも」と彼女はいったが、しかし彼は、彼女の目に、少しもいいことを期待させない自制《じせい》の色のあるのを見てとった。
「あれは非常にかわいらしい、非常に気の毒な、いいひとだよ」と彼は、アンナのこと、彼女の仕事のこと、彼女のことづけのことなどについて語りながら、いった。
「ええ、そりゃもちろん、あのかたは非常にお気の毒なかたですわ」と、彼が話しおわったときに、キティーはいった。「お手紙はどなたからまいりましたの?」
彼は、彼女にそれを告げ、彼女のおちついた調子に安心して、着がえをしに出て行った。
彼がもどってきたとき、キティーは同じ肘掛けいすに掛けていた。彼がそばへ行くと、彼女は彼を見て、急に泣きだした。
「どうしたの? どうしたの?」と彼は、もうまえもって、|どうしたの《ヽヽヽヽヽ》かを承知のうえでたずねた。
「あなたは、あのいやらしい女を思いこんでおしまいになったんですわ。あのひとはあなたをまどわしてしまったのですわ。わたしはあなたの目つきでわかりました。そうですわ、そうですわ! ああ、これからどうなることでしょうね? あなたはクラブでさんざんお酒を飲んで、賭ごとをして、それから出かけていらしたのでしょう……それもだれのところへ? いいえ、もうわたしたちは帰りましょう……わたしは明日帰りますわ」
長いあいだレーヴィンは、妻をなだめることができなかった。ついに彼は、気の毒と思う心が酒の力といっしょになって、彼の心をかき乱したので、ついアンナの巧みな影響力に支配されてしまったこと、しかし、今後はきっと彼女を避けるようにすることなどを告白して、やっと彼女をなだめた。そのうち、彼が衷心《ちゅうしん》を告白したことは、いつもいつも同じような会話と、たべることと飲むこととのほか何もないモスクワなどに、こんなに長く暮らしていたので、頭がばかになったのだということであった。彼らは夜中の三時まで話しつづけた。そして三時になってやっと、眠りにつくことができるまでに、和解を遂げたのであった。
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十二
客を送りだしてしまうと、アンナは腰をおろさないで、部屋のなかをあちこちと歩きはじめた。彼女は、無意識にではあったけれども(近ごろの彼女が、どんな若い男にでもそうしたと同じように)、レーヴィンの心に自分にたいする愛の感情を目ざめさせるため、一晩じゅうできるかぎりのことをしたのでありながら、そして、妻あり良心ある男にたいし、しかもただのひと晩で、可能なかぎり十分その目的を達したことを知りながら、また彼を非常に好もしく思いながら(ウロンスキイとレーヴィンとのあいだには、男としての見地から見ればいちじるしい相違があるにもかからず、彼女は、女として、ふたりのなかに非常に共通したものを見いだしたのであった。キティーがウロンスキイとレーヴィンのふたりを同時に恋したのも、そのせいであったのである)、彼が部屋から出てしまうやいなや、彼について考えることをやめてしまった。
ひとつの、ただひとつの想念が、さまざまの形をとって、執拗《しつよう》に彼女を追求した。『わたしは他人には、あの家族をもち、愛するものをもっている男にさえ、あれだけの影響をあたえることができるのに、なぜ、「|あのひと《ヽヽヽヽ》」は、わたしにたいしてこんなに冷やかなのだろう?……いいえ、冷やかというのではない。あのひとはわたしを愛している、それはわたしも知っている。それでいて、なにやら新しいものが、今ではわたしたちふたりをおし隔てようとしているのだ。なんだってあのひとは、ひと晩じゅう家にいないんだろう? あのひとはスティーワにことづけて、ヤーシュヴィンをおいて行くことができない、彼の勝負を見ていてやらなければならないといってよこした。ヤーシュヴィンがそんな子供だろうか? だけどそれはまあそうとしよう。あのひとはけっしてうそをつかない人だから。でも、このほんとうのなかに、なにやら違ったものがある。あのひとは、自分にはほかにもしなければならない義務があるということを、わたしに見せつける機会を喜んでいるのだわ。それはわたしにもわかっているし、それにはべつに異存はないわ。けれど、なんのために、それをわたしに証明しようとなんかするのだろう? あのひとは、わたしにたいするあのひとの愛も、あのひとの自由をさまたげるものであってはならないことを、証明しようとしているのだわ。けれど、わたしはそんな証明なんかちっとも必要じゃない。わたしに必要なのは愛情だわ。あのひとは、このモスクワでのわたしの生活の苦しさを、もっと察してくれていいはずだもの。いったいこれが生活といえるだろうか? いいえ、わたしは生活しているんじゃないわ。ただ、いつまでものびのびになっている解決を待っているだけだわ。またしても、返事はこない! スティーワは、アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチのところへ行くことはできないなんていっている。といって、わたしもこのうえ手紙を書くことなんかできやしないわ。わたしは何をすることも、何をはじめることも、何をかえることもできやしない。ただじっと自分をおさえつけて、イギリス人の家族とか、書きものとか、読書とかいうような慰みを思いつきながら、待っているだけのことだわ。けれど、こんなものはみんなまやかしだわ。モルヒネも同じものだわ。あのひとは、もっとわたしをあわれんでくれていいはずなのだわ』と彼女は、自分にたいするあわれみの涙があふれ出るのを感じながら、いうのだった。
彼女は、ウロンスキイの鳴らすけたたましいベルのひびきを聞いて、急いで涙をふいた。いや涙をふいたばかりでなく、ランプのそばに座をしめて、書物を開き、おちついたさまをよそおった。彼女は、彼が約束どおりに帰って来なかったのを不満に思っていることを、彼に見せてやらなければならなかった――しかし、それは不満だけにして、自分の悲しみ、ことに自分にたいするあわれみなどは、断じて見せてはならなかった。彼女が自分をあわれむことはいいが、彼に彼女をあわれませるようなことがあってはならなかった。彼女は、たたかいを好まなかったので、彼がそれを好むといって、いつも責めていたのだったが、それでいて、知らず知らず自分が争闘の状態に立ってしまったのだった。
「どうだね、たいくつしなかったかい?」と彼は、彼女のそばへ近づきながら、いきいきした快活な調子でいった。「じつに恐るべき情熱だね――賭博《ばくち》というやつは」
「いいえ、わたしたいくつなんかしませんでしたわ。もうとうから、たいくつしないように修業を積んできたんですもの。スティーワが来ましたし、それにレーヴィンも」
「ああ、あのひとたちはおまえを訪ねたいなんていっていたから。それでどうだね、レーヴィンは気にいったかね?」と彼は、彼女のそばへ腰をおろしながらいった。
「ええとても、あのひとたちは今しがた帰ったばかりですの。それでヤーシュヴィンはどうなさいまして?」
「一万七千ルーブリの勝ちだったよ。で、ぼくは彼を呼びだしてやった。で、やっこさんも帰るばかりになったのだが、またひっ返して、今ではさかんに負けている」
「じゃあ、今までなんのために残ってらしたの?」と彼女は、ふいに彼の顔へ目をあげて、こうきいた。その顔の表情は、冷やかで敵意ありげだった。「あなたはスティーワに、ヤーシュヴィンを連れて帰るために残るんだっておっしゃってたじゃありませんか。そのあなたが、その人をおきざりにしてきてしまって」
争いにたいする冷やかな用意の同じような表情が、彼の顔にも現われた。
「第一に、ぼくはあの男に、おまえへのことづけなどなんにも頼みはしなかった。第二に、ぼくはけっしてうそはいわない。要するに、残りたかったから残ったまでなんだから」と彼は、顔をしかめながらいった。「アンナ、おまえはなんだって、なんだって?」と彼は、沈黙の数分の後に、彼女のほうへかがみこみながらいって、そのなかへ彼女が手をおいてくれることを望みながら、片手をひろげた。
彼女は、和《やわ》らぎへのこの誘いをうれしく思った。が、一種ふしぎな、よこしまな力が、あたかも闘争の掟《おきて》が彼女に降伏を許さないかのように、その誘いに身を任せることを許さなかった。
「もちろんあなたは、残りたかったからお残りになったのですわ。あなたはなんでもご自分のしたいようにしてらっしゃるんですから。けれども、あなたはなぜ、そんなことをわたしにおっしゃるのでしょう? なんのためでしょう?」と彼女は、しだいに興奮の度を増しながらいった。「それともだれかが、あなたの権利についてかれこれいったのでしょうか? けれどあなたは、自分だけいい子になろうとしてらっしゃるのね。いくらでもいい子におなりになるがいいわ」
彼の手は閉じられ、彼は顔をそむけた。その顔には、前よりもいっそう片いじな表情が現われた。
「そりゃあなたにとっては、こんなことは片いじですむことですわ」と彼女は、じっと彼を見ているうちにふいに、彼女をいらだたせるこの顔の表情の呼び名を見つけて、こういった。「ほんとに片いじですわ。あなたにとっては、わたしにたいして勝利者になるかどうかということが問題でしょうけれど、わたしにとっては……」と、またしても彼女は、自分がかわいそうになってきたので、あやうく泣きだしそうになった。「せめてあなたが、わたしにとってそれがどういうことになるか、それを察してくだすったら! 今のようにあなたがわたしにたいして敵意を、ええ、ほんとうに敵意ですわ、敵意をもっていらっしゃることを感じるときに、それがわたしにとってどんなことを意味するか、それを察してくだすったら? そうした瞬間には、わたしがどんなに不幸に近づいているか、どんなにわたしが恐れているか、自分で自分を恐れているか、それを少しでも知ってくだすったら!」そして彼女は、すすり泣きをかくしながら、顔をそむけた。
「だが、いったい、おまえは何をいってるんだね?」と彼は、彼女の絶望の前に恐怖を感じ、ふたたび彼女のほうへ身をかがめて、彼女の手をとり、それに接吻しながらいった。「なんと思ってそんなことをいうんだね? ぼくが家庭以外に慰めを求めているとでもいうのかね? ぼくが女の社会を避けていないとでもいうのかね?」
「そんなこというまでもないじゃありませんか!」と彼女はいった。
「じゃ、いっておくれ、おまえを安心させるために、ぼくはどうしたらいいんだか? おまえを幸福にするためには、ぼくはどんなことでもするつもりだから」と、彼女の絶望に動かされて、彼はいった。「今のようなへんな悲しみからおまえを救いだすためには、ぼくはどんなことでもするからね、アンナ!」と彼はいった。
「もういいんですの、もういいんですの!」と彼女はいった。「わたし自分でもわからないんですのよ――孤独な生活のためか、神経のせいか……さあ、もうこんな話はよしましょう。それより競馬はどうでしたの? まだ話してくださいませんでしたわね」こう彼女は、やはり自分のほうにあった勝利の喜びをかくそうとつとめながら、きいた。
彼は夜食を命じてから、彼女に競馬の模様をくわしく語りはじめた。しかし彼女は、そのしだいに冷やかになってゆくまなざしや調子のなかに、彼が彼女の勝利を彼女に許していないこと、彼女が敵としてたたかってきたあの片いじが、ふたたび彼のなかに根をはってきたことなどを見てとった。彼は彼女にたいして、まるで自分のほうから折れて出たことを悔いてでもいるように、前よりいっそう冷やかになった。と、彼女のほうでも、自分に勝利をあたえた例の言葉、すなわち「わたしは恐ろしい不幸に近づき、自分で自分を恐れている」という例の言葉を思いだして、この武器の危険さと、それがもう二度とつかうべきものでないことをさとった。そして彼女は、ふたりを結びつけている愛とならんで、ふたりのあいだには、彼の心からも、また彼女自身の心からも除きさることのできない、一種闘争好きな、邪悪な精神がひそんでいることを感じたのだった。
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十三
人間のなれえない環境というものはないもので、ことに、自分の周囲がみな同じような生活をしているのを見た場合には、なおさらそうである。レーヴィンは、その日自分が過ごしたような環境のなかで安らかに眠りにつくことができようなどとは、三月まえには信じることもできなかったにちがいない。目的も何もない無意味な生活、おまけに収入以上の生活を送りながら、酒びたりになり(彼はクラブでやったことに、これ以上の名称をあたえることはできなかった)、かつて妻が恋したことのある男とでたらめな友情を結んだり、さらに、堕落《だらく》した女とよりほか呼びようのない女を訪問するなどという、いっそうのでたらめをやったあとで、さらにまたその女に心をひかれて、妻に嘆きをかけたりしたあとで――こうした状況のなかで、自分が安らかに眠ることができようなどとは。しかし彼は、疲労と、不眠の一夜と、飲んだ酒とのおかげで、ぐっすりと、安らかな眠りにつくことができたのである。
五時になって、ドアをあけるきしり音が彼の眠りをさました。彼ははね起きて、あたりを見まわした。キティーはそばの寝床にいなかった。が、仕切り壁の向こうに灯かげが動いて、彼女の足音が聞こえた。
「なんだ?……どうした?……」と彼は、なかば夢中でいった。「キティー!――どうしたんだい?」
「なんでもないの」と彼女は、ろうそくを手にして仕切り壁のかげから出てきながら、いった。「すこし気分がわるかったもんですから」こう彼女は、特別にかわいい、意味ありげなほほえみをうかべながらいった。
「なに、はじまったのかい、はじまったのかい?」とびっくりした口調で、彼はいった。「じゃあ使いをやらなけりゃ」そして彼は、あわてて服をつけはじめた。
「いいえ、いいえ」と彼女は笑顔のまま、手で彼をおさえながらいった。「きっとなんでもありませんわ。ただちょっと気分がわるかっただけ。それももう、なおりましたから」
そして彼女は、ベッドのほうへ歩みよって、ろうそくを消し、横になって、静まってしまった。彼は、彼女のまるで息を殺してでもいるような静まりようを、ことに彼女が仕切り壁のかげから出て来ながら、「なんでもないの」といったとき、あの特別な優しさと興奮の表情を、いぶかしく思わないではなかったけれども、あまり眠かったので、そのまますぐに眠ってしまった。ただ、ずっと後になってから彼は、彼女の息づかいの静かさを思いだして、女の生涯の最大事の期待のうちに身動きもしないで彼のそばに横たわっていたときに、彼女のとうといかわいい魂のなかに生じていたいっさいのことを、理解したのであった。七時になり、肩にふれた彼女の手の感触と、静かなささやきとが、彼の眠りをさました。彼女はそれまで、彼をおこすことの気の毒さと、彼と話をしたいという望みとのあいだで、ひとりたたかっていたもののようであった。
「コスチャ、びっくりしないでちょうだいね、なんでもないのですから。でも、どうやら……リザヴェータ・ペトローヴナを呼びにやらなければならないようですわ」
ろうそくがふたたびともされていた。彼女はベッドの上にすわって、近ごろそれにかかっていた編み物を手に持っていた。
「ほんとに、びっくりなさらないでね、なんでもないのですから。わたしちっともこわくなんかありませんのよ」と、彼の驚いた顔を見て彼女はいった。そして彼の手を自分の胸に、やがてくちびるに押しあてた。
彼は急いではね起きると、なんだか無我夢中で、彼女から目をはなさずに部屋着をはおり、やっぱり彼女をじっと見つめながら、そこにぼんやり立っていた。彼は出かけなければならなかったのだが、彼女のまなざしから離れさることができないのだった。いったい彼はこれまで彼女の顔を、かわいく思っていなかっただろうか。彼女の表情や目を知らなかっただろうか。しかも彼は、これまでにこんなふうの彼女を見たことは一度もなかった。彼は、現在のこうした彼女を前にして、彼女の昨夜の悲しみを思いだすと、自分というものが、いかにもいむべく恐ろしい男であるように感じられてならなかった! ナイトキャップの下からはみだしている柔らかい頭髪に縁どられたぼっと上気した彼女の顔は、喜びと決断とに輝いていた。
キティーの性格にはいったいに、不自然なところや、かた苦しいところは少なかったのであるが、レーヴィンはやはり、ふいに、すべてのおおいがとり除かれて、彼女の魂の奥底がその目のなかに輝いたいま、自分の前にあらわにされたところのものに、心うたれずにはいられなかった。そしてこの単純と赤裸々とのなかでは、彼女――彼が愛していたその彼女は、いっそうはっきりとながめられる思いであった。彼女はにこにこしながら、彼を見ていたが、ふいにその眉がぴりりとふるえると、つと頭をあげて、すばやく彼のそばへよりそいながら、彼の手をとり、全身を彼にすりよせて、燃えるような息を吹きかけた。彼女は苦痛に身をもがいて、その苦しみを彼に訴えているかのようであった。はじめ彼は、いつもの癖で、自分に罪があるような気がした。しかし、彼女の目には優しさがあり、そしてその優しさは、彼女が彼を責めていないばかりか、この苦しみのためにかえって彼を愛していることを語っていた。『このことで罪のあるのが、もし自分でないとすれば、いったい、それはだれだろう?』と彼は、その罪人を罰するために、この苦痛の責任者をさがしだそうとしながら、知らず知らずこう考えたが、その罪人は見つからなかった。彼女は苦しみ、訴えながら、この苦しみによって勝ちほこり、それを喜び、それを愛しているのであった。彼は彼女の魂のなかに、何か美しいものが完成されつつあるのを見てとったが、しかしそれがなんであるかは、理解することができなかった。それは彼の理解をこえたものであった。
「お母さまのところへは、わたし使いをやりましたの。だから、あなたは大急ぎで、リザヴェータ・ペトローヴナを迎えにいらしてくださいまし……コスチャ!……もういいんですの、なおりましたわ」
彼女は、彼のそばをはなれて、ベルを鳴らした。
「さあ、もういいからいらしてください。いまパーシャが来ますから。わたしはもうだいじょうぶ」
そしてレーヴィンは、彼女が、夜中のうちに持ってきておいた編み物をとりあげて、ふたたび編みはじめたのを見て驚いた。
レーヴィンは、自分が一方のドアから出て行こうとしたときに、ほかのドアから女中のはいって来た音を聞きつけた。彼は戸口に足をとめて、キティーが女中にこまごましたさしずをしたり、自分でも女中といっしょになって、ベッドの位置をなおしたりしはじめたけはいを聞きすました。
彼は着がえをして、つじ馬車がまだいないので、自家の橇《そり》に馬をつけさせるあいだに、ふたたび寝室へかけこんだ。彼の気持では、つまさき立ちどころか、羽根が生えて飛ぶような勢いで。寝室ではふたりの小間使が、ものものしげに何かを移しかえていた。キティーは歩きながら、手ばやくかぎ針を動かして編み物をしながら、さしずをしていた。
「ぼくはすぐに、お医者のところへ行ってくるからね。リザヴェータ・ペトローヴナのほうへはもう使いが行ったそうだ。もっとも、ぼくもよってはくるがね。ほかに、何か用はないかね? よし、ドリーのとこだね?」
彼女は彼のほうを見てはいたが、明らかに、彼のいっていることは聞いていない様子だった。
「ええ、ええ、行ってください」顔をしかめて彼のほうへ手を振りながら、彼女は早口にこういった。
彼がもう客間まで出たときに、ふいに、訴えるような、そのくせすぐに静かになったうめき声が寝室のなかからひびいてきた。彼は立ちどまったが、それがなんであるかは長いことわからなかった。
『そうだ、あれは彼女だ』彼はこうひとりごつと、頭をかかえて、階下のほうへかけおりた。
「主よ、あわれみたまえ! 許したまえ、助けたまえ!」彼はふと、思いがけなく、くちびるをついて出た言葉をこうくりかえした。彼――不信仰者である彼も、こうした言葉を、単に口さきばかりでなくくりかえしたのである。そして今、この瞬間において彼は、ただ彼のいだいているいっさいの懐疑ばかりでなく、理性によって信ずることは不可能だという自分の体験までが、神にすがろうとする彼をすこしもさまたげないことを知ったのである。すべてそうしたことは、今はちりのように彼の魂から飛び散ってしまった。彼が自分の身、自分の魂、自分の愛をその掌中《しょうちゅう》に感じているものにすがらないで、だれにすがることができたであろう?
馬の用意はまだできなかったけれども、一分もむだに過ごさないために、とるべき手段にたいする注意と体力との特別な緊張を身うちに感じながら、彼は馬を待たないで、徒歩で出かけ、クジマにあとから追ってくるようにと言いつけた。
街角《まちかど》で彼は、急いでやってくる夜のつじ橇に出会った、小さな橇の上には、ビロードの外套を着て肩かけをかぶった、リザヴェータ・ペトローヴナが乗っていた。「ありがたい! ありがたい!」と彼は彼女の、今はとくにまじめな、むしろ、いかめしくさえ見える表情をたたえた、明色の髪の小さい顔をそれと知るなり、こおどりするような気持でこうくりかえした。そして、御者に止まれともいわないで、彼女とならんでもと来たほうへかけだした。
「では、二時間ばかりでございますね? それ以上ではございませんね?」と彼女はたずねた。「ではだんなさまは、ピョートル・ドミートリエヴィッチ(医者)にお会いになりましょうが、あんまりおせきたてになるにはおよびませんよ。それから、薬局でアヘンを買っていらしてくださいまし」
「ではあなたは、無事にすむものと考えておいでなんですね? 主よ、あわれみたまえ、助けたまえ!」とレーヴィンは、門内から駆けだして来た自分の馬を見て、こう叫んだ。クジマとならんで橇の上へとび乗ると、彼は医者のもとへ走るようにと命じた。
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十四
医者はまだ起きていなかった。そして下男は「遅くお寝みになりましたので、朝は起こさないようにというお言いつけでございました。まもなくお起きになりましょう」こういった。下男はランプの|ほや《ヽヽ》をみがいていて、それにすっかり気をとられている様子だった。下男のこの、ガラスにたいする熱中と、レーヴィンの家庭におこっていることにたいする冷淡とは、初めは彼を驚かしたが、しかし彼は、すぐ思いかえして、だれも彼の感情を知っている者はないのだし、また知る義務をおう者もないのだから、この冷淡の壁をうち破って自分の目的を達するには、おちついて、十分考慮し、そのうえで断乎たる行動に出なければならないのだということをさとった。『あわてないで、手おちのないようにしなくちゃならんぞ』こうレーヴィンは、これからしなければならないすべてのことにたいする注意力と体力との、ますますさかんな盛りあがりを感じながら、われとわが心にいった。
医者がまだ起きていないのを知ると、レーヴィンは、胸にうかんださまざまの計画のうちから、つぎのような手段をとることにきめた――それは、クジマに手紙を持たせて、別の医者のところへやり、自分はアヘンを買いに薬局へ行く。そして、もしそこから帰って来てもまだ医者が起きていないようだったら、そのときは、例の下男を買収するか、もしまた下男が応じなかったら、むりやりに、なんとでもして医者を起こす――こういうのであった。
薬局では、やせぎすの薬剤師が、下男がガラスをみがいていたのと同じような冷淡さで、待っている御者のために散薬をオブラートに包んでいて、アヘンを売ることをこばんだ。せきこまないように、激しないようにとつとめながら、医者と産婆の名を告げ、アヘンの用途を説明して、レーヴィンは彼を説得しはじめた。薬剤師はドイツ語で、やってもいいかをたずね、仕切り壁の向こうからよしという返事をえてから、薬びんとじょうごとを取り出して、大きなびんから小さなびんへと、ゆっくりゆっくりそれをそそぎ、レッテルをはりつけ、そんなことをしないでもというレーヴィンの頼みを無視して、封かんしたうえ、さらにそれを包もうとした。これはもうたまらなかったので、レーヴィンは思いきって彼の手からびんをひったくり、大きなガラスドアの外へかけ出した。
医者はまだ起きていなかった。下男はこんどは絨毯《じゅうたん》敷きをやっていたが、依然として起こすことを拒絶した。レーヴィンはせきこまないで、十ルーブリ紙幣を取り出し、ゆっくりと言葉を発音しながら、しかし時間をついやさないようにつとめながら、彼に紙幣を握らせて、ピョートル・ドミートリエヴィッチは(これまではかくべつ大した人物とも思っていなかったピョートル・ドミートリエヴィッチが、いまレーヴィンには、どんなに偉大な、重要な人物に思われたことであろう)いつでも来てくれる約束なのだから、けっして腹をたてるようなことはない、安心してすぐに起こしてくれるようにと頼んだ。
下男は承知して、上へあがって行き、レーヴィンを応接間へ招じ入れた。
レーヴィンは、ドアの向こうで医師が咳《せき》をするのを、歩くのを、顔を洗うのを、何やらいっているのを聞いた。三分ばかり過ぎた。レーヴィンには、一時間以上も過ぎたように思われた。彼はもうそれ以上待っていることができなかった。
「ピョートル・ドミートリエヴィッチ、ピョートル・ドミートリエヴィッチ!」と、彼は祈るような声で、開いているドアに向かって言いだした。「お願いです、かんべんしてください。そのままでけっこうですから、ぼくを入れてください。もう二時間以上にもなるんですよ」
「すぐです、すぐです!」と声は答えた。レーヴィンは、医者がそれを笑い声でいっているのを、あっけにとられるような思いで聞いた。
「一分間でいいんですから」
「すぐですよ」
医者が靴をはいているあいだに、また二分過ぎ、医者が上着をつけて、頭をなでつけているあいだに、さらに二分経過した。
「ピョートル・ドミートリエヴィッチ!」とまたしても哀れっぽい声をだして、レーヴィンは言いかけたが、と、ちょうどそのとき、身支度を整えて、髪をきれいになでつけた医者が、ぬっと出てきた。『こういう人たちには良心というものがないものとみえる』とレーヴィンは考えた。『人が死にかかっているというのに、髪なんかとかしたりして』
「お早ようございます」と、手をさしだしながら、まるでそのおちつきぶりで相手をからかってでもいるような調子で、医者はいった。
「お急ぎになることはありませんよ。で、ご容態は?」
レーヴィンは、できるだけくわしく話をしようとつとめながら、妻の容態について、必要もないことを残らずこまごまと述べたてはじめた。医者がすぐ自分といっしょに来てくれるようにという頼みで、たえずわれとわが言葉をさえぎりながら。
「ええ、ですがね。そうおあわてなさることはありませんよ。あなたはなんにもごぞんじないんです。だいじょうぶ、わたしの必要なんかありませんよ。しかし、お約束だから、伺うには伺います。しかし急ぐことはありません。あなたもどうかお掛けください。コーヒーでもひとついかがですか?」
レーヴィンは、彼が自分をからかっているのではないかと目つきでたずねながら、じっと彼を見つめた。しかし医者のほうでは、からかうなど思いもかけないことであった。
「お察しします。お察しします」と、にこにこ笑いながら医者はいった。「わたし自身も家庭をもっている人間ですが、いやまったく、われわれ亭主というものは、こういう場合には、まったくみじめな存在ですよ。わたしどもの患者のなかに、こういう場合には、ご亭主が必ず厩《うまや》へ逃げこんでしまうというのがありますからね」
「しかし、あなたはどうお思いになりますか。ピョートル・ドミートリエヴィッチ? うまくいくとお考えでしょうか?」
「これまでの経過からいえば、むろんご安産疑いなしですな」
「では、すぐいらしてくださいね?」とレーヴィンは、コーヒーを持ってきた召使のほうを、憎々しげに見やりながらいった。
「一時間もしましたらね!」
「そりゃいけませんよ、お願いですから!」
「そうですか、じゃまあ、コーヒーだけでも飲ましていただきましょう」
医者はコーヒーを飲みはじめた。ふたりはしばらく黙っていた。
「ときに、トルコを痛快にやっつけてるじゃありませんか。昨日の電報をお読みでしたか?」と医者は、白パンをむしゃむしゃかみながらいった。
「いいえ、わたしはとてもこうしてはいられない!」とレーヴィンは飛びあがりながらいった。「では十五分もしたらおいでくださるでしょうな?」
「まあ半時間ですな」
「きっとですね?」
レーヴィンは、家へもどってきたところで、公爵夫人の馬車とおちあい、ふたりは連れだって寝室の戸口へ近づいた。公爵夫人の目には涙があり、その手はわなわなふるえていた。レーヴィンを見ると、彼女は彼を抱いて泣きだした。
「で、どうですの、リザヴェータ・ペトローヴナ」と彼女は、つやのいい顔に心配そうな色を見せて、ふたりを迎えに出てきたリザヴェータ・ペトローヴナの手をとりながら、いった。
「順調にまいっております」と彼女はいった。「どうぞあなたさまから、横におなりになるようにおっしゃってくださいまし、そのほうがおらくでございますから」
今朝目をさまして、事の真相をさとった瞬間から、レーヴィンは、もう何事も深く考えたり予想したりすることをしないで、あらゆる思考と感情とを閉ざし、あくまで妻の気持を乱さないよう、いや、進んで彼女をおちつかせ、彼女の勇気をささえてやるようにつとめながら、目前に迫っている出来事を堪えしのぶ心がまえをしたのであった。いったいどんなことがおこるだろうとか、どんな結果になるのだろうかということは、考えることさえみずから許さないようにし、ふつう、どれくらいかかるものかという質問によって判断しながら、レーヴィンは心のなかで、五時間のあいだ自分の心を手のなかにしっかり抱きかかえて、堪えしのぶ心がまえをしたのだった。そして彼には、それができるだろうと思われたのだった。が、医者のところから帰って来て、ふたたび彼女の苦痛を見ると同時に、彼はため息をつき、天を仰いで、『主よ、許したまえ、助けたまえ』とますます頻繁にくりかえすようになってしまった。そして、自分にはとても堪えられそうにない、いまに泣きだすか逃げだすかするだろう、こういう恐怖さえ感じはじめた。それほど苦しかったのである。しかも、たったのは、やっと一時間であった。
けれども、この一時間の後に、さらに一時間、二時間、三時間と過ぎて、彼が忍耐の最大限度と見つもっていた五時間が、完全に過ぎてしまっても、状態は依然として変わらなかった。彼はやはりこらえていた。なぜなら、一分ごとに忍耐のどんづまりまで達したように思いながら、また、彼女にたいする思いやりから、自分の心臓がいまにもはりさけそうになるのを感じながらも、じっと堪えているほかに、どうしようもなかったからであった。
とはいえ、さらに何分かが過ぎ、何時間かが過ぎ、さらにまた何時間かが過ぎると、彼の苦痛と恐怖の情はますますつのり、緊張していった。
それなしでは何ひとつ考えることのできない日常生活の諸条件が、レーヴィンにとっては、もはやことごとく存在しなくなってしまった。彼は時間の観念をも失ってしまった。ときには数分間が――彼女が彼をそばへ呼んで、その汗ばんだ手を握らせ、異常な力で握りしめたり、急にまた押しのけたりした数分間が、数時間のように思われるかと思うと、また、数時間が数分間のように思われるのであった。で、彼はリザヴェータ・ペトローヴナからつい立ての向こうにろうそくをつけるようにと頼まれ、もう夕方の五時であることを知ったときには、すっかり驚いてしまった。もしだれかが彼に、今はまだ朝の十時だといったとしても、これほど驚きはしなかったであろう。また彼は、自分が今どこにいるかということも、いつ何があったかということも、ほとんど知らなかった。彼は、彼女の燃えるような、あるときはまどい苦しむような、あるときはにこやかに彼をなだめ慰めるような顔を見た。彼はまた、半白の巻き毛をふり乱して、こみあげてくる涙を、くちびるをかんではむりにのみこみのみこみ、まっ赤になって緊張している公爵夫人をも見、それからさらにドリーをも、ふとい巻たばこをくゆらしている医者をも、どっしりとして、人の心をやすめずにはおかないような決然たる顔をしたリザヴェータ・ペトローヴナをも、しかめつらをして広間のなかを歩きまわっている老公爵をも、見た。しかし、彼らがどんなふうに出たり、はいったりしていたのか、彼らがどこにいたのかは、彼には少しもわからなかった。公爵夫人は、いま医者といっしょに寝室にいたかと思うと、もう、いつのまにか食卓の用意されている書斎のほうへ行っていた。と、それは彼女でなくて、いつのまにかドリーだったりした。
あとになってレーヴィンは、自分がどこかへやられたことを思いだした。一度彼は、テーブルと長いすとを移させられた。彼は、それが彼女のために必要なのだと思ったので、一生けんめいに働いた。そしてあとになってはじめて、それは自分のための寝床を用意したのであることを知った。それから彼は、何かをたずねに書斎にいた医者のところへやられた。医者はそれに答えてしまうと、やがて国会の紊乱《びんらん》について話しだした。それから彼はまた、寝室にいた公爵夫人のところへ、金銀の飾りのついた聖像を取りにやられた。彼は、公爵夫人の老女中といっしょに、それをとるため戸だなの上へよじ登って、燈明《とうみょう》をこわしてしまった。公爵夫人の老女中は、妻のことや燈明のことで、彼をなだめた。彼は聖像を持って行って、それをキティーの枕もとへ置き、一生けんめいに枕の下へ押しこんだ。しかしどこで、いつ、なんのためにこうしたことがすべて行なわれたのかは、知らなかった。また、なぜ公爵夫人が彼の手をとり、あわれむような目をして彼を見ながら、安心しているようにといったのか、なぜドリーが彼に食事をすすめて、部屋から連れだしたのか、なぜ医者までがまじめに、同情の目で彼を見て、水薬をすすめてくれたのか、そのわけがわからなかった。
彼はただ、一年まえに地方の町の宿屋で、ニコライ兄の死の床で完成されたと同じようなことが、完成されつつあることを知りかつ感じていただけであった。しかし、それは悲しみであり、これは喜びであった。とはいえ、その悲しみも、この喜びも、ひとしく生活のあらゆる日常的条件のほかにあって、この日常生活におけるすきまのようなものであり、それを透《すか》して崇高なる何ものかが姿を見せているのであった。そして、この完成されつつあるものは、いずれの場合にも、同じような悩ましさと重苦しさをもって近づいてくる。そして、いずれの場合にも、この崇高なものを見つめると同時に、同じ神秘な働きによって、霊魂は、今まで少しも知らなかった無限の高み、もはや理性はとうてい、そのあとについて行くことのできない高みにまで、もちあげられるのであった。
『主よ、許したまえ、助けたまえ』彼はこうたえず心にくりかえした。あれほど久しい、そして、完全なものとばかり思われていたへだたりにもかかわらず、まるで、幼年時代・少年時代と少しも変わらない、信じやすい、単純な心をもって、神に向かっている自分を感じながら。
この間たえず彼は、かけはなれたふたつの気分をいだいていた。ひとつは――妻のそばを離れて、ふとい巻たばこをつぎからつぎへとのべつ吸いつけては、それを、もういっぱいになっている灰皿のふちでのべつ消している医者や、ドリーや、公爵などといっしょにいるときで、そこでは食事のことや、政治のことや、マーリヤ・ペトローヴナの病気のことなどが話題にのぼり、レーヴィンはふいに、ちょっとのあいだ完全に、おこっていることを忘れてしまって、まるで夢からさめたような気分になるのであった。が、いまひとつの心持は、彼女のそばに、その枕もとにいるときのそれで、そこでは彼女にたいする思いやりから、いまにも心臓がはり裂けそうになりながら、やはりはり裂けてもしまわないで、彼はたえず神に祈っているのであった。
寝室からとんでくる叫び声が、彼を忘我の瞬間からひきもどすたびに、彼は、最初のうち彼をおそったと同じ、あの異様な誤謬におちいった――すなわち、叫び声を聞くたびに、彼はとびあがって、自分を弁護するためにかけだすのだが、途中で自分に罪があるのではないことを思いだしては、彼女を保護してやりたい、助けてやりたいと思うのだった。が、彼女を見ると、ふたたび助けることの不可能を知り、恐怖の念におそわれて、「主よ、許したまえ、助けたまえ」というのだった。そして時がたつにつれ、このふたつの心持は、ますます強くなってゆく――彼女のそばから離れている場合には、すっかり彼女を忘れてしまって、ますます平静な気持になり、そうでない場合には、彼女の苦痛そのものとそれを助けるすべのない感情とが、ますます強くなってゆくというぐあいだった。で、彼はとびあがって、どこかへ逃げだしたいと思うのだったが、やはり彼女のそばへかけて行くのだった。
ときとして、彼女があまり何度も呼ぶときには、彼は彼女を責める気持になった。しかし、彼女の従順な、笑みをうかべている顔を見、「ご心配かけますわね」という言葉を聞くと、こんどは、神を責める気持になったが、しかしまた、神のことを思いだすと、すぐに許しと慈悲とを願うのであった。
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十五
彼は遅いのか早いのかわからなかった。ろうそくはもうすっかり燃えつきかけていた。ドリーは、たったいま書斎へ来て、医者に横になることをすすめた。レーヴィンは、医者の話す山師の催眠術師の話を聞きながらそこに掛けて、彼の巻たばこの灰をながめていた。陣痛のやんでいるときだったので、彼はいっさいを忘れていた……現在おこっていることを完全に忘れてしまっていた。彼は医者の話を聞いて、聞いたことを理解していた。とつじょ、なんとも言いようのない叫び声がひびきわたった。その叫び声は、あまりに恐ろしかったので、レーヴィンはとびあがることさえせず、息を殺し、おびえたような、もの問いたげなまなざしで、医者を見やった。医者は聞き耳をたてながら、小くびをかしげて、賛成するような微笑をもらした。こうなると、すべてがあまりに異常だったので、レーヴィンはもう何ものにも、驚かなかった。『きっとこれがあたりまえなのだろう』こう考えて、そのまま腰をおちつけていた。だが、いったいあれはだれの声だったのだろう? 彼はとびあがると、つまさき立ちで寝室へかけて行き、リザヴェータ・ペトローヴナと公爵夫人の背後にまわって、枕もとの自分の場所へ行って立った。叫び声は静まったが、こんどは何やら様子が変わっていた。なんだろう? 彼は見もしなければわかりもしなかったし、また見ようともわかりたいとも思わなかった。しかし彼はそれを、リザヴェータ・ペトローヴナの顔つきによって見てとったのである――リザヴェータ・ペトローヴナの顔は、きっとしてあおざめ、その下あごは少しふるえ、その目はじっとキティーの顔にこらされてはいたけれども、依然として決然たる色をうかべていた。汗ばんだ皮膚に乱れた髪のねばりついている、赤く燃えた、苦痛に悩むキティーの顔は、彼のほうへ向けられて、彼の視線をさがしていた。もたげられた両手は彼の手を求めていた。そして、汗ばんだ両手で彼の冷たい手をつかんで、それを自分の顔へ押しあてはじめた。
「行っちゃいや、行っちゃいや! わたしこわくないの、こわくないの!」こう早口に彼女はいった。「お母さま、耳輪をとってちょうだいな、うるさくってしかたがないの。あなたこわがってらっしゃりゃしないわね? もうすぐよ、もうすぐよ、リザヴェータ・ペトローヴナ……」
彼女はひどく早口にこういって、ほほえんで見せようとした。ところがふいに、彼女の顔が醜くゆがんで、彼女は彼を自分のそばから押しのけた。
「だめ、ああ、恐ろしい! わたし死にます、死にます! あっちへ行って、あっちへ行って!」彼女はこう叫びだした。そしてふたたび、あのなんとも言いようのない叫び声がはじまった。
レーヴィンは頭をかかえて寝室の外へかけだした。
「なんでもないのよ、なんでもないのよ、だいじょうぶよ?」と、ドリーがうしろから彼にいった。
が、彼らがなんといおうとも、彼はもはや万事休したことを知っていた。彼は戸口の柱に頭をもたせて、隣室に立ったまま、今までについぞ一度も聞いたこともない、何ものかの叫ぶ声、ほえる声を聞いていた。そして彼は、それはかつてキティーであったところのものが叫んだのであることを知っていた。彼はもうとうから、子供などどうでもよくなっていた。いや今ではもう、その子供をうらみ憎んでいた。彼はもう、彼女の生命さえどうでもよかった。ただ、この恐ろしい苦痛のやむことばかりを、ひたすら願っていた。
「先生! これはいったいどういうんです? どういうんです? ああ!」と彼は、はいって来た医者の手をつかんでいった。
「もうおしまいですよ」と医者はいった。が、こういったときの医者の顔があまり真剣だったので、レーヴィンは|おしまい《ヽヽヽヽ》という言葉を、死ぬという意味にとってしまった。
われを忘れて、彼は寝室へかけこんだ。彼の見た最初のもの、それはリザヴェータ・ペトローヴナの顔であった。それはいっそう気むずかしげで、きっとしていた。キティーの顔はなかった。さっきまでそれがあった場所には、緊張した様子といい、そこからおこる声音といい、なんともいえぬ恐ろしい何ものかがあるだけだった。彼は、自分の心臓がいまにもはり裂けようとするのを感じながら、ベッドの横木に顔をつっ伏した。恐ろしい叫び声はやまなかった。それはますます恐ろしくなり、やがて、あたかも恐怖の最極点に達したかのように、急にぱたりとやんでしまった。レーヴィンは自分の耳を信じなかったが、疑うことはできなかった――叫び声は静まった。そして静かなざわめきと、きぬずれの音と、あわただしい息づかいとが聞こえて、それから、彼女のきれぎれな、いきいきとした、優しい、幸福そうな声が、静かに「ああやっと」といった。
彼は頭をあげた。両手をぐったりと掛けぶとんの上へ投げだし、いつにもまして美しい、穏やかな顔をした彼女は、無言のままじっと彼を見ていた。そしてほほえもうとしたが、できなかった。
と、急にレーヴィンは、この二十二時間住んできた神秘な、恐ろしい、この世ならぬ世界から、たちまちもとの住みなれた世界――しかし今は、彼が堪えかねたほどの幸福の新しい光に輝いている世界へ、自分が舞いもどって来たような気がした。はりつめた弦《げん》はすっかり断ち切られた。少しも思いがけなかった喜びの号泣《ごうきゅう》と涙とが、非常な力で心のうちにわきおこり、彼の全身をふるわせたので、彼は長いあいだ口をきくことができなかった。
彼はベッドの前にひざまずき、妻の手をくちびるに押しあてて、何度もそれに接吻した。と、その手は、弱々しい指の動きによって彼の接吻に答えるのだった。が、そのあいだも、一方ベッドのすそのほうでは、リザヴェータ・ペトローヴナのきような手のなかで、まるで燭台の上の火のように、人間的生物の生命が揺れ動いていた。それは、そのときまではまったく存在しなかったところの生物である。しかもそれは、それ自身同じ権利、同じ意義をもって、同じように生き、かつ同じように、自身によく似たものを繁殖していくであろう。
「お元気ですよ! お元気ですよ! しかもお坊ちゃまです! 安心していらっしゃい」レーヴィンは、ふるえる手で赤ん坊の背中を軽くたたいている、リザヴェータ・ペトローヴナのこういう声を耳にした。
「お母さま、ほんとう?」とキティーの声がいった。
ただ、公爵夫人のすすり泣きだけが彼女に答えるのであった。
と、沈黙のただなかに、母親の問いにたいする疑いない返事として、室内の、むりにおさえつけたような一同の話し声とはまったく違った、ぜんぜん新しい声がおこった。それは、どこからとも知れず現われてきた新しい人間的存在の、勇敢な、あたりかまわぬ、何ものをも顧慮しない叫び声であった。
もしこの以前に、人がレーヴィンに向かって、キティーは死んだ、赤ん坊も彼女といっしょに死んだ、彼らの子供は天使である、そして神はそこに、彼らの目の前にいるといったとしても、彼は少しも驚きはしなかったであろう。しかし、すでに現実の世界へもどって来てしまった今では、妻が生きていて、健康で、こういうやけな声をだして叫んでいる存在がわが子であることを理解するにも、彼は、思考力の異常な努力をはらわなければならなかった。キティーは生きて残り、苦しみはおわった。そして彼は言いようのないほど幸福であった。彼はこれを理解し、それによって完全に幸福であった。しかし赤ん坊は? どこから来たのか、なんのために来たのか、いったい彼は何者なのか?……彼はどうしても、この考えになれることができなかった。彼にはそれが、なにやらよけいな、不必要なもののように思われて、長いあいだなれることができなかった。
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十六
九時過ぎに、老公爵と、セルゲイ・イワーノヴィッチと、ステパン・アルカジエヴィッチとが、レーヴィンの部屋に陣どって、ひと通り産婦のことを話してから、他の問題について話をしていた。レーヴィンは彼らの話を聞いていたが、そうした話のあいだにも、いつのまにか、今朝までにあった過去のことを思いだすにつれて、さらに昨日のあの事件のおこるまでの自分がどんなであったかを思いだしていた。あのときからみると、まるでもう百年もたったようであった。彼は、自分がどこか人の達しえないような高さにのぼってしまったような気がして、いまいっしょに話しあっている人々をはずかしめないために、そこからつとめておりてくるのだった。彼は話をしながらも、たえず妻のこと、彼女の今の様子のこまごましたこと、子供のこと――その存在を考えることに自分をならそうとつとめていた子供のことなどについて考えていた。結婚してから、彼にはわからない新しい意味を彼の前に開いて見せた女の世界というものが、いまや観念の上では、彼の想像などとてもおよびもつかないまでに、高い高いところへ引きあげられてしまった。彼は、クラブでの昨日の食事についての会話を聞きながら、考えるのだった。『今、彼女はどうしているだろう? 眠っているだろうか? どんなぐあいだろう? 何を考えているだろう? 子供は、ドミートリイは泣いているだろうか?』そして会話の最中に、ある言葉の途中で、いきなりとびあがって、室から出て行くのだった。
「あれのところへ行ってもいいか、いってよこしてもらいたいな」と公爵はいった。
「いいです、今すぐ」こうレーヴィンは答えて、立ちどまりもしないで、そのまま彼女のほうへ行った。
彼女は眠ってはいなかった。そして、きたるべき洗礼のことでいろいろ計画をたてながら、静かに母夫人と話していた。
身じまいをして、髪をとかし、なにやら空色の飾りのついたしゃれたナイトキャップをかぶって、掛けぶとんの上へ両手をだし、あおむけになって寝ていた彼女は、目で彼を迎えると、同じく目で彼を自分のそばへ招いた。ふだんから明るかった彼女のまなざしは、彼が近づくにつれて、ますます明るく晴れやかになった。彼女の面《おもて》には、よく死人の面に見られる、あの、地上的なものから天上的なものへの変化がみとめられたが、しかし、あれは永別であり、これは邂逅である。と、出産の刹那《せつな》に感じたと同じ心の興奮が、ふたたび彼の心に迫ってきた。彼女は彼の手をとって、眠れたかどうかをたずねた。彼は答えることができなかったので、自分の弱さを承認しながら、顔をそむけた。
「わたしはとろとろとしましたのよ、コスチャ!」と、彼女は彼にいった。「で、今はとても気分がいいんですの」
彼女は、彼を見ていたが、ふいにその表情がかわった。
「その子をわたしにちょうだいな」と、赤ん坊の泣き声を聞きつけて、彼女はいった。「ちょうだいな、リザヴェータ・ペトローヴナ、このひとにも見てもらいますから」
「さあさあ、お父さまに見ていただきましょうね」とリザヴェータ・ペトローヴナは、なにやらまっ赤な、異様な、揺れ動くものを抱きあげて、もってきながらいった。「ですが、まあちょっとお待ちくださいまし。その前にちょっとおしゃれをいたしましてね」こういってリザヴェータ・ペトローヴナは、揺れ動く赤いものをベッドの上に置き、指一本でそれを持ちあげたり、寝がえりさせたり、何かを振りかけたりしながら、赤ん坊をひろげたり、包んだりしはじめた。
レーヴィンは、そのちっぽけな、かれんな存在をながめながら、それにたいする父親らしい感情の一片でも自分のうちに見いだそうとして、むなしい努力をくりかえした。彼はそれにたいしてはただ、嫌悪の情をおぼえるだけであった。しかし、それが裸にされて、同じように五本の指のついた、ことに、ほかの指とは違った親指までちゃんとついている、サフラン色した細い細い|おてて《ヽヽヽ》や|あんよ《ヽヽヽ》がちらりと見えたとき、また、リザヴェータ・ペトローヴナが、柔らかなばねでもあつかうように、そのさかんにつっぱる|おてて《ヽヽヽ》をおさえつけて、リンネルの着物のなかへ押しこもうとするのを見たときには、彼はこの生物にたいして、急に強い憐憫の情をおぼえ、産婆がけがでもさせはしまいかという、はげしい恐怖におそわれて、思わず彼女の手をおさえた。
リザヴェータ・ペトローヴナは笑いだした。
「だいじょうぶでございますよ、だいじょうぶでございますよ」
赤ん坊の身じまいができあがって、しゃんとしたお人形に変えられてしまうと、リザヴェータ・ペトローヴナは、自分の手ぎわを誇るかのように、それをひと揺りゆすぶってから、レーヴィンが、すっかり装いをこらした子供を見ることができるように、わきのほうへ身をひいた。
キティーも目をはなさないで、横目づかいに同じほうを見つめていた。
「ちょうだいな、ちょうだいな!」と彼女はいって、起きあがろうとするけはいさえ見せた。
「まあ、あなたは、カテリーナ・アレクサーンドロヴナ、そんなにお動きあそばしてはいけませんですよ! まあちょっとお待ちくださいまし。ただいまさしあげますから。まずお父ちゃまにお目にかかりましてね、さあさあ、ぼくちゃんはなんていい子ちゃんでございましょうねえ」
そして、リザヴェータ・ペトローヴナは、片手で(一方の手は、ただ指だけでぐらぐらするうしろ頭をささえていた)、この異様な、揺れ動く、産着《うぶぎ》のえりで頭をかくしているまっ赤な生物を、レーヴィンの前へ抱きあげて見せた。しかし、そこにはやはり鼻もあれば、横目をする目もあり、ぴちゃぴちゃ鳴らすくちびるもあった。
「ほんとうにおきれいな赤ちゃんでございましょう!」と、リザヴェータ・ペトローヴナはいった。
レーヴィンは、苦しいような気持でため息をついた。このおきれいな赤ちゃんも、彼の心にはただ、嫌悪と憐憫の情をよびおこしたにすぎなかったから。そしてこれは、彼の期待した感情とは、ぜんぜん別なものであったから。
彼は、リザヴェータ・ペトローヴナが、赤ん坊をなれない乳につかせるあいだ、顔をそむけていた。
とつぜん、笑い声が彼の頭をあげさせた。それはキティーが笑ったのであった。赤ん坊が乳を吸いだしたのであった。
「さあ、もうたくさんでございますよ、たくさんでございますよ!」とリザヴェータ・ペトローヴナはいった。けれども、キティーは彼をはなさなかった。彼は彼女の腕のなかで眠りはじめた。
「さあ、ごらんなさいまし」とキティーは、彼によく見えるように、赤ん坊を彼のほうへむけながらいった。年よりくさい小さな顔が、急にいっそうくしゃくしゃになり、そして赤ん坊はくさめをした。
ほほえみながら、感動の涙をやっとおさえながら、レーヴィンは妻に接吻して、暗い部屋から出ていった。
この小さな生物にたいして、彼の感じた感情は、彼の期待していたものとはぜんぜん違ったものであった。この感情のなかには、愉快なもの、喜ばしいものは少しもなかった。反対にそれは、新しい、苦しい恐怖であった。それは、傷つきやすい、新しい領域を意識することであった。そして、この意識が最初のうち、あまりに苦しく、また、この頼りない生物が苦しむようなことはないかという恐怖が、あまりに強かったので、そのため、赤ん坊がくさめをしたときにおぼえた、たあいない喜びのふしぎな感情や、誇らしさの情までが、いっこうに目だたなかったのであった。
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十七
ステパン・アルカジエヴィッチの事情は、はなはだおもしろくない状態にあった。
森の代金の三分の二はすでに消費され、残りの三分の一も、ほとんど全部、一割引で商人からさき取りしてしまった。商人はそれ以上金を出さなかった。おまけにこの冬は、ダーリヤ・アレクサーンドロヴナが初めて自分の財産権をひたむきに主張して、森の残りの三分の一の代金受領証に署名することをこばんだ。俸給は全部家庭の費用と、のっぴきならぬこまごました借金の支払いとにあてられてしまった。で、金というものは一文もなかった。
