ハックルベリ・フィンの冒険
マーク・トウェイン/刈田元司訳
目 次
一 ハックを文明人にする
二 少年たちジムから逃げる
三 さんざんな小言
四 ハックと判事
五 ハックのおやじ
六 おやじサッチャー判事のところへ行く
七 待ち伏せ
八 森の中で眠る
九 洞穴
十 発見物
十一 ハックと女
十二 のろい航行
十三 難波船から脱出
十四 楽しいひととき
十五 ハック筏《いかだ》を見失う
十六 期待
十七 夜の訪問
十八 グレンジャーフォード大佐
十九 昼間は筏をつなぐ
二十 ハックの説明
二十一 剣の練習
二十二 シャーバン
二十三 一杯食わされた
二十四 王衣を着たジム
二十五 本人たちか?
二十六 敬虔《けいけん》な王様
二十七 葬式
二十八 イギリスへの旅行
二十九 競争相手
三十 王様ハックに食ってかかる
三十一 不吉な計画
三十二 日曜日のような静かな日
三十三 |黒んぼ《ニガー》盗み
三十四 灰汁樽《あくだる》わきの小屋
三十五 堂々たる逃避
三十六 避雷針《ひらいしん》
三十七 最後のシャツ
三十八 紋章
三十九 ネズミ
四十 釣り
四十一 医者
四十二 トムソーヤーの負傷
最後の章 自由の身にする
解説
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説明
この本にはいくつかの方言が使用してある。すなわち、ミズーリの黒人方言、奥地南西部方言の極端な形式、ふつうの「パイク郡」の方言、このさいごの方言をかげんした四つの変種である。それぞれの方言のかすかな違いは、でたらめや当てずっぽうでおこなったのではなく、労を惜しまずに、またこういうさまざまな言葉の形式を個人的によく知っているということを自信をもって披露《ひろう》し、立証しようとして、おこなったのである。
わたしがこういう説明をするのは、これがないと多くの読者は、以下の作中人物たちが同じようなしゃべり方をしようとしながらうまくいかなかったのだと、想像するだろうと思う理由からである。
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注意
この物語に動機を見いだそうとする者は起訴されるであろう。教訓を見いだそうとする者は追放されるであろう。筋を見いだそうとする者は銃殺されるであろう。
著者の命令により
軍需部長 G・G
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ハックルベリ・フィンの冒険
場所 ミシシッピ川流域
とき 四十年から五十年前
一 ハックを文明人にする
「トム・ソーヤーの冒険」という名前の本を読んだことがなければ、おれのことなんか知るまいが、そんなことはどうだっていい。その本をつくったのはマーク・トウェインさんで、だいたい本当のことを言っていた。大げさに言っていることもあるにはあったが、だいたい本当のことを言っていた。そんなことはどうでもいい。一度かそこいら嘘《うそ》をつかない人なんかおれは見たこともないが、まあ例外はポリーおばさんか、後家さんか、ことによるとメアリだろう。
ポリーおばさん(つまりトムのポリーおばさん)とメアリと、ダグラス後家さんのことは、みんなあの本のなかに書いてある……だからあの本はだいたい本当の本だ。前にも言ったように、いくらか大げさな話があるにはあるが。
さて、その本の結末はこんなぐあいになっている。トムとおれは泥棒がほら穴にかくしたお金を発見して、おかげでおれたちは金持ちになった。めいめい六千ドルずつで……全部金貨だった。積みあげると、すごいお金の山だった。で、サッチャー判事が責任をとって、その金を利息つきで貸しだしてくれたので、おれたちは一年中、めいめい毎日一ドルずついただくことになって……いやはや、だれだってどうしていいかわからないくらいの金よ。ダグラス後家さんはおれを養子とし、おれを文明人にしようと考えた。だが、後家さんのやることなすことがひどくきちんとして上品なのを考えると、こういう家にしょっちゅう暮らすのがつらくてたまらなかったので、おれはもうがまんができなくなって、飛びだしてしまった。おれはまた昔のぼろ服と砂糖の空樽《あきだる》にもどり、自由になって満足した。だが、トム・ソーヤーのやつがおれを捜しだし、これから強盗隊をつくろうとしているんだが、もしお前が後家さんのところへもどって体裁よくしていたら、入れてやってもいいぜと言った。それでおれは帰った。
後家さんはおれのために泣いて、おれをかわいそうな迷える小羊とよび、またほかのいろんな名まえでよんだが、べつに悪気でそうよんだのではなかった。後家さんはまたあの新しい服をおれに着せ、おれはもう汗がどんどん出るばかりで、ひどく締めつけられるような気持ちで、身うごきもできなかった。
さて、そこで、例の古いことがまたはじまるのだった。後家さんが晩飯の合図に鈴をならすと、時間きっちりに行かねばならなかった。テーブルへついても、すぐ食いだすことなどできっこなくて、後家さんが頭をさげて、食べ物にむかって何かぶつぶつ言うのを待たねばならなかった。といって、食べ物が本当にどうかしていたわけではなかった。すなわち、何もかもべつべつに料理してあるだけで、異状などなかったのだ。これが残飯の桶《おけ》だと、事情はちがう。いろんなものがごちゃごちゃまじりあい、汁もなんとなくいっしょくたになって、味は一段とよくなる。
御飯《ばんめし》がすむと、後家さんは本をとりだして、モーゼと葦《あし》のことをおれに教えた。おれは手に汗をにぎってその男のことを全部さぐりだそうとしたが、やがて、後家さん、モーゼがずいぶん前に死でしまっていることを、うっかり口にしてしまったので、おれはもうその男のことなんか気にしないことにした。おれは死んだ連中なんどに用はないんだから。
やがておれはタバコが吸いたくなって、吸わしてくれと後家さんにたのんだ。しかし吸わせてくれようとはしなかった。タバコは悪い習慣で、不潔だから、これからはもうやらないようにしなければいけないというのだ。これはまったくある種の連中のやりそうなことで、何かあることについて全然知らないくせに、それをこきおろしたがる。今も後家さんは、自分の親類でもなんでもなく、もういなくなってしまってだれの役にもたたないモーゼのことをすごく気にやみながら、おれがいくらか楽しみのあることをやろうとすると、やたらとこきおろす。しかも自分はかぎタバコを吸っているじゃないか。もちろん、このことは後家さんが自分でやることだから、悪くはないけれど。
後家さんの姉さんのミス・ワトソンという、かなりやせっぽちの、眼鏡をかけたオールド・ミスが、ちょうど来て同居していたところで、今度はつづり字本でおれを攻撃ときた。小一時間ほどうんと勉強させられたが、後家さんが手かげんさせてくれた。おれはもうこれ以上がまんできなかった。それからの一時間は死ぬほど退屈で、おれはもじもじのしどおしだった。
ミス・ワトソンは「ハックルベリ、そんなところへ足をのせてはいけません」とか、「ハックルベリ、そんなに足をがたがたさせないで……まっすぐすわりなさい」と言ったかと思うと、すぐまたこう言う、「ハックルベリ、そんなふうにあくびをしたり、背のびをしたりしてはいけません……なぜお行儀よくしようとしないんですか?」
それから彼女は恐ろしい場所について何もかも話してくれて、おれがそんなところへ行ってみたいものだと言ったら、彼女はひどく腹を立てたが、べつに悪気があったわけじゃない。ただどこかへ行きたかったんだ。ただ変化が欲しかったんだ。どこだってかまわないのだ。おれの言ったようなことを口にするのはとてもよくないことで、わたしなら全世界をもらってもそんなことは言わないし、すてきな場所へ行けるように暮らすつもりだ、と彼女は言った。だけどミス・ワトソンの行きたいと言っている場所へ行っても、べつに何のご利益《りやく》もなさそうなので、おれはそんな真似《まね》はすまいと決心した。だが口にだして言いはしなかった。ことが面倒になるだけで、何の役にもたたないからだ。
さて、話のきっかけができたとなると、ミス・ワトソンはどんどん話をつづけ、そのすてきな場所について全部話してくれた。彼女の話だと、そこでは人はただハープをもって一日じゅう歩きまわって、いつまでもいつまでも歌っていればいいんだそうだが、おれはそんなのたいしたことじゃないと思った。だが口にだしては言わなかった。トム・ソーヤーはそこへ行くと思うかと聞いたところ、とんでもないとの答えだった。それを聞いて、おれはうれしかった。おれはトムといっしょにいたいと思ったからだ。
ミス・ワトソンはおれを小突《こづ》きつづけ、うんざりし、寂しくなった。そのうちにニガー(黒人奴隷)〔南北戦争前の南部では、ニガーは奴隷の一般名称で、今日の人種軽蔑の用法とは違っていた〕を呼びあつめて、お祈りをし、それからみんなは寝に行った。おれはろうそくを持って自分の部屋へあがり、それをテーブルの上においた。それから窓ぎわの椅子に腰をおろして、何か愉快なことを考えようとしたが、だめだった。寂しくて寂しくて、ほとんど死んでしまいたいと思った。星は光り、木の葉は森でざわざわといとも悲しげな音をたて、遠くの方で、フクロウがだれか死んだ人をホーホーと鳴き、ヨタカと犬はだれか死のうとしている人のことを鳴きわめいているように聞こえた。風は何かをおれにささやこうとしていたが、それが何だかおれにはさっぱりわからず、おれはぞっと身ぶるいした。
やがて遠くの森のなかで、おれはある物音を聞いたが、それは幽霊《ゆうれい》が何か言いたいことが心にひっかかっていながら、人にわかってもらうことができず、墓のなかにおとなしく休んでいることができなくなって、毎晩悲しみながらあのように出てまわるときの音なのだ。おれはすっかり気がめいり、こわくなり、だれか仲間がいればいいと思った。まもなく一匹のクモがおれの肩に這《は》いあがった。指ではじきとばすと、そいつはろうそくの火のなかに落ち、あっという間もなく、ちりちりにちぢんでしまった。
これがおそろしい不吉な前兆で、何か災難をもたらすということぐらいは、人に教えてもらうまでもなかったので、おれはすっかりこわくなり、がたがた震えて着物がぬげてしまいそうになるくらいだった。
おれは立ちあがって、くるりと三べんまわり、いっぺんごとに胸に十字を切った。それから魔よけの髪の毛をすこしばかり糸でしばったが、それでも自信がもてなかった。こういう真似をするのは、せっかく見つけた蹄鉄《ていてつ》を、ドアの上に打ちつけておかないで、無《な》くしてしまったときのことで、これがクモを殺したときの災難よけになるなんて話は聞いたことがない。
おれはがたがた震えながらも一度腰をおろし、一服しようとパイプを取りだした。家は今や死んだように静かになっていたから、後家さんにはまさか知れることはあるまい。さて、ずいぶん時間がたってから、おれは町の時計が遠くの方でボーン、ボーン、ボーンと十二時を打つのを聞いたが……また静かになった……前よりもいっそう静かになった。まもなくおれは下の木立ちの闇《やみ》のなかで、小枝がポキッと折れる音を聞いて……何かがうごいていた。おれはじっとして耳をすました。と、たちまち下の方で「ニャーオ! ニャーオ!」という鳴き声をかすかに聞くことができた。
しめたっ! おれはできるだけ低く「ニャーオ! ニャーオ!」と言ってから、明りを消し、窓から物置小屋の屋根の上によじおりた。それから地面へすべりおりて、木立ちのあいだへはいりこんた。と、案の定《じょう》、トム・ソーヤーがおれを待っていた。
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二 少年たちジムから逃げる
おれたちは木立ちのあいだの小道をつま先で、後家さんの庭のはずれの方までもどったが、木の枝に頭をひっかかれないようにしゃがんで行った。台所のわきを通るとき、おれは木の根にけつまずいて音を立てた。おれたちはしゃがみこんだまま、じっとしていた。ミス・ワトソンの大きなニガーのジムというのが、台所の戸口にすわっていた。うしろに明りがあったので、その姿ははっきり見えた。ジムは立ちあがると、ちょっとのあいだ首をのばして、耳をすましていたが、やがて言った。
「そこにいるのだれだ?」
ジムはもうしばらく耳をすましていたが、そのうちにつま先でおりて来て、おれたちのちょうど真中《まんなか》に立った。手をのばせば、さわれるほどだった。まったく、物音ひとつ立てずに、三人がそんなにすぐそばにいながら、何分も何分もたったようだ。足首のところがかゆくなりだしたが、掻《か》くわけにはいかない。こんどは耳がかゆくなりだした。つぎは背中のちょうど両肩のあいだがかゆくなりだした。掻くことができないと、死ぬんじゃないかと思った。まったく、こののち何度もこのことに気がついた。偉い人たちといっしょだったり、葬式に行ったときだの、眠くもないのに眠ろう
としたりするとき……つまり掻いてはいけないような場所にでると、本当にいたるところ、一千以上もの場所がかゆくなるのだ。まもなくジムが言った。
「おい……おめえはだれだ? おめえはどこにいるだ? ちくしょう、たしかに何か聞こえただ。ようし、これからどうしたらええか、わかっているだ。ここにすわって、もう一度あれが聞こえるまで、耳すましているだ」
そこでジムはおれとトムとのあいだの地面に腰をおろした。背中を木立ちにもたれさせ、両足をのばしたので、その一本がほとんどおれの足にさわるところだった。おれは鼻がむずむずしだした。むずかゆくて、とうとう目に涙が出てきた。だがおれは掻かなかった。そのうちに体の中ほどがかゆくなりだした。つぎは下の方がむずむずしてきた。どうしたら静かにすわっていられるか見当がつかなかった。このみじめな状態が六分か七分つづいたが、実際よりもずっと長いように思われた。今はかゆい場所が十一か所にもなっていた。もう一分以上はがまんできないと思ったが、おれは歯をくいしばって、やってみようとした。
ちょうどそのとき、ジムの息づかいが猛烈になり、つぎにいびきをかきだした……そこでまもなくおれはまた体が楽になってしまった。
トムがおれに合図をした……口で小さな音をたてるような合図で……おれたちは四つん這《ば》いになってその場を逃げだした。十フィート離れると、トムはおれの耳にささやいて、おもしろいからジムを木にしばりつけようと言った。だが、おれはいけないと言った。ジムが目をさまして騒ぎだしでもしたら、おれが家にいないことがわかるだろう。
まもなく、トムがろうそくの数がたりないから、台所にしのびこんで、何本か持ってこようと言った。おれはそんなことやってもらいたくなかった。ジムが起きてくるかもしれないぞと言った。
だがトムは一《いち》か八《ばち》かやってみるというので、おれたちはしのびこんで、ろうそくを三本とり、トムは代金として五セントをテーブルの上においた。それからおれたちは外に出て、おれは逃げだそうといらいらしていたのに、トムは何が何でもジムのいるところへ四つん這いでもどって行って、ジムに何かいたずらをするのだといって聞きいれなかった。
おれは待ったが、ずいぶん長く思われ、何もかも静まりかえって寂しかった。
トムが帰ってくるとすぐに、おれたちは小道づたいに庭の垣根をまわって急ぎ、やがて家の向こう側にある丘のけわしい頂上に出た。トムの話だと、ジムの頭から帽子をとって、それをすぐ上の枝につるしてやった、ジムはすこし身うごきしたけれど、目はさまさなかったという。あとでジムは、魔女どもが自分に魔法をかけて、うっとりとさせ、州じゅうを自分にまたがってのりまわし、やがてもとの木の下に自分をおいて、だれがしたかを見せるために、帽子を木の枝につるしたのだ、と言った。だがそのつぎ話したときは、魔女たちはかれにのってニューオーリアンズまで行ったと言い、それからあとは、話すたんびに話はだんだん大きくなって、やがて、自分は世界じゅうのりまわされて、くたくたに死ぬほど疲れてしまい、背中はいちめん鞍《くら》ずれができてしまったという話になった。
ジムはこれがものすごく自慢で、ほかのニガーなんか見向きもしないくらい鼻が高くなってしまった。ニガーどもは何マイルも先からジムのこの話を聞きにやってきたりして、ジムはこの国のどのニガーよりもうやまわれた。会ったこともないニガーどもが、口をあんぐりとあけてつっ立って、まるでジムが不思議な人間ででもあるかのように上から下までながめていた。
ニガーどもはいつも暗くなると台所の火の横で魔女の話をしているが、だれかがそんなものなら何だって知っているというような知ったかぶりの話をすると、きまってジムが割りこんできて、「フン! 魔女について何知っているだ?」と言うと、そのニガーはギャフンとまいってしまって、うしろの方へ引きさがらねばならなくなるのだった。ジムは例の五セント玉をいつも紐《ひも》で首にまきつけ、これは悪魔が自分の手でくれたまじないだと言い、これがあればどんな病人でもなおせるし、それに向かって何かを言えば、いつでも好きなときに、魔女を呼びだせると話した。だが、どういう文句を言ったかは話したことがなかった。ニガーどもはもういたるところからやって来て、その五セント玉をひと目見るために、持っているものは何でもジムにやったが、その五セント玉は、悪魔が手でさわったんだからというので、自分からさわろうとするものはなかった。ジムは、悪魔を見たとか、魔女にのりまわされたというのですっかり高慢ちきになって、召使いとしてはまったくだめになってしまった。
さて、トムとおれは丘の頂きのはずれまで来ると、村を見おろした。三つ四つ明りのまたたいているのが見えたが、あそこにはたぶん病人がいるんだろう。頭の上では星がうつくしくかがやいていたし、下の村の横には幅一マイルの川がおそろしく静かに雄大に流れていた。おれたちは丘をくだると、ジョー・ハーパーとベン・ロジャースと、ほかに二、三人の男の子が、むかしの皮なめし所にかくれているのを見つけた。そこでおれたちは小舟のつないであるのを解いて、川を二マイル半|漕《こ》いでくだり、丘の中腹にある大きな断崖のところまで行って、上陸した。
おれたちはやぶのところへ行って、トムはみんなに秘密をまもることを誓わせてから、やぶの一番しげったところにある丘の穴を見せた。それからおれたちはろうそくをつけて四つん這《ば》いになって入って行った。二百ヤードばかり行くと、穴がひろくなった。トムはいくつかの通路をさがしまわっていたが、まもなく、まさかそこに穴があるとは気のつきそうもない岩壁の下にもぐりこんだ。おれたちはせまい場所を通って、部屋みたいなところへ出たが、しめっぽくて、汗をかいて、寒いところで、そこでおれたちは立ちどまった。トムは言った。
「ではおれたちは強盗団を組織して、トム・ソーヤー組と名のることにしよう。組に入りたいやつは誓約《せいやく》をして、血で名前を書かなくてはならない」
だれもかれも乗り気であった。そこでトムは誓約を書いておいた紙を取りだして、それを読みあげた。その誓約書によれば、会員はみなこの強盗団に忠実であって、どんな秘密ももらしてはならない。もしもだれかが組のだれかに危害を加えた場合は、その人物や家族を殺すようにと命じられたものはだれでも、それを実行しなければならない。やつらを殺して、この組の記章である十字を胸に刻みこむまでは、物を食ってはいけないし、眠ってもいけない。またこの組に属さないものは、このしるしを使ってはいけないし、もし使えば、告訴される。二度使えば殺されねばならない。また会員のだれかが秘密をもらしたりした場合は、そいつはのどを切られて、死骸《しがい》は焼かれ、灰は四方にばらまかれて、名前は名簿から血で塗り消され、二度と会員たちの口にのぼることはなかろうし、呪いをかけられて永久に忘れられてしまうのだ。
ひとりのこらず、これはほんとに立派な誓約だと言って、トムに君は自分の頭で考えだしたのかと聞いた。トムは、ある部分はそうだが、ほかのところは海賊の本や強盗の本から取ったと言い、高級のギャングはみなそういうのを持っているんだと言った。
だれかが、秘密をもらしたやつの家族を殺したらいいだろうと考えた。トムはそれはいい考えだと言って、鉛筆をとって書きこんだ。するとベン・ロジャースが言った。
「ここにハック・フィンがいるが、これには家族なんかいない……どうするつもりだい?」
「そうだな、おやじがいるだろう?」とトム・ソーヤーが言った。
「なるほど、おやじがいる。だがこのごろは、見つかりっこないよ。以前はいつも酔っぱらって皮なめし所でブタと寝ていたが、もう一年以上もここらあたりでは姿を見せねえんだ」
かれらはそのことを話しあって、おれを除《の》け者にしようとした。会員はみな、殺す家族かだれかがいなければならないわけで、さもないと、ほかの会員たちにとって公明正大ではないからと言うのだった。まったく、だれにもどうしていいかわからず……ただもう困ってしまって、だまりこんでしまった。おれはもうすこしで泣きだすところだったが、とつぜん、ひとつの方法を思いついた。そこでおれはミス・ワトソンはどうかと言った……ミス・ワトソンなら殺してもいいだろうと。みんなが言うには、
「ああ、あの人がいい、あの人がいい。大丈夫。ハックも入団できるぜコ」
そこでみんなはピンを指に突きさして血を出して署名し、おれも紙にしるしをつけた。
「ところで」とベン・ロジャースが言った、「この組の事業方針は何かね?」
「もっぱら強盗と殺人だけさ」とトムが言った。
「だが、だれを略奪《りゃくだつ》しようというのかい? 家かい……家畜かい、それとも……」
「馬鹿な! 家畜やそんなものを盗んだって強盗じゃない。そんなのはコソ泥ってんだ」と、トム・ソーヤーは言った。「おれたちはコソ泥じゃないんだぜ。そんなのカッコよくないよ。おれたちは追いはぎさ。覆面《ふくめん》して、道で駅馬車や自家用馬車をとめ、乗客を殺して、時計や金を取るんだ」
「いつも人を殺さなくちゃいけないのか?」
「ああ、そうだ。それが一番いいんだ。権威者のなかには別の考え方をするものもあるが、だいたい殺してしまうのが一番いいと考えられている。ただし、このほら穴へつれて来て、身代金《みのしろきん》が出るまで、とめておく連中は別だよ」
「身代金が出るって? そりゃ何のことだい?」
「知らないよ。だけど、それがやり方なんだ。本で見たことがある。だから、もちろん、おれたちもそうしなくちゃならないんだ」
「だが、それがどんなものかわからないとしたら、どんなふうにできるんだい?」
「どうもこうもあるものか、とにかくやらなくちゃいけないのさ。本にあったと言わなかったかい? 本にあることと違ったことをして、何もかもめちゃめちゃにしたいのかい?」
「ああ、トム・ソーヤー、口では立派なことが言えるけどさ、おれたちにやり方もわからないのに、いったいどういうふうに、やつらに身代金が出るようにさせられるのかい? おれがのみこみたいのはそこなんだよ。それでさ、お前はそれがどんなものだと考えてる?」
「さあ、わからないよ。だが、もし身代金が出るまで閉じこめておくってことは、やつらが死ぬまで閉じこめておくってことになるのかもしれないよ」
「なるほど、そんなところらしいな。それで答えになるよ。どうしてもっと前に、そう言えなかったのかい? おれたちはやつらを、身代金が出て死ぬまで、閉じこめておく……だがやつらはまた、さぞうるさい連中だろうな、何でもかんでも食ったり、しょっちゅう逃げだそうとしたりして」
「何てこと言うんだ、ベン・ロジャース。どうして逃げることができるってんだ、いつも番人がついていて、ちょっとでも身動きしてみろ、射ち殺そうとしているのにさ」
「番人! なるほど、そいつぁいい。だが、そうすると、やつらを見張るために、だれかはひと晩じゅう起きていて、眠れねえってわけだね。そりゃ馬鹿馬鹿《ばかばか》しいと思うよ。やつらがここへ来たらすぐに、どうしてだれかが棍棒《こんぼう》をもって、身代金を出させることができないのかい?」
「そうは本にないからさ……そのためさ。いいかい、ベン・ロジャース、お前はちゃんとしたことをしたいのか、したくないのか?……それが問題だ。そういう本を書いた人たちは正しい方法を知っていると思わないかい? そういう人たちに何かを教えてやれると思っているのかい? とてもとてもできるもんかね。できないよ、だから、ちゃんとした方法でやって、身代金を出させようよ」
「いいよいいよ。おれはかまわないよ。だが、とにかく馬鹿なやり方だと言いたいね。ところで……女も殺すのかい?」
「おい、ベン・ロジャース、もしおれがお前のように無学だったら、何にもしゃべらないよ。女を殺すかって? いいや……そんなこと本にあるのを見たものはひとりもないよ。女たちをほら穴につれてきて、下にもおかずに丁寧《ていねい》にしてやるのよ。そのうちに女たちはお前たちに惚れて、家になんか帰りたくなくなるという方法よ」
「いや、そういうふうになってるんなら、おれも賛成するが、だけどどうもいただけないな。たちまちのうちに、ほら穴は女どもや、身代金の出るのを待っている連中で一杯になっちまって、かんじんの強盗たちのいる場所がなくなってしまうぜ。だが、まあいいや、おれはもう何にも言わねえから」
小さいトミー・バーンズは、もう眠ってしまっていたが、みんなが起こすと、おびえて泣きだし、家の母ちゃんのところへ帰りたい、強盗なんかもうなりたくないと言った。
そこでみんなはトミーをからかって、泣き虫と呼ぶと、トミーはすっかり腹を立て、まっすぐ帰って、秘密を全部ぶちまけると言った。しかし、トムはおとなしくするようにと五セントをやり、これからみんなで一緒に家へ帰り、来週会って、だれかを略奪し、だれかを殺そうと言った。
ベン・ロジャースは、おれはあんまり外出できないんだ、ただ日曜日だけだから、つぎの日曜日からはじめたい、と言った。だが、ほかの子たちが全部、日曜日にそんなことをやるのはよくないと言ったので、この問題はこれで解決した。できるだけ早く集まって、日を決めることにみんなは賛成し、それからおれたちはトム・ソーヤーを組の首領に、ジョー・ハーパーを副首領にえらんで、家へ帰った。
おれはちょうど夜の明ける前に物置小屋へよじのぼって、自分の部屋の窓へ入りこんだ。
おれの新しい服はろうそくの蝋《ろう》と泥でべっとりとなり、おれはへとへとに疲れてしまった。
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三 さんざんな小言
さて、あくる朝、おれは着物のことで、ミス・ワトソンからたっぷりお小言《こごと》をちょうだいした。だが後家さんのほうは叱ったりしないで、ただ蝋《ろう》と泥をきれいにしてくれただけで、とても悲しそうな顔をしたので、できたら、しばらく行儀よくしていようと思った。それからミス・ワトソンはおれを自分の部屋へつれて行って祈ったが、何にも起こらなかった。ミス・ワトソンはおれに、毎日お祈りしなさい、求めるものは何でも手に入りますよ、と教えてくれた。だがそうはいかなかった。おれはやってみた。
あるとき釣糸が手に入ったが、釣針がなかった。針がなくては糸はどうにも役に立たない。おれは三度か四度、針をくださいとやってみたが、どういうわけかうまくいかなかった。
やがて、ある日、おれはミス・ワトソンにおれのために祈ってみてくれとたのんだが、まあ馬鹿だねと言われた。どうしてだか言ってくれないので、おれにはどうもわけがわからなかった。
あるとき、おれは裏の森にすわって、そのことを長いこと考えた。おれは自分に言った、もしも人が何でもお祈りするものが手に入るんなら、教会の執事のウィンさんは豚肉でなくしたお金をどうして取りもどせないんだ? なぜ後家さんは盗まれた銀器のかぎタバコ入れを取りもどせないのか? どうしてミス・ワトソンはふとれないのか? いや、とおれは自分に言った、お祈りなんか何にもならないんだ。
おれは後家さんのところへ行って、そのことを言うと、後家さんは、人がお祈りによって得ることのできるものは「精神的なおくりもの」であると言った。こんなことはおれにはわかりっこなかったが、後家さんはその意味を教えてくれた……おれはほかの人びとを助け、ほかの人びとのためにできることは何でもおこない、しょっちゅうその人たちの面倒をみて、自分のことを考えてはいけないというのだ。このなかにはミス・ワトソンも入っているのだ、とおれは思った。
おれは森へ行って、長いあいだ心のなかでそのことをあれこれ考えてみたが、ほかの人たちのためになるということ以外、別にひとつも利益が見あたらなかったので、とうとうおれはもうそのことで心配するのはよして、ほうっておこうと思った。ときどき後家さんはおれを一方のがわへつれて行って、神さまについてよだれの出そうな結構づくめの話をしてくれた。だがたぶん翌日になるとミス・ワトソンがおれをつかまえて、その話をまた全部うちこわしてしまうのだった。おれは神さまが二人いるのが見えると判断した。かわいそうな男は後家さんの神さまとは相当ウマが合うだろうが、もしもミス・ワトソンの神さまにつかまったら、もう助かる見こみはないのだ。
おれはとっくりと考えて、もし後家さんの神さまがおのぞみなら、そちらへ行こうと思った。だが、おれが無知で、下品で、いわばつまらない人間だということを見れば、神さまが前よりもどうしていくらかでもよくなるというのか、おれにはわからなかった。
お父《とう》はもう一年以上も姿を見せなかったので、おれは苦労なしだった。おれはもうお父の顔なんか見たくなかった。しらふのときは、いつもおれをぶんなぐり、おれに手をかけることができたが、おれはお父があたりにいるときは、たいてい森へ逃げて行った。ところで、このころ、お父は、町から十二マイルばかり上流の川で、水死体で見つかったという噂《うわさ》だった。とにかくお父だと判断された。この水死した男がちょうどお父の大きさで、着物はぼろ、髪はめずらしいくらい長くて……何から何までお父そっくりだということだったが、あんまり長いあいだ水につかっていたために、まったく人間の顔ともいえなくなっていて、顔のたしかめようはなかった。話によると、死体はあおむけになって水に浮かんでいたという。人びとは水死体をひろいあげて、土手に埋葬した。だがおれはそう長く気を楽にしていられなかった。あることを思ったからである。男の水死体はあおむけではなく、うつ伏せになって浮くものだということを、よく知っていた。だから、これがお父ではなく、男の服を着た女だということがわかった。だから、おれはまた気が落ちつかなくなった。おやじがまたやがてあらわれるだろうと判断した。あらわれてくれなければよいのだが。
おれたちはひと月ばかりときどき強盗ごっこをして、それからおれはやめた。ほかの男の子たちも全部やめてしまった。おれたちはだれも略奪しなかったし、だれも人は殺さなかった。ただそういう振りをしただけだった。おれたちはよく森から飛びだしては、豚を追う男たちや馬車で野菜を市場にはこぶ女たちを襲撃したが、かれらをとりこにしたことは一度もなかった。
トム・ソーヤーは豚のことを「金のかたまり」と呼び、蕪《かぶ》やなんかを「宝石」と呼んだ。そしておれたちはほら穴へ行って、おれたちのしたことや、何人殺したとか目をつけたとかについて議論しあった。
だが、そんな議論をして何の得になるのか、おれにはわからなかった。
あるときトムはひとりの男の子に、トムの呼び名ではスローガンという松明《たいまつ》(これは組の会員たちの集合の合図であった)を持たせて、町を走りまわらせた。それからトムはスパイから秘密の情報が入ったと言った。情報によると、明日スペイン商人と金持ちのアラビア人の一隊が、二百頭の象と六百頭のラクダと千頭以上の運送用ラバに全部ダイヤモンドを積みこんで、ほら穴のくぼ地にキャンプをはるという。しかも護衛はわずか四百人の兵隊だから、おれたちは、トムの口にする「待ち伏せ」というやつをやって、やつらを殺し、品物をさらってしまうんだ。おれたちは刀や鉄砲の手入れをして、支度しなければいかん、とムは言った。だがトムは、蕪《かぶ》の車を追いかけるときだって、刀や鉄砲をうんと磨《みが》かないと承知できなかった。とはいっても、その刀や鉄砲がガラス(細い薄板)やほうきの柄にすぎないときているんだから、へとへとになるまで磨きたてたって、ほんのちょっぴりだって前よりもよくなりっこなんかなかったんだから。
おれはそういうスペイン人やアラビア人の大群を打ちのめすことができるとは思わなかったが、ラクダや象は見たくてたまらなかったので、翌日の土曜日には、待ち伏せの現場に行った。そして合図と同時に、森をとびだし、丘をくだった。だが、スペイン人もアラビア人もいなければ、ラクダや象もいなかった。いたのはただの日曜学校のピクニックで、おまけに初年級にすぎなかった。
おれたちはそれをぶちこわして、くぼ地一帯に子供たちをさんざん追いまくった。しかし、おれたちの略奪したのはせいぜいドーナツとジャムだけだった。もっともベン・ロジャースは縫いぐるみの人形を、ジョー・ハーパーは賛美歌集と宗教パンフレットを一冊手に入れはしたが。そこへ先生が突入してきて、おかげでおれたちは何もかもうっちゃらかして逃げだした。おれはダイヤモンドなどひとつも見なかったので、トム・ソーヤーにそう言った。トムはとにかくそれは山ほどあったと言い、アラビヤ人も、象やなんかもいたんだと言った。では、おれたちにはどうして見えなかったんだと言うと、おれがそんなに無知でなくって、『ドン・キホーテ』という本を読んでいたら、そんなこと聞かなくたってわかるのにと言った。これはみんな魔法のしわざなんだという。あそこには数百人の兵隊と、象や宝物その他があったんだけど、魔法使いという敵がいて、ただ腹いせにそれら全部を子供の日曜学校に変えてしまったのだ、とジムは言った。
よろしい、ではおれたちのやらねばならないことは、魔法使い攻撃だ、とおれが言うと、トム・ソーヤーは、お前はとんまだ、と言った。
「というのはな」とトムは言った、「魔法使いはいくらでも魔神を呼びだすことができるんだし、魔神どもは、お前がウンともスンとも言わないうちに、お前をこま切れにしてしまうんだぜ。やつらは大木のように背が高く、教会みたいに胴まわりも大きいんだよ」
「じゃ」とおれは言った、「おれたちも何人かの魔神に助けてもらったら……そうすればほかの魔法使いのほうを打ちのめすことができるんじゃないかい?」
「どういうぐあいに魔神を呼びだすつもりかい?」
「知らないよ。やつらはどんなふうに呼びだすんだい?」
「それはだな、古いブリキのランプか鉄の指輪をこすると、雷《かみなり》と稲妻《いなずま》がごろごろぴかぴかして煙がもうもうとする中を、魔神どもはすごい勢いで入ってきて、言いつけられたことは何でもやってしまうんだ。鉄砲玉製造塔を根もとから引っこぬいて、それで日曜学校校長でもだれでもの頭をぶんなぐることなんか、何とも思っていないんだ」
「やつらをそんなに大あばれさせるのはだれだね?」
「そりゃ、ランプや指輪をこする人さ。魔神どもはランプや指輪をこする人の家来だから、命令されることは何でも実行しなければならないんだ。ダイヤモンドで長さ四十マイルもの宮殿を建て、チュウインガムや何でも好きなものでそれを一杯にし、結婚のために中国から皇帝の娘をつれてこいと命令すれば、魔神どもはそれを実行しなければならない……しかも、翌朝の日の出前に実行しなければならない。その上……魔神どもはその宮殿を国じゅうの君の好きなところへ移動させなければならない、わかったかい」
「そうさね」とおれは言った、「そんなふうに自分の力をむだ使いしないで、宮殿を自分たちで持っていないというのは、魔神も脳足《のうた》りんだと思うね。それだけじゃない……もしもおれが魔神のひとりだったら、古いブリキのランプをこすられたがために、自分の仕事をやめて、その男のところへ行く前に、おれはさっさとどこか世界の果てにでも行っているね」
「何てことを言うんだ、ハック・フィン。まったくの話、ランプがこすられたら、気が向こうが向くまいが、行かなくちゃならないんだ」
「何だって? 大木のように背が高くて、都会みたいに胴まわりの大きいおれがかい? いいよ、いいよ、おれは出かけるよ。だがおれは必らずその男を国じゅうで一番高い木にのぼらせてやるからな」
「ちえっ、君に話しても何にもなりゃしない、ハック・フィン。ともかく君は何にも知っちゃいないようだ……完全な馬鹿だね」
おれは二、三日このことをじっくりと考えてから、はたして本当かどうか見てみようと思った。おれは古いブリキのランプと鉄の指輪を手に入れて、森へ出かけて全身汗になるまでこすって、こすって、こすりまくった。宮殿を建てて、そいつを売ってやろうという計算だったんだが、何の役にもたたず、魔神はひとりも出て来なかった。そこでおれは、ああいう話はみんなトム・ソーヤーの嘘のひとつにすぎないと判断した。トムはアラビア人や象を信じていたんだろうと思うが、おれはちがった考えだ。どう見ても日曜学校くさいところがあった。
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四 ハックと判事
さて、三、四か月たって、今はもうすっかり冬になっていた。おれはたいてい学校へ行って、字のつづりも、読むことも、書くこともすこしはできたし、九九の表も六七《ろくしち》・三五まで言えるようになった。だがそれから先は、いくらふんばっても、とてもじゃないができないだろうと思う。とにかく、算数というやつには興味がないんだ。
はじめのうち、おれは学校がきらいだったが、やがてがまんできるようになった。すごくいやになるときは、ずる休みをし、翌日ムチでなぐられると、スカッと元気になった。だから学校へ通えば通うほど、学校は楽になった。後家さんのやり方にもいくらか慣《な》れてきたので、そんなに神経にさわらなくなった。
家のなかに住んで、ベッドに寝るのは、だいたいにおいて、とてもこたえたが、寒い気候になる前は、ときどきはこっそりと抜けだして森で眠った。そのほうがおれにとっては休養になった。おれは昔のやり方が一番好きなんだが、新しい生活方式もすこしずつ、だんだん慣れて来ていた。後家さんは、おれがのろくはあるが確実によくなって来ており、期待どおりのふるまいをしていると言った。おれのことは恥ずかしくないと言った。
ある朝、朝飯のとき、おれはうっかり塩入れをひっくり返してしまった。すばやく手をのばして塩をつかみ、左の肩ごしにそれを投げて縁起を直そうとしたが、ミス・ワトソンが先まわりをして、おれをさえぎった。
「手をどけなさい、ハックルベリ……いつもへまばかりやっているのね」
後家さんがおれのために弁護してくれたが、災難を追いはらってくれそうにないことはよくわかった。朝飯のあとで、おれは外へ出たが、心配でびくびくものだったし、災難はどこでおれにふりかかってくるのだろう、またどんな災難なのだろうかと不安でたまらなかった。ある種類の災難を払いのける方法はいろいろとあるが、どうもこれはそういう災難ではなさそうだ。そこでおれは何にもしないことにして、ただしおしおと警戒しながらぶらぶら歩きまわった。
おれは前庭におり、高い板塀を越すときの踏み段をのぼった。地面には一インチばかり新雪があり、だれかの足跡があった。足跡は石切場からつづいて来て、踏み段のあたりでしばらくためらい、それから庭の塀をまわって進んでいた。そんなにうろうろしながら、入ってこなかったのはおかしい。おれにはのみこめなかった。とにかく、とても奇妙だ。おれはそこらあたり足跡をつけてまわろうかと思ったが、まずしゃがんで、足跡をながめることにした。
最初は何にも気がつかなかったが、つぎに気がついた。悪魔よけのために、大きな釘《くぎ》でつくった十字架が左の靴のかかとについていた。
おれはすぐさま立ちあがると、丘を走っておりた。ときどき左肩からうしろを振りかえって見たが、だれも見えなかった。おれはできるだけ早くサッチャー判事の家についた。判事は言った。
「おや、坊や、息を切らしているじゃないか。利息を取りに来たのかね?」
「ちがいます、先生」とおれは言った、「いくらかあるんですか?」
「ああ、あるよ、昨夜、半年分が入っているからね、百五十ドル以上ある。君には相当の財産だ。もし持って行けば使ってしまうんだから、あの六千ドルといっしょにわしに投資させたほうがいいよ」
「ちがいます、先生」とおれは言った、「おれ使いたいとは思いません。まったく欲しくありません……あの六千ドルも。先生に受けとってもらいたいんです。先生にさしあげたいんです……六千ドルも何もかも」
判事はびっくりした顔をした。のみこめないらしかった。判事が言うには、
「何だって、いったいどういうつもりかね、坊や?」
おれは言った、「どうかそのことについて何にも聞かないでください。受けとってくれますね?」
判事は言った。「さあ、困ったな。何かあったのかね?」
「どうか受けとってください」とおれは言った、「そしておれに何にも聞かないでください……そうすればおれは嘘をつかなくってもいいんだから」
判事はしばらく思案してから言った。
「ああーあ、わかったよ。君は財産を全部わしに売りたいんだろう……くれるんじゃなくて。それが正当な考え方というものだ」
それから判事は何かを紙に書いて、読み直してから、言った。
「そら……このとおり証書に『価値考慮して』と書いてあるだろう。これはわしが君からそれを買いとり、君にその支払いをしたという意味だ。ここに一ドルある。さあ、書類に署名したまえ」
そこでおれは署名して、立ち去った。
ミス・ワトソンの奴隷のジムは、人のげんこくらいの大きな毛の球を持っていた。雄牛の四番目の胃袋から取ったもので、ジムはいつもそれで魔法をおこなっていた。ジムによると、毛の球のなかには神霊がいて、何もかも知っているのだという。
そこでおれはその夜ジムのところへ出かけて行き、お父《とう》がまた舞いもどっている、雪のなかに足跡を見たんだから、と言った。おれの知りたいのは、お父が何をしようとしているのか、またここにいつまでもいるつもりなのかどうか、ということだった。
ジムは毛の球を取りだして、それに何か言い、それから上に持ちあげてから床に落とした。球はどしっと落ちて、一インチばかりころがっただけだった。ジムはもう一度やってみた。つづいてもう一度。
だが球はまったく同じだった。
ジムは膝をついて、球に耳をあて、耳をすました。だが効果がなかった。毛の球は話そうとしない、とジムは言った。お金をやらないと話したがらないときがあるんだ、と言った。おれはジムに、すりへってすべすべした、にせの二十五セント銀貨を持っているが、銀をすかして真鋳《しんちゅう》がすこし見えるからよくないし、真鋳が見えなくたって、あんまりすべすべして油みたいな手ざわりだから、そのためいつだって自分のほうから正体をばくろしてしまうので、もう通用しないだろう、と言った(おれは、判事からもらった一ドルについては何にも言うまいと思った)。相当ひどい金だが、毛の球はことによるとに区別がつかなくて、受けとるかもしれないと言うと、ジムはその匂いを嗅《か》ぎ、噛《か》み、こすってみて、毛の球が本物だと思うようにやってみようと言った。
ジムは、なまのじゃが芋《いも》を割って、二十五セント銀貨をそのあいだにはさんで一晩おくと、翌朝にはもう真鋳も見えないし、油みたいな手ざわりもなくなるだろうから、毛の球はもちろんのこと、町の人だってだれでもすぐに受けとるだろう、と言った。ところで、おれもじゃが芋がそういうはたらきをすることは、前には知っていたが、すっかり忘れてしまっていた。
ジムは二十五セント銀貨を毛の球の下におき、膝をついて、また耳をすました。今度は毛の球は大丈夫だと言った。もしおれが聞きたければ、おれの運勢を全部教えてくれると言った。おれはやってくれと言った。そこで毛の球はジムに話し、ジムがそれをおれに話した。ジムは言った。
「おめえさまのとっさんは、まだ、これからどうするか知らんでいんさる。ときどき行ってしまおうかと思いんさるが、またここにいようとも思いんさる。一番ええのは、あせらないで、とっさんに思いどおりにさせるこった。とっさんのまわりを二人の天使がうろついているだ。ひとりは白くてぴかぴかだし、もひとりはまっ黒だ。白いほうは、しばらくのあいだ、とっさんをうまく行かせるだが、まもなく黒いほうがさっと飛んできて、何もかもぶちこわしてしまうだ。どっちがさいごにとっさんをつかまえるかは、まだ、だれにもわからねえ、だけんど、おめえさまは大丈夫だ。一生のあいだに相当めんどうなこともあんだろうが、相当うれしいこともあるだ。ときどき怪我《けが》をするだろうし、ときどき病気になるだろうが、いつでもおめえさまはまた元気になりなさるだ。一生のあいだ、ふたりの娘がおめえさまのまわりを飛んでいる。ひとりは色がうすくて、もひとりは黒いだ。ひとりは金持ちで、もひとりは貧乏だ。おめえさまははじめ貧乏なほうと夫婦になり、やがて金持ちのほうと夫婦になんなさる。できるだけ水から遠ざかっていねえといけんし、危ねえことはしてはならねえ。しばりっ首になるってことが、ちゃあんと運勢に出ているだからね」
その晩ろうそくに火をつけて、おれの部屋へあがって行くと、お父《とう》がすわっていたではないか!
