目次
トム・ソーヤーの冒険
第一章   トムは遊び、闘《たたか》い、そしてかく      れる
第二章   栄光のペンキ塗《ぬ》り
第三章   戦争ごっこと恋愛《れんあい》ごっこ
第四章   日曜学校
第五章   「はさみむし」とその犠《ぎ》牲者《せいしゃ》
第六章   トムとベッキー
第七章   ダニ競技
第八章   海賊《かいぞく》志願
第九章   墓地の惨劇《さんげき》
第十章   不《ふ》吉《きつ》な犬の遠《とお》吠《ぼ》え
第十一章  トムの良心
第十二章  猫《ねこ》と「ペインキラー」
第十三章  海賊《かいぞく》出航
第十四章  たのしい無宿者
第十五章  トム、ひそかに家に帰る
第十六章  はじめてのタバコ
第十七章  自分の葬《そう》儀《ぎ》に参列する海賊《かいぞく》
第十八章  ふしぎな夢《ゆめ》
第十九章  「気がつかなかった」無情
第二十章  トム、ベッキーに代って罰《ばつ》を受      ける
第二十一章 雄弁《ゆうべん》
第二十二章 宿なしハック
第二十三章 マフ・ポッターを救う
第二十四章 得意の昼、恐怖《きょうふ》の夜
第二十五章 宝探し
第二十六章 本物の賊《ぞく》
第二十七章 戦慄《せんりつ》の追跡《ついせき》
第二十八章 悪漢ジョーのかくれ家
第二十九章 ハック、未亡人を救う
第三十章  洞窟《どうくつ》の怪《かい》
第三十一章 発見と再度の喪失《そうしつ》
第三十二章 「起きろ! 見つかったぞ        !」
第三十三章 悪漢ジョーの最後
第三十四章 黄金の洪水《こうずい》
第三十五章 ギャング団
解説(大久保康雄)
ャャ崋トム・ソーヤーの冒険
はしがき
本書に記された事件の大部分は実際にあったことである。その一、二は私自身の経験であり、他は私の学校友だちだった少年たちの経験である。ハック・フィンは実在の人物で、トム・ソーヤーもそうだが、ただ単独のモデルからではなく、私の知っている三人の少年の特長をとってつくりあげたもので、いわば混合式建築といったようなものだ。
このなかに出てくる奇妙《きみょう》な迷信《めいしん》は、すべてこの物語の当時、つまり三、四十年ほど前に、西部の子供や奴《ど》隷《れい》のあいだに行われていたものだ。
この本は主として少年少女諸君をよろこばすために書かれたものではあるが、だからといって大人の諸君が遠ざけるようなことはしないでいただきたい。大人の諸君に、その少年時代を思い起させ、その時代に感じたり考えたり語ったりしたこと、また、ときにはどんな奇妙なことを企《くわだ》てたかというようなことを思い出していただくのが、私の計画の一部でもあるのだから。
一八七六年、ハートフォードにて     作者
第一章 トムは遊び、闘《たたか》い、そしてかく    れる
「トム!」
答えがない。
「トム!」
答えがない。
「どうしたんだろうねえ、あの子は?――トムや!」
答えがない。
伯母《おば》さんは眼鏡を引きさげて、その上から部屋を見まわした。それから、今度は眼鏡を押《お》しあげて、その下から見まわした。この婦人は、子供のようなとるに足らないものを探すのに眼鏡を使うなどということは、ほとんど、あるいは絶対に、ないと言ってよかった。その眼鏡は伯母さんの公式用のもので、心から自《じ》慢《まん》にしているものであり、使うためというよりも「体裁《ていさい》」のためのものなのだ。ものを見るためなら、眼鏡の代りに、ストーブの蓋《ふた》を二枚用いたって、伯母さんにとっては同じことなのだ。伯母さんは、ちょっと、とまどった様子をした。だが、やがて、それほどはげしくはないが、それでも、そのへんの家具が恐《おそ》れ入るには十分な威《い》厳《げん》のある声をはりあげた。
「よし、つかまえたら最後、今度こそ――」
あとの言葉はつづかなかった。というのは、言いかけたときにはもう腰《こし》をかがめてベッドの下を箒《ほうき》で叩《たた》いていたので、その合間に一息入れなければならなかったからだ。しかし箒で叩いた結果は猫《ねこ》が飛び出しただけだった。
「ほんとに、あんな子ったら見たことがないよ!」
伯母さんは開いた戸口のところまで行って、そこに立ち、トマトと朝鮮朝顔《ちょうせんあさがお》が植えてある庭を見《み》渡《わた》したが、トムの姿はなかった。そこで伯母さんは遠くまで声がとどくように顎《あご》を突《つ》き出してどなった。
「トム!」
うしろで、かすかな音がきこえた。伯母さんは、すかさずふり返って、間一髪《かんいっぱつ》、少年の上《うわ》衣《ぎ》のだぶついたところをつかまえて、逃走《とうそう》をさえぎることができた。
「こんなところに! どうもその戸《と》棚《だな》が怪《あや》しいと思っていたんだ。いったい、そこで何をしていたの!」
「何にも」
「何にもだって! おまえの手をごらん、口のまわりをごらん、それは何だね?」
「知らないよ、伯母さん」
「そうかい。わたしにはわかっているよ。ジャムさ。そうにきまってる。あのジャムに手をつけたら承知しないって、口が酸《す》っぱくなるほど言っておいたじゃないか。さあ、その鞭《むち》をよこしなさい」
鞭が宙に躍《おど》って、まさに危機一髪だ。
「あっ! 伯母さん、うしろ!」
老婦人は、あわててふり返り、すばやく裾《すそ》をたくしあげて難を避《さ》けた。そのすきに少年は逃《に》げた。と思うと、早くも高い塀《へい》を乗りこえて向う側に姿を消してしまった。
ポリー伯母さんは、しばらくあっけにとられていたが、やがておだやかに笑いだした。
「いまいましい子だねえ。わたしは、いつまでだまされてばかりいるんだろう。あんな手には、これまでもさんざん乗せられたんだから、もういいかげん懲《こ》りていていいはずなのに。年寄りのまぬけには、つける薬がないって諺《ことわざ》にもいうが、まったくおいぼれ犬に新しい手をおぼえろと言ったって、それは無理ってもんさ。それに、あの子は二度と同じ手を使わないんだから、今度はどんな手でくるか、見当もつきやしない。その上、あの子は、どのくらいじらせば、わたしが怒《おこ》りだすかってことも、ちゃんと知ってるし、ほんのちょっとはぐらかすか笑わせるかすれば、それで折《せっ》檻《かん》がうやむやになるってことも心得ているようだ。でも、このままにしておいては、わたしは義務を怠《おこた》ることになる。それだけはまちがいない話だ。鞭を遠慮《えんりょ》すると子供を駄目《だめ》にする、と、ものの本にも書いてある。わたしのためにも、あの子のためにも、罪を重ねることになるんだ。ほんとうに手に負えない子供だけれど、死んだ実の妹の忘れがたみだと思うと、かわいそうで、なんとなく鞭を当てる勇気が出ない。許してやるたびに気がとがめるし、鞭を当てるたびに、この年寄りの胸は破れそうに痛む。人の子の生命《いのち》は短く、苦難に満ちている、と、聖書にもあるけれど、ほんとにそのとおりだ。今日も昼から学校をずるけるに相《そう》違《い》ない。そうしたら、明日、その罰《ばつ》に、みっちり仕事をさせなければならないだろう。ほかの子供たちがみんな遊んでいる土曜日に仕事をさせるのは、ほんとうにつらいけれど、あの子は、何よりも仕事がきらいなんだし、わたしは、あの子に対する義務を、いくらかなりと果さなければ、あの子を駄目にしてしまうだろう」
はたしてトムは学校をずるけて、思うぞんぶん遊びまわった。家に帰ったときは、黒《くろ》ん坊《ぼう》のジム少年が、明日のぶんの薪《まき》を挽《ひ》いて夕食前の焚付《たきつけ》をつくっていたところで、その手伝いにやっと間に合ったくらいだった――すくなくとも、ジムが仕事の四分の三をやるあいだ、今日一日のかずかずの冒険《ぼうけん》をジムに話して聞かせるだけには間に合ったわけだ。トムの弟(といっても腹ちがいの弟だが)のシッドは、おとなしい子で、冒険もしないし、他人に厄介《やっかい》をかけない性質だったから、もう自分に割りあてられた仕事(木片《こっぱ》を拾うこと)をすませていた。
トムが、夕食をたべながらすきをねらっては砂糖をちょろまかしているあいだに、ポリー伯母さんはトムに、いろんな質問をしたが、その質問は、駆《かけ》引《ひ》きに富んだ、意味深長なものだった。伯母さんの心づもりでは、トムを罠《わな》にかけて、うむを言わせず泥《どろ》を吐《は》かせるのが目的だった。心の単純な人にはよくあることだが、伯母さんは自分をいっぱしの策謀《さくぼう》家《か》だと考えたがる虚栄心《きょえいしん》の持主で、見えすいた駆引きを、すばらしく狡猾《こうかつ》な策略だとうぬぼれていた。
「トム、学校は暑かったろうね?」
「うん」
「ずいぶん暑かったろうね?」
「うん」
「泳ぎに行きたくはなかったかい、トム?」
小さな不安がトムの胸をよぎった――ほんのちょっとだが気持のわるい疑念だ。トムは伯母さんの顔をうかがった。だが、そこには何もあらわれていなかった。それで彼《かれ》は答えた。
「ううん――そんなに行きたくもなかったよ」
伯母さんは手をのばしてトムのシャツにさわってみた。
「でも、いまはそう暑くもないようだね」そして伯母さんは、自分の心のなかを誰《だれ》にもさとられることなく、シャツが乾《かわ》いているのを確かめたと考えて得意だった。だが、それにもかかわらず、トムには情勢がよくわかっていたので、彼は先手を打って言った。
「ポンプの水をかぶったものも、たくさんいるんだよ――ぼくの頭だって、まだ濡《ぬ》れてるでしょう、ほら、ね?」
そのちょっとした証拠《しょうこ》をうっかり見落して、罠をかけそこねたと思うと、ポリー伯母さんは、いまいましかった。そこで、ある妙案《みょうあん》を思いついた。
「トム、ポンプの水をかぶるのに、わたしが縫《ぬ》いつけてあげたシャツの襟《えり》をはずさなくてもよかったんじゃないかね? 上衣のボタンをはずしてごらん!」
トムの顔から不安の色が消えた。彼は上衣の襟をひろげてみせた。シャツの襟は、ちゃんと縫いつけてあった。
「あらまあ! でも、まあいいさ。てっきり学校をずるけて泳ぎに行ったにちがいないと思っていたんだけれど。でも、トム、もうかんべんしてあげるよ。諺にいうとおり、人は見かけによらないものなんだね。おまえは、ほんとうはいい子なんだ――今度だけはね」
伯母さんは、なかば自分の見込《みこ》みちがいをくやしがりながらも、なかばは、トムが今度だけでもいい子になってくれたのをよろこんだ。
だが、このときシッドが口を出した。
「だけど伯母さん、伯母さんが襟を縫いつけたのは、たしか白糸じゃなかったかと思うんだけど、それは黒糸だよ」
「そうだ、わたしが使ったのは白糸だった!トム!」
もちろんトムは、しまいまで聞いていなかった。部屋を飛び出しながら彼は言った。
「シッド、おぼえてろ!」
安全なところまでくると、トムは上衣の折返しに突き刺《さ》した――糸の巻きつけてある――二本の針をとり出した。一方の針の糸は白で、一方は黒だった。
「シッドさえよけいなことを言わなければ、気がつかなかったんだ、ちえッ、いまいましい! 伯母さんは白糸で縫うかと思うと黒糸で縫う。どっちか一方にきめてくれるといいんだが、これじゃ、まったくやりきれない。だが、この仕返しに、きっとシッドをひっぱたいてやる。どんなことがあっても思い知らせてやるんだ!」
トムは村の模《も》範《はん》少年ではなかった。だが、彼は模範少年をよく知っていた――そして憎《にく》んだ。
しかし、二分とたたないうちに、トムは、このいざこざを、きれいに忘れてしまっていた。というのは、大人が痛みを感じる度合いよりも、トムの感じる度合いのほうが、ほんのわずかでも軽くて楽だというわけではなくて、もっと別の新しい興味がそれを抑《おさ》えつけ、さしあたりその痛みを心から追い払《はら》ってしまったからなのだ。ちょうど、不幸な目にあわされた人が、新しく事業をはじめると、それに気をとられて不幸を忘れるようなものだ。その新しい興味というのは、黒人から教わったばかりの奇妙な口笛《くちぶえ》の吹《ふ》きかたで、誰にも邪魔《じゃま》されずに練習しようと、トムはいま夢中《むちゅう》だったのだ。これは口笛を吹くとき、すこしずつ間をおいて上顎《うわあご》に舌をつけ、そうすることで一種独特の小鳥のさえずるような顫音《せんおん》を出すのである。少年時代をすごしたことのある読者なら、たぶんおぼえがあるだろう。一《いっ》生懸命《しょうけんめい》に練習したので、トムは、すぐにそのこつをおぼえた。そこで彼は、せいいっぱい口笛を吹き鳴らしながら、満足した気持で大《おお》股《また》に通りを歩いて行った。まるで新しい惑星《わくせい》を発見した天文学者のような気持だった。しかし、強く、深く、純粋《じゅんすい》なよろこびという点では、トムのほうが、明らかに天文学者よりもまさっていた。
夏の日は長く、いつまでも暗くならなかった。まもなくトムは口笛をやめた。見なれない人間――トムよりいくらか大きな男の子――が、目の前にいたのだ。セント・ピーターズバーグのような小さな貧弱《ひんじゃく》な村では、新顔は、老若男女《ろうにゃくなんにょ》を問わず好《こう》奇《き》心《しん》の的になった。しかも、この少年は服装《ふくそう》もよかった――日曜日でもないのに立派な服装をしていた。これは驚《おどろ》くべきことだ。しゃれた帽《ぼう》子《し》をかぶり、新しくて、さっぱりとした空色の上衣のボタンをきちんとはめ、新しい短ズボンをはいていた。それに、まだ金曜日だというのに、靴《くつ》まではき、派手なリボンの頸飾《くびかざ》りさえつけていた。この少年には、いかにも都会人らしい雰《ふん》囲気《いき》があって、それが、トムのかんにさわった。このすばらしい相手を見れば見るほど、その服装がしゃくにさわり、自分の服装が、いよいよみすぼらしいものに思われてきた。どっちも口をきかなかった。一方が動くと、相手も動いた。ただし横にだけ動いて円を描《えが》いた。そして、そのあいだずっとまたたきもせずに睨《にら》みあった。ついにトムが口をきった。
「ぶん殴《なぐ》るぞ!」
「やれるならやってみろ」
「やれるとも」
「やれるもんか」
「やれる」
「やれない」
「やれる」
「やれない」
「やれると言ったらやれるんだ」
「やれないと言ったらやれないんだ」
睨みあいがつづいた。トムが、あらためて口をきった。
「おまえの名前は、何ていうんだ?」
「おまえなんかの知ったことか」
「よし、知ったことにしてみせる」
「よし、早くしてみせろ」
「つべこべいうんなら、ほんとにやっつけるぞ」
「つべこベ、つべこべ、つべこべ! さあ、やってみろ!」
「おまえは、よっぽどえらいつもりでいるんだな。そうだろう? 殴ろうと思えば、おまえなんか、片手でたくさんだ」
「そんなら、なぜ殴らないんだ――やれるもんなら、やってみろ」
「あんまりなめると、ほんとにやってみせるぞ」
「へん――おまえみたいに、手も足も出ないで、まごまごしてる人間を、おれは大勢見てきたぜ」
「なんだと! それでも自分をいっぱしの人間だと思ってるらしいな。帽子が気に入らねえ!」
「気に入らなくても、我《が》慢《まん》するんだな。叩き落せるもんなら叩き落したっていいぜ。その代り、あとで吠《ほ》えづらをかくぞ」
「おまえは、嘘《うそ》つきだ!」
「おまえだって、嘘つきだ」
「おまえは口さきだけ達者で、ほんとの喧《けん》嘩《か》なんかできやしないんだ」
「さっさとうせろ!」
「あんまり口はばったいことを言うと、頭に石をぶっつけてやるぞ」
「いいとも、やってみろ」
「よし、やってやる!」
「どうしてやらないんだ? やるやるとだけ言ってないで、どうして早くやらないんだ?こわいんだろう?」
「こわいもんか」
「こわいのさ」
「こわかない」
「こわい」
また言葉がとぎれて、睨みあいと、横歩きがつづいた。やがて二人の肩《かた》と肩とがふれあった。
「どけ!」
「おまえがどけ!」
「どかない」
「こっちだって、どかないぞ」
二人は、それぞれ足を踏《ふ》んばり、憎《にく》しみの目を怒《いか》らせて、力まかせに押しあった。だが、勝負はつかなかった。たがいに顔が真っ赤にゆだるまで押しあったあげく、二人は用心深く構えたまま、力をゆるめた。トムが言った。
「おまえは臆病《おくびょう》なちんころだ! おまえのことを、うちの大きい兄さんに言いつけてやる。大きい兄さんは、おまえなんか小指のさきでやっつけられるんだぞ。兄さんに言いつけて、そうしてもらってやる」
「おまえの兄貴なんか、ちっともこわくないさ。おれの兄さんは、もっと大きくて、おまえの兄貴なんか、あの塀の向うに投げとばしてしまうぞ」(二人とも、この「兄」というのは、想像上の人物なのだ)
「嘘だ!」
「おまえが嘘だと言うんだから、嘘じゃないさ!」
トムは足の親指で地面に一本の線を引いた。
「この線を越《こ》してみろ。足腰が立たなくなるまでぶん殴ってやる。これが越せたら、えらいもんだ」
新顔の少年は苦もなくその線を越した。
「さあ、ぶん殴ると言ったんだから、殴ってもらおうじゃないか」
「催促《さいそく》するつもりか。用心したほうがいいぜ」
「ぶん殴ると言ったじゃないか――なぜ殴らないんだ?」
「おまえなんか殴っても二セントにもならないからな」
新顔の少年はポケットから大きな銅貨を二枚とり出し、軽蔑《けいべつ》したように突き出した。トムはそれを地面に叩き落した。たちまち二人の少年は猫《ねこ》のようにとっ組みあって埃《ほこり》のなかをころげまわった。そして一分間ほど、二人は、たがいに髪《かみ》の毛や服を引きむしり、鼻を殴り引っ掻《か》き、埃まみれになって英雄《えいゆう》的な気分を味わった。やがて大勢《たいせい》が決したらしく、砂埃のなかから、新顔の少年を組みしいて拳《こぶし》をふるうトムの姿があらわれた。
「降参か!」と彼は叫《さけ》んだ。
相手は、体を自由にしようともがくだけだった。少年は泣き叫んでいたが、それは主として極度の興奮からだった。
「これでもか!」とトムは叫んで、つづけざまに拳をふりおろした。
とうとう相手の少年は、窒息《ちっそく》しそうな声で、「降参!」と叫んだ。トムは相手を立ちあがらせて言った。
「これでわかったろう。これからは相手を見てものをいうんだぞ」
相手の少年は、服の埃をはらい落し、鼻をすすってしゃくりあげながら立ち去った。だが、まだときどきふり返っては、「今度会ったらどうするかおぼえていろ」と顎をしゃくって見せた。トムは嘲笑《ちょうしょう》してこれに答え、胸を張って帰りかけた。トムがうしろを向くやいなや、新顔の少年は、いきなり小石を拾って投げつけ、それがトムの背中に当ったのを見定めると、一目散に逃げだした。トムは、その卑《ひ》怯者《きょうもの》のあとを追いかけて行って、相手の家をつきとめた。そして、しばらくのあいだ門の前で「敵」が出てくるのを待っていたが、敵は窓から赤んべえをして見せるだけで、出てこようとしなかった。とうとう敵のお母さんがあらわれて、トムを手のつけられない下等ないたずら小僧《こぞう》だと罵《ののし》って追い払ったので、やむなくトムは引きあげた。しかしトムは、このことを「見のがしてやったんだ」といばっていた。
家に帰ったのは、かなり遅《おそ》かった。そっと窓から忍《しの》びこんだところで伯母さんという伏《ふく》兵《へい》につかまってしまった。トムの服の様子を見て、どうでも土曜日の休みを遊ばせないで、みっちり仕事をさせようという伯母さんの決意は盤石《ばんじゃく》のように不動のものとなった。
第二章 栄光のペンキ塗《ぬ》り
土曜日の朝がきた。夏の世界は、いたるところ明るく、すがすがしく、あふれるばかり活気がみなぎっていた。すべての人の胸に歌がわきあがり、その胸が若い人の場合には、歌が自然と唇《くちびる》からほとばしった。すべての人の顔が明るく、足どりは軽やかだった。針槐《はりえんじゅ》の花が咲《さ》き、その香《かお》りが、あたりにたちこめた。村のかなたにそびえるカーディフの丘《おか》には、青々と草木が茂《しげ》り、遠くから眺《なが》めると、夢《ゆめ》のような、のどかな、人の心を引きよせる楽《らく》土《ど》のように見えた。
トムは胡《ご》粉《ふん》を入れたバケツと、長《なが》柄《え》の刷毛《はけ》を持って道端《みちばた》にあらわれた。彼《かれ》は板塀《いたべい》を一通り見《み》渡《わた》したが、周囲の自然はよろこびをうしない、深い憂鬱《ゆううつ》が彼の心を圧迫《あっぱく》した。塀は高さが九フィート、長さが三十ヤードもあった。トムにとって、人生はひどく空虚《くうきょ》であり、生きるということは重荷にすぎないように思われた。トムは、溜息《ためいき》をつきながら刷毛をバケツにつけていちばん上の板をすっと撫《な》でた。これをくりかえした。もう一度くりかえした。だが、胡粉を塗りつけた縞《しま》模《も》様《よう》の部分を、まだ残っている広々とした塀の面積にくらべると、あまりにも小さすぎるので、トムは、うんざりして、木の切株に腰《こし》をおろした。そのとき、ジムが、バケツをさげ、「バッファロ・ガルズ」をうたいながら、門から飛び出してきた。以前だったら、村の共同井戸《いど》から水を汲《く》んでくるのは、トムには、この上もなくいやな仕事だったが、いまは、そうは思わなかった。共同井戸のところに、いつも遊び仲間が集まっていることを彼は思い出した。白人や黒人や混血の子供たちが、休んだり、玩《おも》具《ちゃ》を交換《こうかん》したり、喧《けん》嘩《か》をしたり、とっ組みあいをしたり、ふざけたりしながら、いつもそこで順番を待っているのだ。さらにトムは、共同井戸まで百五十ヤードしか離《はな》れていないのに、ジムが、バケツ一杯《いっぱい》の水をもって帰るのに一時間近くもかかり、しかも誰《だれ》かが呼びに行かないと帰ってこないのを思い出した。そこでトムは言った。
「おい、ジム、おまえが塀を塗ってくれるんなら、水を汲んできてやってもいいぜ」
ジムは、かぶりを振った。
「駄目《だめ》だよ、トムさん。まっすぐ行って自分で汲んでこい、遊んだりして道草くっちゃいけねえって、奥《おく》さまから、かたく言いつかってきただ。トムさんに塀塗りを押《お》しつけられるかもしれねえが、そんなところにぐずぐずしてねえで、ちゃんと自分の仕事をやれって言われているだ――奥さまが塀塗りを見にくるって言ってただよ」
「伯母《おば》さんの言うことなんか本気にするなよ、ジム。あれは口ぐせなんだ。いいからバケツをよこせよ――すぐ帰ってくる。伯母さんなんかにわかりっこないさ」
「駄目だよ、トムさん。奥さまに見つかったら首をねじ切られてしまうだ。ほんとだよ」
「ばかいえ、伯母さんがそんな乱暴なお仕置きをするもんか――せいぜい指貫《ゆびぬき》で頭をコツンとやるくらいなものさ。それくらい何でもないじゃないか。ガミガミ叱言《こごと》をいうけれど、叱言なんか痛くもかゆくもないじゃないか。どっちにしろ、伯母さんに泣きだされさえしなければ平気さ。ジム、おまえに弾《はじ》き玉をやる、白い大きな弾き玉だぞ!」
ジムは迷いはじめた。
「白い弾き玉だぞ、ジム! すごいやつだぜ」
「ほんとだ! ほんとにすばらしい! だが、トムさん、おれ、奥さまがこわくて――」
「それから、いうことをきいたら、足の指の傷も見せてやる」
ジムも結局人間以上のものではなかった――この誘惑《ゆうわく》は、あまりにも強烈《きょうれつ》だった。彼はバケツを下において、白い弾き玉を受けとり、繃帯《ほうたい》がとかれるあいだ夢中《むちゅう》になってトムの足指の上にかがみこんでいた。しかし、つぎの瞬間《しゅんかん》、彼はバケツを引っつかみ、背中にひりひりする痛みを感じながら通りを走りだし、トムは熱心に塀を塗り、そして伯母さんはスリッパを片手に、勝利の色を目にうかべて戦場を引きあげて行った。
しかしトムの忍耐《にんたい》はつづかなかった。かねがね今日のために計画したおもしろい遊びのことを考えると、いよいよみじめになった。まもなく自由な子供たちが、あらゆる種類の楽しい行楽に足どりも軽く出かけてくるだろう。そして、彼が働かなければならないのを、さんざんひやかすだろう――そう思うと胸がはり裂《さ》けるようだった。彼は自分の財産を引っぱり出して調べてみた――玩具、弾き玉、それから、こまごまとしたつまらないもの。だが、これと引きかえに仕事をさせるくらいなことはできるかもしれないが、三十分の完全な自由を買うとなると、この倍でもまだ足りないだろう。そこで彼は、貧弱《ひんじゃく》な財産をポケットに戻《もど》し、誰かを買収しようという考えをあきらめた。ところが、この暗い絶望的な瞬間に天の霊感《れいかん》がひらめいた。まさしく偉《い》大《だい》な、すばらしい霊感だった。
彼は刷毛をとりあげて静かに仕事にかかった。まもなくベン・ロジャーズがあらわれたが、トムは誰よりもこの少年にからかわれるのを恐《おそ》れていたのだ。しかもベンの足どりは三段《さんだん》跳《と》びのように軽くて――明らかに心の弾《はず》みと期待の大きさを物語っていた。ベンは林《りん》檎《ご》をかじりながら、ときどきボーという長い調子のいい声をあげ、そのあとにゴットン、ゴットン、ゴットンと底力をこめた伴奏《ばんそう》をつけた――蒸気船の真似《まね》をしているのだ。近づいてくると彼は速力をゆるめ、通りのまんなかのコースをとり、大きく右に傾《かたむ》きながら、重々しく、しかも気どった大げさなポーズで船首を風上に向けてとまった。彼は吃水《きっすい》九フィートの蒸気船「大ミズーリ」号になったつもりだが、蒸気船であると同時に船長でもあり、号鐘《ごうしょう》でもあるので、上甲板《じょうかんぱん》に立って、命令を下し、それを実行しているものとみなさなければならなかった。
「停船! カン、カン、カン!」船脚《ふなあし》は、ほとんどとまって、ゆっくりと道端へ近づいてきた。
「後退! カン、カン、カン!」彼は腕《うで》をまっすぐにぴんとのばして下へおろした。
「右《う》舷《げん》後退! カン、カン、カン! シュー! シュー! シュー! シュー!」そのあいだ、彼の右手は、おごそかに円を描《えが》いていた。その腕は直径四十フイートの大側輪というわけだ。
「左舷後退! カン、カン、カン! シュー! シュー! シュー! シュー!」今度は左舷が回りだした。
「右舷ストップ! カン、カン、カン! 左舷ストップ! 右舷前進! やめ! 外側の機械をゆっくり回せ! カン、カン、カン! シュー! とめ綱《づな》を出せ! そら、元気を出すんだ! ひき綱をとれ! その杭《くい》にロープをかけろ! それでよし。流せ! エンジンとめ! カン、カン、カン! シッ! シッ! シッ!」(ゲージ・コックをあらためるしぐさ)
トムは蒸気船なんか見向きもせずに塀を塗りつづけた。ベンは、しばらくその様子を眺めてから声をかけた。
「おい、だいぶへこたれてるようだな」
返事がなかった。トムは、いま塗ったばかりの一刷毛のあとを、画家の目つきで眺めた。そして、もう一度そっと塗り、あらためて、その結果を調べた。ベンは、そばへ寄ってきた。トムは林檎がほしくて口のなかに唾《つば》がたまったが、我《が》慢《まん》して仕事をつづけた。
「どうした、トム、仕事を言いつけられたんだね」
トムは、くるりとふり返って言った。
「なんだ、ベンだったのか。気がつかなかったよ」
「おれは、これから泳ぎに行くんだ。行きたくないかい? だが、もちろんきみは仕事のほうがいいんだろう? もちろんな」
トムは、ちょっとのあいだベンを見すえてから言った。
「仕事って何のことだい?」
「おや、それは仕事じゃないのかい」
トムは、また塗りはじめながら、さりげなく言った。
「そうだな、仕事といえば仕事だが、そうでないといえば、そうでないかもしれないぜ。ただそれがトム・ソーヤーの性《しょう》に合ってることだけはまちがいないだろうな」
「ごまかすな。まさかその仕事が好きだなんて言ってるんじゃないだろうな?」
刷毛は動きつづけた。
「好きだって? うん、好きじゃいけないって理由はないと思うがね。塀を塗るなんて機会が、子供に毎日めぐまれると思うかい?」
これで塀塗りという仕事が新しいスポットを浴びることになった。ベンは林檎をかじるのを中止した。トムは、刷毛を優美に上下に動かし、一歩さがっては、その結果を眺め、そこここに修正を加え、またうしろにさがっては、その結果を検討した。ベンは、その動きを、仔《し》細《さい》に見まもっていたが、しだいに興味をおぼえ、ますます心を奪《うば》われてきた。まもなく彼は、たまらなくなって声をかけた。
「おい、トム、ちょっとやらしてくれないか」
トムは考えた――いいとも、と言いかけたが、気を変えた。
「駄目だ、ベン。それはいけないよ。ポリー伯母さんは、この塀のことになると、とてもやかましいんだ、表通りの塀だからね。もしこれが裏通りにあるんなら、おれだってかまわないし、伯母さんだって、そうやかましいことは言わないだろうけどね。伯母さんは、ほんとにこの塀にかけちゃうるさいんだ。だから、とても気をつけてやらなくちゃいけないんだ。この仕事がうまくできる子供は、千人に一人――おそらく二千人に一人だろうな」
「そうかな――でも、ちょっとおれにやらせてくれよ。ちょっとだけでいいんだ。もしおれがきみだったらやらせるんだけどな、トム」
「おれだってやらせてやりたいよ。だが、ポリー伯母さんが――そうだ、ジムもやりたがっていたが、伯母さんはやらせなかったんだ。シッドもやりたがったけれど、シッドにもやらせなかった。おれの立場、わかるだろう? もしきみにやらせて、万一この塀がどうかなったら――」
「いや、大丈夫《だいじょうぶ》だ。できるだけ気をつけてやるから。ねえ、やらせてくれよ。この林檎の芯をやるからさ」
「そうだな、そんなら――いや、ベン、いまはいけないよ、もし――」
「じゃ、林檎をまるごとやる!」
トムは、いそいそと、ただし顔だけは苦りきった表情で刷毛を渡した。そして、さっきの蒸気船「大ミズーリ」号が日に照らされ、汗《あせ》だくになって働いているあいだ、引退した芸術家は、近くの木《こ》陰《かげ》の樽《たる》に腰をおろし、足をぶらぶらさせて林檎をかじりながら、無《む》邪《じゃ》気《き》な連中をたぶらかす方法を考えていた。その材料には事欠かなかった。というのは、子供たちがつぎつぎと通りかかったからだ。子供たちは、からかうつもりでやってくるのだが、結局は残って塀塗りの仕事をさせられた。ベンが疲《つか》れて引きあげてしまうと、トムは、よくできた上等の凧《たこ》と引きかえに、ビリー・フィッシャーに、そのあとを引きつがせた。そして、ビリーが退散すると、ジョニー・ミラーが、鼠《ねずみ》の死《し》骸《がい》とそれをふりまわす紐《ひも》を提供して、つぎの順番を手に入れた。こうして、つぎつぎと顔ぶれが変って、何時間かがすぎた。そして、昼すぎになると、朝のあいだ哀《あわ》れにも貧しかったトムは、文字どおり、ものすごい財産家になった。前にあげたもののほかに、弾き玉が十二個、口琴《こうきん》の一部分、目に当てて景色などを見るための青いガラス壜《びん》の破《は》片《へん》、糸巻きの大砲《たいほう》、どんな錠前《じょうまえ》にも役に立たない鍵《かぎ》、チョーク一片、ガラス壜の栓《せん》、ブリキの兵隊、おたまじゃくし二《に》匹《ひき》、癇癪玉《かんしゃくだま》六個、片目の猫《ねこ》、真鍮《しんちゅう》のドアの把手《とって》、犬の首輪――ただし犬はふくまれていない――ナイフの柄《え》、オレンジの皮四片、使えなくなった窓《まど》枠《わく》など。
しかも、トムが、とても愉《ゆ》快《かい》に、気持よく遊びくらしているあいだに――遊び仲間は、いくらでもいた――塀は三重に塗りつぶされたのだ! もし胡粉がなくならなかったら、トムは村じゅうの子供を破産させてしまっただろう。
結局この世は、それほどつまらないものでもない、とトムはつぶやいた。ここでトムは、自分では意識しなかったが、人間の行《こう》為《い》について、一大法則を発見したのだ――それは、大人でも子供でも、あるものをほしがらせようと思ったら、それを容易に手に入れにくいと思わせさえすればいい、ということだ。もしトムが、この本の作者のように賢明《けんめい》で偉大な哲学者《てつがくしゃ》であったら、仕事《・・》というものは人がやらなければならないものであり、遊び《・・》とは人がやらなくてもかまわないものだ、ということを理解しただろう。そして、これが理解できれば、なぜ造花をつくったり踏車《ふみぐるま》を踏んだりするのが仕事で、九柱《くちゅう》戯《ぎ》をやったりモンブランへ登ったりするのが遊びにすぎないかがわかっただろう。イギリスには、夏のあいだ毎日二十マイルも三十マイルも四頭立ての馬車を走らせる金持がいるが、それには多額の費用が必要だから特権として楽しむことができるので、反対に、そのことに対して賃金が支《し》払《はら》われるならば、馬車を走らせるのは一つの仕事になり、彼らは、さっそくそれをやめてしまうだろう。
トムは、周囲に起った変化を、あれこれ思いめぐらしてから、報告のため本部へ引きあげた。
第三章 戦争ごっこと恋愛《れんあい》ごっこ
トムは伯母《おば》さんの前に姿をあらわした。伯母さんは、気持のいい奥《おく》の部屋の開いた窓のそばに腰《こし》かけていた。それは寝室《しんしつ》と朝食の食堂と書斎《しょさい》とを兼ねた部屋だった。裏側の涼《すず》しい部屋で、風通しのよい窓ぎわに腰をおろし、さわやかな夏の空気と、安らかな静けさと、花の香《かお》りと、ものうい蜂《はち》のうなり声とが作用したらしく、伯母さんは、編物を手にしたまま居《い》眠《ねむ》りをしていた――というのは、伯母さんには猫《ねこ》以外に相手がいなかったし、その猫は膝《ひざ》の上で寝《ね》ていたからだ。例の眼鏡は、落ちないように白髪《しらが》の頭にのっかっていた。伯母さんは、トムがとうに逃《に》げて行ったものと思いこんでいたので、その当人が臆面《おくめん》もなく目の前にあらわれたのを見て、おやと思った。トムは言った。「伯母さん、もう遊びに行ってもいいだろう?」
「なんだって? もうだって? 仕事は、どれくらいやったんだい?」
「みんな、すんじゃったよ、伯母さん」
「嘘《うそ》をいうんじゃない――そんなはずがあるもんかね」
「嘘じゃないよ、伯母さん、全部やっちまったんだ」
ポリー伯母さんは、そんなことでは、なかなか信用しなかった。そこで伯母さんは自分の目でたしかめに行った。トムの言ったことが、せめて二○パーセントでもほんとうだとわかったら、それで満足するはずだった。ところが、板塀《いたべい》が全部塗《ぬ》られ、しかも、たんに塗られただけでなく、二重にも三重にも入念に塗りなおされ、地面にまで塗料《とりょう》が白い筋をつくっているのを見て、伯母さんは、たとえようもなくびっくりした。
「まあ、驚《おどろ》いた! ほんとうだったんだね。おまえでも、やる気になりさえすれば仕事がやれるんだね、トム」それから伯母さんは、あまりほめすぎてはいけないと思って、こうつけ加えた。「だが、おまえは、なかなかその気にならないから困るよ。ほんとうだよ。さあ、遊びに行っておいで。あまり遅《おそ》くならないうちに帰るんだよ。でないと鞭《むち》が鳴るよ」
伯母さんは、トムが立派に仕事を仕上げたので、すっかりよろこび、トムを台所へつれて行って、おいしそうな林《りん》檎《ご》を一つ選んで彼《かれ》にあたえた。そして、罪を犯《おか》さず善行によって手に入れた快楽は、その価値と味わいを、いちだんと強めるものだという、有益なお説教をつけ加えた。伯母さんが、聖書の言葉を引いてこの訓話を終ったとき、トムは、すばやくドーナッツを一つかっぱらった。
こうしてトムは外へ飛び出したが、このとき、シッドが二階の裏部屋に通じる外側の階段をのぼりかけているのが目についた。そばに土塊《つちくれ》があったので、たちまち土の弾丸《だんがん》が発射され、降りそそぐ弾丸は霰《あられ》のようにシッドをおそった。ポリー伯母さんが驚きを抑《おさ》えて救援《きゅうえん》に駆《か》けつけたときには、すでに六つか七つくらいの弾丸がシッドに命中し、トムは塀を乗りこえて姿を消していた。もちろん門というものがあるのだが、例によってトムは、それを用いるだけの余《よ》裕《ゆう》がなかった。これで、黒糸の一件を持ち出して彼を苦境におとしいれたシッドに仕返しすることができたので、トムは、ようやく胸が晴れた。
トムは家の角をまがって、伯母さんの牛小屋の裏手の汚《きた》ない路地にはいりこんだ。まもなく、捕《とら》えられて罰《ばつ》を受けるおそれのないところまで無事にきたので、村の広場へ急いだが、そこでは、かねての約束《やくそく》どおり、少年たちの二つの軍団が戦争をするために集まっていた。トムが一方の司令官で、親友のジョー・ハーパーが相手方の司令官だった。この二人の偉《い》大《だい》な司令官は、みずから戦闘《せんとう》に加わるようなはしたないことはせず――そういうことは、もっと下《した》っ端《ぱ》の兵隊のやることなのだ――いっしょに小高い丘《おか》の上に陣《じん》どって、副官を通じて命令を下し、作戦の指揮《しき》をとった。長い悪戦苦闘のすえ、トムの軍団が大勝利をおさめた。それから戦死者の数をかぞえ、捕《ほ》虜《りょ》を交換《こうかん》し、つぎの戦闘の条件をとりきめ、会戦の日時を決定した。これが終ると両軍は隊《たい》伍《ご》をととのえて引きあげ、トムはひとりで家路についた。
ジェフ・サッチャーの家のそばを通りかかったとき、見なれない少女が庭にいるのが目にうつった――青い目のかわいらしい少女で、金髪《きんぱつ》を長いお下げに結《ゆ》って左右にさげ、白い夏のフロックを着、縫《ぬい》取《と》りのあるパンタレットをはいていた。凱旋途上《がいせんとじょう》の英雄《えいゆう》は、一発の弾丸すらも用いずに、たちまち降参してしまった。これまで胸にあったエミー・ローレンスという女の子のことなど、跡形《あとかた》もなく心から消えうせ、その面影《おもかげ》すら残らなかった。トムはエミーが好きで気が狂《くる》いそうだと思っていた。そして、その情熱を崇拝《すうはい》だと考えていた。だが、いまとなってみると、それは、とるに足りない気まぐれで、やがては消えてなくなる性質のものにすぎなかった。トムが彼《かの》女《じょ》の心をつかんでから、もう数カ月になるが、彼女が心をうち明けてからは、まだ一週間しかたっていなかった。トムが世界じゅうで誰《だれ》よりも幸福で、誰よりも得意な少年であったのは、わずか七日間で、いまや一瞬《いっしゅん》にしてその彼女が、いとまを告げて帰ってしまったその場かぎりの客のように、彼の心から消えてしまったのだ。
トムは、少女が彼の存在に気がついたのがわかるまで、この新しく出現した天使を、ちらちら横目で拝んでいた。それから、彼女がいるのに気がつかないようなふりをして、その歓心を買うために、あらゆる種類のばかげた子供らしい芸当をやりはじめた。そして、しばらく、この愚《おろ》かしい奇《き》怪《かい》な芸当を演じつづけていたが、やがて危険な曲芸じみたきわどい放れわざをやっている最中に、少女が家のなかへはいろうとしているのを横目でとらえた。トムは垣《かき》根《ね》のところまで行って、それにもたれ、悲しそうに、彼女がもうすこしそこにいてくれるようにと祈《いの》った。少女は、階段のところで、ちょっと足をとめたが、そのまま玄関《げんかん》のほうへ進んだ。彼女が足を敷《しき》居《い》にかけたとき、トムは、大きな溜息《ためいき》を洩《も》らした。だが、彼の顔は、たちまち明るく輝《かがや》いた。姿を消す直前、少女が垣根越《ご》しに三色すみれの花を投げてくれたからだ。
トムは、あたりを飛びまわり、花のすこし手前で立ちどまった。そして小手をかざし、その方角に何かおもしろいことが起ったのを見つけたかのように通りを見《み》渡《わた》した。それから藁《わら》しべを拾いあげ、のけぞるように仰《あお》向《む》いて鼻の上にその藁を立てようとした。そして左右に体を動かしながら、すこしずつ三色すみれに近づいた。ついに跣足《はだし》の足がそれにふれ、足指が器用にそれをつかみとった。彼は、この宝物をつかんだまま、ぴょんぴょん跳《と》んで行って曲り角に姿を消した。しかし、それはほんのしばらくのあいだだった――花を上《うわ》衣《ぎ》の内側のボタン孔《あな》にさすあいだだけだった。上衣の内側の心臓の隣《となり》を選んだわけだが、彼は、それほど解剖学《かいぼうがく》に通じているわけではなく、いずれにしてもそんなことにあまり気を使う人間ではなかったから、あるいは胃の隣だったかもしれない。
トムは、ふたたび現場までとってかえし、前と同じような芸当を演じながら、暗くなるまで垣根のあたりをうろついていた。少女は、二度と姿をあらわさなかったが、それでもトムは、彼女がどこかの窓の近くにいて、彼の捧《ささ》げる愛の曲芸を見ているのだと考えて、わずかに自分をなぐさめた。とうとう、その哀《あわ》れな頭を幻想《げんそう》で満たしながら、しぶしぶ引きあげた。
夕食のあいだ、トムは、伯母さんが「この子は何にとりつかれたのだろう」と怪《あや》しむほど、うかれていた。シッドに土塊をぶっつけたことを、ひどく叱《しか》られたが、すこしも気にしたようには見えず、伯母さんの目の前で砂糖をくすねようとして、手をぶたれた。
「伯母さんは、シッドが砂糖をとっても何も言わないじゃないか」
「そうさ、シッドはおまえのように人をいじめたりしないもの。おまえは、わたしが見ていなかったら、しょっちゅう砂糖壺《つぼ》のなかへ手を突《つ》っこんでいるだろうよ」
やがて伯母さんは台所へ立った。シッドは叱られないのをいいことにして砂糖壺に手をのばした。これはトムに対する一種のいやがらせで、どうでも許すことができなかった。ところが、シッドの手がすべって壺が落ちて割れた。トムは、すっかりよろこんだ――実際あまりよろこんで口もきけないほどだった。彼は心のなかでつぶやいた――伯母さんが戻《もど》ってきても自分は一言もしゃべらないで、この犯行の下《げ》手人《しゅにん》を伯母さんからきかれるまでは、このままじっとしていよう。それから、洗いざらいばらしてやろう。ごひいきの模《も》範《はん》少年が「とっちめられる」光景ほど愉《ゆ》快《かい》なものは、世の中にまたとないだろう。あまりのよろこびに彼は、伯母さんが戻ってきて砂糖壺の残骸《ざんがい》を見おろし、眼鏡ごしに怒《いか》りの閃光《せんこう》を発射したとき、ほとんどじっとしていられないくらいだった。「そら、はじまるぞ!」と彼は心のなかで叫《さけ》んだ。だが、つぎの瞬間、彼は叩《たた》きのめされて床《ゆか》の上に這《は》いつくばっていた! 恐《おそ》ろしい手が、ふたたび一撃《いちげき》を加えるために振《ふ》りあげられたとき、トムは大きな声で叫んだ。
「待ってよ、伯母さん、どうしてぼくをぶつの? 壺をこわしたのはシッドだよ!」
ポリー伯母さんは、ためらい、とまどい、トムは、伯母さんのなぐさめの言葉を待った。しかし、ようやく口がきけるようになると、伯母さんは、こう言っただけだった。
「そうかね。だが、おまえにだって、ぶたれるだけのことはあったんじゃないのかい。わたしがいないあいだに、もっとひどいいたずらだってやりかねないからね」
とはいうものの、伯母さんは気がとがめたので、何かやさしい言葉をかけてやりたくなったが、しかし、そうすると自分が罪を認めたと思われるかもしれず、それでは教育上おもしろくないと考えた。そこで伯母さんは、気はとがめたが黙《だま》って自分の仕事にとりかかった。トムは、すねて、隅《すみ》っこにうずくまり、この悲しみを誇《こ》大《だい》に表現した。彼は伯母さんが心のなかでは彼にひざまずいてあやまっているのを知っていた。だから彼は、それによって意地のわるい満足感を味わった。彼は自分のほうからは、どんなそぶりも示さず、また伯母さんが示すどんなそぶりも受けつけないことにした。トムは、伯母さんがときどき後悔《こうかい》に曇《くも》った目からやさしい一瞥《いちべつ》を彼の上に落すのを知っていたが、それを認めるのを拒《きょ》否《ひ》した。トムは自分が病気で死の床《とこ》に横たわり、その枕《まくら》べで伯母さんが身をかがめて、一言でいいから許すと言っておくれ、と哀願《あいがん》しても、壁《かべ》に顔を向けたまま、ついに許すと言わずに死んでゆく場面を想像した。ああ、そうしたら伯母さんは、どんな気持になるだろう? また、自分が溺《でき》死《し》して、髪《かみ》の毛はべっとり濡《ぬ》れ、哀れにもその手は永久に動かず、傷ついた胸は永遠に脈うつことをやめて、河から運ばれてくる場面を想像した。伯母さんは、彼にしがみつき、涙《なみだ》の雨を降らせ、もう一度この子を生き返らせてください、もう決していじめるようなことはいたしません、と身をよじって神さまに祈ることだろう! だが、自分は冷たく蒼《あお》ざめてそこに横たわり、身動き一つしない――あわれにも悩《なや》める少年よ、その悲しみも、いまは終った。トムは、こんな悲しい空想にふけっているうちに感情をゆさぶられ、涙をのみこまなければならなかった――それほどまでに悲しくなったのだ。目は涙にうるんで見えなくなり、まばたきすると、それがこぼれて、鼻のさきからポタリと落ちた。しかも、こんなふうに自分から進んで悲しみにひたるのは、非常に気持がよかったので、いまは、つまらない陽気さや、この雰《ふん》囲気《いき》にそぐわぬ快楽などで、それを邪《じゃ》魔《ま》されたくなかった。そのような外界と接触《せっしょく》するには、いまの気分はあまりにも神聖だった。だから、まもなく、一週間もの長いあいだ田《いな》舎《か》へ行っていたいとこ《・・・》のメアリが、久しぶりで家に帰ったよろこびのために元気よくとびこんできたとき、彼は、いとこ《・・・》が歌と月光をもちこんできた入口とは別のドアをあけて、雲と闇《やみ》に包まれて外へ出た。
トムは、いつもの遊び場から遠く離《はな》れたところをさまよい歩き、いまの気分にふさわしい、さびしい場所を求めた。河岸にうかんだ筏《いかだ》が気に入ったので、その端《はし》に腰かけ、自然の摂《せつ》理《り》で当然受けることにさだめられている不快な苦痛を受けることなく、このまますうっと無意識のうちに溺死することができたら、と思いながら、さびしい、ひろびろした流れを眺《なが》めた。それから、ふと三色すみれを思い出した。とり出してみると、くしゃくしゃにしおれしなびて、それが暗い幸福感を、いっそう強めた。もし彼女が、このような彼の状態を知ったら悲しんでくれるだろうか? 泣いてくれるだろうか? 彼の首に手をまわしてやさしくなぐさめる権利があったらと思うだろうか? それとも、頼《たよ》りにならない世の中のすべての人と同じように、冷たく顔をそむけてしまうだろうか? このような想像は彼に強い苦痛の快さをもたらした。だから彼は心のなかで何回となくその場面をくりかえし、それにさまざまな光を当てて鑑賞《かんしょう》しながら、思うぞんぶん楽しんだ。最後に彼は溜息をついて立ちあがり、暗闇のなかを歩きだした。
九時半か十時ごろ、トムは、まだ名も知らぬあこがれの少女が住んでいる通りへ出た。ちょっと足をとめて耳をすましたが、何もきこえなかった。二階の窓のカーテンに蝋燭《ろうそく》の灯《ひ》がほんのり映っていた。聖なる存在は、あそこにいるのだろうか? トムは垣《かき》根《ね》を乗りこえ、植《うえ》込《こ》みのあいだを抜《ぬ》けて、その窓の下に立った。そして長いあいだ胸を弾《はず》ませながら窓を見上げていたが、やがて地面に寝ころんで仰向けになり、胸の上に両手を組んで、哀れにもしぼんだ花を捧げ持った。こうして自分は死んでゆくのだ――冷たい世界に投げだされ、帰るべき家もなく、頭上にはただ青空があるばかりだ。臨終の汗《あせ》を額から拭《ぬぐ》いとってくれるやさしい手もなければ、断末《だんまつ》魔《ま》の苦しみにおそわれたとき悲しんで見まもってくれる親切な顔もなく。そして明るい朝がきて、彼女が外を眺めたとき、窓の下に横たわる自分を見つけるだろう。ああ、彼女はこの哀れな息絶えた死体に、一滴《いってき》でも涙をそそいでくれるだろうか? このようにみじめに枯《か》らされ、時を待たずに切りとられた若い生命《いのち》を見て、かすかな溜息を一つでも洩《も》らしてくれるだろうか?