これは不愉快な、ぐあいのわるいことで、ステパン・アルカジエヴィッチの意見によれば、このままではつづけていけないことであった。こんなになった原因は、彼の解釈によると、彼の受けている俸給があまりに少ないということにあった。彼の占めている地位は、五年まえには確かに非常にいいものだったのだが、今ではもうそうはいかなかった。ペトロフ――銀行頭取――は一万二千ルーブリ取っているし、スウェンティーツキイ――会社重役――は一万七千ルーブリ取っているし、銀行を創立したミーティンは、五万ルーブリ取っている。
『いや、まったくおれは居眠りをしていたのだ、忘れられてしまったのだ』とステパン・アルカジエヴィッチは、腹のなかで考えた。そこで、彼は耳をそばだて、目をみはりはじめて、冬のおわりに近く、非常に有利な地位を見つけだすと、それに向かって襲撃を開始した。初めはモスクワから――伯母や、伯父や、友人を介してそれに着手し、やがて機が熟したと見てとると、春には、自身ペテルブルグへのりだして行った。それは、以前からみると今ではだいぶ多くなった、年千ルーブリから五万ルーブリまでの収入のある、好ましい、割のいい地位のひとつで、南部鉄道と銀行との合名組織による信用相互代理委員会の一員という地位であった。この地位は、すべてのこうした地位と同じく、ひとりの人間が合わせ持つことの困難な、きわめて広い知識と、活動力とを要求した。しかし、こうした要素を合わせ持っている人は、あるはずがなかったから、せめては、公正でない人よりは公正な人に、この地位を占めさせるほうがましであった。ところが、ステパン・アルカジエヴィッチは、単に公正な《アクセントなしの》人であったばかりでなく、モスクワで公正な活動家、公正な文士、公正な雑誌、公正な組織、公正な傾向などといわれる場合にこの言葉がもつ特殊な意味でも、公正な《アクセントをつけた》人だったのである。そして、この言葉は単に、人間なり組織なりが不公正でないことを意味するばかりでなく、場合によっては、彼らが政府にたいして針を刺すだけの器量をもっているものであることを意味している。ステパン・アルカジエヴィッチは、モスクワでつねに、この言葉の用いられている社会に立ちまわり、そこで公正な人として通用していたので、この地位にたいしては、ほかの者にくらべて、より多くの権利をもっていたわけである。
この地位は、年七千から一万ルーブリまでの俸給を出していたし、オブロンスキイは、官吏としての地位を退くことなしに、それを占めることができた。その地位はふたりの大臣と、ひとりの貴婦人と、ふたりのユダヤ人との権限内にあり、それらの人々には、もうすっかり渡りはついていたのであったが、ステパン・アルカジエヴィッチは、ペテルブルグへ行って、いちおうその人々に会っておく必要があった。そのうえステパン・アルカジエヴィッチは、カレーニンから離婚についての確答をえてくるように、妹のアンナに約束していた。で、ドリーから五十ルーブリの金をもらうと、ペテルブルグへと出発したのだった。
カレーニンの書斎に腰をおろして、ロシアの財政窮乏の原因にかんする彼の案文をききながら、ステパン・アルカジエヴィッチはただ、アンナについての自分の用件をきりだすために、相手の読みおわるのばかり待っていた。
「そうだ、そりゃまったくそうにちがいない」と彼は、アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチが、それがなくては今ではもう読むことのできなくなった鼻めがねをはずして、問いたずねるように、かつての義兄の顔を見つめたときに、言いだした。「そりゃ詳細の点では、まったくそれにちがいないがね、しかし、現代の原則はやはり自由だろうからね」
「そう、しかし、わたしの提唱するのは、その自由の原則を包括する他の原則だからね」とアレクセイ・アレクサーンドロヴィッチは、「包括する」という言葉に力をいれながら、そして、そのことの説明されてある個所を、もう一度読んで聞かせるために、ふたたび鼻めがねをかけながらいった。
そして、広い余白をとってきれいに書かれた原稿をめくって、アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチはもう一度、もっともらしい個所を読みあげた。
「わたしは個人の利益のためでなく――一般的福祉のために――下層階級のためにも、上流階級のためにも、一様に、保護制度を望まないのさ」と彼は、鼻めがねの上からオブロンスキイの顔を見ながらいった。「けれども|彼らは《ヽヽヽ》、それを理解することができないのだ。|彼らは《ヽヽヽ》ただ、個人的利害にのみとらわれて、言葉のすえに心を奪われているんだよ」
ステパン・アルカジエヴィッチは、カレーニンが、彼の案文をうけいれようとしなかったところの|彼ら《ヽヽ》、ロシアにおけるあらゆる害悪の原因であるところの彼らが、何をなし何を考えつつあるかということについて話しはじめるときには、その話がもうおわりに近づいていることを知っていた。で、今は進んで自由の原則をなげうって、ぜんぜんそれに同意した。アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチは思いに沈んださまで、自分の原稿をひるがえしながら黙ってしまった。
「ああ、そうそう」と、ステパン・アルカジエヴィッチはいった。「きみにひとつお願いがあるんだがね。いつでもいい、ポモールスキイに会ったときに、ぼくが南部鉄道の合名組織による信用相互代理委員会の、こんどあきのできる地位を非常に希望しているということを、ほんのひと言でいいから、いっといてもらいたいんだがね」とステパン・アルカジエヴィッチは、自分の熱望しているこの地位の名称にすっかりなれていたので、少しもまちがえないで、すらすらといってのけた。
アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチは、この新しい委員会の事業について詳細にたずねてから、なにやら考えこんでしまった。彼は、この委員会の事業のなかに、何か彼の案文と相いれないようなものがありはしないかと考えたのだった。しかし、この新設機関の事業が非常に複雑であるうえに、彼の草案がまたきわめて広範囲にわたるものだったので、即座にそれを判断することができなかった。で、鼻めがねをはずしながら彼はいった。
「むろん、そんなことをいうのはなんでもないがね、ただきみは、なんのためにそんな地位を望むのかね?」
「俸給がいいからさ。九千ルーブリまでは出すんだからね。ところでぼくの財政が……」
「九千ルーブリ」とアレクセイ・アレクサーンドロヴィッチはくりかえして、眉をひそめた。
この給料の高い数字は、彼に、この面から予想されるステパン・アルカジエヴィッチの活動が、つねに緊縮のほうへかたむく彼の草案の主旨に反するものであることを思わせた。
「現代におけるそうした巨額の俸給こそは、わが政治の誤れる経済 assitte(政策)を示す根本的証拠だとわたしは思う、そしてそのことは覚え書きに記しておいた」
「ふん、じゃあきみはどうしたいというんだね?」と、ステパン・アルカジエヴィッチはいった。「まあ、かりにさ、いいかね、銀行の頭取は一万ルーブリの俸給をとっているが、それはつまりそれだけの値うちがあるからだろうじゃないかね。またある技師は、二万ルーブリもとっている。なにしろ生きた問題だから、しかたがないさ!」
「わたしはだね、俸給というものは、商品にたいする代価のようなものだから、しぜんそれは、需要供給の法則にしたがわなければならないものだと考えている。で、もし俸給の定めかたが、この法則にはずれた場合、たとえば同じ専門学校出で、同じ知識と才能を有する技師が、ひとりは四万ルーブリを受け、ひとりは二千ルーブリで満足しているような事実、または、社会がなんら特別な専門の知識をもっていない軽騎兵や法律家などを、巨額の俸給を支払って、銀行の頭取にしているような事実を目にした場合、わたしは、現在の俸給は、需要供給の法則によらずして、もっぱら情実関係によって定められているのだと結論せざるをえないんだよ。そして、そこには、それ自体としても重大であり、国家の職務にとってもはなはだ有害な影響をもつところの、濫用《らんよう》があると思うのだ。そこで思うに……」
ステパン・アルカジエヴィッチは、急いで義弟をさえぎった。
「なるほど、しかしだね、きみだって、確かに有益な新施設が設けられるということには文句はないだろう。なんといっても生きた問題なんだからね! 仕事を公正にやってのけるということが、とくに尊重されるのさ」と、ステパン・アルカジエヴィッチは語勢を強めていった。
しかし、公正という言葉のモスクワ的意味は、アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチには通じなかった。
「しかし、公正ということは、ただ消極的な資質にすぎないからね」と彼はいった。
「だがまあ、とにかく、きみがひきうけてくれれば、ぼくは非常にありがたい」と、ステパン・アルカジエヴィッチはいった。「ほんのひと言、ポモールスキイにいってくれればいいんだからね。それも話のあいだにちょっとね」
「しかし、このことはポルガリーノフのほうがよさそうに思われるがね」と、アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチはいった。
「ポルガリーノフは、もうすっかり承知してくれてるのさ」とステパン・アルカジエヴィッチはあかくなりながらいった。
ステパン・アルカジエヴィッチは、ポルガリーノフの名を耳にすると同時に、あかくなった。というのは、この朝、ユダヤ人のポルガリーノフを訪問して、不快な印象を残されていたからであった。
ステパン・アルカジエヴィッチは、自分がこれから勤めたいと思っている仕事が、新しい、生気にみちた、公正な事業であることを確信していた。ところが、今朝ポルガリーノフが、明らかにわざと、他の請願者たちといっしょに、二時間も応接間に待たせたとき、彼は急に、ひどく|ばつ《ヽヽ》のわるい気がしだしたのだった。
彼に|ばつ《ヽヽ》のわるい思いをさせたのは、彼、リューリックの末裔《すえ》であるオブロンスキイ公爵が、ユダヤ人ふぜいの応接間で二時間も待たされたという事実であったのか、あるいはまた彼が、生まれて初めて、代々政府に仕えてきた祖先の手本にならわないで、新しい舞台へ踏みだそうとしている事実であったのか、ともかく、彼は非常に|ばつ《ヽヽ》の悪い思いをしたのだった。ポルガリーノフのところで待っていたあの二時間のあいだ、ステパン・アルカジエヴィッチは、活発に応接間のなかを歩きまわったり、ほおひげをなおしたり、他の請願者たちと話をしたり、あとで人に聞かせるために、自分がユダヤ人のところで待たされたということについてのしゃれを考えたりしながら、自分の感じている、心もちを、他人はもちろん、自分自身にまでかくそうとつとめていた。
しかし、そのあいだじゅう彼は、|ばつ《ヽヽ》のわるい気持でいまいましくてならなかった。しかも、それがなんのためにそうなのか――せっかく考えだした、「ブイロウ ジェーロ |ド《ヽ》 |ジーダ《ヽヽヽ》 イ ヤ |ドジダ《ヽヽヽ》ールシャ」〔ユダヤ人に用があってわたしは長く待たされたという意味で、ド ジーダ(ユダヤ人に)という言葉と、ドジダールシャ(待った)という言葉との語呂を合わせただけのしゃれ〕というしゃれが、いっこううまくゆかなかったためか、それとも何かほかに原因があったのか、彼自身にもはっきりしなかった。そしてようやくポルガリーノフが、非常な丁重さをもって、しかし明らかに相手の卑下《ひげ》にたいして勝ちほこりながら彼を引見して、ほとんど拒絶同様の返事をすると、ステパン・アルカジエヴィッチは、できるだけ早くそれを忘れてしまおうと考えた。で、いま彼は、それを思いだしただけでも、あかくなったのであった。
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十八
「そこでと、ぼくにはもうひとつ用件があるんだがね。といえば、もうおわかりだろうが……アンナのことさ」としばらく黙っていて、この不快な印象をふりおとしてから、ステパン・アルカジエヴィッチはいった。
オブロンスキィがアンナの名を口にするやいなや、アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチの顔つきはすっかりかわった――今までの生気のかわりに、それは疲労と、死んだような色とをあらわした。
「というと、あなたはこのわたしから、いったい何をお望みなんですかね?」と彼は、肘掛けいすの上でからだの向きをかえて、鼻めがねをしまいながらいった。
「解決さ、何らかの解決さ。アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチ。ぼくはいまきみの前にきみを(ステパン・アルカジエヴィッチは『侮辱されたる夫としてではなく』と言いたかったのであるが、そんなことのために、かんじんの用件を台なしにしてはならぬと考えて、言葉をかえた)一個の政治家としてではなく(これはどうもそぐわなかった)、単に一個の人として、善良な人、キリスト教徒として相対しているんだからね。きみは彼女をあわれんでやらなければいかんよ」と彼はいった。
「というと、つまりどういうところをですね」と、カレーニンは静かにいった。
「そうだよ、彼女はあわれむべきだよ。もしきみがぼくのように毎日彼女を見ているのだったら――ぼくはこのひと冬、ずっといっしょにいたんだからね――きみだって彼女をあわれまずにはいられなかったろうと思う。彼女の境遇は、恐ろしいものだからね。まったく恐ろしいものだからね」
「ところが、わたしには」とアレクセイ・アレクサーンドロヴィッチは、いっそうかん高い、ほとんどきしむような声で答えた。「アンナ・アルカジエヴナは、自分の望んでいたものは全部、えているように思われますがね」
「ああ、アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチ、お願いだから、お互いに文句をつけあうようなことはよそうじゃないか! 過ぎたことは過ぎたことだよ。そしてきみも知っているとおり、現在彼女が望んで待っていることは、離婚ということなんだからね」
「しかし、思うにですね、もしわたしが、子供をこちらへ残しておく、という要求を出すとすると、アンナ・アルカジエヴナは離婚をこばむだろうと思うんですがね。それでわたしは、そういうふうに返事をして、この事件はもう片づいたものと考えていました。今もそう思っていますよ」と、アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチはかん高い声でいった。
「しかし、お願いだからどうか、興奮しないでくれたまえ」とステパン・アルカジエヴィッチは、義弟の膝にさわりながらいった。「問題はまだ片づいてはいないよ。改めてひと通りいわせてもらえば、こういうことになっているのだ――つまり、きみたちが別れたときには、きみは非常に寛大だった。最高限度に寛大だった。きみは彼女にすべてをあたえた――自由も、離婚さえも。彼女はそれをありがたく思った。いや、疑っちゃいけないよ。ほんとうにありがたく思ったのだよ。つまり、あまりありがたがりすぎた結果、初めのうちは、きみにたいする自分の罪を感じるだけで、すべてをよく考えもせず、また考えることもできなかったほどなのさ。そこで、彼女は何事もみな辞退してしまった。が、そのうちに、現実と時とが彼女の境遇の苦しく堪えがたいことを、だんだんにわからせてきたというわけさ」
「アンナ・アルカジエヴナの生活は、わたしにはなんの興味もありませんね」とアレクセイ・アレクサーンドロヴィッチは、眉をあげながらさえぎった。
「失敬だが、ぼくはそれを信じないね」とステパン・アルカジエヴィッチは、もの柔らかに言いかえした。「彼女の境遇は、彼女にとってやりきれないばかりでなく、だれのためにも、なんの利益もないものなんだよ。もっとも、きみにしてみれば、彼女はそれに相当しているというだろう。彼女はそれを知っている。だから、きみにお願いしようとはしていない。彼女は、何事もきみにお願いする勇気はないと、正直にいっているのだ。しかしぼくは、われわれ身内の者はみな、彼女を愛する者はみな、きみにお願いする、哀願するのだ。いったい、彼女はなんのために苦しんでいるのだろう? 彼女が苦しんでいることがだれのためになるのだろう?」
「失礼ですが、あなたはわたしを、被告の立場におこうとしておられるようですね」と、アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチはいった。
「いや、どうして、どうして、けっしてそんなことはない。誤解しないでくれたまえ」とステパン・アルカジエヴィッチは、あたかもこの接触が義弟をやわらげるものと信じてでもいるように、またしても彼の手にさわりながらいった。「ぼくのいおうとするところは、ただひとつ――彼女の境遇の苦しいこと、それはきみによってのみ軽くされるものであるということ、しかもそのために、きみは何ものをも失いはしないということ、ただこれだけのことにすぎないのさ。ぼくはきみにかわって、万事をきみの気がつかないうちに、うまくちゃんと片づけて見せるよ。だってきみは、そういう約束をしたじゃないかね」
「そりゃ、以前には約束しました。が、わたしは、子供についての問題が事件を解決してしまったものと思っていたのです。なお、そればかりでなく、アンナ・アルカジエヴナのほうにも、ちっとは寛大な気持もあるだろうとあてにしていたのです」と、まっさおになったアレクセイ・アレクサーンドロヴィッチは、ぶるぶるくちびるをふるわせながら、やっとのことでこういった。
「彼女こそすべてをきみの寛大な心にゆだねているのだ。彼女はただひとつのこと――堪えがたい現在の境遇から救いだしてもらうことだけを、願ったり祈ったりしているのだ。彼女はもう子供のことも願ってはいないのだ。アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチ、きみは善良な人だ。ちょっとでもいいから彼女の身になってみてやってくれたまえ。現在の境遇にある彼女にとっては、離婚は生死の問題だ。きみがもし以前にああいう約束をしてくれなかったら、彼女も自分の境遇をあきらめて、田舎で暮らしただろうと思う。しかし、きみが約束してくれたので、彼女はきみに手紙を書いて、モスクワへ出てしまった。そして、モスクワで人と会うたびに、心臓へナイフを刺されるような思いをしながら、毎日くびを長くして解決を待ちながら、もう六か月も暮らしてきたのだ。これは、死を宣告された者を、ひょっとしたら殺されるかもしれぬが、ひょっとしたら許されるかもしれないなどといって、首になわをかけたまま、幾月もひっぱっておくのと同様じゃないだろうか。どうか彼女をあわれんでやってくれたまえ、あとのことはすべてぼくがひきうけてうまくやるよ……Vos scrupules(きみの懸念は)……」
「わたしはそんなことをいっているのではありません。そんなことを……」とアレクセイ・アレクサーンドロヴィッチは、吐きだすような調子で彼をさえぎった。「しかし、あるいはわたしは、約束する権利をもたないことを、約束したかもしれません」
「ではきみは、約束したことを否定しようというのかね?」
「わたしはかつて一度もできることの履行を拒否したことはありません。けれどもその約束が、どの程度までできることであるか、それを考えてみるだけの時間をもちたいというのです」
「そりゃいけない。アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチ」と、オブロンスキイはとびあがりながらいった。「ぼくはそんなことは信じたくない! 彼女はいま、女として考えうる一ばん不幸な境遇にいるのだ。それをきみが、そんなことまでこばむなんて……」
「約束したことがどの程度までできるかをね。Vous professez d'etre un libre penseur.(あなたは自由思想家として知られている)けれども、わたしは信者として、こうした重大な事件において、キリスト教の掟《おきて》に反した行動をとることはできませんよ」
「しかし、キリスト教の社会でも、わが国でも、ぼくの知るかぎりでは、離婚は許されているからね」と、ステパン・アルカジエヴィッチはいった。「われわれの教会でも、離婚は許されているじゃないか。そしてわれわれはげんに……」
「許されてはいる、しかし、このような意味においてではない」
「アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチ、ぼくはきみがわからなくなった」と、しばらく沈黙してからオブロンスキイはいった。「キリスト教的感情に動かされて、すべてを許し、いっさいを犠牲にしようと覚悟していたのは、あれはきみではなかったのか?(そしてそれを尊重したのはわれわれではなかったのか?)きみは自分でいっていたじゃないか――シャツをとる者にはさらに上着をあたえよって、それを今になって……」
「お願いです」と、ふいにすっくと立ちあがって、まっさおになり、あごをがくがくふるわせながらアレクセイ・アレクサーンドロヴィッチは、きいきい声で叫んだ。「お願いです。もうやめて、やめてください……この話は」
「ああ、いけない! もし気にさわったら、かんべんしてくれたまえ、かんべんしてくれたまえ」と、はにかんだような笑顔《えがお》になり、手をさしだしながら、ステパン・アルカジエヴィッチはいった。「ぼくはただ使者として、頼まれたことをつたえただけなんだから」
アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチも手をさしだして、ちょっと考えてから、こういった――「わたしはよく考えたうえで、教示を求めなければなりません。確答は、明後日申しあげます」と、何やら思案して彼はいった。
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十九
ステパン・アルカジエヴィッチがもう帰ろうとしているところへ、コルネイが取次ぎにはいってきた――
「セルゲイ・アレクセーエヴィッチがおいでになります!」
「だれだい、そのセルゲイ・アレクセーエヴィッチというのは?」と、ステパン・アルカジエヴィッチは言いかけたが、すぐ思いだした。
「ああ、セリョージャか!」と彼はいった。『セルゲイ・アレクセーエヴィッチなんていうから、おれは局長かなんかと思った。そうそう、アンナもあの子に会って来てくれと頼んでいたっけ』と彼は思いだした。
そして、アンナが自分を送りだしながら、『いずれあの子にはお会いでしょうから、あの子はどこにいるか、だれがあの子についているか、くわしく調べてきてくださいね。そして、スティーワ……もしそういうことができたら! できるでしょうかね?』といったときの、あのおどおどした、あわれっぽい表情を思いうかべた。ステパン・アルカジエヴィッチは、その「もしできたら」という言葉が、何を意味しているかをさとった。それは、もしも子供を自分のほうへひきとることにして離婚ができたら、という意味であった。――ステパン・アルカジエヴィッチは、今となっては、そんなことは考えることもできないことを知っていたが、しかし甥《おい》に会うことはやはりうれしかった。
アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチは、せがれには母のことは、けっしていわないようにしているから、彼もいわないようにしてほしいと義兄に注意した。
「あの子は、われわれがぜんぜん予期しなかったあの母親の出現のあとで、ひどくわずらいましてね」とアレクセイ・アレクサーンドロヴィッチはいった。「一時は、どうかと思ったくらいでしたよ。さいわい適当な治療と夏の海水浴のおかげで、やっと健康を回復し、今では、医者のすすめにしたがって、学校へやっていますがね。ところが、学校仲間のおかげで、このごろはすっかり丈夫になり、よく勉強するようになりましたよ」
「よう、すっかりりっぱな若者になったね! なるほど、これじゃセリョージャじゃあない、りっぱなセルゲイ・アレクセーエヴィッチだ!」とステパン・アルカジエヴィッチは、青い上着に長ズボンをはいて、威勢よくつかつかとはいって来た、きれいな顔をした、肩幅の広い少年を見ると、にこにこしながらこういった。少年は、健康らしい、快活そうな様子をしていた。彼は、他人にするように伯父におじぎをしたが、それと気がつくと、まっ赤になって、何か侮辱《ぶじょく》されるか、腹だたせられでもしたように、急いで顔をそむけてしまった。少年は父親のそばへ歩みよって、学校からもらってきた採点表を渡した。
「うん、これなら上等だ」と父親はいった。「さあ、もう行ってよろしい」
「少しやせたが、背は伸びたね。そして、おさなさがぬけて、すっかり少年になってしまった。ぼくはこういうのが好きさ」と、ステパン・アルカジエヴィッチはいった。「どうだ、わしを覚えているかね?」
少年はすばやく父をかえりみた。
「覚えています。mon oncle.(わたしのおじさん)」と彼は、伯父の顔を見て答えたが、すぐまた目を伏せてしまった。
伯父は少年を呼びよせて、その手をとった。
「さあ、どうだね、どんな様子だね?」と彼は、何か話したいと思いながら、何を話していいかわからなかったので、ただこういった。
少年はあかくなり、なんとも答えないで、伯父の手からそっと、自分の手をひっぱった。そして、ステパン・アルカジエヴィッチがその手をはなすやいなや、放たれた小鳥のように、さぐるような目をちらと父のほうへ投げながら、急ぎ足に部屋を出て行った。
セリョージャが最後に母を見たときから、もう一年たっていた。そのとき以来、彼はもう母のうわさは少しも聞かなかった。それに、今年から彼は学校へはいって、学校友だちというものを知り、それを愛するようになっていた。母についての空想と思い出――会ったあとで病気になったほどの母についての空想と思い出も、今ではもう彼の心をしめてはいなかった。そして、そういうものが出てくると、彼はそれを恥ずべきもの、ただ女の子だけにあるもので、男の子や学校友だちにはあってはならぬものと考えて、一生けんめいに自分から追いはらった。彼は、父と母とのあいだに争いがあり、それが彼らを別れさせたのであることを知り、自分は父といっしょに残るような運命になっていることを知って、この考えになれようとつとめていた。
母に似た伯父を見ることも、彼には不愉快だった、それは彼の心に、彼が恥ずべきものと考えていた例の思い出を、よびおこしたからであった。書斎の戸口で待っていて、小耳にはさんだ二、三の言葉により、とりわけ父や伯父の表情によって、彼らのあいだに母のことが話されていたにちがいないことを察したので、彼には、なおいっそうそれが不愉快だったのである。で、自分が生活をともにして、万事頼りにしている父を非難したりしないために、なお主としては、日ごろ恥ずべきものと考えている感情に負かされないために、セリョージャは、自分の平安を乱しにきたこの伯父を見ないようにつとめ、彼の思いださせることがらについて、考えないようにとつとめたのであった。しかし、彼のあとからすぐ出てきたステパン・アルカジエヴィッチが、階段の上で彼を見つけて、そばへ招きよせ、学校で遊び時間をどうして過ごすかとたずねたときには、セリョージャは、父のいないところだったので、彼と話をした。
「ぼくたちのほうでは、いま鉄道ごっこがはやっているんです」と彼は、伯父の問いに答えていった。「それはね、こうするんですよ――腰掛けの上にふたり腰掛けるんです。それがお客。それからひとり、腰掛けの上に立つんです。そして、みんなが腰掛けにとりつくんです。手ででも、バンドででも、なんででもいいんです。そして、ありたけの広間をかけまわるんです。ドアはもう前にちゃんとあけておくの。でもね、車掌になるのはとってもむずかしいんですよ!」
「それは立っている人なんだね!」とステパン・アルカジエヴィッチは、にこにこしながらたずねた。
「ええ、だから、それには勇気と腕まえがいるんです。ふいにとまったり、だれかがころんだりするようなときには、なおさら」
「なるほど、そりゃ冗談じゃないね」とステパン・アルカジエヴィッチは、今ではもう幼年らしさを失って、ぜんぜん無邪気とはいわれないような、そのいきいきとした母親ゆずりの目に、わびしい気持で見いりながら、いった。彼は、アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチにはアンナのことはいわないと約束していたけれど、とうとういわずにはいられなかつた。
「おまえ、お母さんを覚えているかね?」と、ふいに彼はたずねた。
「いいえ、覚えていません」とセリョージャは早口にいって、紫色に見えるほどまっ赤になり、目を伏せてしまった。で、伯父はもうそれ以上、彼から何ものをもうることはできなかった。
スラヴ人の家庭教師は、それから半時間ほど後に、階段の上で自分の教え子を見つけたが、彼が怒っているのか泣いているのか、長いこと理解することができなかつた。
「どうしたんです。きっところんだときにけがをしたんでしょう?」と家庭教師はいった。「だから、ちゃんといっておいた、あれは危険な遊びですよって。校長先生に申しあげなければなりませんね」
「けがをしたからって、だれも気がつきゃしないじゃありませんか。ほんとうですよ」
「じゃいったい、どうしたんです?」
「ぼくにはかまわないでください! ぼくが覚えていようと覚えていまいと……それがあのひとにどうしたというんだ。なぜぼくは覚えていなけりゃならないんだ? ぼくのことなんか、かまわないでください!」こう彼は、もはや家庭教師に向かってではなく、全世界に向かっていった。
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二十
ステパン・アルカジエヴィッチは、いつものとおり、ペテルブルグではむなしく時を過ごさなかった。ペテルブルグでは、用事――妹の離婚と就職一件の用事以外に、例のとおり彼には、彼のいわゆる「モスクワの黴《かび》」のあとで、自分を清新にする必要があったのである。
モスクワは、cafes chantants(舞台つきカフェ)や、乗合馬車があるにもかかわらず、やっぱりよどんだ沼であった。ステパン・アルカジエヴィッチは、いつもそれを痛感していた。しばらくモスクワで、ことに家族に近く暮らしたので、彼はしぜんに気がめいっていくのを感じていた。どこへも出ないで、長いことモスクワに暮らしていると、ついには、妻の不きげんや、小言や、子供の健康や、教育や、自分の勤務上のささいな利害関係などにまで心を乱されるようになり、自分に借金のあることまでが気にかかってくるのだった。ところが、ただちょっとペテルブルグまで出てきて、人々がただ生存しているのではなく生活している、真に生活している社会、彼の属しているサークルのなかにしばらく暮らすだけで、そうしたすべての想念は、火の前の蝋《ろう》のように、たちまち溶けさり消えうせてしまうのだった。
妻は?……彼は今日、チェチェンスキイ公爵と話しあったばかりであった。チェチェンスキイ公爵には妻もあり家族――幼年学校の生徒である大きな子供たちもあったが、ほかにもうひとつ正式でない家族があって、そこにもやはり子供があった。そして、第一の家族もわるくはなかったが、チェチェンスキイ公爵は、第二の家族において、自分をより多く幸福に感じていた。で、彼は自分の長男を第二の家族のほうへ連れて行き、彼自身それを、むすこのために有益な、啓発的なやりかただと思っているように、ステパン・アルカジエヴィッチに話していた。これがモスクワだったら、人々はなんというだろう?
子供は?……ペテルブルグでは子供たちは、父の生活をさまたげなかった。子供たちは学校で教育されていて、モスクワにひろがっているような――たとえばリヴォフのような――子供たちにはありとあらゆる生活のぜいたくをあたえながら、両親にはただ勤労と心配をあたえるといったような、ああいう野蛮な見解はなかった。ここでは人々は、人間はまず自分のために生きなければならぬもの、教育ある人々はかならずそうしなければならぬものと解釈していた。
勤務は?……勤務もここでは、モスクワでやっているような、執拗な、さきの見こみのない労役ではなかった。ここでは、勤務にも興味があった。邂逅・奉仕・気のきいた言葉・人まえでいろいろなおどけをやって見せる能力――それだけで、人はふいに、昨日ステパン・アルカジエヴィッチが会った、現在では第一流の高官である、あのブリャンツェフのように、一足飛びに出世をするのだ。勤務もこれなら興味が深い。
そのうちとくに、金銭上のことがらにたいするペテルブルグ人の見解が、ステパン・アルカジエヴィッチに気やすい感じをいだかせた。その train(生活様式)から判断して、少なくとも五万ルーブリはその生活にかけていると思われたバルトニャンスキイが、このことについて、昨日彼におもしろいことをいった。
正餐《せいさん》の前に話しこんでいて、ステパン・アルカジエヴィッチは、バルトニャンスキイにこういった。
「きみはたしか、モルドヴィンスキイと近しくしていたね、だからどうかひとつ、ぼくのために、ひと言口ぞえを願いたいんだがね。じつは、ぼくのねらっている地位があるんでね。代理店の一員なんだが……」
「しかし、ぼくはだめだよ、すぐ忘れてしまうから……だが、きみはなんだってまた、そんなユダヤ人ふぜいの鉄道事業なんぞに目をつけるんだね?……なんといったって、いやなことだからね」
ステパン・アルカジエヴィッチは、それが生きた事業であることを彼にはいわなかった――バルトニャンスキイには、それはわからないだろうと思われたので。
「金がほしいんだよ、生活のしようがないんでね」
「だって、そのとおり生活しているじゃないか?」
「生活はしている。しかし借金がね」
「なに、きみが? たくさんあるのか?」とバルトニャンスキイは、同情のおももちでいった。
「非常にたくさんだ。二万ばかり」
バルトニャンスキイは、快活に哄笑《こうしょう》した。
「おお、幸福な男よ!」と彼はいった。「ぼくなんか百五十万からの借金だぜ、しかもそのうえ、無一物さ。それでもごらんのとおり、まだ生活は可能だからね!」
そしてステパン・アルカジエヴィッチは、単に言葉の上だけでなく、事実の上で、その正しいことを見てとった。ジヴァーホフは三十万の借金をもっていて、一カペイカも持たないでも、やはりちゃんとして生きている、しかも、りっぱに生きている! またクリーフツォフ伯爵は、とっくに社会から葬りさられながら、ふたりまで女をかこっている。ペトローフスキイは、五百万も蕩尽《とうじん》してしまいながら、依然として同じような生活をしているばかりか、大蔵省に勤務して、二万ルーブリからの俸給をとっている。しかしこればかりではなく、ペテルブルグは、肉体的にもステパン・アルカジエヴィッチに、快い影響をもたらした。それは彼を若返らせた。モスクワでは彼は、ときどき白髪を見つけたり、食後には居眠りをしたり、背のびをしたり、階段を一歩一歩、苦しそうな息をつきながらのぼったり、若い女といっしょにいてもたいくつを感じたり、舞踏会でも踊らなかったりすることがあった。が、ペテルブルグでは、彼はいつも十年は若返るのを感じた。
彼はペテルブルグでは、つい近ごろ外国から帰って来たばかりの、六十歳の老人のピョートル・オブロンスキイ公爵が、昨日彼に話したのと同じことを経験するのであった――
「われわれは、ここではどうもうまく生活ができんよ」と、ピョートル・オブロンスキイはいうのだった。「きみは信じてくれないかしらんが、わたしはひと夏バーデンで暮らしたところが、どうだろう、じっさい、自分がまるで若者になったような気がしたんだよ。若い女を見ると、気持がこう……食事のときにちょっと一杯ひっかけても――力と勇気がわいてくる。ところが、ロシアへ帰ってくると、家内のところへも行かにゃならん、田舎へも行かにゃならんというわけで――どうだろう、まるでうそのようだが、二週間もすると、もうガウンを着たきりで、食事のときに着がえなんかしなくなってしまった。若い女のことなんか考えるどころか、すっかり老人になってしまってさ。ただもう、後生を願うよりほかはないというありさまだ。もっとも、これでまたパリあたりへでもくりだせば――またもとどおりになるだろうがね」
ステパン・アルカジエヴィッチは、ピョートル・オブロンスキイとまったく同じ気分の相違を感じた。モスクワでは、すっかり気がなえてしまって、じっさい、もし長くそこに住んでいたら、それこそ、後生《ごしょう》願いをはじめるようなことになってしまったかもしれぬが、ペテルブルグでは、彼は自分をふたたびりっぱに一人前の人間として感ずるのだった。
公爵夫人ベーッシ・トゥヴェルスコーイとステパン・アルカジエヴィッチとのあいだには、久しい以前からはなはだ奇妙な関係ができあがっていた。ステパン・アルカジエヴィッチはいつも冗談半分に彼女をつけまわしては、やはり冗談半分に、はなはだいかがわしいことを、それが何より彼女の気にいることを知っていて、しゃべりちらした。カレーニンと例の談判をやった翌日、ステパン・アルカジエヴィッチは彼女のもとへたちよって、すっかり若返った気持になり、例の冗談半分のごきげん取りのうちに、ついうかうかと深入りして、もうひっ返しのつかぬようなはめにおちいってしまった。というのは、不幸にも彼は、彼女を好かなかったという以上に、むしろきらっていたからであった。ところが、それがそんなふうになってしまったのは、彼のほうが非常に彼女の気にいっていたからであった。そんなわけだったから、おりよくそこへミャーフキイ公爵夫人が訪ねてきて、苦しいふたりのさしむかいを中絶させてくれたのを、彼は非常に喜んだのであった。
「まあ、あなたもこちらにいらしたのですね」と、彼女は彼を見ていった。「ときに、あのお気の毒なお妹さんはどうしていらして? あら、そんなにわたくしを見ないでくださいましよ」と彼女は言いたした。「世間の人が、あのかたより千倍も万倍もよくない世間の人が、あのかたを攻撃しだしたときから、わたくしはあのかたのなすったことが、りっぱなことであるのを知っておりますよ。で、わたくしは、あのかたがペテルブルグへいらしたときに、それをウロンスキイがわたくしに知らせてくれなかったのを、許すことができませんの。わたくしはあのかたをお訪ねして、どこへでもおともしたんですのに。どうぞね、あのかたにわたくしの愛をおつたえくださいましな。さあ、あのかたのことをお話しくださいまし」
「ええ、あれはいま非常に苦しい境遇にいるんでしてね、あれは……」とステパン・アルカジエヴィッチは、ミャーフキイ公爵夫人の「あなたのお妹さんのことをお話しくださいまし」という言葉を、もちまえの単純な心から真に受けて、話しはじめた。と、ミャーフキイ公爵夫人は、いつものくせで、すぐに彼をさえぎって、自分から話しはじめた。
「あのかたは、わたくし以外のだれもが、こっそりとかくれてしていることを、なすったにすぎませんわ。けれどもあのかたは、うそをつくことをきらって、りっぱにやっておのけになったのですわ。あのかたが、あのおばかさんのあなたの義弟さんをお捨てになったのは、いっそうりっぱな態度でしたわ。失礼なことをいってごめんなさいね。世間ではだれもがあのひとのことを、賢い賢いといっていましたけれど、わたくしだけは、おばかさんだと申していましたのよ。それが、今になって、あのひとがリディヤ・イワーノヴナや Landau(ランドウ)と結びついたのを見て、みんなはあのひとをうすばかだなんて言いだしてきたんですよ。で、わたくしは、そんな世間のうわさには同意したくないのがやまやまなんですが、こんどだけは、それができませんの」
「そうですか、ではどうかひとつ、ぼくに説明してくださいませんか」とステパン・アルカジエヴィッチはいった。「これはいったい、どういう意味でしょう? 昨日ぼくの妹のことであの男のところへ行き、例の確答を求めたんですがね。あの男は返事はしないで、よく考えておくなんて言いながら、今朝になって、返事のかわりに、今晩伯爵夫人リディヤ・イワーノヴナのところへくるようにという招待をよこしたんです」
「ああ、それ、それ!」とミャーフキイ公爵夫人は、うれしそうな調子でいった。「あのひとたちはね、きっとランドウの意見をきくんですよ」
「どうして、ランドウに? なんのために? いったいそのランドウというのはなんですか?」
「まあ、あなたはジュール・ランドウをごぞんじないんですって? le fameux Jules Landau, le clairvoyant?(あの有名なジュール・ランドウを、あの千里眼を?)それもやはりうすばかみたいな男ですがね。けれど、あなたのお妹さんの運命は、その男の手中にあるんですよ。あなたがなんにもごぞんじないのも、やっぱり田舎生活のおかげですね。ランドウはあなた、パリのある店の commis(店員)だったんですが、あるときお医者へまいりましてね。その応接間で眠ってしまって、夢の中でそこにいた病人たちに、いちいち忠告しはじめたということなんです。ところが、それが驚くべき忠告でしてね。それからユーリー・メレディンスキイ――ごぞんじでしょう。あの病人の?――あのひとの奥さんがこのランドウのことを知って、彼をご主人のために呼んだんですよ。それであの男は、そのご主人をなおしているんです。わたくしなんかから見ますと、なんの験《ききめ》もありはしないんですがね。なぜって、メレディンスキイはあいかわらずひよわで、ぶらぶらしているんですもの。けれど、あのひとたちはあの男を信じて、あちこちひっぱりまわし、そしていっしょにロシアに連れて来てしまったのです。と、ここでもみんなが争って見てもらいに行くので、あの男はだれかれなしに治療をはじめてしまいました。ベッズーボフ伯爵夫人なんか、病気がなおったというので、すっかりあの男にほれこんでしまい、とうとう養子にしてしまったんですわ」
「養子にしたんですって?」
「ええ、養子にしたんですよ。で、あの男は今ではもうランドウではなくて、ベッズーボフ伯爵ですわ。でも、これはどうでもいいので、大事なことはリディヤが――わたしは非常にあのひとを愛しているんですけれど、あのひとの頭はどうかしていますのよ――当然のことながら、今ではこのランドウにうちこんで、あの男がいなくては、あのひとのところでも、アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチのところでも、何ひとつ決まらないというさわぎなんです。ですから、あなたのお妹さんの運命も、今ではこのランドウ、またの名ベッズーボフ伯爵の手中にあるというわけになるんですわ」
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二十一
バルトニャンスキイのところで、すばらしいごちそうになり、多量のコニャックを飲んだあとで、ステパン・アルカジエヴィッチは、指定された時間に少し遅れて、伯爵夫人リディヤ・イワーノヴナのもとへおもむいた。
「夫人のところにはほかにだれが来ているね? フランス人かね?」とステパン・アルカジエヴィッチは、アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチの見なれた外套と、もうひとつの、異様な素朴《そぼく》な、ホックどめの外套とを見て、玄関番にたずねた。
「アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチ・カレーニンと、ベッズーボフ伯爵とでございます」と、玄関番は厳格な調子で答えた。
『ミャーフキイ公爵夫人はうまく言いあてたな』とステパン・アルカジエヴィッチは、階段へ足をかけながら考えた。『ふしぎなことだ! しかしとにかく、この女と親しくなっておくのはわるくないて。なにしろ大した勢力家だからな。この女がポモールスキイにひと言でも口ぞえしてくれたら、それこそもうしめたものだ』
戸外はまだ完全に明るかったが、窓かけのおろされた伯爵夫人リディヤ・イワーノヴナの小さい客間には、ランプがともされていた。
ランプの下のまるいテーブルをかこんで、伯爵夫人とアレクセイ・アレクサーンドロヴィッチとが、なにやら静かに話しながら、掛けていた。女のような骨盤と、膝のところで内がわにまがった足とをもった、あまり背の高くない、やせこけた、ひどく青白いととのった顔にきらきらと光る美しい目をして、フロック・コートのえりまで長髪をたれたひとりの男が、肖像のかかった壁のほうを見ながら、向こうの端のほうに立っていた。女主人とアレクセイ・アレクサーンドロヴィッチとにあいさつをすますと、ステパン・アルカジエヴィッチはついもう一度、その見知らぬ男のほうを見やらないではいられなかった。
「Monsieur Landau!(ランドゥさん)」と伯爵夫人は、オブロンスキイをびっくりさせたほどのもの柔らかさと注意ぶかさとをもって、彼に呼びかけた。そして、ふたりをひきあわせた。
ランドウは急いでふり向き、そばへ来るとにこにこしながら、ステパン・アルカジエヴィッチのさしだした手のなかへ、その動かない汗ばんだ手をおいたが、と、すぐまたもとへひっ返して、肖像をながめはじめた。伯爵夫人とアレクセイ・アレクサーンドロヴィッチとは、意味ありげに目を見かわした。
「お目にかかれてたいへんうれしゅうございます。わけても今夜は」と伯爵夫人リディヤ・イワーノヴナは、ステパン・アルカジエヴィッチにカレーニンのそばの席をさしすすめながら、いった。「わたくしはあなたにあのかたを、ランドウといってご紹介申しあげました」と彼女は、フランス人のほうを見、それからすぐにアレクセイ・アレクサーンドロヴィッチのほうを見て、静かな声でいった。「けれどあのかたは、たぶんごぞんじでいらっしゃいましょうけれど、ほんとうはベッズーボフ伯爵でいらっしゃいます。ただ、あのかたがそういう称号をおきらいになるものですから」
「ええ、うけたまわっております」と、ステパン・アルカジエヴィッチは答えた。「なんでもあのかたは、ベッズーボフ伯爵夫人のご病気をすっかりなおされたというお話で」
「あのかたは今日わたくしどもへお見えになりましたがねえ、まったくおかわいそうでございましたわ!」と伯爵夫人は、アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチのほうを向いていった。「こんどのお別れは、あの女《かた》にとっては、ずいぶんつらいことなんですからね。あの女《かた》にとっては、これはたいへんな打撃なんですから」
「では、あのひとはほんとうに立ってしまうんですか?」と、アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチはたずねた。
「ええ、パリへお帰りになるんですわ。あのかたは昨日、お告げをお聞きになったんですって」と伯爵夫人リディヤ・イワーノヴナは、ステパン・アルカジエヴィッチのほうを見ながらいった。
「ああお告げですか!」とオブロンスキイは、それにたいして自分がまだ鍵をもたない、特別な何かがすでに起こっているか、あるいは起こらなければならないはずのこうした社会では、できるだけ用心ぶかくしていなければならないことを感じながら、こうおうむ返しにいってしまった。
瞬間的の沈黙がおとずれ、そのあとで伯爵夫人リディヤ・イワーノヴナは、これから話の主題にはいるといったような調子で、微妙な微笑をうかべながらオブロンスキイにいった。
「わたくしはもうとうから、あなたをぞんじあげておりましたので、こうして近くおつき合いするのは何よりうれしゅうございますの。Les amis de nos amis sont amis.(わたくしのお友だちのお友だちは、やっぱりお友だちですものね)しかし、お友だちになるためには、お友だちの心のなかにまでたちいって考えなければならないものですが、それをあなたは、アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチにたいしてなすっていらっしゃらないのではないかと、わたくし思っておりますの。あなたはわたくしがなんのことを申しあげているか、おわかりでございましょうね」と彼女は、その美しい、考え深そうな目をあげていった。
「そりゃ奥さん、ぼくだって、アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチの境遇のいくぶんは理解しておりますよ……」とオブロンスキイは、なんのことだかよくわからなかったので、いいかげんなところでお茶をにごしておきたいと思いながら、こういった。
「変わったのは外面的の境遇ではございません」と伯爵夫人リディヤ・イワーノヴナは、きっとした調子でいったが、同時に情のこもった目つきで、立ちあがってランドウのほうへ行ったアレクセイ・アレクサーンドロヴィッチのあとを追うのだった。「あのかたのお心が変わったのです。つまりあのかたには、新しいお心があたえられたんですよ。で、わたくしが恐れているのは、あなたがあのかたの心のなかにおこったこの変化を、よくお考えになっていらっしゃらないのではないかということなのでございます」
「ですが、だいたいのところなら、ぼくもその変化を想像することができます。われわれはこれまでずっと親密にしていたのですし、今だっても……」とステパン・アルカジエヴィッチは、夫人の目つきにたいして優しいまなざしで答えながら、ふたりの大臣のうちのどちらへ口ぞえを頼んだらいいかを知るために、彼女がその大臣のどちらとより親しくしているだろうかと考えながら、いった。
「あのかたのお心におこった変化は、近いものにたいするあのかたの愛情を弱めるようなことはございません。それどころか反対に、あのかたのお心におこった変化は、その愛を強めているはずでございます。ですけれど、あなたは、わたくしの申していることがおわかりになっていらっしゃらないのではないでしょうか。いかがでございます、お茶は?」と彼女は、盆《ぼん》ごとお茶をさしだしている従僕のほうを目で示しながら、いった。
「そりゃ十分とは申しかねますがね、奥さん。もちろん、あのひとの不幸は……」
「ええ、その不幸、それがいと高い幸福になりましたんですわ、あのかたのお心が一新されて、神さまでいっぱいになりましたときに」と彼女は、ステパン・アルカジエヴィッチの顔にほれぼれと見いりながらいった。
『これならどうやら、両方へ口ぞえを頼んでもよさそうだぞ』とステパン・アルカジエヴィッチは考えた。
「ええ、もちろんです。奥さん」と彼はいった。「しかし、こういう心の変化は、非常に内密なものですから、だれしも、どんなに親密にしている人でも、口に出すことを好まないんじゃないでしょうか」
「いいえ、それは反対ですわ! わたくしどもはお互いにうちあけあって、力になりあわなければなりませんもの」
「そうです。もちろん。しかしそこには、信念の相違というものもありますし、そのうえ……」とオブロンスキイは、柔らかい微笑をうかべていった。
「神聖な真理の問題に、信念の相違なんかあるはずがございませんわ」
「ええ、そうです。もちろん、しかし……」とどぎまぎして、ステパン・アルカジエヴィッチは黙ってしまった。彼は、その話が宗教にかんしていることを、はじめてさとったのであった。
「どうやらもうすぐ眠られそうですよ」と、リディヤ・イワーノヴナのそばへ近づきながら、アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチが意味ありげなささやき声でいった。
ステパン・アルカジエヴィッチはふり返った。ランドウは窓ぎわの肘掛けいすの背にもたれて、肘づえをつき、頭をたれて腰掛けていた。自分のほうへ向けられたみんなの視線に気がつくと、彼は頭をもたげて、子供のように無邪気な微笑をうかべた。
「どうぞお気になさらないで」リディヤ・イワーノヴナはこういって、軽い動作でアレクセイ・アレクサーンドロヴィッチのほうへいすをすすめた。「わたくしはね……」と彼女が何やら言いかけたところへ、従僕が手紙を持って部屋へはいって来た。リディヤ・イワーノヴナはすばやくそれに目を通すと、ちょっと失礼をわびておいて、非常な早さで返事を書き、それを渡して、テーブルのほうへもどって来た。「わたくしはね」と彼女は、はじめかけていた会話をつづけた。「モスクワのかたがた、ことに男のかたがたが、宗教にたいしてたいへん冷淡だということに気がつきましたの」
「いや、それは違いますよ、奥さん。モスクワ人は最も堅実だというのが定評のように思いますがね」とステパン・アルカジエヴィッチは答えた。
