アンナ・カレーニナ(上)
トルストイ/中村白葉訳
目 次
第一編
第二編
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主要登場人物
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アンナ(アルカジエヴナ・カレーニナ)……この小説の女主人公。カレーニンの若い美貌の妻、ウロンスキイとの運命的な恋に身をほろぼす。
カレーニン(アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチ)……ペテルブルグの有名な官僚政治家。形式的な精神主義者で、冷たい皮肉な男。
セリョージャ……カレーニン夫妻の一人むすこ。
ウロンスキイ(アレクセイ・キリーロヴィッチ)……金持で美男の貴族青年将校。社交界と連隊の寵児。アンナの情人。
オブロンスキイ(ステパン・アルカジエヴィッチ)……アンナの兄。社交界の通称スティーワ。享楽的性格だが、根は善良な、人づきあいのよい自由主義的な貴族。
ドリー(ダーリヤ・アレクサーンドロヴナ)……オブロンスキイの妻。スチェルバーツキイ公爵の長女。六人の子供をかかえて、夫の放蕩に苦しむ。
レーヴィン(コンスタンチン・ドミートリエヴィッチ)……富裕な貴族地主。百姓とともに労働を楽しむ、誠実で、純情な人間。キティーを恋し、ついに妻とする。
キティー(カテリーナ・アレクサーンドロヴナ)……スチェルバーツキイ公爵の末娘。かれんな美少女。ウロンスキイヘの恋に傷つくが、レーヴィンの愛に甦える。
スチェルバーツキイ老公爵夫妻……モスクワの貴族。
セルゲイ・イワーノヴィッチ・コズヌイシェフ……レーヴィンの異父兄。有名な著述家。
ニコライ・レーヴィン……レーヴィンの肉親の兄。巨額な遺産の分けまえをつかいはたし、いまは窮迫と病苦にあえぐ敗残者。
マリヤ・ニコラエヴナ……ニコライ・レーヴィンの情婦。
べーッシ・トゥヴェルスコーイ公爵夫人……ウロンスキイのいとこ、ペテルブルグ社交界の一中心人物。
リディヤ・イワーノヴナ……偽善的な社交界の婦人。カレーニンの精神的な女友だち。
ワルワーラ……アンナの叔母、オールド・ミス。
ワーレニカ……シターリ夫人の養い子、キティーの親友。
アガーフィヤ・ミハイロヴナ……レーヴィンの家政婦。
ヤーシュヴィン……ウロンスキイの友人の将校。
スヴィヤーズスキイ……地方の貴族。レーヴィンの友人。
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――復讐は我《われ》にあり、我これを酬《むく》いん――
第一編
一
幸福な家庭はすべてよく似よったものであるが、不幸な家庭はみなそれぞれに不幸である。
オブロンスキイ家では、何もかもが乱脈をきわめていた。妻は、夫が以前彼らの家にいたフランス女の家庭教師と関係のあったのを知り、夫に向かって、このうえ同棲《どうせい》をつづけることはできないと言いだした。こうした状態がもう三日ごしつづいたので、当の夫妻はもとより、家族召使いのすえにいたるまでひどく不愉快な思いをしていた。家族や召使いどもはだれしも、彼らの同棲の無意味なことを感じ、同じ宿屋に偶然とまりあわせた人たちでも、彼ら、すなわちオブロンスキイ家の家族や召使いたちよりは、互いのあいだにはるかに深い親しみを持っていることを感じていた。妻は自分の部屋から顔を出さないし、夫は今日で三日家をあけている――で、子供たちは、捨て飼いになって家じゅうをかけずりまわり、イギリス女は女中頭とけんかをして、新しい口をさがしてくれと手紙を書くし、げんに昨日は、料理人が食事時をめがけて出て行ってしまうし、女中や御者までがひまをくれと言いだした。
争いがあってから三日目に、公爵ステパン・アルカジエヴィッチ・オブロンスキイー――交際場裡での通称スティーワ――は、いつもの時間、すなわち朝の八時に、妻の寝室ではなくて、自分の書斎のモロッコ革《がわ》の長いすの上で目をさました。彼は、もう一度ゆっくり寝なおそうとでもするように、栄養のよいふとったからだを長いすのばねの上で寝がえらせ、向きを変えたうえでしっかりと枕をかかえて、それにほおをおしつけた。が、急にはね起きると、長いすの上にすわって、目を開いた。
『そう、そう、なんの夢だったっけ?』と彼は、夢を思いかえしながら考えた。『ほんとに、なんの夢だったかしら? そうだ! アラビンがダルムシュタッドでごちそうをしたんだった。いや、ダルムシュタッドじゃない、なにやらアメリカふうのところだった。うん、そうだ、だが、夢じゃダルムシュタッドがアメリカにあったんだ。そうだ、アラビンがガラスのテーブルの上でごちそうしたんだ、――そしてそのテーブルどもが Il mio tesoro〔「わたしの宝もの」〕をうたったんだった、いや、Il mio tesoro じゃない、もっとおもしろい曲だった。そしてかわいい洋酒びんがあったが、それがみんな女だった』と彼は回想した。ステパン・アルカジエヴィッチの目は愉快そうに輝きはじめた。彼は、にこにこしながら考えにふけった。『うん、よかった、すてきによかった。そこにはまだ、もっともっといいことがあった、言葉や考えでは言ってみようもないもの、うつつでは表現もできないようなものが、あった』そこで彼は、らしゃの窓かけの横からさしこんでいる日光のしまに気がついたので、元気よく足を長いすから投げおろし、その足で、妻が手ずから縫ってくれた(去年の誕生日の贈り物に)金色のモロッコ革の飾りのあるスリッパをさがした。そして、九年来の長い習慣どおり、起きあがりはしないで、いつも寝室でガウンの掛けてあるほうへと手をのばした。そしてそこで、彼は急に、自分がなぜ妻の寝室でなくて書斎などで寝ていたのかを思い出した。微笑は彼の顔面から消え、彼は額にしわをつくった。
『ああ、ああ、ああ! ああ!……』こう彼は、あったことのすべてを思い出してうめいた。と、彼の想像にはまたしても、妻との争いの一部始終、自分の立場のよぎなさ、わけても自分の罪のほどが苦しくこまごまと思いかえされた。
『そうだ! あれは許すまい、また許せないだろう。なによりまいるのは、いっさいの原因がおれにありながら、――原因はおれでありながら、しかもおれに罪はないということだ。この点にこのドラマのいっさいがあるのだ』と彼は考えた。『ああ、ああ、ああ!』と彼は、この争いから受けた自分にとって最も重苦しい印象を思いうかべながら、絶望的にこう声をあげた。
なによりも不愉快だったのは、彼が上きげんで満足して、妻へのみやげに大きな|なし《ヽヽ》を持って劇場から帰って来たとき、妻の姿は客間にも、驚いたことには書斎にも見えなくて、ついにやっと寝室で、いっさいを暴露《ばくろ》したあの不幸な手紙を手にして立っているのが見いだされた、あの最初の瞬間であった。
彼女――あのいつもせかせかと気ぜわしなげにしているので、思慮のあさい女だとばかりみくびっていたドリーが、手紙を手にしたまま、恐怖と絶望と憤怒《ふんぬ》の表情をたたえて、彼を見すえたのであった。
「これはなんですの? これは?」と、彼女は手紙をさし示しながらきいた。
この思い出にさいしても、もっともこれはよくあることだが、ステパン・アルカジエヴィッチを苦しめたのは、事件そのものよりも、彼が妻のこれらの言葉に答えたその返答ぶりであった。
その瞬間彼には、何事かあまりに恥ずべき罪跡をふいにあばかれた人におこると同じような現象がおこったのであった。例の失策の暴露後、妻の前に立つときの彼の立場にふさわしい顔をつくることが、彼にはちょっとできなかったのである。侮辱を感じて腹をたてたり、否定したり、弁解したり、許しをこうたり、あるいはむしろ平気な顔をしたりするかわりに――これらは、どれでも、彼のじっさいに見せたものよりは、まだしもましだったであろうに――彼の顔はまったく、心にもなく、(「脳神経の反射作用だ」と生理学好きのステパン・アルカジエヴィッチは考えた)まったく心にもなく、急に、もちまえの善良な、したがって愚かしげな微笑でつい笑ってしまったのである。
この愚かしい微笑ばかりは、彼自身も許しかねたほどである。この微笑を見ると、ドリーはまるで肉体に痛みでも受けたようにびくりとふるえ、もちまえののぼせかたではげしい言葉の流れをあびせかけながら、部屋から飛び出して行ってしまった。それ以来、彼女は夫を見ようとしないのである。
『あのばかげた微笑がいっさいの原因なのだ』とステパン・アルカジエヴィッチは考えた。
『だが、どうすればいいんだろう? どうすればいいんだろう?』と彼は、絶望的にひとりごちたが、なんの答えも見いださなかった。
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二
ステパン・アルカジエヴィッチは、自分自身にたいする関係では正直な男であった。彼は、自分を欺いて、自分が自分の行為を後悔しているものと信じさせることはできなかった。彼は自分――三十四歳の美男子で、ほれっぽい男が、現在生きている五人の子供と、なくなった二人の子供の母で、彼よりたった一つしか若くない妻にばかりおぼれていなかったからといって、いまさらそれを後悔する気にはなれなかった。彼はただ、自分が妻のてまえを、いま少し手ぎわよく隠しおおせなかった点だけを後悔した。けれども、自分の立場の苦しさは十分に感じて、妻をも子供たちをも、また自分自身をも、あわれに思っていた。だから、もしあの手紙が、これほど強く彼女に作用することを知っていたら、おそらく彼も妻のてまえ、自分の罪をもちっとはなんとかうまく隠しおおせたにちがいないのだ。けれども、彼はそんな問題については、一度もはっきりと考えてみたことはなく、ただ漠然と、妻はもうとっくに彼の不実を感づいているのだが、見て見ぬふりをしているのだろうくらいに想像していたのだった。そして、彼女のように衰えと年とが目だってきて、もはや美しさの少しも残らぬ、人目を引くところなどは毛ほどもなくなった、世間なみの、ただもう善良な家庭の母というにすぎない女は、正義の観念によっても、もっと謙遜《けんそん》であるべきだとまでたかをくくっていた。ところが、事実はぜんぜん反対の結果をきたしたのである。
『ああ、恐ろしい! ああ、ああ、ああ! 恐ろしい!』とステパン・アルカジエヴィッチはひとりでくりかえすばかりで、何ひとつ考えをまとめることはできなかった。『ああ、この事件のおこるまでは、何もかもがどんなによかったろう。みんなはどんなに愉快に暮らしていたろう! あれは、子供のことに満足して幸福でいたし、おれは、何事にも干渉しないで、子供のこともうちのこともいっさいあれのするままにまかせておいた。もっとも、|あの女《ヽヽヽ》が家庭教師としてうちにいたのはいいことではなかった。いいことではなかった! だいたい、うちの家庭教師といい仲になるなんてことには、どこか俗っぽい下品なところがあるて。だが、あれはなんという家庭教師だったろう!(彼は、ローラン嬢のずるそうな黒い目と、その微笑とをまざまざと思いうかべた)だが、あの女がうちにいたあいだは、おれも気をゆるめはしなかった。で、何よりわるいのは、あの女がすでに……ああ、まるで何もかもがわざとこうなってしまったようだ! ああ、ああ、ああ! だが、いったいどうすればいいのだ、どうすればいいのだ?』
しかし、解答はなかった、最も錯綜《さくそう》した解きがたいいっさいの問題にたいして生活が与える、あの一般的な解答以外には。その解答はこうである――人は日々の要求にしたがって生きねばならぬ、つまり、忘れてしまわなければならぬ。けれど、睡眠によって忘れることは、少なくとも夜になるまでは望めない。洋酒びんどもがうたったあの音楽のほうへもどっていくことも、もはやできない。してみると、今は、生活の夢によって、すべてを忘れ去らなければならない。
『まあそのうちにどうにかなるだろう』こうステパン・アルカジエヴィッチは自分にいって立ちあがると、そら色した絹裏のついたねずみ色の部屋着をひっかけ、ひもをむすんでぶらさげて、広い胸の箱へ思うさま空気を吸いこんでから、そのふとったからだをいかにもかるがると運ぶ彎曲《わんきょく》した足のいつもの発剌《はつらつ》とした足どりで、窓ぎわへあゆみより、カーテンをあげて、高くベルを鳴らした。ベルに応じてすぐさま、古なじみの従僕マトヴェイが、着物と長靴と電報とを持ってはいって来た。マトヴェイにつづいて、ひげそり道具を用意した理髪師もはいって来た。
「役所から書類が来ているかい?」と、ステパン・アルカジエヴィッチは、電報を受け取って、鏡の前へ腰をおろしながらきいた。
「テーブルの上にございます」とマトヴェイは、もの問いたげな、同情をこめたまなざしで、ちらと主人の顔を見て答えたが、しばらく待ってから、ずるそうな笑顔になって、言いたした――「それから、貸馬車屋から人がまいりましたが」
ステパン・アルカジエヴィッチは、なんとも答えずに、ただ鏡のなかのマトヴェイを見た。鏡のなかで見あった目つきで、彼らがどこまでお互いに了解しあっているかが読めた。ステパン・アルカジエヴィッチの目は、どうやら次のようにたずねたものらしい――きさまはなぜそんなことをいうのだ? きさまは知らないというのか?
マトヴェイは両手を上着のポケットへ突っこみ、片足を休めて、だまりこくったまま、きわめてかすかな微笑をうかべ、人のよさそうな顔をして、主人を見ていた。
「わたくしは日曜にこいと申してやりました。そして、それまでは御前さまのおじゃまをしたり、自分たちもむだ骨を折ったりしないようにするがいいって申してやりました」と彼は、明らかに前もって考えておいたにちがいない文句をならべた。
ステパン・アルカジエヴィッチは、マトヴェイが何かしゃれを言ってこちらの注意を引こうとしたらしいのを見てとった。が彼は、電報の封を切ると、よくあるやつで、誤伝された字句を推量で正しながら、これを通読した。彼の顔は急に晴れやかになった。
「マトヴェイ、妹のアンナ・アルカジエヴナが明日くるそうだ」彼は、その長いちぢれたほおひげのあいだのばら色のきれ目をきれいにしていた理髪師の光沢のいい、むくんだような手を、ちょっとの間おさえてこういった。
「それはまあけっこうなことで」とマトヴェイは、この答えでもって、彼もまた主人と同様にこの来訪の意味、つまりステパン・アルカジエヴィッチのお気に入りの妹アンナ・アルカジエヴナが、夫婦の和解を助けるにちがいないことを了解しているのを示しながら、いった。
「おひとかたで、それともおそろいで?」とマトヴェイはきいた。ステパン・アルカジエヴィッチは、ちょうど理髪師が上くちびるをいじっていて口がきけなかったので、指を一本あげて見せた。マトヴェイは鏡の中でうなずいた。
「おひとりさま。では、お支度はお二階のほうへでも?」
「ダーリヤ・アレクサーンドロヴナに、どこにしたらいいかうかがってごらん」
「ダーリヤ・アレクサーンドロヴナにでございますか?」と、なんやら、ふに落ちぬ面もちで、マトヴェイはききかえした。
「ああ、そうだ。この電報を持って行って、渡して、あれの指図どおりに」
『ははあ、気をひいてみるんだな』とマトヴェイは、がてんした。けれども彼はただこういった――「かしこまりましてごさいます」
マトヴェイが、ぎしぎしきしむ長靴の足をゆうゆうと運んで、電報を手にしたまま部屋へもどってきたときには、ステパン・アルカジエヴィッチはもう顔を洗い、髪をすいて、着がえをするばかりになっていた。理髪師はもういなかった。
「ダーリヤ・アレクサーンドロヴナは、もう出て行ってしまうところだから、そう申しあげるようにとの仰せでございました。あの人の、つまり御前さまの、ご勝手にあそばすがいいという仰せで」彼はこういって、目だけで笑いながら、両手をポケットへ突っ込み、頭をかしげて、主人の顔に目をこらした。ステパン・アルカジエヴィッチは黙っていた。やがて、そのうつくしい顔面に、気のよさそうな、どこやら哀れげな微笑がのぼった。
「どうしたものかな? マトヴェイ?」と、頭を振りながら彼はいった。
「だいじょうぶでございますよ、御前さま、これでまるくおさまるでございましょうよ」とマトヴェイはいった。
「まるくおさまる?」
「仰せのとおりで」
「おまえ、そう思うのか? お、だれだな、そこへ来たのは?」と、ドアの外に女のきぬずれの音を聞きつけて、ステパン・アルカジエヴィッチはたずねた。
「わたくしでございます」こうしっかりした気持のいい女の声が答えた。そして乳母のマトリョーナ・フィリモーノヴナのいかついあばた面が、ドアのかげからのぞきこんだ。
「うん、なんだね、マトリョーシャ!」とステパン・アルカジエヴィッチは、戸口の彼女のほうへ出て行きながらたずねた。
ステパン・アルカジエヴィッチは妻にたいして徹頭徹尾罪があり、また自身でもそう感じていたにかかわらず、邸の者はほとんどみな、ダーリヤ・アレクサーンドロヴナの重だった味方である乳母までが、彼のほうについているのだった。
「何か用か?」と彼は、憂うつな調子でたずねた。
「これからいらしって、ねえ御前さま、もう一ぺんお詫びをあそばせ。きっと神さまがお助けくださいますわ。奥さまは見るもおいたわしいほどお心をいためておいでになります。それにお邸のなかは何から何までめちゃめちゃでございますよ。御前さま、お子さまがたがおかわいそうでございます。どうぞ御前さま、お詫びあそばしてくださいまし。ほかにどうしょうがございましょう! まいた種は刈らなければ……」
「だが、あれは会うまいよ……」
「いえ、御前さまは御前さまのことをあそばせばよろしいのでございます。神さまはお慈悲ぶかくていらっしゃいます。神さまにお祈りあそばせ、御前さま! 神さまにお祈りあそばせ」
「ああ、よしよしもう行きなさい」とステパン・アルカジエヴィッチは、急にあかくなっていった。「さあ、とにかく服を着せてもらおうか」と彼はマトヴェイのほうを向いて、ぐいと部屋着をぬぎすてた。
マトヴェイはもうさっきから、目にも見えない何かを吹き払いながら、馬の首輪のようなかっこうにしたシャツをささげていて、いかにも満足らしい様子で、主人の手入れのとどいた肉体をそれへくるんだ。
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三
着がえを終わると、ステパン・アルカジエヴィッチは、わが身に香水をふりかけ、シャツの袖口をなおし、なれた手つきでほうぼうのポケットへ、たばこ・紙入れ・マッチ・二重鎖と小刀《こがたな》とのついた時計などを入れわけ、ハンケチをひと振りふると、例の不幸があるにもかかわらず、わが身をいかにも爽快《そうかい》な、かぐわしい、健康な、肉体的にも快適なものに感じながら、一歩ごとに軽くよろめきよろめき、食堂へと出むいていった。そこではコーヒーが、コーヒーとならんで役所からの書類や手紙が、もうちゃんと彼を待ちうけていた。
彼は手紙を読んだ。なかに一通きわめて不愉快なものがあった、――妻の所有地にある森林を買おうとしている商人からので、この森林は、どのみち処分しなければならないものではあったが、現在、妻との和解のすむまでは、それを口にするわけにはいかなかった。しかも、このさい何より不愉快なのは、これがために、妻との和解というさしせまった事業のなかへ金銭上の利害関係が混入されることであった。自分はこの利害に左右されるだろうという考え、この森林を売却するために、自分は妻との和解を求めるであろうという考え――この考えが彼を侮辱《ぶじょく》したのである。
手紙を読み終わると、ステパン・アルカジエヴィッチは、役所からの書類を手もとへ引きよせ、すばやく二つの事件に目を通し、太い鉛筆で二、三の心覚えをしてから、それをおしやって、コーヒーにとりかかった。そしてコーヒーをすすりながら、まだ湿っぽい朝刊新聞をひらいてそれを読みはじめた。
ステパン・アルカジエヴィッチは、極端ではなく、多数者のいだいている自由主義と同じ傾向に立った自由主義新聞を購読していた。そして自身は、科学、芸術、政治等にたいしてはかくべつ興味を持たなかったくせに、これらいっさいの問題にたいしても、多数者およびその新聞紙のいだいている意見と同じ見解をかたく持して、ただ多数者がそれを変えた場合にだけ、自分もそれを変えるのだった。いやそれは、あるいは彼が変えるのではなくて、意見そのものが、いつのまにかしぜんと、彼のなかで変わるのだ、といったほうが適切かもしれない。
ステパン・アルカジエヴィッチは、主張をも見解をも自分で選びはしなかった。それらの主張なり見解なりが、自分のほうから彼のほうへやってくるのであった。それはあたかも彼が、帽子やフロックコートの型を選ばずに、普通ひとの着たのを着たと同様であった。一定の社会に生活している彼にとって、一つの見解を持つということは、年齢相当に発達した心的活動の要求もあって、帽子を所持すると同様に欠くべからざる関心事だったのである。もしも彼が自由主義的主張を、同じくその周囲の多数者がいだいていた保守的な主張以上に尊重していることになんらかの理由があるとすれば、それは彼が自由主義的傾向のほうをより合理的なものと認めたからではなくて、それが彼の生活様式により多く似つかわしかったからにすぎない。自由党の人々は言った、ロシヤの現状はすべて非であると。そしてじっさいステパン・アルカジエヴィッチは、負債ばかり多くて金に不自由していた。自由党の人々は説いた、結婚は時勢おくれの制度である、断じて変革しなければならぬと。そしてじっさい、家庭生活は、ステパン・アルカジエヴィッチにろくな満足は与えてくれずに、かえって彼の本性にいたく反して、虚偽や偽装《ぎそう》を強要した。自由党の人々は語った、いや、あるいは考えていたといったほうがいいかもしれない。すなわち宗教は、人民中の野蛮階級のためのくつわにすぎないと。そしてじっさい、ステパン・アルカジエヴィッチは、短い祈祷《きとう》をすら、足の痛みなしにはたえることができなかったし、また現世の生活がきわめて愉快であるのに、来世についての誇張した恐ろしい言葉がなんのためにあるのか、それを理解することができなかった。これとともに、愉快なしゃれを好むステパン・アルカジエヴィッチには、ときとすると、もし祖先を誇りたいのなら、リューリックあたりでお茶をにごして、人類第一の始祖――猿を否定する法はないなどといって、温厚な人々を困らせることがおもしろかった。こうして、自由主義的傾向は、ステパン・アルカジエヴィッチの習癖となり、そして彼は、それが彼の頭脳のうちにかるい霧を生み出してくれるという理由から、食後のたばこと同様に自分の新聞を愛したのである。彼はまず社説を読んだ。それには、急進主義がすべての保守的要素を併呑《へいどん》するであろうと脅威しているとか、または、政府は革命の怪物を圧殺《あっさつ》すべく適当な方法を講じなければならぬとか言いふらす絶叫は、今日においてはぜんぜん無意味であり、むしろ反対に、『われわれの見解にしたがえば、危険はかかる仮想されたる革命の怪物そのものにあるにあらずして、進歩を阻害する因襲《いんしゅう》の頑迷に存するのである』ことなどが、力説されてあった。彼はつぎに他の財政上の論説を読んだ。そこでは、ベンサムやミルに言及しながら、当局の頭へちくちくと針を刺し込んでいた。彼は、もちまえの敏活な想像で、すべての針の意味――すなわちだれからだれへ、どういう動機でそれが向けられているかということを理解した、そして、この一事が彼に、いつものように、一まつの満足をもたらした。けれども今日はこの満足も、マトリョーナ・フィリモーノヴナの忠告や、家庭の混乱についての思い出のためにそこなわれた。彼はまたベイスト伯が、世評によると、ヴィスバーデンへ通過したという記事や、今後白髪の人はなくなるであろうという広告や、軽馬車の売却広告や、若い婦人の求職広告などを読んだ。が、これらの記事も、これまでのような、静かな、皮肉な満足を彼にもたらさなかった。
新聞を読み終り、二杯目のコーヒーを飲み、バターつきのパンを片づけてしまうと、彼は立ちあがって、チョッキからパンの粉をはらいおとし、広い胸をぐっと張って、喜ばしげな微笑をもらした。が、それは、彼の心にこれという快いことがあったからではなく――良好な消化が、この喜ばしげな微笑を誘い出したにすぎなかった。
けれども、この喜ばしげな微笑は、すぐさま彼に、いっさいのことを思い出させた。彼は考えこんでしまった。
二つの子供の声が(ステパン・アルカジエヴィッチは弟むすこのグリーシャと姉娘のターニャの声を聞きわけた)ドアの向こうで聞こえた。ふたりは何かを引きずってきて、落としたのだった。
「だからあたしいったんだわ、屋根の上へお客さまをのっけちゃいけないって」と、英語で姉娘が叫んだ。「さあお拾いなさいよ」
『何もかも|こっぱい《ヽヽヽヽ》だ』とステパン・アルカジエヴィッチは考えた。『あのとおり子供は勝手ほうだいにかけずりまわっている』そこで彼は、ドアのほうへ足を運びながら、ふたりを呼んだ。ふたりは、汽車に見たてていた箱をほうり出して、父のもとへはいってきた。
父の秘蔵っ子である姉娘は、勇敢に走りよって彼にしがみつくと、きゃっきゃっと笑い声をたてながら、彼のひげから放散するおなじみの香料のにおいを喜んで、いつものように、その首へぶらさがった。それからやっと、前かがみになった姿勢のためにあかくなりながら、愛撫に輝いている父の顔へ接吻すると、手をほどいて、もとのほうへかけもどろうとした。が、父が彼女をおさえた。
「ママはどうしたね?」彼は娘のすべすべした柔らかい首をなでながらたずねた。そして、「お早う」と笑顔になって、朝のあいさつをした男の子にいった。
彼は、自分がこの子をあまり愛していないことを知っていたので、いつも意識して公平になろうとつとめた。が、子供のほうでもそれを感じていて、父の冷たい笑顔にたいして微笑を返そうとはしなかった。
「ママ? おっきしてらしたわ」と女の子は答えた。
ステパン・アルカジエヴィッチはため息をついた。
『つまり、あれはまた夜っぴて眠らなかったというわけだな』と彼は考えた。
「で、ママごきげんいいかね?」
女の子は、父母のあいだに争いのあったことも、母がきげんのいいはずのないことも、それを父が知らないはずのないことも、父がこうさりげなさそうにきくのは、じつはわざわざそうしているのだということも、承知していた。で、彼女は、父のために顔をあからめた。と、彼もすぐそれを見てとって、同じようにあかくなった。
「知らないわ」と、彼女はいった。「ママは勉強のことはおっしゃらないで、ミス・グーリとおばあさまのとこまで散歩に行っておいでっておっしゃったわ」
「じゃ、行っておいで、タンチューロチカ、おっと、ちょっとお待ち――」と彼は、なお彼女をおさえたまま、その柔らかい手をなでながらいった。
彼は暖炉の上から、昨日のせておいた菓子箱をとると、そのなかから彼女の好きなチョコレートとポマードを一つずつ選り出して、彼女に与えた。
「グリーシャに?」と女の子は、チョコレートのほうを指さしていった。
「そうだ、そうだ」こう言いながら、彼はもう一度彼女の小さい肩をなでてから、髪の生えぎわとえり首とに接吻して、彼女をはなしてやった。
「お馬車ができましてございます」と、マトヴェイがいって来た。「それに、女の請願者がひとり」と彼は言いたした。
「長く待っているのか?」と、ステパン・アルカジエヴィッチはきいた。
「半時間ほどでございます」
「人が来たらすぐにとりつげと、あんなにいってあるじゃないか!」
「せめてコーヒーだけでもめしあがってからとぞんじましてな」とマトヴェイは、とても腹などたてるわけにはいかないような、親しみのあるぞんざいな調子でいった。
「じゃ、早くこちらへ通ってもらえ」とオブロンスキイは、いまいましげに眉《まゆ》をひそめていった。
請願者、二等大尉夫人カリーニナは、不可能な、無意味な事柄について請願した。が、ステパン・アルカジエヴィッチは、日ごろの習慣どおり彼女を席につかせたうえ、口を入れないで、熱心に彼女の申し条を聴取《ちょうしゅ》してから、どういうふうにして、だれのところへ行ったらよいかという細密な注意を与え、そのうえ、威勢よくさらさらと、大きな、のびのびした、美しくわかりやすい筆跡で、彼女のために彼女を助けることのできそうな人への添書《てんしょ》をしたためてやった。二等大尉夫人を帰すと、ステパン・アルカジエヴィッチは、帽子をとって立ちどまり、何も忘れたことはないかと思いめぐらした。が、忘れたいと願っていた妻のこと以外には、何も忘れたものはなかった。
『ああ、そうだ!』と彼は頭をたれた。彼の美しい顔はうれわしげな表情をとった。『行ったものかどうしたものか?』と彼は自分にたずねた。心内の声は、彼に、行く必要のないこと、そこには虚偽以外の何ものもありえないこと、彼らの関係を調停し修復することは不可能であること、なぜなら、彼女をしてふたたび魅力あり愛を呼びさますにたるものたらしめることも不可能なら、また彼を愛欲不能の老人とすることも不可能だから――こう彼に告げた。瞞着《まんちゃく》と虚言《きょげん》以外、今はなんの結果もえられるはずがなかった。しかも、瞞着と虚言とは、彼の本性とはぜんぜん相いれないものであった。
『だが、いつかはどうかしなければならない。いつまでもこのままにしてはおけないんだから』と彼は、われとわが身に勇気をつけようとしていった。彼は胸を張り、巻たばこを取り出し、それに火をつけてふた口強く吸うと、いきなりそれを真珠貝の灰ざらへ投げすてて、急ぎ足に客間を通りぬけ、妻の寝室へ通ずるもう一つのドアをあけた。
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四
ダーリヤ・アレクサーンドロヴナはジャケットを着、かつては濃くつややかだった髪のはやくも薄くなったのを、うなじのところでぐるぐる巻きにしてピンでとめ、やせて骨ばった顔に、やつれのためにいっそう目だってみえる、大きな、ものに驚いたような目をみはって、部屋じゅうに取り散らしたいろんなもののなかに、開いた衣装戸だなの前に立って、そこから何かを取り出していた。夫の足音を聞きつけると、彼女は手をやすめて、戸口のほうを見ながら、その顔へ、きびしい、さげすむような表情を与えようと、いたずらな努力をした。彼女は自分が彼を恐れ、さしせまった会見を恐れていることを自分でも感じていた。彼女はいまも、この三日間にすでに十度もしようとしたこと――子供と自分の持ち物を全部母のもとまで持ち出そうという企てをやりかけてみたのであるが、いぜんとして決行することができなかったのである。しかしこの時も彼女は、前の時と同じように、どうしてもこのままではすまされない、なんでもいい、夫を罰しはずかしめて、彼が彼女に与えた苦痛の、よし万分の一をでも、なめさせるだけのことはしなければならぬと自分にいっていた。なお彼女は、たえずこういっていた、いまに出て行ってやるからと。けれども、それのできない相談であることは、自分でもよく承知していた。まったく、それはできない相談であった、なぜというに、彼女は、彼を自分の夫として愛する習慣から、容易に脱しえないからであった。のみならず、彼女は、現在自分の家ですら、五人の子供のめんどうをやっとの思いでみていることを思えば、それをみんなよそへ連れて行ったのでは、なおさらよくない結果になるにちがいない、こうも感じていた。それでなくても、この三日のあいだに、末っ子はわるいスープにあてられて病気をするし、ほかの者も、昨日は一日ろくな食事を与えられなかったくらいである。こんなわけで、自分が家を出ることのとうてい不可能なことは万々承知のうえだったのだけれど、でもやはり、みずから欺きながら、持ち物を取り出しては、出て行くようなふりをよそおわずにはいられなかったのである。
夫の姿を見かけると、彼女は、何かさがしものでもしているように、化粧台の引出しへ手を入れて、夫が十分そば近く歩みよったときに、はじめてその顔を見あげた。ところが、彼女が、きびしい、断乎《だんこ》たる表情をあたえようとしたその顔は、ただ苦悩と失望とを現わしていた。
「ドリー」と彼は、静かな、おくびょうらしい声でいった。彼は肩のなかへ頭をすくめて、哀れげな、へりくだった様子をしようとつとめたが、やはり、爽快と健康とに輝いていた。彼女はすばやい一瞥《いちべつ》で、爽快と健康とに輝く彼の様子を、頭のてっぺんから足のつまさきまで見とおした。
『そうだわ、このひとは幸福で満足している。それにくらべてわたしはどうでしょう!』と彼女は考えた。『それに、この憎らしい人のよさはどうだろう? 世間の人は、このお人よしなところを好いたり、ほめたりしているけれど、わたしはこの人のよさが大きらいだわ』と彼女は考えた。彼女のくちびるは引きしまり、ほおの筋肉は、神経的な青白い顔の右半面で、びりびりと痙攣《けいれん》した。
「何かご用でございますか?」と彼女は、早口な、彼女のようでない、胸からしぼり出すような声でいった。
「ドリー!」と彼は、声にふるえをもたせてくりかえした。「アンナがきょう立ってくるよ」
「それがどうしたというんですの?……わたくしお目にはかかりませんから!」と彼女は叫んだ。
「しかし、そうもいかんよ、ドリー……」
「行ってください、行ってください、行ってください!」と彼のほうは見ないようにして、彼女は叫んだ。この叫び声は、まるで肉体上の苦痛からでもしぼり出されるもののように聞こえた。
ステパン・アルカジエヴィッチは、さっき妻のことを考えていたあいだは、平然とおちつきすまして、マトヴェイの言葉どおり、万事まるくおさまることと希望をかけ、のんきに新聞を読んだり、コーヒーを飲んだりしていられた。が、ひとたび、彼女の悩ましくいたましげな面もちを見、運命に従順な、絶望的な、この声のひびきを聞くと同時に、息もとまるような気がして、のどがつかえたようになり、両眼は涙で輝きはじめた。
「ああ、わたしはなんということをしたのだろう! ドリーや! お願いだ!……ね……」彼はそのさきをつづけることができなかった。すすり泣きが彼ののどをふさいだのである。
彼女は、戸だなの扉を手あらく閉めて、彼のほうをふり返った。「ドリー、わたしに何をいうことができよう?……ただ一つ――あやまるだけだ……わるかった、わるかった……まあ考えてみてくれ、今日までの九年間が、数分間を、ただの数分間を、償うことができないだろうか?……」
彼女は目をおとして、彼の言葉に期待をおきながら、まるで、彼がなんとかしてそれを彼女の誤解にしてくれればよいと祈ってでもいるような様子で、耳を傾けていた。
「心の迷いの数分間を……」と彼は言いだして、つづけようとしたが、この言葉を聞くやいなや、まるで肉体の苦痛からのように、ふたたび彼女のくちびるはひきしまり、ふたたびほおの筋肉が、顔の右半面で痙攣した。
「行ってください、ここを出て行ってください!」と彼女は、さらに声を鋭くして叫んだ。「そして、もうそんな、心の迷いだなんていやらしい話は、わたしに聞かせないでください」
彼女は出て行こうとしたが、にわかによろよろとなり、いすの背につかまって、身をささえた。と、彼の顔は大きくなり、くちびるはふくれ、目は涙でいっぱいになった。
「ドリー!」と、もうすすり泣きをしながら、彼はいった。「後生だ、子供たちのことを考えてくれ、あれらにはなんの罪もない! わるいのはわたしだ。どうかわたしを罰して、わたしに自分の罪を償わせてくれ。わたしでできることなら、わたしはなんでもする! わたしはわるい、いってみようもないほどわるい、だが、ねえドリー、どうかわたしを許してくれ!」
彼女は腰をおろした。彼は、彼女の大きな重苦しい息づかいを聞いて、たまらなくかわいそうになってきた。彼女は幾度も口を開こうとしたが、できなかった。彼は待っていた。
「あなたはおもちゃにするために、ときどきは子供たちのこともお思いになるのでしょうけれど、わたしは、あれたちがもう滅びてしまったことを知っています、覚えています」と彼女は、この三日間に幾度も自分にいっていたにちがいない文句の一つを口に出した。
彼女は彼を親しい口調《くちょう》で『あなた』と呼んだ。彼は感謝の念をこめて彼女を見ながら、その手をとろうとして身うごきしたが、彼女は嫌悪の色をうかべて彼をさけた。
「わたしは子供たちのことをしょっちゅう心にかけています。で、あれたちを救うためなら、どんなことでもするつもりでいます。でも、どうしたらあれたちが救えるか、わたし自身がわからないのですわ。――つまり、父親から引き離したものか、それともこのまま、浮気者の父親といっしょにおいたものか――ええ、そうよ、浮気者の父親とですわ……まあひとついってみてちょうだい。あんな……のあったあとで、わたしたちがいっしょに暮らしていけるものかどうか? そんなことが、はたしてできるものか? どうぞおっしゃってみてください、そんなことができるものかどうかを?」と彼女は、しだいに声を高めながらくりかえした。「だいいち、わたしの夫がわたしの子供の父親が、その子供の家庭教師と妙な関係を結んだりしたそのあとで……」
「だが、どうしたらいいんだね? どうしたら?」と彼はますます低くうなだれながら、哀れっぽい声で、自分でも何をいっているのやらわけがわからずに、こういった。
「わたしはあなたがきたならしいのです、いやなのです!」と彼女はますます激昂《げっこう》して叫んだ。「あんたの涙なんか水です! あなたは、一度だって、わたしを愛してくださったことはないのです! あなたには心臓もなければ品性もないのです! あなたはわたしにとって、卑劣な、いやな、他人、そうですわ、まったくのあかの他人《ヽヽ》ですわ!」と彼女は、自分にとって恐ろしい、この他人という言葉を、苦痛と憤怒《ふんぬ》とをもって言いはなった。
彼は彼女を見やった。と、彼女の顔にきざまれた憤怒が、彼をおびやかし驚かした。彼は、彼女にたいする自分の憐愍《れんびん》が、彼女を激させたのを理解しなかったのである。彼女が彼のうちに見たものは、彼女にたいする同情であって、愛ではなかったのである。『いや、あれはおれを憎んでいる。とても許してはくれまい』こう彼は考えた。
「これは恐ろしいことだ、恐ろしいことだ!」と彼はいった。
このとき、次の部屋で、たぶんころびでもしたのであろう、急に子供の泣き声がした。ダーリヤ・アレクサーンドロヴナは耳をすました。と、その顔色はにわかにやわらいだ。
彼女は、見たところ、自分の今いる場所も、何をしたらいいのかも、まるでわからないもののように、数分間じっと考えていたが、やがてさっと立ちあがると、戸口のほうへ行きかけた。
『だが、このとおり、あれはおれの子供をかわいがっているじゃないか』と彼は、子供の泣き声を聞きつけたときの彼女の顔色の変化を認めて、考えた。『おれの子供を、してみれば、どうしてあれにおれを憎むことができよう?』
「ドリー、もうひと言」と彼は、彼女について行きながらいった。
「わたしのあとへついてなんかいらっしゃると、人を、子供たちを呼びますよ! あなたが、卑劣なかただってことが、みんなに知れるといいんです! わたしはいますぐ出て行きます。あなたはここで、情婦とお暮らしなさいまし!」
そして彼女は、ばたりとはげしくドアを閉めて、出て行ってしまった。
ステパン・アルカジエヴィッチは、ため息をついて顔をぬぐい、静かな足どりで部屋を出て行きかけた。『マトヴェイのやつは、まるくおさまるなんていったが、このありさまはどうだ? おれにはまるで見こみさえたちゃしない。ああああ、なんという恐ろしいことだ! それにまあ、あれのあのはしたないどなりようは』と彼は、彼女の叫び声と、卑劣だの、情婦だのといった言葉を思い出しながら、ひとりごちた。『もしかすると、召使どもの耳へもはいったかもしれない! じつに下品ともなんとも、じつにひどい』ステパン・アルカジエヴィッチは、数分間ひとりで立ちつくしていたが、やがて目をぬぐい、太息をもらし、それから胸をはって、部屋を出て行った。
金曜日で、食堂ではドイツ人の時計師が時計をまいていた。ステパン・アルカジエヴィッチは、このきちょうめんなはげ頭の時計師について、『あのドイツ人は生涯時計をまくように、自分もねじをまかれているのだ』といった自分の警句を思い出して、微笑をもらした。ステパン・アルカジエヴィッチは、おもしろい警句が好きだった。『たぶんまるくおさまるだろう! おもしろい言葉だぞ――まるくおさまるとは』と彼は考えた。『こいつはひとつものにしなくちゃ』
「マトヴェイ」と彼は叫んだ。「マリヤに手つだって、アンナ・アルカジエヴナを入れるように長いす部屋を片づけといてくれ」こう彼は、そこへ出てきたマトヴェイにいった。
「かしこまりました」
ステパン・アルカジエヴィッチは、毛皮の外套《がいとう》を着て、玄関口の階段へ出た。
「お食事は、お邸ではなさいませんでしょうか?」と、送って出たマトヴェイがきいた。
「どうなるかわからない。が、さしあたりの費用に、これだけおいていこう」と、紙入れから十ルーブリ紙幣を取り出しながら、彼はいった。「これだけあったらいいだろう?」
「いいにもわるいにも、いたしませんでは」と、マトヴェイは馬車のドアを閉めて、階段のほうへしりぞきながら、いった。
そのあいだ、ダーリヤ・アレクサーンドロヴナは子供をなだめていたが、馬車のひびきで夫の出て行ったことを知ると、ふたたび寝室へもどってきた。そこは、一歩でも部室を出たが最後、たちまち彼女を包囲する家事の煩累《はんるい》からのがれる、彼女の唯一の隠れ家だった。げんにいま、子供部屋へ出ていったあのわずかなあいだにももう、イギリス女やマトリョーナ・フィリモーノヴナなどが、彼女でなくては返答のできない、のっぴきならぬ、二、三の質問を持ち出したのだった。――散歩に出るとき子供に何を着せたらいいか? 牛乳を飲ませてもいいか? ほかの料理人をやといにやらなくてもいいか? 等、等、等。
「ああ、もうかまわないでおくれ、わたしにかまわないでおくれ!」彼女はこういって、寝室へとってかえすと、夫と話していた席へ腰をおろし、骨ばった指から指輪のぬけそうになっているやせた両手を握りしめて、今の対話の一部始終を記憶のなかでくりかえしはじめた。『出て行ってしまった! だけど、あの女との|かた《ヽヽ》は、どうつけたのだろう?』と彼女は考えた。やっぱりまだ、会ってるんじゃないかしら? どうしてわたしはそれをつきとめなかったのだろう? いえ、いえ、仲なおりなんかできるものか。たとえ、このままひとつ家に暮らすにしても――わたしたちはもう他人だわ。永久に他人だわ!』と彼女はもう一度、彼女にとって恐ろしいこの言葉を、特殊な意味をふくめてくりかえした。『だけど、わたしはどんなに愛していたろう……ああ、どんなにあのひとを愛していたろう!……ほんとにどんなに愛していたろう! といって、今はもうあのひとを愛していないだろうか? 以前にもまして、愛してはいないだろうか? それで、何よりも恐ろしいのは……』と彼女は考えはじめたが、マトリョーナ・フィリモーノヴナが戸口から顔をのぞけたので、この考察は終わらなかった。
「どうぞ、兄を迎いにやっていただきとうございます」と、彼女はいった。「なんと申しましても、食事の支度をしてくれるのはあのひとですから。さもないと、また昨日のように、六時になってもお子さまがたまで何もめしあがらないでいらっしゃるようなことになりますから」
「ああいいよ。わたしがすぐそちらへ行って、よくします。それはそうと、新しいお乳はとりにやりましたか?」
そして、ダーリヤ・アレクサーンドロヴナは、日常の仕事におぼれて、しばらくは自分の悲しみをそのなかでまぎらせた。
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五
ステパン・アルカジエヴィッチは持って生まれた才能のおかげで、学校ではよくできたが、なまけ者のいたずら好きだったので、卒業のときには末席のひとりであった。が、その放縦《ほうじゅう》な日常生活と、位階と、さほどでない年齢にもかかわらず、モスクワの役所の一つに長官として、俸給の高い、名誉ある地位をしめていた。この地位を、彼は、その役所の隷属している某省において最も顕要《けんよう》な地位をしめていた妹アンナの夫、アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチ・カレーニンの手をへて得たのであった。とはいえ、もしカレーニンが、自分の義兄をこの地位に任命しなかったとしても、スティーワ〔ステパンの通称〕・オブロンスキイは、彼以外の兄弟や、姉妹、従兄弟《いとこ》、叔父叔母などという多勢の人を通して、この地位か、でなくてもこれに似よりの地位くらいは得て、妻の莫大な財産がありながら、財政が乱れていたために彼にとって必要であった六千ルーブリ程度の俸給には、ありついていたにちがいなかった。
モスクワとペテルブルグの半分は、ステパン・アルカジエヴィッチの親戚であり友人であった。彼は、この世でかつて有力であった人々、また有力になった人々のあいだに生まれたのであった。政治家とか有力者とかいわれる人々の三分の一は、彼の父の友人で、幼少のころから彼を知ってい、他の三分の一は、彼とは『きみぼく』の間柄、そして残る三分の一は、親しい知己であった。したがって、地位、借地権、利権などという地上の幸福の分配者は、ことごとく彼の友人で、彼を除外するようなことはしなかったから、オブロンスキイとしては、有利な地位を得んがためにも、とくに努力する必要はなく、ただ拒絶したり、嫉妬したり、論争したり、立腹したりなどさえしなければよかったのである。しかも、そんなことは、もって生まれた善良さから、彼はかつて一度もしたことがなかった。だから、もし彼に向かって、彼が必要なだけの俸給のとれる地位を得られないだろうとでもいう人があったら、彼は自分がかくべつ法外なものを望んでいるのでないだけに、かえっておかしく思ったにちがいない。彼はただ、自分と同年輩の人々の得るだけのものを得たいと思ったにすぎないのだし、それに、それくらいの仕事は、だれにも負けずに処理することができたのだから。
ステパン・アルカジエヴィッチは、ひとり、その善良で快活な性格と、疑いない正直さとのために、彼を知るすべての人から愛されたばかりでなく、彼の風采《ふうさい》には、その美しい明るい容貌や、輝かしいまなざしや、黒い眉《まゆ》や、髪や、さてはまた顔色の白さやばら色のなかに、彼に接するすべての人に生理的に親しみぶかく愉快に作用する何ものかがあったのである。『やあ! スティーワだ! オブロンスキイだ! ほら、とうとうやって来た!』と、彼を見るとだれでもが、ほとんどつねに、うれしそうなえみを含んでこういった。よし時として、彼との会談の後に、それがかくべつ愉快なことでなかったことが明瞭になった場合でも――翌日、または翌々日には、人々は彼と会うことを、やはり喜ぶのであった。
モスクワにおける役所の一つに、二年ごし長官の役を勤めているあいだに、ステパン・アルカジエヴィッチは同僚、下僚、上官たちをはじめ、彼と交渉をもったすべての人から、愛のほかに尊敬をもかちえていた。彼のためにこうした職務上の一般的尊敬をもちきたしたステパン・アルカジエヴィッチのおもなる特質は、第一には、彼が自分の短所を意識していることに基礎をおいた他人にたいする極度な寛容にあり、第二には、彼の自由主義、つまり新聞のうけ売りでなく、彼の血液のなかに流れていて、彼がそれをもって、相手の財産身分の高下にかかわらず、なんぴとにたいしても平等公平を失わなかった完全な自由主義にあり、第三には――これが最も重要なことであるが――彼が従事していた職務にたいする完全な無関心にあり、その結果として、彼はけっして、心を奪われたり、過失をしでかしたりするようなことがなかったのである。
自分の勤務先へつくと、ステパン・アルカジエヴィッチは、折鞄《おりかばん》をさげた、いんぎんな門番に送られて、小さい自分の控え室へ通り、制服をつけてから、事務室へはいって行った。書記や属官たちは全部起立して、快活にていねいに頭をさげた。ステパン・アルカジエヴィッチは、いつものとおりせかせかと自分の席へ行き、同僚たちと握手して腰をおろした。そして礼儀をくずさぬ程度で、ふた言み言冗談口をきいたり、話をしたりしてから執務に取りかかった。なんぴとといえども、事務を快く進行させるに必要な自由と、簡素と、儀容《ぎよう》との境界を、ステパン・アルカジエヴィッチほど正確に見いだしうる人はなかったであろう。ひとりの秘書官は、ステパン・アルカジエヴィッチの役所におけるすべての人々のように、快活にいんぎんに、書類をもって彼に近づき、ステパン・アルカジエヴィッチによって注入されたあの親しげな、自由な調子で、話しはじめた――
「ペンザ県庁からやっと報告がまいりました、これなんですが、いかがでしょう……」
「とうとう来たか?」とステパン・アルカジエヴィッチは、指を書類にはさみながら、いった。「では諸君……」こうして執務時間がはじまった。
『もしこの連中が知ったとしたら』と、報告を聴取《ちょうしゅ》するあいだ、しかつめらしい顔つきをしてくびを傾けながら、彼は考えた。『この長官殿が半時間前にどんなにいけない子だったかということを!』こうして彼の目は、報告の朗読されているあいだ笑っていた。この事務は、二時まで、ぶっとおしに継続されなければならなかった。そして二時になると休憩して、食事することになっていた。
ところが、まだ二時にならないうちに、とつぜん事務室の大きなガラス戸が開いて、だれかがはいってきた。役人たちはみな、心を引くものの現れたのを喜んで、あるいは肖像画〔皇帝〕の下から、あるいは、正義標〔昔官庁の机上におかれた三面立体の装飾〕のかげから、戸口のほうへ目を走らせた。けれども、戸口に立っていた守衛が、すぐさま闖入者《ちんにゅうしゃ》を追い出して、そのあとのガラス戸を閉めてしまった。
事件の朗読が終わると、ステパン・アルカジエヴィッチは立ちあがって、ひとつ背のびをし、ここでも時代の自由主義にしたがって、事務室で巻たばこを取り出しながら、自分の控え室へしりぞいた。彼のふたりの同僚、老人の精勤家ニキーチンと、侍従のグリネーヴィッチとが彼といっしょに出て来た。
「食事をすましてからでも、十分片づけられるね」とステパン・アルカジエヴィッチはいった。
「そりゃ片づけられますとも!」とニキーチンが応じた。
「あのフォミンというやつは、かなりな悪党らしいですな」とグリネーヴィッチが、彼らが取り調べていた事件の関係者のひとりについていった。
ステパン・アルカジエヴィッチはグリネーヴィッチの言葉に眉をしかめ、それでもって、早まって断定をくだすことのよくないことを感じさせながら、べつになんとも答えなかった。
「さっきはいって来たのはだれだったんだ?」と、彼は守衛に尋ねた。
「どなたでございますか、閣下、わたくしがちょっとわき見をしているあいだに、無断ではいってまいりましたんで。あなたさまにお目にかかりたいとかで、そこでわたくしは、みなさまがたがご退出になってからとそう……」
「その人はどこにいる?」
「たしか入口のほうへ出てまいったようで。いましがたまで、そこいらを歩いていたのですが、あ、このかたです」と守衛は、ひつじ皮の帽子もぬがないで、石段のすりへった階段を、身軽に、急ぎ足にかけあがって来た、縮れ毛のあごひげのある、がんじょうそうな、肩幅の広い男をさしながら、いった。おりから下へおりつつあったなかのひとり、折鞄を小わきにかかえたやせ形の官吏は、立ちどまって、いまいましげに、かけあがって行く男の足もとを見ていてから、けげんそうな目でオブロンスキイを見あげた。
ステパン・アルカジエヴィッチは、階段の上に立っていた。刺繍のある制服のえりからぬけ出て、善良そうに輝いていた彼の顔は、かけあがってくる男の顔を認めた瞬間に、いっそうの光輝《こうき》をくわえた。
「やっぱりそうだった! レーヴィン、とうとう出て来たね!」と彼は、自分のほうへ近づいてくるレーヴィンを見ると、親しげな、からかうような微笑をふくんで、こういった。「どうしてまたきみは、この巣窟のなかなんかで、ぼくを見つける気になったのかね?」とステパン・アルカジエヴィッチは、手を握っただけでは満足できなくて、相手を接吻しながらいった。「それはそうと、いつ出て来たんだい?」
「いま着いたばかりだ。むしょうにきみに会いたかったのでね」とレーヴィンは、内気らしく、同時に腹だたしげに、また不安げにあたりを見まわしながら、答えた。
「とにかく、ぼくの部屋へ行こう」自尊心が強くて、激しやすいこの友人の羞恥癖《しゅうちへき》を知っていたステパン・アルカジエヴィッチは、こう言いながら彼の手をとり、まるで危険物のあいだをでも案内するようなかっこうで、さきに立って彼をつれて行った。
ステパン・アルカジエヴィッチは、ほとんど全部の知己と、『きみぼく』の間柄であった。――六十歳の老人とも、二十歳のお坊ちゃんとも、俳優とも、大臣とも、商人とも、侍従武官とも。で、彼と『きみぼく』の間柄である大部分の人は、社会的階級の両極端に見いだされた。彼らは、自分たちがオブロンスキイを通して、なにかしら共通したものを持っていることを知ったら、ひどく驚いたにちがいない。彼は、一度シャンペンを酌《く》んだが最後、だれとでも『きみぼく』の間柄になった。しかも彼は、どんな人とでもシャンペンを酌んだから、自分の部下のいる前などで、恥ずべき『きみ』連(こう彼はたわむれに自分の友人の多くを呼んでいた)と出くわすことがあっても、もちまえの機転でもって、部下のためにその印象の不快を軽減するだけの腕をもっていた。レーヴィンは恥ずべき『きみ』ではなかった。けれども、オブロンスキイはもちまえの感覚で、レーヴィンのほうで、彼が部下の前でふたりの親密さを見せるのを喜ばないかもしれないと考えているらしいのを見てとったので、彼を控え室へ連れこむべく急いだのだった。
レーヴィンは、オブロンスキイとほとんど同年輩で、彼とは単にシャンペンの上だけの『きみぼく』づきあいではなかった。レーヴィンはずっと若いころからの、彼の仲間であり友人であった。彼らは、性格や趣味の相違にもかかわらず、ごく若いころに結びあった友だち同士が愛しあうように、愛しあっていた。しかも、そのくせ、あいことなる活動の範囲を選んだ人々のあいだにままあるように、彼らふたりも、理性では相手の世界を是認しながら、胎《はら》のうちではそれを軽蔑していた。彼らには、互いに、自分自身の送っている生活こそ真の生活で、友人の送っている生活は、ただの幻にすぎないような気がしていたのだった。オブロンスキイは、レーヴィンを見るたびに、軽い皮肉な微笑をおさえることができなかった。彼はもう幾度も、相手が何かしらしている田舎からモスクワへ出て来たのに会ったが、しかし、相手のしていることのなんであるかは、いっこうはっきりもしなければ、また、それを知ろうとする興味もおこらなかった。レーヴィンはいつも、興奮した、性急な、いくらか遠慮ぎみな、そしてこの遠慮心を、われながらにがにがしく思っているような人となって、そしてたいていの場合、すべての事物にたいしてぜんぜん新しい、思いもよらない見解をいだいて、モスクワへ出てくるのだった。ステパン・アルカジエヴィッチは、この点を笑いながら、またそれを愛していたのであるが、まったくこれと同じように、レーヴィンもまた、肚《はら》のうちでは、友人の都会ふうな生活様式や、無意味としか思われないその勤務やを軽蔑し嘲笑していた。とはいえ、オブロンスキイは、だれしもがやっていることをやりながら、笑うにも自信ありげで、かつ善良らしかったのに反して、レーヴィンは自信なげに、ときには腹だたしそうでさえあった。両者の相違は、じつにここにあったのである。
「吾人《ごじん》やきみを待つこと久しだ」とステパン・アルカジエヴィッチは、控え室へはいりながら、レーヴィンの手をはなし、それでもってあたかも、危険区域を脱したことを示すかのような態度で、いった。「いやまったく、まったくうれしい、きみに会えて」と、彼はつづけた。「ときにどうだ、きみは? どうしたね? いつ来たんだね?」
レーヴィンは、自分に面識のないオブロンスキイのふたりの同僚の顔を見ながら、わけても、彼の全注意をひきつけて、彼に考慮の自由さえあたえなかったほどに白く長い指と、長く黄いろくて先のほうの曲がったつめをして、シャツの袖口に、おそろしく大きなぴかぴか光るカフスボタンをつけたエレガントな紳士グリネーヴィッチの手を見ながら、黙っていた。オブロンスキイはすぐに気がついて、ほほえんだ。
「ああ、そうだ、ひとつ紹介させていただこう」と彼はいった。「ぼくの同僚フィリップ・イワーノヴィッチ・ニキーチン。ミハイル・スタニスラーヴィッチ・グリネーヴィッチ」、そしてレーヴィンのほうを向いて、「自治会議員で、自治会での新人物で、隻手《せきしゅ》よく五プード(一プードは約一六・五キロ)をあげるという運動家で、牧畜家でもあれば、狩猟家でもある、ぼくの親友コンスタンチン・ドミートリエヴィッテ・レーヴィン。セルゲイ・イワーノヴィッチ・コズヌイシェフの弟です」
「これはこれは」と、老人はいった。
「わたくしはご令兄のセルゲイ・イワーノヴィッチとお知り合いである光栄を有しております」とグリネーヴィッチは、長いつめのはえた、きゃしゃな手をさし出しながら、いった。
レーヴィンはしかめつらをして、冷やかに握手をすると、すぐさまオブロンスキイのほうを向いた。彼は、ロシヤ全国に隠れなき著述家である自分の異父兄にたいして多大の敬意をいだいてはいたが、しかも、他人が自分にたいするに、コンスタンチン・レーヴィンをもってせず、有名なるコズヌイシェフの弟をもってする場合には、がまんすることができなかったのである。
「いや、ぼくはもう自治会議員じゃないよ。みんなのやつらとけんかしちゃってね、それでもう議会には出ないんだ」と彼は、オブロンスキイのほうを見ながらいった。
「もうやったのか!」と、微笑をふくんでオブロンスキイはいった。「だが、どうして? 何が原因で?」
「長い話があるんだ。そのうちに話すよ」とレーヴィンはいった。が、すぐその話をはじめた。「まあ、てっとり早くいえばだ、ぼくが、地方自治会の仕事なんてものはない、またありうべからざるものであると確信したからさ」と彼は、あたかも、現在なんぴとかが彼を侮辱でもしたかのような語気で、言いだした。「一方からいえば一個の玩具で、やつらは議会で遊びをやっているのだが、ぼくは玩具をいじって遊ぶほど若くもなければ、また年よりでもないからね。また一面からいうと(と、彼は口ごもった)、あれは地方の coterie〔連中〕の金もうけ手段なのだ。以前には監督庁や裁判所がそれだった。が、現在では自治会となって、賄賂《わいろ》の形、ではないが、不当の俸給というものになっている」と彼は、まるで同席者のだれかが彼の意見を反駁《はんばく》しでもしたかのように、熱くなって言いはなった。
「へえ? きみはまた局面転換をやったらしいね。こんどは保守主義か」とステパン・アルカジエヴィッチはいった。「だがまあ、それはあとのことにしよう」
「そうだ、あとにしよう。それはとにかく、ぼくは、ぜひきみに会わなくちゃならん用ができたんでね」とレーヴィンは、グリネーヴィッチの手をいまわしげに見やりながら、いった。
ステパン・アルカジエヴィッチは、やっとわかるほどに微笑した。
「きみは、もう断じてヨーロッパの服は身につけないといっていたのに、どうしたことだ」と彼は、ひと目でフランス仕立てとうなずかれる、彼のま新しい服をじろじろと見やりながら、いった。「そうだ! わかったそれも新しい変化のひとつか」
レーヴィンは急にあかくなった。が、それは、おとなが自分では知らずに、ぼうっとあかくなるというようなものではなく、子供たちが、自分がはにかんだがために人におかしく見えるのを感じて、そのためにいっそう恥ずかしくなり、ついには泣きださんばかりにあかくなる、そういう種類のあかくなりかたであった。そして、この聡明な男らしい顔を、そうした子供らしい状態において見ることは、あまりにも変なぐあいだったので、オブロンスキイはついに、彼を見ることを中止したくらいであった。
「ときにどこで会ったらいいかね? ぼくはぜひとも、きみに話さなくちゃならないことがあるんだが」と、レーヴィンはいった。
オブロンスキイはちょっと考えるような様子をした。
「じゃあこうしよう――グーリンへ食事に行ってそこで話そう。三時まではぼくも暇だから」
「いや」と、ちょっと考えてから、レーヴィンは答えた。「ぼくにはまだ行かなくちゃならないところがあるんだ」
「そうか、よろしい。じゃ晩餐をともにしよう」
「晩餐を? だが、べつに大した用じゃないんだよ。ただふた言、話したりきいたりすればいいんだ。いろいろな話は、そのあとでまたゆっくり」
「じゃあ今ここで、そのふた言を言いたまえな。ほかの話は食事をしながらということにして」
「ふた言というのはね、こうなんだ」と、レーヴィンはいった。「しかし、べつに大したことじゃないんだよ」
彼の顔は急に、例の羞恥癖にうちかとうとする努力に胚胎《はいたい》した、腹だたしげな表情をとった。
「スチュルバーツキイ家の人たちはどうしてるね? みんな変わりはないかね?」と彼はいった。
レーヴィンが自分の義妹のキティーに恋をしているのを、もう前から知っていたステパン・アルカジエヴィッチは、やっと目につくほどの微笑をうかべた。と、彼のまなざしは愉快げに輝きはじめた。
「なるほど、きみはふた言でいった。けれどぼくは、ふた言では返事ができないよ、なぜかというにだ……あ、ちょっと失敬する……」
ちょうどひとりの秘書官が、なれなれしい丁重さと、秘書官というものに共通な、事務上の知識では自分のほうが長官より一枚上だという謙遜な優越感とを見せてはいって来て、書類をもってオブロンスキイの前へ進みより、質問という形式のもとに、なにやらこみいった事件の説明にかかった。ステパン・アルカジエヴィッチはそれをみなまで聞かずに、片手を優しく秘書官の袖口の上においた。
「いや、ぼくのいったようにやっといてくれたまえ」と彼は、微笑で注意を柔らげながら、事件にたいする自分の解釈を簡単に説明してから、書類をおしやって、こういった。――「まあこんなぐあいにやっといてくれたまえ、どうぞこんなぐあいに。ザハール・ニキーチッチ」
秘書官はてれた様子で出て行った。レーヴィンは、相手が秘書官と話しているうちに、すっかり混乱を回復して、両手でいすの背にもたれながら、立っていた。彼の顔つきには、皮肉な注意がうかんでいた。
「わからない。わからない」と彼はいった。
「何がわからないんだい?」とあいかわらずはればれとした笑顔で、巻たばこを取り出しながら、オブロンスキイはいった。彼は、レーヴィンの口から何かとっぴな言葉の出るのを期待したのであった。
「きみらのしていることがわからないんだ」と、レーヴィンは肩をすくめながらいった。「きみはよくこんなことをまじめにやっていられるねえ?」
「なぜさ?」
「なぜって……くだらないじゃないか」
「きみはそう思うかしらんが、ぼくらは仕事でいっぱいになっているんだ」
「紙の上のね。なるほど、きみにはそのほうの天分があるよ」とレーヴィンは言いたした。
「というと、なんだね、きみはぼくに何か欠けたところがあると考えてるわけなんだね?」
「あるいはそうかもしらんがね」とレーヴィンはいった。「しかし、やはりぼくは、きみの偉大に感服し、こういう偉大な人物を友人に持ったことを、大いに誇りとしているんだよ。それはそうと、きみはぼくの質問に返事をしてくれなかったね」と彼は、絶望的な努力をもって、ひたとオブロンスキイの目に見いりながら、つけ加えた。
「いや、よろしい、よろしい。ま、もう少し待ちたまえ、きみだって、けっきょくはやっぱりここへくるんだから。なるほど、きみがカラジンスキイ郡に三千デシャティーナ(一デシャティーナは一ヘクタール)の土地と、そのうえそのとおりの筋肉と、十二歳の少女に見るような新鮮さを持ってるのは、けっこうなことにちがいない――しかし、そのきみも、いずれはわれわれの仲間入りをすることになるんだから。そこできみのお尋ねだが、べつに変わりはない。けれど、きみはあまり長く出てこなさすぎたよ」
「どういうわけで?」と、レーヴィンはびっくりしたようにきいた。
「いや、なんでもないさ」と、オブロンスキイは答えた。「おいおいに話そうじゃないか。だが、きみはいったい、こんどはなんの用で出てきたんだね?」
「ああ、そのことも、やっぱりあとで話すことにしよう」と、またしても耳のつけ根まであかくなりながら、レーヴィンはいった。
「いや、よろしい。わかってる」と、ステパン・アルカジエヴィッチはいった。「そこでと――じつはきみをうちへお招きすべきだが、うちのやつが少し弱ってるんでね。だがなんだよ――もしあのうちの人たちに会いたいのなら、あの人たちはこのごろ四時から五時までは、たいてい動物園にいるからね。キティーがスケートに行くものだから。きみもひとつそこへ行くさ。ぼくもあとから行くから。そしてどこかへ食事をしに行こう」
「大いにけっこうだ、じゃさようなら」
「だが、しっかり頼むぜ。ぼくはきみを知ってるが、また忘れてしまったり、急に田舎へ帰ってしまったりしては、だめだぜ!」と、笑いながらステパン・アルカジエヴィッチは叫んだ。
「なあに、だいじょうぶだ」
そしてもう戸口まで行ってしまってから、レーヴィンははじめて、オブロンスキイの同僚にあいさつするのを忘れたことを思い出して、控え室から出て行った。
「いや、いまのかたは非常な精力家にちがいない」と、レーヴィンの去ったあとで、グリネーヴィッチがいった。
「そうだよ、きみ」と、ステパン・アルカジエヴィッチは頭を振りながら、いった。「幸福な男だよ! カラジンスキイ郡に三千デシャティーナからの地面はあるし、前途はあるし、元気はよし! われわれとは比較にならんね」
「あなたにもそんなにおっしゃることがあるんですかね、ステパン・アルカジエヴィッチ?」
「いや、どうしてどうして、情けないありさまさ」とステパン・アルカジエヴィッチは、重々しく息をつきながらいった。
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六
オブロンスキイがレーヴィンに、彼がモスクワへ出て来た理由をたずねたとき、レーヴィンはあかくなった。そしてそのあかくなったことにたいして、自分で自分に腹をたてた。なぜかというに、彼はただ、それだけを目的として来ていながら、彼に、『きみの義妹に結婚の申し込みをしに来たのだ』と答えることができなかったからである。
レーヴィン家とスチェルバーツキイ家とは、ともにモスクワの古い貴族で、つねに近しく親しい間柄であった。この関係は、レーヴィンの学生時代に、いっそう親密の度を加えた。彼は、ドリーやキティーの兄にあたるスチェルバーツキイ若公爵といっしょに準備をして、いっしょに大学へはいった。その当時レーヴィンは、よくスチェルバーツキイ家へ出入りして、スチェルバーツキイ家というものにほれこんだ。というと、ちょっと奇妙に聞こえるかもしれないが、コンスタンチン・レーヴィンは、まったく家に、家族に、とりわけ、スチェルバーツキイ家の家族中の婦人側にほれこんだのであった。レーヴィンには、母親というものの記憶がなく、かつひとりきりの姉は、彼とはだいぶ年がはなれていたので、彼は、父母の死によって失ったところの、教育あり名誉ある古い貴族の家庭生活の内面を、スチェルバーツキイ家においてはじめて見たのであった。彼には、この家の全員は、べっして婦人たちは、何かこう神秘な、詩的なとばりにでも包まれているもののように思われた。そして彼は、彼らのうちには一点の欠点をも見いださなかったばかりでなく、彼らを包んでいるこの神秘なとばりの下に、最も崇高な感情と、このうえない完全さとを想像するのだった。何がためにこれら三人の令嬢は、フランス語と英語とを一日がわりに話さなければならないのか、何がために彼女たちは、一定の時間にかわるがわるピアノにむかって、ふたりの学生が勉強していた階上の兄の部屋まで、そのひびきを伝えなければならないのか、何がために、仏文学や、音楽や、絵画や、舞踏の教師たちが通ってくるのか、また何がために三人の令嬢が、そろって、きまった時刻に、思い思いのしゅすの上着――ドリーは長く、ナタリーは中長、キティーは赤い長くつ下にぴったりと包まれた、かっこうのよい足がすっかり見えるくらいの短い上着を着て、マドモアゼル・リノンといっしょに、トゥヴェルスコーイ並木街のほうへ馬車を駆るのか、また何がために彼女たちは、帽子に金の帽章をつけた下僕を供に、トゥヴェルスコーイ並木街を歩かなければならないのか――すべてこれらのことおよび、彼らの神秘な世界で行なわれるこれ以外の多くのことが、彼にはまったくわからなかった。が、そこで行なわれることがみな美しいことばかりであることは知っていて、つまりは、この行事の神秘そのものに、おぼれてしまったのであった。
まだ大学生時代には、彼はあやうく姉娘のドリーにまいってしまうところであったが、彼女はまもなくオブロンスキイのもとへ嫁いでしまった。そこで彼は、二番目の令嬢に心をよせはじめた。彼はどうやら、姉妹のうちのひとりには、ぜひ恋をしなくてはならないもののように感じていながら、どれという見当をはっきりつけかねたものらしい。ところが、ナタリーもまた、社交界へ出るとそうそう、外交官リヴォフのもとへ嫁いでしまった。キティーは、レーヴィンが大学を出た時分には、まだほんのねんねえだった。若いスチェルバーツキイは海軍にはいり、バルチック海でおぼれてしまったので、レーヴィンとスチェルバーツキイ家との関係は、オブロンスキイとの友誼《ゆうぎ》があったにもかかわらず、しだいに稀薄なものになっていった。けれども、この年の冬のはじめに、田舎から一年ぶりにモスクワへ出て来て、スチェルバーツキイ一家の人々を見たときに、彼はじっさいにおいて、自分が三人のなかのだれに恋すべく運命づけられてあったかをさとったのであった。
生まれはよし、貧乏人とはちがって財産もあり、歳も三十二という彼が、スチェルバーツキイ公爵令嬢に求婚する、世にこれ以上簡単なことはありえないと思われたであろうし、またいずれの点から見ても、彼は即座に好配偶として認められたにちがいなかった。けれども、レーヴィンは夢中だったので、彼には、キティーが何ひとつ申しぶんのない完全なもの、いっさいの地上のものをこえて尊い存在であるように思われ、これに反して彼自身は、彼女の夫たるにたるものと周囲の人や彼女自身から認められようなどとは考えることすらできないほどに、低級な地上的存在であるような気がしていたのだった。
キティーに会うためばかりに足ぶみしはじめた社交界で、ほとんど毎日のようにキティーと顔をあわせながら、ふた月の日を夢のようにモスクワですごしたあとで、彼は、とつじょとしてそれを不可能事と断定して、田舎へ帰ってしまったのだった。
それを不可能事としたレーヴィンの確信の根拠は、親たちの目にうつる自分を、美しいキティーにとって有利な価値ある好配偶者でないと思ったことと、キティー自身もまた彼などを愛することはできないであろうと思いこんだことにあった。親たちの目にうつる彼は、彼が三十二歳になった今日では、彼の同輩のある者はすでに大佐となり副官となり、ある者は教授、ある者は銀行頭取とか鉄道長官とか、あるいはまたオブロンスキイのように一役所の長官となっているにもかかわらず、社会的になんら定まった経歴なり地位なりを有しない男であった。彼はただ(彼は他人の目にうつらなければならない自分の姿をきわめてよく知っていた)牧畜や、狩猟や、建築を業としている地主、つまり無能な、何ひとつ期待することのできない、なんの前途もない、ちっぽけな、世間の目から見れば、なんの役にもたたないような連中のやると同じことをしている男でしかなかった。
いわんや、神秘な、美しいキティーにしてみれば、彼がみずからそう思いこんでいるような醜い男、とりわけ――こんなに単純な、なんのとりえもない男を、愛しうるはずがなかった。のみならず、キティーにたいする彼の以前の関係――彼女の兄との友誼の結果であるおとなが子供にたいするような関係――が、彼には、この恋にとってのいまひとつの新しい障害であると思われた。彼が自分をそれと思いこんでいた醜い、おめでたい人間は、友人として愛されることはできるけれども、彼自身がキティーを愛しているような愛で愛されるのは、美しい――わけても非凡な人間でなければならない。こう彼は考えたのである。
もっとも彼も、女というものはおうおう平凡な醜い男を愛するものであることを聞いてはいたが、しかし、それを信じなかった。なぜなら彼は、ただ美しくて、神秘で、すぐれた女しか愛することができなかった自分自身に徴《ちょう》して、判断をくだしたからであった。
ところが、ひとりで田舎に二か月の日を暮らしてみて、彼は、それが最初の青春期に経験したような恋のひとつではなかったこと、その感情が彼に瞬間の安静をもあたえないこと、彼はこの問題、すなわち彼女が彼の妻となるかいなかを決しないでは生きていられないこと、および、彼の絶望は、単に彼の想像にすぎないのであって、彼は拒絶されるに相違ないというなんの根拠をも持たないことなどを確信した。こうして彼は、こんどこそは求婚しよう、そして、承諾されたらすぐにも結婚しようという堅い決意をいだいて、モスクワへ出て来たのであった。しかし、あるいは……もし拒絶されたら自分はどうなるだろうかということは、思ってみることもできなかった。
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七
朝の汽車でモスクワへ着くと、レーヴィンは自分の異父兄コズヌイシェフのもとに足をとめ、着がえをすますとすぐ、こんど出てきた理由をうちあけて、彼の意見をも求めようと考えながら、兄の書斎へはいって行った。が、あいにく、兄はひとりではなかった。彼のところには、きわめて重要な哲学上の問題について、彼らふたりのあいだに生じた誤解を解くためわざわざハリコフから出てきたという、有名な哲学教授が一座していた。かねてこの教授は、唯物論者にたいして熱烈な論争をこころみていた。セルゲイ・コズヌイシェフは興味をもってこの論争に注意をむけていたので、その最近の一文を読むにおよんで、彼はさっそく書面で駁論《ばくろん》を送った。彼は、唯物論者にむかってなしたあまりに大きな譲歩にたいして、教授を責めた。そこで教授は、とりあえずその説明をするために出むいて来たのであった。話は、当時流行の問題について進行していた。人間の行為における精神的現象と生理的現象とのあいだに境界があるかどうか、あればどの辺にあるか?