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五 ハックのおやじ
おれはドアをしめた。ふりむくと、そこにお父がいた。しょっちゅうなぐられていたので、おれはいつもびくびくしていた。今ももうびくびくしていると思った。だが、すぐにおれは自分のまちがっていることがわかった。あんまり思いがけなかったので……息がなんとなくひっかかって、まずがっくりきたわけだが、すぐそのあとで、あんまり心配するほどお父をこわがっていないことがわかった。
お父はほとんど五十歳で、また実際にそう見えた。髪の毛は長くてもつれて油じみていて、だらりとさがり、まるでつる草のうしろにでもいるように、その目の光っているのが見えた。髪は真黒で、白髪《しらが》はなく、長いもじゃもじゃの頬《ほお》ひげもそうであった。
顔、といっても顔の見えている部分には血の気がなかった。白かった。だが常人の白さではなくて、胸をむかむかさせるような白さ、肌をむずむずさせるような白さ……雨靴の白さ、魚の腹の白さだった。着物ときたら……ぼろ以外の何ものでもなかった。一方の踵《かかと》をもう一方の膝にのせていたが、その足の靴はやぶけて、指が二本つきだしていた。しかもそれをときどき動かしている始末。帽子は床《ゆか》の上においてあった。古い黒の縁《ふち》のたれたソフト帽で、てっぺんが蓋《ふた》のようにくぼんでいた。
おれはつっ立ったままお父をながめていた。お父は椅子をすこしうしろにかしげて、すわったままおれをながめていた。おれはろうそくを下においた。おれは窓があいているのに気づいた。だからお父は、物置小屋を利用して入りこんだのだ。お父はおれをじろじろながめつづけていた。やがて言うには、
「糊《のり》のきいた着物だな……すごく。自分じゃひとかどの大物《おおもの》とでも思ってやがるんだろうな?」
「そうかもしれんし、そうでないかもしれんよ」とおれは言った。
「ツベコベへらず口をたたくな」とお父は言った、「おれがいなくなってから、また仰山《ぎょうさん》、『きざ』になりやがったもんだな。おめえを片づける前に、その高慢ちきの鼻を折っぺしょってやるぞ。教育をうけているそうだな。読み書きもできるってな。今じゃ自分のほうがおやじよりも偉《えれ》えとでも思ってるんじゃねえのか、おやじはできねえからな。そういうものはおめえの体からたたきだしてやるからな。そういうべらぼうな馬鹿な真似をしていいって、だれが言ったんだ?……やい、だれが言ったんだ?」
「後家さんだよ。後家さんがそう言ったんだよ」
「後家さんだって? やい……じゃ、自分の仕事でも何でもないことに勝手に首をつっこんでもいいと、だれが後家さんに言ったんだ?」
「だれも言いやしないよ」
「よろしい、よけいな世話をやいたらどうなるか、教えてやるぞ。それから、いいか……おめえは学校をやめるんだぞ、いいな? 自分のおやじの前でいばりくさって、おやじよりも偉いといわんばかりの態度を見せる子供をそだてたりしたらどうなるか、教えてやるぞ。二度とふたたび、あの学校のあたりをうろついていたら、そのままにしておかんぞ、わかったか? おめえのお袋は死ぬまで読むこともできなければ、書くこともできなかった。家族のものは、ひとりだって、死ぬまで、できなかった。おれもできない。だのに、おめえはこんなふうに増長《ぞうちょう》している。おれはそういうことにがまんできる人間じゃないんだ……わかったか? おい……読んで聞かせてみろ」
おれは本を取りあげて、ワシントン将軍と戦争のことを何か読みはじめた。三十秒ほど読んだとき、お父はその本を片手でぴしゃっとたたいて、部屋の向こうにつきとばした。お父は言った。
「わかったよ。おめえは読めるんだな。おめえがそう言ったとき、おれは疑っていたんだ。ところで、いいか、そういう気どりは、もうやめるんだぞ。そんな真似《まね》はしてほしくないんだ。カッコいいの、待ち伏せしているからな。あの学校のあたりでつかまえたら、ほっておかないぞ。思いっきりぶちのめしてやるぞ。うかうかしていると、おめえは信心までするようになるだろうよ。こんな伜《せがれ》なんて見たことがねえ」
お父は数頭の牛とひとりの男の子を書いた小さな青と黄色の絵を取りあげて、言った。
「こりゃ何だ?」
「おれがよく勉強したってんでもらったものだよ」
お父はそれをびりっと裂くと、
「おれがもっといいものを、くれてやる……鞭《むち》をくれてやる」
お父はしばらく、ぶつぶつがみがみ言いながらそこにすわっていたが、やがてまた言いだした。
「だけど、おめえはいい匂いぷんぷんのハイカラじゃねえか? ベッドに寝具に鏡、床にはじゅうたんとくらあ、おめえを生んだおやじが皮なめし所で豚といっしょに寝なきゃならんというのによ。こんな伜《せがれ》なんて見たことがねえ。おめえを片づける前に、そういうきざっぽさをいくらかでもきっと取ってやるからな。まったく、おめえの気どった様子もたいしたもんだよ……おめえは金持ちだっていう話だが、おい……そりゃどういうこったい?」
「そりゃ嘘だ……そうなんだよ」
「いいか、おい……口のきき方に気をつけな。おれはいま、がまんにがまんをしているんだ……だから生意気をいうんじゃないぜ。おれは町に来て二日になるが、どこへ行ってもおめえが金持ちになったという話ばっかしじゃねえか。ずっと川の下《しも》の方でも聞いてはいたがね。そのために来たってわけさ。あした、その金を取ってきてくんな……入用なんだ」
「おれは金なんか持ってねえよ」
「嘘つけ。サッチャー判事が持ってる。もらって来い。入用なんだ」
「おれは金なんか持ってねえよ、本当だよ。サッチャー判事に聞いてみな。同じことを言うから」
「いいとも、聞いてみるからな。吐《は》きださせてみせらあ。さもなければそのわけをしらべてやるからな。おい……今いくらポケットに持っているか? 入用なんだ」
「たった一ドルしかねえよ。おれはこれで……」
「おめえがそれでどうしようとかまわねえ……いいから、さっさと出しな」
お父はそれを取りあげると、本物かどうかしらべるためにちょっと噛んでみて、それから、下町へウイスキーをすこし買いに行く、一日じゅう一滴も飲んでいねえからと言った。お父は小屋の屋根に出ると、すぐまた首をつっこんで、おれがきざっぽいなりをして、おやじよりも偉くなろうとしているといっておれをののしり、もう行ってしまったかなと思うと、またもどって来て首をつっこみ、学校のことは気をつけろ、待ち伏せしていて、もしやめなかったら、痛い目にあわせてやるぞ、と言った。
つぎの日、お父は酔っぱらって、サッチャー判事の家へ行き、さかんに暴言をはいてお金を出させようとしたが、できなかったので、それでは法律の力で出させてみせると言った。
判事と後家さんも訴訟《そしょう》を起こし、裁判所の力でおれをお父から引きはなし、二人のうちのひとりがおれの後見人になれるようにしようとした。だが、来たばかりの新しい裁判官で、おやじを知らないときていたので、裁判所は、しないですむものならなるべく、家族の問題に干渉したり、別れ別れにしてはいけないと言い、自分は子供を父親から取りあげたくないと言った。そこでサッチャー判事と後家さんはこの事件から手を引かねばならなかった。
こうなると、おやじはもう、じっとしていられないくらいよろこんで、お前がいくらかでもお金をつくって来ないことには、体じゅう黒あざになるまでひっぱたいてやるからなと言った。おれはサッチャー判事から三ドルを借り、お父はそれを取りあげて酔っぱらい、ほらを吹きまくり、ののしり、わめいて、あばれまわった。しかも、町じゅうを、ブリキの鍋をもって、ほとんど真夜中まで、さわぎつづけた。
そこで人びとはお父を牢屋にいれ、あくる日は裁判所に引きだし、また一週間牢屋にいれた。しかしお父は、おれは満足だ、おれは伜の親玉だ、あとであいつに思い知らせてやる、と言った。
お父《とう》が牢屋から出ると、新しい判事はお父を人並みの男にしてやるんだと言った。そこで、自分の家につれて行って、さっぱりしたいい着物にきかえさせ、朝飯も昼食も夕飯も家族といっしょにさせ、いうなれば、下にもおかずあいそよくもてなした。
夕飯がすむと、判事は禁煙やなんかのことを話してやったので、おやじはとうとう泣きだし、おれは今まで馬鹿だった、一生を馬鹿使いしてしまったが、これからは生まれ変わって、だれにも恥ずかしがるにおよばないような人間になるつもりだと言い、判事さんもどうかわしを助けてください、見くだしたりしないようにお願いしますと言った。
判事は、そういう言葉を聞くと抱きしめてやりたいと言って、泣きだし、奥さんまでも泣いた。お父は自分は今までいつも誤解されてきたと言い、判事はそう思うと言った。おやじは落ちぶれた人間が欲しがっているのは同情だと言い、判事はそのとおりだと言った。そうして二人はまた泣いた。寝る時間になると、おやじは立ちあがって、片手をさしだして言った。
「この手を見てください、紳士方、また淑女《しゅくじょ》方。この手をとって握手してください。ここにあるこの手は豚の手でした。だがもうそうではない。新しい生活に第一歩をふみだした男の手です。元にもどるくらいなら死んでしまいます。この言葉に気をつけてください……わしが言ったってこと忘れないでください。これは今はもう汚《けが》れのない手です。握手してください……こわがらなくてもいいです」
そこでみんなはひとりずつ、ぐるぐると、握手して、泣いた。判事の奥さんはその手にキスした。それからおやじは誓約に署名した……いや、かわりに十字の印をつけた。判事は、これは前代未聞《ぜんだいみもん》の神聖な時であるとか何とか言った。
それからみんなはおやじを、客室にしてあるきれいな部屋へ押しこんだが、夜中になって何時ごろか、おやじはものすごくのどがかわいて、玄関の屋根に這いおり、柱をすべりおりて、新しい上衣を強烈な安酒ひと瓶《びん》と交換し、またよじのぼって部屋へもどって、たっぷり楽しんだ。夜の明けがたにおやじは、ぐでんぐでんに酔っぱらって、また這いだしたが、玄関からころげ落ちて腕を二か所折り、だれかが日の出のあとで発見したときには、ほとんど凍死《とうし》しかかっていた。そしてみんながその客室へ来てみると、まず探《さぐ》りをいれてみないことには足の踏み場もないくらいであった。
判事はだいぶきげんがわるかった。あのおやじはまあ散弾銃でなら改心させることができるかもしれないが、それ以外の方法は思いつかないと言った。
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六 おやじサッチャー判事のところへ行く
さて、それからまもなくおやじは起きあがって、またうろつきはじめ、裁判所でサッチャー判事にくってかかって、あの金を引きわたせと言い、おれにも学校をやめていないといってくってかかった。おやじは二度ばかりおれをつかまえてなぐったが、おれはやっぱり学校へ行き、たいていは巧みに身をかわしたり走って逃げたりした。前はそんなに学校へは行きたくなかったのに、今はお父《とう》にうらみを晴らすために行こうと思った。
訴訟はひまのかかる仕事で、容易なことではなかなかはじまりそうにもなかった。だからときどきおれは判事から二ドルか三ドル借りてきて、牛皮の鞭《むち》でなぐられないようにした。お金が入ると、お父は酔っぱらった。酔っぱらうたびに、町じゅうで大騒動を引きおこし、大騒動を引きおこすたびに、牢屋へいれられた。お父にはまったくわが世の春で……こういうことはまさにお得意の巻《まき》だった。
お父《とう》が後家さんの家のまわりをあんまりうろつくようになったので、後家さんはとうとう、うろうろするのをやめないと、そちらに迷惑がかかると言った。
いや、お父の怒らなかったのなんのって、だれがハック・フィンの親玉か見せてやると言った。
そこで春のある日、おれを見張っていて、つかまえ、軽い小舟にのせて三マイルばかり上流におれをつれて行き、森の多いイリノイ州側へわたった。そこには古い丸太小屋のほかは家は一軒もなく、樹木があまりに茂っているので、小屋のあり場所を知らなければ、とうてい見つからないほどであった。
お父はしょっちゅうおれをそばに引きつけておいて、おれには逃げだす機会がなかった。おれたちはその古い小屋で暮らし、お父はいつもドアに錠《じょう》をかけ、鍵は夜は頭の下においた。盗んだと思われる鉄砲を持っていて、おれたちは釣りをしたり、狩りをしたり、それでおれたちは暮らした。ときたまお父はおれを監禁《かんきん》しては三マイル下流の渡し場の店へ行っては、魚や獲物をウイスキーと交換して、家へ持って帰り、酔っぱらって、うれしくなり、おれをなぐった。
後家さんが、やがて、おれの居場所を見つけだし、おれをつかまえようと人をよこしたが、お父はその男を鉄砲で追い帰した。それからあんまり経《た》たないうちに、おれは今のところにいるのに慣れてきて、牛皮の鞭《むち》だけは別として、そこが好きになった。タバコを吸ったり釣りをしたり、本も読まず勉強もしないで、一日じゅうのんべんだらりと暮らすのは、何となくのんきで、楽しいものであった。
二か月以上もたって、おれの着物はぼろぼろの垢《あか》だらけになり、おれにはどうして後家さんのところで、顔や手を洗い、皿で食事をし、髪を櫛《くし》でとかし、規則正しく寝たり起きたり、永久に本のことで気をつかい、年よりのミス・ワトソンにしょっちゅう小言をいわれなければならなかったああいう生活が、あのように好きになってしまったのか、自分ながらわからなかった。おれはもうもどりたくなくなった。おれは、後家さんがいやがるので、ののしるのをやめていたが、お父は別に反対もしないので、今ではまた使いはじめていた。だいたいにおいて、この森のなかはとてもたのしい生活だった。
しかしやがてお父がヒッコリー(クルミ科)のむちをやたらに振りまわすようになって、おれはがまんができなくなった。おれは体じゅうみみずばれになった。お父はまたおれを閉じこめて出かけることが多くなった。一度などはおれを閉じこめて、三日も帰って来なかった。おれはすごく寂しかった。お父はきっと溺《おぼ》れ死んだので、おれはもう外へ出られないだろうと判断した。おれは恐ろしくなった。何とかしてここを逃げだす方法を考えようと決心した。
今までだって何度もあの小屋から出ようとしたが、方法が見つからなかった。犬が抜け出られるだけの大きさの窓もなかった。煙突も、せますぎて、のぼることができなかった。ドアは厚い頑丈《がんじょう》な樫《かし》の板であった。お父は留守にするときは、ナイフや何かを小屋において行かないように、とても用心した。おれは小屋を百回以上もしらべただろうと思う。いや、ほとんどしょっちゅうそうしていた。ほかに時間のつぶしようかなかったんだから。だが、このときおれはとうとうあるものを見つけた。柄《え》はなかったが、古い錆《さ》びた鋸《のこぎり》で、たると屋根の下見板とのあいだにおいてあった。おれはそいつに油をぬって仕事にかかった。
テーブルのうしろの、小屋の一番はじめの丸太に、古い実用の毛布が釘でとめてあって、すき間から風が吹きこんでろうそくを消さないようにしてあった。おれはテーブルの下にもぐって、毛布をもちあげ、一番下の大きな丸太の一か所を、おれが抜け出られるくらいの大きさに鋸《のこぎり》でひきはじめた。いや、これはなかなか手間のかかる仕事であったが、そろそろ仕事もけりがつきかけたとき、森でお父の鉄砲の音を聞いた。おれは仕事の証拠になるようなものを片づけ、毛布をおろし、鋸をかくした。と、まもなくお父が入ってきた。
お父はきげんがよくなかった……つまりこれがお父の本性なのだ。町へ行ったが、何もかもうまくいかないと言った。裁判さえはじまれば、訴訟に勝って例の金も取れると思うと弁護士も言ってくれてはいるのだが、裁判を長く延期する方法はいくらでもあるし、サッチャー判事にはその方法がわかっているのだ。
また、みんなの話によると、おれをお父から引きはなして、後見人としての後家さんに引きわたす別の裁判がおこなわれるだろうし、そうなれば今度はその裁判が勝つだろうと思っているらしい、とお父は言った。
これを聞いておれは相当ろうばいした。後家さんのところへもどって、窮屈《きゅうくつ》な思いをし、みんなの言っている「文明人」にされるようなことは、もう二度としたくないのだ。そのうちにおやじがまた憎まれ口をききはじめた。思いつく人間や物はだれでも、何でも片っぱしからののしり、言いもらしたものがないかを確かめるために、もう一度全部をくりかえしてののしり、そのあとで仕上げとして総ざらいをやったが、そのなかには名前を知らない連中も相当まじっていて、その番になると「あの野郎、なんていう名だっけな」といいながら、その憎まれ口をつづけていった。
お父《とう》は後家さんがおれをつかまえるのを見たいものだと言った。いつも目を光らせていて、もしもそういう手にでも出てきたにしても、おれは六マイルか七マイル向こうにおめえを閉じこめておく場所を知っているから、いくらやつらが追っかけまわしても、いずれはへたばって、おめえなんか見つかりっこないんだ。
これを聞いておれはまたもや不安になったが、それはほんの一瞬のことだった。いよいよそういう破目《はめ》になるまで、おとなしくこんなところにいるものかと思った。おやじはおれを小舟にやって、買ってきた品物を持ってこさせた。ひきわりとうもろこしの五十ポンド袋、ベーコンの片身、弾楽、四ガロン入りのウイスキーの瓶、装填《そうてん》用の古本一冊と新聞二部、ほかに麻縄《あさなわ》があった。おれは荷物を一回はこぶと、もどって、小舟のへさきに腰をおろして休憩した。
おれはじっくりと考えて、いよいよ逃げだすときは、鉄砲と釣糸を持って小屋を出て、森へ行こうと思った。一か所にいつまでもいないで、だいたい夜中に国じゅうを転々とし、命をつなぐために猟や釣りをし、おやじや後家さんが二度とおれを見つけることができないように、遠くへ行ってしまおうと思った。今晩お父が酔っぱらってしまったら、鋸《のこぎり》仕事をさいごまでして、抜けだそうと判断し、お父はきっと酔っぱらうだろうと思った。
こういう考えに頭がいっぱいになっていたので、おやじが、おーい、眠っているのか溺《おぼ》れ死《じに》したのかと大声で聞くまで、どれくらいそこにいたのか気がつかなかった。おれは品物をぜんぶ小屋にはこんだが、そのころはもう暗くなりかけていた。おれが晩飯をつくっているあいだに、おやじは一口か二口がぶがぶっとやって、だいぶ元気になり、また例の憎まれ口をききだした。町で酔っぱらって、ひと晩じゅう道ばたの溝《みぞ》にはまっていたあとだから、その格好といったらなかった。全身泥まみれなので、人はそれがだれだかまったく見当もつかないだろう。
酒がききはじめると、お父はほとんどいつも政府の攻撃をやらかした。このときはお父はこう言った。
「これが政府だと! まあ、目をあけてそれがどんなもんだか見るがいい。息子をその親から取りあげようとしている法律がある……親がありとあらゆる苦労も心配も費用も惜しまずに育てあげてきた実の伜《せがれ》をよ。そうだ、その男がようやく伜を一人前にし、さあこれから仕事をして、自分のために何か手伝いもしてもらい、楽をさせてもらおうかという段になると、法律が出しゃばりでてくるんだ。しかもそれが政府だとみんながいうんだからな、いや、それだけじゃねえ。法律はあのおいぼれのサッチャー判事めの後押しをして、おれの財産を取りあげる助けをしてやがる。
これが法律の仕打ちだ。法律は六千ドル以上の値打ちの人間をつかまえて、こんな古い穴ぐらみたいな小屋のなかへ押しこんで、豚も着ないような着物を着せて歩きまわらせている。それが政府だなんて! こういう政府じゃ人間は自分の権利も持てねえ。
ときどきおれはこんな国なんか永久におさらばしようかと大きく考えることがあるんだ。そうなんだ、みんなにもそう言ってやった。おいぼれのサッチャーに面と向かってそう言ってやった。大勢《おおぜい》が聞いていたから、おれの言った言葉をくりかえして言えるだろう。おれは言ってやった、二セントよこしな、こんなばかばかしい国なんか出てしまって、二度と近よりはしねえからな、と。それがそのときの言葉よ。おれは言ってやった、おれの帽子を見ろ……これが帽子と呼べるもんなら……山のところがせりあがると、ほかんところがだんだんさがって、顎《あご》の下までずり落ちてしまい、これじゃあ帽子どころか、ストーブの煙突のつなぎ目から頭がつきでているみたいじゃないか。
これを見ろ、とおれは言ってやった……こんな帽子をおれにかぶせやがって……権利さえ手に入れば、この町いちばんの金持ちのおれさまによ。ああ、そうだよ、すばらしい政府だよ、すばらしいね。
まあ、いいかい。オハイオから来た自由なニガーがいたんだよ。混血児《あいのこ》で、ほとんど白人みたいに白いんだ。見たこともねえような真白《まっしろ》なワイシャツを着て、ぴかぴかの帽子をかぶって、そいつが着ている洋服みたいにきれいな洋服を持っているものは町にはひとりもいねえし、そいつは金の時計と鎖《くさり》、銀の頭のついたステッキを持ってやがって……白髪《しらが》頭の州いちばんのおっそろしい金持ちなんだ。おまけに、大学の教授で、あらゆる言葉がしゃべれて、何でも知っているんだとよ。あきれるのはそれだけじゃねえ。国へ帰ると、投票ができるんだそうだ。
それを聞いて腹が煮えくりかえったね。いったいこの国はどうなるんだろう、とおれは考えた。選挙の当日で、もし選挙に行けないくらい酔っぱらっていなかったら、おれもちょうど投票に行くところだったんだが、この国にはニガーに投票させる州があると言われたとたん、おれはやめにしたよ。もう二度と投票はしねえと言ってやった。まちがいなしにそのとおりで、みんなも聞いていたんだ、こんな国が腐《くさ》ろうと腐るまいと、かまうものか……おれは生きているあいだもう二度と投票なんかしねえから。
それにあのニガーのあつかましいことときたら……おれが押しのけてやらないことには、道だってゆずろうとはしねえんだ。おれは、みんなに言ってやった、どうしてこのニガーを競売にかけて売らねえんだ? それが知りてえんだ、とね。ところが、連中が何と言ったと思う? 州に六か月いねえことには、売ることはできねえし、あいつはまだそれほど長くねえんだとさ。そうれ、わかったかね……万事このとおりなんだ。州に六か月いなければ、自由なニガーを売ることもできねえのを、みんなは政府とよんでいるんだ。こういう政府は自分で政府と名のり、政府のふりをし、政府と思いこんでいるんだが、まる六か月間も何もしないでじっとおとなしくしていなければ、うろつきまわって盗みをやるいまいましい白シャツの自由なニガーをつかまえることもできねえんだとさ。そして……」
お父《とう》は夢中になってしゃべっていたので、ふらふらする自分の年とった足が自分をどこへつれて行くのか注意していなかったために、塩づけの豚の桶《おけ》に足をとられてすってんころりところんで、両足の向こう脛《ずね》をすりむいてしまい、それからあとの言葉はいやもう実にはげしいもので……大部分はニガーと政府の攻撃であったが、ときどきは桶に攻撃の言葉をあびせかけた。はじめは一方の脛《すね》をつかんで片足で、つぎは別の脛をつかんで別の足で、小屋のなかをかなり跳びまわっていたが、とうとうとつぜん左の足を突きだして、桶をいやというほど蹴《け》とばした。だがこれは感心したやり方ではなかった。というのは先から二本の指のでているほうの靴だったからで、お父はもう身の毛のよだつような悲鳴をあげて、泥のなかに倒れてころがり、足の指をおさえた。そのとき口にしたののしりの言葉は、今までの悪口なんかてんでかなわないようなものだった。お父はあとで自分でもそう言った。ソーベリ・ヘイガンじいさんの若い盛りのころの憎まれ口を聞いたことがあるが、おれのには足もとにもよれねえと言ったが、これはだいぶほらを吹いているんだろうと思う。
晩飯のあとでお父はウイスキーの瓶《びん》を取りあげ、ここには酔っぱらいになる二回分とアル中のたわごと一回分のウイスキーがあると言った。
これはお父の口ぐせだった。あと一時間くらいで酔いつぶれるだろうと判断し、そうしたら鍵を盗むか、鋸《のこぎり》で外へ出るか、どちらかの方法でやろうと思った。
お父は飲んで、飲んで、やがて毛布の上にぶっ倒れたが、まだ運はおれのほうに向いて来なかった。お父はぐっすり眠らないで、落ちつかない様子だった。うなったり、うめいたり、長いあいだあちこち寝返りを打った。とうとうおれのほうも眠くなってしまって、どんなに努力しても、目をあいていることができなくなった。そこでいつのまにか知らないうちに、ろうそくをつけたまま、ぐっすり眠りこんでしまった。
どれくらい眠ったかわからないが、とつぜんおそろしい悲鳴が聞こえて、おれは目をさました。お父が気ちがいみたいな様子であっちこっち跳びまわりながら、蛇《へび》のことをわめいていた。両足を這《は》いあがってくると言っては、跳びあがって悲鳴をあげ、一匹が頬《ほ》っぺたに噛みついたと言ったが……おれには蛇など影も形も見えなかった。お父は跳びあがっては小屋をぐるぐる走りまわって、「取ってくれ、取ってくれ! 首に噛《か》みついてる」とどなった。
こんな気ちがいじみた目をした男は見たことがなかった。まもなくお父はくたびれはてて、息を切らしながら倒れ、それからものすごい早さでごろごろころがって、あっちこっちのものを蹴とばしたり、両手で空《くう》を打ったりつかんだり、悲鳴をあげたり、悪魔につかまったと言ったりした。だんだん疲れてきて、ただうめきながらしばらくじっとしていた。そのうちにもっと静かになり、もう音も立てなくなった。
遠くの森で、フクロウや狼《おおかみ》の鳴き声が聞こえ、ものすごく静かに思われた。お父は隅《すみ》の方に倒れていた。やがて半分体を起こすと、頭を一方にかしげて、聞き耳を立てた。お父は低い声で言った。
「ドシッ……ドシッ……ドシッ。あれは死んだ。ドシッ……ドシッ……ドシッ。おれのあとを追っかけて来る。だがおれは行かないぞ……ああ、そばへ来た! さわらんでくれ……さわらんで! 手をはなせ……つめたい手だ。はなせ……あわれなこのおれをそっとしておいてくれ」
それからお父は四つん這《ば》いになって、どうかほっておいてくれと嘆願しながら、這いまわり、毛布にくるまって、なおも嘆願しながら古い松材のテーブルの下にもぐりこんだ。それからおいおい泣きだしたが、毛布を通してその泣き声を聞くことができた。
やがて毛布からころがり出ると、気ちがいみたいな顔つきでとび起き、おれの姿を見て打ってかかって来た。折りこみナイフを持って部屋じゅうぐるぐる追いまわし、おれを死の天使(神の使者)とよんで、殺してやる、そうすれば二度ともうやってこれないだろうと言った。おれは命乞いをし、ただのハックにすぎないんだと言ったが、お父は甲高《かんだか》い笑い声をあげて、どなったり、ののしったり、なおも追いかけるのをやめなかった。一度なんか、おれが急に向きを変え、相手の腕の下でひらりと身をかわそうとしたとき、お父はやにわに手をのばして、おれの上衣の肩と肩のあいだをつかんだので、おれはもうだめだと覚悟した。だが稲妻みたいにすばやく上衣からすべり抜けて助かった。
まもなくお父はくたくたになって、ドアに背中をもたせてうずくまってしまい、ひと休みしてから殺してやると言った。ナイフを体の下において、ひと眠りして元気になったら、正体を見とどけてやるんだと言った。まもなくお父はうとうとしだした。やがて藤《とう》張りの椅子を持ってきて、できるだけ音のしないように、それによじのぼると、鉄砲をおろした。さくじょうを突っこんでみて、弾《たま》がこめられているのを確かめてから、おれは銃先をお父の方に向けて蕪《かぶ》の樽の上において、そのうしろにすわって、お父の身うごきするのを待った。なんてのろく、また静かに時間がたっていったことだろう。
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七 待ち伏せ
「起きろ! 何してるんだ!」
おれは目をあけて、あたりを見まわし、自分がどこにいるのかを確かめようとした。もう日の出のあとで、おれはぐっすり眠っていたのだ。お父《とう》は気むずかしい顔で……気分も重そうだった……上から見おろしながら立っていた。
「この鉄砲で何していた?」
自分が何をしていたか全然わからないのだな、と判断したので、おれは言った。
「だれか入って来ようとしたので、待ちかまえていたんだよ」
「なんでおれを起こさなかったんだ?」
「いや、起こそうとしたが、だめだった。動かせなかったんだ」
「じゃ、まあいい。そんなところに立って一日じゅうペチャクチャやってねえで、朝飯の魚が糸にかかったかどうか見てこい。おれもすぐ行く」
お父はドアの錠をはずし、おれは出て川岸へ行った。数本の木の枝やなんか、それに木の皮もちらほら流れてくるのに気がついて、川が水かさを増しはじめたことを知った。今もし町にいれば、さぞ景気がいいだろうと思った。六月の増水はいつもきまっておれには運がよかった。増水がはじまるやいなや、薪《たきぎ》や筏《いかだ》のくずれたのや……ときには一ダースもの丸太がまとまって流れてくるので、それをつかまえて材木屋や製材所に売りさえすればいいのだから。
おれは片目をお父に、もう一方を増水で運ばれてくるかもしれないものに向けながら、川岸をのぼって行った。と、とつぜん、カヌーがやって来た。長さ十三、四フィートばかりのすばらしいやつで、家鴨《あひる》みたいに昂然《こうぜん》と浮かんでいた。おれは着物も何も着たまんま、蛙《かえる》みたいに、頭からとびこみ、カヌーの方へ泳いで行った。舟の底にだれか横になっているんだろうと思った。というのは、人をからかうためによくそういう真似をする連中がいて、せっかく小舟を漕いでそばまで行ったりすると、そのとたんに体を起こして人を笑ったりするからである。だが、今度はそうではなかった。たしかに漂流のカヌーなので、おれはのりこんで岸へ向かって漕いだ。おやじがこれを見たらよろこぶぞ……十ドルの値打ちものだから、とおれは思った。
だが、岸についても、お父の姿はまだ見えず、つたと柳がいっぱいかぶさっている峡谷《きょうこく》のような細い小川へカヌーを急いで入れているとき、また別の考えがふと浮かんだ。これをうまく隠しておいて、逃げだすときは森へ行かずに、五十マイルほど川をくだって、一か所にいつまでも野営して、つらい思いをしててくてく歩きまわるのはやめよう、と判断したのだ。
そこは小屋にとても近くて、おやじの来る足音がしょっちゅう聞こえるように思った。しかしカヌーを隠してから、岸へあがって、ひとむれの柳をまわってながめると、おやじが小道のすこし先で、鉄砲で一羽の小鳥に狙《ねら》いをつけているところだった。だからおやじは何も見ていなかったことになる。
お父《とう》がやって来たとき、おれは流し釣の糸をけんめいにたぐりあげていた。どうしてこんなに遅いんだとちょっとしかられたが、川へ落っこったので、時間がかかってしまったのだと言った。
おれの体の濡れているのを見て、いろいろ聞くだろうということがわかっていた。おれたちは糸からナマズを五匹はずして、家へ帰った。
朝飯のあとで、くたびれ休みにもうひと眠りしようと横になっているあいだに、おれは、もしお父や後家さんに追われないですむような方法が工夫できたら、そのほうが、運にまかせて遠くへ落ちのびてみんなを撤《ま》くのよりは、安全だという気になった。ほんとに、どんなことが起こるかもしれないからだ。
ところで、しばらくのあいだ方法は見つからなかったが、やがてお父はちょっと起きあがって、水をもうひと樽《たる》も飲んでから、言った。
「こんど人がここらあたりをうろついていたら、おれを起こすんだぞ、わかったか? そんな野郎にはむだ足はさせない。射ち殺してやるからな。こんどはおれを起こすんだぞ、わかったか」
それからお父はまたごろっとなって眠ってしまった……だが今のお父の言葉で、さがしていた計画を思いついた。さあ、これでだれもおれの跡をつけようなんて考えない方法が工夫できるぞ、とおれは自分に言い聞かせた。
十二時ごろ、おれたちは外へ出て、川岸をのぼって行った。川はどんどん水かさを増していて、たくさんの流木が増水に乗じて流れていた。やがて、丸太の筏《いかだ》の一部……九本の丸太をまとめたのが来た。おれたちは小舟で出て、それを岸へ引っぱって来た。それから昼飯にした。お父以外のものなら、もっと何かを手に入れようと、その日一日は待ってみるところだろうが、そういうのはお父のやり方ではなかった。丸太が九本あれば一回分としては十分で、すぐ町へ出かけて売らねばならない。
そこでお父は錠をかけておれを閉じこめると、小舟にのり、三時半ごろ筏《いかだ》を引っぱって出かけた。その晩は帰って来ないだろうとおれは判断した。かなり行ったと思う頃合《ころあい》まで待って、おれは鋸《のこぎり》をとりだし、また例の丸太の仕事にとりかかった。お父が川の向こう側につかないうちに、おれは穴から抜けだした。お父と筏《いかだ》ははるか遠くの水上に一点となっていた。
おれは、ひきわりとうもろこしの袋を持ってカヌーの隠してあるところへ行き、つたや枝をかきわけて、それを中に入れた。それからベーコンの片身、それからウイスキーの瓶も同じようにした。そこにあったコーヒーと砂糖を全部、また弾薬も全部持って来た。装填《そうてん》用のものも、バケツとひょうたん、ひしゃくとブリキのコップ、古い鋸《のこぎり》と二枚の毛布、小鍋とコーヒーわかしも持って来た。釣糸やマッチその他も……一セントでも値打ちのあるものは全部持って来た。
とにかく小屋をきれいさっぱりにしてしまった。斧《おの》も欲しかったが、薪《たきぎ》の山のところにある一丁しかなかった。それだけそこに残しておくわけは、おれにしかわからなかった。おれは鉄砲を持ちだし、これでおれの用はすんだ。
穴から這いだして、いろんなものをたくさん引きずり出したので、地面を相当荒らしてしまった。そこで、そこに砂をまいて、つるつるになったところやおが屑《くず》の上にかぶせ、外がわからできるだけうまくわからないようにした。それから丸太の切り取った部分を元のところにはめこみ、はずれないように、二つの石を下におき、ひとつをたてかけた……そこのところで丸太が上に曲がってしまって、地面によくつかなくなっていたからだ。四、五フィート離れて立って、それが鋸で挽《ひ》いてあることを知らなければ、気づきっこないだろう。それに、そこは小屋の奥だから、そんなところへわざわざ行ってみる馬鹿もいないだろう。
カヌーのところまで一面の草だったから、足跡は残さなかった。ぐるっと回って見た。おれは川岸に立って川を見わたした。万事安全。そこでおれは鉄砲を持って、すこし離れた森へ行き、鳥をさがしていると、野生の豚が一頭見えた。豚は草原の農家から逃げだすと、ここらの低地ではすぐ野生にかえった。おれはこれを射ち殺して、小屋へ運んだ。
おれは斧《おの》を取って、ドアを打ちこわした……相当なぐったり、たたっ切ったりした。豚を中へ運んで、テーブルの近くまで持って行き、斧でそののどをたたっ切り、血が流れるように地面においた……地面と言ったが、床板ではなくて、堅くふみかためられた地面だったからだ。ところで、つぎにおれは古い袋を持って来て、中に大きな石を、引きずってこれるだけ、たくさん入れて、それを豚のところからはじめてドアまで引きずり、森を通って川まで運び、投げこむと、どぶんと沈んで見えなくなった。こうして見ると、何かが地面を引きずられてきたように見える。トム・ソーヤーがこの場にいてくれたらと思った。トムならばこういうことに興味をもって、奇想天外《きそうてんがい》の物語をつけくわえることがわかっていた。こういうことにかけてトム・ソーヤーほど腕の立つものはいなかった。
さて、さいごにおれは自分の髪の毛をすこし抜いて、斧にたっぷり血をつけてから、その裏側に毛をくっつけて、斧を隅に投げた。それから豚を拾いあげて、(血がしたたらないように)上衣につつんで胸にだきかかえ、家のずっと下手の方へ行って、川へ投げこんだ。ここでおれはほかのことを思いついた。
そこでカヌーまで行って、ひきわりの袋と古い鋸《のこぎり》を持ちだし、家まで持ってきた。袋を前にあった場所まで持って行って、鋸でその底に穴をあけた。その場にナイフとフォークもなかったからで……お父は料理なら何でも折りこみナイフで片づけていた。
つぎにおれは草地と柳のあいだから百ヤードばかり家の東へ袋を運んで、幅五マイルで葦《あし》のいっぱい生えている……そして季節には鴨《かも》も来るといっていいような……浅い湖へ行った。この湖の向こう側からどろ沼が、いや小川が流れだして、行く先はわからないが、数マイルも行っているが、川までは行っていなかった。ひきわりはこぼれ落ちて、湖までずっと小さい跡をつくった。おれはお父の砥石《といし》もそこに落として、偶然そうなったかのように見せかけた。それからひきわりの袋の破けたところをそれ以上こぼれないように、紐《ひも》でしばり、鋸《のこぎり》とともにまたカヌーへ持って帰った。
もう暗くなりかけていた。そこでおれは岸にかぶさるようになっている川の柳の下へカヌーをまわして、月の出を待った。一本の柳につないでから、ひと口食い、やがてカヌーに横になって、パイプを吸い、計画をねった。みんなはあのいっぱい詰まった石の袋のあとを追って川岸に出て、おれの死体をさがしていかりで川底をさらうだろう。それからひきわりの跡をつけて湖まで行き、そこから流れでている小川をあさりながら、おれを殺して品物を盗んだ強盗を見つけようとするだろう。川ではおれの死体だけしか探そうとしないだろう。
まもなくそれに飽きて、おれのことなどもう気にかけなくなるだろう。よしよし、おれはどこでも好きなところに止まることができる。ジャクソン島が好都合だ。おれはあの島ならかなりよく知っているし、来るものはひとりもいない。だから夜は町まで漕《こ》いで行って、こっそり歩きまわり、欲しいものを手に入れることができる。ジャクソン島こそねがってもない場所だ。
かなり疲れてしまった。まず気のついたのは自分が眠ってしまったことだった。目をさましたとき、一瞬自分がどこにいるかわからなかった。起きあがって、すこしこわくなりながら、まわりを見まわした。
それで思い出した。川は幅が何マイルもあるように見えた。月がとても明るくて、岸から数百ヤードのところを黒く静かに流れて行く流木を数えることができるくらいだった。何もかも死んだように静かで、時刻も遅いようだったし、遅いような「におい」がした。おれの言いたいことがわかるだろう……言いあらわす言葉を知らないのだ。
おれは大あくびをし、体をのばした。ともづなを解いて、まさに出発しようとしたとき、水の向こうから音が聞こえて来た。
おれは耳をすました。まもなくわかった。それは、静かな夜に、オールとオール受けのきしるにぶい規則正しい音であった。柳の枝のあいだからのぞいて見ると、いたいた……水の向こうの方に小舟が一|艘《そう》いた。何人のっているかはわからない。どんどんやって来て、おれと並行したとき、その小舟にはひとりしかのっていないことがわかった。まさかとは思うが、ことによるとお父かもしれないと思った。流れのために、おれより下流までさがったが、やがてゆるい流れに入って左右にゆれながら岸へ漕ぎつけた。鉄砲をのばせばさわるくらいのすぐ近くを通って行った。まちがいなく、お父であった……しかもオールのさばき方から見て、「しらふ」であった。
おれもぐずぐずしてはいなかった。つぎの瞬間には岸べの木陰を静かに、だが速く、勢いよくくだっていた。二マイル半くだってから、四分の一マイルかそれ以上を中流の方に向かった。まもなく渡し場を通るので、人びとがおれを見て声をかけるだろうと思ったからだ。流木のあいだに入ってしまうと、おれはカヌーの底に横になって、流れるままにさせた。
横になったまま、ゆっくりと休み、パイプをふかしながら、大空をながめると、雲ひとつなかった。月光のなかで仰向けに寝ていると、空はすごく深く見えるものだ。おれは今まで知らなかった。そして、こういう夜は、水の上でどんなに遠くまで音を聞くことができるだろうか! 渡し場でみんなの話している声を聞いた。みんなの言っているのを一語のこらず聞いた。
一人の男は、日が長くなり、夜が短くなってきた、と言った。もう一人は、今夜は短い夜だとは思わない、と言って……二人は笑った。同じ言葉をもう一度くりかえして、二人はまた笑った。それから別の男を起こして、同じことを言って笑ったが、相手は笑わなかった。その男は何か景気のいいことをぽんぽん言って、ほっといてくれと言った。一番目の男は、この酒落《しゃれ》をうちの婆さんに話してやろう……うまい酒落だと思うだろう。だが、おれが若いときにしゃべったのに比べりゃたいしたもんじゃない、と言った。ひとりの男が、もう三時に近い、この上、夜明けまで一週間以上も待たされちゃかなわないな、と言うのが聞こえた。
そのあとは話し声はだんだん遠ざかり、言葉ははっきりしなくなったが、もぐもぐ言うのと、ときどきの笑い声は聞こえたが、ずいぶん遠くのように思われた。
おれはもう渡し場からずっと下に来ていた。起きあがると、二マイル半ほど下流の方に、ジャクソン島があった。うっそうと木がしげって、まるで明りを消した汽船のように、大きく黒々とどっしりと、川の真中に立っていた。島の先端には砂州《さす》の徴候はひとつもなかった……今はみんな水の下にあるのだ。
島へつくのに時間は長くかからなかった。先端を、流れが早かったので、すごい勢いで通りすぎ、やがて流れの死んだところまで来て、イリノイ州側の岸に上陸した。よく知っている岸の、深いくぼみにカヌーを入れたが、そこへ入るのに柳の枝をかきわけねばならなかった。しっかりつなげば、外からはだれの目にもカヌーは見えないだろう。
おれは島の先端まで行って、そこにある丸太に腰をかけ、大きな川と黒い流木をながめ、三つ四つ明りのまたたいている三マイル先の町をながめやった。と、化《ば》け物のように大きな材木の筏《いかだ》がひとつ、一マイルほど上流にあって、真中にカンテラをつけてくだって来た。のろのろとくだってくるのを見ているうちに、おれの立っている場所とほとんど並行の位置になったとき、一人の男が、
「そら、とものオールを入れろ! 船首を右舷《うげん》に向けろ!」と言っているのが聞こえた。まるでその男がおれのすぐそばにいるかのようにはっきりしていた。
空が今はすこし白っぽくなって来た。
そこでおれは森の中へ入り、朝飯前にひと眠りするために横になった。
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八 森の中で眠る
目をさましたとき、日はもうとても高くなっていて、おれは八時すぎだろうと判断した。涼しい木陰の草の中に横になって、いろいろなことを考えながらくつろいだが、どちらかといえば気楽な満足した気持ちだった。一つ二つの穴から太陽を見ることができたが、まわりはだいたい大きな木ばかりで、その中は陰気だった。光が木の葉を洩《も》れてくる地面はまだらになっていて、そのまだらの場所がすこしちらちら動くのは、上の方に微風のあることを示していた。二、三匹のリスが大枝にすわって、とても親しそうにおれにしゃべっていた。
おれはものすごくけだるくて、らくらくした気分で……とても起きあがって朝飯をつくる気にならなかった。そこで、またうとうとしていると、川のずっと上流の方で「ドーン」という底力のある音を聞いたように思った。おれは体を起こし、肘《ひじ》をついて、耳をすました。まもなくまた聞こえた。跳び起きて、木の葉の穴のところをのぞくと、はるか上流の……渡し場と並んでいるあたりの……水面にひとかたまりの煙が見えた。そして渡し船が、人をいっぱいのせて、くだってきた。どうなっているのか、おれにはわかった。
「ドーン!」
渡し船の舷側から白い雲がパッと出るのが見える。ね、みんなはおれの死体を水面に浮きあがらそうとして、水の上に大砲を発射していたのだ。
おれはかなり腹がへっていたが、みんなに煙が見えるかもしれないので、火を起こすわけにいかなかった。そこでそこにすわったまま、大砲の煙をながめ、ドーンという音に耳をすました。あそこは川幅は一マイルで、夏の朝はいつもきれいに見える……そこで、みんながおれの死体をさがしているのをたっぷりとおもしろくながめていたが、欲をいえば、ひと口食べるものが欲しかった。さて、ここでおれがハタと思いついたのは、連中はいつもパンの固《かた》まりの中に水銀をいれて流すということだった。パンは水死体のところへ行ってピタリと止まるというのだ。そうだ、見張っていて、もしそいつがおれの方へ流れてきたら、ひとつ腕前を見せてやろう、とおれは自分に言いきかせた。
おれは島のイリノイ側に位置を変えて、どんな運がつかめるか見ることにしたが、失望しなかった。大きな二つ重ねのパンが流れてきて、長い棒でほとんど手につかまえられそうになったが、足がすべって、パンはまた遠くへ流れて行ってしまった。もちろんおれは流れが岸にいちばん近く来るところにいた……そうなることは十分承知していたのだ。
しかし、やがてまた別のパンがやってきて、今度はおれが勝った。おれは栓《せん》をぬいてわずかながらの水銀を振って出すと、ガブリと噛みついた。
それは、「パン屋のパン」……旦那衆《だんなしゅう》のパン……で下等のとうもろこしパンのたぐいではなかった。
おれは葉の茂みのなかにいい場所をとり、丸太に腰をかけながら、パンをムシャムシャ食べ、渡し船をながめて、おおいに満足だった。そのうちにあることを思いついた。後家さんか牧師さんかだれかが、このパンがおれを見つけることを祈ったので、このとおりパンはやってきておれを見つけたのではないだろうか。だから祈りというようなことにも、何か効《き》き目のあるのは確かなんだ。つまり、後家さんや牧師さんのような人間が祈れば、何か効き目はあるが、おれではだめなんだ。ちゃんとした人間だけにしか効き目がないんだと思った。
おれはパイプに火をつけて、長い時間かけてたっぷりと吸い、見張りをつづけた。渡し船は流れにのって流れてくるので、パンがやってきたところへ来るにきまっているから、近くまで来れば、だれが乗っているか見る機会があるだろうと思った。船がかなりおれの方へ近よって来たとき、おれはパイプを消して、パンを拾いあげた場所へ行き、岸べの小さい空き地にある丸太のうしろへ横になった。丸太の二股《ふたまた》になっているところからのぞいて見ることができた。
やがて船が来た。すぐそばまで来たので、板を渡せば、歩いて上陸できそうなくらいだった。ほとんどだれもかれも乗っていた。お父《とう》、サッチャー判事、ベッシー・サッチャー、ジョン・ハーパー、トム・ソーヤー、トムの年とったポリー伯母さん、シッドとメアリー、その他大勢いた。口をそろえて殺人のことを話していたが、船乗りがさえぎって言った。
「さあ、よく見てください。流れはここで一番近よるんで、ことによると死体は岸へ打ちあげられて、水ぎわのやぶにひっかかっているかもしれません。とにかく、そうであればよいと思います」
おれはそうは思わなかった。みんなはひとかたまりになって、ほとんどおれの顔のまん前で、手すりから体をのりだし、一生けんめい注意しながら、じっとしていた。おれにはみんなが最高に見えたが、みんなにはおれが見えなかった。やがて船長がどなった。
「どいてください!」
そして大砲がおれのまん前でどえらい音を立てたので、その音でおれはつんぼになり、煙でめくらになり、もう一生の終わりだなと判断した。もし実弾《じつだん》でもこめていたら、みんなの探し求めていた死体を見つけたであろうと思った。ところが、ありがたいことに、おれはけがひとつしなかったことがわかった。船は流れて行って、島の肩をまわって見えなくなった。ときどき、ドーン、ドーンという音がしたが、だんだん遠くなり、やがて一時間もたつと、もう聞こえなくなった。島は三マイルの長さで、連中は島の末端まで行ったら、あきらめるものと判断していた。だが、まだあきらめたわけではなかった。島の末端をまわってくると、今度はミズーリ州側の水路を、蒸気の力でのぼって来て、進行しながら、またときおりドーンとやった。おれも島のそっち側へ行って見張りをした。島の先端と並行する位置まで来ると、連中は大砲を射つのをやめて、ミズーリ側の岸につくと、町へ帰って行った。
おれはもう大丈夫であることがわかった。あれ以外だれもおれを捜しにくるものはいないだろう。おれはカヌーから手回り品を持ちだして、しけった森のなかにすてきなキャンプをつくった。毛布でテントのようなものをつくり、その下へ品物を入れて、雨で濡《ぬ》れないようにした。ナマズを一匹つかまえ、鋸《のこぎり》でぶった切った。日の暮れるころ、焚火《たきび》をはじめて晩飯を食った。それから朝飯のための魚をすこし取るために釣糸を仕かけた。
暗くなると、焚火のそばに腰をおろしてタバコを吸ったが、かなり満足した気持ちだった。だがやがて何となく寂しくなってきたので、川岸へ行って岸にぶつかる流れの音をじっと聞いたり、星や、流れてくる流木や筏《いかだ》を数えたりしたが、それから寝た。寂しいときはこれ以上にぐあいのいい時間のつぶしようはない。いつまでも寂しがってばかりいられない。すぐ忘れてしまうものだ。
こうして三日三晩たった。何の変化もなく……まったく同じであった。だが、あくる日、おれは島を末端まで探険してまわった。おれはこの島の主人公で、いわば島全部がおれのものなのだ。だから島のいっさいを知りたかったのだが、おもに時間つぶしをしたかったのだ。熟したすばらしいイチゴがたくさんあったし、緑いろの夏ブドウと緑いろのキイチゴ、また緑いろの黒イチゴも顔を見せかけていた。これもそのうちに役に立つようになってくれるだろう、とおれは判断した。
さて、おれは深い森をぶらぶらしているうちに、島の末端から遠くないところに来たなと思った。鉄砲は持ってきたが、まだ何にも射っていなかった。護身《ごしん》用で、家の近くで何か獲物を殺そうと思っていた。このとき、おれはあやうく相当大きな蛇をふんづけそうになった。蛇は草と花のあいだをスルスルと逃げて行くので、おれはそれを射とうとして、あとを追っかけた。早足で駆けているうちに、とつぜん、まだ煙を出している焚火《たきび》の灰にとびこんでしまった。
おれの心臓は肺のなかでとびあがった。その先はもう何も見ようとはしないで、鉄砲の打ち金を倒して、つま先立ちでできるだけ早くこそこそと引き返した。ときどき、しげった葉のあいだで一瞬立ちどまっては、耳をすましたが、自分の息づかいばかりがはげしく、ほかの音は何にも聞こえなかった。もうちょっとばかり先へ行っては、また耳をすます、という動作をかさねた。木の切株を見れば、人間かと思い、棒切れをふみつけてそれを折れば、まるで人がおれの息の根をまっ二《ぷた》つに切って、その半分しか、しかもすくないほうの半分しかくれないような気持ちだった。
キャンプに帰ったときは、つけ焼き刃《ば》もどこへやら、肝っ玉もちぢんでしまっていたが、今はぐずぐずしているときではない、と自分に言い聞かせた。そこで手回り品をまたカヌーにしまいこんで見えないようにし、焚火も消して灰をまき散らし、去年の古いキャンプのように見せかけてから、木にのぼった。
木の上に二時間いたと思うが、何にも見えなかったし、何《なん》にも聞こえなかった……ただ無数のものを聞いたり見たりしたと思っただけだった。いやまったく、永久に木の上にいるわけにもいかないので、とうとう降りたが、相変わらず茂った森のなかにいて、しじゅう見張っていた。食べることのできたのはイチゴと朝飯の残り物だけだった。
夜になったときは、相当腹がすいていた。そこですっかり暗くなってから、月の出る前にこっそり岸から出て、イリノイ側の岸まで……四分の一マイルほど……漕いで行った。森へ行って晩飯を料理し、今夜はここにいようとほぼ決心しかけたとき、パカッ、パカッという音が聞こえ、馬が来るなと自分に言いきかせていると、つぎに人の声が聞こえた。
おれは何もかもできるだけ早くカヌーにしまいこんでから、森の中へ這って行って、何が見つけられるか見ようとした。あまり遠くまで行かないうちに、一人の男のこういうのが聞こえた。
「いい場所が見つかったら、ここでキャンプしたほうがいいな。馬もへたばりかけている。そこらを捜そう」
おれは待たないで、カヌーを押しだすと、ゆうゆうと櫂《かい》を漕いで離れた。元の場所につないで、カヌーのなかで寝ようと思った。
あんまり眠らなかった。何となく、考えごとで眠れなかった。そして目をさますたびに、だれかに首をつかまれているように思った。だから眠りもあまり役に立たなかった。やがて、おれは自分に言い聞かせた。こんなふうでは生きていけない、この島にだれかおれといっしょにいるやつを見つけてやろう、絶対見つけださずにおくものか。
すると、たちまち気分がよくなった。
そこでおれは櫂《かい》を取って、岸から一、二歩のところまで漕ぎだし、カヌーを影のなかにいれた。月がかがやいていて、影のほかはほとんど昼のように明るかった。おれは一時間近くも探してまわった。あらゆるものが岩のように静かで、ぐっすり眠りこんでいた。
このころおれはほとんど島の末端まで来ていた。さざ波をたてるような涼しい微風がそよそよと吹きはじめ、夜がもう終わりかけたことを語っているかのようであった。おれは櫂《かい》でカヌーの向きを変え、鼻先を岸につけた。それから鉄砲を持って、そっと森の端へ入りこんだ。おれはそこの丸太に腰かけて、木の葉がくれに外を見た。月が夜の見張りをおわり、暗闇が川をつつみはじめるのがわかった。
だがまもなく梢《こずえ》に青白い縞《しま》が見え、やがて朝のくることを知った。そこで鉄砲を持って忍び足でさっき焚火にぶつかった方へ向かったが、一、二分おきに立ちどまっては聞き耳を立てた。しかし、何となく運に見放されたのか、その場所が見つかりそうにもなかった。だが、やがて、まちがいなく、木立ちを通して向こうに火の光がちらりと見えた。おれは用心しながらゆっくりとそこへ向かって行った。
やがてそばへ近よってよく見ると、地面に一人の男が寝ていた。おれはほとんど目がくらむほど驚いた。男は毛布で頭をくるみ、その頭がほとんど火の中に入りそうになっていた。おれは男から六フィートばかり離れたやぶの茂みのうしろに腰をおろして、男に目をじっと注いでいた。もう鼠色《ねずみいろ》の夜明けになってきた。まもなく男はあくびをし、体をのばして、毛布をはらいのけた。ミス・ワトソンのジムではないか!
ジムを見ておれは本当にうれしかった。おれは、
「おい、ジム」と言って、とびだした。
ジムは跳びあがり、気ちがいのように目を丸くしておれを見た。それからぺたりと膝をつき、手をあわせて言った。
「おらに害をしねえでくれ……お願いだ! おら幽霊にひとつも害をしたこたあねえ。おら、いつだって死んだ人が好きで、できるかぎりのこたあしてやった。おめえさま、もう一度、川へ行きなせえ、そこがおめえさまの場所だから。そしていつも仲よしだったこのジムじじいに何にもしねえでくんなせえ」
さて、おれが死んではいないんだということをジムにわからせるのに、そう長くはかからなかった。おれはジムに会ってとてもうれしかった。もう寂しくはなかった。おれはジムがおれの居所《いどころ》を人に言うなんてこと心配していないと言った。おれはしゃべりまくったが、ジムはただすわって、おれの顔を見ているだけで、ひとことも言わなかった。それからおれは言った。
「すっかり夜があけた。朝飯にしよう。おめえの焚火をよく燃《も》やしてくれ」
「イチゴやこんなもんを料理すんのに、焚火をおこしたりして何の役に立つだ? でもおめえさま、鉄砲もってるでねえか? そんでは、イチゴよりいいもんも手に入るわけだな」
「イチゴやこんなものって」とおれは言った、「そんなもの食って生きてたのか?」
「ほかに何にも手に入らねえだよ」
「驚いたね。この島に来てどれくらいになるかね、ジム」
「おめえさまが殺されたその晩、来ましたんよ」
「えっ、それからずっとかい?」
「へえ、そんとおりで」
「で、そんな屑《くず》みてえなもの以外は食べものがなかったのかい?」
「へえ、なかったんで……ほかには何にも」
「じゃあ、飢《う》え死にしそうだろうな?」
「馬一匹だって食えると思いまさ。きっと食えると思いまさ。おめえさまはこの島へ来てどれくれえになりなさるかの?」
「おれが殺された晩以来だ」
「いやちがう! ほんとに、なに食って生きて来ただ! けんど、おめえさま鉄砲を持っているだ。ああ、そうだ、鉄砲を持っているだ。こりゃいい。さあ、おめえさま、何か殺してくんなさい。おら火をおこすだから」
そこでおれたちはカヌーのあるところへ行って、ジムが木立ちのあいだの空地で火をおこしているあいだに、おれはひきわりとベーコンとコーヒー、コーヒーわかしとフライパン、砂糖とブリキのコップを取ってきたが、ニガーはこれが全部魔法によってなされたと思ったのか、だいぶびっくりしてしまった。
おれはかなり大きなナマズをつかまえ、ジムはそれを自分のナイフで仕上げて、油であげた。
朝飯ができると、おれたちは草の上にだらしなくすわって、煙のでる熱いのを食った。ジムは、ほとんど飢え死にしそうだったので、がむしゃらにつめこんだ。やがてかなり一杯お腹につまってから、おれたちは怠《なま》けてごろごろした。
やがてジムが言った。
「だけんど、ハック、あの小屋んなかで殺されたんが、おめえさまでねえとすると、だれなんだかね?」
そこでおれはいっさいを話してやるとジムは、手ぎわがいい、トム・ソーヤーだっておれの考えた計画よりうまい計画は考えられなかったであろう、と言った。
「おめえはどうしてここにいるんだ、ジム、どうしてここへ来たんだ?」
ジムはとても不安そうな顔になって、しばらく何にも言わなかった。やがて、
「話さねえほうがいいかもしれねえ」
「なんで、ジム?」
「そりゃ、いろんなわけがあるんでよ。けんど、おめえさまに話しても、おらのことを密告なんかしねえだろうね、ハック」
「絶対にするもんか、ジム」
「じゃ、おめえさまを信じるだ、ハック。おら……おらは逃げてきたんよ」
「ジム!」
「けんど、いいかね、おめえさまは密告はしねえと言っただ……密告はしねえと言ったこと、わかっているねえ、ハック」
「そりゃ、言ったよ。密告はしないと言った。約束はまもるよ。誓ってそうする。みんながおれのことを下劣な奴隷廃止論者と呼ぶだろうし、おれが口をつぐんでいるといって軽蔑するだろうが……そんなこたあかまわない。おれは密告なんかしねえし、とにかくあそこへはもどらないんだから。だから、さあ、全部話してくれ」
「じゃ、いいね、こういうわけなんよ。奥さん……ミス・ワトソンのことだ……奥さんはしょっちゅうおらを口やかましく叱んなさるし、とてもらんぼうな仕打ちをなさるが、おらをオーリアンズ〔アメリカの南部最大の綿花産地で、奴隷売買も最も盛んなところ〕に売るようなこたあ決してねえと、いつも言ってらしただ。だけんど、このごろ黒人買いがここらに来ていることに気がついて、おら心配になりだしたんよ。そんで、ある晩、かなり遅くなって、戸のところへこっそり行ったら、戸がよくしまっていねえで、奥さんが後家さんに、おらをオーリアンズに売ってしまうつもりだちゅうことを話しているのを聞いてしまっただ。奥さんもそうしたかねえが、おらを売れば八百ドルになるし、大金だもんで、目がくらんでしまったんよね。後家さんは奥さんに売るのはやめると言わせようとなさっただが、おら待てねえので、そのあとは聞かなかったんよ。おら大急ぎで逃げだしたんよ、ほんとに。
おら逃げだして、丘を下まで走って、町の上流のどこか川岸で小舟を盗もうと思ったんだが、まだ起きている人がいたもんで、みんながいなくなるまで待とうと、川岸のがたがたの桶屋《おけや》の古い店にかくれた。そんでそこにひと晩じゅういたんよ。しょっちゅうだれかがあたりにいたもんね。
朝の六時んころになると、小舟が通りはじめ、八時か九時ごろ通っていく小舟という小舟がみんな、おめえさまのとっさんが町へ来て、おめえさまが殺されたちゅうことを話してんのよ。一番あとのほうの小舟にはみんな、人殺しの現場を見に行こうちゅう女や男の人でいっぺいだっただ。ときどきは、川岸にとまってひと休みしてから、また川をわたって行ったが、その話でおら、人殺しのこと全部知るようになったんよ。
おら、おめえさまが殺されたちゅうのを聞いて、すごく悲しかっただが、今はもう悲しかねえ。
おら、一日じゅうかんな屑《くず》の下にかくれていただ。腹はすいたが、心配はしていなかっただ。奥さんも後家さんも朝飯がすむとすぐ野外礼拝に出かけていって、一日じゅう帰って来なさらねえことはわかっていたし、婆《ばあ》さまのほうはおらが夜が明けると家畜をつれて出ることを知っていなさるから、屋敷のまわりにおらの姿を見ようとも思わねえし、夜暗くなるまでおらのいねえことに気づきなさらねえことをおら知っていただ。ほかの召使いどもだって、おらのいねえことにゃ気づかねえ。婆さま方が出かけるが早えか、すぐとびだして休みをとってしまうからだよ。
ところで、暗くなると、おらは川っぷちの道に出て、上《かみ》の方へ二マイルかもっと、家のねえところまで行った。これからどうするか、おらはもう決心していた。もしおらがどこまでも歩いて逃げるとすると、犬が跡をつけてくる。もし小舟を盗んで川をわたれば、小舟のなくなったことに気がついて、反対側のどこら辺に上陸したかがわかるし、どこでおらの足跡が見つかるかもわかってしまう。そんで、おらのねらうのは筏《いかだ》だ、と自分に言っただ。筏なら跡を残さねえ。
やがておらは明りが川の出っ鼻《ぱな》をまわって来るのが見えたんで、川へとびこんで、一本の丸太につかまりながら、川の半分以上のところまで泳いで行き、流木の中へ入りこんで、頭を低くし、筏《いかだ》がやって来るまで流れにさからって泳いでいた。それから筏《いかだ》の「とも」まで泳いで行ってそれにつかまった。空がくもってきて、しばらくのあいだかなり暗くなったので、おら這いあがって板材の上で横になった。筏《いかだ》の連中はみんなカンテラのある向こうの真中にいた。川は水かさが増して、流れは速かった。だから朝の四時ごろには二十五マイル下流にいるだろうと思った。そんでおら、川ん中へ入って、夜明けまでに岸へ泳いでって、イリノイ側の森へ行こうと思ったんよ。
だけんど、おら運がよくなかっただ。島の先端あたりまで来たとき、ひとりの男がカンテラを持って、「とも」の方へやって来ただ。待っててもどうしようもないことがわかったんで、おらは川へすべりこんで、岸へ向かって泳いだ。そうだね、どこへでも上陸できると思ってたんだが、そうはいかねえ……岸が切り立ちすぎてたんでね。島の末端あたりまで来て、やっとええ場所が見つかっただ。おら森ん中へ入って、連中があんなふうにカンテラをふりまわしているんなら、もう筏《いかだ》には手を出すめえと思っただ。おら帽子ん中にパイプと固形タバコのかたまりとマッチを入れといて、濡れなかったんで、大助かりだっただ」
「じゃ、おめえはずっと肉もパンも食ってなかったのか? なんで泥がめをつかまえなかったのかね?」
「どうしてつかまえるんかね? そっとそばへ寄って行ってつかまえることもできねえし、どんなふうに石をぶっつけるだね? 夜中にどうしてそんなことができるんかね? おらは昼間は川岸に姿を見せねえようにしてんのに」
「ああ、そりゃそうだ。おめえは、もちろん、ずっと森の中にいなければいけなかったからな。おめえ、大砲を射つ音を聞いたかい?」
「ああ、聞いたとも。おめえさまを捜しているってことはわかったんよ。ここを通っていくのを見ていた……やぶのあいだから見張っていたんで」
ひな鳥が何羽か、一度に一ヤードか二ヤード飛んでは止まりながら、やってきた。これは雨のふる前兆だとジムは言った。鶏《にわとり》のひながそんな飛び方をすると前兆になるんだから、ほかのひな鳥がやっても同じだろうと思うと言った。おれはそのうちの何羽かつかまえようとしたが、ジムはそうさせまいとした。そんなことしたら死んでしまうと言った。あるときジムのおやじが大病で寝ていて、だれかが鳥を一羽つかまえた、おばあがおやじは死ぬだろうよと言って、そのとおりおやじは死んだ、とジムは言った。
またジムは、昼飯に料理しようと思うものを数《かぞ》えちゃいけない、不運がやってくるから、と言った。日が暮れてからテーブル掛けをかけても同じだ。またある人が蜜蜂の巣を持っていて、その人が死んだ場合、あくる朝の夜明け前に蜜蜂どもにそのことを話してやらねばならない、さもないと蜜蜂どもはみんな弱って仕事をやめ、死んでしまうとも言った。ジムの言葉によれば、蜜蜂は馬鹿は刺さないそうだが、おれは信用しない。なぜって、おれは何度も自分にためしてみたが、蜂はおれを刺そうとしなかったからだ。
今までおれはこういう話はいくつか聞いていたが、全部ではなかった。ジムはあらゆる種類の前兆を知っていた。ほとんど何もかも知っているとジムは言った。おれはジムに、前兆はみんな不運の前兆ばかりのようだが、何か幸運の前兆はないのか、と聞いた。ジムが言うには、「すごくすくないね……しかも人間の役にはたたねえだ。幸運がくるちゅうときに、何を知りたいんかね? 寄せつけたくないとでもいうんかね?」
そしてまた言った。「おめえさまが毛深い腕と毛深い胸を持っていたら、金持ちになる前兆だ。まったく、こういう前兆は、ずっと先のことだから、値打ちがある。おめえさま、はじめのうちは長いこと貧乏でいなくちゃならねえかもしれねえし、もしこの前兆でやがて金持ちになれるんだということがわからねえならば、がっかりして自殺するかもしれねえからな」
「おめえは毛深い腕と毛深い胸を持っているかい、ジム?」
「そんな質問して何の役に立つだ? ちゃあんとあることが見えねえのかね?」
「じゃ、おめえは金持ちか?」
「いや、だが元は金持ちだった。これからまた金持ちになる。元は十四ドル持ってたが、投機に手を出して、パーになってしまったんよ」
「何に投機したのかい、ジム?」
「そうだね、まず株《かぶ》をはじめましたんよ」
「どんな株だい?」
「いや、生きている株でさ。わかるでしょ、牛でさ。おら雌牛《めうし》に十ドルはりこんだが、もう株に金かけるのはやめまさあ。雌牛め、お陀仏《だぶつ》になって、おらの手に余ってしまったんよ」
「それじゃ、十ドル損したんだね」
「いや、全部損したわけじゃねえだ。そのうちの九ドルばかりだね。おら、皮と脂《あぶら》を一ドル十セントに売ったんよ」
「五ドル十セントのこったね。また投機をやったかね?」
「やっただ。おめえさま、年よりのブラディッシさまのものだった一本足のニガーを知っているだろう? あいつが銀行をつくってよ、一ドル入れるものは、その年の終わりにゃもう四ドルもらえるというのよ。そんでよ、ニガーたちはみんな入れたんだが、やつらにはあんまり金がないと来ている。大金を持ってるのはおらだけだからな。そんで、おらは四ドル以上出せとがんばって、もし出さねえんなら、おら自分で銀行はじめると言った。そんで、もちろん、そのニガーはおらに同じ商売をやらせたくねえ、二つの銀行でやるほどの商売はねえからと言って、もしおらが五ドル入れりゃ年末には三十五ドル払うと言ったんよ。