「そう、しかしわたしの解するかぎりでは、あなたなんかも、遺憾ながら冷淡な人たちのひとりですね」と疲れたような微笑をうかべて、彼のほうを向きながら、アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチが口をはさんだ。
「どうして冷淡でなんかいられるのでしょうね!」とリディヤ・イワーノヴナはいった。
「この問題では、ぼくは冷淡というわけではありませんよ、ただ待機中だというだけですよ」とステパン・アルカジエヴィッチは、もちまえの人の心をやわらげないではおかぬような微笑をうかべながらいった。「ぼくにとっては、それを問題にするときがまだきていないような気がしているのです」
アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチとリディヤ・イワーノヴナとは目を見あわせた。
「われわれはいつになったって、われわれのためにそういうときがきたかどうか、ということを知ることはできませんよ」とアレクセイ・アレクサーンドロヴィッチは、きっとなっていった。「われわれは、自分たちに用意ができているかいないかなんてことを、考えてはならないのです――神のみ恵みは、人間の考えによってみちびかれるものではなく、ときとすると、よく勤める人の上にも落ちてこないことがあり、またサウラの場合のように、なんの用意もしていない者の上にもくだることがあるのだから」
「ああ、まだいけないようでございますわね」と、そのあいだフランス人の動作に目をつけていたリディヤ・イワーノヴナはいった。ランドウは立ちあがって、彼らのほうへ近づいて来た。
「お話をうかがってもよろしいでしょうか?」と彼はたずねた。
「ええええ、よろしゅうございますとも。わたくしはただ、あなたのおじゃまをしたくないと思って」と、優しい目つきで彼を見ながら、リディヤ・イワーノヴナはいった。「どうぞお掛けくださいまし」
「光を見失わないようにするためには、人間はただ、目を閉じないようにしていればいいのですよ」と、アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチはつづけた。
「ああ、もしもあなたが、自分の魂のなかにいつも神さまがいてくださることを感じながら、わたくしどものあじわっているこの幸福を、知ってくださいましたらねえ!」と幸福そうにほほえみながら、伯爵夫人リディヤ・イワーノヴナはいった。
「しかし、人間というものは、どうかすると、そういう高さへのぼる能力が、自分にないような気のすることもあるものですからね」とステパン・アルカジエヴィッチは、そうした宗教的の高みを認めるのが、自分の本心をゆがめることであるのを感じながら、同時にまた、ポモールスキイにたいするひと言で、自分の望んでいる地位をあたえてくれる力のある貴婦人の前で、自分の自由思想を表明することにちゅうちょを感じながら、いった。
「つまりあなたは、罪が障害になるからとおっしゃりたいのでございましょう?」と、リディヤ・イワーノヴナはいった。「しかし、それはまちがったお考えでございますよ。信ずる者にとっては、罪というものはありません、罪はもう償われているのですから。Pardon(ごめんあそばせ)」と彼女は、また別の手紙を持ってはいって来た従僕のほうを見ながら、言いたした。彼女はそれを読んで、口頭で返事をした。「明日大公妃のお邸で……そういってちょうだい……信ずる者にとっては、罪というものはありませんわ」と彼女は話をつづけた。
「そうです。しかし、行為をもたぬ信仰は死ですからね」とステパン・アルカジエヴィッチは、教理問答のなかの一句を思いだして、もはやただ微笑だけで自分の独立を守りながら、いった。
「ほらまた、ヤコブの使徒伝の一節が出ましたよ」とアレクセイ・アレクサーンドロヴィッチは、いくらかなじるような口調で、リディヤ・イワーノヴナのほうへ顔をむけていった。明らかにそれは、彼らがすでにたびたび話しあった問題であるらしかった。「この一節の誤った解釈は、どれほど弊害をかもしているかもしれませんよ! この解釈くらい、人を信仰から遠ざけるものはありませんからね。『わたしにはなすべきことがない。だから信ずることができない』なんて、そんなことは、どこにだっていわれてはありませんよ。いわれているのは、ぜんぜん反対なくらいです」
「神のために勤労する、勤労により、精進によって魂を救う」と、嫌悪《けんお》にたえないような軽蔑の色を見せて、伯爵夫人リディヤ・イワーノヴナはいった。「これはわが国の修道士たちの野蛮な解釈ですわ……そんなことは、どこにだっていわれてはありません。そんなことは、はるかに簡単で容易なことですわ」と、彼女は宮中で、新しい周囲のためにすっかり度を失っている若い女官をはげますときにうかべると同じ、はげますような微笑をうかべて、オブロンスキイを見ながらつけくわえた。
「われわれは、われわれのために苦しみを受けてくだすったキリストによって救われるのです。われわれは信仰によって救われるのです」と、目つきで彼女の言葉をはげましながら、アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチは言葉をあわせた。
「Vous comprenez l'anglais?(あなたは英語はおわかりですね?)」リディヤ・イワーノヴナはこうたずねて、わかるという返事を聞くと、立ちあがってたなの上の書物を選びはじめた。「わたくしね、Safe and Happy(安全と幸福)か、Under the wing(つばさの下)を読んでみたいと思うのですけれど?」こう彼女は、たずねるように、ちらとカレーニンのほうを見て、いった。そして、書物を見つけてもとの座へもどると、それを開いた。「ほんの短いものでございますけれどね。ここには信仰に達する道程や、そのときに魂をみたしてくれる、地上のあらゆる幸福を超越した幸福のことが書いてございますのよ。信ずる者が不幸でなんかいられるはずはありませんわ。なぜって、その人はもうひとりではないのですもの。まあ、いまにおわかりになりますわ」と、彼女が読みにかかろうとすると、また従僕がはいって来た。
「ボローズディンの奥さま? 明日の二時にといってちょうだい。そう」と彼女は、書物のある個所に指をおいて、太息とともに、そのもの思いに沈んだような美しい目で、自分の前を見つめながらいった。「まことの信仰というものは、これだけの働きをもつものなんですのよ。あなたはサーニナ・マリイをごぞんじですか? あのひとの不幸をごぞんじですか?――あのひとは、たったひとりのお子さんをなくしておしまいになりました。あのひとは絶望してしまいました。それがまあどうでしょう? あのひとはこの友を見いだしたので、今では、わが子の死を神に感謝していらっしゃいます。つまり、これこそ、信仰のあたえる幸福なんでございますよ」
「ああ、そうです、それは非常に……」と、ステパン・アルカジエヴィッチは、相手がこれから本を読んで、いくらかでも自分に考えをまとめる余裕をあたえてくれそうなのに満足しながら、いった。『いや、今日はもう何も頼まないほうがよさそうだ』と彼は考えた。『それより、|へま《ヽヽ》をやらないうちに早く退却することだ』
「あなたはおたいくつなさいますでしょうね」と伯爵夫人リディヤ・イワーノヴナは、ランドウのほうをむいていった。「あなたは英語をごぞんじないんですから。でも、これは短いんでございますからね」
「いいえ、わたくしもわかるでしょう」と前と同じ笑顔でいって、ランドウは目をつぶった。アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチとリディヤ・イワーノヴナとは、意味ありげに目を見かわした。そして朗読がはじめられた。
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二十二
ステパン・アルカジエヴィッチは、そこで聞かされた耳新しいふしぎな言葉によって、すっかり面くらったような気分になっていた。ペテルブルグ生活の複雑みは、モスクワ生活の沈滞から彼をひき出しながら、概して刺激的な作用をあたえた。自分に近い、なじみのある範囲内では、彼もこの複雑みを愛しかつ理解していたのであるが、この不案内な世界にあっては、ただ当惑混乱するだけで、すべてを理解することはできなかった。伯爵夫人リディヤ・イワーノヴナの朗読に耳をかたむけながら、自分の上にそそがれているランドウの、美しい、無邪気な、あるいは欺瞞的な――よくはわからなかったが――目を感じながら、ステパン・アルカジエヴィッチは、頭のなかに何か重苦しい気分を感じはじめていた。
彼の頭のなかでは、きわめて複雑な想念がいり乱れていた。『マリイ・サーニナは、自分の子供の死んだことを喜んでるって……今ちょっとたばこがすえるとありがたいがなあ……救われるためには、ただ信じさえすればいいのだ、修道士たちは、それをどうしたらいいか知らないでいるのに、伯爵夫人リディヤ・イワーノヴナは知っているんだ……だがどうして、おれはこう頭が重いんだろう? コニャックのせいかな、それともあんまり変なことばかり聞いているせいかな? が、まあとにかく、おれも今までは無作法なことはしなかったようだ。しかし、どのみち、もうこの女《ひと》に頼むことはできん。人のうわさでは、このひとたちは、なんでもかでも祈らせようとするそうだ。どうかして、そんな目にはあいたくないものだな。あんまりばかばかしすぎるからな。それはそうとこの女《ひと》は、なんてくだらないものを読んでるんだろう。だが、発音はなかなかうまいや。ランドウが――ベッズーボフだなんて、どうしてあの男がベッズーボフなんだ?……』
とつぜん、ステパン・アルカジエヴィッチは、下あごが動きだしてあくびが出そうになったのを感じた。彼はそのあくびをかくすために、ほおひげをなでて、身ぶるいした。が、そのあとからすぐ、自分がもうとろとろになり、いびきをかきそうになっているのを感じた。と、その瞬間、「お眠りになりましたよ」という伯爵夫人リディヤ・イワーノヴナの声に、はっとわれにかえった。
ステパン・アルカジエヴィッチは、ひどくすまないような、罪をあばかれたような気持を感じながら、ぎょっとしてわれにかえった。が、その「お眠りになりましたよ」という言葉は、彼のことではなくランドウのことだったのを知って、すぐにほっとした。フランス人も、ステパン・アルカジエヴィッチと同じように眠っていた。ところが、ステパン・アルカジエヴィッチの眠りは、彼の考えたところでは、彼らの気をわるくしたであろうが、(もっとも、彼はそれもそうはっきり考えたのではなかった。それほどすべてのことがふしぎに思われたのであった)ランドウの眠りは、非常に彼らを喜ばせた。ことに伯爵夫人リディヤ・イワーノヴナを喜ばせた。
「Mon ami(わが友)」とリディヤ・イワーノヴナは、きぬずれの音をたてないように、絹服のひだを注意してかかげながら、興奮のあまりカレーニンを、もうアレクセイ・アレクサーンドロヴィッチでもなく、『わが友』と呼びながらいった。「Donnez lui la main. Vous voyez?(あのかたにお手をあげてちょうだいな、おわかりでしょう?)しっ!」と彼女は、またしてもはいって来た従僕を制した。「今はお会いしません」
フランス人は、肘掛けいすの背に頭をもたせて、眠っていた。あるいは眠っているふりをよそおっていた。そして、膝の上においた、汗ばんだ片手で、あたかも何かをつかもうとするような、弱々しい動作をしていた。アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチは立ちあがると、気をくばっていながら、テーブルの端へひっかかって、そのそばへ歩みより、自分の手をフランス人の手のなかへおいた。ステパン・アルカジエヴィッチも同じく立ちあがり、大きく目をみはって、もしまだ眠っているのだったら、早く目をさましたいと思いながら、しきりにあれを見たりこれを見たりしていた。ところが、これはすべて現実の出来事であった。ステパン・アルカジエヴィッチは、自分の頭がしだいしだいに変になっていくような気がしていた。
「Que la personne qui est arrivee, la derniere, celle qui demande, qu'elle sorte, qu'elle sorte!(最後に来た人、疑いをはさんでいるその人を追い出せ。追い出せ!)」と、フランス人は目を閉じたままで言いだした。
「Vous m'excuserez, mais vous voyez……Revenez vers dix heures, encore mieux demain.(すみませんが、このとおりですからね――十時にまたおいでくださいまし。明日ならぱなおけっこうです)」
「Qu'elle sorte!(追い出せ!)」と、フランス人はいらだたしくくりかえした。
「C'est moi, n'est ce pas?(ぼくのことでしょう。違いますか?)」こうきいて、そうだという返事を受け取ると、ステパン・アルカジエヴィッチは、リディヤ・イワーノヴナに頼もうと思っていたことも忘れ、妹の用件も忘れてしまい、一刻も早くここを逃げだしたいという欲望だけをもって、つまさき立ちで、まるで疫病にとりつかれた家からでも逃げだすように、往来へとびだした。そして、少しも早く気分をなおしたいと思って、長いこと御者を相手に、しゃべったりふざけたりした。
フランス劇場へ行って、やっと最後の幕にまにあい、それからダッタン人のところでシャンペンの杯を前にして、そこではじめてステパン・アルカジエヴィッチは、自身に適した空気のなかで、いくらかほっとする思いをした。しかし、やっぱりその晩は、はなはだどうも気分がさっぱりしなかった。
ペテルブルグでの宿にしているピョートル・オブロンスキイの宅へ帰って来て、ステパン・アルカジエヴィッチは、べーッシからの手紙を見つけた。彼女は彼に、はじめかけた話をぜひぜひ片づけてしまいたいから、明日来てくれるようにと書いていた。彼がやっとその手紙を読みおえ、それにたいして眉をひそめているところへ、階下のほうで何か重いものでも持ち運ぶらしい人たちの、どしどしという重い足音が聞こえてきた。
ステパン・アルカジエヴィッチは、様子を見に部屋を出て行った。それは若返ったピョートル・オブロンスキイであった。彼は、階段をあがることもできないほどに酔っぱらっていたのだったが、ステパン・アルカジエヴィッチを見ると、立たせろと命じて、彼にしがみつき、いっしょに彼の部屋へはいって来て、そこで彼に、どうしてひと晩を過ごしたかという話をしだして、やがてそのまま寝いってしまった。
ステパン・アルカジエヴィッチは、彼にはめったにないことであるが、ひどく気がめいって、長いこと寝つくことができなかった。思いだすことがすべて、何から何までいまわしかったが、なかでも一ばんいまわしく、まるで何か恥ずべきことのように思いだされたのは、伯爵夫人リディヤ・イワーノヴナのところで過ごしたこの晩のことであった。翌日彼は、アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチから、アンナの離婚問題にたいするきっぱりとした拒絶の返事を受け取った。そして、その決定が、昨日フランス人がほんとうとも、うそともわからない眠りのなかでいったことに根ざしているものであることをさとった。
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二十三
家庭生活において何かを計画するためには、夫婦のあいだに完全な分裂か、あるいは愛の一致かがなければならない。夫婦の関係があいまいで、どっちつかずでいる場合には、どんな計画も、実行されるものではないのである。
世のなかには、夫にも妻にもいとわしい生活を、そのまま何年でもつづけてくりかえしている家庭がかなりあるが、それはみな、完全な破裂も一致もないからにほかならないのである。
太陽がもう春らしさを失って、夏らしい光をみなぎらし、並木街の木という木は、もうとうにすっかり葉をつけて、その葉がすでにほこりにおおわれてしまったとき、炎熱と塵埃《じんあい》のなかのモスクワ生活は、ウロンスキイにとっても、アンナにとっても、堪えがたいものであった。それでいながら彼らは、もうずっと以前に決定したヴォズドゥヴィジェンスコエ行きを実行しないで、ふたりともいやでならないモスクワに、だらだらと住みつづけていた。それは、最近彼らのあいだに一致がなくなっていたからである。
彼らをはなればなれにしたいらだたしさは、なんらの外部的原因をもっていなかった。そして、その気持をとこうとするいっさいの試みも、単にそれを払いのけないばかりでなく、かえって大きくするばかりであった。それは、彼女にとっては、彼の愛の減退にもとづく内部的ないらだたしさであり、彼にとっては、彼女のために自分がこうした苦しい境遇に身をおいたということにたいする悔恨であった。しかも彼女は、それを軽くしようとしないどころか、かえっていっそう苦しいものにしているのである。ふたりはいずれも、自分のいらだたしさの原因を、口にこそ出さなかったが、互いに相手を正しくないものと考えて、口実のありしだいそれを証明しあおうとつとめるのだった。
彼女にとっては、彼のすべて、すなわちあらゆる習慣、あらゆる想念、あらゆる希望、あらゆる精神的および肉体的の特徴が、ただひとつのもの――女にたいする愛であった。そしてこの愛は、彼女の感情によると、すべて彼女ひとりの上に集中されなければならないものであった。ところが、その愛が減退した。したがって、彼女の判断によれば、彼はその愛の一部を他の何人か、もしくはひとりの女にうつしたのにちがいない。――こう考えて、彼女は嫉妬した。つまり、彼女が彼を嫉妬したのは、だれかひとりの女にたいしてではなく、彼の愛の減退にたいしてであった。そして、まだ嫉妬の対象をもたないところから、彼女はそれをさがし求めた。ほんのちょっとした暗示によって、彼女は自分の嫉妬を、ひとつの対象から他の対象へとうつした。あるときは、彼が独身時代に交渉のあったおかげでたやすく関係をつけることのできるいやしい女たちのことで嫉妬し、あるときは、彼がどこででも自由に会うことのできる社交界の女たちのことで嫉妬し、またあるときは、彼が彼女との関係をたって結婚したいと思っている仮想の処女のことで嫉妬したりした。そしてこの最後の嫉妬が、なかでも最も彼女を苦しめた。というのはとくに、彼の母が少しも彼を理解していなくて、彼に、あのソローキン公爵令嬢との結婚をすすめたりすると、いつぞやお互いにうちとけたときに、彼がついうかうかと口をすべらしたことがあったからである。
こうして彼を嫉妬しながら、アンナは彼にたいして憤懣《ふんまん》をいだき、あらゆることにその憤懣の根拠を求めた。そして、自分の境遇の苦しさのすべてを、彼ひとりの罪に帰した。この天地の間にあって、彼女がモスクワで経験したつらい苦しい期待の状態、アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチの因循《いんじゅん》と不決断、自分の孤独――こういったものをすべて、彼女は彼の罪に帰したのである。もし彼が彼女を愛しているのだったら、まず何はおいても、彼女の境遇の苦しさを理解して、そのなかから救いだしてくれるはずである。彼女が、田舎でなくモスクワで暮らしているということも、やはり彼の罪であった。彼は、彼女が望んだように、田舎にうずもれて暮らすことができなかった。彼には、交際社会が必要だったので、彼は彼女を、こうした恐ろしい境遇におきながら、その苦しみを理解しようともしなかった。それどころか、彼女が永久に自分の子供と別れてしまったということも、やはり彼の責任だったのである。
たまにふたりのあいだを訪れる心のやわらいだ時期でさえも、彼女をおちつかせることはできなかった――今は彼の優しさのうちにも、以前には見なかった平静と自信の陰影をみとめて、それがまた彼女をいらだたせるのであった。
もうたそがれであった。アンナはただひとり、独身者の会食に行った彼の帰りを待ちながら、彼の書斎のなかを(往来の騒音がほとんど聞こえない部屋であった)あちこちと歩きながら、昨日の争いの一部始終をこまごまと思いかえしていた。たえずあとへあとへと、記憶に残っている争いの侮辱的な言葉から、その言葉の原因であったもののほうへと帰っていきながら、彼女はついにその話のきっかけへと行きついた。彼女は、この争いが、あんなに底意もなにもない、どちらの心にもかかわりのない会話からはじまったのだということを、長いこと信じることができなかった。けれども、じっさい、それはそのとおりであった。すべては、彼が女学校というものを嘲笑して、それを不要なものだといったのにたいし、彼女がそれを弁護したことからはじまったのだった。彼は、一般に女子教育というものを軽蔑して、アンナの保護を受けているハンナというイギリス少女などにも、物理学の知識はぜんぜん不必要だといったのである。
これがアンナをいらだたせた。彼女はこの言葉のうちに自分の仕事にたいする侮蔑的なあてこすりを見たのだった。で、自分にあたえられた苦痛にたいする応酬を考えて、それを口に出してしまった。
「わたしは、一般に愛している人がそれを理解するように、わたしというものやわたしの感情を、あなたに理解していただこうとは思っていませんでしたけれど、でも、単なるデリカシーだけは、もっていただけるものと思っていましたわ」こう彼女はいった。
と、じっさい彼も、憤怒《ふんぬ》からまっ赤になって、なにやら不快なことを口ばしった。彼女は自分が彼になんと答えたかは覚えていなかったが、ただそのとき何にたいしてだったか、おそらく、明らかに同じく彼女に痛いことをいってやりたいという気持からであろう、彼が、こういったのであった。
「ぼくはあの少女にたいするあなたのおぼれかたが不愉快なんだ。これは事実ですよ。だって、なんといってもそれは不自然ですからね」
自分の苦しい生活を堪えしのぶために、苦心に苦心をかさねて彼女が自分のためにようやく築きあげた世界を破壊しようとする彼のこの残酷と、彼女を虚偽だ不自然だといって責める彼のこの不条理とは、ついに彼女を爆発させたのである。
「わたしは、ほんとに残念だと思いますわ、ただ野卑《やひ》な、物質的なものだけが、あなたには理解されて、自然に見えるということが」彼女はこういって、ふいと部屋を出てしまった。
昨日、晩になって、彼が彼女のところへ来たときには、彼らはもう過ぎ去った争いのことは口にしなかったが、しかし彼らはふたりとも、争いはしずまってはいるけれども、まだ去ってしまったのではないことを感じていた。
今日は彼は終日うちにいなかった。で、彼女は彼との争いのなかにある自分を感じることが、いかにも寂しく、重苦しかったので、すべてを忘れ、許して、彼と和解したい心がせつにおこり、いつともなく自分を責めて、彼を弁護するような気持になった。
『わたし自身がわるいんだわ。わたしが怒りっぽいんだわ。無意味に嫉妬ぶかいんだわ……わたし、あのひとと仲なおりをしよう。そしてふたりで田舎へ行こう。田舎へ行けば、わたしももっとおちつけるから』こう彼女は自分にいった。
『不自然!』ふとまた彼女は思いだした。言葉そのものよりも、彼女に痛いことをいってやろうというその企みが、何ものよりも彼女を傷つけたことを思いだした。『あのひとのいおうとしたことはわかっているわ。あのひとは、こういおうとしたのだわ――自分の娘を愛さないで、他人の子を愛するのは不自然だって、いったい子供にたいする愛のことで、あのひとのために犠牲にしたセリョージャにたいするわたしの愛のことで、あのひとに何がわかっているだろう? とにかくあのひとは、わたしに痛いことが言いたかったのだわ! いいえ、あのひとはほかの女を愛しているんだわ。それはもう、そうにきまっている』
こうして、自分をおちつかせようと思いながら、もう何度となくまわった円をふたたび一周して、またしても自分が、以前のいらだたしさにもどってきたことに気がつくと、彼女は自分自身にたいしておぞけをふるった。『ほんとに、どうしてもだめなのだろうか? どうしても罪を自分にひきうけることはできないのだろうか?』こう彼女は自分にいって、また初めから出なおした。『あのひとは真実なひとだわ。あのひとは正直だわ。あのひとはわたしを愛している。わたしもあのひとを愛している。近いうちに離婚ができる。そのうえに何がいるだろう? 平静と信頼だわ。そしてわたしは罪を自分にひきうける。そうだ、いまにあのひとが帰って来たら、わたしがわるうございましたといおう、わたしにはべつに罪はないにしても。そしてわたしたちは田舎へ行こう』
そして、もうこれ以上考えたり、いらだたしさにとらわれたりしないために、彼女はベルを鳴らして、田舎行きの品々を入れるトランクを持ってくるように命じた。
ウロンスキイは十時に帰って来た。
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二十四
「いかがでした、おもしろいことがありまして?」と彼女は、顔にすまないような優しい色をうかべて、彼を出迎えながらたずねた。
「いつものとおりさ」と彼は、彼女をひと目見ただけで、そのきげんのいいのを知って、答えた。彼はもうこうした変化にはなれていたが、今日は、自分も非常な上きげんだったので、とくにそれがうれしかったのである。
「やあ、これはたいへんだね! いや、けっこうけっこう!」と彼は、玄関にあったトランクを指さしていった。
「ええ、どうしても、もう行かなければなりませんわ。わたしさきほど馬車で出かけたのですけれど、あんまりいい気持だったので、急に田舎へ行きたくなってしまいましたの。あなただってべつにおさしつかえはありませんわね?」
「いや、こちらも望むところさ。すぐあっちへ行って相談しよう。ちょっと着がえだけしてくる。お茶の支度をさせといてください」
そして彼は、自分の書斎へはいった。
彼がいった「いや、けっこうけっこう!」という言葉のなかには、子供がむずかるのをやめたときにいわれるような、ちょっと小ばかにしたようなひびきがあった。そのうえ、彼女のすまなさそうな調子と、彼の自信にみちた調子との対照は、いっそう屈辱的であった。で、彼女は一瞬間、自分の心に闘争欲がむらむらとおこってくるのを感じたが、一生けんめいに自分をおさえ、その気持をおし殺して、同じいそいそとした態度でウロンスキイを迎えた。
彼が彼女のところへひっ返してくると、彼女は彼に、一部分はあらかじめ用意しておいた言葉をくりかえしながら、その日のことや、出発にたいする自分の計画などを物語った。
「じつはねえ、まるで霊感とでもいうような気持が、わたしにおこったんですのよ」と彼女はいった。「なんだってここで離婚を待っているのでしょう? 田舎で待ったって同じことじゃありませんか? わたしはもうこれ以上待ってなどいられませんわ。わたしはもう、そんなことあてにしようとも思いませんの。離婚の話など、もう聞きたくもありませんわ。わたし、そんなことはもう、わたしの生活になんの影響ももたないだろうときめましたのよ。あなたも同意してくださるでしょう?」
「ああ、するとも!」と彼は不安そうに、彼女の興奮した顔を見ながらいった。
「それで、あなたはあすこで、何をしていらっしゃいましたの? どんなかたがたが、お見えになりましたの?」と彼女は、しばらく黙っていたあとでいった。
ウロンスキイは客の名をあげた。――「食事はすてきだったし、ボートレースもおもしろかったし、何もかもかなり愉快だったよ。だが、モスクワというところは、ridicule(おかしなこと)なしではすまないところだね。スウェーデン王妃の水泳教師だという変な女が出てきて、自分の芸を見せたりしたっけ」
「まあ? 泳いだんですか?」と、眉をひそめながらアンナはたずねた。
「なんだか変な赤い色の costume de natation(水泳着)を着た、年とった醜い女なのさ。それはそうと、じゃいつ出かけるね?」
「まあ、なんてくだらない思いつきでしょう! じゃなにかその女は、特別な泳ぎかたでもして見せましたの?」とアンナは、問いには答えないで、いった。
「べつに特別なことなんかありゃしない。だからいうのさ、恐ろしくばかげたものだって。それでおまえは、いつ出かけるつもりにしているんだね?」
アンナは、何か不快な考えでも追いはらおうとするように、頭を振った。
「いつにしましょうね? 早ければ早いほうがけっこうだけれど。でも、明日はまにあいませんわ。明後日にしましょうか」
「そうだね……いや、ちょっと待った、明後日はと――日曜日だね。日曜にはぼくはお母さんのところへ行って来なけりゃならないんだよ」と、ウロンスキイはどぎまぎしていった。というのは、母の名を口にしたとたん、じっとこらされた疑り深いまなざしを、自分の上に感じたからであった。彼のろうばいは、彼女の疑念を強めた。彼女はかっとなって、彼から顔をそむけてしまった。今はもうスウェーデン王妃の水泳教師ではなく、ウロンスキイ伯爵夫人といっしょにモスクワ郊外に住んでいるソローキン公爵令嬢が、アンナの想像にうかびあがった。
「そちらへは、明日だっていらっしゃれるじゃありませんか?」と、彼女はいった。
「ああ、だが、ちょっとつごうがわるいんだ。ぼくが出かけてゆく用件のことで、委任状と金が明日は受け取れないからね」と彼は答えた。
「そんならもう、田舎へは行かないことにしましょうよ」
「そりゃまたどうして?」
「それよりさきになるようなら、わたしもう、まいりませんわ。月曜日に行けばともかく、それでなければもう永久に!」
「どういうわけだね?」と、びっくりしたような調子でウロンスキイはいった。「まるで無意味な話じゃないか!」
「あなたにはそりゃ無意味でしょうよ。どうせあなたは、わたしなんかどうなろうと平気でしょうからね。だいたいあなたは、わたしの生活というものを理解しようとしてくださらないんですわ。わたしをここにひきつけていたのは、ただあのハンナだけですわ。それまであなたは、虚偽だなんておっしゃいます。だってあなたは昨日、わたしが自分の娘を愛さないで、あんなイギリス娘をかわいがるふりをしているのは、不自然だっておっしゃったじゃありませんか。じゃあわたしは、ここでどんな生活をしたら自然なんでしょう。それをうかがいたいと思いますわ」
一瞬間、彼女ははっとわれにかえって、われとわが心組みを裏切ったことに恐怖を感じた。が、われとわが身を滅ぼすものであると知りながら、いかにしても自分をおさえることができず、どんなに彼がまちがっているかということを、彼に示さないではいられなかった。彼に屈服することができなかった。
「ぼくはけっしてそんなことを言いはしなかった。ぼくはただ、そういうとっぴな愛には同感できないといったまでだ」
「どうしてあなたは、いつもご自分の率直を誇りながら、ほんとうのことをおっしゃいませんの?」
「ぼくはけっして誇りなんかしたことはないし、またけっしてうそなんか言いはしない」と彼は、むらむらとおこってくる激情をおさえながら、静かにいった。「ぼくは非常に残念だと思う。もしおまえがぼくを尊敬しないで……」
「尊敬なんてものは、愛があるべきはずの場所の空虚になったのをかくすために、考えつかれたものですわ……けれどもしあなたが、もうわたしを愛してくださらないのでしたら、はっきりそういってくださるほうが、よくもあれば正直でもありますわ」
「ああ、もうとてもがまんできない!」とウロンスキイは、いすから立ちあがりながら叫んだ。そして彼女の前につっ立って、ゆっくりゆっくりこういった。「なんのためにおまえは、ぼくの忍耐力をためそうとするのだ?」と彼は、もっともっといろんなことを言いたいのを、やっとおさえているというような顔つきをしていった。「忍耐にも限度というものがあるからね」
「だから、どうだとおっしゃるんですの?」と彼女は、彼の顔じゅうに、わけてもその残忍な、威嚇的な目のなかに、ありありと現われている憎悪の表情を、恐ろしげに見いりながら、叫んだ。
「ぼくの言いたいのは……」と彼は言いかけたが、中途でよした。「それよりぼくは、あなたこそぼくから何を要求しているのか、それをきかなければならない」
「わたしに何を要求することができましょう? わたしに要求できるのは、ただ、あなたが考えていらっしゃるように、わたしを捨てないでくださいということだけですわ」と彼女は、彼が言い切らなかったことまでみんな察してしまって、いった。「けれどわたしは、それを要求しているのではありません。それは第二の問題ですわ。わたしのほしいのは愛ですけれど、それがもうないのです。してみれば、もう何もかもおしまいですわね」
彼女は戸口のほうへ行きかけた。
「お待ち! お……お待ちったら!」と、眉根《まゆね》によせた陰うつなしわをのばしはしなかったが、彼女の手をつかんでひきとめながら、ウロンスキイはいった。「いったいどうしたというのだ! ぼくはただ、出発を三日延ばさなければならないといったまでじゃないか。それをおまえはぼくにたいして、やれうそつきだの、やれ不正直だのって」
「そうですとも。わたしはもう一度言いますよ。わたしのためにすべてを犠牲にしたといってわたしを責めるような人は」と彼女は、つい最近の争いのときの言葉を思いだしながらいった。「そういう人は、不正直よりももっとわるい人です――それこそ情をもたない人間です」
「いや、忍耐にも限度がある!」彼はこう叫んで、すばやく彼女の手をはなした。
『あのひとはわたしを憎んでいる。それは確かだ』彼女はこう考え、そして無言のまま、ふり返りもせず、定まらぬ足どりで、ふらふらと部屋を出て行った。『あのひとは、ほかの女を愛している。それはなお確かな事実だ』と彼女は、自分の部屋へはいりながら考えた。『わたしのほしいのは愛だけれど、それがないのだ。してみれば、もう何もかもおしまいだわ』彼女は、さっきいった自分の言葉をくりかえした。『おしまいにしなければならないのだわ』
『だけど、どうしたらいいのだろう?』と、彼女は自分にたずねた。そして鏡の前の肘掛けいすに腰をおろした。
さてこれからどこへ行こうか、――自分を育ててくれた伯母のもとへ行こうか、ドリーのところへ行こうか、それともひとりで外国へ行ってしまおうか、という考え、|あのひと《ヽヽヽヽ》は今ひとり書斎で何をしているだろう、この争いこそもう最後のものだろうか、それともまだ和解の望みがあるだろうか、という考え、ペテルブルグの以前の知り合いの人たちは、自分のことをなんというだろう、アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチはこれをなんと見るだろう、という考え、そのほか、いよいよ破裂してしまったら、あとはどうなるだろうというようなさまざまな考えが、あとからあとからと頭にうかんだが、しかし彼女は、心のすべてでそうした考えに没頭していたわけではなかった。彼女の心には、ただひとつ彼女の興味をひきつける、あるはっきりしない想念があった。が、彼女はまだそれを意識することができなかった。そのうちに、もう一度アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチのことを思いだすと、彼女は産後の病気のときを思いだし、そして当時自分の頭をはなれなかった、例の気持を思いだした。『なぜわたしは死ななかったろう?』彼女には、そのときの自分の言葉と、自分の気持とが思いだされた。と、彼女はふいに、自分の心のなかにあったものを、理解した。そうだ、これこそ、それだけがいっさいを解決してくれる例の想念だったのである。『そうだわ、死ぬことだわ!……』
『アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチとセリョージャの恥辱も不名誉も、わたしのこの恐ろしい恥辱も――死はいっさいを救ってくれる。死のう――そうしたら、あのひとも後悔して、わたしをかわいそうに思い、愛してもくれようし、わたしのために苦しんでもくれるだろう』われとわが身をあわれむ、こわばった微笑をうかべたまま、彼女は肘掛けいすに腰をおろして、左の手の指輪をぬいたりはめたりしながら、自分が死んだあとの彼の感情を、いろいろな方面からまざまざと心にえがいていた。
近づいてくる足音――彼の足音が、彼女をもの思いから引きはなした。が、彼女は指輪をしまうのに夢中になっているようなふりをして、彼のほうをふり向こうとすらしなかった。
彼は彼女のそばへ近づくと、彼女の手を握って、静かにいった――
「アンナ、じゃ明後日立とう、おまえがそうしたいんなら。ぼくはどんなことでもきくよ」
彼女は黙っていた。
「どうしたの?」彼はきいた。
「知っていらっしゃるくせに」と彼女はいった。と、その瞬間に、彼女はそれ以上堪える力を失って、わっと泣きだしてしまった。
「わたしを捨ててください、捨ててください!」と、彼女は泣き声のあいまあいまにいった。「わたしは明日出て行きます……わたしはそれ以上のことをします。わたしはどんな人間でしょう? 身もちのよくない女ですわ。あなたの首にぶらさがっている石ですわ。わたしはあなたを苦しめるのはいやです、いやです! わたしはあなたを自由にしてあげます。あなたはわたしを愛していてはくださらないんですもの。あなたは、ほかの女《ひと》を愛していらっしゃるんですもの!」
ウロンスキイは、彼女に気をしずめてくれと願い、彼女の嫉妬にはぜんぜん根拠らしいものもないこと、彼女にたいする彼の愛は、けっしてさめたことはなく、また将来もさめるようなことはないこと、現在は以前よりもいっそう彼女を愛していることなどを断言した。
「アンナ、いったいなんのためにおまえは、こんなに自分をもぼくをも苦しめるんだね?」と彼は、彼女の手に接吻しながらいった。彼の顔には、いまや優しさがあらわれていて、彼女は、耳でその声に涙のひびきを聞き、手でそのしめりを感じたような気がした。と、その瞬間に、アンナの絶望的な嫉妬はめちゃくちゃな情熱的愛情に変わった。彼女は彼を抱きしめて、頭といわず、首といわず、手といわず、接吻の雨で彼をおおった。
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二十五
完全に和解ができたことを感じながら、アンナは朝からいそいそと、出発の準備にとりかかった。昨日はふたりが互いに譲りあっていたので、月曜日に立つのか、それとも火曜日にするのか、そのへんははっきりきまっていなかったけれど、アンナは今は、一日くらいの遅い早いは、まったく平気な気持になって、せっせと出発の準備をしていた。彼女が自分の部屋で、開いたトランクの上にのしかかるようにして、いろいろな品物を選んでいるところへ、彼がもう着がえをすまして、いつもより早くはいって来た。
「ぼくはこれからすぐお母さんのところへ行ってくる。お母さんは、エゴールの手を通して、金を送ってくれるかもしれない。そうすれば明日は立てるからね」と彼はいった。
彼女は、じつにこのうえない気分でいたのだったが、彼が母の別荘へ行くという報告には、その心をちくりと刺された。
「いいえ、いいのよ。わたしだってそうはまにあいませんもの」と彼女はいったが、すぐ考えた。『そんならなにも、はじめから、わたしの望むとおりにすることもできたんじゃないか』――「でも、どちらでもあなたのお好きなようになすってちょうだい。さあ食堂へいらっしゃいな。わたしもすぐにまいりますわ。ちょっとこのいらないものだけを選りだしてしまえば」と、もう山のようにぼろぎれをのせていたアーンヌシカの手へ、またもや何かのせながら、彼女はいった。
彼女が食堂へはいって行ったとき、ウロンスキイはいつものビフテキをたべていた。
「ねえあなた、わたしもう、このうちの部屋という部屋が、なんだかいやでたまらないんですのよ」と彼女は、彼のそばの自分のコーヒーの前に膝をおろしながら、いった。「こういう chambres garnies(家具つき貸し部屋)ほどいやなものはありませんわね。こういう部屋には、顔の表情というものがないんですもの、魂がないんですもの。ああいう時計、窓かけ、ことに壁紙――まるで悪夢じゃありませんか。わたし、ヴォズドゥヴィシェンスコエのことを思うと、まるで聖約の地のことでも思うような気がしますわ。あなたまだ馬をお送りになりませんの?」
「なに、馬はぼくらのあとから送らせるよ。ところで、おまえはどこかへ出かけるかね」
「わたしはウィルソンのところへ行きたいと思っていますの。あの女《ひと》に着物をもっていってやらなければなりませんの。じゃあいよいよ、明日ですのね?」と彼女は、快活な声でいった。が、その顔つきはさっと変わった。
ウロンスキイの従僕が、ペテルブルグから来た電報の受取りをもらいに来た。ウロンスキイが電報を受け取るということには、べつになにも変わったことはなかったのだが、しかし、彼はなにやら彼女にかくしたい様子で、受取りは書斎にあると告げておいて、急いで彼女のほうへ向きなおった。
「きっと、明日じゅうには何もかも片づけてしまうよ」
「電報って、だれからきたんですの?」と彼女は、彼の言葉を聞かないでたずねた。
「スティーワからさ!」と彼はしぶしぶ答えた。
「なぜわたしに見せてくださいませんの? スティーワとわたしのあいだに秘密のあるはずがないじゃございませんか?」
ウロンスキイは従僕を呼びもどして、電報をもってくるように命じた。
「ぼくは、スティーワはでたらめに電報をうつ癖のある人だから、それで見せたくなかったのだよ。何ひとつ解決してもいないのに、なんで電報をうつことがあるんだ」
「離婚のことでしょう?」
「そうだよ。しかし、書いてあることはこうだ――まだなんのうるところはない。近日ちゅうに確答があるはず。こうだからね、まあ読んでごらん」
アンナは、ふるえる手で電報を受け取り、ウロンスキイがいったとおりのことを読んだ。が、終わりのほうにこんな一句がつけ加えてあった。『望みは少ない。しかしできることもできないこともなんでもやってみる』
「わたしは昨日もいったとおり、いつ離婚が成立しようと、またそれがうまくいくかどうかわからなくても、ほんとにまったく平気ですわ」と、彼女はあかくなりながらいった。「わたしにおかくしなさる必要はちっともありませんのよ」『こんなふうに、このひとはかくすことがうまいんだもの、女との手紙のやりとりなんかも、うまくかくしているにちがいない』こう彼女は考えた。
「ときに、ヤーシュヴィンがね、今朝ヴォイトフといっしょにくるなんていってたっけ」とウロンスキイはいった。「やっこさん、こんどはどうやらペーフツォフから、しこたま取りあげたらしいんだ。いや、しこたまどころか、相手がとても払いきれないほど、せしめたらしいんだよ――約六万くらいも」
「いいえ、ちょっと待ってちょうだい」と彼女は、彼が話題を変えたことによって、あまりにもはっきり自分のいらだちを見せつけられたので、さらにいらだたせられながらいった。「どうしてあなたは、この通知がわたしに、かくさなければならないほどかかわりのあることだとお思いになりますの? わたしはもうこのことは考えたくないって、あんなに申しあげといたじゃありませんか。ですから、あなたもわたしと同じように、このことはもう気にかけないでいていただきたいの」
「ぼくは、事をはっきりすることが好きだから、それでつい気にかけるのさ」と彼はいった。
「はっきりするということは、形式でなく、愛のなかにあるんですわ」と彼女は、彼の口にする言葉にではなく、その冷やかにおちついた調子に、ますますいらだちながら、いった。
「なんのためにあなたは、そんなものを、そんなにお望みになるんですの?」
『ああああ! また愛の話だ』と彼は、眉をひそめながら考えた。
「なんのためだか、おまえだって知ってるじゃないか――おまえのため、また、これから生まれてくる子供のためさ」と彼はいった。
「子供なんかもうできやしませんわ」
「それはまた情けない話じゃないか!」と彼はいった。
「あなたには、子供のためにそれが必要なので、わたしのことはちっとも考えてくださいませんのね?」と彼女は、彼がおまえのため、また子供のためといったことをすっかり忘れてしまって、あるいは耳にもいれないで、こういった。
子供をもつことがいいかわるいかの問題は、早くから争いの種になり、そのうえ彼女をいらいらさせている問題であった。彼女は、子供をもちたいという彼の欲望を、彼が彼女の美しさを尊重していない証拠だと、勝手にきめていたのだった。
「ああ、だからぼくは、いったじゃないか、おまえのためだって。なによりもまずおまえのためだって」と、どこか痛いところでもあるようなしかめつらをしながら、彼はくりかえした。「なぜなら、ぼくはおまえのいらいらした気持の大部分が、境遇の不安定からきているものにちがいないと確信しているからさ」
『そうだ、このとおり、もうこのひとは、仮面をかぶることをやめて、わたしにたいする冷やかな憎悪をすっかり見せているのだわ』と彼女は、彼の言葉は耳にもいれないで、彼の目のなかから、彼女をいらいらさせながらじっと見ている冷やかな残忍な審判者に、恐怖の念をもって見いりながら考えた。
「そんなことが原因じゃありませんわ」と、彼女はいった。「だいいち、わたしが完全にあなたの支配下にあるということが、どうして、あなたのおっしゃる、わたしのいらだたしさの原因などになるのやら、わからないくらいなんですものね。いったいそこに、どんな境遇の不安定があるのでしょう? まるで反対じゃありませんか」
「おまえがことさらそういうふうにものを理解しようとしないのを、ぼくは非常に残念に思う」と彼は、あくまで自分の考えを徹底しようと思いながら、彼女の言葉をさえぎった。「その不安定というのはね、おまえがいまだにぼくのことを、自由な身のように考えている点にあるのだ」
「そのことなら、あなたはまったく安心していらしてだいじょうぶですわ」彼女はこういうと、くるりと彼から顔をそむけて、コーヒーを飲みにかかった。
彼女は、小指だけをはなした手でコーヒー茶わんをとりあげて、それを口へもっていった。そして、ふた口み口飲んでから、ちょっと彼のほうを見た。と、彼女は、彼の顔の表情によってはっきりと、自分の手つきや、身ぶりや、くちびるで立てる音などが、彼に不愉快な思いをさせているらしいのを見てとった。
「わたしにはね、あなたのお母さまが何を考えていらっしゃろうと、またあなたをどんなふうに結婚させたがっていらっしゃろうと、ちっともなんともありませんのよ」と彼女は、ふるえる手で茶わんを下に置きながらいった。
「しかし、ぼくらは今、そんなことを話しあってるんじゃないんじゃないか」
「いいえ、この話をしているのですわ。それでね、よござんすか。わたしには、情をもたない女は、それが年よりであろうとなかろうと、あなたのお母さまであろうとだれであろうと、少しも興味がないんですのよ。そしてわたしは、そんな人のことなんか、知りたいとも思いませんのよ」
「アンナ、お願いだから、ぼくの母のことでそんな無礼な口をきくことはよしてくれないか」
「わが子の幸福と名誉がどこにあるか、それすら心で察しられないような女、そんな女には情というものがないんですわ」
「ぼくはもう一度おまえに頼む。ぼくの尊敬する母にたいして、無礼な口をきくことはよしてくれ」こう彼は声をはりあげて、きっと彼女を見すえながらいった。
彼女は答えなかった。じっと彼を、その顔や手を見ながら、昨日の和解の場面と、彼の熱烈な愛撫とを、細かな点まで思いうかべた。『ああいうことを、あれとすっかり同じ愛撫を、このひとは、ほかの女たちにたいして、これまでも濫用してきたのだし、これからも濫用するだろうし、また濫用しようと思っているのだわ!』と彼女は考えた。
「あなたはお母さまを愛してはいらっしゃいません。そんなことはみんな、でたらめですわ、でたらめですわ。でたらめですわ!」とさも僧らしそうに彼を見つめながら、彼女はいった。
「そんなにいうなら、それではわれわれは……」
「なんとかしなければなりません。わたしはもうちゃんと決心しています」こういって、彼女は出て行こうとしかけたが、そのときそこへ、ヤーシュヴィンがはいって来た。
アンナは彼とあいさつして、立ちどまった。なぜ、その心にあらしがすさんで、自分が恐ろしい結果をもつにちがいない生涯の転機に立っていることを感じていた場合に、こういう場合に、なぜ彼女は、いずれはすべてを知るにちがいない第三者の前に、自分を偽らなければならなかったのか、――彼女にはわからなかったが、さっそく胸のあらしを押ししずめ、腰をおろして、客と話をはじめた。
「ご首尾はいかがでして? お貸しになった分をおとり返しになりまして?」と、彼女はヤーシュヴィンにたずねた。
「なに、なんでもありませんよ。どうやら、全部はとれそうにないのですが、水曜日には立たなければなりませんのでね。ときに、きみたちのほうの出発は?」と、ヤーシュヴィンは、目を細くしてウロンスキイを見ながら、明らかに争いのあったことを察したらしい口ぶりでいった。
「たぶん、明後日になるだろうと思うんだ!」と、ウロンスキイはいった。
「もっともきみたちは、もうずいぶん前から支度していたんだからね」
「でも、こんどこそもうきっぱりときまりましたのよ」と、和解の望みがあろうなどとは考えてももらいたくないという気持を、彼につたえるようなまなざしで、ウロンスキイの目をまともに見ながら、アンナはいった。
「では、ほんとにあなたは、あの不幸なベーフツォフを、お気の毒だとはお思いになりませんの?」と彼女は、ヤーシュヴィンとの会話をつづけた。
「気の毒とか気の毒でないとかいうことは、ついぞ考えてみたこともありませんよ、アンナ・アルカジエヴナ、だってねえ、ここにあるのが、これがぼくの全財産なんですよ」と彼は、わきポケットを指さして見せた。「で、まあ、現在はぼくも金持ですがね、しかし、今日またクラブへ行けば、こんど出てくるときには、一文なしのこじきになっているかもしれないんですからねえ。だって、ぼくの相手になるやつは、やっぱりぼくをすっ裸にしようとしているんだし、ぼくもやつらを裸にむいてやろうと考えてるんですから。まあ、こうしてわれわれはたたかうんですよ。そしてそこに楽しみがあるんですよ」
「なるほどね。でも、もしあなたが奥さまをもっていらっしたら」と、アンナはいった。「あなたの奥さまはどんな気持がなさいますでしょうね?」
ヤーシュヴィンは笑いだした。
「だから、ぼくは結婚しなかったのですし、また、しようともしなかったのですよ」
「じゃ、ヘルシンキはどうなんだ?」とウロンスキイは、ふたりの話のなかへわりこみながらいって、微笑をうかべているアンナのほうをちらと見た。彼の視線を迎えると、アンナの顔は急に冷やかなきびしい表情をとった。――『忘れてはいませんよ。もとのとおりですよ』とでもいうように。
「では、あなたも恋をなすったことがおありになりますの?」と彼女はヤーシュヴィンにいった。
「やあ、これはどうも! 何度あるかしれませんよ! しかしですね、いいですか、人によっては、ランデブーの時がくれば、いつでも立つことができる程度に、カルタをやることのできる者もいますが、ぼくは、晩のカルタに遅れない程度に、恋をすることができるほうなんですからね。まあこんなふうに、ぼくはやっておるんですよ」
「いいえ、わたくしのうかがっているのは、そんなことではございませんわ。真実の恋のことですわ」彼女は、「ヘルシンキ」と言いたかったのだが、しかし、ウロンスキイのいった言葉を口にする気にはなれなかったのである。
牡馬を買うことになっていたヴォイトフがやって来た。アンナは立ちあがって部屋を出た。
家を出るまえに、ウロンスキイは彼女の部屋へはいって来た。彼女は、テーブルの上で何かをさがしているようなふりをしようと思ったが、そんなふうに表面をつくろうことが気恥ずかしくなったので、冷やかな目つきで、まともに彼の顔を見やった。
「何かご用ですか?」と、彼女はフランス語でたずねた。
「ガンベッタの証明書をとりに来たんだ。あれを売ってしまったからね」と彼は、『ぼくには弁解している暇はないし、それに、もうそんなことはなんにもなりはしないから』こういう意味を、言葉以上にはっきりとあらわしているような口調でいった。
『おれはこの女にたいして少しも罪なんか感じていない』こう彼は考えていた。『もしこの女が自分で自分を罰しようなどと思ったら、tant pis pour elle.(なおさら彼女のためにわるくなるばかりだ)』が、いざ出て行こうとすると、彼は、彼女がなにやらいったような気がして、彼の心はふいに彼女にたいする憐憫《れんびん》にふるえた。
「何かいった、アンナ?」と彼はたずねた。
「いいえ、なんにも」と彼女は、同じ冷やかな、おちつきはらった口調で答えた。