セルゲイ・イワーノヴィッチは、いつもだれにも見せる、優しく冷たい微笑をもって弟を迎え、教授と彼とを紹介すると、ふたたび話をつづけた。
眼鏡をかけた、額のせまい、小柄な人は、あいさつするためにちょっとのま話をきったが、レーヴィンには注意をむけないで、言葉をつづけた。レーヴィンは、教授の帰るのを待とうと思って腰をおろしたが、じき話の題目に興味をおぼえはじめた。
レーヴィンは、いま話題にのぼっているような文章には雑誌のなかなどでおりおり出会って、大学時代には自然科学生だっただけに、なじみのふかい博物学の原理の発展として、興味を感じながら読むには読んだが、動物としての人類の起原とか、反射作用とか、生物学とか、社会学とかについてのこれらの科学的結論を、最近にいたってますます多く彼の心をみまうようになった生死の意義というような、彼自身にとって直接である諸問題と結びつけて考えたことは、一度もなかった。
兄と教授との談論を聞いているうちに、彼は彼らが科学上の問題を精神上のそれと結びつけて、幾度もほとんどこの問題にふれようとするのを認めた。けれども彼らは、彼にとって最も重大な(と彼には思われた)問題のほうへ近づくやいなや、さっとそこから遠のいては、ふたたび微細な分析や、説明や、引用や、暗示や、オーソリティ(権威)の引証などの範囲内へ深入りするので、彼には、何が語られているのかさえ、たやすく理解がとどかなかった。
「わたしにはその承認はできませんね」とセルゲイ・イワーノヴィッチは、明瞭で正確ないつもの表現と、優美な言いまわしとをもっていった。「わたしはいかなる場合においても、外界におけるわたしの観念のすべてを印象から流露したものとするケースに同意することはできません。存在の最も根本的な概念は、わたしにとって、感覚を通してでなく受けいれられます。だいいち、このような観念を伝えるための特殊な機関などは、存在しないのですからね」
「さよう、しかし彼ら――ヴールスト、クナウスト、プリパーソフなどはですね、かならずやこうお答えするでしょうよ。あなたの存在意識はいっさいの感覚の結合から生じたものであって、この存在意識は感覚の結果であると。ヴールストはげんにこうまで直言している、感覚のないところには存在の認識もないと」
「わたしは反対に言いましょう」とセルゲイ・イワーノヴィッチは言いかけた。
ところで、そこでまた彼らが、最も重要な一点へ接近しながら、ふたたびそれて行きそうに思われたので、レーヴィンは教授に質問を提出しようと決心した。
「そうしますと、もしわたしの感覚が絶滅したら、もしわたしの肉体が死滅したら、もはやいかなる存在もありえないことになりますね?」こう彼は質問した。
教授はいかにもめいわくそうに、この横やりのために精神的の痛みをでもおぼえたらしく、哲学者というよりはむしろやじ馬に近い、この奇怪な質問者を見やってから、この男はいったい何をいっているんだろう? とでもきくように、その視線をセルゲイ・イワーノヴィッチのほうへ転じた。ところが、セルゲイ・イワーノヴィッチは、教授のような努力と偏屈《へんくつ》とをもって話をすすめていたのではなかったので、したがって彼の頭は、教授に答弁すると同時に、こうした質問のなされた、単純で、自然な観察をも理解するだけの余裕を残していて、微笑をうかべてこういった――
「われわれはまだ、そういう問題を解決する権利をもっていないんだよ……」
「われわれは材料を持たないんですよ」と、教授も口をあわせて、そして、自分の主張をつづけた――「いや」と彼はいった。「わたしはこう主張します。もしです、プリパーソフの直言しているとおり、感覚がその根底として印象をもつものとしたら、われわれはこれらの二つの観念を厳密に区別しなければならぬと」
レーヴィンはもはや耳をかそうとしないで、ひたすら教授の立ち去るのばかりを待った。
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八
教授が出て行くと、セルゲイ・イワーノヴィッチは弟のほうへ顔をむけた――
「よく出て来たね。長くいるかね? うちのほうはどうだ?」
レーヴィンは、この兄は農事方面にはいっこう興味をもたないこと、それをいまきいたのは、ちょっとおせじをいったまでにすぎないことを知っていたので、ただ小麦を売ったことと金のことについて少しばかり答えておいた。
レーヴィンは、兄に結婚の計画を話して、彼の意見をも聞こうと思い、それにたいして堅く決するところさえあったのだ――けれども、兄と会って、教授との談話を聞き、そのあとで、農事のことをたずねてくれた今の心にもない見くだすような調子を耳にすると(彼らの母の財産はまだ分配されずに、レーヴィンがふたり分を管理していた)、なぜともなく彼には、結婚しようという決心について切り出すことが、はばかられるような気がしだした。彼にはこの兄は、彼が望むようにはこの問題を見てはくれまいと思われたのであった。
「ときに、近ごろはどんなあんばいだね。おまえのほうの地方自治会は?」と、地方自治会にたいして非常な興味をもち、それに大した意義を付与していたセルゲイ・イワーノヴィッチは、きいた。
「ぼく、じつは知らないんですよ……」
「なに? だっておまえは議員じゃないか?」
「いいえ、もう議員じゃありません。ぼくは辞任したんです」と、レーヴィンは答えた。「で、もう会議にも出席しません」
「いけないねえ」とセルゲイ・イワーノヴィッチは、眉をしかめてつぶやいた。
レーヴィンはその弁解として、彼の地方の自治会の模様を話しはじめた。
「そう、いつでもそれなんだよ!」とセルゲイ・イワーノヴィッチは彼をさえぎった。「われわれロシヤ人はいつでもそれなんだ。あるいはこれはわれわれの長所かもしれない――つまり自分の短所を見るというその才能はね。けれどもわれわれは、あまり塩をきかせすぎるよ。われわれは、われわれの舌のさきにいつも準備されている皮肉に、満足しているのだ。おれは一言おまえにいっておくが、われわれの地方制度のような権利を、もし他の欧州国民に与えてごらん――ドイツ人だって、イギリス人だって、かならずそのなかから自由を引き出してくるにちがいないから。しかるにだ、われわれはこのとおりただ笑ってすましている」
「しかし、どうもしかたがないんですよ」と、ばつのわるそうな調子でレーヴィンはいった。「これはぼくの最後の試みだったんです。ぼくは全力をあげてやってみました。ぼくはだめです、ぼくにはその力がないのです」
「力がないなんてことはないよ」とセルゲイ・イワーノヴィッチはいった。「おまえの見かたがまちがってるんだよ」
「そうかもしれません」とレーヴィンは陰うつに答えた。
「それはそうと、おまえは、ニコライがまたここへ来てるのを知ってるかね?」
ニコライとは、コンスタンチン・レーヴィンの肉親の兄で、セルゲイ・イワーノヴィッチには異父弟にあたる敗残者で、巨額な分けまえを蕩尽《とうじん》して、今では奇怪至極な社会へ落ち込み、兄弟たちとも仲たがいをしてしまっている男であった。
「なんですって?」とレーヴィンは恐ろしそうに叫んだ。「どうしてそれがわかりました?」
「プロコーフィーが往来で見かけたんだよ」
「ここで、モスクワで? そしてどこにいるんです? ごぞんじでしょう?」とレーヴィンは、すぐにも出かけようとするように、いすから立ちあがった。
「ああ、おれはおまえにこんな話をしたのをくやむよ」とセルゲイ・イワーノヴィッチは、弟の興奮を見て頭を振りながら、いった。「おれは人をやって彼の居どころをつきとめて、おれがかわりに払ってやったツルービンあての、あいつの手形を送ってやったんだ。そしたら、こんな返事をよこした」
こういって、セルゲイ・イワーノヴィッチは、文ちんの下の手紙をとって、弟にわたした。
レーヴィンは親しい手跡で書かれた奇妙な手紙を読んだ――『なにとぞ小生をこのままにお捨ておきくださるようお願いいたします、これこそ小生の愛する兄弟に求めるただ一つのことであります。ニコライ・レーヴィン』
レーヴィンはそれを読み終わっても、頭をあげないで、手紙を手にしたまま、セルゲイ・イワーノヴィッチの前につっ立っていた。彼の心のなかでは、今や、この不幸な兄のことを当分忘れていたいという願いと、それはよくないことだという意識とがたたかっていた。
「あいつはたしかにおれを怒らせようと思っているんだ」と、セルゲイ・イワーノヴィッチはつづけた。「だが、おれを怒らせることはあいつにはできない。それどころか、おれは衷心《ちゅうしん》から彼を助けてやりたいと思っているのだ、しかし、それができない相談であることも、おれはよく承知しているのだ」
「そうです、そうです」こうレーヴィンはくりかえした。「ぼくはあの人にたいする兄さんの態度を、理解もし尊重もしています。でも、ぼくはあの人のところへ行ってみます」
「行きたければ行くがいい、しかし、おれはすすめはしないよ」とセルゲイ・イワーノヴィッチはいった。「つまりおれの問題としては、おれはなにも恐れはしない――あいつにもまさか、おまえとおれとの仲をさくようなことはできまいからね。けれど、おまえのためには、行かないほうがいいと忠告する。しょせん救うことはできないんだからね。しかし、まあ好きなようにするがいいがね」
「いやまったく、救うことはできないかもしれませんね、でもぼくは、とくに現在では――いや、これは別問題ですけれど――自分が平気ではいられまいということを、とくに痛切に感じるのですよ」
「うん、それはおれにはわからないが」と、セルゲイ・イワーノヴィッチはいった。「しかし、これだけはわかっている」と、彼は言いたした。「これは謙遜の教訓だよ。おれは弟のニコライが今のような人間になってからというもの、いわゆる卑賎なる人間にたいして、これまでとはまったく違った寛大な見かたをするようになったからね――おまえはあいつのしたことを知ってるだろう」
「ああ、それは恐ろしいことです、恐ろしいことです!」と、レーヴィンはくりかえした。
セルゲイ・イワーノヴィッチの従僕《じゅうぼく》から兄のアドレスを受け取ると、レーヴィンはさっそく出かける支度をしたが、また考えなおして、この訪問を夕方までのばすことにした。彼は、何をおいてもまず、精神の平安をうるために、わざわざモスクワまで出て来た用件を解決してしまわねばならないと考えた。レーヴィンは、兄のもとからすぐオブロンスキイの役所へ乗りつけ、そこでスチェルバーツキイ一家の様子を知ると、こんどはさらに、キティーに会えるであろうと教えられた場所をさして馬車を駆ったのである。
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九
四時に、自分の心臓の鼓動を感じながら、レーヴィンは動物園の入口でつじ馬車をおりて、小道をスケート場と雪山のほうへととって進んだ。車寄せでスチェルバーツキイ家の箱馬車を認めたので、そこへ行けば、てっきり彼女に会えると思いながら。
からりと晴れた、凍《い》ての強い日であった。車寄せには箱馬車や、橇《そり》や、つじ待ち橇や、憲兵たちが列をなして立っていた。身ぎれいにした人々は、ほがらかな陽光に帽子を光らせながら、入口のところや、棟木《むなぎ》に彫刻をほどこされたロシヤふうの小屋のあいだの、掃き清められた小道などにむらがっていた。雪のために枝をしだれた園内の茂った白かばの老樹どもは、さながら新しい、荘重な法衣《ころも》を着かざってでもいるようにながめられた。
彼は、小道づたいにスケート場のほうへ行きながら、自分にいった――『あわててまごつかないように、気をおちつけて。何をいってるんだきさまは? 何をどうしようというのだきさまは? だまれ、ばか者』こう彼は自分の心臓にむかって叫んだ。が、こうして自分をしずめようとすればするほど、彼は呼吸がつまるようであった。知人は彼を見ると声をかけたが、レーヴィンはそれがだれであったかさえ気づかなかった。彼は、あがりさがりする小橇の鎖がきしったり、小橇のすべる音がしたり、愉快げな人声がひびいたりしている雪山のほうへ近づいて行った。彼はなお進んだ。と、彼の前にスケート場が展開されて、彼はすべっている大ぜいの人のなかに、すぐさま彼女の姿を見つけた。
彼は、彼の心臓をつかんだ歓喜と恐怖とによって、彼女のそこにあることを知ったのである。彼女は、ひとりの婦人と話しながら、スケート場の向こうの端に立っていた。彼女の服装にも、姿勢にも、かくべつ変わったところはないように見えた。けれども、レーヴィンにとっては、こうした群集のなかで彼女を見いだすことは、いらくさのなかでばらを見いだすようにたやすかった。万象が彼女によって輝いていた。彼女は周囲のすべてを照らす微笑であった。『ほんとにおれは氷の上をあすこまで、彼女のそばまで行けるだろうか?』と彼は考えた。彼女のいる場所は、彼には近づくべからざる聖地のように思われたので、一瞬間、彼はこのまま引き返そうとすら考えた――それほど恐ろしくなったのだった。したがって彼は、彼女の周囲にあらゆる人々が歩きまわっている以上、彼自身もそこへスケートに行ってさしつかえないわけであると判断するまでには、自分にたいしてかなりの努力をしなければならなかった。彼は、まるで太陽でも見るように、長く彼女を見つめることをさけながら、下のほうへおりて行った。けれども、彼女の姿は太陽のように、見ないでもそれとわかっていた。
一週のうちでも、この日この時刻には、お互いに顔見知りの同じサークルの人々が氷の上に集まるときであった。そこには、腕まえを誇るスケートのくろうと連も、いすの背につかまっておっかなびっくりのまずいかっこうですべりかたを習っている連中も、子供たちも、また健康上の目的からすべっている年より連中もいた。そしてそれらの人々はそこに、彼女の身近にいたために、みんながみんな選ばれたる幸福者のように思われた。しかも、すべっている人たちは、ひとり残らずいたって平気で、彼女に追いついたり追いこしたり、言葉をまじえたりさえしながら、彼女にはぜんぜん無関心に、ぐあいのいい氷と、恵まれた天候とを、利用し享楽しているように思われた。
キティーの従兄弟《いとこ》のニコライ・スチェルバーツキイは、短いジャケットに細いズボンといういでたちで、両足にスケートをつけたまま、ベンチに腰をおろしていたが、レーヴィンを見つけると、声をかけた――「よう、ロシヤ一のスケーター! いつ来たんです? すてきな氷ですぜ。スケートをおつけなさいよ」
「ぼく、スケートがないんですよ」とレーヴィンは、彼女を前にしてのこの勇気と無関心とにわれながら驚く一方に、彼女のほうは見なくていながら、一秒間も彼女を視野から失わないで答えた。彼は、太陽がしだいに近づいてくるような感じをおぼえた。彼女は隅のほうにいたが、そのとき深い編みあげ靴をはいた細い足をあぶなかしげに踏んで、明らかにびくびくもので、彼のほうへすべって来た。ロシヤ服を着たひとりの少年が、地面へつくほどに身をかがめて、やけに両手を振りまわしながら、彼女を追いこした。彼女のすべりかたもあまり確かでなかった。ひもでつるした小さいマフから両手を出して、それを万一に備えていたが、彼のほうを見て、レーヴィンと気づくと、彼と自分のおくびょうとにたいして、にっこりとほほえんで見せた。転回が終わると、彼女は弾力ある片足でぐいとひと突きくれて、ま一文字にスチェルバーツキイのほうへすべって来た。そしてその手にすがって、にっこりしながら、レーヴィンにえしゃくをした。彼女は、彼が想像していた以上に美しかった。
彼女のことを思うとき、彼は彼女の全容を、わけても、形のいい処女らしい肩の上にいかにも軽快にのせられている、明色の髪をもった小さい頭の、子供らしい明るさと善良さとのみちあふれた美を、いきいきと心に描きだすことができた。彼女の顔の表情の子供らしさは、その容姿の妙なる美と相まって、彼がよく理解した特別の魅力を構成していた。けれども、なかでもいつも、思いがけぬもののように彼を驚かしたのは、彼女の柔和な、もの静かな、真実のこもった目の表情と、とりわけその微笑とであって、その微笑とともに、レーヴィンはいつも、魔術の世界へとつれて行かれるのだった。そして彼は、幼い時分にさえめったにはなかったほどな、優しい感動的なものとして、自分自身を感ずるのであった。
「もう前からこちらへ来ていらしったんですの?」と彼女は、彼に手を与えながらいった。そして彼が彼女のマフのあいだからおちたハンケチを拾いあげてやると、「どうもすみません」と言いそえた。
「ぼくですか! ぼくはついまだ、昨日……いや今日です、つまり……着いたばかりで」とレーヴィンは、心の動揺のためにちょっと問いの意味を解しかねて、答えた。「じつは、お宅へお伺いしたいと思ったんですが」と彼は言いすすんだが、と、たちまちまた、自分が彼女をさがしている用件のなんであるかを思い出し、どぎまぎして、まっかになった。「ぼくは、あなたがスケートをなさるとは知りませんでした。しかもこんなにみごとになさろうとは」
彼女は、あたかも彼の混乱の原因を見きわめようとでもするように、注意ぶかくじっと彼を見つめた。「あなたのおほめのお言葉は尊重しなければなりませんわね。あなたが第一流のスケーターでいらっしゃることは、いまだにこちらでは評判ですから」こう彼女は、黒い手ぶくろに包まれた小さい手で、マフについた霜の花をはらい落としながら、いった。
「ええ、ぼくも一時はずいぶん熱心にやったものです――完成の域にまで達してみたいと思いましてね」
「あなたは何事でも熱心におやりなさいますのね」と、彼女はえみをふくみながらいった。「わたくし、あなたのおすべりになるところがぜひ拝見しとうございますわ。さあスケートをおつけあそばせな。そしていっしょにすべってくださいまし」
『いっしょにすべる! そんなことがありうることだろうか?』こうレーヴィンは、しげしげと彼女を見ながら考えた。
「じゃ、すぐつけて来ます」と彼はいった。
そして彼はスケートをつけに行った。
「久しくお見えになりませんでしたね、だんな」とスケート場の男は彼の足をささえて、かかとに木ねじをねじこみながらいった。「だんなのおいでがなくなってから、だんながたのなかにゃ、先生株はひとりもないんですよ。さあ、これでよろしゅうございますかね?」と、革ひもを引きしめながら、彼はいった。
「よし、よし、どうか早くしてくれたまえ」とレーヴィンは、おのずと顔へうかび出てくる幸福の微笑を、けんめいにおさえながら答えた。『そうだ』と彼は考えた。『これが人生なんだ、これが幸福なんだ! いっしょに、って彼女はいった、いっしょにすべってくださいましなんて。いっそ、いまいってしまったらどうだろう? だが、おれはいま幸福なんだから、希望だけででも幸福なんだから、ちょっと言いだすのがこわい気がする……もし、万一?……いや、しかし、いわなくちゃならん! いわなくちゃ、いわなくちゃ! 弱気なんか追っぱらわなくちゃならん!』
レーヴィンは立ちあがって外套をぬぎ、小屋のそばのざらざらした氷の上をひと通りすべりまわって、なめらかな氷の上へかけ出すと、それからはまるで、速度を早めるもゆるめるも、また方向を転ずるも、心のままといったぐあいに、やすやすとすべりはじめた。彼は内心びくびくもので、彼女のほうへ近づいて行った。が、彼女の微笑は、ふたたび彼の心をおちつかせてくれた。
彼女は彼に手を与えた。そして彼らはならんで、しだいに速度を加えながら、すべった。速度が加わるにしたがって、ますます強く彼女は彼の手を握った。
「あなたとごいっしょなら、わたくしすぐ上手になれるような気がいたしますわ、なんですかわたくし、あなたが一ばん頼もしいんですもの」こう彼女は彼にいった。
「ぼくも、なんですよ、あなたがよりかかっててくださると、よけい自分が力強い気がするんですよ」と彼はいった。が、すぐ、自分のいったことにびっくりして、顔をあかくした。じっさい、彼がこの言葉を口にするやいなや、太陽が密雲のかげへ隠れるように、みるみる、彼女の顔つきはあらゆる親しさを失ってしまった。そしてレーヴィンは、彼女の顔に思考上の努力を意味する見おぼえのある表情――そのなめらかな顔にしわのもりあがるのを認めた。
「何かお気にさわったことでもあるんじゃないですか? こんなことおたずねする資格はないんですが」と彼は早口にいった。
「あら、どうしてですの?……いいえ、べつに気にさわったことなんかございませんわ」と彼女は冷やかな調子で答えて、すぐに言いたした。「あなたは、リノン嬢にお会いになりませんでして?」
「いえ、まだです」
「ではあのかたのほうへいらっしゃいましよ、あのかたとてもあなたがお好きなんですから」
『これはなんたることだ? おれはこの女を怒らしてしまった。ああ神よ、われを助けたまえ!』とレーヴィンは思った。そして、ベンチに腰かけて休んでいた白髪頭の年とったフランス婦人のほうへすべって行った。彼女は、笑顔になって義歯《いれば》を現わしながら、古い友だちのように彼を迎えた。
「ええ、お互いに変わりますよ」と彼女は彼に、目でキティーのほうを示しながらいった。「そして年をとりますわ。Tiny bear(一ばん小さい熊)までが、もう大きくなっておしまいなすったんですものね!」とフランス婦人は、笑いながら言葉をつづけて、彼に、彼がイギリスの昔話から思いついて三つの熊と名づけた三人の令嬢についてのたわむれを、思い出させた。「覚えてらっしゃるでしょう、よくそうおっしゃったことがありましたわね?」
彼には少しもその記憶がなかったけれども、彼女は、もう十年このかたこのしゃれを笑って、それを好んで用いていたのである。
「さあ、いらっしゃいまし。すべりにいらっしゃいまし。うちのキテイーもスケートが上手におなりあそばしましたよねえ、そうじゃございませんか?」
レーヴィンがキティーのほうへかけもどったときには、彼女の顔のいかめしさはもはや消えて、その双《そう》のひとみは前のように、実意をこめて優しく彼を見た。けれどもレーヴィンには、その優しさのうちにどこやら普通でない、ことさらに平静をよそおったような調子が感ぜられた。彼はわびしい気持になった。彼女は自分の昔の家庭教師のことや、その一ぷう変わったところやらについて語ってから、彼の生活について尋ねた。
「田舎にいらして冬はおたいくつではございませんこと?」と彼女はいった。
「いいえ、たいくつなんかしませんよ。ぼくは非常に忙しいんですから」と彼は、彼女が自分を彼女の穏やかな調子のなかへまきこんでしまって、ちょうどこの冬の初めにもそうであったように、そこからのがれられなくしてしまうような気持を感じながら、いった。
「こんどは長くご逗留《とうりゅう》のおつもりですの?」とキティーは彼にきいた。
「ぼくにもわからないんです」と彼は、自分が何をいっているのかも考えないで答えた。自分がもしこの穏やかな、友情的な調子にまきこまれてしまうようなことがあったら、自分はまたぞろ、なんの解決をもつけないで帰ってしまうことになるのだ。こういう考えがちらと頭にうかんだので、ひとつそれにぶっつかってみようと覚悟をきめた。
「どうしておわかりになりませんの?」
「わからないんです。じつはあなたしだいなのですから」と彼はいった。そしてすぐ、われとわが言葉におじけをふるった。
彼の言葉を聞かなかったのか、それとも聞こうとしなかったのか、とにかく彼女は、つまずきでもしたように二度ほど足をばたばたいわせ、急いでわきのほうへすべって行った。彼女は、リノン嬢のほうへすべって行き、何やらふた言み言話すと、婦人たちが靴をぬいでいた小屋のほうへ行ってしまった。
「ああ、おれはなんということをしたのだ! ああ、神さま! わたしを助けてください、わたしに教えてください!」レーヴィンは、祈ると同時にはげしい運動の要求を感じ、内に外に円を描いてすべりまわりながら、つぶやいた。
このとき、若い連中のひとりの、新しいスケーター中での巧者なひとりが、たばこをくわえたままスケートをつけてカフェーから出てくると、勢いよく走りだし、ものすごい音をたててとびはねながら、スケートのまま階段を下へかけおりた。彼は飛ぶように下のほうへかけおり、そして、両手の自然な位置さえ変えないで、氷の上をすべりだした。
「いや、こいつは新型だ!」とレーヴィンはいった。そして、この新型を試みるべく、すぐさま上のほうへかけあがって行った。
「けがでもするといけませんよ。なれないとだめですぜ」とニコライ・スチェルバーツキイが彼に叫んだ。
レーヴィンは階段の上へあがり、そこからせいいっぱいかけだすと、不なれな動作のなかに両手で平均をとりながら、下のほうへ飛びおりた。最後の階段で、彼はつまずいた。そして氷に手をつきそうにしたが、はげしい動作で姿勢を回復すると、笑いながらさきへすべって行った。
『気持のいいかた、なつかしいかた!』とキティーはこのとき、リノン嬢といっしょに小屋を出ながら、愛する兄にでもたいするように、静かな情のこもった微笑をふくんで、彼のほうを見ながら考えた。『では、わたしがわるいのだろうか、わたしが何かいけないことをしたのだろうか? みんなはいう――コケットだって。わたし愛しているのがあのかたでないことは、わたしにもよくわかっているわ。だけど、やっぱりわたしには、あのかたといっしょにいるのが楽しいわ。あのかたは、あんなにいいかたなんだもの。ただあのかたは、どうしてあんなことをおっしゃったのだろう?……』こう彼女は考えた。
帰り去ろうとするキティーと、それを階段で迎えた母親とを見かけると、レーヴィンは、激烈な運動のあとのまっかな顔をしたまま、立ちどまって考えこんだ。やがて彼は、スケートをはずして、園の出口で母娘に追いついた。
「まあ、よく出ていらっしゃいましたわね」と、公爵夫人はいった。「以前のとおり、木曜日を接客日にしておりますからね」
「しますと、今日のわけですね?」
「ですからどうぞ、お待ちしますよ」とかわいた調子で、公爵夫人はいった。
このかわいた調子がキティーを悲しませた。彼女は、母親のそっけなさをおぎないたいという願いをおさえることができなかった。彼女は頭をふり向けて、笑顔をかしげていった――
「では、のちほど」
このときステパン・アルカジエヴィッチが、帽子を横かぶりにして、顔と目とを光らせながら、元気のいい勝利者のようなかっこうで園へはいって来た。けれども、姑《しゅうとめ》のそばまでくると、彼は急に悩ましげな、きまりわるそうな顔つきをして、ドリーの健康についての夫人の質問に返事をした。もの静かな、悲しげな口調で、姑と二、三言葉をまじえてから、彼は胸をはって、レーヴィンの腕をとった。
「さあ、そろそろ行こうじゃないか?」と彼はたずねた。「ぼくはしじゅう、きみのことばかり考えてたよ、だからぼくは、きみの来たのがうれしくてうれしくてたまらないんだ」こう彼は意味ありげな顔つきで、相手の目に見いりながらいった。
「行こう、行こう」と幸福なレーヴィンは、いまいわれた――『ではのちほど』という声のひびきと、それをいったときの彼女の笑顔とを、いつまでも心にくりかえしながら答えた。
「『イギリス亭』がいいか、それとも『エルミタージュ』か?」
「ぼくはどちらでもかまわん」
「じゃ、『イギリス亭』にしよう」とステパン・アルカジエヴィッチは、『エルミタージュ』よりも『イギリス亭』のほうによけい借りがあったので、『イギリス亭』のほうを選んでこういった。彼は借金のためにこの料理屋をさけるのを、よくないことと考えたのである。
「きみはつじ馬車が待たせてあるんだね? そいつはよかった、ぼくは馬車を返してしまったから」
通りを行くあいだ、ふたりの友だちはおし黙っていた。レーヴィンはキティーの顔に現われたあの表情の変化が何を意味するかを考えながら、ときには、希望はあるとみずから信じてみたり、ときには、絶望の淵にのぞんで、自分の希望は狂的であると、明らかに感じたりした。しかし、そのなかでも彼は、自分をまるで別の人になったように――彼女の笑顔と、|ではのちほど《ヽヽヽヽヽヽ》という言葉とを見聞きする前の自分とは、似ても似つかぬ別の人になったように感じていた。
ステパン・アルカジエヴィッチは、みちみち、晩餐の|メニュー《ヽヽヽヽ》を考案していた。
「きみはたしかひらめが好きだったね?」と彼は、料理屋へ乗りつけたところで、レーヴィンにいった。
「なに?」とレーヴィンは問い返した。「ひらめ? ああ、ぼくひらめは大好物だよ」
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十
オブロンスキイといっしょにホテルへはいったとき、レーヴィンは、相手の顔にも、姿全体にも、抑圧された光輝とでもいったような、特殊な表情の現われているのを、認めないではいられなかった。オブロンスキイは外套をぬぎ、帽子を横かぶりにしたまま、まつわるようについてくる、燕尾服《えんびふく》を着てナプキンを手にしたダッタン人どもに用を言いつけながら、食堂へ通った。そして、そこに来あわせていて、どこででもそうであるように、喜ばしげに彼を迎えてくれる知人たちに、右となく左となくえしゃくしながら、スタンド(酒売台)のほうへ歩みより、小魚でウォーツカを一杯ひっかけると、リボンや、レースや、カール(巻き髪)で飾りたてて帳場の向こうにすわっていたフランス娘に何かいって、彼女をひどく笑わせた。レーヴィンはただひとつ、全身他人の髪や、poudre de riz(米の粉)や、vinaigre de toilette(化粧酸)でできているようなこのフランス娘が気にいらないというだけの理由で、ウォーツカには手を出さなかった。彼は、けがれた場所からのがれるように、急いで彼女のそばをはなれた。彼の全心は、キティーについての思い出にみたされて、その目には、勝利と幸福との微笑が輝きあふれていた。
「こちらへ、閣下、どうぞ、こちらがお静かでよろしゅうございます。閣下」と、しりが大きいので燕尾服のすそがその上でぱっと開いている年とった白髪頭のダッタン人が、とくにまつわりついてきていった。「どうぞ閣下」と彼はレーヴィンにもいった。ステパン・アルカジエヴィッチにたいする尊敬のしるしとして、その客にも追従《ついしょう》することを忘れないで。
青銅のつり燭台の下の、もうちゃんとテーブルクロースのかかっていた円テーブルの上へ、またたくまにさっと新しいテーブルクロースをひろげてから、彼はびろうど張りのいすをそろえ、ナプキンとメニューとを手にして、ステパン・アルカジエヴィッチの前に立ちどまり、注文を待った。
「もしなんでございます、閣下、別室のほうがおよろしければ、じきあきますでございますから――ゴリーツィン公爵がご婦人のかたと来ていらっしゃいますので、それからちょうど、牡蠣《かき》の新しいのがまいっておりますが」
「うん! 牡蠣か」
ステパン・アルカジエヴィッチは首をひねった。
「どうだろう、ひとつ予定を変更してみたら、ねえレーヴィン?」と彼は、メニューの上へ指を突いたままで、いった。彼の顔つきはまじめな躊躇《ちゅうちょ》を現わしていた。「牡蠣は上等なのかね? よく吟味してくれなくちゃこまるぜ」
「フレンスブルグのでございます、閣下。オステンドのじゃございませんから」
「フレンスブルグはフレンスブルグだろうが、新しいかね?」
「昨日まいったばかりでございます。はい」
「じゃひとつ、牡蠣からはじめてみるとするか。そのあとで、予定をそっくり変えてもいいから。ええ?」
「ぼくはどちらでもいいよ。ぼくはキャベツ汁とカーシヤ(麦粥)さえあればけっこうなんだ。だが、そいつはここじゃできまいからね」
「カーシヤ・ア・ラ・リュス(ロシヤふうの)お申しつけでございますか?」とダッタン人は、赤子にものをいう乳母のように、レーヴィンの上へかがみこみながらいった。
「いや、冗談は抜きにして、きみの選ぶものでかまわんよ。ぼくは氷の上をすべりまわったんで、腹がへってるんだ。だから」と彼は、オブロンスキイの顔に不満の色を読んで、言いたした。「ぼくがきみの選択を尊重しないなんてことは考えないでくれたまえ。ぼくは喜んでなんでも食うよ」
「いうにゃおよぶだね! なんといっても食うというやつは、人生の喜びのひとつだからね」とステパン・アルカジエヴィッチはいった。
「それではね、きみ、ひとつわれわれに、牡蠣を二……いや足りないかな……三十ばかりと、それから野菜の根入りスープと……」
「プレンタニエルでございますな」とダッタン人はひきとっていった。が、ステパン・アルカジエヴィッチは、フランス語で料理の名をいう満足をこの男に与えるのがいやだったらしい。
「根入りのだよ。わかってるだろう? それから、濃いソースをかけたひらめと、それから……ローストビーフ。これもよく吟味してね。さあ、クーポン(去勢鶏《きょせいどり》)もよかろう、それから罐詰《かんづめ》の果物と」
ダッタン人は、料理をフランス呼びにしないステパン・アルカジエヴィッチの癖を思い出したので、彼にむかってそれをくりかえそうとはしなかったが、ひそかに全部の注文を、表によって読みかえす満足だけは捨てなかった。――『スーブ、プレンタニエル、チュルボーソース、ボマールシェ、プラルド、ア レストラゴン、マセドアヌ、ドゥ フリュイ……』そして手ばやく、ばね仕掛けのように、閉じてあるメニューを下において、もう一つのワイン・リストを取り上げ、それをステパン・アルカジエヴィッチの前へさし出した。
「何を飲むかね?」
「ぼく――なんでもいいよ。ただ少しありゃいい……シャンペンでも」とレーヴィンはいった。
「なに? はじめから? だが、しかし、けっこうだよ。きみは白封が好きだったかね?」
「カシェ ブラン」とダッタン人がひきとっていった。
「じゃ、その印のを、牡蠣《かき》といっしょに持って来てくれ、あとはあとのことにして」
「かしこまりましてございます。で、卓酒《たくしゅ》はなんにいたしますでしょうか?」
「ニュイをくれ。いや待てよ、やっぱりいつものシャブリのほうがよかろう」
「かしこまりました。|あなたさま《ヽヽヽヽヽ》のチーズは、お命じでございましょうな?」
「そうだ。パルメサンを。それともきみは、ほかのがいいかね?」
「いや、ぼくはなんでもいい」と微笑をおさえかねて、レーヴィンはいった。
ダッタン人は、服のしっぽをひらひらさせながらかけだして行き、ものの五分とたたない間に、真珠色した殻《から》の上で肉を開いた牡蠣の皿《さら》とびんとを指のあいだにはさんで、飛ぶようにひっ返して来た。
ステパン・アルカジエヴィッチは、のりのきいたナプキンをもんで、それをチョッキの胸にはさみ、らくらくと手をのばして、牡蠣にとりかかった。
「だが、わるくないね」と彼は銀製のフォークで、真珠色の貝がらから汁気の多い牡蠣をはぎとり、それをつぎつぎとのみこみながらいった。
「わるくない」こう彼は、うるみをもって輝いた目で、レーヴィンを見たりダッタン人を見たりしながら、くりかえした。
レーヴィンは牡蠣もたべたが、彼にはチーズつきの白パンのほうが口に合った。その間も彼は、オブロンスキイの様子を、興味をもってながめていた。びんの栓《せん》をぬいて、美しく光るぶどう酒をじょうごの形の薄いコップについでいたダッタン人までが、さも満足らしい微笑をうかべて、その白ネクタイをなおしながら、ステパン・アルカジエヴィッチの様子を見ていた。
「きみはあまり牡蠣は好きじゃないとみえるね」とステパン・アルカジエヴィッチは、シャンペン酒杯をぐっとあおりながら、いった。
「それとも何か、気になることでもあるのかね? ええ?」
彼はレーヴィンに、元気にしていてもらいたかった。ところがレーヴィンは、元気がないというのではないが、なにやらおちつきがなかった。彼の心にある一事のために、彼にはこうした料理店などで、女づれの連中などが食事をしている別室のあいだにはさまって、こうした混雑と喧騒のなかにいるのが、心苦しく気づまりだったのである。青銅の器物、鏡、ガス、ダッタン人――それらのものが、すべて彼には快くなかった。彼は、彼の心をみたしているものをけがすのをおそれたのである。
「ぼく? そうだよ、ちょっと気になることがあるんだよ。だが、そればかりじゃない、ここのものが何もかも、ぼくには気になってならないんだよ」と彼はいった。「きみにはおそらく想像もつくまいが、田舎者であるぼくにとっては、ここにあるいっさいのものが、こっけいでならないんだ。ちょうど、きみのところで会った、あの紳士のつめのようにね……」
「うん、ぼくも、あの気の毒なグリネーヴィッチのつめが、ばかにきみの興味をひいたらしかったことには、気がついてたよ」と、ステパン・アルカジエヴィッチは笑いながら応じた。
「ぼくはたまらない」と、レーヴィンは答えた。「まあきみ、ひとつ努力してぼくの身になり、田舎者の観察点に立ってみたまえ、われわれ田舎にいる者は、自分の手をできるだけ、働くのに便利なようにしようとつとめている。そのためには、つめも切れば、ときには袖もまくりあげる。ところがここでは、みんなの人が、わざとのばせるだけつめをのばし、小皿大の飾りボタンをつけて、手では何ひとつできないようにしている」
ステパン・アルカジエヴィッチは快活に笑った。
「それはつまり、あの男には、荒っぽい仕事が必要でないという証拠さ。あの男には、頭がはたらけばいいのだからね……」
「それはそうだろう。しかし、ぼくにはやはりこっけいだよ。ちょうど今、われわれのしていること――つまりわれわれ田舎者は、すこしも早く仕事にとりかかれるようにと、大急ぎで飯をかっこむのに、ぼくはいまきみと、早く満腹しまいとして、そのために牡蠣などをほじくっている。このことがぼくにおかしいと同じように、おかしいのだ……」
「うん、もちろん、しかりだ」と、ステパン・アルカジエヴィッチはひきとっていった。「けれど、そのなかにこそ、教養の目的もあるんじゃないか――つまり、あらゆるものから快楽を作り出すということが」
「さあ、もしそれが目的であるとしたら、ぼくは野蛮人であるべく願うね」
「だからきみは野蛮人だよ。レーヴィン一家の者はことごとく野蛮人だよ」
レーヴィンは太息をついた。彼はニコライ兄のことを思い出した。と、彼には、気恥ずかしく胸が痛くなってきたので、つい顔をくもらした。が、オブロンスキイはつぎのようなことを言いだして、たちまち彼の注意を引きつけてしまった。
「ときに、どうだ、きみ、今晩われわれのところへ、つまり、スチェルバーツキイ家へ、出かけてくるかね?」と彼は、からになった、でこぼこだらけの牡蠣がらをわきへ押しやって、チーズをひきよせ、意味ありげに目を光らせながら、いった。
「ああ、きっと行くよ」と、レーヴィンは答えた。「公爵夫人はお義理で招《よ》んでくれたのだとは思うけれど」
「何をいうんだ、きみは! つまらんことを! あれはあのひとの癖なんだよ……ああ、おいきみスープをくれスープを!……あれはあのひとの癖なんだよ、grande dame(貴婦人)一流のね」とステパン・アルカジエヴィッチはいった。「ぼくも行くが、ぼくはボーニナ伯爵夫人の合唱練習会へ行かなくちゃならんのでね。それはそうと、どうしてきみが野蛮人でないだろう? きみが急にモスクワからどろんをきめた一条などは、なんと説明したらいいんだろう? スチェルバーツキイ家の人たちは、ぼくにしょっちゅうきみのことをきいていた、まるでぼくが知っていなくちゃならぬことかなんかのように。ところが、ぼくの知ってるのは、ただ――きみはいつでも、だれもがしないことをする人だということだけだ」
「うん」とレーヴィンはゆっくりと、情のたかぶった調子でいった。「きみのいうとおり、ぼくは野蛮人だ。けれども、ただ、ぼくの野蛮性は、ぼくが逃げだしたことにあるのではなくて、ぼくがこんど出て来たことにあるのだよ。ぼくがこんど出て来たのは……」
「おお、きみはなんという幸福な男だ!」とステパン・アルカジエヴィッチは、レーヴィンの目を見ながらひきとった。
「なぜ?」
「駿馬《しゅんめ》はその烙印《らくいん》によって知られ、恋する若人はその目によって知らるさ」とステパン・アルカジエヴィッチは朗読口調でいった。「きみはいいさ、いっさいが未来にあるんだから」
「じゃあ、きみはもう過去の人とでもいうのかね?」
「いいや、まさか過去ではないけれど、きみに未来があるにたいして、ぼくには現在があるのみさ。しかもその現在たるや――まるで浮きつ沈みつの状態だからね」
「どういうわけで?」
「とにかく、かんばしくないんだ。だが、ぼくは自分のことは話したくない、それにまた、いっさいを説明するなんてことは、とてもできないことだからね」と、ステパン・アルカジエヴィッチはいった。「ところで、きみはなんの用でモスクワへ出て来たんだい?……おい、片づけてくれ!」と、彼はダッタン人に叫んだ。
「もうわかってるだろう?」とレーヴィンは、底光りのする目をステパン・アルカジエヴィッチの顔からはなさないで答えた。
「わかってはいるさ、でも、ぼくから切り出すわけにいかないからね、これだけいえば、もうきみは、ぼくの推察が正しいかどうかはわかるはずだ」と、うす笑いをうかべてレーヴィンを見ながら、ステパン・アルカジエヴィッチはいった。
「じゃあ、きみの観祭はどうだね?」とレーヴィンは声をふるわして、顔面の筋肉という筋肉がことごとくふるえているのを感じながら、いった。「きみはそれをなんと見るね?」
ステパン・アルカジエヴィッチは、レーヴィンから目をはなさないで、おもむろにシャブリ酒のコップを飲みほした。
「ぼく?」とステパン・アルカジエヴィッチはいった。「ぼくには、これ以上の願わしいことはなんにもないよ、なんにも! これは望みうることのなかでの最もいいことだ」
「いやしかし、それはきみが思いちがいをしてるんじゃないかね? われわれがいま話してるのはなんのことか、きみは知ってるんだろうね!」とレーヴィンは、相手の顔を刺すように見ながらいった。「きみはこれをできることと思うのかね?」
「できることと思うね。どうしてできないことがあるんだい?」
「いや、きみは確かにそう思っているのかね、これができることだと? いいや、どうかきみの考えていることを、なんでも全部いってくれたまえ! ああ、しかし、万一拒絶がぼくを待っているのだったら!……ぼくにはもうちゃんとそれが……」
「なんだってきみは、そんなふうに考えるんだい?」と彼の興奮を笑いながら、ステパン・アルカジエヴィッチはいった。
「どうかすると、ぼくにはそんな気がするんだよ。だってこれは、ぼくにとっても、彼女にとっても、恐ろしいことなんだものね」
「いや、どんなことがあったって、娘にとっては、そんなことは少しも恐ろしいことじゃないよ。どんな娘だって、求婚されることは誇りにしているよ」
「そうだ、どんな娘だってもね。だが、あの女《ひと》だけは例外だよ」
ステパン・アルカジエヴィッチはほほえんだ。彼は、レーヴィンのこの感情をよく知っていたので、つまり彼にとっては、世界じゅうの少女が、きっかり二つの種類にわかれていることを知っていたので。――一方の種類、それには、彼女をのぞいた全世界の少女が属するが、それらの少女たちは、人間としての弱点をことごとくそなえている、つまりごく普通の娘たちであって、もう一方の種類は――弱点というものをいささかも持たぬ、そしていっさいの人間性を超越している彼女ただひとりなのである。
「お、待ちたまえ、ソースをかけなくちゃ」と彼は、ソースをわきのほうへ押しやりかけたレーヴィンの手をおさえながら、いった。
レーヴィンはすなおに、自分の皿へソースをかけたが、ステパン・アルカジエヴィッチには食う暇をあたえなかった。
「いや、きみ、待ってくれたまえ、待ってくれたまえ」と彼はいった。「とにかくこれは、ぼくにとって死活問題なんだからね。ぼくはいまだかつてなんぴとにも、この話をしたことはない。事実またこのことは、ほかのなんぴととも、きみと話すように話すことはできないんだ。それは、きみとぼくとはあらゆる点において他人さ――趣味も違えば、見かたも違う。すべてが違う。けれどもぼくは、きみがぼくを愛し、ぼくを理解してくれていることを知っている、そしてそのために、ぼくもきみを熱愛している。だから後生だ、いっさいを率直にぶちまけてくれ」
「ぼくは考えていることをそのまま、きみにいってるよ」ステパン・アルカジエヴィッチは、ほほえみながらいった。「ただこれ以上のことをつけ加えていえばだね――ぼくの家内――非常にえらい女だが……」ステパン・アルカジエヴィッチは、自分の妻との関係を思い出して、ため息をついた。そしてちょっと言葉をきってから、ふたたびつづけた――「あれには予見という天才があるんだ。あれは人の肚《はら》を見とおす。そればかりじゃない――あれは、未来のことをも知っている、とくに結婚問題においてそうなんだ。たとえばだ、あれはげんに、シャホフスカヤとブレンテリンとの結婚をも予言したのだ。当時は、だれひとりそれを信じようとはしなかったが、事実はやっぱりそうなった。その彼女が、すっかりきみの味方なんだよ」
「というと、つまりどうなんだ?」
「つまりあれは、きみが好きなばかりでなく、こうまでいっているのだ、キティーはきっときみの細君になるだろうって」
この言葉を聞くと、レーヴィンの顔は、みるみる感動の涙にちかい微笑で輝いた。
「あのひとがそういったって!」とレーヴィンは叫んだ。「だから、ぼくはいつもいっているんだ、あのひとはすてきだって、きみの細君というひとは。が、もうたくさんだ、この話はたくさんだ」と、彼は席を立ちあがりながらいった。
「よしよし、が、まあ掛けたまえよ」
けれどもレーヴィンは、じっとしてはいられなかった。彼はもちまえのしっかりした足どりで、鳥かごのような部屋の中を二度歩きまわって、涙を隠すために目をしばたたき、それからやっとテーブルのほうへもどって来て、ふたたび腰をおろした。
「きみもわかってくれるだろう」と彼はいった。「これが恋でないことはね。ぼくも恋をしたことはある、が、こんどのはそれとは違うのだ。こんどのはぼくの感情ではない、なんとも知れぬ外部的の力がぼくを征服してしまったんだ。さきにぼくが逃げだしたのも、それを、この世ではとうてい見られない幸福同様に、ありうべからざることだときめてかかったからなんだ。が、ぼくはさんざん自分とたたかった結果、これをよそにしては自分の生活がないということをさとったのだ。で、どうでも解決しなければならぬと思って……」
「それはそうと、逃げだしたのは、なんのためなんだい?」
「まあ、待ってくれ! ああ、ぼくは今いろんな考えが頭のなかに錯綜《さくそう》している! どれほどいろんなことをきかなければならんだろう。まあ、聞いてくれたまえ。きみは、今きみがいったことで、ぼくにどれほどのことをしてくれたのか、ちょっと想像がつかないだろう。ぼくは今、われながら心憎いほど幸福なんだ。ぼくは何もかも忘れてしまった。ぼくは今日、兄のニコライ……知ってるかねきみ、あの先生が、この土地にいることを知ったんだ……それをすらぼくは忘れてしまった。ぼくには、兄までが幸福でいるような気がするのだ。ちょっと気ちがいざただよ。が、ただひとつ恐ろしいのは……きみは妻帯者だから、この感情もわかってるだろうが……われわれのようにすでに過去……それも愛でなく罪の過去……をもっている相当な年になった人間が、急に純粋|無垢《むく》な者に接近する……ぼくはこれが恐ろしいのだ。そして、これはじつにいやなことだ。そしてそのために、ぼくは自分を無価値な人間と感ぜざるをえないんだよ」
「いや、きみなんかまだ罪の少ないほうだよ」
「いや、そうはいかんよ」とレーヴィンはいった。「そうはいかんよ。ぼくだってやはり、嫌悪の情をもって自分の生活をながめながら、ふるえ、のろい、かつ痛嘆しないではいられないよ……まったく」
「だって、しようがあるものか、世の中ってやつが、そうできてるんだもの」とステパン・アルカジエヴィッチはいった。
「ただひとつの慰めは、ぼくが常に愛唱している、功績によってわれを許したまわず、み恵みによって許したまえという、あの祈祷《きとう》のなかにあるだけだ。こうしてなら、あのひともぼくを許してくれることができよう」
[#改ページ]
十一
レーヴィンはシャンペン酒杯を飲みほした。ふたりはしばらく沈黙した。
「もうひとつ、ぼくはきみに話さなくちゃならんことがある。きみはウロンスキイを知ってるね?」と、ステパン・アルカジエヴィッチはレーヴィンにたずねた。
「いや、知らない。どうしてきみは、そんなことをきくんだい?」
「おいもう一本」とステパン・アルカジエヴィッチは、用のないときには杯にシャンペンをつぎたしたり、彼らのまわりをぐるぐるまわったりしていたダッタン人に向かって、いった。
「なぜきみにウロンスキイを知っておく必要があるかといえば、それがきみの競争者のひとりだからさ」
「ウロンスキイていうのはいったいなんだ?」とレーヴィンはいった。と同時に、彼の顔は、今オブロンスキイが見とれたばかりの子供っぽい歓喜の表情から、たちまちにして、いこじな、不愉快な表情に変わってしまった。
「ウロンスキイ――ていうのは、キリル・イワーノヴィッチ・ウロンスキイ伯のむすこのひとりで、ペテルブルグの若い金メッキ連中の最もいい標本のひとりさ、ぼくはあの男をトゥヴェーリで知ったんだ。ぼくがあすこで勤めていたときに、あの男が新兵徴募に来たのでね。おそろしく金があるうえに、美男子で、縁辺《えんぺん》は多し、侍従武官ではあるし、おまけに、きわめて愛すべき善良な男ときているのだ。いや、ただ善良なというばかりではない。ぼくがこちらへ帰ってから知ったかぎりでは、彼は教育もあり、なかなか聡明な男なのだ。いわば、まあ、どこまでも出世するほうの男さね」
レーヴィンは眉《まゆ》をひそめておし黙っていた。
「ところで、あの男がここへ来たのは、きみが帰ってから、まもなくだったのだが、ぼくの見るところでは、やっこさんキティーに首ったけというところらしい。ところが、きみも了解できるだろうが、おふくろさんが……」
「失敬だが、ぼくには何がなんだかさっぱりわからん」とレーヴィンは、陰うつに顔をくもらせながらいった。言いながら、彼はとっさに、兄のニコライのことを思い出し、今まで兄のことを忘れていられるなんて、自分はなんという卑しい人間だろうと、考えた。
「まあ待ちたまえ、待ちたまえ」とステパン・アルカジエヴィッチは笑って、彼の手にさわりながらいった。「ぼくはこれで、自分の知っているだけをきみに話したわけだが、最後にもうひとつ、この優しく微妙なる事業においては、推測の届くかぎりでは、希望はきみのほうにあるらしいことをくりかえしておく」
レーヴィンはいすの背にもたれかかった。彼の顔はまっ青であった。
「だが、なんだぜきみ、この問題は、できるだけ早く、話をつけてしまったほうがいいぜ」とオブロンスキイは、相手のシャンペン酒杯に酒をつぎたしながらつづけた。
「いや、ありがとう、だがぼくはもう飲めない」とレーヴィンは、自分の酒杯を押しやりながら、いった。「ぼくは酔っぱらっちまいそうだ……ときに、きみは近ごろどうして暮らしているね?」と彼は、明らかに話題をかえたそうな様子でつづけた。
「もうひと言――どんなことがあろうと、この問題は、一刻も早く解決をつけることだぜ、いいかね。だが、今日は言いださないほうがよかろう」と、ステパン・アルカジエヴィッチはいった。「明日の朝、出かけて行って、正面から堂々と申し込みをするのさ。神はかならずやきみを祝福してくれるよ……」
「ときにどうだい。きみはしょっちゅうぼくのほうへ、猟に来たい来たいっていっていたじゃないか? 春にはぜひやって来たまえよ」とレーヴィンはいった。
いまや彼は心から、ステパン・アルカジエヴィッチとこの話をはじめたことを悔《く》いた。彼の|特異な《ヽヽヽ》感情は、ペテルブルグの一士官との競争|云々《うんぬん》の話と、ステパン・アルカジエヴィッチの推測や勧告によって、みごとにそこなわれてしまったのである。
ステパン・アルカジエヴィッチは微笑をうかべた。彼は、レーヴィンの心におこったことをそれと察したのである。
「そのうちに出かけるよ」と彼はいった。「だがきみ、女ってやつは、いっさいのもとになっているばねのようなものだよ。げんにぼくんところもよろしくない、はなはだよろしくない。そしてこれはみな女のことに原因している。きみひとつ遠慮なくいってみてくれ」と彼は片手に葉巻をとり、片手を酒杯にかけながらつづけた。「ひとつぼくに意見を聞かしてもらいたいんだ」
「しかし、いったいなんのことだい?」
「つまり、こうなんだ。かりにさ、きみは結婚して、細君を愛している、しかるに、ほかの女に心をひかれた……」
「ちょっと待ってくれ、ぼくには、そんなことはぜんぜん理解できないよ。それはまるで、ぼくが今、満腹していながら、パン屋のそばを通って、パンを盗むと同様な話だからね」
ステパン・アルカジエヴィッチの目は、いつもよりいっそう輝いた。
「どうしてだい? パンだって、ときには、手を出さずにいられないほど、いいにおいをさせることもあろうじゃないか」
[#ここから1字下げ]
Himmlisch ist's, wenn ich bezwungen
Meine irdische Begier;
Aber doch wenn's nicht gelungen,
Haett'ich auch recht huebsch Plaisir!
地上ののぞみに
うち勝つことはりっぱだが、
よし勝てなくても
よろこびだけはある。
[#ここで字下げ終わり]
こう言いながら、ステパン・アルカジエヴィッチはにやにやと笑った。レーヴィンも、笑わずにはいられなかった。
「しかし、冗談はぬきにして」とオブロンスキイは言葉をつづけた。「きみもひとつ考えてみてくれ、女は、かわいい、従順な愛すべき生きもので、貧乏な、頼りない身の上で、何もかも犠牲にしてくれたんだぜ。それをさ、もう事ができてしまった今となってだ、はたして捨ててしまっていいものだろうか? かりに、家庭生活をみださないために別れるとしても、その女をあわれんだり、力になってやったり、慰めてやったりしてはいけないだろうか?」
「だが、まあちょっと待ってくれたまえ。きみも知ってるとおり、ぼくにとっては、いっさいの女は、二つの種類にわかれているんだ……つまり、いや……もっと適切にいえはだね――ここにある種の女があれば、そこにまた……とにかく、ぼくはまだ堕落《だらく》したりっぱな女なるものを見たことがないし、また今後も見ないだろうと思う。帳場のところにいるあの巻き髪の、まっ白に塗りたてたフランス女、あんなのはぼくから見ると、げじげじ同然だ、そして、堕落した女なんてものは、みんな、ああいったものなんだ」
「じゃ、福音書の女は?」
「ああ、よしたまえ! 後世そんな意味に悪用されると知ったら、キリストもけっしてあんなことはいわなかったにちがいない。全福音書中で、あの言葉だけが記憶されているなんて、やりきれないよ。それはそうと、ぼくは、考えてることをいってるんじゃなくて、感じていることをいってるんだぜ。ぼくは堕落した女にたいして、嫌悪の情をもっている。きみは|くも《ヽヽ》を恐れるが、ぼくはこういったげじげじを恐れる。きみだっておそらく、|くも《ヽヽ》を研究したことはなかろうから、彼らの性情を知るまい。ぼくにしたってそのとおりさ」
「きみとしては、そんなふうにいうのもよかろう。いってみれば、それは例の、めんどうな問題はいっさい左手で右の肩ごしにどしどしほうり出していく、ディケンズの小説中の紳士のようなものだからね。だが、事実の否定は、答えにはならんからね。どうしたらいいんだか、それをひとついってくれたまえな、どうしたらいいんだか? 細君はどんどん年をとってくる。しかるにきみは生活力で充満している。ちょっとあとをふり返るまもないうちに、きみはもう、細君にたいしていくら敬意をはらってみても、真の愛をもって彼女を愛することのできなくなっているのを感ずるだろう。ところへとつぜん、愛の対象が現われる。できちゃったんだ、できちゃったんだ!」と恐ろしげな絶望を声にひびかせて、ステパン・アルカジエヴィッチはいった。
レーヴィンは笑いだした。
「そうだ、できちゃったんだ」と、オブロンスキイは語をついだ。「だが、どうしてみようもないじゃないかね?」
「パンは盗むべからずだよ」
ステパン・アルカジエヴィッチは声をたてて笑った。
「おお、道徳家先生よ! だが、きみもよく考えてくれなくちゃこまるぜ。いいかね。ここにふたりの女があるとして、そのひとりはあくまで自分の権利を主張する。が、その権利たるやだ――きみの愛で、しかもそれは、きみがいかにしても彼女には与ええぬところのものなんだ。ところが、いまひとりの女は、いっさいをきみにささげて、さらになんの求めるところもないんだ。さあ、きみたるもの、どうしたらいいだろう? どう処置をつけるべきだろう? それに恐るべきドラマがあるのだ」
「そんなにきみがぼくの本意を聞きたいというなら、いうがね、そこにドラマがあるなどとは、ぼくは信じないよ。その理由はこうだ。ぼくにいわせると、愛……あのプラトーンが、例の饗宴《ヽヽ》のなかで定義しているふたつの愛――このふたつの愛が、人々のために試金石の役を勤めるんだ。一方の人々は一方のみを解し、他の人々はまた他のみを解する。そして、非プラトニック・ラブのみを解する連中は、いたずらにドラマよばわりをしているにすぎないのだ。そういう種類のラブには、いかなるドラマも生じるはずがないのだからね。つまり、おかげでたいへん愉快だった。ありがとう、さよなら、くらいのところで、それでドラマもけりなんだからね。ところがまた、プラトニック・ラブにとっても、ドラマというものはありえないのだ。なぜなら、この種類の愛にあっては、すべて明朗で純潔だから、なぜかというのに……」
この瞬間にレーヴィンは、自分の罪と、自分のへてきた心内の苦闘とを思いおこした。そして彼は、やにわにこうつけたした――
「しかし、あるいはきみが正しいのかもしれない。たしかにそうかもしれない……だが、ぼくにはわからない、てんでわからない」
「さあ、そこだよ」とステパン・アルカジエヴィッチはいった。「きみは非常に純粋な人だ。これはきみの長所でもあり、短所でもあるんだ。きみはきみ自身の純粋な性格から、全人生が純粋な現象からなりたつことを望んでいるが、そんなことは、とてもありうることじゃない。きみはまた、社会的の勤めというものを蔑視している。それはつまり、きみが仕事と目的とが常に一致することを望んでいるからなんだが、それも、じっさいにはありえないことなんだ。きみはまた、ひとりの人間の活動が、常に目的をもっていなければならんように、愛と家庭生活とは、常に同一であるべきことを望んでいる――が、これまたそうではないのだ。人生のあらゆる変化、あらゆる魅力、あらゆる美は、すべて影と光とからなっているものなんだからね」
レーヴィンは太息をついただけで、ひと言も答えなかった。彼は自分のことを考えていて、オブロンスキイの言葉には、耳をかしていなかったのである。
そこでふと彼らふたりは友人同士であって、食事をともにし、いっそう互いの親しみをまさねばならぬはずの酒まで酌《く》み交わしながら、めいめいが自分のことだけを考えていて、相手のことは少しも考えていなかったことを痛感した。オブロンスキイは、すでに幾度も、食事の後に起こるこの極端な、接近のかわりの分裂感を経験していたので、こういう場合にとるべき処置を十分心得ていた。
「勘定!」と彼は叫んで、そしてつぎの広間へ出て行ったが、そこでさっそく知り合いの副官に会って、その男を相手に、ある女優とそのパトロンとの話をはじめた。そしてこの副官との会話のうちに、たちまちにしてオブロンスキイは、いつも、理性にも感情にも異常な緊張をよぎなくされるレーヴィンとの会話にたいする、一種の緩和と休息とを感じた。
二十六ルーブリ何カペイカと、ほかにチップを加えた勘定書をもって、ダッタン人がそばへ来たとき、ほかのときなら、十四ルーブリという自分の割りまえに、田舎者らしくたまげたであろうレーヴィンも、今はそんなことには気もとめないで払いをすませ、自分の運命の決せらるべきスチェルバーツキイ家へとおもむくために、着がえをしに、ひとまず宿へ帰った。
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十二
公爵令嬢キティー・スチェルバーツカヤは十八歳であった。彼女は、この冬はじめて社交界へのりだした。社交界での彼女の成功は、ふたりの姉を凌駕《りょうが》したばかりか、公爵夫人の予期以上でさえあった。モスクワの舞踏会で踊った青年たちのほとんどすべてが、キティーに心をよせたばかりでなく、この第一年に早くも、ふたりのまじめな求婚候補者までできてしまった――レーヴィンと、彼の出立後まもなく現われたウロンスキイ伯爵と。この冬のはじめにおけるレーヴィンの出現と、その足しげき訪問と、キティーにたいする明白な愛とは、キティーの両親のあいだにはじめて起こった彼女の未来についての真剣な相談の動機ともなれば、公爵と公爵夫人とのあいだに争いを惹起《じゃっき》する原因ともなった。公爵はレーヴィンの味方で、自分はキティーのためにこれ以上の良縁は望まないといった。ところが夫人は、問題に直面することを避けたがる婦人特有の性癖から、キティーが若すぎることや、レーヴィンはまだこれといって真剣な意志表示をしたことがないことや、キティーも、彼にたいしてかくべつの感情をいだいている様子のないこと、その他いろんなことを言いだした。が、かんじんのこと、つまり彼女は、娘のためにもっとよい配偶を待っていること、および彼女自身がレーヴィンをあまり好いていないこと、したがって彼という人間がいっこうわかっていないことなどは、口に出さなかった。で、レーヴィンがとつぜん田舎へ帰ってしまったときには、夫人は非常に喜んで、勝ち誇ったような顔をして夫にいった――『そらごらんなさい、わたしのいったとおりでしょう』それから、ついでウロンスキイが現われたときには、彼女はいっそうの大喜びをしてキティーには、単に良縁であるばかりでなく、輝くばかりの結婚をさせなければならぬという、自分の意志を堅めたのであった。
母親にとっては、ウロンスキイとレーヴィンとのあいだには、いかなる比較もありえなかった。母親にはレーヴィンの一ぷう変わった峻烈《しゅんれつ》な見解も、傲慢《ごうまん》に根ざしている(と彼女は考えた)、社交界での彼の不器用さも、また、家畜や百姓相手の田舎での彼の(彼女の見解にしたがえば)なんとなく粗野な生活も、気にいらなかった。そればかりでなく、彼が彼女の娘に恋をして、ひと月半も家へ出入りしていながら、何かを待ってでもいるように逡巡《しゅんじゅん》ばかりしていて、さもさも自分のほうから申し込みをするのを、名誉を傷つけることか何かのように恐れ、年ごろの娘のある家へ出入りしながら、いわねばならぬことを解しなかった点が、わけても気にいらなかった。そのあげく、彼は一言のあいさつもなしに、ぷいと田舎へ帰ってしまった。『でも、まあよかった。あの男《ひと》があんなふうだから、キティーがあのひとを思いこんだりしなくて』と母親は考えた。
ウロンスキイは、母親のすべての希望に満足をあたえた――とほうもない金持で、聡明で、高貴で、侍従武官としてはなばなしい出世の道をもっている、おまけにとても人好きのする男である。これ以上を望むことはできなかった。
ウロンスキイは、どこの舞踏会でも、あからさまにキティーに親しみをみせて彼女と踊り、家へもしげしげ訪問して来たので、彼の求婚の真剣さを疑うことは少しもなかった。けれども、それでいて母親は、このひと冬のあいだ、恐ろしい不安と動揺のなかを彷徨《ほうこう》していた。
夫人自身は三十年前に叔母の媒酌《ばいしゃく》で結婚したのだった。もう前もって何もかも知れきっていた新郎は出かけて来て、花嫁を見、そして自分も見られた。媒酌人であった叔母も、互いにあたえあった印象を知って、それを双方へ通じた。印象はよかった。そこで定めの日に、予期された申し込みが両親になされて、承諾された。何もかもが、すらすらと簡単に運んだ。少なくとも、夫人にはそう思われた。ところが、自分たちの娘たちの場合になって、彼女は、なんでもないと思われていたこの役目――娘を縁づけるということが、いかにめんどうで困難なものであるか、ということを体験した。上のふたり、ダーリヤとナタリーを縁づけたときにも、どれほどの心配をし、どれほどの考慮をかさね、どれほどの金をついやし、また幾度夫と衝突したか知れなかった! げんにいま、末娘を嫁入らせるにあたっても、同じ心労、同じ疑惑をくりかえすばかりか、夫とは、姉たちの場合よりも、いっそう激しい争いをしなければならなかった。老公は、すべての父親同様、自分の娘たちの名誉と純潔とについては、とりわけ気むずかしかった。彼は娘たちにたいして、ことにその秘蔵娘であったキティーにたいして、常軌《じょうき》を逸して嫉妬ぶかく、そして、夫人が娘をわるくするといっては、ほとんど一歩ごとに、彼女にくってかかった。夫人は、長女のときからもうそれにはなれていたが、こんどは彼女も、公爵の気むずかしさが、前のときよりも深い根をもっていることを感じた。彼女は、近ごろは世間の風習が大きく変わって、母の務めがいっそうむずかしくなったことを認めた。彼女はまた、キティーと同じ年ごろの娘たちが、何かの会をつくったり、講習会へ通ったり、自由に男子と交際したり、自分たちだけで町を乗りまわしたり、たいていの娘が、右足をあとへ引くと同時にちょっとしゃがむ古風なおじぎをしなかったり、べっしてだれもかれもが、配偶者を選ぶのは自分たちの仕事で、親の仕事ではないと信じきったりしているのを見た。『今日ではもうだれも、今までのような結婚のしかたはしない』こうこれらの若い娘たち、いや相当年輩の人々までがみな、考えたり言ったりしている。けれども、では今の娘たちは、どんな結婚のしかたをしているかというだんになると、夫人はだれからも、聞き知ることができなかった。フランスの習慣――子供の運命は親がきめてやるべきもの――は排斥され、非難された。イギリスの習慣――娘の完全な自由――もやはり用いられず、またロシヤの社会では不可能であった。それかといって、媒酌というロシヤの習慣は、何か醜いことのように考えられて、だれもかれも、夫人自身さえもがそれをあざけり笑った。けれども、ではどうして縁づけたらいいか、どうして縁づいたらいいか、ということはだれも知らなかった。夫人がこの問題について話しあった人たちはみな、彼女に同じことをいった――「いや、今日《こんにち》はもはやあの古いしきたりを見すてるべきときですよ。だって、結婚するのは若い人たちで、両親ではありませんもの。してみれば、当人同士の好きなようにさせるのが当然でしょう」 もっとも、娘をもたぬ人たちには、こういう言いかたもけっこうであった。けれども、夫人にしてみると、娘を男に接近させれば、娘が恋をしうることを、それも結婚する意志のない男や、あるいは夫とするにたらぬ男にも恋をしうることを、思わないではいられなかった。で、夫人は、今日の若い者は自分の運命を自分で決すべきだといかに説かれても、それを信ずることができなかった。それはちょうど、よし時世がどう変わろうと、五つの子供にとっての一ばんいい玩具が、装填《そうてん》した拳銃だなどということが信ぜられないと同じように。こんなわけで、公爵夫人は、キティーのことでは姉たちのときよりも、いっそう心を痛めたのである。
そして、いまや彼女は、ウロンスキイが娘にたいして、単なる言いよりの範囲にとどまってしまうことを恐れていた。彼女は、娘が早くも彼に思いをよせているのを知っていたが、彼も名誉ある人だから、まさか不実なことはすまいと考えて、みずから慰めていた。とはいえ、それと同時に彼女はまた、近ごろの自由な交際というものが、いかにたやすく娘の頭をかき乱すか、また一般の男子の側でも、いかにその罪を軽く見ているかを知っていた。先週のこと、キティーは母親に、マズルカを踊りながらウロンスキイとかわした話をして聞かせた。その会話は、多少夫人を安心させたけれども、ぜんぜん安心してしまうわけにはゆかなかった。ウロンスキイはキティーに、彼らふたりの兄弟は、何事にも母に服従する習慣になっているので、少し重大なことになると、母に相談なしできめることはけっしてないのだと話して聞かせた。『で、今もぼくは、ペテルブルグから母のくるのを特別な幸福を待つような思いで待っているのです』こう彼はいったのである。
キティーはそれらの言葉を、べつになんの意味をもおかずに伝えた。が、母親は、それを別の意味にとった。彼女は、老母が日々に待たれていることを知り、また老母はきっと、むすこの選択を喜ぶであろうことを知った。で、彼女には、彼が母の気をそこなうのを恐れて申し込みをしないでいるのが、むしろふしぎに思われたくらいであった。しかし彼女は、みずからしいてそれを信じたほど、この結婚そのものを願い、それにもまして、自分の不安からのがれることを願っていた。で、現在、夫人にとっては、夫と別れようとしている姉娘のドリーの不幸を見ることは、かなりつらいことではあったけれども、末の娘のきまりかけている運命についての心配のほうが、彼女のあらゆる感情をのみつくしてしまっていた。それに今日は、レーヴィンの出現とともに、またひとつ新しい不安がくわわった――彼女は、レーヴィンにたいして一時はある感情をいだいていたように思われた娘が、いらぬ心づかいからウロンスキイのほうをことわりはしまいかということと、そうでなくても、レーヴィンの出て来たことが事態を紛糾させて、せっかくここまで運んでいる話を渋滞させはしまいかということを、恐れたのである。
「あの男《ひと》は、もう前から出て来てなさるのかねえ?」と、彼らが家へ帰ったときに、夫人はレーヴィンのことを言いだした。
「今日ですって、お母さま」
「わたし、ひと言いっておきたいことがあるんだがね……」と夫人は言いだした。そのまじめくさった緊張した顔つきを見ると、キティーは早くも、母のいおうとすることを察してしまった。
「お母さま」と彼女は、まっ赤に染めた顔をすばやく彼女のほうへふり向けながら、いった。「どうぞ、どうぞ、そのことなら、もう何もおっしゃらないで。わたくしわかっていますわ、何もかもわかっていますわ」
彼女は、母の願ったと同じことを願っていた。けれども、母の願いの動機が、彼女には不愉快だったのである。
「わたしの言いたいのは、ただね、一方のかたに望みをかけさせておいて……」
「お母さま、ねえ、後生ですからもうおっしゃらないで。そのことを口にするのは、ほんとに恐ろしいのですから」
「じゃあ言いますまい、言いますまい」と母は、娘の目に涙を見て、いった。「でもね、たったひと言、ねえおまえ――おまえ、わたしに約束をしましたわね、わたしにはけっして何事も隠しだてをしないって。だから、隠したりなんかはしないでしょうね?」
「えええ、お母さま、どんなことだって」と、キティーはぼうっと顔を染めて、まともに母の顔を見ながら答えた。「ですけれどわたくし、今は何もいうことがないんですもの。わたくし……わたくし……もし言いたくったって、わたくしわからないんですもの、何をどういったらいいんだか……ちっともわからないんですもの……」
『そうだ、この目でうそのいえるはずはない』こう母は、彼女の混乱と幸福とにたいしてほほえまされながら考えた。この夫人は、かれんな娘にとっては、今やその心におこっていることが、どんなにか大きな、意味ぶかいことに思われているらしいのを考えて、ほほえまされたのであった。
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十三
キティーは、食事が終わって夜会のはじまるまでのあいだに、戦場にのぞむ若者の経験するような感じを経験した。彼女の心臓ははげしく鼓動して、何ひとつ考えることもできなかった。彼女は、あのふたりが顔をあわせる今日の夜会こそ、自分の運命を決するものにちがいないことを感じていた。そして彼女は、ひっきりなしにふたりのおもかげをば、あるいは、ひとりずつ別々に、あるいは、ふたりをいっしょにして、自分の前に描いてみた。過去のことを思うときには、彼女は満足とやさしさとにつつまれて、レーヴィンと自分たちとの関係の思い出の上に低徊《ていかい》した。幼少のころの思い出と、死んだ兄とレーヴィンとの友情についての記憶は、彼と彼女との関係に特殊な詩的な美しさを添えた。彼女が信じて疑わなかった彼女にたいする彼の愛は、彼女にとってなつかしく、うれしいものであった。そして、レーヴィンのことを思うときには、彼女の気持も安易だった。が、ウロンスキイについての思い出には、彼がこのうえなく社交的な、穏やかな人だったにもかかわらず、何やらしっくりしないものが含まれていた。あたかも、何やら虚偽なものが、彼のうちにではなく――彼はいたって単純な、愛すべき人であったから、――彼女自身のうちに、あったような気がしたのである。それだのに、レーヴィンにたいしては、自分を、まったく単純な、はればれしたものとして感ずることができた。ところが、そのかわり、ウロンスキイとともにする未来のことを考えるやいなや、彼女の前には赫々《かくかく》たる幸福にみちた遠景が展開されたが、レーヴィンとともにする未来は、ただぼうっとした霧のようなものにしか思われないのだった。
夜会服に着かえるために二階へあがりながら、鏡をのぞいて見て、彼女は自分が、今日は上きげんの日のひとつに遭遇していて、目前に迫っていることのために、ぜひとも必要なありたけの力を、十分はたらかせることのできる状態にあることを認めた。彼女は自分のうちに、外面的の平静と、動作に自由なしとやかさのあるのを感じた。
七時半に、彼女が客間へおりて行くとすぐ、下僕が『コンスタンチン・ドミートリチ・レーヴィン』と披露《ひろう》した。公爵夫人はまだ自分の部屋にいたし、公爵も出て来ていなかった。『ああやっぱり』とキティーは考えた。と、全身の血が、心臓めがけてどっどっとみなぎり進んだ。彼女は、鏡をのぞいて見て、自分の顔の青さに驚いた。
今こそ彼女には、彼女のひとりいるところをとらえて申し込みをするために、彼がはやめに来たのだということが、はっきりとのみこめた。と、そこではじめて、いっさいの事柄が、ぜんぜん新しい他の半面を見せてきた。そして、彼女は、問題がけっして自分一個のことでなく――彼女がだれといっしょになったら幸福だろうとか、だれを愛しているだろうとかいうことではなくて――ただちに、愛する人を傷つけねばならないことであるのに思いいたった。それも、無残に傷つけるのだ……なんのために? 彼、その愛すべき男が彼女を愛し、彼女に恋をしているために。けれど、どうすることができよう。そうしなければならないのだ。そうならなければならないのだ。
『ああ、それにしても、わたしは自分の口から、それをあのかたにいわなければならないのだろうか?』と彼女は考えた。『わたしはあなたを愛していませんわなんて、自分であのかたにいえるかしら? それではうそをつくことになるもの。では、なんといったらいいのだろう? ほかのかたを愛していますからとでもいおうか? いいえ、そんなことはできないわ。わたし逃げだそう、逃げだそう』
彼女がもう戸口まで歩みよったときに、彼の足音が聞こえた。『いいえ、そんなことをするのは卑怯だわ。わたしに何を恐れることがあろう? わたしは何もわるいことをしたんではないもの、どうせなるようにしかならないのだわ! ほんとうのことをいってしまおう。あのかたにたいして、気まずいなんてことはありっこないから。そら、もういらした』彼女は、自分の上にじっと光った目をすえている、たくましそうな、そのくせおどおどした彼の姿を見て、こう心につぶやいた。彼女はまるで、彼に許しをこうてでもいるように、まともに彼の顔を見た。そして手をさし出した。
「いや、これはどうも、ちと早く来すぎたようですな」と彼は、がらんとした客間を見まわしていった。自分の希望どおり、だれもうちあけ話のじゃまするもののないのを見てとると、彼の顔は急に沈うつな表情をとった。
「あら、いいえ」とキティーはいって、テーブルに向かって腰をおろした。
「しかし、じつはぼく、あなたおひとりのところへと思ったもんですから」と彼は、勇気を失わないために彼女のほうは見ないで、立ったままできりだした。
「母がじきまいりますわ。母は、昨日たいへん疲れましたもんですから。昨日は……」
彼女は、自分で自分のくちびるの何をいっているかをわきまえず、また祈るような、いたわるようなまなざしを、彼からはなさないでいった。
彼は彼女を見た。彼女はあかくなって黙ってしまった。
「ぼく、さっきあなたに言いましたっけね、長くいるかどうかわからないって……それは、あなたしだいだって」
彼女は、いよいよ近づいてくるものにたいして、なんと答うべきかを知らないで、しだいに低くうなだれた。
「それはあなたしだいだって」と、彼はくりかえした。「ぼくは言いたかったのです……ぼくは言いたかったのです……ぼくはこんどは、そのために来たのです……その……ぼくの妻に、なって、いただこうと、思って!」こう彼は、自分でも何をいっているのか無我夢中で、言いはなった。けれども、一ばん恐ろしいことだけはいってしまったような気がして、言葉をきって、彼女を見やった。
彼女は彼のほうは見ないで、苦しそうな息づかいをしていた。彼女は歓喜を味わっていた。彼女の魂は、幸福でいっぱいになっていた。彼女は、彼の愛の告白が、こうまで強い感動を自分にあたえようとは、夢にも思いがけなかったのである。が、それは、ほんの一瞬間にすぎなかった。彼女はウロンスキイを思いおこした。彼女はその明るい、真実のこもった目を、レーヴィンのほうへあげて、彼の絶望的な顔を見ると、急いで答えた――
「あの、それは、そういうわけにはまいりませんの――ごめんあそばして」
一分間前まで、彼女は彼にとって、どんなに近い女だったろう。また彼の生活にとって、どんなに重要な女だったろう! が、いまや彼女は彼にとって、いかに遠く、いかに親しみの薄い女になってしまったことか!
「いや、こうなるよりほかになりようはなかったのだ」彼は彼女を見ないようにしていった。彼はおじぎをして、立ち去ろうとした。
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十四
ところが、その瞬間に、公爵夫人がはいって来た。そして、彼らがふたりきりでいたのを見、その気まずそうな顔つきを見ると、夫人の顔にはさっと、恐怖の色が描きだされた。レーヴィンは、彼女におじぎをしたきりで、なんともいわなかった。キティーは目もあげないで、黙っていた。『まあよかった、ことわったのだ』と母は思った。と、その顔は、木曜日ごとに客を迎える、あの、いつもの微笑で輝きわたった。彼女は座について、田舎生活の模様をレーヴィンにたずねはじめた。彼は、こっそり席をはずすために、客のたてこんでくるのを心まちにしながら、ふたたびそこに腰をおろした。
五分ばかりすると、キティーの女友だちで、去年の冬結婚したノルドストン伯爵夫人がはいって来た。
それはよく光る黒い目をもった、やせっぽちの、色の黄いろい、病的で神経質な女であった。彼女はキティーを愛していた。そしてその愛は、既婚婦人の処女にたいする愛がつねにそうであるように、自分の幸福とする理想どおりに、キティーを結婚させたいという願いのうちに、現わされていた。彼女は、彼女をウロンスキイにめあわせたいと願っていた。で、彼女には、この冬のはじめにしばしばこの邸で顔をあわせたレーヴィンが、とかく快くなかった。しぜん、彼と落ちあったときの彼女の、おきまりでお気に入りの仕事は、彼をからかうことであった。
「わたしはあのかたが、ご自分の偉大さという高みからわたしを見おろしたり、わたしがわからずやなもんで、話がむずかしくなると中止なすったり、かと思うとまた、わたしのところまでおりておいでになったりするのが好きなんですわ。わたしそれがとても好きなんですわ――そのおりていらっしゃるところがねえ! それにわたし、あのかたがわたしにがまんをきらしておしまいになるところを見ると、とてもうれしくてたまらないのよ」と、いつも彼女は、彼についてこんなふうにいうのだった。
彼女は正しかった。なぜなら、じっさいレーヴィンは彼女をがまんできなかったし、また彼女が誇りとし、自分の長所のように思いこんでいたもの――すなわち彼女の神経質にたいし、またすべての粗野なこと、生活的のことにたいする彼女の優雅らしい軽蔑と無関心とにたいして、彼女をさげすんでいたからである。
ノルドストン夫人とレーヴィンとのあいだには、世間によくある関係――つまり、ふたりの人が表面は親しい友だちでありながら、お互いにまじめな応待ができないばかりか、けんかもできないほどにさげすみあっているという関係ができあがっていた。
ノルドストン伯爵夫人は、さっそくレーヴィンのほうへ鋒先を向けた。
「おや! コンスタンチン・ドミートリチ! またわたくしたちの淫蕩《いんとう》なバビロンへ出ていらしたのね」と彼女は、小さな黄いろい手を彼に与えながら、冬のはじめに何かの拍子に彼が口にした、モスクワはバビロンであるという言葉を思い出して、いった。「いったい、バビロンがよくなったのですか、それともあなたが堕落あそばしたのですか?」こう彼女は、あざけるような微笑をうかべて、キティーのほうをかえりみながら、言いたした。
「いや、奥さん、あなたがぼくの言葉をそんなによく覚えていてくださるとは、ぼくとして非常な光栄ですよ」と、からくも踏みこたえたレーヴィンは、例によって早くもあの、ノルドストン伯爵夫人にたいするふざけたなかに敵意のある態度にうつりながら、答えた。「してみると、あの言葉は、よほど強くあなたに作用したものとみえますね」
「まあ、どうしてそんな! わたくしはなんでもかでも書きとめておくからですわよ。それはそうと、キティー、あなたはまたスケートをなすったのね」
そして彼女は、キティーを相手に話をはじめた。今ここを立ち去ることは、レーヴィンとしていかに無作法であっても、しかもなお彼には、この無作法をあえてするほうが、ひと晩じゅうここに居残って、ときどき彼のほうをぬすみ見ながら、彼の視線を避けているキティーを見ているよりは、気がらくであった。で、彼は腰をあげようとした。が、彼の沈黙に気のついた公爵夫人が、彼のほうを向いて話しかけた。
「モスクワへは、こんどは当分いらっしゃるつもりでおいででしたの? あなたはたしか地方自治会のお仕事をしてらしたはずですわね、それだと、長くいらっしゃるわけにはまいりませんわね」
「いいえ、奥さん、ぼくはもう自治会の仕事はしていません」と彼はいった。「こんどは四、五日の予定で出て来たのです」
『おや、この男《ひと》どうかしてるわ』とノルドストン伯爵夫人は、彼のきっとした、まじめくさった顔を見ながら考えた。『どうかしてるので、いつもの|へりくつ《ヽヽヽヽ》をならべないんだわ。だが、見ておいで、いまにわたしがひっぱり出してやるから。キティーの前でこの男をなぶりものにするのはとても好きさ。ひとつやりましょう』
「コンスタンチン・ドミートリチ」と、彼女は彼に呼びかけた。「どうぞわたしに、このわけをひとつ説明してくださいませんか――あなたはこんなことはなんでもよくごぞんじですから――じつはわたくしどもの領地のカルージュスカヤ村のことなんですがね、百姓も女たちも、ありたけのものをみんな飲んでしまって、今ではわたくしどもへ何ひとつ納めてくれないしまつなんですのよ。これはいったいどういうわけのもんでしょう? あなたはいつでも、たいへん百姓をおほめになっていらっしゃいますが」
このときまた、ひとりの婦人が部屋へはいって来た。で、レーヴィンは立ちあがった。
「ごめんください、奥さん、ぼくはまったくそんなことは少しもぞんじませんので、お答えすることもできないのです」と彼はいった。そして、婦人のあとにつづいてはいって来た軍人のほうをかえりみた。『ははあ、これがウロンスキイだな』とレーヴィンは思った。そしてそれを確かめるために、キティーの様子に目をくばった。彼女はもう、いちはやくウロンスキイの顔を見てしまって、レーヴィンのほうへ目をうつした。不用意のあいだに輝いた彼女のこのまなざしひとつで、レーヴィンには、彼女がこの男を愛していることがわかった。彼女からわざわざ口で告げられでもしたように、たしかにわかった。だが、この男はいったいどんな人物なのだろう?
今となっては――それがよくてもわるくても――レーヴィンはここにとどまらざるをえないはめになった。――彼女の愛している男がどんな人間であるか、それを、彼はどうしても知らなければならなくなった。
世には、何事によらず、自分の幸福な競争者にたいすると、つねに、相手の持っているいっさいの長所には目をつむって、ただ欠点ばかりを見ようとする人と、反対に、何はおいても、その幸福な競争者のうちに、自分にまさった性情を見いだしたく思って、心にはげしい痛みを感じながらも、ただただ長所ばかりをたずね求めようとする人とがある。レーヴィンは、この後者の部類に属していた。しかし、ウロンスキイのうちに、りっぱな、人をひきつける力を見いだすことは、彼にはいっこう困難でなかった。それはすぐ彼の目にとまった。ウロンスキイは、あまり背の高くない、体格のがっしりした、あくまでおちつきのある、気心のよさそうな、美しくひきしまった容貌をもった、髪の黒い男であった。その容貌風采は、短く刈った黒い髪や、きれいにそりあげたあごから、ゆったりとした新調の軍服にいたるまで、すべてがさっぱりとしていて、しかも同時にはなやかであった。おりから入り来たった婦人に道をゆずって、ウロンスキイはまず公爵夫人のそばへ進みより、ついで、キティーのそばへよっていった。
彼女の身近く歩みよるとともに、彼の美しい目は、ことさら優しげな光をはなった。そして、やっと目につくくらいの、幸福そうな、謙遜ななかにも勝ち誇ったような(そう、レーヴィンには思われた)微笑をたたえて、うやうやしく注意ぶかく彼女の前に身をかがめ、その大きくはないが幅の広い手を、彼女のほうへさしのべた。
一座の人々にあいさつして、ふた言み言話してから、彼は、彼から少しも目をはなさないでいたレーヴィンのほうへは目もくれずに、席についてしまった。
「ちょっとご紹介させていただきましょう」と公爵夫人は、レーヴィンをさしながらいった。「コンスタンチン・ドミートリチ・レーヴィン。伯爵アレクセイ・キリーロヴィッチ・ウロンスキイ」
ウロンスキイは立ちあがって、親しげにレーヴィンの目を見ながら、彼の手を握った。
「たしかこの冬はごいっしょに、食事をすることになっていたはずでしたが」と彼は、もちまえの単純な、うちとけた微笑を見せながら、いった。「ところが、あなたはとつぜん、田舎へお帰りになってしまったので」
「コンスタンチン・ドミートリチは、都会や、わたくしたち都会人を、軽蔑し憎悪していらっしゃるのですわ」と、ノルドストン伯爵夫人が口を出した。
「いや、どうもそんなによく覚えてらっしゃるところをみると、ぼくの言葉はよほど強く、あなたに作用したものとみえますな」とレーヴィンはいったが、それはもう前に一度いったことだったのに心づいて、あかくなった。
ウロンスキイは、レーヴィンとノルドストン伯爵夫人とを見て、えみをふくんだ。
「では、あなたはいつも田舎のほうに?」と彼はきいた。「冬はさぞごたいくつなことでしょうな」
「いや、仕事さえあれば、たいくつなことはありません。それに、自分というものには、たいくつするものではありませんからな」と、レーヴィンはずばりと答えた。
「ぼくも田舎が好きですよ」とウロンスキイは、レーヴィンの態度に気づいていながら、気づかないふりをよそおっていった。
「ですけれど、伯爵、あなたまでが田舎住まいに賛成なんかなすっちゃこまりますよ」と、ノルドストン伯爵夫人がいった。
「それはわかりませんな。長くいてみたことがないんですから。が、わたしは奇妙な感じを経験したことがありましたよ」と、彼は言葉をつづけた。「わたしはいつか母とニースで冬を送ったことがありましたが、そのときほど、樹皮靴や百姓たちといっしょに暮らすロシヤの田舎をなつかしく思ったことはありませんでしたよ。なにしろ、ニースというところは、ご承知のとおり、ところそのものがたいくつなんですからな。ナポリにしろソレントにしろ、ただちょっとの滞在にいいだけですよ。ああいうところへ行くと、ことに痛切にロシヤのことが、つまり田舎のことが、思い出されますよ。ああいうところはちょうど……」
彼は、キティーとレーヴィンとのふたりに向かって、ひとりからひとりへと、そのおちついた、親しげなまなざしを送りながら話した。明らかに、頭にうかびくるままを口にしているのだった。
ノルドストン伯爵夫人が何やら言いだしかけたのを見ると、彼は言いかけた言葉を中途でよして、注意ぶかくそれに耳を傾けはじめた。
会話は、一分間もとぎれなかった。で、話題のつきたときの用意にと、いつも二門の重砲――古典教育と実際的教育、それから一般的兵役義務というこのふたつを貯えている老公爵夫人にも、それらを持ちだす機会がなかったし、ノルドストン伯爵夫人にも、レーヴィンをからかう機会がなかった。
レーヴィンは、みんなの談話に仲間入りしたいと思いながら、できなかった。彼は、『さあ行こう』と一分ごとに心につぶやきながら、何か待っているものでもあるように、立ち去りかねていた。
話は、テーブルまわしと霊魂のことにうつった。と、降神術の信者であるノルドストン伯爵夫人が、その目にした奇跡について語りはじめた。
「ああ、奥さん、ぜひわたしをひとつお連れなすってください。ぜひともお連れなすってください。わたしはずいぶん方々たずねまわってみましたけれど、まだふしぎというものに出くわしたことがないんですから」と、微笑をふくみながらウロンスキイがいった。
「よろしゅうございます、こんどの土曜日にね」と、ノルドストン伯爵夫人は答えた。「ですけれど、コンスタンチン・ドミートリチ、あなたはお信じになって?」と、彼女はレーヴィンに問いかけた。
「なんだってまた、ぼくなんかにおききになるんですか? ぼくがなんというか、ごぞんじじゃありませんか」
「でもわたくし、あなたのご意見がうかがいたいんですもの」
「ぼくの意見はただ」と、レーヴィンは答えた。「そんなテーブルまわしなどということこそ、いわゆる教育ある社会も百姓といっこうに変わりがないということを、証明するものだというだけです。彼ら百姓は、目を信じ、まじないを信じ、妖術を信ずる。ところがわれわれは……」
「では、あなたはお信じにならないのね?」
「信じられませんね、奥さん」
「ですけれど、わたくし自身がそれを見たとしましたら?」
「百姓女でも、さも自分で見たことがあるように言いますよ」
「じゃあなたは、わたくしがうそをついているとお考えになるんですのね?」
そして彼女は、いやな顔をして笑いだした。
「あら、そうじゃないわ、マーシャ。コンスタンチン・ドミートリチは、ご自分は信じられないっておっしゃってらっしゃるだけですわ」とキティーは、レーヴィンのためにあかくなりながらいった。と、レーヴィンもそれをさとって、ますます激昂《げっこう》して答えようとした。が、そのときウロンスキイが、例のあけはなしな、愉快そうな微笑をうかべて、危うく不快なものになりそうだった会話を救いに飛びだした。
「あなたはぜんぜん、その可能を承認なさらないんですか?」と彼はきいた。「どうしてでしょう? われわれはわれわれの知らない電気の存在を認めています。としてみれば、それ以外に、まだわれわれに知られていない新しい力がありえないとどうしていえましょう、それは……」
「電気が発見された当時にはですね」と、レーヴィンはすばやくさえぎった。「それはただ、現象が発見されたにとどまって、それがどこからくるものか、また何を作るものかは不明でした。そして、その応用法の考えだされるまでには、幾世紀もかかっています。ところがどうでしょう、降神術者どもは反対に、テーブルが彼らに何かを書いてみせるとか、霊魂が彼らのほうへ降りてくるとかいうことからはじめて、後日になってから、それが未知な力だなんて言いだしたんですからね」
ウロンスキイは、明らかに彼の言葉に興味をおぼえたらしく、いつものように、注意してレーヴィンの言葉をきいていた。
「さよう、けれど降神術者たちは、今でもこういっていますよ――われわれはこれがいかなる力であるかを知らない、けれども力は存在している。そしてこれこれの条件のもとで活動しているって。この力がいかにして発生するかは、学者をして研究せしめよです。それが新しい力でありえないという理由は、ぼくにはわかりませんね。もしその力が……」
「その理由はこうです」と、レーヴィンはふたたびさえぎった。「電気の場合にあっては、あなたが樹脂を毛にこすりつけられるたびに、一定の現象が起こります。が、こちらの場合では、つねに同一というわけにはいかない――つまりそれは、自然の現象ではないということになるのです」
おそらく話が、客間向きとしてあまり堅くなりすぎたとでも感じたのであろう、ウロンスキイは言い返しはしないで、話題をかえようとつとめながら、はれやかな微笑をふくんで、婦人たちのほうへ向き直った。
「じゃ、奥さん、ここでひとつやってみようじゃありませんか」と彼は言いだした。が、レーヴィンは、自分の考えをいってしまわないではいられなかった。
「わたしは思うのです」と彼はつづけた。「自分たちの奇跡を一種の新しい力として説明しようとする降神術者どものこの企ては、最も愚劣な策だと。彼らは直接、霊魂の力について語っていながら、それを物質的実験に結びつけようとしているのですからね」
一同は彼の話し終わるのを待っていた。彼もそれをさとった。
「わたくしはね、あなたはきっと、いいメディユム(霊媒《れいばい》)におなりあそばすだろうと思いますわ」と、ノルドストン伯爵夫人はいった。「あなたには、どこかこう、熱中的なところがありますもの」
レーヴィンは口を開いて、何かいおうとしたが、急にあかくなって、なんともいわなかった。
「では、ねえお嬢さん、さっそくテーブルまわしをやってみようじゃありませんか」とウロンスキイはいった。「奥さん、よろしいでしょうね?」
そしてウロンスキイは、目でテーブルをさがしながら、立ちあがった。
キティーはテーブルをとりに立ちあがった。そして、そばを通りながら、レーヴィンと目を見かわした。彼女には、心から彼が気の毒に思われた。彼の不幸の原因が、自分自身にあるのだと思えば思うほど、いっそう気の毒に思われた。『もし許してくださることができましたら、どうぞお許しくださいまし』こう彼女のまなざしはいった。『わたくしはこんなに幸福なんですもの』
『ぼくはすべての人を憎む、あなたをも、自分をも』と彼のまなざしは答えた。そして彼は帽子を手にとった。が、彼にはまだ、立ち去るべき運命が恵まれていなかった。一同がテーブルのまわりに席を定めようとし、レーヴィンが出て行こうとしかけたところへ、ちょうど老公爵がはいって来た。そして婦人たちとのあいさつをすますと、さっそくレーヴィンのほうへ顔をむけた。
「やあ!」と彼は、うれしそうな調子で声をかけた。「いつ出て来たね? きみがこちらへ来ていようとはちっともしらなかった。あんたに会えたのはじつにうれしい」
老公爵はレーヴィンにたいして、ときには|きみ《ヽヽ》と呼び、ときには|あんた《ヽヽヽ》と呼んだ。彼はレーヴィンを抱いて、彼と話をしながら、彼が自分のほうを向くのを立って静かに待っていたウロンスキイのほうへは、目もくれなかった。
キティーは、こうなってしまったあとでは、レーヴィンにとって、父の好意がかえってつらいであろうことを思いやった。同時にまた彼女は、父がウロンスキイのあいさつに、やっと冷淡なえしゃくを返したことや、ウロンスキイが、こうしたぶあいそうなあしらいを受けるのはどうしたわけか、解こうとして解きかねて、親しげないぶかりの色をなしつつ父の顔を見まもっていたことなどを見てとって、ひとりで顔をあからめた。
「公爵、コンスタンチン・ドミートリチを、どうぞこちらへおよこしになって」とノルドストン伯爵夫人がいった。「これから実験をしようというところなんですから」
「なんの実験をな? テーブルまわしかね? しかし、失礼だが、みなさん、わしは、指輪まわしのほうがおもしろかろうと思いますがね」と老公は、ウロンスキイのほうを見ながら、それが彼の発意であることを見ぬいて、いった。「指輪まわしのほうには、まだしも意味がありますからな」
ウロンスキイは驚いて、そのりんとしたまなざしで公爵を見た。そしてかすかに微笑をもらすと、すぐさまノルドストン伯爵夫人を相手に、来週あるはずの大舞踏会についての話をはじめた。
「あなたもむろん、いらしてくださるでしょうね?」と、彼はキティーのほうをふり向いていった。
老公が自分のそばをはなれるやいなや、レーヴィンはそっと座をはずした。この夜会から彼がもって出た最後の印象は、舞踏会のことでウロンスキイの質問に答えたときの、あの、キティーのにこにこした、幸福そうな顔であった。
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十五
夜会が終わってから、キティーは母に、レーヴィンと自分との会話の模様を話して聞かせた。そして彼女はレーヴィンにたいして、非常に気の毒な思いを感じていたにもかかわらず、自分が申し込みをされたのだという考えは、彼女を喜ばした。彼女には、自分のしたことは正しかったと思うことにおいて、少しも疑いはなかった。けれども、床《とこ》についてからも、彼女はいつまでも寝つけなかった。ひとつの印象が執拗《しつよう》に彼女をつけまわした――それは、一方に父の話を聞きながら、彼女と、ウロンスキイとのほうを見て立っていたときの、あの眉《まゆ》をひそめた、そしてその下から陰うつに、悲しげに、あの善良そうな目をのぞかせていたレーヴィンの顔であった。と、彼女には、目に涙がうかんだほど、彼が気の毒に思われてきた。けれども彼女はすぐに、自分が彼に見かえた人のことを考えた。彼女はいきいきと、あの男らしい、りんとした顔や、あの上品なおちついた態度や、万人にたいして万事に光って見える善良さなどを思いおこした。さらに、自分の愛している人の自分にたいする愛を思いおこした。と、またしても、胸の中がうれしさでいっぱいになり、彼女はまくらの上で幸福の微笑をもらした。『お気の毒だわ、お気の毒だわ、だって、どうすればいいんだろう? わたしがわるいのではないんだもの』と彼女は自分にいってみた。けれども心内の声は、彼女に別のことをささやいた。彼女は、自分が後悔しているのは、レーヴィンを迷わしたことについてか、あるいは拒絶したことについてか――知らなかった。が、とにかく彼女の幸福は、疑惑のためにそこなわれていた。『主よ、あわれみたまえ、主よ、あわれみたまえ、主よ、あわれみたまえ!』こう彼女は肚《はら》のうちで、寝入りつくまでくりかえしていた。
このとき階下では、小ぢんまりした公爵の書斎で、かわいい娘のために、両親のあいだにしばしばくりかえされた場面の一つが演じられていた。
「なんだって? それ、そのとおり!」と、両手を振りまわしたり、また急にりす皮のガウンの前をかきあわせたりしながら、公爵は叫ぶのだった。「あんたには誇りもなけりゃ、威厳もないんだ、あんたは、こんな卑しい、ろくでもない縁談で、娘に恥をかかして、台なしにしてしまうのだ!」
「まあ、あなた、公爵、神さまもごぞんじですわ、わたくしが何をいたしました?」公爵夫人は、泣きださんばかりになっていった。