そんで、おら、そうしたんよ。おらはその三十五ドルをまたすぐさま投資して、回転させるつもりだったんよ。ボブという名前のニガーがいて、材木舟をひろったんだが、主人はそれを知らねえでいた。そんでおらはボブからその舟を買い、年末になったら三十五ドルわたすと言っといたんだが、だれかがその晩平底舟を盗んだし、一本足のニガーは銀行が破産したといって来た。そんで、おらたちの中でお金をもらったのは一人もいねえんだよ」
「あの十セントはどうした、ジム?」
「ああ、そいつも使ってしまうつもりだったんだが、おら夢を見てよ、その夢がおらにバラムという名前のニガーに……みんなはちぢめてバラムのろばと呼んでいたが、大馬鹿の一人よ……これに十セントをやれと教えたんよ。だが、みんなはバラムは運がいいというけんど、おらは運がよくないことを知っているんよ。夢は、バラムに十セント投資させろ、やつはおめえのために大儲《おおもう》けをしてくれる、と言ってくれたんだが、さて、バラムのやつ、お金を受けとって教会に行ったら、牧師さんが、貧乏人にお金をやるものはだれでも神さまにお金を貸したことになり、お金はきっと百倍になってもどってくる、と話していなさるのを聞いたんで、バラムはその十セントを貧乏人にくれてやって、あとがどうなるか心待ちに待っているんよ」
「で、どうなったかい、ジム?」
「どうにもならねえのよ。おらにはその金をどうしたって回収する方法はねえし、バラムにもできっこねえ。おらもう、担保《たんぽ》をこの目で見ねえかぎり、金は貸してやらねえ。お金はきっと百倍になってもどってくる、と牧師さんは言ったんだとよ! もしあの十セントがもどってきたら、こりゃ公正だと呼びたくなるし、そういう機会のきたことをよろこびたいね」
「だけど、とにかく、大丈夫だよ、ジム、いつかおめえはまた金持ちになるにきまってるんだから」
「そうでさ……それに今だって、考えてみりゃ、おら金持ちだよ。おら、このおらが持っているんよ、八百ドルの値打ちがあるんだからね。その金を持ってみてえ、それ以上はのぞまねえす」
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九 洞穴
おれは探険していたとき発見した島のちょうど真中あたりにある場所へ行ってみたいと思った。そこでおれたちは出かけ、まもなくそこへついた。島は長さが三マイル、幅が四分の一マイルしかなかったからだ。
この場所は、高さ四十フィートばかりの、かなり長いけわしい丘、または背といってもいいようなものであった。てっぺんまで行くのに苦労した。山腹がけわしくて、やぶの茂みがひどかったからだ。おれたちはあたりを全部歩いたりのぼったりしたが、やがてイリノイに向かった側のほぼてっぺんに近い岩のなかに、大きな立派な洞穴《ほらあな》を見つけた。洞穴は部屋を二つか三ついっしょにしたくらいの大きさで、ジムは中でまっすぐ立つことができた。中は涼しかった。ジムは、すぐさま、手回り品をここに入れようと言ったが、おれは、しょっちゅうこんなところをのぼったりくだったりしたくないと言った。
ジムが言うには、もしカヌーをうまい場所にかくし、手回り品を全部洞穴にいれておけば、だれかが島に来ても、おれたちはそこへ飛んで行くことができるから、犬がいなければ見つかりっこない。それに、小さい鳥どもは雨になると言っているんで、品物が濡《ぬ》れてもいいのか、と言った。
そこでおれたちはカヌーのところまでもどって、洞穴と並行するところまで漕いで来て、手回り品を全部そこへ運びあげた。それからすぐそばのしげった柳のあいだに、カヌーをかくす場所を見つけた。釣糸から魚を何匹かはずして、また糸を仕かけ、昼飯の仕度をはじめた。
洞穴の入口は大樽をころがしこめるほど大きく、入口の片側は床《ゆか》がすこしばかり出っぱって平らになっていて、火を起こすのにぐあいのよい場所になっていた。だからおれたちはそこに火を起こして昼飯を料理した。
おれたちは毛布をじゅうたんがわりに内側に敷いて、そこで昼飯を食った。ほかの品物は全部使いやすいように洞穴の奥においた。まもなく暗くなって、雷《かみなり》が鳴り、稲妻が光りはじめた。だから鳥どもは正しかったのだ。たちまち雨が降りはじめ、それも気ちがいみたいに降って、風がこんなに吹くのをおれは見たことがない。これはまぎれもない夏の嵐のひとつなのだ。
すごく暗くなって、外はすべて青黒く見えて美しかった。雨が棒を打ちつけるようにはげしく降って、すこし離れたところの木立ちなどぼんやりとクモの巣のように見えた。ここへ一陣の風が吹いてきて、木々をしならせ、青白い葉の裏側を返したが、そのあとにつづく完全な引き裂くような突風は、枝という枝にただもう狂気のように両腕を打ち振らせた。つぎに、最高に青く黒くなったと思った瞬間……ピカッ! 天の栄光のように明るくなって、前に見ることのできたよりも数百ヤード向こうに、木々の梢《こずえ》が遠くの嵐のなかで頭を下に突っこむのがちらと見えた。と、たちまちまた原罪のように暗くなり、今度は雷ががらがら、ぴしゃっとすさまじい音をぶっ放してから、大空を世界の裏側の方へごろごろがらがらところがって行くのが聞こえたが、まるで空樽《あきだる》を階段からころがり落とすみたいで、階段が長いので、ものすごくはねあがるのだ。
「ジム、これはすてきだ」とおれは言った。「ここ以外のところにはいたくないよ。もうひとつ魚の厚切れと熱いとうもろこしパンをおれにくれ」
「まったくのところ、もしジムがいなかったら、おめえさまはここにいなかったんよ。下の森んなかにいて、昼飯もなしで、溺《おぼ》れかけていただね、坊っちゃん。ひよこは雨の降るときを知っとるし、小鳥だってそうよ、坊や」
川は十日か十二日のあいだ、増水また増水で、最後には岸を越した。島の低い場所やイリノイ側のどんづまりのところは、水は三フィートか四フィートの深さだった。そちら側は数マイルの幅になったが、ミズーリ側は前と同じ距離……半マイルで、ミズーリの岸が高い切り立ったような壁になっていたからだった。
昼間おれたちは島じゅうをカヌーで漕いでまわった。太陽が外では燃えるように照りつけていても、深い森の中はすごく涼しく、影になっていた。
おれたちは木立ちのあいだをぐるぐる出たり入ったりした。ときにはツタがあまりに茂って垂れさがっているために、引き返して別の道を行かねばならないときもあった。まったくのところ、どの折れた古木にも、兎《うさぎ》や蛇やそういうものが見られたが、島が一日か二日水びたしになると、こういう動物どもは空腹のために、すっかりおとなしくなってしまって、そばまで漕いで行って、そうしたければ手でさわってやることもできた。だが蛇と亀《かめ》は駄目で……水の中にすべりこんだ。
おれたちの洞穴のある丘の背は、こういう動物でいっぱいだった。欲しければいくらでも愛がん動物を持つことができただろう。
ある晩、おれたちは材木筏《ざいもくいかだ》の小さい一部……上等の松材……をひろった。幅十二フィート、長さ十五、六フィートくらいで、上の部分が六インチか七インチ水の上に出て、頑丈《がんじょう》な平らな床になっていた。昼間ときどき板材の流れていくのを見たが、放っといた。昼間は姿を見せないことにしていた。
別の晩、夜の明けがた前に、島の先端に行ったとき、西側に、木造家屋が流れてきた。二階家で、かなり傾いていて、おれたちはカヌーで漕いで行って、それにあがった……二階の窓から入りこんだ。だがまだ暗くてよく見えないので、カヌーをつなぎ、中にすわって夜明けを待った。
島の末端に来る前に、光がさしはじめた。そこでおれたちは窓からのぞきこんだ。ベッドと、テーブルと、二脚の古い椅子と、いろんなものが床にちらばっているのがわかった。壁には着物がさがっていた。床の遠くの隅に人間のような形のものが横たわっていた。
そこでジムが言った。
「おい、おめえさま!」
だがそれはじっとして動かなかった。そこでおれがまたどなり、それからジムが言った。
「あの人は、眠ってるんでねえ……死んでるんよ。おめえさまはじっとしていなせえ……おらが見てくっから」
ジムは入って行って、かがみこんで見ていたが、言った。
「こりゃ死人だ。そうだ、まったく。おまけに裸だ。背中を射たれている。死んでから二日か三日たってると思うね。ハック、入ってきなせえ。だが顔見るでねえ……ものすごい顔をしてるから」
おれはその男を全然見なかった。ジムは何か古いボロを男の上にかけたが、そんなことはする必要がなかった。おれは見たくなかったからだ。
古い手垢《てあか》のついたトランプ札がたくさん床にちらばっていた。何本かの古いウイスキー瓶と、黒い布でつくった仮面もふたつあった。また壁にはおよそ無知な文句や絵が、木炭でいちめんに書かれていた。二枚の古いよごれたキャラコの着物と日よけ帽と、女物の下着が数枚、壁にさがっていた。男物の衣類も何枚かあった。おれたちはそれをカヌーに入れた。役に立つことがあるかもしれない。男の子の古いしみだらけの麦わら帽が床にあった。おれはそれももらった。またミルクを入れたことのある瓶《びん》もあって、赤ん坊に吸わせるボロ布の栓《せん》がついていた。おれたちはこれももらいたかったが、こわれていた。
みすぼらしい古い大箱と、蝶番《ちょうつがい》のこわれた古い毛皮張りのかばんがあった。どちらも蓋《ふた》があいていたが、値打ちのあるものはひとつも残っていなかった。
品物のちらばりぐあいから見て、この家の人びとが大急ぎで立ちのいて、品物の多くを運び去る余裕がなかったんだろうと思った。
おれたちは、古いブリキのカンテラと、柄《え》のとれた肉切り包丁、どこの店でも二十五セントはする新品のバーロウ・ナイフ〔十八世紀の製造者から出た名前で、一枚刃のポケット・ナイフ〕、たくさんの脂ろうそく、ブリキのろうそく立て、ひょうたん、ブリキのコップ、寝台からはずした貧乏くさい古い掛けぶとん、針やピンや蜜蝋《みつろう》や、ボタンや糸やその他のがらくたの入った手さげ袋、手斧といくらかの釘《くぎ》、化け物みたいな針が何本もついているおれの小指くらいの太さの釣糸、まるく巻かれた鹿皮、革製の犬の首輪、蹄鉄《ていてつ》、レッテルの全然ない数本の薬瓶を手に入れた。
またちょうど出ようとしたとき、おれはかなり立派な馬櫛《うまぐし》を見つけたし、ジムは貧乏くさい古いヴァイオリンの弓と義足を見つけた。義足の革ひもは切れていたが、それを別にすれば、十分立派な足だった。だがおれには長すぎるし、ジムには短かくて、おれたちはそこらじゅうを探したが、もう片方は見つけられなかった。
そこで全体としてみると、相当の獲物であった。いよいよ立ち去ろうとしたとき、おれたちは島から四分の一マイル下流にいて、かなり明るくなっていたので、おれはジムをカヌーの底に横にならせて、上からふとんをかぶせた。もしすわっていれば、ずいぶん遠くからでもニガーであるということがわかってしまうからだ。おれはイリノイの岸までカヌーを漕いで行ったが、ほとんど半マイルも押し流された。岸の下の静かな水域をゆっくりとのぼったが、何の事故もなく、まただれにも会わなかった。おれたちは無事に帰った。
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十 発見物
朝飯のあとで、おれはあの死人のことを話にだして、どうして殺されたのか推定してみたかったが、ジムはしたがらなかった。そんな真似をしたら不運を招きよせることになるだろうし、それに、あの男が化けてきて崇《たた》りをするかもしれないと言った。埋葬されていない人間は、気持ちよく埋められている人間よりも化けて出てきやすいものだとも言った。かなり理屈が通っているようにきこえたので、おれはそれ以上何も言わなかったが、どうしても事件をじっくりと考え、だれがあの男を射殺したのか、何のためにやったのか、それが知りたくてたまらなかった。
おれたちは取ってきた衣類をひっくり返していると、毛皮製の古外套の裏に銀貨で八ドルが縫いこんであるのを見つけた。ジムはあの家の連中がこの外套を盗んだんだと思う、もしお金がここにあることがわかっていれば、あとに置いて行かなかっただろうと言った。おれは、連中がおまけに殺してしまったんだと思うと言ったが、ジムはそれについて話をしたがらなかった。おれは言った。
「ところで、おめえはこれが不運だと思っているが、おととい丘の背のてっぺんで見つけた蛇のぬけがらをおれが持ってきたとき、おめえは何て言った! 蛇のぬけがらを両手でさわるのは世界最悪の不運だと言ったじゃねえか。さあ、これがおめえの災難だ! おれたちはこういうがらくた全部と、おまけに八ドルまでもかき集めてきた。こんな災難なら毎日だっていいよ、ジム」
「気にしてはだめ、坊や、気にしてはだめ。あんまり生意気な口をきいちゃいけませんぜ。やってくるだよ。気をつけてくだせえよ、やってくるだから」
本当にやって来た。おれたちが話をしたのは火曜日だった。ところで、金曜日の昼飯のあと、丘の背の上手《かみて》の端で草に寝ころんでいたら、タバコが切れてしまった。タバコを取って来ようと洞穴へ行くと、そこにガラガラ蛇がいた。おれはそいつを殺して、ジムの毛布の足もとのところにとぐろを巻かせておいた。とても自然の形で、ジムが見つけたら、おもしろいことになるだろうと思ったのだ。ところが、夜になるころにはおれは蛇のことなどすっかり忘れていて、おれが明りをつけているときにジムが毛布にごろっと横になると、蛇の仲間が来ていて、ジムに咬《か》みついた。
ジムはわめきながら跳びあがった。明りで見えた最初の光景は、毒蛇がとぐろをまいて、もう一度跳びあがろうとしている姿であった。おれはすぐさま棒で蛇をなぐり殺し、ジムはお父《とう》のウイスキー瓶をつかんで、がぶがぶ飲みだした。
ジムははだしで、蛇はちょうど踵《かかと》のところを咬みついた。これはみんなおれが馬鹿のせいで、死んだ蛇をどこに置いておいても、必ずその仲間がやって来て、その辺にとぐろを巻くということを忘れていたためなのだ。ジムはおれに、蛇の頭をちょん切って投げすててくれ、それから胴の皮をはいで、ひと切れ焼いてくれと言った。そのとおりにして、ジムはそれを食って、これで直るのを助けてくれるだろうと言った。また蛇のガラガラ音を出すところを切りとらせて、それを手首に巻きつかせた。これも役に立つのだとジムは言った。それからおれはそっと外へすべり出ると、蛇を両方ともやぶのなかにさっと投げこんだ。これが全部おれのせいだということをジムに知ってもらいたくないからで、できることなら知ってもらいたくなかった。
ジムはウイスキーの瓶をさかんにらっぱ飲みし、ときどき頭が変になってあばれまわったり、わめいたりした。だが正気に返るたびに、また瓶のらっぱ飲みをした。足は相当大きくはれて、脚のほうもはれた。だがやがて酒のきき目があらわれてきたので、大丈夫だとおれは判断した。だがお父のウイスキーよりは蛇に咬みつかれたほうがまだいい。
ジムは四日四晩寝ていた。それから、はれもひき、ジムはまた歩きまわりはじめた。蛇のぬけがらに手をかけた結果がどうなったか、はっきりわかったので、二度とこの手でさわるようなことはすまいと決心した。ジムもこの次はおらを信用なさるだろうと思うと言った。そして蛇の皮にさわるのは大変な不運を招くことになるのだから、たぶんまだこれでおしまいということにはならないだろう、蛇の皮を手に持つくれえなら、新月を左の肩ごしに千回も見たほうがい、と言った。
ところで、新月を左の肩ごしに見るなんてことは、人間にできる行為の中ではこれほど軽そつな馬鹿げた行為はないとおれはいつも考えていたけれども、おれもそのとおりだという気持ちになりかけていた。ハンク・バンカーじいさんがいつかこれをやって自慢したが、二年たたないうちに、じいさんは酔っぱらって弾丸製造塔から落っこちて、まるで金属の箔《はく》みたいに、ぺしゃんこにのびてしまった。人びとはじいさんを棺桶がわりに二枚の納屋《なや》の板戸のあいだに端の方からすべりこませて、埋めたということだが、おれは見ていない。お父がそう話してくれた。だがとにかく、月を馬鹿みたいにそんなふうに見るから、そうなるのだ。
さて、日がたって、川はまた両岸のあいだを流れるようになった。おれたちのまず第一にしたことは、皮をはいだ兎《うさぎ》を例の大きな釣針の一つにつけて、仕度をして、長さ六フィート二インチ、重さ二百ポンド以上もある、人間くらいの大きさのナマズをつかまえたことだった。もちろん、おれたちの手におえる代物《しろもの》ではなく、おれたちをイリノイ州に投げとばしてしまったであろうから、おれたちはただすわって、そいつが溺れ死ぬまで、あばれまわるのを見まもるだけであった。そいつの胃袋の中に真鍮《しんちゅう》のボタン一個と、丸い球と、たくさんのがらくたが見つかった。その球を手斧で割ってみると、中に糸巻があった。ジムは、こんなにぐるぐるかぶせて球にするには、ずいぶん長いあいだ胃袋の中にいれていたんだろう、と言った。
これはミシシッピ川でとれた魚では一番大きなやつだと思う。ジムもこれより大きなのは見たことがないと言った。向こうの村へ持って行ったら、相当の金になっただろう。村の市場ではこういう魚を一ポンドいくらで売っていて、だれもかれもいくらかずつ買う。肉は雪のように白くて、油であげるとうまい。
翌朝、おれは、退屈でおもしろくなくなってきたから、何か血のわくようなことをしたいものだと言った。川をわたって、どんな様子になっているのか見てきたいと思うと言った。ジムもその考えには賛成したが、暗くなってから出かけて、油断してはいけないと言った。それからじっくり考えて、あの古着の何かを着て、女の子の服装はできないだろうかと言った。それもいい考えだった。
そこでおれたちは例のキャラコの着物の一枚を短くし、ズボンを膝《ひざ》までまくりあげて、それを着た。ジムがうしろでホックでとめると、かなりぴったり合った。おれは日よけ帽をかぶり、顎《あご》の下でむすんだので、人がおれの顔をのぞいて見ようとするのは、ストーブの煙突のつなぎ目をのぞくようなものであった。ジムは、昼間でさえも、おれをわかる人は一人もいないだろう、と言った。おれは女の着物を着るコツをおぼえるため、一日じゅう練習したので、やがてかなりうまくなったが、ただジムは、歩き方は女の子みたいじゃない、ズボンのポケットに手をやろうとして着物をまくるのはやめなくちゃいけない、と言った。おれは、その注意にしたがい、いっそうじょうずになった。
暗くなるとすぐ、おれはカヌーでイリノイの岸をのぼって行った。おれはまず川をわたって、渡し場のすこし下から町へ向かったが、流れに流され、町の下の方へ着いてしまった。カヌーをつないで、岸にそって歩きだした。長いあいだ空家になっていた小さな小屋に明りがともっていた。だれがそこに住むようになったのか不思議に思った。忍び足でそばへ寄って、窓からのぞいて見た。四十歳くらいの女がそこにいて、松材のテーブルの上にあるろうそくの光で編物をしていた。知らない顔で、おれの知らない顔がその町へひょっこり出てくるわけはないんだから、これはよその土地の女なのだ。でも、これは運がよい、おれは弱気になっていたのだから。来てしまったのがこわくなっていたし、町の人ならおれの声を知っていて、おれだということがばれるだろう。しかし、この女にしてもこういう小さい町に来て二日もいれば、おれの知りたいことは全部話してくれることができるだろう。
そこでおれは戸をたたき、自分が女の子だということを忘れまいと決心した。
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十一 ハックと女
「お入り」と女が言って、おれは入った。
女は言った。「おかけ」
おれはすわった。女は小さなきらきらする目でおれを上から下まで見まわして、言った。
「名前は何ていうの?」
「セーラ・ウィリアムズ」
「どの辺に住んでいるの? この近所?」
「いいえ、小母さん、七マイル川下のフーカーヴィルです。ずっと歩いてきたんで、すっかりくたびれました」
「おなかもすいてるだろうね。何か見てきてあげようね」
「いいえ、小母さん、おなかはすいてません。とてもすいてしまって、二マイル川下の農家に寄ってしまったんで、もうすいてはいません、こんなに遅くなったのはそのためです。おっ母さんは病気で、お金もなにもないので、アブナー・ムーア伯父《おじ》さんに言いに来たんです。伯父さんは町の上《かみ》のはずれに住んでいると、おっ母さんは言ったけど、わたしここへは来たことないんです。伯父さんを知ってますか?」
「いや、まだだれも知らないのよ。ここで暮らすようになってまだ二週間にしかならないからね。町の上のはずれまで相当あるわよ。今夜はここへ泊まったほうがいいわ。その帽子をお取んなさい」
「いいんです」とおれは言った。「しばらく休んで、行こうと思います。暗くてもこわくありませんから」
女は、あんた一人では行かせたくない、うちの人がやがて一時間半もすればもどってくるから、送らせてやる、と言った。それから女は亭主のことや、川の上流の親類のことや、下流の方の親類のことや、前はどんなに暮らし向きがよかったかということや、どうしてこんなことになったのかわからないが、そのまま楽な暮らしをつづけないでこの町へ来てしまったのは、間違いだったということや……あとからあとからとおしゃべりをしていくので、おれが町の今の様子を知ろうとこの女のところへ来たのは間違いではなかったかと不安になった。
だが、やがて話がお父《とう》と殺人のことになったので、よろこんで女のおしゃべりをもっとつづけさせることにした。女はおれとトム・ソーヤーが六千ドルを見つけたこと(ただし、女はそれを一万ドルにした)や、お父のこと、お父がどんなに悪党であったか、おれもどんなに悪党であったか、などの話をして、さいごにどこでおれが殺されたかのところまで来た。おれは言った。
「だれが殺したんです? この事件のことはフーカーヴィルでもいろいろ聞いたけど、ハック・フィンを殺した犯人がだれであるかは知らないんです」
「そうね、ここにだってだれがハックを殺したかを知りたがっている人たちがずいぶんいると思いますよ。中にはフィンじいさんが自分でやったと思ってる人だっていますよ」
「えっ、本当ですか?」
「ほとんどみんなが、はじめはそう思いましたよ。じいさん、もうすこしでリンチになろうとしたことなど知らんでしょうが。でも、夜にならんうちにみんなの考えは変わって、ジムという逃亡ニガーがやったと判断したのよ」
「なんで、やつが……」
おれはやめた。黙っていたほうがいいと思った。
女はしゃべりつづけて、おれが口をはさんだことは全然気がつかなかった。
「ニガーはハック・フィンが殺されたその晩に逃げだしたのよ。そこで懸賞金がかかっているわ……三百ドルの。フィンじいさんにも懸賞金が出ているわ……二百ドルの。ね、じいさんは人殺しのあった翌朝、町へ来て、そのことを話し、みんなといっしょに渡し船で捜索に出かけ、それがすむとさっさといなくなってしまったのよ。夜にならんうちに、みんなはじいさんをリンチしようと思ったけど、もう本人はいなかったわけよ。ところが、翌日、ニガーのいなくなっていることも知ったのよ。人殺しのあった晩の十時からニガーが見えないことを知ったわけね。
そこで人びとは罪をニガーにきせてしまって、その話で夢中になっているとき、翌日フィンじいさんがもどってきて、泣きわめきながらサッチャー判事のところへ行き、イリノイじゅうそのニガーを捜す金を出せと言うんで、判事もいくらかわたすと、その晩じいさん酔っぱらって、すごい悪党づらのよそ者ふたりと真夜中すぎまでうろつきまわってから、ふたりといっしょに行ってしまった。それきりもどって来ないし、みんなもこの事がすこし静まるまではもどって来るとは期待していないようよ。というのは今ではみんなは、じいさん自分で息子を殺しておきながら、強盗がやったと思わせるように工作して、訴訟で長いこと悩まされずにハックの金をものにしようとしているんだ、と考えているからね。あのじじいならああいうこともしかねない、と人びとは言っているけど、ああ、ほんとにずるい男だ、と思うね。一年間もどって来なければ、大丈夫だろうよ。ほんとに、何の証拠もないし、そのころには何もかも収《おさ》まっていて、じいさんはやすやすとハックの金を受けとるでしょうよ」
「そうね、わたしもそう思うわ。邪魔《じゃま》になるものはひとつもないんですから。あのニガーがやったということは考えなくなったんですか?」
「いや、いや、そうともかぎらないのよ。ニガーがやったと考える人はまだたくさんいるわけだけど、ニガーはまもなくつかまるだろうし、おどせば泥《どろ》もはくでしょうよ」
「じゃ、まださがしてるんですか?」
「まあ、お前さんも無邪気なもんね! 三百ドルというお金が、さあ拾ってください、と毎日ころがっているもんですか! 中にはあのニガーがここから遠くないところにいると考えている人もいるわ。わたしもそのひとりだけど……でもわたしは言いふらしたりはしない。二、三日前、となりの丸太小屋に住んでいる年寄夫婦と話していたとき、みんながジャクソン島と呼んでいる向こうの島へはめったに人が行かないんだ、と二人が偶然に言うのよ。だれも住んでいないんですか? と聞くと、ええ、だれも住んでいない、と言うじゃないの。わたしはそれ以上何も言わなかったけれど、ちょっと考えたのよ。島の先端あたりで、一日か二日前、たしかに煙を見たのよね、だからあそこにニガーが隠れているんじゃないかしら、とにかく、わざわざ捜してみるだけの値打ちはある、と自分に言って聞かせたのよ。それきり煙は見ていないから、もしあのニガーだったら、ことによるともういないかもしれないとは思うけどね。でもうちの人は見に行くのよ……ほかの人といっしょにね。うちの人は川上へ行っていたけど、今日もどって来たので、二時間前もどって来たときすぐに話してやったわ」
おれはすっかり心配になって、じっとしていることができなくなった。両方の手で何かしていなくてはならなくなったので、テーブルから針を取って、それに糸を通しはじめた。手がふるえて、うまくゆかなかった。女がおしゃべりをやめたので、おれは顔をあげた。すると女はとても不思議そうに、すこし笑いながらおれを見ていた。おれは針と糸を下において、話に興味のあるようなふりをした。……また実際に興味があったのだが……そして言った。
「三百ドルは大金ですね。うちのおっ母《か》さんのものになればいいと思います。ご主人は今夜あそこへ行かれるんですか?」
「ああ、そうですよ。うちの人はさっき話していた人といっしょに山の手の方に行きましたよ、ボートを手に入れたり、もう一丁鉄砲を借りられるかどうか、しらべにね。真夜中すぎてから行くんでしょうよ」
「昼間まで待ったら、もっとよく見えるんじゃないでしょうか?」
「そうよ。それにニガーももっとよく見えるんじゃないかしら? 真夜中すぎれば、やっこさんはたぶん眠ってるだろうし、うちの人たちは森のなかをそっと歩きまわって、やっこさんの焚火を、暗いためにもっとうまく……もし焚火をしていればだけど……探《さが》せるでしょうよ」
「それは思いつきませんでした」
女はなおもとても不思議そうな目でおれをながめていたので、おれはすこし落ちつかなかった。まもなく女が言った。
「あんた、お前さんの名前は何ていったかね?」
「メ……メアリ・ウィリアムズです」
どうもさっきはメアリとは言わなかったような気がしたので、おれは顔をあげなかった。セーラと言ったような気がした。そこで、こりゃしまったと思い、ことによると顔に出ていやしないかと心配にもなった。女がもっと何か言ってくれたらいいと思い、女がじっとすわっていればいるほど、おれはますます不安になった。だが、このとき女が言った。
「あんた、はじめ来たとき、セーラだと言ったと思ったけど?」
「あ、そうです、小母《おば》さん、そう言いました。セーラ・メアリ・ウィリアムズです。セーラは洗礼名です。人によってセーラと呼んだり、メアリと呼んだりするんです」
「まあ、そういうわけだったの?」
「そうです、小母さん」
そこで、おれは気分はよくなったが、とにかくここを出て行きたかった。まだ顔はあげられなかった。
さて、女は、世間が不景気で困るとか、貧乏暮らしをしなければならないとか、鼠《ねずみ》どもがまるでこの家の主人ででもあるかのように自由に動きまわっているとか、などいろいろしゃべりだしたので、おれはまた気が楽になった。鼠のことは女の言うとおりだった。隅《すみ》の穴からちょいちょい鼻を出すやつがある。
女は、わたしひとりのときは、何か投げつけるものを手近に置いておかないと、おちおちしておれないと言った。ねじってまるめた鉛《なまり》の棒を見せて、いつもは、たいていこれでうまく当たるんだが、一日か二日前に腕をくじいて、今はちゃんと投げられるかどうかわからないと言った。だが機会をねらっていて、すぐに一匹の鼠めがけてドスンと投げつけたが、大きく的《まと》をはずれてしまって、「痛いっ!」と言った。腕がとても痛かったのだ。
やがて女はおれに、今度顔を出すやつにためしてごらんと言った。おやじさんが帰ってくる前に引きさがりたかったが、もちろんおれはそんな素振《そぶ》りは見せなかった。鉄の棒を取ると、最初に鼻を見せた鼠めがけて投げつけた。鼠めがもしそのままじっとしていたら、ひどくやられたことであろう。女は優秀ねと言い、この次のやつは打ちとめられるだろうと言った。
女は立って行って鉛のかたまりを拾うと、持って帰って、糸の束もひとつ持ってきて、手伝ってくれと言った。おれが両手をさしだすと、女は束を掛けて、また自分たち夫婦のことを話しつづけた。だが急に話をやめて言った。
「鼠から目を離さないように。鉛を手近の膝に置いといたほうがいいですよ」
そう言うと同時に、女は鉛のかたまりをおれの膝に落とした。おれは両膝をぴたっと合わせてそれを受けとめ、女はさらに話しつづけた。だがそれもほんのつかの間であった。
やがて女は糸の束を取ると、おれの顔をまっすぐ見た。だがとても楽しそうで、こう言った。
「さあ、さあ……お前さんの本当の名前は?」
「な、なんですって、小母さん?」
「お前さんの本当の名前は? ビルかい、トムかい、ボブかい?……それとも何というの?」
おれは木の葉のようにふるえたと思う。そしてどうしてよいかわからなかったが、言ってやった。
「どうかわたしみたいなかわいそうな子をからかわないでください、小母さん。もしここにいてじゃまなら、わたしは……」
「いや、そんなことはありませんよ。そのままそこにすわっていなさい。お前さんを痛めつけもしないし、密告なんかもしませんよ。お前さんの秘密を話してごらん、わたしを信用して。秘密はまもりますよ、そのうえ、力になってもやりますよ。うちのおやじさんだって、お前さんの希望なら、力になりますよ。ね、お前さんは逃げだした奉公人というだけじゃないの。そんなことは何でもないことよ。悪いことは何にもないのよ。虐待《ぎゃくたい》されたんで、逃げだそうと決心したんだね。かわいそうに、密告なんかしませんよ。さあ、何もかも話してごらん……いい子だから」
そこで、おれは、これ以上芝居をしても何の役にもたたないだろうから、洗いざらい白状してなにもかも話すけれど、約束を破ってはいけませんよ、と言った。
それから、父も母も死んで、おれは法律にしばられて川から三十マイル奥の田舎《いなか》のけちな年とった農夫のところへやられた。だがこの農夫の待遇があんまりひどいので、もうどうにも辛抱しきれなくなって、農夫が二日ばかり出かけていなくなったのを利用して、農夫の娘の古着を盗んで、飛びだし、三晩かかって三十マイルやって来た。夜、旅をして、昼間はかくれて眠った。家から持ちだしたパンと肉の袋のおかげで道中をしのいで、不自由はなかった。伯父のアブナー・ムーアがきっと面倒を見てくれると思ったので、そのためにこのゴシェンの町へ向かって来たのだ、と言った。
「ゴシェンだって、お前さん? ここはゴシェンじゃないよ。ここはセント・ピーターズバーグよ。ゴシェンはもう十マイル川上よ。ここがゴシェンだなんて、だれが教えたの?」
「だれって、今朝明け方に、おれがおきまりの眠りをしようと森へ入りかけたときに出あった男の人がですよ。その人が道が二股《ふたまた》になったら右手を取れ、五マイル行けばゴシェンに着くよ、と教えてくれたんです」
「その人は酔っぱらっていたのよ。まったく正反対のことを教えているもの」
「そういえば、酔っぱらっているような動作でした。だがそんなことは今はどうでもいいことです。もうそろそろ出かけねばなりません。夜明けまでにはゴシェンに着くでしょう」
「ちょっとお待ち、お弁当をこしらえてあげるから。欲しくなるでしょうからね」
そこで女は弁当をつくってくれて、言った。
「ちょいと……牛が横になっているとき、前足と後足とどっちから立ちあがりますか? すぐ答えなさい……ゆっくり考えたりしないで。どっちからまず立ちあがりますか?」
「後足のほうからです、小母さん」
「それでは、馬は?」
「前足のほうです、小母さん」
「たいてい苔が生えるのは木のどっち側ですか?」
「北側です」
「十五頭の牛が丘の斜面で草を食べているとして、同じ方角に頭を向けて食べているのは何頭かしら?」
「十五頭全部です、小母さん」
「なるほど、お前さんは田舎で暮らしてきたと思いますよ。ことによるとまたわたしをだまそうとしているんじゃないかと思ったのよ。さ、お前さんの本当の名前は?」
「ジョージ・ピーターズです、小母さん」
「そう、よくおぼえておくのよ、ジョージ。出ていく前に、忘れてエレグザンダーだなんて言わないでね。そしてわたしに尻尾をつかまえられると、ジョージ・エレグザンダーですなんて言って逃げてはだめよ。それからそんなキャラコの古着を着て女のそばへ寄っちゃだめよ。女の子の化《ば》け方はかなりへたね。でもことによると男の人はだませるでしょうね。
かわいそうに、お前さん、針に糸を通すときは、糸をじっとしておいて針を近づけちゃだめよ。針をじっとしておいて糸を穴に突っこむのよ……それがたいてい女の人のやり方だけど、男は必ず反対ね。
また鼠や何かに物を投げつけるときは、まずつま先立ちに体をのばし、片手をできるだけぎこちなく頭の上にあげて、いざ投げても、ねらった鼠から六フィートか七フィート離れたところに行ってしまうものよ。まるで腕を回転させる軸が肩にあるみたいに、肩から腕を曲げないで投げるのよ……女の子らしくね。男の子みたいに、腕を一方の側にのばして、手首と肘《ひじ》で投げてはだめよ。
それから、いいですか、女の子は膝に何かを受けとめようとするときは、膝をパッと開く。お前さんが鉛のかたまりを受けとめたときのやり方のように、両膝をピタリッと合わせたりはしないものですよ。わたしはね、お前さんが針に糸を通そうとしていたとき、男の子だと目星をつけたのよ。ほかのことをいろいろ考えたのは、ただそれを確かめるためだったのよ。
さあ、急いで伯父さんのところへ出かけなさい、セーラ・メアリ・ウィリアムズ・ジョージ・エレグザンダー・ピーターズさん。そして何か面倒なことが起こったら、ジュディス・ロフタス夫人に言ってよこしなさい、それはわたしのことよ。そしたらわたしはすぐにできるだけのことをして面倒をなくしてやるからね。ずっと川岸の道を行きなさい。今度旅をするときは、靴と靴下を持って行きなさい。川岸の道は石だらけで、お前さんの足はゴシェンに着いたら大変なことになっていると思いますよ」
おれは川岸を五十ヤードばかり行ってから、引き返し、さっきの家からかなり下《しも》の方の、カヌーの置いてある場所へこっそりもどった。カヌーに飛びのって、急いで出た。島の先端と並ぶあたりまで流れをさかのぼってから、川を横断しはじめた。もう目隠しも必要がないので、日よけ帽子はぬいでしまった。
川の真中あたりまで来たとき、時計の鳴りはじめるのを聞いた。そこで漕ぐのを止めて耳をすますと、音は水の上をかすかに、だがはっきりと伝わって来た……十一時だ。島の先端についたとき、おれはほとんど息切れがしていたが、息つく間も待たずに、前にキャンプをしていた森の中へ飛びこんで、高くて乾いた場所に大きな焚火をたいた。
それからカヌーに飛びのって、一マイル半ほど下のおれたちの場所へ、できるだけ力いっぱい、逃げた。上陸すると、歩いて森をぬけ、丘の背にのぼって、洞穴へ入った。ジムが地面にぐっすり眠りこんでいた。おれはジムを起こして言った。
「ジム、起きて、急ぐんだ! 一分の猶予《ゆうよ》もない。追われているぞ!」
ジムは何にも聞かないし、またひとことも言わなかった。つぎの半時間の働きぶりを見ると、どんなにジムがおびえきっていたかがわかる。
そのころには、おれたちの全財産は筏《いかだ》に積みこまれてしまい、筏はかくされていた柳の入江から、いつでも出発できる仕度ができていた。
おれたちはまず第一に洞穴の焚火を消し、そのあとはろうそくの光が外に洩《も》れないようにした。
おれはカヌーを岸からすこし離れたところまで出して、あたりを見まわしたが、たとえあたりにボートがあったとしても、おれには見えなかった。星と影では見とおすのにぐあいが悪かった。それからおれたちは筏《いかだ》を出して、島陰をすべるようにくだり、死んだように静かな島の末端をすぎたが、ひとことも口をきかなかった。
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十二 のろい航行
おれたちがやっと島の下流まで来たときは、もう午前一時近くだったにちがいなかった。筏《いかだ》の進み方はすごくのろいように思われた。もしボートでもやって来たら、おれたちはカヌーに飛びのって、イリノイの岸に逃げることにしていた。ボートの来なかったのは好都合だった。おれたちは鉄砲や釣糸や食料をカヌーに積みこむことなどまったく考えていなかったからだ。もう汗のかきどおしで、そんなにいろんなことなど考える暇もなかったのだ。何もかも筏《いかだ》にのせておこうというのはよい分別ではなかった。
もしあの男たちが島へ行けば、連中は当然のようにおれのつくった焚火を見つけ、ひと晩じゅうそれを見張ってジムの来るのを待つだろう。とにかく、連中はおれたちから離れてしまった。もしおれの焚火をたいたことが連中をだまさなかったとしても、それはおれの責任ではない。おれとしてはできるだけ卑劣《ひれつ》な手でだましたのだ。
朝の最初の光がさしはじめると、おれたちはイリノイ側の川の大曲りにある麻くずの砂州《さす》に筏《いかだ》をしっかりしばりつけ、手斧でハコヤナギの枝をたたっ切って筏にかぶせたので、まるで川岸に崖《がけ》くずれでもあるかのように見えた。麻くずの砂州というのはハコヤナギがまぐわの歯みたいに密生している砂州のことだ。
ミズーリ側の岸には山が、イリノイ側には茂った森があって、水路はここではミズーリの岸寄りだったので、だれかに出っくわす心配はなかった。おれたちはそこに一日じゅう寝ころんで、筏《いかだ》や蒸気船がミズーリ岸を走りくだり、上流行きの蒸汽船が真中でこの大河とたたかうのを見まもった。おれはジムにあの女の人とおしゃべりをしたときのことを全部話した。ジムは、抜け目のない女だ、もしその女が自分で追っかけてくれば、ただすわって焚火を見張っているようなことはやりっこない……絶対にない、必ず犬をつれて来まさ、と言った。
それでは、とおれが言った、どうして女は亭主に犬をつれて行けと言うことができなかったんだろうか? するとジムは、女は男たちが出発する仕度のできるまで犬のことは思いつかなかったので、連中は犬をさがしに町へ行って、そのために時間がなくなってしまったのだと思う、さもなければ、おらたち村から十六、七マイル下のこの砂州《さす》にいるわけがない……絶対にない、まだあの同じ古い町にいるだろう、と言った。そこでおれは、連中が来ないかぎり、おれたちのつかまらなかった理由が何であろうとかまわない、と言った。
暗くなりはじめてから、おれたちはハコヤナギの茂みから頭を突きだして、川の上《かみ》と下《しも》と向こう側を見たが、見えるものは何ひとつなかった。そこでジムは筏《いかだ》の上の方の板を何枚か取って、炎天や雨天のときはその下にもぐりこみ、品物が雨にぬれないようにしようと、こじんまりした小屋をつくった。ジムはその小屋の床をつくり、筏の高さよりも一フィート以上も高くしたので、毛布その他の手回り品は蒸汽船の波をかぶらなくてすむようになった。小屋のちょうど真中に五インチか六インチばかりの高さに盛り土をして、それがくずれないようにまわりに囲《かこ》いをした。これはじめじめした天気や寒い日に火を起こすためで、小屋のために外からは見えないだろう。
おれたちはまた余分の操舵オールを一本つくった。ほかのが沈み、木や何かで折れるかもしれないからだ。古いカンテラをつるすために短い二股《ふたまた》の棒も用意した。蒸汽船がくだってくるのが見えたらいつでも、押しつぶされるのをふせぐためにカンテラに明りをつけねばならないからだ。だが上流行きの船のためには、おれたちがみんなの言う「交差点」にいないかぎり、明りをつける必要はない。というのは川の水かさがまだかなり高くて、ごく低い岸は今でもすこし水の下になっているので、のぼりの船は必ずしも水路を通らずに、ゆるい流れの水をさがしているからだ。
この二日目の夜、おれたちは一時間四マイルの速さの流れにのって、七時間か八時間くだった。魚をとったり、話をしたり、ときどき眠気ざましに泳いだりした。仰向けに寝ころんで星空をながめながら、大きな静かな川を流されていくのは、何となく厳粛《げんしゅく》で、大きな声で話す気持ちにもならないし、笑うこともめったになくて、せいぜい低い含み笑い程度であった。だいたいにおいて、すごくいい天気で、その夜も、つぎの夜も、そのまたつぎの夜も、何ごとも起こらなかった。
毎晩、おれたちは町を通りすぎた。町のなかには遠くの黒い丘の斜面の上の方にあるものもあったが、ただかがやく明りの花壇のようで、家は一軒も見えなかった。五日目の夜、おれたちはセント・ルイスを過ぎた。世界じゅうの明りがついたみたいだった。
セント・ピーターズバーグでは、セント・ルイスには二万か三万の人がいるという話であったが、この静かな夜の二時にこのようにすばらしい光のひろがりを見るまでは、信じなかった。物音ひとつしなかった。みんな眠っていたのだ。
今や毎晩、おれは十時ごろどこか小さな村にそっと上陸して、十セントか十五セント分のひきわりやベーコンその他の食料を買うことにし、ときどき、おとなしくねぐらについていない鶏《にわとり》をかっぱらって、持って帰ることもあった。お父《とう》は口ぐせのように、機会があったら鶏を失敬しろ、お前が欲しくなくったって、欲しい人間はいくらでも見つかるし、親切な行為はなかなか忘れられないのだから、と言っていた。お父が自分で鶏を欲しがらなかったときなど見たこともないが、とにかく、それがお父の口ぐせだった。
朝、夜明け前に、おれはとうもろこし畑にしのびこんで、西瓜《すいか》や、まくわうりや、南瓜《かぼちゃ》や、新しいとうもろこしや、そういう種類のものを借りて来た。お父はいつも、あとでいつか返済するつもりがあれば、物を借りても悪いわけはすこしもない、と言っていた。だが後家さんは、それは盗みを体裁《ていさい》よく言ったまでのことで、立派な人間ならそういうことはしないだろう、と言った。ジムは、後家さんは一部分正しいし、お父も一部分正しいと思う、だから一番いい方法はリストの中から二つか三つえらびだして、これはもう借りないと言ってやることだ……そうすれば、ほかのものを借りてもさしつかえないことになるだろうと思う、と言った。
そこでおれたちは、川を流されてくだりながら、ひと晩じゅうそのことを話しあって、西瓜《すいか》をやめようか、それともアミメロンか、まくわうりか、何をやめにするか決心しようとした。
しかし明け方ごろ、おれたちは問題を満足に解決して、野生りんごと柿をやめることに決めた。それまでは気持ちが落ちつかなかったが、これでまったく楽な気持ちになった。こういう結果になったこともうれしかった。野生りんごはうまくないし、柿もあと二月《ふたつき》三月《みつき》しないと熟さないからだ。
おれたちは、ときどき、朝早く起きすぎたり、夕方早く寝床へ行かなかった水鳥を射った。全体としてみると、おれたちはかなり程度の高い暮らしをした。
五日目の夜、セント・ルイスの下で、おれたちは真夜中すぎに大きな嵐に会った。たいへんな雷《かみなり》と稲光《いなびか》りで、雨はすさまじいどしゃぶりであった。おれたちは小屋から出ないで、筏《いかだ》は筏まかせにした。稲光りがピカッと光ると、前方には大きなまっすぐな川が、両側には高い岩の絶壁が見えた。おれは「おーい、ジム、向こうを見ろ!」と言った。岩にぶつかって自滅した蒸汽船であった。おれたちはまっすぐその船の方へ流されて行った。稲光りのおかげで船がはっきり見えた。蒸汽船は上甲板の一部を水の上にだして傾いていて、稲光りがピカッとするたびに、煙突を支える針金のどんな細いのまでも、くっきりと見えたし、大きな鏡のそばの椅子が、その背にかかっている古ぼけた縁《ふち》のたれた帽子といっしょに見えた。
さて、夜はふけてくるし、嵐だし、すべてが不思議千万なので、おれは、その難破船が川の真中にとても楽しそうに、また寂しそうに横たわっているのを見たとき、ちょうどほかの男の子がだれでも感じるような気持ちになった。つまり、その汽船にのって、すこし歩きまわって、何がそこにあるのか見たくなったのだ。そこでおれは言った。
「ジム、あれにあがってみようよ」
だが、ジムは最初は真っ向《こう》から反対した。ジムはこう言った。
「おら、難破船なんかを見にウロチョロ行きたくねえだ。おらたちはすごくうまくいっているだ。そんで、聖書も言ってるように、すごくうまくいってるのはそのままにしといたほうがええ。あの難破船にゃたぶん番人がいるんよ」
「番人だって、馬鹿ァ言え」とおれは言った、「最上甲板の士官室と水先案内室のほか、何にも番するものなんかねえよ。船がいつなんどきこわれて押し流されるかもわからねえというこんな晩に、士官室や水先案内室のために、生命を犠牲にしようとするものがいるとでも思うのかい?」
ジムはこれに対して何にも言うことができなかったし、また言おうともしなかった。
「それによ」とおれは言った、「船長の特等室から何か値打ちのあるものを借りることができるかもしれないんだよ。シーガーはだいじょうぶ……現金で一本、五セントもするやつだぞ。蒸汽船の船長はきまって金持ちで、月に六十ドルも取っているから、ある品物が欲しいとなると、それが何セントしようが気にしないんだ。ポケットにろうそくを入れてな。隅《すみ》から隅まで探さねえと、ジム、おれぁ落ちつけねえんだ。トム・ソーヤーがこれを見のがすと思うかい? とんでもハップン、見のがしっこなんかするもんか。トムはこれを大冒険と呼んで……そう呼ぶだろうね……たとえこれで一生の終わりとなろうとも、あの難破船にあがるだろうよ。そして、いいカッコするんじゃないかな?……いばりちらしたり何かするんじゃないかな? まったく天国を発見するクリストファー・コロンブスそっくりだと思うだろうな。トム・ソーヤーがここにいてくれたらいいのにな」
ジムはすこしぶつぶつ言ったが、反対しなかった。おれたちは必要以上に話してはいけないし、話をするにしても、うんと低い声でなければいけない、とジムは言った。ちょうどそのとき稲光りがまた難破船を照らしだして、おれたちは右舷《うげん》の起重機のところについて、筏《いかだ》をしっかりむすびつけた。
甲板は、ここでは、水の上に高く出ていた。おれたちは傾斜した甲板を、暗闇のなかを、右舷の士官室の方へ、両足でゆっくりさぐりながら、煙突を支える針金がそのありかも見えないので、さわらないようにと両手をひろげて、そろそろと歩いて行った。まもなく天窓の前方の端につきあたって、そこをのぼり、もうひと足で船長室の戸の前に出た。戸はあいていて、びっくりしたことには、士官室をぬけて向こうに明りが見えたと同時に、向こうで低い人声が聞こえたような気がした!
ジムは、ものすごく気分が悪くなった、とささやくように言って、こっちへ来いと言った。おれはいいよ、と言って、筏《いかだ》の方へ行きかけたとき、悲しげにわめく人の声を聞いた。
「ああ、お願いだ、やめてくれ、お前たち。絶対に密告なんかしねえから!」
別の声が、かなり高い声で、言った。
「うそだ、ジム・ターナー。前にもこういう真似《まね》したじゃねえか。お前はいつも自分の分け前以上を要求し、よこさねえとバラすとおどしやがっては、思いどおり手に入れていた。だが今度はちょっぴり言いすぎだったようだな。お前みたいなけちくさい、裏切りものの犬畜生はこの国にはいねえぞ」
このころにはジムは筏《いかだ》の方に向かって行っていた。おれは好奇心でぞくぞくしていた。トム・ソーヤーだったらこういう場合引っこみはしないぞ、おれだって引っこむものか、ここで何が起こるか見てやるんだ、と自分に言っていた。
そこで、おれは小さい通路で四つん這《ば》いになり、暗闇の中を船尾の方へ這《は》って行くと、おれと士官室の横廊下とのあいだに特等室一つしかなくなってしまった。
と、そこには一人の男が手足をしばられて床にころがっており、二人の男が立って見おろしていた。男の一人は手にうすぐらいカンテラを持ち、もう一人はピストルを持っていた。あとの男はピストルを床の上の男の頭に向けながら、言った。
「おれはやっつけてしめえてえんだ! やっつけてもいいんだ、卑怯《ひきょう》なスカンク野郎なんか!」
床の上の男はちぢみあがって、言った、「ああ、お願いだ、やめてくれ……決して密告なんかしねえから」
だが、そう言うたびに、カンテラを持った男は笑って、言った。
「まったくしねえだろうとも! 今までこれほど本当のことは言ったこたあねえじゃねえか、正直の話」
また一度はこうも言った、「泣きごとを言ってるじゃねえか! もしおれたちがこいつを負かしてしばりあげなかったら、おれたちは二人とも殺されていたぜ。何のためにだって? 何のためにでもなくってよ。ただおれたちがおれたちの権利を主張したというだけだ……それだけのためよ。だが、ジム・ターナー、これからはお前はもうだれも脅迫《きょうはく》することはできねえぜ。ビル、ピストルをしまいな」
ビルが言った。
「おれはいやだ、ジェイク・パカード。おれはこいつを殺したいんだ……こいつだってハットフィルドじいさんをこんなふうに殺したんじゃないか……仕返しをうけるのは当然じゃないか?」
「だが、おれは殺したくはない。それにはいろんなわけがあるんだが」
「ありがとう、よく言ってくれた、ジェイク・パカード! 一生、お前のことは忘れねえよ!」と、床の上の男は、半分泣きながら言った。
パカードはそんな言葉には見むきもせずに、カンテラを釘にかけ、暗闇のなかにいるおれの方へ向かって歩きだし、身ぶりでビルに来るように合図した。おれはザリガニみたいにできるだけ二ヤードばかり早く後ずさりしたが、何しろ船がひどく傾いているので、すばやく逃げることができなかった。そこでふんづけられてつかまえられないように、おれは客用寝室の上の寝台に這いこんだ。パカードは暗がりを手さぐりでやって来て、おれのいる寝室へ来ると、言った。
「ここだ……ここへ入ってこい」
そしてその男が入って、ビルがあとにつづいた。だが二人の入って来る前に、おれは上の寝台で、心配しながら、来たことを後悔していた。二人のほうは、手を寝台の縁にかけて、立ったまま話した。姿は見えなかったが、飲んでいたウイスキーの匂いで、どこにいるかわかった。おれはウイスキーを飲んでいなくてよかったと思った。だが、それにしてもあまりたいした違いにはならなかった。というのは、おれは息がつけないので、いつまでもそこに追いつめられているわけにはいかなかったからだ。
おれはもうこわくて仕方がなかった。その上、人間は息をしながら、こういう話を聞くことなどできるもんじゃない。二人は低い声で熱心に話した。ビルはターナーを殺したがっていた。ビルが言うには、
「あいつは人に言うと言っていたし、きっと言うよ。今おれたちがおれたちの分け前をあいつにやるとしても、けんかをして、ひどい目にあわせたあとだから、むだだろうな。たしかなことは、あいつがお上《かみ》の手を向けてくることだぜ。だから、おれの考えを聞いてくれ。おれはあいつをこういうごたごたから出してやりたいんだ」
「おれだってそうだ」と、パカードはとても静かに言った。
「馬鹿ぁ見たぜ、おれはまたお前が違うと思いはじめていたんだ。じゃ、それなら、よろしい。向こうへ行って、やってしまおう」
「ちょっと待てよ。おれはまだ言いたいことは言ってないよ。よく聞いてくれ。射ち殺すのはいい、だが、どうしても片づけなくちゃならないんなら、もっと静かな方法があるぜ。だがおれの言いたいのはこうだ。今したいと考えていることを、それと同じくらい効果があって、しかもこちらの身がすこしも危なくならねえというような方法で実行できるんならよ、こちらから絞首の綱《つな》を頂戴させてくれとせがんでまわるのは分別がねえというもんさ。そうじゃないか?」
「たしかにそうだ。だが今度はどんなふうにしようというんだい?」
「いいかい、おれの考えはこうだ。ひとつ元気をだして、客室をまわってみて、見落としていた品物は何でもかんでもかきあつめ、岸へ持って行って、隠すんだ。それから待つんだ。いいかい、二時間以上たたないうちに、この難破船はばらばらにこわれて、下流へ流れてしまう。わかったかい? あいつは溺れ死んで、自業自得《じごうじとく》ということになるじゃないか。このほうがあいつを殺すよりもずっといい考えだと思うがね。避けられるものなら、殺すのは感心しねえんだ。利口なやり口じゃないし、道義的にもよくないよ。そのとおりだろう?」
「ああ、そのとおりだと思う。だが、もしも船がこわれて流れなかったら、どうなるんだ?」
「まあ、とにかく、二時間待って、様子を見ることぐらいはできるだろう」
「いいとも。さ、行こう」
それから二人は出た。おれは全身|冷汗《ひやあせ》だらけになって、逃げだし、這いながら前へ進んだ。まっ暗闇であった。だがおれは息のあらいささやき声で、「ジム!」と言った。すると、すぐ肘《ひじ》のところで、うめくように返事をしたので、おれは言ってやった。
「早く、ジム、ぐずぐずしている暇も、うめいたりする暇もねえんだ。あっちに人殺しの連中がいる。もしおれたちがあいつらのボートをさがしだして、連中がこの難破船から逃げだせねえように、川に流してしまわねえと、あいつらのうちの一人が苦しい羽目におちいってしまうんだ。もしボートが見つかれば、あいつら全部をひどい目にあわせられる……保安官があいつらをつかまえるだろうからな。早く……急ぐんだ!おれは左舷をさがす、お前は右舷をさがせ。筏《いかだ》のところからはじめて……」
「おお神さま、神さま! 筏《いかだ》だって? 筏なんてもうねえんですよ。綱が切れて、流れたんよ!……おらたちを残して」
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十三 難波船から脱出
ところで、おれは息がつまって、気が遠くなりそうだった。ああいう連中と難破船に閉じこめられるなんて! だが、めそめそしているときではなかった。今はあのボートを見つけなくちゃ……ボートをおれたちのものにしなくちゃならない。そこでおれたちはぶるぶるがたがた震えながら右舷に沿って歩いて行ったが、その進み方ののろいのなんのって……船尾《とも》に着くまでに一週間もかかったように思えた。ボートの影も形もなかった。ジムはもうこれ以上一歩も動けないと言いだした……こわくてこわくてもう力が残っていないと言った。だが、おれは、がんばるんだ、この難破船にとり残されてみろ、いやおうなしに苦しい羽目になるんだぞ、と言った。
そこでおれたちはまたよろよろしながら歩いて行った。士官室の後部を目ざして行って、それが見つかり、それから天窓の上を、前の方へのろのろと前進するのに、よろい戸からよろい戸にぶらさがりながら行ったのは、天窓の端が水につかっていたからだ。横の廊下のドアのかなり近くまで来たとき、はたして、小舟があった。ぼんやりとしか見えなかった。とてもとてもありがたいと思った。つぎの瞬間、おれはそれに乗りこもうとしたが、ちょうどそのとき戸があいた。連中の一人が首を突きだしたが、おれからたった二フィートくらいのところで、おれはもうだめだ、と観念した。だが、男はまた首を引っこめて、言った。
「ビル、そのいまいましいカンテラを見えねえようにしろ」
男は何かの袋をボートの中に投げこんで、自分も乗りこんで、すわった。パカードだった。やがてビルも出てきて乗りこんだ。パカードが低い声で言った。
「用意はできた……出発だ!」
おれはすっかり弱ってしまって、ほとんどよろい戸にぶらさがっていられなくなった。だが、ビルが言った。
「待て……あいつの体《からだ》をしらべたかい?」
「いいや。お前はしなかったか?」
「いいや。じゃ、まだ現金の分け前を持っているんだな」
「そうか、じゃ、来い……がらくたを持ってって、現金を置いていくというのは感心しねえや」
「おい……おれたちが何をしようとしているか、感づきはしねえだろうか?」
「たぶん感づかねえだろよ。だが、とにかく、手に入れなくちゃ。さ、行こう」
そこで二人は出て、入って行った。
ドアは、かしいだ側にあったので、ピシャリとしまった。アッという間もなくおれはボートに飛びこみ、ジムもつづいてころがりこんだ。おれはナイフを出して、綱を切り、おれたちは離れた!
おれたちはオールにはさわらなかった。口もきかなければ、ささやきもしなかった。息さえもほとんどしなかった。死んだように黙ったまま、早い速度ですべって行って、外輪覆いの箱の尖端《せんたん》をすぎ、船尾の横を通った。それから一秒か二秒のちには難破船の百ヤードも下に来ていたが、暗闇が船をあとかたもなくつつみこんで、おれたちは安全となり、またそれがはっきりとわかった。
三百ヤードか四百ヤード下流に来たとき、カンテラが士官室のドアのところで小さい火花のように、一瞬、あらわれるのを見たが、これによっておれたちは、悪党どもがボートをなくしてしまって、今はジム・ターナーとまったく同じようなやっかいな立場にあるのを理解しはじめたことを、知った。
やがてジムは力をこめてオールを使って、おれたちは筏《いかだ》のあとを追いかけた。このときになってはじめて、おれはあの男たちのことが心配になりだした……今まではそんな時間がなかったのだと思う。たとい人殺しでも、あんな羽目におちいるのはどんなに恐ろしいことだろうと考えはじめた。そういうおれだっていつ人殺しにならないともかぎらないが、ああいうときはどんな気持ちだろうかと、自分に言ってみた。そこでおれはジムに言った。
「最初の明りが見えたら、そこから百ヤード下か上の、お前と小舟が隠れているのに都合のよい場所で、上陸しよう。おれはそれから何か作り話をこしらえて行き、だれかが連中のところへ行って、年貢《ねんぐ》の納めどきになってから絞り首になるように、あの難儀《なんぎ》から助けだしてやるようにしてもらうことにするよ」
しかし、この考えは失敗だった。というのは、まもなくまた嵐になって、しかも今度は前よりももっとひどかったからだ。雨はどしゃ降りで、明りはひとつも見えなかった。みんな寝床のなかにいたんだと思う。おれたちはものすごい勢いで川をくだりながら、明りを見張り、筏《いかだ》を見張った。長い時間がたって雨はあがったが、雲はなくならなかった。稲妻がとぎれとぎれに悲しくまたたいた。やがてピカッときて、黒いものが前方に浮いているのが見えて、おれたちはそれに向かった。
それはおれたちの筏《いかだ》で、大よろこびでまたそれにあがった。今やはるか下流の右手の岸に明りが見えた。
ところでおれはあの明りの方へ行こうと言った。小舟はあの連中が難破船で盗んだ分捕《ぶんど》り品で半分いっぱいだった。おれたちはそれをさっさと筏《いかだ》に山と積みあげ、ジムに、このままずっと流れて行って、二マイルほど行ったと判断したら、明りを出して、おれがもどるまでともしたままにしておくようにと言った。そしておれは力いっぱいオールをとって、明りに向かって漕《こ》いだ。明りの方へ近づくと、さらに三つ四つの明りが、丘の斜面の上の方に見えた。それは村であった。おれは岸の明りの上の方に舟を寄せ、オールをあげて、舟を流した。そばを通りながら見ると、二重胴体の渡し船の船首|旗竿《はたざお》に吊りさげられたカンテラであった。見張りはどこに寝ているのだろうと思いながら、見張りをさがして漕いでまわったが、やがて番人が船首の係柱《けいちゅう》に腰かけて、頭を両膝のあいだに入れて眠っているのを見つけた。おれは見張りの肩を二、三回こづいて、泣きだした。
見張りはちょっとびっくりしたように体をうごかしたが、それがおれだけだということがわかると、大きくあくびをし、体をのばしてから、言った。
「やあ、どうしたのかい? 泣くなよ、坊や。困ったことがあるのかい?」
おれは言った。「お父《とう》と、おっ母《かあ》と、姉ちゃんと、それから……」
そしておれは泣きくずれた。見張りは言った。
「ああ、やめてくれ。そんなに泣くなよ。おれたちはだれだってみんな苦労はつきもんだが、お前の不幸だってそのうちにゃ、なんとかなるよ。一体どうしたのかい?」
「みんなが……みんなが……小父《おじ》さんは渡し船の見張りかい?」
「そうだよ」と見張りは、かなり得心のいったような様子で、言った。「おれは船長で、船主で、運転士で、水先案内で、見張りで、水夫長だよ。ときには貨物にもなるし、船客にもなる。おれはジム・ホーンバックじいさんみたいな金持ちじゃないから、じいさんのように万遍《まんべん》なくだれにもかれにも気前よく親切にしてやることはできないし、じいさんのやるように金をパッパとまきちらすこともできやしない。だが、じいさんには何度も言ってやったが、じいさんと立場を代えたいなどとは思わないねえ。というのは、船乗りの生活こそおれの生活で、町から二マイルも離れて、何ひとつおもしろいこともないようなところなんかに、だれが住むものかっていうんだ。いくらじいさんの金をくれたって、おまけにその金を倍にしてくれたって、いやだとね。おれは言ってやったんだ……」
おれは相手をさえぎって言った。
「みんな、すごく困っているんだ、それで……」
「だれがかい?」
「ああ、お父《とう》と、おっ母と、姉ちゃんと、ミス・フッカーだよ。もし小父さんがこの渡し船を上流のあそこへ持っていってくれたら……」
「上流のどこへだって? みんなはどこにいるのかね?」
「難破船だよ」
「どの難破船かい?」
「どれって、一隻しかないよ」
「何だって、まさかウォルター・スコット号のことじゃないだろうな?」
「それだよ」
「エッ! 一体全体そんなとこで何をしているんだい?」
「だけど、別に目的があって行ったんじゃないよ」
「そりゃそうだろう! でも、大変だよ、大急ぎに急いでおりねえと、助かる見込みはねえぞ! だが、一体どうしてまたそういう羽目になったのかね?」
「わけは簡単さ。ミス・フッカーが訪問に来てたんだ、あの上の方の町へ……」
「そうか、ブースの船着き場だな……それで?」
「ミス・フッカーがブースの船着き場に訪問に来ていて、ちょうど日の暮れるころ、友だちのミス何とかっていう、名前は忘れちまったけど、その人の家にひと晩泊まるために、女中のニガー女と馬の渡し船にのって出かけたんだが、かじ取りのオールをなくしたもんで、ぐるっとまわって、船尾を先にして二マイルばかりも流されてしまい、難破船にひっかかって二つに折れてしまった。そんで渡し守も女中のニガー女も馬もみんなお佗仏《だぶつ》になってしまったが、ミス・フッカーだけはつかまって、難破船にあがったのさ。ところで、暗くなって一時間ばかりたってから、おれたちは商売のはしけにのってくだって来たんだが、あんまり暗いもんで、すぐそばに来るまで難破船に気がつかなくて、おれたちもひっかかって二つに折れてしまったのよ。だがおれたちはみんな助かったんだが、ビル・ウィップルたけは……ああ、あんないいやつはいなかった!……このおれが身代わりになればよかったと思うくらいだ、本当に」
「驚いたねえ! こんなドエライことは聞いたことがない。で、お前さんたちはみんなどうしたかね?」
「おれたちはどなったりわめいたりしたけど、あそこは何にしろ幅がひろいので、だれにも聞こえないんだ。そこでお父が、だれか岸へ行って、なんとかして助けてもらうようにしなくちゃと言ったんだ。泳げるのはおれひとりだったので、おれがやると言ってしまったんだが、ミス・フッカーは、すぐ助けが得られなかったら、ここへ来て伯父《おじ》さんをさがせ、伯父さんがうまくやってくれるだろう、と言うんだ。おれは一マイルばかり下の方で上陸して、それからずっと歩いて来ながら、みんなに何とかしてもらおうとしてきたんだが、みんなは、なんだって、こんな晩の、こんな流れのときに、そんな無茶な話ってあるかい。蒸気の渡し船のところへ行けよ、と言うんだ。だから、もし小父さんが行ってくれて……」
「どんなことがあったって、行ってやりたいし、絶対に行くつもりだが、一体だれが手間賃を出してくれるのかね? おまえのお父でも……」
「なに、そりゃ大丈夫だよ。ミス・フッカーが念を押して言ったんだよ、伯父さんのホーンバックが……」
「なんだって! ホーンバックが伯父さんになるのかい? おいおい、向こうの方に見える明りへ走って行って、着いたら西へ曲って、四分の一マイルばかり行くと居酒屋があるからな、そこにいる人たちにジム・ホーンバックのところへすぐつれて行ってくれるように、勘定はホーンバックがするから、と言うんだよ。ボーンバックはこの話を聞きたいだろうから、決して道草くっちゃいけないよ。町へお着きになる前に、姪御《めいご》さんはちゃんと助けておきます、と言っておいてくれ。さあ、がんばってくれ。おれはこの角をまがって、うちの機関士を起こしてくるからな」
おれは明りの方へ向かって走ったが、この見張りが角をまがるやいなや、引きかえして、小舟にのりこみ、舟底のあか水をかい出してから、六百ヤードばかり岸べのゆるい流れを漕ぎのぼって、何隻かの材木舟のあいだに隠れた。渡し船が動きだすのを見るまでは、落ちつかなかったからだ。
だが、全体としてみて、あの連中のためにこれだけ骨を折ってやったので何となく気持ちは休まった。これだけやってやる人はたんとはいないだろう。あの後家さんが知ってくれたらと思った。おれがこういう悪党連中を助けてやったことを知ったら鼻を高くするだろう、と判断した。悪党やろくでなしが、後家さんや善良な人たちの一番興味をもつ人間だからだ。
ところで、まもなく、難破船が、ぼんやりとぐらぐらとした姿で、流れくだって来た!