『なんにもいわない。そんなら tant pis.(なおさらいけない)』こう考えると、彼はふたたび冷やかな気持になって、踵《きびす》をかえして歩きだした。そして部屋を出ながら、鏡のなかに、わなわなくちびるをふるわせている青白い彼女の顔を見つけた。彼は立ちどまって、慰めの言葉をかけたいと思ったが、彼がいうべき言葉を考えつくまえに、両足が彼を部屋の外へ運びだしてしまった。この日は終日、彼は家の外で暮らした。そして晩遅くなって帰ってくると、小間使が、アンナ・アルカジエヴナは頭痛がするから、だれも来てくれないようにということだと彼に告げた。
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二十六
争いのうちにまる一日を送ったということは、これまでに一度もないことであった。今日が初めてであった。しかも、これは争いではなかった。完全な冷却にたいする明瞭な承認であった。いったい、彼が証明書をとりに部屋へはいって来たときに見せたような目つきで彼女を見るなどということが、できることだろうか? そして彼女を見、彼女の心が絶望のためにいまにもはり裂けそうになっているのを目にしながら、あんなに平然と、おちつきはらった顔をして、黙って行ってしまうなどということが? 彼が冷やかになったというのはあたらない、彼は彼女を憎んでいるのだ。それも、ほかの女を愛しているからだ。――それはもうたしかな事実だ。
こうしてアンナは、彼の口にした残酷な言葉をひとつひとつ思いかえしながら、そのうえさらに、彼が明らかに彼女にいおうと思い、またいうことのできた言葉を、何かと考えだしてみて、ますますわれとわが心をかきむしるのだった。
『ぼくはあなたをひきとめはしませんよ』あのひとは、こういうこともできたのだ。『あなたはどこへでも好きなところへ行くがいい。あなたが夫との離婚を望まなかったのは、たぶんもう一度夫のもとへ帰りたいためだったのだろう。お帰りなさい。もし金がいるなら、ぼくがあげます。何ルーブリいりますね?』
粗暴な人間だけが口にしうるような、ありとあらゆる残酷きわまる言葉を、彼は、彼女の想像のうちで彼女にあびせかけた。そして彼女は、彼がじっさいにそれを口にしたかのように、それを彼に許さなかった。
『あのひとが愛を誓ったのは、まだ昨日のことではないか? あの実意のある、正しい人が? そしてわたしはもう何度も、むだな絶望をくりかえしてこなかっただろうか?』それにつづいて、彼女はこう自分にいった。
ウィルソン訪問についやした二時間を除いて、この日一日をアンナは、すべてはもう終わったのだろうか、それともまだ和解の望みがあるのだろうか、自分は今すぐこの家を去るべきだろうか、それとももう一度彼に会うべきだろうか、こういった疑惑のうちに過ごした。彼女は終日、彼を待った。が、晩になって、頭痛のすることを伝えるように言いつけてから自分の部屋へひきとりながら、こんなふうに考えた――『もしあのひとが、女中の言葉にもかまわず来てくれたら、それはあのひとがまだわたしを愛していてくれる証拠だわ。けれど、もし来てくれなかったら、もう万事休した証拠だから、そのときはわたしも、いよいよ決心しなければならない……』
その晩彼女は、彼の馬車のとまる音を、彼の鳴らすベルの音を、彼の足音を、それから小問使としている話し声を聞いた。――彼はいわれたことをそのまま信じて、それ以上に何事をも知ろうとはせず、自分の居間へ行ってしまった。してみると、すべてはもう終わったのである。
と、死が――彼の心に彼女にたいする愛をよみがえらせ、また彼を罰し、彼女の心に住みついた邪悪ないぶきが、彼とはじめたこの争いに勝利をもたらす唯一の手段としての死が、あからさまに、いきいきと、彼女の前に現われた。
今はもう、すべてがどうでもよかった。――ヴォズドゥヴィジェンスコエへ行こうと行くまいと、夫から離婚を受けようと受けまいと――そんなことはすべてどうでもよかった。必要なことはただひとつ――彼を罰することであった。
彼女は、自分でアヘンの常用量をつぎながら、死ぬにはこの一びんを一どきに飲みさえすればいいのだと思ったら、それがきわめて容易な、簡単なことに思われたので、そこでまたしても一種の喜びを感じながら、すでに手おくれとなったときに、彼がどんなにもだえ苦しみ、悔い悲しんで、どんなに自分の思い出を愛するだろうということを思いえがくのであった。彼女は、ベッドに横たわって、目を見ひらいたまま、燃えつきようとする一本のろうそくの光で、彫刻のある天井の|じゃばら《ヽヽヽヽ》や、天井の一部をおおうているつい立ての影をながめながら、自分がもういなくなったとき、彼にとってひとつの思い出となったときに、彼がどんな気持を感じるであろうかということを、まざまざと思いえがいた。『どうしておれは、あんな残酷なことを彼女にいうことができたろう?』こう彼はいうであろう。『どうしておれは、彼女になんにもいわないで出てきてしまうようなことができたろう? しかし、今はもう彼女はいないのだ。彼女は永久にこの世から去ってしまったのだ。彼女はあの世に……』ふいについ立ての影が揺れだして、じゃばら全体をおおい、天井全体をおおってしまった。ほかの影が、ほかの側から、それに向かって突進した。一瞬間、影は飛び散った、が、やがてそれは、新しい速力をもってかけよって、揺れ動き、もつれあい、そしてたちまち、すべてがまっ暗になってしまった。『死だ!』と彼女は考えた。と、異常な恐怖が彼女をおそったので、そのため、しばらくは自分の居場所すらはっきりせず、がたがたと両手がふるえて、マッチをさぐりだすことも、燃えつきて消えてしまったろうそくのかわりに新しいろうそくをつけることも、できなかった。『いいえ、やっぱり――生きてだけはいなければならない! だって、わたしはあのひとを愛しているのだし、あのひともわたしを愛しているのだもの! これまでもこういうことはあった。こんどだって、すぎてしまうにちがいないわ』と、彼女は、生に返った歓喜の涙が、両ほおに流れるのを感じながら、いった。そして、自分の恐怖からのがれるために、急いで彼の書斎へ行った。
彼は書斎でぐっすりと熟睡していた。彼女は彼のそばへ歩みより、彼の顔を上から照らしながら、長いことそれに見いっていた。いま、彼が眠っているときには、彼にたいする深い愛を感じて、その姿にたいし、いとしさの涙をおさえかねるほどであった。しかし彼女は、もし彼が目をさましたら、きっと例の自分の正しさを意識するような冷たいまなざしで自分を見るだろう、そして自分は、自分の愛についてうちあけるまえに、彼が自分にたいしてどんなに罪があるかをいわずにはいられないだろう、こういうことを承知していた。で、彼を起こすことはしないで、自分の部屋へひっ返し、さらに二服めのアヘンを飲んで、明けがた近く重い、浅い眠りに落ちたが、そのあいだも絶えず、自分を意識していた。
朝になってから、まだウロンスキイと関係のできるまえから何度も彼女の夢を訪れた恐ろしい夢魔《むま》が、またしても現われて、彼女の眠りをさました。あごひげのぼうぼうと生えたひとりの老人が、鉄の上へかがみこんで、意味のわからぬフランス語をつぶやきながら、何かしていた。と、彼女は、この悪夢を見るときはいつもそうであるように(そしてこれが、この悪夢の恐怖の中心であった)、この百姓は、彼女に注意してはいなかったが、じつはその鉄のなかで、彼女にたいして何か恐ろしいことをしているのだという気がした。そして彼女は、冷汗をびっしょりかいて目をさました。
床をはなれたとき、彼女には、昨日の一日がまるで|もや《ヽヽ》のなかのように、ぼんやりと思いだされた。
『争いがあった。それは、もう何度もあったことがあったまでだわ。わたしは、頭が痛むといったので、あのひとはこなかったのだ。わたしたちは明日立つのだから、あのひとに会って、立つ用意をしなければならない』こう彼女は自分にいった。そして、彼が書斎にいることを知って、そのほうへおもむいた。客間を通りぬけながら、車寄せに馬車のとまる音を聞いたので、窓を見ると、馬車が見えて、そのなかから、ふじ色の帽子をかぶった若い令嬢が身をのりだして、ベルを鳴らしている下男に何か命じていた。玄関でちょっと話しあう声が聞こえたのち、だれかが二階へあがって来た。と、客間の隣室にウロンスキイの足音が聞こえた。彼は足ばやに階段をおりて行った。アンナはふたたび窓ぎわへよった。彼は帽子をかぶらないで、玄関の階段へ出て、馬車のそばへ近づいた。ふじ色の帽子をかぶった若い令嬢が、彼に一通の封書を渡した。ウロンスキイは笑顔で彼女に何かいった。馬車は動きだした。彼は足ばやに階段をかけもどった。
彼女の心のすべてをおおうていた霧がにわかに晴れた。昨日の感情が、新しい痛みをもって、病める心臓を刺しはじめた。今となっては彼女は、彼の家で彼とともに一日を過ごすほど、どうして自分を卑しくすることができたのか、それが理解できなかった。彼女は、自分の決心を告げるために、書斎にいる彼のところへはいって行った。
「あれはソローキン夫人が、お嬢さんといっしょにうちへよって、お母さんからの金と手紙を届けてくれたんだよ。昨日受け取ることができなかったものだからね。頭痛はどんなだね、少しはいいかい?」と彼は、彼女の顔のものものしげな暗い表情を見ようともしなければ、また理解しようともしないで、おちついた口調でいった。
彼女は部屋のまん中に立ったまま、黙ってじっと彼を見ていた。彼はちらと彼女を見て、ちょっと眉をひそめたが、そのまま手紙を読みつづけた。彼女は踵《きびす》をかえして、そろそろと部屋を出て行きかけた。彼はまだ彼女をひきもどすことができたのだが、彼女が戸口まで行きついても、依然として黙っていた。そして、手紙を裏がえす紙の音だけが聞こえた。
「そうそう、ちょうどいい」と彼女がもう戸口へ足をかけたときに、彼はいった。「ぼくらはいよいよ明日立つんだね? そうだね?」
「あなたはね、わたくしは違います」と彼女は、彼のほうへふり向きながらいった。
「アンナ、そんなふうでは暮らしていかれないじゃないか……」
「あなたはね、わたくしは違います」と彼女はくりかえした。
「これじゃあ、もうとてもたまらない!」
「あなたは……あなたは、このことできっと後悔なさるでしょうよ」彼女はこういって、出て行った。
この言葉がいわれたときの彼女の絶望的な表情に驚かされて、彼はいすからとびあがると、彼女のあとを追おうとしたが、思いかえして、ふたたび腰をおろすと、くちびるをかたく結んで、眉をひそめた。この無礼な――と彼は思った――おどし文句が、なんとなく彼をいらいらさせたのである。『おれはもうありとあらゆることをやってみたのだ』と彼は考えた。『残っているのはただひとつ――とりあわないということだけだ』そして彼は町へ出かけ、委任状に署名してもらうために、もう一度母のところへよろうと、その支度にとりかかった。
彼女は、書斎と食堂とを通っていく彼の足音を聞いた。客間で彼は立ちどまった。しかし彼は、彼女のほうへはふり向かず、ただ、彼がいなくてもヴォイトフに牡馬《おうま》を渡すようにと言いおいただけであった。やがて彼女は、馬車が引きこまれ、ドアがあいて、彼がふたたび出て行ったけはいを聞きつけた。が、すぐ彼は、ふたたび玄関にとって返し、そしてだれかが二階へかけあがった。それは従僕が、彼の忘れた手ぶくろをとりにかけあがったのであった。彼女は窓ぎわへ歩みよって、彼が見もしないで手ぶくろを受け取り、片手で御者の背中にさわって、何かそれにいったのを見た。やがて、窓のほうには目もくれないで、彼はいつもするポーズで馬車のなかにおさまり、足と足とを組みあわせて、手ぶくろをはめながら、向こうのかどへかくれてしまった。
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二十七
『行ってしまった! もうおしまいだわ!』アンナは窓ぎわに立ったまま、ひとり心につぶやいた。すると、この問いにたいする答えとして、ろうそくの消えた瞬間のやみの印象と、恐ろしい夢の印象とがひとつに溶けあいながら、ぞっとするような恐怖で、彼女の心をいっぱいにした。
「いいえ、そんなことがあるはずはない!」彼女はこう叫ぶと、部屋をつっきりながら、はげしくベルを鳴らした。今はもう、ひとりでいることがあまりに恐ろしかったので、人のくるのを待ちきれず、自分のほうからそちらへ出かけて行った。
「伯爵はどこへいらしったのか聞いてきておくれ」と彼女はいった。召使は、伯爵は厩《うまや》へおいでになったのだと答えた。
「もしあなたさまがお出かけのようでございましたら、すぐに馬車を返すからと申しあげるようにというお言いつけでございました」
「そう、行くわ。ちょっと待ってちょうだい。いますぐわたし手紙を書くから。それを持たせてミハイルを厩へやっておくれ、大急ぎでね」
彼女は腰をおろして、書きだした――
『わたしがわるうございました。お帰りになってくださいまし。よくお話をしなければなりませんから。お願いです、どうぞお帰りくださいまし。わたしはこわくてならないのです』
彼女は、封をして召使に渡した。
彼女は、今はひとりになることが恐ろしかったので、召使のあとについて部屋を出ると、子供部屋へはいっていった。
『まあ、これは違うわ。これはあの子じゃないわ! あの子のあおい目や、かわいいおどおどしたような笑顔《えがお》は、どこへいってしまったのだろう?』考えがこぐらかっていたために、子供部屋で見られることと思っていたセリョージャのかわりに、黒い巻き髪の、くりくりとふとった、赤い顔をした女の子を見たときに、彼女の頭へきた第一の考えはこれであった。女の子は、テーブルの前に腰掛けて、しつこく、力まかせに、コルクの|せん《ヽヽ》でテーブルの上をたたいていた。そして|すぐり《ヽヽヽ》のようにまっ黒な、二つの目で、無心に母の顔をながめていた。からだの調子のたいへんにいいこと、だから、明日田舎へ帰ることをイギリス女に答えてから、アンナは女の子のそばに腰をおろして、その前でコルクの|せん《ヽヽ》をまわしはじめた。が、その子の高らかな、よくひびく笑い声と片方の眉の動かしぐあいとが、あまりにまざまざとウロンスキイを思いださせたので、彼女は、こみあげてくる涙をおさえ、急いで立ちあがって、そこを出た。『ほんとに何もかもおしまいになってしまったのだろうか? いいえ、そんなことはあるはずがない』こう彼女は考えた。『あのひとはもどってくるだろう。だけど、あの女と話したあとのあの微笑、あのいきいきとした様子を、あのひとはなんといってわたしに説明するだろう? だけれど、説明しなくても、やっぱりわたしは信じよう。もし信じないということになると、わたしに残ることはひとつしかない……でも、わたしはそれがいやなのだもの』
彼女は時計を見た。十二分たっていた。『今ごろもう、あのひとは手紙を受け取って、帰りみちにいるだろう。長いことはない。もう十分だわ……でも、もしあのひとが帰ってこなかったらどうしよう? いいえ、そんなことはあるはずがない。とにかくあのひとに、泣き顔を見せないようにしなければならない。わたし行って顔を洗いましょう。そうそう。わたしは髪をとかしたかしら、とかさなかったかしら?』が、思いだせなかった。彼女は頭に手をやってみた。『ああ、ちゃんととかしてある。だけどいつしたのかしら――まるでおぼえがないわ』彼女は、自分の手までも信じることができなかったので、ほんとうにとかしてあるかどうかを見るために、姿見のほうへ歩いて行った。結髪はちゃんとできていたが、いつそれをしたかが思いだせなかった。『これはだれだろう?』と彼女は、異様にきらきらと光る目でびっくりしたように自分を見ている、燃えるようにほてった顔を、鏡のなかにながめながら、考えた。『まあ、わたしだわ』と、彼女は急に気がついた。そして、自分の全身を見まわしているうち、ふいに、自分の上に彼の接吻を感じて、身ぶるいしながら、肩を揺すぶった。それから片手をくちびるへもっていって、それに接吻した。『まあ、どうしたというのだろう。気が変になりかけてるのかしら』こう思いながら、彼女はベッドへはいって行った。そこでは、アーンヌシカが部屋を片づけていた。
「アーンヌシカ」と彼女は、小間使の前に立ちどまりながら、何をいっていいか自分でもわからないで、じっと彼女を見つめながらいった。
「ダーリヤ・アレクサーンドロヴナのところへおこしあそばしたいとかおっしゃっていましたが」と、のみこみ顔に小間使はいった。
「ダーリヤ・アレクサーンドロヴナのところへね? ああ、行きますよ」
『行きに十五分、帰りに十五分。あのひとはもう帰りかけたにちがいない。もうすぐ帰ってくるだろう』彼女は時計を出して見た。『それにしても、こんな気持でいるわたしをおきざりにして、あのひとはどうして出かけられたのだろう? わたしと仲なおりもしないで、どうして生きていけるのだろう?』彼女は、窓ぎわへ行って往来をながめはじめた。時間からすれば、彼はもう帰ってくるころであった。しかし、時間の計算が正確でなかったかもしれないので、彼女はあらためて、彼が出て行った時刻を思いかえし、時間の計算をやりだした。
彼女が、自分の時計を確かめるために、大時計のほうへ行きかけたちょうどそのときに、だれかが馬車で乗りこんで来た。窓をのぞいて見て、彼女は彼の半ほろ馬車を見つけた。が、だれも階段をあがってくるものはなく、階下で話し声が聞こえていた。馬車で帰って来たのは、彼女が出してやった使いであった。彼女は彼のところへおりて行った。
「伯爵にはお目にかかれませんでした……ご前はニジェゴーロド線でお立ちになりましたのだそうで」
「まあおまえ、なんですって? なに……」と彼女は、自分の手へ手紙をもどしてよこした、血色のいい、快活なミハイルに向かっていった。
『そうだ、あのひとはこの手紙を受け取らなかったのだ』と、彼女ははじめて気がついた。
「ではね、この手紙をもってすぐ、郊外のウロンスキイ伯爵夫人のところまで行っておくれ。知ってるね? そしてすぐに返事をもらってきてちょうだい」と、彼女は使いの者にいった。
『そこでこのわたし、わたしはどうしたらいいのだろう?』と彼女は考えた。『そうだ、ドリーのところへ行こう。それがいいわ。そうでもしなければ、わたしは気がくるってしまう。ああそうだ、まだ電報をうつこともできるのだった』そして、彼女は電報を書きだした――『キュウヨウアリ スグオカエリコウ』
電報をもたせてやってから、彼女は着がえに行った。もう着がえをすませ、帽子をかぶってしまってから、彼女はふたたび、むっちりとふとって、おちついた顔つきをしているアーンヌシカの目に見いった。その小さな、気だてのよさそうな灰色の目には、同情の色がありありとうかんでいた。
「アーンヌシカ、ねえ、おまえ、わたしはどうしたらいいんだろうねえ?」と、やるせなげに肘掛けいすに身をうずめて、泣きだしながらアンナはいった。
「何をそんなにご心配あそばすのでしょう、アンナ・アルカジエヴナ! こんなことはいくらもあることじゃございませんか。ちょっとお出かけあそばしてごらんなさいまし。お気が晴れましょうから」こう小間使はいった。
「ああ、わたし出かけますよ」と、気をとりなおして立ちあがりながら、アンナはいった。「もしわたしのるすに電報がきたら、ダーリヤ・アレクサーンドロヴナのところまで持たしてよこしておくれ……いいえ、わたしそのまえに帰ってくるわ」
『そうだ、くよくよ考えたってしかたがない。それより何かすることだわ。出かけることだわ。何よりまずこのうちから出て行くことだわ』こう彼女は、心におこったすさまじい胸さわぎに恐怖の念をもってききいりながら、考えた。そして、急いで外へ出て馬車に乗った。
「どちらへお出ましでございます?」と、御者台へ乗りこむまえにピョートルがたずねた。
「ズナーメンカへ、オブロンスキイ家へ」
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二十八
くっきりと晴れた日であった。朝のうちずっと細かい雨が降りつづいたのが、つい今しがた晴れあがったのであった。鉄の屋根も、歩道の敷き石も、車道の丸石も、馬車の車輪も、革具も、真鍮《しんちゅう》も、ブリキも、――あらゆるものが、五月の太陽に、明るくきらきらと輝いていた。時は三時、町々に最も活気のみなぎる時刻であった。
灰色馬の速足《はやあし》にもかかわらず、弾力にとんだ|ばね《ヽヽ》のおかげでほとんど揺れない、穏やかな馬車の一隅に腰をおろして、アンナはたえまない車輪の音を耳にし、見るまに変わっていく清らかな外気のなかの風物の印象を目にしながら、またしてもこの四、五日間の出来事をくりかえしてみて、自分の境遇が、家にいて考えたとはまったく別なものになっていることを発見した。今は死についての考えも、あれほど恐ろしくはっきりとは迫ってはこなかったし、死そのものも、もはや避けがたいものとは考えられなかった。いまや彼女は、われとわが身をおとしめた卑下にたいして、自分を責めた。『わたしはあのひとに許してくれといって哀願している。わたしはあのひとに屈服してしまった。自分を罪あるものとして承認してしまった。いったいなんのためだろう? それほどわたしは、あのひとなしに生きていくことができないのだろうか?』そして、彼なしにどうして生きていこうかというこの問いには答えないで、彼女は看板を読みはじめた。『事務所と倉庫。歯科医……そうだわ。わたしはドリーに何もかもうちあけてしまおう。あの女《ひと》はウロンスキイを好いていない。それを思うと、恥ずかしいつらい気がするけれど、でもわたしは、何もかもあの女《ひと》に話してしまおう。あの女《ひと》はわたしを愛していてくれるから、わたしはあの女《ひと》の忠告にしたがおう。もうもうアレクセイに屈服なんかしないわ。あのひとにわたしを教育させるようなことをするものか。フィリップの店、白パン……なんでもここの人たちは、生パンをペテルブルグへも送ってるという話だわ。モスクワの水はそんなにいいのね。ムイティシチの井戸とブリーン(油であげた円形の厚いせんべい)』そして彼女は、ずっと昔のこと、まだ十七くらいだった時分、伯母に連れられて、トロイツァへ行ったときのことを思いだした。『あのときもまだ馬車だったっけ、ほんとにあれがわたしなのだろうか、あの赤い手をした小娘が? あの時分あんなに美しく、近づくこともできないように見えたものの多くが、今では、つまらないものになってしまい、反対に、その時分にあったものが、今では、永久にえがたいものになってしまった。こんなにまで身をおとすことができようなどと、あの時分のわたしに信じられただろうか? わたしの手紙を受け取ったら、あのひとはどんなに傲慢な、満足な気持になるだろう! けれどわたしは、いまにあのひとに見せてやるわ……ああ、なんていやなペンキのにおいだろう。どうして世間では、こうのべつペンキを塗ったり家を建てたりばかりしているんだろう? 流行品と装飾品』と彼女は読んだ。ひとりの男が彼女におじぎをした。それはアーンヌシカの亭主だった。『うちの|いそうろう《ヽヽヽヽヽ》』彼女は、ウロンスキイがそういったことを思いだした。『うちの? なぜうちのだろう? 過去というものを根こぎにすることのできないのは、なんという恐ろしいことだろう。まったく根こぎにすることはできない、けれど、その記憶をかくすことはできるわ。ひとつわたしもかくしてやろう』そこで彼女は、アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチとともにした過去のことを思いうかべ、彼のことを自分の記憶から消しさったことについて、思いだした。『ドリーは、わたしが二度めの夫まで捨てるのだと思うだろう。だからたぶん、わたしのほうが正しくないと思うだろう。だけどいったい、わたしは正しいものになりたいと思っているのだろうか! わたしはがまんができないのだわ!』彼女は口に出してこういった。と、彼女は泣きたくなった。がすぐに、ふたりの娘を見て、何をあんなにうれしそうににこにこしていられるのだろうと考えはじめた。『きっと恋のことでも考えてるんだわ? あの娘たちは、それがどんなに悲しく、どんなに卑しいものなのかを知らないんだわ……おや、並木街と子供たち。三人の男の子がかけている、お馬ごっこだ。セリョージャ! ああ、わたしは何もかも失おうとしているのだ、あの子も取りもどせやしないわ。そうだわ、もしあのひとが帰ってこなかったら、わたしは何もかも失ってしまうのだわ、あのひとは、ひょっとしたら汽車に乗り遅れて、今ごろは帰っているかもしれない。ああ、またわたしは屈従を望んでいる!』こう彼女はわれとわが心にいった。『いいえ、わたしはドリーのところへ行くの、そしてかまわずあの女《ひと》にいおう。――わたしは不幸ですわ。わたしにはこれが当然ですわ。わたしがわるいのです。でも、わたしはやっぱり不幸ですわ。どうぞわたしを助けてください。この馬、この馬車……こんな馬車に平気で乗っているなんて、なんていやなわたしだろう――何もかもあのひとのものなのに、だけど、わたし、いまにもう、こんなものも見なくなるわ』
すべてをドリーにうちあけるときの言葉をいろいろと考えて、わざとわが心をかきむしりながら、アンナは階段をあがって行った。
「どなたか来ていらっしゃる?」と、彼女は玄関の間《ま》でたずねた。
「カテリーナ・アレクサーンドロヴナ・レーヴィナ」と、従僕が答えた。
『キティーだわ! ウロンスキイが恋したことのあるキティーだわ!』こうアンナは思った。『あのひとがいまだに愛情をもって思いだしているその女だわ、あのひとは、彼女と結婚しなかったことを残念がっている。が、わたしのことは、あのひとはきっと憎々しい気持で思いだして、わたしといっしょになったことを、悔んでいるにちがいないわ』
アンナがついたとき、姉妹のあいだでは、授乳法の相談が開かれていた。ドリーはその最中に、ふたりの談話をさまたげた客を出迎えに、ひとりで出てきた。
「おや、あなたはまだお立ちにならなかったんですの! わたしは、こちらからお伺いしたいと思っていたところですのよ」と彼女はいった。「今日スティーワから手紙が来たものですからね」
「わたしたちも電報をもらいましたのよ」とアンナは、キティーを見つけようとし、あたりを見まわしながら答えた。
「主人はね、アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチはいったい何を考えていらっしゃるのかわからないけれど、確答をえないうちは帰らないからなんて書いてますのよ」
「わたし、どなたかお客さまかと思いましたのよ。じゃあ、その手紙を読ませていただけて?」
「ええ、キティーなんですのよ」と、どぎまぎしながらドリーはいった。「いま子供部屋のほうにいますの。だいぶ、からだがわるかったものですからね」
「そうだそうですね。その手紙は見せていただけませんか?」
「すぐにもって来ますわ。だけどあのかた、拒絶していらっしゃるんじゃないんですのよ。それどころかスティーワは、望みをもっていますのよ」とドリーは、戸口に立ちどまりながらいった。
「わたしはもう望みはもっておりませんの。それにもう願ってもおりませんの」と、アンナはいった。
『いったいこれはどうしたというのだろう。キティーは、わたしと会うことを、自分を卑しくすることだとでも思っているのだろうか?』とアンナは、ひとりになると考えた。『あるいはあの女《ひと》が正しいのかもしれない。だけど、たとえそれが正しかろうと、それは、ウロンスキイを恋したことのあるあの女《ひと》が、わたしに見せる態度ではないわ。そりゃわたしだって、こうした境遇にいるわたしが、品位ある婦人からうけいれられないことは知っているわ。わたしは、自分があの最初の瞬間から、あのひとのためにすべてを犠牲にしたのであることを知っている。そしてこれがその報いなのだわ! おお、わたしはいま、どんなにあのひとを僧んでいるだろう! またわたしは、なんだってこんなところへ来たんだろう? かえって心もちがわるくなったわ、かえっていやな気持になったわ』彼女は、つぎの部屋からもれてくる姉妹の話し声を聞いた。『それだのに、わたしはいま、ドリーに何をいおうとしているのだろう? 自分が不幸であることでキティーを慰めるためだろうか、あの女《ひと》の情けにすがるためだろうか? いいえ、ドリーだって、何もわかってくれはしないわ。だからあの女《ひと》にうちあけてみたってしかたがないわ。ただキティーに会って、今ではわたしが、どんなにあらゆる人、あらゆるものを軽蔑しているか、どんなにすべてのものを眼中においていないかを見せてやるのだけはおもしろそうだけど』
ドリーが手紙を持ってはいって来た。アンナはそれを読んで、黙って返した。
「わたし、これだけのことはみんな知っていましたわ」と、彼女はいった。「そしてこんなことは、わたしにはもう少しも興味がありませんの」
「まあ、どうしてですの? それどころか、わたしは望みをかけていますのよ」と、好奇の目をみはってアンナを見ながら、ドリーはいった。彼女はかつて一度も、こんなにへんにいらいらしている彼女を見たことがなかったので。「それで、あなたはいつお立ちになるの?」と彼女にきいた。
アンナは目を細めて、自分の前を見つめていた、そして答えなかった。
「どうしてキティーは、わたしを避けていらっしゃるの?」と彼女は、戸口のほうを見てあかくなりながらいった。
「まあ、何をおっしゃるのよ! あれはいまお乳をやっていますの。どうもそれがうまくいかないものだから、わたしがいろいろ世話をやいていたところなのよ……あれはたいへん喜んでいましたわ。もうすぐまいりましょうよ」と、うそをいうことのへたなドリーは、まずい口のききかたをした。「ほら、もうまいりましたわ」
アンナが来たことを知って、キティーは出て行きたくないと思った。が、ドリーが彼女を説きつけた。で、ありたけの力を集めて、キティーは出てくると、まっ赤になりながら、彼女のそばへきて手をさしだした。
「わたくし、たいへんにうれしゅうございますの」と、彼女はふるえ声でいった。キティーはこのわるい女にたいする敵意と、そういう女にも寛容でありたいという希望とのあいだに生じた心のたたかいに、すっかりかき乱されていた。ところが、美しく人好きのするアンナを見たとたんに、すべての敵意は、たちまちどこかへけしとんでしまった。
「あなたがわたしに会ってくださいませんでも、わたしはかくべつ驚きはしなかったろうと思いますのよ。わたしはもうどんなことにもなれてしまいましたから。あなたはどこかおわるくていらしたそうですのね? ほんとに、ずいぶんお変わりになりましたわ」とアンナはいった。
キティーは、アンナが敵意をもって自分を見ていることを感じた。彼女はその敵意を、以前は彼女を庇護《ひご》するような立場にいたアンナが、今は彼女にたいしてひけ目を感じるような立場にいるために生じたものだと解釈して、アンナがかわいそうに思われてきた。
彼女たちは、病気のことやら、赤ん坊のことやら、スティーワのことなどをしばらく話したが、それは明らかに、少しもアンナの興味をひかなかった。
「わたし、今日はあなたにお別れにまいりましたのよ」と彼女は立ちあがりながらいった。
「では、いつお立ちになりますの?」
が、アンナはふたたび答えないで、キティーのほうへ顔をむけた。
「ええ、わたくしもたいそううれしゅうございますわ、あなたにお目にかかれて」と、彼女はほほえみながらいった。「わたくし、あなたのことを、それはもうほうぼうから聞いていましたのよ。あなたのだんなさまからさえね。あのかたはわたくしどもへいらしてくださいましたのですわ。そしたらあのかたが、わたくしにはたいへん気にいってしまいましてね」と明らかに、悪意のある気持で彼女はつけくわえた。「いま、どちらにいらっしゃいますの?」
「田舎へまいっておりますの」と、あかくなりながらキティーはいった。
「どうぞ、わたくしからよろしくとおっしゃってくださいましね。どうぞ、きっとね」
「ええ、きっと!」と、同情にたえないというようにアンナの目に見いりながら、キティーは無邪気にくりかえした。
「それではさようなら、ドリー」こういって、ドリーに接吻し、キティーの手を握ると、アンナは急ぎ足にそこを出た。
「あのかたちっとも変わっていらっしゃらないのね、昔のとおりにチャーミングだわ。ほんとうにお美しいこと!」と姉とふたりになったときに、キティーはいった。「だけど、なんだかあのかたには、おかわいそうなところがあるわね。とてもおかわいそうなところがね!」
「いいえ、今日はあの女《ひと》、ずいぶんふだんと違っていてよ」と、ドリーはいった。「わたしが玄関へ送って出たとき、あの女《ひと》は、いまにも泣きそうな顔をしていたように見えたわ」
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二十九
アンナは、家を出たときよりもさらに暗い気分で馬車に乗った。今までの苦悩の上に、キティーとの邂逅ではっきりと感じた、侮辱されたような、のけものにされたような感じが加わったのである。
「どちらへまいりましょうか? お邸へ?」と、ピョートルがたずねた。
「ああ、うちへ」と、今はどこへ行くということをも考えないで、彼女はいった。
『ほんとにあのひとたちは、何か恐ろしい、えたいの知れない、珍しいものでも見るようにわたしを見ていたっけ。まあ、あの男は何をあんなに熱心に、連れの男に話すことがあるのだろう?』と彼女は、ふたりの通行人を見やりながら考えた。『いったい自分の感じていることを、ひとにつたえるなんてことができるものだろうか? わたしはドリーにうちあけたいと思ったけれど、話さないでいいことをしたわ。あの女《ひと》だって、どんなにわたしの不幸を喜ぶかしれやしないわ! むろん、あの女《ひと》はそれをかくすにちがいないけれど、あのひとの感じるおもな感情は、あの女《ひと》が日ごろわたしをうらやましく思っていた幸福のためにわたしが罰せられたのだという喜びにちがいないわ。キティー、あの女《ひと》は、なおさら喜んだにちがいない。どんなにわたしはあの女《ひと》を、腹の底まで見ぬいているだろう! あの女《ひと》は、わたしがあの女《ひと》の夫にたいして、ふつう以上にあいそよくしたことを知っている。それで、わたしをねたんだり憎んだりしているんだわ。そのうえ、さげすんでいるにちがいない。あの女《ひと》の目から見れば、わたしは堕落した女なのだ。だけど、もしわたしが堕落した女だったら、わたしはあの女《ひと》の夫を誘惑することもできたんだわ……もしわたしが、そうしたいとさえ思えば。いいえ、じつはそうしたいとも思ったのだわ。おやおや、あのひとはひとりで悦《えつ》にいっているわ』と彼女は、向こうから馬車でやって来た、ふとったあから顔の紳士について考えた。その男は彼女を知人だと思って、てかてか光ったはげ頭の上へ、これもてかてか光った帽子を持ちあげてから、そのまちがいに気がついたらしかった。『あのひとはわたしを知っていると思ったのだわ。けれど、世界じゅうの人がだれかれなしに知っていると同じ程度にしか、知ってやしないんだわ。だいいち、わたし自身がわたしを知らないんだもの。わたしは、フランス人のいうように、自分の食欲を知っているだけだもの。ほら、あの子供たちは、あんなきたないアイスクリームをほしがっている。あの子供たちもきっとそれを知っているんだわ』と彼女は、アイスクリーム屋を呼びとめたふたりの少年をながめながら、考えた。アイスクリーム屋は頭から桶《おけ》をおろして、タオルの端で汗ばんだ顔をふいていた。『わたしたちはみんな、甘いものおいしいものをほしがってるんだわ。お菓子がなければ、きたないアイスクリームでもいいのね。キティーにしたって同じことだわ。――ウロンスキイでなければ、レーヴィンなんだわ。それで、あの女《ひと》はわたしをねたんでいる。憎いとさえ思っている。こうしてわたしたちは、みんなお互いに憎みあってるんだわ。わたしはキティーを、キティーはわたしを。これはほんとうのことだ。チューチキンの coiffeur(理髪店)……Je me fais coiffer par チューチキン……(チューチキンのところで髪をゆってもらう)あのひとが帰ってきたら、わたしはあのひとにそういおう』彼女はこう考えてほほえんだ。しかし、その瞬間に彼女は、今の自分には笑い話ひとつする相手のないことを思いだした……『それにまた、おかしいことや新しいことはなんにもないんだもの。何もかもいやなことばかりなんだもの。ああ、晩祷《ばんとう》の鐘が鳴っている。まあ、あの商人のあのきちょうめんな十字の切りかたはどうだろう。まるで何かとり落とすのを恐れてでもいるようだわ。いったいなんのために、こんな教会や、こんな鐘の音や、こんな虚偽があるのだろう? ただもう、あそこであんなに口ぎたなくののしりあっている御者たちのように、わたしたちみんながお互いに憎みあっていることをかくすためだけなのだわ。ヤーシュヴィンはいっていらした――やつはわたしを裸にしようとかかるし、わたしもやつをそうしようとするのだって。そうよ、まったくそれにちがいないわ!』
自分の境遇について考えることすらやめてしまったほどに彼女をひきつけた、こうしたさまざまな想念のうちに、馬車は、いつのまにかわが家の玄関さきにとまった。迎えに出てきた玄関番の姿を見て、彼女ははじめて、手紙と電報を持たせてやったことを思いだした。
「返事はあって?」と彼女はたずねた。
「ただいま調べます」と玄関番は答え、机の上を見て、電報の四角な薄い封筒をとり、彼女に渡した。『十時前には帰れない、ウロンスキイ』こう彼女は読んだ。
「使いはまだ帰らないの?」
「まだ帰りません」と玄関番は答えた。
『ああ、それなら、わたしも自分のなすべきことは知っている』彼女はこうひとりごつと、身うちにわきおこる漠然とした憤怒と復讐の要求とを感じながら、二階へかけあがった。『わたしこちらから、あのひとのところへ行ってやろう。永久に別れてしまうまえに、洗いざらいあのひとにいってやろう。ああ、わたしは、これまでついぞどんな人をも、あのひとほど憎いと思ったことはなかった!』と彼女は考えた。帽子かけにかかった彼の帽子を見ても、彼女は嫌悪のために身ぶるいした。彼女は、彼の電報は彼女の電報の返事であって、手紙のほうはまだ見てはいないのだということを考えなかった。彼女は、今ごろ母親やソローキン令嬢とおちついて話しこみながら、彼女の苦悩を小きみよく思っている彼を思いうかべた。『そうだ、いっときも早く行かなければならない』と彼女は、まだどこというあてもなしに、自分にいった。彼女は、この恐ろしい家でなめている感情から、いっときも早くのがれたいと思ったのである。召使、壁、いろんな品物、この家にあるいっさいのものが、彼女の心に嫌悪と憎悪をおこさせて、一種の重圧感をもって彼女を圧迫するのだった。
『そうだ、停車場へ行かなければならない。そして、もしいなかったら、先方へ行って、現場をおさえてやらなくちゃならない』アンナは、新聞にある汽車の時間表をしらべてみた。晩の八時二分発の汽車があった。『そうだわ、これにまにあわせよう』彼女は、馬車に別の馬をつけるように命じて、自身はさしあたり必要なものを旅行|鞄《かばん》につめはじめた。彼女は、こんどこそもう二度とここへは帰ってこないことを知っていた。彼女は、頭にうかぶさまざまの計画のなかで、とにかく停車場か伯爵夫人の領地でどうにかしてみたあとで、ニジェゴーロド鉄道で最初の町まで行き、そこに足をとめよう、こう漠然と心にきめた。
食卓の上に食事の支度ができていた。彼女はそれに近づいて、パンとチーズのにおいをかぎ、そして、すべての食物のにおいがいやに鼻につくのを知ると、馬車をまわすように命じて、すぐ外へ出てしまった。家々はもう往来いっぱいにその影を落としており、まだ太陽の光があって、晴れやかな、暖かな夕べであった。手荷物をもって送り出してきたアーンヌシカも、馬車のなかへそれを持ちこんだピョートルも、明らかに不きげんでいる御者も――すべてが、彼女にとっていとわしく、その言葉や動作で彼女をいらだたせた。
「おまえなんか来なくともいいんだよ、ピョートル」
「ですが、切符はどうなさいます?」
「じゃ、いいようになさい。わたしはどうだっていいんだから」と彼女は、さもいまいましげにいった。
ピョートルは御者台へとび乗って、両手を腰にささえながら、停車場へ行くようにと命じた。
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三十
『また馬車だ! そしてまたわたしは、なんでも理解できるようになったのだ!』こうアンナは、馬車が動きだして、軽く揺れながら、敷き石道の丸石の上に車輪のひびきをたてはじめ、ふたたび目にうつる印象がつぎつぎと変わりはじめると同時に、自分の心にいった。『そうそう、わたしは一ばんおしまいに、なんのことをあんなにいい気持で考えたのだっけ』こう彼女は思いだそうとつとめた。『チューチキンの理髪店だったかしら? いいえ、そうじゃないわ。そうだ、ヤーシュヴィンのいったことだったわ。――生存闘争と憎悪――これこそ人を結びつける唯一のものだという。ああ、あなたがたはどこへ出かけたってだめですよ』と彼女は、まさしく郊外へでも遊びに出かけるらしい四頭馬車に乗った一行に向かって、はらのなかでこういった。『それに、あなたがたが連れている犬だって、なんの助けにもなりゃしませんよ。自分自身からのがれることはできないものですからね』そこでまた、ピョートルがふり向いたほうへ視線を投げて、彼女は、なかば死んだもののように酔っぱらって、頭をぐらぐらさせながら、どこかへ巡査に連れられて行くひとりの職工を見いだした。『そうよ、あのほうがよっぽど早道だわ』こう思った。『わたしとウロンスキイ伯爵とは、ずいぶん多くのものを期待したけれど、ふたりとも、あれだけの満足さえ見いだすこともできなかった』と、ここで初めてアンナは、それまで自分がすべてのものを見てきた、あの明るい光を、今までは考えることを避けていた彼との関係のほうへふり向けてみた。『いったいあのひとは、わたしに何を求めていたのだろう? 愛よりも、虚栄心の満足のほうがよけいだったのだわ』彼女は、ふたりの結ばれた当時の彼の言葉や、従順な猟犬を思わせるようなその顔の表情を思いうかべた。と、今ではすべてが、この考えを裏書きした。『そうだわ、あのひとには虚栄心の成功という勝ち誇った気持があったんだわ。もちろん、愛もあったにはちがいないけれど、大部分は成功の誇りだったんだわ。あのひとは、わたしを手にいれたことを誇っていたのだわ。ところが、今ではもうそれは過ぎ去ってしまった。誇るべきものが何もなくなってしまった。誇りどころか、恥になってしまった。あのひとは、わたしから取れるだけのものはみんな取ってしまった。そして今ではわたしは、あのひとになんの必要もない存在になってしまったのだ。あのひとは、わたしを重荷にして、わたしとの関係のために、不名誉な人間になるまいとつとめているのだ。あのひとは昨日こういった――自分はすべてを捨てる覚悟で、離婚と結婚を望んでいるのだと。あのひとはわたしを愛している――しかし、どんなふうにだろう? The zest is gone(味がぬけてしまったのだわ)まあ、あの男はみんなを驚かそうと思っているんだよ、そして自分だけで大満足なんだわ』と彼女は、乗馬練習所の馬に乗って駆けてゆく、あから顔の店員をながめながら考えた。『そうだ、あのひとにとっては、わたしにはもうなんの味もなくなってしまったのだわ。もしわたしがはなれてしまえば、あのひとはおなかの底で喜ぶにちがいない』
これは仮定ではなかった。――彼女は、いま自分に人生の意味と人間同士の関係とを啓示《けいじ》してくれた例の鋭い光のなかで、明らかにそれを見たのだった。
『わたしの愛はだんだん情熱的に、利己的になってゆくのに、あのひとの愛は、だんだん衰えて消えてゆく。そしてこれが、わたしたちのはなれてゆく原因なのだわ』こう彼女は考えつづけた。『これはもう、どうにもしようのないことなのだ。わたしにしてみると、すべてがあのひとひとりにあるので、あのひとが少しでも多く、そのすべてをわたしにあたえてくれることを要求する。ところがあのひとは、ますますわたしから遠ざかってゆこうとしている。わたしたちはつまり、結びつくまでは双方から接近したのだけれど、それからは、おさえがたい勢いで別々の方向へはなれていっているんだわ。これは、どう変えようもないことなのだ。あのひとはわたしに、わたしがむやみに嫉妬ぶかいようにいうし、わたし自身も自分に、わたしがむやみに嫉妬ぶかいようにいっていた。けれど、これはほんとうではないわ。わたしは嫉妬ぶかいのではなくて、不満なのだわ。けれど……』彼女は、そのとき、ふいにうかんだ想念によって心に生じた動揺から、はっと口をあけて、馬車のなかで席を変えた。『ああ、もしわたしが、あのひとの愛撫だけを熱望する恋人以外の何かになれるといいのだけれど、わたしはほかの何にもなることはできないし、またなりたいとも思わない。そして、この望みのためにわたしは、あのひとに嫌悪の感をおこさせるし、あのひとはあのひとで、わたしに憎悪の感をおこさせた。そしてこれも、こうなるよりほかにはなりようがなかったのだ。いったいわたしは、あのひとがわたしを欺くようなことはしないこと、ソローキンのお嬢さんにかくべつの関心をもっていないこと、キティーを思ってなどいないこと、わたしに心がわりなどしないことを、知らないだろうか? わたしはそんなことはみんな知っている。でも、そのために気がやすまるということは少しもない。もしあのひとがわたしを愛していなくてただ義務《ヽヽ》で優しく親切にしてくれるとしたら、それはわたしの望んでいるものではない――そうだ、それはかえって、憎悪より千倍もわるいくらいだわ! それは――地獄だわ! ところが、じっさいはそうなのだ。あのひとはもうとうからわたしを愛してなんかいやしないのだわ。愛のおわるところには、もうきっと憎しみがはじまっているものだから。……おや、こんな街路《みち》はわたしちっとも知らないわ。どこかの丘らしいが、どこまで行っても家ばかりだ……そして家のなかには、どこへ行っても人がいる、人がいる……どれくらいいるのか見当もつきやしない。そしてそれがみんな、お互いに憎みあっているのだ。ところで、いったいわたしは、自分が幸福になるために何を望んでいるのだろう、それをひとつ考えてみよう。ええと? わたしは離婚をうけ、アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチがセリョージャを渡してくれて、ウロンスキイと結婚するとする』アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチのことを思いだすと、彼女はすぐ、いかにもまざまざと、柔和な、生気のない鈍い目と、青筋だらけのまっ白な手と、例の調子と、ぽきぽき指を鳴らす癖とをもった彼の姿を、目に見るように思いうかべた。そして、彼と自分とのあいだにあった、同じく愛と名づけられていた感情を思いおこすと、彼女は嫌悪のために身をふるわせた。『そこでと、わたしは離婚をうけて、ウロンスキイの妻になる。そうしたらキティーも、今日のような目で、わたしを見ることをやめるだろうか? とても、とても。ではセリョージャは、わたしのふたりの夫のことについて、たずねたり考えたりすることをやめるだろうか? またわたしは、自分とウロンスキイとのあいだに、何か新しい感情を作りだすことができるだろうか? なんでもいい――幸福ではないまでも、せめて苦痛でないだけの何かが作りだせるだろうか? だめだわ、だめだわ!』と彼女は、今は少しのためらいもなく自分に答えた。『とてもだめだわ! わたしたちは生活的にわかれわかれになってゆくので、わたしはあのひとの不幸になり、あのひとはわたしの不幸になるんだわ。かといって、あのひとも、わたしもつくり変えることはできやしない。もうあらゆる試みは行なわれ、|ねじ《ヽヽ》は巻けるだけ巻かれてしまったのだもの……おや、赤ん坊を抱いた女こじきがいる。あれで人にあわれんでもらえると思ってるんだわ。いったいわたしたちは、みんなお互いに憎みあい、そして自分をも他人をも苦しめあう、ただそれだけのために、この世へほうりだされているのではないだろうか? おや、中学生たちが行く――笑っている。セリョージャは?』と彼女は思いだした。『わたしもやっぱり、自分はあの子を愛していると思って、自分の優しさに感動していた。けれどもわたしは、あの子なしに生きてきた、あの子を別の愛に見かえてしまった。そして、その愛に満足していたあいだは、この交換をなげかなかった』そして彼女は、その愛と名づけていたもののことを、嫌悪の情をもって思いおこした。と、彼女がいま自分の生活を見、あらゆる人々の生活を見ている鮮明さが、彼女を喜ばせた。『わたしにしても、ピョートルにしても、御者のフョードルにしても、あの商人にしても、ああした広告が人を招いているヴォルガ河の近くに住んでいるすべての人々にしても、みんな同じことなんだわ。どこへ行っても、いつの世にも』と彼女は考えた。そのとき、馬車はもう、ニジェゴーロド停車場の、低い建物に近づいていて、荷物はこびがばらばらと彼女のほうへかけて来た。
「オビラローフカまでお買いあそばすんでございましょうか?」とピョートルはいった。
彼女は自分がどこへ、なんのために行くかをすっかり忘れていたので、非常な努力でやっと質問の意味を解することができた。
「ああ」と彼女は、金のはいった紙入れを渡しながら、いった。それから片手に小さい赤い手さげ袋をさげて、馬車をおりた。
群集のあいだを一等待合室のほうへ向かいながら、彼女は、自分の境遇のあらゆる細かな点と、いずれとも決しかねてためらっているさまざまな決心とを、少しずつ思いうかべた。と、またしても、希望と絶望とがないまぜになり、前のとおりに、苦しみ悩んでふるえている彼女の心のいたでを、ちくちくと刺しはじめた。星形の長いすに腰掛けて汽車を待ちながら、出たりはいったりする人々(彼らは彼女にとってみんないとわしかった)を嫌悪の目をもってながめながら、彼女は、自分が向こうの停車場へついて、彼に手紙を書いてやるときのことや、書いてやる文句のことや、今ごろ彼が自分の境遇について(こちらの苦しみは知らないで)母親に訴えているであろうありさまや、自分がその部屋へはいって行くときのことや、彼にいってやろうと思うことなどについて、考えていた。かと思うと、彼女はまた、人生というものはもっと幸福であっていいはずだということや、自分がどんなに悩ましく彼を愛し憎んでいるかということや、この心臓の鼓動はなんという恐ろしい打ちかただろうということを、考えていた。
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三十一
ベルが鳴りわたり、ぶざまで、あつかましくて、こせこせしていながら、同時に自分たちのあたえる印象に注意ぶかい、どこかの若い男たちが通り過ぎ、やがてピョートルも、例の仕着せにゲートルつき長ぐつをはき、愚鈍な、獣のような顔をしながら、列車まで見送るために、待合室をつっきって彼女のそばへ歩みよった。がやがやいっていた男の連中は、アンナがプラットフォームへ出て彼らのそばを通ると、急に黙ってしまい、ひとりがもうひとりの男に、彼女のことを何かこそこそとささやいた、もちろん、いやらしいことであった。彼女は高い踏み段をのぼって、ただひとり、車室のなかのばね仕掛けの、昔は白かったのが今はうすぎたなく汚れている座席に腰をおろした。手さげ袋はばねの上でちょっとふるえて落ちついた。ピョートルは、愚かしい微笑をうかべながら、別れのしるしにモール入りの帽子を窓ぎわへさしあげ、無遠慮な車掌は、手あらくドアをしめて、|かけがね《ヽヽヽヽ》をかけた。大きな腰あてをつけた醜い貴婦人(アンナは腹の中でこの女を裸体にして見て、その醜さにおぞけをふるった)と、二、三人の少女とが、不自然に笑いながら、下のほうをかけて通った。
「カテリーナ・アンドレーエヴナのとこよ、みんなあのひとのとこにあるんですよ、ma tante!(おばさま!)」と少女は叫んでいた。『まあ女の子――あんな子までが、ぶきりょうなくせに、へんな|しな《ヽヽ》を作ったりして』とアンナは思った。人の姿を見まいとして、彼女は急いで立ちあがると、がらあきの車室の反対側の窓ぎわへ腰をおろした。縁《ふち》なし帽の下からもじゃもじゃの髪の毛をはみださせた、きたない身なりの醜い百姓が、車輪のほうへ身をかがめながら、その窓ぎわを通り過ぎた。『あのみっともない百姓には、どこやら見おぼえがあるようだわ』とアンナは思った。と、自分の夢を思いだして、彼女は恐ろしさに身ぶるいしながら、反対の戸口のほうへ身をひいた。車掌がドアをあけて、夫婦づれの客を通した。