彼女は、娘との話のあとで満足し幸福になって、いつものように、公爵のもとへあいさつをしに来たのだった。彼女は、レーヴィンの申し込みとキティーの拒絶については、公爵に言いだすつもりはなかったのだが、ただ、ウロンスキイとの一件が、彼女にはもう決定したも同然に思われることや、先方の母親の到着しだい決定するにちがいないことやを、夫に向かってほのめかしてしまった。ところが、これらの言葉にたいして、公爵はにわかにかっとなり、そして無作法な言葉をまで、叫びはじめたのであった。
「あなたが何をしたかって? それはこうだ――第一に、あんたは婿を誘惑しようとしている。モスクワじゅうの人がそういうだろう。また、いうがもっともだ。夜会をするならするで、だれかれなしに呼びなさい、婿の候補者だけでなしに。だれかれなしにあの|にやけ《ヽヽヽ》男ども(こう公爵はモスクワの青年たちを呼んでいた)を残らずよんで、ピアノ弾きを頼んで、みんなを踊らせるがいいのだ。今夜のように、婿の候補者だけを引きずりこむようなふうでなしに。わしはもう、見てるだけでもいやでたまらんよ。あんたはとうとう娘の頭をぼうっとさせてしまったのだ。レーヴィンは、千倍もすぐれた男だ。ところが、あのペテルブルグのしゃれ男、あれらはみんな機械できなもんだから、どれもこれもひとつ型で、どれもこれもくずぞろいだ、またかりにだ、あの男が王侯の血統だったにせよ、うちの娘は、そんなものに飢えちゃおらんよ」
「では、わたくしが何をしたとおっしゃるのですか?」
「何もくそも……」と、公爵はかっとなってどなった。
「わかってますよ。あなたのことばかり聞いていたひには」と公爵夫人はさえぎった。「わたしたちはいつになったって、娘を嫁にやることはできやしません。それくらいなら、いっそ田舎へひっこんでしまうほうがよござんす」
「だから、ひっこんだほうがいいのさ」
「まあ待ってください。あなただってまさか、わたしがあの男《ひと》にへつらっているとはおっしゃいますまいね? そうですとも、わたしちっともへつらいなんかいたしませんよ。ただ若いかたが、それも、たいへんおりっぱなかたが、娘を慕って、そしてあれのほうでも、どうやら……」
「そうだ、あんたにはそう見えるだろ! が、あれがじっさいに思いこみでもしたら、どうする気だ、あの男は、わしが思っとるほども、結婚しようと思っとるかしらん?……ああ、わしは見たくもないと思うよ!……『おお、降神術! おお、ニース! おお、舞踏会で……』」ここで、公爵は、妻のまねをしているというみえで、一語一語に身をかがめた。「こうしてわれわれは、カーテンカの不幸をつくっているのだよ、じっさい、あれがほんとうに思いこみでもしようものなら……」
「どうしてあなたはそんなふうにお考えになるんでしょうね?」
「わしは考えるのじゃない、知ってるのだ。こういうことにたいしては、われわれには目がある、が、女にはそれがないのだ。わしはまじめな考えを持っている男を知っている――それはレーヴィンだ。また、あのにやけ者のように、遊び相手以外に能のない|うずら《ヽヽヽ》をも知っている」
「そんなことおっしゃるあなたこそ、頭がどうかしていらっしゃるんですわ……」
「だが、おまえだっていまに気がつくよ。が、それではおそいのだ。ダーシェンカのときのように」
「ええ、ようござんす、ようござんす、もうこんな話はよしましょう」と公爵夫人は、不幸なドリーのことを思い出して、彼をさえぎった。
「けっこうだね。じゃ、おやすみ!」
そこで、夫婦は互いに十字を切り、接吻をしあってから、しかし、互いに意見の通じあわないのを感じながら、別れた。
夫人は最初は、今夜の夜会がキティーの運命を決したものと確信し、ウロンスキイの意向には疑いはありえないものと確信していた。けれども、夫の言葉は、彼女の心をかき乱した。で、自分の居間へ帰ってくると、彼女も、すっかりキティーと同じ調子で、はかりがたい未来にたいする恐怖をいだいて、幾度となく心のうちでくりかえした――『主よ、あわれみたまえ、主よ、あわれみたまえ、主よ、あわれみたまえ!』
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十六
ウロンスキイは、家庭生活というものを一度も味わったことがなかった。彼の母は、若いころには社交界の輝かしい花形で、夫のあるうちから、とりわけその死後には、社交界じゅうに知れわたった、かずかずのロマンスをもった婦人であった。彼には、父の記憶はほとんどなく、彼は幼年学校で教育された。
きわめて若く、前途多望な青年士官として学校を出るとすぐ、彼は富裕なペテルブルグの軍人仲間へ入りこんでしまった。そしてたまには、ペテルブルグの社交界へも足ぶみしたが、彼の情的興味は、すべて社交界以外にあったのである。
豪奢な、あらあらしいペテルブルグ生活のあとで、彼ははじめてモスクワで、自分に思いをよせた、愛らしい、無垢《むく》な、社交界の令嬢と接近する楽しみを味わった。彼は、キティーにたいする自分の態度に何かよからぬ点があろうなどとは、てんで考えもしなかった。舞踏会では、彼はおもにキティーと踊った。彼は、彼女の家へも出かけた。彼は彼女と、ふつう社交界で人々がするような――あらゆる無意味な話をした。が、その無意味な話にも、彼は知らず知らず、彼女にとっての特殊な意味をつけ加えていた。彼は彼女に向かって、人前で話せないようなことは、けっして口にしなかったにもかかわらず、彼女がますます自分に近づいてくるのを感じた。そしてそれを感ずれば感ずるほど、彼はますます愉快になって、彼女にたいする感情に優しさを加えていった。彼は、キティーにたいする自分の行為が一定の名称をもっていること、それこそ、結婚という意志なしに処女を誘惑するものであること、そしてその誘惑こそ、彼のようなはなやかな若人《わこうど》たちのあいだにありがちな悪行のひとつであることを知らなかった。彼には自分が、この満足を発見した第一人者であるように思われたので、彼は、自分の発見を享楽していたのであった。
もし彼が、今宵彼女の両親のあいだにかわされた会話を聞くことができたとしたら、もし彼が、家庭の者の立場に立って、自分が彼女と結婚しないとキティーが不幸になるであろうということを知ったとしたら、彼は非常に驚いて、それを信じなかったにちがいない。彼は、自分にばかりでなく、とりわけ彼女に、これほど大きなすぐれた喜びをもたらすものが、よからぬことでありうるなどとは、とても信ずることはできなかった。まして彼は、自分が結婚しなければならぬなどとは、なおさら信ずることができなかったにちがいないのである。
結婚ということは、彼には、かつて一度も可能なこととして考えられたことはなかった。彼は、ただ家庭生活を愛しなかったばかりでなく、彼が現在そのなかに生きていた独身者の世界に共通な見解から、家庭なるものに、ことに夫という立場に、なんとなく縁遠い、敵意ある、そして、何よりもこっけいなものを認めていた。しかしウロンスキイは、両親の話したことなどは夢にも知らなかったにもかかわらず、この夜スチェルバーツキイ家を出るときには、自分とキティーとのあいだをつないでいたあの心の上の秘密な関係が、今夜一だんと強さをまして、なんとかしなければならぬ程度にまで堅く結ばれてしまったことを痛感した。けれども、それではどうすればいいのか、またどうしなければならないかということは、彼には考えることもできなかった。
『なにしろ、すてきだ』と彼は、スチェルバーツキイ家を辞して帰るみちすがら、いつものように、一部分はひと晩じゅう喫煙せずにいたことからも生じた純潔と清新の快い感じと、同時に、自分にそそがれている彼女の愛にたいする新しい感動の感じを味わいながら、こう考えた。『なにしろ、お互いになんにもいわないでいて、ただ目つきや言葉の調子という無形の会話だけで、これほどよく理解しあったというのは、これだけでもすてきなことだ。今夜は彼女はいつにもましてはっきりと、わたしは愛していますといったのだ。ほんとになんというかわいらしい、単純な、いやそれよりも信頼のしかただろう! おれ自身までが、一だんとすぐれた、より純潔なものになったような気がする。おれ自身にも熱情があり、多くの美点があるような気がする。あのかれんな、恋に酔った目!「|え《ヽ》、|ほんとに《ヽヽヽヽ》……」といったときの』
『ところでどうなんだ? なんでもありゃしないじゃないか。おれにもよし、彼女にもよしというまでのことだ』そして彼は、この夜の残りをどこで過ごすべきかについて、考えはじめた。
彼は、行くことのできそうな場所を、想像のうちでくりひろげてみた。
『クラブはどうだ? ペジーク〔カルタ遊び〕の一番もやって、イグナートフとシャンペンでも飲むか? いや、よそうよそう。Chateau des fleurs(「花の城」)〔料理屋の名〕、あそこでオブロンスキイを見つけて、小うたでもきいて、カンカン〔わいせつな舞踏〕でも見るか? いや、こいつももう鼻についた。自分がスチェルバーツキイ家を好くのも、つまりは自分をよくしていくことがうれしいからなんだからなあ。まあ、うちへ帰るとしよう』彼は、まっすぐにデュッソ・ホテルの自分の部屋へ帰ると、さっそく夜食を命じて、着がえをすませ、まくらに頭をつけるが早いか、ぐっすりと深い眠りに落ちた。
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十七
翌朝十一時に、ウロンスキイは母を迎えにペテルブルグ鉄道の停車場へと出向いた。と、そこの大階段でひょっくり出会った最初の人は、同じ汽車でくるはずの妹を待っていたオブロンスキイであった。
「やあ! 閣下!」とオブロンスキイは叫んだ。
「きみはだれの迎いに?」
「ぼくは母の迎いだ」と、オブロンスキイと出会った人のだれしもがするように、ウロンスキイも笑顔になって、彼の手を握りながら答えた。そしていっしょに階段をあがって行った。「今日ペテルブルグからくるはずになってるんでね」
「ところで、ぼくはきみを二時まで待ったよ。きみはいったい、スチェルバーツキイ家からどこへ行ったんだい?」
「うちへさ」と、ウロンスキイは答えた。「じつをいえば、昨夜はスチェルバーツキイ家へ行って、あんまり愉快だったものだから、もうどこへも行きたくなかったんだよ」
「駿馬はその烙印《らくいん》によって知られ、恋する若人はそのまなざしによって知らるか」とステパン・アルカジエヴィッチは、前にレーヴィンにいったと同じ朗読口調でいった。
ウロンスキイは、それを否定はしないという顔つきを見せて、にっこりした。が、すぐに話題をかえてしまった。
「ところで、きみはだれを迎いに!」彼はたずねた。
「ぼく? ぼくはすてきな美人をさ」とオブロンスキイはいった。
「おやおや!」
「Honni soit qui mal y pense!(それを美人と思わぬ者に禍いあれ!)妹のアンナさ」
「ああ、あのカレーニン夫人か!」とウロンスキイはいった。
「たしかきみはあれを知ってたね?」
「知ってる、だろうな! いや、それとも違うかな……さあ、じつはよく記憶していないよ」とウロンスキイは、カレーニン夫人という名まえによって、一種虚飾的な、たいくつなものをぼんやりと心に描きだしながら、うつろな調子でこう答えた。
「しかし、有名なぼくの義弟のアレクセイ・アレクサーンドロヴィッチ、あれは知ってるだろう。だれ知らぬ者のない男だからね」
「つまり、氏の名声と外貌とだけは知ってるさ。また、氏が聡明にして学識あり、宗教家めいた人だということも知ってるさ……しかし、きみもごぞんじのとおり、それはぼくなどとは違う……not in my line(畑ちがい)の人だからね」とウロンスキイはいった。
「そうだ、あれは非常に有名な男だ。多少保守的ではあるが、りっぱな男だ」とステパン・アルカジエヴィッチは注釈した。「りっぱな男だ」
「いや、氏にとってますますけっこうな話だね」とウロンスキイはほほえみながらいった。「ああ、おまえ、そこにいたのか」と彼は、戸口に立っていた背の高い、母づきの老僕に目をとめていった。「こちらへおはいり」
ウロンスキイはこのごろになって、ステパン・アルカジエヴィッチがなんぴとにも与えるひと通りの快感以外に、自分の想像裡でキティーと結びつくことによって、彼にたいしていっそうの親しみを感ずるようになっていた。
「ときに、どうだね、日曜日にディーワ〔俳優の名〕のために晩餐会でもしようじゃないか?」と彼は、微笑とともに相手の腕をとりながらいった。
「ぜひやろう。ぼくが連中を集めよう。ああ、きみは昨日、ぼくの友人のレーヴィンと近づきになったろうね?」とステパン・アルカジエヴィッチはたずねた。
「なったさ、が、どうしてだか、じき帰っちまったよ」
「あれは非常にいい男だ」とオブロンスキイはつづけた。「そうじゃないかね?」
「ぼくにはわからないが」とウロンスキイは答えた。「なぜか一般にモスクワの人には、もっとも、ぼくがいま話している人は別だがね」と彼は、冗談らしく注を入れて、「何かこう激しいところがある。まるでこう、なにかしら、いつも相手に感じさせないではおかないというように、激しい意気ごみで、ぶりぶりしてるようなところがある」
「そうだ、そういうところがある、たしかに、ある……」と、快活に笑いながら、ステパン・アルカジエヴィッチはいった。
「どうです、もう着きますか?」とウロンスキイは、駅員のほうを向いてたずねた。
「もうさきの駅を出ましたから」と駅員は答えた。
列車の近づきつつあることは、停車場内の喧騒、荷かつぎ人の馳駆《ちく》、憲兵や係員の出動、出迎い人の到着などによって、いっそう明白になってきた。凍った水蒸気を通して、毛皮の上着に柔らかいフェルトの長靴をはいた労働者たちの、まがっている線路を横ぎって行く姿が見えた。遠いレールの上に、汽罐《きかん》の蒸気を吐く音と、何やら重いものの動いてくるひびきとが聞こえた。
「いや」とステパン・アルカジエヴィッチはいった。彼は、キティーにたいするレーヴィンの心中を、ウロンスキイに話したくてたまらなかったのである。「いや! きみはわがレーヴィンを不当に評価してしまった。彼はおそろしく神経質な男で、ときには、まったくいやなやつだと思われることもあるが、またそのかわりに、ばかにかわいく思われることもあるよ。まったく正直な、率直な男で、黄金のようなハートの持ち主だ。が、昨夜は少し特別なわけがあったんでね」とステパン・アルカジエヴィッチは、きのう友だちにたいしていだいた心からの同情をすっかり忘れてしまって、今はそれと同じ同情をウロンスキイにたいしていだきながら、意味ありげな微笑をふくみつつ、つづけた。「そうだ、原因があったんだ。非常に幸福になるか、非常に不幸になるか、どっちかという」
ウロンスキイは立ちどまって、いきなりたずねた――
「というと、なにかね? あるいはあの男《ひと》が、昨日、きみの belle soeur(義妹さん)に結婚の申し込みでもしたというのかね?……」
「あるいはね」とステパン・アルカジエヴィッチはいった。「どうも昨日そんなそぶりが見えたからね。そこでだ、もしあの男が早く帰ってしまったうえに、あまりきげんがよくなかったとすると、たしかにそうだよ……なにしろ、あの男の恋は、ずいぶん久しいものなんだからね。ぼくも非常に気の毒に思うのさ」
「そうか、そいつは!……ぼくは、しかし、あの女《ひと》などは、もっとりっぱな相手を予想していいと思うね」ウロンスキイはこういって、ひとつぐっと胸を張ってから、ふたたび歩きだした。「そうはいうものの、ぼくはあの男《ひと》を知ってるわけじゃないんだからね」と、彼は言いたした。「そうだ、とにかく、こいつはやっかいな問題さ! なにしろ、このために大ぜいの人間が、ついクララ連を相手にすることになるんだからね。このほうなら、まかりまちがっても、金の不足を証明するだけですむが、一方では、人格ってやつが秤《はかり》にかけられるからね。それはそうと、どうやら汽車が来たようだ」
じっさい、遠くのほうで、機関車が汽笛を鳴らし、二、三分すると、プラットフォームが震動しはじめて、寒気のために下へ下へと沈んでいく蒸気を吐きながら、まん中の車輪のピストンを、ゆるゆると規則正しく伸縮《しんしゅく》させながら、防寒具にくるまったからだを霜におおわれて白くなり、身をかがめている機関士を乗せた機関車が走り過ぎた。そして、炭水車につづいて、しだいに速力をゆるめながら、しかし、いっそう激しくプラットフォームをふるわせながら、手荷物ときゃんきゃん鳴く犬とをのせた車輛が通り、最後に、停車前の小ゆらぎをしながら、客車が近づいて来た。
機敏な車掌は、笛を鳴らしながら、進行中に飛びおりた。と、それにつづいてひとりずつ、気の早い乗客が下車しはじめた――近衛の士官は、姿勢を正して、いかめしく四辺《あたり》を見まわしながら。袋を持ったすばしこそうな商人は、元気よく笑いながら。百姓は大きな袋を肩にひっしょって。
ウロンスキイはオブロンスキイとならんで立って、客車と、出てくる旅客とに気をとられていたが、母のことはすっかり忘れていた。いまキティーについて聞き知ったことは、彼を刺激し、彼を喜ばせた。彼の胸はひとりでに張り、その目はいきいきと輝いた。彼は自分を勝利者のように感じていた。
「ウロンスキイ伯爵夫人はこの車においでになります」こう敏活な車掌が、ウロンスキイのそばへ近づいて来ていった。
車掌の言葉は彼を呼びさまし、彼に母のこと、眼前に迫っている彼女との会見のことを思い出させた。彼は、肚《はら》のうちでは母を尊敬していなかったし、また、はっきり意識してはいなかったが、彼女を愛してもいなかった。ただ、自分がそのなかに生きていた社会の見解と、自分の教養とによって、彼は母にたいして、極度の柔順と恭謙《きょうけん》以外の態度を、自分に許すことができなかった。で、外面的に彼が柔順恭謙であればあるほど、内心における彼の彼女にたいする尊敬や愛は、いっそう淡いものになったのである。
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十八
ウロンスキイは車掌のあとから、その車輛のほうへ行った。そして、車室への入口で、ちょうど出て来た婦人に道をゆずるために、立ちどまった。
社交界の人に通有の|こつ《ヽヽ》で、この婦人の風姿をひと目見て、ウロンスキイは、彼女が上流社会に属する女であることを見てとった。彼はえしゃくをして、車室へはいろうとしかけたが、もう一度彼女を見たいという、やみがたい欲求を感じた。――というのは、彼女が非常な美人であったからでもなく、彼女の全姿態に見られたはなやかさと、つつましやかな美しさに心をひかれたためでもなく、ただ、彼女が彼のかたわらを通ったとき、その愛らしい顔の表情に、何やらとくに優しく、なつかしいものが認められたからであった。彼がふり返ったときに、彼女もまた頭をめぐらした。濃いまつ毛のせいで暗いほどに見えた彼女の輝かしい灰色の目は、あたかも彼を見知ってでもいるように、親しげに、注意ぶかく彼の顔にこらされたが、じきまた、だれかを捜してでもいるように、通りすがる群集のほうへ移された。
この短い瞥見《べっけん》で、ウロンスキイはいちはやく、彼女の顔面に遊びたわむれたり、その輝かしい双の目と、あるかなきかの微笑にゆがめられた赤いくちびるとのあいだを飛びまわったりしていたおさえつけられた生気を認めた。それは、何かの過剰が彼女の身うちにみちあふれて、それが彼女の意志に反して、あるいはその目の輝きに、あるいはその微笑のなかに、現われるもののようであった。彼女は心して目の輝きを消した。けれどもそれは、彼女の意志を裏切って、そのかすかな微笑のなかに、ちらちらと光を見せるのだった。
ウロンスキイは車室へはいった。目の黒い、巻き髪の、やせた老婆である彼の母は、目をひきそばめてむすこの顔を見ながら、薄いくちびるでかすかに笑った。彼女は座席から立ちあがり、侍女の手に手さげを渡して、小さな、ひからびた手をむすこに与えた。そして、その手から彼に頭をあげさせて、その顔に接吻した。
「電報を見ましたか? たっしゃらしいね? 何よりだよ」
「途中おさわりもなくおいででしたか?」と彼女のそばへ腰をおろしながら、ドアの外に聞こえる女の声に、ついわれにもなく聞きいりながら、むすこはいった。彼はそれが、入口で出あいがしらになった例の婦人の声であることを知った。
「やっぱり、わたくしはあなたにご同意できませんわ」と婦人の声はいっていた。
「ペテルブルグ式の見解ですね、奥さん」
「ペテルブルグ式じゃございませんわ。単なる女の見解ですわ」と彼女は答えた。
「では、そのお手を接吻させていただきます」
「さようなら、イワン・ペトローヴィッチ。ではね、わたくしの兄がそこいらにおりませんか捜してみてくださいませんか。そしておりましたら、こちらへくるようにおっしゃってくださいましな」と婦人は戸口のそばでいって、ふたたび車室へはいって来た。
「いかがでございます。お兄さまはおわかりになりまして?」とウロンスキイ夫人は、婦人のほうを向いてたずねた。
ウロンスキイはそこではじめて、それがカレーニン夫人であることを思い出した。
「ご令兄は来ておいでになります」と、彼は立ちあがりながらいった。「どうもお見それして、失礼しました。なにしろ、ほんのちょっとお目にかかったことがあるきりなものですから」と頭をさげながら、ウロンスキイはいった。「たぶん、あなたにもご記憶はございませんでしょう」
「まあ、いいえ!」と彼女はいった。「わたくしこそ気がつかなければならなかったんでございますわ。あなたのお母さまと途中ずっと、あなたのおうわさばかりしてまいったのでございますもの」と彼女は、さっきから表面へ出たがって、うじうじしていた例の生気に、とうとう微笑のなかへうかび出ることを許しながら、こういった。「それはそうと、兄はやっぱりまいりませんのね」
「おまえ呼んできておあげなさい、ね、アリョーシャ」と、老伯爵夫人がいった。
ウロンスキイはプラットフォームへ出て、叫んだ――
「オブロンスキイ! ここだよ!」
けれどもカレーニン夫人は、兄を待ちうけてはいなくて、彼の姿を見かけると、りんとした軽い足どりで、車室から出て行った。そして、兄がそばへくると、その凛々《りり》しさと優美さとでウロンスキイを驚かした身ぶりでもって、左手を兄の首へかけ、すばやく自分のほうへ引きよせて、強く彼を接吻した。ウロンスキイは、彼女から目をはなさないで、じっと見ていた。そして、われながらなぜとも知らず、ついにっこりとした。が、母が自分を待っていることを思い出して、ふたたび車室へとって返した。
「ほんとにかわいらしいかたじゃないかえ、え?」と伯爵夫人は、カレーニン夫人のことを言いだした。「あのかたのおつれあいが、あのかたを、わたしといっしょの室へお乗せなさったんだよ。わたしもたいへんうれしかった。それでわたしたちは、道中ずっとごいっしょにお話してきたのさ。それはそうと、おまえは Vous filez le parfait amour, Tant mieux, mon cher, tant mieux. (気にいった人ができたというじゃないか、それは何よりだよ、おまえ、何よりだよ)」
「なんのことをいってらっしゃるんだか、ぼくにはさっぱりわかりませんよ、お母さん」とむすこは冷淡な調子で答えた。「それより、行こうじゃありませんか、お母さん」
カレーニン夫人は、伯爵夫人に別れを告げるために、ふたたび車室へもどって来た。
「では、奥さま、あなたはご子息さまとお会いになりましたし、わたくしは兄を捜しあてましたから」と、はれやかな調子で彼女はいった。「それにもう、何もかも申しあげてしまって、このうえお話することもなさそうでございますから」
「まあ、そんな」と、伯爵夫人は彼女の手をとっていった。「わたくし、あなたとなら、世界じゅう旅をしてまわっても、たいくつなんかしまいと思いますの。世の中には、お話をしていても、黙っていても、ごいっしょにさえいれば、気分がせいせいするような気持のいいご婦人のかたがあるものですが、あなたはそういうかたのおひとりですもの。それはそうと、お子さまのことは、あまりお気になさらないがよろしゅうございますよ。――いっときも別れないでいるなんてことは、できるものではないのですから」
カレーニン夫人は、おそろしくからだをまっすぐにして、身うごきもせずに立っていた。そして、その目はほほえんでいた。
「アンナ・アルカジエヴナにはね」と伯爵夫人は、むすこに説明して聞かせた。「八つかにおなりなさるお子さまがおありなんですよ。ところが、これまで一度も別れてなすったことがないものだから、こんど残してらしたのを、しょっちゅう気にしてらっしゃるんだよ」
「ええ、ほんとにわたくし、お母さまともう、そんなことばかりお話してまいりましたんですのよ――わたくしは自分の子供のことを、お母さまはご自分のご子息さまのことを」とカレーニン夫人はいった。と、またしても例の微笑が、彼に向けられた優しい微笑が、彼女の面を輝かした。
「それはさぞおさびしいことでしたろう」と彼はすぐさま、彼女が投げかけてよこしたコケトリー(媚態)の|まり《ヽヽ》を空中で受けとめながらいった。けれども彼女は、明らかに、こうした調子で会話をつづけるのを好まない様子で、老夫人のほうへ顔を向けた――
「ほんとうにありがとうございました。おかげさまで昨日はいちんち、時のたつのをおぼえませんくらいでございましたわ。では奥さま、これで失礼いたします」
「ごきげんよろしゅう、かわいい奥さん」と、伯爵夫人は答えた。「どうぞそのお美しいお顔に、接吻させてくださいまし。わたしは年よりらしく、正直に、無遠慮に申しますが、わたしすっかり、あなたにほれこんでしまいましたよ」
これはいかにもきまり文句であったが、見たところ、カレーニン夫人は、心からそれを信じて、うれしく思ったようであった。彼女はぽっと顔をそめ、軽く身をかがめて、伯爵夫人のくちびるへ自分の顔をもっていってから、ふたたびしゃんと身をのばし、前と同じ徴笑を眉《まゆ》と目のあいだにただよわせながら、ウロンスキイに手を与えた。彼は、自分に与えられた小さい手を握って、何か特別なことにでもたいするように、彼女が強く、大胆に彼の手をゆすぶったその力のこもった握手を、うれしく思った。彼女は、そのかなりに肉づきのいいからだを、ふしぎなほどかるがると運んでいく、すばやい足どりで出ていった。
「ほんとうに、かわいらしいかただこと」と老夫人はいった。
それと同じことを、彼女のむすこも考えていた。彼は、その優雅な姿が隠れてしまうまで、彼女を目で追っていた。そして微笑がいつまでも、彼の顔に残っていた。彼は窓のなかから、彼女が兄に近づいて、その手を兄の手の上におき、なにかしら元気よく、明らかに彼ウロンスキイとはなんの関係もないことを、話しはじめた姿を見た。そして彼には、それがいまいましい心地《ここち》を誘った。
「それはそうと、お母さん。あちらはみんな丈夫ですか」と彼は、母のほうへふり向いて、くりかえした。
「ああ、何もかもけっこう、いいあんばいにいっていますよ。アレクサンドルはだいぶかわいくなったし、マーリヤもいい子になったしね。――あの子はほんとにおもしろい子ですよ」
そして彼女は、またしても、自分にとってなによりも興味のあったことについて語りはじめた――そのために自身わざわざペテルブルグまで出むいて行った孫の洗礼のことや、長男にたいする皇帝のかくべつなおぼしめしなどについて。
「おお、ラヴレーンティがやって来ました」と、ウロンスキイは窓のほうを見ながらいった。「よろしかったら、そろそろ出かけましょう」夫人の伴《とも》をしてきた老執事が、用意のととのったことを告げに車室へはいって来た。で、夫人は出かけるべくやおら身を起こした。
「さあ、まいりましょう、もう人も少なくなりました」とウロンスキイはいった。
侍女が手さげ袋と小犬をかかえ、執事と荷かつぎ人とがほかの荷物を持った。ウロンスキイは母の腕をとった。そして、彼らがちょうど車室から外へ出たときに、とつぜん数人の人々が、びっくりしたような顔をしてかたわらをかけぬけた。駅長も、その目だつ帽子をかぶって、かけていった。たしかに、何か変事が起こったのにちがいなかった。汽車からおりた人たちもかけもどって来た。
「なんだ?……なんだ?……どこだ?……飛びこんだ! おしつぶされた!……」こういう声々がかけて行く人々のあいだに聞かれた。
ステパン・アルカジエヴィッチも、妹と腕を組みあわしたまま、やはりびっくりしたような顔をしてもどって来て、群集を避けながら、列車の入口に立ちどまった。
婦人たちは車のなかへはいった。が、ウロンスキイは、ステパン・アルカジエヴィッチといっしょに、変事の詳細をたしかめるべく、群集のあとについていった。
それは線路番の男が、酔っていたのか、それとも、寒さがきびしいのでからだを包みすぎていたのか、後退してくる列車の音に気がつかなくて、おしつぶされたのであった。
ウロンスキイとオブロンスキイとがもどってくる前に、婦人たちはこれらの詳細を執事から聞いた。
オブロンスキイとウロンスキイのふたりは、おしつぶされた死体を見た。オブロンスキイはひどく心を打たれたらしかった。彼はしかめつらをして、いまにも泣きだしそうな様子をしていた。
「ああ、なんという恐ろしいことだ! ああ、アンナ、もしおまえがあれを見たら! ああ、なんという恐ろしいことだ!」と彼はいった。
ウロンスキイは口をきかなかった。その美しい顔は緊張していたが、少しもとり乱したさまはなかった。
「ああ、もしあなたがあれをごらんでしたら、奥さん」ステパン・アルカジエヴィッチはいった。「その男の家内もそこにいましたがね……それが見ていられないんですよ……死骸にとりすがりましてね。なんでもその男の手ひとつで、大ぜいの家族を養っていたんだということですからね。これがまたたいへんです」
「その女のために、なんとかしてやることはできないものでしょうか?」と、わくわくしたささやき声でカレーニン夫人がいった。
ウロンスキイは彼女の顔をちらと見て、すぐ車室から出て行った。「すぐもどってきますからね、お母さん」と彼は、戸口のところでふり返りながら言いたした。
二、三分して彼がもどってきたときには、ステパン・アルカジエヴィッチはもう伯爵夫人を相手に、新来の歌うたいのことなど話していた。が、夫人は、むすこのくるのを待ちかねて、いらいらと戸口のほうばかり見ていた。
「さあ、行きましょう」とはいって来ながら、ウロンスキイはいった。
彼らはそろってそこを出た。ウロンスキイは母親といっしょに先頭に立った。そしてそのあとから、カレーニン夫人が兄とならんで行った。出口のところで、彼を追いかけて来た駅長が、ウロンスキイに追いついた。
「あなたはわたくしの助役に、二百ルーブリお恵みくださいましたね。はなはだ失礼ですが、あれはだれにというおぼしめしでございましょうか?」
「寡婦《かふ》にですよ」と、ウロンスキイは肩をすくめながらいった。「あらためてきかれるまでもないじゃないですか」
「きみが恵んでやったんだって?」と背後からオブロンスキイが叫んだ。そして妹の腕をしめつけながら言いたした。「じつに親切だ、じつに親切だ! そうじゃないか、見あげた男じゃないか? では奥さん、失礼いたします」
そして彼は、妹とともに、彼女の侍女を捜すために立ちどまった。
彼らが停車場を出たときには、ウロンスキイの馬車はもう出てしまっていた。停車場へやってくる人々は、まだひきつづき、いま起こった事件について話しあっていた。
「恐ろしい死にかたもあったものだ」とどこかの紳士が、すれちがいながらいっていた。「まっぷたつにひかれてしまったという話だからね」
「ぼくは反対に、最もらくな、瞬間的な死にかただと思うね」と、ほかのひとりが口をいれた。
「どうにかなりそうなものだったになあ」と三人目がいった。
カレーニン夫人は馬車に乗った。そこでステパン・アルカジエヴィッチは、彼女のくちびるがわなわなふるえて、彼女がかろうじて涙をおさえているらしいのを見て、驚いた。
「おまえ、どうかしたのかい、アンナ?」と彼は、数百サージェン(一サージェンは約二メートル)来た時分に、こうたずねた。
「不吉な前兆ですわ」と彼女はいった。
「なにをばかばかしい」とステパン・アルカジエヴィッチはいった。「おまえが来てくれた、これがもうなによりなんだよ。おまえにはちょっと想像もつくまいが、ぼくはどれくらいおまえをあてにしているか知れないんだからね」
「それはそうと、兄さんは、ウロンスキイを前からごぞんじですの?」と彼女はたずねた。
「ああ。どうだい、ぼくらはキティーをあの男にめあわせたいと思ってるんだよ」
「そう?」と静かにアンナはいった。「さあ! こんどはあなたのことを話してくださいな」こう彼女は、さながら何かよけいなじゃまものを肉体的に払いのけようとでもするように、頭を振りながら言いたした。「あなたのご用というのをうかがわせてくださいな。わたしは兄さんの手紙を見て、こうしてわざわざ出て来たんですから」
「そうとも、あらゆる望みがおまえにかかってるんだものね」とステパン・アルカジエヴィッチはいった。
「だから、さあ、何もかもわたしにお話しなさいな」
そこで、ステパン・アルカジエヴィッチは話をはじめた。
邸へ着くと、オブロンスキイは妹を助けおろして、ひとつため息をつき、彼女の手を握っておいて、役所へと出かけて行った。
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十九
アンナが部屋へはいって行ったとき、ドリーは小さい客間に座をしめて、もう今から父親そっくりな、髪の白っぽい、まるまるした男の子を相手に、彼のフランス語の読みかたを見てやっていた。子供は、いまにもとれそうになっているジャケツのボタンを、指先でひねくりまわしてちぎろうとつとめながら、読んでいた。母親は幾度もその手を引きのけたが、まるまるとふとったかわいらしい手は、すぐまたボタンのほうへ動いていくのだった。母親はボタンをちぎって、ポケットへ入れてしまった。
「手をじっとしていらっしゃい、グリーシャ」彼女はこういって、ふたたび、久しい仕事になっていた編み物をとりあげた。これは彼女が、いつも心がくさくさするときにはじめる仕事で、今も彼女は、指を動かして目を数えながら、いらいらした様子で編みはじめたのである。彼女は昨日家僕に命じて、夫の妹が来ようと来まいと、それは自分に関係したことではないというふうに、夫に伝えさせはしたものの、しかしやはり、彼女を迎える準備をして、胸をさわがせながら、義妹を待っていたのだった。
ドリーは、自分の悲しみにうちひしがれて、すっかりそのとりことなっていた。けれども彼女は、義妹のアンナが、ペテルブルグの重要人物のひとりの妻で、ペテルブルグの grande dame(貴婦人)であることを承知していた。そして、そのために彼女は、夫に放言したことを実行しはしなかった。つまり、義妹の到着を忘れるようなことはなかったのである。『そうだわ。なんといってみたところで、アンナには罪はないんだもの』とドリーは考えた。『だいいち、わたしは、あのひとのことといえば、一ばんいいこときりなんにも知らないのだし、あのひともわたしには、ただ親切と真心を見せてくれただけだもの』しかし、じつをいうと、彼女がペテルブルグのカレーニン家でうけた印象を思い出すことのできたかぎりでは、彼らの家庭そのものは、彼女にはあまり好もしくなかった――彼らの家庭生活そのものには、どことなく虚偽《きょぎ》の調子があった。『だからとて、どうしてわたしにあのひとを迎えないでいられよう? ただ、あのひとがわたしを慰めようとなどしてくれなければいいんだけれど!』とドリーは考えた。『慰めだとか、忠告だとか、キリスト教的のゆるしだとか――こんなふうのことは、自分でも千べんも考えたことで、どれもこれもなんの役にもたたないことなんだもの』
この四、五日来、ドリーは、子供たちを相手にひとりぽっちで暮らしていた。自分の悲しみを口に出して云々《うんぬん》することが、彼女にはいやだった。そうかといって、こんな悲しみを心にいだきながら、ほかごとを話す気にもなれなかった。彼女は、自分がどのみち、アンナにすべてをうちあけてしまうであろうことを知っていた。で、自分がそれをうちあけるだろうという考えが、彼女を喜ばせたり、かと思うと、夫の妹である彼女の前に自分の恥をさらけだして、彼女から忠言や慰めのきまり文句を聞かねばならぬという考えが、彼女をいらいらさせたりした。
彼女は、よくあることで、一分ごとに時計ばかり見て、いまかいまかと彼女を待っていたくせに、ベルの音を聞きはぐしたので、客の来たかんじんの一分をすどおりさせてしまったのだった。
きぬずれの音と軽い足音とを、もうすぐドアのところに聞きつけて、彼女ははじめてふり返った。と、その悩み疲れたような顔には、われにもなく、喜びならぬ驚きの色が描きだされた。彼女は立ちあがって、義妹を抱いた。
「まあ、もういらしたの?」と彼女は、アンナを接吻しながらいった。
「ドリー、わたしあなたにお目にかかれて、こんなうれしいことはありませんわ!」
「わたしもうれしいですわ」とドリーは、弱々しくほほえみながら、アンナの顔の表情によって、彼女が知っているかどうかを読もうとつとめながら、いった。『ああ、知っているにちがいない』こう彼女は、アンナの顔に同情の色を認めて、考えた。「さあ、まいりましょう、わたしあなたのお部屋へ案内しますわ」と彼女は、説明の時を一分でもさきへのばそうと考えながら、言葉をつづけた。
「これ、グリーシャ? まあ、この子の大きくなったこと!」とアンナはいって、ドリーから目をはなさずに子供に接吻してから、さっと立ちあがって、あかくなった。「いいえ、もうどこへも行かないほうがいいくらいですわ」
彼女はショールと帽子とをとったが、その帽子を、一面に縮れている黒い髪のふさにひっかけて、頭をふって、髪をはなした。
「あなたは幸福と健康とで輝いてらっしゃるのね」とドリーはほとんど羨望《せんぼう》に近い調子でいった。
「わたし?……ええ」とアンナはいった。「おやおや、ターニャ! この子はうちのセリョージャとおない年ね」と彼女は、かけこんで来た女の子のほうを向いて言いたした。彼女は女の子を抱きあげて接吻した。「なんてかわいいんでしょうね、ほんとうにかわいらしい! どうぞ、みんなをわたしに見せてちょうだいな」
彼女はそこで、ひとりひとり子供の名をいったが、ただ名前ばかりでなく、その生まれ年から、月から、性質から、病気のことまで覚えていたので、ドリーは感謝しないではいられなかった。
「そうね、じゃ、あれたちのところへ行ってみましょう」と、彼女はいった。「ワーシャがちょうどねんねしてますから、あいにくだけど」
子供らを見てから、彼女らはいよいよふたりきりになり、コーヒーを前にして、客間に座をしめた。アンナは盆《ぼん》に手をかけたが、やがてそれを押しやった。
「ドリー」と彼女はいった。「わたし兄さんから聞きましたのよ」
ドリーは冷やかにアンナを見た。彼女は今こそ、通り一ぺんの同情の言葉が出ることとそれを期待したが、アンナはそんなことはひと言も口に出さなかった。
「ねえ、ドリー!」と彼女は言った。「わたしはあなたに、兄さんの弁解をしようとも思わなければ、お慰めしようとも思いませんの。そんなことは望めないことですものね。だけど、ダーシェンカ、わたしはただあなたがお気の毒で、心からお気の毒でなりませんのよ!」
彼女の輝かしいひとみをかこむ濃いまつ毛の下から、急に涙が浮かびあがった。彼女は兄よめのそばへ座をうつして、その力のこもった小さい手で彼女の手をぎゅっと握った。ドリーはそれをこばみはしなかったが、彼女の顔は、そのそっけない表情をあらためなかった。彼女はいった――
「わたしを慰めてくださることはむだですわ。あのことがあってからというもの、もう何もかも失われてしまったのですもの、何もかもだめになってしまったのですもの!」
しかも、彼女がこう答えるやいなや、彼女の顔の表情はみるみる柔らいだ。アンナはドリーのぱさぱさした、やせた手を持ちあげて、それに接吻して、いった――
「ですけれどねえ、ドリー、どうすることができましょう、どうすることができましょう? この恐ろしい場合に処するには、どうするのが一ばんいいか?――これが考えねはならぬところですわ」
「何もかも終わったのですわ。このうえどうしようがあるものですか」とドリーはいった。「ところで何よりこまることは、あなたにもおわかりでしょうけれど、わたしがあのひとを捨てえないことですわ――子供たちがね。わたしは縛られているんですもの。それでいてわたしは、あのひとといっしょに暮らすことはできませんの、わたしはあのひとを見るのも苦痛なのですわ」
「ドリー、ねえ、わたしは兄さんから聞くには聞いたのですけれど、あなたからもいちおう、うかがいたいのよ、もう一度すっかりお話してくださらない」
ドリーはいぶかしげに彼女の顔を見つめた。
いつわりならぬ同情と愛とが、アンナの顔に現われていた。
「では聞いてちょうだいね」と、とうとつに彼女は言いだした。「だけど、わたしはじめからお話しますわ。わたしがどうして結婚したかは、あなたもごぞんじですわね、わたしは母の教育のおかげで、無邪気を通りこして、ぼんやりでした。わたしはなんにも知りませんでした。わたしは、夫は妻にたいして自分の過去の生活を話すものだということを聞いていましたけれど、スティーワは……」と言いかけて、彼女は言いなおした。「ステパン・アルカジエヴィッチは、わたしにはなにも話してはくれませんでした。あなたはほんとうにはなさらないでしょうけど、まったくわたしは、今日まで、自分があのひとの知った、ただひとりの女だと信じきっていたのですわ。こうしてわたしは、八年のあいだ暮らしてきました。ですからわたしは、不実なことをされようなんて、思ってもみませんでしたし、そんなことはできることでないように考えていたのですわ。そこへですよ、まあ考えてもみてくださいな、そういう心でいたところへ、とつぜんあんな恐ろしいことを、あんなけがらわしいことを見せつけられたんですものね……あなたはわかってくださいますわね……自分の幸福を十分に信じていたものが、とつぜん……」とドリーは、すすり泣きをおさえながらつづけた。「手紙を見つける……あのひとから情婦にあてた、うちの家庭教師にあてた手紙を見つけるなんて。いいえ、これはあんまり恐ろしすぎることですわ!」と彼女は、急いでハンケチを取り出すと、それで顔をおおってしまった。「そりゃわたしだって、心の迷いからだとしたら、まだしも了解できますけれど」と彼女は、ちょっと言葉をとぎらせてから、またつづけた。「けれど、こう、たくらみすまして、狡猾《こうかつ》にわたしをだますなんて……それもだれとでしょう?……そして、あの女と関係をつづけながら、わたしの夫にもなっていようなんて……ほんとに恐ろしいことですわ! あなたにはおわかりにならないでしょうけれどね……」
「いいえ、わたし、わかりますわ! わかりますとも、ドリー、わかりますとも」と彼女の手を握りしめながら、アンナはいった。
「で、あなたは、あのひとが、わたしの立場のこの恐ろしさをわかっててくれるものとお思いでしょう?」とドリーはつづけた。「ところがどうして! あのひとは幸福で、満足してるんですものねえ」
「いいえ、それは違ってますわ!」と、アンナは早口にいった。「兄さんは悲しんでますわ、兄さんは後悔に責められてますわ……」
「だって、あのひとが、後悔のできる人でしょうか?」とドリーは、ひたと義妹の面を見つめながら、さえぎった。
「ええ、わたしは兄さんを知っていますわ。わたしはあのひとを見ると、気の毒に思わないではいられませんでしたわ。わたしたちは、お互いにあのひとをよく知っていますわね。あのひとは、心はいいんだけれど、傲慢《ごうまん》なんですわ。でも、こんどはすっかりしょげてますのよ。わたしが何より動かされたのはね……(ここでアンナは、ドリーを動かしうるかんじんなことを思いついた)あのひとがふたつのことで苦しんでいることですわ……それは、ひとつは子供にたいして恥ずかしく思っているのと、いまひとつは、あなたを愛していながら……そうよ、そうよ、この世の何よりも愛していながら」と彼女は、口をはさもうとするドリーを急いでさえぎった。「あなたにひどいことをして、あなたを傷つけてしまったことです。『いや、いや、あれは許してはくれまい』なんて、あのひとはしょっちゅう言いつづけていましたわ」
ドリーは、彼女の言葉を聞きながら、もの思わしげに、義妹の横手のほうへ目を落としていた。
「ええ、そりゃわたしだってねえ、あのひとのつらいことはわかってますわ――罪のない者より罪のある者のほうが、よけいつらいにきまってますものねえ」と彼女はいった。「もしあのひとが、すべての不幸が自分の罪からかもされていることを感じているとしたら。でも、どうしてこれが許せましょう、どうしてわたしに、あの女のあとで、もう一度あのひとの妻になるなんてことができましょう。わたしには、もう、あのひとといっしょに暮らすことさえ苦痛なんですもの、それというのも、つまりは、わたしがあのひとにたいする自分の過去の愛を愛するからですけれど……」
そこで、すすり泣きが彼女の言葉を引き裂いた。
だが彼女は、まるで故意《こい》にそうしてでもいるように、心が柔らいでくるたびに、自分を憤怒《ふんぬ》にかりたてた事実について、くりかえし話をはじめるのであった。
「そりゃあの女は若うござんす、そりゃあの女はきれいですわ」と彼女はつづけた。「それにひきかえ、よござんすか、アンナ、わたしの身は、若さも美しさももうすっかり奪われてしまいましたわ……だれにでしょう? あのひとと、あのひとの子供たちとにですわ。わたしはあのひとに仕えてきました。そして、この勤めのために、すべてのものを失ってしまったのですわ。ところが、今になってみると、あのひとには、卑しくてもみずみずしい女のほうがいいのです、あのひとたちは、きっとふたりしてわたしのことを、かれこれいったにちがいありませんわ。それとも、もっとわるくすれば、なんともいってくれなかったかもしれません……あなた、おわかりになって?」
またもや彼女の目は、憎悪のために燃えたってきた。
「こんなことのあったあとでも、あのひとはまだわたしにいろいろいうでしょう……だけど、それがわたしに信じられるでしょうか? どうしたってだめですわ。だって、もう何もかも終わってしまったんですもの、慰めになっていたもの、骨折りや苦労の報酬《ほうしゅう》になっていたものも、すっかり終わってしまったんですもの……あなた、わたしのいうことを信じてくだすって? わたしは今グリーシャに教えていましたわね以前はこんなことも喜びでした。それが、今では苦痛なんですもの。なんのために骨を折ったり苦労したりしているのでしょう、子供なんか、なんのためにあるのでしょう? わたしの心がこんなに急に顛倒《てんとう》してしまったのは、ほんとに恐ろしいことですわ。そして今わたしの心には、愛と優しさのかわりに、あのひとにたいする憎悪があるばかりです。そうですわ。わたしほんとうにあのひとを殺してしまいたいくらいなんですもの……」
「ダーシェンカ、ドリー、わたしほんとにお察ししますわ。しかし、もうそんなにご自分を苦しめることは、およしにならなくてはいけませんわ。あなたは、たいていのものがあるがままに見えないほど、ひどく激して、興奮していらっしゃるのよ」
ドリーは気をおししずめた。そしてふたりは、二分間ばかり黙っていた。
「どうしたらいいでしょうね、アンナ、よく考えてわたしを助けてくださいな。わたしはもう、そればかり考えてますけれど、さっぱり見当がつかないんですもの」
アンナにも、その思案は少しもつかなかった。が、彼女の心は、兄よめの一語一語に、その表情のひとつひとつに、ぴったりと共鳴しているのだった。
「わたしひと言だけ申しますがね」とアンナははじめた。「わたしはあのひとの妹ですから、あのひとの性質はよく知っております、あの、何事でもさっさと忘れてしまう性質も(彼女は額の前で手を振った)、誘惑におぼれやすい性質も。でも、そのかわりにまた、後悔することの早いのも。兄は、今ではもう、どうしてあんなことができたろうかと、われながらふしぎに思って、ぼんやりしているくらいですわ」
「いいえ、あのひとは承知しているんですわ。あのひとは承知していたんですわ!」と、ドリーはさえぎった。「けれど、わたしは……あなたは、わたしのことを忘れてらっしゃるのよ……いったいわたしのほうが苦しみが少ないでしょうか?」
「まあ待ってちょうだい。それはね、じつをいえば、兄がわたしに話したときには、わたしにはまだ、あなたの立場の恐ろしさが、はっきりとはわかりませんでしたのよ。わたしはただ、あのひとのことと、家庭の破壊ということとを知ったばかりでした。そしてわたしには、あのひとが気の毒に思われました。けれども、あなたとお話してみると、わたしは、女として、また別のものを見るようになりましたの。わたしはあなたの苦しみを見ました。そしてわたしには、なんといっていいかわからないほど、あなたがお気の毒になってきましたの! でも、ねえドリー、ダーシェンカ、わたしはあたたの苦しみに十分同情はしますけれど、ただひとつ解《げ》せないことがありますのよ――わたしにはわかりませんわ……わかりませんわ、あなたの心にまだどの程度まであのひとにたいする愛が残っているのか。許すことのできるだけの愛が残っているかどうかということは、それは、あなただけがごぞんじのことですからね。で、もしそれだけのものがあるとしたら、そうしたら、許してあげてくださいな!」
「いいえ」とドリーはいおうとした。が、アンナがもう一度彼女の手を接吻しながら、それをさえぎった。
「わたしはあなたよりは、世間というものをいくらかでも知っていますよ」と彼女はいった。「わたしは、スティーワのような人たちも知っていますし、その人たちが、こういうことをどう見ているかということも、知っています。あなたは、兄さんが、その女とあなたのことをかれこれいったようにおっしゃったわね。けれど、そんなことはけっしてありませんわ。ああいう人たちは、不実なことこそしますけれど、わが家のかまどと妻とはこれはああいう人たちにとって、神聖犯すべからざるものなんですもの。どういうものか、ああいう人たちは、そういう女を見くびっていて、家庭のことには口だしをさせないものですわ。ああいう人たちは、家庭とそういう女とのあいだには、いつでも、越えることのできない線をひいているものなんですよ。もっともこの理由は、わたしにもわかりませんの、だけど、それは事実ですわ」
「ええ、でもあのひとは、その女を接吻しましたのよ……」
「ドリー、まあ待ってちょうだい、ねえダーシェンカ。わたしはあなたを恋してた時代のスティーワを知ってますわよ。わたしは、兄がよくわたしのところへ来て、あなたのことを話しながら、泣いたときのことを覚えていますわ。ほんとにあなたはあのひとにとって、どんなに美しい詩であり尊いものであったでしょう。そのうえわたしは、兄さんがあなたとこうして長くつれ添っているあいだに、兄さんにとってあなたが、いよいよ尊いものになってきたことも知っていますわ。わたしたちは、兄さんがひと言いうたびに、きっと『ドリーは驚くべき女だ』なんてつけ加えるので、よく笑ったものですからね。あなたはほんとに兄さんにとっては、いつでも神の国だったし、また今でもそうなんですわ。で、こんどの迷いなどは、兄さんの本心から出たものではなく……」
「ですけれど、もしこんな迷いがくりかえされるようだったら?」
「そんなことがあるはずのものですか、わたしはそう思いますわ……」
「ええ、だけど、あなただったらお許しになれて?」
「それはわからないわ、判断がつきませんわ……いいえ、できてよ」としばらく考えてからアンナはいった。そして肚《はら》のうちで、そうした場合を想像して、それを心の秤《はかり》にかけながら、言いたした。「いいえ、できてよ、できてよ、できてよ。ええ、わたしきっと許してよ。そりゃ、まさか、それまでどおりではいられないでしょう。でも、許すことは許しますわ、まるでそんなことなどなかったように、ぜんぜんなかったことのように、さっぱりと許してやりますわ……」
「ええ、それはねえ」とドリーは、何度も何度も考えたことを言いだすような調子で、早口にこうさえぎった。「そうでなければ、許しということになりませんものね。許す以上は、それこそもう、さっぱりと許してしまわなければねえ。さあ、まいりましょう、わたしあなたのお部屋へご案内しますわ」と立ちあがりながら彼女はいった。そしてその途中で、アンナを抱きしめた。「ああアンナ、ほんとにあなたがいらしてくだすって、わたしどんなにうれしいでしょう。わたしは気がらくになりましたわ。ずっとずっとらくになりましたわ」
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二十
この日は一日アンナはうちで、つまりオブロンスキイ家で過ごしてしまった。知人のだれかれが、早くも彼女の到着を耳にして、もうこの日から押しかけて来たが、彼女はだれにも会わなかった。アンナは朝のうちずっと、ドリーや子供たちを相手に過ごした。そして、兄のもとへ、ぜひともうちで食事をするようにと、書いたものを持たせてやっただけであった。「帰ってらっしゃいな、神さまはお慈悲《じひ》ぶかくいらっしゃいます」こう彼女はそれに書いた。
オブロンスキイはわが家で食事をした。食卓での会話は、共通のものであった。そして妻は、それまでは使わなかった「あなた」という言葉で夫に呼びかけながら、話をした。夫婦のあいだにはまだ、例の他人行儀が残っていた。けれども、もう別れ話は出なかった。そしてステパン・アルカジエヴィッチは、弁解と和解の可能であることを見てとった。
ちょうど食事がすんだばかりのところへ、キティーが馬車でやって来た。彼女はアンナ・アルカジエヴナを知ってはいたが、ほんのちょっとだったので、今こうして姉のもとへくるにも、この世人の賞賛の的になっているペテルブルグ社交界の貴婦人が、どんなふうに自分を迎えてくれるかということに、なんとなく気おくれを感じないではいられなかった。けれども彼女は、アンナ・アルカジエヴナの気にいった――それは、彼女にもすぐわかった。アンナは明らかに、彼女の美しさと若さとに魅せられたのであった。そしてキティーはキティーで、それと気がつくひまもなく、早くも彼女の影響のもとにある自分を感じたばかりでなく、年ごろの娘がおうおう年上の既婚婦人を恋い慕うことがあるように、彼女を慕っている自分を感じているのだった。アンナは社交界の貴婦人らしくもなく、また八つになる男の子の母親らしくもなくて、身のこなしのしなやかさといい、みずみずしい様子といい、また、ときにはその微笑のなかに、ときにはそのまなざしのなかに刻み出される、その容貌のいきいきした表情といい、むしろ二十《はたち》の乙女に近いといっていいくらいであった。もしあのまじめな、ときには悲しげにさえ見えてキティーを打ち、キティーを自分のほうへ引きつけた、目の表情さえなかったなら。キティーは、アンナがあくまで単純な、何ひとつ秘密をもたない人であることを感じていた。が、同時にまた、アンナのなかには、もうひとつ別の、彼女などには近づくこともできないような、複雑な、詩的な興味をたたえた、一種|崇高《すうこう》な世界のあることを、感じないではいられなかった。
食事が終わって、ドリーが自分の居間へと出ていくと、アンナはすばやく立ちあがって、葉巻をくゆらしはじめていた兄のそばへ歩みよった。
「スティーワ」と彼女は快活に目くばせしながら、十字を切って彼を祝福しながら、目で戸口のほうをさし示しながら、いった。「さあいらっしゃい、神さまが助けてくだすってよ」
彼は彼女のいう意味をさとり、葉巻を捨てて、ドアの向こうへと姿を消した。ステパン・アルカジエヴィッチが出ていくと、彼女は、子供たちに取りかこまれてすわっていた長いすのほうへもどった。母親がこの叔母《おば》さんと仲好しなのを見たせいか、それとも彼ら自身、彼女のうちに特殊な魅力を感じてか、上のふたりと、それにつれて下の子供たちまで、子供によくあるように、まだ食事前からこの新来の叔母さんにまつわりついて、そのそばを離れなかった。そして彼らのあいだには、いつのまにか、できるだけ近く叔母さんのそばに座を占めるとか、彼女のからだにさわるとか、彼女の小さい手を振るとか、それに接吻するとか、彼女の指輪をおもちゃにするとか、あるいは、せめて彼女の服の縁飾りにでも触れるとかすることからなる、遊戯のようなものができあがっていた。
「さあ、さあ、さっきすわってたようにね」とアンナ・アルカジエヴナは、自分の席へ腰をおろしながらいった。
と、ましてもグリーシャが、彼女の腕の下へ頭をつっ込み、彼女の着物に頭をもたせかけて、誇らしさと幸福とに顔を輝かした。
「それで、こんどはいつ舞踏会がありますの?」と彼女は、キティーのほうを向いてたずねた。
「来週でございます。なかなか大きな舞踏会でございますわ。いつ行ってみてもおもしろいといわれる舞踏会のひとつですから」
「いつ行ってみてもおもしろいなんて、そんな舞踏会がありますかしら?」と優しく、からかうような調子で、アンナはいった。
「それが、ふしぎですけどございますのよ。ホブリスチェフ家ではいつも愉快ですし、ニキチン家でもそうでございますわ。そしてメジュコフ家のはいつもたいくつ。ですけれど、あなたはほんとに、そういうことをお気づきになりませんの?」
「ええ、気づきませんのよ、わたしにはおもしろいなんていう舞踏会は、なくなってしまいましたんですものね」とアンナはいった。そのときキティーは、彼女の目のなかに、自分にはまだ一度も開かれたことのない、例の特殊な世界のあるのを見てとった。「わたしにも、たいくつとめんどうのいくらか少ない舞踏会はありますけれどね……」
「|あなたのようなかた《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》が、どうして舞踏会でたいくつなさるなんてことがございましょう?」
「まあ、|わたしにかぎって《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》どうして舞踏会でたいくつしないなんてことがあるのでしょう?」とアンナは問い返した。
キティーは、アンナがそれにつづく返事をちゃんと心得ていることに気がついた。
「だってあなたは、いつでも、どなたよりも、お美しくていらっしゃいますもの」
アンナはじきあかくなるたちであった。彼女はぽっと顔をそめて、こういった――
「まあ第一に、そんなことはありませんし、第二には、よしまたあったとしても、それがわたしにとってなんの役にたちましょう?」
「あなたはこんどの舞踏会においでになりまして?」とキティーがたずねた。
「さあ、出ないわけにはまいりませんでしょうねえ。さあ、いいからおとりなさい」と彼女は、彼女のまっ白な、さきの細い指から、たやすくぬけそうな指輪をぬきとろうとしていたターニャにいった。
「わたくし、あなたがいらしてくだされば、ほんとうにうれしゅうございますわ。わたくしもうもう舞踏会でのあなたを拝見したくてしょうがないんですもの」
「では、もし出かけるようなことになっても、わたしはそれがあなたの満足になるのだと思って、いくらかでも自分を慰めますわ……あ、グリーシャ、そうひっぱらないでちょうだいね、もうこんなにこわれてるんだから」と彼女は、グリーシャのおもちゃにしていた髪の、こわれかけたふさを直しながらいった。
「わたくし、あの、舞踏会へは、あなたはきっと、ふじ色のお召しものをつけていらっしゃるだろうと想像しますの」
「どうしてまた、ふじ色とおきめになるんでしょう?」と、ほほえみながらアンナはたずねた。「さあみんな、早くあちらへおいで、おいで。聞こえるでしょう? ミス・グーリが、お茶をあげるんだって呼んでますよ」と彼女は、自分のそばから子供たちを引きはなして、食堂のほうへ行かせながらいった。
「わたしちゃんとぞんじてましてよ、あなたがわたしを舞踏会へ行かせたがっていらっしゃるわけを。あなたはこんどの舞踏会に期待していらっしゃることが、どっさりおありなんでしょう。そしてあなたは、みんながその会へ出るように、そしてそのお仲間入りをするようにと、願っていらっしゃるんでしょう?」
「まあ、どうしてごぞんじなんでしょう? そのとおりでございますわ」
「ああ! あなたがたのお年ごろはほんとにようございますわね」と、アンナはつづけた。「わたしもあの、スイスの山にかかっているような、空色した靄《もや》を覚えてもいますし、知ってもいますわ。その靄は、ちょうど子供の時代が終わろうとする、あの幸福な時代に、すべてのものをおおうもので、そして、この大きな、幸福にみちた、楽しい世界からさきは、道がしだいしだいに細くなって、見たところは明るい、美しいところのように見えていながら、その一本道へはいって行くのが、楽しいような、気づまりなような……わたしたちはひとりだって、こういう道を通らないものはないんですわね」
キティーは黙ってにこにこしていた。『それにしてもこのひとは、どういうふうにその道を通ってきたのだろう? わたしほんとにこのひとのロマンスがすっかり知ってみたいわ』とキティーは、彼女の夫であるアレクセイ・アレクサーンドロヴィッチの無趣味な容貌《ようぼう》を思いうかべながら、考えた。
「わたしいいこと知ってますのよ。スティーワがわたしに話して聞かせましたの、ほんとにおめでとうございますわね。あのかたならわたしも大好きですわ」と、アンナはつづけた。「わたしはもう停車場で、ウロンスキイにお目にかかりましたのよ」
「あら、あのかたが停車場にいらしたんですか?」とキティーはさっとあかくなりながら、きいた。
「スティーワが何をお話しいたしまして?」
「スティーワは何もかもしゃべってしまいましたのよ、わたしも、そうなれば、たいへんけっこうだとぞんじますわ……わたしね、昨日はウロンスキイのお母さまとごいっしょに乗ってまいりましたのよ」と、彼女はつづけた。「お母さまはわたしを相手に、汽車の中じゅう、あのかたのことばかり話し通しでいらっしゃいましたわ――あのかたはきっとお母さまのご秘蔵っ子ですのね。わたしも、母親というものが、子供にたいしてどんなに目のないものかということは、承知していますけれどね……」
「お母さまはあなたにどんなことをお話しなさいまして?」
「それはそれは、いろいろなことを! そりゃあのかたは、お母さまのご秘蔵っ子だからではありますけれど、あのかたはだれの目にも、やっぱりりっぱなカヴァレール(騎士)ですわ……たとえば、これもお母さまのお話ですけれど、あのかたは財産を全部お兄さまにあげてしまおうとなすったことがあるそうですし、また、まだおちいさい時分にも、何か変わったことをなすったり、婦人のかたを水の中から救ったりなすったことがあったんですって。つまり、ひと口にいうと、英雄ですのね」とアンナは、彼が停車場で与えたあの二百ルーブリのことを思い出しながら、笑顔になってこういった。
しかし彼女は、この二百ルーブリのことは話さなかった。どういうものか彼女には、それを思い出すのが不愉快であった。彼女は、そのうちには何やら、自分に関係のあるもの、あってはならないもののあるのを、感知していたのだった。
「お母さまはわたしに、ぜひ遊びにくるようにっておっしゃいましたし」と、アンナはつづけた。「わたしもあの老婦人にお目にかかるのはうれしいのですから、明日はお訪《たず》ねしようと思ってますの。それはそうと、いいあんばいに、スティーワは、長いことドリーの部屋へいってますわね」とアンナは話題を転じながら、そして、キティーの見たところでは、何やらうかぬ面もちで立ちあがりながら、こうつけ加えた。
「いいえ、あたしがさきよ! いいえ、あたしよ?」と子供たちはお茶を飲み終わって、アンナ叔母さんのほうへかけて来ながら、叫びたてた。
「みんないっしょいっしょ!」とアンナはいって、笑いながら、それを迎いにかけだした。そして、うれしがってきゃっきゃっと騒ぎまわる子供たちの一団を、ひとかかえにして押しころばした。
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二十一
おとなたちのお茶のときに、ドリーは自分の居間から出てきた。ステパン・アルカジエヴィッチは顔を見せなかった。きっと、妻の部屋のうしろの戸口から出ていったに相違なかった。
「わたし、二階ではあなたがお寒くないかと思って、気になるのよ」とドリーは、アンナのほうを向きながらいった。「ほんとは下へ来ていただくといいのね、お互いに近くなって」
「ええ、でも、わたしのことならけっしてご心配なく」とアンナはドリーの顔を見つめて、仲直りができたかどうかを見きわめようとつとめながら、答えた。
「あなたには、ここは明るすぎるでしょう」と兄よめはいった。
「いいえ、わたしはどんなところだって、いつでも、|やまねずみ《ヽヽヽヽヽ》みたいによくやすみますわ」
「ふたりで何を言いあってるんだい?」とステパン・アルカジエヴィッチは、書斎から出てきながら、妻に向っていった。
彼の調子によって、キティーもアンナも、いちはやく、和解のできたことをさとった。
「わたしアンナに、下へ来ていただこうと思ってるんですけれど、それにはカーテンを掛けかえなければなりませんからね。だれもしてがないから、わたしが自分でしなくちゃならないんですよ」とドリーは、彼のほうへ顔を向けながら答えた。
『おやおや、これじゃすっかり仲直りができたかどうか、あやしいもんだわ』と、彼女の冷やかな、おちついた調子を聞いて、アンナは思った。
「いや、たくさんだよ、ドリー。そうむやみに骨を折らなくたって」と夫はいった。「しかし、なんならおれがなんでもやってやるがね……」
『そうだ、やっぱり仲直りはできたのだ』とアンナは思った。
「ええ、ええ、あなたはなんでもしてくださいますわ」とドリーは答えた。「とてもできっこないことをマトヴェイに言いつけて、ご自分はさっさとお出かけになってしまう。あのひとが何もかも台なしにしてしまう。わたくしちゃんと知っていますわ」そして、彼女がこういったとき、いつものあざけるような微笑が、そのくちびるの両端に刻まれた。
『ああ、すっかり仲直りがすんだんだわ、もうすっかり』と、アンナは考えた。『まあいいあんばい』そして、自分がその誘因になったことをうれしく思って、ドリーのそばへ行き、彼女を接吻した。
「いや、断じてそんなことはない――どうしておまえは、おれとマトヴェイとをそんなに軽蔑《けいべつ》するんだね?」とステパン・アルカジエヴィッチは、ほとんど見えないくらいの微笑をふくんで、妻のほうを向いていった。
この夜もひと晩じゅう、ドリーの夫にたいする態度は、例によってやや皮肉ではあったが、ステパン・アルカジエヴィッチは、許されて罪を忘れたなどと思われないだけの程度で、満足らしく、楽しそうにしていた。
九時半ころ、茶卓をかこんでの、オブロンスキイ家のとくべつ喜ばしげな、愉快な一家|団欒《だんらん》の夜の談笑が、ある、どうみてもきわめて普通な、一事件によって破られた。しかも、その普通な事件が、一同にはなぜか、妙に変なことのように思われたのであった。ペテルブルグでの共通な知人について、なにかと話がはずんでいたときに、アンナは急に立ちあがった。
「そのかたなら、わたしのアルバムのなかにいらっしゃいますわ」と彼女はいった。「そのついでにわたし、うちのセリョージャもお目にかけますわ」こう彼女は、母親らしい誇らしげな微笑をふくんで、言いたした。
彼女が日ごろ子供に別れを告げ、また舞踏会などへ出かけるときには、しばしばその前に自分で寝かせに連れていくことになっていた十時近くなると、彼女には、自分がその子供とも遠くはなれてしまったことが悲しくなって、人の話などは耳に入らなくなり、身はうつろに、心は遠く縮れ毛のセリョージャのそばへ飛んで行ってしまった。彼女は彼の写真を見たくなった。彼の話がしたくなった。で、知人のうわさが出たのを口実に、席をはなれて、もちまえの軽快な、しっかりとした足どりで、アルバムを取りに立ったのだった。二階の彼女の部屋へ通ずる階段は、玄関の大きな正階段の中途のおどり場からわかれて出ていた。
彼女が客間から出ようとしたちょうどそのときに、玄関でベルの鳴るのが聞こえた。
「おや、どなたでしょうねえ?」とドリーはいった。
「わたしの迎いにしては早いし、お客さまにしては遅いわね」とキティーが口をあわせた。
「おおかた書類でも持って来たのだろう」とステパン・アルカジエヴィッチはいった。そして、アンナが正階段のそばを通りかかったときに、ひとりの家僕が、訪問者のあることを告げにかけあがって来、訪問者自身も、ランプのわきにたたずんでいた。アンナは下のほうをすかして見て、すぐ、それがウロンスキイであることを認めた。と、ある満足と恐怖の入りまじった一種ふかしぎな感情が、とつじょとして彼女の心に波をあげた。彼は外套も脱がずにつっ立ったまま、なにやらごそごそとポケットの中を捜していた。そして、彼女がちょうど階段のまん中あたりまで来たときに、目をあげて彼女を見た。と。彼の顔の表情には、なにやらこう、はにかんだような、おびえたような色がうかんだ。彼女は、軽くえしゃくして通りすぎた。と、彼女のうしろでは、彼にはいれと呼んでいるステパン・アルカジエヴィッチの大きな声と、それを辞退しているウロンスキイの、あまり高くない、柔らかな、おちつきのある声とが聞こえた。
アンナがアルバムをもってもどってきたときには、彼はもはやいなかった。そしてステパン・アルカジエヴィッチが、彼は、彼らが明日、この地へ来ている名士のために催すことになっていた、晩餐会のうち合わせのためによったのだと話しているところだった。
「そして、なんといってもはいろうとしないんだ。あれもなんだかおかしな男だ」とステパン・アルカジエヴィッチはつけ加えた。
キティーはあかくなった。彼女は、彼がたちよったわけ、そしてはいらなかったわけを知っているのは、自分だけだと考えたのだった。『あのかたはうちへいらしったのだわ』こう彼女は考えたのである。『ところが、わたしがいなかったので、こちらにいるものとお思いになった。けれど、おはいりにたらなかったのは、遅くもあり、アンナのいることをお考えになったからだわ』
みんなは、なんにもいわないで目を見あわせた。そして、アンナのアルバムに見いった。
ひとりの男が、計画中の晩餐会について、くわしいうち合わせをするために、夜の九時半に友人を訪ねた、が、上へはあがらなかった――ということには、なんの変わったところもなければ、べつにふしぎとすることもなかった。けれども、これが一同には、なんとなく変に思われた。ことに、だれよりもアンナには、奇妙に、よくないことのように思われた。
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二十二
母夫人といっしょにキティーが、頭に髪粉をつけ真紅の上着を着た下僕たちと、かずかずの花とで飾られた燈火のまばゆい大階段へ足をかけたときには、舞踏会はまだはじまったばかりのところであった。そちこちの広間からは、ちょうど蜂《はち》の巣《す》の中でするような、運動にともなう一様なきぬずれの音が聞こえ、そして、彼女たちが中途のおどり場で、植木のかげの姿見に向かって、髪や服装を直しているあいだに、ひとつの広間からは、最初のワルツを奏しはじめたオーケストラのヴァイオリンの、注意ぶかいきわ立った音色が聞こえてきた。香水のにおいをプンプンさせて、別の鏡の前でその白髪頭を直していたひとりの老文官は、階段の上で彼女たちと出あいがしらになると、初めて見るキティーに見とれながら、道をゆずった。スチェルバーツキイ老公がやくざ者と名づけている社交青年のひとりである、恐ろしく胸あきのひろいチョッキをきた無髭の青年が、白いネクタイを直しながら歩いてきて、ふたりにえしゃくしてそばを通りすぎたが、またひっ返してきて、キティーにカドリールを申し込んだ。第一回のカドリールは、もうウロンスキイと約束ができていたので、この青年には彼女は、第二回を約束しなければならなかった。またひとりの軍人は、手ぶくろのボタンをはめながら、戸口のところで道をゆずった。そして口ひげをひねりながら、ばら色に光り輝くキティーを、恍惚《こうこつ》としてながめていた。
化粧、髪の結いかた、その他舞踏会のための支度はすべて、キティーにとって、大きな労力と苦心との結果だったにもかかわらず、彼女が今、ばら色のうすものをきせた、手のこんだあみ織りの衣装をつけて、自由に、単純に、舞踏室へはいっていった様子は、まるで、それらのばらの花飾りも、レースも、念入りな化粧ぶりも、すべてが、彼女にも彼女の家人にも、なんの骨折りもかけないで、さながら彼女は、この高いまげと、二枚の葉をもったばらの花をかざして、このあみ織りとレースのなかに生まれ出たもののように見えた。
広間へ通ろうというところで、老公爵夫人がバンドのリボンの折れているのをなおしてやろうとしたときにも、キティーは軽くそれを避けた――彼女は、自分には何もかもがあるがままでけっこうなのだ。かえってそのほうが優雅なはずだ、少しもなおす必要なんかないのだ。こんなふうに感じていたのである。
キティーにとってこの日は、その幸福な日のひとつであった。衣装には窮屈なところはひとつもなく、レースのえりにもたるんだところはなく、ばらの花飾りも、しわになったり、もげたりしてはいなかった。高いかかとの弓なりになったばら色の靴は、足をしめつけるどころか、かえってそれを快くした。灰白色の髪のふさふさとしたかもじは、自毛のように、かわいい頭にしっくりとあっていた。毛ほどもその形を変えることなく彼女の手を包んでいた長い手ぶくろの三つボタンも、みなちぎれたりしないでぐあいよくかかっていた。メダルをつった黒ビロードリボンは、ことさらに柔らかくくびをつつんでいた。このビロードは美しかった。わが家で鏡にうつった自分のくびをながめたときに、キティーはこのビロードが、口をきいたように感じたほどであった。ほかのものには、なにかとまだ疑問の点があったが、このビロードだけはまったくよかった。キティーは、ここの舞踏会へのぞんでからも、鏡のなかでそれを見てにっこりした。あらわにした肩と腕とには、キティーは、ひやりとするような大理石質を感じた――この感じが、彼女はまたとりわけ好きであった。目は輝き、真紅のくちびるは、自分の美を思う意識から、ほほえまないではいられなかった。彼女が広間へはいるかはいらないに、そして、舞踏の申し込みを待っている、あみ織りや、リボンや、レースや、花で包まれている婦人たちのひとむれ(キティーはまだ一度もこんな仲間へはいったことはなかった)のそばまで行き着くか着かないうちに、早くも人々が彼女をワルツに招いた。一流の紳士で、舞踏会の立役者で、有名な舞踏の指導者で、妻帯者で、美しい上に堂々たる体格をもった式部官のエゴールシカ・コルスンスキイまでが、彼女に相手を申し込んだ。ワルツの第一奏をいっしょに踊ったボーニナ伯爵夫人を見捨てるやいなや、彼は自分の管理物、すなわち踊りはじめていた数組を見まわしながら、おりからはいってきたキティーに目をとめると、舞踏の指導者だけに特有の、一ぷう変わった自由な足どりで、彼女のそばへかけより、ひとつえしゃくをすると、彼女の意向などはききもしないで、手をのばして彼女の優しい腰をだこうとした。彼女は、扇をわたす人を目で求めた。と、彼女にえみかけながら、この家の夫人がそれを受け取ってくれた。
「あなたがちょうどの時間に来てくだすったのは、たいへんけっこうです」と彼は、彼女の腰を抱きながら、いった。「遅刻ということはいい風習ではありませんからね」
彼女は、左手を少しまげて、彼の肩においた。と、ばら色の靴をはいたそのかわいらしい足は、楽の音《ね》につれて敏捷《びんしょう》に、軽快に、すべっこいはめ床の上を調子よく動きはじめた。
「あなたとワルツを踊るとからだが休まる」と彼は、ワルツの最初のゆるやかな一歩を踏み出しながらいった。「うまい、なんという軽さだ、precision(正確だ)」と彼は、ほとんどすべてのよき知人にいうことを、彼女にもいった。
彼女は、彼の賛辞ににっこりして、その肩ごしに広間の中を見まわしつづけた。彼女は、舞踏場へ出ると、すべての人の顔がひとつの魔術的印象に溶けてしまうというほどのかけだしでもなく、またすべての人を知りすぎていて、興味がおこらないというほど舞踏会に|とう《ヽヽ》の立った娘でもなかった。彼女はちょうど、このふたつの中間にいた――彼女は興奮もしていたが、同時にまた、周囲を観察しうるだけには自分を把握《はあく》していた。彼女は、広間の左手のすみのほうに、社交界の花形の集まりを見た。そこには、コルスンスキイの夫人である、思いきって肩をむき出しにした美人のリディーがいた。そこにはまた、この家の主婦もいれば、社交界の花形のよる場所にはどこにでも見られるグリーヴィンが、その禿《は》げ頭を光らせていた。青年たちは、なんとなく近づきかねて、そのほうばかりながめていた。やがて、彼女はそこにスティーワを見つけ、さらにまた、黒ビロードの衣装をまとったアンナの、美しい姿と頭とを見つけた。そして、彼《ヽ》もまたそこにいた。キティーは、レーヴィンに拒絶したあの夜以来、彼を見なかったのである。キティーは、その遠目のきく目で、さっそくに彼を認め、彼が自分のほうを見ていることまでを見わけた。
「いかがです、もう一番? まだお疲れじゃないでしょう?」と軽く息をはずませながら、コルスンスキイはいった。
「いいえ、ありがとうございますけれど!」
「では、どちらへお連れしましょうかね?」
「カレーニナがたぶんあそこに……どうかあのかたのほうへお連れくださいまし」
「ええ、ええ、どちらへでも」
で、コルスンスキイは歩度を加減して――「Pardon, mesdames. Pardon, mesdames.(ごめんなさい。みなさん。ごめんなさい。ごめんなさい。みなさん)」こう言いながら、広間の左の片すみにいた、ひとむれのほうへと、まっすぐにワルツを踊っていった。そしてレースや、あみ織りや、リボンの海のあいだを泳ぎぬけながら、羽根飾り一本引っかけることなしに、くるりとひとつ激しく彼女をねじまわした。と、そのために、透きとおしの長くつ下をはいた彼女のきゃしゃな足がぱっとのぞいて、スカートが扇形にひろがりながら、グリーヴィンの膝《ひざ》におおいかかった。コルスンスキイはちょっと頭をさげ、開いた胸をそらしながら、彼女をさらにアンナ・アルカジエヴナのほうへ連れて行くために、手をさしのべた。キティーはまっ赤になって、グリーヴィンの膝からスカートをはらいのけ、いくらかめまいのするような気持で、アンナの姿を求めながら、周囲を見まわした。アンナは、キティーがぜひにと望んだふじ色の衣装ではなく、胸あきのゆるやかな黒ビロードの衣装をまとい、その、古い象牙《ぞうげ》のように磨きあげられた肉づきの豊かな肩や、胸や、手くびのほっそりとしてかわいらしい、まるまるとした腕やをあらわしていた。その衣装には一面に、ヴェネチアのレースで縁飾《へりかざ》りがほどこされてあった。彼女の頭には、ぜんぜん添え毛のない漆黒《しっこく》の髪に、三色すみれの小さな花束がさしてあり、それと同じ花束が、白いレースのあいだの、黒リボンのバンドの上にもとめてあった。髪の結いかたも、いっこうに目だたなかった。目にたつものとてはただ、あのいつも後ろ頭やこめかみにさがって彼女に風情《ふぜい》を添えている、いろんな形の小さな縮れ毛の輪くらいのものであった。磨きあげたような、がっしりとしたそのくびには、一連の真珠がかかっていた。
キティーは昨日アンナに会って、すっかりほれこんでしまい、どうでも彼女に、ふじ色の衣装を着せてみたいと空想していた。けれども今、黒い衣装をつけた彼女を見るにおよんで、自分がこれまで彼女の真の美を解していなかったことをつくづくと感じた。今や、彼女は彼女を、ぜんぜん新しい、意想外な存在としてながめた。今こそ彼女は、アンナがふじ色の衣装をつける必要のなかったこと、彼女の美は要するに、彼女がつねにその化粧を超越していた点にあること、化粧のあとの絶対に見えない点にあることなどを、理解した。で、このみごとなレース飾りのついた黒い衣装なども、彼女にあっては、ちっともきわ立っては見えなかった。それは単なる額縁にすぎなくて、目にたつのはただ、単純で、自然で、華麗《かれい》で、同時に快活で、いきいきとしている彼女があるだけであった。
彼女は、いつものとおり、思いきりからだをまっすぐにして立っていた。そして、キティーがこの一団のほうへ近づいたときには、相手のほうへ心もち頭をかしげて、この家の主人と話をしていた。
「いいえ、わたくし、石など投げやいたしませんわ」と彼女は何事かにたいして彼に答えていた。「もっとも、なんのことだか、わたくしにはよくわかりませんけれど」と彼女は、肩をすくめてこうつづけたが、同時に、庇護《ひご》するような優しい微笑をうかべて、キティーのほうへ顔を向けた。女らしい鋭い視線で、ちらりと相手の化粧ぶりを見てとると、彼女は、きわめてかすかではあるが、キティーにはよくわかった、彼女の化粧ぶりと美しさとをほめたたえるそぶりを、頭でして見せた。「あなたは広間へも踊りながらはいっていらしたのね」と彼女は言いたした。
「このかたは、わたくしの忠実な補助者のひとりなのです」とコルスンスキイは、初対面のアンナ・アルカジエヴナにえしゃくをしながら、こういった。「公爵令嬢はいつも舞踏会を愉快な美しいものにするのに有力なかたなのです。アンナ・アルカジエヴナ、ワルツをひとつどうか」と彼は、小腰をかがめながらいった。
「おや、あなたはごぞんじなんですか?」と主人はたずねた。
「わたくしどもの知らないかたがありましょうか? わたくしと家内とは、白いおおかみのようなもので、みなさんが知っててくださるんですよ」とコルスンスキイは答えた。「どうぞワルツを、アンナ・アルカジエヴナ」
「わたくし、踊らないですむ場合には、なるべく踊らないようにしておりますの」と、彼女はいった。
「ですが、今日はいけませんな」とコルスンスキイは答えた。
そこへ、ウロンスキイが近づいて来た。
「まあ、そうなんでございますの、ではお供いたしましょう」と彼女は、ウロンスキイのあいさつには気づかないふりでこういって、すばやく片手をコルスンスキイの肩においた。
『どうしてあのかたは、このひとにたいしてすげないんだろう?』とキティーは、アンナが心あってウロンスキイのあいさつに答えなかったらしいのを見て、こう思った。ウロンスキイはキティーに第一回のカドリールのことを思い出させつつ、またこのごろじゅうずっと彼女を見る喜びをもたなかったことを悔みながら、彼女のほうへ近づいた。キティーは、ワルツを踊っているアンナのほうを、うっとりとなって見とれながら、彼の言葉を聞いていた。彼女は、彼が自分をワルツに誘ってくれるのを待っていたが、彼は誘わなかった。彼女はびっくりしたような顔をして彼を見た。彼は顔をあかくして、あわててワルツを申し込んだが、彼が彼女の細い腰に腕をまわして、第一歩を踏み出すか踏み出さないに、とつぜん、はたと音楽がやんでしまった。キティーは、自分の鼻さきにあった彼の顔をじっと見た。そしてこの凝視《ぎょうし》、彼女がそのとき彼を見た愛にみちたこの凝視、そして彼からなんの報いをも受けなかったこの凝視は、その後も長いこと、数年の後までも、苦しいはずかしめとなって、彼女の心臓を引き裂いた。
「Pardon, Pardon(願います。願います)ワルツ、ワルツ!」と広間の向こう側から、コルスンスキイが叫びだした。そして彼は、最初に手にあたった令嬢をとらえて、自身まず踊りはじめた。
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二十三
ウロンスキイはキティーとワルツを数回踊った。ワルツが終わってから、キティーは母のそばへ行って、ノルドストン夫人とやっとふた言み言話したと思うと、もうウロンスキイが、第一のカドリールを踊るために、彼女のあとを追って来た。カドリールのあいだにも、かくべつ意味のある言葉は語られなかった。ただ、ウロンスキイが愛すべき四十歳の子供だというふうに非常に興味ある形容をしたコルスンスキイ夫妻のことだの、近々にできる公衆劇場のことだのについて、きれぎれな会話がかわされたにすぎなかった。が、ただ一度、彼がレーヴィンのことを言いだして、ここへ来ているかどうかをたずね、さらに、自分にはレーヴィンがたいへん気にいったということを話したときに、会話ははじめてどきんと彼女の胸にこたえた。しかしキティーも、カドリールにはさして期待してはいなかった。彼女は心臓のしびれるような思いをして、マズルカを待っていた。彼女には、マズルカのときこそ、すべてが決せられるにちがいないというような気がしていたので。彼は、カドリールのあいだにも、彼女にマズルカの申し込みはしなかったが、それとて彼女には、かくべつ気にもならなかった。彼女は、これまでの舞踏会にそうであったように、今夜もやはり彼といっしょに、マズルカを踊るものと信じていた。で、先約があるからといって、五人もの人にマズルカをことわった。最後のカドリールまでの舞踊はいずれも、キティーにとってただもう歓喜にみちた、色彩と、音響と、運動との魔術的な幻であった。彼女は、ただいかにも疲れたと思ったときだけ、踊りをやめて休息をこうた。が、ことわるわけにいかなくて、たいくつな青年と最後のカドリールを踊っていたあいだに、彼女は偶然、ウロンスキイとアンナとの Vis-a-vis(対舞者)となった。彼女は、ここへ来た最初にちょっと会ったきり、アンナとはいっしょにならなかった。そして、ふとそこに、またしてもぜんぜん新しい、思いがけない女になっている彼女を見いだしたのである。彼女はアンナのなかに、彼女自身もおぼえのある、成功からくる興奮の色のたぶんにあるのを見てとった。彼女はまた、アンナがみずからあおりたてた賛嘆の美酒に陶然《とうぜん》と酔いしれているのを見た。彼女は、この感情を知り、この徴候を知っていた。そしてそれを今、アンナの上に見たのである――その目のなかにふるえ燃えたつ輝きを、心にもなくそのくちびるをくねらせる、幸福と興奮の微笑を、その動作のひときわ目だつあでやかさと、確かさと、軽快さとを見たのである。
『相手はだれだろう?』と、彼女は自分にたずねてみた。『みんなだろうか、ひとりだろうか?』そして彼女は、いっしょに踊っている青年の、はぐれた会話のいとぐちを見いだしかねて苦しんでいるのを助けようともしないで、表面は楽しげに、一同を大きな円にしたり鎖にしたりするコルスンスキイの高調子な号令にしたがいながら、この観察をおこたらなかった。そして彼女の心は、しだいに苦しさをましてしめっけられた。『いいえ、あのかたを酔わせているのは、みんなの人の賛辞ではなくて、ただひとりの人の賛辞だわ。そしてそのひとりは――もしかしたらあのかたでは?』彼がアンナに話しかけるたびに、アンナの目は喜ばしげな光に燃えて、幸福の微笑が、その真紅のくちびるをくねらせた。彼女は、うち見たところ、そうしたそぶりで心内の歓喜を外に現わすまいと、つとめているようであったが、それらはおのずから、彼女の顔へ現われてくるのだった。『だけどあのかたはどうなんだろう?』キティーは彼のほうを見て、はっと強い恐怖にうたれた。キティーは、アンナの顔の鏡面にまざまざとみとめたところのものを、彼の上にもまたみとめたのである。彼の日ごろのあの、おちついた、しっかりした態度や、あくまで悠然《ゆうぜん》としたその顔の表情は、どこへ消えてしまったのだろう? いや、それどころか、今や彼は、彼女のほうを向くたびに、さながら彼女の前へひざまずこうとでもするように、ちょいちょいと頭をさげる。そして、彼のまなざしに読まれるものは、ただ、従順と恐怖の表情だけであった。「わたしは自分をはずかしめたくはないのです」こう彼のまなざしは、そのつど語っているように見えた。「けれども、自分を救いたいのです。しかしどうしていいか、わたしにはわからないのです」そして彼の顔には彼女のついぞ見たことのない表情があったのである。
彼らは共通の知人について語りあったり、いたってつまらぬ話をしたりしていたにすぎなかったが、キティーには、彼らに語られている一語一語が、彼らと自分とにとっては、運命を決するもののように思われてならなかった。しかも、きたいなことには、彼らは事実、イワン・イワーノヴィッチのフランス語がいかにもこっけいだということや、エレツカヤ嬢にはもっといい相手が見つかってもよさそうなものだ、などというようなことを話しあっていたにすぎなかったのに、しかもそれらの言葉が、彼らにとってはある意味をもっていて、彼らもキティーと同様に、互いにそれを感じ合っていたのである。全舞踏会が、全社交界が――何もかもが、キティーの心のなかでは、ぼうっとした霧《きり》につつまれてしまった。ただ、彼女のへてきた厳格な教育の力だけが、彼女を支持して、彼女に要求されること、つまり、踊ることや、質問に答えることや、話すことや、笑顔を見せることまでを、彼女にしいていた。しかし、いよいよマズルカのはじまるときになって、もうそろそろいすが配置され、幾組もの踊り手が、小さい広間から大広間へと移りはじめたとき、キティーの上に見いだされたのは、絶望と恐怖の一瞬であった。彼女は、五人もの求めをしりぞけながら、今ではいっしょにマズルカを踊る相手がなかった。しかも、今ではもう、だれかに申し込まれるという望みさえなかった。というのは、彼女が社交界でおさめた成功があまりにはなばなしかったので、なんぴとの頭にも、彼女がそんな時分まで申し込み者なしでいるなどという考えは、てんでおこりえなかったからである。こうなった以上、母に気分がすぐれないとでも訴えて、うちへ帰ってしまうのが上策だった。しかし彼女には、それをするだけの気力もなかった。彼女はただただ、すっかりうちひしがれたもののような自分を感ずるだけであった。
彼女は小さい客間の奥へ行って、肘掛《ひじか》けいすに身を埋めた。空気のようにふわふわしたスカートは彼女のしなやかな姿態の周囲に、雲のように舞いあがった。むき出しになっていた、ほっそりした、処女らしくきゃしゃな一方の腕は力なくたれて、ばら色のチュニック(一種の袖なし)のひだに沈み、一方の手は扇をささえて、早く短い動作で、その燃えるような顔を煽《あお》いでいた。その姿は、いま草の葉に羽を休めたばかりの胡蝶《こちょう》の、またすぐにも飛びたって、虹のような羽《はね》をひるがえそうとしている風情《ふぜい》を思わせたが、この外見に反して、彼女の心は、恐ろしい絶望の思いにしめつけられていたのだった。
『だけど、もしかすると、わたしの思いちがいかもしれないわ。そんなことはなかったのかもしれないわ!』そして彼女はまたしても、いま目撃した一部始終を、思いかえすのであった。
「キティー、まああなた、どうしたというの?」とノルドストン伯爵夫人が、絨毯《じゅうたん》の上をそっと、彼女のそばへ歩みよって来ていった。
「こんなことわたしにはがてんがいかないわ」
キティーの下くちびるがびりびりとふるえた。彼女はさっと立ちあがった。
「キティー、あなたはマズルカを踊らないの?」
「いいえ、いいえ」とキティーは、涙にふるえる声でいった。
「あのひとはわたしの前で、あのかたをマズルカに誘ってらしたのよ」とノルドストン伯爵夫人は、あのひととあのかたのだれであるかがキティーにわかっていることを承知のうえで、こういった。
「あのかたはいってらしたわ――ではあなたは、スチェルバーツキイのお嬢さんと、お踊りあそばすのではございませんの? って」
「ああ、わたしにはそんなことどうでもいいのよ」とキティーは答えた。
彼女自身をのぞいては、だれひとりとして、彼女の立場を理解しているものはなかった。まただれひとりとして、彼女が昨日、おそらくは自分も愛していた男の申し込みを拒絶したこと、それもほかの男を信じていたばかりに拒絶したのだということを、知っているものはなかった。
ノルドストン伯爵夫人は、いっしょにマズルカを踊ったコルスンスキイを見つけだして、彼に、キティーの相手をしてくれるように頼んだ。
キティーは、第一の組へはいって踊った。ところが、さいわいにも相手のコルスンスキイは、主人役としてたえず奔走《ほんそう》していたので、彼女は口をきく必要がなかった。ウロンスキイとアンナとは、彼女と真反対のところにすわっていた。彼女は、その遠目のきく目で、彼らを見たが、また組と組との入り乱れたときには、近くでも見た。そして、彼らを見れば見るほど、彼女はますます、自分の不幸の完成されてゆくのをたしかめさせられた。彼女は、彼らがこの人でいっぱいの広間にいながら、自分たちふたりきりの世界にいるような感じでいるらしいのを見てとった。あの、いつもはあんなにしっかりとして、ものに動じないウロンスキイの顔にも、さっき自分をうったあの、利口な犬がいたずらをしたときにするような、狼狽《ろうばい》と従順との表情のあるのを見てとった。
アンナがほほえむ――と、そのほほえみは彼に移る。彼女が考えこむ――と、彼もまじめな顔つきになる。一種超自然的の力が、キティーの目を絶えず、アンナの顔へ引きつけた。アンナは、その単純な、黒い衣装をつけた姿がきわ立ってよかった。腕輪の輝くそのふっくらとした腕が美しかった。一連の真珠をかけた、がっしりとしたくびが美しかった。やや乱れた髪の波うっているさまが美しかった。小さい足と手との、優美で、軽やかな動作が美しかった。生気をおびたその容貌《ようぼう》が美しかった。とはいえ、彼女のこの美しさのなかには、なにやら恐ろしげな、残酷なものがひそんでいた。
キティーは、以前よりもいっそう彼女の美しさに見とれ、そしてますます心の苦しみを深められた。キティーはおしつぶされたような自分を感じ、その顔は、まざまざとそれを現わしていた。ウロンスキイは、マズルカの最中に彼女と出会って、彼女を見たが、すぐには彼女と気がつかなかった――それほど彼女は変わっていた。
「すてきな舞踏会ですね!」と彼は彼女に、ただ口をきくためだけに、いった。
「ええ」と彼女は答えた。
マズルカのなかばに、あらたにコルスンスキイによって考案された複雑な形をくりかえしながら、アンナは円の中央へ進み出て、ふたりの紳士をとらえ、それから、ひとりの婦人とキティーとを自分のそばへ呼びよせた。キティーは、びっくりしたように彼女を見ながら、そのそばへ歩みよった。アンナは、目を細めて彼女を見たが、やがてその手を握って、ほほえんだ。が、キティーの顔が、絶望と驚愕《きょうがく》の表情だけで彼女の微笑に答えたのを見ると、彼女は相手から目をそらして、もうひとりの婦人とおもしろそうに話しはじめた。
『そうだわ、このかたのなかには、なんとなくきたいな、悪魔的な、人を引きつけるものがあるわ』と、キティーはひとり心につぶやいた。
アンナは夜食に残る気はなかったが、主人が彼女を引き止めにかかった。
「まあ、そうおっしゃらないで、アンナ・アルカジエヴナ」とコルスンスキイは、彼女のむき出しの手を自分の燕尾服の袖の下へ引き入れながら、言いだした。「わたしに今、すばらしいカテリオン(八人舞踏)の趣向があるんですよ! un bijou(宝石ですよ)」
そして彼は、彼女を引っぱっていこうとつとめながら、少しずつじりじりと身を動かした。主人はそれをはげますように笑っていた。「いいえ、わたくしそうしてはいられませんの」と、アンナは笑いながら答えた。が、その笑顔にもかかわらず、彼女の返事の断乎《だんこ》たる調子によって、コルスンスキイも、主人も、アンナがとどまらないであろうことを察した。「いいえ、なにしろモスクワでは、こちらの舞踏会だけでも、ペテルブルグでひと冬踊るよりもよけいに踊ったくらいでございますもの」と彼女は、そばに立っていたウロンスキイのほうを見ながら、いった。「立ちます前に、ちっとは骨休めをいたさなければなりませんものね」
「では、あなたはどうでも、明日お立ちになるんですか?」と、ウロンスキイはきいた。
「ええ、そのつもりでございますわ」とアンナは、彼の質問の大胆なのに驚きでもしたような調子でいったが、彼女がそういったとき、目と微笑とのおさえがたくおののく輝きが、彼の心を燃えたたせた。
アンナ・アルカジエヴナは、夜食には残らないで、帰って行った。
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二十四
『そうだ、おれにはどこか、人にきらわれるような、いやなところがあるんだ』とレーヴィンは、スチェルバーツキイ家を出ると、徒歩で兄の住居のほうへ向かいながら、考えた。『そしておれは、どうも人の役にたたぬ人間だ。傲慢《ごうまん》だと人はいう。ところがおれには、その傲慢さえもないのだ。せめてその傲慢でもあったら、おれもまさかに、自分をこんな立場にはおかなかっただろう』そして彼は、自分が今夜おちいったような、こんな恐ろしい立場には一度だっておかれたことがないにちがいないあのウロンスキイの風貌《ふうぼう》を――幸福で、善良で、聡明で、おちついたところのある風貌を、思いうかべてみた。『そうだ、彼女があの男を選んだのは、当然なのだ。そうあるべきはずなのだ。したがっておれは、だれにたいしても、何にたいしても、文句をいうわけはないのだ。わるいのはおれ自身だ。いったいおれは、どんな権利があって、彼女がその一生をおれのそれと結びつけたがっているなんて、考えることができたのだろう? おれは何者だ? そしておれは、なんなのだ? なんぴとにも用のない、だれの役にもたたぬ、とるに足らぬ人間じゃないか』そこで彼は、ニコライ兄のことを思い出して、喜んでその回想の上に心をとめた。『この世の中のことはすべて邪悪であさましいとあの兄はいったが、それはほんとうではなかろうか? だいいち、ニコライ兄にたいするわれわれの批判にしてからが、過去にしろ、現在にしろ、はたして公平といえるだろうか。もっとも、ぼろぼろの毛皮外套を着て、へべれけに酔っぱらっていた彼をまのあたり見た、プロコーフィーの立場からすれば、彼は軽蔑すべき人間にちがいない。けれどもおれは、兄の別な一面を知っている。おれは兄の心を知っている。そして、おれと兄とがよく似ていることも知っている。だのにおれは、彼を捜しに行くかわりに、食事をしに行ったり、こんなところへ来たりしている』レーヴィンは街燈の下へ行き、紙入れにしまってあった兄の所書きに目を通してから、つじ馬車を呼んだ。兄の住居までの長いみちみち、レーヴィンは、ニコライ兄の生活のなかから自分の知っているかぎりの出来事を、自分の前にまざまざと展開してみた。彼は兄が、大学にいるあいだも、卒業後の一年ばかりも、友人たちの嘲笑《ちょうしょう》をものともせず、宗教上のあらゆる儀礼・勤行《ごんぎょう》・斎食《さいしょく》を厳然と実行し、いっさいの快楽、わけても女色を遠ざけて、修道士のような生活を送っていたことを思いおこした。が、その後にわかに脱線して、きわめていまわしい人々に近づき、放埓《ほうらつ》きわまりない遊蕩《ゆうとう》の世界へ落ちてしまった。つぎに彼は、兄が、教育するためにひとりの子供を田舎から連れてきたが、激怒の極、あまりひどく打ちすぎて、その子を不具にしてしまったというかどで、裁判沙汰にまでなった事件のことを思いおこした。さらにまた彼は、兄が賭博《とばく》に負けて、手形を与えておきながら、後になって、相手が自分を欺いたのだといって、自分のほうから告訴した、ある詐欺師との事件のことをも、思いおこした。(セルゲイ・イワーノヴィッチの払ってやったというのはこの金のことであった)彼はまた、兄が暴行のかどによって、留置場で一夜を過ごしたことのあったのを、思いおこした。さらに彼は、兄が長兄セルゲイ・イワーノヴィッチを相手に、長兄が母の遺産分配を履行《りこう》しなかったかのように言い立てて企てた、あの恥ずべき訴訟事件の顛末《てんまつ》と、その後、勤務で西部地方へ行き、そこで上役の者を殴打《おうだ》して、裁判に付せられた最後の一事件をも、思いおこした……これらのことは、すべてみな、いむべきことのかぎりであった。しかし、レーヴィンにはそれすらも、ニコライを知らない人、彼の全経歴を知らない人、彼の心を解しない人が思ったほどには、いむべきこととは思えなかった。
