トム・ソーヤーの冒険
マーク・トウェイン/鈴木幸夫訳
目 次
第一章 すてきな悪童
第二章 塀《へい》ぬりのペテン
第三章 あこがれの君
第四章 日曜学校異変
第五章 ハサミ虫騒動
第六章 ハックルベリーとの出会い
第七章 求愛のしくじり
第八章 あこがれの海賊
第九章 墓地の殺人
第十章 不吉な犬声
第十一章 良心のとがめ
第十二章 ねこに劇薬
第十三章 海賊の船出
第十四章 島のキャンプ
第十五章 ひそかな帰宅
第十六章 秘密の計画
第十七章 あらし
第十八章 自分の葬式
第十九章 恋のかけひき
第二十章 トムのいいぬけ
第二十一章 罪のひっかぶり
第二十二章 学芸会の珍景
第二十三章 ついてない休暇
第二十四章 意外な証言
第二十五章 あとのたたり
第二十六章 宝さがし
第二十七章 幽霊屋敷の財宝
第二十八章 なぞの二号室
第二十九章 つきとめた巣
第三十章 ピクニックの夜の恐怖
第三十一章 一難、また一難
第三十二章 洞穴《ほらあな》の危機
第三十三章 奇跡の生還
第三十四章 さがしあてた宝
第三十五章 あらわれた大金
第三十六章 盗賊団結成
むすび
解説
年譜
あとがき
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主要登場人物
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トム・ソーヤー……正式にはトマス・ソーヤー。本編の主人公。年令はたしかでないが十二、三才というところであろうか。物語はある年の春と夏のことになっている。
ポリーおばさん……宗教心が深くて、同情心のある、親切で単純な老婦人。トムの養い親。
シドニー(シッド)……トムとは腹ちがいの義弟。小ざかしくて、学校も教会も好きという、見かけは善良な、トムとは対照的な少年。
メリー……トムの姉。親切で、愛情ある善意の人。
ハックルベリー・フィン……トムについで、この物語では主要な人物のひとり。続編の「ハックルベリー・フィンの冒険」の語り手である主人公。父はのんだくれで、住む家もなく、大|樽《だる》や戸口で寝ていて、それを気楽によろこんでいる。村の母親たちからはきらわれ者だが、トムはハックと親友になる。
ジョー・ハーパー……トムの仲間のひとり。ジャクスン島の海賊団に加わり、ロビン・フッド遊びの相手。
エミー・ロレンス……トムのガール・フレンド。ベッキーがくるまではトムの心をひいていた少女。
ベッキー・サッチャー……この物語のヒロイン。やさしくて、すなおで、トムを信頼している。洞穴ではトムといっしょに絶望的な苦しみを経験する。
インディアン(インジャン)・ジョー……小りこうな悪党で、殺人をおかしたうえ、口もきけず、耳も聞こえないスペイン人に変装し、残忍な復讐《ふくしゅう》をもくろんだり、身に危険があれば仲間をも殺しかねないほど兇悪。
マフ・パッター……気弱な、のんだくれ者。
ドビンズ先生……トムの学校の校長先生。
ダグラス未亡人……カーディフ丘に住むお金持。
サッチャー判事……ベッキーの父。町の名士。
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まえがき
この本に書かれている冒険《ぼうけん》のほとんどは、じっさいにあったことである。ひとつ、ふたつはわたくし自身の経験であったし、あとは学友であった少年たちの経験である。ハック・フィンは実在の人物をそのままに描いている。トム・ソーヤーもそうであるが、これはひとりの人物からではなく、知り合いの三人の少年たちの特徴を結び合わせたもので、いわば建築にある混合様式に属する。
この中にちょっと出てくる奇妙な迷信は、すべてこの物語の当時に、つまり三、四十年前、西部のこどもたちや|どれい《ヽヽヽ》たちのあいだにひろまっていたものである。
この本はもともと少年少女に喜んでもらうつもりのものではあるけれど、だからといって、おとなが目もくれないというようなことはしないでほしい。というのも、わたくしの計画の中には、おとなにも、彼らがかつてはどんな少年であり、どんなふうに感じ、考え、話したか、また時おり、どんな奇妙なくわだてをやったものかを、楽しく思い出してもらおうというつもりがあったからである。(著者)
ハートフォード、一八七六年
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第一章 すてきな悪童
「トム!」
返事がない。
「トム!」
返事がない。
「どうしたんだろうね、あの子は。これ、トム!」
おばさんはめがねを押し上げ、ずり下げして、上目づかいに、下目づかいに部屋じゅうを見まわした。こどもみたいなつまらぬものを、おばさんがめがねごしに捜すことなどはめったになく、まずけっしてないことだった。めがねはおばさんのよそいきで、心底のご自慢で、「だて」にはかけるが、実用向きではなかったからである。ガラスのかわりにストーブのふたをはめておいても、どうせ同じようなことだった。おばさんはちょっと困った顔をして、きつくはなかったけれど、耳のない家具にも聞こえるほどの大声でいった。
「ようし、こんどこそつかまえたら、きっと――」
ことばがつづかなかった。このときには、おばさんはかがみこんで、ベッドの下をほうきでつついていたところで、ちょっと手を休めて、ひと息いれる必要があったからである。とび出したのはねこ一匹だった。
「あのいまいましい子にはかなわないよ!」
開いている戸口のところへ行って、そこに立つと、庭一面のトマトとチョウセンアサガオの草の中を見やった。トムはいない。そこでおばさんは遠くまでとどくぐあいに、鉄砲玉みたいな角度で声を張り上げて叫んだ。
「やーあーい、トム!」
うしろでかすかな音がした。おばさんはふり向きざまに、少年の上着のだぶだぶをひっとらえて、こんどは逃がさなかった。
「そうら! その戸棚がくさかったね。そこでなにをしていた?」
「なんにも」
「なんにもだって! その手をごらん、口をごらん。その跡《あと》はなんだね?」
「知らないよ、おばさん」
「いいよ、わかってるよ。ジャムにきまっている。あれほどいっておいたのに、ジャムに手を出せば、お仕置《しお》きだって。そのむちをおよこし」
むちが空《くう》に舞った。あわや、という一瞬。
「あっ! うしろに、おばさん!」
おばさんはくるりとふり返ると、スカートをひっつかんで危険をさけた。このときとばかり、少年は逃げだし、高い板塀をよじのぼって、その向こうに姿を消した。ポリーおばさんは、はっと、あっけにとられて立っていたが、それからやさしく笑いだした。
「いやな子だよ。わたしもうっかりもんだね。あの手を食わされどおしで、こんどばかりは用心しててもいいのに。でも年よりのばかときたら、ほんとうにどうしようもないばかなもんだ。おいぼれ犬には新しい芸はしこめないっていうからね。でもあの子は二日とつづけて同じ手はつかわない。つぎはどうくるか、わかりゃしない。どれぐらいじらせば、わたしがしびれを切らすか知っているようだし、ほんのしばらく、うまうまと、わたしの気をはぐらかすか、笑わすことができれば、すっかりご破算になって、たたかれっこないことも知っている。わたしはあの子に義務をおこたっているよ。まったく神さまのおっしゃるとおり。むちを惜しめばこどもをだめにする、とご本にいってある。あの子とわたしのためにも罪と苦しみのうわぬりというものだ。どうしようもない子だけれど、やれやれ、死んだ妹の子とあれば、かわいそうに、どうにもむちを当てる気にはなりゃしない。許してやるたびに気がとがめ、たたけばたたいたで、そのたびに胸がはりさける思いがする。さてさて、女から産まれる人は日が短く、なやみ多し(『旧約聖書』ヨブ記第十四章一節)、と聖書にある。まったくだね。きょうも昼から学校をずるけるだろうから、あしたは仕事をさせて、とっちめてやらなくちゃ。土曜日に仕事をさせるのは、ほかの子がみんな遊んでいるというだけに、そりゃたいへんつらいことだけれど、あの子は仕事をするのがなによりきらいときているし、でもあの子への義務はいくらかでも果たさなくてはね。でないと、あの子をだめにしてしまう」
トムは学校をさぼって、遊びまわった。やっと帰ってきたのも、黒ん坊の少年ジムが夕食前に翌日用のまきをひいたり、たきつけを割ったりしているのを手伝うのが、やっとのときだった。――すくなくとも、まに合ったといえば、ジムが仕事の四分の三をやってしまうあいだ、自分の冒険をあれこれと話してやるぐらいの時間はあった。トムの弟(といっても、腹ちがいの弟)シッドのほうは、もう仕事の割当て(こっぱ拾い)をとっくにすませていた。シッドはおとなしい子で、冒険などはやらなかったし、めんどうをかけることはなかったからである。
トムが夕飯を食べながら、すきを見てはさとうをくすねているあいだ、ポリーおばさんはあれこれとかまをかけた。うまくたくらんだ、意味深いものだった。トムをわなにかけて、ぐうの音《ね》もいわせないほど、どろをはかせるつもりだったからである。すなおな人によくあるように、ポリーおばさんも自分にはそれと知られぬ不思議なかけひきの才があると信じるのがおとくいの、おめでたい、うぬぼれ屋さんで、見えすいた計略を、すてきな悪知恵だと思いこむのが好きだった。おばさんは、いった。
「トム、学校はかなり暑かったんじゃない?」
「ああ」
「ひどく暑かったんじゃない?」
「ああ」
「泳ぎに行きたくなかったかい、トム?」
トムは内心、ぎくりとした。――こいつはいけないぞ、と思った。ポリーおばさんの顔色をうかがったが、いっこうなんでもなかった。それでトムはいった。
「いいや――なに、たいして行きたくも」
おばさんは片手をのばすと、トムのシャツにさわってみて、いった。
「でも今は、たいして暑くもないようだね」
おばさんはだれにも心のうちをさとられずに、シャツがかわいているのを見てとったと思って、とくいになった。おばさんはとくいであったけれど、トムのほうでは風向きがかわってくるのがわかっていた。そこで先手を打った。
「ポンプで水をかぶったのもいたよ。――ぼくの頭もまだぬれている。ほら」
ポリーおばさんは、こんなちょっとした証拠を見のがして、計略にかけそこなったと思うと、くやしかった。すると、あらての妙案が思い浮かんだ。
「トム、ポンプの水をかぶるんなら、ぬいつけてやったシャツのえりは、はずさなくてもよかっただろうね。上着のボタンをはずしてごらん!」
心配の色がトムの顔から消えた。トムは上着をひらいた。シャツのえりはちゃんとぬいつけたままだった。
「やれやれ! もういいよ。学校をずるけて、泳ぎにいったと思っていたがね。でも、かんにんしてあげる、トム。おまえは毛を焼かれたねこみたいだよ、ことわざにあるようにさ――見かけよりはいい、ってね――こんどだけはだよ」
おばさんはうまくやったつもりが見込みちがいで残念でもあり、トムがこのときだけは、まがりなりにもすなおにいいつけどおりにやってくれたことを喜んでもいた。
でも、シッドがいった。
「ありゃりゃ。おばさんがえりをぬいつけたのは白糸だったんだがな。黒糸になってるよ」
「そうそ、白糸でぬったんだ! トム!」
しかし、トムはあとのことなど待ってはいなかった。戸口を出がけにいった。
「シッディ、おぼえていろ」
安全なところまで来ると、トムは上着の折りかえしに刺してある二本の太い針を調べてみた。――糸を通したままだった。――一本には白糸が、もう一本には黒糸がついていた。
「シッドがいわなかったら、おばさんは気がつかなかったんだ。いやになっちまうな、おばさんたら、白糸でぬうかと思うと、黒糸でぬったりする。どっちかに決めときゃいいのに――使いわけなどできやしない。だが、シッドのやつは、きっとぶんなぐってやる。やらないでおくものか」
トムは村の模範少年なんかではなかった。模範少年というのをよく知ってはいたが――そんなのはきらいだった。
二分とたたないうちに、トムはこんないざこざなどはすっかり忘れてしまっていた。トムのむしゃくしゃした気持ちが、おとなどうしのものほどにはひどくも、はげしくもなかったからではない。ほかのずっとおもしろいものに気をひかれて、むしゃくしゃがおさまり、さしあたり、いざこざを忘れてしまったからで――おとなが新しい事業に夢中になって、これまでの不運を忘れてしまうようなものである。この、ほかのおもしろいものというのは、トムが珍重《ちんちょう》している、変わった口笛の吹き方で、ニグロから習い覚えたばかりであった。じゃまのないところで、なんとかそれをやってみたいと思っていた。それは独得な、鳥の声に似た節《ふし》まわしで、一種、流れるようなさえずりだった。吹いている最中、ちょこちょこと舌《した》を上あごに当てれば出るのだった。読者も、少年時代をすごしたことがあれば、その吹き方を覚えておられるだろう。トムはいっしょうけんめいに熱中したので、すぐにそのこつをのみこんだ。そして口いっぱいに音楽を、胸には感謝の気持ちをいっぱいに、通りを大またに歩いていった。まるで天文学者が新しい惑星を発見したような気持ちだった。たしかに、強く、深い、まざりけのない喜びというかぎりでは、天文学者よりもトムのほうに分《ぶ》があった。
夏の日は長かった。まだ暗くなかった。ほどなくトムは口笛をやめた。見知らぬやつが目の前にいた。――トムより、いくらか大きい少年だった。年や男女の区別にかかわらず、新来者といえばセント・ピーターズバーグの寒村では、きわめて関心をそそるものであった。この少年は身なりもよかった。――ウイーク・デイだというのに身なりがよかった。こんなことはまったくの驚きだった。帽子はおしゃれで、きちんとボタンをかけた青色の短い上着は新しくて、さっぱりしていて、ズボンもそうだった。くつをはいていた――まだ金曜日にすぎないのに。はでなリボンのネクタイまでつけていた。いかにも都会ふうなところがあって、それがトムの|かん《ヽヽ》にさわった。このすてきな驚嘆《きょうたん》すべき相手を見つめ、そのおしゃれをばかにすればするほど、トムは自分の身なりがますますみすぼらしくなっていくように思えた。どちらも口をきかなかった。一方が動けば、相手も動いた。――横にずれるだけで、輪を描いた。ずっと顔と顔をつき合わせて、にらみ合っていた。とうとうトムがいった。
「やってやろか!」
「やれるものなら、やってみな」
「やれるとも」
「やれるもんか」
「いや、やれる」
「やれない」
「やれる」
「やれん」
「やる」
「やれん」
無気味な沈黙。それからトムがいった。
「名まえをいえ」
「おまえなんかの知ったことじゃないよ」
「なんだと。いわせてみせるぞ」
「ほう、いわせてみな」
「ぎゃあぎゃあぬかすと、承知しねえぞ」
「ぎゃあ――ぎゃあ――ぎゃあ! さあ、どうだ」
「おい、それでいい気になってるのか。やろうと思えば、おまえなんか片手でたくさんだ」
「おい、やらないのか! やれるといったくせに」
「おお、やるとも、ばかにしやがると」
「ああ、いいとも。――どこでも手出しのできない連中ばかりなんだな」
「なまいきな! 気どりやがって。ちえっ、なんて帽子だ!」
「気にいらなきゃ、たたき落としてみろ。さあ、やれよ。犬っころの弱虫め」
「うそつき!」
「おまえこそな」
「吹っかけるだけで、売られたけんかを買えないんだ」
「やい、行っちまえ!」
「おい――まだつべこべぬかすと、頭に石をくらわせるぞ」
「さあ、やれよ」
「うん、やるとも」
「へえ、やらないのか。どうして、やるやるばかりいってるんだ。なぜ、やらないんだ。こわいんだろ」
「こわいもんか」
「こわいんだ」
「ちがう」
「そうだ」
また口げんかがとだえた。それから、にらみ合いと横ばいがつづいた。やがて肩と肩がふれ合った。トムはいった。
「ここをどけ!」
「おまえこそ、どけ!」
「どくものか」
「おれも、どかん」
そこでふたりは片足をつっかい棒のようにふんばって、力まかせに押し合い、憎しみをこめてにらみ合った。だが、どちらが勝つともいえなかった。ほてってまっかになるまで、もみ合ってから、ゆだんおさおさ怠りなく、双方ともに力をゆるめた。トムはいった。
「おまえはおくびょう者の青二才だ。でっかい兄貴《あにき》にいいつけてやらあ。おまえなんか小指でのされるぞ。やっつけてもらおう」
「おまえのでっかい兄貴がなんだい。おれにはもっとでっかい兄貴があるよ。おまえの兄貴なんぞは、あの垣根ごしに投げとばしてしまわあ」(ふたりとも、そんなにいさんなどはいやしなかった)
「うそだい」
「うそだといっても、うそじゃない」
トムは地面に足の親指で線を引いていった。
「こいつをまたいでみろ。立てなくなるまでひっぱたいてやる。やらねえのか、こそどろめ」
新来の少年はすぐさまその線をまたいで、いった。
「さあ、やるといったんだから、やってみろ」
「そう、せっつくな。それよか、気をつけるほうがいいぜ」
「やい、やるといったくせに。なぜやらないんだ」
「ようし! たった二セントにしかならなくても、やってやらあ」
相手の少年はポケットから大きな銅貨を二枚とり出して、ばかにしながら差し出した。
トムはそれを地面にたたき落とした。
たちまちふたりは土まみれになって、ころがりまわり、ねこみたいにつかみ合っていた。一分あまり、互いの髪の毛や服をむしったり、ひきちぎったり、鼻をなぐったり、ひっかいたり、ほこりまみれになって勇士気どりだった。やがて、どちらがどうかわからないのが、けじめがついて、砂ぼこりの中からトムの姿があらわれた。相手にうちまたがって、げんこつをくらわしていた。
「これでもか!」となぐりつづけた。
とうとう相手は「もう、たくさん!」と息をつまらせてうめいた。そこでトムは相手を立ち上がらせて、いった。
「さあ、わかったろう。こんどは、ばかにするなら、相手を見な」
新来の少年は服のほこりをはらい、泣きじゃくって、鼻をすすりながら立ち去った。ときどきふり返っては頭をふって、「こんど外でつかまえたら、どうするか、覚えておれ」とおどかした。トムはそれを鼻であしらって、意気ようようと去りかけたが、トムが背を向けると見るや、相手は石をひっつかんで投げ、それが背中に当たると、くるりとしりを向けて、カモシカのように逃げていった。トムはこの裏切り者を家まで追っかけ、その住み家をつきとめた。それからしばらく門のところに立ちはだかって、敵に表へ出てこいといどんだが、相手は窓ごしに顔をしかめるだけで、出てこようとはしなかった。とうとう、敵のおかあさんがあらわれ、トムを悪たれの、ならず者の、下品な子だといって、お帰りと命令した。それでトムは立ち去りはしたが、きっと、やつを待ちぶせしてやるぞ、といった。
トムはその晩、すっかりおそくなってから家に帰った。用心しながら、よじのぼって窓からはいったところが、まんまとおばさんの待ちぶせにひっかかった。その服のさんざんなざまを見たとき、トムの土曜日の休みはとり上げて、遊びに出さずに、うんと仕事をさせてやろうという、おばさんの決心は、てこでも動かぬほどに堅くなった。
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第二章 塀《へい》ぬりのペテン
土曜日の朝がきた。夏の世界はいたるところ明るく、すがすがしく、生気《せいき》にあふれていた。だれの胸にも歌がわいた。若い心なら、音楽がくちびるからほとばしった。だれの顔も楽しげで、足どりもかろやかだった。サイカチの木には花がひらき、そのかおりがあたりにみちていた。
村のかなたに浮かぶカーディフ=ヒルは草木のみどりに映《は》え、この丘が遠くに横たわっているところは、さながら天国の門を見やる「楽土」とも見えて、夢のように、やすらかに、人をさそうばかりだった。
トムが上ぬり用の水しっくいを入れたバケツと長柄《ながえ》の刷毛《はけ》を持って、歩道にあらわれた。塀をずっと見わたすと、喜びどころか、すっかり気がめいってしまった。三十メートル近くもある板塀《いたべい》で、高さが三メートルときている! 人生ははかなく、生きていることは重荷にすぎないように思われた。ため息まじりに刷毛をひたして、いちばん上の板をすうっとなでた。同じことをくりかえして、さて、もういちどやってみた。ほんのわずかだけ、水しっくいをぬってしまったあと、まだ手をつけていない、大陸みたいに遠くまでのびている塀とをくらべると、トムはがっかりして木の根箱に腰をおろした。ジムがブリキのバケツをさげ、「バッファロ娘」を歌いながら、門からはね出してきた。町のポンプから水をくんでくるのは、これまではトムの目にはいつもいやでたまらない仕事にうつっていたものであったが、いまのところはそうとは思えなかった。ポンプのところには仲間がいるのを思い出した。白人や混血やニグロの男の子や女の子が、いつでも順番を待ちながら休んでいたり、遊び道具のとりかえっこをしたり、けんかをしたり、とっくみ合いをしたり、ふざけっこをしていた。トムは思い出した。ポンプは百五十メートルしか離れていないのに、ジムはバケツ一杯の水を持ってかえるのに、一時間以内ですんだことはない。そのうえ、たいてい、だれかが呼びにいかなくてはならなかったのだ。トムはいった。
「おい、ジム、ちょっとぬってくれれば、おれが水をくんできてやるぜ」
ジムは首をふっていった。
「だめだあ、トムさん。おくさんがいっただ。行って水をくんどいで。だれとも道草するこたあなんねえって。トムさんが塀ぬりをたのむにきまっているから、さっさと行って、いわれた仕事をしなって。――あとで塀ぬりを見にくるって、よ」
「なあに、おばさんのいうことなど、気にするな、ジム。口ぐせなんだ。バケツをよこせ――一分とはかからないぜ。おばさんにはわかりゃしないよ」
「いや、だめだよ、トムさん。おくさんに頭をひっこ抜かれちまう。ほんとに、やりかねねえ」
「おばさんが、か! なぐったりするもんか――指ぬきで頭をこづくぐらいのもんだ。なんでもないや。口ではおどかすけれど、いうだけじゃあ、痛くもかゆくもない――とにかく、泣きつゥれなきゃあ平ちゃらだ。ジム、ビー玉やるぜ。白いやつをな」
ジムは心がぐらつきだした。
「白いビー玉だ、ジム! すごい玉だぞ」
「へえ! そいつあ、すげえや! でも、トムさん、おら、おくさんがおっかねえや」
「それになあ、見たけりゃ、おれの足指の傷も見せてやる」
なんといっても、ジムも人の子だった。――この誘惑には勝てなかった。バケツをおろして、白いビー玉を受けとった。ほうたいをほどくあいだ一心に足指へかがみこんでいたが、つぎの瞬間、ジムはバケツをひっさげ、お尻《しり》をひりひりさせながら、通りをすっ飛んでいった。トムは勢いよく塀ぬりをしていたし、ポリーおばさんはスリッパ片手に、目には勝利の色を浮かべて、戦場からひきあげていくところであった。
しかし、トムの根気はつづかなかった。きょうのためにもくろんでいた遊びのことを考えはじめると、悲しみがつのってきた。まもなく、仕事をしなくてもいい少年たちが、足どりもかるく、あれこれのおもしろい遠出にやってくるだろう。仕事をしていなければならない自分を見て、からかうだろう。――そう思っただけで、にえくりかえるような気持ちだった。トムは自分の財産をとり出して、しらべてみた。――おもちゃがいくつか、ビー玉が少しと、あとはがらくた。たぶん、仕事をかわってもらうには足りるだろうが、半時間と手ぶらでおられる、というには足りっこない。それでとぼしい資力をポケットにもどし、少年たちを買収《ばいしゅう》するのはあきらめた。この目先まっ暗な、望みの消え失せた瞬間に、一つの霊感がひらめいた。これこそまさしく、偉大な、すばらしい霊感にほかならなかった。
トムは刷毛《はけ》をとり上げて、ゆうぜんと仕事にかかった。まもなく、ベン・ラジャーズのやってくるのが見えた。ほかのだれより、こいつにからかわれるのを、トムがいちばん恐れていた相手だ。ベンの足どりはホップ=スキップ=ジャンプの三段とびで――心も軽く、期待に胸をふくらませているのが、ありありとわかった。リンゴをかじりながら、ときどき、長く、調子よくポーポーと叫び、つづけて太く低くジャーン、ジャーンとやった。蒸気船のまねをしていたのである。近づくにつれてスピードを落とし、通りの中ほどへ出て、じっと右舷《うげん》にかたむくと、威風《いふう》堂堂、これ見よがしに、船首を風上に向けて止まった。ビッグ=ミズーリ号になったつもりで、喫水《きっすい》二・七メートルの川蒸気といったところである。ベンは船であり、船長であり、エンジン=ベルまでかねていたので、わが最上軽|甲板《かんぱん》に立って、命令をくだすとともに、それを実行しているつもりでなければならなかった。
「ストップ! リン・リン・リン」船の進行がほとんど止まり、ベンはゆっくりと歩道に近づいた。「バック! リン・リン・リン!」両腕をまっすぐに、ぴたりと脇腹にくっつけた。「右舷バック! リン・リン・リン! シュー! シュ・シュー・シュー!」いいながら、右手を大きく、ぐるぐるまわした。直径十二メートルの波かき側輪と見せるためだった。「左舷バックにうつれ! リン・リン・リン! シュー――シュ――シュー――シュー!」左手が円を描きはじめた。
「右舷ストップ! リン・リン・リン! 左舷ストップ! 右舷前進! ストップ! そとがわスローに! リン・リン・リン! シュー――ウー、ウー! とめ綱、出せ! しっかりやれ! それっ――引き綱、出せ――なにをしているんだ? 先の輪を、その|くい《ヽヽ》にひっかけろ! 桟橋《さんばし》によせて――流して! エンジン停止! リン・リン・リン!」
「シュッ! シュシュ! シュ!」(ゲージ=コックの調整をするところ)
トムは塀ぬりをつづけていた。――汽船には目もくれなかった。ベンはちょっと見つめてから、いった。
「よう、おい! へこたれてんだろ」
返事はない。トムはぬり上がりを画家の目つきよろしくながめやり、それからもう一|刷毛《はけ》、おもむろになでて、さきのように仕上がりを見やった。ベンの船はトムによりそって並んだ。トムはリンゴがほしくてよだれが出そうだったが、仕事の手をやめなかった。ベンがいった。
「おい、こら、仕事をやらされてんだな」
「やあ、おまえか、ベン! 気がつかなかったぜ」
「よう、泳ぎに行くところだ、おれは。行きたくはないかい。でも、そりゃあ、仕事のほうがいいんだろうな。そうだろうよ!」
トムはベンにちょっと目をやって、いった。
「仕事って、なんのことだ」
「へえ、それが仕事じゃないんかい?」
トムはまたぬりにかかって、気にもかけないふうにいった。
「まあ、そうともいえるし、そうでもなし。いえることは、こいつがトム・ソーヤーの性《しょう》に合ってるんだな」
「おい、おい、それが好きだというんじゃあるまいな」
刷毛《はけ》が動きつづけていた。
「好き、かって? そうだな、どうして好きだといけないんだ? こどもが塀をぬるなんて機会は、そう毎日ありっこないぜ」
これで局面が一変した。ベンはリンゴをかじるのをやめた。トムは刷毛をおもむろに左右にはこび――一足さがって仕上がりをしらべ――ここ、あちらと手を加え――もういちど、でき上がりをたしかめた。――ベンは一挙一動を見つめているうち、しだいに興味をひかれてきて、だんだん夢中になってきた。やがて、ベンはいった。
「よう、トム、少しぬらせてくれよ」
トムは考えた。――うっかり、うんというところだった。だが、思いかえした。
「だめ、だめ。そうはいかんよ、ベン。この塀ときたら、ポリーおばさんがとてもやかましいんだ――表通りのここんところは。――裏の塀ならかまわないが。おばさんだってな。そりゃ、この塀となると、おばさんはうるさいんだ。うんと気をつけてやらにゃあ。千人たかろうが、いや、二千人たかろうが、ちゃんとやれるのはひとりもいやしないぜ」
「へえ、そうかな。なあ、おい、やらせろよ。ほんの、ちょっとを、よ。おれなら、やらせてやるがなあ、トム」
「ベン、やらせてやりたいのは山やまだよ。だが、ポリーおばさんが――ジムだってやりたがったんだが、おばさんはさせなかったんだ。シッドもやりたがったが、やらせなかったよ。まあ、おれにしかやれないんだ。おまえがこの塀に手をつけて、もしものことがあったら――」
「ばかいうなよ。気をつけらあ、やらせてみろよ。なあ――このリンゴのしんをやるからよ」
「まあ、それじゃあ。いけねえ、ベン。やっぱり、だめだ。いやだよ、あれが――」
「リンゴをまるごとやる!」
表面はしぶしぶ、内心はしめたとばかりに、トムは刷毛《はけ》をわたした。そして、さっきまでの蒸気船ビッグ=ミズーリ号が、日に照りつけられて汗だくで働いているあいだ、仕事の手を離れた画家トムは、そばの木かげの樽《たる》に腰をおろして、両足をぶらぶらと、リンゴをかじりながら、つぎつぎにカモをひっかけようと、待ちかまえていた。カモに不足はなかった。少年たちがつぎつぎとやってきて、からかうつもりが、塀ぬりとくるしまつだった。ベンがぐったりとなるころには、トムは手入れのいい凧《たこ》とひきかえに、つぎの番をビリー・フィッシャーに売っていた。ビリーが一ちょう上がりとなると、ジョニー・ミラーが死んだネズミとそれをふりまわすひもとで番を買い、それやこれやと、時間がつぎつぎにすぎた。そして昼すぎには、朝のうちは素寒貧《すかんぴん》であったトムが、文字どおり豊かな財宝に囲まれていた。先に挙げたもののほか、ビー玉が十二個、口琴のかけら、すかし用の青いガラスびんのかけら、糸巻きの大砲、錠のきかないかぎ、チョークのかけら、ビンのガラス栓《せん》、ブリキの兵隊、オタマジャクシが二匹、かんしゃく玉が六つ、片目の子ねこ、真鍮《しんちゅう》のドアの把手《とって》、犬の首輪――ただし犬なし――、ナイフの柄《え》、オレンジの皮が四きれ、がたのきている古い窓わく、を手に入れていた。しかもそのあいだじゅう、トムはすてきで、おもしろい、気らくな時間をすごしていたのだ。――仲間はたくさんいたし――塀は三度もぬり重ねられていた! もしも水しっくいがなくなってしまわなかったら、村じゅうの少年たちが、みんな破産してしまうところだったろう。
つまるところ、世の中はそれほどはかないものではない、とトムはひとりごとをいった。それと気づかずに、トムは人間活動の一大法則を発見していたのだ。――つまり、おとなにでもこどもにでも、なにかをほしがらせようと思えば、ただ、それを手に入れにくくさせればいい、ということである。トムが、この本の著者のように、偉大で賢明な哲学者であったなら、仕事というのは、いやでもしなければならないもの、遊びというのは、むりにしなくてもいいもの、ということがわかってくれたであろう。そしてこれがわかれば、造花《ぞうか》をこしらえたり、踏み車を踏んだりすることが、なぜ仕事であって、いっぽう、ボーリングをやったり、モン・ブランに登ったりすることが、なぜ単なる遊びにすぎないのか、ということもわかってくれるであろう。イギリスには、夏だというのに四頭立ての客馬車を、毎日定期に、三十キロも五十キロも走らせる金持ちの紳士がいくたりもいる。そんな特権をふるまうには、かなりな金がかかるわけであるが、もし彼らが馬車を走らせることで料金を払ってもらうということになると、それは仕事になってしまって、紳士たちは馬車乗りをやめてしまうであろう。
トムはしばらく、わが身のまわりに起こった大きな変化を考えあぐねてから、司令部へ報告に出向いていった。
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第三章 あこがれの君
トムはポリーおばさんの前へまかり出た。おばさんは気持ちのいい奥の部屋で、あけはなした窓のそばに腰をおろしていた。そこは寝室と朝晩の食堂、書斎とをかねた部屋だった。さわやかな夏の空気、安らかな静けさ、花のかおりと眠けをさそうミツバチのうなりがいいぐあいで、おばさんは編み物を手に、こっくりこっくりやっていた。――ねこのほかには相手もいなかったし、ねこもおばさんのひざで眠っていたからである。おばさんのめがねは、落ちないように白髪《しらが》頭の上にのっかっていた。もちろん、トムはずっと前にずらかったものと思っていたから、そのトムが大胆不敵にもこうして自分の目の前にあらわれ出たのを見て、はてな、と思った。トムはいった。
「もう遊びにいってもいいでしょうね、おばさん」
「おや、もうかい、どれくらいやったんだい?」
「すっかりすんじまったよ、おばさん」
「トム、うそをいうんじゃない――承知しないよ」
「うそじゃないよ、おばさん。すっかりやっちまったんだ」
ポリーおばさんは、そんなことばではなかなか信用しなかった。自分で見に出向いたが、トムのいったことが二十パーセントでもほんとうだとわかれば、それで満足するつもりであった。塀がすっかり白くぬり上がっているうえに、それもただぬってあるというだけでなく、念入りにぬり重ねられて、地面にまで一すじぬり加えてあるのを見ると、おばさんは口がきけないほどにおどろいた。おばさんはいった。
「こりゃどうだろう! ちがいない。やろうと思えば、やれるんだね、トム」それからおばさんは、あまり賞《ほ》めるのもほどほどに、つけ加えた。「でも、めったにその気にはならないんだからね、ほんとに。ま、遊びにいっておいで。けど、いつまでも遊んでないで早く帰ってくるんだよ。でないと、むちが行くよ」
おばさんはトムの仕事ぶりのみごとさにすっかり感服してしまったので、トムを戸棚のところへ連れていって、上等のリンゴをより出してトムに与えた。ついでに、ごちそうというものは、悪いことをしないで、善いことをしたほうびにもらったときには、値うちも味も増すものだ、というお説教をつけ加えた。そして、ありがたい聖書の文句を結びにしているあいだに、トムはドーナツを一つ、ちょろまかした。
それからトムは逃げるようにとび出したが、そのときちょうど、二階の裏部屋へ通じている外がわのはしごを、シッドがのぼりかけているのを見かけた。土のかたまりが手近にいくつもあった。またたくまに、土くれが舞い上がって、シッドのまわりに雨あられと降りそそいだ。ポリーおばさんがびっくり、気をとり直して救いにかけつけたときには、もう土のかたまりは六つも七つも命中していて、トムは塀をのりこえ、逐電《ちくでん》してしまったあとだった。門がないわけではなかった。しかし、例によって、そこを通っていくひまなどはなかった。トムの心は安らかだった。黒糸のことなどあばきたてて、自分を苦境におちいらせたシッドに、仕返しをしてやったからである。
トムは家のかどに沿ってまがり、どろんこの路地へはいっていった。おばさんの牛小屋の裏づたいになっているところだった。まもなく、もうつかまって罰をうける心配のないところまで逃げてくると、村の広場へと向かった。そこには少年たちの二派の「軍隊」が、前からの約束にしたがって、戦闘のために集まっていた。トムはその軍隊の一方の大将で、ジョー・ハーパー(トムの親友)が相手の大将だった。このふたりの偉大な司令官は、みずから戦うようなまねはしなかった。――そんなことは、もっと下っぱのやることだった。――小高いところに相並んで腰をおろし、副官を通じて命令をくだし、作戦の指揮をとった。トムの軍が大勝利をおさめた。長い、悪戦苦闘の末だった。それから戦死者をかぞえ、捕虜《ほりょ》を交換し、つぎの戦争についての条件をとりきめ、さけがたい戦闘の日どりが定められた。それがすんでから、両軍は隊伍《たいご》をととのえて引き上げ、トムはひとりになって家路についた。
ジェフ・サッチャーの住んでいる家のそばを通っていたとき、トムははじめての女の子が庭にいるのを見かけた。――青い目の、かわいらしい女の子で、黄いろい髪を二つにあんでお下げにし、白い夏着に、刺しゅうをしたパンタレッツをはいていた。勝利に輝いたばかりの英雄も、一発の弾も撃たずに降参してしまった。エミー・ロレンスなんて女の子は、たちまち心から消えてしまって、そのおもかげさえ、あとかたもなくなった。トムはこれまで、エミーが気も狂うほどに好きだと思っていた。自分の情熱を崇拝《すうはい》だと考えていたものだ。ところがそれも、ほんの一時の気まぐれにすぎなかったのだ。トムは何か月もかかってエミーの心をとらえ、彼女が心を打ち明けてからも、やっと一週間しかたっていなかった。トムはわずか七日という短いあいだだけ、世界じゅうでいちばん幸福な、いちばんとくいな少年だった。ところがこの一瞬のうちに、エミーはトムの心から消えうせてしまっていた。まるで、ふとたずねてきた客が、用をすませて立ち去ったようであった。
トムはこの新しい天使へ、ひそかに目をやって拝んでいたが、そのうち、向こうでも自分に気がついていたのがわかった。そこでトムは、彼女のいることなど気づかないふりをして、あれこれとばかげたこどもっぽいやりかたで「見せびらかし」をはじめた。彼女の気をひくためだった。トムはこんな、あやしげなばかわざをつづけていたものだが、そのうち、危険な曲芸をやっているさいちゅうにちらりと横を見ると、女の子は家のほうへひきかえしていくところだった。トムは垣根へ行って、もたれかかり、悲しみながら、あの子がもうしばらくいてくれたらと思った。彼女はちょっと階段で立ち止まって、それから入り口のドアのほうへ歩いた。その足が敷居にかかったとき、トムは大きなため息をついた。だが、たちまちトムの顔が輝いた。彼女が姿を消す間《ま》ぎわに、パンジーを一本、垣根ごしに投げてよこしたからである。
トムは走っていって、その花のちょっと手前で足を止めると、小手をかざして、通りの向こうを見やった。まるで、そっちのほうで、なにかおもしろいことでも起こったのを見つけたみたいだった。やがてトムは麦わらを一本拾い上げ、頭をぐっとうしろにそらして、それを鼻の上に立てようとやりはじめた。うまくいくように、あちらこちらへからだを動かしながら、パンジーのほうへしだいに近づいていった。やっと素足がそれにとどくと、器用に足指でつまみ、この宝ものを手に、小おどりしながら角をまがって姿を消した。だが、それもほんの一分ほど――上着の内がわのボタンの穴に、その花を差すまでのことで、それも心臓の横に。ひょっとすると胃の横であったかもしれない。なにしろ解剖学を心得ているわけでもなく、とやかく気にするほうでもなかったから、どうだってかまわないのである。
トムはもういちどひきかえして、日が暮れるまで垣根のあたりをうろついて、さっきの「見せびらかし」をやっていた。しかし女の子は二度と姿を見せなかった。もっともトムのほうでは、そうしているあいだ、女の子はどこか窓の近くにいて、こちらの心づくしを受けてくれているものと、いささか自分をなぐさめていたのである。とうとうトムはしぶしぶながら家に帰った。あわれにも、頭の中は幻想でいっぱいだった。
夕食のあいだじゅう、トムはひどくうきうきしていたので、おばさんは「この子はどうかしたのかしら」とあやしむほどだった。シッドに土くれをぶっつけたことで、ひどくしかられても、いっこう気にかけている様子もなかった。トムはおばさんの目の前でさとうをぬすもうとして、指さきをぴしゃりとやられた。トムはいった。
「おばさん、シッドがとっても、ぶたないんだね」
「そうだよ。シッドはおまえみたいに、ひとをいじめたりしないもの。目をはなしていたら、おまえはしょっちゅうさとうに指をつっこんでるだろう」
やがて、おばさんは台所へ立っていった。シッドは大目に見られるのをいいことに、さとうつぼへ手をのばした。――これ見よがしにやられては、トムにはどうにもがまんできないぐらいだった。だがシッドの指がすべって、つぼが落ちて、くだけた。トムは有頂天《うちょうてん》だった。――うれしさのあまりに、口をつぐんで、だまっていたほどだった。おばさんがはいってきても、ひとことも口をきかないで、だれのしわざかきくまでは、じっとすわったままでいてやろう。それから、|ばら《ヽヽ》してやるんだ。あのお気にいりのお手本めが「しかりとばされる」のは、またとないおもしろい見ものだ、とトムはほくそえんだ。トムはうれしくてたまらなかったので、おばさんがもどってきて、こわれたつぼの残がいに立ちはだかり、めがねごしに怒りの稲妻をきらめかしたときには、もうだまってはおられなかった。「そら、きた!」と思った。そのとたんに、トムは床の上にはいつくばっていた!力まかせの手のひらが、もう一つとばかりにふり上げられたとき、トムは叫びたてた。
「待って、よう。なんだって、おれをぶつの?シッドがこわしたんだよ!」
ポリーおばさんは打つ手を止めて、めんくらい、トムはおばさんが折れてくるのを待った。でも、おばさんは、やっと口がきけるようになっても、こういっただけだった。
「ふん、でも、ぶたれてもしかたがないんじゃない? わたしのいないまに、ほかの悪さをやったんだろうからね」
そうはいったものの、おばさんは気がとがめた。なにか優しい、愛情のこもったことばをかけてやりたかった。だが、そんなことをすると、自分がまちがっていたことをみとめさすことになるし、これはしつけのためにもならない、と考えた。そこでおばさんは、だまったままで、心をいためながら、自分の用事にとりかかった。トムは隅っこでふくれっつらをし、わが身の悲哀を深めた。トムには、おばさんは心の中では自分にひざまずいて、あやまっているのがわかっていた。そう思うと、気は晴れないながらにうれしかった。なんのそぶりも見せるまい。おばさんのそぶりにも、気がつかぬふりをしてやろう。ときどき、涙にぬれた目で、やさしくこちらを見やっているのがわかっていたが、トムはそれに気がつかないふりをした。トムは自分が死の床に横たわっている姿を思い描いた。おばさんがおれの上に身をかがめ、ひとこと、許すといっておくれとせっつくが、おれは壁に顔を向けたまま、許すとはいわずに死んでゆく。ああ、そうしたら、おばさんはどんな気がするだろう。それから、トムは川から死体となって、巻き毛の髪はずぶぬれに、両手は悲しいことに永久に動かないまま、傷心《しょうしん》の胸も安らかに、家に運ばれてくる自分を想像した。おばさんはどんなにか、おれにとりすがり、涙を雨と流し、そのくちびるは、この子をお返しください、もう二度とこの子をいじめたりはしません、と神がみに祈ることだろう! それでも、おれは冷たく、青ざめて横たわって、身動き一つしない。――あわれな、悩める子よ、その悲しみはおわったのだ。トムはこんなもの悲しい夢想にひたりきっていたので、のどのつまりを、のみこみつづけていなければならなかった。――のどがつまりそうだったのだ。目は涙にかすみ、まばたきすればあふれて、つたい落ちて、鼻の先からこぼれた。こんな悲しみにひたっているのは、すばらしくいい気持ちだったので、俗っぽい楽しみや、気持ちにさからう喜びなどにじゃまされるのは、がまんがならなかった。トムの気持ちは、そんなものとまじるには、神聖すぎるくらいだったのである。それで、まもなく、いとこのメリーが、一週間もの長いあいだ田舎《いなか》へ行っていて、やっと家に帰れたうれしさに、はしゃぎきって踊るようにはいってくると、トムは立ち上がって、メリーが歌と日光とを持ちこんできたドアとは別のドアから、雲をかすみと、暗い気持ちで外へ出ていった。
トムは少年たちがいつも集まっている場所から遠く離れて歩きまわり、自分の気持ちにふさわしい、さびしい場所をさがした。川の丸太のイカダにさそわれて、その外がわのはしに腰をおろした。わびしく広がっている流れを見つめながら、いまにも、知らないうちに、死の苦しみなどは味わわずに、おぼれてしまえるものならいいのにと思った。すると、トムはもらった花のことを思い出した。とり出してみると、くちゃくちゃにしおれていて、暗い幸福感がひとしおに深まった。あの子が知ったら、自分をあわれに思ってくれるだろうか、と思った。泣いてくれるだろうか。その両うでをこの首にまわして、なぐさめてあげられるものならと思ってくれるだろうか。それとも、あじけない世間の連中と同じように、ひややかにそっぽを向いてしまうだろうか。こんなふうに思いめぐらしていると、楽しいにがさがこみ上げてきて、何度となく、そんな思いを心の中にくりかえした。それから、新しい、かわった見かたで考え直したりしているうちに、しまいには、すっかりぼろぼろにつまらなくしてしまった。とうとう、トムはため息をつきながら立ち上がって、暗やみの中を歩きだした。
九時半か十時ごろ、トムはあの名も知らぬ、あこがれの君が住んでいる、さびれた通りへやってきた。ちょっと足を止めて、聞き耳をたてたが、なんの物音も聞こえなかった。ロウソクが一本、二階の窓のカーテンにおぼろな光を投げていた。あの人はあそこにいるのだろうか。トムは垣によじのぼり、植えこみをしのび足で縫いくぐって、とうとうその窓の下に立った。長いあいだ、胸をわくわくさせながら窓を見上げていた。それから下の地面に寝ころんで、あおむけになり、両手を胸に組んで、あわれにしぼんだ花をにぎっていた。こうして死んでいくのだ――冷たい世間の風にさらされ、宿なしの頭をおおう屋根もなく、臨終《りんじゅう》のひたいの汗をふいてくれる、したしい人もなく、断末魔の苦しみがおそってきても、あわれんで身をよせながらのぞきこんでくれる顔もない。こうして、晴れやかな朝になり、あの子が外を見やると、この自分が目につくだろう。――そしたら、ああ、あの子はこのあわれななきがらに一しずくの涙を流してくれるだろうか。一個の輝かしい、若い生命が、かくもむざんにそこなわれ、時をまたずに刈りとられたのを見て、小さなため息ひとつでもついてくれるだろうか。
窓がひき上げられた。女中のけたたましい声が神聖な静けさをけがした。と、ザアッとばかりに水がぶっかけられて、うち伏している殉教者《じゅんきょうしゃ》のなきがらをびしょぬれにした!