「あなたはお出になるんですか?」
アンナは答えなかった。車掌もはいって来た客も、ヴェールにさえぎられて、彼女の顔の恐怖の色には気がつかなかった。彼女は、片すみの自分の席へもどって腰をおろした。夫婦者は注意ぶかく、しかし、そっと彼女の身なりをながめながら、反対の側に席をしめた。夫も妻も、アンナにはいとわしく思われた。夫のほうは彼女に、喫煙を許していただけるかどうかとたずねたが、それは明らかに、喫煙のためではなく、彼女に話しかけたいためであった。承諾の返事をうけると、彼は妻を相手にフランス語で、喫煙よりももっと必要度の少なかった話をはじめた。彼らはただ、彼女に聞かせるためばかりに、いやに様子をつくりながら、愚にもつかないことをしゃべったのである。アンナは、彼らがいかに互いにあき、互いに憎みあっているかを見た。そして、こうしたあわれな|ばけもの《ヽヽヽヽ》たちを、憎まないではいられなかった。
二度めのベルが聞こえ、それにつづいて荷物を運ぶ音、騒音、叫び声、笑い声が聞こえてきた。アンナには、だれにもうれしいことなどあるはずのないことが、わかりすぎるほどわかっていたので、この笑い声は彼女の神経を痛いまでに刺激し、彼女はそれを聞かないように、耳をふさいでしまいたい思いだった。ついに三度めのベルが鳴り、呼び子の音がひびき、機関車の汽笛が鳴り、鎖がぴんと張ると、例の夫のほうが十字を切った。『いったい何を感じてあんなことをするのか、あの男にきいてみたらおもしろいだろうに』と、憎悪の目で彼を見ながら、アンナは考えた。彼女はまた、夫人のかたわらの窓のなかに、列車を見送ってプラットフォームに立っている人たちが、うしろへ流れて行くように見えるのをじっと見ていた。アンナの乗っていた客車は、レールの継ぎめ継ぎめでごとりごとりと規則正しく揺れながら、プラットフォームを過ぎ、石垣を過ぎ、信号所を過ぎ、別の車輛のそばを通り過ぎた。車輪はしだいに調子よくなめらかに、軽い音をたてながら、レールの上をすべっていき、窓は明るい夕日の光に照らされて、微風は窓かけに戯れはじめた。アンナは、同室の隣人のことなどはすっかり忘れて、列車の軽い動揺に身をまかせ、新鮮な空気を胸いっぱいに吸いこみながら、ふたたびものを思いはじめた。『そこでと、わたしは何を考えていたんだっけ! そうそう、生活が苦しみでないというような境遇は考えられない、わたしたちはみんな、苦しむためにつくられたもので、わたしたちはみんなそれを知っていて、どうして自分を欺いたらいいか、そんなことばかり考えているのだと、こんなふうのことだった。だけど、もう真実を見てしまったときには、どうしたらいいのだろう?』
「人に理性があたえられているのは、その人を不安にするものからのがれさせるためですわ」前の婦人は、明らかに自分の言葉に満足しながら、いやに気どって、フランス語でこういった。
この言葉はまるで、アンナの考察にたいして、答えられたもののようであった。
『不安にするものからのがれる』こうアンナはくりかえした。そしてほおの赤い夫とやせた妻とをじっと見て、彼女は、この病身の妻が、われとわが身を理解されない女と考えており、夫は彼女を欺いて、自分自身についての彼女のこの意見を、支持しているのだということを察した。アンナはまるで、彼らの経歴と、彼らの心のまがりくねった小道という小道を、いちいち例の光をさしつけて見てまわっているような気がした。しかし、そこにはいっこうおもしろいことがなかったので、彼女は自分の考えをつづけた。
『そうだわ、わたしなど、とても不安な思いをさせられている。ところで、それをのがれるために理性があたえられているのだとすると、のがれるようにしなければならない。もう何も見るものがないというときに、こんなものは何ひとつ見るのがいやだというときに、なぜろうそくを消してはいけないのだろう? だけど、どうして消したらいいのだろう? おや、どうしてあの車掌は、棒なんかつたってかけて行ったのだろう? なんだってあの人たちは、向こうの箱のあの若い人たちは、あんなに叫んでいるのだろう? なんだって、しゃべっているのだろう? なんだって、笑っているのだろう? 何もかもみんなほんとうじゃないわ、みんなうそだわ、みんな偽りだわ。みんな邪悪だわ!……』
列車が停車場へ近づいたときに、アンナはほかの乗客の群にまじって外へ出て、らい病患者をでも避けるように彼らを避けながら、プラットフォームに立ちどまり、自分はなんのためにここへ来たのか、何をしようと企てて来たのかを、しきりに思いだそうとつとめた。これまではできると思われていたすべてのことが、今ではひどく困難に思われた。ことに、しばらくも平安をあたえないこうした醜悪な人々のそうぞうしい群集のなかでは、いっそう困難に思われた。荷物運びがサービスを申し出ながら、彼女のそばへかけてくるかと思えば、若い男女がプラットフォームの板を靴のかかとで踏みならしたり、大声に話しあったりしながら、じろじろと彼女をふり返ったり、また向こうからくる人々が、こちらの行くほうへ身をよせたりした。彼女は、もし返事がなかったら、もっとさきへ行くつもりだったことを思いだしたので、ひとりの荷物運びを呼びとめて、ウロンスキイ伯爵のところに手紙を持って行った御者が、ここにいないかどうかをたずねてみた。
「ウロンスキイ伯爵でございますか? つい今しがたあのお邸から、ここへ人がお見えになっておりました。ソローキン公爵夫人とお嬢さまのお出迎えだったのでございます。ですが、その御者というのは、どんな様子の人でございましょうか?」
彼女が荷物運びと話していたところへ、御者のミハイルが、血色のいい愉快そうな顔をして、青いしゃれた袖なし外套を着、時計の鎖をちらつかせて、見るからに自分の使命をうまくはたしたのを得意がっているような様子で、彼女のそばへ来て、手紙を渡した。彼女は封を切った。彼女の心臓は読まぬさきからしめつけられるようであった。
『おまえの手紙がまにあわなかったのを、非常に残念に思っている。ぼくは十時には帰ります』とウロンスキイは、むぞうさな筆跡で書きなぐっていた。
『そうだわ! わたしの思っていたとおりだわ!』こう彼女は、皮肉な微笑をうかべながら自分にいった。
「けっこうよ、おまえはうちへ帰ってちょうだい」と彼女は、ミハイルに向かって静かにいった。彼女が静かにいったのは、心臓の早い鼓動が呼吸をさまたげたからであった。『いいえ、わたしはもうおまえなんかに、自分を苦しませるようなことはさせません』と彼女は、彼でもない、自分自身でもない、彼女を苦しめる者にたいして、威嚇するような態度で考えた。そして、停車場の建物について、プラットフォームを歩きだした。
プラットフォームを歩いていたふたりの小間使ふうの女が、頭をうしろへふりむけて彼女を見ながら、彼女の服装について、何やら高調子に品さだめをした。――「本物よ」とふたりは、彼女のつけていたレースのことをいった。若い男たちは、彼女を平静にさせてはおかなかった。彼らは、またしても彼女の顔をじろじろと見て、不自然な声で何か笑って叫びながら、そばを通り過ぎた。駅長は通りすがりに、彼女は汽車に乗るのかどうかとたずねた。クワス売りの少年は、彼女から目をはなさなかった。『ああ、わたしはどこへ行ったらいいのだろう?』と、プラットフォームをさきへさきへと進みながら、彼女は思った。その端近くきて、彼女は立ちどまった。目がねをかけた紳士を出迎えて、声高く笑ったり話したりしていた何人かの婦人と子供とは、彼女が彼らとならぶと、急に鳴りをひそめて彼女を見た。彼女は、足を早めて彼らからはなれ、プラットフォームのはずれへ行った。貨物列車がはいって来た。プラットフォームはゆるぎだし、彼女は、ふたたび汽車に乗っているような気がしだした。
と、とつぜん彼女は、初めてウロンスキイと会った日の轢死人《れきしにん》のことを思いだし、そこで、自分のなすべきことをさとった。すばやく軽い足どりで、タンクからレールのほうへ通じている踏み段をおりて、彼女は、通過しつつある列車とすれすれの位置に、立ちどまった。彼女は、汽車の箱の下、螺旋《らせん》や、鎖や、のろのろと動いていく最初の車輛の高い鋳鉄《ちゅうてつ》の車輪を見つめ、そして目分量で、前輪と後輪との中央を見さだめ、その中央が、自分のまっ正面へくる瞬間を見さだめようと努力した。
『あそこへ!』と彼女は、車輛の影と、ばらばらとまくら木の上へふりかかっている石炭まじりの砂とをながめながら、自分にいった。
『あすこへ、あのまん中へ。そして、わたしはあのひとを罰し、すべての人と自分自身からのがれましょう』
彼女は、最初の車輛の中央が自分のま正面へ来たときに、その下へ身を投げようと考えた。が、彼女が手から放そうとした赤い手さげ袋が彼女を引きとめたので、機を失した――中央は行き過ぎてしまったのである。で、つぎの車輛を待たなければならなかった。水浴をしていて、いざ水に飛びこもうとする場合に何度も経験したことのあるのと同じ感じが彼女をとらえたので、彼女は十字を切った。十字を切る、なれたこの動作が、彼女の心に、娘時代、子供時代の思い出の、完全な絵巻をくりひろげた。と、ふいに、彼女のためにあらゆるものをおおいかくしていたやみが破れて、一瞬間、生涯が、そのすべての輝かしい過去の喜びとともに、彼女の前に現われた。しかし彼女は、近づいて来た第二の車輛の車輪から目をはなさなかった。そして、車輪と車輪とのあいだの中央が、彼女の前まで来たちょうどその瞬間に、赤い手さげ袋を投げだして、両肩のなかへ頭をちぢめ、両手をついて車台の下へ倒れこみ、そして、すぐまた、立ちあがろうとするような軽い動作で、膝をついた。と、その瞬間に彼女は、自分のやったことにぞっとした。『わたしはどこにいるのだろう? わたしは何をしているのだろう? なんのために?』彼女は身を起こして、飛びすさろうとした。が、なんとも知れぬ巨大な、無慈悲なものが、彼女の頭をがんと突いて、その背をつかんでひきずった。『神さま、何もかもお許しください!』と彼女は、抵抗のむなしさを感じながら口ばしった。ひとりの小柄な百姓が、何やらぶつぶつつぶやきながら、鉄の上で何かしていた。と、不安と、欺瞞と、悲哀と、邪悪とにみたされた書物を彼女に読ませていたろうそくが、いつにも増してぱっと明るく燃えあがり、今までやみにつつまれていたいっさいのものを彼女に照らして見せたと思うと、たちまちぱちぱちと音をたてて暗くなり、そして、永久に消えてしまった。
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第八編
ほとんど二か月たった。もう暑いなかばであったが、セルゲイ・イワーノヴィッチは、やっと今モスクワを去る支度にとりかかった。セルゲイ・イワーノヴィッチの生活には、そのあいだにいろんな出来事があった。彼の六年間の労作である『ヨーロッパおよびロシアにおける国家統治の原理ならびに形式概観』と題する著書は、もう一年まえに完成していた。この著書の数章と序論とは、ときどき定期刊行物に発表されたものであり、他の部分はセルゲイ・イワーノヴィッチによって、そのサークルの人々に読み聞かせられたものであったから、この著書の思想はすでに、公衆にとってぜんぜん新しいものではありえなかった。けれども、やはりセルゲイ・イワーノヴィッチは、自分の著書の出現は読書界にまじめな印象をあたえるにちがいないことを期待し、たとえ学術的に変革をもたらすほどではないまでも、少なくとも学界に強い感動をあたえるに相違ないことを期待していた。
この著書は、厳密な仕上げの後に、いよいよ去年出版されて、ひろく書店へ配布された。
セルゲイ・イワノーヴィッチは、その著書のことはだれにもたずねず、売行きはどうだという友人たちの質問にも、ふしょうぶしょうに、わざと冷淡な返事をして、その売行きを書店に問い合わせることすらしないでいながら、しかし一方では目を光らせ、注意力を極度に緊張させて、自分の著書が社会や文学界にあたえる第一印象を注目していた。
しかし、一週間、二週間、三週間を過ぎても、社会にはなんらの反響もみとめられなかった。ただその道の専門家であり学者である彼の友人たちだけは、ときどき――明らかに礼儀の観念から――その著書のことを話しだした。が、その他の知人たちは、学術的内容をもった書物には興味がなかったので、それについて言いだす者はひとりもいなかった。そして、一般の社会では、ことに現在は他の問題に興味を奪われているときだったので、ぜんぜん無関心な態度をとった。文学界においても同様、一か月のあいだに、その著書のことはひと言も語られなかった。
セルゲイ・イワーノヴィッチは、批評を書くに要する時間を細かく計算してみたが、しかしひと月たっても、ふた月過ぎても、同じ沈黙があるばかりだった。
ただ、「シェーウェルヌイ・ジューク(北方のかぶと虫)」誌の雑録欄に、声をつぶした歌手ドラバンチのことが書かれたついでに、ゴズヌイシェフの著書について、それがもうとっくに各方面の人から非難されて、一般のお笑い草になっているものだというような侮蔑《ぶべつ》的記事が、少しばかりのっただけであった。
やっと三月めになって、あるまじめな雑誌に批評文が現われた。セルゲイ・イワーノヴィッチはその筆者も知っていた。彼は一度ゴルーブツォフのところで、その男と会ったことがあったのである。
その筆者というのは、まだ非常に若い、病身の雑文家で、筆の上では非常に大胆であったが、教養のきわめて浅い、個人的関係においてはおくびょうな男であった。
その筆者にたいしてはあくまで軽蔑の念をもっていたにもかかわらず、セルゲイ・イワーノヴィッチは完全な敬意をもって、その論文を読みはじめた。論文は恐るべきものであった。
明らかにその雑文家は、彼の著書全体を、とても理解できないものというふうに理解したものらしい。しかし彼は、その著書を読まなかった人々にとって(確かにほとんどだれもそれを読んだ者はなかったのである)、その著書全体が誇大な言葉と、しかも不適当に(ということは、かずかずの疑問符が証明していた)用いられた言葉のられつにすぎないということ、またその著者はまったく無学な人間であるということが、はっきりとよくわかるように、巧みに抜粋《ばっすい》を引用していた。そしてその批評ぶりがまた、セルゲイ・イワーノヴィッチ自身すらその巧妙さをいなみかねたほど、巧妙なものであった。しかし、そこがつまり恐るべきものなのであった。
セルゲイ・イワーノヴィッチは、あくまで誠実な気持で、評者の論拠の正しさを検討したにもかかわらず、文中で嘲笑されている欠陥や誤謬《ごびゅう》には一分も心をとめず、知らず知らずのうちに早くも、この論文の筆者と会ったときのことや、話したことの一部始終を、細かな点まで思いうかべていた。
『おれは何かであの男の気をわるくしたようなことはなかったかしら?』とセルゲイ・イワーノヴィッチは自分にたずねた。
そして彼は、その若い男と会ったときに、その男が無知を暴露したような言葉を使ったのを訂正してやったことのあるのを思いだして、そこにこの論文の意味の解釈を発見した。
この論文のあと、彼の著書については、活字の上でも口の上でも、死のような沈黙がつづいた。そしてセルゲイ・イワーノヴィッチは、あれほどの愛と労苦とをもって仕上げた六年間の労作が、なんの痕跡もとどめずして葬りさられてしまったことをみとめた。
セルゲイ・イワーノヴィッチの境遇は、この著述を完成してからというもの、それまで時間の大部分をしめていた書斎の仕事を持たなくなったということによって、さらに重苦しいものとなってしまった。
セルゲイ・イワーノヴィッチは、聡明で、教養あり、健康で、活動的な人だっただけに、どこへその活動力を用いていいかを知らなかった。客間・会合・集会・委員会といったような、他人と話のできるあらゆる場所での会談が、彼の時間の一部分をしめていた。しかし、もう古い都会人である彼は、世なれない弟が、かつてのモスクワ滞在中にやったように、全部の時間を会談のためについやしてしまうことは自分に許さなかった。で、そこにはまだ、多くの暇と知力の余剰《よじょう》があった。
ところが、さいわいなことに、例の著述の不成功が原因で、彼にとって最も重苦しい気持だったこのときにあたって、異教徒問題・アメリカ親善問題・サマラの飢饉問題・博覧会問題・降神術問題などのかわりに、それまで社会の一隅にぶすぶすくすぶっていたにすぎなかったスラヴ問題が、急に頭をもたげてきたので、セルゲイ・イワーノヴィッチは、以前からこの問題の提唱者のひとりだった関係から、一身をそれに傾倒してしまった。
セルゲイ・イワーノヴィッチの属していたサークルでは、当時は、セルビア戦争のこと以外には何ひとつ語られもしなければ、また書かれもしなかった。日ごろ閑人《ひまじん》どもの群が時間つぶしにやっていたいっさいのことが、今ではみなスラヴ民族のためになされていた。舞踏会・音楽会・晩餐会・演説・婦人の衣装・ビール・料理店――すべてのものが、スラヴ人にたいする同情について表明していた。
この問題について人々が書いたり口にしたりしたことの多くと、セルゲイ・イワーノヴィッチは、細かな点において一致しないところがあった。彼は、スラヴ問題が、いつもつぎつぎと移り変わりながら社会のために仕事の題目をあたえる、あの流行熱のひとつになってしまったのを見た。また彼は、利欲や虚栄の目的をもってこの問題にたずさわっている人々がかなり多いのを見た。さらにまた彼は、新聞が、社会の注意を一身に集め、他紙をだしぬこうというただそれだけの目的をもって、多くの不必要な、誇大な記事をのせているのをみとめた。彼はまた、社会のこの一般的興奮にさいして、だれよりもさきにとびだし、だれよりも大声に叫び立てているのは、不遇な失意の位置にある人々――たとえば、軍隊をもたない司令官とか、内閣にいすをもたない大臣とか、雑誌をもたないジャーナリストとか、党員のない政党首領とかいうような連中であることを、見てとった。彼はまた、そこには、軽薄な、笑うべきものが多くまじっているのを見てとったが、しかしまた、社会のあらゆる階級をひとつに結合した、純真な、刻々に高まってゆく、どうしても同感せずにはいられないような熱狂のあることをも、見てとり、それを承認した。同教徒であり、同胞であるスラヴ民族の虐殺は、受難者にたいする同情と、迫害者にたいする憤怒とをよびおこした。そして、偉大なる事業のために戦っているセルビア人やモンテネグロ人のヒロイズムは、もはや言葉でなく事実において、自分たちの同胞を救おうという希望を、全国民の胸に植えつけたのである。
しかしなおそのうえに、セルゲイ・イワーノヴィッチにとっては、いまひとつ別な喜ばしい現象があった――それは世論の出現であった。社会は自己の希望を決定的に発表した。セルゲイ・イワーノヴィッチにいわせると、国民精神がその表現を見いだしたのである。そして、この問題にくびをつっこめばつっこむほど、彼にはそれが、当然大規模な、画期的のものとなるべき事件であることが、ますます明瞭になってきた。
彼は、この大事業に自己の全部をささげて奔走《ほんそう》し、自分の著書については考えることすら忘れてしまった。
で、今では彼は、全部の時間をそれに奪われてしまったので、ほうぼうからくる手紙や要求に返事を出す暇もなかった。
春いっぱいと夏の一部とをずっと働き通してから、七月にはいって彼はようやく、田舎の弟のもとへ行く支度にとりかかったのだった。
彼が出かけたのは、二週間の休養と、民衆の至聖の地であるへんぴな田舎で、自分をはじめ首都や都会の住民全部が十二分に確信している、例の国民精神の昂揚《こうよう》状態を見て楽しむためであった。そして、以前からレーヴィンにたいする約束――彼を訪ねるという約束をはたしたいと思っていたカタワーソフが、彼と行をともにすることになった。
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セルゲイ・イワーノヴィッチとカタワーソフとが、今日はとくに人々の雑踏しているクールスク線の停車場へついて、馬車をおり、あとから荷物といっしょに乗ってくる従僕を見ようとしてふり返ったとたんに、ちょうどそこへ、四台のつじ馬車に分乗した義勇兵の一隊が到着した。花束を手にした貴婦人連が彼らを迎え、あとからなだれこんでくる群集に押されながら、停車場のなかへはいって行った。
義勇兵を出迎えた貴婦人のひとりが、待合室から出てきながら、セルゲイ・イワーノヴィッチに声をかけた。
「あなたも、やっぱりお見送りにいらっしゃいましたの?」と、彼女はフランス語でたずねた。
「いいえ、わたしは自分で出かけるのですよ、公爵夫人《おくさん》、弟のところへ息抜きにね。あなたはいつもお見送りをなさるんですか?」と、やっとわかるくらいの微笑をうかべて、セルゲイ・イワーノヴィッチはいった。
「ええ、そうしないわけにはまいりませんもの!」と、公爵夫人は答えた。「もう、ここから八百人もの人が送られたと申しますのは、ほんとうでございますわね? マリヴィンスキイは、わたくしがそう申しましても、ほんとうになさいませんでしたけれど」
「八百名以上ですよ。直接モスクワからでなしに送られた人たちまで数えたら、千名以上にもなるでしょうよ」とセルゲイ・イワーノヴィッチはいった。
「そうでしょう。だからわたくしもそう申しましたんですのよ!」と、貴婦人はうれしそうに相づちをうった。「そして、今ではもう百万もの寄付が集まっているというのも、やっぱりほんとうでございますわね?」
「それ以上ですよ、公爵夫人《おくさん》!」
「ところで今日の電報はいかがでございます? またトルコがやられましたんですのね」
「そうですよ、わたしも読みました」とセルゲイ・イワーノヴィッチは答えた。それから彼らは、トルコ軍があらゆる方面で三日間たてつづけに撃破されて遁走《とんそう》したこと、明日にも一大決戦が予想されていることなどを確報した最近の電報について、話しあった。
「おお、そうそう、あの、ひとりの立派な青年が志願したんでございますがね。どういう理由でか話がすらすら運ばなかったんでございますよ。それでわたくし、じつはあなたにお願いしたいと思っておりましたのですが、いかがでございましょう、わたくしもその青年を知っておりますんですが、一筆お口ぞえをお願いできませんでしょうか。その人はリディヤ・イワーノヴナ伯爵夫人のほうからまわされてきたかたなんでございますが」
志願者である青年について公爵夫人が知るかぎりのことをくわしくたずねたうえで、セルゲイ・イワーノヴィッチは一等待合室へはいって行き、その方面のことを司《つかさど》っている人あてに手紙を書いて、公爵夫人に渡した。
「あなたもごぞんじでいらっしゃいましょう、ウロンスキイ伯、あの有名な……あのかたがやはりこの汽車でご出発になりますのよ」と、彼がふたたび彼女を見つけて手紙を渡したときに、彼女は勝ち誇ったような意味ふかい微笑をうかべて、こういった。
「あのひとが出かけることはわたしも聞きましたが、しかしいつということは知りませんでした。じゃ、この汽車なんですか?」
「わたくし、あのかたをお見うけいたしましたの。いまここへ来ていらっしゃいますよ、お母さまおひとりのお見送りでね、とにかくあのかたとしては、こうしてお出かけになるのが、一ばん上分別でございますわね」
「ええ、そうですとも、もちろんです」
彼らがこんなことを話しあっていたとき、一群の人々が彼らのそばを通って、食堂のほうへなだれて行った。彼らも同じように動いて行き、そしてシャンペン酒杯を手にしたひとりの紳士が、大声で義勇兵たちにあいさつを述べているのを聞いた。「信仰のため、人類のため、わが同胞のために」としだいに声を高めながら、紳士はいっていた。「この大偉業にたいして母都モスクワは諸君を祝福する|ウラー《ヽヽヽ》!」と彼は、声高く、涙ぐましく言葉を結んだ。
一同は|ウラー《ヽヽヽ》を叫んだ。と、また新しい群集が、どっとホールへなだれこんで、危うく公爵夫人を押し倒しそうになった。
「やあ! 公爵夫人《おくさん》、いかがです!」と、ふいに群集のなかから現われたステパン・アルカジエヴィッチが喜ばしげな微笑に輝きながらいった。「いえ、なかなかうまい、暖かみのあるあいさつでしたね、そうじゃありませんか? ブラーヴォー! やあ、これはこれはセルゲイ・イワーノヴィッチ! あなたからも、なんとか一言あいさつがあってしかるべきですね――ほんのひと口、激励の言葉がね。あなたはそういうことが非常にうまいんだから」と彼は優しい、敬意のこもった、用心ぶかい微笑をふくんで、セルゲイ・イワーノヴィッチの手をとって軽く引きよせながら、言いたした。
「ところがね、わたしはこれから出かけるんだから」
「どこへ?」
「田舎の弟のところへ」と、セルゲイ・イワーノヴィッチは答えた。
「じゃ、あなたはぼくの家内にお会いになりますね。ぼくは手紙を書いておいたんですが、あなたのほうがそれより早く会われるでしょうから、どうかひとつ、ぼくに会ったことをお伝えください。そして all right(万事よろしい)といってやってください。それだけでわかりますから。いやしかし、いっそお願いついでに、ぼくが連合委員会の役員に任命されたことを伝えていただきましょうか……それならなおよくわかりますから! じつはその les petites miseres da la vie humaine(人生の小惨事でしてね)」と彼は、まるで許しをこいでもするように、公爵夫人のほうをむいた。「それからミャーフカヤね、リーザでない、ビビシュのほう、あの女が、小銃千丁と看護婦を十二人寄付していますよ。もうお話しましたかね?」
「ええ、ぼくも聞いています」と、気のりのしない調子でコズヌイシェフは答えた。
「とにかく、あなたが行ってしまわれるのは残念ですな」とステパン・アルカジエヴィッチはいった。「じつは明日、出征するふたりの友人のために、送別会をやることになっているんでしてね――ペテルブルグから来ているディーメル・バルトニャンスキイとわがウェスローフスキイ、例のグリーシャね、このふたりが戦地へ出かけるわけなんですよ。ウェスローフスキイは近ごろ結婚したばかりなんですがね。なかなかえらいもんですよ! ね、そうじゃありませんか、公爵夫人《おくさん》?」と、彼は貴婦人のほうをむいた。
公爵夫人は返事をしないで、コズヌイシェフのほうを見た。しかしステパン・アルカジエヴィッチは、セルゲイ・イワーノヴィッチと公爵夫人とが、彼からはなれたがっているように見えたことも、いっこうに意としなかった。彼はにこにこしながら、何かを思いだそうとでもするように、公爵夫人の帽子の羽根飾りをながめたり、あたりを見まわしたりしていた。彼は、義捐箱《ぎえんばこ》を手にして通りかかる貴婦人を見かけると、それを自分のほうへ呼びよせて、五ルーブリ紙幣をその箱へ入れた。
「どうもぼくは、自分に金のあるあいだは、あの箱を見のがすことができませんでね」と、彼はいった。「ですが、今日の電報はどうです? モンテネグロ人の勇敢さは!」
「えっ、ほんとうですか?」と彼は、公爵夫人からウロンスキイがこの列車で出発すると聞いたときに、叫んだ。一瞬間、ステパン・アルカジエヴィッチの面《おもて》には、憂愁の色が現われたが、一分後に、ひと足ごとに軽くとぶようにしながら、ほおひげをととのえととのえ、ウロンスキイのいる室へはいって行ったときにはもう、妹の亡骸《なきがら》の上にそそいだ自分の絶望的な涙などはきれいに忘れて、ウロンスキイにおいてもまた、ただ一個の勇士、一個の古い友だちだけを見るのであった。
「あのひと、かなり欠点の多い人ですけれど、いい人でないとは申せませんですわね」と公爵夫人は、オブロンスキイが行ってしまうとさっそく、セルゲイ・イワーノヴィッチに向かっていった。「ああいうのがほんとうのロシアかたぎ、スラヴかたぎというんでございましょうね! ただわたくし、ウロンスキイには、あのひとに会うのが不愉快だろうと気になりますの。なんと申しましても、あのひとの運命はわたくしを感動させますわ。あなたは汽車のなかであのかたとお話しておあげあそばせよ」と、公爵夫人はいった。
「ええ、たぶん、そういう機会がありましたらね」
「わたくしは、これまでけっしてあのかたを好いてはおりませんでした。でも、こんどのことは、たくさんのことの償いになりますわ。あのかたはご自身で出征なさるばかりでなく、自費で騎兵中隊を引率していらっしゃるんでございますものね」
「そうですって。わたしも聞いています」
ベルが鳴りだした。一同は改札口のほうへ集まった。
「そら、あのひとですわ!」と公爵夫人は、母夫人と腕を組み合わせて歩いてゆく、長い外套を着て、つばのひろい帽子をかぶったウロンスキイをさしながらいった。オブロンスキイは、何か元気よく話しながら、彼とならんで歩いていた。
ウロンスキイは、ステパン・アルカジエヴィッチのしゃべっていることなどまるで聞いていないもののように、眉をひそめたまま、じっと自分の前を見ていた。
たぶんオブロンスキイの指示によってであろう、彼は、公爵夫人とセルゲイ・イワーノヴィッチの立っているほうをふり返ると、無言で帽子をあげた。急に老《ふ》けた、苦悩を現わしている彼の顔は、まるで化石したもののように見えた。
プラットフォームに出ると、ウロンスキイは黙って母を通らせてから、車室のなかへ姿をかくした。
プラットフォームでは、「ポージエ ツァリヤー フラニイ(神よ帝を守らせ給え)〔ロシア国歌〕」の声がひびきわたり、ついで「ウラー!」「ジーヴィオー!(セルビア語の万歳)」という叫び声がおこった。義勇兵のひとりである、背の高い、非常に若い、ぺちゃんこな胸をした青年が、頭の上でフェルト帽と花束とをうち振りながら、とくに人目にたつようなおじぎをしていた。と、そのあとから、同じようにおじぎをしながら、ふたりの士官と、あぶらじみた軍帽をかぶった、大きなあごひげのある中老人とが、窓から半身をつき出した。
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公爵夫人に別れを告げると、セルゲイ・イワーノヴィッチは、おりからそばへ来たカタワーソフといっしょに、足の踏み場もないような汽車へ乗りこんだ。と、汽車は動きだした。
ツアリーツィンの停車場で、列車は、スラーヴィサー〔ロシア国歌の一つ〕をうたっている青年たちのよく揃った合唱に迎えられた。ふたたび義勇兵たちは、おじぎをしたり、半身をのりだしたりしたが、しかしセルゲイ・イワーノヴィッチは、彼らには注意をむけなかった。――彼は、これまでに義勇兵関係の仕事をずいぶんやってきたので、彼らに共通したタイプというものがわかっていて、それにはもはや興味をひかれなかったのである。が、自分の学問上の仕事に追われて、義勇兵を観察する機会を持たなかったカタワーソフは、ひどく彼らに興味をもって、彼らのことをいろいろと、セルゲイ・イワーノヴィッチに質問するのだった。
セルゲイ・イワーノヴィッチは彼に、二等車へ出かけて行って、自身で彼らと話してみることをすすめた。つぎの停車場でカタワーソフは、このすすめを実行した。
汽車がとまるとすぐ、彼は二等車のほうへ移って、義勇兵たちと知り合いになった。彼らは、乗客たちや、今はいってきたカタワーソフなどの注意が自分たちにむけられていることを明らかに知りながら、客車の一隅に陣どって、大声にしゃべりあっていた。なかでも、あの背の高い胸のぺちゃんこな青年が、一ばん高調子にしゃべっていた。彼は明らかに酔っていたらしく、彼らの学校でおこったある事件について話していた。この男と向かいあって、オーストリア近衛隊の軍服である袖なしを着た、もうあまり若くない士官がひとり腰掛けていた。彼は、にこにこしてその話を聞きながら、ときどき口をはさんでいた。三人めは砲兵の軍服を着て、彼らのそばのトランクに腰掛けていた。四人めは眠っていた。
その青年と話しあってみて、カタワーソフは、彼の前身が、二十二歳になるまで巨万の財産を蕩尽《とうじん》してしまった富裕なモスクワ商人であったことを知った。カタワーソフにはその青年の柔弱《にゅうじゃく》で、わがままで、病身らしいところが気にいらなかった。彼は見るからに、ことに今は酒のせいもあって、自分が英雄的行為をはたしつつあることを確信している様子で、最も不愉快な形でそれをひけらかしていた。
いまひとりの退職士官もやはり、カタワーソフに不快な印象をあたえた、それは、一見して、あらゆることをやってきた男らしかった。彼は鉄道に出ていたこともあれば、領地管理人だったこともあり、また自分で工場経営をしたこともあったというので、必要もないのに、でたらめに、むずかしい言葉をつかいながら、あらゆることに口を出すのだった。
三人めの砲兵は、これに反して、非常にカタワーソフの気にいった。それは謙遜な、もの静かな男で、まさしく退職近衛士官の知識と、商人の英雄的自己犠牲の前に感服しきっている様子で、自分のことはひと言も話さなかった。カタワーソフが彼に向かって、なにを感じてセルビアへ行こうと決心したのかとたずねたときに、彼は謙遜な態度で答えた。
「なんということもありません、みなさんが出かけて行きますからね。それにやはり、セルビア人だって助けてやらなくちゃなりませんよ。かわいそうですもの」
「なるほどね、ことにあんたがた砲兵があちらには足りないんですからね」とカタワーソフはいった。
「ですがわたしは、ほんの僅かしか砲兵隊にはおりませんでしたから、たぶん歩兵か騎兵のほうへまわされると思っているんです」
「どうして歩兵なんかにまわされるんですか、砲兵に一ばん不足を感じているというのに!」とカタワーソフは、その砲兵の年齢から推して、もう相当の地位になっていることを想像しながらいった。
「でもわたしは、砲兵隊にはほんの僅かしか勤めていませんでしたから。見習士官で退役してしまったのですから」こういって彼は、試験に合格しなかった理由を説明しはじめた。
こうしたことがみないっしょになって、カタワーソフに不快な印象をあたえたので、義勇兵たちが酒を飲みに停車場のほうへ出て行ってしまうと、カタワーソフは、だれかと話をして、自分のよからぬ印象を確かめてみたい気になった。そこにはひとり、軍人の外套を着た老人の旅客が、さっきからずっと、カタワーソフと義勇兵たちとの会話に耳をかたむけていた。カタワーソフは、この老人とふたりきりになったので、さっそく彼のほうへ顔をむけた。
「いやどうも、戦地へ出かけて行く人たちの境遇は、じつにさまざまなものですなあ」とカタワーソフは、自分の意見を発表すると同時に老人の意見をも知りたいと望みながら、あいまいにまずこう言いかけた。小柄な老人は、二度の戦役をへてきた軍人であった。彼は、軍人というものを知っていたので、この連中の様子や、話しぶりや、道中で酒びんにかじりついている勇猛心《ゆうもうしん》などからみて、彼らを劣等な軍人だと考えていた。そればかりでなく、彼は、地方の町の住人だったので、その町からひとり、酔っぱらいでどろぼうで、だれひとり雇い手のないような労働者が、終身兵として出征したことを話したく思っていた。けれども、経験上、社会が現在のような気分でいるなかで、一般に反した意見を発表すること、わけても義勇兵を非難することの危険を知っていたので、彼もやはり、じっとカタワーソフの顔色をうかがっていた。
「しかしまあ、あちらでは人間がいるんですからねえ」と彼は、目だけで笑いながら、いった。それから彼らは、最近の軍事ニュースについて話しはじめたが、ふたりとも、最近の情報によるとトルコ軍はあらゆる方面で撃破されているというのに、明日の決戦に期待される相手は、いったい何ものだろうというめいめいの疑惑は、お互いにかくしあった。こうしてふたりは、自分たちの意見は口に出さないで、別れてしまった。
カタワーソフは自分の車室へ帰ると、われにもなく自分の感情をまげて、義勇兵にたいする自分の観察を、彼らがあっぱれな若者らしく思われるように、セルゲイ・イワーノヴィッチにつたえた。
都会の大きな停車場では、またしても歌と叫び声とが義勇兵を迎え、またしても義捐箱を手にした男女の募集者たちが現われ、県の代表の貴婦人たちが義勇兵に花束をささげに来て、彼らのあとについて食堂へはいった。しかしそれもこれも、あらゆることが、モスクワのそれにくらべると、はるかに貧弱で、おそまつであった。
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県庁所在地に停車していたあいだ、セルゲイ・イワーノヴィッチは食堂へは行かないで、プラットフォームへ出て、あちこちと歩きはじめた。
最初、ウロンスキイの車室のそばを通ったときには、彼は、カーテンがおりているのに気がついた。が、二度めに通ったときには、窓に老伯爵夫人をみとめた。彼女はコズヌイシェフを自分のほうへ呼んだ。
「ごらんのとおり、わたくしも乗ってまいります、クールスクまであの子の見送りにね」と、彼女はいった。
「いや、わたくしもうかがいました」と、窓ぎわに立ちどまって、なかをのぞきこみながら、セルゲイ・イワーノヴィッチはいった。「ご令息としては、じつにりっぱなお覚悟です」と彼は、ウロンスキイが車室にいないのを見て、こうつけくわえた。
「さようでございますよ。あんな不幸があってみますと、あの子にしましてもほかにどうしようがございましょう?」
「まったく恐ろしい出来事でしたなあ!」とセルゲイ・イワーノヴィッチはいった。
「ああ、わたくしはどんな思いをいたしましたでしょう! それはそうと、まあおはいりくださいませんか……ほんとにわたくしは、どんな思いをいたしましたでしょう!」と彼女は、セルゲイ・イワーノヴィッチがはいって来て、彼女とならんで長いすに腰をおろしたときに、ふたたびくりかえした。「それはとても、想像のできるようなことではございませんよ! 六週間というもの、あの子はだれとも口をきかず、わたくしが祈るようにして頼まなければ、食事もしなかったのでございますからね。ですから、ただの一分間も、ひとりにしておくことはできません。わたくしどもは、自殺の役にたつようなものは、全部とりあげてしまいました。わたくしどもは階下に住んでおりましたんですけれど、なにしろ、さきのことはてんで見当もつかないんでございますからね。ごぞんじでいらっしゃいましょうか、あれはもう前にも一度、あの女のことでピストル自殺をしかけたことがあったのでございますよ」こう彼女はいった。と、老婦人の眉は、そのときの思い出のために曇った。「そうですわ、あの女は、ああいう女がおわらなければならぬような身の終わり方をいたしました。死までをあの女は、ああいう下品な、低級な死を選びました」
「さあ、しかしこの審《さば》きは、わたくしどもの力には、およばないことでしょうな、伯爵夫人《おくさん》」と、ほっというため息とともに、セルゲイ・イワーノヴィッチはいった。「しかし、あなたのおつらかっただろうことは、わたくしにも十分お察しできます」
「ああ、どうぞもうおっしゃらないでくださいまし! あの当時わたくしは、田舎の領地のほうで暮らしておりましたが、あれもちょうど、そこへまいっておりましたんでございます。そこへ手紙が届いてまいりました。あれは返事を書いて返してやりました。わたくしどもは、あの女が停車場へ来ていようなどとは夢にも知らなかったのでございますよ。ところがその晩、わたくしが自分の部屋へひきとりますとまもなく、わたくしどものメリーが、停車場で貴婦人の鉄道自殺があったということを知らしてくれました。わたくしは何かなしはっといたしました! あの女だ! とすぐにわたくしはさとりました。そして、第一にわたくしの口をついて出たのは、あれに聞かしてはならぬということでした。けれど、そのときあれはもう、みんなから聞いてしまっておりました。あれの御者がそこに居あわせまして、すっかり見てしまったのでございます。わたくしがあれの部屋へかけつけましたときには、あれはもう正気を失っておりました――見るも恐ろしい様子をいたしておりました。あれはひと言も口をきかず、馬をとばして先方へ行ったのだそうでございます。先方でどんなことがあったか、それはわたくしもぞんじませんが、やがて死人のようになって運びこまれてまいったのだそうで。わたくしにさえ、はっきりあれだと見きわめがつかなかったほどでございますもの。お医者さまは Prostration complete(完全な虚脱)だと申しました。それから、まるで狂気のような状態がはじまりましてね。ああ、もうなんにも申しますまい!」と、伯爵夫人は片手を振りながらいった。
「ほんとに恐ろしい時代でございます! いいえ、なんとおっしゃっても、あれはよくない女でございますよ。まあ、ほんとに、なんという恐ろしい情熱だったんでございましょうね! あれはみんな、何か特別なことを証明して見せるためだったんでございますよ。そして、あの女はとうとうりっぱに証明したわけでございます。つまりあの女は、自分を滅ぼし、ふたりのりっぱな男――自分の夫とわたくしの不幸なせがれとを滅ぼしてしまったのでございますからね」
「ところで、あのひとの夫はどうしましたでしょう?」とセルゲイ・イワーノヴィッチはたずねた。
「あのかたはあの女の娘をひきとりました。初めのうちアリョーシャは、何事にでもうんうんと同意しておりましたのです。でも、今ではあれも、わが娘を他人に渡してしまったというので、ずいぶん悩んでいるようでございます。でも、いったん口に出した言葉を|ほご《ヽヽ》にするわけにはまいりませんのでね。カレーニンはお葬式に来られました。けれど、わたくしどもは骨を折って、あのかたとアリョーシャとを会わせないようにいたしました。あのかたのほうは、夫のほうは、なんといってもらくでございますよ。あの女が解放してくれたわけでございますからね。けれど、わたくしのかわいそうなせがれは、あの女にすべてをあたえてしまったのです。何もかも――出世の道も、わたくしも投げすててしまったのに、それでもまだあの女は、あれを気の毒とも思わないで、わざとあれにとどめを刺してしまったのですわ。いいえ、なんとおっしゃっても、あの女の死にかたは、宗教心のない、いまわしい女の死でございます。神さま、どうぞお許しくださいまし。けれどわたくしは、せがれの破滅を見ていますと、あの女の思い出を憎まないではいられないのでございますよ」
「しかし、ご子息は今はいかがです?」
「ほんとに神さまのお助けでございますよ――こんどのセルビア戦争はね。わたくしはもう年よりで、こんなことはいっこうわかりはいたしませんが、あの子にとりましては、神さまのおつかわしものなのでございます。もちろん、母として、わたくしは恐ろしゅうございます。そればかりでなく ce n'est pas tres bien vu a Petersbourg(あの子はペテルブルグではあまりよく思われていない)そうでございます。けれど、それかといってどういたしましょう。ただこれひとつがあれを立たせてくれましたのですもの。ヤーシュヴィン――あれのお友だちでございますがね――そのかたが、何もかも根こそぎカルタで負けてしまって、セルビアへ行く気におなりなすったんでございますがね。そしてあれのところへいらして、あれにもおすすめなすったんでございますよ。で、今ではあれも、そのことで気がまぎれておりますの。どうぞお願いですから、少しあれとお話してやってくださいまし、わたくしは少しでもあれの気をまぎらしてやりたいのでございます。あれはとてもふさぎこんでおります。おまけに、あいにくなことに、あれはまた歯が痛みだしたんでございますよ。けれど、あなたにお目にかかりましたら、さぞ喜ぶことでございましょう。どうぞあれとお話してやってくださいまし、あれはこちらのほうを歩いているはずでございますから」
セルゲイ・イワーノヴィッチは、自分も非常にうれしいといって、列車の向こう側のほうへおりて行った。
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プラットフォームに積まれたかますの山の斜めの夕影のなかで、長い外套を着て帽子をまぶかにかぶったウロンスキイが、両手をポケットにつっこんだまま、檻《おり》のなかの獣のように、二十歩ばかり行ってはくるりと身をひるがえしながら、しきりに行ったり来たりしていた。そのそばへ近づいて行ったとき、セルゲイ・イワーノヴィッチには、ウロンスキイが彼を見ながらわざと見ぬふりをしているように思われた。が、セルゲイ・イワーノヴィッチには、そんなことはどうでもよかった。ウロンスキイにたいしては、彼はいっさいの私情を越えたところに立っていたから。
このときのウロンスキイは、セルゲイ・イワーノヴィッチの目には偉大な事業のための、重要な人物のひとりだったので、コズヌイシェフは、彼をはげまし勇気づけることを、自分の義務だと考えていた。彼は彼のそばへ歩みよった。
ウロンスキイは立ちどまってじっと見て、それと知ると、つかつかとセルゲイ・イワーノヴィッチのほうへ歩みより、かたくかたくその手を握った。
「ひょっとするとあなたは、わたしと顔をあわせることを望んでいられなかったかもしれませんね」と、セルゲイ・イワーノヴィッチはいった。「しかしわたしだって、多少のお役にたつことぐらい、できるかもしれませんよ」
「いや、今のわたしは、だれに会うのも不愉快なんですが、あなただけは、まだしもそれが少ないほうです」とウロンスキイはいった。「どうぞあしからずお許しください。この人生には、わたしにとって愉快なものはひとつもないのですから」
「そのお心もちはよくわかります。わたしはただ、何かお役にたつことができればと思ったまでで」と、苦悩の色のありありと見えるウロンスキイの顔を見つめながら、セルゲイ・イワーノヴィッチはいった。「リスティーチかミランへの紹介状はいりませんか?」
「いや、なに」と、やっと相手の言葉がのみこめたという様子で、ウロンスキイはいった。「もしおさしつかえがなかったら、少しお歩きになりませんか。車のなかはどうも息ぐるしくて。紹介状ですか? いやありがとうございます。が、死にに行くものには、紹介状もいりませんよ。それとも、トルコ人あての紹介状でも……」と彼は、口もとだけに微笑をふくんでいった。が、目は依然として腹だたしげな苦悩の表情をあらわしていた。
「なるほどね。しかし、どのみち人との交渉は避けられぬとすると、覚悟のできてる人と交渉を持つほうが、少しはましかもしれませんよ。もっとも、それはご随意ですが。とにかくわたしは、あなたのご決心を聞いたときに、非常にうれしく思ったのです。なにしろ、義勇兵にたいしてかなり非難の声の高くなっているときですから、あなたのようなかたが出てくだされば、彼らにたいする評価も、おのずと高まるわけですからね」
「わたしは一個の人間として」と、ウロンスキイはいった。「ただ、わたしにとって生命がなんの価値もないという点だけで値うちがあるのです。それにまた、敵を倒すにしろ倒されるにしろ、方陣《ほうじん》に突入するための肉体的精力はわたしには十分あります――それは、自分にもわかっています。わたしは、自分になんの必要もないばかりか、いとわしくさえあるこの生命をあたえるもののできたことを、喜んでいるのです。まあだれかの役にはたつでしょう」こういって彼は、自分の思うような表情で話すことをすらさまたげる、たえまなくうずく歯痛のために、ほお骨をたまらなそうにひきつらせた。
「あなたは復活されますよ。わたしは予言しておきます」とセルゲイ・イワーノヴィッチは、自分が感動していることを感じながら、いった。「自分たちの同胞をくびきから救いだすということは、死にも生にもあたいする使命です。わたしはあなたのために、外面的な成功と、内面的な平安とを祈らずにはいられません」彼はこうつけくわえて、手をさしのべた。
ウロンスキイはセルゲイ・イワーノヴィッチのさしのべた手をかたく握った。
「そうです。一個の武器としては、わたしも何かの役にたつでしょう。しかし人間としては――廃墟です」と彼は、一語一語にまをおいていった。
丈夫な歯のしめつけるような痛みが、彼の口中を唾液でいっぱいにして、口をきく自由をさまたげた。彼は、レールの上をゆるゆるとなめらかにすべってくる炭水車の車輪に見いりながら、黙ってしまった。
と、ふいに、ぜんぜん別の、痛みではない、全面的な悩ましい精神の不快感が、一瞬間彼に、歯の痛みを忘れさせた。あの不幸以来一度も会わなかった知人との会話の影響で、炭水車と軌道とをひと目見たせつなに、とつじょとして、彼女《ヽヽ》が思いだされたのである。つまり、彼が狂人のようになって、あの停車場の事務所へかけこんだとき、彼女から残されてあったところのもの――事務所の卓上に、衆人|環視《かんし》のうちに、恥も外聞もなく、だらりと長くなっていた血まみれの、つい今しがたまで生命のかよっていた肉体、たっぷりある髪の重みのためにがっくりとうしろへそりかえった、こめかみの上に縮れた巻き毛のからみついている、少しも傷ついていない彼女の首、赤いくちびるを半開きにした美しい顔にかたくこおりついた異様な表情、口もとでは哀れっぽく、見ひらいたままになっている目もとには、争いのときに彼女がいったあの恐ろしい言葉――彼は後悔するだろうという――あの言葉を口に出していっているようにも見える恐ろしい表情、こういったものが、とつじょとして思いだされたのであった。
そこで彼は、初めてやはり停車場で会ったときの彼女――神秘な、美しい、幸福を愛し、求め、かつ与えたところの彼女、最後の記憶に残っているような、あんな、残酷に復讐的な彼女でない彼女を、思いだそうとつとめてみた。彼は、彼女とともにした幸福な時を思いだそうとつとめてみた。しかし、そうした時は、もう永久にそこなわれてしまっていた。彼は彼女の、なんぴとにも不必要な、しかし、いやすことのできない悔恨《かいこん》の、勝ち誇った、首尾よく成功した威嚇《いかく》だけを思いだした。彼はいつか歯痛を感じなくなってしまった。そして、すすり泣きが彼の顔をゆがめた。
おし黙ったまま二度ばかり、かますの山のそばを往復しているうちに、彼はやっと気をとりなおして、静かにセルゲイ・イワーノヴィッチのほうをむいた。
「あなたは昨日からこっちの電報をごらんになりませんでしたか? そう、敵は三度も撃破されているんですが。しかし、明日あたり最後の決戦があることになっているんですよ」
それからなお、ミラン王〔一八五四〜一九〇一。セルビアの国王。独立宣言をしたことがある〕の宣言のことや、その宣言がもちうる偉大な効果のことなどについて話しあってから、彼らは二度めのベルの鳴るのを聞いて、めいめいの車室へと別れて帰った。
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いつモスクワを立てるようになるか、それがはっきりしなかったので、セルゲイ・イワーノヴィッチは迎えをよこしてくれるようにという電報を、弟にうっておかなかった。で、カタワーソフとセルゲイ・イワーノヴィッチとが停車場でやとった旅行馬車に乗って、黒ん坊のようにほこりまみれになりながら、ひるの十二時にポクローフスコエの家の車寄せに着いたときには、レーヴィンは家にいなかった。父と姉といっしょにバルコンに掛けていたキティーが、義兄と知って、出迎えに階下へかけおりて来た。
「まあ、知らせてもくださらないなんて、ずいぶんひどいじゃありませんか」と彼女は、セルゲイ・イワーノヴィッチに手をあたえて、接吻を受けるために彼のほうへ額をさしだしながらいった。
「しかしわれわれは、りっぱにこうしてやって来ましたからね、あなたがたにもよけいな心配をかけないで」とセルゲイ・イワーノヴィッチは答えた。「なにしろひどいほこりで、人にさわるにも気がひけるくらいですよ。じつは、非常に忙しかったもんだから、いつ抜けだせるかわからなかったんです。だが、あなたがたはあいかわらず」と、彼はにこにこしながらいった。「流れの外の静かな入江で、静かな幸福を楽しんでいるようですね。ときに、今日はとうとうわれわれの友人、フョードル・ワシーリエヴィッチをひっぱってきましたよ」
「しかし、わたしはニグロではありませんよ。これでも洗えば人間らしくなりますからね」とカタワーソフは、もちまえのしゃれをとばしながら、手をさしのべ、黒い顔にとくに光って見える歯を出して、にっこり笑いながらいった。
「コスチャがさぞ喜ぶことでございましょう。ただいま農場のほうへまいっておりますの。もう帰っていい時分なんでございますから」
「しょっちゅう、農事で忙しいとみえますね。それこそまったく入江ですな」とカタワーソフはいった。
「われわれ都会人には、セルビア戦争のほか、なんにも見えないんですからなあ。ところで、わが友はそれをどう考えているでしょうな、きっとまた一ぷう変わった考えかたをしているでしょうな?」
「いいえ、べつに変わったこともございませんわ、みなさんと同じで」と、いくらか困ったような様子でセルゲイ・イワーノヴィッチのほうを見ながら、キティーは答えた。「ではただいま、わたくし、主人を呼びにやりますわ。わたくしどもにはいま、父がまいっておりますのよ。ついこのごろ外国から帰ってまいりましたので」