レーヴィンは、ニコライが、信心・斎食・修道および教律に服して、おのれの淫蕩な性情にたいする救いとくつわとを宗教のうちに求めていたとき、だれひとりとして彼をたすける者がいなかったばかりか、だれもかれも、彼自身までもが、彼を嘲笑したことを思いおこした。人々は、彼を罵倒《ばとう》して、ノアだの、修道士だのと呼んだ。そして、彼がいよいよ脱線したときには、だれひとり彼を救おうとはしないで、恐怖と嫌悪《けんお》の情をいだきながら、こぞって背を向けてしまったのである。
レーヴィンは、ニコライ兄は、その魂においては、その魂のどん底においては、その生活こそ醜悪にみちていたけれども、彼を軽蔑している人たちにくらべて、けっしてわるい人ではないと感じていた。彼がそういう御《ぎょ》しがたい性情と、何ものかにそこなわれた知性とをもって生まれたことは、けっして彼の罪ではないのだ。しかも彼は、つねによき人たらんと願っていた。『今夜こそ、何もかもあのひとに話してしまおう、そしてあのひとにも、すっかり話してもらおう。そしてそのうえで、おれがあのひとを愛していること、したがってよく理解していることをわかってもらおう』こうレーヴィンは、われとわが心に誓いながら、もう十一時過ぎに、その所書きに示された宿屋へと馬車を乗りつけた。
「階上の十二号と十三号です」と門番が、レーヴィンの問いに答えていった。
「いるかね?」
「おいでのはずです」
十二号室のドアは、半開きになっていて、そこから射している燈火のすじのなかには、もうもうとした下等な安たばこの煙が流れていた。そして、レーヴィンにはなじみのない声が聞こえていたが、レーヴィンはすぐに、兄がそこにいることを知った――兄のせきばらいを耳にしたので。
彼が戸口へはいっていったときに、そのなじみのない声はいっていた――「すべてはいかに合理的に、意識的に事が処理されるかという点にかかっているのですよ」
コンスタンチン・レーヴィンは、ドアのなかをのぞきこみ、袖なし外套《がいとう》をきて、大きな帽子でもかぶったような頭髪をした若い男がしゃべっているのと、ついで、カラーもカフスもない、毛織物の服をきた、あばたづらの若い女が、長いすに掛けているのとを見た。兄の姿は見えなかった。こうした他人ばかりのなかに、兄は住んでいるのかと思うと、コンスタンチンの心はひしと痛んだ。だれも彼の足音を聞きつけなかった。コンスタンチンは、オーバーシュウズをぬぎながら、袖なし外套の先生のしゃべっていることに耳をかたむけた。彼は、何かの計画について話をしているのであった。
「ふん、特権階級なんかくそくらえだ」と、咳《せき》をしながら、兄の声が言いはなった。「おいマーシャ、おれたちの食事の支度をしてくれ、そして、もし残ってたら、ぶどう酒もくれ、残ってなかったら買ってくるんだ」
女は立ちあがり、仕切り壁の外へ出て、コンスタンチンを見つけた。
「どこかのだんながね、ニコライ・ドミートリチ」と彼女はいった。
「だれに用なんだ?」と腹だたしげに、ニコライ・レーヴィンの声がいった。
「ぼくですよ」と明るみへ出ながら、コンスタンチン・レーヴィンは答えた。
「ぼくってだれだい?」といっそう不興げに、ニコライの声がくりかえした。そして、彼がいきなり立ちあがって、何かにつまずいたらしい音が聞こえた。と思うと、レーヴィンは、自分の前の戸口に近く、なじみの深い、けれどもやはりそのあらあらしさと不健康さとで人をうつ兄の、ぎょろりとした、びっくりしたような目をした、やせこけた、やや前こごみになった大きな姿を認めた。
彼は、三年前コンスタンチン・レーヴィンが最後に見たときよりも、いっそうやせが目だっていた。彼は短いフロックを着ていた。それで、手やがんじょうな骨格が、いっそう大きく思われた。髪は薄くなり、昔ながらのごわごわしたひげがくちびるをおおい、昔ながらの目がけげんそうに、無邪気に、はいってくる者を見ていた。
「おお、コスチャか!」弟だとわかると、彼はいきなりこういった。彼の目は歓喜に輝いた。が、その瞬間、彼はふと若い男のほうをふり返って、ちょうどネクタイがきつすぎるとでもいったような、コンスタンチンにはなじみの深い痙攣《けいれん》的な動作を、頭と首とでやってのけた。と、もう今までとはぜんぜん別な――奇怪な、苦しげな、残忍な――表情が、その肉の落ちた顔にこびりついた。
「わたしはあなたにも、セルゲイ・イワーノヴィッチにも、手紙に書いてあげたはずだ。わたしはあなたがたを知らない、また知ろうとも思わないって。おまえになんの、いや、あなたになんの用があるんです?」
彼は、コンスタンチンが思いえがいていたとは、まるで違った人になっていた。彼コンスタンチン・レーヴィンが兄のことを考えるときには、兄の性格中の一ばん重苦しい、わるいところ、つまり、彼と人との交渉の円滑《えんかつ》を欠くという点が、いつも忘れられがちであった。ところが今、彼の顔を、わけてもこの痙攣的な頭の動作を、まのあたりに見ると、彼はたちまち、それらのすべてを思いおこした。
「ぼくはべつに用があって兄さんに会いに来たのではないんです」と彼は、おずおずした様子で答えた。「ただ、会いたくて来たんです」
弟のおずおずした様子が、明らかにニコライをやわらげた。彼はくちびるをひくひくさせた。
「ああ、おまえ、そうか?」と彼はいった。「じゃあ、まあはいって掛けろ。ところで、食事はどうだね? おい、マーシャ、三人分もって来てくれ。いや、待てよ。おまえ知ってるかね。これだれだか?」と彼は、袖なし外套の先生をさしながら、弟のほうを向いていった。
「これはクリーツキイ君といって、キーエフにいった時分からの友人で、非常に驚嘆《きょうたん》すべき人物なんだよ。もちろん、官憲はこのひとを尾行《びこう》しているがね、それはこのひとが卑劣漢《ひれつかん》でない証拠さ」
そして彼は、いつもの癖で、部屋にいる一同を見まわした。そして、戸口に立っていた女が、出て行こうとしかけたのを見て、彼女に叫んだ――「待てっていってるじゃないか」そして、またしても一同を見まわしながら、コンスタンチンがよく知っていた例の癖の、のべつ言いなおす脈絡《みゃくらく》のない話しぶりで、クリーツキイの閲歴《えつれき》を、弟に向かって話しはじめた――彼が貧しい学生のために、救済組合や日曜学校を起こしたのが累《るい》をなして大学を放逐されたことや、その後、国民学校に一教師として雇われたことや、そこでも同じように免職になり、その後また、何かのかどで処罰されたことなどを。
「あなたは、キーエフ大学にいらしたのですか?」とコンスタンチン・レーヴィンは、ようやくよどんできたぎこちない沈黙を破るために、クリーツキイに話しかけた。
「はあ、キーエフにいました」とクリーツキイは顔をしかめて、ぶあいそうな調子でいった。
「ところで、この女はね」と、女のほうをさしながら、ニコライ・レーヴィンが彼をさえぎった。「おれの生活の伴侶《はんりょ》で、マリヤ・ニコラエヴナというのだ。おれがある家からひっぱり出してやったんだよ」こう言いながら、彼は首をひきつらせた。「だがおれは、この女を愛しかつ尊敬している。だから、おれを知ろうと思うすべての人にも」と彼は声を高め、眉をひそめながら言いたした。「これを愛し尊敬してもらいたいのだ。これは、おれの妻も同然だ。同じことだ。さあ、これでおまえも、だいたいの様子がわかったろう。だがもし、それでは自分を卑しくするとでも思うならだ、ぞうさはない、そこに敷居があるんだからね」
そこで、彼の目はまたしても、もの問いたげにみんなの顔の上を走った。
「なんでぼくが自分を卑しくするんでしょう、ぼくにはわかりませんよ」
「じゃあよし、マーシャ、夜食をもって来てくれ――三人分な、ウォーツカとぶどう酒も……いや、待てよ……いや、よしよし……行け行け」
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二十五
「まあこのとおり」とニコライ・レーヴィンは、額をしわにしたり、からだをひきつらせたりしながら、けんめいな調子でつづけた。
彼には、いうべきこと、なすべきことを考慮するのが、どうやら骨が折れるようであった。
「ほら、あれだがね……」と彼は、室の片すみに綱でゆわえた鉄材のころがっているのをさし示した。「わかったかね? あれがわれわれの着手している、新しい事業の手はじめなんだ。その事業というのは、つまり、生産組合なんだよ……」
コンスタンチンはほとんど聞いていなかった。彼は兄の病身な、肺病やみらしい顔を見ていると、ますます兄が気の毒になってきて、とても組合についての兄の説明などを、聞いているそらはなかった。彼は、その組合なるものは、ただただ兄を、その自己|蔑視《べっし》から救うところのいかりにすぎないことを見ぬいていた。ニコライ・レーヴィンは話しつづけた――
「おまえも知ってるとおり、資本は労働者を圧迫《あっぱく》している。わが国の労働者および農民は、労働という重荷をもろに背負わされているうえに、いかに身を粉に働いても、その家畜のような状態から、脱け出ることはできないようにされているのだ。本来からいえば、労銀の全収益は、それによって彼らがその境遇を改善し、自分たちのために閑暇をえて、その結果、教育をも受けえらるべきはずのものなんだ――ところが、そうした余分の利益などというものは、ことごとく資本家に吸い取られてしまう。こういうふうに、今日の社会なるものは、彼らが働けば働くほど、商人とか地主とかの腹は肥えるけれど、彼ら自身は永久に、労働的家畜で終わるという制度に、できあがってしまってるのだ。そこで、こんな制度は、改革しなければならぬということになるのだ」と彼は言葉を結んで、返答いかんという顔つきで、弟の顔を見つめた。
「そりゃ、もちろんですね」とコンスタンチンは、兄の高いほお骨の下に浮かびでた紅味に目をとめながら、いった。
「そこでわれわれは、このとおり、現在錠前屋の組合を組織しつつあるのだ。そこでは製作も、利得も、仕事に用いるおもな機械も、すべて共有になるわけなんだ」
「で、その組合はどこにできるんですか?」とコンスタンチン・レーヴィンはたずねた。
「ウォズドゥレモ村にだ、カザン県の」
「しかし、なぜ村なんかへもって行くんです? そんなことをしなくたって、村にはいくらでも、たくさん仕事があるじゃないですか。なんのために村へ、錠前屋の組合などをおくのです?」
「なぜって、農民どもは今なお依然として昔ながらの奴隷《どれい》でいるのに、おまえでも、セルゲイ・イワーノヴィッチでも、彼らがこの奴隷状態から救い出されることを喜ばんからだよ」とニコライ・レーヴィンは、弟の反問にむっとしながらいった。
コンスタンチン・レーヴィンは、陰気なきたならしい部屋のなかを見まわしながら、このときほっとため息をついた。と、このため息がまた、いっそう強くニコライを怒らせたらしかった。
「おれはおまえやセルゲイ・イワーノヴィッチの、貴族的な見解をよく知ってるよ。それから彼が悪の存在を弁護するために、知恵のありたけを絞ってることだって知ってるよ」
「ちがいますね、だが、なぜあなたは、セルゲイ・イワーノヴィッチのことなんかを言いだしたんです?」とレーヴィンは笑いながらいった。
「セルゲイ・イワーノヴィッチ? それはこうさ!」とニコライ・レーヴィンは、セルゲイ・イワーノヴィッチという名に急に声をあらげた。「それはこうさ……だが、何もいうがものはない。しかし、ただひと言……なんのためにおまえはおれのとこへ来たのだ? おまえはそのことを軽蔑《けいべつ》しているな。それもいいさ。それよりさっさと出て行ってもらおうよ! 出て行け!」と彼は、いすから立ちあがりながら叫んだ。「出て行け、出て行け!」
「ぼくは少しも軽蔑なんかしてやしません」とコンスタンチン・レーヴィンは、おどおどしていった。「それどころか、議論する気ももちませんよ」
このとき、マリヤ・ニコラエヴナがもどって来た。ニコライ・レーヴィンは、腹だたしげに彼女のほうをふり返った。彼女はすばやく彼に近づいて、何事かをささやいた。
「おれは健康がすぐれんものだから、怒りっぽくなってなあ」と、少しおちつくと、苦しそうにため息をつきながら、ニコライ・レーヴィンはいった。「それに、おまえが、セルゲイ・イワーノヴィッチのことや、彼の論文のことなんか言いだすもんだから。が、あんなくだらないものがなんだ。あんな虚偽《きょぎ》が、あんな自己|欺瞞《ぎまん》が。正義を知らんやつにどうして正義を説くことができるか? きみは彼の論文を読みましたか?」と彼は、ふたたびテーブルに向かってすわって、その上を片づけるために、散らばっていたたばこを半分ばかり押しのけながら、クリーツキイのほうを向いていった。
「読みませんでした」クリーツキイは、たしかに会話の仲間入りはしたくない様子で、陰うつに答えた。
「どうして?」とニコライ・レーヴィンは、こんどはクリーツキイのほうへ、不満げに食ってかかった。
「どうしてって、そういうものに時間を浪費する必要を認めないからです
「では、うかがいますが、きみはどうして、それが時間の浪費だということを知りましたね? あの論文はたいていの人間には不可解なものです、つまり彼ら以上のものなんですぜ」
「ですが、ぼくは別ものですよ、ぼくはあのひとの思想を見とおしに見ていますからね。そしてその力の軟弱である理由をも知っていますよ」
一同は沈黙した。クリーツキイはやおら立ちあがって、帽子を手にとった。
「飯《めし》はいいんですか? じゃ、さようなら。明日錠前屋を連れてきてください」
クリーツキイが出ていくやいなや、ニコライ・レーヴィンは笑顔になって、目くばせした。
「あの男もやっぱりわるいんだよ」と彼はいった。「おれにはちゃんとわかっている」
ところが、このとき、クリーツキイが戸口で彼を呼んだ。
「まだ何か用ですか?」と彼はいって、廊下に立っている彼のほうへ出ていった。マリヤ・ニコラエヴナとふたりきりになったので、レーヴィンは彼女のほうへ向きなおった――
「あなたはもう長らく兄とごいっしょですか?」と彼は彼女にいった。
「はい、もうあしかけ二年でございます。このごろはめっきり弱くなっておしまいになりましてね。あんまりすぎるもんですから」と彼女はいった。
「というと、どんなふうに飲むんですか?」
「ウォーツカをあがるんですが、それがあのかたには大毒なんでございますよ」
「へえ、そんなにたくさん飲むんですかねえ?」と、レーヴィンはつぶやくようにいった。
「ええ」と彼女は、ニコライ・レーヴィンの姿の現われた戸口のほうを、おそるおそる見ながら答えた。
「おまえたちはなんの話をしているんだ?」と彼は眉をひそめて、びっくりしたような目を、ひとりからひとりへと移しながら言った。
「なんの話を?」
「なんってこともありませんよ」と、どぎまぎしながらコンスタンチンは答えた。
「言いたくないんなら、いわないだっていいさ。ただ、おまえには、あいつと話す用はないはずだぜ、あいつは売女《ばいた》だし、おまえは紳士だからな」と、彼は首をひきつらせながらいった。
「なんだろう、おれにはちゃんとわかっているが、おまえは何もかも見ぬいて、値ぶみをしてみて、おれの迷いにたいして憐憫《れんびん》を感じてるというしだいなんだろう」と彼はまたしても、声を高めてどなりだした。
「ニコライ・ドミートリチ、ニコライ・ドミートリチ」とマリヤ・ニコラエヴナが、また彼のそばへ行って耳うちした。
「うん、よし、よし!……それはそうと飯はどうだね? ああ、持って来たか」と彼は、盆を手にしたボーイの姿を見つけて、いった。
「ここへ、ここへ置くんだ」と、彼は腹だたしげにいって、さっそくウォーツカをとり、一杯ついで、むさぼるように飲みほした。「やらんか、よかったら?」と彼は、すぐきげんを直して、弟にいった。
「セルゲイ・イワーノヴィッチなんかどうだっていいわい。おれはやっぱり、おまえに会うとうれしいよ。口ではなんといっても、やっぱり他人じゃないからな。さあ、ひとつやれ、そして近ごろは何をしているのか、話してくれ」と彼は、がつがつとパンをかみながら、二杯めをつぎつぎ言葉をつづけた。「おまえはどうして暮らしてるんだ?」
「あいかわらずひとりで田舎に暮らして、領地のことをやっていますよ」とコンスタンチンは、兄が飲んだり食ったりするすさまじさを、あさましい思いでながめながら、同時に、その注意をけどられないようにつとめながら、答えた。
「どうしておまえは結婚しないんだい?」
「今まで機会がなかったんですよ」と顔をあかくして、コンスタンチンは答えた。
「どうしてさ? おれは――もうだめだよ。おれは自分の一生を棒に振っちまったんだ。おれはこれまでもいったし、これからもいうが、もしあのとき、おれにちょうど必要だったおれのわけ分をくれていたら、おれの一生もこうはならなかっただろうと思うよ」
コンスタンチンは急いで話題を転じようとした。
「あなたは、あなたのワーニュシカが、ポクローフスコエのわたしのところで、会計をやってるのをごぞんじですか?」と彼はいった。
ニコライは首をひきつらせて、考えこんでしまった。
「うん、ひとつおれに、ポクローフスコエの話をしてくれ。どうだい、あのうちはまだ立ってるかね。そして白|かば《ヽヽ》も、あの学校も? それから、庭師のフィリップがまだ生きてるって、ほんとうかね? ああ、おれはどんなによく、あのあずまやや腰掛けを覚えてるだろう! だからなあ、気をつけて、うちのことはなんにも変えないようにしといてくれよ。だが、結婚だけは早くしたほうがいいぞ。そして、もう一度うちを昔のようにしてくれ、そうしたらおれも、おまえのところへ行くよ、おまえの女房が優しい女だったらなあ」
「それより今来たらどうです」とレーヴィンはいった。「そうしたら、ふたりでどんなにうまく暮らせるかしれませんぜ!」
「セルゲイ・イワーノヴィッチに出くわさないことさえわかってたら、おれはいつだってやって行くよ」
「会う気づかいはありませんよ。ぼくは、兄さんからは独立して暮らしてるんですもの」
「なるほどな、だが、いずれにしてもおまえは、おれか彼か、どっちかひとりを選ばなくちゃならんのだよ」と彼は、おくびょうらしく弟の目をのぞきながらいった。
このおずおずした様子が、コンスタンチンの心を打った。
「もし、そのことについてのぼくの告白を聞きたいとお思いでしたら、ぼくは言いますが、あなたとセルゲイ・イワーノヴィッチとの争いには、ぼくはどちらにも味方しません。あなたがたは、ふたりともまちがっています。どちらかといえば、あなたは外面的に正しくなく、あの人は内面的によくないのです」
「ああ、ああ! おまえそれがわかってるのか、おまえそれがわかってるのか!」と、さもうれしそうにニコライは叫んだ。
「けれども、ぼく一個としてはですね、お望みとあれば申しますが、どちらかというと、ぼくはあなたとの友情のほうを、いくぶん重くみてるんですよ。というのは……」
「なぜだい、なぜだい?」
コンスタンチンは、自分がそれを重くみるのは、ニコライが不幸であって、彼にはあたたかな友情が必要だからだとはさすがに言いかねた。しかし、ニコライは、彼がいおうとしていることのそれにほかならないことをさとって、暗い顔をして、またもやウォーツカを取りあげた。
「いいかげんになさいよ。ニコライ・ドミートリチ?」とマリヤ・ニコラエヴナは、ぶくぶくふとったむき出しの腕を、ガラスびんのほうへのばしながらいった。
「いいよ! ぐずぐずいうない! ひっぱたくぞ!」と彼は叫んだ。
マリヤ・ニコラエヴナは、優しい、人のよさそうな微笑をうかべた。と、それがニコライにもつたわったので、彼女はウォーツカを取りあげた。
「おまえは、こいつはなんにもわかるまいと思ってるだろうが?」とニコライはいった。「これでおまえ、こいつはわれわれ以上に、なんでもよくわかってるんだぜ。じっさい、こいつには、どことなく愛すべき、いいところがあるて」
「あなたはこれまでには、モスクワにいらしたことはないんですか?」とコンスタンチンは、なんでもいい、話をするために、彼女に向かってこういった。
「こいつにはあなたなんていっちゃいかんよ。かえってたまげちまうよ。なにしろ、いつだかこいつがどろ水から足を洗おうとしたときに、その審理にあたった治安判事以外には、ひとりだってこいつに向かって、あなたなんていったものはないんだからね。じっさい、世の中のことって、みんな無意味なもんだよ!」と、とつじょとして彼は叫んだ。「やれ新制度、やれ治安裁判、やれ地方自治会――そろいもそろってなんというぶざまなことだ!」
そして彼は、新制度と自分との衝突について話しだした。
コンスタンチン・レーヴィンは、兄の話を聞いていたが、かつては自分も彼と意見を同じゅうし、かつしばしば口に出していったことのあるいっさいの社会制度の意義否定を、いま兄の口から聞いてみると、彼にはなんとなく不愉快であった。
「あの世へ行けば、何もかもよくわかるでしょう」と、彼は冗談口をきいた。
「あの世へ? おお、おれはあの世なんか大きらいだよ! 大きらいだよ」と、彼はびっくりしたような、野性的なまなざしを弟の顔にこらしていった。「そりゃ、人のこともわれのこともない、いっさいの卑屈なことや、わずらわしいことからさよならをするのは、いいことにちがいないという気はする。しかし、おれは死が恐ろしい、どうにもこわくてたまらんよ」彼はぶるぶると身ぶるいした。「さあ、何か飲まんか。シャンペンはどうだ? それともどっかへ行ってみようか。ジプシイのところへでも行ってみようよ! おまえ知ってるだろう、おれがジプシイとロシヤの民謡が大好きだったのを」
彼の舌はもつれてきた。彼はやたらに話題を変えるようになった。コンスタンチンはマーシャの助けをかりて、彼をどこへも行かないように説得し、正体なく酔っぱらっているのを、寝床へ入れて寝かしつけた。
マーシャはコンスタンチンに、必要な場合には手紙も書こうし、ニコライ・レーヴィンに弟のもとへ帰って暮らすようにすすめもするという約束をした。
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二十六>
コンスタンチン・レーヴィンは、朝のうちにモスクワを立って、夕方わが家へ帰り着いた。途中の汽車のなかでは、乗り合せた人々と、政治を談じたり、新設鉄道のことを話したりしたが、その間もずっと、モスクワにいたうちと同じように、観念の混乱や、自分自身にたいする不満や、何ものかにたいする羞恥《しゅうち》の念に、うち負かされてしまっていた。が、自分の村の停車場へおりて、カフタンのえりを立てた片目の御者のイグナートを見つけたり、停車場の窓からさしているほの暗い灯かげのなかに、毛氈《もうせん》を敷いた自分の橇《そり》や、鈴とふさのついた馬具をつけて、しっぽをゆわえられた自分の馬を見たり、御者のイグナートが、橇の支度をしながら村の新しい出来事や、請負人の来たことや、パーワが子牛を生んだことなどを話したりする時分には――彼も、少しずつ心の混乱がしずまって、羞恥の念も、自分にたいする不満な思いも、影をひそめていくのを感じた。彼は、イグナートと馬を見ただけで、早くもこれだけのことを感じたのであった。が、やがて、自分のために持ってこられた毛皮外套を着、膝掛《ひざか》けにくるまって橇の上に身をおちつけ、目前に迫っている村の整理のことを考えたり、昔は乗馬用であったドン産の、足を痛めてはいるが剽悍《ひょうかん》な副馬《そえうま》をながめたりしながら乗り出した時分には、わが身に起こった事にたいしても、ぜんぜん別な見かたをするようになっていた。彼は、自分を自分として感じて、それ以外のものになろうとは思わなかった。今はただ、以前の自分よりもよくなりたいとばかり考えた。第一に彼は、今日以後もはや、結婚生活からでなければ得られないような、なみはずれた幸福を望まないように、したがって現在を軽くみるようなことのないようにしようと決心した。第二に彼は、将来もう二度とふたたび、こんど結婚の申し込みをしようと思い立ったときその記憶のために、あんなにも苦しめられたおぼえのある劣情に、身をゆだねるようなことをすまいと決心した。つぎに彼は、ニコライ兄のことを思い出して、今後は断じて、兄を忘れるような不埒《ふらち》を自分に許すまい、そしてつねに彼の動静をさぐっておいて、彼が悲境におちいった場合に、いつでも助けに行けるように、彼を見はぐらないようにしようと心に誓った。そして、こういうことが近い将来にかならず起こるであろうことを、彼は感じた。と、こんどは、話を聞いた当時には、それほど問題にもしなかった共産主義に関する兄の意見までが、彼を考えさせる種になった。彼は、経済条件の改革など、無意味だと考えていた。けれども彼は、つねに、民衆の貧しさと比較して、自分のありあまった状態を不公平だと感じていたので、今ひとり、肚《はら》のうちで、自分をあくまで正しい者と信ずるために、以前にもかなり労働もし奢侈《しゃし》を避けた生活もしてはきたけれど、今後はいっそう多く労働して、自分のために奉仕することを少なくしようと決心した。ところが彼には、こんなことは、きわめて容易に行ないうることのように思われたので、彼は途中ずっと、このうえなく楽しい空想のうちに時を過ごした。新しい、よりよき生活にたいする希望にみちた感情をもって、夜の八時過ぎに、彼は自分の屋敷へ着いた。
彼の邸《やしき》では家政婦の役を勤めている、年とった乳母のアガーフィヤ・ミハイロヴナの部屋の窓々からは、邸のまえの広場の雪の上へ、明るい灯《ほ》かげが落ちていた。彼女はまだ寝ていなかった。彼女に呼び起こされたクジマは、寝ぼけづらで、はだしのまま、入口の段々の上へかけだして来た。セッター種の牝《めす》犬のラスカは、クジマを倒さんばかりの勢いで、これまたそこへ飛び出して来て、吠えたり、彼の膝にからだをすりつけたり、飛びあがったりした。そして彼の胸へ前足をかけようとしたが、そこまではしかねていた。
「たいそうお早くお帰りでございましたねえ、だんなさま」とアガーフィヤ・ミハイロヴナはいった。
「里心《さとごころ》がおきたもんだからね、アガーフィヤ・ミハイロヴナ。お客に行くのもわるくはないが、うちのほうがなおいいね」彼は彼女にこう答えて、そのまま自分の書斎へ通った。
運ばれてきたろうそくの光で、書斎は徐々に照らし出された。見なれた家具類が浮きあがってきた――鹿の角、書だな、鏡、もうだいぶ前から修繕を要するようになっていた空気孔のついた暖炉、父譲りの長いす、大きなテーブル、テーブルの上の開いたままの書物、こわれた灰皿《はいざら》、彼の手で書きこんである帳簿。こういったふうのいっさいのものを目にしたとき、彼は、一瞬間、自分がみちみち空想してきた新生活建設の可能にたいして、ふと、瞬間的に疑問をいだいた。すべてこれらの彼の生活の痕跡は、あたかも彼をとらえて、こう語るかのようであった――『いや、おまえはわれわれのそばをはなれやしないよ。また別な人間にもなりやしないよ。おまえはやはり、これまでどおりのおまえだよ――いろんな疑惑と、永遠の自己不満と、矯正《きょうせい》のむなしい試みと、堕落《だらく》と、ついぞ与えられたためしのない、また得られるはずのない幸福にたいする永遠の期待とをいだいている、これまでどおりの』
しかしこれは、彼の調度類が語ったことで、心のなかの他の声は、過去に服従する必要はない、自分のことでできないことがあるはずはないと語った。で、彼は、この声にしたがいながら、一|対《つい》のプード唖鈴《あれい》(一プードは十六・五キロ)の置いてある隅のほうへ行き、みずから大いに気を引き立てようと思いながら、体操をしようとしてそれを持ち上げはじめた。ふと、ドアの外に、足音が聞こえた。彼は急いで唖鈴をおろした。
執事がはいって来て、神さまのおかげで万事無事であること、が、新しい乾燥器にかけた|そば《ヽヽ》は、下のほうが焦《こ》げたことを報告した。この報告は、レーヴィンをいらだたせた。新しい乾燥器は、レーヴィンの手で組立てられたばかりでなく、一部分は彼の考案になったものであった。ところが執事は、この乾燥器には日ごろから反対だったので、今も勝利感を押し殺して、|そば《ヽヽ》の焦げたことを報告したのである。で、レーヴィンは、もし|そば《ヽヽ》が焦げたとしても、それはただ、彼が百ぺんもくりかえして命じておいた方法を彼らが講じなかったからだ、と信じて譲らなかった。彼はいまいましくなって、執事に口こごとをあびせかけた。が、ひとつ、重大な、喜ばしいことがそこにあった――それは、牛の展覧会で購入した良種で高価な牝《め》牛のパーワが、子牛を生んだことであった。
「クジマ、毛皮外套《けがわがいとう》をくれ。それからきみは、あかりをもってくるように言いつけてください。ひとつ行って見てこよう」と、彼は執事にいった。
高価な牛のための牛舎は、邸のすぐ裏手にあった。彼は、ライラックの根もとの雪塚《ゆきづか》をまわって、庭を横ぎりながら、牛舎のほうへ歩いて行った。凍《い》てついた戸をあけると、なまあたたかい糞《くそ》いきれがぷんと鼻をうった。そして、見なれぬ灯の光に驚かされた牝牛どもが、新わらの上でもぞもぞしだした。オランダ種のなめらかな、黒ぶちの広い背中がちらっと見えた。くちびるに環《わ》をはめたまま横になっていた牡牛のベールクトは、ちょっと起きあがりそうにしたが、また考えなおしたとみえて、みんながそばを通ったときに、二度ばかりあえいで見せただけであった。|かば《ヽヽ》ほどの大きさのある、すばらしい、べっぴんのパーワは、うしろ向きになって、はいってきた人たちから子牛を隠しながら、それをかぎまわしていた。
レーヴィンは柵《さく》の中へはいって、つくづくとパーワをながめたり、赤ぶちの子牛を、その細長いひょろひょろした足の上に立たせたりした。パーワは気をもんで、いまにもほえそうにしたが、レーヴィンが彼女のほうへ子牛をもどしてやると、安心したらしく、おもおもしく息をついて、そのざらざらした舌でべろべろと子牛をなめだした。と、子牛は乳房をさがしながら、母親のまたぐらへ鼻をすりつけて、しっぽをまわしていた。
「うん、あかりをこっちへくれ、フョードル、ランタンをこっちへ出してくれ」とレーヴィンは、しきりに子牛を見まわしながらいった。
「母親そっくりだ! 毛色の父親似だけはよけいだったが、とにかくすてきだ。長くて強そうだ。ワシーリイ・フョードロヴィッチ、すてきじゅないか、え?」と彼は、子牛にたいする満足から、|そば《ヽヽ》の一件は忘れてしまって、執事のほうをふり向いていった。
「どっちに似たって、わるいはずがないじゃございませんか? それはそうと、請負師《うけおいし》のセミョーンがお立ちになった翌日やって来ましたっけ。あの男との話も、つけてしまわなくちゃなりませんな、コンスタンチン・ドミートリチ」と執事はいった。「それから、機械のことは、さきほど申しあげましたですな」
このひとつの質問がレーヴィンを、大がかりでこみ入った家事の、あらゆるこまごました用の中へひっぱりこんだ。そこで彼は、牛舎からまっすぐ事務所へまわり、そこで、執事や請負師のセミョーンとしばらく話をしてから、うちのほうへもどると、その足で階上の客間へはいって行った。
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二十七
家は大きな古風なものであった。レーヴィンは、ひとりで住んでいたのだが、家じゅうを暖めて使用していた。彼は、それがむだなことであるのを知っていたし、またまったくよくないことで、目下の新しい計画に相反するものであることも知っていた。だが、この家は、レーヴィンにとって全世界であった。それは、そのなかで彼の父母が、生きかつ死んだ世界であった。彼らは、レーヴィンの目に完全無欠の理想として映った生活を生き、彼が自分の妻とともに、自分の家族とともに、再興しようと空想した生活を生きたのだ。
レーヴィンには母の記憶がほとんどなかった。母についての観念は、彼には神聖なる思い出であって、彼の想像にえがかれる未来の妻は、あの母があったように、美しく、神聖な、理想的夫人の複製でなければならなかった。
彼は、結婚を度外視《どがいし》して、女性にたいする愛を考えることができなかったばかりでなく、何よりもまず、家庭というものを考えて、つぎにはじめて、彼に家庭を与える女性のことを考えるのであった。したがって彼の結婚観は、結婚を目して社会生活上の一事実としている多くの知人たちの見解とは、およそかけはなれたものであった。レーヴィンにとっては、それは人生の最大事で、人生の幸福は、あげてことごとく、この一事にかかっているのだった。しかも今や彼は、この一大事をも、断念しなければならないのであった。
彼がふだんお茶をのむ小さい客間へはいって行って、書物を手にしたまま自分の膝掛《ひざか》けいすに腰をおろすと、アガーフィヤ・ミハイロヴナが彼にお茶を運んで来て、いつもの例で――「だんなさま、わたくしも掛けさせていただきますわね」と言いながら、窓ぎわのいすへ掛けたときに、彼は、ふしぎなことに、自分があいかわらず例の空想とはなれずにいること、および自分は、それなしには生きていくことができないということを痛感した。相手が彼女であるにせよ、ほかの女性であるにせよ、とにかくそれは、実現されることであろう。彼は、あきもせずにしゃべりつづけるアガーフィヤ・ミハイロヴナの話を聞くために、ときどき中絶しながら、本を読んだり、読んだことについて考えたりしていたが、それと同時にまた、家政のことや、未来の家庭生活などのさまざまな光景が、連絡もなく秩序もなく、彼の想像裡にうかんでいた。彼は、自分の心の奥深いところで、何かが組織され、調節され、すえつけられているように感じた。
彼は、アガーフィヤ・ミハイロヴナから、ブローホルが神さまを忘れてしまい、レーヴィンが馬を買えといってくれてやった金で、すっかり酒びたりになって、女房を死ぬほどぶんなぐったという話を聞いた。彼は話を聞きながら、本を読んだり、読書によって喚起《かんき》された自分の思想の進路を思いかえしてみたりしていた。それはチンダルの熱に関する著書であった。彼は、チンダルが実験実施の手腕についてみずから満足している点、および哲学的見解の不足している点にたいして、自分が彼を非難したことのあるのを思いおこした。と、ふいに、喜ばしい考えがわき起こった――『二年たつうちには、うちの家畜小屋にはオランダ種が二頭になる。それに、パーワにしてもまだ生きてるだろうから、すると、べールクトの若い娘どもが一ダースも、この三頭の牛のあとつぎとしてぞくぞくと生まれ出てくるわけだ――すてきじゃないか』彼はまた書物を取りあげた。『うん、よろしい、電気と熱とは同一物だ。しかし、ある方程式で問題を解決するために、ひとつの量のかわりに他の量を代用するなんてことができるだろうか? できない。ではどうするんだ? 自然界のいっさいの力のあいだに存する連鎖《れんさ》もやはり、本能によって感知されるんだからな、なるほど……わけてもパーワの子が、赤ぶちの牝牛になるなんて、愉快な話だ。そして家畜全部のなかへあの三頭がまざりこむなんて!……すてきな話だ! そこでおれが、妻やお客を案内してそれを見に出かける……すると妻がいう――コスチャもわたくしも、まるでわが子のようにこの子牛の世話をしましたのよ。すると、こんどはお客が、あなたがよくそれでもこんなことに興味をおもちになれますね? という。ええ、そりゃもう、主人が興味をもっていますことには、わたくしなんにでも興味がもてますの。だが、その妻とは、だれのことだ?』と、彼には、率然《そつぜん》として、モスクワでの出来事が思い出された……『だって、どうしようがあるものか?……おれのせいじゃないんだもの。とにかくこれからは、いっさいが新規まきなおしだ。人生を窮屈に考えるのは愚なことだ。過ぎたことをくどくどいうのは愚のこっちょうだ。われわれは戦わなくちゃならん。よりよい、はるかによい生活を送らんがために……』彼は、ちょっと頭をもたげて、考えにふけった。老犬のラスカは、彼の帰宅の喜びをまだ十分に消化しきれないで、戸外でほえるとて走り出ていったが、やがてしっぽをふりふり、外気のかおりを身にしめながらもどってきて、彼のそばへ走りより、その手の下へ頭をすりつけて、なでてもらいたそうに、訴えるような声を出した。
「ほんとに、口をきかないだけでございますね」とアガーフィヤ・ミハイロヴナはいった。「犬でもなあ……ご主人さまのお帰りのことから、たいくつしていらっしゃることまで、ちゃあんと承知しておりますよ」
「たいくつしているって、なぜ?」
「わたくしにはわからないとお思いでございますか、だんなさま? わたくしだってもう、それくらいのことはわかる年でございますよ。なにしろわたくしは、小さい時分から殿がたのなかで育ってまいったんでございますもの。なんのことはありませんよ、だんなさま。からだがたっしゃで、心がきれいでさえいましたらねえ」
レーヴィンは彼女が自分の心を見ぬいているのに驚きながら、じっと彼女の顔を見ていた。「いかがでございます、お茶をもうひとつ持ってまいりましょう?」彼女はこういって、茶わんをもって、出ていった。
ラスカはたえず、彼の手の下へその鼻づらをさしこもうとしていた。彼がなでてやると、犬はさっそく彼の足もとへ輪になって、横に出したあと足の上へ頭をのせた。そして、今はもう、何もかもがぐあいよく、無事であるというしるしに、軽く口をあけ、舌なめずりをし、そのねばねばしたくちびるをいいぐあいに、年よった歯のまわりへあんばいすると、幸福な安心の状態で、ひそまりかえってしまった。レーヴィンは、こうした彼女の最後の動作を、注意ぶかく見まもっていた。
「おれもこの調子で!」と、彼は自分にいった。「おれもこの調子で! なんでもありゃしない……何もかも申しぶんなしだ」
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二十八
舞踏会がはてた早朝に、アンナ・アルカジエヴナは夫あてに、その日モスクワを立つという電報を送った。
「いいえ、そうしなくちゃなりませんの、おいとましなくちゃなりませんの」こう彼女は、数えきれないほどたくさんの用向きを思い出したというような口ぶりで、兄よめの前に自分の予定の変更を説明した。「いいえ、今日立つのが、一ばんいいのよ!」
ステパン・アルカジエヴィッチは、食事はうちでしなかったが、七時には、妹を送りにもどってくるという約束であった。
キティーもやはり、頭痛がするという手紙だけをよこして、顔を出さなかった。で、ドリーとアンナとは、自分たちだけで、子供たちとイギリス婦人とを相手に食事をした。子供たちは、気が変わりやすいせいか、あるいは非常に鋭敏で、この日のアンナが、彼らがあんなにも愛したあの日の彼女とはぜんぜん別人であることや、彼女がもういっこう彼らにかまってくれないのを感じたせいか、とにかく、急に、叔母にたいする例のたわむれと、彼女を愛することをやめてしまった。そして、彼女が出立することなども、てんで問題にしていなかった。アンナは、朝のうちずっと、出立の準備に忙殺《ぼうさつ》されていた。モスクワの知人たちへ手紙を書いたり、いろいろな出納《すいとう》を書きとめたり、梱《こり》や包みをととのえたりした。概してドリーには、アンナが平静な心でなく、自分の経験からドリーもよく知っている、何か理由がなくてはならないような、しかもその大部分が、自分自身にたいする不満に根ざしているような、そわそわした気分でいるように見うけられた。食後アンナは、着がえをしに自分の部屋へいった。と、ドリーもそのあとからついて行った。
「あなた、今日なんだか少し変ね」と、ドリーは彼女にいった。「わたし? そう見えて? べつに変てことはないけれど、わたしいけない女なのよ。わたしには、こういうことがよくあるんですわ。ただもう泣きたくなってしょうがないんですのよ。ほんとにつまらないことですわね。でも、じきよくなりますわ」アンナは早口にこういって、あかくなった顔を、寝室帽や、麻のハンケチなどをつめていた、おもちゃのような袋《ふくろ》のほうへかがめた。彼女の目は、かくべつきらきらと輝いて、あとからあとからと涙がこみあげてくるのだった。
「ペテルブルグを立つときには、あんなに気が進まなかったのに、こんどはこちらを立つのが妙にいやなんですもの」
「あなたはこちらへいらして、いいことをしてくださったんですのにねえ」とドリーは、まじまじと相手の顔を見まもりながらいった。
アンナは、涙でぬれた目で、じっと彼女を見かえした。
「まあ、そんなことはおっしゃらないでちょうだいよ、ドリー。わたしはなんにもしやしなかったし、またできもしなかったんですもの。わたしはときどき、世間の人たちはどうしてこう、わたしをわるくしようとするんだろうと思って、驚くことがありますよ。いったいわたしが、どんなことをしたでしょう、またすることができたでしょう? あなたのお心のうちに、許すだけの愛があったればこそなんですわ……」
「だって、もしあなたがいらしてくださらなかったら、ほんとにどうなっていたかわかりませんわ。ほんとにあなたは、なんという幸福なかたでしょう、アンナ」とドリーはいった。「あなたのお心は、ほんとうにきれいで、けっこうですわねえ」
「あら、そうじゃありませんわ。だれの心にだってそれぞれ自分の skeleton(骸骨)があるものですもの、イギリス人の言い草じゃないけれど」
「まあ、あなたにどんなスケルトンがおありになって? あなたのお心はいつもそんなにはっきりしているのに」
「でも、ありますわ!」こうアンナは、とうとつな調子でいった。と、涙のあとには思いがけなく、ずるそうな、あざけるような微笑が、彼女のくちびるに小じわを刻んだ。
「あらそう、じゃああなたのスケルトンなら、さぞ朗らかなものでしょうね。陰うつなところなんかみじんもない」と、微笑をうかべてドリーはいった。
「いいえ、陰うつですわ。あなたはわたしがなぜ明日にしないで今日立つか、そのわけをごぞんじですの? これを告白するのは、わたしにはずいぶんつらいんですけれど、でもわたしは、それをあなたにしたいんですわ」とアンナは思いきったさまで、肘掛けいすに身を投げかけると、ひたとドリーの目を見すえながら、いった。
そこでドリーは、アンナが耳のつけ根までも、いや、うなじの上でとぐろを巻いている黒い編み髪までもまっ赤になったのを見て、驚きの目をみはった。
「ええ」とアンナはつづけた。「あなたは、キティーが食事にいらっしゃらなかったわけをごぞんじ? あのかたはわたしを嫉妬《しっと》していらっしゃるんですわ。わたしが傷つけたんですもの……あのかたのために、あの舞踏会を喜びでなく苦痛にしてしまった原因が、わたしだったんですもの。でも、ほんとにほんとに、わたしがわるいんじゃないんですわ。わるいにしても、ほんのわーずかですわ」と彼女は細い声で、「わずか」という言葉を長く引きのばしていった。
「まあ、あなたはまるで、スティーワとおんなじことをおっしゃるのね」と、笑いながらドリーはいった。
アンナは侮辱《ぶじょく》を感じた。
「あら、ちがいますわ、いいえ! わたしはスティーワとはちがいますわ」と、彼女は眉をひそめていった。「わたしがあなたにお話したのは――一刻だって、自分で自分を疑うようなことを、許しておけないからですわ」とアンナはいった。
しかし彼女は、これらの言葉を口にすると同時に、それが真実でないことを感じた。彼女は、自分に疑いをもったばかりでなく、ウロンスキイのことを考えただけでも、心に動揺を感じたので、このうえ彼と会うことを避けるためばかりに、予定よりも早く立つことにしたのであった。
「ええ、わたしも、スティーワから聞きましたのよ。あなたがあのかたとマズルカをお踊りになったって、そしてあのかたが……」
「でも、それがどんなにおかしなことになったか、あなたには想像もつかないでしょう。わたしはただおとりもちをしようと考えていたのに、急に、まるであべこべな形になってしまったんですもの、もしかすると、わたしが心にもなく……」
彼女はあかくなって、言葉をきった。
「ああ、世間の人は、こういうことには目が早いですからねえ!」とドリーはいった。
「ですけれど、万一あのかたに、少しでも真剣なところがあったら、わたしはもうどうしていいかわからない」と、アンナは彼女をさえぎった。「けれど、わたしは信じてますのよ。こんなことはじき忘れられてしまって、キティーもわたしを嫉妬なんかなさらなくなるにちがいないとね」
「ですがねえ、アンナ、じつをいうとわたし、この結婚はキティーのために、あまり望んでおりませんのよ。ですから、もしあのひとが、ウロンスキイが、たった一日であなたに心をよせるような人だったら、いっそこわれてしまったほうがましですわ」
「あら、まあ。そんなばからしいことってありませんわ!」アンナはこういったが、その心をしめていた考えの、言葉として言い現わされたのを聞くと、ましても満足の濃いくれないが、彼女の顔じゅうにみなぎった。「それなればこそわたしは、あんなにも愛していたキティーを、敵にしたままで、立ってしまおうというのじゃありませんか。ああ、ほんとうにあのかたは、なんというかわいらしいかたでしょう! でも、このことは、あなたがなんとかしてくださるわね、ドリー? ええ?」
ドリーはかろうじて微笑をおさえることができた。彼女は、アンナを愛してはいたが、しかし彼女にもまた弱点のあることを見ることが、なんとなく快かったのである。
「まあ、敵ですって? そんなことのあるはずがありませんわ」
「わたしはいつも、あなたがたがみんな、わたしがあなたがたを愛しているように、わたしを愛してくださればいいと願っていますの。しかも今のわたしは、前よりもいっそう、あなたがたが好きになってしまいましたわ」とアンナは、目に涙をいっぱいためていった。「ああ、わたし今日は、なんてぼんやりになってしまったんでしょう」
彼女はハンケチで顔をふいて、着がえにかかった。
もう出かけるというまぎわになって、遅くなったステパン・アルカジエヴィッチが、あかい、元気そうな顔に、酒と葉巻のかおりをぷんぷんさせながらもどってきた。
アンナの感傷は、ドリーにも感染した。で、最後に義妹を抱きしめたときに、彼女はこうささやいた――
「覚えててちょうだいよ、ねえアンナ。あなたがわたしのためにしてくだすったことは、わたし、いつになったってけっして忘れやしませんから。それから、大事なお友だちとして、わたしがあなたを愛していたこと、これからも永久に愛していることを、覚えていてちょうだいね!」
「どうしてそんなに愛してくださるのか、わたしにはわかりませんわ」アンナは彼女を接吻《せっぷん》しながら、涙を隠してこういった。
「いいえ、あなたはわたしの心をわかってくだすったのだし、今もわかっていてくださるのですわ。ではさようなら、わたしの愛するかた!」
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二十九
『まあ、これで何もかもすんだわ。ありがたいこと!』これが、第三鈴の鳴るまでも自分のからだで車室の入口をふさいでいてくれた兄と最後の別れを告げたときに、アンナ・アルカジエヴナの頭にうかんだ第一の想念であった。彼女は、アーンヌシカとならんで自分の座席に腰をおろすと、寝台車のほの暗い光のなかであたりを見まわした。『やれやれ、明日はセリョージャとアレクセイ・アレクサーンドロヴィッチに会える。するとわたしのなれたいい生活が、もともとどおりになっていくんだわ』
この日一日ひたっていたわずらわしいような気持は、まだつづいていたけれど、アンナはなんとなく満ち足りた気持で、綿密《めんみつ》に旅の心くばりにいそしんだ。すばしこい手つきで彼女は、小さな、あかい手さげ袋《ぶくろ》をあけたりしめたりして、クッションを取り出し、それを膝《ひざ》の上にのせてていねいに両足をくるみ、しずかに座席へおちついた。病人らしいひとりの婦人は、もう横になって寝ようとしていた。ほかのふたりの婦人は、アンナに向かって話しかけた。でっぷりとふとった老婦人は、足をつつみながら暖炉のことで何かぶつぶつ口こごとをいっていた。アンナは、ふた言み言婦人たちの話相手になったが、話がはずみそうになかったので、アーンヌシカにランタンを出すように頼んで、それを座席の肘掛けにかけ、手さげ袋の中からペーパーナイフとイギリスの小説とを取り出した。が、最初のうちは、読むことができなかった。はじめは、あたりの混雑と人の足音とにさまたげられたが、やがて、汽車が動きだしてからは、そのひびきに気をとられないではいられなかった。つぎには、左側の窓を打って、ガラスの面に降り積んでゆく雪、かたわらを通っていく車掌の、防寒具にくるまったからだの片側に雪を吹きつけられた姿、外は今どんなにすさまじい雪あらしだろうと言いあっている人々の話し声、そういったものが、彼女の注意をひきつけた。が、それからさきは、もうずっとひとつことの連続であった――ものを打つようなひびきをともなった震動、窓にあたる同じ雪、蒸気の熱の、寒くなったり熱くなったりする同じ急激な変動、ほの暗いなかでちらちらする同じ顔々、同じ声々。で、アンナは読みはじめ、読んだことを理解しはじめた。アーンヌシカは、片方が破れた手ぶくろをはめた幅の広い両手で、膝の上の赤い袋をかかえたまま、もうふらふらと居ねむりをはじめていた。アンナ・アルカジエヴナは読んだ、そして理解はしたが、彼女には読むこと、つまり、他人の生活の反映をあとづけて行くということが、不愉快であった。彼女は、なんでもかでも、自分で生活がしたくてたまらなかった。小説の女主人公が、病人の看護をしているところを読むと――自分も、忍び足で病室を歩きたい欲求にかられ、国会議員が演説をしているところを読むと――自分も演説がしたくなった。また、レデー・メリーが、騎馬で野馬の群を追ったり、弟の嫁をからかったりして、その大胆さで人々を驚かすくだりを読めば、それをも自分でやってみたい心がおこった。けれども、することが何もなかったので、彼女はその小さい手で、すべすべしたぺーパーナイフをもてあそびながら、つとめてそれを読むようにした。
小説の主人公はすでに、そのイギリス的幸福、男爵の爵位と領地とを、手に入れはじめていた。そこでアンナは、彼といっしょにその領地へ乗って行きたい希望にかられた。と、とつじょとして彼女は、彼にとってそれが恥ずべきことであらねばならぬとともに、彼女自身にもまた、恥ずべきことであるのを感じた。だが、いったい、彼になんの恥ずべきことがあるのだろう?『またわたしにしても、何がそんなに恥ずかしいのだろう?』と彼女は、腹だたしい驚きの情にかられて、こう自問してみた。彼女は、書物をおいて、ペーパーナイフを両手にかたく握りしめながら、いすの背へ身を投げた。恥ずべきことはみじんもなかった。彼女は心のうちでモスクワでの記憶を逐一《ちくいち》ひるがえしてみた。いずれもみな、正しい、愉快なものばかりであった。彼女は、舞踏会を思いおこした。ウロンスキイと、その恋する人に見るような従順な顔つきとを思いおこした。彼と自分との関係を、ことごとく思いおこした――恥ずべきことは何もなかった。しかも、それでいて、回想がこの場所へくると同時に、急に羞恥《しゅうち》の念が増大した。あたかも彼女がウロンスキイのことを思い出したちょうどそのときに、ある内部の声が、「暖かだ、たいへん暖かだ、燃えるようだ」こう彼女に言いでもしたように。『だけど、これがどうしたというのだろう?』と彼女は、座席の上ですわりなおしながら、決然とした調子で自分にいった。『これに、どういう意味があるのだろう? いったいわたしは、このことをまともに見るのがこわいのだろうか! ほんとに、どうしたというのだろう? では、わたしとあの子供のような士官とのあいだに、普通の知り合い以上の、なにか特別な関係でもあるのかしら、またありうるものかしら?』彼女はさげすむような笑いをうかべて、ふたたび本を取り上げた。が、もはや、いくら読んでも、少しも理解ができなかった。彼女は、ペーパーナイフでガラスの上をなでまわし、ついで、そのすべすべした冷たい面を自分のほおに押しつけたが、そのとき、やにわに、なんの理由もなく彼女をとらえた歓喜から、危うく声を出して笑うところであった。彼女は、彼女の神経が、まるで楽器の絃《げん》のように、音締《ねじ》めのようなものにかけられて、たえず強くつよく、引きのばされていくのを感じた。彼女はまた、彼女の目がだんだんに大きく開いていくのを、手足の指が神経的に動いているのを、なにものか自分の身内に呼吸をさまたげるもののあるのを、この揺れ動いているうす暗がりのなかで、あらゆる物象や音響が、異常な明瞭《めいりょう》さで自分を驚かしているのを感じた。そして彼女には、たえずさまざまな疑惑がおこった――汽車は進行しているのだろうか、あともどりしているのだろうか、それともぜんぜん止まっているのだろうか、そばにいるのはアーンヌシカだろうか、それとも他人だろうか?『おや、あれはいったいなんだろう、あの肘掛けの上のは――シューバ(毛裏外套)だろうか、野獣《けもの》だろうか? そしてここにいるわたしは、これはわたしだろうか――わたし自身だろうか、別の人じゃないだろうか?』彼女には、こんな忘却状態に自分をまかせておくのが無気味だった。しかし、なんともえたいの知れぬものが、彼女をそのほうへひきつけた。そして彼女は、意のままにそれに身をゆだねることも、遠ざかることもできるのだった。で、彼女は、気をたしかにするために立ちあがって、格子じまのマントを脱ぎすて、防寒服の肩えりをはずした。一瞬間、彼女はわれにかえった。で、そこへはいって来た、ボタンのひとつとれた、ナンキン木綿の長外套をきたやせた男のムジーク(百姓)が、暖炉たきであったことも、その男が寒暖計を見ていったことも、風と雪とが、その男のあとからさっとドアのなかへ吹きこんできたことも、はっきりとわかった。しかし、じきまた、何もかもがごっちゃになってしまった……今の胴体の長い百姓が、壁のなかで何かをかみくだきはじめたり、老婦人が、車室の長さいっぱいに足をのばしはじめて、車内を黒雲でもうもうとさせたり、やがてはまた、何かが恐ろしくきしみだして、だれかを引き裂きでもしたように、物のぶつかる音がしたり、かと思うと、こんどは、まっ赤な火がぱっと目をくらまして、やがて、いっさいのものが壁のかげに隠れてしまい、アンナは、自分がどこかへけ落とされでもしたように感じたりした。けれども、これらのことがすべて、少しも恐ろしくはなく、かえって愉快なくらいだった。防寒服にくるまって、雪におおわれた人の声が、彼女の耳の上で何やら叫んだ。彼女は身を起こして、われにかえった。彼女は、停車場に近づいたことと、どなったのが車掌であったこととを知った。彼女は、アーンヌシカに、今はずした肩えりと、大きなヴェールとをとってもらい、それをはおって戸口のほうへ出ていった。
「外へお出あそばすのでございますか?」とアーンヌシカがきいた。
「ああ、少し外の気を吸いたいと思って。ここはとても熱いから」
そして彼女はドアを開いた。吹雪と風とが、さっと彼女に吹きかけてきて、彼女とドアを争いはじめた。これが、彼女にはまた興味ふかく思われた。彼女はドアを押しあけて外へ出た。と、風はあたかも、彼女だけを待ちうけてでもいたように――うれしそうにほえたけり、彼女をひっつかんでさらって行こうとした。が、彼女は片手で戸口の冷たい支柱をつかみ、ヴェールをおさえながら、プラットフォームへおりて、車のかげへ身をかわした。風は、車の降り口では強かったが、プラットフォームでは、列車のかげになって静かだった。彼女はいかにも喜ばしげに、雪をふくんで凍《い》てついた外気を、胸いっぱいに吸いこんで、列車のかたわらに立ったまま、プラットフォームや、燈火の明るい停車場などをながめまわした。
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三十
すさまじい風雪は、車輪のあいだや、停車場のすみずみから柱のまわりを荒れまわり、たけり狂った。列車、柱、人、すべて目に見えるほどのものは、一方から雪を吹きつけられて、刻々に深くそれにおおわれていった。風はときどき、瞬間的に静かになった。が、つぎにはふたたび、とても向きあって立ってはいられまいと思われるくらいの勢いで、猛然と吹きつけてきた。しかし、そのあいだにも、人々は愉快そうに話しあいながら、ホームの板を踏み鳴らし、たえず、大きなドアを開いたり閉じたりしながら、かけまわっていた。前こごみになった人かげが、彼女の足もとをすべり通った。と、鉄を打つ鉄鎚《てっつい》の音が聞こえた。「電報をよこせ――」こういうとがったような声が、向こう側のあらしのやみのなかからひびいた。「こちらへどうぞ! 二十八号です!」すると、つづいてさまざまな声が叫んで、雪を吹きつけられてまっ白になった人々がかけぬけた。口に火のついたたばこをくわえたふたりの紳士が、彼女のそばを通りすぎた。彼女は、十分息を吸うために、もう一度大きな息をついた。そして、支柱につかまって車内へもどろうと、マフのなかから手を出したとたんに、軍人の外套をきた男が、彼女のすぐそばで、ゆらめくランプの光をさえぎった。彼女はそのほうをふり返ってみた。そして同時に、そこに、ウロンスキイの顔を認めた。彼は、帽子のひさしへ手をかけて、彼女の前へ小腰をかがめた。そして、何か用はないか、何かお役にたつことはないかとたずねた。彼女はかなり長いこと、なんとも答えないで、まじまじと彼の顔を見ていた。そして、彼が影のなかに立っていたにもかかわらず、彼の顔と目との表情を読んだ。いや、読んだように思われたのである。それはまたしても、昨日あんなにまで強く彼女の上に作用した、あのつつましやかな恍惚《こうこつ》の表情であった。この日ごろ、一度ならず、いやたった今も、彼女は、ウロンスキイなどは自分にとって、いたるところでざらに出会われる、永久に同じような若者のひとりにすぎない。考えるさえおとなげないと、ひとり心につぶやいていたのであったが、今、こうして彼と会ってみると、その邂逅《かいこう》の第一瞬においてたちまち彼女をとらえたのは、喜ばしい誇らしさの感情であった。彼女には、彼がどうしてこんなところへ来ているのかを問う必要はなかった。彼女は、まるで彼が彼女に向かって、その理由はただ、彼女のいるところにいたいためにほかならないのだと口に出していったと同じくらい、正確にそれを知っていたのだ。
「わたくし、あなたが乗っていらっしゃるとは、ちっともぞんじませんでしたわ。どうしてお帰りになりますの?」と彼女は、支柱につかまろうとした手をさげていった。つつみきれぬうれしさと、とみによみがえった生気とが、彼女の顔に輝いていた。
「どうして帰るんですって?」彼は彼女の目にひたと見いりながら、おうむ返しにこういった。
「わたしがあなたのいらっしゃるところにいたいために来たことは、おわかりでしょうに」と彼はいった。「わたしにはもうどうすることもできないのです」
と、ちょうどこのとき、風は、その障害物を征服しつくしたかのように、列車の屋根からさっと雪を吹きおろして、もぎとられたぶりきぎれを吹き飛ばした。前のほうでは、機関車のふとい汽笛が、泣くような、陰うつな調子でほえはじめた。風雪のすさまじさは、彼女の目に、今いっそうの悲壮美をくわえた。彼は、彼女が心で願いながら、理性で恐れていたことを語ったのである。彼女は一言の答えもしなかったけれども、彼はその顔に、彼女の心の戦いを読んだ。
「わたしの申しあげたことが、もしお気にさわったようでしたら、どうかお許しください」と、彼はすなおに言いだした。
彼は、いんぎんなうやうやしい調子ではあったが、彼女が長いことなんとも答ええなかったほど、きっぱりした、執拗《しつよう》な調子でそれをいったのだった。
「それは、あなたのおっしゃることは、よろしくないことでございますわ。わたくし、お願いでございます。もしあなたが正しいかたでしたら、どうか、今おっしゃったことを、お忘れになってくださいまし。わたくしも忘れてしまいますから」こうついに彼女はいった。
「あなたのお言葉、あなたのご動作は、一言だって、ひとつだって、わたしは永久に忘れません。忘れることはできません」
「たくさんです、たくさんです!」と彼女は、彼が食いいるように見つめている自分の顔へ、きびしい表情をあたえようと、いたずらにつとめながら叫んだ。そして、冷たい支柱にすがるようにして、階段にひと足かけると、すばやく車の入口へはいった。が、その狭い入口のところで、彼女は、いま起こったことを自分の思考のなかでくりかえしながら、立ちどまった。自分の言葉をも彼の言葉をも、べつに思いかえしはしなかったが、彼女はその感情によって、この一分間にもたらぬ立ち話が、ふたりの仲をおそろしく近づけてしまったことを知った。彼女はそれを、驚きもすれば、また幸福にも感じた。数秒間そこに立ちつくしてから、彼女は車内へはいって、自分の座席へ腰をおろした。と、さきほど彼女を悩ました、あの緊張した心の状態が、ふたたびもどってきたばかりでなく、いっそうその度をまして、ついにはあまりに緊張した結果、その何ものかが胸のなかで破裂してしまいはせぬかと思われるような恐怖を、たえずおぼえるまでになった。彼女は夜一夜、まんじりともしなかった。しかし、その緊張や、彼女の想像をみたしていた幻影のなかには、いささかの不快も、陰うつな影もなかった。むしろ反対に、なんとなく心のうき立つような、やけるような、胸をおどらすものがあった。明けがた近くなって、アンナはいすに掛けたまま、とろとろとまどろんだ。そして、目をさましたときには、もう明るくなっていて、汽車は、ペテルブルグへ近づきつつあった。と、すぐに家のことや、夫のことや、子供のことや、今日一日のことや、今後のことなどについての想像や配慮が、たちまち彼女の心をとりまいてしまった。
ペテルブルグでは、汽車がとまるやいなや、彼女はおりた。と、そこで彼女の注意をひいた第一の顔は、夫のそれであった。『あら、まあ! どうしてあのひとの耳は、あんななんだろう?』と彼女は、彼の冷然としてもったいぶった風采《ふうさい》と、とりわけ、いま彼女を驚かした、まるい帽子のつばを支えている耳の軟骨部とを見ながら、こう思った。彼女を見つけると、彼はくちびるを、彼特有のあざけるような微笑にゆがめて、その大きな疲れたような目を、まともに彼女の上へすえながら、彼女のほうへ歩きだした。一種不愉快な感情が、執拗《しつよう》な疲れたようなまなざしを迎えたときに、彼女の心をいたませた。あたかも、彼女の予期していたのは、もっとちがった人であったかのように。わけても彼女を驚かしたのは、夫と相見ることからおこった自己不満の感情であった。この感情は、彼女が夫にたいする関係において日ごろ経験していた家庭的の、虚偽《きょぎ》というものに近い感情であった。けれども以前には、彼女はこの感情に気づかなかった。が、今は明らかに、かつ悩ましく、それを意識したのであった。
「ねえ、どうだね、優しい夫だろう。結婚の翌年のように優しい――なにしろ、お前を見たい思いに燃えてたんだからね」と彼は、もちまえのゆっくりゆっくりした細い声で、彼がほとんどいつも彼女にたいして用いる例の調子――じっさいにそういうことをいう人にたいする嘲笑《ちょうしょう》の調子で、こういった。
「セリョージャは丈夫でおりまして?」と彼女はきいた。
「それが報酬《ほうしゅう》のすべてかね」と、彼はいった。「わたしのこの熱情にたいする? 丈夫でいるよ、丈夫でいるよ……」
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三十一
ウロンスキイは、この夜は終夜、眠ろうともしなかった。彼は、自分の座席の上に、あるときはじっと前方に目をすえたり、あるときは出入りの人を見やったりしながら、腰掛けていた。そして、もし彼が、その泰然《たいぜん》とおちつきはらった態度で、これまでにも見ず知らずの人の心を驚かしたり騒がせたりしたことがあるとしたら、今の彼は、なおいっそう傲慢《ごうまん》な、うぬぼれの強い人間に見えたにちがいない。彼は、まるで物品か何かのように、人を見た。彼と向かいあわせに腰掛けていた、一地方裁判所勤務の若い神経質な男は、この態度にたいして彼を憎んだ。若い男は、自分が物品でなくて人間であることを彼に感じさせるために、彼にたばこの火をこうたり、話しかけたり、彼をつっついたりまでしたが、それでもウロンスキイは、依然として彼を燈火でも見るような目で見ていたので、若い男は、自分を人間として認めないこの圧追のもとに、だんだん自制力を失っていくように感じながら、顔をしかめた。
ウロンスキイは何ものをも、またなんぴとをも見なかった。彼は自分を王者のように感じていたが、それは、自分がアンナに深い感銘を与えたと信ずるからではなくて――彼はまだそれを信じなかった――アンナの彼に与えた印象が、彼に幸福と誇りとを与えたからであった。
これらいっさいのことから生ずるものがなんであるか、彼は知りもしなかったし、また考えてみようともしなかった。彼は、今日まで思うさま放漫に散逸《さんいつ》せしめられていた自分の力が、ことごとく一点に集中し、すさまじいエネルギイをもって、ひとつの幸福な目的に向かって躍進《やくしん》しだしたのを感じていた。そして、彼はこのために幸福であった。彼はただ、自分が彼女に語ったことの真実であることだけを知っていた。彼女がいるためにここへ来たのだということも、人生のすべての幸福、唯一の意義を、今こそ、彼女を見、その声を聞くことにのみ、見いだしているということも。ソーダ水を飲もうと思って、ボロゴヴォ駅で車室からおり、はからずもアンナを見かけたときに、われにもなく出た最初の言葉が、彼が心にいだいていたその真実を、彼女に語ったのであった。彼は、それを彼女にうちあけたこと、彼女が今ではそれを知り、それについて考えているであろうことを、うれしく思った。彼は終夜まんじりともしなかった。自分の車室へもどってからは、彼はひっきりなしに、彼女と会ったときの光景や、彼女のいった言葉を思いかえしていた。そして、彼の想像裡では、将来に起こりうるであろう幾情景が、心臓のしびれるような思いをもって描きだされた。
ペテルブルグで汽車をおりたときには、彼は、終夜一睡もしなかったにもかかわらず、ちょうど冷水浴でもしたあとのような、いきいきとした、さわやかさを感じていた。彼は、自分の車のそばに立ちどまって、彼女の出てくるのを待ちうけた。
『もう一度見てやろう』彼はわれともなく、にやりとしながら、こう自分にいった。『あの歩きかた、あの顔を見てやろう。――きっとなんとかいうだろう、ひょいと頭をまわして、こちらを見て、ひょっとするとにっこり』ところが、まだ彼女の姿の見えないさきに、彼は、駅長がうやうやしく群集のなかを案内してくる彼女の夫の姿を見つけた。『ああ、そうだ! 夫だ!』そしてこのときウロンスキイは、夫こそ彼女に結びつけられている人であることを、はじめてはっきりと意識した。彼は、彼女に夫のあることを知ってはいたが、これまではなんとなくその存在を信じなかった。が、いま彼を、その頭と、肩と、黒いズボンをはいた足とをそなえている彼の姿を見るにおよんで、いや、べっしてこの夫が、さも自分の持ちものだといわぬばかりに、おちつきすまして彼女の手をとった姿を見るにおよんで、彼はいやおうなしにはっきりと、それを信じさせられたのであった。
ややねこ背ではあるが、まんまるな帽子をかぶって、ペテルブルグ式の溌剌《はつらつ》たる顔つきと、いかめしく自信ありげな風采《ふうさい》とをもったアレクセイ・アレクサーンドロヴィッチを見ると、彼は、彼という人の存在をはっきりと意識して、ちょうど渇《かわき》に苦しんでいる人が、ようやく泉のある場所へたどりついてみると、そこにはすでに犬とか、羊《ひつじ》とか、豚《ぶた》とかいうものがいて、その水を飲んだり、かき乱したりしているのを発見したときになめるような、不快な感じを経験した。腰全体と鈍そうな両脚とをもってまわるようなアレクセイ・アレクサーンドロヴィッチの歩きぶりは、ことにウロンスキイをいらいらさせた。彼は、ただ自分だけに彼女を愛する正当な権利をみとめていたので。けれども、彼女はやはり彼女であった。彼女の姿は、依然として彼に作用し、彼を肉体的に力づけ、精神をひき立て、その魂を幸福感でみたした。彼は二等車のほうからかけてきたドイツ人の従僕に、手荷物を受け取ってさきへ行くように命じておいて、自身は彼女のほうへ近づいた。彼は、夫妻がはじめて顔をあわせたときの光景を目撃《もくげき》して、恋する人の直覚で、彼女が夫と口をきくそぶりに、軽いよそよそしさのあるのをみとめた。『いや、彼女は夫を愛していない、愛することができないのだ』こう彼は、自分ひとりできめてしまった。
まだ彼がアンナ・アルカジエヴナのほうへ、背後から近づきつつあったときに、彼女は彼の接近を感じて、ふり向きそうにしてちらと彼を見てから、ふたたび夫のほうへ向きなおった。彼は、その様子をみとめてうれしく思った。
「昨晩はよくおやすみになれましたか?」と彼は、同時に彼女と夫の両方へえしゃくをしながら、アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチには、彼がこのえしゃくを自分にたいするものととり、そのうえで自分を認めようが認めまいが、それはご勝手だといったそぶりを見せて、いった。
「ありがとうございます。たいそうよく」と彼女はいった。
彼女の顔は、疲れたもののように見えた。そしてそこには、ときには微笑、ときには目もとへうかび出ようとしていたあの生気の火花はなかった。けれども、彼のほうを見たときには、その目のなかに一瞬間、何かちらりとひらめいたものがあった。その火はすぐ消えうせはしたが、その一瞬間のおかげで、彼は幸福を感じた。彼女は、夫がウロンスキイを知っているかどうかをたしかめるために、夫の顔に目をそそいだ。アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチは、そのだれであったかをぼんやりと思い出しながら、不満げな面もちで、ウロンスキイをながめていた。ウロンスキイの平静と自信とは、ここで、石にたいする大鎌のように、アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチの冷やかな自信と衝突した。
「ウロンスキイ伯爵でいらっしゃいますよ」とアンナはいった。
「ああ! われわれはおなじみでしたな、たしか」とアレクセイ・アレクサーンドロヴィッチは手をさしだしながら、気のない調子でいった。「往《い》きにはご母堂とごいっしょで、復《かえ》りはご子息とごいっしょだったわけだね」と彼は、一語一語に一ルーブリずつ恵みでもするように、はっきりと発音しながらいった。「あなたはたぶん賜暇のお帰りですな?」と彼はいった。そして、返事も待たずに、例の冗談らしい口調《くちょう》で妻に向かった。
「どうだね、モスクワではさぞ、別れるときに涙がどっさり流されたことだろうね」
妻にたいするこの態度で、彼はウロンスキイに、自分が自分たちだけになりたく思っていることを感じさせようとした。そして、相手のほうへむいて帽子に手をかけたが、ウロンスキイはアンナ・アルカジエヴナのほうをむいていた。
「お宅への訪問をお許し願いたいと思いますが」と彼はいった。
アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチは、疲れたような目でウロンスキイを見やった。
「どうぞどうぞ」と、彼は冷やかな調子でいった。「月曜日にはいつも、お客を受けることにしておりますから」こういってしまうと、彼は、ウロンスキイのほうはすっかり無視して、妻に向かい、「いや、たいへん好都合だったよ。おまえを迎えにくるために、ちょうど三十分だけひまがあって、おまえにわたしの優しい心を見せることのできたのはね」こう彼は、同じちゃかすような口調で言いつづけた。
「あなたはあんまり優しい心を売りものになさりすぎますわ、わたしをありがたがらせようと思って」と彼女も、彼らのあとからついてくるウロンスキイの足音にわれ知らず聞きいりながら、同じようなふざけた調子でいった。『だけど、いったい、わたしになんの関係があるんだろう?』と彼女は考えた。そして夫に向かって、自分の、不在中セリョージャが、どうして暮らしていたかをたずねはじめた。
「いや、感心なものさ! マリエットがたいへんおとなしかったといっていた。そして……そしておまえには悲しいことだろうが……おまえがいなくても、おまえの夫ほどには、あれは寂しがる様子はなかったそうだ。だが、もう一度 merci(お礼をいうよ)ねえ、おまえが一日早く帰って来てくれたことを。わが愛すべきサモワールもさぞ喜ぶことだろうよ。(有名な伯爵夫人リディヤ・イワーノヴナのことを彼は、彼女がいつも何事につけてもじき気をもんで興奮するので、サモワールと呼んでいたのである)あの女《ひと》はおまえのことばかりたずねていたからね。で、わたしもじつはおまえに、今日にもあの女《ひと》のところへ行ってあげたらとすすめたいくらいなんだ。なにしろ、あの女《ひと》は、あのとおりの苦労性なんだからね。今ではあの女《ひと》は、例のいろんな心配事のほかに、オブロンスキイ家の仲直りのことで、またしきりに気をもんでいるんだよ」
伯爵夫人リディヤ・イワーノヴナというのは、アンナの夫の友だちで、彼女も夫のつながりで、だれよりも親しい関係をもっている、ペテルブルグ社交界のあるサークルの中心人物であった。
「ええ、だけどわたしあのかたには、手紙をさしあげておきましてよ」
「だが、あの女《ひと》は、何事によらずくわしい話が聞きたいのだよ。だから、そんなに疲れてないんだったら行ってあげなさい、ね。ところで、おまえには、コンドラーティーが馬車を用意して待ってるはずだからね。わたしはこれから委員会へ行くから。ああ、また今日からは、ひとりで食事をしなくてもよくなったね」とアレクセイ・アレクサーンドロヴィッチは、もうちゃかした調子でなしにつづけた。「おまえには信じられまいが、わたしはすっかりなれてしまって」
そして彼は、長くながく彼女の手を握りしめてから、一種特別な笑顔をしながら、彼女を馬車へ助け乗せた。
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三十二
家でアンナを迎えた第一の人は、むすこであった。彼は、家庭教師の叫び声にもとんじゃくなく、階段を彼女のほうへかけおりて、やけな喜びの声をあげて叫んだ――「ママ! ママ!」そして、彼女のそばまでかけてくると、いきなりそのくびへぶらさがった。
「ほらね、だからぼく、お母さまだっていったでしょう!」と彼は、家庭教師に叫んだ。「ぼく、ちゃんと知ってたんだもの!」
ところが、このむすこもまた、夫と同じくアンナの胸に、幻滅に似た感じをおこさせた。彼女は彼を、じっさいにあったより、いっそうよいものとして想像していた。で、彼女は、彼をあるがままの彼として楽しむためには、自分自身をも、現実の境まで引きさげなければならなかった。もっとも彼は、あるがままでも美しかった、灰白色の巻き髪でも、青い目でも、ぴーんとはった長くつ下をはいたまるまるとしたしなやかな足でも、みな美しかった。アンナは、彼の接近と愛撫《あいぶ》の感じのうちにほとんど肉体的の歓喜をおぼえ、彼のわだかまりのない、信じきった、愛らしいまなざしを迎えて、その無邪気な質問を聞いたときには、精神的の安息をすらおぼえた。アンナは、ドリーの子供たちからの贈り物を取り出しながら、モスクワには、ターニャというお利口な女の子がいることや、そのターニャが読むことが上手で、ほかの子供たちに教えてさえいるということを、むすこに話して聞かせた。
「じゃあなんなの、ぼくのほうがその子よりいけないの?」とセリョージャはきいた。
「お母さまにはね、世界じゅうでおまえが一ばんいい子ですよ」
「そうでしょう」と、セリョージャはにこにこしながらいった。
アンナがまだコーヒーも飲み終わらないでいるうちに、もう伯爵夫人リディヤ・イワーノヴナの来訪が報じられた。伯爵夫人リディヤ・イワーノヴナは、不健康らしい、黄いろい顔色はしていたが、思い沈んだような、黒い美しい目をもった、背の高い、ふとった婦人であった。アンナは彼女を愛していた。それが、今日はどうしたのか、まるで欠点という欠点をさらけだしている彼女を、はじめて見るような気がした。
「どうでしたの、アンナ、|かんらん《ヽヽヽヽ》の枝をとってらして?」伯爵夫人リディヤ・イワーノヴナは、部屋へはいるなり、こうたずねた。
「ええ、すっかり片づきましたわ。でもあの一件は、わたしたちが考えていたほど大したことではありませんでしたの」とアンナは答えた。「いったい belle soeur(わたしの義姉)はちと気が早すぎますからね」
しかし、リディヤ・イワーノヴナ伯爵夫人は、自分に関係のない事柄にも、なんにでも興味をもつくせに、自分に興味のあることをも、けっして謹聴《きんちょう》しない癖をもっていた。で、彼女はアンナをさえぎった――
「ええ、まったくこの世の中には、悲しみやら苦しみやらが、ずいぶんどっさりあるんですのね。今日もわたし、すっかり弱ってるんですのよ」
「おや、どうなさいましたの?」とアンナは、微笑をおさえようとつとめながらいった。
「わたしね、そろそろ、真理のためにするむだ骨折りに、疲れかけてきましたのよ。ときにはまったく、勇気をくじかれてしまうこともありますの。でも、小姉妹協会の事業(それは博愛的愛国的な宗教団体であった)は、順調に運びそうだったんですけれど、あんな人たちといっしょでは、何をすることもできやしませんわ」と伯爵夫人リディヤ・イワーノヴナは、おどけたあきらめを声にひびかせて言いたした。「あの人たちは、ひとつの思想をつかむと、それをいびつにしてしまってから、むやみと細かくひねくりまわして、かれこれ言いだすんですものね。ただ、二、三の人、こちらのご主人もそのおひとりですけれど、その人たちだけが、その事業の意味を、はっきり理解してらっしゃるだけで、あとの人たちときたら、ただもう、台なしになさるだけのことなんですもの。昨日も、プラウディンがわたしに手紙をよこして……」
プラウディンというのは、外国にいる有名な汎《はん》スラヴ主義者であった。伯爵夫人リディヤ・イワーノヴナは、そのひとの手紙の内容について物語った。
ついで伯爵夫人は、いろんな不満や、教会併合事業にたいする奸策《かんさく》などについて述べたててから、今日はまだ、さる団体の集会と、スラヴ委員会に出席しなければならぬといって、あたふたと帰っていった。
『考えてみれば、これまでだってみんなこのとおりだったのだわ。それをまたどうしてわたしは、気がつかずにいられたのだろう?』とアンナは心にいった。『それともあの女《ひと》は、今日は特別いらいらしてたのかしら? それはとにかく、ほんとにおかしいわね――あの女《ひと》の目的は善行であり、あの女《ひと》はクリスチャンなのに、ああしてしょっちゅう怒ってばかしいて、おまけにのべつ敵をもってるなんて。しかも、それがまた、よりにもよってキリスト教と善行による敵だなんて』
伯爵夫人リディヤ・イワーノヴナが帰ったあとへ、こんどは、彼女自身の友だちの、ある局長夫人が訪ねてきて、市中の新しい出来事を、細大もらさず語って聞かせた。そして、三時になると、この女もまた、晩餐《ばんさん》にくることを約束して帰っていった。アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチは役所へ出ていた。ひとりになったアンナは、晩餐までの時間を、子供の食事をするそばについていてやったり(彼はいつも別に食事をした)、手まわりの物の整理をしたり、自分の机の上にたまっていた手紙や葉書を読んだり、返事を書いたりすることについやした。
彼女がみちみちなめてきた理由のない羞恥《しゅうち》の情と、心の混乱とは消えてしまった。なれた生活条件のなかへはいると、彼女はふたたび自分を、堅実な、非のうちどころのないものと感ずるのだった。
彼女は、昨日の自分の心的状態を思い出して、あきれずにはいられなかった。『ほんとにどうしたというんだったろう? いいえ、なんでもありゃしないわ、ウロンスキイがつまらないことをおっしゃったからって、それはその場かぎりのことだし、わたしはそれにたいしても必要なだけの返事をしたまでだもの。それを夫に話すなんて、よけいなことでもあるし、またできもしないわ。こんなことを話すなんて――つまりそれは、つまらない無意味なことに、わざわざ重大な意味をつけることになるんだもの』彼女はいつかペテルブルグで、夫の若い部下が彼女に向かってした告白を夫に話したときのことを思い出した。その時アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチは、社交界に生活していれば、どんな婦人だってこうしたはめに出会うことがあるものだ。けれども自分は、十分彼女の分別に信頼しているから、くだらない嫉妬《しっと》などをおこして、彼女や自分をおとしめるようなことは断じてしない、こう答えた。『してみれば、何もこんなことを話す理由がないじゃないの? それに、さいわいなことに、べつに話すほどのことがないんだもの』こう彼女は、われとわが身に向かっていった。
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三十三
アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチは、四時に役所からもどって来た。が、よくある|でん《ヽヽ》で、すぐ彼女のそばへ行くわけにはいかなかった。彼は、待ちうけていた請願者たちを引見したり、執事《しつじ》のもってきた数種の書類に署名したりするために、まず書斎へ通った。晩餐《ばんさん》には(カレーニン家ではいつも二、三人の人が晩餐につらなるならわしであった)、アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチの年とった従姉妹《いとこ》と、局長夫妻と、就職のことでアレクセイ・アレクサーンドロヴィッチに紹介されて来たひとりの青年とが集まった。アンナは、その人々の接待に、客間へ出た。正五時に――ピョートル一世と名づけられた青銅製の時計が五つめの音を打ちきらないうちに、アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチが、食事がすむとすぐ出かけなければならぬというので、白ネクタイに勲章を二つ飾った燕尾服《えんびふく》といういでたちではいって来た。アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチの生活は、一分ごとに区画され予定されてあった。その日にせねばならぬことをしおおせるために、彼は、きわめて厳格な規律を設けていた。「急がず休まず」というのが彼のモットーであった。彼は広間へはいると、一同にあいさつをして、妻に笑いかけながら、そそくさと席に着いた。
「そうだ、これでまず、わたしの独身生活も終わったわけだな。おまえにはちょっと信ぜられまいが、ひとりで食事をするということは、まったく気のきかんものだよ」(彼は|気のきかん《ヽヽヽヽヽ》という言葉に、とくに力を入れていった)
食事のあいだに彼は、妻を相手にモスクワの話をしたり、ちゃかすような微笑をふくんで、ステパン・アルカジエヴィッチのことをたずねたりした。しかし会話は、主として共通の話題を選んで――ペテルブルグの公務上または社会上の事柄について進んだ。食後の三十分を、彼は客とともに過ごしたが、やがて、また笑顔で妻の手を握ってから部屋をでて、会議に列すべく出かけていった。アンナはその晩は、彼女の帰京を知って夜会に招待してよこした公爵夫人ベーッシ・トゥヴェルスコーイのもとへも、その日|桟敷《さじき》のとってあった劇場へも出かけなかった。彼女が出かけなかったのは、おもに、あてにしていた服ができていなかったためであった。概してアンナは、客を送ってから身じまいにかかったときに、ひどく不きげんにさせられていた。あまり金をかけないで衣装を引きたたせることの上手な彼女は、モスクワへ立つ前に、服を三枚仕立屋へ仕立返しに出しておいた。その服は、見ちがえるほどに縫い返されて、もう三日前に届いているはずであった。ところが、二枚はてんでできてないうえに、仕あがっていた一枚も、ぜんぜんアンナの思ったようでなかった。そこで、仕立屋が弁解に来たが、その女がまた、そのほうがいいのだなどと言いはったりしたので、アンナは、あとになって思い出すのも恥ずかしいくらい、ひどく激昂《げっこう》させられてしまった。で、十分心をおちつけるために、彼女は子供部屋へ行って、その晩は子供といっしょに送った。そして、自身で彼を寝かしつけて、十字を切り、そのうえ彼を毛布でくるんでやった。彼女は、自分がどこへも出ないで、こんなにのんびりとひと晩を過ごしたということがうれしかった。彼女は、気分が軽く穏やかになり、いっさいのことがはっきりしてきて、汽車のなかではあれほど意味ふかく思われたことも、すべて交際社会にありがちの、一場の機会にすぎず、彼女はなんぴとにたいしても、また自分自身にたいしても、いささかも恥ずるところのないのがわかってきた。アンナは、イキリスの小説を手にして、暖炉のそばに腰をおろし、夫を待った。きっかり九時半に、彼の鳴らすベルが聞こえて、彼が部屋へはいって来た。
「とうとう、あなたでしたのね!」と、彼のほうへ手をさしのべながら、彼女はいった。
彼は彼女の手を接吻《せっぷん》して、そのそばへ腰をおろした。
「だいたいからいって、おまえの出張は成功だったらしいね」と彼はいった。
「ええ、大成功でしたわ」と彼女は答えて、彼に、そもそものはじめから、一部始終を語りはじめた――ウロンスキイ老夫人との同行、到着、停車場での出来事など。そしてそのあとで、はじめは兄にたいし、後にはドリーにたいしていだいた、自分の同情について物語った。
「だが、そういう人を許せるなんて、ちょっとわたしには考えられんな。いかにおまえの兄さんだからといって」とアレクセイ・アレクサーンドロヴィッチは、厳粛な口調でいった。
アンナはほほえんだ。彼女は、彼がことさらこういったのは、親戚というつながりも、まじめな意見発表というだんになっては、彼を阻止《そし》することはできないどいうことを示すためにほかならなかったことを、理解したからである。彼女は、夫のうちにあるこの特徴をよく知っていた、そしてそれを愛していた。
「わたしはしかし満足だよ。万事無事におさまって、おまえが帰って来てくれたのがね」と彼は語をついだ。「それはそうと、あちらではなんといってるだろう、わたしが議会を通過させた新制度のことを?」
アンナは、この制度に関しては、何も聞いていなかった。そして彼女には、彼にとってきわめて重大であったことを、自分があまりあっさりと忘れてしまっていたのが、きまりわるくなってきた。
「こちらでは、どうしてなかなか、たいへんな騒ぎだったのだよ」と彼は、得意そうな微笑をうかべていった。
彼女は、アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチがこの事件について、何か自分で愉快に思うことを彼女に知らせたがっているらしいのを見てとった。で、あれこれと質問をもちだして、彼の話に水をむけた。彼は、同じ自足的な微笑をたたえて、この新制度の通過を祝して彼のために催された、いろんな祝賀会のことについて話した。
「わたしは、非常に満足だったよ。この一事は、われわれのなかにもとうとう、この事業にたいする合理的で確乎《かっこ》たる見解が成立しつつあることを、立証するものだからね」
クリームとパンとで二杯目のお茶を飲みおわると、アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチはいすを立って、書斎のほうへ行きかけた。
「だが、おまえはどこへも出かけなかったのかい? さぞたいくつしたことだろうね?」と彼はいった。
「いいえ、ちっとも!」と彼女は、彼のあとから立ちあがって、広間を通って書斎へと、彼を送っていきながら答えた。「あなたは今、何を読んでいらっしゃるの?」と彼女はきいた。
「今わたしは Duc de Lille, Poesie des enfers(リール公爵の地獄の詩)を読んでるよ」と彼は答えた。「じっさいすばらしい本だよ」
アンナは、人が愛する者の弱点を見てほほえむ時のように、ほほえんだ。そして夫の腕の下へ自分の手をさし入れて、彼を書斎の戸口まで送っていった。彼女は、夜分の読書を欠くべからざるものとしている彼の習慣を知っていた。彼女はまた、役所の勤務が、彼の時間のほとんど全部をのんでしまうにもかかわらず、彼が知的領域に現われる著名な書物のすべてに目を通すことを自分の義務と考えていることを、知っていた。彼女はまた、じっさい彼が興味をもっているのは、政治・哲学・神学上の書物であり、芸術はその性質上、彼にとってぜんぜん無縁のものだったのに、いや、あるいはむしろそのために、アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチは、芸術上の作品でも、人口にのぼったものは一冊として見のがさないで、そのすべてを読むのを義務としていたことも、知っていた。彼女はまた、政治とか、哲学とか、神学とかの範囲内では、アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチは、事ごとに疑問をはさんだり、研究したりするのに、芸術とか、詩とか、なかんずく、まったく理解を持たない音楽とかの問題になると、かえって確乎たる一定不変の見解をもっていることを、知っていた。彼はシェイクスピア、ラファエル、ベートーヴェンを論じ、詩や音楽の新派の意義について語ることを好んだ。そして、それらのものはすべて、彼の頭のなかで、きわめて明確な秩序《ちつじょ》をもって分類されているのであった。
「ではね、ごきげんよう」と彼女は、書斎の戸口で彼にいった。書斎のなかには、もうすでに、彼のために、ろうそくには笠《かさ》がかけられ、肘掛けいすのそばには水びんが用意されてあった。「わたしはモスクワへ手紙を書きますわ」
彼は彼女の手を握って、もう一度それに接吻した。
『やっぱりあのひとはいい人だわ――心のまっすぐな、善良な、あの社会ではえがたい人だわ』とアンナは、自分の居間のほうへひき返しながら、まるでだれかが彼を非難し、彼を愛してはならぬといったのにたいして、彼を守ろうとでもするような調子で、ひとりごちた。『それにしても、どうしてまああのひとの耳は、あんなにとび出ているんだろう? それとも髪のまわりを、短く剪《はさ》みすぎてるせいかしら?……』
きっかり十二時に、アンナがドリーへの手紙を書きあげようとして、まだ書卓の前にすわっていたところへ、規則正しいスリッパの足音が聞こえてきて、顔を洗い髪をきれいにとかしたアレクセイ・アレクサーンドロヴィッチが、わきの下に書物をはさんだまま、彼女のそばへよってきた。
「時間、時間」と彼は、特殊な微笑をうかべながらいって、さっさと寝室へはいって行った。
『あの男はいったいどんな権利があって、あんなふうにあのひとを見たのだろう?』とアンナは、アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチを見たウロンスキイの目つきを思いうかべながら、考えた。
着がえをして、彼女は寝室へはいって行った。けれどもその顔には、彼女がモスクワ滞在中、その目や微笑からあんなにもよくほとばしり出た生気が、かげをひそめていたばかりでなく、今ではもうその火が、彼女のなかで消え失せたか、あるいはどこか遠くへ隠れてしまいでもしたような感じであった。
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三十四
ペテルブルグを立つときに、ウロンスキイは、モルスカヤ街にある自分の大きな邸宅を、仲のよい友人であり同僚であるペトリーツキイに残して行った。
ペトリーツキイは若い中尉で、かくべつ身分のある男でもなく、金持でもないどころか、借金で首もまわらぬくらいで、夜になるときまって酔っぱらっては、ありとあらゆる滑稽《こっけい》なかつ不潔なことをしでかして、しばしば営倉へ入れられたこともあるのだが、そのくせ、同僚にも長官にも、気うけのいい男であった。十一時過ぎに停車場から自分の邸へ乗りつけたウロンスキイは、車寄せのところに、見覚えのあるつじ馬車の立っているのを見つけた。なお彼は、自分のベルにたいして、家のなかから男の哄笑《こうしょう》と、女のあまえたような声と、「もしだれか悪党どもだったら、入れちゃいけないぜ」というペトリーツキイの叫び声のもれてくるのを耳にした。ウロンスキイは従卒に、自分だとはいわせないで、そっととっつきの部屋へはいった。ペトリーツキイの女友だちである男爵夫人シリトンが、ふじ色のしゅすの服と、ほおの赤い、髪の白っぽい美しい顔とで光り輝き、そのパリ言葉でカナリヤのように部屋じゅうをにぎわせながら、円テーブルの前に座をしめて、コーヒーをわかしていた。ペトリーツキイは外套のまま、騎兵大尉カメローフスキイは、たぶん勤務からの帰りであろう、正装のままで、彼女のまわりに陣どっていた。
「いよう! ウロンスキイ!」とペトリーツキイは飛びあがって、いすをがたがたいわせながら叫んだ。「ご主人さまさまだ、奥さん、この男には、新しいコーヒーわかしでコーヒーを。いや、きみが帰ったとは意外だった! ところで、ねがわくば、きみがきみの書斎の装飾に、満足であられんことをだ」と彼は、男爵夫人をさしながらいった。
「たしかご両人は知り合いだったね?」
「もちろんさ!」とウロンスキイは快活に笑って、男爵夫人の小さい手を握りながらいった。「どうして古いおなじみさ!」
「旅からのお帰りでいらっしゃるのね」と男爵夫人はいった。「でしたら、あたくしおいとましますわ。ええ、もしおじゃまのようでしたら、すぐにもおいとましますわ」
「どうしてどうして、奥さん、あなたのいらっしゃるところ、すなわちあなたのお宅じゃありませんか」とウロンスキイはいった。「や、失敬、カメローフスキイ」と彼は、ぶあいそうにカメローフスキイの手を握りながら言いたした。
「ほらね、こういう気のきいた文句は、あなたにはとてもいえないことよ」と男爵夫人は、ペトリーツキイのほうを向いていった。
「なあに、どうしてです? 食後なんかにゃあぼくだって、もっとうまいことを言いますぜ」
「だって、食後じゃなんにもなりゃしないわ! さあ、あたくしがコーヒーを入れてさしあげますからね、お顔を洗って支度をしてらっしゃいましな」と男爵夫人は、もう一度腰をおろして、注意ぶかく新しいコーヒーわかしの柄をまわしながらいった。「ピエル、コーヒーをとってちょうだい」と彼女は、ペトリーツキイという苗字によってピエルと呼んでいたペトリーツキイに向かって、お互いの関係をかくそうともしないで、いった。「もう少しふやしますから」
「だめにしちゃいますぜ!」
「だいじょうぶ、だめになんかするもんですかよ! それはそうと、あなたの奥さまは?」男爵夫人はだしぬけに、ウロンスキイと友だちとの会話をさえぎって、いった。「あたくしどもはもうここで、あなたを結婚させてしまいましたのよ、奥さまをおつれになりまして?」
「いいえ、奥さん、ぼくはジプシイとして生まれたんですから、ジプシイとして死ぬんですよ」
「いよいよけっこう、いよいよけっこうですわ。お手をくださいまし」
そして男爵夫人は、ウロンスキイをはなさないで、冗談まじりに、最近に考えた自分の処世法について話したり、彼の意見を求めたりしはじめた。
「あのひとは、どうしてもあたくしを離縁してくれませんのよ! ほんとにあたくし、どうすればいいんでしょうねえ?(あのひととは彼女の夫のことであった)あたくしいっそのこと、訴訟でも起こそうかと考えていますの。あなたはどうおぼしめして? カメローフスキイ、ちょっとコーヒーを見てちょうだいな――ふきこぼれてよ。ごらんのとおり、あたくしはお話でいそがしいんですもの! あたくしが訴訟を起こそうというのはね、あたくし、自分の財産が必要だからですわ。だいたい、あたくしがあのひとにたいして不貞だなんていうくだらないことが、あなたはおわかりになりまして」と彼女はさげすむような調子でいった。「しかも、あのひとは、それを言いたてて、あたくしの財産を利用しようとかかってるんですもの」
ウロンスキイは、美しい女のこの快活なおしゃべりを、興味あることに聞いて、彼女に同意したり、冗談半分の忠告をあたえたりした、つまり、彼はさっそく、こうした種類の婦人にたいしてとる、いつもの調子になったのである。ペテルブルグにおける彼の世界では、すべての人々が、真反対の二つの種類にわかれていた。一方の低級なほうは――野卑な、愚劣な、とりわけ笑うべき種類の人間で、彼らは、ひとりの夫は正当に結婚したひとりの妻を守って生活しなければならないもの、処女は純潔に、婦人は内気に、男子は男子らしく、つつしみ深く、しっかりしなければならないもの、子女は教育し、みずからのパンはかせぎ、負債は支払わなければならぬものなどといったふうの、あらゆる愚劣なことを信じている、すなわち、旧弊《きゅうへい》にして笑うべき種類の人々であった。が、いま一方のは、彼らの仲間がことごとくそれに属していた真の人間の一団で、そこでは人は、何よりもまず優雅《ゆうが》で寛濶《かんかつ》で、大胆で、快活で、あらゆる情熱に面をあからめることなく身を投じ、それ以外の物事はすべて、笑ってのけなければならなかった。
ウロンスキイは、はじめのうちこそ、モスクワから持って帰ったぜんぜん異なった世界の印象のために、いくらか茫然《ぼうぜん》とした形であったが、じき、古いスリッパへ足をつっこむように、以前の楽しい、愉快な世界へ踏み入ってしまった。
コーヒーはうまくわかずに、みんなに飛沫《ひまつ》をはねかけてしまった。そして、要するに、一ばんかんじんな役目をはたした。すなわち高価な敷物と、男爵夫人の服とをぬらして、喧騒《けんそう》と哄笑《こうしょう》とにきっかけをあたえたのである。