息を止めていた英雄は鼻息を吹きかえして、とび上がった。ののしり声にまじってヒューとばかりに、投げられたものが空を切る音がし、つづいてガラスのくだけるような音がしたと思うと、小さな、おぼろな影が一つ、垣根をとびこえて、闇《やみ》の中へ弾丸のように飛び去った。
それからまもなく、すっかり裸《はだか》になって寝じたくをしながら、トムがロウソクの光でずぶぬれになった衣服をあらためていると、シッドが目をさました。なにかやったらしいことに、差し出口をはさんでみようかと思ったのかもしれないが、思いなおして、さわらぬ神にたたりなし、ときめこんだ。――トムの目にただならぬ、けわしさがきらめいていたからである。トムはもう、わずらわしいお祈りなどやめにして、ベッドにもぐりこんだ。シッドはトムがお祈りを怠けたことを、心にきざんでおいた。
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第四章 日曜学校異変
太陽は静かな世界にのぼり、祝福するかのように平和な村に日ざしを投げかけた。朝食がすんで、ポリーおばさんは家族の礼拝をした。それはお祈りにはじまったが、聖書からの引用句《いんようく》がかたくるしくつづくのを土台にして、それにちょっぴりおばさんの意見を上《うわ》ぬりしたものだった。このお祈りを建物でいえば、そのてっぺんから、おばさんはモーゼ(ユダヤ民族の英雄。イスラエル建国の祖。シナイ山上で十戒をたれた)の律法のいかめしい章を読んできかせた。シナイの山から教えをたれているようだった。
それからトムは、いわば、心をひきしめて、自分の受け持ちの「聖句の暗唱」にとりかかった。シッドは何日も前に自分の暗唱するところを覚えてしまっていた。トムは全精力をそそいで五節ばかり暗記しようとした。えらんだのは山上の垂訓のところであった。それより短い節が見つからなかったからである。
半時間たったころ、トムは自分の暗記するところをおぼろげながら覚えかけていたが、それ以上にはいかなかった。その思考が人間の思想の全分野をかけめぐり、両手は気ばらしの楽しみにいそがしかったからである。メリーはトムの聖書をとり上げて、トムが暗唱するのを聞いてみることにした。トムは五里霧中にやってみようとした。
「さいわいなるかな、こ、こ、こ――」
「こころの――」
「そうだ――こころの。さいわいなるかな、こころの、の、の――」
「貧しきもの――」
「貧しきもの。さいわいなるかな、こころの貧しきもの。天国に――天国に――」
「天国は――」
「天国は。さいわいなるかな、こころの貧しきもの。天国は――その人のものなり。さいわいなるかな、悲しむもの。その人は――その人は――」
「なぐ――」
「その人は――」
「な、ぐ、さ――」
「その人はなぐ――ええ、なんだか、わからないや!」
「なぐさめ!」
「ああ、なぐさめ! その人はなぐさめ――その人はなぐさめ――め、め――かなしむ――む――む――さいわいなるかな、かなしむ――もの――かなしむもの――その人はなぐさめ――なぐさめ、なんだったかな。どうして教えてくれないんだ、メリー。なぜ、そう意地悪するんだ?」
「あら、トム、おばかさんね。いじめてなんかいないわ。そんなことするもんですか。もういっぺん、覚え直さなきゃあ。がっかりしないで、トム、やれるわよ。――やれたら、とってもすてきなものをあげるわ。さあ、いい子だから」
「ようし! なにをくれるんだい、メリー。教えてくれよ」
「そんなこと、気にしないで、トム。わたしがすてき、といったら、すてきなものにきまってるじゃないの」
「きっとだな、メリー。ようし、もういっぺん、かかってみよう」
そこでトムは「もういっぺん、かかって」みた。なにをくれるのかという好奇心《こうきしん》と、うまくもらえそうだという見込みとで圧力が二倍となり、大いに意気ごんでやったので、輝かしい成功をおさめた。
メリーはトムにま新しい大型「バーロウ」ナイフ(一枚刃の大型ナイフ)をくれた。十二セント半もするやつだ。うれしさが、からだじゅうにこみあげて、ぞくぞくした。じつは、このナイフではなにも切れはしない。だが「正真正銘《しょうしんしょうめい》」のバーロウで、そこになんともいわれぬ値うちがあった。――もっとも、西部の少年たちが、こうした武器は、偽造されればその名に傷がつくといった考えを、どこから持ちこんだのか、これはおもしろいなぞだが、いつまでもわかりはしないだろう。トムはこのナイフで食器棚をめった切りにしてやろうと思って、まずひきだし台からかかろうとしていたときに、日曜学校へ行く着がえをするようにと、待ったがかかった。
メリーはトムに水を入れた金だらいとせっけんをわたした。トムはドアの外に出て、そこの小さなベンチに金だらいをおき、それからせっけんを水にひたして下におくと、腕まくりをした。それから水をそっと地面にあけてから台所にはいって、ドアのうしろにかけてあるタオルで、せっせと顔をふきはじめた。だが、メリーがタオルをとり上げて、いった。
「まあ、はずかしくないの、トム? いけないわ。水がどうだっていうの?」
トムはいささか、まごついた。金だらいに水が入れなおされて、こんどはしばらく金だらいに立ちはだかっていたが、意を決して、大きく息をしてから、はじめた。やがて、両目をつぶって、タオルを手さぐりしながら、台所にはいってきたときには、あっぱれなことに、せっけんあわと水がその顔からしたたっていた。だが、タオルから顔を出したところでは、まだこれでよし、とはいかなかった。きれいになったのは、あごと口のところまでで、お面をかぶったみたいだった。その下から先は、首すじの前うしろにかけて、水をそそがなかった地帯が黒ぐろとひろがっていた。メリーが手をかして、すっかり仕立てあげると、トムは一人まえの人間になって、黒ずんだむらもなく、ずぶぬれの髪はきちんとブラシをかけられ、短い巻き毛もだいたい優美に左右にととのえられていた(トムはひそかに、やっとの思いで巻き毛をのばすようになでつけ、頭にぴったりくっつけた。巻き毛はどうにもめめしくて、人生がにがにがしくなる思いだったからである)。それからメリーはトムの服をとり出した。この二年間、日曜日だけに着ていたもので――「別の服」といえばすむやつだった。――それからして、トムの衣装だんすの中味もわかるというものだ。トムが着がえをすますと、メリーは「着つけをととのえて」やった。小ぎれいな上着のボタンを、あごのところまでかけてやり、シャツの広いえりを肩にたらし、ブラシをかけ、それからまだら模様のムギワラ帽をかぶらせた。これですっかり男ぶりが上がったものの、ひどく気に入らないようだった。見かけどおり、まったく着ごこちが悪くてたまらなかった。服はどこもかしこも、ぴったりで、よごれもないのがカンにさわったからである。メリーがくつを忘れてくれるようにと思ったが、それもそら頼みだった。メリーは例によって、くつにすっかり獣脂をぬって、持ち出してきた。トムはかんしゃくを起こして、いつも、やりたくないことばかりやらされるんだな、といった。だが、メリーはなだめるようにいった。
「さあ、トム――いい子だから」
それで、トムはぶつぶついいながらくつをはいた。メリーもすぐにしたくをして、三人のこどもは日曜学校へ出かけた。トムはきらいきっていたが、シッドとメリーにはお気に入りのところだった。
日曜学校は九時から十時半まで、そのあと教会の礼拝があった。三人のうちふたりのこどもは、自分から居残って、お説教を聞いた。のこるひとりも、いつも残ってはいたが――もっとはっきりした理由からだった。教会の、背高の、クッションなしの長いすには、三百人ほどがすわれる。教会堂は小さな、質素なもので、てっぺんに松板の箱のようなものがのっかっていて、これが尖塔《せんとう》のかわりというわけだった。入り口のところで、トムは一足ひきかえし、日曜着の仲間のひとりにことばをかけた。
「おい、ビル、黄札《きいふだ》を持ってるか」
「うん」
「なんと、とりかえる?」
「なにがある?」
「あめ菓子と釣針」
「見せてみろ」
トムはとり出して見せた。それならよい、と話がまとまって、品物が交換された。それからトムは、白いはじき玉二つで赤札三枚、さらに小さながらくたいくつかで、青札二枚を手に入れた。ほかの少年たちが来るのを待ちかまえて、あと十分か十五分がかりで、いろいろな色の札を買いつづけた。やっと、トムは、身ぎれいな、さわがしい少年少女の群れといっしょに教会へはいり、自分の席へ進んでいくと、はじめにそばへやってきた少年とけんかをはじめた。しかつめらしい、年配の先生が止めにはいった。先生がちょっと背を向けると、トムはとなりのベンチの少年の髪をひっぱり、その子がふり向いたときには、本に夢中になっていた。すぐまた、別の男の子をピンで突いた。「いてえ!」というのを聞くためだったが、また先生からしかられた。トムのクラスはみんなが似たりよったりで――落ち着かず、さわがしく、やっかいな連中だった。学課の暗唱とくると、聖句を完全に覚えている者などひとりもなく、はじめからおわりまで、口ぞえしてもらわなくてはならなかった。それでも、連中はまがりなりにもやってのけて、それぞれほうびに小さな青札をもらった。一枚一枚に聖書の文句がすりこまれていて、二節暗唱できれば青札一枚ということになっていた。青札十枚で赤札一枚にとりかえてもらえた。赤札十枚で黄札、黄札が十枚たまると、校長先生がひきかえに略装の聖書(そのころで四十セントの)を生徒にくれた。たとえドレ(フランスの画家。一八三三〜八三)の金ぴか装丁の聖書をくれるからといって、二千もの節を暗記するほど、勤勉専心な人が、わが読者に何人いるだろうか。それなのに、メリーはこれをやって、聖書を二冊ももらっていた。二か年かけた忍耐強い努力であった。ドイツ人のむすこなどは、四冊か五冊かちとっていた。その子は、いつか、三千句をつかえずに暗唱したものだが、あんまり頭をしぼりすぎたために、その日からというものは、まるでばかみたいになってしまった。――学校にとっては悲しい不幸だった。なにかと大きな行事のときには、校長先生が(トムのいうところによると)いつもこの子を呼び出して、「これ見よ」がしにしていたからである。年長の生徒たちだけが、もらった札をためて、聖書を手に入れようと、気長に、うんざりするほど勉強にしがみついているにすぎなかった。そんなわけで、こうした賞品が与えられるということは、めったにない、注目すべき事件であった。うまくせしめた生徒は、その日は、とてもえらそうに、ひときわめだつものだから、居合わせた他の生徒はみんなそれぞれに新たな野心に心が燃えたち、それが二週間ぐらいつづくことがよくあった。トムの心の胃袋がこんな賞品なんかにがつがつしていたことは、まずあるはずもなかったが、その全身全霊は、賞品にともなう栄光とかっさいを、ながいあいだあこがれていたことは疑いなかった。
順序どおり、校長先生は説教壇の前に立ち、閉じた賛美歌の本を手に、人差し指をページのあいだにはさんで、注目と命じた。日曜学校の校長先生がおきまりの小演説をするときに、賛美歌の本を手にしているのは、歌手がコンサートで、舞台の前にでて独唱するのに、かならず楽譜を持っているのと同じく、必要欠くべからざるものである。――もっとも、その理由はわからない。賛美歌の本も楽譜も、持っているだけで見ようとはしないからである。この校長先生はやせっぽちで三十五才、薄茶色の山羊《やぎ》ひげをはやし、髪の毛も薄茶で短かった。ぴんと立っているカラーをつけて、その上のはしは耳にとどくぐらいで、とんがった両先は口の両端ぞいに、前へまがっていて――いわば塀をめぐらしているおかげで、どうしてもまっすぐ前を見ていなくてはならず、横を見ようとすれば、からだ全体を向けなくてはならなかった。あごはひろがったネクタイの上にのっかっていて、そのネクタイというのが、おさつほどの幅と長さがあり、ふちには縫飾りがしてあった。長ぐつの先はソリの先よろしく、鋭く反《そ》り上がっていて、当時の流行というものだった。――これは若い人たちが、つづけざまに何時間もつまさきを壁におしつけて腰をかけているせいで、しんぼうづよく、やっとの思いで作り出した結果である。ウォルターズ先生はとてもまじめな風采《ふうさい》で、誠実正直な心ばえの人であった。聖なる物と場所を崇敬し、それを俗世のことがらとは切りはなしていたので、知らず知らずのうちに、日曜学校での先生の声は、ふだんの日にはまったく聞かれない、一種とくべつな調子をおびていたものだった。先生はこんなふうに話をはじめた。
「さて、みなさん、できるだけ背をのばして行儀《ぎょうぎ》よくすわって、一、二分わたくしのいうことを、よく聞いてください。そう、そのとおり。それがよい子たちのやりかたです。女の子でひとり、窓の外を見ている人がいますよ。――わたしが外のどこかにいるとでも思っているのかな。――木にのぼって、小鳥たちにお話ししているとでも思っているんでしょうね(おもしろがっているくすくす笑い)。わたくしはいいたいですね、こんなにたくさんな、元気でかわいいこどもさんたちが、こういうところに集まって、正しいことをし、よい子になろうと勉強するのを見るのは、ほんとうにうれしいことです」
こんなふうにお話はつづいた。が、これ以上に書きしるすこともない。あいかわらずの型どおりで、みんながよく知っていることである。
お話のおわりのほうの三分の一は、悪童どものあいだでけんかやなぐさみごとがまたはじまり、身動きやらひそひそ話がすみからすみへとひろがって、シッドやメリーのように、まきこまれないで静聴している岩の根まで洗うほどで、お話はめちゃめちゃになった。ところが今や、ウォルターズ先生の声が静まるにつれて、さわがしい音がぴたりとやんだ。そのお話がおわったのを、みんなが口を閉ざして、いっせいにうれしく感謝したのである。
さっきのひそひそ話が起こったのは、いくらか珍しい事件によるものであった。――参観人がはいってきたのであった。弁護士のサッチャーが、たいへん弱よわしそうな老人と、りっぱな、かっぷくのいい、半しらがの中年の紳士に、まちがいなくそのおくさんと思える、もったいぶった婦人をともなってきたのである。婦人はこどもをつれていた。それまでのトムはいらいらと、じれったくて、不平たらたらで、良心にも責められていたものだった。――エミー・ロレンスと目を合わせることもできなかった。その愛情のこもったまなざしを受けとめかねていた。だが、そのときはいってきた少女を見たとき、トムの魂はとたんに幸福に燃え上がった。すぐにもトムは全力をつくして「見せびらかし」にかかっていた。――男の子たちをなぐったり、髪の毛をひっぱったり、顔をしかめてみたり――かんたんにいえば、女の子の気に入られて、ほめてもらえそうな、あらゆる技術を用いていたのである。この有頂天《うちょうてん》にも、たった一つ、いやなまざりものがあった。――この天使の家の庭で受けた屈辱《くつじょく》の思い出だ――砂にかかれたような、そんな思い出は、今や打ちよせてくる幸福の波に洗われて、たちまちのうちに消えていくのであった。
参観人たちはいちばん上席につけられ、ウォルターズ先生はお話をおえるとすぐに生徒一同に紹介した。中年の紳士はとてつもないおえらがた――ほかならぬ郡判事であるとわかった。つまりは、ここにいるこどもたちなど、これまで拝顔の栄に浴したことのないえら物で、いったいこのおかたはどんなものででき上がっているのかと思い、――そのほえるようなお声を聞きたくもあり、またなかばほえるのがこわくもあった。そのかたは二十キロさきのコンスタンチノープルからこられ――だから旅行もしておられれば、世の見聞もひろめられているというわけで――まぎれもなくあの目で郡裁判所の建物を見てこられたのだ。――裁判所には錫《すず》の屋根があるといわれていた。こんな思いにかられて畏敬《いけい》の念におののいていたことは、心を打たれたあまりの沈黙と、いく列もの、じっと見つめている目つきでよくわかった。この人こそ、この町の弁護士の兄、偉大なるサッチャー判事であった。ジェフ・サッチャーがすぐに進み出て、このえらい人と親しいところを見せ、生徒たちからうらやましがられた。つぎのようなささやきを耳にするのは、彼の魂にとっては音楽とも思われたであろう。
「見ろよ、ジム! あいつ、前へ行くぜ。おい、ほら! あれと握手するんだぜ――握手してら! ちくしょう、おまえ、ジェフになりたくないかい」
ウォルターズ先生が「見せびらかし」をはじめた。あちら、こちらと、ところかまわず相手さえ見つかれば、命令を出したり、判断をくだしたり、さし図をしたり、あれこれと立ちまわって大いそがしだった。図書係も「見せびらかし」にかかった。――腕いっぱいに本をかかえこんで、あちらこちらと走りまわり、下っぱ役が喜んでやるように、ペチャクチャしゃべりまくっていた。若い女の先生たちも「見せびらかし」た。――さっき、ぶたれていた生徒どもにやさしくかがみこんだり、いたずらっ子に、いけませんよと、美しい指を上げてみたり、よい子をそっとなでてやったりした。若い男の先生がたは、軽くたしなめたり、威厳のあるところや、しつけには細かく気をつけているようすを、ちょっとやってみせて「見せびらかし」をした。――男の先生も女の先生も、ほとんどが説教壇のそばの書棚に用事をこしらえて(ひどく困ったふりをしながら)、二度も三度も足をはこばねばならぬ用事というわけだった。女の子たちの「見せびらかし」はいろんなやりかたで、男のこどもの「見せびらかし」は、ひどく気がはいっていたから、あたり一面、紙つぶてと、とっくみ合いの騒ぎでもうもうたるものだった。それらをしりめに、えらいおかたは腰をおろしたまま、会堂全体に堂々たる裁判官らしいほほえみをそそぎかけ、わが身の威光輝かしい太陽にぬくもっていた。――かれもまた「見せびらかし」をやっていたからである。
ウォルターズ先生をじゅうぶんご満悦させるには、一つだけ足らないものがあった。それは賞品の聖書を手わたして、神童をおめにかける機会だった。黄の札を持っている生徒はいくらかいたが、じゅうぶんな枚数に達している者はいなかった。――先生はめぼしい生徒たちのあいだを、当たることは当たってみたのであった。いま、あのドイツ人の少年が健全な頭になってもどってきてくれるならば、この世のすべてでもくれてやりたいくらいだった。
ところがこの瞬間、望みも絶え果てたとき、トム・ソーヤーが黄札を九枚、赤札を九枚、青札を十枚持って進み出ると、聖書をいただきたいといった。まさしく青天のへきれきだった。ウォルターズ先生は、まさか十年たっても、こんな手合いから申し出があろうとは思ってもいなかった。だが、いまさら、つくろってごまかすわけにはいかなかった。――れっきとした小切手はあるし、額面どおりに有効なものだった。そこでトムは、判事さんや他のおえらがたとならんで、高い所へ上げられ、この大ニュースが学校当局から発表された。それはこの十年、かつてなかった驚天動地《きょうてんどうち》の異変であった。ひき起こされた感動はとてもすばらしく、この新しい英雄は判事さんと同じえらさにひき上げられて、全校はひとりにかわって、ふたりのおどろくべき人物を仰ぎ見ることになった。男のこどもはすっかりうらやましい気持ちにさいなまれた。――中でも、いちばん手痛い苦しみを味わったのは、いっぱい食わされたと、今になって気づいた少年たちだった。このいまいましい光栄にひと役買っていたわけで、トムに札を売りわたしたのだが、そのためにトムがためていた財産は、塀ぬりの特権を売ったものだった。この連中は、あくらつなぺてん師か、草にひそむずるい蛇にひっかかったようなまぬけのような気がして、すっかり自分がいやになっていた。
賞品はトムに与えられた。校長先生は事情が事情なので、うまくしぼり出せるだけのほめことばをつけくわえたが、どことなく心からの気合いにかけていた。きのどくに校長先生は、これにはたぶん、あからさまにはできない秘密があると、本能的に感じていたからである。こんな悪童が二千束もの聖句を、その頭の倉にしまいこんでいるとは、とてつもない話で――せいぜい十束さえ納めるにはむり、というのがたしかなところであった。
エミー・ロレンスはとくいで、うれしかった。そんな顔をトムに見せようとしたのだが――トムは見ようとはしなかった。エミーはいぶかしく思った。それから、いささか気がかりになった。つづいて、ぼんやりとした疑いがわき、消え――またわいた。エミーは気をつけて見た。ぬすみ目をしただけで、エミーにはいろいろなことがわかった。――すると、エミーの心は破れ、ねたましく、腹だたしくなり、涙が出てきて、だれもかれもが憎らしかった。とりわけトムが憎らしい(と思いこんだ)。
トムは判事さんに紹介された。ところが舌《した》はこわばり、息もたえだえ、心臓がどきどき――判事さんがえらくておそれ多いせいもあったが、なによりこの人が例の女の子のおとうさんであるからだった。これが暗がりでもあったら、トムはひれ伏して拝みたいところであった。判事さんは片手をトムの頭において、りっぱな少年だといい、名はなんというかとたずねた。トムはどもり、あえぎ、やっとの思いでいった。
「トム」
「いや、いや、トムではない――きみの名は――」
「トマス」
「ああ、そのとおり。もっとくっつくだろうと思っていたよ。それでけっこう。だが、もうひとつ名まえがあるはずだが、それをいってみてくれないか」
「苗字《みょうじ》のほうも申し上げなさい、トマス」ウォルターズ先生がいった。「ていねいなことばで。――お行儀《ぎょうぎ》を忘れてはいけませんよ」
「トム・ソーヤー――でございます」
「よろしい! いい子だ。りっぱな子。りっぱで、男らしいね。二千句とはたいした数だ。――いや、まったくたいした数だ。覚えるには苦しかっただろうが、けっしてその苦労を悔むことはあるまい。知識というのは、この世界ではなににもまして価値のあるものだからね。それあればこそ、えらい人にもよい人にもなれる。君もそのうち、えらい、よい人になるだろうが、トマスくん、そのときになれば、昔をふり返っていうだろう。これもみんな、こどものころに通わせていただいた、ありがたい日曜学校のおかげだ――みんな勉強を教えてくださった、なつかしい先生がたのおかげ――みんな校長先生のおかげ。先生はわたしをはげまし、見守ってくださり、美しい聖書のご本――すばらしい、りっぱな聖書をくださり、いつもはだ身はなさず自分のものとして持っているようにとおっしゃった。みんな正しい教育のおかげなんだ! そういうにちがいない、トマスくん――それに、その二千句を、金なんかに代えようとは思うまい。かならず、代えたりはするまい。さて、ところで、わたしとこのご婦人に、君の習ったことを少しばかり聞かせてもらえまいか――もちろん、いやではないだろうね――わたしたちは勉強するこどもが大好きなんだよ。さ、きっと十二使徒(キリストの弟子で、最後の晩餐に居合わせた人たち)の名まえはぜんぶ知っていようね。最初に使徒になったふたりの名をいってくれないか」
トムはボタンの穴をひっぱりながら、はずかしそうだった。いまはまっかになって、目を伏せた。ウォルターズ先生は気落ちしてがっくりだった。先生は思った、この子はどんな簡単な質問にも答えられやしない――なんだって判事さんはこの子にきいたりしたんだろう。それでも、なんとか思いきっていわせなくてはと思った。
「判事さんにお答えなさい、トマス――こわがらないで」
トムはまだためらっていた。
「ね、わたしにならいってくれるわね」ご婦人がいった。「最初のふたりの使徒の名は――」
「ダビデとゴリアテ(ダビデはイスラエルの第二の王、ゴリアテはペリシテ族の巨人で、ダビデによって石を投げ打たれて殺され、首をはねられた)!」
それからこの場がどうなったか、トムがかわいそうだから、ここで慈悲の幕をひくとしよう。
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第五章 ハサミ虫騒動
十時半ごろ、小さな教会のひびのはいった鐘が鳴りだして、やがて人びとが朝の説教に集まりはじめた。日曜学校の生徒たちは会堂にちらばり、親たちといっしょに席についた。親の目がとどくというものである。ポリーおばさんがやってきて、いっしょにトムとシッドとメリーが腰をおろした。――トムが通路のがわにすわらせられたのは、開いた窓や気をそそる戸外の夏げしきから、できるだけ遠ざけておくためだった。会衆がぞくぞくと通路につめかけた。貧乏な老郵便局長、昔は羽ぶりのよかった人だ。町長とそのおくさん――こんなところでも町長がいた。無用な長物の一つだった。治安判事。ダグラス未亡人、美人で気がきいていて、四十才、気まえがよく、思いやりがあり、生活も豊かで、その丘の館はこの町ただ一つの豪壮《ごうそう》な邸宅で、お祝いごとがあるといえば、お客のもてなし、費用かまわずとあって、セント・ピーターズバーグの自慢のたねだった。腰のまがった老少佐とウォード夫人。リヴァースン弁護士、遠くからこられた新しい名士だ。つづいて村の小町娘、つきしたがってくるのは寒冷紗《かんれいしゃ》(目の荒いごく薄く堅い麻布)を着て、リボンで飾りたてた、男泣かせの若い娘たちの一団である。それから町の若い店員たちが一体となって――というのも、この連中はステッキの柄《え》にあごをのっけて入り口に立ったまま、髪をてかてかに、にやにやと娘たちのごきげんとりに居並んで、さいごのひとりがひやかし声をくぐりぬけてしまうまで、お見送りをしていたからである。いちばんさいごに、模範少年のウィリー・マファースンがはいってきた。おかあさんを大事にいたわりながら、まるでカット・グラスをかかえているようだった。この少年はいつでもおかあさんを教会へつれてくるので、すべてのおかあさんたちからのほめられものだった。少年どもは、みんな、こいつがきらいだった。それほど、いい子だった。そのうえ、くらべものに、いつも「引き合いに出され」たものだ。この子の白いハンカチが、うしろのポケットからたれていた。日曜日にはいつでもそうであったが――わざとではないらしかった。トムはハンカチなど持っていなかったし、持っているやつらは鼻もちならないと思っていた。
会衆がいっぱいに集まったところで、鐘がもういちど鳴って、のろのろしている連中や、はいろうかはいるまいかと迷っている連中に警告を与えた。それからはおごそかな沈黙が会堂をつつみ、張り出しにいる聖歌隊がくすくす笑ったり、ささやいたりする声がもれるだけだった。聖歌隊の連中は、いつでも礼拝のあいだじゅう、くすくす笑ったり、ひそひそしゃべったりするものだ。いちどだけ、しつけのいい聖歌隊を見かけたが、それがどこであったか、いまは忘れてしまった。ずいぶん昔のことで、ほとんど思いだせないくらいだが、どこか外国でのことであったように思う。
牧師は賛美歌の番号を告げ、いい気分でそれを読み上げた。この地方で大いに喜ばれている独得な調子だった。その声は普通の高さの音ではじまり、だんだん高くなって、ある点に達すると、いちばん高いことばに力を入れて尾をひき、それから、とびこみ台からとびこむように、すっと声を落とした。
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われのみ天にはこばれ、安けき花の床にあるべきや
友みな戦《いくさ》に功をきそい、血の海をわたるに
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この牧師は朗読《ろうどく》の名手だと思われていた。教会の親善会では、いつも詩の朗読をたのまれた。牧師が読みおわると、ご婦人たちは手を持ち上げ、それからやるせなくひざに落とすと、目をとじて、かぶりをふったものだ。まるで、こういわんばかりだった。「なんともいいようがありませんわ。美しいといいましょうか、あんまり美しすぎて、この世のものとは思えないくらい」
賛美歌を歌いおわってから、スプレーグ牧師は告知板になりかわって、集合や社交やその他の「掲示」をつづけさまに読み上げた。きりがなくて、最後の審判日までつづくかと思われた。――新聞がたくさん出ているこの時代に、いまもってアメリカで都会においてさえつづけられている奇妙な習慣である。よくあることだが、旧習というものは、その存在を正当づける理由が少なければ少ないほど、これをやめることはむずかしいものである。
さて、牧師さんのお祈りになった。ありがたい、心の広いお祈りで、すみずみにまでゆきわたっていた。この教会と、その信者たちのために、村にあるほかの教会のため、村のため、郡のため、州のため、州役人たちのため、合衆国のため、合衆国にある教会のため、議会のため、大統領のため、政府役人のため、荒海にもまれるきのどくな船乗りのため、ヨーロッパの王権や東洋の専制政治に踏みにじられてうめいている数百万のしいたげられたる人びとのため、キリスト教の光と福音に浴しながら、目ありて見ず、耳ありて聞かぬ(『新約聖書』マルコ伝、第八章十八節)ような人びとのために、海のあなたの島じまにいる異教徒たちのために祈った。そして最後に、これからいおうとすることばが神に喜ばれ祝福を受けて、豊かな土地にまかれた種子ともなり、やがて感謝すべき善の収穫を得られますようにと祈願をこめた。アーメン。
衣《きぬ》ずれの音がして、立っていた会衆は腰をおろした。この物語の主人公である少年にはお祈りなどおもしろくなかった。がまんしていただけのことだ。――それもやっとのことだった。お祈りのあいだじゅう、むしゃくしゃしていた。お祈りのすみずみまで、それと気づかずにいちいちかぞえ合わせた。――べつに聞こうとしていたのではなかったが、古いなじみの土地と、そこを行く牧師さんのおきまりの道すじを知っていたからである。――ほんの少しでも新しいことがはさまれると、耳がそれを聞きとがめて、心の底から腹をたてた。かってな付け足しは不当で、けしからんと思った。お祈りの最中に、ハエが一匹、目の前の腰掛の背にとまった。トムの心を悩ませたことに、それが静かに手をこすり合わせ、両腕で頭をかかえ、おまけにはげしくこすりだしたものだから、いまにも頭が胴体とちぎれるばかりに、細糸のような首がまる出しになった。うしろ足で羽をこすって、まるで上着のすそみたいに胴体になでつけ、どうしようが安全なものだといわんばかりに、ハエは落ち着きはらって、おしゃれをすませた。なるほど安全だった。トムの両手はそれをつかまえたくてむずむずしていたが、どうにもそれができなかったからである。――お祈りがつづいているところで、そんなことをしては、たちまち魂の破滅だと信じていた。だが、お祈りの結びのことばがはじまると、トムの手がまがって前にのびはじめた。「アーメン」というが早いか、ハエはとりこになってしまった。おばさんはそのふるまいを見のがさず、トムにハエを放させた。
牧師はお説教の主題にする聖書の一節を示して、ぶつぶつと単調に話をつづけ、それがなんともつまらなかったので、つぎつぎと、こっくりこっくりしはじめる人が多くなった。――お説教は地獄の無限の火と硫黄の話で、救われるはずの神に選ばれた人たちも、どんどんふるい落とされて、しまいには救いようもないほどの小人数になってしまう、という話であった。トムは説教のページ数をかぞえた。礼拝のあとで、いつも何ページぶんあったかは覚えていたが、どんな話だったかは、めったに覚えていなかった。それでも、このときばかりは、ちょっとのあいだ、ほんとうにおもしろく思った。牧師はキリスト再来のときに来るという至福千年時代に、地の四方の国の民がサタンにまどわされて集まり群がる情景を、すばらしく感動的に描き出したからである。そのときには、ライオンは小羊とともにふし、小さき童子にみちびかれるということだった。しかし、この壮大なスペクタクルにある悲哀や教訓や道徳は、トムの心にはひびかなかった。トムはただ、世界じゅうの国の人びとの目をそそがれる、その主役の小さい童子の晴れがましさを思ってみただけであった。それを思うと顔が輝き、自分がその童子になれたらと、心の中でいったものだが、それもライオンがよくならされておれば、の話である。
さて、また、つまらない説教がはじまったので、トムはまたまた、うんざりしてしまった。ほどなく、自分の持っている宝もののことを思い出して、とり出した。それは大きな黒いカブト虫で、あごのものすごいやつだった。――トムが「ハサミ虫」といっているやつだ。雷管箱に入れてあった。カブト虫はいきなりトムの指に食いついた。とうぜん指ではじかれると、カブト虫はもがきながら通路にすっとんで、あおむけにおっこちた。トムは食いつかれた指を口にふくんだ。カブト虫は足をじたばたさせるばかりで、どうしようもなく、起き直ることができなかった。トムはじっとにらんで、つかまえたかったものの、さいわいに手がとどかなかった。ほかの人たちも説教がおもしろくなくって、カブト虫にほっとした思いで、目をやっていた。そこへ主人の手をはなれた小さい犬のプードルがぶらりぶらりとやってきた。気がめいって、夏のおだやかな静かさにものうく、閉じこめられているのにうんざりしていて、変わったことはないかと、うの目たかの目だった。これがカブト虫に目をつけた。たれていたしっぽがはね上がって揺れた。えものをしげしげとながめて、そのまわりを歩き、無難なようにあいだをおいて、カブト虫のにおいをかいだ。もうひとまわりすると、いっそう大胆になって、ぐっと近づいてにおいをかぎ、それから口をあけて、おそるおそるパクッとやってみたが、みごとにやりそこねた。もういちど、もういちど、どうやらこの気ばらしがおもしろくなってきた。カブト虫を前足のあいだにかこんで腹ばいになり、なんどもなんどもやってみた。とうとうあきてしまうと、知らぬ顔でぽかんとしてしまった。そのうち犬はこっくりをはじめて、少しずつ、あごが下がって、敵のカブト虫にさわった。敵はあごをはさんだ。プードルは鋭い叫びとともに頭をふりたて、カブト虫は二メートルもふりとばされて、もういちど、あおむけにひっくりかえった。近くで見ていた連中は、ひそかに内心おかしさでぞくぞくし、扇やハンカチで顔をかくすのもいくたりかあって、トムはすっかりうれしくなった。犬はとんまな顔つきをした。たぶん自分でもそう思ったのだろう。しかしその心中には、無念さと、復讐《ふくしゅう》の念が燃えたぎってもいた。そこで犬はカブト虫に近づき、またもや用心深く攻撃にかかった。ぐるりのあらゆるところからとびかかり、前足をカブト虫から三センチとはなれていないところへおろし、ずっと近く寄っては歯でかみつこうとし、耳がうしろへぱたぱたするほどに頭をふりたてた。だが、しばらくするうちに、またまたあきてしまって、つぎはハエを相手に気をかえようとしたものの、これもさっぱりおもしろくなかった。アリを追いまわして、鼻を床にくっつけてみたが、これもすぐにあきあき。あくび、ためいき、カブト虫のことなどはすっかり忘れてしまって、虫の上にすわりこんだ。たちまち、痛さのあまりに悲鳴をあげて、プードルは通路を前へかけだした。悲鳴はつづき、犬は走りつづけ、祭壇の前で横に抜けるとみるまに、別の通路を入り口へとかけ、ドアの前で横にそれ、ほえたてながら一直線に最後のコースを祭壇へとまっしぐらに。走れば走るほど、痛さがいや増し、たちまち犬は、毛のはえた彗星《すいせい》さながらに、光の早さときらめきの尾をひいて軌道《きどう》をかけめぐっていた。とうとう気の狂ったような受難の犬は、進路をそれて主人のひざにとびこんだが、主人は犬を窓から放り出した。すると苦悶《くもん》の声はたちまちかすかになって、やがて遠くへ消えてしまった。
このころになると、教会じゅうの人がみんな顔をまっかにして、息をつまらせながら、笑いをおさえていた。そこでお説教は立ち往生《おうじょう》になってしまった。すぐにまたお話がはじまったものの、しどろもどろに、つっかえがちで、とても感銘を与えるどころのさわぎではなかった。どんなにまじめな感想を述べても、どこかうしろのほうで座席の背にかくれて、かみころしたようなふきんしんな笑い声が爆発するばかりで、まるできのどくなことに、牧師さんがとてつもない笑い話をしたみたいだったからである。苦しい試練がおわって、礼拝の最後の祝祷《いのり》があげられると、会衆はだれもかれも、ほっとした思いであった。
トム・ソーヤーはすっかり愉快になって家へかえりながら、教会のお勤めでも、ちょっと変わったことがおこりさえすれば、まんざら捨てたものではないと思っていた。一つだけ気にくわないことがあった。あのプードル犬が自分のハサミ虫とたわむれるのは望むところであったが、虫を持っていってもあたりまえ、とは思えなかったのである。
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第六章 ハックルベリーとの出会い
月曜日の朝にはトム・ソーヤーはしょげきっていた。月曜日の朝といえば、いつでもそうだった。――また一週間、学校の苦しみがだらだらとつづくからである。月曜日がはじまると、いっそ、あいだに休日なんかなければいい、そんなものがあるからこそ、学校のことにしばられるのが、いっそう、うんざりしてしまうのだ、と思うのがつねであった。
トムは寝ながら考えていた。まもなく、病気になればいいんだ、と思いついた。そうなれば学校を休んで家にいられる。どうやらうまくいきそうだ。トムはからだをしらべてみた。どこも悪いところはなかった。もういちど調べてみた。こんどは、おなかが痛んでいそうな気がした。そこで大いに望みをかけて、もっと痛んでくるようにけしかけた。だがすぐに痛みがうすらぎ、ほどなく、すっかりおさまってしまった。トムはさらに思案《しあん》をめぐらした。とつぜん、あることを発見した。上の前歯が一本、ぐらぐらだった。こいつはしめた。トムはうんうんうなりはじめようとした。トムがいうところの「手はじめに」というわけであったが、そのときふと思ったのは、こんなことを訴え出たら、おばさんに歯を抜かれて、こいつは痛いだろう、ということだった。そこで、いまのところは、この歯はこのままにしておいて、もっとほかのことをさがそうと思った。しばらくはいい知恵も浮かんでこなかったが、そのうち、お医者さんがなにかのことをいっているのを耳にしたのを思い出した。その病気にかかると、患者は二、三週間は寝こんでいなければならず、指を一本なくするかもしれない、という恐ろしい話だった。そこでトムはけがをした足指をシーツの下から出して持ち上げ、しきりに調べてみた。しかし、役にたちそうな徴候《ちょうこう》がわからなかった。それにしても、やってみるだけの値うちはありそうだったので、トムはかなり大げさにうなりはじめた。
しかしシッドは眠りつづけていて、気がつかなかった。
トムはいっそう声を上げてうなった。ほんとうに足指が痛みはじめているような気がした。
それでもシッドはそ知らぬ顔だった。
トムはこのころになると、うなりすぎて息切れがしてきた。ひと休みしてから、うんときばって、つづけさまにみごとなうなり声をたてた。
シッドはいびきのかきつづけだった。
トムは腹がたった。「シッド、シッド!」とゆさぶった。このやり方は手ごたえがあったので、トムはまたうなりはじめた。シッドはあくびをし、のびをしてから、鼻をならしながら、ひじをついてからだを起こし、トムを見つめはじめた。トムはうなりつづけた。シッドがいった。
「トム! よう、トム!」(返事がない)「おい、トム! トムったら! どうしたんだ、トム」
シッドはトムをゆさぶって、その顔を心配そうに見やった。
トムはうめき声を出した。
「やめてくれ、シッド。ゆさぶるな」
「よう、どうしたんだ、トム。おばさんを呼ばなきゃ」
「いいんだ、いいんだよ。そのうち直るよ。だれも呼ばないで」
「でも呼ばなきゃ。そんなにうならないでくれよ、こわいや。いつからこんなんだい?」
「何時間もだよ。いてえ! ああ、ゆさぶるな、シッド、死んじまうよ」
「トム、どうして、もっと早く起こしてくれなかったんだ? ああ、トム、うならないで! その声をきくと、身がちぢむよ。トム、どうしたんだ?」
「なにもかも許してやるよ、シッド。(うなり)おれにしたことは、なんでもな。おれが死んだら――」
「ねえ、トム、死んだりしやしないね。死なないで、トム――ああ、死なないで。たぶん――」
「なにもかも許してやる、シッド。(うなり)みんなにそういってくれ。それからな、シッド、おれの窓わくと片目のねこを、こんど町へ来たあの女の子にやってくれ。そしていってやるんだ――」
けれどシッドは自分の服をひっつかんで、もうそこにいなかった。トムの苦しみは本物になっていた。空想があまりうまうまといっただけに、うなり声もすっかり本調子になっていた。
シッドは階段をとびおりて、いった。
「ああ、ポリーおばさん、来て! トムが死にかけています!」
「死にかけているって!」
「ええ。すぐに――早く来て!」
「ばかばかしい! だまされないよ!」
そういいながらも、おばさんは階段をかけ上がった。シッドとメリーがすぐあとにつづいた。おばさんの顔も青ざめ、くちびるがふるえていた。ベッドのそばに行きつくと、あえぎながらいった。
「これ、トム! トム、どうしたんだい」
「ああ、おばさん、ぼくは――」
「どうしたんだい――どうだっていうの、これ」
「ああ、おばさん、けがをした足指が、くさってくるんだ!」
おばさんは椅子《いす》にくずれるようにすわり、ちょっと笑ってから、ちょっと泣き、それから泣き笑いをした。これで気がしずまると、いった。
「トム、どきっとさせるもんじゃないよ。もうばかなまねはやめて、ベッドから出ておいで」
うなり声がやんで、痛みも足指から消えてしまった。トムはいささかてれくさかった。
「ポリーおばさん、ほんとにくさっているような気がしたんだ。とっても痛むんで、歯のことはすっかり忘れていた」
「歯だって! 歯がどうしたんだい」
「一本、ぐらぐらで、とっても痛いったら」
「さあ、さあ、もううなりだしたりしないで。口をあけてごらん。ふん――こりゃぐらぐらだが、こんなことでは死にやしない。メリー、絹糸と、台所からまきの火をひとつ持ってきておくれ」
トムはいった。「ああ、おばさん、お願い、抜かないで。もう痛くないんだ。ほんとに、痛くないんだから。どうぞ、抜かないで、おばさん。学校を休むつもりじゃない」
「おや、休むつもりじゃないってかい? それじゃ、この騒ぎは、なんとか学校をずるけて、さかな釣に行こうって腹だったんだね。トム、トムったら、こんなにかわいがっているのに、おまえは無茶ばかりして、わたしにつらい思いばかりさせようてんだね」
このときには、歯を抜く道具がととのっていた。おばさんは絹糸のはしで輪をつくって、トムの歯をしっかりとゆわえ、あとの一方のはしをベッドの柱にむすんだ。それから、まきの火をつかんで、いきなりトムの顔につきつけた。すると、歯が、ベッドの柱に、ぶらりぶらりとたれさがった。
しかし、試練というものには、かならず、つぐないがある。トムが朝食のあとで学校へ行くと、顔を合わす仲間の羨望《せんぼう》の的になった。上の歯ぬけのあなから、これまでにない、すてきなやりかたで、つばをはくことができたからである。これを見たがる連中がわんさとむらがった。このときまで、指を切ったことで人気と尊敬を集めていた少年は、たちまち腰きんちゃくの仲間から見放されて、光彩《こうさい》を失ってしまった。その子の心は重く、トム・ソーヤーみたいな、つばのはきかたをしたって、なんにもならないと、心にもない軽べつのことばをはいたが、別の少年が「負けおしみ!」といったものだから、栄光の衣をはがれた英雄のように、ふらふらと去ってしまった。
まもなく、トムは村の浮浪児で、飲んだくれのむすこのハックルベリー・フィンに出会った。ハックルベリーは町の母親という母親に、心底からきらわれ、恐れられていた。怠け者で、無法者で、下品で、悪い子であったからである。――それに、こどもたちはみんなハックを崇拝《すうはい》していて、禁じられている彼とのつき合いを喜び、みんな、ハックのようになりたいものだとあこがれるしまつだからである。トムもほかのちゃんとした家の子たちと同様に、ハックルベリーのごうせいな宿無しの身分をうらやみながら、ハックと遊ぶことはかたく止められていた。それでトムは機会を見つけてはハックと遊んだ。ハックルベリーはいつもおとなが着捨てた服を着ていた。服はほころびほうだいで、ぼろぼろだった。帽子も型なしで、ふちのところが三日月形に大きく切りとられていた。上衣を着ればかかとのあたりまでたれ、うしろのボタンは背中からずっと下のほうについているしまつだった。それでも一つっきりのサスペンダーで、やっとズボンをささえていて、ズボンのおしりのところが下のほうでふくらみ、中はからっぽ。すり切れてぼろぼろのズボンのすそは、まくり上げていないと、どろの中をひきずるといったぐあいだった。
ハックルベリーは気まま気ずいに行き来した。天気のいい日には戸口の階段で、雨が降ればあき樽《だる》の中で眠った。学校へも教会へも行かなくてよかったし、だれかを先生と呼ぶこともなければ、だれのいうこともきく必要はなかった。いつ、どこへでも、好きかってに釣にも行ければ、泳ぎにも行けたし、好きなだけ時間をつぶしていることができた。けんかをしてはいけないという人もなければ、いつまででも夜ふかしは気ままだった。春になって、まっさきにはだしになるのは、いつもハックであったし、秋になって、くつをはくのはいちばんあとだった。顔を洗わなくてよかったし、きれいな服を着なくてもいいし、思いきり悪態《あくたい》をつくこともできた。要するに、人生を貴重ならしめるすべてのものを、この少年は持っていたのである。セント・ピーターズバーグの、手かせ足かせで自由をしばられている、ちゃんとした家の子は、みんなそう思っていた。
トムはこのロマンティックな宿なしに、いせいよくいった。
「よう、ハックルベリー!」
「やあ。こいつあ、どうだい」
「なにを持ってるんだ」
「ねこの死んだやつだ」
「見せてみな、ハック。へえ、ちょっとかたくなってるな。どこで手に入れた?」
「こどもから買ったんだ」
「なにをやって?」
「青札を一枚と、屠殺場《とさつじょう》でくすねた牛の小便袋だぜ」
「青札はどこで?」
「ベン・ラジャーズから買ったね、二週間前に、たがまわしの棒でよ」
「よう――ねこの死んだのが、なんの役にたつんだい、ハック」
「なんにだって? イボとりによ」
「ちえっ! そうかな。もっといいのがあるぜ」
「あるもんか。なんだい?」
「あれよ、くさり水だよ」
「くさり水だって! そんなものがなんになる?」
「ならないってのか。やってみたのか」
「おれは、やらない。でもボブ・タナーがやったぜ」
「だれが、そういった?」
「そりゃ、ボブがジェフ・サッチャーにいって、ジェフがジョニー・ベーカーに、ジョニーがジム・ハリスに、ジムがベン・ラジャーズに、ベンが黒んぼに、黒んぼがおれにな。わかったか」
「それがどうした。うそつきばかりだ。その黒んぼは別だけどな。おれはそいつを知らないもん。けどな、うそをつかない黒んぼなんて、おめにかかったことがないや。笑わせらあ! まあ、ボブ・タナーがどんなふうにやったのか、いってみろ、ハック」
「そりゃあ、あいつは手をつっこんだんだ、雨水がたまっている、くさった切り株へな」
「昼間か」
「そうとも」
「切り株のほうを向いてか」
「そうよ。そうにちがいねえ」
「なにか唱えたか」
「そうは思えねえな。わからねえが」
「アハハ! くさり水でイボをとろうってのに、そんなばかげたやりかたってあるもんか。へえ、それじゃ、ききめはありゃしない。ひとりっきりで、森の奥へ行ってよ、くさり水の切り株があると見当をつけたところで、それも真夜中にな、切り株へうしろ向きに近よって、手をつっこんで、唱えるんだ、
大むぎつぶ、つぶ、トウモロコシ粉、
くさり水、くさり水、のみこんでくれ、イボイボを。
それからすばやく遠のいて十一歩、目をつむったままで、三べんまわってから歩いてかえるんだ。だれとも口をきいてはいけない。話をしたら、まじないが破れるんだからな」
「ふん、そいつはよさそうだ。だが、ボブ・タナーのやりかたじゃねえな」
「そうとも。あいつがやるはずがない。この町きってのイボっちょだし、くさり水のおまじないを知ってたら、イボをこしらえてるわけはないよ。おれはこの手の、うんとあったイボを、ああやってとったもんな、ハック。あんまりカエルをいじくるんで、いつもうんとこイボをこしらえるよ。豆でとっちまうこともあるがね」
「うん、豆はきくな。やったことがあるぜ」
「やったのか。どんなふうにやるんだ?」
「豆を割ってよ、イボを切る。ちょっと血が出るほどにな。それから血を割った豆の一つへこすりつけて、穴を掘って埋めるんだ。それも真夜中ごろ、四つ辻へ、月のくらい晩にだ。そのあとで、豆の残りのほうを焼いちまう。すると、血をこすりつけたほうの豆が、ひっぱって、ひっぱって、あとの半分のほうを引きよせようとする。そこで血がイボをひっぱるのに力をかして、きれい、さっぱりとれちまうというわけだ」
「そう、それだ、ハック――それだよ。だが埋めるときに、『沈め、豆、落ちろ、イボ、もうこんどは、まっぴらだ』というと、もっといいんだがな。それがジョー・ハーパーのやりかただ。あいつはクーンヴィルの近くまで行ったことがあるし、だいたい、どこへでも行ってるから、よく知ってるんだ。だが、よう――死んだねこで、イボをどうやってとるんだ?」
「それはよ、ねこを持って、真夜中ごろに墓地へ行くんだ。悪いやつが埋められた晩によ。真夜中には悪魔が出る。ひょっとすると、二匹も三匹もな。だが見えやしねえ。風音のようなものが聞こえるだけ。悪魔の話し声が聞こえるかもしれん。悪魔が悪者をかっさらっていくときに、うしろからねこをぶっつけて、いうんだ、『悪魔は死がいについていけ、ねこは悪魔についていけ、イボはねこについていけ、おまえとはこれきりだ!』そうすりゃ、どんなイボでもとれちまう」
「いけそうだな。やってみたことがあるかい、ハック」
「いいや。でもハプキンズのばあさんがいってくれたんだぜ」
「へえ、そうなら、まちがいねえ。あのばあさんは魔女だっていうからな」
「そうだ! そうとも、トム、あのばあさん、たしかに魔女だ。おれのおやじに魔法をかけやがった。おやじが自分でそういっている。歩いているところを、気がついてみると、魔法をかけていたってよ。そこでおやじは石ころをつかんで、ばあさん、身をかわさなかったら、おだぶつになっていたところだったんだ。それがな、その晩ときた。おやじは小屋の上からごろごろおっこっちまってよ。酔っぱらってごろ寝をしていたんだ。おかげで腕をへしおったよ」
「へえ、おっかねえ。どうしてわかったのかな、魔法をかけてるってのが」
「そりゃあな、おやじにはすぐにわかる。じいっと相手を見つめているときには、魔法をかけてるんだそうだ。とくに、口の中でぶつぶついってるとな。ぶつぶついってるのは、主の祈りを逆にいってるんだもん」
「なあ、ハック。そのねこを、いつためすんだ?」
「今夜よ。悪魔どもは、今夜ホス・ウィリアムズじいさんをねらってくるぜ」
「けど、あのじいさんを埋めたのは土曜日だぜ。土曜日の晩にやっちまわなかったのかい?」
「ばかいうなよ! 悪魔の魔力がきくのは真夜中になってからだ。――そのときはもう日曜日だ。悪魔どもが日曜日なんぞに、ぼやぼや、うろつきまわりはしなかろうよ」
「そいつは気がつかなかった。そのとおりだ。つきあわせろよ」
「いいとも――こわくなきゃあな」
「こわいって! へいちゃらだ。ニャオッて、やってくれるな?」
「やるよ。おまえも鳴きかえせ、しおどきをみてな。この前は、おれにばかり鳴かせているもんだから、とうとうヘイズじいさんに石を投げられて、『野良《のら》ねこめ!』ってどなられちまったぜ。それでおれは、やつの窓へレンガを投げこんでやった。――こいつはないしょだよ」
「いわねえよ。あの晩は鳴くに鳴けなかったんだ。おばさんに見張られていたもんで。でも、こんどは鳴いてみせるよ。おい――それ、なんだ?」
「ただのダニだよ」
「どこで手に入れた?」
「あっちの森ん中でよ」
「なんとなら、とりかえる?」
「わかんねえ。売りたかあねえんだ」
「なら、いいよ。どのみち、えらくちっぽけなダニだもんな」
「ああ、ひとのダニだと思って、かってにけなしな。おれはこれで不足はねえ。じゅうぶんイカすダニなんだ」
「そうかよ。ダニなんか、いくらだっていらあ。とろうと思えば、千匹ぐらい、わけはねえ」
「なら、どうしてとらねえんだ? とれっこないのが、わかりきっているからな。こいつは、|はしり《ヽヽヽ》もいいとこのダニだ。ことしになって、はじめて見かけたやつだぜ」
「よう、ハック――おれの歯ととりかえてやってもいいぜ」
「見せてみな」
トムは紙きれをとり出して、ねんいりにそれを開いた。ハックルベリーはほしそうにながめた。ほしくてたまらなくなって、とうとういった。
「ほんものか?」
トムはくちびるを上げて、抜けたあとを見せた。
「うん、よかろう」ハックルベリーはいった。「かえっこしよう」
トムは雷管箱にダニを閉じこめた。さいきんまでハサミ虫の牢屋《ろうや》になっていた箱だった。ふたりはそれぞれ、前よりも金持ちになった気で別れた。
トムは、離れてたっている小さな木造校舎へやってくると、大またにさっとはいっていった。一目散《いちもくさん》に急いでやってきたふりに見せた。帽子を釘《くぎ》にかけて、いかにもてきぱきと席にとびこんだ。先生は、へぎ板を組み合わせた大きなアームチェアに、一段高く鎮座《ちんざ》されながら、こっくりこっくりしておられた。生徒たちが自習している、眠そうな声にひきこまれていたのである。その声がやんだので、先生は目をさました。
「トマス・ソーヤー!」
自分の名まえが正式に呼ばれるときは、やっかいなことになるのがわかっていた。
「はい!」
「ここへ来なさい。さ、なぜ、またおくれたのかね、いつものことだが」
トムはうそをついて切りぬけるつもりだった。そのとき、黄いろいお下げ髪のたばが二つ、ひとりの背にたれているのが目についた。恋心のすばやさで、トムにはそれがわかった。女生徒の席で、あいているのは、その子のとなりだけとはよくできていた。トムはすぐにいった。
「ハックルベリー・フィンと立ち話をしていました!」
先生の脈は、はっと止まって、手のほどこしようもないとばかりに目をみはった。ぶつぶついう自習の声がやんだ。生徒たちは、この向こうみずな少年が、気でも狂ったのではないかとあやしんだ。先生はいった。「きみは――なにをしていたって?」
「ハックルベリー・フィンと立ち話をしていました」
もはや、ことばの聞きちがいなど、ありえなかった。
「トマス・ソーヤー、こんなとてつもない告白は、これまで聞いたことがない。この罪は木べらの罰ぐらいではすまされん。上着をぬぎなさい」
先生は腕のつづくかぎり打ちつづけ、準備してあったむちが折れて、みるみるへっていった。それから命令がくだった。
「さあ、女生徒の席へ行きなさい! これがこらしめですぞ」
部屋じゅうにくすくす笑いがさざめいて、トムははずかしそうに見えたが、じつはそのそぶりは、まだ名も知らない、あこがれの偶像《ぐうぞう》への畏敬《いけい》の念と、このすばらしい幸運がもたらした恐ろしいほどな喜びのせいであった。トムが松板の腰かけのはしに腰をおろすと、その女の子は頭をつんとそらして、ぐっとからだをずらした。部屋じゅうで、つっついたり、目くばせしたり、ささやき合ったりしたが、トムはじっとすわったまま、両腕を前の長い、低い机にのせ、本の勉強をしているようであった。
そのうち、トムのことは気にかけなくなり、いつものとおりの、つぶやくような勉強の声が、ふたたび、たるんだ空気の中に起こった。やがてトムは女の子をちらりちらりとぬすみ見をはじめた。女の子はそれに気がつくと、トムをさげすむように「口をゆがめ」て、ほんのしばらくそっぽを向いた。用心しながら顔をもどしてみると、桃が一つ、目の前においてあった。女の子はそれを押しのけた。トムはそっともとへもどした。女の子はもいちど、それを押しやったが、前より敵意がうすれていた。トムはあせらずに、またそれをもとの場所へもどした。すると女の子は、そのままにしておいた。トムは石盤に走りがきした。「どうぞ、おとり――もっとあるから」女の子はその文字をちらりと見たが、なんのそぶりもあらわさなかった。そこでトムは石盤になにか絵を描きはじめ、左手でそれをかくすようにしていた。はじめ、女の子は気にもとめないふうをしていたが、やがて好奇心《こうきしん》はかくせないもので、それがどことはなしにあらわれはじめた。トムはなにくわぬ顔で描きつづけた。女の子は見ないようなふりで目をやったが、トムはそれに気づいているのを、さとらせなかった。とうとう女の子のほうで我《が》をおって、ためらうように小声でいった。
「それ、見せて」
トムは少し手をずらして、きみ悪い家のまんがを見せた。両はしに破風《はふ》がついていて、コルクのせん抜きみたいにきりきりまわっている煙が煙突から立ちのぼっていた。すると女の子はその絵にすっかり気をとられだして、ほかのことはなにもかも忘れてしまった。絵ができ上がると、ちょっと見つめてから、小声でいった。
「すてきよ――人を描いて」
画家はひとりの男が前庭に立っているところを描いたが、まるで起重機みたいだった。そんな家など、ひとまたぎという、怪物である。しかし、この女の子は口やかましくはなかった。この怪物に満足して、小声でいった。
「きれいな人だわ――こんどは、わたしがこっちへ来るところを描いてよ」
トムは砂時計みたいな胴体に、満月の顔をくっつけて、ムギわらみたいな手足をはやし、ひろげた指にでっかい扇を持たせた。女の子はいった。
「とても、すてき――わたしも絵が描けたら」
「わけはないよ」トムはささやいた。「教えてあげるよ」
「あら、ほんと? いつ?」
「お昼。昼ごはんにかえるのかい?」
「教えてくれるんなら、ここにいていいわ」
「よし、きめた。きみの名は?」
「ベッキー・サッチャーよ。あんたは? ああ、知ってるわ。トマス・ソーヤーね」
「そういう呼び方は、おれをなぐるときの名だ。いい子のときはトムだよ。トムと呼んでくれよ」
「いいわ」
すると、トムは石盤になにかかきはじめて、その文字を女の子にかくすようにした。でも女の子はこんどはもじもじしなかった。見せて、とねだった。トムはいった。
「いや、なんでもないんだ」
「そんなことないわ」
「ほんとに、なんでもないんだ。見たがるようなもんじゃないよ」
「いえ、見たいわ、とても。見せてよ」
「ひとにいうだろ」
「いわないわ。きっと、きっと、けっしていわないわ」
「かならず、いわないね? 死ぬまで?」
「ええ、だれにもいうもんですか。さ、見せて」
「ああ、見たがるようなもんじゃないって!」
「そんなこというんなら、どうしても見るわ」
女の子はかわいい手をトムの手にかけた。ちょっと小ぜりあいがあって、トムは本気でさからっているように見せかけながら、少しずつ手をずらした。とうとう、あらわれ出た文字は、「きみが大好き」
「まあ、いけないひと!」女の子はトムの手をぴしゃりとたたいたが、それでも赤くなって、うれしそうだった。
ちょうどこのとき、トムは耳をゆっくりと、当然のむくいとばかりにつかまれて、ぐいっとつまみ上げられるのを感じた。その万力《まんりき》にはさまれたまま、教室を横切らされ、もとの自分の席へつれもどされた。教室じゅうのくすくす笑いをあびっぱなしだった。それから先生はしばらく、こわい顔をして目の前につっ立っていたが、とうとうひとこともいわずに、自分の玉座へもどっていかれた。だが、トムは耳がひりひり痛んだものの、心は喜びの声を上げていた。
教室が静かにおさまると、トムはまじめに勉強にとりかかってみたが、心の動揺が大きすぎた。読み方の時間にはへまをやらかしたかと思うと、つづいて地理の時間には湖の名を山の名に、山を川に、川を大陸にとりちがえるしまつで、とうとう世界は太古の混とんたる状態にたちもどってしまった。それから書取りの時間には、赤ん坊のかくような、ミミズがのたくってるみたいな単語をならべて、はねのけられたあげくは、どんじりにとどまり、いく月もこれ見よがしにつけていた、スズの賞メダルをとり上げられてしまった。
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第七章 求愛のしくじり
トムは本に心を入れようとすればするほど、気が散るばかりだった。そこでとうとう、ため息をついたり、あくびをしたりで、あきらめてしまった。昼休みはもう来ないもののように思われた。空気はまったく死んでいて、そよとの風もなかった。眠い日のなかでも、いちばん眠たい日だった。二十五人の生徒がたてる、ものういつぶやきが、ミツバチの羽音にこもっている魔力のように、魂をとろけさせた。遠く、燃えさかる日光をあびて、カーディフの丘はきらめくような熱気ごしに、そのやわらかい、みどりの山腹をもたげていて、遠くからは紫がかって見えた。鳥が二、三羽、ものうげに、空高く舞っていた。ほかに見える生きものといえば、牛がいくつかいるだけで、それもみんな眠っていた。トムの心は、自由になるか、さもなければ、このたいくつな時をすごせる、なにかおもしろいことをしたくてたまらなかった。手がポケットにさまよいこむと、トムの顔はぱっと感謝に輝いた。祈りたいぐらいだった。もっとも、トムはお祈りなどは知らなかった。それから雷管の箱が出てきた。ダニを出してやって、長い、平らな机においた。この虫も、どうやら、その瞬間、祈りたいぐらいの感謝の気持ちで元気づいたであろうが、その喜びは早すぎた。ありがたく、さて出かけようと歩きだしたとたん、トムはピンで横へそらせ、別の方向へ向かわせたからである。
トムの腹心の友がとなりにいて、これがトムと同じに退屈《たいくつ》しきっていたものだから、たちまちこのなぐさみにうれしくなって、大いに興味をひかれた。この親友というのがジョー・ハーパーだった。ふたりは週のうちはずっと無二《むに》の親友で、土曜ごとには戦争ごっこの敵同士だった。ジョーは折りえりからピンをとり出して、捕虜《ほりょ》を運動させる手伝いをはじめた。この遊びは刻こくとおもしろくなっていった。まもなくトムは、おたがいにじゃまし合うばかりで、これではダニのおもしろさがじゅうぶん楽しめない、といった。そこでトムはジョーの石盤を机において、そのまん中へ、たて一文字に線を引いた。
「さあ」トムはいった。「ダニがそっちのがわにいるあいだは、おまえが歩かせろよ。おれは手出しをしない。おん出して、こっちへ来させたら、手を出すなよ。おれが線からのがさないうちは、な」
「いいとも、さきにやれ。歩かせろ」
ダニはほどなくトムの手をのがれて、境界線をよぎった。ジョーがしばらくいじめまわすと、ダニは逃げだして越境、またトムのほうへもどってきた。基地の入れかわりがなんどか起こった。いっぽうが夢中になってダニをいじめているあいだ、もうひとりのほうも同じようにおもしろがって見まもった。二つの頭がくっついて石盤の上にかがみ、二つの心はほかのことなど、なにもかも忘れ果てていた。ついに幸運はジョーにかたむいて、勝負あったかに見えた。ダニはこちら、あちら、また、あらぬほうへと向きをかえ、少年たちと同じように興奮し、いきりたったが、ときどき、ぴょいとうまくいきそうになって、トムの指が動きだそうとすると、ジョーのピンがうまくダニの向きをそらして、手放さなかった。とうとうトムはがまんがしきれなくなった。誘惑が強すぎた。そこで手をのばして、ピンで手をかしてやった。ジョーはたちまち怒りだして、いった。
「トム、手を出すな」
「ちょっと元気づけてやろうと思っただけだ、ジョー」
「いけねえ。ずるいぜ。手を出すなよ」
「なんでえ。ちょっとやるだけだ」
「ほっとけっていうのに」
「いやだ」
「よさねえか。ダニはこっちがわだ」
「よう、ジョー・ハーパー、だれのダニだと思ってんだい」
「だれのダニだって知ったこっちゃねえ。――線のこっちがわにいるんだ。さわらせるもんか」
「へえ、さわってやるとも。こいつはおれのダニだ。おれの好きにやってやるとも!」
ぴしゃりとむちがトムの肩に落ち、ジョーの肩もしたたかお見舞いをくらった。二分間というもの、ふたりの上着からほこりが舞い上がりつづけで、教室じゅうが大喜びだった。ふたりはあんまり夢中になっていたので、先生がぬき足さし足、近よって、そばに立ちよるまで、しばらく教室じゅうがしんと静まりかえっているのに気がつかなかったのだ。先生はかなりのあいだ、ふたりの遊びっぷりを見やっていてから、それに少々変化を与えてやるという仕儀《しぎ》になったのである。
授業が昼休みになると、トムはベッキー・サッチャーのところへとんでいって、その耳にささやいた。
「帽子をかぶって、家に帰るふりをしなよ。角まで行ったら、ほかの連中をまいて、小道を通ってひっかえしておいで。おれは別の道を行って、同じようにやつらをまいてくる」
そこでひとりはひとかたまりの生徒たちと、いまひとりは、べつの連中と出かけた。しばらくすると、ふたりは小道の奥先で落ち合い、学校へもどってくると、ほかにはだれもいなかった。それからふたりはいっしょに腰をおろして、石盤を前におくと、トムはベッキーに鉛筆を持たせて、手をそえながら鉛筆をはこばせると、またおどろくべき家ができ上がった。絵の興味がうすらぎだすと、ふたりはおしゃべりをはじめた。トムはうれしくって、ぽうっとしていた。トムはいった。
「ネズミは好きかい?」
「いや! きらいよ!」
「うん、おれもだ――生きてるやつはな。でも死んでるやつはどうだい、ひもをつけて頭のまわりをふりまわすやつだ」
「どっちだって、ネズミなんか好きじゃないわ。好きなのはチューインガム」
「そうともよう! いま持ってりゃいいんだが」
「好きなの? わたし、持ってるわ。ちょっと、かましてあげる。でも、すぐに返してよ」
これはなにより、というわけで、ふたりはかわがわるガムをかみ、このうえいうことなしという気持ちで、ベンチで足をぶらぶらさせていた。
「サーカスへ行ってみたかい?」
「ええ。パパがまたいつか、つれていってくれるの、いい子でいたらね」
「おれがサーカスへ行ったのは三度か四度――もっとだ。教会なんか、サーカスとはくらべものにならないや。サーカスではいつでもおもしろいものをやってら。大きくなったら、サーカスの道化《どうけ》になるんだ」
「まあ、そうなの! すてきだわ。水玉の衣装を着て、とってもかわいいわ」
「うん、そうとも。それにうんとお金がもうかる――一日一ドルになるって、ベン・ラジャーズがいってた。なあ、ベッキー、婚約したこと、あるかい」
「なんのこと?」
「ちえっ、結婚の約束だよ」
「ないわ」
「したいかい?」
「まあね。わからない。どんなものかしら?」
「どんなって? どうってもんじゃないよ。ただ男の子に、ほかのだれともつきあいません、きっと、けっして、っていうだけで、それからキスして、それだけだ。だれだってやれるよ」
「キスを? なぜキスするの?」
「まあ、そりゃ、よう――みんな、いつでもそうするんだ」
「だれでも?」
「うん、そう、好き合ってりゃあな。おれが石盤にかいたことを、おぼえているかい?」
「ああ――ええ」
「なんだった?」
「いえないわ」
「いってやろうか」
「え――ええ――でも、そのうちにね」
「いやだ、いまだ」
「いや、いまは、いや――あしたね」
「いやだ、いまだ。ねえ、ベッキー、そっといってあげる。ほんとに、そうっと」
ベッキーがためらっていると、返事がないのは承知しているものと受けとって、ベッキーの腰のまわりに腕をまわし、耳に口をよせて、やさしくやさしくそのことばをささやいた。それからトムはつけくわえた。
「こんどは、おれにいってくれる番――同じように」
ベッキーはちょっとのあいだ、こばんでいたものの、それからいった。
「向こうを向いて、こっちを見ないで。そしたらいうわ。でも、ひとにいわないでね、いいこと、トム。いったりしないわね?」
「いいやしないよ、きっと。さあ、ベッキー」
トムは向こうを向いた。ベッキーはおずおずと身をかがめて、息がトムの巻き毛をそよがせるほどに近づけると、そっといった。
「あなたが――だい好き!」
いうなり、ベッキーはとびはなれると、トムに追っかけられて、机や椅子《いす》のまわりをぐるぐるかけまわり、とうとうすみに逃げこんでしまった。白い小さなエプロンで顔をかくしていた。トムはベッキーの首をだきしめるようにして頼みこんだ。
「さあ、ベッキー、すっかりすんだ――あとはキスだけ。こわくないよ――どうってことはない。ね、ベッキー」
トムはエプロンと手をひっぱった。
やがてベッキーはあきらめたように、両手をおろした。はずかしさに上気して燃えている顔が上に向けられて、トムのいいなりになった。トムは赤いくちびるにキスをして、いった。
「さあ、すっかりすんだ、ベッキー。これからは、ほかのやつなんかを好きになってはいけないよ。おれのほかに、だれとも結婚してはいけない。ぜったいにだめだ。いいかい?」
「ええ、だれも好きにならないわ。トムだけ。だれとも結婚なんかしないわ。――あなただって、ほかの人と結婚してはだめ」
「あたりまえだとも。そこが肝心なんだ。で、学校へ来るときも、帰るときも、いつもおれといっしょに歩くんだぜ。見ているやつがいなければな。――それから、パーティーでは、えらぶ相手はおれときみにきめる。それが婚約したもののやりかたなんだから」
「すてき。初耳だわ」
「ああ、とってもいかせるぜ! ほら、おれとエミー・ロレンスが――」
ベッキーが目をまるくしたので、トムは自分の大しくじりに気がついて、口をつぐんだ。こいつはいけない。
「あら、トム! じゃ、あなたが婚約したのは、わたしが初めてじゃなかったのね!」
ベッキーは泣きだした。トムはいった。
「おい、泣かないで、ベッキー。エミーなんか、もう、なんとも思ってないんだ」
「いいえ、好きなんだわ――自分でわかってるくせに」
トムは腕をベッキーの首にかけようとしたが、ベッキーはトムをつきはなすと、壁のほうを向いて、泣きつづけた。トムはもういちどやってみた。なだめすかしても、また、はねつけられた。すると、しゃくにさわってきて、トムは大またで、外へ出ていった。じつは、うろうろと、しばらくは気がかりで落ち着かないまま、ちらりちらりとドアのほうを見やった。ベッキーが後悔して、自分をさがしに来てくれるのを待っていたのである。しかし、ベッキーは出てこなかった。そうなると、トムはなさけない気がして、自分がまちがっているんではないかと、気がとがめた。いまさら、あらためて出直しするのは、大いにつらいことではあったが、トムは勇気をふるい起こして、はいっていった。ベッキーはまだ遠いすみっこに立ったまま、泣きじゃくりながら、壁に向いていた。トムは胸が痛んだ。ベッキーに近よって、ちょっと横に立ったが、どうきり出していいか、わからなかった。それから、もじもじといった。
「ベッキー、おれは――きみのほかには、だれも好きじゃないんだ」
答えはなくて――すすり泣きばかり。
「ベッキー」――嘆願するように。「ベッキー、なんとかいってくれ」
すすり泣きがはげしくなる。
トムはいちばんだいじな宝物、炉のまきをかわかす台のてっぺんからとってきた真鍮《しんちゅう》の把手《とって》をとり出して、ベッキーの目につくように、前へまわして、いった。
「ねえ、ベッキー、これ、とってくれよ」
ベッキーはそれを床にたたき落とした。そこでトムはさっさと教室を出て、丘をいくつか越えて遠くへ行ってしまい、その日はもう学校へもどらなかった。そのうちベッキーはなんだか心配になってきた。ドアのところへ走っていったが、トムの姿は見えなかった。運動場へもとんでいった。そこにも見当たらない。そこで、大きな声で呼んでみた。
「トム! 帰ってきて、トム!」
ベッキーはじっと耳をすましてみたが、答えはなかった。静けさと、さびしさにかこまれているだけだった。そこでベッキーは腰をおろして、また泣きだし、わが身を責めた。もうこのころには生徒たちがまた集まりはじめたので、ベッキーは悲しみをかくし、傷ついた心を静め、長い、わびしい、やるせない午後という苦難の十字架を背負わねばならなかった。悲しみをわかち合えるような友だちも居合わせず、ひとりぼっちだった。
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第八章 あこがれの海賊
トムは見つからないように、あちらこちらと小道を歩き、もどってくる生徒たちの通学路をそれてしまうと、それからはむっつりと歩きだした。小川を二つか三つわたった。川をわたれば追っ手がまける、という迷信がこどもたちのあいだにひろまっていたからである。半時間ほどのちには、カーディフ丘の頂上にあるダグラス邸《てい》のうしろに姿を消していくところで、校舎はうしろの谷間はるかに見えかくれしていた。トムは深い森にはいりこみ、道のないところを中心へと分け進んで、枝をひろげたカシの木の下の、コケむしたところに腰をおろした。そよ風さえなく、重くるしい真昼の暑さに、小鳥さえ歌おうともしなかった。自然はうっとりと眠り、夢を破る物音ひとつしなかった。ときおり遠くでキツツキが木をついばむ音がするばかり。それがかえって、あたりの静けさとさびしさを、いっそう深めるようだった。トムの心は暗く沈みきっていたが、その気持ちはあたりのけはいにぴったりだった。ひざにひじをついて長くすわったまま、両手にあごをのせて、もの思いにふけっていた。どう考えても、人生は苦しみにすぎないように思われ、さいきん死んだばかりのジミー・ハッジズがむしろうらやましいくらいだった。永遠に横になって眠り、夢をみているのは、どんなに心安らかなことかと思った。風がこずえにささやき、墓の上の草や花をなでてゆき、悩みも悲しみも、もう永久にないのだ。日曜学校の成績に赤字さえなければ、喜んで死んでいける。この世のすべてのものと縁が切れる。ところで、あの女の子といえば。おれが何をしたというのか。なにもしやしない。この世でいちばんいいと思ってしたことだのに、犬みたいにあつかわれた――犬そこのけに。そのうち、あの子は後悔するだろう――でも、そのときでは、おそすぎるというものだ。ああ、ほんのちょっとのあいだでも、死ぬことができたらなあ!