窓が開いた。女中の頓狂《とんきょう》な声が神聖な静寂《せいじゃく》を冒涜《ぼうとく》したかと思うと、いきなり降りそそいできた洪水《こうずい》が、そこに横たわる殉難者《じゅなんしゃ》の死体を水びたしにしてしまった。
じっと横たわっていた英雄は、とびあがって、ふーッと大きく息を吐《は》いた。悪態をつくつぶやきにまじって、何かを投げつけたような空《くう》を切る音がしたかと思うと、ガラスの砕《くだ》ける音がそれにつづき、おぼろげな人影《ひとかげ》が垣根を越えて弾丸のように闇のなかに消えた。
それからまもなく、トムがすっかり寝巻きに着がえて、蝋燭の光で、ずぶ濡れの衣類をあらためていたとき、シッドは目をさました。しかし、かりに彼が何か思いついたことを言おうと、ほんのすこしでも考えたとしても、彼は思い直して結局何も言わなかっただろう――というのは、トムの目の色に、危険を予告するものが見てとれたからだ。
トムは、寝る前のお祈りなどという面倒《めんどう》な手間を省いて、そのまま床にもぐりこみ、シッドは、このトムの不信心を心にとめておいた。
第四章 日曜学校
太陽がのぼって静かな世界を照らし、この平和な村を祝福するように輝《かがや》いた。朝食のあと、ポリー伯母《おば》さんは家族を集めて、いつものように礼拝をはじめた。それはまず祈《き》祷《とう》ではじまったが、伯母さんのお祈《いの》りは、ほんのちょっぴり独創という漆喰《しっくい》で固め、聖書からの引用句という固い煉《れん》瓦《が》で建造したもので、伯母さんは、その建築物のてっぺんからモーゼの戒律《かいりつ》のいかめしい章を、シナイの山の上からでも朗読するように読みあげた。
これが終ると、トムは、いわば心に鉢巻《はちまき》をして、聖句の暗記にとりかかった。シッドは何日も前から、とうに自分の分を暗記していた。トムは五つの聖句を暗記するのに全力をそそいだ。彼《かれ》が選んだのは山上の垂訓の一節だったが、それは、それよりも短い聖句が見つからなかったからだ。三十分ほどかかって、どうやらだいたいおぼえたが、心は人間の思想のあらゆる領域をさまよい、手はなぐさみごとに忙《いそが》しかったので、それ以上は進まなかった。メアリが暗誦《あんしょう》を聞くためにトムの本をとりあげた。彼は霧《きり》のなかを手さぐりで進みはじめた。
「心の――ええと――ええと――」
「貧しきものは――」
「うん、貧しきものは、心の貧しきものは――ええと――ええと」
「さいわいなり――」
「さいわいなり。心の貧しきものはさいわいなり。天国は――天国は――」
「その人の――」
「その人のものなればなり。心の貧しきものはさいわいなり。天国は、その人のものなればなり。悲しむものはさいわいなり。その人は――その人は――」
「なぐ――」
「その人は、なぐ――な、ぐ――」
「な、ぐ、さ――」
「その人は、な、ぐ――わかんないや」
「なぐさめ!」
「そうだ、なぐさめだっけ。その人は、なぐさめ――なぐさめ――ええと――その人は――悲しむものは――その人は、なぐさめ――それから何だっけ? メアリ、どうして教えてくれないんだ? どうしてそんな意地わるをするんだい?」
「まあ、トムったら、ほんとに頭が悪いのね。意地わるしてるんじゃないわ。意地わるなんかするもんですか。もう一度勉強しなさいよ。がんばらなくちゃ――やればできるわ。できたら、すてきなごほうびをあげるわ。だから勉強しなさいね」
「よし。姉さん、ごほうびって何だい? 何だか教えてくれよ」
「そんなこと気にしなくてもいいわ。わたしが、すてきなものと言ってるんだから、すてきなものにきまってるわ」
「きっとだね、姉さん。よし、そんならもう一度がんばるよ」
こうしてトムは、もう一度がんばった。そして、好《こう》奇《き》心《しん》と期待が二重の力となって努力を促《うなが》したので、すばらしい成績をおさめた。メアリは十二セント半もする新品のナイフをくれた。トムは、うれしくて体が震《ふる》えるほどだった。このナイフは何も切れなかったが、それでも「正真正銘《しょうしんしょうめい》のナイフ」であることは確かだし、そのことがすばらしかったのだ――もっとも、そのような武器が、危険でないようにつくってあるなんてことを西部の少年たちが考えることは、おそらく永久にないだろうが。トムは、このナイフで、まず食器戸《と》棚《だな》に傷をつけ、それから箪《たん》笥《す》にとりかかるつもりだった。ところが、そのとき、日曜学校へ行くのだから着がえをするようにと言われた。
メアリはトムに水のはいった洗面器と石鹸《せっけん》を渡《わた》した。トムは外へ出て小さな腰掛《こしかけ》の上に洗面器をおいた。それから石鹸を水につけて、そこに並《なら》べた。袖《そで》をまくりあげた。洗面器の水をそっと地面にあけてから台所へ行き、戸の裏側にかけてあるタオルで顔を拭《ふ》きはじめた。メアリは、そのタオルをひったくった。
「まあ、トムったら。恥《は》ずかしくないの? いい子にならなくちゃいけないわ。ちゃんと水で洗いなさい」
トムは、すこしばかりどぎまぎした。あらためて洗面器に水が満たされた。トムは、しばらくその前に立っていてから決意をかため、大きく息を吸って両手を入れた。やがて目を閉じて、タオルを手さぐりしながら台所にはいったときには、感心にも顔を洗った証拠《しょうこ》として石鹸の泡《あわ》と水が顔からしたたり落ちていた。だが、タオルで拭いた顔を見ると、まだ十分ではなかった。きれいになったのは顎《あご》のところまでで、ちょうど面をかぶったようになっていて、その下から首のまわりにかけては、まだ灌漑《かんがい》されない地面が、くろぐろとひろがっていた。メアリはトムをつかまえて自分の手で洗いなおした。それが終るとトムは、やっと人間らしい人間になった。皮膚《ひふ》の色もぶちではなくなり、十分しめった髪《かみ》はきれいに撫《な》でつけられ、短い巻毛も左右そろって優美にととのえられた。(彼は、ひそかに苦心して巻毛をほぐしてまっすぐにし、ぴったりと頭に撫でつけていた。というのは、トムは巻毛を女性的なものと考え、巻毛のおかげで人生が暗くなるような思いをしていたからだ)それから、メアリはトムの服を出してきたが、それはこの二年間、日曜日にしか使ったことのないもので――それは、ただ「別の服」と呼ばれていた――それでだいたいトムの衣裳《いしょう》の数が知れるというものだ。トムが服を着てしまうと、メアリは今度は「仕上げ」にとりかかった。そのこざっぱりとした上《うわ》衣《ぎ》のボタンを顎の下までかけ、幅《はば》のひろいシャツの襟《えり》を両肩《りょうかた》の上に折りかえし、ブラシをかけ、それから斑点《はんてん》模様の麦藁帽《むぎわらぼう》子《し》をかぶせた。これでトムは見ちがえるばかり風采《ふうさい》があがったが、一方、とても窮屈《きゅうくつ》そうに見えた。事実、見かけどおり窮屈だった。この服ぜんたいが窮屈で気持が悪かった。メアリが靴《くつ》を忘れてくれればいいと思ったが、これも空頼《そらだの》みだった。彼女《かのじょ》は、いつものように、ていねいに脂《あぶら》を塗《ぬ》りつけた靴を持ってきた。トムは、たまりかねて、いつもいやなことばかりやらされる、とぼやいた。メアリは、なだめるように言った。
「いうことをきくのよ、トム――いい子だから」
トムは、ぶつぶつ言いながら靴をはいた。まもなくメアリも自分の支《し》度《たく》をすませ、こうして三人の子供は、トムのきらいな、しかしシッドとメアリの好きな日曜学校へ出かけた。
日曜学校は九時から十時半までで、そのあと教会で礼拝がある。子供たちのうち二人は、いつも、言われなくても、ちゃんと残って礼拝に加わった。あとの一人も、残るには残ったが、それはもっと別の理由からだった。この教会の背の高い板張りの腰掛には三百人ぐらいしか坐《すわ》れなかった。建物も小さくて粗《そ》末《まつ》で、松板《まついた》を張った箱《はこ》のようなものが尖塔《せんとう》だった。トムは入口で一歩戻《もど》って、日曜日の正装《せいそう》をした友だちに話しかけた。
「おい、ビル、黄いろいカード持ってるかい?」
「持ってるよ」
「何とならとり換《か》える?」
「どんなものを持ってるんだ?」
「キャンディと釣針《つりばり》だ」
「見せろ」
トムは、とり出して見せた。品物に満足して交換《こうかん》が行われた。トムはさらに二個の白い弾《はじ》き玉を三枚の赤カードと、ほかのこまごましたものを二枚の青カードと交換した。トムは、さらに十分か十五分のあいだ、あとからあとからとやってくる少年たちを待ち受けて、いろんな色のカードを買いとった。それから彼は、身なりだけはととのえているくせに、さかんに騒《さわ》ぎたてる子供たちの群れにまじって教会にはいり、席につくなり近くにいた少年と喧《けん》嘩《か》をはじめた。中年の男の先生が、しかつめらしい顔をして仲裁《ちゅうさい》にはいった。しかし、その先生が、ちょっとうしろを向いたすきに、トムは隣《となり》の少年の髪の毛を引っぱり、少年がふり返ったときには、熱心に本を読んでいた。しばらくすると、今度は別の少年に「痛いッ!」と言わせるためにピンをつきさして、また先生に叱《しか》られた。トムの組は概《がい》して落ちつきがなくて、騒々《そうぞう》しくて、厄介《やっかい》な子供が多かった。暗誦にしても満足に聖句を言えるものは一人もなく、はじめから終りまで助け舟《ぶね》が必要だった。それでも、どうにかやってのけて、ごほうびに、それぞれ聖書の文句が印刷してある小さな青いカードをもらった。聖句を二つ暗誦すると青いカードを一枚もらえるのだ。これが十枚たまると赤カード一枚に換えてもらえるし、赤カード十枚は黄色カード一枚に相当した。黄色カードが十枚たまると、それと引きかえに、校長先生がごく粗末な装幀《そうてい》の聖書(物価の安いそのころで、価格がわずかに四十セントくらいの)をくれた。かりに金《きん》で装幀した聖書がもらえるとしたところで、読者諸君のなかで、二千からの聖句を暗記しようと努力する勤勉家が何人いるだろう? しかしメアリは、これを二冊ももらっていたが、それは二年間辛抱《しんぼう》づよく勉強した努力の結晶《けっしょう》だった。ドイツ系のある少年は、四冊か五冊もらっていた。あるとき、この少年は、一気に三千の聖句を暗誦したことがあるが、過度に頭を酷《こく》使《し》したため、その日から白《はく》痴《ち》同様になってしまった。これは学校にとっても大きな損失だった。というのは、何か大きな催《もよお》しがあるたびに、校長さん(トムはそう呼んでいた)は、この少年を呼び出して、壇上《だんじょう》で「見せびらかす」のが慣例だったからだ。なんとかしてカードをため、聖書を手に入れるまで苦しい努力を気長くつづけることができるのは、比《ひ》較《かく》的年長の生徒だけだった。そんなわけで、この賞品をもらうということは、めったにない大事件であり、受賞者は、この日は、いかにも優等生らしく目立って見えるから、全生徒が新しい野心に胸を燃やしたが、しかし、それは、せいぜい二週間ぐらいしかつづかなかった。トムの精神的胃袋《いぶくろ》が、こんな賞品に飢《う》えていたとは、とても思えないが、彼の全存在が、この賞品にともなう栄光と名声を長いあいだ渇望《かつぼう》していたことには疑問の余地がなかった。
やがて校長さんは、説教壇の前に立ちあがって、閉じた讃《さん》美歌《びか》の本を手に持ち、ぺージのあいだに人差指をはさんで、静粛《せいしゅく》を求めた。日曜学校の校長さんが恒例《こうれい》の短いお説教をする場合、手にする讃美歌の本は、音楽会のステージに立って独唱する歌手が、かならず手にする楽《がく》譜《ふ》と同様、欠くことのできないものだった。その理由はわからなかった。讃美歌の本も楽譜も、それを手にする当人は決して見ようとはしないからだ。ところで、この校長先生は薄茶色《うすちゃいろ》の山羊《やぎ》ひげを生やし、髪も薄茶色で短い、三十四、五歳《さい》のやせぎすの人物で、かたいカラーは、ほとんど両耳にとどくほど高く立っており、その尖《とが》ったさきは口の両端《りょうはし》に沿って前方に突《つ》き出て――一種の塀《へい》のような形なので、いやでも正面を向いていなければならず、横を見たいときには体ぜんたいをねじ曲げなければならなかった。また顎の下には、紙《し》幣《へい》くらいの幅《はば》の、両端に縁《ふち》どりのついたネクタイが大きくひろがっていた。靴の爪《つま》さきは、当時の流行でそり《・・》のように鋭《するど》くそりかえっていた――これは若い人たちが、何時間も壁《かべ》に爪さきを押《お》しつけて腰かけることによって、辛抱づよく、骨を折って生み出された型なのだ。ウォルターズ先生は、風采《ふうさい》も誠実そうだが、心も誠実な人だった。そして神に属する物と場所とをうやまい、それをあまりにも峻烈《しゅんれつ》に俗世間の物と区別するので、日曜学校で話す声も、無意識のうちに、ふだんの日にはまったく聞かれないような独特の抑揚《よくよう》をそなえていた。先生は、この調子で話しはじめた。
「さて、みなさん、できるだけまっすぐに行《ぎょう》儀《ぎ》よく腰かけて、一分か二分のあいだ、私の言うことをまじめに聞いてください。そう、それでよろしい。いい子は、みんなそういうふうにするものです。おや、窓の外を見ている女の子が一人いますね――たぶん私が外にいると思っているんでしょう――木の上で小鳥にお説教をしていると思っているのかもしれませんね。(忍《しの》び笑い)こんなにたくさんの明るい元気な子供たちが、こういうところに集まって、正しいことをし、よい人間になろうと努力するのを見ると、私は、ほんとうにうれしくてなりません」こんなぐあいに話はつづけられた。これ以上書く必要はないだろう。誰《だれ》にもおなじみの型にはまった訓話にすぎないからだ。この訓話の終りの三分の一は、また悪童たちのあいだに喧嘩やいたずらがはじまり、ひそひそ話や身動きが波のようにひろがって、シッドやメアリのような、孤《こ》立《りつ》した、ゆるぎのない大岩の根もとにまで押し寄せたので、すっかりめちゃめちゃになった。しかし、ウォルターズ先生の声が低くなると同時に、これらの物音もぴたりとやんで、訓話の終りは、鳴りをしずめた感謝で迎《むか》えられた。
こそこそ話の大部分は、多少とも珍《めずら》しい出来事――参観人の出現――によって引き起されたものだった。弁護士のサッチャー氏が、弱々しい一人の老人と、鉄褐色《てつかっしょく》の髪をした堂々たる体つきの中年の立派な紳《しん》士《し》と、その紳士の奥《おく》さんらしい、もったいぶった婦人をつれてはいってきたのだ。婦人のうしろに一人の少女がついてきた。トムは、落ちつかず、焦燥《しょうそう》と後悔《こうかい》に悩《なや》み、良心の呵責《かしゃく》に苦しめられていた――エミー・ローレンスと目を合わせることができなかったし、愛情のこもった彼女のまなざしに耐《た》えることができなかった。しかし、この新入生を見たとき、彼の魂《たましい》は一《いっ》瞬《しゅん》にして幸福に燃えあがった。つぎの瞬間、トムは全力をあげて「示威《じい》運動」をはじめていた――友だちの頭を殴《なぐ》ったり、髪の毛を引っぱったり、顔をしかめて見せたり、要するに少女の注意をひき賞讃《しょうさん》を博するだろうと思われる、あらゆる技術を駆使《くし》したのだ。彼の歓喜は、ただ一つの点で完全なものではなかった――それは昨夜、この天使の庭で味わわされた屈辱《くつじょく》の記《き》憶《おく》だ。しかし、砂に記されたようなその記憶は、いまその上を走りすぎる幸福の波に洗われて、みるみる消えていった。
参観人の一行は貴《き》賓席《ひんせき》に案内され、ウォルターズ先生の訓話が終るのを待って一同に紹《しょう》介《かい》された。中年の紳士は、とてもえらい人物であることがわかった。だれあろう郡の主席判事で――子供たちがこれまで拝んだこともないようなえらい人だった。子供たちは、いったいこの紳士は何でできているのだろうかと思い、彼が吼《ほ》えるのを、なかば聞きたくもあり、なかば恐《おそ》ろしくもあった。彼は十二マイル離《はな》れたコンスタンチノープルからきたのだという。してみるとこの人は世界じゅうを旅行し、屋根が錫《すず》で葺《ふ》いてあるという郡の裁判所を見てきたのだ。こんなことを考えて促《そく》進《しん》された畏怖《いふ》の念は、おごそかな沈黙《ちんもく》と、まじろぎしない幾列《いくれつ》もの目によって証明された。これが、この村の弁護士の兄、サッチャー判事だった。この偉《い》人《じん》と親しそうにふるまうことによって他の生徒たちをうらやましがらせるために、ジェフ・サッチャーは、さっそく出て行った。ジェフの胸には、生徒たちのささやきが音楽のようにきこえたことだろう。
「見ろよ、ジム! ジェフが出て行ったぞ。見ろ! あの人と握手《あくしゅ》するんだぜ。あっ、握手した! ちえッ! きみはジェフになりたいとは思わないかい?」
ウォルターズ先生は、あらゆる種類の仕事を、忙《いそが》しそうに、てきぱきと片づけるふりをして、何か目につくかぎり、いたるところで命令を発し、判決をあたえ、指示し、「いいところ」を見せはじめた。図書係は、本を腕《うで》いっぱいかかえて、あちこち走りまわり、大《おお》仰《ぎょう》に騒《さわ》ぎたてて、図書係相応の「いいところ」を見せた。若い女の先生たちも「いいところ」を見せようとしていた――いましがた殴られた生徒たちの上にやさしく身をかがめたり、悪い子をたしなめるために美しい指をあげて見せたり、よい子の頭をやさしく撫でたりして。若い男の先生は、ちょっと叱ってみたり、教師としての威《い》厳《げん》と生徒の訓育に熱心なことを示すために、いろんなことをやって、「いいところ」を見せた。そして男女を問わず大部分の先生たちは、教壇の横にある本箱《ほんばこ》に用があることを示した。しかも、その用事というのは、ひどく弱ったふりをして、二度も三度もくりかえさなければならないものだった。女の子たちは、いろんな方法で「いいところ」を見せようとした。男の子たちは、あまりにも熱心に「いいところ」を見せようとしたので、とうとうしまいには紙つぶてと、つかみあいの音で、あたりが騒然《そうぜん》となってしまった。そして、そのすべての上に、問題の偉人は悠《ゆう》然《ぜん》とかまえて、重々しい裁判官の微笑《びしょう》を教室ぜんたいに投げかけ、偉大さという太陽で自分自身をあたためていた。つまり、彼もまた「いいところ」を見せていたのだ。
ウォルターズ先生の満足を完全なものにするためには、ただ一つのことがあれば十分だった。それは賞品の聖書を授与《じゅよ》して模《も》範《はん》児童を表彰《ひょうしょう》する機会だ。黄色のカードを持っているものは何人かいたが、十分な数だけそろえているものは一人もいなかった――ウォルターズ先生が優秀《ゆうしゅう》な生徒のあいだをたずねまわってわかったのだ。先生は、なにものを犠《ぎ》牲《せい》にしても、あのドイツ系の少年に正常な頭脳を持って帰ってきてもらいたいと思った。
ところが、望みの絶えたこの瞬間に、トム・ソーヤーは、九枚の黄色カードと九枚の赤カードと十枚の青カードを持って進み出て、聖書をいただきたいと申しでた。青天の霹靂《へきれき》とは、このことだ。ウォルターズ先生は、すくなくともここ十年間は、トム・ソーヤーのような少年から聖書を要求されるとは思ってもいなかった。しかし、はねつけるわけにはいかなかった――とにかく現物があるし、しかもその現物は、まさしく正規のものなのだ。そこでトムは判事やその他の有力者と並んで壇上に立たされ、担当者からすばらしいニュースが発表された。これは、この十年間に一度もなかった驚《おどろ》くべき出来事だった。生徒たちの感激《かんげき》は、あまりにも大きかったので、この新しい英雄《えいゆう》は判事と同じくらいえらい人物とみなされ、全校はいまや一つの場所に二つの驚くべきものを見ることになった。子供たちは、うらやましくてたまらなかったが、なかでも、もっとも手ひどい打《だ》撃《げき》を受けたのは、トムから塀《へい》塗《ぬ》りの権利を買い、それと引きかえにトムにカードを渡したことで、このいまいましい名《めい》誉《よ》に協力した連中だった。彼らは地だんだ踏《ふ》んでくやしがったが、いまさらどうにもならず、草むらの悪賢《わるがしこ》い蛇《へび》みたいな狡《こう》猾《かつ》な詐欺師《さぎし》にひっかかるなんて、人がいいにもほどがある、と自分たちのうかつさを呪《のろ》った。
トムは、こういう状況《じょうきょう》のなかで、校長先生から、いろいろなほめ言葉とともに賞品の聖書をいただいたが、気の毒にも校長先生は、この陰《かげ》には何か明るみに出せない秘密があるらしいと、本能的に感じていたので、そのほめ言葉も、いくぶん気乗りのしないものになった。この少年が二千からの聖句を頭につめこんだなんて、まったく意外なことだ――おそらく一ダースもつめこんだら頭がパンクするにちがいない。
エミー・ローレンスは、このことを誇《ほこ》りに思い、心からよろこんだ。そして、そのよろこぶ顔をトムに見てもらいたいと思ったが、トムは見ようともしなかった。エミーは、ふしぎに思った。それから、ちょっと不安になった。つづいて漠然《ばくぜん》とした疑問がうかんで、消え――またうかんだ。彼女は注意してトムを観察した。トムのうさんくさい目つきが、いろんなことを彼女に伝えた。彼女は落胆《らくたん》し、嫉《しっ》妬《と》し、怒《いか》り、涙《なみだ》を流して、すべての人――なかでもトム――を憎《にく》んだ。
トムは判事に紹介されたが、舌がしびれて、何も言えなかった。ほとんど息がつけず、胸が震えた――判事の威厳に圧倒《あっとう》されたためでもあるが、主として、彼が彼女の父親だったからだ。誰も見ていなかったら、トムは、その前にひれ伏《ふ》して拝みたいくらいだった。判事はトムの頭を撫でて、いい子だと言い、名前をたずねた。トムは、どもり、あえぎ、それから、やっと言った。
「トム」
「いや、トムではないだろう――きみの名は――」
「トマス」
「うむ、そうだ。トムだけではないだろうと思った。よろしい。だが、そのほかに、もう一つ名前があるだろう?」
「苗字《みょうじ》を申しあげなさい、トマス」とウォルターズ氏が言った。「それから、ございます、と言うんですよ。礼《れい》儀《ぎ》を忘れてはいけません」
「トマス・ソーヤー――でございます」
「よしよし、よく言えた。いい子だ、立派な男らしい少年だ。二千句というのは、たいへんな数だ。実に、実にたいへんな数だ。きみは、それをおぼえるのについやした努力を決して後悔しないだろう。知識というものは、この世の中で、なによりも貴重なものだからね。えらい人になるのも、立派な人になるのも、みな知識のおかげなのだ。トマス君、きみもそのうち立派な人になるだろうが、そのとききみは子供のころを思い出して、こう言うだろう――これはみんな子供のとき日曜学校で勉強したおかげだ、いろいろなことを教えてくれた先生がたのおかげだ、美しい聖書――すばらしい聖書をくださって、一生自分のものとして持っているようにとおっしゃった親切な校長先生のおかげだ、正しい教育を受けたおかげだ――きみは、きっとそう言うだろうと思う。そして、そのとききみは、どんなにお金を積まれても、この二千句を手放そうとはしないだろう――そうだ、決して手放そうとはしないだろう。ところで、私とこの婦人に、きみが勉強したことを、すこしばかり聞かせてくれないかね――もちろん聞かせてくれるだろうね。私たちは勤勉な子供が大好きなのだ。もちろんきみは十二使徒の名前は全部知っているだろうね。そのうち、最初に使徒になったのは、誰と誰だったかね?」
トムは、ボタンを引っぱりながら、もじもじした。それから顔を赤らめて目を伏せた。ウォルターズ先生は、すっかりしょげてしまった。この子は、もっとも簡単な質問にも答えられそうもない。なぜ判事さんは質問なんかするんだろう? だが、このさい助け舟を出さないわけにはいかなかった。
「答えなさい、トマス――こわがることはない」
トムは、まだもじもじしていた。
「わたしになら言ってくれるわね」と婦人が声をかけた。「十二使徒の最初の二人の名は――」
「ダビデとゴリアテ!」
このへんで、この場面は幕をおろすことにしよう。それが思いやりというものだ。
第五章 「はさみむし」とその犠《ぎ》牲者《せいしゃ》
十時半ごろ、この小さな教会の、ひびの入った鐘《かね》が鳴りはじめて、村の人々が朝の礼拝に集まってきた。日曜学校の生徒たちは、ばらばらになって、会堂のあちこちに席を占《し》め、親たちが監督《かんとく》するためいっしょに坐《すわ》った。ポリー伯母《おば》さんがやってきた。トムとシッドとメアリは伯母さんといっしょに腰《こし》かけた――トムは座席のあいだの通路側に坐らされたが、それは開いた窓と誘惑《ゆうわく》的な戸外の夏景色から、できるだけ彼《かれ》を遠ざけるためだった。会衆は、ぞくぞくとつめかけてきた。昔《むかし》は景気がよかったが、いまは貧乏《びんぼう》な老郵便局長、村長とその奥《おく》さん――この村にも、いろいろな無用のものといっしょに村長というものが存在するのだ。治安判事、美しくて端正《たんせい》な四十歳《さい》のダグラス未亡人――この婦人は、気前がよくて、思いやりがあり、生活も豊かで、丘《おか》の上の彼《かの》女《じょ》の家は、この村で唯一《ゆいいつ》の豪《ごう》華《か》な邸宅《ていたく》だった。そして、社交的な催《もよお》しにかけては、客のもてなしにおいても、費用を惜《お》しまぬ点においても、まさしくセント・ピーターズバーグ随一《ずいいち》であった。さらにウォード老少佐《しょうさ》とその奥さん、遠方からやってきた新進弁護士として有名なリヴァースン氏、つぎに村で一番の美人が、紗《しゃ》の衣裳《いしょう》をまといリボンを飾《かざ》った娘《むすめ》たちの先頭に立ってはいってきた。それから村の青年たちが一団となって――というのは彼らは、にやにや気どった笑いをうかべ髪《かみ》を油で光らせた讃《さん》美《び》者《しゃ》の壁《かべ》となって、娘たちをとりかこみながら、その最後の一人が通りすぎるまでステッキの柄《え》を口にくわえて入口に立っていたからだ。最後に模《も》範《はん》少年のウィリー・マファースンが母親を壊《こわ》れものか何かのようにいたわりながらはいってきた。この少年は、いつも母親を教会へつれてくるので、村の母親たちのほめものだった。それほど彼は、よい子であり、しかも、しじゅう訓戒《くんかい》の引合いに出されるので、子供たちは、みんな彼を憎《にく》んだ。日曜日というと、かならず胸のポケットから白いハンカチを覗《のぞ》かせていた。トムはハンカチなんか持っていないし、持っているやつは、きざな気どり屋だときめつけていた。
さて、会衆が会堂をうずめると、鐘がふたたび鳴って、ぐずぐずしている人たちに警告をあたえた。つづいて、おごそかな静寂《せいじゃく》が会堂を包み、これを破るのは、いちだん高く張り出した席に陣《じん》どった合唱隊の人たちの忍《しの》び笑いと、ひそひそ話だけだった。どこの教会でもそうだが、合唱隊の連中というのは、礼拝のあいだ、いつも、くすくす笑ったり、ひそひそささやいたりしているものだ。私は一度だけ行儀《ぎょうぎ》のいい合唱隊を見たことがあるが、どこの教会であったか忘れた。ずいぶん昔のことで、ほとんど何もおぼえていないが、どこか外国だったような気がする。
牧師は聖歌をうたうことを告げて、当時この地方で一般《いっぱん》にたいへん好まれていた独特の節をつけて、歌詞を読みあげた。まず中音からはじめて、しだいに声を高め、ある点に達すると、思いきって声を強め、それからジャンプ台から水のなかへ飛びこむように、いきなり調子を下げた。
わが主のいくさのさきがけして、
血の海こえて友はかち《・・》ぬ、
いかでわれのみ花の床《とこ》に、
うまし夢《ゆめ》路《じ》をたどるべき《・・》。
この牧師は、すばらしい朗読者とみられていた。だから教会の懇親会《こんしんかい》では、きまって、詩を朗読させられた。そして彼が朗読を終ると、列席の婦人たちは、手をあげてから、その手を力なく膝《ひざ》におとし、目を閉じて、「とても言葉ではあらわせませんわ。あまりに美しくて、この世のものと思われません」とでも言うように首を振《ふ》った。
讃美歌が終ると、スプレーグ師は掲《けい》示《じ》板《ばん》のほうを向いて、集会や報告について読みあげたが、それは最後の審判《しんぱん》の日までつづくかと思われるほど、ながながとつづいた――これは新聞がたくさん出ている今日、都会においてさえ、あいかわらず行われているアメリカの奇妙《きみょう》な習慣の一つだ。伝統的な習慣というものは、それを正当化する理由が薄弱《はくじゃく》であれば薄弱なほど、それだけ深く根をおろすものだ。
さて、今度は牧師の祈《き》祷《とう》がはじまった。まことに立派な、寛大《かんだい》なお祈《いの》りで、しかも、こまかいところまでゆきとどいたものだった。まず教会とその信者たちのために祈り、つづいて、村の他の教会のために、村自身のために、郡のために、州のために、州の役人たちのために、合衆国全体のために、合衆国の全教会のために祈った。さらに議会のため、大統領のため、政府の役人のため、荒波《あらなみ》にもまれる気の毒な船員のため、ヨーロッパの王制と東洋の専制主義の圧政に苦しみ圧迫《あっぱく》された何百万かの民衆のため、キリスト教の光と福《ふく》音《いん》を知りながら、これを見る目と聞く耳をもたない人たちのため、海のかなたの遠い国に住む異教徒たちのために祈った。そして最後に、彼の述べた言葉が神の恩寵《おんちょう》をいただき、豊かな土に蒔《ま》かれた種子となって、ついには感謝すべき善の実を結ばんことを、と結んだ。
衣《きぬ》ずれの音が起って、起立していた会衆は、あらためて腰をおろした。この物語でその生活の歴史が語られている少年は、お祈りが好きではなかった。我《が》慢《まん》していただけだった――彼だって、それくらいの我慢はするのだ。彼は、お祈りのあいだじゅう、そわそわしていた。少年は無意識のうちに牧師のお祈りのなかに出てくるこまかい事柄《ことがら》を一つ一つ数えあげた――祈りの言葉を聞いていたわけではなかったが、彼は牧師のおなじみの場所も、おきまりの道も、ちゃんと知っていたからだ。そして、すこしでも新しい事柄が挿入《そうにゅう》されると、彼の耳は、たちまちそれを聞きつけ、彼は全存在をあげてそれを非難した。よけいなことをつけ加えるなんて、不公平で、けがらわしいと思ったのだ。ところで、お祈りの最中に、一匹《いっぴき》の蠅《はえ》が彼の前の腰掛《こしかけ》の背にとまって、さかんにもみ手をするのが、ひどくトムのかんにさわった。前肢《まえあし》で頭をかかえて、しきりに磨《みが》いているのだが、見ていると、いまにも頭が体から離《はな》れるのではないかと思われた。胴体《どうたい》とつながる頸《くび》は糸のように細いのだ。それから後肢で羽根をむしり、上《うわ》衣《ぎ》の裾《すそ》でも直すように羽根を体に撫《な》でつけた。蠅は、このような身ごしらえを全部、自分が絶対安全と知っているかのように、実に落ちつきはらってやってのけた。事実安全だった。なぜなら、トムの手は、それをつかまえたくて、むずむずしたが、どうしても、つかまえることができなかったからだ――それというのも、お祈りの最中にそんなことをしたら、たちまち魂《たましい》が地《じ》獄《ごく》に堕《お》ちると彼は信じていたからだ。しかし、お祈りが終りかけるとともに、トムの手は袋《ふくろ》をつくって前進しはじめ、牧師が「アーメン」と言った瞬間《しゅんかん》、蠅は捕《ほ》虜《りょ》になった。伯母さんは、それを見つけて、すぐ逃《に》がしてやった。
牧師は祈祷を終えた。そして、あいかわらず同じ調子の張りのない声で、ながながと説教をはじめた。それが実におもしろくない話だったので、しだいに多くの人々が居《い》眠《ねむ》りをはじめた――しかも、その説教は無《む》間《けん》地獄の業《ごう》火《か》を説き、神に選ばれた人たちを、ほとんど救う価値もない人間に追い落してしまうような恐《おそ》ろしい内容のものだった。トムは説教のぺージ数をかぞえた。彼は、いつも教会から引きあげるときには、その日の説教の長さが何ぺージあったかを知っていたが、内容については何も知らなかった。もっとも、この日は、ちょっとだけ興味をひかれた部分があった。牧師はキリスト再来のときに万軍《ばんぐん》がつどい集まる光景を、いきいきと描《えが》き出してみせた。そのときにはライオンと小羊とが仲よく寝《ね》そべり、それらの動物を幼い子供が導くのであるが、しかし、このすばらしい場面があたえる感動、教訓、道徳は、トムには何の効果もなかった。彼が考えたのは、主役をつとめる子供が、居ならぶ群集の前で、どんなに目立って見えただろうかということだけだった。トムは、その場面を想像して顔を輝《かがや》かせた。そして、その子供になりたいものだとひとりごとを言った。ただし、そのライオンは、よく飼《か》いならされたライオンでなければならなかった。
説教が、またおもしろくなくなったので、トムは、またしても退屈《たいくつ》になった。ふと、彼は自分が持っている宝物のことを思い出して、ポケットからそれをとり出した。それは、恐るべき顎《あご》をもった大きな黒い甲虫《かぶとむし》で、雷管箱《らいかんばこ》に入れてあったが、トムはこれを「はさみむし」と呼んでいた。この甲虫は箱から出されると、いきなりトムの指をはさんだ。トムは思わず指ではじきとばした。甲虫は通路に投げだされて仰《あお》向《む》けにひっくりかえり、トムは、はさまれた指をなめた。甲虫は起きあがろうと手足をもがいたが起きられなかった。トムは、それを見て拾いあげたかったが、いまはトムの手のとどかぬ安全な場所にいた。お説教に退屈したほかの人たちも、おもしろそうに甲虫を眺《なが》めていた。そこへ、宿なしのむく犬が一匹はいってきた。おだやかな夏の日の静けさにうんざりし、変化を求めてさまよってきたのだろう。むく犬は甲虫を見つけると、垂れていた尻《しっ》尾《ぽ》を立てて振った。それから、その獲《え》物《もの》を観察し、そのまわりを回った。安全な距《きょ》離《り》から、その臭《にお》いを嗅《か》いでみた。もう一度周囲を回ってから、いくらか大胆《だいたん》になって、もっと近くまで鼻をよせて嗅いだ。つぎに口を開いて、こわごわ噛《か》もうとしたが、ちょっとのところで噛みそこねて、もう一度それをくりかえした。むく犬は遊びごとができたことをよろこんで、腹《はら》這《ば》いになって甲虫を前脚《まえあし》ではさんで実験をつづけた。だが、とうとうそれに飽《あ》きて、甲虫なんかどうでもよくなり、気が抜《ぬ》けたようになってしまった。むく犬は居眠りをはじめ、その顎がすこしずつ甲虫に近づいた。甲虫は、すかさずその顎をはさんだ。むく犬は、けたたましい悲鳴をあげて首を振り、甲虫は二ヤードほどはね飛ばされて、また仰向けにころがった。見ていた人たちは体をゆすっておかしさをこらえ、あるものは扇《せん》子《す》で、あるものはハンカチで顔をかくした。トムは大よろこびだった。犬は気まりわるそうな顔をした。事実、気まりわるかったのだろう。しかし心のなかは怒《いか》りと復《ふく》讐《しゅう》に燃えていた。そこで犬は甲虫に近づき、ふたたび用心深く攻撃《こうげき》を開始した。甲虫のまわりのあらゆる方角から飛びかかり、一インチと離《はな》れないところまで前脚をのばし、もっと近づいて、歯をむき出して噛みつくふりをしたり、耳をひらひらさせながら首を振ったりした。しかし、しばらくすると、またそれに飽きてしまった。そこで蠅をからかって遊ぼうとしたが、これもたいしておもしろくなかった。鼻を床《ゆか》にすりつけて蟻《あり》を追いまわしてみたが、これもすぐ飽きてしまった。そこで、あくびをし、溜息《ためいき》をつき、甲虫のことなどすっかり忘れて、その上に腰をおろした。たちまち鋭《するど》い苦痛の叫《さけ》びが起って、むく犬は座席のあいだの通路を夢中《むちゅう》になって突《つ》っ走った。悲鳴がつづき、犬は走りつづけた。祭壇《さいだん》の前を横ぎり、別の通路を走りもどり、戸口の前を横ぎり、わめきながら、ふたたびはじめの通路を走りだした。走るにつれて痛みが増し、ついに犬は電光の速さで軌《き》道《どう》を運行する毛むくじゃらの彗星《すいせい》としか見えなかった。最後に、狂気《きょうき》のようになったこの受難者は、コースからそれて主人の膝《ひざ》にとびあがった。主人はこれを窓から外へほうりだしたので、苦痛の叫びはだんだん遠ざかり、やがて完全にきこえなくなった。
このころには、教会のなかの人々は、押《お》し殺した笑いのために窒息《ちっそく》しそうになり、顔を真っ赤にして、説教は一時中断のかたちだった。やがて、あらためて説教がはじまったが、しどろもどろで熱がはいらず、聴衆《ちょうしゅう》に感銘《かんめい》をあたえる見込《みこ》みは、まったくなかった。というのは、気の毒なことに、牧師がどんなまじめなことを言っても、ひどく滑稽《こっけい》なことでも言ったかのように、どこかの座席の陰《かげ》で、抑《おさ》えつけられた笑いが爆発《ばくはつ》し、教会の神聖をめちゃくちゃにしてしまったからだ。この試練が終って最後の祈祷にはいったとき、全会衆は心からほっとした。
トム・ソーヤーはすっかり上機嫌《じょうきげん》で、教会のお勤めだって、ちょっと変った事件さえ起れば、それほど悪くもないと考えながら家に帰った。ただ一つ残念なのは、むく犬が甲虫を持って行ってしまったことだった。犬が甲虫を痛めつけるのは大歓迎《だいかんげい》だが、持って行ってしまうのは、あまり歓迎できなかった。
第六章 トムとベッキー
月曜日の朝、トム・ソーヤーは憂鬱《ゆううつ》だった。月曜日の朝は、いつもそうなのだ。それは、その日からまた一週間、授業の長い苦しみがはじまるからだ。月曜日の朝を迎《むか》えるたびに、トムは、いっそあいだに日曜なんかないほうがいい、と思った。なまじ日曜なんてものがあるから、それからの不自由な一週間が、いっそうつらく感じられるのだ。
トムはベッドのなかで考えた。ふと、病気になったら、と思いついた。病気になれば学校へ行かないで家にいることができる。やろうと思えば、やれないことではなかった。彼《かれ》は体をしらべてみた。どこにも異状はなかった。トムは、もう一度しらべてみた。今度は腹痛を起しそうな徴候《ちょうこう》を感じたので、大いに期待して待ってみたが、まもなくその徴候は薄《うす》らぎ、やがて完全に消えてしまった。トムは、さらに思案をこらした。そして、あることを思い出した。上顎《うわあご》の歯が一本ゆるんでいるのだ。まさしく天の助けだった。そこで、まず「手はじめ」に、うめき声をあげようとしたが、そのときふと頭にうかんだのは、歯が痛いと言いだしたら、伯母《おば》さんは抜《ぬ》くかもしれない、そうしたら痛いだろう、ということだった。そこで歯のほうは当分そのままにしておいて、何か別のものを探すことにした。しばらくのあいだは何も思いつかなかったが、そのうちに、それにかかると、二週間か三週間は寝《ね》ていなければならず、悪くすると指がなくなる、というすごい病気のことをお医者さんが話していたのを思い出した。そこでシーツの下から怪我《けが》をした足の指を引き出してしらべでみたが、その病気になるためには、どういう徴候が必要なのかがわからなかった。しかし、ともかくやってみるだけの価値はありそうだったので、彼は景気よくうめきはじめた。
だが、隣《となり》のシッドは、平気で眠《ねむ》りつづけていた。
トムは、さらにうめき声を高くした。どうやらほんとに足の指が痛くなりだしたように思った。
シッドは、まだ何の反応も示さなかった。
そのころには、もうトムは力みすぎて息を切らしてきた。それで、一息入れてから、力をこめて、すばらしいうめき声をあげた。
シッドは、あいかわらずいびきをかいていた。
トムは、じれったくなった。「シッド、シッド!」と声をかけて体をゆさぶった。今度は効果があったので、トムは、またうなりだした。シッドは、あくびをし、体をのばし、鼻を鳴らしながら肘《ひじ》をつき、半身を起して、トムの顔を眺《なが》めた。トムは、うなりつづけた。シッドが言った。
「兄さん! 兄さんったら!」(答えがない)「ねえ、兄さん! 兄さん! どうかしたの?」シッドはトムをゆすり、心配そうに顔を覗《のぞ》きこんだ。
トムは苦しそうにうめいた。
「よしてくれよ、シッド。ゆすらないでくれ」
「ねえ、どうしたの? 伯母さんを呼んでこなくちゃ」
「いいんだ、そのうちによくなるよ。誰《だれ》も呼ばないでくれ」
「そうはいかないよ。そんなにうならないでよ、兄さん、こわいよ。いつから苦しみだしたの?」
「ずっと前からだ。痛い! そんなにゆさぶらないでくれよ、シッド。死んじまうじゃないか」
「兄さん、なぜもっと早く起してくれなかったの? 兄さん、そんなにうならないでくれよ! その声を聞くと、ぞっとするよ。ねえ、いったいどうしたっていうの?」
「おれは、みんな許してやるよ、シッド。(うなり声)おまえが、これまでおれにしたことは、みんな許してやる。おれが死んだら――」
「ああ、兄さん、死にはしないよね? 死なないでおくれよ。死んじゃいやだ。たぶん――」
「みんな許してやるよ、シッド。(うなり声)みんなにそう言ってくれ、シッド。それから、シッド、おれの窓枠《まどわく》と、片目の猫《ねこ》を、こんど村へきたあの女の子にやってくれ――そして、あの子に――」
だがシッドは、服をひっつかんで飛び出して行った。トムの想像力は、あまりにもすばらしかったので、いまはほんとうに苦しくなり、うめき声も、まるでほんものだった。
シッドは階下へ飛んで行って報告した。
「伯母さん、きてちょうだい! 兄さんが死にかけているんだ!」
「死にかけているって?」
「そうなんだ。早くきてよ!」
「ばかなことをいうもんじゃない! そんなことがあるもんかね!」
しかし伯母さんは、あわてて階段を駆《か》けあがり、シッドとメアリがあとにつづいた。伯母さんの顔は蒼白《そうはく》で、唇《くちびる》はわなわな震《ふる》えていた。伯母さんはベッドの前に立つと息を弾《はず》ませて言った。
「トム! どうしたの?」
「ああ、伯母さん、ぼくはもう――」
「どうしたの――ほんとに、どうしたっていうの?」
「伯母さん、怪我をした足の指が崩《くず》れそうなんだ!」
伯母さんは椅子《いす》に腰《こし》をおろして、すこしばかり笑い、すこしばかり泣き、それから泣き笑いをした。伯母さんは、これで気がしずまったので、トムに言った。
「トム、びっくりさせるじゃないか。さあ、もうそんなばかげたことはやめておくれ」
うなり声がやみ、足指の痛みは消えた。トムは、すこし気まりがわるくなった。
「伯母さん、たしかに足の指が崩れ落ちそうだったんだ。あんまり足指が痛いんで、歯のことなんか、すっかり忘れちゃった」
「歯のことだって? 歯がどうかしたのかい?」
「一本ゆるんだのがあつて、とっても痛むんだ」
「わかったよ。わかったから、もうそんなにうなるんじゃない。口をあけてごらん――なるほど、たしかにゆるんでいるね。でも、そのために死ぬようなことはないさ。メアリ、絹糸と、台所から火を一つ持ってきておくれ」
トムは言った。
「ああ、伯母さん、抜くのはやめてよ。もう痛くないんだ。痛くても平気さ。後生だから抜かないでよ、伯母さん。もう学校を休みたいなんて思わないから」
「おやおや、そうだったのかい。学校を休んで、釣《つ》りに行けると思ったので、こういう大《おお》騒《さわ》ぎをやらかしたんだね? トム、トム、ほんとうにまあ、こんなにかわいがっているのに、どうしておまえは無茶なことばかりして、わたしを心配させるんだろうね」このときにはもう歯の治療《ちりょう》道具がそろっていた。伯母さんは、絹糸の端《はし》に輪をこしらえてトムの歯にしっかりくくりつけ、別の端をベッドの柱にくくりつけた。そして炭火をとって、いきなりトムの顔の前に突《つ》きつけた。歯はベッドの柱にぶらさがった。
しかし、苦しみというものは、すべて報償《ほうしょう》をともなうものだ。朝食をすませて学校へ行ったとき、トムは羨望《せんぼう》の的となった。というのは、上顎の歯の隙《すき》間《ま》から、すばらしい唾《つば》の吐《は》きかたができたからだ。トムのまわりには、この実演に興味をもって、大勢の少年たちが集まった。これまで、指を切ったために魅力《みりょく》と尊敬を一身に集めていた少年は、たちまち人気をうしなって影《かげ》が薄くなった。少年の心は重かった。彼は、あんな唾の吐きかたをしたって、ちっともおもしろくないじゃないかと、本心からではなく、軽蔑《けいべつ》の言葉を洩《も》らしたが、ほかの子供たちが、「酸《す》っぱい葡《ぶ》萄《どう》!」と言って相手にしなかったので、少年は敗残の英雄《えいゆう》として悄然《しょうぜん》と立ち去った。
まもなく、トムは、村の浮《ふ》浪《ろう》児《じ》のハックルベリー・フィンと出会った。ハックルベリーは大酒のみのせがれで村の母親たちから毛虫のように嫌《きら》われ恐《おそ》れられていた。というのは、彼は怠《なま》けもので、乱暴もので、下品で、たちの悪い小《こ》僧《ぞう》であるばかりでなく、子供たちは彼を尊敬し、こっそり彼とつきあいたがり、思いきって彼のようになりたいとさえねがっていたからだ。トムも、ちゃんとした家庭の少年たちと同じように、ハックの自由な宿なしの身分をうらやみ、しかも彼と遊ぶことを厳重に禁じられていた。だからトムは機会あるごとにハックと遊んだ。ハックは、いつも大人の使い捨ての服を着ていて、ぼろきれが満開の花のようにぶらさがっていた。帽《ぼう》子《し》は縁《ふち》が裂《さ》けて大きく三日月型に口をあけていたし、上《うわ》衣《ぎ》は、それを着ると、ほとんど踵《かかと》まで垂れさがり、うしろのボタンは背中のはるか下のほうにあった。ズボン吊《つ》りは片方だけしかないし、ズボンの尻《しり》は、だらんとぶらさがっていた。ぼろぼろになって縁飾《ふちかざ》りのようにぶらさがったズボンの下の部分は、まくりあげてないときには、いつも泥《どろ》のなかを引きずっていた。
ハックルベリーは自分の気持のままに行動した。天気がよければ、どこかの家の玄関《げんかん》の階段で眠り、雨が降れば、大きな空樽《あきだる》のなかで眠った。学校へも教会へも行く必要がなかったし、誰のいうこともきく必要がなかった。釣りでも泳ぎでも、好きなとき、好きなところへ行くことができ、好きなだけ、そこにいることができた。喧《けん》嘩《か》をしてはいけないと叱《しか》るものもいなかったし、いくらでも夜ふかしができた。春になると、誰よりも先に跣《はだ》足《し》になり、秋になると、誰よりも遅《おそ》くまで靴《くつ》をはかなかった。顔を洗ったり、きれいな服を着なくてもよかったし、どんなひどい言葉だって言いたいほうだいだった。要するに、人生を価値あるものにするために役立つすべてのことができるのだ。自由を束縛《そくばく》されたセント・ピーターズバーグじゅうの良家の少年たちは、みんなそう考えていた。
トムは、この浪漫《ろうまん》的な宿なし小僧に声をかけた。
「よう、ハックルベリー!」
「よう、トム!」
「何を持ってるんだい?」
「猫の死《し》骸《がい》さ」
「見せてくれ、ハック――おや、ひどく硬《かた》くなってるな。どこで手に入れたんだ?」
「ある子と交換《こうかん》したんだ」
「何と交換したんだ」
「青いカード一枚と、屠畜場《とちくじょう》でもらった牛の小便袋《しょうべんぶくろ》だ」
「そのカードは、どこで手に入れたんだ?」
「二週間前、ベン・ロジャーズと輪まわしの棒と交換したんだ」
「だけど――猫の死骸なんか、何になるんだい?」
「何になるって? 疣《いぼ》をとるのさ」
「え? 疣とりだって? それなら、もっといいものを知ってるぜ」
「そんなものがあるのか? 何だい、それは?」
「木の洞《うろ》のたまり水さ」
「たまり水だって? あんなもの、疣にきくもんか」
「きかないって? 試《ため》してみたことがあるのか?」
「おれはやってみないが、ボブ・ターナーがやってみたんだ」
「誰から聞いた?」
「ジェフ・サッチャーがボブから聞いたんだ。それからジェフはジョニー・ベーカーに話した。ジョニーはジム・ホリスに話し、ジムはベン・ロジャーズに話し、ベンは黒《くろ》ん坊《ぼう》に話し、黒ん坊がおれに話してくれたんだ。だからまちがいないさ」
「ふん、あてになるもんか。みんな嘘《うそ》つきばかりだぜ。すくなくとも、おれの知らないその黒ん坊以外はな。しかし、嘘をつかない黒ん坊なんていやしないぜ。それじゃ、ボブ・ターナーが、どんなふうにやってみたのか、言ってみなよ」
「朽《くち》木《き》の株にたまった雨水のなかへ手を突っこんだんだ」
「昼間かい?」
「そうさ」
「切株に顔をつけてかい?」
「うん、そうだと思うよ」
「それで、何かとなえたのかい?」
「となえなかったと思うけれど、おれはよく知らないよ」
「あッはッは! 朽木のたまり水で疣をとるのに、そんなばかげたやりかたをするなんて! それじゃ駄目《だめ》さ。一人きりで、切株に水のたまっている森のなかへ行かなくちゃいけないんだ。そして、ちょうど真夜中の十二時に、その切株のほうへ後ずさりして行って、こうとなえながら、たまり水のなかへ手を突っこむんだ。
大麦の粒《つぶ》、大麦の粒、
とうもろこしと碾割《ひきわり》粉《こ》糠《ぬか》、
たまり水、たまり水、
この疣をとってくれ。
それから目をつぶったまま早足で十二歩あとにさがって、それから三べんまわって家へ帰るんだ。ただし途中《とちゅう》で誰と会っても口をきいちゃいけないんだ。口をきくと、おまじないがだめになっちゃうんだ」
「ふうん、それがほんとうのやりかたかもしれないな。でも、ボブ・ターナーは、そんなふうにはやらなかったぜ」
「そうさ、たしかにあいつは、そんなふうにはやらなかったろうな。なぜって、あいつはこの村でいちばん疣が多いんだもの。たまり水のほんとの使いかたを知つてれば、疣なんか一つ残らずなくなっているはずだ。おれなんか、それで手の疣をいくつもとったんだぜ、ハック。おれは蛙《かえる》をおもちゃにするもんだから、しょっちゆう疣ができるんだ。蚕豆《そらまめ》でとることもあるけどね」
「うん、蚕豆はいい。おれもやってみたことがある」
「やってみたって? どんなふうにやったんだい?」
「蚕豆を二つに割って、疣をすこしばかり血が出るように切るんだ。そして、その血を蚕豆の半分に塗《ぬ》りつけて、月のない夜の十二時ごろ、四つ角に穴を掘《ほ》ってそれを埋《う》めるんだ。それから蚕豆のあとの半分は焼いてしまうんだ。そうすると血を塗りつけたほうのやつが、あとの半分を引きよせようと引っぱるから、いきおいその血が疣を引っぱることになるわけだ。それで疣がきれいにとれてしまうんだ」
「そう、そうなんだ、ハック――そのとおりなんだ。だけど豆を埋めるときに、『落ちろ、蚕豆、うせろ、疣、二度とおれにとりつくな!』ってとなえると、もっとよくきくぜ。ジョー・ハーパーは、そうやってとるんだ。あいつはクーンヴィルの近くにいたこともあるし、そういう場所を、よく知ってるんだ。それはそれとして――死んだ猫を使って疣を直すには、どうすればいいんだい?」
「猫を持って、夜中の十二時ごろ、誰か悪いやつが埋められてる墓場へ行くんだ。真夜中になると悪《あく》魔《ま》が一匹《いっぴき》――いや、ことによると二匹も三匹もやってくるが、もちろん目に見えやしないさ。風のような音か、悪魔どもの話し声かがきこえるだけだ。それで悪魔どもが死体を持って行くとき、猫を投げつけて、こう言うんだ。『悪魔は死体について行け。猫は悪魔について行け。疣は猫について行け。これでおまえとは縁《えん》切《き》りだ!』そうすれば、どんな疣だってとれるんだ」
「そうかい。おまえはやってみたことがあるのかい?」
「いや、ホプキンスの婆《ばあ》さんが教えてくれたんだ」
「そうか。あの婆さんは魔女だそうだからね」
「そうなんだ、トム、あいつは、ほんとに魔女なんだ。あいつは、うちの親《おや》父《じ》に魔法をかけやがったんだ。親父が自分で、そう言っていた。ある日、親父が婆さんのところへ行ってみたら、あいつが親父を呪《のろ》っているのを見つけたんだ、それで大きな石をぶっつけたんだ。あいつが身をかわさなかったら、こなごなにうち砕《くだ》かれていたかもしれないな。その晩、親父は酔《よ》っぱらって寝《ね》ていて納屋《なや》の上からころげ落ちて腕《うで》を折ったんだ」
「ひどいことになるもんだな。だけど、どうしてあいつが親父を呪っていることがわかったんだい?」
「親父にはわかるんだ。何でもないことさ。人がじっとこっちを見つめているときには、そいつが呪いをかけてるんだって親父は言ってるよ。とくに、そいつが口のなかでぶつぶつつぶやいていたら、なおさらそうなんだ。ぶつぶつつぶやくのは、主の祈《いの》りを反対にとなえるんだからね」
「ハック、その猫を、いつ使ってみるんだい?」
「今夜さ。今夜は悪魔がホス・ウィリアムズの死体を狙《ねら》って出てくると思うんだ」
「だってホスが埋められたのは土曜日だぜ。とりにくるとすれば土曜日の晩にきてるはずだ」
「ばかなことをいうなよ。真夜中にならない前に悪魔の魔力がきくはずないじゃないか。しかも、真夜中になったら、もう日曜日だぜ。日曜日には悪魔はあまり動きまわらないんだ」
「そうだね、気がつかなかったよ。いっしょに行ってもいいかい?」
「いいとも――こわくさえなければな」
「こわいって! こわいもんか。猫の鳴き声で呼び出してくれるかい?」
「うん、猫の鳴き声をするから、できたら鳴き返してくれ。この前なんか、おまえが返事をしないんで、いつまでも鳴いていたらヘイズじいさんが『こん畜生《ちくしょう》!』と言って、おれに石をぶっつけやがった。だから、おれは、あいつの窓に煉《れん》瓦《が》を叩《たた》きこんでやったんだ――でも、このことは黙《だま》ってろよ」
「黙ってるよ。あの晩は伯母さんが見張っていたんで鳴き返すことができなかったんだ。今夜は、きっと鳴くよ――おや、それは何だい?」
「なあに、ダニさ」
「どこでつかまえたんだ?」
「森でさ」
「何となら交換してくれる?」
「さあ――おれは交換したくないんだ」
「そんならいいや。そんなちっぽけなダニなんか、どうでもいいや」
「へん、誰だって他人のダニにケチをつけることはできるさ。おれはこれで満足なんだ。おれにとっちゃ、けっこうありがたいダニなんだ」
「ふん、ダニなんか、いくらでもいらあ。集めようと思えば千匹だって集められるさ」
「じゃ、どうして集めないんだ? できないことがわかってるからじゃないか。こいつはハシリのダニなんだ。今年になって、はじめて見つけたんだぜ」
「じゃ、ハック、おれの歯とならとり換《か》えてくれるかい?」
「見せてみな」
トムは小さな紙包みをとり出して、ていねいにひろげた。ハックルベリーは、うらやましそうにそれを眺《なが》めた。この誘惑《ゆうわく》には勝てそうもなかった。ついに彼は言った。
「ほんものかい?」
トムは上唇《うわくちびる》をめくって歯の抜けたあとを見せた。
「よし、きめた」とハックルベリーは言った。「交換しよう」
トムは、これまで「はさみむし」の牢《ろう》屋《や》になっていた雷管箱《らいかんばこ》にダニを閉じこめた。こうして二人の少年は、それぞれ前よりも財産家になったような気持で別れた。
離《はな》れて立っている小さな木造の校舎についたとき、トムは、できるだけ急いで歩いてきたかのように大股《おおまた》で足早に入って行った。彼は帽子を鈎《かぎ》にかけ、事務的に、すばやく席についた。先生は一段高い大きな板張りの肘掛《ひじかけ》椅子《いす》に腰をおろして、生徒たちが自習している単調な声に眠気を誘《さそ》われて、うとうとしかけていたが、トムが入ってきた気配で、われにかえった。
「トマス・ソーヤー!」
トムは、自分の名が正式に呼ばれる場合には、ろくなことはないと知っていた。
「はい!」
「ここへきなさい。いつものことだが、なぜ遅《ち》刻《こく》したのかね?」
トムは、嘘をついて逃《に》げるつもりだったが、そのとき、金髪《きんぱつ》を二つに分けて長く垂らした背中が目についた。それを彼は、愛するものの電光のようなすばやさで見てとったのだ。しかも、女生徒席の空席は、その子の隣だけだった。彼はさっそく答えた。
「ハックルベリー・フィンと話をしていました!」先生は脈搏《みゃくはく》がとまり、あっけにとられて目をみはった。自習の声がとまり、生徒たちは、こんな向う見ずなことを言うなんて、トムは気が狂《くる》ったのではないかと怪《あや》しんだ。先生は言った。
「何を――何をしていたって?」
「ハックルベリー・フィンと話をしていたんです」
聞きちがいではなかった。
「トマス・ソーヤー、これは私がこれまで聞いたこともないような驚《おどろ》くべき告白だ。この罪は普《ふ》通《つう》の罰《ばつ》ではすみませんぞ。上衣をぬぎなさい」
先生は腕が疲《つか》れるまで鞭《むち》をふるい、鞭の柄《え》が折れてしまった。つづいて、つぎのような命令が下った。
「さあ、女生徒《・・・》の席へ行って坐《すわ》りなさい。恥《は》ずかしいと思ったら、すこしはこれに懲《こ》りるんだ」
トムは、教室にさざなみのように起った忍《しの》び笑いのために顔を上気させたように見えたが、それは実は見知らぬ偶像《ぐうぞう》に対する畏《い》敬《けい》と、すばらしい幸運に対する感謝のためだった。彼は松板の腰掛の端に腰をおろした。少女は、つんと顔をしゃくって体をずらした。教室じゅうのものが、肘でこづきあったり、ウインクをしたり、ひそひそささやきあったりしたが、トムは低い長い机に腕をのせたまま、教科書を勉強しているようなふりをした。
やがて生徒たちは彼に注意しなくなり、いつものような自習のざわめきが、ふたたび教室のものうい空気を支配しはじめた。トムは、そっと顔をあげて少女のほうを盗《ぬす》み見た。少女は、これに気づいて顔をしかめてみせ、一分間ばかり、そっぽを向いていた。彼女《かのじょ》が用心深く向きなおってみると前に桃《もも》が一つおいてあった。少女は、それを押しやった。トムは、そっと押《お》し返した。少女は、また押しやったが、今度は、それほど強くはなかった。トムは辛抱《しんぼう》づよくもとの場所にもどした。少女は、そのままにしておいた。トムは自分の石盤《せきばん》に「受けとってください――まだあります」と書いた。少女は、ちらとその文字を見たが、何もそぶりに出さなかった。トムは、左手でかくしながら、石盤に何か書きはじめた。しばらく少女は知らないふりをしていたが、人間としての好《こう》奇《き》心《しん》が、やがてほとんど目につかないくらいの形であらわれはじめた。トムは、そしらぬふりをして書きつづけた。少女は、それとなく見ようと試みたが、トムはそれに気づいたふうを見せなかった。とうとう少女は負けて、ためらいがちにささやいた。
「見せてちょうだい」
トムは手をすこしどけて、家を描いた、恐《おそ》るべき漫《まん》画《が》を見せた。破風《はふ》が二つついていて、煙突《えんとつ》からキルクの栓《せん》抜《ぬ》きのような螺《ら》旋形《せんけい》の煙《けむり》が立ちのぼっていた。少女は、この絵にひどく興味をもちはじめ、ほかのことは何もかも忘れてしまった。描き終ると、少女は、しばらく眺めていてから声をひそめて言った。
「すてきだわ――人間を描いてごらんなさい」
少年画家は、前庭に石油の掘鑿塔《くっさくとう》のように途《と》方《ほう》もなく背の高い人間を立たせた。家をまたごうと思えば、またげるくらい大きな人間だった。しかし、少女は、それほどきびしい批評家ではなかったので、この怪物《かいぶつ》に満足して、耳うちした。
「この人間、とてもよく描けてるわ――今度は、わたしがくるところを描いてちょうだい」
トムは砂時計のガラス壜《びん》のような中細りの形を描き、これに満月のような顔と藁《わら》のような細い手足をつけ、ひろげた指に、とてつもなく大きな扇《せん》子《す》を持たせた。少女は言った。
「とてもすてきだわ――わたしも絵が描けるといいんだけれど」
「なんでもないよ」とトムは小声で答えた。「ぼくが教えてあげる」
「あら、ほんと? いつ?」
「お昼休みに。きみは、おひるを食べに家へ帰るのかい?」
「帰らないほうがいいんなら帰らないわ」
「そう――それがいい。ところで、きみの名前は?」
「ベッキー・サッチャー。あなたは? ああ、知ってるわ、トマス・ソーヤーでしょう?」
「それは叱《しか》られるときの名前だ。叱られないときはトムだよ。だからトムと呼んでくれないか」
「いいわ」
それからトムは、少女に見えないように手でかくして、石盤に何か書きはじめた。だが、前とちがって今度は少女も遠慮《えんりょ》しなかった。彼女は、見せてちょうだい、と言った。トムは答えた。
「なんでもないよ」
「いいから見せて」
「なんでもないんだ。見たがるほどのものじゃないよ」
「見せてよ、ねえ、おねがいだから見せてちょうだい」
「誰かに言うと困るんだ」
「誰にも言わないわ――決して、決して、決して、言わないわ」
「ほんとに誰にも言わないかい? 一生言わないかい?」
「誰にも、きっと言わないわ。だから見せて」
「きみが見たがるほどのものじゃないんだけどな」
「いいわ。そんなこというんなら、わたし、無理にでも見るわ」そう言って少女は小さな手をトムの手にかけた。小ぜりあいがつづいた。トムは本気でがんばっているように見せかけながら、すこしずつ手をずらした。そこにあらわれたのは、「ぼくは、きみが大好きだ」という文字だった。
「まあ、いやな人!」そう言って少女は、ぴしゃりとトムの手を打った。しかし顔を赤らめて、うれしそうだった。
このときトムは、ゆっくりと、だが力をこめて、耳をつかまれ、ぐいぐい引き立てられるのを感じた。この万力《まんりき》にしめつけられたまま、教室じゅうの笑い声を浴びながら、彼は教室のなかを運ばれて自分の席へつれて行かれた。先生は、恐ろしい顔をして、しばらくトムの前に立っていたが、とうとう何も言わずに教壇《きょうだん》へ戻《もど》った。トムは、耳がひりひり痛んだが、心はよろこびにあふれていた。
教室が静かになると、トムは、まじめに勉強にとりかかったが、心のなかの動揺《どうよう》は、あまりにも大きかった。読み方の時間には、たいへんな失敗をやったし、地理の時間には、湖の名を山の名に、山を河に、河を大陸の名にとりちがえ、結局、地球を混沌《こんとん》の太古に返してしまった。さらに綴字《つづりじ》の時間には、つづけざまに赤ん坊でも知っているような単語が綴れなくて、クラスのどん尻《じり》に落され、ここ数カ月のあいだ自《じ》慢《まん》にしていた錫《すず》の賞牌《メダル》をとりあげられてしまった。
第七章 ダニ競技
トムは勉強に身を入れようとあせればあせるほど気が散って駄目《だめ》だった。とうとう溜息《ためいき》とあくびとともに勉強をあきらめた。昼休みなんてものは永久にこないような気がした。空気は死んだように動かず、そよとの風もなかった。眠《ねむ》い季節の、もっとも眠い日であった。勉強している二十五人の生徒たちの口から洩《も》れる蜜蜂《みつばち》のうなりに似たさざめきは、魂《たましい》を眠りにさそう偉《い》大《だい》な力をもっていた。燃えるような日光のなかに、はるかかなたのカーディフの丘《おか》は、やわらかな緑色の山腹を、きらめくような暑い空気のなかに見せていたが、それは遠くから見ると紫色《むらさきいろ》に見えた。鳥が二、三羽、ものうそうに空高く舞《ま》っている以外に目につく動物といえば何頭かの牛だけだが、その牛も眠っていた。トムは自由か、さもなければ、この退屈《たいくつ》な時間をまぎらわすための何かおもしろいものにあこがれた。ふと彼《かれ》の手はポケットのなかへすべりこんだ。とたんに彼の顔は輝《かがや》き、感謝の祈《いの》りを捧《ささ》げたいような気持になった。もっとも彼は、そのような祈りは知らなかったが。やがて、こっそり雷《らい》管箱《かんばこ》があらわれた。トムは長い平らな机の上にダニを放した。おそらくダニも、この瞬間《しゅんかん》、助かったと思って、感謝の祈りを捧げたいくらいよろこんだであろうが、そのよろこびは、すこし早すぎたようだ。やれうれしやと動きだすと、トムは留針で引きもどし、別の方向へ向わせたからだ。
隣《となり》の席にいたトムの親友は、トムと同じに退屈しきっていたが、たちまちこの遊びに強く興味をひかれた。親友というのはジョー・ハーパーで、土曜日には敵味方にわかれるが、月曜日から金曜日までは大の仲よしだった。ジョーは上《うわ》衣《ぎ》の襟《えり》の折返しから留針を抜《ぬき》きとり、捕《ほ》虜《りょ》を動かす手伝いをはじめた。この遊《ゆう》戯《ぎ》は次《し》第《だい》におもしろさを増してきた。まもなくトムは、これじゃ、たがいに邪《じゃ》魔《ま》しあうことになって、ダニを完全に楽しむことができない、と言った。そしてジョーの石盤《せきばん》を机の上において、そのまんなかに上から下まで一本の線を引いた。
「虫が、この線からそっちにいるあいだは、おまえが虫を動かせばいい。おれは手を出さない。そのかわり、おまえが虫を逃《に》がして線のこっち側へよこしたら、おまえは手を出しちゃいけないぞ。線のこっち側にいるかぎり、おれのものなんだ」
「いいとも、そうしよう――さあ、虫を動かしなよ」
ダニはトムの手を逃《のが》れて赤道を越《こ》えた。そして、しばらくジョーの留針で悩《なや》まされていたが、やがて境界線を越えてトムの側に逃げてきた。こうして何度か根拠《こんきょ》地《ち》が移動した。一方が夢中《むちゅう》になってダニを悩ますあいだ、一方は、それ以上の興味をもって見物した。二つの頭は石盤の上にかぶさり、二人の精神は、他のいかなるものも、まったく感じなかった。ついに幸運はジョーに移ったように思われた。ダニは、あちらこちらと動きまわり、二人の少年と同じくらい興奮し、不安を感じていた。トムの手が作業をはじめようとすると、ジョーは、すかさず留針で虫の邪魔をして逃がさなかった。とうとうトムは我《が》慢《まん》できなくなった。とても、この誘惑《ゆうわく》には勝てそうもなかった。そこで彼はダニに援助《えんじょ》の手をのばして留針で手伝ってやった。ジョーは、たちまち怒《おこ》りだした。
「トム、手を出すな」
「ちょっと元気をつけてやろうと思っただけだよ、ジョー」
「いや、だめだ。卑怯《ひきょう》だぞ。手を出すな」
「だって、ちょっと動かしただけじゃないか」
「手を出すなっていうんだ。わからないのか」
「わからないな!」
「よし、そんならわからせてやる――おれの側にいるじゃないか」
「それじゃきくが、このダニは誰《だれ》のだい?」
「誰のダニだってかまうもんか――線のこっち側にいるんだから、おまえは手を出せないはずだぞ」
「ふん、手を出してみせるさ。それは、おれのダニだ。だから、どんなことがあっても、おれの好きなようにするんだ」
すさまじい平手打ちがトムの肩《かた》をおそい、つづいてそれと同じやつがジョーの肩をおそった。二分間ほど、二人の上衣から、もうもうと埃《ほこり》が舞いあがり、生徒たちは、それをおもしろそうに見まもっていた。二人は、あまり夢中になっていたので、すこし前に先生が忍《しの》び足で近づいてきて二人の前に立ち、教室が急にひっそりしたのに気がつかなかった。先生は、その遊戯をあらかた見物してしまってから、二人の遊びに、すこしばかり変化を加えてやった。
昼休みになると、トムは、さっそくベッキー・サッチャーのところへ飛んで行って彼女《かのじょ》に耳うちした。
「帽《ぼう》子《し》をかぶって家へ帰るように見せかけるんだ。そして曲り角まで行ったら、友だち連中をまいて小道づたいに引き返してきてくれ。ぼくは別の道を行って、同じように友だちを出しぬいて戻《もど》ってくる」
そこで、一人は何人かの友だちと、一人は、これも別の何人かと連れだって、校門を出た。まもなく二人は、小道のはずれで落ちあい、いっしょに誰もいない校舎へ戻った。二人は石盤を前に腰《こし》をおろし、トムはベッキーに石筆を握《にぎ》らせ、彼女の手に自分の手を持ちそえて、ふたたび驚《おどろ》くべき家を創作した。芸術への興味がうすらぐと、二人は話をはじめた。トムは幸福に有頂天《うちょうてん》になっていた。彼は言った。
「きみは鼠《ねずみ》好きかい?」
「大きらいだわ!」
「ぼくもきらいだ――生きたやつはね。でも、ぼくがいうのは死んだやつのことなんだ。糸でしばって頭のまわりを振《ふ》りまわすやつさ」
「どっちにしたって、鼠なんか好きじゃないわ。わたしが好きなのはチューインガムよ!」
「それならぼくも好きだ。いま持っているとよかったんだがな!」
「好きなの? わたし、持ってるわ。ちょっとだけなら噛《か》ませてあげてもいいわ。でも、返してくれなきゃいやよ」
異議なく相談がまとまり、二人はベンチに足をぶらぶらさせながら楽しく交代でチューインガムを噛んだ。
「サーカス見に行ったことあるかい?」とトムがきいた。
「おとなしくしていたら、パパがつれて行ってくれるって言ってたわ」
「ぼくは、三度も四度も――もっとたくさん見に行ったことがあるんだ。教会なんかサーカスにくらべたら、全然値うちがないね。サーカスは、おしまいまで退屈しないもの。ぼくは大人になったらサーカスの道《どう》化《け》役者になるんだ」
「まあ、あんたが? すてきね。道化は、だんだら模様の衣裳《いしょう》をつけて、ほんとにきれいだわ」
「そうなんだ。そして、うんとお金をもうけるんだ――たいてい一日に一ドルももらうんだってベン・ロジャーズが言ってたよ。ねえ、ベッキー、きみは婚約《こんやく》したことあるの?」
「婚約って何のこと?」
「結婚の約束《やくそく》をすることさ」
「ないわ」
「婚約したいと思わないかい?」
「したいと思うけれど、でも、わからないわ。いったい、どんなものなの?」
「ものだって? そうだな、どんなものというような物じゃないよ。つまり、男の子に、一生その子とだけしか仲よしにならないってこと、一生涯《いっしょうがい》いつまでも変らないってことを言いさえすれば、それでいいんだ。そして、それから接吻《せっぷん》する、それだけのことなんだ、だから誰にだってできるよ」
「接吻? 何のために接吻するの?」
「何のためって、それは――みんなそうすることになってるんだ」
「誰でも?」
「そうさ、愛しあっているものは誰でもそうするんだ。さっきぼくが石盤に書いたこと、おぼえてるかい?」
「――ええ」
「何て書いてあった?」
「わたし、言えないわ」
「じゃ、ぼくが言おうか」
「ええ――でも、いつか別のときのほうがいいわ」
「いや、いまのほうがいい」
「いやよ、いまはだめ――明日がいいわ」
「いや、いまがいい。ねえ、ベッキー、そっと言うからさ。そっとささやいてあげるよ」
ベッキーは、もじもじしていた。トムはベッキーが黙《だま》っているのを承諾《しょうだく》したものと考えた。そして、少女の腰に手をまわして耳もとに口をつけ、やさしく愛の言葉をささやいた。それから彼は、こうつけ加えた。
「今度は、きみの番だ――さあ、同じようにささやいてくれ」
ベッキーは、しばらくためらっていた。
「じゃ、向うを向いてて、こっちを見ないでね。そしたら、言うわ。でも、誰にも言っちゃいやよ――よくって? きっと言わないでね。よくって?」
「うん、絶対に言わない。さあ、ベッキー」
トムは顔をそむけた。ベッキーは、おずおずと身をかがめ、息がトムの巻毛をくすぐるほど顔を近づけてささやいた。「わたしは――あなたを――愛してるわ!」
言い終ると少女は、さっと飛びのき、トムに追いかけられながら、机と腰掛《こしかけ》のあいだを、あちらこちらと逃げまわり、最後に、小さなエプロンで顔をかくしながら、教室の隅《すみ》っこへ逃げこんだ。トムは、彼女の首に手をまわして嘆願《たんがん》した。
「ベッキー、これでもうすっかりすんだんだ――あとは接吻だけだ。こわがることはないよ。なんでもないんだ。さあ、ベッキー」そして少女のエプロンと手を引っぱった。
やがて少女は、すこしずつ抵抗《ていこう》をゆるめて手をおろした。いまのやりとりで上気した顔を、上を向けてきて、そのままじっとしていた。トムは、その赤い唇《くちびる》に接吻した。
「さあ、これですっかりすんだよ、ベッキー。もうこれからは、ほかの男の子と仲よしになっちゃいけないんだよ。そして、ぼく以外のものとは結婚しちゃいけないんだ。絶対に、絶対に、永久に。いいかい?」
「いいわ。あんた以外のひとを決して好きになんかならないわ。そして、あんた以外のひととは決して結婚なんかしないわ。あんたも、わたし以外のものとは絶対に結婚しないわね?」
「そうとも、もちろんさ。それが大切なことなんだもの。これからは、いつでも、学校へくるときも、家へ帰るときも、かならずぼくといっしょに歩くんだよ、誰も見ていなかったらね――そして、ダンス・パーティのときには、きみはぼくを選ぶし、ぼくはきみを選ぶんだ。婚約者は、みんなそうするんだ」
「すてきだわ。そういうことを、わたしはすこしも知らなかったわ」
「うん、とても楽しいものなんだ。これまでもぼくはエミー・ローレンスと――」
ベッキーが目をまるくしたので、トムは自分の失言に気がついた。彼は、どぎまぎして口をつぐんだ。
「まあ、トム! それじゃ、あんたが婚約したのは、わたしが最初じゃなかったのね?」
少女は泣きだした。トムは言った。
「泣かないでくれよ、ベッキー。もう、あんなやつのことなんか、なんとも思っちゃいないんだから」
「ちがうわ――いまでも思っているんだわ」
トムは彼女の肩に手をかけて抱《だ》こうとしたが、少女はトムを押《お》しのけ、顔を壁《かべ》に向けたまま泣きつづけた。トムは、もう一度、やさしく声をかけて抱こうとして、またはねつけられた。彼は自尊心を傷つけられ、大股《おおまた》に歩いて外へ出た。そして、しばらくそこに立ちどまって、ベッキーが後悔《こうかい》してあとを追って出てくるのを期待して、ぼんやり戸口を眺《なが》めていた。しかし彼女は出てこなかった。トムは不安になり、自分がまちがっていたのではないかと思いはじめた。いまさら引き返すのは、かなりつらかったが、彼は勇気を出して、教室のなかへはいって行った。少女は、まだ壁に顔をあてて、しくしく泣きながら隅のほうに立っていた。トムは胸が苦しくなった。彼は、少女のところへ行って、しばらく立っていたが、どんなふうにはじめたらいいのか見当がつかなかった。それから、ためらいがちに声をかけた。
「ベッキー、ぼくは――きみ以外には誰のことも思ってなんかいないよ」
答えがなかった。少女は、しゃくりあげるばかりだった。
「ねえ、ベッキー」とトムは嘆願するように言った。「ベッキー、なんとか言ってくれよ」
少女は、さらにしゃくりあげた。
トムは、いちばん貴重な宝物、煖《だん》炉《ろ》の上から外してきた真鍮《しんちゅう》の把《とっ》手《て》をとり出して、それを彼女に見えるようにちらつかせながら言った。
「ベッキー、これを受けとってくれないか」
彼女は、それを床《ゆか》に叩《たた》き落した。トムは校舎を出て、どこか遠くへ行ってしまい、その日は二度と学校へ戻らなかった。しばらくたってから、ベッキーは、そのことに気がついた。彼女は戸口に走りよったが、トムの姿は見えなかった。運動場へ飛び出してみたが、そこにもトムはいなかった。彼女は叫《さけ》んだ。
「トム! 帰ってきて、トム!」
彼女は熱心に耳をすました。しかし答えはなかった。いま彼女の友だちは、静けさとさびしさだけだった。彼女は腰をおろし、自分を責めながら声をあげて泣いた。もうそのころには生徒たちがふたたび集まってきたので、彼女は悲しみと、それにいっそうつらいことではあったが、傷ついた胸をかくして、悲しさをわかつ友もなく、ただひとり長い午後を、苦しく悲しい十字架《じゅうじか》を負ってすごさなければならなかった。
第八章 海賊《かいぞく》志願
トムは、あちらこちらと小道に逃《に》げこんだりしているうちに、学校から帰る生徒たちの道から、ずっと離《はな》れたところまできてしまった。それから彼《かれ》は元気なくとぼとぼと歩きはじめた。二度か三度、小さな流れを越《こ》したが、それは、小川を渡《わた》ると追手が迷わされるという古い迷信《めいしん》が子供たちのあいだで信じられていたからだ。三十分後に、彼はカーディフの丘《おか》の頂上のダグラス邸《てい》の裏手に姿を消した。もう校舎は、はるか後方の谷間に、それと見わけがつかないくらい遠くなっていた。彼は、こんもりと茂《しげ》った森にはいりこみ、道もないところをわけ入って、大きく枝《えだ》をひろげた槲《かしわ》の木《こ》陰《かげ》の草むらに腰《こし》をおろした。そよとの風もなく、静まりかえった真昼の暑さに小鳥の声さえきこえなかった。大自然は静かにまどろみ、時折りきこえるのは、遠くできつつき《・・・・》が木を突《つ》つく音だけだった。しかもその音は、あたりの静けさとさびしさを、いっそう深めるだけだった。トムの心は沈《しず》みきっていた。彼の感情は、この環境《かんきょう》とよく調和していた。彼は、膝《ひざ》に肘《ひじ》をつき、両手で顎《あご》をささえて、長いあいだ考えこんでいた。どう考えても、人生は苦《く》悩《のう》にすぎないように思われた。ついこのあいだ死んだジミー・ホッジズをうらやましいとさえ思った。永久に横たわって夢《ゆめ》をみながら眠《ねむ》るのは、とても幸福にちがいない。風は木々のあいだを吹《ふ》きわたり、墓地の草や花を撫《な》でてゆく。そして苦しむことも悲しむことも、もう永久にないのだ。日曜学校の成績さえよかったら、トムは、よろこんで死に、この世のすべてから、すっかり逃《のが》れたかった。ところで、あの女の子のことだが、いったい自分は何をしたというのだろう? 何もしやしないではないか。できるだけ好意を示したつもりなのに、まるで犬のようにあしらわれたのだ――まったく犬と同じように扱《あつか》われたのだ。彼女《かのじょ》だって、いつかは後悔《こうかい》するだろう――しかし、そのときにはもう手おくれだろう。ああ、ちょっと《・・・・》の間だけ死ぬことができたら!