それから、レーヴィンを呼びにやること、ほこりまみれの客を、ひとりは書斎へ、ひとりは前にドリーの部屋にしていた部屋へ案内して水をつかわせるようにすること、客人たちに朝食を出させることなどをさしずしてから、彼女は、妊娠中には奪われていたもちまえの身軽に動作する権利を利用して、バルコンへかけあがった。
「あれはね、セルゲイ・イワーノヴィッチとカタワーソフ教授でしたのよ」と彼女はいった。
「おお、この暑いのに、ご苦労さまな!」と公爵はいった。
「いいえ、お父さま、あのかた、そりゃいいかたですのよ。コスチャも大好きなんですわ」とキティーは、父の顔に嘲笑の色をみとめたので、何事か嘆願でもするような様子で、ほほえみながらいった。
「ああ、そうとも、わしはなんでもありゃしないよ」
「お姉さま、あなたはどうぞあちらへいらして」と、キティーは姉のほうをむいていった。「お相手してあげてちょうだいな。あのかたたちは停車場でスティーワにお会いになったんですって。お兄さまはお達者だそうですわ。わたしちょっとひと走り、ミーチャのところへ行ってきますからね。あいにくなことに、お茶のときから一度もお乳をやらなかったんですもの。今ごろはめんめをさまして、きっと泣いていることよ」こういって彼女は、乳のはるのを感じながら、足ばやに子供部屋のほうへ行った。
じっさい、これは単なる推察ではなかった(彼女と赤ん坊との結びの糸は、まだ切れていなかった)、彼女は自分の乳のはりぐあいによって、赤ん坊の食物の不足をはっきりと知ったのである。
彼女は、まだ子供部屋へ近づくまえに、赤ん坊が泣いていることを知っていた。そしてじっさい、赤ん坊は泣き叫んでいた。彼女はその声を聞きつけて、足を早めた。けれども、彼女が足を早めれば早めるほど、彼はますます声を高めて叫んだ。それは美しい、健康そうな、ただ飢えて、がまんしきれなくなった声であった。
「もうさっきからなの、ばあや、さっきからなの?」といすに腰をおろして授乳の支度をしながら、キティーはせきこんで、こういった。
「さあ、はやく坊やをおくれ、ああ、ばあや、おまえはなんて気が長いんだろうねえ。そんなずきんなんか、あとでゆわえたらいいじゃないの!」
赤ん坊はあまりはげしく泣いて、泣き疲れてしまっていた。
「まあ、そうはいきませんですよ。ママちゃま」と、ほとんどいつも子供部屋へ入りびたりのアガーフィヤ・ミハイロヴナがいった。「何もかもよくしておあげしなければ。おおおお、よちよち」と彼女は、母親のほうには目もくれないで、赤ん坊の上へかがみこんであやしていた。
乳母は赤ん坊を母親のほうへ抱いて来た。アガーフィヤ・ミハイロヴナは、優しさにとろけそうな顔をしながら、そのあとからついて来た。
「わかるんですよ、わかるんですよ。そりゃもう確かでございますよ、ママちゃま、カテリーナ・アレクサーンドロヴナ、ちゃんとわたくしを覚えていらっしゃいますよ」とアガーフィヤ・ミハイロヴナは、赤ん坊を負かすような声をだして叫んだ。
しかしキティーは、彼女の言葉など耳にもいれていなかった。彼女のじれったさは、赤ん坊のじれったさと同じにますますつのるばかりであった。
このじれったさのために、授乳は長いことうまくいかなかった。赤ん坊は見当ちがいのところへ吸いついては、腹をたてるのであった。
絶望的な、息も切れるような絶叫と、むなしいむせかえりのあとで、やっとうまくいくようになり、母も子も同時にほっとした自分を感じて、ふたりともおちついた。
「まあかわいそうに、この子は汗びっしょりよ」と、赤ん坊にさわってみながら、キティーはひそひそ声でいった。「だけどおまえは、どうしてこの子が、おまえを見わけるってことがわかるの?」と彼女は、ずりさがったずきんの下から、ずるそうに(彼女にはそう思われた)こちらを見ている赤ん坊の目や、規則正しくふくれたりへこんだりする小さなほっぺたや、まるくぐるぐると動かしているてのひらの赤い小さい|おてて《ヽヽヽ》を、横目で見ながらつけくわえた。
「そんなことのあるはずがないわ! もしもう見わけるとしたら、第一に、このわたしを見わけるはずだもの」アガーフィヤ・ミハイロヴナの断定にたいして、キティーはこういって、ほほえんだ。
彼女がほほえんだのは、彼に見わけのつくはずがないとはいったものの、腹のなかでは、彼はアガーフィヤ・ミハイロヴナを見おぼえているばかりでなく、すべてを知り、すべてを理解していること、それどころか、だれも知らないようなこと、母親である彼女自身さえ彼のおかげでやっと知ったり理解したようなことまで、たくさん知ってもいれば理解してもいることを承知していたからである。アガーフィヤ・ミハイロヴナにとっても、乳母にとっても、祖父にとっても、いや、父親にとってさえも、ミーチャはただ物質的なめんどうを要求する一個の生き物にすぎなかったが、母にとっては、もう以前から、一個の精神的存在であって、母と子のあいだには、すでにりっぱな霊的歴史ができていたのであった。
「まあ、いまにおめざめになったら、ごらんなさいまし。わたくしがこんなふうにしますと、それはそれはうれしそうに、にこにこなさいますんですから。晴れやかなお日さまのように、にこにこなさいますんですから」とアガーフィヤ・ミハイロヴナはいった。
「そうお、いいわ、いいわ、そのときになったらわかるから」とキティーはささやいた。「でも、今はあっちへ行ってちょうだい、この子は寝かけているんだから」
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アガーフィヤ・ミハイロヴナはつまさき立ちで出て行った。乳母は巻きあげカーテンをおろし、ベッドに掛けてあるボイルのかやからハエを追い出し、窓ガラスにぶつかってぶんぶんいっている|もんすずめばち《ヽヽヽヽヽヽヽ》を追っぱらってから、腰をおろして、白かぱの枯れ枝で母と子をあおぎはじめた。
「暑いこと暑いこと! ほんのちっとでもいいから雨が降ってくれればようございますのにねえ」と彼女はいった。
「そうね、そう、し、し、しっ……」とキティーは軽くからだを揺すぶりながら、そして、目を閉じたり開いたりしながらやはりかすかに揺り動かしているミーチャの、手くびのところをまるで糸か何かできゅっとくくられたような、まるまるとふとった|おてて《ヽヽヽ》を、優しくそうっと握りしめながら、ただこう答えた。このおてては、キティーの心をわくわくさせた――彼女はこのおててに接吻してやりたくてしかたがなかったのだが、しかし、赤ん坊が目をさますのを恐れて、思いきってする気になれなかったのである。おててはついに動かなくなって、両の目も閉じられた。ただまれに、ちくちくと乳を吸いつづけながら、赤ん坊は、その長いまがったまつ毛をあげて、うす暗いなかでは黒くうるんだように見えるひとみで、まじまじと母の顔を見るのだった。乳母はあおぐことをやめて、舟をこぎはじめた。階上からは老公爵の大声と、カタワーソフの笑い声とがよく聞こえた。
『きっとわたしがいなくても話がはずんでいるにちがいないわ』と、キティーは考えた。『でもやっぱり、コスチャがいなくては困るわ。きっとまた蜂小舎《はちごや》へよったのにちがいない。こうたびたびあすこへばかり行っていられるのは寂しいけれど、それでも、わたしやっぱりうれしいわ。あれでよっぽど気ばらしになるのだから。春ごろからみると、このごろではずっと陽気なきげんのいい人になったのだもの。さもないとあのひとは、すっかり陰うつな、苦しんでばかりいるような人になって、恐ろしいくらいになってしまう。ほんとにおかしな人だこと!』と、彼女はほほえみながらひとりごちた。彼女は、夫を苦しめていたもののなんであるかを知っていた。それは彼の不信仰であった。もし信仰をもたなかったら、彼は来世で滅びると思うかどうかと彼女にたずねる人があったら、彼女は、滅びるにちがいないと答えるほかなかったにもかかわらず、彼の不信仰は、少しも彼女の不幸にはなっていなかった。そして彼女は、信仰なき者のためには救済のありえないことをみとめながら、そしてこの世の何ものにもまして夫の魂を愛しながら、微笑をもって彼の不信仰を考え、おかしな人だとひとり心につぶやくのだった。
『なんのためにあのひとは、年がら年じゅう哲学のようなものばかり読んでいるんだろう?』と彼女は考えるのだった。『もしそういう本のなかにこんなことがみな書かれてあるのだったら、あのひとにもそれはわかるはずだわ。また、もしそこに書かれてあるのが正しくないことだったら、なんのためにそんなものを読むのだろう? あのひとは、自分では信じたいのだといっている。それならなぜ信じないのだろう? きっとそれは、あんまり考えすぎるからにちがいないわ。つまり、孤独のために考えすぎるようなことになるのだわ。いつもひとりぼっちだからだわ。わたしたち相手では思うことをみんな話すというわけにはいかないからだわ。だから今日のお客さまたちは、きっとあのひとを喜ばすわ、ことにあのカタワーソフが。コスチャはあのかたと議論するのが好きだから』彼女はこう考えたが、すぐに考えをうつして、カタワーソフをどこへ寝かしたらいいか、セルゲイ・イワーノヴィッチといっしょのほうがいいか、別々のほうがいいかと、そんなことを考えだした。と、ふいにある考えがうかんで、彼女を、心の動揺のために身ぶるいさせ、ミーチャまでおこしてしまった。で、ミーチャは、そのためにきびしく母の顔を見つめた。『洗たく女がまだたしか洗たく物を届けてこなかったはずだわ。ところが、お客用のシーツはみんな出てしまっている。もしさしずをしなかったら、アガーフィヤ・ミハイロヴナは、セルゲイ・イワーノヴィッチに古いシーツを出してあげることだろう』これを考えただけで、キティーの顔には全身の血がさっとのぼったのである。
『そうだわ、わたしが自分でさしずしよう』こう彼女は決心して、まえの考えにもどりながら、何やら重大な、精神上の問題がまだ十分に考えつくされていなかったことを思いだし、それがなんであったかを考えはじめた。『そうそう、コスチャが信仰をもたないということだったわ』と、またしても微笑をうかべながら、彼女は考えた。
『そう、不信者だわ! だけどあのひとは、シターリ夫人や、外国にいたときわたしがなりたいと思ったような人間になるよりは、やっぱりいつもあのままでいるほうがいいわ。いいえ、あのひとはもう仮面をかぶるようなことはしやしない』
と、彼の善良さの最近の実例が、まざまざと彼女のまえに浮かびあがった。二週間まえに、ドリーにたいするステパン・アルカジエヴィッチの悔悟《かいご》の手紙が届けられた。彼はそのなかで彼女に向かって、彼の負債を償却するために、彼女の土地を処分して、彼の名誉を救ってくれるようにと嘆願していた。ドリーはすっかり絶望してしまって、夫を憎み、軽蔑し、あわれみ、離婚をかけても拒絶しようと決心したが、けっきょくはやはり、自分の土地の一部を手ばなすことに同意してしまうほかなかった。そのときの夫の困った様子や、心をひかれたその問題にたいして、何度となく試みた、ぶきような折衝や、最後に恥をかかせないでドリーを助けることのできる唯一の手段を考えだして、キティーがそれまで思いもつかなかった彼女自身の土地の一部をドリーにあたえるように言いだしたことなどを、その後になって思いだすたびに、彼女は、われ知らず感動の微笑をもらさないではいられなかったのである。
『どうしてあのひとが不信者だろう? あのいい心をもった人がだれにかぎらず、赤ん坊にさえもいやな思いをさせることを恐れている人が! あのひとは、他人には厚いけれど、自分にはじつに薄い人だわ。セルゲイ・イワーノヴィッチなどは、あのひとの番頭を勤めるのがコスチャの義務だと考えていらっしゃるくらいだわ。お姉さまだってそのとおり。今ではドリーまで、子供たちといっしょに、あのひとの世話になっている。それに毎日毎日大ぜいの百姓たちが、まるであのひとが彼らに奉仕する義務でもあるように、あのひとのところへ押しかけてくる』
『そうよ、ただ、パパのような人におなり、ああいう人にね』と、彼女はミーチャを乳母に渡して、その、ほおにくちびるを押しあてながらいった。
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愛する兄の瀕死《ひんし》の姿をまえにして、二十歳から三十四歳までのあいだにいつともなく、少年時代・青年時代の信仰と入れかわった、彼のいわゆる新しい信念を通して、初めて生死の問題をのぞいて見たそのときから、彼は死よりもむしろ生を――どこから、なんのために、何がゆえに、いったいそれは何ものであるか、こういう点についていささかの知識をももたない生を、恐れたのであった。有機体、その崩壊、物質の不滅、エネルギー保存の法則、進化――彼の以前の信仰に入れかわったのは、これらの言葉であった。これらの言葉や、その言葉と結びついている観念は、知的目的のためには非常にいいものであったが、生のためには何ものをもあたえるものではなかった。それで、レーヴィンはとつじょとして、暖かい毛皮外套をボイルの着物に着かえた人が、寒い外気のなかに立って初めて、自分が裸同然であること、したがって、自分はどうしても苦しみ死にに死ぬほかはないということを、理くつでなく、全生命によってはっきりと痛感するようになる、それと同じ境遇にある自分を感じたのである。
このとき以来、それにははっきりした自覚をもたないままで従来どおりの生活をつづけながら、レーヴィンは、自分の無知にたいするこの恐怖を、感じないというときはなかった。
そのうえ彼は、今まで自分が信念と名づけていたところのものも、単に無知であったばかりでなく、彼にとって必要なものを理解することすら許さないような思想系統であったことを、漠然と感じていたのである。
結婚当座は、彼に認識された新しい喜びと義務とが、完全にこの思想をおさえていた。しかし最近、妻の出産後、なすこともなくモスクワに暮らしているうちに、レーヴィンにはますます頻繁《ひんぱん》に、ますます切実に、解決を要求してやまない問題が現われはじめたのである。
彼にとってのその問題は、つぎのようなものであった。――『もし自分が、自分の生命の問題にたいして、キリスト教のあたえる解答をみとめていないとすると、いったいどんな解答をみとめているのだろうか?』そして彼は、自分の信念の貯蔵庫をくまなくさがし求めてみたが、解答はおろか、それに類似のものさえ、ひとつも発見することができなかった。
彼はいわば、おもちゃ屋か武器店で食物を求めている人のような立場にいるのだった。
で、いまや彼は、自分のためには知らず知らず、あらゆる書物、あらゆる会話、あらゆる人々のうちに、これらの問題にたいする態度とその解決とをさがし求めているのだった。
この時にさいして、何よりも彼を驚かし、まどわしたのは、彼のサークル、彼の年齢にある人々の多くが、彼と同じく以前の信仰を新しい信念と転換しながら、そのうちにはなんの不幸をも見いださず、十分満足してゆうゆう自適していたことであった。そのために、レーヴィンは、主要な問題以外さらに、ほかの問題でまで苦しめられたのであった――いったいあの人たちはまじめなのだろうか? 面《めん》をかぶっているのではないだろうか? それともまたあの人たちは、いま彼を支配している問題にたいして科学のあたえる解答を、なんらかの方法で、自分よりずっと明瞭に理解しているというのだろうか? そこで彼は必死になって、それらの見解や、これらの解答の書かれてある書物を研究したのである。
これらの問題が彼を支配しはじめて以来、彼が発見したもののひとつは、血気にはやった大学時代の仲間を思いだして、宗教を時代おくれのものであり、もはや存在しないものであると予想したことが、誤りであったという一事であった。れっきとした生活をしている彼に近しい人々はみな、信者であった。老公爵も、彼の大好きなリヴォフも、セルゲイ・イワーノヴィッチも、婦人たちもみな、信者であった。そして彼の妻は、彼が幼年時代にもっていたと同じような信仰をもっていたし、彼がその生活にたいして最も大きな尊敬をはらわずにいられなかったロシア農民の百人中九十九人までが、ことごとく信仰をもっていた。
いまひとつは、多くの書物を読んでいくうちに、自分と見解を同じくする人々が、その見解のもとになんら他のものを暗示せず、なんら説明することなくして、彼がそれにたいする解答なくしては生きることもできないと感じているような諸問題を一がいに否定しさって、それとはぜんぜん没交渉な、彼には興味のもてない問題、たとえば有機体の進化とか、霊魂の機械的説明とかいった問題の解決に、つとめているということを確信した一事であった。
そればかりでなく、妻の分娩中に、彼にとっては異常ともいうべき出来事がおこった。不信者である彼が祈りをはじめて、その祈っている瞬間には、神を信じていたことであった。しかし、その瞬間が過ぎてしまうと、そのときの気分をうけ入れる場所は、彼の生活中にはどこにもなかった。
彼は、そのときこそ自分は真理を知ったので、今は誤っているのだと認めることはできなかった。なぜなら、彼が静かにおちついてこのことを考えはじめるやいなや、何もかもが、こなごなになって四散してしまうからであった。かといってまた、そのときの自分が誤っていたのだと認めることはできなかった。なぜなら、彼はそのときの精神状態を尊重していたから。それを弱気のせいにしては、その瞬間を汚すような気がしたから。彼は悩ましい自己分裂のうちにあり、そしてそのなかからのがれでようと、精神力のすべてを集中していた。
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これらの想念が彼を悩まし苦しめた程度は、ときによって強弱一様でなかったが、しかし彼から離れ去ることはけっしてなかった。彼は読みかつ考えた。が、読めば読むほど、考えれば考えるほど、自分の追求している目標からは、ますます遠ざかって行くような気がしていた。
唯物論者のなかでは解答を見いだすことができないとさとって以来、最近彼は、モスクワでも田舎でも、プラトンとか、スピノザとか、カントとか、シェリングとか、ヘーゲルとか、ショーペンハウエルとかいうような、人生を非唯物的に解釈している哲学者たちの著書を読みなおしたり、あらたに読んだりしはじめた。
それらの思想は、彼がそれを読んだり、自分で、他の学説、ことに唯物主義的学説にたいする反駁《はんばく》を考えついたりする場合には、きわめて有用なものに思われた。が、彼が問題の解決を読んだり、自分でそれを思いついたりするやいなや、いつも同じことがくりかえされるのであった。霊魂とか、意志とか、自由とか、実体とかいうようなあいまいな言葉の長たらしい定義にしたがって、哲学者なり彼自身なりが、彼のためにこしらえた言葉の|わな《ヽヽ》にわざと落ちこみさえすれば、彼は、何かがわかってくるような気もした。しかし、こうした思想の人為的径路を忘れて、実生活のただなかから、あたえられた糸をたぐって考えたときに自分を満足させたもののほうへもどって行くやいなや、たちまちこの人為的な殿堂は、トランプで造った家のようにくずれてしまい、人生において理性以上に重大な位置をしめている、あるものとは没交渉に、おきかえられた言葉から創造されたものにすぎないことが明白になるのだった。
あるとき、ショーペンハウエルを読んでいて、彼はそのなかの「意志」という言葉のかわりに「愛」という言葉をおきかえてみた。と、この新しい哲学は、彼がそれからはなれなかった二日ばかりのあいだは彼を慰めた。しかしやがて彼が実生活のなかからそれをながめると同時に、それもやはり同じようにくずれてしまって、暖かみのないボイルの着物のようになってしまった。
兄のセルゲイ・イワーノヴィッチは、彼に、ホミャコーフ〔当時スラヴ主義の陣営で活躍した論客〕の神学上の著述を読むことをすすめた。レーヴインは、ホミャコーフ著作集の第二巻を通読し、そして、初めのうちこそその論争的な、華麗な、機知的な調子に反発を感じさせられたけれども、そのなかにある教会にかんする教理には、ちょっと心をうたれた。神の国の真理を体得することは、一個人にはあたえられていなくて、愛によって統一された人々の結合――教会にあたえられているという思想は、はじめ彼を感動させた。あらゆる人々の信仰をひとつにまとめ、頭に神をいただき、したがって神聖にして清浄な、現在生きて存在している教会を信じ、その教会を通して、神とか、創造とか、堕獄《だごく》とか、贖罪《しょくざい》とかいったものにたいする信仰をうるほうが、高遠にして神秘な神とか、創造とかいったものから直接はじめるよりは、はるかに容易であるという思想が彼を喜ばした。しかしその後、カトリック派の教会史と正教派の教会史とを一読し、本質上完全であるべきはずの両教会が、互いに否定しあっている事実を見るにおよんで、彼は教会にかんするホミャコーフの教理にも幻滅させられてしまい、そしてこの殿堂も、やはり哲学者たちのそれと同じく、たちまちあとかたもなくくずれてしまった。
そしてこの春じゅう、彼は正気を失った人のようになって、ときどき恐ろしい瞬間を経験した。
『われとは何か、なんのためにこの世へ来たのか、それを知らないで生きていくことは不可能である。ところが、おれはそれを知ることができない、したがって生きていくこともできないわけだ』と、レーヴィンは自分にいった。
『無限の時、無限の物質、無限の空間のうちに、水泡《すいほう》にもひとしい有機体が作りだされる。そして水泡はしばらくのあいだ保たれて、やがてぱっとはじけてしまう。その水泡がおれなのだ』
これはいたましい思い違いであったが、しかしこの方面における人間の思索の、数世紀にわたる苦心の生んだ最後にして唯一の結論であった。
それは、人間の思索のほとんどすべての方面にわたる、いっさいの探求を総括する最後の信念であった。また、それは君臨するような信念であり、レーヴィンも、とにかくそれが一ばんわかりよかったので、いつ、どうしてということなしに、いっさいの他の解釈のうちから、それを自分のものにしてしまったのである。
しかし、それはまちがいであったばかりでなく、一種の邪悪な力――邪悪でいまわしい、どうしても屈服してはならない力の、残酷な嘲笑であった。
この力からのがれなければならなかった。そして、その手段はめいめいの手のなかにあった。邪悪な力に従属することをやめればいいのである。そしてその唯一の手段は――死であった。
こうして、幸福な家庭の主人であり、健康な人間であるレーヴィンも、何度か自殺のせとぎわまで追いこまれ、縊死《いし》を恐れてひもの類をかくしたり、鉄砲自殺を恐れて銃を持って歩くことを恐れたりするまでになった。
しかしレーヴィンは、鉄砲自殺もしなければ、首をくくることもしないで、生活をつづけていたのである。
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われとは何か、なんのために生きているのか、これを考えると、レーヴィンはその解答を見いだすことができなくて、絶望におちいるのであったが、これを自問することをやめたときには、あたかも自分が何者であり、なんのために生きているかを知っているもののようであった。なぜなら、彼はしっかりして、確実に活動し、かつ生活していたからである。事実、近ごろは以前にくらべて、彼ははるかにしっかりと、安定した生活をいとなんでいた。
六月の初めに村へ帰ってから、彼はまた自分の日常の仕事に帰った。農事の管理、百姓や隣人などとの関係、家事の整理、彼の手にゆだねられている姉と兄との事件、妻や親戚との関係、赤ん坊についての配慮、この春から没頭しだした新しい養蜂《ようほう》道楽、これらのことが彼の時間の全部をしめた。
これらの仕事が彼の心をしめたのは、以前によくしたように、それをある種の一般的見解によって是認《ぜにん》したからでなく、反対に今では、一方、一般の利益のためにした以前の計画の不成功に幻滅を感じ、他方、自分の思索に忙しく、八方から彼の上にふりかかってくる仕事に追いまわされたので、一般の利益についての考察などは、ことごとくおるすになってしまったからである。そして、これらの仕事が彼の心をしめたのは、ただ自分がやっているようなことを、どうでもやらなければならなかったから、つまり、そうするよりほかしようがないと思われたからにすぎなかった。
以前(これはほとんど幼年時代からはじまって、一人前のおとなになるまでたえず成長した)彼が万人のため、人道のため、ロシアのため、村全体のために役にたちそうな何かをしようとつとめていたときには、その考えが愉快であることに気がついていた。が、行為そのものはいつもめちゃくちゃで、それがどうしても必要なものであるという確信を欠き、はじめはきわめて大きく思われていた行為そのものも、しだいに小さく、つまらないものになってきて、ついに無と消えてしまうのだった。が、結婚後、生活を自分のためという範囲にしだいに狭く限定しはじめた今日では、自分の活動のことを考えても、もはやなんの喜びをも感じなかったかわりに、自分の仕事が必要なものだという確信を感じ、また、その仕事が以前よりはるかにはかどって、たえずぐんぐんと大きくなっていくことを知った。
こうして彼は、ほとんど意志に反して、だんだん深く、犂《すき》のように土のなかへくいこんでいった。で、現在ではもう、|あぜ《ヽヽ》を切り開かないでは、そこから脱けだすことができないようになっていた。
父祖のしなれてきたとおりに家庭生活をいとなむこと、つまり彼らと同じ教養のなかで生活し、同じ程度に子女を教育するということは、疑いもなく必要なことであった。それは、たべたいときに食事をするのと同じように、必要なことであった。そしてそのためには、食事の準備をするように、ポクローフスコエにおける農事機関を、収入をうるように運転しなければならなかった。負債の償却が必要であると同様に、疑いもなく、彼のむすこが財産を受けつぐときに、その昔レーヴィンが、祖父が整理し、つちかってくれた全財産にたいして、祖父に感謝したように、彼のむすこもまた彼に感謝するような状態に、父祖伝来の土地を維持していく必要があった。そしてそのためには、土地を人に貸しなどしないで、自分の手で家畜を飼い、畑に肥料をほどこし、樹木を栽培して農場を経営していく必要があった。
セルゲイ・イワーノヴィッチや姉のことも、意見を求めに押しかけてくる、そしてもう、それになれっこになっている百姓たちのことも、ちょうど抱いている赤ん坊を投げだすことができないように――しないではいられないことであった。招かれて来ている子供連れの妻の姉や、赤ん坊をかかえた妻の日常の便宜についても、心配してやる必要があったし、一日のうち、たとえ僅かのあいだでも、彼らとともに過ごさないわけにはいかなかった。
そして、こうしたことがすべて、銃猟の趣味や、新しい養蜂道楽といっしょになって、レーヴィンの生活――考えているときには彼にとってなんの意味ももたない生活の、全部をみたしてしまったのである。
しかし、レーヴィンは、自分は何をなすべきかをはっきりと知っていたばかりでなく、それらすべてのことがらを、いかになすべきか、またいかなる仕事が、ほかのものより重大であるかということをも、同じく十分にわきまえていた。
彼は、労働者をできるだけ安く雇わなければならぬことを知っていた。が、前金で金を渡して、彼らを相場より安く、縛りつけてしまうことは、たとえそれがいかに有利であっても、してはならないことであった。飼料の不足なときには、かわいそうにはかわいそうでも、百姓たちにわらを売ることはできるが、料理屋や酒屋は、それがもうかる仕事であっても、廃止する必要があった。森林の盗伐《とうばつ》は、できるだけ厳重に取締らなければならなかったが、まよいこんだ家畜にたいして罰金をとることは、できなかった。よしんばそれが番人たちをがっかりさせ、百姓たちを増長させることになるにしても、まよいこんだ家畜は、放してやらないわけにはいかなかった。
月一割という利子を高利貸しにとられていたピョートルには、それを助けるために金をまわしてやらなければならなかったが、人頭税《にんとうぜい》を払わない百姓に、それを負けてやったり、猶予してやったりすることはできなかった。草場が刈られなくて、草がむざむざ台なしになってしまったことで管理人の責任を見のがすことはできなかったが、若木の植えてある八十デシャティーナを刈ることはできなかった。父親が死んだといって、農繁期に家へ帰った作男《さくおとこ》を、ようしゃしてやることはできなかった――どんなにふびんではあっても――そして、大切な月を休んだことにたいしては、それだけ差し引いて勘定してやらなければならなかったが、年をとってなんの役にもたたない屋敷づきの下男には、月々の手当てをあたえないわけにはいかなかった。
レーヴィンはまた、外から家へ帰るときには、何よりもまず、気分のすぐれない妻を見舞ってやらなければならないが、三時間近くも彼を待っている百姓たちは、もう少しは待たせてもかまわないということを知っていた。そしてまた、蜂群を巣につけることからあじわわれる満足は、なみなみならぬものであったけれども、その満足を捨て、巣につける世話は老人にまかせても、蜂小舎《はちごや》まで会いにきた百姓たちとは話をしなければならないこと、これも彼は知っていた。
自分のしていることがいいかわるいか、それを彼は知らなかった、しかも、今ではそれを確かめようとしなかったばかりでなく、それについて話したり考えたりすることも、避けていた。
さまざまな批判は彼を疑惑にみちびいて、なすべきことなすべからざることを見わける判断をさまたげた。が、考えないで、ただ生活しているときには、彼は自分の心のうちに、絶対に正しい裁判官の存在を絶えず感じ、そしてその裁判官が、ふたつの可能な行為のうちから、いずれがよくいずれがわるいかを裁定してくれた。で、彼は、まちがったことをした場合には、即座にそれを感じるのだった。
こうして彼は、われとはなんぞや、またなんのためにこの世に生きているのであるか、ということを知りもしなければ、また知る可能性があるとも思わず、そして、自殺を恐れるほどにその知らぬことに悩みながらも、同時に人生における自分独得の一定の道をしっかりと切りひらきながら生活していたのだった。
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十一
セルゲイ・イワーノヴィッチがポクローフスコエへ着いた日は、レーヴィンには最も苦しい日のうちのひとつであった。
それは、百姓全体の上に、他の生活条件ではどこでも見られないような、労働にたいする自己犠牲的精神の異常な緊張が現われる、最も忙しい農繁期であった。そしてこの緊張は、もしその能力をあらわす人々が自身でそれを評価するとしたならば、そして、それが毎年くりかえされるものでなかったならば、さらにまた、その緊張の結果がそれほど単純なものでなかったならば、非常に高く評価されなければならないていのものであった。
裸麦や|からす《ヽヽヽ》麦を刈りとって、たばねて運んだり、草場を刈りあげたり、閑田をすきかえしたり、種子をたたき落としたり、冬麦の種子をおろしたり――こうしたことはすべてみな、単純で、なんでもないことのように思われた。しかし、こうしたことをあまさず手ぎわよくやってのけるのには、この三、四週間というものぶっ通しに、老幼の別なく村じゅうの人間が総出で、クワスと、たまねぎと、塩パンをかじりながら、夜は夜で穀《こく》を打ったり、束を運んだり、一昼夜にやっと二、三時間しか眠らないで、ふだんの二倍以上を働き通さなければならないのだった。しかもこれは、毎年、ロシア全土にわたって行なわれていることであった。
生活の大部分を、田舎で、百姓たちと近しい関係を結びながら送っていたレーヴィンは、この農繁期になるといつも、この共通の百姓らしい興奮が、自分にも伝わってくるのを感じるのだった。
早朝から、彼は馬を駆って、裸麦の一番まきと、|にお《ヽヽ》をつくるために運びよせられる|からす《ヽヽヽ》麦を見に行き、妻や義姉の起きる時分に家へ帰って来て、彼らといっしょにコーヒーを飲み、それからこんどは徒歩で、種子の用意のためにあらたに備えつけられた打穀機《だこくき》を運転することになっていた農場へ出かけて行った。
この日は終日レーヴィンは、管理人や百姓たちと話していても、家で妻やドリーや、彼女の子供たちや舅《しゅうと》などと話していても、この日ごろ農事上の配慮のほかに、彼の頭をしめていたただひとつのこと――そればかりを考えていた。そして、『われとは何ものか? 自分はどこにいるのか? なんのために自分はここにいるのか?』こういう自分の疑問に関係のあることがらを、あらゆるもののなかに求めていた。
わらぶき屋根の、皮をむいたばかりの|やまならし《ヽヽヽヽヽ》の生木の桁《けた》に、まだかぐわしい葉の落ち散らないはんの木ずりのぴったりとくっついている、新しく屋根をふかれた打穀|小舎《ごや》のひえびえとしたなかに立って、レーヴィンは、打穀から生ずるかわいた、苦っぽいほこりがもうもうとして舞い出していくあけ放しの門を通して、やけるような太陽に照らされた打穀場《こなしば》の草や、たったいま納屋から運び出されたぱかりの新しいわらや、鳴きながら屋根の下へ飛びこんで来て、つばさをばたばたさせながら、門の明りとりのふちにとまった、頭がぶちで胸の白いツバメや、暗いほこりだらけの打穀小舎のなかで働いている百姓たちを見たりしながら、妙な考えにふけっていた。
『こんなことはみな、なんのために行なわれているのだろう?』こんなふうに彼は考えるのだった。『なんのためにおれはここに立って、彼らを働かせているのだろう? どうして彼らはみなあくせくとして、おれの前に自分の働きぶりを見せようとしているのだろう? おれのなじみのあのマトリョーナばあさんは、何をあがいているのだろう?(うん、そうそう、おれはあのばあさんが火事で|はり《ヽヽ》が落ちてきて、けがをしたときに、療治《りょうじ》してやったことがあったっけ)』と彼は、打穀場のでこぼこした堅い土床を、黒く日に焼けたはだしの足でふんばり歩きながら、くま手で穀粒をかき集めている、やせた老婆のほうを見やりながら考えた。『あのときにはなおったけれど、今日明日ではないまでも、十年もするうちには、あの女は土のなかへ埋められてしまい、そして、彼女からだって、あすこにいるあの赤いスカートをつけて、器用な、優しい動作で、もみがらから穂を振りわけているおしゃれ女からだって、何ひとつ残りはしないのだ。あの女だって、いずれは埋められてしまうのだ。それからあのまだら色の去勢馬《きょせいば》だって、もうまもなく』と彼は、腹を波うたせ鼻孔をふくらまして、せわしく息をつきながら、傾斜した車輪をやっとの思いでひっぱっている馬をながめながら考えた。『あれだって、じき埋められてしまうのだ。そして、あの縮れたあごひげを穀《こく》がらだらけにして、シャツの破れめからまっ白な肩をのぞかせている穀はこびのフョードル、あれだって埋められてしまうのだ。それだのにあの男は、束をといたり、何か命令したり、女たちをどなったり、すばしこい動作で動力輪のベルトをなおしたりしている。だが、何よりかんじんなことは、彼らばかりでなく、おれも埋められてしまって、何も残らなくなってしまうということだ。なんのためだ?』
彼はこんなことを考えながらも、一方では、一時間にどのくらい穀が打てるかを数えるために、時計を見ていた。それによって一日の仕事をきめるために、彼はそれをよく知っておく必要があったのである。『もうじき一時間になるのに、やっと三つめの堆積《やま》にかかったばかりだ』こう思ってレーヴィンは、穀はこびのそばへ歩みより、機械のごう音に負けないような声をだしながら、もう少しへらして入れるようにと注意した。
「入れかたが多すぎるんだよ、フョードル! ごらん、いっぱいになってるもんだから、それで、はかがいかないのだ。もっと平均にしなくちゃいかんよ!」
汗ばんだ顔にねばりついたほこりでまっ黒になっていたフョードルは、何か大声に返事をしたが、やはりレーヴィンの思うようにはしなかった。
レーヴィンは機械のそばへ行き、フョードルを押しのけて、自分で穀物をさし入れはじめた。
そのときからもうまもなかった百姓たちの昼食時までぶっ通しに働いてから、彼は穀はこびといっしょに納屋を出て、種子にするために打穀場に積みあげられていた、刈り取られた裸麦の、整然とした黄色な|にお《ヽヽ》のそばに立ちどまって、話をはじめた。
この穀はこびは、以前レーヴィンが組合組織で土地を貸したことのある、遠い村の者であった。そしてその土地は、今では屋敷番が借用していた。
レーヴィンは穀はこびのフョードルと、その土地のことについて話しこみ、来年はその土地を、その村の物持ちでりちぎな百姓であるプラトーンが、借りないだろうかとたずねてみた。
「値《ね》が高いから、プラトーンにゃ手に負えますまいよ。コンスタンチン・ドミートリッチ」と百姓は、汗だらけのふところから、麦の穂をつまみだしながら答えた。
「だって、キリーロフは、ちゃんと払ってるじゃないか?」
「ミチュハー(こう百姓は屋敷番のことを軽蔑して呼んだ)にどうして払えないことがありましょう、コンスタンチン・ドミートリッチ。あの男ときたら、ぜがひでも自分のもうけだけは取りあげるやつだから。あの男にゃキリスト信者だってようしゃはねえ。ところがフォカーヌイチおじ(彼はプラトーン老人をこう呼んだ)、あのひとに、そんな人の生皮をはぐようなまねができますかよ? 人によって貸してやったり、のばしてやったりでさ。とても根こそぎ取りたてるなんてこたあできゃしません。なんていったって同じ人間ですからね」
「いったいどうしてあの男は、のばしてやったりするんだい?」
「それゃそのつまり、なんでさ――人間はさまざまだからでございますよ。ある人間は、ただ自分の欲だけで暮らしていて、ミチュハーなんざその口で、ただうぬが腹をこやすことばかりしてるですが、フォカーヌイチときたら、正直まっとうな年よりですからな。あのひとは、魂のために生きてるです。神さまをおぼえていますだよ」
「どういうふうに神さまをおぼえているのだ? どんなふうに魂のために生きているのだ?」と、レーヴィンは、ほとんど叫ぶようにいった。
「わかりきったことじゃありませんか――真理にしたがって、神さまの掟《おきて》にしたがって、生きていくまでですよ。だって人間はさまざまですからね。早い話が、おまえさまにしたところで、やっぱり人をいじめるようなこたあなさらねえ……」
「そうだ、そうだ、じゃ、さようなら!」とレーヴィンは、興奮のために息をつまらせながらいって、くるりと踵《きびす》をかえして、ステッキをとると、急ぎ足にわが家をさして歩きだした。フォカーヌイチが魂のために、真理にしたがい、神の掟にしたがって生きているといった百姓の言葉を耳にすると同時に、おぼろげではあるが、意味ふかい想念が群をなして、今までとじこめられていたところから、急に飛びだしてきたかのようであった。そして、それらの想念は、みな一様に、ひとつの目的に向かって突進しながら、その光で彼の目をくらませつつ、彼の頭のなかでうず巻きはじめた。
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十二
レーヴィンは、自分の想念(彼はまだ、それをはっきりつかむことができなかった)にききいるよりも、これまで一度も経験したことのない精神状態のほうにより多くききいりながら、広い街道を大またに歩いていった。
百姓のいった言葉は彼の心に、電気の火花のような作用を起こして、これまで一時も彼をはなれたことのない、断片的な、力のない、ちりぢりばらばらのおびただしい想念を、とつじょとして変形させ、ひとつのものに結合した。これらの想念は、彼が土地の貸付のことを話していたときにも、彼自身の気づかないうちに、彼の心をしめていたのであった。
彼は心のうちに新しい何ものかを感じて、まだその何ものであるかを知らないながらに、一種の喜びをもって、その新しいものを手さぐりしてみるのだった。
『自分たちの必要のためでなく、神のために生活する。いったいどんな神のためなのだろう? あの男のいったこと以上に無意味なことがいえるだろうか? あの男は、自分たちの必要のために生きてはならないといった。つまり、われわれが理解しているもの、われわれをひきつけるもの、われわれが欲するもののために生きてはならないというのだ。なんともえたいの知れぬもの、だれひとり理解することも決定することもできない神というもののために、生きなければならないというのだ。しかも、どうだろう? フョードルのこの無意味な言葉を、おれは理解しなかったのだろうか? それとも、理解しながら、その正しさを疑ったのだろうか? 愚劣な、あいまいな、不確実なものとでも思ったのだろうか?
いやいや、おれはあの男のいったことを、あの男が理解しているとまったく同じに、完全に理解したのだ。おれがこの人生で何事かを理解する以上に、十分はっきりと理解したのだ。おれはこれまでに一度もそれを疑ったことはないし、また疑うこともできないのだ。それはおれひとりではない、あらゆる人が、世界じゅうの人間が、このことばかりは完全に理解し、このことばかりは疑わないで、いつもそれに一致しているのだ。
ところが、これまでおれは奇跡を求めて、おれを信服せしめるような奇跡にあわないのを残念に思ってきたのだった。物質的な奇跡は、おれを誘惑したことはあったかもしれない。けれども唯一の可能なる奇跡――不断に存在し、あらゆる方面からおれをとり巻いている奇跡、それにおれは気がつかないでいたのだ!
フョードルはいった、あの屋敷番のキリーロフは、私腹をこやすためだけに生きていると、これはさもありそうな、合理的な話だ。われわれはすべて、理性をもった生物として、私腹をこやすため以外には生きることはできないのだ。ところが、とつぜんあの同じフョードルが、私腹をこやすために生きることはよくない、真理のため、神のために生きなくてはならない、という。するとおれは、ただ暗示だけでそれを理解してしまった! してみると、このおれも、数世紀前に生きていた何百万の人々も、現在生きている人々も、百姓も、心の貧しい人々も、この問題について考えたり、書いたりしている賢人たちも、自分たちのあいまいな言葉で同じようなことを口にしている人々も――われわれはみなこの点では――何のために生きねばならぬか、何がよいことであるかというこの一点では、みんなよく一致しているのだ。おれも、すべての人々とともに、ただひとつ、堅実にして疑うべからざる、明らかな知識をもっているのだ。しかしこの知識は、理性では説明することができない。それは理性の外にあって、なんらの原因をももたなければ、なんらの結果をももつことはできないのだ。
もし善が原因をもつなら、それはすでに善ではない。もしそれが結果――報酬をもつなら、同じく善とはいえない。してみれば、善は原因結果の連鎖のそとにあるのだ。
そしておれはそれを知っている。われわれはみんな知っているのだ。
これ以上に大きな、どんな奇跡がありうるだろうか? だが、はたしておれは、すべての解決を発見したのだろうか、はたしておれの苦悶は、今これで終わったのだろうか?』
とレーヴィンは、ほこりっぽい街道を歩きながら、暑さも疲労も感じないで、長いあいだの苦悶のゆるみを感じながら、考えた。この感じは、とてもほんとうとは思われないほどに、喜ばしいものであった。彼は興奮から息をきらし、そのうえさきへ歩みつづける力がなくなったので、街道から林のなかへそれて、|やまならし《ヽヽヽヽヽ》の木陰の、刈られてない草の上に腰をおろした。彼は汗ばんだ頭から帽子をとって、片手の肘をつき、水気の多い、葉のひろい、林の草の上に身を横たえた。
『そうだ。これは、自分の心にはっきりとさせて、よく理解しなければならないことだ』と彼は、目の前にあった、まだ踏みにじられない草をじっと見やって、|はまむぎ《ヽヽヽヽ》の茎《くき》をのぼって行く途中で、スニーチ草の葉に自分の行くてをさまたげられている青いかぶと虫の動作に目をつけながら、考えた。『おれは何を発見したろう?』と彼は、かぶと虫のじゃまにならないようにスニーチ草の葉をのけてやり、さらに別の草を折りまげて、かぶと虫がそのほうへ移れるようにしてやりながら、自分にたずねた。『いったいおれを喜ばせているのはなんだろう? 何をおれは発見したのだろう?
おれは何も発見したのではなかった。ただ自分の知っていることを認識したにすぎないのだ。おれは、過去においておれに生命をあたえてくれたばかりでなく、現在もこうして生命をあたえていてくれるその力を理解したのだ。おれは虚偽から解放されて、主人を認識したのだ。
以前おれは、おれの肉体にも、この草、このかぶと虫(そのかぶと虫は草の上をいやがって、はねをひろげて飛び去ってしまった)のからだにも、物理的・化学的・生理的の法則によって、物質の変化が行なわれているのだといっていた。われわれ人間はもちろん、あの|やまならし《ヽヽヽヽヽ》のなかにも、雲のなかにも、星雲のなかにも、進化が行なわれているのだと。しかし、何から進化するのだろう? 何に成《な》るというのだろう? 無限の進化と闘争……まるでその無限のなかに、何かの方向や闘争がありうるもののように! そしておれは、この道にしたがって、あるかぎりの考察力をかたむけつくしたくせに、やはり依然として、人生の意義、努力精進の意味を啓示されないのに驚いた。が、いまではおれも、自分の生活の意味を知っているといえる、――それは神のため、魂のために生きることだということができる。そして、この意味はきわめて明らかであるにもかかわらず、神秘であり、ふかしぎである。あらゆる存在の意義もこのとおりである。そうだ、傲慢《ごうまん》だ』と彼は腹ばいになり、折らないように骨を折って草の茎を輪に結びながら、自分にいった。
いや、知恵の傲慢ばかりではない、知恵の愚鈍だ。が、一ばん主なのは、欺瞞、すなわち知恵の欺瞞だ。すなわち知恵のまやかしだ』と彼はくりかえした。
そして彼は、愛する兄を瀕死の床に見舞ったときに、きわめてはっきりと明白にうかんだ死という想念から出発した、最近二年間の自分の思想の全径路を、手短にわれとわが前にくりかえした。
あらゆる人々のためにも、また彼のためにも、その行くてにはただ、苦悩と、死と、永遠の忘却以外、何ものもないということを、あのとき初めて明らかにさとると、彼は、このまま生きていくことはできない、自分の生活が一種の悪魔のいじわるな嘲笑だと思われないように解釈するか、あるいはずどんと一発、ひと思いに自分をやってしまうかしなければならない――こう深く決心したのだった。
しかし、彼はそのいずれをも決行しないで、生活し、思考し、感覚しつづけ、しかも、そのただなかに結婚さえして、自分の生活の意義について考えない場合には、多くの喜びを経験し、幸福ですらあったのである。
これはいったい何を意味するのだろう? ほかでもない、彼はよく生活したが、わるく思索したことを意味するのである。
彼は、母の乳とともに吸いとった精神的真理によって(それと意識せずに)生活していた。けれども、ものを考える場合には、この真理を認めなかったばかりでなく、つとめてそれを避けるようにしていたのである。
が、いまや彼には、自分が生活をつづけることのできたのは、ただただ自分がはぐくまれた信仰のおかげにほかならないことが明瞭になった。
『もし自分がこの信仰をもたず、自分の必要のためでなく、神のために生きねばならぬということを知らなかったら、おれはどんな人間になっていたろう、どんな生活を送ってきたろう? 掠奪《りゃくだつ》したり、うそをついたり、人殺しなんかもしたかもしれない。現在おれの生活の主要な喜びとなっているものが、ひとつもおれのためには存在しなかったかもしれない』そこで、彼はあらんかぎりの想像力を働かせながら、もし自分がなんのために生きているかを知らなかったら、おそらくそうなっていたであろうと思われる、野獣のような人間をえがきだそうとしてみたが、それは成功しなかった。
『おれはおれの疑問にたいする解答を探究した。が、思想は、おれの疑問に解答をあたえることができなかった。――それは、疑問とは共通点のないものであった。解答をあたえてくれたのは、生活そのもので、何が善で、何が悪であるかを識別する自分の知識のうちに、それをあたえてくれたのだった。ところが、おれはこの知識を、何によってえたのでもなく、それはすべての人といっしょにあたえられたのだ。おれがどこからもそれを手にいれることはできなかったからこそ、あたえられたのだ。
いったい、どこからおれはそれを手にいれたのだろう? おれが隣人を愛さなければならぬ、苦しめてはならないというところまで達したのは、はたして理性によってだろうか? いや、それは、おれが子供の時分から、よく聞かされたことだ。そしておれは、それがおれの魂のなかにもあったことだったので、喜んで信じたのだ。だが、それを発見したのは何ものだろう? 理性ではない。理性は、生存のための闘争と、自己の欲望の満足をさまたげるいっさいのものを絞殺《こうさつ》してしまえと要求する法則とを発見したにすぎない。これが理性の結論なのだ。他を愛するということは、理性の発見しうるところではなかった。なぜなら、それは不合理なのだから』
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十三
そこでレーヴィンには、このごろドリーとその子供たちとのあいだにおこった一事件が思いだされた。子供たちは、自分たちだけになると、ろうそくの火で木イチゴを焼いたり、牛乳を噴水のように口のなかへ注ぎこんだりしはじめた。母はその現場で彼らを見つけると、レーヴィンのいる前で、彼らがこわしている物には、どれぐらいおとなたちの骨折りがかかっているかしれないこと、そして、この骨折りは、彼らのためになされているものであること、もし彼らが茶わんをこわせば、彼らにもお茶を飲む物がなくなってしまうこと、また、もし牛乳をこぼしてしまえば、何もたべる物がなくなって、彼らは飢えて死んでしまわなければならないこと、こんなことをこんこんと言いきかせはじめた。
そのときレーヴィンは、母のこうした言葉をきいていた子供たちの、穏やかな、もの悲しげな、不信の色に心をうたれた。彼らはただ自分たちのおもしろい遊びをとめられたのを悲しんでいるだけで、母のいっていることなどはひと言も信じてはいなかった。また、信ずることもできなかったのである。なぜなら彼らは、自分たちの利用しているものの全貌を思いうかべることはできなかったし、したがって、自分たちのこわしているものが、自分たちの生きていくのに必要な道具であることも、想像することができなかったからである。
『そんなことはみんなわかりきったことだあ』と、彼らは考えるのだった。『そんなことはおもしろくもなければ、大切でもありゃしないや。そんなことはいつだってあったことだし、これからもあることなんだもの。そしていつだって同じことだあ。そんなこと、ぼくたちにゃ考えてもしかたのないことだ。きまりきったことなんだもの。それよりぼくたちは、なんでもいい自分流の新しいことを考えだしてみたいんだよ。だからぼくたちは、茶わんのなかへ木イチゴを入れて、それをろうそくの火で焼いたり、牛乳をお互いの口のなかへじかに噴水のように注ぎこんだりすることを思いついたのさ。そのほうがおもしろくて、新しくて、茶わんから飲むのとくらべて、ちっともわるいことなんかありゃしない』
『自然力の意義や人生の意味を理性によって探究しながら、現在われわれがしていること、またおれのしてきたことも、ちょうどこれと同じことではないだろうか?』と彼は考えつづけた。
『哲学上のすべての理論が、人間にふさわしくない、思想の異様な展開によって、人がもうとっくに知っているもの、それなしには生きていくことができないほど確実に知っているものを知らせようとしていることも、ちょうどそれと同じではないだろうか? いったいどの哲学者の理論の展開を見ても、あの百姓フョードルと同じ程度に疑いなく、もっともあれ以上に明瞭ではけっしてないが、人生の主要な意義をあらかじめ知っていながら、ただあやしげな知的道程によって、万人の知りきっていることのほうへ帰って行こうとしているにすぎないことが、明らかに見えているではないか?
まあかりに子供たちばかりにして、彼ら自身にものを手にいれさせたり、食器をつくらせたり、牛乳をしぼらせたりしてみたらどうだろう。彼らはいたずらをしだすだろうか? きっと飢え死にしてしまうにちがいない。ところで、かりにわれわれに、唯一神や創造主についての観念もなく、善とはなんぞやという理解もなく、道徳的罪悪の説明もなしに、性欲や思想だけをもたせておいたらどうだろう!