「さあ、さあ、こんどこそおいとましますわ。さもないと、あなたはいつまでも、お顔をお洗いなさらないでしょう。あたくしの良心は、身分ある者の一ばん重い罪――不潔という罪を、受けることになるでしょうから。ではなんですのね、あなたは、のどへナイフを――とおっしゃるんですのね?」
「もちろんですな。しかし、その場合には、あなたのお手が、あのかたのくちびるのそばにあるようになさらなくちゃいけませんよ。あのかたがあなたのお手を接吻なさる、万事めでたくおさまるという寸法なんですよ」とウロンスキーは答えた。
「ではのちほど、フランス座でね」こういって、きぬずれの音を立てながら、彼女は消えていった。カメローフスキイも席を立った。が、ウロンスキイは、彼の出て行くのも待たずに、彼に手をさしだして、化粧室へとおもむいた。彼が顔を洗っているあいだに、ペトリーツキイは、自分の状態を簡単に描写して、それがウロンスキイの出立後にどれだけ変わったかについて物語った。金は一文もない。親父は、一文もやらぬ、借金も払ってやらぬといった。一軒の仕立屋は訴えようとしているし、いま一軒も、どうでも訴えるとおどかしている。連隊長は、もしそういうスキャンダルが片づかないと隊を出てもらわなければならぬと、警告した。男爵夫人にも、もう若い大根のようにあきあきした。ことに、何かというと、金をくれたがるのでいやになった。が、ここに一つの奇跡がある。美がある。いずれそのうちにむろん披露《ひろう》するが、「あの、そら、奴隷《ヽヽ》レベッカの genre(浮世絵)」とでもいったような、東洋的な、厳粛なスタイルをもった女なのだ。ベルコショーフともけんかをした。で、彼は、よほど介添え人を送ろうかと思ったが、もちろん、どうにもなりはしない。まあとにかく、万事好都合で、しごく愉快に運んでいる。こう語り終わってからも、ペトリーツキイは、友だちにそれ以上自分の境遇の細事に立ち入る余裕をあたえないで、あとからあとからと、いろんなおもしろいうわさ話を語りだした。もう三年も住んでいる寓居《ぐうきょ》の、なじみの深い背景のなかで、これもなじみの深いペトリーツキイの話を聞いているうちに、ウロンスキイは、なれた、わずらいのない、ペテルブルグ生活に帰って来たという快感を、しみじみと味わった。
「そんなことがあるもんか?」と彼は、洗面台のペダルを踏んで、その赤い健康そうな首に水をそそぎながら、叫んだ。「そんなことがあるもんか!」こう彼は、ローラーがミレーエフと親しくなって、フェルティンゴフを袖にしたという話を聞いたときに、叫んだ。「そしてあの男は、あいかわらずまぬけ野郎で、うぬぼれているのか? ときに、ブズルーコフはどうしてる」
「ああ、そうだ、ブズルーコフには珍談があったっけ――すてきな話が!」とペトリーツキイは叫んだ。「なにしろ、あの男の舞踏好きときたら別だからね。宮廷の舞踏会といえば、どんなことがあっても見のがしやしない。そこでやっこさん、大舞踏会のときには、新型のヘルメットをかぶって出かけたわけなんだ。きみは新型のヘルメットを見たことがあるかね? すてきにいいもんだよ、軽くてね。そこでだ、やつが立ってると……おい、きみ、聞いてるのかい」
「ああ聞いてるとも」とウロンスキイは、タオルでからだをごしごしこすりながら答えた。
「するとだ、そこへ大公妃が、どこかの大使といっしょに通りかかって、そして、彼にとって不幸なことに、ふたりの会話が新型のヘルメットの上へうつった。で、大公妃は、新型のヘルメットを見せたいと思われたのさ……見るとそこに、わが愛すべき男が立っている。(ペトリーツキイは、彼がヘルメットをかぶって立っているさまをして見せた)大公妃は、そのヘルメットを見せてくれといわれた――ところが、彼が見せないんだ。どうしたというんだ? みんなはあいつに目くばせをしたり、あごをしゃぐったり、顔をしかめたりして見せた。さしだせというわけさ。が、だめなんだ。やつ、しゃちこばっちまった。どうだいきみ、その様子が見えるだろう!……と、あの男……なんといったっけな……あの男が手を出して、やつからヘルメットを取ろうとした……が、渡さない! で、とうとうその男が、ひったくって、大公妃にお渡しした。つまりこれがその新型で、というわけで。そこで大公妃が、ヘルメットを裏返してごらんになると、どうだろう、いかねきみ、そこから――ごろごろと梨《なし》がころげて出て、ばらばらと糖菓《とうか》がこぼれた。やがて二フント(一フントは四〇九・五グラム)もの糖菓がね!……やっこさん、それを失敬してやがったんだね、いい話じゃないか!」
ウロンスキイは腹をかかえて笑った。それからかなりたって、もう別なことを話しているときにも、ヘルメットの一件を思い出すと、彼は、その丈夫そうな、歯なみのいい歯を見せながら、例の健康そうな笑いで笑いこけた。
新しい話をひと通り聞いてしまうと、ウロンスキイは従僕に手つだわせて軍服に着かえ、隊へ顔だしに出かけた。そのとき、彼は、そのついでに、兄やべーッシのところをまわり、そのほか二、三の訪問をして、それをふりだしに、将来カレーニン夫人に会うことのできる社交界いへのりだす計画を立てた。で、彼は、ペテルブルグでの習慣どおり、深夜まで帰らないつもりで、家を出かけた。
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第二編
一
冬の終わりにスチェルバーツキイ家では、キティーの健康状態を診断して、その衰弱していく体力の挽回策《ばんかいさく》を決定するために、医師の立会い診断が行なわれた。彼女は病気だった。そして春が近づくにつれて、その健康はますますわるくなった。かかえの医者は彼女にまず肝油を与え、つぎに鉄剤、つぎに硝酸銀《しょうさんぎん》剤を与えたが、それもこれも、第三のものも、効果が現われなかったので、医者はさらに、春になったら外国へ転地するようにと勧めだした。で、そのために、有名な博士が招かれたのであった。
まださほどの年でもない、珍しい美男子だったその有名な博士は、いちおう患者の診察を要求した。彼は、どうやら特殊の満足をもって、処女の羞恥心《しゅうちしん》なるものは野蛮時代の遺物にすぎないとか、まだあまり年よりでない男が、若い女の肉体にふれることほど自然なことはない、などと主張するのであった。彼がそれを自然と信じたのは、自分が毎日それを仕事にしていて、かくべつなんの感じもいだかず、また変な感情をおこしたこともないように考えていたからである。そして、そのために彼は、処女のもつ羞恥心を野蛮時代の遺物であると考えたばかりか、自己にたいする侮辱であるとまで考えたのであった。
しかし、それに従うよりすべがなかった。どの医者にかぎらず、同じ学校で、同じ教科書によってまなび、同じ学問を知っていたにすぎないにもかかわらず、また、ある方面では、この有名な博士を|えせ《ヽヽ》医者だといっていたにもかかわらず、公爵夫人の一家とその周囲では、なぜかこの有名な博士だけが、特殊の療法を心得ていて、キティーを救うことができるように思われていたからだった。恥ずかしさのあまりとりのぼせて茫然としている病人を、ばかていねいに聴診したり打診《だしん》したりしたうえ、有名な博士は、念入りに手を洗ってから、客間で公爵と立ち話をした。公爵は、博士の話を聞きながら、せきをしてはしかめつらをつくっていた。世のなかのことを知りぬいていたうえに、ばかでもなければ病人でもない人のつねとして、彼は医術を信ぜず、まして、キティーの病気の原因を十分に理解しているのは自分だけではないかと思えば思うほど、はらのうちではこうした喜劇を、いまいましいことに思っていた。
「なんだこのだぼら吹きが」と彼ははらのなかで有名な博士に、猟師仲間のこうしたあだ名をあてがいながら、娘の症状についての彼の饒舌《じょうぜつ》を聞いていた。一方、博士のほうでも、この老貴族にたいする軽蔑の表情をけんめいにおさえ、同じくけんめいに、彼の理解力の程度まで自分を引きさげようとつとめていた。彼は、この老人には何を話してもむだであること、この家の中心は――母親であることを知っていた。で、彼は、彼女の前でこそ自分の弁舌をふるうべきだと考えていた。と、ちょうどこの時に、公爵夫人が、かかえの医師をつれて客間へはいって来た。公爵は、この一場の喜劇が、自分にとってこっけいでたまらないのをさとられまいとして、そうそうに座をはずした。公爵夫人は、心痛のあまりなすべきことを知らないでいた。彼女は自分を、キティーにたいして罪あるもののように感じていたのだ。
「さあ、先生、わたくしどもの運命を、おきめあそばしてくださいまし」こう公爵夫人はいった。「なんでも全部、率直にわたくしにうかがわせてくださいまし」――「望みがございますでしょうか?」こう彼女は言いたかったのであるが、くちびるがぶるぶるふるえだして、この問いを発することができなかったのである。「ねえ、いかがでございましょう、先生?」
「ちょっとお待ちください、奥さん、いちおう同僚とうち合わせをしまして、そのうえでわたくしの意見を申しあげることにいたしましょう」
「では、わたくしはご遠慮いたしましょうか?」
「いずれともおよろしいように」
公爵夫人は、ため息をついて、出て行った。
自分たちふたりきりになると、かかえの医師はおずおずした調子で、どうやら結核の初期らしく思われるが……云々《うんぬん》といったような、自分の意見を開陳《かいちん》しはじめた。有名な博士は、それに耳をかしながら、話の途中で大きな金時計を出して見た。
「なるほど」と彼はいった。「しかし……」
かかえの医師は、話なかばでうやうやしく黙ってしまった。
「ご承知のとおり、結核の初期を決定することは、われわれとして至難なことですからな。カヴェルン(空洞)の現われるまでは、なんら決定的|徴候《ちょうこう》がないわけですから。しかし、むろんその疑いをもつことはできます。その徴候はありますからね――栄養の不良とか、神経の興奮とかいったものですな。そこで問題は、こうなるですね――つまり、結核の疑いのもとに、栄養を保持するには、いかなる手段を講ずべきか?」
「ではございますが、ご承知のとおり、通常こういう症状には、道徳的ないし精神的の原因が、潜在しているものでございますが」と、微妙な微笑をうかべながら、かかえの医師は、思いきってこうつっこんだ。
「さよう、それはもういうまでもないことですよ」と有名な博士は、また時計を見ながら答えた。「失礼ですが、ヤウズスキイ橋は竣工《しゅんこう》しましたかしら、それともまだ、迂回しなければならんですかね?」と彼はきいた。「ああ! 竣工しましたか。いや、それなら、わたしは二十分で行けるわけです。そこでと、われわれはいま、問題がこういうことになるといっていたのでしたね――つまり、栄養を保つこと、神経を調節すること。ところが、このふたつは、相関連したものですから、円の両側に向かって加療していくことが必要になりますな」
「そういたしますと、外国への転地は?」と、かかえの医師はたずねた。
「わたくしは外国転地には反対のほうです。ええと、よろしいですか――もしです、もしこれが、現在不明な結核の初期ででもあれば、外国への転地は、なんの益もないわけですからな。むしろさしあたっては、栄養を助けて、それをそこなわないようにする方法が、まず緊要だと思うのです」
そして有名な博士は、ソーデン水を用いる治療方法を開陳したが、それを指示したおもな目的は、明らかに、それが無害であるという一事につきているらしかった。
かかえの医師は、注意ぶかく、いんぎんに耳を傾けた。
「ですが、外国旅行の効果としてわたくしは、習慣の変換《へんかん》、回想を呼びおこす原因からの回避などをあげたいのでございまして。それに……母夫人のご希望もあるものですから」と彼はいった。
「ああ! いや、そういうことなら、問題はありません、ご実行なすってよろしいでしょう。しかし、ドイツの山師《やまし》医者どもは、何をやりだすかしれませんからなあ……ぜひわたくしの意見だけは守っていただかないと……じゃあとにかく、そういうことなら、やってみられていいでしょう」
彼はまた時計をながめた。
「おお! もう時間だ」こういって、彼は戸口のほうへ行った。
有名な博士は、そこで公爵夫人に向かって、もう一度患者を見たいと言いだした。(それには礼儀を思う心もいくぶんは手つだっていた)
「えっ! またご診察を!」と、おびえたような声で母親は叫んだ。
「いや、なんです、もう少しくわしくうかがいたいことがあるんですよ、奥さん」
「ではどうぞ」
そして母親は、博士を案内して、キティーのいる客間へはいって行った。キティーは、肉の落ちたほおにぼうっとした赤味をうかべ、いましがた忍ばされた羞恥《しゅうち》のために、目に特殊な輝きを見せて、部屋のまん中に立っていた。博士がはいってくると、彼女はまっ赤になり、双の目を涙でいっぱいにした。彼女にとっては、病気も治療も、すべてが、いかにも愚劣でこっけいなものに思われていたのだった! ことに、それを直すなどということは、彼女からみると、こわれた花びんのかけらをつぎあわせようとするのと同様で、まったくこっけいなことであった。彼女は心がそこなわれていたのだ。それを彼らは、錠剤だの散薬だのと騒いで、どう彼女を治療しようというのか? でも、母を苦しめるようなことをしてはならなかった、それでなくても、母は自分で自分を責めているのだから。
「ちょっとお掛けくださいませんか、お嬢さん」と、有名な博士はいった。
彼は笑顔をつくりながら、彼女と向きあいに腰をおろして、脈をとり、そして、またしてもたいくつな質問をはじめた、彼女はそれに答えていたが、急に、かっとなって立ちあがった。
「ごめんくださいまし、先生、ほんとにこんなこと、いくらしていただいても、なんにもなりはいたしませんから。それに先生は、ひとつことを三度ずつもおききあそばすんですもの」
有名な博士は気にもとめなかった。
「病的な興奮ですよ」と、キティーが出ていってしまったときに、彼は公爵夫人にいった、「しかし、わたくしのほうはもうこれですみましたのです……」
そして博士は、公爵夫人に向かって、かくべつ聡明《そうめい》な婦人にたいするように、令嬢の容態を学問的に説明して、なんの必要もない例の水液服用法のさしずで話をむすんだ。外国へは行ったものでしょうか?――という質問にたいしては、博士はさもやっかいな問題だといったような面もちで、考えこんだ。そして、最後にやっと決定がくだされた――行くことはよろしい、しかし山師医者どもを信じないように注意して、万事は彼のさしずにしたがうこと。
博士の去ったあとは、なにかこう、愉快なことでもおこったあとのようであった。母はにこにこして娘のところへもどって来たし、キティーもきげんのいいふりを装っていた。彼女は、このごろはほとんどのべつ、自分の態度をいつわらなければならないのだった。
「ほんとにわたし、健康なんですのよ、お母さま。でも、お母さまがお望みなら、いつでもまいりますわ」こう彼女はいった。そしてつとめて、近くに迫った旅行を楽しむふうに見せかけながら、旅立ちの準備について、あれこれと話しはじめた。
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二
博士と入れちがいに、ドリーが訪ねて来た。彼女は、この日に立会い診断のあることを知っていたので、まだ産褥《さんじょく》をはなれたばかりだったのに(彼女は冬の終わりに女の子を生んだのである)、また、彼女には、自分自身の悲しみやら心配やらが、数知れずあったにもかかわらず、乳飲み子と病気の娘とを家に残して、この日決せられるはずになっていたキティーの運命を知るために、わざわざ出むいて来たのであった。
「まあ、どうしたの?」と、彼女は客間へ通りながら、帽子もとらないでたずねた。「みなさんはしゃいでらっしゃるのね。じゃ、まずよかったのね?」
人々は彼女に、博士の言葉を伝えようと試みたが、やってみると、博士は非常に流暢《りゅうちょう》に、ながながと説明したのに、彼の言葉を伝えることは、どうしてもできなかった。ただ、外国行きのきまったことだけが、とりえであった。
ドリーはわれ知らず太息をもらした。彼女の一ばん親しい友、妹が行ってしまうのである。それに、彼女の生活は、どうにも、思わしいものではなかった。ステパン・アルカジエヴィッチとのあいだも、和解後は、屈辱的なものになっていた。アンナの手でつけられた|ろうづけ《ヽヽヽヽ》も、堅いものでないことがわかり、家庭の和合《わごう》は、やはり同じ場所でひびがはいった。べつにはっきりした事件はなかったけれど、ステパン・アルカジエヴィッチはほとんど家にいつかなかったし、財政のほうも同様で、おおかた乏しいづめであった。そのうえ、夫の不実にたいする疑念がたえずドリーを苦しめたので、彼女は、前になめた嫉妬《しっと》の苦しさを恐れて、みずからつとめてそれを追いやるようにしていた。もっとも、一度経験されたような嫉妬の爆発は、二度ともどってくるはずはなかったし、不実な事実の暴露《ばくろ》も、最初の時ほど彼女を動かすことはなかったであろう。そうした暴露は、ただ、家庭的習慣を破壊するにとどまり、彼女は、何にもまして、彼と、そういう自分の弱点とをさげすみながら、あまんじて自分をあざむくことを許していた。それに、大ぜいの家族をかかえての心づかいが、たえず彼女を悩ましつづけた――乳飲み子の育てかたがうまくいかなかったり、乳母《うば》がさがってしまったり、かと思うとまた、こんどのように、子供のひとりが発病したり。
「ときに、どうですね、おまえのほうは?」と、母はたずねた。
「ああ、お母さま、わたしのほうは悲しいことずくめですわ。リーリイが加減がわるくってね。わたし、猩紅熱《しょうこうねつ》じゃないかと思って案じていますの。わたしね、今はこうして、こちらの様子が知りたくて出てきましたけれど、わるくすると、どこへも出ないで、うちに閉じこもっていなければならないことになるかもしれませんわ。もしかねえ――猩紅熱ででもあったら」
老公爵もまた、博士が帰ってしまうと書斎から出て来て、ドリーにほおを接吻させ、ふた言《こと》み言彼女と話してから、妻のほうへ顔を向けた――
「どうきまったんだね、行くのかね、ふん、それはそうと、わしのほうはどうしてくれるつもりだね?」
「あなたはお残りになるほうがよかろうと思うんですがね、アレクサンドル」と夫人はいった。
「わしはどちらでもかまわんがな」
「お母さま、お父さまはどうしてごいっしょにいらしていただけないんですの?」と、キティーはいった。「そのほうがお父さまにも、わたしたちにもおもしろいでしょうに」
老公爵は立ちあがって、片手でキティーの髪をなでた。彼女は顔をあげて、つとめて笑顔をつくりながら、彼の顔を見まもった。彼女には、口こそあまりきかなかったけれど、彼がうちじゅうで一ばんよく彼女を理解してくれているような気がしていた。彼女は、末の娘として、父の秘蔵っ子であった。そして彼女には、彼女にたいする愛情が、父の洞察を鋭くしているように思われた。で、今、彼女の視線が、彼女の顔をじっと見つめている父の、鋭い、善良そうなまなざしと出会った時に、彼女には、父が自分を見通しに見て、その心中におこっているよくないことを、何もかも察してくれているような気がした。彼女はあかくなりながら、接吻を予期して、父のほうへ身をのばした。けれども父は、ただ彼女の髪をかるくたたいただけで、こういった――
「このばかげたつけ髪はなんだ! これではほんとうの娘にはさわらんで、死んだ女の髪をなでるだけじゃないか。ときに、どうだね、ドーリニカ」と彼は、姉娘のほうを向いていった。「おまえんとこの勇士は、どうしとるな?」
「あいかわらずですわ、お父さま」とドリーは、それが夫のことであるのを察してこう答えたが、「しょっちゅう出歩いてばかりいますので、わたしもめったに顔を見ませんの」と、あざけるような微笑をうかべて、こう言いたさないではいられなかった。
「なんだ、じゃあまだ、田舎へ森の処分には行かなかったのか?」
「ええ、しょっちゅう支度はしてるんですけれどね」
「へえ、そうかね」と公爵はいった。「じゃあ、わしもひとつ支度でもしましょうかね? や、かしこまりました」と、彼は腰をおろしながら、妻に向かっていった。「そこでと、おまえはだね、カーチャ」と彼は、妹娘のほうへ顔をむけて、言いたした。「いつでもいい、いつか朝目がさめたら、自分にこういってみるのだ――わたしはもうすっかり丈夫で、元気になったんだ。だから、またお父さまと朝早く、霜《しも》を踏んで散歩に行きましょうと、な。いいかね?」
父のいったことは、いたってなんでもないことのようであったけれども、この言葉を聞くとキティーは、罪証を示された罪人のように、ろうばいして、とほうにくれた。『そうだわ、お父さまは何もかもごぞんじなんだわ。すっかりわかっていらっしゃるんだわ。それで、こんなことをいって、わたしに、どんなに恥ずかしくとも、その恥を忍ばなければいけないと教えてらっしゃるんだわ』彼女は、しかし、なんとか返事をしようとしても、気力をあつめることができなかった。で、口を開きかけたまま、ふいに泣きだして、部屋からかけだして行ってしまった。
「ほら、またつまらない冗談を!」と、公爵夫人は夫に食ってかかった。「あなたはいつでも……」と、彼女はお得意のこごとをならべはじめた。
公爵は、かなり長く夫人の叱責《しっせき》を聞きながら黙っていた。が、その顔つきは、ますます気むずかしげになっていった。
「あの子はあんなにかわいそうな、気の毒な、ほんとうに不憫《ふびん》な娘です。それだのにあなたは、あの子が、あの原因になっていることをちょっとほのめかされても苦しむのを、ちっともお考えなさらない。ああ、どうして人はこう見かけによらないものでしょうねえ!」と公爵夫人はいったが、その語調の変化によって、ドリーも、公爵も、彼女がウロンスキイのことをいっているのであることを察した。「わたしは、ああいう卑劣な、不人情を平気でする人を取り締まる法律のないのが、ふしぎですよ」
「ああ、聞きたくもない」と公爵は、肘掛けいすから立ちあがると、出て行きたそうな様子をしながら戸口のところで立ちどまり、陰うつな調子でいった。「法律はあるよ、お母さん。だがおまえのほうで言いだしたんだから、わしもひとつ教えてやるがな、このことで一ばん罪のあるのは――それはおまえだ、おまえだよ、おまえひとりがわるいのだ。ああいう若者を制裁する法律はいつだってあったし、現在でもある! そうだ、もしこっちがしないでものことをしたのでなかったら、わしは老骨ではあるが、あの男に、あのにやけ男に、決闘を申し込んでやっただろう。それを、いまさらになって、治療法を講じたり、ああいうインチキ医者どもを引きずりこんだり」
公爵はまだまだ、言いたいことを山ほど持っていたようだったが、公爵夫人は、彼の様子に気づくやいなや、真剣な問題のときはいつでもそうであるように、急に穏やかになって、悔悟《かいご》の色を現わした。
「アレクサーンドル、アレクサーンドル」と彼女は前へ進み出ながら、ささやくようにいって泣きだした。彼女が泣きだすと、公爵もたちまち黙ってしまった。彼は彼女のそばへよった。
「さあ、もういい、もういい! おまえもつらいのはわしも知っとる。なんともしかたのないことだ! が、これ以上わるいこともあるまい。神さまはお慈悲深くておいでだから……お礼を申すがいいのだよ……」と、彼は、自分でも何をいっているのかほとんど夢中で、自分の手の上に感じられる、泣きぬれた夫人の接吻に答えながら、いった。そして部屋を出て行った。
キティーが泣きながら部屋を出て行ったときから、ドリーは、子供をもち家庭をもった女のつねとして、即座に、そこには女のなすべきことが待っているのを見てとって、それにとりかかる心がまえをしていた。彼女は帽子を脱ぎ、心の緒《お》を引きしめて、行動にうつる準備をしていた。母親が父親に食ってかかっているあいだは、娘としての礼儀の許す範囲で、母をおさえようと試みた。公爵がどなりだしたときには、彼女はただ沈黙を守った。そして彼女は、母にたいしては、羞恥を感じたが、父にたいしては、彼がすぐにもちまえの善良さを取り返したことにたいして、優しい気持を感じた。が、父が出ていってしまうと、このさい、しなければならぬ大切な役目、――キティーのところへ行って、彼女を慰めるという大切な役目に、とりかかろうと決心した。
「わたしね、お母さま、あなたにもうせんから申しあげようと思ってたんですけれど――あなたは知ってらして? レーヴィンがこのあいだ、ここへ来ていらしたときに、キティーに申し込みをしようとしてらしたのを? あのかたがご自分で、スティーワにそうおっしゃったんですって」
「まあ、なんですって? わたしにはちっともわからない……」
「それで、ことによるとキティーは、それをおことわりしたかもしれないのよ。あの子はお母さまにお話ししませんでしたか?」
「いいえ、あの子は、あちらのこともこちらのことも、なんにも言いはしないのだよ。あの子はちっと意地っぱりのほうだからねえ。でもわたしは、何もかもそれがもとだということは知っていますよ……」
「ええ、ですからね、ひとつ考えてごらんなさいな、もしあの子がレーヴィンにおことわりしたとすれば――だって、あの子だって、一方のことさえなかったら、ことわりなんかしなかったにちがいないのですものねえ。わたし、知っていますわ……それを、あとになってあのひとが、あんなにひどくあの子をだましたんですものねえ」
公爵夫人にしてみると、娘にたいして自分がどれほど罪があるかを考えるのは、あまりに恐ろしいことであった。で、彼女はいらいらしてきた。
「ああ、わたしにはもう、何がなんだかわかりません――この節は、だれもかれも、自分だけの考えでことをしたがって、母親になんか、なんにも話しやしない。それでいて、あとになるとこのとおり……」
「お母さま、わたし、あの子のところへ行って来ますよ」
「ああおいでなさいとも、わたしがいけないとでも言やしまいし!」と母はいった。
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三
キティーの小さい書斎になっていた、Vieux Saxe(小さいサクソニア磁器)の人形などで飾られた、かわいいばら色の、ふた月前のキティーその人のように若々しいばら色の、見るからに楽しげな部屋へはいりながら、ドリーは、去年、キティーとふたりでこの部屋をどんなに楽しく、愛にみちた気持で飾ったかを思いおこした。そして戸口のそばの背の低いいすに腰掛けて、まじろぎもしないでじっと絨毯《じゅうたん》の一隅を見つめているキティーを見ると、彼女は胸の寒くなるのをおぼえた。キティーは姉のほうへ目を向けたが、冷やかな、いくらかけわしくすら見えるその顔の表情は、変わらなかった。
「わたしは今日帰ると、もう出てこられそうもないし、あなたもちょっとこられまいから」とダーリヤ・アレクサーンドロヴナは、彼女のそばへ腰をおろしながら、言いだした。「わたしね、少しあなたにお話したいことがあるのよ」
「どんなことですの?」と、はじかれたように頭をあげて、早口にキティーはきいた。
「どんなことって、あなたの悲しみのことでなくてなんでしょう?」
「わたしには、悲しみなんかありませんわ」
「なにをいうのよ、キティー。あなたはわたしが知らずにいるとでも思ってるの? わたしは何もかも知っていますよ。わたしをお信じなさい。ほんとに、そんなことはなんでもないことだわ……わたしたちはお互いに、みんなそのなかを通ってきたんですもの」
キティーは黙っていた。そしてその顔は、きびしい表情をおびていた。
「あのひとはね、あなたがそうして苦しんであげるほど、値うちのある人じゃないのよ」とダーリヤ・アレクサーンドロヴナは、まっすぐ本題へと踏みこみながら、言葉をつづけた。
「ええそうよ、あのひとはわたしをないがしろにしたんですもの」と、キティーはふるえ声で言いはなった。「お姉さま、もう何もおっしゃらないでちょうだい! 後生ですから、もう何もいわないで」
「でも、だれがあなたにそんなことをいって? だれも、そんなこと言やしないでしょう。わたしは信じてるわ、あのひとがあなたを思ってたことは、また今でも思っていることは。だけど……」
「ああ、わたしには、そういう同情が一ばんいやなのです!」とキティーは、急にかっとなって叫んだ。彼女はいすの上で身をひるがえし、顔をまっ赤にして、握っていたバンドのしめがねを、ときには右手、ときには左手で引きしめながら、せかせかと指を動かしはじめた。ドリーは、激してくるとすぐ両手でものをつかむ、妹のこの癖を知っていた。彼女はまた、激してくるとたちまちわれを忘れて、やたらむしょうに、よけいな不快なことを口にする、キティーの性格を知っていた。で、ドリーは、彼女をなだめようとしかけたが、その時はもう遅かった。
「何を、何をお姉さまは、わたしに思い知らせたくていらっしゃるの、何を?」とキティーは早口に言いだした。「わたしが、わたしを知ろうともしない人を思って、その愛のために死ぬほどな思いをしている、そのことなんですか? そして、それをお姉さまが、わたしに……同……同……同情してると思ってるお姉さまが、おっしゃるんだわね!……わたしは、そんな同情や、そらぞらしい慰めは、ちっともほしくないのよ!」
「キティー、あなたは誤解しているのよ」
「どうしてお姉さまは、こんなにわたしをおいじめなさるの?」
「まあ、わたしは、まるきり反対だわ……あなたが苦しんでいるのを見かねて……」
けれどもキティーは、激昂のあまり、彼女の言葉を耳にもとめなかった。
「わたしには悲しむことも慰められることもありませんわ。わたしは意地っぱりですから、自分を愛してもいない人を愛するなんて、そんな不見識は自分に許せないんですわ」
「だから、わたしもそんなこといってやしないわ……だけど、ただひとつきり、わたしにほんとうのことをうちあけてちょうだいね」と彼女の手をとって、ダーリヤ・アレクサーンドロヴナはいった。「これだけね、レーヴィンはあなたにいったのでしょう?……」
レーヴィンについて言いだされたことは、キティーに最後の自制力を失わせたようであった――彼女はいすから飛びあがって、しめがねを床へたたきつけると、両手であわただしい身ぶりをしながら、叫びだした――
「なんのためにこのうえレーヴィンのことまでおっしゃるの? お姉さまには、どうしてそう、わたしを苦しめる必要があるんでしょう、わたしにはわかりませんわ。わたしは今もいったけれど、もう一度くりかえして申します。わたしは意地っぱりですから、|けっしてけっして《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》お姉さまのように、自分をあざむいてほかの女に心をうつすような男のところへもどっていくなんてことはできないんです。わたしにはそんなことはわかりませんの。お姉さまにおできになっても、わたしにはできないんですわ!」
こう一気にいってしまって、彼女は姉の顔を見たが、ドリーが悲しそうにうなだれたまま、返す言葉もなくているのを見ると、考えたとおりに部屋から出て行くことをやめ、戸口のところに腰をおろして、ハンケチで顔をおおうと、そこへうつぶしてしまった。
沈黙は二分ばかりつづいた。ドリーは自分のことを考えていた。日ごろから感じている自分の卑屈《ひくつ》さが、いま妹に言いだされてみると、いっそう痛く胸にひびいた。彼女は、妹からこんな残酷な仕うちを受けようとは思いもかけなかったので、妹にたいしてむっと腹を立てた。が、そのときふいに、彼女は、きぬずれの音と同時に、やにわに堰《せき》を切ったような、おし殺した号泣《ごうきゅう》の声を聞いた。つづいて、だれかの手が、下のほうから彼女の首に抱きついた。キティーが彼女の前にひざまずいていたのであった。
「ドーリニカ、わたしはこんなに、こんなに、ふしあわせなんですわ!」と彼女は、申しわけなさそうにつぶやいた。
そして、涙におおわれた愛らしい顔は、ダーリヤ・アレクサーンドロヴナの服のひだに隠された。
その涙は、ちょうど、それがなくてはふたりの姉妹のあいだをつないでいる器械を、うまく動かすことのできない、なくてはならぬ油であった――その涙のあとでは、ふたりは、かんじんなことはおいて、ほかのことを話しながらも、お互いに相手を早く理解しあった。キティーは、自分が腹だちまぎれに口ばしった、夫の不倫《ふりん》と卑屈を云々した言葉は、気の毒な姉の心をどん底まで貫いたにちがいないのに、姉がそれを許してくれたことを思った。ドリーはまたドリーで、自分の知りたいと思っていたすべてを知った。彼女は自分の推量の正しかったこと、つまり、キティーの悲しみ、いやしがたいその悲しみは、要するにレーヴィンの求婚を拒絶したこと、ウロンスキイが彼女をあざむいたことにかかっていること、そして今では彼女は、レーヴィンを愛してウロンスキイを憎むようになっていることなどを、たしかめたのである。しかしキティーは、それについては、ひと言も口にしなかった。彼女はただ、自分の心の状態について、話したにすぎなかった。
「わたしには、悲しいことなんか何もありませんわ」と、彼女はようやく気をしずめていった。「けれど、お姉さまはわかってくださるかどうか知らないけれど、わたしには何もかもが、あさましく、いとわしく、卑しく見えてしょうがなくなってきたのよ。とりわけ、自分自身がなおのことね。きっと、お姉さまには想像もつかないでしょうよ。何を見てもわたしには、どんなにあさましい考えばかりおこるか」
「そうね、あなたにどんなあさましい考えがおこるんでしょうね?」と、ドリーはほほえみながらきいた。
「そりゃもう、とっても、とってもいやな、あさましい考えなのよ。ちょっと口に出してはいえませんわ。それは憂うつでもない、たいくつでもない、もっともっといけないものですわ。まるで、わたしがこれまでもっていたいいものが、すっかり影をひそめてしまって、一ばんいやなものだけが残ったというような気持なのよ。さあ、ほんとに、なんといったらいいでしょうね?」と彼女は、姉の目のなかに疑惑の色を認めて、言葉をつづけた。「お父さまはさっきわたしに、何かおっしゃりそうになすったわね……だけどわたしには、お父さまもただ、わたしは結婚しなくちゃならないものと考えてらっしゃるような気がするのよ。お母さまはまた、わたしを舞踏会へお連れになります――これはわたしには、お母さまがただ一時《いっとき》も早くわたしをお嫁に出して、わたしのことで気をつかうのをのがれようとしてらっしゃるのだとしか思えないの。もっとも、こんな考えが正しくないことは、わたしだって十分知っていますわ。でも、わたしはその考えを追いのけることができませんの。わたしはもう、あのお婿さんという人たちを見るのがつくづくいやなのです。わたしには、あの人たちはみんな、そろいもそろって、わたしの寸法を取っていくような気がしてならないんですわ。以前には、舞踏服をつけて方々へ出かけるのが、ただもううれしくて、われとわが姿に見とれたりしていたものだけれど、今では恥ずかしくて、きまりがわるくなってしまいました。だって、どうしたらいいのでしょう! お医者さまだって……ねえ……」
キティーは口ごもった。彼女は、話のつづきで、自分にこうした変化が起こって以来、ステパン・アルカジエヴィッチがたまらなく不愉快になり、このうえもなく野卑な醜怪な想像なしには、彼を見ることができなくなったということを、いおうと思ったのであった。
「ええそうよ。わたしにはなんでもかでもが、一ばんいやな、あさましい姿で想像されるようになったのよ」と彼女はつづけた。「これがわたしの病気なんですわねえ、たぶん、なおるにはなおるでしょうけれど……」
「だけど、あんまり考えないほうがいいのよ……」
「だって、それはむりですわ、ただ子供たちといっしょにいるあいだだけが、わたしは救われるのよ。お姉さまのところにいる時だけが」
「ほんとに、うちへ来てもらえるといいんだけれど、こまるわね」
「いいえ、わたし行きますわ。わたしはもう猩紅熱《しょうこうねつ》はしたんですから。わたし、お母さまにお願いしてみるわ」
キティーはそれを言いはって、とうとう姉のもとへ移った。そして、ほんとうにやってきた猩紅熱のあいだ、子供たちを見てやった。ふたりの姉妹は、無事に六人の子供をみとりおおせたが、キティーの健康は回復しなかったので、大斎期《たいさいき》のくるのを待って、スチェルバーツキイ一家は外国へと旅立った。
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四
ペテルブルグの上流社会は、本来ひとつの団体であり、全体が知り合いであるばかりでなく、お互いに往来しあっているほどであった。とはいえ、この大きな団体には、またそれぞれの分身があった。アンナ・アルカジエヴナ・カレーニナは、この三つの異なった団体のなかに、友だちや近しい関係をもっていた。
第一の団体は、彼女の夫の属している勤務関係の官僚的な団体で、社会的の条件にしたがって、きわめて多種多様な、変わりやすい姿で集散離合している夫の同僚および下僚によって、組織されているものであった。アンナは、今ではもう、初めのうちこれらの人々にたいしていだいていた、ほとんど敬虔ともいうべき尊敬の念を、思い出すことすら骨が折れるくらいになっていた。今では彼女は、地方の町の人々がお互いに知り合っているように、彼らのことごとくを知っていた。だれにはどんな癖どんな弱点があるということから、だれにはどの長靴が足をしめつけるかということまで、知っていた。彼ら相互の関係から、その中心にたいする関係をも、知っていた。だれはだれの味方で、どうして、何によって、その関係をつづけているかということも、だれとだれとはどういう点で一致し、どういう点で背反《はいはん》しているかということも、知っていた。けれども、この、男のお役人的、男性的興味でつながっている団体は、伯爵夫人リディヤ・イワーノヴナの説得にもかかわらず、ついぞ、彼女の興味をひいたことがなかったので、彼女はそれを避けるようにしていた。
もうひとつの、アンナに近いほうの団体は、アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチがそれを通して出世の道を開いた団体であった。この団体の中心は、伯爵夫人リディヤ・イワーノヴナであった。これは、年をとって美というものを失った、信心深い篤志家の婦人たちと、聡明《そうめい》なうえに学問があり、名誉を重んずる男子たちとの団体であった。この団体に属した聡明な人たちのなかのひとりは、それを「ペテルブルグ社会の良心」と名づけていた。アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチは非常にこの団体を尊重していた。で、だれとでも調子をあわせていくことのできたアンナは、そのペテルブルグ生活の初期には、この団体のなかにも友だちを見つけていた。ところが、こんどモスクワから帰ってからは、この団体が彼女には堪えがたいものになってしまった。彼女には、彼女といい、ほかの人たちといい、みんながみんな偽りあっているような気がして、その仲間にいると、いかにもたいくつで、心もちがわるくなったので、しぜん伯爵夫人リディヤ・イワーノヴナのもとへも、できるだけ足を遠くするようになっていた。
最後に、アンナの関係していた第三の団体は、ほんとうの社交界――舞踏と、饗宴と、はなやかな化粧の社会、娼婦の世界へまでおちてしまわないために、片手でしっかりと宮廷をつかんでいる社会で、この団体の人々は、自分ではそれを軽蔑しているつもりでいながら、そのじつ、彼らの趣味は、それと共通しているどころか、ぜんぜん同じものなのであった。この団体と彼女との関係は、彼女のいとこの妻である公爵夫人ベーッシ・トゥヴェルスコーイを通してむすばれていた。この女《ひと》は、年十二万ルーブリからの収入があって、アンナが交際場裡へ出た当初から、かくべつに彼女を愛し、彼女をちやほやして、伯爵夫人リディヤ・イワーノヴナのグループをあざけりながら、自分のグループへ彼女を引き入れたのであった。
「年をとって、醜くでもなったら、わたしもあの仲間になりますわ」と、ベーッシはいった。「だけど、あなたのようにお若くってお美しいかたには、あんな養老院へはいるのは、まだまだ早よござんすよ」
アンナも、最初のうちはできるだけ、トゥヴェルスコーイ公爵夫人の、このグループを避けていた。というのは、それが彼女の財政以上の支出を要求したばかりでなく、彼女自身はらのなかでは、第一の団体のほうをむしろ好んでいたからであった。ところが、モスクワへ行って来てからは、それがすっかり逆になってしまった。彼女は、自分の精神的の友を避けて、大がかりな社交界へのりだした。そこで、彼女はウロンスキイに会い、そしてそのたびに、胸さわがしい喜びを経験していた。とりわけ彼女は、生家の姓をウロンスカヤと呼んで、ウロンスキイとはいとこ同士の間柄だったベーッシのところで、しばしば彼と顔をあわせた。ウロンスキイは、アンナに会えるところへなら、どこへでも出かけた。そして、機会あるごとに、自分の愛を彼女に告白するのだった。彼女は、彼にたいしてはどんなきっかけもあたえはしなかったが、彼と出会うたびごとに、彼女の胸のなかには、汽車のなかではじめて見たあの日と同じ、いきいきした感情が燃えだすのだった。彼女自身も、彼と会ってさえいれば、自分の目に喜びの情が輝き、くちびるが微笑のためにほころぶのを感じないではいられなかった。彼女はこの喜びの表情を、なんとしてもおさえることができなかったのである。
初めのうちアンナはまじめに、自分は、相手が大胆に自分をつけまわす不謹慎《ふきんしん》にたいして、彼を不快に思っているものと信じていた。ところが、モスクワから帰ってまもなく、彼に会えるだろうと思って行った夜会で、彼の姿が見えなかったときに自分を支配した悲しみの情によって、彼女は明らかに、自分はみずから欺いているものであること、このつけまわしが彼女にとって、単に不愉快でなかったばかりか、彼女の生活興味の全部をなしているものであったことをさとった。
――――
有名なオペラ女優が二回目をうたっていたので、大社交界の全部が劇場に集まっていた。第一列の自分のいすからいとこを見つけると、ウロンスキイは幕間も待たずに、彼女の桟敷へはいって行った。
「どうしてあなた、食事にいらっしゃらなかったの?」と彼女がいった。「それにしても、恋する人たちの千里眼《せんりがん》には驚いちまうわね」と彼女は微笑をふくんで、彼ひとりだけに聞こえるように言いたした。「あの女《ひと》もこなかったのよ。でも、オペラがすんだらいらっしゃいね」
ウロンスキイは何かをたずねるように彼女を見た。彼女はうなずいてみせた。彼は微笑で彼女に謝意を表して、彼女とならんで腰をおろした。
「わたし、いつものあなたの嘲笑《ちょうしょう》をよく覚えててよ!」と、この情熱の飛躍を見まもることに特殊な満足を見いだしていた公爵夫人ベーッシは、言葉をつづけた。「ああいうものはみんな、どこへ行ってしまったのでしょう! あなたはもうすっかり|とりこ《ヽヽヽ》なのねえ、かわいそうに」
「ぼくはその、|とりこ《ヽヽヽ》にされることばかり願ってるんですがね」とウロンスキイは、もちまえのおちついた、気のよさそうな微笑をうかべて、答えた。「ぼくがもしぐちをこぼすとすれば、じつのところは、その|とりこ《ヽヽヽ》にされかたが少なすぎるからなんですよ。ぼくは、そろそろ希望を失いかけてるんでね」
「じゃあ、あなたにはいったいどういう希望が持てて?」とべーッシは、自分の友だちのために腹をたてながらいった。
「Entendons nous(さあ、うかがいましょう)……」しかし、彼女の目のなかには、彼女が彼と同じようにきわめてよく、正確に、彼が持ちえた希望のなんであるかを知っていることを物語る火がひらめいていた。
「いや、どんな希望もありませんがね」と笑顔になって、その歯なみのきれいな歯を見せながら、ウロンスキイはいった。「ちょっと失礼」と彼は、彼女の手からオペラ・グラスをとって、彼女のあらわな肩ごしに、向こう側の桟敷をながめまわしながら、つけ加えた。「ぼくは、自分がもの笑いの種になるのを、恐れてるんですよ」
彼はしかし、十分に承知していた。ベーッシやすべての社交界の人々から見て、彼はけっしてもの笑いになるような危険をおかしているものでないことを。彼はまた、これらの人々の目には、生娘《きむすめ》とか、自由な婦人とかを恋している不幸な男の役まわりならこっけいに映るかもしれないけれども、すでに人妻である女を追いまわして、彼女を姦通《かんつう》に誘惑するために、とにもかくにも、自分の生命を賭《と》している男の役まわりは――こうした役まわりは、なんとなく美しく、偉大なところをもっていて、けっしてもの笑いになどなるべき性質のものでないことを、あくまで承知していた。で、彼は、口ひげの下に、誇らしく楽しげな、たわむれるような微笑をただよわせながら、オペラ・グラスをおろして、いとこのほうをかえりみた。
「それはそうと、どうしてあなたは、食事にいらっしゃらなかったの?」と彼女は、彼に見とれながらいった。
「それはですね、ぜひあなたに、ひとつ聞いてもらわなくちゃならぬことなんです。ぼくはその暇がなかったのですよ。なんで? ということになると、こいつは九十九まで、いや九百九十九まで、ちょっと想像がつかないでしょうな。ぼくはね、さる夫と、その細君を侮辱した男とを、仲直りさせていたんですよ。いや、ほんとうに!」
「なんですって、まあ、それで仲直りはできましたの?」
「ええ、だいたい」
「あなた、その話はぜひ、あたしになさらなくっちゃいけないことよ」と彼女は立ちあがりながらいった。「このつぎの幕間にいらっしゃいな」
「だめですよ――ぼくはフランス劇場へ行くつもりですから」
「ニリソンをきかないで?」と、びっくりしたようにベーッシはいった。もっとも、彼女とても、ニリソンをただのコーラス・ガールから区別していたわけではなかった。
「どうもあいにくなんですよ。あそこである人と会見しなくちゃならないんでね、これも、例の仲直り一件のひっかかりで」
「平和をつくるものは幸いなり、彼らは救わるべしだわね」とベーッシは、これに似よりの言葉をだれかから聞いたことのあるのを思い出しながら、いった。「さあ、じゃあまず、ここへ掛けて、いまの話を聞かしてちょうだい」
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五
「いささか不謹慎《ふきんしん》にはわたりますがね、だが、いかにもおもしろい話なので、どうしても話さずにはいられないんですよ」とウロンスキイは、えみをふくんだ目で彼女を見ながらいった。「ただし、名まえだけはお預りとしときましょう」
「じゃあ、あたしのほうであててみましょう――そのほうがいいわね」
「ではお聞きなさい――ここに快活な若い男がふたり、馬車に同乗して行くとします……」
「むろん、あなたの連隊の将校がたなんでしょう?」
「いや、将校だとは言いません、ただふたりの、ランチをすましたばかりの若い男なんです」
「一杯飲んでた男――こう翻訳なさいよ」
「あるいは。とにかく、ふたりはとても上きげんで、友人のもとへ食事に招かれて行く途中だったのです。と見ると、美しいひとりの女が、つじ馬車でふたりを追い越して、ふり返っては彼らにうなずいて見せたり、にっこり笑ってみせたりした。少なくとも彼らにはそう思われたのです。で、もちろん、ふたりはその女のあとを追っかけました。全速力で飛ばしたんです。ところが、ふたりの驚いたことに、美人は彼らが目ざして行く家の車寄せへ、乗りつけたじゃありませんか。そして、二階のほうへかけあがって行ってしまった。ふたりはただ、短いヴェールの下からのぞいていたまっ赤なくちびると、美しい小さい足とを見ただけなんですよ」
「あなたはまるで、そのふたりのなかのひとりがあなたご自身じゃなかったかと思われるほど、上手にお話しなさるわね」
「だが、あなたはいま、ぼくになんと言いました? まあ、黙ってお聞きなさい。そこでです、ふたりの若者は、告別の宴をはるはずの友人の住居へはいっていった。そしてそこで、別れの食卓の定例どおり、あるいはそれ以上に、したたかメートルをあげたんです。そして食事のあいだに、この家の二階に住んでいるのは何者だとたずねたもんですね。ところが、ひとりも知った者がない。ただひとり、主人の従僕が、ふたりの質問――二階に|娘っ子たち《ヽヽヽヽヽ》がいるかね――という質問に答えて、とても大ぜいいますよといったのです。食事がすんでから、若い男どもは主人の書斎へ行って、何者とも知れぬ女に手紙を書いた。猛烈な手紙を、恋の告白を書いたんですよ。そしてごていねいにも、万一文中にわからぬところでもあったら説明しようというわけで、自分でその手紙をもって、二階までおしかけていったというしまつなんです」
「だけど、なんだってあなたは、そんなけがらわしい話をあたしになさるの? それから?」
「それから、ベルを押しました。と、女中が出て来た。ふたりはそれに手紙を渡して、ふたりとも今すぐこの戸口で死んでしまうほど恋いこがれているのだということを、その女中にうちあけた。女中はけげんそうに、彼らと二、三押し問答をした。そこへ、とつぜん、腸詰《ちょうづめ》みたいなほおひげのある、|えび《ヽヽ》のように赤い顔をしたひとりの紳士が現われて、この家には、彼の妻以外だれも住んでいない、こういって、ふたりを追っぱらってしまったんです」
「よくもまあ、あなたはそんな、相手のほおひげが腸詰みたいだったなんてことまで、ごぞんじですわね!」
「まあお聞きなさい。今日ぼくは、その仲裁《ちゅうさい》に行って来たんですから」
「それで、どうなの?」
「ここが一ばんおもしろいところなんですよ。じきその相手が、九等官と九等官夫人という幸福な夫妻であることがわかったのです。そして、九等官が抗議を申し込んできたので、ぼくが仲裁役になったというわけなのですが、その仲裁役たるやですね!……ぼくはあえて言いますが、タレイラン〔フランスの有名な外交家〕といえども、ぼくと比較したら顔色《がんしょく》なしですよ」
「何がそんなにめんどうでしたの!」
「まあお聞きなさい……われわれは型のごとく陳謝しました――『わたくしたちは夢中だったのです、不幸な誤解にたいしては、いくえにもおわび申しあげます』……こういったぐあいにですね。それで、腸詰ひげの九等官殿も、きげんをなおしかけたのですが、けっきょくいうだけのことは言いたかったのでしょう。ひと言ふた言いいだしたかと思うと、たちまちまたかっとなって、暴言を吐きだした。それで、ぼくはまたぞろ、ぼくの外交的手腕を発揮しなくちゃならんことになったのです。『いや、ごもっともです、ふたりの行為はまったくよろしくありません。が、しかしどうか、誤解ということと、若気のいたりということを、心にとめていただきたいので。しかもそのうえ、ふたりは食事をすましたばかりだったのですからな。いいですか、それにふたりとも心から後悔して、許しをこうているのですから』とね。するとこんどは、九等官は気色をやわらげてきて――『ごもっともです。伯爵、わたしはもう許す気でおります。が、なんにしてもわたしの家内が、もの堅い婦人であるわたしの家内が、あとをつけられたり、無礼な、野卑なふるまいをされたんですからなあ……どこの馬の骨とも知れぬ若造《わかぞう》どもに、やくざ……』なんて、いうんですよ。ところが、おわかりでしょうが、当の若造がそこにいるでしょう。で、ぼくはまた、そっちをなだめなければならぬ。そこで、ぼくがまた例の外交手腕をふるって、やっとうまくおさまりかけたと思うと、こんどはまた、九等官殿のほうがいきり立って、まっ赤になり、腸詰を振り立てるので、ぼくはまたぞろ、外交的手腕を振りまわすというていたらくで」
「ああ、これはどうでも、あなたにもお聞かせしなくちゃなりませんね!」とベーッシは笑いながら、おりから彼女の桟敷へはいって来たひとりの婦人に向かっていった。「このひとは、今さんざっぱらあたしを笑わせなすったのよ……さあ、Bonne chance(ご幸運を祈ります)」と彼女は、扇をもっていた手のあいている指をウロンスキイに与えながら、肩を動かして、もちあがった上着の胴をさげ、脚光の光のほうへ身をのりだして、ガスの光と衆人の前へ出るときに、思うさま肩の現われるようにしながら、言いたした。
ウロンスキイはフランス劇場へと馬車を駆った。じっさい彼は、そこで、この劇場のいつの興行をも欠かしたことがないという連隊長に会わなければならなかったのである。というのは、もう三日も彼の心をしめ、彼を楽しませていた例の仲裁一件について、彼とうちあわせをするためであった。この事件の当事者は、日ごろ彼が愛していたペトリーツキイと、もうひとり近ごろに入隊した、友人として申しぶんのない、気さくな、若い公爵ケドロフとであった。が、おもなことは――そこに連隊の利害がふくまれていたことであった。
ふたりは、ウロンスキイの騎兵中隊に属していた。そこで、例の官吏九等官ウェンデンは、その妻を侮辱した彼の部下の将校にたいする苦情を、連隊長のもとへ持ち込んできたのである。ウェンデンの申しぶんによると、彼の若い妻は――彼は結婚して、半年になるかならずであった――母親といっしょに教会へ行っていたところ、急に、きまった病気のために起こった不健康を感じて、それ以上立っているに堪えなくなったので、最初に目にはいったつじ馬車をやとって、帰路についた。と、あとからふたりの士官が追っかけて来たので、彼女は驚きのあまり、ますます気分をわるくして、階段をかけあがって家へはいった。一方ウェンデンは、役所から帰ってくると、ベルの音と人声とがしたので、自分で出てみた。すると、酔っぱらいの士官が手紙を持って立っていたので、いきなりそれを突き出した。こういうのである。そして彼は、厳罰をとこうたのである。
「いや、どうしたって」と連隊長は、ウロンスキイを手もとへ招いていった。「ペトリーツキイはもう手におえないね。一週間と無事に送ったことはないのだからね。あの官吏は、このままじゃすまさないよ、もっと押してくるにちがいないよ」
ウロンスキイは、この事件のあまりかんばしくないこと、決闘をもちだすわけにもいかないから、なんといっても、相手かたの九等官をなだめて、事件をもみ消すのが得策《とくさく》であることを見てとった。連隊長がウロンスキイをよんだのも、つまりは、彼が生まれがよくて賢明であるのと、とりわけ連隊の名誉を重んじる男であることを、知っていたからにほかならなかった。そこで彼らは協議の結果、ペトリーツキイとケドロフのふたりがウロンスキイに同道して、九等官のところへ謝罪に出むく、ということにきめた。連隊長とウロンスキイとは――ふたりとも、ウロンスキイの名と侍従武官の徽章とが、九等官を動かすに足るものでなければならぬと思ったのである。そしてじっさい、このふたつの薬品は、ある程度まで効を奏した。けれども、仲直りの結果は、さきにウロンスキイが物語ったとおり、あいまいなものとして残ったのだった。
フランス劇場へ着くと、ウロンスキイは、連隊長とふたり遊歩場へ人を避けて、彼に自分の成功ないし不成功について報告した。始終を熟考した上で、連隊長は、事件をこのまま、未解決のうちに放置してしまうことに決心したが、やがてウロンスキイから、会見の顛末《てんまつ》をおもしろ半分にくわしく聞いて、例の九等官が、いったんしずまりかけてはまた急に、事件のいきさつを思い出して激昂《げっこう》するありさまや、ウロンスキイが仲裁の最後の言葉の中途で方向を転じて、ペトリーツキイを前へ押し出しながら、退却したりしたことについて聞いたときには、しばらくは笑いをおさえかねたくらいだった。
「どうもあまりほめた話じゃないが、笑わせることは笑わせるね。それにケドロフにしたって、まさかあの先生と決闘はできまいし! ふん、そんなにひどく怒ったんかねえ?」と、笑いながら彼は問い返した。「それはそうと、今夜のクレールはどうです? 奇跡だね?」と彼は、新来のフランス女優のことを言いだした。「幾度見ても毎日新しくなるんだからね。いやまったく、こいつはフランス人でなくちゃできないよ」
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六
公爵夫人ベーッシは、最後の幕の終るのを待たないで劇場を出た。そして家へ帰って、化粧室へはいり、その長い青白い顔へ白粉をはき、それを拭きとって化粧をととのえ、大きいほうの客間へお茶を命じて、やれやれと思うまもなく、その、ボリシャーヤ・モルスカヤ街にある宏大な邸宅へは、馬車が陸続《りくぞく》とつめかけはじめた。客たちが広い車寄せにおり立つと、毎朝ガラス戸の外で、通行人にたいする思わせぶりに新聞を読んでいるふとっちょの玄関番が、その大きなドアを音もなくあけて、客たちに自分のかたわらを通らせた。
ほとんど同じ時刻に、髪をきれいにかきあげて、さえざえとした顔つきをした女主人は一方の戸口から、来客たちは他の戸口から、くすんだ色の壁に、毛の柔らかい絨毯《じゅうたん》を敷きまわし、テーブルクロスの純白や、サモワールの銀色や、透明な陶器の茶器などによってろうそくの灯の下に光り輝いている食卓を用意した、大広間へとはいって来た。
女主人はサモワールの前に座をしめて、手ぶくろをぬいだ。一同は、目につかない下僕たちの助けを受けていすを動かしながら、ふた組にわかれて、思い思いの席についた――女主人のいるサモワールの周囲と、客間の向こう側の、黒ビロードの衣装にくっきりとした眉毛の目だつ、美しい公使夫人の周囲とに。会話は、どちらのグループでも、最初の数分間は例によって、応接や、あいさつ、お茶をすすめる言葉などにさまたげられて、どこにとまったらいいかを捜し求めるように、ふらふらとふらついていた。
「あの女は、女優としてもずばぬけてりっぱですね。カウルバッハを習ったことが一目してわかるじゃありませんか」と、公使夫人のグループのほうで、外交官のひとりがいった。「あなたお気づきでしたか、あの女の倒れかた……」
「ああ、どうぞもう、ニリソンの話はよしにしようじゃありませんか! あの女のことではもう、新しい話はなんにもできませんわ」と、眉毛をそり落とした、あから顔の、白っぽい髪にもつけ髪なしで、くたびれた絹の服を着た、ふとった婦人がいった。それは、気まえの単純なのと態度のあらっぽいのとで有名な enfant terrible《こわいあかちゃん》とあだ名されているミャーフキイ公爵夫人であった。ミャーフキイ公爵夫人は、両方の組の中央に陣どって、聞き耳を立てていては、両方の話に口だしをするのだった。「今日わたしは三人の人から、まるで申し合わせたように、カウルバッハのことで同じ文句を聞きましたよ。いったい、どうしてまたそんな文句が、そうお気にいったのか知りませんがねえ」
会話は、この横やりのためにたち切られてしまったので、またしても、新しい話題が考えだされなければならなかった。
「何かおもしろい、毒のないお話をうかがわせてくださいましな」と、英語で small talk(小説)と呼ばれている微妙な話に妙をえていた公使夫人は、これも同様、何を言いだそうかと迷っていた外交官のほうを向いて、いった。
「そういうのが一ばんむずかしいって言いますね。毒のある話にかぎっておもしろいのですから」と、彼は笑顔になっていった。「ですが、まあやってみましょう。どうか題をお出しください。すべて話題しだいですからな。話題さえお出しくだすったら、それを綴りあわせていくのは、まあわけのないことですから。わたしはときどき考えるのですが、前代の話上手といわれた人でも、今日では、少し気のきいた話をしようというには、相当骨が折れますよ。気のきいた話は、すっかりあかれてしまいましたからね……」
「それも、もうかなり言いふるされたことですのね」と笑いながら、公爵夫人がそれをさえぎった。
話はかれんな調子ではじまったが、あまりかれんすぎたので、すぐまた行きづまってしまった。で、けっきょくは、やはりけっしてまちがいのない確かな方法――誹謗《ひぼう》に救いを求めるよりほかはなかった。
「あなたはお気づきになりませんか、トゥシュケーヴィッチには、どこやらルイ十五世に似たところがあるのを?」と彼は目で、テーブルのそばに立っていた美しい金髪の若い男を指しながらいった。
「ええ、そうですわ! あのかたはこの客間と同じ趣味にできてますのね。だからここへも、こんなによくお出かけになるんでしょう」
この話は、この客間では話すことのできないこと、つまり、女主人とトゥシュケーヴィッチとの関係についての暗示として語られたので、いくらか長もちした。
一方、サモワールと女主人の周囲でも、話はしばらくのあいだ、三つの避けがたい題目――最近の社会の出来事、芝居の評判、近しい人たちのうわさのあいだを、同じようにさまよったあげく、ここでもやはり、最後の題目、人の誹謗《ひぼう》のほうへ落ちていって、そこでとまった。
「あなたお聞きになりまして、マリティーシチェワが――お嬢さんじゃないんですよ、お母さんのほうがですよ――diable rose(血紅色)のお召物をおこしらえになったんですって!」
「まあ、そんなことが? いいえ、さぞおりっぱでございましょうねえ!」
「わたくし驚いてしまいましてよ。あんなにお利口なかたが――あのかたはけっしてわきまえのないかたじゃありませんからねえ――ご自分がどんなにこっけいに見えるかってことに、お気づきにならないなんて」
だれもかれもが、不幸なマリティーシチェワを笑ったり非難したりする材料を持ち合わせていたので、会話は燃えさかるたき火のように、おもしろくぱちぱちと燃えあがった。
公爵夫人ベーッシの夫で、版画の熱心な蒐集家《しゅうしゅうか》である、人のよさそうな肥大漢が、妻のところに来客のあることを知って、クラブへ行くまえに客間へ顔を出した。柔らかい絨毯の上を音も立てずに、彼はミャーフキイ公爵夫人のそばへ歩みよった。
「いかがでした、ニリソンはお気に入りましたか?」と、彼はいった。
「まあ、こんなふうに忍びよっていいものでしょうか? ほんとにびっくりいたしましたよ!」と彼女は答えた。「後生ですからね、どうぞもうわたくしに、オペラのことなんかおっしゃらないでくださいましよ。あなたは音楽はちっともおわかりにならないのだから。それよりも、わたくしがあなたのおつきあいをして、あなたのマジョリカ焼や版画のお話でもいたしましょうよ。ときに、いつかの骨董市であなたはどんな掘りだし物をなさいました?」
「お望みなら、お目にかけましょうかね? だが、あなたは骨董はおわかりでないでしょう」
「拝見させてくださいよ。わたくしはあの、なんとか言いましたっけね……そらあの、銀行家に教えていただきましたよ……あのかたのお宅には、けっこうな版画がございますからね。わたくし拝見させていただいたんですよ」
「あら、あなたはシュツブールグのところへいらしたことがおありになって?」と、女主人がサモワールのそばから口をだした。
「え、行きましたよ、ma chere(親愛なる友よ)わたくしと夫とを食事に呼んでくださいましたのでね。そうしたらあなた、その食卓のソースが千ルーブリもしたなんてお話でしてね」とミャーフキイ公爵夫人は、一同が彼女の話に注意しているのを感じて、高調子にこういった。「しかも、それがとても変わったソースでしてね。なにかこう緑色をしてるんですのよ。それで、わたくしどもでもお招きしなければならなかったので、わたくし八十五カペイカかけてソースをこしらえましたが、それでも、たいそうみなさんのお気にいりました。千ルーブリはとてもわたくしどもの手にはおえませんものねえ」
「あのかたはまたとないかたでいらっしゃいますからねえ」と女主人がいった。
「たいしたもんですな!」とだれかがいった。
ミャーフキイ公爵夫人の話でひき起こされる効果は、いつも同じものであった。彼女がそうした効果をひき起こす秘訣は、今のように、十分場合に適切であるとはいえないけれども、何かしら意味のある、ちょっとしたことを話す点にあった。彼女が住んでいた社会では、こうした言葉が、最もすぐれた警句の作用を起こすのであった。ミャーフキイ公爵夫人は、そんなことがどうしてこれほどの効果を持ちうるのか、その理由を知ることはできなかったけれども、とにかく、それが有効なのを知っていて、いつもそれを利用するのであった。
ミヤーフキイ公爵夫人の話のあいだは、一同がそれに聞きほれてしまって、公使夫人の周囲の談話がおるすになっていたので、女主人は、ふたつの組をひとつにまとめようとして、公使夫人に向かって口をきった――
「あなたはどうしても、お茶をめしあがってくださいませんの? ほんとに早くこちらへいらしてくださるといいんですのに」
「いいえ、わたくしどもはこのほうが勝手なんでございますよ」と公使夫人は笑顔で答えて、はじめられていた話をつづけた。
それは、かくべつ愉快な話題だった。彼らは、カレーニン夫妻のことを、いろいろに批評しあっていたのである。
「アンナは、モスクワへ行ってらしってから、たいへんかわりましたのね。あのかたには、なんだかこう、奇妙なところがあるじゃございませんか」と、アンナの女友だちがいった。
「変わったなかでも目にたつのは、あのかたがご自分とごいっしょに、アレクセイ・ウロンスキイの影をつれていらしたことでしょうね」と、公使夫人はいった。
「まあ、なんですって? そりゃグリムには――影のない男だの、影をなくした男だのという童話がありますわね。だけど、それは、何かの科《とが》で、その男にくだされた罰なんでしょう。もっとも、どういう科《とが》なんだかは、わたくしにはいっこうにわかりませんけれど。でも、女の身にしてみれば、影のないのはいやなことにちがいございませんからね」
「ええ、ですけれど、影をもっている女は、たいてい終わりがよくございませんよ」と、アンナの女友だちはいった。
「まあ、あなたがたは、舌にこぶができますよ」とだしぬけにミャーフキイ公爵夫人が、こうした言葉を聞きつけて叫んだ。「カレーニナは美しい婦人です。わたくし、あのご主人は好かないけれど、あのかたは大好きですわ」
「どうしてあなたはご主人をおきらいになりますの? あんなにおえらいかたですのに」と公使夫人がいった。「たくはいつも申しております。あれだけの政治家は、ヨーロッパにも少ないって」
「ええ、わたくしどもでも同じようなことを申しておりますわ。けれどわたくしは信用しません」と、ミャーフキイ公爵夫人はいった。「もしわたくしどもの主人がそんなことを申してくれませんでしたら、わたくしたちはものごとをありのままに見たでしょうにね。アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチなんか、わたくしにいわせると、からっきしのおばかさんですよ。もちろん、こんなことは、高い声では申されませんけれどね……そうじゃありませんか? これで何もかも、はっきりしてくるじゃありませんか? ですから、以前、あのかたを賢い人として見るようにいわれていた時分には、わたくしはいくら捜してみても、あのかたの賢いところが見つからないので、けっきょく自分をばかだと思ったりしたものですが、いちど小声で……|あのひとはばかなのだ《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》といってみたら、何もかもいっぺんにはっきりわかったんですものね。ねえ、そうじゃありませんか?」
「まあ、今日はあなた、ずいぶんお口がおわるいんですのね!」
「いいえ、ちっとも。だってわたくしには、ほかに考えようがないんですもの。とにかく、ふたりのうちのどちらかが、ばかにちがいないんだから。ところが、あなただっておわかりでしょうけれど、どんなことがあっても、自分のことをばかというわけにはまいりませんからね」
「なんぴとも、その富には満足せざるも、その知能には満足す」と外交官は、フランスの詩を口ずさんだ。
「それ、それ、そのとおりですよ」とミャーフキイ公爵夫人は、急いで彼のほうへ顔を向けた。
「とにかく、話の要点は、わたくしがアンナを、あなたがたに渡さないという点にあるんですよ。あのかたはほんとにりっぱな、かわいらしいかたですもの。いくらみんなが、あのかたに思いをかけて、影のようにそのあとにつきまとったところで、あのかたの知ったことではないじゃありませんか?」
「ええ、そりゃ、わたくしだって、なにもあのかたを非難するつもりはございませんわ」と、アンナの女友だちはしきりに弁解した。
「いくらわたしたちのあとに、影のようについてくる人がないからって、それでひとさまのことを、かれこれいう権利があるとはいえませんからね」
こうしてアンナの女友だちを、しかるべくへこましておいてから、ミャーフキイ公爵夫人は立ちあがり、公使夫人といっしょに、プロシャ王についての共通な話が進んでいたテーブルのほうへ仲間入りをした。
「あなたがたは、あすこで、だれの悪口をいってらしたの?」と、ベーッシがたずねた。
「カレーニン家のこと、公爵夫人がアレクセイ・アレクサーンドロヴィッチの性格解剖をなすったんですわ」と笑顔で、テーブルの前に腰をおろしながら、公使夫人が答えた。
「おや、それをうかがわなかったのは残念でしたわねえ」と、入口のほうを見ながら、女主人はいった。「ああ、とうとういらしてくだすったのね!」と彼女は、はいって来たウロンスキイのほうへ笑顔を向けた。
ウロンスキイは、一座の人々とはみな知り合いであったばかりでなく、そこにいあわせた人々とは毎日顔をあわせていたので、いましがた出て行ったばかりの部屋へもどって来た人のような、おちついた様子ではいって来た。
「ぼくがどこから来たかっておっしゃるんですか?」と彼は、公使夫人の問いに答えた。「どうもしかたがありません、白状しなければなりませんな。ブーフ(笑劇)からですよ。あすこへはもう百ぺんも行ったと思いますが、いつ行っても新しい満足を感じます。まったくすてきです! ぼくはそれが恥ずべきことであるのは承知しています。が、オペラではじき居眠りをするぼくが、ブーフでは最後まで、おもしろく聞いていますからね、それに今日は……」
彼はフランスの女優の名をあげて、その女のことで何か話そうと思ったのだったが、公使夫人がふざけた恐怖の表情をして、彼の言葉をさえぎった――
「どうぞもう、そんな恐ろしいことはお話しなさらないでくださいまし」
「よろしい、ではいたしますまい。それでなくても皆さんは、こうした恐ろしさはごぞんじなんですから」
「もしあれが、オペラと同じように見られるようになっていたら、さぞみなさんがいらっしゃることでしょうねえ」と、ミャーフキイ公爵夫人が言いそえた。
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七
入口のほうに足音が聞こえた。公爵夫人ベーッシは、それがカレーニナであることをさとって、ウロンスキイの顔をながめた。彼は戸口のほうを見ていて、その顔は、奇妙な新しい表情をもっていた。彼は喜ばしげに、じっと、同時にまたおずおずと、はいってくる人のほうを見て、そしてのろのろと身を起こした。客間へはアンナがはいって来た。彼女はいつものとおり、むやみにからだをまっすぐにして、目の方向を変えもしないで、彼女特有の早い、しっかりとした、それでいて軽快な、社交界の婦人たちからはっきりと彼女を区別する足どりで、自分と女主人とをへだてていた数歩を歩き、彼女の手を握ってほほえみながら、その笑顔《えがお》のままで、ウロンスキイのほうを見やった。ウロンスキイはていねいにおじぎをして、彼女にいすをすすめた。
彼女はただ頭をかしげただけでそれに答え、ぽうっと顔をそめて、眉をひそめた。が、すぐに、すばやくなじみの顔にえしゃくをし、さしだされた手を握りながら、女主人のほうへ顔を向けた。
「わたくし、リディヤ伯爵夫人のお宅へまいっていましたの。もっと早くに伺いたいと思ったんですけれど、つい長居してしまって。ちょうどジョーン卿がおみえになっていらっしゃいましてね。あのかた、たいへんおもしろいかたでいらっしゃいますのね」
「ああ、それはあの宣教師のことでしょう?」
「ええ、あのかたがね、インドの生活について、たいへんおもしろいお話をしてくださいましたのよ」
アンナが来たために一時とぎらされていた会話は、吹き消されかけたランプの火のように、ふたたびゆらゆらと燃えあがった。
「ジョーン卿! そう、ジョーン卿。わたくしそのかたならお目にかかったことがございますわ。あのかたはなかなかお話上手でいらっしゃいますのね。ウラーシエワは、もうすっかりあのかたに夢中なんですのよ」
「それはそうと、ウラーシエワのお妹さんのほうが、トポフのところへ嫁《い》らっしゃるってほんとうでございましょうか?」
「ええ、もうすっかりおきまりになったとかいうお話ですわ」
「わたくしは親ごさんたちに驚いてますのよ。なんでもこれは、相思の結婚なんですってね」
「相思ですって? まあ、あなたはなんて古めかしいお考えをもっていらっしゃるんでしょう! いまどき相思だなんてことをいう人がありますでしょうか?」と公使夫人がいった。
「だって、しょうがないじゃありませんか? この愚劣《ぐれつ》な古い方式が、いぜんとしてまだ滅びてないんですから」と、ウロンスキイが口をいれた。
「それならなおのこと、そういう方式を守ってる人のためになりませんわ。幸福な結婚は、ただ、理性によって結ばれるだけですから」
「さよう、けれどもそのかわり、理性にもとづいた結婚の幸福が、前には認めなかった同じ情熱の出現にあって、ちりのように飛び散ってしまうことも、よくある現象ですからね」とウロンスキイはいった。
「ですけれど、わたくしどものいう理性にもとづいた結婚とは、お互いにもう、放埓《ほうらつ》のかぎりをつくしてからの結婚をいうのですわ。それは猩紅熱も同じで、だれしも一度は通らなければならない関《せき》ですもの」
「それじゃ、天然痘のように、人為的に恋を植えつける方法を研究しなくちゃなりませんね」
「わたくしは若い時に、寺男《てらおとこ》に恋をしたことがありましたの」とミャーフキイ公爵夫人はいった。「でも、それがわたくしにとって、何かの役にたったかどうかはわかりませんわ」
「いいえ、わたくしは冗談でなしに、恋を知るには一度あやまちをして、それから改めるんでなければだめだと信じていますわ」と、公爵夫人ベーッシはいった。
「結婚してからでもですか?」と、ふざけた調子で公使夫人がたずねた。
「悔い改めるに遅いなんてことはありませんよ」と外交官が、イギリスのことわざをひいていった。
「ええ、そうですとも」と、ベーッシは言葉をあわせた。「一度やりそこなって、それから改めることが必要ですわ。あなたはどうお思いになって?」と彼女は、くちびるにかろうじて認められるくらいの堅い微笑をうかべてこの話を聞いていたアンナのほうへ、顔を向けた。
「わたくしはね」とアンナは、脱いだ手ぶくろをもてあそびながら、いった。「わたくしはこう思いますのよ……もし、頭が違うとおり考えも違うものとすれば、ハートが違うだけ、恋の種類も違うわけだと」
ウロンスキイはアンナを見つめて、心臓のしびれるような思いで、彼女の口をひらくのを待っていた。で、彼女がこれだけのことを言いおわったときには、彼はまるで、何かの危険が過ぎ去ったあとのように、ほっと安心の太息をもらした。
アンナはとつぜん彼のほうへふり向いた――
「わたくしもモスクワから手紙をもらいましたの。キティー・スチェルバーツカヤが大病だなんて書いてございましたわ」
「ほんとうですか?」と、ウロンスキイは眉をひそめていった。
アンナはきっとした顔をして彼を見つめた。
「あなたは、それをなんともおぼしめさないんですか?」
「どうしまして、大いに驚きましたよ。それで、どんなふうにいってきましたんですか? もしおさしつかえがなかったら」と彼はきいた。
アンナは立ちあがって、ベーッシのほうへあゆみよった。
「すみませんが、お茶をひとつ」と彼女は、相手のいすのうしろに立ちどまっていった。
ベーッシが彼女のためにお茶をついでいるあいだに、ウロンスキイはアンナのそばへ近づいた。
「どんなふうにいってきたんですか?」と彼はくりかえした。
「わたくしはよくそう思うのですけれど、殿がたというものは、不名誉ということがどんなものか、いっこうごぞんじないくせに、いつもそれを口にしてらっしゃるものですのね」とアンナは、彼の質問には答えないで、いった。「わたくしはもうとうから、あなたに申しあげたいと思っていたのですけれど」彼女はこう言いたして、五、六歩あるくと、アルバムののっているテーブルのそばへ腰をおろした。
「ぼくには、あなたのお言葉の意味が、ちょっとよくわかりかねますが」と彼は、彼女に茶わんを渡しながらいった。
彼女が自分のかたわらの長いすをかえりみたので、彼はすぐそこへ腰をおろした。
「ええ、わたくし、一度ぜひあなたにお話したいと思ってたんですけれど」と彼女は、彼のほうは見ないでいった。「あなたはわるいことをなさいましたわ、わるいことですわ、ほんとにわるいことですわ」
「じゃああなたは、ぼくが自分のしたことのよくないのを、知らずにいるとでも思ってらっしゃるんですか? しかも、ぼくがあんなことをあえてしたのは、いったいだれのためでしょう?」
「あなたはどういうおつもりで、それをわたくしにおっしゃるんですの?」と、彼女はきっと彼を見つめながらいった。
「それはあなたがごぞんじのはずです」と彼は大胆に、喜ばしげに彼女のまなざしを見むかえて、それをそらしもしないで答えた。
彼よりも、彼女のほうがろうばいした。
「それはただ、あなたにハートがないということを、証明するだけのことですわ」と彼女はいった。けれども、彼女のまなざしは、彼女が彼に情熱のあることを知っていて、そのために彼を恐れているのであることを語っていた。
「あなたの今おっしゃったことは単なるまちがいです、愛ではありません」
「あなた覚えてらっしゃるでしょう。そういう言葉、そういういやな言葉をおつかいになることは、わたくしあなたに禁じておいたのを」と、身をふるわせてアンナはいった。しかしそこで彼女はすぐ、この|禁じた《ヽヽヽ》という一言で、またしても自分が彼にたいして、ある権利をもつことを承認した形になり、そのためにかえって彼に、愛を語る勇気をあたえるような結果になったことを感じた。「わたくしはもうとうから、あなたに申しあげたいと思っていましたので」と彼女は、思いきって彼の目を直視しながら、彼女の顔を燃えたたせていた紅《くれない》で、全身をまっ赤にしながら、こうつづけた。「今日はあなたにお目にかかれるだろうと思って、わざわざ出かけてまいりましたの。ほんとにこんなことは、もうおしまいにしてしまわなければなりませんわ。わたくしは、これだけのことをあなたに申しあげようと思って、出かけてまいりましたのですから。わたくしはこれまで、だれの前へ出たって、けっして顔をあかくするようなことはなかったのですのに、あなたはわたくしに、何やら自分が罪を犯しているような感じをおこさせなさるんですもの」
彼は彼女の顔を見た。そして、その顔の新しい、精神的な美にうたれた。
「じゃあなたは、ぼくにどうしろとおっしゃるのですか?」と、彼は単純にまじめにいった。
「わたくしはあなたに、モスクワへいらしってキティーにあやまっていただきたいのですわ」と、彼女はいった。
「あなたは、それを望んでらっしゃるんではないでしょう」と彼はいった。
彼は、彼女の言っていることは、みずからしいて言っているだけで、心から言っているのでないことを見ぬいていたのである。
「もしあなたが、お言葉どおりにわたくしを愛していてくださるのでしたら」と彼女はささやくようにいった。「どうぞ、わたくしの気のおちつくようになすってくださいまし」
彼の顔はかがやいた。
「ではあなたは、ぼくにとってはあなたが人生の全部だということをごぞんじないとおっしゃるんですね。しかし、おちつきなんてことはぼくは知りません。ですから、あなたにさしあげることも、できません。ぼくの一身とか、愛とかならば……できますけれど。ぼくには、あなたと自分とを、べつべつに考えることはできません。あなたも、自分も、ぼくにとってはひとつなのです。そしてぼくは、あなたにとってもぼくにとっても、将来心のおちつきなどというものがありうるとは考えません。ぼくは、絶望と不幸か……でなければ幸福、限りなき幸福、このふたつの可能を見るだけです!……それはありえないことでしょうか?」と彼は、ただくちびるだけでつけたしたが、それでも彼女は聞きとった。
彼女は、いわねばならぬことをいうために、理性の全力を傾倒した。だがそのかわりに、愛にみちたまなざしを彼の顔にとめた。そしてなんとも答えなかった。
『ああ、これだ!』と彼は、歓喜にみたされて考えた。『おれがもう失望しかけていたやさきへ、とてもものになるまいと思っていたやさきへ――これ、このとおり! この女はおれを愛している。そしてそれを告白している』
「では、わたくしのためにね、どうかこうなすってくださいまし、以後わたくしにはけっして、こんなことをおっしゃらないでね。そしてふたりは、いいお友だちになりましょう」彼女は口ではこういったが、そのまなざしはぜんぜん別のことを語っていた。
「ぼくたちは友だちではいられませんよ。それはあなただってごぞんじじゃありませんか。ふたりはただ、この世で最も幸福な者になるか、最も不幸な者になるかどちらかなのです。そしてそれは、あなたの手中にあることなのです」
彼女は何かいおうとしたが、彼はそれをさえぎった――
「だってぼくのお願いしたいのは、ただひとつ――現在のように希望をつないだり、苦しんだりする権利を持たせておいていただきたいということだけです。しかし、もしそれがいけないのでしたら、どうぞぼくに、消えてしまえと命じてください。そしたらぼくは、消えてしまいます。もしぼくの存在があなたに苦痛をあたえるようでしたら、ぼくは二度とお目にかからないようにいたしましょう」
「わたくしは、あなたを、どこへも追いやりたくはありませんわ」
「それならどうか、なんにも変えないでください。すべてをあるがままにしておいてください」と彼はうちふるう声でいった。「おや、お宅のご主人が」
じっさい、この瞬間にアレクセイ・アレクサーンドロヴィッチが、例のおちつきはらった無骨な足どりで、この客間へはいって来た。
妻とウロンスキイとを見やってから、彼は女主人のそばへ歩みよって、茶わんをまえにして腰をおろし、例の、ゆったりとしたよく通る声で、独得《どくとく》のふざけたような調子で、だれということなしにからかいはじめた。
「いや、これはこれは、わがラムプリエ(機知と礼儀とにみてる社交界)のかたがたが、総動員という形ですね」と彼は一座を見まわしながらいった。「グラーチャの神々、ミューズの神々」
けれども、この彼の調子、みずから名づけて sneering(冷笑的)とした調子にたまりかねた公爵夫人ベーッシは、賢明なる女主人として、さっそく彼を、一般的兵役義務というまじめな論題の中へ引き込もうとした。アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチは、たちまちその話に引きつけられて、彼に攻撃の矢を放ってかかった公爵夫人べーッシの前に、もう大まじめで新制度の弁護をはじめた。
ウロンスキイとアンナとは、そのまま小さいテーブルのそばにすわっていた。
「こうなるともう少し無作法ですわね」とひとりの婦人が、目でカレーニナと、ウロンスキイと、彼女の夫とを示しながらささやいた。
「だから、わたくしがさっきいったじゃありませんか」と、アンナの女友だちが応じた。
けれども、ひとりこの婦人たちばかりでなく、客間にいた人はほとんど残らず、ミャーフキイ公爵夫人やベーッシその人までも、まるでそれらが彼らのじゃまにでもなるように、みんなからかけはなれているふたりのほうを、幾度もじろじろとながめやった。ただひとりアレクセイ・アレクサーンドロヴィッチだけは、一度もそのほうを見ないで、はじめられた興味ある話題から、注意を転じようとはしなかった。
一同のうえにひき起こされた不快な印象に気がつくと、公爵夫人ベーッシは、アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチの聞き役である自分の位置にほかの人を引き込んでおいて、アンナのそばへ立っていった。
「わたしはね、お宅のご主人のお話ぶりの明瞭で正確なのに、いつも感服しているんですのよ」と、彼女はいった。「あのかたに話していただくと、どんな高遠な思想でも、ちゃんと頭へはいりますものね」
「ええ、そうね」とアンナは、幸福の微笑に輝きながら、べーッシの言葉はひと言も理解しないままで、いった。彼女は大テーブルのほうへ移って、一同の話仲間に加わった。
アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチは、三十分ばかりそこにいてから、妻のそばへいって、いっしょに帰るようにと誘った。が、彼女は、彼の顔は見ないで、夜食に残るむねを答えた。アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチは、一同にえしゃくをして出て行った。
――――
カレーニナの御者である、ぴかぴか光る革外套をまとった、ふとった年よりのダッタン人は、車寄せのところで、寒気に凍えてはねたてる灰色の副馬《そえうま》を、やっとのことでおさえていた。下僕は、ドアをあけたまま立っていた。玄関番は、外側のドアを支えながら、立っていた。アンナ・アルカジエヴナは小さい敏捷《びんしょう》な手つきで、毛皮外套のホックから、袖口のレースをはずしていた。そして自分を送って出てきたウロンスキイの話す言葉を、首をかしげて、うっとりとなって聞いていた。
「まあとにかく、あなたはなんにもおっしゃらなかったものとしましょう、そして、ぼくもなんにも要求はしません」と彼はいった。「しかし、あなたもご承知のとおり、ぼくに必要なのは、友情ではありません。ぼくには、この世において、ただひとつの幸福がありうるだけです。それは、あなたがあんなにもおきらいになる言葉……そう、愛……という言葉なのです」
『愛……』こう彼女は口の中で、ゆるゆるとくりかえしてみた。そしてレースをはずすと同時に、とつじょとして言いたした。「わたくしがこの言葉を好かないのは、わたくしにとってそれがあんまりたくさんの意味、あなたが考えていらっしゃるよりも、はるかにたくさんの意味をもってひびくからなんですわ」こういって彼女は、じっと彼の顔を見つめた。「では、いずれそのうちに!」
彼女は彼に手をあたえてから、敏捷な、弾力のある足どりで、玄関番のそばをとおり、すっと箱馬車の中へ消えた。
彼女のまなざしと、その手の触感とは、彼を燃えたたせた。彼は自分のてのひらの、彼女が触れた部分に接吻した。そして、今夜こそ、最近二か月間よりも、はるかに多く目的の達成に近づいたという自覚をいだき、すっかり幸福になって家路についた。
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八
アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチは、自分の妻が、ウロンスキイとふたりで別のテーブルをかこんで、何事か熱心に話しあっていたという事実には、なんら特殊な、不謹慎な点を見いださなかった。けれども、客間にいあわせたほかの人たちには、それが何か特別な、不謹慎なことのように思われたらしいのに気がついたので、そのために、彼にもそれが、不謹慎であるように思われた。彼は、このことは一度、妻にも注意しておかなければならないと決心した。
家へ帰ると、アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチは、例によって、まっすぐ自分の書斎へ通り、肘掛けいすに腰をおろすと、ローマ教の書物の、ペーパーナイフをはさんであった個所を開いて、いつものとおり一時までそれを読んだ。ときたま彼は、その高い額をこすったり、何かを追いやるように、その頭を振ったりした。いつもの時間になると、彼は立ちあがって、例のとおり夜の身じまいをした。アンナ・アルカジエヴナは、まだ帰っていなかった。書物を小わきにはさんで、彼は二階へあがった。しかし今夜は、いつもの勤務上の仕事に関する考慮や想像のかわりに、彼の心は、妻のことと、彼女に起こっている何やら不快なこととで、いっぱいになっていた。彼は、日ごろの習慣に反して、床《とこ》へははいらないで、両手を背中で組みあわせ、部屋の中をあちこちと歩きはじめた。何はともあれ、新しく起こった事態についてよく考えてみなければならぬと思うと、床につく気にはなれなかったのである。
アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチがはらのなかだけで、一度妻に話しておく必要があると決心したときには、それはきわめて簡単な容易なことであるような気がしていた。が、いま、あらたに起こった事態について、いろいろと考慮しはじめると、それは恐ろしくこみいった、やっかいなことのように思われはじめた。
アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチは、嫉妬ぶかい男ではなかった。嫉妬は、彼の信ずるところによると、妻を侮辱するものであって、夫はあくまで妻を信頼しなければならない。だが、なぜ信頼しなければならぬか――つまり、彼の若い妻が、つねに彼を愛するであろうということを、なぜあくまで信じなければならぬかということについては、彼は考えてみたこともなかった。しかし、彼はその信頼を持っていたし、またそれを持つ必要を自身に力説していたので、いまだかつて疑惑というものを経験したことがなかった。ところが、今は、嫉妬が恥ずべき感情であって、妻はあくまで信じなければならぬという信念は少しも破壊されていないのに、彼は何やら不合理な、えたいの知れぬものと鼻をつきあわしているような気分を感じて、施すべきすべを知らなかった。アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチは、人生の前に――彼の妻にも彼以外のなんぴとかにたいする愛がありうるという事実の前に、面と向かって相対したのだった。と、彼には、それがはなはだしく不合理な、不可解なものに思われた。なぜなら、それが人生そのものだったからである。自分の今日までの生涯を、アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチは、人生の反映を取り扱っている官界で送り、かつ働いてきた。そして、人生そのものと出くわすたびに、彼はそれをよけて通った。で、今や彼は、ちょうど絶壁にかかっている橋を安心して渡っていた人が、にわかに、その橋がこわれていて、下には深淵が口をあけているのを見た瞬間に経験するであろうような、そんなふうの感情を経験した。この深淵こそ、人生そのものであり、橋はすなわち、アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチが通って来たところの、人為的な生活だったのである。彼の妻にもまた、なんぴとかを愛しうる可能性があるという問題が彼の頭におこったのは、じつにこれが初めてであった。彼はその前に、おぞけをふるった。
彼は着がえもしないで、規則正しい足どりで、ひとつきりのランプに照らされている食堂のよくひびくはめ床の上や、暗い客間の敷物の上を、あちこちと歩きまわった。食堂では、長いすの上にかかっている、近ごろできたばかりの彼の大きな肖像画の上だけに、わずかにあかりが反映していた。彼はまた、妻の書斎へもはいってみた。そこでは二本のろうそくが、彼女の親戚や女友だちの肖像画や、彼女の書卓の上の、彼にもなじみの深い、美しい小道具などを照らしながら、燃えていた。彼女の部屋を通りぬけると、彼は寝室の戸口までいったが、そこでふたたび踵《きびす》を返した。
この順序でひとわたり歩きまわるたびに、それもたいていは、明るい食堂のはめ床の上で、彼は足をとめて自分にいった――『そうだ、これはどうしても解決しなければならない。さし止めなければならない。これにたいするおれの意見と決心とを表明しなければならない』そして彼はくるりと踵《きびす》を返した。『だがいったい何を表明するのだ? どういう決心を?』と彼は、客間へ来たときに自分にいったが、その解答は見いださなかった。『だがけっきょく』と彼は、書斎のほうへひっ返そうというまぎわに、自分にきいた。『何があったというのだろう? なんにもありはしないじゃないか、なるほど、あれは長いこと、あの男と話していた。だが、それがなんだ? 社交界の女が、人と話をすることが珍しいことだろうか? それをあとになって嫉妬する、つまり自分をもあれをも卑しくするだけのことではないか』と彼は、彼女の書斎へはいりながら、自分にいった。が、以前には、彼にとって千鈞《せんきん》の重みをもっていたこの理論も、今ではなんの重みもなく、またなんの意味をももたらさなかった。そして彼は、寝室の戸口からふたたび広間へひっ返した。が、彼がもとの暗い客間へ足を踏みいれるやいなや、彼の耳もとで何かの声が、それはそうではない、もしほかの者がそれを認めた以上、それは、そこに何かの介在することを意味するのだとささやいた。そこで、彼は食堂へ来たときに、ふたたび自分にこういった――『そうだ、これはどうしても解決しなければならない。さし止めなければならない。おれの意見を表明しなければならない……』そして、またしても客間へくると、くるりと踵《きびす》を返す前に、彼は自分にこうきいた――では、どうして解決するのだ? それからまた自分にたずねた――いったい何事があったというのだ? そして答えた――なんにもありはしない。とまた、嫉妬は妻を侮辱する感情だということを思い出した。が、また客間へくる時分には、何事かあったにちがいないという気がしてきた。こうして彼の考えは、彼の肉体のように、なんら新しいものに出会うことなしに、くるくると円を描くばかりであった。彼は、それに気がついて額をなでた。そして、彼女の居間で腰をおろした。
そこで、裏返しになっている|くじゃく《ヽヽヽヽ》石の吸い取り紙器や、書きかけの手紙などののっている彼女の書卓を見ているうちに、彼の考えはとつじょとして変わった。彼は彼女のこと、彼女が考えたり感じたりしていることについて考えはじめた。彼は初めて、彼女の個人的生活、彼女の思想、彼女の願望などを、まざまざと自分の前に描いてみた。が、彼女にも彼女一個の生活がありうるし、またあらねばならぬという考えは、彼にはあまりに恐ろしく思われたので、急いでそれを追いやった。これこそ、彼にはのぞいて見るのも恐ろしかったあの深淵だったのである。思想や感情で他の存在のなかへ移り住むということは、アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチにとっては、ぜんぜん親しみのない心的活動であった。彼はこの心的活動を目して、有害にして危険なる妄想だと考えていた。
『ところで、何よりも弱るのは』と彼は考えた。『時もあろうに、おれの仕事が完成に近づいて、(彼は自分がいま通過させようとしている法案のことを考えていたのである)精神的の安静と精力とが、何にもまして必要な時に――この時にあたって、こんなくだらない不安がおれを襲って来たということだ。が、これもしかたがない! おれは不安や心労にへこまされて、それをまともに見る力も持たないような人間とは違うのだから』
「おれは熟慮し断行し、そして放擲《ほうてき》しなければならない」彼は、声に出してこういった。
『あれの感情についての問題、あれの心にどんなことがおこったとか、また、どんなことがおこりうるかとかいうような問題は、おれの知ったことではない。それは、あれの良心の仕事であって、宗教の範囲に属すべきことだ』こう彼は、こんどの事件の属すべき適当な部門が見いだされたという意識によって、心のおちつきを感じながら、はらのなかでひとりごちた。
『だから』と、アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチは自分にいった。『あれの感情その他の問題は、おれには無関係な、あれの良心の問題なのだ。おれの義務は、あきらかに決定されている。家族の首長として、おれは――あれを指導する義務のある人間なのだから、したがって、多少は責任のある人間なのだ。おれは、自分の気のついた危険を明示して警戒をあたえ、場合によっては、自分の権力を行使しなければならない人間なのだ。そうだ、おれはあれに注意してやらなければならぬ』
こうして、アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチの頭には、彼がこれから妻に話そうとすることが明瞭に組み立てられた。自分のいおうと思うことを、いろいろに考えてみながら、彼は、家庭の出来事のために、こんなに、こんなにくだらなく自分の時間と能力とを用いなければならぬことを、心外に思った。けれども、それにもかかわらず、彼の頭のなかでは、これから話そうとする言葉の形式と順序とが、まるで報告書のように、明瞭的確に組み立てられた。『おれはつぎのように、十分にいってやらなければならない――第一には、世評と礼儀の意味の説明、第二には、結婚の意義の宗教的説明、第三には、要すれば、子供のために起こりうべき不幸の指示、第四には、彼女自身の不幸の指示』そして、指と指とを組み合わせ、てのひらを下にして、アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチは、それをぐいと引っぱった。と、指の関節がぽきぽきと鳴った。
このしぐさ、わるい癖――手を握って、指を鳴らすこと――は、いつでも彼の心をおちつかせて、現在の彼にはとくに必要であった、しっかりとした気持に彼を導いた。車寄せのほうで、乗りつける馬車の音が聞こえた。アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチは、広間のまん中に立ちどまった。
階段を女の足音があがって来た。アレクセイ・アレクサーンドロヴイッチは、話をきりだす心がまえをしながら、例のよく鳴る指を折りまげて、どこかでもっと鳴らないだろうかと待ちもうけながら立っていた。ひとつの関節だけが鳴った。
階段をあがってくる軽やかな足音によって、彼は早くも彼女の接近を感じた。と、彼は、自分の弁舌には満足していたにもかかわらず、目前に迫った話しあいに、なんとない気おくれをおぼえはじめた……
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九
アンナは頭をたれて、防寒用ずきんのふさをいじりながらはいって来た。彼女の顔は、まぶしい光輝に光り輝いていた。しかし、この光輝は、晴れやかなものではなかった――それは、暗夜の火事の恐ろしい光耀《こうよう》を思い出させた。夫の姿を見ると、アンナは頭をもたげた。そして、夢からさめたようににっこりした。
「あなたまだおやすみになりませんの? まあ珍しいこと?」と彼女はいって、ずきんを脱ぎ、立ちどまりもしないで、さっさと奥の化粧室へはいって行った。「もう時間ですよ、アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチ」と、彼女はドアの向こうからいった。