寒気《さむけ》のようなものが体を走りぬけて、おれはそれに向かって漕いだ。船は深く水につかっていて、おれはすぐさま、これではだれひとり生きている見込みがなさそうだということをさとった。おれは船のまわりを漕いでまわって、すこしどなってみたが、何の答えもなく、死んだように静かだった。おれはあの連中のことで心がすこし重かったが、たいしたこともなかった。あの連中でも辛抱できるんなら、おれにだって辛抱できると思ったからだ。
そこへ渡し船がやって来た。そこでおれは長い斜流にのって川の真中へ漕いで出た。目のとどかないところまで来たと判断してから、おれはオールの手を休めて、振りかえって見た。渡し船が、ミス・フッカーの死体をさがして難破船のまわりをぐるぐる嗅《か》ぎまわっているのが見えた。それは船長にはホーンバック伯父がその死体を欲しがることがわかっていたからだ。それからまもなく渡し船はあきらめて岸に向かった。おれも力をこめてオールを漕いで、景気よく川をくだって行った。
ジムの明りが見えるまで、すごく長い時間がかかったような気がしたが、見えてからも、千マイルも向こうにあるように見えた。おれがそこに着いた頃には、東の空もすこし白みかけていた。おれたちはある島に向かい、筏《いかだ》をかくし、小舟を沈め、寝床に入るなり、死人のように眠ってしまった。
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十四 楽しいひととき
やがて、起きてから、例の連中が難破船から盗んだ品物をひっくり返してみると、靴と、毛布と、衣類と、いろんな品と、たくさんの本と、小型望遠鏡と、葉巻が三箱あった。おれたちは二人とも、今までこんなに金持ちになったことはなかった。葉巻はすばらしかった。おれたちは午後じゅうサボって森の中で話したり、おれは本を読んだりして、とても楽しい思いをした。
おれはジムに、難破船の中や渡し船のところで起こったことを全部話してやって、こういう種類のことが冒険なのだと言うと、ジムは冒険なんかもうしたくねえと言った。あんたが士官室に入って行って、おらが筏《いかだ》にのろうと思って這ってもどってみたら、筏がなくなってしまっていたときには、もう生きた気持ちがしなかったと言った。どっちにころんでも、おらはもうだめだと判断してしまったのだ。万一助けられなければ、溺れ死んでしまうだろうし、助かったとしても、助けだした本人が賞金目あてにジムを送り返し、それからミス・ワトソンがきっと南へ売ってしまうだろうとジムは言った。まったく、ジムの言うとおりで、ほとんどいつもジムの言葉に間違いはなかった。ジムは、ニガーとしてはめずらしい、いい頭の持ち主だった。
おれはジムに、王様や、公爵や、伯爵その他について、またこういう人たちがどんなに派手な服装をしているか、どんなに高慢《こうまん》ぶっているか、またお互いを呼ぶのに、ミスターといわずに、陛下とか、閣下《かっか》とか、殿さまなどと呼んでいる、というようなことを読んでやった。ジムは目をまたまるくして、おもしろがった。ジムが言った。
「そういう人がそんなにたくさんいるとは知らなかったよ。トランプ札の王様を数えねえとなれば、ソラーマン老王のほかに、そういう王様たちのことなどひとりも聞いたこたぁ、あんまりねえだよ。いくらぐれえ王様は月給をもらうのかね?」
「もらうだって?」とおれは言った、「なに、欲しけりゃ、月に千ドルはもらうね。欲しいだけ取ることができるんだ。何もかも王様のものだからね」
「そりゃまた生意気じゃねえか? それでどんな仕事をするんかね、ハック?」
「仕事なんかないよ。なんてこと言うんだい。ただのらくらしているだけよ」
「なんにもしねえ?……そうかね」
「もちろんそうだよ。ただのらくらしているんだよ。たぶん戦争のときは別だよ。そんなときは戦争に行くんだ。だが、ほかのときは、ただ怠《なま》けているか、鷹《たか》狩りに行くか……ただ鷹狩りをしたり、ペッペッと唾をはくぐらいだろう……シッ……なにか音がしたろう?」
おれたちは飛びだして見たが、遠い下流の方の岬をまわってやってくる蒸汽船の外輪のバタバタという音にすぎなかったので、またもどった。
「そうだよ」とおれは言った、「またほかのときは、退屈になると、議会とけんかをやらかし、みんなが思いどおりに動かないと、首をちょん切ってしまうのよ。だがたいていは後宮《こうきゅう》をうろつきまわっているね」
「どこをだと?」
「後宮だよ」
「後宮ってのは何だね?」
「おかみさんたちを入れとく場所さ。後宮のことは知らんのかい? ソロモンも持ってたよ。百万人ばかりおかみさんがいたんだよ」
「なに、そうだ、そうだった……すっかり忘れていただ。後宮てのは下宿屋だと思うね。子供部屋じゃさぞ騒々しいこっちゃろうて。それにおかみさんたちゃまたけんかばかりして、一段と騒々しくなると思うがね。だけんど、ソラーマンほど賢い人はいねえというこった。そんなことはまったく信用していねえだ。だってよ、賢い人がしょっちゅう、そういう騒々しい音んなかで暮らしたいと思うものかね。いんや……まったくそんなこたあねえ。賢い人だったらそれよりもボイラー工場を建てたほうがいいわ。そうすりゃ休みてえときにボイラー工場をしめることができるもん」
「だが、どっちにしてもソロモンは一番賢い人だったんだよ。後家さんが自分で、そう話してくれたんだから」
「おらはあの後家さんが何と言おうとかまわねえ。一番賢い人じゃなかったんよ。見たこともねえような言語道断《ごんごどうだん》のことをやらかしているんだから、おめえさま、王様がまっぷたつにちょん切ろうとした子供の話知ってるかね?」
「ああ、後家さんがすっかり話してくれたよ」
「じゃ、いいかね! これほどドエライ考え方って世の中にねんじゃねえかね? ちょっとまあ考えてもみなせえ。あそこに切株がある……それが女たちのひとりだ。ここにおまえさまがいる……これはもうひとりの女だ。おらがソラーマンだ。この一ドル札が子供だ。おめえさま方ふたりとも子供を自分のもんだと言う。おら、どうしたらいいかね? 近所の人たちのあいだを駆けまわって、その一ドル札がおめえさま方のどちらのものか見つけだして、正当の持ち主にぶじに間違いなく、わたすだろうか? 分別のある人のやるようによ。いんや、そうじゃねえ……おらは札をふたつに引き裂いて、半分おめえさまに、もう半分を別の女にわたすんよ。ソラーマンは子供をそういうふうにしようとしたんよ。ところでおめえさまに聞いてみてえが、半分のお札が何の役に立つだかね?……何ひとつ買うことができねえ。また半分の子供が何になるだかね? そんなの百万あったって一文にもならねえよ」
「だが、待ってくれ、ジム、お前は要点をきれいにはずれているよ……まったく、千マイルもはずれているよ」
「だれが? おらが? 冗談じゃねえですよ。要点のことなんか話さねえでおくんなさい。分別ちゅうもんは見ればわかると思うが、あんなやり方にゃ分別なんかねえよ。争いは半分の子供のことではなくて、争いは全体の子供のことなんよ。全体の子供についての争いを半分の子供で解決できると考えるような人は、雨ん中で雨宿りするだけの知恵もねえ人だね。ソラーマンについての話はもうおらにしないでくれ、ハック。あの人のことは骨の髄《ずい》まで知ってるんだから」
「だがお前は要点をつかんでないと言ってるんだよ」
「要点なんてどうでもいいですよ! おら、知ってることは知ってると思う。それに、いいですか、本当の要点はずっと遠くに……ずっと深いところにあるんよ。それはソラーマンの育ち方にあるんよ。子供がたった一人か二人しかいねえ人を考えてごらんなせえ。その男は子供を粗末に扱いますだろうか? いや、そんなこたしねえ。そんなぜいたくはできねえだ。値打ちを知っているからよ。だけんど、五百万人も子供が家じゅうを走りまわってる人となると、話は別だ。そういう男だったら子供を猫みたいに二つにちょんぎりますよ。もっとたくさんいるからね。子供の一人、二人、とにかく、ソラーマンにとっちゃ痛くも痒《かゆ》くもねえんよ、ちきしょうめ!」
おれはこんなニガーを見たことがなかった。一度こうと思いこんだらさいご、二度とその考えをやめさせることができないのだ。ソロモンにこんなにくってかかるニガーは見たことがない。そこでおれはほかの王様たちの話をして、ソロモンをそっと立ち去らせてやった。おれはずっと昔フランスで首を切られたルイ十六世のことや、その小さな息子で、国王になるはずであったが、牢屋に閉じこめられて、そこで死んだという噂もある皇太子のことを話した。
「かわいそうな子ね」
「だが、逃げだしてアメリカへ来たという人もいるよ」
「そりゃいい! だけんど、とても寂しいだろうな……ここには王様がいねえんだからね、ハック?」
「いねえよ」
「じゃ、奉公も見つかるめえ。何をするつもりだろう?」
「さあ、わからないね。巡査になるものもあるし、フランス語の話し方を人に教えるものもあるだろうよ」
「なんだって、ハック、フランスの人はおらたちと同じようにしゃべらねえのかね?」
「そうだよ、ジム。お前にはフランス人の言う言葉はすこしもわからないだろうよ……ただのひと言も」
「こりゃまた驚いた! どうして、そうなったんかね?」
「わからねえよ。だがそうなんだ。おれ、そのチンプンカンプンをすこし本で習ったよ。もしかりに人がお前のところに来て、ポリー・ヴー・フランジーと言ったら……どう思うかい?」
「おら、何も考えねえよ。つかまえてそいつの頭を叩き割ってやるだ。もちろん、そいつが白人でなければだよ。ニガーがそんなふうにおらを呼んだら承知しねえから」
「ちえっ、別にお前のことをとやかく言っているんじゃねえよ。ただ、フランス語の話し方を知っているか、と言ってるだけだよ」
「じゃ、なんでそう言えねえだ?」
「いや、そう言ってるんだよ。それがフランス人の言い方なんだよ」
「へえー、そいつぁ、すごくおかしな言い方でねえか。おらもう、そんなの聞きたかねえ。全然意味がねえもんな」
「おい、ジム、猫はおれたちみたいに話をすることができるかい?」
「いいや、猫にはできねえ」
「じゃ牛は?」
「いいや、牛にもできねえ」
「猫は牛みたいに話し、牛は猫みたいに話すかい?」
「いいや、話さねえ」
「猫と牛がたがいに違った話し方をするのは当たり前の正しいことだろう?」
「もちろんだよ」
「そんで、猫と牛がおれたちと違った話し方をするのも当たり前の正しいことじゃねえだろうか?」
「まあ、たしかにそうだ」
「だとすると、フランス人がおれたちと違った話し方をするのが、どうして当たり前で正しくはねえのかね? 答えてみろよ」
「猫は人間かい、ハック?」
「いいや」
「それじゃ、猫が人間みてえに話をしても意味がねえ。牛は人間かね?……牛は猫かね?」
「いいや、どっちも違うよ」
「だとすると、牛が猫や人間みてえに話をする必要はねえわけよ。フランス人は人間かね?」
「そうだよ」
「だとすると、いってえ、どうしてフランス人は人間みてえに話をしねえのかね? 答えてくんなせえ!」
もういくらしゃべってもむだだということがわかった……ニガーには議論の仕方を教えることはできない。そこでおれはやめた。
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十五 ハック筏《いかだ》を見失う
あと三晩もすればイリノイ州の一番下のカイロに着くだろうとおれたちは判断した。そこはオハイオ川の流れこむ地点で、おれたちはここを目的にしていたのだ。おれたちは筏《いかだ》を売って、蒸汽船にのり、自由州の中をオハイオ川をのぼって行って、不幸な境遇から解放されることになるだろう。
ところで、二晩目に霧が出はじめ、おれたちは筏をつなぐためにひとつの砂州《さす》へ向かった。霧の中を走ろうとするのは感心しないからだ。だが、つなぐために綱を持って、カヌーで先へ漕いで行ってみたが、つなぐのに小さな若木《わかぎ》しかなかった。おれは切り取られた岸の端にある若木の一本のまわりに綱を巻きつけてみたが、そこは流れがきつくて、筏が景気よく非常な勢いで流れてきたために、その木を根っこから引きぬいて、流れ去った。おれは霧につつみこまれて、もう胸が悪くなるやらこわいやらで、ほとんど三十秒と思われるほどのあいだ身動きもできなかった……そのときには筏《いかだ》の姿は見えなかったし、二十ヤード先が見えなかった。おれはカヌーに飛びのり、ともの方へ走って、櫂《かい》を掴《つか》み、ひと漕ぎうしろへもどそうとした。だがカヌーは動かなかった。あんまり急いでいて、ともづなをほどいていなかったのだ。おれは立ちあがってほどこうとしたが、すっかり興奮していて手がぶるぶる震え、ほとんどどうすることもできなかった。
動きだすやいなや、おれは一生けんめい筏を追い、砂州のすぐ下をくだった。砂州のあるあいだはよかったが、砂州は六十ヤードの長さしかなくて、その末端を飛ぶように通過した瞬間、おれは厚い白い霧の中へ突っこんでしまい、どっちへ進んでいるのか、死人同様見当がつかなくなった。
もう漕いでも仕様がない、とおれは思った。第一にわかったことは、岸か砂州か何かにぶつかるだろうということだった。だから、じっとおとなしくすわって、ただ流されていかなければならないわけだが、こういうときには手をつかねていなければならないということは、すごくやきもきすることだった。
おれはオーイとどなって耳をすました。はるか下の方のどこかで、小さくオーイという声が聞こえて、元気がわいて来た。おれはもう一度それを聞こうと真剣に耳をすましながら、声のした方へ突進した。つぎに声が聞こえて来たとき、おれはそっちへ向かっていないで、右手に向かっていることを知った。そのつぎは、左手に向かっていて……声の方へあまり近づいていなかった。おれはこっちの方へ、あっちの方へ、また別の方へとぐるぐる回っていたのに、声の方はずっとまっすぐに進んでいたのだ。
おれはジムの馬鹿がブリキの鍋《なべ》を叩《たた》くことを思いついて、ずっと叩きつづけてくれたらと思った。だがジムはそうしなかった。おれを困らせたのは、オーイとオーイのあいだの静かな合間だった。ところで、一生けんめいやって行くと、まもなくうしろでオーイという声が聞こえた。おれはもう頭がこんぐらがってしまった。だれかほかの者の声か、あるいはおれがぐるっと回転してしまったのだ。
おれは櫂《かい》を倒した。またオーイという声が聞こえた。まだうしろだったが、前とは違った場所で、近よっては来るんだが、場所がたえず変わっていて、おれも答えをつづけているうちに、やがてそれはまた、おれの正面になって、おれは流れがカヌーの頭を下流に向けさせたことを知った。もしあのどなっているのがジムで、だれかほかの筏《いかだ》乗りでないならば、おれは大丈夫なのだ。霧の中の声はどうしても区別がつかない。霧の中では何ひとつ自然とは見えないし、自然に聞こえないからだ。
オーイ、オーイという声はなおもつづいて、一分ばかりのちにはおれは、煙ったようにボーッとした亡霊のような大きな木のある切り取られた岸に向かって景気よく流されて行ったが、流れはおれを左手に突き放し、ごうごうと音を立てているたくさんの沈み木のあいだを矢のように過ぎていった。流れは沈み木のために一段と速いものとなっていた。さらに一秒か二秒のちには、あたりはまたもやまっ白な霧で静まりかえっていた。おれはただじっとすわって、心臓のドキンドキンと動悸《どうき》を打つのを聞いていたが、おれは百遍の動悸《どうき》のあいだ一度も息をしなかったように思った。
そのとき、おれはもうあっさりあきらめた。どうなっているのかわかった。あの切り取られた岸は島だったのだ。そしてジムは島の向こう側へ行ってしまったのだ。十分もあれば通りすぎてしまうような砂州ではなかったのだ。まともな島の大きな森林が、あの島にはあった。長さは五、六マイル、幅は半マイル以上あったかもしれない。
十五分間くらいだったと思うが、おれは聞き耳をたてて、じっとしていた。もちろん、一時間四マイルか五マイルの速さで流されていたが、人は自分ではそういうことは考えない。たしかにそのとおりで、自分は水の上に死んだように静かに横たわっていると感じるだけで、沈み木がそばをすべるように通過して行くのをちらと見ても、自分がどんなに速く流れているかなどとは思わないで、ただ息をのんで、おや、あの沈み木はなんて速く流れているんだろう、と思うだけだ。
そんなふうに、夜、たったひとりで、霧の中にいても、恐ろしくも寂しくもないと思ったら、一度やってみるがいい……わかるだろう。つぎに、三十分ばかりのあいだ、おれはときどきオーイ、オーイと呼んでみた。とうとう遠くの方に返事が聞こえて、おれはその声のあとを追おうとしたが、できなかった。まもなくおれは砂州の群れのなかへ入りこんだと判断した。
というのは、両側に砂州が小さくぼんやりとちらと見えたかと思うと、ときどきは砂州と砂州のあいだのせまい水路であったり、また見えない砂州の場合もあって、そこにあることがわかるのは、岸から垂れさがる古い枯れ枝やくずを流れが洗っている音が聞こえてくるからだ。
さて、それからそう長くたたないうちに、オーイという声が下の砂州の群れのあいだから聞こえてきたが、それを追うのは鬼火を追うよりもぐあいが悪かったので、とにかく、しばらくその声のあとを追ってみようとしただけだった。あんなにひらりと身をかわしたり、あんなにすばやく、またたびたび場所を代える声は、今まで知らなかった。
おれは川の中に突き出ている島にぶつからないように、四、五回は、カヌーを元気よく岸から離れさせねばならなかった。そこで筏《いかだ》もときどき岸にぶつかっているに違いない、さもなければ、ずっと先の、声のまったくとどかないところまで行ってしまったんだろう、おれより少し速く流されているのだ、と判断した。
さて、おれはやがて再びひろびろとした川に出たらしかったが、どこからもオーイという声の「オ」も聞こえてこなかった。ジムは、ことによると、沈み木にのりあげて、万事終わりということになってしまったのだろうと思った。おれはくたくたに疲れていたので、カヌーの底に横になって、もう気にやむことはすまいと思った。もちろん、眠りたくはなかった。だが、眠くて眠くてどうにも仕様がなかった。そこで、ちょっとだけうたたねをしようと考えた。
だが、うたたねだけではすまなかったんだと思う。というのは、目をさますと、星はきらきらかがやき、霧はみんななくなって、おれは「とも」を先にして大曲りを疾走していたからだ。はじめは自分がどこにいるのかわからなかった。夢を見ているのではないかと思った。いろんな記憶がよみがえりはじめても、先週からぼんやりとあらわれてくるようだった。
このあたりは化け物のような大きな川で、両側の岸には最高に高くて繁茂《はんも》した森林があったが、星明りでよく見ても、ただ一枚のかたい壁のようであった。遠く下流の方をながめると、水上に小さい黒点がひとつ見えた。おれはそれを追ったが、着いてみると、二枚の板材をしっかりとゆわえつけたものにすぎなかった。やがて別の点が見えて、それを追った。また別のがあって、今度はおれの思ったとおりで、筏《いかだ》であった。
筏に着いてみると、ジムが右腕を舵《かじ》とりオールにかけ、頭を両膝のあいだに落としたまま眠っていた。
もう一本のオールはこなごなにくだけ、筏には木の葉や枝やごみが散らばっていた。だから、ひどい目にあってきたのだ。おれはカヌーをつないで、筏《いかだ》の上でジムの鼻先に横になり、あくびをして、拳固《げんこ》をジムの体に突きつけて、言った。
「やあ、ジム、おれは眠ってしまったんだな? なんで起こしてくれなかったんだい?」
「こりゃ驚いた、おめえさまかね、ハック? おめえさまは死なんかった……おめえさま溺れ死なんかった……またもどって来たんだね? 夢ではねえのか、坊や、夢ではねえのか。おめえさまの顔を見せてくだせえ、坊や、さわらせてくだせえ。いいや、おめえさまは死んではいねえ! ぴんぴんして達者《たっしゃ》でもどって来た、元のまんまのハックだ……元のまんまのハックだ、ありがてえ、ありがてえ!」
「どうしたんだい、ジム? 飲んでいたのかい?」
「飲んでいた? おらが飲んでいたって? 飲んでいる暇があるもんですか?」
「そんでは、どうしてそんな途方もねえことを言うのかい」
「途方もねえ話ってのは、どんなふうによ?」
「どんなふうにって、お前はまるでおれがどこかへ行ってしまったみたいに、おれが帰って来たとかなんとか言ってるじゃないか」
「ハック……ハック・フィン、さあ、おらの目をよく見てくんなせえ、おらの目を見てくんなせ。おめえさまはどこにも行ったんでねえかの?」
「行ってしまったって? 一体全体、それはどういう意味だい? おれはどこにも行きはしなかったよ。どこへ行くというのかい?」
「いやいや、待って、親方、なんだか臭《くせ》えよ。おらはおらだろか? それともおらはだれだろか? おらはここにいるのか? それともおらはどこにいるのだろか? おらが知りてえのはそれだ」
「いや、お前がここにいることははっきりしていると思うよ。だが、ジム、お前は頭のこんぐらがった大馬鹿だと思うよ」
「おらがそうかね? じゃ、これに答えてくんなせえ。おめえさま、砂州に筏《いかだ》をゆわえつけようと、カヌーで綱もって行かなかったかね?」
「いや、もって行かなかったよ。砂州って何かね? 砂州なんか見たこたねえよ」
「砂州を見たこたねえって? ちょいと……綱がほどけて、筏《いかだ》はどんどん川を流れ、おめえさまとカヌーを霧ん中に残してきたでねえんか?」
「どんな霧かい?」
「もちろん、あの霧よ。ひと晩じゅうかかっていたあの霧よ。で、おめえさまはオーイとどなり、おらもオーイとどなったでねえか。そうしているうちに、おらたちたくさんの島ん中で方向がごちゃごちゃになって、自分がどこにいるのかわからなくなったもんで、ひとりは迷子になり、もうひとりも迷子になったみたいなもんでねえか? そんでおらはあっちこっちの島にぶつかって、ひどい目にあって、溺れ死にそうになったんでねえか? な、そうでねえのか、親方……そうでねえのか? 答えてくんなせえ」
「いやあ、返事の仕様がねえよ、ジム。おれは霧も見なかったし、島も、災難も、何にも見ていないんだ。おれはここにすわって、ひと晩じゅうお前と話しているうちに、十分ばかり前にお前は眠ってしまい、おれも眠ってしまったんだと思う。その時間のうちにお前が酔っぱらうなんてこたぁできねえから、もちろんお前は夢を見ていたんだよ」
「しゃくだね、どうしておらが十分間にそれだけの夢が見られるんかね?」
「いや、何が何でも、お前は夢を見たんだよ。そういうことは何ひとつ起こっていないんだから」
「だけんど、ハック、おらには何もかもはっきりと……」
「どんなにはっきりしていたって問題じゃない。実際は何にもないんだ。おれはずっとここにいたから、わかっているよ」
ジムは五分間ばかり何にも言わないで、そこにすわったままじっと考えこんでいた。それから言った。
「そんじゃ、おら夢を見たんだと思う、ハック。だけんど、正直の話、あんなすげえ夢はおら見たこたねえ。またこんだの夢みてえにくたびれる夢は今まで見たこたねえ」
「ああ、まったく、そのとおりで、夢もときには人をひどくくたびれさせるからな。だが、これは強烈な夢だ……全部話してみてくれよ、ジム」
そこでジムはさっそく事件の一部始終を、起こったとおりに、話しだしたが、ただだいぶ色をつけて話した。それから、これはひとつの警告として送られたんだから、まずはじめに「解釈」しなければならない、と言った。
最初の砂州は、おれたちに何かいいことをしようとする人をあらわしているが、流れはおれたちをその人から引き離そうとする別の人をあらわしているのだ。オーイ、オーイとどなる声は、ときどきおれたちに示される警告で、もしおれたちが、それを理解しようと一生けんめいにならないと、おれたちは災難から遠ざかるかわりに、それに引きずりこまれてしまうだろう。たくさんの砂州というのは、おれたちがこれからけんか好きの人たちやいろんな卑劣な連中とかかわりあいになる面倒なことを意味しているんだが、もしおれたちが人にいらぬおせっかいをやかないで、口答えしたり怒らせたりもしないならば、おれたちはきっと困難を切りぬけて、霧の中からじゃまのない大きな川へ出られるだろう。この川は自由州で、面倒なことはもうなくなるのだ。
筏《いかだ》にのりこんだ直後は、かなり暗く曇《くも》っていたが、今また晴れあがろうとしていた。
「ああ、そこまではうまく解釈がついたようだが、ジム」とおれは言った、「だが、これは一体何をあらわしているんだ?」
それは筏《いかだ》の上の木の葉やがらくた、またこわれたオールのことだった。ジムはごみくずをながめてから、おれをながめ、またごみくずを見た。ジムはその夢をがっちり頭の中に定着させてしまったので、それをゆるめて追いだし、代わりに事実をすぐさま置きかえることはできないようだった。だが、ことがらの整理ができると、ジムは、にこりともしないで、おれをじっと見つめると、言った。
「何をあらわしているかってんですか? 教えてやりますよ。いろんなことをしたり、またおめんさまを呼ぶんでもうくたくたに疲れてしまって、眠ったとき、おらの心は、おめえさまがいなくなったので、張り裂けようとしていて、おらも筏《いかだ》もどうなったってかまうもんかと思っていました。目をさまして、おめえさまが無事で達者でまたもどっているのを見たときにゃ、涙が出て、おら、ひざまずいておめえさまの足にキスしてえくれえだった。それほどありがたかったんよ。そんなのに、おめえさまの考えていることっていえば、どうしたら嘘をついてジムをだませるかということばかりでねえか。そこのごみくずはゴミクズさ。ゴミクズってのは、友だちの頭に泥をかけて恥をかかせるような人間のことよ」
それからジムはのろのろと立ちあがって、小屋の方へ歩いて行き、あとは何も言わずに、そこへ入った。だが、それだけで十分だった。おれはもう自分がすっかりあさましくなって、ジムの足にキスして、さっきの言葉を撤回《てっかい》してもらいたいと思ったほどだった。
ニガーなんかにあやまりに行く決心のつくまでに十五分もかかったんだが……とにかくおれはそれをしたし、あとになってもそのことを後悔しなかった。それからもうジムに卑劣ないたずらをしなかったし、今度のいたずらだって、もしジムがあんなふうな気持ちになることがわかっていたら、やりはしなかっただろう。
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十六 期待
おれたちはほとんど昼じゅう眠って、夜、まるで行列みたいに長々と進んで行く化け物のような長い筏《いかだ》のすこしあとについて、出発した。その筏は両端に四本の長いオールがついていたから、たぶん三十人は乗っていただろうと判断した。筏《いかだ》の上には大きな小屋が五つ、ひろく離れてあって、真中には覆《おお》いのない焚火があり、また両端に高い旗竿が立っていた。大変なカッコのよさであった。これくらいの筏の乗り手になるとたいしたものだ。
おれたちはある大曲りへ流れて行ったが、夜はすっかり曇《くも》って、暑くなった。川は非常にひろくて、両側とも深い森林でかこまれ、すきまもほとんど見えなければ、明りひとつ見えなかった。おれたちはカイロの話をして、そこに着いたときわかるだろうかと心配した。たぶんわからないだろう、とおれは言った。そこには十軒あまりの家しかないという噂を聞いていたからで、もしその家が明りをつけなかったとしたら、おれたちは町を通過しているってことがどうしてわかるんだろう? ジムは、もし二つの大きな川が合流していれば、それでわかるだろう、と言った。
だがおれは、ことによるとおれたちはある島の末端を通過していて、また前と同じ川へ来ているのだと思うかもしれないではないか、と言った。この言葉にジムは不安になった……おれもそうなった。そこで問題は、どうしたらいいか、ということだった。
おれは、明りが見えたらまず第一に、岸へ漕いで行って、お父《とう》があとから商《あきな》い舟でやってくるんだが、何しろまだ新米だから、カイロまでどれくらいあるか知りたいんだ、と言ったらどうか、と言った。ジムはそれはいい考えだと思ったので、おれたちはそこで一服して待った。
今は、するどく町を見張っていて、知らないうちに通過しないようにするほか、何もすることがなかった。ジムは、おらはどんなことがあってもきっと見つけてやる、見つけたとたんにおらは自由になるんだから。だが、見落としたらさいご、また奴隷国に入って、二度と自由になる機会はないのだ、と言った。
「ありゃ、町だ!」
だがそうじゃなかった。鬼火かホタルで、ジムはまた腰をおろし、前と同じように、見張りをつづけた。ジムは、こんなに自由に近づいて来ると、体じゅうが震えて熱っぽくなる、と言った。ところで、おれのほうも、ジムのそういう言葉を聞くと、体じゅうが震えて熱っぽくなった。それは、ジムはもうほとんど自由だ……だれのせいだ? もちろん、このおれだ、という考えが頭に入りはじめたからだ。おれはその考えを、どうしても何としても、良心から追いだすことができなかった。それがおれを苦しめて、落ちつくことができなくなり、一か所にじっとしていることができなくなった。おれが今やっていることはどんなことなのか、今までは一度もピンと来なかった。だが、今はピンと来て頭から離れず、だんだんおれをはげしく苦しめた。
おれは別にジムを正当の持ち主から逃げださせたわけじゃないのだから、これはおれのせいじゃないんだ、といくら自分に納得させようとしても、むだで、そのたんびに良心が頭をもたげて言った、「だがお前はジムが、自由のために逃げだしたということは知っていた。これから岸へ漕いで行って、だれかに話すこともできたのだ」と。
そのとおりだった……何とも言いのがれようはない。痛い急所はそこだった。良心はおれに言った、
「ミス・ワトソンのニガーが現に目の前を逃げて行くのを見ながら、ひと言も言わないなんて、かわいそうにミス・ワトソンがお前に何をしたというのだ? あの人にこんな卑劣な仕返しをするなんて、あのかわいそうなばあさんが一体お前に何をしたというのだ? ただ、お前に本を教えようとしたり、行儀作法《ぎょうぎさほう》を教えようとしたり、知っているかぎりの方法でお前によくしてやろうとしただけじゃないか。あの人のしたのはそれだけだぞ」
おれはなんともあさましくてみじめな気持ちになったので、死んでしまいたくなった。せかせかと筏《いかだ》の上を行ったり来たりしながら、自分で自分を責めたが、ジムもせかせかとおれの横を行ったり来たりした。
おれたちはふたりとも、じっとしていることができなかった。ジムがこおどりして「あれがカイロだ!」と言うたびに、おれは鉄砲に射《う》たれたような気持ちで、もしカイロだったら、みじめな気持ちのために死ぬだろうと思った。
おれがひとりごとを言っているあいだじゅう、ジムは大声でしゃべった。自由州に着いたら、まずやりたいことは金を貯《た》めて一セントも使わないこと、そして十分貯まったら、ミス・ワトソンの住んでいる場所の近くの農場の持ちものになっている細君を買うこと、それから二人で働いて二人の子供を買うんだ、もし主人が売ってくれなかったら、奴隷廃止論者にたのんで盗んでもらうんだ、とジムは話していた。
こういう話を聞くと、おれは体がぞくぞくした。ジムは今までこんな話を大胆《だいたん》にしたことなどなかった。自由になりそうだと判断した瞬間に、何という変わり方をしたものか。「ニガーに一インチを与えると一エルを取る」〔エルは一インチの約五十倍。黒人はずうずうしくてすぐつけあがる、という意味〕という昔のことわざどおりだ。これもおれの考えのたりなさから来たんだ、とおれは思った。ここにいるこのニガーは、おれが逃亡を助けたも同然のやつで、ずうずうしくも、自分の子供を盗むと言いきっているではないか……おれの知ってさえいない人、おれに今までひとつも害をあたえたこともない人の持ちものになっている子供たちを。
ジムがこんなことを言うのを聞いて、おれは残念だった。ジムも下落したものだ。おれの良心は前よりももっとはげしくおれを扇動《せんどう》しだして、とうとうおれは言ってやった、「あんまり苦しめないでくれ……まだ手遅れじゃない……最初の明りが見えたら、岸へ漕いで行って話すから」と。
これでおれもたちまち気が休まり、楽しくなり、羽根のように気持ちが軽くなった。悩みはみんななくなった。おれは明りをするどく見張って、なんとなくひとりで歌をうたっていた。やがて、明りがひとつ見え、ジムが呼んだ。
「おらたちは助かった、ハック、大丈夫だ! さあ、跳《と》びあがって、はねまわってくんなせえ、とうとうなつかしいカイロに着いた、ちゃんとわかるだ!」
おれは言った。
「ジム、カヌーで行って見てくるよ。カイロでないかもしれないよ」
ジムは飛びあがって、カヌーの用意をして、自分の古い上衣をおれがすわれるように底に敷いて、櫂《かい》をおれに渡した。そしておれが漕ぎだすと、ジムは言った。
「まもなくおらはうれしくって、大きな声を出して、これもみんなハックのおかげだ、と言うだ。おらは自由の身だ。けんど、ハックがいなかったら、自由にはなれなかっただ、ハックがやってくれたんよ。ハックよ、ジムはおめえさまのことは決して忘れねえだ。おめえさまはジムの今までなかったような一番ええ友だちだ。ジムが今持っているたった一人の友だちだ」
おれは、ジムを大急ぎで密告しようと漕いでいたが、ジムにこう言われると、せっかくの勇気も何となくくじけてしまいそうになった。おれはそこでゆっくりと前進して、出かけて来たのがうれしいのかうれしくないのか、まったくはっきりしなくなってしまった。五十ヤードほど離れたとき、ジムが言った。
「そこへ行くのは、誠実なハックだ。ジムじじいに約束をまもったたった一人の白人の紳士だ」
いやはや、おれは気持ちが悪くなった。だが、おれはどうしてもこのことをやらなければならない……避けることができないのだ、とおれは自分に言って聞かせた。ちょうどそのとき、鉄砲を持た二人の男をのせた小舟がそばへ来て、とまったので、おれもとまった。男の一人が言った。
「あそこのあれは何だ?」
「筏《いかだ》です」とおれは言った。
「お前はあの筏の人間か?」
「そうです」
「だれが乗っているか?」
「たったひとり乗っています」
「いや実は、五人のニガーが今夜、向こうの大曲りの先の方で逃げたんだ。お前の男は白か黒か?」
おれはすぐには答えなかった。答えようとしたが、言葉が出てこないのだ。一秒か二秒のあいだ、心を引きしめて言ってしまおうとしたが、勇気が出せなかった……兎《うさぎ》の気力もなかった。弱気になっているのがわかった。そこでおれの努力はあっさりあきらめて、はっきり言ってやった。
「白人です」
「おれたちが行って見ようじゃないか?」
「そうしていただきたいんです」とおれは言った、「あそこにいるのはお父《とう》で、ことによると、あなた方は明りのある向こうの岸へ筏《いかだ》を引っぱって行く手伝いをしてくれるでしょうねえ。お父は病気で、おっ母《かあ》もメアリ・アンもそうなんです」
「あ、とんでもない! おれたちは急いでいるんだ、坊や。だが、手伝ってやらなくちゃならんだろうな。さあ……櫂《かい》を漕ぎな、出かけよう」
おれは力いっぱい櫂を漕ぎ、二人の男も自分たちのオールを漕いだ。ひと漕ぎかふた漕ぎをしたとき、おれは言った。
「お父はおじさんたちにすごく感謝しますよ、本当に、ほかの人に筏《いかだ》を岸へ引っぱる手伝いをたのむと、みんな逃げてしまうんですよ。だがおれ一人じゃできないし」
「そうか、そいつぁひどい意地悪だな。だが、おかしいぞ。おい、坊や、お前のおやじさんはどうかしたのかい?」
「そりゃその……いや……別に、たいしたことじゃないんです」
男たちは漕ぐのをやめた。もう筏《いかだ》までごくわずかな距離しかなかった。
「坊や、それは嘘だ。お父はどうしたんだ? さあ、まっすぐ返事をしてみろ。そのほうがお前のためだよ」
「しますよ、正直にしますよ……しかし、どうか、おれたちを置いていかないでください。それは……おじさんたちよう……ちょっと先になって漕いでって、おれがおじさんにとも綱を投げられるようにしてください、おじさんたちは筏《いかだ》に近よらなくたっていいんです……お願いです」
「舟をもどせ、ジョン、舟をもどせ!」とひとりが言った。二人は水を後ろにかいて後退した。
「離れてろ、坊や……風下《かざしも》におれ。畜生め、風でそれがおれたちに吹きつけられたようだぞ。お父は天然痘《てんねんとう》にかかっていて、お前はそれをよーく知っているんだ。なんでちゃんとそう言わなかったんだ? そいつをそこらじゅうに撤《ま》きちらしたいのか?」
「だけど」とおれは、オイオイ泣きながら、言った。「今までみんなにそう言ったんだが、みんなはおれたちを置いてきぼりにして行っちまったんです」
「かわいそうにな、だがそれももっともだ。本当に気の毒だと思うよ、だが、おれたちは……おれたちは、えい畜生、おれたちは天然痘は欲しくないんだよ、な。いいかい、どうしたらいいか教えてやる。ひとりで陸へあがろうとしちゃいかんよ。さもないと何もかもめちゃくちゃになるからな。二十マイルほどくだって行くと、川の左手にある町へ来る。そのころは、日の出からずいぶん時間がたっていて、手伝いをたのむときは、家族の者がみんな風邪や熱で倒れていると言うんだよ。また馬鹿な真似をして、本当のことを見当つけさせるんじゃないよ。ところでおれたちはお前にいいことをしてやろうと思っているんだから、いい子だ、ここから二十マイル離れてくれ。向こうの明りのあるところへ上陸してもむだだよ……あれはただの材木置場だからな。おい……お前のおやじさんは貧乏なんだろう、それにきっとひどい目に会っているんだろうな。そら……この板の上に二十ドルの金貨をのせておくから、板がそばへ流れて行ったら、取れよ。お前をほうって行くのはすごく卑怯なような気もするが、まったくの話、天然痘と仲よくするのはよくないからな、わかるだろう?」
「待て、パーカー」と別の男が言った、「おれの分として二十ドル、板にのせておくよ。あばよ。坊や。パーカーさんに言われたとおりにしろよ、そうすりゃ大丈夫だから」
「そうだ、坊や……あばよ、あばよ。もし逃亡奴隷を見たら、手伝いをたのんで、つかまえろ。いくらか金になるからな」
「さよなら」とおれは言った、「できれば、逃亡奴隷なんか一人だっておれの目をのがれさせませんよ」
二人は去って、おれは筏《いかだ》にあがったが、気持ちは沈んで冴えなかった。自分は間違ったことをしたということがよくわかっていたからで、いいことをしようと勉強してもおれにはだめなことがわかった。小さいときからちゃんとはじめない人間には、機会がないのだ……せっぱつまっても、うしろから支えて仕事をつづけさせてくれるものがないから、負けてしまうのだ。
それからおれはちょっと考えて、自分に言った、いや、待て……もしお前が正しいことをしてジムを渡していたら、今のこの気分よりもっといい気持ちになるだろうか? いいや、とおれは言った、いい気持ちがしないだろう……今とまったく同じ気持ちがするだろう。それでは、とおれは言った、正しいことをするのが面倒で、悪いことをするのが面倒でないとして、しかも報酬がまったく同じであるとしたら、いいことをしようとする勉強は何の役に立つのか? おれは動きがとれなくなった。答えられなかった。そこで、もうこのことをくよくよ気にするのはやめて、これからは何でもいちばん手近に来たやつをやることにしようと思った。おれは小屋の中へ入って行った。ジムはそこにはいなかった。あたりを見まわした。どこにもいなかった。おれは言った。
「ジム!」
「ここだよ、ハック。連中はもう見えなくなったかね? 大きな声でしゃべらないで」
ジムは川の中の、「とも」のオールの下にいて、鼻だけ出していた。おれはジムに、連中は見えなくなったから、あがって来い、と言った。ジムは言った。
「話はみんな聞いていただ。そんでおら、水ん中へそっと入り、もし連中があがってきたら、岸の方へ出かけるつもりだった。そんで、連中がいなくなったら、また筏《いかだ》へ泳いでくるつもりだったんよ。だけんど、えれえね、ハック、おめえさまはまた連中をうまくだましたもんよ! あんなに抜け目のねえごまかしはねえよ! 正直言って、坊や、あれでジムじじいは助かったと思うね……ジムじじいはこのことでも、おめえさまを忘れるこたねえですよ、坊や」
それからおれたちは金の話をした。ひとり二十ドルだから、相当の儲《もう》けだった。ジムは、これでおれたちは蒸汽船の甲板船客になれるし、これだけの金があれば、自由州の行きたいところまで行けるだろう、と言った。あと二十マイルは筏で行くにはたいした距離ではないが、早くカイロへ着きたいものだ、とジムは言った。
明け方近く、おれたちは筏《いかだ》をつないだが、ジムは筏をうまく隠すのにすごくうるさかった。それからジムは一日じゅう体を動かして荷物をいくつかの包みにまとめたり、筏の旅をやる仕度をした。
その夜の十時ころ、おれたちはずっと下流の左手の大曲りに町の明りの見えるところへ来た。
おれはカヌーにのって、聞きに出かけた。まもなく小舟で川に出て、鉤《かぎ》のある釣糸を仕かけている男を見つけた。おれは舟を並べて、言った。
「おじさん、あの町はカイロですか?」
「カイロ? いいや。お前は大馬鹿もんだね!」
「なんていう町です、おじさん」
「知りたかったら、行ってしらべろ。あと三十秒もこの辺にうろうろして邪魔したら、欲しくないものをもらうことになるぞ」
おれは筏《いかだ》へ漕いでもどった。ジムはすごくがっかりしたが、おれは、気にするな、つぎの町がカイロだと思うよ、と言った。
夜明け前にまた別の町を通過して、おれはまた出かけようとしたが、地面が高くなっていたので、行かなかった。カイロのあたりは高台ではない、とジムは言った。おれもそのことは忘れていた。おれたちはその日は、左手の岸にかなり近い砂州で休むことにした。おれは何だかおかしいという気になりはじめた。ジムもそうだった。おれは言った。
「ことによると、あの晩、霧の中でカイロを通過したのかもしれないよ」
ジムは言った。
「ハック、もうその話はあまりしないでくれ。かわいそうなニガーには運が向いてこねえんだよ。おら、いつも、あのガラガラ蛇の皮は、たたりをまだ終わっていねえと思ってたんよ」
「あの蛇の皮を見なければよかったと思うよ、ジム……あんなものに目をとめなければよかった」
「おめえさまが悪いいんじゃねえ、ハック。おめえさまは知らなかったんよ。自分のせいにしねえでくんなせえ」
夜が明けると、はたして、こちらの岸の近くにはすんだオハイオ川の水があり、外の方には、今までどおりのまぎれもない濁流があった! だからカイロの望みはなくなってしまったのだ。
おれたちは話しあった。岸へあがってもむだだろうし、筏《いかだ》で流れをのぼることはもちろん、できない。暗くなるのを待って、カヌーでもどり、運にまかせて一《いち》か八《ばち》かやってみるよりほかに方法がなかった。そこでおれたちはハコヤナギの茂みの中で一日じゅう眠って、この仕事のために元気になろうとしたが、暗くなって筏《いかだ》へもどってみると、カヌーがなくなっていた!
おれたちはしばらくのあいだひと言も発しなかった。何にも言うことはなかった。これもガラガラ蛇の皮のたたりであることはよくわかっていたから、その話をしたところで何の役に立っただろう? せいぜい非難しているように見えるのが落ちで、そうなればもっと災難をまねくようになって……黙っているのが一番だということがわかるまでは、災難をまねきつづけるのはきまっていた。
やがて、おれたちはどうしたほうがいいか話しあい、もどるためのカヌーを買う機会をつかむまでは、筏でただくだって行く以外には、方法のないことを知った。お父《とう》がよくやったように、あたりに人がいなくともそれを借りようなどとは思わなかった。そんなことをすれば人に追われることになるかもしれないからだ。
そこでおれたちは、暗くなってから、筏《いかだ》で出発した。
これだけ蛇の皮がおれたちにたたりをしたあとでも、蛇の皮いじりは無分別であるということを、まだ信じない人は、この先を読んで、さらにどういうたたりをしたかを知れば、今度こそ信じるようになるだろう。
カヌーを買う場所は筏がたくさん岸につないであるところからそう離れていない。だが、筏のつないであるのが見えなかった。そこでおれたちは三時間以上ものあいだ流れて行った。さて、夜が灰色になった、というよりはどんよりと曇って、これは霧のつぎにいやなものだ。何の形もわからなければ、距離もはっきりしなくなる。夜もふけて静かになった。
そのとき一|艘《そう》の蒸汽船が川をのぼって来た。おれたちはカンテラをつけて、汽船がこれを見てくれるだろうと判断した。のぼりの船はだいたいにおいておれたちの近くには来なかった。砂州から砂州へと進路をとって、暗礁《あんしょう》わきのゆるい流れをさがしてゆくが、こういう夜は、川全体を真正面にうけて水路をがむしゃらにのぼって行くのだった。
蒸汽船がポンポン音をたてて進んで行くのは聞くことができたが、そばに来るまでは姿はよく見えなかった。船はまっすぐおれたちを目標にして来た。蒸汽船はときどきこういうこをやって、接触しないでどれくらい近くまで来れるかためしてみる。ときには外輪が筏《いかだ》の「大がい」をさらってしまうこともあって、そういうときは水先案内は首をつきだして大きな声で笑い、自分がすごく器用だと思うようだ。
ところで、今もまた蒸汽船がやって来て、おれたちとすれすれに通るつもりだろう、とおれたちは言っていたのだが、すこしも横へそれる気配がなかった。大きな蒸汽船で、おまけに急いでやって来て、まわりにホタルを何列もつけた黒い雲のよう思えた。だが、突如として船は大きくおびやかすようにふくれあがって、大きくあけた炉の戸の長い一列を、まるで赤熱の歯みたいにかがやかせ、その化け物のような船首と外輪|覆《おお》いがおれたちの真上からおおいかぶさって来た。おれたちに向かってどなる声、エンジンをとめようとしてジャンジャン鳴らす鐘の音、口々にとなえるののしり、汽笛の音があって……ジムが一方の側から、おれが別の側から水に飛びこんだとき、汽船は筏《いかだ》を真二つにして行ってしまった。
おれはもぐって……底までも行こうと思った。三十フィートの外輪がおれの体の上で回転しなければならないので、十分の余地をのこしておきたかったからだ。おれはいつも一分間は水にもぐっていることができたが、今は一分半ももぐっていたと思う。それから、破裂しそうになったので、あわてて水面に浮かびあがった。腋《わき》の下あたりまで浮きあがって、鼻から水を吹きだし、フーッと息をついた。もちろん景気のいい流れがあって、例の汽船もエンジンを止めてから十秒後には、もちろんまたエンジンを動かしていた。筏《いかだ》乗りのことなどたいして気にもとめていなかったからだ。だから今も汽船は水をかき回しながら川をのぼって行き、音は聞くことができたが、どんよりと曇った天候の中に姿を消して行った。
おれは十二回ばかりジムの名をどなったが、返事はなかった。そこで「立泳ぎ」しているあいだに体にさわった板をつかんで、それを前方に押しながら、岸に向かって泳いだ。だが流れの方向が左手の岸の方にむかっていることがわかって、自分が流れの落ち合い点にいることになったので、おれは方向を変えて、そちらへ向かって行った。
それは長い、斜めに流れる、二マイルもの落ち合い点のひとつであったので、それを乗り切るのにずいぶん長い時間がかかった。おれは無事に陸へあがり、川岸をよじのぼった。すこし先までしか見えなかったが、でこぼこの地面を四分の一マイルかそれ以上ものろのろと歩いて行って、やがて、自分でも気づかないうちに、大きな旧式の二重の丸太づくりの家にぶつかった。おれは走って横を通りぬけようとしたが、たくさんの犬が飛びだして来て、おれに吠《ほ》えたりうなったりしはじめた。一歩も動かないほうがいいということはわかっているのだ。
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十七 夜の訪問
三十秒ばかりしてだれかが、窓から頭もつきださずに、言った。
「お前たち、吠えるのはやめろ! そこにいるのはだれだ?」
おれは言った。
「おれです」
「おれとはだれだ?」
「ジョージ・ジャクソンです」
「なんの用だ?」
「用はありません。ただ通りすぎたいんですが、犬が通してくれないんです」
「こんな夜中に、なんのためにこの辺をうろついているんだ……おい?」
「うろついていたんじゃありません。蒸汽船から落ちたのです」
「えっ、落ちたのか、お前が? だれか、明りをつけろ。名前は何だと言ったかね?」
「ジョージ・ジャクソンです。まだ子供です」
「いいか、もしお前が本当のことを言っているんなら、こわがる必要はない……だれも危害を加えはしない。だが、動こうとしちゃいかんぞ、そこにそのまま立っていろ。お前たちのうちだれかボブとトムを起こして、銃を持って来い。ジョージ・ジャクソン、だれかお前といっしょか?」
「いいえ、だれもいません」
このころになると、家の中で人の動きまわる音が聞こえ、明りも見えた。男がどなった。
「その明りはさっさと持って行け、ベッツィ、馬鹿もん……分別がないのか? 玄関のドアのうしろの床におけ。ボブ、お前とトムの用意ができたら、位置につけ」
「できました」
「では、ジョージ・ジャクソン、お前はシェパードソン一家を知っているか?」
「いいえ……聞いたことはありません」
「うん、そうかもしれんし、そうでないかもしれん。さあ、用意はできた。ジョージ・ジャクソン、前へ進め。それからいいか、急ぐんじゃないぞ……ゆっくりゆっくり来い。だれかいっしょだったら、うしろにいさせろ……姿を見せたら、射ち殺すぞ。さあ、やって来い。さあ、ゆっくり来い。ドアは自分で押してあけろ……体が割りこめるくらいにな、聞こえるか?」
おれは急がなかった。急ごうと思っても、急げなかった。一度に一歩ずつゆっくりと歩いた。物音ひとつなく、おれはただおれの心臓の音しか聞こえないと思った。犬どもは人間のように静かしていたが、おれのすこしあとからついて来た。
三段になった丸太の正面戸口の階段まで来ると、錠《じょう》をあけ、さんをあげ、かんぬきをはずしているのが聞こえた。おれは手をドアにかけて、すこしずつ押しているうちに、だれかが「よし、それでいい……頭を入れろ」と言った。おれはそうしたが、頭が引っこぬかれるのではないかと思った。
ろうそくが床においてあって、そこに全員がいて、十五秒ばかりのあいだ、おれをながめ、おれもみんなをながめた。三人の大男がおれに銃をさしむけていて、正直な話、これにはおれも縮みあがった。いちばんの年長者は白髪で六十くらい、ほかのふたりは三十かその上で……ふたりとも立派で好男子であった……それからこの上もなくやさしそうな白髪の老婦人と、そのうしろに若い婦人がふたりいたが、これはよく見えなかった。老紳士が言った。
「よし……大丈夫だと思う。入って来い」
入るやいなや、老紳士はドアに錠をかけ、さんをおろし、かんぬきをかけて、若い男たちに銃を持ったまま入って来るようにと言って、みんなは床に新しいじゅうたんの敷いてある大きな客間に入ると、正面の窓からうんと離れたひと隅《すみ》に集まった……そちら側にはだれひとり行かなかった。みんなはろうそくをかかげて、おれをよく見てから、口をそろえて、
「ああ、この子はシェパードソン家のものじゃない、シェパードソンらしいところは何にもない」と言った。
やがて老人は、武器をさがすが、気にしないでもらいたい、危害を加えるつもりはないんで……ただ確かめたいだけだから、と言った。
そこで、おれのポケットに手を入れてさぐったりはしないで、両手で外側をさわっただけで、よろしいと言った。老人はおれに気楽にしてくつろぐように、身の上話をするように言ったが、老婦人が言った。
「おやまあ、ソール、かわいそうにこの子はずぶ濡《ぬ》れじゃないの。それにお腹もすいているとは思わないんですか?」
「お前の言うとおりだ、レイチェル……忘れていた」
そこで老婦人は言った。
「ベッツィや」(これは黒人女の名であった)「さあさ、そこいらをあさって、できるだけ早く何か食べるものを持って来ておくれ、かわいそうにね。それからお前たち女の子の一人はバックを起こしに行って言っておくれ……まあ、バックのほうで来てくれたわ。バック、この小さいお客さんをつれて行って、濡れた服をぬがせ、乾いているお前のどれか服を着せておやりなさい」
バックはおれと同じくらいの年頃で……十三か十四かそこらあたりだが、体はおれよりもすこし大きかった。シャツだけしか着ていなくて、ひどくだらしのない頭をしていた。あくびをしながら、こぶしで両方の目をこすりながら入って来て、もう一方の手で銃を引きずっていた。バックは言った。
「シェパードソンのやつらが来たんじゃないのか?」
みんなは、遠うよ、間違いの合図だった、と言った。
「そうか」とバックは言った、「もし何人か来たんなら、ぼくもひとりは殺してやったと思うな」
みんなは笑い、ボブが言った。
「ほら、バック、やつらはおれたちみんなの頭の皮をはいでしまったかもしれないんだぞ。こんなに遅く来たんじゃなあ」
「だって、だれも呼びに来てくれないんだもの、無理だよ。ぼくはいつも出ないようにされてるだもの、機会がないんだよ」
「気にするな、バック、坊や」と老人が言った、「いずれそのうちに機会は十分あるよ、いらいらしちゃいかん。さあ、向こうへ行って、お母さんに言われたとおりにしなさい」
おれたちが階段をのぼってバックの部屋へ行くと、バックは目のあらいシャツと短い上衣とズボンを出してくれて、おれはそれを着た。それを着ているときに、バックは君の名は何というのかと聞いたが、まだ返事もできないうちに、一昨日《おととい》森でつかまえたアオカケスと兎の子の話をはじめた。そして、ろうそくが消えたときモーゼはどこにいたか、とたずねた。
おれは知らないと言った。今まで決して聞いたことがなかったからだ。
「いいから、当ててみろよ」とバックは言った。
「どうして当てることができるんだい」とおれは言った、「今まで一度もそんな話聞いたことがないのに」
「でも当てられるだろう? とてもやさしいんだよ」
「どのろうそくだい?」とおれは言った。
「なに、どのろうそくだっていいのさ」とバックは言った。
「どこにいたかわからないよ」とおれは言った、「どこにいたのさ?」
「もちろん、暗闇のなかだよ。そこにいたのさ!」
「いいかい、もしどこにモーゼがいたのか知っていたんなら、何のためにおれに聞いたんだい?」
「チェッ、いまいましいな! これは謎々《なぞなぞ》だよ、わからないかい? おい、君はどれくらいここにいるんだい? ずーっといなくちゃだめだよ。もうすぐ景気よく遊べるんだから……今は学校はないしさ。君は犬を持っているかい? ぼくは一匹持っているんだ。投げた板切れを川の中へ入って行って持って来るよ。君は、日曜日に、櫛《くし》をつかったり、そういう馬鹿々々しいことをするのが好きかい? はっきり言うと、おれは好きじゃないが、母さんがそうさせるんだ。このしゃくにさわるズボンめ、おれははいたほうがいいと思うんだが、はきたくないんだ、暑くるしいからな。君、支度はいいかい? よしよし……さあ行こうぜ、君」
つめたくなったとうもろこしパン、つめたい塩づけの牛肉、バターとバター・ミルク……これがおれのために用意してくれたものであるが、こんなうまいものは今までお目にかかったことがない。バックとバックの母さんと全員が、とうもろこしパイプでタバコを吸って、吸わなかったのは席をはずした黒人女と、二人の娘だけだった。
みんながタバコを吸ってしゃべり、おれも食ってしゃべった。娘たちはキルトふうの刺子《さしこ》の部屋着をまとって、髪を背中に垂らしていた。みんながおれにいろんな質問をして、おれは、お父とおれと家族のもの全部がアーカンソーの下の方の小さい農場に暮らしていて、姉のメアリ・アンは駆け落ちをして結婚したものの、何の音沙汰《おとさた》もないので、ビルが探しに出かけたところ、これまた音沙汰がなくなってしまった、トムとモートは死んで、お父とおれの二人だけ残されてしまったが、お父もいろんな苦労のために、ほとんど丸裸になってしまい、お父が死ぬと、農場はおれたちのものでなかったので、残ったものを持って、おれは甲板船客で川をのぼって来たんだが、船から落ちて、ここにこうしているようになったのだ、ということを話した。するとみんなは、いたいだけここを家にしてもいいと言った。
そのときはほとんど夜明け方で、みんなは寝床へ行き、おれはバックといっしょに寝たが、朝になって目をさましたとき、これは大変、おれの名前が何であったか、けろっと忘れてしまっていた。そこでおれは一時間ばかり横になったまま思いだそうとしたが、バックが起きたので、おれは言った。
「バック、君は字がつづれるかい?」
「できるよ」とバックは言った。
「きっとおれの名前はつづれないだろうな」とおれは言った。
「できないことがあるものか」とバックは言った。
「よし」とおれは言った、「やってごらんよ」
「G-e-o-r-g-e J-a-x-o-n……さあ、どうだ」とバックは言った。
「いやあ」とおれは言った。「よくできたよ。だが、君にはできないだろうと思っていたんだ。勉強しないで、即座につづれるようななまやさしい名じゃないからな」
おれはそれを、こっそり、書きとめた。今度だれかがおれにつづってみろと言うかもしれないからで、いつでも間に合うようにしておいて、さも慣れっこになっているかのように、ぺらぺらとやってのけたいと思ったのだ。
すごくすてきな家族で、またすごくすてきな家であった。田舎《いなか》でこんなにすてきな、こんなにカッコいい家は見たことがなかった。玄関のドアには鉄の掛け金もなかったし、鹿皮《しかがわ》の紐《ひも》のついた木製の掛け金もなくて、町の家と同じような真鋳《しんちゅう》の把手《とって》を回すようになっていた。客間にはベッドはなく、ベッドの気配もなかったが、町では客間にベッドのおいてあるところはたくさんある。底に煉瓦《れんが》を敷いた大きな壁炉があって、その煉瓦は、そこに水を流し、別の煉瓦でこすって、きれいに赤くされていた。またときにその煉瓦は、町の人がやると同じように、スペイン茶色という赤い水ペンキで洗われることもあった。板材をのせることができるくらい大きな真鋳《しんちゅう》の薪《まき》のせ台もあった。炉棚《ろだな》の真中には時計があって、そのガラスの正面の下半分には、ある町の絵が描いてあり、真中の丸い場所は太陽をあらわしていて、そのうしろで振り子の左右にゆれるのが見えた。この時計のチクタクという音は聞いていて美しかった。ときどき、行商人のひとりがやって来て、時計をすっかり掃除して調子をととのえたりするとき、くたびれて鳴りやむまで百五十もボンボンと鳴ることがあった。こういう時計でも、この家の人たちは売ってお金にしようとはしなかった。
さて、時計の両側には大きな見なれないオウムが一羽ずついたが、何か白墨《はくぼく》のようなものでできていて、派手な色に塗ってあった。一羽のオウムのそばには陶器の猫、もう一羽のそばには陶器の犬が置いてあって、押えつけると、キーキー鳴いたが、口をあけるでもなし、違った顔にもならず、またおもしろそうな顔もしなかった。ただ下の方からキーキー鳴くだけであった。
こういう物のうしろに大きな山七面鳥の羽でつくった扇が二枚ひろげられていた。部屋の真中のテーブルの上には、きれいな陶器のかごのようなものが置いてあり、リンゴとミカンと桃とブドウが積みあげられていて、本物よりもずっと赤くて黄色くて美しくはあったが、本物でなかったというのは、欠けている場所は下から白墨か何かがのぞいていたからだ。
このテーブルには美しい油布のテーブル掛けがかけてあったが、テーブル掛けは翼をひろげた鷲《わし》の形が赤と青で描いてあり、ふちも全部彩色されていた。これははるばるフィラデルフィアから来たものだそうだ。
テーブルのどの隅にも、何冊かの本がきちんと重ねておいてあった。一冊は絵のいっぱい入った大型の家庭用聖書〔代々家に伝えられる聖書で、巻末には家族の名前や生年月日を記す余白がある〕であった。一冊は『天路歴程』で、家出をした男のことが書いてあるが、家出の理由は書いてない。おれはこの本はときどきかなり読んだ。言っていることはおもしろいが堅苦しかった。もう一冊は美しい物語や詩のいっぱい入った『友情の贈り物』であったが、おれは詩は読まなかった。別の一冊はヘンリー・クレイの演説集、別のはガン博士の『家庭医学』で、もし人間が病気になったり死んだりしたときはどうしたらいいか、について全部書いてあった。賛美歌と、ほかにもたくさんの本があった。
ヤナギの割り枝を底に張ったすばらしい椅子も何脚かあった。まったく完全で……古いかごのように真中がへこんだり、やぶれたりしているものではなかった。壁には絵が何枚もかかっていた……おもにワシントンやラファイアット、戦争、高地のメアリなどの絵で、「独立宣言の署名」という一枚もあった。
クレオン画というものも何枚かあった。これは亡くなった娘の一人が、わずか十五歳のときに自分ひとりで描いたものであった。おれの今まで見たどんな絵とも違っていて、大体において、普通のよりも黒っぽかった。一枚はほっそりした黒いドレスを着た女で、腋《わき》の下をベルトで小さく締め、袖の真中はキャベツのようにふくらませてあった。それに黒いベールをつけた大きな黒いシャベルのような日よけ帽子をかぶり、白いほっそりした足首には黒い手打ちひもを巻きつけ、鑿《のみ》のようなとても小さな黒の上靴をはいていた。女はしだれ柳の下で、物思いに沈みながら右の肘《ひじ》をもたれるように墓石について、だらりと垂らしたもう一方の手には白いハンカチと手さげ袋がにぎられていた。そして絵の下には「もう会えないのか、悲しいかな」と書いてあった。
もう一枚は、髪の毛を全部頭のてっぺんまでまっすぐとかしあげて、椅子の背みたいな櫛《くし》の前で結んでいる若い女性で、ハンケチを顔にあてて泣いていて、もう一方の手には死んだ小鳥がかかとを上にひっくり返っていた。そして絵の下には「お前の美しい鳴き声はもう聞けない、悲しいかな」と書いてあった。若い女性が窓べで月を見あげながら、涙を頬に流している一枚もあった。一方の端に黒い封ろうの見える開封した手紙を片手に持って、鎖のついたロケットを口に押しあてていて、絵の下には「あなたは去った、そうだ、あなたは去った、悲しいかな」と書いてあった。
どれもこれもみんな立派な絵だと思う。だが、おれはどうも好きになれなかった。すこし気の重いようなときは、きっといらいらした気持ちにさせるからだ。
だれもかれも、この娘の死んだことを悲しんでいた。こういうふうな絵をもっとたくさん描くつもりでいたからで、残して行った絵を見ても、この家の人たちの失ったものがどんなに貴重なものであったかが、人にはわかった。だが、ああいう性質を持っているこの娘は、墓場にいるほうが楽しいだろうと、おれは思った。
娘は、病気になったとき、いちばんの傑作だという絵を描いていて、昼も夜も、これを仕上げるまで生かしておいてほしいというのが娘の祈りであった。だが、とうとうその機会はなかった。それは長い白い上着を着た若い女が、橋の欄干《らんかん》の上に立って今にも跳びこもうとしている絵で、髪は全部背中に垂らし、涙を顔に流しながら月を見あげていた。両腕を胸の上に組んでいたが、二本の腕は前にさしのばし、もう二本は上の月の方にさしのべられていた……この意味は、どの二本の腕がいちばんよく見えるかを見て、ほかの腕は全部消してしまうつもりだったのだ。
だが今も言っていたように、心をきめないうちに死んでしまって、今は家族のものはこの絵を娘の部屋のベッドの頭の上にかけておいて、娘の誕生日がくるたびに、それに花をかけた。ほかのときは小さいカーテンで隠してあった。絵の中の若い女は何となくすてきなやさしい顔をしていたが、腕があんまりたくさんあるので、蜘蛛《くも》みたいだとおれは思った。
この若い娘は、生きているころ、切抜き帳を持っていて、「長老教会オブザーバー紙」から死亡記事や事故や辛抱づよい受難の事件の記事などを切り抜いて貼りつけ、そのあとに自分の頭で考えた詩を書いていた。とてもいい詩だった。
これは井戸に落ちて溺れ死んだスティーヴン・ダウリング・ボッツという名の男の子について書いた詩である。
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故スティーヴン・ダウリング・ボッツに寄せる賦《ふ》
スティーヴン少年は病気になって
スティーヴン少年は死んだのか?
悲しむ人の心はさらに悲しみ
悲嘆の人は声をあげて泣いたか?
いや、スティーヴン・ダウリング・
ボッツ少年の運命はちがっていた
まわりの悲しむ心が悲しんでも
病気の打撃のためではなかった
百日咳《ひゃくにちぜき》が体をこわしたのでもなく
わびしいハシカのぶつぶつのせいでもない
スティーヴン・ダウリング・ボッツの
神聖な名前を傷つけたのはこれではない
巻毛のもつれた頭をたたいたのは
失恋の胸の痛みではなかった
スティーヴン・ダウリング・ボッツ少年を
しゅんとさせたのは胃病でもなかった
いやいや、目に涙して聞きたまえ
かれの運命をかたるわたしの物語を……
少年の魂はこのつめたい世界から
井戸に落ちて飛び去ったのだ
引きあげて水をはかせたが
悲しいかな あとの祭りで
霊魂はすでに去って 天上の
善人や偉人の王国に遊んでいた
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もしもエメライン・グレンジャーフォードが、十四歳前に、こういう詩を書くことができたとしたら、やがてどんなものを書けるようになったか、だれにもわからない。バックはエメラインが詩をなんなくべらべらとつくることができたと言った。エメラインは途中でやめて考える必要なんかまったくなかった。バックが言うには、エメラインはパッと一行書いて、韻《いん》をふむのが見つからないと、それを消して、また別のをパッと書いて、どんどん先へ行った。エメラインはえり好みはしなかった。これについて書いてくれといえば、それが悲しいことでありさえすれば、何についてでも書くことができた。
男が死んだり、女が死んだり、子供が死んだりするたびに、本人がまだつめにくなりきらないうちに、「捧げ物」を持ってそばにひかえていた。エメラインはそれを「捧げ物」と呼んだ。近所の人たちは、一番目が医者、それからエメライン、それから葬儀屋の順だと言っていた……葬儀屋がエメラインより先になったことは一度だけしかないが、そのときはエメラインはウィスラーという死んだ人の名前との韻《いん》で手間どったのだった。
エメラインは、それからは、前と同じではなくって、病状を訴えはしなかったが、何となくやせ衰えて長くは生きなかった。かわいそうに、エメラインの絵がしゃくにさわって、すこしばかりこの娘がいやになったときは、いつもこの娘の部屋であった小さな部屋へおれは自分であがって行って、あわれな切り抜き帳をとりだして読んだ。おれはこの家族の人は死んだ人もいれて全部好きになって、どんなことがあっても、おれたちの関係にひびをいらせたくなかった。かわいそうなエメラインは、生きているときは死んだ人全部の詩をつくったのに、死んだ今はだれひとりエメラインについて何か詩をつくろうとしないのは正当ではないように思えた。ここでおれは汗をかきかき自分で一つ二つ詩をつくろうとしたが、どうしてもつづけられそうになかった。
家の人たちはエメラインの部屋を小ぎれいにきちんと整頓し、品物もエメラインが生きていたころにこうしておきたいと思ったように取り片づけていて、だれもこの部屋で眠るものはいなかった。黒人はたくさんいたが、年をとった女性が、自分でこの部屋の世話をして、たいていは、そこでたくさん裁縫《さいほう》をしたり、聖書を読んだりした。
ところで客間の話をしていたのだが、窓には美しいカーテンがかっていた。白地に、壁いっぱいツタのからんだ城や、水を飲みに来る牛の絵が描かれていた。小さな古いピアノもあって、中にブリキの鍋《なべ》が入っていたんだと思った。若い女性たちがピアノで「最後のきづなも断ち切れて」を歌ったり、「プラハの戦い」をひくのを聞くくらい愛らしいことはなかった。すべての部屋の壁はしっくい塗りで、床にはたいていじゅうたんが敷いてあった。家全体が外側は白く塗ってあった。
それは、二棟《ふたむね》の家で、両方のあいだの大きな空地には屋根がつけられ、床が張られて、お昼にはときどきここに食卓が用意された。涼しい、気持ちのいい場所であった。これ以上のところは考えられなかった。それに料理がよくて、おまけに分量がうんとあるんだから!