なんならひとつ、そういうものの観念なしに、何かを建設してみるがいい!
われわれはただ破壊するにすぎないだろう。なぜならわれわれは、精神的に満腹しているから。まったく子供だ!
おれは、百姓と共通のこの喜ばしい知識を、おれの魂に平安をあたえてくれる唯一のものであるこの知識を、いったい、どこからえてきたのだろう? どこからとってきたのだろう?
ひとりのキリスト教徒として、神の観念のなかに、はぐくまれてきたおれは、キリスト教があたえてくれた精神的恩恵によって全生涯をみたされ、全身その恩恵にみたされて生きていながら、まるで子供のように、それを理解せず、破壊ばかりしていた、つまり、自分のよって生きていくものを、破壊しようとしていたのだ。ところが、生活の重大な時期が訪れるとさっそく、ちょうど子供たちが寒くなったり飢えたりしたときのように、おれは急に神のほうへ顔をむけた。そしておれは、たあいないいたずらのために母にしかられた子供たちより、もっと平気で、勝手にわがままをはたらいた自分の子供らしい試みも、自分の罪にはなるまいと考えているのだ。
そうだ、おれが知っていることは、理性によって知っているのではない。それはおれにあたえられ、おれに啓示《けいじ》されたものなのだ。そして、おれはそれを心により、教会の教える主要なものにたいする信仰によって知っているのだ』
『教会? そうだ教会だ!』レーヴィンはこう心にくりかえして、ごろりと反対側へ寝がえりをうち、片ひじをついて、遠く向こう岸から川のほうへおりてくる家畜の群をながめはじめた。
『しかしおれは、教会の教えるいっさいをことごとく信じることができるだろうか?』と彼は自分を試みながら、そして、自分の現在の平安を破壊することのできそうな、すべてのことがらを思いうかべながら、考えた。彼はわざと、日ごろ一ばん奇怪に思われて、自分の心をまどわしていたところの教会の教理を思いだしはじめた。『創造とは? いったいおれは存在というものを何によって説明していただろう? 存在によってだろうか? 無によってだろうか?――悪魔と罪悪――だが、おれは何によって悪を説明するだろう?……贖罪者《しょくざいしゃ》とは?……
だが、おれはなんにも、なんにも知らないのだ。ただ、すべての人たちといっしょに自分にいわれたこと以外には、何ひとつ知ることはできないのだ』
と、今では彼には、教会の信条には一か条として、最も大切なもの――人間の唯一の使命である善にたいし、神にたいする信仰を破壊するようなものは、ないように思われるのだった。
教会の各信条のもとには、欲望のかわりに真理に奉仕するという信仰をおくことができた。そして各信条は、単にこれを破壊しなかったばかりでなく、たえず地上に現われる、あの大切な奇跡を完成せしめるために、必要欠くべからざるものだったのである。その奇跡というのはほかでもない、あらゆる種類の無数の人間、すなわち賢人でも、愚者でも、子供でも、老人でも、百姓でも、リヴォフでも、キティーでも、こじきでも、帝王でも、およそ生きとし生ける者が、一致して疑いなく同じひとつのことを理解し、われわれがそれひとつをとうとび、それひとつのために生きがいを感じている霊の生活を築きあげることができるということなのである。
あおむけに寝ころがったまま、彼はいま、高い、雲ひとつない大空をながめやった。『これが無限の空間であって、円天井でないことを、いったいおれは知らないだろうか?』しかし、どんなに目をそばめてみても、視力を緊張させてみても、おれはそれを円くないもの、はてしないものと見ることはできない。しかも、無限の空間についての知識はりっぱにもちながら、はっきりした青い円天井を目にすることも、疑いなく正しいのだ。それ以上の奥を見きわめようとして、視力を緊張する場合よりもかえって正しいのだ。
レーヴィンは、もう考えることをやめてしまって、ただ自分たちのあいだで何やら喜ばしげに、熱心に語りあっている神秘な声に、耳をすましているもののようであった。
『すると、これが信仰というものだろうか?』と彼は、自分の幸福を信じるのを恐れながら、考えた。「おお神さま、あなたに感謝いたします!」と、こみあげてくるすすり泣きをぐっとのみこみながら、そして両眼にあふれる涙を両手でおしぬぐいながら、彼は思わずいった。
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十四
レーヴィンは前方をながめていて、家畜の群をみとめたが、やがて、黒馬にひかれたわが家の農用馬車と、牧群のそばへ車をよせて、何か牧夫と話している御者の姿とをみとめた。まもなく彼は、自分からまぢかのところに、車輪の音と、ふとった馬の鼻あらしとを聞いた。しかし、すっかりもの思いに沈んでいたので、なんのために御者が自分のほうへ来るのかということすら考えなかった。
で、彼は、御者がもうずっとそばへ近づいて、つぎのように声をかけたときに、初めてそれに気づいた。
「奥さまからのお使いでございます。お兄さまと、まだもうひとり、どこかのだんなさまが、おいでになりましてございます」
レーヴィンは農用馬車に乗りこんで、手綱をとった。
夢からさめたばかりの人のように、レーヴィンは、しばらくわれにかえることができなかった。彼は、もものあいだや手綱ですれる首の上にびっしょりと汗のあわを浮かしている、こえた馬をながめたり、彼のそばに掛けている御者のイワンをながめたりしているうちに、自分が兄のくるのを待っていたことや、自分の長い不在を妻が案じているだろうことなどを思いだして、兄といっしょに来た客というのはだれだろうと、しきりに想像してみた。兄も、妻も、その不明な客も、今では彼に、以前とはまるで違った人のように思われた。そして彼には、すべての人々との関係が、ぜんぜん別のものになっていくだろうというふうに思われたのである。
『兄とも、もうこれからは、これまでふたりのあいだにいつもあったような隔てはなくなるだろうし、議論もしなくなるだろう。キティーとももうけっして、けんかはしなくなるだろうし、客には、よしそれがだれであっても、優しく親切な態度をとるようになるだろう。そして召使たちにたいしても、イワンにたいしても、すっかり変わってしまうだろう』
じれったそうに鼻を鳴らして、しきりと駆けだしたがっているこえた馬を、強い手綱でぐいと引きしめながら、レーヴィンは、自分のそばに掛けて、仕事をとられた手もちぶさたな両手で、風をはらんでふくれるシャツをひっきりなしにひっぱっているイワンのほうを見やった。そして、彼に話しかけるきっかけをさがし求めた。彼はイワンの馬の腹帯の締めかたが高すぎたといおうと思ったが、それは小言じみるきらいがあったので、もっとあいそのある話がしたいと思った。が、そのほかには何も頭にうかばなかった。
「だんなさま、どうか右のほうへおとんなすって、さもないと切り株がございますで」と御者は、レーヴィンの手綱をなおしながらいった。
「どうか世話をやいたり、さしずしたりしないでくれ!」とレーヴィンは、御者のこの干渉にむっとしていった。やはりいつもと同じように、干渉は彼を怒りにみちびいたので、彼は、自分の精神状態が現実と接触する場合、すぐにも自分を一変してくれるであろうと期待した予想の誤りであったことを、さっそく悲しい気持で痛感した。
家まで四分の一ウェルスターばかりの地点まで来るか来ないかに、レーヴィンは、自分のほうへかけてくる、グリーシャとターニャとを見つけた。
「コスチャおじさん! お母さまも、おじいさまも、セルゲイ・イワーノヴィッチも、まだもうひとりの人も、みんな来るわよ」と彼らは、馬車によじのぼりながらいった。
「そう、だれだいそれは?」
「とてもこわい人だわ! そしてね、両手をこんなふうにするのよ」とターニャは、馬車のなかに立ちあがって、カタワーソフのまねをしながらいった。
「それで、年よりかい、若い人かい?」ターニャのしぐさでおよそ見当のついたレーヴィンは、笑いながら、こうたずねた。
『ああ、ただ不愉快な人でさえなければいい!』とレーヴィンは考えた。
道の角《かど》をまがって、こちらへ歩いてくる人々を見るやいなや、レーヴィンはそのなかに、ターニャの今して見せたとおりに両手を振りながら歩いてくる、麦わら帽子をかぶったカタワーソフを見わけた。
カタワーソフは、一度も哲学を学んだことのない自然科学者としての観念をもって、哲学を談ずることが非常に好きであった。モスクワでもレーヴィンは、最近たびたび彼と議論をたたかわせたものであった。
で、レーヴィンは、カタワーソフを見わけると同時に、まずそうした議論のひとつ――カタワーソフのほうでは明らかに自分が勝ったと思いこんでいる議論のひとつを、思いおこした。
『いいや、おれはもうどんなことがあっても、議論をしたり、軽々しく自分の思想を発表したりすることはすまい』こう彼は考えた。
馬車をおりて、兄とカタワーソフとにあいさつをすますと、レーヴィンは妻のことをたずねた。
「あのひとはミーチャをつれてコーロク(これはうちのそばの林であった)へ行きましたよ。あすこであの子のおもりをしようというんでしょう。うちのなかは暑いもんですからね」とドリーがいった。レーヴィンは、赤ん坊を森のなかへ連れてゆくことは危険だと思って、いつも妻をとめていたので、この報告は不愉快であった。
「あれは子供を連れてあちらへ変わりこちらへ変わりしているのだ」と、にこにこ笑いながら公爵がいった。「で、わたしはいっそのこと、冷蔵庫へでも連れて行くがいいってすすめてるんだがね」
「あのひとは蜂小舎《はちごや》へ行きたがっていたんですのよ。あなたが行ってらっしゃることと思ってね。わたしたちもそこへ行くところでしたの」とドリーはいった。
「ときに、このごろは何をしているんだね?」と、ほかの者からはなれて弟と肩をならべながら、セルゲイ・イワーノヴィッチはいった。「べつにこれということもありません。例のとおり、農事をやっているんですよ」とレーヴィンは答えた。「それより、あなたはどうです、長くいてくださるんでしょうね? ずいぶん待ってたんですから」
「まあ二週間だね。モスクワにうんと仕事があるからね」
これらの言葉とともに、兄弟の目がふと出会った。と、レーヴィンは、兄との関係を親しいもの、ことにうちとけたものにしたいという日ごろの、とりわけ今は強く感じていた願いにもかかわらず、彼を見るのがなんとなく、気づまりに感じられた。彼は目を伏せて、いうべき言葉を知らなかった。
セルゲイ・イワーノヴィッチにとって愉快であり、また、彼がいまモスクワの仕事といって、それとなくほのめかしたセルビア戦争やスラヴ問題の話から彼をひき離すことのできそうな話題を選りだしながら、レーヴィンは、セルゲイ・イワーノヴィッチの著書のことを話しだした。
「いかがです、あなたの著書についての批評は?」と、彼はたずねた。
セルゲイ・イワーノヴィッチは、この質問のわざとらしさにたいして、にっこり笑った。
「あんなものを念頭におく者はひとりもないよ。ぼく自身がすでに、だれよりも忘れているんだからねえ」と彼はいった。「ほらごらんなさい、ダーリヤ・アレクサーンドロヴナ、どうやらひと雨きそうですよ」と、|やまならし《ヽヽヽヽヽ》のこずえの上に現われた白い雨雲を傘でさしながら、彼はこう言いたした。
レーヴィンがあれほど避けたがっていたお互いのあいだの、敵意というほどではないが、妙に冷やかな関係を、兄弟のあいだに再現させるには、この数語で十分であった。
レーヴィンはカタワーソフのほうへ歩みよった。
「ほんとうによく来てくれましたね」と、彼はいった。
「もうずいぶん前から来たい来たいと思っていたんですよ。これからひとつ大いに論じようじゃありませんか。スペンサーは読みましたか?」
「いや、まだ読みおわっていません」と、レーヴィンはいった。「しかし、こんにちでは、ぼくにはあれはもう必要でなくなりました」
「どうしてまたそんなことが? これはおもしろい。どうしてですか?」
「つまりぼくは、ぼくの心をしめている問題の解決は、彼や彼とひとしい人たちのなかでは発見することの不可能なことを、はっきり確信したからなんですよ。今は……」
が、カタワーソフの顔のおちついた、愉快そうな表情が、急に彼をはっとさせた。そして、こうした会話によって自分の気分の明らかにそこなわれてしまったことが、ひどく残り惜しくなってきたので、つい今さきの自分の決心を思いだして、急に言葉をきってしまった。
「しかしまあ、こんな話はあとのことにしましょう」こう彼は言いそえた。「もし蜂小舎へ行くんでしたら、こちらへ、この小道を行くんですから」と、彼は一同に向かっていった。
狭い小道づたいに、一方からはびっしりと花をつけたあざやかな三色すみれにおおわれて、そのなかに、しばしばバイケイ草の暗緑色をした高いやぶが繁茂している、まだ刈りとり前の森のなかの草原までやってくると、レーヴィンは、|やまならし《ヽヽヽヽヽ》の若木のこんもりとした涼しい木陰にある、蜜蜂をこわがる小舎の訪問客のためにとくに用意されてあった腰掛けや切り株のほうへ客を招じて、自分は、子供たちやおとなたちに、パンや、キュウリや、新しい蜂蜜などを持ってくるために、蜂小舎のほうへ進んで行った。
できるだけ急速な動作をしないように心がけながら、ますます数をましてかたわらを飛び過ぎる蜂の羽音に耳をすましながら、彼は小道づたいに小舎までたどりついた。その入口のところで、一匹の蜂が彼のあごひげのなかにまぎれこんで、ぶんぶんいいだしたが、彼は用心ぶかくそれを放してやった。影になった入口の間《ま》へはいりながら、彼は、壁の木くぎにさがっていた蜂除けをはずしてそれをかぶり、両手をポケットへつっこんで、生垣をゆいまわした蜂小舎のなかへはいっていった。そこには、規則正しい列をなして、|ぼだい《ヽヽヽ》樹の皮で杭《くい》に結びつけられた、それぞれ自分の歴史をもった、彼にはなじみの深い古い巣が、刈りとられた草原の中央に、数知れず立っていて、編み垣の壁には、今年できの若い蜂の巣がつけてあった。巣の入口の前では、無数の蜜蜂と雄蜂とが、ひとつところをぐるぐるまわったり、ぶつかったりして、めまぐるしく遊んでいたが、そのなかで労働蜂は、獲物《えもの》をとりに行ったり、持ち帰ったり、いつも同じ方向をとって、林のなかの花の咲いた|ぼだい《ヽヽヽ》樹と巣とのあいだを、あちこちと飛びつづけていた。
両の耳にはたえず、さまざまな音が聞こえていた。仕事に追われて忙しそうに飛んでゆく労働蜂の羽音がするかと思うと、怠け者の雄蜂のラッパでも吹くような音が聞こえたり、敵から自分の財産を守るために、ひどく興奮して、いつでも刺そうと身がまえている護衛蜂《ごえいばち》の羽音が聞こえたりした。かこいの向こう側では、ひとりの老人が箍《たが》をけずっていたが、レーヴインの来たことに気がつかなかった。レーヴィンも、彼を呼ばないで、蜂小舎のまん中に立ちどまった。
彼は、早くも彼の気分を卑しくした現実からはなれて、自分自身にかえるために、またひとりでいる機会をえたことを喜んだ。
彼は、自分がちょっとのあいだに、もうイワンに腹をたてたり、兄に冷淡なそぶりを見せたり、カタワーソフに軽率な口をきいたりしてしまったことを思いだした。
『してみると、あれはほんの一時の気分にすぎなかったのだろうか? あれは跡かたもとどめず過ぎてしまうようなものだったのだろうか?』こう彼は考えた。
が、その瞬間、彼はふたたびあの気分にかえり、何か新しい大切なものが、自分の身うちに生じたのを感じて、うれしく思った。現実はほんのいっとき、彼の発見した精神的の平安をくもらせただけで、それは完全に彼の心のなかに残っていたのである。
あたかも今、彼の周囲を飛びまわって、彼を脅かしたり、彼の注意をみだしたりしている蜜蜂が、彼の完全な肉体的の平安を奪って、彼に彼らを避けるために身を縮めさせるのと同様に、さまざまな配慮は、彼が、農用馬車に乗ったそのときから彼をとり巻いて、彼の精神的自由を奪ってしまったのであった。しかしそれは、彼がその渦中にいるあいだつづいたにすぎなかった。蜜蜂の脅威にもかかわらず、肉体の力は依然として彼のなかに完全であったように、彼によって新しく認識された精神力は、完全にたもたれていたのであった。
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十五
「ねえコスチャ、あなたはセルゲイ・イワーノヴィッチがこちらへいらっしゃる途中、だれと道づれにおなりになったがごぞんじ?」と、子供たちにキュウリと蜂蜜をわけてやってから、ドリーはいった。
「ウロンスキイとよ! あのひとはセルビアへ出征なすったんですって」
「そうですよ、しかもひとりではなく、自費で一個中隊の騎兵を引率して行ったのですよ!」とカタワーソフがいった。
「なるほど、あのひとには似合わしいことですね」と、レーヴィンはいった。「すると、やはりまだ義勇兵は出ているんですか?」と彼は、セルゲイ・イワーノヴィッチのほうをちらと見て、言いたした。
セルゲイ・イワーノヴィッチは、それには答えないで、白い蜜房《みつぼう》のいっぱいにはいっている茶わんから、流れだした蜜にまみれてまだ生きている蜜蜂を、切れないナイフで、用心ぶかく取り出していた。
「まだ出ているどころじゃない! 昨日の停車場の様子をきみに見せたかったですよ」とカタワーソフは、大きな音をたててぼりぼりキュウリをかみながら、いった。
「はてね、するといったいそれは、どういうふうに解釈すればいいんですかな? どうかわしに説明してくださらんか、セルゲイ・イワーノヴィッチ、いったいそれらの義勇兵諸君は、みんなどこへ出かけて行くのか、そしてだれを相手に戦っているのか?」と老公爵は、確かにまだレーヴィンのいないうちから始められていたらしい会話をつづけながら、たずねた。
「トルコとですよ」とセルゲイ・イワーノヴィッチは、蜜のために黒くなって、力なげに足を動かしている蜂を救いだし、|やまならし《ヽヽヽヽヽ》の丈夫な葉の上へナイフからうつしてやりながら、おちついた微笑をうかべて答えた。
「だが、だれがいったいトルコに宣戦したのですかな? イワン・イワーノヴィッチ・ラゴーゾフやリディヤ・イワーノヴナ伯爵夫人が、シターリ夫人などといっしょになって、やったとでもいうわけですかな?」
「だれも宣戦した者はないんですがね、世間の人々が隣人の苦しみに同情して、それを助けてやりたいと望んでいるのですよ」と、セルゲイ・イワーノヴィッチはいった。
「しかし、公爵がいっていられるのは、援助のことじゃありませんよ」とレーヴィンは、舅《しゅうと》の肩をもちながらいった。「戦争のことをいっていられるのですよ。公爵は、政府の許可なくして個人が戦争に参加することはできないということをいっていられるのですよ」
「コスチャ、気をつけないと、これ、蜜蜂が! ほんとうに、わたしたちを刺そうとしているのですよ!」とドリーは、黄蜂を払いのけながらいった。
「いや、それは蜜蜂じゃない。黄蜂ですよ」とレーヴィンはいった。
「すると、すると、きみのご意見はどうなんですか?」と、見るからに議論をいどむ調子で、微笑をふくみながらカタワーソフはいった。「なぜ個人はその権利をもたないのですか?」
「そう、ぼくの意見というのはね――戦争は、一面からいえば、非常に動物的な、残忍な、恐ろしい仕事ですから、あえてキリスト教徒といわず、なんぴとたりとも、個人として開戦の責任をひきうけうるものはありません。それはただ、時の事情によぎなくされて、それにたずさわらずにいられない政府だけのなしうることなのです。つぎに、他の一面からいえば、学術上からしても、常識上からしても、国家の仕事、とくに戦争においては、国民はすべて個人の意志を放棄しているものだからです」
セルゲイ・イワーノヴィッチとカタワーソフとは、つねに用意のできていた駁論《ばくろん》をもって、同時に口を開きはじめた。
「それ、そこが要点なんですよ。きみ、いいですか、いかに政府政府といったところで、政府が国民の意志をはたさない場合だってありうるのですからね。そのときには、社会が、自分の意志を発表するというわけですよ」とカタワーソフはいった。
しかし、セルゲイ・イワーノヴィッチは明らかに、この駁論には賛成でないらしかった。彼はカタワーソフの言葉に眉をひそめて、別のことを言いだした。
「おまえのように、そんな問題の立てかたをしちゃだめだよ。この場合、宣戦なんてことは問題じゃない、ただ人間としての、キリスト教徒としての感情の表明があるばかりさ。血を同じくし、信仰を同じくする同胞が殺戮《さつりく》されているんじゃないか。まあかりにだ、それが同胞でなく、同信者でなく、単にそこいらの子供や、女や老人であったとしても、感情は刺激され、ロシア人は、こうした事件の防止を援助するために、立ちあがるにちがいないのだ、まあ考えてごらん、いいかね、もしおまえがだ、いま往来を歩いていて、酔いどれどもが女なり子供なりをなぐっているのを見たとしたら、どうだろう。まさかおまえだって、その男に宣戦したかどうかなんてことは考えないで、いきなりその男にとびかかって、被害者を守ってやるだろうじゃないか」
「しかし、ぼくは殺しませんよ」とレーヴィンはいった。
「いや、おまえは殺すよ」
「ぼくにはわかりません。もしそんな場合を見たとしたら、あるいはその場合の感情に身をまかすかもしれません。しかし、それを予言することはぼくにはできません。それに、スラヴ人の迫害という事実にたいしては、そうした直接的感情なんてものはないし、またあるはずもないんですからね」
「そりゃおまえにはないかもしれない。しかし、ほかの人たちにはあるんだよ」とセルゲイ・イワーノヴィッチは、不満そうに眉をひそめていった。「国民の心のなかには、『けがれたるハガア』のくびきのもとに苦しんでいる正教の人々にかんする伝説が生きているのだ。国民は同胞の苦しみを耳にして、急にざわめきだしたのだよ」
「そうかもしれません」と、レーヴィンはにえきらぬ調子でいった。「しかし、ぼくは知りません。ぼく自身も国民のひとりですが、ぼくはそれを感じていないんですからね」
「わしもそうだ」と、公爵がいった。「わしは外国にいて新聞を読んでいたのだが、じつのところ、ブルガリアで恐ろしい事件のおこるまでは、なぜロシア人全体が、こんなに急にスラヴの同胞を愛しだしたのか、がてんがいかなかったものだ、わしなどは、彼らにたいしてこれっぽっちの愛も感じないのにと思ってな。そこで、わしは非常に煩悶《はんもん》した。自分は不具者か、それともカルルスバット鉱泉の影響を受けすぎたのかと思ってな。ところが、ここへ来てみて、すっかり安心しました。わし以外にも、ロシアのことだけに興味をもって、スラヴの同胞のことなど、てんで問題にしていない人のあることを知ってな。このコンスタンチンがだいいちそれだ」
「この場合、個人の意見にはなんの意味もありませんよ」とセルゲイ・イワーノヴィッチはいった。「ロシア全体が――国民が自分の意志を表明している場合ですもの、個人の意見など問題にはなりませんよ」
「いや、失礼だが、わしにはどうもそれがふに落ちん。国民なんてものは、何ひとつ知らないもんだからねえ」と公爵はいった。
「いいえ、お父さま……どうして知らないなんてことが! だって日曜日に教会で?」と、それまで会話に聞きいっていたドリーがいった。「どうぞちょっとタオルを貸してちょうだいな」と彼女は、にこにこしながら子供たちをながめている老爺のほうをむいていった。「そんなことがあるものですか、みんながそんな……」
「日曜日に教会でどうしたというのだ? 司祭に朗読を命じた。で、司祭は朗読した。が、彼らは何もわかりはせん。ただもういつもの説教のときのように、ため息をついてみせたまでなのだ」と、公爵はつづけた。「それからつぎに、教会では霊魂救済事業のために寄付金を募集しているのだと言いきかせたので、彼らは一カペイカずつ取り出して、それを寄付した。が、それがなんのためやら、彼ら自身は知りやせんのだ」
「国民が知らないはずはありません。自分たちの運命を意識する心は、つねに国民の内部にありますから、こんにちのような場合には、それがおのずと明らかになってくるのです」とセルゲイ・イワーノヴィッチは、蜂番の老爺のほうを見ながら、断定的な口調でいった。
黒いなかに白いのをまじえたあごひげと、ふさふさとした銀色の髪をした美しい老人は、蜜のはいった茶わんを手にして、自分の背丈《せたけ》の高さから優しく静かにだんながたをながめながら、見るからに何ひとつ理解せず、また理解したいとも思わない様子で、じっと立っていた。
「そりゃもうそのとおりでございますよ」こう彼は、意味ありげに頭を振りながら、セルゲイ・イワーノヴィッチの言葉にたいして、いった。
「そうだ、このじいやにきいてごらんになるといい。彼は何も知らないし、何も考えてはいませんから」とレーヴィンはいった。「おいミハイルイチ、おまえ、なにか戦争の話を聞いたかね?」と彼は老爺のほうをむいてたずねた。「ほら教会で何か読んでもらったろう? おまえはどう考えているね? われわれはキリスト教徒のために戦争をしなくちゃならないだろうか?」
「わしらに何を考えることがございましょう? わしらのことは、アレクサンドル・ニコラエヴィッチ陛下さまが考えていてくださいますだ、何事も陛下さまが考えてくださいますだ。陛下さまは何もかも見通しでいらっしゃるだで……もっとパンを持って来ますかね? おちいさいかたたちにもっとあげてもよろしいかね?」と彼は、パンの皮までたべてしまったグリーシャをさしながら、ダーリヤ・アレクサーンドロヴナに声をかけた。
「ぼくには何もきく必要はないよ」と、セルゲイ・イワーノヴィッチはいった。「われわれは、正しい事業に奉仕するためにすべてをなげうって、ロシアのあらゆるすみずみからやって来て、端的に、明白に、自己の思想や目的を表明する人々を、何百となく見てきたし、またげんに見つつあるのだから。彼らはなけなしの金を寄付したり、あるいは自身出征したりして、なんのためということも端的に表明している。いったいこれは何を意味するのだろう?」
「それはね、ぼくにいわせると」と、早くも熱してきたレーヴィンはいった。「八千万の国民ちゅうにはいつだって、今のように数百どころでなく何万という社会的地位を失って、プガチョーフ党へでも、シワへでも、セルビアへでも、どこへでも行きたがっている無鉄砲な人間がいくらでもいるという意味ですよ……」
「ぼくはおまえにいっている、それは百人どころでもなければ、無鉄砲なやからでもない、国民のすぐれた代表者だよ!」とセルゲイ・イワーノヴィッチは、まるで自分の最後の所有物でも保護しようとするような、いらいらした調子でいった。「じゃあ、寄付金はどうなんだ? それこそ、とりもなおさず、全国民が自己の意志を表明しているものじゃないか」
「その『国民』という言葉が、じつにあいまいなものですからね」と、レーヴィンはいった。「村の書記と、学校教師と、百姓のなかの千分の一と、これくらいの人間は、あるいは、なんのためにこうした事件が行なわれているかを知っているかもしれません。が、残りの八千万人は、このミハイルイチ同様、単に自分の意志を表明しないばかりか、何事について自分の意志を表明しなければならないか、その観念さえまるでもっていないのですからね。それをいったい、われわれはなんの権利があって、これが国民の意志だなどいうことができるのでしょうか?」
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十六
討論に経験のあるセルゲイ・イワーノヴィッチは、反駁《はんばく》することはしないで、すぐさま話題を他の方面に変えた。
「そうだ、もしおまえが数学的方法によって国民の精神を知ろうとするなら、もちろん、その目的を達することは非常に困難だ。だいいち、わが国には投票という制度がないし、またそれを採用することもできない。だって、それじゃ国民の意志は表明されないのだから。しかし、それを知るにはまた別の方法がある。それは空気のなかに感じられるのだ、心によって感じられるのだ。静止した国民の海の底を流れていて、偏見をもたないものにはだれにでも、明瞭に感じられる底流についてはいわないとしても、まあ狭い意味における社会を見てみるがいい。以前には、あれほど敵視しあっていた知識階級のさまざまの党派が、ことごとくひとつに合流してしまったじゃないか。いっさいの差異がなくなって、あらゆる公共機関が同一意見をくりかえし、すべての人が、自分たちをとらえて同一方向へ連れていく不可抗的な力を感じているじゃないか」
「そうだ。新聞はどれもこれも同じことをいっておる」と、公爵はいった。「それはまったくだ。だが、それはちょうど、夕立ちまえの|かえる《ヽヽヽ》と同じだ。何ひとつ聞きとることはできやしない」
「かえるであるかかえるでないか――ぼくは新聞を発行しているわけではないから、彼らの弁護をしようとは思わないが、しかしぼくがいっているのは、知識階級の世界における意見の一致ということだよ」とセルゲイ・イワーノヴィッチは、弟のほうに向かっていった。
レーヴィンはそれに答えようとしたが、老公爵が彼をさえぎった。「ところがさ、その意見の一致ということについても、やはり別のことがいわれますからなあ」と、公爵はいった。「そら、あんたも知っておられるわしの婿《むこ》のステパン・アルカジエヴィッチ。あれはいま、ある委員会のまた委員会とかなんとか、よく覚えておらんが、そんなとこの役員をしています。そしてそこで、なんにもしないということをして、――まあいいわい、ドリー、べつに秘密なことでもない、――八千ルーブリという俸給をもらっておる。ところで、試みに、ひとつきいてごらんなさいだ、あの男の勤務が有益かどうか。あの男はきっと、きわめて必要なものだと断言するにちがいないから。しかも、あれは正直な人間ですぞ。が、それでいて、八千ルーブリの有利さを信じないではいられないのさ」
「そうそう、ぼくはあのひとから、その職についたことを、ダーリヤ・アレクサーンドロヴナにおつたえするように頼まれてきたんだっけ」とセルゲイ・イワーノヴィッチは、公爵はとほうもないことをいうと思いながら、不満そうな調子でいった。
「新聞の意見の一致もこれと同じものさ。これは人に教えられた話だが、なんでも戦争がはじまるというと、彼らの収入はさっそく二倍になるということだ。国民やスラヴ民族の運命がどうのこうのといったところで、どうして彼らにこいつを考えないでいられるものか?」
「ぼくは新聞というものはだいたい好きませんが、しかしそれは、少し不公平な見解ですな」とセルゲイ・イワーノヴィッチはいった。
「わしは、ただひとつ条件をだしたいと思いますがね」と公爵はつづけた。「アルフォンス・カルルが、プロシアとの戦争の前に、こういう名文を書いたことがある。『卿等《けいら》は戦争を避くべからざるものと思われるか? 大いによし。しからばまず卿等主戦論者を、先頭の特別部隊に編入して、襲撃にも、突撃にも、全軍の先頭に立たせよう』と」
「いや、編集者連はさぞりっぱにやることでしょうよ!」と、自分の知り合いの編集者たちを、その選抜隊の一員に想像してみて、カタワーソフは、大きな声で笑いながらいった。
「まあ、とんでもない、逃げだすだけのことですわ」とドリーがいった。「ただじゃまになるばかりですわ」
「もし逃げたら、あとから霰弾《さんだん》をくらわすか、コサックどもに鞭《むち》を持たせて見はらしておくのだ」と公爵はいった。
「いや、それは冗談です。失礼ですが、それはよくない冗談ですよ。公爵」と、セルゲイ・イワーノヴィッチはいった。
「ぼくはそれを冗談とは思いませんね、それは……」レーヴィンはこう言いかけたが、セルゲイ・イワーノヴィッチが彼をさえぎった。
「社会の各員は、めいめい、自分に相当した仕事をなすべき使命を課せられています」と彼はいった。「で、思想人は、世論を表現することによって、自分の使命を履行《りこう》しているのです。世論の、心をひとつにした完全な表現は、新聞雑誌の功績であって、同時に、喜ばしい現象でもあります。これが二十年以前だったら、われわれは沈黙していたかもしれませんが、こんにちでは、迫害されている同胞のために、ひとりの人間のようにふるい立ち、自分を犠牲にしようとしているロシア国民の声がよく聞かれます。これは大なる前進であり、力の証明であります」
「しかし、単に犠牲になるだけでなく、トルコ人を殺すんじゃありませんか」とレーヴィンは、おずおずした調子でいった。「民衆が犠牲になり、また犠牲になるのをいとわない気持でいるのは、ただ自分の魂のためであって、殺人のためではありませんからね」と彼は、話を自分の心をしめていた例の思想のほうへ結びつけながら、言いたした。
「魂のためとはどういうことです? それは、自然科学者にとってはじつに難解な表現ですね。いったい魂とはどんなものなんですか?」と、にこにこしながらカタワーソフがいった。
「これは驚いた、よくごぞんじのくせに!」
「いいや、まったく、ぼくはてんでなんの観念ももってはいませんよ!」と、カタワーソフは大きな声で笑いながらいった。
「われは平和をもちきたさず、剣をもちきたすものなり、こうキリストはいっている」と、セルゲイ・イワーノヴィッチは簡単に、まるでわかりきったことでもいうような口調で、福音書のなかでも日ごろ最もレーヴィンの心を困惑させていたこの一句を引用して、自分の立場から反駁した。
「いや、もうそのとおりでございまして」と、彼らのそばに立っていた老爺が、偶然自分のほうへ投げかけられた視線に答えながら、ふたたびこうくりかえした。
「どうです、きみ、やられましたね、すっかりやられましたね!」とカタワーソフは、さも愉快そうに叫んだ。
レーヴィンはいまいましさからまっ赤になった。しかし、それは議論に負かされたからではなく、つい自制することができないで、またしても議論をはじめてしまったことにたいしてであった。
『いやいや、おれはこの連中と議論してはいけないんだ』と、彼は考えた。『彼らは見通しのきかない甲冑《かっちゅう》で身をかためているのに、おれのほうはすっ裸だから』
彼は、兄やカタワーソフを説得することは不可能だが、といって、自分が彼らに同意することは、なおさら不可能なのを見てとった。彼らが説いていたことは、危うく彼を滅ぼそうとした知識の傲慢《ごうまん》そのものであった。彼は、兄をもふくめた何十人かの人々が、首都へのぼってきた数百の口のうまい義勇兵たちの話したことをもとにして、自分たちが諸新聞とともに国民の意志と思想――復讐と殺人のうちに表現されている思想を代表していると称する権利をもつことに、同意することはできなかった。彼がそれを承認することができなかったのは、自分もそのひとりである国民のなかに、そうした思想の現われを見なかったし、また自分自身のうちにも、そうした思想を発見しなかったからである。(しかも彼は、ロシア国民を組成《そせい》している人々のひとりとして以外には、どうしても自分を考えることができなかったのである)が、なおおもな理由は、彼も他の国民と同様に、一般の幸福を形づくるものがなんであるかということを知らず、また知ることはできなかったが、しかし彼は、一般の幸福に達するには、ただめいめいに啓示されている善の法則を厳格に履行する以外に道のないことだけは、かたく信じて疑わなかったし、しぜん、どんな共通の目的のためにしろ、戦争を望んだり、それを謳歌《おうか》したりすることはゆるされなかったからである。彼はワリヤーグ〔スカンジナヴィア人の古名。ロシアの建国をワリヤーグに結びつけた古い言い伝えがある〕の招待にかんする伝説のなかに自分の思想を発表しているミハイルイチや一般民衆とともに、こういっているのであった。『王となってわれらを支配せよ。われらは喜びてまったき服従を約すべし。あらゆる労苦、あらゆる屈従、あらゆる犠牲をわれらはおのが身にとるべし――されど審《さば》き、決するはわれらにあらず』が、いまやその民衆が、セルゲイ・イワーノヴィッチの言葉によると、あれほどの高い価をもってあがなったその権利を、放葉しつつあるのであった。
彼はなおこう言いたかった――もし世論が誤りを知らない裁判官であるとしたら、何がゆえに革命や地方自治制が、スラヴ民族のための運動と同じく、合法的にならないのであるか? しかし、これらはすべて、ひっきょう何ものをも解決することのできない思想であった。そして、疑いもなく見ることのできた唯一のことは、――それは現在、まのあたり、議論がセルゲイ・イワーノヴィッチをいらだたせた、してみると、議論することはよくないことだ、こういう事実だけであった。で、レーヴィンは黙ってしまい、雨雲が集まってきたから、雨のこないうちに帰ったほうがいいということのほうへ、客人たちの注意を向けさせた。
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十七
老公爵とセルゲイ・イワーノヴィッチとは、農用馬車に乗って帰った。残りの一隊は、足を早めて徒歩で家路に向かった。
が、雨雲は白くなったり黒くなったりしながら、非常に早く動いてきたので、雨になるまでに家へ帰りつくには、もっと足を早めなければならなかった。まっさきに立った、低くたれさがった、すすをまぜた煙のようなまっ黒な雲は、異常な早さをもって、空のおもてを疾駆してきた。家までまだ二百歩ばかりあった。が、もう風が吹きおこって、いまにも驟雨《しゅうう》がきそうなけはいであった。
子供たちは驚きと歓喜の叫びをあげながら、さきに立ってかけだした。ダーリヤ・アレクサーンドロヴナは足にまといつくスカートと苦闘しながら、子供たちから目をはなさないで、もう歩いているのではなくて駈けていた。男たちは帽子をおさえながら、大またに歩いた。彼らがやっと入口の階段のところまで来たと思うと、大粒の雨が、ぽつりぽつりと鉄樋《てつどい》の端にあたって、飛び散った。子供たちも、そのあとから、おとなたちも、にぎやかな話し声をたてながら、屋根びさしの下へかけこんだ。
「カテリーナ・アレクサーンドロヴナは?」とレーヴィンは、ずきんやひざかけなどをもって、玄関の間へ彼らを出迎えたアガーフィヤ・ミハイロヴナにたずねた。
「ごいっしょだとばかりぞんじておりましたが」と、彼女はいった。
「じゃ、ミーチャは?」
「たしかコーロクでございましょう。ばあやさんとごいっしょで」
レーヴィンはひざかけをかかえて、コーロクのほうへかけだした。
このほんの僅かのあいだに、雨雲は早くもその中心を太陽の正面まで運んでいたので、あたりは日食のように暗くなってしまった。風はあくまでも自己を主張するかのように、強情にレーヴィンを立ちどまらせ、ぼだい樹の葉や花をひきちぎり、かばの木の白い枝を、醜い異様なはだかん坊にし、アカシヤも、花も、山ごぼうも、草も、木々のこずえも、あらゆるものをいっしょくたに同じ方向へ吹きなびかせた。庭で働いていた女中たちは、きゃっきゃっと叫びながら、下男部屋の軒下へ逃げこんだ。降りそそぐ雨の白いとばりは、もう遠くの林の全部と、近くの原の半分をつつんで、すさまじい速力でコーロクのほうへ動いていた。細かいしずくにくだけ散る雨の湿りが、大気のなかに感じられた。
頭を前へかがめて、かぶっているずきんをもぎとろうとする風とたたかいながら、レーヴィンはもうコーロク近くへかけつけて、かしの木の向こうにほの白く見える何かを見つけたと思うまもなく、そのときふいに、すべてのものがぱっと燃えあがって、大地がまっ赤になり、まるで大空の円天井が頭上ではり裂けでもしたかのように思われた。くらまされた目を開いて、レーヴィンは、今ではコーロクと彼とのあいだまでおし隔ててしまった濃い雨のとばりごしに、何よりもまず、林の中央にあった見なれたかしの木の緑のこずえが、妙にその位置を変えてしまったようなのを見て、ぞっとするような恐怖にうたれた。『すると雷にやられたんだろうか?』レーヴィンがこう考えるひまもなく、かしのこずえは、みるみる落下の速度を加えて、他の木々のかげへかくれてしまった。と、彼は、他の樹木の上へ倒れかかる大木の、ごう然たる音響を聞いた。
雷光と、雷鳴と、瞬間さっと冷水でも浴びたような肉体の感じとが、レーヴィンにとってはひとつの恐怖の印象に溶けあった。
「ああ神さま! 神さま! みんなの上へ倒れたのでないように!」と彼は口ばしった。
そして彼はすぐ、今はもう倒れてしまっているかしの木の下にならないようにと願ったところで無意味だと考えつきはしたものの、この無意味な祈願よりほかにとるべき手段のないことを知って、やはりそれをくりかえした。
彼らがいつも行きつけていた場所まで行ったが、彼は彼らを見いださなかった。
彼らは林の向こうの端の、古いぼだい樹の下にいて、彼を呼んでいた。黒い着物(それはさっきまでは薄色のものだったのに)を着たふたつの人かげは、何かの上へかがみかかるようにして立っていた。それは、キティーと乳母《うば》とであった。レーヴィンがそばまでかけよったときには、雨はもうやみかけて、空は明るくなりかけていた。乳母の着物はすそのほうがかわいていたが、キティーの着物は、すっかり濡れ通って、ぴったりからだにはりついていた。雨はもう降っていなかったのに、彼らは依然として、雷の落ちたときに立っていたと同じ位置に、立ちすくんでいたのだった。ふたりは、緑色の日おおいのついた乳母車の上へ、かがみかかるようにして立っていたのであった。
「生きているね? 何事もなかったね? ありがたい!」と彼は、水のはいった歩きにくい半長ぐつで、まだ残っている水たまりのなかをぼちゃぼちゃやって、彼らのそばへかけつけながらいった。
ぽっと赤らんで濡れたキティーの顔は、彼のほうへむけられて、形の変わってしまった帽子の下でおずおずとほほえんでいた。
「おいおい、おまえよくも恥ずかしくないね! そんな不注意なまねをするなんて、ぼくには理解できないよ!」と彼は、腹だたしげに妻にくってかかった。
「だって、ねえ、ほんとにわたしの罪じゃありませんわ。わたしたちが帰ろうとしかけたら、この子が大騒ぎするんですもの。で、おむつをかえてやらなければならなかったんですわ。わたしたちがやっと……」とキティーは弁解をはじめた。
ミーチャは何事もなく、濡れもしないで、すやすやとよく眠っていた。
「いやまあ、ありがたかった! おれは自分で自分のいっていることがわからんくらいだ」
みんな濡れたおむつを集めた。乳母は赤ん坊を抱きあげて歩きだした。レーヴィンは、いま怒ったことをわびるように、乳母の目をぬすんでそっと妻の手を握りながら、彼女とならんで歩きだした。
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十八
この日一日、ただ知性の表面だけで仲間入りできるような、きわめて雑多な会話をつづけながら、レーヴィンは、当然自分の内部におこるものと期待した変化にたいして幻滅を感じていたにもかかわらず、たえず自分の心の充実を感じて、歓喜の思いをあじわっていた。
雨のあとは、散歩に出るにはいかにも道が濡れすぎていた。そのうえ、雷雲はいつまでも地平線をさらないで、ごろごろ鳴ったり黒くなったりしながら、天際《てんさい》のここかしこをさまよっていた。一同は一日の残りを家で暮らした。
議論はもうはじまらなかった。それどころか、晩餐のあとでは、みんな非常に上きげんであった。
カタワーソフは初めのうち、彼と近づきになった初対面の人たちをきまって喜ばす彼独特の冗談で、婦人たちを笑わせていたが、やがて、セルゲイ・イワーノヴィッチに誘いだされて、室内にいるハエの雌雄の、習性ばかりでなく、外貌《がいぼう》まで相違している点や、その生態についてのきわめて興味ぶかい観察を物語った。セルゲイ・イワーノヴィッチもやはり上きげんで、お茶のとき、弟につりだされて東方問題の将来について、一同が熱心に耳を傾けたほど、単純に、巧みに自分の見解を述べた。
ただひとりキティーだけは、彼の話をしまいまで聞いていることができなかった――ミーチャに湯を使わせるために、呼びに来られたからであった。
キティーが行って数分たつと、レーヴィンもまた、子供部屋の彼女のところへ呼ばれて行った。
飲みかけのお茶をおき、興味ある話の中断を同じく残念に思いながら、同時に、こんなことはこれまで大事な場合でなければないことだったので、なんで呼びによこしたのかと案じながら、レーヴィンは子供部屋へ出かけて行った。
解放されたスラヴ人の四十万人の世界は、ロシアとともに歴史上に新時代を画するにちがいないという、セルゲイ・イワーノヴィッチの聞きさしにした説が、自分にとってはまったく新しい説として、非常に興味をそそられたにもかかわらず、また、なんで呼びによこしたのだろうという不安と好奇心とが胸をさわがせていたにもかかわらず――客間を出てひとりになるとすぐ、彼は今朝の自分の考えを思いおこした。と、世界歴史におけるスラヴ的要素の意義にかんするそうしたいっさいの考察も、彼の心に成就《じょうじゅ》されたことと比較しては、あまりにささいなことに思われたので、彼は一瞬のあいだに、そんなことはみな忘れてしまい、今朝あったと同じ気分に引きこまれていった。
彼も今は、これまでのように、思想の径路全体を思いだしはしなかった。(それは、彼には必要でなかった)彼はたちまち、自分をみちびいている例の感情、これらの思想と結びつけられていた気持のなかへ移ってしまい、そして自分のなかで、その感情が以前よりもいっそう力強く、明確なものになっているのを発見した。で、今の彼には、以前のむりに考えだされたような平安――ある感情を見いだすために思想の全径路をたどりなおさなければならなかったときの、あのむりに考えだされたような平安にともなっていたようなものは、もはやなかった。いやそれどころか、今は反対に、歓喜と平安の感情が、以前よりもいきいきとしていて、思想のほうが感情についていきかねるくらいであった。
彼はテラスを通って行きながら、もう暗くなりかけた空に光りだしていたふたつの星をみとめると、ふいにこう思いだした。――『そうそう、おれは空をながめながら、自分の見ている円天井はうそではないのだなんて考えたのだった。そしてそのときおれは、何か最後まで考えないで、何か自分にかくしてしまったことがあった』こう彼は考えた。『しかし、そこに何があったにしろ、それは反駁のできないことだった。もうちょっと考えたら、何もかもはっきりするだろう!』
もう子供部屋へはいるばかりのときになって、彼は自分にかくしたもののなんであったかを思いだした。それはこういうことであった。もし神性のおもな証明が、善が存在するということについての『彼』の啓示《けいじ》であるとするならば、何がゆえにその啓示は、キリスト教の教会だけにかぎられているのであるか? 同じく善を信奉し実行している仏教徒やマホメット教徒の信仰は、この啓示にたいして、どういう関係をもっているのか?