「アンナ、わしはおまえに話さなけりゃならぬことがあるのだ」
「まあ、わたしに?」彼女はびっくりしたように言いながら、ドアの中から出てきて、彼の顔を見た。「どういうことでございますの? なんのお話なんですの?」と、彼女は腰をおろしながらきいた。「さあ、ではお話しいたしましょう、そんなに必要なんでしたら。でも、ほんとはやすむほうがいいんですけれどね」
アンナは、舌の動くままにいった。そして、自分のいうことを耳にとめながら、われながらうそのうまいのにおどろいた。ほんとに彼女の言葉は、どんなに単純で、自然だったろう。そして、どんなに彼女が眠るほか他意ないように聞こえたろう! 彼女は自身を、まるで見通すことのできない、うそのよろいをまとっているもののように感じた。彼女はまた、何か目に見えない力が、自分を助け、自分を支えてくれているようにも感じた。
「アンナ、わしはおまえに警告しなければならんのだ」と彼はいった。
「警告?」と、彼女はいった。「どんなことで?」
彼女は、きわめて単純な、快活な様子をしていたので、彼女の夫ほどに彼女を知らなかった人には、その言葉のひびきにも内容にも、いささかの不自然さも認めることができなかったにちがいない。けれども、彼女をよく知っていた彼、自分が五分間遅く床《とこ》についてもすぐ気がついて、その理由をただす彼女を知っていた彼、自身の喜びや、楽しみや、悲しみを、すぐ夫にうちあける彼女を知っていた彼――その彼にとっては、今、彼女が彼の気分を気にとめようともせず、自身についてひと言もいおうとしないのを見るのは、非常に意味の深いことであった。彼は、これまでつねに彼の前にうち開かれていた彼女の心の奥底が、ぴったり閉ざされてしまったのを見た。そればかりではない、彼は彼女の口ぶりによって、彼女がそのことについても、いっこう心を乱しているさまがなく、まるで正面から彼に――そうです、閉じられました、これはそうなくてはならないことで、これからもずっとつづくでしょうよ、とでもいっているようなのを見た。今や彼は、わが家へ帰って来た人が、家のぴっしゃり締まっているのを見いだしたときになめるような感情を、なめさせられたのであった。『だが、もしかすると、鍵はまだ見つかるかもしれない』こうアレクセイ・アレクサーンドロヴィッチは考えた。
「わしがおまえに警告したいというのはね」と、彼は静かな声でいった、「おまえが、不注意と軽率とによって、世間の問題にされるような種をまくかもしれないということについてなのだ。今日のおまえのウロンスキイ伯との(彼はしっかりと、おちついた間《ま》をおいて、この名まえを発音した)、あまりに熱心な話しぶりは、だいぶみんなの注意を引いたらしかったからね」
彼はこういって、今では、自分にとってそのはかり知りがたいのが恐ろしい、彼女の笑っている目を見つめた。彼は話しながらも、自分の言葉の無力なことと、無益なことを痛感していた。
「あなたはいつもそうなのね」彼女はまるで彼のいうことがわからないかのような、しかし、彼のいった言葉のなかから、ただ最後の言葉だけがわかったかのような顔をして、こう答えた。「わたしのふさいでいるのがおいやなのかと思えば、こんどはまた、わたしのはしゃいでいるのがおいやなんですのね。わたし、今夜はふさいでいなかっただけですわ。それがあなたにはお気にさわりましたの?」
アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチはぶるっとひとつ身ぶるいして、指を鳴らそうとして手をまげた。
「ああ、どうぞ、指をぽきぽきいわせないでください。わたしそれが大きらいなんですから」と彼女はいった。
「アンナ、それがおまえなのかね?」とアレクセイ・アレクサーンドロヴィッチは、じっと自分をおししずめて、手の運動をやめながら静かにいった。
「ですけれど、いったいどうしたというんですの?」と彼女は、大まじめな、喜劇じみた驚きかたをしながらいった。「わたしにどうしろとおっしゃるんですの?」
アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチは口をつぐんで、手で額と目とをこすった。彼は自分がしたいと思ったこと、すなわち世間の目の前でする過失から妻を警戒することのかわりに、いつのまにか、彼女の良心に関したことで気をいらだてたり、自分でつくりだした一種の壁と戦ったりしている自分に気がついた。
「わしのいおうとしているのは、こういうことだ」と彼は、冷やかにおちついて言葉をつづけた。「どうかしまいまで、ひと通り聞いてくれるように頼む。おまえも知っているとおり、わしは嫉妬ということを、恥ずべく卑しむべき感情だと思っているので、それに身をゆだねることはけっして自分に許さない。だが、この世には、罰なくしては踏み越えることのできない一定の掟《おきて》というものがある。今日はわしがそれを認めたというわけではないが、おまえがみんなの人にあたえた印象から判断すると、みんなは、おまえの身の処しかたが常軌《じょうき》を逸していたのに気がついてたらしかった」
「ほんとにわたし、ちっともわかりませんわ」と、肩をすくめながらアンナはいった。『このひとはなんとも思ってやしないのだ』こう彼女は考えた。『だけど、みんなの目についたので、それを案じてるんだわ』――「あなたはきっとご気分でもおわるいんでしょう、アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチ」彼女はこう言いたして、立ちあがると、戸口のほうへ行こうとした。彼は、彼女を引きとめようとでもするように、少し前へ身を進ませた。
彼の顔は、アンナがかつて見たことのないほどに、醜く陰うつになっていた。彼女は立ちどまって、頭をうしろざまにそらしたり、横のほうへ傾《かし》げたりして、もちまえのはしっこい手つきで、ヘヤピンを抜きはじめた。
「さあ、わたしうかがっていますわ、それでどうなんですの」と彼女はおちつきすまして、あざけるような調子でいった。「いいえ、それどころか、興味をもってうかがいますわ、だって、なんのことだか早く知りたいんですもの」
彼女はこう言いながら、自分の口ぶりの、いかにも自然らしくおちついた、しっかりした調子と、自分のつかう言葉の選択とに、われながら驚いていた。
「おまえの感情内へ立ち入って、巨細《こさい》のことをいちいち詮索する権利はわしにはない。むしろわしはそれを、無用かつ有害でさえあると思っている」とアレクセイ・アレクサーンドロヴィッチははじめた。
「自分の心を掘り起こしてみると、われわれはおうおうにして、それまで気づかずにいたものに、掘りあたることがあるものだ。おまえの感情――それはおまえの良心の問題ではあるが、わしはおまえにたいし、自分にたいし、また神にたいして、おまえにおまえの義務を示してやる責任をおびているのだ。われわれの生活は、人の手で結ばれたものではなくて、神によって結ばれたものだからね。そして、この結束を破りうるものは、ただ罪悪があるだけだが、この種の罪悪は、そのかげに常に、罰を引き連れているからね」
「わたしにはてんでわかりませんわ。ああ、神よ、それにしてもあいにくですわね、わたしむやみに眠くなって!」と彼女は、片手ですばやく髪をすきわけて、残ったヘヤピンを捜しながらいった。
「アンナ、後生《ごしょう》だから、そんな口のききかたはしないでくれ」と、彼は穏やかにいった。「たぶんわしの思いちがいだろう。だが、とにかくわしのいっていることは、自分のためであると同様、おまえのためでもあることを信じてくれ。わしはおまえの夫だ、そしておまえを愛している」
ちょっとのま、彼女の顔はやわらいで、そのまなざしにも、あざけるような火花が消えた。けれども、|愛している《ヽヽヽヽヽ》という一言が、ふたたび彼女をかっとさせた。彼女は考えた――『愛している? だって、このひとに愛するなんてことができるだろうか? もし愛という言葉のあることを聞かなかったら、このひとはけっして、こんな言葉はつかわなかったにちがいない。このひとは、愛とはどんなものか、それさえ知らない人なんだもの』
「アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチ、ほんとにわたし、わかりませんの」と彼女はいった。「どうぞ、はっきりおっしゃってくださいな、あなたのごらんになったということを……」
「いや、どうか、わしにしまいまで話させてくれ。わしはおまえを愛している。だが、わしは自分のことをいっているのではない。この場合のかんじんな人物は――われわれの子供とおまえ自身とだよ。くりかえしていうが、わしの言葉は、おまえにはぜんぜん無益な、不当なものと思われるかもしれない。いや、大きにそうありそうなことだと思う。じっさいそれは、わしの誤解からよびおこされたものなんだろう。もしそうだったら、わしはおまえに、あやまるよ。だがもしおまえ自身ほんの少しでも根拠があると感じたら、頼むからどうかよく考えてみてくれ。そしてもしおまえの心が、わしにうちあけることを望むようだったら……」
アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチは、自分でそれと気がつかないで、はじめの腹案とはまるで違ったことを口にしていた。
「わたしには、何も申しあげることはありませんわ。それに……」と彼女は、一生けんめいに微笑をおさえながら、やにわに早口にこういった。「ほんとに、もうやすむ時間ですわ」
アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチはほっとため息をつき、それっきり口をきかないで、寝室へ行ってしまった。
彼女が寝室へはいったときには、彼はもう床についていた。彼のくちびるはきっと結ばれていて、目は彼女のほうを見ようともしなかった。アンナは自分の床に横たわって、彼がもう一度話しかけるのを、今か今かと待っていた。彼女は、彼の話しかけるのを恐れながら、同時にそれを望んでいたのだった。しかし、彼は黙っていた。彼女は、長いこと身動きもしないで待っているうちに、いつか彼のことを忘れてしまった。彼女は、もうひとりの男のことを思った。彼女は彼を見た。そしてその男のことを考えると、自分の心が胸さわぎと、罪深い歓喜の情で、いっぱいになるのを感じた。ふと、規則正しい、おちついたいびきの音を聞きつけた。はじめのうちは、アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチも、自分のいびきに驚いたようにふとやめたが、ふた息もするうちに、いびき声はふたたび、新しい、おちついたリズムをもって、ひびきはじめた。
「遅いわ、もう遅いわ」と彼女は微笑を浮かべながらつぶやいた。彼女は長いこと目を見ひらいたまま、身動きもしないでじっとしていた。彼女には、その目の輝きが、まっ暗ななかで、自分自身にも見えるような気がした。
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十
この時から、アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチと妻とのあいだには、新しい生活がはじまった。しかし、べつにこれという、変わったことは起こらなかった。アンナはいつものように社交界へ出、とくにしばしば、公爵夫人ベーッシのもとへ出かけた。そして、いたるところでウロンスキイと会っていた。アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチは、それを知ってはいたが、どうすることもできなかった。彼女を誘って、うちあけ話をさせようという彼のあらゆる試みにたいしても、彼女は彼の前へ、一種うきうきした当惑《とうわく》の見通しがたい壁を立てめぐらした。表面にはなんの変わりもなかったが、内部的の彼らの関係はすっかり一変してしまった。政治的には、きわめて有力な人物であったアレクセイ・アレクサーンドロヴィッチも、この方面では、自分をとんと無力なものに感じた。牡牛《おうし》のように、おとなしく頭をたれて、彼は、自分の頭上に振りかざされているような気のするおのを待っていた。この問題について考えはじめるたびに、彼はもう一度やってみる必要を感じ、誠意と、優しさと、信念とをもってすれば、まだまだ彼女を救い、彼女を本心にたち返らせる希望のあることを感じて、毎日彼女と話す心がまえをしていた。けれども、ひとたび彼女をとらえて話しはじめるやいなや、彼は、彼女を支配している邪悪と虚偽のいぶきが、彼をも支配するような気がして、つい、いおうと思っていることとはまるで違ったことを、違った調子で、話しだしてしまうのだった。彼は、彼女を相手にいつのまにか、お互いにそんな調子で話しあっている人にでもたいするような、例のもちまえのからかい口調で話してしまうのだった。が、この調子では、彼女にいわなければならぬことは、とうてい口に出すことはできなかった。
…………
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十一
ほとんどまる一年のあいだ、ウロンスキイにとっては、彼のそれまでのいっさいの欲望にかわって、とくに彼の生活のただ一つの希望を形づくっていたものであり、アンナにとっては、不可能な、恐ろしい、それだけにまたいっそう蠱惑的《こわくてき》な空想であったところのもの――その願いがいまや遂《と》げられたのである。彼はまっさおになって、下あごをがくがくふるわせながら、彼女の前につっ立ち、自分でも何が何やら、どうしていいかもわからないでいながら、しきりに彼女に、気をしずめてくれと嘆願していた。
「アンナ、アンナ!」と、彼はふるえ声を立てていった。「アンナ、後生だから!……」
が、彼の声が高くなればなるほど、彼女は、以前の誇りかで快活だったのにひきかえて、今は羞恥の思いにみちた頭を、ますます低くたれるばかりであった。そして、くずおれるように、腰掛けていた長いすから床の上へ、彼の足もとへ身を落とした。彼が支えなかったら、彼女は絨毯《じゅうたん》の上へつっぷしてしまったにちがいなかった。
「神さま! わたくしをお許しくださいまし!……」と彼女はすすり泣きながら、彼の手を自分の胸へ押しつけながら、いうのだった。
彼女は、ただもう身を低うして許しをこうほかはないと思ったほど、自分を罪深いもの、道ならぬものと感じた。しかも、彼女にとっては、今はもうこの世に、彼以外には何ものもなくなっていたので、彼にも、許しをこう祈りをささげた。彼女は、彼を見ると、肉体的に自分の堕落《だらく》を感じて、もはや一言もいうことができなかった。彼はまた彼で、殺人者が自分のために命をおとした亡骸《なきがら》を見て感ずると同じような感じを、感じていた。この、彼によって命をおとした亡骸こそ、彼らの恋であり、彼らの恋の第一段であった。羞恥というこの恐ろしい価を払って得たものについての思い出には、何やら恐ろしい、いむべきものがあった。自分の精神的裸体にたいする羞恥の念は、彼女をうちひしぎ、そして彼にも伝わるのだった。けれども殺人者は、殺した亡骸にたいしていかなる恐怖を感じようとも、その亡骸を隠匿《いんとく》するためには、それをずたずたに切り刻まなければならなかった。殺人によって得たところのものを、あくまで利用しなければならなかった。
で、殺人者は、まるで情熱ともいうべき憤怒をいだきながら、その亡骸に飛びかかって、それを引きずりまわしたり、引き裂いたりするものである。ちょうどそれと同じように、彼もまた、接吻で彼女の顔や肩をおおった。彼女は彼の手をつかんだまま、身動きもしなかった。そうだ、これらの接吻――これこそは、この羞恥によってあがなわれたものである。そうだ、そして永久に自分のものとなるであろうこの手は――わが共犯者の手である。彼女はその手を取りあげて、それに接吻した。彼はひざまずいて彼女の顔を見ようとしたが、彼女はそれを隠してしまって、ひと言も口をきかなかった。ついに彼女は、一生けんめいに自分にうちかとうとする様子を見せて、身を起こし彼を押しのけた。彼女の顔はいつものように美しかったが、それだけにひとしおみじめであった。
「もう、何もかもおしまいねえ」と、彼女はいった。「わたしにはもう、あなたのほかなんにもありませんわ。それを忘れないでちょうだいね」
「どうして忘れられるものですか、ぼくの生命なんですもの。この幸福の瞬間にたいしては……」
「まあ、幸福ですって?」と嫌悪と恐怖の情をおぼえながら、彼女はいった。と、その恐怖は、いつのまにか彼にもうつった。「後生ですから、もう何も、もう何も」
彼女はすばやく立ちあがって、彼のそばから遠のいた。
「もうなんにもいわないで」こう彼女はくりかえした。そして、彼にはふしぎに思われた冷たい絶望の表情を顔にうかべて、彼と別れて行ってしまった。彼女は、この時には自分が、新生活へはいるにあたって感じた恥と恐れと喜びとを、言葉に現わすことのできないのを感じていたし、またそれを口にだして、この感情を、不適当な言葉で平凡化してしまいたくなかったのである。とはいえ、その後、翌日になっても、翌々日になっても、彼女は、この感情の複雑さを表現するにたる言葉を見いだしかねたばかりか、その心のなかにおこったいっさいのことを、われとわが身で思いめぐらすだけの思想をさえ、見いだすことができなかった。
彼女はひとり心につぶやいた――『いいえ、今はわたし、とてもこのことを考えることはできないわ、あとになって、もっと心がおちついてからにしよう』けれども、そうした思考に必要な心の平安は、いつになってもえられなかった。自分のしたこと、将来自分はどうなるだろうということ、自分はどうしなければならぬのだろうということなどについての考えが、心にうかんでくるたびに、彼女は恐怖の念におそわれて、急いでそういう考えを追いやってしまった。
「あとで、あとで」と彼女はいった。「もっと心がおちついてから」
そのかわり夢の中など、彼女が自分の想念にたいして支配力をもたなかった場合には、その状態は彼女の前へ、醜い赤裸々《せきらら》の姿で現われてきた。同じひとつの夢が、ほとんど毎夜彼女を訪れた。彼女には、ふたりが同時に自分の夫で、ふたりとも自分にたいして、愛撫を浪費しているさまが夢に見られた。アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチは、彼女の手を接吻しながら、泣いてこういった――ああ、今はなんていいぐあいだろう! すると、アレクセイ・ウロンスキイもそこにいて、彼もやはり彼女の夫なのであった。そして彼女は、自分がこれまでそれを不可能なことと思っていたのに驚いて、笑いながら彼らに、このほうがはるかに簡単で、彼らも双方とも満足であり、幸福であることを説明してやるのだった。しかしこの夢は、夢魔のように彼女を圧迫した。彼女は恐れわなないて目をさますのがつねであった。
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十二
モスクワから帰った当座レーヴィンは、拒絶の屈辱を思い出しては身ぶるいして顔をあかくするたびに、いつも心につぶやくのだった。『やはりこういうふうにあかくなって、身をふるわせたものだったっけ。物理の試験に一点しかとれなくて、もとの級に残されたときにも、万事休したように考えて。それからまた、自分にまかされた妹の事件のうまくいかなかった時にも、やはり自分がだめになってしまったような気がしたものだった。それがどうだ? 数年後の今では、どうしてあんなことがあんなに自分を苦しめたかと、思い出しては驚いている。こんどの悲しみだって、きっとそうなるにちがいないんだ。時さえたてば、このことだって、おれは平気になっちまうにちがいないんだ』
しかし三月たっても、この事件にたいしては、彼は平気になることができなかった。その当座と同様に、思い出すのがつらかった。彼が気をおちつけることができなかったのは、もう長いこと家庭生活というものを空想していて、それにたいして自分をすっかり完成しきったものと感じていた彼が、いまだにいぜんとして独身で、以前よりもいっそう結婚というものから、遠ざかってしまったからであった。彼は、彼の周囲の人々がだれしも感じているように、自身も、彼くらいの年齢の男が独身でいることのよくないことを、病的に痛感していた。彼は、モスクワへ立つ前に、ある時、自分が日ごろ話相手として好いていた、うちの牧夫のニコライという質朴《しつぼく》な百姓をつかまえて、こんな話をしたことのあったのを思い出した――「どうだ、ニコライ! おれは女房をもらおうと思ってるんだが」するとニコライは、なんの疑問もありえない事柄にでもたいするように、たちどころにこう答えた。「もうとうに時期が来とりましただよ、コンスタンチン・ドミートリチ」それだのに、結婚は今や彼から、いつの時よりも、さらにかけはなれたものになってしまったのである。その場所はもうちゃんとしめられていて、いま想像の中で自分の知っているどこかの娘をそこへあてはめてみても、彼は、それがぜんぜん不可能であることを感ずるだけであった。のみならず、拒絶を受けたことや、その時に自分が演じた役まわりのことを思い出すと、彼はたまらない恥ずかしさに責めさいなまれた。
このことでは、自分には少しも罪はないのだと、いくら自分に言いきかせても、この思い出は、他の同じ種類の恥ずべき記憶同様、彼に身ぶるいさせたり顔をあかくさせたりした。彼の過去には、だれにもありがちの、良心に責められずにはいられないような、みずから認めているよくない行為があった。しかし、こうしたよくない行為の記憶とても、これらのとるに足らぬ、そのくせ恥ずべき記憶ほどには、けっして彼を苦しめなかった。それらの痛手はいつになっても癒《い》えなかった。そしてそれらの記憶の上に、今ではあの拒絶と、あの晩自分がはたの目に映ったにちがいない、みじめなありさまとが加わったのである。
けれども、時と仕事とは、すべきだけのことをした。重苦しい記憶はしだいしだいに、田園生活の、彼にはそれとわからないけれども、有意義な出来事によっておおわれていった。一週は一週ごとに、しだいにまれに、彼はキティーのことを思い出すようになった。彼は、堪えがたいほどの思いで、彼女がもう結婚したとか、あるいは近々に結婚するとかいったような便りのあるのを待ちこがれた。そうした消息が、歯を抜いてしまうように、すっかりその痛みをいやしてくれることを希望しながら。
そのうちに春が、美しい、快適な春が、春の期待も欺きもなしに、草木も、動物も、人間も、みなともに喜ぶような、まれな春のひとつがきた。この美しい春は、いっそうレーヴィンを奮いたたせ、彼に、いっさいの過去からはなれて、堅固に、独立的に、自分の孤独生活を築きあげようという決意をかためさせた。彼がそれをもって村へもどってきた画策《かくさく》の大部分は実行されていなかったが、しかし一ばん主要な点――生活の清浄だけは、守られていた。彼は、堕落のあとではいつでもきまって悩まされた例の羞恥の情を味わわなかった。そして、臆《おく》することなく人々の目を見ることができた。まだ二月のうちに、彼はマリヤ・ニコラエヴナから、ニコライ兄の健康がわるくなったこと、それだのに兄が、手当てをしようとしないことなどについての便りを受け取った。そしてその便りの結果、レーヴィンはモスクワの兄のもとまで出むき、首尾よく兄を説き伏せて医者に見せさせ、外国の温泉へ転地に行かせることにした。なお彼は、兄をうまく説いて、相手を怒らせることなしに、旅費を貸すことまで承諾させたので、この点では自分自身に満足を感じたほどであった。
春には特別の注意を要する農事以外、読書以外に、レーヴィンはすでにこの冬から、農事に関する著述に手をつけていた。そしてこの著述の眼目は、農事においては労働者の性質が、気候および土地と相並んで、絶対的要素として受けいれらるべきだということと、したがって農事に関する学説はすべて、単に土地と気候との二要素からのみでなしに、土地、気候および労働者の一定不変の性質という三要素から引き出されなければならぬ、ということとにかかっていた。それで、孤独にあったにもかかわらず、いや、あるいは孤独であったおかげで、彼の生活は、なみはずれて充実していた。ただ、どうかすると彼は、自分の脳裡にわきおこってくる思想を、アガーフィヤ・ミハイロヴナ以外のだれかにわかちたいという、みたされない欲求を感ずることがあった。そのために彼はときどき、彼女を相手に、物理学や、農事の理論や、とりわけ哲学について、論じだすことになった。哲学はアガーフィヤ・ミハイロヴナの好んで語る題目だったので。
春はいつまでも開かれなかった。大斎《たいさい》期の終わりの一、二週間は、はればれとした、寒気の強い天気がつづいた。日のうちは太陽の光で氷も溶けたが、夜は零下七度までも温度がさがった。そして一度とけて凍った雪の表面は、道もなしに荷車をやれるほどであった。復活祭はまだ雪の中だった。が、そのあとで急に、聖週の二日目に暖かい風が起こり、雨雲がむらがりだして、三日三晩あらしのような暖かい雨が降りそそいだ。木曜日になって風はなぎ、灰色をした濃い霧が、自然のふところで完成される変化の神秘をおおい隠すように、たてこめてきた。霧の中で川水はあふれ、氷塊《ひょうかい》は割れて動きだし、濁りあわだった流れは奔流《ほんりゅう》して、聖フォーマ祭週の月曜日は、夕方から霧が裂け、雨雲は羊毛状の雲となって散じ、空ははれて、まことの春が開かれた。
朝になると、きらきらした太陽がさしのぼって、みるみる、水面を閉ざしていた薄氷を溶かし、暖かい空気は、よみがえった地上から立ちのぼる蒸気のためにふるえはじめた。古い草も、針のように頭をのぞけた若草も、一様に緑の衣《ころも》をつけ、ハイカノカリや、スグリや、ねばっこくて強いカバなどの若芽はふくらみ、金色の花をまき散らされたヤナギの上では、巣から出された蜜蜂が、飛びまわりながらうなっていた。姿の見えぬヒバリは、ビロードのような冬まき畑や、氷におおわれた耕地の上でうたを流し、タゲリは、褐色をした溜り水の氾濫《はんらん》している窪地《くぼち》や沼の上で鳴きかわし、ツルやガンは、春らしい叫び声を立てながら空高く飛びわたった。牧場では、脱け落ちた毛がまだところどころ生えかわらずにいる家畜がほえはじめ、足のまがった小羊は、緬毛《めんもう》をなくしてないている母親の周囲をはねまわり、足の早い子供たちは、はだしの足跡の残っている、ひからびついた路上をかけまわり、池のふちには、布を手にした女どもの楽しげな話し声が聞こえ、方々の庭では、鋤《すき》や鍬《くわ》をつくろっている百姓たちのおのの音がひびきだした。ほんものの春がきたのだ。
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十三
レーヴィンは大きな長靴をはき、はじめて毛皮のでないらしゃの袖なしを着て、日光を反射する光で目を刺すような小川を渡ったり、氷の上や、足をとる泥土《どろつち》のなかを歩いて、農場の見まわりに出かけた。
春――それは計画と予想との時である。レーヴィンは、外へ出るには出ながらも、その成熟しきった萌芽《ほうが》のなかに閉ざされている若芽や枝が、どこへどう伸びていくかをまだ知らないでいる春さきの木々のように、その好きな農事の上で、いまやどういう計画に手をそめようとしているのか、われながらよくわからなかった。しかし彼は、自分が最もよき計画と予想とにみちあふれているような気だけはしていた。何よりさきに、彼はまず、家畜小屋のほうへ行ってみた。牝牛《めうし》どもはかこいの内へ放たれ、脱けかわったなめらかな毛を光らせて、ひなたぼっこをしながら、野へ出してもらうことをせがむようにないていた。ごくささいな点までも知りぬいている牝牛どもをながめ楽しんでから、レーヴィンは彼らを野へ放してやり、かこい内へは子牛を入れるようにと命じた。牧夫はいそいそと、野へ行く支度にかけだした。家畜番の女どもは、すそをからげ、枯れ枝を手にして、まだ日やけのしない白いはだしで泥濘《ぬかるみ》をこねまわしながら、春の喜びから狂気のようにないてはねまわる子牛どもを、庭へ追い込もうとしてかけ歩いていた。
なみはずれて好成績だった今年生まれの子牛をながめ楽しんでから、――早生まれの子牛は百姓たちの牝牛ぐらいにはなっていたし、パーワの娘の生後三月になるのは、一年たった子牛ほどにも成長していた、――レーヴィンは、槽《おけ》を外へ持ち出して、柵《さく》のなかで彼らに乾草を与えるようにと命じた。ところが、冬のあいだ使用しなかったかこい内では、秋に作った柵がこわれていることがわかった。そこで彼は、彼の言いつけで打穀機《だこくき》をつくっているはずの大工のところへ人をやった。ところが大工は、バターウィークの間に修繕のすんでいたはずの耙《まぐわ》をつくろっていることがわかった。これは、レーヴィンにとって非常に心外なことであった。彼がすでに幾年来、全力をあげて戦ってきた農事上でのこの永久のふしだらの、またしてもくりかえされていることが、彼には心外でならなかったのである。彼の知ったところでは、柵は冬のあいだ入用がないので、労働馬の厩《うまや》のほうへ運ばれたまま、そこでこわれていたのである。というのは、それが子牛用のものとして手がるに作られていたので。そればかりではない、この一事からひいて、冬のあいだによくしらべて修繕をしておくようにと命じておいた耙《まぐわ》やその他すべての農具が、そのためにわざわざ三人の大工がやとわれていたくせに、修繕されていなくて、いよいよ鋤《す》きに出かけねばならぬという今になって、やっと耙が修繕されているのであることがわかってきた。レーヴィンは執事を呼びにやった。が、すぐに、自分でも彼をさがしに出かけた。執事は、この日のすべてのものと同じように光り輝いて、ひつじ皮で縁《ふち》どった毛皮外套を着、手のなかでわらを折りながら、穀物小屋のほうから歩いて来た。
「なぜ、大工は打穀機をつくっていないんだい?」
「はい、それはわたくしも昨日申しあげようと思っとりましたところで――じつは、その、耙《まぐわ》の手入れがさし迫っておりますんでね、はい。なにせもうこのとおり、耕作の時期でございますので」
「じゃあ、冬じゅういったい何をしていたんだ?」
「それはそうとご前さまは、何か大工にご用がおありなさいますので?」
「子牛を入れる庭の柵《さく》はどこにあるんだ?」
「ちゃんとしておくように言いつけましたんですがな。ですが、ああいう手合いには、何を言いつけましたところで」と執事は手を振りながらいった。
「ああいう手合いじゃない、こういう執事のことなんだ!」と、かっとなってレーヴィンはいった。「まったく、おれはなんのためにきみなんかを雇っておくんだろう?」と彼は叫んだ。だが、こんなことをいってみたところで、なんのたしにもならないことを思い、言葉なかばで中止して、ただ嘆息した。「ところで、どうだね、まきつけはできるかね?」と彼は、しばらく黙っていてからきいた。
「トゥルキンの向こうは、明日明後日ごろ、やれますでございましょう?」
「クローバーは?」
「ワシーリイとミーシカとをやりました――まいているはずでございます。ですが、うまくまけたかどうかはわかりません――地面がひどくぬかっておりますから」
「何デシャティーナほど?」
「六デシャティーナほど」
「なぜ全部まかないのだ?」と、レーヴィンはどなった。
クローバーをわずか六デシャティーナまいただけで、二十デシャティーナ全部まいてしまわなかったこと、これはますます心外なことであった。クローバーの播種《はしゅ》は、理論からいっても、彼自身の経験からいっても、できるだけ早く、まだ雪のあるうちぐらいにかかって、はじめて好結果をあげうるものであった。それだのに、レーヴィンはかつて一度も、それにまにあったことがなかったのである。
「どうも人手がたりませんのでね。ああいう手合いを相手に、どうすることができましょう? 三人のやつはやって来ませんでしたし、それにセミョーンも……」
「じゃあ、きみが、わらのほうをやめさせりゃいいんだ」
「はい、それもむろん、やめさせてあるのでございます」
「じゃあ、みんなはどこへ行ってるんだ?」
「五人はコムポート(果実煮)をつくっております(コムポスト〔混合肥料〕のことなのである)、四人は、からす麦をふるいにかけとります――腐らせませんようにな、コンスタンチン・ドミートリチ」
レーヴィンは、この「腐らせませんようにな」という言葉が、種子取りのイギリスからす麦がもはやだめになっていることを意味するものなのを、ちゃんと心得ていた。――ここでもまた、彼が命じたことは実行されていなかったのである。
「だからおれが、大斎期前からいってるんじゃないか、通風筒《つうふうとう》、通風筒って!……」と彼は叫んだ。
「ご心配なされますな、何もかもじょさいなくいたしますよ」
レーヴィンは腹だたしげに手を振って、からす麦を見に穀倉へ行ってから、厩《うまや》のほうへもどってきた。からす麦はまだだめになってはいなかった。ところが労働者たちは、じかに下の穀倉へ落とせばいいものを、いたずらにシャベルでかきまわしていた。で、そこの指図をし、その中のふたりをさいて、クローバーの播種のほうへ送ってやると、レーヴィンは執事にたいする不満から、はじめて気がやすまった。それに、天気がいかにもよかったので、いつまでも腹をたててはいられなかった。
「イグナート!」と彼は、袖口を折り返して井戸ばたで車を洗っていた御者に叫んだ。「ひとつ鞍《くら》をおいてくれ……」
「どれがよろしゅうございましょう?」
「そうだな、コルピクでもいいや」
「かしこまりやした」
馬に鞍をつけさせるあいだに、レーヴィンは仲直りしようと思って、目の前で忙しげにたち働いている執事をもう一度呼んだ。そして目前に迫っている春の仕事や、農事上の計画などについて語りはじめた。
肥料の運搬は、草刈りのはじまるまでに全部片づけてしまうように、早目に着手すること、閑田《かんでん》として残しておけるように、遠い野をもあますところなく、犂《すき》でたがやしておくこと、草もまにあわせでなしに、人を使って、十分に片づけてしまうこと。
執事は注意ぶかく耳を傾けていた。そして、主人の計画をはげますように、努力している様子であった。しかし彼はやはり、レーヴィンのよく知っている、そしていつも彼を腹だたしくさせる、絶望的な、悲しげな顔つきをしていた。この顔つきは語っていた――それはみなけっこうです、が、しかし、なるようにしかなりませんなあ。
何ものも、この調子ほど、レーヴィンを悲しませるものはなかった。けれどもこの調子は、何人ひとをかえてみても、どの執事にも共通なものであった。どの男にも、彼の計画にたいしては、同じ態度があった。それで、彼も今では、もはや腹だちはしなかったが、いかにも情けなく思って、自分が、その(なるようにしかなりません)こう呼ぶよりほかに呼びようのないような、そして、たえず彼に反抗しているような、ある本質的な力にたいして、ますます強くたたかいの念を呼びさまされていくのを感じた。
「まにあいさえすりゃねえ、コンスタンチン・ドミートリチ」と、執事はいった。
「どうして、まにあわないんだね?」
「どうでも、もう十五人ばかり手をふやさにゃだめなんでございますよ。ところが、それがなかなか集まりませんで。今日も来るには来ましたが、ひと夏七十ルーブリくれろなんて勢いでございますからねえ」
レーヴィンは黙ってしまった。またしてもあの力が反抗したのだ。彼は、彼らがいくら骨を折ってみたところで、現在の賃金では、たかだか三十七人か三十八人、四十人以上の労働者を雇い入れることは、とうてい望めないことを知っていた。四十人来たことはあったが、それより以上のことはなかった。けれども、とにかく、彼はたたかわずにはいられなかった。
「どうしてもだめだったら、スールイやチェフィローフカへ人をやってみたまえ。捜すだけは捜さなくちゃ」
「やるにはやりますです」とワシーリイ・フョードロヴィッチは、泣くような調子でいった。「ですが、馬がみんなあのとおり、弱っちまいましたですからねえ」
「買いたせばいいじゃないか。だが、おれも知ってるよ」と彼は笑いながら、言いたした。「きみたちができるだけ少なく、手をぬいて仕事をしようとしてることはな。だが、今年はきみの自由にはさせないよ。いっさい自分でやるからね」
「いや、それでなくても、あなたさまはぼんやりしてはいらっしゃいませんよ。もっとも、わたくしどものほうは、ご主人さまの目の前で働くほうが、かえって愉快じゃございますがね……」
「じゃあ白樺《しらかば》谷の向こうで、クローバーをまいてるわけなんだね? ひとつ行って見てこよう」と彼は、御者にひかれて来た小さな、濃褐色のコルピクにまたがりながらいった。
「川は渡れましねえぞよ、コンスタンチン・ドミートリチ」と、御者は叫んだ。
「そうか、じゃ森のほうから」
そしてレーヴィンは、水を見るといなないて手綱を引く、長いこと厩に閉じこめられていた肥えた駒《こま》に軽快な|だく《ヽヽ》を踏ませて、屋敷内の泥濘の上から、門をくぐって、野のほうへと出て行った。
レーヴィンは、牛小屋や家畜小屋の近くにいても愉快だったのだから、野へ出ては、さらにいっそう愉快でなければならなかった。肥えた駒《こま》の|だく《ヽヽ》の上で調子よく身を揺りながら、また、雪と空気とのさわやかさをもった暖かいかおりをかぎしめながら、森のなかを、さだかならぬ足跡をとどめて残っている深くて柔らかい、やせ雪を踏んで乗って行くみちみち、彼は、樹皮に苔《こけ》がよみがえり若芽がほころびそうになっている自分の樹木の一本一本に、歓びの目を向けた。森をかけぬけると、彼の前には、みるみる広濶《こうかつ》な天地がひらけて、ただ窪地に消え残った雪の残骸でところどころまだらにされているほか、一点の禿げ地も湿地もない冬まき畑の緑が、なめらかなビロードの敷物のようにひろがっていた。百姓馬や、当歳駒《とうさいごま》が、この緑野を踏みよごしているさまも、(彼はそれらを追っぱらうようにと出会った百姓に言いつけた)彼が出会って「どうだ、イパート、もうまくかね?」ときいたのにたいして、「それより鋤《す》き起こさざなりましねえだ、コンスタンチン・ドミートリチ」と答えた百姓イパートの、人をくったようなとんまな返答も、彼を腹だたせはしなかった。
さきへ行くにしたがって、彼はますます心がのんびりしてきて、あとからあとからとすばらしい農事上の計画が、ひっきりなしに頭にうかんできた――南方の境界線に沿うて、全部の畑に垣をめぐらし、そこに雪を長くねかしておかぬようにすること。畑を区分して、うち六枚は肥料をほどこし、三枚は秣《まぐさ》をまいて予備畑としておくこと、畑の一ばんはずれに家畜小屋を建て、池を掘り、施肥のために、家畜用の移動柵をつくること。そして三百デシャティーナを小麦、百デシャティーナをじゃがいも、百五十デシャティーナをクローバーにあてて、一デシャティーナもやせ地をつくらないこと。
こんな空想をほしいままにして、自分の畑を踏まないようにと注意ぶかくあぜ道づたいに馬をやりながら、彼は、クローバーをまいている農夫たちのほうへ近づいていった。種子を積んだ農用車は、あぜ道ではなく畑の上においてあり、小麦の芽生えはわだちのために掘りくずされ、馬のために踏みあらされていた。ふたりの農夫は、どうやら一本のパイプでたばこでも吸っているのであろう、あぜ道にすわりこんでいた。種子をまぜてある車の上の土くれは、くだかれもしないで、かたまりのまま、堅くなったり凍りついたりしていた。主人の姿を見てとると、農夫のワシーリイは車のほうへ行き、ミーシカは種をまきにかかった。これはおもしろくないことであったが、レーヴィンは、農夫にたいしてはめったに腹をたてなかった。ワシーリイがそばへ来たときに、レーヴィンは彼に、馬をあぜ道へひき出すようにと命じた。
「ああに、だんなさまあ、大事ねえでがすだよ」とワシーリイは答えた。
「後生だから理くつをいわないでくれ」と、レーヴィンはいった。「言われたとおりにすりゃいいんだ」
「よろしゅうござりますだよ」とワシーリイは答えて、馬の口をとった。「そいでもこの種播《たねまき》機は、コンスタンチン・ドミートリチ」と、彼はきげんをとるようにいった。「一等品でござえますね。ただ歩くのが骨でござりますだよ! まるで、わらじに一プードの秤錘《おもり》でもつけて、ひきずってるみてえでござりますだからね」
「じゃなぜおまえたちは、土をよくふるわなかったんだい?」とレーヴィンはいった。
「だから、わしらがこねほごしますだよ」とワシーリイは、種子を集めたり、てのひらで土をもみつぶしたりしながら答えた。
よくふるってない土を渡されたのは、ワシーリイの罪ではなかった。が、とにかく、いまいましいことであった。
そうしたいまいましさをまぎらして、いろんなおもしろくないことを、ふたたびいいほうへふり向ける方法、これまでに何度も応用して成功したおぼえのある方法を、レーヴィンはこの時も応用した。彼は、ミーシカが、ひと足ごとに粘着《ねんちゃく》する大きな土のかたまりをころがしながら歩いているのを見ていて、馬からおりると、ワシーリイの手から種子入れをとってまきにかかった。
「おまえはどこまでやったんだ?」
ワシーリイは足で印をつけておいた場所を示した。レーヴィンは力いっぱい、種子をまぜた土をまきはじめた。足の運びが、沼の中でも歩くように困難であった。で、レーヴィンは、一うねまくと、もう汗ばんできたので、立ちどまって、種子入れを返した。
「ねえ、だんなさま、夏になってからこのうねで、わしらにおこごとはいけましねえぞよ」とワシーリイがいった。
「どうしてだい?」とレーヴィンは、早くもいま用いられた方法の効果を感じて、きげんよくいった。
「まあ、夏になってからごらんなせえまし。ここだきゃちげえますから。まあ去年の春わしがまいたところをごろうじろ。あのまあうめえ生えぐええを! わしゃはあ、これでも、コンスタンチン・ドミートリチ、まるで生みの親のために働いてるような気でしとりますだよ。わしゃはあ、自分がずるいことするなあきれえだで、人にもそうはさせましねえ。ご主人さまにええこたあ、こちとらにもええでござりますかんな。まああれをごらんなせえまし」と、ワシーリイは畑のほうをさしていった。「気がはればれとしますだあ」
「ああ、まったく春はいいなあ、ワシーリイ!」
「それにこんな春は、年よりどももおぼえがねえほどだと言いますでな。このごろわしは、うちへ行って来ましただが、うちでも年よりが、小麦三オスミンニクもまいとりましただ。裸麦と見わけがつかねえくらいになるぞなんていっとりましただ」
「だがおまえたちは、よほど前から小麦を作りだしてたのかね?」
「そりゃあ、だんなさまが一昨年教えなされたでねえか。だんなさまあわしに、二メーラおくれなされただよ。それで四つ一あ売りましてな、三オスミンニクだけまきましただよ」
「まあな、よく気をつけて、土くれをもみほぐしてやれよ」とレーヴィンは、馬のほうへもどりながらいった。「それからミーシカにも気をつけてな。芽がよく出たら、おまえにゃ一デシャティーナに五十カペイカずつやるからな」
「ありがとうござりますだ。わしどもははあ、みんな、だんなさまにゃあ、どうしていただかねえでも十分喜んでおりやすだ」
レーヴィンは馬にまたがって、去年のクローバーのある畑のほうへ乗っていった。それから春まきの小麦のために犂《すき》でおこされているほうへも行った。
刈り跡に出たクローバーの芽はみごとなものであった。それはもうすっかりはえそろって、倒れている去年の小麦の茎の下から、いきいきとした緑をのぞけていた。馬はくるぶしのあたりまで泥の中へはいり、なかば溶けかけた泥のなかから足をぬくたびに、ずぼずぼという音を立てた。犂でおこされたところは、とうてい馬をやれなかった――まだ氷の残っているところは、いくらかよかったが、溶けてしまったあぜなどは、足がくるぶしの上までも泥にとられた。耕作の模様は上々だった。二日もすれば、耙《まぐわ》を入れて種子をおろすこともできそうだった。すべてが整頓し、すべてが快かった。帰り道をレーヴィンは、水が減っていればいいがと念じながら、川のほうへととった。そしてうまく川を渡って二羽のカモを驚かした。『こりゃシギもいるにちがいないぞ』と彼は考えた。と、ちょうど家のほうへのまがり角で出会った森番が、シギについての彼の予想をたしかめてくれた。
レーヴィンは食事にまにあうように、そして夕方までに銃の支度をしておくためにと、|だく《ヽヽ》で家路を急がせた。
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十四
このうえない上きげんで家のほうへ乗り近づくと、レーヴィンは、表玄関の車寄せのほうにあたって、鈴の音を聞きつけた。
『うん、停車場からだれか来たんだな』と、彼は考えた。『ちょうど、モスクワ列車の着いた時刻だ……いったいだれだろう? ひょっとするとニコライ兄かな? 都合で湯治に行くが、おまえのほうへ行くかもしれぬなんていってよこしてたんだから』
最初の瞬間彼は、ニコライ兄の出現が、彼のこの幸福な気分をうちこわしてしまうだろうと、恐ろしくまた不快な気持になった。けれどもすぐ、こうした感情をおこしたことを恥ずかしく思ったので、急いで、その心の両手をひろげるような気持で、感傷的な喜びをもって、心からそれが兄であってくれることを祈りかつ期待した。彼は馬を進めて、アカシヤの木の外側へ出た。と、こちらへ向かってくる停車場の三頭立ての雇い橇《そり》と、それに乗っている毛皮外套にくるまった紳士の姿とを見つけた。それは兄ではなかった。『ああもしだれか、話相手になるおもしろい男であればよいが』こう彼は考えた。
「ああ!」とレーヴィンは喜ばしげに、両手を高くさしあげながら、叫んだ。「これはうれしい珍客だ! ああ、きみだったとはじつにうれしい!」と彼は、ステパン・アルカジエヴィッチを認めて叫んだ。『きっと、あの女《ひと》が結婚したか、いつするかということが聞けるだろう』こう彼は考えた。
そしてこの美しい春の日には、彼女についての思い出も、自分を苦しめないのを彼は感じた。
「どうだ、意外だったろう?」とステパン・アルカジエヴィッチは、橇から飛びおりながらいった。鼻梁《びりょう》の上や、ほおや、眉《まゆ》にまで泥のはねがこびりついていたが、その顔は、快活と健康とで輝いていた。
「きみを見ようと思って来た――これがひとつ」と彼は、友を抱いて接吻しながらいった。「猟を試みる――これがふたつ、そしてエルグショーヴォの森を売る――これが三つ」
「けっこう、けっこう! だが、この春はどうだ? よくきみは橇なんかでやって来られたねえ?」
「馬車はなおいけましねえでごぜえますだ、コンスタンチン・ドミートリチ」と、顔なじみの御者が答えた。
「とにかく、きみが来てくれたことは、じつにうれしい、じつにうれしい」とレーヴィンは心から、子供らしいうれしそうな笑顔になりながら、いった。
レーヴィンは客を来客用の部屋へみちびいた。そしてステパン・アルカジエヴィッチの手荷物――手さげ袋や、サックにはいった銃や、葉巻の箱などをそこへ運ばせ、彼を洗面や着がえのためにそこに残しておいて、自分はその間に、耕作や、クローバーのことを話しに、事務所のほうへ出ていった。と、いつも、むしょうに家の体面ということを気にかけているアガーフィヤ・ミハイロヴナが、食事についての質問を用意して、彼を玄関で待ちうけていた。
「どうでも、おまえのいいようにしといてくれ、ただ早くね」彼はこういって、執事のほうへ行った。
彼がもどってくると、ステパン・アルカジエヴィッチも洗面をすまし、髪をととのえて、笑顔に輝きながら自分の部屋から出て来た。で、ふたりはそろって二階へあがった。
「ああ、ぼくも大いにうれしいよ。とうとうきみのところへやって来られたんだからね! 今こそぼくは、きみがここで築きあげている秘密がどういうものであるかがわかるよ。しかし、いや、まったく、ぼくはきみがうらやましいよ、なんていい家だろう。そして、何もかもがけっこうずくめだ! 明るくて、爽快で」とステパン・アルカジエヴィッチは、春や、今日のような晴れやかな日が、年じゅうあるものでないことを、すっかり忘れてこういった。
「それにきみの乳母、ありゃじつにいい女だね! 欲には、エプロンでもかけたかわいらしい小間使でもいれば申しぶんなしなんだが、しかし、きみの坊さんくさい、厳格な生活法には、これが一ばん適当しているんだろう」
ステパン・アルカジエヴィッチは、かずかずのおもしろい出来事、わけてもレーヴィンにとって興味のある、彼の兄セルゲイ・イワーノヴィッチが、この夏には彼の村へこようとしているという消息を伝えた。
が、キティーについては、いや、概してスチェルバーツキイ家のことについては、ステパン・アルカジエヴィッチはひと言もいわなかった。ただ、妻のあいさつを伝えたきりであった。レーヴィンは彼に、その優しい心づかいを感謝し、その来訪を心からうれしく思った。いつものとおり、彼の胸には、その独居《ひとりい》のあいだに、周囲の者とはわかつことのできない思想や感情が、無数にたくわえられていた。で、いま彼は、ステパン・アルカジエヴィッチに向かって、春の詩的な喜びや、農事上の失敗や計画や、読んだ書物についての見解や注意や、とりわけて、彼自身は気がついていないけれども、農事上のあらゆる古い著書の批評が基礎になっている、自分の著述の内容などについて、話しかけた。いつも気がよく、ちょっと暗示されただけで万事に察しのいいステパン・アルカジエヴィッチは、このたびの旅行には、とくに気持のいい人であった。そしてレーヴィンは彼のうちに、自分にたいする新しい、まんざらわるい気のしない尊敬の態度と、優しさのようなもののあるのを認めた。
晩餐を特別りっぱにしようとしたアガーフィヤ・ミハイロヴナと料理番との骨折りも、その結果としてはただ、空腹を感じていたふたりの友だちが、ザクースカ(前菜)に向かうやいなや、バターつきのパンや、鳥の片身や塩づけのキノコやを飽食《ほうしょく》したことと、料理番がとくに客を驚かせようと思っていた肉まんじゅうなしでスープを出せと、レーヴィンがあっさりと命じたことなどを持ったにすぎなかった。しかし、ステパン・アルカジエヴィッテは、いろいろなごちそうを食いなれていたにもかかわらず、すべてを手ぎわのすぐれた料理だと思った――浸草酒《しんそうしゅ》(薬草を入れたぶどう酒)、パン、バター、とくに鳥の片身、きのこ、いらくさのシチュー、白ソースをかけた鶏、クリミヤの白ぶどう酒等――すべてが上出来で珍味であった。
「すてき、すてき!」と彼は、焼き肉をたべたあとで、ふとい巻たばこに火をつけながらいった。「ぼくはきみのところへ来て、ちょうど、けんかと動揺との後に、船から静かな岸へあがったような気がしている。そこできみのいうのは、労働者の本質というものこそ、研究されなければならぬ問題であって、農事上の方式をつかさどるものも、またそれにほかならないと、こういうんだね。ところで、ぼくはこうした問題にはぜんぜん無知だ。だが、しかし、ぼくにはどうも、理論とその応用というものが、労働者にたいして影響をおよぼすこともあるだろうと思われるがね」
「そうだ、だが待ちたまえよ――ぼくのいうところは、経済学についてではなくて、農事問題についてだからね。それは自然科学と同様、与えられたる現象と労働者とを、経済学的、民族学的に観察しなければならないのだ……」
ちょうどこの時、アガーフィヤ・ミハイロヴナがジャムを持ってはいって来た。
「やあ、アガーフィヤ・ミハイロヴナ」とステパン・アルカジエヴィッチは、自分のむくむくふとった指のさきを吸いながら、彼女にいった。
「いや、鳥の肉といい、浸草酒《しんそうしゅ》といい、じつにすばらしいもんだねえ……それはそうと、もういい時分じゃないかね、コスチャ?」と、彼は言いたした。
レーヴィンは窓から、冬枯れの森のこずえに落ちていく太陽をながめやった。
「もういい、もういい」と、彼はいった。「クジマ、馬車の支度をしてくれ!」こう言いながら、彼は階下へかけおりて行った。
ステパン・アルカジエヴィッチは階下へおりると、自分でたんねんに、漆《うるし》塗りの箱からズック製の袋をとりはずし、箱をあけて、自分の高価な新型銃の装填《そうてん》にかかった。もうさっきから、酒手《さかて》の多そうなのに目ぼしをつけていたクジマは、ステパン・アルカジエヴィッチのそばを離れないで、彼にくつ下から長靴をはかせる世話までをした。それをまたステパン・アルカジエヴィッチは、すすんでするままにさせていた。
「あのねえ、コスチャ、もしリャビーニンという商人が来たら――ぼくその男に今日くるようにいっておいたから――そしたら、あげて待たしておくように言いつけてくれたまえな……」
「じゃきみはほんとうに、リャビーニンに森を売るのかね?」
「そうだ。きみはあの男を知ってるのかい?」
「どうしてどうして、大知りさ。ぼくもあの男と取引きをしたことがあるんだよ、『確実に、決着《けっちゃく》に』ね」
ステパン・アルカジエヴィッチは笑いだした。『確実に、決着に』とは、その商人の好んで用いる言葉であった。
「うん、あいつは、やたらにおかしな言葉づかいをするやつだ。おや、こいつもう、主人の行く先をさとったな!」と彼は、低くほえながらレーヴィンのまわりをはねまわって、彼の手や長靴や銃などをなめまわしているラスカを、軽く手でたたきながら言いたした。
彼らが出て行ったときには、馬車はもう入口の階段の下に立っていた。
「ぼくは馬車を用意させといたのさ、遠くもないんだがね。それとも徒歩《かち》で行ってみるか?」
「いや乗って行くほうがいい」ステパン・アルカジエヴィッチは、馬車のほうへ歩みよりながらいった。彼は虎の皮の膝掛けで足をくるんで、葉巻に火をつけた。「いったいどうしてきみは、たばこを吸わないんだろうなあ。葉巻――これは満足そのものというよりも、完成の最後の段階、満足の象徴だ。これこそ真の生活だ! なんてすばらしいことだろう? こういう生活こそぼくの願ってやまないものなのだ!」
「だから、だれもきみのじゃまなんかしやしないじゃないか?」と笑いながらレーヴィンはいった。
「いや、きみは幸福な男だよ。きみの愛しているものは、一から十まできみの手にある。馬が好きだ――ある。犬――ある。猟――ある。領地――ある」
「だが、それはぼくが、自分の持ってるものだけに満足して、ないもののためにくよくよしないせいだろうね」とレーヴィンは、キティーのことを思い出しながら、いった。
ステパン・アルカジエヴィッチはそれを察して、彼の顔を見たが、なんともいわなかった。
レーヴィンは、オブロンスキイが例のもちまえの機転で、自分がスチェルバーツキイ家の話を恐れているのを察して、それについては一言もふれないのを感謝していた。とはいえ今やレーヴィンには、そろそろあんなにも自分を悩ませていた事件のなりゆきが知りたくなった。が、それを言いだす勇気がなかった。
「ときに、きみのほうの問題はどうだね、え?」とレーヴィンは、自分のことばかり考えていることの、自分としてよくないことに心づいて、こういった。
ステパン・アルカジエヴィッチの目は、愉快そうに輝きだした。
「きみは、一定の食糧を得ていながら、巻パンをほしがってもいいなんてことは認めまい。きみにいわせれば、それは罪悪だろう。ところがぼくはまた、愛のない生活を認めないんだ」と、彼はレーヴィンの質問を、自分勝手に解釈していった。「どうしようがあるもんか、ぼくはそういうふうにつくられてるんだもの、それに、じっさいこんなことは、大して人に累《るい》をおよぼすことじゃないからね。しかも自身には十分の満足が……」
「いったいきみは、どうしたというんだ。また何か新しい事件でもできたのかい?」と、レーヴィンはきいた。
「そうなんだよ、きみ! きみも知ってるだろう、オシアンの女のタイプを……夢のなかで見るような女の……そういう女が、どうかすると、現実にあるんだよ……そうして、そういう女は恐ろしいのだ。女というやつは、ねえきみ、きみがいかに研究したところで、つねに完全に新しい姿をもっているものなんだからね」
「それならむしろ、研究なんかしないほうがいいじゃないか」
「どうしてどうして。ある数学家がいってるじゃないか、喜びは真理の発見にあらずして、その探求のうちにありって」
レーヴィンは黙って聞いていた。そして、自分にたいしてずいぶん骨を折ってみたけれども、彼はどうしても、自分の友人の腹へはいって、その感情を理解し、そうした女を研究する喜びを、理解することができなかった。
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十五
猟場《りょうば》は、ほど遠からぬささやかな白楊林《はくようりん》のなかを流れている小川のほとりにあった。林の近くまで乗りつけると、レーヴィンは馬車をすてて、オブロンスキイを、早くも雪から解放されている、こけの多い泥ふかい空地の一隅へとみちびいていった。そして自身は、ほかの一隅の、ふたまたの白|かば《ヽヽ》のそばへもどって来て、低い枯枝のまたへ銃をもたせかけ、長上着を脱ぎ、帯を締めなおして、手の運動の自由を試みてみた。
彼のあとからついて来た灰色の老犬ラスカは、彼の正面に注意ぶかくうずくまって、きっと耳をそばだてた。太陽は、大きな森林のかなたに沈みつつあった。そして、夕ばえの光のなかでは白楊林《はくようりん》のところどころにまき散らされている白|かば《ヽヽ》が、ふくらんで、ほころびそうになっている芽をもったしだれた枝を、くっきりと描きだしていた。
まだ雪の残っている密林のなかからは、まだまがりくねってほそぼそと流れている水の音が、かすかに聞こえてきた。小鳥はちちとさえずって、ときどき木から木へと飛びうつった。
真の静寂のあいまあいまに、土のとける音や、草の生長のために動かされる去年の朽葉《くちば》のかさこそと鳴る音が聞こえた。
『ほほう! 草の生長するのが、聞こえたり見えたりするわい!』とレーヴィンは、若草の針葉《しんよう》のそばにあった石盤色《せきばんいろ》のしめった白|かば《ヽヽ》の葉の動くのを見つけて、こうひとりごちた。彼は立ったまま耳をすまして、ときには足もとのじめじめしたこけ深い地面を、ときには耳をひったてているラスカを、ときには彼の前に山のふもとまでひろがっている冬枯れの森のこずえの海を、またときには、雲の白い帯をひきまわされた暮色につつまれた空をながめやった。悠然と羽ばたきしながら、一羽のハゲタカが、遠い森のうえを高く飛び過ぎた。と、また一羽、まるで同じ様子で、同じ方向へ飛び去って、消えてしまった。小鳥どもはますます声高に、気ぜわしなげに、茂みの奥でさえずった。まぢかなところで、みみずくが鳴き出した。と、ラスカは身ぶるいして、注意ぶかく五、六歩踏みだした。そして、わきのほうへ頭をかしげて、聞きいりはじめた。流れの向こうからは、ほととぎすの声が聞こえた。ほととぎすは、二度、例の叫び声をたてたかと思うと、やがて、それがかすれて急調子になり、そのままもつれあってしまった。
「どうだ! もうほととぎすがいるね!」とステパン・アルカジエヴィッチは、灌木《かんぼく》のかげから出て来ながら、いった。
「うむ、ぼくも聞いた」とレーヴィンは、われながら不愉快なもちまえの声で森の静寂を破りながら、不満げに答えた。「もう、わけはないよ」
ステパン・アルカジエヴィッチの姿は、ふたたびやぶのかげに隠れた。そして、レーヴィンはただ、ぱっとついたマッチのひかりと、つづいてそれと入れかわったたばこの赤い火と、青い煙とだけを目にした。
チク! チク! ステパン・アルカジエヴィッチの撃鉄《げきてつ》をおこす音が聞こえた。
「ありゃいったい何が鳴いてるのかね?」とオブロンスキイはレーヴィンの注意を、子馬がふざけて細い声でいなないているような、長くひく鳴き声のほうへ向けながら、たずねた。
「ああ、きみはあれを知らないのか? あれはきみ、牡うさぎだよ。だが、話はあとにしよう! ほら聞きたまえ、くるくる!」と、レーヴィンは撃鉄をおこしながら、ほとんど叫ばんばかりにいった。
遠い、細い、笛のような声が聞こえ、そして、猟人にはなじみの深い、例の間《ま》を規則正しくおいて、二秒の後には第二の声、第三の声とつづいたが、第三の声のあとでは、早くもしゃがれ声が聞こえはじめた。
レーヴィンは目を左右へくばった。と、彼の前の暗碧色《あんへきしょく》の空に、白楊林のこずえの重なりあった柔らかいつらなりの上に、飛んでいる小鳥の姿が見えた。小鳥は一|文字《もんじ》に彼のほうへ飛んで来た。地のいい布を裂くような、近くなったそのしゃがれ声が、耳のま上でひびいた。と思うと、もう小鳥の長いくちばしと首とが見わけられた。そして、レーヴィンがねらいをつけると同時に、オブロンスキイの立っていたやぶかげから、赤い火花がぱっとひらめいて、鳥は矢のようにおりて来たが、ふたたび高く舞いあがって行った。ふたたび火花がひらめいて、発射の音がひびいた。と、鳥は、空中にとどまっていようとでもするように、羽ばたきしながら進行をやめて、一瞬間同じ位置にじっとしていたが、やがて、重い音を立てて、どさりとぬかった土の上へ落ちた。
「しくじったかな?」と、煙のためにそれが見えなかったステパン・アルカジエヴィッチは叫んだ。
「だいじょうぶ、もう持って来たよ!」とレーヴィンは、ラスカをさし示しながらいった。犬は、片方の耳を立て、毛のふさふさしたしっぽのさきをたかだかと振りながら、少しでも満足感を長びかせようとでもするように、静かな足どりで、そして微笑でもしているような様子をしながら撃ち落とされた鳥を主人のほうへくわえて来た。「いや、きみがうまくやってくれてよかった」とレーヴィンは、喜びと同時に、そのシギを仕止めたのが自分でなかったことに、早くも羨望《せんぼう》の情をおぼえながらいった。
「うん、右の銃身のがいまいましい射損じだったんだ!」とステパン・アルカジエヴィッチは、銃を装填《そうてん》しながら答えた。「しっ……来た来た」
じっさい、迅速に、つぎつぎと、あいついでくる鋭い鳴き声が聞こえた。二羽のシギがたわむれて、互いに追いかけあいながら、例のしゃがれ声でなく、細い笛のような音を立てるだけで、猟人たちの頭のま上へ飛んで来た。四発の銃声が鳴りひびいた。と、シギはツバメのようにひらりと身をひるがえして、視界から消えてしまった。
…………
猟はすばらしい成績だった。ステパン・アルカジエヴィッチはなお二羽を撃ち、レーヴィンも二羽仕止めたが、そのうちの一羽は見つからなかった。暗くなりはじめた。光の強い、銀色をした金星は、西の空低くその優しい光で白|かば《ヽヽ》のかげに輝きはじめ、東の空には高く、陰うつな牛飼座《うしかいざ》の第一星が、早くもその赤い光芒《こうぼう》を放ちはじめた。レーヴインは自分の頭上に、大熊座(北斗七星)の星々を捕えたり見失ったりした。シギはもう飛ばなくなった。けれどもレーヴィンは、彼の目に白|かば《ヽヽ》の枝より低く見えている金星が、それより高くのぼり、大熊座の星々が、どこから見てもはっきりするまで、待ってみようと決心した、金星はすでにその枝を上へ通り越し、大熊座の車は、そのながえとともに、もうはっきりと暗緑の空に見えはじめたが、彼はやはりまだ待っていた。
「もうだめじゃないかね?」と、ステパン・アルカジエヴィッチがいった。
森の中はいつかひそまりかえって、一羽の鳥も動かなかった。
「もうちょっと待ってみようじゃないか」と、レーヴィンは答えた。
「ああ、どっちでも」
ふたりはこの時、互いに十五歩くらいの距離に立っていた。
「スティーワ!」とつじょとして、思いがけなく、レーヴィンが言いだした。「なぜきみはぼくに、きみの義妹《いもうと》がもう結婚したのか、いつするのか話してくれないんだい?」
レーヴィンは自分を、きわめてしっかりして、おちついているものと感じていたので、いかなる返事も自分を動かすことはできまいと考えていた。けれども、ステパン・アルカジエヴィッチの返事は、およそ意外なものであった。
「嫁に行くなんてことはきみ、妹はこれまで考えちゃいなかったし、今も考えちゃいないよ。それどころか、あれは非常にからだがわるくて、医者に外国へ転地させられてしまったよ。みんなは、命もどうかって心配しているくらいだ」
「なんだって?」と、レーヴィンは叫んだ。「非常にわるいって? いったいどうしたというんだろう? どうしてあの女《ひと》が……」
彼らがこういう話をしているあいだ、ラスカは耳をひき立てて、頭上の空をながめたり、責めるように彼らを見たりしていた。
『やれやれ、たいへんな時にしゃべりだしてしまった』こう犬は考えた。『鳥が飛んでいるのに……ほらきた、たしかにそうだ。逃がしてしまうわい……』こうラスカは考えた。
ところが、ちようどこの瞬間に、ふたりはとつぜん、耳をつんざくような鋭い鳴き声を聞きつけた。ふたりは急いで銃をとりあげた。と、二つの火光がひらめいて、二発の銃声が同時におこった。空高く飛んでいたシギは、たちまち翼をおさめて、細いわか枝を折りまげながら、茂みのなかへばさりと落ちた。
「こいつはすてきだ! あいうちだ!」とレーヴィンは叫んで、ラスカといっしょにシギを捜しに、しげみのなかへかけこんだ。『ああ、そうだ、何が今は不愉快だったんだろう?』と、彼は思い出した。
『そうだ、キティーが病気なんだ……どうもしかたがない、まったく気の毒だ』と彼は考えた。
「ああ見つけたな! 感心感心」と彼はラスカの口から、まだあたたかい鳥を受け取って、それをほとんどもういっぱいになっていた獲物袋《えものぶくろ》へ押しこみながら、いった。「見つかったよ、スティーワ!」と彼は叫んだ。
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十六
家のほうへ帰るみちみち、レーヴィンは、キティーの病気とスチェルバーツキイ家の計画とについて、詳細にたずねた。そして、それを承認することは、多少良心にとがめはしたが、彼の聞きえた事情は、彼にとって快かった。快かったというのは、まだ望みがもてるということからでもあるが、それ以上に、彼をあんなに苦しめるようなことをした彼女が、今は苦しんでいるという一事からでもあった。が、ステパン・アルカジエヴィッチがキティーの病気の原因について話しはじめて、ウロンスキイの名を言いだすと、レーヴィンは彼をさえぎった――
「ぼくは、家庭の内輪話を知るなんの権利もも持っていない。いや、じつをいえば、なんの興味をも持っていないよ」
ステパン・アルカジエヴィッチは、レーヴィンが、一分前に愉快そうにしていたと同じ程度に急に陰うつになった、前にもおぼえのある瞬間の変化をその顔色に読んで、かすかににっとほほえんだ。
「きみはもう、森の件でのリャビーニンとの交渉は、すっかり片をつけたのかい?」とレーヴィンはきいた。
「うん、つけた。いい値だったぜ、三万八千ルーブリだからね。八千はさきにくれて、残金はむこう六か年内にくれるというのだ。ぼくもこのことでは長いあいだ奔走《ほんそう》したが、だれもそれ以上は出さなかったよ」
「それはつまり、きみがあの森を、ただでくれてやったようなものなんだよ」とレーヴィンは沈うつな調子でいった。
「へえ、どうして、ただなんだい?」とステパン・アルカジエヴィッチは、今はいっさいのものがレーヴィンには気にいらないことを見てとって、善良そうな微笑をうかべながらいった。
「どうしてって、つまりあの森は、少なくとも一デシャティーナ五百ルーブリの価値はあるからさ」とレーヴィンは答えた。
「ああ、どうも、田舎の領主さまはたまらんな!」と、ステパン・アルカジエヴィッチは冗談らしくいった。「われわれ都会人にたいするきみたちのこういう侮辱の調子はたまらんよ!……ところが、いざ仕事というだんになれば、なんといってもわれわれのほうが上手《うわて》さ。安心してくれたまえ、ぼくだって十分そろばんははじいてみたんだから」と彼はいった。「まったくあの森は、非常にうまく売れたんだよ。ぼくはむしろ、やつが今になってことわりはしないかとあやぶんでいるくらいだ。だってあれは、木材用の森じゃないからね」とステパン・アルカジエヴィッチは、木材用《ヽヽヽ》という言葉で、レーヴィンをして彼の疑いの正しくないことを確信させようと思いながら、いった。「どうしてむしろ、薪用の森といったほうがいいくらいのものだ。一デシャティーナ三十サージェン以上にはあたりゃしないよ。それをあの男はぼくに、二百ルーブリの割で払うんだからね」
レーヴィンはさげすむように、にっと笑った。『わかったことだ』と、彼は考えた。『こういうやり口は、ひとりこの男だけにかぎらないんだ。十年のあいだに二度ぐらい田舎へ来て、田舎言葉の二つ三つも覚えると、それをところかまわずふりまわして、何もかものみこんだような気になってる都会人のだれにもあるやつなんだ。木材用《ヽヽヽ》だの、|三十サージェンにあたる《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》だのって、口でこそいうが、自分はからきしなんにもわかってやしないんだ』
「ぼくはきみが役所で書いていることを、きみに教えようとはしないよ」と、彼はいった。「必要とあれば、ぼくのほうからきみにきく。ところがきみは、森についての|いろは《ヽヽヽ》くらいはわかってるつもりらしいが、どうしてなかなかむずかしいものなんだよ。きみは立木の数を勘定したかい?」
「どうして立木の勘定ができる?」とステパン・アルカジエヴィッチは、やはりまだこの友だちを、そのこじれた気分から引き出そうと念じながら、笑顔でいった。「砂の数を数えたり、遊星の光芒《こうぼう》を数えたりすることは、偉大なる天才ならできるかしらんが……」
「そうだ。ところが大天才リャビーニンには、それができるんだよ。だいたいどんな商人だって、きみのようにただでくれるんでないかぎり、勘定せずに買うやつなんかありゃしないよ。きみの森はぼくも知ってる。毎年、あちらのほうへ猟に行くからね。きみの森は、現金で五百ルーブリの値うちはあるよ。それをやつはきみに、のべ金で二百ルーブリしか出さないんだろう。つまりきみがやつに、三万ルーブリ進呈したことになるんだ」
「いや、夢中になるのはもうたくさんだよ」と、ステパン・アルカジエヴィッチは哀れっぽい声を出していった。「じゃあ、なんだってだれひとり、それだけ出す者がなかったんだろう?」
「それはきみ、やつのほうでちゃんと商人仲間と結託《けったく》ができてるからだよ。つまり、買収してしまってあるのさ。ぼくはたいていのやつと取引きしたことがあるから、やつらのやり口はよく知っている。彼らは商人ではなくて高利貸だ。あいつはまた、一割や一割五分程度の口銭にしかならないと見れば、てんで手なんか出しゃしない。一ルーブリのものを、二十カペイカで買える時期をねらっているやつさ」
「いや、もういいよ! きみは少しどうかしている」
「ちっともどうもしてやしないよ」とレーヴィンは、馬車が家のまぢかへ乗りつけたときに、暗い顔をしていった。
入口の階段のところには、すでに、飽食《ほうしょく》した馬をふとい大綱でしっかりとつないで、鉄と革とでびしびしとかためた農具馬車が立っていた。馬車のなかには、リャビーニンのために御者の役を勤めている、バンドを堅くしめた、血の気の多そうな番頭がひとりすわっていた。そしてリャビーニン自身は、もう家のなかにはいっていて、玄関でふたりの友を迎えた。リャビーニンは背の高い、やせ形の、きれいにそった突き出たあごと口ひげと、どんよりとした飛び出た目とをもった中年の男であった。彼は、背中のしりの下までボタンのついた、すその長い紺《こん》のフロック・コートを着て、くるぶしのところがしわになり、ふくらはぎのへんがぴんと張った、背の高い長靴をはいて、その上に大きなオーバーシューズをかけていた。彼はハンケチで顔をぐるぐる拭きまわし、べつだんどうしなくてもきちんとなっていたフロック・コートの前をかきあわせて、まるで何かをつかもうとでもするように、ステパン・アルカジエヴィッチのほうへ手をさしのべながら、はいって来たふたりを笑顔で迎えた。
「やあ、もう来てくれたんですね」とステパン・アルカジエヴィッチは彼に手を握らせながらいった。「それはよかった」
「道がずいぶんひどうございましたが、閣下のご命令にそむくことはできませんで、はい。まったくのところ、途中はずっと徒歩《かち》でまいったようなものですが、それでもどうやらまにあいまして。コンスタンチン・ドミートリチ、ごきげんおよろしゅう」と彼は、レーヴィンの手をとらえようとつとめながら、彼のほうへも声をかけた。が、レーヴィンはしぶい顔をしたまま、彼の手に気づかないようなふりをして、しきりにシギをひっぱり出していた。
「いかさま、猟のお楽しみでいらっしゃいましたので? それで、これは、その、なんと申す鳥でございましょうか?」と、さげすむようにシギを見やりながら、リャビーニンは言いたした。「それでも味がございますので」こういって彼は、さも、こんなものに火薬をついやして打つだけの価値があるかどうかを頭から疑うように、不賛成らしく頭を振った。
「書斎へ行ったらどうだ?」と、気むずかしげに眉をよせながら、レーヴィンはフランス語でステパン・アルカジエヴィッチにいった。
「書斎へ行きたまえ、そしてあすこで話をしたまえ」
「いえもう、どちらでもけっこうでございます」とリャビーニンは、人をくったような、高飛車《たかびしゃ》な調子で、あたかも、人と事を決する場合、他人にはめんどうがありうるかもしれぬが、自分においては何事にも、断じてめんどうなんかありえないということを、感づかせようとするかのような調子でいった。
書斎へ通りながら、リャビーニンは習慣どおり、み像のありかを求めるように見まわしたが、それを見いだしても、十字を切ることはしなかった。彼は戸だなや書架《しょか》を見て、シギを見たときと同じ疑わしげな、ばかにしたような冷笑をうかべ、どうみてもこんなものに値うちがあるとは思えないという様子で、不賛成らしく頭を振った。
「どうです、金は持って来ましたか?」とオブロンスキイはきいた。「まあ、お掛けなさい」
「いえもう、金のことではご心配はございません。わたくしはただ、お目にかかって、ご相談したいことがございまして、それで」
「相談って、なんですか? まあ、掛けたまえな」
「それはそうと」とリャビーニンは腰をおろして、いかにも窮屈そうな様子で、肘掛けいすの背にひじをつきながらいった。「もう少しご譲歩くださらなければ、公爵、罪でございますよ。金のほうはもうすっかり、一カペイカまで用意ができておりますから、そのほうに支障はけっしてございませんのですが」
レーヴィンは、そのあいだに銃を戸だなへしまって、もう戸口のほうへ出て行くところであったが、商人の言葉を聞きつけて、立ちどまった。
「それでなくてもきみは、まるきりただ同然で、森を手に入れたんじゃないか」と彼はいった。「なにしろ、この男のぼくんとこへの来ようが少し遅かったよ。でなければ、ぼくが値をつけてやるのだったに」
リャビーニンは立ちあがって、なんともいわずににやにやしながら、レーヴィンを見あげ見おろした。
「どうも、おきびしいですな、コンスタンチン・ドミートリチ」と彼は、笑顔をステパン・アルカジエヴィッチのほうへ向けながらいった。「こちらさまからは、もう絶対になんにもいただけませんでございますよ。よく小麦をわけていただきましたが、ずいぶんいいお値段でございましたからな」
「しかし、どういう理由でぼくは、自分のものをきみにただであげなけりゃならないんだろう? ぼくは道で拾ったものでもなけりゃ、盗んで来たんでもないからね」
「おそれいりましたが、今日の世の中では、盗みなんてことは、|確実に《ヽヽヽ》できないのでございますからな。今日ではもう、何もかも|決着に《ヽヽヽ》、公明正大な法律によることになっておりまして、すべてが正しくできておりますので、盗みどころのさわぎではございませんので、はい。わたくしどもは、ほんとうに、正直にご相談いたしましたんでございますよ。ところが、例の森は、お値づけが少々高すぎまして、とてもそろばんが持てませんのでございます。で少々のところでも、なんとかひとつお引き願いたいとぞんじましてな、はい」
「じゃあ、きみたちの話はもうすんでるのか、それともまだなのか? もしすんでるのなら、いまさら値切ることはない。が、もし、すんでいないんなら」とレーヴィンはいった。「その森はぼくが買おう」
微笑はたちまちにして、リャビーニンの面から消えた。はげたかのような貪婪《どんらん》な、残忍な表情が、その顔に固着した。彼は、敏捷な骨ばった指でフロックのボタンをはずし、シャツと、チョッキと胴ボタンと、時計の鎖とをさらけ出して、手早く、ふくれあがった古びた紙入れを取り出した。
「どうぞお手やわらかに。森はもうてまえのもので」と彼はすばやく十字を切って、手をさしのべながらいった。「どうぞ代金をお納めくださいまして、森はもうてまえの所有でございます。そこがこれ、リャビーニンの商いぶりで、一文二文のことをかれこれは申しませんので」彼はしかめつらをして、紙入れを振りまわしながらいった。
「ぼくがもしきみだったら、そう急ぎはしなかったがなあ」とレーヴィンはいった。
「いやはやどうも」と、あきれたような顔をしてオブロンスキイはいった。「だって、もう契約しちゃったんだからねえ」
レーヴィンは音高くドアをしめて、部屋を出ていった。リャビーニンは戸口のほうを見やりながら、うす笑いをうかべて頭を振った。
「まったくお若いことで、まだまるっきりのお坊ちゃまでいらせられる。だって、わたくしがいただきますのは、まったくその、どうぞ、てまえをご信用くださいまし、ただもう、ひとつの名誉がほしいからだけなんでして、つまりその、オブロンスキイ家の森を買い取ったのはだれでもない。あのリャビーニンだと、こういわれたいがためなんでして。どうしてそろばんがとれるか、それはすべて神さまのおぼしめししだいなんでございますよ。どうぞ神さまをお信じくださいまして、それではどうぞ、契約書にご署名を……」
一時間のちには、商人は、きちょうめんに下着をかきあわせ、フロックのボタンをかけて、契約書をポケットへおさめ、例の鉄をはりまわした堅牢な馬車に乗って、帰路についていた。
「へっ、ああいうだんながたというものは!」と、彼は番頭にいった。「みんな同じようなもんだて」
「まったくでございますな」と番頭は彼に手綱を渡して、革の前おおいのボタンをかけながら、答えた。「それはそうと、森のほうじゃ、一杯飲ませていただけましょうね、ミハイル・イグナーチッチ?」
「うん、うん……」
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十七
ステパン・アルカジエヴィッチは、三か月先払い分として商人が彼に払った銀行手形でポケットをふくらませて、二階へ行った。森の一件が片づいて、金が手にはいったうえ、猟は申しぶんなかったので、ステパン・アルカジエヴィッチは、いやがうえにも上きげんになってしまった。それで、なおのこと彼は、レーヴィンの上に見いだした不きげんを追いはらいたい欲求をせつに感じた。彼は、夜食のあいだに今日の日を、それがはじまったと同じように、愉快に終わらせたいと思ったのである。
じっさい、レーヴィンは気分が晴れなかった。そして、愛すべき賓客《ひんきゃく》にたいして、親切に、あいそよくありたいという希望にみちていながら、自分にうちかつことができなかった。キティーが結婚しなかったという知らせは、しかし、だんだんに彼の心を酔わせはじめた。
キティーは、嫁にも行かなくて病んでいる。彼女は裏切った男にたいする愛のために病んでいる。この侮辱は、あたかも、彼自身の上にくわえられたもののようであった。彼女はウロンスキイにふられ、レーヴィンは彼女にふられた。したがって、ウロンスキイは、レーヴィンをあなどる権利をもったも同然で、そのゆえに彼の敵であった。けれどもレーヴィンは、ことごとくそう考えていたわけではなかった。ただ彼はそのうちに、何か彼を侮辱するもののあることを、漠然と感じていたにすぎなかった。で、今の彼は、自分を台なしにした事柄にたいして、腹をたてているのではなくて、目の前へ現われ出てくるすべてのものにたいして、かんしゃくをおこしているのであった。愚劣せんばんな森の売りかたや、オブロンスキイがおちいった瞞着《まんちゃく》、しかも、それが彼自身の家でものにされたという事実にたいして、おびただしく興奮しているのであった。
「やあ、すんだかね?」と彼は、二階でステパン・アルカジエヴィッチを迎えながら、いった。「夜食はやるかね?」
「ああ、けっこうだね。いやどうも、田舎へ来たら腹のへることへること、ふしぎなくらいだよ! だが、なぜきみは、リャビーニンに食事をすすめなかったんだい?」
「ふん、あんなやつ、まっぴらごめんだよ!」
「しかし、きみのあの男にたいする態度ときたら!」とオブロンスキイはいった。「手も出してやらないんだからなあ。なんだって手ぐらい出してやらなかったんだい!」
「ぼくが従僕に手をあたえないと同じ理由からさ。しかも、従僕どものほうが、あの男よりゃ百倍もましだよ」
「おやおや、きみは驚いた保守主義者だね! じゃあ階級合流はどうなんだい?」とオブロンスキイはいった。
「合流が愉快な人には――それもよかろう――が、ぼくはいやだね」
「きみは、まったく、純然たる保守主義者だね」
「じつのところ、ぼくは自分が何者だなんてことは考えたことがない。ぼくは――コンスタンチン・レーヴィンだ、それ以上の何者でもない」
「しかも、ごきげんはなはだ斜めなるコンスタンチン・レーヴィンだろう」と笑いながら、ステパン・アルカジエヴィッチはいった。
「そうだ、ぼくは不きげんだ、が、それがなぜだか知ってるかい? それは、失敬な言いかただが、きみの愚劣な取引きのせいだよ……」
ステパン・アルカジエヴィッチは、罪もないのに責めさいなまれる人のように、善良らしく眉をひそめた。
「いや、もうたくさんだよ」と、彼はいった。「ある人があるものを売却した場合に、売ってしまうとすぐ――『あれはもっとずっと高いものだったのに』と、第三者がそのある人にいわなかったためしがあるだろうか? そのくせ売ってしまうまでは、だれも金を出そうとはいわないんだ……いいや、ぼくにはわかっている。きみはあの不幸なリャビーニンにたいして歯をむいているんだ」
「そうかもしれない、そうだろう。だが、きみはその理由を知ってるかい? というと、きみはまたぼくを、保守主義者だとか、あるいはもっとひどい言葉で呼ぶかもしれんが、しかしぼくにはやはり、ぼく自身それに属し、また階級合流のなんのと言いながらも、なおそれに属していることを誇りとしている貴族なるものが、あらゆる方面からますます窮迫していく事実を見るのが、情けなく心外でならないんだよ……しかもこの窮迫たるや、けっしてぜいたくの結果ではない。それならかえって文句はいらないんだがね。なぜって、元来だんなぶって生活するということ――これは貴族の本領で、貴族のみのよくしうることなんだから。ところが現今では、われわれの周囲で、百姓どもがさかんに地面を買い集める――それもいいさ。貴族は遊び暮らしている。百姓は働く。そして怠け者を押しのけてしまう。それは当然のことだ。そしてぼくは、百姓のために非常に喜んでいる。けれどもぼくには、なんというか、つまり貴族が、無邪気であるがために貧乏になっていくのを見ることが、やりきれないんだ。こちらではポーランド人の小作人がニーツに住んでいる貴族の婦人から、りっぱな領地を半値で買い取ったかと思うと、あちらではまた、一デシャティーナ十ルーブリの値うちのある地面を、一ルーブリで商人に貸している。かと思うと、こんどはきみが、ぜんぜんなんの理由もなしに、あのかたり野郎に三万ルーブリ進上してしまった」
「じゃあどうすればいいんだい? 一本一本立木を数えるのかい?」
「もちろん、そうしなくちゃ。こんどでもきみは数えなかったが、リャビーニンは数えているよ。おかげでリャビーニンの子供たちは、生活費と教育費にありつくわけだが、きみんとこの子供は、そういうわけにはいかないだろう?」
「うん、まあ、そういえばそうだ。だが、そんな勘定をすることには、何やらみじめなものがあるじゃないか。われわれにはわれわれの仕事があり、彼らには彼らの仕事がある。そして彼らには、利益が必要なのだ。それはとにかく、事件はもう手を打ってすんでしまったことだ。ほ、また、ぼくの大好物の卵の目玉焼が出たね。それにまた、アガーフィヤ・ミハイロヴナは、例の珍しい浸草酒《しんそうしゅ》をくれるだろうし……」
ステパン・アルカジエヴィッチは、テーブルに向かって腰をおろすと、こんな昼食や夜食は久しく食ったことがないなどと言いながら、アガーフィヤ・ミハイロヴナにからかいはじめた。
「あなたさまはほめてでもくださいますが」と、アガーフィヤ・ミハイロヴナはいった。「こちらのコンスタンチン・ドミートリチときたら、何をさしあげても、パンの皮でも、黙ってめしあがって、さっさと立っておしまいなさる」
レーヴィンは、いかに自分にうちかとうとつとめても、どうも陰うつで、黙りがちになった。彼には、ステパン・アルカジエヴィッチにきかなければならないことが、ひとつあった。が、その決心がつかなかったばかりでなく、いつ、どんなふうにしてそれをきり出したらいいかという形式をも、機会をも、見いだすことができなかった。ステパン・アルカジエヴィッチは、いつか階下の自分の部屋へおりて行って、服を脱ぎ、もう一度顔を洗って、縁《ふち》どりをした寝間着を着て横になったが、レーヴィンはなおもさまざまな、要もないことをしゃべりながら、ききたいことをきく勇気もなくて、いつまでもそこにぐずぐずしていた。
「この石けんはじつによくできてるじゃないか」と彼は、アガーフィヤ・ミハイロヴナがせっかく客間に用意したのに、オブロンスキイが使わなかった石けんの、香気の高い一片を包み紙から出して、ながめまわしながらいった。「まあ見たまえ、じっさい、これはもうりっぱな芸術品だよ!」
「ああ、今日《こんにち》では完成ということが、ほとんどすべてのものに行きわたっているからね」とステパン・アルカジエヴィッチは、うるおいのある、幸福そうなあくびをしながら、いった。「たとえば、芝居、それから、あの遊園地――あーあーあ!」と、彼はあくびをした。「電燈がいたるところに……あーあ」
「ああ、電燈」とレーヴィンはいった。「そうだ。が、ときに、ウロンスキイは今どこにいるんだね?」と彼は、急に石けんを下に置いてたずねた。
「ウロンスキイ?」とステパン・アルカジエヴィッチは、あくびをやめていった。「あの男はペテルブルグにいるよ。きみのあとからすぐ行ってしまって、それ以来一度もモスクワへ来ないのさ。そこで、ねえコスチャ、ぼくは真実のことをいうが」と彼は、テーブルに両ひじをつき、手の中へ、その美しい、ほんのりそまった顔をのせていった。その顔には、油をひいたような、善良らしい眠そうな目がふたつ、星のように光っていた。「きみ自身にも罪はあるんだよ。きみは競争者を恐れた。が、ぼくは、あの時もきみにいったとおり、どっちのほうにより多くの希望があったか、わからないと思うのだ。なぜきみは突進しなかったんだ? ぼくはあの時もきみにいった、その……」と彼は、口をあかないで、あごだけであくびをした。
『この男は、おれが申し込みをしたことを、知ってるんだろうか知らないんだろうか?』とレーヴィンは彼を見ながら考えた。『うん、この男の顔つきには、どこやら狡猾《こうかつ》な、外交的なところがあるわい』そして、自分があかくなっていることを感じながら、無言のまま、ステパン・アルカジエヴィッチの目をひたと見すえた。
「もしあの時、彼女のほうに何事かがあったとしても、それは外面的の誘惑だったんだよ」とオブロンスキイはつづけた。「それはきみ、完全な貴族主義と、社交界における将来の位置とが、彼女自身でなくて、彼女の母親に作用したにすぎないんだよ」
レーヴィンは眉をしかめた。彼がそのなかをくぐってきた拒絶の侮辱が、なまなましい、いま受けたばかりの傷のように彼の心を焼きただらせた。けれども、彼はわが家にいた、わが家では四方の壁がささえてくれる。
「まあ待ってくれ、待ってくれ」と、オブロンスキイをさえぎりながら、彼は言いだした。「きみは貴族主義だという。じゃ、きくがね、ウロンスキイにしろだれにしろ、そういう連中の貴族主義とは、いったいどういうものか――つまり、ぼくをあなどるにたる貴族主義とは? きみはウロンスキイを貴族だと思っている、が、ぼくはそうは思わない。その父親は名もない生まれから狡知《こうち》をもってなりあがり、母親はだれとどんな関係にあるか知る人もないような人間が、なんで……いいや、僭越《せんえつ》だがぼくは、自分や自分と同じような人々、すなわち、高い程度の教養をもった(才能と知力――それは別問題だがね)過去三、四代の家族の名誉ある系統をさしうる人々、ぼくの祖父が生活したように、なんぴとの前にもけっして自分を卑しくせず、なんぴとにも不足を訴えたことのない人々、そういう人だけを貴族と数えるのだ。そしてぼくは、多くのそういう人々を知っている。きみには、ぼくが森の立木を数えるのが卑しく思われよう。なにしろきみは、リャビーニンに三万ルーブリ|のし《ヽヽ》をつけた人だからね。だがきみは、俸給とかなんとか、ぼくの知らないものをとっているが、ぼくにはそれがない。だからぼくは、先祖伝来のものおよび、労力で得たものを尊重するのだ……ぼくらこそ貴族であって、単にこの世の権力社会からの贈与ひとつで生活をつづけたり、二十カペイカも出せばざらにあるような人間は、それとはいわれないんだよ」
「だがきみは、だれのことをいってるんだね? ぼくだって、きみと同意見だぜ」と、ステパン・アルカジエヴィッチは、レーヴィンが二十カペイカ出せばざらにある人間と名づけたなかには自分もふくまれていることを感じていながら、心から愉快そうに、こういった。レーヴィンの元気の回復が、彼には心からうれしかったのである。「きみはいったい、だれのことを? そりゃウロンスキイに関するきみの言葉には、まちがった点が多々ある。が、ぼくは、それをとやかくいうのじゃない。ぼくはきみに直截《ちょくせつ》にいう――ぼくがもしきみの位置にいたら、ぼくはただちにきみとモスクワへ出かけるね、そして……」
「いや、きみが知っているかどうかはべつだが、ぼくにとっては同じことだ。そこで、ぼくはきみにいうがね――ぼくは申し込みをして拒絶されたんだよ。で、今では、カテリーナ・アレクサーンドロヴナの名は、ぼくにとって非常に重苦しい、恥ずかしい思い出になっているんだ」
「どうしてさ? それこそくだらんよ!」
「しかし、もうこんな話はよそう。どうかぼくを許してくれたまえ、もしきみにたいして失敬な態度でもあったら」とレーヴィンはいった。今や、すべてをうちあけてしまって、彼はふたたび朝あった人のようになったのである。「きみはぼくにたいして怒ってやしないかね、スティーワ? どうか、気をわるくしないでくれたまえ」彼はこういって、ほほえみながら、彼の手をとった。
「いいや、どうして、ちっとも。またなにも、気をわるくすることがないじゃないか。ぼくはむしろ、ふたりがうちあけて話しあったことを喜んでいるよ。それはそうと、どうだろう、朝猟もときにゃいいものだ。行ってみたらどうだろう? ぼくはこのまま眠らなくてもいい、猟場からまっすぐ停車場へ行っても」
「ああ、それもよかろう」
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十八
ウロンスキイの内生活は、すっかり例の情熱でみたされていたにもかかわらず、その外的生活は、社交界と連隊とのさまざまな関係と利害とからなりたった、従前どおりのきまった軌道《きどう》に乗って、あいかわらず不可抗的に回転していた。連隊の利害が、ウロンスキイの生活では、重要な位置をしめていた――それは、彼が連隊を愛していたからにもよるが、それにもまして、連隊内で愛せられていたからである。連隊では、みんながウロンスキイを愛したばかりでなく、彼を尊敬し、彼を誇りとしていた。というのは、この男が莫大な富を有し、りっぱな教養と才能と、あらゆる種類の成功・名誉・栄達にたいする坦々《たんたん》たる大道を有しながら、しかも、そういうものをいっさい無視して、あらゆる人生の利害のなかから連隊と同僚たちの利害だけを、なにより近く自分の心においていた、その点を誇りとしていたのであった。ウロンスキイは、自分にたいする同僚たちの、こうした見解を知っていた。で、この生活を愛したばかりでなく、自分の上に定められたこの見解にそうことをもって、自分の義務と感じていたのである。
もとより、いうまでもないことであるが、自分の恋については、彼は、同僚のだれにも語らなかった。どんなにさかんな酒宴の席でも、口をすべらせるようなことはなかったし(もっとも、彼はいかなる場合でも、自制力を失うほどに酩酊《めいてい》したことはなかった)、ことに、同僚たちのなかでも、彼の情事についてほのめかそうとするような軽率な連中には、口をひらかせないだけの手当てをしていた。しかし、それにもかかわらず、彼の恋は全市に知れわたっていた、――だれもかれもが、カレーニン夫人にたいする彼の関係を、ある程度正確に推測していた――若い人々の多くは、彼の恋での最も重苦しい点にたいして――すなわちカレーニンの高い地位と、したがってそれが、世間にひろがりやすいということにたいして、彼を羨望《せんぼう》しているのであった。
アンナをうらやましく思いながら、彼女が高潔な|婦人と呼ばれること《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》に、もうすっかりあきあきしていた若い婦人たちの多くは、自分たちが予想していたことを喜んで、自分たちの軽蔑の重荷をもって彼女の上へのしかかろうと、転換した世評の確定するのばかりを手ぐすねひいて待っていた。彼女たちは、機会のきたときに彼女の上へ投げかけるべき罵署雑言《ばりぞうごん》の土くれを、もうちゃんと用意していた。相当年ぱいの人々の多くや、地位の高い人たちは、わざわざ用意して待っているような、こうした世間のスキャンダルを、にがにがしく思っていた。
ウロンスキイの母は、彼の情事を知って、最初のうちは満足していた――というのは、彼女の意見にしたがえば、上流社会における情事ほど、前途ある青年にはなばなしい装飾をあたえるものはないということと、あんなにまで彼女の気にいっていたカレーニン夫人が、あれほどわが子のことばかり話していた夫人が、やはり、ウロンスキイ伯爵夫人の解釈によると、多くの美しいりっぱな夫人と選ぶところがなかったという一事からであった。ところが、最近になって、むすこが、せっかく与えられた将来の出世のためにこの上ない地位を、単にカレーニン夫人と会うことのできる連隊に残りたいためばかりに拒絶し、それがために上司の人々の反感を買ったということを知るにおよんで、彼女は自分の意見を一変した。彼女にはまた、この情事に関して聞きこんだすべてに徴して、それが、彼女が是認したであろうような、はなばなしい、優雅な社交的な情事ではなくて、一種ウェルテル式な、絶望的な、彼女の知るかぎりでは、大それた深みへまで彼を引きこんでもいきかねないような情熱であることが、気にいらなかった。彼女は、彼がにわかにモスクワを立って以来彼を見なかったので、兄むすこを通して彼に、彼女のもとへくるようにと要求してよこした。
兄もまた、弟には不満をいだいていた。彼は、それがどういう種類の恋であるか――大きなものか、けちなものか、情熱的なものか非情熱的なものか、罪ふかいものかそうでないものか(彼は自身、子供のある身で踊り子を世話したりしていたので、この点では寛容であった)、それにはむとんちゃくであった。けれども、この恋が――気にいらなければならぬ人たちにも歓迎されていないのを知っていたので、この点で、弟の行為を賞賛しなかったのである。
勤務と社交との仕事のほかに、ウロンスキイには、もうひとつの別の仕事――乗馬があった。馬にたいしては、彼はじつに熱烈な愛好者であった。
ちょうど今年は、将校たちの障害物競馬が行なわれることになっていた。ウロンスキイはこの競走に加入するとて、イギリス種の純良な牝馬《めうま》をあがない、一方に恋に熱中しながら、ひかえめにではあったがかなり熱烈に、目前に追っている競馬に心を奪われていた。
これらのふたつの情熱は、互いにじゃまをしあわなかった。いや、それどころか、彼にとっては、むしろ反対に、情事とは独立したものであって、そこで彼が心を一新し、あまりに悩ましい印象から心を休めることのできるような、仕事なり心をひくものなりが、必要であったのである。
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十九
クラースノエ・セロ(赤い村)における競馬の日には、ウロンスキイはいつもより早く、将校集会所の食堂へ、ビフテキをたべに行った。彼には、その体重がちょうど必要とされた四プード半になっていたから、それ以上厳格に自分を拘束《こうそく》する必要はなかったのだが、少しでもふとらないほうがよかったので、澱粉質《でんぷんしつ》や甘い物を避けたのである。彼は、白いチョッキの上にボタンをはずしたフロック・コートをかさね、両手をテーブルにほお杖をついて、注文したビフテキを待ちながら、皿の上にのっていたフランスの小説本に見いっていた。しかし、彼が本を見ていたのは、ただ出はいりする士官たちと口をきくのを避けるためにほかならなかった。心ではしきりに考えごとをしていた。
彼は、アンナが今日自分と、競馬のあとで会う約束をしていたことを考えていた。しかし彼は、彼女をもう三日も見なかったうえに、夫が外国から帰って来ていたので、それがはたして今日実現されるかどうかもわからなければ、またどうしてそれを確かめたらいいかもわからなかった。彼が最後に彼女と会ったのは、いとこのベーッシの別荘であった。カレーニン家の別荘へは彼は、できるだけ足を遠くしていた。が、今はそこへ行こうと思ったので、『どういうふうにして行ったらいいか?』――という問題について、思案をこらしていたのである。
『もちろんおれは、ベーッシに頼まれて、あの女が競馬に行くかどうかを問い合わせるためによったのだといおう。むろん、行こう』本から頭をもたげながら、彼はわれとわが心にこう思いさだめた。彼女を見る幸福をまざまざと心に描きだして、彼は顔を輝かした。
「おれのところへな、使いをやって、三頭立てのほろ馬車を大急ぎで支度するようにいってやってくれ」こう彼は、熱くなっている銀皿にのせたビフテキを運んできたボーイにいって、皿を引きよせてたべはじめた。
隣りの撞球場《どうきゅうじょう》では、球をつく音と、話し声と、笑い声とが聞こえていた。入口からふたりの士官が現われた――ひとりは、近ごろ幼年学校から彼らの連隊へ来たばかりの、若い、弱々しげなほそ面の男で、もうひとりは、手くびに腕輪をはめて、脂肪のなかにおぼれたような小さな目をもった、ぶくぶくふとった年よりの将校であった。