しかし、柔軟性《じゅうなんせい》に富んだ少年の心は、いつまでも一つの窮屈《きゅうくつ》な型にはめこめられてはいなかった。やがてトムは、いつのまにかこの世の事柄《ことがら》に立ちかえりはじめた。もし、自分がこの世に背を向けて神秘的に姿を消してしまったら、どうなるだろう? もし、ここを立ち去って――海を越えて、はるかかなたの見知らぬ国へ行き――二度と帰ってこなかったら! そのとき彼女は、どう思うだろう? ふと道《どう》化《け》役者になりたいと言ったことを思い出したが、どうしてそんなことを言ったのだろうと後悔した。だじゃれや、冗談《じょうだん》や、だんだら模様の肉襦袢《にくじゅばん》のようなものを押《お》しつけられるのは、崇高《すうこう》な空想の世界を、ぼんやりとさまよっている魂《たましい》にとっては、あまり愉《ゆ》快《かい》なことではなかった。そうだ、軍人になろう。そして何年かの後、戦いにやつれ武《ぶ》勲《くん》にかがやいて凱旋《がいせん》するのだ。いや、もっといいことがある。インディアンの仲間に加わって、はるか西部の山のなかや、ひろびろした大平原で水牛を捕《とら》えたり、敵と戦ったりして、後日、大酋長《だいしゅうちょう》となって、鳥の羽根をいっぱい飾《かざ》り、顔にごてごてと絵具を塗《ぬ》りつけて帰ってくるのだ。そして、いつか、ものうい夏の午前に、血も凍《こお》らせるようなときの声をあげて日曜学校に乗りこみ、生徒たちの目の玉を、どうにも我《が》慢《まん》できない羨望《せんぼう》の思いで焼きこがしてやろう。いや、待てよ、もっといいことがある。海賊になるのだ! それにかぎる! そう思いつくと、目の前にはっきりと展望が開け、想像できないほどのすばらしさで輝《かがや》いた。彼の名は世界じゅうに知れわたり、人々は震《ふる》えおののくだろう。長い、舷《げん》の低い、黒い快走船「疾風《はやて》」号に乗りこんで、船首に恐《おそ》ろしい旗をひるがえしながら、荒《あ》れ狂《くる》う海を乗りまわすのだ! そして、彼の名声が絶頂に達したとき、突然昔《とつぜんむかし》なじみの村にあらわれ、日にやけ風雨にさらされた風貌《ふうぼう》で、堂々と教会へはいって行く。黒いビロードの胴《どう》着《ぎ》と半ズボンをつけ、長靴《ながぐつ》をはき、深《しん》紅《く》の飾り帯を肩《かた》にかけ、ベルトに大型の拳銃《けんじゅう》をつるし、かずかずの殺戮戦《さつりくせん》で血《ち》錆《さび》のついた蛮刀《ばんとう》を腰に横たえ、縁《ふち》の垂れた帽《ぼう》子《し》に羽根をなびかせ、しゃれこうべの下に大腿骨《だいたいこつ》をぶっちがいにした模様の黒い旗を風になびかせながら。そして「あれが海賊のトム・ソーヤーだ! あれがカリブ海の恐怖《きょうふ》の復讐者《ふくしゅうしゃ》だ!」と人々がささやくのを聞いたら、さだめし体がふるえるほどうれしいにちがいない。
そうだ、これにかぎる。これでおれの人生はきまった。さっそく家を出て、海賊になろう。明日の朝にも実行しよう。とすると、いまから支《し》度《たく》をしなければならない。まず資金を集めなければならない。彼は近くの朽《く》ちた丸太のそばへ行って、その端《はし》の下の地面をナイフで掘《ほ》りはじめた。やがて刃《ほ》先《さき》が木に当って、うつろな音をたてた。彼は、そこに手を入れて、おごそかに呪文《じゅもん》をとなえた。
「ここにきたらざりしものは、ここにきたれ! ここにあるものは、ここにとどまれ!」
トムは土を掻《か》きのけた。すると一枚の薄《うす》い松《まつ》の屋根板があらわれた。さらにその屋根板をとりのけると、底もまわりも屋根板でできた形のいい小さな宝箱《たからばこ》があらわれた。そのなかには弾《はじ》き玉がはいっていた。トムは、ひどくびっくりした。彼は、めんくらったように頭を掻きながら言った。
「ちえッ、ばかにしてやがる!」
トムは不機《ふき》嫌《げん》に弾き玉をほうり出し、立ったまま考えこんだ。実をいうと、トムをはじめ仲間のもの全部が絶対確実と信じていた迷信が、いま彼を裏切ったのだ。ある呪文をとなえて弾き玉を埋《う》め、二週間ほどたってから、また呪文をとなえてそこを掘り返すと、これまでになくした弾き玉が全部、どんなに遠くに散らばっていても、かならずそこに集まってきているはずなのだ。ところが、いまや疑いもなく、呪文はきかなかった。トムの信念は土台からぐらついた。これまで、成功した例は何度となく聞かされたが、失敗したという話は一度も聞いたことがなかった。彼自身は、これまで成功したことがなかったが、それは埋めた場所を忘れてしまって、結果をたしかめることができなかったからだ。しばらく迷ったあげく、どこかの魔女《まじょ》が邪魔《じゃま》をして呪文を破ったのだと結論した。彼は、それをたしかめようと思い、あたりを探しまわって、小さな漏《ろう》斗《と》型のくぼみのある狭《せま》い砂地を見つけた。彼は、そこに腹《はら》這《ば》いになり、くぼみに口を近づけて叫《さけ》んだ。
「蟻《あり》地《じ》獄《ごく》、蟻地獄、おれのきくこと言っとくれ! 蟻地獄、蟻地獄、おれのきくこと言っとくれ!」
すると、砂が動きはじめて、一匹《いっぴき》の小さな黒い虫が、ちょっと姿を見せたが、すぐまた怖《こわ》がって砂のなかへもぐりこんでしまった。
「虫が何も言ってくれないとすると、やっぱり魔女の仕《し》業《わざ》だ。これでわかった」
魔女と争っても勝目がないことはよくわかっていた。そこでトムは、がっかりして、あきらめた。しかし、いま投げすてた弾き玉が惜《お》しくなったので、そのへんを根気よく探してみたが、ついに見つからなかった。そこで、例の宝の箱のところへ行って、さっき弾き玉を投げたときと同じ場所に立ち、ポケットから別の弾き玉をとり出して、また呪文をとなえながら前と同じように投げた。
「さあ、おまえの兄弟を探してこい!」
トムは玉が落ちた場所を見とどけ、そこへ行って探してみた。だが、遠すぎたのか、近すぎたのか、玉は見つからなかった。そこで、もう一度やりなおした。今度は成功した。二つの弾き玉が一歩と離れないところにころがっていた。
このとき、ブリキのラッパの音が、森の縁の小道づたいに、かすかにきこえてきた。トムは上《うわ》衣《ぎ》とズボンを脱《ぬ》ぎすて、ズボン吊《つ》りを腰にまきつけ、朽木のうしろの小さな草むらを掻きわけて、粗《そ》末《まつ》な弓矢と、木剣《ぼっけん》と、ブリキのラッパをとり出し、それらをひっつかんで、跣《はだ》足《し》のままシャツをひるがえして飛び出した。やがて彼は、楡《にれ》の大木の下で立ちどまり、返答のラッパを吹いて、それから用心深く警戒《けいかい》しながら足音を忍《しの》ばせて、あちらこちらと歩きはじめた。彼は手下のものに注意深く声をかけた――ただし、それは仮想上の手下だ。
「待て、手下ども、おれがラッパを吹くまでかくれていろ」
そこへジョー・ハーパーがあらわれた。ジョーも、トムと同じくらい入念に、ものものしく武《ぶ》装《そう》していた。まずトムが声をかけた。
「待て! おれの許しもなく、このシャーウッドの森に入ってきたのは何者だ?」
「ガイ・オヴ・ギズボーンに通行証はいらぬ! 貴様こそ、何奴《なにやつ》なれば、かくも――かくも――」
「広言を吐《は》くのだ――」とトムが陰《かげ》ぜりふをつけた。二人は本で暗記したとおりをしゃべっていたのだ。
「貴様こそ、何奴なれば、かくも広言を吐くのだ?」
「おれか! われこそロビン・フッドなるぞ。やい、卑怯者《ひきょうもの》め、たったいま冥《めい》土《ど》の旅で思い知らせてやる」
「さては貴様が世にきこえし無法者であったか。この楽しき森の通行権を、貴様となら、よろこんで争ってやる。いざ、まいれ!」
二人は、こまごましたものは地面に投げすて、木剣をとって、たがいに向いあって剣をまじえる構えをとった。木剣をふりかざして、二人は慎重《しんちょう》に渡りあった。やがてトムが言った。
「さあ、腕前《うでまえ》のほどを示してみよ!」
そこで二人は息を切らし、汗《あせ》をかきながら、「腕前を示して」戦いつづけた。しばらくするとトムが叫んだ。
「倒《たお》れろ! さあ、倒れろよ! なぜ倒れないんだ!」
「いやだ! なぜおまえが倒れないんだ? おまえのほうが負けてるじゃないか」
「そんなことは問題じゃない。おれは倒れちゃいけないんだ、本にそう書いてないもの。本には『それから返す一撃《いちげき》で、あわれガイ・オヴ・ギズボーンは斬《き》り殺された』と書いてあるじゃないか。だからおまえは、うしろを向いて背中を斬らせなくちゃいけないんだ」
本に書いてあると言われては仕方がないので、ジョーは背中を向け、一撃を受けて倒れた。
「さあ」と言いながら、ジョーは起きあがった。「今度はおれがおまえを殺す番だ。それが公平なやりかただ」
「ばかをいうな。そんなことはできないよ。本に書いてないもの」
「それは卑怯だよ」
「じゃ、こうしよう、ジョー。おまえは坊《ぼう》さんのタックか粉屋の息《むす》子《こ》のマッチになって、棍棒《こんぼう》でおれを殴《なぐ》ればいい。それとも、おれがノッティンガムの長官になり、おまえがロビン・フッドになって、おれを殺してもいい」
これなら異存がなかった。そこで、あらためて活劇が行われた。つぎに、ふたたびトムがロビン・フッドになり、腹黒い尼《に》僧《そう》にだまされて、ほっておいた傷口から血を流し、それとともに力つきて倒れる役をした。最後に、ジョーが悲《ひ》嘆《たん》にくれる山賊全部を代表して、悲しそうに彼を引きずって行き、力つきた手に弓を持たせた。トムは、「この矢の落ちるところ、緑の木陰に哀《あわ》れなロビン・フッドを埋めよ」と言って、矢を放ち、そのまま仰《あお》向《む》けに倒れて死ぬはずだったが、蕁麻《いらくさ》の上に尻《しり》もちをついたので、死《し》骸《がい》とは思えないくらい勢いよくとびあがった。
二人は服装をととのえ、武器をかくし、もう山賊なんてものがいなくなったことを嘆《なげ》き、その埋合せに近代文明は、いったい何をやったといえるのだろうかと憤慨《ふんがい》しながら帰途《きと》についた。生涯《しょうがい》合衆国の大統領となるよりも、一年間でもいいからシャーウッドの森で山賊になりたいものだと二人は言いあった。
第九章 墓地の惨劇《さんげき》
その夜、トムとシッドは、いつものように九時半に寝《ね》床《どこ》に追いやられた。お祈《いの》りをしてから、シッドは、すぐ寝入ってしまったが、トムは目をさましていて、いらいらと落ちつきなく待っていた。もう夜が明けるのではないかと思われたとき、彼《かれ》は時計が十時を知らせるのを聞いた。これは絶望的な事態だった。彼は神経をしずめるために手足を動かしたり寝返りをうったりしたかったが、シッドが目をさまさないように、じっと横たわったまま暗闇《くらやみ》を見つめていた。すべてが静かで陰《いん》気《き》だった。やがて、その静けさのなかから、ほとんど聞きとれないくらいの物音が、しだいにはっきりきこえてきて、時計の針の音が、耳につきはじめた。古い梁《はり》が神秘的な音をたてはじめた。階段が、かすかにきしった。明らかに幽霊《ゆうれい》どもが活躍《かつやく》をはじめたのだ。ポリー叔母《おば》さんの部屋から、規則正しい不明瞭《ふめいりょう》ないびきがきこえてきた。今度は、どんな敏感《びんかん》な人でもその居場《いば》所《しょ》をつきとめることが不可能な蟋蟀《こうろぎ》の退屈《たいくつ》な鳴き声がはじまった。つづいて、枕《まくら》もとの壁《かべ》で、茶立て虫がキチ、キチと気味の悪い鳴き声をたててトムの恐怖心《きょうふしん》をかきたてた――この虫が鳴くのは誰《だれ》かの死の前兆なのだ。どこか遠くで犬が吠《ほ》えて夜の空気を震《ふる》わせ、もっと遠くで別の犬が吠えて、それにこたえた。トムは、もだえた。ついに時間というものが停止して永遠がはじまったと信じた。いつしか彼はうとうとしはじめた。時計が十一時をうったが、トムは気がつかなかった。やがて、夢《ゆめ》うつつのなかで、恐《おそ》ろしいほど陰気な猫《ねこ》のいがみあう声がきこえてきた。近所の家で窓をあける音にトムは眠《ね》りをさまたげられた。「しっ! うるさい!」と言う声と、薪《まき》小屋《ごや》のうしろに当って空壜《あきびん》が割れる音とでトムは完全に目をさまし、一分とたたないうちに服を着て、窓から抜《ぬ》け出し、家の袖《そで》の屋根の上を四つん這《ば》いになって歩いていた。彼は、這いながら、二、三度、慎重《しんちょう》に鳴いてみた。それから薪小屋の屋根に飛びうつり、そこから地面に飛びおりた。ハックルベリー・フィンが例の猫の死《し》骸《がい》をぶらさげて立っていた。二人は歩きだして闇のなかに消えた。三十分後、トムとハックは草深い墓地のなかを歩いていた。
それは古風な天主教の墓地だった。村から一マイル半ほど離《はな》れた丘《おか》の上にあって、こわれかかった板塀《いたべい》が周囲をとりまいていたが、その板塀が、ところどころ内側に倒《たお》れ、あるいは外側に倒れていて、満足に立っているところは一《いっ》個《か》所《しょ》もなかった。墓地全面に雑草が生《お》い茂《しげ》り、古い墓石は、いずれも地面にめりこんでいた。さきの丸い虫くいだらけの板が墓の上にしょんぼりと傾《かたむ》いていた。それは何か支えになるものを求めながら何も見つからないといった風《ふ》情《ぜい》だった。かつてはその板にも「何某《なにがし》の墓」と書いてあったのだが、いまは、たとえ明るいところでも、文字が判読できそうなのは、ほとんどなかった。
かすかな風が木々のあいだをうめくような音をたてて吹《ふ》き渡《わた》った。トムはそれを眠りをさまたげられた死者の霊《れい》のつぶやきではないかと思った。あたりを支配する不気味な静けさに魂《たましい》を抑《おさ》えつけられて、二人は、ものも言わず、言ったとしても、声をひそめてささやくだけだった。やがて、彼らが探していた新しい土の塚《つか》が見つかった。彼らは、その塚から数フィート離れたところに生えている楡《にれ》の大木の陰《かげ》に身をひそめた。
二人は、黙《だま》って待っていたが、それはずいぶん長いあいだのように感じられた。死んだような静寂《せいじゃく》を破るものは、どこかで鳴く梟《ふくろう》の声だけだった。トムは気がめいってきて、何か言わずにいられなくなり、声をひそめて話しかけた。
「ハック、死んだ人たちは、おれたちがここにいるのを怒《おこ》らないだろうか?」
ハックルベリーは、これも小声で答えた。
「それがわかるとありがたいんだがね。なんだかすごく陰気じゃないか」
「うん、とても陰気だ」
二人が、それぞれ心のなかでこのことを考えているあいだ、沈黙《ちんもく》がつづいた。やがてトムはささやいた。
「ねえ、ハック、ホス・ウィリアムズがおれたちの話を聞いてると思うかい?」
「もちろんだよ。すくなくともあいつの魂は聞いてるさ」
トムは、ちょっと間をおいてから言った。
「ウィリアムズさん《・・》と言えばよかったな。でも悪気はなかったんだ。誰《だれ》でも、あいつのことはホスって呼びすてにしていたからね」
「死んだ人の話をするときには、よほど気をつけなくちゃいけないぜ、トム」
これでトムはしょげてしまい、会話はとぎれた。
やがてトムは相手の腕《うで》をつかんで言った。
「しッ!」
「何だい、トム?」二人は息を弾《はず》ませて体を寄せあった。
「しッ! まただ! きこえなかったかい?」
「おれは――」
「そら! 今度はきこえるだろう!」
「ああ、トム、やってきた! たしかにやってきた。どうしよう?」
「わからないよ。あいつらには、おれたちの姿が見えるんだろうか?」
「うん、あいつらは猫と同じで暗闇でも見えるんだ。こんなところへこなければよかったな」
「こわがるなよ、ハック。おれたちを、どうもしやしないよ。おれたちは、何も悪いことなんかしてないんだもの。じっとしていれば、おれたちに気がつかないかもしれないよ」
「そうしよう、トム。だけど、困ったな、体が震えてしようがないんだ」
「黙って!」
二人は、いっしょに首を垂れて、ほとんど呼吸《いき》をとめていた。墓地の外れから、はっきりしない声がきこえてきた。
「見ろ、あれを見ろよ!」とトムはささやいた。「何だろう?」
「鬼《おに》火《び》だ。ああ、トム、どうしよう」
二、三人のおぼろげな人影《ひとかげ》が暗闇のなかを近づいてきた。旧式なブリキ製の角燈《ランタン》をぶらさげていて、地面に無数の小さな光の斑点《はんてん》をまき散らした。ハックルベリーは震えながらささやいた。
「まちがいなく悪《あく》魔《ま》だ。三人もいる! トム、おれたちはもう駄目《だめ》だ! おまえは、お祈りができるかい?」
「うん、やってみよう。だけど、こわがることはないぜ。あいつらは、おれたちをどうもしやしないんだから。『われ、いま横たわりて眠りにつかんとす、われ――』」
「しッ!」
「何だい、ハック?」
「人間だぞ! すくなくとも一人は人間だ。あれはマフ・ポッターじいさんの声だ」
「ちがうよ。そうじゃない」
「いや、たしかにそうだ。動いちゃいけない。あいつはとんまだから、動きさえしなけりゃ気がつかないよ。いつものように酔《よ》っぱらっているらしい――あの、くそじじいめ!」
「よし、そんならじっとしていよう。ほら、とまった。見えなくなった。また歩きだした。今度はよくわかる。ちえッ、またわからなくなった。また、わかる。とてもよくわかるぞ。今度はたしかだ。おい、ハック、もう一人の声がわかったよ。インジャン・ジョーだ」
「そうだ――あの人殺しの混血児だ! 悪魔のほうが、まだずっとましかもしれないな。何をしてるんだろう?」
二人は、ささやきをやめた。三つの人影が、墓地へはいってきて、少年たちがかくれているところから数フィートの近くまできたからだ。
「これだ」ともう一人の男の声がした。その声の主がかかげた角燈の光で若いロビンスン医師の顔が見えた。
ポッターとインジャン・ジョーは、綱《つな》と二挺の《ちょう》シャベルをのせた手押車《ておしぐるま》を押していた。二人は、車からそれらのものを投げおろすと、墓をあばきはじめた。医師は角燈をこの頭のほうにおき、楡の木のところへ行って幹に背をもたせて腰《こし》をおろした。二人の少年から手がふれられるほどの近さだった。
「急いでやってくれ」と医師は低い声で言った。「いつ月が出るかわからんからな」
掘《ほ》っている二人は、うなるような返事をして掘りつづけた。しばらくのあいだ、シャベルで墓土や砂《じゃ》利《り》を投げだす音以外には、何もきこえなかった。それは、ひどく単調な物音だった。とうとう、どちらかのシャベルのさきが棺桶《かんおけ》に当って、にぶい木の音をたて、一、二分後には早くも棺桶が地上に引きあげられていた。二人はシャベルで棺《ひつぎ》の蓋《ふた》をこじあけ、なかから死体を引き出して、手《て》荒《あら》に地面に投げだした。月が雲間からあらわれ、死体の蒼《あお》白《じろ》い顔を照らした。手押車が用意され、死体はそれにのせられ、毛布でおおわれ、綱でくくりつけられた。ポッターは大きなジャック・ナイフをとり出して、あまってぶらさがっている綱を切りすてた。
「さあ、これで一丁上がったぜ、藪《やぶ》先生。ところで、あと五ドル出してくれねえと、死体はここへおいてくことになるぜ」
「そのとおりだ」とインジャン・ジョーが言った。
「おいおい、何てことをいうんだ」と医師は言った。「前金《まえきん》でほしいっていうから、ちゃんと払《はら》ってやったじゃないか」
「そうよ。だが、それだけじゃねえぜ」と言ってインジャン・ジョーは、いまは立ちあがっている医師につめよった。「五年前の晩のことだ、おれがおめえの家の台所へ食物をもらいに行ったら、おめえはおれを追いかえして、二度とくるんじゃねえとぬかしやがった。それでおれが、百年かかってもいいから、きっとこの決着はつけてみせるって言ったら、おめえの親《おや》父《じ》は、おれを浮《ふ》浪罪《ろうざい》で牢《ろう》に叩《たた》きこみやがった。それをおれが忘れているとでも思うのか? インディアンの血は、だてにこの体に流れているんじゃねえぞ。ここでおめえをつかまえたからにゃ、ちゃんと決着をつけてもらおうじゃねえか!」
そう言いながら、ジョーは医師の顔の前で拳骨《げんこつ》をふりまわしておどかした。すると医師は、いきなり拳《こぶし》をふるって、この無《ぶ》頼漢《らいかん》を叩きのめした。ポッターはナイフをとり落して叫《さけ》んだ。
「やい、よくも相棒を殴《なぐ》りやがったな!」つぎの瞬間《しゅんかん》、ポッターは医師に組みつき、二人は踵《かかと》で地面を蹴《け》ちらし、草を踏《ふ》みにじりながら、全力をつくして闘《たたか》った。そのあいだにジョーは起きあがってポッターのナイフを拾いあげ、ぎらぎら目を光らせながら、猫のように身をかがめて、とっ組みあっている二人のまわりをまわりながら機会をうかがっていた。やがて医師はポッターを振《ふ》りはなし、ウィリアムズの墓の頑丈《がんじょう》な墓標を引きぬき、これを振るってポッターを地面に叩き伏《ふ》せた。それと同時に、インジャンは機会を見つけて医師の胸に柄《つか》も通れとナイフを突《つ》き刺《さ》した。医師は、よろめいて、なかばポッターの上に倒《たお》れかかり、ふき出す血潮でポッターを染めた。このとき雲が、この凄惨《せいさん》な場面をかくしてしまい、二人の少年は、びっくりするやら怖《こわ》いやらで、闇のなかを一目散に逃《に》げ去った。
やがて、ふたたび月が出たとき、インジャン・ジョーは、倒れている二人の体のそばに立って、じっと見おろしていた。医師は、わけのわからない言葉をつぶやいて、一度か二度、かすかにうめいたかと思うと、そのまま動かなくなった。インジャンはつぶやいた。
「これで五分と五分だ、ざまァみろ!」
彼は医師が身につけていたものを奪《うば》い、それから例のナイフをポッターの右手に握《にぎ》らせ、あばかれた棺に腰をおろした。三分、四分、五分と時刻が移り、やがてポッターが体を動かしてうめき声を出しはじめた。彼は自分の手が握っているものに気がつき、なにげなく手をあげてそれを眺《なが》め、はっとしてとり落した。つぎに彼は死体を押しのけて起きあがり、まず死体を眺め、それから途《と》方《ほう》にくれたようにあたりを見まわした。ふとジョーと目が合った。
「いったい、これはどうしたわけだい?」とポッターは言った。
「えらいことをやったな」とジョーは落ちつきはらって言った。「どうしてこんなことをやったんだ?」
「おれが? おれは何もやってねえぜ!」
「おい、しっかりするんだ! いまさらそんなこと言ったって駄目だぞ」ポッターは真《ま》っ蒼《さお》になって震えだした。
「おれはしらふのつもりだったんだがな。今夜は飲むんじゃなかった。だが、まだアルコールが頭に残っていやがる――ここへきたときよりも、もっとひでえや。頭がめちゃくちゃだ。何にも思い出せねえ。話してくれ、ジョー――後生だから話してくれ――ほんとに、おれがやったのか、ジョー? おれは、やるつもりはなかったんだ。どうしてこんなことになったのか話してくれ。ああ、恐ろしいことだ――まだ若くて見込《みこ》みのある男だったのに」
「つまり、おめえたち二人がとっ組みあっているうちに、おめえは墓標で殴られてぶっ倒れたんだ。それからおめえは、よろよろと立ちあがったかと思うと、ナイフをつかんで、やつを刺しちまったんだ。ところが、ちょうどそのときやつが、もう一度、力まかせに振りおろしたもんだから、いままでおめえは、死んだみてえに、ここにのびていたってわけだ」
「そうだったのか。おれは、自分がどんなことをやったのかわからなかったんだ。もしおれがやったんなら、いまここで死んでしまいてえくらいだ。何もかもウイスキーを飲んだのと、かっと逆上したせいだ。これまで、おれは刃《は》物《もの》なんか振りまわしたことは一度もねえんだぜ、ジョー。喧《けん》嘩《か》はしたが、刃物を使ったことはねえんだ。誰でも証人になってくれる。ジョー、黙っててくれ! 誰にも言わねえと約束《やくそく》してくれ、ジョー! おまえとおれは友だちじゃねえか。おれは、おめえが好きだった。いつも、おめえの味方になってやった。そうだろう? 黙っててくれるだろうな、ジョー?」この哀《あわ》れな男は、恥《はじ》知《し》らずの人殺しの前に膝《ひざ》をつき、手を合わせて哀願《あいがん》した。
「いいとも。おめえは、いつもおれの味方になってかばってくれた。だから、おめえを裏切るようなことはしねえよ。おれも男だ、友情にそむくようなことはしねえよ」
「そうか、ジョー、ありがてえ。一生恩に着るぜ」そう言ってポッターは泣きだした。
「おい、もう泣くのはやめろよ。めそめそしている場合じゃねえ。おれはこっちの道を行くから、おめえはあっちの道を行くがいい。さあ、行くんだ。証拠《しょうこ》になるものを残しちゃいけねえぜ」
ポッターは小走りに走りだしたが、やがて速度を速めて、一目散に走りだした。インジャンは、そのうしろ姿を見送って、つぶやいた。
「見かけどおりに酔っぱらって、しかも打たれてふらふらになってるとしたら、気がついたとしても、こわくて取りに戻《もど》れねえくらい遠くへ行くまでナイフのことは思い出さねえだろう――いくじなしめ!」
二、三分の後には、殺された男と、毛布に包まれた死体と、蓋のない棺桶と、あばかれた墓穴を眺めるものは月以外にはなかった。あたりは、またもとのように、ひっそりと静まりかえっていた。
第十章 不《ふ》吉《きつ》な犬の遠《とお》吠《ぼ》え
二人の少年は、あまりの恐《おそ》ろしさに口もきけなくなって、村のほうへ飛ぶように走りつづけた。うしろから何かに追われているような気がして、二人は、ときどき心配そうに、肩《かた》ごしにふり返った。行手にあらわれる木の株の一つ一つが、人間であり、敵であるように思われて、そのたびに息がとまった。村外れのさびしい農家の前を走りすぎたときには、目をさました番犬に吠えつかれて、足が地につかないくらいだった。
「せめて鞣皮《なめしがわ》工場のところまで息がつづきさえしたら」とトムは、あえぎながらささやいた。
「おれは、もうこれ以上ながくはもちそうもないよ」
ハックルベリーの答えは、ただはげしい呼《い》吸《き》づかいだけだった。二人は、めざす目的地に目をすえ、そこへ到達《とうたつ》することだけを考えていた。二人は、しだいにそこに近づき、とうとう肩を並《なら》べて開いている戸口に飛びこみ、ほっとすると同時に精根つきはてて、奥《おく》の暗い避《ひ》難所《なんじょ》へ倒《たお》れこんだ。ようやく胸の動《どう》悸《き》がおさまってから、トムはささやいた。
「ハックルベリー、いったいどうなるだろう?」
「ロビンスン医師が死んだとすると、やつは絞首刑《こうしゅけい》だろうな」
「ほんとにそう思うかい?」
「そうさ。そうにきまっているよ、トム」
トムは、しばらく考えてから言った。
「誰《だれ》が訴《うった》えるんだい? おれたちかい?」
「何をいうんだ。もし、なんかの事情でインジャン・ジョーが絞首刑にならなかったら、あいつのことだもの、いつかはおれたちを殺すにちがいない。それだけはたしかだぜ」
「おれも、そのことを考えているんだよ、ハック」
「誰かが訴えなければならねえんなら、マフ・ポッターに訴えさせればいい。あいつが、それほどばかな男ならな。もっとも、あいつは、そんなばかなことをやりかねないくらい、いつも酔《よ》っぱらっているけどね」
トムは、それに答えず、ひとりで考えつづけていた。やがて彼《かれ》はささやいた。
「ハック、マフ・ポッターは知らないんだぜ。知らないのに訴えることはできないじゃないか」
「知らないって? どうしてだい?」
「あいつが殴《なぐ》られて気をうしなったときにインジャン・ジョーがやったんじゃないか。それでもマフが見たと思うかい? あいつにわかったと思うかい?」
「ちえッ、そうだったね、トム!」
「それに、ひょっとすると、あいつは――殴られて死んじまったかもしれないぜ!」
「いや、そんなことはないだろう。あいつは酔っぱらっていたんだ。そうなんだ。いつだって酔っぱらっているんだ。うちの親《おや》父《じ》もそうだが、酔っぱらっているときには、どんなに殴られても平気なんだ。なんとも感じないんだ。親父は自分でもそう言っている。だから、マフ・ポッターだって同じことさ。しらふだったら、あんなにひどく殴られたら死んじまうかもしれないがね」
またしばらく考えてから、トムは言った。
「ハック、おまえは黙《だま》っていられるかい?」
「トム、おれたちは黙っていなくちゃいけないんだ。わかってるだろう? もしおれたちがこのことをばらして、インジャンが絞首刑にならなかったら、あの悪党は、おれたちを殺すことなんか猫《ねこ》の子を殺すほどにも思っちゃいないぜ。だから、トム、二人で約束《やくそく》しようじゃないか――おれたちがしなくちゃならないのは、そのことなんだ――絶対にしゃべらないって約束しよう」
「いいとも。それがいちばんいい。さあ、手をあげて誓《ちか》おう、おれたちは――」
「いや、今度は、そんなことじゃ駄目《だめ》だ。ありふれた、くだらないことを誓うんなら、それで十分だが――ことに相手が女の子の場合にはな。女の子は、ちょっとおどかされると、すぐにぺらぺらしゃべってしまうからね。だけど、今度のような大事件の場合は、ちゃんと文書にしなくちゃ駄目だ。それに血で署名しなくちゃ」
トムは、この意見に全面的に賛成した。そのほうが深刻だし、秘密めいたところもあるし、厳粛《げんしゅく》でもあった。時刻も、場所も、事件も、それにふさわしかった。そこでトムは、地面に落ちて月光に照らされている、きれいな松《まつ》の板片《いたきれ》を拾ってきて、ポケットから「赤土絵具」の小さなかけらをとり出し、月の光をたよりに、苦心して、つぎの数行を書きつけたが、字を書くのに下へ線を引っぱるときには舌を歯のあいだへはさみこんで力をこめてゆっくり書き、上向きの線のときには力を抜《ぬ》いて書いた。
ハック・フィンとトム・ソーヤーは、今度のことについて、口外しないことを誓う。
万一、これを破ったら、その場で殺されてもかまわない。
ハックルベリーは、トムがらくらくと字を書くのと、そのおごそかな文句に感心した。彼は、さっそく襟《えり》の折返しからピンをとり出して、指に突《つ》き刺《さ》そうとしたが、トムは、それをとめた。
「待て! そんなことをしちゃいけない。そのピンは真鍮《しんちゅう》じゃないか、緑青《ろくしょう》がついてるかもしれないぜ」
「ロクショーって何だい?」
「毒だ。毒なんだ。嘘《うそ》だと思ったら、いっぺん飲んでみろよ――すぐわかるから」
トムは一本の縫針《ぬいばり》から糸をほどいた。二人は、それぞれ親指の腹を刺して、血を一滴《てき》しぼり出した。何度も何度も血をしぼって、トムは小指の腹をペンの代りにして、どうにか自分の頭文字《かしらもじ》を署名した。それからハックルベリーに頭文字の書きかたを教えて、誓約書《せいやくしょ》ができあがった。二人は、儀《ぎ》式《しき》どおりに呪文《じゅもん》をとなえながら、壁《かべ》の隙《すき》間《ま》にその板を埋《う》めた。これで二人の舌をしばる口枷《くちかせ》には錠《じょう》がおろされ、その鍵《かぎ》は捨ててしまわれたわけだ。
このとき、がらんとしたこの建物の奥の破れ目から、一つの人影《ひとかげ》がこっそりと忍《しの》び入ったが、二人は気がつかなかった。
「トム」とハックルベリーはささやいた。「これで、おれたちは、ほんとにしゃべれないんだろうか――どんな場合でも?」
「むろんさ。どんなことがあったって、しゃべることはできないんだ。黙っていなくちゃならないんだ。しゃべったら、その場で死んでしまうんだ――わからないのかい?」
「うん、おれもそうだと思うけどさ」
しばらく二人は、ひそひそと話しあっていた。やがて、一匹《いっぴき》の犬が小屋のすぐ外の――二人から十フィートと離《はな》れないところで、陰《いん》気《き》な声で吠《ほ》えはじめた。二人は、ぞっとして、たがいにしっかりとつかまりあった。
「おれたちのどっちを吠えてるんだろう?」とハックルベリーは震《ふる》え声で言った。
「わからない――隙間から覗《のぞ》いてみろよ。早く!」
「いやだ、おまえが覗いてみろよ、トム!」
「駄目だ――おれにゃできないよ、ハック!」
「頼《たの》むよ、トム。あ、また鳴きはじめた!」
「ああ、よかった!」とトムは言った。「おれは、あの声なら知ってるんだ。あれはブル・ハービソンだ」(ハービソン家にブルという名の使用人がいたら、トムはそれを「ハービソンのブル」と呼んだであろうが、犬や子供の場合は「ブル・ハービソン」でいいのだ)
「それで安心したよ――まったく、こわくて死にそうだったぜ。野良《のら》犬《いぬ》だとばかり思ったもんだから」
犬は、また吠えはじめた。二人は、また心細くなった。
「おや、あれはブル・ハービソンじゃないぜ!」とハックルベリーはささやいた。「覗いてみてくれよ、トム!」
トムは、恐ろしさに震えながら、こわごわ隙間に目をあてた。そして、ほとんど聞きとれないような声でささやいた。
「ハック、野良犬だ!」
「早く、トム、早く! 誰を吠えてるんだい?」
「おれたち二人だよ、ハック――おれたちはいっしょにいるんだもの」
「ああ、トム、おれたちはもう駄目だ。おれの行くところはきまっている――おれがわるかったんだ」
「罰《ばち》が当ったんだ! 学校を怠《なま》けたり、やってはいけないと言われたことを、いろいろとやっちまったから、こんなことになったんだ。おれだって、その気になれば、シッドのように、おとなしい子になれたのに――でも、駄目だ。おれは、ほんとはやりたくなかったんだ。もし、今度助かったら、日曜学校へも、ちゃんと行くんだけどな」トムは、すこし泣き声になった。
「おまえが悪いって?」ハックルベリーも鼻声になった。「そんなことがあるもんか。おまえなんか、おれにくらべたら、何でもありゃしないよ。ああ、ああ、ああ、おれが、おまえの半分でもいい子になってたらな」
トムは、それをさえぎって言った。
「見ろ、ハック、見ろよ! あの犬は、おれたちに背中を向けてるぜ!」
ハックは急に元気づいて覗いてみた。
「ほんとだ! あっちを向いてる。前からそうだったのかい?」
「うん、前からだ。おれは、ばかだった。うっかりして気がつかなかったんだ。よかったな。おれたちでないとすると、誰を吠えてるんだろう?」
吠え声がやんだ。トムは耳をそばだてた。
「しっ! あれは何だ?」と彼はささやいた。
「まるで豚《ぶた》がうなっているみたいだが――いや、そうじゃない、誰かがいびきをかいてるんだよ、トム」
「そうらしい。どこだろう?」
「向うの端《はし》だよ、きっと。とにかく、そんなふうにきこえるぜ。うちの親父も、よくあすこで豚といっしょに寝《ね》たもんだが、親父のいびきなら、埃《ほこり》が舞《ま》いあがるくらいだ。それに、うちの親父は、もう二度とこの村には帰ってこないはずだ」
冒険心《ぼうけんしん》が、ふたたび二人の少年の胸にわきあがった。
「ハック、おれがさきに立ったら、あとからついてくるかい?」
「あまり行きたくねえな、トム。インジャン・ジョーだったら、どうする?」
トムは、たじろいだ。しかし、やがて冒険への誘惑《ゆうわく》は、ふたたび強く少年たちの心をゆさぶった。少年たちは、いびきがとまったら、さっそく逃《に》げ帰るという条件で、やってみることに相談がまとまった。そこで二人は、一人がさきに立ち、一人がその後につづいて、足音を忍ばせて近づいて行った。いびきをかいている男から五歩と離れないところまできたとき、トムは棒を踏《ふ》みつけ、鋭《するど》い音をたてて棒が折れた。男は、うめき声をたてて、すこし体をよじった。その顔に月の光が当った。それはマフ・ポッターだった。男が動いたときには、二人の心臓はとまり、体が凍《こお》りついたように動かなくなったが、正体がわかって、いまは恐怖《きょうふ》も消えた。二人は、羽目板の破れた個《か》所《しょ》を通って、忍び足で外に出、やや離れたところまできてから、別れを告げるために立ちどまった。このとき、またあの陰気な吠え声が夜の空気を震わせた。ふり返ると、二人の知らない犬がポッターの寝ている場所から数フィートと離れないところで、ポッターのほうを向き、鼻面《はなづら》を空に向けて吠えているのが見えた。
「たいへんだ、ポッターが吠えられてるんだ!」と二人は同時に叫《さけ》んだ。
「ねえ、トム、二週間ほど前に、真夜中ごろ、野良犬がジョニー・ミラーの家のまわりを吠えまわったそうだ。しかも、その同じ晩に、よたか《・・・》が飛んできて手《て》摺《すり》にとまって鳴いたそうだ。だけど、あの家じゃまだ誰も死んでないぜ」
「うん、それはおれも知ってるよ。たしかに誰も死んじゃいない。しかし、すぐつぎの土曜日に、グレーシー・ミラーが台所の炉《ろ》に落ちて大《おお》火傷《やけど》したじゃないか」
「それはそうだ。だけど死にやしないじゃないか。おまけに、もうなおりかけてるぜ」
「まあ、見てればわかるさ。マフ・ポッターと同じように、あの子は、もうぜんぜん見込《みこ》みがないんだ。黒《くろ》ん坊《ぼう》が、そう言うんだからまちがいない。そういうことにかけちゃ、黒ん坊は、何でも知ってるからね、ハック」
こうして二人は深く考えにふけりながら別れた。トムが窓から寝室《しんしつ》に忍びこんだときには、夜は、ほとんど明けていた。彼は、できるかぎり用心して寝間着《ねまき》に着がえ、外出したのを誰にも知られなかったのをよろこびながら、眠《ねむ》りについた。しかし、軽いいびきをかいていたシッドが、実は一時間も前から目をさましていたことを彼は知らなかった。
トムが目をさましたのは、シッドが、着がえを終って寝室を出たあとだった。日光のぐあいといい、あたりの様子といい、もうだいぶ遅《おそ》いようだった。トムは、あわてた。どうして起してくれなかったのだろう――なぜいつものように目をさますまで攻撃《こうげき》してくれなかったのだろう? そう思うと、何か不吉な予感がした。五分とたたないうちに着がえをすませて、寝足りない目をこすりながら階下におりたが、なんとなく気がとがめた。家のものはまだテーブルをかこんでいたが、食事は、とうにすんでいた。誰も叱《こ》言《ごと》をいわなかったが、みんな彼の顔を見ないようにしていた。沈黙《ちんもく》と厳粛《げんしゅく》な雰《ふん》囲気《いき》が罪人《つみびと》の心を縮みあがらせた。トムは腰《こし》をおろして、快活に見せかけようとつとめたが、それはとても骨の折れる仕事だった。誰も、笑いもせず、返事もしないので、トムは黙って沈《しず》みこむしかなかった。
朝食が終ってから、トムは伯母《おば》さんにわきへつれて行かれたので、てっきり鞭《むち》で打たれるものと思って、ほとんど元気をとり戻《もど》すほどだったが、そうではなかった。伯母さんは、トムをつかまえて泣きはじめ、どうして年老いた伯母さんの胸をこんなに痛めつけるのかとかきくどいた。そして最後には、もうどうでも好きにするがいい、そして、どうにでもなって伯母さんが死ぬまで伯母さんの髪《かみ》の毛を悲しみで白くするがいい、これ以上、伯母さんには、どうすることもできないのだから、と言った。これは千の鞭よりも、もっと悪かった。トムの心は体よりも強く痛んだ。トムは泣いて許しを乞《こ》い、もう決して悪いことはしないと約束してから、ようやく釈放されたが、まだ完全に許されたような気がせず、また、完全に信用をとり戻したとは思えなかった。
トムは、あまりにも人生が憂鬱《ゆううつ》なものに思えたので、シッドに仕返しする気力さえなかった。だからシッドがあわてて裏口から姿を消したのは不必要なことだった。トムは悲しみにうちしおれて学校へ行き、ジョー・ハーパーといっしょに、前の日に学校を怠けた罰《ばつ》として鞭で打たれた。しかし、トムの態度は、もっと大きな悩《なや》みで胸がいっぱいなので、そんな些《さ》細《さい》なことはどうでもいい、といったように見えた。それからトムは自分の席に戻り、机の上に頬杖《ほおづえ》をついて、どうにもならない悩みをこめた石のような目つきで、じっと壁を見つめていた。何か硬《かた》いものが肘《ひじ》にさわった。しばらくして、彼は悲しそうに体の向きを変え、溜息《ためいき》をつきながら、なにげなくそれを手にとった。その硬いものは紙に包んであった。彼は、それをひらいた。長い深い溜息がつづいて、彼の胸は破れた。それは、あの真鍮の把《とっ》手《て》だった!
この最後の羽《う》毛《もう》が、重荷に悩む駱《らく》駝《だ》の背骨を完全に叩《たた》きつぶしてしまった。
第十一章 トムの良心
正午に近いころ村の人々は恐《おそ》ろしい知らせに突然震《とつぜんふる》えあがった。まだ誰《だれ》も夢《ゆめ》にも思わなかった電信などというものの必要もなく、このニュースは人から人へ、群れから群れへ、家から家へ、電信以上の速さでつたわった。もちろん校長先生は午後の授業を休みにした。もしそうでもしなかったら先生は村の人たちから頭がどうかしているのではないかと疑われたであろう。
死体のそばで血に染まったナイフが発見されたが、それはマフ・ポッターのものだと証言するものがあらわれた――すくなくとも噂《うわさ》ではそうだった。噂によると、夜おそく通りかかった村の人が、真夜中の一時か二時ごろ、ポッターが小川で体を洗っているのを見たが、ポッターは、すぐに姿をかくしたということだった――これは嫌《けん》疑《ぎ》を受けやすい出来事で、とくに体を洗うという習慣はポッターにはなかったから、いっそう怪《あや》しまれた。それで、人々は、この「殺人犯人」(公衆というものは証拠《しょうこ》を洗いだして断定を下すことにかけては決して躊躇《ちゅうちょ》しないものだ)の行《ゆく》方《え》を求めで村じゅうを探したが、ついに発見されなかった。追《おっ》手《て》が、あらゆる方向の、あらゆる道に馬を走らせた。そして保安官は今日のうちにかならず逮《たい》捕《ほ》すると断言した。
村じゅうの人が墓地へ流れた。トムも元気を回復して、その行列に加わった。決して別のところへ行きたくないわけではなかったが、あるふしぎな説明できない魅力《みりょく》が、彼《かれ》を引っぱって行ったのだ。恐ろしい現場につくと、彼は小さな体を群集のあいだにもぐりこませて、そのむごたらしい光景を見た。トムは昨夜ここにいたのが一昔《ひとむかし》も前のことだったような気がした。誰かが腕《うで》をつねった。ふり向いてハックルベリーと目を合わせた。二人は、すぐ目をそらし、目を見合せたために誰かに何かを感づかれたのではあるまいかと心配した。だが、みんな目の前の恐ろしい光景に気をとられて、夢中《むちゅう》で話しあっていた。
「かわいそうに!」「まだ若いのに!」「墓《はか》場《ば》荒《あら》しには、いい見せしめさ!」「マフ・ポッターのやつ、捕《つか》まったら絞首刑《こうしゅけい》だぜ!」これがだいたいみんなの言っていることだった。牧師は「これは神さまのお裁きです。神さまの御手《みて》が働いているのです」と言った。
トムは頭のさきから足の爪《つま》さきまで震えあがった。というのは、そのときインジャン・ジョーのなにくわぬ顔が目に映ったからだ。突然群集がどよめいて押《お》し合いがはじまり、「やつだ! やつだ! やつがやってきた!」という叫《さけ》びがきこえた。
「誰だ? 誰だ?」と二十人ばかりの声が言った。
「マフ・ポッターだ!」
「おや、立ちどまったぞ! 気をつけろ、引き返そうとしているぞ! 逃《に》がすな!」
トムの頭の上の木の枝《えだ》に登って見ていた人たちは、やつは逃げようとしているのではない、決心がつかなくてまごまごしているだけだ、と言った。
「ずうずうしいやつだ!」と一人の見物人が言った。「自分がやったことを、ゆっくり見物しにきたんだ――誰もきてないと思って」
いま群集は左右に分れ、そのあいだを保安官がポッターの腕をつかまえて意気《いき》揚々《ようよう》とやってきた。その哀《あわ》れな男の顔はやつれて、目は恐怖《きょうふ》におびえていた。死体の前に立たされたとき、彼は中風にでもかかったように震え、両手に顔を埋《う》めて泣きだした。
「おれがやったんじゃねえ」と彼は泣き声をあげた。「誓《ちか》って、おれじゃねえ」
「だれがおまえだと言った?」と誰かが叫んだ。
この声でわれにかえったらしく、ポッターは顔をあげて、悲しそうな絶望的な目で、あたりを見まわした。そして、ふとインジャン・ジョーを見つけて叫んだ。
「ああ、インジャン・ジョー、おめえは約束《やくそく》したじゃねえか、決して――」
「これはおまえのナイフか?」と言って、保安官はナイフを突《つ》きつけた。
人々が彼を支えて地面に坐《すわ》らせなかったら、ポッターは、その場に倒《たお》れてしまっただろう。彼は言った。
「心配しちゃいたんだが、やはり取りにくるんじゃなかった」ポッターは身震いした。そして、あきらめたように力なく手を振《ふ》って言った。「話してやってくれ、ジョー、すっかり話してくれ――もうこうなったら仕方がねえ」
ハックルベリーとトムは、口もきけず、目をみはりながら、石のように冷酷《れいこく》な男が、平気で、しらじらしく嘘《うそ》をつくのを聞いた。そして、いまにも晴れわたった大空からジョーの頭上に神の電光が落ちてくるにちがいないと思い、いつまで神さまはぐずぐずしているんだろうとじりじりしていた。そしてジョーが話し終っても、まだ何事も起らず、彼が依《い》然《ぜん》として生きて立っているのを見ると、誓いを破ってでも、この哀れな裏切られた囚人《しゅうじん》の生命《いのち》を救ってやりたいと思いながらも、なんとなく躊躇していた気持が、すっかり吹《ふ》っきれた。というのは、この悪党は明らかに悪《あく》魔《ま》に魂《たましい》を売った人間だし、そんなものにかかわりあったら生命があぶないと思ったからだ。
「どうしておまえは逃げなかったんだ? 何のためにここへ戻《もど》ってきたんだ?」と誰かが言った。
「そうせずにいられなかったんだ――どうにもならなかったんだ」とポッターはうめくように言った。「逃げようと思ったんだが、どうしてもここへしか足が向かなかったんだ」そう言って、彼はまたすすり泣きをはじめた。
そのあと、インジャン・ジョーは正式の尋《じん》問《もん》に答えて、あいかわらず落ちついたまま誓いを立てて同じ陳述《ちんじゅつ》をくりかえした。二人の少年は、まだ雷《かみなり》が落ちてこないのを見て、インジャン・ジョーが悪魔に魂を売ったということを、いよいよ固く信じこんだ。ジョーの顔は、いま二人の少年にとっては、いままで見たことがないような恐ろしい対象となり、二人は、その顔から目をそらすことができなかった。
機会があったら、夜ジョーを監《かん》視《し》していて、彼の恐るべき主人、悪魔の姿を一目でも見てやろうと、二人はひそかに決心した。
インジャン・ジョーは、死体を運ぶために荷車にのせるのを手伝った。そのとき、群集のあいだに、死体から血が流れたというささやきが起った。二人は、このために、嫌疑が、かけられるべき人間にかけられるだろうと思った。しかし失望させられた。というのは、村の人が、一人ならず、つぎのように説明したからだ。
「血が流れたとき死体はマフ・ポッターから三フィートと離《はな》れていなかったぜ」
トムは、それ以来、一週間にもわたって、恐ろしい秘密と良心の呵責《かしゃく》に悩《なや》まされて、夜も満足に眠《ねむ》れなかった。ある朝、食事のとき、シッドが言った。
「兄さんったら、寝《ね》ながら動きまわったり、しゃべったりするもんだから、ぼくは半分ぐらいしか眠れないよ」
トムは蒼《あお》くなって目を伏《ふ》せた。
「それはよくない徴候《ちょうこう》だね」と伯母《おば》さんは重々しく言った。「トム、何か心配なことがあるのかい?」
「ううん、何にもないよ」しかしトムは手が震えて、そのためコーヒーがこぼれた。
「兄さんは、いろんなことを言うんだよ」とシッドが言った。「昨夜は『血だ、血だ、血が流れた……』って何度も何度も言ってたよ。それから『もう堪忍《かんにん》してくれ――いうよ、いうよ』とも言ってたよ。何のことなの? いうって何をいうの?」
トムは、目の前のあらゆるものが、ぐらつきだしたような気がした。この状態が、そのままつづいたら、どんなことになるかわからなかったが、さいわい伯母さんの顔から心配の色が消えて無意識にトムを救ってくれた。伯母さんは言った。
「わかったわ! あの恐ろしい人殺しのことだね。わたしだって、毎晩のようにその夢をみるよ。自分が犯人になった夢をみることだってあるんだよ」
メアリも同じように悩まされていると言った。シッドは、これで納得したように見えた。トムは、あまり無理をせずに、できるだけ早くその場を引きあげた。そして、それから一週間ほどは、歯が痛いと言って毎晩顎《あご》をしばって寝た。もっとも、シッドが毎晩寝ずに見張っていて、ときどきトムの顎の繃帯《ほうたい》をそっとはずし、それから頬杖《ほおづえ》をついてしばらく耳をすまし、やがてもとのように繃帯をもどしておくのを知らなかった。しかし、トムの心の悩みは、しだいにうすらぎ、「歯《は》痛《いた》」も面《めん》倒《どう》くさくなってやめてしまった。シッドは、トムのきれぎれの寝言から、何かをさぐりだすことができたとしても、それを誰にも言わなかった。
トムは、学校友だちが、いつまでも猫《ねこ》の死《し》骸《がい》を使って検《けん》屍《し》ごっこをやったりして、たえずトムの心を苦しめているように思われてならなかった。シッドは、これまで新しい遊びなら、どんなことでも、きまってトムが先頭に立つのに、この検屍遊びでは一度も検屍官の役を買って出ないことに気がついた。また、トムが決して証人にならないことにも気がついた――ふしぎなことだった。さらにシッドは、トムがこういう遊びをいやがり、いつもできるだけ、それに加わらないようにしている事実を見のがさなかった。シッドは驚《おどろ》いたが、黙《だま》っていた。しかし、やがて検屍ごっこは下火になり、トムの良心を苦しめなくなった。
この苦しい期間、トムは、毎日か一日おきに、機会を見ては牢《ろう》屋《や》の小さな格《こう》子《し》窓《まど》のところへ行き、手にはいるかぎりのささやかな慰《い》問品《もんひん》を、その「殺人犯人」に差入れた。牢屋は村外れの沼《ぬま》地《ち》に立っている小さな煉《れん》瓦《が》造《づく》りの建物で、牢番も一人もいなかった。それまでほとんど使用されたことがなかったのだ。これらの差入れは、トムの良心をなぐさめるのに、すくなからず役に立った。
村の人たちは、死体を盗《ぬす》もうとした罪を罰《ばつ》するためインジャン・ジョーをタールでまぶし横木にのせて引きまわしたかったのだが、なにぶんジョーの性質があまりに凶悪《きょうあく》なので、さきに立ってやろうとするものがいなかった。だから、それは実行されなかった。用心深いジョーは尋問のときにも、二度とも喧《けん》嘩《か》のところから陳述をはじめて、その前に墓を掘《ほ》りかえしたことにはふれなかった。そこで、さしあたりこの事件は裁判にかけないほうが得策だ、と人々は考えた。
第十二章 猫《ねこ》と「ペインキラー」
トムの心が秘密の悩《なや》みから解放された理由の一つは、新しく、より重大な事件が心をとらえたからだ。ベッキー・サッチャーが学校にこなくなったのだ。しばらくのあいだ、トムは自尊心と闘《たたか》って、「なりゆき」にまかせようと試みたが、うまくいかなかった。毎夜、彼女《かのじょ》の家のあたりをさまよい歩き、気持がひどくみじめになった。彼女は病気だった。もし死ぬようなことがあったら――そう思うと、気が狂《くる》いそうだった。トムは、もう戦争ごっこも、海賊《かいぞく》遊びさえ興味がなくなった。人生の魅力《みりょく》がなくなり、さびしさしか残らなかった。輪回しも球遊びもやめてしまった。そんなものは、もうすこしもおもしろくなかった。伯母《おば》さんは心配して、あらゆる療法《りょうほう》を試みてトムを元気づけようとした。世間には、専売特許の薬品とか、健康を増進したり回復したりする新発明の治療法などに、すぐにとびつく連中がいるが、伯母さんもその一人だった。伯母さんは、そういうものを試《ため》してみることにかけては誰《だれ》にもひけをとらなかった。その方面で何か新しいものがあらわれると、さっそく飛びついて熱心に試してみた。もっとも彼女自身は、決して病気にならなかったから、自分の体で試すのではなく、誰か手近な人間で試すのだ。また伯母さんは、あらゆる健康雑誌と、いかがわしい占《うらな》い師に惜《お》しげもなく金を出す人間であり、それらのものが吹《ふ》きつける恐《おそ》るべき無知は、伯母さんにとっては欠くことのできない呼吸のようなものだった。通風、就寝《しゅうしん》、起床《きしょう》、飲食物、それに、どれくらい運動をすればよいか、どんな心がけでいればよいか、どんな種類の衣類を着ればよいか、というようなことについて、それらの雑誌に掲載《けいさい》されているすべてのばかげたことが、伯母さんにとっては、ことごとく福音《ふくいん》であった。今月号の健康雑誌が、いつも前月号ですすめたことと逆のことをすすめていることに、すこしも気がつかなかった。単純で正直だったから、いつもやすやすとだまされた。彼女は、いかさま雑誌と、いかさま売薬をとりそろえ、死神《しにがみ》の武《ぶ》装《そう》をして、蒼白《あおじろ》い馬にまたがり、「うしろに地《じ》獄《ごく》をしたがえて」歩きまわっていたのだ。そして、自分が悩める隣人《りんじん》にとっては、病気をなおす天使であり、万病に霊験《れいげん》あらたかな薬の神の化《け》身《しん》であることを、すこしも疑わなかった。
そのころ伯母さんが熱中していたのは水療法だった。トムの元気のない状態が、うってつけの実験対象だった。伯母さんは毎朝夜明けにトムを起して薪《まき》小屋《ごや》に立たせ、頭から冷水を浴びせかけた。それから、やすりのようなタオルでごしごしこすって正気づかせ、濡《ぬ》れたシーツでくるんで毛布の下に寝《ね》かせ、トムの言葉でいうと、「魂《たましい》の黄色い汚《よご》れが毛《け》孔《あな》から出てしまう」まで汗《あせ》をとった。
しかし、これほど手をつくしたにもかかわらず、トムはますます血色が悪くなり、元気がなくなった。そこで伯母さんは温浴療法と坐《ざ》浴《よく》療法とシャワー療法と全身浴療法とをつけ加えたが、トムは依《い》然《ぜん》として柩車《きゅうしゃ》のように陰《いん》気《き》だった。伯母さんは、オートミールの食《しょく》餌《じ》療法と発泡膏《はっぽうこう》を水療法につけ加えることにした。伯母さんは、トムの体力を器の容量を量るように計算して、毎日いかさま万能薬《ばんのうやく》をつめこんだ。
そのころになると、トムは、まったく無感覚になっていた。伯母さんも、これには困ってしまった。彼女が、この無感覚状態を、なんとしてでもうち破らなければならないと決心したとき、たまたま「ペインキラー」という薬のことを耳にした。そこで、さっそくそれをしこたま仕入れて自分で味わってみたが、結果は上々だった。それは、まさしく液体の火だった。彼女は水療法もその他の療法も全部やめてしまい、ペインキラーだけにうちこんだ。彼女は、ためしにトムに一匙《ひとさじ》飲ませてみて、その結果を固《かた》唾《ず》をのんで見まもった。彼女の不安は、たちどころに解消し、彼女の魂は、ふたたび安らかになった。「無感覚」が、たちまちうち破られたからだ。尻《しり》の下で、火を燃やされたとしても、トムが、これほど強い感応を示すことはないだろう。
トムは、目をさますべき時機だと考えた。いまのような状態は、破《は》滅《めつ》した生活においてはロマンティックなものであるかもしれないが、それにしても、あまりにも生彩《せいさい》がなく、しかも気をまぎらす変化が、あまりにも多すぎた。そこで、薬地獄から逃《のが》れる方法をいろいろと考えたすえ、ペインキラーが好きになったふりをしようと思いついた。トムが、しつこいほどその薬をねだったので、しまいに伯母さんはうるさくなって、とうとう、いちいち世話をやかせずに自分で勝手に飲むようにと申し渡《わた》した。もしも相手がシッドだったら、伯母さんもよろこんで何の不安も感じなかっただろうが、なにぶんトムのことなので、こっそり薬壜《くすりびん》に気をつけていた。なるほど、中身は、たしかに減っていた。しかし、トムがそれで自分の部屋の床《ゆか》の割れ目の治療をしていたとは、さすがの伯母さんも気がつかなかった。
ある日、トムが例によって床の割れ目に薬を飲ませていると、伯母さんの黄いろい猫がやってきて、ごろごろ咽喉《のど》を鳴らし、食べたそうにその匙を眺《なが》めて、味をみさせてほしいようなそぶりを示した。トムは言った。
「ほんとにほしいのでなかったら、ねだるんじゃないよ、ピーター」
しかしピーターは、ほんとにほしそうだった。
「たしかにほしいんだな?」
ピーターはうなずいた。
「それなら飲ませてやる。ただし、おまえがほしいというから、おれは飲ませてやるんだぞ。おれは、けちんぼじゃないからな。だが、うまくなくっても、おれのせいじゃないぞ。恨《うら》むなら自分を恨むんだ」
ピーターは承知した。そこでトムはピーターの口をこじあけて、ペインキラーを流しこんだ。ピーターは二ヤードほど空中に飛びあがり、インディアンのような鬨《とき》の声をあげて、ぐるぐる部屋のなかを駆《か》けまわり、家具にぶつかり、花《か》瓶《びん》をひっくりかえし、そこらじゅうを荒《あ》れ狂《くる》った。それから後脚《あとあし》で立ちあがって、感激《かんげき》のあまり狂気《きょうき》のようになって、首を縮め、抑《おさ》えようのない興奮を声にあらわしながら飛びまわった。それから、もう一度家じゅうを駆けまわり、いたるところに混乱と破《は》壊《かい》をまきちらした。そして伯母さんがはいってきたときには、ちょうど二、三度宙返りをうって、最後のものすごい喚声《かんせい》をあげ、開け放した窓から飛び出すはずみに残りの植《うえ》木《き》鉢《ばち》を突《つ》き落したところだった。伯母さんは、眼鏡ごしに眺めながら、驚《おどろ》きのあまり石と化して立ちすくんだ。トムは床の上で息もつまりそうに笑いころげていた。
「トム、あの猫はどうして苦しんでいるんだい?」
「ぼくは知らないよ」と、トムは、笑いにむせびながら言った。
「あんなようすは見たことがない。どうしてあばれたんだろう?」
「ほんとにぼくは知らないよ、伯母さん。猫は、うれしいことがあると、いつも、あんなふうにするんだ」
「そうかねえ」この声の調子には何かトムを警戒《けいかい》させるものがあった。
「そうなんだ。ぼくは、そう思うよ」
「ほんとかい?」
「うん」
伯母さんは腰《こし》をかがめた。トムは不安を感じ、いっそう警戒を強めて見まもっていたが、伯母さんが何を発見したかを知ったときには、もう手おくれだった。寝台の掛《かけ》布《ふ》の下から見えている匙の柄《え》が、すべてを物語っていた。伯母さんは、それを手にとった。トムは縮みあがって目を伏せた。ポリー伯母さんは、いつもの把《とっ》手《て》――トムの耳のことだ――をつかんでトムを引き起し、指貫《ゆびぬき》をはめた手で、したたか彼《かれ》の頭を打ちすえた。
「口のきけない哀《あわ》れな生きものを、どうしておまえはあんな目にあわせたんだね?」
「あの猫がかわいそうだったからだよ――だってピーターには伯母さんがいないんだもの」
「伯母さんがいないって?――ばかだね、だからどうだというんだね?」
「だって、もしあの猫に伯母さんがいたら、その伯母さんが猫を焼いてくれたにちがいないもの! その伯母さんは、猫を、人間と同じように、はらわたまであぶり焼いてくれたと思うよ」
ポリー伯母さんは、ふっと悔恨《かいこん》の思いに駆られた。この言葉が伯母さんに事態を新しく見直させた。猫にとって残酷《ざんこく》なことなら、人間の子供にとっても残酷なことにちがいない。伯母さんは軟《なん》化《か》した。伯母さんは気の毒に思って目をうるませ、トムの頭に手をのせて、やさしく言った。
「わたしは、おまえのためを思ってやったんだよ、トム。それに、このお薬は、たしかにきいただろう?」
トムが伯母さんの顔を見たとき、そのまじめそうな表情に、かすかに、いたずらっぽい輝《かがや》きが見えた。
「伯母さんに悪気がなかったってことは、ぼくにもわかってるよ。ぼくだってピーターに悪気はなかったんだ。お薬はピーターにもきいたようだ。あんな元気に走りまわるのを見たのは――」
「トム、またわたしを怒《おこ》らせないうちに、どこかへ行っておくれ。そして、一度でいいから、いい子になれるかどうかやってみておくれ。もうお薬は飲まなくてもいいからね」
トムは授業のはじまる前に学校へ行った。その後、この珍《めずら》しいことが毎日つづいた。そして、近ごろはいつもそうなのだが、いまも友だちと遊ばないで、校門のあたりをうろついていた。自分は病気なのだと言い、事実そうらしく見えた。彼は、あらゆる方角を眺めているように見せかけていたが、ほんとうに見ているところ――道の向う――だけは見ないふりをしていた。まもなく、ジェフ・サッチャーの姿があらわれると、トムは顔を輝かせた。トムは、しばらく見つめていたが、やがて悲しげに目をそらした。ジェフ・サッチャーがそばまでくると、トムは声をかけて、それとなくベッキーのことに話を向けたが、こののんびりした少年は、この餌《えさ》に気がつかなかった。トムは熱心に見張っていて、上《うわ》衣《ぎ》をひるがえす姿が目にはいるたびに胸を躍《おど》らせたが、それが彼の待っていた人でないとわかると、たちまちその子を憎《にく》んだ。とうとう、どんな上衣もあらわれなくなった。トムは失望し、落胆《らくたん》した。彼は、誰もいない教室にはいって行き、自分の席に腰をおろして悲しんだ。ところが、このとき、もう一つの上衣が校門をくぐった。トムの胸は、たちまち躍りあがった。つぎの瞬間《しゅんかん》、彼はインディアンのように教室を飛び出した。喚声をあげたり、笑ったり、子供たちを追いまわしたり、手足を折るのも覚《かく》悟《ご》の上で命がけで柵《さく》を飛びこえたり、とんぼがえりをしたり、逆立ちをしたり――思いつくかぎり、ありとあらゆる英雄《えいゆう》的な行《こう》為《い》をやってのけながら、そのあいだ、たえず横目でベッキー・サッチャーが見ているかどうかをうかがっていた。しかしベッキーは、そんなことにはすこしも気づかないらしく、見向きもしなかった。自分がここにいるのを気がつかないなんてことがありうるだろうか? トムは、彼女のすぐ前まで行って熱演をつづけた。鬨の声をあげて走りまわり、一人の少年の帽《ぼう》子《し》をひったくってそれを校舎の屋根へほうりあげ、子供たちの群れに割りこんで彼らを押《お》しころがし、彼自身ベッキーの目の前でほとんど彼女をひっくり返すような勢いでぶっ倒《たお》れてみせた――ところが彼女は、つんとして横を向いてしまった。彼女が、こう言っているのがきこえた。「ふん、誰かさんは、自分をとてもえらいように思っているんだわ――変にえらぶっているんだわ」