とはいうものの、むら気なこども心は、そういつまでも、ひとつことにこだわっていられるものではない。トムはまもなく、それとはなしに、またこの世のことを思いかえしはじめた。いまここで背を向けて、なぞのように消えてしまえば、どうだろう。はるかかなたに遠く、海を越えて見知らぬ土地へ――そして二度ともどってこなかったら、どうだろう。そしたら、あの子はどんな気がするかしらん! サーカスの道化《どうけ》になるといった思案が、いままた頭に浮かんだが、こんどは胸がむかつくだけだった。うきうきしたこと、ざれごと、水玉の衣装など、ばかにするなといいたいところだった。おぼろで崇高《すうこう》な、空想の世界に心が高まっているときに、道化の姿が浮かび出るとはなにごとか。そうだ、軍人になるんだ。長年たってから帰ってこよう、戦塵《せんじん》にまみれ、武勲《ぶくん》輝かしく。――いや、もっといいことがある。インディアンの仲間にはいって野牛を狩り、西部の山また山を、道なき大平原を戦いすすみ、ずっとのちには大酋長《だいしゅうちょう》になって帰ってくるのだ。鳥の羽毛《うもう》をいっぱいつけ、絵の具をぬりたて、日曜学校へおどりこむ。それもけだるい夏の朝、血もこごるばかりのトキの声をあげて。学校仲間の目玉をひんむいてやるのだ。うらやましくってたまるまい。だが、まて。これよりもっと、イカせることがあるぞ。海賊になってやろう。ずばり、だ。いまや、未来の姿が目の前にはっきりと浮かんで、想像を絶したすばらしさに輝いていた。わが名は世界にとどろき、人びとはふるえあがる! はなばなしく、波おどる海を切って進む。長い、低い、黒色の快速船、その名も「あらし魔」号に乗って。前方マストには恐ろしい海賊旗がはためく! そして名声が絶頂に達したとき、とつぜん昔なつかしいこの村に姿をあらわし、堂々と教会にはいっていく。褐色《かっしょく》に日やけし、風雨にはだを痛め、黒ビロードの胴衣《どうぎ》に半ズボン、大長靴、深紅《しんく》の肩帯、ベルトには大型ピストルを並べたて、わき腰には血あかでさびた短刀、広ぶちのソフトに鳥の羽毛がゆれ、ひるがえる黒旗、それにはドクロと、交叉《こうさ》した二本の骨の海賊模様がある。ぞくぞくするほど、うれしさがこみ上げてくるなかで、ささやきが聞こえるのだ、「海賊トム・ソーヤーだ!――カリブ海の復讐鬼《ふくしゅうき》だ!」
そうだ、これにきめた。行く手はきまった。家からとび出して、海賊になろう。あしたの朝からはじめるのだ。となれば、いまから用意にかからねばならぬ。まず、物資をまとめることだ。トムはかたわらのくさった丸太のところへ行って、大型のバーローナイフで、その一つのはしを掘りはじめた。すぐに木箱をさぐり当てたが、からっぽのような音がした。手を差しいれて、おもむろに呪文《じゅもん》を唱えた。
「ここに来てないものは、来い! ここにあるものは、そのまま、ここにいよ!」
それから土をかきのけると、松の屋根板があらわれた。それを持ち上げると、かっこうのいい、小さな宝倉がおさまっていて、底も四方のがわも屋根板でできていた。中にはいっていたのは、ビー玉が一つ。トムはがっくり仰天《ぎょうてん》! こまったとばかりに頭をかいて、いった。
「へえ、こいつはがっくりだ!」
それからトムは気むずかしい顔でビー玉を放り出し、はてなとばかりに考えこんで立っていた。じつのところ、信じていた迷信がおじゃんになったわけだった。トムもその仲間も、つねづね、あれほどまちがいなしと信じきっていたものなのに。ビー玉を一つ埋めておき、これこれしかじかの霊験《れいけん》あらたかな呪文《じゅもん》を唱えて、二週間そのままにしておき、さっきの文句どおりの呪文を唱えて、そこを開けば、これまでになくしたビー玉すべてが、どんなに遠くへちらばっていても、おのずからそこに集まっていなければならないはずだった。ところが、いまや、このまじないは、もののみごとに失敗ときていた。トムの信念は根底からぐらついてしまった。これまで、なんどとなく、うまくいった話は聞いていたが、失敗したとは、聞いたことがなかった。前に数回、自分でやってみたことがあったが、あとになって、どうしてもかくし場所を見つけだすことができなかったのを、このとき忘れてしまっていたのである。しばらくこのことを思いまどっていたが、とうとう、なにかの魔女がじゃまをして、まじないをきかなくしたのだときめた。そこのところを、なっとくがいくまで調べてみようと思ったので、あたりをさがしまわっていると、小さな砂地が目についた。うらに、小さなじょうご型のくぼみがあった。トムは腹ばいになって、そのくぼみに口を寄せて、唱えた。
「アリ地獄《じごく》、アリ地獄、おれの聞きたいことをいってくれ! アリ地獄、アリ地獄、おれの聞きたいことをいってくれ!」
砂が動きだして、やがて小さな黒い虫がちょっと顔を出したが、すぐまた、ぎょっとばかりに、もぐりこんでしまった。
「いおうとしないぞ! やっぱり魔女のしわざだったんだ。これでわかった」
トムは魔女どもを相手に争ったところでむだなことはよくわかっていたので、がっかりしながら、あきらめた。しかし、さっき投げ捨てたばかりのビー玉は、まあ持っているほうがよかろうと思いついたので、もとへもどって、根気よくさがしてみた。だが、見つからなかった。そこで宝庫へひきかえすと、ビー玉を投げやったときに立っていたのと、同じところに気をつけて立ってみた。それからもうひとつビー玉をポケットからとり出して、同じようにぽいと投げて、いった。
「弟よ、兄貴を見つけてこい!」
トムはビー玉が止まったところを見きわめて、そこまで行って、目をくばった。だが、とどきかたが足りなかったのか、それとも行きすぎたのにちがいない。そこで、もう二回やってみた。二度めがうまくいった。二つのビー玉が、一尺とはなれないところに、そろってころがっていた。
ちょうどこのとき、おもちゃのブリキ・ラッパの音が、森のみどりの小道づたいに、かすかに聞こえてきた。トムは上着とズボンをぱっとぬぎすて、サスペンダーをベルトがわりにすると、くさった丸太のうしろの茂みをかきわけて、ぶさいくな弓と矢に、木刀とブリキ・ラッパをとり出した。すぐさまこれらをひっつかんで、足もあらわに、シャツをひらひらさせながら、すっとんでいった。やがて、大きなニレの木の下に立ち止まると、応答のラッパをひと吹きして、それから抜き足、さし足、あちらこちらと、用心しながらながめはじめた。トムは気をくばりながら、いもしない仲間が、さもいるようにいった。
「待て、ものども! ラッパを吹くまで、かくれていろ」
そこへジョー・ハーパーがあらわれた。トム同様に身がるないでたちで、念入りに武装していた。トムは呼ばわった。
「止まれ! ここシャーウッドの森(英国ノッティンガムシャーのロビン・フッドの根城)へ、許しもなく、はいってくるのは何者か」
「ギズボンのガイ(ロビン・フッドの敵)に、だれの許可もいらぬ。いったい何者か、その――その――」
「口はばったい、いいかたは」と、トムがあとのせりふを教えてやった。――ふたりは「本にあったとおりに」覚えているところをしゃべっていたのである。
「いったい何者か、その口はばったい、いいかたは」
「われこそは、ロビン・フッド。卑怯《ひきょう》者め、目にもの見せてくれよう」
「さては、おまえこそ、悪名高き無法者。さあ、この森のなわばり、とれるものなら、とってみよ。いざ、まいるぞ!」
ふたりは木刀を手にし、ほかのこまごましたものは地面に投げすて、フェンシングの身がまえよろしくにじりより、壮烈に注意ぶかくわたり合った。「上でふた太刀、下でふた太刀」
まもなくトムがいった。
「やい、腕におぼえがあるならば、いせいよく、かかってこい!」
そこでふたりは、「いせいよくやって」、立ちまわりにはあはあ、汗だくだく。やがてトムが叫んだ。
「倒れろ! 倒れろ! なぜ倒れないんだ?」
「いやだよ! なぜ、そっちこそ倒れないんだ? おまえが負けているんだぞ」
「ちえっ、そんなことはどうでもいい。おれは倒れるわけにいかん。そんなことは本にかいてないや。本ではな、『それから逆手にはらったひと打ちにて、みごと、ギズボンのガイを切り殺した』おまえは向こう向きになって、おれに背中を切らせなきゃ」
本にそうかいてあるとあってはやむをえない。そこでジョーはうしろ向きになり、一撃をくらって、倒れた。
「さあ」ジョーは起き上がった。「こんどはおまえがやられる番だ。あいこにいこう」
「いや、そうはいかん。本にかいてない」
「ずるいぞ――いやらしいな」
「なら、よ、ジョー、タック坊主《ぼうず》か粉屋のむすこのマッチになりなよ。六尺棒でおれをなぐれる。それとも、おれがノッティンガムの代官になって、おまえがちょっとロビン・フッドといく。そしておれを殺すとしよう」
これで話がついた。そこできまりの冒険が行なわれた。それからトムはふたたびロビン・フッドにかえり、裏切り者の尼《あま》の手にあやつられて、傷の手当てもされないままに、流れ出る血のとどめようもなく、やがて力もつき果てた。そして最後に、ジョーはなげき悲しむ無法者たちになりかわって、悲しげにトムをひきずっていき、いまは力なきその両手に弓をにぎらせた。すると、トムはいった。
「この矢の落ちるところ、みどりの木影に、あわれなロビン・フッドを葬《ほうむ》ってくれ」
それからトムは矢を射て、あおむけに倒れて、死んでしまうという段どりであったところが、イラクサの上に倒れこんだものだから、死体とは思えないほど、いせいよくとび起きた。
少年たちは服を着て、武器をかくし、いまではもう無法者などいなくなったことを悲しみ、近代文明がいったい何をしてその埋め合わせをしたというのかといぶかりながら、森から出ていった。おれたちは一生合衆国の大統領なんかになるよりも、一年でもいいから無法者になりたいものだとふたりはいった。
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第九章 墓地の殺人
その夜の九時半に、トムとシッドは、いつものようにベッドへやられた。お祈りをしてから、シッドはすぐに眠ってしまった。トムは目をあけたまま、待っていた。いらいらと、もどかしかった。もうまもなく夜が明けるにちがいないと思っていたのに、柱時計が十時を打つ音がした! こいつはやりきれない。気がたつままに、寝返りをうったり、もさもさやりたかったものの、シッドに目をさまされてはいけないので、じっと横になったまま、暗がりの中をにらんでいた。なにもかもが、ぶきみに静まりかえっていた。やがて、この静けさの中で、かすかな、聞きとれるか聞きとれないぐらいの物音がして、それがだんだん大きくなりはじめた。時計のチクタクという音が耳につきはじめた。古い梁《はり》があやしげな音をたてて裂《さ》けはじめた。あきらかに亡霊どもが動きまわっていたのだ。規則正しい、押しつぶしたようないびきが、ポリーおばさんの部屋からもれてきた。どうころんでも、どこにいるのか、さっぱりつきとめられないコオロギの、ものうい鳴き声までがはじまった。ついで、枕元の壁で、死時計といわれる茶立て虫の、カタカタというきみ悪い音がして、トムはゾッとした。――残り少ない、だれかの命の時をきざんでいるのだ。それから犬の遠ぼえが夜気をふるわせ、それにこだまして、さらに遠く、かすかなほえ声が聞こえた。トムはもだえた。とうとう、時というものが止まって、永遠がはじまったのだと思うことにした。われ知らず、うとうとしはじめた。時計が十一時を打ったが、トムには聞こえなかった。そのうち、夢うつつに、ひどく陰気《いんき》なねこのいがみ合う鳴き声が聞こえた。となりで窓をあける音が、眠りをさまたげた。「しっ! こいつめ!」というどなり声と、あきビンがおばさんのまき小屋のうしろに当たってくだける音に、トムはすっかり目がさめた。それから一分もすると、着替えをして、窓から抜け出し、建物の「そで」の屋根を、四つんばいににじっていた。一、二度、注意ぶかく「ニャオ」とやりながら先へ進んで、それからまき小屋の屋根へとびおり、そこから地面へおりた。ハックルベリー・フィンがそこに待ちうけていて、死んだねこをかかえていた。ふたりはその場をはなれて、闇の中へ姿を消した。半時間すぎたころには、ふたりは墓地の草ぶかい中を分け進んでいた。
それは古風な、西部によく見かける墓場だった。丘の上にあって、村から二・五キロほど離れていた。まわりにはぐらぐらの板塀をめぐらしてあったが、あちこち内がわに倒れこんでいるところもあれば、あとは外がわへ倒れかかっていて、まっ直ぐ立っているところはどこにもなかった。雑草が墓地いちめんにはびこり、古い墓はどれもこれも地にめりこんでいて、墓石などはなく、先のまるい、虫食い板が墓の上によろよろ立っていて、支えになるものをさがしてよりかかろうにも、さっぱり見つからない、といったふうだった。「だれそれの墓」と、かつてはそれらにかかれてあったはずが、いまではそのほとんどが、たとえ明りがあったにしても、もう読みとることもできなくなっていた。
そよ風がうめくように木のあいだを吹きぬけ、トムは、死者の霊が眠りを破られたことで、苦情をいっている声かと恐れた。ふたりはほんのひそひそ声で、ひとこと、ふたこと話しただけだった。時といい、場所といい、あたりをつつむ厳粛《げんしゅく》さと静けさとが、ふたりの気持ちを圧していたからである。ふたりがさがしていた、新しい土まんじゅうが、それとわかると、三本の大きなニレの木のかげに、かくれるように身をしのばせた。ニレの木は墓から二、三フィートと離れていないところに、かたまってはえていた。
それから、ふたりは黙って待っていた。ずいぶん長い時間のように思えた。遠くでホーホーとなくフクロウの声が、静まりかえった静寂《せいじゃく》を破るだけだった。トムは気がめいってくるばかりで、なにかしゃべらずにはいられなくなった。そこで小声でいった。
「ハッキー、死人たちは、おれたちがここにいてもいいんだろうな」
ハックルベリーがささやいた。
「そいつがわかってりゃあな。えらくおごそかじゃねえか」
「そうよ、な」
かなりのあいだ話がやんで、そのあいだに、ふたりはこのことを心の中で考えてみた。それからトムは小声でいった。
「よう、ハッキー――ホス・ウィリアムズはおれたちの話を聞いているかな?」
「そりゃ、聞いてるとも。すくなくとも、魂は聞いてるぜ」
トムはちょっとまをおいて、
「ウィリアムズさんといっておくんだった。わるぎじゃなかったんだ。みんな、ホスって、いってるものな」
「ここの死んだ人たちのことを話すときにゃあ、うんと気をつけるもんだぜ、トム」
これでがっくりきて、話がまたとだえた。
まもなくトムはハックの腕をつかんで、いった。
「しっ!」
「なんだ、トム」
ふたりは胸をどきどきさせて、しがみついた。
「しっ! ほら、まただ! 聞こえなかったか」
「おれは――」
「ほら、聞こえるだろ」
「ひゃあ、トム、来やがった! 来てるんだぜ。どうしよう?」
「知らねえぞ。こっちが見えるかな?」
「そりゃ、トム、やつらは暗闇《くらやみ》だって見えるんだ、ねこみたいにな。おら、来るんじゃなかった」
「ちぇっ、こわがるな。おれたちに、どうってことはしないよ。こっちは悪いことをしてないんだ。このままじっとしてりゃあ、気づかれっこねえよ」
「そうしていよう、トム。だが、どうも、がたがたするよ」
「しっ!」
ふたりはともに首をちぢめて、息をひそめた。押えたような声が、墓場のずっと向こうの端からただよってきた。
「おい! 見ろ!」トムがささやいた。「ありゃ、なんだ?」
「鬼火だ。おい、トム、おっかねえや」
おぼろな人影がいくつか、闇の中を近づいてきた。旧式のブリキのカンテラをふりふりして、それが小さな光の先を、いくつともなく地面にきらめかせた。やがてハックルベリーがびくりとしながら、ささやいた。
「悪魔どもだ、まちがいねえ。三匹だ! ああ、トム、おれたちゃ、おだぶつだ! おまえ、お祈りがやれるか」
「やってみるが、ま、そうこわがるな。おれたちをとって食いやしないよ。これから横になって、お休みします。神様どうか――」
「しっ!」
「どうした、ハック」
「あいつら、人間だぜ! とにかく、ひとりはそうだ。ありゃ、マフ・パッターじいさんの声だぜ」
「いや――ちがやあしないか」
「おれは知ってるんだ。動くんじゃねえ。じいさん、ぼけているから、こっちに気はつくまい。酔っぱらっているな、あいかわらずによ。――くそじじいめ!」
「よし、きた。じっとしていよう。やつら、まごまご、立ち止まったぜ。さがしているところがわからねえんだ。また、こっちへ来るぞ。見つけたか。いや、わからねえ。見つけよった。さがし当てたぞ! こんどはずばりなんだ。おい、ハック、もひとりの声がわかるぜ。インディアン・ジョーだ」
「そうだ――あの人殺しのあいのこだ! 悪魔どものほうが、ちっとましというもんだぜ。なにをやってんのかな」
ふたりのささやきがやんだ。三人の男が墓地にやってきていて、かくれているところから、ほんの一メートルしか離れていないところに立ったからである。
「ここだ」三人めの声がいった。その声の男がカンテラを持ち上げると、若い医師ロビンスンの顔があらわれた。
パッターとインディアン・ジョーは手押し車を押していて、それにロープが一本とシャベルが二ちょうのっけてあった。ふたりはそれらを投げおろすと、墓をあばきにかかった。医者はカンテラを墓の頭のところにおくと、ニレの木の一つへやってきて、背をもたせてすわりこんだ。少年たちが手をのばせば届くほどの近さだった。
「いそいでくれ」医者は低い声でいった。
「いまにも月が出るからな」
男たちはうなるような返事をして、掘りつづけた。しばらくは、聞こえるものとては、シャベルで土や砂利《じゃり》をすくい捨てる、ジャラジャラいう音だけだった。ひどく単調な音だった。とうとう、木に当たるにぶい音がして、シャベルが棺《かん》に当たった。一、二分もしないうちに、男たちは棺を地面にひきずり上げていた。シャベルでふたをこじあけ、死体をとりだすと、あらっぽく地面に投げだした。月が雲間に浮かんで、その青白い顔を照らした。手押し車の用意ができると、死体をそれに乗せ、毛布をかけて、ロープでしっかりとゆわえつけた。パッターは大きなばねナイフをとりだして、ロープのたれはしを切り捨て、それから、いった。
「さて、やっかい者のかたはついたぜ、先生。もう片手だけ、はずみなよ。でなきゃ、死体はここへおいてきぼりだ」
「そうともよ!」インディアン・ジョーがいった。
「おいおい、なにいうんだ?」医者がいった。「前払いだというから、もう払ってある」
「そうとも。それに、ほかにもしてくれたな」インディアン・ジョーは医者に近づきながら、いった。医者は立ち上がった。「五年前だ、いつかの夜、おまえのおやじの台所から、このおれを追い出しゃあがった。なにか食らうものをもらいにいったときよ。おまえはいったぜ、なにがなんでも、来ちゃならねえ、ってな。百年かかったって、このしかえしはしてやると毒づいたら、おまえのおやじはおれを浮浪人《ふろうにん》ってことで、ぶちこみやがった。おれが忘れていると思ったか。インディアンの血は、だてに流れてるんじゃねえ。こうやって、おまえをつかまえたからにゃ、けりをつけてもらおうじゃねえか」
ジョーはこのときには、げんこつを医者の顔につきつけて、おどしていた。医者は、やにわに、その悪漢をなぐりつけ、地面にのしてしまった。パッターはナイフを落として、わめいた。
「この野郎、相棒をなぐりやがったな!」
いうが早いか、医者に組みついて、ふたりは草をふみつけ、地面をひっかきまわして、力のかぎり戦っていた。インディアン・ジョーはぱっとはね起き、目を怒りに燃えたたせて、パッターのナイフをつかみとると、ねこのようにはいよって、身をかがめながら、戦っているふたりのまわりをぐるぐる、機会をねらっていた。とつぜん、医者は相手から身を離すと、ウィリアムズの重たい墓標の板をつかんで、パッターをなぐり倒した。――と同時に、あいのこはこの時とばかり、ナイフの柄《つか》も通れと、若い医者の胸をつきさした。医者はよろめいて、パッターの上に倒れかかり、その血はパッターを染めたが、そのとき、雲がかかって、この恐ろしい光景を闇に消し去り、恐ろしさにふるえ上がったトムとハックは、闇の中をまっしぐらに逃げ去った。
まもなく、また月が顔をのぞかせたとき、インディアン・ジョーは二つのからだのそばに立って、じっと見おろしていた。医者はなにか聞きとれないことをつぶやき、ひとつ、ふたつ、長くあえいでから、静かになった。あいのこのジョーはつぶやいた。
「うらみを返したぜ――ざまあみろ」
それから死体のものをぬすみとった。そうしてから、兇器《きょうき》のナイフをパッターの右手に握らせ、ふたのあいた棺《かん》に腰をおろした。三―四―五分とすぎて、ようやくパッターが身動きして、うなりはじめた。その手がナイフをにぎりしめた。それを持ち上げて目にするなり、身ぶるいして、下に落とした。それから医者の死体を押しのけて立ち上がると、じっと見やってから、うろたえたようにあたりを見まわした。その目がジョーの目と合った。
「おい、これはどういうんだ、ジョー?」
とパッターはいった。
「ひでえことをやらかしたな」ジョーは身動きもしないで、いった。「なんだって、こんなことを」
「おれが! おれがやるもんか!」
「おい、おい! そんな話は通らねえよ」
パッターはふるえて、青白くなった。
「もう、さめてたはずだが。今夜は飲むんじゃなかったな。まだ頭に残ってやがら――ここへ出かける前より悪いや。なにが、どうなったんだか、さっぱり思い出せねえ。いってくれ、ジョー――正直にな、兄弟――おれがやったのか! ジョー、そんなつもりじゃなかった――うそじゃねえ、そんなつもりなんぞ、ジョー。どうなったというんだ、ジョー。ああ、恐ろしい――こいつあ、まだ若くて、先があるっていうのに」
「まあな、おまえたちはとっくみ合っていて、あいつが墓板で一つくらわせたら、おまえはのびちまった。それからおまえが立ち上がった。まるで、ひょろひょろ、ふらふらしてよ、ナイフをひっつかむと、あいつにぐっさり。ちょうどそのとき、あいつもおまえに、もひとつ、がんとやらかした――そこでおまえは転がったまま、いままで死んだみたいにのびてたんだ」
「ああ、何をやってるんだか、おら、わからなかった。おれがやらかしたんなら、いっそ、ここで死んじまいたい。みんなウィスキーのせいだ。それに、かっとしていたかな。これまで刃物なんかふりまわしたことはねえんだ、ジョー。けんかはやった、が、刃物なんぞはつかわねえ。みんなに聞いてみてくれ。ジョー、黙っててくれ! ばらさねえといってくれ、ジョー――お願いだ。おいらはずっと、おまえが好きで、おまえの味方でいたんだ。忘れやしめえ。黙っててくれよ、なあ、ジョー」
このあわれな男は、ずうずうしい人殺しの前にひざをついて、手を合わせて頼みこんだ。
「いいとも。おまえはいつも、おれにはよくやってくれたぜ、マフ・パッター。裏切ったりはしねえよ――よう、男の一言にはうそはねえ」
「ああ、ジョー、ありがてえ。一生恩に着るよ」そういって、パッターは泣きだした。
「さあさ、もういいんだ。めそめそしてる時じゃねえ。おまえは、あっちを行きな。おれはこっちだ。行くんだ。あとを残さないでな」
パッターははじめ早足に、すぐさま足を早めて走っていった。あいのこのジョーはそのうしろ姿を見やっていて、つぶやいた。
「あの野郎、がんとやられてぼうっとなってるうえに、酒に酔っぱらっているのが、見かけどおりとすると、遠くへいくまではナイフのことは気がつくめえ。こんなところへ、ひとりでとりにもどるのは、こわかろうよ――いくじなしめ!」
二、三分のちには、殺された男と、毛布をかぶせられた死体と、ふたのない棺《かん》と、あばかれた墓は、月よりほかに、これをながめているものはなかった。あたりは、また、すっかり静まりかえっていた。
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第十章 不吉な犬声
ふたりの少年は、走りに走って、村のほうへ。恐怖のあまりに口もきけなかった。ときどき肩ごしに、心配そうにふり返った。追っかけられているようで、気がかりみたいだった。行く手の道に立ちあらわれる木の切り株が、どれもこれも敵のような人間に見え、思わず息をのんだ。村はずれの百姓家のそばを走りぬけたときには、目をさました番犬どもがほえたてたので、ふたりの足は羽根がはえたようだった。
「あの古いなめし皮工場まで、せめて、へたばらずに行けるといいが!」トムはあえぎあえぎ、小声でいった。「もう、もたねえよ」
ハックルベリーも、答えもせずに、はあはあいっているだけで、ふたりは頼みの目標に目をすえて、なんとしても行きつこうとがんばった。しだいに近づき、とうとう胸を並べて開いていたドアからとびこむと、助かったとばかり、向こうの暗がりの中へ、身をかくすように、ぐったりと倒れてしまった。そのうち動悸《どうき》も静まってきて、トムがそっといった。
「ハックルベリー、これからどうなるかな」
「ロビンスン先生が死んだとなると、つるし首ということになるな」
「ほんとかい?」
「あたりきだぜ、トム」
トムはちょっと考えてからいった。
「だれがしゃべるんだ? おれたちかい?」
「なにいってるんだ。どうかしたはずみで、インディアン・ジョーがつるし首にならなかったとしてみろ。やつは、いつかはおれたちを殺すにきまってら。おれたちがここに寝ころんでいるぐらい、確かなこった」
「おれもそう思っていたとおりだよ、ハック」
「しゃべるとなると、だれよりマフ・パッターにいわせるがいい、バカもいいところでな。たいてい酔っぱらっていて、やりかねないぜ」
トムはなにもいわずに――考えこんでいた。やがて、小声でいった。
「ハック、マフ・パッターは知っちゃいないんだ。しゃべりようがねえぜ」
「知らないもんか」
「インディアン・ジョーがやらかしたときに、やつはがんとくらったところだったんだ。なんにも見えるわけがない。なにか見えたっていうのか」
「そういやあ、そうだな、トム」
「それに、なあ――がんとやられて、おだぶつかもしれないぞ!」
「いや、そんなことはねえよ、トム。あいつは酒をくらっていたんだ。おれにはわかったな。それに、いつだって酔っぱらっていら。うん、おれのおやじが酔っぱらっているときったら、どんなもので頭をぶんなぐっても、おやじは平気だもんな。自分でもそういってら。マフ・パッターだって、同じことよ。まるきりしらふのやつなら、まあ、いちころだろうがな。わかんねえけど」
もういちど、黙って考えてから、トムはいった。
「ハッキー、きっと黙っておられるか」
「トム、おれたちは黙っていなきゃいけねえ。わかってるだろ。あのインディアンめ、おれたちをおぼれさせるのは、ねこを二匹殺すぐれえのもんだ。おれたちが口を割って、やつがつるし首にならないとなりゃあな。そこでだが、なあ、トム、誓いをかわそうじゃねえか――それをやらなきゃいけねえ――黙っているってことをな」
「いいとも。それにかぎる。手をにぎり合って、誓おうぜ、おれたちは――」
「いや、だめだ、こんどのことは、そんなことじゃ。つまらねえ、よくあることでは、それでまに合うが――そんなのは女の子相手のときだぜ。女ってのはすぐに裏切りやがるし、怒るとあっさりしゃべっちまいやがる。――だが『こんな大ごとにゃ』かきものがいる。それに血判だ」
トムは心からこの案に賛成した。深みがあって、うすきみ悪くて、恐ろしさがあった。時刻といい、事件といい、場所がらといい、誓文《せいもん》するにはうってつけだった。トムは月の光に照らされて転がっていた、きれいな松の板きれをひろい上げ、ポケットから「赤土」をひとかけらとり出すと、月明りを当てて、どうやら次の数行の文句をたどたどしくかき上げた。下へ引く字をかくときは、舌《した》を歯でくいしばって、ゆっくりと力をいれ、上へ引く字のときは力をゆるめた。
ハック・フィンと
トム・ソーヤーは誓う。
このことは黙っている。
まんいち、しゃべるようなことあれば
その場で殺されて、
くさっても、ほんもう。
ハックルベリーは、トムに字がかけて、文句がまたおごそかなのに、すっかり感心してしまった。すぐさま、えりの折りかえしからピンを抜いて、肉につきさそうとしたが、トムがいった。
「まて! やめろ! ピンは真鍮《しんちゅう》だぜ。緑青《ろくしょう》がついているかもしれん」
「緑青って、なんだ?」
「毒だよ。毒なんだよ。ちょっとでも飲みこんだら――てきめんだ」
そこでトムは自分の縫い針の一本から糸をほぐし、ふたりはそれぞれにおや指のふくらみにつったてて、血をひとしずく、しぼり出した。しまいには、なんどとなくしぼり出してから、やっと自分の頭文字をかきつけた。小指の先がペンがわりだった。それからハックルベリーに、ハとフのかき方を教えてやって、かくて誓いが成立した。ふたりはその板を壁のそばに埋めた。ぶきみな儀式や呪文《じゅもん》をあれこれとやっておいたので、これで舌《した》を動かせぬ口かせをかけ、かぎを遠くへ投げすてたというわけである。
人影がひとつ、この荒れ果てた建物の、別の端にある破れめから、このとき、こっそり忍びこんできたが、ふたりはそれに気づかなかった。
「トム」ハックルベリーが小声でいった。「これで、しゃべらずにいられるんだな――いつまでも?」
「あたりまえだとも。どんなことになろうと、変わりはなしだ。黙っていなくてはいかん。ころりと死んじまうからな――わからねえのか」
「いや、そうだろうな」
ふたりはそれからしばらく、小声で話し合っていた。まもなく、すぐ外で、犬が長い、悲しげなほえ声をあげた。――ふたりから三メートルもはなれていない近くだった。ふたりは、はっとばかりに抱き合った。恐怖のあまりだった。のら犬が鳴けば、だれかが死ぬ。
「おれたちの、どっちかな?」ハックルベリーがあえいだ。
「わからん――割れめから、のぞいてみろ。早く!」
「いやだ。おまえがやれ、トム」
「だめだ――おれはだめだ、ハック」
「たのむ、トム。また、ほえたぞ!」
「やあ、ありがてえ!」トムがささやいた。「あのほえ声なら知ってるぞ。ブル・ハービスンだ」
「ああ、よかった――よう、トム、こわくて死ぬところだったぜ。てっきり、のら犬だと思ったもんな」
犬がまたほえた。ふたりは、重ねて気がめいった。
「おやっ! ありゃブル・ハービスンじゃないぞ!」ハックルベリーがささやいた。「のぞいてみろ、トム!」
トムは、こわさにふるえながら、いわれるままに、割れめに目を当ててみた。聞きとれないぐらいの小声でいった。
「ああ、ハック、のら犬だよ!」
「早く、トム、早く! だれにほえてるんだ?」
「ハック、おれたち、ふたりにきまってる――こうやって、くっついてるんだから」
「ああ、トム、おれたちはもうだめだ。おれの地獄行きはきまってら。悪いことばかりやってきたもの」
「しまったな! 学校をサボったり、してはいけないってことばかりしたせいで、こんなことになっちまった。おれだって、シッドみたいにいい子になれたかもしれん、その気でやってりゃあな。――だが、だめだ。やる気はなかったんだ。でも、こんど助かりさえすりゃあ、日曜学校に入りびたりでもいいよ」
そういって、トムはちょっと鼻声になりはじめた。
「おまえが、悪いってかい!」ハックルベリーも鼻声になりはじめた。「ばかいうな、トム・ソーヤー、おまえはいいやつだよ。おれとくらべてみな。ああ、なさけねえ、おまえの半分ぐらいでも、いい子だったらよかった」
トムは急に泣きやんで、ささやいた。
「見ろ、ハッキー、見ろよ! 犬はこっちにしりを向けてるぜ!」
ハッキーは見やって、うれしさにぞくぞくした。
「やあ、むこう向きだ、しめた! さっきから、ああか?」
「うん、ああやってた。おれは、ばかみたいに、気がつかなかったんだ。ああ、こいつはいいぞ、なあ。とすると、だれをねらっているのかな」
ほえ声がやんだ。トムは耳をそばだてた。
「しっ! なんだ、ありゃあ?」トムはささやいた。
「まるで――ブタがブーブーいってるみたいだ。いや――だれかが、いびきをかいてるんだぜ、トム」
「そのとおりだ! どのへんかな、ハック」
「向こうの端っこだな。とにかく、そんな声だ。おやじはよくときどき、あそこで眠ったもんだ、ブタといっしょによ。おやじのいびきにかかっては、物が吹き上がっちまうぐれえ、すごいんだ。それに、もうこの町へは帰ってきっこねえな」
冒険心がふたりの心に盛りかえした。
「ハッキー、おれが先に行くなら、ついてくるか」
「いやなこった。トム、インディアン・ジョーかもしれんぞ!」
トムはひるんだものの、すぐにこわいもの見たさで気をとりなおし、ふたりはやってみようということになった。いびきがやんだら、さっさと逃げ出す約束で、そっとぬき足、さし足に、ひとりが先に立って近づいていった。いびきの男に、あと五歩というところで、トムは棒を踏みつけ、それが折れて、ピシリと鋭い音をたてた。男はうめき声を上げて、ちょっとからだをよじると、その顔が月の光をあびた。マフ・パッターだった。男が動いたときには、ふたりは心臓も止まって、絶体絶命という思いであったが、マフとわかれば恐怖は消えてしまった。ふたりは、こわれた下見板をくぐって、しのび出ると、ちょっと先のところで立ち止まって、別れのことばをかわした。また、あの長い、悲しげな、ほえ声が、夜空にひびいた! ふたりがふり返ってみると、見知らぬ犬が、パッターの寝ころんでいるところから一メートルの近くに立って、パッターに向いて、その鼻を天にさし上げているのが見えた。
「ひえっ、やつがねらわれてるんだ!」
ふたりとも、声をそろえて叫んだ。
「なあ、トム――のら犬がジョニー・ミラーの家へきて、ほえまわったっていうぜ。それも真夜中ごろによ。二週間ほどになるがな。おまけに、その晩には、よたかが舞いこんで、手すりに止まって、鳴いたとよ。それなのに、まだ、だあれも死んじゃいねえ」
「うん、そのことは知ってるよ。だれも死んではいないようだな。グレイシー・ミラーが台所の火をかぶって、ひでえやけどをしたのは、すぐつぎの土曜日じゃなかったか」
「そうよ。でも、まだ死んじゃあいねえ。それどころか、だんだん、よくなってるぜ」
「いいんだ。待っててみろ。あの子はおだぶつだ。マフ・パッターと同じに、あの世行きにきまってら。黒んぼたちがそういってるんだ。あいつらは、こんなことにかけては、お見通しなんだぜ、ハック」
それから、ふたりは別れ別れになって、考えこんだ。トムが自分の寝室の窓からしのびこんだときには、もう夜が明けかかっていた。トムは用心しすぎるぐらいに寝巻きに着がえ、抜け出したのを、だれにも気づかれなかったのはしめたとばかり、ぐっすり眠りこんでしまった。おだやかないびきをかいていたシッドが、目をさましていたとは気がつかなかった。シッドは一時間も前から目がさめていたのである。
トムが目をさましたときには、シッドはとっくに着がえをして、出てしまっていた。
明るさのかげんでは、もうおそいようで、あたりのようすも、おそいけはいだった。トムはびっくりした。なぜ、起こしてはくれなかったのか――いつもなら、起きるまではうるさいのに。そう思うと、不吉な予感でいっぱいになった。五分もかからずに、トムは着がえをして、階下へおりた。気がとがめたし、眠たくもあった。家族たちはまだテーブルについてはいたが、朝食はすませてしまっていた。小言はいわれなかった。でも、みんなが目をそらしていた。黙りこくっていて、いやにものものしいようすが、罪人の心をひやりとさせた。トムは腰をおろして、陽気そうにふるまってみたが、なまやさしいことではなかった。だれひとり、にこりともしてくれず、返事もしてくれなかった。そこで、トムも黙りこんで、気がめいるにまかせるよりなかった。
朝食のあとで、おばさんがトムをわきへつれていった。むちで打たれるんだな、と思って、かえって気が晴れるところだった。が、そうではなかった。おばさんはトムの上にかぶさるようにして泣きながら、おまえはどうして、この年よりに、こんなつらい思いをさせるのか、ときいた。しまいには、もうかってに、どうとでもなるがいい、「しらがのわたしを、悲しんで陰府《よみ》に下らせる(『旧約聖書』創世記第四十二章三十八節)」がいい、とてもわたしの手にはおえないんだから、といった。これは千のむちをくらうより痛かった。トムの心は肉体よりも、もっと痛んだ。トムは泣いて、許しをこい、なんどもなんども心を入れかえると約束して、やっと放免されたが、許されたものの、すっきりせず、すっかり信用をとりもどせたとは感じなかった。
とてもみじめな気持ちで、おばさんの前からひきさがったので、シッドに腹いせをする気にさえならなかった。だからシッドは、裏門から、いそいで退却《たいきゃく》するにはおよばなかったのだ。トムは重い、悲しい気持ちで、ふさぎこんで学校へ行った。ジョー・ハーパーといっしょに、むちのお仕置きをうけたのは、前の日におさぼりをしたからであったが、それどころではない深い悲しみに、心も乱れていたので、ちっぽけなことなど、まったくかまっておれないような、ようすだった。それからトムは席につき、ひじを机について、あごを両手にのせ、行くところまで行きついたという苦悩の目で、じっと壁を見つめていた。かたひじに、なにか堅いものが当たっていた。しばらくたって、トムはゆっくりと、悲しげに、からだをずらして、ためいきまじりに、その品物をとり上げた。それは紙につつんであった。トムはそれをひらいた。長く消えない、深いため息がもれて、トムの胸が破れた。ベッキーへやったはずの、あの|真鍮《しんちゅう》の把手《とって》だった!
これで最後のとどめが刺された。
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第十一章 良心のとがめ
昼近くになって、村じゅうが、とつぜん、血なまぐさいニュースにふるえあがった。まだ夢にも見られなかった電信というものの必要もなく、うわさは人の口から口へ、群れから群れへ、家から家へと飛ぶように伝わって、電信に負けない早さだった。もちろん、校長先生は午後の勉強をお休みにした。そうでもしなかったら、町の人たちはおかしな先生だと思ったことだろう。
血みどろのナイフが殺された男のすぐそばで発見され、だれかが、それはマフ・パッターのものだと認めていた――そういううわさが流れていた。それに、夜おそく通りかかった町の人が、夜中の一時か二時ごろ、小川でからだを洗っているパッターに出くわしたところが、パッターはすぐさま、こそこそ逃げ出した、ということだった。――疑わしいことがらで、とくにからだを洗っていたなどは、パッターのやりつけていたことではなかった。また、町じゅうかかって、この「殺人犯」をさがしまわったものの(民衆というものは、証拠をひろい上げて、評決にかけることでは、ぐずぐずしていない)、見つけることができないでいる、という話だった。馬に乗った連中が四方八方、道という道を追っかけていっていた。保安官は、夜までには捕えてみせる、と「確信して」いた。
町じゅうの人が、ぞろぞろと墓地へ向かっていた。トムは胸の裂ける悲しみもうすらいで、この行列に加わった。どこか他のところへ行きたい気持ちがしきりであったが、わけのわからない、強い好奇心《こうきしん》にそそられたからである。恐ろしい現場に着くと小さいからだで群集の中にもぐりこみ、そのものすごい光景を見た。前夜そこにいたのに、もう何十年もたったような気がした。だれか、腕をつねる者があった。ふり返ってみると、ハックルベリーと目が合った。すぐに、ふたりとも目をそらせたが、たがいに見やったということで、だれかが、なにかを感づきはしなかったかと心配した。しかし、だれもがおしゃべりをしていて、目の前の、身の毛もよだつ光景に気をとられていた。
「かわいそうに!」
「若いのにな!」
「墓あらしにはいい見せしめだ!」
「マフ・パッターは、つかまったら、しばり首になるぜ!」
みんなのいっているところは、こんなことだった。そして牧師さんはいった。
「神さまの、おさばきです。神のみ手がくだされたのです」
ふと、トムは頭のてっぺんから足先まで、ふるえあがった。インディアン・ジョーの、ずうずうしい顔が目にはいったからである。このとき、群集がゆれて、どよめきはじめ、口ぐちに叫んだ。
「あいつだ! あいつだ! やってきたぞ!」
「だれがだ? だれが?」二十人ほどがいった。
「マフ・パッターだ!」
「おい、止まったぞ! ぬかるな、ひっ返すぞ! 逃がすな!」
トムの頭の上の、木の枝にのぼっていた連中が、やつは逃げようとしてるんじゃない――けげんそうに、うろうろしているだけだ、といった。
「よくも、ずうずうしく!」見物のひとりがいった。「自分のやったことを、平気で見にきやがったんだぜ――まさか人が集まってるとは思わなかったんだ」
すると、群集は二つに分かれて道をあけ、保安官がパッターの腕をつかんで、これ見よがしにやってきた。あわれな男の顔はやつれていて、目には、どうされるのかという恐怖が浮かんでいた。殺された男の前に立つと、中風にかかったようにふるえ、両手に顔を埋めて、わっとばかりに泣きだした。
「おれがやったんじゃねえ、みんな」パッターは泣き声をたてた。「ほんとに、おれじゃねえんだ」
「だれが、おまえだといった?」だれかが叫んだ。
このひとことは、手痛くこたえたようだった。パッターは顔を上げて、あたりを見まわした目に、悲しげな絶望の思いがこもっていた。インディアン・ジョーを見つけると、大声でいった。
「おい、インディアン・ジョー、おまえ、約束してくれたなあ、かならず――」
「これは、おまえのナイフか」
保安官はナイフを目の前につきつけた。
みんながつかまえて、地面にそっとすわらせてやらなかったら、パッターはばったり倒れるところであった。それからパッターはいった。
「虫が知らせたんだ、ナイフをとりにもどらないと――」パッターは身ぶるいした。それから、あきらめたように力なく手をふって、いった。「いってくれ、ジョー、みんなに――もう、どうにもなりゃしねえ」
それからハックルベリーとトムは、あんぐり、目をまるくして、あの冷酷無情《れいこくむじょう》なうそつきが、いけしゃあしゃあと述べたてるのを聞いていた。一天にわかにかき曇り、神の稲妻がこの男の頭上に落ちてくるのを、いまかいまかと待っていたが、いつまでたっても雷に打たれそうにないのを、不思議に思った。そしてジョーが話しおえても、いっこう、けがもせず、無事でつっ立っているのをみると、いっそ誓いを破って、このあわれな、裏切られた囚人《しゅうじん》の命を救ってやろうかという、ためらいがちな気持ちも、うすれて、消え果ててしまった。あきらかに、この悪漢はサタンに身も魂も売りわたしていたのであって、そんな強力な悪魔の手先に手出しをしようものなら、こっちの命があぶないからである。
「なぜ、逃げなかった? なんのために、もどってきたんだ?」だれかがいった。
「来ずにゃあ、おれなかった――そうせずにゃ」パッターはうめいた。「逃げたかったよ。だが、ここよりほかに足が向かなかったんだ」そういって、また、すすり泣きをはじめた。
インディアン・ジョーは二、三分のちに、審問《しんもん》のときも、前と同じように冷静に陳述《ちんじゅつ》をくりかえした。誓いまでたてた。そこで、ふたりは、雷がまだおっこちないのをみて、ジョーが悪魔に自分を売りわたしたのは、たしかなことだと信じこんだ。ジョーはいまや、ふたりにとって、これまでに見かけたこともない、兇悪《きょうあく》な相手となり、よき敵ござんなれとばかり、ジョーから目をはなすことができなかった。
おりさえあれば、夜な夜な、ジョーを見張ってやろうと、ふたりは心に決めた。やつの親玉である悪魔を、一目でも見れるかもしれない。
インディアン・ジョーは医者の死体を持ち上げて、車にのせて、運び去るのを手伝った。ふるえあがっている群集のあいだで、傷口から血が少しばかり流れた、というささやきがかわされた。うまいぐあいに、血が流れたとなると、嫌疑《けんぎ》は正しい方向に向けられるだろう、とふたりは思った。だが、がっかりしたことには、村人がひとりならずいったからである。
「血が流れたときに、死体の近くにいたのはマフ・パッターだ」
恐ろしい秘密と、良心のとがめで、このことがあってから一週間というもの、トムはおちおち眠れなかった。ある朝、食事のときにシッドがいった。
「トム、にいさんたら、寝ごとをいって、あばれまわるもんだから、半分も眠れやしない」
トムは青くなって、目をふせた。
「悪いしるしだね」ポリーおばさんは、おもおもしくいった。「なにを気にしているんだい、トム?」
「なんにも。なんにも、さっぱり」と、いったものの、トムの手がふるえて、コーヒーをこぼした。
「ばかげたことを、いうんだよ」シッドがいった。「ゆうべも、いってた、『血だ、血だ、そら血が!』って。なんども、なんどもだよ。『そんなに苦しめないでくれ――白状するよ』ともいった。白状するって、なにを白状するんだい?」
トムは目の前がぐらぐらした。こうなると、どんなことになるか、わからない。ところが、うまいことに、おばさんの顔から心配が消えて、それと知らずに、トムに救いの手をのべてくれた。おばさんは、いった。
「そうだ! あの恐ろしい人殺しのせいだよ。わたしだって、毎晩のように、その夢をみるよ。わたしがやった夢を、みることだってあるものね」
メリーも、同じように、うなされている、といった。シッドは気がすんだようだった。トムはいち早く、へんなようすだと気づかれないようにして、みんなの前から出ていった。それからのちは、一週間ほど、歯が痛いというのを口実に、まいばん、あごをしばって寝た。シッドが夜ごと、寝たふりをして見張っていて、たびたび包帯《ほうたい》をはずしては、かなりのあいだ、ひじをついて聞き耳をたてていてから、包帯をかけ直しておくのを、トムはさっぱり気がつかなかった。トムの心の悩みはしだいに、うすらいでいき、歯痛の芝居もめんどうくさくなって、やめてしまった。シッドがトムのきれぎれの寝ごとから、ほんとになにかをかぎつけたとしても、それをもらしはしなかった。
学校仲間はあきもせずに、つぎつぎと死んだねこをさかなに検死《けんし》ごっこをやめようとはせず、こんなことをして、心の悩みを忘れさせてはくれないんだ、とトムには思われた。シッドは、こうした検死遊びに、トムがいちども検死官にならないのに気づいていた。いつもなら、新しい遊びの種となると、きまってガキ大将をつとめるところなのである。それにまた、トムは証人にもならないのを、シッドは気づいていた。――これはおかしなことだった。こうした検死ごっこを、トムはそれとわかるほどにいやがり、いつもできるだけ、こんな遊びをさけようとする事実を、シッドは見のがさなかった。シッドはけげんに思ったものの、なにも口には出さなかった。けれど、しまいには、やっと検死遊びもはやらなくなって、トムの良心がいたむこともなくなった。
この悲しい時のあいだ、毎日か一日おきに、機会をうかがっては、牢屋《ろうや》の小さな格子《こうし》窓のところへ行き、手に入れられるだけの、ささやかな慰問品を、その「人殺し」にこっそりさし入れてやった。牢屋はちっぽけなレンガの離れ屋で、村はずれの沼地にあって、番人などはついていなかった。じじつ、ここに人がいれられることは、めったにないことだった。こうしたさし入れをすることで、トムの良心はおおいになぐさめられた。
村人たちは、インディアン・ジョーを、死体ぬすみの罪で、タールぬりにして羽毛をくっつけ、横木に馬乗りにさせてひきまわすリンチにかけてやりたいのは、やまやまであったが、こいつの性質が恐ろしく手ごわいので、だれも先に立って、やってやろうという者がなく、これはたち消えになってしまった。ジョーは用心ぶかく、二度の審問《しんもん》では、いずれもけんかのところから陳述《ちんじゅつ》をはじめて、その前にやった墓あばきのことは白状していなかった。そこで、さしずめ、墓あばきの件は裁判へ持ち出さないのが、いちばん賢明だと思われた。
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第十二章 ねこに劇薬
トムの心がその秘密な悩みから、しだいに離れていった理由の一つは、新しい、重大なことが気にかかりだしたからである。ベッキー・サッチャーが学校へ来なくなっていたのだ。トムは二、三日、自尊心と戦って、「あの子のことなど思い切って、風下に追い放とう(シェイクスピア作『オセロ』より)」としてみたが、そうはいかなかった。夜ごと、ベッキーのおとうさんの家のあたりをうろつき、とても、みじめな気持ちになりはじめた。ベッキーは病気だった。死にでもしたら、どうしよう! そう思うと、気が狂いそうになった。もう戦争ごっこや、海賊ごっこなどの騒ぎではなかった。生きている楽しみがなくなって、わびしさだけがいっぱいだった。輪まわしも、バットもほうり出してしまった。そんなものには、もう、なんのおもしろみもなかった。おばさんは心配した。なんとか手をつくして、あれこれの療法をほどこしはじめた。おばさんは特許の売薬とか、新流行の健康増進、回復法に、すぐにとびついていく連中のひとりだった。これらのことを、なにがなんでも、やってみなければ、おさまらなかった。この方面で、なにか新しいものがあらわれたとなると、すぐさま夢中になってやってみた。それも自分がやるのではない。自分はいっこう病気にかからなかったからで、手近の者にやらせてみるのだった。「保健」雑誌や、いんちき骨相見《こっそうみ》とあれば、どんなものにも金を出して、それらが得意げにしている、まじめくさったでたらめが、おばさんには鼻にかよう息のようなものであった。換気《かんき》や、就寝《しゅうしん》のしかた、起床のしかた、飲食のえらび方、運動の適量、精神安静法、服の種類などといった、ぐにもつかぬ「たわごと」のすべてが、おばさんにはまったくの福音《ふくいん》だった。それでいて、今月号の保健雑誌が、例によって例のごとく、先月号ですすめていたことを、どれもこれもひっくりかえしているのには、気がつかなかった。おばさんは単純正直なこと、絵にかいたようだったので、やすやすと、ひっかかった。いんちき雑誌やいんちき薬をあれこれととりそろえ、死の力で武装して、青白い馬にまたがり、たとえていうなら「地獄をうしろに従えて」歩きまわった。けれど、おばさんは、病苦になやむ隣人たちにとって、自分が治療の天使であり霊薬《れいやく》の化身《けしん》であると、信じて疑わなかった。
水療法がもっかの新しい方法で、トムに元気がないのは、おばさんには、もっけのさいわいだった。毎朝、明け方にトムを外へ出し、薪《まき》小屋に立たせて、冷たい水をじゃあじゃあ浴びせた。それから、ヤスリのようなタオルでからだをこすり、トムがすっかり目がさめたところで、ぬれたシーツにくるんで、毛布の下におしこみ、心の中まで、すっかり汗をしぼりとるほど洗い清めた。「魂の黄色いしみが毛穴から出てきた」――と、トムがいったとおりである。
けれど、こうまでしたのに、トムはますます憂鬱《ゆううつ》に、青白く、元気がなくなるばかりだった。おばさんは温浴《おんよく》、坐浴《ざよく》、シャワー、全身水浴と手をのばしたが、トムはあいかわらず、お通夜《つや》みたいにふさぎこんでいた。おばさんは水療法に、少しばかりのオートミール食と発泡膏を加えはじめた。水さしを計るようにトムの吸収力を計っては、毎日いんちき万能薬をつめこんだ。
このころは、トムはこうして責め苦を、なんとも感じないようになっていた。そうなってみると、おばさんのほうが、きもをつぶした。こんな無反応はなんとしてでも、うちこわさなくてはならない。おばさんは、はじめて「痛みどり」という薬のことを聞いたばかりだった。すぐさま、どっさり注文して、自分で口にしてみて、これはいいと喜んだ。それはなんと、火を液体にしたようなものだった。おばさんは水療法もなにもかもやめにして、もっぱら「痛みどり」に打ちこんだ。おばさんはトムにサジいっぱい飲ませて、その結果をまじまじと見守った。おばさんの心配はたちどころに安らぎ、心がもとのように静まった。トムの「無反応」が打ちくだかれたからである。たとえ、おばさんに、おしりの下で火を燃やされたって、トムはこれほど荒あらしい、心底からの関心を示すことはなかったろう。
トムはもう目をさます時間だと思った。今のような暮らし方は、打ちひしがれた状態では、ロマンティックといえるかもしれないが、おだやかでおれない状態が、多すぎるようになってきた。そこで責め苦をのがれるために、あれこれ思案のすえに、「痛みどり」が好きでたまらないふうをすることを思いついた。トムがあんまりたびたびそれがほしいというので、おばさんはめんどうくさくなり、しまいには、自分でかってに飲んで、やっかいをかけてくれるな、ということになった。これがシッドのやることだったら、おばさんはなんの気がかりもなく、喜んでおれたところであるが、相手がトムということで、ひそかにビンのようすに目をつけていた。なるほど、たしかに中味の薬はへっていった。が、トムがそれで、居間のゆかの割れめの傷をなおしていたとは、おばさんも気がまわらなかった。
ある日、トムが割れめに薬をのませていると、おばさんの黄色いねこが、のどをならせながらやってきて、がつがつした目でスプーンをながめ、なめさせてほしいしぐさをした。トムはいった。
「ほんとにほしいんでなきゃ、ねだったりするな、ピーター」
だが、ピーターは、ほしくてたまらん、という顔つきをした。
「考え直してくれよ」
ピーターはひかなかった。
「くれというから、飲ませてやるんだぞ。けちでいってるんじゃない。口に合わないからって、ひとをうらむんじゃないぜ。身から出たさびなんだから」
ピーターは合点した。そこでトムはピーターの口をこじあけて、「痛みどり」を流しこんだ。ピーターは二メートルほど空中へとび上がり、ときの声をあげて、部屋じゅうをぐるぐる。家具にぶつかるやら、植木鉢をひっくり返すやら、そこらじゅうを荒らしまわった。そのあと、うしろ足で立ち上がって、はねまわるしまつ。うれしさのあまりに狂乱したらしく、首をひんまげ、おさえきれない喜びをわめき散らした。それからまた、家じゅうをかけまわり、当たるをさいわい、ひっかきまわして、めちゃめちゃのあばれかただった。ポリーおばさんがはいってきたときには、ピーターは二、三回、ぐるぐる宙《ちゅう》返りを打って、最後の歓声《かんせい》を力強くあげながら、開いた窓からとび出し、残っている植木鉢を道連れにしているところだった。おばさんはびっくり仰天《ぎょうてん》、あっけにとられて、めがねごしに見やっていた。トムは床に倒れこんで、おかしさにむせんでいた。
「トム、あのねこったら、どうしたんだい?」
「知らないよ、おばさん」トムは息を切らして笑いながら答えた。
「ほんとにまあ、こんなのは見たことがない。なんだって、あんなことをしたのかね?」
「ほんとに知らないんだ、ポリーおばさん。ねこって、うれしいときには、いつもあんなことをやるんだよ」
「やるのかね?」そのいい方に、トムをひやりとさせるものがあった。
「やるとも。つまり、そう思うな」
「そう思う?」
「うん」
おばさんは身をかがめていた。トムは心配になって、おそるおそる見つめていた。おばさんの「ねらい」を見抜いたときは、もうおそかった。スプーンの柄《え》がベッドのおおいの下から、やりましたとばかりにのぞいていた。ポリーおばさんはそれを手にすると、かざして見せた。トムはちぢみ上がって、目を伏せた。ポリーおばさんは、いつもの把手《ノブ》――トムの耳――をつまんで、ひき起こし、指ぬきでトムの頭にコツンとくらわせた。
「これ、なんだって、かわいそうに、あんな口もきけないねこを、ひどいめに合わせたんだい?」
「だって、かわいそうなんだもん――おばさんがいないから」
「おばさんがいないって!――ばかな。それとどう関係があるんだい?」
「大あり。おばさんがいれば、あのねこもすっかり焼いてもらえたんだ。人間なみに、はらわたをあぶり焼きにしてもらえたのに」
ポリーおばさんは、とつぜん心の痛みをおぼえた。そういわれてみれば、事情はちがう。ねこをいじめたということになれば、人間の子をいじめていたことにもなる。おばさんは気持ちがやわらいで、かわいそうにと思った。ちょっと目をうるませて、トムの頭に手をおきながら、やさしくいった。
「よかれと思ってしたことなんだよ、トム。よくきいたんだものね」
トムはおばさんの顔を見上げた。そのまじめくさった目に、それとは気づかれないきらめきがのぞいていた。
「いいと思ってしてくれたことはわかっているよ、おばさん。だからピーターにしてやったんだ。よくきいたな。あんなにはしゃぎまわったのは見たことがない――」
「さ、もう向こうへ行って、トム、また腹がたってこないうちに。いちどでも、いい子になれないかどうか、やってごらん。そしたら、もう薬なんか、のまなくていいんだから」
トムは時間前に学校に着いた。こんな不思議なことが、それから毎日つづいたのに、みんな気がついた。そして今も、近ごろはいつものことだが、仲間と遊びもしないで、校門のあたりをぶらぶらしていた。病気と称していたが、そうらしく見えた。あちらこちらと目をやっているように見せかけていたが、ほんとうに見ていたのは――そこだけ見ないふりをしていた、道の向こうだった。まもなくジェフ・サッチャーの姿が見えて、トムの顔は輝いた。ちょっと見やってから、悲しそうに横を向いた。ジェフがやってくると、近づいて声をかけ、それとなく話をベッキーのことに持ちかけてみたが、そのうっかり者は、まるで話に乗ってこなかった。トムは目を皿にして、ひらひらする女の子の服が目にはいるたびに、あれかと思い、そうでないとわかると、たちまちその子がにくらしくなった。とうとう、女の子の服はあらわれなくなって、トムはしょんぼりと元気がなくなった。ひとけのない教室へはいって、腰をおろすと、思い悩んだ。すると、女の子の服がもうひとつ、門をはいってきて、トムの胸は大きくはずんだ。と、見るまに、トムは外へとび出して、インディアンのように「あばれまわって」いた。わめいたり、笑ったり、こどもたちを追っかけたり、がむしゃらに垣をとびこえたり、とんぼ返りやら、さか立ちやら――思いつくかぎりの勇ましい冒険をやりながら、そのあいだじゅう、こっそり目をくばっていて、ベッキー・サッチャーが見てくれているかどうかと、うかがっていた。だがベッキーはいっこうに気にとめていないようだった。見向きもしなかった。自分がいるのを、気づかないはずなど、あるものか。トムはすぐそばへ寄っていき、得意のわざをやってみせた。戦いの|とき《ヽヽ》の声を上げたり、こどもの帽子をひったくって、校舎の屋根へほうり上げてみたり、群がっている少年たちのあいだへ割りこんで、みんなを四方八方へつき倒したり、さてはベッキーの目先で、大の字に倒れてみたり、あぶなくベッキーをひっくりかえすところであったが――ベッキーはそっぽ向いて、つんとおすまし顔で、こういっているのがトムに聞こえた。
「ふん! だれかさんたら、自分がとってもおりこうさんだとしょってるわ――いつも、これ見よがしに!」
トムはまっかになった。身をちぢめて、こそこそと立ち去った。うちひしがれて、しょげきった姿だった。
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第十三章 海賊の船出
いまや、トムの心はきまった。気がめいって、やけくそだった。おれは見すてられ、友だちもない、と思った。だれも愛してくれない。おれをどんなはめに追いやったかを知ったら、みんなかわいそうに思ってくれるだろう。正しいことをして、ちゃんとやっていこうとしたのに、みんながそうさせなかったのだ。おれを追っぱらわなくては気がすまないんなら、そうするがよい。あとで、ざま見ろ、というがいい。――ちっともかまわない。味方もないこのおれに、なんの文句をいう権利があるものか。そうとも。みんなが、おれをこんなにしてしまったんだから、罪の一生を送ってやるんだ。話はきまった。
ここまで考えているうちに、トムは遠く牧場どおりまできてしまって、「始業」の学校の鐘がかすかに耳を打った。トムはすすり泣きながら、あのなつかしい鐘の音も、もう聞くことはないのだと思った。――とてもつらいことだったが、そうさせられたのだ。冷たい世間へ追い出されたからには、あまんじて従わねばならぬ。――だが、トムはみんなを許してやった。すると、すすり泣きがはげしくなった。
ちょうどこのとき、トムは心を許し合った親友ジョー・ハーパーに出会った。――目がすわって、ぶきみな大目的を胸に秘めているのが、はっきりわかった。まさしくここにいるのは「同じ思いに一心同体のふたり」だった。トムはそでで目をぬぐいながら、つれない仕打ちの、なさけようしゃもない家庭からのがれて、広い世界へ乗り出し、二度とは帰ってこないつもりだ、とその決心のほどを涙ながらに語りはじめた。そして、しまいに、おれのことは忘れないでくれ、とジョーにたのんだ。
ところが、ジョーはジョーで、これと同じことをトムに頼もうとしていた矢先で、そのためにトムをさがしにきていた、ということがわかった。
ジョーはクリームを飲んだというので、かあさんにムチで打たれたのであった。飲むどころか、あることさえ知らなかったことで、あきらかにかあさんは、ジョーにうんざりしていて、出ていってほしいのだ。かあさんがそんな気なら、ジョーはそうするほかはなかった。かあさんがしあわせになり、かわいそうなその子を無情な世間へ追いやって、のたれ死にさせても後悔しないようにと、ジョーは望んだ。
ふたりは悲しみにくれて歩きながら、おたがいに助け合い、兄弟になり、離れないで、死ぬまで苦しみを分け合っていこうと、新しいちぎりを結んだ。それからふたりの計画をねりはじめた。ジョーは世捨て人になって、遠くの洞穴《どうけつ》でパンのみみでも食べて命をつなぎ、そのうち、寒さと、欠乏と、悲しみのために死んでいくつもりであった。それがトムの話を聞いてから、罪の一生のほうが、ずっとやりがいがあると認めて、ジョーも海賊になることを承知した。
セント・ピーターズバーグから下手《しもて》へ五キロ、ミシシッピー川が幅一・五キロと少しというところに、長細い、木の茂った島があって、その上端のあたりは砂州《さす》になっていて、ここは集合場所としてはうってつけだった。人は住んでおらず、島はずっと向こう岸よりにのびて、うっそうとした、まるで人影のない森と並んでいた。そこでジャックスン島がえらばれた。この海賊団が、さしずめだれを獲物にねらうかは、まだ考えてはいなかった。それからふたりはハックルベリー・フィンをさがし出し、ハックはすぐさま一味に加わった。どんな生き方をするのも、ハックには同じだったからである。どうなろうと、かまったことではなかった。一味はいったんすぐに別れて村から三キロほどのぼった川岸のさびしい場所で、ころあいの時刻――つまり真夜中に落ち合うてはずにした。そこには丸太の小さいいかだがあって、それを手に入れるつもりだった。めいめいが釣針に釣糸、それに食糧を持ってくることになっていた。食糧はきわめてひそかに、あやしげな方法で、ぬすめるだけぬすんでくるというわけで――無法者にふさわしいやり方でいく。そして昼間のうちに、三人は、いまにも町じゅうに「ある話が流れる」だろうといううわさをひろめて、大得意に喜んでいた。なにが起こるのかわからないままに、うわさを聞いた人びとは、「だまって、待っているように」といいふくめられていた。
真夜中ごろ、トムはボイルド・ハムとこまごましたものを少し持ってやってきて、集合場所が見おろせる小高いがけの上の、こんもりした、やぶの中で足を止めた。星月夜で、たいへん静かだった。大河は海原《うなばら》のように、おだやかに横たわっていた。トムはちょっと耳をすましたが、静けさを破る物音ひとつなかった。それから、低い、はっきりした口笛を吹いた。がけの下から答えがあった。トムはもう二度、口笛を吹いた。この合図には同じような答えがあった。それから用心ぶかい声がした。
「そこにいるのは、だれだ?」
「トム・ソーヤー、カリブ海の復讐鬼《ふくしゅうき》だ。名を名のれ」