ウロンスキイは、彼らを見ると眉をひそめた。そして、ぜんぜん彼らに気がつかなかったように、本の上へ身をかがめて、たべるのと読むのとをいっしょにやりだした。
「よう? 競走の腹ごしらえだね?」とふとった士官は、彼のそばへ来て腰をかけながら、いった。
「ごらんのとおりさ」とウロンスキイは、しかめつらをして、口をぬぐいながら、彼のほうは見ないで答えた。
「が、きみはふとるのを恐れてないのかね?」と相手は、若い士官のほうへいすをまわしてやりながら、いった。
「なんだって?」ウロンスキイは、嫌悪のおももちで、歯なみのいい歯を見せながら、不興げにこういった。
「ふとるのを恐れてないのかね?」
「ボーイ、シェリイ酒!」とウロンスキイは、それに答えようともしないでいうと、本をほかの側へ置きかえて、読みつづけた。
ふとった士官は酒の表をとりあげて、若い士官のほうへ言いかけた。「きみ自分で選びたまえ、何か飲むものを」と相手に表を渡して、その顔を見ながらいった。
「ライン酒にしましょう」と若い士官は、横目でおずおずとウロンスキイのほうを見て、やっと生えだしたばかりのひげを指でつまもうとしながら、いった。ウロンスキイがふり向かないのを見て、若い士官は立ちあがった。
「撞球場へ行きましょう」と彼はいった。
ふとった士官も、おとなしく立ちあがった。ふたりは戸口のほうへ行った。
このとき食堂へ、すらりとした長身の騎兵大尉、ヤーシュヴィンがはいって来た。そしてうわ向きに、軽蔑するように、ふたりの士官に頭を振っておいて、ウロンスキイのそばへ歩みよった。
「ああ、ここにいたのか!」と彼は、その大きな手で相手の肩章を強くたたいて、声をかけた。ウロンスキイはめんどうくさそうにふり返ったが、その顔はさっと、彼特有のおちついた、しっかりした優しさで輝いた。
「うまくやってるな、アリョーシャ」と、騎兵大尉は大きなバリトンでいった。「さあもうひと口食って、一杯飲もうじゃないか」
「いや、おれは、もう食いたくない」
「ふん、おしどりどもが」とヤーシュヴィンは、このときちょうど部屋を出て行こうとしていたふたりの士官のほうを、あざけるように見やりながら言いたした。そして彼は、いすの高さに比例してあまりに長すぎる、細い乗馬ズボンをつけた腿《もも》と脛《すね》とを鋭角に折りまげて、ウロンスキイのそばへ腰をおろした。「どうしてきみは、昨夜クラースノエ劇場へこなかったんだ? あのヌメローワはなかなかよかったぜ。きみはどこへ行ってたんだ!」
「ぼくはトゥヴェルスコーイのとこにすわりこんでたんだ」と、ウロンスキイはいった。
「ああ!」と、ヤーシュヴィンは応じた。
ヤーシュヴィンは、遊び手で、道楽者で、いっさいの主義規範を持たないばかりか、かえって無道徳主義を奉じている男であったが、――そのヤーシュヴィンが、連隊では、ウロンスキイの一ばん仲のいい友だちであった。ウロンスキイが彼を愛したのは、彼がたるのように飲むことや、眠らないでいてもいっこう平気でいられることなどで証明している異常なる体力と、上官や同僚間に、つねに自分にたいする畏怖《いふ》と尊敬の念を呼びおこしていた堂々たる態度と、いかに酒を飲んでいても、イギリスクラブで第一流の遊び手と数えられたほど、つねに細心に確実に、何万という大きな勝負をやるその遊びっぷりに現われている偉大なる精神力とにたいしてであった。なおウロンスキイが彼を愛し尊敬したのは、ヤーシュヴィンが、彼の名声や富にたいしてでなく、彼そのものを愛してくれているのを感じていたからであった。で、あらゆる人のなかから彼ひとりだけには、ウロンスキイも、自分の恋を語りたく思っていた。彼は、ヤーシュヴィンだけは、――見かけはいっさいの感情を無視しているように思われるけれども、彼ひとりだけは、ウロンスキイの全生命をみたしているこの熾烈《しれつ》な情熱を、解してくれるにちがいない、こう感じていたのである。のみならず彼は、ヤーシュヴィンはてっきりもう、うわさや誹謗《ひぼう》に興味を見いださないで、この感情を正しく理解してくれている、つまり恋というものが、冗談や遊戯ではなくて、一種真剣な、重大なるものであることを、知りかつ信じているということを、確信していた。
ウロンスキイは、自分の恋愛にかんして彼に語りはしなかったが、彼がすべてを知り、すべてを正しく理解していることを知っていたので、それを彼のまなざしで読むのが快かった。
「ああ、そうか!」彼は、ウロンスキイがトゥヴェルスコーイのところにいたことにたいしてこういって、その黒い目を輝かし、左の口ひげをつかむと、いつものわるい癖で、それを口の中へ押しこみはじめた。
「それはそうと、きみは昨日どうした? 勝ったかい?」と、ウロンスキイはきいた。
「八千ばかり。が、そのうち、三千はだめだ。取れそうもない」
「じゃあ、なんだね、ぼくのために負けてもいいわけだね」と、ウロンスキイは笑いながらいった。(ヤーシュヴィンはウロンスキイのほうへ大きくかけていたのである)
「どうしたって負けっこないさ。ただマホーティンがあぶないだけだからね」
そして会話は、いまやウロンスキイの念頭にはただそのことだけしかない、今日の競馬にたいする予想のほうへうつっていった。
「行こうじゃないか、ぼくはすんだのだ」とウロンスキイはいって、立って、戸口のほうへ行った。ヤーシュヴィンも同じく、その巨大な足と長い背とをのばして立ちあがった。
「ぼくは食事は早すぎるが、飲むほうは飲まなくちゃあ。あとからすぐ行くよ。おい、酒だ!」と彼は号令で有名な、たくましい、ガラスにびりびりひびくような声で叫んだ。「いや、もういい!」と、すぐに彼はふたたび叫んだ。「きみはうちへ行くのか、じゃぼくもいっしょにいこう」
そして、彼はウロンスキイといっしょに歩きだした。
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二十
ウロンスキイは、ゆったりとした、小ぎれいな、二つに仕切られたフィンランドふうの田舎家に泊まっていた。ペトリーツキイはこの野営でも、彼といっしょに寝起きしていた。ウロンスキイとヤーシュヴィンとがいっしょに小屋へはいっていったとき、ペトリーツキイはまだ寝ていた。
「起きろよ、寝てばかりいないで」とヤーシュヴィンは、仕切り壁の向こうへ行って、鼻をまくらに押しつけ、髪をみだして寝ているペトリーツキイの肩をつつきながら、いった。
ペトリーツキイは、いきなりひざをついて飛びあがり、きょときょととあたりを見まわした。
「きみの兄貴がここへ来てさ」と、彼はウロンスキイにいった。「おれを起こしゃがって、畜生め、もう一度くるとかなんとかいってきやがったっけ」こういって、彼はふたたび毛布をひっぱりながら、まくらの上へ身を投げた。「おい、よせよ、ヤーシュヴィン」と彼は、毛布をはぎとろうとしたヤーシュヴィンに、むきになって食ってかかった。「よせったら!」と彼は寝がえりをうって目を開いた。
「きみ、それより、何を飲んだらいいかいってくれ。口の中が、なんだかその、いやな気持で、その……」
「ウォーツカが一ばんさ」とヤーシュヴィンはバスでいった。「テレスチェンコ、だんなにウォーツカと|きゅうり《ヽヽヽヽ》をもってこい!」と彼は、明らかに自分の声を聞くのを楽しみながら、叫んだ。
「ウォーツカが一ばんだって? ええ?」と顔をしかめて、目をこすりこすり、ペトリーツキイはたずねた。「で、きみも飲むね? いっしょならやるとしよう! ウロンスキイ、やるかい?」とペトリーツキイは立ちあがって、腕から下を、とら毛の毛布にくるみながらいった。彼は仕切り壁の戸口へ来て、手をあげ、フランス語でうたいだした――『むかし、トゥーレに王ありき』……「ウロンスキイ、やるかね?」
「いやだよ」とウロンスキイは、従僕のもって来たフロック・コートを着てしまうと、いった。
「これはまたどこへ?」と、ヤーシュヴィンが彼にきいた。「ほ、三頭立ても来た」と彼は、近づいてくる馬車を見て、言いたした。
「厩《うまや》へいくんだ、それからまだぼくは、馬のことで、ブリャンスキイのとこへも行かなくちゃならん」とウロンスキイはいった。
ウロンスキイはじっさい、ペテルゴフから十ウェルスター〔一ウェルスター(一露里)は約一キロ〕ばかりあるブリャンスキイのもとへ、馬の代を届けてやる約束をしていたので、そこへも都合して、ちょっとよりたいと思っていたのである。けれども、友人たちはすぐに、彼がそこへ行くだけでないことをさとった。
ペトリーツキイは、うたいつづけながら目くばせして、あたかも――知ってるよ、どんなブリャンスキイだか、とでもいうように、口をとがらした。
「気をつけて、おくれるなよ!」とだけヤーシュヴィンは言い、そして話題を変えようとして、「ぼくのくり毛はどうだ、役にたつかね?」と窓を見ながら、自分がゆずった轅馬《ながえうま》のことをたずねた。
「ちょっと待った!」とペトリーツキイは、もう部屋の外へ出ていたウロンスキイを呼びとめた。「きみの兄貴がきみに、手紙となにやら書いたものをおいていった。ちょっと待ってくれ、どこへいっちまやがったかなあ?」
ウロンスキイは立ちどまった。
「いったいどこへやったんだ?」
「彼らはいずこに? それが問題じゃ!」とペトリーツキイは、人さし指を鼻の前で上むきに立てながら、勝ち誇ったような調子でいった。
「早くいえよ、冗談じゃない!」と、微笑しながらウロンスキイはいった。
「ストーブはたかなかったしと、どっかここいらにあるはずだが」
「おい、でたらめはやめろ、きみ! いったいどこにあるんだ。手紙は?」
「ない、まったく、忘れた。それともおれは夢を見たのかな? 待てよ、待てよ! だが、何をぶうぶういうことがある! きみだって、昨日のぼくのように、一時に四本もあけてみたまえ、どこで寝たかも忘れちまわあ。まあ待ってくれ、いま思い出すから!」
ペトリーツキイは、仕切り壁の向こうへ行って、自分のベッドへ寝ころんだ。
「待てよ! こういうふうにおれは寝ていた。こういうふうに彼は立っていた。そう――そう――そう――そう……ほら、これだ!」こういってペトリーツキイは、自分が隠しておいた敷きぶとんの下から、手紙をぬき出した。
ウロンスキイは手紙と、兄の添書《てんしょ》とを受けとった。それは、彼が予期したとおりのもの――つまり、彼が訪ねないことにたいする母からの叱責《しっせき》の手紙と、何か話したいことがあるという兄の添書とであった。ウロンスキイは、それはすべて、例のことにかんしてであることを知っていた。『あの連中になんの用があるもんか?』とウロンスキイは考えた。そして手紙をつかむと、途中でゆっくり読むために、フロック・コートのボタンとボタンのあいだへ押しこんだ。小屋の入口で、彼はふたりの将校とぱったり出会った――ひとりは彼らの、いまひとりはほかの連隊の将校であった。
ウロンスキイの宿所はいつも、将校たちみんなの巣窟になっていた。
「どちらへ?」
「ペテルゴフまで行かなくちゃならないんでね」
「ときに、馬は、ツァールスコエから来ましたか?」
「来ました、ぼくはまだ見ないけれど」
「マホーティンのグラジアートル(格闘士)〔馬の名〕は、びっこをひきだしたということですよ」
「何をばかな! だが、きみはこの泥のなかで、どうして馬車を飛ばそうというんです!」とほかのひとりがいった。
「そら、わが救い主たちよ!」と、はいって来た人たちを見て、ペトリーツキイは叫んだ。彼の前には、ウォーツカと塩づけ|きゅうり《ヽヽヽヽ》とをのせた盆をもって、従卒が立っていた。「このとおり、ヤーシュヴィンが、元気をつけるために飲めというんだ」
「いや、ぼくらはもう昨日、きみにはしっかりごちそうになったよ」と、はいって来たうちのひとりがいった。「夜っぴて寝かしちゃくれないんだからなあ」
「いいや、それより結末がふるってるさ!」とペトリーツキイはしゃべりだした。「ウォルコフのやつ、屋根へはいあがって、おれは悲しいなんて言いだしやがる。ぼくはどなる――音楽をやれ、葬送行進曲をやれってね! そこでやつは、葬送行進曲奏楽裡に、屋根の上で寝ちまったのさ」
「飲め飲め、どうでもウォーツカを飲め、それからゼルツェル水とレモンをうんと」とヤーシュヴィンは、ペトリーツキイの上に立ちはだかって、子供に薬をのませる母親のようにしていった。「そのあとでシャンペンを少し、――そうだ、小びんを」
「ほい、こいつはめっぽうすてきだぞ。まあ待て、ウロンスキイ、一杯やろうじゃないか」
「いや、ぼくは失敬する。諸君、今日はぼくはやらないよ」
「なんだ、重くなるのが気になるのか? じゃあ、ぼくらだけでやろう、さあゼルツェル水とレモンとをよこせ」
「ウロンスキイ!」と、彼がもう玄関へ出てしまったときに、だれかが叫んだ。
「なんだ?」
「きみは髪を刈ったほうがいいかもしれんよ。さもないと、頭が重そうだからね、ことにその禿《は》げたところがさ」
ウロンスキイはじっさい、年のわりに早く禿げかけていた。彼はきれいな、歯なみのいい歯を見せて、快げに哄笑《こうしょう》した。そして禿げの上へ帽子をかぶせ、外へ出て、馬車に乗った。
「厩《うまや》へ!」と彼はいって、いちおう目を通すために、手紙を取り出そうとしかけたが、やがてまた、馬を調べ終わるまでは、ほかのことに気を散らすまいと考えなおした。『そうだ、それからにしよう!……』
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二十一
臨時の厩である木造のバラックは、競馬場のすぐそばに建てられていて、彼の馬は、昨日のうちにそこへ引かれて来ているはずであった。彼はまだそれを見ていなかった。最近の数日というものただ調馬師にまかせきりで、自分では乗ってもみなかったので、彼は、自分の馬がどんな状態で連れて来られて、どんなふうにしているか、さっぱり知らなかったのである。彼がほろ馬車を出るやいなや、彼の馬丁《ばてい》である「グルーム」と呼ばれる少年が、もう遠くから彼の馬車を見つけて、調馬師を呼び出した。たいへん深い長靴に、短いジャケットを着て、あごのさきだけにちょっぴりと毛のふさを残した、ひからびたようなイギリス人は、乗馬者らしい不かっこうな足どりで、ひじをはり、からだを左右にゆすりながら、彼を迎えに出て来た。
「それで、どうだね、フルーフルーは?」と、ウロンスキイは英語でたずねた。
「All right, sir(上乗でございますよ、だんな)」とどこか、のどの奥のほうで、イギリス人の声はいった。「おいでにならんほうがようございますよ」と、彼は帽子をあげながら言いたした。「口籠《くちご》をかけましたので、馬が気が立っておりますから。おいでにならんほうがようございますよ。ただ癇《かん》をたてさせるだけですから」
「いや、おれは行ってみるよ。ちょっとでも見ておきたいんだ」
「ではおともいたしましょう」と、やはり口を開かないで、しぶい顔をしてイギリス人はいった。そして両ひじを振りたて、例のねじのゆるんだような足どりで、さきに立って歩きだした。
彼らはバラックの前の空地へはいった。小ざっぱりとしたジャケットを着た、おしゃれの、利口そうな当番の少年が、手にほうきをもったまま、はいってきた人たちを迎えて、そのあとからついて行った。
バラックの中には、四頭の馬が、仕切りごとにつながれていた。ウロンスキイは、自分の恐るべき競走馬たる、身長五ヴェルショーク(約一・六四メートル)もあるグラジアートルというマホーティンのくり毛馬も、むろん今日はここへ引かれて来ているだろうことを知っていた。自分の馬よりも、ウロンスキイには、まだ見たことのないグラジアートルが見たかった。けれどもウロンスキイは、競馬界の礼儀の法則として、それを見ることが許されないばかりか、その馬のことをきくことすら、無作法とされていることを知っていた。ところが、彼が通路をぬけていったときに、少年が二番めの仕切り戸を左のほうへ開いたので、ウロンスキイは大柄なくり毛馬と、その白い足とを見た。彼はそれがグラジアートルであることを知っていたが、ひらかれた他人の手紙から顔をそむけるのと同じ気持で、彼は顔をそむけて、フルーフルーの仕切りのほうへあゆみをうつした。
「そこにいる馬がマク……マク……どうしても、あの名がいえない」とイギリス人は肩ごしに、きたないつめのはえた親指で、グラジアートルの仕切りのほうをさしながらいった。
「マホーティンのだろう? そうだ、あれがおれの一ばん真剣な敵手だよ」とウロンスキイはいった。
「もしあなたがあれにお乗りになるのでしたら」と、イギリス人はいった。「わたしもあなたに賭けるんでございますがなあ」
「フルーフルーはより神経質だが、あっちはより強そうだ」とウロンスキイは、自分の乗りかたをほめられたので、にこにこしながらいった。
「障害物では、まったく、乗りかたとPluck《プラック》ひとつですからなあ」とイギリス人はいった。
プラックすなわち精力と胆力では、ウロンスキイは、自分にはただにそれがありあまっていると感じていたばかりでなく、なおはるかにいいことには、世界じゅうのなんぴとにも、彼の持っている以上のプラックはありえないと確信していた。
「きみは、たしかに知ってるね、|これ以上やせる《ヽヽヽヽヽヽヽ》必要のないということを?」
「必要はありません」とイギリス人は答えた。「どうぞ、あんまり高い声をお出しなさらんでくださいまし。馬が興奮しますから」と彼は、自分たちがその前に立っていた、戸のしまっている仕切りのほうへ頭を振って見せて、言いたした。そのなかでは、わらの上で足を踏みかえる音が聞こえていた。
彼が戸をあけると、ウロンスキイは、ひとつきりの小さい窓で弱々しく照らされている仕切りのなかへはいった。仕切りのなかには、口籠《くちご》をかけられた黒くり毛の馬が、新しいわらを足でかきよせながら、立っていた。仕切りのほの暗いなかを見まわしてみて、ウロンスキイはまたしても、心にもなく、ひと目で自分の愛馬の全体格を見てしまった。フルーフルーは中背の馬で、体格では満点というわけにはいかなかった。全体に骨格がきゃしゃだった。胸はしっかりと前へはっていたけれども、胸郭《きょうかく》は狭かった。しりはちょっとさがりぎみで、前足、ことに後足がいちじるしくまがっていた。四肢《しし》の筋肉も、かくべつ丈夫そうにはなかったが、そのかわり、この馬は、腹帯のあたりがなみはずれて広かった。それは、ことに今は飼糧《しりょう》前だし、腹が細いために、いっそうきわだって目についた。足の骨のひざから下は、正面から見ると指のふとさくらいにしか思われなかったが、そのかわり横から見ると、なみはずれて広かった。全体としての彼女は、肋骨《ろっこつ》をのぞくほかは、ちょうど両側から押しつぶされたように、たけへだけ伸びていた。けれどもこの馬には、高い程度において、いっさいの欠点を忘れさせる長所があった。その長所は血統であった、――イギリス式の表現を用いれば、|どことなしに現われている《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》血統であった。しゅすのように薄い、やわらかい、なめらかな皮膚の下に、縦横にひかれた血管の網目の下から、くっきりと浮きだしている筋肉は、骨かとまがうほどがんじょうそうに思われた。輝かしく、いきいきとした、とび出た目をしたこの馬のやせた頭は、内部に血のみなぎった膜《まく》をもった、ひいでた鼻孔の鼻梁《びりょう》のところで、思いきってひろがっていた。彼女の全体には、ことにその頭部に、決定的で、精力的で、同時に優しい表情があった。彼女はどうやら、彼らの口の構造がそれを許さないために、口をきかないでいるといったふうな気のする動物のひとつであった。
ウロンスキイには、少なくとも、彼がいま彼女を見て感じていることを、彼女はすべて理解しているような気がしてならなかった。
ウロンスキイがそのそばへはいって行くやいなや、彼女は深く空気を吸いこみ、白目が血ばしるほど隆起した目を斜視《しゃし》にして、はいって来た人のほうを、反対側からながめながら、口籠《くちご》をふるい落とそうとして、ばね仕掛けのようにばたばたと足を踏みかえた。
「そら、ごらんのとおりです、あれはもうすっかり気が立っております」とイギリス人はいった。
「おお、かわいいやつめ! おお!」と、ウロンスキイは馬のほうへ歩みよりながら、彼女を説きさとすようにいった。
だが、彼が近づけば近づくほど、彼女はますます気おい立った。ただ、彼がその頭のそばへよったときに、彼女は急におとなしくなって、その筋肉が、薄くきゃしゃな毛皮の下で、ぶるぶるとふるえはじめた。ウロンスキイはそのがっしりしたあごをなで、とがったうなじのうえで反対側のほうへふり乱されているたてがみの筋目をなおしてやってから、自分の顔を、|こうもり《ヽヽヽヽ》のつばさのように、うすく張りふくらんだ鼻孔のそばへもっていった。馬は、音を立てて吸いこんだ空気を張りきった鼻孔からふうと吐いて、身ぶるいし、とがった耳を伏せながら、主人の袖をとろうとでもするように、その丈夫そうな黒いくちびるを、ウロンスキイのほうへさしのべた。が、口籠《くちご》に気がつくと、それをふるい落とそうとして、またしても彫《ほ》ったような足を、一本ずつ踏みかえはじめた。
「じっとしてろ、これ、じっとしてろ!」と彼は、もう一度手で、馬のしりのほうをなでてやりながらいって、馬が最もすぐれた状態にあるという喜ばしい意識をもって、仕切りの外へ出た。
馬の興奮はウロンスキイにも感染した。彼は血が心臓へみなぎってきて、馬と同じように、はねたり、かみついたりしたくなるのを感じた。そしてそれが、恐ろしくもあれば、愉快でもあった。
「じゃあ、いっさいきみに頼んでおくからね」と、彼はイギリス人にいった。「六時半にはあちらへ来てくれたまえ」
「かしこまりました」とイギリス人はいった。「が、あなたはどちらへおこしですな、my Lord(ご前さま)?」と彼はほとんど一度も用いたことのないLordという呼称を用いて、ふいにたずねた。
ウロンスキイは驚いて頭をあげた。そして心得たもので、イギリス人の目でなくて顔を見た。相手の質問のぶしつけに驚きながらも。けれども、それはイギリス人が、彼を主人としてでなく、一騎手としてこの質問をなしたのであろうと解釈して、こう答えた――
「ぼくはブリャンスキイのところへ行かなくちゃならんのだが、一時間くらいのうちには、帰ってるよ」
『おれは今日何度この質問を受けたろう!』と彼は自分にいってみて、いつになくさっと顔をあからめた。イギリス人はじっと彼を見た。そして、あたかもウロンスキイの行くさきを知ってでもいるように、こう言いたした――
「競走の前には、気をしずめておくことが第一でございますよ」と彼はいった。「腹をたてたり、心を乱したりすることは、けっしてなさいませんようにね」
「All right《よろしい》」と、笑いながらウロンスキイは答えて、馬車にとび乗ると、ペテルゴフへ行けと命じた。
彼が数歩いくかいかないかに、朝から雨で脅かしていた雨雲が、一面におおいかぶさってきて、ばらばらと驟雨《しゅうう》を落としてきた。
『あいにくだぞ』とウロンスキイは、馬車のほろをあげながら、考えた。『それでなくてもぬかっているのに、これじゃあまるで、沼同然になるだろう』ほろをかけた馬車のなかにひとりですわって、彼は母の手紙と兄の添書とを取り出し、それに目を通した。
はたして、そこに書いてあることは、すべて同じことばかりであった。みんなのものが、母も兄も、そろいもそろって、彼の感情問題に立ち入ることを必要だとしているのだ。この干渉が彼の心に毒念を――彼がまれにしか経験したことのない感情をわきたたせた。『あの連中になんの関係がある? なぜみんなは、おれのことで心配するのを自分たちの義務だなんて考えてるんだ? なんだってあの人たちは、おれにつきまとうんだろう? あの人たちはこれをなにか、自分たちにはのみこめないことのように見ているからなんだ。もしこれが卑しい、平凡な、社交的関係だったら、あの人たちはきっとかまいつけないにちがいないのだ。きっと彼らは感じてるんだ、これが徒事《ただごと》でないこと、おもちゃでないこと、あの女がおれにとって生命《いのち》よりも尊いことを感じているんだ。しかも、彼らにはそれが腑《ふ》におちない、だからいまいましくてならないんだ。われわれの運命がどうあろうとも、またどうなろうとも、それはわれわれがつくったのだ。それを悔みなんかするものか』と彼は、|われわれ《ヽヽヽヽ》という言葉で自分とアンナとを結びつけながら、ひとりごちた。『いや、あの人たちは、われわれにいかに生活すべきかを教えなければ気がすまないんだ。幸福とはなんぞやという理解をもっていないくせに。この愛をよそにしては、われわれには、幸福もなければ不幸もないということを――つまり生活がないということを知りもしないくせに』こう彼は考えた。
彼が、こうした干渉にたいして、みんなの者に腹をたてたのは、つまり彼がその衷心《ちゅうしん》において彼ら――これら一同の人たちの正当なことを認めていたからであった。彼は、彼とアンナとを結びつけているところの愛は、社交的な情事が、うれしい悲しい記憶以外には、当事者たちの生活の上になんの痕跡をもとどめないで過ぎていく、それと同じように過ぎ去ってしまう一時的の浮気でないことを感じていた。彼は、自分と彼女との立場の苦しさ、自分たちの住んでいる社会全体の目の前にさらされながら、自分の愛を秘し、偽り、欺かなければならぬ困難さを――ふたりを結びつけている情熱が、ふたりをして自分たちの愛以外のいっさいのものを忘れしめるほどに熱烈なときにおいてすら、一方にたえず他人のことを考え、策をめぐらし、偽り、欺かねばならぬ困難さを、痛感していた。
彼は彼の性格とはあまりにあいいれない、虚偽や欺瞞のよぎなさをくりかえさないではいられなかった多くの場合を、まざまざと思いおこした。彼はとくにまざまざと、この欺瞞と虚偽のよぎなさにたいする羞恥《しゅうち》の情が、一度ならず彼女のうちにも認められたことを思いおこした。そこで、彼はまたもや、アンナとの関係が生じて以来どうかすると彼のうえに見いだされた、奇妙な感情を経験した。それは、何ものかにたいする嫌悪の情であったが――、アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチにたいしてか、自分自身にたいしてか、社交界全体にたいしてか、彼にはそのけじめがよくつかなかった。が、とにかく彼は、この奇妙な感情を、つねに自分から追いのけていた。今も彼は、頭を振って、自分の思想のあゆみを追いつづけた。
『そうだ、彼女は以前には不幸であった。が、傲然《ごうぜん》としておちついていた。それだのに今の彼女は、それを色にこそ出さないが、おちついて品位を保っていることはできないのだ。そうだ、これはなんとか解決をつけなければならない』こう彼は、われとわが心に思いさだめた。
そこで、彼の頭へはじめて、この虚偽をうち切らねばならぬ、それも早いにこしたことはないという、はっきりした想念がうかびあがった。『彼女もおれも、いっさいのものを捨てなければならない。そして自分たちの恋だけをいだいて、どこへでも隠れてしまわなければならない』こう彼は自分にいった。
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二十二
驟雨《しゅうう》は一時的なものだったので、ウロンスキイが轅馬《ながえうま》に全速力を出させ、両側の副馬《そえうま》にはもう手綱もなしに、泥濘《でいねい》のなかを飛ばせて乗り近づいたときには、太陽はふたたび顔をのぞけて、別荘の屋根や、大通りの両側にならんだ庭の古いぼだい樹は、濡れた光できらきらと輝き、そして木の枝からは、ぽたぽたと露がしたたり、屋根からは、水が流れ走っていた。彼はもはや、この驟雨がどんなに競馬場をいためたかということなどは念頭にもおかず、今はただ、この雨のおかげできっと、彼女がひとり家にいるところへ行きあわせるであろうことを喜んだ。というのは、近ごろ温泉からもどって来たばかりのアレクセイ・アレクサーンドロヴィッチは、まだペテルブルグから来ていないことを知っていたからである。
彼女がひとりでいてくれるようにと祈りながら、ウロンスキイはいつもするように、なるべく人の注意をひくまいとして、橋のてまえで馬車をおり、徒歩で行った。彼は通りから、正面の階段へはかからないで、じかに庭へはいって行った。
「ご主人はおいでになったかね?」と、彼は園丁にたずねた。
「いいえ、おいでになりません。奥さまはおいででございます。ですが、どうぞあなたさまはお玄関から。あちらには人がおりまするで、おとりつぎ申しあげます」と園丁は答えた。
「いや、ぼくは、庭をぬけて行こう」
こうして彼女がひとりであることをたしかめると、彼は、自分が今日くるという約束はしていなかったし、それに彼女も、まさか競馬前に彼が来ようとは思いもかけまいから、ひとつふいに驚かしてやろうと思い、サーベルをしっかりおさえて、両側に花の植えこまれている小道の小砂利を注意ぶかく踏み、庭へ張り出しているテラスのほうへ歩いていった。ウロンスキイは今では、自分がみちみち、自分たちの立場の苦しさわずらわしさについて考えてきたことを、きれいに忘れてしまっていた。彼はただひとつのことを考えていた――もうすぐ、想像だけでない彼女を、生きている、じっさいにあるとおりの彼女を、見ることができるのだということを。彼は音を立てないように、足いっぱいに歩を踏みながら、テラスのなだらかな階段をあがっていった。そのとき、ふいに、彼がいつも忘れていることで、彼と彼女との関係において最も悩ましい一面を形づくっていること――疑わしげな、敵意ありげな、と彼には思われたまなざしをもった彼女の子供のことが、思い出された。
この子供はほかの何ものにもまして、ふたりの関係にとって障害であった。彼がそばにいるときには、ウロンスキイも、アンナも、人前でくりかえすことをはばかるような話は口にしなかったばかりか、子供にわからないようなことは、暗示することすらも避けていた。彼らはべつに、そのことで相談したわけではなかったが、しぜんとそうなったのであった。彼らは、この子供を欺くことを、自分自身を侮辱するものだとでも考えたのであろう。彼のいる前では、ふたりは、ふつうの知り人同士のようにふるまった。しかも、この注意にもかかわらず、ウロンスキイはしばしば、自分の上にこらされている注意ぶかく、いぶかしげな子供の目と、きたいな臆病さと不平らしさを見、この子供の自分にたいする態度のうちに、ときには優しさ、ときには冷たさ、または羞恥の影のあるのを見るのだった。それはあたかもこの子供が、彼と自分の母とのあいだに、自分にはその意味を解することのできない、何か重大な関係の結ばれているのを、感じているかのようであった。
じじつ子供は、自分がこの関係を理解しえないことを感じていた。そして考えてはみた。が、自分がこの男にたいして持たねばならぬ感情を、明らかにすることはできなかった。感情の表現にたいする子供の敏感さから、彼は、父も、家庭教師も、乳母《うば》も――すべての人がウロンスキイを愛さないばかりか、口に出してこそなんともいわなかったが、つねに嫌悪と恐怖の念をもって彼を見ていることを、それだのに、母だけが彼を、まるで仲のよい友だちででもあるかのように見ていることを、はっきりと感じていたのだった。
『これはいったいどういうわけだろう? あのひとはいったいどういう人なんだろう? どんなふうにあのひとを愛したらいいのだろう? もしそれがわからないとすれば、ぼくのほうがいけないのだ。それともぼくはばかか、いけない子供なのだ』こう子供は考えた。そしてこの一事から、あんなにもウロンスキイに窮屈な思いをさせ、彼のさぐるような、疑惑をもった、いくらか敵意をふくんだような表情と、臆病と、不平とが生じたのである。この子供の同席は、ウロンスキイの心にいつもきまって、理由のない、特殊な嫌悪の情をよびおこした。彼はそれを、ことに最近よく経験した。この子供の同席は、ウロンスキイの心にも、アンナの心にも、一種の感情、すなわち、自分のいま全速力で走っている方向が、行くべき方向に遠く逆行するものであることを羅針盤によって知りながら、進行をとめるだけの力がなくて、刻一刻とますます遠くへだたって行き、ついにはこの逆行をやむなきものとあきらめるにいたる、つまり滅亡をよぎないものとあきらめるにいたる、あの航海者の衷情《ちゅうじょう》によく似た感情を、よびおこしたのである。
人生にたいして純真な見解をもったこの子供は、彼らが知っていながら知るを欲しなかった事柄にたいする彼らの逃避の程度を、彼らに示す羅針盤であった。
このときには、セリョージャはうちにいなかった。で、彼女はまったくのひとりぼっちで、散歩に出て雨にあった子供の帰りを待ちわびながら、テラスに腰掛けていた。彼女は下僕と女中とを、彼を捜しに出してやって、その帰りを待ちながら、そこに掛けていたのであった。彼女は、幅の広い刺繍のある白い着物をきて、テラスの片すみの花かげに掛けていたので、ウロンスキイの来たのに気がつかなかった。彼女は、その黒い縮れ毛の頭をかしげて、欄干の上においてあった冷たい|じょろ《ヽヽヽ》に額を押しつけたまま、彼にはなじみの深い指輪をはめたその美しい両の手で、|じょろ《ヽヽヽ》をおさえていた。彼女の全姿態・頭・首・手の美しさは、ついぞ思いもかけぬもののように、いつもウロンスキイを驚かすのであった。彼は恍惚《こうこつ》として彼女に見とれながら、そこに立ちどまった。が、ついで、彼女に近づこうとして彼が一歩踏みだそうとするやいなや、彼女はすでに彼の接近を感じて、|じょろ《ヽヽヽ》を押しやり、その燃えるような顔を彼のほうへふりむけた。
「あ、どうかしたんですか? どこかわるい?」と彼は、彼女のそばへ近よりながら、フランス語でいった。彼はいちずに彼女のそばへかけよろうとしたが、わきに人目のあることを思い、テラスの戸口のほうへ目をやって、さっと顔をあからめた。恐れたり見まわしたりしなければならぬのを感じるときに、いつもあかくなったと同じように。「いいえ、わたしなんともありませんわ」と彼女は立ちあがって、彼のさしのべた手を堅く握りしめながらいった。「わたし、ほんとに思いがけませんでしたの……あなたがいらっしゃるなんて」
「おやおや、なんという冷たい手をしてるんです!」と彼はいった。
「あなたはわたしをびっくりおさせになりましたわ」と彼女はいった。「わたしはひとりでセリョージャを待っていたんですのよ。あの子は散歩にまいりましたの。みんなはこちらのほうからもどってまいりますでしょうよ」
けれども、彼女がおちついていようとつとめたにもかかわらず、そのくちびるはふるえていた。
「ぼくの来たことを許してください。でもぼくは、あなたに会わないでは、日を送ることができなかったんです」と彼は、いつもと同じくフランス語で言葉をつづけた。ロシア語の、ふたりにとってたまらなく冷たい感じのする|あなた《ヽヽヽ》という言葉と、危険な|おまえ《ヽヽヽ》という言葉とを避けるために。
「まあ、何をお許しするんですの? わたしこんなに喜んでますのに!」
「でもあなたは、どこかわるいか、何か心配事でもあるんでしょう」と彼女の手をはなさないで、彼女の上へかがみこみながらつづけた。「何を考えてたんです?」
「いつもひとつことばかり」と、彼女はにっこりして答えた。
彼女は真実をいったのである。いかなる瞬間でも、何を考えていたかと問われたら、彼女は誤りなく答えることができた――ただひとつのことを、自分の幸福と不幸とについて、と。で、いま、彼が来あわせたときにも彼女は、どうしてほかの人たちには、たとえばベーッシには、(彼女は、彼女の社交界には隠されているトゥシュケーヴィッチとの関係を知っていた)こういうことがなんでもないことに思われているのに、自分にはこんなに苦痛なのだろうと考えていた。ことに今日は、この考えが、ある事情によって、いっそう彼女を苦しめていた。彼女は競馬のことを彼にたずねた。彼はそれに答えながら、彼女の沈んだ様子を見て、その気をひき立てるために、きわめて気軽な調子で、競馬の準備についての細かいことを語りはじめた。
『いったものだろうか、どうしようか?』と彼女は、彼のおちついた優しい目を見ながら考えた。『このひとはこんなに幸福で、こんなに競馬に夢中になっているから、話したところで、それを正しくは理解してくれないだろうし、ふたりにとってこの事実が、どんな意味をもっているかということも、理解してはくれないだろう』
「それはそうと、あなたは、ぼくがはいって来たときに考えてたことを、まだ話してくれませんでしたね」と彼は、自分の話をぽつりと切って、いった。「どうぞ話してください!」
彼女は答えなかった。そして心もち頭をかしげて、額ごしに彼の顔を、その長いまつ毛のかげに輝いている目で、もの問いたげにじっと見つめた。むしりとった木の葉をもてあそんでいたその手は、わなわなとふるえていた。彼はそれを見た。と、彼の顔は、いつも彼女の心をとりこにしてしまう例の従順と、奴隷的な心服とをあらわした。
「ぼくは、何か起こったにちがいないと思います。ぼくの知らない悲しみが、あなたにあることを知って、一分だって平気でいられるでしょうか? 話してください、後生です!」と、彼は祈るようにくりかえした。
『そうだ、もしこのひとが、このことのほんとうの意味を理解してくれなかったら、わたしはこのひとを許せないだろう。かえって言わぬにこしたことはない。なんでこのひとを試す必要があろう?』と彼女もやはり同じように彼を見ながら、木の葉をもった自分の手が、たえずふるえまさるのを感じながら考えた。
「後生です!」と彼は、彼女の手をとってくりかえした。
「言いますの?」
「ええ、ええ、ええ……」
「わたしね、妊娠しましたのよ」と彼女は静かに、ゆっくりゆっくりといった。
木の葉は、彼女の手のなかで、いっそうはげしくふるえだした。が、彼女は、彼がそれをどう受けとるかを見きわめるために、彼から目をはなさなかった。彼は顔色をかえて何かいおうとしたが、思いかえしたらしく、彼女の手をはなして、頭をたれた。『そうだ、このひとは、この事実のすべての意味を理解してくれたのだわ』彼女はこう考えて、感謝するように彼の手を握った。
しかし、彼女が、彼もまた彼女、つまり女がそれを解したと同じように、この報告の意味を解してくれたと思ったのは、誤りであった。この報告を聞くとともに、彼は、十倍された力で、ときどき彼の上を襲うあのえたいの知れぬ、なんぴとかにたいする嫌悪の情の発作をおぼえた。が、それと同時に彼は、自分の予期していた危機が今こそついに到来したこと、ひいてはもはや夫に秘してはいられないから、なんとでもして一刻も早く、この不自然な状態を清算してしまわなければならないことを理解した。しかし、そのほかにも、彼女の心痛は、肉体的にも彼に伝染した。彼は感激にみちた、従順なまなざしで彼女を見、その手に接吻して立ちあがると、黙って、テラスの上をあちこちと歩きはじめた。
「そうです」と彼は、決然とした足どりで彼女のそばへ近づきながら、いった。「ぼくにしてもあなたにしても、ふたりの関係を、おもちゃを見るようには見ていませんでした。が、今、ぼくたちの運命は決せられたのです。どうでも解決をあたえなければなりません」と彼は、あたりを見まわしながらいった。「ぼくたちがそのなかに住んでいるこの虚偽に」
「解決をあたえる? どうあたえるんですの、アレクセイ?」と、彼女は静かにいった。
彼女は今はおちついて、その顔も優しい微笑で輝いていた。
「ご主人を捨てて、ぼくたちの生活をひとつにするのです」
「それはもう、このままでも、ひとつになっているじゃありませんか」と、やっと聞こえるほどの声で彼女は答えた。
「ええ、しかし、完全にですよ、完全にですよ」
「だって、どうすればよろしいの、アレクセイ。わたしに教えてくださいな、どうすれば?」と彼女は自分の境遇のよぎなさにたいする、悲しげな、あざけりをおびた調子でいった。「だいいち、こんな境遇からのがれる道があるでしょうか? じゃあわたしは、自分の夫の妻ではないのでしょうか?」
「いかなる境涯からでも、のがれる道はあるものです。決心が肝要です」と彼はいった。「どんな状態だって、あなたの今の境遇よりわるいものはない。ぼくは今、あなたがどんなに苦しんでいるかを知っている、――いっさいのことにたいして、世間にたいし、子供にたいし、また夫にたいして」
「ああ、ただ、夫のことだけはちがいます」と、さっぱりした冷笑をふくんで彼女はいった。「わたしはあのひとのことは知りません。考えてもいませんの。あのひとはないものですわ」
「あなたはごまかしていますね。ぼくはあなたを知っています。あなたはあのひとのことでも苦しんでいるのだ」
「だって、あのひとはなんにも知らないんですわ」と彼女はいったが、と、とつぜん、燃えるようなくれないがその顔に現われて、ほおといわず、額といわず、首といわず、みるみる真紅《まっか》にそめてしまった。そして、その目には羞恥《しゅうち》の涙がうかんだ。「ですけれど、あのひとの話はもうよしましょうよ」
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二十三
ウロンスキイはすでに何度となく、もっともこのときほど断乎《だんこ》とした態度でではなかったが、彼女に自分たちの境遇を批判させようと試みた。そしていつも、いま彼女が彼の質問に答えたと同じ、浅薄で軽率な批判とはち合わせをした。あたかもそのなかには、彼女がみずから意識することの不可能な、あるいは意識しようとしない何ものかが影をひそめているようで、彼女がそのことについて話しだすやいなや、彼女、真のアンナは、どこか奥深く姿をひそめてしまって、彼女とは別人の、奇怪な、彼にはなんの親しみもない、愛することができぬばかりか、恐ろしい、彼の前に障壁を立てまわす女が、顔を出してくるもののようであった。しかし、彼は今日こそ、何もかもいってしまわねばならぬと決心した。
「あのひとが知っていようといまいと」とウロンスキイは、ふだんのしっかりした、おちついた口調でいった。「あのひとが知っていようといまいと、ぼくたちにはちっとも関係はない。ぼくたちには、できないのです……いや、あなたには、このままでいるということは、できないのです。ことにこんどは……」
「ではあなたは、どうすればいいとおっしゃるの?」と彼女は、同じ軽い、皮肉な調子できいた。さっきまでは、彼が自分の妊娠を軽く受け取りはしまいかと恐れていた彼女も、今は彼がそのことから、何かのっぴきならぬことを引き出してきたのが、いまいましかった。
「あのひとにすべてをうちあけて、あのひとを捨てるんですよ」
「たいへん、けっこうなことですわ。けれど、かりにわたしがそれをするとして」と彼女はいった。「あなたは、その結果がどうなるかおわかりになって? わたし、まえもって何もかもお話しておきますわ」こういったが、と、一分前まで柔和《にゅうわ》だった彼女の目のなかに邪悪な光が燃えあがった。
「『ああ、おまえはほかの男を愛して、その男と|罪深い《ヽヽヽ》関係を結んだんだって?(彼女は夫の口まねをして、アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチがするとおり、|罪深い《ヽヽヽ》という言葉にとくに力点をおいていった)わしはまえもっておまえにそれが、宗教関係・社会関係・家族関係におよぼす結果について注意しておいた。おまえは、わしの言葉を用いなかった。もうわしは、わしの……名誉を汚辱《おじょく》にまかせてはおけない……』」――わしの子供をと、言いたかったのだけれども、子供のこととなると、さすがに彼女も、冗談口はきけなかった。「『自分の名誉』と何かまだそんなふうなものをもちだして」と、彼女は言いたした。「とにかくあのひとは、もちまえの政治家的な態度で、明瞭に、正確に、自分はわたしを放してやることはできないが、できるだけの手をつくして、スキャンダルを避けるようにすると言いだすでしょう。そして平然として、きちょうめんに、自分のいったことを実行するでしょう。これがその結果ですわ。あのひとは人間ではなくて機械ですから、それも怒ったとなったら、恐ろしい機械なんですから」と彼女はつけくわえた。そしてこう言いながら、アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチの姿や口をきくときの身ぶりやを、細かい点まで思い出して、彼のうちに見いだしうるかぎりの欠点をあくまで非難し、彼女自身彼にたいして犯している例の恐ろしい罪のために、かえって何ひとつ許そうとしないのだった。
「ですが、アンナ」とウロンスキイは、彼女をなだめようとつとめながら、説きさとすような、もの柔らかな口調でいった。「とにかくあのひとには、うちあけなくちゃいけませんよ。そしてそのうえで、あのひとの態度に従って善処しなければなりませんよ」
「じゃあどうするんですの、かけおちするんですの?」
「どうして、かけおちしていけないのです? ぼくはこのうえ、この状態をつづけていけるとは思いませんよ……それもぼくのためじゃない――ぼくには、あなたの苦しみがよくわかるんですよ」
「そうね。かけおちして、わたしはあなたの愛人になるのね」こう彼女は、とげとげしい調子でいった。
「アンナ」と彼は、優しくとがめるような口調でいった。
「そうですわ」と、彼女はつづけた。「あなたの愛人になって、何もかもを……滅ぼしてしまう」彼女はまたそこで、いおうとした――子供をと。が、その言葉は口に出せなかった。
ウロンスキイは、彼女が強い誠実な性格の持ち主でありながら、どうしてこの虚偽な状態を堪えしのんで、それから逃れ出ようとしないでいられるのか、それがふに落ちなかった。しかも彼は、その理由の主眼が、言いだしえないでいる子供《ヽヽ》という言葉であることには、思いもおよばなかったのである。彼女は、その子供のことを思い、父を捨て去った母にたいする子供の将来の態度を思うと、自分のしたことがむしょうに恐ろしくなって、ものごとを判断する力もなにも失ってしまい、その結果、女らしく、すべてはもとのままでいるだろう、子供がどうなるだろうというような恐ろしい問題は忘れてしまえるだろうというふうに、虚偽の批判や言葉でもって、ひたすら自分をおちつかせることばかりをつとめるようになるのだった。
「わたし、ほんとにお願いですから、ほんとに後生ですから」と彼女は急に、彼の手をとって、今までとはまるで違った、まじめな、優しい調子でいった。「このことは、このさきもうけっして、わたしにおっしゃらないでちょうだいね!」
「しかし、アンナ……」
「いいえ、ふっつり。どうぞ、わたしにまかせておいてちょうだい。わたしだって、自分の境遇の卑しさも恐ろしさも、十分心得ておりますわ。でもこれは、あなたが考えていらっしゃるように、そう簡単にきめられることではないんですわ。ですからね、どうぞわたしにまかせて、わたしのいうことを聞いてください。そしてもうふっつり、この話はわたしになさらないでください。ね、約束してくださるわね?……いいえ、いいえ、約束してください!」
「ぼくはなんでも約束しますよ。だがぼくは、とくにこんなことを聞いたあとでは、おちついてはいられないんです。ぼくは、あなたがおちついていられないときに、おちついていることはできません!」
「わたし?」と彼女はくりかえした。「ええ、そりゃわたしだって、ときには苦しむこともありますわ。でもあなたさえこののち、けっしてこのことをおっしゃらないようにしてくだされば、それは過ぎ去ってしまいますわ。あなたがそれをおっしゃるときだけ、それはわたしを苦しめるのですから」
「ぼくにはわからない」と、彼はいった。
「そりゃあね、わたしだって」と、彼女は彼をさえぎった。
「あなたのまっすぐな性質として、うそをつくということがどんなにおつらいか、それはよくわかっていますわ。そして、あなたをお気の毒に思っています。わたしはときどき、あなたがわたしゆえに、ご自分の生活を滅ぼしておしまいになったことを考えますのよ」
「ぼくも今ちょうど、それと同じことを考えていました」と、彼はいった――「どうしてあなたがぼくのために、いっさいを犠牲にするなんてことができたのだろうって? ぼくは、あなたが不幸でいるのを黙って見ているわけにはいかない」
「わたしが不幸ですって?」と彼女は、彼のそばへすりよると、歓喜にみちた愛の微笑をふくんで、彼の顔に見いりながらいった。「わたしはちょうど、たべものを与えられた飢えた人のようなものですわ。それは、そのひとは寒いかもしれません。着物が破れていましょうし、恥ずかしいかもしれません。でもそのひとは、不幸ではありませんわ。わたしが不幸ですって? いいえ、これがわたしの幸福ですわ……」
彼女は、近づいてくる子供の声を聞きつけると、すばやいまなざしをテラスの周囲に投げながら、はじかれたように立ちあがった。彼女のまなざしは、彼になじみの深い火で燃えだした。彼女はすばしこい動作で、その指輪におおわれた美しい両手をあげると、彼の頭をそのなかにはさんで、長いあいだじっと彼の顔を見つめていてから、微笑に開かれたくちびるをもった自分の顔を近づけ、彼の口と両の目とに、すばやく接吻して、押ししりぞけた。彼女はそれで行こうとしたが、彼が、それをひきとめた。
「いつ?」こう彼は、うっとりした目で彼女の顔を見ながら、ささやき声できいた。
「今夜一時に」と彼女はささやいた。そしてほっと重いためいきをもらしてから、もちまえの軽快な早い足どりで、子供を迎えに歩きだした。
セリョージャは公園で雨にあい、乳母といっしょに、あずまやで雨やどりをしていたのだった。
「では、さようなら」と彼女はウロンスキイにいった。「もうじき競馬に行かなくちゃなりませんわ。ベーッシが誘いに来てくださる約束なんですの」
ウロンスキイは、ちょっと時計を見て、急いで立ち去った。
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二十四
カレーニン家のテラスで時計を見たときには、ウロンスキイは、文字盤の上の針を見ながら、それが何時を指していたかもわからなかったほどそわそわして、自分の考えだけにとらわれていた。彼は敷石道へ出て、注意ぶかく泥濘《でいねい》を避けながら、自分の馬車のほうへ歩いて行った。彼は、今が何時で、ブリャンスキイの家へ行く余裕があるかどうかをすら考えなかったほど、アンナにたいする情熱でみたされていた。彼の心には、よくあることだが、ただこのあとには何かをすることになっていたということだけを指示する、記憶の外的能力が残っていたにすぎなかった。彼は、茂ったぼだい樹のもう斜めになった木かげで、御者台の上で居眠りをしていた御者のそばへ歩みより、汗ばんだ馬の上に、よれて柱のようになってぶんぶんいっている蚊柱《かばしら》を、ちょっとのまおもしろそうに見ていてから、御者を起こして馬車に飛び乗り、ブリャンスキイのところへ行くようにと命じた。そして、それから七ウェルスターも行ってから、彼は初めてわれにかえり、時計を見て、五時半であることと、自分が遅れたこととを知った。
この日には数番の競走があった――護衛兵の競走のあとで、士官の二ウェルスター競走、それから四ウェルスター競走があり、最後に彼の参加する当の競走があった。で、自分の番までには彼は十分まにあったが、もしブリャンスキイのほうへまわるとすると、早くても全宮廷の臨場される時刻に、彼はようやく乗りつけるようなことになるであろう。それではよくなかった。けれども彼は、ブリャンスキイには行くという堅い約束をしていたので、そのままさきへ進むことに決心し、御者に馬を惜しまないようにと命じた。
彼は、ブリャンスキイのもとへ着くと、五分間そこにいて、馬車を返した。この急速な馬車行《ばしゃこう》は、彼をおちつかせた。アンナとの関係のうちにあったすべての重苦しいもの、ふたりの話のあとに残ったあいまいなものは、すべて彼の頭からけし飛んでしまった。彼は今は喜びと興奮とをもって、競走のことや、自分がどうにかまにあうだろうということばかりを考えていた。しかしまれには、今夜の密会の幸福の期待が、その想像裡に明るい火のように燃えあがった。
目前に迫っている競馬の感激は、彼が、別荘地やペテルブルグから競馬場へ向かう馬車を追い越し追い越し、しだいに深く競馬場のふんい気のなかへはいって行くにしたがって、ますます強く彼をつかんだ。
彼の宿舎には、もうだれもいなかった――全部競馬場のほうへ行っていた。そして従僕が、門のところで彼を待ちうけていた。彼が着がえをしているあいだに、従僕は彼に、もう二回目の競走の開始されたことや、大ぜいのだんながたが彼のことをたずねに来たことや、厩《うまや》からは、二度も少年が飛んで来たことなどを報告した。
かくべつ急ぐ様子もなく着がえを終わると、(彼はどんな場合にも、あわてたり自制力を失ったりするようなことはなかった)ウロンスキイは、バラックへ馬車をやるようにと命じた。バラックからは早くも、競馬場をとりまいている馬車や、歩行者や、兵士たちの海と、群集のわき立っている桟敷《さじき》とがひと目だった。たぶん二回目がはじまっているのだろう、彼がバラックへはいると同時に、鐘の音が聞こえたから。厩のほうへ行く道で、彼は、白足でくり毛のマホーティンのグラジアートルに出くわした。それは、青い縁飾りをした、耳のばかに大きく見える、青すじのはいったオレンジ色の馬衣《ばい》を着て、競馬場のほうへ引かれて行くところであった。
「コールドはどこにいる?」と、彼は馬丁にたずねた。
「厩のなかで、鞍をつけております」
開けはなされた仕切りのなかで、フルーフルーはもうすっかり鞍をつけられていた。人々はそれを引き出そうとしていた。
「遅かなかったかね?」
「All right! All right!(けっこうでございます。けっこうでございます)」とイギリス人はいった。「あせったり気をつかったりなさいませんように」
ウロンスキイはもう一度、全身をぶるぶるふるわせている愛馬の、美しい姿に視線を投げてから、やっとの思いでこの見ものからはなれて、バラックを出た。彼は、だれの注意もひかないようにするには一ばんいい時刻に、桟敷のほうへ乗りつけた。ちょうど、二ウェルスター競走が終わろうとしているところで、すべての視線は、さきに立っている近衛騎兵と、それにつづく軽騎兵とが、最後の死力をふりしぼって馬を駆りながら、決勝点へ近づきつつあるのにそそがれていた。圏《けん》の中央から、また外から、人々は決勝点のほうへ押しよせ、近衛騎兵隊の将校兵卒の一団は、喊声《かんせい》をあげて、自分たちの将校であり同僚である男の、期待されたる勝利の喜びを表現していた。ウロンスキイはちょうど、競馬の終わりを告げる鐘がひびきわたって、第一着になった、背の高い、泥をあびた騎兵士官が鞍の上に突っ伏し、汗で黒くなって苦しげに息をついている、かわら色の牡馬《おうま》の手綱をゆるめかけたとほとんど同時に、人知れず、群集の中心へまぎれこんだのである。
牡馬は、けんめいに足をつっぱりながら、その大きな身体の急速な歩度を縮めた。と、騎兵士官は、さながら苦しい夢からさめた人のように、あたりを見まわして、かろうじて顔をほほえませた。同僚や、他の隊の人々が、彼の周囲をとりまいた。
ウロンスキイは、桟敷の前で、つつましやかに、しかも自由に、歩きまわったり、しゃべったりしている、選ばれた上流人の一団をわざと避けるようにした。彼は、カレーニナも、ベーッシも、彼の兄の妻も、そこにいることを知ったが、心を乱されまいために、わざと、そのほうへは近づかなかった。けれども、ひっきりなしに出会う知人たちは、彼を引きとめて、彼にいままでの競馬の詳細を語ったり、彼が遅れた理由をたずねたりした。
賞品を受けるために、騎手たちが桟敷のほうへ呼ばれて、一同がそのほうへ顔をむけたときに、ウロンスキイの兄の、背のあまり高くない、アレクセイに似て、太短《ふとみじか》い、けれどもいっそう男ぶりのいい、ばら色の顔にあかい鼻をもった、参謀大佐であるアレクサンドルが、酒気をおびたあけっぱなしな顔をして、彼のほうへと近よって来た。
「おまえ、おれの書いたものを受け取ったか?」と、彼はいった。「おまえはいつ行ったって、けっして見つかりゃしない」
アレクサンドル・ウロンスキイは、放蕩《ほうとう》な、ことに酒びたりの(そのために彼は有名であった)生活を送っていたにもかかわらず、まったく宮廷的な人であった。
彼はいま弟と、彼にとってきわめて不快なことについて語りながらも、衆人の目が自分たちの上に向けられることを知っていたので、まるで何かちょっとしたことがらで、弟と冗談でもいっているような笑顔をしていた。
「受け取りました。だが、じつは、何を|あなた《ヽヽヽ》がそんなに心配してくれてるのか、ぼくにはわからない」と、アレクセイはいった。
「おれがいま心配しているのは、おまえがここにいなかったことと、月曜日にペテルゴフでおまえを見た人があったということからなんだよ」
「しかし世のなかには、ただ直接それに利害をもつ人たちの審議《しんぎ》にのみ属すべきことがらがあります。そしてあなたが、心配してくださることなどは、あれは……」
「うん、だがそのときは、勤めをやめて、それから……」
「ぼくはあなたに、干渉してくださらないようにお願いしてるんです。それだけですよ」
アレクセイ・ウロンスキイのにがりきった顔は蒼白《そうはく》になり、その突き出た下あごはがくがくふるえだした。彼には、こんなことはめったにないことであった。彼は、きわめて善良な心をもった人のつねとして、まれにしか怒らなかったが、いったん怒って、ことにそのあごがふるえだしたときには、アレクサンドル・ウロンスキイも承知していたとおり、彼は危険な存在になった。アレクサンドル・ウロンスキイは、愉決そうにほほえんだ。
「おれはただ、お母さんの手紙を渡そうと思っただけだよ。お母さんに返事を出しなさい、競走の前に興奮しちゃいけない。Bonne chance(よきチャンスを祈る)」と彼は笑いながら言いたして、弟のそばをはなれていった。
ところが、すぐそのあとにつづいて、またしても親しげなあいさつの声が、ウロンスキイを引きとめた。
「おい、きみは友人をも無視しようとするのかね! おい、mon cher!《きみ》」とステパン・アルカジエヴィッチは、ここ、このペテルブルグの光輝|燦然《さんぜん》たるなかでも、モスクワに劣らず、そのばら色した顔と、つやつやとくしけずられたほおひげとで異彩を放ちながら、いった。
「ぼくは昨日来たのだ。そしてきみの勝利を見ることを非常に喜んでるんだ。いつ会おう?」
「明日集会所へ来たまえ」とウロンスキイはいった。そして失礼を謝しながら、彼の外套の袖を握って、すでに障害物大競走に出場する馬を引き入れはじめていた競馬場の中央へとあゆみ去った。
競走を終わって汗みどろになり、苦しそうにあえいでいる馬どもは馬丁に引かれて厩のほうへ去り、つぎの競走に出る、生気|溌剌《はつらつ》とした、大部分イギリス産の馬は、頭被《とうひ》をかぶり、腹をぎゅっと引きしめられた、奇妙な巨大な鳥に似た姿を、一頭ずつあいついで現わした。長身|痩躯《そうく》の美女フルーフルーは、その弾力性に富んだ、かなり長い|はぎ《ヽヽ》を、ばね仕掛けのように踏みながら、右側のほうへ引き出されて来た。彼女から遠くないところで、たれ耳のグラジアートルが、馬被《ばひ》を脱がせられていた。その、堂々たるしりと、なみはずれて短い、ひづめのすぐ上についているような|はぎ《ヽヽ》とをもったこの牡馬《おうま》の、大柄な、美しい、完全に均斉のとれた姿は、ウロンスキイの注意をいやおうなしに引きつけた。彼は、自分の馬のほうへ行こうとしたが、またしても、ひとりの知人が彼を引きとめた。
「ああ、あすこにカレーニンが」と、彼と話していた知人は、話の途中で彼にいった。「細君を捜してるんだが、細君は桟敷のまん中にいる。あなたはあのひとにお会いでしたか?」
「いいえ、会いません」とウロンスキイは答えた。そして、カレーニン夫人がいると指ざされた桟敷のほうすら見ようとはしないで、自分の馬のほうへ行った。
ウロンスキイがいちおう指図しておかねばならなかった鞍を見てみるひまもないうちに、騎士たちは、番号と出発点とを定めるために、桟敷のほうへ呼び出された。真剣な、厳粛《げんしゅく》な、多くは青ざめた顔をした十七人の士官が、そこに集まって、番号の籤《くじ》をひいた。ウロンスキイには七番が当たった。「乗馬!」――という声が聞こえた。
ほかの騎手たちといっしょに自分がいま衆人の注目の焦点となっていることを感じながら、ウロンスキイは緊張した気分で、そうした気分のときにはつねにそうであるように、悠然とおちつきはらって、自分の馬のほうへ進んだ。コールドは、晴れの競馬だというので、よそ行きのなりをしていた――ただしくボタンをかけた黒のフロック・コート、両方からほおを押しつけている、のりの堅いカラー、まるい黒の帽子に騎兵靴――こういういでたちである。彼は、いつものように悠然としてもったいぶった様子で、馬のかたわらに立って、手ずからその手綱をおさえていた。フルーフルーは、熱病にでも襲われたように、たえずふるえつづけていた。火焔《かえん》にみちみちたようなその目は、近づいてくるウロンスキイを横目でながめた。ウロンスキイは、腹帯《はらおび》の下へ指を入れた。馬はいっそう鋭く横目をして、歯をむき出し、耳を伏せた。イギリス人は、彼が自分の装鞍《そうあん》をたしかめたことにたいして微笑を見せようとして、くちびるをしわめた。
「お乗りなさいまし。そのほうが興奮がしずまります」
ウロンスキイは、最後に、自分の競走者たちを見まわした。彼は、駆けだしてしまえばもう、彼らを見られないことを知っていたのである。ふたりは、そこからスタートするはずになっている場所のほうへ馬を進めていた。危険な競走者のひとりで、ウロンスキイの友人であるガリーツィンは、乗り手を受けつけないくり毛の牡馬のまわりを、ぐるぐるまわっていた。細い乗馬ズボンをはいた小柄な軽騎兵は、イギリス人にならおうとして、ねこのようにからだをまげながら、ギャロップで駆けていた。クゾヴレフ公爵は、蒼白《そうはく》な顔をして、グラボフ牧場の所産である純血種の牝馬に乗り、イギリス人が、そのくつわをおさえていた。ウロンスキイも、彼の同僚たちもみな、クゾヴレフは人なみはずれて「弱々しい」神経をもっているくせに、おそろしく、うぬぼれやであることを知っていた。彼らは、彼がすべてを恐れていること、わけても軍馬に乗ることを恐れていることを知っていた。が、今は、人々が首を折ったりしたために、各障害物のそばには医者や、十字章を縫いつけた病院馬車や看護婦などが控えていたために、彼は乗る決心をしたのであった。ふたりは目を見あわせた。と、ウロンスキイは優しく、励ますように彼に目くばせした。しかもただひとり、最も恐ろしい競走者である、グラジアートルにまたがったマホーティンだけを、彼は見なかった。
「お急ぎになっちゃいけませんよ」と、コールドがウロンスキイにいった。「ただひとつ覚えていていただきたいのは、障害物のところでは、手綱をしめたりゆるめたりなさらないで、馬のするままにさせておおきになることです」
「よし、よし」と、ウロンスキイは手綱をとって答えた。
「できましたら、先頭にお立ちになることですが、もしあとにおなりになっても、最後まで絶望なすっちゃいけませんよ」
馬が動くまのないうちに、ウロンスキイはしなやかな、力強い動作で、刻み目のついた鋼鉄のあぶみの上に立ちあがり、軽々と、しかししっかりと、その目方を減じたからだを、革のきしむ鞍の上へ乗せた。そして右足であぶみをさぐってから、なれた手つきで、指のあいだで二本の手綱をさばいた。そこで、コールドが手をはなした。フルーフルーは、まるでどっちの足からさきに踏み出したらいいかと迷うかのように、長い首で手綱を引っぱり、しなやかな背の上で騎手をゆすりながら、ばね仕掛けのように歩きだした。コールドは歩度をくわえながら、そのあとにしたがった。気の立った馬は、騎手を欺こうとつとめながら、あるいはこちら側から、あるいはあちら側から手綱をひいた。で、ウロンスキイは、声と手とでいたずらに彼女をしずめようとつとめるのだった。
彼らはすでに、出発点となっている場所をさして、せきとめられた川のほうへ近づきつつあった。競走者たちの多くは、前方にも後方にもつづいていた。と、とつぜんウロンスキイは、自分の背後のぬかるみ道に、馬のギャロップのひびきを聞いた。と、足の白い、たれ耳のグラジアートルに乗って、マホーティンが彼を追い越していった。彼はその長い歯を見せてほほえんだ。が、ウロンスキイは不満げに彼を見かえした。彼はもともとこの男を好かなかったのに、しかも今は、最も危険な競走者である。で、彼には、いきなり自分のそばを駆けぬけて、相手が自分の馬を驚かしたのがしゃくにさわったのであった。フルーフルーは、左足からギャロップにうつって、二度跳躍したが、手綱のきついのに腹をたてて、騎手を振り落とすおそれのある、動揺の多いトロット《だく》に踏みかえた。コールドも眉をひそめて、ウロンスキイのあとから大またに、ほとんどかけるようにしてついて来た。
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二十五
全部で十七名の士官が競走に立った。競馬は桟敷の前面にあたる、周囲四ウェルスターの大楕円形の円周内で行なわれることになっていた。その円周のなかに、九つの障害物が設けられてあった――河、桟敷のすぐ前にある高さ二アルシン(一アルシンは約○・七メートル)の、見通しのきかぬ大きな柵《さく》、水のない溝、斜面、アイルランド・バンケード(最も困難な障害物の一つ)、それは、枯れ枝で埋められた土坡《どは》でできていて、そのかげに――馬には見えないように――もう一か所溝ができていたので、馬は一度にふたつの障害物を飛び越えるか、命を落とすかしなければならなかった。そのあとになお二か所の溝――水のあるのとないのとがあって、競馬は桟敷の向こう側で終わることになっていた。けれども競走は、円周からではなく、それから百サージェン(一サージェントは二メートル余)ほどわきのほうから開始されることになっていて、この距離のあいだに第一の障害物――約三アルシンの広さに築かれた河があったが、それは飛び越そうと、乗り入れて渡ろうと、騎手たちの随意であった。
騎手たちは三回ほど並んだが、そのつど、だれかの馬が飛び出すので、何回でもはじめからやり直さなければならなかった。出発係の名手、セストリン大佐は、四回めにやっとこう叫んだときには、もうかんしゃくをおこしかけていた――「進めえ!」――騎手たちは駆けだした。
すべての視線、すべての望遠鏡は、騎手たちが並びはじめたときから、その色とりどりの一団の上に向けられていた。
「そら出た! 走りだした!」こういう声々が、期待の沈黙のあとで、あらゆる方面からおこった。
群集や、ひとりひとりの歩行者たちは、少しでもよく見えるようにと、走ってあちこち場所を移りはじめた。たちまち、騎手たちの集団は長く延びて、彼らがふたりずつ、あるいは三人ずつ、あるいはひとりひとり相つづいて、河のほうへ近づいて行くのが見えた。観衆には、彼らはみな一せいに駆けだしたように思われたが、騎手たちには、彼らにとって大きな意味をもった一秒二秒の差があったのである。
気おいたって、あまり神経が鋭くなりすぎていたフルーフルーは、最初の瞬間を失したので、数頭の馬が彼女よりさきにスタートを切ったが、まだ河まで行きつかないうちに、ウロンスキイはむしょうに手綱を引く馬を、全力をつくして制御しながら、たやすく三頭を追い越した。で、彼の前には、すぐ鼻のさきに、調子よく軽々としりを上下しているマホーティンのくり毛のグラジアートルが残るだけになり、そしてさらに全部の馬の先頭には、生きているのか死んでいるのかわからないようなクゾヴレフを乗せた、美しいディアナが駆けていた。
はじめの数分間は、ウロンスキイはまだ、自分をも馬をも制御することができなかった。彼は第一の障害物――河――までは、馬の運動を指導することができなかった。
グラジアートルとディアナとは、いっしょに近づいて、ほとんど同じ瞬間に――同じように河の上へ飛びあがり、向こう側へ飛び越した。フルーフルーはいつのまにか、まるで翔《か》けるように、それにつづいて高く飛んだ。ウロンスキイは、からだが宙に浮いたのを感ずると同時に、ほとんど自分の馬の足の下に、河の向こう側で、クゾヴレフがディアナとともに、もがき苦しんでいるのをちらと見た。(クゾヴレフは、跳躍のあとで手綱をゆるめたので、馬は彼を乗せたまま、もんどりうって倒れたのであった)もっとも、これらの詳細をウロンスキイが知ったのはあとのことで、そのときはただ、フルーフルーが下りたつべき足のま下に、ディアナの足か頭がはいりはしないかと感じただけであった。しかしフルーフルーは、あたかも墜落していくねこのように、跳躍のあいだの足と背との努力で、馬を飛び越えて、そのさきの地上へおり立った。
『おお、かわいいや?……』と、ウロンスキイは考えた。
河を越してからは、ウロンスキイは、十分に馬をわがものとしたので、大きな柵《さく》はマホーティンのあとから越し、そのさきの障害物のない二百サージェンばかりのあいだで、彼を追い抜こうと考えて、馬を引きしめはじめた。
大きな柵は、皇帝の桟敷のま正面に立っていた。彼が悪魔(見通しのきかぬ柵がこう名づけられていた)のほうへ近づいたときには、皇帝も、全宮廷も、群集も――すべての人が彼らを――彼と、約一馬身さきに立ったマホーティンとを見ていた。ウロンスキイは、八方から彼の上にこらされているこれらの視線を感じていたが、しかし彼は馬の耳と、首と、飛ぶようにすぎていく大地と、彼の前に急調子を刻みながら、つねに同一距離をたもって行くグラジアートルのしりと白い足とのほか、何ものをも見なかった。グラジアートルは、飛びあがったかと思うと、どこにもぶつかった様子はなく、短い尾をひと振りして、たちまちウロンスキイの視野から消え去った。
「ブラーヴォー!」と、だれかの声が叫んだ。
その瞬間に、ウロンスキイの目の下に、彼のすぐ前に、柵の板がちらと見えた。運動の上にいささかの変化も示さずに、馬は彼の下で飛びあがった。板は隠れた。が、ただ背後で、何かのかたっという音がした。さきに進んでいるグラジアートルのために気おっていた馬は、柵のてまえであまりに早く飛びあがったので、後足のひづめでそれを打ったのであった。が、彼女の歩度は変わらなかった。そしてウロンスキイは、泥のはねを顔面に受けながら、彼がふたたびグラジアートルと同一距離に立ったことを知った。彼は、またしても自分の前に、その馬のしりと、短いしっぽと、遠ざかりもしないで迅速《じんそく》に動いている同じ白い足とを見た。
ウロンスキイが、今こそマホーティンを追い抜かなければと思った同じ瞬間に、フルーフルーも、彼の心中を察して、なんの刺激もあたえないうちに、いちじるしく歩度をはやめ、最も有利な側、縄ばりのしてある側から、マホーティンに近づきはじめた。が、マホーティンが縄の側をあたえなかった。ウロンスキイが外側からでも抜けるかもしれぬと考えると同時に、フルーフルーは早くも方向を転じて、その方法で追い越しはじめた。汗のためにすでに黒くなりかけていたフルーフルーの肩は、グラジアートルのしりと並行した。暫時《ざんじ》彼らはならんで走った。けれども、彼らが近づきつつあった障害物のてまえまで行くと、ウロンスキイは外まわりをしないように手綱をさばいて、斜坂《さか》の上でさっとマホーティンを追い越した。彼は、はねでよごれた相手の顔をちらと見た。彼には相手が、にやりと笑ったようにすら思われた。ウロンスキイはマホーティンを追い越した。が、彼は、自分のすぐ背後に彼を感じ、自分の背中のすぐそばに、一糸乱れぬひづめの音と、きれぎれではあるがまだ少しも疲労のみえないグラジアートルの息づかいとを、たえず耳にした。
つづくふたつの障害物、溝と柵とは、たやすく越された、が、ウロンスキイには、グラジアートルの鼻息とひづめの音とが、いっそう近く聞こえはじめた。彼は馬に拍車をあてた。そして、馬がやすやすと速力を加えたのを、歓喜の情をもって感知した。グラジアートルのひづめのひびきは、ふたたび以前と同じ距離で聞こえはじめた。
ウロンスキイは先頭に立った――自分自身もそれを欲し、コールドも彼にすすめたとおり――そして彼は、自分の成功を確信した。彼の興奮、彼の歓喜、フルーフルーにたいする愛情はますます強められていった。彼はうしろがふり返って見たくてたまらなかったが、それはあえてしなかった。そして、グラジアートルに残っていると自分が感じただけの余力をわが馬にも蓄えておくために、けんめいに自分をおちつかせて、馬にも拍車を加えないようにつとめた。ただひとつ、最も困難な障害物が残っていた。もしそれさえまっ先に越したら、彼の第一着は疑いなかった。彼はアイルランド・バンケードのほうへ乗り進んだ。フルーフルーとともに、彼はまだ遠くから、このバンケードを見た。と、彼らの双方に、人にも馬にも、瞬間的の疑惑がおこった。彼は馬の耳にちゅうちょの色をみとめて、鞭《むち》をあげた。が、すぐに、その疑いの理由のないものであることを感じた。馬は、なすべきことをちゃんと心得ていた。彼女は、ぐっと力を加え、彼が予想したとおり正確に跳躍し、地面をけって惰性の力に身をまかせた。と、その力は、彼女を遠く溝のあなたへ運んだ。こうしてフルーフルーは、なんの努力もなく、同じ調子で、同じ足から疾駆《しっく》をつづけた。
「ブラーヴォー! ウロンスキイ!」という人々の喚声《かんせい》が、彼にも聞こえた、――彼はそれが自分の連隊の仲間であることを知った――彼らはその障害物のそばに立っていたのである。彼は、ヤーシュヴィンの声に気づかないではいられなかったが、その姿は見えなかった。『おお、かわいいやつ!』と彼は、背後の物音に耳をすましながらも、フルーフルーにたいして考えた。『越しやがったな!』と彼は、背後にグラジアートルのひづめの音を聞きつけて考えた。
もうひとつ最後に、二アルシン幅の水のある溝が残っていた。ウロンスキイには、それはもう眼中になかったが、彼はずっと遠く先頭にたちたいと思ったので、疾駆の調子につれて馬の頭を上下しながら、手綱をまるくさばきはじめた。彼は、馬が最後の余力で走っていることを感じた。彼女の肩や首がぐっしょりとぬれているばかりでなく、そのたてがみや、頭や、とがった耳の上にも、汗が玉をなしてうかんでいた。そして彼女は、鋭く、短く呼吸していた。だが彼は、この余力だけでも、残っている二百サージェンには、十分あまりあることを知っていた。ウロンスキイは、わが身をますます地面に近く感ずることと、運動の一種特別な柔らかさによって、馬がいかに多くの速力を加えたかを知った。小溝などはそれと気もつかぬうちに飛び越した。まるで小鳥のように飛び越した。ところが、その瞬間にウロンスキイは、恐ろしくも自分が馬と運動をともにしないで、自分でもわけわからずに、鞍の上にしりを落として、いとうべく、許すべからざる動作をしたことを感じた。たちまち、彼の状態が変わった。彼は、何か恐るべきことの起こったのを感じた。まだ何事が起こったかをわきまえかねているうちに、くり毛の牡馬の白い足が、彼のすぐそばをひらめき過ぎて、マホーティンが疾風《しっぷう》のように追い越していった。ウロンスキイは片足で地面に触れた。と、彼の馬がその足の上に倒れかかった。彼がかろうじてその足を抜くか抜かぬに、馬は横ざまにうち倒れて、苦しげにあえぎながら、起きあがろうとして、その細い汗みどろの首で、無益な努力をくりかえした。彼女は、彼の足もとの地面で、射ち落とされた鳥のように身をもがいた。ウロンスキイがやった|へま《ヽヽ》な動作が、その脊柱《せきちゅう》を折ってしまったのだった。が、この事実を彼が知ったのは、ずっと時過ぎてからである。そのときは彼は、ただ、マホーティンはみるみる遠ざかって行くのに、自分はよろよろしながら、ただひとり、きたない、動かない地面の上に立っていて、自分の前には、苦しげに息をふきながら、倒れたフルーフルーが、彼のほうへ首をさしのべて、その美しい目で彼を見ているのを目にしただけであった。そして、やはりまだ何事が起こったのかわからなかったので、ウロンスキイは、馬の手綱をひっぱった。と、馬はふたたび、魚のように全身ではねて、鞍の翼《よく》をきしませながら前足を立てたが、しりを持ちあげるだけの力がなく、すぐによろめいて、また横ざまに倒れてしまった。ウロンスキイは、興奮の極、血相を変えてまっ青になり、下あごをがくがくふるわせながら、靴のかかとで馬の腹をけり、またしても手綱をひっぱりはじめた。が、馬は動かなかった。そして、鼻づらを地面へ押しつけて、そのものいうようなまなざしで、ただじっと主人を見あげた。
「ああ、ああ、ああ!」と、ウロンスキイは頭をかかえてうめいた。
「ああ、ああ、ああ! おれはなんということをしたんだ!」と彼は叫んだ。「この敗《やぶ》れた競走! この恥ずべく、許すべからざるおれの失敗! 不幸な、かわいい、滅ぼされた馬! ああ、ああ、ああ! おれはなんということをしたんだ!」
人々や、医者や、看護兵や、彼の連隊の士官たちが彼のほうへかけて来た。恥ずかしくも、彼は自分が無事で、なんの痛手も受けていないことを感じた。馬は背骨を折っていたので、射殺されることにきまった。ウロンスキイは、質問にたいして答えることもできなければ、なんぴとと言葉をまじえることもできなかった。彼は身をひるがえすと、落ちた帽子を拾おうともしないで、自分でもどこへというあてもなしに、競馬場を出て行った。彼は自分を不幸に感じた。生まれてはじめて、およそ重苦しい不幸、自分自身に罪のある、いやしがたい不幸を経験した。
ヤーシュヴィンが帽子をもって彼に追いつき、彼を家まで送りとどけた。三十分ほどたつと、ウロンスキイはわれにかえった。けれども、この競馬の思い出は、彼の生涯での、最も重苦しく、悩ましい思い出として長く彼の心に残った。
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二十六
アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチと妻との表面上の関係は、従前と同じものであった。唯一の相違は、彼が以前にくらべて、いっそう多忙だったことだけである。例年どおり、毎年冬期の多忙でそこなわれる健康を回復するために、彼は、春がくるとそうそう、外国の温泉へと出かけて行った。そして、いつものとおり、七月にはもどって来て、さっそくまた倍加された精力をもって、自分の仕事にとりかかった。例によって、彼の妻は別荘へ行き、彼はペテルブルグに残った。
トゥヴェルスコーイ公爵夫人の夜会のあとで、ああいう話をして以来、彼は自分の疑惑や嫉妬については、二度とアンナに言いださなかった。そして、彼の日ごろの、だれかの役をやっているような調子は、彼と妻との現在の関係にとっては、このうえなく便利なものであった。彼は妻にたいして、以前よりもいくらか冷淡になった。彼はただ、彼女がしきりに避けるようにした、あの最初の夜中の談話にたいしては、彼女の上に、軽い不満を感じているにすぎないらしかった。彼女にたいする彼の態度には、いまいましさのかげがあった。が、それ以上のものはなかった。『おまえはおれとうちとけて話をしようとしなかったが』彼は、はらのうちでこう、彼女に向かっていっているようであった。『それはおまえのためによくないよ。今では、おまえのほうから頼んで来ても、おれはもううちとけはしないからね。おまえのためにますます不利益になるばかりだ』彼ははらのなかでこういった。それはちょうど、火事を消そうとして無益な努力をくりかえした人が、自分の無益な努力にたいして業《ごう》をにやし、『えい、どうでも好きなようにしろ! 燃えたいだけ燃えろ!』と、投げ出してしまうと同じようなものであった。
彼、職務にかけては賢明、かつ細心であったこの人が、妻にたいするそうした態度の愚劣さを、少しも理解しなかったのである。彼がそれを理解しなかったのは、自分の真実の立場を知ることが、あまりに恐ろしかったからである。で、彼は、自分の心のなかで、家族、すなわち妻と子供とにたいする自分の感情をおさめてあった|はこ《ヽヽ》をぴったりしめて鍵をかけ、その上に封印までしてしまった。注意ぶかい父であった彼が、この冬の終わりごろから、目だって子供に冷淡になり、彼にたいしても、妻にたいすると同じような、嘲弄的《ちょうろうてき》な態度をとるようになった。「おい! お若いの!」こんな調子で、彼は子供に呼びかけたりした。
アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチは、これまでに今年ほど職務上の仕事の多かった年はなかったと、考えもし、人にも語った。しかし彼は、今年は、自分自身でいろいろな仕事を考えだしたのであって、じつはそれが、例の|はこ《ヽヽ》――そのなかにひたっていることが長くなればなるほど、ますます恐ろしさをましてくる、妻や家族にたいする感情や、彼らについての考えのおさめてある例の|はこ《ヽヽ》を開くまいための、ひとつの方法であったことには気がつかなかった。もしなんぴとかが、アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチに向かって、彼の妻の行状について彼がどういう考えでいるかをたずねる権利をもったとしても、柔和温厚《にゅうわおんこう》なアレクセイ・アレクサーンドロヴィッチは、なんとも答えなかったであろう。そして、そんなことを尋ねた人にたいして、いたく腹をたてたであろう。こうした理由から、アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチの顔面表情には、妻の健康について問われただけでも、なにやら傲然《ごうぜん》として、いかめしい色が現われた。アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチは、自分の妻の行状や感情については、いっさい考えることを欲しなかったし、また事実それについては、何も考えていなかったのである。
アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチのいつもの別荘は、ペテルゴフにあった。そして毎年夏になると、伯爵夫人リディヤ・イワーノヴナがその隣家へ来て、アンナと親しい交際をつづけることになっていた。が、今年は、伯爵夫人リディヤ・イワーノヴナはペテルゴフの生活を喜ばず、アンナ・アルカジエヴナのところへも一度も訪れないで、アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチに向かって、アンナとベーッシとウロンスキイとの接近の、おもしろくないことをほのめかした。アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチは、自分の妻は疑惑を超越した女であるからと言いきって、きびしく相手の言葉をおさえたが、それ以来、伯爵夫人リディヤ・イワーノヴナを避けるようになった。彼は社交界ではもう多くの者が、彼の妻を横目で見ていることを、知ろうともせねば、知りもしなかった。また、なぜことさら妻が、ベーッシが住んでおり、ウロンスキイの連隊の野営地に近いツァールスコエへ行くことをとくに主張したのかをも、理解しようともしなければ、また理解しもしなかった。彼は、それについて考えることを、自分に許しもせねば、また考えもしなかった。が、それと同時に彼は、はらのうちでもけっして、自分自身にそうといってみたためしもなく、またそれにたいする証拠はおろか疑念さえもっていなかったくせに、自分が裏切られた夫であることを、はっきりと知っていた。そして、そのためにいたく不幸であった。
過去八年間の妻との幸福な生活のあいだに、世間の不貞な妻や裏切られた夫を見て、アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチは何度心につぶやいたであろう、――『どうしてあんなになるまで、ほうっておくのだろう? どうしてあんな醜悪な境遇を、解決しようとしないんだろう?』と。しかし、現在その不幸が自分の頭上にふりかかってきてみると、彼はその境遇の解決を考えなかったばかりでなく、頭からその事実を認めようとすらしなかった。認めようとしなかったのは、ほかでもない、それがあまりに恐ろしく、あまりに不自然だったからである。
外国から帰ってから、アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチは二度、別荘のほうへ出かけた。一度は食事をし、一度は客たちと一夕を過ごしたが、前年までのしきたりに反して、ひと晩も泊まりはしなかった。
競馬の日は、アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチにとっては非常に多忙な日であった。けれども彼は、まだ朝のうちからその日の予定を頭にえがいて、昼食を早めにすますとすぐ、別荘の妻のもとへおもむき、それから、全宮廷の臨御《りんぎょ》があるはずになっていて、自分も顔を出さなければならない競馬場へ出かけようと決心した。妻のもとへよるのは、世間ていのために、週に一度は訪ねることに、自分できめていたからである。のみならず、その日は、十五日という定めにしたがって、生活費を渡さなければならなかったからでもある。
妻にかんしてこうしたことを考えながらも、彼は自分の思考を支配する習慣から、それ以上妻にかんする考察をひろげることを、自分にたいして許さなかった。その朝、アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチは、ことに用が多かった。前夜彼は、伯爵夫人リディヤ・イワーノヴナから、目下ペテルブルグに滞在中の有名な中国旅行家のパンフレットと、種々の点できわめて興味あり、また有用な人物でもあるその旅行家自身に会ってくれという、懇請《こんせい》の書状とを受け取っていた。アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチは、そのパンフレットを昨夜のうちに読んでしまうことができなかったので、朝になってやっと読み終わった。それから請願者たちが現われ、報告・接見・任命・罷免《ひめん》・賞与・年金・俸給の分配・通信など、アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチがいつもの仕事と名づけていた、ずいぶん多くの時間を要する事務がはじまった。つぎには、医師や執事の来訪という私的の用件があった。執事はさほどてまをとらせなかった。彼はただ、アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチにとって必要な金を渡し、今年は私用の旅行が多かったために、経費がかさみすぎて赤字になっているという、あまりありがたくない財政状態についての簡単な報告をしただけであった。それに反して、有名なペテルベルグの博士であり、アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチとは友人関係になっていた医師のほうは、長い時間をつぶしていった。アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチは、今日彼がこようとは思っていなかったので、彼の来訪にも驚かされたが、それにもまして驚いたのは、博士がアレクセイ・アレクサーンドロヴィッチに向かって、非常に綿密に容態をたずね、その胸部を聴診《ちょうしん》し、肝臓を打診したり触診したりしたことであった。アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチは、彼の親友であるリディヤ・イワーノヴナが、今年はアレクセイ・アレクサーンドロヴィッチの健康がとかくすぐれぬのを見て、博士に、出むいていちおう診察してくれるようにと、頼んだことを知らなかったのである。
「わたくしのためにそうなすってくださいまし」伯爵夫人リディヤ・イワーノヴナは、博士にこういったのである。
「わたくしはロシアのためにいたしますよ、奥さん」と博士は答えた。
「ほんとうに、貴重な人でございますものねえ!」と伯爵夫人リディヤ・イワーノヴナはいった。
博士はアレクセイ・アレクサーンドロヴィッチを診察して、非常な危惧《きぐ》を感じた。彼は、肝臓がいちじるしく肥大し、栄養が衰えて、温泉もなんの効果のなかったことを発見した。彼は、肉体的運動をできるだけ多くし、精神的緊張をできるだけ少なくし、わけても心を痛めることをぜんぜん避けるようにというアレクセイ・アレクサーンドロヴィッチにとっては、呼吸をとめるも同然な、不可能なことを説得しておいて、アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチの心のなかに、彼の肉体にはどこかすぐれないところがあって、それをいやすことは、とうてい不可能だというような、不快な意識を残して辞し去った。
アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチのもとを辞して出ながら、博士は、玄関の階段のところで、かねて懇意にしていたアレクセイ・アレクサーンドロヴィッチの秘書スリューディンに出くわした。彼らは大学での同窓で、めったに会いはしなかったが、お互いに尊敬しあっている親しい間柄だったので、博士は、だれにも話さなかったほどの病人についての遠慮のない意見を、スリューディンにはうちあけた。
「きみが見に来てくだすったのは、じつにありがたい」と、スリューディンはいった。「まったくよくないんです。ぼくにもそんな気がしていました……それで、容態は?」
「それがこうなんです」と博士は、スリューディンの頭ごしに、馬車をもってくるようにと御者に合図しながら、いった。「こうなんです」と博士は、その白い手にキッド革の手ぶくろをとって、それをはめながらいった。「楽器の絃を十分はらないで、それを切ろうとしてごらんなさい――容易に切れない。ところが、もうこれ以上はれぬというところまではっておいて、その上へ指一本の重みでも加えてごらんなさい――たちまち切れてしまいます。ところが、あのかたはしんぼう強いし、職務にたいして良心的だから、極度まで緊張していられるわけだ。しかも他の方面にも圧迫があるときている、しかも重苦しいね」と、博士は意味ありげに眉をあげて、言葉を結んだ。
「ときにきみは、競馬にはおいでですか?」と彼は、近づいて来た馬車のほうへと階段をおりて行きながら、言いたした。「そう、そう、もちろん、かなり時間はつぶされますよ」と博士は、スリューディンがいうにはいったが、よく聞きとれなかった言葉にたいして、こんなふうのことを答えた。
むやみに長い時間をつぶしていった博士につづいて、有名な旅行家が現われた。アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチは、いま読んだばかりのパンフレットと、その題目にかんして以前から蓄えていた知識とを利用して、造詣《ぞうけい》の深い、文化的視野の広さで、旅行家を驚嘆させた。
旅行家と同時に、ペテルブルグへ出て来た地方長官の来訪が報ぜられていたので、彼はその人とも二、三言葉をまじえなければならなかった。そして、その人が帰っていくと、こんどは、秘書を相手に日々の仕事を整理しなければならなかったし、そのうえ、まじめな重大な事件について、ある名士を訪問しなければならなかった。アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチは、いつもの食事時間である五時に、やっとのことでもどって来て、秘書と食事をともにすると、さらに彼に、別荘と競馬場とへ同行するようにいった。
自分でもはっきり意識はしなかったが、アレクセイ・アレクサーン・ドロヴィッチは、このごろでは、自分の妻との会見に、かならず第三者をかたわらに持つ機会を求めるのであった。
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二十七
アンナが二階の鏡の前に立ち、アーンヌシカに手つだわせて、上着の最後のリボンをつけていたときに、彼女は、表のほうにあたって、砂利の上をきしる馬車の音を聞きつけた。
『ベーッシにしては少し早すぎる!』と彼女は思った。そして窓からのぞいてみると、一|輌《りょう》の箱馬車と、その中からつき出ている黒い帽子と、例のなじみのアレクセイ・アレクサーンドロヴィッチの耳とが見えた。『まあ、あいにくな時に。泊まっていくつもりじゃないかしら?』と彼女は思った。と、彼女には、この一事から起こりうるすべてのことが、あまりにも恐ろしく無気味に思われたので、一刻もその考えをつづけないで、快活な晴れやかな顔をして、彼を迎えにかけだしていった。そして自分の身うちに、すでにおぼえのある虚偽と欺瞞の息ぶきのわきおこっていることを感じながら、たちまちその息ぶきに身をゆだねて、自分でも何をいっているのかわけがわからずに、口から出まかせにしゃべりはじめた。
「まあ、ほんとによくねえ!」と彼女は、夫に手をあたえながら、いっぽう内輪の人であるスリューディンとも笑顔であいさつをかわしながら、いった。
「あなた、今晩は泊まってらっしゃるでしょうね、いいでしょう」これが、虚偽の息ぶきが彼女にささやいた第一の言葉であった。「そして、これからごいっしょにまいりましょう。ただ、困ったことには、わたしベーッシとお約束いたしましたのよ。それで、あのかたがわたしをお誘いくださるはずなんですの」
アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチは、ベーッシの名を聞くとちょっと眉をひそめた。
「いや、わしは、離れられんものを、むりに離れさせようとはせんよ」と彼は、もちまえのふざけたような調子でいった。「わしはミハイル・ワシーリエヴィッチといっしょに行くよ、医者も歩くのがいいといってたからね。わしはひとつ歩いて行って、温泉にでも来ているつもりになろうよ」
「でもお急ぎになることはありませんわ」とアンナはいった。「お茶はいかが?」
彼女はベルを鳴らした。
「お茶をね。そしてセリョージャに、アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチがおいでになったっていってくださいな。それはそうと、あなたおからだはいかがですの? ミハイル・ワシーリエヴィッチ、あなたはこちらははじめてでしたわね。ごらんなさい。ここのテラスはずいぶんいいでしょう」と彼女は、たえずあちこちと顔をふり向けながら、しゃべりつづけた。
彼女の口のききかたはきわめて単純かつ自然であったが、しかし、それはあまりに多く、あまりに早口であった。彼女は、自分でもそれを感じていたが、ことに、ミハイル・ワシーリエヴィッチが自分にそそいでいる好奇らしいまなざしのうちに、何か自分を観察しているらしいものを認めるとともに、いっそう強くそれを感じるのだった。
ミハイル・ワシーリエヴィッチは、すぐにテラスのほうへ出ていった。
彼女は夫のそばに腰をおろした。
「あなたはどうも、お顔色がよくないようですのね」と、彼女はいった。
「うん」と彼はうなずいた。「今日も医者がやって来てね、一時間ばかり暇をつぶされちまったよ。わしは、わしの友人のだれかが、あの男をよこしてくれたんだろうと思っているよ――それほどわしの健康は大切なんだよ……」
「まあ、それはそうと、お医者さまはなんとおっしゃいまして?」
彼女は彼に、健康のことや、仕事のことをたずね、からだを休めに自分のほうへ移ってくるようにとすすめた。
すべてこれらのことを、彼女は快活に、早口に、目に特殊な輝きを見せながら語った。が、アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチは、今ではもう彼女のこの調子に、なんの意味をも求めようとしなかった。彼はただ、彼女の言葉に耳をかして、その言葉のもつ直接の意味だけを、くみとるにすぎなかった。そして彼は、冗談らしい調子ではあったが単純に、それに受け答えをした。これらの会話のなかには、なんら変わったことはなかったにもかかわらず、アンナはそののちけっして、羞恥《しゅうち》の苦い痛みなしには、この短い一場面を思い出すことができなかった。
セリョージャが、家庭教師に連れられて、はいって来た。もしアレクセイ・アレクサーンドロヴィッチが進んで観察したならば、彼はたしかに、セリョージャがまず父を、つぎに母を、おずおずとしたおちつきのない目で見たことに気がついたにちがいない。けれども彼は、何ひとつ見ようともしなかったし、また見もしなかった。
「おい、お若いの! 大きくなったね。ほんとに、まるでおとなになってしまった。こんにちは、お若いの」
そういって彼は、おびえたような顔をしているセリョージャに手をあたえた。
セリョージャは、父親にたいしては臆病であったが、アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチが彼のことをお若いのと呼ぶようになり、かつ彼の頭へ、ウロンスキイが敵か味方かというなぞが入りこんでからは、いっそう父をはばかるようになっていた。彼は、まるで救いでも求めるように、母親のほうをかえりみた。ただ母といっしょにいることだけが、彼にはよかったのである。アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチはそのあいだ、家庭教師に話しかけながら、子供の肩をおさえていたので、セリョージャはアンナが、この子はいまにも泣きだしそうだと思ったほど、ひどく気づまりそうにしていた。
子供がはいって来たときに、ぽっと顔をあかくしたアンナは、セリョージャのもじもじしているさまを見ると、つと立ちあがって、子供の肩からアレクセイ・アレクサーンドロヴィッチの手をはずし、子供を接吻してテラスへ連れだすと、自分だけすぐにひき返した。
「それはそうと、もう時間ですわ」と彼女は、自分の時計をちょっと見ていった。「ベーッシはどうなすったんでしょう!……」
「そうだ」とアレクセイ・アレクサーンドロヴィッチもいって、立ちあがると、手を組み合わせて指を鳴らした。「わたしはもうひとつ、おまえに金を渡す用でも来たんだよ。うぐいすだって、おとぎ話だけじゃ養っておけんからね」と彼はいった、「おまえ入用だろう、きっと」
「いいえ、いりませんのよ……ああ、いりますわ」と彼女は、彼のほうは見ないで、髪のつけ根まであかくなりながら、いった。「でもあなたは、競馬からこちらへお帰り遊ばすでしょう?」
「ああ帰るとも!」とアレクセイ・アレクサーンドロヴィッチは答えた。「そら、ペテルゴフの花形、トゥヴェルスコーイ公爵夫人のお越しだ」と彼は窓から、いたって小さな箱をむやみに高くつけ、イギリスふうの馬具のかかった馬車の近づいているのをみとめて、言いたした。「いやどうもぜいたくせんばん! みごとなもんだ! さあ、ではわしらも出かけるとしようか」