彼には、この疑問にたいする解答が、自分の胸にあるような気がしていたが、しかし、まだ自分自身に表現してみる暇のないうちに、子供部屋へはいってしまった。
キティーは両そでをたくしあげて、たらいのなかで洗われている赤ん坊の上へかがみかかりながら立っていたが、夫の足音を聞きつけると、彼のほうへ顔をふりむけて、笑顔で自分のそばへ招いた。彼女は、あおむけに浮いた両足をひろげている、ふとった赤ん坊の頭を片手でささえながら、いま一方の手で、筋肉を一様に緊張させながら、彼のからだの上で海綿をしぼっていた。
「まあちょっと、ごらんなさいまし、ごらんなさいまし!」と、夫がそばへ来たときに、彼女はいった。「アガーフィヤ・ミハイロヴナのいったことはほんとうでしたわ。この子はもう人見知りをしますのよ」
用というのは、つまり、ミーチャが今日からはっきり、疑いもなく、家じゅうの者を見知るようになったということであった。
レーヴィンがたらいのそばへ近づくと同時に、さっそく実験が試みられて、その実験はみごとに成功した。わざわざそのために呼ばれた炊事女が、赤ん坊の上へかがみかかった。と、彼は顔をしかめて、いやいやをしだした。キティーがかがみかかると、彼はたちまち微笑に輝いて、小さい|おてて《ヽヽヽ》で海綿にしがみつき、そしてキティーや乳母ばかりでなく、レーヴィンまでが思いがけない歓喜をおぼえたほど、満足そうな、異様な音をたててくちびるを鳴らした。
赤ん坊は片手でたらいから引きあげられ、あがり湯を浴びせられ、タオルにつつまれ、ふきあげられて、そして、ひとしきり鋭い泣き声をたてたあとで、母親の手に渡された。
「わたしね、あなたがだんだんこの子をかわいがるようになってくだすったので、とてもうれしくてたまらないんですのよ」と、赤ん坊を胸に抱いて、いつもの場所におちついてから、キティーは夫にいった。「わたし、とてもうれしいんですのよ。だってもう情けなくなりかけていたんですもの、あなたったらこの子にたいして、なんの感情もおこらないなんておっしゃるんですもの」
「いや、ぼくは感じないなんて言いやしないじゃないか? ただ幻滅したといったまでだよ」
「なんですって、この子に幻滅なすったんですって?」
「この子に幻滅したというのとは違う。自分の感情に幻滅したのさ。ぼくはより大きなものを期待してたもんだからね。ぼくはこう、驚異とでもいうような、新しい愉快な感情が、自分の心にわきおこるのを期待していたのさ。ところがどうだ、そのかわりに、ふいに――いやらしいような、かわいそうなような……」
彼女は、ミーチャを洗ってやるために抜いておいた指輪を細い指にはめながら、赤ん坊ごしに彼のいうことを熱心にきいていた。
「まあ、第一は、満足よりも恐怖と憐憫《れんびん》のほうがとても大きかったということだよ。ところが、今日、雷のときのあの恐怖のあとで、ぼくは、自分がどんなにこの子を愛しているかということがはじめてわかったのさ」
キティーの顔は微笑で輝きわたった。
「あなたも、そんなにひどくびっくりなさいましたの?」と彼女はいった。「わたしもそうでしたわ。でも、わたしはもう過ぎてしまった今のほうが、もっと恐ろしいような気がしてますのよ。わたしあとで、あのかしの木を見に行ってきますわ。それはそうと、カタワーソフって、なんておもしろいかたなんでしょうね? それにいったいに、今日はいちんち、ほんとうに愉快でしたわね。あなたも、その気におなりになりさえすれば、セルゲイ・イワーノヴィッチともあんなにうまくいくんですもの……さあ、では、みなさんのほうへいらっしゃいまし。さもないと、ここは、お湯を使わしたあとはいつも暑くて、湯気がこもって……」
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十九
子供部屋を出てひとりになると、レーヴィンはすぐまた、何かはっきりしないところのあった例の想念を思いだした。
話し声の聞こえていた客間へはいって行くかわりに、彼はテラスの上に立ちどまり、欄干に肘をついて、空をながめはじめた。
もうすっかり暗くなっていて、彼のながめている南のほうには、雨雲はなかった。雨雲は、反対側のほうにむらがっていた。そのほうからは、ときどきいなずまがひらめいたり、遠雷が聞こえたりした。レーヴィンは、庭のぼだい樹から規則正しく落ちる雨だれの音に耳をすましながら、いつも見なれた三角形の星群と、そのまん中を通っている、無数の支流を合わせた銀河とをながめていた。いなずまがさっと光るたびに、銀河ばかりでなく、きらきらと光っている星までが姿を消してしまったが、いなずまがやむと同時に、すぐまた、まるで何ものかのなれきった手で投げ返されでもするように、もとの位置へ現われるのだった。
『さあ、おれの心をさわがせているのは、いったいなんだろう?』とレーヴィンは、まだわかっていなかったけれども、とにかく自分の疑惑の解決は、もうちゃんと自分の心のうちにできあがっているのを予感しながら、こう自分にいった。
そうだ、神性についての明瞭な、疑いのないひとつの現われ――それは、啓示としてこの世界に現われている善の法則だ。その法則を自分の身うちに感じ、その法則を認識することによっておれは、他の人々といっしょに、いわゆる教会という信者の仲間に、進んで結合するというのではないが、いやおうなしに結合されてしまっているとすると、ほかのユダヤ教徒や、マホメット教徒や、儒教徒や、仏教徒――彼らは、いったいどういうのだろう?』と彼は、自分にも危険に思われていた例の疑問を、自分の前にもちだしてみた。『はたして何億という人々が、この最善の幸福――それなしには生活が無意義になってしまうこの最善の幸福を、奪われているのだろうか?』こう彼は考えはじめたが、すぐみずから訂正した。『だが、いったいおれは、何をきいているのだろう?』と彼は自分にいった。『おれは、全人類のもっている、あらゆる種々雑多な信仰の、神性にたいする関係をきいているのだ。おれは、こうした多くの不明瞭な斑点《はんてん》を有する全世界のための共通な神の顕現《けんげん》についてきいているのだ。いったいおれは何をしているのだろう? このおれには、個人としておれの心に、理性には理解しがたい知識が、疑いもなく啓示されているのに、おれは強情にも、理性や言葉でこの知識を表現しようとしているのだ。
はたしておれは、星が動くのではないということを知らないのだろうか?』と彼は、いつのまにかもう、かばの木の高い枝のほうへその位置を変えた、よく光る遊星をながめやりながら自問した。『しかしおれは、星の運行をながめていると、この地球の回転が想像できない。星が動くというほうが正しいような気がする。
もし天文学者が、複雑多様な地球の運動を、ことごとくその計算にいれて考えたら、はたして何ものかを理解し、算定することができただろうか? 天体の距離や、重量、運動、動乱などにかんする彼らの驚くべき結論は、すべてただ、不動の地球の周囲に点在する発光体の目に見える運動に、――現在おれの目の前にあり、過去数世紀間にわたって何百万の人々の前に同一であり、過去・未来・永劫につねに一様であり、つねに信ぜられるであろうところのあの運動に、基礎をおいているにすぎないのだ。したがって、一本の子午線《しごせん》や一本の地平線にたいする関係だけに頼って、目に見える天空の観察に基礎をおかない天文学者の結論が、空疎であり不安定であるのと同様に、万人のためにつねに同一であり、永久に同一であろうところの善の解釈――キリスト教によっておれに啓示されて、永久におれの心の信念となるであろう善の解釈に基礎をおかないおれの結論もまた、同じく空疎《くうそ》であり不安定なものであるにちがいないのだ。だいいち、他の信仰にたいする疑問、彼らと神との関係にたいする疑問などは、解決する権利も可能もおれにはないのだ』
「あら、あなたまだいらっしゃいませんでしたの?」とふいに、同じ道を通って客間へ行こうとしていたキティーの声が聞こえた。「どうなすったの、何か、いやなことでもおありになりますの?」と彼女は、星あかりにじっと彼の顔を見つめながらいった。
が、このときもし、またしてもいなずまが、星の光を奪って彼を照らさなかったら、彼女はやはり十分に彼の顔を見わけることはできなかったであろう。電光の一閃《いっせん》で、彼女は彼の顔をあまさず見て、彼がおちついた喜ばしげな顔をしているのを見てとると、にっこりとほほえんだ。
『これはわかっているのだ』と彼は考えた。『おれが何を考えているかちゃんと知っているのだ。これに話してみようか、それともよそうか? いや、ひとつ話してやろう』しかし、彼が話しだそうとしたときに、彼女も口をききだした。
「ねえコスチャ! あなたをおつかいしてすみませんけれどねえ」と、彼女はいった。「あのすみのお部屋へいらして、セルゲイ・イワーノヴィッチのお部屋の支度ができているかどうか、ひとつ見ていらしてちょうだいな。わたしではぐあいがわるいのですから。新しい洗面台を持って行ったかどうか?」
「よし、よし、ぼくがひきうけて行って見てやる」とレーヴィンは立ちあがって、彼女に接吻しながらいった。
『いやいや話す必要はない』と彼は、彼女がさきに立って家のなかへはいったときに、考えた。『これは秘密だ、おれひとりだけに必要で、重大な、口ではいえない秘密なのだ。
この新しい感情は、おれが空想したように、急におれを変えたり、幸福にしたり、啓発《けいはつ》したりもしてくれなかった――ちょうど、自分の子供にたいする感情と同じように。ふいの驚異といったものもべつにおこらなかった。これが信仰か、信仰でないか、なにがなんだか、おれは知らない、しかし、とにかくこの感情は、苦しみといっしょに、いつのまにかおれの魂へはいりこんできて、そこにどっかりと根をおろしてしまったのだ。
これからおれはやっぱり、御者のイワンに腹をたてたり、議論したり、場所がらも考えないで自分の思想を口にしたりするだろう。依然として、おれの魂の聖の聖なるものと他人の魂とのあいだには――妻の魂とのあいだにさえ、障壁は築かれるだろう。そしてやはり、自分の恐怖のために妻を叱ったり、それを後悔したりするだろう。またおれは、なんのために祈るのか理性ではわからないままに、祈りつづけることだろう。――しかし、いまやおれの生活は、おれの全生活は、これからおれの身におこりうるいっさいのことを超越して、その生活の一分一分が、単に今までのようには無意味でないどころか、自分が自分の生活にあたえうる疑いもない善の意味をもっているのだ!』(完)
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解説
一 ロシア文学の意義とその背景
十九世紀後半の世界文学における最大の現象は、ロシア文学の突然の登場と圧倒的勝利であった。ゴーゴリ、ツルゲーネフ、ドストエフスキー、そしてトルストイとかぞえるとき、「ロシア文学は歴史的にわれわれ〔西欧〕の文学の完成であった。十九世紀の初めにはわれわれのもとにあった支配権は、争うべくもなくロシアに移った」という、イギリスの批評家ミドルトン・マリの言葉が、けっして誇張でないことがわかるはずである。
その勝利はなにによってもたらされたか。ふたたび、M・マリの巧妙な比喩をかりよう。「オクターヴの上端にも下端にも、西欧の文学で平常はかなでられないある音階があるのだが、それらがロシア文学では常にかなでられている。この高音部と低音部とは直接の連関をもち、その存在はたがいに依存しあっている」。つまり人間性における神的に高いものと獣的に低いもの、尊いものと卑しいもの、二つの極限が同時に把握され、人間性の振幅がおどろくべくひろげられたことによってである。近代文学の概念はここにいちじるしく拡大され、以後の世界文学はその影響から脱却することが困難となる。
そうした痛切に美しいロシア文学の開花は、その社会と切りはなして考えることはできない。長らく未開のうちに低迷していたロシアは、ピョートル大帝(一六七二〜一七二五)による上からの急激なヨーロッバ化政策によって、近代国家への第一歩をふみ出したが、その道程はながく、苦悩にみちたものであった。二十世紀にいたるまで文化主義的にして圧制的な貴族と、素朴にして貧しい農民との対立をかかえる専制国家であることをやめなかったのである。ただナポレオン戦争以後、西欧の自由主義思想がインテリのあいだに浸透し、そのインテリはやがて思想をたんなる教養とすることに甘んぜず、これを現実変革の道具と考えるにいたって、専制政府の盲目的流血的弾圧がはじまる。それはプーシキンも関係したデカブリスト(十二月党)の反乱をはじめとして、一八六一年の農奴解放にもかかわらず、一九〇五年の第一次革命、一九一七年の革命の成功までつづくのである。
そうした政治的生活というものがまったく存在せず、学問研究すら圧殺されるという絶対専制の帝政ロシア社会において、国民の良心の声となったのが、文学者たちであった。彼らは、暴力的政府と死をかけてこれに反抗する革命家、豪奢な貴族階級と貧しい人民、西欧近代思想と個人主義的発想を身につけた少数のインテリと、なお共同体的生活と神秘的宗教思想から脱却しえぬ無知の大衆(文盲率八十パーセント)、そうした対立矛盾にみちみちた社会と生活とを、たんなる傍観者としてではなく、そこへの働きかけの意欲をひそめつつ、誠実にえがくことによって、近代文学の次元を一段たかめうる偉大な作品を残しえたのであった。トルストイは、その最も偉大な代表者の一人である。
二 トルストイの生活
レフ・トルストイは、一八二八年八月二十八日、モスクワの南方百三十マイルにあるヤースナヤ・ポリャーナに生まれた。大地主の父ニコライ伯爵は、政治にいっさい関係せず、農事に専心したが、自尊心つよく、専制政府に反感を示していた。母は公爵家の出で、結婚にさいして、八百人の農奴をつけたヤースナヤ・ポリャーナを持参した。レフには三人の兄と一人の妹があった。三番目の兄は売春婦と同棲した変り者で、この小説中のニコライのモデルとなっている。
二つで母を失い、父のいとこタチヤーナに育てられたが、その影響によってか、彼は幼時から他人の不幸に敏感であった。八つのとき、モスクワに移ったが、翌年父をなくした。彼は強壮無比な肉体をもっていたが、容姿がみにくく、その悩みが彼の内省的傾向をつよめた。少年のころから宗教的、思想的な問題になやまされていた。
十六でカザン大学の東洋語科にはいったが、大学のひからびた学問を軽蔑して酒色にふけると同時に、ルソーの全著作をフランス語で読破するような勉強ぶりも示した。大学中退後、故郷に帰って農民の啓蒙をくわだてたが失敗し、ふたたび放蕩にふけったが、二十三のとき、コーカサスの砲兵隊の士官候補生となった。そこでの処女作『幼年時代』がみとめられ、彼は作家としての第一歩をふみ出した。
二十八で軍職をすて、二回西欧に旅行し、農村改良に努力したが、一八六一年の農奴解放後は、農事仲裁裁判所員となった。しかし、彼は農民に味方しすぎるとして、地主たちの非難をまねいた。
三十四で、宮廷医ベルス家の次女、十八歳のソフィアと結婚し、幸福な新婚生活のうちに大作『戦争と平和』を完成したが、彼の関心は芸術よりも宗教と社会にあった。原始キリスト教的立場から、堕落したギリシア正教の教会をきびしく批判し、ついに破門された。貧しい人びとの悲惨に心をいため、私有財産を否定する考えにまでいたるが、彼の激越な運動は当局からの迫害を招かずにはおかなかった。彼の著作はたびたび発禁となった。しかし、彼は屈することはなかった。この間に発表した『アンナ・カレーニナ』『復活』その他の名作によって、世界的名声をえた、この大貴族を、反動政府も徹底的に弾圧することはできなかったのである。そして彼は日露戦争に反対し、第一次革命における官憲の弾圧に反抗するなど、自己の思想をつねに主張してやまなかった。
彼の思想と行動のはげしさは家庭生活を破壊した。社交界を大切にし、また十三人の子供と多くの使用人をかかえる主婦としてのソフィアと、私有財産を否定して、農民大衆の中へはいろうとするレフとの、相互の不可避的無理解は最後の日までつづく。彼は一九一〇年十月二十八日に家出し、旅行中に肺炎をおこし、十一月七日の朝、田舎駅の駅長室で死んだ。八十二歳である。
トルストイは誠実な求道者であった。しかし、それは道学者とはことなる。彼がつねに矛盾した両極のあいだをゆれる激しい生活者であったことを忘れてはならない。彼の偉大さの根源にはこの矛盾がある。彼は菜食主義をとなえたが、彼の家の菜食は上等のおいしいものであった。一種の精神主義をとなえつつ、物質的生活の向上にもけっして無関心ではなく、その反対であった。彼の財力は、数千人のひとを集めて、大野外競馬を独力でもよおしうるほどの大きさをもっていた。トルストイが結婚後買い入れた土地は六千ヘクタールであり、有島武郎が解放した土地が百ヘクタールであったことを想起すればよい。
トルストイの人がらについては、ゴーリキイの『追憶』をよむのがよいが、彼はゆたかな近代的教養と同時に、古代の族長のような強烈な心情をもっていた。彼に見すえられると、ゴーリキーやチェーホフのような人たちすら、心の中を読みとられ、一切うそがいえなかったという。ゴーリキーは、「この人こそ、神にひとしい」とまでいっている。
三 「アンナ・カレーニナ」の成立
一八七三年三月十九日、病床のタチヤーナをなぐさめるために、トルストイの長男セルゲイ少年がプーシキンの小説を朗読した。トルストイはその短編の書き出しの「客は別荘へ集まってきた」という一句に感心し、「書き出しというものは、こうでなくちゃいかん。プーシキンは私たちの先生だ。こうすれば、いきなり読者を事件の中心的興味へ誘いこんでしまう」といったが、それじゃ、あなたもやってごらんなさい、とすすめる人があった。彼はすぐ書斎へ行って、たちまち数ページ書きあげた。
「オブロンスキイ家では、何もかも乱脈をきわめていた。妻は、夫が以前彼らの家にいたフランス女の家庭教師と関係のあったのを知り、夫に向かって、このうえ同棲をつづけることはできないと言いだした」
すなわち、『アンナ・カレーニナ』の書き出しである。「幸福な家庭はすべてよく似よったものであるが、不幸な家庭はみなそれぞれに不幸である」という有名な一句は、あとから書き加えられたものである。
もちろん、この興味ある挿話は、一つのきっかけをなしたにすぎない。トルストイはおよそ一年前から、一つの題材をあたためていたのだ。それは彼の村の近くで起こった、アンナとよばれる地主の妻の鉄道自殺事件である。そのアンナは、夫が女家庭教師と仲よくしたことを知って怒って家出し、「あなたは下手人です。もし人殺しが幸福になれるものなら、あの女といっしょに幸福にお暮らしなさい。もしわたしに会いたいと思ったら、駅のレールの上で、わたしの死体をごらんになれるでしょう」という手紙を届けさせて自殺したのであった。トルストイはその解剖を見に行った。『法廷新聞』の殺人事件の記事から『赤と黒』が生まれたように、この三面記事的な一事件を契機として、世界最高のリアリズム小説が誕生することになる。
しかし、その誕生は、この小説のキティーの出産と同じように、けっして安産ではなかった。トルストイはこの小説を書き出してから何べんも行きづまり、投げ出しかけた。もし編集者との前約束がなかったとしたら、挫折《ざせつ》したかもしれない。なぜか。あれほどの芸術的才能人として技巧上の行きづまりはありえないのではないか。中絶の原因は内面にあった。彼はやがて『わが懺悔』を書いて、芸術家であることを恥とし、従来の作品全部を否定するにいたるのだが、そうした考えはすでにこの作品の執筆中からきざしていた。いな「幸福な結婚生活の初期に書かれた『戦争と平和』のうちにも、さらに、青年時代から勉強ないし創作と実践の矛盾は、霊と肉との矛盾と共に、彼のうちに巣くっていたのである。この小説の執筆前後も、彼は農村の改良をこころざし、ABCの教え方について教育学会での討論をみずから買って出たりしていた。そして、むしろ芸術を放棄して、人生そのものに直接働きかけるべきではないかという思想と、立派な芸術作品を完成したいという欲求との間に引き裂かれていた。このことが『アンナ・カレーニナ』の完成を困難にしたのである。しかし、そうした、矛盾したインタレストの調和を求めつつ書かれた、あるいは書くことによってしかその調和はたもてなかったというところに、この作品の幅と深さが生まれた。そして一八七七年完成したとき、この作品はそうした挫折の危険があったということを信じさせないほどの完璧度を持って、われらの前に現われるのである。
ドストエフスキーは、この作品をよんで、芸術として完全だ、ヨーロッパ文学中これに匹敵しうるものはない、とまで激賞し、志賀直哉は、近代小説の教科書といった。これは、たんに『戦争と平和』とならんで、トルストイの二大傑作の一つというにとどまらず、もし、世界の近代小説の中から十作をえらぶ場合にも、いな五つをえらぶ場合にも、入れずにはすませないところの作品となっている。
四 「アンナ・カレーニナ」の価値
『アンナ・カレーニナ』は、なぜそのように高く評価されるのであろうか。観念的な標語の羅列《られつ》はさけよう。こころみに、ひとしく姦通を取扱った名作『ボヴァリー夫人』と読みくらべてみるがよい。『アンナ・カレーニナ』の優位性はただちにはっきりするであろう。
人生に理想はもちえぬものとあきらめた不幸な人間の文学は、人生に理想はなければならぬと信じ、これを追求しつつ悩みぬいた人間の文学の前に、その美しさが色あせて見えるのである。フローベールは描写の美に究極目標を見ることによって、その描写に表面性しかあたえぬにいたったが、トルストイは、思想こそ究極目標と考えつつ、しかも、その思想なるものは文学者であるかぎり描写によってしか伝ええぬとすることによって、その描写に厚みと的確性をあたえるのである。彼の自然描写の美しさは、彼の目がレンズのように正確であったためよりも、彼がルソー風の「自然人」として自然を見えたところにもとづく。たとえば、レーヴィンが早春に自分の領地を乗馬で見まわるところの描写を見るがいい。自然を「善」と見て、みずからその中に生活したいと思う人間によってしか、こうした文章はかけないのである。
トルストイの文学は、自然主義を越えて真のリアリズムに到達したといえる。『アンナ・カレーニナ』は、十九世紀後半のロシア社会、とくにペテルブルグとモスクワを両極とする、貴族の華やかな社交界と農村地主の生活を類例なくみごとに描き出したといわれるが、それもたんなる技巧の成功ではない。彼が高雅にして堕落した貴族の社交界に身ぐるみ没入しつつ、同時に、これに激しく反発して、農民とともに生きようとする精神を、激しく内にひそめて描写することによって、たんなる外的描写におわらず、描写を内面から支えてこれに厚みを与ええたのである。マシュー・アーノルドが、「これはもはや文学ではなく、生活そのものだ」といったのも、またレーニンがそのすぐれたトルストイ論に『ロシア革命の鏡としてのトルストイ』という題をあたえたのも、そういう意味からであろう。農村についても同じことがいえる。彼は素朴、無知な農民とともに生き、そうした生活態度をとろうと真剣に努力しつつ、しかも最後まで洗練された知的貴族性から脱却しえなかった。それが彼の農村描写を都会人にも親しみやすいものとすると同時に、これを深いものとして普遍化するのである。
彼の描写は、このような矛盾をふくみつつ、またおそらくそれゆえに、内面張力にみちた完璧な、いわば現実そのもののようなものとして現われる。思想は、実際の外界におけるように、いつもいわば物的な外面に包みこまれて存在する。すぐれた小説作品はすべてそうだが、この特色がトルストイにおいては、とくにいちじるしいのである。
事件の展開も、いつも客観的な事実の秩序にしたがって、次々に事件が継起するように見える。つまり歴史過程のような姿を示す。しかし、それらはすべて、あくまでトルストイの思想の秩序によって展開させられている。つまりフィクション(仮構)の世界なのである。アンナが初めて恋を知ったとき駅で轢死人を見て、「不吉な前兆ですわ」という。そして彼女自身最後に鉄路に身をなげる。この前後照応は、もっとも目立つものだが、ほかにもいたるところ伏線がはりめぐらされている。しかし、その伏線は読者の興味をさそうためのものではなく、作者の思想の展開を確保するための作業なのである。
この小説には、アンナ=ウロンスキイの恋愛関係とキティー=レーヴィンの結婚関係、大都会の社交生活と田園の自然な生活、さらに細かく見れば、アンナが死を考えはじめる過程に、ミーチャの生誕をおく、というふうに、つねに対立するものがある。それは読者を引きつけるのにきわめて効果的で、大衆文学的手法といえるかもしれない。しかし、それは読者をよろこばせるための手段ではなく、トルストイが矛盾対立的にしか彼の思想ないし作品の構想を展開しえなかったことを示す。トルストイが偉大な小説家といわれるのは、この点にある。
五 「アンナ・カレーニナ」の読みかた
この小説作品における思想、とくにその矛盾的性格といったことを、くりかえし述べながら、私はその思想内容についてふれるところがなかった。それを扱うことをことさら回避するわけではないが、一般に文学作品は、とくに以上のような特色をもつトルストイのこの作品は、いきなりそれの思想命題をつかもうとしてはならないからである。また、そうしたことは不可能あるいはきわめて困難であって、しいて試みれば、作品の外で見つけた思想命題を作品中に持ちこむことになりやすい。作品、とくにこのようなすぐれた作品は、一つの巨大な存在あるいはモノであるから、それを再経験する以外には思想のとらえようがないのである。そこで私たちは、まずトルストイの描写を信用してこれに乗り、そこに描かれたものは本当のものだと思いつつ、次々と現われてくる場面の一つ一つを、感覚と理知とで、つまり生きた私たちのからだ全体で受けとめる以外にはない。そのさいレーヴィンが思想的に悩むところと、ウロンスキイが美しいアンナの手に接吻するところを、同じつよさの関心をもってよむことが望ましい。前者を後者より思想的だなどと思うのは幼稚である。そうして全巻を読みおえたあとで、作品のふくむ思想的な意味を考えるのもよいし、また、そうした要求がおこらなかったら、またそれでもよい。しいて命題的にまとめなくとも、私たちはひとつの大きな尊い経験をしたことになるのだから。トルストイの小説は、そういう読まれ方をするようにできている。深い意味をふくみつつ、彼の作品が世界中の多くの人びとに楽しく愛読されるゆえんである。私はかつてある労働組合で読書調査をしたが、女性のほうでは『アンナ・カレーニナ』が第一位を占めた。それは当然のことであったのだ。これは、すなおに読んで、また各人それぞれ自分の知識や思想や体験に応じて、よくわかる小説だから、解説のようなものは不必要でもあろうが、読後の印象をまとめる手がかりにもと、なお少しばかり感想をつけ加えておこう。
ただすなおに読んでゆけばよいのだが、彼の作品は「あまりに平凡な、そしてまさしく平凡なるがゆえに、意識の光に照らされるときには非凡と見えるようなもの」(メレジュコフスキー)に満ちあふれている。だから個々の場面の描写に、読者がそれぞれの体験ならびに思想をもって、「意識の光」を当ててみることが大切だし、またそれがおもしろく楽しい読書となる。
たとえばカレーニンが、アンナがウロンスキイを家へつれこんだといって、妻を叱責する場面で、興奮して舌がもつれて「苦しむ」というのを「くしんだ」といい間違える場面がある。それを聞いてアンナがふとおかしくなる。姦通という大罪で夫から叱られている、こんな重大な瞬間におかしくなりえたということをアンナがみずから恥じるところである。また、レーヴィンの兄ニコライが死にそうになりながら三日ももち、みんなが疲れきってしまうところで、「一同はただ、彼が一刻も早く死ぬことばかり望んでいたが、それをかくして、彼にびんの薬をやったり、薬や医者を捜しまわったりして、彼をも、自分自身をも、またお互い同士をも欺いているのであった。こうしたことはすべて、虚偽であった。……また、この病人をだれよりも深く愛していたところから、この虚偽をとくに苦しく感じたのであった」という文章がある。
こういう場面はおそらくだれにも心あたりがあるにちがいない。人生の真実が的確にとらえられているから、それを読むと、なにか生きたという感銘をうけるのだ。この巨大な作品の中から、無数にふくまれるこうした人生の真実をそれぞれ見いだすことも、この小説の大きな魅力の一つである。
六 中心テーマ――アンナの破滅過程
この小説は、カレーニンなどの属する官僚機構、ユダヤ人を中心とする新興ブルジョワジー、軍人社会、ラスプーチンの先駆を思わせる神秘的予言者ランドウとその信者、など多方面の世界がいままでの見てきたような、真実性をもってえがかれている。そうしたものの組合わせとしてつくり上げられた客観世界が、中心テーマであるアンナの破滅をがっちりと支えるのである。アンナをおしつぶすのは機関車の車輪ではなく、社会のメカニズムなのだから。
トルストイは、アンナ・カレーニナに同情をもって執筆をはじめた。生気にあふれ、愛なしでは生きていけぬ美しい女が、二十以上も年の違う冷やかな男と、愛なくして政略的に結婚させられ、みたされぬ思いでいたのが、偶然のことから運命の美男に出会って恋に落ちる。これに同情するのは当然であろう。そして、トルストイのアンナにたいする同情は、彼女の破滅まで基本的には変わっていない。しかしアンナは雲の中でメルヘンの恋をするのではない。リアリストとしてのトルストイは、これを客観化しなければならなかった。ところが彼女に客観性を与えていくにつれて、アンナはたんに美しく不幸な女という観念的存在から、ロシア貴族社会に生きる一人の女性として、美しいと同時に酷薄な面をも示さざるをえなくなってくる。そして一たび恋愛が成就する、つまり肉体的関係が結ばれると、つねにトルストイのうちにひそむ厳格主義は、これを罪悪とみなさざるをえない。「神さま! わたくしをお許しくださいまし!」これが最初の叫びである。しかし、そこでトルストイが恋の成就を殺人にたとえているのは、彼の思想の押しつけではけっしてない。あのような環境にあのように生きてきたアンナとしては、あれは当然口をついて出るべき客観的な叫びである。
アンナはいかに誠実に熱烈に恋しようとも、貴族社会の貴婦人として、けっしてその社会的地位を捨てることはできない。つまり恋愛の自由は完全には存在しえないはずである。彼女自身がそう告白している以上、作者としてもどうにもならないわけである。アンナは夫の家を飛び出して愛人と同棲はするが、そして社交界へも顔出しせぬようにするが、その社交界そのものを可能ならしめている秩序からは逃げることができない。してみれば、アンナに残された生活の支柱は、ただ一つしかない。「わたしにはただもう、ひとつのことがあるきりです。ひとつのこと――それはあなたの愛ですわ」
こんなふうに愛を求められるウロンスキイ伯爵は、少なくともこの恋愛に関するかぎり、終始心がわりせず誠実であった。しかし、彼も社会人、さらに社交人であって、社会の機構からのがれることはできない。外国旅行中だけ二人が幸福だったのは、金のあるかぎり、外国生活がいちおう社会の機構からのがれたような、一ときの自由の印象をあたえるからである。しかもその自由のうちに、ウロンスキイは倦怠を感じはじめる。もちろん倦怠は夫婦の間にも訪れる。しかし、そのさいは社会の圧力が、夫婦生活を護持するように作用する。ところが姦通の場合は、愛のゆるみに社会の力は必ず悪く作用する。アンナの破滅は、彼女が客観世界における客観的存在であるかぎり、しだいに必然化され、作者の一存で避けられるようなものではなくなる。つまりそれがリアリズムということである。
もちろん、この恋愛は宿命的な悲劇ではない。アンナとウロンスキイの出会いは、なにか運命的なものを感じさせるが、二人とも、この恋愛は自由意志においてみずから選びとったものである。しかし、くりかえしいったように、恋愛は客観世界においての自由行動であり、当然その行動は客観世界と作用反作用して進行する、そうしてその客観世界、つまりロシア貴族社会は、他の不正については寛容であったかもしれぬが、こうした形の恋愛にたいしては寛大でなかった。
アンナは生活の不自然から、しだいに堕落して、いわば娼婦的になってくる。そしてついには母としての愛をすら失う。そうなった動機には同情できるにしても、母性愛すらすてた女という客観的存在は、やはり許せぬものとなる。このあたりから、トルストイはアンナを見はなさざるをえなくなった。ともかく彼の筆致は苛酷《かこく》さを増す。おそらくこの小説の執筆中絶中に、作者が、農村改良その他の現実問題に入り、動かされ、その現実経験が、姦通した貴族の妻にたいするトルストイの同情をしだいに減少させたとも考えられるが、小説の中で客観的に描かれたアンナのヒステリーの発作、その他の諸欠点が、逆に作者に作用したとみることもできよう。ともかくアンナに死の影がさしだすと、彼女のそばにいることは、愛人ウロンスキイにとってだけでなく、読者にも息苦しく、やりきれなくなってくる。こうなればアンナが地上から消える以外に道はない。そこで終末はだんだん急ピッチになり、ついにアンナは自殺する、あるいは、作者によって殺される、ということになるのである。
七 レーヴィンの思想のとらえかた
トルストイは一方においてアンナの滅亡に近づくにつれて、それを補償するものとして、レーヴィンの幸福な結婚生活を描かずにはおれなくなった。この二組の男女を登場させることは、おそらく腹案であったにちがいないが、最初の考え以上に、レーヴィンの結婚生活を幸福にせずにはおられなくなったものと思われる。その幸福はときとしてコミックに感じられるほどである。
レーヴィンの世界とアンナの世界とは、いちおう対立的に出ており、それは芸術的効果をあげている。しかし、このことから作者が究極において、その一方を否定し、他方を肯定したと考えてはならない。両者はつねに交錯して存在している。
アンナとレーヴィンの会見のところを見るがよい。レーヴィンは彼女に完全に魅了され、「並々ならず気に入って」しまうのだ。もし、その後もくりかえし会っていたとしたら、彼がアンナのとりこにならなかったとは、だれも保証できない。トルストイが、もしこの二つの世界を肯定・否定の関係で見ていたとしたら、ことさらこんな場面をもうけ、またさらに「ウロンスキイとレーヴィンとのあいだには……女として、ふたりのなかに非常に共通したものを見いだしたのであった」などと書く必要はなかったはずである。トルストイは、いちおうの対立をみとめつつも、その底に人間としての共通なものを、つねに強く感じていたのにちがいない。
レーヴィンが、「われとは何か、なんのためにこの世へきたのか、それを知らないで生きていくことは不可能である」というような、トルストイヤンめいた言葉をはくからといって、彼と作者トルストイとを同一視してはなるまい。レーヴィンを思想家ときめこみ、その折にふれてはく哲学的な言葉に必要以上に重点をかけるのはあやまちである。げんに作者も「彼はよく生活したが、わるく思索した」と書いてある。
あのだれしも知っている青い円天井の一節も、抒情詩としてはすばらしく美しいが、それ以上に深く思想命題として考えこむ必要はない。トーマス・マンは、あの一句に重みをかけすぎ、科学否定と信仰の名によるバーバリズムにおちいる危険、などといっているが、私は賛成しえない。
レーヴィンはあくまで小説中の一人物、生命力の旺盛《おうせい》な、しかも思索好きな一人物であって、思想家ではない。彼はまじめに考える。そのことは尊い。しかし、孤独の思索による自己完成の方法は、もはや古すぎる。思想家としてのみレーヴィンを見ることは、彼を時代おくれの人物にする不親切である。しかし、よく見れば、彼は思索によってではなく、行動と経験によって成長している。キティーの手をとってスケートをするところから、青い円天井の下で思索するところまで、彼は一個の生き生きとした人間として表現されており、そのかぎりにおいて不滅の生命をもつものである。鉄路に消えたアンナもまた同じである。(桑原武夫)
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年譜
一八二八 八月二十八日、トゥーラ県クラビヴェンスク郡ヤースナヤ・ポリャーナにロシアの名家トルストイ伯爵家の四男として生まれる。父ニコライ・イリイーチは祖国戦争に参加した退役陸軍中佐、母マリーヤ・ニコラーエヴナは同様ロシア屈指の名門ヴォルコンスキイ公爵家の出。
一八三〇(二歳) 母、娘マリーヤを生んだ際、難産のため死亡。遠縁の婦人タチヤーナ・エリゴーリスカヤ、子供たちの養育を引き受ける。
一八三六(八歳) プーシキンの詩『海に寄す』と『ナポレオン』を朗誦、その巧みさで父を驚かす。
一八三七(九歳) 一月十日、一家をあげてモスクワに引っ越す。六月二十一日、父、所用でトゥーラ市へ出張、路上で脳溢血のため急死。五人の遺児は父方の叔母アレクサーンドラ・フォン・デル・オステンサーケンに引きとられる。ドミートリイ、レフ、マリーヤ、エリゴーリスカヤに伴われてヤースナヤ・ポリャーナに帰る。
一八三八(十歳) 五月二十五日、父の急死以来病臥中だった祖母ペラゲーヤ死去。
一八四〇(十二歳) 一月十二日、現存の最初の詩『優しい叔母へ』を書く。
一八四一(十三歳) 叔母オステンサーケン、オープチナ修道院で死去したため、十一月、カザンに住む父方の叔母ペラゲーヤ・ユシコーワの家に引きとられる。
一八四四(十六歳) 九月二十四日、三回目の入学試験に合格、カザン大学東洋語学科(アラビア・トルコ語専攻)に入学。
一八四五(十七歳) 五月、進級試験に落第。法科へ転科。「法科のほうがやさしいし、より多く自由な時間が見出せる」というのがその理由。
一八四七(十九歳) ルソー、ゲーテ、ゴーゴリの作品に親しむ。三月十七日、初めて日記をつける。四月十二日、大学の学問を無意味と感じて退学。農業経営の改革、農民の生活改善を志してヤースナヤ・ポリャーナに帰る。この志は失敗に終る。日記中絶。
一八四八(二十歳) 十月、モスクワヘ出て、「勤めも勉強もせず、目的もなく、まったく放縦に」暮らす。
一八四九(二十一歳) 二月、ペテルブルクに行き、ペテルブルク大学で得業士の試験を受け、途中で放棄。五月、モスクワヘ、さらにヤースナヤ・ポリャーナヘ帰る。秋、農民子弟のための学校を開く。十一月二十三日、トゥーラ貴族代議員会に就職。
一八五〇(二十二歳) 六月十七日、モスクワ生活に関するメモを書くが、未完。
一八五一(二十三歳) 一月十八日、『幼年時代』の構想浮かぶ。四月二十九日、兄ニコライに伴われてコーカサスに出発。五月三十日、ニコライの勤務地テーレク河の左岸スタログラドフスクのコサック村に到着。
一八五二(二十四歳) 一月三日、コーカサス砲兵旅団に候補生として入隊。十三日、士族討伐戦に参加。六月二十二日、『幼年時代』脱稿。七月四日、原稿を首都の『現代人』社に送る。八月二十九日、同誌主幹ネクラーソフから『幼年時代』賞賛の手紙をもらう。九月六日、『現代人』誌九号に「L・T・」の匿名で『幼年時代』発表。十月、『祖国報知』に『幼年時代』最初の批評載る。十二月二十四日、短篇『襲撃』を脱稿、ネクラーソフに送る。
一八五三(二十五歳) 一月、チェンチェン族討伐に参加。四月二十五日、短篇『クリスマスの夜』脱稿。九月十六日、『ゲーム取りの手記』脱稿。
一八五四(二十六歳) 任官し、軍務を退き、一月十九日、ロシアヘむけて発つ。三月、再志願してダニューヴ派遣軍に入隊。七月、クリミア軍砲兵第十四旅団第三軽砲隊に転属。『少年時代』完成。
一八五五(二十七歳) セワストーポリの戦いに参加。十一月十九日、首都に帰還。ネクラーソフ、ツルゲーネフら『現代人』の同人から歓迎され、交際を始める。この年『ゲーム取りの手記』『一八五五年八月のセワストーポリ』『山林伐採』『五月のセワストーポリ』発表。
一八五六(二十八歳) 三月三日、三兄ドミートリイの死去の報に接する。十一月末、中尉で退役。十二月、チェルヌイシェフスキイの論文「『幼年時代』『少年時代』L・N・トルストイ伯の軍隊短篇小説集」が『現代人』誌に掲載される。この年、『一八五五年八月のセワストーポリ』『吹雪』『二人の軽騎兵』『地主の朝』『陣中の邂逅』発表。
一八五七(二十九歳) 一月末、一回目の西欧旅行に出、フランス、スイス、イタリア、ドイツを回る。四月六日、パリで断頭台の処刑を見、衝撃を受ける。スイスで旅回りの音楽師にたいする金持ちの紳士たちの冷たい仕打ちを見て憤慨し、西欧文明に疑惑を抱く。ドレスデンでラファエロの『マドンナ』を観て感動する。八月八日、村に帰る。この年『ルツェルン』『アルベルト』『青年時代』発表。
一八五八(三十歳) 一月十九日、ボリショイ劇場でグリンカの歌劇『イワン・スサーニン』を聞く。夏、農事に励み、それに「詩的な楽しみ」を見出す。十二月二十二日、兄ニコライと熊狩をした際、熊に襲われ、額に一生消えない傷を負う。
一八五九(三十一歳) 二月、モスクワのロシア文学愛好者協会の会員となる。秋、農民子弟の教育再開。『三つの死』『家庭の幸福』発表。
一八六〇(三十二歳) 教育活動に熱中。七月、ドイツで結核療養中の兄ニコライの見舞いと西欧の教育状況視察のため、妹マリーヤとともに出発、ライプツィヒ、ドレスデン、ジュネーヴ等を回り、兄を見舞う。九月二十日、兄死去、深刻なショックを受ける。
一八六一(三十三歳) イタリア、フランス、イギリス、ベルギーを回る。二月、パリでツルゲーネフに会う。三月、ロンドンでディケンズの教育に関する講演を聞く。亡命中のゲルツェンやプルードンと会う。四月、ドレスデンでP・アウエルバッハと会う。五月六日、故郷に帰る。五月、農事調停員に任命される。同月末、スパースコエにツルゲーネフを訪ね『父と子』の朗読を聞くが、居眠りする。翌日、同道して詩人フェート宅を訪れ、慈善事業の偽善性のことでツルゲーネフと衝突、以後長期にわたり絶交状態に入る。村に小学校開設、機関誌『ヤースナヤ・ポリャーナ』と読本刊行。
一八六二(三十四歳) 一月三日、「自由主義的傾向」ありとして彼にたいする秘密調査始まる。サマーラに療養中の七月六日、留守宅と学校を捜索され、大いに憤慨する。八月五日、宮廷医ベルス、ソーフィヤを含む娘三人と同道でトルストイ家を訪問。トルストイ、モスクワヘ出てヘルス家に滞在。九月十六日、ソーフィヤに手紙で結婚を申しこみ、承諾を得る。二十三日、クレムリンの宮廷付属教会で挙式(ソーフィヤ十八歳)。『国民教育論』発表。
一八六三(三十五歳) 幸福な結婚生活が続く。六月二十八日、長男セルゲイ誕生。この年、『ホルストメール』『進歩と教育の定義』『コサック』『ポリクーシカ』発表。
一八六四(三十六歳) 九月十四日、ステローフスキイ社より二巻選集刊行。十月四日長女タチヤーナ誕生。『戦争と平和』(当時の題名は『一八〇五年』)起稿。
一八六五(三十七歳) 『戦争と平和』を二十八章まで『一八〇五年』という題名で『ロシア報知』誌に発表。
一八六六(三十八歳) 五月二十二日、次男イリヤー誕生。『戦争と平和』第二部発表。
一八六七(三十九歳) 九月二十五日、『戦争と平和』の取材のため古戦場ボロジノを訪ねる。初版『戦争と平和』全三巻発行。
一八六八(四十歳) 三月、「『戦争と平和』について数言」を『ロシアの記録』第三号に発表。
一八六九(四十一歳) 五月二十日、三男レフ誕生。十二月、『戦争と平和』全六巻完結。
一八七〇(四十二歳) 再び学校教育に熱中。二月二十三日、『アンナ・カレーニナ』の構想浮かぶ。十二月九日、ギリシア語を学びはじめる。ピョートル一世時代を扱った歴史小説の想を練る。
一八七一(四十三歳) 二月、次女マリーヤ誕生。サマーラに療養に行き、土地を買う。
一八七二(四十四歳) 一月、私邸内に学校を開き、夫人子供を動員して教育に当たる。六月、四男ピョートル誕生。『初等読本』『コーカサスの捕虜』『ピョートル一世』断片発表。
一八七三(四十五歳) 三月十八日、『アンナ・カレーニナ』起稿。五月、『サマーラ地方の飢饉について』を『モスクワ新聞』に載せ、飢民救済運動に献身。九月画家クラムスコイ、トルストイの肖像画二点制作。十一月九日、幼児ピョートル死亡。十二月七日、アカデミー会員となる。『読み書きの教え方について』『トルストイ著作集』全八巻発行。
一八七四(四十六歳) 四月二十二日、五男ニコライ誕生。六月二十日、叔母タチヤーナ・エリゴーリスカヤ死去。
一八七五(四十七歳) 一月から『アンナ・カレーニナ』を『ロシア報知』誌に発表。二月二十日、五男ニコライ死亡。女児ワルワーラ誕生後間もなく死亡。十二月十二日、カザン時代の後見人の叔母ペラゲーヤ・ユシコーワ死去。作品『読本』第一〜第四巻、『アンナ・カレーニナ』前半。
一八七六(四十八歳) しばしば宗教問題、人生問題について考える。
一八七七(四十九歳) ドストエフスキイ、『作家の日記』の中で『アンナ・カレーニナ』を論評。六月二十五日、ストラーホフとオープチナ修道院を訪ね、老師アンブローシイと問答を試みる。十二月、六男アンドレイ誕生。『アンナ・カレーニナ』初版。
一八七八(五十歳) 一月、ニコライ一世と十二月党員に関する資料蒐集と研究に着手。四月、ツルゲーネフと和解。宗教思想新境地に入り、『懺悔』を起稿。
一八七九(五十一歳) 六月、キーエフのペチョールスカヤ大修道院を訪ね、院長と宗教の話を交す。七月、古謡の語り手シチェゴリョーノク、トルストイ家を訪れ、トルストイの民話の元となった数々の民話を語る。十月一日、トロイツェ・セルギイ修道院を訪ね、レオニート院長と宗教について語りあう。
一八八〇(五十二歳) 教会の形式主義的傾向に疑問を持ち、福音書の研究を始める。作品『教条的神学批判』
一八八一(五十三歳) 三月一日、アレクサンドル二世暗殺される。十一日、新帝アレクサンドル三世に手紙で暗殺参加者の死刑の赦免を願い出るが、容れられない。十月、八男アレクセイ誕生。作品『人間はなにで生きているか』『要約福音書』
一八八二(五十四歳) 一月二十三日より三日間、モスクワ市の民勢調査に参加、貧民の悲惨な実状を知り、社会変革の必要性を痛感する。三月末、『懺悔』を書きあげ、『ロシア思想』第五号に発表、直ちに発禁処分にあう。作品『懺悔』『モスクワ市の民勢調査について』『悪に報ゆるに悪をもってするなかれ』『教会と国家』
一八八三(五十五歳) 三月、全財産の管理をソーフィヤ夫人に委任する。六月十日、ツルゲーネフの死の床からの、文学活動を呼びかける手紙を受け取る。十月末、チェルトコーフと知り合う。
一八八四(五十六歳) 三月、孔子と老子を読み、聖書をヘブライ語で読む。八二年の民勢調査で民衆の苦しみを知り、私有財産制、暴力、強制の悪であることを痛感した結果、『さらば我ら何をなすべきか』を書く。六月十七日、夫人と口論の末家出を決行、途中妻が身重であることを思い出して引き返す。十八日、三女アレクサーンドラ誕生。十一月二十一日、後のトルストイ伝の著者ビリュコーフと知り合う。十二月、チェルトコーフの協力を得て民衆啓蒙の出版機関『仲介者』を設立。作品『わが信仰はいずこにありや』
一八八五(五十七歳) 五月十五日、『さらば我ら何をなすべきか』を完成。私有権を否定する主張から著作権も放棄しようとして妻と衝突、結局妥協して妻に出版権を譲る。家出をしたい気持ち募る。夫人の編集で『トルストイ著作集』十二巻刊行。作品『人間はなにで生きているか』『さらば我ら何をなすべきか』『二人兄弟と黄金』『火は放っておけば消せない』『愛あるところに神もいる』『蝋燭』『ふたりの老人』
一八八六(五十八歳) 一月十八日、末子アレクセイ死ぬ。夏、農耕の最中荷車から落ちて怪我をし、二カ月余り寝る。作品『イワンの馬鹿』『イワン・イリイーチの死』『人間にはたくさんの土地が必要か』『三人の隠者』『悔い改める罪人』『小悪魔がパンの償いをした話』『卵大の穀粒』
一八八七(五十九歳) 二月、印刷も上演も禁止されていた戯曲『闇の力』が出版され、三日で二十五万部売れる。三月十四日、モスクワ心理学会で講演。演題は『人生の意義』(これが後の『人生論』の母胎)。四月四日、まだ学生だったロマン・ロランから手紙で人生の意義と芸術の使命について質問される。八月九日〜十六日、レーピン訪れ、肖像画制作。二十三日、銀婚式。禁酒同盟を結成、肉食を絶つ。作品『闇の力』『人生諭』『光あるうちに光の中を歩め』『最初の酒造り』『作男エメリアンと空太鼓』『三人の息子』
一八八八(六十歳) 二月、最終的に禁煙。二十八日、息子イリヤー結婚。三月三十一日、末子イワン誕生。小学校教員免許願い提出、当局より拒絶される。
一八八九(六十一歳) 八月三十一日、『クロイツェル・ソナタ』完成、家人に朗読して聞かせる。十二月三十日、『文明の果実』を自宅で上演。作品『クロイツェル・ソナタ』『悪魔』(未完)
一八九〇(六十二歳) オープチナ修道院を訪ね、神父と信仰について語り合う。『神父セルギイ』を書きつづける。
一八九一(六十三歳) 二月、作品集第十三巻押収される。三月二十九日、夫人首都に出、アレクサンドル三世から、発禁処分を受けていた『クロイツェル・ソナタ』の発表の許可を得る。六月、トゥーラの屠殺場と監獄視察。九月、中、南、東露の凶作地を視察、救済活動開始。一八八〇年以降の作品の全著作権を放棄。飢民救済のためリャザンを訪れる。作品『ニコライ・パールキン』(未完)『飢饉に関する手紙』『恐ろしい問題』
一八九二(六十四歳) 飢民救済運動を継続。『モスクワ新報』、彼の運動に革命的要素ありと攻撃。八月十三日、手帳に「家出の必要をはっきりと理解する」と書く。『文明の果実』モスクワ小劇場で上演。
一八九三(六十五歳) 『ロシア報知』に『無為』発表。『神の国は汝らのうちにあり』を発表するや、官憲の圧迫厳しく、アナーキスト呼ばわりされる。小西増太郎、日本人で初めてトルストイを訪問、老子の翻訳を手伝う。作品『無為』『宗教と国家』『キリスト教と愛国心』『恥ずべし』『労働者諸君へ』『ヘーグ万国平和会議について』
一八九四(六十六歳) 一月二十四日、モスクワ心理学会で名誉会員に選ばれる。ドゥホボール教徒と初めて知り合う。作品『カルマ』『神の考察』
一八九五(六十七歳) 二月二十三日、末子イワン死亡。六月末、コーカサスで兵役を拒否したドゥホボール教徒の指導者と見られ、官憲の圧迫を受ける。九月、チェホフ来訪。作品『主人と下男』『三つの譬え話』
一八九六(六十八歳) 五月、三男レフ結婚。八月、『ハジ・ムラート』に着手。九月二十六日、徳富蘇峰と深井英吾来訪。秋、兵役拒否を英雄的行為と称える『終り近し』を外国で発表。冬、『闇の力』帝室付属劇場で上演。十一月、『芸術とは何か』起稿。作品『終り近し』『キリストの教え』『福音書はいかに読むべきか』『現在の社会機構について』
一八九七(六十九歳) 三月二十八日、入院中のチェホフを見舞う。六月、次女マリーヤ結婚。七月八日、家出の遺書を書くが、決行しない。作品『ヘンリー・ジョージの思想』
一八九八(七十歳) 六月、ビリュコーフ、チェルトコーフらと英国に出版社『自由の言葉』創設。七月、ドゥホボール教徒カナダ移住資金調達のため『復活』の完成を急ぐ。作品『芸術とは何か』『トルストイズムについて』『飢饉とは何か』『神父セルギイ』『カルタゴ破壊せざるべからず』
一八九九(七十一歳) 一月、六男アンドレイ結婚。四月、『復活』、国内と国外で発表、多大の反響をよぶ。十一月、長女タチヤーナ結婚。作品『愛の要求』
一九〇〇(七十二歳) 一月、アカデミー名誉会員に選ばれる。一月十六日、ゴーリキイ、トルストイを訪問。作品『生ける屍』『愛国心と政府』『殺すなかれ』『現代の奴隷制度』『自己完成の意義』
一九〇一(七十三歳) 一月、七男ミハール結婚。『復活』で教会を批判したため、ギリシア正教会から破門。これに憤慨した学生、労働者、農民デモを起こす。六月末、マラリアにかかり、重態。九月、クリミア旅行。その報道禁止される。クリミアでチェホフ、ゴーリキイとの交わりを深める。作品『破門命令にたいする司教会への回答』『唯一の手段』
一九〇二(七十四歳) 六月、クリミアから帰る。八月六日、文学活動『五十年記念祭』催される。作品『地獄の復興』『労働大衆に』『宗教論』
一九〇三(七十五歳) 八月二十八日、生誕七十五年祝賀会。作品『舞踏会のあと』『シェイクスピア論』『三つの疑問』『労働と病気と死』。
一九〇四(七十六歳) 日露開戦。六月、非戦論『思い直せ』を英国の『自由の言葉』社から発表。作品『幼年時代の追憶』『ハリスンと無抵抗』『ハジ・ムラート』
一九〇五(七十七歳) 第一次ロシア革命起こる。民衆の決起と官憲の弾圧に心を痛め、その非を説く。作品『壺のアリョーシャ』『コルネイ・ワシーリエフ』『フョードル・クジミーチの遺書』『祈り』『苺』『仏陀』『ロシアの社会運動』『世の終り』
一九〇六(七十八歳) 夫人健康を害う。夫婦間の不和募る。六月、徳富蘆花来訪。作品『一日一善』『神の業と人の業』『パスカル』『ロシア革命の意義』
一九〇七(七十九歳) 学校を再開、農民子弟を教育。作品『真の自由を認めよ』『我らの人生観』『互いに愛せよ』
一九〇八(八十歳) 一月、昨年に引き続き土地私有廃止を説く二度目の手紙出す。五月、革命家の死刑執行を見て『黙す能わず』を発表。八月二十八日、世界各地で生誕八十年祝典が挙げられる。作品『暴力の掟』『児童のために書いたキリストの教え』
一九〇九(八十一歳) 春、ペテルブルクで生誕八十年記念トルストイ博開催。三月、チェルトコーフ、トゥーラから追放される。家出を決意し、遺言状を作成する。八月、弟子グーセフ発禁書流布のかどで逮捕され、流刑。作品『唯一の掟』『ゴーゴリ論』『浮浪人との対話』『夢』など。
一九一〇(八十二歳) 七月、合法的な最後の遺言書作成。十月二十八日、夫人に置き手紙をし、医師マコヴィーツキイと娘アレクサーンドラを連れて家出。車中で発病、リャザン・ウラル鉄道の小駅アスターポヴォの駅長室に移され、十一月三日、家族、弟子、友人に見とられて永眠。九日、遺体ヤースナヤ・ポリャーナに移され、埋葬される。(日付は旧ロシア暦。新暦に改めるには、十九世紀では十二日を、二十世紀では十三日を加える)(北垣信行編)