「血まみれ手のハック・フィンと、大海の魔王ジョー・ハーパーだ」
これらのあだ名は、トムが愛読書からとって、つけてやったものだ。
「よし。合いことばを」
二つのしゃがれ声が、同じ恐ろしいことばを、たれこめた夜のしじまに、低くつぶやいた。
「血!」
そこでトムはハムをがけから投げ落とし、つづいて自分もすべりおり、おかげで皮膚《ひふ》をすりむくやら、服をずたずたにひき裂いた。がけ下の岸ぞいには、楽な、気持ちのいい道がついていたのだが、そこを行くのは、困難さも危険な妙味もうすくて、海賊のこけんにかかわるというわけだった。
「大海の魔王」はベーコンのわき肉を持ってきていたものの、それをここまで運んでくるのに、まるで疲れきってしまっていた。「血まみれ手」のフィンはフライパンと、なまがわきの葉タバコをいくらかぬすみ出し、それにパイプとして使うように二、三本のトウモロコシの軸《じく》を持ってきていた。けれど、海賊の中でタバコをすったり、しがんだりするのは、フィンのほかにはいなかった。「カリブ海の復讐鬼《ふくしゅうき》」は、まず火を起こさなければだめだ、といった。賢明な考えだった。当時は、マッチなど、ほとんど知られていなかったのである。百メートルほど上流の、大きないかだの上で、火がくすぶっているのが見えた。三人はこっそり近よって、燃えさしのまきを一本、かってにちょうだいした。これも大冒険よろしくかまえて、ときどき「しっ!」といったり、とつぜん、口に指を当てて立ち止まったり、さしているつもりの短剣の|つか《ヽヽ》に手をかけるまねをしたり、「敵」が身動きでもしたら、「ぐさり、|つか《ヽヽ》までやっちまえ」、「死人に口なし」だから、とすごみをきかせて命令をささやいたりした。いかだの連中はみんな川下の村へ出かけて、用品をしこんでいるか、らんちき騒ぎをやっているかだということは、三人ともによく知ってはいたが、だからといって、火ぬすみを海賊らしくないやりかたでやるのは、面目がたたなかったのである。
やがて、三人はいかだを押し出した。トムが指揮をとり、ハックがともの、ジョーがへさきのかいをひきうけた。トムは船のまんなかにつっ立ち、まゆをけわしく、腕ぐみして、低い、きびしい小声で命令した。
「風上に向けろ!」
「はい、よう!」
「そのまま進行!」
「進行!」
「一ポイント進路をかえよ!」
「一ポイント変更《へんこう》!」
三人はじっくり単調に、いかだを流れの中ほどへ進めていただけのことで、これらの命令も「かっこう」をつけるだけのためで、これという意味のないのは、知れきっていた。
「どんな帆《ほ》をつけているか」
「下桁横帆《かこうおうはん》、上檣帆《じょうしょうはん》、先斜檣帆《せんしゃしょうはん》」
「最上檣帆上げろ! ひろげる、六人がかり――前檣中檣の補助帆! はりきって!」
「はい、よう!」
「大二接檣帆をひろげろ! 帆脚索《ほあしづな》と転桁索《てんこうづな》を! さあ、みんな!」
「はい、よう!」
「舵《かじ》、下手《しもて》へ――面舵《おもかじ》、いっぱい! 船が来るぞ、用意せよ! 面舵、面舵! そら、みんな! 気合いをこめて! そのまま進行!」
「進行!」
いかだは川の中ほどから先へ出た。少年たちは船首を右に向けて、かいの手を休めた。川は水かさを増していなかったので、流れは一時間に数キロもなかった。それからの一時間近くは、だれも、めったに口をきかなかった。いかだは遠く離れた町の前を流れていくところだった。明りが二つ、三つきらめいて、町のあり場所を示し、星影のきらめく広漠《こうばく》たる水面の向こうに、平和に眠りながら、いま起こっている驚くべき事件には気づいていなかった。「復讐鬼《ふくしゅうき》」は腕ぐみをして立ちつくしたまま、昔の喜び、最近の苦しみの場所を「最後の見おさめに見やりながら」、「あの子」ベッキーに、荒海に乗り出し、なに恐れることもなく、危険と死に直面して、くちびるに冷やかな笑《え》みを浮かべ、おのが運命におもむいていく、この自分を見てもらいたいと思った。ジャックスン島を、村の目のとどかぬところへ移すぐらいのことは、トムが想像力をちょっとはたらかせば、わけのないことだった。そこでトムは傷つき破れた心と満足感をいだきながら「最後の見おさめ」をした。あとの海賊ふたりも最後の見おさめをしていた。三人ともにあまり長く目をやっていたので、流れのままにあやうく島の方向からそれてしまいそうになった。どうやらその危険に気がついて、やっと難をのがれるのにまに合った。夜中の二時ごろに、いかだは島の上端から二百メートル上手の砂州にのり上げた。彼らは水の中を行ったり来たりして、積み荷を陸にあげた。この小さないかだには古い帆《ほ》がついていたので、これを茂みの奥まったところにひろげて、食糧をおおうテントがわりにした。だが三人は天気がよければ野宿ということで、無法者にふさわしい寝かたというわけだった。
彼らは森のうす暗い奥へ、二、三十歩はいったところで、大きな丸太のかげで火を起こした。それからフライパンでベーコンをいためて夜食にし、持ってきたトウモロコシのパンを半分たいらげてしまった。こうしたしたいざんまいのやり方で、人里はなれた人跡《じんせき》未踏《みとう》の無人の処女林で、饗宴《きょうえん》を開くことはすばらしい楽しみに思われた。文明社会へは帰りたくないものだと、いい合った。たちのぼる火が彼らの顔を照らし出し、彼らの森の殿堂の柱とも思える木々の幹に、ニスのつやに光っているような木の葉や、花づなで飾ったようなつる草に、赤い炎を投げかけた。
ばりばりのベーコンの最後のひときれがなくなり、トウモロコシのパンもあますところなく食いつくすと、少年たちは草の上に寝そべり、大いに満足だった。もっと涼しい場所もさがせばあったのだが、熱い野営《やえい》の火といった、ロマンティックな状況を無にする気にはなれなかった。
「おもしろいじゃねえか」ジョーがいった。
「すばらしいや!」トムはいった。「みんなが見たら、なんていうだろうな」
「いうって? 死んでもここへ来たがるぜ――なあ、ハッキー」
「そうとも」ハックルベリーはいった。
「ともかく、おれにはぴったりだ。これでたくさんだよ。たらふく食ったことがねえもんな――ここまで文句をいいにきたり、いじめにきたりするやつはいねえしよ」
「おれにゃ、うってつけの暮らしよ」トムはいった。「朝早く起きなくていいし、学校へ行ったり、顔を洗ったり、あんなばかくせえことは、なんにもしなくていいんだ。海賊ってのは、なんにもしなくていいんだぜ、ジョー、陸に上がっているときはな。だが世捨て人ってのは、うんとお祈りをしなきゃならんし、楽しみなんかありゃしない。ともかく、いつもあんなふうに、ひとりぼっちでよ」
「うん、そうよ、な」ジョーはいった。「そこまでは考えてもみなかったぜ。海賊のほうがずっとましだ。やってみりゃあ、な」
「なあ」トムはいった。「いまどき、世捨て人なんて、はやらねえよ。昔とはわけがちがわあ。だが、海賊ってのは、いつだって見上げられる。それに、世捨て人はいちばんかたい所をさがして寝なきゃならんし、荒布《あらぬの》や灰を頭にかぶって、雨の中に立ちんぼして――」
「なんだって、荒布や灰を頭にかぶるんだい?」ハックがきいた。
「知らねえな。でも、そうしなきゃいけないんだ。世捨て人はいつもそうするんだ。おまえだって、世捨て人だったら、そうしなきゃな」
「そんなこと、するもんか」ハックはいった。
「で、どうする?」
「わかんねえ。でも、そんなこたあ、やらねえな」
「よう、ハック、やらなきゃならねえんだ。どうやって、すませるんだ?」
「まあ、がまんができねえよ。逃げ出しちまわあ」
「逃げ出す? ふん、だらしねえ世捨て人もあるもんだ。つらよごしだぜ」
「血まみれ手」のハックは返事をしなかった。ほかのいいことにかかっていた。トウモロコシの穂軸をえぐり出してしまって、それへ草の茎をあてがっていて、タバコをつめた。そのつめものに炭火を押しつけて火をつけ、いいにおいの煙を、スパスパやっているところだった。――すっかり豪勢《ごうせい》な、いい気分にひたっていた。あとのふたりの海賊は、この堂々たる悪業をうらやんで、そのうちやってみようと、ひそかに決心した。やがてハックはいった。
「海賊はなにをやらなきゃいけないんだ?」
トムはいった。
「ああ、おもしろくやってりゃいいんだ――船をぶんどって焼いちまう。金を奪って、自分たちの島の、恐ろしい場所へ埋める。幽霊なんかが見張っているところだ。船のやつらは皆殺し――船から板を歩かせて(船での処刑で、死罪に当たる者に目かくしをし、船から突き出した細い板の上を歩かせて海に落とす刑罰)、どんぶりとな」
「それから、女どもを島へかっさらってくるんだ」ジョーがいった。「女どもは殺さねえ」
「そうだ」トムが同意した。「女は殺さない――海賊には仁義《じんぎ》があるからな。それに、女どもはいつもきれいなんだ」
「着ている物だってすばらしいもんだぜ! そうとも! 金、銀、ダイヤずくめとくらあ」ジョーが勢いこんでいった。
「だれが?」ハックがいった。
「そりゃ、海賊がよ」
ハックはわびしげに、自分の服をじろじろと見た。
「このなりじゃあ、海賊らしくねえな」ハックは残念そうに、かなしげな声でいった。「でも、これしかねえもんな」
だが、仕事さえはじまれば、りっぱな服なんぞはすぐにも手にはいる、とほかのふたりがいってきかせた。手はじめにはおんぼろでかまわない、金持ちの海賊なら、それ相応の身なりで乗り出すのがしきたりだろうが、とハックをなっとくさせた。
だんだん、おしゃべりもやまって、ねむけがこの小さな宿なしたちのまぶたにしのびよりはじめた。「血まみれ手」は指からパイプをおっことし、心にやましさもなく、疲れている人びとのような眠りに落ちた。「大海の魔王」と「カリブ海の復讐鬼《ふくしゅうき》」はそれほどたやすくは寝つかれなかった。ふたりは心の中でお祈りをして、横になっていた。ひざまずいて、声高におとなえをさせるような、おっかない人がいなかったからである。ほんとうは、お祈りなどする気はまるでなかったのだが、そこまで極端になるのはこわかった。天から急に、特別あつらえの雷が落ちてきてはたまらない。それからふたりはすぐに、夢うつつにうつらうつらとしそうになったが――このとき、じゃまがはいって、このまま「すませよう」とはしなかった。それは良心だった。家から抜け出したりして、悪いことをしたものだ、という気がして、なんだかこわくなりはじめた。つづいて肉をぬすんだことを考えると、ほんとうに苦しくなってきた。これまでにもなんどか、お菓子やリンゴをちょろまかしたことを、良心に思い出させて、なんとかへりくつでごまかそうとしてみたが、良心はそんなちゃちなごまかしでは、なだめられなかった。しまいには、お菓子をとるのはほんの「ちょろまかし」にすぎないが、ベーコンやハムといった値うちのあるものをとるのは、あきらかに「ぬすみ」にほかならないという、この動かしがたい事実には、なんともごまかしようがない、と思えた。――ぬすむなかれという神の掟《おきて》は、聖書にのっているのだ。そこでふたりは、海賊をやっている限りは、ぬすみの罪をおかすようなことをして、二度と海賊行為を汚すまい、とないない決心をした。すると良心はようやくふたりを責めるのをやめ、このおかしな、ちぐはぐな心の海賊たちは、おだやかな眠りに落ちた。
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第十四章 島のキャンプ
朝になって目をさますと、ここはどこなんだろうと、トムは思いまどった。起き上がって、目をこすり、あたりを見まわした。それで、ようすがわかった。涼しい、うすぐもりの夜明けで、森いったいにひろがっている深い静寂には、休息と平和の心地よい感じがみなぎっていた。木の葉一枚そよがず、大自然の瞑想《めいそう》をさまたげる物音ひとつしなかった。露のしずくの玉が、木の葉や草の葉にたまっていた。白い灰がこんもりとたき火のあとをおおい、青い煙がひとすじ細く、まっすぐに立ちのぼっていた。ジョーとハックはまだ眠っていた。
このとき、森のずっと奥で、鳥が一羽さえずり、別の一羽がこたえるようにないた。やがて、キツツキの木をたたく音が聞こえた。しだいに、涼しい、おぼろにかすむ朝がしらんでくるにつれて、いろいろな物音が聞こえだし、生気《せいき》がただよいはじめた。大自然の不思議がねむけをふりはらって仕事にかかろうとし、もの思いにふける少年にその姿をあらわしてきた。小さな、みどり色の虫が露にぬれた木の葉にはい出て、ときどき、からだを三分の二ほど持ち上げては、「あたりをかぎまわり」、それからまた前へ進んだ――この虫は長さをはかっているのだ、とトムは思った。その虫が向こうから近づいてくると、トムは石のようにじっとすわったままで、しめたと思ったり、がっかりしたり、虫が近づいてくるかと思えば、どこかほかへそれそうなけはいを見せるにつれて、一喜一憂というわけだった。とうとう、虫が上にからだをそらせて、一瞬苦慮したあげくに、思いきってトムの足の上におりて、からだをはいはじめると、トムの心はうれしさでいっぱいになった。――尺とり虫がからだをはえば、新しい服がひとそろい手にはいる、といういい伝えがあるからで――これはまちがいなく、けばけばしい海賊服が手にはいるしるしだった。こんどは、どこからともなく、アリの行列があらわれて、仕事にとりかかった。一匹はけなげにも、自分の五倍もあるクモの死がいをかかえて、すぐそばをよたよたと、木の幹にまっすぐひき上げた。褐色《かっしょく》の点てんがあるテントウ虫が、目もくらむほどに高い草の葉によじのぼった。トムはそばにかがみこんで、いった。
「テントウ虫、テントウ虫、飛んでお帰り、おうちが火事だよ、こどもたちばっかり」
すると、テントウ虫は飛びたって、ようすを見にいっちまった。――トムは驚かなかった。とうの前から、この虫は火事といえばだまされやすいことを知っていたし、なんども、そのばか正直さを、からかいずみだったからである。フンコロガシがつぎにやってきた。その丸い玉を、えっちら、おっちら押していて、トムがさわると、足をぐっとひっこめ、死んだふりをしてみせた。もうこのころには、小鳥たちが元気にさわぎまわっていた。ネコナキツグミ、北米の物まね鳥といわれるのが一羽、トムの頭上の木に止まって、うれしくてたまらないみたいに、近くの鳥たちのまね声でさえずった。それから、けたたましいカケスが舞いおり、青い炎《ほのお》のひらめきとも見えると、トムの手がとどきそうな小枝に止まって、小首をかしげながら、ひどく物めずらしそうに、見なれない少年たちを見やった。灰色のリスとキツネリスの大きなやつが、ちょこちょこ走ってきて、ときどき、おしりをぺたんとすわっては、少年たちをさぐるように見たり、おしゃべりをしかけたりした。ここの野生《やせい》の動物たちは、これまで人間など見かけたことはなかったであろうし、こわいものかどうかも、わからなかったからである。いまや、大自然のすべてがすっかり目をさまして、活動しだしていた。日の光がいくすじもの長い槍《やり》のように、向こう、ここで、おい茂った木の葉をつらぬいて射しこみ、チョウチョウが二つ、三つ、この光景の中に舞いこんできた。
トムはつれの海賊たちを揺り起こした。みんなそろって、ひと声高く叫び声をあげながら、ばたばたとかけだした。一、二分すると、服をぬぎすて、白い砂州の、浅い、澄んだ水の中で、追っかけ合ったり、ころがし合ったりしていた。洋々とひろがる川の流れの遠く向こうに、まだ眠っている小さな村へは、帰りたい気持ちなど、まるで起こらなかった。変わりやすい流れのせいか、水かさがちょっと増したかで、いかだが流れ去ってしまっていたが、これはかえって三人を喜ばせた。いかだがなくなったのは、彼らと文明社会とのかけ橋が、焼け落ちたようなものだったからである。
三人はすばらしくさわやかに、喜びにあふれ、腹ぺこになって、キャンプにもどった。それで、すぐにまた、キャンプの火を燃えたたせた。ハックはすぐ近くに、すんだ、冷たい水の泉を見つけた。少年たちは幅広のカシやサワグルミの葉でコップを作り、このような野生の森の楽しさで、かぐわしさにみちたような水は、コーヒーの代用として、けっこう不足はないと思った。ジョーが朝食のベーコンを切っていると、トムとハックはちょっと待っていてくれといって、川岸の魚が釣れそうな片すみへ出かけて、釣糸をたれた。すると、たちまちのうちに手ごたえがあった。ジョーが待ちかねていらいらしだすまもなく、ふたりはすてきな淡水魚のバスをいくつかと、サン・パーチを二匹、それに小さなナマズを一匹もってかえってきた。――家族の多い一家にもじゅうぶんといえる食糧だった。三人は魚をベーコンといっしょにいためて、驚いた。こんなにおいしい魚にありついたことは、なかったように思えたからである。川魚はとりたてを火にかけるのが、早いほどおいしい、ということを知らなかった。それに、野天で眠ったり運動をしたり、水浴、空腹という大きな要素が、どんなにおいしい味つけのソースになるかということも、あまり考えなかったのである。
朝食のあと、彼らは木陰に横になり、ハックはタバコを吹かした。それからみんなで森の中へ探検《たんけん》に出かけた。朽《く》ちた丸太を踏みこえ、重なり茂ったやぶをくぐり、森のおごそかな王者たちのあいだをぬけて、心楽しく進んでいった。王者である巨木は、みんなその王冠から地面まで、ブドウのつるの王家の表章をたれていた。ときおり、草のじゅうたんを敷き、花の宝石をちりばめた、気持ちのいい、ひそかな場所に出た。
楽しいものにはあれこれと多く出合ったけれど、ぎくりと驚くようなものには行き当たらなかった。この島は長さが五キロほど、幅は四百メートルで、いちばん近い向こう岸とは、幅が二百メートルあるかなしかの、狭い水路でへだてられているにすぎないのがわかった。一時間おきに泳いだので、キャンプへもどってきたのは、午後も半分近くすぎたころだった。おなかがすききっていたので、魚を釣っているよゆうもなかったが、冷たいハムでぜいたくな食事をし、それから木陰にからだをなげ出して、話をした。しかし話はすぐにはずまなくなって、とだえてしまった。森にたちこめている静けさと、おごそかさ、ものさびしい感じが、少年たちの心を打ちはじめた。彼らは物思いに沈んだ。なにか、はっきりしない熱望が彼らの心にしのびよった。これが、まもなく、おぼろな形をとった――ホームシックのかかりはじめだった。「血まみれ手」のフィンさえ、家の入り口前の階段や、からっぽの大だるのことを思い描いていた。だが、三人とも心の弱さがはずかしくて、自分の思いを口にするほどの勇気がなかった。
ところで、さきほどから少年たちは、遠くで妙な音がしているのを、ぼんやりと気づいていた。ちょうど、ときどき、はっきりとはわからないが、時計のこちこちいう音に気がつくようなものであった。それがいま、このえたいのしれない音が、はっきりしてきて、どうにも聞きとらなくてはならなくなった。少年たちはギクリとして、目を見合わせ、それから、それぞれに耳をすませた。長い静寂があった。深くて、いつまでもつづいた。それから、深い、陰気な響きが、遠くから漂ってきた。
「なんだろ?」ジョーが息をひそめて、叫んだ。
「はてな」トムは小声でいった。
「雷でねえ」ハックがこわそうにいった。「雷なら――」
「しっ!」トムがいった。「聞いてみろ――しゃべるな」
三人はしばらく待った。何年もたった気がした。それから、前と同じ鈍い響きが、おごそかな静けさを破った。
「見にいこう」
彼らはさっと立ち上がって、町に面した岸へといそいだ。川岸の茂みを分けて、水面をのぞいてみた。小さな蒸気船のフェリー・ボートが村から一・五キロほど下流にいて、流れのままに漂っていた。広いデッキには人がいっぱいみたいだった。フェリー・ボートの近くにはたくさんの小舟が漕ぎまわっていたり、流れに浮かんでいたが、それらに乗っている連中がなにをしているのかは、わかりかねた。まもなく大きな白い煙がドカンとフェリー・ボートのわき腹から吹き出し、それがひろがって、のろのろと雲になって立ちのぼると、あの同じ鈍くふるえる音響が、また少年たちの耳に響いた。
「わかった!」トムは叫んだ。「だれか、おぼれたんだ!」
「そうだぜ!」ハックはいった。「去年の夏も、あれをやった。ビル・ターナーがおぼれたときによ。川の上で大砲を打つと、土左衛門《どざえもん》が浮かび上がるんだ。そう、それから、パン切れに水銀をつめこんで浮かしてやると、土左衛門がどこにいようと、ちゃんと流れよって、止まるんだ」
「うん、そんなことを聞いたな」ジョーがいった。「どうしてパンにそんなことができるのかな」
「いや、パンがやれるもんか」トムはいった。「パンを流す前の、おまじないの文句のせいだぜ」
「でも、パンにはなんにもいいやしねえよ」ハックはいった。「おら、見ていたが、いいやしねえ」
「うーん、そいつはへんだ」トムはいった。「だが、胸の中でいってるのかもしれねえ。きっと、そうしてるんだ。みんな、知ってらあな」
ほかのふたりは、トムのいうことに理があることに同意した。なんにもわからないパンのかたまりが、おまじないに教えられもしないで、そんな大事な使いに出されて、うまくりこうな働きをするとは、思いもかけないことだったからである。
「ちくしょう。あそこへ行ってみてえや」ジョーがいった。
「おれもよ」ハックはいった。「土左衛門がだれだか、知りたいもんだな」
三人は耳をすまして、目をやりつづけた。やがて、ある考えがトムの頭にひらめいた。トムは叫んだ。
「みんな、おぼれているやつが、わかった――おれたちなんだ!」
彼らはたちまち、英雄になった気がした。すばらしい勝利になったものだ。あの連中は、おれたちがいなくなって、心配しているんだ。悲嘆にくれているのだ。自分たちのために、連中は胸を痛め、涙をそそいでいる。いなくなった、この三人の、かわいそうなこどもたちに不親切であったことが思い出されて、心を責められているのだ。いまさらとりかえしのつかない後悔と悲嘆にくれているのだ。なによりすてきなことに、いまは亡《な》きこどもたちのことが町じゅうの話題になり、このすばらしい評判に関するかぎりは、少年たちがそろってうらやましく思っていることだ。こいつは、すばらしい。やはり海賊になっただけのことはあったのだ。
たそがれが迫ってくると、フェリー・ボートはいつもの仕事にもどって、小舟は見えなくなった。海賊たちはキャンプに帰った。彼らは自分たちの新しい偉大さと、まき起こしているはなばなしい騒ぎに、うぬぼれながらの歓喜に酔っていた。彼らは魚をとり、夕食に料理をして、それを食べた。それから、村の人たちが、自分たちのことをどう考え、なにをいっているかと、あれこれ思いはかりはじめた。みんなが自分たちのために心を苦しめているようすは、想像するだけで楽しかった――彼らの立場からでの話である。しかし、夜の影が彼らをつつみこむと、だんだん話がとぎれてきて、火を見いったままにすわりこみ、それぞれあきらかに、思いがほかのことにさまよっていた。もう興奮が消えうせてしまい、トムとジョーは家の人たちのことを思いかえさずにはいられなかった。このすばらしい、ふざけ遊びを、自分たちほどにはおもしろがっていない人たちである。心もとなくなってきた。心が乱れて、うれしくなくなった。われ知らずに、ため息が一つ、二つもれた。そのうち、ジョーは、おずおずと思いきって、遠まわしに「さぐり」をいれてみた。文明社会へ帰ることを、ほかの連中はどう思うだろうか――すぐ、いまというのではないが――
トムはあざ笑って、ジョーをしょんぼりさせた! ハックはまだ態度をはっきりさせていなかったので、トムの肩を持った。よろめきのジョーはすぐに「いいわけ」をして、臆病《おくびょう》風のホームシックのしみが、服にまつわりつくのを、できるだけつけないようにして、この苦境からぬけ出たことを喜んだ。むほんは、さしあたり、うまくしずめられた。
夜がふけると、ハックはこっくりをはじめ、やがて、いびきをかきだした。ジョーがそれにつづいた。トムはしばらく、ひじをついたまま横になって、身動きもせず、じっとふたりを見つめていた。とうとう、ひざをついて、そっと起き上がり、草とキャンプ・ファイヤーのちらちらゆれる火影《ほかげ》のあいだをさがしにかかった。スズカケのうすい、白い皮の、大きな半円筒形のものをいくつか拾い上げて、しらべてみた。最後に気に入ったと思われるのを二つ選んだ。それから火のそばにひざまずいて、その一枚一枚に秘蔵の「赤土」で、なにかをやっとの思いでかきつけた。一つを巻き上げて上着のポケットに入れ、もう一つはジョーの帽子に入れ、ジョーからちょっと離れたところへ、その帽子を動かした。それからまた、その帽子に、はかりしれないほどの価値がある、生徒たちにとっての宝物をいくつか入れた――その中には、チョークのかけら、ゴムボール、釣針が三つ、「正真正銘《しょうしんしょうめい》の水晶」として知られている、あのビー玉の一つがあった。それからトムはそっとぬき足、さし足で木のあいだをぬけ、もう聞きつけられないと思うところまで来ると、まっすぐ、砂州のほうへ、まっしぐらに走りだした。
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第十五章 ひそかな帰宅
二、三分のちには、トムは砂州の浅瀬にはいって、イリノイの岸へと渡っていた。深さがおなかあたりにならないうちに、半分ほどは進んでいたが、もうその先は流れのせいで歩くわけにはいかなかったので、あとの百メートルは自信まんまんに泳ぎだした。上流へと四十五度の角度で泳いだけれど、それでも思いのほかに、早く下流へ押し流された。けれど、とうとう岸に着いて、低い場所が見つかるまで流れのままに身をまかせて、そこで水から上がった。ジャケットのポケットに手を当てて、木の皮がなくなっていないのをたしかめると、岸づたいに森の中を進んでいった。ずぶぬれのままだった。十時少し前に、村を前にしている広場に出た。木立と高い土手のかげに、フェリー・ボートが浮かんでいるのが見えた。またたく星空の下で、なにもかもが静かだった。トムは土手をはいおり、目を皿のようにして、水の中にすべりこむと、三かき、四かき泳いで、フェリー・ボートのともにつながれている、はしけの役めの小舟によじのぼった。腰かけ板の下に身をひそめて、待った。息があえいでいた。
やがて、ひび割れした鐘がなって、「船を出せ」と命令する声がした。一、二分すると、本船のあおりの波をくらって、小舟は頭を高くつっ立て、航行がはじまった。トムはうまくいったのがうれしかった。今夜はこれが最後の渡しであるのを知っていたからである。長い思いの十二分か十五分がたって、水かき車が止まった。トムは小舟から抜け出て、闇《やみ》にまぎれて岸へと泳ぎ、五十メートル下流で上陸した。ひとり歩きでもしている人に出会う危険をさけたのである。
トムは人どおりの少ない裏どおりをとんでいき、すぐにおばさんの家の裏の垣根のところへ出た。それを乗りこえて、母屋《おもや》の「そで」の建物に近づくと、居間の窓から中をのぞいてみた。灯火が燃えていたからである。ポリーおばさん、シッド、メリー、ジョー・ハーパーのおかあさんが集まって、話をしていた。みんなベッドのそばにいて、そのベッドは集まっている人と、ドアとのあいだにあった。トムはドアに近より、そっと、かんぬきを上にはずしはじめた。それから静かに押すと、ドアが細めにあいた。用心しいしい押していって、ぎいときしるたびにふるえながら、やっと、ひざをついてもぐりこめそうだと見てとった。そこで頭をつっこんで、用心ぶかく、もぐりこみはじめた。
「どうしてロウソクがこんなにゆれるんだろうね」とポリーおばさんがいった。トムはいそいだ。「おや、あのドアがあいてるんだよ。ほら、あいてるよ。妙なことばかりつづくねえ。しめておいで、シッド」
トムはやっと見つからずにベッドの下にかくれた。腹ばいになって一息いれ、それからおばさんの足にさわれるぐらいまで近く、はっていった。
「でも、申し上げたように」ポリーおばさんはいった。「あれは悪い子じゃありません。まあ、いえば――お茶目なんで。わきまえがなくなって、むちゃないたずらをするだけなんです。罪がないったら、馬の子みたいなもんで。悪気があるわけもなく、とっても気だてのいい子だったのに」――そういって、おばさんは泣きだした。
「うちのジョーも、ほんとにそうでしたよ。――いつも悪さばかり、いたずらといういたずらはしほうだいでしたが、おおようで、親切なことといったら、もう――ああ、あのクリームをなめたといって、むちでたたいたりしたことを考えますと、それも、すっぱくなっていたもんですから、自分で捨てたのを忘れっぱなしでいたなんて。もう、あの子の顔を見られない。もう、もう、もう、かわいそうに、ひどいめに合わせたりして!」ハーパーのおかあさんも、胸がはり裂けるばかりに、すすり泣いた。
「トムがあの世で、ずっとしあわせであってくれればいいが」シッドがいった。「でも、生きているうちに、もっと、なんとかましだったらなあ――」
「シッド!」トムには見えなかったけれど、おばさんの目が光るのが感じられた。「トムの悪口をいうんじゃない。死んでしまったんだから! 神さまにおまかせしてあるんだよ――おまえが心配することはないの! ああ、ハーパーさんのおくさん、あの子があきらめきれませんよ! どうにも、あきらめようが! あんなに、かわいい子でしたのに。そりゃ、心臓がとび出すほど、わたしを困らしましたけどね」
「主が与え、主がとられたのだ。主のみ名はほむべきかな(『旧約聖書』ヨブ記。一章、三節)! それにしても、むごいこと! ああ、とてもつらいことです! ほんの、このあいだの土曜日のことでしたよ。ジョーったら、わたしの鼻先でカンシャク玉を破裂させましてね。ぶちのめしてやったんですが。こんなに早く、こんなことになるなんて――ああ、やり直しのきくものなら、あんなことをしたって、抱きしめて、祝福してやりますのに」
「ええ、ええ、そうですとも、お気持ちはわかりますよ、ハーパーさん。よくわかりますとも。ついきのうのお昼に、うちのトムはねこに痛みどめをたらふく飲ませたものですから、大あばれのねこに家をつぶされるかと思いましたよ。悪いことをしたもんです、トムの頭を指ぬきでガチンとやったりして。かわいそうに、死んでしまったあの子を。でも、あの子はもういじめられることもありませんわ。それに、あの子のいった最後のうらみごとが、気にかかりまして――」
だが、おばさんはこの思い出にたえかねて、くずれ折れるように泣き伏した。トムも鼻をくすんくすんやりだし――だれよりも自分があわれになった。メリーが泣きながら、ときどきトムのために親切なことばをはさんでいるのが聞きとれた。トムはこれまでになく自分をなかなかたいしたものだと見直しはじめた。それでも、おばさんの悲しみにはすっかり心を打たれて、ベッドの下からとび出し、うんと喜ばしてあげたいと思った。――こんな芝居がかった、ぎょうぎょうしいやりかたは、トムの気質にそれこそうってつけではあったが、じっとがまんして、腹ばいになっていた。
トムは話に耳をかたむけていて、みんなのことばのはしばしから、事のようすを推量した。はじめは、三人のこどもたちは、泳いでいるうちにおぼれたのだと思われていた。それから、小さないかだがなくなっているのがわかった。つぎに、あるこどもたちの話では、行方不明の三人が、村の人たちにすぐにも「びっくりするような話のたね」をまいてやる、と約束していた、ということだった。りこうな人たちは、「あれやこれやと考え合わせて」、三人はそのいかだに乗って出かけたので、まもなく川下のつぎの町にあらわれるだろう、ときめこんだ。ところが、お昼近くに、いかだだけが見つかった。村から川下へ十キロあたりのミズーリの岸に打ち上げられていた。――そこで望みが絶えてしまった。三人はおぼれたにちがいない。さもなければ、おなかをすかせて、おそくとも日暮れまでには家へ帰ってきたはずである。死体の捜索《そうさく》がむだぼねにおわったのは、あいにく中流でおぼれたからで、三人とも泳ぎはたっしゃなのだから、そうでなければ、岸へ泳ぎついていたはずだ、と信じられた。これは水曜日の晩のことだった。もしも死体が日曜日まで見つからないままだったら、すべてをあきらめて、その朝に葬式のお説教が行なわれるだろう。トムは身ぶるいした。
ハーパーのおくさんは、泣きながらおやすみをいって、帰りかけた。こどもに先立たれたふたりの婦人は、たがいにわっとばかり、たがいの腕に身を投げかけて、しばらく気が落ち着くまで泣いてから、別れた。ポリーおばさんは、いつもよりはずっとやさしく、シッドとメリーにおやすみをいった。シッドはちょっと鼻をくすくすやり、メリーは心から泣きながら、部屋を出ていった。
ポリーおばさんはひざまずいて、トムのためにお祈りをした。とても心にしみるようで、そのことばや、あのふるえ声には、はかりしれない愛情がこもっていたので、お祈りのおわらないうちから、トムははやばやとまた涙にまみれていた。
おばさんが床にはいってからも、トムは長いあいだ、じっとしていなければならなかった。おばさんがときどき胸のはりさけるような悲しい声をあげたり、落ち着きなく身もだえしたり、寝返りをうったりしつづけていたからである。それでも、そのうちにおばさんは静かになり、眠りながら、かすかにうめき声をたてるだけになった。そこでトムはそっと抜け出て、ベッドのそばにそろそろと立ち上がり、手でロウソクの火をさえぎりながら、おばさんを見つめて立っていた。トムの心は、おばさんをきのどくに思う気持ちでいっぱいだった。スズカケの木の皮をとり出して、ロウソクのそばにおいた。だが、あることが、ふと思い浮かんで、あれこれと考えめぐらせた。うまい考えに思い当たって、トムの顔が明るくなった。いそいで木の皮をポケットにしまった。それから、かがみこんで、おばさんの色あせたくちびるにキスをして、すぐに外へしのび出ると、うしろのドアに、かんぬきをおろした。
トムは道をぬうようにしてフェリーの舟着き場へひきかえし、そこらをうろついている人影のないのを見てとると、大胆に船に乗りこんだ。船には見張りがひとりいるきりで、それもいつも床《とこ》にもぐって、正体なく眠りこんでいるのを知っていたからである。トムは船尾の小舟の綱をといて、それにもぐりこむと、すぐさま用心ぶかく上流へと漕ぎ出していた。村から一・五キロ川上へ漕ぎのぼってから、斜めに横ぎりはじめ、トムはいっしょうけんめいに力をこめた。うまく向こう岸の舟着き場に行きついた。トムにはなれた仕事だったからだ。この小舟をぶんどってやりたい気持ちにかられた。これでも船と思えば思えないこともないし、そうだとなると、とうぜん海賊の獲物であっていいわけである。だが、小舟はどこからどこまでもさがされるであろうし、そんなことになれば、いたずらがばれてしまうかもしれない、と気がついた。それでトムは岸へ上がって、森の中へはいっていった。
トムは腰をおろして、長いあいだ休みながら、眠りこまないようにがんばり、それから用心ぶかく、まっすぐにキャンプへ進んでいった。夜はもうかなりに過ぎていた。島の砂州とちょうど向かって並ぶところへきたときには、すっかり明るい日ざしになってしまっていた。もういちど休んで、太陽がのぼりきり、大きな川がその輝きに染まるようになってから、トムは流れにとびこんだ。しばらくたって、トムがキャンプの入り口に、びしょぬれのまま足を止めると、ジョーのいっているのが聞こえた。
「いや、トムは堅いよ、ハック。帰ってくるとも。ずらかりゃしねえ。海賊の面よごしだってことは知ってるし、そんなことをするほど恥知らずじゃねえよ。なにか、やらかしてるんだ。なにをやってるんだろうな」
「うん、とにかく、ここにあるものは、おれたちのもんだよ、な」
「そうなりゃそうだが、まだわからねえ、ハック。朝飯までに帰らなければ、とかいてあるんだ」
「それ、帰ってるぞ」トムは芝居げよろしく叫んで、ぎょうぎょうしくキャンプにはいってきた。
ベーコンと魚のぜいたくな朝食がすぐさまととのえられ、みんながそれをパクつきはじめると、トムはやってきた冒険を(尾ひれをつけて)くわしく話した。話がおわったときには、三人は鼻高だかの英雄の一団になっていた。それからトムはすみの木かげにひっこんで、昼まで眠り、ほかのふたりの海賊は、釣と探検のしたくにかかった。
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第十六章 秘密の計画
昼食のあと、三人の仲間はそろって、海ガメの卵をとりに、砂州へ出かけた。棒を砂地につっこんでまわり、やわらかいところがあると、ひざをついて、手で掘った。ときには一つの穴から五〇も六〇もの卵がとれることがあった。まんまるい、白い卵で、クルミよりはちょっと小さかった。その夜は、すてきなめだま焼きのごちそうを食べ、金曜日の朝にもういちど食べた。
朝食のあと、三人は大声を上げて、とびはねながら、砂州へ出かけた。たがいに追いかけ、追いまわし、走りながら着ているものをぬぎ捨てて、とうとう裸になってしまった。それから砂州の浅瀬まで、ずっとふざけどおしで、さからっている強い流れが、ときどき彼らの足をすくってよろめかせるので、大いにおもしろさがはずんだ。ときどき、かたまって、かがみこみ、手のひらで相手の顔に水をはねかけ、だんだん近づきながら、顔をそらして、しぶきで息がつまらないようにし、しまいには、つかみ合いやとっくみ合いのあげく、勝ったほうが相手を水につっこんだ。それから三人ともに、白い手足をからませたまま沈んでいき、それからいっせいに、水を吹いたり、吐いたり、笑ったり、息をつくのにはあはあいいながら、上がってきた。
すっかり、くたくたになると、三人は走りのぼって、かわいた、あたたかい砂にからだをのばし、横になったまま砂を全身にかぶせ、やがてまた水の中へかけだして、またまた、さっきと同じようにふざけちらした。そのうち、自分たちの裸の色が、「肉じゅばん」そっくりだと思いついて、砂地に輪を描くと、サーカスをやりはじめた。――道化《どうけ》が三人というサーカスになった。このはなやかな役を、ほかのだれにもやらせたくなかったからである。
つぎにはビー玉を持ち出して、「ナックス」「リング・トー」「キープス」とあれこれおはじき遊びをやったが、これにも気がなくなってしまった。それからジョーとハックはもうひと泳ぎしたが、トムは泳ぎにゆく気にならなかった。ズボンを足でぬぎとばしたときに、くるぶしにまいていたガラガラ蛇のしっぽの輪をも、けとばしていたことに気がついたからである。このありがたいおまじないのお守りなしに、どうしてあんなに長く、こむら返りを起こさずにおれたのか、いぶかしかった。そのお守りが見つかるまで、また泳ぐ気にはならなかった。それが見つかったころには、ほかのふたりは疲れてしまって、休もうとするところだった。三人はだんだん離ればなれになり、「気がめいり」こんで、広い川の向こうに、日を浴びてまどろんでいる村のほうを、なつかしそうに、ながめていた。トムはわれ知らず、足のおや指で、砂に「ベッキー」とかいていた。それをかき消すと、自分の気の弱さに腹がたった。それでも、またその名をかいた。かかずにはいられなかった。もういちど、それを消した。またかきたくなるのを、ほかのふたりを集めて、いっしょになることで、やっとまぎらわせた。
だが、ジョーはすっかりめいりこんでしまっていて、気持ちのひきたてようがないくらいだった。ひどいホームシックで、その心の苦しさにたえきれないほどだった。いまにも涙がこぼれそうだった。ハックもふさぎこんでいた。トムはがっくりしていたが、それを表にあらわすまいとつとめた。トムには一つ秘密にしている、うまい解決があった。まだそれを話すまでにはなっていなかったが、このおだやかでない気のめいりが、すぐにも晴ればれしないとなると、こいつは打ち明けねばならないだろう。トムは大いに楽しそうなふりをして、いった。
「おい、この島には、前にきっと海賊がいたんだぜ。もいちど探検しようや。この島のどこかに宝ものをかくしているよ。金や銀がつまっている、くさった箱に出合ったら、こいつあ、たまらねえぜ、おい」
しかしこれも、ちょっと気のりをさせたものの、すぐに消えてしまった。返事もなかった。トムはほかに一つ、二つ、気をひいてみたが、それもうまくいかなかった。がっかりだった。ジョーはすわりこんで、棒で砂を掘りながら、ひどくゆううつそうだった。とうとう、いった。
「なあ、みんな、もうやめようや。家に帰りてえよ。心細くってよう」
「そりゃ、いけねえ、ジョー、だんだんおもしろくなるよ」トムはいった。「ここで釣をすることを考えてみな」
「釣なんか、おもしろくもねえ。帰りてえよ」
「だがな、ジョー、こんな泳ぎ場所って、ほかにはないぜ」
「泳ぎなんか、つまらねえよ。なんだか、ちっともおもしろくない気がする。水にはいるな、って、だれもとめる人がいないとなるとな。やっぱり、帰りてえ」
「ちえっ、ばかな! ねんねだよ! おかあさんの顔が見たいんだろ」
「うん、見たいとも、おかあさんの顔が――おめえだって会いたくなるぜ、おかあさんがあったらな。おれがねんねなら、おまえだってねんねだよ」そういって、ジョーはちょっと鼻をつまらせた。
「よし、この泣き虫をおかあさんのところへ帰してやろう、どうだい、ハック? かわいそうに――おかあさんの顔が見たいか。そうさせてやるぜ。おまえはここにいるほうがいいんだろうな、ハック。おれたちはここにいようぜ」
ハックはいった。「まあ、な」――気のない声だった。
「もう、おめえなんかと、一生口をきくもんか」ジョーは立ち上がりながら、いった。「いいか、覚えてろ」そして、むっつり歩いていって、服を着はじめた。
「かってにしろ!」トムはいった。「だれが、おまえなんかと。家へ帰って、笑いもんになりな。さすがにりっぱな海賊だよ。ハックとおれは、泣き虫じゃねえ。ここにいようぜ、なあ、ハック。行きたけりゃあ、行かせてやろうよ。あいつなんか、いなくったって、まあ、うまくやっていけらあ」
とはいったものの、トムは不安だった。ジョーがむっつりと服を着ていくのをみると、ぎくりとした。それに、ハックがジョーの身じたくをうらやましそうに見やって、ぶきみに黙りこくっているのをみると、愉快でなかった。やがて、別れもいわずに、ジョーはイリノイの岸へ向かって、浅瀬を歩いて渡りはじめた。トムの心は沈みだした。ちらとハックへ目をやった。ハックはその目を受けきれないで、目を伏せた。それから、いった。
「おれも行きてえや、トム。とにかく、心細くなってきやがった。もっといけなくなるぜ。おれたちも行こうや、トム」
「いやだ! 行きたけりゃ、行けよ。おれはここにいる」
「トム、おれは行くほうがいい」
「じゃあ、行きな。――止めやしないぜ」
ハックは散らばっている服を拾い集めながら、いった。
「トム、おまえも来りゃ、いいに。よく考えてみな。向こうの岸へ着いたら、待っててやるよ」
「ふん、いつまででも待っていな。いうことは、それだけだ」
ハックは悲しげに出かけた。トムは立って、そのうしろを見送りながら、誇りを捨て、いっしょに行きたいという、はげしい願いにかられていた。あのふたりが止まってくれればいいのにと思ったが、彼らはゆっくりと、歩いて浅瀬を渡りつづけた。あたりがひどくさびしく、静かになったのに、トムはふと気がついた。わが誇りと、最後に戦ってから、トムは仲間のあとを追いかけて、大声に叫んだ。
「待て! 待ってくれ! いいたいことがあるんだ!」
ふたりはすぐに足を止めて、ふり返った。彼らのところまで行きつくと、トムは秘密を打ち明けはじめた。ふたりはむっつりして聞いていたが、とうとうトムのねらっている「要点」がわかると、いいぞとばかりトキの声をあげて、「そいつはすごい!」といい、はじめからそれをいってくれれば、なにも帰ろうとは思わなかったのに、ともいった。トムはもっともらしいいいわけをしたが、ほんとうのところは、その秘密だって、ふたりをそう長くはひき止めておけそうにない心配があり、いよいよ最後の奥の手に、とっておくつもりでいたのである。
少年たちはにぎやかにもどってきて、また思うぞんぶん遊びつづけ、そのあいだじゅう、トムのすごい計画のことをしゃべったり、そのすばらしい思いつきをほめたたえた。卵と魚の、おいしい昼食のあと、トムはこれからタバコを吸うことを習いたい、といった。ジョーもそれはいい考えだとばかり、自分もやってみたい、といった。そこでハックはパイプを作って、タバコをつめた。この新米たちは、これまでブドウのつるで作った葉巻しか、吸ったことがなかった。こいつは舌《した》を刺したし、どのみち、おとなの吸うものとは思われていなかった。
さて、彼らはひじをついて腹ばいになり、ちびりちびり吹かしはじめた。おっかな、びっくりだった。タバコはいやな味で、ちょっと胸がわるかった。だが、トムはいった。
「へえ、なんてことはない! こんなもんだとわかっていたら、もっと早くから覚えるんだった」
「そうだよ、な」ジョーがいった。「なんでもねえや」
「なあ、人の吸ってるのを見て、おれもやれたらな、となんども思ったけれど、こうしてやれるとは思わなかったよ」トムはいった。
「おれもそうだったぜ、なあ、ハック。おれがそういってたのを、聞いてたはずだな、ハック。そういってたか、いわなかったか、ハックに聞いてみな」
「うん、なんどもな」ハックがいった。
「ほう、おれもだ」トムはいった。「何百ぺんもよ。いちどはあの屠殺場《とさつば》のそばでだ。覚えていないか、ハック。ボブ・タナーがいた。ジョニー・ミラーも、ジェフ・サッチャーもいた。そのとき、いってやった。覚えていないか、ハック、おれがそういったのを」
「うん、そうだった」ハックがいった。「あれは白いビー玉をなくした、つぎの日だったよ。いや、前の日だったかな」
「そら――いったとおりだ」トムはいった。「ハックが覚えていら」
「このパイプ、一日じゅう、吸ってられるぜ」ジョーはいった。「気持ちなんか、悪くならねえ」
「おれも平気だ」トムはいった。「一日じゅう、吸ってられる。でも、ジェフ・サッチャーなら、だめだな」
「ジェフ・サッチャーだって! ふた口吸っただけで、ひっくりかえらあ。いっぺん、吸わせてみろ。自分でわかるよ!」
「ひっくりかえるとも。それにジョニー・ミラーだが。あいつがやるところを、いっぺん見たいもんだな」
「ああ、見たいもんだな!」ジョーがいった。「ジョニー・ミラーには、こいつははじめっから、できっこないよ。ちょっとかいだだけで、のびちまうぜ」
「そうだとも、ジョー。なあ、おい、あの連中に、おれたちがこうやってるところを見せてやりてえな」
「そうよ、な」
「おい、みんな――このことはなんにもいうな。そのうち、あいつらがいるところで、おれがおまえのそばへよって、『ジョー、パイプを持ってるか。いっぷくやりたいんだ』といってやる。するとおまえが、なんでもない顔で、平気でいうんだ、『ああ、いつものパイプと、もう一本あるが、おれのたばこは上物じゃねえぜ』すると、おれがだ、『ああ、いいとも、強いやつならな』それからおまえがパイプをとり出す。おれたちは落ち着きはらって火をつける。それから、やつらがどんな顔をするか、見てやるんだ!」
「ちくしょう、おもしろいぞ、トム! すぐやりてえな!」
「おれもだ! 海賊に出かけたときに覚えたんだといってやりゃあ、あいつらも、いっしょに来ればよかったと思うだろうぜ」
「思うとも! きっと思うぜ!」
こんなふうに話はつづいた。だが、まもなく少し元気がなくなり、ちぐはぐになった。話の合いまのとぎれが長くなり、やたらにつばをはくことが多くなった。ほおの内がわの細孔という細孔が噴水《ふんすい》となって水がほとばしり、舌《した》の下の穴蔵をどんなに早くかい出しても、そこにあふれてくるのを防ぎきれなかった。どうやってみたところで、のどの奥にこみ上げてくるものがあって、そのたびごとに、とつじょとして吐き気が起こった。ふたりとも、まっさおになって、目もあてられなかった。ジョーのパイプが、しびれた指から落ちた。トムのパイプもつづいて落ちた。両方の噴水がもうれつに吹き出し、両方のポンプが力をかぎりにかい出していた。ジョーが弱よわしくいった。
「ナイフをなくしちまった。さがしにいってくる」
トムもくちびるをふるわせ、とぎれとぎれにいった。
「手伝ってやろう。おまえはあっちへ行け。おれ、泉のあたりをさがしてみる。いや、おまえは来なくていいんだ、ハック――おれたちでまにあう」
それで、ハックはまた腰をおろして、一時間、待った。それから心細くなってきたので、仲間をさがしに出かけた。ふたりは森の中で、遠く離ればなれになり、どちらもまっさおになって、ぐっすり眠っていた。しかし、このふたりは苦しんだにしても、いまはすっかり直っていることが、ハックには、なんとなくわかった。
その夜、夕食のときには、ふたりはあまり話がはずまなかった。しょげきった顔つきだった。ハックが食後のパイプをつめ、ふたりにも用意してやろうとすると、いらない、気分がよくないんだ――昼に食ったものが、あたったらしい、といった。
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第十七章 あらし
真夜中になって、ジョーは目をさますと、ほかのふたりに声をかけた。あたりに、重おもしくのしかかってくるようなけはいがあって、なにか不吉な前兆《ぜんちょう》のように思えた。少年たちは身をよせて、たき火のほとりに身を案じ合った。そよともせず、むんむん、こもっている熱さに、息もつまりそうなのも、気にしていられなかった。じっとすわって、一心に、待っていた。あらしの前の静けさがつづいた。たき火の明りの向こうでは、すべてが漆黒《しっこく》の闇《やみ》につつみこまれていた。やがて、ふるえるようなきらめきが走ると、一瞬、木の葉がおぼろに浮かび出たが、さっと消えてしまった。やがて、また、きらめきが走った。先のより、すこし強かった。それから、またひとつ。つづいて、かすかなうなり声が、森の枝ごしに、ため息をつくように聞こえてきた。少年たちはほおをかすめる息吹きを感じて、夜の精が通りすぎたのだとばかりに、身ぶるいした。ちょっと、まがあった。すると、ぶきみな稲光りが走って、夜を昼の明るさにかえ、足元のあたりの小さい草の葉の一枚一枚を、くっきりと照らし出した。同時に、三人の蒼白《そうはく》になった、おびえている顔をも浮かび上がらせた。はげしい雷のとどろきが、ごろごろ、がらがらと天から落ちると、陰《いん》にこもってかすかに尾をひきながら、遠くへ消えていった。さっと冷たい風が吹きぬけると、木の葉はざわめき、火のまわりを、こまかな灰が雪のように舞い散った。もういちど、ものすごい閃光《せんこう》が森を照らし出したかと思うと、たちまち雷鳴がとどろき、頭上の木の頂をひき裂いたかと思えた。三人は恐ろしさのあまり、あとのまっ暗闇《くらやみ》の中で、ひとかたまりに抱きついた。大つぶの雨が、パタパタと木の葉に落ちてきた。
「早く、みんな、テントへはいれ」トムは叫んだ。
三人はとび出して、暗闇の中で木の根につまずき、つるにからまれたりしながら、てんでんばらばらに走った。すさまじい突風が木立のあいだをうなり抜け、あおられて、なにもかもが、きしみをたてた。目もくらむ稲光りがつぎつぎに、耳をつんざく雷鳴がひっきりなしにつづいた。それが、どしゃ降りの雨をともない、台風に吹きまくられて、いくつもの幕《まく》のようになって地面に降りそそいだ。少年たちはたがいに呼びかわしたが、風のうなりと、とどろく雷鳴に、その声もまったくかき消された。それでも、ようやく、ひとりひとりばらばらになってテントにもぐりこんだ。冷えこみ、おびえきり、びしょぬれだった。みじめなときに仲間があるのは、ありがたいことに思えた。話などはできなかった。ほかの物音はともかく、テントにしている古い帆《ほ》が、パタパタと、とてもはげしい音をたてていたからである。あらしはますますたけりくるって、まもなく帆もしばってあるところから引きちぎれて、突風に乗って飛んでいってしまった。少年たちは手をつないで逃げ、転げたり、傷だらけになりながら、川岸に立っている大きなカシの木の下に逃げこんだ。いまや、戦いは絶頂に達していた。空を焼く稲光りが、たえずきらめく下で、地上のあらゆるものが、くっきりと、影もつけずに、あらわに目だった。風にたわむ木、白い波をたててうねる川、飛び散るしぶき、向こう岸の切りたった断崖《だんがい》のおぼろな輪郭《りんかく》が、漂うちぎれ雲と横なぐりの雨をすかして、ちらちら見えた。ときどき、巨木が戦いに降参して、若木のあいだにくだけ落ちた。雷鳴はおとろえるばかりか、耳をつんざくばかりにとどろきたて、いいようもなく恐ろしかった。あらしはわがもの顔にたけりつのって、一瞬のうちに島を八つ裂きにし、焼きつくし、木のてっぺんまで水につからせ、吹きとばし、あらゆる生きものの耳を聞こえなくしてしまうかとも思えた。宿なしのこわっぱ連中が野宿をするには、荒れすぎた一夜であった。
だが、ついに戦いはおわってしまった。軍勢はしだいに、おどかしと、とどろきを弱めながら退却《たいきゃく》して、平和がふたたびたちもどった。少年たちはキャンプに帰ったものの、かなりびくびくものだった。でも、ありがたいと思わなければならないことがあった。彼らの寝床のおおいになっていた大きなスズカケの木が、雷に打たれてめちゃくちゃになっていて、その落雷のときに、運よく彼らはその木の下に居合わせなかったからである。
キャンプの中のものは、どれもこれもびしょぬれで、キャンプのかがり火も同様だった。その年ごろにはありがちなように、この少年たちも不注意しごくで、雨に対するそなえを、なにもしておかなかったのだ。ずぶぬれで、寒けがしたから、三人はまごついた。弱ったあげくに、あれこれ|ぐち《ヽヽ》や弱音をはいた。しかし、そのうち、火を起こしてあった、うしろの大きな丸太の下で、火がずっと奥の方まで食いこんでいたものだから(丸太はそこのところが上ぞりになっていて、地面から離れていた)、手のひらぐらいの火が、ぬれずに助かっていたのがわかった。そこで三人はけんめいに苦心さんたん、かげになっていた丸太の下がわから木の皮の破片をかき集めて、どうやらやっとのことで、また火を燃えたたせた。それから大きな枯れ枝を積み上げて、ごうごうと燃えさかってくると、三人はあらためて生きかえった気持ちになった。ボイルド・ハムをかわかして、大喜びの食事にありつき、そのあと、火のそばにすわって、朝まで、あの深夜の冒険のはなばなしさを、それからそれと語り明かした。眠ろうにも、あたりを見わたしたところ、どこにも、かわいた場所など見当たらなかったからである。
太陽が少年たちにさしかけはじめたころ、ようやくねむけがおそってきたので、砂州まで出かけていって、横になって眠った。そのうち、かんかん照りつけられると、たいぎそうに朝食のしたくをはじめた。食べおわると、からだがだるく、節ぶしがこわばり、またちょっとホームシックにかかった。トムはそんなきざしを見てとると、いっしょうけんめいに海賊たちを元気づけはじめた。だがふたりともビー玉にも、サーカスにも、泳ぎにも、なんにもいっこうに気のりがしなかった。トムはあのすばらしい秘密を思い出させて、ふたりを活気づけた。それがつづいているあいだに、新しい計画で、ふたりの興味をそそった。この計画は、しばらく海賊でいることをやめにして、インディアンになりかわることであった。この思いつきに、ふたりは気をそそられたので、すぐさまみんなで裸になり、頭のてっぺんから足先まで、黒い土で筋をつけ、シマ馬よろしく――もちろん、三人ともに酋長《しゅうちょう》というわけで――さっそくに、森の中をかけていき、イギリス植民地を襲撃にかかった。
やがて彼らは三つの敵対する部族にわかれ、恐ろしいトキの声を上げて、待ち伏せのところから、それぞれたがいに襲いかかり、おのおの何千人となく殺し合って、勝利のしるしの頭皮をはぎとった。血みどろの一日だった。それだけに、きわめて満足な一日だった。
夕食どきに近く、三人はおなかをすかして、うれしげにキャンプへ集まった。ところが、ここで、困ったことが起こった。――敵対するインディアンが仲よく食事を共にするには、まず仲直りをしなければならなかった。これには、なんとしても、仲直りのしるしのパイプでタバコを吸わねば、どうにも形がつかなかった。それ以外のやりかたなどは、みんな聞いたことがなかった。インディアンのうちのふたり、トムとジョーは、こんなことなら海賊のままでおればよかった、と思ったぐらいだった。それでも、ほかにどうしようもなかった。そこで、できるだけ愉快そうにふるまって、パイプを出させ、式の形にのっとって、かわるがわるにまわしのみした。
すると、どうだ。野蛮《やばん》人になったことが、うれしかった。なにかが身についたからである。もうタバコがいくらか吸えることがわかった。なくしたナイフをさがしにいくなんてことを、しなくてもよかった。胸がむかついて、ひどく気持ちがわるくなることもなかった。こんな有望な見込みを無にすることはない。ふたりは努力してみることにした。やってみよう。夕食のあと、ふたりは用心ぶかく練習して、かなりうまくいったので、心うきうきした一夜をすごした。タバコが吸えるようになって、得意でうれしかった。北米インディアン同盟の六種族の頭の皮をはぎとったよりも、すばらしい思いだった。さし当たって、もうこれ以上彼らには用がないから、タバコを吸ったり、しゃべったり、ほらを吹いたりするがままに、させておくとしよう。
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第十八章 自分の葬式
しかし、その同じ静かな土曜日の午後、小さな町セント・ピーターズバーグには、うきうきしたところなど、まったくなかった。ハーパー家の人たちとポリーおばさんの家族は喪《も》に服《ふく》していて、深い悲しみと、悲嘆の涙にくれていた。ふだんから静かな村にはちがいなかったが、なみなみならない静けさにつつまれていた。村人たちは仕事をするにもぼんやりしたようすで、口かずも少なく、ため息ばかりついているしまつであった。土曜日の休みというのに、こどもたちは手持ちぶさたで、遊びにも気がはいらず、だんだんにやめてしまった。
その午後に、ベッキー・サッチャーは人けのない校庭をしょんぼり歩きまわって、ひどくふさぎこんだ、気の重さだった。気ばらしになるものは、なんにも見当たらなかった。ひとりごとをいった。
「ああ、あの真鍮《しんちゅう》の薪《まき》かけの握りでもあればいいのに! トムの思い出になるものは、なんにもないわ」そしてちょっとすすり泣きが出そうなのを、じっとおさえた。
すぐに、ベッキーは足を止めて、ひとりごとをいった。
「ちょうど、ここだったわ。もういちど、同じことがあるなら、あんなことはいわないわ。――けっして、いいやしないわ。でもトムは死んでしまった。もう、二度とトムには会えないんだわ」
そう思うと、ベッキーはたまらなくなって、うろうろと立ち去った。涙がほおにしたたり落ちていた。それから、かなり大ぜいの男や女の子たち――トムとジョーの遊び仲間――がやってきた。そして垣根ごしにながめながら、神妙な調子でしゃべっていた。最後に会ったときトムがああしたとか、こうしたとか、ジョーがあんな、こんな、ちょっとしたことをいったとか(それが、いまになって、すぐにも思い当たる、恐ろしい予言をはらんでいたのだ!)、そしてひとりひとりが、行方不明になったふたりがそのときに立っていたという場所を指さして、つぎのようなことをつけ加えた。
「おれは、ちょうど、こんなふうに立ってたんだ。おまえがトムだとすると――これぐらいくっついてたな――トムは笑った、こんなふうにな。――するとなんだか、ぞくぞくして、なんてったらいいか――こわくってよう――どうしてだか、そんなことは考えもしなかったが、いまになってみりゃあ、よくわかるな」
それから、死んだ少年たちの生きている姿を最後に見たのはだれか、ということで口論があり、この陰気《いんき》な栄誉《えいよ》をほしがるものがたくさんいて、あれこれと証拠を持ち出したが、多かれ少なかれ、その場の目撃者によって、けちをつけられた。やっとのことで、今は亡《な》き少年たちをたしかに最後に見かけて、最後のことばを交わした者がきまると、その幸運な連中は、なんだか神聖な、えらそうな顔をして、あとの連中はぽかんと見とれて、うらやましく思うばかりだった。かわいそうなひとりの少年は、べつだん、これといって自慢のたねもなかったので、思い出をなんとか得意そうに話した。
「うん、トム・ソーヤーはいちど、おれをなぐったことがあるんだ」
だが、そんなことで名誉を得ようとしても、だめだった。ほとんどの少年たちのいえることで、そんな栄誉はひどく安っぽいものになりさがった。こどもたちの群れは、ぶらぶらと立ち去りながら、なお、かしこまった声で、なき英雄たちの思い出を語りつづけていた。
あくる日の朝、日曜学校の時間がすむと、教会の鐘が、いつもの鳴り方とはちがって、葬式の鐘を鳴らしはじめた。ひじょうに静かな安息日で、その悲しそうな響きは、あたりの自然をつつんでいる、もの思いに沈んだ静けさに、よくとけこんでいるように思えた。村の人たちが集まりはじめ、ちょっと会堂の入り口でもたついて、この悲しいできごとを、小声にささやき合った。しかし、会堂の中では、ささやき声もなかった。ご婦人たちが席につくときの、しめやかな衣《きぬ》ずれの音だけが、そこの静けさを破るだけだった。この小さな教会に、こんなに人があふれたことは、これまで、だれの記憶にもないことであった。最後に、しんと待ちうけているまがあって、そこへポリーおばさんがシッドとメリーをしたがえてはいってきた。それにハーパー家の人たちがつづき、みんな黒ずくめの喪服《もふく》姿だった。全会衆は、年とった牧師さんもともども、うやうやしく起立して、喪中《もちゅう》の遺族たちがいちばん前の席につくまで立っていた。それからまた、言わず語らずのうちに心の通い合う沈黙があって、ときおりしのび泣きの声がもれてきた。それから牧師さんが両手を大きくひろげて、お祈りをした。感動させるような賛美歌が歌われ、つづいて聖句が読まれた。「われはよみがえりなり。いのちなり(『新約聖書』ヨハネ福音書。第十一章、二五〜六)」
式がすすむにつれて、牧師さんは死んだ少年たちのいいところ、心をひきつけるところ、まれに見る前途の有望さなどを、とても美しく描き出したので、居合わせた人はみな、その面影は牧師さんのいうとおりだと思った。前にはいつでも、かわいそうに死んだ少年たちのいいところには、かたくなに目をつむり、欠点や|あら《ヽヽ》ばかりを同じようにがんこにさがしていたことを思い出して、心が痛んだ。牧師さんはさらに、亡《な》くなった少年たちが生きていたときの、感動的なできごとを、あれこれと述べたてた。ふたりのやさしい、寛大な性質をはっきりと示したもので、人びとは今になって、これらの挿話《そうわ》がどんなに気高く、どんなに美しいものであるかを、すぐに知ることができた。そして、ふたりが事を起こしたときには、むちでひっぱたいてやりたいほどの、なんてひどい悪さかと思ったことを思い出して、悲しくなった。会衆は、もの悲しい話がすすむにつれて、ますます心を動かされ、しまいには全員がたまらなくなって、泣いている喪中《もちゅう》の遺族《いぞく》たちともども、いっせいに声を上げてすすり泣きをはじめた。牧師さんも感きわまって、説教壇で泣いていた。
会堂のさじきで、サラサラという音がした。だれもそれに気づかなかった。すぐあとで、教会の戸がギーと鳴った。牧師さんは涙のたれる目をハンケチの上に上げ、あっとばかりに、立ちすくんだ! はじめにひとりが、またひとりの目が牧師さんの視線を追った。それからほとんどいっせいに会衆が立ち上がって、目を見はった。三人の死んだ少年たちが席と席のあいだの通路を進んでくるのだ。トムを先頭に、つぎにはジョーが、そしてハックが、ぼろぼろの服を着て、はずかしそうにこそこそと、しんがりをつとめていた。三人は、ふだんは使わないさじきに身をひそめていて、自分たちの葬式のお説教を聞いていたのだ!