トゥヴェルスコーイ公爵夫人は、馬車からおりないで、ただ、ゲートルつきの長靴に、肩えりをかけて、黒い帽子をかぶった従僕だけが、車寄せのところで飛びおりた。
「では、わたし出かけますからね、さようなら!」アンナはこういって、子供に接吻してから、アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチのほうへ近づき、彼のほうへ手をさしのばした。「あなた、ほんとによくいらしてくださいましたわねえ」
アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチは、彼女の手に接吻した。「では、またのちほど! あなたお茶をあがりにお帰りあそばすでしょう。ああ、うれしい!」と彼女はいって、輝かしく、いそいそとして出ていった。が、彼の前をはなれるやいなや、彼女は、自分の手の彼のくちびるが触れた個所をはっきりと感じて、嫌悪の情に身ぶるいした。
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二十八
アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチが競馬場へ姿を現わしたときには、アンナはもう、上流社会の全部が集まっている桟敷のなかに、ベーッシとならんで座をしめていた。彼女はまだ遠くから夫を認めていた。ふたりの男、夫と恋人とは、彼女にとって、生活のふたつの中心だったので、外部的感覚の助けなしにも、彼らの接近を感知することができたのである。彼女はまだ遠くから夫の接近を感じて、心にもなく、彼が動いていた人波のなかで、彼のあとを注視していた。彼女は彼が、あるいは取り入るようなあいさつに、ていねいにえしゃくを返したり、あるいは親しげに、放心したような態度で同僚とあいさつをかわしたり、あるいは権勢ある人々の目をけんめいになってとらえようとしたり、その耳の端をおさえている、まるい大きな帽子を脱いだりしながら、桟敷のほうへ近づいてくるのを見た。彼女は、彼のこうしたあいさつぶりをよく知っていた。そしてそのすべてが彼女にはいとわしいものであった。『名誉心一点張り、射倖心《しゃこうしん》一点張り――あのひとの心にあるのはただそれだけだわ』と彼女は思った。『高い見解だとか、文化にたいする愛だとか、宗教だとか、そんなものはもうすべて――ただ出世したいばかりの武器にすぎないんだもの』
婦人席のほうへ向けられた彼のまなざしによって(彼はまっすぐに彼女のほうを見ていたのだったが、モスリンや、リボンや、羽毛や、傘や、花などの海の中では、妻を見つけえなかったのだった)、彼女は、彼が自分をさがしていることを知った。が、わざと気づかないふりをしていた。
「アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチ!」と公爵夫人ベーッシが彼に叫んだ。「あなたは、奥さまがお見つかりにならないんでございましょう。ほら、ここにいらっしゃいますよ!」
彼は、例の冷やかな微笑をうかべた。
「ここはあんまりきれいすぎて、目うつりがしてならないんですよ」彼はこういって、桟敷のなかへはいって来た。彼は、いま別れて来たばかりの妻を見た夫が、当然見せなければならぬだけの笑顔を妻に見せ、それから公爵夫人その他の知人たちに、それぞれ必要なだけのものをふりまいた。つまり婦人たちにはしゃれを言い、男たちとはえしゃくの言葉をかわしあって、あいさつをしたのである。下のほうの桟敷のそばに、アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチの日ごろから尊敬している、その頭脳と教養とで名高い、侍従将官が立っていた。アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチは、彼を相手に話をはじめた。
ちょうど競馬のあいまだったので、会話のじゃまになるものは何もなかった。侍従将官は競馬を非難した。アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチは、それを弁護しながら、反駁《はんばく》した。アンナは彼の、細い、一本調子な声を、一語ものがさないで聞いていた。と、彼の一語一語が、彼女には虚偽のように思われて、彼女の耳をいたく刺した。
四ウェルスターの障害物競走がはじまると、彼女は身をのりだして、わき目もふらず、ウロンスキイが馬のそばへ歩みよって、それに乗るのを見つめていた。そしてそれと同時に、夫の口から小やみなく流れ出すこの不愉快な声を聞いていた。彼女は、ウロンスキイにたいする不安に悩まされていたが、それにもまして、なじみのふかい音調をもった夫の細い声の、彼女にはやむまもないように思われたひびきに、悩まされた。
『わたしはいけない女だわ、破滅した女だわ』こう彼女は考えた。『でもわたしは、うそをつくことはきらいだ。わたしはうそには堪えられない。ところが|あのひと《ヽヽヽヽ》(夫)の食物は――それは虚偽だ。あのひとは何もかも知っており、何もかも見ぬいている。それでいて、あんなに平気で話していられるなんて、あのひとはいったいなんと感じているんだろう? もしあのひとがわたしを殺すか、ウロンスキイを殺すかしてくれたら、わたしはあのひとを尊敬するだろうに。ところが、どうしてどうして、あのひとに必要なのは、ただ虚偽と体面ばかりなんだわ』こうアンナは、自分はつまり夫から何を要求しているのか、夫がどんな人であってほしいのかということは考えもしないで、われとわが心につぶやいた。彼女は、これほどまでに自分をいらだたせたアレクセイ・アレクサーンドロヴィッチの、今日のかくべつなこの饒舌《じょうぜつ》は、彼の内心の混乱と不安との表現にほかならないことを、少しもさとらなかったのである。ちょうど、けがをした子供が痛みを忘れたいために、足をばたばたさせて筋肉を運動させるように、アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチにとっては、妻の存在や、ウロンスキイの存在や、彼の名まえのたえずくりかえされることによって彼の注意を強要する、妻についての意識をまぎらすために、どうでも精神的の活動が必要だったのである。とびはねることが子供に自然であるように、よく、うまくしゃべることが、彼にとって自然だったのである。彼はいった――
「軍人の、騎兵の、競馬における危険はですね、競馬上欠くべからざる条件ですよ。もしイギリスが軍事上の歴史において、最も光輝ある騎兵の活動を指示することができるとすれば、それはただ、イギリスが、自分のなかで、人間と馬とのこの力を歴史的に発達させたおかげというほかはないのです。スポーツなるものはです、わたくしの見解では、絶大なる意義をもっています。ところが、いつもわれわれは、その最も皮相《ひそう》な面ばかりを見ているのです」
「皮相だけじゃございませんわ」とトゥヴェルスコーイ公爵夫人がいった。「ある士官は肋骨《ろっこつ》を二本折ったという話ですもの」
アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチは、歯を見せただけで、それ以上にはなんらの意味をもたぬ例の微笑をうかべた。
「じゃそれは、ねえ奥さん、皮相的でないとしましょう」と、彼はいった。「なるほど内部的です。しかしながら、問題はそこにあるのではありませんよ」こういって、彼はふたたび、まじめに話をしていた将軍のほうへ顔をむけた。「どうか、競技者は、みずからそれを選んだ軍人であるということをお忘れにならないように、また、あらゆる職業は、楯《たて》の半面をもっているということを、ご承認くださるように。これがつまり、軍人なるものの本分なのですから。拳闘ないし、スペイン式闘牛とかいう種類の醜悪な競技は、それは野蛮の表象《ひょうしょう》です。しかし、専門的競技なるものは、文化の象徴ですからね」
「いいえ、わたくしはもう二度とはまいりませんわ――こんなことは、わたくしにはあまりに刺激が強すぎます」と公爵夫人ベーッシはいった。「そうじゃありませんか、ねえアンナ?」
「ええ、ずいぶん、はらはらさせられますのね、ですけれど、見ないでもいられませんわ」と、他の婦人がいった。「もしわたしがローマ婦人だったら、どんな闘技場だって、見のがしっこはないと思いますわ」
アンナは一言も口をきかないで、望遠鏡を目にあてたまま、ひとつところばかりを見ていた。
このとき桟敷のなかを、ひとり背の高い将軍が通った。と、アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチは急に話をやめ、あたふたと、けれども威儀を正して立ちあがって、通りすぎていく将軍に低く頭をさげた。
「あなたは競走はなさらないんですかな?」と、将軍は彼に冗談らしくきいた。
「わたくしの競走はもっともっと困難なものでございますよ」と、アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチはいんぎんに答えた。
この答えにはなんの意味があるわけでもなかったが、将軍は賢明な答えを聞いたという顔つきをして、十分に La pointe de sauce(ソースの味)を味わった。
「それにはふたつの面があります」とアレクセイ・アレクサーンドロヴィッチは、あらためて言葉をつづけた。「競技者と観覧者とです。そしてかかる見ものを喜ぶということは、観覧者の文化程度が低いという的確な証左《しょうさ》ではありましょう。わたくしもそれには同感です、しかし……」
「公爵夫人、賭《かけ》を!」と、ベーッシに向かって呼びかけたステパン・アルカジエヴィッチの声が、下から聞こえた。「あなたはだれにお賭けになります?」
「わたくしはアンナといっしょにクゾヴレフ公爵に」と、ベーッシは答えた。
「ぼくはウロンスキイに。手ぶくろ一組」
「え、よござんすよ」
「まあ、なんて美しい、そうじゃありませんか?」
アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチは、自分の周囲で人が話しているあいだは黙っていたが、すぐさま、また言葉をつづけた。
「わたくしも同感です、が、男性的な競技というものは……」と、彼はつづけようとした。
しかしこの瞬間に、騎士たちが駆けだしたので、すべての会話ははたとやんだ。アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチも口をつぐんだ。一同は身を起こして、河のほうへ顔をむけた。アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチは、競馬には興味をもたなかったので、騎士たちのほうは見ないで、疲れたまなざしでぼんやりと、見物のほうを見まわしはじめた。彼のまなざしは、アンナの顔の上にとまった。
彼女の顔は、青ざめてきびしかった。彼女は明らかに、ひとりのほか、何ものをも、なんぴとをも見てはいなかった。その手は、痙攣的に扇を握りしめていて、彼女は息もしなかった。彼は彼女をちょっと見てから、急いで目をかえして、ほかの人たちの顔を見た。
『そうだ、あの婦人も、ほかの婦人たちも、同じようにひどく興奮している。これはきわめて当然なことだ』と、アレクセイ・アレクサンドロヴィッチは自分にいった。彼は彼女を見まいと思ったけれども、その目は、われにもなく、彼女のほうへ引きつけられた。彼はふたたびその顔に目をとめて、そこにいとも歴然《れきぜん》と描かれていることを読むまいとつとめたが、その意志に反して、彼は、知りたくないと思っていたことを、恐ろしくもその顔に読んでしまった。
河でのクゾヴレフの最初の落馬は、観衆を騒がしたが、アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチは、アンナの勝ち誇ったような青ざめた顔によって、彼女の注視していた相手が落ちたのではないことを、明らかに見た。また、マホーティンとウロンスキイとが大きな柵を飛び越えたあとで、それにつづいた士官がそこでまっ逆さまに落ちて、瀕死の重傷を負い、恐怖のささやきが観衆全体の上にひろがったときにも、――アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチは、アンナがそれには気もつかず、周囲の人々が何をがやがや騒ぎだしたのかさえ、ほとんど解さないでいるらしい様子を見た。が、彼はますますしばしば、より執拗《しつよう》な長い凝視《ぎょうし》で、彼女の顔をさしのぞいた。アンナは、駆けているウロンスキイの姿にすっかり心を奪われていながらも、わきのほうから自分の上にこらされている夫の冷たいまなざしを感じた。
彼女はちょっと目を動かして、いぶかしげに夫の顔を見たが、軽く眉をひそめただけで、すぐまた顔をそむけてしまった。
『ああ、わたしもうどうだっていい』あたかも彼女は、彼にこういったもののようであった。そしてその後は、一度も彼のほうを見なかった。
競馬は不幸なものであった、十七名のうち半数以上が、落馬して身を傷つけた。競走が終わりに近づくにしたがって、人々はいよいよ興奮した。そしてその興奮は、皇帝が不満の色を見せられたがために、いっそう増大した。
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二十九
すべての人々が高声に非難の気持を表明し、すべての人々が、なんぴとかの口からもれた一句――『ただ獅子との闘争が欠けてるだけだ』こういう言葉をくりかえした。こうして、恐怖の観念はあらゆる人々の上に感ぜられていたので、ウロンスキイが落馬して、アンナが高い驚愕《きょうがく》の叫びを放ったときにも、それだけではべつだん、変わったこととも感ぜられなかった。が、それにつづいてアンナの顔色には、もう明瞭に尋常でない変化がおこった。彼女はすっかり自分を失った。彼女は、捕えられた小鳥のように身をもがきはじめた――立ってどこかへ行こうとしてみたり、ベーッシのほうへ顔をむけてささやいたりした。
「行きましょうよ、行きましょうよ」こう彼女はいったのである。
けれども、ベーッシはそれを聞いていなかった。彼女は、身をかがめて、そばへよってきた将軍と言葉をまじえていた。
アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチは、アンナのそばへ歩みよって、いんぎんに手をさしだした。
「ごいっしょに行きましょう、もしご都合がよろしかったら」と彼は、フランス語でいった。が、アンナは、将軍の話に耳をかたむけていて、夫の声には気がつかなかった。
「やはり足を折ったという話ですよ」と将軍はいっていた。「いや、どうもお話のほかだ」
アンナは夫には答えないで、望遠鏡をあげて、ウロンスキイの落ちたほうを見やった。しかし、そこはだいぶ距離があるうえに、人が大ぜい群がっているので、何ひとつ見わけることはできなかった。彼女は望遠鏡をおろして立ちあがりかけた。ところがそのとき、ひとりの士官が騎馬で駆けつけて、皇帝に何事かを奏上した。アンナは身をのりだして、耳をそばだてた。
「スティーワ! スティーワ!」と、彼女は兄に叫んだ。
しかし兄は、その声を耳に入れなかった。彼女はふたたび出ようとした。
「わたしはもう一度あなたに、わたしの手を提供しましょう。もしお出になりたいのなら」と、アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチは、彼女の手に触れんばかりにしていった。
彼女は、嫌悪の色をうかべて彼から身をひき、その顔は見ないで答えた――
「いいえ、いいえ、かまわないでくださいまし、わたしはまだまいりません」
彼女はそのとき、ウロンスキイの落ちた場所から、場内を横切って、ひとりの士官が桟敷のほうへ駆けてくるのを見た。ベーッシが彼にハンケチを振った。士官は、騎手は負傷しなかったが、馬が背骨を折ったという報告をもたらした。
それを聞くと、アンナはさっと腰をおろして、扇で顔をおおった。アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチは、彼女は泣いていて、涙をおさえかねているばかりでなく、その胸を波だたせるすすり泣きをも、おさえかねているのを見た。アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチは身をもって彼女をかくして、彼女に気を取りなおす時間をあたえてやった。
「三度、わたしはあなたにわたしの手を提供します」と、彼はしばらくしてから、彼女のほうへ顔をむけていった。アンナは彼を見たが、いうべき言葉を知らなかった。公爵夫人ベーッシが彼女を救いに来てくれた。
「いいえ、アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチ、アンナはわたくしがお連れしたのでございますし、わたくしがお送りするお約束ですから」と、ベーッシは言葉をはさんだ。
「失礼ですが、奥さん」と彼はいんぎんな笑顔でではあったが、きっと相手の目に見いりながら、いった。「アンナは気分でもわるくしているようですから、わたくしといっしょに帰らせたいと思うのです」
アンナはびっくりしたようにあたりを見まわし、すなおに立ちあがって、夫の手へ自分の手をあずけた。
「わたし、あのひとのところへ人をやって、きかせてお知らせしますからね」とベーッシは彼女にささやいた。
桟敷の出口で、アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチは例のとおり、出会う人出会う人と言葉をまじえた。しぜんアンナも、いつものように、答えたりいったりしなければならなかった。が、彼女は、自分が自分でないようで、夢でも見ているように、夫の腕にすがって歩いていった。
『死んでしまやしないかしら、だいじょうぶかしら? ほんとうかしら? くるだろうか、こないだろうか? 今日あのひとに会えるだろうか?』と、彼女は考えた。
彼女は黙々として、アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチの馬車に乗り、黙々として馬車の群のなかから出て行った。
アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチは、いっさいの事実を目撃したにもかかわらず、やはり自分の妻のほんとうの状態について考えることを、みずから許さなかった。彼はただ外面的の徴候を見たにすぎなかった。彼は、彼女が身を処するに不謹慎であったことを認めたので、それを彼女に注意するのを、自分の義務と考えた。が、いうことをそれだけにとどめて、それ以上をいわないということは、彼には至難なわざであった。彼は、彼女がいかに不謹慎に身を処したかを話してやろうとして口を開いたが、つい、心にもなく、ぜんぜんほかのことを言いだしてしまった。
「なんのかんのと言いながら、われわれにはみな、ああいう残酷な見ものを喜ぶ傾向があるんだね」と、彼はいった。「わしはそう思うが……」
「なんですって? わたしにはわかりませんわ」と、さげすむようにアンナはいった。
彼はむっとして、すぐに言いたいと思っていたことを言いだした。「わたしは、あなたにいわなければならない……」こう彼は口をきった。
『ほらきた、談判だ』と彼女は考えた。彼女は恐ろしくなってきた。
「わたしはあなたに、あなたの今日の身の処しかたの、不謹慎だったことをいわなければならない」と、彼は彼女にフランス語でいった。
「どういうところが、不謹慎だったのでございましょう?」と彼女は、すばやく彼のほうへ頭をめぐらし、ひたと彼の目に見いりながら、癇《かん》のたった声でいった。しかしその態度には、もはやそれまでの、何かを秘しているような、わるくはしゃいだところはなく、決然としたおももちの下に、からくもいま感じている恐怖をつつんでいる気配があった。
「忘れてはいけませんよ」と彼は、御者の背後に開いている窓をさしながら、彼女にいった。
彼は身を起こしてガラスをあげた。
「あなたは何を不謹慎だとごらんになりましたの?」と彼女はくりかえした。
「騎手のひとりが落ちたときに、あなたがつつみかねたあの絶望さ」
彼は彼女の反駁《はんばく》を待った。が、彼女は目の前を見つめたまま、黙っていた。
「わたしは前からあなたに、人なかへ出ては、どんな悪口屋でもあなたについてかれこれいうことができないように、身を処してもらいたいと頼んでおきました。かつてはわたしも、内面的の関係ということを口にしたこともあったが、今はそのことはいわない。今はただ、外面的についてのみいうのです。つまり、あなたの態度が不謹慎だったから、わたしは、それがふたたびくりかえされないようにお願いするのです」
彼女は彼の言葉を半分も聞いてはいなかった。彼にたいして恐怖の情をおぼえながら、ウロンスキイが死ななかったのは事実だろうかということばかり、考えていた。騎手はだいじょうぶだが、馬が背骨を折ったというのは、はたしてあのひとのことだったろうか? 彼が言い終わったときには、彼女はただ、いつわりのあざけるような微笑をうかべただけで、一言の答えもしなかった、彼の言葉を聞いていなかったので。
アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチは矢つぎばやにしゃべりだした。が、自分のいっていることのなんであるかを明らかに知ると――彼女のなめていた恐怖が、たちまち彼にも感染した。彼は彼女の微笑を見た。と、きたいな錯誤《さくご》が、彼の上におこった。
『あれはおれの疑いを笑っている。そうだ、あれはいつかおれに、おれの疑いには根拠がない、それは笑うべきだといったが、今もそれをくりかえそうとするのだろう』
いっさいの暴露《ばくろ》がその頭上にぶらさがっている今の彼にとっては、彼女が以前のように、疑いが笑うべき根拠のないものであることをいって、あざけるような返答をしてくれることほど、望ましいことはなかった。彼は、自分の知ったことがあまりに恐ろしいことだったので、今はもうどんなことでも、信じたい気になっていたのである。が、びっくりしたような、また陰うつな彼女の顔の表情は、今ではいつわりの希望すら持たせなかった。
「あるいはわしがまちがっているかもしれない」と彼はいった。「もしそうだったら、わしはあやまる」
「いいえ、あなたはまちがってはいらっしゃいません」と彼女は、彼の冷やかな顔を絶望的に見つめながら、ゆっくりゆっくりとこういった。「あなたは、まちがってはいらっしゃいません。わたしは絶望しました。絶望しないではいられないのです。わたしはあなたのお言葉を聞きながら、あのひとのことを思っています。わたしはあのひとを愛しています。わたしはあのひとの恋人です。わたしはあなたをがまんできないのです。わたしはあなたを恐れています、憎んでいます……どうぞあなたのお気のすむようになすってくださいまし」
彼女はこういうなり、馬車の片すみへ身を投げて、両手で顔をおおって泣きだした。アレクセイ・アレクサーンドロヴィッチは、身うごきもしなければ、正面を見つめた視線をも動かさなかった。けれども、彼の顔つきは急に、死者の荘重な不動の色をおびてきた。そしてこの表情は、別荘へ行きつくまで途中ずっと変わらなかった。家へ近づくと、彼は同じ表情のままの顔を、彼女のほうへねじ向けた。
「そうか! しかしわしは、そのときまでは、体面をたもつための外面的条件だけは、ぜひ守ってもらうことを要求する」彼の声はふるえだした。「わしが、わしの名誉を保持する方法を講じて、あなたにそれを明示するまでは」
彼はさきにおりて、彼女をたすけおろした。下僕たちの見ているまえで、彼は無言のまま彼女の手を握ると、ふたたび馬車に乗って、ペテルブルグへ帰っていった。
彼と入れちがいに、公爵夫人ベーッシからの使いが、アンナのところへ、紙片に書いたものを持って来た――
「わたくし、アレクセイのところへ様子をききにやりましたらね。あのひとはわたくしに、からだには少しも異状はない。が、絶望していると書いてよこしました」
『これなら|あのひと《ヽヽヽヽ》はくるだろう』と彼女は考えた。『わたし、ほんとにいいことをした、何もかもいってしまって』
彼女は時計を見た。まだ三時間ばかり残っていた。と思うと、このまえ会ったときのこまごまとした思い出が、彼女の血をわきたたせた。
『ああ、なんて明るいんだろう! それは恐ろしいことだけれど、わたしは、あのひとの顔を見ることが好きだわ。そして、この夢のようなあかりが好きだわ……夫! ああ、そうだ……でも、おかげで、あのひとのことは、これできれいに片づいてしまった』
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三十
人の集まる場所ではどこでもそうであるように、スチェルバーツキイ家の人々が出かけたドイツの小さな温泉場でも、それぞれの人に一定不変の地位をわりあてている、例の、一種の社会的結晶のようなものができあがっていた。ちょうど水の一滴一滴が冷気にあうと、例外なくかならず、雪の結晶のような一定の形をとる、それと同じように、温泉場へくる新しい人々は、みなそれぞれすぐに、自分に適当した地位に置かれるのであった。
フュールスト スチェルバーツキイ ザムト ゲマリン ウント トホテル(公爵スチェルバーツキイ、夫人および令嬢)は、彼らが借りた住居と、名声と、彼らが見いだした知己とによって、早くも、彼らのために予定された一定の地位に結晶させられてしまった。
今年この温泉場へは、ほんもののドイツのフュールスティン(大公妃)が来ていたので、その結果、例の社会的結晶は、いっそう根強いものとなった。公爵夫人はぜひとも公妃に、わが娘を拝謁《はいえつ》させたいと思った。そして二日めに、その儀式が執り行なわれた。キティーは、パリに注文してつくらせた、彼らのいわゆる|ごくあっさり《ヽヽヽヽヽヽ》とした、つまりごくはなやかな夏衣装をつけて、うやうやしく優雅に拝謁した。公妃は仰せられた――「その美しいお顔に、早くばら色のもどってくることを祈ります」そして、スチェルバーツキイ一家にとっては、もはやそのなかから出ることのできない生活上の一定の道が、すぐにしっかりと定められた。
スチェルバーツキイ家の人々は、イギリスのある貴婦人の一家とも、ドイツの伯爵夫人とも、最近の戦争で負傷したその子息とも、スウェーデンの学者とも、クヌード氏とその姉妹とも、懇意《こんい》になった。が、スチェルバーツキイ家のおもな交際は、マリヤ・エヴゲーニエヴナ・ルティシチェーワという、発病の原因がキティーと同じ恋愛からだというのでキティーには不愉快だった令嬢を連れたモスクワの貴婦人と、キティーが子供のころからその軍服と肩章とで見おぼえていた、小さい目と、花のような首飾りをしたむき出しの首がなみはずれてこっけいではあったが、一度会ったが最後、容易にはなれることができないためにうんざりさせられるモスクワの大佐とのあいだに、いつのまにか結ばれてしまっていた。こういう状態がきちんと定められてしまうと、キティーはたいくつでたまらなくなった。まして、公爵がカルルスバッドへ立ってしまって、母とふたりきりとり残されたので、そのたいくつはひとしおであった。
彼女は、以前からの知り合いからは、もう何も新しいことはえられないように感じて、その人たちには興味をいだかなかった。温泉場での彼女の一ばん大きい興味は、今では、未知の人を観察し推測することであった。自分の性格の特徴によって、キティーはつね日ごろ人々のなかに、とくに未知の人々のなかに、最も美しいものを予想していた。で、今もキティーは、彼ら相互の関係や、彼らがいかなる人々であるかということなどを推測しながら、心のうちで、最も驚くべく美しい性格をえがきだして、自分の観察に確証を見いだしているのであった。
そういう人々のなかで、とくに彼女の心をひいたのは、シターリ夫人と人々が呼んでいた病めるロシア婦人といっしょにここへ来た、ひとりのロシアの少女であった。シターリ夫人は、上流階級に属する人であったが、歩行さえもできないほどの病人で、ただときたま天気のいい日に、小さい車に乗って浴場へ現われるだけであった。しかしシターリ夫人は、病気のせいというよりもむしろその傲慢な気性から、ロシア人のだれとも交際を結ばないでいるのだ――こう公爵夫人は解釈していた。ロシアの少女は、シターリ夫人の世話をしていたのであるが、キティーの見たところでは、そのほかにも、この温泉場に大ぜいいる重病人たちと親しくして、きわめて自然な態度で、彼らのめんどうをみてやっていた。
このロシア少女は、キティーの観察では、シターリ夫人の身内でもなければ、同時にまた雇われた付添いでもなかった。シターリ夫人が彼女をワーレニカと呼んでいたので、ほかの人たちも、「マドモアゼル ワーレニカ」と呼んでいた。この少女とシターリ夫人、およびキティーには未知である他の人々と彼女との関係を観祭することが、キティーの興味をひいたことはいうまでもないが、さらにキティーは、よくあるように、このマドモアゼル ワーレニカにたいして、言い現わしがたい好感をおぼえ、ときどき見あわすまなざしによって、先方にも自分が気にいっているらしいことを感じたのである。
このマドモアゼル ワーレニカは、あまり若くないというのではないが、どこやら若さを欠いたような存在であった――彼女は十九とも見えれば三十とも見えた。しさいにその顔だちを見ていると、顔色こそよくなかったが、不きりょうというよりは、むしろ美しいほうであった。もしからだが、こんなにひどくやせていなくて、頭の不つりあいがなかったら、中背ではあり、姿もよかったにちがいないのだ。だが彼女は、異性の目をひきやすいほうの女ではなかった。彼女はちょうど、まだ十分に花弁を保ちながら、もはや盛りがすぎて香りの失せた美しい花のようであった。そればかりでなく、彼女には、キティーなどがありあまるほど持っていた、抑圧された生命の炎や、自分の魅力の自覚が欠けていたという理由からも、異性の心をひきやすい女ではありえなかったのである。
彼女はいつも、疑いなどとうていありえないような仕事に追われているように見えた。したがって、それ以外のことには何ひとつ、興味を持ちえないもののように見えた。この、自分とはぜんぜん反対なところが、とくにキティーの心を彼女のほうへひきつけた。キティーは、彼女のうちにこそ、その生活様式にこそ、いま自分が苦しみ求めているものの手本――キティーにとって、今では、買い手を待っている商品の卑しい陳列のような気さえして、いとわしかった男子と未婚婦人との社会的関係をよそにした興味ある生活、価値ある生活の手本があるような気がした。この未知の友を観察すればするほど、キティーはますます、この少女こそ自分が日ごろ思いえがいていた、あの最も完成した婦人であることを堅く信じて、なおさら彼女と知り合いになることを、願うようになったのである。
ふたりの娘は、日に幾度となく顔をあわせた。そしてそのたびにキティーの目はいった――「あなたはどなたですの? あなたはどういうかたですの? あなたはほんとに、わたしが考えているような、おりっぱなかたなのでしょうね? ですけれど、どうぞね」と、彼女のまなざしは言いたした。「わたしがあつかましくお近づきをお願いするなどとは、お考えにならないでくださいね。わたしはただあなたに感動し、あなたを愛しているだけですから」――「わたくしもあなたを愛しておりますわ。あなたはたいへん、たいへんおかわいらしいかたでいらっしゃいます。わたくしがもう少しひまなからだでしたら、もっともっと、あなたを愛しますのに」こう未知の少女の目は答えた。そして事実キティーは、彼女がのべつ忙しいのを見た――ときには、浴場からロシア人の家族の子供を連れもどってやったり、ときには病人のところへ膝掛《ひざか》けをもって行って、それでつつんでやったり、ときには、怒りちらしている病人を一生けんめいになだめたり、ときには、だれかのために、コーヒー用のビスケットを見たてて買ってきてやったりしていた。
スチェルバーツキイ一家の人たちが着いてまもなく、朝の浴場へ、一般の冷たい注意をひきながら、さらにふたりの浴客が現われた。それは、たけの合わぬ、短い、古びた外套をきた、恐ろしく高い背がやや前かがみになった、手の大きい、色の黒い、無邪気らしい、と同時にすごい目つきをした男と、いたってそまつな、かまわないみなりをした、顔にあばたはあるが、にくげのない顔をした女とであった。その容貌で、彼らがロシア人であることを見てとると、キティーは自分の想像裡で早くも、彼らについて美しく感動にみちた物語を創造しはじめた。が、公爵夫人はKurlist(旅客名簿)によって、それがニコライ・レーヴィンとマリヤ・ニコラエヴナであることを知ると、キティーに、そのレーヴィンがどんなによくない人物であったかということを説明したので、このふたりの人々についての空想は、たちまち消え失せてしまった。
もっとも母夫人からそういう話を聞かされたからよりはむしろ、それがコンスタンチンの兄であるということからして、キティーにはその人々が、急に極端に不愉快に思われだしたのである。このレーヴィンは、今では、その頭を振る癖のために、彼女の心にうちかちがたい嫌悪の情をわきたたせるのであった。
彼女には、しつこく彼女のあとをつけまわす彼のぎょろりとしたすごい目のなかに、憎悪と、嘲笑の色がうかんでいるような気がしたので、彼女は、つとめて彼と顔をあわせることを避けるようにした。
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三十一
天気のわるい日であった。朝のうちずっと雨が降っていたので、病人たちは傘を手にして、浴場の回廊にむらがっていた。
キティーは母といっしょに、フランクフルトで買った既製品のヨーロッパふうのコートを着て大いに得意がっているモスクワの大佐とつれだって歩いていた。彼らは、向こう側を歩いているレーヴィン(ニコライ)を避けようとしながら、回廊のこちら側を歩いていた。ワーレニカはいつもの黒い服に、縁のさがった黒い帽子をかぶり、めくらのフランス婦人の手をひいて、長い回廊をはしからはしへと歩いていた。そして彼女とキティーとは、顔をあわせるたびに、いつも親しい視線をかわしあった。
「お母さま、わたしあのかたとお話してもいいでしょうか?」とキティーは、未知の友を見おくって、彼女が噴泉《ふんせん》のほうへ行くのをみとめたので、そこでいっしょになることができるだろうと想像しながら、いった。
「ああ、もしおまえがそんなにお望みなら、まず、わたしがあのひとのことをきいて、知り合いになってみましょうよ」と母は答えた。
「だがおまえは、あのひとのどこに、どんな変わったものを見つけたの? やっぱりお話相手なんだよ、きっと。もしなんなら、わたしがシターリ夫人とお近づきになってもいいよ。わたしはあのひとの belle-soeur(義姉妹)を知ってますからね」と公爵夫人は、傲然と頭をあげながら言いたした。
キティーは、公爵夫人がシターリ夫人にたいして、夫人が彼女と知り合いになるのを避けているようなのに憤慨していたのを知っていた。で、キティーは、たってとも言いはらなかった。
「ほんとに、なんてかわいらしいかたでしょう!」と彼女は、ワーレニカがちょうどフランス婦人にコップを渡すところを見て、いった。「まあ、ごらんなさい、何から何まで単純でかわいらしいことを」
「お前の engouements(熱中)がわたしにはおかしくてなりませんよ」と公爵夫人はいった。
「いいえ、今はひき返したほうがいい」と彼女は、レーヴィンが例の女を連れて、ドイツ人の医者と何やら高調子に、かんしゃく声で話しながら彼らのほうへ近づいてくるのに気がついて、言いたした。
夫人たちは、もと来たほうへもどろうとして、身をひるがえした。と、その時ふいに、もう高調子どころでない、どなり声が耳にはいった。レーヴィンが立ちどまって、がなりたてていたのである。医者も同じように激昂《げっこう》していた。群集が彼らのまわりに集まった。公爵夫人はキティーを連れて急いで遠ざかったが、大佐は、起こった事をたしかめるために、群集のなかへ割ってはいった。
しばらくして大佐は彼らに追いついた。
「何事でございましたの?」と、公爵夫人がきいた。
「恥辱です、醜態《しゅうたい》です!」と大佐は答えた。「一ばん閉口《へいこう》なのは、外国でああいうロシア人と落ちあうことです。あののっぽの紳士がドクトルとけんかをして、医者の治療法がまちがっているというので、毒づいたり、杖《つえ》を振りまわしたりしてるんですよ。いやはや、まったく醜態です!」
「まあ、なんて見ぐるしいことでしょう!」と公爵夫人はいった。
「それで、どうおさまりがつきましたの?」
「ありがたいことに、そこへあの……|きのこ《ヽヽヽ》のような帽子をかぶった娘さんが、中へはいったんですよ。それ、あのロシア人らしいね」と大佐はいった。
「マドモアゼル ワーレニカでしょう?」と、喜ばしげにキティーがきいた。
「そうです、そうです。あの女《ひと》が、だれよりおちついていましてね――あの紳士の腕をとって連れて行ってしまったのです」
「ほら、ね、お母さま」と、キティーは母にいった。「お母さまはこれでも、わたしがあのひとを大好きなのが、おかしいとおっしゃるのね」
つぎの日から、自分の未知の友に注意していて、キティーは早くも、マドモアゼル ワーレニカが、レーヴィンとその連れの婦人にたいしても、ほかの彼女の proteges(被保護者)にたいすると同じ態度で接しているのに気がついた。彼女は彼らのそばへ行って、話をしたり、外国語をひとつも知らぬ連れの婦人のために通訳の労をとってやったりしていた。
キティーはそこで母夫人に向かって、いっそう熱心に、ワーレニカとの交際を許してくれと願いはじめた。で、公爵夫人は、なにやらお高くとまっているようなシターリ夫人に、こちらから交際を求めて行くように思われるのが、いかにも心外ではあったけれども、思いきって、ワーレニカのことを問い合わせてみた。そして、この交際には有利な点も少ないかわりに、不都合なこともないという結論をうるだけの、彼女についてのくわしいことを聞き知って、まず自分がワーレニカに近づき、彼女と交渉をつけてみた。
娘が噴泉のほうへ行き、ワーレニカがパン屋の前に立ちどまったときを選んで、公爵夫人が彼女のそばへよっていった。
「どうぞ、あなたとお近づきになることをお許しくださいまし」と彼女は、例の上品な微笑をふくんでいった。「わたくしの娘が、たいへんあなたをお慕い申しておりましてね」と彼女はいった。「あなたは、もしかすると、わたくしをごぞんじないかもしれませんけど、わたくしは……」
「それはお互いさまと申しますより、いっそわたくしのほうこそ、奥さま」と、ワーレニカは急いでいった。
「昨日あなたは、あのみじめな同国人にたいして、ほんとにいいことをなさいましたのね!」と公爵夫人はいった。
ワーレニカはまっ赤になった。
「なんでございますかわたくし、おぼえませんでございますのよ。べつだん何もしなかったようにぞんじますけれど」と彼女はいった。
「どうしてまあ、あなたはあのレーヴィンを、見ぐるしい場合から救っておやりになったじゃありませんか」
「はい as compagne(あのお連れの婦人)がわたくしをお呼びになりましたので、わたくしあのかたの気をしずめてさしあげようとしただけでございますわ――あのかたはだいぶ病気がおわるいので、お医者さまに腹をたてていらしたのでございますよ。わたくしは、ああいうご病人を扱いなれているものでございますから」
「ええ、わたくしはあなたが、叔母さまでございましょう、シターリ夫人とごいっしょに、メントナにお住まいだと聞いております。わたくしはあのかたの義姉妹をぞんじておりますものですからね」
「いいえ、あれは叔母ではございませんの。わたくしは母と申してはおりますが、身内でもなんでもございませんのです。わたくしは、あのかたに育てていただいたのでございます」と、またしても顔をあかくして、ワーレニカは答えた。
これらの言葉がいかにも単純に語られたうえに、その顔のかざりけのない正直そうな表情が、またとなくかれんだったので、公爵夫人ははじめて、キティーがこのワーレニカを好いた理由を納得《なっとく》した。
「それで、あのレーヴィンはどうしました?」と、公爵夫人はきいた。
「あのかたはもう、お立ちになるそうでございます」と、ワーレニカは答えた。
この時、母が自分の未知の友と話しているのを見て、うれしさに輝きながら、キティーが噴泉のほうからもどって来た。
「さあ、キティーや、おまえがあんなにお近づきになりたがっていたマドモアゼル……」
「『ワーレニカ』でございます」と、ほほえみながらワーレニカが言いそえた。「みなさんがそうお呼びになるんでございますの」
キティーはうれしさに頬をそめて、しばらくは無言のまま、自分の新しい友の手を握りしめていた。その手は、彼女の握手に答えはしなかったが、彼女の手のなかでじっとしていた。手は握手に答えなかった、けれどもマドモアゼル ワーレニカの顔は、静かな、喜ばしげな、しかしどこやら憂いをふくんだ微笑に輝いて、大きくはあるが、美しい、そろった歯なみを見せていた。
「わたくしもね、ずっと前から、お近づきになっていただきたいと思っていましたのでございますよ」と彼女はいった。
「でも、あなたはたいへんお忙しくていらっしゃいますから……」
「あら、反対でございますわ、わたくしちっとも忙しいことなんかございませんのよ」とワーレニカは答えた。が、ちょうどこの時、病人の娘であるふたりの小さいロシア人の女の子が彼女のそばへかけて来たので、彼女はその新しい知己をおいて、立ち去らなければならなかった。
「ワーレニカ、お母ちゃんが呼んでてよ!」と、その女の子たちは叫んだ。
ワーレニカはふたりのあとについて去った。
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三十二
公爵夫人がワーレニカの生いたち、シターリ夫人との関係、およびシターリ夫人その人について知った詳細は、つぎのようであった。
シターリ夫人は、ある方面では夫を苦しめた人だといわれ、ある方面では夫の放埓《ほうらつ》に苦しめられた人だといわれている、日ごろ病いがちの、うちょうてんになりやすい女であった。もう夫と別れてしまってから、彼女は初めての子を産み落としたが、その子はすぐに死んでしまった。ところが、シターリ夫人の身内の者は、彼女の感じやすい性質を知っていたので、その出来事が彼女を殺しはしないかとおそれて、ペテルブルグの同じ家に、同じ晩に生まれた宮廷料理人の女の子を連れてきて、死んだ子のかわりに彼女にあてがった。それがワーレニカであった。シターリ夫人は後になって、ワーレニカが実の娘でないことを知ったが、彼女を養育することはやめなかった。ましてや、その後まもなく、ワーレニカの身よりのものが、ひとり残らず死にたえてしまってからは、なおさらのことであった。
シターリ夫人は、すでに十年あまりも南のほうの外国で、どこへも動かずに、一度も床をはなれることなしに暮らしてきた。そしてある人々は、シターリ夫人のことを、高い、宗教的の慈善家婦人という社会的地位をたくみにつくりあげた女だと言い、ある人々はまた、彼女は表面ばかりでなく衷心《ちゅうしん》から、隣人の福祉のためのみに生きている、きわめて高潔な婦人であるといっていた。が、なんぴとも、彼女の宗教がどんなものであるか――カトリックであるか、プロテスタントであるか、ないしは正教であるかを知った者はなかった。が、ただひとつ、彼女がすべての教会、すべての宗教の最高の地位にある人々と、親交関係にあったことだけは確実であった。
ワーレニカは彼女といっしょに、ずっと外国で生活してきた。そしてシターリ夫人を知るほどの人はみな、自分たちがそう名づけたマドモアゼル ワーレニカをよく知り、かつ愛していた。
こうしたすべての詳細を知ってみると、公爵夫人は、わが娘とワーレニカとの接近に、べつだん非難すべきものを見いださなかった。いや、それどころか、当のワーレニカは、きわめてすぐれたたしなみと教養とをもっていて、フランス語や英語をりっぱに話した。なおそのうえ、一ばんかんじんなことは、シターリ夫人が彼女を通して、病気のゆえに公爵夫人と懇親《こんしん》になれないことを遺憾《いかん》に思うむねを伝えてよこしたので、いっそうその意を強くしたのであった。
ワーレニカと交際するようになってからは、キティーはますますこの友に心をひかれた。そして毎日のように、彼女のなかに新しい価値を見いだすのだった。
公爵夫人は、ワーレニカが声楽に堪能《たんのう》なことを聞いて、彼女に、ひと晩うたいに来てくれるようにと頼んだ。
「キティーが弾《ひ》きますわ。それに、わたくしどもにはピアノもありますから。じつはあんまりよくはないのですけれど、あなたはきっと、わたくしどもを楽しませてくださいますわ」と公爵夫人は、いつものつくり笑いをしていった。が、この時キティーには、この笑顔が、ことさら不愉快に思われた。なぜなら、ワーレニカのあまり気が進まないようすに気がついたからである。でも、ワーレニカは、その夕方、楽譜帳をかかえて出むいて来た。公爵夫人は、マリヤ・エヴゲーニエヴナと、その令嬢と、大佐とを招待した。
ワーレニカは、面識のない人々のいることなどいっこう気にもとめぬようすで、さっそくピアノのそばへあゆみよった。彼女は、自分で伴奏することはしかねたが、歌のほうはみごとにうたった。弾くことの上手だったキティーがそれに伴奏した。
「まあ、ほんとにお上手だこと」と公爵夫人は、ワーレニカがみごとに第一曲をうたい終わったときに、彼女にいった。
マリヤ・エヴゲーニエヴナとその令嬢も、礼をいって彼女をほめそやした。
「やあ、ごらんなさい」と大佐は、窓のほうを見やりながらいった。「あなたの歌を聞こうと思って、あの人の集まったことを」
じっさい、窓の下には、かなり大ぜいの人が集まっていた。
「みなさまのお気にめして、わたくし何よりうれしゅうございますわ」と、ワーレニカは単純な調子で答えた。
キティーは、誇らしげに自分の友を見ていた。彼女は彼女の技能にも、その声にも、その容貌にも、うちょうてんになっていたが、何にもまして敬服したのは、ワーレニカが明らかに自分の歌のことなどは少しも考えず、かずかずの賛辞にもやはりむとんちゃくであるらしい、その態度であった。彼女はただむぞうさに、こうたずねているようであった――もっと歌わなければなりませんの、それとも、もうよろしゅうございますか?
『もしこれがわたしだったら』と、キティーはひとりで考えた。『どんなに鼻を高くすることだろう! あの窓の下の人だかりを見て、どんなにうれしく思うだろう。ところが、このかたは、そんなことちっとも感じてらっしゃらないんだもの。このかたの心にあるのは、ただお母さまの頼みをしりぞけないで、満足させたいという一心だけだわ。このかたのなかには何があるのだろう? いったい何がこのかたに、何事にも無関心で、ひとり離れておちついていられる、この力をあたえているのだろう? ほんとにわたしは、どれほどこのかたからそれを教わりたいと思っていることか!』キティーは、相手の泰然《たいぜん》とした顔つきを見ながら考えた。公爵夫人は、ワーレニカに、もっとうたってくれるようにと所望《しょもう》した。と、ワーレニカは、ピアノのそばにしゃんと立って、かぼそい浅黒い手でそれを打って拍子をとりながら、前のとおり悠然と、はっきりと、かつ、りっぱに、別の曲をうたった。
楽譜帳のなかのそのつぎの曲は、イタリアの歌曲であった。キティーは前奏を弾いて、ワーレニカの顔をながめた。
「それはぬかしましょうよ」とワーレニカは、顔をあからめていった。
キティーはびっくりして、その理由を問うように、ワーレニカの顔に目をすえた。
「では、ほかのをね」と彼女はすぐに、この歌には何か理由があるのだと察して、ぺージをくりながら、急いでいった。
「いいえ」とワーレニカは、自分の手を楽譜帳の上において、ほほえみながら答えた。「いいえ、やっぱりそれをうたいましょう」こういって彼女はそれを、前のとおりにおちついて、冷静に、みごとにうたってのけた。
彼女の歌が終わると、一同はふたたび彼女に礼を述べて、お茶を飲みに立った。キティーはワーレニカとつれだって、家の横手にある小庭のほうへ出ていった。
「きっと、あなたは、あの歌に何か思い出がおありあそばすのね?」とキティーはいった。「お話してくださらなくてもいいけれど」と、彼女は急いで言いたした。「ただね、これだけは聞かしてくださいましな、それが当たっているかどうかだけ?」
「いいえ、どうして? わたくしお話いたしますわ」とワーレニカは単純な調子でいって、返事を待たず、言葉をつづけた。「ええ、ほんとに思い出がありますのよ。そしてそれは、一時は悲しいものでしたの。わたくし、あるひとを愛したことがありましてね、そのひとによくあの歌をうたって聞かせたんでございますの」
キティーは大きな目をみはって、無言のまま、感動したようにワーレニカの顔を見つめた。
「わたくしはそのひとを愛してましたし、そのひともわたくしを愛しててくれましたの。ところが、そのひとのお母さまが不承知だったので、そのひとはほかのかたと結婚してしまいました。そのひとは、ただいまもわたくしどもからあまり遠くないところに住まっていますので、わたくしはときどき会うことがございますのよ。あなたはわたくしなんかに、こんなロマンスがあろうなんて、お思いなさらなかったでしょう?」と彼女はいった。と、その美しい顔には、いつかはその全身を輝かしたであろうとキティーの感じた火花が、弱々しくひらめいた。
「どうして思わないことがありましょう? もしわたくしが男でしたら、こうしていったんあなたを知った以上、もうほかの女《ひと》を愛するなんてことはできないだろうと思いますわ。ですからわたくしは、そのかたがいかにお母さまのためとはいえ、よくもあなたを忘れたり、あなたを不幸にしたりなどなすったと思いますのよ。そのかたには、心というものがなかったんですわね」
「まあ、いいえ、そのひとはたいへんいい人でございますわ。それにわたくしも、不幸ではございませんの。それどころか、たいへん幸福でございますのよ。それはそうと、今晩はもううたわないでおきましょうか?」と彼女は、家のほうへ足をむけながら言いたした。
「あなたはなんといういいかたなんでしょう、あなたはなんといういいかたなんでしょう!」とキティーは叫んで、彼女を引きとめて接吻した。「ああ、せめて指のさきほどでも、あなたを見ならうことができたら!」
「あら、どうしてあなたに人を見ならう必要がありましょう? あなたはそのままでいいかたでいらっしゃいますわ」とワーレニカは、例の穏やかな、疲れたような笑顔になりながら、いった。
「いいえ、わたくしなんか、ちっともよくはございませんわ。では、ね、わたくしに聞かせてくださいましな……まあちょっと、もう少し腰掛けていましょうよ」とキティーは、彼女をもう一度自分の横のベンチへ掛けさせながら、いった。「ほんとうにあなたは、あるひとがあなたの愛をないがしろにして、あなたを捨ててしまったことを思い出しても、なんともお思いにならないのですか?……」
「ですけれど、そのひとは、ないがしろにしたわけではなかったのですもの。わたくしは、信じていますのよ、そのひとがわたくしを愛していてくれたのを。でも、そのひとは、柔順なむすこさんだったんでございますから……」
「ええ、でも、もしそのかたがお母さまの意志でなく、ただご自分の意志で?……」とキティーは、自分がもう自分の秘密をさらけだしてしまったこと、羞恥《しゅうち》のためにあかくなった自分の顔がそれを証明していることを感じながら、いった。
「もしそうだったら、そのひとの行為はよくないのですから、わたくしだって、そのひとに同情なんかいたしませんわ」とワーレニカは、これも明瞭に、話がもう自分のことではなく、キティーのことになっているのをさとったように、こう答えた。
「ですけれど、侮辱は?」とキティーはいった。「その侮辱は忘れることはできませんわ、忘れることはできませんわ」と彼女は、最後の舞踏会の奏楽のやんでいたあいだの自分の目つきを思いうかべながら、いった。
「何が侮辱なんでございますの? だってあなたは、何もわるいことをなすったんじゃないじゃございませんか?」
「いいえ、わるいどころではございませんわ――恥辱ですわ」
ワーレニカは頭を振って、自分の手をキティーの手の上にかさねた。
「何がそんなに恥辱なんでございますの?」と彼女はいった。「だってあなたは、あなたに冷淡だったそのひとに、そのひとを愛しているということがおっしゃれなかったんでございましょう」
「もちろん、そうですの。わたくしは一度も、ただのひと言も言いはしませんでしたわ、でも、その人は知っていました。いいえ、いいえ、目つきもあります。そぶりもあります。わたくしは百年生きていたって――忘れませんわ」
「それはまた、どうしたというんでしょう? わたくしにはがてんがいきませんわ。それよりも問題は、あなたが今でもそのかたを愛していらっしゃるかどうか、ということにあるんですものね」とワーレニカは、何もかもをそれと名ざしていった。
「わたくしはそのひとを憎んでいますの。わたくしは許すことができませんの」
「それはまた、なぜですの?」
「恥辱ですもの、侮辱ですもの」
「ああ、もしだれもかれもが、あなたのように感情が強かったら」とワーレニカはいった。「世の中にそういうことを経験しない娘さんはございませんでしょ。それに、そんなことは、べつだんそう重大なことではありませんわ」
「では、何が重大なことでしょう?」とキティーは、好奇的な驚きをもって相手の顔を見つめながら、いった。
「あら、重大なことはたくさんございますわ」と笑いながら、ワーレニカはいった。
「どんなことですの?」
「まあ、もっと重大なことはいくらでもございますわ」とワーレニカは、どう説明していいかわからないで、答えた。ところが、ちょうどこの時、窓のなかから公爵夫人の声が聞こえた――
「キティー、冷えて来ましたよ! 肩掛けをかけるか、でなければ家へおはいりなさい」
「ほんとに、もう時間ですわ!」と、ワーレニカも立ちあがりながらいった。「わたくしはまだ、ベルテ夫人のところへよっておあげしなければなりませんの――お頼まれしたことがありましてね」
キティーは彼女の手をおさえて、燃えるような好奇心と祈願とをこめたまなざしで、彼女にたずねた――「なんですの、なんですの、その一ばん重大なことというのは。何がそういうおちつきをあたえてくれるんですの? あなたはそれをごぞんじですわ! どうぞわたくしに教えてください」けれどもワーレニカは、キティーのまなざしが自分に何をたずねているのかをすら、さとらなかった。彼女はただ、今日はまだベルテ夫人のところへ立ちよらなければならないことと、母のお茶の時間の十二時までには家へ帰っていなければならないことだけを、思い出していた。彼女は、部屋へはいると楽譜帳をまとめ、一同に別れを告げて、帰り支度をした。
「失礼ですが、わたしがお送りしましょう」と大佐はいった。
「そうですね、この夜分にどうしてひとりでいらっしゃれましょう?」と、公爵夫人が言葉をあわせた。「わたくし、パラーシャにでも送らせますわ」
キティーは、ワーレニカが自分を送らねばならぬという人々の言葉に、やっと微笑をおさえているのを見てとった。
「いいえ、わたくしはいつもひとり歩きになれておりますから、わたくしにはけっして、なんにもおこりっこございませんの」と彼女は、帽子を手にとっていった。そしてもう一度、キティーに接吻して、何が重大だかということは、けっきょくいわずに、楽譜帳を小わきにかかえたまま、しっかりした足どりで、夏の夜の薄明のなかへ姿を消した。何が重大であるか、何が彼女にこのうらやましいおちつきと威厳とをあたえているかという秘密を、自身といっしょに持ち去りながら。
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三十三
キティーはシターリ夫人とも知り合いになった。そしてこの交際は、ワーレニカにたいする友情とともに、彼女のうえに強い影響をもったばかりでなく、その悩みをも慰めてくれた。彼女はこの慰めを、この交際のおかげで、彼女の前にひらかれた、過去とはなんの関係もない新しい世界――高い、純な、その高みからは、それらの過去をおちついた心でながめることのできる世界において見いだしたのである。
そこには、これまでキティーが身を投じていた本能生活のほかに、精神生活がひらかれていた。この生活は、宗教によってひらかれたものではあるが、しかしその宗教なるものは、キティーが子供のころから知っていた知人たちに会える「寡婦《かふ》の家」でのミサや終夜祷《しゅうやとう》や、牧師とスラブ語の教文を暗誦することなどによって表現されるていのものとは、なんらの共通点をもたない宗教であった。それは、崇高にして神秘的な、純真な思想感情とむすびついている、そう命ぜられてあるがゆえに信ずることができるばかりでなく、愛することすらもできたところの宗教であった。
キティーは、これらすべてのことを、言葉によってでなく知ったのであった。シターリ夫人は、キティーにたいしては、ちょうど愛するかれんな子供にたいするような、また自分の若いころの思い出にたいするような態度で話をした。ただ一度、あらゆる人間の悲しみを救ってくれるものは、愛と信仰だけであること、キリストのわれわれにたいする憐憫《れんびん》から見れば、とるに足らぬ悲しみというものはないということを、ちょっと話しただけで、すぐ話をほかへそらしてしまった。けれどもキティーは、彼女のいちいちの動作のうちに、いちいちの言葉のうちに、またキティーのいわゆる、その天国的なまなざしのいちいちのうちに、とりわけワーレニカを通じて知った彼女の身の上話のうちに――それらすべてのうちに、自分が今日まで知らなかった『重大なこと』をさとったのであった。
しかし、シターリ夫人の性格がいかに崇高であり、その閲歴《えつれき》がいかに感動的なものであり、その言葉がいかに高尚で優しいものであっても、キティーは心ならずも彼女のうちに、自分の心をかき乱さないではやまぬようなもののあるのを認めないではいられなかった。彼女は、彼女の近親のことをたずねながらシターリ夫人が見せた、キリスト教徒の善良性とはあいいれない、軽蔑的なうす笑いに気がついた。なお彼女は、あるときカトリックの牧師と一座したおりに、シターリ夫人がわざとランプの笠のかげに顔をおいて、意味ありげな笑い顔をしていたのを認めた。この二つの発見は、いかにもささいなことではあったが、しかし、それは彼女をまごつかせ、そして彼女は、シターリ夫人にたいして疑念をいだかせられた。が、そのかわりに、身よりもなければ、友だちもなく、悲しい失望をいだきながら、何ものをも求めず、何ものをも惜しまないでいる孤独のワーレニカは、キティーがつねにあこがれ求めていた、あの最も完全な存在であった。
ワーレニカにおいて初めて彼女は、ただ自分を忘れ他を愛することだけが大切なことであって、人を平安にし、幸福にし、美しくするものであることを知った。そして、自分もそういう人になりたいと、キティーは願った。こうして、今こそ、|最も重大《ヽヽヽヽ》なことのなんであるかが明らかにわかった。が、キティーは、それを喜ぶだけに満足せず、即座に、心身をかたむけて、この新しく啓示《けいじ》された生活へ身を投じた。シターリ夫人や、ワーレニカの話に出てきた人々の行跡にかんするワーレニカの物語によって、キティーは早くも、明日の生活の計画を心にえがいた。彼女は、ワーレニカからたびたび話に聞いたシターリ夫人の姪《めい》のアリーンのように、将来どこに住まおうとも、不幸な人々を求めて、彼らにできるかぎりの助力をあたえ、福音《ふくいん》をつたえ、病者・罪人・瀕死の人に、福音書を読み聞かせるであろう。アリーンがしたように、罪人に福音書を読み聞かそうという考えは、わけてもキティーの気にいった。けれども、これらのことは、キティーが母親にもワーレニカにもうちあけなかった秘密の空想であった。
しかし、その計画を大規模に実現する機会を待つまでもなく、キティーは現在、病める人や不幸な人々のいくらでもいる温泉場で、ワーレニカにならって、自分の新しい計画を実行する機会を容易に見いだした。
初めのうち公爵夫人は、キティーがシターリ夫人にたいし、ことにワーレニカにたいして、夫人自身のいわゆる熱中の熾烈《しれつ》な影響下にあることだけをみとめていた。彼女はキティーが、その行動の上でワーレニカをまねるばかりでなく、いつか、その歩きぶりから話しかた、目をしばたたく様子まで、彼女をまねていることをみとめた。けれども、やがて公爵夫人は、娘のうちに、そういう憧憬《あこがれ》とは別に、一種のまじめな精神的転機が、完成されつつあることに気がついた。
公爵夫人は、キティーが毎夜、シターリ夫人から贈られたフランス語の福音書を読んでいるのを(こういうことは彼女にはかつてなかったことであった)、また彼女が、社交的の知人を避けて、ワーレニカの保護のもとにある病める人々、ことに病める画家ペトロフの貧しい家族と近しくしているのをみとめた。キティーは明らかに、この家族のために看護婦の役目をはたすのを、誇りとしているようであった。こうしたことは、すべていいことだったので、公爵夫人も、それに反対する何ものをも持たなかった。まして、ペトロフの妻がすぐれてりっぱな婦人であり、キティーの活動をみとめた大公妃が、彼女を慰めの天使と呼んで賞賛しているのだから、なおさらであった。まったくそれらのことは、過度にさえわたらなければ、きわめていいことであったにちがいない。しかし公爵夫人は、わが娘が極端に走っているのを見て、彼女にこう注意した。「Il faut jamais rien outrer.(何事によらず極端にしてはいけませんよ)」と、彼女は娘にいうのだった。
が、娘はなんとも答えなかった。彼女はただ心のうちで、キリストの教えにもとづく仕事に、やり過ぎなどということのあるはずがないと考えただけであった。人がもし一方のほおを打ったら他のほおを向けよ、上着をはいだら下着をあたえよと命じている教義の実現に、どんなやり過ぎがありえようぞ? けれども、公爵夫人には、このやり過ぎが気にいらなかった。いや、それにもまして彼女の気をそこねたのは、キティーが彼女に、心の底をうちあけるのを好まないらしい点であった。じっさい、キティーは、自分の新しい見解や感情を、母の前に秘《ひ》めていた。しかし、彼女がそれを秘めたのは、自分の母を尊敬しないとか愛さないとかいうわけではなく、それが自分の母であったからにほかならなかった。彼女はなんぴとにでも、母によりはさきに、それらをうちあけたであろう。
「どうしたのか、アンナ・パーヴロヴナは、しばらくうちへいらっしゃらないのね」と、あるとき公爵夫人は、ペトロフ夫人についていった。「わたし、あのかたをお招きしたんだよ。だのにあのかたは、なにかおもしろくないことでもあるとみえて」
「いいえ、わたし気がつきませんでしたわ、お母さま」と、キティーは顔をあかくしていった。
「おまえもだいぶ長くあすこへ行きませんでしたね?」
「わたしたちは、明日いっしょに、山のぼりをすることになっていますのよ」と、キティーは答えた。
「そりゃいいね、おいでなさいとも」と公爵夫人は、娘の混乱した顔つきに目をとめて、その混乱の原因をきわめようとしながら、答えた。
ちょうどこの日に、ワーレニカが食事に来て、アンナ・パーヴロヴナが明日の登山を中止したむねを伝えた。そこで公爵夫人は、キティーがまたしても顔をあかくしたのをみとめた。
「キティーや、おまえ、なにかペトロフたちと気まずいことでもあったんじゃないの?」と公爵夫人は、自分たちふたりだけになったときにいった。「どうしてあの女《ひと》は、子供たちをよこすことも、ご自分でくることもやめておしまいなすったんだろうね?」
キティーはお互いのあいだには何もあったのではないこと、だから、アンナ・パーヴロヴナが彼女にたいして、なにか不満をいだいているらしいのも、彼女にはさっぱり見当がつかないむねを答えた。キティーはまったくの真実を答えたのである。彼女は、アンナ・パーヴロヴナの自分にたいする態度の変化が、何に原因するかを知らなかった。が、だいたいの見当はつけていた。彼女は、母に告げることもできず、自分自身にもいえないような、そんなふうの見当をつけたのであった。それは、わかっていながら、自分自身にすらも口に出せないような事実のひとつであった――それほどまちがうことの恐ろしく、恥ずかしいことであった。
何度も何度も、彼女は自分の記憶のなかで、この一家と自分との関係をひるがえってみた。彼女は、いつも会うたびにアンナ・パーヴロヴナのまんまるな、人のよさそうな顔に現われたナイーブな喜びの色を思いおこした。また彼女は、病人についてした彼らの内証話《ないしょばなし》や、禁じられていた仕事から彼の心をひきはなして、散歩に連れ出すためにした相談や、彼女を『わたしのキティー』と呼んで、彼女の姿が見えないと床《とこ》につこうともしなかった末の男の子との結びつきなどを、思いおこした。何もかもが、どんなにぐあいよくいっていただろう。ついで彼女は、茶色のコートをまとった、首筋の長い、やせ細ったペトロフの姿、そのうすい巻き髪、初めのあいだキティーには無気味にさえ思われた、もの問いたげな青い目、彼女の前では、つとめて元気よく快活に見せようとするその病的な努力などを、思いおこした。彼女はまた、最初のうちの自分の努力、すべての肺病患者にたいすると同様、彼にたいしていだかせられた嫌悪の情にうちかとうとして、けんめいにつとめた努力や、なんなり彼に話すことを思いつこうとしてつとめた苦心やを、思いおこした。彼女はさらに、彼が彼女を見るときの、あのおくびょうらしい感動的なまなざしと、それにたいしていつも感じた同情と、きまりわるさと、つづいて生じる自分の善行意識とのまざりあった奇妙な感情を、思いおこした。これらのことはみな、どんなによかったであろう! けれども、それはみな最初のうちだけであった。今では数日前に、いっさいが急にそこなわれてしまった。アンナ・パーヴロヴナは、ことさらめかしいあいそをもってキティーを迎え、そしてたえず彼女と夫とを観察した。
彼女の接近にさいして彼の示すあの感動的な喜びが、はたして、アンナ・パーヴロヴナのそらぞらしくなった原因であろうか?
『そうだわ』と、彼女は思い出した。『アンナ・パーヴロヴナが一昨日いまいましげな顔をして、――このとおりもう夢中であなたを待ってるんですのよ。あんなにひどく弱っているくせに、あなたがいらっしゃらないと、コーヒーひとつ飲もうとしないんですもの。こういった時のあの女《ひと》のなかには、いつもの優しい人柄には似もつかぬ、なにか不自然なものがあったっけ』
『そうだわ、ことによったら、わたしがあのかたに膝掛《ひざか》けをとってあげた、あれがあの女《ひと》の気にさわったのかもしれない。べつだん、なんでもないことだったんだけれど、あのかたは、わたしまでがきまりわるくなってしまったほど、無器用な受けかたをして、いつまでもいつまでもお礼をいってらしたんだもの。それに、あのかたがあんなに上手に描いてくだすったわたしの肖像。あの、わくわくしたような優しい目つき!……そうよ、そうよ、きっとそうだわ!』とキティーは、恐怖をおぼえながら、自分にくりかえした。『いいえ、そんなことのあるはずがない。そんなことがあってなるものか! あのかたはあんなにみじめなかたなんだもの!』と、彼女はついですぐこう思った。この疑惑が、彼女の新生活の魅力を、すっかりそこなってしまったのである。
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三十四
やがて、温泉滞在の日程も終わるころになって、彼自身のいわゆるロシア気分を吸収するためにカルルスバッドからバーデン、キッシンゲンと、ロシア人の知人の家をまわり歩いて来たスチェルバーツキイ公爵が、家族のもとへもどってきた。
公爵と公爵夫人との外国生活にたいする見解は、ぜんぜん相反したものであった。公爵夫人は、すべてを感嘆の目でながめ、ロシアの社会では、りっぱな地位をもっていたにもかかわらず、外国では自分がそれでなかった――というのは、彼女は、ロシアの貴婦人であったから――ヨーロッパ婦人に似せようとつとめていた。そして、いくらかきまりがわるいというふりをしていた。ところが、公爵はその反対に、外国の事柄はすべて卑しいものときめてしまって、ヨーロッパふうの生活をたえがたく思い、自分のロシアふうの習慣を固執《こしつ》して、外国ではことさら、じっさいに自分があった以上に、ヨーロッパ人らしく見せまいとつとめていた。
公爵はやせて、ほおの皮膚をたるませてもどってきたが、しかし、しごく上きげんであった。彼の上きげんは、キティーのすっかり回復しているのを見ると、いっそう大きくなった。シターリ夫人およびワーレニカとキティーとの交際についての報告と、キティーの心におこっている一種の変化にたいする夫人の観察談とは、公爵の心をさわがせ、彼のうちに、彼の娘を彼以外の方面へ誘惑するすべてのものにたいする例の嫉妬の感情と、娘が彼の支配下から、彼にははいりがたい範囲へのがれ出てしまいはせぬかという恐怖心とを呼びさました。しかし、これらの不快な報告も、彼の心がつねに持っている、ことにカルルスバッドの温泉でいっそう強められた上きげんと楽しい気分とのなかに、たちまち姿を没してしまった。
帰って来た翌日、公爵は、例の長い外套をはおり、のりのきいたカラーにはさまれた、たぶたぶしたほおにロシア人らしいしわをよせながら、非常な上きげんで、娘といっしょに浴場へ出かけた。
すばらしい朝であった。清楚《せいそ》な、楽しげな小庭のある家々や、ビールをつぎこんで、あかい顔にあかい手をして愉快げに働いているドイツ人の女中の姿や、輝いている太陽などが心をうきたたせた。けれども、彼らが浴場のほうへ近づくにしたがって、病人と出くわすことがますます頻繁《ひんぱん》になってきた。そして彼らの姿は、よく整備されたドイツの日常生活のなかでは、ひとしおみじめにながめられた。しかしキティーは、もはやこの対照にはうたれなかった。輝く太陽や、いきいきとした緑のきらめきや、音楽の音色《ねいろ》などというものは、彼女にとって、すべてこれらのなじみぶかい人々や、彼女が注意をおこたらないでいる、よくなりわるくなる病人たちの変化にたいする自然の額縁《がくぶち》であった。が、公爵にとっては、六月の朝の光と輝きと、流行の、気もうきうきするようなワルツを奏している管弦楽のひびきと、ことに健康そうな女中たちの姿とは、ヨーロッパのあらゆるすみずみから集まって、悲しげにうごめきまわっているこれら半死の人々と対照して、一種あるまじく、醜悪なもののように思われるのだった。
いま公爵は、最愛の娘の手をとって歩きながら、一種の誇りと、青春がよみがえってきたような気分になっていたにもかかわらず、彼にはこの時、自分の力づよい足どりや、あぶらぎった大きな四肢《しし》が、なんとなくきまりのわるいような気恥ずかしいような気がするのを、どうすることもできなかった。彼はちょうど、衆人の前に裸体でいる人の感じるような感じを経験していた。
「さ、ひとつ紹介しなさい。おまえの新しいお友だちにわしを紹介しなさい」と彼は、ひじで娘の腕をしめつけながらいった。「わしは、この虫のすかぬおまえのソーデンも、おまえをこんなによくしてくれたかと思えば、まんざらでもない気がするがね。ただここは、どうも陰気だよ、陰気だよ。あれはだれだね?」
キティーは、みちみち行きあう面識のある人ない人の名まえを、いちいち彼に告げた。ちょうど園の入口のところで、彼らは、付添いの女をつれた、めくらのベルテ夫人に会った。そして公爵は、キティーの声を聞いた時の老フランス婦人の感動的な表情に喜ばされた。彼女はさっそく、フランス人|気質《かたぎ》のぎょうさんなおあいそをふりまきながら、公爵に話しかけて、彼がこういうりっぱな娘をもったことをほめそやし、面と向かってキティーを、宝だ、真珠だ、慰めの天使だと呼んで、天上にまで持ちあげたりした。
「ははあ、すると娘は、第二天使というわけですな」と、笑いながら公爵はいった。「娘は、マドモアゼル ワーレニカを天使第一号だといっとりますから」
「おお! マドモアゼル ワーレニカ――あのかたはほんとうの天使です。allez《もちろんですわ》」と、ベルテ夫人は口をあわせた。
回廊で彼らは、当のワーレニカにも行きあった。彼女は、優美な赤いふくろをもって、急ぎ足に彼らのほうへやって来た。
「父がね、帰ってまいりましたのよ」と、キティーが彼女にいった。
ワーレニカは、何事をするにもそうであるように、単純に、自然に、えしゃくと礼拝とのあいだぐらいなおじぎをして、すぐに公爵と話をはじめた、ほかの多くの人と話すときと同じように、なんのわけへだてもない無邪気な様子で。
「むろん、わたしはあなたを知っていますよ、よく知っていますよ」と、公爵は笑顔になって彼女にいった。その笑顔によってキティーは、自分の友だちが父の気にいったことを見ぬいてうれしく思った。「あなたはそんなに急いで、どこへいらっしゃるんですかな?」
「母がこちらへまいっておりますんですのよ」と彼女は、キティーのほうへ顔をむけながらいった。「母は昨夜ひと晩じゅう眠りませんでしたの。で、お医者さまが戸外へ出るようにとおすすめなすったものですから、それでわたくしいま、母の手仕事を取りにいってきたんでございますの」
「あれがつまり、天使第一号なんだね」と、ワーレニカが立ち去ったときに、公爵はいった。
キティーは、父はワーレニカを嘲弄《ちょうろう》しようと思っていながら、ワーレニカが気にいってしまったので、どうしてもそれができなかったらしいのを見てとった。
「さあ、これからおまえのお友だちにすっかり会おうね」と、彼は言いたした。「シターリ夫人にも、もしわしを覚えていてくれたら」
「あら、あなたはあのかたをごぞんじなの、お父さま?」とキティーはシターリ夫人の名を口にすると同時に、公爵の目に燃えでた嘲笑の炎に心づいて、不安げにこうたずねた。
「わしはあのひとのつれあいを知っていた。そしてあのひと自身も、まだ敬虔《けいけん》主義に走る前にちょっと知っていた」
「敬虔主義というのはなんのこと、お父さま?」とキティーは、自分がシターリ夫人のうちにあれほどにも高く評価していたものが名称をもっているのに驚いて、こうたずねた。
「わしもよくは知らない。ただあの婦人が、何事にたいしても、どんな不幸に出あっても……夫に死なれたことまでも、神に感謝しているということだけを知っているのだ。ところがさ、生前そのふたりの生活がしっくりいっていなかったから、それで、こっけいでならんのだよ……お、あれはなんという人だね? なんというみじめな顔つきだろう!」と彼は、茶色の外套をきて、肉の落ちた足の骨の上に奇妙なひだを刻んでいる白ズボンをはいた、どちらかといえば小柄な病人が、ベンチに掛けているのを見て、たずねた。その紳士は、うすい巻き髪の上へのせていた麦わら帽子をもちあげて、帽子のために病的にあかくなっていた、ひいでた額をあらわした。
「あれが画家のペトロフですわ」とキティーは、心もち顔をあからめながら答えた。「そしてあちらのが、あのかたの奥さんです」こう彼女は、ちょうどふたりが近づいて行くと同時に、いかにもわざとらしく、路上をかけまわっていた子供のほうへいってしまったアンナ・パーヴロヴナをさしながら、言いたした。
「なんというみじめな人じゃ。だが、いかにも愛すべき顔をしている!」と、公爵はいった。「どうしておまえ、そばへ行ってあげないのだ? あのひとは、何かおまえに話したそうにしているじゃないか」
「ええ、じゃ、いってきましょう!」とキティーは、決然として身をひるがえしながらいった。「こんにちは、ご気分はいかがでございますか?」と、彼女はペトロフにたずねた。
ペトロフは杖にすがって立ちあがった、そしておずおずした様子で公爵のほうを見た。
「これはわたしの娘ですよ」と公爵はいった。「わたしもお近づきになっていただきましょう」画家は頭をさげて、異様に光るまっ白な歯を現わしながら、ほほえんだ。
「昨日わたしたちはあなたをお待ち申していましたよ、お嬢さん」と、彼はキティーにいった。
彼はこう言いながら、ちょっとよろめいた。そしてまた同じ動作をくりかえして、わざとそうしたように見せかけようとふるまった。
「わたくし、お伺いするつもりでいましたんですけれど、あなたがたはおいでがないというアンナ・パーヴロヴナのおことづけを、ワーレニカからうかがったものですから」
「どうしてそんな、行かないなんて!」とペトロフは顔をあかくして、すぐ咳《せ》きだしたが、目で妻をさがしながらいった。「アーネッタ、アーネッタ!」と彼は声高く呼んだ。と、その細い白い首には、縄のようにふとい血管がふくれあがった。
アンナ・パーヴロヴナがそばへ来た。
「どうしておまえはお嬢さんに、行かないなんてことづけをあげたんだい?」と、画家は出ない声をしぼって、腹だたしげにささやいた。
「こんにちは、お嬢さま」アンナ・パーヴロヴナは、以前の態度とは似ても似つかぬ、そらぞらしいつくり笑いをしていった。「お近づきになれまして、こんなうれしいことはございません」と彼女は公爵のほうをむいていった。「わたくしたち、もうずいぶんお待ちしましたのでございますよ、公爵」
「どうしておまえはお嬢さんに、行かないなんてことづけをあげたんだい?」と、画家はいっそう腹だたしげに、かさねてしゃがれ声でささやいた。声が彼を裏切るので、自分の言葉にだしたいと思う表現をあたえることができないのに、明らかにいっそういらいらしながら。
「ああ、どうしましょうね! わたしは行かないんだとばかり思ってたもんですから」と、妻はいまいましげに答えた。
「どうして、いつ……」彼は咳《せ》きいって、手を振った。
公爵は帽子をあげ、娘を連れてそこをはなれた。
「おお、おお!」と、彼は重苦しげに嘆息した。「おお、不幸な人たちだ!」
「そうよ、お父さま」と、キティーは答えた。「それにあのかたには、お子さんが三人もあるのに、女中はなし、財産というものもほとんどないんですものね。ただアカデーミヤ(学士院)から少しばかり送ってもらっているだけですもの」と彼女は、自分にたいするアンナ・パーヴロヴナの態度が妙に変わったことから、自分のうちにかもされた動揺をまぎらわそうとつとめながら、元気のいい調子で話しだした。
「ほら、あすこにシターリ夫人が」と、キティーは小車のほうをさしながらいった。そのなかには、クッションにささえられて、何やら灰色と空色のものに包まれたものが、日がさの下に横たわっていた。それがシターリ夫人であった。その背後には、車を押すための、がんじょうそうな、陰気な顔をした、ドイツ人の労働者が立っていた。そしてそのそばには、キティーが名まえだけ知っていた、髪の灰白色な、スウェーデンの伯爵が立っていた。数人の病人が、なにか珍しいものでも見るように、この夫人を見ながら、車のまわりにうろうろしていた。
公爵は彼女のそばへ歩みよった。と、そのときキティーは、父の目のなかに、いつも彼女の心をはらはらさせる嘲笑の炎をみとめた。彼は、シターリ夫人のそばへよって、今ではもう少数の人しか話せないようなりっぱなフランス語で、なみはずれていんぎんに、優しく口をきった――
「わたくしを覚えていてくださるかどうかは知りませんが、わたくしはご記憶に訴えなければなりません。というのは、あなたがわたくしの娘にしてくだすったご厚情にたいして、十分お礼を申しあげたいと思いますので」と、彼は帽子を脱いで、それを手にしたまま、彼女にいった。
「アレクサンドル・スチェルバーツキイ公爵」と、シターリ夫人は彼の顔へ、その神々《こうごう》しい目をあげながらいったが、その目にキティーは、不満の色のあるのをみとめた。「ありがとうございます。わたくしほんとうに、あなたのお嬢さまには、ほれこんでしまったのでございますよ」
「ご健康はやはりおよろしくないので?」
「はい、わたくしはもうなれてしまいまして」とシターリ夫人はいって、公爵とスウェーデンの伯爵とを紹介した。
「ですがあなたは、あんまりお変わりになりませんなあ」と公爵は彼女にいった。「わたくしは、十年あるいは十一年も、あなたにお目にかかる光栄を有しなかったように思いますが」
「はい、神さまは十字架をあたえ、また、それをたえていく力をおあたえくださいますからねえ。いったいこの生活が、いつまでつづくのだろうと、驚くことがよくございますの……ああこっちのほうから!」と彼女は、ワーレニカに向かって、いまいましそうにこう声をかけた。膝掛けで足をつつむ、包みかたが違っていたので。
「それは善を積むためなんでしょうな。たぶん」と公爵は、目で笑いながらいった。
「その判断は、わたくしどものつとめではございません」とシターリ夫人は、公爵の顔の表情に陰影をみとめて、こういった。「ではね。その本をおよこしくださいますか、伯爵、くれぐれもお礼を申しあげておきますよ」と彼女は、若いスウェーデン人のほうへ顔をむけていった。
「おお!」とそのとき公爵は、かたわらに立っていたモスクワの大佐を認めて叫んだ。そしてシターリ夫人にえしゃくをして、娘と、そこでいっしょになったモスクワの大佐とつれだって、そこを去った。
「あれがわが貴族ですよ、公爵!」と、シターリ夫人が自分とつき合おうとしなかったことについてふくむところのあったモスクワの大佐は、冷笑的でありたいという心もちでこういった。
「昔からあのとおりですよ」と公爵は答えた。
「ではあなたは、病気前のあの女をごぞんじでしたか、公爵。ああして寝ついてしまわない前のあの婦人を」
「さよう、あの婦人は、わたしの知った時分から床についたのですよ」
「人の話によると、十年間起きたことがないということですが……」
「そのはずです、足がみじかいのですから。あの婦人は、非常にまずくつくられてるんですからなあ……」
「お父さま、そんなことはありませんわ」と、キティーは叫んだ。
「口のわるい連中がそういうのさ。ね。それはそうと、おまえのワーレニカは、ずいぶんこき使われてるじゃないか」と彼は言いたした。「おお、あの病気の婦人たちはたまらんね!」
「いいえ、違いますわ、お父さま!」と、熱心にキティーは言いかえした。「ワーレニカはあのかたを崇拝していますのよ。ほんとにあのかたは、どれくらい善事をしていらっしゃるかわかりませんわ! だれにでもきいてごらんあそばせ! あのかたや、アリーン・シターリのことは、だれでも知っていますから」
「あるいはそうかもしれん」と彼は、彼女の腕をひじでしめつけながら、いった。「だが、そういうことは、だれにきいても、だれにも知られないようにするのが一ばんいいんだよ」
キティーは黙ってしまった。が、それは、答えることがなかったからではなく、父にすら、自分の秘《ひ》めた思想を知られたくなかったからである。とはいえ――ふしぎなことに――彼女があれほど、父の見解にはしたがうまい、自分の聖地へ踏み入ることは父にも許すまいと気がまえしていたにもかかわらず、彼女は、自分がまる一か月のあいだ、心の奥深くささげてきたシターリ夫人のあの神々しい姿は、ちょうど脱ぎ捨てた着物のつくっていた姿が、それがただ着物だけだということがわかると同時に消え失せてしまうように、あとかたもなく消えてしまったのを感じた。あとにはただ、姿がまずくつくられているために寝たきりでいて、ガウンのまきかたがわるいといって、罪もないワーレニカを苦しめている、ひとりの、足の短い婦人の姿だけが残った。そして、想像のいかなる努力をもってしても、もはや、以前のシターリ夫人をとりもどすことはできなかった。
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三十五
公爵は、自分の上きげんを、その家族にはもちろんのこと、知人にも、スチェルバーツキイ一家の住まっていた家主のドイツ人にまでも伝えた。
キティーといっしょに浴場からもどると、公爵は、大佐と、マリヤ・エヴゲーニエヴナと、ワーレニカとをコーヒーに招き、庭の|くり《ヽヽ》の木の下へテーブルといすを運ばせて、そこでランチの用意を命じた。家主も、召使たちも、彼の上きげんのおかげで活気づいた。彼らは、彼の気まえのいい気質を知っていたので、半時間もすると、上階のほうに住んでいたハンブルグから来ている病医師が、|くり《ヽヽ》の木の下に開かれたこの健康な人々の、楽しげな、ロシア的の集まりを、うらやましそうに窓からのぞき見したほどであった。円をえがいて揺れている葉かげのコーヒーわかしや、パンや、バターや、チーズや、冷鳥肉などのならべたててある、雪白なテーブルクロースでおおわれたテーブルのそばに、ライラック色のリボンのついた首飾りをつけた公爵夫人が席をしめて、コップとサンドイッチとをくばっていた。他の端のほうには、公爵が陣どって、さかんに食いながら、高声に愉快そうにしゃべっていた。公爵は自分のそばに、いろいろな買物――木細工の箱や、わらの細工物や、方々の温泉場で山のように買い集めてきた、あらゆる種類のペーパーナイフなどをならべたて、それを一同に、召使のリスヘンや、この家の主人にまで分け与えた。そして、その主人をつかまえては、怪しいこっけいなドイツ語で、キティーの病気をなおしたのは温泉ではなく、主人のすぐれた調理、ことに、その干あんず入りのスープであるなどといってふざけた。公爵夫人は、ロシア式な夫のやり口を笑っていたが、温泉場へ来て以来かつてなかったほど元気に、愉快そうにしていた。大佐は、いつものとおり、公爵のしゃれにほほえんでいた。が、自分が注意を傾倒《けいとう》して研究したと自任しているヨーロッパにかんしては、彼は公爵夫人の肩をもった。人のいいマリヤ・エヴゲーニエヴナは、公爵がだじゃれをいうたびに、身をもんで笑いこけ、ワーレニカまでが、キティーがついぞ見たこともないほど、公爵のしゃれが彼女のうちに呼びさました、弱い、けれども伝染性の強い笑いのために、悩まされていた。
これらはすべてキティーを楽しませた。だが彼女は、ある心のわずらいからのがれることはできなかった。彼女は、父が彼女の友と、彼女があんなにも愛した生活とにたいして見せた気やすい見解によって、無意識に自分の心にあたえた問題を、解決することができなかった。この問題にはなおひとつ、いましがたすっかり明瞭に不愉快に表明された、ペトロフにたいする関係の一変ということがふくまれていた。一同は愉快であったが、キティーは愉快になることができなかった。そして、それがまたいっそう彼女を苦しめるのであった。彼女は、子供のころ何かの罰で自分の部屋に押しこめられて、外でしている姉たちの楽しそうな笑い声を聞いていたときに感じたと同じような感じを、経験していた。
「それにしても、どうしてあなたは、こんなにたくさんお求めになりましたの?」と公爵夫人は、コーヒーのはいったコップを夫のほうへさしだしながら、笑顔できいた。
「散歩に出かけるだろう、店の前へ出る、すると、どうぞお求めくださいましとくるのさ――『エルラウフト エクセレンツ ドゥルヒラウヒト』こうなんだ。『ドゥルヒラウヒト』という言葉を聞くと、わしはもうがまんがならんのだ――ともう、十ターレルはどっかへ飛んでしまってる」
「それはただおたいくつだったからでしょう」と、公爵夫人はいった。
「もちろん、そのとおりさ。じつにどうも、どこへものがれようのないたいくつさだからな」
「どうしてたいくつなんてことがございますでしょうか、公爵? 今こちらには、こんなにおもしろいことがどっさりございますのに」とマリヤ・エヴゲーニエヴナが口を入れた。
「そう、わしもおもしろいものはなんでも知っとる――干あんず入りのスープも知っています。|えんどう《ヽヽヽヽ》の腸詰《ちょうづめ》も知っています。何もかも知っています」
「いや、しかし、なんとでもおっしゃいですが、公爵、彼らの施設は相当おもしろいじゃありませんか」と大佐がいった。
「ふん、それがなんでおもしろいですかな? ドイツの連中はまるで銅貨のように満足しておる。なんでもかでもを征服してしまった。だが、わたしは何に満足したらいいのですかな? わたしは何者をも征服したことがない。いや、それどころか、靴も自分で脱げ、それでたらんで、それを自分で廊下へ出せ、朝は起きたらすぐ服を着ろ、そしてサロンへ、ありがたくもないお茶をのみに行け。ところが、国にいるとどうだろう! 国のほうでは、起きるにも急ぐ必要はなし、気にいらなけりゃ怒ってもよし、ぶつぶつ言おうが、すっかり正気になってからいつまで考えていようが、ちっとも急ぐことはありませんからな」
「ですが、時は金ですよ。あなたはこれを忘れていらっしゃる」と、大佐はいった。
「時とはどういう時ですな! ある時は、一か月五十カペイカでも、のしをつけたい時があるし、いくらもらっても半時間もやれない時もある。そうじゃないかね、カーテニカ? だが、おまえはまた、どうしてそうたいくつそうにしてるのだね?」
「べつにどうもいたしませんわ」
「おお、あなたはどこへ、まあもう少し掛けておいでなさい」と、彼はワーレニカに向かっていった。
「わたくし、もうおいとまいたさなければならないんでございます」と、ワーレニカは立ちあがりながらいって、またしてもひと笑いした。そして笑いがおさまってから、あいさつをして、帽子をとりに家のなかへはいっていった。
キティーはあとを追って立った。彼女には、今はワーレニカまでが変わって見えた。べつだんわるく見えたのではないが、彼女がそれまでに思いえがいていた女とは、すっかり別の女になっていたのである。
「ああ、わたくし、ずいぶん久しぶりでこんなに笑いましたわ!」とワーレニカは、傘や袋を取りまとめながらいった。「あなたのお父さまは、ほんとうにおもしろいかたでいらっしゃいますのね!」
キティーは黙っていた。
「こんどはいつお目にかかりましょうね?」と、ワーレニカはたずねた。
「母が、ペトロフのところへまいりたがっておりますのよ。あなた、あすこへいらっしゃらない?」とキティーは、ワーレニカの気をひいてみながらいった。
「ええ、まいりますとも」と、ワーレニカは答えた。「あの人たちはもう立つ支度をしておりますから、わたくし、荷造りなんかの手伝いにいく約束がしてあるんですのよ」
「そう、ではわたしもまいりますわ」
「いいえ、あなたがそんな!」
「どうして? どうして? どうして?」とキティーは、目を大きくみはって言いだした。ワーレニカを帰すまいと、彼女の傘に手をかけながら。「いいえ、待ってちょうだい、それはどうしてですの?」
「どうしてってこともありませんわ。お父さまがお帰りになったばかりですし、それにあなたには、あすこの人たちだって遠慮しますもの」
「いいえ、どうぞわたしにおっしゃってください。どうしてあなたは、わたしがちょくちょくペトロフのうちへ行くのを、よく思ってらっしゃらないんだか? だって、あなたはよく思ってらっしゃらないじゃないの? どうしてですの?」
「わたくし、そんなこと申しはいたしませんわ」と、おちついた調子で、ワーレニカはいった。
「いいえ、どうぞ、おっしゃってくださいな」
「何もかもお話しましょうか?」と、ワーレニカはきいた。
「ええ、何もかも、何もかも」と、キティーはひきとった。
「ええ、でもべつだんなことではないんですのよ。ただね、ミハイル・アレクセーエヴィッチ(こう画家は呼ばれた)が、以前には早く国へ帰りたがっていらしたのに、このごろでは帰りたくないなんておっしゃるんですのよ」と、笑みをふくみながら、ワーレニカはいった。
「で? それで?」とキティーは、陰うつな目つきでワーレニカを見ながら、せきこんだ。
「それで、どういうわけですかアンナ・パーヴロヴナが、あのひとの帰りたがらないのは、あなたがここにいらっしゃるからだなんておっしゃったんですよ。もちろん、ずいぶん見当ちがいな話ですけれど、でも、そのために、あなたのために、悶着《もんちゃく》が起こったわけですのよ。あなたもご承知でしょうけれど、ああいう病人は激しやすいものですからねえ」
キティーはいっそう顔をしかめて、口をつぐんでいた。で、ワーレニカは、涙になるか言葉になるか、ちょっと見当のつかない破裂が起こりそうなのを見てとって、彼女をなだめ、おちつかそうとつとめながら、ひとりでしゃべりつづけた。
「ですからね、あなたはおいでにならないほうがよかろうと思いますのよ……おわかりになりましたでしょう、お気をわるくなさるようなことはありませんわね……」
「わたしの自業自得《じごうじとく》ですわ、自業自得ですわ!」とキティーは、ワーレニカの手から傘をひったくり、友の目の横手を見つめながら、早口に言いだした。
ワーレニカは、友の子供じみた激昂《げっこう》を見て、ほほえみたい気持になったが、相手の気をわるくすることを恐れた。
「どうして自業自得なんですの? わたくしにはわかりませんわ」と彼女はいった。
「それは、わたしのしたことがすべて、偽善だったからですわ。何もかもが、心から出たことでなくて、頭からわりだされたことだったからですわ。よその人のことが、わたしにどんな関係があったでしょう? だから、わたしが、夫婦げんかの原因になるような結果になってしまったんですわ。だれにも頼まれもしないことに、よけいなことをした結果になってしまったんですわ。というのも、みんな、偽善だったからですわ! 偽善ですわ! 偽善ですわ!……」
「だって、あなたに偽善をなさる必要がどこにあったのでしょう?」と、ワーレニカは静かにいった。
「ああ、なんという愚かな、卑しむべきことだったでしょう! わたしにはなんの必要もなかったんですのに……何もかもが偽善だったのですわ……」と彼女は、手にした傘を、開いたり閉じたりしながらいった。
「だって、どういう目的のために?」
「他人の前に、自身の前に、神の前に、少しでも自分をよく見せようために、みんなを欺こうがためにですわ。ですけれど、今になってはもう、そんなことに身をまかせはしませんわ! わるものにはなっても、少なくとも、心にもないうそつきには、偽善者には絶対になりませんわ」
「まあ、では、だれが偽善者なのでございます?」と、責めるような口調でワーレニカはいった。「あなたのお言葉だと、まるで……」
しかし、キティーは、激情の発作《ほっさ》にとらわれていた。彼女は相手にしまいまでいわせなかった。
「わたしはあなたのことを、けっして、あなたのことをいってるんじゃありませんわ。あなたは――申しぶんのないかたですもの。そうですわ、そうですわ、あなたがどこまでも申しぶんのないかただということは、わたくしよくぞんじていますわ。だって、どうしようがありましょう、わたしがいたらなかったんですもの! もしわたしがしっかりしていたら、こんなことにはならなかったにちがいありません! ですからわたし、もうどんなものになろうとも、偽善者にはなるまいと思いますの。わたしになんの関係がありましょう、アンナ・パーヴロヴナにたいして! あの人たちは、あの人たちのすき自由に、お暮らしなさるがいいのです。そしてわたしはわたしのいいように。わたしは、わたし以外のものであることはできません……それはみんなまちがいですわ、まちがいですわ!」
「いったい、何がまちがいなんでございますの?」と、いぶかしげにワーレニカは問いかえした。
「何もかもがまちがいですわ。わたしには、感情に生きる以外に生きる道がないんですけれど、あなたは主義に生きていらっしゃいます。わたしはただ、単純にあなたを愛していたんですけれど、あなたはたぶん、わたしを救うため、わたしを導くためだけに愛してくだすったのでしょう!」
「それはあなたの誤解ですわ」と、ワーレニカはいった。
「だってわたしは、ひとさまのことをいっているのではないんですもの、自分のことをいっているんですもの」
「キティー!」こういう母夫人の声が聞こえた。
「こちらへ来て、お父さまにおまえの珊瑚《さんご》をごらんにいれなさい」
キティーは傲然《ごうぜん》とした様子をして、友と和解もしないで、テーブルの上から箱にはいった珊瑚を取るなり、母のほうへ行った。
「おまえ、まあどうしたんです? そんなまっ赤な顔をして?」と、母と父とが口をそろえて彼女にいった。
「どうもしやしませんわ」と彼女は答えた。そして、「わたしすぐ来ますから」こう言いざま、ふたたびもとへかけだした。
『あの女《ひと》はまだあすこにいる!』と彼女は考えた。『わたし、あの女《ひと》になんといったらいいんだろう、ああ! わたしは何をしたんだろう、わたしは何をいったんだろう、わたしはなんのためにあの女を侮辱したんだろう? どうしたらいいかしら? どういったらいいかしら?』こうキティーは思いまどって、戸口のところに立ちどまった。
ワーレニカは帽子をかぶり、傘を手にして、キティーのこわした|ばね《ヽヽ》をいじりながら、テーブルのそばに腰掛けていた。彼女は顔をあげた。
「ワーレニカ、許してちょうだい! 許してちょうだい!」と、彼女のそばへ歩みよりながら、キティーはささやいた。「わたしはいま、自分が何をいったかわからないんですのよ。わたしは……」
「わたくしもほんとうは、あなたのお心をいためたくはなかったんですわ」と、ワーレニカは笑顔を見せながらいった。
和解は結ばれた。が、父親の帰来とともに、キティーにとっては、それまで彼女の住んでいた世界が完全に一変してしまった。彼女は、自分が知ったことのすべてを否定はしなかったが、自分が自分のなりたいと思うものになりうると考えて、自分を欺いていたことを理解した。彼女は、まるで夢からさめたような気持だった。偽善や自欺《じぎ》というものなしに、彼女がのぼりたいと願ったそういう高みに踏みとどまることの困難を、しみじみと感じた。のみならず、彼女は、そのなかに今まで自分が住んでいた悲しみや、病いや、瀕死の人の世界の、いかにも重苦しいものであるのを感じた。そして、その世界を愛するがために、自分が自分の上にくわえてきた例の努力が、急にたえがたいものに思われだして、一刻も早く清新な空気のなかへ、ロシアへ、姉のドリーが子供たちを連れてそちらへ立ったというたよりのあったエルグショーヴォへ、帰りたいと考えだした。
けれども、ワーレニカにたいする愛は衰えなかった。別れるときに、キティーは彼女に、ロシアの彼らのもとへくるようにとしきりにすすめた。
「わたくし、あなたの結婚なさるときにあがりますわ」と、ワーレニカはいった。
「わたし、けっして結婚なんかいたしませんわ」
「まあ、じゃあわたくしも、けっしてお伺いいたしませんわ」
「じゃあ、わたし、ただそのためだけに結婚しますわ。よく気をつけて、その約束を忘れないでいてちょうだいね!」と、キティーはいった。
博士の予言は実現された。キティーはロシアのわが家へ、すっかりよくなってもどって来た。もっとも、以前のように、なんの悩みもない、快活な乙女《おとめ》にはならなかったけれども、平静には復していた。彼女のモスクワでの悲しみは、今は思い出となってしまった。(つづく)