トムは赤くなった。彼は力なく起きあがり、しおしおと立ち去った。
第十三章 海賊《かいぞく》出航
いま、トムは心をきめた。彼《かれ》は憂鬱《ゆううつ》で、やぶれかぶれになっていた。彼は一人の友だちすらいない見捨てられた少年なのだ。そう自分で断定した。誰《だれ》も相手にしてくれるものはいないのだ。人々は、自分たちがトムを駆《か》り立ててこういう状態に追いこんだことを知ったら、さだめし悲しんでくれるにちがいない。トム自身は、正しいことを行なって、まともにやっていこうとしたのだが、世間が彼にそうさせなかったのだ。どうしても自分を追い払《はら》わなければ気がすまないんなら、よろしい、追い払われてやろう。その結果について自分を責めるかもしれないが、いくらでも責めるがいい――そうしてはいけないという理由は彼らにはないはずだ。そしてまた、それについて不平をいうどんな権利もひとりぼっちの自分にはないはずだ。そうだ。世間が結局おれをそうさせたのだ。世間がおれを追い立てたのだ。おれは罪多い人生を送ってやろう。それ以外に方法はない。
そこまで考えたとき、彼は牧場の小道のはずれまできていた。学校の「始業」の鐘《かね》が、かすかにきこえた。聞きなれたあの音が、もう二度と聞かれなくなるのだと思うと、涙《なみだ》が出てきた――それは、たまらなく悲しいことだったが、彼としては無理矢理そうさせられたのだ。冷たい世界にほうりだされたからには、それにしたがうしかないわけだ――だが彼は人々を恨《うら》まなかった。すすり泣きは、いっそうはげしくなった。
ちょうどこのとき、心からの盟友ジョー・ハーパーに出会った――彼もまた目をすえ、心のなかに明らかに重大な陰《いん》気《き》な目的をいだいているらしかった。「同じ思いの二つ魂《たましい》」がここに相寄ったことは明らかだった。トムは涙を袖《そで》で拭《ふ》いて、家庭での虐待《ぎゃくたい》と無情から逃《のが》れて、広い世界に出て行き、二度と帰らないつもりだと決意をうち明け、いつまでもおれを忘れないでほしいと言って話を結んだ。
しかし、これこそジョーがトムに対して求めていたことであり、彼は、そのためにトムを探していたのだということがわかった。ジョーの母親は、ジョーが舐《な》めもしないクリームを食べたと言って彼を鞭《むち》でひっぱたいたのだそうだ。母親がジョーにうんざりして家から追い出したがっていることは明らかだった。母がそういう気持なら、彼としては、それにしたがうしかないわけだ。彼は母が幸福に暮《くら》して、彼女《かのじょ》の哀《あわ》れな子供を冷たい無情な世の中に追い出して苦しませ死なせたのを後悔《こうかい》することがないようにと望んだ。
二人の少年は、とぼとぼと歩きながら、今後は、おたがいに兄弟として助けあい、死が二人を悩《なや》みから解放してくれるまでは、絶対に離《はな》れないことを、あらためて誓《ちか》いあった。そして今後の方針について計画を立てはじめた。ジョーは、隠者《いんじゃ》になって、どこか山奥《やまおく》の洞窟《どうくつ》に棲《す》み、パン屑《くず》を食べて生き、そしていつかは寒さと飢《う》えと悲しみのために死ぬつもりだったが、トムの計画を聞いて、罪多い生活のほうがずっとすばらしいことを認め、結局海賊になることに同意した。
セント・ピーターズバーグから三マイルほど下流の、ミシシッピの河幅《かわはば》が一マイルあまりひろがったところに、木の茂《しげ》った細長い島があって、その突端《とったん》に浅い洲《す》があり、会合の地点としては絶好の場所だった。人の住んでいないこの島は、これも人の住んでいない鬱《うっ》蒼《そう》とした森と並行《へいこう》して、向う岸のほうまでずっと突《つ》き出していた。そんなわけで、このジャクソン島が選ばれた。海賊になって何を略《りゃく》奪《だつ》するかということは、二人ともあまり考えなかった。それから二人はハックルベリーを探しだした。ハックは、さっそく一味に加入した。どんな生活だろうと彼にとっては同じことなのだ。そこで三人は、もっとも好適な時刻の真夜中に、村から二マイルほど上《かみ》手《て》のさびしい河岸に集合することを約束《やくそく》して別れた。そこには丸太を組んだ小さな筏《いかだ》があった。彼らは、それに乗りこむつもりだった。それぞれ釣糸《つりいと》と釣針、適当な食糧《しょくりょう》を持ってくることになっていたが、食糧は、海賊にふさわしい秘密な神秘的な方法で盗《ぬす》んでくることになっていた。その日の午後を、三人は、まもなく村の人たちは、びっくりするようなニュースを耳にするだろうと言いふらして楽しい時をすごした。そして、この思わせぶりな暗示を聞かされたものはみな「黙《だま》って待って」いるようにと警告された。
真夜中ごろ、トムは、ボイルド・ハムと、いくつかのこまごましたものを持ってあらわれ、集合場所を見おろす小さな崖《がけ》の上の草むらに立ちどまった。星が輝《かがや》き、静かな夜だった。ミシシッピ河は海原《うなばら》のように横たわっていた。トムは、しばらく耳をすましたが、静けさを破る物音はきこえなかった。彼は低く、はっきりと口笛《くちぶえ》を吹《ふ》いた。崖の下から答えがかえってきた。トムは、つづけて二度口笛を吹いた。下からも同じ口笛がかえってきた。それから用心深い声がきこえてきた。
「そこにいるのは何者だ?」
「カリブ海の恐怖《きょうふ》の復讐者《ふくしゅうしゃ》トム・ソーヤーだ。きさまの名を名乗れ」
「人殺しのハック・フィンと海の略奪者ジョー・ハーパーだ」これらの肩書《かたがき》は、トムが好きな小説のなかから選んで二人に提供したものだ。
「よし。では合言葉だ」
二つのしわがれた低い声が同時に不気味な夜の闇《やみ》に同じ恐《おそ》ろしい言葉をひびかせた。
「血!」
トムはまずハムを投げおろし、つづいて自分もすべりおりたが、そのときかなりの引っ掻《か》き傷と服に鉤《かぎ》裂《ざ》きをこしらえた。崖をおりるには、河岸に沿って気持のいい楽な道があるのだが、そんな道を通るのは海賊が尊重する困難と危険という美徳を、みずから放《ほう》棄《き》することになるのだ。
「海の略奪者」は大きな肋《ばら》肉《にく》のべーコンを持ってきていたが、それをここまで運んできたので、へとへとに疲《つか》れていた。「人殺し」のフィンは手《て》鍋《なべ》と生乾《なまがわ》きの葉《は》煙草《たばこ》を盗んできていたし、パイプをつくるためのとうもろこし《・・・・・・》の軸《じく》も数本持っていた。しかし、この三人の海賊のうち、タバコを吸ったり噛《か》んだりするのはハックだけだった。「カリブ海の恐怖の復讐者」は、まず火を起さなければいけないと言った。これは賢明《けんめい》な思いつきだった。当時、マッチは、まだほとんど知られていなかった。彼らは百ヤードほど上流の大きな筏の上で火がくすぶっているのを見つけ、こっそり忍《しの》んで行って燃えさしを一つとってきた。彼らは、それだけのことをするにも、できるだけものものしく冒険《ぼうけん》ぶりを示して、ときどき「しっ!」と言って突然唇《とつぜんくちびる》に指を当てて立ちどまったり、想像上の短剣《たんけん》の柄《つか》に手をかけたり、不気味な声で、「敵」が目をさましたら、「ぐさりとやっつけろ。死人に口なしだ」などと言いあったりした。もちろん筏乗りたちがみんな村へ上陸していて、倉庫で寝《ね》ているか、酒場で騒《さわ》いでいるかだということは、三人ともよく知っていたが、しかし、そのことは、この仕事を非海賊的な方法でやっていいという理由にはならなかった。
やがて三人は筏を出した。トムが船長になり、ハックとジョーが、それぞれ前とうしろの櫓《ろ》につかまった。トムは腕《うで》を組み、きびしい顔つきで筏の中央に突っ立ち、低い、おごそかな声で命令を下した。
「下《しも》手《て》舵《かじ》! 船首を風上に向けろ!」
「いいとも、風上だ!」
「ようそろ《・・・・》、ようそろ《・・・・》!」
「よし、ようそろだ《・・・・》!」
「一ポイントだけ風下へ落せ!」
「よし、一ポイントだ!」
少年たちは単調に筏を河のまんなかへ進めたが、これらの命令は形だけのもので、もちろん特別の意味はなかった。
「帆《ほ》はどうだ?」
「大檣帆《だいしょうはん》に中檣帆に三角帆だ!」
「最上檣帆揚《あ》げろ! 六人がかりで前檣の補助帆をひろげろ! 元気を出してやれ!」
「よしきた!」
「大檣高檣帆を開け!」「帆《ほ》脚索《あしづな》と転桁索《てんこうづな》をとれ! いいか、野《や》郎《ろう》ども!」
「よしきた!」
「下手舵! 面舵一杯《おもかじいっぱい》! 船首が振《ふ》れたら当舵用意! 面舵! 面舵! しっかりやれ、ようそろ《・・・・》」
「ほいきた、ようそろだ《・・・・》!」
筏は中流に出た。少年たちは船首を右に向けておいて櫂《かい》を休めた。河は増水していないので一時間二、三マイル以上の流れはなかった。それからの四、五十分間、誰も一言も口をきかなかった。いま筏は遠く離れた村の前を流れていた。村は、いま起りつつある驚《おどろ》くべき事件も知らず、二つ三つの燈《とう》火《か》のまたたきがその所在を示すだけで、星影《ほしかげ》を映した、ひろびろした水面のかなたに静かに眠《ねむ》っていた。「カリブ海の恐怖の復讐者」は腕組みをして立ったまま、かつてはよろこびの、そして最近では悲しみの場であった土地を「最後の見納め」と眺《なが》めながら、こうして荒海《あらなみ》に乗り出し、ひるむところなく、死と破《は》滅《めつ》に直面し、口もとに不気味な微笑《びしょう》をうかべて敢然《かんぜん》と運命に立ち向おうとしているいまの自分の姿を、「彼女」に見せてやりたいものだと思った。ジャクソン島をずっと村から離れた遠方まで移すくらいのことは、ほんのすこし想像力を働かせさえすれば十分だった。だから彼は、こうして「見納め」をし、心は痛みながらも満足した。他の二人の海賊も、それぞれ「見納め」をしていた。あまり長いあいだ眺めていたので、あやうく島とはちがう方角へ流されそうになり、その直前に危険に気がついて、どうにかそれを避《さ》けることができた。午前二時ごろ、筏は島の突端《とったん》から二百ヤードばかり上手の砂洲《さす》に乗りあげ、彼らは浅《あさ》瀬《せ》のなかを歩いて行ったり来たりして荷物を運んだ。小さな筏の付属品の一つに古い帆布があった。これをテント代りに藪《やぶ》の陰《かげ》に張って、そのなかへ食糧をかくした。しかし、彼ら自身は、無法者にふさわしく、雨が降らないかぎり、野天で寝ることにした。
陰気な森のなかを二、三十歩はいったところに大きな丸太が倒《たお》れていた。彼らは、そのそばで焚《たき》火《び》をして、夕食用にフライパンでベーコンを調理し、持ってきたとうもろこし《・・・・・・》パンを半分ほど食べた。人里を遠く離れた無人島の原始林で、こんなふうに自由で野性的な饗宴《きょうえん》を開くことは、この上もなく楽しいものに思われ、彼らは口をそろえて、もう二度と文明社会へは戻《もど》りたくないと言った。燃えあがる炎《ほのお》が彼らの顔を照らし、彼らの森の神殿《しんでん》の柱ともいうべき木の幹と、つやつやしい葉と、木にからみついた蔓草《つるくさ》の上に、赤い光を投げかけていた。
カリカリに焼けたベーコンととうもろこし《・・・・・》パンの最後の一片《いっぺん》を食べてしまうと、三人は、すっかり満足して草の上に寝ころんだ。探せば、ほかに、もっと涼《すず》しい場所もあったのだが、野営のかがり火といったようなロマンティックなものを捨てる気にはなれなかった。
「いい気持じゃないか」とジョーが言った。
「すばらしい」とトムが言った。「やつらに見せてやったら、何て言うだろう?」
「言うどころか死ぬほどきたがるにちがいないよ――なあ、ハック?」
「そうだろうな」とハックルベリーは言った。「とにかく、おれには、ぴったりだ。これ以上は望めねえくらいさ。いつだって、おれは腹いっぱい食ったことがねえんだからね――それに、ここなら世間のやつらだって、おれを踏《ふ》んだり蹴《け》ったりはできねえからな」
「おれにももってこいの生活だ」とトムは言った。「朝早く起きる必要もないし、学校へ行ったり、顔を洗ったり、そんなばかげたことをやる必要もないしね。海賊は、陸にいるときには何もしなくったっていいんだぜ、ジョー。隠者になんかなってみろ、しょっちゅうお祈《いの》りをしなくちゃならないし、なぐさみごとなんか一つもないし、まったくひとりぼっちで暮さなくちゃならないんだ」
「そうだ」とジョーは言った。「おれは、そこまでは考えなかったんだよ。こうなってみると、海賊のほうが、ずっとましだ」
「だからさ」とトムは言った。「近ごろは、昔《むかし》とちがって、隠者はあまりはやらないんだ。だけど、海賊は、いつだって尊敬されるんだ。それに、隠者は、できるだけごつごつしたところで寝なくちゃならないし、麻袋《あさぶくろ》を着て頭から灰をかぶったり、雨のなかに立っていたり、それから――」
「どうして麻袋を着たり頭から灰をかぶったりするんだい?」とハックが質問した。
「知らないよ。とにかく、そうすることになってるんだ。隠者ってものは、いつもそうするんだ。おまえだって隠者になったら、そうしなくちゃならないんだぜ」
「おれはいやだ」とハックは言った。
「じゃ、どうするんだ?」
「それはわからないが、そんなことはしねえよ」
「だって、しなくちゃいけないんだぜ、ハック。なあ、どうすればそれをしないですむと思うんだい?」
「とにかくおれは我《が》慢《まん》ができないよ。おれは逃《に》げ出すな」
「逃げ出すって? ずいぶんだらしのない隠者だな。仲間の面《つら》よごしになるぜ」
「人殺し」は、ほかの仕事に気をとられていたので、返事をしなかった。彼は、いまちょうどとうもろこし《・・・・・》の軸に孔《あな》をあけ終ったところで、これに草の茎《くき》をとりつけ、タバコをつめ、焚火の燃えさしを押しつけて火をつけ、匂《にお》いのいい煙《けむり》の雲を吐《は》きだしたところなのだ。彼は、ぜいたくな満ち足りた気分にひたっていた。他の二人の海賊は、このすばらしい悪徳をうらやましく思い、自分たちもさっそくやってみようと、ひそかに心をきめた。やがてハックが言った。
「海賊は何をしなくちゃいけないんだい?」
トムが答えた。
「うん、とてもすばらしい生活をするんだ――船をおそって焼きはらうんだ。それから金を奪《うば》って、それを自分たちの島の恐ろしい場所、幽霊《ゆうれい》やなんかが見張りをしてくれるようなところへ埋《う》めるんだ。それから乗組員を、みんな殺してしまうんだ――海の上に突き出した板の上を歩かせてな」
「そして女たちは島へつれてくるんだ」とジョーが言った。「海賊は女を殺さないんだ」
「そうだ」とトムが相槌《あいづち》をうった。「海賊は女を殺さない――そんな下品なことはしないんだ。そして、女たちは、いつも美しいんだ」
「それに、着ている服が、とてもすばらしいんだ! そのうえ、金や銀やダイヤモンドで飾《かざ》りたてているんだ」とジョーが勢いこんで言った。
「誰が?」とハックがたずねた。
「もちろん海賊さ」
ハックはなさけない目つきで自分の服を見た。
「おれの服は海賊にゃ向かねえようだ」と彼はくやしそうに言った。「だが、おれにゃ、これしかねえんだ」
他の二人の少年は、冒険をはじめさえすれば、衣裳《いしょう》なんかすぐ手にはいる、と言った。一流の海賊は、それ相当の衣裳をそろえてからはじめるのが普《ふ》通《つう》だが、さしあたってはハックのボロ服でもかまわないということを彼に納得《なっとく》させた。
やがて、話がとだえ、眠気が、これら小さな無宿者の瞼《まぶた》におそってきた。「人殺し」は、いつしかパイプを手から落し、良心から解放された、ものうい人間の眠りに落ちこんだ。しかし、「海の略奪者」と「カリブ海の恐怖の復讐者」は、それほどたやすくは寝つかれなかった。二人は、心のなかでお祈りをとなえながら横になった。というのは、ここには怒《おこ》る人がいないので、ひざまずいて大きな声で祈る必要はなかったからだ。実をいうと、二人はお祈りなんかしたくなかったのだが、いきなり天から神雷《かみなり》が落ちてきたらたいへんだと思うと、お祈りを省略するのが恐ろしかったのだ。二人は、まもなく眠りに落ちそうになった――ところが、二人を引きとめて、眠りへ落すまいとするものがあらわれた。それは良心だった。家を逃げ出すなんて悪いことだという漠然《ばくぜん》とした不安を彼らは感じはじめていた。つぎに食料品を盗んだことを考えると、ほんとうに心が痛んできた。これまで何十回となくお菓子《かし》や林《りん》檎《ご》をくすねたことを思い出し、それを強調することで良心をなだめようとしたが、そんな見えすいた口実では良心をなだめることはできなかった。どう考えても、お菓子をくすねるのは、ちょっとした「わるさ」にすぎないが、ハムとかベーコンとか、そういう貴重なものを持ち出すのは、明らかにどろぼう《・・・・》で、ちゃんと聖書でも禁じられていることは、まぎれもない事実なのだ。そこで二人は、海賊の仕事をつづけるかぎり、二度と盗みという罪悪で聖なる海賊稼業《かぎょう》を汚《けが》してはならないと決心した。これで、ようやく良心が休戦を許してくれ、この奇妙《きみょう》に矛盾《むじゅん》した海賊たちは、やすらかな眠りにつくことができた。
第十四章 たのしい無宿者
夜が明けて目をさましたとき、トムは自分がどこにいるのか見当がつかなかった。彼《かれ》は起き直って、目をこすりながら、あたりを見まわした。ようやく事情がわかった。涼《すず》しい曇《くも》った夜明けで、あたりを支配する静けさと沈黙《ちんもく》のなかに、やすらかな平和といこいの気分があった。木の葉一つそよがず、大自然の瞑想《めいそう》をさまたげるものは何一つなかった。木の葉や草の上に露《つゆ》の滴《しずく》が数珠《じゅず》のようにつらなっていた。白い灰が火をおおっていて、一すじの細い青い煙《けむり》が、まっすぐ空に立ちのぼっていた。ジョーとハックは、まだ眠《ねむ》っていた。
森の奥深《おくふか》くで鳥が鳴き、別の鳥がこれに答えた。きつつき《・・・・》の木を突《つ》つく音がきこえた。冷たい薄暗《うすぐら》い朝の灰色が、しだいに明るくなり、それにつれて物音が多くなって、万物《ばんぶつ》の生命が息づきはじめた。大自然は、いま眠りからさめて、物思いに沈《しず》む少年の前で、活動をはじめようとしていた。露に濡《ぬ》れた木の葉のうえを緑色の小さな虫が、ときどき体の三分の二を空中にうかして、「あたりの様子をうかがい」、それからまた這《は》い進んだ。トムによれば、その虫は尺度を計っているのだ。虫が自分の意志で近づいてきたとき、トムは石のようにじっと坐《すわ》っていたが、虫が彼のほうへ這ってきたり、あるいはどこかよそのほうへ行きたいようすを見せたりするたびに、彼は希望に燃えたり、希望をうしなったりした。そして、とうとう虫が曲った体を空中にのばして一瞬《いっしゅん》ためらってから、はっきりトムの足にとりつき、彼の体をつたわって這いはじめると、トムは、ぞくぞくするほどうれしくなった――というのは、それは新しい一揃《ひとそろ》いの服――しかも、すばらしく豪《ごう》華《か》な海賊《かいぞく》用の服が手に入ることを意味するからだ。どこからともなく蟻《あり》が行列をつくってあらわれて、せっせと働きはじめた。一匹《いっぴき》の蟻は勇敢《ゆうかん》にも自分の五倍もある蜘蛛《くも》の死《し》骸《がい》ととり組んで、それをまっすぐに木の幹に運びあげた。茶の斑点《はんてん》のあるおばさん虫が目もくらむほど高い草の葉によじのぼった。トムは、その虫をのぞきこんで声をかけた。「おばさん虫、おばさん虫、飛んで帰れ、お家《うち》が火事だ、子供がひとりで泣いてるぞ」おばさん虫は、さっそく火事を見に飛んで行った。しかしトムは、すこしも驚《おどろ》かなかった。というのは、この虫が火事のことでだまされやすいのは、とうに知っていたし、トムは、これまで何回もその愚《おろ》かさを試《ため》したことがあるからだ。つぎに、こがねむし《・・・・・》が、ものものしいかぶとを背負ってやってきた。トムは、その虫が足を引っこめて死んだふりをするのを見るために、そっとさわってみた。このころになると、小鳥がにぎやかに鳴きはじめた。北部のものまねど《・・・・・》り《・》――つぐみ《・・・》の一種――が、トムの頭上の木にとまって、有頂天《うちょうてん》になって近くの鳥の鳴き声をまねはじめた。それから、かけす《・・・》が燃え立つ青い炎《ほのお》のように舞《ま》いおりてきて、ほとんど手がとどきそうな近くの枝《えだ》にとまって、首をかしげながら、ふしぎそうに三人の姿を眺《なが》めた。灰色の栗鼠《りす》と、それよりすこし大きな狐《きつね》みたいな動物がやってきて、ときどき体を動かしながら、目で少年たちを観察し、いそがしく口を動かしてしゃべりあった。これら野生の動物は、おそらくはじめて人間を見たので、こわがっていいものかどうかわからなかったのだろう。大自然は、すっかり目をさまして活動をはじめていた。いたるところ、日光の長い投鎗《なげやり》は、こんもりと茂《しげ》った葉のあいだをさしつらぬき、何匹かの蝶《ちょう》が、ひらひら舞いながら登場した。
トムは仲間の海賊たちをゆり起した。彼らは叫《さけ》び声をあげて足音高く駆《か》けだし、一、二分の後には、それぞれ裸《はだか》になって、白い砂洲《さす》の澄《す》んだ浅い水のなかで、追いかけあったり、ころげまわったりしていた。広い水面をへだてて、はるかかなたに眠っている小さな村に対しては何の愛着も感じなかった。いくらか増水したためか、それとも気まぐれな流れのいたずらか、筏《いかだ》が流されてしまったが、このことは彼らを満足させたにすぎなかった。筏が流れたことで、文明社会とのあいだの橋が焼きはらわれてしまったように感じられたからだ。
彼らは、すばらしく元気になり、心をよろこびでふくらませ、腹をすかしてキャンプへ引きあげてきた。そして、ふたたび野営の火を燃えあがらせた。ハックが、すぐ近くに、きれいな冷たい泉があるのを発見したので、少年たちは槲《かしわ》やさわぐるみ《・・・・・》の葉でコップをつくり、このような原始林の霊《れい》気《き》あふれる水は、けっこうコーヒーの代用になるのを知った。ジョーが朝食のベーコンを薄切りにしているあいだ、トムとハックは、ちょっと待っててくれと言いおいて、河岸の釣《つ》れそうなところへ出かけて行って糸を垂れた。ほとんどすぐに手ごたえがあった。二人は、ジョーが待ちきれなくていらいらするひまもないくらい早《はや》々《ばや》と、見事なブラックバス《・・・・・》と、二尾《び》のすずき《・・・》と、一尾の小さななまず《・・・》をさげて戻《もど》ってきた。これは一家を支えるに十分なほどの食糧《しょくりょう》だ。彼らは、これらの魚をベーコンといっしょにフライにしてみて、びっくりした。これほどおいしい魚は食べたことがなかったように思われたからだ。川魚は新しければ新しいほどおいしいことを、彼らは知らなかったのだ。また戸外の睡眠《すいみん》と運動と水泳と、それに空腹という重要な要素が、すばらしいソースの役目をするということも考えなかったのだ。
朝食が終ると、彼らは木《こ》陰《かげ》に寝《ね》ころび、ハックはタバコをすった。それから、いっしょに森を通って探検に出かけた。彼らは朽《くち》木《き》を踏《ふ》みこえ、生《お》い茂る下生えのなかを通り、王位の象徴《しょうちょう》として王冠《おうかん》から地面にまで葡《ぶ》萄蔓《どうづる》を垂れさげた森の王者のあいだを抜《ぬ》けて、元気よく進んでいった。ときには草の絨毯《じゅうたん》を敷《し》きつめ、花の宝石を散りばめた美しいところを通りすぎた。
愉《ゆ》快《かい》なものや楽しいものはたくさん見つけたが、びっくりするようなものには一つも出会わなかった。探険の結果、この島は長さが約三マイルで、幅《はば》が三分の一マイルばかりだということと、陸地にもっとも近いところは、二百ヤードたらずの狭《せま》い瀬戸《せと》でへだてられているにすぎないことを発見した。ほとんど一時間おきぐらいに泳いだので、彼らがキャンプに引きあげたときには午後もなかばをすぎていた。あまりに空腹だったので魚を釣るだけの余《よ》裕《ゆう》はなかった。そこで、冷たいハムで、ぜいたくな食事をとり、それから木陰に寝ころんで話をした。しかし、会話は、まもなくとぎれがちになって、いつとはなしにとだえてしまった。森を支配する静けさときびしさとさびしさとが、少年たちの心を圧迫《あっぱく》しはじめた。彼らは、物思いに沈んだ。一種漠然《ばくぜん》としたあこがれの思いが心に忍《しの》び入った。この思いは、しだいにはっきりした形をとってきた――それはホームシックの芽生えだった。「人殺し」のハックでさえ、なじみ深い玄関《げんかん》の階段と空樽《あきだる》のことを考えていた。しかし、三人とも自分の気弱さを恥《はじ》じ、それを口に出すだけの勇気のあるものは一人もいなかった。
そのすこし前から、少年たちは、遠くからきこえてくる一種異様な音に、ぼんやりと気がついていたが、それはあたかも、はっきりとは聞きとれない時計の時を刻《きざ》む音に、ときどきふっと気がつくようなものだった。ところが、そのふしぎな音が、しだいに大きくなってきて、いやでも気にかけずにはいられなくなってきた。彼らは、ぎくりとして目を見あわせ、それぞれ聞き耳を立てた。長い不気味な沈黙がつづき、やがて遠くから太い陰《いん》気《き》な音が流れてきた。
「何だろう?」とジョーが小声で言った。
「何だろう?」とトムも低い声で言った。
「雷《かみなり》じゃないか」とハックルベリーがおびえた声で言った。「雷なら――」
「黙《だま》って!」とトムが言った。「聞けよ――黙って」
少年たちは、しばらく黙っていたが、それは一年とも思えるほど長く感じられた。やがて前と同じにぶい物音が、そのおごそかな沈黙を破った。
「行ってみよう」
彼らはとびあがって、村に面した岸のほうへ急いだ。河岸の茂みを押《お》しわけて、そこから水面を見《み》渡《わた》すと、村から一マイルほど川下に、小さな渡し船がただよっていた。広い甲《かん》板《ぱん》には人が群がっているようだった。渡し船の近くには、たくさんの小《こ》舟《ぶね》が漕《こ》ぎまわったり、流れに浮《う》かんだりしていたが、何をしているのか、少年たちにはわからなかった。やがて渡し船の舷側《げんそく》から大きな白い煙の塊《かたまり》がふき出した。それが、雲となって、ゆっくりとひろがり立ちのぼると、前と同じにぶい物音が伝わってきた。
「わかった!」とトムが叫んだ。「だれかが溺《おぼ》れたんだ!」
「そうだ」とハックが言った。「去年の夏、ビル・ターナーが溺れたときも、やっぱりこんなふうだった。水の上で大砲《たいほう》をぶっ放すんだ。すると死体が浮びあがるんだ。そうだ、そしてパンの塊に水銀をつめて流すんだ。そうすると、死体がどこにいても、ちょうどそこでま流れて行って、そこでとまるんだ」
「うん、おれも聞いたことがある」とジョーが言った。「どうしてパンがそんなことをするんだろう?」
「パンがそんなことをするわけじゃないよ」とトムが言った。「流すまえにパンに呪文《じゅもん》を吹《ふ》きこむんだが、たぶんその呪文のききめじゃないかと思うんだ」
「だけど、パンに呪文なんか吹きこまないぜ」とハックが言った。「おれは、見たことがあるが、何もやらなかったよ」
「それはおかしいな」とトムは言った。「たぶん心のなかで呪文をとなえたんだろう。もちろんそうするんだ。これは誰《だれ》でも知ってることなんだ」
他の二人は、トムの言うことが本当だろうと思った。呪文でもとなえて指示されないかぎり、何も知らないパンの塊が、こんな重大な用件で派《は》遣《けん》されたとき、それほどうまく立ちまわれるとは考えられないからだ。
「畜生《ちくしょう》! あそこへ行ってみたいな」とジョーが言った。
「おれもだ」とハックが言った。「誰を探しているのか知りたいもんだ」
少年たちは、なおも耳をそばだて目をこらしていた。ふと、トムの心に、すばらしい思いつきがひらめいた。彼は叫んだ。
「おい、誰を探しているのかわかったぞ。おれたちだよ!」
彼らは自分たちが一躍英雄《いちやくえいゆう》になったように感じた。これは見事な大勝利だった。おれたちは行《ゆく》方不《えふ》明《めい》になったんだ。おれたちは悼《いた》み悲しまれているんだ。みんながおれたちのために心を痛めているんだ。涙《なみだ》を流しているんだ。この行方の知れなくなった少年たちを不親切に扱《あつか》ったことを思い出して、嘆《なげ》き悲しみ、後悔《こうかい》と痛恨《つうこん》の思いに責められているんだ。そして、何よりもうれしいのは、おれたちが村じゅうの評判になって、このすばらしい評判に関するかぎり、すべての子供たちの羨望《せんぼう》の的になっていることだ。なんてすばらしいことだろう。結局、海賊になったのは無駄《むだ》ではなかったわけだ。
日が暮《く》れてから、渡し船は、いつもの仕事にかえり、小舟も、それぞれ引きあげた。海賊たちはキャンプへ戻《もど》った。新しい名《めい》誉《よ》と、自分たちが巻き起した輝《かがや》かしい騒動《そうどう》に対する虚栄心《きょえいしん》とで、彼らは、すっかりいい気持になっていた。魚を釣り、それを料理して夕食を食べたあとで、彼らは、村じゅうの人たちが自分たちのことをどう考え、どう噂《うわさ》しているだろうかということを想像しはじめた。そして、みんなが自分たちのために胸を痛めている場面を想像したが、この想像は、彼らの立場としては十分満足できるものだった。しかし、夜の闇《やみ》に閉じこめられるにつれて、彼らは、いつとはなく話をやめ、ぼんやり焚《たき》火《び》を見つめながら坐《すわ》りこんでいた。明らかに彼らの心は、べつのところをさまよっていた。いまは興奮がさめ、トムとジョーは、このすばらしい遊びを、自分たちがおもしろがっているほどにはおもしろく思わずに家にいる何人かの人たちのことを思い出さずにはいられなかった。不安がおそってきた。彼らは心細くなり、悲しくなった。思わず一つ二つ溜息《ためいき》が出た。ジョーは、おそるおそる、持ってまわったような言いかたではあったが、思いきって、もちろんいますぐというわけではないが、自分たちが文明社会に帰ることを、ほかの二人がどう思っているかについて、さぐりを入れてみた。
トムは、鼻さきで笑って相手にしなかった。ハックは、まだ名誉心をうしなっていなかったからトムの側に立った。変節者は、さっそく「弁解」して、いくじのないホームシックの汚《お》点《てん》で服をよごすことを極力すくなくして、かろうじてその苦境から抜《ぬ》け出られたことをよろこんだ。こうして叛乱《はんらん》はさしあたり見事に食いとめられた。
夜がふけるにつれて、ハックは居《い》眠《ねむ》りをはじめ、やがていびきをかきだした。ジョーが、それにつづいた。トムは肘《ひじ》を枕《まくら》にして横になったまま、二人の様子をじっと眺めていたが、やがて、そっと膝《ひざ》をついて起きあがり、草と、ちらちらする焚火の影《かげ》のあいだを探しはじめた。彼は薄い白い大きな半筒形《はんとうけい》のすずかけ《・・・・》の皮を数枚拾いあげて調べてみてから、最後に気に入った二枚を選んだ。そして焚火の前に膝をついて、赤土絵具で、その一枚一枚に何やら苦心して書きつけ、一枚は巻いて自分の上《うわ》衣《ぎ》のポケットにおさめ、一枚はジョーの帽《ぼう》子《し》のなかに入れ、それをジョーからちょっと離《はな》れた場所においた。つぎに、その帽子のなかに、学校生徒にとっては、なにものにもかえがたいほど値うちのある宝物をいくつか入れた。そのなかには、チョークのかけら、ゴムまり、三本の釣針、「ほんものの水晶《すいしょう》」だと称する例の弾《はじ》き玉などがあった。それから足音を忍ばせて木《こ》立《だち》のあいだを抜け、もはや聞きつけられる心配のないところまでくると、砂洲に向って一目散に走りだした。
第十五章 トム、ひそかに家に帰る
それからまもなく、トムはイリノイ側の岸に向って浅《あさ》瀬《せ》を渡《わた》っていた。深さが胸まで達しないうちに、もう半分はすぎていた。それ以上は流れが強くて歩けなかったので、残りの百ヤードは泳いで渡ろうと、自信をもって抜《ぬき》手《て》を切りはじめた。四十五度くらい上流に向って泳いだが、それでも、予想以上に下流へ押《お》し流された。しかし、とにかく向う岸にたどりつき、岸の低いところを見つけるまで流れて行って、そこから這《は》いあがった。彼《かれ》は、上《うわ》衣《ぎ》のポケットをあらためて木の皮が無事なのをたしかめ、びしょ濡《ぬ》れのまま岸づたいに森のなかを進んだ。十時ちょっと前、村の対岸の空地に出て、林と小高い上手の陰《かげ》に渡し船がつないであるのを見た。あたりはひっそりと静まりかえっていて、空には星がまたたいていた。彼は体じゅうを目にして土手を這いおりて水のなかへすべりこみ、三、四回水を掻《か》いて渡し船の船《せん》尾《び》につながれた小《こ》舟《ぶね》に泳ぎつき、これによじのぼった。そして座席の下に身をひそめて、あえぎながら待った。
やがて、ひびのはいった鐘《かね》が鳴って、出航を命じる声がひびいた。一、二分の後には小舟の船首は本船が巻き起す余波にさからって高くもちあがり、航行をはじめていた。トムは成功をよろこんだ。というのは、これがその夜の最終便であることを知っていたからだ。かなり長く感じられた十二分か十五分の後、船を動かす水掻きの車輪がとまり、トムは、そっと舷側《げんそく》からすべりおりて闇《やみ》のなかを岸まで泳いだ。ことによると、そこらを散歩している人がいるかもしれないので、そういう人に見つからないように五十ヤードほど河下で岸に上がった。
それから、人通りのすくない小道を通って、まもなく伯母《おば》さんの家の裏手の垣《かき》根《ね》のところにたどりついた。彼は、垣根を乗りこえて、母《おも》屋《や》と直角に建っている建物に近づき、燈《とう》火《か》がついていたので窓から居間《いま》を覗《のぞ》きこんだ。ポリー伯母さん、シッド、メアリ、それからジョー・ハーパーのお母さんが、いっしょに腰《こし》かけて話しあっていた。彼らはベッドのそばに集まっていたし、ベッドは彼らと入口のあいだにあった。トムは戸口のところへ行って、そっと掛金《かけがね》を外した。そして静かに押すと、戸は音をたてて、すこし開いた。彼は、さらに用心深く押しつづけ、戸が音をたてるたびに肝《きも》を冷やした。とうとう体を横にすればすべりこめそうだとわかったので、這ったまま、まず頭を突《つ》っこんでから、そっとすべりこんだ。
「どうして蝋燭《ろうそく》の炎《ほのお》がこんなに揺《ゆ》れるんだろう」とポリー伯母さんが言った。トムは動作を速めた。「ドアが開いているんだね。たしかに開いているわ。妙《みょう》なことばかり起るもんだ。行って閉めておいで、シッド」
トムは、どうにか発見されずにベッドの下にもぐりこんだ。彼は、しばらく呼吸《いき》をころして横になっていたが、やがて、ほとんど伯母さんの足にふれそうなところまで這い進んだ。
「でも、何べんも言うようですが、あの子は悪い子じゃないんですよ」とポリー伯母さんは言った。「ただ、いたずらなだけなんです。落ちつきがなくて、無《む》鉄砲《てっぽう》なだけなんです。子馬みたいに無《む》邪《じゃ》気《き》なんです。決して悪気があるわけじゃありません。むしろ、どこの子供よりも心のやさしい、いい子なんです」――伯母さんは、そう言って泣きだした。
「うちのジョーだって、やはりそうですわ――いつも乱暴で、いたずらといういたずらは何でもやりましたが、それはもう気のやさしい親切な子供で――それなのに、酸《す》っぱくなったので捨ててしまったことを忘れて、あの子がクリームを食べちまったと勘《かん》ちがいして、鞭《むち》で打ったりして、この世ではもう二度とふたたびひどい扱《あつか》いをうけた気の毒なあの子に会えないかと思うと――」そう言ってジョーのお母さんは胸が張りさけんばかりにすすり泣いた。
「トムは天国でもっといい生活ができると思うよ」とシッドが言った。「でも、もっとおとなしくしていたら――」
「シッド!」直接には見えなかったが、トムは伯母さんの目の燃えるようなひらめきを感じた。「もう天国へ召《め》されたのだから、わたしのトムに一言でも悪口を言ったら承知しないよ! あの子は神さまが世話をしてくださるのだから、おまえが、あれこれ心配する必要はないんだよ! ハーパーの奥《おく》さん、わたしには、どうしてもあの子のことがあきらめられません。ほんとうにあきらめきれないんです。あの子は、わたしの胸を破ってしまうくらい、わたしを困らせましたけれど、わたしは、あの子がかわいくてかわいくてならなかったんです」
「主はあたえたまい、また取り去りたもう。主の御名《みな》は讃《ほ》むべきかな――でも、つらいことですわ。ほんとにつらいことです! この前の土曜日に、ジョーが、わたしの鼻さきで癇癪玉《かんしゃくだま》を破《は》裂《れつ》させたので、殴《なぐ》りつけてやりましたが、こんなことになろうとは夢《ゆめ》にも思いませんでしたわ――もう一度やり直しができるものなら、その癇癪玉のことにしても、わたしはあの子を抱《だ》きしめて祝福してやりたいくらいですわ」
「そうです、そうです。あなたのお心のなかはよくわかりますよ、ハーパーの奥さん。どんなお気持か、お察しできますわ。つい昨日の昼ごろ、うちのトムは猫《ねこ》をつかまえてペインキラーを飲ませましてね、まるで家じゅうひっくりかえるような大騒《おおさわ》ぎを引き起したんですよ。それで思わずわたしは指貫《ゆびぬき》をはめた手でトムの頭を叩《たた》いてしまったんです。ほんとにとんだことをしてしまいましたわ、かわいそうに! でも、もうあの子は浮《うき》世《よ》の苦しみから解放されて安らかに眠《ねむ》っています。最後にあの子は、何か恨みがましいことを言いましたが――」
しかし伯母さんは、この思い出に耐えられず、そのまま泣きくずれてしまった。トムも、しくしく泣きだした――ほかの誰《だれ》よりも自分自身がかわいそうでならなかったのだ。メアリも泣きながら、ときどきトムを思うやさしい言葉をさしはさんだ。トムは、これまでになく自分を立派な人間に思いはじめた。そして伯母さんの悲しみに心をうたれて、ベッドの下から飛び出して行って伯母さんをよろこばしてあげたいと思い、その芝《しば》居《い》がかったすばらしさに強く心を動かされたが、じっと我《が》慢《まん》して、そのままうずくまっていた。
みんなの話を聞いているうちに、その言葉の端々《はしばし》から、だいたいつぎのようなことが推測できた。はじめ、三人の少年は泳ぎに行って溺《おぼ》れたものと思われた。そのうち、小さな筏《いかだ》がなくなっているのがわかり、つぎに子供たちの話で、行《ゆく》方不《えふ》明《めい》の少年たちが「いまに村じゅうをびっくりさせるようなことが起る」と予言したことがわかった。そこで村の賢明《けんめい》な人たちは「あれこれ」思いあわせて、三人は筏に乗りこんで河を下ったのだから、そのうち河下の村にあらわれるだろう、と考えた。ところが、正午近くなって、筏が五、六マイルも河下のミズーリ側の岸に流れついているのが発見され、その希望がしぼんだ。やはり溺《でき》死《し》したものに相《そう》違《い》ない、さもなければ、空腹に追い立てられて、遅《おそ》くも夕方までには帰ってきたはずだ。少年たちは中流で溺死したにちがいないという理由から、人々は死体を探しても無駄《むだ》だと考えた。というのは、三人とも泳ぎはうまいから、中流でなければ溺れるはずはないからだ。これが水曜日の夜のことだった。死体が日曜日までに見つからなかったら、すべてをあきらめて、その朝、葬式《そうしき》が行われるにちがいない。トムは身《み》震《ぶる》いした。
ハーパー夫人は、涙《なみだ》を拭《ふ》きながら挨拶《あいさつ》をして帰りかけた。子供をなくした二人の婦人は、しっかりと抱きあって心ゆくばかり泣き、それから別れた。ポリー伯母さんは、いつもよりもずっとやさしくシッドとメアリに「おやすみ」と言った。シッドは、鼻をつまらせながら、そしてメアリは声をあげて泣きながら部屋を出て行った。
ポリー伯母さんは、ひざまずいてトムのために祈《いの》った。それは心を動かすような祈りであり、その言葉と、震える声には、無限の愛情があふれていたので、トムは、そのお祈りが終る前から、ふたたび涙にむせんだ。
伯母さんは、寝《ね》床《どこ》に入ってからも、ときどき胸が張り裂《さ》けるような溜息《ためいき》を洩《も》らしたり、身もだえして寝返りをうったりしていたので、トムは、しばらくそこから出ることができなかった。しかし、とうとう伯母さんも静かになり、眠りながらうめき声をたてるだけになった。トムは、そっと這い出し、ベッドのそばに立ちあがり、手で蝋燭の光をさえぎりながら、伯母さんの顔を眺《なが》めた。彼は伯母さんが気の毒でならなかった。彼はすずかけ《・・・・》の皮の巻物をとり出して蝋燭のそばにおいた。しかし、ふとあることを思いついて、そのまま考えこんだ。やがて、うまい思いつきが浮んで、彼は顔を輝《かがや》かせた。いそいで木の皮をポケットにしまい、身をかがめて伯母さんの色あせた唇《くちびる》に接吻《せっぷん》すると、すぐに忍《しの》び足で部屋を出て、掛金をおろした。
トムは曲りくねった小道を渡し場までとってかえし、誰もいないのを見さだめてから大《だい》胆《たん》にも船に乗りこんだ。その船にいるのは番人だけで、しかもその番人は、しょっちゅう船底に転がりこんで正体もなく寝ていることを彼は知っていたからだ。トムは船尾につながれている艀《はしけ》の綱《つな》をほどき、そっとそれに乗り移って、まもなく上流に向って漕ぎはじめた。村から一マイルほど上流まで漕ぎ進むと、斜《なな》めに流れを横ぎり、力をこめて漕ぎつづけた。なれた作業なので、手《て》際《ぎわ》よく向う岸の目的地点に上陸した。この艀は、大船とみなしてもいいわけだし、それなら海賊《かいぞく》に略奪《りゃくだつ》されるのが当然だから、トムはその艀を自分のものにしたいと思った。しかし、そうすると徹《てっ》底《てい》的に捜索《そうさく》されるだろうし、その結果、自分たちのことがばれてしまうだろうと気がついた。そこで、陸にあがって森のなかへはいった。
彼は、そこに腰《こし》をおろして、長いあいだ眠気とたたかいながら休んでいたが、やがてものうげに立ちあがって根拠《こんきょ》地《ち》のほうへ戻《もど》りかけた。夜がほとんど去って、彼が島の砂洲《さす》と並行《へいこう》の地点にたどりついたころには、すっかり明るくなっていた。トムは、太陽が完全に高くのぼって、その光でひろい河の水面を金色に輝かせるまで、ここでもう一度休息し、それから流れに身を躍《おど》らせた。まもなく彼は、ずぶ濡れのままキャンプの入口に立ちどまって、ジョーがこう言っているのを聞いた。
「いや、トムは大丈夫《だいじょうぶ》だよ、ハック。きっと帰ってくるさ。逃《に》げるようなことはしないよ。そんなことをすれば海賊の面《つら》よごしだってことくらい知っているし、あいつはそんないくじなしじゃないよ。何か考えがあったんだ。だけど、何を考えてるのかな」
「とにかく、この品物は、みんなおれたちのもんだ」
「だいたいそうだが、まだ、はっきりそうとはきまらないぜ。朝食までに帰らなかったら、と書いてあるんだから」
「おれは帰ってるぞ!」とトムは芝居がかりで悠然《ゆうぜん》とキャンプにはいりこみながらどなった。
まもなくベーコンと魚のぜいたくな朝食が用意され、食事のあいだに、トムは、くわしく(多少おまけをつけて)自分の冒険《ぼうけん》を話した。この物語が終ったときの彼らは、まさしく得意満面の英雄《えいゆう》の一団だった。それからトムは昼まで眠るため涼《すず》しい木《こ》陰《かげ》にひきこもり、ほかの海賊たちは釣《つ》りと探険の準備にとりかかった。
第十六章 はじめてのタバコ
昼食が終ってから、彼《かれ》らは海亀《うみがめ》の卵を探しに砂州《さす》へ出かけた。砂地に棒を突《つ》っこんで、やわらかいところを見つけると、膝《ひざ》をついて手で砂を掘《ほ》った。ときによると一つの穴に卵が五十も六十もあった。海亀の卵は、まんまるで、白くて、イギリスの胡桃《くるみ》より、いくらか小さかった。三人は、その夜、卵のフライ料理をつくり、あまったぶんを金曜日の朝食にまわした。
金曜日の朝食が終ってから、彼らは喚声《かんせい》をあげて砂浜に飛んで行き、たがいに追いかけまわし、走りながら着ているものを脱《ぬ》ぎすてて、とうとう裸《はだか》になった。それから強い流れにさからって、浅《あさ》瀬《せ》の水のなかを、ずっと遠くまで、ふざけながら走って行った。ときどき流れに足をさらわれてひっくりかえったが、それがいっそうおもしろさを強めた。また、ときには一団となって腰《こし》をかがめ、手のひらで顔に水をはねかけあい、しぶきを避《さ》けるために顔をそむけながら徐々《じょじょ》に近づいて、最後には、つかみあい、もみあって、力のすぐれたものが、相手を水のなかへねじ伏《ふ》せた。それから三人で、白い手と足をもつらせた一かたまりとなって沈《しず》んで行き、それから浮《う》かびあがっては、いっせいに水をふき出したり、はねかしたり、あえいだり、笑ったりした。
すっかり疲《つか》れてしまうと砂浜に這《は》いあがって熱い砂の上に寝《ね》ころび、そこに横たわって砂に埋《うも》れていたかと思うと、すぐにまた飛び出して行って前の遊びをくりかえした。ついに彼らは、自分たちの皮膚《ひふ》が「肉襦袢《にくじゅばん》」にそっくりなのに気がついた。そこで、砂地に輪をえがいてサーカス遊びをやった――誰《だれ》も道《どう》化師《けし》という華《はな》やかな役を他人にゆずろうとしなかったから、結局道化師だけのサーカスになってしまった。
つぎに彼らは弾《はじ》き玉をとり出して「ナックス」とか「リングトー」とか「キープス」とか、いろんな遊《ゆう》戯《ぎ》をして遊んだが、とうとうその遊びにも飽《あ》きてしまった。そのあと、ジョーとハックは、また水にはいって泳いだが、トムは水にはいる自信がなかった。というのは、ズボンを脱ぎすてたときに足首につけていたガラガラ蛇《へび》のガラガラの輪を蹴《け》とばして落してしまったことに気がついたからだ。こんなに長いあいだ、この神秘的なお守りなしにこむらがえり《・・・・・・》を起さなかったのがふしぎだった。トムは、それが見つかるまで二度と泳ごうとはしなかった。そして、やっと見つけたときには、ハックとジョーは泳ぎ疲れて休もうとしているところだった。三人は、いつとはなく離《はな》れ離れになってさまよい、気持が沈んできて、広い河のかなたに、のどかに日に照らされて眠《ねむ》っている村のほうを、あこがれのまなざしで眺《なが》めた。トムは、足の親指で砂地に「ベッキー」と書いていたことに気がついた。彼は、それをかき消して、いくじのない自分に腹を立てた。しかし彼は、もう一度その名前を書いた。書かずにはいられなかったのだ。彼は、ふたたびそれを消した。そして、他の二人の少年を呼び集め、彼らといっしょになることで、この誘惑《ゆうわく》から逃《のが》れようとした。
しかし、ジョーの気持は、回復の見込《みこ》みがないほど沈みきっていた。彼は、ホームシックがつのって、ほとんどその悲しみに堪《た》えられなくなっていた。涙《なみだ》がこぼれそうだった。ハックも、しょげていた。トムも沈んでいたが、それを表に出すまいと、けんめいに抑《おさ》えていた。トムには一つの計画があって、まだうち明けるべきときではなかったが、いつまでも、みんながいくじなく沈みこんでいるようなら、その秘密をうち明けなければならないだろうと思った。彼は、わざと元気をよそおって言った。
「この島には、きっと前に海賊《かいぞく》がいたことがあるんだぜ。もう一度探険してみよう。どこかに宝物がかくしてあるんだ。いっぱいつまった古ぼけた箱《はこ》が見つかったら、どんな気持がするだろうな――?」
しかし、かすかな反応があっただけで、それもすぐに消えてしまい、二人は返事もしなかった。トムは、あらためて二つ三つ誘惑を試みたが、それも効果がなかった。まったく張り合いがなかった。ジョーは、ひどく元気がなく、棒きれで砂を掘りかえしていたが、とうとう思いきったように言った。
「ねえ、みんな、もうやめようじゃないか。おれは家へ帰りたくなった。さびしくてたまらないんだ」
「いや、ジョー、いまに気持が直るよ」とトムは言った。「ここで釣《つ》りすることを考えてみなよ」
「釣りなんかしたくないよ。おれは家へ帰りたいんだ」
「だけど、ジョー、こんないい泳ぎ場所は、ほかにないぜ」
「泳ぎなんかどうでもいいんだ。泳いじゃいけないって言う人がいなけりゃ、おれは泳ぎなんかしたくないや。おれは家へ帰りたいんだ」
「へん、弱虫! いくじなし! 赤ん坊《ぼう》! お母さんの顔が見たくなったんだろう?」
「そうさ、お母さんの顔が見たくなったのさ。おまえだって、お母さんがいたら、きっとそうなるにちがいないんだ。おれが赤ん坊なら、おまえだって赤ん坊だ」ジョーは、そう言って、すこし鼻をつまらせた。
「よし、泣き虫の赤ん坊は、お母さんのところへ帰してやろうじゃないか、ねえ、ハック。かわいそうに――お母さんの顔が見たいんだそうだから、見させてやろうや。ハック、おまえはここが好きなんだろう? そうだろう? おれたちは残ろうじゃないか」
「そうだな――」とハックは気のない返事をした。
「もう一生、おまえたちとは口をきかないぞ」と言ってジョーは立ちあがった。「絶対に口なんかきくもんか」ジョーは、むっとした顔で歩いて行って服を着はじめた。
「平気さ」トムは言った。「口なんかきいてもらわなくても平気だよ。家へ帰って、みんなに笑われるがいい。へん、ご立派な海賊さまだよ! ハックとおれは泣き虫の赤ん坊じゃない。おれたちは、ここに残るんだろう、ねえ、ハック? 帰りたいやつは帰るがいい。ジョーなんか、いなくても、ちっとも困りゃしないよ」
そうは言っても、トムは不安だった。そして、ジョーが、口をつぐんだまま服を着ているのを見て、不愉《ふゆ》快《かい》になった。さらに不愉快なのは、そのジョーの帰り支《じ》度《たく》を、ハックがうらやましそうに眺めて、不気味に黙《だま》りこんでいることだった。やがて、ジョーは別れの言葉も残さずに、イリノイ側の岸に向って、浅瀬を渡《わた》りはじめた。トムは心が沈んだ。ちらとハックを見ると、ハックは、その視線を受けきれないで目を伏《ふ》せた。それから言った。
「おれも帰りたいんだよ、トム。なんだかとてもさびしくなってきたんだ。これからもっとさびしくなるような気がする。おれたちもいっしょに帰ろうじゃないか、トム」
「おれはいやだ。帰りたければ帰るがいい。おれはここに残るんだ」
「トム、おれは帰るぜ」
「いいとも、帰れよ――誰《だれ》がとめるもんか」
ハックは、あちらこちらに散らばった衣類を拾い集めはじめた。彼は言った。
「トム、おまえも帰ればいいじゃないか。もう一度よく考えてみるんだな。岸まで行ったら待っててやる」
「いつまで待ってたって無駄《むだ》だよ。いうことは、それだけさ」
ハックは、すごすごと歩きだした。トムは、そのうしろ姿を見送りながら、誇《ほこ》りをすてて自分も帰りたいという強い願望とたたかっていた。二人が立ちどまってくれればいいのに、と思ったが、二人は、そのまま浅瀬を渡って行った。トムは、あたりがひどくさびしく静かになったことに突然《とつぜん》気がついた。彼は誇りと最後の闘《たたか》いをやってから、二人のあとを追って走りだし、呼びかけた。
「待ってくれ! 待ってくれ! 話があるんだ!」
二人は立ちどまってふり返った。トムは二人のところまで行って秘密をうち明けた。はじめ二人は、おもしろくなさそうに聞いていたが、やがてトムのめざす要点がわかると、大きく歓声をあげて、その計画を「すばらしい」と言い、最初にそれをうち明けてくれたら帰ろうとはしなかったのに、と言った。トムは、もっともらしく弁解したが、実は、この秘密でさえ、あまり長く二人を引きとめることはできないかもしれないと思い、それで最後の切札《きりふだ》としてこのときまでとっておいたのだ。
二人は、陽気に戻《もど》ってきて、また熱心に遊びはじめたが、そのあいだもトムのすばらしい計画を話題にして、そのすばらしさをほめたたえた。卵と魚でおいしい昼食をすませると、トムはタバコをすうことを習いたいと言った。ジョーは、すぐに賛成して、自分も習いたいと言った。そこでハックはパイプをつくってタバコをつめた。タバコにかけては、二人は、まったくの初心者で、葡《ぶ》萄蔓《どうづる》でつくった葉巻をのぞいてタバコというものをすったことがなかったが、その葉巻は舌がひりひりしたし、いずれにせよ子供の遊びにすぎなかった。
やがて彼らは肘《ひじ》をついて腹這いになり、用心深く、おそるおそる煙《けむり》をふかしはじめた。煙は不快な味がして、すこしばかり胸がむかついた。しかし、トムは言った。
「なんだ、なんでもないじゃないか。こんなことだとわかっていたら、もっと早くからおぼえておけばよかったよ」
「おれもそうだ」とジョーは言った。「全然なんでもないぜ」
「タバコをすう人を見るたびに、おれもすえたらなあと思ったもんだが、自分にもすえると思ったことは一度もなかったよ」とトムは言った。
「おれだって、そのとおりだったよ、ねえ、ハック? 前にもおれがそう言ったの聞いてるだろう? そのことについちゃハックが証人さ」
「そうだ。たしかにおまえは何度もそう言ってたよ」とハックは言った。
「うん、おれも言ったよ。何百ぺんも言ったぜ。一度はあの屠畜場《とちくじょう》で言った。あのときはボブ・ターナーもいたしジョニー・ミラーもいたしジェフ・サッチャーもいた。おれが言ったのを、おぼえてるだろう、ハック?」
「うん、おぼえてる」とハックが言った。「あれは、おれが白い弾《はじ》き玉をなくしたつぎの日だった――いや、前の日だった」
「ほら、おれが言ったとおりだろう?」とトムは言った。「ハックが、ちゃんとおぼえてる」
「こんなもの、おれは一日じゅうすっていたって、平気だぜ」とジョーは言った。「ちっともむかついたりはしないや」
「おれだって」とトムは言った。「一日じゅうだってすえるよ。でも、ジェフ・サッチャーなら、とても駄目だろうな」
「ジェフ・サッチャーだって? あいつだったら、一口すったらひっくりかえってしまうだろう。一度すわしてみたらいい。そしたらわかるよ」
「そうだろうな。それからジョニー・ミラーだが――一度ジョニー・ミラーにすわせてみたいもんだ」
「ほんとだ」とジョーは言った。「ジョニー・ミラーのやつ手もなくへたばるぜ。一口すっただけで降参するだろう」
「そのとおりだよ、ジョー。こうやっているところを、みんなに見せてやりたいもんだ」
「そうだね」
「このことは、みんなに黙っていたほうがいい。そして、いつかみんなが集まっているときに、おれがおまえのところへ行って、『ジョー、パイプを持ってるかい。一服やりたいんだ』と言うんだ。そこで、おまえは、しごくなんでもないような口調で、こう言うんだ。『うん、いつものやつ《・・・・・・》と、別にもう一つ持っている。だが、おれのタバコは、あまり上等じゃないぜ』すると、おれはこう言う。『いいよ、強く《・・》さえあれば、なんでもいいんだ』それから、おまえがパイプを二本とり出し、おれたちは、なんでもないような顔をして火をつけるんだ。そして、やつらがどんな顔をするか見てやるのさ」
「そいつはおもしろいぜ、トム! いますぐやりたいもんだ」
「おれもだ。そして、海賊に出たときにおぼえたんだと言ってやったら、みんな仲間になっていっしょに行けばよかったと言うにちがいない」
「そうだね。きっとそう言うにちがいないよ」
こうして話が弾《はず》んだが、そのうちに、いくらか勢いがなくなって、とぎれがちになった。黙っている時間が長くなり、唾《つば》を吐《は》くことが驚《おどろ》くほど多くなった。顔じゅうのすべての毛《け》孔《あな》が噴出《ふんしゅつ》する泉となり、口のなかが、いくら乾《かわ》かしても、すぐに唾《だ》液《えき》がたまってきて、どうにも防ぎようがなかった。いくら努力しても、咽喉《のど》の奥《おく》に唾液がつかえて、そのたびに胸がむかついた。二人とも、いまはすっかり顔が蒼《あお》ざめていた。ジョーのパイプが力のなくなった手からぽとりと落ちた。トムのパイプも落ちた。どちらの泉も、おそろしい勢いで噴出し、どちらのポンプも必死に排水《はいすい》作業をくりかえしていた。ジョーが力のない声で言った。
「ナイフがない。探しに行ってくる」
トムは唇《くちびる》を震《ふる》わせながら、とぎれとぎれに言った。
「おれも手伝うよ。おまえは、あっちへ行け。おれは、泉のまわりを探す。いや、おまえはこなくていいよ、ハック――おれたちだけでいい」
そこでハックは、また腰をおろして一時間も待っていた。それから、さびしくなったので二人を探しに出かけた。二人は森のなかで、離れ離れになり、それぞれ顔を蒼白《そうはく》にして眠りこんでいた。しかし、二人が調子を狂《くる》わせたとしても、いまはもうなおっているらしいことがハックにはわかった。
その夜、夕食のときにも、彼らは、あまり口をきかなかった。彼らは、ばつの悪そうな顔つきをしていて、食事のあとハックがパイプにタバコをつめ、二人の分も用意しようとしたときにも、いや、おれたちは体の調子がよくないんだ――たぶんお昼に食べたものが悪かったんだろう、と言ってことわった。
真夜中ごろ、ジョーは目をさまして他の二人を呼び起した。空気のなかに、何事かを予告するような、重苦しい気配がただよっていた。大気は、そよとも動かず、にぶい熱気がこもっていて息がつまりそうだった。少年たちは、かたまりあって、焚《たき》火《び》を頼《たよ》って集まった。彼らは熱心に何かを待ちながら、身動きもしなかった。不気味な静けさがつづいた。焚火の明りのかなたは、何もかも漆黒《しっこく》の闇《やみ》に包まれて見えなかった。やがて、蒼白い光がひらめいて、一瞬《いっしゅん》、木々の葉を照らして消えた。つづいて、それよりもやや強い閃光《せんこう》がきらめいた。それから、また一つきらめいた。つづいて、ごろごろとかすかな音が森の小《こ》枝《えだ》のあいだを低い吐《と》息《いき》のように通りすぎ、少年たちは、吹《ふ》き渡る風を頬《ほお》に感じ、「夜の精」が通りすぎたのだと思って身震いした。しばらく間があった。すると今度は、すさまじい閃光が夜を昼に変え、彼らの足もとの小さな草の葉を一枚一枚くっきりと浮かびあがらせ、そして三つのおびえた蒼白い顔を照らしだした。ものすごい雷鳴《らいめい》が空から転げ落ちてきて、陰《いん》気《き》なごろごろという音となって遠くへ消えた。冷たい風が吹きすぎて木の葉をそよがせ、焚火のあたりに散らばっていた薄《うす》い灰を雪のようにまきあげた。またしても鋭《するど》い閃光が森を照らしだしたかと思うと、つづいて雷鳴がとどろき、少年たちの頭の上の梢《こずえ》を引き裂《さ》くかとさえ思われた。少年たちは、恐怖《きょうふ》のあまり、そのあとに訪《おとず》れた闇《やみ》のなかで、しっかりと抱《だ》きあっていた。大粒《おおつぶ》の雨が、ぱらぱらと木の葉に音をたてた。
「さあ、早く! テントへ行くんだ!」とトムが叫《さけ》んだ。
彼らは、闇のなかを走りだしたが、木の根につまずいたり、葡萄蔓に足を引っかけたりして、誰ひとり同じ方向に突進したものはいなかった。はげしい疾風《しっぷう》が木々のあいだで吠《ほ》え、通りすぎる際に、あらゆるものを騒《さわ》がせた。目もくらむばかりの閃光がつぎつぎにひらめき、耳をつんざくような雷鳴がつづけざまにとどろいた。やがて、にわかに雨がはげしくなり、烈風《れっぷう》が起って、雨を地面に叩《たた》きつけた。少年たちは、たがいに声をかけあったが、吹きすさぶ風と、とどろく雷鳴とで、それらの声は完全にかき消された。しかし、それでも結局一人ずつテントにたどりつき、すっかり冷えこみ、おびえ、ずぶ濡《ぬ》れになって、そのなかに身をひそめた。みじめな思いをしているときでも、仲間がいるということは、とても心強く感じられた。風にあおられる古い帆《ほ》布《ぬの》の音があまりにはげしいので、ほかの物音はさしつかえないとしても、話ができなかった。嵐《あらし》は、いよいよはげしくなり、テントの帆布は結び目がちぎれて、翼《つばさ》のようにひろがったまま飛んで行った。少年たちは手をとりあい、ころんだりつまずいたりしながら、岸べにそびえる槲《かしわ》の大木の下へ逃《に》げこんだ。戦いは、いま絶頂に達していた。空にひらめく絶えまない稲妻《いなづま》に照らされて、地上のあらゆるものが、くっきりと浮びあがった。へし曲げられた樹木、白く泡《あわ》立《だ》ってのたうつ河、飛び散る波のしぶき、吹きちぎられた雲と横なぐりの雨のあいだから、対岸の高く切り立った断崖《だんがい》が、ぼんやりと見えた。ときどき戦いに敗れた大木が、すさまじい音をたてて、若木の上に倒《たお》れかかった。そして、すこしも衰《おとろ》えを見せない雷鳴が、鋭く、はげしく、すさまじく、耳をつんざくばかりの轟音《ごうおん》をひびかせておそってきた。暴風は全力をつくして荒《あ》れ狂《くる》い、この島をみじんにうち砕《くだ》き、焼きつくし、森の梢までも水底に沈め、吹きとばし、島のあらゆる生物の鼓《こ》膜《まく》を破いてしまうのではないかと思われた。宿なしの少年たちが野宿するにしては、すこしばかり狂暴《きょうぼう》な夜だった。