ポリーおばさんと、メリーと、ハーパー家の人たちは、死んだとばかり思っていたところへ帰ってきた、こどもたちに抱きついて、息もつまるばかりにキスをした。そのあいだ、かわいそうなハックはきまり悪そうに、困った顔つきで立っていた。どうしていいか、さっぱりわからず、いっこう喜んで迎えてくれそうにないたくさんの人目から、どこへ身をかくしていいかわからなかった。ハックはもじもじと、こっそり逃げ出そうとした。それをトムがつかまえて、いった。
「ポリーおばさん、こいつは公平じゃないや。だれかハックを喜んで迎えてやらなくては」
「そうとも。わたしはうれしいよ、かわいそうにおかあさんのないこの子に会えて!」
ポリーおばさんはハックに惜しみなく、思いやりのある気持ちをそそいでやったが、おかげでハックは前よりいっそう居づらくなるようなものだった。
とつぜん牧師さんが声を張り上げて叫んだ。
「あめつちこぞりて、かしこみたたえよ(賛美歌)――歌いましょう――心をこめて!」
そこで、みんなが歌った。賛美歌は勝どきのようにとどろきわたり、それが天井のたるきをゆるがしているあいだ、海賊トム・ソーヤーはまわりでうらやましがっているこどもたちを見まわして、これこそ生涯でいちばん誇らしい瞬間だと、心ひそかにつぶやいた。
「してやられた」会衆は列を組んで出ていきながら、賛美歌があんなふうに歌われるのを、もういっぺん聞けるものなら、もういちど一ぱいくわされたってかまわないぐらいだ、といった。
トムはその日、さんざんひっぱたかれたり、キスをしてもらったりした。――ポリーおばさんの気持ちがちょくちょく変わるにつれてのことだが――この一年間に、これほどやられたことはなかった。なぐられるのと、キスと、そのどちらが、神さまへのいっそうの感謝と、自分への愛情をあらわしているのか、トムにはよくわからなかった。
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第十九章 恋のかけひき
それがトムの大秘密であった――海賊仲間と帰ってきて、自分たちの葬式に参列するという計画。彼らは丸太に乗ってミズーリがわの岸まで漕ぎつけ、村から十キロ川下に上陸した。日が出るころまで町はずれの森で眠って、それから裏の小道や路地を抜けて、教会のさじきにしのびこみ、腰かけのがらくたが置いてある中にもぐって、もうひと眠りしたのであった。
月曜日の朝ご飯のときには、ポリーおばさんとメリーはトムにたいへんやさしくしてくれて、ほしいものはなんでもかなえてくれた。いつになく話がはずんだ。その途中でポリーおばさんがいった。
「そりゃあ、よくできたじょうだんだったかもしれないけれどね、トム。あんたたちがおもしろいめをしていた一週間、みんなに心配をかけさせといて、こんなにまでこのおばさんに心配させるなんて、薄情《はくじょう》にもほどがあるよ。丸太で自分の葬式にやってこられるくらいなら、なんとか知らせに来てもよさそうなのに。死んだんではなくて、逃げ出しただけってね」
「そうだわ、そんなことぐらいできたのに、トム」メリーがいった。「気がついてたら、そうしたわね」
「そうかい、トム」ポリーおばさんは、そうあってほしそうに顔を輝かせた。「どうだい、そうしたかい、気がついてたら?」
「まあ――でも、わからないや。そんなことをしたら、すっかりおじゃんだもの」
「トム、それぐらいは気にしていてくれると思っていたよ」ポリーおばさんはいった。悲しげな口調だったので、トムは胸にこたえた。
「そんな気がつくぐらい、こちらのことを考えてくれたら、うれしかったのに。ほんとにそう思ってくれなくてもね」
「でも、おばさん、悪気じゃなかったのよ」メリーがとりなした。「トムはおっちょこちょいなだけよ――いつだって向こう見ずなんだもの、考えなんか、ないのよ」
「だから、いっそうなさけないんだよ。シッドなら、気がついてたろうに。知らせに帰ってくれたろうよ。トム、いつかは思いかえすよ。そのときは手おくれ。もっとおばさんに気をつかってあげればよかったと思うよ、なんでもなくできたのにって」
「でも、おばさん、いまだって気にかけているよ」
「それならそうとやってくれたら、もっとよくわかるのに」
「気がつけばよかったんだ」トムは後悔したようにいった。「でも、とにかく、おばさんのことは夢でみたもの。いいじゃない?」
「それほどわね――ねこだって夢ぐらいはみるよ――見ないよりはいいけど。どんな夢だった?」
「それが、水曜日の晩にみたのは、おばさんがあそこのベッドのそばにすわっていた。シッドはマキ入れのそばにすわっていて、メリーがそのとなりに」
「そうだよ、そんなふうにすわっていたよ。いつもそうしているものね。まあ夢ででも、わたしたちのことを気にかけてくれたのは、うれしいよ」
「夢では、ジョー・ハーパーのおかあさんもいたよ」
「おや、いたとも。もっとほかには?」
「うん、たくさん。でも、ぼやけちまって」
「さあ、思い出してごらん、どうだい?」
「なんだか、風が――風が吹きこんで、あれを、あれを――」
「しっかり思い出して、トム! 風が吹きこんで、なにかが、さあ!」
トムは指をひたいに当てて、ちょっとみんなに気をもませてから、いった。
「思い出した! 思い出した! ロウソクに吹きつけたんだ!」
「まあ! それから、トム――それから!」
「おばさんがいったみたいだった『おや、たしかにあのドアが――』って」
「それから、トム!」
「ちょっと考えさせて――ちょっと。あっ、そうだ――おばさんは、ドアがあいてる、っていったよ」
「たしかに、そういったよ! いったね、メリー! それから!」
「それから――それから、と――そうだ、はっきりしないけど、おばさんはシッドを行かせて、それから――」
「うん、うん。シッドになにをさせたかい、トム? シッドになにをやらせた?」
「シッドに――おばさんは――ドアをしめさせた」
「これは、なんてまあ! いままで、こんなことは聞いたことがないよ! 夢、夢って、もうばかにさせないよ。さっそくセレニー・ハーパーに、このことを知らせてあげよう。どうせ迷信だろうって、この話を、なんとかごまかしにかかるのを見たいもんだ。それからどうだった、トム!」
「ああ、なにもかもはっきりしてきたぞ。それからおばさんは、いったんだ、ぼくは悪い子じゃありません、お茶目で、わきまえがなくって、むちゃないたずらをするだけなんです、――まあ――罪がないったら、馬の子みたいなもんだって」
「そのとおりだとも! これは、まあ、まあ!それから、トム!」
「それから、おばさんは泣きだした」
「泣いたよ、泣いたとも。はじめてじゃないがね。それから――」
「するとハーパーのおばさんも泣きだして、ジョーもそのとおりだって、いったな。クリームをなめたと思って、ジョーをむちでたたいたりしなきゃあよかったのにって、自分で捨てちまったのに――」
「トム、聖霊がのりうつっていたんだよ! 予言をしていたんだ――そうとも、それをしていたんだよ! まあ、驚いた、それから、トム!」
「それから、シッドがいったよ――うん、いった――」
「なにもいわなかったがなあ」シッドはいった。
「いえ、いったわ、シッド」メリーがいった。
「みんな、おだまり。トムにいわせなさい! シッドがなんていった、トム?」
「うん――ぼくがあの世で、ずっとしあわせであってくれればいい、でも生きているうちに、なんとかましだったらなあ――って、いったようだ」
「ほら、聞いたかい? シッドのいったとおりだよ!」
「そしたらおばさんが、シッドをしかりつけて黙らせたよ」
「そうだった! きっと天使がいたんだよ。どっかに天使がいたんだね!」
「それからハーパーおばさんが、ジョーにカンシャク玉でおどかされた話をし、おばさんはねこのピーターと痛みどめの話をした」
「ほんとに、そのとおりだね!」
「それから、ぼくたちのために川ざらいをしたこと、日曜日に葬式をすることなんか、いろいろ話していて、おばさんとハーパーのおばさんと、抱き合って泣いたよ。それからハーパーのおばさんは帰っていった」
「そのとおりだったよ! そうだったとも。見ていたって、そうまことしやかに話せるもんじゃない! それから、どうだった? おつづけ、トム!」
「おばさんはぼくのためにお祈りしてくれたようだったな――おばさんがはっきり見えて、お祈りのことばもひとこと、ひとことが聞きとれたよ。それからおばさんは床にはいって、おれ、つらかったな、それでスズカケの木の皮を出して、書いといたんだ、『みんな死んでいない――海賊になりにいっているだけ』って。それをテーブルのロウソクのそばにおいたよ。おばさんはやさしそうに眠っていたもんだから、おれはそばへよって、かがみこんで、くちびるにキスしたような気がするんだ」
「そうだったの、トム、そうだったのかい! それなら、なにもかも許してあげるよ」
おばさんはからだがくだけるほどトムを抱きしめたが、トムは自分より悪い悪漢はいないような気がした。
「ずいぶん、やさしかったね、なんでもない――夢にしたって」
シッドはやっと聞きとれるぐらいに、ひとりごとをいった。
「おだまり、シッド! 人は夢の中でも、起きているときと同じことをするもんだよ。この大きなマイラム・リンゴはおまえにとっておいたんだよ、見つかったらあげようと思ってね――さあ、学校へお行き。おまえを返していただけたことを、すべての父なる慈悲ぶかき神に感謝します。神を信じ、みことばを守る者には寛容《かんよう》で慈悲をたれてくださる。わたしはそんな値うちはないんだけどね。でも値うちのある人だけが、神の祝福をうけ、苦しいときに神の手をさしのべていただけるんだったら、死の長い夜が来るときに、この世でほほえんだり、神の安息にはいれる人は、まあ少ないだろうよ。お行き――シッドも、メリーも、トムも――さあ、お行き――わたしも、こうしてはいられないよ」
こどもたちは学校へ出かけた。おばさんもハーパーのおくさんのところへ出かけて、その現実主義を、トムの驚くべき夢でやっつけてやることにした。シッドは家を出るときに心に思いついたことがあったけれど、りこうなことに、口には出さなかった。それはこうだった。「ずいぶん見えすいた話だ。――あんなに長い夢だのに、ちっともまちがいがないなんて!」
いまや、トムはすばらしい英雄にまつり上げられていた! とんだり、はねたりするのはひかえて、みんなの目がそそがれていると感じているので、海賊にふさわしく、堂々といばって歩いた。じじつ、みんなの目がそそがれていた。トムは通りすがりに、みんなの目つきや、いっていることを、見たり聞いたりしていないようにしていたが、ほんとはそれが目の幸耳の幸だった。トムより小さい男の子たちは群れをなしてあとにつづいた。トムといっしょにいて、そうさせてもらっているところが自慢で、トムはまるで行列の先頭をきる鼓手《こしゅ》か、町へくりこむ巡回動物園をひきつれる象みたいだった。同じ大きさの男の子たちはトムがいなくなっていたことを、まるきり知らないふりをしていたが、それでも、とてもうらやましくてならなかった。あの日にやけた黒いはだ、輝くばかりの名声をうるためなら、どんな代償《だいしょう》を払ってもいいぐらいの気持ちだった。トムのほうでは、たといサーカスをもらったところで、黒はだと名声を手放しはしなかったろう。
学校では、こどもたちがトムとジョーを祭り上げて、ありありと賞賛のまなざしをそそぐものだから、ふたりの英雄はまもなく鼻もちならないほど「いばりまくる」ようになった。ふたりは話をせがむ連中に、冒険のあれこれを話しはじめた。――が、はじめた、というにすぎない。いつになったらおわるかもしれない話で、彼らのような想像力を駆使《くし》すれば、話のたねはつきるところがないのである。しまいに、ふたりがパイプをとり出して、落ち着きはらってすぱすぱやりだしたときには、栄光の絶頂に達した。
トムはベッキー・サッチャーのことなど、かまいつけないでいてやろう、と決心した。栄光でじゅうぶんだった。栄光のために生きていくのだ。これほど有名になったのだから、たぶんベッキーのほうで「仲直り」をしたがっているだろう。まあ、かってにさせておけ――おれだって、だれかさんのように、知らん顔をしておられるのを、思い知らせてやる。ほどなくベッキーがやってきた。トムは見ないふりをした。向こうへ行って、男の子や女の子たちにまじって、話しはじめた。すぐにトムは気がついたが、ベッキーは顔をほてらせ、うれしそうな目をして、あちらこちらとはしゃぎまわり、元気に学校友だちを追っかけるふりをしたり、つかまえるとキャアキャア笑い声をたてていた。だが、トムは気がついた。ベッキーがつかまえるのは、いつも自分のそばで、そのたびごとに、自分のほうへわざと目をやっているようだった。それはトムの心にひそんでいる、意地悪い虚栄心《きょえいしん》を満足させるだけであった。おかげで、トムを負かすどころか、ますます「得意」にさせただけのことで、トムはなおさらベッキーが近くにいることなど、気がついていると、思われないようにした。そのうちベッキーはばか騒ぎをやめて、どうしようかというふうに歩きまわり、一、二度ためいきをついて、そっと気をひくようにトムのほうを見やった。すると、いまトムはだれよりもエミー・ロレンスにめだって話しかけているのがわかった。ベッキーはたちまち胸の痛みを感じ、心乱れて、不安になった。そこを離れようとしたが、足がいうことをきかなかった。かえってそっちの連中のところへ近づいてしまった。ベッキーはトムのすぐそばにいた女の子にいった――わざと陽気そうに。
「あら、メリー・オースチン! 悪い子ね、なぜ日曜学校へ来なかったの?」
「行ったわよ――わからなかった?」
「まあ、知らなかったわ! 来たの? どこにすわってたの?」
「ピーター先生のクラスにいたわ。いつもそこよ。あなたを見かけたわ」
「そうだったの? おかしいわねえ、あなたに気がつかなかったなんて。ピクニックのことを知らせたかったのよ」
「あら、うれしい。どなたがやってくださるの?」
「わたしのおかあさんが、させてくれるの」
「まあ、すてき。わたしも行かせてくれるかしら」
「ええ、いいのよ。わたしのピクニックですもの。わたしのつれていきたい人はだれでもいいの。あなたに来てほしいの」
「とても、うれしいわ。で、いつやるの?」
「そのうち。お休みごろに」
「まあ、楽しみじゃない! 男の子も女の子も、みんな行くんでしょう?」
「ええ、みんな。わたしのお友だちなら――それに、お友だちになりたがっている人なら」
そういって、ベッキーはそっとトムに目をやったが、トムはかまわずにエミー・ロレンスに話していた。島での恐ろしいあらしのこと、自分が立っていたところから一メートルもはなれていないところに雷が落ちて、スズカケの大木が「こっぱみじん」にひき裂けたことなど。
「あら、わたしも行っていい?」グレーシー・ミラーがいった。
「いいわ」
「わたしも?」サリー・ロジャーズがいった。
「ええ」
「わたしも、いい?」スージー・ハーパーがいった。「ジョーも?」
「いいわよ」
こうして、それからそれと、みんながうれしそうに手をたたいて、つれていってくれとせがんでいたが、トムとエミーはそ知らぬ顔だった。トムはひややかに顔をそむけたままで、まだ話をつづけながら、エミーをつれていってしまった。ベッキーはくちびるをふるわせ、目には涙がにじんできた。このきざしをかくそうと、ベッキーはむりに快活そうにおしゃべりをつづけたが、もうピクニックのことや、なにもかも気がぬけてしまった。できるだけ早くその場を抜け出して、身をかくすと、女たちがいう「心ゆくばかり」に泣きぬれた。それからむっつりと、誇りを傷つけられて腰をおろしているうちに、鐘が鳴った。ベッキーはやっと立ち上がり、目に復讐《ふくしゅう》の色を浮かべ、お下げ髪をひとふりすると、こっちにも考えがあるわ、といった。
休み時間にも、トムはいい気になってエミーといちゃつきつづけた。これをベッキーに見せつけてやりたくて、あちらこちらとさがしながらふらつき歩いた。やっと見つけたものの、とつぜんトムの強気がぺしゃってしまった。ベッキーは校舎うらの小さなベンチにいい気持ちで腰をかけ、アルフレッド・テンプルと絵本を見ていた。――すっかり夢中のようすで、本を見ながら頭をくっつけ合っていて、まるでほかのことなど、なんにも気がつかないふうだった。ねたましさが、トムの血管にまっかにたぎりたった。せっかくベッキーが与えてくれた仲直りの機会を、むげに捨ててしまった自分に腹がたった。おれはあほうだとか、思いつくかぎりの悪口雑言をつくして自分を責めたてた。くやしくて泣きだしたかった。エミーはいっしょに歩きながら、うれしそうにしゃべりつづけていたが、トムの舌《した》は動かなくなってしまった。エミーのいっていることなど耳にはいらなくて、返事を待ってことばをきるごとに、なんとかもぐもぐ相づちを打つのがやっとで、それもとんでもないところでやらかすのが多かった。なんども校舎の裏へふらふら足を向けては、あのにくらしい光景を目の玉にやきつけるばかりだった。なんともしようがなかった。ベッキー・サッチャーが、トムなどこの世にいようといなかろうと、まるで気にかけていないのを見ると、トムにはそう思えたのだが、気も狂うほどだった。だが、ベッキーはちゃんと気がついていたのであった。この勝負は勝ちだとわかっていたし、自分が苦しんだと同じように、トムが苦しんでいるのを見て、喜んだ。
エミーのうれしそうなおしゃべりが、もうがまんならなくなった。トムは用事で行かねばならないことをほのめかした。しなくてはならないこと、時間がたっていくことなど。でも、むだだった。――エミーはさえずりつづけた。
「えい、こんちくしょう。なんとか、のがれられないものか」とトムは思った。とうとう、どうしてもあれこれ用事をしに行かねばならん、といった。――学校がひけたら、「そのへんをぶらぶら」しているわ、とエミーがむじゃきにいった。それでトムはいやになって、いそいで去っていった。
「人もあろうに!」トムは歯ぎしりしながら考えた。「よりによって、あんなセント・ルイスっぺのきざな野郎と。身なりがよくって、貴族気どりでいやがるやつなんかと! よし、いいとも。この町へ来やがった、はじめの日に、ぶんなぐってやったんだから、いいか、もういちど、くらわしてやるぜ! 待ってろよ、やっつけてやるから! とっつかまえて――」
そしてトムは、相手がそこにいるようなつもりで、さんざん、やっつける身ぶりをつづけた。――空気をなぐったり、けったり、目玉をえぐったり。
「さあ、どうだ、まいったか。いまこそ、思い知ったろう!」ということで、いもしない相手を打ち倒して、トムは満足した。
トムはお昼に家へ逃げ帰った。トムの良心はこれ以上エミーの感謝にみちた喜びにたえられなかったし、その嫉妬心《しっとしん》は別な苦しみを、もうこのうえ、がまんできなかった。ベッキーはアルフレッドと、また絵本を見はじめたが、時間がのろのろたつばかりで、トムはやってこず、苦しめてやるつもりがはずれて、ベッキーの勝利はかすみはじめ、おもしろくなくなってしまった。気が重くなってきて、ぼんやりし、それから、ゆううつになった。二、三度、足音に聞き耳をたてたが、それもそらだのみで、トムはやってこなかった。しまいにベッキーはすっかりみじめな気持ちになって、あんなにやりすぎなければよかった、と思った。あわれにもアルフレッドは、どうしてだかベッキーの気がそれていくのをみて、大声にいいつづけた。
「やあ、おもしろいのがあるよ! 見てごらん!」
ベッキーはとうとうがまんしきれずに、いった。
「ああ、うるさいわ! そんなの、どうでもいいのよ!」
そういって、涙にむせび、立ち上がって、歩いていってしまった。
アルフレッドはそばについてきて、なぐさめようとしていたが、ベッキーはいった。
「あっちへ行って。ひとりにしといてよ! あんたなんか、きらい!」
そこでアルフレッドは立ち止まり、自分が何をしたというんだろう、といぶかしく思った。――ベッキーのほうから、昼休みじゅう、絵本を見ましょう、といったのである。――それなのに、泣きながら、向こうへ行ってしまった。それからアルフレッドは考えこみながら、だれもいない校舎へはいっていった。恥をかかされて、腹をたてていた。すぐにほんとうのおもわくが読みとれた。――あの女はトム・ソーヤーにうらみをはらすために、たんに自分をだしに使ったにすぎないのだ。そうと思い当たると、トムに対するうらみが、少なくなるどころか、いっそうにくらしくなった。自分の身をたいして危険にさらさずに、トムのやつを困らせてやる方法はないものかと思った。トムのつづり字帳が目に止まった。願ってもない機会だった。しめたとばかりに、午後の授業のところを開いて、そのページへインクをこぼした。
ベッキーが、そのときうしろの窓からちらっとのぞきこんで、そのようすを見てとったが、自分の姿を気づかれないように、そっと通りすぎた。家のほうへ帰りながら、トムを見つけて、いいつけてあげるつもりだった。トムは喜んでくれて、ふたりのあいだのごたごたも消えるだろう。そう思ったものの、家まで半分も行かないうちに、ベッキーは気が変わってしまった。ピクニックのことを話していたときのトムのしうちが、やきつくように思いかえされて、はずかしさが心にあふれた。よごれたつづり字帳のことで、トムがむち打たれるなら、打たれるがいい、それに、トムをにくんでやるわ、と決心した。
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第二十章 トムのいいぬけ
トムはわびしい気持ちで家に帰った。そしておばさんのことばを、のっけから聞いたとたん、ここもわが悲しみをなぐさめてくれるところではないとわかった。
「トム、なま皮をひんむいてやりたいよ!」
「おばさん、おれ、なにをしたっていうの?」
「ふん、なにをしたもないもんだ。いいかい、わたしはセレニー・ハーパーのところへ、のこのこ出かけていったもんだ、お人よしののろまばあさんみたいにね。おまえの夢のくだらない話を信じさせようと思ってたもんだ。ところが、どうだろう、ジョーから聞いていたんだよ、あの晩、おまえがここへやってきていて、わたしたちの話をすっかり聞いていたってね。トム、そんなことをする子がいまにどうなるか、知れたもんじゃない。つくづくいやになるよ、ひとをセレニー・ハーパーのところへやらせて、物笑いにさせといて、それでひとこともいわないなんて」
これで局面ががらりと変わった。朝、うまうまと煙にまいたことは、トムには上できのじょうだんで、器用なものだと思えていたのだ。いまでは、さもしい、卑劣《ひれつ》なことにしか見えなかった。トムはうなだれて、しばらくは、いうことばさえ思い浮かばなかった。それから、いった。
「おばさん、あんなこと、するんでなかった――でも、気がつかなかったんだ」
「ああ、おまえは、いつもあさはかなんだよ。身がってなことしか、考えないんだから。夜中にジャックスン島から、わざわざここへやってきて、わたしたちが困っているのを笑ってやろうとか、うそばっかりの夢でわたしをばかにすることは考えるのに、すまないことをしたとか、悲しませないようにしようとかは、思ったことがないんだからね」
「おばさん、ほんとに悪かったね。でも悪気でやったんじゃないよ、ほんと、そんなつもりは。それにあの晩、笑ってやろうなんてつもりで、ここへ来たんじゃない」
「じゃ、なにしに来たんだい?」
「おれたちのこと、心配しないでって、おぼれたわけじゃないんだからって、知らせるつもりだったんだよ」
「トム、トムったら、わたしはうれしくってたまらなくなるよ、おまえがそんな感心な心がけでいたって、信じられればね。考えてもいなかったくせに――わかっているんだよ、トム」
「ほんと、ほんとだったんだよ、おばさん――うそだったら、死んでもいいや」
「これ、トム、うそをつきなさんな――うそをいうんじゃない。ものごとをずっとずっと悪くするだけなんだから」
「うそじゃないよ、おばさん、ほんとうなんだよ。おばさんを心配させたくなくて――ただそれだけのことで、来たんだもの」
「ほんとにそうなら、なによりうれしいんだがね――すっかり罪ほろぼしになるというものだよ、トム。家をとび出して、うんと悪いことをしたって、帳消しになるほど、うれしいんだがね。でも、いいわけにはならないよ。だって、どうしてわたしにいってくれなかったんだい、ね?」
「それが、お葬式の話になったんで、こいつあ、帰ってきて、教会にかくれていてやろうと、そればっかり思っていたんだもん。なんてったって、その計画をだいなしにするわけにはいかないや。それで木の皮をポケットにもどして、黙ってたんだ」
「木の皮がどうしたって?」
「おれたちが海賊ごっこに出かけたことを、おばさんに知らせようと、かいておいた木の皮なんだよ。それなら、おばさんにキスしたときに、目をさましてくれればよかったのに。――ほんとに、それならなあ」
おばさんのけわしい顔つきがゆるんで、ふとその目にやさしさが浮かんだ。
「キスをしてくれたって、トム?」
「ああ、うん、したよ」
「ほんとに、してくれたの、トム?」
「うん、したとも、おばさん――ほんとに」
「なんだって、キスをしたんだい、トム」
「おばさんが好きなんだもの。おばさんが悲しそうに、うなって寝ていたんで、悪いなあ、と思ったんだ」
そのことばはほんとうらしく聞こえた。おばさんは声のふるえをかくしきれないで、いった。
「もういちどキスしておくれ、トム! さ、学校へお行き。もうこのうえ、困らせるんじゃないよ」
トムが行ってしまうと、おばさんは押入れへ走っていって、トムが海賊ごっこに着ていって、ぼろぼろにした上着をとり出した。それから立ち止まって、それを手にしたまま、ひとりごとをいった。
「いや、しらべずにおこう。かわいそうに、あの子はうそをついているんだよ。――でも、うそはうそでも、祝福されたうそなんだ。あんなに、なぐさめになったんだから。どうぞ、神さま――きっと神さまだって、あの子をお許しになる。あんなふうにいったのも、心にやさしいところがあったからなんだ。でも、あれがうそだなんて、知りたくもない。見ないでおこう」
おばさんは上着を投げ出して、ちょっと考えこみながら、立っていた。二度ばかり、あの上着をとろうとして、手をのばしたが、二度とも手をひっこめた。もう一度やってみて、こんどはこう思いながら、心を強くかためた。
「いいうそだ――いいうそなんだ。――あんまり悲しまないでおこう」
そこで、上着のポケットをさがしてみた。たちまち、おばさんはトムの木の皮を読みながら、涙を流して、いっていた。
「やっぱりあの子を許してやらなくては。たとえ、百万の罪をおかしたとしても!」
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第二十一章 罪のひっかぶり
トムにキスをしたときのポリーおばさんのようすに、いつにないものがあって、トムの沈んだ気分を吹きとばし、もういちど心も軽く、幸福にしてくれた。トムは学校へ出かけ、運のいいことに、メドー・レーン(牧場小路)の入り口でベッキー・サッチャーに出会った。トムはいつも気分しだいで態度がきまった。一瞬のためらいもなく、トムは走りよって、いった。
「きょうはひどい意地悪をして、ベッキー、ごめんよ。もう一生、あんなまねはしないよ――仲直りしないか」
ベッキーは足を止めて、さげすむような顔つきでトムを見た。
「わたしのことなど、おかまいなく、トマス・ソーヤーさん。二度とお話ししたくありませんわ」
ベッキーはつんと頭を上げて、行ってしまった。トムはあっけにとられて、心も動転《どうてん》、「かってにしな、おすましや」といってやるほどのゆとりもなく、やっといおうとしたときは、もうまにあわなかった。口ではなんにもいわなかったが、腹がたったの、なんの。気をくさらせて校庭へはいっていき、あの女が男だったらなあ、そしたらうんとぶちのめしてやるのにと思った。まもなくベッキーと出会ったので、すれちがいざまに、ひどい悪口をはきかけた。ベッキーも負けずにやりかえし、これで仲たがいは手の打ちようがなくなった。腹だちまぎれにベッキーは、学校が「はじまる」のを待ちかねる気持ちで、トムがよごれたつづり字帳のことで、むち打たれるのを見たくてたまらなかった。アルフレッド・テンプルのしたことをあばいてやろうという気が、少しは残っていたにしても、トムの悪口|雑言《ぞうごん》がしゃくにさわって、そんな気はすっかりなくなっていたのだ。
あわれにもベッキーは、わが身にかくも早くわざわいがふりかかろうとは知らなかった。先生のドビンズ氏は青雲の志をとげられないままに、中年になってしまっていた。先生のなによりの希望は医者になることだった。だが、貧乏なために、村の校長先生より以上に偉くなれなかったのである。毎日、机の中から不思議な本をとり出して、授業のないときには、ときどきその本に夢中になっていた。その本はカギをかけて、しっかりとしまいこんであった。学校のわんぱく連中で、それを一目でも見たいと熱望していないものはなかったが、その機会にめぐまれなかった。男の子も女の子も、それぞれにその本がどんなものであるかという意見を持っていたが、一つとして意見が同じなのはなく、事の真相をつきとめる方法はなかった。ところが、ベッキーが先生の机のそばを通りすぎたとき、机はドアの近くにあったものだが、カギがカギ穴にさしこまれたままになっているのを見てとった! もうけものの機会だった。あたりを見まわしたがいるのは自分ひとり、さっとその本を両手につかんだ。扉のページに――なんとか教授の「解剖学《かいぼうがく》」――なんのことだか、わからなかった。そこでページをくりはじめた。すぐにきれいな原色銅版の口絵がでてきた――まっぱだかの人体図だった。ちょうどそのとき、ページの上に影がさして、トム・ソーヤーがドアからはいってきたところで、その絵をちらと見てしまった。ベッキーはぱたっと本を閉じたものの、運悪く口絵のページを真ん中から下半分、ひき裂いてしまった。ベッキーは本を机の中におしこんで、カギをかけると、はずかしさととまどいに、はげしく泣きだした。
「トム・ソーヤーったら、ひどい人ね、こっそりやってきて、人の見ているものをのぞくなんて」
「知るもんか、きみがなにか見ていたって」
「はずかしいと思わない、トム・ソーヤー? いいつけるつもりなのね。ああ、どうしよう、どうしよう! むちで打たれるわ。学校でぶたれたことなんか、いちどもないのに」
それから小さな足をパタパタいわせて、いった。
「意地悪したいんなら、かってにするといいわ! どんなことになるか、こっちも知ってることがあるのよ。待ってれば、わかるわ。きらい、きらい、きらい!」
ベッキーはまた、わっと泣きだしながら、校舎からとび出した。
トムはこの攻撃にいささか面くらって、つっ立っていた。やがて、ひとりごとをいった。
「おかしなもんだよ、女の子っていうのは。学校でぶたれたことがないとはな! ばかばかしい。ぶたれるのが、どうだっていうんだ! それが女の子なんだな――びくびくもんで、臆病《おくびょう》で。なに、きまってらあ、あのばかな子のことを、ドビンズ先生にいいつけたりするものか。そんなけちなまねをしなくったって、ほかにしかえしの手はいくらもあらあ。そんなことはどうだっていいや。ドビンズ先生は、本を破ったのはだれだって、きくだろうな。だれも返事をしない。すると先生は、いつものやりかたでくる――まずひとりにきいて、それから、つぎ。ご本人の女の子のところへくると、先生にはわかっちまうんだ、なんにもきかないでも。女の子ってのは、いつでも顔色に出しちまう。どしょう骨《ぼね》がないんだ。あの子はぶたれるぞ。ま、ベッキー・サッチャーはせっぱつまったもんだ。のがれられっこないんだから」
トムはもうちょっとこのことを考えてから、いいたした。
「でも、まあいいや。あいつだって、おれがそんなめにあうのを見たいんだろうからな。せいぜい冷汗《ひやあせ》をかくがいい」
トムは外で騒ぎまわっている連中に加わった。まもなく先生がやってきて、授業がはじまった。トムは勉強にたいして身がはいらなかった。教室の女生徒がわへちらりと目をやるたびに、ベッキーの顔が気になった。あれやこれや考え合わせると、ベッキーをあわれむ気にならなかったものの、じつはやっとのことで、かわいそうに思う気持ちをおさえていたのであった。とても痛快だと思うような気分になれなかった。すぐにつづり字帳の一件がばれて、そのあとしばらくは、トムはわが身のことで頭がいっぱいだった。ベッキーは心配でおろおろしていたのが、これでわれにかえって、事のなりゆきに大いに興味を見せた。トムが、つづり字帳にインクをこぼしたのは自分でないといったところで、災難はのがれられまいと思っていた。ベッキーの思っていたとおりだった。弁解したのが、トムにはいっそう悪い結果になるみたいだった。ベッキーはトムの立場が苦しくなれば、うれしくなるだろうと思ってみた。じじつ喜んでいると信じようとしてみた。だが、はっきりそうだとは思えなかった。いよいよ形勢が最悪に達したとき、ベッキーは立ち上がって、アルフレッド・テンプルのことをいいつけてやろうとする思いにかられたが、ぐっとおさえて、じっとしていた。――心で思ったからである。
「トムはきっと、わたしが絵を破ったことをいいつけるわ。ひとことだっていってやるものか、トムの命をたすけるためになんて!」
トムはむち打ちの罰をうけて、いっこうわるびれもせずに自分の席へもどった。ふざけまわっているうち、自分で知らないまにつづり字帳にインクをひっくりかえしたのかもしれない、と思ったからである。――自分でないといったのは形ばかりのことで、それがならわしだったからであり、自分でないとがんばったのは主義からだった。
たっぷり一時間がどうやら過ぎて、先生は玉座にましまして、こっくりこっくりやり、教室の空気は勉強の声で、とろとろしていた。やがてドビンズ先生はすっくとからだをのばして、あくびをし、さて、机のカギをあけて、例の本に手をのばしたが、それをとり出したものか、やめておこうか、まよっているようだった。生徒たちの大部分はものうげに、ちらと見上げただけだったが、中のふたりはじっと先生の挙動を見つめていた。ドビンズ先生はしばらくぼんやりとその本を指でいじっていたが、やっとそれをとり出して、椅子《いす》に身を落ち着けて、読もうとした! トムはちらっとベッキーを見やった。追いつめられて、絶体絶命になったウサギが、頭に銃をつきつけられているときの、いつか見た顔つきと同じだった。たちまちベッキーとのけんかざたなんかは忘れてしまった。早く――なんとかしなければ! いまのうちに! だが、事態があまりに切迫していて、とっさの妙案が浮かんでこなかった。ようし!――思いつきがひらめいた! かけ出して、本をひったくり、入り口からとび出して、逐電《ちくでん》しよう。だが、その決心が一瞬ぐらついたばっかりに、機会がついえてしまった。――先生が本を開いたのだ。とり逃がしたあの機会が、もういちどもどってくれたらな! おそすぎた! もうベッキーは助からない、とトムは思った。つぎの瞬間、先生はクラスの一同へ顔を向けた。にらまれて、みんなが目を伏せた。無実の者さえ、ちぢみ上がるような恐ろしさがこもっていた。十かぞえられるほどの長い沈黙があった。先生は怒り心頭に発した。やっと、いった。
「だれだ、この本を破ったのは?」
物音ひとつしなかった。ピンが落ちても音が聞こえただろう。沈黙がつづいた。先生はひとりひとりの生徒の顔色をさぐって、やましいきざしを見つけようとした。
「ベンジャミン・ロジャーズ、この本を破ったのか」
ちがうという答え。まをおいて、
「ジョーゼフ・ハーパー、きみか?」
これも、ちがうという答え。こうゆっくりと責め苦がつづいてくると、トムの不安はますますつのってきた。先生は男の子の列を念入りに調べあげた――ちょっと考えてから、女の子のほうへ向いた。
「エミー・ロレンスか?」
首をふった。
「グレーシー・ミラー?」
これも首をふった。
「スーザン・ハーパー、きみかね、これは?」
これまた、ちがうというわけ。おつぎはベッキー・サッチャーだった。トムはどきどきして、絶体絶命の思いで、頭の先から足もとまでふるえていた。
「リベッカ・サッチャー」(トムはベッキーの顔をちらっと見た。――恐ろしさに青ざめていた)「きみが破ったのか――これ、私の顔を見るんだ」(ベッキーは哀願《あいがん》するように両手を上げた)「この本を破いたのか」
ある考えが、トムの頭にいなずまのようにひらめいた。さっと立ち上がって、叫んだ。――
「おれがやったんだ!」
クラスじゅうがこのとほうもないばかげた名乗りに、面くらって目を見はった。トムはしばらく立ったままで、気を落ち着けようとした。罰を受けるために進み出ると、驚きと感謝と尊敬の念が、あわれなベッキーの目からトムにそそがれて、これこそ百のむちを受けても、つぐなって、なおあまりあるように思われた。わが行為の輝かしさにふるい立って、ドビンズ先生がこれまでふるったこともないほど、はげしい無慈悲なおしおきを受けたが、叫び声ひとつたてなかった。そのうえ、放課後二時間|居残《いのこ》れという、じゃけんな命令までおっかぶせられたが、トムは平然とお受けした。――この禁足《きんそく》がおわるまで表で待っていてくれて、その退屈な時間をむだにすごしたとも思わない人がいることを、トムは知っていたからである。
トムはその晩、アルフレッド・テンプルにどうしてしかえしをしてやろうかと考えながら、床についた。はずかしい思いと後悔にくれながら、ベッキーがすべてを、自分の裏切りまでかくさずに、トムに打ち明けたからである。だが、しかえしの一念も、すぐにもっと心楽しい物思いに打ち消された。トムはやがてぐっすり眠りこんでしまったが、ベッキーの最後のことばが夢うつつの耳にただよっていた――
「トム、なんて見上げた人なんでしょう!」
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第二十二章 学芸会の珍景
休暇が近づいていた。いつもきびしい先生は、これまでになく、ますますきびしく、やかましくなった。「学芸会」の日に、生徒たちに好成績を示してもらいたかったからである。このところ、むちも木べらも、めったに休んでいることがなかった。――すくなくとも、小さいほうの生徒のあいだではそうだった。いちばん年長の男の子たちと、十八から二十のおじょうさんたちだけが、打たれずにすんだ。ドビンズ先生のむち刑は、これまたたいへん力のこもったものであった。というのは、かつらをかむった頭は、じつはすっかりはげて、つるつるであったけれど、まだやっと中年に達したばかりで、筋肉がおとろえているようなきざしは、なかったからである。晴れのその日が近づくにつれて、先生持ちまえの暴虐《ぼうぎゃく》さがすっかり表面に出てきた。なんでもないしくじりにさえ罰を加えて、復讐《ふくしゅう》の喜びを味わっているようだった。そのあげくは、小さい生徒たちは、日ちゅうは恐怖と苦しみに過ごし、夜は復讐をたくらんで過ごした。先生をやっつける機会をのがすことはなかったが、先生のほうがいつもうわ手だった。復讐はうまくいっても、そのたびごとのしかえしの罰が、とても根こそぎのものすごさで、生徒たちはいつも一敗地にまみれて戦場から退却《たいきゃく》した。ついにみんなが共謀《きょうぼう》して、大勝利まちがいなしという計画を思いついた。看板屋のこどもを堅い約束で仲間にひき入れ、計画を打ち明けて、加勢をたのんだ。その子が喜んだのには、その子なりのわけがあった。というのは、先生はその子の家に下宿していて、じゅうぶんにくまれる種をまいていたのであった。先生のおくさんは、二、三日すればいなかにお出かけになるので、この計画にじゃまがはいることはない。先生はいつでもだいじな行事があると、それにそなえて、かなりのお酒をきこしめされる。看板屋のむすこのいうには、学芸会の晩先生がいい調子になって、椅子《いす》でうたた寝をしているあいだに「事をやらかそう」、それからいざという時間に先生を起こして、学校へかけ出させる、ということだった。
時は満ちて、いよいよおもしろい時節到来。夜の八時には校舎はあかあかと灯がともされ、花輪や、花づなで飾りたてられた。先生は一段高い壇の大|椅子《いす》に、いかめしくましまし、黒板を背にしていた。ごきげんうるわしく見えた。両脇の三列のベンチと、前の六列には、町のお偉がたや生徒の両親たちがすわっていた。先生の左手の、町の人たちの列のうしろには、臨時に広い壇がつくられていて、今夜出演の生徒たちがすわっていた。身ぎれいに洗われて、いかにもきゅうくつそうに服をきこしめしている小さい少年たちの列。のろまくさい大きな少年たちの列。雪の吹きだまりみたいな女の子やおじょうさんたちはローンやモスリンの服を着て、むき出しの腕や、おばあさんの古風なアクセサリーや、ピンクやブルーのリボンや、髪にさした花を、しきりに気にしていた。会場のあとの場所は、出演しない生徒たちで埋まっていた。
学芸会がはじまった。ほんの幼い男の子が立ち上がって、はにかみながら暗唱した――
「ご期待にそむいて、私のような幼い者が、演壇に立って、みなさまにお話をすることになりました」などと――
いたいたしいほど正確に、とだえがちな身ぶりよろしく、機械じかけみたいにやりだした。――もっとも、機械は機械でも、いくらか狂っているやつだった。見ておれないくらいおびえていたけれど、なんとか無事にやりおおせ、大かっさいを受けながら、とってつけたようなおじぎをして、ひっこんだ。
はずかしそうな顔をした、小さい女の子が、
「メリーのかわいい小羊は……」
と、まわらぬ舌《した》で詩を暗唱し、あわれっぽく、ひざを曲げておじぎをすると、拍手をあびて、顔をあからめ、うれしそうに腰をおろした。
トム・ソーヤーは自信まんまんと進み出て、
「われに自由を与えよ、しからずんば死を与えよ」
という、あの千古不滅の名演説を、どえらい勢いで、熱狂的な身ぶりよろしくはじめたが、中途でつまってしまった。ひどい舞台負けがして、足がふるえ、いまにも息がつまりそうになった。なるほど満場の聴衆は明らかに同情はしてくれた――が、満場はかたずをのむことにもなって、その静まりかえっていることのほうが、同情よりもいけなかった。先生はまゆをしかめて、これで失敗は完全ということになった。トムはしばらく悪戦苦闘のあげくに、すっかりまいって、ひきさがった。かっさいをしようとした人もわずかにいたが、それもすぐにやんでしまった。
「少年は燃ゆる甲板に立ちて」の詩がつづき、それからバイロン(イギリス・ロマン派の代表的詩人。キーツ、シェリーとならんで、大いに愛読された)詩の初行「アッシリア人なだれこみ」、その他、名句のいくつかがつづいた。それから朗読につづり字競争。小人数のラテン語のクラスがじょうずに朗唱して面目をほどこした。いよいよ当夜の呼びものがひかえていた――若い娘たちの自作「作文」である。ひとりひとりが順に壇のはしへ進み出て、せきばらいをし、原稿(きれいなリボンでとじてあった)をささげ持って、つとめて「表情たっぷり」に、句読点に気をくばりながら読みはじめた。テーマはいつもと同じで、前にひかえているおかあさん、さらにはおばあさん、さらにずっと十字軍の昔にさかのぼって、ご先祖の女系のかたがたが、こうした同じ行事ではなやかに脚光《きゃっこう》をあびてきたものだった。「友情」がその一つであり、「過ぎし日の思い出」「歴史における宗教」、「夢の国」「修養の利益」「政体の比較対照」、「憂うつ」「孝心」「心願」など、など……
これらの作文に共通している特徴はだいじにあまやかされた憂うつ調であった。それに「美辞麗句《びじれいく》」をやたらにならべること、さては、とくにとっておきの語句をむりにとってくっつけて、しまいにだいなしにしてしまう傾向。また、めだってきわだち、同時にぶちこわしになる特色は、きまってやりきれないお説教がつきまとっていることで、ひとつ残らず作文のおしまいに、こんなできそこないのしっぽをふりたてていた。題目はなんであろうと、知恵をしぼって、なんとか形にこねあげ、道徳|堅固《けんご》で宗教心の強い人なら、よくかみしめればためになるというわけだった。こんな説教なんぞはまやかしのでたらめながら、それだからといって、学校からその流行が消えてなくなるものではなかった。いまでも消えていないし、まずまあ、この世のつづくかぎりは消えうせることはあるまい。この国の学校で、若い娘たちが自分の作文をお説教で結ばなくてもよい、と思っているようなところはない。それに、学校じゅうでいちばんちゃらんぽらんで、いちばん宗教的でない女の子のお説教が、これまたいちばん長くて、どうにもたまらないほど信心ぶかいものである。ま、このくらいにしておこう。良薬は口ににがし、だ。
「学芸会」へもどるとしよう。読み上げられた最初の作文の題は「されば、これが人生であるか」というのであった。たぶん読者はその抜きがきをがまんしてくださるであろう。
人生の平凡な歩みにあって、なんと喜ばしき感動に胸おどらせて、若き心はある歓楽の場を、心楽しく待ちもうけていることか! 想像はバラ色の歓喜《かんき》の絵を描きまくる。流行を官能的にあこがれる者は、歓楽の群れの中に、わが身を「衆人注目の的」と見たてる。雪白の衣装に装われし、その優雅《ゆうが》なる姿は、楽しき踊りの入り乱れる中を舞いめぐる。はなやかなつどいの中で、その目はひときわ輝かしく、足どりもいと軽やかである。
かかる甘美《かんび》な空想のうちにも、時はたちまちにして過ぎゆき、かくも喜ばしく夢みていた楽土へと、いまははいるべき喜ばしき時がくる。魅《み》せられたる彼女の目には、あらゆるものが、いかに夢楽しき世界のものに見えることか! 情景の新しくなるごとに、そのひとつひとつが前よりも心を楽しませる。しかし、しばしすれば、この美しき外観をまとえども、まことはすべて空《くう》なるをさとる。ひとたびはその魂を魅惑《みわく》せしあまきことばも、いまは耳にいとわしくひびき、舞踏室も魅力を失い、身はつかれ、心いたみ、この世の快楽はついに魂のあこがれをいやすことかなわぬ、という信念をいだいて、彼女は顔をそむける!
と、まあ、こんな調子でつづいていく。朗読のあいだに、ときどき満足そうなつぶやきが起こり、「すてき!」「おじょうず!」「そのとおりよ!」などと感嘆のささやきがまじった。それがなんともいやらしい説教でおわると、われんばかりのかっさいが起こった。
それから、やせっぽちの、憂うつそうな女の子が立ち上がった。丸薬と消化不良のせいで、「興味ぶかい」青白い顔色をしていた。読んだのは一編の「詩」である。二節もひけばよかろう。
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ミズーリの乙女《おとめ》がアラバマへの別れの辞
アラバマよ、さらば! いとしの汝!
されど、しばし、別れ行かん!
汝を思えば、悲しみ胸にあふれ、
燃ゆる思い出に、まゆもつまる!
汝が花咲ける森をそぞろ歩きし、
タラプーサの流れのほとり、さまよいて、書を読みしものを。
タラシーのさかまく流れに耳かたむけ、
クーサの岸べにオーロラの暁の光を求めたりしに。
されど、あふるる思いにひたるを恥じず、
目に涙たたえて見返るも、顔あからめず。
別るるは見知らぬ土地ならず、
ため息するは、見知らぬ人のためならず。
なつかしのふるさとはこの国にありて
去り行くはその谷――尖塔も、とく薄れゆく。
わが目、わが胸、わが頭、冷たくぞならん、
やよ、アラバマ! 冷たくも別れなば!
[#ここで字下げ終わり]
頭はフランス語で、「テート」とむりに韻《いん》を合わしたが、フランス語などわかる者はほとんどないながら、それでも、この詩は大うけだった。
おつぎに、顔色の黒い、黒目、黒髪の若い娘があらわれて、ちょっと気をひくようにまをおいて、悲劇的な表情をつくると、リズミカルに、おごそかな調子で読みはじめた。
幻影
夜は暗黒に、あらしがものさわがしかった。高まが原の玉座のあたりにも星ひとつきらめかず。雷のいんにこもりしとどろきが耳にこだまするばかり。恐ろしいいなずまはたれこめた雲|間《ま》に怒りたけってきらめき、かの有名なるフランクリンがいなずまの恐怖をたたきつぶした力をも、あざわらうかに見えた! ものさわがしき風まで、ひそかなかくれ家より、いっせいに出できたりて、そのあらあらしき光景に助勢するかとばかりに吹き荒れた。
かく暗く、かく荒涼《こうりょう》たるこの時しも、わがこの心、人のなさけを求めてため息つくも、こはいかに、さにあらで、
「わがいとしき友、助言者、われをなぐさめ導く者――悲しむときのわが喜び、喜ばしきときの、天国につぐわが幸福」が、わがかたえにやってきた。
彼女は、夢見る若者が、空想のエデンの園の日ざしまばゆき道に描いた、あの輝かしい人物のひとり、うつつとは思われぬ、ただみずからの愛らしさにかざられた、美の女王さながらに、よってきた。足音ひそかに、物音ひとつたてず、心地よき接触がもたらす、不思議なおののきがなかったならば、他のひかえめな美女たちと同じく、彼女とて音もなく立ち去ったであろう、それと知られず――求められずに。奇妙な悲しみをおもざしにたたえ、十二月の衣にそそぐ氷雨さながら、戸外に荒れる風雨を指さしながら、わが目前の二つの物を見つめよ、と告げるのであった。
この悪夢さながらの作文は原稿用紙に十ページぐらいはあって、長老教会派に属さない人たちの、あらゆる希望をも打ちくだくようなお説教で結ばれていたので、これが一等賞をとった。この作文が、この夜の最高のできばえであると判定された。村長は、この作者に賞品を与えるにあたって、心をこめた演説をこころみ、これまで聞いたこともないほど、きわめて雄弁なものであり、大演説家ダニエル・ウェブスターとて、得意になりそうな作文である、といった。
ところで、「うるわしい」という雅語が好んで使われすぎ、人間の経験を「人生のページ」といういいかたで述べた作品が、例年なみに多かった、といえよう。
さて、先生はとろけるばかりに、たわいもなくごきげん上々で、椅子《いす》をわきへよせて、聴衆に背を向け、黒板にアメリカの地図を描きだして、地理の授業をやろうとした。ところが、手が思うようにならないので、うまくいかず、くすくすしのび笑いが部屋じゅうにさざめきたった。先生は事の様子がわかると、それをおさめにかかった。黒板ふきで線を消して、かき直したが、前よりもゆがんでしまうしまつで、しのび笑いが高まった。一心こめて、あらためてとりかかった。笑い声にやりこめられないようにと、決心したみたいだった。みんなの目が集中しているのを感じた。うまくいっていると思ったが、笑い声はやむどころか、あきらかに高まっていた。それも、そのはず。上は屋根裏部屋になっていて、先生の頭の上には天窓があけてあり、この天窓からねこがぶらさがってきていた。腰にひもをまわしてぶらさげられ、頭とアゴにぼろをしばりつけて、鳴かないようにしてあった。ゆっくり、さがってくるにつれて、ねこは上にからだをそらせて、ひもをつかもうとし、たれさがっては、虚空《こくう》をひっかいた。くすくす笑いが、ますます高まった。――ねこは、夢中になっている先生の頭とは、二十センチと離れていなかった。――下へ、下へ、もうちょっとさがる。ねこはがむしゃらに先生のかつらをひっつかみ、しがみつくや、あっというまに、戦利品もろとも、さっと屋根裏部屋へひっぱり上げられた! そして先生のはげ頭から、なんと輝かしい光が照りわたったことか――看板屋のむすこが、先生のはげ頭を、金色にぬりたくっておいたからである!
これで学芸会はお開きとあいなった。少年たちの復讐《ふくしゅう》はなった。休暇がやってきていた。
原注 この章に引用してある「作文」みたいなものは、「西部の一少女の作、散文と詩」と題された一巻から手を加えずに抜き出したものである。――しかし、それらはまったく正確に女学生的な型をふんでいるので、なまじっかなものまねを作り上げるより、ずっと気がきいていよう。
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第二十三章 ついてない休暇
トムは新しく作られた節制少年団に参加した。「記章」のはなやかさにつられたのである。団員であるかぎりは、タバコを吹かさないこと、かみタバコをしがまないこと、神への不敬なことばをはかないことを誓った。そうなってみると、トムは新しいことを発見した。――つまり、あることをしないと約束することは、なんとしてもそのことをやりたくなる、もっとも確実な方法だということである。トムはたちまち、酒をのんだり、悪いことばをはきたくて、たまらなくなった。その気持ちがとてもうずうずしてきて、団章の赤い肩章《けんしょう》をつけているところを見せびらかしたいばっかりに、その機会がくるという望みだけで、団から脱退《だったい》しないでいるのだった。七月四日の独立記念日が近づいていたが、トムははやばやとそれをあきらめてしまった――団規に服して四十八時間とたたないうちにあきらめてしまって――治安判事の老フレーザー氏に望みをかけた。老判事はどうやら危篤《きとく》の病状で、お葬式も町じゅうあげての盛大なものになりそうだ。なにしろお偉いお役人だからである。三日のあいだ、トムはひたすら判事さんの容態《ようだい》を気にしていて、その知らせを待ちこがれていた。ときにはそれきたかと、希望にときめいて、そのあまりに、記章をとり出しては、鏡の前で予行演習をやってみたものだ。ところが判事さんの病気は一進一退で、こいつはがっかりものだった。とうとう病気は持ち直して――快復したと伝えられた。トムは大くさりで、損をしたような気までした。そこですぐさま退会届を出したが、――その晩に、判事さんはぶりかえして、死んでしまった。トムは、あんな男は二度と信用するものか、と決心した。
葬式は盛大だった。少年団は、退会したばかりのトムがうらやましさのあまりに死んでしまうくらい堂々とパレードした。
とはいえ、トムはふたたび自由の身になったのだ。――それにはそれなりのなぐさめがあった。酒も飲めるし、悪態もつける。――だが、驚いたことに、そんなことはしたくなくなった。なんのことはない、やろうと思えばいつでもできるということで、そんな望みはなくなり、魅力も消えうせてしまったのである。
トムは、待ちこがれていた休暇が、少々持てあましぎみに思われてきて、妙な気がした。
トムは日記をつけてみることにした。――だが三日間、なにごとも起こらなかったので、やめてしまった。
まず第一陣としてニグロの合唱隊が町にやってきて、大評判になった。トムとジョー・ハーパーは楽隊バンドを編成して、二日間、楽しんだ。
晴れの七月四日独立記念日さえ、失敗ともいえた。ひどい雨降りで、したがって行列もなかったからである。世界でいちばん偉い人物(と、トムは思っていた)ベントン氏、これぞまことの合衆国上院議員は、まったくがっかりものだった。――二十五フィートの大男どころか、それに近い背たけもなかったのである。
サーカスがやってきた。あとの三日間、少年たちは端ぎれをつづり合わせて敷き物をつくり、それでテントをしたてて、サーカスごっこをした。――入場料は男の子がピン三本、女の子が二本――そのサーカスごっこもあきられてしまった。
骨相見と催眠術師《さいみんじゅつし》がやってきた。――それも去ってしまうと、村は前よりいっそうつまらなく、さびしくなった。
少年少女パーティーがいくつかあった。めったにないことで、とても楽しいものだっただけに、それを待っているあいだの、苦しいほどな物足りなさが、いっそうやりきれないものになるばかりだった。
ベッキー・サッチャーは休暇のあいだ、両親と過ごすためにコンスタンチノープルへ帰ってしまっていた。――それで、どこをどうやっても、心の晴ればれするような楽しさはなかった。
あの殺人事件の恐ろしい秘密は、ぬぐいがたい苦痛だった。いつまでも痛みつづけるガンそのものだった。
それから、ハシカがやってきた。
二週間も長く、トムはひきこもって寝て暮らし、世間のできごととは縁がきれていた。病気は重くてなんにも気乗りがしなかった。やっと、どうやら歩けるようになって、よろよろ町へ出てみると、物から人まで、すっかり陰気《いんき》に変わり果てていた。「信仰復興」が起こっていて、おとなといわず、少年少女までが、みんなこぞって「入信」していたのである。トムは歩きまわって、気の安まる罪ぶかい顔の一つでも見たいものだと、万一をあてにしていたが、どこへ行っても失望するばかりだった。ジョー・ハーパーが聖書にとり組んでいるのをみると、このがっくりくる光景から、悲しくなって顔をそむけた。ベン・ラジャーズをさがしてみると、伝道用パンフレットを入れたバスケットをかかえて、貧しい人たちをたずねていた。ジム・ハリスをさがし出すと、おまえのハシカはありがたい神さまのお告げだ、というしまつで、だれに会っても、そのたびに気がくさくさした。やけくそになって、とうとうハックルベリー・フィンの胸へ、助けてくれとばかりにとびこんだが、とたんに聖書の文句をくらったりして、トムは胸やぶれ、こそこそ家へ帰って、ベッドにもぐりこむと、町じゅうでこのおれひとりが、永遠に神の救いから見放されたんだ、と思いこんだ。
そして、その夜、恐ろしいあらしがやってきた。どしゃ降りの雨、耳をつんざく雷鳴、目もくらむいなずまのひらめき。トムはふとんをひっかぶって、恐怖におびえながら、最後の審判を待っていた。この大騒ぎは、すべてこれ自分のせいだ、とトムはつゆ疑わなかったからである。天使たちのかんにん袋の緒《お》をきってしまったばかりに、こんな大あらしになったのだ、と思いこんでいた。たかが虫一匹殺すのに、砲兵一個中隊をくりだせば、大げさな弾薬のむだづかいと思ったかもしれないが、おれのような虫けらみたいな者をやっつけるのに、こんな大がかりな雷雨のあらしを手につかうということには、いっこう、けたはずれのぎょうぎょうしさとは思わなかった。
やがてあらしはおとろえて、目的を果たせずにやんでしまった。トムの心を最初につきあげたのは、神に感謝して、心を改めようという思いだった。つぎに思ったのは、待ってみようということだった。――もうあらしは起こらないかもしれないからである。
翌日、またお医者さんがつぎつぎとやってきた。トムはぶり返していたのだ。こんどのあお向けに寝てくらした三週間は、一時代もの長さに思えた。やっと外出できるようになっても命びろいをしたことが、それほどうれしくはなかった。さびしい身の上で、友だちもなく、ひとりぼっちのあじけなさを思い出したのだ。ぶらぶら、とおりを歩いていくと、ジム・ハリスが少年審判所の裁判官になって、ねこがやった殺しの事件をさばいているのを見かけた。ねこの前に、被害者の鳥がおいてあった。ジョー・ハーパーとハック・フィンが路地をはいったところで、ぬすんできたメロンを食べているのを見つけた。連中もかわいそうに!――トム同様――逆もどりとあいなっていたのである。
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第二十四章 意外な証言
とうとう、眠ったような空気がざわついてきた――それも、わくわくと。例の殺人事件の審理が法廷に持ち出されたのである。それはたちまち村じゅうの話題をかっさらった。トムは知らぬ顔をしているわけにはいかなかった。話がこの殺人事件に触れるごとに、トムは心臓がどきりとした。良心の悩みと恐怖のために、そんな話が出ると、自分に「さぐり」を入れるつもりで聞かせるのだ、と思いこむほどだった。こんどの殺人事件について、自分がなにか知っているらしいと、どうしてかんづかれたのか、わからなかったが、こんなうわさのまん中に立たされては、どうにもいい気持ちではいられなかった。しょっちゅう、ひやひやふるえていた。ハックと話をしようと、人影のないところへつれていった。しばらくでも、堅い口を開いて、同じ悩みのハックと苦しい重荷をわけ合えば、いくらかさっぱりするだろう。それに、ハックが慎重に秘密を守ってきたかを、たしかめたかった。
「ハック、だれにもしゃべらなかったろうな――あれを」
「あれ、って?」
「わかってるだろ」
「ああ――しゃべらねえとも」
「ひとこともか」
「これっぽっちもな、ほんとだ。なんだって、そんなことをきくんだ?」
「心配だったからよ」
「おい、トム・ソーヤー、あれがばれてみな、二日と生きておれないぜ。わかってるだろ」
トムは気が軽くなってきた。ちょっとまをおいて、
「ハック、だれにも口を割らされないだろうな」
「口を割らされるってか。よう、あのあいのこの悪魔に、川へぶちこまれて殺されてもいいとなりゃあ、しゃべることもあろうが、そうでもなきゃあ、な」
「よし、それなら、いいんだ。しゃべらねえかぎりは、安全だよ。だが、ともかく、もういっぺん、誓いをたてよう。そのほうが、もっとたしかだ」
「いいとも」
そこでふたりは、恐ろしいほどおごそかに、誓いをかわした。
「世間のうわさってのは、なんだい、ハック? うわさはたくさん聞いたぜ」
「うわさだって? うん、マフ・パッター、マフ・パッター、マフ・パッターで、しょっちゅう持ちきりだ。こっちはずうっと、びくびくもんよ。どっかへ、かくれてえよ」
「おれのまわりだって、同じだ。やつは助からねえぜ。かわいそうだと思わねえかときどき?」
「いつだって――まあ、いつだって、思ってら。たいしたやつではないけれど、だれに悪いことをしたってわけじゃなし、な。ちょっと釣をやっただけだ、飲み代かせぎによ。――ぶらついてばかりいるってだけの話だ。そんなことは、おれたちだって、みんなやってるもんな。――みんな、そうだぜ――牧師さんたちだって、な。だが、あいつはいいとこがある。――いつだったか、魚を半分くれたもんだ、ふたり分はなかったんだ。おれが、ついてなかったときには、たびたび力になってくれたよ」
「うん、おれも|たこ《ヽヽ》を直してもらったぜ、ハック、それに釣糸に針をつけてくれた。なんとか、おれたちで、あそこから出してやれたらなあ」
「とんでもねえ! 出せるもんか、トム。それに、やっても、しようがねえ。また、つかまっちまわあ」
「うん――つかまるだろうな。でも、あいつが悪魔みたいにいわれるのを、聞いてはいられねえ、やってはいねえのにな――あれを」
「おれだって、よ、トム。この国でいちばん凶悪《きょうあく》づらの悪党だって、いってやがる。これまで首くくりにならなかったのが、おかしいって、よ」
「そうよ、いつでも、そんな口ぶりだ。やつが出てくるようなことになったら、みんなでリンチにしてやるって、いってたよ」
「やりかねねえな」
ふたりは長いこと話をしたが、たいしてなぐさめにはならなかった。夕暮れがせまってきたころ、ふたりは小さな、人里はなれた牢屋《ろうや》の近くをうろついていた。なにかが起こって、ふたりの悩みごとを一掃してくれないものかと、とりとめない希望をかけているようでもあった。だが、なんにも起こらなかった。この不運な囚人《しゅうじん》に興味をいだく、天使も妖精もいないらしかった。
ふたりは、これまでにも、なんどもしたように――牢屋《ろうや》の鉄格子《てつごうし》のところへ行って、パッターにタバコとマッチをやった。パッターは一階の部屋にいて、番人はいなかった。
ふたりのさし入れを、パッターの喜んでくれるのが、これまでも、いつも良心にこたえたが――こんどは、これまでにまして、ぐっと心にくいこんだ。パッターが話しだしたときには、自分たちが最も臆病《おくびょう》で、ひきょう者のような気がした。
「ほんとに、よくしてくれるな。この町にはおめえたちみたいなのは、いやしねえ。忘れねえぜ、忘れるもんか。よく、ひとりごとをいうんだ、『みんなの|たこ《ヽヽ》やなんかを、よく直してやった。よく釣れる場所を教えてやったものだ。あんなによくしてやったのに、つらい思いをしているときには、このマフじじいをすっかり忘れてやがる。だが、トムはそうじゃねえ、ハックはそうじゃねえ――あのふたりはおれのことを忘れてやしねえ』ってな。『おれも忘れやしねえよ』そりゃあな、恐ろしいことをしでかしちまった――あのときは、酔っぱらって、気が狂っていたんだ――そうとしか、いいようがねえ。――おかげでつるし首にされなきゃならねえ。あたりまえだよ、な。あたりまえで、いちばん、いいことだ。――なんとか、そうしてもらいてえ。まあ、こんな話はやめよう。いやな気持ちにさせたくねえ。よくしてくれたなあ。が、おれのいいてえのは、酒を飲むな、ってことだ。――飲みさえしなけりゃ、こんなところへはいることもねえ。ちょっと西へ立ってくれ――そうだ――そこだ。親切にしてくれるやつの顔を見るのが、なによりのなぐさめだ。こうやって、ひどくつらい思いをしていて、ほかにだれも来てくれないって時にはな。親切な顔だ――親切な顔だ。かわるがわる背中におんぶして、その顔にさわらせてくれ。そうだ。握手《あくしゅ》しよう――おまえらの手なら、格子《こうし》からはいるだろう。おれのは大きすぎてだめだ。小さい手だな、ひよわくってよ。――が、この手がマフ・パッターに力をかしてくれた。できれば、もっとやってくれるだろうにな」
トムはみじめな気持ちで家に帰った。その夜の夢は、こわいものつづきだった。つぎの日も、そのつぎの日も、トムはなんとかしてはいってみたいという思いにかられて、法廷のあたりをうろつきまわった。だが、ぐっとおさえて、外にとどまっていた。ハックも同じ思いだった。ふたりはつとめて、たがいに避け合い、ときどき、ひとりひとりで、ふらりと出かけたが、同じ気味の悪い魅力にあやつられて、いつもすぐにもどってきた。トムは法廷からぶらりと出てくる人があるたびに耳をそばだてたが、あいかわらず悲しい知らせを聞くばかりだった。「わな」はますますむざんに、あわれなパッターのまわりを、しめつけていった。二日めのおわりには、村じゅうの話では、インディアン・ジョーの証言は抜きさしならないもので、陪審員《ばいしんいん》の評決がどう傾くかは、疑問の余地がない、というようなことであった。
トムはその夜はおそくまで外に出ていて、窓からしのんで、ベッドにはいった。興奮しきっていた。何時間も眠れなかった。翌朝、村じゅうの人たちが裁判所に集まった。きょうがいよいよ重大な日だったからである。男も女も、ほぼ同じぐらいに、ぎっしりと傍聴《ぼうちょう》につめかけた。長い待ち時間があってから、陪審員が列になってくりこみ、席についた。それからすぐに、青ざめ、やつれ、おどおど、望みを失ったパッターが、くさりにつながれて、ひったてられてきて、みんなの物好きな目にさらされるところへすわらされた。それにおとらずめだったのはインディアン・ジョーで、あいかわらず、のっそりしていた。またちょっとまがあってから、裁判官がやってきて、保安官が開廷を宣した。弁護士のあいだに、例によってささやきがかわされ、書類をそろえる音がつづいた。こんなこまごましたことと、それにともなっておくれおくれしていることが、準備の空気をかきたてて、これがまた、魅力でもあれば印象的でもあった。
さて、ひとりの証人が呼び出されて、証言した。殺人が発見された日の早朝に、マフ・パッターが小川でからだを洗っているのを見かけた。パッターはそれからすぐに、こそこそと逃げた、といった。そのあと、いくつか質問があって、検事が反対|訊問《じんもん》をすすめて、いった。
「証人に質問を」
囚人《しゅうじん》はちょっと目を上げたが、自分の弁護人が口をきると、また目を伏せた。
「証人に質問はありません」
つぎの証人は、死体の近くでナイフを見つけたことを証言した。検事がいった。
「証人に質問を」
「証人に質問はありません」パッターの弁護人が答えた。
もうひとりの証人は、そのナイフをパッターが持っているのを、なんども見かけたことがある、と証言した。
「証人に質問を」
パッターの弁護人は質問をことわった。傍聴《ぼうちょう》人の顔に、おさえきれない憤《いきどお》りのようすが、浮かびはじめた。この弁護人はなんの勤めもしないで、依頼人《いらいにん》の命をうっちゃるつもりなんだろうか。
数人の証人が、殺人現場につれてこられたときの、パッターのくさいふるまいについて、証言した。この連中も、反対|訊問《じんもん》を受けることなく、証人台からおりることを許された。
あの朝、墓地で起こった惨劇《さんげき》の詳細《しょうさい》は、法廷にいるすべての人がよく覚えていることで、それを信頼すべき証人たちが、こまごまと述べたてたが、パッターの弁護人はだれひとりにも反対訊問をしなかった。法廷内の困惑《こんわく》と不満は、ぶつぶつ声となってあらわれ、判事席からとがめられた。ここで、検事がいった。
「一言たりとも疑いなき市民諸氏の宣誓によって、この恐るべき犯罪は、なんらの反論の余地もありえず、被告席なる、かの不幸な囚人《しゅうじん》のおかしたものであることが立証、明確になった。以上で検察がわのいい分をおわりとします」
あわれなパッターはうめきをもらし、両手に顔をおおって、からだを静かに前後にゆさぶった。そのあいだ、法廷には痛ましい沈黙がみなぎった。心を動かされた男たちは多く、女の人も同情のあまりに涙を流す人が多かった。被告の弁護人が立ち上がって、いった。
「裁判長殿、この審理《しんり》の当初に、あらかじめ申し上げておきましたように、当方の意図といたしましては、われわれの依頼人がこの恐るべき行為をおかしましたのは、飲酒による結果の、盲目的な、無責任な精神|錯乱《さくらん》のせいであることを、証明するつもりでありました。いまは考えが変わっております。その抗弁はいたしません」(それから、書記に向かって)「トム・ソーヤーを呼びなさい!」
満場の人びとの顔に、まごついたような喜びが浮かんだ。パッターの顔さえ例外ではなかった。トムが立ち上がって、証人台の席につくと、みんなの目が、なにごとかとばかりに、集中した。トムはひどく狂暴に見えた。とてつもなく、おびえていたからである。宣誓がなされた。
「トマス・ソーヤー、六月十七日の真夜中ごろ、きみはどこにいましたか」
トムはインディアン・ジョーの鉄みたいな顔を、ちらと見やった。すると、トムの舌《した》はこわばってしまった。傍聴人《ぼうちょうにん》たちは息をつめて、耳をすましたが、ことばが出てこなかった。それでも、ちょっとしてから、トムはいくらか力をとりもどして、声に威勢《いせい》をつけると、やっと法廷の一部に聞こえるぐらいになった。
「墓地に!」
「もう少し声を大きく。こわがらないで。きみがいたのは……」
「墓地」
小ばかにしたような笑いがインディアン・ジョーの顔をかすめた。
「ホス・ウィリアムズの墓の近くにいましたか」
「はい、いました」
「大きな声で――もう少し大きく。どれくらいの近くにいましたか」
「そこと、ここぐらいの近くに」
「かくれていたのですか、いなかったのですか」
「かくれていました」
「どこに?」
「墓のはしっこの、ニレの木のうしろに」
インディアン・ジョーはほとんど気づかれないぐらいに、ぎくりとした。
「だれかと、いっしょでしたか」
「はい。いっしょに行ったのは――」
「待って――ちょっと待って。つれの名まえはいわなくてよろしい。その人には適当なときに出てもらいます。なにか持っていきましたか」
トムはもじもじして、困ったふうだった。
「かまわず、いいなさい。――はずかしがらないで。真実はつねに尊敬すべきものです。なにを持っていったのですか」
「ほんの、あの――死んだねこです」
笑い声が起こって、裁判官がそれをやめさせた。
「そのねこのがい骨をここに提出します。さて、トムくん、そこであったことを、すっかり話してください。――きみの話しいいように、いいなさい。――話をはしょったりしないで。それに、こわがらないで」
トムは話しはじめた。――はじめはもじもじしていたが、話に身がはいってくると、ことばがすらすらと出てきた。まもなく、しんと静まりかえって、トムの声だけがひびいた。目という目がトムにそそがれていた。ぽかんと口をあけ、息をこらして、聴衆《ちょうしゅう》はトムのことばに聞き入った。時のたつのも忘れ、その話のぞっとするような、こわいもの見たさの魅力にひきこまれていた。息づまる感情の緊張がクライマックスに達したのは、トムがこういったときだった。
「そして、お医者さんが板をふりまわして、マフ・パッターが倒れると、インディアン・ジョーがナイフを振りかざしてとびかかり、それから――」
ガチャン! いなずまのようにすばやく、あいの子は窓を目ざしてすっとび、じゃまものをけ散らして、一目散《いちもくさん》に逃げてしまった!