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十八 グレンジャーフォード大佐
グレンジャーフォード大佐が紳士だったことはおわかりだろう。どこから見ても紳士だった。大佐の家族もそうだった。大佐は、いわゆる、生まれがよくて、生まれがよいということは、人間の場合も馬の場合も同じように値打ちのあることで、ダグラス後家さんもそう言っていたし、後家さんがおれたちの町で一級の貴族の出であったことはだれひとり否定したことがない。お父《とう》も、自分は泥ナマズ以上の資格はなかったが、いつもそう言っていた。
グレンジャーフォード大佐はとても背が高く、とてもほっそりしていて、顔色は浅黒く、どこにも赤味はなかった。毎朝そのやせた顔全体をきれいに剃《そ》っていたが、唇は最高に薄く、鼻孔も最高に細く、鼻は高く、眉毛《まゆげ》は濃く、最高に黒い目はあまりに深く落ちくぼんでいて、いうなれば、まるで洞穴からのぞいているかのようだった。額は高く、髪はちぢれない黒髪で、肩まで垂れていた。手は長くて細く、一生涯毎日、清潔なワイシャツを身につけ、見ていると目が痛くなるほど真白な麻の完全な服で頭から足までつつんだ。日曜日には真鋳《しんちゅう》のボタンのついた青い燕尾服《えんびふく》を着た。銀の頭部のついたマホガニーのステッキを持っていた。浮っ調子のところはこれっぱかしもなく、決して騒々しくなかった。この大佐ほど親切な人はない……それがはっきりと感じられるので、人はみな信用したのだ。ときどきにっこりして、それは見るからに気持ちがよかった。
だが、大佐が自由の旗竿《はたざお》のように体をまっすぐにして、眉の下あたりから電光がちらちらしはじめると、人はまず木にのぼって、何が起こったのか見つけるのは二の次にしたいと思ったものだ。大佐はだれにでも行儀に気をつけろなどと言う必要はなかった……大佐のいるところでは、だれもかれもいつも行儀よくしていたからだ。人はみなだれでも大佐にそばにいてもらいたがった、ほとんどいつも大佐が日光だったからで……つまり、そばにいるといいお天気のように思えたのだ。大佐が雲の峰に入ると、三十秒ばかりすごく暗くなった、それだけで十分で、あと一週間は二度とぐあいのわるいことはなかった。
大佐と老婦人が、朝、二階からおりてくるときは、家族のもの全体が椅子から立ちあがって、朝のあいさつをして、大佐夫婦が腰をおろすまですわらなかった。やがてトムとボブが細首の酒びんのおいてある食器棚へ行って、苦味《にがみ》のビールを一杯よくかきまぜて、大佐にわたすと、大佐はそれを持ったまま、トムとボブの分がまぜ合わされて、ふたりがお辞儀をして「父上と母上のお二人にわたしたち子供の義務をつくします」と言うまで、待った。そして夫妻はほんのおしるしばかり頭をさげて、ありがとうと言って、三人いっしょに飲んだ。
トムとボブはめいめいのコップの底にのこった砂糖と少量のウイスキーやりんごブランデーにスプーン一杯の水をついで、それをおれとバックにくれて、おれたちも老夫婦に乾杯した。
ボブは長男で、トムは次男だった。肩幅がとても広く、茶色の顔と、長い黒髪と黒い目を持った背の高い美男子だった。ふたりとも、老紳士と同じように、頭から足まで白い麻服を身につけ、広いパナマ帽をかぶっていた。それからミス・シャーロットがいた。二十五歳で、背が高く、尊大で、気位《きぐらい》が高かったが、感情のたかぶっていないときは、この上なくいい人だった。しかし怒ったりすると、父親と同じように、その場で人をしゅんとさせるような顔付きをした。美人だ。
妹のミス・ソフィアも美人だが、ちがった種類の美人だ。まるでハトのようにおとなしくてやさしく、まだ二十歳《はたち》だった。
ひとりひとりが自分の用をしてくれるニガーを持っていた……バックもそうだった。おれのニガーはおそろしくのんきだった。おれは人におれの用をしてもらったりするのに慣れていなかったが、バックのニガーなどはたいてい跳んで歩いていた。
これが今の家族全部であったが、前にはもっと……三人の息子がいたのだが、殺されたし、あの死んだエメラインも、いた。
老紳士はたくさんの農場と、百人以上のニガーを持っていた。ときどき大勢の人びとが十マイルか十五マイルあたりから、馬にのってやって来て、五日か六日滞在しては、家のまわりや川の上で宴会をひらいたり、昼間は森でダンスやピクニックをし、夜は家で舞踏会をひらいた。こういう人たちはたいていこの家族の親戚で、男たちは銃を持って来た。正直に言って、立派な上流社会の人たちだった。
まわりに、五、六家族の、たいていシェパードソンという名前の別の特権階級の一門があった。グレンシャーフォードの一族と同じように上品で、育ちがよく、金持ちで、気位が高かった。シェパードソン家とグレンジャーフォード家は、おれたちの家から二マイル上流にある同じ蒸汽船の船着き場を使っていた。だから、ときどき、家の人たち大勢と行くとき、シェパードソン家の人たちを大勢そこに見ることがよくあった。
ある日、バックとおれは遠くの森へ出かけて猟をしていたが、馬のやって来る足音を聞いた。おれたちは道を横切っていた。バックが言った。
「早く! 森へ飛びこめ」
おれたちは森へ飛びこんで、木の葉を通して森をのぞいた。まもなくすばらしい青年が、らくに馬にまたがり、軍人のような姿勢で、道を疾走して来た。鞍《くら》がしらに銃を横においていた。この青年は前に見たことがあった。若いハーニー・シェパードソンだった。おれはバックの銃がおれの耳もとで発砲されるのを聞いた。ハーニーの帽子が頭からころげ落ちた。ハーニーは銃をつかむと、おれたちの隠れている場所へまっすぐ馬を走らせて来た。しかしおれたちは待ってはいなかった。森の中を退却した。森は繁《しげ》っていなかったので、おれは肩ごしに振りかえっては、弾丸をよけたが、二度ハーニーが銃をバックに向けるのを見た。だがやがて、ハーニーは来た道を引き返して行った……帽子をとりに行ったんだろうと思うが、見えなかった。
おれたちは家へ着くまで走るのをやめなかった。老紳士の目は一瞬かがやいた……おもに、うれしかったんだろう、とおれは判断したが、やがてその顔はなんとなく和《やわ》らいで、なんとなくやさしく、言った。
「やぶのうしろから射ったというのは好かんな。どうして道へ出なかったのだい、坊や?」
「シェパードソンのやつらはそんなことしませんよ、お父さん。やつらはいつだってずるい真似をするんだから」
ミス・シャーロットは、バックがこの話をしているあいだ、女王のように頭をあげ、鼻の孔《あな》をふくらませ、目をパチパチさせた。ふたりの若者は憂うつな顔をしたが、何も言わなかった。ミス・ソフィアは真青《まっさお》になったが、青年が怪我《けが》をしなかったことを知ると、顔色がもどった。
やがて、とうもろこし貯蔵納屋の横の木の下でバックとふたりきりになれるやいなや、おれは言った。
「あいつを殺そうと思ったのかい、バック?」
「そうさ、そのつもりだったんだよ」
「あいつは君に何をしたんだい?」
「あいつが? 何もしやしないよ」
「それじゃ、何のために殺そうと思ったんだい?」
「さあ、理由はないよ……ただ宿恨《しゅくこん》のためさ」
「宿恨て何だい?」
「なに? 君はどこで育ったんだい? 宿恨て何だか知らないのか?」
「今まで聞いたこともないよ……教えてくれよ」
「いいよ」とバックが言った、「宿恨というのはこうなんだ。ある男がほかの男とけんかして、これを殺す。するとその相手の男の兄弟がこちらを殺す。すると、両方のほかの兄弟たちがお互いを、やっつけようとする。それから従兄弟たちが割りこんで来て……やがてひとり残らず殺されてしまって、やっと宿恨がなくなる。だがそれはどうしてものろくて、長い時間がかかるんだ」
「この宿恨も、長くつづいて来ているのかい、バック?」
「ああ、そうだと思うよ! 三十年かそれくらい前にはじまったんだ。何かのことでごたごたが起こって、それを解決するための訴訟となり、訴訟で一方の男が不利となったので、その男が訴訟で勝った相手の男を射ち殺した……その男としては、もちろん、当然のことだろう。だれだってやっただろうよ」
「ごたごたは何についてだったんだい、バック? 土地のことかい?」
「ことによるとそうかもしれないが……ぼくは知らないよ」
「ところで、だれが射ったんだい……グレンジャーフォードかい、シェパードソンかい?」
「ぼくにわかるもんかい? ずっと昔のことだからな」
「だれか知っている人がいるかい?」
「ああ、いるよ、父さんが知っていると思うし、ほかの年とった人たちもだれかはね。だが、今は、最初のけんかの理《わけ》が何だったか、みんな知っていないよ」
「殺された人はたくさんいるのかい、バック」
「ああ、うんと葬式があったよ。だが、いつも殺したとはかぎらないよ。父さんは大粒の散弾を数発、体の中にいれているけれど、とにかく目方があまりないもんだから、気にしていないんだ。ボブは鞘《さや》ナイフでいくらか肉を切りとられたし、トムは一度か二度、けがをしたよ」
「今年だれか殺されたかい、バック?」
「ああ、ぼくたちがひとり殺し、やつらがひとり殺した。三か月ばかり前、十四歳になるいとこのバッドが、川の向こう側の森の中を馬で通っていたんだが、大馬鹿のこんこんちきで、武器を何ひとつ持っていなかった。寂しい場所で、バッドは馬がうしろからやって来るのを聞き、年とったボールディ・シェパードソンが銃を片手に、白髪を風になびかせながらついて来るのを見た。馬から飛びおりてやぶに隠れたりしないで、バッドは馬を走らせて相手から逃げることができると思った。ところで二人は五マイル以上も、負けず劣らずの速さで駆けたが、老人のほうがずうっと優勢だったので、とうとうバッドはもうだめだと観念して、馬をとめると、勇敢にも、まともに弾丸を受けとめようとくるりと向きなおった。老人は追いついて、バッドを射ち殺した。だが老人は自分の幸運をよろこぶ機会はあまりなかった。一週間もたたないうちに、うちの連中がやつを片づけてしまったからだよ」
「その老人は卑怯だったと思うな、バック」
「卑怯じゃなかったと思うよ。絶対に。シェパードソンの一族には卑怯者はいないよ……ひとりだって。グレンジャーフォードの一族にも卑怯者はいない。だって、その老人は、ある日、二人のグレンシャーフォードを相手にして、三十分もがんばりとおして、さいごに勝ったんだからね。みんな馬にのっていたんだが、老人は馬からおりて小さな薪《たきぎ》の山のうしろに行き、馬を弾丸よけにした。だがグレンジャーフォードの三人はいつまでも馬にのったまま老人のまわりをとびまわって、老人めがけて乱射し、老人のほうも乱射した。老人と馬は両方とも血をだらだら流してびっこをひきひき家に帰ったが、グレンジャーフォードのほうはかつぎこまれなければならなくて……ひとりは死んでいたし、もうひとりはあくる日死んだ。だめだめ、卑怯者をさがすんなら、シェパードソン一族のあいだで時間をかけてうろうろしてもむだだね。そういう人間は生まれていないんだから」
つぎの日曜日、おれたちはみんなで、めいめい馬にのって、三マイルばかりある教会へ出かけた。男たちは銃を離さず、バックも離さず、それを膝のあいだに置いたり、手近の壁にたてかけたりした。シェパードソンの連中も同じようにした。とても平凡な説教で……兄弟愛とか、そういう、うんざりするようなことについての説教ばかりであったが、みんなはいい説教だったと言って、帰り道もそのことを話し合い、信仰とか、善行とか、おびただしい恩寵《おんちょう》とか、予定の宿命とか、またおれのよくわからないことについてうんとこさ言ったので、この日はおれにとっては今までにぶつかった一番しんどい日曜日だったように思われた。
昼飯のあと一時間ばかり、だれもかれも、あるものは椅子にすわったまま、あるものは自分の部屋で、うたたねをしていたので、とても退屈になってしまった。バックと犬は日なたの草の上に体をのばして、ぐっすり眠っていた。おれはおれたちの部屋へあがって、おれもひと眠りしようと思った。と、やさしいミス・ソフィアが、おれたちの部屋のとなりの自分の部屋の戸口に立っていて、おれを部屋へ引っぱりこむと、ドアをさっとしめ、わたしが好きかとたずねた。好きですと言うと、わたしのためにあることをして欲しいが、だれにも言わないかと聞くから、言わないと答えた。すると、実は聖書を忘れて、教会の座席に、二冊の本のあいだに置いて来てしまった、だから、これからそっと家を出て教会へ行き、その本を取って来て、だれにも何にも言わないでいてくれるか、と言った。おれは言われたとおりにすると言った。
そこでそっと出て、道をこっそりと歩いて行ったが、教会にはだれもいなくて、ただ一頭か二頭の豚がいるだけのようだった。ドアには錠がなかったし、豚は、夏は涼しいので、割り材の床が好きだからだ。気をつけて見ると、大人はたいてい行かなくちゃいけないときだけしか教会へ行かないが、豚はちがう。
何だかくさいぞ、とおれはひとりごとを言った……娘がたかが聖書のことで、あんなにいらいらするのは、ただごとじゃない。
そこで、聖書を振ってみると、鉛筆で「二時半」と書いた小さい紙きれが落っこちた。おれは聖書をすみからすみまで捜したが、ほかには何にも見つからなかった。何のことかさっぱりわからないので、おれは紙きれをまた本にはさんだ。
帰って二階へあがるとミス・ソフィアが戸のところでおれを待っていた。おれを中に引っぱりこむと、ドアをしめた。それから聖書をさがしているうちに紙きれを見つけ、それを読むやいなや、うれしそうな顔をした。そしてあっと思うまもなく、おれをつかまえて抱きしめ、あんたは世界じゅうで一番いい子だ、だれにも言ってはいけない、と言った。一瞬、顔が真赤になって、目もきらきらした。すごくきれいになった。
おれはすっかり驚いてしまったが、息がつけるようになると、紙には何が書いてあったのかとたずねた。読んだかと聞いたので、読まないと答えた。筆記体が読めるかと聞くから、「いや、印刷体だけ」と言った。するとミス・ソフィアは、あの紙は読んだ場所を示す、しおりにすぎないのよ、もう遊びに行ってもいい、と言った。
おれはこのことをとっくりと考えながら、川へおりて行ったが、まもなく、おれのニガーがうしろからついて来るのに気がついた。おれたちが家の見えないところまで来ると、黒人はうしろとまわりをちょっと見てから、走ってきて言った。
「ジョージさま、沼地へおりて来なさったら、毒ヘビを山ほど見せたげますよ」
こいつはすごく奇妙だとおれは思った。昨日も同じことを言ったからだ。だれだってわざわざ探しに出かけるほど毒ヘビが好きでないことぐらい知っているはずだ。とにかく、何をたくらんでいるのだろうか? そこでおれは言った。
「よろしい、先へ行きな」
半マイルついて行くと、黒人は沼地をどんどんと進んで、さらに半マイルほどくるぶしまでつかりながら渡って行った。おれたちは、乾いていて、木立ちや「やぶ」やつる草のひどくしげった小さな平地へ来た。すると黒人は言った。
「ほんのふた足か三《み》足、押しのけて入ってってくんなせえ、ジョージさま、そこにいるんです。おらは前に見ているから、もう見てえという気持ちはねえんで」
それから黒人は水のなかを歩いて行ってしまって、まもなく木立ちがその姿を隠してしまった。おれはすこしばかりその場所をせんさくして回ってから、寝室くらいの大きさの小さな空き地に出た。まわりはつる草が一面に垂れさがっていたが、そこに一人の男が眠っていた……びっくりしたのなんのって、それはなつかしいジムだった!
おれはジムを起こした。ジムはおれをまた見てものすごくびっくりするだろうと思ったが、そんなことはなかった。ほとんど泣きだしそうになり、とてもよろこびはしたが、びっくりはしなかった。ジムの言葉によると、あの晩、おれのあとから泳いでいて、おれのどなるのをそのたんび聞いていたが、返事をしなかったのは、だれかに拾いあげられて、また奴隷の身分にされたら大変だと思ったからだったという。ジムが言うには……
「すこしばかり怪我をして、速く泳げなかったもんで、終わりころには、おめえさまから相当遅れてしめえましたよ。おめえさまが岸へあがったとき、おらは、おめえさまに声をかけなくても、陸の上で追いつくことができると思いましたんよ。だけんど、あの家を見たとき、おらはゆっくりしはじめたんよ。遠くにいたんで、あの家の人たちがおめえさまに何と言ったか聞くことはできなかったけど……おらは犬がこわかったんで……けんど、またすっかり静かになったんで、おらはおめえさまが家ん中に入ったってことがわかって、おらは急いで森へ行って、夜明けを待つことにしました。朝早く、ニガーが何人か、畠へ行こうとやって来て、おらをこの場所へつれて来たんよ。ここは水があるために犬もあとをつけてくることができんからで、みんなは毎晩何か食べものを持ってきてくれて、おめえさまがどんな暮らし方をしているかも話してくれたんよ」
「なんでおれのジャックにもっと早くおれをつれて来るように言わなかったんだよ、ジム?」
「そう、おらたちに何かできるまで、おめえさまの邪魔をしても何にもならねえからよ、ハック……だけんど、もう大丈夫よ。都合のいいときを見ては、深いなべや浅いなべや食料を買っておいたし、夜は、筏《いかだ》の修繕《しゅうぜん》をしていて……」
「どの筏かい、ジム?」
「おらたちの古い筏《いかだ》よ」
「つまり、おれたちの古い筏がバラバラにこわれなかったと言うのかい?」
「そうです、こわれなかったんよ。ひどくこわれはしたけど……一方の端はね……たいした損害ではなくて、ただおらたちの手回り品はほとんどみんななくなってしまったんよ。もしおらたちがあんなに深くもぐらないで、あんなに遠くまで水ん中を泳いでいかなかったら、また夜があんなに暗くなかったら、またおらたちがあんなにこわがっていなかったら、また俗にいうようなカボチャ頭のとんまでなかったら、筏《いかだ》は見えたんよ。だけんど、見えなかったほうがよかったんよ。今は筏がほとんど新品みてえにすっかり修繕ができたし、おまけに、なくなった品物のかわりに、新しい品物を手に入れといたからよ」
「なんで、どんなふうにして筏をまた見つけたんだい、ジム……どんなふうにしてつかまえたんだい?」
「どうして、おらに筏がつかまえられるもんかね、しかも森から出て行ってよ? いや、ニガーたちが何人かこの辺の大曲りで、沈み木にひっかかっているのを見つけてよ、小川の柳の木のあいだに隠したんよ。そんで、筏が一番だれのものになるのかさかんに口論していて、まもなくおらの耳にも入ってきたんで、おら急いで、この筏はおめえたちのだれのもんでもねえ、おめえさまとおらのもんだと言って、ごたごたを静めたんよ。それから、聞いてみたんよ、若い白人紳士の財産を引ったくって、そのために鞭《むち》で打たれたいのかってね。それから、おらはめいめいに十セントずつくれてやって、みんなもすごく満足して、もっと筏が流れてきて、おらたちをもう一度金持ちにしてくれないかな、と言ったんよ。ここのニガーたちはおらにはすごく親切で、してもらいたいと思うことは、坊っちゃん、二度とたのむ必要がねえんですよ。あのジャックてのはいいニガーで、なかなか気がきいてるよ」
「まったく、そうだ。お前がここにいるってことも言わないで、ついて来れば、毒ヘビをたくさん見せると言っただけだ。万一何か起こっても、ジャックは巻きこまれない。おれたちがいっしょにいるのを見なかったと言えるし、また実際そのとおりなんだからね」
そのつぎの日のことは、おれはあんまり話したくない。みじかく切りつめて話そうと思う。おれは夜明けごろ目をさました。寝返りを打ってもう一度眠ろうとしたときに、家の中がなんとも静かなことに気がついた……だれひとり起きている様子がなかった。こんなことは今までなかった。つぎにおれはバックが起きて、いなくなっていることに気がついた。そこで、おれも起きて、おかしいと思いながら、下へおりて行った……だれひとりいない。何もかも二十日鼠《はつかねずみ》みたいに静かだ。家の外もまったく同じだ。これはどういうわけだろう、とおれは考えた。薪《たきぎ》の山の横でおれはおれのニガーのジャックに会ったので、聞いた。
「これはどういうわけだい?」
ジャックは言った。
「知らないんですか、ジョージさま?」
「いや」とおれは言った、「知らないよ」
「じゃ、いいですか、ソフィアお嬢さまが逃げたんよ! ほんとに逃げたんよ。夜なかのいつか逃げたんよ……何時ころかだれにもわからねえが……あの、知ってるでしょう、ハーニー・シェパードソンの若旦那と結婚するために逃げたんよ……すくなくとも家の方たちはそう思っていなさるんよ。家の方たちがそれを見つけたのは、六十分くらい前で……ことによるともうちょっと前で……正直に言って、もうあっという間もなかった。鉄砲だ、馬だ、という、ああいうあわてようはもう二度とは見られんでしょう! 女の人たちは親類を起こしに出かけたし、ソール旦那と坊っちゃまたちは鉄砲を手にして、あの若いのがソフィアお嬢さまと川をわたってしまわないうちに、つかまえて殺してしまおうと、川岸の道を馬を走らせて行ったんですよ。お嬢さまたちはすごくつらい目に会いなさるんと思いますんよ」
「バックはおれを起こさないで行ってしまった」
「そのほうがよかったんですよ! 家の方たちはおめえさまを巻きこみたくないんすよ。バックさまは鉄砲にたまをこめて、どんなことがあってもシェパードソンを一人つかまえて帰ると言ってらした。ところで、シェパードソンのやつらもたくさん来てると思うんで、運がよけりゃ、きっと一人はつかまえてくると思いますんよ」
おれはできるだけ急いで川岸の道を走った。やがて、遠くの方で銃声が聞こえはじめた。蒸気船の着く丸太置き場と薪の山が見えてくると、おれは木立や「やぶ」の下をくぐって、適当な場所に出た。それから鉄砲玉のとどかないハコヤナギの股木にのぼって、ながめた。
この木のすこし前方に、四フィートの高さのきちんと積んだ薪の山があって、最初おれはそのうしろに隠れるつもりだったのだが、そうしなかったほうが運がよかったようだ。丸太置き場の前の空地では、四、五人の男が馬ではねまわって、ののしったり、どなったりして、船着き場のそばの薪の山のうしろにいるふたりの若者を攻撃しようとしていたが、近づくことができなかった。相手の一人が薪の山の川の側に姿をあらわすたびに、こちらから射たれた。二人の若者のほうは、薪の山のうしろで背中あわせにしゃがんでいたので、両横を見ることができた。
やがて男たちははねまわったり、どなったりするのをやめた。男たちは置き場の方へ向かいはじめた。すると若者の一人が立ちあがって、薪の山ごしにしっかり狙《ねら》いをつけて、相手の一人を鞍《くら》から落とした。男たちはみなさっと馬から飛びおりると、怪我をした男をつかまえて置き場の方へつれて行こうとした。その瞬間、二人の若者は駆けだした。男たちが気づく前に、二人はもうおれのかくれている木の方へ半分も来ていた。男たちは、二人の姿を見ると、馬に飛びのって、あとを追った。どんどん追いついて来たが、むだだった。若者たちがうまく走りだしていたからで、二人はおれの木の前にある薪の山まで来ると、するりとそのうしろにすべりこみ、またもや男たちに対して有利な位置に立った。若者の一人はバックで、もう一人は十九歳くらいのほっそりした若者だった。
男たちはしばらくのあいだ、ぐるぐる馬をぶっとばしたが、やがて去って行った。男たちが見えなくなるやいなや、おれは大きな声でバックにどなって、それを教えてやった。バックははじめ、木の中から聞こえてくるおれの声をどう考えていいかわからなかった。ひどくびっくりした。バックは、ゆだんしないで見張っていて、男たちがまた見えたら知らせてくれ、と言い、あいつらは何か変なたくらみをあれこれやっているんで……まもなくやって来るだろう、と言った。
おれは木から出たかったが、下へおりる勇気がなかった。バックは泣いたりののしったりしはじめて、自分といとこのジョー(これがもう一人の若者だった)は、これから今日の埋め合わせをするんだと言った。父と二人の兄は殺されたし、敵も二人か三人は死んだ、とバックは言った。
シェパードソンのやつらは待ち伏せをしていたんだ。バックが言うには、父や兄たちは親類たちの来るのを待っているべきであった……シェパードソンのほうが三人にとっては強すぎたんだから。おれはバックに、ハーニー青年とミス・ソフィアはどうなったのか、と聞いた。バックは、二人は川を越えて無事だ、と言った。おれはこれを聞いてうれしかったが、ハーニーを射ったあの日、相手を殺しそこねたために、バックがどんなに怒り狂ったか……おれはああいうのを今まで聞いたことがない。
とつぜん、バン! バン! バン! と三、四発の銃声がして……男たちが馬にのらずにこっそりと回り道をして森をぬけて、うしろからやって来た! 若者たちは川へ飛びこんで……両方とも傷ついていた……流れを泳ぎくだって行くと、男たちは川岸を走りながら、銃を射ったり、「殺しっちまえ、殺しっちまえ!」と叫んだりした。おれはすっかり気分が悪くなって、あやうく木から落ちそうになった。おれはこの出来事のすべてを話すつもりはない……話さねばならないとしたら、また気持ちが悪くなるだろう。こういうことを見るくらいなら、あの晩、岸へあがらなければよかったと思った。忘れようとしても忘れられるものではない……何度も何度も夢に見るだろう。
おれは、おりるのがこわくて、暗くなるまで木の中に隠れていた。ときどき、遠くの森で銃声が聞こえ、二度ほど、男たちの小さい群れが、鉄砲を持って丸太置き場の横を馬で全速力で走って行くのを見た。そこで、騒ぎはまだつづいているのだと思った。おれは気が沈んで仕様がなかった。
そこでおれはあの家へはもう二度と近づくまいと決心した。何となくおれにも責任があるように思ったからだ。あの紙きれはミス・ソフィアが二時半にハーニーとどこかで会って逃げるという意味だったのだ、とおれは判断した。おれはその紙きれのことや、ミス・ソフィアの奇妙な振舞いを父親に話すべきであった、そうすれば父親はたぶん娘を部屋に閉じこめて、この恐ろしい騒ぎも起こらなかっただろう、と思った。
木からおりると、おれは忍び足で川岸をすこしさがって行って、二つの死体が水際によこたわっているのを見つけ、たぐりよせて岸へあげた。それから顔に布をかけて、できるだけ早く立ち去った。バックの顔に布をかけるとき、おれはすこしばかり泣いた。バックはおれにすごく親切だったからだ。
もうすっかり暗くなっていた。おれは家へは近よらないで、森をぬけて沼地へ向かった。ジムは例の島にいなかったので、おれは大急ぎで入江の方へ歩きだし、ヤナギを押しわけて進んだ。筏《いかだ》に跳《と》びのって、この恐ろしい土地を出たいという気持ちに興奮していた……筏はなくなっていた!
いやはや、びっくりしたのなんのって! ほとんど一分間ぐらい息をすることができなかった。それから大声をあげてどなった。二十五フィートと離れないところから声がして、言った……
「おやまあ、おめえさまでしたか、坊や? 音をたてねえでくんなせえ」
ジムの声だった……今までこんなにうれしい声を聞いたことがなかった。おれは川岸をすこし走って、筏《いかだ》にのった。ジムはおれをつかまえて抱きしめた。ジムもおれに会えてうれしかったのだ。ジムは言った……
「ああ! ありがてえ、坊や。おらはおめえさまがまたてっきり死んだもんと思ったんよ。ジャックがここへ来て、おめえさまが家へ帰って来ねえから、射ち殺されたと思うと言うでねえか。そんで、ジャックがまたもどって来て、おめえさまがたしかに死んだちゅうことを教えてくれたら、すぐにでも筏《いかだ》を押しだして出かける用意をちゃんとして、たった今、筏を入江の口の方へ出そうとしていたところだったんよ。ああ、ありがてえ、おめえさまが帰って来てくれて、うれしくてたまらねえよ、坊や」
おれは言った……「よし……そいつはうまい。やつらにはおれは見つかるまいし、おれが殺されて、川を流れて行った、と思うだろう……やつらにそう思わせるのに役立つようなものが上の方にあるんだ……だからジム、ぐずぐずしないで、できるだけ早く大きな川の方へ筏《いかだ》を出してくれよ」
筏がそこから二マイル下の、ミシシッピ川の真中に出るまで、おれは安心できなかった。そこへ来てから、おれたちは信号カンテラをつるして、もう一度自由で安全になったと判断した。おれは昨日からひと口も食べていなかった。そこでジムは堅焼きのとうもろこしパンとバターミルク、豚肉とキャベツ、それに青物を出してくれたが……ちゃんと料理したときは、世の中にこれほどうまいものはない……おれは晩飯を食べながら、ジムと話をして、たのしかった。おれは宿恨から逃げだすことができてすごくうれしかったし、ジムも沼地から逃げだせてよろこんでいた。
おれたちは、けっきょく筏《いかだ》のようなよい家はない、と言った。ほかの場所はとても窮屈《きゅうくつ》で息がつまるように思われるが、筏はそうじゃない。筏の上はすごく自由で、のんきで、気楽だ。
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十九 昼間は筏をつなぐ
二、三日昼と夜がすぎた。泳いですぎたと言ってもいいくらいだと思う。それほど静かに、悠々《ゆうゆう》と、美しく、すべるようにすぎたのだ。こういうふうにおれたちは暇をつぶした。そこら辺は化け物のように大きな川で……ときには幅が一マイル半もあった。
おれたちは夜は流れ、昼は休んで隠れた。夜がそろそろ終わろうというころになると、おれたちは航行をやめて筏《いかだ》をつないだ……ほとんどいつも砂州《さす》の下の静水の中だった。それからハコヤナギや柳の若木を切って、それで筏を隠した。それから釣糸をしかけた。つぎに、気持ちを新しくし、涼しくなるために、川にすべりこんで泳いだ。それから、水が膝くらいの深さの砂地の川底に腰をおろして朝日のさすのをながめた。どこにも物音ひとつなく……完全に静かで……まるで世界全体が眠っているかのようで、ただときどき牛蛙《おしがえる》がそうぞうしく鳴くだけであった。
水の上をはるかに見わたして、まず最初に目に入ってくるのは、ぼんやりした線のようなもので……これは向こう側の森だった……ほかに見わけのつくものは何ひとつなかった。やがて空に白っぽいところがあらわれ、白っぽいのがだんだんまわりにひろがっていく。やがて川は、遠くの方で、やわらいで来て、もはや黒くなくて灰色になった。はるかかなたを、小さい黒点がただよっていくのが見えるが……商《あきな》い舟やそういう種類のものだ。長い黒い縞《しま》は……筏だ。ときどき大櫂《おおかい》のギーギーいう音が聞こえる。あるいはいりまじった人声が聞こえてくるのは、とても静かで、遠くまでひびいてくるからだ。やがて、水の上に縞が一本見えるが、その縞の様子によって、そこの速い流れの中に沈み木があり、流れがそれにくだけて、縞をあのような模様にしているのだということがわかる。
もやが水面から巻きあって、東が赤らみ、川も赤らみ、はるか向こう岸の森のはずれに丸太小屋が見えるが、ことによると、材木置き場かもしれない、しかもインチキ男が積みあげたので、どこに犬を投げても向こうへ抜けてしまうほどだ。
やがてすてきな微風が起こって、向こうのほうから涼しくさわやかに吹きつけて来て、森や花のために甘い匂いがする。しかしそうでない匂いのときもある。太刀魚《たちうお》やなんかの魚の死んだのが投げ捨てられていて、それがとても悪臭を放つからだ。やがて夜はすっかり明けて、あらゆるものが日の光のなかで微笑し、さえずる鳥どもはさかんにうたっている!
すこしくらい煙を出しても今は気づかれないので、おれたちはよく釣糸から魚を取っては、熱い朝飯を料理した。そのあとは、川のわびしさをながめ、なんとなくぶらぶらと怠《なま》けているうちに、やがてのんびりと眠ってしまう。やがて、目をさまし、どうして目をさましたのかと思って見ると、蒸気船がゴトンゴトンと流れをのぼってくるのが見えるが、遠くの向こう岸の方なので、外輪車が船尾にあるか側面にあるかどうかくらいで、あとは何にもわからない。それから一時間くらいのあいだ何にも聞こえないし、何にも見えない……ただ充実したわびしさだけだ。つぎに、はるか向こうを、筏がすべるように通って行くのが見え、たぶんその上で無骨《ぶこつ》な男が薪割りをしている姿も見えるだろう、たいていいつも筏《いかだ》の上ではそうするからだ。斧《おの》がピカッと光って、振りおろされる……が、音は何にも聞こえない、また斧の振りあげられるのが見える、それが男の頭の上に来たころになって、カチン! という音が聞こえる……水の上をつたわって来るのにそれだけの時間がかかったのだ。
こんなふうにおれたちはぶらぶらしながら、静けさに耳をかたむけながら、一日をつぶすのだった。一度濃い霧のかかったことがあった。通りすぎて行く筏やいろんなものは、蒸気船にぶっつけられて沈められないように、さかんにブリキの鍋《なべ》をたたいていた。
小舟や筏はすぐそばを通るので、人たちが話したり、ののしったり、笑ったりする声を聞くことができた……はっきり聞こえはするのだが、人影は全然見えない。うす気味が悪かった。幽霊が空中で騒ぎたてているみたいだった。ジムはあれは幽霊だと思うと言ったが、おれは言った。
「いやいや、幽霊は『糞《くそ》いまいましい霧のやつめ』なんて言いやしないよ」
夜になるやいなや、おれたちは出発した。筏を川の真中あたりまで出すと、おれたちは筏にまかせて、流れの運んで行きたいと思うところへただよわせた。それからおれたちはパイプに火をつけ、両足を水につけてぶらぶらさせ、いろいろな話をした……おれたちはいつも、昼も夜も、蚊《か》にいじめられないときはいつも、裸だった……バックの家の人たちのつくってくれた新しい服は上等すぎて着心地がよくなかったし、それにおれは着物というものがどうしてもあんまり好きじゃないんだ。
ときどきおれたちは長い長いあいだ川全体を独占することがあった。川の向こうには岸や島があった、またことによるとピカリと光るものもあった……これは小屋の窓のろうそくで……またときには水の上に一つ二つピカリとする光が見えた……筏《いかだ》やはしけの上のものだ。ことによると、そういう乗り物からヴァイオリンや歌が聞こえたりした。筏の上の生活はすばらしい。見あげれば、一面に星をちりばめた空がある。
おれたちはよく仰向けに寝て星をながめ、星は作られたものか、あるいは単に偶然できたものかどうかについて議論した……ジムは、作られたものだと言ったが、おれは偶然にできたものだと言った。あんなにたくさん作るには大変な時間がかかるだろうと判断したからだ。ジムは月なら星を産むことができたろうと言ったが、いや、これは何となく理屈に合っているようなので、おれは何にも反対しなかった。蛙《かえる》が星と同じくらいたくさんの卵を産むのを見たことがあるからで、月だってもちろんできるだろう。
おれたちはまた、よく空から落ちる星をながめ、光のすじとなって落ちてくるのを見た。ジムは、あれは腐《くさ》って巣からほうりだされたのだ、と言った。
夜中に一度か二度、蒸気船が暗闇の中をすべるように進んで行くのを見たが、ときおり汽船は煙突から無数の火花を吐きだして、それが川に雨のように降りそそいで、すごくきれいに見えた。やがて汽船は角をまわって、明りもまたたきながら消え、ポンポンという音も止まって、川はまた静かになる。やがて汽船の波が、いなくなって大分たってから、おれたちのところへ打ち寄せてきて、筏をすこしばかりゆすぶる。そのあとは、どれほどの長さかわからないくらいのあいだ、蛙や何かのほかは、何にも聞こえてこないのだ。
真夜中をすぎると、岸の人びとは寝床に入り、それから二、三時間、両岸は真黒で……小屋の窓のきらめきももうない。こういうきらめきはおれたちの時計だ……ふたたび見える最初のきらめきは朝の来ることを意味したから、おれたちは、すぐさま、筏を隠してつなぐ場所をさがした。
ある朝の夜明けごろ、おれはカヌーを見つけ、早瀬を乗り切って本岸へわたった……ほんの二百ヤードしかなかった……そして糸杉の森を流れる小川を一マイルばかり漕いで、イチゴがいくらか取れやしないかとさがした。牛の通る道のような小道が小川を横切っているところを通過しようとしたときに、男が二人、その道をあわてふためきながらドタドタと駆けて来た。おれはもうだめだと思った。だれかが人を追いかけているときはいつでも、それはおれだ……あるいはジムかもしれない、と判断したからだ。
おれは急いでそこから逃げだそうとしたが、そのとき男たちはもうおれのすぐそばまで来ていて、大声で、助けてくれ、とたのんだ……おれたちは何もしていないのに、追いかけられているんだ、と言い……男たちと犬がやってくる、と言った。二人はすぐ飛びこみたがったが、おれは言った……
「それはいけない。まだ犬も馬も、聞こえないよ。お前さんたちには、やぶをかきわけて、小川をすこし上流まで行く時間があるんだから、そこから水に入って、おれのところまで歩いて来て、乗んなよ……そうすれば、犬の追跡をまくことができるよ」
二人はそうした。二人がカヌーに乗るやいなや、おれは急いでおれたちの砂州めがけて逃げだした。五分か十分くらいして、遠くの方で犬と叫んでいる人の声が聞こえた。かれらが小川の方へやって来るのは聞こえたが、姿は見えなかった。立ちどまって、しばらくうろうろしていたらしいが、その間じゅうもおれたちがどんどん離れていったので、とうとうほとんど何にも聞こえなくなって、森を一マイルあとにして、川に出たころには、何もかも静まりかえっていて、おれたちは砂州まで漕いで行き、ハコヤナギの中に隠れて、無事であった。
この男たちの一人は七十歳くらいか、その上で、禿《は》げ頭で、真白な頬《ほお》ひげを生やしていた。古いぼろぼろのふちの垂れたソフト帽をかぶり、脂《あぶら》じみた青いウールのシャツを着て、ぼろぼろの古い青ジーンパンツは長靴の中へたくしこみ、手製のズボン吊りをしていた……いや、そのズボン吊りも片方しかなかった。つるつるした真鍮《しんちゅう》のボタンのついた古ぼけた裾《すそ》の長い青ジーンの上衣を腕にひっかけていて、二人とも大きな、ふくらんだ、鼠《ねずみ》くさいような、じゅうたん製の旅行かばんを持っていた。
もう一人の男は三十歳くらいで、同じようにけちくさい服装をしていた。朝飯がすむと、おれたちはみんな何もしないで話をしたが、第一にわかったことはこの男たちがお互いを知らないということであった。
「お前はどうしてもんちゃくを起こしたんだい?」と禿げ頭がもう一人の男に言った。
「いやさ、おれは歯石《しせき》を取る品を売っていて……これは歯石も取るが、たいてい≪ほうろう≫質も取ってしまうんだが……ひと晩いつもより長くいすぎて、まさに逃げだそうとしていたときに、町のこっち側であんたがうろうろしているのに会ったってわけで、あんたが、みんなが追っかけてくるからと言って、逃げるのを助けてくれとたのんだじゃないか。そこでおれは、おれもいつ厄介《やっかい》なことになるかわからないんだから、いっしょにズラかろうと言ったんだ。これが全体のいきさつさ……で、あんたのほうは?」
「いやさ、わしは一週間ばかり小さい禁酒復興運動をやってきて、おとなと子供両方の女たちにもてたんだ、正直な話、のんべえ共をさかんに攻撃していたからで、ひと晩に五ドルも六ドルももうけて……ひとり頭十セント、子供とニガーは無料で……仕事はその間じゅうずっと繁盛していたんだけど、そのうちに、どうしたことか、暇をつぶすときはわしが一人でこっそり一杯やっているという噂《うわさ》が、昨夜あたり、ひろがってしまった。ニガーが今朝わしを起こして、教えてくれたんだ、町の人たちが犬や馬といっしょにこっそり集まっている。まもなくやって来て、三十分ばかりおれを早く出発させてから、できれば、おれを追いつめて、つかまえたら、きっとタールを塗った羽根をつけ、横木の上にのせてかつぎまわるだろうってね。わしは朝飯は待たなかった……腹がへっていなかったからな」
「おやじさん」と若いのが言った、「いっしょに協力できたらと思うんたが、どうだね?」
「悪かないね。お前の商売は何だい……主《おも》に?」
「商売は渡りの印刷職人。売薬《ばいやく》もすこしやってるし、芝居《しばい》の役者もやる……もちろん悲劇だがね。機会があれば、催眠術や骨相学《こっそうがく》にも手を出すし、気分転換に唱歌地理の科目は教えるし、ときどき講演もやらかす……ああ、いろんなことをやりますよ……手あたりしだい何でもね、骨が折れなければ。ところで、あんたの仕事は?」
「若いころは医学のほうを相当にやったよ。手をのせるのがわしの一番の療法《りょうほう》さ……ガンや中風やそういった病気に対してね。また事実を見つけだしてくれるものがあれは、運勢も相当占うことができるんだ。説教も本職で、野外集会をやったり、伝道してまわったりするよ」
しばらくのあいだ口をきくものはだれもなかった。やがて若い男が溜息をついて言った。
「悲しいことだ!」
「何を悲しんでいるんだ?」と禿げ頭が言った。
「おれが生きながらえて、こういう生活をし、堕落してこういう仲間に入ったことを考えるとね」
そしてぼろで目の隅をふきはじめた。
「たいした面《つら》の皮だ、お前にふさわしい立派な仲間じゃないか?」と、禿げ頭はかなり無遠慮に、いばって言った。
「そのとおり、おれにとって立派な仲間さ。おれにふさわしく立派だよ。あのように高いところにいたのに、こんなに低いところへ落としてしまったのはだれか? このおれなんだ。紳士諸君、おれはあんたたちを責めているのではない……断じて。おれはだれも責めない。身から出たさびなりだ。冷たい世界には最悪のことをさせるがいい。ただひとつだけおれは知っている……どこかにおれのための墓があるってことを。この世は今までと変わらぬやり方で、おれからあらゆるものを奪いとるかもしれない……愛する者たちを、財産を、ありとあらゆるものを……だが墓だけは奪えない。いつの日かおれはそこに横たわっていっさいを忘れ、あわれな傷心の胸は憩《いこ》いを見いだすだろう」
男は目をふきつづけた。
「あわれな傷心の胸だなんて笑わせるぜ」と禿げ頭が言った、「なんでそのあわれな傷心の胸をわしたちにむかって波打たせるのかい? わしたちは何にもしていないよ」
「そうです。何にもされていないことはわかっています。紳士諸君、おれはあんたたちを責めてるんじゃない。おれは自分で堕落したんだ……そうです、自分で堕落したんです。おれが苦しむのは当然です……まったく当然で……嘆いたりしません」
「堕落したのは何からかね? 何から堕落したのかい?」
「ああ、信じてはくださるまい。世間の人は信じない……ほうっておいてください……たいしたことじゃないんです。わたしの出生《しゅっしょう》の秘密は……」
「お前の出生の秘密? というのはつまり……」
「紳士諸君」と若い男は、非常に重々しく言った、「あんた方には明かしましょう、信頼できると思うからです。正《まさ》しくわたしは公爵《こうしゃく》です!」
ジムはそれを聞くと、目を丸くした。おれの目もそうなったと思う。やがて禿げ頭が言った、「いや! お前、本気か?」
「そうです。ブリッジウォーター公爵の長男であるわたしの曾祖父《そうそふ》は、前世紀の終わり頃、けがれのない自由の空気を吸うために、この国に逃《のが》れて来て、ここで結婚し、かれの父親の死んだと同じ頃に、一子を残して、死にました。亡き公爵の二男が爵位と財産を奪い取って……幼児である正統《せいとう》の公爵は無視されてしまった。わたしはその幼児の直系の子孫で……わたしが正統なブリッジウォーター公爵です。そのわたしが今は、頼るものもなく、高い地位から引きおろされ、人には追われ、冷たい世間からはあなどられ、ぼろをまとい、つかれ果て、傷心の胸をいだいて、筏《いかだ》の上の悪党どもの仲間に落ちぶれてしまったんです」
ジムはとても気の毒がり、おれも気の毒に思った。おれたちは、男を慰《なぐさ》めようとしたが、そんなことをしてもむだだ、あんまり気持ちは晴れないと言った。もしも自分の身分を認めてくれる心があれば、それがほかの何よりもありがたいと言った。そこでおれたちは、その認め方さえ教えてくれたら、そうしようと言った。
男は、自分に話しかけるときは、まずお辞儀をして、「閣下《かっか》」とか「わが殿」とか「殿様」とか呼んでくれ……簡単に「ブリッジウォーター」と呼んでもかまわない、とにかくこれは称号で、名前ではないのだから、と言った。またおれたちのうちのひとりが食事のときは給仕をしなければならないし、自分がして欲しいと思うことはどんな小さいことでもやってくれなければいけない、と言った。
さて、これはみんなやさしいことなので、おれたちはそのとおりにした。食事中ジムはまわりに立って給仕をして、「閣下はこちらを召しあがるかね、あちらを召しあがるかね?」などと言った。
おれの目にも公爵はとても満足そうであった。しかし老人のほうはだんだんとすっかり無口になってしまった……あまり口もきかず、公爵のまわりでおれたちがちやほやするのを見て、あまり愉快でないような顔付きになった。何か胸にあるようであった。そこで、午後になると、老人は言いだした。
「いいか、ビルジウォーター」と老人は言った、「わしは心底からお前を気の毒に思う。だがそういう苦労をしたのはお前ひとりじゃないんだよ」
「おれだけじゃないって?」
「そうだ、お前だけじゃない。高い地位から不法にも突き落とされたのはお前ひとりじゃないんだ」
「悲しいことだ!」
「いや、出生の秘密を持っているのはお前ひとりじゃないんだ」
そして、嘘ではない、泣きだした。
「泣くな! それはどういう意味だ?」
「ビルジウォーター、お前を信用してもいいか?」と老人は、なおもすすり泣きながら、言った。
「最後の最後まで信用できるよ!」公爵は老人の手を取って、つよく握りながら、言った、「あんたの出生の秘密を、さあ言いたまえ!」
「ビルジウォーター、いやまったく、わしはフランスの元皇太子ドーフィンなのだ!」
いやまったく、このときばかりはジムとおれは目を丸くしてびっくりした。すると公爵が言った。
「あんたは何だって?」
「そうだ、わが友よ、嘘《うそ》いつわりではないのだ……お前の目は、今この瞬間、ルーイ十六世とマリー・アントワネットの息子、ルーイ十七世であるあわれな行方不明の皇太子を見ているのだ」
「あんたが! その年で! いやいや! ほんとうはあんたは亡きシャレマニュ皇帝だろう。すくなくとも六百歳か七百歳にちがいない」
「かずかずの苦労でこうなったのだ、ビルジウォーター。苦労のせいだよ。苦労がこの白髪とこの若禿げを持ってきたのだ。そうだ、紳士諸君、諸君が今、目の前に見ているのは、青いジーンの服と不幸に身をつつんで、放浪の、追放された、踏みつけられて苦しみなやむ正統のフランス国王なのだ」
ところで、老人は泣いてひどく悲しんだので、おれとジムはどうしてよいかよくわからなくて、とても気の毒に思ったが……またこういう人といっしょになってうれしくも思い、誇らしいとも思った。そこでおれたちは、前に公爵に対してしたように、老人もなぐさめようとしはじめた。だが老人は、そんなことはむだだ、死んで万事おさらばをしてしまう以外にはおれのためにはならないのだ、と言った。もっとも、もし人がわしの当然の権利にしたがってわしを待遇し、わしに話をするときはひざまずき、いつも「陛下《へいか》」と呼んで、食事のときはまずわしから先に給仕をし、わしの前ではすわってもいいと言われるまですわらないでいるならば、ときとしてはしばらく気持ちも楽になり、よくなるだろう、と老人は言った。
そこでジムとおれは老人を陛下と呼ぶことにして、あれこれいろんなことを老人のためにしてやり、すわってもいいと言われるまで立っていた。この効果てきめんで老人はすっかりごきげんになり、気持ちよさそうになった。しかし、公爵のほうは何となく老人に対して気むずかしくなって、事のなりゆきがあまりおもしろくないような顔をした。それでも王様は公爵に本当に親しそうに振舞って、公爵の曾祖父もほかのビルジウォーター公爵も全部、わしの父がいろいろ気をつかってやって、かなり宮殿に来ることを許していた、と言った。
だが、公爵がいつまでもきげんを直さないでいるので、とうとう王様がこう言った。
「どうもわしたちは、いやんなるくらい長いあいだ、この筏《いかだ》の上でいっしょにいなくちゃならないようだよ、ビルジウォーター。だから、そんなにふくれていて、何の役に立つんだい? いたずらに事がおもしろくなくなるだけだよ。わしが公爵に生まれなかったのは、わしのせいじゃないし、お前が王様に生まれなかったのも、お前のせいじゃない……だから、くよくよして、何になるんだい? 万事なりゆきで利用せよ、と言いたい……これがわしのモットーだ。わしたちがこれにぶつかったというのも悪いことじゃない……食料はたくさんあるし、のんきだし……さあ、公爵、握手しよう、そして友だちになろう」
公爵がそうしたので、ジムとおれはそれを見て、とてもうれしかった。これで不愉快さがみんななくなって、おれたちはすごく安心した。というのは、筏《いかだ》の上ではすこしでも敵意があるとみじめだったろうからだ。また、筏の上で、何よりも必要なことは、みんなが満足して、ほかの者に対して正しく親切な気持ちをいだくことだからだ。
このふたりの嘘つきがまったく王様でも公爵でもなくて、卑劣なペテン師であり、さぎ師にすぎないとはっきりきめるのに、そう長い時間はかからなかった。だが、おれは何にも言わず、そのままにして、心にしまっておいた。それが一番の方法なのだ。そうすれば喧嘩《けんか》も起こらないし、ごたごたにも巻きこまれない。もしおれたちに王様とか公爵と呼ばせたいんなら、それが家族の中に平和をたもつんなら、おれには異存《いぞん》はなかった。このことはジムに話してもむだだから、ジムには話さなかった。
おれはお父《とう》から、ほかに何ひとつ習わなかったとしても、こういう連中とつきあう一番いい方法は、やつらの好きなようにさせておくことだ、ということは習った。
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二十 ハックの説明
二人はおれたちにかなりいろいろな質問をした。なんであのように筏《いかだ》を隠すのか、なんで昼間流さないで休むのか、を知りたがった……また、ジムは逃亡ニガーではないのか? おれは言った。
「とんでもない、逃亡ニガーが南へ逃げるかね?」
そうだ、逃げないだろう、と二人は言った。おれはなんとか事情を説明しなければならなかった。そこで言った。
「おれの家族はミズーリのパイク郡に暮らしていて、おれはそこで生まれたんだが、おれとお父《とう》と弟のアイクのほかは、みんな死んでしまったんです。お父は家をたたんで川下《かわしも》へくだり、オーリアンズから四十四マイル下の川のふちに小さい貧弱な農場を持っている、ベン伯父《おじ》さんの世話になろうと言いました。お父はとても貧乏で、いくらか借金もあるんで、清算をしてみたら、十六ドルとニガーのジムしか残らなかったんです。これだけでは、甲板渡航でもほかの方法でも、千四百マイルくだるには足りません。
ところで、川が増水したとき、お父はある日ちょっとした運をつかんで、この筏を手に入れたんで、おれたちはこれに乗ってオーリアンズにくだろうと思ったんです。お父の運は長くはつづかなくて、ある晩、蒸汽船が筏《いかだ》の前の方の隅っこにかぶさり、おれたちはみんな川に飛びこんで外輪車の下にもぐった。ジムとおれは無事に浮かびあがったが、お父は酔っぱらっていたし、アイクはまだ四つだったので、二人とも浮かびあがっては来なかった。
さて、そのつぎの一日二日はとても困った。しょっちゅう人が小舟でやって来ては、ジムは逃亡ニガーだと思うと言って、つれて行こうとしたんだからな。おれたちは、今は、もう昼間は流さないんです。夜なら邪魔《じゃま》されないだろうから」
公爵が言った。
「なんなら昼間|筏《いかだ》を流せるような方法を工夫するから、おれにまかせてくれ。じっくりと考えて……うまく解決する計画を立てよう。だが、今日はやめとこう。日のあかるいうちに向こうのあの町のそばは、もちろん、通りたくないからな……体《からだ》によくないよ」
夜になるころ、空が暗くなりはじめ、雨もようとなった。空の低いところで音のしない稲光りがさかんに光って、木の葉がふるえはじめた……かなり険悪な天候になりそうなことははっきりわかった。
そこで公爵と王様は、寝床がどんなぐあいになっているかを見に小屋の検査に行った。おれの寝床はわらぶとんで……とうもろこし皮のジムのふとんよりは上等であった。とうもろこし皮のふとんにはいつもとうもろこしの穂軸《ほじく》がごろごろまじっていて、それが体を突っついて痛いし、寝返りを打つと、乾いた皮が、まるで枯れ葉の山の中でころがるみたいな音を立てるし、あんまりガサガサ音がして目がさめるほどだった。
ところで、公爵はおれの寝床に寝ると言ったが、王様はそういう真似はさせないと言った。王様が言った。
「身分の違いが、とうもろこし皮の寝床ではわしの眠るのにふさわしくないということを、お前に教えた、と思っていたのに。閣下は、そのとうもろこし皮の寝床になされい」
ジムとおれは、二人のあいだに何かまたごたごたが起こるのではないかと心配して、一瞬、やきもきした。だから公爵がこう言ったときは、とてもうれしかった。
「圧迫《あっぱく》の鉄のかかとに踏みつぶされて、いつも泥の中にしいたげられるのがわたしの運命であった。不幸のためにわたしのかつての高度な精神も打ちくだかれた。屈服します、甘受《かんじゅ》します。これがわたしの運命なんだから。わたしは世界じゅうでただひとり……苦しませてほしい。耐えることができます」
おれたちはすっかり暗くなると、すぐさま出発した。
王様はおれたちに、川の真中のほうへ出るようにと言ったが、あの町のずっと下へ行くまでは明りを出さないようにと言った。
やがて明りの小さなかたまりが見えて来た……言うまでもなく、あの町で……半マイルばかり離れて、無事に通りすぎた。四分の三マイル下流まで来ると、おれたちは信号の明りをつるした。十時ころ雨と風になり、それはもうひどい雷鳴と電光だった。
そこで王様はおれたち二人に天候がよくなるまで見張りをしているようにと言って、自分と公爵は小屋の中へ這《は》って入り、寝床にもぐりこんだ。十二時まではおれは見張りはなかったが、寝床があったにしても、とにかくおれは寝床には入らなかっただろう。というのは、こういう嵐は一週間のうち毎日見られるようなものじゃ決してなかったからだ。
まったく、風が何という悲鳴をあげて吹いたことだろう!
そして一秒か二秒おきにピカリと来て、半マイル四方の白波を照らしだし、島々が雨を通してうすよごれて見え、木々は風の中で≪から傘《かさ》≫のように動くのが見えた。
やがて、ビシャン! ゴロゴロ! ゴロゴロ! ゴロゴロという音がして……雷はゴロゴロやかましい音を立てながら遠のいていき……と、またピカッと別のが光って、とどめのすごいのが来る。ときどき、波のためにほとんど筏《いかだ》からさらわれそうになったが、おれは服を着ていないので、気にしなかった。沈み木については面倒はなかった。稲光りとぎらぎらする光と飛び回る光がたえまなくあるので、沈み木がよく見えて、筏の先をあっちに向け、こっちに向けて避けるだけの時間がたっぷりあったからだ。
おれには夜中の見張りがあたっていたが、そのころになるととても眠たかった。するとジムは前半を代わってやろうと言った。ジムはそんなふうにいつもすごく親切なんだ。おれは小屋の中へ這って入ったが、王様と公爵が脚《あし》を伸ばし放題に伸ばしているので、おれの寝られる見込みはなく、そこでおれは外で寝た……雨なんか気にならなかった。あたたかだったし、今は波もそんなに高くなかったからだ。
だが、二時ごろ波がまた高くなって、ジムはおれを起こそうとしたが、まだ被害をあたえるほど高くはないと思ったので、考えを変えた。だがこれはジムの考え違いで、まもなく突然、どえらい波が押しよせて来て、おれを筏《いかだ》からさらってしまった。これにはジムは笑って笑って死にそうになった。とにかく、こんなによく笑うニガーは今まで見たことがない。
おれが見張りに立つと、ジムは横になっていびきをかいた。やがて嵐もぬぐったようにあがって、最初の小屋の明りが見えると、おれはジムを起こし、筏をその日の隠し場所にすべりこませた。
王様は、朝飯がすむと、古びた見ずぼらしいトランプをひと組取りだして、公爵とふたりで、ひと勝負五セントで、しばらくのあいだセヴン・アップをやった。そのうち、それにも倦きて、二人はいわゆる「仕事の計画を練ろう」と言った。
公爵はじゅうたん製の旅行|鞄《かばん》をさぐって小さい印刷したビラをたくさん取りだし、大きな声で読みあげた。
一枚のビラには、「パリの有名なアルマン・デ・モンタルバン博士」はしかじかの場所で、某月某日、入場料十セントにて「骨相学について講演」をおこない、「一枚二十五セントにて骨相図を提供する」とあった。公爵は、この博士はおれだ、と言った。
もう一枚のビラには、公爵は「ロンドン、ドルーリー・レーン座の世界的に有名なシェクスピア悲劇俳優、二代目ギャリック」となっていた。
ほかのビラでは、公爵はさらにほかの名前をたくさん持っていて、「占い棒」で地下水や金鉱を見つけたり、「魔女の呪いを散らしたり」するようなほかの不思議なわざを見せていた。
やがて公爵は言った。
「しかし演劇のミューズ神がおれのお気に入りだ。王様、今まで舞台をふんだことがあるかね?」
「ないよ」と王様は言った。
「では、落ちぶれ陛下よ、あと三日と年をとらないうちにふませてあげるよ」と公爵は言った。「一番はじめに行くいい町で、会館を借りて、リチャード三世のちゃんばらの場面と、ロミオとジュリエットのバルコニーの場面をやろう。ご意見は?」
「儲《もう》かることなら何でも、ビルジウォーター、わしは深入りしてやるよ。だが、わしは芝居の演技についちゃ、まったく何にも知らないし、たいして見てもいないんだ。おやじが宮廷でよく芝居をやらせたとき、わしは小さすぎたからな。わしに教えることができると思うかね?」
「やさしいね!」
「よろしい。おれはとにかく、何か目新しいことがやりたくてうずうずしていたんだ。すぐ、はじめよう」
そこで公爵は、ロミオがどんな人物で、ジュリエットがどんな人物かということを話し、自分はロミオになることに慣れているから、王様はジュリエットになればいい、と言った。
「しかし、もしもジュリエットがそんなに若い娘だとしたら、わしのつるつる頭と白い頬ひげでは、たぶん、ひどくおかしく見えるだろうな」
「いや、心配しなくていいよ……ここいらの田舎の阿呆《あほう》どもは、そんなこたあ考えないよ。それに、あんたも衣裳をつけりゃ、人が違ったみたいに変わってしまうよ。ジュリエットはバルコニーに出て、寝床につく前に、月光をたのしんでいるが、ねまきを着て、ひだ飾りのついたナイトキャップをかぶっている。さあ、ここにいろんな役の衣裳があるよ」
公爵は、カーテン用のサラサで作った二、三枚の服を取りだして、これはリチャード三世ともうひとりの男のための中世の甲冑《かっちゅう》だと言い、それと釣り合うような長い白木綿の寝巻きとひだ飾りのついたナイトキャップを取りだした。王様は満足した。
そこで公爵は本を取りだして実にもうすばらしい大げさな調子で台詞《せりふ》を読みあげ、同時に意気揚々と歩きまわり演技をしながら、その芝居をどんなふうにやるのかを示した。それから公爵は本を王様にわたして、自分の役を暗記するようにと言った。
川の大曲りから三マイルばかり下に小さい町があった。昼飯のあとで公爵は、どうしたら昼間ジムを危険にさらさないでくだれるか、その方法を考えだした、と言った。だから町へ行ってそれを片付けて来ると言った。王様は、わしも行って、何かいいものが見つからんかどうか見て来る、と言った。ちょうどコーヒーが切れたので、ジムは、おれもカヌーでいっしょに行って、いくらか買って来てくれたらいいと言った。
町へ着くと、動いているものは一人もなく、通りは空っぽで、日曜日のように、まったく死んだように静かだった。ひとりの病人の黒人が裏庭で日向《ひなた》ぼっこをしていたが、小さすぎるか、病人か、年よりすぎないものはみんな、二マイルばかり森の奥の野外集会に出かけている、と言った。王様は方向を聞くと、その野外集会に行って、ひとつふんばってやってみよう、おれも来ていい、と言った。
公爵は、おれの探しているのは印刷所だ、と言った。それは見つかった。ちっぽけな店で、大工の店の二階にあったが……大工も印刷屋もみんな集会に出かけていて、どのドアにも錠《じょう》がかかっていなかった。きたない、ちらかり放題の場所で、壁いちめんにインキのしみや、馬や逃亡ニガーの絵のあるビラが貼ってあった。公爵は上衣をぬぎすてると、おれのほうはもういい、と言った。
そこでおれと王様は野外集会へ急いで出かけた。
半時間ばかりでそこへ着いたが、おそろしく暑い日だったので、汗をだらだら流していた。そこには二十マイル四方から、千人もの人が集まっていた。森は二頭立ての四輪馬車がいっぱいで、いたるところにつながれた馬は、荷馬車につけたかいば桶《おけ》から餌《えさ》を食ったり、足を踏みつけては蝿《はえ》を追いはらっていた。木の棒を立て、中くらいの板を屋根にした差し掛け小屋がいくつもあって、レモネードやしょうが入りケーキを売っており、西瓜《すいか》や青いとうもろこしや、そういう青物類が山と積まれていた。
説教がおこなわれているのは同じような差し掛け小屋の下であったが、ただこのほうはもっと大きくて、群衆が入っていた。ベンチは丸太の外側の厚板で、丸みのあるほうに孔《あな》をあけ、棒をさしこんで脚《あし》にしていた。背中はなかった。説教師たちは、小屋の一方の端に高い台をつくって、そこに立っていた。
女たちは日よけ帽をかぶっていて、ある女は、毛と亜麻混紡《あまこんぼう》の服を、ある女はギンガムの服を着ていたが、若い女の中にはサラサを着ているものも数人いた。若い男たちの中にははだしのものもいたし、子供たちの中には何にも着物を着ないで、ただ粗《あら》い麻のシャツ一枚のものもいた。年とった女の中には編みものをしているのがいたし、若い連中の中にはこそこそとくどいているのもいた。
おれたちの行った最初の小屋では、説教師が賛美歌を歌わせるために一行ずつ読んでいた。説教師が一行読むと、みんながそれを歌った。群衆は多かったし、元気のいい歌い方で歌うのだから、聞いていると何となく堂々としていた。
説教師はさらにみんなが歌うようにと二行読んで……あとからあとからそうした。人びとはますます元気になり、ますます大声で歌った……終わりころになるとうめきだすものもあり、叫びだすものもあった。
やがて説教師は説教をはじめた。しかも本気ではじめた。まず台の一方の端へ進んでから反対の端へ歩き、やがて正面から体をのりだすようにしたが、その間じゅう両腕と体は動かしつづけて、声をかぎりに叫んでいた。そしてときどき聖書をさしあげては、パッと開いて、それを何となく右に左に回しながら、
「これが荒野の青銅のへびだ! これを見て生きよ!」と叫んだ。
すると人びとは「栄光あれ!……アーアーメン!」と叫び、かれはつづけ、人びとはうめいたり、泣いたり、アーメンと言ったりした。
「ああ、悔《く》い改める者の前列の席に来なさい!
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来なさい、罪に汚れた者よ!
(アーメン!)
来なさい、病気の者と傷ついた者よ!
(アーメン!)
来なさい、足の不自由な者よ、盲人よ!
(アーメン!)
来なさい、あわれな貧しい者、恥に沈む者よ!
(アーアーメン!)
来なさい、疲れ、よごれ、悩む者よ!……
打ちくだかれた精神をもって来なさい!
悔い改めの心をもって来なさい!
汝《なんじ》のぼろと罪と汚れをつけたまま来なさい!
きよめる水は無料であり、天国の門は開かれている
……おお、入って来て休みなさい」
(アーアーメン! 栄光あれ、栄光あれ、ハレルーヤ!)