しかし、ついに戦いは終った。軍勢は、しだいにその脅威《きょうい》と轟音を弱めながら退却《たいきゃく》した。そして、ふたたび平和が戻った。少年たちは、ほうほうのていでキャンプに戻ったが、それでも感謝しなければならないことがあった。というのは、その陰《かげ》を寝《ね》床《どこ》にしていた大きなすずかけ《・・・・》の木は雷《かみなり》にうたれて無残に引き裂かれていたが、そのとき彼らは、そこに居《い》合《あわ》せなかったからだ。
キャンプにおいてあったものは何もかもずぶ濡れで、焚火も完全に消えていた。この時代の人たちと同じように彼らも分別の足りない子供たちなので、雨に対して何の備えもしていなかったのだ。彼ら自身もずぶ濡れで体が冷えきっていたから、これにはすっかり困った。それで、この災難について、しきりとぐちをこぼしたが、やがて火を焚きつけた丸太の下からずっと上の奥深いところに火がくいこんでいて(丸太が上のほうへ曲っていて地面から離れていたのだ)、小さな火種が濡れずにまだ残っているのを見つけた。そこで彼らは、陰になっていた丸太の下から、木の皮や木片《こっぱ》などを集めて、根気よく努力を重ねて、どうにか火を起すことができた。つぎに枯枝《かれえだ》を積み重ねて、とうとう勢いよく燃えあがらせ、ようやく元気をとり戻した。彼らはボイルド・ハムを乾かして食事をし、そのあと焚火をかこんで夜が明けるまで真夜中の冒《ぼう》険《けん》を大げさに話しあった。寝られるような乾いた場所は、どこにもなかったのだ。
太陽が静かに少年たちを照らしはじめると、彼らは、眠くなってきたので、砂洲へ出かけて行って眠った。しかし、まもなく日射《ひざ》しが強くなったので、だるそうにキャンプに引きあげてきて朝食にとりかかった。食事が終ると、疲れが出てきて体じゅうの節々が痛み、ふたたび家が恋《こい》しくなった。トムは、この気配を感じとり、できるだけ海賊《かいぞく》たちの気持を引き立てようとしたが、二人は、石《いし》蹴《け》りにも、サーカスにも、泳ぎにも、どんなものにも興味を示そうとしなかった。最後に、トムは例の重大な秘密を思い出させて、いくらか彼らを元気づけた。そして、この元気がつづいているあいだに、トムは彼らの関心を別の新しい計画に向けた。それは、気分を変えるために、しばらく海賊をやめてインディアンになることだった。二人は、この計画に賛成した。そこで彼らは、さっそく裸になり、頭のてっぺんから足のさきまで黒い泥《どろ》を塗《ぬ》りつけて縞《しま》馬《うま》のように筋をつけ、もちろん三人とも酋長《しゅうちょう》になって、イギリス人の植民地をおそうために森のなかを駆《か》けまわった。
やがて彼らは三組の交戦部族に分れ、待ち伏せの場所から、すさまじい喊声《かんせい》をあげておそいかかり、たがいに何千人かの敵を倒して頭の皮を剥《は》ぎとった。それは血なまぐさい一日であり、この上もなく満足な一日でもあった。
夕方、彼らは腹をへらして元気よくキャンプに引きあげた。ところが、ここに困ったことが起った――交戦中のインディアンの部族が仲よくいっしょに食事をするためには、まず和《わ》睦《ぼく》しなければならないのだが、それには一つパイプで和睦のタバコをすうのが絶対の条件だった。それ以外の和睦のしきたりを彼らは耳にしたことがなかったのだ。三人のインディアンのうちの二人は海賊でいたほうがよかったと後悔《こうかい》したくらいだった。しかし、やむをえないので、できるだけ元気らしくよそおって、パイプを順番にまわして儀《ぎ》式《しき》通り一服ずつすった。
ところが、彼らはインディアンになったことをうれしく思った。というのは、一つの収《しゅう》穫《かく》があったからだ。彼らは、なくしたナイフを探しに行かなくても、すこしくらいならタバコをすえるようになったことを知ったのだ。吐きたくなるほど胸がむかつくこともなかった。彼らは、このすばらしい成功を忘れずに努力をつづけようと思った。そして、食事のあと熱心に練習した結果、かなりの成果をおさめたので、はなはだ満足すべき夕ベをすごした。彼らは、六カ国の国民の頭の皮を剥ぎとったよりも、この新しい収穫を手に入れたことのほうが、うれしくもあり得意でもあった。だが、作者としでは、さしあたりこの三人には用がないから、好きなだけタバコをすわせ、好きなだけしゃべらせ、いい気分にさせておくことにしよう。
第十七章 自分の葬《そう》儀《ぎ》に参列する海賊《かいぞく》
しかし、この静かな土曜日の午後、小さなセント・ピーターズバーグの村は、すっかり沈《しず》みこんでいた。ハーパー家の家族とポリー伯母《おば》さんの家族とは、悲《ひ》嘆《たん》の涙《なみだ》とともに喪《も》に服していた。もともと静かな村だが、今日は、ことさら静かだった。村の人たちは仕事をするにも元気がなかったし、ときどき溜息《ためいき》をつくだけで、口数もすくなかった。子供たちにとっては、せっかくの土曜日の休みが重荷のように感じられ、遊びにも気が乗らず、いつとなくやめてしまった。
その午後、ベッキー・サッチャーは、沈んだ気持で、誰《だれ》もいない校庭を憂鬱《ゆううつ》そうに歩きまわっていたが、彼女《かのじょ》の心をなぐさめてくれるようなものは何も見つからなかった。彼女は、ひとりつぶやいた。
「ああ、あの真鍮《しんちゅう》の把《とっ》手《て》があったら! でも、いまはトムの思い出になるものは何一つないんだわ」そして彼女は泣きそうになるのを我《が》慢《まん》した。
やがて彼女は足をとめてひとりごとを言った。
「ちょうど、ここだったわ。もう一度くりかえせるものなら、あんなことは言わないわ――決して言わないわ。でも、トムは死んでしまった。もう二度と会えないんだわ」
そう思うと彼女はたまらなく悲しくなり、涙に頬《ほお》を濡《ぬ》らしながら立ち去った。それと入れかわりに、トムとジョーの遊び仲間の少年少女の一団が通りかかった。そして、そこに立ちどまって垣《かき》根《ね》ごしに向うを眺《なが》めながら、沈んだ口調で、最後に会ったときトムはどうだったとか、ジョーは、こんなことを言ったとか(そのときは気にかけなかったが、いま思い合せてみると、その一つ一つが明らかに恐《おそ》ろしい前兆だったのだ)、そんなことを語りあい、そして、そのとき行《ゆく》方不《えふ》明《めい》になった二人の少年が立っていた正確な場所を指《し》摘《てき》して、つけ加えた。「そのときぼくは、こんなふうに立っていたんだ。ちょうどいまみたいにね。そして彼《かれ》が、いまきみのいるところに立っていたんだ――それほど近くにいたんだ――そして、やつは笑った、こんなふうに――そのときぼくは、なんだかぞうっとしたんだ――もちろんそのときは、なぜだかわからなかったけれど、いまになってみると、よくわかるよ」
つづいて、死んだ少年たちの姿を最後に見たのは誰かということが話題になった。そして多くの子供たちが、この痛ましい名《めい》誉《よ》をめざして名乗りをあげ、それぞれ証拠《しょうこ》を提出したが、いずれもその場の目撃者《もくげきしゃ》たちによって、多かれすくなかれ否《ひ》認《にん》された。そして、死んだ少年たちを最後に見て彼らと言葉をかわしたものが最終的に決定すると、その幸運な子供は、たちまち名誉ある英雄《えいゆう》的な偶像《ぐうぞう》となり、他のすべての子供たちの羨望《せんぼう》の的になった。運わるく、何もとり立てていうほどの材料を提出できなかった哀《あわ》れな一人の少年は、かなり得意そうに、つぎのような思い出を語った。
「でも、ぼくは一度トム・ソーヤーに殴《なぐ》られたことがあるぜ」
しかし、この栄誉の要請《ようせい》は認められなかった。たいていの少年は殴られた経験があるので、それくらいのことは栄誉に値《あたい》しなかったのだ。やがて子供たちの群れは、なおも沈んだ口調で、死んだ英雄たちの思い出を語りながら引きあげて行った。
翌朝、日曜学校の授業が終ったとき、鐘《かね》は、いつもとちがって葬式を知らせるために鳴りひびいた。とても静かな安息日で、鐘の音は、地上をおおう悲しみにうちひしがれたような沈黙《ちんもく》と息を合わせるかのようにひびきわたった。村の人たちは、会堂に集まったが、入口で足をとめ、この悲しい事件についてささやきあった。しかし会堂の中では、ささやき一つきこえず、婦人たちが席につくときの喪服の衣《きぬ》ずれの音が沈黙を破るだけだった。誰も、この小さな教会に、こんなに多くの人がつめかけたのは、見たことがなかった。やがて、死者の家族たちを待つ静寂《せいじゃく》と沈黙の後、ポリー伯母さんがシッドとメアリをしたがえてはいってきた。つづいてハーパー家の家族たちがはいってきたが、老牧師をふくめて全員がうやうやしく起立して、喪中の人たちがいちばん前列の席につくまで立っていた。ふたたび、たがいに心を理解しあった沈黙がつづき、ときどき抑《おさ》えつけるようなすすり泣きの声がきこえるだけだった。やがて牧師は両手をあげてお祈《いの》りをした。心にひびくような讃《さん》美歌《びか》がうたわれ、聖句がそれにつづいた。「われはよみがえりなり、生命なり」
式は進み、牧師は死んだ少年たちの長所や未来の幸福を巧《たく》みに説いたので、会衆はみなあらためて死んだ少年たちの美点を思い知らされたような気がして、生前いつも自分たちがそれらの美点を見ようとせず、かわいそうな少年たちの欠点ばかりあげつらっていたことを思い出して後悔《こうかい》した。牧師はさらに、この世を去った少年たちの生涯《しょうがい》における感動すべき行いのかずかずを述べた。それは死んだ少年たちの美しい寛大《かんだい》な性質を物語るものであり、人々は、いまさらのようにそれらの挿《そう》話《わ》の尊さと美しさを知った。そして、当時はそのことをまるで鞭《むち》で殴ってもあきたりないほどの悪事のようにみなしたことを思い出して嘆《なげ》き悲しんだ。牧師の説教が進むにつれて、会衆は、いよいよ心を動かされ、たまらなくなって、喪中の人たちといっしょになって、いっせいにすすり泣きをはじめた。牧師自身も感情をゆさぶられて壇上《だんじょう》で声をあげて泣いた。
このとき、二階でことんという音がしたが誰も気づかなかった。やがて会堂の扉《とびら》がきしむ音をたてた。牧師は涙に濡れた目をハンカチからあげた。そして目をまるくして立ちすくんだ。一人また一人と牧師の視線を追った。そして全会衆が、あっけにとられて、いっせいに立ちあがった。三人の死んだはずの少年たちが席と席とのあいだの通路を進んできたのだ。トムを先頭に、ジョーがそれにつづき、最後におんぼろ服のハックが、きまりわるそうに歩いてきた。それまで彼らは、ふだんは使われていない二階に身をひそめて、自分たちの葬式の説教を聞いていたのだ。
ポリー伯母さんとメアリとハーパー家の家族たちは、帰ってきた少年たちに抱《だ》きつき、ほとんど窒息《ちっそく》させるほど接吻《せっぷん》し、神に感謝の祈りを捧《ささ》げた。一方ハックは、どうしてよいかわからず、自分を歓迎《かんげい》してくれる人が一人もいないたくさんの目から逃《のが》れるすべもなく、顔を赤くして、身のおきどころがないように、もじもじしながら立っていたが、とうとういたたまれずに、こそこそ逃《に》げ出そうとした。しかし、トムは彼を引きとめて言った。
「伯母さん、これじゃ不公平だよ。ハックも帰ってきたんだから、誰かがよろこんで迎《むか》えてやらなくちゃ」
「そうだわね! 母親のないかわいそうな子供を、わたしは、よろこんで迎えてあげるよ」しかし、そう言ってポリー伯母さんが惜《お》しげもなく注ぎかけた思いやりは、ハックを、それまで以上にいたたまれなくさせた。
やがて牧師は声をはりあげた。「『天地《あめつち》こぞりてかしこみ讃《たた》えよ』――合唱しましょう! ――心をこめてうたいましょう!」
人々はうたった。讃美歌第百番は、勝鬨《かちどき》のように鳴りひびき、それが会堂の梁《はり》をゆり動かしているあいだ、海賊トム・ソーヤーは、うらやましそうに彼を見ている子供たちを眺《なが》めて、心ひそかに、いまが自分の生涯でもっとも誇《ほこ》らしい一瞬《いっしゅん》なのだと思った。
だまされた会衆は、つぎつぎと会堂を出て行きながら、これほど感動的に讃美歌第百番がうたわれるのを聞けるなら、もう一度だまされてもかまわない、と話しあった。
トムは、その日のうちに――ポリー伯母さんの気分が変るにつれて――過去一年間に受けた以上の折檻《せっかん》と接吻をちょうだいしたが、さて、そのどちらが神への感謝と彼への愛情をもっともよく示すものなのか、トムには、ほとんどわからなかった。
第十八章 ふしぎな夢《ゆめ》
それが――仲間の海賊《かいぞく》といっしょに帰って、自分たちの葬式《そうしき》に参列するというのが――トムのいわゆる大秘密だったのだ。彼《かれ》らは土曜日の夕方、丸太に乗ってミズーリ側の岸まで漕《こ》ぎ渡《わた》り、村から五、六マイル下流に上陸した。それから昼ごろまで、村外れの森のなかで眠《ねむ》り、裏通りの小道を抜《ぬ》けて教会にたどりつき、こわれた腰掛《こしかけ》などが雑然とおいてある二階の座席で、寝不《ねぶ》足《そく》をおぎなった。
月曜日の朝食のとき、ポリー伯母《おば》さんとメアリは、たいへんトムにやさしくしてくれ、トムの希望を、何でもかなえてくれた。いつになく話がはずんだが、そのなかでポリー伯母さんは言った。
「自分たちが楽しい思いをするために、多くの人たちに一週間も心配をかけたのは、いたずらとしたら、おもしろくないこともないが、おまえが、わたしをあんなに心配させるほど薄情《はくじょう》な子だとは思わなかったよ。丸太に乗って自分のお葬式に出られるくらいなら、そのまえに、死んだのではなくて逃《に》げ出しただけなのだということくらい、なんとかしてわたしに知らせてくれたっていいと思うんだがね」
「そうだわ、知らせることぐらいできたはずだわ」とメアリが言った。「伯母さんを心配させることに気がついたら、きっと知らせたと思うわ」
「そうかね、トム?」ポリー伯母さんは、それならいいんだが、というように顔を明るくした。「そしたら、知らせてくれたかい? 気がついたら知らせてくれたかい?」
「そいつは――わからないな。だって、そんなことをしたら、計画が何もかも狂《くる》ってしまうじゃないか」
「トム、わたしは、おまえだって、それくらいはわたしのことを考えていてくれるだろうと思っていたんだがね」とポリー伯母さんは悲しそうに言った。トムは胸が痛んだ。「たとえそうしてくれなくても、それに気がつくくらいの思いやりがあったら、まだ救われるんだけれどね」
「ねえ、伯母さん、べつに悪気はないのよ」とメアリがとりなした。「ただトムがうかつだっただけよ――トムは、何かに夢中《むちゅう》になると、ほかのことを何も考えないんだわ」
「それが悪いんだよ。シッドなら考えるよ。シッドだったら、きっと知らせにきてくれたと思うわ。トム、おまえは、いつか、もう間に合わないときになってから、昔《むかし》のことを思い出して、やればできたんだから、もっと伯母さんのことを考えてあげればよかったと後《こう》悔《かい》するよ」
「だけど、伯母さん、ぼくは伯母さんのことを、とても気にかけているんだよ」
「それならそれで、もっとそのようにふるまってくれたら、わたしにも、もっとよくわかるんだがね」
「あのとき気がついていたらよかったんだよ」とトムは後悔したような口調で言った。「でも、伯母さんの夢はみたよ。夢をみたんだから、いくらか許されるだろう?」
「あまり許されるとはいえないね――夢ぐらい猫《ねこ》だってみるからね――でも、みないよりはましさ。どんな夢をみたの?」
「水曜日の晩に伯母さんがベッドのそばに坐《すわ》っているところをみたんだ。シッドは木《き》箱《ばこ》に腰かけていたし、その隣《となり》にメアリがいた」
「そうかい、わたしたちは、いつもそんなふうに腰かけていたんだよ。とにかく夢にしても、わたしたちのことを気にかけていてくれたと思うとうれしいよ」
「それからジョー・ハーパーのお母さんが、ここにいるところも夢にみたよ」
「まあ! ジョー・ハーパーのお母さんも、ほんとにここにいたんだよ。そのほか、どんなことを夢にみたの?」
「いろんなことを夢にみたけど、ほとんど忘れちゃった」
「思い出してごらんよ――思い出せないかい?」
「風が――風が吹《ふ》きこんできて――それで――」
「よく思い出してごらん、トム! 風が吹きこんできたんだね? それで?」
トムは一分間ほど額に手をあてて考えこんだ。そして聞き手をいらいらさせてから言った。
「そうだ、思い出した! 思い出した! 風が蝋燭《ろうそく》に吹きつけたんだ」
「まあ! それから?」
「それから、伯母さんが言ったような気がする。『まあ、あのドアは、たしかに――』」
「それから、トム?」
「ちょっと考えさせてよ――ちょっとね。あ、そうだ――伯母さんは、ドアはたしかに開いているって言ったんだ」
「たしかにわたしはそう言ったよ、ねえ、メアリ? それから?」
「それから――それから――どうもはっきりしないんだけど、伯母さんは、シッドに言いつけて――そして――」
「それで? それで? わたしがシッドに言いつけて何をさせたっていうの、トム? わたしはシッドに何をさせたんだい?」
「伯母さんはシッドに――そうだ、伯母さんはシッドにドアを閉めさせたんだ」
「まあ、なんということだろう! こんなふしぎなことは生れてこのかた聞いたこともない! もう誰《だれ》にも、夢は嘘《うそ》っぱちだなんて言わせやしないよ。さっそくこのことをハーパーの奥《おく》さんにも聞かせてあげよう。何でも迷《めい》信《しん》だと言ってばかにするあの奥さんが、これをどんなふうに言いくるめるか聞きたいもんだ。ところで、トム、それから?」
「ああ、何もかもはっきり思い出せるようになったよ。それから伯母さんは、こう言ったんだ。トムは悪い子じゃない、いたずらで、無《む》鉄砲《てっぽう》なだけで、責任がないことは――ええと、何だったかな、子馬か――そうだ、子馬みたいなものだって――」
「そのとおりだったよ、トム。ほんとに空恐《そらおそ》ろしいみたいだよ。それからどうしたの?」
「それから伯母さんは泣きはじめたんだ」
「たしかにわたしは泣いたよ。そのときがはじめてじゃないけれどね。それから――?」
「それから、ハーパーの小母《おば》さんが泣きはじめた。そして、ジョーもやはりそのとおりで、クリームを自分が捨ててしまったのにジョーが盗《ぬす》んで食べたからって鞭《むち》でぶったりするようなことをしなければよかったって――」
「トム! おまえには精霊《せいれい》が乗りうつっていたんだ! おまえは霊感ってものを身につけていたんだ。そうとしか思えない。それから、どうしたの?」
「それから、シッドが口を出した――シッドは――」
「ぼくは何にも言わなかったと思うがな」とシッドが言った。
「あら、言ったわよ、シッド」とメアリが言った。
「よけいな口出しをしないで、トムの話を聞こうじゃないか。それで、シッドは、何て言ったんだい?」
「トムは天国で幸せになっているとは思うけれど、もっといい子だったら――」
「シッド、聞いたかい! そのとおりのことをおまえは言ったじゃないか」
「すると伯母さんは、はげしくシッドの言葉をさえぎって――」
「そのとおりさ! あのときには、きっと天使さまがいたんだよ。どこかに天使さまがいたんだよ!」
「そして、ハーパーの小母さんは、ジョーが癇癪玉《かんしゃくだま》をぶっつけて小母さんをおどかしたことを話したし、伯母さんはピーターとペインキラーのことを――」
「まったくそのとおりだよ」
「それから、ぼくらを探すために河底を調べたことだの、日曜日にお葬式をすることだの、いろんなことを話して、伯母さんとハーパーの小母さんは抱《だ》きあって泣いた。そして小母さんは帰って行ったんだ」
「まちがいなくそのとおりだったよ。ほんとにそのとおりだった。それは、いまわたしがここに腰かけているのと同じくらいたしかなことだよ。たとえ目の前で見ていたとしても、こんなにはっきり話せるもんじゃない。ところで、それから、どんなことが起ったの? 何があったんだい、トム?」
「それから伯母さんは、ぼくのために、お祈《いの》りをしてくれた――ぼくには、伯母さんの姿が見えたし、伯母さんの言った言葉が一つ残らずはっきりときこえたんだ。それから伯母さんはベッドにはいったんだが、ぼくは、あまり伯母さんが気の毒だったんで、すずかけ《・・・・》の木の皮に『ぼくたちは死んだんじゃありません、海賊になっただけです』と書いて、それをテーブルの上の蝋燭のそばにおいたんだ。そして、伯母さんの寝顔が、とてもやさしく見えたので、ぼくは伯母さんのところへ行って、身をかがめて伯母さんの唇《くちびる》に接吻《せっぷん》したんだ」
「まあ、そうかい。そうだったのかい。それだけで何もかも許してあげるよ!」と言って伯母さんは、トムの体を骨が砕《くだ》けるほど抱きしめた。トムは、自分がこの世に二人といないほどの悪者になったような気がした。
「たとえ夢のなかでのことにしても、なかなか思いやりがある」とシッドは、きこえるかきこえないかわからないくらいの声で、ひとりごとを言った。
「お黙《だま》り、シッド! 人は目をさましているときにするようなことを夢のなかでもするものなんだよ。ねえ、トム、もしおまえが帰ってきたらと思ってとっておいたすばらしい林《りん》檎《ご》をあげよう。さあ、学校へ行きなさい。おまえを無事に帰してくださったことを神さまに感謝しよう。神さまは、神さまを信じ、神さまのお言葉を守る人間を、やさしく見まもり、お慈悲《じひ》を垂れてくださるものだ。もちろんわたしが神さまのお慈悲を受けるに値《あたい》するような人間でないことはわかっているが、もしそれに値する人間だけが神さまの祝福を受け、苦しいときに神さまのお手にすがることができるものなら、長い夜が訪《おとず》れたとき、やすらかに神さまのおめぐみをいただける人間なんて、めったにいやしないよ。さあ、シッド、メアリ、トム、みんな行っておいで――ずいぶん話が長くなってしまった」
子供たちは、それぞれ学校へ出かけ、老婦人はハーパー夫人を訪れた。トムの驚《おどろ》くべき夢で夫人の現実主義をうち砕いてやるつもりだった。シッドは利口だから、口には出さなかったが、家を出たときには、心のなかでこう考えていた。「トムが言ったのは嘘っぱちだ――あんな長い夢が一つもちがわずに実際と合っているなんておかしい」
いまやトムはすばらしい英雄《えいゆう》となった。彼《かれ》は、飛んだり跳《は》ねたりしないで、人々の注目を集める海賊にふさわしい堂々たる態度で悠《ゆう》然《ぜん》と歩いて行った。事実、彼は注目の的になっていたのだ。彼は、通りすがりに彼を見る人々の目つきやささやきを気にとめないふりをしていたが、しかし実は、それが彼にとってはうれしくてならなかったのだ。小さな子供たちは、あたかも彼が、行列の先頭に立つ鼓《こ》手《しゅ》か、町まわりのサーカスの先頭の象ででもあるかのように、彼といっしょにいるところを人に見せたがって、彼のあとをぞろぞろ群がって歩いた。トムと同じ年ごろの少年たちは、トムの失踪《しっそう》事件を無視するふりをしようとしたが、実はうらやましくてたまらず、トムの黒く日にやけた皮膚《ひふ》とすばらしい名声を手に入れることができるなら、何を手放しても惜《お》しくないと考えていた。もっとも、トムだって、たとえサーカスをやるといわれても、この二つを手放す気にはならなかっただろう。
学校へ行くと、子供たちはトムとジョーを心から尊敬し、最大限の賞讃《しょうさん》のまなざしを注ぎかけたので、二人の英雄は、たちまちどうにもならないほど天《てん》狗《ぐ》になってしまった。子供たちにせがまれて、二人は自分たちの冒険《ぼうけん》を話しはじめた――もっとも、はじめたとはいっても、二人のような空想家が想像上のことまでつけ加えるとなると、話は際限なくひろがるばかりだった。そして、最後に彼らがパイプをとり出して、落ちつきはらって一服やりはじめたときには、二人の栄《えい》誉《よ》は絶頂に達した。
トムは、もうベッキー・サッチャーなんか気にかけないことにきめた。栄誉だけで十分だった。彼は栄誉だけに生きようと思った。彼がこれだけ有名になったのだから、彼女《かのじょ》は、もとどおりになりたいと希望するかもしれない。よし、そうしたければ、そうするがいい――そうしたら、彼女が自分につれない態度を示したと同じくらい自分も彼女につれなくできることを思い知らせてやろう。やがて、彼女がやってきた。トムは見ないふりをした。そして、向うへ行って、子供たちの一団にかこまれて話をはじめた。まもなく、彼は、彼女が顔を上気させ、目を輝《かがや》かせてはしゃぎまわり、忙《いそが》しく友だちを追いかけ、つかまえると甲高《かんだか》い声で笑うのを見た。しかし、注意して見ると、彼女が友だちをつかまえるのは、いつもトムの近くだったし、またそのときには、きまって彼のほうを見るように思われた。このことはトムの復讐《ふくしゅう》的な虚栄心《きょえいしん》を満足させ、そのため彼の心をひきつけるどころか、いっそう彼を得意にさせただけだった。だから彼は、いっそう気をつかって彼女の行動を無視しようとつとめた。やがて彼女は、はしゃぎまわるのをやめて、一つ二つ溜息《ためいき》をつき、決心しかねるようにそのへんをぶらつきながら、おずおずとあこがれるようにトムを見た。そして、トムがエミー・ローレンスに特別親しそうに話しかけるのを見た。彼女は、ひどく苦しくなり、気持が乱れ、不安になった。彼女は、その場を離《はな》れようとしたが、足がいうことをきかず、かえって子供たちの群れのほうへ近づくはめになった。彼女は、快活そうによそおって、トムのすぐそばにいる少女に話しかけた。
「メアリ・オースティン! あんたったら、わるいひとね、どうして日曜学校へこなかったの?」
「行ったわよ――わたしを見なかったの?」
「見なかったわ。どこにいたの?」
「いつもと同じ場所よ。ピーターズ先生の時間にいたわ。わたしは、あんたの顔を見たわよ」
「そう? おかしいわね。どうしてあんたに気がつかなかったのかしら? わたし、ピクニックのことで、あんたに相談したかったの」
「まあ、うれしい。誰のご招待なの?」
「うちのママがつれて行ってくれるのよ」
「いいわね、わたしもつれて行ってくれるかしら?」
「ええ、つれて行ってくれるわ。わたしのピクニックなんですもの。わたしが頼《たの》めば誰でも招《よ》んでくれるわ。それに、わたしはあんたにきてほしいの」
「うれしいわ。で、何日《いつ》なの?」
「近いうちに。たぶん夏休みになってからよ」
「すてきだわ! それで、ほかのひともお招きするの?」
「ええ、わたしのお友だちは全部――それに、お友だちになりたいと思うひとも」そう言って、彼女は、ちらとトムのほうを見やったが、トムは、熱心にエミー・ローレンスに、島で出会った暴風雨のことや、三フィートと離れないところに落雷《らくらい》してすずかけ《・・・・》の大木が「めちゃめちゃ」に引き裂《さ》かれたことなどを話していた。
「わたしも行っていい?」とグレーシー・ミラーが言った。
「いいわ」
「わたしは?」とサリー・ロジャーズが言った。
「どうぞ」
「わたしも?」とスージー・ハーパーが言った。「それからジョーもね?」
「いいわ」
こうして、みんなが招待を受けて、手をたたいてよろこび、残ったのはトムとエミーだけになった。トムは平気で、なおも話をつづけながらエミーをつれて立ち去った。ベッキーは唇が震《ふる》え目に涙《なみだ》がうかんだ。それでも、無理に快活さをよそおって、それを抑《おさ》えておしゃべりをつづけたが、もうピクニックも何もすっかり興味がなくなってしまった。彼女はできるだけ早くその場を抜《ぬ》け出して、思いきり「ドレスの袖《そで》を濡《ぬ》らした」。そして、自尊心を傷つけられたまま、うち沈《しず》んで、始業の鐘《かね》が鳴るまで、そこに坐《すわ》っていた。やがて、彼女は目に復讐の色をうかべて立ちあがり、編んだおさげを大きく振《ふ》って、いまに思い知らせてやる、とつぶやいた。
休み時間にも、トムは得意になってエミーと遊んでいた。そして、それを見せつけるために、たえずそのへんを歩きまわってベッキーを探した。とうとう彼女を見つけたが、そのときトムは突然《とつぜん》元気がなくなってしまった。彼女は校舎の裏の小さな腰掛で、うれしそうにアルフレッド・テンプルと絵本を見ていたのだ。しかも絵本の上に仲よく顔を寄せあい、それに熱中して、ほかのことにはすこしも気がつかないように見えた。トムの血管に嫉《しっ》妬《と》が燃えあがった。せっかくベッキーが提供してくれた仲直りの機会を見送ってしまった自分に腹が立った。彼は自分自身をばかと罵《ののし》り、思いつくかぎりの悪口を自分に浴びせかけた。くやしくて、泣きたいくらいだった。エミーは、いっしょに歩きながら、うきうきと、楽しそうにしゃべりつづけたが、トムの舌は働きをとめてしまった。エミーの言葉が耳にはいらなかったし、エミーが返事を待つために言葉を切ったときには、いつもトンチンカンな返事を口のなかでぶつぶついうだけだった。まるで返事とはいえないような返事だった。彼は何度も校舎の裏手のあたりをうろついたが、その不愉《ふゆ》快《かい》な場面を目に焼きつけられるだけだった。トムには、それが我《が》慢《まん》できなかった。そしてベッキー・サッチャーが、トムなどという人間がこの世に存在することなど考えてみたこともないようにふるまっているのを見ると、腹が立ってならなかった。しかし、ほんとうはベッキーは気がついていたのだ。彼女は自分が勝利をおさめつつあるのを知り、かつての自分が悩《なや》んだと同じようにトムが悩むのを見てよろこんでいたのだ。
トムは、うれしそうなエミーのおしゃべりが我慢できなくなり、それとなく用事があることを――ぜひ片づけなければならない用事があり、ぐずぐずしてはいられないということをほのめかした。しかし、それもききめがなく、エミーは、おしゃべりをやめなかった。「畜生《ちくしょう》! こいつをどうにかすることはできないものだろうか?」とトムは心のなかでつぶやいた。そして、とうとう最後に、どうし《・・・》ても《・・》用事に行かなければならないのだ、と言うと、エミーは無《む》邪《じゃ》気《き》に、それでは学校が終ってから、ぶらぶらしながら待っている、と答えた。トムは、うんざりしながら、足早に立ち去った。
「ほかのやつならともかく!」トムは歯ぎしりしながら考えた。「よりによってあのセント・ルイスからやってきた、きざな野《や》郎《ろう》が相手とは! あの野郎は、すこしばかり服装《ふくそう》がいいのを鼻にかけていやがるんだ。よし、あいつがはじめてこの村へはいってきたとき殴《なぐ》ってやったが、もう一度、殴りつけてやる! きっととっつかまえてやるから、待ってろ! つかまえたら、こうやって――」
トムは見えない敵を相手に、殴りつける動作を一通りやってのけた――空気しかない空中を、つづけざまに殴ったり蹴《け》ったり突《つ》きあげたりしながら。「さあ、どうだ、こたえたか。まだこたえねえのか。これならどうだ!」こうしてこの模擬《もぎ》戦《せん》はトムの一方的な勝利に終った。
昼休みにトムは家に逃げて帰った。良心がとがめて、これ以上、エミーのうれしそうな顔を見るのがつらかったし、またもう一つの悩みに耐《た》えることは嫉妬心にさまたげられてできなかった。ベッキーは、あいかわらずアルフレッドといっしょに絵本を見ていたが、いくら待ってもトムが出てきて苦しんでくれないので、勝利感がかげりはじめ、やがて興味がなくなってきた。それから、心が重くなり、気が抜けたようにぼんやりした。つづいて憂鬱《ゆううつ》になった。二度三度、彼女は誰かの足音に耳をそばだてたが、望みは空《むな》しく、ついにトムはこなかった。とうとう彼女は、たまらなく悲しくなり、こんなに深追いしなければよかったと思った。かわいそうにアルフレッドは、どうしてだかわからないが彼女の心が離れつつあることに気がついた。しかし、どうしたらいいかわからず、同じ言葉をくりかえしていた。「やあ、これはおもしろい。これをごらんよ」とうとう彼女は癇癪をおこした。「うるさいわね! 絵なんが、どうだっていいじゃないの!」そして、わっと泣きだし、立ちあがって行ってしまった。
アルフレッドは、そのあとを追ってなぐさめようとした。しかし彼女は言った。
「あっちへ行って、わたしにかまわないでちょうだい。わたし、あんたなんか大きらいよ!」
少年は、いったい自分は何をしたのだろうかといぶかりながら立ちどまった――というのは、お昼休みのあいだじゅういっしょに絵本を見ようと言いだしたのは彼女自身だったからだ――そして彼女は泣きながら行ってしまった。アルフレッドは、あれこれ考えながら、誰もいない校舎にはいって行った。彼は屈辱《くつじょく》を感じて怒《おこ》っていた。彼は容易に事の真相を見破った。あの子はトム・ソーヤーに対する鬱憤《うっぷん》を晴らすために、自分を利用したにすぎなかったのだ。そう思うと、トムが、たまらなく憎《にく》くなった。そこで、自分をあまり危険におとしいれずにトムを困らせてやる方法はないだろうか、と考えてみた。するとトムの綴字帳《つづりじちょう》が目にはいった。ここに彼の機会が訪れた。彼は、しめたとばかり午後の授業のところを開き、そのぺージの上にインキを流した。
ちょうどそのとき、うしろの窓からベッキーが覗《のぞ》きこんで、この行《こう》為《い》を見てしまったが、彼女はそのまま黙《だま》ってそっと姿を消した。彼女は、トムを探して、このことを話そうと思い、学校から帰りかけた。トムは、きっと感謝してくれるだろう。そして、二人の仲も、もとに戻《もど》るだろう。しかし家までの道を半分も行かないうちに彼女は考えを変えた。彼女がピクニックのことを話したときのトムのすげない態度が、ふたたび胸にうかんできて、心に屈辱感がいっぱいにひろがった。トムを、綴字帳を汚《よご》した罪で鞭《むち》で打たれるままにしておき、一生トムを憎んでやろう、と彼女は決心した。
第十九章 「気がつかなかった」無情
トムは、わびしい気持で家に帰ってきた。そして、伯母《おば》さんの言った最初の言葉で、自分がなぐさめをあたえてくれるところへ悲しみを持ちこんだのではないことを、はっきりと知った。
「トム、わたしはおまえの生皮を剥《は》いでやりたいよ」
「ぼくが何をしたというんだい、伯母さん?」
「何をしたなんてもんじゃないよ。わたしは何も知らないものだから、おまえがしゃべったあの夢《ゆめ》の話をすっかり信じてもらえると思って、馬鹿《ばか》面《づら》さげてハーパーの奥《おく》さんのところへ出かけて行ったんだよ。そしたら、まあ、なんてことだろう。おまえが、あの晩ここへきて、わたしたちの話を、すっかり聞いて行ったということを、ハーパーの奥さんはジョーから聞いて知っていたじゃないか。トム、そんなことをする子供が、いったい、どんな人間になるか、まったく考えるだけでも空恐《そらおそ》ろしいよ。それに、わたしがハーパーの奥さんのところへ行ってもの笑いになるのがわかっていながら、一言もわたしに何とも言ってくれないなんて、ほんとにどういうつもりだろう!」
これは新しい事態の変化だった。この朝、まんまとみんなをだましたときには、トムは、われながら頭がいいと思った。しかし、いまはそれがいやしい、けがらわしいこととしか思えなかった。トムは、しばらく首を垂れたまま、何も言えなかったが、やがて言った。
「悪かったよ、伯母さん――だけど、気がつかなかったんだ」
「そうだよ、トム、おまえにゃ気がつくなんてことはないのさ。自分に都合のいいこと以外は何一つ気がつきゃしないんだ。夜のあいだに、ジャクソン島から、わざわざここまでやってきて、わたしたちが心配しているのを笑うことは気がつくんだ。それから、夢の話をつくりあげて、わたしたちをだますことは気がつくんだ。だが、わたしたちを気の毒に思ったり、悲しみからわたしたちを救うことなんかは決して気がつかないのさ」
「伯母さん、悪かったと思うよ。だけど、はじめからだますつもりじゃなかったんだ。ほんとに、悪気はなかったんだ。それに、あの晩、ぼくは伯母さんたちを笑いものにするつもりで、ここへきたんじゃないんだ」
「じゃ、何のためにきたんだい?」
「溺《おぼ》れちゃいないから、ぼくたちのことを心配しないようにと伯母さんに知らせにきたんだ」
「トム、おまえにそういう思いやりがあることが、わたしに信じられたら、伯母さんは世界一の幸福者《しあわせもの》になれるんだが。しかし、おまえにそんな気持がなかったことは、おまえにもわかっているし――そして、このわたしにもよくわかっているんだよ、トム」
「嘘《うそ》じゃないよ、伯母さん、ほんとなんだ――もし嘘だったら、その罰《ばつ》で金しばりになってもかまわないよ」
「トム、嘘をつくもんじゃない――嘘をついちゃいけないよ。嘘をつくと物事が百倍も悪くなるだけなんだよ」
「嘘じゃないんだ、伯母さん、ほんとうなんだ。伯母さんに心配をかけたくなかったんだ――それだけのことで、ここへきたんだ」
「その言葉がほんとうなら、わたしは何を捨てても惜《お》しくないと思うよ――それは立派な罪ほろぼしだからね。おまえが逃《に》げ出して、あんな悪遊びをしたことさえ、よろこんでいいくらいさ。だけど、それじゃ理《り》屈《くつ》が合わないじゃないか。せっかくそのためにきたんなら、どうしてわたしに知らせてくれなかったんだい?」
「それは、伯母さんたちがお葬式《そうしき》の話をはじめたとき、ぼくは、そのお葬式のときに帰ってきて教会にかくれていようという思いつきで、頭がいっぱいだったんだ。その計画を捨てることは、惜しくて、とてもできなかった。それで木の皮をポケットへしまって黙《だま》っていたんだ」
「何の木の皮だい?」
「ぼくたちが海賊《かいぞく》に出かけたということを伯母さんに知らせるために木の皮に書いておいたんだ。いまは、伯母さんに接吻《せっぷん》したあのとき、伯母さんが目をさましてくれればよかったのに、と思ってるよ」
伯母さんの顔のきびしい筋がゆるんで、にわかに目にやわらかい光がうかんだ。
「わたしに接吻したのかい、トム?」
「そうだよ」
「ほんとうに接吻してくれたのかい?」
「ほんとだよ――ほんとに接吻したよ」
「なぜ接吻したんだい?」
「ぼくは伯母さんが好きだし、それに伯母さんが苦しそうにうなっているのが、とても気の毒だったからだよ」
この言葉は嘘とは思えなかった。老婦人は、つぎの言葉を言ったとき、声が震《ふる》えるのをかくすことができなかった。
「もう一度わたしに接吻しておくれ、トム――そして、早く学校へ行くんだ。これ以上わたしに世話をやかせるんじゃないよ」
トムが出て行くとすぐ伯母さんは押《おし》入《い》れのところへ走って行ってトムが海賊になるときに着たボロボロの上《うわ》衣《ぎ》をとり出した。そして、それを手に持ったまま立ちどまって、ひとりごとを言った。
「いや、やめておこう。またあの子は嘘をついたんだろう――でも、それは祝福された嘘だわ。なかに何かしらなぐさめがこもっている嘘だ。神さまも、きっとあの子を許してくださるだろう――あの嘘には、やさしい気持がこもっているのだから。このままにしておこう。わざわざ嘘だということをたしかめることもないだろう。見ないことにしよう」
伯母さんは上衣を手からはなして、しばらく立って考えこんでいた。だが、その上衣を、もう一度とろうとして、彼女《かのじょ》は二度も手をのばし、そして二度とも手をひっこめた。さらに、もう一度彼女は手をのばしたが、今度は、つぎのように考えて自分を勇気づけた。「いい嘘だわ――いい嘘だわ――だから、悲しむことはないんだ」そこで彼女は上衣のポケットをさぐった。つぎの瞬間《しゅんかん》、彼女は涙《なみだ》を流しながらトムの書いた木の皮を読んでいた。「たとえあの子がどんな罪を犯《おか》したって、わたしはあの子を許してやれるわ」
第二十章 トム、ベッキーに代って罰《ばつ》を     受ける
トムに接吻《せっぷん》したとき、ポリー伯母《おば》さんの態度には、何かちがったところがあって、それがトムの沈《しず》んだ気持を吹《ふ》きとばし、ふたたび彼《かれ》の心を陽気に幸福にしてくれた。トムは学校へ出かけたが、牧場の小道の外れで、運よくベッキー・サッチャーと出会った。さっそく彼は彼女《かのじょ》のそばへ走りよって声をかけた――トムは、気分しだいで、どうにでも態度を変えることができるのだ。
「さっきは悪かった。ごめんよ、ベッキー。もう一生あんなことはしないから――仲直りしてくれないか」
ベッキーは立ちどまって、さげすむようにトムの顔を見すえた。
「よけいなことはしないほうがいいと思うわ、トマス・ソーヤーさん。あなたとはもう二度と口をききたくないわ」
彼女は、つんと顔をそらして通りすぎた。トムはあっけにとられ、「誰《だれ》がかまってやるもんか、この気どり屋!」と言いかえすだけの心の余《よ》裕《ゆう》すらなく、やっと落ちつきをとり戻《もど》したときには、もう手おくれだった。それで彼は何も言わなかったが、心のなかは煮《に》えくりかえっていた。彼は、ふくれっ面《つら》をして校庭へはいって行き、ベッキーが男の子だったらいいのにと思った。そして、男の子だったら、どれくらい殴《なぐ》りつけてやればいいだろうと考えていた。まもなく彼は彼女と出会った。彼は、すれちがいざま突《つ》き刺《さ》すような言葉を浴びせかけた。彼女も、はげしく言いかえし、これで完全に二人の仲は決裂《けつれつ》した。怒《いか》りに燃えたベッキーは授業のはじまるのが待ち遠しかった。綴字帳《つづりじちょう》をよごしたかどでトムが折檻《せっかん》されるところを一刻も早く見たかったのだ。かりにアルフレッド・テンプルのいたずらを言いつけてやろうという気持がいくらか残っていたとしても、トムの投げつけた石は完全にそれを吹きとばしてしまっていた。
かわいそうにベッキーは、彼女自身もまた刻一刻危地に近づきつつあるのを知らなかった。ドビンズ先生は青春の野心を果さぬまま中年になった人だった。彼の念願は医者になることだったが、貧乏《びんぼう》のため、村の学校の教師以上に出世できなかった。毎日、授業のひまなときには、彼は机の引出しからふしぎな書物をとり出して、これに読みふけった。この書物を彼は大切にしまいこんで、きちんと鍵《かぎ》をかけていた。学校じゅうの生徒で、一目この書物を見たいと思わないものは一人もいなかったが、なかなかその機会にめぐまれなかった。この書物の正体については、少年少女の一人一人が、それぞれ意見をもっていたが、同じ意見は一つもなく、しかも、事実をたしかめる方法は全然なかった。さて、ベッキーが教室にはいって、入口のドア近くにある先生の机のそばを通りかかったとき、彼女は、引出しの鍵孔《かぎあな》に鍵がさしこんだままになっていることに気がついた! またとないチャンスだ。あたりを見まわしたが、誰もいなかった。つぎの瞬間《しゅんかん》、問題の書物は彼女の手のなかにあった。表紙に、なにがし教授著『解剖学《かいぼうがく》』とあったが、何のことだかわからなかった。そこで彼女はぺージをめくってみた。すぐに美しい色刷版画の口絵があらわれた――人体図だ。その瞬間ぺージに人の影《かげ》がさした。トム・ソーヤーが教室にはいってきて、ちらとその絵を見た。ベッキーは、あわてて書物を閉じたが、その拍子《ひょうし》に運悪く絵入りのぺージを下半分ほど破いてしまった。彼女は書物を引出しに押《お》しこんで鍵をおろし、恥《は》ずかしさと困惑《こんわく》とで声をあげて泣きだした。
「トム・ソーヤー、こっそりはいってきて、ひとの見ているものを覗《のぞ》くなんて卑怯《ひきょう》だわ」
「きみが何かを見てるなんて、ぼくにわかるはずがないじゃないか」
「自分で恥ずかしいと思わないの、トム・ソーヤー? わたしのことを告げ口しようと思っているんだわ。ああ、わたし、どうしよう、どうしよう! わたし、鞭《むち》でぶたれるんだわ、これまで学校でぶたれたことなんか一度もなかったのに!」
ベッキーは小さな足で床《ゆか》を踏《ふ》みならした。
「意地わるしたけりゃ、いくらでも意地わるするがいいわ! わたしだって、あんたがいまにどんなことになるか、知ってることがあるんだから。待っていらっしゃい。いまにわかるわ! 憎《にく》らしい。憎らしい。憎らしい!」ベッキーは、またわっと泣いて教室から飛び出して行った。
トムは、この攻撃《こうげき》に、いささかめんくらって、ぽかんと立っていた。やがて彼は、ひとりごとを言った。
「女の子って、なんて変ってて、ばかなんだろう。学校で、一度もぶたれたことがないって? へん、ぶたれるのが何だっていうんだ! それが女の子の弱点なんだ――内気で臆《おく》病《びょう》なんだ。もちろんおれは、あんなちっちゃなおばかさんのことをドビンズ先生に言いつけたりなんかするもんか。そんな汚《きた》ないことをしなくても、彼女に仕返しをする方法は、いくらでもある。だけど、この始末は、どうなるんだろう? ドビンズ先生は、誰が本を破いたのかときくだろう。しかし、誰も返事なんかしやしない。すると先生は、いつものように――一人ずつ順番にきいていくだろう。それで本人のところまで行ったら、何も言わなくてもわかっちまうだろう。女の子の顔って、どんな場合でも正直なんだ。まるっきり度胸がないんだ。あの子は鞭でぶたれるだろう。ベッキー・サッチャーにとっては、さだめしつらいことだろう。どうにも逃《に》げ道はないんだから」トムは、ちょっとそのことを考えてから、つけ加えた。「なあに、かまうもんか。あいつは、おれが同じ目にあえばいいと思ってるんだ――勝手に泣きべそをかくがいい!」
トムは校庭に出て遊んでいる仲間に加わった。まもなく先生がやってきて授業がはじまった。トムは勉強に身がはいらなかった。ちらと女生徒のほうに目をやるたびに、ベッキーの顔が彼を悩《なや》ませた。いろいろなことを思いあわせて、彼女をかわいそうだとは思いたくなかったが、それを抑《おさ》えるのがせいいっぱいで、愉《ゆ》快《かい》などという気持は、すこしも起らなかった。そのうち綴字帳の一件が発覚した。それからしばらくのあいだ、トムの心は自分のことでいっぱいだった。思い悩んでいたベッキーは、ようやくわれにかえって、この事件の成行きに、とても興味をいだいた。本にインキをこぼしたのは自分でないと言い張ったところで、トムが罰《ばつ》をまぬかれることはあるまいと彼女は思っていたが、はたして、そのとおりだった。トムの否定は、かえってトムの立場を悪くするだけのように思われた。ベッキーは、自分がそのことをよろこぶだろうと考え、よろこんでいると思いこもうとしたが、気持はぐらついていた。事態がしだいに不利になったとき、彼女は、立ちあがってアルフレッド・テンプルのことをばらしてやりたい衝動《しょうどう》に駆《か》られたが、それを無理に抑えつけて、じっとしていた。その理由を彼女は自分で自分にこう言ってきかせた。「きっとトムは、わたしが口絵を破いたことを言いつけるにちがいない。だから、わたしは、トムの生命《いのち》を助けるためだとしても、一言も言ってやらないんだ!」
トムは鞭で打たれて席に戻《もど》ったが、すこしもしょげてはいなかった。というのは、はしゃぎまわっているとき、知らずに自分でインキをひっくりかえすということも、ありえないことではないからだ――彼がそれを否定したのは、形式上からであり、習慣上からであって、その否定をひるがえさなかったのは、主義としてであった。
完全に一時間が過ぎた。先生は、彼の玉座で、こくりこくりと居《い》眠《ねむ》りをはじめ、自習する声が蜂《はち》のうなりのように、ものうく流れていた。やがてドビンズ先生は体をのばし、あくびをし、それから引出しの鍵をあけて例の書物に手をのばしたが、出そうか出すまいかと、ちょっと迷《まよ》っていた。大部分の生徒は、だるそうに目をあげて見ただけだったが、先生の動作に、じっと目をすえているものが二人いた。ドビンズ先生は、しばらく書物を指でいじっていたが、やがて、それをとりあげ、読むために椅子《いす》に腰《こし》を落ちつけた。トムは、ちらとベッキーを見た。彼は、追いつめられて進退きわまった兎《うさぎ》が、頭に銃《じゅう》を向けられたとき、いまの彼女のような表情をするのを見たことがあった。たちまち彼は彼女と対立したことを忘れた。早く! 早くなんとかしなくちゃいけない! それも、いまのうちに! しかし、事態があまりにもせっぱつまっていたので、彼の思考力は麻痺《まひ》してしまった。そうだ! よし! 走って行ってあの書物をひったくり、そのまま教室から逃げてしまおう! しかし、一瞬決行をためらうあいだに、機会はうしなわれた――先生は書物を開いた。ああ、いまうしなわれた機会を、もう一度とり戻すことができたら! だが、もう遅《おそ》い、もうベッキーは助からない、とトムは思った。つぎの瞬間、先生は教室を見まわした。先生ににらまれると、生徒たちは、いずれも目を伏《ふ》せた。罪のない生徒をすらぞっとさせるようなものが、先生の目にはあった。十かぞえられるだけの沈黙《ちんもく》があり、そのあいだに先生は怒りをつのらせていた。先生は口を開いた。「この本を破いたのは誰だね?」
ことりとの物音もしなかった。ピンが落ちてもきこえたかもしれなかった。沈黙がつづいた。先生は顔から顔へと罪のしるしをさぐっていった。
「ベンジャミン・ロジャーズ、この本を破ったのはおまえか?」
ロジャーズは否定した。また沈黙がつづいた。
「ジョゼフ・ハーパー、おまえか?」
ハーパーも否定した。こんなふうに、じわじわと責めつけられるうちに、トムの不安は、いよいよ深くなった。先生は男の子の列をきびしく見《み》渡《わた》して、ちょっと考え、つぎに女の子の列に顔を向けた。
「エミー・ローレンス?」
エミーは頭を横に振《ふ》った。
「グレーシー・ミラー?」
グレーシーも同じく首を振った。
「スーザン・ハーパー、きみか?」
これも否定した。つぎはベッキー・サッチャーの番だった。トムは緊張《きんちょう》と、どうにもならない絶望とで体じゅうが震《ふる》えた。
「レベッカ・サッチャー」(トムは、ちらと彼女の顔を見た。おびえて真《ま》っ蒼《さお》になっていた)「きみが、私の――いや、私の顔をまっすぐに見なさい」(彼女は訴《うった》えるように手をあげた)「きみがこの本を破いたのか?」
一つの考えが電光のようにトムの頭にひらめいた。彼は、とっさに立ちあがって叫《さけ》んだ! 「破いたのはぼくです!」
教室じゅうの目が、この信じられないほどのばかげた行動を、めんくらって眺《なが》めた。トムは、気持をしずめるために、しばらく立っていた。それから罰を受けるため進み出たとき、ベッキーの目から注がれた感謝と賞讃《しょうさん》とは、彼にとって鞭の百叩《たた》きを甘受《かんじゅ》してなおお《・》つり《・・》がくるように思われた。ドビンズ先生の折檻は、かつて行われたことがないほどはげしいものだったが、トムは、自分の行動のすばらしさに感激《かんげき》して、声一つたてずに耐《た》えることができた。そのうえトムは放課後二時間の居残りを命じられたが、その命令も平気でうけた――この刑《けい》期《き》が終るまで、校舎の外で彼を待っていてくれ、時の歩みが遅いのをなんとも思わない人がいてくれることを、彼は知っていたからだ。
その夜、トムはアルフレッド・テンプルに仕返しする方法を考えながら床《とこ》についた。というのは、ベッキーが後悔《こうかい》の涙《なみだ》にくれながら何もかもうち明け、彼女自身の裏切りさえ残らず彼に話したからだ。しかし、その復讐心《ふくしゅうしん》も、いつしか快い瞑想《めいそう》に変り、眠りにはいったときには、ベッキーの言った最後の言葉が、ぼんやりとまだ彼の耳にきこえていた。
「トム、ほんとにあなたは英雄《えいゆう》だわ!」
第二十一章 雄弁《ゆうべん》
夏休みが近づいた。日ごろ厳格な先生が、ますます厳格になり容赦《ようしゃ》しなくなった。というのは、どの生徒にも、「学芸会」の日に、うまくやってもらいたかったからだ。先生の鞭《むち》と竹べら《・・》は、いまはめったに休むときがなかった――すくなくとも比《ひ》較《かく》的小さな生徒たちに対してはそうだった。鞭を受けなかったのは、いちばん大きな男の子たちと、十八歳《さい》から二十歳までの若い娘《むすめ》たちだけだった。ドビンズ先生の鞭の刑《けい》は、とてもはげしいものだった。かつらの下の彼《かれ》の頭は、すっかり禿《は》げてつるつるだったが、まだ中年に達したばかりで、筋肉のほうはすこしの衰《おとろ》えも見せていなかったのだ。その重大な日が近づくにつれ、いままで彼の内部にひそんでいた残虐《ざんぎゃく》性が、しだいに表面にあらわれてきた。彼は、ごくささいな失策さえ、それを罰《ばつ》することに復讐《ふくしゅう》的な快さを感じているように思われた。その結果、小さな生徒たちは、日中を恐怖《きょうふ》と不安におびえてすごし、夜は復讐計画を練ってすごした。彼らは、先生に復讐する機会を決して逃《のが》さなかったが、先生のほうが、いつも先手をとった。復讐が成功したときは、いつもそれに対する罰が実に残酷《ざんこく》でものすごかった。だから少年たちは、いつも息もたえだえに戦場から引きあげた。とうとう彼らはいっしょになって計略を考え、大勝利うたがいなしという計画を立てた。彼らは、看板屋の息《むす》子《こ》を仲間に入れて計画をうち明け、協力を頼《たの》んだ。この子はこの子なりに進んでその計画に協力する個人的な理由があった。というのは、ドビンズ先生は、その看板屋に下宿していて、その少年は先生を憎《にく》む十分な理由をもっていたからだ。都合のいいことに先生の奥《おく》さんは、近いうちに田舎《いなか》へ行くことになっていた。だから、この計画をさまたげるものは一人もいなくなるわけだ。大切な催《もよお》しがあると、先生は、かならずその前にしたたか酒をあおって、それに対する準備をととのえた。そこで看板屋の少年は、学芸会の夕方、先生が一杯《いっぱい》きこしめして、椅子《いす》で居《い》眠《ねむ》りをしているあいだに決行し、それから頃《ころ》合《あ》いをみて先生をゆり起して学校へ急《せ》きたてる、ということになった。
いよいよ待望の日がきた。夜の八時になると、校舎は、あかあかと燈《とう》火《か》に照らされ、緑の葉と花を組み合せた花輪や花綵《はなづな》で飾《かざ》られた。先生は、一段高くなった壇《だん》の上の大きな椅子に悠然《ゆうぜん》と腰《こし》をおろしていた。先生は、かなり上機嫌《じょうきげん》のようだった。両側の三列と先生の前の六列のベンチには、村の有力者や生徒の父兄たちが腰かけていた。先生の左側、村の人たちの列の後ろには、大きな演壇が臨時に設けられていて、学芸会に出演する生徒たちが待機していた。顔を洗わせられ、よそ行きの服を着せられて、窮屈《きゅうくつ》そうにひかえている小さな男の子たち、肩肘《かたひじ》張った上級生たち、紗《しゃ》とモスリンのドレスを着て、むき出しの腕《うで》や、お祖母《ばあ》さんゆずりの古めかしい飾り具や、赤と青のリボンや、髪《かみ》につけた花などを、しきりに気にしている小さな女の子や若い娘たちの一群だ。そのほかの場所は出演しない生徒たちでぎっしり埋《う》まっていた。
学芸会がはじまった。まだほんの幼い男の子があらわれて、緊張《きんちょう》した表情で、「ぼくのような小さな子が演壇に立って皆《みな》さんの前でお話をするなんて、皆さんもお考えにならなかったでしょう」と暗誦《あんしょう》をはじめた。その身ぶりが、いじらしいほど正確で、痙攣《けいれん》的なのは、まるで機械仕掛《じか》けのようであった――ただし、いくらか調子の狂《くる》った機械仕掛けだ。それでも彼は、かわいそうなくらいどぎまぎしながらも、ともかく無事に暗誦を終り、とってつけたようなお辞儀《じぎ》をして引っこんだときには、かなりの拍手《はくしゅ》が鳴りひびいた。
つぎに、気の弱そうな小さな女の子が、まだよくまわらない舌で、「メアリの羊は、かわいい子羊」という歌を朗読し、人々の同情を誘《さそ》うようなお辞儀をし、拍手の報酬《ほうしゅう》をうけて、うれしそうに顔を赤らめながら席に戻《もど》った。
トムは、自信たっぷりに進み出て、「われに自由をあたえよ、しからずんば死をあたえよ」という不朽《ふきゅう》の名句を、はげしい身ぶりでしゃべりはじめたが、途中《とちゅう》でつかえてしまった。ひどく気が臆《おく》して、足が震《ふる》え、呼吸さえ満足にできなかった。事実トムはそのことで明らかに全聴衆《ぜんちょうしゅう》の同情を集めた――しかし、やがて場内は水をうったように静まりかえった。それは同情よりも、いっそうトムにはこたえた。先生は眉《まゆ》をひそめた。これで失敗は決定的なものとなった。それでもトムは、しばらくがんばってみたが、結局、すっかりしどろもどろになって引きさがった。二つ三つ軽い拍手が起ったが、すぐ消えてしまった。
つぎに、「少年は燃ゆる甲板《かんぱん》に立ちぬ」とか「アッシリア人はおそいきたりぬ」というような有名な詩の暗誦がつづいた。それから朗読と綴字《つづりじ》競技が行われ、生徒数のすくないラテン語のクラスが暗誦の部で賞をうけた。こうしてプログラムが進み、いよいよつぎは評判の若い娘たちの自由作文の番になった。彼女《かのじょ》たちは順々に舞《ぶ》台《たい》の端《はし》まで進み出て、咳《せき》払《ばら》いをし、原稿《げんこう》をかかげもち(それは美しいリボンで結んであった)、表情と句読に細かく心をくばりながら読みはじめた。内容は、こういう場合に彼女たちの母親が、祖母が、そして疑いもなく遠く十字軍の時代にまでさかのぼって女系の先祖たちが読みあげたのと同じものだった。「友情」、「思い出」、「歴史における宗教」、「夢《ゆめ》の国」、「修養の効用」、「政治形態の比較対照」、「憂愁《ゆうしゅう》」、「子の愛」、「あこがれ」といったようなものだ。
これらの作文に見られる主な特長としては、大切に育てあげられた憂鬱《ゆううつ》があった。また、他の特色としては「美辞《びじ》麗《れい》句《く》」の羅《ら》列《れつ》があり、さらにもう一つの特色は、特別とっておきの名句を、むやみに引用して、聞くものを完全にくたびれさせてしまう傾向《けいこう》だ。そして、それらの特長であり、同時にそれらを傷つける一つの特色は、かならずついてまわる我《が》慢《まん》のできないお説教調で、それは、どの作文の終りにも、きまってその醜怪《しゅうかい》な尻《しっ》尾《ぽ》を振《ふ》り立てた。作文の題目が何であろうと、道徳的、宗教的な見地から見て、何か教訓が得られるような形式にでっちあげるために、そこには並《なみ》々《なみ》ならぬ苦心が払われていた。それらの説教が本心から出たものでないことはわかっていても、そんな理由だけで学校からその流行が消えてなくなるはずはないし、現に今日でも依《い》然《ぜん》として流行している。おそらく、この世がつづくかぎり、この流行もつづくだろう。わが国のどこの学校へ行っても、若い淑女《しゅくじょ》が作文の終りをお説教で結ばなければならないと考えない学校は一つもない。しかも、学校じゅうで、いちばんおてんばで、いちばん宗教心のない淑女のお説教が、いつもいちばん長くて、いちばん敬虔《けいけん》らしいことを、やがて諸君も気がつくだろう。だが、このことは、もうこのくらいにしておこう。本当のことを言われると人はいやがるものだ。
もう一度「学芸会」に戻ろう。最初に読まれたのは「それでは、これが人生なのか?」と題する作文だが、たぶん読者諸君は、その抜萃《ばっすい》を辛抱《しんぼう》して読んでくださるだろうと思う――
人生の過程において、若い心は、いかによろこばしい気持で、予期した快楽の場面を待ち望むことであろう! 彼女たちの想像は、ばら色の快楽の画面を描《えが》くのに忙《いそが》しい。空想のなかで、華《はな》やかな光景にあこがれるものは、楽しい群れのなかで「花形」ともてはやされる彼女自身を見るのだ。雪白《せっぱく》の衣裳《いしょう》に包まれた彼女の優《ゆう》雅《が》な姿は、入り乱れる舞《ぶ》踏《とう》の流れのなかを舞《ま》い泳ぎ、そこに集まった華やかな人の群れにまじって、彼女の目は、とても輝《かがや》かしく、彼女の踏《ふ》むステップは、とても軽《かろ》やかだ。
このような楽しい空想の中で、時は刻々と流れ、彼女が、かくも輝かしく夢みていた楽園にはいるべき時がくる。魅《み》せられた彼女の目には、あらゆるものが、いかにあやしく美しくうつることだろう! 新しく迎《むか》える場面は、その一つ一つが、前の場面よりも、いっそう魅力を強めるだろう。しかし、やがて彼女は、この表面の美も、一皮剥《は》がせば、すべて空《むな》しいものであることをさとるだろう。かつて彼女の魂《たましい》を魅《み》惑《わく》した甘《あま》いささやきは、いまや彼女の耳に不愉《ふゆ》快《かい》なひびきを伝える。舞踏場は、その魅力をうしない、肉体は衰え、心は傷つき、この世の快楽は魂の渇望《かつぼう》を満たすものではないという信念をいだいて彼女は去って行く!
こんな言葉の連続なのだ。朗読のあいだ、ときどき満足のざわめきにまじって、「美しいわ!」とか「なんてすばらしいんでしょう!」とか「ほんとにそのとおりだわ!」といったような低い叫《さけ》び声が洩《も》れ、とくべつうんざりするようなお説教でそれが終ると、割れんばかりの拍手が起った。
つづいて、ほっそりとした憂鬱そうな少女が立ちあがったが、その顔は薬の飲みすぎと消化不良のために、ひどく蒼白《あおじろ》かった。彼女は自作の「詩」を読んだ。これは二聯《れん》も紹介《しょうかい》すれば十分だろう。
ミズーリの少女、
アラバマに別れを告げる歌
アラバマよ、さらば! われ深くそなたを愛す!
されど、いま、しばし、そなたに別れを告ぐ!
そなたの悲しき思い出に、わが胸はいたみ、
その追憶《ついおく》は、わが心に火と燃ゆるなり!
そはわれ、そなたの花咲《さ》く森にさまよい、
タラプーサの流れのほとりに書をひもとき、
タラシーの滝《たき》の音に耳かたむけ、
クーサの丘《おか》に立ちてオーロラの光を夢みたればなり。
されどわれ、悲しみの胸にあふるるを恥《は》じもせず、
涙《なみだ》にうるむ目もて見かえるも、顔をあからめることなし。
いまわれは見知らぬ土地に別れるにあらず、
見知らぬ人々を残して、この吐《と》息《いき》を吐《は》くにあらねば。
この土地にこそ、われを迎えるふるさとはありしものを、
その谷と別れ――やがて山々の影《かげ》は目《め》路《じ》はるかに消えゆく、
わが目、わが胸、わがテート、生くるかぎり、われ、そなたを愛す。
いとしのアラバマよ!