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第二十五章 あとのたたり
トムはふたたび輝かしい英雄にたちもどった。――おとなたちのいい子、こどもたちのうらやみの的になった。その名は印刷物にのって、不朽のものとさえなった。村の新聞がトムの名をかきたてたからである。わるさをやってはきているが、それでも大統領になる男だ、こののち悪事を働いて絞首刑《こうしゅけい》にさえならなければ、きっとなれる、と信じている人たちも、いくらかあった。
例によって、気まぐれで、わけのわからない世間は、マフ・パッターを暖かく胸に抱きしめて、前にいじめぬいたと同じぐらい、やたらといたわった。しかし、こういったふるまいは、世間の名誉になることだから、とがめだてをするには当たるまい。
昼間の毎日はトムにとっては栄光と歓喜の日日であったが、夜ともなれば恐怖に見舞われるときだった。みる夢という夢にインディアン・ジョーが立ちあらわれ、いつもその目に殺気をこめていた。どんなに誘われても、トムは夜になってしまうと、外を出歩くことはしなかった。あわれなハックも同じく、みじめで、恐ろしい状態だった。あの審理が行なわれた重大な日の前夜、トムはいっさいの話を弁護士に打ち明けてしまっていたからで、自分もこの件には一役買っていることがもれはしまいかと、とても心配だった。インディアン・ジョーが逃亡したために、法廷で証言する重荷だけは、まぬがれたというにすぎなかった。かわいそうにハックは、弁護士には秘密をまもるという約束をしてもらってはあったが、それがなんになるだろうか。トムも良心に苦しめられたあげくには、夜、弁護士の家へかけこみ、ものすごいとも、恐ろしいとも、あれほどの誓いをたてて、口を割るまいときめていた、その口の下から、恐ろしい話をはき出してしまったのであるから、人類に対するハックの信頼感は、ほとんど消えうせてしまっていた。
昼ともなれば、マフ・パッターから感謝されてみると、しゃべってよかったと思うものの、夜ともなれば、口を閉じておればよかったのに、と思うのだった。
一日の半分は、インディアン・ジョーはつかまりはしないだろうと心配し、あとの半分も、やっぱりつかまるだろう、と心配だった。どのみち、やつが死んじまって、その死体を目にしないうちは、安心して息もつけない、という気がしていた。
賞金がかけられ、その地方一帯がさっそくにさがされたが、インディアン・ジョーは見つからなかった。あの全知全能、おそれおおくも、かしこいきわみの驚くべき人物のひとり、かかる探偵《たんてい》なる者が、セント・ルイスからやってきて、さがしまわり、首をふり、わかったような顔をして、まずは例の大成功をおさめた。探偵|稼業《かぎょう》の面めんがなしとげる、いつもの大成功である。つまり、この男は「手がかりをつかんだ」のである。しかし、「手がかり」を殺人のかどで絞首刑《こうしゅけい》にかけるわけにはいかない。そこで、その探偵が仕事をおえて帰ってしまったあとでも、トムは前と同じに不安におびえていた。
日はのろのろと過ぎていった。そして一日一日が、わずかながらに、不安な心の重荷を、ときほぐしていった。
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第二十六章 宝さがし
正常な生活を送っている少年には、だれにも、どこかへ出かけて、かくされた宝を掘り出したいという、はげしい欲望にかられる時期が来るものである。ある日、とつぜん、この欲望がトムをおそった。ジョー・ハーパーを見つけに、いせいよく出かけたが、見つからなかった。つぎにベン・ラジャーズをさがしてみた。ベンは釣に出かけてしまっていた。まもなく、血まみれ手のハック・フィンにひょっこり出くわした。ハックなら、うってつけだ。トムはハックを人目につかないところへ連れていって、こっそりとそのことを打ち明けた。ハックは乗り気になった。楽しみがあって元手がかからない計画なら、ハックはいつでも喜んで参加した。「時は金なり」どころか、金にならない時が、ありあまって、もてあましていたからである。
「どこを掘るんだ?」ハックはいった。
「どこだって、いいんだ」
「へえ、そこらじゅうに、かくしてあるのか」
「いや、そうとはいかないよ。うんと特別な場所にかくしてあるんだ。ハック――島のこともあれば、くさった箱の中のこともある。古い枯れ木の枝先の下で、ちょうどその枝の影が真夜中に落ちるところ、なんだな。だが、まあたいていは幽霊屋敷の床下だよ」
「だれが、かくすんだ?」
「そりゃ、どろぼうだよ、きまってら。――だれだと思ってるんだ? 日曜学校の校長さんてのかい?」
「知らねえよ。おれのものだったら、かくしたりしねえ。ぱっと使って、楽しい思いをするな」
「おれだって、よ。ところがどろぼうはそんなこたあしないんだ。いつでも、かくしたままにしておくんだ」
「それっきりにして、もうとりに来ないのか」
「うん、くるつもりでも、目印を忘れたり、死んじまったりしちまうんだ。とにかく、実物は長いこと埋められたままで、さびてくるんだ。そのうち、だれかが古い黄色くなった紙を見つける、それに目印の見つけかたがかいてあるやつだ。――それを読み解くには一週間はかかる、たいてい符号や暗号でかいてあるからな」
「アン――なんだって?」
「暗号だよ――絵だの、なんかで、よ。なんだか、わけのわからないようなもんだ」
「そんな紙を、手に入れたのか、トム」
「いいや」
「なら、どうやって目印を見つけるんだ?」
「目印なんかいらないや。やつらは幽霊屋敷の床下とか、島とか、枝がつき出ている枯れ木の下とか、埋めるところは相場がきまっているんだ。ほら、ジャックスン島でちょっとやってみたろ。あそこは、いつか、もういっぺんやってみることにして、スティル・ハウスの小川の上流に、古ぼけた幽霊屋敷があるぜ。枯れ枝の木もたくさんある――どっさりとな」
「どの木の下にも、あるのか」
「なにいってやがる! そうは、いかん!」
「なら、どうやって、こいつにしようとわかるんだ?」
「みんな、当たってみるんだ」
「へえ、トム、夏じゅうかからあ」
「それがどうした? 真鍮《しんちゅう》のつぼを見つけてみな、百ドルもはいっているやつ、さびついてはいるが、すばらしい金貨が、よ。それとも、ダイヤモンドのつまった、くさった箱とか、な。どうだい?」
ハックの目が輝いた。
「そいつは、すげえや。こたえられねえぞ。百ドルもらうだけでいい、ダイヤはいらねえ」
「いいとも。だが、いいか、ダイヤはそまつにしねえよ。一個で二十ドルもするのがあらあ。――そうでなくても、七十五セントか一ドルするのはざらだぜ」
「まさか! そうかなあ」
「そうとも――だれにでも聞いてみな。見たことなんか、ねえな、ハック?」
「さっぱりな」
「王さんたちは、どっさり持ってるんだぜ」
「ふん、王さんなんか、知らねえよ、トム」
「だろうな。でも、ヨーロッパへ行きゃあ、どっさり、うようよとびはねてらあ」
「とびはねるのか」
「とぶ? ――ばかいうな! とんだりするか!」
「なぜ、そんなこといった?」
「ちえっ、ただ、そんなのがいるってことだ。――とんだりするもんか――とびたがるわけがないよ。――ただ、いるってことだ――そのへんに、うようよとな、そこらじゅうに。あのせむしのリチャード王(リチャード三世。シェイクスピア作、同名の劇の悪魔的主人公。ロンドン塔での、エドワード四世の幼い王子兄弟を殺害したのは有名)みたいなのがよ」
「リチャード? 名字《みょうじ》はなんだ?」
「名字なんて、あるもんか。王さんてのは、名まえだけしかないんだ」
「ないのか」
「ないんだな」
「ふん、王さんがそれでいいってんなら、トム、それでいいんだ。だが、おれは王さんになりたかねえ、名まえだけじゃいやだな、ニグロみたいだ。だが、よう――どこから掘ろうてんだ?」
「うん、どこからやるかな。あの古い枯れ枝の木からやってみるか、スティル・ハウス川の向こうがわの丘にあるやつだ」
「いいとも」
そこでふたりは、こわれかけたツルハシとシャベルをとってきて、五キロもの徒歩旅行に出かけた。暑いさなかを、ふうふういいながら到着すると、近くのニレの木影に身を投げ出して、ひと休みに一服した。
「いい気持ちだな」トムがいった。
「おれもだ」
「なあ、ハック、ここで宝を見つけたら、分けまえでなにをやるかい?」
「そうだな、毎日パイを食って、ソーダを一杯のんで、サーカスがくれば、どれもこれも見にいくな。きっとおもしろい毎日だぜ」
「ちっとはためとかないのか」
「ためる? なんのためだ?」
「そりゃ、だんだん、暮らしのたねにするために、よ」
「ああ、そいつはなんにもならねえ。おやじがそのうち、この町へもどってきて、かっさらっちまわ、いそいで使っとかなきゃな。あっというまに、きれい、さっぱり使っちまうよ。おまえのはどうする、トム?」
「おれは買うな、新しいドラムと、本物のナイフと、赤いネクタイにブルドッグの子だ。そいで、結婚する」
「結婚?」
「そうよ」
「トム、おまえ――こいつあ、正気じゃねえよ」
「待ってろ――いまにわかる」
「まあ、そいつは、よくよくばかなことだぜ。おれのおやじやおふくろを見てみろよ。けんかだ! しょっちゅう、けんかのしずめだ。よく覚えてるよ」
「そんなことは、なんでもない。おれが結婚する女の子は、けんかなんか、しないよ」
「トム、女なんて、みんな同じだぜ。みんな、ひっかくんだ。まあ、よく考えたほうがいいぞ。うそはいわねえ。そのスケはなんていうんだ?」
「スケじゃねえや――女の子だ」
「同じだがな。スケっていうやつもいるし、女の子っていうのもいる――どっちだっていい。似たようなもんだ。とにかく、なんてえ名だ、トム?」
「そのうち、教えるよ――いまは、だめだ」
「まあ、よかろう。おまえが結婚しちまうと、ぐっとさびしくなるな」
「そうはさせない。おれんとこへ来て、いっしょに暮らせばいい。さあ、ひとふんばり、掘りにかかろうぜ」
ふたりは三十分ほど汗たらたらに働いた。なにも見つからなかった。もう三十分、ほねおってみた。それでも、なんにも出てこなかった。ハックはいった。
「いつでも、こんなに深く埋めとくのか」
「時にはな。――いつもとはかぎらない。たいていは、こんなことはないんだ。ここじゃないようだな」
そこでふたりは、新たな場所を選んで、また掘りはじめた。いくらか、のろくはなったが、それでも掘りすすんだ。ふたりはしばらく黙ったまま、せっせと働いた。とうとうハックはシャベルによりかかって、そででひたいからたれる玉の汗をぬぐって、いった。
「つぎはどこを掘るんだ、ここをやったら?」
「向こうのカーディフ丘の、後家《ごけ》さんところの裏にある古い木、ということになるかな」
「そいつはいいと思うが、後家さんがとり上げちまわないか、トム。あそこは後家さんの土地だからな」
「後家さんがとり上げるってか! そりゃ、やりたくなるかもしれん。でも、かくした宝を見つけりゃあ、そいつは見つけた者のものになるんだ。だれの土地にあろうが、かまやしないんだ」
それなら文句はなかった。仕事はつづいた。やがて、ハックがいった。
「ちくしょう、また見当ちがいにちがいねえ。どう思う?」
「ほんとに、おかしいな、ハック。わけがわからねえ。魔法使いがじゃますることもある。どうやら、そのせいらしいぜ」
「なにいってやがる。魔法使いは昼間に魔力がきくもんか」
「うん、そうだな。そいつに気がつかなかった。それでわけがわかったよ。とんでもねえばかをやったもんだ! 真夜中にあの枝の影が落ちるところを見つけるんだった。そこを掘るんだよ!」
「ちきしょう。まるでほねおり損ってとこだ。いまいましいが、夜に出直しだ。とてつもなく遠いぜ。おまえ、出てこれるか」
「出てくるとも。今夜やらなくては。だれかにこの穴を見られたら、なにがあるか、すぐにわかって、持っていかれちまわ」
「よし、今夜はおまえのところへまわっていって、ニャオって、合図してやる」
「よしきた。道具は茂みにかくしておこう」
ふたりはその夜、決めた時間ごろに、そこへやってきた。木影に腰をおろして、待っていた。さびしい場所だった。時刻は、昔からのいい伝えで、おごそかなころあいだった。精霊は葉ずれの音の中でささやき、幽霊は暗いすみずみにひそみ、陰《いん》にこもった犬の遠ぼえが聞こえてくると、フクロウが陰気な声音《こわね》で答えた。こうしたおごそかさにけおされて、ふたりはほとんど口をきかなかった。やがて、十二時になったころだと察しをつけ、影の落ちているところに印をつけて、掘りはじめた。希望がわいてきた。興味がだんだん強くなり、それに合わせて作業がはずんだ。穴は深くなり、なお深くなっていったが、ツルハシがなにかに当たった音がするたびに、胸をおどらせたものの、がっくり、がっくりのくりかえしだった。石ころか、木片にすぎなかった。とうとう、トムがいった。
「ついてねえや、ハック、また、まちがえたぜ」
「うーん、まちがえるはずはねえんだがな。ぴったり影のところに印をつけたんだぜ」
「そりゃ、いいんだが、すると別のわけがあるんだ」
「どんなわけが?」
「なあ、時刻が当てずっぽうだったぜ。早すぎたか、おそすぎたかもしれん」
ハックはシャベルを落とした。
「それだ」ハックはいった。「それがいけねえんだ。あきらめるんだな。正確な時間はわかりっこねえし、それに、こんなことは、こわすぎらあ。ここじゃ、夜のこんな時間には、魔法使いや幽霊が、そこらをうろちょろしているしよ。いつでも、うしろになにかがいるようで、こわくって、ふり向けねえ。前ではほかのやつが、すきをうかがっていやがるかもしれんからな。からだじゅう、ぞうっとしどおしだぜ、ここへ来てからよ」
「うん、おれだって、同じことよ、ハック。やつらはたいてい、きまって、宝ものを木の下に埋めるときには、死人を投げこんどくんだ。宝の番をするようによ」
「ひえー!」
「うん、そうするんだ。いつでも、そんな話だった」
「トム、死人どもがいるところで、うろうろしているのは、まっぴらだ。死人とかかり合うのは、わざわいのもとだよ」
「おれだって、死人を起こしたくねえよ。ま、ここにいる死人が、しゃれこうべをつき出して、なんとか、いってみろよ!」
「やめてくれ、トム! こわいや!」
「ほんとに、こわいこった。ハック、いい気持ちはしないな」
「よう、トム、ここはやめて、どこか、ほかをやろうや」
「ようし、そのほうがいいようだ」
「どこがいいかな?」
トムはちょっと考えてから、いった。
「幽霊屋敷。ぴたりだ」
「やだよ、幽霊屋敷はまっぴらだ、トム。なあ、そいつは死人より、ずっといけねえよ。死人はものをいうかもしれないが、気がつかねえうちに、きょうかたびらで、こっそりやってきて、まるでだしぬけに肩ごしにのぞきこんだり、歯ぎしりなんかはしねえもんな。幽霊なら、それをやるんだ。そんなの、がまんできねえよ、トム。――だれだってな」
「うん、だがな、ハック、幽霊が出歩くのは、夜だけなんだぜ。昼間に掘るなら、じゃましないだろう」
「そりゃ、そうだ。だが、昼間だって、夜だって、あの幽霊屋敷のあたりへは、だれも近よらねえじゃねえか」
「そうとも。人が殺されたところへなんぞ、あんまり行きたがらねえもん。――でも、あの家のあたりには、なんにもお化けは出やしなかった、夜は別だがな。――それも、なんだか青い火が窓をかすめていくだけのことでよ。――幽霊っていうほどのことはないんだ」
「青い火がちらちら見えるところにゃあ、きっとすぐうしろに幽霊がいるんだぜ。それで話が通るんだ。幽霊でなきゃ、青い火なんか使うもんかよ」
「うん、そうだよな。だが、昼間は出てこないんだから、こわがることはねえよ」
「よし、きた。そういうんなら、幽霊屋敷にかかろう。――でも、一《いち》か八《ばち》かの仕事だな」
このころには、ふたりは丘をおりかけていた。下方の、月に照らされている谷の中ほどに、その幽霊屋敷が立っていた。あたりに人家のない、まったくの一軒家で、垣根もずっと昔になくなっていて、茂りほうだいの雑草が玄関までののぼり段にまではびこり、煙突はくずれたまま、窓わくもあとかたなく、屋根の片すみが落ちこんでいた。ふたりはしばらく目をやっていた。青い火が窓をかすめてひらひらするのが、見えるかもしれないと思ってもいたのである。それから、時刻といい、場所がらといい、それにふさわしく、低い声で話しながら、右手のほうへ、ずっとはなれた道をとり、幽霊屋敷を遠くよけて、カーディフ丘の裏がわに茂る森をぬけて家路についた。
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第二十七章 幽霊屋敷の財宝
翌日の昼ごろ、トムとハックは枯れ木のところへやってきた。道具をとりにきたのであった。トムは幽霊屋敷へ行きたくてうずうずしていた。ハックとて、はやる気持ちに変わりなかったが――とつぜん、いった。
「おい、トム、きょうは何曜日だか、知ってるか」
トムは心の中で曜日をくってみた。それからすぐ、びっくりしたような目を上げた――
「ひゃあ、そいつは気がつかなかったよ、ハック!」
「うん、知らなかったな。ひょっと気がついたんだ、金曜日だってことが」
「ちくしょう、でも用心にこしたことはねえな、ハック。ひでえめに会うかもしれねえぜ、金曜日にこんなことに手を出したりして」
「会うかも、って! 会うにきまってるって、いったほうがいいぜ! ほかにめぐり合わせのいい日もあらあな。だが、金曜日はいけねえや」
「そいつはばかだって承知だ。おまえから、はじめて聞く話じゃないよ、ハック」
「おれがはじめてだって、いってやしねえや。それに、金曜日ってことだけじゃない。ゆうべは、いやな恐ろしい夢を見たんだ――ネズミの夢をな」
「そうか! たしかに悪いきざしだ。ネズミはけんかしたか」
「いいや」
「それなら、いい、ハック。けんかをしなければ、悪いことがありそうだという、しるしだけなんだ。しっかり気をつけて、巻きこまれないようにしてればいいんだ。きょうはやめにして、遊ぶとするか。ロビン・フッドを知ってるか、ハック」
「いいや。ロビン・フッドって、だれだ?」
「うん、イギリスでいちばん偉かった――いちばんいい人のひとりで、どろぼうだったんだ」
「すばらしいな。おれもなりてえな。だれのものをとったんだい?」
「代官とか僧正《そうじょう》とか、金持ちに王さん、そんな連中からばっかりな。貧乏人はいためなかった。貧乏人が好きでよ。いつでもきちんと公平に分けてやってた」
「ほう、いかせるやつだったんだな」
「きまってらあ、ハック。うん、このうえなくりっぱな男だったんだ。いまじゃ、あんな人物はいねってことよ。イギリスのどんなやつでもやっつけることができた、片手をうしろにしばられたままでよ。イチイの弓をとれば、百発百中、二・五キロも離れたところから、十セント玉を射当てることができたんだぜ」
「なんだ、イチイの弓って?」
「知らねえ。なんかの弓にはちがいない。その十セント玉の端しかこすらなかったときには、すわりこんで、叫んで――のろったもんだ。なあ、ロビン・フッドごっこをやろう――おもしろいぜ。教えてやるよ」
「よし、やろう」
そこでふたりは午後ずうっと、ロビン・フッドごっこをした。ときどき幽霊屋敷を見おろして、せつない目をそそぎ、あすのうまくいきそうな見込みについて話をした。日が西に沈みはじめると、木々の長い影を横切って家路につき、すぐにカーディフ丘の森の中に、姿を消していった。
土曜日の、正午をすこし過ぎたころ、ふたりはまた枯れ木のところにやってきた。木影で一服して、ひとしゃべりしてから、前に掘りかけた穴を、少しばかり掘ってみた。たいして望みもかけていなかったが、トムのいったことが気になったからである。もう十五センチというところまで掘りすすんだのに、そこで宝ものをあきらめたばっかりに、あとから来たのが、ほんのひと掘りで宝を掘り出す、といったような場合がとても多い、というのであった。しかし、このときは、そうはいかなかった。そこでふたりは道具をかついで、立ち去った。幸運というものをばかにしないで、宝ものさがしの仕事につきものの苦労は、するだけやった、という気がしていた。
幽霊屋敷に着くと、焼けつくような太陽の下で、ひっそり静まりかえったあたりには、ぞっとするばかりのきみわるさが、ただよっていた。ここのさびしさと荒れようは、気がめいるばかりで、ふたりはしばらくこわさのあまりに中へはいれなかった。それからドアのところへしのびよって、びくびくものでのぞきこんだ。雑草ののびた、床のない、壁土もとれた部屋、古めかしい暖炉《だんろ》、裸の窓、こわれ果てた階段が見えた。こちらにも、あちらにも、どこもかしこも、たれさがったぼろぼろの乱れたクモの巣だらけだった。やがてふたりはそっと踏みこんだ。動悸《どうき》はたかまり、話は低い声で、ささいな物音とて聞きもらさないように耳をそばだて、身をかたく、すぐにも逃げ出せるかまえだった。
しばらくすると、なれてくるにつれてこわさがうすらいできて、この場所をおもしろ半分にくわしく調べてみた。自分たちの大胆さを見上げたものと思ったり、驚いたりもしていた。つぎには、二階が見たくなった。これは逃げ出す道をふさぐことになるわけだったが、たがいに上がってみるといい張って、どうにもこうなるよりほかにはなかった。――道具をすみっこに投げ出して、上がってみた。二階も同じように荒れっぱなしだった。一すみに押入れがあって、なにかいわくがありそうだったが、あてがはずれて――なんにもはいっていなかった。そうなると、勇気がわいて、落ち着いてきた。ぼつぼつ降りていって、仕事をするつもりになったとき――
「しっ!」トムはいった。
「なんだ?」ハックがささやいた。こわさで、まっさおだった。
「しっ! ……ほら! 聞こえるか」
「うん! ……どうしよう! 逃げよう!」
「じっとしてろ! 動くな! ドアのほうへやってくるぜ」
ふたりは床に腹ばいになって、床板の節穴《ふしあな》に目をくっつけ、こわさにふるえながら、待っていた。
「やつら、立ち止まったぞ。……いや……やってくる。……来た、来た。もう口をきくな、ハック。しまったな、来なきゃよかった!」
男がふたり、はいってきた。トムもハックも心の中でつぶやいた。
「あれは、耳も聞こえん、口もきけないスペインじいさんだぞ、ちかごろ、一、二度町へやってきたことがあるんだが。――もひとりのほうは、見かけたことがねえな」
「もひとり」はぼろをまとった、だらしない男で、にくにくしい顔つきだった。スペイン人はお国がらのセラーペイ(スペイン系のアメリカ人が身にまとう毛布)毛布にくるまり、白いあごひげがもじゃもじゃで、長いしらががつば広のサムブレーロウ帽の下からたれさがり、みどり色のめがねをかけていた。そのふたりがはいってきたとき、「もひとり」が低い声で話しかけていた。地面に腰をおろして、ドアのほうを向き、壁を背にして、その男はしゃべりつづけた。いくらか気をゆるしたようすで、ことばが前よりはっきりしてきた。
「いけねえよ」その男はいった。「よく考えてみたけれど、感心しねえな。やばいよ」
「やばいって!」『口のきけない』スペイン人がうなるようにいった。――『口のきけない』者がしゃべるとは、トムにもハックにも驚きだった。「腰抜けめ!」
その声に少年たちは、息がつまって、ふるえ上がった。インディアン・ジョーの声だった! しばらく沈黙があって、ジョーがいった。
「やばいったって、あの川上での仕事ぐれえ、やばいものはなかったぜ。――でも、足がつくようなことは、なかったじゃねえか」
「ありゃあちがう。あんな川上だし、あたりにゃ、ほかに家がなかったんだからな。とにかく、どじを踏んだんだから、やったことがばれる気づかいはねえ」
「ふん、まっ昼間にここへ来るなんてのは、やばい骨頂《こっちょう》だぜ。――人に見られたら、あやしまれらあ」
「知れたことよ。だが、あんなへまをやらかしたあとでじゃあ、ほかにこんなてごろな場所はなかったからな。こんなあばらやから出ていきてえよ。きのうにもそうしたかったんだが、ここを動くのはまずかっただけよ。いまいましいったら、あの餓鬼《がき》めらが丘で遊んでやがって、まる見えだったからな」
「いまいましいったら、あの餓鬼《がき》めら」ということばを聞くと、また、ぞっと身ぶるいした。金曜日であることを思い出して、一日のばすことにしたのが、なんて運のいいことかと思った。胸の中では、一年待っているんだった、と思った。
ふたりの男はなにか食い物をとり出して、弁当を食べた。黙って、じっと考えこんでいてから、インディアン・ジョーがいった。
「おい――おめえ、もとの川上へ帰れ。おれが便りをするまで、待ってろよ。おれはもういちどだけ、なんとかこの町へもぐりこんで、ようすを見てみる。ちょっとさぐりを入れて、うまくいきそうだとわかったら、その『やばい』仕事をやろうじゃねえか。それからテキサスへ高飛びだ! いっしょに、ずらかろうぜ」
これで話がついた。やがて、ふたりはあくびをして、インディアン・ジョーがいった。
「くたくたで、眠いや! おまえが見張りの番だ」
ジョーは草の中に、まるくなって転がると、すぐにいびきをかきはじめた。相棒が一、二度ゆさぶると、静かになった。やがて見張りも、こっくりこっくりやりだした。頭がだんだんたれて、ふたりともに、いびきをかきはじめた。
少年たちは、ほうっと、助かったとばかりに息をついた。トムが小声でいった。
「いまのうちだ――来い!」
ハックはいった。
「おら、いやだ――やつらが目をさましてみろ、殺《や》られちまわあ」
トムはせきたて――ハックはしりごみした。とうとうトムはそっと静かに立ち上がって、ひとりで歩きだした。だが、ひと足踏み出しただけで、割れめだらけの床が、恐ろしい音をたててきしんだので、恐怖のあまりに生きた心持ちもなく、へたばりこんでしまった。とても、二度とはやれなかった。少年たちはそこに横たわって、のろのろと時のたっていくのを計っていた。しまいには、この世がおしまいになって、永遠が、しらが頭になってしまったような気がしてきた。それから、やっと太陽が沈みはじめているのに気がついて、救われた思いがした。
すると、片方のいびきがやんだ。インディアン・ジョーが起き直って、あたりを見まわした。――相棒を見て、にやりときみ悪く笑った。スペイン人は頭を両ひざにたれたままだった。――そいつを足でゆさぶり起こして、いった。
「おい! 見張りじゃねえのか! まあ、いい。――なんてことはなかった」
「いけねえ! 眠っちまったか」
「ああ、ちょっくらな。もうぼつぼつ、みこしを上げてよさそうだぜ、相棒。このちょっとばかり残った獲物はどうしたもんかな」
「さてな。いつものでんで、ここへ置いとくんだな。南へずらかるまでは、持っていったって、しようがねえ。銀貨で六百五十てのは、ちょっとした重荷だ」
「よし――そうするか――もういちど、ここへもどってくるのは、わけはねえ」
「そうとも。――だが、いつものように、来るのは夜にするんだな。――そのほうがいいぜ」
「そうよ。だが、よう、おれがあの仕事の潮時《しおどき》をつかむまでには、かなりのひまがかかるかもしれねえ。万一のことがあるかもしれん。あんまりいい場所でもねえ。ぬからず埋めておこうぜ――うんと深くな」
「よく気がついた」
相棒はそういって、部屋を横切り、ひざをついて、暖炉の奥の石の一つを持ち上げ、ジャラジャラと気持ちのいい音のする袋をとり出した。彼は自分用に二、三十ドル、インディアン・ジョーにも同じくらい抜き出して、袋をジョーにわたした。ジョーはこのとき、すみっこでひざをついて、猟刀のボウイナイフで穴を掘っていた。
少年たちはとたんに、こわさも、つらさも、すっかり忘れてしまった。うめえぞ、という目で、やつらの一挙一動を見守っていた。しめた!――そのすばらしさは、どう想像したって、しきれなかった! 六百ドルというのは、こども六人が金持ちになれるだけの大金だった! 宝さがしも、ここまでくれば、幸先《さいさき》のいいこと、無上というものだ。――もう、どこを掘ったらいいかと、うろちょろ迷うこともない。ふたりは、そらそらとひじをつっつき合っていた。――口にいわずとも、ひじが物をいう、というわけで、すぐに通じる。いっていることは、かんたんだったからである――「ほう、ここに居合わせたってのは、まがいいじゃねえか!」
ジョーのナイフがなにかにつき当たった。
「おい!」彼はいった。
「なんでえ、そりゃ?」相棒がいった。
「くさりかけの板だ――いや、箱らしいぜ。よう――ちょっと手を貸せ。なにがはいってるんだか。もういい、穴をあけた」
彼は手をつっこんで、引き出した。
「おい、かねだ!」
ふたりの男は、ひとつかみの貨幣《かへい》をしらべた。金貨だった。二階の少年たちも、彼らと同じようにわくわくして、うれしくなった。
ジョーの相棒がいった。
「早いとこ、こいつをかたづけよう。向こうにさびた古いツルハシがあるぜ。暖炉の向こうがわの、すみっこの草ん中だ。――さっき見かけたんだ」
彼は走って、少年たちのツルハシとシャベルを持ってきた。インディアン・ジョーはツルハシを手にして、しげしげとながめわたして、首をふり、なにかひとりごとをつぶやいてから、それを使いはじめた。箱はすぐに掘り出された。そんなに大きくはなかった。鉄の帯がかかっていて、ずいぶんとがんじょうだったのが、長い年月のうちにこわれていたのだ。男たちはうれしさに口もきけずに、しばらく宝ものを見つめていた。
「相棒、こりゃあ、なん千ドルってあるぜ」インディアン・ジョーがいった。
「マレルの一味が、ひと夏ここらをうろついていたって、ことだからな」見知らぬ男がいった。
「知ってらあ」インディアン・ジョーはいった。「どうやら、こいつはそうらしい」
「こうなりゃ、あの仕事をするにゃおよぶめえ」
あいのこはまゆをしかめて、いった。
「おれの気持ちがわかっちゃいねえな。すくなくとも、あの仕事のこたあ、まるきりわかってねえんだ。あれはな、ぬすみをやるんじゃねえ。――意趣《いしゅ》晴らしだ!」その目に凶悪《きょうあく》な炎が燃えた。「それにはおまえの手が借りてえんだ。かたづいたら――テキサス落ちだ。ナンスやこぶのところへ帰っていな。おれの知らせがあるまで待っていろ」
「うん――そういうんならな。こいつは、どうするか――また埋めとくか」
「ああ。(上では、狂喜)いけねえ! とんでもねえよ、だめだ!(上では、がっくり)忘れるところだった。あのツルハシには土の新しいのがついてたぜ!(たちまち少年たちは恐ろしさにちぢみ上がった)なんのために、ツルハシやシャベルがここにあるんだ? なんで、新しい土がついてるんだ? だれがここへ持ってきた?――そいつらはどこへ行ったんだ? だれかの足音を聞かなかったか――だれか見かけなかったか? なんだって! また埋めといて、地面が荒らされてるのを、やつらに見に来させようってのかい? どっこい――そうはいかねえ。おれの巣へ運ぼう」
「そりゃ、そうとも! はじめっから気がつきそうなものだった。巣は一号にするか」
「いや――二号――十字架の下だ。一号はいけねえ――見えすきすぎらあ」
「よしきた。そろそろ暮れてきた。出かけるにはいいぜ」
インディアン・ジョーは立ち上がって、窓から窓へ行き、用心ぶかく外をのぞいた。やがて、いった。
「だれがこんな道具を持ってきやがったのかな。どうだ、二階にいやがるんじゃねえか」
少年たちの息の根が止まった。インディアン・ジョーはナイフに手をかけ、ちょっと立ち止まって、どうしようかと迷っていたふうで、それから階段のほうへ向かった。少年たちは押入れのことが頭に浮かんだが、力が抜けてしまっていた。足音が、みしみしと階段を上がってきた。――いまや絶体絶命、そのせとぎわが、少年たちのやぶれかぶれの決心をふるいたたせた。――押入れへ飛びこもうとしたときである。くさった材木のめりめりという音がして、インディアン・ジョーは地面へもんどり、階段のくずれ落ちた山の中へおっこった。ぶつくさいいながら、やっと立ち上がると、相棒がいった。
「おい、なにをやってるんだ。だれかが上にいるんなら、おらせとけよ――かまうこたあねえ。飛びおりて、痛いめがしてえんなら、やってやるぜ。十五分もすりゃ、暗くなる。――つけてきたけりゃ、つけさせるがいい。かまやしねえ。おれにいわせればな、だれがこんなものを持ちこんだにしろ、おれたちを見かけて幽霊かお化《ば》けかぐれえに思ってらあ。走って逃げてるにきまってらあ」
ジョーはしばらく、ぶつくさいっていた。それから相棒の意見を聞き入れて、日のあるうちに、少しでも早く、ここを立ち去るしたくにかかった。まもなく、彼らは夕闇《ゆうやみ》のこくなるのにまぎれて、この家を抜け出し、だいじな箱をかかえて、川のほうへ歩いていった。
トムとハックは立ち上がった。弱ってはいたが、ほっとした思いで、彼らの姿を、家の丸太のすきまから、あと見送って見やっていた。あとをつけるって? とんでもないこと。ふたりは首の骨も折らずに、もいちど地面に足をつけ、丘を越えて町への道を行けることで満足だった。あまりしゃべらなかった。つくづく自分たちにあいそうがつきて、――シャベルやツルハシをあそこへ持ちこんだ不運がうらめしかった。そんなことさえしなければ、インディアン・ジョーはあやしまなかったろう。銀貨は金貨といっしょに、「意趣晴らし」がすむまでは、あそこへかくしたままにしておいて、あとで残念無念、かねがなくなっているのにぎょうてんしたであろうに。道具を持っていったとは、なんともかとも、ついてなかった!
あのスペイン野郎が町へ来て、意趣晴らし仕事の機会をさぐろうってときには、ずっと気をつけていて、どこであろうと、「二号」の巣まで、あとをつけていこうと、ふたりは決心した。すると、ぞっとするようなことが、ふとトムの頭に思い浮かんだ。
「意趣晴らしか? おれたちのことだったら、どうしよう、ハック?」
「おい、よせやい!」ハックは気を失うばかりだった。
ふたりはそのことを、とことんまで話し合った。町へ足を入れたときに、ふたりがそうだと思いこんでいたのは、まずまあ、他のだれかのことかもしれん――まかりまちがっても、トムだけのことかもしれない。証言したのはトムだけだったんだから、ということだった。
自分ひとりが、危険にさらされているというのは、トムにとっては、なんともはや、いい気持ちではなかった! 道連れがあれば、うんと気が安まるのに、とトムは思った。
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第二十八章 なぞの二号室
その昼間の冒険のおかげで、トムはその晩、さんざん悪夢になやまされた。四度もあの財宝に手をかけながら、四度とも指の中で、すうっと消えうせてしまった。目がさめて、わが不運の痛ましい現実にかえるということになる。朝早く、横になったまま、あの大冒険のあれやこれやを思い出していると、それが不思議におぼろげな、遠いものに思え――まるで別世界の、それとも、ずっと古い昔のできごとみたいな気がした。すると、あの大冒険そのものが夢にちがいない、と思えてきた。そう思うのもむりはない、強い理由が一つあった。――つまり、トムが見かけた金高《かねだか》があまりに大きすぎて、ほんとうとは思えなかったからだ。これまで五十ドルものまとまった大金を見たことはなかったし、トムだって、年ごろも身分もちがわない他の少年たちと同じく、「何百」だの、「何千」なんていうのは、夢みたいな、ことばの上のあやだけの話で、そんな大金がこの世にほんとうにあろうとは、思いもかけなかったのである。百ドルなんて大金を、だれかが実際に持っているところを見かけることになろうとは、トムは考えてみるひまさえなかったことだ。かくされた宝といっても、トムの頭にあるのは、せいぜい、ひとにぎりの こいつは本物の十セント玉と、ひと樽《たる》のドル銀貨というところだが、ひと樽のほうはぼんやり、すばらしいが、つかまれない、ドル銀貨のまぼろしだった。
だが、大冒険のあれこれが、それをじっくり考えているうちに、だんだんはっきり、明瞭になってきて、やがて、あれはやっぱり夢ではなかったのかもしれん、という気がしだしてきた。こう、あやふやでは話にならん。トムは朝飯もそこそこに、ハックをさがしにいくことにした。
ハックは平底《ひらぞこ》船の舟べりに腰をおろして、両足を水にぶらぶらさせながら、ひどくふさぎこんだ顔をしていた。トムは、ハックのほうからきのうの冒険話をしかけさせるつもりだった。ハックがいい出さなかったら、あの冒険はやっぱり、ただの夢だったということになる。
「よう、ハック!」
「やあ、トム」
ちょっと沈黙。
「トム、いまいましいや、なあ、あんな道具、枯れ木のところへ置いておいたら、あのかねが手にはいったのによ。ひでえもんだ!」
「やっぱり、夢でなかったんだ、夢じゃなかった! 夢であってほしいぐらいだ。夢だったらな、ハック」
「なにが、夢でねえってんだ?」
「ああ、きのうのことよ。半分、夢だとばかりな」
「夢だって! あのはしご段がこわれなかってみろ、どんな夢を見たことかい! おら、夜通し夢の見つづけだ――あの色めがねのスペイン野郎《やろう》が、どの夢でもおれを追っかけてきやがる――ちくしょう、くたばっちまえ!」
「いや、くたばらすなよ。見つけろだ! かねのありかをつきとめろ!」
「トム、やつは見つからねえよ。あんな大金をおがめるのは、一度あるか、なしかだ。――その一度ものがしちまった。あいつに出会うとなると、おら、ふるえ上がっちまわ」
「そりゃ、おれだってもよ。だが、野郎を見つけて――あとをつけてな――やつの二号の巣てのを、つきとめてやりたいんだ」
「二号――うん、それだ。そのことを考えてたんだ。だが、なんのことやら、さっぱりわからねえ。おめえ、なんだと思う?」
「わかんねえ。むずかしいな。なあ、ハック――家の番号らしいぞ」
「なるほど。――いや、トム、ちがうぜ。そうだとすると、こんな小さな町の家じゃねえ。この町の家は番号なしだ」
「うん、そうだな。はてな。そうだ――部屋《へや》の番号だよ――宿屋なんかの、な」
「よう、それだ! 宿屋は二軒きりだ。すぐにわからあ」
「おまえ、ここで待ってろ、ハック。おれがもどってくるまで」
トムはすぐに出かけた。人目につくところで、ハックといっしょにいるのはまずかった。トムは半時間してもどってきた。トムにわかったところでは、上等のほうの宿屋では、二号室はずっと若い弁護士が借りていて、いまもそのままふさがっていた。そこより少し見おとりのするほうの宿屋では、二号室はナゾだった。その宿の主人の若むすこの話では、その部屋はずっとかぎをかけたままで、人が出入りするのを見かけるのは、夜にきまっていた。どうしてそんなことになっているのか、このむすこにはこれというわけがわからず、いくらか好奇心を持っていたが、それもたいした興味ではなかった。そのなぞをいいことにして、あの部屋《へや》には「幽霊がでる」ぐらいに思って、おもしろがっていたぐらいのものであった。昨夜はその部屋に明りがついていた、ということだった。
「わかったのは、こんなところだ、ハック。あそこが、さがしている二号にきまってるぜ」
「くせえな、トム。さて、どうする?」
「さてなあ」
トムは長いあいだ考えてから、いった。
「いいか。あの二号室の奥のドアからは、その宿屋と、古いがたがた馬車みたいなレンガ造りの倉庫とのあいだの、狭苦しい路地に出られるんだ。おまえはさがせるだけのかぎを、手に入れておけよ。おれはおばさんの持ってるやつを、みんなちょろまかしてくる。闇夜《やみよ》になりしだい、出かけていって、やってみよう。気をつけて、インディアン・ジョーに用心してろよ。意趣晴らしのおりをねらいに、もういちど町へもぐりこんで、ようすをさぐるって、いってたからな。見かけたら、あとをつけてみろ。あの二号へ行かないようなら、あそこじゃないんだ」
「やだよ! ひとりでなんて、あとをつけたくねえ」
「なあに、夜にきまってら。見つかるもんか――見つかったって、なんとも思いやしないよ」
「うん、暗くって見えねえ晩なら、つけてもいいぜ。どうも――なんだか。やってみよう」
「おれなら、つけてやるぜ、暗ければな、ハック。それに、よう、しかえしはできねえとさとって、まっすぐあのかねをとりにいくかもしれねえよ」
「そうとも、トム、そうだとも。つけてやろう。やるとも、なんてったって!」
「よう、そうこなくては! びくびくするな、ハック。おれを見ろよ」
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第二十九章 つきとめた巣
その夜、トムとハックは、いよいよ乗り出す冒険のしたくをととのえた。九時過ぎるまで宿屋の付近を立ちまわり、ひとりは、遠くから路地を、ひとりは宿屋の入り口を見張っていた。路地を出入りした人影はなく、宿屋の入り口を出入りしたスペイン人らしい人物もなかった。その晩は澄みきった夜空になりそうだった。そこでトムは、かなり暗くなるようだったら、ハックが「ニャオー」とねこの泣き声をかけにやってくる、そこでトムが抜け出して、かぎを合わせてみよう、という打ち合わせにして、家に帰った。ところがその夜は澄みきりっぱなしで、ハックは見張りをやめ、十二時ごろ、大きなさとうの空《あ》き樽《だる》の中の寝床へ引き上げた。
火曜日も同じように運のつきがなかった。水曜日もそうだった。しかし、木曜日の晩はうまくいきそうだった。トムはころあいを見はからって、抜け出した。おばさんの古いブリキのカンテラと、それをくるむ大きなタオルを持って出た。トムはカンテラをハックのさとう樽にかくして、見張りにかかった。真夜中十二時の一時間前には、宿屋もしまって、その明り(そのあたりでは、ここだけに灯がついていた)がみんな消えた。スペイン人らしいのはあらわれなかった。路地を出入りした者もなかった。万事うってつけだった。暗い闇《やみ》がたれこめ、その静けさを破るものとては、時おり遠くでつぶやくような雷の音しかなかった。
トムはカンテラをとって、大|樽《だる》の中で火をともし、ぴったりとタオルでくるむと、ふたりの冒険家は宿屋へ向かって、暗闇《くらやみ》にまぎれてしのび出た。ハックは見張りに立ち、トムは路地の中へ手さぐりしながら進んでいった。それからは、待っているあいだも不安がつのって、ハックの胸に山のように重くのしかかった。カンテラの灯がちらとでも見えればいいのに、とハックは思いはじめた。――見えればギョッとするところだが、せめて、トムがまだ無事に生きていることだけは、わかるというものだ。トムが姿を消してから、数時間もたったような気がした。きっとトムは気を失ったにちがいない。死んじまったのかも。恐ろしさと興奮のあまりに心臓が破裂してしまったということもある。気がかりのままに、ハックはじりじりと路地に近づいていった。恐ろしさにとりかこまれて、びくびくしながら、ハッと息をつめる災難がいまにも身にふりかかってくるようだった。もっとも、つめるほどの息はなかった。ほんのちょっぴりずつしか、息を吸いこめなかったみたいだからである。心臓もすぐにおだぶつになりそうな、そんな打ちかただった。とつぜん、光がひらめいた。トムがすぐそばへ、かけよってきた。
「逃げろ!」トムはいった。「命がけで逃げろ!」
くりかえしていうまでもなかった。一度でじゅうぶんだった。くりかえしを聞かないうちに、ハックは時速二十か三十キロぐらいの早さで、すっとんでいた。ふたりとも、村はずれの荒れ果てた屠殺場《とさつば》の小屋に行きつくまでは、止まらずに走りどおしだった。小屋の中にとびこむと同時に、あらしが荒れだして、雨がふりそそいだ。トムは息をつくと、すぐにいった。
「ハック、こわかったぞ! かぎを二つやってみた、できるだけ、そっとな。でも、どっちもどえらい音をたてるんで、こわいったら、息もつけねえぐらいだったぜ。それに、かぎはどっちも合いやがらねえ。無我夢中でノブをつかむと、ドアが開くじゃねえか! かぎがかかってなかったんだ! とびこんで、タオルを振り落とした。すると、これはどうだ!」
「なんだ――なにがあった、トム?」
「ハック、インディアン・ジョーの手を踏みつけるところだったぜ!」
「うそつけ!」
「ほんとだ! やつは寝ころんで、床の上でぐっすりだ。例のめがねをかけて、両腕をおっぴろげてな」
「ひえー、で、どうした? やつは目をさましたか」
「いや、ぴくりともしなかった。酔っぱらってたんだな。おれはタオルをひっつかんで、逃げ出したんだ!」
「おれだったら、タオルのことなんか、気がつかねえよ!」
「おれはピンときた。なくしてみろ、おばさんの大めだまだ」
「で、トム、あの箱はあったか」
「ハック、見まわしてるひまなんか、なかったぜ。箱は見かけなかったな。十字架も見なかったよ。見えたものは、インディアン・ジョーのそばの床に、ビンが一本、ブリキのコップが一つだけだ。そうだ、あの部屋には樽《たる》が二つと、ビンがもっとたくさんあったぞ。これでわかるだろう、幽霊|部屋《べや》の正体が」
「どうして?」
「よう、ウィスキーの幽霊が出るんだ! 禁酒宿てのには、どこでも幽霊|部屋《べや》があるらしいや、な、ハック」
「うん、そうかもしれん。考えられねえこったがなあ。でも、よう、トム、あの箱をかっさらうには、いまがおあつらえだぜ、インディアン・ジョーが酔っぱらってるてえなら」
「そうとも。おまえ、やれ!」
ハックは身ぶるいした。
「いやだ――おら、だめだ」
「おれもいやだ、ハック。インディアン・ジョーのそばに、ビンが一本だけってのは、安心ならないよ。せめて三本もあったら、やつは酔っぱらってるだろうから、やってやるんだが」
長いあいだ、あれこれ考えこんでから、トムはいった。
「なあ、おい、ハック、インディアン・ジョーがあそこにいないってわかるまで、こんなことは、もうやめようぜ。おっかなすぎらあ。で、よ、毎晩見張ってれば、いつかはあいつが出ていくのがわかる。まちがいねえ。そしたら、電光石火、あの箱をかっぱらうんだ」
「うん、それがいい。おら、ひと晩じゅう、見張ってる。毎晩でもやってやるぜ。おまえが箱のほうをやるってんならな」
「よし、まかしとけ。おまえはフーパー通りをひとかど走ってきて、ニャオーとやるだけでいいんだ。――おれが眠っているようだったら、小石を窓へ投げてくれ。そしたら、出ていく」
「よしきた、いいとも」
「さてと、あらしもやんだから、おれは帰るぜ。二時間もすれば明るくなるよ。おまえ、ひきかえして、それまで見張りをしねえか」
「やるといったら、やるよ、トム。一年間でも、毎晩あの宿屋へとっついていてやるぜ! 昼間は寝ていて、夜通し見張っててやる」
「よかろう。で、おまえどこで寝る?」
「ベン・ラジャーズとこの干し草置場だ。ベンは寝かせてくれるし、あそこの黒んぼおやじのジェークじいさんもよ。おらジェークじいさんに水をはこんでやる。頼まれればいつでもよ。おれが頼めば、あるときゃ食べ物を少しわけてくれるんだ。まったくいい黒んぼだぜ、トム。おれが好きなんだ。おれのほうが上だって、いばったりしないからな。いっしょにすわりこんで、食うこともちょいちょいだ。だが、こんなこと、いうんじゃねえよ。腹がへってたまらねえときには、ふだんはやりたくねえことでも、あれこれやらねばならんこともあるんだ」
「うん、昼間は用がなけりゃ、寝かしといてやる。じゃましにはいかない。夜、なにか起こったら、いつでもすっとんできて、ニャオーってやるんだぜ」
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第三十章 ピクニックの夜の恐怖
金曜日の朝、トムがいきなり聞いたのは、うれしい知らせだった。サッチャー判事の一家が、前の晩に町へ帰ってきたというのであった。インディアン・ジョーも宝もののことも、しばらくは二のつぎになって影がうすくなり、ベッキーがもっぱらトムの関心の中心になった。トムはベッキーに会い、生徒仲間もそろって「宝さがし」や「通せんぼ」の遊びに、へとへとになるほどおもしろい時を過ごした。その日はとくに満ち足りた最後の仕上げで、おわることになった。前から約束したまま、長くのびのびになっていたピクニックを、ベッキーがあすにしてくれるよう、おかあさんにせがんで、おかあさんが承知してくれたのである。ベッキーの喜びは限りなく、トムの喜びも、それにおとらなかった。日暮れ前には招待状がくばられ、たちまち村のこどもたちは、準備と楽しい予想に熱狂した。トムは興奮して、かなりおそくまで寝つかれなかった。ハックのニャオーが聞こえ、宝ものを手に入れて、あくる日はベッキーやピクニックの連中を驚かせてやる見込みはじゅうぶんあったのだ。だが、トムの期待ははずれた。その夜は、なんの合図もなかった。
そのうち、朝になった。十時か十一時ごろには、うきうき、はしゃぎまわる連中がサッチャー判事の家に集まって、いざ出発というばかりになっていた。おとなが加わっては、ピクニックの興をそぐというので、そんなことはしないならわしだった。十八になる若い娘たちが二、三人と、二十三かそこいらの青年二、三人がつきそうだけで、こどもたちは無事にいけると思われていた。きょうの催しには、古い蒸気船のフェリー・ボートを借りきってあった。やがてにぎやかな一行は、お弁当のバスケットを手に手に、本通りを並んで歩いた。シッドは病気で、残念なことにこの楽しみに加われなかった。メリーは家に残って、シッドのお相手だった。サッチャー夫人は別れぎわにべッキーにいった。
「もどるのは、おそくなるでしょうね。泊めていただくほうがよさそうよ、どなたか、舟つき場の近くのお友だちのところで、ね」
「じゃ、スージー・ハーパーのとこに泊まるわ、ママ」
「それがいいわ。気をつけて、お行儀《ぎょうぎ》よく、ごめいわくにならないようにね」
まもなく、いそいそと歩いていきながら、トムはベッキーにいった。
「ねえ――こうしないか。ジョー・ハーパーのとこなんかやめて、丘をずっと登って、ダグラス未亡人のとこで泊まろうよ。アイスクリームがあるぜ、あそこには! 毎日のようにつくるんだ――どっさり、とね。それに、おれたちが行けば、とっても喜んでくれるぜ」
「あら、それは楽しみね!」
それからベッキーはちょっと考えて、いった。
「でも、ママがなんていうかしら」
「ママにはわかるもんか」
ベッキーはその案をよく考えてみて、気がすすまないようすで、いった。
「いけないことだと思うけど――でも――」
「でも、とはなんだい! ママにはわかりっこないんだから、なにが悪い? きみが無事なら、ママはそれでいいんだよ。ママがこれを思いついてたら、きっとそこへ行けって、いったと思うな、きまってるよ」
ダグラス未亡人のすてきなもてなしを思えば、心がそそられた。それと、トムの口車が、まもなく勝ちをおさめた。そこで、その晩の計画は、だれにももらさないことに話がきまった。そのうち、ハックが今夜こそやってきて、合図をするのではないかと、トムはふと思った。そう思うと、これからの楽しみにはりきっている気持ちが、大いにぽしゃってきた。それでも、ダグラス未亡人宅での楽しみは、あきらめきれなかった。なぜ、あきらめなければならないのか、とトムは理くつをつけた。――ゆうべは合図がなかった。してみると、今夜は合図がありそうだという、たしかなあてもないわけだ。今夜の確実な楽しみのほうが、あてにならない宝ものより大事だ。そこで少年らしく、トムは好みの強いほうにしたがって、その日はもう二度とおかねの箱のことは考えないことにきめた。
町から五キロ下ったところで、フェリー・ボートは木の茂った谷間の入り口に止まって、つながれた。こどもたちは群がって岸に上がり、たちまち森の遠くや、岩だらけの山の高いところまで、遠く、近くで叫び声や笑い声がこだました。汗びしょびしょにぐったりなるまで、あれこれ、なんでもしつくして、やがて、歩きまわっていた連中はキャンプへもどってきた。おなかをぺこぺこにへらしていて、すぐにおいしいごちそうを平らげにかかった。食事のあとは、枝をひろげているカシの木影で、元気をとりもどすお休みをしながら、おしゃべりをした。そのうち、だれかが叫んだ。
「だれか洞穴《ほらあな》にはいりたいものは?」
みんな、行きたがった。
いくたばものロウソクが用意されて、すぐにみんなが丘をかけのぼっていった。洞穴の入り口は上の丘の中腹にあって――A字形をしていた。どっしりしたカシの木の扉には、かんぬきがかかっていなかった。中は小さな室《むろ》になっていて、氷室《ひむろ》のようにひえびえし、堅い石灰石の自然天然の壁は、つめたい露にぬれていた。その暗闇《くらやみ》の中に立って、日に輝くみどりの谷間を見やるのは、ロマンチックで神秘的だった。だが、こうした感動もたちまち消えてしまって、また、ふざけっこがはじまった。ロウソクがともされるとみるまに、みんながそこへわっとばかりにかけよって、奪い合いのとっくみ、防ぎ合いがはじまるしまつで、ロウソクはすぐにたたき落とされたり、吹き消されてしまう。それから、どっとばかりにうれしそうな笑い声、また追いかけっこがはじまった。しかし、何事にもおわりはある。やがて一同は列をつくって、急な下りになっている幹道を進んでいった。つづいてくる光の列がちらちらと、岩の高い壁面を、頭上二十メートルの天井あたりまで、ぼんやりと照らしだした。この幹道は三メートル足らずの幅しかなかった。二、三歩行くごとに、別の高い、もっと狭い割れめがいくつも、そこから両がわに枝のようにのびていた。――このマクドゥーガルの洞穴は、曲がりくねった細道の、まったくの大迷宮で、たがいに入り組んだり離れたりして、どこへ通じているともしれなかったからである。この入り組んだ、割れめや裂けめの迷路は、幾日幾晩、さまよいつづけたとて、この洞穴《ほらあな》の奥の果ては、けっしてわからない、といわれていた。下へ下へと、どんどん地底へもぐっていっても、やっぱり同じことで、――迷宮の下に迷宮がひろがり、どこにも行きつく果てがない、というのであった。だれひとり、この洞穴の実体を知りつくしているものはなかった。そんなことはできない話だった。若者たちはたいていがその一部を知っていたものの、それから先の知らない部分へは、わざわざ踏みこんでみることはしないことになっていた。トム・ソーヤーはこの洞穴に、人なみだけのことは通じていた。
行列は幹道を一・二キロほど進んでいき、それからひとかたまりになるものふたりでひと組になるものと別れて、それぞれに枝道へそれはじめた。きみ悪い抜け道をとんでいっては、先でその抜け道が出合うところで、たがいにおどかし合いをやったりした。連中は、「よくわかっている」場所から先へ行かなくても、半時間ぐらいは、たがいに顔を合わせなくてもすんだのであった。
やがて、ひとかたまりの組が、それからまたひと組と、洞穴の入り口へまばらにもどってきた。はあはあ息をはずませ、はしゃぎまわり、上から下までロウソクのたれしずくだらけ、どろまみれになりながら、この日の上首尾に大喜びだった。それから、時間の経《た》つのも知らないままに、もうすぐ夜になるのに気がついて、びっくりした。どら鐘は三十分ものあいだ、鳴りつづけていたのであった。それでも、こんなふうにこの一日の冒険の幕が閉じるのは、ロマンチックで、それだけに満足だった。フェリー・ボートがこのはしゃぎまわっている積荷をのせて、流れへ乗り出したとき、時間をむだにしたことなど、だれも気にするものはなかった。フェリーの船長だけは別である。
フェリー・ボートの明りがきらきらと波止場《はとば》を通りすぎていたころ、ハックはもう見張りに立っていた。船の騒ぎ声はなんにもハックに聞こえなかった。こどもたちは、死ぬほど疲れきっている人がたいていそうなように、じっと静まりかえっていたからである。あれはなんの船だろう、どうして波止場に止まらないんだろう、とハックはいぶかしく思った。――そのあとで、船のことなど忘れてしまって、見張りに注意を集中した。その夜は曇りがちで、暗くなってきていた。十時になると、車の音もやみ、あちこちの明りがひとつひとつ消えはじめ、まばらに行きかう人の足音もとだえ、村じゅうは眠りにつきはじめて、小さな見張り人がひとりぼっちにのこされて、沈黙と幽霊のつれがあるだけになった。十一時になった。すると宿屋の明りも消えてしまった。もう、どこもかしこも、まっ暗だった。ハックはうんざりするほど長いあいだ、待っていた。でも、なんにも起こらなかった。ハックの信念はぐらつきだした。見張りが役にたつのかな。ほんとに役にたつんだろうか。いっそやめちまって、寝ちまったら、なぜいけないんだ?