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その先も同じようで、叫んだり泣いたりするおかげで、説教師が何を言っているのか、もう聞きわけることができなかった。
人びとは、群衆のいたるところで、立ちあがって、顔を涙だらけにしながら、全力をふるって、前列の悔い改める者の席へ進み出た。悔い改める者がぜんぶ最前列の席に大ぜい集まると、みんなはただもう気がちがったように夢中になって、歌ったり、叫んだり、わらの上に身を投げだしたりした。
ところで、おれがまず第一に知ったことは、王様が前の方へどんどん動いて行ったということであった。王様の声がだれの声よりも大きく聞こえた。つぎにかれは台の上に駆けあがった。説教師は王様に人びとに話してくれとたのみ、かれは話した。
王様は、自分は海賊である、と言った……三十年間、遠いインド洋で海賊をやってきた。仲間はこの春の戦いですっかり数がへってしまい、自分が国へ帰って来たのは新手《あらて》を集めようとの目的だったが、ありがたいことに昨夜泥棒にやられて、一文なしで汽船から岸へあげられてしまった。うれしいことで、こんなしあわせなことは今まで会ったことがない。というのは自分は今はまったく人間が変わってしまって、生まれてはじめて幸福になったからだ。たとえ貧しくとも、これからすぐに出発して、働きながらインド洋にもどり、余生を捧げて海賊どもを真実の道に返すように努力するつもりだ。この仕事には、インド洋の海賊仲間はみんな知っているから、自分以上の適任者はいない。お金もないし、そこへ行くには長い時間がかかるだろうが、どうしても出かけて行って、一人の海賊を改心させるたびに、そいつに言ってやる、
「わしに感謝してはいけない、わしの手柄と思ってはいけない。これはみんなポークヴィル野外集会のあのなつかしい人びと、人類の生まれながらの兄弟であり恩人である人びとのおかげなのだ……一海賊のはじめての真実の友である、あのなつかしい説教師のおかげなのだ! とね」
それから王様はわっと泣きだし、だれもかれもみんな泣いた。やがてだれかが大きな声でどなった。
「この人のために募金をしよう、募金をしよう!」
すると六人ばかりがそれをはじめようと飛びついたが、だれかがまたどなった。
「その人に帽子を持って回らせろ!」
すると、みんなもそう言い、説教師もそう言った。
そこで王様は帽子を持って群衆の中を全部回ったが、目をふきながら、人びとを祝福し、ほめたたえ、遠くにいるあわれな海賊どものためにこんなに親切にしてくれることを感謝した。ときおり娘たちの中で一番きれいなのが、涙を頬に流しながらやって来て、あなたをおぼえておくためにキスさせてくれるかと言うと、かれはきまってキスしてやった。中には抱きしめて、五回も六回もキスしてやった娘もあった。……また、一週間家に滞在するようにと招待された。だれもかれも自分の家で暮らしてくれ、名誉と思うと言った。
しかし王様は、今日は野外集会の最後の日だから、ご好意に甘えるわけにはいかない、それに自分としては今すぐにでもインド洋へ行って、海賊を悔い改めさせる仕事をはじめたくてうずうずしているんだ、と言った。
筏《いかだ》にもどって、王様が勘定してみると、八十七ドル七十五セントも集まっていることがわかった。それから、森をぬけて帰りかけたとき、ある荷馬車の下に見つけた三ガロン入りのウイスキーもかっぱらった。王様は、全部まとめると、今日のかせぎは、今まで伝道の仕事で働いたどの日よりも多かった、と言った。野外集会を利用するには、海賊にくらべたら、異教徒など物の数に入らないってことは言うまでもないこった、と王様は言った。
公爵は、王様が帰ってきて自慢話をするまでは、自分は相当うまくやったと考えていたが、そのあとはあんまりたいしたものとは思わなくなった。公爵はあの印刷屋で、農民たちのために小さな仕事……馬のビラ……をふたつ、活字を組んで印刷してやって、お金を四ドル取った。また十ドル相当の新聞広告を取ったが、もし前金で支払うなら四ドルで出してやると言うので……農民たちはそうした。新聞の代金は一年分二ドルであるが、前金で支払うという条件で、ひとり五十セントで三組の予約を取った。
農民たちは、いつものように、薪や玉ネギで払おうとしたが、公爵は、この店は買ったばかりで、代金はできるだけ下げることにして、これからは現金払いで店をやっていくつもりだ、と言った。かれは小さな詩をひとつ活字に組んだ。自分の頭で自分で作ったもので……三節あって……何となく甘い悲しげな詩で……その題は「そうだ、冷たい世界よ、この破れんとする胸を打ちくだけ」であった……それを活字に組んで、すぐに紙に印刷できるようにしたままにしておいて、一セントの請求もしなかった。
さて、公爵は九ドル半を手に入れたわけで、かなりいい一日分の仕事になった、と言った。
それから公爵は、自分で印刷して、おれたちのためのものだから、代金を請求しなかった別の小さな仕事を見せた。包みを棒につけたのを肩にかついだ逃亡ニガーの絵で、下に「賞金二百ドル」と書いてあった。読んでみるとジムのことばかりで、正確に人相をしるしてあった。それによると、ジムはニュー・オーリアンズの四十マイル下流のサン・ジャック農園から、この冬逃げだして、北へ行ったらしい、つかまえて送りかえしてくれた人には、この額の賞金と経費をさしあげる、ということだった。
「これで」と公爵は言った、「明日からは、おれたちは気がむけば昼間も流して行けるんだ。だれかがやって来るのを見たら、ジムの手足を縄《なわ》でしばって、小屋の中にころがしておき、このビラを見せて、こう言ってやればいいんだ、こいつを川の上流の方でつかまえたんだが、貧乏で、蒸汽船の旅ができないもんで、友だちからこの小さな筏《いかだ》を信用貸しで借りて、いま賞金をもらいに行く途中なんだとね。手錠と鎖があるとジムにはもっとよく以合うんだが、おれたちがひどく貧乏だという話とは合わなくなるんでね。そういう道具は宝石みたいに高のぞみだよ。縄が手ごろで……芝居のほうで言うように、おれたちは統一をまもらなくちゃならんよ」
おれたちはみんな、公爵はじつに頭がいい、こうなれば昼間くだってももう面倒はないだろう、と言った、おれたちの判断では、印刷屋での公爵の仕業《しわざ》があの小さな町で引き起こすだろうと思われる騒ぎのとどかないとこへ、今晩じゅうに何マイルかくだることができるだろう……そうなれば、おれたちは気がむけば帆を張ってでもくだって行けるんだ。
おれたちはじっとおとなしく隠れていて、十時近くなるまで出かけなかった。そして町からかなり遠く離れたところを、すべるように通りすぎ、カンテラをつるしたのも、町がすっかり見えなくなってからだった。
ジムが朝の四時に、見張りに立つようにとおれを呼んだとき、ジムは言った。
「ハック、おめえさまは、おらたちがこの旅でもっとほかの王様に出くわす、と思うかね?」
「いや」とおれは言った、「そうは思わないよ」
「そうか」とジムは言った、「そんならいいんよ。王様も一人や二人なら気にしねえが、それでたくさんよ。この王様はすげえ酔っぱらいで、公爵だって似たりよったりだらね」
おれはジムが王様に、フランス語というのはどんなものか聞くことができたらと思って、フランス語をしゃべらせようとしていたのを見たが、王様は、この国に来てあんまり長くなって、苦労もあんまり多くて、忘れてしまった、と言っていた。
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二十一 剣の練習
もうとっくに日があがっていたが、おれたちは川をくだりつづけて、岸に筏《いかだ》をつながなかった。そのうち王様と公爵が、えらく冴《さ》えない顔で起きてきたが、川にとびこんでひと泳ぎすると、しゃっきりとなった。朝飯のあと、王様は筏の隅のところに陣取って、靴をぬいでズボンをまくりあげ、足を川の水にぶらんぶらんさせて気持ちよくなると、パイプをつけて、「ロミオとジュリエット」の台詞《せりふ》を覚えにかかった。
それがいちおう頭に入ると、公爵といっしょに稽古をはじめた。公爵は台詞の言いかたをいちいちくり返して、教えてやらなくてはならなかった。
つぎに、溜息《ためいき》をついたり、胸に手を当てたりする仕草《しぐさ》を教えていたが、やがてそれで上等だと言った。
「しかしだな」と公爵は言った。……「そういうふうに牛みたいにロミオ! と吠《ほ》えちゃいかん。やさしく、しおらしく、消え入るように、そう、ロミオさま、とな。うん、その呼吸だ。ジュリエットてのはかわいい、ちっちゃな、ほんの娘っ子なんだから、ロバみたいな胴間声《どうまごえ》を出すわけがない」
さて、あくる日、ふたりは、公爵が樫《かし》の棒きれでこしらえた長い剣を一本ずつ持って、ちゃんばらの稽古をはじめた……公爵はわれこそはリチャード三世なりと言って、二人が打ち合いながらも筏もせましと跳んだりはねたりするのはたいした見ものだった。ところがそのうち王様が足を踏みはずして川に落ちて、そこでひと休みということになって、二人は前に自分たちがこの川沿いでやったいろんな冒険を話し合った。
昼飯のあとで、公爵がこう言い出した。
「なあ、カペットよ、今度の公演は立派にやってのけたいものだな。それで、ちょっとしたおまけをつけようと思うんだ。どうせアンコールにこたえるための芸も要《い》るし」
「その≪オンコール≫ってのは何だ、ビルジウォーター?」
公爵は説明してやって、こうつづけた。「おれはスコットランドふうの踊りと、水夫の角笛踊りでアンコールにこたえる。お前は……そうだなあ、……うん、そうだ……お前はハムレットの独白《モノローグ》をやれ」
「ハムレットの何だと?」
「ハムレットの独白だよ。シェイクスピアの中でもいちばん有名なものだ。それはそれは崇高なものだぞ。やれば必ず当たる。おれの本には入っていない……全集の中の一冊しか持ち合わせていないもので……しかし思い出せると思う。ちょっとそのへんを歩きまわって、暗い記憶の奥からそいつを呼び出すことができないものか、ひとつやってみよう」
そう言うと公爵は、行きつもどりつ、思案顔で歩き出して、ときどきすごいしかめっ面《つら》をした。そしてぐいと眉《まゆ》を吊りあげたり、額に手をあててよろめいたり、うめくような声を出したり、それから溜息をついて、はらはらと涙をこぼす真似をしたりした。やがて独白を思い出すことができて、見てろ、とおれたちに言った。公爵は片足を一歩踏みだして、両手を天にさしのべ、頭をうしろにそらして天を見あげ、そういうじつに気高い構えをきめると、胸をかきむしったり、狂おしく頭をふり立てたり、キリキリ歯ぎしりをしたりした。それから台詞がはじまると、手をひろげて身をよじったり、弓なりに胸をそらせたりして叫びつづけ、それはもう、前に見たどんな芝居も問題にならないすばらしい演技だった。つぎに書くのがこの独白の文句で……これは公爵が王様に伝授しているのを見てるうちに、たいして骨折らずに、おれも覚えてしまったものだ……
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生くべきか、はた、死すべきか……
それが長い命をみじめにする抜身《ぬきみ》の短剣なのだ。
バーナムの森がダンシネンに至るその日まで
人生の重荷に耐え抜くことがだれにできようか。
しかし、死の後に何かがあるという恐怖が
大自然の恵《めぐ》みの添え物たる無心な眠りを殺し
かくてわれら、あえて未知の世界へ飛び立つよりは
むしろ無法な運命の矢玉を放つことを願うのだ。
この点を思えば、はやまることもならぬ。
戸を叩いてダンカンを起せ! そなたが
それをなし得るとよいと思うぞ、
だがこの世の鞭《むち》とあざけりを、
暴君の不正を、高ぶる者の無礼を、
また裁判のゆえなきとどこおりを、
だれがよく忍び得ようぞ。かつはまた、
作法どおりおごそかにもくろぐろと墓穴が口をあけて待つ
荒涼の夜半のもだえ死にをだれがよく耐え得ようぞ。
だが旅人の生きて帰れるためしなき未知の国が
腐《くさ》った毒気をこの世に吐きかけるのだ。
さればこそ「決断」の生地の色は、
心労のあまり死ぬという諺《ことわざ》の猫のように
ちぢに思いの乱るるが故《ゆえ》に、生彩を失うに至り、
館《やかた》の空に垂れこめる疑惑のむら雲は
ここにおいてその流れを変え、
ついに「行動」の名を失うに至る。
これぞ熱望すべき大団円。だが静かに、美しきオフェリアよ、
重く冷たきそなたの顎《あご》は閉じたまま、
行くがよい、尼寺へ!
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王様はこの独白《モノローグ》が気に入って、すぐに覚えてしまって、上手にできるようになった。まるでこの芸のために生まれてきたみたいだった。じっさい、コツをのみこんだ王様が、すっかり熱中して、胸をかきむしり、荒れ狂い、またすっくと身を起こしてハムレットを演じて見せるのは、何とも言えず立派なものだった。
そこで、印刷屋に出くわすとすぐに、公爵は興行のビラを刷らせた。それからの川下りの二、三日というもの、明けても暮れてもちゃんばらとリハーサル(とか公爵は言っていた)で、筏《いかだ》は世にもにぎやかな場所となった。
アーカンソー州をだいぶくだった所まで行ったある朝のこと、川が大きく曲ったところに小さな貧弱な町があるのが見えてきたので、おれたちは町から四分の三マイルばかり川上にあった小川の、入口が糸杉の枝でトンネルみたいになったところに、筏を入れてつないだ。そしてジムだけ残して、みんなでカヌーに乗って、その町で芝居をやれそうかどうか見に行った。
おれたちはえらく運のいいときにその町に来たのだった。というのは、その日のひる下りからその町でサーカスがかかるということで、近くの田舎から、いろんなガタガタ馬車や、馬に乗って人がもう集まりはじめていたからだ。夜までにはサーカスは引きあげるということだったから、おれたちの芝居にも相当人が集まるチャンスがあった。
そこで、公爵は会場に郡役所を借りる段取《だんど》りをつけ、それからみんなで町に行って、ビラをはって歩いた。そのビラの文句は……
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シェイクスピア劇リバイバルの夕べ!
感動の名舞台!
今夜かぎり!
主演は世界的に有名な悲劇界の二傑
二代目デイヴィッド・ギャリック
ロンドン、ドルーリー・レイン座専属
ならびに
初代エドマンド・キー
ロンドン、ピカデリー、プディング通り、ホワイトチャペル、ローヤル・ヘイマーケット劇場、および欧州の王室諸劇場専属
出しものはシェイクスピア劇の高尚なる見せ場たる「ロミオとジュリエットのバルコニーの場」!
ロミオ…………ギャリック氏
ジュリエット………キーン氏
その他一座の助演陣総出演!
衣裳・大道具・小道具すべて新調!
および
「リチャード三世」より……息もつかせぬ丁々発止《ちょうちょうはっし》、血も凍る剣劇大活劇!
リチャード三世……ギャリック氏
リッチモンド………キーン氏
さらにまた(御要望にこたえて)……
ハムレットの不朽の独白!
演ずるは名優キーン!
パリにて三百日間ロングランの至芸!
ヨーロッパの帝室諸劇場との先約のため
公演は今夜一晩かぎり!
入場料二十五セント 子供と召使十セント!
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それからおれたちは町をぶらついてまわった。店も家も、たいてい板張りで、長いことペンキも塗ってなく、干《ひ》からびてがたびしのしろものだった。川があふれても大丈夫なように、どの家も三、四フィートもある土台の柱の上にのっかっていた。家のまわりにはせまい庭がついていたが、たいしたものはなく、植わっているのは、せいぜいチョウセンアサガオにヒマワリ、あとは燃えがらの山や、古いちぢみあがった長靴や短靴や、欠け瓶《びん》にぼろ屑、使い捨てたブリキの器《うつわ》、そんなものしかなかった。
塀《へい》は、いろんな板をいろんな時代に打ちつけてこしらえたもので、その板がてんでんばらばらな向きに向いていた。門にはたいていひとつしか蝶番《ちょうつがい》がついていなくて、それも革でこしらえた間に合わせものだった。塀によっては、いつか大昔に白いペンキを塗ったあとがあって、コロンブスの頃に塗ったのだと公爵が言ったのも、もっともと思われた。たいていの庭にはまた豚と、それを追い出そうとする人間がいた。
店はみんな一本道に沿って建っていた。軒先には、それぞれ自家用の日除《ひよ》けが張ってあって、その支えの柱に田舎の連中は馬をつないだ。日除けの下には衣料品の空箱が置いてあって、ぐうたらな手合いが日がな一日、その上でとぐろを巻いて、ジャックナイフで箱をけずったり、タバコを噛《か》んだり、あくびや伸びをしているのだった。……何とも品のない連中だった。
たいていみんな傘ほどもある黄色い麦わら帽をかぶっていたが、上衣とかチョッキとかは着ていなくて、たがいに、ビルだの、バックだの、ハンクだの、ジョーだの、アンディーだのと呼び合って、罰当たりな言葉をふんだんに使いながら、だらだらむだ話をしていた。日除けの柱一本につき一人のわりで、どの柱にもぐうたら者がよりかかっていて、その手はいつもズボンのポケットに入っていて、手を出すのはタバコをひと噛み人に貸すときか、どこかをぽりぽり掻《か》くときくらいなものだった。この連中のやりとりを聞いてみると、きまっていつもつぎのような話だった。
「ようハンク、タバコをひと噛み分くれねえか」
「だめだあ。おれにもひと噛み分きり残ってねえ。ビルにたのんでみな」
それで、ことによるとビルはひと噛み分くれるかもしれず、ことによると、おいらも切らしただあ、と嘘を言うかもしれなかった。こういうぐうたら連の中には、さかさに振っても一セントもなく、自分のタバコはひと噛み分も持っていないというのもいた。そういう手合いは、借りの一手で噛みタバコを手に入れるのだったが、その持ちかけかたは……
「ようジャック、ひと噛み分貸してくんねえかなあ。たった今、それっきりしかねえひと噛み分をベン・トムソンにくれてやったからよう」
……しかしこの話は、まあいつも嘘だったから、よそ者でもなければ欺《だま》されるものはなかった。しかしジャックはよそ者じゃないから……
「ひと噛み分くれてやったあ? そんなことがあるくれえなら、おめえの姉さんの飼ってる猫の親猫のそのまた親猫だって噛みタバコを人にくれらあ。やい、レーフ・バックナー、おめえにはもう幾噛み分も貸しがあるんだぞ。そいつを返してもらおうじゃねえか。そしたら一トンでも二トンでも貸してやらあ。それにおれは何も利子をつけて返せと言ってるんじゃねえぞ」
「でもよう、いつかおれ、少し返したじゃねえか」
「うん、返した。六噛み分くれえな。だが、てめえは売りもんのタバコを借りときながら、返したのは黒んぼタバコじゃねえか」
店で売っている噛みタバコは、平たく圧縮した黒い棒タバコだが、この連中は、ふだん、加工しない葉タバコをひねっただけのものを噛んでいた。棒タバコをひと噛み分借りるとき、この連中はたいていナイフなど使わないで、棒タバコの端っこに喰《く》いついて手で引き裂いた。すると持ち主は、小さくなって戻ってきた棒タバコを浮かぬ顔をして見ながら、皮肉な調子でこんなことを言ったりした。
「おう、そのひと噛み分ってのをおれにくれねえか。こっちの棒タバコのほうを代わりにやるからよう」
町の表通りも横丁もみんな泥道で、そこらは泥のほか、それこそ何もなかった。……タールみたいな真黒な泥が、場所によっては一フィート、どこを踏んでも二、三インチはぬかっていた。いたるところに豚がうろついて、ブウブウいっていた。泥んこの牝豚が、子豚をいっぱい連れて、ぶらぶらやって来たと思うと、やおら道の真中に寝ころがるようなこともあった。人間さまはよけて通るより仕方がない。牝豚はひとつ伸びをすると、子豚どもに乳を吸わせている。給料をもらってそんなことをしてでもいるみたいに、しあわせそうにして、耳なぞ動かしている。するといきなり、ぐうたらのひとりが、こうどなり出す……
「それ、やっつけろ! かかれ、虎公《タイグ》!」
すると牝豚が恐ろしい金切り声を立てて、どちらの耳にも一、二匹の犬をぶら下げてすっ飛んで行くそのあとを、三ダースも四ダースもの犬が追っていく。
ぐうたら連は総立ちになって、見えなくなるまで、それを見送り、悦に入ってアハアハ笑い、そのさわぎにすっかり満足そうだ。それからぐうたら連は、犬の喧嘩があるまでは、またすわりこんでいる。およそ犬の喧嘩くらい、この連中の目をぱっちりひらかせて、しんから幸福にさせるものはない……もっとも迷い犬にテレピン油をかけて火をつけるとか、しっぽにブリキかんをくくりつけて死ぬまでそいつが走るのを見物するとかいう楽しみを別にすれば。
川沿いでは、家が岸から突き出してつんのめり、今にもころげ落ちそうなのが何軒もあった。人はもうそういう家からは立ち退いていた。また、家の一角の床の下が宙に浮いているようなのもあった。こういう家にはまだ人が住んでいたが、家一軒ぶんくらいの幅で、がけ崩れすることもあったから、危なかった。それからときには、奥行きの四分の一マイルもの土地がどんどん崩れ出して、ひと夏のうちにすっかり川になってしまうということもあった。こいうところでは川がしょっちゅう食いこんでくるので、町もしょっちゅう後ずさりしていなくてはならない。
その日、昼ちかくなるにつれて、町では馬車や馬がこみ合ってきて、その上あとからあとからくり出して来た。田舎《いなか》から来た家族づれは、持ってきた弁当を馬車の中で食べていた。ウイスキーをぐいぐいやる者も相当いて、喧嘩も三つ見た。そのうちだれかがこうどなった。
「ボッグズじいさんが来たぞ! 月に一度は田舎から出て来て、酔っぱらわずにはすまねえ。そうら、こっちに来るぞ!」
のらくらどもはみんなおもしろそうな顔になった。ははあ、じいさんをからかいつけているな、と見当がついた。するとひとりが……
「今日はだれをやっつけるつもりかなあ。やっつけてやる、とじいさんがこの二十年間に言った人間を、本当にみんなやっつけたんだったらよう、あのじいさんもたいして有名になったろうて」
すると別のがいう、「やっつけてやる、とおいらもじいさんに言われてみてえ。そうすりゃあ、千年も死なずにすむちゅうもんだ」
ボッグズは、インディアンみたいにわめいたりどなったりして、めちゃめちゃに馬をとばして来てから、こうどなった。
「どけ、どけえ。おれさまぁ、血の雨降らせに行くとこだい。早桶《はやおけ》が足りなくなって、値上りしても知らねえぞ」
ボッグズじいさんは、酔っぱらってぐらぐらしながら、馬にのっていた。五十はこえていて、真赤な顔をしている。みんながじいさんを笑ったり、どなりつけたり、ひどい口をきいたりすると、じいさんはそれにやり返して、おめえらの番になったら、ちゃんと相手になって、順ぐりにやっつけてやる、だが今日はシャーバン大佐のやつを殺しに来たんで、今はおめえらにかまけちゃいられねえ、「大ものが先、小ものは後まわし」がおれさまの主義なのだ、と言った。
ボッグズはおれを見ると、馬をのりつけてきて、
「小ぞう、どこから来た? あの世行きの覚悟はできたか?」
こう言って向こうに行った。おれはこわくなったが、だれかがこう言った。
「なあに、本気じゃねえ。酔っぱらうと、いつもああいうふうなんだ。本当は、酔ってもしらふでも、人に怪我《けが》ひとつさせたこともねえ、アーカンソー一の気のいいじじいさ」
ボッグズは、町でいちばん大きな店の前に馬を乗りつけると、首をすくめて日除けテントの下をのぞくようにしてわめき出した。
「出て来い、シャーバン! 出て来て、おめえがだましやがったお方様に見参しろい! おれさまがおめえにねらいをつけたからにゃあ、きっととっちめてやるからな」
それを皮切りに、ボッグズが好きほうだいにシャーバンの悪口を言っているうちに、通りはそれを見物したり、笑ったり騒いだりする人間でいっぱいになった。やがて五十五くらいの、気位の高そうな……おまけにその町としてはとびぬけて身なりのいい……男が、店の戸口から出てきたので、やじ馬は左右に分かれて道をあけた。すると男は、いやに落ちつき払ってゆっくりとボッグズにこう言った……
「きさまには愛想がつきたが、一時まではがまんしてやる。一時までだ。わかったな。……そのあとは許さん。一時になったあとで、ひと言でも私をののしれば、その場を去らせはせぬぞ」
そういうなり、背を向けて店に入った。やじ馬は水を打ったようにしーんとなって、身うごきする者も、笑う者もいない。
ボッグズじいさんはシャーバンをおどしつけるような文句を精いっぱいわめき散らしながら、ずっと向こうまで通りを馬で行って、またもどってくると、店の前に止まって悪口をどなりつづける。何人かがボッグズを取りかこんで黙らせようとするが、聞こうともしない。あと十五分で一時だぞ、さあもう帰りな、……今すぐ行きな、といくら言いきかせてもききめがない。
ボッグズはあらんかぎりの大声で悪態をつき、自分の帽子をぬかるみに叩きつけて、馬でそいつを踏みにじると、白髪頭《しらがあたま》をふり立てて、乱暴に馬をやりながら、また通りを向こうに行く。それでも、何とかじいさんを馬からおろして、どこかに閉じこめて酔いをさまさせようと、入れ代わり立ち代わり、みんなで一生けんめいなだめるのだが、どうにもならない。……ふりきって、ボッグズじいさんは、通りをまたまたこちらにやって来て、口ぎたなくシャーバンをののしる。そのうち、だれかが言った。
「娘を呼んでこい!……早く、だれか行って連れてこい! 娘さんの言うことならきくことがある。こうなったら、頼みの綱は娘さんだ」
それでだれかが駆け出した。おれは通りをちょっと先まで歩いて、立ち止まった。五分か十分して、ボッグズがまたやって来た……今度は馬に乗っていない。左右から友だちに腕を取られ、引き立てられるようにして、帽子もかぶらず、千鳥足《ちどりあし》でこちらにやって来る。もう口もきかず、そわそわしているみたいで、引っぱられて行くのにさからいもしない。それどころか、自分から進んでこの場を急いで離れようとさえしていた。そのとき、
「ボッグズ!」
という声がして、だれかと見れば、シャーバン大佐だ。大佐は通りにじっと立っていて、右手にはピストルを持っていた。ねらいはつけずに銃身は空を向いている。同じ瞬間、若い娘が二人の男といっしょにかけつけてくるのが見える。ボッグズとその二人の連れは、声のした方を見て、ピストルが目に入ると、連れは二人とも一方にとびのく。ピストルの銃身がやおらしずしずと水平になってゆく……打ち金は二つとも起こしてある。ボッグズは両手をあげて叫ぶ……
「おねげえだ、射つな!」
ズドン! と一発、ボッグズは宙をつかんでうしろによろけかかる、と見るまに、ズドン! ともう一発、ボッグズはのけぞると、腕をひろげてどさっと地べたに倒れる。娘はヒィーッと泣いて走り寄ると、父親に抱きついて泣き叫ぶ……
「射ち殺すなんて、射ち殺すなんて!」
やじ馬は、それをとり囲んで押し合いへし合いしながら、首を伸ばしてのぞきこむ。内側にいる連中は、人垣を押し返しながら、叫ぶ……「さがれ、さがれ!怪我人に良い空気を吸わせろ!」
シャーバン大佐は、地べたにピストルを投げ出すと、回れ右をして姿を消した。
みんなは、ボッグズじいさんを小さな薬屋にかつぎこんだ。そのまわりを、さっきのやじ馬が取りまき、そのまたまわりに町じゅうの人がおしかけた。
おれは走って行って、じいさんの様子が近くからよく見える、ウインドーのそばの良い場所に陣取った。じいさんは床に寝かされていて、大きな聖書が頭の下にあてがってあり、もう一冊の聖書がひろげて胸の上にのせてあった。しかしその前にシャツをやぶき取ってあったから、二発のうちの一発がどこに当たったのかがよく見えた。
じいさんは十二回ばかり深ぶかと息をしたが、息を吸うたびに、聖書ごと胸が持ちあがり、吐き出すごとにそいつがさがった。……それから、動かなくなった。死んだのだ。みんなは、泣き叫ぶ娘を引き離して、どこかに連れて行った。十六くらいの、たいそうやさしくて、おとなしそうな娘だったが、真青になって、おびえきっていた。
さてそれから、町じゅうの人が薬屋にやって来て、ウインドーに近づこうともみ合い、おし合い、へし合いの騒ぎとなったが、前からいた連中は、場所をゆずろうとしないものだから、うしろの連中はこういうことを何度も言うのだった……「おい、前のやつら、おめえたちはもうたっぷり見たじゃねえか。いつまでもそこにがんばって、ほかの人には見させねえてのは、よくねえぞ。公平じゃねえぞ。ほかの人にだってちゃんと見る権利はあるんだ」
するとどなり返す者もいて、喧嘩がはじまるといけないと思って、おれはその場をぬけ出した。往来は、どこもかしこも人がいっぱいで、みんなが興奮していた。射たれる現場を見た者は、あちこちでそのときの模様を話していて、そのまわりには、それぞれ、背のびして聞き入る人たちが、黒山のように集まっていた。そういうのの一人に、髪の毛を長くのばし、でかい白い毛皮のつば広帽をあみだにかぶり、羊飼の杖を持ったひょろりと長いのっぽがいた。
こののっぽが、ここにボッグズがいて、あそこにシャーバンがいて、と地べたにしるしをつけると、まわりの連中はそのあとをついてまわって、のっぽのすることを何ひとつ見落とさないようにして、説明がわかったしるしにうなずいてみせ、のっぽが杖で地べたにしるしをするときは、みんな手を腿《もも》において中腰になって見守った。
のっぽはシャーバンのいた所に来ると、仁王《におう》立ちになり、眉をひそめ、帽子のつばをまぶかに引きさげた。そして「ボッグズ!」とどなって、杖をしずかに水平にふりおろしてから、「ズドン!」とやって、うしろによろけ、もうひとつ「ズドン!」とやって、あおむけにひっくり返った。一件を自分の目で見た連中は、申し分ない、たしかにこのとおりだった、と言った。それで十人もの人がウイスキーの瓶を出して、のっぽにごちそうした。
さて、やがてだれかが、シャーバンを私刑《リンチ》にしろと言い出した。すると一分もしないうちに、だれもが口ぐちに同じことを言うようになり、みんな逆上したようになって、何やらわめきながら、首くくり用にと、手当たりしだいに、せんたく綱などをひったくっておしかけて行った。
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二十二 シャーバン
連中は、インディアンのようにわめいたりどなったりして狂ったように、シャーバンの家をめざして通りをのして行った。その行くてにあるものは何でも、向こうからよけなければ、片はしからおし倒され、踏みつぶされた。見るも恐ろしいながめだった。子供たちはよけようとして、悲鳴をあげて、暴徒の前をすっ飛んで行き、通りの家々はどの窓からも女の人が顔を出していた。どこの家の木にも、黒人の男の子があがっており、どこの家の垣根からも、黒人の男や女がのぞいていたが、暴徒が近づいてくると、みんな姿を消して、安全なところに逃げて行った。たくさんの女子供が、死ぬほどこわがって、泣いたり叫んだりしていた。
暴徒は、シャーバンの家の柵《さく》の前につめ寄せられるだけつめ寄せて、そのやかましいことは、自分の言っていることも聞こえないくらいだった。そこは二十フィートくらいのせまい庭になっていた。
だれかが「塀をぶっこわせ、塀をぶっこわせ!」と叫んだ。たちまち、ベリベリ、メリメリ、バリバリという騒ぎになって、塀が倒され、群集の前のほうは、大波のように中になだれこんだ。
ちょうどそのとき、シャーバン大佐が、二連装の銃を手に、玄関のポーチの上に出てきて、ひと言も口をきかず、まるで落ちつき払って、ゆうゆうと立った。さわぎは静まり、人の波はたじろいだ。
シャーバンは、ものも言わず……こちらを見おろしながら、ただじっと立っていた。その静けさがひどく気味がわるくて、居心地がわるかった。シャーバンはゆっくりと群集の中に視線を走らせた。群集の中で大佐と目が合った者は、ちょっとのあいだ、にらみ返そうとするのだが、だれもそれができず、すぐ目を伏せておどおどした様子になった。
そのうち、シャーバンは笑い声みたいな声を立てた。気持ちのいい笑い声などではなくて、パンを食っているとき砂を噛んだみたいな、いやあな気持ちがする笑い声だった。
シャーバンは、嘲《あざけ》るように、ゆっくりと口をきった。
「お前たちのような手合いが、だれかを私刑《リンチ》にしようとするとは! 思っただけでも片腹痛い。一人前の男をリンチにするだけの度胸があるとでも思っているのか。なるほどお前たちには、くにを追われてここへ来た寄るべない哀れな女たちをつかまえて、タールを塗って羽根を植えるだけの大胆さはある。しかし、だからと言って、一人前の男に手をかけるだけの胆《きも》っ玉の持ち合わせがあるとでも思っているのか。
よいか、一人前の男というものは、お前たちのような手合いが一万人|束《たば》になってかかってこようと、無事でいられるものなのだ……昼間であれば、また背後からおそわれでもしないかぎりはな。
お前たちの正体は何だ。わしにはすっかりわかっている。わしは南部に生まれて南部に育ったが、北部で暮らしたこともある。だからわしは、並みの人間とはどの土地でもどういう者か、承知している。並みの人間は臆病者だ。北部では、並みの人間はだれに踏みつけにされようともされるままにし、家に帰ってから耐えしのぶ謙虚な心をあたえたまえと祈る。南部では、男がまっ昼間《ぴるま》に満員の駅馬車をたった一人でとめて強盗を働く。南部の新聞が南部人は勇敢だとしょっちゅう言うので、お前たちは自分らはどのよその土地の人間よりも勇敢なのだと思いこんでおる。……しかし事実は、よその土地の人間並みに勇敢なのであって、それ以上なのじゃない。ここいらの陪審員たちは、どうして人殺しどもを縛り首にしないのか? それはそいつらの仲間から、闇夜に背後から撃たれるのがこわいからだ。……そういう卑怯な仕返しを本当にやりかねないやつらだからな。
だから、いつも陪審員たちは人殺しの悪党を無罪放免にする。そこで一人前の男が、覆面《ふくめん》をした百人の臆病者をひきつれて、その悪党をリンチにするのだ。
お前たちの間違いは一人前の男を連れて来なかったということだ。それが間違いのひとつで、もうひとつは、お前たちが暗闇にまぎれて覆面をして来なかったということだ。お前たちが連れて来たのは半人前の男にすぎん……そこにいる、バック・ハークネスがそいつだ。……そいつにそそのかされさえしなかったら、お前たちはただ、わいわい言っているだけだったろう。
お前たちは好きでここに来たのではない。並みの男というものは、いざこざや危いことを好まぬものだ。お前たちも、いざこざや危い目に会いたくはなかったのだが、そこにいるバック・ハークネスのような半人前の男が『やつをリンチにしろ! やつをリンチにしろ!』と言いだすと、後にひくのがこわくなった……自分たちが腰抜けだということがばれるのがこわくなった。そこでお前たちは、ときの声をあげ、半人前の男の尻馬《しりうま》に乗って、どえらいことをやらかすぞとわめきたてながら、気違いのようになっておしかけて来たのだ。世にもあわれなものは烏合《うごう》の衆《しゅう》だ。軍隊も……烏合の衆、やつらは身の内から湧きあがってくる勇気で戦うのではなく、集団から、士官たちから借りてきた勇気で戦うのだ。しかし指揮を取る一人前の男さえもついていない烏合の衆というものは、あわれをとおりこしてみじめなものだ。お前たちがなすべきことは、しっぽをまいて、引きあげて、ねぐらにもぐりこむことだ。本当にリンチをやりたければ暗闇で本式の南部のやりかたでやれ。覆面《ふくめん》をして一人前の男を連れてやって来い。さあ、行くがよい。その半人前の男も連れて行け」
……そう言って大佐は、打ち金を起こしながら、銃を左の腕に横たえて構えた。いっせいに潮がひくように群集はさがり、ちりぢりになって八方に立ち去った。バック・ハークネスはひどくみじめな様子で、みんなのあとを追った。おれは居残《いのこ》っていてもよかったのだが、そうする気にもならなかった。
おれはサーカスに行って、裏のほうをぶらぶらしながら、番人が行ってしまうのを見はからって、テントの下から中へもぐりこんだ。
おれは二十ドル金貨を持っていたし、ほかにも少しあったが、こうしてくにを遠く離れて他人のあいだで暮らしていれば、いつ金が入用になるかもしれないと思ったので、使わずにおくことにした。用心にこしたことはない。サーカスが見たいとき、ほかに手がなければ、金を払うのもしかたがあるまいとおれは思うのだが、むだ使いはするものではない。
これは実にたいしたサーカスだった。座員が総出で、二人ずつ男の人と女の人と並んで馬に乗って入ってくるそのながめは、最高に豪華なものだった。男の人はシャツにタイツだけで、靴もはかず鐙《あぶみ》もつけず、両手を腿の上にのせて、平気のへいざで気楽にしていて……それが二十人くらいいたろう。女の人は顔の色がきれいな絶世の美人ばかりで、正真正銘の女王さまが団体で来たみたいで、もうふんだんにダイヤモンドをくっつけた何百ドルもするドレスをきていた。それはもう圧倒的な美しいながめで、ああいうきれいなものをおれは見たことがない。それからその人たちはひとり、またひとりと馬の背中に立ちあがって、やさしく波打つように優美にリングの中を練り歩きはじめた。
男はみんな背が高くて軽やかですらりとして見え、テントの屋根の下を、頭をひょいひょいとさげて、すれすれに通って行った。女の人は、やわらかでつやのあるバラの花びらみたいなドレスを腰のあたりにひらひらさせて、どの女の人もまるで飛びきりきれいなパラソルみたいだった。
それから動きがぐんぐん早くなって、みんな馬の上に立ったまま、足をかわるがわる高くあげて踊りだした。馬はいよいよ前にのめるように走って行く。団長は鞭《むち》を鳴らして「ハイッ! ハイッ!」とかけ声をかけながら、真中の柱のまわりをぐるぐるとまわっている。そしてそのあとからピエロがしわがれ声を出して冗談を言いながらついてまわる。そのうちに、みんな手綱《たづな》を手から放してしまった。女の人はみんな指関節のところを腰にあて、男の人はみんな腕ぐみした。
馬が背をまるくして、つんのめるように走ったことったら! それからひとり、またひとりと、リングの中にとびおりると、見たこともないようなしゃれたおじぎをして、きびきびと退場して行くのだ。見物人はそれこそ夢中になって手を叩いた。
さて、はじめから終わりまでサーカスは本当にびっくりするようなことばかりだった。ピエロはずっとふざけどおしで、見物人を死ぬほど笑わせた。団長が何かひと言でも口をきくと、打てばひびくように、聞いたこともないようなおもしろい冗談を言う。
あんなにたくさんの冗談を、あんなにうまく、ぱっとよくも思いつくものだ。おれはそれがふしぎでしかたがない。おれなら、あれだけの冗談は一年かかっても考え出せない。
ところでそのうちに、だれか酔っぱらいがリングに押し入ろうとしながら、……馬に乗せろ、馬ならだれにもまけねえ、と言いだした。座員たちはそれをなだめて、リングに入れまいとするのだが、酔っぱらいは聞こうとしないので、ショーはすっかり止まってしまった。それで見物人がやじったり、からかったりしたので、酔っぱらいは怒りだして、げんこをふりまわしたり、わめいたりした。それで見物人も騒ぎだして、大ぜいの男の人が席を立ってリングのほうにおしかけながら、「ぶんなぐれ! つまみ出せ!」とどなったので、女の人がひとりかふたり悲鳴をあげたりした。
そこで団長がちょっとした演説をやって、みなさん、お静かに願います、この人がこれでもうおとなしくすると約束なさるならば、馬にお乗せしようと思います、おっこちもしないで乗っていられるおつもりのようですから、と言った。それでみんな笑いだして、オーライと言って、酔っぱらいは馬にのせられた。
すると、とたんに馬がとんだり、はねたりして暴れだし、座員がふたり、手綱に取りついても押えきれず、酔っぱらいは馬の首の根っこにかじりついて、はねあがるたびに踵《かかと》を宙に飛ばすというありさまだったから、見物人は総立ちになって、どなったり、涙が出るほど笑ったりした。
そのうち、とうとう、心配していたとおり、サーカスの人たちの必死の取り押えをふりきって、馬は猛烈な勢いでリングをぐるぐる走りだし、首っ玉にしがみついていた酔っぱらいは、一方にずっこけては片足が地べたに着きそうになり、もう一方にずっこけてはもう一方の足が地べたに着きそうになるというぐあいで、見物人は気がちがったようになった。しかし、おれにはちっともおかしくなくて、酔っぱらいの命が危いと思ってがたがたふるえていた。
ところがやがて酔っぱらいは、右に左にぐらぐらしながら、這いあがってまたがると、手綱をひっつかんだ。と思うと、いきなりおどりあがって手綱を放し、火がついたみたいにすっ飛んで行く馬の背中に立ちあがったものだ! そして澄ました顔で突っ立ったまま、まるでお酒など今まで一滴も飲んだことがないみたいに、平気のへいざで気楽に風を切って行く。……そうこうするうちに今度は着ているものをぬいで投げだしはじめた。それがあまりに矢つぎ早《ば》やなので、空中はまるで着物だらけになって、ぬいだ洋服はなんとみんなで十七着だった。そしてそれが終わって、その人を見ると、スラッとしたいい男で、見たこともないような絢爛《けんらん》たるきれいな服を着ていて、その人はびしびし鞭をくれて、ビュンビュン馬をとばしてから……さいごにぱっと飛びおりて、おじぎをすると、踊りはねながら楽屋に入って行った。
見物人はみんな喜んだりびっくりしたりで、もうヤンヤのかっさいであった。
そのときになって団長はやっと自分がうまくかつがれたのに気がついた。このときの団長みたいにくさった顔をしたサーカス団長は、だれも見たことがないと思う。だって、あの酔っぱらいは座員の一人だったのだ! あの人は自分ひとりでこの冗談を思いついて、知らん顔をしていたのだ。おれもうまうまと欺《だま》されてしまって、そうとう照れくさかったが、あの団長の立場に立たされるのは千ドルもらってもごめんだ。
このサーカスよりもすばらしいサーカスが世の中にあるかどうか知らないが、おれはこれ以上のは見たことがない。どっちにしても、おれにとってはこれは言うことなしの上等のサーカスで、また出くわすことがあれば、いつだっておれは精いっぱいひいきにしてやるつもりだ。
さて、その晩、おれたちも自分たちの公演をやったが、たった十二、三人しか客が入らなかった。やっと赤字を出さずにすむ人数だった。そして入った客もはじめから終わりまでみんな笑ってばかりいるので、公爵は怒ってしまって、とにかく、終わりにならないうちに、眠りこんだ子供一人をのぞいて、客はぜんぶ帰ってしまった。それで公爵は、こいつらアーカンソーの薄のろどもにはシェイクスピアはとてもわからんのだ、やつらが見たがっているのは下品な喜劇か……それともことによるとそれよりももっと低級な何かなんだろう、と言った。そして、やつらの好みなら見当がつく、と言った。
そこで次の朝、公爵は大きな包み紙を何枚かと黒インキを手に入れて、ビラを書いて町じゅうにはりだした。そのビラは……
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郡役所にて公演!
三晩かぎり!
ロンドン及び欧州大陸諸劇場専属
世界的名声を博せる悲劇俳優
二代目デイヴィッド・ギャリック!
ならびに
初代エドマンド・キーン!
出しものは戦慄の悲劇
国王の麒麟《きりん》
または
王室の絶品!
入場料五十セント
それからビラの下に、一番大きな大きな字で書かれた一行は……
ご婦人と未成年者は入場お断わり
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「さあ」と公爵は言った、「この一行で客が来ないようなら、おれはアーカンソーを見そこなっていたわけだ」
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二十三 一杯食わされた
さてそれから、公爵と王様はステージをつくったり、カーテンの用意をしたり、フットライト用のろうそくを並べたりして、せっせと一日じゅう働いた。そして夜になると会場はあっというまに大入り満員となった。もうこれ以上はだめだというくらい入ると、公爵は木戸番をやめて、裏手からステージに出て、カーテンの前に立つと、前口上をはじめた。まずこの悲劇をほめて、これはわくわくする稀代《きだい》の名作であるというようなことを言って、この芝居がどんなに立派で、その主役をつとめる初代エドマンド・キーンがいかに名優であるかをふいちょうした。そして見物衆の期待が大いに高まったところで、カーテンをあげると、次の瞬間、四つん這《ば》いになってぴょんぴょんとびはねて登場したのが、何とすっぱだかの王様で、体じゅういちめんに鹿《か》の子や蛇《じゃ》の目の模様が虹みたいに色とりどりに描いてあった。しかもそのうえ!
……いや、立ち入ったことは言わずにおくが、とにかくまるで目茶苦茶で、しかしおかしいことはすごくおかしかった。見物人が笑って笑って死にそうになって、王様がとんだりはねたりを終えて、背景のかげにピョンと消えると、たいへんな拍手喝采《はくしゅかっさい》の嵐がまき起こって、王様は呼び戻されてもういっぺんやらされ、終わるとまたもういっぺん同じ芸をやらされた。じっさい、あのとんきょう爺《じじ》いの芸当を見たら牛だって吹きださずにはいられまい。そこで公爵はカーテンをおろして、見物衆におじぎをし、
「ご当地ではこの大悲劇はあと二晩しか上演されませぬ、と申しますのも、なにぶんロンドン公演の期日がさし迫っておりまして、かの地のドルーリー・レーン座の切符はすでに売れ切れましてござりまする」、と言った。そしてまたおじぎをすると、
「ただいまの悲劇をごらんになって、楽しかったし教養も高めたと思《おぼ》し召すならば、お知り合いの方々にも、よろしくごふいちょうお勧めくださりますよう伏してお願い申しあげます」、と言った。
二十人ばかりの人がどなった。
「なんだと、もう終わったのか? あれっきりなのか?」
はい、と公爵はこたえた。それからおもしろいことになった。見物人は一人のこらず「一杯食わされた!」と叫んで、かんかんになって立ちあがり、ステージと悲劇俳優たちめがけて動きだした。
だがこのとき、風采《ふうさい》のいい大きな男がベンチの上にとびあがって、叫んだ。
「待ちたまえ! 諸君、わたしにひとこと言わせてくれ」
みんなは立ちどまって耳を傾けた。
「われわれは一杯食わされた……たしかに、まったくひどく一杯食わされてしまった。しかしわれわれはこの町の笑い草にされたくはない。死ぬまでこのことでからかわれたくはない。そんなのはごめんだ。だから、静かにこの場は立ち去り、この芝居のことをほめあげ、そして町のほかの連中も一杯食わしてやろうではないか! そうするとみんな同じ立場になる。いい思いつきとは思わないか?」(口々に「まったくだ!判事さんの言うとおりだ」の声)
「よろしい。それでは、一杯食わされたことはひとことも言うまい。帰ろう、そしてみんなにこの悲劇を見に来るようにすすめよう」
つぎの日、町ではおれたちの芝居がどんなにすばらしいかという話で持ちきりだった。その晩も、会場は大入り満員になって、おれたちはこの連中も同じ要領でペテンにかけた。それからおれと王様と公爵は筏《いかだ》に帰って、晩めしを食った。そしてすっかり夜がふけてから、公爵と王様はおれとジムに筏を押しだせと言って、川の真中に乗りださせ、町から三キロばかりくだったあたりで、岸につけて筏をかくした。
三日めの晩も、会場はぎっしりの人だった……ところが、この晩の客は初めての客ではなくて、前の晩かその前の晩にやって来た連中だった。
おれは公爵にくっついて木戸のところに立っていたが、来る客も来る客も、ポケットをふくらませているか、上衣の下に何やら抱えているのに気がついた……しかもその荷物が、いい匂いのものなんかでは絶対にないということにも気がついた。樽《たる》に何杯分もの古卵や、くさったキャベツや、そういうものの臭いがした。また、死んだ猫がそのへんにあることが気配《けはい》でおれにわかるとすれば、そしておれにはそれがわかるのだが、六十四匹ばかり持ちこまれた気配がした。会場にちょっと入ってみると、あまりいろんな臭いがするので、とてもがまんができなかった。
さて、もうこれ以上は入らないというくらい人が入ったとき、公爵はだれかに二十五セントやって、ちょっと木戸を見ててくれ、と言って、おれを連れて楽屋口のほうへまわった。それから二人で外に出て、角を曲って暗がりに来ると、公爵はこう言った。
「家並みを離れるまで、すたすた歩いて、それから死に物ぐるいで筏《いかだ》まで走るんだ」
そのとおりに、おれも公爵も実行した。二人がいっしょに筏にたどり着いて、二秒もしないうちに、筏は真暗な静かな川の流れに乗ってすべりだし、だれも口をきかないまま、中流へと進んで行った。おれは、今ごろ王様は見物衆にえらい目に合わされているのだろうと思ったが、とんでもない思い違いで、まもなく小屋の中からごそごそ王様が這いだしてきて言った。
「例の仕事の今夜の首尾はどうだったい、公爵?」
はじめから町へは行きもしなかったのだ。
おれたちは町から十マイルほどくだるまで、明りを見せないようにした。そのあと火をおこして晩めしにして、王様と公爵は町の連中をまんまと出し抜いてやったというので、腹をかかえて笑った。公爵は言った。
「抜け作の、とんま野郎め! 初日の客がおとなしくして、町の他の連中を引っぱってきてくれるだろうってことは、このおれさまにはお見通しだったのさ。そして三晩目には、今度はてめえらの番だってんで、知らん顔して仕返しに来るだろうという察しもついていた。そして現にてめえらの番になったわけだが、やっこさんたち、いったいそれをどのくらい有効に使っているのかな。いくらか出してもいいから、知りたいもんだ。じっさい、せっかくのチャンスをどんなふうに生かしているのだろうな。何ならピクニックに模様がえしたらいいのさ……食料品をどっさり持ちこんで来ているんだから」
この悪党どもは三晩で四百六十五ドルもかせいでいた。おれはこれまで、金がこんなふうにわんさところがりこんで来るのを見たことがない。
やがて、王様と公爵が眠りこんでいびきをかきだしたとき、ジムが言うには……
「ハック、この王様たちのやりくちには、びっくらしなさらねえかね?」
「いいや」とおれは答えた、「べつに」
「どうしてだ、ハック?」
「だって、王様は生まれつきああなんだ。王様ってのはみんな同じようなものだと思う」
「でも、ハック、わしらの王様たちは、かけねなしの悪党じゃねえか。そうとも、かけねなしの悪党だよ、ふたりとも」
「うん、おれもそう言おうとしてたんだ。おれにわかるかぎり、王様ってのはまずぜんぶ悪党だね」
「そんなもんかね?」
「いちど王様のことを読んでみな、わかるから。ヘンリー八世のことを考えてもごらん。そいつに比べたら、うちの王様なんか日曜学校の校長だ。それからチャールズ二世や、ルイ十四世や、ルイ十五世や、ジェームズ二世や、エドワード二世や、リチャード三世や、そのほか四十人もの悪い王様のことを思ってもごらん。まだまだそのほかにも、大昔さんざん乱暴を働いてあばれまわったサクソン七王国の王様たちだっている。だがすごいのは全盛時代のヘンリー八世だ。ああ、お前に見せてやりたかったなあ! まったく王様の華《はな》だった! 毎日新しいよめさんを貰っては、次の朝に首をちょん切ったのだからな。しかもそういうことを卵でも注文するみたいにむぞうさにやってのけた。
『ネル・グィンを連れてこい』家来が連れてくる。つぎの朝、『首をちょん切れ』それで家来が首をちょん切る。
『ジェーン・ショアを連れて来い』と言うと、しゃなりしゃなりとやってくる。つぎの朝、『首をちょん切れ』それで家来が首をちょん切る。
『うるわしのロザマンに呼び出しをかけろ』うるわしのロザマンが呼び出されてやってくる。それでヘンリー八世はよめさんたちに毎晩ひとつずつ話をさせて、それを書きためたのが千とひとつになると、本にまとめて『|最後の審判日の台帳《ドゥームズデー・ブック》』という題をつけたんだ……本の成り立ちがよくわかる、いい題じゃないか。
ジム、お前は王様のことをよく知らないんだ。しかしおれはよく知っているから言うが、うちの年よりの王様なんか、おれが歴史の中で出くわした王様の中では一番ましなほうなんだよ。だって、ヘンリー八世がアメリカとひともんちゃく起こしたいと思ったとき、どんなことをした? ちゃんと前もって警告を出したかい? 受けて立つチャンスをアメリカに与えたかい? いいや。ヘンリーのやつはいきなりボストンじゅうのお茶というお茶を海の中にぶちこんで、独立宣言を叩きつけて、文句があればかかってこい、とこう言ったんだ。それがやつのやりくちなんだ。じつに横暴なんだ。ヘンリーはおやじのウェリントン公が何かたくらんでいると思った。それでどんなことをした? 呼んで事情をきいてやったかい? いいや、猫でも殺すみたいに甘い白ブドー酒の樽に突っこんで溺れ死にさせたんだ。ヘンリーのいるあたりにだれかが金をおき放しにしていたとする……どうなると思う? やつはネコババするんだ。ヘンリーに何か仕事を頼んで前金で払ってやって、それでつきっきりで見ていなかったとする。どうなると思う? 頼んだのとは違うことばかりやらかすんだ。ヘンリーが口をあけたとする。どうなると思う? うんと早くその口がしまらなかったときには、必ず嘘をつくんだ。ヘンリーって野郎はそういうふとい野郎なんだ。それで、もしおれたちといっしょなのが、あの王様と公爵じゃなくて、ヘンリーのやつだったとしたら、もっともっとひどいやりかたで、あの町の連中をペテンにかけたにちがいないよ。おれは何もうちの王様たちがけがれを知らぬ子羊だなどと言うつもりはない。だって冷厳《れいげん》な事実の光に照らしてみると、あの二人は子羊なんかじゃないからな。しかしあの二人もヘンリーの古狸《ふるだぬき》に比べると、ものの数じゃない。要するに、王様は王様だってことだ。そう思って大目に見てやらなきゃ。十《じゅっ》ぱひとからげに言って、王様なんてものはろくでなしぞろいなんだ。育ちが育ちだからしかたがないんだ」
「それにしてもよ、ハック、うちの王様はとてつもなく感じのよくねえ野郎だよ」
「それはね、ジム、王様はみんなそうなんで、おれたちにはどうにもならない。歴史の本にもどうしたらいいか書いてない」
「そんで公爵のほうは、すこしはよいとこもあるみてえだね」
「そうなんだ、公爵は王様とは違うんだ。でもほんのすこししか違やしない。うちの公爵は公爵としてはそうとう出来がわるいほうだ。だから酔っぱらっているときなんか、近目の人には王様と見分けがつくまい」
「どっちにしても、こういう人たちは、もう欲しくねえなあ。あの二人をがまんするのがやっとだよ、おらは」
「おれもそうなんだよ、ジム。でも、とにかくおれたちはあの二人をしょいこんでいるのだし、王様だってことを考えてやって、大目に見てやるよりしかたがない。ときどきは、おれも王様なんかいない国の話が聞きたいという気がするよ」
あの二人が本物の王様でも公爵でもないとジムに教えてやったとして、それが何の役に立つだろうか。何にもならなかっただろう。おまけに、おれが言うように、あの二人を本物の王様と見分けることは、どうせだれにもできっこないのだ。
それからおれは眠ってしまって、ジムはおれが見張りに立つ番になっても、おれを起こさなかった。ジムはしょっちゅうそんなふうだった。それでちょうど夜が明ける頃に、おれが目をさますと、ジムは膝のあいだに頭をかかえこんで、ひとり身も世もなく悲しそうにうめいていた。おれはことさら知らん顔もしなかったが、そんなに気にもしなかった。おれにはわけがわかっていたからだ。
ジムはこれまで一度もうちを離れたことがないので、はるか上流におきざりにしてきた自分のかみさんや子供たちのことを思って、それで気がめいってホームシックになっていたのだ。ジムは心から自分の身うちを思いやっていたので、それは白人が身内を思うときとちっとも変わらないとおれは信じる。まさか、と人は思うだろうが、そうだったのだとおれは思う。
これまでにも、ジムは夜中におれがぐっすり眠っていると思うときなど、よくあんなふうにうずくまってなげき悲しんでいた……「かわいそうな、ちびのリザベスよう、ジョニーのぼうずよう! 何てつれえこった……おめえたちの顔を見ることは、もうあるめえなあ! 二度とあるめえなあ!」
すごくいい黒人だった、このジムのやつは。
だがこの日は、何かのはずみで、おれはジムのかみさんや子供のことを話題にもちだして、ジムと話しこんだ。そのうちジムがこう言った。
「きょうおらがひどく悲しい思いをしてるのは、さっき向こうの岸のほうから人をひっぱたくような音がしたもんで、そんでうちのリザベスのやつをひどい目に会わせたときのことをすっかり思い出したんよ。あんとき、リザベスはまだ四つになったかならねえかで、猩紅熱《しょうこうねつ》にかかっちまって、しばらくはそりゃ容態がわるかったんよ。そんでも病気がよくなって、ある日そこらにじっと突っ立ってやがるから、おらは、『戸をしめな』と言っただ。ところがしめねえでにやにや笑うみてえにしてこっち見ながら、じっとしてやがるから、おらあ腹立てて、でっけえ声出して、『きこえねえだか? 戸をしめるだ!』
ところがあいかわらずにやにや笑うみてえにして立ってやがる。おらあかんしゃく起こして、『言うこときかせてやるだあ!』とどなって、横つらに一発くらわしてやると、やつはひっくりけえりやがった。
そんでおらは別の部屋に入って、十分ばかししてからまた来てみると、リザベスのやつ、戸口のまん前にいながら、戸をまだあけっぱなしにしやがって下向いてめそめそ泣いてやがる。おらあ腹が立ったの何の、もう一発やっつけようとするとこへ、ありゃあ内開きの戸だったが、風吹いてきたで、あの子のすぐ後で、バッタンコ! としまりやがった。
ところがなんと、リザベスのやつは身動きもしねえ。おらあハッとなって息が止まりそうになって、そんで、そんで……そのときのおらの気持ちは自分でもうまく言えねえ。おらはこっそり部屋をぬけだし、ぶるぶるふるえながらこっそり外へまわって、ヤンワリ戸をあけるてえと、あの子のうしろに首をつきだして、力いっぱいだしぬけにバァ! とどなったんよ。ところがどうだ、あの子はビクリともしねえ。
おらあな、ハックよ、思わずワッと泣きだしてあの子をだきしめてこう言った……
『かわいそうに、この子はまあ! 神さま、あわれなこのジムをゆるしてくだせえまし! ジムは死ぬまで決して、自分をゆるしはしましねえだから!』
あの子はまるっきりのつんぼでおしになっていたんよ、ハック、まるっきりのつんぼでおしに。だのにおらはあの子をあんな目にあわせてしまったんよ!」
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二十四 王衣を着たジム
つぎの日の日ぐれどき、おれたちは川の真中にある中州《なかす》の小さな柳のかげに筏《いかだ》をつけた。両岸にそれぞれ村があって、公爵と王様は、それらの村でひと仕事やるたくらみを立てはじめた。するとジムが公爵に申しでて、どうか二、三時間ですむ仕事にしてもらいたい、なにしろロープで縛られて筏の上のテントの中に一日じゅうほうりこまれていると、もう辛《つら》くていやでたまらなくなるから、と言った。
というのは、おれたちがジムひとりを残して上陸するときは、縛られもせずにジムがいるのを人に見られると、どうも逃亡ニガーらしくなくていけないので、やむを得ず縛ることにしていたからだ。そこで公爵は、なるほど一日じゅう縛られてころがっているのも楽じゃあるまい、何とかそうしないですむ工夫をしてやろう、と言った。
この公爵というのは、並みはずれて頭のいい男だったから、じきにいい考えを思いついた。つまり、リヤ王の扮装《ふんそう》をさせることにしたのだ……そこでジムに、カーテン地のキャラコの長いガウンをきせ、白い馬の毛で作ったかつらとつけひげをつけさせた。それから舞台化粧用のドーランを持たして、ジムの顔や手や耳や首のあたりいちめんを、どんよりとにぶく光るこってりした青色で塗りあげると、ジムはまるで九日ぶりにあがった土左衛門《どざえもん》みたいになった。こんな、見るも恐ろしい化け物は、誓って、おれは見たことがない。それから公爵は板ぎれにこんな文句を書いた……
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病気のアラビヤ人
ただし、正気のときは人に危害を加えません
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そしてこの板ぎれを棒きれの先に打ちつけて、そいつを小屋から四、五フィートばかり前に立てた。ジムは満足そうだった。ジムが言うは、毎日、二年もたったかと思うほど長いあいだ縛られっ放《ぱな》しでごろごろしていて、物音がするたびにふるえているより、よっぽどこのほうがましだということだった。
公爵はジムに、楽《らく》にしてくつろいでいな、だれかが来てうるさくするようだったら、小屋からとびだしてちょっとばかり凄《すご》んでみせて、猛獣みたいな声を出して、二つばかり吠えてやれ、そうすれば相手はすたこら逃げだして、もうちょっかいは出すまいから、と言った。この言葉はたしかにしっかりした分別があるけれども、並みの人間なら、吠えつかれるまで待っていはしないだろう。だって、ジムは死んたみたいに見えるだけでなく、それよりもっと恐ろしげに見えていたのだから。
ふたりの悪党は例の絶品の見せ物をもう一度やりたがっていた。ぼろもうけができるからだ。しかし、もう今時分はこのへんまで噂が伝わっているかもしれないし、危いからよすことにした。と言って、これという良い思案も浮かばないので、とどのつまり、公爵は、おれは一時間か二時間横になって頭を働かして、アーカンソー州側の村で何かうまいことができないか考えてみる、と言った。すると王様は、それではおれはミシシッピ州側の村に何の計画もなしにぶらりと出かけて、どんなもうけ口にぶっつかるかは、神様のお導《みちび》きにまかせることにする、と言った。神様だなんて、悪魔のことだろう。
おれたちはみんな、さきに上陸したとき、店で洋服を買いこんでいたが、王様はそいつを一着に及んで、おれにも新しい服を着ろと言う。おれはもちろん言われたとおりにした。王様のは上から下までまっ黒で、それを着こむと、実にりゅうとして折目正しく見えた。着物がこんなにも人を変えるとはおれは知らなかった。前にはいかにも下卑《げび》たやくざ爺いみたいだったのが、いま、新しい白ビーバーの毛皮帽をもちあげて会釈《えしゃく》してからにっこりするのを見ると、じつに立派で、善良そうで、また信心深くみえ、まるで旧約聖書の義人がたったいま箱舟からおりてきたみたいで、ひょっとするとこれは長老レビティクスその人ではなかろうかとさえ思われた。
ジムはカヌーの掃除をし、おれはオールを用意した。川上を見ると、村から三マイルばかりの岬のところに、大きな汽船がとまっていた……荷物を積みこむために、二時間ばかり前からそこにいたのだ。そこで王様が言った。
「身なりが身なりだから、おれはセントルイスとか、シンシナチとか、そういう大都会からやってきたということにするのがよいと思う。ハックルベリ、あの汽船に行くんだ。あの船におれたちは乗りこんで、そうして村にやってこよう」
汽船に乗せてくれると聞いて、二つ返事でおれは漕《こ》ぎだした。村から半マイルほど川上まで行ってから岸に寄って、崖《がけ》ぞいのよどんだ淵《ふち》をすいすい進んで行った。するとまもなく、見るからに気の良さそうな田舎の青年が、岸の丸太に腰をおろして、ひどく暑い日だったから顔の汗をふいているのに出会った。その足もとには、でかいじゅうたん製の旅行|鞄《かばん》がふたつ置いてあった。
「岸につけろ」と王様が言うので、そのとおりにした。「もし、お若い人、どちらへ行きなさる?」と声をかけた。
「あそこにいる汽船に乗って、オーリアンズのほうへ行きますです」
「これへお乗りなさい」と王様は言った。「ちょっと待って。召使いにお鞄を運ばせましょう。これ、岸にあがってお手伝いするのじゃ、アドルファス」……というのが、おれのことらしかった。
おれは言われたとおりにして、やがて三人でカヌーに乗って、川をのぼりはじめた。青年はしきりに礼を言って、この暑さをエッサエッサ荷物を持って歩くのはえれえこってしたと言って、旦那さんはどちらへ、と聞いた。王様は、わしは今朝がた川をくだってきて、向こう岸の村に着いたのだが、これから二、三マイル上流の農場に昔なじみをたずねに参りますんじゃ、と答えた。青年は言った。
「さいしょに旦那さんをお見かけしたとき、おれはこう思うたもんです……『あれがウィルクスさんだな、そうに違えねえ。もうちょっとのところで間に合いなさらなかった』と。だがそれから思いなおして、『いんや、ウィルクスさんではねえぞ。ウィルクスさんなら川上に漕ぎのぼって行くはずがねえ』旦那さんはウィルクスさんではねえですな?」
「いやいや、わしはブロジットという者です……エレグザンダー・ブロジット……エレグザンダー・ブロジット師などとも呼んでもらっとりますがのう……これでも主の貧しいしもべの一人ですじゃによって。しかし牧師だろうとなかろうと、そのウィルクスさんとやらが間に合わなくて気の毒じゃと思う心に変わりはありませんぞ。つまりじゃな、まあそんなこともなかろうと思うが、そのためにみすみす損でもなすったとすれば」
「いや、そのためにみすみす財産をもらいそこねるちゅうことはねえですよ。財産ならちゃんとおもらいになるでしょうから。しかしご兄弟のピーターさんの死に目にみすみす会えなかったちゅうことがあるです……そいつをあの人が残念がりなさるかどうかは聞いてみなくちゃわからねえ。しかしピーターさんのほうでは、どうでもこうでもあの人の顔をひと目でも見て死にたいちゅう気持ちでしたなあ。死ぬ前の二十日《はつか》ばかりはそればかり言い言いしてなさったからなあ。おたがい子供の頃に別れたきり、ピーターさんは二度とあの人に会えなかったわけですよ。それからウィリアムさんちゅう弟さんもいなさるんだが、ピーターさんはとうとうこの人とは会わずしまいになっちまった。このウィリアムさんちゅうのは、年はせいぜい三十か三十五で、おしでつんぼだそうで。アメリカに移住して来なすったのは兄弟のうちでピーターさんとジョージさんだけでして、ジョージさんてのはピーターさんと違って世帯《しょたい》もちだったんだが、去年死にましてね、同じ頃、かみさんも死んじまったです。それで、今じゃ、ピーターさんの兄弟で生きているのは、ハーヴィーさんとウィリアムさんだけになっちまって、そのお二人も、さっき言ったようにピーターさんの死に目にとうとう会いなさらなかった」
「会いに来てもらいたいと、言ってやったのですかな?」
「そりゃもう、はい。一、二か月前にはじめてピーターさんが発作《ほっさ》を起こしたとき、今度はわしもだめだちゅう気がする、と言いましてな、それでそのとき手紙を出してあるです。ピーターさんはもういい年でして、身うちと言えばジョージさんの残した姪御《めいご》さんたちだけで、それも赤毛のメアリ・ジェインのほかはまだ年はも行かねえですから、話をする相手もろくになかったのですなあ。それでジョージさん夫婦が死んじまってからは、何か、こう、寂しそうでねえ、そんなに長生きしたくもねえ様子でしたよ。
それにピーターさんは、遺言状を作ることがどうしてもできねえ性分の人でね、それで何が何でもハーヴィーさんに会っておきてえ、そしてついでと言っちゃ何だが、ウィリアムさんにも会いてえ、こう思っていなすったですよ。それでも死ぬ前に手紙を一本、ハーヴィーさんあてに書きおきましてね、そん中にゃ、お金をどこにかくしてあるとか、ほかの財産は姪御《めいご》さんたちが困らんよう分けてくれいとか書いてあるちゅうこってす。というのも、ジョージさんは何も娘さんたちに残さなかったもんでね。まわりの人たちゃ何とか遺言状を作らせようとしたんだが、書きおきといえばこの手紙があるだけなんです」
「ハーヴィーさんが来なかったわけは知りなさらんか? どこに住んでるお人じゃな?」
「それが、イギリスなんでして……シェフィールドで牧師をしてなすって……アメリカへはまだ来たことがないです。これまでそんなにひまがなかったし……それに、今度の手紙をまるっきり受け取ってねえかもしれねえです」
「気の毒にのう、兄弟たちにも会えずに亡くなるとは。かわいそうなお人じゃ。それでお前さんはオーリアンズへ行くところと言いなすったかな?」
「はい、でもオーリアンズはまだ途中なんでして。つぎの水曜には、別の船に乗って、リオ・ジャネーローへめえります。あっちに伯父がおりますもんで」
「それは遠くまで行きなさる。じゃが愉快じゃろう。わしも行きたいような気がしてきよった。それでメアリ・ジェーンが一番上の子ですかな? ほかの姪御さんたちの年は?」
「メアリ・ジェーンが十九で、スーザンが十五、ジョアンナは十四ぐれえですな…人助けに精を出す兎唇《みつくち》の子がこのジョアンナ嬢やで」
「あわれな子供たちじゃのう、そんなぐあいにこのつらい浮世に取り残されるとは」
「それでも、あの子たちゃまだ恵まれておるです。なにしろ死んだピーターさんの友だち連中がついていて、間違いのないよう、しっかり見てくれておるですから。バプテスト教会のホブソン牧師さんもいれば、助祭のロット・ホーヴィーさんもいるし、それからベン・ラッカーさんに、アブナー・シャックルフォードさんに、弁護士のレヴィ・ベルさんに、お医者のロビンソン先生なんかがいるし、この人たちの奥さん連中がいるし、それから後家さんのバートリーさんもいる。それから……ええ、まだまだほかにもいるけれども、いま名前を言った人たちが、ピーターさんといちばん仲のよかった人たちで、イギリスに手紙を書くときなんかも、よくそういう人たちのことを書いたちゅうことです。だからハーヴィーさんがここにひょっくりやって来なすっても、頼りになるのがだれかちゅうことはわかっていなさるわけです」
ところで、老人はどんどん質問をして、とうとう青年の知識をあらかたからっぽにしてしまった。何とまあ王様は、この立派な村のありとあらゆる人やあらゆることや、ウィルクス一家のことを、根掘り葉掘り聞いたの聞かないのって。またピーターの商売のこと……それは皮なめし屋だったそうな……ジョージの商売のことも……大工だったそうな……ハーヴィーの商売も聞いた……英国国教に反対の派の牧師だそうな。そんなことをいろいろ聞いたあげくに王様は言った。
「お前さんは何でまた、あの汽船までわざわざ歩いて行こうとしなさったのじゃな?」
「それはあれがオーリアンズ行きの大船で、村にゃとまってくれめえと思ったもんですから。荷物を積んで吃水《きっすい》が深いときには、呼んでもとまってくれねえです。シンシナチ発の船なら、そんなこともねえですが、あいつはセントルイス発の船ですから」
「ピーター・ウィルクスさんは暮らしは楽なほうでしたかな?」
「そりゃもう、はい。あの人はそうとう持ってましたよ。家作はあるし、土地はあるし、それに現金で三、四千ドルがとこ、どっかに隠してあるちゅうこってす」
「亡くなったのはいつだったと言いなすったかな?」
「そんなこと言ったおぼえはねえが、亡くなったのはゆんべでした」
「ではお葬式はたぶん明日じゃな?」
「はい、おひる頃からで」
「何ともいたましい話じゃのう。じゃが、わしらはみんないつかは死なんければならん。だからいつでも死ねるよう心構えをしなくてはならん。そうすると心配なことはない」
「はい、それが一番です。おふくろもいつもそう言っとりました」
汽船のところに来てみると、もう荷物を積み終えるところで、しばらくすると出帆してしまった。
ところが、王様がちっとも乗ろうと言わないものだから、けっきょく、おれはせっかくの船の旅をふいにしてしまった。それで汽船が出て行ったあと、王様はもう一マイルばかり上流に漕ぎのぼらせ、寂しいところに着けさせて、岸にあがるとこう言った。
「今すぐ、急いで戻って、公爵を連れて来い。新しい旅行鞄もついでにな。公爵が向こうの村に出かけていたら、探しに行って、連れて来い。それから公爵にな、かまわねえから、うんとめかしこんで来いと言いな。それじゃ、早く行け」
王様が何をやらかそうとしているのか、おれには見当がついたが、もちろん、おれは余計な口はきかなかった。
おれが公爵を連れてくると、カヌーをみんなでかくした。それから二人は丸太に腰をおろして、王様はあの青年がしゃべったとおり、ひと言も抜かさずにすっかり公爵に話してきかせた。そしてその話をするあいだじゅう、王様はしきりにイギリス人の口のききかたの真似をして、しかもやくざな爺さんのわりにはそれがなかなかうまかった。おれはそんな真似はできないからするつもりはないが、王様はそうとう上手にやってのけた。それから王様は言った。
「聾唖《ろうあ》者の役をこなせるかね、ビルジウォーター?」
公爵は、それはわがはいにまかせてもらいたい、聾唖者の役なら舞台で演じたことがある、と言った。そこで二人は汽船が来るのを待った。
三時頃に、小さい汽船が一隻二隻くだって来たが、そんなに上流から来た船ではなかったので、やりすごした。そのうちやっと大きいのが来て、二人はオーイと呼んだ。するとボートをおろしてよこしたので、それに乗って汽船にあがってみると、シンシナチ発の船だった。ところが、おれたちが四、五マイル先までしか乗るつもりがないと知ると、船員たちはカンカンに怒って、さんざんひどい口をきいて、上陸なんぞさせてやらねえ、と言った。だが王様は平気な顔をしていて、こう持ちかけた。
「お客さまが一人あたま一マイルにつき一ドル奮発するのじゃったら、ボートの送り迎えつきで乗せてやっても、お船のほうに損はあるまいと思うが、どうじゃ?」
それを聞くと、船員たちは急におとなしくなって、よろしいと言って、めざす村まで来ると、ボートをおろして上陸させてくれた。岸では、ボートがやってくるのを見て、二十人ばかりの村人が集まっていたが、王様が……「もし、どなたか、ピーター・ウィルクスの住んでいる所を教えてはくださらんか」と言うと、てんでに顔を見合わせて「やっぱりそうだった」というふうにうなずき合った。そして村人の一人が、いたわるようにやさしく言った。
「お気の毒ですが、わしらには、あの人がゆうべまで住んでいなすった所へお連れすることしかできません」
とたんに、このやくざ爺いの畜生は、クタクタとその村人によろめきかかり、首っ玉にしがみつき、肩に顎《あご》をのっけて、背中ごしにオイオイ泣きながら言ったものだ。
「ああ悲しい、悲しい、かわいそうに兄さんは死んでしまったのか、そしてわしらはとうとう間に合わなかったのか、ああ、何という、何てつらいことだ!」
そして泣きじゃくりながら、公爵のほうに来て、愚《ぐ》にもつかない手真似をいろいろとやった。
するとどうだろう、公爵は鞄を取り落として、ワッと泣き出した。この二人組のいかさま師のようなとんでもないやつらには、お目にかかったことがない。
さて、村人たちは二人をとりまいてなぐさめたり、いろいろやさしい言葉をかけたりした。そして泣いてまつわりついてくる王様と公爵を助けて歩かせながら、鞄を持ってやって、高台のほうへと案内した。みちみち村人たちは、王様にピーターの死にぎわのことをすっかり話してくれ、王様はそれを手真似ですっかり公爵に説明し、二人はまるで十二使徒と死に別れでもしたみたいに、死んだ皮屋のことを悼《いた》み悲しんだ。
こういうひどいペテンには、本当に生まれてはじめてぶっつかった。人類というものが恥ずかしくなるようなことだった。
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二十五 本人たちか?