「テート」という言葉の意味を知っているものは、ほとんどなかったが、それにもかかわらず、この詩は大好評だった。
つぎに顔の浅黒い、目も髪も黒い娘が登場して、印象を強めるために、しばらく黙《だま》って立っていてから、悲《ひ》劇《げき》的な表情をつくって、中音で読みはじめた。
まぼろし
夜は暗く嵐《あらし》は咆《ほ》えたけりぬ。御《み》空《そら》の玉座のあたりにも、輝ける星一つとしてなく、すさまじき雷鳴《らいめい》はやむことなくとどろき、雲ひくく垂れこめたる空には恐《おそ》ろしき電光ひらめき、世評高きフランクリンの功績を嘲《あざ》けるがごとし。吹《ふ》きすさぶ風すら、その秘密の隠《かく》れ家よりいっせいに出《い》できたり、この荒々《あらあら》しき場面に力を貸さんものと吹きすさびぬ。
かくも暗く、かくもさびしきこのとき、わが心、人の世の愛を求めて吐息を洩らしぬ。されど、きたりしは、それにはあらず。
『わが親しき友、わが助言者、われを導き慰《なぐさ》むるもの、
嘆《なげ》きにおけるわがよろこび、祝福をあたうるもの、きたりしはそれなり』
彼女は浪漫《ろうまん》的な若い人々によって空想の楽園に描かれた、かの輝かしきものの一人のように、あるいは、彼女自身のたぐいなき美しさによって飾られた美の女王のように足を運んだ。彼女の足さばきは、軽く、足音さえもたてない。だから、彼女とのこころよい接《せっ》触《しょく》によって伝えられる妖《あや》しい戦慄《せんりつ》がなかったら、他の美しいものたちとおなじように、誰《だれ》の目にも見えず、誰にも求められることなく、ひそやかに消え去ることだろう。彼女の顔には、真冬の衣に張りついた氷柱のように、ふしぎな憂愁《ゆうしゅう》の色があらわれる。戸外に荒れ狂う風雨を指して、彼女は、目の前にある二つのものを熟視せよと命じる。そのとき――」
この夢物語は原稿用紙十ぺージにもおよぶ長いもので、反長老教会派の人々は、とても救われる見込《みこ》みがないような教訓で終ったので、この作文は一等賞を獲得《かくとく》した。その夜随《ずい》一《いち》の傑作《けっさく》と認められたのだ。村長は、この作者に賞品を授《じゅ》与《よ》するにあたって熱烈《ねつれつ》な祝辞を述べたが、彼はそのなかで、これほどの名文は、これまで聞いたことがない、ダニエル・ウェブスターでも賞讃《しょうさん》を惜《お》しまないだろう、と言った。
ついでながら、「ビューチャス」という言葉が珍重《ちんちょう》され、人間の経験を「人生のページ」という言葉で表現した作文の数は、いつもと同じくらい多かった。
そのあと、相好《そうごう》を崩《くず》さんばかり上機嫌になったドビンズ先生は、椅子を横にずらして立ちあがり、聴衆に背を向けて、黒板にアメリカの地図を描きはじめたが、それは地理の授業をやってみせるためだった。しかし、手がふるえるので、うまく描けず、忍《しの》び笑いが、教室じゅうに、さざなみのように起った。先生は、形勢不利と見て事態の収拾をはかり、黒板拭《ふ》きで線を拭き消して、もう一度書きなおした。しかし、前よりももっとひどい出来で、笑い声は、いっそう高くなった。すると先生は、笑い声に圧倒《あっとう》されまいと決心したらしく、全精力を、この仕事に集中した。先生は、すべての人の目が自分に注がれているのを感じた。今度は、うまく描けたと彼は思ったが、笑い声はやむどころか、かえって高くなった。それも当然だった。先生の頭の上に、天窓をあけた屋根裏部屋があるのだが、その天窓から、このとき、腰のあたりを紐《ひも》でくくりつけられた猫《ねこ》が吊《つ》りさげられたのだ。鳴き声をたてないように猫の首と顎《あご》にはボロが巻きつけてあった。すこしずつおろされてきながら、猫は体をくねらせて紐をつかもうとしたり、下に体を曲げて手ごたえのない空間に爪《つめ》を立てたりした。笑い声は、ますます高くなった。猫は、やっきとなってチョークを動かす先生の頭から六インチと離《はな》れないところまでおりてきた。さらに下へ、下へ、あと一インチ! とうとう猫は、死にもの狂いになって、先生のかつらを引っつかみ、それにしがみついた。その瞬間《しゅんかん》、猫は戦利品を抱《だ》きしめたまま、手早く屋根裏部屋へ引きあげられた。先生の禿げた頭は、おそるべき異《い》彩《さい》を放って輝いた。看板屋の息子は、先生の頭に金《きん》箔《ぱく》を塗《ぬ》っておいたのだ。
これで学芸会は終った。生徒たちは恨《うら》みを晴らした。夏休みになった。
第二十二章 宿なしハック
トムはバッジの華《はな》やかさにつられて、禁酒同盟が新しく組織した少年隊に加入した。そして、タバコをやめ、噛《か》みタバコも用いず、神を冒涜《ぼうとく》するような悪態はいっさい口にしないということを誓約《せいやく》した。すると彼《かれ》は、新しいことを発見した――それは、あることをやらないと約束《やくそく》することは、そのことがやりたくなる、もっとも確実な方法だということだ。まもなく彼は、酒を飲み、悪態をつきたい欲望に苦しめられた。この欲望は、つのる一方だったので、赤い制服を見せびらかす機会にありつけるかもしれないという希望がなかったら、さっそく同盟を脱退《だったい》したにちがいない。七月四日が間近に迫《せま》っていたが、それに参加する希望は、とうにあきらめていた――入隊して四十八時間とたたぬうちにあきらめてしまって、治安判事の老フレーザー氏に希望をつないだ。この老人は、どう見ても助かる見《み》込《こ》みのない病気にとりつかれて寝《ね》ていたが、死ねば、えらいお役人だから盛大《せいだい》な葬《そう》儀《ぎ》が行われるはずだった。そこでトムは、三日間というもの、老人の容態に心を奪《うば》われ、それに関するニュースを待っていた。ときには、それがひどく有望なように思われて、トムはバッジをつけて鏡の前で予行演習をやってみたほどだった。ところが、判事の容態は一進一退で、はなはだしくトムを失望させた。とうとう判事は病気を征服《せいふく》して快方に向ったらしいと伝えられると、トムはひどく憤慨《ふんがい》して、気持を傷つけられたような気がした。そこで、さっそく脱退届を出したが、するとその晩、判事は容態が急変して死んだ。こういう人物は二度と信用しまい、とトムは決心した。
葬儀は盛大だった。少年隊は、つい最近まで隊員だったトムを羨望《せんぼう》の思いで窒息《ちっそく》死《し》させるほど、すばらしい行列をやった。しかし、とにかくトムは自由の身となったのだ。それは決して悪いものではなかった。いまは、酒を飲んでもいいし、悪態をついてもいいのだ。ところが、意外なことに、そういうことに、すこしも魅力《みりょく》を感じなくなった。やってもいいという単純な事実が、やりたいという欲望をうしなわせ、魅力を消してしまったのだ。
やがて、トムは、あれほど待ちこがれていた夏休みを、いまは少々もてあまし気味なのに気がついて、ふしぎに思った。
彼は日記をつけようとした。しかし、三日間何事も起らなかったので、やめてしまった。
黒人の合唱団が村へやってきて、たいへんな評判だった。トムとジョー・ハーパーはバンドを組織して、二日間ばかり、おもしろく遊んだ。
すばらしいはずの四日の独立祭すら、ある意味では落第だった。大雨が降ったからだ。したがって行進もなかった。また、世界じゅうでいちばん偉《い》大《だい》な人物であり(そうトムは信じていた)、上院議員のなかの上院議員ともいうべきベントン氏が、身長二十五フィートどころか、それに近い大男でもなかったので、トムは、これにも失望した。
サーカスがやってきた。少年たちは、その後三日間、ボロきれでテントをつくってサーカスごっこをした――入場料は男の子がピン三本、女の子は二本だった――しかし、この遊びも、すぐあきられてしまった。
占《うらな》い師と催眠術師《さいみんじゅつし》やってきたが、彼らが去ったあとの村は、いっそうさびしくつまらなくなった。
たまにではあったが子供たちの園遊会が開かれた。それは、あまりにも楽しく、しかもめったに催《もよお》されることがなかったので、つぎの会までの待ち遠しさを、いっそう耐《た》えがたいものにしたにすぎなかった。
ベッキー・サッチャーは、休みのあいだ両親といっしょに暮《くら》すためにコンスタンチノープルの家に帰ってしまっていた――だから、どっちを向いても、トムは、あまり楽しくなかった。
殺人事件の恐《おそろ》ろしい秘密は、どこまでもつきまとう不安のたねで、たえず痛みつづける癌《がん》のようなものだった。
それから麻疹《はしか》がはやった。
トムは、二週間というもの世間や世間の出来事から離《はな》れて、病床《びょうしょう》に囚《とら》われの身となっていた。トムの病気は、かなり重くて、どんなことにも興味をひかれなかった。ようやく外出できるようになってみると、あらゆる人や物に、なさけない変化が起っていた。「宗教復興運動」がくりひろげられて、猫《ねこ》も杓子《しゃくし》も「信心家」になっていた。大人ばかりでなく、子供たちまでそうなのだ。不信心な顔を一つでも見つけて安心したいと、トムは、あてのない望みをいだいて、うろつきまわったが、いたるところで失望した。彼はジョー・ハーパーが聖書を勉強しているのを見て、悲しそうに、このいたましい場面から顔をそむけた。ベン・ロジャーズを探すと、彼は信仰《しんこう》をすすめるパンフレットをバスケットにつめて、貧《びん》乏人《ぼうにん》たちを訪《たず》ねまわっていた。ジム・ホリスを探しあてると、彼は今度のトムの麻疹を、ありがたい神の警告だと言った。トムの出会う少年たちは、彼の重い心に一トンずつ重荷を加えた。絶望のあまり、とうとうトムはハックルベリー・フィンのふところに飛びこんだ。そして、ハックルベリーから聖書の引用句を聞かされると、トムは、なさけなくなって、こそこそと家に帰り、この村で自分だけが永久に救われないのだと思いながら、力なくベッドにもぐりこんだ。
その夜、すさまじい暴風雨がおそった。しのつく雨と、耳をつんざくような雷鳴《らいめい》と、目もくらむほどの電光をともなっておそってきた。トムは頭から毛布をかぶって、彼の受けるべき天罰《てんばつ》を、ぶるぶる震《ふる》えながら待っていた。というのは、この天変は、すべて自分のために起ったのだということを、彼は頭から信じこんでいたからだ。自分が罰当《ばちあた》りなことばかりするので、神さまが我《が》慢《まん》できなくなって怒りだしたのだ、と彼は信じていたのだ。虫一匹《いっぴき》殺すのに一個中隊の砲兵《ほうへい》をくり出したら、トムだって、あまりに大げさすぎて火薬の浪《ろう》費《ひ》だと思うだろうが、彼のような虫けらにもひとしい子供一人を懲《こ》らしめるために、こんな大がかりな暴風雨を起すということについては、すこしも変だとは考えなかった。
やがて暴風雨は、しだいに衰《おとろ》えて、目的を果さずに引きあげた。トムが感じた最初の衝《しょう》動《どう》は、これに懲りて行いを改めることだった。そして、つぎに感じた衝動は待つことだった――もう暴風雨は起りそうもなかったからだ。
翌日、またお医者さんが訪ねてきた。トムの病気がぶり返したのだ。仰《あお》向《む》けに寝たままの今度の三週間は、一時代ほども長く感じられた。ようやく外出ができるようになったとき、彼は、どんなに自分がさびしい人間であるか、どんなに、友だちもなくひとりぼっちであるかということを考えて、病気がなおったことも、それほどありがたいとは思えなかった。彼は仲間を求めてぶらぶら通りをうろついた。すると、ジム・ホリスを裁判官にして子供たちが法廷《ほうてい》ごっこをしているのを見つけた。それは猫の殺人事件で、猫に殺された犠《ぎ》牲者《せいしゃ》の小鳥がそばにおいてあった。それから、ジョー・ハーパーとハック・フィンの二人が、盗《ぬす》んだメロンを路地で食べているのを見つけた。かわいそうに彼らもトムのように、またぶりかえしたのだ。
第二十三章 マフ・ポッターを救う
眠《ねむ》気《け》を誘《さそ》うような空気が、ついにゆり動かされた――しかも、はげしくかき立てられた。例の殺人事件の公判が法廷で開かれることになったのだ。それは、たちまち村じゅうの騒《さわ》がしい話題になった。トムは、この問題から心をそらすことができなかった。殺人事件が話題にのぼるたびに、心臓が縮みあがった――というのは、良心に責められ、恐怖《きょうふ》におびえていたので、そういう話題を持ち出すのは、彼《かれ》に「カマ」をかけて引っかけようとするためだ、と信じこんでいたからだ。彼が、その事件について何かを知っていると疑われるはずはないとわかっていたが、それでも、この話題にとりまかれると、いい気持がしなかった。だから、いつもびくびくしていなければならなかった。トムは、ハックと話をするために、彼を人目につかない場所へつれ出した。わずかなあいだでも、秘密をしゃべりあい、同じ悩《なや》みを悩んでいる友だちと重荷を分ちあえば、いくらか気持が楽になるものだ。それにトムは、ハックが誓《ちか》いを破っていないことをたしかめたかったのだ。
「ハック、誰《だれ》かにあのことをしゃべったかい?」
「あのことって?」
「わかってるじゃないか、あのことさ」
「ああ、あのことか――むろん、しゃべらないさ」
「一言も?」
「一言もしゃべりゃしないよ。ほんとうだぜ。なぜ、そんなことをきくんだい?」
「心配だからさ」
「トム・ソーヤー、あのことがばれたら、おれたちは二日と生きていられないんだぞ。おまえだって、それは知ってるはずだ」
トムは安心した。しばらく間をおいてから彼は言った。
「ハック、世間のやつらが誰かを使っておまえにしゃべらせるようなことはないだろうね?」
「おれにしゃべらせるだって? おれが、あの混血の悪党に殺されたくなったら、しゃべるかもしれないが、さもないかぎり、おれがしゃべるようなことは絶対にないさ」
「それで安心したよ。おれたちが黙《だま》っているかぎり、おれたちは安全だ。だけど、念のため、もう一度誓いを立てよう。そのほうが、もっと確かだ」
「いいとも」
二人は、恐《おそ》ろしい誓いの言葉で、あらためて誓約《せいやく》した。
「世間じゃ、どんなことを言ってるんだい、ハック? おれも、いろいろ聞いてるが」
「噂《うわさ》かい? マフ・ポッターのことで、もちきりだ。あれを聞いてると、おれは冷汗《ひやあせ》のかきどおしで、たまらねえから、どこかへ逃《に》げ出そうかと思ってるんだ」
「おれが聞いたのも、それと同じだ。もうマフは助からないだろうな。ときどきマフがかわいそうだと思わないかい?」
「ときどきどころか、しょっちゅう思ってるよ。あいつは、ろくなやつじゃないが、悪いことは何一つしちゃいないんだ。酔《よ》っぱらう金を稼《かせ》ぐために、ときどき釣《つ》りをして、そのへんをうろつくだけなんだ。だけど、そんなことは、おれたちだって、みんなやってるんだ――すくなくとも、たいていの人は――牧師さんだって。マフは、いいやつだよ――いつだったか、二人分の魚がなかったとき、魚を半分わけてくれたことがある。おれがみじめになったときには、いつもおれの味方をしてくれたんだ」
「うん、おれも凧《たこ》を直してもらったことがある。それから釣糸に針をつけてもらったこともある――あいつを、あそこから出してやれるといいんだがな」
「駄目《だめ》だよ。そいつはできないよ。それに、そんなことをしたって、何にもなりゃしないよ。もう一度つかまるだけのことさ」
「そうだな――そうだろうな。だけど、世間のやつらが、あいつのことを悪《あく》魔《ま》みたいに言っているのを聞くのがつらいんだ。あいつがやったわけじゃないのに」
「おれもそうなんだ、トム。世間じゃ、あいつのことを、この国でいちばん悪党面《あくとうづら》をした悪党だの、これまで首をくくられなかったのがふしぎだなんて言ってやがるんだ」
「そうだ、世間のやつらは、いつも、そんな言いかたをするんだ。もし、あいつが釈放されたら私刑《リンチ》にしてやるなんて言ってやがる」
「ほんとにやるかもしれないよ」
二人は、長いあいだ話をしていたが、ほとんど心のなぐさめにはならなかった。夕闇《ゆうやみ》のせまるころ、二人は、なんということもなく、さびしい狭《せま》い牢《ろう》屋《や》のあたりをうろついていた。おそらく何かが起って彼らの悩みを吹《ふ》き払《はら》ってくれるかもしれないと、それとなく期待していたのだろう。しかし、何事も起らなかった。この不幸な囚人《しゅうじん》に関心をもつ天使や妖精《ようせい》は、どこにもいないらしかった。
二人の少年は、これまで何度もやったように、牢屋の格《こう》子《し》のところに近づいて、ポッターにタバコとマッチを渡《わた》してやった。牢屋は平屋で、番人はいなかった。
何か差し入れものをして礼を言われると、いつも、二人は良心がうずいたが、このときには、とくに胸にこたえた。そして、ポッターがつぎのように言ったときには、自分たちが、この上もない臆病《おくびょう》な裏切者のように感じた。
「おまえさんたちは、ずいぶんおれに親切にしてくれるな――この村じゅうの誰よりも親切だ。おれは忘れねえよ。一生忘れねえ。ときどき、おれは、ひとりごとを言うんだ、『おれは、子供たちの誰にも凧や、そのほかのものを直してやり、いい釣場を教えてやり、できるだけ親切にしてやった。だが、いま、おれがこんなに困っているというのに、誰も、おれのことなんか思い出してくれねえ。だが、トムはそうじゃない、ハックもそうじゃない――この二人だけは、おれを忘れちゃいねえ。だから、おれも、この二人を忘れやしねえぞ』ってな。ところで、おれは、とんだことをしてしまったんだ――酔っぱらっていて正気じゃなかった。そうとしか考えられねえ。しかし、そのために、おれは首をしめられることになっちまったんだ。だけど、それが正しいんだ。それが正しいんだし、それがいちばんいいとおれは思ってる――いや、もうそんな話はよそう、おまえさんたちを、いやな気持にさせたくねえからな。おまえさんたちは、おれに親切にしてくれた。だが、一つだけ言っておきてえことがある。それは酔っぱらっちゃいけねえってことだ。酒さえ飲まなけりゃ、誰だって、こんなところへ入れられねえですむはずだ――もうちょっと西のほうに立ってくれ。そう、それでいい。こんななさけないことになって、おまえさんたち以外にゃ訪ねてきてくれる人もいねえときに、親切にしてくれる人の顔を見るってことは、何よりうれしいもんだ。親切な、いい顔だ――親切な、いい顔だ。かわりばんこに負《お》んぶして、おれにさわらせてくれ――うん、それでいい。握手《あくしゅ》をしよう――おまえさんたちの手は格子のあいだからはいるが、おれの手は大きすぎるようだ。小さなかわいらしい手だ――だが、この小さな手がマフ・ポッターをなぐさめてくれたんだ。これからも、もっとなぐさめてくれるだろう」
トムは、みじめな気持で家に帰った。その夜の夢《ゆめ》は、この上もなく恐ろしいものだった。翌日と翌々日、トムは裁判所のなかへはいってみたいという強い衝動《しょうどう》に駆《か》られて、そのあたりをうろつきまわったが、無理に自分を抑《おさ》えつけて、なかへははいらなかった。ハックも、それと同じ経験をした。二人は、細かく気をくばって顔を合わせないようにしていた。二人とも、ときどき立ち去っては、同じ陰《いん》気《き》な魅力《みりょく》に引きつけられて、またそこへ立ち戻《もど》った。法廷から誰かがぶらりと出てくるたびにトムは耳をそばだてたが、聞くのは、おもしろくないニュースばかりだった。罠《わな》にはめられたポッターにとって、事態はますます不利になりつつあった。二日目が終ったとき、村の噂では、インジャン・ジョーの証言が決定的なものになり、陪審員《ばいしんいん》の判決は、もうきまったも同然だということだった。
その夜、トムは遅《おそ》く帰ってきた。例によって、窓から寝室《しんしつ》へ忍びこんだが、ひどく興奮していて、長いあいだ寝《ね》つかれなかった。翌朝、村の人たちは、大事件の当日だというので、ぞくぞく裁判所へつめかけた。満員の傍《ぼう》聴席《ちょうせき》は男と女が半分くらいずつだった。待ちくたびれたころ、陪審員が列をつくってはいってきて、さだめられた席についた。まもなく法廷に、蒼《あお》ざめ、やつれ、おびえ、希望をうしなったポッターが、手錠《てじょう》をかけられたまま引き出され、好《こう》奇《き》心《しん》に満ちたすべての人の視線を浴びながら被告席についた。これに劣《おと》らず人々の視線を集めたのは、インジャン・ジョーで、彼は、いつものとおり陰気に黙りこくっていた。さらに、しばらく待つうちに、裁判官が席につき、州の役人が開廷を宣した。型どおりに弁護士たちがひそひそと打合せ、つづいて書類がかき集められた。こうしたこまごましたことと、そのため開廷が遅《おく》れたことが、印象深い、魅力のある、ものものしい雰《ふん》囲気《いき》をつくりあげた。
一人の証人が呼び出されて、殺人が行われた朝、マフ・ポッターが小川で体を洗っているのを見たということと、まもなく彼がこそこそと姿を消したということを証言した。さらに二、三の質問のあとで検事が言った。
「質問があったら証人からきいてもらいたい」
被告は、ちょっと目をあげたが、自分の弁護士がこう答えるのを聞くと、また目を伏《ふ》せた。
「質問はありません」
つぎの証人は、死体の近くでナイフを発見したことを証言した。検事は言った。
「質問があれば、証人からきいてもらいたい」
「べつに質問はありません」とポッターの弁護士が答えた。
三人目の証人は、そのナイフをポッターが持っているのを、たびたび見たことがある、と証言した。
「何か質問があったら証人からきいていただきたい」
ポッターの弁護士は質問をことわった。傍聴人の顔に不満の色があらわれはじめた。この弁護士は何の努力もしないで依《い》頼人《らいにん》の生命《いのち》を投げ出してしまうつもりだろうか?
さらに何人かの証人が呼び出されて、殺人現場につれてこられたときのポッターの不《ふ》審《しん》な挙動について申し立てたが、彼らは、きびしい反対尋問《じんもん》も受けずに証言台をおりた。
あの朝、墓地に居《い》合《あわ》せたものなら、みなよくおぼえている惨《さん》事《じ》の詳細《しょうさい》について、信頼すべき証人から、いろいろと証言が行われたが、どの証人に対してもポッターの弁護士は反対尋問をしなかった。傍聴人の驚《おどろ》きと不満は、ざわめきとなってあらわれ、裁判長から注意を受けた。検事が言った。
「市民の信頼すべき証言によって、この恐るべき犯行は、明らかにただいまこの法廷に出頭している哀《あわ》れな被告が犯《おか》したものと認めます。本件の審理は、これでうち切ることにいたします」
哀れなポッターは、うめき声を洩《も》らし、両手で顔をおおって、体を、ゆるやかに前後にゆすった。いたましい沈黙《ちんもく》が法廷を支配した。多くの男性は心をうたれ、女性は同情の涙《なみだ》をうかべた。被告の弁護人が立ちあがって言った。
「裁判長閣《かっ》下《か》――今回の審理の当初に私は、被告が飲酒による盲目《もうもく》的かつ無責任な精神錯《さく》乱《らん》の状態において、この恐るべき凶行《きょうこう》を犯したものであることを証明するつもりだと申しあげましたが、いまその考えを変えました。本弁護人は、その申し立てをいたしません」(それから書記に向って言った)「トマス・ソーヤーを呼んでいただきたい」
法廷を埋《う》めた人たちの顔には、奇妙《きみょう》な驚きの色がうかんだ――ポッターでさえ妙な顔をした。トムが立ちあがって、証言台に上ると、あらゆる目が、いぶかしそうな興味をもって、トムに集中した。少年は、なんとなく狂気《きょうき》じみて見えた。というのは、彼は、ひどくおびえていたからだ。宣誓《せんせい》が行われた。
「トマス・ソーヤー、六月十七日の真夜中ごろ、きみは、どこにいましたか?」
トムはインジャン・ジョーの不敵な面構《つらがま》えを見たとたんに舌が動かなくなってしまった。傍聴人は、息をのんで耳をそばだてていたが、トムの口からは言葉が出てこなかった。しかし、しばらくすると、トムは、いくらか気力をとり戻し、法廷の一部分にしかきこえないくらいの声を、どうにか出すことができた。
「墓地にいました」
「もうすこし大きな声で言ってください。こわいことはない。きみは、どこに――」
「墓地にいました」
軽蔑《けいべつ》するような薄《うす》ら笑いがインジャン・ジョーの顔にうかんだ。
「ホス・ウィリアムズの墓の近くにいたのですね?」
「そうです」
「はっきりと――もっと大きい声で言ってください。どのくらい近くにいましたか?」
「ぼくとあなたくらいの近さです」
「かくれていたんですね?」
「そうです」
「どこにですか?」
「墓地の端《はし》の楡《にれ》の木の陰《かげ》です」
インジャン・ジョーは、目立たない程度にぎくりとした。
「誰かいっしょにいましたか?」
「はい、ぼくがいっしょだったのは――」
「ちょっと待ってください。友だちの名は言わなくてよろしい。適当なときに、その人に出てもらいます。ところで、そのとききみは、何か持って行きましたか?」
トムは困ったようにもじもじした。
「はっきり言ってください――心配することはない。真実というものは尊敬すべきものです。何を持って行きましたか?」
「たいしたもんじゃないんです――死んだ猫《ねこ》です」
くすくす笑いが起った。裁判長は、これを制した。
「その猫の骸骨《がいこつ》が、ここにあります。さて、私たちに、起ったことをすっかり話してください――自分の話しいいように話してくれればいい――一つも省略しないで――こわがらないで」
トムは話しはじめた――はじめは、ためらいがちだったが、なれるにつれて、すらすらと言葉が出るようになり、しばらくたつと、法廷は、しんと静まりかえって、きこえるのはトムの声だけだった。あらゆる目がトムにそそがれていた。傍聴人は口をあけ、息をひそめて耳をかたむけ、この物語のもつ不気味な魅力に引きこまれて、時の移るのを忘れていた。抑えつけられた彼らの感情の緊張《きんちょう》が頂点に達したのは、少年が、つぎのように言ったときだった。
「――そして、お医者さんが板切れで殴《なぐ》りつけてマフ・ポッターが倒《たお》れたとき、インジャン・ジョーはナイフを握《にぎ》って飛びかかり、それで――」
すさまじい物音がしたと思うと、混血児ジョーは電光のように窓に飛びつき、邪《じゃ》魔《ま》をするすべてのものを押《お》しのけて逃げてしまった。
第二十四章 得意の昼、恐怖《きょうふ》の夜
トムは、ふたたび輝《かがや》かしい英雄《えいゆう》になった――大人たちからは賞讃《しょうさん》され、子供たちからは羨望《せんぼう》された。彼《かれ》の名前は不朽《ふきゅう》の印刷物にさえなった。村の新聞が書き立てたからだ。もし絞首刑《こうしゅけい》にされるようなことさえなければ、いつか大統領になるかもしれないと信じるものもいた。
例によって、気まぐれで不合理な世間は、手のひらを返すようにマフ・ポッターを迎《むか》え入れ、前にいじめたと同じくらいいたわった。しかし、こういう行いは、世の中のためになることなのだから、とやかく非難すべきではないだろう。
トムは、一日一日を栄光と歓喜に包まれてすごしたが、夜になると恐怖に苦しめられた。夢《ゆめ》という夢にインジャン・ジョーがあらわれて、殺意に燃える目で彼を睨《にら》みつけるのだ。どんなに誘《さそ》われても、夜は外へ出る気になれなかった。ハックも同じような恐怖の状態にあった。というのは、トムが、あのすばらしい裁判の前の晩に、何もかも弁護士にうち明けてしまったからだ。そしてハックは、インジャン・ジョーが逃《に》げたので、法廷《ほうてい》で証言しなくてもいいことにはなったが、彼が事件に関係があることが洩《も》れはしないかと、ひどく不安でならなかったからだ。ハックは、弁護士に口外しないと約束《やくそく》してもらったが、しかし、それが何になるだろう? トムが良心の呵責《かしゃく》に耐《た》えかねて、弁護士の家を訪《おとず》れ、あれほど固いおごそかな誓《ちか》いで封《ふう》じたはずの口から、恐《おそ》ろしい秘密をうち明けてからというもの、ハックの人類に対する信頼《しんらい》は、ほとんど消えうせてしまった。
毎日トムはマフ・ポッターの感謝ぶりを見ては、うち明けてよかったと思ったが、夜になると、黙《だま》っていればよかったと思った。
一日のうち半分は、インジャン・ジョーは決してつかまらないだろうと思い、あとの半分は、つかまるだろうと思った。トムは、ジョーが死んで、自分でその死体を見るまでは、安心して呼吸《いき》もできないと信じていた。
賞金がかけられ、その地方一帯が捜索《そうさく》されたが、インジャン・ジョーは見つからなかった。あのどこにでもいるくせに、人をこわがらせる、驚《おどろ》くべき存在、「探偵《たんてい》」なるものが、セント・ルイスからやってきた。そして、そのへんを探しまわり、首を振《ふ》り、わかったような顔つきをして、大成功をおさめた。しかし、その成功というのは、彼と同じ職業の人たちなら誰《だれ》でもおさめるような種類のものだった。つまり「手がかり」を発見したのだ。しかし「手がかり」を殺人犯人として絞首台に送ることはできないわけだ、だから、その探偵が仕事を切りあげて引きあげて行ったあとも、トムの不安は、前とすこしも変らなかった。
一日一日が、のろのろと過ぎた。そして、一日が終るごとに、不安は、すこしずつ軽くなっていった。
第二十五章 宝探し
普《ふ》通《つう》の少年なら、いつか一度は、どこかへ行って、かくされた宝物を掘《ほ》り出したいという、はげしい欲望にとりつかれる時期が一度は訪《おとず》れるものだ。ある日、トムは突然《とつぜん》、この欲望におそわれた。彼《かれ》はまずジョー・ハーパーを探したが、見つからなかった。そこでベン・ロジャーズを探した。ロジャーズは釣《つ》りに出かけていて留守だった。そのうち、たまたま彼は「人殺し」のハック・フィンに出会った。ハックなら、相棒としても、うってつけだ。トムはハックを人のいないところへつれて行って、計画をうち明けた。ハックは、よろこんで賛成した。おもしろくて、金のいらない計画なら、どんな計画でも、ハックは、よろこんで賛成するのだ。「時は金なり」というが、彼は、金でない種類の時間を、ありあまるほど持っていたからだ。
「どこを掘るんだい?」とハックが言った。
「どこだっていいんだ」
「どこにでもかくしてあるのかい?」
「そうじゃないんだ。特別な場所にかくしてあるんだ――たとえば島とか、古い枯《かれ》木《き》の枝《えだ》の端《はし》の下の、ちょうど真夜中にその枝の影《かげ》が落ちるところにある朽《く》ちた箱《はこ》とか。だけど、たいていは幽霊《ゆうれい》屋《や》敷《しき》の床下《ゆかした》だ」
「誰《だれ》がかくしたんだい?」
「もちろん泥棒《どろぼう》さ――誰だと思ったんだい? 日曜学校の校長先生だとでも思ったのかい?」
「そうでもないが――おれだったら、かくしたりなんかしないな。じゃんじゃん使って愉《ゆ》快《かい》に遊んじゃうよ」
「おれだってそうだ。だけど泥棒はそうしないんだ。やつらは、かならずそいつをかくして、そのままにしておくんだ」
「あとで取りにこないのかい?」
「うん、取りにくるつもりだろうが、目じるしを忘れてしまうか、さもなけりゃ死んでしまうんだ。とにかく、長いあいだかくしておくもんだから錆《さ》びてくるんだ。そのうちに誰かが、目じるしを見つける方法を書いた古ぼけて黄いろくなった紙を発見するんだ――だが、それを解読するのに一週間もかかるんだ、その紙に書いてあるのは、たいてい符《ふ》号《ごう》や象《しょう》形文《けいも》字《じ》だからね」
「ショウ――何だって?」
「ショウケイモジ――絵とかそういったふうなもので、見ただけでは意味がありそうにも思えないものなんだ」
「そんな紙を、おまえは持っているのかい、トム?」
「いや」
「じゃ、どうしてその目じるしを見つけるつもりなんだい?」
「目じるしなんかいらないさ。泥棒が宝物を埋《う》めるのは、幽霊屋敷の床下か、島か、枝が一本突《つ》き出ている枯木の下か、そういう場所にきまっているんだ。そうだ、おれたちは、こないだ、ジャクソン島で、ちょっとやってみたことがある。だから、そのうち、もう一度やってみようじゃないか。それから、スティルハウス川をのぼって行くと古い幽霊屋敷がある。枯枝のついた木だって、たくさんある――すごくたくさんあるぜ」
「そういう木の下なら、どこにでも埋まっているのかい?」
「何をいうんだ。そんなことはないさ」
「それじゃ、どの木に当ってみたらいいかわからないじゃないか」
「片っぱしから当ってみるんだ」
「そんなことをしたら、夏じゅうかかるぜ、トム」
「それがどうしたっていうんだ? 錆びかかってはいるが、すばらしい金貨が百ドルもはいっている真鍮《しんちゅう》の壺《つぼ》か、ぎっしりダイヤモンドがつまっている朽ちた箱でも見つけてみろ。夏じゅうかかることくらい、どうだというんだ!」
ハックは目を輝《かがや》かせた。
「そいつはすばらしい。すばらしすぎるくらいだ。その百ドルは、おれがもらうぜ。そのかわりダイヤモンドはいらないよ」
「いいとも。おれは、どんなことがあってもダイヤモンドを捨てるようなことはしないぜ。なかには一粒《ひとつぶ》二十ドルもするやつだってあるんだ。どんな小さなやつだって七十五セントから一ドルぐらいするんだぜ」
「ふうん! ほんとかい?」
「ほんとだとも――誰にきいたって、そう言うにきまってる! おまえはまだダイヤモンドを見たことがないのか?」
「見たことがないんだ」
「王さまは、たくさん持ってるよ」
「でも、トム、おれは王さまなんか一人も知らないよ」
「それはそうだろう――だけど、ヨーロッパへ行くと、たくさん飛びまわってるぜ」
「王さまって、飛ぶのかい?」
「飛ぶ?――ばかなことをいうなよ、王さまが飛んだりするもんか」
「じや、なぜ飛ぶって言ったんだい?」
「ばかだな、ヨーロッパへ行くと、たくさん見られるって言っただけさ――飛びゃしないよ――何のために飛ぶんだい? おれが言ったのは、王さまは、そこらじゅうに――大勢いるって意味だよ。たとえば、せむしのリチャードのように」
「リチャード? 名前は何ていうんだい?」
「名前なんかないよ。王さまは苗字《みょうじ》しか持っていないんだ」
「ふうん」
「ほんとだぜ」
「ふうん、王さまが苗字しかいらないっていうんなら、それでもいいさ。だけど、おれは、王さまになって、黒《くろ》ん坊《ぼう》みたいに苗字だけしかないなんてことになるのは、ごめんだな。それより――おい、どこから掘りはじめるんだい?」
「さあ。スティルハウス川の向うの丘《おか》の上の、あの枯木の枝の下を掘ってみようじゃないか――どうだい?」
「うん、そうしよう」
二人は、こわれかけたつるはし《・・・・》とシャベルを手に入れて、二マイルほどの徒歩旅行に出かけた。やがて彼らは、汗《あせ》だくになり、呼吸《いき》を弾《はず》ませながら目的地へつき、近くの楡《にれ》の木の下に身を投げ出し、休息して、タバコをふかした。
「おもしろいね」とトムが言った。
「うん、おれもおもしろいよ」
「おい、ハック、ここで宝物を見つけたら、おまえは自分の分け前を、どうするつもりだい?」
「そうだな、毎日パイを食べて、ソーダ水を飲んで、サーカスがくるたびに見に行くよ。きっと、おもしろい暮《くら》しができるぜ」
「すこしも貯金をしないのかい?」
「貯金だって? 何のために貯金するんだい?」
「だんだんふやして、生活の資金《もとで》をつくるためにさ」
「そんなことをしたって、何にもならねえよ。さっさと使ってしまわないと、いまに親《おや》父《じ》がこの村へ帰ってきて、みんな取りあげてしまうもの。そうしたら、たちまち元も子もなくなるにきまっている。トム、おまえはどうするつもりだい?」
「おれは新しい太《たい》鼓《こ》と、よく切れる剣《けん》と、赤いネクタイと、ブルドッグを一匹《いっぴき》買って――結婚《けっこん》するつもりだ」
「結婚する!」
「そうさ」
「トム、おまえは――どうかしてるぞ」
「いいさ、いまにわかるよ」
「結婚なんて、これ以上ばかげたものはないぜ。うちの親父とおふくろを見ろ。しょっちゅう喧《けん》嘩《か》だ。喧嘩ばかりしていやがった。おれは、よくおぼえているんだ」
「そんなことは大丈夫《だいじょうぶ》だ。おれが結婚しようと思ってる女の子とは喧嘩なんかしないよ」
「トム、女の子は、みんな同じだぞ。みんな相手を引っ掻《か》くぜ。もうすこし考えたほうがいいぜ。そのあまっ子は何という名前だい?」
「あまっ子じゃないよ――女の子だ」
「どっちだって同じじゃないか。あまっ子っていう人もいるし、女の子という人もいる――どっちだっていいんだ。とにかく、何という名前だい?」
「いつか言うよ――いまは言えないんだ」
「いいとも――そんならそれでいいさ。ただ、おまえが結婚すると、おれは、前よりも、もっとさびしくなるだけだ」
「そんなことはないさ。おれの家へきて、いっしょに住めばいい。さあ、もう、こんな話はやめて、仕事にかかろう」
二人は、汗だくになって働いたが、何も出てこなかった。半時間も掘りつづけたが、それでも何も出てこなかった。ハックが言った。
「泥棒は、いつもこんなに深く埋めるのかい?」
「そういうこともあるけど、いつもそうとはかぎらないさ。たいていは、そうじゃないんだ、たぶん場所をまちがえたんだろう」
そこで今度は場所を変えて掘りはじめた。前にくらべると、いくぶん勢いはにぶったが、それでも二人は働きつづけた。黙《だま》って、こつこつ掘りつづけた。とうとうハックはシャベルによりかかり、袖《そで》で額の汗を拭《ふ》いて言った。
「ここを掘ってしまったら、今度は、どこを掘るんだい?」
「カーディフの丘の、後家《ごけ》さんの家の裏の枯木の下を掘ることになるだろう」
「おれも、あすこなら見込《みこ》みがあると思うよ。でも、せっかく掘り出しても、後家さんに取りあげられるんじゃないかね。あの土地は後家さんのものなんだから」
「取りあげられるって? 一度は取りあげようとするかもしれないが、かくされた宝物は、誰が見つけようと、その人のものになるんだ。誰の土地だろうと、そんなことは問題じゃないんだ」
これでハックも安心した。仕事はつづけられた。やがてハックが言った。
「ちえッ! また場所をまちがえたらしいぞ。トム、どう思う?」
「変だな。こんなはずはないんだが――ときどき魔法使《まほうつかい》が邪魔《じゃま》することがあるから、たぶんそのせいで、うまくいかないんだろう」
「ばかなことをいうなよ。魔法使は昼間はどうすることもできないじゃないか」
「うん、そうだったな。それに気がつかなかったよ。あ、わかった! おれたちは、なんてばかなんだろう! 真夜中に枝の影が落ちるところを見つけて、そこを掘らなきゃいけなかったんだ!」
「そうか。それじゃ、残念ながら、これまでの仕事は、骨折り損のくたびれもうけか。畜《ちく》生《しょう》め、晩にまた出直してこなけりゃならねえな。だけど、ずいぶん遠いぜ。出られるかい?」
「きっと出てくるよ。どうしても今夜やらなくちゃいけないんだ。誰かがこの穴を見つけたら、たちまちここに宝物があることに気がついて、横取りするにちがいないからね」
「よし、じゃ今夜、おまえのところへ行って、猫《ねこ》の鳴き声で合図するよ」
「いいとも。道具は茂《しげ》みのなかへかくしておこう」
その夜、少年たちは、約束《やくそく》した時間に、ふたたびここへきた。二人は木《こ》陰《かげ》に腰《こし》をおろして時刻を待った。それは、さびしい場所で、古い伝説のせいで、ひどく恐《おそ》ろしく感じられる時刻だった。亡霊が、ざわざわとそよぐ木の葉の陰でささやき、暗い隅々《すみずみ》には幽霊がひそんでいるように思われた。遠くから犬の遠《とお》吠《ぼ》えがきこえてくると、梟《ふくろう》が陰《いん》気《き》な声で、それにこたえた。この不気味さに圧倒《あっとう》されて、二人の少年は、ほとんど口をきかなかった。やがて少年たちは、十二時になったと判断して、枝の影の落ちた場所を見定めて掘りはじめた。希望がわいてきた。興味が強くなるにつれて、努力の度合いも強くなった。穴は、しだいに深くなった。つるはしが何かに当って音をたてるたびに胸を躍《おど》らせ、そして、そのたびに失望させられた。つるはしに当ったのは、石か土塊《つちくれ》にすぎなかった。とうとうトムが言った。
「駄目《だめ》だよ、ハック、またまちがったんだ」
「まちがえるはずはねえよ。たしかにここに影が落ちたんだ」
「それはそうだけれど、もう一つ別なことがあるんだ」
「何だい、それは?」
「おれたちは、だいたい十二時だろうと思っただけだ。ことによると、遅《おそ》すぎたかもしれないし、早すぎたかもしれないんだ」
ハックはシャベルを手からはなした。
「そうだ」と彼は言った。「それでうまくいかなかったんだ。もう、この仕事はあきらめようよ。おれたちには、たしかな時間がわからないし、それに、こんなことをするのは恐ろしすぎる。こんな夜だし、それに魔法使や幽霊が、うろついている時刻だもの。おれは、いつも、うしろに誰かがいるような気がするんだが、ふり返ってみるのがこわいんだ。ことによると、すぐうしろに何かが機会をねらっているかもしれないからね。ここへきてから、しょっちゅう体じゅうがぞくぞくしているんだ」
「うん、おれだってそうだよ、ハック。泥棒が宝物を木の下に埋めるときには、たいてい、死人をいっしょに埋めて、そいつに宝物の見張りをさせるんだ」
「ほんとかい?」
「ほんとだとも。どの本にも、そう書いてある」
「トム、おれは死人のいるところをうろつくなんてまっぴらだよ。死人にかかわりあうと、ろくなことはないぜ」
「おれだって、死人なんかに出てきてもらいたくはないさ。ここにいる死人が、しゃれこ《・・・・》うべ《・・》を突き出して、何か言ったとしたら、おまえ、どうする?」
「よせよ、トム! 気味がわるいじゃないか!」
「そうだよ、ハック、おれだって、いい気持じゃない」
「おい、トム、ここはやめにして、どこかほかのところを探してみようよ」
「うん、そのほうがいいだろう」
「どこがいいだろう?」
トムは、しばらく考えてから言った。
「幽霊屋敷だ。あそこがいい」
「いやだよ、トム、おれは幽霊屋敷なんかごめんだぜ。だって、死人よりも、幽霊のほうが、よっぽどこわいよ。死人は、ものを言うかもしれないが、経帷子《きょうかたびら》を着て、幽霊みたいに、こっちが気づかないうちに、すっとはいってきたり、うしろから覗《のぞ》きこんだり、歯を出して笑ったりはしないからね。おれはいやだよ、トム――誰だっていやだぜ」
「それはそうさ。だけど、ハック、幽霊は夜でなければ出てこないじゃないか――昼間なら邪魔しないよ」
「そうだな――だけど、昼でも夜でも、幽霊屋敷へは誰も行かないぜ。それは、おまえだって知ってるだろう?」
「うん、だが、それは、あすこで人が殺されたからだよ。それで行きたがらないんだ。夜だって、あの屋敷の近くへ怪《あや》しいものが出たことはないんだ――窓のあたりを青い火がふわふわ飛ぶだけで――本物の幽霊じゃないんだ」
「だって、青い火がふわふわ飛ぶとすると、きっとそのうしろには幽霊がいるんだ。理《り》屈《くつ》から言っても、そうなんだ。なぜって、幽霊でもなけりゃ、青い火なんか使うはずないもの」
「それはそうだ。でも、ともかく幽霊は昼間は出てこないんだ。だから、こわがることはないじゃないか」
「よし、わかった。それほどまで言うんなら、幽霊屋敷へ行くことにしよう。だが、こいつは生命《いのち》がけの大仕事だぜ」
このとき二人は丘をおりかけていた。月の光に照らされた下の谷のなかほどに問題の「幽霊屋敷」が、ぽつんと建っていた。垣《かき》根《ね》は、とうの昔《むかし》になくなって、戸口は、生《お》い茂る雑草にふさがれ、煙突《えんとつ》は、むざんに崩《くず》れ落ち、窓は、ぽっかりと口をあけ、屋敷は片隅が落ちこんでいた。二人は、窓のあたりに青い火が見えるのではないかと思って、しばらく眺《なが》めていた。それから、その時と場所にふさわしい低い声でひそひそ話しあいながら、幽霊屋敷から大きく右にそれて、カーディフの丘の裏側の森を抜《ぬ》けて、村へ帰った。
第二十六章 本物の賊《ぞく》
あくる日の昼ごろ、二人の少年は枯《かれ》木《き》の下へきた。道具を取りにきたのだ。トムは一刻も早く幽霊《ゆうれい》屋《や》敷《しき》へ行きたくて、むずむずしていた。ハックも、かなり気持がはずんでいたが、ふと、だしぬけに言った。
「そうだ、トム、今日は何曜日だか知っているか?」
トムは心のなかですばやく日をくってみた。そして、はっとしたように顔をあげた。
「そうか! そいつは、ちっとも気がつかなかったよ!」
「うん、おれも気がつかなかったんだ。いま、ふっと金曜日だってことに気がついたんだ」
「うっかりしていたよ。用心するに越《こ》したことはないからね、ハック。おれたちは、金曜日に、こんなことをはじめたりして、恐《おそ》ろしい目にあったかもしれなかったんだ」
「かもしれないだって? かもしれないどころか、恐ろしい目にあうにきまってるよ。ほかの日なら縁《えん》起《ぎ》のいい日があるかもしれないが、金曜日は絶対駄目《だめ》だ」
「それくらいなことは、どんなばかだって知ってるよ、ハック。おまえがはじめて発見したなんて思いやしないよ」
「おれがはじめてだなんて言いやしないさ。それに、金曜日ってことだけじゃないんだ。ゆうべ、おれはいやな夢《ゆめ》をみたんだ――鼠《ねずみ》の夢なんだ」
「そいつはいけない。悪い前兆だ。その鼠は喧《けん》嘩《か》をしたかい?」
「いや」
「そんならいい。喧嘩をしないときは、ただ災難が身近にあるということを知らせるだけなんだから。災難にかからないように気をつければいいんだ。とにかく今日は、これをやめて遊ぶことにしよう。ハック、おまえはロビン・フッドを知ってるかい?」
「いや。ロビン・フッドって何だい?」
「イギリスじゅうで、いちばんえらい――いちばん立派な人さ。しかも山賊なんだ」
「そいつはすげえや。おれもなりたかったなあ。誰《だれ》のものを盗《ぬす》んだんだい?」
「州の役人とか、僧正《そうじょう》とか、金持とか、王さまとか、そういう人たちからだけ盗むんだ。決して貧乏人《びんぼうにん》は苦しめなかった。貧乏人の味方なんだ。それで、いつも盗んだものを半分は貧乏人に分けてやったんだ」
「すごく痛快な男だったんだな、きっと」
「そうだよ、ハック。実際、誰よりも立派な人だったんだ。そういう人は、いまは、もういないね。イギリスじゅうで、どんなやつが相手でも、手もなくやっつけてしまったんだ。それに、水松《いちい》の弓で、一マイル半も離《はな》れたところから、十セント銀貨を狙《ねら》って百発百中だったんだ」
「水松の弓って何だい?」
「知らないよ。もちろん何かの弓だろう。そして、銀貨の端《はし》にしか当らないと、その場に坐《すわ》りこんで、泣いて――呪《のろ》うんだ。そのロビン・フッドごっこをして遊ぼうや。おれが教えてやるよ」
「うん、そうしよう」
二人は、日が暮《く》れるまでロビン・フッドごっこをして遊んだが、そのあいだに、ときどき幽霊屋敷へ、ものほしそうな目を向けて、明日の希望と掘《ほり》出《だ》しものの見込《みこ》みについて、言葉をかわした。太陽が西に沈《しず》みかけるころ、彼《かれ》らは木々の長い影《かげ》を横ぎって家路につき、まもなくカーディフの丘《おか》の森に姿を消した。
土曜日の昼すこし過ぎに、二人の少年は、ふたたび枯木の下にいた。彼らは、木《こ》陰《かげ》でタバコをふかして、しばらく話しあい、それから、たいして望みをかけたわけではなかったが、このまえ掘りかけた穴を、すこしばかり掘ってみた。それは、あと五、六インチというところまで掘って、あきらめたあとに、誰かほかの人がやってきて、ほんの一掘りで宝物を掘り出すというような例がしばしばある、とトムが言ったからだ。しかし、この際は、そううまくいかなかったので、二人は道具をかつぎ、幸運というものを無視しないで、宝探しの仕事につきもののあらゆる必要条件だけはやってのけたのだと心を納得《なっとく》させながら、そこを立ち去った。
幽霊屋敷についたとき、やけつくような日《ひ》射《ざ》しの下に、ひっそりと静まりかえったその沈黙《ちんもく》には何か不気味な恐ろしいものがあり、また、荒《あ》れはてたその場のさびしさには、ひどく陰《いん》気《き》なものがあって二人は、しばらくのあいだ足を踏《ふ》み入れるのをためらった。やがて二人は戸口ヘ忍《しの》びよって、震《ふる》えながら、なかを覗《のぞ》いてみた。雑草が生《お》い茂《しげ》り、床《ゆか》が抜《ぬ》け落ち、壁《かべ》が崩《くず》れ落ちた一室で、昔風《むかしふう》の煖炉《だんろ》と、何もない窓と、朽《く》ちた階段とが見えた。そこにも、ここにも、いたるところに蜘蛛《くも》の巣《す》が、ぼろきれのように垂れさがっていた。二人は胸をどきどきさせ、声をひそめてささやきあい、かすかな物音でも聞きもらすまいと耳をそばだて、いつでも逃《に》げ出せるように筋肉を緊張《きんちょう》させて、そっと忍びこんだ。
そのうちに、あたりの様子になれて、恐怖《きょうふ》が薄《うす》らぐと、二人は、自分たちの大胆《だいたん》さに感心したり驚《おどろ》いたりしながら、家のなかを、こまかく調べた。それから二階を調べてみたいと思った。これは、みずから退路を断《た》つようなものだが、二人は、たがいに虚勢《きょせい》を張っていたので、もちろん、その結論は一《いっ》致《ち》した。つまり道具を片隅《かたすみ》に投げすてて階段を上ったのだ。ここも階下と同じように荒れはてていた。一隅《いちぐう》に、いわくありげな戸《と》棚《だな》があったが、それは当てはずれで、なかには何もはいっていなかった。しかし、これで二人は自信ができ、闘《とう》志《し》がわいてきた。そこで、仕事にとりかかろうと階段をおりかけたとき――
「しっ!」とトムが声をかけた。
「何だ?」ハックは恐ろしさに顔色を変えて小声でききかえした。
「しっ!……ほら!……きこえるかい?」
「うん!……たいへんなことになった。逃げよう!」
「動いちゃいけない! じっとしてるんだ! やつらは、まっすぐ戸口のほうへやってくる」
かわいそうに二人は、床の上に腹《はら》這《ば》いになり、床板の節孔《ふしあな》に目をあてて、震えながら待っていた。
「立ちどまったぞ……いや、やってくる……ほら、きたぞ。もう口をきくなよ、ハック。えらいことになった。こんなところへくるんじゃなかった!」
二人の男が、はいってきた。トムとハックは、それぞれ心のなかでつぶやいた。「一人は、近ごろときどき村で見かける聾《ろう》唖《あ》のスペイン人の老人だ――もう一人は、いっこうに見たことのないやつだ」
その「もう一人」は、ぼろぼろの服を着た、汚《きた》ならしい男で、人相も決してよくなかった。スペイン人はセラーぺをはおり、白い顎《あご》ひげをのばし、つばの広い帽《ぼう》子《し》の下から長い白髪《はくはつ》を垂らし、緑色の眼鏡をかけていた。家にはいってくるとき、「もう一人」は、低い声で何か話していた。二人は、壁に背を向け、戸口のほうを向いて地面に腰《こし》をおろした。「もう一人」は、まだしゃべりつづけていた。しゃべっているうちに、いくらか警戒《けいかい》をゆるめたらしく、その言葉が、はっきり聞きとれるようになった。
「そいつはいけねえ」と男は言った。「よく考えてみたんだが、どうも感心しねえ。あぶねえぜ」
「あぶねえって?」と、意外にも聾唖のスペイン人が、うなるように言ったので、少年たちは、びっくりした。「この弱虫め!」
その声を聞いて少年たちは縮みあがった。それはインジャン・ジョーの声だった! しばらく沈黙がつづいたあと、ジョーが言った。
「あの河上での仕事ほどあぶねえことはなかったぜ――それでも尻《しり》が割れねえじゃねえか」
「あれは別だ。あんな河上で、近所に一軒《いっけん》も家がねえんだから、よほどヘマをやらねえかぎり、尻が割れる気づかいはねえさ」
「まっ昼間、ここへやってくるほど、あぶねえことはねえぜ――おれたちの姿を見たものは、誰だって怪《あや》しむにきまってるからな」
「それはわかってるさ。だが、あんなヘマをやらかしたあとじゃ、ここほど便利な場所は、ほかにねえんだ。実は、おれはもうこの家を出て行きてえんだ。昨日そうするつもりだったが、ここがまる見えのあそこの丘の上で、あのいまいましい餓鬼《がき》どもが遊んでいやがったので、動いちゃまずいと思って、やめにしたんだ」
これを聞くと、「いまいましい餓鬼」どもは、また震えだし、金曜日に気がついて一日のばすことにしたのは、なんて幸運だったのだろうと思った。そして、心のなかで、一年のばすことにしたら、もっとよかったかもしれない、と思った。
二人の男は食べものをとり出して昼食をはじめた。長いあいだ思案にふけるように黙《だま》りこんでいたあと、インジャン・ジョーが言った。
「こうしようじゃねえか、おめえは河上へ帰って、おれから連絡《れんらく》があるまで待っててくれ。おれは、なんとかして、もう一度村へもぐりこんで、様子を見てくる。おれが様子をさぐって、うまくいきそうだと見きわめがついたら、その『あぶねえ仕事』をやることにしよう。それからテキサス行きだ! 二人でいっしょにずらかるんだ!」
これで相談はまとまった。まもなく二人ともあくびをしはじめた。ジョーが言った。
「おれは眠《ねむ》くてたまらねえ。今度はおめえが見張りをする番だ」
彼は雑草のなかに体を縮めて、すぐにいびきをかきはじめた。彼の相棒は、一、二度彼をゆすぶって、いびきをやめさせた。やがて、この見張番が居《い》眠《ねむ》りをはじめ、しだいに頭が低くさがっていった。いまや二人とも、いびきをかきはじめた。
少年たちは、ほっと感謝の長い溜《ため》息《いき》を洩《も》らした。トムがささやいた。
「さあ、いまがチャンスだ――逃げよう!」
ハックは言った。
「おれはいやだ――あいつらの目をさますくらいなら、おれは死んだほうがいい」
トムは、しきりにすすめた――ハックはためらった。とうとうトムは、一人で出てゆくつもりで、そっと立ちあがった。だが、一歩踏み出したとたんに、いまいましい床板が大きな音をたてたので、トムは、恐怖のあまり、ほとんど死んだように立ちすくんだ。もう二度とやってみる気がしなかった。二人の少年は、そこに腹這いになったまま、のろのろと時がすぎるのを待ち、この世が終って永遠にはいり、その永遠が白髪頭《しらがあたま》になったにちがいないと思われるまで横たわっていた。気がつくと、ありがたいことに、どうやら日が暮《く》れかけていた。
一つのいびきがやんだ。インジャン・ジョーが起きなおって、あたりを見まわし――膝《ひざ》をかかえ、その膝の上に首を垂れている相棒を見て、気味わるくにやりと笑い――足で相手をゆり起した。
「しっかりしろ! おめえは見張りじゃねえか! だが、まあいいや――べつに変ったこともねえようだ」
「いやはや、おれは眠っちまったのかい?」
「なあに、ちょっと眠っただけさ。ところで、もうそろそろ出かける時刻だが、ここに残しておいた商売物は、どうするかね?」
「そうだな――いつものように、このままここへ残しておいたらどうだ。南部へずらかるまでは用のねえしろものだ。それに六百五十ドルの銀貨というと相当の荷物だぜ」
「うむ――そうしよう。もう一度ここへ取りにくることにしよう」
「そうさ――だが、前のように夜くることにしようぜ。そのほうが無難だ」
「うむ、だが、おれがあの仕事にとりかかるきっかけをつかむまでにゃ、ちょっと手間がかかるかもしれねえ。だから、あんまり安心はできねえぜ。ここは、それほど安全な場所じゃねえ。だから念入りに埋《う》めておいたほうがいい――うんと深く埋めるんだ」
「そいつはいい考えだ」相棒は、そう答えて、部屋を横ぎって煖炉の前に膝をつき、その奥《おく》の石蓋《いしぶた》を持ちあげて、一つの袋《ふくろ》をとり出した。その袋はチンチンと気持のいい音をたてた。彼は、その袋から自分の分として二、三十ドル、インジャン・ジョーの分として、ほぼそれと同じくらいつかみ出して、隅に膝をついて猟刀《りょうとう》で地面を掘っていたジョーに袋を渡《わた》した。
少年たちは、恐ろしさも心細さも忘れた。二人は、わきめもふらずに男たちの動きを見まもっていた。なんという幸運だろう! 想像もできないような大成功だ! 六百ドルという大金は、ゆうに六人の少年が成金《なりきん》になれる金額だ! ここへきて二人は、またとない宝探しの好条件にめぐまれたわけだ。もはや、どこを掘ったらいいかと迷う必要もなかった。二人は、しきりに肘《ひじ》でこづきあった――それは、まことに雄弁《ゆうべん》なこづきあいで、すぐに意志が通じあった。というのは、その意味は「ここへきてよかったな!」ということだったからだ。
ジョーの猟刀のさきが何かに当った。
「おや!」と彼は声をあげた。
「何だ?」と相棒が言った。
「半分腐《くさ》れかかった板だ――いや、そうじゃない、箱《はこ》のようだ。ちょっと手を貸してくれ。何がはいっているか見てみよう――いや、もういい、穴があいた」
彼は手を突《つ》っこんで何かをとり出した。
「おい、金だぞ!」
男たちは、一つかみの金をしらべた。金貨だった。二階の少年たちは、男たちに劣《おと》らず興奮し、よろこんだ。
ジョーの相棒が言った。
「早いとこ掘り出そうぜ。煖炉の向う側の隅の草のなかに錆《さ》びた古いつるはし《・・・・》がある――ついさっき気がついたんだ」
彼は、自分で出かけて行って、少年たちのつるはし《・・・・》とシャベルを持ってきた。インジャン・ジョーは、そのつるはし《・・・・》を受けとって仔《し》細《さい》にあらため、首を振《ふ》って何やらつぶやいたが、やがて、それを使って掘りはじめた。箱は、まもなく掘り出された。あまり大きなものではなく、鉄のベルトがかけてあって、長い歳月《さいげつ》に、いくらか朽ちてはいたが、もとは非常に頑丈《がんじょう》なものだったにちがいない。二人は、うれしさのあまり口もきけず、しばらくは黙ってその宝物に見とれていた。
「兄弟、何万ドルって大金だぜ」とインジャン・ジョーが言った。
「何年か前の夏、マレルの一味が、このへんをうろついていたという噂《うわさ》があったな」
「うん、知ってる」とインジャン・ジョーは言った。「あの一味と関係があるのかもしれねえ」
「もうこれで、あの仕事をすることもあるめえ」
混血のジョーは眉《まゆ》をしかめた。
「おめえにゃ、おれの量見がわからねえんだ。すくなくとも、あの仕事についちゃ、まるっきりわかっちゃいねえようだ。物取りが目的じゃあねえんだ――仕返しなんだ!」彼の目は残忍《ざんにん》な光に燃えた。「この仕事をやるについちゃ、どうでも、おめえに手伝ってもらわなくちゃならねえ。それが片づいたら――テキサス行きよ。おめえは女房《にょうぼう》や子供たちのところへ帰って、おれの連絡を待っているんだ」
「それはそれでいいが、こいつはどうするんだい?――また埋めとくか?」
「うむ。(階上では躍《おど》り上がりたいほどよろこんだ)いや、セイチャムの名にかけて、そんなことはできねえ! (階上では、がっかりした)もうすこしで忘れるところだったが、このつるはし《・・・・》にゃ新しい土がついてるぜ! (二人の少年は縮みあがった)どうしてここにつるはし《・・・・》とシャベルがおいてあるんだ? どうして新しい土がついてるんだ? 誰が持ってきたんだ?――そいつらは、どこへ行ったんだ? 誰か見かけなかったか?――誰かの足音を聞かなかったか? とんでもねえ、このままここへ埋めておいて、今度やってきたときに、地面が掘りかえされているのを見てえのか? いけねえ、いけねえ、おれの穴へ持って行こう」
「なるほど、そうだな。そこまでは気がつかなかった。一号だろう?」
「いや、二号にしよう――十字《じゅうじ》架《か》の下だ。一号はいけねえ。あんまり開けっぱなしだ」
「よしきた。だいぶ暗くなったから、もう出かけてもいいだろう」
インジャン・ジョーは立ちあがって、窓から窓へと用心深く外の様子を見ながら歩きまわった。やがて彼は言った。
「どんなやつが、ここへ、この道具を持ってきたんだろう? ことによると、二階にでもかくれているんじゃねえかな」
少年たちは息がつけなくなった。インジャン・ジョーはナイフに手をかけ、ちょっとためらって立ちどまっていたが、やがて階段に向った。少年たちは押《おし》入《い》れにかくれようと思ったが、体を動かすだけの力がなかった。階段をきしらせながら足音が近づいてきた――絶体絶命の窮地《きゅうち》に追いつめられて、少年たちは必死で勇気をふるい起した――二人が、まさに押入れに飛びこもうとした瞬間《しゅんかん》、めりめりと朽木の折れる音がして、階段の残骸《ざんがい》とともにインジャン・ジョーは床にころげ落ちた。彼は悪態をつきながら起きあがった。
相棒が言った、「ほうっておけよ。誰か二階にいるんなら、いさせておきゃいいじゃねえか――かまうもんか。そいつらが飛びおりて怪我《けが》をしてえというんなら、勝手に怪我をさせりゃいいんだ。あと十五分もすりゃ、まっくらになる――それから、おれたちのあとをつけてえんなら、勝手につけさせりゃいいじゃねえか。こちとらに異存はねえや。もっとも、おれの考えじゃ、この道具を持ちこんだやつらは、おれたちを見て、てっきり幽霊か悪《あく》魔《ま》と思ったにちげえねえ。いまごろは一目散に逃げてる最中だぜ」
ジョーは、ちょっとのあいだ、何かぶつぶつ言っていたが、結局、まだいくらか明るさが残っているうちに支《し》度《たく》をしたほうがいいという相棒の意見に賛成した。まもなく男たちは、大切そうに箱をかかえ、そっと家を抜け出して、深まりゆく夕闇《ゆうやみ》のなかを河のほうへ向った。
へたりこんでいたトムとハックは、やっと救われた気持で立ちあがり、家の丸木の隙《すき》間《ま》から、男たちのうしろ姿を見送った。あとをつけようか? いや、そんな気持は、すこしもなかった――首の骨を折らずに地面におり、丘を越《こ》えて村へ行くことができたら、もうそれだけで十分だった。二人は、ほとんど口をきかなかった。口をきくには、あまりにも自分自身がみじめだった――つるはし《・・・・》とシャベルを男たちに見つけられた不運がうらめしかったのだ。あのことさえなかったら、インジャン・ジョーに感づかれることもなかったはずだ。「仕返し」がすむまで、金貨も銀貨も、そのままそこへかくしておいて、戻《もど》ってきて、その金がなくなっているのを発見して、地だんだ踏んだはずだ。道具を、あそこへ持って行ったのは、なんといっても失敗だった。
この上は、あのスペイン人が復讐《ふくしゅう》の機会をねらって村へ出てくるのを待ちかまえ、そのあとをつけて、「二号」の場所をつきとめよう、と少年たちは決心した。このとき、ある恐ろしい考えがトムの胸にうかんだ。
「仕返し? あいつの言った仕返しが、おれたちのことだったら、どうしよう、ハック!」
「よしてくれ!」ハックは卒倒《そっとう》せんばかりだった。
二人は、このことを、とことんまで話しあい、村へつくまでには、それは誰かほかの人のことだろう――すくなくともトムだけのことだろう、という結論に達した。証人に立ったのはトムだけだからだ。
自分ひとりだけ危険にさらされているというのは、トムにとっては、あまり気持のいいことではなかった。仲間がいたら、もっと気が楽だろう、と彼は思った。
第二十七章 戦慄《せんりつ》の追跡《ついせき》
昼の冒険《ぼうけん》は、その夜、ひどくトムの夢《ゆめ》をおびやかした。四度までも彼《かれ》はその莫大《ばくだい》な財宝に手をかけたが、目がさめて、きびしい現実にかえったときには、その財宝は、四度とも彼の手のあいだから消えうせていた。明けがた、ベッドに横たわって、大冒険の一つ一つを思い出していると、それが奇妙《きみょう》に遠い出来事のように思われ、別の世界か、ずっと昔《むかし》起ったことのように思われることに気がついた。すると彼は、あの大冒険そのものが、夢にちがいないという気がしてきた。この考えを強める有力な理由の一つは――彼の見た貨《か》幣《へい》の金額が、あまりにも大きすぎて、とても現実とは思えないことだった。これまで、彼は五十ドルとまとまった金を見たことがなかった。彼と同じような境遇《きょうぐう》のすべての少年がそうであるように、「何百ドル」とか「何千ドル」とかいう数字は、言葉のあやとして存在するだけで、実際この世界に、そのような大金があるとは考えなかった。百ドルというような大金を誰《だれ》かが現金で握《にぎ》っているのが見られるなんて、彼は想像したこともなかった。かくされた宝物についての彼の考えを分析《ぶんせき》してみれば、それは、少額の銀貨一つかみと、漠然《ばくぜん》とした、ただすばらしい、銀貨一枡《ひとます》にすぎないのではあるまいか。
しかし、昨日の冒険の一つ一つは、思い出せば思い出すほど、はっきりと、するどく、明確よみがえってくるので、まもなく彼は、結局それは夢ではなかったようだ、と思うようになった。この半信半疑の状態から一刻も早く抜《ぬ》け出さなければならないと考えたので、彼は、朝食もそこそこに、ハックを探しに出かけた。
ハックは平底船《ひらぞこぶね》の舷《ふなばた》に腰《こし》かけて、ぼんやりと両足を水のなかに垂らし、ひどく沈《しず》みこんでいた。トムは、ハックが昨日のことを言いだすのを待つことにした。もしハックが言いださなかったら、昨日の冒険は夢にすぎなかったとわかるだろう。
「よう、ハック!」
「よう、トム」
ちょっと言葉がとぎれた。
「トム、あのいまいましい道具を枯《かれ》木《き》の下においといたら、おれたちは金が手にはいったはずだけど、ひどい目にあったな」
「そうすると、やっぱり夢じゃなかったんだ! いっそ夢だったらいいと思いたいくらいだ――ほんとうに。残念だな」
「夢じゃないって、何のことだい?」
「昨日のことさ! おれは半分夢だと思っていたんだ」
「あれが夢だって? あの階段がこわれて落ちなかったら、夢どころの騒《さわ》ぎじゃなかったぜ! 夢なら、おれは一晩じゅう夢をみていたから、もうたくさんだ。あの色眼鏡のスペイン人のじじいが、どの夢でも、おれたちにつきまといやがった――畜生《ちくしょう》め、くたばりやがれ!」
「くたばられちゃ困るよ。出てきてくれなくちゃ。金のかくし場所をつきとめるんだ!」
「あいつは、もう見つかりっこないぜ、トム。あんな大金を手に入れる機会なんて、二度とくるもんじゃない。その機会を逃《のが》しちゃったんだ。とにかく、今度、あいつに出っくわしたら、おれは、ずいぶん震《ふる》えるだろうと思うよ」
「おれだってそうさ。だけど、おれは、なんとかあいつを見つけて、あとをつけたいんだ――あいつが言ってた二号の場所までな」
「二号か、そうだったな。おれも、いろいろ考えてみたんだが、まるで見当がつかねえんだ。二号って何だと思う?」
「わからないな。むずかしすぎるよ。あ、そうだ――ことによると家の番号かもしれないぜ!」
「なるほど……いや、そうじゃないぜ、トム。もしそうだとしたら、こんな小っちゃな村にはない家だ。ここじゃ家に番号なんかついてないもの」
「そうだな。それじゃ――そうだ。旅館の部屋の番号だ!」
「そうだ、きっとそうだ! 旅館なら二軒《けん》しかないから、すぐわかるぞ」
「じゃ、ハック、ここで待っててくれ、すぐ戻《もど》る」
トムは、さっそく出かけた。人なかへハックといっしょに出たくなかったのだ。半時間ばかり過ぎてから彼は戻ってきた。その報告によると、上等の旅館の二号室は、ずっと前から若い弁護士が借りていて、いまもその人が住んでいること、それよりも格の低い旅館の二号室が疑わしいということだった。その旅館の若い息《むす》子《こ》の話によると、その部屋は、いつも錠《じょう》がおろしてあって、人の出入りがあるのは夜だけだということだった。息子は、どうしてそうなのか、その理由を知らなかった。いくらか好《こう》奇《き》心《しん》をもっていたが、それはきわめて微弱《びじゃく》なもので、その秘密については、たぶん幽霊《ゆうれい》が出るのだろうくらいに考えて満足していた。そして前の晩には、その部屋に燈《とう》火《か》がついているのを見たということだった。
「これだけ聞きだしてきたんだ、ハック。それがおれたちの探している二号だと思うんだ」
「そうらしいな、トム。で、これからどうする?」
「そうだな」
トムは長いあいだ考えていた。やがて彼は言った。
「こうしよう、その二号室の裏口が、旅館と古いガタ馬車みたいな煉《れん》瓦屋《がや》とのあいだの狭《せま》い路地に出られるようになっているんだ。そこでおまえは、できるだけ、いろんな鍵《かぎ》を集めてきてくれ。おれは、伯母《おば》さんのところの鍵を全部さらってくる。そして、闇《やみ》の晩がきたら、二人で出かけて行って、鍵を試《ため》してみるんだ。インジャン・ジョーには気をつけなくちゃいけないぜ。あいつは、もう一度村へ出て、復讐《ふくしゅう》の機会をねらうと言っていたからね。もし、あいつを見つけたら、すぐあとをつけるんだ。あいつが、その二号室へ行かなかったら、あそこじゃないんだ」
「そいつはごめんだな。ひとりきりで、あいつのあとをつけるなんていやだよ」
「だって、どうせ夜だぜ。見つかりやしないよ――万一見つかったって、向うじゃ、なんとも思いやしないさ」
「そうだな、とても暗い夜だったら、あとをつけてみよう――いいとも、やってみるよ」
「暗ければ、おれだって、きっとやるよ、ハック。ことによると、あいつは復讐をあきらめて、まっすぐあの金をとりに行くかもしれないぜ」
「そうだよ、トム、そうなんだ。おれは、どんなことがあっても、きっとあとをつけてみせる!」
「急に気の強いことを言いだしたぜ。あとで弱音を吐《は》くなよ、ハック。おれは大丈夫《だいじょうぶ》さ」
第二十八章 悪漢ジョーのかくれ家
その夜、トムとハックは冒険《ぼうけん》に乗り出した。九時すぎまで、その旅館のまわりをうろついて、一人は、すこし離《はな》れたところから路地を、一人は旅館の入口を見張っていた。路地に出入りしたものは一人もいなかった。旅館の入口のほうも、例のスペイン人らしい姿は出入りしなかった。その夜は晴れそうだったので、もし、かなり暗くなったら、ハックが猫《ねこ》の鳴き声で呼び出し、それを聞いたら、トムはすぐに抜《ぬ》け出して、鍵《かぎ》を合わせてみようということにして、トムは、ひとまず家に帰った。その夜は、ひきつづき晴れていたので、ハックは十二時ごろすぐに見張りをうち切り、大きな砂糖の空樽《あきだる》のなかへ寝《ね》るために引きあげた。
火曜日の夜も二人には運がなかった。水曜日も同様だったが、木曜日の夜は、やや有望そうに思われた。トムは伯母《おば》さんのブリキの角燈《ランタン》と、それを包む大きなタオルを用意して、時刻を見はからって家を抜け出した。彼《かれ》は角燈をハックの砂糖樽のなかにかくし、それから見張りがはじまった。十一時になると、旅館は戸を閉め、燈火(この付近では唯一《ゆいいつ》のものだった)が消された。スペイン人の姿はあらわれなかった。路地には誰《だれ》も出入りしなかった。何もかも好都合だった。夜の闇《やみ》が、あたりを包み、ときたまきこえる遠雷《えんらい》のほかは物音ひとつしなかった。
トムは角燈をとり出して、空樽のなかで火をともし、ていねいにタオルで包んだ。二人の冒険家は暗闇のなかを足音を忍《しの》ばせて旅館へ向った。ハックが見張りに立ち、トムは手さぐりで路地へはいって行った。待っているあいだ、ハックの心にのしかかる不安の思いは山のように重かった。彼は、角燈のひらめきでも見えてくれたら、と思いはじめた――見えたら、ぎょっとするだろうが、すくなくともそれで、まだトムが生きていることがわかるだろう。トムが行ってしまってから何時間も過ぎたような気がした。トムは、きっと気をうしなっているにちがいない。ことによると死んでいるかもしれない。あるいは恐怖《きょうふ》と興奮のあまり、心臓が破裂《はれつ》したかもしれない。不安に駆《か》られ、恐怖におびえ、いまにも何か大変な災難がおそいかかって自分の息の根をとめるだろうと予期しながら、ハックは、いつしか路地へ引きよせられた。しかし、実際は、とめてしまうほどの息は残っていなかった。というのは、ハックは、いまは、ほんのすこししか息をすることができなかったからだ。心臓も、鼓《こ》動《どう》のはげしさから察すると、いまにも絶えるかとさえ思われた。突然《とつぜん》、さっと角燈がひらめいて、トムが疾風《しっぷう》のように彼のそばを走りぬけた。
「逃《に》げろ!」と彼は言った。「逃げろ、生命《いのち》がないぞ!」
同じ言葉をくりかえす必要はなかった。一声で十分だった。二度目の言葉を聞かないうちに、ハックは、時速三、四十マイルのスピードで走っていた。二人は、村外れの荒《あ》れはてた屠畜場《とちくじょう》の小屋に逃げこむまで、息もつかずに走りつづけた。ちょうどその小屋に飛びこんだとき、夕立がきて、はげしく雨が降りだした。トムは、ようやく呼吸《いき》をしずめて言った。
「ああ、こわかった! おれは、できるだけそっと、鍵を二つ試《ため》してみたんだが、大きな音をたてやがって、ほとんど息もできないくらいだった。こわかったぞ。鍵は、二つとも、穴にはまったまま、まわらないんだ。それで、何の気もなく把《とっ》手《て》を握《にぎ》ったら、そのまま開いちゃったんだ! 鍵がかかってなかったんだ! おれは、飛びこんで角燈のタオルをはずした――そしたら、たまげたよ!」
「どうしたんだ?――何を見たんだ?」
「ハック、おれは、もうすこしでインジャン・ジョーの手を踏《ふ》みつけるところだったんだ!」
「ほんとか?」
「ほんとだとも。あいつは床《ゆか》の上で、ぐっすり寝こんでいたんだ。あの眼鏡をかけて、大の字になって寝ていたんだ」
「それで、どうした? あいつ、目をさましたのかい?」
「いや、身動きもしなかった。酔《よ》っぱらっていたんだろう。おれは、タオルをひっつかんで、一目散に逃げ出したんだ」
「おれだったら、タオルのことなんか気がつかなかっただろうな」
「おれは忘れないよ。タオルをなくしたら、伯母さんに、すごく叱《しか》られるもの」
「それで、トム、あの箱《はこ》はあったのかい?」
「探すひまなんかなかったよ。箱も十字《じゅうじ》架《か》も見えなかった。見えたのは、インジャン・ジョーのそばの床にころがっていた壜《びん》が一つと錫《すず》のコップだけだ。そうだ、あの部屋には、ほかに樽が二つと、壜がたくさんあった。これで、あの幽霊《ゆうれい》部屋がどんなものかわかっただろう?」
「どうして?」
「つまり、あの部屋に出る幽霊はウイスキーなんだ! 禁酒旅館なんてところには、みんな幽霊部屋があるのかもしれないね」
「うん、そうかもしれねえな。思いもよらねえことだ。それはそうと、トム、インジャン・ジョーが酔っぱらって寝てるんなら、箱を持ち出すのに、いいチャンスじゃないか」
「そうだ! おまえが持ってこいよ!」
ハックは身《み》震《ぶる》いした。
「おれはいやだ――ごめんこうむるよ」
「おれもいやだよ、ハック。インジャン・ジョーのそばに壜が一本だけじゃ安心できない。せめて三本もころがっていれば、やつは酔っぱらっているんだから、やってみてもいいが」
しばらく考えこんでいてから、トムが口をきった。
「こうしよう、ハック、あすこにインジャン・ジョーがいるあいだは、手を出さないことにしよう。恐《おそ》ろしすぎるよ。毎晩見張っているうちには、いつかはジョーが出かけるのがわかるだろう。そうしたら、すばやく箱をかっぱらうんだ」
「よし、そうしよう。おれは一晩じゅう見張っている。おまえが昼のほうを引きうけてくれるんなら、おれは毎晩でもかまわない」
「じゃ、交代で見張ることにしよう、おまえはただ、フーパー通りを一ブロックだけ駆けてきて、猫の鳴き真似《まね》をすりゃいいんだ――もしおれが寝こんでいたら窓から石をぶっつけてくれ。そうすれば、かならず出て行く」
「いいとも」
「ハック、夕立がやんだから、おれは家へ帰るぜ。あと二時間もすると明るくなるだろう。おまえは戻《もど》って行って、それまで見張るんだ。いいかい?」
「やると言ったらやるよ、トム、おれは一年間、毎晩あの旅館へ通ってやる。昼のあいだ眠《ねむ》って一晩じゅう見張ってやる」
「それがいい。ところで、おまえは、どこで寝るんだい?」
「ベン・ロジャーズの乾草《ほしくさ》小屋で寝るよ。ベンも寝かせてくれるし、ベンの家の黒《くろ》ん坊《ぼう》のジェイクじいさんも承知しているんだ。おれは、いつでも、じいさんに頼《たの》まれれば水を運んでやるし、じいさんも、おれが頼めば、いつでも食物を分けてくれるんだ。あの黒ん坊は、ほんとにいい人なんだよ、トム。おれは、あいつに対して、すこしも白人ぶらないから、じいさんも、おれが好きなんだ。ときどきいっしょに物を食うこともあるんだ。だけど、このことは、あんまりしゃべるんじゃないぜ。ふだんは、やりたくないことでも、腹がへったときには、やらなくちゃならないこともあるんだ」
「わかったよ。昼間、おまえに用がないときには、ゆっくりおまえを寝かせておくよ。邪《じゃ》魔《ま》はしないよ。夜、何かあったら、すぐ飛んできて猫の鳴き真似をしてくれ」
第二十九章 ハック、未亡人を救う
金曜日の朝、トムは起きぬけに、うれしい知らせを聞いた――昨夜サッチャー判事の一家が村へ帰ってきたというのだ。インジャン・ジョーのことも宝物のことも、しばらくは、あまり重要でなくなって、ベッキーがトムの関心の王座を占《し》めた。彼《かれ》はベッキーと会って、他《ほか》の多くの学校友だちといっしょに、「かくれんぼ」や「だましっこ」をして、くたくたになるまで遊んだ。その日は、これまでになく楽しい一日だった。ベッキーは母親に、ずっと前に約束《やくそく》してから、のびのびになっていたピクニックを明日実行してほしいとせがみ、承諾《しょうだく》してもらった。ベッキーは、ひどくよろこんだが、トムのよろこびも、それに負けなかった。その日のうちに招待状が発送され、村の少年少女たちは、たちまち楽しい準備と期待の熱病にとりつかれた。トムは興奮して夜遅《おそ》くまで寝《ね》つかれず、明日、宝物を手に入れてベッキーをはじめピクニックの連中をびっくりさせることができそうな気がしていたが、その期待は裏切られた。ハックの猫《ねこ》の鳴き真似《まね》は、ついにきこえてこなかったのだ。
とうとう夜が明けた。十時か十一時までに、うきうきと胸をはずませた一団が、サッチャー判事の家に集まり、出発の準備がととのった。普《ふ》通《つう》、かれらのピクニックには、大人が参加して子供たちの興味を半減させるようなことはしないことになっていた。この日も十八、九歳《さい》の娘《むすめ》さんと二十二、三歳の青年が数人つき添《そ》っていたので、子供たちは十分安全なはずだった。ピクニックのために渡《わた》し船用の古い蒸気船がやとわれ、にぎやかな一群は、それぞれ食料を詰《つ》めたバスケットをさげて、大通りを進んで行った。シッドは病気で、この行事に参加できなかった。メアリは、その看病のために家に残った。サッチャー夫人が、家を出るときベッキーに言った言葉は、こうだった。
「帰りは遅くなるだろうから、渡し場の近くのお友だちのところへ泊《と》めていただいたほうがいいかもしれないね」
「じゃ、スージー・ハーパーの家に泊めていただくわ」
「そうなさい。気をつけて、お行儀《ぎょうぎ》よくするんですよ。迷惑《めいわく》をかけちゃいけませんよ」
まもなく、歩きながらトムはベッキーに言った。
「ねえ――こうしようじゃないか。ジョー・ハーパーの家へなんか行かないで、丘《おか》をのぼってダグラス小母《おば》さんとこに泊めてもらおうよ。小母さんはアイスクリームをつくつてくれるぜ! 小母さんは毎日アイスクリームを食べるんだ――どっさりつくるぜ! それに、ぼくらが行くと、小母さんは、とてもよろこんでくれるよ」
「まあ、すてきだわ」
それからベッキーは、ちょっと考えてから言った。
「でも、ママが何て言うかしら?」
「黙《だま》ってりゃわかりゃしないよ」
少女は、じっと考えてから、しぶしぶ言った。
「そんなことをするのは、よくないと思うわ――でも――」
「でももくそもないよ。お母さんにはわかりゃしないんだから、いいじゃないか。お母さんは、きみの身にまちがいさえなければいいんだ。お母さんだって、ダグラス小母さんのことを思い出したら、きっとあそこへ行けって言ったと思うよ。きっとそう言うにきまっている」
ダグラス未亡人の有名な歓迎《かんげい》ぶりはベッキーにとって大きな魅力《みりょく》だった。それとトムの勧誘《かんゆう》とが、まもなく勝ちを制した。そこで二人は、その夜の計画については、誰《だれ》にも言わないことにきめた。そのうちに、トムは、ハックが運わるくその晩やってきて合図をするかもしれないと思いついた。そう思うと、いくぶん楽しい気分に影《かげ》がさしたが、それでもダグラス未亡人の家でうける歓待の愉《ゆ》快《かい》さをあきらめる気にはなれなかった。その楽しみをあきらめる必要がどこにあるのか、と彼は考えた――昨夜もこなかったのに、どうして今夜くると考えなければならない理由があるだろう? あてにならない宝物よりは、まちがいのない今夜の楽しみのほうが勝った。彼は少年らしく誘惑《ゆうわく》のほうにしたがって、その日は二度と金箱《かねばこ》のことは考えないことにした。
渡し船は、村から三マイルほど河を下って、こんもりと木の茂《しげ》った谷間の入口につき、そこに碇《いかり》をおろした。一行は、ぞろぞろと船をおり、まもなく遠近の森の遠い隅々《すみずみ》や、ごつごつした岩山のあちこちに、叫《さけ》び声や笑い声がこだました。汗《あせ》をかいたり疲《つか》れたりするさまざまな運動が行われ、うろつきまわっていた連中は、しだいにキャンプへ戻《もど》ってきたが、みんなぺこぺこに腹をへらしていて、たちまちお弁当を開いてぱくついた。食事のあと、枝《えだ》をひろげた槲《かしわ》の木の下で、気持のいい休息と雑談がつづいた。そのうち誰かが叫んだ。
「誰かあの洞窟《どうくつ》にはいるものはいないか?」
誰もが洞窟へはいりたがった。さっそく幾《いく》束《たば》かの蝋燭《ろうそく》が用意され、一同は元気よく丘を駆《か》けのぼった。洞窟は、丘の中腹の上のほうにあって、入口がA字形に開いていた。どっしりした樫材《かしざい》の扉《とびら》が、入口をふさいでいたが、錠《じょう》はおりていなかった。なかには小さな部屋があって、氷《ひ》室《むろ》のようにひんやりしており、がっしりした石灰石の天然の壁《かべ》は、じっとりと汗をにじませていた。このうす暗いなかに立って、外の日光をうけて輝《かがや》く緑の谷間を眺《なが》めると、ロマンティックな神秘的な感じがした。しかし、この感動は、たちまち消えて、子供たちは、またふざけはじめた。誰かが蝋燭をともすと、彼らは、さきを争ってそこへ突進《とっしん》し、つづいて奪取《だっしゅ》と防禦《ぼうぎょ》の勇敢《ゆうかん》な戦いがはじまり、まもなく蝋燭が叩《たた》き落され吹《ふ》き消されると、わっという歓声と笑い声があがり、つづいてまた新しい争奪戦がはじまった。しかし何事にも終りというものがある。やがて一行は、列をつくって、洞窟のなかの険しい道を爪《つま》さき下がりにおりて行った。彼らのかかげる蝋燭の火が、頭の上の天井《てんじょう》まで六十フィートもある高い岩壁を、ぼんやり照らしだした。道といっても、幅《はば》は九フィートから十フィートしかなかった。そして、数歩進むごとに、また別の、天井の高い、もっと狭《せま》い枝道が分れていた。このマクドウガルの洞窟は、たがいにからみあって、果て知れぬ曲りくねった細道の一大迷宮なのだ。この網《あみ》の目のように複雑にもつれあった岩のあいだの道を幾日幾夜さまよっても、洞窟の奥《おく》に行きつくことはできないということだ。また、いくら地底へおりて行っても同じことで、迷路の下に迷路があり、どの道を行っても際限はないと言われていた。この洞窟をきわめつくしたものは一人もいなかった。それは不可能なことなのだ。その一部分は若い男ならたいてい知っていたが、そのわかっている部分から、さらに奥へ進もうとするものは、ほとんどいなかった。トムも、人並《ひとなみ》にしか、この洞窟のことは知らなかった。
一同が幹道を四分の三マイルほど進むと、それからは何組かに別れて、それぞれ別の枝道にはいりこみ、気味の悪い岩のあいだを飛ぶように走って行って、その道が交わる場所で別の組と出会って、おたがいにわっと声をあげて、おどかしあったりした。こうして幾組にもわかれた子供たちは、わかっている地域から奥へは行かずに、半時間ほど、かくれんぼをして遊んだ。
やがて子供たちは、一組、また二組と、洞窟の入口へ引きあげてきた。息を弾《はず》ませ、はしゃぎ、頭から爪さきまで蝋のしたたりで汚《よご》れ、泥《どろ》だらけになっていたが、彼らはその日の成功に、すっかり満足しきっていた。そして、そのときになって、いつのまにか時間がたって、もう日が暮《く》れかかっているのに気づいて驚《おどろ》いた。子供たちを呼び集める鐘《かね》の音は、もう半時間も鳴りつづけていたのだ。しかし、その日の冒険《ぼうけん》を、こんなふうにして終るのは、ロマンティックであり、だからこそ彼らは満足していたのだ。船が、この騒《さわ》がしい荷物を乗せて流れに乗りだしたとき、つぶした時間を惜《お》しんだのは船長だけだった。
ハックは、船の灯《ひ》が渡し場を通りすぎたとき、もう見張りをはじめていた。船からは何の物音もきこえなかった。疲れきった人間は誰でもそうだが、この小さな連中も、口をきく元気もなく、しずまりかえっていたからだ。ハックは、何の船だろう、なぜ渡し場にとまらないのだろう、と怪《あや》しんだ――だが、すぐに船のことは忘れてしまって、自分の仕事にかかりきった。曇《くも》っていて、まっくらだった。十時になると往来の車の音がとだえ、燈《とう》火《か》が消えはじめ、通行人の姿もなくなり、村は眠《ねむ》りについて、見張り番のハックだけが、静けさと幽霊《ゆうれい》にとりかこまれていた。十一時になると、旅館までが燈火を消し、どこもまっくらになった。ハックは、あきあきするほど長いあいだ待っていたが、何事も起らなかった。彼の信念は、ぐらつきはじめた。こんなことをしていて何になるだろう? 何の役に立つだろう? あきらめて寝てしまったほうが賢《けん》明《めい》ではないだろうか?