ふと、物音が耳についた。瞬間、ハックは全身を耳にして、きんちょうした。路地のドアがそっとしまった。レンガ造りの倉庫の片すみにとびよった。つぎの瞬間、ふたりの男が、そばをすれすれに通り、ひとりはなにかを小わきにかかえているようだった。あの箱にちがいない! そうだ、やつらは宝ものを運び出そうとしているんだ。トムを呼ぶわけにはいかない。そんなばかなことをしたら――やつらは箱を持ったまま逃げてしまい、二度とは見つからないだろう。そうだ、どこまでも、あとをつけてやるぞ。闇《やみ》がたよりだ。見つかることはあるまい。心にそう思いながら、ハックは足を踏み出して、ねこのように、はだしのまま、ふたりのあとを、するするとつけた。やつらとは、ずっと見失わないほどの距離をおいて、先にやらせていた。
ふたりの男は川沿いの通りを、三つ角通り先へのぼって、横町を左へ曲がった。それからまっすぐ進んで、カーディフ丘に通じる小道までくると、それをのぼりはじめた。丘の中ほどにある、老人のウエールズ人の家を、見向きもしないで通りすぎ、どんどん先へのぼりつづけた。しめた、とハックは思った。あれを石切り場のあとへ埋めるんだな。だが、男たちは石切り場でも止まらなかった。どんどん通りすぎて、頂上をめざしていた。たけの高いヌルデの茂みのあいだの、狭い小道にとびこむと、たちまち暗闇の中に姿をかくしてしまった。ハックはずっと近づいて、距離をちぢめた。もう見つかることもなさそうだったからである。しばらく早足で進み、それから歩調をゆるめた。早すぎるかな、と思ったのである。ちょっと行って、それからぴたりと足を止め、聞き耳をたてた。なんの物音もしなかった。自分の鼓動《こどう》が聞こえるような気がしただけだった。フクロウのホーホー鳴く声が、山のあなたから聞こえてきた。――不吉な声だ! だが、足音はまるで聞こえない。しまった、なにもかも、とりにがしたか! 羽根でもはえたように、ぱっととび出そうとしたが、そのとき、一メートルくらいしか離れていないところで、ひとりの男がせきばらいをした! ハックはおったまげた。心臓がのどまでとび上がったのを、ぐっとのみおろして、ふるえながら立ちすくんだ。まるで一ダースもの|おこり《ヽヽヽ》が、束になってとりついたみたいだった。すっかり意気地がなくなって、こいつは地面にぶっ倒れそうだと思った。自分がいまどこにいるのかはわかっていた。ダグラス未亡人の敷地へ通じている、家畜よけの階段までは、ほんの五歩とは離れていないのだ。しめ、しめ、とハックは思った。やつら、埋めるのなら、そこへ埋めてもらおう。見つけるのに、わけはない。
すると、声がした――とても低く――インディアン・ジョーの声だった。
「ちくしょうめ、客があるらしい。――明りがついているぜ、このおそいのに」
「おれには見えねえが」
こんどはあのよそ者の――幽霊屋敷にいた、よそ者の声だった。ぞっとして、ハックの心臓が寒けにちぢみ上がった。――ははん、これが「意趣晴らし」の仕事ってわけか! 逃げるがいちばん。ところが、思い出した。ダグラス未亡人には、ひとかたならぬせわになったものだ。こいつらはその未亡人を殺そうとしているらしいぞ。思いきって、未亡人に知らせにいきたかった。だが、できない話だった。――やつらに、つかまるかもしれない。ちょっとあれこれ考えたが、その短い時間のあいだに、さっきの見知らぬ男のことばにつづいてインディアン・ジョーのいったことばは――こうだった――
「茂みがじゃましているからだ。ほら――こっちへよりな――見えやしねえか」
「見える、うん、客がいるらしいな。やめたほうがいいぜ」
「やめて、この土地を永久におさらばしようってのかい! いま、やめたら、二度と機会はねえんだぜ。もいちど、いっとくが、前にもいったようにな、あの女の持ち物がほしいんじゃねえ――そいつはおめえに、くれてやる。だが、あいつの亭主が、おれをひでえめに合わせやがった。――なんども、やりゃあがったんだ。ことによ、その亭主てのがあの治安判事だったぜ、おれを浮浪人《ふろうにん》だってんで、ぶちこみやがったやつよ。それだけじゃねえ。そんなことは屁《へ》でもねえことだ! おれに馬のむちをくらわせやがったぜ!――牢屋《ろうや》の前で、馬のむちだ、ニグロなみによ!――町じゅうの連中が見ている前でな! 馬のむち!――わかるか。そいつが、おれより先に、うまうまと死にやがった。だが、あの女房に埋め合わせをさせてやるんだ」
「おい、殺したりすんなよ! そいつはいけねえ!」
「殺す? だれが殺すなんて、いった? 亭主のやつが生きていりゃあ、殺してくれるんだが。だが女房はやらねえ。女に意趣晴らしをやろうてんなら、殺すもんじゃねえ。――ばかな! ご面相をやっつけるんだ。鼻の穴をひっ裂いて――豚みてえに、耳に刻みめをつけてやるんだ!」
「いけねえ、そいつは――」
「つべこべいうな! 身のためだぜ。あの女を寝台にしばりつけてやる。血を出して死んだって、おれの知ったことじゃねえ。なんてこたあねえや。おい、手をかすんだぜ。――おれのためにな。――そのために、ここへ連れてきたんだ。――おれひとりじゃ、らちがあかねえからな。いまさら、ぐずぐずぬかしやがったら、生かしちゃおかねえぞ。わかったな。おめえをやっつけるとなりゃあ、あの女もバラしちまう。――そうすりゃあ、だれがやったのか、だれにもわかるめえ」
「うん、どうでもやるってんなら、やってみるか。早いほうがいいな。――おら、からだじゅうがふるえて、がたがただ」
「いまやるってか? 客がいるのに。おい――おめえが|くさ《ヽヽ》くなってくらあ、なんだかな。いけねえよ――明りが消えるまで待つんだ。――いそぐこたあねえ」
ハックは感じた、こいつは沈黙がつづきそうだ――どんなひでえ殺しの話よりも、ずっと恐ろしいことだ。そこでハックは息を殺して、じわじわとあとずさりをした。片足をしっかり、気をつけて踏みしめた。ふらついてよろめかないよう、はじめは左に、また右にぐらつきかけるのをやっと支えた。もう一足、あとへさがった。同じように苦心のいる冒険だった。それから、また一歩、一歩、――すると、踏みつけた小枝がぽきんと折れた! 息が止まった。じっと耳をすました。なんの音もしなかった。――まったく静かだった。大助かりのコンコンチキだった。その場の、両がわの壁になっているヌルデの茂みのあいだで向きを変え、――まるで船よろしく注意をこめて身をめぐらすと、――さっと早足で、ゆだんおこたりなく走り出した。石切り場に出ると、もうだいじょうぶだと思った。そこで、ひた走り、一目散《いちもくさん》に逃げだした。どんどん坂をくだって、やっとウエールズ人の家まできた。どんどんドアをたたいた。すぐに老人と、ふたりのたくましいむすこが、頭を窓からつき出した。
「なにをガタガタやってるんだ? だれだ、戸をたたくのは? なんの用だ?」
「入れてくれ――早く! 話があるよ」
「なに? だれだ?」
「ハックルベリー・フィンだよ。――早く、入れて!」
「ほう、ハックルベリー・フィンだって! あちこち、戸をあけてもらえる名まえじゃねえな。まあ、入れてやれ。どうしたんだか、聞いてみよう」
「おれの口から聞いたなんて、だれにもいわないでおくれよ」はいったとたんに、ハックがいった。「いわないで。――でないと、殺されちまう。――でもダグラスの後家《ごけ》さんは、ときどきおらによくしてくれた。それで、いいてえんだ――おれの口から出たってことを、人にいわねえ約束、してくれたら――おら、いっちまう」
「ほう、こりゃあ、なにかだいじなことがいいたいんだな。こんな騒ぎかたをやるからには」老人は大声でいった。「いってみな。ここにいる者は、だれもしゃべりはしないよ、ハック」
三分のちには、老人とむすこふたりは、すっかり武装して、丘を登り、手に手に武器を持って、ぬき足さし足、ヌルデの小道にはいっていくところだった。ハックはそこから先へはついていかなかった。大きな丸石のうしろにかくれて、じっと耳をすましにかかった。気がかりな沈黙が、ぐずぐずとつづいて、それからとつじょとして、鉄砲の音と叫び声が上がった。
ハックは、どんなことになったのか、わかるほど待ってはいなかった。さっととび去って足にまかせて、ひた走りに丘をかけおりた。
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第三十一章 一難、また一難
日曜日の朝、夜の明けかかる、かすかなけはいが見えはじめたころ、ハックは手さぐりに丘を登ってきて、老ウエールズ人の入り口のドアをそっとたたいた。家の人たちは眠っていたが、昨夜のどきどきするような事件のせいもあって、かすかな物音にも目がさめるような、浅い眠りだった。窓から声がかかった。
「だれだ?」
「入れてください。あやしい者ではないよ、ハック・フィンです!」
「夜でも昼でも、ドアをあけてやっていい名だ!――よく来てくれたな!」
浮浪児の耳には、聞いたこともないことばだった。これほどうれしいことばを聞いたことがなかった。おしまいのことばなど、これまで自分にかけられたことは、ついぞなかったことだった。ドアの錠《じょう》がすぐにあけられ、ハックは中にはいった。椅子《いす》をすすめられて、老人とふたりのむすこは、いそいで着替えをした。
「なあ、これ、うんとおなかがへってるだろう。日がのぼるまでには、朝飯のしたくができるよ。熱《あ》つ熱《あ》つをいっしょに食おう。――あのことは心配いらんよ。わしもむすこたちも、ゆうべはここへ来て、泊まっていけばいいのにと思ってたんだ」
「いや、もう、おっかなくって」ハックはいった。「逃げちまった。ピストルの音がしたとき、かけ出して、五キロも走りずめだった。あれからどうなったのか知りたくて、ここへやってきたんだよ。夜の明けないうちに来たのは、あいつらに出っくわしたくなかったからだ。やつらが死んでたって、まっぴらだ」
「うん、かわいそうにな。一晩じゅう、心配で眠られなかったような顔をしてるぜ。――ここでゆっくり眠るがいい、朝飯を食ったらな。ところが、やつらは死んではいないよ――残念なことをした。やつらをひっ捕える場合は心得ていたんだ。おまえの話でな。それでこちらは足音をしのばせて、しのんでいった。あと四、五メートルというところまでだ。――あのヌルデの小道は穴蔵みてえにまっ暗で――時が時だというのに、くしゃみが出そうになった。運が悪いったらねえ! がまんしようとしたが、いけねえ――どうにもならなくなって、出ちまったんだ! おれはピストルをかまえて、先頭に立ってたが、くしゃみにあの悪党どもはびっくりして、がさがさ小道から逃げようとしやがった。おれは『撃て、みんな』と叫ぶなり、がさがさ音のするところめがけて、ぶっ放した。むすこたちも撃った。ところがやつらは、あっというまに逃げ出して、おれたち、悪党めらを、森の中をずっと追っかけた。ピストルは当たらなかったようだな。やつらも逃げ出しながら、一発ずつ撃ってきたが、そばをビュンとかすめただけで、こっちには当たらなかった。やつらの足音が聞こえなくなるとすぐ、追っかけるのはやめて、山をおり、巡査をたたき起こした。巡査たちは非常招集をかけて、川岸を見張りに行ったよ。明るくなりしだい、保安官と自警隊が森ん中を山狩りすることになってるんだ。むすこたちも、すぐにいっしょに加わるよ。あの悪党どもの人相|風体《ふうてい》が、いくらかでもわかっているといいんだがな。――うんと助かるのに。でも、あの暗がりじゃあ、おまえに、やつらの様子は見えなかったろうな?」
「いいや、下町で見かけて、あとをつけたんだよ」
「こいつはいい! いってみな、どんなだった?」
「ひとりは、口も耳もだめな、老人のスペイン人、一、二度、ここらあたりへ来たことのあるやつだ。もひとりは、人相の悪い、ぼろぼろの――」
「よし、わかった。おれたちも、そいつらを知ってるよ! いつだったか、ダグラスさんとこの裏の森で、ひょっこり出くわしたよ。こそこそ逃げていきやがった。せがれ、行って、保安官にいうんだ――朝飯なんか、あすの朝にしろ!」
ウエールズ人のむすこたちは、すぐに出かけた。部屋《へや》を出ようとするときに、ハックはとび上がって、叫んだ。
「よう、だれにもいわないで。やつらのことを告げ口したのはおれだって。なあ、頼むよ!」
「いいとも、そういうんなら、ハック。だが、これはおまえのてがらにすりゃあいいのに」
「いや、いけねえ、いけねえ! いわねえで!」
若者たちが行ってしまうと、老人のウエールズ人はいった。
「せがれたちは、いいやしないよ。――わしもいわない。だが、なぜ知られたくないんだね?」
ハックが説明したのは、やつらふたりのうちのひとりのことは、とっくに知りすぎるほど知っていて、やつに不利なことを、こっちが知っていることを、どうしても、そいつに知られたくない――それを悟られれば、きっと殺されてしまう、というところまでで、それ以上はいわなかった。
老人はもういちど、口を割らないと約束して、いった。
「どうして、やつらのあとをつける気になったのだ? あやしいやつらと思ったのかい?」
ハックは黙って、そのあいだ用心ぶかい返事のしようを考えていた。それから、いった。
「うん、ねえ、おら、めぐり合わせが悪くって――みんな、そういうし、自分でもそうじゃないとは思えねえんで。――それに、そのことを考えてると、ろくろく眠れねえことが、たびたびある。まあ、新しく出直そうとして、よ。ゆうべがそれだった。眠れねえんで、だもんだから夜中ごろ通りを歩きながら、そのことをあれこれ考えてたんだ。それが、禁酒旅館のそばの、あの古ぼけた、レンガのぐらぐら倉庫のところへ来ると、壁によりかかって、もういっぺん考えてみようとしたんだ。そうだ、ちょうどそのとき、あのふたりがやってきて、おらのそばを、すりぬけていった。なにか小脇にかかえて。こりゃ、てっきりぬすんできやがったな、と思ったよ。ひとりはタバコを吸っていて、もひとりが火をかせといったな。それで、ふたりはおれの目の前で立ち止まったよ。葉巻の火の明りで顔が照らし出されたんで、大きいやつは、口のきけないスペイン人だとわかったよ。なにしろ白いあごひげに、片目のおおいをしてたからな。もひとりは、うす汚ねえ、ぼろぼろななりの悪魔だったな」
「葉巻の火なんかで、ボロが見えたのか」
いわれて、ハックはちょっとまごついた。それから、いった。
「さあ、わからねえ。――だけどよ、なんだか、見えたような気がするんだ」
「それから、やつらは歩いていった。で、おまえは――」
「あとをつけたよ――うん。そうなんだ。どうしたってのか、知りたかったんだ。――あんまりこっそり行きやがったんで。後家《ごけ》さんちの垣根の階段までつけていって、暗闇《くらやみ》に立ってると、ボロっちいほうが後家さんを殺さねえように頼んでいるのが聞こえた。スペイン野郎はご面相をめちゃめちゃにしてやるって、きかなかった、あんたがたに話したとおり――」
「なんだって! 口のきけないやつが、そんなことをいったのか!」
ハックは、これはまた、ひどいまちがいをやってしまったものだ! スペイン人が何者かということを、この老人に少しでもさとられないようにと、けんめいに苦心していたのに、舌《した》のほうがハックをこまらせようと、かかっていたみたいで、努力もまるで水のあわだった。なんとかこの窮地《きゅうち》をのがれんものと、いくどかがんばってみたが、老人の目に見すえられると、ヘま、またへまを重ねるだけだった。やがて、ウエールズ人はいった。
「おまえ、わしをこわがらなくてもいいんだ。髪の毛一本だって、いためるものか。安心しな。――まもってやるよ――まもってやるとも。そのスペイン人は口がきけないんでも、耳が聞こえないんでもない。おまえは、いうつもりがなくて、口がすべったんだ。もう、ごまかそうたって、だめだよ、あのスペイン人のことで、なにか知ってるな、かくしておきたいことを。――ひとつ、信用して――いってくれ。安心するんだ――裏切りはしないから」
ハックはちょっと、老人の正直そうな目を見つめていて、それから、かがみこんで、老人の耳にささやいた。
「やつはスペイン人じゃねえよ――インディアン・ジョーなんだ!」
ウエールズ人は椅子《いす》からとび出さんばかりだった。すぐに老人はいった。
「それで、すっかりわかったぞ。おまえから耳に刻みめをつけるの、鼻をひっぱがすのというのを聞いたときには、おまえのでたらめな作り話だと思っていた。白人ならそんなやりかたのしかえしはしないからな。だが、インディアンなら! 話は別だ」
朝ご飯のあいだじゅう、話はつづいた。その合いまに、老人は、ゆうべ寝る前、自分とむすこたちは最後に、カンテラを持って、垣根の階段やそのあたりを、血のあとはないかと調べにいった、といった。血のあとは見つからなかったが、手にはいったのは、大きな包みの――
「なんだったの?」
ことばがいなずまだったところで、これほど早く、ハックの色を失ったくちびるから、あっとたまげるほどのす早さで、とび出すことはできなかったろう。ハックの目は大きく見ひらかれ、息をのんで――答えを待っていた。ウエールズ人はびっくりした。――びっくりして、見つめかえした。――三秒――五秒――十秒――それから答えた。
「どろぼう道具だ。おや、どうしたい?」
ハックはうしろにぐったり、静かにあえいでいたが、なんとも、いいようのない、うれしさだった。ウエールズ人はまじめに、どうしたのかとばかり、ハックを見ていて、やがて、いった。
「そう、どろぼう道具だよ。ほっとしたようだな。どうして、そんなにギョッとした? 包みになにがはいっていたと思ったんだ?」
ハックは苦しい立場だった。――不審そうな目がそそがれていた。――もっともらしい答えになるたねが得られるものなら、かわりになんでもくれてやりたいぐらいだった。――これと思うものが考え浮かばなかった。――不審の目が、ますます深くつき刺さってきた。――ばかげた答えが出てきた。――じっくり考えているひまはなかった。それで、出まかせに、いった。――かすかな声だった。
あわれなハックは、苦しみのあまりに、ほほえみもでなかったが、老人は大声で愉快そうに笑い、頭の先からつまさきまで、からだじゅう、骨のすみずみまでゆさぶった。そしてゆさぶりおさめに、こんな大笑いはポケットにかねがたまる、なによりも医者の払いがたすかるからな、といった。それから、いいたした。
「かわいそうに、顔色が悪くて、へとへとになってるな。――ちょっとよくないぞ。――むりもない。ちょっと頭がおかしくなって、落ち着きがなくってもな。でも、すぐに直るよ。ゆっくり眠れば、だいじょうぶ、直っちまうよ」
ハックはあんなあやしまれるような興奮ぶりを見せたりして、なんてまぬけだったんだろうと思うと、自分で自分がしゃくにさわった。宿屋から持ち出された包みが宝ものであるなんて考えは、ダグラス未亡人の垣根の階段で、やつらの話を聞いたとたんに、すててしまっていたからである。だが、それが宝ものでないとは、そう思っただけのことで、――そうと、はっきり知っていたわけではなかった。――それで、包みが手にはいったと聞くと、とても冷静ではいられなかったのである。だが、まずまず、このちょっとしたいきさつがあったことで、ハックはやれやれと思った。あの包みは、例の金貨包みでないことが、いま、はっきりとわかって、やっと気も安まり、とてもはればれしたからである。じじつ、なにもかも、ぴたりとうまいぐあいにいっているように思われた。宝ものはまだ「二号」にあるにちがいない。ふたりの悪党はきょうにもつかまって牢屋《ろうや》にいれられるだろう。自分とトムは今夜にも、苦もなく、じゃまされる心配もなく、金貨を手にいれることができるのだ。
ちょうど朝食がすんだところへ、入り口のドアをたたく音がした。ハックはかくれ場所へとびこんだ。昨夜の事件と、ちょっとでもかかわりたくなかったのである。ウエールズ人は数人の紳士淑女がたを迎え入れた。なかにダグラス未亡人もまじっていた。そして町の人たちが、いく組にもなって、丘をのぼっていくのに気がついた。――未亡人の垣根の階段を見にいくところだった。
ウエールズ人はお客がたに、昨夜の話をしなければならなかった。未亡人は命を救ってもらったお礼を、あからさまに述べた。
「そうおっしゃられては困りますよ、おくさん。わたしやせがれになんぞより、もっとお礼をいっていただく人が、別にあるんですよ。その名をいうわけにはいかんのですが。その人がいなかったら、わたしどもは、あそこへ出かけはしなかったんですよ」
もちろん、この話は大いに好奇心をそそりたてたので、かんじんの事件の影がうすくなるぐらいだった。――だが、ウエールズ人は来客たちの心をさんざんにひっかきまわして、その人たちの口から、話を町じゅうにひろがらせるままにした。どうしても秘密をもらそうとしなかったからである。それだけは別にして、ほかのことはなんでも知ってしまうと、未亡人はいった。
「ベッドで本を読みながら眠りこんで、そのままぐっすり、その騒ぎにはまるで気がつきませんでしょ。なぜ、起こしにきてくださらなかったの?」
「そうするほどのこともないと、思いましてねえ。あの連中は二度と来そうになかったし――使う道具もなにひとつ、やつらの手元にとっておかなかったし、それにおくさんを起こして、死ぬほどびっくりさせても、しかたありませんものね。うちのニグロを三人、あとひと晩じゅう、あなたの家の見張りに立たせておきましたよ。いま帰ってきたばかりです」
お客がぞくぞくとやってきた。同じ話が二時間以上もくりかえされねばならなかった。
ふだんの学校の休みちゅうは日曜学校もお休みだった。それでもみんなが朝早く教会にやってきていた。この大評判の事件が、ああだ、こうだと、つっつかれた。はいった知らせによると、ふたりの悪党の足どりはまだ発見されていない、ということだった。お説教がすむと、サッチャー判事のおくさんはハーパー夫人のそばについてきて、席と席のあいだの通路を歩きながら、いった。
「うちのベッキーったら、一日じゅう寝ているつもりでしょうか。そりゃもう、ぐったり疲れているとは思っていましたけれど」
「お宅のベッキーちゃんが?」
「ええ」とびっくりしたような顔で――「昨夜はお宅に泊めていただいたのでは?」
「あら、いいえ」
サッチャー夫人はまっさおになって、横の空席にくずれ落ちた。ちょうどそのとき、ポリーおばさんが、友だちと元気に話しながら、そばを通りすぎた。ポリーおばさんはいった。
「おはようございます、サッチャーさん。おはようございます、ハーパーさん。うちの子がいなくなってしまいましてね。トムは昨夜、お宅に泊めていただいたのかと――どちらかの。それで、こわくて教会へは来られないんですよ。うんと思い知らせてやらなくては」
サッチャー夫人は力なく首をふって、いっそう青くなった。
「わたくしどもには泊まっていませんよ」ハーパー夫人はそういって、心配げなようすを見せはじめた。不安な色がポリーおばさんの顔にありありと浮かんできた。
「ジョー・ハーパー、けさトムに会わなかった?」
「いいえ」
「前は、いつ会ったの?」
ジョーは思い出そうとしたが、はっきりしたことがいえなかった。人びとは教会から出る足を止めていた。ささやきが口から口へ流れて、不安な虫の知らせが、どの顔にものぞいていた。こどもたちは気がかりにあれこれと聞かれ、若い先生たちも事情をたずねられた。みんなの話では、トムとベッキーが帰りのフェリー・ボートに乗っていたかどうか、だれも気がつかなかった、ということだった。暗くなっていて、だれかが欠けているかどうか、人数をたしかめることなど、だれも考えなかった。ひとりの青年が、さいごに、うっかり自分の心配を口に出した。そのふたりは、まだ洞穴《ほらあな》に残っているんだ! サッチャー夫人は気を失った。ポリーおばさんはわっとばかりに泣きだして、両手をにぎりしめた。
この驚愕《きょうがく》は口から口へ、群れから群れへ、通りから通りへとひろがって、五分とたたないうちに鐘がジャンジャン打ち鳴らされ、町じゅうが大騒ぎになった! カーディフ丘の事件はたちまち色あせてしまい、どろぼうどものことどころではなく、馬にはくらが置かれ、小舟には人が乗りこみ、フェリー・ボートに出航命令がくだった。恐怖がはじまって三十分としないうちに、二百人もの男が、洞穴《ほらあな》めざして、本道や川を、どっとばかりにくだっていった。
午後はずっと、町じゅう、からっぽで、死んだみたいだった。ご婦人たちは大ぜいポリーおばさんやサッチャー夫人をたずねて、なぐさめにかかった。いっしょに泣きの涙にぬれ、そのほうが、ことばにまさるなぐさめだった。手持ちぶさたな夜を、町の人たちは知らせを待って過ごした。だが、とうとう明けがたになって、とどいたことばは「ロウソクをもっと――食べものを送れ」というだけだった。サッチャー夫人は気も狂わんばかりで、ポリーおばさんとて、そうだった。サッチャー判事は洞穴から希望と激励のことづてを伝えてよこしたが、しんから元気づけるような力はなかった。
老ウエールズ人は明けがたになって、ロウソクのたれだらけ、どろまみれになり、疲れきって、帰ってきた。見ると、ハックはあてがわれたベッドに寝こんだままで、熱にうかされていた。お医者はみんな洞穴へ出向いていたので、ダグラス未亡人がやってきて、この病人のせわをした。この子に、できるだけのことをしてやりますわ。いい子であろうが、悪い子であろうが、また、どちらでなくったって、神さまの子であることにはかわりありません。神さまのものなら、なにひとつ、なおざりにはできませんわ、と未亡人はいった。ウエールズ人は、ハックにはいろいろ、いいところがある、といい、未亡人がいった。
「そうですとも。それが神さまのみしるしなんです。神さまはお見のがしになりません。なりませんとも。み手から生まれたものには、かならずどこかに、そのみしるしを、おつけになるのですわ」
まだお昼にもならないうちから、疲れた連中がばらばらに村へ帰ってきはじめたが、きわめて頑強な人たちは、あとに残って捜索《そうさく》をつづけた。来る知らせ、来る知らせでは、洞穴《ほらあな》のずっと奥の、これまで人がはいったことのないところまで、くまなくさがし、すみからすみまで、割れめという割れめを、くまなくさがしている。迷路のような道の、どんなところをさまよっていても、明りがあちこち、遠くで行き交っているのが見えるはずだし、叫び声やピストルの音が、陰気《いんき》な通路のはずれにいても、うつろな反響を耳に伝える、ということだった。ある場所で、それも、ふだんは見物人が足を入れないような遠くで、「ベッキーとトム」という名まえが、岩の壁にロウソクの油煙で書かれてあるのが見つかり、そのすぐそばに、ロウソク油によごれた、リボンのきれはしがあった。サッチャー夫人はそれを見ると、まさしくベッキーのものであるとわかって、さめざめと泣いた。これがあの子からの最後のかたみ、これほどだいじな娘のかたみは、ほかにありようはずがない。これこそ、恐ろしい死がやってくる前に、まだ生きているうち、あの子のからだから離れた、いちばん最後のものだから、と夫人はいった。ある人の話では、ときどき、洞穴で、ずっと奥のほうで、明りが一点ちらちらするので、これはとばかりに歓声をあげ、二十人ばかりが、こだまする通路を隊をなして、はいりこんでみると――それも、きまって、がっかり、しょげきるばかりだった。さがしているこどもたちはおらず、見えた明りはさがし手の灯にすぎなかった。
恐ろしい三日三晩が、うるところもなく、のろのろと過ぎ、村人たちは望みを失って、ぼんやりしてしまった。みんななにをするにも気力がなくなった。ふとしたはずみで、禁酒旅館の主人が、その構内に酒をかくしていたことが発覚したが、その事実はまさしく、おだやかならざることであったのに、たいして村の騒ぎにはならなかった。病気がおさまっているとき、ハックはびくびくながら、話をこの宿屋のことに持っていき、おしまいに、きいてみた。――ぼんやり、最悪のことを恐れながら――自分が病気になったあと、その禁酒旅館で、なにか見つかったか、どうか、である。
「あったわ」未亡人はいった。
ハックはベッドでとび上がって、目をむいた。
「ひえっ! なにがあった?」
「お酒よ。――あそこは営業停止になってるわ。横におなりなさいな。――ほんとに、びっくりさせるわね!」
「教えて、ひとつだけ――ほんの、ひとつだけ――ねえ! 見つけたのは、トム・ソーヤーだった?」
未亡人はわっと泣きだした。
「だまって、だまって、ねえ、だまって! いったでしょ、話をしてはいけないって。病気は、とっても、とっても、重いのよ!」
すると、見つかったのは酒だけだったんだな。金貨が見つかったとなれば、大騒ぎになっていたはずだ。と、なると、宝ものは永久になくなっちまったんだ――なくなっちまったんだ! だが、このおばさんは、いったい、なにを泣いているんだろ? 泣くとは、おかしいぞ。
こんなことを、ぼんやり考えめぐらしているうち、そのための疲れで、ハックは眠りこんでしまった。未亡人はひとりごとをいった。
「まあ、眠っているわ、かわいそうに。トム・ソーヤーが見つけるんだって! だれかがトムを見つけてくれたら、いいんだけど! ああ、もう、たんとはいないわ、捜索《そうさく》をつづけるだけの、希望や、そのうえ、力を持っている人が」
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第三十二章 洞穴《ほらあな》の危機
さて、ピクニックでの、トムとベッキーのことに話をもどそう。ふたりは他の仲間といっしょに暗い通路のあちこちを、足どりも軽く進んで、洞穴の有名な奇観《きかん》を見てまわった。――いくらか大げさな名まえをつけられている名所で、「接見《せっけん》の間《ま》」「大寺院」「アラジンの宮殿」などといったところである。やがて、かくれんぼがはじまった。トムとベッキーはそれに加わって熱中していたが、しまいにこれもすこし疲れて、あきがでてきた。そこでふたりはロウソクを高くかざして、曲がりくねった道をぶらぶら先へ歩き、クモの巣みたいにこんがらがってかかれている名まえや、日づけや、住所や、格言を読んでいった。こんな落書きが(ロウソクの油煙で)壁面にかかれていたのである。ぶらぶら奥へ進みながら、おしゃべりをしつづけていて、ふたりは壁面の落書きが、もう途切れてなくなっているあたりへ来ていることに、ほとんど気がつかなかった。頭上にたれている岩だなに、自分たちの名まえを油煙でかきつけてから、まだどんどん奥へ進んでいった。ほどなく小さな流れのあるところへやってきた。水は岩だなの上からちょろちょろとしたたって、石灰石の|おり《ヽヽ》をいっしょに流れ落とし、のろのろすぎる長い年月のあいだに、きらめく不朽の石となって、レースやひだかざりをつけたナイヤガラの滝のようなものになっていた。トムはそのうしろにもぐりこんだ。滝を照らして、ベッキーを喜ばせてやるつもりだった。すると、けわしい、自然にできた階段みたいなものがせまい壁にかこまれて、滝のカーテンで、正面からはかくされていたのが見つかった。すぐに、探検してやろうという野心《やしん》がトムの心をとらえた。ベッキーはトムが呼ぶ声に応じて、ふたりは、あとあとの道しるべに油煙でしるしをつけ、探検にのりだした。あちらこちらと道を曲がり、ずっと洞穴の、人の知らない奥の奥底まで進むと、もひとつしるしをつけ、上の世界の連中への話のたねに、あれこれと新奇なながめを求めて、枝道へはいっていった。あるところで、広びろした洞窟《どうくつ》を見つけた。天井《てんじょう》からはきらきらの鍾乳石《しょうにゅうせき》が無数にぶらさがっていた。長さも太さも、人間の足ぐらいあった。ふたりはその洞窟を歩きまわって、驚いたり感心したりしたあげく、やがて、ここから通じているたくさんな道のひとつから、出ていった。すぐに、うっとりするような泉にやってきた。泉の底はきらきら光る水晶の霜紋模様でおおわれていた。洞窟のまん中にあって、四方の壁はたくさんの異様な形の柱で支えられていて、これらの柱は大きな鍾乳石と石筍《せきじゅん》がくっついてできたもので、何百年もかけて、たえず水がしたたりつづけたせいであった。天井の下に、コウモリの大群がたばになって何千となくかたまっていた。ロウソクの明りがコウモリを驚かした。何百匹かずつの群れになって舞いおり、キーキー鳴きながら、もうれつな勢いでロウソク目がけて飛びかかった。トムはコウモリの習性を知っていて、こんなことをしていてはあぶないとわかった。ベッキーの手をつかむと、目の前の通路へとびこんだ。早すぎはしなかった。一匹のコウモリがベッキーのロウソクをたたき消して、それもベッキーが洞窟を出るか出ないかのうちだった。コウモリどもはかなりの距離まで、ふたりを追っかけてきた。だが、逃げるふたりは見つけしだいに新しい通路へとびこんで、やっとのことで、この危険なコウモリからのがれた。トムはまもなく地下湖を見つけた。湖はおぼろに長くのびていて、ずっと先は暗い影にのまれて、形もわからなかった。トムはそのふちを探検してみたかったが、まず、腰をおろして、ひと休みするのが上《じょう》じょうだと思った。すると、はじめて、この場の深い静けさが、こどもたちの元気さに、じっとりと冷たい手をおろしてきた。ベッキーがいった。
「あら、気がつかなかったわ。もうずいぶんたったようね。みんなの声が聞こえなくなってから」
「考えてみろよ、ベッキー、みんなとは、ずうっと下に離れてるんだよ。――北だか、南だか、東だか、どっちへどこまで来てしまったのかわからないや。ここじゃ、みんなの声を聞こうたって、聞こえないよ」
ベッキーは心配になってきた。
「こんなところまで来て、どのくらいたつかしら、トム。ひき返すほうがいいわ」
「うん、そのほうがいいな。それがよさそうだ」
「道がわかる、トム? すっかりこんがらがって、わたしにはだめだわ」
「わかるつもりなんだが――あのコウモリではな。ふたりともロウソクを消されたら、それこそ、おだぶつだぜ。どこか別の道を行こう。あそこを通るのはやめてな」
「いいわ。でも、迷い子にならなきゃ、いいんだけど。そんなことになったら、とってもこわいわ!」
ベッキーはほんとにそんなことになりかねないと思うと、こわさで身がふるえた。
ふたりは通路の一つを通って出かけ、長いあいだ、だまったままで歩みつづけた。新しい出口を見かけるごとに、ちらと目をやって、そのようすに見覚えがあるかどうかをしらべたが、どれもこれも見知らぬものばかりだった。トムがしらべるたびに、ベッキーはトムの顔をうかがって、元気のでるようなきざしを期待した。そのつど、トムは元気そうにいったものだ。
「ああ、だいじょうぶ。こいつはちがうけど、すぐに出口のやつが見つかるよ!」
だが、失敗をくりかえすごとに、トムはしだいに望みがうすれてきて、やがて手当たりしだい、無茶苦茶に横道へそれはじめた。死にもの狂いに、目ざす道をさがしていたのである。それでも、まだ「だいじょうぶ」といっていたが、心の中は不安で鉛《なまり》のように重く、ことばにいせいのいい響きがなくなって、「もうだめだ!」といっているみたいだった。ベッキーはこわくてたまらず、トムのそばにくらいついて、つとめて涙をこらえていたけれど、どうしても流れて出てくるのだった。とうとうベッキーはいった。
「ねえ、トム、コウモリなんか、かまわないから、あの道をもどりましょうよ! だんだん悪くなるようだわ」
トムは立ち止まった。
「しっ!」トムはいった。
深い沈黙。沈黙はとても深くて、その静けさの中では、自分たちの息づかいまでが聞こえるほどだった。トムは叫んでみた。その呼び声はうつろな小道をこだましていき、遠くのほうで、かすかに、あざ笑いの波紋のように響いて、消えた。
「ああ、もうやめて、トム、とてもこわいわ」ベッキーがいった。
「こわいけど、なんどもやるほうがいいんだよ、ベッキー。みんなに聞こえるかもしれないからね」そして、トムはもういちど叫んでみた。
「かもしれない」というのは、あのぶきみな笑い声よりも、ぞっとするほど恐ろしかった。望みが絶えたと、いっていることだった。ふたりはじっと立って、耳をすました。だが、なんの答えもなかった。トムはすぐに、もと来た道をひき返して、足をいそがせた。ところが、まもなく、トムのようすがあやふやになって、ベッキーに、また新しく、恐ろしい事実がわかった――トムは帰り道がわからなくなったのだ!
「ああ、トム、目印をつけてこなかったのね!」
「ベッキー、ばかなことをした! なんて、ばかな! ひっ返すことになるとは、思いもしなかったからな! いけねえ、道がわからねえや。こんがらがっちまった」
「トム、トムったら、道に迷ったんだわ! 迷ってしまったのよ! この恐ろしいところから、出られやしない! ああ、なぜ、みんなと離れたりなんかしたのかしら!」
ベッキーが地面にへたばって、わっとばかりに泣きだしたので、これでは死んじまうか、気が狂うんではないかと、トムはぎょっとした。ベッキーのそばに腰をおろして、両腕で抱いてやった。ベッキーはトムの胸に顔を埋め、すがりついて、こわい、こわいと、いまさらどうしようもない後悔を泣いてぶちまけた。その声が遠くにこだまして、まるであざ笑いの声に聞こえた。トムはベッキーに、もういちど、むりにも望みをかきたたすように頼んだ。ベッキーはとてもできない、といった。ベッキーをこんなみじめなめに合わせたことで、自分を責めたて、ののしりはじめた。これはききめがあった。ベッキーはもういちど望みをかけてみるわ、立ち上がって、どこへでもついていく、でももう、あんなことだけはいわないで、といった。トムが悪いせいじゃないわ、とベッキーはいった。
そこでふたりは、また歩いていった――あてもなく――ただ足まかせに――ふたりはただ、歩くこと、歩きつづけることしかできなかった。ほんのしばらくは、希望がよみがえったふうに見えた。――よみがえらせる理由はなにもなかったけれど、希望の源泉が、年を重ね、失敗を重ねるにつれて、枯れつきてしまわないうちは、よみがえってくるのが、希望というものの性質である。
そのうち、トムはベッキーのロウソクをとって、吹き消した。この節約は意味深長だった!ことばはいらなかった。ベッキーにはわかって、その望みの糸がまた切れてしまった。ベッキーは、トムがロウソクをまるまる一本と、かけらを三つ、四つ、ポケットにしまっていることを知っていた。――それでも、トムは節約しなければならないのだ。
やがて、疲れがはっきりとあらわれてきた。こどもたちは気にしないようにつとめた。時間がとてもだいじになっていたときに、腰をおろすことを考えるなんて、恐ろしいことだった。あちら、こちらと、どちらへでも歩いていると、すくなくとも先へは進んでいるので、そのうち実を結ぶかもしれない。だが、腰をおろすことは死を招き、それが追いつくのを早めることであった。
とうとう、ベッキーのかよわい足では、これ以上に進めなくなって、すわりこんでしまった。トムもいっしょに休んで、家のこと、友だちのこと、やわらかなベッドのこと、なによりも、明りのことを話し合った! ベッキーは泣いた。トムはなぐさめてやるくふうを考えようとしたが、そのはげましのことばなど、すっかり使い古して、オンボロになっていて、皮肉みたいに聞こえた。疲れはベッキーにひどくこたえていたので、とろとろと眠りこんでしまった。トムはしめたと思った。悲しみに張りを失ったベッキーの顔をのぞきこんでいると、楽しい夢でも見ているのか、おだやかな、自然な顔つきになってくるのがわかった。やがて、ほほえみまでが浮かんできた。その安らかな顔を見ていると、トムは自分の心までが安らかに、なぐさめられて、過ぎし日の、夢のような思い出を思いめぐらした。トムがもの思いにふけりこんでいると、ベッキーがさわやかな、小さい笑い声をたて、目をさました。――すると、それもくちびるからさっと消えて、あとは、うめき声がつづいた。
「ああ、どうして眠れたのかしら! 目なんかさめなければよかったのに! いえ! うそよ、トム! そんなふうに見ないで! もう、いわないから」
「眠ってくれてよかったよ、ベッキー。もう休まったろう。出口をさがすとしようぜ」
「やりましょう、トム。でも、あんな美しいお国を夢でみたわ。わたしたち、これからそこへ行くのね」
「ちがうよ。そんなこたあないな。元気を出せよ、ベッキー。さ、やりに行こうぜ」
ふたりは立ち上がって、さまよっていった。手に手をとって、望みはなかった。洞穴《ほらあな》の中に、どれくらいいたのか、時間を測ってみたが、何日も、何週間もの長さに思われるだけだった。だが、そんなはずのないことは明らかだった。ふたりのロウソクをまだ使いつくしていなかったからである。それからずっとたって――どれくらいかは、わからなかったが――そっと歩いて、水のたれる音を聞きとらないといけない――泉を見つけなければ、とトムはいった。ふたりはすぐに泉を見つけて、もういちど休んでいいんだ、とトムはいった。ふたりとも、へとへとに疲れていたが、それでもベッキーは、もう少しぐらいは進んでいけそうだわ、といった。ところが、トムが反対したのは意外だった。ベッキーには、なぜだか、わからなかった。ふたりは腰をおろすと、トムは前の壁にねんどでロウソクをくっつけた。すぐにいろいろな考えが、それからそれへと浮かんできた。しばらくは、ものをいわなかった。それからベッキーが沈黙をやぶった。
「トム、とてもおなかがすいたわ!」
トムはポケットから何かをとり出した。
「これ、覚えてるかい?」トムはいった。
ベッキーは、にっこりしそうだった。
「わたしたちのウェディング・ケーキね、トム」
「うん――樽《たる》ぐれえ、でっかいといいんだがな。もう、これっきりだ」
「わたし、ピクニックへは持ってこなかったわ。あとで、わたしたちの夢がひらくようにと思ってよ、トム。おとなの人たちはウェディング・ケーキを見て、楽しい夢を描くでしょ。――でも、それはわたしたちの、おわかれの――」
ベッキーはみなまでいわずに、そこでことばをきった。トムがケーキをわけてやると、ベッキーはむさぼるように食べた。トムのほうは自分に残ったのを、ちびちびかじった。水はふんだんにあるので、ごちそうを食べてしまうまで、ことかかなかった。やがてベッキーは、また歩きだそうといった。トムはちょっと黙っていた。それから、いった。
「ベッキー、いうことがあるんだけど、がっかりするなよ」
ベッキーの顔が青ざめた。でも、がっかりしない、といった。
「なら、いうが、ベッキー、ここを動くわけにはいかないんだ、飲み水のあるところから。ロウソクはもうこのちっぽけなやつで、おしまいなんだ!」
ベッキーはこらえていた悲しみに、わっと泣きはじめた。トムはなんとかなぐさめてみたが、どうにもならなかった。とうとうベッキーがいった。
「トム!」
「なんだい、ベッキー」
「わたしたち、いなくなったんで、みんながさがしてくれるでしょうね!」
「そりゃ、さがすとも。きっとさがすよ!」
「いまでもさがしているわね、トム」
「うん、やってるだろう。だと、いいが」
「わたしたちのいないのに、みんな、いつ気がつくかしら、トム」
「ボートへ帰ってからだろうな」
「トム、それじゃあ、暗くなってからね。――わたしたちがもどっていないのに、気がついたかしら」
「わかんねえ。でも、まあ、きみのおかあさんが、きみのいないのに気がつくよ、みんなが帰ったら、すぐ」
ベッキーの顔にぎくっとした色が浮かんだのをトムは見てとって、こいつはしまった、と気がついた。ベッキーはその晩は、家へは帰らないことになっていたのだ! こどもたちは黙って、考えこんでしまった。たちまち、また思い出したようにベッキーが悲しく泣きだしたので、トムは自分の頭に浮かんだことと、同じことをベッキーも考えたのだ、とわかった。――日曜日の朝、それもなかばをすぎてからでないと、サッチャー夫人には、ベッキーがハーパー夫人のところにいなかったのが、わからないということだ。
こどもたちは目をロウソクの切れっぱしにくぎづけにして、ゆっくりと、ようしゃもなく溶け去っていくのを見つめていた。とうとう心《しん》だけになった。かすかなほのおがのびたり、ちぢんだりして、細い煙の柱をのぼって、ちょっと先っぽでゆらゆらして、それから――恐ろしい真っ暗闇《くらやみ》にとじこめられてしまった!
トムの腕に抱かれて泣いている自分に、ベッキーがようやく気がつくようになったのは、それからどのくらいたってのことか、ふたりにもわからなかった。わかっているのは、かなりの長さとおぼしい時間がたってから、やっとふたりが死んだような眠りからさめ、もとの自分たちのみじめさにたちもどった、ということだけだった。きょうは日曜日かな――ひょっとしたら月曜日かな、とトムはいった。ベッキーに口をきかせようとしたが、悲しみに打ちひしがれて、なんの望みもなくしてしまっていた。もうずっと前に、おれたちのいないのに気がついている、きっと捜索《そうさく》にかかってるよ、とトムはいった。叫んだら、だれかが来てくれそうだ。トムは叫んでみた。だが、闇の中で、遠くぶきみにこだまするばかりなので、それきりにしてしまった。
時がいたずらに流れて、空腹がまたふたりに、苦しいほどにおそってきた。分けたケーキのトムのぶんが、まだ残っていた。それを分けて食べた。すると、かえって、前よりいっそう空腹がひどくなった気がした。ちょっぴり一口の食べものは、食欲をかきたてただけだった。
やがて、トムはいった。
「しっ! あれが聞こえた?」
ふたりは息をこらして、耳をすました。とてもかすかな、ずっと遠くの叫び声のようだった。すぐさまトムはそれに答えて、ベッキーの手をとり、先に立って、それとおぼしきほうへ、通路を手さぐりに歩きだした。まもなく、トムはまた耳をすました。また、さっきの声が聞こえた。どうやら少しは近づいたらしい。
「連中だぞ!」トムはいった。「来てくれたんだ! さあ、ベッキー――もうだいじょうぶ!」
閉じこめられたふたりの喜びは、たとえようもないほどだった。だが、足どりはゆっくり。あちこちに落とし穴がちらばっていて、それに気をつけねばならなかったからである。すぐにもその一つに出合って、足を止めねばならなかった。深さは一メートルかもしれず――三十メートルかもしれなかった。いずれにしても、その穴を通りすぎるわけにはいかなかった。トムは腹ばいになって、できるだけ下へ手をのばしてみた。底なしだった。捜索隊《そうさくたい》が来るまで、動かずに待っていなければならない。ふたりは耳をすました。あきらかに、遠くの叫び声が、だんだん遠のいていくようだった! 刻一刻と、すぐにその声は聞こえなくなってしまった。そのときの、がっかりしたみじめさ! トムは声のかれるまで、おーい、おーいと叫んでみたが、そのかいもなかった。トムはベッキーに、望みありげに話したが、長く待ちかまえていても、もう、なんの声も聞こえてこなかった。
ふたりは手さぐりして、もとの泉へもどっていった。けだるい時間がのろのろ過ぎた。もういちど眠った。そして、おなかがぺこぺこで、悲しみに打ちひしがれて、目をさました。もういまごろは火曜日にちがいない、とトムは思いこんだ。
ふと、ある考えがトムに浮かんだ。手近に、脇道がいくつかあった。そのうちのどれかをさぐってみるほうが、なにもせずに重苦しい時間に耐えているよりましだろう。ポケットからたこ糸をとり出して、岩の出っぱりに結びつけると、ベッキーをつれて出かけた。トムが先に立って、糸をほぐしながら、手さぐりで進んだ。二十歩ほど行ったところで、その通路はとつぜん下が切れておわっていた。トムはひざをついて、下のほうを手でさぐった。それから、両手がさしつかえなくとどくかぎり、その角をまわしてさぐってみた。もう少し右の方へ手をのばそうとした。その瞬間、二十メートルと離れていないところで、ロウソクをにぎった人間の手が、岩のうしろからあらわれた! トムは大喜びに叫びをあげた。すぐに、その手につづいて、人間のからだが立ちあらわれた――インディアン・ジョーのからだが! トムはからだがしびれた。とても動けなかった。つぎの瞬間、やれ、うれしやと思ったことには、「スペイン人」にばけたジョーのほうが逃げ出して、姿を消すのが見えた。ジョーがトムの声をそれと聞きわけて、法廷での証言をうらみに、自分を殺しに立ち向かってこなかったのが、ふしぎだった。だが、こだまのせいで、声が変わって聞こえたにちがいない。きっと、そうだ、とトムは考えた。驚いたおかげで、からだじゅうの筋肉がふやふやになってしまった。まだ力が残っていて、泉のところまで帰れたら、こんどはそこでじっとしていて、どんなことがあっても、のこのこと、ふたたびインディアン・ジョーに出っくわすような危険はおかすまい、とトムは自分にいいきかせた。さっき目にしたことは、気をつけてベッキーにはかくしておいた。「縁起《えんぎ》のいいように」叫んだだけのことだ、とベッキーにいった。
それにしても空腹とみじめさは、けっきょくは、恐怖に勝つものである。またも、泉のそばで待ちあぐね、もういちど長く眠ったあとで、いろいろと気が変わってきた。もう、きょうは水曜日、いや、木曜日、ことによったら金曜日か土曜日にちがいない。捜索《そうさく》も打ち切られてしまったのだ、とトムははっきり思った。別の通路をさぐってみようと、いいだした。インディアン・ジョーに出会うものなら出会ってやる、どんな恐ろしいめに会ってもかまうものか、という気だった。だが、ベッキーはひどくまいっていた。ぐったり、ふぬけみたいになっていて、元気の出しようもなかった。ここで、このまま待っている、そして死んでしまう――もうすぐにも、とベッキーはいった。さぐりに行きたければ、たこ糸を持っていくように、でも、ちょこちょこもどって、声をかけてくれるように、とトムに頼んだ。それから、恐ろしい死の時がきたら、きっとそばにいて、息をひきとるまで、手をにぎっていてくれるようにと、トムに約束させた。
トムはベッキーにキスをした。胸のつぶれる思いだった。そして捜索隊か、洞穴《ほらあな》の出口をきっと見つけてくるという、自信たっぷりなふりをして見せた。それからトムはたこ糸を手に、四つんばいになって、通路の一つを、手さぐりに行きはじめた。空腹に苦しみ、来たるべき運命の予感にひしがれながらだった。
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第三十三章 奇跡の生還
火曜日の午後になった。それも暮れはじめて、たそがれどきになった。セント・ピーターズバーグの村はいぜんとして悲しみに沈んでいた。迷い子のふたりは、まだ見つかってはいなかった。ふたりのために共同のお祈りがささげられ、また多数の人たちが、真心をこめて、それぞれにお祈りをしたけれど、いまだに洞穴からは何ひとついい知らせが届かなかった。捜索に出向いた人たちの多くは探索をやめてしまい、いつもの自分たちの仕事にもどっていて、もうこどもたちが見つかりっこないことは、はっきりしている、といったものだった。サッチャー夫人はすっかり病気になってしまって、ほとんどずうっと、うわごとのいい通しだった。こどもの名を呼び、頭をもたげて、たっぷり一分はそのまま耳をすまし、それからまた、ぐったりと、うめきながら頭をおろすのは、胸もつぶれるようで、とても見ていられない、ということだった。ポリーおばさんは骨のずいまでふさぎこんでしまい、しらがまじりの髪が、まるでまっ白になってしまっていた。村は火曜日の夜、悲しく絶望のうちに、眠りについた。
ふけわたった真夜中に、村の鐘があちこちでけたたましく打ち鳴らされ、たちまち通りという通りには、服をひっかけただけの人びとが、血走った目で群がってきた。そして口ぐちに「起きろ! 起きろ! 見つかった! 見つかったぞ!」と叫んだ。ブリキなべと角笛がこの騒ぎに拍車をかけた。人びとは一団となって川へ向かい、ふたりのこどもが覆《おお》いのない車に乗せられて、叫びたてている村人たちにひかれてくるのに出会うと、そのまわりをとりまき、いっしょになって家への道を、万歳、万歳と叫びながら、堂々と本通り狭しとばかりに進んでいった。
村じゅうの明りがともされた。もうだれも寝床にもぐる者はなかった。この小さな町には、これまでについぞなかった、盛大な夜であった。最初の半時間というもの、村人たちは列をなしてサッチャー判事の家へくりこみ、助かったこどもたちをつかまえてキスをし、サッチャー夫人の手を握りしめて、いいたいこともことばにならないままに――そこいらじゅうに涙の雨をそそぎながら、出ていった。
ポリーおばさんはうれしさがいっぱいで、サッチャー夫人とてもそれに近かった。しかし、このすばらしい知らせを洞穴へ届ける使いが、夫にその旨《むね》を伝えしだい、夫人のうれしさもいっぱいになるだろう。トムはソファーに横になったまま、熱心な聞き手にかこまれて、この驚くべき冒険物語をしゃべった。話をおもしろく、すばらしい尾ひれをたっぷりつけ加えたものだ。話のおしまいは、ベッキーを残して、探検に出かけたもよう、持っていたたこ糸のとどくかぎり、ずっと先へと二つの道を行ったこと、三番めの道を、たこ糸がひきちぎれそうになるまで進んだこと、そしてひき返そうとしたときに、ずっと遠くで、日光のような点がちらりと見えたこと、糸を放して、手さぐりにそこへ進み、頭と肩を小さな穴にもぐらせると、さかまく広大なミシシッピー川が見えたこと、を語った。そして、もしそれが夜のことででもあったら、あの日光の点が見えるはずもなく、あの通路を、それから先はさぐりもしなかったであろう! ベッキーを連れにもどって、うれしい知らせを聞かせたところ、そんなでたらめをいって、いらいらさせないでちょうだい、疲れて死にそうで、いっそ死んでしまいたいのだから、といった話をした。どんなにほねをおってベッキーにいいふくめたかを、くわしく語った。ベッキーがその目で日光の青い点が見えるところまで、手さぐりに来たとき、あやうく、うれしさのあまりに死にそうになったこと、穴をもぐり出て、ベッキーを出してやったこと、ふたりともすわりこんで、うれしさに泣いたこと、何人かの人が小舟で通りかかって、トムは大声で呼びかけ、こんなところにいるわけや、おなかがすききっていることを話した。小舟の人たちは、はじめはこんなとてつもない話を信じてくれなかった。「ここは洞穴《ほらあな》のある谷から、八キロも川しもなんだぞ」といったものだ。――それからふたりを舟に乗せてくれて、どこかの家まで運び、タ飯を食べさせて、暗くなってから二、三時間ほど休ませ、それから家へ運んでくれたのであった。
夜明け前に、サッチャー判事や、いっしょに残っていたわずかな捜索《そうさく》の人たちは、洞穴の中で、うしろにひきずっている案内ひもをたよりに、居場所まで、この喜ばしい知らせを伝えられた。
三日三晩にわたる、洞穴での労苦と空腹は、そうすぐに払い落とせるものでないことが、トムとベッキーにはすぐにわかった。ふたりは水曜日、木曜日とも寝たっきりで、そのあいだ、ますます疲れがひどくなり、だんだん弱っていくように思われた。トムは木曜日にちょっと病後のからだを動かしてみて、金曜日には町なかへ出かけ、土曜日にはほとんど前とかわらぬぐらいに元気になった。だが、ベッキーのほうは、日曜日まで部屋《へや》から出られなかったし、そのときでも、まるで消耗性《しょうもうせい》の衰弱病をわずらっているように見えた。
トムはハックが病気だと聞いて、金曜日に見舞いに出かけたが、病室には入れてもらえなかった。土曜日も、日曜日もだめだった。そのあとでは、毎日でも面会がかなったが、こんどの冒険のことはいわないように、興奮させるような話はいっさい口にしないように注意された。ダグラス未亡人が、いつもそばにつききりで、トムがいいつけを守っているかどうか、監視《かんし》していた。家で、トムはカーディフ丘の事件のことを聞いた。それに、「ボロを着た男」の死体が、とうとう悪事の報いで渡し場近くの川で見つかった、ということも知った。逃げようとしているうちにおぼれ死んだのであろう、ということになっていた。
トムが洞穴から救い出されて二週間ほどたったころ、ハックをたずねに出かけた。ハックはすっかりじょうぶになっていて、もう興奮する話を聞かせてもかまわないし、ハックが喜びそうな話があるんだ、とトムは思った。サッチャー判事の家はその途中にあったので、ちょっと立ちよって、ベッキーに会うことにした。判事さんと、そのお友だちの数人がトムに話をさせ、中のひとりが、もういちど洞穴《ほらあな》に行きたくはないか、とからかった。トムは、行ってもいいな、と答えた。判事さんはいった。
「うん、きみみたいな連中が、ほかにもな、トム、たくさんいるにちがいないね。だが、われわれのほうでも気をつけてある。もうだれも、あの洞穴で迷い子になれないよ」
「なぜ?」
「二週間前に、あの大きな扉にボイラー用の鉄板をかぶせ、三重に錠《じょう》をおろしておいたからね。――その鍵《かぎ》は、わたしが持っている」
トムはまっさおに、血のけを失った。
「どうした、これ? 早く、だれか! 水をいっぱい、持ってきてくれ!」
水がとどいて、トムの顔にぶっかけられた。
「さあ、もうだいじょうぶだ。どうしたんだ、トム?」
「あっ、判事さん、インディアン・ジョーが洞穴にいるんだ!」
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第三十四章 さがしあてた宝
数分とたたないうちに、この知らせは広まってしまっていて、十そうあまりの小舟が人を乗せてマクドゥーガル洞穴《ほらあな》へと向かっていた。フェリー・ボートも乗客を満載《まんさい》して、すぐあとにつづいた。トム・ソーヤーはサッチャー判事の乗りこんだ小舟に乗っていた。
洞穴の扉が開かれると、そのおぼろな薄明りの中に、悲惨《ひさん》な光景があらわれた。インディアン・ジョーが地面にのびて、死んでいたのだ。顔を扉のすきまによせ、最後の瞬間まで、外界の自由な光と喜びが得たいとばかり、じっと目をそそいでいたみたいだった。トムは心からかわいそうに思った。自分の経験から、この悪党がどんなに苦しんだか、よくわかったからである。あわれみの気持ちは動いたが、それでもほっとして、救われた気持ちだった。安堵《あんど》の胸をなでおろしてみると、この残忍な、ならず者に、思いきって不利な証言をしたあの日いらい、どんなに恐怖の重荷が大きく自分にのしかかっていたか、ということが、これまでになく、つくづくとわかった。
インディアン・ジョーの猟刀がすぐそばにころがっていて、刀が二つに折れていた。扉の下がわの太い横木が、執念《しゅうねん》こめて、切りきざまれていた。努力のかいもなかったのだ。天然の岩石が外がわで敷居《しきい》となっていて、そのがんじょうな物質にかかっては、ナイフなどは刃がたたなかったのである。ナイフのほうが折れるしかなかった。だが、たとえ岩石がじゃましなかったにしても、やはり努力はむだだったろう。横木が絶ち切られたところで、インディアン・ジョーは扉の下からもぐって出ることはかなわなかったからだ。ジョーにはそれがわかった。それでも、そこを切りきざんでいたのは、ただ、なにかをやっているため――退屈《たいくつ》な時間をまぎらすため――責め苦のうさばらしのためにすぎなかったのだ。いつもならば、この入り口をはいった広場に、見物人が捨てていったローソクの燃えさしが、五本や六本はくっつけてあるはずが、いまはひとつも見当たらなかった。囚人《しゅうじん》ジョーがさがし出して、食べてしまったのだ。コウモリまでも二、三匹、うまいことつかまえて、それも食べてしまったらしく、つめだけが残っていた。あわれにもこの不幸な男は、うえ死にしてしまったのであった。手近のひとところに、長い年月をかけて、地上からじょじょに大きくなってきた石筍《せきじゅん》があった。頭上の鍾乳石《しょうにゅうせき》からしたたっている水でできたものだった。囚人はその石筍をくだいて、その折れたあとへ石をのせていた。石には浅いくぼみをえぐって、時計が規則正しくカチカチと時をきざむようなわびしさで、三分ごとに落ちてくる、貴重な水を受けていたのである。――二十四時間かかっても、やっとデザートのスプーンに一杯だった。そのしたたりは、ピラミッドが造られたばかりのときにも落ちていた。トロイが陥落《かんらく》したときにも、ローマのいしずえがおかれたときにも、キリストが十字架にかけられたときにも、征服王ウィリアムが大英帝国を建設したときにも、コロンブスが航海したときにも、レキシントンの虐殺《ぎゃくさつ》がまだ耳新しかったときにも。いまも落ちている。これらのことすべてが歴史の午後に、伝説のたそがれの中に沈み、忘却《ぼうきゃく》の暗夜にのみこまれてしまうときにも、なお落ちつづけているであろう。すべてのことに目的と使命があるのだろうか。このしたたりとて、五千年ものあいだ、虫けらみたいな、このはかない人間の必要をみたすために、忍耐《にんたい》づよく落ちていたのか。また、これから一万年も先になしとげるべき、なにか別の重大な目的を持っているのであろうか。ま、どうでもいい。この不運な混血児ジョーが、はかりしれないほど貴重な水滴を受けためようとして、石にくぼみをえぐってから、長い長い年月がたっている。しかし今日にいたるまで、観光客がマクドゥーガル洞穴の奇観《きかん》を見物にくると、この哀れをさそう石と、ゆっくりとしたたっている水滴を、いちばん長く時間をかけて見入っている。インディアン・ジョーのコップはこの洞穴の名所番付の筆頭にあげられており、「アラジンの宮殿」でさえ、それにかなわない。
インディアン・ジョーは洞穴の入り口近くに埋められた。十キロ四方の、町々や、農場という農場、村という村から、舟や車に乗って、たくさんの人がそこへ集まってきた。こどもたちを連れ、あらゆる種類の弁当持参で、この葬式《そうしき》には、首つりの刑を見るのと同じぐらいに、まずまず満足した、といった。
この葬式で、一つのことが、これ以上に進められるのは中止になった。――インディアン・ジョーを赦免《しゃめん》してほしいという、州知事への請願《せいがん》である。この請願にはたくさんの署名が集まっていた。涙もろい、おしゃべりな会合がいくつもひらかれ、ばかみたいにおセンチなご婦人たちの委員会が任命されて、州知事のところへさめざめと泣きつきに行き、ひとつ目をつぶって、とんまになって慈悲をたれ、知事の義務を踏みにじってくれるように、哀願するはずになっていた。インディアン・ジョーは村の住民を五人も殺したと信じられていた。だが、それがなんだ? たとえジョーが悪魔であったにしても、赦免の請願に名をかきつらね、いつもこわれっぱなしで水もりのしている水道みたいな目から、涙をたらしてやろうという弱虫どもが、わんさといたことであろう。
葬式のあくる朝、トムはハックを人目につかない場所へ連れ出して、重大な話をした。このときまでには、ハックはトムの冒険については、ウエールズ人やダグラス未亡人から話を聞いて、一部始終のことを知っていた。だが、トムは、ハックが聞いていないことが一つあると思う。そのことをいま話したいんだ、といった。ハックの顔がくもった。そしていった。
「なんだか、わかってら。二号室へはいってみたが、ウィスキーしか見つからなかった、てんだろ。だれもおめえだってことは、いってくれなかったが、おら、おめえにちげえねえとにらんだ、そのウィスキーの一件を聞くと、すぐによ。あのかねが手にはいらなかったこともな。はいったとなりゃあ、なんとかやってきて、ほかのやつには黙ってても、おれにはいってくれたろうからな。トム、なんだか、ずうっと、あのしろものは、こっちの手にはいらねえような気がしてるんだ」
「よせやい、ハック、あの宿屋のおやじのことなど、告げ口した覚えはないぞ。ほら、おれがピクニックに出かけた土曜日には、あの宿屋は別条なかったんだ。あの晩は、おまえが見張りをすることになっていたのを、忘れたのか」
「やあ、そうだった! なあ、一年も前のような気がすらあ。その晩だったとも、おれがインディアン・ジョーを未亡人のところまで、つけたのは」
「ジョーをつけたのか」
「そうよ。――でも、黙っててくれ。インディアン・ジョーには仲間が残ってるかもしれん。にらまれて、おかしなまねをされたくねえからな。おれがいなかったら、やつはいまごろテキサスに腰をすえて、のうのうしてやがるところだ」
それからハックは自分の冒険のあらましを、のこらずトムに打ち明けた。トムはこれまで、ウエールズ人の活劇のところだけしか、聞いていなかったのである。
「そこでだ」ハックはやがて、かんじんの話にもどった。「二号室でウィスキーをくすねていたやつが、かねもくすねたんだぜ。――もう、おれたちにゃ、どうにもならねえよ、トム」
「ハック、あのかねは二号室なんかには、なかったんだ!」
「なんだって!」ハックは相棒の顔を、穴があくほど、さぐるように見つめた。「トム、またあのかねのゆくえをかぎつけたのか」
「ハック、洞穴《ほらあな》の中にあるんだ!」
ハックの目が輝いた。
「もういっぺん、いってみろ、トム」
「かねは洞穴の中だ!」
「トム――ほんとか――じょうだんか、本気か」
「本気だとも、ハック――本気のちんちきりんだ。いっしょに来て、持ち出すのを手伝ってくれ」
「やるとも! そこまで目印をつけて、迷い子にならなきゃあな」
「ハック、やるのに、ちっともてまはかからないんだ」
「よし、きた! どうしておめえはそのかねの――」
「ハック、そこへ行くまで、待ってろ。見つからなきゃあ、おれのたいこでもなんでも、持っているものは、みんなくれてやるよ。きっとだ」
「よし――きめた。いつかかるんだ?」
「その気なら、いますぐだ。からだはだいじょうぶか」
「洞穴《ほらあな》の、ずっと奥か? 三、四日はこうして起きているが、一キロ以上は歩けねえな、トム――歩けそうにねえや」
「まともにはいったら八キロぐれえあるが、おれの道はちがう、ハック。おれしか知らねえ、すげえ近道があるんだ。小舟でまっすぐ連れていってやるよ。舟を流していって、帰りはおれが漕《こ》いでやる。おまえは手を出さなくっていいんだ」
「すぐ出かけようぜ、トム」
「いいとも。いるものは、パンと肉、パイプもな。小さな袋が一つか二つ。たこ糸が二、三本、それに最近できたばかりの、|ロウ《ヽヽ》マッチをいくらかな。前にはいってたときは、そいつがあったらと、なんど思ったかしれやしない」
お昼ちょっと過ぎに、ふたりは人のいないのをさいわいに、ちょっと小舟を拝借して、すぐに出発した。「洞穴のくぼ」を数キロくだったところで、トムがいった。
「よう、このがけは洞穴のくぼから、ずっとここまで同じように見えるだろう。――家もなけりゃ、材木置場もなし、見わたすかぎり、茂みばかりだ。だが、向こうの上に、白いとこが見えるな、がけくずれのあったところによ。うん、あれがおれの目印のひとつだ。さあ、上がろう」
ふたりは岸に上がった。
「おい、ハック、ここに立ったままでよ、釣ざおがありゃあ、おれが抜け出たあの穴は、わけなく届くぐれえのとこだ。やれるもんなら、見つけてみろ」
ハックはあたりをくまなくさがした。だが、見つからなかった。トムは大いばりでヌルデの深い茂みにはいっていって、声をかけた。
「ほうら! 見ろ、ハック。こんなぴたりな穴は、どこにもありゃあしないぜ。ぜったい、人にいうなよ。おれは前から盗賊《とうぞく》になりたかったんだが、それにはこんな穴がいると、わかってた。どこで行き当たるかってのが、勝負の決め手だったんだ。こいつを手に入れたからには、そっとしておいて、ジョー・ハーパーとベン・ラジャーズだけ仲間に入れてやろうぜ。一味を組むのはあたりまえだからな。――一味がないことには、かっこうがつかないや。トム・ソーヤー一味――すげえじゃねえか、ハック」
「うん、すげえや、トム。で、ぬすむ相手は?」
「ああ、手当たりしだいよ。待ち伏せだ――たいてい、そうやるんだ」
「で、殺《や》るのか」
「いや、そうとはかぎらん。身代金《みのしろきん》をこしらえてくるまで、洞穴にかくしておく」
「身の代金って、なんだ?」
「かねだよ。できるだけのかねをつくらせる、そいつらの友だちからだ。一年間はつかまえておいて、それでかねができなきゃあ、殺《や》っちまう。それが普通のやりかただ。女だけは殺さない。閉じこめておくが、殺さないんだ。女ってのはいつも、きれいで、金持ちで、ひでえこわがりやだ。時計なんかはとっちまう。だが、いつでも帽子をぬいで、礼儀正しい口をきく。盗賊《とうぞく》ぐれえ、礼儀正しいのはいないんだ――どんな本にも、そうかいてあるよ。そこでだ、女たちはおまえが好きになる。洞穴《ほらあな》に一週間なり、二週間なりいるうちに、泣かなくなっちまって、出ていけったって、出ていかない。追い出したって、すぐに、まわれ右して帰ってくる。本ではみんな、そうなってるんだ」
「へえ、すばらしいな、トム。海賊になるより、よさそうだぞ」
「そうよ、いいとこだらけだ。家やサーカスなんかにも近いしな」
このころには、用意がすべてととのって、少年たちは穴にはいった。トムが先に立った。トンネルの向こうはしまで、ほねをおって進んでから、つなぎ合わせたたこ糸をしっかりしばりつけて、どんどん進んだ。二、三歩行くと、泉に出た。トムはからだじゅうがぶるぶるふるえた。岩壁におしつけたねんどのかたまりにくっついている、ロウソクの心《しん》の残りをハックに見せて、ベッキーとともに、ほのおがゆらゆらと消えていくのを見まもっていたようすを、話して聞かせた。
ここで、ふたりは声を落としてささやき声になりはじめた。この場が静かで陰気で、おかげで気がめいってしまったからである。ふたりは先へ行きつづけて、やがてトムが前に通った道にはいり、どうやら「先の切れた断崖《だんがい》」に着いた。ロウソクの明りでみると、それはほんとの絶壁ではなくて、高さ五、六十センチの、けわしいねんどの丘にすぎないのがわかった。トムは小声でいった。
「さあ、いいものを見せてやろう、ハック」
ロウソクを高くかざして、いった。
「できるだけ、その角をまわって、見てみろよ。わかるか。そら――向こうの大きい岩に――ロウソクの油煙でかいたやつ」
「トム、十字架《ヽヽヽ》だぞ!」
「まてよ、例の二号《ヽヽ》ってのは、たしか、|十字架の下《ヽヽヽヽヽ》じゃねえか、おい? そこんところで、インディアン・ジョーがロウソクをつき出したのが見えたんだぞ、ハック」
ハックはしばらく、その神秘なしるしを見つめていたが、それからふるえ声でいった。
「トム、ここを出ようよ!」
「なに? 宝ものをおいてか」
「うん――おいとけ。インディアン・ジョーの幽霊がそこらをうろついてるぜ、きっと」