二分とたたないうちに、このニュースは村じゅうに広がって、みるみる四方八方から村人たちがかけつけて来た。なかには走りながら上衣の袖を通しているのもいた。まもなくおれたちはたくさんの人に囲まれてしまって、みんなで兵隊の行進みたいに地ひびきを立ててのして行った。村のどの窓からも、どの戸口からも人がのぞいていて、しょっちゅうだれかが垣根ごしに、言った。
「この人たちが、あれかい?」
すると、一行のうちのだれかが足どりも軽く通りすぎながら答えて言った。
「そうともよ!」
めざす家に着いてみると、おもての通りは黒山の人だかりで、玄関口に三人の娘が立っていた。メアリ・ジェインは、なるほど赤毛ではあったが、そんなことは問題にならない、実にたいした美人で、顔も目もそこらじゅう、まぶしいくらい輝いていた。伯父《おじ》さんたちが来てくれたのがよっぼど嬉しかったのだろう。王様が手をひろげると、メアリ・ジェインがそこにとびこみ、兎唇《みつくち》娘は公爵にとびつき、泣いたり笑ったりの騒ぎとなった。
居合わせた人はほとんどみな、すくなくとも女の人はみんな、娘たちがやっと伯父さんたちに会えて大喜びしているのを見て、うれし涙をこぼした。
それから王様は公爵をこづいて……そっとこづくのがおれには見えたのだ……あたりを見まわして、部屋のすみに椅子を二つ並べた上にお棺《かん》がのせてあるのに目をとめると、王様と公爵は一方の手ではお互いの肩を抱き、もう一方の手は目におし当てて、しずしずとそちらへ進んで行った。みんな後じさりして道をあけ、話し声も物音もしだいにやんで、「シーッ」という声があちこちからして、みんな帽子をぬいで頭を垂れ、あたりはシーンとなって、針の落ちる音さえ聞きとれそうになった。
二人はお棺のそばに来ると、身をのりだしてのぞきこみ、中をひと目見るなり、おおかたオーリアンズまで聞こえそうなすごい声でワッと泣きだした。それから二人はお互いの首っ玉にかじりついて、顎をお互いの肩にのっけると、三分ものあいだ、いやひょっとすると四分かな、とにかくおれはふたりの男がこんなにびしょびしょ泣くのを見たことがない。しかもだ、だれもかれもびしょびしょ泣くものだから、これまで見たこともないくらいにそこらは湿度が高くなった。
それから王様と公爵は、ひとりがお棺の片側、もうひとりが反対側に行ってひざまずき、お棺のふちにおでこを当てがって、二人で静かに祈りを捧げるふりをした。するとその芝居《しばい》が空前の当たりをとって、だれもかれも顔をくしゃくしゃにして手放しで声をだして泣きだしたものだ……三人娘もやっぱり泣いていたが、かみさん連中はほとんどだれもが娘たちのところに来て、ひと言も口をきかずに厳粛《げんしゅく》におでこにキスをしてやって、それから頭に手をのせて、涙顔で天をふり仰ぐと、ワッと泣きだして、しゃくりあげたり、ハンカチを目におし当てたり、娘たちから離れ、つぎの番の女の人に順をゆずってやった。おれはこんなにムカムカする眺めを見たことがない。
さて、やがて王様は立ちあがってすこし前に進みでると、感きわまったように泣きながら、涙とたわごとでこねあげたような演説をはじめた。
王様が言うには、このように故人を失い、しかも四千マイルもの長旅のあげく、死に目にも会えませなんだということは、自分にとっても弟にとってもつらい試練でございました。だがその試練も、みなみなさまのねんごろなご同情と清らかな涙によりまして、甘美《かんび》にして神聖なものとなりました。自分は心から、また弟も心からお礼を申しあげまする。心からであって、口先きからお礼を申すことはできませぬ。なぜなら口から出る言葉はあまりにも弱く、また冷たいからであります。
王様がそういうふうなくだらぬ安手な文句を並べたてるので、しまいには聞いていてもう胸がわるくなってしまった。最後に王様は、信心深かそうに、いかにも殊勝《しゅしょう》らしく泣き声でアーメンと言って、それからヘナヘナとなって、発作でも起こしたように号泣した。
王様の演説が終わったとたんに、集まっていた人たちの中で神の栄光をたたえる頌栄歌《しょうえいか》を歌いだした人がいて、みんなもそれに加わって力いっぱい合唱した。するとみんなほのぼのとなって、まるで教会が終わってもう帰ってもいいというときみたいな、いい気持ちになった。じっさい音楽というものはいいものだ。それにああいう抹香《まっこう》くさいネトネトしたたわごとをみっちり聞かされたあとだったから、頌栄歌がこれほどその場の空気を清新にし、これほど誠実で、美しくひびきわたるとは思わなかった。
それから王様はまたもや顎の運動をはじめて、こう言いだした。ウィルクス一家のおもだったご友人の方がたのいくたりかに、今夜、当家で夕食をともにしていただき、故人のなきがらのそばでお通夜をしていただけるならば、自分も姪たちもどんなに嬉しいことか。あそこに眠っているかわいそうな兄が口をきくことができるならば、どの方々を名ざすであろうかということが自分にはわかっている、というのはその方がたのお名前は兄にとってまことになつかしい名前で、手紙の中でもよくあげていたからで、兄が名ざすであろう方がたの名前というのは、とりもなおさず、牧師のホブソンさん、助祭のロット・ホーヴィー、ベン・ラッカーさん、アブナー・シャックルフォード、レヴィ・ベル、ロビンソン先生、それから、右の方がたの奥様がたとバートリー未亡人であると。
この日、ホブソン牧師とロビンソン医師は、村はずれに仲良く狩りにでていて留守だった。……つまりお医者は病人をあの世へ送りだしてやり、牧師さんはその行く先を間違えないようにしてやっていた。弁護士のベルも何かの用事で川上のルイスヴィルにでかけていていなかった。しかし名前のでたその他の人たちは居合わせていて、王様のところに来て握手をして、ごくろうさまと言って話をした。それから公爵とも握手をしたが、話しかけはせず、公爵が口のきけない赤んぼみたいに「アワワ、アワワワ」と言って、いろいろ手真似するのをただにこにこして見ながら馬鹿のように首をふってうなずいてみせていた。
こんなふうに王様はみんなとおしゃべりをして行って、うまく話の舵《かじ》をとりながら、村じゅうのだれかれのことや犬のことを名ざしでたずね、村の中やジョージの家やピーターの家でこれまでに起こったこまごましたことについて話してきかせ、みんなピーターが手紙で書いてよこしたからだという顔をしていたが、それは嘘で、そんなことは一から十まで、おれたちが汽船までカヌーに乗っけてやった、あのすこし足りない青年から聞きだした知識であった。
やがてメアリ・ジェインが書きおきの手紙を持ってきたので、王様はそいつをみんなに涙ながらに読んできかせた。それによると、住まいと金貨三千ドルは姪たちに残し、皮なめし工場(繁昌していた)と何軒かの家作と土地(七千ドルくらいの値打ちのもの)と金貨で三千ドルをハーヴィーとウィリアムに残すということで、そして現金が地下室のどのへんに隠してあるかが書いてあった。
二人のいかさま師は、それではこれからお金を取りだして、万事を正々堂々公明正大に処理しましょうと言って、おれにろうそくを持っていっしょに来いと命じた。おれたちは地下室に入って戸をしめた。袋を見つけると、ふたりは中身を床にあけたが、ぜんぶ山吹色の金貨で、実にきれいな眺めだった。いやまったく、王様の目が光ったのなんのって! 王様は公爵の肩をたたいて、言った。
「どうだこれは、すげえじゃねえか! てえしたもんじゃねえか! なあ、ビルジー、あの絶品だってこいつにはかなうめえ!」
まったくだ、と公爵は言って、ふたりは山吹色を両手ですくって指のあいだからジャラジャラ床の上にこぼした。そして王様は言った。
「ただ口先きでやるなんてのは効果がないもんよ。死んだ金持ちの兄弟がふたり、外国に生き残っててよ、そいつが遺産相続人の総代ときた。そいつにおめえとおれが化けているわけだよな、ビルジー。こんなうまい話がころがりこんできたのも、神様の摂理《せつり》におまかせしていたおかげよ。おまかせするのが一番いいんだ、長い目で見ればな。おれもあれこれためしてみたが、これよりうまい方法はねえ」
たいていの人なら金貨の山を見ただけで満足して金額の点は信用しただろうが、この二人は数えてみなければ、承知できないのだった。そこで数えてみると、四十五ドル足りないことがわかった。王様は言った。
「あんちくしょう、四十五ドルをどうしやがったんだろう?」
二人はしばらくのあいだ、このことでくよくよして、あたりを探しまわった。それから公爵が言うには、「爺さんはそうとうひどい病人だったというから、間違いをやらかしたんだな……そうにちげえねえ。こいつはこのままにして、何も言わずにおくにかぎる。まけといてやろうぜ」
「そうじゃねえったら! まけてやるなあ、ぞうさもねえが、おれが気にしているのはそんなことじゃねえ。問題は勘定が合わねえってことよ。おれたちゃこの家じゃ正々堂々と万事大っぴらに公明正大にやりてえわけだろう。それにゃこの金も上へ持ってあがって、みんなの前で数えて見せなきゃ……そうすりゃだれも何にも怪《あや》しまねえ。しかし死んだ爺さんが六千ドルあると言う以上はだ、そうだろうお前、おれたちとしちゃあ……」
「待った」と公爵が言った。「不足分はおれたちで出しとこうじゃねえか」……そう言って自分のポケットから金貨を出しはじめた。
「そいつぁとてつもない名案だ、公爵。お前にはどえらい頭がくっついているんだな」と王様が言った。「例の絶品のおかげでまたもや助かったというわけだ」……そう言って自分も金貨を出して、積みあげた。
二人はあらかた文無しになったが、それでも六千ドルきっかり耳をそろえることができた。
「王様よ」と公爵が言った、「もうひとつ、いい考えが浮かんだぞ。上に戻ったら勘定をしてみせた上で、金はそっくり娘たちにくれてやろうじゃねえか」
「おそれいった、握手させてくれ、公爵。そいつは稀代の名案じゃねえか。まったくあきれけえるくれえ冴《さ》えてやがるな、お前は。そりゃあ、とびきりのうめえ手だぞ。それなら絶対だ。疑いてえ野郎は、今のうちにせいぜい疑っていろよ……これでいっぺんに信用させてやるからな」
上にあがると、みんなテーブルのまわりに集まってきた。王様は金貨を数えて、ひと山三百ドルの金貨の山を、つごう二十、きちんと積んだ。だれもかれも喰い入るように見つめて、生つばをのみこんだ。それから金貨をかき集めて袋にもどすと、王様はみんなのほうを向いて演説をする身構えをした。そして言った。
「友人のみなさん、あそこに眠っているかわいそうなわたしの兄は、悲しみの谷間に取り残された姪《めい》たちに気前よく遺産をのこしてくれました。生前からかわいがって面倒をみてやっていた、父も母もないみなしごのいとけない姪たちに、気前よく残してくれました。そうです、兄の気性を知っているわたしどもは、彼が、愛するウィリアムとわたしへの気がねがなかったならば、姪たちにもっともっと気前よくしてくれたに相違ないことを知っています。それが兄の真意ではありますまいか? そうにちがいない、とこのわたしは信じて疑いませぬ。そうすると……この際そういう兄の真意をじゃまするような弟がありますれば、それはどういう弟ということになりましょうか? また、兄があれほどかわいがっていた、いとけない気の毒な姪たちから、この際、金を奪い取るような、……そうです、金を奪い取るような叔父がありますれば、それはどういう叔父ということになりましょうか? もしウィリアムの気持ちがわかるならば……わたしにはわかると思いますが……かれは……いや、ちょっと本人にきいてみましょう」
そう言って王様は公爵のほうを向いて、いろいろ手真似をやりはじめた。公爵はしばらくぽかんと阿呆のように見ていたが、そのうち、ふいに何の話なのかのみこめた様子で、うれしそうにアワワワと奇声をはりあげて王様にとびついて、十五へんばかりも抱きしめてから、やっと離した。そこで王様は、
「思ったとおりでした。弟の気持ちはみなさんごらんになったとおりでございます。では、メアリ・ジェインや、スーザンや、ジョアンナや、お金をお取り……そっくり全部お取り。ピーター伯父さんからの贈り物だよ、そこに冷たくなって、だが、喜んで横たわっている伯父さんからだよ」
メアリ・ジェインは王様に、スーザンと兎唇《みつくち》娘は公爵にとびついて、首っ玉にかじりつくわ、キスの雨は降らせるわの騒ぎ。ほかの人たちもみんな寄ってきて、目をしばたたかせながら、このいかさま師たちの手もちぎれよと握手して言った。
「見あげたお心ばえじゃ! ご立派なことです! よくもまあ!」
さて、それからまもなく、話はまた故人のことになって、みんなは口々に、善い人でしたなあ、亡くなられてぽっかり大きな穴があいたみたいで、などと言い合った。するとそのうちに、いかつい顎をした大男が外から人垣をわけるようにして入ってきて、だまってあたりをながめまわしたり耳を傾けたりして、立っていた。だれもこの男に声をかけなかった、というのは、王様が話をしていて、みんなその話に聞き入っていたからである。このとき王様は切りだした話の最中で……こんなふうに言っていた……
「……この人たちは故人の特別な友人でしてな。じゃによって今夜はお招きいたしましたが、明日は全部の方がたにおいでいただきたい……みなさんひとり残らずにな。というのも、兄はみなさんのひとりびとりを敬っており、好いておったからです。されば亡き兄を弔う|乱痴気騒ぎ《オージーズ》を一般公開することは当を得ておりますのじゃ」
こういう調子で王様は、自分で自分の話にうっとりしながら、でたらめなことをしゃべりながら、何度も何度も弔いの|乱痴気騒ぎ《オージーズ》を持ちだした。
そこで公爵はとうとう見るに見かねて、紙きれに「|葬礼の儀《オブシクィーズ》だ、バカ」と書いて、そいつをたたんでから、アワワ、アワワと言いながら、みんなの頭ごしに王様に渡した。王様はそれを読んでポケットにしまうと、「弟のウィリアムは、かわいそうに不具の身でありながら、いつも心のやさしいやつでしてな、みなさんにお葬いに来てくださるよう言ってくれ……みなさんをひとり残らずねんごんにお招きしておもてなしをしろ……とこう申しておるのですよ。そんな心配はしてくれなくてもよかったのに……それをわたしはお話ししていたのじゃから」
それから王様は話をつづけて、すました顔で、前と同じように乱痴気騒ぎがどうのこうのと、ときどき言った。そしてそれを三度目にやってから、言った。
「わたしがオージーズと言いますのは、普通にそう言うからではなくて、じっさい普通の言い方ではありません……オブシクィーズというのが普通な言い方です……オージーズのほうが正しい言い方だからです。オブシクィーズとは今はもうイギリスでは申しません……もうすたれてしまいました。今はイギリスではオージーズと言っとります。オージーズのほうがよろしい。というのはこちらのほうが言わんとする事柄を正確に表わしておりますでな。そもそもこれは〈おもての〉とか〈ひらけた〉とか〈そとの〉とかいう意味のギリシャ語であるオルゴーと、それから、〈いけこむ〉〈かぶせる〉、つまり〈埋葬する〉という意味のヘブライ語であるジーサム、この二つが組み合わさった言葉なのです。じゃによって、弔いのオージーズとは、すなわち一般公開の葬式のことですじゃ」
こんなずうずうしいやつには、おれは会ったことがない。
ところで、いかつい顎《あご》の例の男が、王様に面と向かってゲラゲラ笑いだした。みんな肝をつぶしてしまって、口々に、「何てことを、先生!」と言った。するとアブナー・シャックルフォードが言った。
「これは、ロビンソン先生、あんたニュースを聞かなかったんですか? この人がハーヴィー・ウィルクスですよ」
王様は取り入るようなお愛想笑いをしながら、握手をもとめて、言った。
「こちらが亡くなった兄が親しくしていただいたお医者さまですか? わたしは……」
「わたしにさわるな!」と医者は言った。「お前はイギリス人みたいに話しているつもりなんだろう? そんなへたな真似は聞いたことがないぞ。お前がピーター・ウィルクスの弟だと? お前はいかさま師だ、それがお前の正体なのだ!」
さあ、みんな青くなってしまった。医者をとりまいて、まあまあ、となだめながら、このハーヴィーはほんもののハーヴィーですよ、そのしるしを四十も見せてくれなすったんだ、この人は村の衆の名前をちゃんと知っていなすったし、犬の名前まで知っていなすった、と一生けんめい説明にかかった。そして、どうかお願いだから、頼むから、ハーヴィーの感情や娘さんたちの感情を害するようなことはつつしんでくれ、と訴えた。
しかしその甲斐《かい》もなく、医者はガンガンどなりつづけて、イギリス人を名のりながら、イギリスなまりのあんなへたな真似しかできないやつは、いかさま師で嘘つきだと言う。
かわいそうに娘たちは王様にしがみついて、泣きだした。するといきなり医者は娘たちに食ってかかった。医者は言った。
「わたしはお父さんの友人だったし、あなたたちにも友人なのだよ。だから、友人として、あなにたちを保護し、危害や厄介ごとから守ってあげたいとねがっている正直な友人として、警告しているんだ。このならず者の相手になるのは、もうやめなさい、ギリシャ語のヘブライ語のと出まかせを言っている無知なこのごろつきにかかわりあってはいけない。見えすいたにせものなのだ、この男は。村の衆の名前だの何だのをどこかでいろいろ聞きかじってきて、はったりをきかせているだけなのだ。だのに、それをあなたたちは本当の叔父さんの証拠だと思いこんでいる。おまけに、もっと分別があっていいはずのご近所衆までが馬鹿げたちょうちん持ちをするものだから、すっかりあなたたちは欺《だま》されてしまっているのだ。メアリ・ジェイン・ウィルクス、わたしがあなたたちの味方で、私心のない友人だということはわかっているね。では、わたしの言うことを聞いて、さあ、この下劣な悪党を追いだしなさい……お願いだ。そうしてくれないか?」
メアリ・ジェインは肩をそびやかした。何とその姿のりりしかったことか! ジェインは言った。「これがあたしの返事です」
ジェインは金貨の袋を取って王様に手渡しながら、言った。「この六千ドルをおあずけしますわ。あたしと妹たちのためにお好きなように投資してくださいな。受取りなどいりません」
それから一方から王様の体に腕をまわし、スーザンと兎唇娘がもう一方から腕をまわした。みんなは嵐のように手を叩いて床を踏み鳴らし、王様は得意そうに頭をそびやかして、えびす顔になった。医者は言った、
「よろしい。わたしは手を引く。だが言っておくが、諸君がこの日のことを思い出しただけで胸が悪くなるという、そういう時がいまに来るぞ」……そして出て行った。
「いいですよ、先生」と王様がからかうように、言った……「その時にゃ先生を呼びにやることにしますから」……これを聞くとみんな大笑いして、とてもうまいしゃれだと言った。
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二十六 敬虔《けいけん》な王様
さて、村人たちがひきあげると、王様は、客用のあき部屋はどうなっているのか、とメアリ・ジェインに聞くと、お客のための部屋はひとつ、これはウィリアム叔父さんによろしいでしょう、それよりすこし大きいあたしの部屋はハーヴィー叔父さんに使っていただきます、あたしは妹たちの部屋に行って簡易ベッドで寝ますから、と言った。そして屋根裏にはわらぶとんを入れた小部屋があるということで、王様は、それはわたしの従者によろしかろうと言った……つまりおれのことだ。
そこでメアリ・ジェインはおれたちを二階に案内して、部屋をみせてくれた。どれも簡素だが、きちんとしていた。メアリ・ジェインの部屋にはドレスだとか何やかや道具が置いてあって、ハーヴィー叔父さんのおじゃまになるようなら、よそに移しますということだったが、にせ叔父は、いやいや、じゃまではないと言った。ドレスは壁ぎわにぶらさげてあって、その手前に床までとどくキャラコのカーテンがかけてあった。
部屋の一方の隅にはじゅうたん製の古い鞄が、また別の隅にはギターのケースがあり、その他、女の子が部屋をにぎやかにするために並べる飾りものや、がらくたがいろいろ置いてあった。
王様は、こんなふうに物があるほうが家庭的で楽しくてよろしい、そのままにしておいてくださいと言った。公爵の部屋はこじんまりしていたが、そうとう良い部屋で、それはおれの小部屋も同じことだった。
その夜、盛大な食事がひらかれて、よばれた村の衆は男も女もやってきて席につき、おれは王様と公爵のうしろに控えて給仕をし、|黒んぼ《ニガー》たちがほかの人たちの給仕をした。メアリ・ジェインはスーザンと並んで食卓の上席について、このビスケットはなんてまずいんでしょうとか、この砂糖漬けはなんてひどいんでしょうとか、なんてこのチキン・フライはまずくて固いんでしょうとか……要するに、無理やり客に料理をほめさせるために女の人がいうきまり文句をいろいろ並べた。すると客のほうでもみんな料理がどれもこれもとびきり上等なことを心得ていて、口に出してそう言った。……つまり、
「よくもまあ、ビスケットをこんなにおいしくこんがりお焼きになれますこと」とか、「このほっぺたの落ちるような砂糖漬け、いったいどこで手に入れましたか?」とか、要するに、食事の客がどこででも言うような調子のいいおべんちゃらをいろいろと言った。
晩さん会がすむと、ほかの連中が|黒んぼ《ニガー》たちを指図してあと片づけをしているあいだ、おれと兎唇娘は台所に行って、残り物で晩めしのごちそうになった。だが兎唇娘があまり根掘り歯掘りイギリスのことを聞くものだから、おれは本当に薄い氷の上を歩くような気持ちが幾度もした。兎唇娘がたずねた。
「王様を見たことある?」
「どの王様? ああウィリアム四世のこと? 見ましたともね。おれたちの教会に来ますからね」
ウィリアム四世がとっくに亡くなっていたことは知っていたが、おれは知らん顔をしてやっていたのだ。だから、いつもおれたちの教会へ来ると言うと、兎唇娘は言った。
「まあ……いつも来るの?」
「ええ、いつも来ますよ。王様の席は説教壇の向こう側のね……おれたちの席とちょうど向き合ったところなんです」
「王様って、ロンドンに住んでいるんじゃなかったの?」
「そうですよ。王様がよそのどこに住みたがるんです?」
「でも、あんたたち、シェフィールドに住んでるんじゃなかったの?」
さあ厄介《やっかい》なことになった、とおれは思った。やむをえずおれはとりの骨がのどにひっかかったふりをして、時間をかせぎながら、逃げ道を考えた。それから言った。
「つまりね、王様がシェフィールドに見えているあいだは、いつもおれたちの教会に来るんです。それは夏のあいだだけでね、王様は海水浴に来るんです」
「まあ、あんなこと言ってるわ……シェフィールドは海べじゃありませんよ」
「だれが海べだって言いました?」
「だって、言ったわ」
「いいや、言いません」
「言ったわよ!」
「言いません」
「言ったわよ」
「そのようなことは申しません」
「じゃあ、何て言ったのよ?」
「王様が海水浴に……海水を浴びに来ると言ったんです」
「なら、海べでなくって、どうして海水浴ができます?」
「ではうかがいますが、」とおれはきいた……「あんたは、コングレス水を見たことがあるでしょう?」
「あるわ」
「そいつを手に入れるのにコングレスまで行かなきゃなりませんか?」
「そんなことはないわ」
「そうでしょう? ウィリアム四世だって海の水を浴びるのに海まで行く必要はないのです」
「じゃあ、どういうふうにして浴びるの?」
「このへんの人がコングレス水を手に入れるのと同じ要領ですよ……樽《たる》づめにして送らせるのです。シェフィールドの離宮にボイラーがありまして、それでわかすのです。そんなにたくさんの海水をへんぴな海べでわかすわけにはいきません。設備がないから」
「ふーん。やっとわかったわ。はじめからそう話してくれれば時間がはぶけたのに」
兎唇《みつくち》娘がそう言ってくれたので、おれはやれやれ助かったと思って、気が楽になり、うれしくなった。するとこんどはこう言った。
「あんたも教会に行くの?」
「ええ、日曜日にはいつも」
「どこにすわるの?」
「そりゃ、うちの家族席にです」
「だれの家族席?」
「おれたちのうちのです……ハーヴィー叔父さんのですよ」
「あら、そう? 叔父さんはなんで席なんか要《い》るんでしょう?」
「すわるために要るんですよ。なんで要ると思ったんです?」
「だって、あたし、叔父さんは説教壇にいるのかと思ったわ」
しまった、叔父さんが説教師だということを忘れていた。こいつはまた面倒なことになったと思って、おれはもう一度とりの骨がのどにひっかかったふりをして、ひと思案した。それから言った。
「やれ、やれ、あんたは教会に説教師がひとりしかいないとでも思ってるんですか?」
「だって、何人も要るわけないでしょ」
「何人も要るわけないですって? 王様の御前で説教するのに? あんたみたいな人には会ったことがない。説教師は十七人もそろえてあるんです」
「十七人ですって? まあ、大変だ! あたしだったら、そんなにたくさんのお説教をとてもおしまいまで聞いていられない。そのために天国に行けなくなったってしかたがないわ。きっと一週間もかかるわね」
「ちがう、ちがう。同じ日にみんなが説教するのじゃない……そのうちの一人がするだけです」
「ふーん。なら、ほかの人たちは何をしているの?」
「なに、たいしたことはしていません。ぶらぶら歩いてまわったり、献金入れをまわしたり……何かしらそういうこと。でも、たいてい何もしてないんです」
「それじゃあ、何のためにいるのよ?」
「そりゃあ、もったいつけるためですよ。何も知らないんですね」
「そうね。そんなばかばかしいことは、あたしは知りたいとも思わないわ。それで、イギリスでは召使いはどんなに扱われてて? アメリカの|黒んぼ《ニガー》よりもましな扱い?」
「どうしてどうして。あちらでは召使いなんて虫けらみたいなもんです。犬よりもひどい扱いを受けています」
「クリスマスとか、お正月の一週間とか、七月四日の独立記念日とかには、|黒んぼ《ニガー》はお休みをもらうけど、そんなお休みもないの?」
「お休みですって? そんなことをおっしゃるのを聞けば、あんたがイギリスに行ったことがないってことがだれにだってわかる。いいですか、みつく……じゃなかった、ジョアンナ、あちらではお休みなんて一年のうち一日ももらえません。サーカスにもお芝居にも、|黒んぼ《ニガー》のショーにも、どこにも行けないんです」
「教会にも?」
「教会にも」
「でもあんたはいつも教会に行くと言ったわ」
さあ、またまずいことになったぞ。おれは自分が王様の召使いだってことを忘れていたのだ。しかしじきに何とか言いのがれられそうな道を見つけて、牧師の従者は並みの召使いとはちがって、いやでも何でも教会に連れて行かれて、家族といっしょにすわらされるきまりなのだ、と言った。だがあまり上手にごま化せなかったので、説明がすんだあと、ジョアンナは満足できないような顔をしていた。
「正直におっしゃい。あんた、たくさんあたしに嘘をついたでしょ?」
「正直に言います、嘘はつきません」
「ひとつも?」
「ひとつも。本当です」
「この本に手をのせてそうおっしゃい」
見ると、聖書なんかじゃなくてただの字引きだったから、おれは手をのせてそのとおりに言った。するとジョアンナはすこし満足したような顔をして言った。
「それなら、すこしは信用してあげる。でも全部は、こんりんざい、信じませんからね」
「何を信じないって言ってるんです、ジョアンナ?」
メアリ・ジェインがスーザンをつれて入って来ながら言った。
「この人にそんなふうに口をきくのはよくないわ。思いやりがないわ。この人はよその土地の人で、おうちの人たちから遠く離れて来ているのよ。あんただって、そんなふうに意地悪されたくはないでしょ?」
「またまた、メアリ姉さんったら。だれかがいじめられそうだと見ると、すぐ割りこんできて助け舟を出すんだから。あたしはこの人に何にもしてないのよ。でも、この人がすこし≪ほら≫を吹いたみたいだったの。だからあたし、そんなことすっかり鵜呑《うの》みにはできないって言ってやったの。あたしが言ったのは本当にそれっきりなのよ。そんなちっぽけなこと、この人にこらえられないわけはないと思うわ」
「ちっぽけだろうと大きかろうと同じことです。この人はよその土地の人で、あたしたちのうちのお客なのに、あんな口をきく人がありますか。あんたがこの人だったとしてごらんなさい、恥ずかしい目にあわされたと思うでしょう? そんな思いをさせるようなことを人に言うのがいけないんです」
「だってお姉さん、この人ったらこんなこと言うのよ……」
「どんなことを言おうと、そんなことはどうでもいいんです。大切なことはね、この人に親切にしてあげて、自分が≪くに≫にいなくなってうちの人ともいっしょじゃないんだってことを、この人に思いださせるようなことを言わないことです」
おれは心の中でつぶやいた……あの「ひきがえる」爺いに金を奪われるのをおれが見て見ぬふりしているのが、この娘さんなのだ。
すると今度はスーザンがしゃなり出て、意外なことに、この子も頭ごなしに兎唇娘をしかりつけた。
おれはまた心の中で、悪者に金を奪われるのを、おれが見て見ぬふりしているもう一人の子がこの子なんだ! と思った。
それからまたひとしきりメアリ・ジェインが、いつもながらの、ほれぼれするようなやさしい調子で言ってきかせてやって、それが終わると、兎唇娘は、はじめの勢いはどこへやら、オンオン泣き出した。
「わかったわね。じゃ、この人にお詑びを言いなさい」と二人の姉娘。
ジョアンナはそのとおりにして、しかもとてもしおらしくごめんなさいを言った。その言いかたが本当にかわいらしくて、聞くだけでいい気持ちになった。こんなすてきなごめんなさいをもういっぺん言ってもらえるのなら、百も千も嘘をつきたいと思ったくらいだ。
おれは心の中でつぶやいた、悪者にお金をまき上げられるのをおれが見て見ぬふりしようとしているもう一人の子が、この子なんだ、と。
お詑びがすむと、みんなで一生けんめいになっておれが気楽にしていられるようにやさしくしてくれて、みんながおれの友だちだってことをおれにわからせようとした。そんなにされると、おれは何ともうしろめたくて、やりきれなくって、みじめな気になったので、おれは、この娘たちのために、一《いち》か八《ばち》か、あの金貨の袋をかっぱらってやろうと決心した。
そこでおれはやすませてもらいますと言って引きさがったが、いずれそのうちやすむつもりでそう言ったのだ。一人になってから、さてどうしたものかと思案した。こっそりあの医者に会って、にせ叔父たちのことをばらしてやろうか? いや……それはだめだ。医者はだれが告げ口したか人に言うかもしれないし、そうすると王様と公爵からおれがえらい目にあわされる。こっそりメアリ・ジェインにうち明けてやろうか? いや、……そいつもあぶない。メアリ・ジェインの顔を見て、やつらはハテナと思うだろうし、そうなると金はやつらが持っているのだから、すぐに金ごとどろんをきめこむだろう。そこへメアリ・ジェインが追手をさしむけるとなると、悪者が御用になる前におれがまきぞえを喰ってしまう。そいつは困る。
いい方法はたったひとつしかない。おれが何とかしてあの金を盗まなきゃならない。それもおれのしわざだなと怪しまれないように盗まなきゃならない。
あの二人はここでうまい話にありついているのだから、三人娘と村人たちからとことん欺《だま》し取るまでは退散しようとすまい。おれがうまく立ちまわるチャンスは十分にある。金を盗み出したらどこかに隠しておこう。そしてそのうち、おれがずっと川をくだったあとで、手紙をメアリ・ジェインに出して、隠し場所を教えてやろう。だが、今夜盗めるようなら、そうしておいたほうがいい。あの医者が手を引くと言ったのは口先きだけのことかもしれない、これからだってあの二人をおどしつけて追っぱらおうとするかもしれないからだ。
では、ひとつやつらの部屋を探してやれ、とおれは思いたった。二階の廊下は真暗だったが、公爵の部屋を見つけると、手さぐりで部屋じゅうを探しはじめた。しかし、金の番を自分でしないで人にまかせるような王様じゃないと思い当たって、王様の部屋に行ってそこらじゅうを手さぐりしはじめた。
しかしろうそくがないとどうにもならず、と言って、ろうそくをつけるような無茶もできなかった。
そこでおれはやり方を変えることに決めた。やつらを待ち伏せして、話を盗み聞くのだ。
そうこうしているうちに、やつらの足音が近づいてきたので、おれはベッドの下にとびこもうとしてベッドのほうに手を出すと、ここだと思ったところにベッドがなくて、かわりに、メアリ・ジェインのドレス置き場を仕切ったカーテンに手がさわった。そこでおれはそいつをくぐって、ぶらさがったドレスとドレスのあいだにもぐりこみ、息を殺してじっと立っていた。
二人は部屋に入ってドアをしめた。そして公爵が最初にしたことというのが、かがみこんでベッドの下をのぞくことだった。さっき探したときベッドがどこにあるかわからなくてよかった、とおれは思った。とは言っても、人目につかずに何かやりたいときベッドの下に隠れたくなるのは、これは人情というものだろう。
二人は腰をおろして、王様がこう言った。
「話は何でえ? 手っ取り早くたのむぜ。こんなところにいてみんなにおれたちのことを取り沙汰《ざた》させるよりか、下でお通夜気分を盛りあげているほうがましなんだからな」
「話ってのはな、王様よ、おれは心配になってきたんだ。落ちついていられねえんだ。どうもあの医者のことが気になってしようがねえ。この先どうするのかお前の肚《はら》づもりが知りてえ。おれにも考えたことがある。いい考えのつもりだ」
「どんな考えだ、公爵?」
「つまりだな、朝を待たずに三時ごろまでにこの家を抜けだして、手に入っただけの金を持ってよ、川をどんどんくだっちまおうじゃねえか。あんなにわけもなく金が手に入ったことでもあるしよ。だってそうだろ、取り戻すのには盗まにゃなるめえと思っていた金をよ、先方さまから放り出すみてえにポンとお返ししてくだすったんだからな。おれはこのへんできりあげて、跡白波《あとしらなみ》をきめこむにかぎると思う」
おれはそれを聞いておもしろくなかった。一時間か二時間前なら、別にどうってこともなかったろうが、今はちがう。おれはおもしろくなかった。がっかりした。そのとき王様が、怒ったように言った。
「何だと? 土地建物も売り飛ばさねえでか? 八、九千ドルからの値打ちのある、右から左にさばける上物《じょうもの》なんだぞ。こんな濡れ手に粟《あわ》のぼろい話をうっちゃって、スタコラ逃げだす阿呆があるけえ!」
それでも公爵はぶつぶつ言って、金貨の袋だけで、じゅうぶんじゃないか、これ以上深入りしたくない、みなしごの娘っ子たちから何もかもまきあげてしまいたくはない、と言った。
「おいおい、何を言う」と王様。「おれたちがみなしごの娘っ子たちからまきあげるなあ金貨だけよ。土地建物で損をするなあ、そいつを買うやつさ。つまりだな、おれたちが持ち主じゃないってことがばれると……おれたちがどろんをきめると、じきにばれるだろうが……それでもう取り引きは無効になって、すっかりもとの白紙にもどるのさ。娘っ子たちはちゃんと屋敷を返してもらえるんだ。それだけであいつらには十分さよ。あいつらは若くてピチピチしてるんだから、働いて暮らしを立てるのはぞうさもねえ。あいつらに損はねえよ。考えても見ねえな……あの娘っ子たちよりもずっと暮らしに困ってる人間が、世の中にはゴマンといるんたぜ。お前もたいがいにしろよ。あいつらに苦情の言える筋合いはねえんだからな」
王様がたいそうな勢いでまくし立てるもので、しまいには公爵も負けてしまい、お前の言うとおりにするよと言ったが、あの医者があたりにうろついているのに、ここでぐずぐずしているのはどうも利口じゃねえような気がする、と言った。すると王様は、
「医者が何でえ! 何をびくびくすることがある? 村じゅうの阿呆がおれたちの味方じゃねえか? そしてどの村でも阿呆が絶対多数じゃねえか?」
それから二人は下におりて行こうとしかけたが、公爵が言った。
「おれは金の隠し場所がよくねえと思うんだが」
それを聞いておれはこおどりした。何の手がかりもつかめないのか、とあきらめかけていたところだった。すると王様が言った。
「どうして?」
「つまりメアリ・ジェインはこれからしばらく黒い喪服しきゃ着ねえ。するてえと、まず、この部屋の掃除にくる|黒んぼ《ニガー》が、そこらのドレスを箱に入れてどっかにしまえという指図を受けるにちがいねえ。それで|黒んぼ《ニガー》なら、金を見つけたらいくらかちょろまかさずにゃおられめえ」
「こいつ、頭がいいぞ。それでこそいつものお前だ」と言って王様はおれのいるところからほんの二、三フィートのところに来て、カーテンの下から手を入れてモゾモゾやりだした。
おれはふるえあがって、壁にぴったりくっついたまま、ただもうじっとして、おれをつかまえたら何と言うだろうと思った。そしてつかまってしまったらどうすればいいだろう、と必死に考えようとした。だがその考えが半分もまとまらないうちに、おれがそこに隠れていようとはつゆ疑わないで、王様は金貨の袋をつかみだした。それから二人は、羽ぶとんの下のわらぶとんの裂け目から、金貨の袋を一、二フィートも押しこんで、これで大丈夫、|黒んぼ《ニガー》の召使いが来ても羽ぶとんをなおすだけで、わらぶとんをひっくり返すことは年に二度くらいしかやらないから、これでもう盗まれる気づかいはないと言った。
しかしおれにかかっちゃかなわない。二人が階段を途中までおりかかったときには、もうおれは金貨の袋を取りだしていた。それから手さぐりで屋根裏の小部屋にあがって行って、もっとうまい隠し場所が見つかるまで手もとにしまっておくことにした。家の外に隠すのがいいだろうと思った。
金が消えたことに気づいたら、二人はやっきになって家《や》さがしをするにきまっているからだ。それがおれにはよくわかっていた。それからおれは着物をすっかり着たまま寝床に入ったが、早くこの仕事にけりをつけたくて、眠ろうにも眠れなかった。するとそのうち王様と公爵が二階にあがってくる音がしたので、おれは寝床からころげ出て梯子《はしご》のてっぺんに顎をのっけて、さてどんなことになるかと様子をうかがった。ところがいっこうに何ごとも起きない。
そこでおれは、夜ふけの物音がすっかり静まって、夜明けの物音がまだはじまらないころまで待ってから、そろそろと梯子をおりて行った。
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二十七 葬式
おれはこっそりと王様の部屋と公爵の部屋の前に行って気配をうかがった。二人とも高いびきをかいていた。そこで、抜き足さし足、おれは階段をおりて、無事に一階の廊下に着いた。どこからも何の物音も聞こえない。食堂のドアのすき間からのぞいてみると、お通夜の連中はみんな椅子にもたれて眠りこんでいた。客間のドアはあけ放しになっていて、そこに、死骸《なきがら》が置いてあった。客間と食堂にはろうそくがついていた。客間の入口を通りすぎながら、開いたドアから中をのぞくと、だれも人はいなくて、ただピーターの死骸があるだけだった。おれはそのまま廊下を進んで玄関に来てみたが、錠がおりていて、鍵もそこになかった。
ちょうどそのとき、うしろのほうで、だれかが階段をおりてくる音がした。おれは走って客間に入り、急いであたりを見まわしたが、金を隠せる場所はお棺しかなかった。お棺は蓋《ふた》が一フィートばかりずらしてあって、経帷子《きょうかたびら》を着て顔にぬれ布巾《ぶきん》をかぶった死人が、頭のほうだけ見えていた。おれは金貨の袋を蓋の下にくぐらせて、十字に重ねた手のちょうど下あたりに押しこんだ。死人の手がとても冷たかったので、おれはぞっとなった。それからおれは走って、客間を横切るとドアのかげにかくれた。
やって来たのはメアリ・ジェインだった。お棺のほうへ静かに来ると、ひざまずいてお棺をのぞきこみ、ハンカチを出して、声は聞こえなかったが、こちらに背を向けたまま忍び泣きをはじめた。おれはこっそりと廊下に出て、食堂の前を通るとき、お通夜の客のだれにも見られなかったことを確かめたくて、ドアのすき間からのぞきこんだ。異常なし、だ。だれも身動きもしていなかった。
おれはまた抜き足さし足で上にあがって寝床に入ったが、あれほど苦労をし、あれほど危い橋を渡ったあげくが、こんななりゆきになってしまって、いささかゆううつだった。おれが思うに、金さえ今のところにじっとしていてくれれば問題はない。おれたちが百マイルか二百マイルも川をくだったあとで、メアリ・ジェインに手紙で知らせて、墓から掘り出してもらえばいいのだから。
だがそうは問屋がおろすまい。葬儀屋が来てお棺の蓋をしめる段になって、金が見つかるのが落ちだろう。そうなると王様が金を取り返してしまって、その金をだれかにさらわれるような隙《すき》は二度と見せまい。おれとしては、こっそり下に行って金をお棺から出してきたいのは山々だったが、思いきってそうする勇気はなかった。もうどんどん夜が明けて行くから、やがてお通夜の連中も目をさますだろうし、うっかり金を取りに行けば、ふんづかまって……だれにあずかってくれと頼まれたわけでもない六千ドルごとふんづかまってしまうだろう。そういう目にあうのはごめんだ、とおれは思った。
朝になって下におりてみると、客間はしめきってあって、お通夜の連中はもう引きあげていた。家の中にいるのは、メアリ・ジェインの家族と、バートリーの後家《ごけ》さんとおれたち三人だけだった。何か変わったことでも起きた様子はないか、とおれはみんなの顔を見たが、どうもよくわからなかった。
その日のおひるごろ、葬儀屋が小僧をつれてやって来て、客間の真中に椅子を二つ三つ並べて、その上にお棺を移した。それから家じゅうの椅子を持ちこんで何列も並べ、また近所からも借りてきて並べたので、廊下も客間も食堂も椅子でいっぱいになった。見るとお棺の蓋は前と同じ具合いだったが、人が見ているので、蓋の下までのぞきこむわけにもいかなかった。
それから村人たちがつめかけてきて、いかさま師ふたりと娘たちがお棺の頭のほうの一番前の列に陣取った。それから三十分ものあいだ、みんなは一列にならんでしずしずと進み、死人の顔を一分ばかり見てから、人によっては涙をこぼしたりした。そのありさまはとても静かで厳粛《げんしゅく》で、三人娘といかさま師たちだけが、目にハンカチをあてて頭を垂れ、すこしすすり泣きをしていた。聞こえるものといえば、人が足を床に引きずる音と鼻をかむ音だけだった……というのは、人は教会以外のどこにいるときよりも、葬式の席で鼻をかむものだから。
席がいっぱいになると、葬儀屋は、黒い手袋をして、ものやわらかでしめやかな様子で、あたりをするする動いて、みんなが楽にしていられるよう、何もかもきちんと整っているよう、最後の仕上げをしてまわって、しかも猫ほども音を立てなかった。口はひとこともきかず、客をつめさせたり、新しい客を押しこんだり、通路をあけさせたりするのも、みんな手真似やうなずきの合図でやってのけた。
それから自分は壁のそばに席を取った。こんなにものやわらかで、するする動きまわる、ひっそりした人間をおれは見たことがない。そしてハムのかたまりが笑ったりしないのと同じように、この男はにこりともしなかった。
そこにはオルガンもひとつ借りてきてあって……くたびれた代物《しろもの》で、すっかり用意ができると、若い女の人がすわってひきはじめた。するとギイコギイコ腹いたを起こしそうな音がして、みんなそれに合わせて賛美歌をうたったが、それでうれしくなったのはピーター爺さんだけだったろうとは思う。
それからホブソン牧師さんが、やおらおごそかに口をきって、説教をはじめた。
ところが、そのとたん、世にもけたたましい騒ぎが地下室のほうでおっぱじまった。それはただ、犬が一匹なきだしただけだったが、どえらく響く声でいつまでも吠えるもので、牧師さんはお棺の前で立ち往生《おうじょう》してしまった。何しろ自分の考えていることさえ聞こえないようなやかましさだった。そこでぜんぜんぐあいの悪いことになってしまって、だれにもどうしたらいいのかわからない。だがじきにあの足長の葬儀屋が、「だいじょうぶ、わたしにまかせてください」とでも言うような身ぶりを牧師さんにしてみせるのが見えた。
葬儀屋は腰をかがめて、肩のあたりから上を列席の人たちの頭の上に浮かべて、壁ぎわをするすると動きだした。そうするあいだにも、がやがやとやかましい騒ぎはますますひどくなっていった。やがて葬儀屋は奥の壁からわきの壁をまわりきって、地下室に姿を消した。すると二秒とたたないうちに、ポカッとぶんなぐる音がして、すっとんきょうな声で犬がひと声ふた声ないたかと思うと、それきりシーンと静かになったから、牧師さんは説教のつづきをはじめた。
まもなく葬儀屋の肩と背中が壁づたいにすべるように戻ってくるのが見え、入口がわの壁からわきの壁、奥の壁と、するする、するするとやってきて、かがめていた腰をのばして両手でメガホンをつくると、みんなの頭ごしに牧師さんのほうに首をのばして、しわがれたようなひそひそ声で、「犬のやつ、ねずみを取っていたんですよ!」と言った。
そしてまた中腰になって、するすると壁を伝わって自分の席にもどった。そういうことを知りたいのは人情だから、その知らせにみんながすっかり満足したことはいうまでもない。そういうちょっとしたことをしてやっても、べつにふところが痛むわけでもない。だが、そういうちょっとしたことをしてやることこそ、人にうやまわれたり好かれたりするもとになるのだ。村でこの葬儀屋くらい評判のいい人はいなかった。
さて、葬式の説教はなかなか良い説教だったが、おそろしく長くてうんざりした。それから王様がのさばりでて、例によって馬鹿口をたたいて、やっと葬式は一段落ついた。そして葬儀屋がネジまわしを手に、お棺のほうにすっとやって来た。おれは手に汗をにぎって、目を皿のようにして、見守った。ところが葬儀屋は何もちょっかいを出さず、とうもろこしのおかゆみたいにヤンワリと蓋《ふた》をすべらしてしめると、ネジ釘でしっかりとめてしまった。
さあ弱ったことになった!
金があの中に入っているのかどうかもわからない。だれかがこっそり盗みだしていたら、どうしよう? メアリ・ジェインに手紙を書いたものかどうかもわからなくなった。わざわざ掘りだして何も見つからなかったとしたら、メアリ・ジェインにどう思われるやら。おれは追手をさし向けられて、牢屋にぶちこまれるかもしれない。これは小さくなって知らん顔をして、手紙なぞ書かずにいたほうがいい。えらく面倒なことになってしまった。よくするつもりだったのが、百倍も悪くしてしまった。よけいなことをしなきゃよかったんだ、ちくしょう!