ふと、物音がきこえた。ハックは、はっとして、たちまち緊張《きんちょう》した。路地のほうのドアが、そっとしまった。彼は、煉《れん》瓦屋《がや》の角へ飛んで行った。つぎの瞬間《しゅんかん》、彼のすぐそばを二人の男が通りすぎた。一人は何か抱《かか》えているらしかった。あの箱にちがいない! 宝物を移そうとしているのだ。トムを呼びに行こうか? いや、駄目《だめ》だ――そのあいだに、あいつらは箱をどこかへ運んでしまうだろう。そうしたら、もう二度と見つけることは困難だ。あいつらのあとをつけて行こう。暗いから、見つけられるおそれはあるまい。ハックは、そう考えて、そっと足を踏《ふ》み出し、跣《はだ》足《し》で、猫のように、相手の姿を見うしなわないだけの距《きょ》離《り》をおいて、二人のあとをつけはじめた。
二人は河に沿った道を三ブロックほどのぼってから、十字路を左に曲り、それからまっすぐにカーディフの丘へのぼる小道へ出た。そして、この小道を行った。丘の中腹に老ウェールズ人の家があるが、やつらは、それを見向きもせず、そのまま丘をのぼった。しめた、とハックは思った。あいつらは石切場のあとへ埋《う》めるつもりなのだ。ところが、その石切場にも足をとめなかった。とうとう二人は丘の頂上までのぼり、ぬるで《・・・》の高い茂みのなかの細い道にはいりこむと、まもなく闇《やみ》のなかに姿を消してしまった。こうなると、もう見つかるおそれがないので、ハックは、ぐんぐん接近して距離をつめた。彼は、しばらく歩調を速めて歩いた。しかし、あまり速すぎはしないかと思って歩調をゆるめた。そして、すこし行ってから立ちどまって耳をすました。何の物音もきこえなかった。きこえるのは自分の心臓の鼓《こ》動《どう》だけだ。丘の上から、ホー、ホーと鳴く梟《ふくろう》の声がきこえた――不《ふ》吉《きつ》な声だ! だが、人の足音はきこえなかった。ああ、これで万《ばん》事《じ》休したのだろうか? ハックが飛び出そうとしたとき、四フィートと離《はな》れないところで、誰かが咳払《せきばら》いをした! ハックは心臓が咽喉《のど》まで飛びあがったような気がしたが、やっとそれを呑《の》みこんで我《が》慢《まん》した。そして、瘧《おこり》が一ダースも一度におそってきたかのように、がたがた震《ふる》えながら立っていたが、もうすっかり気力がなくなって、いまにも地面に倒《たお》れこむのではないかと思った。ハックは自分のいるところを知っていた。ダグラス未亡人の屋《や》敷《しき》へ通じる木戸から五歩と離れていないところにいたのだ。「よし」と彼は思った。「ここへ埋めるなら埋めてみるがいい。ここなら、わけなく探し出せるだろう」
低い声がきこえてきた――ごく低い声だ――インジャン・ジョーの声だ。
「畜生《ちくしょう》! 客がきてるらしい――こんなに遅いのに、まだ燈火《あかり》がついてる」
「おれには何も見えねえぜ」
これはあの他所《よそ》者《もの》――幽霊屋敷で見たもう一人の男の声だった。ハックは縮みあがった――それじゃ、これがあの「仕返し」の仕事だったのか? 彼は逃《に》げ出そうと思った。だが、これまで何度かダグラス未亡人から親切にしてもらったことを思い出し、ことによると、あいつらは、未亡人を殺そうとしているのかもしれない、と思った。思いきって未亡人に知らせてやりたかったが、それはできそうもなかった――連中に発見され、つかまえられるにきまっているからだ。ハックが、これだけのこと――そして、もっと多くのこと――を考えたのは、見知らぬ男の言葉とインジャン・ジョーがつぎに言った言葉との、わずかなあいだだったが、このときジョーは、こう言ったのだ。
「おめえのまえに藪《やぶ》があるから見えねえんだ。ほら、こっちから覗《のぞ》いてみろ――見えるだろう?」
「うむ。なるほど客がきてるらしい。あきらめて引きあげたほうがよさそうだ」
「あきらめるって? おれは、いまこの土地を離れたら、もう二度とはこねえんだぜ! いまあきらめたら、二度と機会はねえんだ。何度も言うことだが、おれはあの女の金がほしいんじゃあねえ。金は、おめえにくれてやる。あの女の亭主《ていしゅ》が、おれをひどい目にあわせやがったんだ――何度もおれを苦しめやがったんだ――そいつが、おれを浮《ふ》浪罪《ろうざい》で牢《ろう》にぶちこみやがった治安判事なんだ。そればかりじゃねえ! まだあるんだ! そいつは、おれを鞭《むち》で叩かせやがった!――牢の前で、黒《くろ》ん坊《ぼう》のようにな――村じゅうの人が見てる前でよ! 鞭で打たせやがったんだ!――わかったか? ――あいつは、おれをひどい目にあわせておいて死にやがったんだ。だから、おれは、あの後家《ごけ》に仕返しをしてやるんだ!」
「だが、殺すのはよせ! 殺しちゃいけねえ!」
「殺す? 誰が殺すと言った? あいつが生きてりゃ殺してやるが、後家は殺さねえ。女に仕返しをする場合には、殺したりはしねえもんだ。くそ! 顔をめちゃめちゃにしてやる。鼻をたち割ってやるんだ――豚《ぶた》のように耳をそいでやるんだ!」
「そいつは、あんまり――」
「よけいなことをいうな。よけいなことをいうと、ためにならねえぞ! おれは、あの女を寝台《しんだい》にしばりつけてやる。血がとまらなくて死んじまっても、おれの知ったことじゃねえ。死んだってかまわねえ。おい、おめえは、この仕事を手伝うんだぜ――おれのためにな――そのために、おめえは、ここへきてるんだ――おれ一人じゃ、うまくねえからな。へたに尻《しり》込《ご》みしやがると生命《いのち》がねえぞ! わかったか? おめえを殺すだんになったら、あの女も生かしちゃおかねえ――そうすりゃ誰の仕《し》業《わざ》かわからねえからな」
「うむ、どうでもやらなくちゃならねえもんなら、やろうじゃねえか。早く片づけようぜ――おれは体が震えてしょうがねえんだ」
「いまやれっていうのか?――客がいるのにか? おめえ、どうかしてるぜ。いまは、いけねえ――灯が消えるまで待つんだ――あわてることはねえ」
ハックは、それから、しばらく沈黙《ちんもく》がつづくのを感じた――人殺しの相談を聞くよりも、もっと恐《おそ》ろしい沈黙だった。そこで彼は息をころして、おそるおそる後ずさりをはじめた。片足を浮《う》かして、あぶなっかしく平均をとりながら、別の足を、しっかりと注意深く踏みおろし、ほとんど倒《たお》れそうになるのをやっとこらえて、つぎの一歩を運んだ。それから、同じような注意と、同じような危険をおかして、一歩また一歩と後退した。すると、小枝が足の下でぽきりと折れた! ハックは息をとめて耳をすました。何の物音もせず――ひっそりしていた。彼は、たとえようもないほどの安《あん》堵《ど》をおぼえた。いま彼は、壁のように立ちならぶぬるで《・・・》の木のあいだで、うしろ向きになり、船のように用心深く体をまわし、それから足早に歩きだした。石切場まできてから、もう大丈夫《だいじょうぶ》だと思ったので、一目散に走りだし、飛ぶように丘をおりてウェールズ人の家まできた。彼は、どんどん戸を叩いた。窓から老人と二人の屈強《くっきょう》な息《むす》子《こ》が顔を出した。
「なんだ、騒々《そうぞう》しいじゃないか。戸を叩くのは誰だ? 何か用か?」
「入れてくれよ――はやく! すっかり話すから」
「いったい、おまえは、誰だ?」
「ハックルベリー・フィンだよ――はやく入れてくれよ!」
「ハックルベリー・フィンだと? そうか。あまり歓迎されそうもないお客さまだな。まあいい、伜《せがれ》や、入れてやんなさい。何が起ったのかきいてみよう」
「おれが言ったってことは、黙《だま》ってておくれよね」とハックは、なかへはいるなり言った。
「おねがいだから――そうでないと、おれは殺されてしまうよ――だけど、あの後家さんには、おれは、ずいぶん世話になってるから話そうと思うんだ――おれが言ったってことを黙ってると約束してくれるんなら話すよ」
「おまえ、何か聞きこんできたんだな。さもなけりゃ、この子が、こんなに騒ぎたてるはずがない」と老人は言った。「大丈夫だ。安心して話しな。ここにいるものは誰も口外しないよ」
三分の後、老人と二人の息子は、ものものしく武《ぶ》装《そう》をととのえて、丘をのぼった。それぞれ武器を持ち、足音を忍《しの》ばせて、ぬるで《・・・》の木立《こだ》ちにさしかかった。ハックは、そこからさきへはついて行かず、大きな岩の陰《かげ》に身をひそめて、耳をそばだてていた。しばらく期待と不安の入りまじった沈黙がつづいた。やがて、だしぬけに銃声《じゅうせい》と叫び声がきこえた。
ハックは事情がわかるまで待っていなかった。飛びあがるなり宙を飛んで丘を駈けおりた。
第三十章 洞窟《どうくつ》の怪《かい》
日曜日の朝、かすかに空が白みかけたころ、ハックは手さぐりに丘《おか》をのぼって、老ウェールズ人の家の戸を、そっと叩《たた》いた。家族たちはまだ寝《ね》ていたが、昨夜の事件で気が立っていたから、かすかな物音にも、すぐ目をさました。窓から声がした。
「誰《だれ》だ?」
ハックは、おずおずと小声で答えた。
「入れておくれよ。ハック・フィンだ!」
「その名を聞いたら、昼でも夜でも戸をあけてやるよ!――よくきたな!」
この言葉は、浮《ふ》浪《ろう》児《じ》の耳には、まったく珍《めずら》しく、これまでに一度も聞いたことがないほどうれしいものだった。ことに、その最後の言葉は、これまで彼《かれ》に向けて言われたことがあるかどうかさえ思い出せないほどだった。さっそく戸があけられ、ハックは、家にはいった。彼は椅子《いす》をあたえられた。老人と長身の二人の息《むす》子《こ》は、急いで服を着がえた。
「ところで、腹がへっているだろう? 明るくなったら、すぐに朝食ができるから、いっしょに、できたての熱いやつを食べよう――なあに、遠慮《えんりょ》することはない。息子たちとも話したことだが、昨夜《ゆうべ》は、ここへ泊《と》まればよかったな」
「すごく恐《おそ》ろしくなったんで、逃《に》げ出したんだ」とハックは言った。「銃声《じゅうせい》がきこえたとたんに飛び出して三マイルぶっとおしに走っちまった。今日ここへきたのは、あれからどうなったか、それが知りたかったんだ。たとえ、あいつらが死んじまっていても、あんなやつらの姿を見るのはいやなので、夜が明ける前にきたんだ」
「そうかい。いかにも一晩じゅう苦しんだような顔だ――寝《ね》床《どこ》を用意してやるから、朝食がすんだら、ゆっくり寝るがいい。ところで、残念だが、あいつら、死にはしなかったよ。おまえの話で、はっきりやつらの居場《いば》所《しょ》がわかったもんだから、抜《ぬ》き足さし足、這《は》って行って、あと十五フィートってところまで近づいたんだが――あのぬるで《・・・》の木の道は穴蔵《あなぐら》のようにまっくらでな――そのとき、わしは急に、くしゃみがしたくなったんだ。なんとも間のわるい話さ。わしは必死に抑《おさ》えようとしたが、駄目《だめ》なんだ――出るものは出なきゃおさまらねえとみえて、とうとうハクションとやっちまった! わしはピストルをかまえながら先頭にいたんだが、くしゃみに驚《おどろ》いてあの悪党どもが逃げ出す気配がしたので、『射《う》て!』とどなって、その音のするところへぶっ放した。息子たちも射った。悪党どもは、すばやく逃げ出した。わしらは、あとを追って森にはいった。弾丸《たま》は当らなかったらしい。やつらも逃げるときに一発ずつ射ってきたが、弾丸は、わしらのそばをかすめただけで、怪《け》我《が》はなかった。そのうちに足音がきこえなくなったので、わしらは追跡《ついせき》をあきらめ、丘をおりて保安官を叩き起した。保安官は、さっそく非常呼集をして、河岸を固めた。明るくなりしだい、その連中が森のなかを探すことになっている。うちの息子たちも、それに参加するはずだ。あの悪党どもの人相風態《ふうてい》が、すこしでもわかってるといいんだが――そうすれば、とても役に立つはずだ。だが、おまえにしても、あの暗闇《くらやみ》では、やつらの顔形はわからなかっただろうな?」
「いや、おれにゃわかってるんだ。通りで見かけて、あとをつけたんだから」
「そいつは好都合だ! で、どんな風態の男だい、ハック?」
「一人は、このへんで二、三度見かけたことのある聾《ろう》唖《あ》の年寄りのスペイン人だし、もう一人は、ぼろを着た、人相のわるい――」
「よし、わかった、その男なら知ってる! いつだったか、ダグラスさんの家の裏手の森で出っくわしたことがある。こそこそと逃げて行ったが、伜《せがれ》や、さっそく出かけて行って保安官に話してこい――大急ぎだ、朝食なんか明日までのばせばいい」
二人の息子は出かけて行った。二人が部屋を出ようとしたとき、ハックは飛びあがって叫んだ。
「おねがいだから、おれがしゃべったってことは、誰にも言わないでね! 頼《たの》むよ!」
「言うなというんなら言わないが、しかし、ハック、それじゃおまえの手《て》柄《がら》にゃならないぜ」
「そんなことはどうでもいいんだ。おねがいだから言わないでくれよ!」
若者たちが出て行くと老ウェールズ人は言った。
「あいつらは、しゃべりゃしないよ――わしもしゃべらん。だが、おまえは、どうして誰にも知られたくないんだい?」
ハックは、ただ、男たちの一人については、知りすぎるほど知っているが、そいつの不利になることを知っているということは、どんなことがあっても、その男にさとられたくない、もし、わかったら、たちまち殺されてしまう、とだけ説明した。
老人は重ねて秘密を守ることを約束《やくそく》して言った。
「おまえは、どうして二人をつける気になったんだい? やつらの様子が怪《あや》しかったのか?」
ハックは、しばらく黙《だま》っていて、そのあいだに、適当な返事を考えた。
「それはね、おれは、どっちかというと不幸な身の上なんだ――みんながそう言うし、自分でもそう思っている――そのことを考えて、なんとか新しい道を開こうと思って、眠《ねむ》れないことが、よくあるんだ。昨夜が、ちょうどそうだった。どうしても眠れないんで、夜中の十二時ごろ、いろんなことを考えながら、ぶらぶら通りを歩いていた。そして、禁酒旅館の隣《となり》の、あの古い、こわれかかった煉《れん》瓦屋《がや》の前まできたとき、もっとよく考えようと思って、壁《かべ》によりかかったんだ。すると、そのとき、おれのそばを、あの二人の男が何かをかかえて通りかかった。おれは、そいつらが何か盗《ぬす》んできたんだと思った。一人はタバコをすっていて、もう一人がその火を借りたいと言ったもんだから、そいつらは、ちょうどおれの前で立ちどまり、タバコの火で二人の顔が見えたんだ。大きいほうの男は、白い顎《あご》ひげと眼帯で聾唖のスペイン人だってことがわかった。もう一人は、ぼろを着た、やせこけた男だった」
「タバコの火で、ぼろまでわかったのか?」
ハックは、ちょっとあわてた。
「それは――どうしてだかわからないが、なんとなく、そんな気がしたんだ」
「それから二人は歩きだし、おまえは、そのあとを――」
「つけたんだ――そうなんだ、そのとおりなんだ。どういうことなのか知りたいと思ったもんだから――それに、あいつらの様子が変だったから。それでダグラスさんの家の木戸のところまでつけて行って、暗闇のなかに立っていると、ぼろを着たほうは、しきりに相手をなだめているし、スペイン人は後家《ごけ》さんの顔をめちゃめちゃにしてやるんだと言っていた。それは、昨夜《ゆうべ》、小父《おじ》さんや息子さんたちに話したとおりで――」
「なんだと? 聾唖の男が、そう言ったのか?」
ハックは、またしても大失敗をやらかしてしまったのだ。彼は、このスペイン人の正体については、老人に絶対にさとられまいと、けんめいに努力していたのだが、その努力にもかかわらず、彼の舌は、彼を窮地《きゅうち》におとしいれようと決心しているかのようであった。彼は、なんとかこの窮地から抜け出そうと、何度も努力を試みたが、老人の目に見すえられて、失態を重ねるばかりだった。最後に老ウェールズ人は言った。
「こわがらなくてもいい。どんなことがあっても、わしはおまえの髪《かみ》の毛一すじ傷つけるようなことはしないからな。それどころか、わしはおまえを守ってやる。しっかりと守ってやる。そのスペイン人は聾唖ではないんだな。おまえは、うっかり口をすべらしてしまった。いまさら、言いつくろっても無駄だ。おまえは、何かあのスペイン人について知っていて、それを人にかくしておきたいらしい。さあ、わしを信用してくれ。信用して、うち明けてくれ――決しておまえを裏切るようなことはしないよ」
ハックは、老人の正直そうな目を見て、それから、その耳にささやいた。
「あれはスペイン人じゃなくて――インジャン・ジョーなんだ!」
ウェールズ人は、椅子から飛びあがりそうになった。老人は、すぐ言った。
「それで、すっかりわかった。おまえが、耳をそぐとか鼻をたち割るとか言ったとき、わしは、おまえがいいかげんなほらを吹《ふ》いているんだと思っていた――白人は、そういう復《ふく》讐《しゅう》はしないものだからね――だが、インディアンなら、やりかねない。インディアンとなると話が別だ」
朝食のあいだも、会話はつづいたが、そのなかで老人は、こんなことを言った。昨夜老人と息子たちは寝るまえに、木戸のあたりに血痕《けっこん》があるかどうかを調べたそうだ。血痕はなかったが、大きな包みを発見したということだった。
「何がはいっていたの?」
たとえ、その言葉が稲妻《いなずま》だったとしても、これ以上すばやくハックの蒼《あお》ざめた唇《くちびる》から飛び出すことは不可能だろう。彼は大きく目をみはり、呼吸《いき》をとめて――返事を待った。ウェールズ人は驚いて、これも目をまるくした――三秒――五秒――十秒――老人は、ようやく答えた。
「泥棒《どろぼう》の道具だよ。おまえ、どうかしたのか?」
ハックは、すっかり安心して、静かに深く息を吸いこみながら、ぐったりと腰《こし》を落した。ウェールズ人は、ふしぎそうにハックを眺《なが》めた。
「そうだ、泥棒の道具なんだ。それで、おまえは、ひどく安心したようだな。だが、さっきは、どうして顔色を変えたんだい? 包みに何がはいっていたと思ったんだい?」
ハックは言葉につまった。鋭《するど》い目が、じっと彼を見つめていた――この際、もっともらしい答えの材料をあたえてくれるなら、何を提供しても惜《お》しくはない、と彼は思った。しかし答えの材料は出てこなかった。鋭い目が、いよいよ迫《せま》ってきた――ふと、無意味な答えが胸にうかんだ――よく考えてみる余《よ》裕《ゆう》がなかったので、彼は思いきって、つぶやくように言った。
「日曜学校の本じゃないかと思って――」
気の毒にハック自身は笑うどころでなかったが、老人は愉《ゆ》快《かい》そうに、体をゆすって大声で笑った。そして、こういう大笑いは、医者の支《し》払《はら》いをすくなくするから、ポケットに金が舞《ま》いこんだようなものだ、と言った。それから老人は、こうつけ加えた。
「かわいそうに、おまえは疲《つか》れて顔色がわるい。体の調子がよくないんだろう。そわそわして、変なことをいうのも無理はない。だが、すぐなおる。すこし休んで眠ればなおるだろう」
こんなあわてかたをして怪《あや》しまれるなんて、なんというばかだろう、とハックは思った。旅館から持ち出した包みが宝物だという考えは、未亡人の家の木戸のところで二人の話を聞いた瞬間《しゅんかん》から、捨てていたというのに。しかし、その包みは宝物ではないだろうと推察しただけで、たしかにそうだとは知らなかったわけだ。だから、包みを発見したと聞いて自信がぐらついたのだ。だが、結局彼は、この小さな失態をよろこんだ。そのために、はっきりと、その包みが問題の包みでないことがわかったし、おかげで彼の心は安らかになり、気が楽になったからだ。実際、いまでは万《ばん》事《じ》がうまく運んでいるように思われた。宝物は、まだ二号室にあるにちがいない。あいつらは、今日のうちに捕《とら》えられて牢《ろう》に入れられるだろう。そうすれば、トムと二人で、何の苦もなく、誰にも邪《じゃ》魔《ま》されずに金貨を手に入れることができるのだ。
ちょうど朝食が終ったとき、戸をノックする音がきこえた。ハックは飛びあがって、かくれようとした。ほんのちょっとでも、今度の事件に、かかわりをもちたくなかったからだ。ウェールズ人は、ダグラス未亡人をふくめて数人の男女を迎《むか》え入れた。このときハックは、村の人たちがたくさん木戸を見るために丘をのぼってきていることを知った。この噂《うわさ》は、もう村じゅうにひろがっていたのだ。
老ウェールズ人は昨夜の事件を訪問者たちに説明しなければならなかった。生命《いのち》を助けられたことに対し、未亡人は心から感謝した。
「いや、そうおっしゃらんでください、奥《おく》さん。お礼を言わなければならな相手は、わしや息子たちでなく、ほかにいるんです。でも、その人は、名前を言ってくれるなと言うとるんです。わしらは、その人がいなかったら、あそこへ駆《か》けつけることもなかったでしょう」
もちろんこの言葉は、事件そのものの影《かげ》がうすくなるほど強烈《きょうれつ》に人々の好《こう》奇《き》心《しん》をかきたてた。しかしウェールズ人は、訪問者の好奇心をかきたてたままにしておいた。こうして、これらの人たちの口を通じて、このことは村じゅうにひろがったが、未亡人は、それ以外のことをすべて聞かされてから言った。
「わたしはベッドで本を読みながら眠ってしまって、そういう騒《さわ》ぎがあったことを、すこしも知りませんでした。どうして起してくださいませんでしたの?」
「起しても、なんにもならないと思ったからですよ。それに、あいつらが二度とくるとは思えなかったもんですからね。もう使えるような道具も残っていないし、奥さんを起して死ぬほどこわがらせる必要もないだろうと思ったんですよ。あれから夜どおし、うちの黒人を三人、お宅に張り番させておきました。ちょうどいま、そいつらが帰ってきたところです」
つぎからつぎと新しい客がつめかけてきて、老人は、二時間以上も、同じ話をくりかえさなければならなかった。
学校の休暇中《きゅうかちゅう》は日曜学校はなかったが、この日は早くから人々が教会へつめかけ、この大事件は十分検討しつくされた。噂によると、二人の悪漢の行《ゆく》方《え》は、まだわからないということだった。説教が終ってから、サッチャー判事の奥さんは、会衆といっしょに廊《ろう》下《か》を歩きながら、ハーパー夫人と並《なら》んだ。すると奥さんは言った。
「うちのベッキーは、一日じゅう寝ているつもりでしょうか? ずいぶん疲れているとは思いますけれど」
「お宅のベッキーさんですって?」
「そうですわ」判事の奥さんは目をまるくした。「昨夜《ゆうべ》、お宅にご厄介《やっかい》になったんじゃございませんの?」
「まあ、いいえ」
サッチャー夫人は蒼くなって、そこの腰掛《こしかけ》にへたばりこんだ。ちょうどその前を、ポリー伯母《おば》さんが、友人と愉快に話しあいながら通りかかった。ポリー伯母さんは言った。
「おはようございます、サッチャーの奥さん。おはようございます、ハーパーの奥さん。うちの子が行方不明になったんですが、トムは、昨夜、あなたがた、どちらかのお宅にご厄介になったんでしょうね? それで、今朝は気まりが悪くて教会へ出られなかったんでしょう。帰ってきたら、みっちり叱《しか》ってやらなければなりませんわ」
サッチャー夫人は力なくかぶりを振り、顔の色が、いっそう蒼くなった。
「うちへはまいりませんよ」とハーパー夫人が心配そうな表情で言った。ポリー伯母さんの顔にも、ありありと不安の色がうかんだ。
「ジョー・ハーパー、あんたは今朝うちのトムに会いましたか?」
「いや、会わないよ」
「この前には、いつ会いましたか?」
ジョーは思い出そうとしたが、はっきりしたことは言えなかった。教会から出ようとしていた人々は足をとめた。耳うちがつたわり、不《ふ》吉《きつ》な憂慮《ゆうりょ》が人々の顔をおおった。子供たちは不安に満ちた質問をうけ、若い先生たちも、熱心に質問された。しかし、いずれも、帰りの船にトムとベッキーが乗っていたかどうか気がつかなかった、と答えた。暗くはあったし、人員点呼をすることを誰も思いつかなかったのだ。一人の若い男が、ひょっとしたら彼らは、あの洞窟《どうくつ》のなかにいるのではなかろうか、と心配していたことを口走った。サッチャー夫人は気をうしない、ポリー伯母さんは両手をもみしぼって泣きだした。
この驚くべきニュースは、口から口へ、群れから群れへ、通りから通りへと、またたくまにひろがった。そして五分とたたぬうちに、けたたましく鐘《かね》が鳴りひびき、村じゅうが大騒ぎになった。カーディフの丘の物語は、たちまちその価値をうしない、強盗《ごうとう》どもは忘れられ、馬には鞍《くら》がおかれ、小《こ》舟《ぶね》には人が乗りこみ、蒸気鉛は出航を命じられ、ニュースがつたわってから三十分とたたぬうちに、二百人もの人々が街道《かいどう》や河をつたって洞窟に向った。
長い午後のあいだ、村は鳴りをひそめて死んだように見えた。大勢の婦人たちがポリー伯母さんとサッチャー夫人を訪《たず》ねてなぐさめた。婦人たちも当事者といっしょに泣いたが、それは言葉以上のなぐさめだった。退屈《たいくつ》な夜のあいだじゅう村の人たちは知らせを待っていたが、夜が明けたときにつたえられたのは、「もっと蝋燭《ろうそく》と食物を送れ」という言葉だけだった。サッチャー夫人は気も狂《くる》わんばかりだったし、ポリー伯母さんも同様だった。サッチャー判事は洞窟から希望と激励《げきれい》の言葉をつたえてよこしたが、その言葉には、すこしも明るさがなかった。
夜が明けてから、老ウェールズ人が帰ってきたが、体じゅう蝋燭に汚《よご》れ、粘《ねん》土《ど》にまみれて、すっかり疲れはてていた。老人は、ハックが、まだ臨時につくられたベッドに寝ていて、熱に浮《う》かされているのを発見した。医者は全部洞窟へ行っていたので、ダグラス未亡人がきて看病した。未亡人は、この少年のために全力をつくすつもりだ、と言った。善《よ》い子であろうと悪い子であろうと、あるいは、そのどっちでもなかろうと、とにかくこの少年は神の子であり、神の子である以上、おろそかにするわけにはいかない、というのだ。ハックにも、いいところがある、とウェールズ人が言うと、未亡人は、こう答えた。
「そうですとも。それが神さまのお手の跡《あと》なのです。神さまは、決してなおざりにはなさいません。決して、そんなことはなさいません。自分の手でおつくりになったすべてのものには、かならずその跡をおつけになるのです」
お昼までには、まだ十分時間があるころから、村の人たちは疲れきって引きあげてきたが、頑丈《がんじょう》な連中は、まだ捜索《そうさく》をつづけていた。報告によると、これまで誰も足を踏《ふ》み入れたことのない洞窟の奥の部分まで、くまなく捜索され、陰《かげ》という陰、割目という割目が徹底《てってい》的に調べられ、網《あみ》の目のような通路を通って行けるところには、どこにでも、燈《とう》火《か》がちらつくのが見え、叫び声と短銃の音が陰《いん》気《き》な通路をとおして、うつろに反響《はんきょう》した、ということだった。ところが、普《ふ》通《つう》、見物人が行くところから、はるかに離《はな》れた場所で、岩壁に蝋燭の油《ゆ》煙《えん》で「ベッキーとトム」と書かれているのが発見され、その近くで脂《あぶら》に汚れたリボンの切れはしが見つかった。サッチャー夫人は、そのリボンは娘《むすめ》のものにちがいないと言って泣きくずれた。夫人は、これはベッキーの遺品だと言い、恐ろしい死におそわれる前に娘の体から離れた最後の品だから、どんな形見よりも貴重なものだ、と言った。帰ってきた人たちの話では、ときどき、洞窟の遠方に、ちらりと燈火が見えるので、二十人もの人たちが、隊を組んで、歓声をあげ、通路に反響をひびかせながら行ってみたが――そのつど、やるせない失望を味わわされたという。そこには、子供たちの姿はなく、燈火と見えたのは捜索隊の燈影《とうえい》だったからだ。
三日三晩が不安と焦燥《しょうそう》のうちに過ぎて、村は活気をうしない麻痺《まひ》したようだった。誰も、何をする気にもなれなかった。たまたま禁酒旅館の主人が酒をかくしていたことが発覚したが、重大な事件のわりには、あまり騒がれなかった。ハックは、意識がはっきりしたときには、この旅館のことを口にして、最悪の事態を心配しながら、最後に――自分が寝こんでいるあいだに禁酒旅館で何か発見されたかどうかをたずねた。
「発見されたわ」と未亡人は答えた。
ハックは目をまるくしてベッドのなかで飛びあがった。
「ほんと? 何を見つけたの?」
「お酒よ!――それで営業停止になったわ。さあ、寝ていらっしゃい。どうしたの――びっくりするじゃないの」
「一つだけ話しておくれよ――一つだけ――おねがい! それを見つけたのはトム・ソーヤーなのかい?」
未亡人は涙《なみだ》をうかべた。「静かに、静かにしなさい、おしゃべりはいけないわ! 前にも言ったでしょう、おしゃべりしちゃいけないって。病気にさわるからね」
じゃ、見つかったのは、お酒だけだったんだ。もし、あの金が発見されたら、大評判になっているだろう。してみると、あの宝物は、どこかへ行ってしまったんだ――永久になくなってしまったんだ! だが、未亡人は、なぜ泣くんだろう? 何も泣くことはないじゃないか。
このような考えが、とりとめもなくハックの頭のなかを駆けめぐったが、やがて考え疲れて彼は眠ってしまった。未亡人は心のなかで言った。
「どうやら眠ってしまった――かわいそうに。トム・ソーヤーが見つけたなんて! 誰かがトム・ソーヤーを見つけてくれさえしたら! もう、たいていの人があきらめてしまって、これ以上探しつづける希望も気力もなくなってしまったようだ」
第三十一章 発見と再度の喪失《そうしつ》
ピクニックに行ったトムとベッキーのことに話を戻《もど》そう。二人は、ほかの子供たちといっしょに暗い洞窟《どうくつ》のなかを足どりも軽く歩きまわって、「接見の間」とか、「大《だい》伽《が》藍《らん》」とか、「アラジンの宮殿《きゅうでん》」とか、どちらかといえば、もったいぶった名前をつけた、すばらしい奇《き》観《かん》を見物してまわったが、やがて、「かくれんぼ」がはじまると、それに加わって夢中《むちゅう》になって遊んだ。そのうち、いくらか飽《あ》きてきたので、トムとベッキーは、曲りくねった通路をくだり、蝋燭《ろうそく》を高くかかげて、岩壁《いわかべ》に蜘蛛《くも》の巣《す》のように雑然と書きちらされた――いずれも蝋燭の油《ゆ》煙《えん》で書かれたものだ――名前や、日付や、住所や、標語を読みながら、さきへ進んだ。そして、話をしながら、ぶらぶら歩いているうちに、いつしか岩壁に落書《らくがき》のないところまで深入りしてしまったことに気がつかなかった。二人は、垂れさがった大きな岩棚《いわだな》に、蝋燭の油煙で自分たちの名を書きつけて、なおもさきへ進んだ。やがて二人は、棚のような岩の上を流れ落ちて、石灰岩の沈澱物《ちんでんぶつ》をいっしょに流し去る水流が、ゆっくりと過ぎてゆく長い歳月《さいげつ》のあいだに、ぎらぎら光る不《ふ》滅《めつ》の石にレース模様のような襞《ひだ》のあるナイヤガラ瀑《ばく》布《ふ》を形づくっているところへ、さしかかった。トムは、ベッキーをよろこばせるために、狭《せま》い隙《すき》間《ま》から体をねじってそのうしろ側にまわり、蝋燭の光で瀑布を照らして見せた。彼《かれ》は、瀑布のうしろに、険しい天然の階段が狭い岩壁のあいだに通じているのを発見して、誰《だれ》も知らないところをさぐってみようという探険欲にとりつかれた。ベッキーが彼の呼び声にこたえてやってきた。二人は、のちのちのために油煙で目じるしをつけておいて探険をはじめた。誰も知らない洞窟の奥《おく》のほうまで、あちこちと歩きまわり、ところどころに目じるしをつけ、外にいる人たちへの話のたねを求めて、枝道《えだみち》へはいりこんだ。ある場所で、彼らは、ひろびろとした岩窟《がんくつ》を見つけた。天井《てんじょう》から、長さも太さも人間の足ほどの無数の鍾乳石《しょうにゅうせき》か垂れさがって、きらきら光っていた。二人は驚《おどろ》いたり感嘆《かんたん》したりしながら、そのあいだを歩きまわってから、この岩窟に通じる無数の通路の一つにはいりこんだ。この通路を通って、まもなく、うっとりするような美しい泉のところへやってきた。泉の底は、きらきら光る水晶《すいしょう》の霜紋模様でおおわれていた。この泉は洞窟の中央にあって、周囲の壁は何世紀かのあいだにたえず流れ落ちた水のために、大きな鍾乳石と石筍《せきじゅん》がいっしょになってできた無数の奇妙《きみょう》な形の柱に支えられていた。天井には無数の蝙《こう》蝠《もり》が大きな塊《かたまり》となって群がり集まっていたが、蝋燭の火に驚いて、何百となく群れをなして、きいきい鳴きながら猛烈《もうれつ》な勢いで蝋燭めがけておそいかかった。トムは、彼らの習性と、このような行動の危険なことを知っていたから、ベッキーの手をひいて手近な枝道へ逃げこんだが、それでも間に合わず、一匹《いっぴき》の蝙蝠が走り抜《ぬ》けようとするベッキーの蝋燭を翼《つばさ》で叩《たた》き消してしまった。蝙蝠は、かなり遠くまで追ってきたが、二人は手当りしだいに脇道《わきみち》へ逃《に》げこんで、ようやくこの危険な動物から逃《のが》れることができた。まもなくトムは地下の湖を発見した。湖は、その形が闇《やみ》のなかへ消えてしまうまで、どこまでものびひろがっていた。彼は、その岸を探険したかったが、まず腰《こし》をおろして一休みしたほうがいいと考えた。このときになってはじめて、あたりの深い静けさが冷たい手で二人の心をつかんだ。ベッキーは言った。
「ねえ、いままで気がつかなかったけれど、みんなの声がきこえなくなってから、もうずいぶんたったような気がするわ」
「考えてごらんよ、ベッキー、ぼくたちは、ほかの連中よりも、ずっと下のほうにいるんだ。しかも、どれくらい北にいるのか、南にいるのか、東にいるのか、まるで見当がつかないんだ。全然、みんなの声がきこえないからね」
ベッキーは不安になった。
「おりてきてから、どのくらいたつのかしら――トム、もう帰ったほうがいいわ」
「うん、帰ろう。そのほうがいい」
「道がわかる? ごちゃごちゃに入りくんでいて、わたしには、ちっともわからないわ」
「わかると思うんだが、蝙蝠が困るんだ。ぼくらの蝋燭が二つとも消されちゃうと、たいへんなことになる。あそこを通らないように、どこか別の道を行ってみよう」
「そうね、でも、迷子にならなけりゃいいけれど――わたし、こわいわ!」と言ってベッキーは、その恐《おそ》ろしい可能性を考えて身《み》震《ぶる》いした。
二人は、一つの通路を歩きはじめた。しばらく黙《だま》って歩きつづけたが、新しい通路の入口に突《つ》きあたるたびに、すこしでもそれに見おぼえがありはしまいかと、じっくりと眺《なが》めた。しかし、どの入口も、まるで見おぼえがなかった。トムが、それらをあらためるたびに、ベッキーは、トムの顔を見まもって、気持を勇気づけるような表情を探し、そしてトムは、元気よく、言うのだった。
「ああ、大丈夫《だいじょうぶ》だ! この道はちがうけれど、もうじき、ほんとうの道に出られるよ!」
しかし失敗が重なるにつれて彼は自信をうしない、やがて、ことによるとほんとうの道に出られるかもしれないというやけくその期待をいだいて、でたらめに脇道にはいりはじめた。彼は、いまでも、口では「大丈夫だ」と言っていたが、心のなかは鉛《なまり》のように重かったので、その言葉には力がなく、「もう駄《だ》目《め》だ!」と言っているようにきこえた。ベッキーは、不安と苦痛のあまりトムに寄りそい、けんめいに涙《なみだ》をこらえていたが、それでも涙を抑《おさ》えきれなかった。最後に彼女《かのじょ》は言った。
「ねえ、トム、蝙蝠がいてもかまわないから、あの道を帰りましょうよ! だんだん悪いほうへはいりこむような気がするわ」
トムは立ちどまった。
「ちょっと!」と彼は言った。
あたりは、ひっそりとしていた。その静けさは、あまりにも深く、自分たちの呼吸までが、そのしいんとしたなかで、はっきりきこえるほどだった。トムは叫《さけ》んだ。その声は、うつろな洞窟にひびきわたり、嘲笑《ちょうしょう》するような、かすかな反響《はんきょう》を残して消えた。
「もうよしてよ、トム、こわいわ」とベッキーは言った。
「こわいけれど、呼んだほうがいいんだよ、ベッキー。みんなにきこえるかもしれないからね」そう言って、トムは、もう一度、声をはりあげた。
「かもしれない」という言葉は、幽霊《ゆうれい》のような笑い声よりも、もっと不気味で恐ろしかった。それは、希望がうしなわれつつあることを物語っていた。二人は、じっと立ったまま耳をすましたが、反応はなかった。トムは、さっそくもとの道に引きかえして足を速めた。まもなく、なんとなく迷っているようなトムの態度が、ベッキーに、もう一つの恐ろしい事実を告げた。トムは、帰りの道がわからなくなったのだ!