「そんなことがあるもんか、ハック、あってたまるか。死んだ場所へ出てくるもんだ――ずっとあっちの洞穴の入り口よ――ここから八キロもあらあ」
「いや、トム、そんなこたあねえ。かねのまわりをうろつくんだ。幽霊の出かたはわかってる。おめえも知ってるのに」
トムは、ハックのいうとおりかなと、心配になってきた。不安がつのった。だが、すぐに思いつくことがあった。――
「おい、ハック、ばかもいいとこだぞ! インディアン・ジョーの幽霊が、十字架のあるところに出てきたりするもんか」
なるほど、そのとおりだった。こいつはききめがあった。
「トム、そいつは気がつかなかったぜ。ちげえねえ。よかったな、十字架があって。おりていって、あの箱をさがそうや」
トムが先に行き、おりながらねんどの丘にあらっぽい足場をきざんだ。ハックがつづいた。大岩が立ちはだかっている、小さな洞窟から四つの道が通じていた。ふたりはそのうちの三つを調べてみたが、なにも見つからなかった。岩の根もとにいちばん近い道に、ちょっと奥まったところがあって、わらぶとんがわりの毛布が、そこにひろげてあった。ほかに、古いズボンつりが一つ、ベーコンの皮がいくらか、しゃぶりつくした、二、三羽の鳥の骨があった。だが、かねの箱はなかった。ふたりはここを、さがしにさがしてみたが、だめだった。トムはいった。、
「やつは、十字架の下《ヽ》っていったんだ。すると、ここが十字架の下にいちばん近いことになるんだが。この岩の下ってことはないや。地面にがっちり根をおろしてるんだからな」
ふたりはもういちど、どこもかしこもさがしてみたが、がっかりして腰をおろした。ハックにはいい思案が浮かばなかった。やがて、トムがいった。
「よう、ハック、足あとやロウソクのたれ油が、この岩の片がわのねんどにはついてるが、もうひとつのほうにはねえな。はて、どういうわけだ? きっとかねは岩の下にあることはあるんだ。ねんどを掘ってみるぞ」
「そいつは悪くねえ思いつきだ、トム!」ハックは気負い立った。
トムがいう「本物のバーロー・ナイフ」をすぐにとり出して、十センチと掘らないうちに、木に当たった。
「ヘイ、ハック――これが聞こえるか」
ハックは掘って、かきまわしはじめた。すぐになん枚かの板ぎれがあらわれて、取りのけられた。その板で、岩の下に通じている、自然の深い穴をかくしてあったのだ。トムはこれにはいりこんで、できるだけ岩の下のほうへ、ずっとロウソクをさしのべてみたが、割れめのはしまでは見えない、といった。トムは、さぐってみないかと、いった。かがんで、下へもぐった。せまい道がだんだんに下りになっていた。曲がっている道なりに、はじめは右へ、それから左へ行き、ハックがすぐあとにつづいた。やがて、短い曲がり道をまわると、大声をあげた。
「ひえー、ハック、見ろよ!」
まさしく、あの宝の箱だった。小じんまりした洞窟《どうくつ》に鎮座《ちんざ》していて、そばにからっぽの小さい火薬|樽《だる》や、革ケースにはいった二ちょうの銃、古い鹿皮グツが二、三足、革ベルト、しずくでびしょぬれになった、いくつかのがらくたが、ちらばっていた。
「とうとう、せしめたぞ!」ハックはいいざま、さびかけた金貨を手でかきわけた。「やあ、こりゃ大金持ちだぞ、トム!」
「ハック、手にはいると思ってたよ。あんまり話がうますぎて、ほんととは思えないが、手に入れたことは、たしかだ! おい――ここでぐずぐずしておれん。そいつをひっぱり出すんだ。おれにその箱が持ち上げられるかな」
五十ポンドぐらいの重さがあった。トムは妙なかっこうで、やっとこさ持ち上げたが、うまく運ぶことはできなかった。
「こんなことだと思ったよ」トムはいった。「やつら、重そうに運んでいたぜ、あの日、幽霊屋敷でよ。ちゃんと見てたんだ。小さい袋を持ってくることに、気がついてよかったな」
かねをすぐに袋につめ分け、ふたりは十字架のある岩のところへ、持って上がった。
「鉄砲なんかもとってこようぜ」ハックがいった。
「いや、ハック――おいたままにしておけ。盗賊をやるときに、もってこいの代物《しろもの》だよ。いつでもあそこにおいといて、それに、酒《さか》もりもやろうぜ。酒もりにはすごく手ごろな場所だよ」
「酒もりってのは?」
「知らねえ。だが、盗賊はいつでも酒もりをやるんだ。もちろん、おれたちもやらなくてはな。さあ、ハック、ここに長くいたようだ。もうおそいかもしれんぞ。腹もへったし。舟へもどって、食ってから一服やろう」
ふたりはやがて、ヌルデの茂みの中へ姿をあらわし、用心ぶかくあたりをうかがって、岸に人けのないのを見とどけると、すぐに小舟に乗りこんで、食事をしてから一服していた。太陽が水平線に沈むというころ、ふたりは小舟を押し出して、漕《こ》ぎ進んだ。トムは長く暮れなずむたそがれの中を、岸にそって漕ぎのぼりながら、ハックと、愉快そうにしゃべって、暗くなってからほどなく、陸に上がった。
「なあ、ハック」トムはいった。「このかねは未亡人とこの薪《まき》小屋の屋根裏へかくしておこう。朝になったらやってくるから、こいつをかんじょうして、分けようや。それから森のどこかに安全なかくし場所をさがそう。おまえ、ここでじっとして、こいつの見張りをしていてくれ。おれがひと走り、ベニー・テーラーとこの手車を、こっそり持ってくるまでな。一分とはかからねえや」
トムは姿を消した。それからすぐに手車を押してもどってきて、小さな袋を二つ、それへ入れ、その上に古いぼろをかぶせて、車をひいて、出かけた。ふたりはウエールズ人の家までくると、足を止めて、ひと休みした。さて動き出そうとしたときに、ウエールズ人が出てきて、いった。
「おい、だれだね?」
「ハックとトム・ソーヤーだよ」
「よかった! いっしょにおいで。みんながお待ちかねだ。さあ――いそいで、いそいで。――車はわしがひいてやろう。おや、見かけほど軽くないな。レンガでものっけてるのか――それとも、古金物かい?」
「古金物だよ」トムがいった。
「そうだろう。この町のこどもたちは、つまらないほねおりをして時間つぶしをやるもんだ。一ドルにもならねえ古鉄をさがしまわって、鋳物《いもの》工場へ持っていく。まともに働けば倍の|みいり《ヽヽヽ》になるのにな。ま、それが人間というものだ。――いそいで、いそいで!」
ふたりは、なんのために急ぐのか、知りたかった。
「いいってことだ。わかるよ、ダグラス未亡人のとこへ行けば」
ハックはちょっと心配になって、いった。――長いあいだ、ありもしない罪をかぶっていたからである。
「ジョーンズさん、おれたち、なんにもしていないよ」
ウエールズ人は笑った。
「まあ、わしは知らんが、ハック。どうだかな。おまえ、未亡人とは仲よしじゃないのか」
「うん。まあ、よくしてくれてら」
「いいんだ、それなら。なにをこわがってる?」
問われて、ハックのにぶい頭に、まだ答えがまとまらないうちに、トムといっしょに、ダグラス未亡人の客間へ押し出された。ジョーンズさんは車を入り口の近くにおいて、あとについてはいった。
客間にはあかあかと明りがともっていて、村のお偉がたの顔がそろっていた。サッチャー家の人たちをはじめ、ハーパー一家、ラジャーズ一家、ポリーおばさんに、シッド、メリー、牧師さん、新聞主筆、ほかにわんさといて、みんなイッチョーラをきこしめしていた。未亡人は心からふたりを迎えた。こんなきたないかっこうの少年を迎えるのに、せいいっぱいの歓迎ぶりだった。ふたりはねんどとロウソクの油だらけだった。ポリーおばさんははずかしさでまっかになり、まゆをしかめて、トムに首をふった。だが、いちばん困ったのは、だれにもまして、ふたりだった。ジョーンズさんが、いった。
「トムはまだ家に帰っていませんでね、あきらめていたんですが、うまくわたしの家の前で、トムとハックにぶつかったもんで、大急ぎで連れてきましたよ」
「ほんとに、ようございましたわ」未亡人がいった。「いらっしゃい、おふたり」
未亡人はふたりを寝室へ連れていって、いった。
「さ、顔を洗って、着替えるんですよ。ここに新しい服が二着ありますからね――シャツに、ソックスに、みんなそろっているの。みんなハックのよ。――いいえ、お礼なんか、いわなくても、ハック――ジョーンズさんが一着買ってくださって、わたしが、あとの一着。でも、ふたりのどちらにもぴったりでしょう。着てごらん。待っていますからね。――おめかしができたら、おりていらっしゃい」
そういってから、未亡人は出ていった。
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第三十五章 あらわれた大金
ハックがいった。「トム逃げ出せるぞ、ロープが見つかりゃあ。窓は地面から、そう高くはないぜ」
「ばかな。なんだって、逃げ出したいんだ?」
「うん、あんな連中にはつき合いがねえよ。がまんがならねえや。下へは行かないぞ、トム」
「よせやあ! なんでもないよ。へっちゃらだ。おれがついてるよ」
シッドがやってきた。
「トム、おばさんが、お昼からずっと待ってたんだよ。メリーがにいさんのよそいきの服を持ってきているし、みんなやきもきしてたんだ。へえ――これはロウの油とねんどじゃないか、その服についてるのは?」
「おい、シッディさんよ、おせっかいはやめてくれ。この集まりは、いったいなんだい?」
「ここの未亡人がやる、いつものパーティーだよ。今夜のは、ウエールズ人とむすこさんたちのためだ。せんだっての晩に、あぶないところを助けてもらったお礼なんだよ。ところで――教えてやりたいことがあるんだが、聞きたければね」
「うん、なんだ?」
「いいか、ジョーンズじいさんが、ここで今夜、みんなになにかを、急に聞かせようとしてるんだ。けど、きょう、おばさんにそのことをいっているのを聞いちまった。秘密だって。でも、もう秘密でもないらしいや。みんな知ってるもん。――ここの未亡人も。知らないふりをしているけれどね。ジョーンズさんは、どうしてもハックにいてもらわにゃ、ときめていた。――ハックがいないことには、その大秘密ってのが、うまくいかない、てことだ!」
「なんの秘密だよ、シッド?」
「ハックがどろぼうを、この未亡人の家までつけていた、ってことだ。ジョーンズさんはみんなをあっといわせる寸法らしいが、きっと、なんだ、そんなことかと、気のぬけたものになるよ」
シッドはいかにも満足したように、くすくす笑った。
「シッド、おまえだな、しゃべったのは?」
「だれだっていいじゃないか、だれかが、しゃべったんだ――それだけのことだよ」
「シッドそんな卑劣《ひれつ》なまねをするのは、この町にひとりしかいねえ。それは、おまえだ。おまえがハックの立場だったら、こっそり丘をおりて、どろぼうのことなど、だれにもいいやしまい。卑劣なことしかできないやつだ。人がいいことをしてほめられるのが、見ておれないんだ。やい――未亡人のいいぐさじゃないが、礼はいらねえ」――トムはシッドの両耳をぽかぽかやって、ドアのほうへけりけり、追いやった。
「さあ、おばさんにいいつけるなら、いいつけに行け――あしたは、あとがこわいぞ!」
数分のちには、未亡人のお客さんたちは夕食のテーブルにつき、十人あまりのこどもたちも、同じ部屋《へや》の小さなサイド・テーブルにちょこんと並ばせられていた。当時の、この土地のならわしにしたがっていたのである。時を見はからって、ジョーンズさんが短いスピーチをした。そのなかで、自分やむすこたちをこんなにしていただいて、と未亡人にお礼を述べた。それだけでなく、ジョーンズさんはいった。もうひとりいるのです。その人のしとやかさは――
そこで、しかじか、かくかく。ハックがあの冒険で演じた役割を、これまた、せいいっぱいにみごとな力演ぶりで、その秘密というのを披露《ひろう》したが、聞いていた一座の驚きぶりは、いかにもわざとらしくて、もっとお膳《ぜん》だてのそろった場合なら、わっと湧《わ》きたつところが、そうとはいかなかった。それでも、未亡人はかなりじょうずに、びっくりしたようすを見せて、ハックをさんざんほめあげたり、お礼をいったりしたので、新しい服がどうにも着ごこち悪くてたまらないのを忘れてしまうくらいだった。それより、みんなの視線や称賛《しょうさん》のまとになって、人目にさらされているのが、なんとしても不愉快で、がまんがならなかった。
未亡人はハックをあたたかく手元にひきとり、教育を受けさせてやるつもりだ。そして、おかねをまわしてやることができれば、てごろな商売をはじめさせたい、といった。トムの出番がやってきた。トムはいった。
「ハックには、いらないよ。ハックは大金持ちなんだ」
一座の人たちが、むりにもお行儀《ぎょうぎ》よくしようとしていたばっかりに、この愉快なじょうだんをきけば、当然ふさわしいはずのおあいそ笑いが、ひっこめられてしまった。だが、この沈黙はいささか気まずかった。トムがそれを破った。
「ハックはおかねがはいったんだ。ほんとにしてもらえそうにないけれど、どっさり手に入れたんだよ。ああ、笑わないで。――見せてあげるからちょっと待ってください」
トムは部屋《へや》から外へ走り出た。人びとはおたがいに顔を見合わせて、どうなったのかと、気をそそられた。――それから、わけを聞きだそうとハックを見た。ハックは口を閉じていた。
「シッド、トムはどうしたっていうの?」ポリーおばさんがいった。「あの子は――ほんとに、あの子ったら、することがわかりゃしない。わたしはとても――」
トムがはいってきた。二つの袋の重さで、よたよたしていた。ポリーおばさんのことばが中途半端になった。トムは黄色い金貨の山をテーブルにそそぎ上げて、いった。
「ほら――いったとおり。半分はハックのもんで、半分はおれのもの!」
この光景に、みんながはっと息をのんだ。見つめたままで、しばらく口がきけなかった。それから、いっせいに説明をせがんだ。では、ひととおり、とトムが説明した。話は長かったが、興味しんしんたるものだった。口をはさんで、このおもしろい話の流れをさえぎる者は、まず、なかった。トムの話がおわったときに、ジョーンズさんがいった。
「今夜はいささかみなさんを驚かせる話をしこんできたつもりでしたが、こりゃ、どうもいけません。トムの話で、すっかり影がうすくなったようで、喜んで降参しますよ」
おかねがかぞえられた。全部で一万二千ドルをちょっと上まわる額になった。ここに居合わせた人で、これまでいちどにこれほどの大金を見たものはなかった。もっとも、財産ではそれよりもかなり多い人も、数人ではあるが、いたことはいたのである。
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第三十六章 盗賊団結成
読者は、トムとハックの思いがけない幸運が、貧しい小村セント・ピーターズバーグに大評判をひき起こした、と思われていい。あれほどの大金が、それもすべて現金でということは、まるでうそのような話であった。そのうわさでもちきりで、わがことのように喜んだり、ほめそやしたりで、しまいには、町の人たちの多くが、不健全な興奮にはりつめたばかりに、理性がよろめいてしまった。セント・ピーターズバーグや近くの村むらの「幽霊」屋敷という「幽霊」屋敷が、ばらばらにこわされた。板は一枚ずつはがされ、土台は掘り起こされ、かくしてある宝ものさがしにかきまわされた。――それもこどもではなくて、おとなたちのしわざで――きまじめな、夢にふけることもないような人たちさえもが、いくらかまじっていたのである。トムとハックはどこへ行っても、ちやほやされたり、ほめられたり、じっと見つめられたりした。ふたりのいったことなど、これまでいっこうにとり上げられた覚えもないのに、いまや、いうことなすことのいちいちが、心にとめて、口ぐちにくり返され、どうやらすてきなように見なされた。ふたりは、あきらかに、ありきたりのことをいったり、したりはできなくなっていた。そのうえ、昔の所業がほじくり出されて、まことに独創的なところがある、ということになった。村の新聞は、ふたりの生い立ちの記を掲載《けいさい》した。
ダグラス未亡人はハックのかねを六分の利息で貸し、サッチャー判事もポリーおばさんに頼まれて、トムのかねを同じようにまわした。ふたりとも、いまでは収入のある身となり、それもまことにどえらい額だった。――年じゅう、平日に毎日一ドル、日曜日には半ドルというわけだ。ちょうど牧師さんの収入――いや、手にはいることになっているはずのものと同じであった。――牧師さんはそれだけ集められないのがふつうだったからである。一週間に一ドル二十五セントあれば、質素にやっていたそのころでは、こどもをひとり学校へやって、食費と寮費と授業料を払えた。――そのうえ、服を着せ、さっぱりさせておくことができたのである。
サッチャー判事はトムを大いに高く買うようになっていた。なみの少年なら、わが娘をあの洞穴《ほらあな》から救い出せはしなかったろう、といった。ベッキーが、ほんとにないしょの話として、トムが学校で身代わりにむちをうけてくれたことを話したときには、判事はありありと感動した。ほんらい自分の肩に受けるべきむちを、トムが肩がわりしてくれようとして、大うそをついたことを、寛大に許してあげてほしいと頼むと、判事は感激にむせんで、いったものだ。それこそ、気高く、寛大、雅量《がりょう》あるうそである――かの初代大統領ジョージ・ワシントンが、その幼いとき、斧《おの》で桜の木を切ったと正直にいってほめられた、その正直さと肩をならべて、みごとのちのちの世まで史上に語り伝えられる値うちのあるうそである! ベッキーは、足音高く床を踏み歩いて、そういったときの父が、このときほど、かくも背高く、りっぱに見えたことはない、と思った。ベッキーはまっすぐトムのところへ出かけて、そのことを話した。
サッチャー判事は、いつかトムが大法律家か、偉大なる軍人になってほしかった。そのどちらかになるため、または両方をかねた人物になるために、トムをまず陸軍士官学校に入れ、のちさらに、この国いちばんの法律学校で勉強させるよう、指導するつもりだ、といった。
ハック・フィンは自分にかねがあること、いまダグラス未亡人の保護のもとにあって、社交界にひきだされたこと――いや、ひきずりこまれ、投げこまれたこと、そんなこんなの苦しみが、もうどうにもがまんならないところまで、きていた。未亡人の召使たちはハックを、さっぱりと小ぎれいにしておき、くしは入れるし、ブラシはかけるし、夜は夜で、あじけないシーツのベッドに寝かせた。小さなしみ、よごれひとつないシーツで、とても胸におしつけて、友だちづき合いのできる代物《しろもの》ではなかった。食事はナイフとフォークでときている。ナプキン、カップ、皿をつかわねばならない。本の勉強をしなければならない。教会へ行かねばならん。ものをいうにも、ちゃんとしたことばづかい、いうことが口の中で、味もしゃしゃらもなくなってしまう。どちらを向いても、文明という手かせ、足かせにしばられて、がんじがらめだった。
ハックは勇敢にも三週間、わが身のみじめさを堪えしのんだ。それから、ある日、さっと姿をかくしてしまった。四十八時間がかりで、未亡人は大いに悲嘆にくれながら、あちらこちらとハックをさがした。村人たちも深く心を痛めて、あらゆる場所をさがしまわった。死体が出ぬかと、川までさらった。三日めの朝早く、トム・ソーヤーは賢明にも、いまは打ちすてられてある屠殺場《とさつば》の裏の、古いあき樽《だる》をあれこれと、さがしにいった。あんのじょう、そのひとつに逃亡者《とうぼうしゃ》ハックが見つかった。ハックは寝とまりしていて、かっぱらってきた食べもののくずや切れはしで、朝めしを食べたばかりだった。のうのうと、ひと休みの、パイプを吹かしていた。髪は乱れほうだい、くしはいれず、あの昔ながらのぼろぼろ服を着ていた。自由で幸福だったころ、大いにはつらつ、としゃれて見えたやつだった。トムはハックをひっぱり出して、おかげでみんなが心配しているといい、家へ帰るようにすすめた。ハックの顔から、おだやかに満足していたけはいが消えて、ゆううつな影がやどってきた。ハックはいった。
「そのことなら、いわないでくれ、トム。やってみたんだが、だめなんだ。性《しょう》に合わねえや。なれてねえものな。そりゃ、後家《ごけ》さんはよくしてくれるし、やさしいが、あんなやりかたは、まっぴらだな。朝は同じ時間に起こされる。顔は洗わせられる。むやみやたらと、くしでしごかれる。薪小屋《まきごや》で眠らせねえし、あんないまいましい服を着なくてはならん。息がつまるだけだ。なんだか空気が通らねえような気がするぜ。てんで上等すぎて、すわることも、寝そべることも、そこらを転がるわけにもいかねえ。穴倉の戸の上で寝ころがらなくなってから――そうだな、なん年もたったような気がすらあ。教会に行かされて、汗ばかりかくぜ。――あの、ろくでもない説教なんか、でえきれえだ! あそこじゃ蠅《はえ》もつかまえられねえ。かみタバコもいけねえ。日曜日一日じゅう、靴《くつ》をはいてなきゃならねえときている。後家さんは食うのもベル、寝るのもベル、起きるのもベル――こうなんでも、えらくきちんとやられてみろ、たまったもんでねえよ」
「だがよ、みんなそうやってるぜ、ハック」
「トム、そんなこたあ、りくつにならねえ。おら、みんなとちがうし、いやなこった。あんなにしばられるのは、こりごりだな。らくらく食えすぎらあ。――そんな食いものは、うまいとは思えねえ。釣にいくにもお許しがいる。泳ぎにいくのもお許し――ちぇっ、なんでもかんでも、お許しとくる。それによう、ことばづかいはていねいに、てんで、くそおもしろくもねえ――おら、毎日、屋根裏へ上がって、ちょっとのまでも悪《あく》たいをつかなきゃ、口がさっぱりしなかったもんだ。でなきゃあ、くたばってらあ、トム。後家《ごけ》さんはタバコを吸わしてくれねえ。わめくのもいけねえ。人前で、あくびはいかん、のびもいかん、かいてもいかん――」(それから、とくべつ激しくいらいらと、ひどいめにあったとばかりに)「それに、ちくしょうめ、お祈りばかりしてやがる! あんな女って、見たことねえ! 逐電《ちくでん》ときめたんだ、トム――なんとしてもな。それによ、もうすぐ学校がはじまる。すると行かにゃならねえ。――とんでもねえこった。なあ、おい、トム、金持ちってのは、人がやいやいいうほどのもんじゃねえな。うるせえばかりで、汗たらたら、しょっちゅう死んだほうがましだと思ってた。この服のほうが板についてるし、この樽《たる》の寝床もよ。もう手放すつもりはねえよ。トム、あのかねさえなけりゃ、こんなひでえめに合わなくてよかったんだぜ。こうなりゃあ、おれの分けまえは、おめえのといっしょにとってもらって、ときどき十セント玉をよこしなよ。――たびたびは、いらねえ。ちょっとやそっとのことでは手にはいらねえものしか、さっぱり気がのらねえんだ。――おれのかわりに、後家さんにうまくいってくれ」
「おい、ハック、おれにそんなこと、できるもんか。きれいなやりかたじゃねえな。それに、もっとやっててみな。気にいるようになるかもしれねえぞ」
「気にいるって! そうとも――熱いストーブにじっと長く腰をおろしてりゃあ、そいつが気にいるってのか。いやだな、トム、金持ちなんか、まっぴらだ。あんな気のつまる家に住みたかねえ。森や川や樽が好きなんだ。離れるもんか。ちくしょう! 鉄砲も、洞穴《ほらあな》も手にはいって、せっかく盗賊のおぜんだてがそろったっていうのによ。こんなばかばかしいめに出っくわして、すっかりおじゃんだ!」
トムは、話はいまだと思った。――
「なあ、ハック、金持ちになったからって、おれは盗賊になるのをやめるつもりはねえぜ」
「そうかい! よう、本気でまじめにいってるんだろうな、トム」
「本気の本気だとも。だが、ハック、おまえがまともにならなきゃあ、一味には入れてやれねえぞ」
ハックの喜びは消えてしまった。
「入れられねえって、トム? 海賊には、入れたじゃねえか」
「うん、だが、あれはあれだ。盗賊てのは海賊より、アカぬけしているもんだ――そういうことになってるぜ。だいたい、どこの国でも、すごく身分の高い貴族なんだ――公爵《こうしゃく》とか、なんか」
「よう、トム、いつも仲よくしてくれてたのに。まさか、おれをのけものにしねえだろうな、トム。そんなこたあ、しねえだろう?」
「ハック、そんなつもりはねえよ。したくないとも。――だが、世間がなんていうかな。うん、みんないうぜ『ふん、トム・ソーヤー一味か!ずいぶん|げす《ヽヽ》なやつがはいってるな!』おまえのことだよ、ハック。そういわれたくねえだろう。おれもいやだな」
ハックはしばらく黙って、思案にくれた。とうとう、いった。
「ようし、ひと月、後家《ごけ》さんとこへ帰って、がまんできるようになるか、やってみよう。一味に加えてくれるんならな、トム」
「いいとも、ハック、きまった! さ、行こう。少しお手やわらかにしてくれるように、未亡人に頼んでやるよ、ハック」
「そうか、トム、やってくれるか。そいつはありがてえ。いちばんいけねえってやつを、いくらか大目に見てくれりゃあ、タバコも悪態《あくたい》もこっそりやることにして、一《いち》か八《ばち》か、やってみるぜ。一味をつのって、盗賊になろうってのは、いつだ?」
「ああ、すぐだ。仲間を集めて、今夜、結成式ってとこか」
「なにがどうだって?」
「結成式をやるのよ」
「なんだ、そりゃ?」
「誓いをたてることだよ。仲間は助け合い、一味の秘密はけっしてもらさない、たとえ、ずたずたにめった切りされてもだ。一味の者に害を加えるやつは、だれかれとてようしゃはない。一家もろともみな殺し、ってな」
「そいつはおもしれえ――すごくおもしれえや、トム、いかすぜ」
「うん、そうとも。その誓いをたてるのは、みんな、真夜中に、とてつもなくさびしくて、恐ろしい場所でなきゃいけないんだ。――幽霊屋敷がいちばんなんだが、すっかりこわされちまってるしな」
「へえ、真夜中ってのは、いかせるぜ、トム」
「うん、そうとも。それに、誓いをたてるのは、棺桶《かんおけ》に手をかけねばならん。署名《しょめい》は血でやる」
「よう、そうこなくては! 海賊より百万倍もいかせるぜ。おら、死ぬまで後家《ごけ》さんとこでがんばるよ、トム。おれが盗賊の大物《おおもの》になって、みんなの評判になりゃ、後家さんも、おれを拾い上げたことで、鼻高だかになるぜ」
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むすび
かくてこの一代記はおわる。厳密には、これはひとりの少年の物語であるから、ここでむすばなければならない。話がこれから先へ進むと、ひとりのおとなの物語になってしまう。おとなを扱って小説をかくとなると、話のおわりはちゃんとわかっている。――つまり、結婚で、めでたし、めでたしとなるのである。しかしこどものことをかくときは、いちばんいいところで筆をおかねばならぬ。
この本の中で活躍する人物は、ほとんどがまだ生きていて、盛大に、幸福にやっている。いつかまた、これらの若者たちの話をとり上げて、その後、どんな男や女のおとなになったか見るのも、やりがいがあるかもしれない。したがって、いまのところは、その連中の生涯の部分は、なにもかかないでおくのが賢明というものであろう。(完)
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解説
マーク・トウェインの生涯
〔筆名〕「トム・ソーヤーの冒険」の作者、マーク・トウェインというのは筆名で、本名はサミュエル・ラングホーン・クレメンズといった。筆名の由来は、ミシシッピー河を航行する水先案内の用語で、船の安全な進行のために川底までの水深《すいしん》をはかり、安全水位の「深さ、二ヒロ」(マーク・トウェイン)というのを、好んで自分の筆名にしたのであった。
〔生い立ち〕そのマーク・トウェインこと、サミュエル・ラングホーン・クレメンズは一八三五年十一月三十日にミズーリ州の寒村フロリダに生まれた。ときにハレー彗星《すいせい》があらわれた年で、この星が回帰して、ふたたび姿を見せるまでの七十五年間が、奇《く》しくもマーク・トウェイン在世の年月に当たっている。トウェインは地上の彗星である運命を、生まれながらにになっていたのかもしれない。
父のジョン・マーシャル・クレメンズは南部ヴァージニア州の生まれで、母ジェーンも隣の州ケンタッキー出身で、若いころには美人のほまれが高かった。一家はケンタッキー州の南の、テネシー州ジェームズタウンから、このフロリダへ移ってきたのであるが、この土地へ来てから間もなくして五人めのこどもが生まれ、それがサミュエルと名づけられたマーク・トウェインであった。
父ジョンはもと判事でありながら、その仕事がうまくいかず、商売に転じて、当時の辺境開拓者がひとしくいだいていた一|攫《かく》千金の夢を見ていた夢想家であったらしい。それでも土地の人びとからは尊敬されていた知識人であり、たいへんきびしくて、トウェインには近よりがたい、いかめしさがあった。母はよく笑う明朗な人で、動物や不幸な人びとに同情する心やさしさがあったが、一家はけっして豊かというのではなかった。それでもトウェインは楽しい少年時代を送っている。
フロリダはソールト河畔の、当時三十戸に足らない小村で、船便が開通すれば繁栄する目算であったが、事は思わくはずれになって、一家は同州のハンニバルに転居することになる。トウェインが四才、一八三九年のことであった。
〔なつかしのハンニバル〕ハンニバルはミシシッピー河畔にある、いわゆる河畔町の一つ。人口五百人ぐらいの小村で、セント・ルイス市とは一三〇キロ離れている。美しくはないが、静かな村で、近くにはいくつかの森があり、蒸気船が毎日この村を通って、これが他の町々との唯一の交通機関であった。このハンニバルでの少年時代の生活が「トム・ソーヤーの冒険」(七六)にも「ハックルベリー・フィンの冒険」(八四)にも生き生きと描かれる。ここでトウェインは白人と黒人との対照に心をひかれ、宗教的には正統キリスト教を離れて、後年の自己の機械論的哲学の下地をいだきはじめるのである。少年時代にこども心の愛情をよせたローラ・ホーキンズとの出会いもこの村でのことである。ローラは「トム・ソーヤーの冒険」にベッキー・サッチャーとして描かれている。トウェインは学校を怠けていたようでも、たいへんに読書好きで、ことに歴史には興味があり、勉強家ではあったが、学校好きではなかったというところである。
〔生活との戦い〕一八四七年、父が死んで、十二才のトウェインは最初の不幸に見舞われた。もともと貧しいほうであった上に家族は多く、兄のオライオンは独立して印刷業を営んでいたものの、残された一家は支えきれず、姉は音楽を教えて家計を助け、トウェインは学校をおしまいにして、土地の印刷屋の徒弟となった。しかし、アルバイトをしながら、一八四九年までは学校に通っている。そのころ兄のオライオンが新聞をはじめたのでこれを手伝い、やがてなにかと物を書くようになった。
一八五三年、十八才になると、たまたまニューヨークに世界博覧会が開催されているのに刺激され、大志をいだいて兄のもとをとび出し、これを機に渡り印刷工となって、セント・ルイスをはじめに、ニューヨーク、フィラデルフィア、また故郷をなつかしんでセント・ルイスにもどり、さらに一八五五年、転居していた印刷業の兄をたよってアイオワ州のキアカクに移り、さらにオハイオ州シンシナティへ足をのばしている。
〔ミシシッピー河上の生活〕一八五七年、開拓者魂の子トウェインはご多聞にもれず、当時流行の南米熱にあおられてブラジル行きを思い立った。ニューオーリンズまで出かけたものの、船便のないのを知ったが、そのとき有名な水先案内者ホレス・ビクスビーに見こまれ、ミシシッピー河で、かねてあこがれの水先案内見習いに転じ、一八五九年四月には正式の免許をうけた。じつに優秀な水先案内者であったが、この二か年足らずの経験がトウェインには貴重な人生体験となっている。「ミシシッピー河上の生活」(八三)はこのときの物語である。
アメリカの南北戦争(一八六一〜六五)が起こって、船は徴発され、河上の交通も絶たれたので、トウェインは職を離れて、一時ハンニバルに帰った。南部の義勇軍に加わったものの、二週間ですぐに止めて、兄のオライオンについて、太平洋沿いの西部カリフォルニア州となりのネヴァダ州に赴《おもむ》いた。南北合一の連邦主義者であった兄がリンカーンから新領土ネヴァダの長官に任ぜられたのである。このときのきびしい世界は「くじけずに」(七二)に、おもしろい「ほら話」入りで書かれている。
〔マーク・トウェイン誕生〕ここでトウェインは一八五二年には鉱夫となって働き、オーロラ地方を放浪しているうちに、招かれてヴァージニア市の新聞「エンタプライズ」の地方通信員になった。主筆から文才を買われていたからで、まだ辺境であった土地では新聞も粗野な記事と筆致の田舎《いなか》新聞にすぎなかった。トウェインは通信のほかにおもしろいスケッチなども書いていた。作家になる気がまえができたのはこの時で、ここでマーク・トウェインという筆名が生まれたのである。
〔文学的まじわり〕一八六四年にカリフォルニア州サンフランシスコへ移った。金鉱発見にわく黄金狂時代で、当地にはこのころ多数の文人が集まっていた。なかでも有名なブレット・ハートと知り合ったことが、トウェインの文学的成長に大いに役だっている。このふたりの作家はのちに仲たがいをしてしまった。
このころ友人の作家から聞きこんだ話をもとに、「飛びはね蛙」(一八六五)を書いて、ニューヨークの新聞「サタディ・プレス」に発表した。軽妙なユーモアが時流に歓迎され、これがたちまち評判になって、作家としての名声が確立、「アメリカのユーモア作家」という、終生抜きがたいレッテルをつけることになったのである。
新聞社から経済調査にハワイへ派遣されて四か月滞在、そのときの話をたねに、一八六六年十月二日にはじめて講演会をひらき、話じょうずのせいもあって、それからはカリフォルニアやネヴァダで巡回講演をしている。
〔おのぼりさんの外遊〕このころ、ニューヨークの汽船会社が企画したヨーロッパ観光団に参加することになる。新聞社と通信原稿を契約して、その費用を提供されたからである。船の中で得た多くの友人のなかに、ニューヨーク州エルマイラのチャールズ・ラングドンがあって、彼が見せた姉オリヴィアの写真がトウェインの心を動かすことになった。船は一八六七年六月八日に出帆し、約五か月ののち無事にアメリカへ帰ってきた。その間に書いた通信文は、伝統あるヨーロッパ文化に対する、新世界人=実利主義の非文化人の批判的風刺となって、期待にまさる人気を集中した。新大陸の自然児が見た、旧大陸のかたくななきゅうくつさのおかしさが、伝統のない、身軽ではつらつとした、こわさ知らずのアメリカ人たちの気風に、わが身びいきの楽しさを覚えさせたのであった。これが整理されて『おのぼりさん外遊記』として出版されたのが一八六九年七月であった。
〔愛人との結婚〕ヨーロッパ旅行を終えてから、トウェインは講演旅行のほかは主としてエルマイラに住み、しばしばラングドン家を訪れている。チャールズが自宅にトウェインを招待して、姉オリヴィアと引き合わせたのが縁となったのである。トウェインは「外遊記」の成功もあって、この恋を実らせ、一八七〇年二月二日に結婚式をあげた。
トウェインはこの愛妻に終生その愛情をかたむけたが、妻オリヴィアは東部上流家庭に育った、宗教心深い女性であり、自然児トウェインにとって、はたしてよき内助の妻であったかどうかに疑問を持つ批評家もある。トウェインの作品はすべて妻の批評を受けたともいわれるが、その後、かずかずの傑作を書きつづけたことをみれば、あながち有害な影響ばかり与えていたともいえないところがある。
新婚のふたりはやがてニューヨーク州バファロー市に移り住んだ。妻の父が住宅を贈ってくれた。この地で新聞に投資して、自ら経営に乗り出しもした。しかし、はじめの子が病死してからは、この土地に愛着がなくなり、新聞社も売りわたして、コネチカット州ハートフォードに移るが、七二年八月、資料を集めにイギリスに渡り、いったん帰国して、七三年春、妻と長女スーザンをともなってふたたびイギリスに赴《おもむ》き、一か年ほど滞在していた。
七四年に、こんどはひとりでイギリスに講演旅行。これが大成功で、二か月のちに帰国すると、ハートフォードのヌック・ファームの新邸が建築落成する。トウェインはその後の二十年近くを、ここで過ごし、ここで、「トム・ソーヤーの冒険」「ハックルベリー・フィンの冒険」、「ミシシッピー河上の生活」「王子と乞食」(八一)、「アーサー王宮廷のコネチカット・ヤンキー」(八九)などの傑作が書かれることになる。
〔新しい文学的空気〕ハートフォードは東部の文学的世界をつくっていた。時の新文学の指導者で、編集者でもあったウイリアム・ディーン・ハウエルズ(一八三七〜一九二〇)もここにしばしば足をとめ、トウェインの周囲には、どれい制度に反対して「アンクル・トムズ・ケビン」(一八五二)を書いたストウ夫人(一八一一〜九六)やチャールズ・ウォーナー(一八二九〜一九〇〇)などがいた。ウォーナーとの交遊は親密で、「金ぴか時代」(一八七三)はふたりの合作になっている。
一八七八年から七九年にかけて、トウェインは家族をつれてヨーロッパ各地の旅行に出た。親友の牧師トウィッチェルとの徒歩旅行。このときにも旅行記が書かれている。
〔失意の事業失敗〕トウェインがその輝かしい文学的栄光を持ちながら、一八九一年六月に一家をあげてドイツのベルリンに移住するに至ったのは、もっぱら、かねてから手を出していた出版事業の失敗によるものであった。とりわけ活字の自動植字機の完成に失敗して、その負債は巨額にのぼり、ハートフォードの邸宅さえ維持していけなくなった結果であった。
あまつさえ、九四年にはトウェインが関係していた出版社が破産し、負債はさらにふえるばかりであった。この間、フィレンツェやパリを旅行して、かねて尊敬していたジャンヌ・ダルク伝の資料を集めていた。これは「ジャンヌ・ダルクについての個人的回想」(九六)という歴史小説になるものである。
〔最後の世界周遊講演旅行〕一八九五年、ヨーロッパに滞在中に、トウェインは世界周遊の講演旅行を計画した。このころにはけっして講演をよろこんではいなかったが、多額の借金をこれによってつぐなおうと思ったのである。債権者から半分返してくれればいいという申し出があったが、それにあまえることなく、トウェイン夫妻は全額を返済する義務があると考えた。
すでにトウェインは六十才であった。いったんアメリカに帰ったトウェインは、一八九五年の六月、エルマイラを出発して、長い海と大陸の旅行に出た。妻と娘クレアラを連れての旅立ちであった。オーストラリア、ニュージーランド、インド、セイロン、南アメリカとまわってイギリスに至った。各地の講演は成功で、これによって負債はじゅうぶん返却できることになったが、一八九六年、イギリスで思いがけない悲報に接した。残してきた病身のスーザンが死んだのである。さきに危篤と聞いて、妻とクレアラはいそぎ帰国の船にあったが臨終には間に合わなかった。
トウェインはひとりロンドンにとどまり、やがて家族をむかえて、ここで最後の講演旅行記「赤道に沿って」(九七)の長文を書き上げた。負債を返して、経済的にもようやくうるおいのある生活が持てるようになった。
家族はオーストリアのウイーンに、スイスに、スウェーデンに、さらにイギリスに、四年あまりを過ごして、アメリカに帰ったのは一九〇〇年になってからである。
〔晩年の栄光と悲劇〕アメリカに帰ったマーク・トウェインは群衆から盛大な歓迎をうけた。ニューヨーク市に邸宅をもうけ、ハドスン河畔にも別荘をしつらえて、物質的にも精神的にも豊かな生活であったが、妻が病を得て、その保養のために、一九〇三年の秋イタリアのフィレンツェに移り住んだ。かいなく妻オリヴィアは翌一九〇四年六月にこの地で死去、エルマイラの墓地に、娘スーザン(愛称スージー)のかたわらに葬った。
一九〇七年にイギリスの名門オックスフォード大学から名誉文学博士の学位を贈られるに至って、マーク・トウェインの栄光はいっそうはなばなしいものになった。さきに一九〇一年にはアメリカの名門イェール大学から文学博士の学位をうけ、翌年には故郷のミズーリ大学からも法学の学位をうけていたが、この自然児である開拓者のマーク・トウェインがオックスフォード大学から栄誉を得たことは、なににもまして、トウェインには天にものぼる喜びであったにちがいない。これはまさしく、トウェインばかりでなく、アメリカ文学が国際的水準に浮かび出た文学的事件といってよかった。トウェインはこの名誉を受けに、もうふたたびその土地を踏むつもりはなかったイギリスに渡ったのであった。
一九〇八年に、かねてコネティカットのレディングに建築中の「ストームフィールド荘」が完成した。一家がそこに移ってからは、トウェインのよき友は近所のこどもであり、玉突きであり、タバコであり、歴史や科学の書物であった。
そんなある日、それも一九〇九年のクリスマスの前に、三女のジーンが持病のテンカンの発作で亡《な》くなった。
それから数か月して、マーク・トウェインも妻や娘たちのあとを追うことになる。一時は心臓病の保養にバーミューダ島へ出かけたものの、思いのほかに病はあつく、ストームフィールド荘へ帰ってから、一九一〇年四月十二日、のどの痛みに苦しみながら最後の息をひきとった。
ハレー彗星《すいせい》が、七十五年めにめぐり帰って、マーク・トウェインの魂を運んでいく年であった。じじつ、この彗星はトウェインの願いどおり、死の前日にあらわれたのであった。
その文学
マーク・トウェインは散文におけるホイットマンとも、文学におけるリンカーンともいわれる。ヨーロッパの伝統にしばられることなく、まったくのアメリカの辺境人として、アメリカ国民文学の確立に貢献した。南北戦争後の、いわゆる「金ぴか時代」に生き、理想主義的ロマン主義から悲観主義的なリアリズムに至る、文学的な流れの変化を、そのままに代表した作家であった。こっけい物語から社会風刺へ、自伝的なロマン的追憶を経て、後年は悲観主義的な人生観に立ち至るという、さまざまな精神的経歴をたどった。
もともと、トウェインの西部的なユーモアは、開拓者が持つ楽天観と、教養なく粗野ではあるが純粋な感情と、単純ななぐさめと、特権階級意識への軽蔑《けいべつ》などから、いくらかわざとらしいおかしみを強調した、こっけい小説から出発しているだけに、その優れた文学的本質は、東部の知識人からは、安っぽいお笑い小説ぐらいにしか考えられていなかった。トウェインの文学をよく理解したのはむしろヨーロッパで、海をへだてた向こうで国際的声価を得てから、やっと東部の文学者たちは、いまさらのようにトウェインのユーモアの価値や本質を見いだしたのである。
なるほど、トウェインには、いままでイギリスやヨーロッパ大陸に追従していたような要素は少しも見られなかった。トウェインはまったく自分流に、自分の目で、自分のことば、方言で作品を書いた、最初のアメリカ作家であった。それでこそ、この地方的な西部の作家が、その優れた作品によって、アメリカ国民文学のパイオニアになり得たのである。アメリカニズムの真髄《しんずい》といわれるのも当然であった。
マーク・トウェインが少年時代をミズーリ州ハンニバルに過ごしたというのは、その文学的生涯にとっては何よりの幸運であった。この小さな村は、「トム・ソーヤーの冒険」に見られるように、アメリカ合衆国の地図ではほぼ中心に当たり、さかまく広大なミシシッピー河にのぞんでいる。川幅は一・五キロもあるこの大河の両岸には田園、平原、森林がひろがっていた。ここでの少年時代の生活の追憶が「トム・ソーヤー」や「ハックルベリー・フィン」の傑作に再生しているのは理由のないことではなかった。それだけではない。印刷屋の徒弟、流し印刷工、蒸気船のパイロット、兵隊、鉱夫、新聞通信員、講演家、作者、編集者、出版者と、さまざまな職業を経験したことが、みなトウェインの文学の材料になるとともに、人間性を追求する、よき試練となっている。
マーク・トウェインのユーモアには二つの要素がある。ひとつは初期の「飛びはね蛙」に見られる、ほら話的要素であり、いまひとつは「おのぼりさん外遊記」に見られる一般的なおかしみで、文学的におもしろい素材に、いろいろな逸話がもりこまれているいきかたである。地方的な話題を、たくみに自己の経験から生かして、地方の細部の色あいを生き生きと表現している。その文体には詩的感覚に富んでいるところが多い。とくにそれが方言を自由にあつかった、アメリカ語によっていることは注目される。人物もそれぞれによく描かれている。
のちのトウェインは古いアメリカをなつかしむ憧れの感情、宗教不信、政治的・社会的改良への熱意をかたむけるようになった。これらの要素がトウェインを単なるこっけい作家におわらせなかったものであるが、トウェインを時代の流れの中の偉大な作者にする要素でもあった。
マーク・トウェインの評価は時代とともに高くなり、いまではその魅力を理解しない人はない。豊かな人生経験と、にじみ出るような文学的表現の巧みさは、充実した個性によって、その傑作のかずかずを、広く深く実らせているのである。
作品の解説と鑑賞
『トム・ソーヤーの冒険』(一八七六年刊)は、その「まえがき」にあるように、「この本に書かれている冒険のほとんどは、じっさいにあったことである。ひとつ、ふたつはわたくし自身の経験であったし、あとは学友であった少年たちの経験である」。この小説に出てくる人物も、ハックのように実在そのままを描いている場合もあれば、あれこれとまとめ合わせて、ひとりの人間に仕立て上げた場合もある。
いずれにしても、この小説の人物には、実在した人たちをモデルにしたあとが明らかで、サッチャー判事には作者の父の面影があり、ポリーおばさんは作者の母にもとづいている。メリーとシッドはそれぞれ姉のパミラ、弟のヘンリーをモデルにしている。マーク・トウェインには兄にオライオンとベンジャミン、姉にパミラとマーガレット、弟にヘンリーがあった。ハックルベリー・フィンはトム・ブランケンシップのことで、その父というのが村の飲んだくれであった。インディアン・ジョー(なまって、インジャン・ジョー)は悪名高い、土地のならず者、ベッキー・サッチャーは、トムがこども心に愛した少女ローラ・ホーキンズ。トム・ソーヤーはいうまでもなく作者マーク・トウェイン自身であるが、これにはほかのふたりの悪童仲間の姿が加わっている。
この作品はそうした意味では自伝的である。舞台はよく知りつくしていた村やその周辺であり、できごとや冒険は、みな本当にあったことである。しかし、小説であるからには、単に一八四〇年代の小さな南西部の村に生い立つ少年の記録というだけではなく、作者の豊かな創造と夢とあこがれの世界が展開することになる。時や場所を越えて、もっと共通的な人間性の表現があり、こどもの夢と恐れと、おさない考えかたや、ものの見かたが描き出される。話は巧みに進行し、事件や話題は豊かで、加えて自然の美しい描写があり、明確で読みやすい文体がこれを生き生きと、われわれ異郷人の目にも伝えてくれる。すぐれた文学が持つ美点である。
物語は少年たちを主人公にしているが、これも作家がいうように、安易な気持ちで少年少女の読み物のために書かれたのではない。作者はむしろ、おとなに読んでもらって、若き日の悪童的な、しかし善意にみちたこどもの行為、感情を、あたたかく思いかえしてもらいたかったのである。
「冒険」ということばは、いまでは「危険をおかす大胆な行動」という意味になっているが、この小説に使われている意味は「型やぶりの、痛快な行動」といったぐらいの意味である。いわばトムの行動は、スペインのセルバンテスが書いた「ドン・キホーテ」流の冒険で、そんなことからこの小説は「ピカレスク(悪漢)小説」の系統にあるともいわれる。ピカレは悪漢、悪者ではなく、自由に向こう見ずに、型やぶりの痛快な行動に出る人物をいうのである。「冒険」という題はイギリスの十八世紀の小説にも多かった。デフォーの「ロビンソン・クルーソーの冒険」、フィールディングの「ジョウゼフ・アンドルーズの冒険」、スモーレットの「ロデリック・ランダムの冒険」そのほか。すべてトム・ソーヤーふうの冒険である。もちろん、トム・ソーヤーの行動には悪党との対決、宝さがし、洞穴探検といった、文字どおりの意味もふくまれているのは当然である。なお、トウェインの作品には推理小説的な要素のふくまれているのが多く、「トム・ソーヤーの冒険」もそうである。これがいっそうトムの活躍を引き立たせ、プロットを迫力あるものにしている。
マーク・トウェインは演劇にも多大の関心と興味を持っていた。共同による自作の劇化もあれば、出版されはしなかったが、多くの戯曲を書いている。会話がきわめて生き生きと躍動しているのはそのためで、「トム・ソーヤーの冒険」も、はじめは戯曲として書こうとしたものが小説に転化したものであった。「王子と乞食」も戯曲から小説にかわったひとつである。「トム・ソーヤーの冒険」は「コネチカット・ヤンキー」とともに映画にもなって好評を得たし、「飛びはね蛙」はオペラに上演(一九五〇)されもした。
なお、「まえがき」にあるように、この小説には西部のこどもたちや、どれいたちのあいだにひろまっていた迷信がいくつか出てくる。一八三五年から四五年にかけてのころのものであるが、これは小説に歴史上の忠実な背景をあたえているばかりでなく、作者が民話や、とりわけ迷信に大きな興味を持っていたことを示している。
「トム・ソーヤーの冒険」の舞台はいうまでもなく風景の美しい、大河や森にかこまれたハンニバルの小村である。まだ開拓者たちの町づくり間もないころだけあって、おとなの古めかしいお説教じみたお上品ぶりに対して、自然児たちののびのびした、善意ある抵抗が、風刺的に対照される。トムやハックの悪童ぶりは、この村をおびやかす強盗殺人という兇悪犯人を相手に戦う正義感に上昇され、どれいの悲惨な境遇への同情も示される。おとなの偽善と虚飾が、いたずらトムの天真らんまんでユーモラスな冒険を通じて、ようしゃなく嘲笑風刺され、おとなの善とこどもの悪は、じつは人間性の価値において、まったく逆転していることが、おもしろおかしさのうちに、ひしひしと身にしみてくる。反省しなければならないのは、ただ世間的な見栄《みえ》だけで、宗教的教訓的であろうとするおとなのほうであることがわかる。すでに、牧師や先生の説く、神のみわざに対する疑惑がひそんでいる。むしろ人間性の純粋な善意を示すのは、作者トウェインによって愛情と情熱にあたたかく見つめられた、悪童トムの心情である。もっとも、いくらかの誇張と作意がめだつときがあるのは、作者トウェインの物語を仕立てる味つけが濃すぎたせいであろう。
「トム・ソーヤーの冒険」の冒頭、さぼり屋で、遊び好き、のんき者で、頭の働きがすばやく、いうことをきかない、けんか早い、わがままなトムと、彼をめぐる一家の人たち、しつけのきびしい、だが心の温かい、涙もろい、人の好いポリーおばさん、弟のシドニー(シッド)が紹介され、さらに新来者のおしゃれな少年が登場して、自然児のトムとはいい対照をつくる。トムをめぐる悪童たちの世界と、ポケットにしのばせている宝物のがらくたが示され、よくこどもたちの心をとらえた、塀ぬりのペテンの有名な挿話が展開する。
ポリーおばさんはトムを罰するが、それもしばしば無実のときがあって、トムに対しては深い愛情をそそぎながら、これも愛のむちだと心を鬼にしている。トムのほうではそんなおばさんの気持ちをとうに察していて、トムは英雄気どりで、じつはあまえているのである。やがてベッキー・サッチャーがトムの関心に深くはいってくる。姉のメリーが姿を見せてからの、日曜学校でのプードルとハサミ虫騒動は、いかにも無邪気でおもしろい。
ハックルベリー・フィンが出現するようになって、物語はさらに精彩をましてくる。トムとハックはたがいに心のつながりを持つが、同じ悪童でも、ふたりの境遇はちがっている。トムは孤児でもポリーおばさんの温かい家庭がある。ハックは父はあってものんだくれで、ひとり自由な気ままな浮浪生活をしていて、いまよりいい生活をする気などはない。自分の運命に満足している少年である。学校へも教会へも行かずにすむハックの境遇が、トムにはたいへんうらやましい。
ここでこどもたちの迷信がたくさん紹介される。トムもハックもこの迷信に弱いのは、そのまま単純なこども心を示しているが、この迷信から、真夜中の墓地の事件に発展する。同時にトムのベッキーへの愛情の告白がある。それも、ふたりともにこどものおとなぶりであることを注意しなくてはならない。トムのプライドと、ベッキーのお高くとまっている見かけのかけひきは、作者の得意とするところであったろう。
ジャクスン島での海賊団は、いかにもはつらつとしたこどもの夢の世界であり、その自然描写にも見るべきものがある。
悪党インディアン・ジョーと、よっぱらいのマフ・パッターが登場するにおよんで、この物語の局面は一転する。殺人という兇悪な犯罪、パッターの逮捕、真実を目撃したトムの苦悩、良心のかしゃくなど、物語の重心は悪党との対決、追跡に移動し、かくされた宝さがしという興味が加わってくる。
ピクニックでの洞穴で、ベッキーと道に迷うスリルがあって、どんな逆境にもくじけないトムの勇気と才知が発揮される。この冒険が、探し求めている宝物の財宝発見にむすびつき、悪党は自滅し、トムの英雄的行為が称賛される。しかし、物語はここで終わるのではない。トムに協力したハックは、お上品なしつけの家庭を飛び出して野性へ帰ることを求め、トムは盗賊団を組織して、新しい精神的な冒険へ出発しようとする。
そして作者は賢明にも、ここで少年を主人公とした年代記の筆をおいているのである。当時の開拓者である庶民の生活と感情を明確に写実的に描いた。人間の真実を、つまらない見かけだけの文明のわくの中におしこめようとする社会に対して、その因襲と偽善と既成道徳に挑戦するためには、自由で、野性的で、正義感のある、純真なこどもの目が必要であったのである。それも明朗な、心持よいユーモアにつつまれていて、この物語は、すくなくとも童心のよろこびと悲しさ、恐れと勇気に立ちかえりうる人たちの、共感の書となっているのである。
〔時代的背景〕「トム・ソーヤーの冒険」はトムとベッキーの親愛物語、ジャクスン島での海賊団冒険物語、殺人事件をめぐるトムとハックとマフ・パッターの物語、かくされた宝とインディアン・ジョーをめぐる物語の、四つの主要な物語からなっているが、時代からいえば一八四〇年代を舞台とし、産業革命の波がまだ西部にとどかなかったころである。おだやかな、悪くいえば、どんよりした西部ではあるが、開拓者の小さな町や村には暴力ざた、殺人騒ぎも珍しくはなく、粗野なままで、文明化されるまでには、その後かなりの年月がかかっている。どれいが使われていて、彼らは農業に従事するというより、家庭の召使として使われていることが多かった。当時のこどもたちは、わりあいに自由を楽しみ、自然になじむことが多く、教会や日曜学校、普通学校に行くこと、雑用の手伝いなどがおもな仕事で、みんなこれらを楽しんで、いたずらをしながら、明るく暮らしていた。着るものや玩具はとぼしかったが、家庭になついて、食べることが何より楽しみであった。
〔地理的背景〕(セント・ピーターズバーグ)作者トウェインが少年時代を過ごしたハンニバルの村。美しい森がめぐり、川には船が行きかう。カーディフの丘が高まり、ヌルデの木が一面に生い茂っている。丘の上には石切り場がある。
(ジャクスン島)人が住んでいないで、長細い、森の島。先端は砂州になっていて、トムやハックやジョーが海賊ごっこをするには、もってこいのところ。
(マクドゥーガルの洞穴)セント・ピーターズバーグから数キロの川沿いにある。入口はA字型になっていて、大きな木の扉があるが、かんぬきはかかっていない。内部は小さくて、冷たく、陰気な石灰石の室。見たところはロマンチックだが、ここから小さな小道がまがりくねって、そのうちのあるものは行きどまりになっている。鍾乳石や泉がたくさんある。ここでトムとベッキーは迷い子になり、トムとハックはインディアン・ジョーの宝を発見し、のちにジョーは閉じこめられて死んでしまう。
主要作品解題
「飛びはね蛙」(一八六五)
短編の、いわゆる「ほら話」の一つのつもりで書かれたらしい。はじめ、一八六五年十一月十八日、ニューヨークの「サタディ・プレス」紙にのった。そのときの題は「スマイリーとその飛びはね蛙」というのであった。一八六七年に他のスケッチとともに『キャラヴェラス郡の飛びはね蛙』と題する本になった。話のたねはトウェインが渡り者のベン・クーンなる者から聞いたものということになっているが、ゴールド・ラッシュ時代のはじめ、鉱夫たちの間でよく語られていた民話のひとつであるらしい。この話は、それまでにたびたび新聞や雑誌に出ている。ギリシアにもこれとよく似た民話があるらしい。鉱夫のジム・スマイリーは自分の蛙にダニエル・ウェブスターと名づけて、これに飛びはねる業《わざ》を仕込む。たまたま行きずりの男と蛙の飛びはね競走というカケをする。ジムはカケがすきで、この蛙でかせいでいたのであるが、このときジムがちょっとほかのことに注意をそらしているうちに、行きずりの男がダニエル・ウェブスター蛙に散弾をのませてしまう。その重みで、ダニエル蛙はいくら自信満々でも飛ぶことができなくなって敗北するという話。蛙の飛びはね競走は、いまでも年一回のトーナメントがカリフォルニア州で開かれているという。この短編で、ユーモア作家マーク・トウェインの文名は一時にあがった。なお、ダニエル・ウェブスター(一七八二〜一八五二)は政治家で、大演説家として有名な実在の人物である。蛙にその名をつけたのは、いうまでもなく、この政治家へのあてこすりである。
「おのぼりさん外遊記」(一八六九)
一名を「新ピルグリムズ・プログレス(天路歴程)」という。たくさんの旅行をしたマーク・トウェインは、ほかに、友人の牧師トウイッチェルと同行した南ドイツ、スイスの、一八七八年夏における五週間の徒歩旅行記「徒歩旅行」(一八八〇)や、晩年の世界一周講演旅行記「赤道に沿って」(一八九七)の大冊がある。「おのぼりさん外遊記」は一八六七年六月八日、観光船「クェーカー・シティー号」に乗って、ヨーロッパへ出かけた通信紀行の集成である。ジブラルタルを経て、マルセイユに上陸、パリからイタリアのヴェネチア、ミラノ、ローマをめぐり、アテネ、コンスタンチノープル、エーゲ海からパレスチナの聖地巡礼としゃれ、エジプトをまわって五か月の旅をしてくる。すべて新大陸アメリカのおのぼりさんが、伝統あるヨーロッパを、おもしろおかしく、ひやかして歩く観察記で、その価値|転倒《てんとう》の風刺は、大いにアメリカ人の自尊心をくすぐった。
「ミシシッピー河上の生活」(一八八三)
マーク・トウェインの自伝的な記録で、本になる前から、早く一八七五年にはその一部が月刊誌「アトランティック」に出ている。早くもハック・フィンの名が見えるが、その話は「ハックルベリー・フィンの冒険」にはふくまれていない。この作品は全部で六十章からなるが、はじめの三分の一と、二十一章からの後の三分の二とはまったく調子を異にしている。すでに昔のロマンスの姿を失った風物を追う回想の後編にひきかえ、前編には蒸気船全盛時代の、ハンニバルの町、パイロット修業の活気ある青春が語られている。マーク・トウェインが自分の筆名をえらんだ経験であって、まさに「なつかしのミシシッピー」であった。
「ハックルベリー・フィンの冒険」(一八八四)
「トム・ソーヤーの冒険」につづく物語ではあるが、この作品ではハックが自分で、自分のことばによって全編が語られる。続編とはいうものの、調子も構成も「トム・ソーヤー」とはたいへんにちがっていて、社会的な問題意識に触れる場合がときどきある。作者の関心がそれらをまじめに考えようとしていたからである。物語はもちろん、「トム・ソーヤー」と同じく、ハックとトムを中心にした少年時代を扱っているが、同時にまたアメリカ生活の生き生きした研究でもあって、これをギリシアの古代叙事詩ホメーロスの「オデュッセイア」になぞらえ、「ミシシッピー河の冒険を描いたオデュッセイア」といわれる。トムと分けた財宝の金をねらう乱暴無法な父からのがれたハックの放浪記で、これも逃亡してきた友人のどれい、ニグロのジムとともに、いかだでミシシッピーをくだっていく。ときにはスリルがあり、ときにはユーモラスな経験のかずかずに出合う。最後にはトム・ソーヤーも顔を出して、ジムは自由の身になり、ハックも父が死んで財産は安全に、精神的に解放される。大河や川沿いの風景は「トム・ソーヤー」にも見られるごとく、作者のよくなじんだ愛着の風物であり、いまは失われていく社会秩序の貴重な記録でもあれば、アメリカの生きた材料でもある。逃亡どれいの、ニグロのジムに対する扱いはマーク・トウェインのニグロやどれいへの同情と理解を示すものであった。いかだの川くだり、グランジャーフォード家とシェパードスン家の、若者の悲恋がからむ、やくざもどきの争い、「王様」と「公爵」という悪党どものペテン、その裏をかくハックの活躍など、因襲社会に対する自然児の魂の勝利という、「トム・ソーヤー」と同じ作者の理想に裏打ちされて、マーク・トウェインの傑作のひとつとなっている。
「王子と乞食」(一八八二)と「アーサー王宮廷のコネティカット・ヤンキー」(一八八九) ともに英国を舞台にした風刺小説。「王子と乞食」は十六世紀のロンドンで、チュダー王家の王子と、貧民の子トム・キャンティーとは瓜二つに似ていたばっかりに、ふたりの地位が逆転して、思いもかけない運命にほんろうされる。環境は人を作るとみえて、トムはまさに王者の風格を示し、王子は浮浪者として浮き世の波風にさらされる。この王子がエドワード六世ということになっている。よく似たふたりの、とりかえ物語はほかにもあり、「間抜けウィルスン」(一八九四)もそのひとつである。
「コネティカット・ヤンキー」は、一朝、目ざめると、かじ屋の息子《むすこ》で機械工場に勤めていた男が、昔六世紀の中世へさかのぼって、英国アーサー王の宮廷にあらわれる。この技師は十九世紀の文明に生き、当時の発明品のかずかずに接している。中世の騎士や魔法使いに対して、槍や呪文《じゅもん》をあざわらうように、ピストル、電信、電話が出てくる。汽車もあれば、旧式ながら蓄音機もあらわれる。学校教育、新聞発行、社会制度の改革と、中世紀の夢多い、牧歌的な英国を、科学によって「新規まき直し」をやろうというわけである。中世の象徴である騎士道が、物語などにあらわれる礼節、美徳とは打ってかわって、見ると聞くでは大いにちがう。貴族、僧侶の暴政によって、庶民がどのように苦しんだかに対する、英国への痛烈な風刺でもあった。
なお、トム・ソーヤーを主人公とした作品には、「トム・ソーヤー外遊記」(一八九四)、「トム・ソーヤーの探偵」(一八九六)、未完の「インディアンの中のハックとトム」(一八八九に執筆)がある。
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年譜
一八三四 一家はテネシー州ジェームズタウンからミズーリ州フロリダに転じる。
一八三五 十一月三十日、父ジョン・マーシャル・クレメンズ、母ジェーンの三男として生まれる。サミュエルと名づけられた。
一八三九(四歳) 一家は同じ州のハンニバルに移る。
一八四七(十二歳) 父死す。一家は貧しく、長兄オライオンは印刷業、姉は音楽の自宅教授、トウェインは印刷屋の徒弟となる。
一八四九(十四歳) 学校をやめる。
一八五〇(十五歳) 長兄が新聞をはじめたので、これを手伝い、かたわらこっけいな戯文をこれにのせはじめる。
一八五三(十八歳) 世界博覧会開催中のニューヨークへ出かける。これを機に、渡り印刷工となってセント・ルイス、ニューヨーク、フィラデルフィアと放浪、セント・ルイスにもどる。
一八五五(二十歳) アイオワ州キアカクに移って印刷業をやっていた長兄をたよる。
一八五七(二十二歳) 流行の南米熱にあおられてブラジル行きを思い立つ。ニューオーリンズまで出かけたものの船便がなく、有名な水先案内者ホレス・ビクスビーに見こまれ、ミシシッピー河のパイロット見習いとなる。
一八五九(二十四歳) 正式にパイロットの免許を得る。
一八六一(二十六歳) 南北戦争起こる。ハンニバルに帰り、二週間だけ南部義勇軍に加わる。兄オライオンとともにネヴァダにおもむく。兄がこの州の長官に任ぜられたためである。
一八六二(二十七歳) 鉱山事業に関係し、オーロラ地方を放浪しているうちに、ヴァージニア市の新聞「エンタプライズ」の通信員になる。ようやく文筆に自信がでて、通信文やスケッチにマーク・トウェインの筆名を用いる。
一八六四(二十九歳) サンフランシスコに移る。人気作家ブレット・ハートと知る。
一八六五(三十歳) ニューヨークの「サタディ・プレス」紙に「飛びはね蛙」を発表。文名大いにあがる。
一八六六(三十一歳) はじめてハワイ旅行の話をたねに講演会をひらき、それからは巡回講演に出ている。ニューヨークに出る。
一八六七(三十二歳) 『キャラヴェラス郡の有名な飛びはね蛙、その他スケッチ集』出版。六月八日、ヨーロッパ観光団に加わって出帆。この船でチャールズ・ラングドンと知り、のちその姉オリヴィアと結婚することになる。この観光旅行の通信文は「おのぼりさん外遊記」にまとめられる。
一八六九(三十四歳) 『おのぼりさん外遊記』出版。
一八七〇(三十五歳) オリヴィア・ラングドンと結婚。間もなくバファロー市の新居に移る。新聞経営。事業的欲望がさかんになる。初子が死んで、ハートフォードに転居。
一八七二(三十七歳) 『くじけずに』刊。長女のスーザン生まれる。八月、イギリスに行く。
一八七三(三十八歳) ウォーナーとの合作『金ぴか時代』刊。妻とスーザンをつれて一か年ほどイギリスに滞在。
一八七四(三十九歳) ひとりでイギリスにわたり、二か月の講演旅行。ハートフォードのマック・ファームの新邸落成。ハウエルズ、ストウ夫人、ウォーナーなどとの交遊深まる。次女クレアラ生まる。
一八七六(四十一歳) 『トム・ソーヤーの冒険』刊。
一八七八(四十三歳) 家族とヨーロッパ旅行。牧師トウィッチェルと徒歩旅行。
一八八〇(四十五歳) 『徒歩旅行』刊。三女ジーン生まる。
一八八一(四十六歳) 『王子と乞食』刊。
一八八三(四十八歳) 『ミシシッピー河上の生活』刊。
一八八四(四十九歳) 出版会社経営。『ハックルベリー・フィンの冒険』刊。
一八八九(五十四歳) 『アーサー王宮廷のコネティカット・ヤンキー』刊。
一八九一(五十六歳) 事業の失敗による借財から、ハートフォードの邸宅を手放し、一家はのち十か年ほどベルリンに移住する。その間、フランス、ドイツ、イタリア旅行。
一八九二(五十七歳) 『ふうがわりな双生児』『百万ポンド紙幣』刊。
一八九四(五十九歳) 出版社破産。『トム・ソーヤー外遊記』『間抜けのウィルソン』刊。
一八九五(六十歳) 多額の借金を返済するために、世界一周講演旅行に出る。いったんアメリカに帰って、六月エルマイラを立ち、長い海陸の旅に出発。妻と娘クレアラ同行。講演旅行は成功。借金を返して、経済的に立ちなおる。
一八九六(六十一歳) 長女スーザン死す。『ジャンヌ・ダルクについての個人的回想』『トム・ソーヤーの探偵』刊。ウィーン、スイス、スウェーデン、ロンドンなどに、四か年ほど滞在。
一八九七(六十二歳) 『赤道に沿って』刊。
一九〇〇(六十五歳) ニューヨークに帰る。
一九〇一(六十六歳) イェール大学から文学の学位。
一九〇二(六十七歳) ミズーリ大学から法学の学位。
一九〇三(六十八歳) 妻の病気静養のためイタリアのフィレンツェに移る。
一九〇四(六十九歳) 六月、妻オリヴィア、同地に死す。
一九〇六(七十一歳) 『人間とは何か』刊。バーミューダ島旅行。
一九〇七(七十二歳) オックスフォード大学から名誉文学博士の学位。渡英。
一九〇八(七十三歳) コネティカット州「ストームフィールド荘」に移る。
一九〇九(七十四歳) 三女ジーン死す。
一九一〇(七十五歳) バーミューダ島へ保養。四月十二日、ストームフィールド荘にて死去。
一九一六 『ふしぎな見知らぬ人』刊。
一九二四 『マーク・トウェイン自伝』刊。
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あとがき
この本はマーク・トウェインの「トム・ソーヤーの冒険」の全訳である。「まえがき」と「むすび」にはさまれた本文は全三十六章、原文には各章の見出しはついていないが、これまでの訳書の多くにならって、それぞれ適宜に見出しをつけておいた。もっぱら読者の興味にかなおうとしたものであるが、これがかえって興味をそぐことを恐れている。
各章の多くは、だいたい、ふたつのおもだった挿話からなっているので、とくに第十六章は長い上に、前半と後半がくっきり分かれていることもあって、これを二分したうえ、一章をもうけて、「あらし」の第十七章とした。類書の多くが全三十五章であるのに、この訳書では全三十六章になっているのはそのためである。
翻訳に当たっては、とりわけ光吉夏弥氏と石田英二氏の訳書から教えられるところが多かった。ふさわしい訳文を考えあぐねたときに、よき参考にさせていただいたが、いまひとつ、長埜盛氏の註釈本にも感謝しなければならない。はじめは疑義あるたびに大学関係のアメリカ人教師に教えを乞っていたが、この註釈本を得てからは時間的にも、字義の調査研究の労力のうえからも、大いに助けられた。
訳文は先訳に当たられた諸氏の労作につづいているので、その文恩にこたえるためにも、できるだけ正確で、読みやすく、原作の調子を尊重して、これをくずさないように微力をかたむけた。
解説はマーク・トウェインと作品についての、一般的な説明である。これを機会にさらにマーク・トウェインの作品に親しもうとする人たち、その研究に進もうとする人たちへの、簡明な手引きというつもりである。
一九六九年三月 (訳者)
〔訳者紹介〕
鈴木幸夫(すずき・ゆきお) 早稲田大学文学部教授。一九一二年生まれ。英米小説専攻。著書『アメリカ現代文学』、『現代イギリス文学作家論』、『イギリス文学主潮』、『アメリカ文学主潮』、編著『世界文学鑑賞辞典(イギリス・アメリカ)』、『文学思潮』、翻訳『波』(ヴァージニア・ウルフ)、『シェイクスピア名作集』、『汝再び故郷に帰れず』(トマス・ウルフ)、『シァーロク・ホウムズの冒険・回想・生還』(コナン・ドイル)『ポオ代表作選集』他。