「トム、しるしをつけておかなかったんでしょう!」
「ベッキー、ぼくは、ばかだった。まったくばかだった! 引き返すかもしれないということを考えなかったんだ! そうだ、道がわからないんだ。まるでこんぐらかってしまったんだ」
「トム、わたしたち、迷子になっちゃったんだわ! 迷子になったんだわ! この恐ろしいところから出られないんだわ! ああ、どうして、みんなと別れたりしたのかしら!」
彼女は、そこへへたばりこんで、気が狂《くる》ったように、はげしく泣きだした。トムは驚いて、ベッキーは死ぬのではないか、それとも気がちがうのではないか、と思った。彼は、彼女のそばに坐《すわ》って、彼女を抱《だ》きよせた。彼女は彼の胸に顔を埋《う》めて、すがりついた。そして、恐ろしさと、いまさらどうにもならない後悔《こうかい》とを訴《うった》えた。その声は、遠くへこだまして嘲《あざ》けるような笑いとなって返ってきた。トムは、もう一度希望をもってほしいと頼《たの》んだが、ベッキーは頭を振《ふ》るばかりだった。トムは、彼女をこんなひどい目にあわせたことで、自分自身を責め、猛烈に自分を罵《ののし》った。これが、よい結果をもたらした。ベッキーは、トムが二度と自分を責めるようなことさえしなければ、もう一度、希望をもつように努力するし、元気を出して立ちあがって、トムの行くところなら、どこまでもついて行く、と言った。
二人は、ふたたび歩きはじめた――あてもなく――ただ、でたらめに――彼らにできるのは、ただ歩きつづけることだけだった。それでも、しばらくのあいだは、いくらか希望がわいてくるように感じられた――といって、何も、それを裏づける理由はなかった。ただ、老齢《ろうれい》や失敗を重ねることで心の弾力《だんりょく》をうしなわないかぎり、いつしかその源泉がよみがえるのが、希望というものの性質なのだ。
しばらくたつと、トムはベッキーの蝋燭を取りあげて、火を吹《ふ》き消した。この倹約《けんやく》には大きな意味があった。説明の必要はなかった。ベッキーは、それをさとって、ふたたび希望をうしなった。彼女は、トムのポケットに、新しいのが一本と、使いかけのが三、四本残っているのを知っていた――しかも倹約しなければならないのだ。
そのうち、疲《ひ》労《ろう》が、はっきり目立ってきた。二人は、それを気にしないように努力した。なぜなら、時間が、こんなに貴重なものとなっているのに、腰をおろして休むなどということは、考えるだけでも恐ろしかったからだ。どの方角へでも、とにかく、どこかへ向って動いていれば、それだけでも、すくなくとも一つの進展であり、ことによると実を結ぶかもしれないが、腰をおろしてしまったら、それは死を招き、死との距《きょ》離《り》を縮めるにすぎないのだ。
とうとう、ベッキーの弱い足は、それ以上歩けなくなった。彼女は坐りこんでしまった。トムも、いっしょに腰をおろして、家のことや、友だちのことや、気持のよいベッドのことや、とりわけ燈《とう》火《か》のことを語りあった。ベッキーは泣いた。トムは、なんとかうまくなぐさめようと思ったが、彼のなぐさめの言葉は、みんな使い古したものばかりなので効果がなくなり、とってつけたようにきこえた。疲労が重くおおいかぶさって、ベッキーは、うとうと眠《ねむ》りはじめた。トムは、ほっとした。彼は坐ったままベッキーのゆがんだような顔を見まもり、その顔が楽しい夢《ゆめ》の力でいつものなごやかな表情に戻るのを見た。やがて、にこやかな微笑《びしょう》がうかんできた。そのおだやかな寝《ね》顔《がお》を見ていると、トムの心も、いくぶんおだやかになり、彼の思いは、遠く昔《むかし》の夢のような思い出へとさまよっていった。こうしてトムが物思いにふけっていたとき、ベッキーは、小さな軽い笑い声をたてて目をさました。だが、その笑いは、そのまま唇《くちびる》に凍《こお》りついて、せつなそうなうめき声が、それにつづいた。
「まあ、どうして眠ることができたのかしら? いっそ目がさめなければよかったわ!――いいえ、嘘《うそ》よ、トム! そんな顔しないでちょうだい! もうそんなこと言わないわ」
「きみが眠ってくれたんで安心したよ、ベッキー。眠ったんで元気が出ただろう? さあ、道を探そう」
「ええ、探しましょう。わたし、いま、とてもきれいなお国の夢をみたのよ。わたしたち、これから、そこへ行くんだと思うわ」
「そんなことはないよ。そんなことはないさ。元気を出してくれよ、ベッキー。いっしょにがんばろう」
二人は立ちあがって、手に手をとって力なく歩きだした。この洞窟にはいってから、どのくらいたったかと考えてみたが、数日とも思えたし、数週間とも思えた。もっとも、まだ蝋燭が使いきらずに残っている以上、そんなことがありえないのは明らかだった。それから、しばらくして――それが、どれくらいの時間であったかわからないが――トムは、足音をたてずに歩いて水のしたたる音を聞きつけなければならない、そして泉を探し出すのだ、と言った。まもなく、その泉が見つかった。トムは、もう一度ここで休もうと言った。二人とも疲れきっていたが、ベッキーは、まだすこしぐらいなら歩ける、と言った。ところが、驚いたことにトムは休むことを主張した。彼女には、その理由がわからなかった。二人は腰をおろし、そしてトムは、粘《ねん》土《ど》をつかって蝋燭を目の前の壁にしっかりとりつけた。いろんな思いがこみあげてきて、しばらく二人とも黙りこんでいた。ベッキーが、やがて沈黙《ちんもく》を破った。
「トム、わたし、とてもお腹《なか》がすいたわ!」
トムはポケットから何かとり出した。
「これ、おぼえてるかい?」
ベッキーは、かすかに微笑をうかべた。
「わたしたちの結婚《けっこん》披《ひ》露《ろう》のお菓子《かし》だわ、トム」
「そうだ――樽《たる》みたいに大きいといいんだけれど、これだけしかないんだ」
「わたしは、それを見て、いろんな楽しいことを考えたいと思って、わざとピクニックには持ってこなかったのよ。大人のひとが結婚披露のお菓子を、大切にとっておくようにね――でも、もうこうなったら――」
彼女は、言いかけて口をつぐんだ。トムは、そのお菓子を二つに分けた。ベッキーは、がつがつそれを食べたが、トムは自分の分を、ちびちび食べた。冷たい水は、このご馳《ち》走《そう》を食べるには十分あった。やがてベッキーは、もう一度歩いてみよう、と言った。トムは、しばらく黙っていたが、やがて言った。
「ベッキー、言いたいことがあるんだけど、泣かないで聞いてくれるかい?」
ベッキーの顔から血の気がひいた。しかし彼女は耐《た》えられるつもりだと答えた。
「じゃ、言うよ、ベッキー、ぼくたちは、飲み水のあるここにいなければならないんだ。この短いやつで、蝋燭は、もうおしまいなんだ!」
ベッキーは泣きだした。トムは、できるだけなぐさめたが、効果はなかった。最後にベッキーは言った。
「トム!」
「何だい、ベッキー?」
「みんなが、わたしたちのいないことに気がついて探しにくるわ!」
「そうだ! きっと探しにくるよ!」
「いま探しているかもしれないわね」
「うん、そうかもしれないね! そうだといいんだがな」
「みんなは、いつわたしたちがいないことに気がつくかしら?」
「船に乗ってからだろう」
「でも、そのときは、もう暗くなっているかもしれないわね――わたしたちがいないことに、ほんとに気がつくかしら?」
「それはわからないよ。でも、みんなが家へ帰ったら、きみのお母さんが気がつくだろう」
ベッキーの顔にうかんだ驚きの色を見て、トムは、自分がうかつだったことに気がついた。ベッキーは、その夜、お母さんのところへは帰らないことになっていたのだ! 二人は黙って考えこんだ。たちまちベッキーが泣きだした。それでトムは、自分が考えていることをベッキーもまた考えているのだとわかった――つまり、日曜日の午前もなかばを過ぎたころでなければ、サッチャー夫人は、ベッキーがハーパー家にいないことに気がつかないだろう、ということだ。
二人は蝋燭に目をそそぎ、それが邪険《じゃけん》に短くなるのを見まもっていた。やがて蝋燭は、半インチばかりの芯《しん》だけになった。弱い炎《ほのお》が伸《の》びたり縮んだりして、薄《うす》い煙《けむり》の柱をよじのぼり、そのてっぺんで、ちょっとためらっていたかと思うと――完全な闇が、あたりに垂れこめた。
その後、どのくらいたってから、トムの腕《うで》に抱かれて泣いていたベッキーが、ようやくわれにかえったかは、二人ともわからなかった。わかったのは、はかり知れない長い時間のあと、二人とも死んだような昏睡《こんすい》状態からさめ、もう一度みじめな状態に戻った、ということだけだった。トムは、もう日曜日、ことによると月曜日になっているかもしれない、と言った。彼はベッキーに話をさせようとしむけたが、彼女は、悲しみに圧倒《あっとう》されて、すっかり希望をうしなっていた。トムは、みんなが、とうに自分たちのいないことに気がついて、探しはじめたにちがいない、と言った。大きな声で叫んでみたら、誰かきてくれるかもしれない。そこで彼は、思いきり大きな声で叫んでみた。しかし、まっくらななかで、その反響は、あまりにも恐ろしかったので、二度とくりかえす気になれなかった。
空《むな》しく時は過ぎ、ふたたび飢《う》えが二人を苦しめはじめた。トムの菓子が、半分ほど残っていたので、二人は、それを分けて食べた。しかし、そのために、かえって空腹がはげしくなったように思われた。わずかばかりの食物は、ただ食欲を刺《し》激《げき》したにすぎなかった。
ふと、トムが言った。
「しっ! きこえたかい?」
二人は息をころして耳をすました。はるか遠くから、かすかに叫ぶような人声がきこえた。トムは、すぐにこれに答え、ベッキーの手をとって、そのほうへ手さぐりで進みはじめた。彼は、もう一度、耳をすました。また声がきこえた。明らかに、前よりも近くなっていた。
「みんなだ!」とトムが言った。「みんながきたんだ! さあ、ベッキー――もう大丈夫だ!」
二人のよろこびは、たとえようもなかった。しかし、足もとには、いたるところ穴があって、用心しなければならなかったから、なかなか思うように進めなかった。まもなく一つの穴にぶつかって進むことができなかった。その穴の深さは三フィートくらいかもしれないし、百フィート以上あるかもしれなかった――いずれにしても通ることはできなかった。トムは腹《はら》這《ば》いになって、手をできるだけ下にのばしてみた。しかし、手は底にとどかなかった。とすると、ここにじっとしていて、捜《そう》索隊《さくたい》のくるのを待たなければならないわけだ。二人は耳をすました。遠い叫び声は、前よりも遠くなっていた! そして、まもなく完全にきこえなくなった。なんというみじめな失望だろう! トムは、声がかれるまで叫びつづけたが、効果はなかった。トムは、まだ希望があるようにベッキーには話したが、一時代とも思われるほど長いあいだ待っても、二度とその声はきこえてこなかった。
二人は手さぐりで、泉のところまで引きかえした。むなしく時はすぎて、二人はまた眠った。そして、また空腹と悲しみのうちに目をさました。もう火曜日にちがいない、とトムは思った。
ふと彼は、ある計画を思いついた。すぐ近くに、枝道が、いくつもあった。何もしないで、重苦しい時の圧力に抑えつけられているよりも、この枝道を調べてみたほうが上策というものだ。彼はポケットから凧《たこ》の糸をとり出して岩角に結びつけ、トムがさきに立って、その糸をほぐしながら進んだ。二十歩ほど進むと、その道はジャンプ台のような断崖《だんがい》で終っていた。彼は膝《ひざ》をついて下をさぐってみた。それから手のとどくかぎり、その角のあたりをさぐってみた。そして、もうすこし右のほうに手をのばそうとしたとき、二十ヤードと離《はな》れない岩陰《いわかげ》から、蝋燭を持った人の手があらわれた! トムは、その機を逃《のが》さず叫んだ。すぐ、その手につづいて体が出た――インジャン・ジョーの体だ! トムは立ちすくんで身動きできなかった。つぎの瞬間《しゅんかん》、その「スペイン人」が、身をひるがえして姿を消したのを見て、彼は、ほっと胸を撫《な》でおろした。声でトムだとわかったはずなのに、ジョーは、どうして法廷《ほうてい》で証言した仕返しに自分を殺そうとしなかったのだろう、とふしぎに思ったが、反響が声の色を変えたのだろう、とトムは考えた。そうだ、それにちがいない。びっくりしたのでトムの体の筋肉は、すっかり変調をきたした。もし泉のところへ引き返すあいだ力がつづいたら、そこにじっとしていて、どんなことがあっても二度とインジャン・ジョーと面《つら》つき合せるような危険をおかすまい、と彼はつぶやいた。彼は、いま見たものをベッキーには黙っていた。ただ、「運だめし」にどなってみただけだ、と言った。
しかし、結局、飢えと悲しみは恐怖《きょうふ》をうち負かすものだ。ふたたび泉のほとりで長いあいだ待ち、ふたたび長いあいだ眠ったあと、変化がおとずれた。二人は、猛烈な飢えに悩《なや》まされて目をさました。トムは、もう水曜日か木曜日、ことによると金曜日か土曜日になっていて、捜索はうち切られたにちがいない、と思った。彼は、もう一度、別の道を探してみようと言いだした。インジャン・ジョーであろうが何であろうが、あらゆる恐ろしいものに出っくわす危険なんか恐れずに、思いきってやってみようという気になったのだ。しかしベッキーは弱りきっていた。彼女は無気力な放心状態におちいっていて、まるで気力がなかった。彼女は、ここで待っていて死にたい、どうせ長いことはないのだから、と言った。そしてトムに、行きたいなら凧糸を持ってひとりで行ってほしい、その代り、ときどき引き返してきて、言葉をかけてくれるようにと頼んだ。そして、いよいよ最後のときがきたら、彼女のそばにいて、息をひきとるまで手を握《にぎ》っていてほしいと言って、トムにそのことを約束《やくそく》させた。
トムは、咽喉《のど》がつまる思いでベッキーに接《せっ》吻《ぷん》し、捜索隊がくるだろうし、もし捜索隊がこなければ自分が洞窟を脱出《だっしゅつ》する道を見つける、と言って元気づけた。そして、飢えに悩まされ、きたるべき運命の不《ふ》吉《きつ》な予感におびえながら、凧糸を手に持ち、四つん這いになって道の一つを手さぐりで進んで行った。
第三十二章 「起きろ! 見つかったぞ      !」
火曜日の午後が過ぎて、夕方になった。セント・ピーターズバーグの村は、依《い》然《ぜん》として悲しみに包まれていた。二人の子供の行《ゆく》方《え》が、まだ発見されなかったのだ。二人のために教会で公式の祈《き》祷《とう》が行われ、また各家庭でも、心をこめたお祈《いの》りが捧《ささ》げられたが、洞窟《どうくつ》からは何の吉報《きっぽう》もなかった。捜索隊員《そうさくたいいん》の大多数は、もう子供たちを発見できる望みはない、といって捜索をあきらめ、それぞれ日常の家業に戻《もど》った。サッチャー夫人は、気分がすぐれず、寝《ね》こんでしまって、ほとんど一日じゅう、うわごとを言っていた。夫人が子供の名前を呼んで頭をもたげ、たっぷり一分間は耳をすましてから、ふたたびうめき声を洩《も》らして頭を枕《まくら》につけるありさまは、まったく見るに忍《しの》びない、と村の人々は話しあった。ポリー伯母《おば》さんも、すっかり沈《しず》みこんでしまって、白髪《しらが》まじりの髪《かみ》の毛は、ほとんど真っ白になった。火曜日の夜、村は悲しく絶望して眠《ねむ》りについた。
その真夜中に、村じゅうの鐘《かね》が、けたたましく鳴りはじめ、たちまち道路は、なりふりかまわぬ狂気《きょうき》じみた人々でいっぱいになった。彼《かれ》らは口々に叫《さけ》んだ。「起きろ! 起きろ! 見つかったぞ! 子供たちが見つかったぞ!」この叫びにブリキ缶《かん》と角笛《つのぶえ》の音が加わり、人々は一かたまりとなって河のほうへ動いて行った。そして、熱狂《ねっきょう》した村の人たちに引かれた無《む》蓋《がい》の馬車で引きあげてくる二人の子供を迎《むか》え、これをとりまいて、いっしょになって家路に向い、万歳《ばんざい》、万歳と叫びながら、意《い》気《き》揚々《ようよう》と本通りを行進した。
村じゅうに燈《とう》火《か》がともされた。一人も寝ようとするものはいなかった。この小さな村が、かつて経験したことのない、すばらしい夜だった。最初の半時間というもの、村の人たちは、ぞくぞくサッチャー判事の家につめかけ、救い出された子供をつかまえて接吻《せっぷん》し、サッチャー夫人の手を握《にぎ》りしめ、満足に口もきけずに、涙《なみだ》の雨を降らせながら引きあげた。
ポリー伯母さんは、この上もなく幸福だった。サッチャー夫人も、ほぼそれと同様だったが、このうれしい知らせをもって洞窟へ派《は》遣《けん》された使者が、彼女《かのじょ》の夫に、この吉報をつたえるとき、このよろこびは、さらに完全なものとなるだろう。トムは、熱心な聴衆《ちょうしゅう》にとりかこまれてソファに横たわり、いろいろと尾《お》ひれをつけて話に味をつけながら、すばらしい冒険《ぼうけん》を詳《くわ》しく物語った。そして、最後に、つぎのようなエピソードを披《ひ》露《ろう》して話を結んだ――彼《かれ》が、ベッキーを残してひとりで探険に出かけたこと、凧糸《たこいと》のとどくかぎり二つの道を探険したこと、一つの道を凧糸のとどくかぎり進んで行って、まさに引き返そうとしたとき、はるかかなたに日光のような明るい点を認めたこと、糸を放してその光をめざして手さぐりで進み、小さな岩の隙《すき》間《ま》から首と肩《かた》を突《つ》き出してみると、そこに広々としたミシシッピ河が流れていたこと。そして、もしこれが夜だったら、日光は見えなかっただろうし、したがって、それ以上その道を探険しなかっただろう、ということをつけ加えた。彼が、引き返してベッキーにその吉報を伝えると、彼女は、自分はもう疲《つか》れていて、死ぬのはわかっており、死にたいと思っているのだから、そんなうれしがらせを言って、気持をかき乱さないでほしい、と言ったことを物語り、それから、つぎのようなことを話した――彼は言葉をつくして彼女を励《はげ》ました。彼女は、手さぐりで青い光の点が実際に見えるところまでくると、よろこびのあまり死にそうになった。彼は、岩穴から這《は》い出し、それからベッキーを助け出した。二人は、そこに坐《すわ》りこんで、うれし泣きに泣いた。そこへ何人かの男を乗せた小《こ》舟《ぶね》が通りかかった。トムは手を振《ふ》ってこれを呼びとめ、事情と空腹を訴《うった》えた。彼らは、はじめ、この途《と》方《ほう》もない話を信じなかった。「そんなばかなことがあるものか。ここは洞窟のある谷から五マイルも河下なんだぞ」それから彼らは、二人を舟にのせて家まで漕《こ》ぎ帰り、食物をあたえ、暗くなるまで二、三時間休ませて、それから村へつれてきてくれた。
夜明け前に、洞窟のなかのサッチャー判事と、判事にしたがっていたわずかばかりの捜索隊員は、腰《こし》につけていた二本の救命ロープをたよりに探し出され、この吉報を知らされた。
トムにもベッキーにも、洞窟のなかでの三昼夜にもおよぶ苦労と飢《う》えは、そうすぐにはなおらないということがわかった。二人は水曜日も木曜日もベッドに寝たきりだったが、ますます衰弱《すいじゃく》するように思われた。それでもトムは、木曜日に、すこしばかり歩きまわり、金曜日には村へ出かけ、土曜日には、ほとんど回復した。しかし、ベッキーは、日曜日まで部屋を出なかったし、部屋を出たときにも、大病をわずらったあとのようにやつれていた。
トムは、ハックが病気で寝こんでいることを聞いて、金曜日に見舞《みま》いに行ったが、寝室《しんしつ》にはいることは許されなかった。土曜日も日曜日も同様だった。その後は、毎日面会を許されたが、彼の冒険のことや、興奮させるような話題は避《さ》けるようにと注意された。それを守るかどうかを監《かん》視《し》するために、いつもダグラス未亡人がつき添《そ》っていた。家でトムはカーディフの丘《おか》の事件を聞いた。また、「ぼろを着た男」が渡《わた》し場の近くで水死体となって発見されたことも聞いた。おそらく逃《に》げようとして溺《でき》死《し》したのだろう。
洞窟から救い出されてから二週間ほど過ぎたころ、トムはハックを訪《たず》ねた。ハックは、もういまでは、興奮させるような話にも十分耐《た》えられるほど回復しており、そしてトムは、たしかに彼を興奮させるだろうと思うような話題をもっていた。途中にサッチャー判事の家があったので、トムは、ベッキーに会うために、そこに立ち寄った。判事と、居《い》合《あわ》せた何人かの友人たちが、トムを会話に引き入れて、もう一度洞窟に行ってみる気はないか、とからかった。トムは、行ってもよいと答えた。判事が言った。
「うむ、おまえみたいな子が、まだほかにもいるかもしれないが、もう大丈夫《だいじょうぶ》だ。もうあの洞窟で迷子になるものは一人もいないだろうよ」
「どうして?」
「二週間前に、鉄板をあの大きな扉《とびら》の上に張って、三重に錠《じょう》をおろしておいたからね。鍵《かぎ》は、わしが持っている」
トムは蒼《あお》くなった。
「どうしたんだ? おい、だれか早く水を持ってきてくれ!」
水が運ばれて、トムの顔に吹《ふ》きかけられた。
「うむ、もう大丈夫だ。いったい、どうしたんだい、トム?」
「判事さん、インジャン・ジョーが洞窟のなかにいるんだ!」
第三十三章 悪漢ジョーの最後
またたくまに、この噂《うわさ》はひろがって、十数隻《せき》の小《こ》舟《ぶね》が人々を乗せてマクドウガルの洞窟《どうくつ》へ向った。渡《わた》し船が人々をいっぱい乗せて、そのあとを追った。トム・ソーヤーはサッチャー判事と同じ舟に乗りこんだ。
洞窟の扉《とびら》を開くと、薄暗《うすぐら》い光のなかに凄惨《せいさん》な光景があらわれた。インジャン・ジョーが死んで地面に横たわっていたのだ。最後の瞬《しゅん》間《かん》まで自由な外界の光と空気にあこがれていたのだろう、彼《かれ》の顔は扉の隙《すき》間《ま》に、しっかり押《お》しあてられていた。トムは、自分の経験で、この悪漢がどんなに苦しんだかということがわかっていたので、強く胸をうたれた。しかし、かわいそうだとは思ったが、これではじめて安心した。この凶悪《きょうあく》なならず者に不利な証言をしてから、どんなに大きな恐怖《きょうふ》の重荷が自分にのしかかっていたかを、これまでにないほど身にしみて感じた。
インジャン・ジョーの猟刀《りょうとう》は、刃《は》が二つに折れて、そばにころがっていた。扉の下の頑《がん》丈《じょう》な横木が根気よく切り削《けず》られていたが、それもむなしい努力だったわけだ。なぜなら、扉の外側には天然の岩石が敷《しき》居《い》の役をしていて、この頑丈な天然物に対しては、猟刀も歯が立たず、結局刃が折れただけだったからだ。しかし、かりにこの岩石が邪《じゃ》魔《ま》しなかったとしても、その努力は報《むく》いられなかっただろう。たとえ扉の横木を完全に切りとっても、インジャン・ジョーの体は、そこをくぐり抜《ぬ》けることはできなかったし、彼自身も、そのことは知っていたはずだ。つまり、そこを削ったのは、何かをしていなければいられないため――空《むな》しい時をすごすため――じっとしてはいられなかったからなのだ。ふだんならば、その入口の岩の隙間には、いつも見物人の捨てた蝋燭《ろうそく》のかけらが五つや六つは落ちているのだが、いまは一つもなかった。ジョーが一つ残らず食ってしまったのだ。彼はまた苦労して何匹《なんびき》かの蝙蝠《こうもり》を捕《とら》えて、爪《つめ》だけ残してそれも食べてしまっていた。この不運な人間は哀《あわ》れにも餓死《がし》してしまったのだ。すぐ近くに、天井《てんじょう》の鍾乳石《しょうにゅうせき》から落ちる水滴《すいてき》によって、長い年月のあいだに地面に徐々《じょじょ》に生長した石筍《せきじゅん》があった。ジョーはその石筍をかきとって、そのあとに、くぼみをつけた石をおき、時計の音のような、はかない正確さで、二十分に一度落ちてくる貴重な水滴を、それに受けていた。それは、二十四時間でデザート・スプーン一杯《いっぱい》ぶんくらいたまった。この水滴は、まだピラミッドが建ったばかりのころ、トロイが陥落《かんらく》し、ローマの基礎《きそ》が固まり、キリストが十字《じゅうじ》架《か》にかけられたころ、ウィリアム一世が大英帝国《だいえいていこく》を創建したころ、コロンブスが航海し、レキシントンの大虐殺《だいぎゃくさつ》が新しい「ニュース」としてつたえられたころにも、同じようにしたたり落ちていたのだ。そして、いまなお、したたり落ちている。これらのことが、すべて歴史の午後、伝説の黄昏《たそがれ》に沈《しず》み、忘却《ぼうきゃく》の濃《こ》い夜のなかに呑《の》みこまれるときも、なおしたたり落ちているだろう。自然界のものは、すべてに目的があり使命があるのだろうか? この水滴は、このはかない、虫けらのような人間の要求にこたえるために、五千年のあいだ、辛抱《しんぼう》強くしたたり落ちていたのだろうか? そしてまた、一万年もさきに達成すべき何か重要な目的をもっているのだろうか? しかし、そんなことは、どうでもいい。この不運な混血男が、石をくり抜いて貴重な水をためたのは、何年か昔《むかし》のことだが、いまなお、マクドウガル洞窟の景観を見物にくる旅行者は、このいたましい石と、根気よく落ちつづける水滴を眺《なが》めるために、いちばん多くの時間をかけるのである。「インジャン・ジョーのカップ」は、この洞窟で随一《ずいいち》の呼び物になっていて、「アラジンの宮殿《きゅうでん》」の評判さえ、これにはおよばないだろう。
インジャン・ジョーは洞窟の入口近くに葬《ほうむ》られた。七マイル以内の、あらゆる町、あらゆる村、あらゆる農場から、舟や馬車で、人々が、そこに集まってきた。彼らは子供たちを連れ、あらゆる種類の弁当をたずさえてやってきて、この葬式《そうしき》を見て、「死《し》刑《けい》の執行《しっこう》を見るのと同じくらい満足した」と話しあった。
この葬式は、一つのことが、それ以上進展するのを断ち切ってしまった――それは州知事に対するインジャン・ジョーの赦免《しゃめん》の請願《せいがん》だ。この請願書には多くの人が署名していた。涙《なみだ》もろい、おしゃべり好きな集会が、いくつも開かれ、ばかな婦人たちが委員に選ばれて、知事のところへ生命《いのち》乞《ご》いに行き、慈悲《じひ》深《ぶ》い愚《おろ》かものになりさがって義務を放《ほう》棄《き》してもらいたいと知事に嘆願《たんがん》することになっていたのだ。インジャン・ジョーは村の人を五人も殺したと言われているが、しかし、そんなことは問題ではない。かりに彼が悪《あく》魔《ま》そのものであっても、赦免の請願書に即《そく》座《ざ》に自分の名前を書き、たえずこわれては水が洩《も》る彼らの水道管から、どんどん涙を流すなさけ深いおっちょこちょいは後を絶たなかったであろう。
葬式の翌朝、トムは大事な相談をするためにハックを人目につかぬ場所へさそった。それまでにハックはウェールズ人とダグラス未亡人とから、トムの冒険について、くわしく聞いていた。だが、トムは、一つだけまだハックが誰《だれ》からも聞いていないことがあるはずだ、いま、それを話したいのだ、と言った。ハックは悲しそうな顔をして言った。
「おれにゃわかってるよ。あの二号室を探してみて、ウイスキーしか見つからなかったんだろう。その犯人がおまえだってことは、誰も言ってくれなかったが、おれは、あのウイスキーのことを聞いたとき、すぐおまえにちがいないと思ったんだ。そして金が見つからなかったこともわかったんだ。見つかったら、ほかのものには黙《だま》っていても、おれにだけは知らせてくれたはずだからね。トム、おれは、はじめから、あの宝物は、おれたちの手にははいらないような気がしていたんだ」
「冗談《じょうだん》じゃないよ、ハック、おれは、あの旅館の主人のことなんか誰にも話してないぜ。土曜日に、おれがピクニックに行ったときにゃ、旅館には、べつに異状はなかったんだ。あの晩は、おまえがあそこで見張りをすることになっていたのを、おぼえているだろう?」
「おぼえてるさ! だけど一年も前のことのような気がするな。ちょうどあの晩だったよ、インジャン・ジョーのあとをつけてダグラスさんところへ行ったのは」
「あとをつけたのかい?」
「うん――だけど、このことは黙っててくれよ。インジャン・ジョーの仲間が、まだ残っているかもしれないし、そいつらに恨《うら》まれて仕返しなんかされると、たいへんだからね。おれがいなかったら、あいつらは、まんまとテキサスへ逃《に》げのびられたんだ」
それからハックは自分の冒険をくわしくトムに話した。トムはまだ、そのウェールズ人との一件しか聞いていなかったのだ。
「とにかく」とハックは話を本筋に戻《もど》して言った。「二号室でウイスキーをとったやつが、金もとったんだと思うんだ――どっちみち、金は、おれたちの手には、もうはいらねえよ、トム」
「ハック、あの金は、はじめっから二号室にはなかったんだ!」
「なんだって! 」ハックは、きびしく、さぐるようにトムの顔を見つめた。「トム、そうすると、また金の行《ゆく》方《え》がわかったのかい?」
「金は洞窟のなかにあるんだ!」
ハックの目が光った。
「もう一度言ってくれ、トム!」
「金は洞窟のなかにあるんだ!」
「トム――ほんとのことを言ってくれ――本気で言ってるのか、冗談じゃないだろうな?」
「本気だよ、ハック――これ以上本気なことはないくらい本気さ。おれといっしょに行って運び出す手伝いをしてくれないか」
「いいとも! 目じるしをつけて行って、迷子にならないですむところなら、どこへでも行くよ」
「そういう心配はないんだ」
「そんなら結構だ! だけど、どうしておまえは金が――」
「そのことは、現場へ行くまで待ってくれ。もし見つからなかったら、太《たい》鼓《こ》でも何でも、おれの持っているものは、みんなおまえにやるよ。きっとだ、嘘《うそ》はつかないよ」
「わかった。で、いつやるんだ?」
「おまえさえよかったら、いますぐ行こう。体のほうは大丈夫か?」
「洞窟のずっと奥《おく》なのかい? 三、四日前から歩けるようにはなったんだが、まだ一マイル以上は無理なんだ――歩けそうもないんだ」
「おれ以外の人だと五マイルくらい入りこまなくちゃならないけど、おれだけが知ってる近道があるんだ。そこまで、おまえを舟で連れて行ってやるよ。おれが、そこまで舟を流して行って、帰りも、おれがひとりで漕《こ》ぐ。全部おれがひとりでやるよ。おまえは指一本動かさなくていいんだ」
「よし、すぐ出かけよう、トム」
「うん。パンと肉が、すこしばかり必要なんだ。それに、パイプと、小さな袋《ふくろ》を一つ二つと、凧糸《たこいと》を二本か三本、それから近ごろできたマッチってやつが必要なんだ。洞窟のなかにいたとき、マッチがあったらと、なんべん思ったかしれないぜ」
正午を過ぎてまもなく、二人は、ほったらかしてあった小舟を一隻、無断借用して、さっそく出発した。「洞窟の谷」から数マイル河下へきたとき、トムが言った。
「この崖《がけ》は、洞窟の前の窪《くぼ》地《ち》から、ここまで、ずっと同じように見えるだろう?――家もないし、材木小屋もないし、叢林《やぶ》もみんな同じような格好に見えるじゃないか。だけど、ほら、あの崖崩《がけくず》れのあとが白くなっているところが見えるだろう? あれがおれの目じるしの一つなんだ。ここで岸へあがろう」
二人は岸にあがった。
「いまおれたちが立っているところから、おれが抜け出した穴は、釣竿《つりざお》を持ってりゃとどくくらいのところにあるんだ。探してみろよ」
ハックは、そのへんを探しまわったが、何も見つからなかった。トムは得意になって、ぬるで《・・・》の林のなかへはいって行った。
「ここだよ、見ろ、ハック。こんなすばらしい穴は、どこにもないぜ。誰にもしゃべるなよ。おれは、これまでずっと、山賊《さんぞく》になりたかったんだが、それには、こんな穴が必要だと考えていたんだ。それで、どこで、そういう穴を見つけようかと苦労していたんだ。これが見つかって、ほんとによかったよ。みんなには黙っていて、ジョー・ハーパーとベン・ロジャーズにだけ教えてやろう――人を集めて組織をつくらないことにゃ格好がつかないからね。トム・ソーヤーとその一党――すばらしいじゃないか、ハック」
「うん、とてもすてきだよ。それで、誰から盗《ぬす》むんだい?」
「誰でも、片っぱしからやるさ。待ち伏《ぶ》せするんだ――それが普《ふ》通《つう》のやりかたなんだ」
「そして殺すんだろう?」
「いや――殺すとはかぎらないさ。身代金をとるまで洞窟にかくしておくこともある」
「ミノシロキンって何だい?」
「金さ。そいつらの友だちから、出せるだけ金を出させるんだ。そして、一年たっても金がとどかなかったら、そのときには殺すんだ。たいていそうするんだ。ただ女は殺さない。女は閉じこめておくだけで、殺しちゃいけないんだ。女って、みんなきれいで、金持で、こわがるものなんだ。だから、時計や持物はとりあげるが、そのときでも帽《ぼう》子《し》をぬいで、ていねいに口をきかなくちゃいけないんだ。山賊って、とても礼《れい》儀《ぎ》が正しいんだ――どの本にも、みんなそう書いてあるよ。そこで、女は山賊が好きになる。洞窟に閉じこめられてから一週間か二週間たつと、もう泣かなくなり、帰れと言っても帰らない。たとえ追い出しても、すぐ戻ってくる。どの本にも、みんなそう書いてあるよ」
「すてきだな、トム。海賊になるよりもいいな」
「うん、山賊のほうがいいことが、たくさんあるよ。家に近いし、サーカスや、そんなものだって、すぐ見に行けるしね」
このときまでには、すべて用意がととのっていたので、二人は、トムを先頭にして穴にはいった。そして、苦労して、ようやくトンネルを通りぬけ、それから、つぎ合せた凧糸をしっかり結びつけておいて、さきヘ進んだ。まもなく泉のところへ出た。トムは当時を思い出して体じゅうが震《ふる》えた。彼は岩壁《いわかべ》の粘《ねん》土《ど》の塊《かたまり》の上に立っている蝋燭の燃え残りを指さして、ベッキーと二人で見まもっているうちに、炎《ほのお》が力なくゆれ、ついに消えてしまったときのことを物語った。
あたりの静けさと不気味さとに圧倒《あっとう》されて、二人は声をひそめて話をするようになっていた。二人は、さらに進んで、まもなくトムが通った例の小道にはいり、それをたどって「ジャンプ台」まで到達《とうたつ》した。いまあらためて蝋燭の光で見ると、それはほんとうの断崖《だんがい》ではなく、二、三十フィートの高さの険しい粘土の山にすぎなかった。トムは耳うちした。
「ハック、いいものを見せてやる」
彼は蝋燭を高くかかげて言った。
「その岩角のずっとさきを見てごらんよ。見えるだろう? ほら――あの大きな岩の上だ――蝋燭の油《ゆ》煙《えん》で書いてある」
「トム、十字《じゅうじ》架《か》だぜ!」
「あれが例の二号さ。『十字架の下』って言っただろう? ちょうどあそこでインジャン・ジョーが蝋燭を突《つ》き出したのが見えたんだ!」
ハックは、しばらくその神秘的な標識を眺めていたが、やがて震え声で言った。
「トム、帰ろうよ!」
「なんだって! 宝物をそのままにしてか?」
「うん――そのままにしておこう。ここにはインジャン・ジョーの幽霊《ゆうれい》がいるにちがいない」
「そんなことはないよ、ハック。そんなことはないさ。幽霊は自分の死んだところに出るんだ――あいつが死んだのは、洞窟の入口のところで、ここから五マイルも離《はな》れてるんだ」
「ちがうよ、トム、幽霊は金のあるところをうろつくんだ。おれは幽霊の手口はよく知ってるんだ。おまえだって知ってるはずだぜ」
トムはハックの言うのがほんとうかもしれないと思いはじめた。不安な思いが高まった。だがふと、ある考えがうかんだ。
「ハック、おれたちは、なんてばかなんだろう! インジャン・ジョーの幽霊が十字架のあるところへ出られるはずがないじゃないか!」
これは、もっともな意見だった。この意見は効果があった。
「トム、気がつかなかったが、たしかにそのとおりだ。十字架があるなんて、もっけの幸いってもんだ。あそこへおりて行って箱《はこ》を探してみよう」
トムがさきに立って、粘土の山に足場をつくりながらおりて行った。ハックが、あとにつづいた。その大岩のある洞窟からは四つの道が通じていた。二人は、その三つまで探してみたが、何も発見できなかった。大岩にいちばん近い道には、小さな窪地があって、そこに、ぼろぼろの毛布が敷《し》いてあり、古ぼけたズボン吊《つ》りと、ベーコンの皮と、しゃぶりつくした二、三羽の鳥の骨が散らばっていた。しかし、金の箱はなかった。二人は、熱心に探したが無駄《むだ》だった。トムが言った。
「あいつは、たしかに十字架の下と言ったんだがな。ここが、ちょうど十字架の下にあたるんだけど、まさか岩の下ってことはないだろう。この岩は、地面に深くくいこんでいるんだから」
もう一度、あちらこちらと探してみたが、ついに見つからなかった。二人は、がっかりして坐《すわ》りこんだ。ハックは、どう考えていいのかわからなかった。やがてトムが言った。
「これを見ろよ、ハック、この岩の片側には粘土の上に足跡《あしあと》と蝋燭の芯《しん》の跡があるが、別の側には、それがないぜ。なぜだろう? 金は、きっと岩の下にあるんだ。この粘土を掘《ほ》ってみよう」
「そいつはいいところへ気がついたな、トム!」とハックは元気づいて言った。
トムは「正真正銘《しょうしんしょうめい》のナイフ」をとり出した。四インチと掘らないうちに、刃さきが木のようなものに当った。
「おい、ハック! きこえたか?」
ハックも手伝って熱心に掘りはじめた。二、三枚の板片《いたきれ》があらわれた。これをとりのけると、その下に自然にできた裂《さ》け目があって、それが岩の下のほうにつづいていた。トムは、この裂け目にはいりこみ、蝋燭をかかげて、できるだけ遠くまで照らしてみたが、裂け目がどこまでつづいているのかわからない、と言った。ともかくさぐってみよう、とトムは言って、身をかがめて下のほうへはいって行った。その狭《せま》い道は、ゆるやかに下っていた。彼《かれ》は、その曲りくねった道を、まず右に、つぎに左へとたどった。ハックが、それにつづいた。やがて、トムは、小さな角をまがった。そして、大声で叫《さけ》んだ。
「見ろ! ハック、これを見ろ!」
それは、まさしく宝の箱だった。宝の箱が、小ぢんまりした洞窟を占領《せんりょう》していた。それといっしょに、火薬の空箱、革《かわ》のケースに入れた二挺《ちょう》の銃《じゅう》、鹿皮《しかがわ》の靴《くつ》が二、三足、革のベルト、その他こまごましたものがあった。どれも水滴《すいてき》でぐっしょり濡《ぬ》れていた。
「とうとう見つけたぞ!」ハックは、古くなって光沢《こうたく》がなくなった金貨を手でかきまわしながら言った。「おれたちは金持になったんだ、トム!」
「いつかは、おれたちのものになるだろうと思っていたんだ。あんまりうれしくて、ほんとうとは思えないくらいだが、おれたちのものになったんだ。おい、いつまでも、こんなところにぐずぐずしていないで、早く外へ持ち出そう。箱が持ちあがるかどうか、ためしてみよう」
約五十ポンドほどの重さがあった。トムは、どうにか持ちあげることは持ちあげたが、運ぶということになると、ちょっとできそうもなかった。
「思ったとおりだ」とトムは言った。「あの幽霊屋敷で見たとき、あいつらも重そうに運んでいたからね――だけど、おれは、そのことは、ちゃんと計算ずみなんだ。小さな袋を用意してきてよかったよ」
金は、すぐ袋に移され、二人は、それを十字架のしるしのある岩のところまで運び出した。
「銃やそのほかのものも持って行こう」とハックが言った。
「いや、残しておこう。山賊になって出かけるとき、ああいうものがあると便利だからね。いつも、あのままにしておいて、あすこで酒《さか》宴《もり》をするんだ。酒宴には、もってこいの場所だぜ」
「サカモリって何だい?」
「よくは知らないけど、山賊って、よく酒宴をやるものなんだ。だから、おれたちだってやらなくちゃいけないのさ。さあ、もう出かけようぜ、ハック。ずいぶん長いあいだ、ここにいたような気がする。だいぶ遅《おそ》くなったようだ。それに、お腹《なか》もすいた。舟へ帰って食事をしてタバコをふかそう」
やがて二人はぬるで《・・・》の茂《しげ》みのなかへ姿をあらわし、用心深くあたりを見まわして、岸に誰もいないのを見さだめてから、すぐに舟に乗り、昼食を食べ、タバコをふかした。太陽が沈《しず》みかけたころ、二人は、舟を押し出して帰途《きと》についた。トムは暮《く》れなずむ黄昏《たそがれ》の光のなかを、ハックと元気よくしゃべりながら、岸づたいに漕ぎのぼり、暗くなるのを待って上陸した。
「なあ、ハック」とトムは言った。「この金は、ひとまずダグラス未亡人の薪《まき》小屋《ごや》の屋根裏にかくしておこう。朝になったら出直してきて、勘定《かんじょう》して分けて、それから森のなかへ行って、安全なかくし場所を見つけようじゃないか。おれはこれから駆《か》けて行ってベニー・テイラーの手押車をとってくるから、そのあいだ、おまえはここで見張りをしていてくれ。すぐ戻ってくる」
彼は姿を消したが、すぐ手押車を押して戻ってきた。二つの小袋をこれに積んで、その上にぼろをかぶせ、車をひいて歩きだした。ウェールズ人の家のまえで、二人は車をとめて休んだ。あらためてまた出かけようとしたとき、ウェールズ人が出てきて声をかけた。
「そこにいるのは、誰だ?」
「ハックとトム・ソーヤーだ」
「そうか。よろしい。さあ、わしといっしょにくるんだ。みんながおまえたちを待っている。さあ、急ぐんだ。早く。車は、わしがひいてやる。おや、こいつは見かけによらず重いな。煉《れん》瓦《が》かい、それとも古鉄かい?」
「古鉄だよ」とトムが答えた。
「そうだろうと思った。この村の子供たちは、まともな仕事をすれば、倍ももうかるのに、わざわざ骨を折って鉄工場へ売る古鉄を探しまわって時間をつぶしとるんだ。だが、それが人間というものかもしれんな。さあ、急ぐんだ!」
二人の少年は、どうしてそんなに急ぐのか、とたずねた。
「なんだっていい、ダグラス未亡人の家へ行けばわかる」
ハックは、いくぶん不安を感じた。無実の罪を着せられて痛めつけられたことが、これまでに何度もあったからだ。
「ジョーンズさん、おれたちは何もしちゃいないよ」
ウェールズ人は笑いだした。
「さあ、わしは知らんよ、ハック。わしは何も知らんが、おまえとダグラス未亡人とは仲よしなんだろう?」
「うん、あのひとは、おれには、とても親切にしてくれるよ」
「それなら大丈夫《だいじょうぶ》だ。どうしてそんなにびくびくするんだい?」
この質問への返事が、ハックのにぶい頭のなかで、まだ十分ととのわないうちに、彼はトムといっしょに、ダグラス未亡人の応接間に押しこまれた。ジョーンズ氏は手押車を玄《げん》関《かん》の近くにおいて二人のあとからはいった。
そこには、あかあかと燈《とう》火《か》がともされ、村の主《おも》だった人は全部集まっていた。サッチャー判事の一家もいたし、ハーパー一家、ロジャーズ一家、ポリー伯母《おば》さん、シッド、メアリ、牧師、新聞の主筆、そのほか、たくさんの人が、それぞれ服装《ふくそう》をととのえて並《なら》んでいた。未亡人は、こういううす汚《ぎた》ない格好の少年たちにはもったいないほど、ていねいに二人を迎えてくれた。二人は粘土と蝋で体じゅう汚《よご》れていたのだ。ポリー伯母さんは恥《は》ずかしさで真っ赤になり、トムに向って顔をしかめ、頭を振《ふ》って見せた。しかし、当の二人ほど当惑《とうわく》しているものは誰もいなかった。ジョーンズ老人が言った。
「トムがまだ家に帰っておらんので、あきらめておったんですが、ちょうどわしの家の前で、ひょっこりトムとハックに出会ったので、さっそく連れてまいりました」
「ほんとによかったですわ」と未亡人は言った。「さあ、二人とも、わたしといっしょにいらっしゃい」
未亡人は二人を寝室《しんしつ》に連れて行った。
「顔を洗って着がえをしなさい。ここに新しい服が二着あります――シャツも靴下も全部そろっています。これはハックのですよ――いいえ、遠慮《えんりょ》することはないわ、ハック――一着はジョーンズさんが、一着はわたしが買ってきたんです。トムにもハックにも、きっとよく合うと思うわ。着てごらんなさい。階《し》下《た》で待っていますから、着がえたらおりていらっしゃい」そう言って未亡人は出て行った。
第三十四章 黄金の洪水《こうずい》
ハックが言った。「トム、綱《つな》があったら逃《に》げ出せるんだけどな。この窓なら地面からそう高くないぜ」
「ばかなことをいうなよ! なぜ逃げたいんだ?」
「だって、おれは、あんなに大勢人のいるところへ出たことがないんだ。おれはごめんだよ。おれはおりて行かないよ、トム」
「いやなら、よせよ! なんでもないじゃないか。おれは平気だ。おれがついてるから大《だい》丈夫《じょうぶ》だよ」
シッドが顔を出した。
「兄さん」と彼《かれ》は言った。「伯母《おば》さんは、お昼からずっと兄さんを待っていたんだよ。メアリが兄さんのよそ行きの服を用意して、みんなで兄さんのことを心配していたんだ。あれ、兄さんの服についてるのは蝋《ろう》と粘《ねん》土《ど》じゃないの?」
「大きなお世話だ、シッド。だが、この騒《さわ》ぎは、いったいどういうことなんだい?」
「ダグラス未亡人のいつものご招待だけど、今日のはウェールズ人と息《むす》子《こ》さんのためなんだ。このあいだの晩、あの人たちは未亡人のあぶないところを助けてあげたからね。それから――ぼくは、いいこと知ってるんだ。聞きたければ話してやるよ」
「何だい?」
「それはね、ジョーンズさんが、今夜ここで、みんなをびっくりさせるつもりらしいんだけど、ぼくは今日ジョーンズさんがそのことを伯母さんに話しているのを聞いちゃったんだ。秘密だって言ってるけれど、もうあんまり秘密じゃないらしいよ。みんな知ってるんだ――ここの小母《おば》さんだって、知らないふりをしているけど、ほんとうは知っているんだ。ジョーンズさんは、どうしてもここにハックがいないと都合が悪いんだ――ハックがいないと、せっかくの秘密がうち明けられないんだ」
「何の秘密だい?」
「ハックが悪漢のあとをつけて小母さんの家まで行ったことさ。ジョーンズさんは、みんなをびっくりさせてよろこぶつもりだけど、みんなあまりびっくりしないと思うよ」
シッドは得意そうにくすくす笑った。
「シッド、おまえがしゃべったんだな?」
「誰《だれ》だっていいじゃないか。誰かが言ったのさ、それで十分じゃないか」
「シッド、そんな卑怯《ひきょう》なことのできるやつは、この村には一人しかいない。それは、おまえなんだ。もし、おまえがハックと同じ立場だったら、こそこそ丘《おか》をおりてきて、泥棒《どろぼう》のことなんか誰にも言わなかっただろう。おまえには卑怯なことしかできないんだ。おまえは、ほかの人が立派なことをしてほめられるのを、黙《だま》って見ていられないんだ。いいか――小母さんもそう言ったけど遠慮《えんりょ》することはないぜ」トムはシッドの耳を殴《なぐ》りつけ、何度も蹴《け》って追い出した。「伯母さんに言いつけたければいくらでも言いつけるがいい。その代り明日ひどい目にあわせてやる!」
まもなく客人たちは夕食のテーブルにつき、当時のこの地方の習慣にしたがって、一ダースばかりの子供たちは、小さなサイドテーブルに並《なら》ばせられた。頃《ころ》合《あ》いを見はからって、ジョーンズ氏が挨拶《あいさつ》に立ち、自分たち親子にあたえてくれた未亡人の好意を感謝し、つづいて、実は、ここにもう一人いるのだが、その人は、きわめて遠慮深い人物なので、と切りだした。
こうして老人は、得意満面で、あの事件でハックが演じた役割について芝《しば》居気《いけ》たっぷりに秘密をうち明けた。しかし、それが引き起こした驚《おどろ》きは、大部分つくりもので、もっと好適な場合だったらこうもあっただろうと思われるほど熱狂《ねっきょう》的なものでも真剣《しんけん》なものでもなかった。もっとも、未亡人は、いかにも驚いたふりをして、さんざんハックをほめちぎり、心から感謝したので、ハックは、大勢の人の注目と賞讃《しょうさん》の的にされるというどうにも耐《た》えられない窮屈《きゅうくつ》さのために、新しい服の、ほとんど耐えられない窮屈さを、ほとんど忘れることができた。
未亡人は、ハックを引きとって育て、教育を受けさせ、将来財力に余《よ》裕《ゆう》ができたら、何か小資本の商売をやらせるつもりだ、と言った。トムのしゃべる機会がきた。
「ハックに資本はいらないよ。ハックはお金持なんだ!」
これは冗談《じょうだん》だとしてもおもしろいはずなのに、それなりの笑い声があがらなかったのは、一同が礼《れい》儀《ぎ》作法にそむいてはいけないと一心に笑いをこらえたからだ。しかし、この沈黙《ちんもく》は、すこしばかり不自然だった。トムが、その沈黙を破った。
「ハックはお金を持ってるんだ。みなさんは信用しないかもしれないが、ハックは、どっさりお金を手に入れたんだ。いや、笑わないでください。いま証拠《しょうこ》を見せます。ちょっと待ってください」
トムは外に走り出た。一同は、あっけにとられながらも、好《こう》奇《き》心《しん》をそそられて顔を見合せ、ハックを眺《なが》めたが、ハックは口もきけなかった。
「シッド、トムはどうしたの?」とポリー伯母さんは言った。「あの子は――とにかくあの子ほどわけのわからない人間はいないよ。わたしには、まるっきり――」
このときトムが袋《ふくろ》の重みでひょろひょろしながら戻《もど》ってきたので、伯母さんは言葉を途《と》中《ちゅう》で切った。トムは金貨を一山、テーブルの上にぶちまけた。
「ほら――いま言ったとおりだろう? 半分はハックのもので、半分はぼくのものだ!」
この光景は一同の息の根をとめた。みんな目をみはるばかりで、しばらくは口をきくものもいなかった。やがて、いっせいに説明を求める声があがった。それでは、と、トムは説明をはじめた。物語は長かったが、興味に満ちていた。言葉をさしはさむものは最後まで一人もいなかった。話が終ったとき、ジョーンズ老人が言った。
「わしは、この機会に、みなさんをあっと言わせるつもりでした。しかし、こうなっては、もはや何の値うちもありませんわい。この物語のおかげで、わしの秘密は、すっかり影《かげ》がうすくなってしまったことを、わしはよろこんで認めましょう」
金貨がかぞえられた。一万二千ドルを上まわる金額だった。この場にいた人のなかには、これ以上の財産をもっているものも何人かいたが、一度にこれだけの現金を見たものは一人もいなかった。
第三十五章 ギャング団
トムとハックの思いがけない幸運で、貧乏《びんぼう》で小さなセント・ピーターズバーグの村が、どんなにゆれ動いたか、それは読者諸君にも容易に想像できるだろう。全部現金で、これほどの大金を手に入れるなんて、ほとんど信じられないくらいだった。この事件は、いたるところで噂《うわさ》にのぼり、羨望《せんぼう》され、もてはやされ、とうとうその不衛生な興奮の緊張《きんちょう》で、村の多くの人々の理性を狂《くる》わせてしまった。セント・ピーターズバーグと、その近くの村の、あらゆる「幽霊《ゆうれい》屋《や》敷《しき》」は、床板《ゆかいた》が一枚一枚剥《は》ぎとられ、土台石は掘《ほ》り返されて、かくされた財宝探しが行われた――しかも子供たちではなく大人の手で――そのなかには、かなりまっとうな、分別ざかりの人もまじっていた。トムとハックは、どこへ行っても、ちやほやされ、賞讃《しょうさん》され、注目の的になった。これまで二人は、自分たちの言葉が尊重されたことなど思い出すことさえできなかったが、いまは、彼《かれ》らの言うことは、何でも尊重され、人々のあいだでくりかえされた。どんなことをしても、それが立派なことのように思われ、そのため人々の前で自由にものを言ったりしたりすることができなくなった。そのうえ、過去の歴史までほじくりだされては、独創的な色彩《しきさい》をほどこされて語りつがれた。村の新聞は二人の少年の生《お》い立ちの記を掲載《けいさい》した。
ダグラス未亡人はハックの金を六分利でまわし、サッチャー判事もポリー伯母《おば》さんの依《い》頼《らい》でトムの金に同様の措置《そち》をとった。トムとハックは、それぞれ一年を通じて週日には一ドル、日曜日にはその半額という莫大《ばくだい》な収入を得ることになった。それは牧師さんの収入と同額――いや、牧師さんが手に入れるはずの収入と同額で、すべてが質素だったそのころは、週に一ドルと二十五セントもあれば住宅と食事の費用を払《はら》って、一人の子供を学校へ通わせることができた――そればかりか、子供に服を着せ、いつも身ぎれいにさせておくことさえできたのだ。
サッチャー判事は、トムに、すこぶる感心して、普《ふ》通《つう》の少年なら娘《むすめ》を洞窟《どうくつ》から助け出すことはできなかったろう、と言った。ベッキーが、トムが学校で彼女《かのじょ》に代って鞭《むち》打《う》ちの刑《けい》をうけたことを父にうち明けたとき、判事は、あからさまに感動した。そして、その鞭打ちの刑を彼女に代って受けるために、トムがそのときついた大嘘《おおうそ》のことを彼女が弁護すると、判事は、非常に熱心に、それは崇高《すうこう》な、寛大《かんだい》な、義侠《ぎきょう》のための嘘で、ジョージ・ワシントンが桜の木を切ったときの気高い正直と肩《かた》をならべて後世に残る偉《い》大《だい》な嘘だ、と言った。判事が部屋のなかを歩きまわって、床《ゆか》をどんと踏《ふ》みつけてそう言ったときほど、ベッキーの目には、父の姿が大きく立派に見えたことはなかった。彼女は、さっそく出かけて行って、トムに、このことを話した。
サッチャー判事は将来トムが大法律家か偉大な軍人になることを望んだ。彼はトムが、そのどちらかの、あるいは両方の道を進むことができるように、士官学校に入学させ、その後、この国で一流の法律学校で勉強させたいと思う、と言った。
ハック・フィンの金と、そしてダグラス未亡人が彼の後見人になっているという事実が、彼を交際社会に導き入れた――いや、引きずりこみ、投げこんだ――その苦しみは、彼には、ほとんど耐《た》えがたいものだった。未亡人の使用人たちは、いつも彼に服装《ふくそう》をととのえさせ、髪《かみ》を櫛《くし》けずり、服にブラシをかけ、毎晩シーツの上に彼を寝《ね》かせた。しかも、そのシーツたるや、彼が友だちとふざけることができるようなしわくちゃなものではなく、汚《よご》れ一つ、しみ一つなかった。食事のときにもナイフとフォークを使わなければならず、ナプキンやコップや皿《さら》を用いなければならなかった。また、本を勉強しなければならず、教会へも行かなければならなかった。上品なきちんとした言葉づかいをしなければならなかったので、言葉が口のなかで生気のないものになってしまった。どちらを向いても文明の手かせ足かせで身動きがとれず、手も足も出なかった。
それでも、三週間というもの、彼は、このみじめな生活を勇敢《ゆうかん》に耐え忍《しの》んだが、ある日突然《とつぜん》姿をくらました。未亡人は非常に心を痛め、四十八時間にわたって彼の行《ゆく》方《え》を探した。村の人たちも心配して、いろんなところを探しまわり、死体が出はしまいかと河底をさらってみたりした。三日目の早朝、トム・ソーヤーは賢明《けんめい》にも、人の行かない屠畜場《とちくじょう》の裏手の古い空樽《あきだる》のあいだを調べてまわった。そして、その樽の一つに逃亡者《とうぼうしゃ》を発見した。ハックは、そこを宿にして、いまちょうど盗《ぬす》んできた食物の残りもので朝食をすませ、気持よく寝そべりながらタバコをふかしているところだった。髪は乱れに乱れ、服は、宿なしで幸福だったころの、あの見事なボロ服だった。トムは、ハックを樽から外へ引っぱり出して、みんなが心配しているから家へ帰るようにとすすめた。するとハックの顔は、なごやかな満足の色をうしない、暗い表情がうかんだ。彼は言った。
「そのことなら、やめてくれよ、トム。おれは我《が》慢《まん》してやってみたんだが駄目《だめ》なんだ。どうしても駄目なんだ。おれにゃ向いてないんだ。性《しょう》が合わないんだ。小母《おば》さんは、とてもよくしてくれるし、親切にしてくれるんだが、ああいう暮しかたは、やりきれないんだ。毎朝きまった時間に起され、顔を洗わせられ、髪に櫛を入れられるんだ。そして、薪《まき》小屋《ごや》で寝ちゃいけないっていうんだ。あんな服を着せられると、息がつまりそうになるんだよ、トム。なんだか知らないが、呼吸ができないような気がするんだ。それに、あんまり立派すぎるもんだから、坐《すわ》ることも、寝ることも、ころげまわることもできやしない。穴蔵《あなぐら》の入口で寝なくなってから、もう――何年もたったような気がする。おれは教会へ行かされると、汗《あせ》が出てしょうがないんだ――あんなくだらないお説教なんか大きらいだ! 教会じゃ、蠅《はえ》をつかまえることもできないし、噛《か》みタバコもいけないし、日曜日一日じゅう靴《くつ》をはいていなければならないんだ。小母さんの家じゃ、ベルの合図で食事をするし、ベルの合図でベッドにはいるし、ベルの合図で起きるんだ――何から何まで、あんまり几帳面《きちょうめん》すぎて、おれは我慢できないんだ」
「だって、誰《だれ》でもそうしているんだぜ、ハック」
「誰でもやるからって、同じことだよ、トム。おれは、ほかの連中とはちがうから、我慢できないんだ。あんなにしばりつけられているのは、もうごめんだ。それに食いものの心配がないってのもおもしろくない――あれじゃ張りあいがなくて、ちっともうまくないよ。釣《つ》りに行くんだって、いちいちことわらなくちゃならないし、泳ぎに行くんだって、ことわらなくちゃならねえ――自由にできることは何一つねえんだ。上品な言葉しか使えねえんだから、話をしたって、ちっともおもしろくねえ。おれは一日に一度は屋根裏の部屋へあがって、思うぞんぶんわめきちらさねえと、気持がおさまらなかった。あれをやらなかったら、死んじまったかもしれないよ。小母さんはタバコもすわせないし、大きな声も出させないし、人前じゃ、あくびもできないし、体を掻《か》いてもいけないんだ」(ハックは、ここで、腹立たしいような、いらいらした口調になって)「それに、小母さんは朝から晩までお祈《いの》りばかりしてるんだ! あんな女って、はじめてだぜ。おれは、逃《に》げ出さずにゃいられなかったんだよ、トム。どうしても逃げ出さずにゃいられなかった。おまけに、学校がはじまると、おれは学校へ行かなくちゃならねえんだ。おれに、そんなことができると思うか。なあ、トム、金持になるってことは、はたで騒《さわ》ぐほどいいもんじゃねえ。めんどうくさいことばかりで、汗のかきどおしだ。おれは、しょっちゅう、死んだほうがましだと思っていたよ。この服のほうが、おれにゃ似合うし、この樽のほうが気楽でいいんだ。おれは、もうここから離《はな》れないつもりだ。トム、あの金さえなけりゃ、こんなめんどうくさいことに巻きこまれないですんだんだ。おれの分け前は、みんなおまえにやる、おれにゃ、ときどき十セントくれ――ときどきでいいんだ。よほど手にはいりにくいものでなけりゃ、おれは、金を使うことなんてねえんだから――おれの代りに、小母さんのところへ行って、話をつけてくれないか」
「おい、ハック、そんなことできないよ。それは、おまえにもわかってるじゃないか。そいつはよくないぜ。もうすこし我慢すれば、そのうちに、そういう暮しが好きになるよ」
「好きになるって? ふん――真っ赤に焼けたストーブに腰《こし》かけて、我慢してたら、それが好きになると思うのかい? いやだよ、トム。おれは金持なんかまっぴらだ。あんな窮《きゅう》屈《くつ》な家にゃ住みたくねえんだ。おれは森や河や空樽が好きなんだ、一生、そういうものから離れねえつもりだ。ちえッ、冗談《じょうだん》じゃねえや。せっかく銃《じゅう》や洞窟が手にはいって、山賊《さんぞく》をやるいい潮どきがきたってときに、こんな邪《じゃ》魔《ま》がはいって、みんなめちゃめちゃになっちまった」
トムは、この機会を捕《とら》えた――
「おい、ハック、金持になったって山賊になることはやめやしないぜ」
「え? おまえ、本気で言ってるのか、トム?」
「本気だとも。だけど、ハック、もっとちゃんとしていないと、おまえを仲間に入れるわけにいかないな」
ハックのよろこびは消えた。
「仲間に入れてくれねえって? だって、海賊のときにゃ入れてくれたじゃないか」
「そうさ、だけど、あのときとはちがうんだ。山賊は海賊より、もっと高尚《こうしょう》なんだ――一般《いっぱん》的に言ってね。どこの国でも山賊といえば身分の高い貴族なんだ――公爵《こうしゃく》とか男爵とか、そういうのと同じなんだ」
「しかし、トム、おまえは、おれと、ずっと仲よしだったじゃねえか。それなのに、おれを仲間に入れてくれねえのかい? まさか、おまえ、いまさらそんなことしやしねえだろう?」
「ハック、おれは、そんなことするつもりもないし、したくもないよ。だけど、みんなが何て言うだろうな? 『ふん、トム・ソーヤーの一味か! あんな下等な奴《やつ》がはいっているじゃないか!』って言うにきまってる。ハック、おまえのことだぜ。おまえだって、そんなふうに言われるのはいやだろう? おれだっていやだ」
ハックは、しばらく黙《だま》って心のなかで考えていた。
「よし、じゃ小母さんのところへ帰って、一月間だけ辛抱《しんぼう》してみよう。我慢できるようになるかどうか、やってみるよ。もしおまえが仲間に入れてくれるならな、トム」
「いいとも、ハック、それでいい! じゃ、行こうぜ。おれから小母さんに、すこし手ごころを加えてくれるように頼《たの》んでやる」
「頼んでくれるかい、トム? そうしてくれるかい? そいつはありがてえ。いちばんつらいことを、もうすこし手かげんしてくれたら、タバコをすったり、悪態をついたりするのは、かくれてやることにして、できるかできないか、ともかくやってみるよ。ところで、いつ仲間を集めて山賊になるんだい?」
「もうすぐだ。今夜にでも仲間を集めて結団式をやろう」
「何をやるって?」
「結団式さ」
「結団式って何のことだい?」
「たがいに助けあうこと、よしんば体をずたずたに切りさいなまれても団の秘密を洩《も》らさないこと、団員に害を加えたやつは、そいつと、その家のものを、みな殺しにすること――そういう誓《ちか》いを立てることだ」
「そいつはおもしろい――とてもおもしろいじゃないか、トム」
「うん、きっとおもしろいよ。この誓いは、真夜中に、できるだけさびしい、気味のわるい場所でやらなくちゃいけないんだ――幽霊屋敷が、いちばんいいんだが、もう、みんなこわされちゃったからね」
「とにかく、真夜中がいいな、トム」
「うん、そうだ。そして誓いは棺桶《かんおけ》の上でやらなくちゃいけない。そして血で署名するんだ」
「そいつはいいや。なあ、トム、海賊の千万倍もすばらしいぜ。おれは死ぬまで小母さんとこにいるよ、トム。そして、もしおれが立派な山賊になって、世間の評判になったら、小母さんは、おれを引きとって世話したことを、きっと誇《ほこ》りに思うだろう」
むすび
これで、この一代記は終る。厳密にいうと、これは一人の少年の歴史なのだから、ここで終らなければならない。これ以上つづけると大人の歴史になってしまうからだ。大人に関する物語を書く場合、作者は、どこで終らせるべきかを、はっきり心得ている――すなわち結婚《けっこん》で終らせるのだ。しかし、子供のことを書く場合には、作者が適当と思うところでうち切らなければならない。
本書で活躍《かつやく》した人物は大部分まだ生きていて、立派に幸福に暮《くら》している。他日ふたたび若い連中の物語をとりあげて、彼《かれ》らがどんな人間になったかを見るのも、あながち無駄《むだ》ではあるまいと思われる日がくるかもしれない。だから、その連中の生涯《しょうがい》のその部分については、さしあたってふれずにおくほうが賢明《けんめい》というものだろう。
ャャ崋解説
大久保康雄
マーク・トウェイン(Mark Twain )の筆名で知られるサミュエル・ラングホーン・クレメンズ(Samuel Langhorne Clemens )は、一八三五年、ミズーリ州のフロリダという寒村で生まれた。姉が二人、兄が二人、それに弟が一人いるから、六人きょうだいの第五子ということになる。父親のジョン(John)は、ヴァージニアの生れで、弁護士のかたわら小さな雑貨店を経営していたが、生れつきの空想家で、つねに一攫千金《いっかくせんきん》を夢《ゆめ》み、ケンタッキー、テネシー、ミズーリの開拓《かいたく》前線地を転々と移り住んだ。(フロリダも当時は開拓の前線地だった。)しかも、その一方、それぞれの土地で、弁護士として、あるいは治安判事として、公共のために熱心に力をつくした。ケンタッキー出身の母親ジェーン(Jane)は、陽気で、美人で、機知に富んだ、たいへん魅《み》力《りょく》的な婦人だった。サミュエルは、空想家であり忠実な市民でもあった父親の血と、やさしくてユーモアのセンスにめぐまれた母親の血を、二つながら受けついだように思われる。
サミュエルが四歳《さい》のとき、一家はハンニバルという村へ移った。彼《かれ》は、ここで少年時代をすごしたが、ハンニバルはミシシッピの流れに沿った美しい小さな村で、河岸に近い彼の家からは、村の北端《ほくたん》にあるカーディフの丘《おか》へも、船着場へも、少年の足で七、八分の距《きょ》離《り》しかなかった。サミュエル少年は、よく岸辺に腰《こし》をおろして、雄大《ゆうだい》な河の流れと、上下する帆船《はんせん》や筏《いかだ》や蒸気船などを眺《なが》めながら、さまざまな空想にふけった。後年、彼はこのミシシッピを舞《ぶ》台《たい》に、いくつか著名な作品を書いたが、それらを生み出す素地は、すでにその頃《ころ》つちかわれていたのだ。
十二歳のとき父が死んだ。サミュエルは学校をやめ、印刷工となって家計を助けた。その時代には、W・D・ハウエルズのように、正規の学校教育を受けずに印刷工場で文学修業をした作家がたくさんいたが、サミュエルも植字工として働きながら字を習い文章を綴《つづ》ることを覚えた。十七歳のとき、ボストンで発行されていた週刊紙「カーペット・バッグ」にS・L・Cの署名で、『無断居住者をおどかす伊《だ》達男《ておとこ》』(The Dandy Frightening the Squatter,1852)を寄《き》稿《こう》した。これが署名入りで活字になった彼の最初の作品といわれている。
ニューヨークやフィラデルフィアの印刷工場を渡《わた》りあるいたりセント・ルイスの新聞社へ勤めたりした後、一八五七年、少年時代から夢みていたアマゾン探険に出かけるためニュー・オーリンズまで行ったが、船の都合がつかず、結局あきらめて故郷へまいもどり、ミシシッピ河を航行する蒸気船の水先案内になった。これは彼が子供の時分からあこがれていた職業の一つだった。この水上生活は四年ほどつづいた。
一八六一年、南北戦争がはじまると、彼は志願兵として南軍に投じたが、軍隊にいたのは、わずか二週間あまりで、折柄《おりから》のゴールド・ラッシュ熱に煽《あお》られて新西部へ行き、各地の鉱山をうろついた末、翌六二年、ヴァージニア・シティの「テリトリアル・エンタプライズ」紙の記者になった。つぎの年の二月に「テリトリアル・エンタプライズ」紙に短い戯《ぎ》文《ぶん》を掲載《けいさい》したとき、はじめて「マーク・トウェイン」という筆名を用いた。これは二尋《ふたひろ》――つまり蒸気船の航行に安全な水の深さを示すもので、水先案内にとっては、つねに頭から離《はな》れることのない言葉なのだ。話術の名人といわれたアーティマス・ウォードから話術を習い、小説家ブレット・ハートから小説の手ほどきを受けたのは、この頃のことである。
当時アメリカの中、上流社会を支配していた「お上品な伝統」(genteel tradition)や、独立戦争から一世紀近くも経過しているのに、いまだにアメリカ人の心に根強く残っている卑《ひ》屈《くつ》な植民地意識を真っ向から笑いとばし、これと対比的に、純粋《じゅんすい》にアメリカの風土から生れた粗野《そや》で明るく健康な民衆の生き方を共感をこめて謳《うた》いあげることから、彼はその文学活動をはじめた。いうまでもなく、その土台となったのは、放浪《ほうろう》時代の体験と観察である。そのために彼は小説を書く上でもヨーロッパ渡《と》来《らい》の優《ゆう》雅《が》な気どった文語体を根こそぎしりぞけ、俗語や方言を野放図とも思えるほど縦横《じゅうおう》に駆使《くし》して、まったく新しい口語調の文体をつくりあげた。この画期的な文体の変革は、その後のアメリカ文学に大きな影響《えいきょう》をあたえた。
一八六五年、サンフランシスコ近郊《きんこう》の鉱山町の酒場で聞かされた「ほら話《トール・テール》」からヒントを得て『ジム・スマイリーとその跳《と》び蛙《がえる》』(Jim Smiley and His Jumping Frog)を書き、ニューヨークの「サタデー・プレス」紙に発表した。すると、これが作者自身もびっくりするほど評判になり、各紙に転載された後、六七年、『その名も高きキャラヴェラス郡の跳び蛙』(The Celebrated Jumping Frog of Calaveras County and Others Sketches)という題で単行本として出版された。彼の作品が単行本になったのは、これが最初である。この作品で彼の名は「太平洋岸の野性的ユーモア作家」として東部にも知れわたった。一方、講演者としても各地で大成功をおさめ、ほどなくアメリカ随一《ずいいち》の話術家としてもてはやされるようになった。当時は、文筆による収入よりも、講演による収入のほうが、はるかに多かったといわれている。
その年、観光旅行団に加わってヨーロッパに遊び、五カ月におよぶ旅の見聞をもとにして、『赤ゲット外遊記』(The Innocents Abroad,1869)を書いた。これまでアメリカ人はヨーロッパの古い文化に対して一種の劣《れっ》等感《とうかん》を抱《いだ》いていたが、彼はこの本のなかで、旧大陸の因襲《いんしゅう》や思想を、新大陸に育った生粋《きっすい》のアメリカ人の目で眺《なが》め、鋭《するど》くこれをこきおろした。この本は、ハウエルズの好意的な書評が雑誌「アトランティック」に掲載されたこともあって、半年で三万部も売れた。
一八七三年、チャールズ・ダドレー・ウォーナー(Charles Dudley Warner,1829―1900)との共作で『鍍金《めっき》時代』(The Gilded Age)を出版した。当時のアメリカの実業界や政界の腐《ふ》敗《はい》ぶりを痛烈《つうれつ》に諷《ふう》刺《し》したこの本は、二カ月で四万部を売りつくすベストセラーになった。つづいて少年時代の思い出をもとにして自伝的な小説を書きはじめた。そして、『トム・ソーヤーの冒険《ぼうけん》』(The Adventures of Tom Sawyer,1876)『ハックルベリ・フィンの冒険』(Adventures of Huckleberry Finn,1884)『ミシシッピ―に生きる』(Life on the Mississipi,1883)など、現在でも世界じゅうの若い読者から愛読されている諸作品を、つぎつぎと発表した。
作家としての彼にとって悲《ひ》劇《げき》だったのは、地位と収入が高まるにつれて、ぜいたくな社交生活がはじまったことだ。しだいに彼は、かつてしばしば笑いと諷刺の対象にした当の東部地方の「お上品な伝統」のなかへはまりこんで行った。そして、いつしかそこに住みついて、金ぴか主義の環境《かんきょう》に金しばりになってしまった。しかし、作家である以上、そこに安住することはできなかった。政界や経済界にはびこる不正が、もともと誠実な彼の目に映らぬはずはなく、その不正によって苦しめられる多くの市民の嘆《なげ》きが耳にきこえぬはずはなかったからだ。彼は、完全に周囲に同化することもできず、さりとて思いきってこの環境から抜《ぬ》け出すこともできなかった。この矛盾《むじゅん》が、やがて彼を厭世《えんせい》的な方向へ追いやった。この傾向《けいこう》は『ハドリバーグを堕落させた男』(The Man That Corrupted Hadleyburg,1899)にも、はっきりと見てとることができるし、老人と青年の対話という形式で書かれた『人間とは何か』(What is Man?,1906)にも色《いろ》濃《こ》く流れている。『不思議なよそ者』(The Mysterious Stranger,1916)は、中世のオーストリアのある村に、悪《あく》魔《ま》が旅人に化《ば》けて訪《おとず》れたために、村じゅうが大騒《おおさわ》ぎになるという物語だが、彼はこの作品で生きることのむなしさを強く訴《うった》え、人間機械説を正面きってうち出している。
一八九六年に長女スーザンが脳膜炎《のうまくえん》を患《わずら》って死に、一九○四年には妻オリヴィアが心臓麻痺《まひ》で、つづいて次女ジーンが交通事故で死んだ。また一九○九年には三女のジェーンが浴室で不《ふ》慮《りょ》の死をとげた。このようにあいついで起った肉親との死別が、彼の厭世観を、ますますつのらせた。
しかし、おかしなことに、この虚《きょ》無《む》的な厭世思想は、彼の現実生活には、それほど暗い影《かげ》を落さなかったようだ。いつも陽気にふるまい、一九○七年にオックスフォード大学から名《めい》誉《よ》文学博士の称号を贈《おく》られることになってロンドンへ渡ったときも、『コネティカットのヤンキー、アーサー王宮廷に行く』(A Connecticut Yankee in King Arthur's Court,1889 )で、さんざんイギリスを揶揄《やゆ》したことなど忘れたかのように、すこぶる上機嫌《じょうきげん》だったという。
その翌年、コネティカット州のレッディングという村に美しい邸宅《ていたく》を建て、みずから名づけてこれを「ストームフィールド」(Stormfield)と呼んだ。家が小高い丘の中腹に建っていて、西からの強風をまともに受けることと、『ストームフィールド船長の天国訪問記』(Extract from Captain Stormfield's Visit to Heaven, 1907)の原稿料で建築費をまかなったことから、こう名づけたのだといわれている。
一九一○年二月、「ハーパーズ・バザー」誌に『私の人生の転換《てんかん》期《き》』(The Turning‐Point of My Life)というエッセイを発表した後、心臓病の療養《りょうよう》のため大西洋上のバーミュダ島へ出かけた。そして、四月はじめに「ストームフィールド」へ帰り、その月の二十一日、心臓発作《ほっさ》を起して七十五年にわたる生涯《しょうがい》の幕を閉じた。
(一九七六年一月)