野辺送りをすませて家にもどってから、……おれはまたみんなの顔色を読もうとした。そわそわして、そうしないではいられなかった。だがうまくいかない。人の顔をいくら見ても、何にもわからなかった。
王様は、その夜、あちこちの家々をたずねまわって、愛嬌《あいきょう》をふりまいて、みんなになれなれしくした。そして、わたしの教会の信者がイギリスで待っとりますから、急いで財産を処分して、帰国しなくてはなりません、というようなことを言った。
ゆっくりできないのが残念ですじゃとも言ったが、それはみんなも同じ気持ちで、みんなは、王様にもっといてもらいたいが、そうもなりますまいと言った。
それから王様は、いうまでもないことじゃが、わたしと弟は姪たちをいっしょに連れて行きますと言った。これにはみんなも喜んだ。というのは、そうすれば娘たちも安楽に身内《みうち》といっしょに住めることになると思ったからだ。また娘たちも、その話には喜んで……悲しい目にあったことなどきれいに忘れてしまうほどうれしがって、叔父さん、かまいませんから早く財産を処分なさってくださいな、あたしたちいつでもおともします、と言った。
かわいそうに、この娘たちがイギリス行きをそんなに喜んで楽しみにしているのを見ると、さんざん欺《だま》され、馬鹿にされているのも知らずに、とおれは胸が痛くなった。だが、ちょっかいを出して事のなりゆきを変えようにも、どうすればそんなことが安全にできるのか、見当がつかなかった。
さて、王様は、今度はなんとビラをはりだして、屋敷と|黒んぼ《ニガー》たちとその他の土地建物をさっそくに売りに出します、競売は葬式の翌々日、ただし競売の前に内々に買い取りたい方があればご相談に応じます、とこう広告した。
そういうしだいで、葬式のつぎの日のおひるごろ、娘たちの喜びに水をさすような最初の出来事があった。というのは、村にやって来たふたりの奴隷商人に、王様が|黒んぼ《ニガー》たちを三日後払いの手形《てがた》とやらで良い値に売り払ったので、|黒んぼ《ニガー》のせがれ二人は川上のメンフィスに、母親のほうは川下《かわしも》のオーリアンズに行かされることになってしまったからだ。三人娘とニガー親子は、胸がはりさけやしないかと思うほど嘆き悲しんで、抱き合って泣いたりわめいたりするものだから、おれは見ていて気分がわるくなりそうだった。
娘たちは、ニガー親子がばらばらに離されるとか、よその町に売られて行こうなどとは夢にも思わなかった、と言った。かわいそうに、娘たちと|黒んぼ《ニガー》たちがお互いの首っ玉にかじりついて泣いていたありさまを、おれは今でも忘れることができない。この取り引きが無効で、したがって一週間か二週間もすれば、|黒んぼ《ニガー》たちが帰ってくるということを知らなかったとしたら、おれはどうにもがまんができなくなって、王様の正体をぶちまけただろうと思う。
この事件で村の人たちも騒ぎだし、たくさんの人がやって来て、こんなふうに親子を引き離すのは無法ちゅうもんだとずけずけ言った。これにはいかさま師たちもいささかこたえたが、王様は強気一方で押しまくり、公爵が何と言ってとめようとしてもきかなかった。公爵のほうはひどく不安がっていた。
そのつぎの日は競売の日だった。夜が明けきったころ、王様と公爵が屋根裏にあがってきて、おれを起こした。二人の顔を見るなり、何かあったなとおれはピンと来た。王様が言うには、
「お前、おとついの晩、おれの部屋に入ったかい?」
「いえ、陛下」あたりによその人がいないときは、いつもこう呼んでいた。
「きのうはどうだ? ゆんべは?」
「入りません、陛下」
「正直に言え。嘘なぞついてみやがれ」
「正直に言います、陛下。本当のことを申しております。メアリ・ジェインさんが陛下と公爵閣下を案内して部屋を見せてくれたときからあと、あの部屋には近づきもしません」
すると公爵が、「だれかほかの人間が入って行くのを見なかったか?」
「はい、閣下。見なかったような気がします」
「落ちついて考えてみろ」
しばらく思案しているうちに、おれは、さあチャンスだという気になって言った。
「そういえば、|黒んぼ《ニガー》たちが出たり入ったりしてましたよ」
すると二人ともとびあがって、そいつは思ってもみなかったという顔をして、つぎに、そうか、やっぱりそうだったのかという顔をした。そこで公爵が言った。
「何だって? |黒んぼ《ニガー》が三人そろってか?」
「そうじゃありません……ともかく、いちどきに三人じゃありません。つまり、その、二人そろって出てくるのは、いっぺんきりしか見なかったような気がします」
「ええっ……そりゃ、いったいいつのことだ?」
「お葬式のあった日の朝です。あの日は朝寝坊しちまったから、そんなに早くじゃないんです。梯子《はしご》をおりようとしていたとき、|黒んぼ《ニガー》たちが見えたんです」
「ふむふむ! それで? やつらは何をしていた? どんなそぶりだった?」
「何もしてませんでした。そして、見たとこ、べつにどんなそぶりってこともなかったんです。見ると、|黒んぼ《ニガー》たちが抜き足さし足で出て行くんです。だから、ははあ、やっこさんたちは陛下がもう起きてると思って、部屋の掃除か何かをしに来たんだな、ところが陛下がまだ起きてないもんで、まだおやすみなら、わざわざ起こして面倒な目にあうのはよそうってんで逃げて行ったな、とすぐに察しがついたんです」
「ちくしょう、やられた!」と王様。ふたりともえらく胸糞《むなくそ》が悪そうで、おまけにいいかげん間《ま》が抜けて見えた。それからふたりはちょっとのあいだ、頭を掻いたりして思案顔になっていたが、公爵が、ウィッヒッヒッヒといやな笑い声を立てながら言いだした。
「こいつは傑作だ。何とうまくひと芝居打ったもんじゃないか。あの|黒んぼ《ニガー》のやつら、この土地を離れるのがつらそうなふりをしていやがった。本当につらいんだろうとおれは思ってた。お前もそう思ったし、みんなそう思ったんだ。|黒んぼ《ニガー》に芝居っ気がないとはもう言わせねえ。あんなに真《しん》に迫ってやられちゃあ、だれだって一杯食わされちまう。あいつらを使ってひと財産つくることだってできそうだぜ。おれに資本と芝居小屋があったとして、あれ以上の役者衆が欲しいたあ思わねえ。だのに、おれたちはやつらを安値で売り飛ばしたんだ。そうなんだ。しかもその安売りの代金はまだ拝ましてももらっていねえ。おい、あの安売りの代金はどうした、あの手形は?」
「現金にかえるために銀行にあずけてあらあ。どこにあると思ったんだ?」
「そうか。じゃあ、あの代金だけは無事だな。ありがてえこった」
そこでおれは、おそるおそる、「何か間違いでも起きたんですか?」
すると王様がサッとおれのほうを向いて、どなりつけた。
「お前の知ったことじゃねえ! お前はよけいな口をきかずにてめえの仕事に精を出してりゃそれでいいんだ。てめえの仕事なぞありもしめえが。この村にいるあいだは、そのことを忘れるな。わかったか」
そう言ってこんどは公爵に、「この一件はおれたち二人でぐっとのみこんでおいて、人には黙っていようぜ。言わぬが花よ」
ふたりが梯子をおりかかったとき、公爵がまたウィッヒッヒッヒと笑いながら、
「さっさと売ったが儲《もう》けはさっぱり、と来た。うめえ商売だったな、まったく」
すると王様が歯をむきだして、「おれがさっさと売り飛ばしたのも、取れるだけのものを取っとこうと思ったればこそなんだぞ。これで収入《あがり》がゼロで、差引きひどい赤字のまま、手ぶらで帰ることになったとしても、何もおれだけのせいじゃねえ」
「どうかな。おれの言うとおりにしてさえいりゃ、今ごろ|黒んぼ《ニガー》たちはまだこの家にいて、かわりにおれたちがおさらばしていたはずじゃねえか」
王様は安全な程度にやり返してから、くるっとふり返ってほこ先をまたおれに向けると、|黒んぼ《ニガー》がそんなそぶりで部屋から出てくるのを見ていながら、知らせに来ないやつがあるか、どんな馬鹿でも何かあったと感づくはずた、とガミガミ言った。と思うと、こんどは自分を責め立てて、これというのも夜ふかし朝寝坊を当たり前にやらなかった自分が悪い、こんな不心得は二度とすまい、とぼやいた。そして二人は、何のかのと話しながら、梯子をおりて行った。おれは万事を|黒んぼ《ニガー》たちにうまく押しつけてやって、しかも|黒んぼ《ニガー》たちに何の迷惑もかけなかったことが、うれしくてたまらなかった。
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二十八 イギリスへの旅行
やがて起きる時間になったので、おれは梯子《はしご》をおりて一階に行こうとした。ところが娘たちの部屋にさしかかると、あけ放しの戸口からメアリ・ジェインが見える。ふたのあいた古い旅行鞄のそばにすわっているのは、イギリス行きにそなえて身の回りの荷物をつめているのだ。だが今は荷づくりをやめて、たたんだドレスを膝にのせたまま両手に顔をうずめて泣いている。それを見ればだれだってそうなるにきまってるが、おれはとても気の毒な気がした。そこで、そばまで行って、おれはこう声をかけた。
「メアリ・ジェインさん、ひとが困っているのを見たら、あんたは黙っちゃいられないでしょう? ぼくも黙っていられなくなるんです……たいていのときはね。どうしたのか、ぼくに話してください」
そこで話してくれたのをきくと、案の定、|黒んぼ《ニガー》たちのことを悲しんでいたのだった。メアリ・ジェインが言うには、これでせっかくのイギリス行きの楽しみもおよそ台無しになってしまった。あの親子は二度とお互いに会えないのだと思えば、あたしがイギリスでどうして幸せでいられましょう。
そう言って前よりもひどく泣きだし、両手をあげて、言った。
「ああ、何てことでしょう、あの親子がもう二度と会えないなんて!」
「しかし会えるんですよ……半月もすれば……ぼくは知ってるんです!」
ホイ、思わずしゃべってしまった!……とたんに、身をかわすひまもなく、メアリ・ジェインがおれの首根っ子に両手をまわして、何ですって、もういっぺん言って、もういっぺん言って、とせきたてた。
さあ、早まってよけいなことを言っちまって、抜きさしならなくなったぞ、とおれは思った。それで、ちょっと考えさしてくれ、と頼んだ。メアリ・ジェインはひどくもどかしそうにして、上気したみたいなきれいな顔ですわっていたが、何となくうれしそうな、ほっとしたみたいなその様子は、まるで虫歯を抜いてもらったばかりの人のようだった。
さておれは思案した。のっぴきならなくなって本当のことを話すというのは、そうとう危い橋を渡ることなんだ。おれは経験がないからよくはわからないが、どうもそういうものらしい。だが今の場合は、どう見ても、嘘をつくより本当のことを言ったほうがいいようだし、第一、そのほうが安全なようだ。これはよく覚えておいて、いつかじっくり考えてみなくては。だって、話がおかしいし、どうもまともじゃない。こんな目にはあったことがない。それで、しまいにおれはこう考えた……一《いち》か八《ばち》かやって見るか。この際、いっちょう本当のことを言ってやれ。まるで火薬の樽《たる》にすわって、どういうことになるかいっちょう火をつけてやれ、と言うようなものだが。
そこでおれは言った。
「メアリ・ジェインさん、この村からすこし離れたところにどこか、三、四日遊びに行けるような家でもありませんか?」
「あるわ、ロスロップさんのお家。でもどうして?」
「どうしてって話は、あとでしましょう。それで、|黒んぼ《ニガー》たちが半月のうちに……しかもこの家で……またいっしょになれるってことをぼくが知ってるわけを話してあげたら、そしてどうしてそうなのかをなっとくさせてあげたら、ロスロップさんちに行って四日泊ってきてくれますか?」
「四日どころか」とメアリ・ジェインは言う、「一年でも泊ってくるわ!」
「わかりました」とおれは言う。「泊ってきてくださるという、そのお言葉だけで十分です。ほかの人が聖書で誓うよりも、ぼくは信用します」
メアリ・ジェインは笑って、赤くなってとてもすてきだった。おれは、「じゃ、かまわなければ、戸をしめて、閂《かんぬき》をかけさせてもらいます」と言った。
それをすませて戻ってくると、おれは腰をおろして、言った。
「泣いたりしちゃだめですよ。じっとすわってて、男のようにがまんしてください。ぼくは本当のことを言わなきゃなりません。あまりいい話じゃないし、聞くのはさぞつらかろうと思います。でもほかにしかたがないから。メアリさん、しっかりしてくださらなきゃいけませんよ。あの叔父さんたちは本当の叔父さんなんかじゃありません……あいつらは二人組のいかさま師なんです……たちの悪いペテン師なんです。さあこれで一番悪いことは言ってしまった……あとはすこし気を楽にして聞いてください」
メアリ・ジェインが腰を抜かさんばかりに驚いたことは言うまでもない。だが一番言いにくいことを言ってしまったので、かまわずおれはどんどん話を進めた。するとメアリ・ジェインの目の色がだんだん変わってきて、ギラギラ光ってきた。おれは、汽船に乗ろうとしていたあのすこし足りない青年にはじめて出くわしたときから話しはじめて、この家の玄関でメアリ・ジェインが王様の胸にとびこんで、ものの十六、七回もキスをしたときのことまで、ことこまかに話してやった。するとメアリ・ジェインは夕焼け空みたいに真赤になってとびあがると、言った。
「あのけだもの! さあ……一分も……いや一秒もむだにしないで……あいつらにタールを塗って羽根をくっつけて、大川にほうりこんでしまおう!」
そこでおれは、「ごもっともです。でもロスロップさんちに行く前にやるんですか、それとも……」
「そうだったわ」とメアリ・ジェイン。「あたしの考えてることったら!」
それからまた腰をおろすと、「あたしの言ったことを気にしないでくださいな。おねがい。……気になさらないで。……あなた気になさらないわね、ね、そうでしょ?」と言いながら、羽二重《はぶたえ》みたいな手をおれの手の上にやさしく置いたので、おれは、気にするくらいなら死んだほうがましだと言った。
メアリ・ジェインは、「自分で気がつかないうちに、すっかりのぼせてしまってたわ」と言って、「先をつづけてくださいな。もう取り乱したりしませんから。あたしがどうしたらいいのか教えて。どんなことでもあなたの言うとおりにします」
「そうですね」とおれは言う。「あのインチキ二人組は、したたか者ですよ。でも、ぼくはもうすこし、いやでもあいつらとつき合って旅をしなくてはならない破目《はめ》になってるんです。……ちょっと人には言いにくいわけがありましてね。それであんたがあいつらの化《ば》けの皮をひんむけば、村の衆があいつらの爪《つめ》からぼくを助けだしてくれることになって、ぼくはそれでいいんだけど、ところが、もうひとりあんたの知らない人が別にいましてね、その人がうんと困ったことになっちゃうんです。その人だって助けてやらなきゃいけないでしょう? そうにきまってます。ですから、あいつらの化けの皮をひんむくのはよしましょう」
そうしゃべっているうちに、ひとついい思いつきが浮かんだ。うまくやれば、おれとジムは、いかさま師たちを厄介払いできそうだ。あいつらをここの牢屋に入れて、おれたちはおさらばができそうだ。だが、ジムのことを人が怪しんで訊問《じんもん》するかもしれないのに、おれ以外にその受け答えをする人間が乗っていないとしたら、まっぴるまに筏《いかだ》を流すのもどうかと思ったので、その思いつきを実行にうつすのは、今夜おそくなってからにしたかった。そこでおれは言った。
「メアリ・ジェインさん、これからどうしたらいいか話しましょう。あなたはロスロップさんちにそんなに長居《ながい》することもありません。どれくらい遠いんですか、その家?」
「四マイルくらい。……ここから奥に入った田舎のほうなの」
「そこでいいでしょう。では、その家にでかけて行って、今夜九時か九時半までじっとしてらっしゃい。それから何か用事を思いだしたとか言って、送ってもらって帰ってらっしゃい。そんで十一時より早くここに着いたら、この部屋の窓に明りをつけて、ぼくが来ないかどうか、十一時まで待ってみてくれませんか。それで十一時になっても来ないようでしたら、そのときは、ぼくはもう大丈夫なところへ逃げのびていて心配ないんです。そしたら村に出て、あいつらの正体を言いふらして、あいつらを牢屋にぶちこんでください」
「いいですとも」とメアリ・ジェイン。「そうします」
「でも、万が一、ぼくが逃げそこなって、あいつらといっしょにつかまるようなことになったら、ぼくがあんたにはすっかり打ち明けていたってことをみんなに言って、できるだけ助け船を出してください」
「助け舟、もちろんよ。あなたには髪の毛一本さわらせはしないから」と、メアリ・ジェインは鼻の孔をふくらませ、目をキラキラさせて力《りき》んだ顔をした。
「ぼくが逃げてしまえば、あの悪者たちが叔父さんなんかじゃないってことを証明してあげることができなくなります。でも、居残ったとしても証明はむずかしいですね。せいぜい、あの二人は流れ者のペテン師に相違ございません、って誓うことができるくらいなものです。まあ、それでも何かのたしにはなるでしょうけれど。でもペテンの証明なら、ぼくなんかよりもっとうまくやれる人たちがいるんです。ぼくだと何を言っても頭から疑われるでしょうけど、その人たちならそんなことはありません。どうすればその人たちをつかまえられるか教えたげましょう。紙と鉛筆を貸してください。ホラ、これでいい……
『王室の絶品、ブリックスヴィル』
この紙きれをなくさないようにしまっておいてください。あとで裁判所があの二人のことを調べにかかったら、裁判所からブリックスヴィルの町に人をやるように言ってください。そして王室の絶品の見世物をやった連中をつかまえたから証人をよこせ、と申し入れさせたらいいんです。それこそあっというまに、その町から総出で人がくりだしてきますよ、メアリさん、みんな頭から湯気を立ててね」
これで、だいたいすっかり用意が整ったとおれは思った。そこでおれは言った。
「競売のほうはどんどんやらせておいても平気です。公告の期間が短かったので、競売からまる一日たつまでは、買い手も代金を払わなくていいんですから。そんで、あいつらは代金を受け取るまでは、この村から出て行こうとはしないでしょうが、ぼくらの手筈《てはず》どおりに行けば、競売などご破算になってしまって、やつらの手に代金が渡ることもありません。|黒んぼ《ニガー》たちだって同じことです。……あの売り渡しは無効なので、|黒んぼ《ニガー》たちはじきに戻ってくるんです。あいつらは黒んぼたちの代金さえまだ手に入れられないでいる。あいつらはもうどうにもなりませんよ、メアリさん」
「それでは」と彼女はいう。「あたし、これから急いで下で朝ごはんを食べてから、すぐロスロップさんの家に行くことにします」
「だめだめ、それじゃあだめですよ、メアリ・ジェインさん、とんでもない。朝ごはんの前に出かけてください」
「どうして?」
「そもそも、よそに行っててくれとぼくがお頼いしたのは、どうしてだとお思いです、メアリさん?」
「それは考えてもみなかった……考えてもわかんないわ。どうしてでしたの?」
「それはね、あんたが図々《ずうずう》しくしらばっくれることのできるような人じゃないからです。あんたの顔を見れば、何でもちゃあんと書いてあるから、本など要《い》らないくらいですよ。大きな活字で印刷した本みたいなもんで、あんたの顔で読書ができようってくらいなもんです。これから下に行ってあの叔父さんたちに会って、お早うのキスをされて、平気でいられるとでも思ってるんですか?」
「わかったわ……もう言わないで! じゃあ朝ごはん前に行くことにするわ。喜んでそうします。それで、妹たちはあいつらといっしょに残しておくの?」
「ええ。でも心配しないでください。妹さんたちにはもうちょっと辛抱してもらわなくちゃいけません。きょうだいそろっていなくなったら、あいつらだって怪しむでしょうから。それからメアリ・ジェインさん、あいつらとも妹さんたちとも村のだれとも顔を合わせないでもらいたいんです。村のだれかに会って、やあ、叔父さんたち今朝はどうしていなさるかね、なんて聞かれたら、あんたの顔に何か出ちゃうかもしれませんからね。そんなことは困りますから、道草なさらずいらしてください。ほかの人たちにはぼくから話しといてあげます。スーザンさんにこう言いましょう……お姉さんの代わりに叔父さんたちにくれぐれもよろしく言ってください。そして、お姉さんはちょっと骨休めと気分転換に出かけて、それとも友だちをたずねに行ったでもいいですが、とにかく今夜か明朝早く帰って来ます。と伝えてください、と」
「お友だちをたずねに行ったはいいけど、あいつらにくれぐれもよろしくって言ってもらいたくなんかないわ」
「なるほど、じゃ、そいつはやめときます」とおれは言ったが、当人にはそう言っておくのがよいのだ。ちっとも害はない。こんなのはほんのちょっとした気づかいで、面倒なことは何もない。だがこんなちょっとしたことくらい浮世の人づきあいの角《かど》を取ってくれるものはないのだ。ああ言っておけばメアリ・ジェインは安心するし、だれが損をするわけでもない。それからおれは言った、「それからもうひとつ、お金の袋のことですが」
「あれなら、あいつらが持ってるわ。あれが向こうのものになったときのことを思うと、あたしって相当おめでたいなあって気がするわ」
「ところがね、そうじゃなくって、あいつらが持ってはいないんです」
「まあ、だれが持ってるの?」
「それがわかればいいんですけど。一時はぼくが持ってました。あいつらからかっぱらったんです。あんたに渡そうと思ってかっぱらったんです。それからある場所に隠したんですけど、もうそこにはないんじゃないかと思うんです。すみません、メアリ・ジェインさん。本当にすまないことをしちまいました。でもぼくとしてはできるだけのことをしたんです。嘘じゃありません。ところが、すんでのところで捕《つか》まりそうになって、行き当たりばったりにお金の袋を隠して逃げたんです。でも、隠した場所がよくなかったんです」
「ね、そんなにご自分を責めるのはおやめになって。そんなこと、ほんとにいけませんわ。あたし、困ります。ほかにしかたがなかったんですから、あなたの責任じゃありません。でもどこに隠したの?」
おれはメアリ・ジェインにあらためて悲しい思いをさせるのがいやだった。死んだ伯父さんがお金の袋をおなかにのっけてお棺の中に横になっているありさまを想像させるようなことを、どうしても言う気になれなかった。それでしばらくおれは黙っていたが……やがて言った。
「もしかまわなければ、メアリ・ジェインさん、隠し場所をいま口にしたくないんです。でも、紙きれに書いておきますから、ロスロップさんちに行く途中で、よかったら読んでください。それでいいですか?」
「ええ、いいですとも」
そこでおれはこう書いた。「お棺の中に入れました。夜中にお棺のそばで泣いていらしたとき、お金はお棺の中でした。あのときぼくはドアのかげにかくれていて、メアリ・ジェインさんが気の毒でたまりませんでした」
わが家の屋根の下で、悪者どもがとぐろを巻いて自分を馬鹿にしたり、お金を奪ったりしているとも知らず、あの晩、メアリ・ジェインがひとりぼっちで泣いていたときのことを思うと、おれは涙がこぼれそうになった。それで紙きれをたたんで渡そうとして、見ると相手の目もうるんでいた。メアリ・ジェインはおれの手をギュッとにぎると、言った。
「では、さようなら。あたしは、すっかりあなたのおっしゃったとおりにします。これっきり二度とお目にかかれなくっても、あなたのことはいつまでも忘れません。何度も何度もあなたのことを思いだして、あなたのためにお祈りもします!」……そう言って出かけて行った。
おれのためにお祈りをするって! おれがどんな人間か知ったら、この人ももっと自分に似合ったことをするだろうに。いや、違う、知った上でも、やっぱりお祈りをしてくれるにちがいない。……そういう人なんだ、この人は。思い立ったがさいご、ユダのためにだってお祈りをしようという心意気の人なんだ。……やるとなれば一歩だってひく人じゃない。人は何と言うか知らんが、おれしてはこんなに胆《きも》っ玉のすわった娘さんにはお目にかかったことがない。おれとしては、この人こそ全身これ胆っ玉だと言いたい。そこまで言えばおれがおべっかを言ってるみたいだが、決しておべっかじゃない。それからまた顔のきれいなことといったら、それに心のやさしいことといったら、この人にかなう者はひとりもいない。
この朝、戸口のところで別れて以来、おれはメアリ・ジェインに会っていない。そう、このときから一度も会っていない。だが、この人のことなら、そしておれのためにお祈りをするって言ってくれたことなら、おれは何百万べん思いだしたかわからない。
そして、おれのほうからこの人のために、お祈りをすることがちょっとでも役に立つと思えさえしたら、おれは何が何でもそうしたにちがいないんだ。
メアリ・ジェインが出て行くのをだれも見なかったところをみると、裏口からさっさと出て行ったものらしい。おれはスーザンと兎唇娘に会うと、言った。
「川向こうの家で、あんたたちがときどき遊びに行くのは何て人の家でしたっけ?」
二人は、「いろいろあるけど。でもたいていプロクターさんの家よ」
「それそれ。あやうく忘れちまうところだった。メアリ・ジェインさんは急にその家にお出かけになりましたよ。そうあんたたちに言ってくれって頼まれたんです。何でもあの家で病人が出たそうで」
「だれが病気?」
「それがよくわからないと申しますか、とにかくちょっと忘れましたが、ええと、たしか……」
「ねえ、まさかハナーさんじゃないわね?」
「お気の毒ですが、たしか、ハナーさんとか」
「まあ!……つい先週会ったときは、あんなにピンピンしてたのに。ひどく悪いの?」
「悪いの悪くないのって。家の人たちは寝ないで看護してるんだってお姉さんが言ってましたよ。もう長いことはないだろうって」
「そんなことってあるかしら! いったい、どうしたの?」
おれは適当な病気を急には思いつかなかったので、
「お多福《たふく》かぜです」
「お多福かぜ? 馬鹿おっしゃい。お多福かぜにかかった人をつきっきりで看護したりするものですか」
「しないと思いますか? ところがするんですよ、このお多福かぜの場合は。ふつうのとは違うんです。新型だってお姉さんが言ってました」
「新型って、どうして?」
「ほかの病気がまじっているからです」
「ほかのって、どんな?」
「ええと、≪はしか≫に、百日ぜきに、丹毒《たんどく》に、肺病に、黄疸《おうだん》に、脳膜炎に、あとはよく知りません」
「まあ大変だ。それをお多福かぜって言うの?」
「メアリ・ジェインさんはそう言ってます」
「いったいぜんたい、どうしてそれがお多福かぜ?」
「それはお多福かぜであるからです。お多福かぜからはじまったんですから」
「だっておかしいじゃないの。だれかある人が切株で足の指をいためて、毒をのんで、井戸におっこって、首の骨を折って、脳みそをぶちまけちゃったとするわよ。それで人が来て、どうして死んだんですと聞いたとき、だれかすこし足りない人が『なに、足の指をいためたんです』と言ったとすれば、おかしくない? おかしいわよ。だからあんたの言うこともおかしいわ。その病気、かかりやすいの?」
「かかりやすいかですって? 何てことを聞くんだろう、この人は。あのね、熊手《くまで》ってかかりやすいですか? 暗闇でぶっつかったとして? 一本の爪《つめ》にかからずにすんだとしても、必ずほかの爪にひっかかっちゃうでしょう? それでその爪をはずしたくても熊手ぜんたいを引きずってこなきゃ、どうにもなりませんね? いいですか、この新型のお多福かぜは言うなれば熊手みたいなものなんです。それもかかりの悪い熊手なんかじゃないですよ。かかったらもうおしまいなんですから」
「へえ。こわいのね」と兎唇娘。「じゃあ、あたし、これからハーヴィー叔父さんのところに行って……」
「あ、そうですね。ぼくだったらそうするな。もちろん、そうしますね。ええ、さっさと言いに行きますとも」
「さっさと? どうして?」
「まあ、ちょっと考えてみてください。おわかりいただけるかもしれない。叔父さんたちは、なるべく早くイギリスに帰らなきゃならない。ね? だけど叔父さんたちは自分たちだけ先に帰って、あんたたちだけではるばる旅をさせるという、そういうひどいことをするでしょうか? いやいや、待っててくれるにきまってます。そこまでは大変けっこうです。ところで、ハーヴィー叔父さんは牧師さんですね? そうである、よろしい。それで牧師ともあろう者が、汽船の係りの人をだまくらかそうとするでしょうか? お姉さんを船に乗っけるために、船の係り員をだまくらかそうとするでしょうかね? そんなことはしないにきまってます。ではハーヴィー叔父さんはどうするか。
『残念なことではあるが、わたしの教会のことは、なるようにならせておかずばなるまい。わたしの姪は恐るべき多数統一型《プルリブス・ウヌム》お多福かぜの危険にさらされておる。で、万一感染しておれば三か月後に発病するちゅうことじゃから、その間この地に踏みとどまるのがわたしの義務じゃ』と、叔父さんはきっとこう言いますよ。でも、いいんです。あんたたちがどうしても言いつけに行きたいというのなら……」
「何ですって、イギリスに行ってみんなで楽しくしていられるはずのときに、お姉さんが病気にかかったかどうかわかるまでこの村でぼんやりしていろって言うの? あんたったら、まるで馬鹿みたいなことを」
「じゃあ、せめてご近所の人たちにでも話しておきますか?」
「なんてことを言いだすんだろう、この人は。あんたみたいに生まれつき間抜けな人もめずらしいわね。うっかり近所の人に話したりしたら、あとでやって来て、しゃべるだろうくらいのことがわからないの? こうなったら、だれにも何にも言わずにおくよりしかたがないのよ」
「なるほど、そうかもしれないな。……いや、おっしゃるとおりです」
「でも、お姉さんがよそに出かけたってことを、ハーヴィー叔父さんにちょっと言っといたほうがいいわね。心配するといけないから」
「ごもっともです。メアリ・ジェインさんもそうしてくれっておっしゃいました。『あのね、妹たちにこう言ってくださいな、ハーヴィー叔父さんとウィリアム叔父さんにあたしからってキスしてあげて、くれぐれもよろしく言ってね』って。それから叔父さんたちにこう伝えるようにって、『あたしは川向こうの……』ええと、亡くなったピーター叔父さんが一目《いちもく》おいてらした川向こうのお金持ちは何て言いましたっけ? そら、あの……」
「アプソープさんのことでしょ、きっと?」
「そうです。そうです。そういう名前はやっかいですね。どういうわけか、せっかく覚えてもじきに忘れちゃう。それでお姉さんがおっしゃるには、あたしは川向こうのアプソープさんにきっと競売に来て家を買ってくださいなって頼みに行ったって、そう叔父さんたちに伝えてくれですって。というのもね、ピーター叔父さんがだれよりもこのアプソープさんに家を買ってもらいたいと思ってらしたそうで。それでお姉さんは、じゃあ参りましょうと先方が言うまでがんばるそうで、それがすんであまり疲れていないようなら今日のうちに帰るし、そうでなくても明朝は帰るんですって。そして、プロクターさんの一件は黙ってなさい、アプソープさんをたずねに行ったとだけ言いなさい、ってお姉さんはおっしゃってましたよ。……アプソープさんちに行ったって話は嘘でも何でもないんです。お姉さんは本当に家を買ってくれって頼みにいらしたんで、それは本人の口から聞いたんだから確かです」
「うん、わかった」とスーザンとジョアンナは、叔父さんたちを待ち伏せして、メアリ・ジェインに代わってキスをしてあげて、くれぐれもよろしくと言って、ことづてを言うために出て行った。
さあこれで何もかも大丈夫。妹たちはイギリスに行きたい一心で何もしゃべるまい。そして王様と公爵は、メアリ・ジェインがお医者のロビンソン先生にすぐつかまるところにいるよりも、よそで競売に協力してくれているほうがありがたいと思うだろう。おれはうまくやったぞと思って、とても気分がよかった。……トム・ソーヤーだってこれ以上にはできまい。もちろんトムならやることがもっと本式だったろうが、おれはそういう教育を受けてないから、そんな芸当がおいそれとはできない。
さて、広場では競売が夕方近くまでながながと続いて、王様は実にもう信心深そうな顔をして、ずっと競《せ》り売りの人のそばについていて、ときどき口を出しては、ちょっとした聖書の文句だとか何かしら殊勝らしいことを言っていた。公爵は公爵でみんなの同情をあつめようとしてせいいっぱいアワワ、アワワとやりながら、しきりに人目につくよう歩きまわっていた。
だがそのうちに、競売もやっと終わりに近づいた。もう何もかも売れてしまって、残るのはただ墓地にある猫の額ほどの土地だけになってしまった。だが連中は、それさえも売りとばそうとした。……おれはこの王様のように何もかものみこもうとするキリン野郎を見たことがない。ところが、そうこうしているうちに、川では汽船がついて、二分としないうちにたくさんの人が叫んだり、わめいたり、笑ったり、騒いだりしてやって来たと思うと、こうどなり出した。
「さあさあ、対抗馬のおでましだよ! ピーターお爺さんの跡とりが二た組とござい! みなの衆、金を払ってどちらでも好きなほうをお取んなさい!」
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二十九 競争相手
みんなは、とても様子のいい老紳士と、それからこれも様子のいい、右手を首から吊った青年紳士を連れてきていた。何とまあみんなが叫んだり笑ったりして、いつまでも騒いだことだろう。だが、おれはおもしろがってなんかいられなかった。またさすがの王様と公爵もこれには弱っておもしろがるどころじゃないだろう、と思った。青くなっているだろう、と思った。
ところがどうして、顔色ひとつ変えていない。公爵は何か騒ぎが持ちあがっているとは感づきもしないふりをして、さも楽しそうに、また満足げに、ポットから牛乳でも注ぐみたいな声でアワワ、アワワとやりながら歩きまわっている。そして王様はといえば、世の中にかような「たち」の悪いペテン師どもがいるかと思うと、わたしは心臓に腹痛をおぼえますとでもいうような沈痛なおももちで、あらたに登場した二人連れをただまじまじと見つめていた。
いやはや、お芝居が堂に入っていた。そして村の主だった人たちが幾人も、わしらはあんたの味方ですぞといわんばかりに、王様のまわりに寄ってきた。
着いたばかりの老紳士は死ぬほどたまげているみたいだった。そしてやがて話しだしたのをきくと、これは本当にイギリス人みたいな発音だとおれにもじきにわかった。王様の英語みたいではなかった。王様は王様でけっこう上手に真似てはいたのだが。おれはこの老紳士の言ったことをそのとおりになんか言えないし、うまく真似もできないが、老紳士はみんなに向かって大体こういうぐあいに話をした。
「いや、これは思いもかけぬことで、私も驚いております。また卒直に申しまして、この事態を迎えてこれを解決する用意が私にはできておりません。それと申しますのも私ら兄弟が道中で災難に会いましたもので。弟は腕を折るし、私どもの荷物は川上の町で昨夜、夜分に誤って船からおろされるという始末。私はピーター・ウィルクスの弟でハーヴィーと申す者です。こちらは弟のウィリアムで耳は聞こえず、口もきけないのですが、今は片手しか自由がきかず、手真似も思うにまかせません。私どもはみずから名乗っておるとおりの者です。一両日のうちに荷物が着けば、その証しも立てられます。だがそのときまでは、これ以上何も申さずに宿で待つことにしたいと思います」
そう言って老紳士と新顔の青年が立ち去りかけると、王様は笑いだして、こう言った。
「手に怪我をしたと? そうじゃろう、そうじゃろうとも! 聾唖者《ろうあしゃ》に化けたが手真似の心得はないという人間には好都合な話じゃ。そして、荷物をなくしたと? それはまたよかった……このさい、何とうまい思いつきじゃ」
そう言ってもう一度笑うと、みんなも笑った。だが三、四人、いやことによると五、六人、笑わない者がいた。その一人は例のお医者で、ほかの一人はじゅうたん地で作った古風な旅行鞄を持った、するどい感じの紳士だった。この人は汽船からおりてきたばかりで、低い声でお医者と話しながら、二人でうなずき合っては、ときどき王様のほうに目を走らせていた……これはルイスヴィルに出かけていた弁護士のレヴィ・ベルだった。それからもう一人は、がっしりした無骨《ぶこつ》そうな大男で、老紳士の話をすっかり聞いて、こんどは王様の言うことに耳を傾けていた。そして王様が言いたいことを言ってしまうと、この大男は言いだした。
「おい、おめえさんがハーヴィー・ウィルクスなら、おめえさん、いつこの村に来なすった?」
「葬式の前の日じゃよ」
「何時ごろ?」
「夕方じゃ。日が落ちる一、二時間も前かのう」
「どうやって?」
「シンシナチからスーザン・パウエル号に乗ってな」
「じゃ、その日の朝がた、川上の岬に行ったのはどういうわけだ? カヌーなんかに乗って?」
「朝がた、岬へなど行きはせんが」
「嘘をつきやがれ」
何人かが大男にとびついて、このお年よりの牧師さんにそういう口をきかないでくれと頼んだ。
「何が牧師でえ。こいつはペテン師の嘘つき野郎だ。あの朝たしかにこいつは岬にいた。おれがあっちのほうに住んでることは知ってるだろう? おれは岬んとこにいたんだ。そしてこの野郎もいたんだ。ちゃあんと見たんだから。この野郎はティム・コリンズとだれか男の子といっしょにカヌーに乗ってやって来た」
するとお医者が言った。
「その男の子にまた会えば見わけがつくかね、ハインズ?」
「つくと思うが、どうですかねえ。おや、あそこにいやがるじゃねえか、ホレ。見わけがつくとも、造作《ぞうさ》もねえ」
大男はおれのほうを指さしていた。するとお医者が言った。
「隣人諸君! 新しく現われた二人連れがペテン師なのかどうかは、わたしにもわからん。しかしここにいる二人連れはペテン師だ。このわたしの気が違いでもしていないかぎり、たしかにそうなのだ。それで、このふたりに逃げられないよう気をつけながら、くわしく調べるのがわれわれの義務だと思う。さればハインズ君、またそのほかの諸君、われわれについて来たまえ。われわれはこれよりこの二人を宿屋につれて行って、今日来た二人と対決をさせる。そうすれば、必ず何かが判明すると思う」
その提案を野次馬たちは喜んだ。王様に味方する連中はそうでもなかったけれども。
そこでみんなで出かけて行った。日が暮れようとするころだった。お医者はおれと手をつないで歩いて、なかなか親切にしてくれたが、決して手は離さなかった。おれたちはみんなホテルの広間に入って、ろうそくをつけると、新しく来た二人連れを呼び入れた。まずお医者が言った。
「この二人の者にやたらに辛《つら》く当たるつもりはないが、わたしの見るところ、この二人はペテン師で、まだほかにもわれわれのぜんぜん知らない共犯者がいるのかもしれません。もしそうだとすると、その共犯者がピーター爺さんの残した金を持って逃げはしないだろうか? そのおそれは十分にあると思う。それで、もしこの二人がペテン師でないのならば、あの金をここに取り寄せさせたうえ、身の証《あか》しが立つまで、われわれにあずけることに異存はあるまいと思うのだが、……どうでしょうな?」
みんなそれに賛成した。これではあの二人ものっけから厄介な立場に立たされたぞとおれは思った。だが王様はぬけぬけと悲しそうな顔をして、こう言った。
「みなさん。あの金があそこにありさえすれば、と残念ですじゃ。というのも、わたしとしては、この嘆かわしい一件の公平にして公然、かつ徹底的な調査のじゃまをするつもりは毛頭ありませんでな。さりながら、ああ、悲しいことに、あの金はあそこにはもうありませんのじゃ。なんなら人をやって探させてみなさるがよい」
「なら、どこにあるんだ?」
「されば、姪があずかってくれよとあの金をわたしに手渡したとき、わたしは自分のベッドのわらぶとんの中に隠しましたのじゃ。この村には二、三日しかいないので、銀行にあずけるのもどうかと思い、ベッドなら安心と思いましてな。それというのも、|黒んぼ《ニガー》たちに慣れない悲しさ、|黒んぼ《ニガー》もイギリスの召使い同様、正直者であろうと思いこんでおったもので。ところがその次の朝、わたしが下におりて行ったあと、|黒んぼ《ニガー》連中があの金を盗んだのですわい。わたしが連中を売りとばしたときにはまだ金がなくなったとは気づかなかったもので、連中はうまうまと金を持ち逃げしおった。その話は、わたしの召使いからも、みなさんお聞きくだされ」
お医者とほかの何人かが「阿呆な!」と言い、王様の話をそっくり信じた者は一人もいないようだった。だれかがおれに、|黒んぼ《ニガー》たちが盗むところを見たのかときいた。おれは見ませんと言い、でも、部屋からこそこそ出てきて大急ぎで立ち去るのを見たのです、ぼくは怪しいとも何とも思わず、ただ、奴《やっこ》さんたちはうっかりぼくの主人を起こしそうになったもので、触《さわ》らぬ神に崇《たた》りなしと逃げだすところだなと思ったのです、とこたえた。
おれが聞かれたのはそれだけだった。するとお医者がぐるっとこっちを向いて言った。
「君もイギリス人?」ときいた。
おれがはいと答えると、お医者とそのほか何人かが笑って、「馬鹿な!」と言った。
さて、それから全体の取り調べに入って、あれやこれやと何時間も何時間もせんさくし、だれも晩めしにしようとも言わず、晩めしのことを気にもしてないみたいだった。そしてただもうせっせと取り調べを続けたのだが、話がややこしくていっこうに埒《らち》があかない。みんなはまず王様に言いたいことを言わせ、それから老紳士にもそうさせた。老紳士の言い分が本当で、王様のは嘘っぱちだということは、だれにだって見抜けたはずなんだが、たくさんの人が先入観にとらわれて、盲目になっていたから馬鹿なものだ。
そのうち今度はおれに知ってることを話せということになった。すると王様が変な目つきでおれに流し目をくれるので、ははあこれは変なことを言うなよということだなとわかった。そこでおれはシェフィールドの町のことやら、そこでの暮らしのこと、イギリスのウィルクス一家のことなどを話しはじめたのだが、いくらもしゃべらないうちにお医者が笑いだし、弁護士のレヴィ・ベルも笑いだして、言った。
「いいから、君、もうすわんなさい。わたしだったらそんな無理はせん。君は嘘をつくのが不慣《ふな》れと見える。すらすらとは出てこないみたいじゃないか。練習が足らんのだな。君のはどうもたどたどしい」
そうほめられても、おれはちっともうれしくなかったが、もういいと言われたのは何にしてもありがたかった。お医者は何か話しだそうとして、わきを向いてこう言いかけた。
「もし初めに君が町にいたとすればだな、レヴィ、ベル……」
王様がわりこんできて、手を出して言った。
「やあやあ、こちらがわが亡き兄がよく手紙でお噂しておりましたご親友で」
弁護士は、王様と握手をして、にこにこと愉快そうにしていた。それから二人はしばらくおしゃべりをしてから片隅に行って何やら小声で話し合っていたが、やがて弁護士が大きな声で言った。
「そうすれば大丈夫です。わたしがお指図をうけたまわって、弟さんの指図書も作っていっしょに送付すれば、これなら間違いはないってことになりますから」
それからペンと紙を持ってこさせると、王様は机に向かって頭をひねったり、舌を噛んだりして、精神を集中して、何やらサラサラと書いてペンを公爵に渡した……このときはじめて公爵は心配そうな顔になったが、それでもペンを受け取ると何か書いた。すると弁護士は老紳士のほうを向いて言った。
「どうか一筆書いてサインなすってください。弟さんにもお願いします」
そこで老紳士は何やら書いたのだが、見るとそれがまるで読めないのだ。弁護士はひどく面喰《めんくら》らったような顔をして、言った。
「さあ、わからなくなった」……そして、ポケットから古い手紙をたくさん取り出した。そして手紙の字を調べ、つぎに王様の字を調べては、また手紙の字を調べるなどしていたが、やがて、
「この古い手紙はハーヴィー・ウィルクスさんから来たものです。そしてこれがここにいる二人の者の筆跡ですが、この二人の者が手紙を書いた本人じゃないってことはだれが見てもわかります」(王様と公爵は弁護士のわなにかかってしまったことに気づいて、一杯喰わされたという阿呆づらをした)
「それからここにあるのが、こちらのご老人の筆跡ですが、この人が手紙を書いたのでもないってことも一目瞭然《いちもくりょうぜん》です。実際、この人が走り書きなすったことは字にも何にもなっていませんでな。ところでこちらにある手紙が……」
すると新しい老紳士が言った。「失礼だが、それはこういうわけです。私の字はそこにいる弟のほかのだれにも読めんのですわ、だから弟がいつも清書をしてくれるのです。お持ちの手紙も弟の筆跡で、私のではないのです」
「これはどうも」と弁護士。「そういうことがあろうとは。だがわたしは、ウィリアムさんからの手紙も持っています。だから弟さんに一筆書いていただければ、くらべ……」
「いや、弟は左手で字は書けません」と老紳士。「右手がつかえさえすれば、その手紙もわたしの手紙も両方とも弟が書いたということがすぐわかるのだが。両方の手紙をごらんいただきたい……同一人の筆跡です」
弁護士は両方を見くらべて、
「なるほど同じようですな……かりに同じではないとしても、前に気づいたよりはずっと強い類似点がある。はて、さて、わたしは解決への道をまっすぐ進んでいるつもりだったのだが、これでまた一部分はわからなくなった。しかしいずれにしても、ひとつのことだけは証明されましたな。このふたりがどっちもウィルクス兄弟じゃないってことが」と言って、王様と公爵を顎《あご》でさした。
それからどうなったと思う? この期《ご》に及んでも、王様の馬鹿は強情を張って降参しないのだ! 実際、降参なんかしようともしないのだ。
王様はその裁きは不当でござると言いだした。
弟のウィリアムは世にも度し難《がた》いいたずら好きで、本気で字を書こうともしなかったのです……ペンをにぎったとたんに、例のいたずらをはじめるぞとわたしにはわかっておりましたじゃ。
そういう調子で王様はむきになってしゃべりにしゃべりまくっているうちに、自分で自分の言うことが本当のように思えてきたようだった。……だがそのうちに新来の老紳士が口をはさんで言った。
「ちょっと思いついたことがあります。みなさんの中で、どなたか、兄の……いや、故ピーター・ウィルクス氏の納棺を手伝われた方がおいでかな?」
「へい」とだれかが答えた、「あっしとアブ・ターナーが手伝いましたよ。二人ともここにいますがね」
すると老紳士は王様のほうを向いて言った。
「いかがじゃな、そこのお人、故人が胸にどんないれずみをしていたか、おっしゃることがおできかな?」
さあたいへんだ。こんな不意打ちをくらっては、さすがの王様も大急ぎで気をとりなおさないと、川の流れにえぐられた崖《がけ》みたいにペシャンコにつぶれてしまうにちがいない。そして実際、こういう難題をいきなり吹っかけてきたというのも、これならどんなしたたか者でもたいがいペシャンコになるだろうという目算《もくさん》でやったことなのだ……。だって、ピーター爺さんがどんないれずみをしてたかってことが王様にわかるはずがないじゃないか。
王様はすこし青くなった。青くならずにいられようか。部屋じゅうシーンとなって、みんなすこし身をのりだして王様をジーッと見ている。おれは心の中で、こうなったら王様も降参するだろう、もうどうしようもない、と思った。ところがどうだろう、ちょっと考えられないようなことだが、降参しないのだ。おれの考えでは、王様はひきのばし戦術に出て、みんなが根《こん》負けしてだんだん帰りだしたら、公爵と二人で囲みをのがれてずらかるつもりだったのだろう。
どっちにしても王様はしばらくじっとすわっていたが、やがてにこにこしてこう言いだした。
「フーム、これはなかなかの難題を持ちかけられたものじゃな! いや、よろしい、兄の胸にどんないれずみがあったか申しあげよう。それはな、ほんの小さな、ほそくて青い矢がひとつ彫ってあるのじゃ。よくよく見ないと見えないような代物《しろもの》だが。それで、お前さんは何と言いたいのじゃ、え?」
実際、この嘘つき爺いほど徹底して面《つら》の皮の厚いやつをおれは見たことがない。新来の老紳士は、さあ今度こそとっちめたぞとでもいうように目を輝かせて、アブ・ターナーとその相棒のほうに勢いよくふり向くと、言った。
「さあ、あの人の返事はお聞きのとおりだ。ピーター・ウィルクスの胸にそういうほりものがありましたかな?」
すると二人は言った。「そんなものは見なかったね」
「よろしい!」と新来の老紳士。「ではあなたがたがあの人の胸に見たのがどんなものだったのか、私が申しあげよう。それはまず小さなうすいPの字、次にあの人が若いころまで使っていた頭文字のBの字、それからWの字で、字と字のあいだには棒が引いてある。つまりじゃな……」と言って紙きれに、P…B…Wと書いた。「どうです、あなたがたの見たのはこんなほりものでしたろう?」
するとまた二人は……「いんや違う。ほりものなど何にも見なかったよ」
さあ、こうなってはみんな逆上したようになって、どなりだした。
「どいつもこいつも、ペテン師だ! 川にたたきこめ! 土左衛門《どざえもん》にしちゃえ! 鉄棒に乗せてさらしものにしろ!」
そして口々にわめき立てるので、わあわあ、がやがやのものすごい騒ぎになった。ところが弁護士はテーブルにとび乗ったと思うと、声をはりあげて言った。
「諸君……しょくん! ひとこと聞いてくれ! たったひとことだ、聞いてもらいたい! まだひとつ、やることが残っている……これからみんなで死体を掘りだして、見てやろうではないか!」
これは受けた。
「そうだ、そうだ!」とみんな叫んで、すぐにもくりだそうとしたが、弁護士とお医者は大声で、
「待った、待った! この四人の者と子供を逃がさないようにして、いっしょに連れて行こう!」
「よし、そうしよう」とみんなは叫んだ。「もしいれずみがなかったら、こいつらはみんなリンチだ!」
おれは、正直のところ、すっかりおびえてしまった。だが逃げだすことなどできっこない。みんなはおれたちをしっかりつかまえて、そのままどんどん墓場のほうへのして行った。墓場は一マイル半川下の方だった。そしてみんなの騒ぎようがひどく、時間もまだ晩の九時だったから、村じゅうの人がおれたちについて来た。おれたちの家の前を通りすぎるとき、おれはメアリ・ジェインをよそに出すのじゃなかったと思った。もしいまメアリ・ジェインがいて、そっと目くばせすることができれば、とび出しておれを助けてくれて、山師どもの化《ば》けの皮をひんむいてくれただろうに。
さて、おれたちの一行は、もう山猫みたいにどなり散らしながら、川沿いの道をおしかけて行った。しかもいよいよ気味がわるいことに、空が真暗になって、稲妻が瞬《またた》いたり閃《ひらめ》いたりしはじめ、風で木の葉がざわめきはじめた。こういう厄介で剣呑《けんのん》な目にあうのは、はじめてだった。おれはなんだか気が遠くなるみたいだった。何にもかもえらく見込みちがいになってしまった。計画では、おれは思う存分のんびりとかまえて、おもしろそうなことはすっかり見物し、メアリ・ジェインについていてもらって、いざとなれば助けてもらって逃げちまおうという寸法だったのだ。
それにひきかえ、現実は、いれずみがないとでもいうことになると、すぐにでも殺されてしまうのだ。もしいれずみが見つからなかったら……
それは、考えるのも恐ろしいことだったが、なぜかおれはそのことしか考えられなかった。
あたりはますます暗くなって、すり抜けて姿をくらますにはもってこいだったが、あの大男のハインズのやつに手くびをつかまれていたので、逃げだすなんてことは巨人ゴリアテ〔のちにイスラエルの王となった少年ダビデに石投げの石で殺されたペリシテ族の巨人〕の手からすり抜けるのと同じくらいできない相談だった。ハインズはひどく気が立っていて、どんどんおれを引っぱって行くので、おれは走らないとついて行けなかった。墓場に着くと、みんなわれ先きに入りこんで、津波のようにおし寄せて行った。
ピーター爺さんの墓に着いてみると、シャベルは必要な数の百倍も持ってきているが、カンテラを持ってくることを思いついた者が一人もいなかったことがわかった。それでもみんなかまわずに稲光りをたよりにさっそく掘りかかり、半マイル離れたとこにある一番近い家にカンテラを借りに人をやった。
それからみんなは、せっせと掘りに掘った。あたりはすごく暗くなって雨が降りだし、風がビュービュー吹きまくり、稲妻はいよいよ烈しく光るし、雷《かみなり》もバリバリ鳴った。しかしみんなそんなことはちっとも気にせず、墓掘りに夢中になっていた。一瞬稲光りがひらめくと、集まった人たちの顔も姿もすっかり浮きあがり、墓土の塊《かたま》りをさかんにしゃくい出しているのも見えたが、次の瞬間には暗闇がいっさいをぬぐい消して、全然何も見えなくなった。
ついに連中はお棺を掘りだして蓋《ふた》のネジ釘をはずしにかかった。みんなどっと集まってきて、割りこんでひと目見んものと押し合いへし合いの大騒ぎとなり、あんなひどい騒ぎは、ちょっと見ることができないほどだった。そして、それが暗簡の中でのことだから大変だった。
ハインズがおれの手を恐ろしく引っぱるもので、おれは手が抜けそうだったが、ハインズのやつはひどくのぼせたようにハアハア言っていたから、おれがいることなどきれいに忘れていたんじゃないかと思う。
だしぬけに稲妻が走って、白い閃光《せんこう》が奔流《ほんりゅう》のようにあたりいちめんにみなぎった。
するとだれかが叫んだ。
「こりゃどうだ! 胸に金貨の袋をのっけてるぞ!」
ハインズのやつは、ほかの野次馬並みに「ウォーッ」とどなったはずみにおれの手を放すと、ひと目見ようと人垣に突っこんで行った。おれはまっくらやみの中を街道を目がけて夢中で逃げ出したが、そのかっこうといったら、なかった。川沿いの道はがらんとしていて、おれは宙を飛ぶように突っ走った。実際、あたりには人っ子ひとりいなくて、あるものはただくろぐろとした夜の闇、ときどきひらめく稲妻、ザーッと降る雨の音、なぐりつけるような強い風、そして引き裂くような雷のとどろきだった。いや走ったの走らないの、おれは一目散《いちもくさん》にすっ飛んで行った。
町に来てみると嵐のためにそとに出ている者なんか一人もいない。そこでおれは裏通りを探したりしないでまっすぐに表通りを走って行った。おれたちの家に近づくと、このへんだなと見当をつけ、瞳《ひとみ》をこらした。だが家には明りは一つもついていなくて、真暗だった。……なぜだか知らないが、おれは悲しくなってがっかりした。ところがいよいよその家を通り過ぎようとすると、パッと明りがメアリ・ジェインの窓についたではないか!
とたんにおれは心臓が高鳴って破裂しそうになった。だが次の瞬間には、その家も何もかも背後の闇に消えた。あの家がおれの前に現われることは二度とないのだ。あの人はおれの知ってる中じゃ一番すばらしい、一番胆っ玉のすわった娘さんだった。
ここなら中州《なかす》に渡れるぞと思えるくらい上手《かみて》まで行ってから、おれは拝借するボートを急いで探しにかかった。そして稲妻の光で鎖のかけてないやつが目に入ると、すぐさまおれはそいつに取りついて、川に押しだした。そいつはカヌーで、ただ一本のロープでつないであるだけだった。中州は川の真中へんにあって、岸から恐ろしく遠く離れていたが、おれはぐずつかずにせっせと漕いだ。そしてやっと筏《いかだ》に着いたときには、おれはもうくたくたで、もし、そんなゆとりでもあるならば、そのままひっくり返ってひと息入れたいところだった。だがそんなことはしなかった。筏にとび乗ると、おれは呼んだ。
「出てこい、ジム。筏を流せ! ああ、ありがたい、やつらを厄介払いにしてやったぞ!」
ジムはすぐに出てきて、大喜びで両手をひろげてやって来たが、稲光りを浴びたその姿をひと目見るなり、おれは心臓がのどのところまで跳びあがって、思わず後じさりしたとたんに川に落ちた。ジムがリヤ王と土左衛門のアラビヤ人をひとりで兼《か》ねていたことをすっかり忘れていたもので、本当におれは胆がつぶれて、目の玉がとびでる思いをした。
だがジムはすぐおれを引きあげてくれて、おれを抱いたり、祝福したりしようとした。おれは帰ってきたし、しかも王様と公爵を厄介払いにしたと聞いて、うれしくてたまらなかったのた。だがおれは言った。
「そんな場合じゃない! そんなことはあとでゆっくり、朝飯のときにゆっくり! 綱を切れ! 筏を流せ!」
そこで二秒とたたないうちに、おれたちは中州を離れて流れに乗った。また自由の身になって、この大きな川の上におれたちだけで、だれもちょっかいを出す者がないというのは本当にすばらしいことだと思った。おれは踊りまわらずにはいられず、とびあがって空中で二度ばかり踵《かかと》を打ち合わせた。そうしないではいられなかった。だが三度目を打ち合わせたとき、おれは聞きおぼえのある音がするのに気がついて、息を殺し耳をすまして、しばらく待った。するとやっぱりそうだった……つぎに稲妻が川の面にひらめいたときに見ると、やつらが来るのだ……やっきになってオールを漕《こ》いで、猛烈な勢いで小舟を飛ばして! 王様と公爵だった。
おれはクタクタと筏の上にすわりこんで、観念した。泣かずにいるのがやっとだった。
[#改ページ]
三十 王様ハックに食ってかかる
二人は筏《いかだ》にあがってきた。王様はおれにとびかかって、胸ぐらを取ってゆさぶりながら、言った。
「てめえは、よくもおれたちを撒《ま》こうとしやがって、生意気な小僧めが! おれたちとつき合うのが厭《いや》になったとでもいうのか、やい!」
おれは、「そんな、陛下、ちがいます、どうかお手やわらかに、陛下!」
「じゃあどうしようって了見《りょうけん》だったんでえ? 早く言わねえと、腹わたをゆさぶり出しちまうぞ!」
「正直に言いますから、陛下、何もかもありのままに言いますから! おれの番人はおれにとても親切にしてくれて、わしにもお前くれえの男の子があったが去年なくしちまった、と何べんも言うんです。そして、お前みてえな子供が、こんな剣呑《けんのん》な目にあうなんて、かわいそうで見ちゃいられねえとも言いました。そんで金貨が見つかって、みんなたまげてお棺のほうにおしかけて行ったすきに、おれを放してくれて、小声で、『今のうちに逃げな、ぐずぐずしてると縛り首にされちまうぞ!』と言ったので、おれは逃げました。
だって、残っていてもろくなことはないみたいだったんです。おれにできることは何もなかったし、せっかく逃げられるんだったら、なにも縛り首なんかになることはないと思ったんです。それで走りづめに走って、カヌーを見つけました。筏《いかだ》にもどるとジムに、急げ、急がないとこれからだってつかまって縛り首になっちゃう、と言いました。それから、陛下と公爵閣下は今ごろはもう命がないかもしれないってジムに話して、おれは悲しくてたまらなかったんです。ジムも悲しくてたまらなかったんです。それで陛下たちが来るのを見て大喜びしてたんです。本当なんです、ジムにきけばわかります」
ジムはそのとおりですだと言ったが、王様は、うるせえ、と黙らせると、
「こいつ、もっともらしいことをつべこべと!」と言って、またおれをゆさぶりあげると、土左衛門にしてくれる、と言った。だが公爵は、
「おい、放してやれよ、馬鹿。おめえがハックなら同じことをしたろうが。おめえは自分が自由になったとき、ハックを探しまわりでもしたかい? そんなことをするのを見たおぼえはねえぞ」
そこで王様はおれを放してあの町を呪《のろ》い、町のみんなを罵《ののし》りだした。しかし公爵は、
「呪うんだったらせいぜいわが身を呪うがいいぜ。呪われる資格が一番あるのはおめえだからな。おめえのやったことで気のきいたことったら、はじめから何ひとつありゃしねえ。青い矢のいれずみをでっちあげて、ずうずうしく≪しら≫を切った一件を別にすればだな。だがあの一件は上出来だったな。どうして立派なもんだった。……あれはたいそうな人助けになった。あれがなきゃ、イギリス人の荷物が着くまで、おれたちゃ豚箱にほうりこまれて……そしてそのあと……刑務所送りになったにちげえねえ。だがあのでっちあげから、みんなで墓場に行くことになって、こんどはぴかぴかのお宝さまがもっとたいそうな人助けをしてくれたってわけだ。だってそうじゃねえか、のぼせあがった阿呆どもがおれたちをおっぽりだして、お宝さまをひと目拝もうと押し寄せて行かなかったとしてみねえ、今晩はおれたちは首まきをして、目をつぶっていたはずだぜ……すり切れたりしねえこと請け合いの、必要以上に丈夫な首まきをしてな」
二人は一分ばかり……考えこんで……黙りこくっていたが、王様が気抜けしたみたいに言いだした。
「そうか。それをおれたちは|黒んぼ《ニガー》が盗ったと思いこんでいたのか」
おれは尻がこそばゆくなった。
「そのとおり」と公爵はいやにゆっくりと、何かあてこするみたいに……「そう思いこんでいたんだ、おれたちはな」
三十秒ばかりたって、王様が、のろのろと言った。「とにかく、おれはてっきりそうだと思っていた」
公爵も、やっぱり同じ調子で言った。「どういたしまして。おれのほうこそ、てっきりそうだと思っていたんだ」
王様は癇《かん》にさわったように言った。「やいやい、ビルジウォーター、おめえ何のことを言ってるんだ?」
公爵もポンポンやり返した。「そのことなら、おれにもひとつうかがわせてもらおうじゃねえか……おめえこそ何のことを言ってるんだ?」
「チェッ! 埒《らち》もねえ」と王様は皮肉たっぷりに、「おれが知るけえ! だがおめえが知らねえって言うところをみると、さてはおめえは寝ぼけていて、それで何をやらかしてるのか、自分でもわからなかったんだな」
公爵は怒りだして言った。「やい、つまらねえむだ口をたたくな! おれを≪こけ≫にする気か? 棺の中に金を隠したのが、だれかってことを、おれさまがご存知だとは思わねえのか?」
「思うともよ! そりゃあご存知だろうさ……てめえでやりやがったんだからな!」
「嘘だっ!」と言って公爵は王様におどりかかった。
王様は、「放してくれ! 喉《のど》をしめるな!……全部、言ったことは取り消す!」
公爵は、こう言った。
「ようし、放してやるから、その前に泥を吐くんだ。おめえがあそこに隠して、いつかそのうちに、おれを撒《ま》いて、あとで舞いもどって掘りだして、ひとり占めにするつもりだったと白状しろ!」
「ちょっと待ってくれ、公爵。ひとつだけ聞きたいことがあるから、おめえがあそこに金を入れたのじゃなかったのか? 違うなら違うと言ってくれ。そうすりゃおれはおめえを信用するし、おれが言ったことは全部取り消すから」
「おれがやるものか、このやくざ爺い! おれじゃねえってことはおめえが知っているはずだ。さあ、白状しねえか!」
「じゃあ信用しよう。だがもうひとつだけ教えてくれ。……むきになって怒っちゃだめだぞ。おめえ、心の中で、あの金をちょろまかして隠そうという考えは起こさなかったか?」
公爵はしばらく黙りこくっていたが、やがて言った。
「まあ、そんな考えを起こしたとしても別にかまわん。とにかくおれは、実際には何もしなかったんだからな。だがおめえは心の中でそんな考えを起こしただけじゃなくて、実際にやりやがったんだ」
「おれがやったんだったら、おれは永久に生き恥をかいてもかまわねえ。ほんとうだ、公爵。おれにやる気がなかったたあ言わねえ。その気はあったんだから。ところがおれがやっつける前に、おめえに……いや、その、だれかに先を越されちまったんだ」
「嘘をつけ! やったのはおめえだ。さあ、やったと認めろ、さもねえと……」
王様はぜいぜい言いだしたが、やがてかすれた声で、
「まいった! 認めるよ!」
王様がそう言うのを聞いて、おれはすっかりうれしくなって、これまでよりもずっと気分が楽になった。公爵はやっと王様を放してやって、言った。
「もういっぺん違うとでも言ってみろ、土左衛門《どざえもん》にしてくれるから。こいつ、へたばりこんで、がきみてえにしゃくりあげてやがる、いい気味だ。ああいうことをやらかした上は、そんな目にあってちょうどいいんだ。おめえみてえに、何もかものみこみたがる駝鳥《だちょう》野郎は見たことがねえ……しかもおれはそんな奴とも知らず、実の親父みてえにずっと信用していたんだ。それにあの|黒んぼ《ニガー》たちがかわいそうに濡れ衣《ぎぬ》をきせられたとき、知っていながら、ひと言も口をきいてやらずに見殺しにしやがって、おめえ、よくも恥ずかしくならねえな。だがおれも、ああいうでたらめを信じちまうほど頓馬《とんま》だったかと思うと、馬鹿らしい気がする。それから、こん畜生、金貨の不足分を埋め合わせることにおめえがあんなに乗り気だったわけがやっとわかったぞ。……おれが絶品の見世物でもうけた金も何もかもくわえこんで、まとめてかっさらおうって魂胆《こんたん》だったんだな」
王様は、おずおずと、まだしゃくりあげながら、言った。「だって、公爵。不足分を埋めようと言いだしたのはおめえだったぜ。おれじゃねえ」
「うるせえ! おめえの言うことなどもう聞きたくない」と公爵はいう。「ああいうこをしてどんな得になったか、今になってわかったろう。あの家のやつらは、てめえらの金はすっかり取り返した上、おれたちの金まではした金を残して全部取っちまいやがったんだ。ええ、もう寝ちまえ! それから不足分がどうのこうのと二度とおれに不足を言うなよ!」
そこで、王様は小さくなってテントにもぐりこみ、憂《う》さばらしに一杯やりだした。そのうち公爵も自分の酒びんを持ちだして飲みはじめた。それからものの半時間もすると、二人はすっかり「より」を戻して元の泥棒同志の仲よしとなり、酔えば酔うほど和気靄々《わきあいあい》となって、しまいには抱き合っていびきをかきだした。
二人とも大変なごきげんになっていたが、それでも王様は、金貨を隠さなかったと言うべからずという約束を忘れるほどのごきげんにはならないみたいだった。おれはほっとして、よかったと思った。ふたりがいびきをかきだしたあと、おれが長いことジムとおしゃべりして、何もかも話してやったことは言うまでもない。
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三十一 不吉な計画
それからおれたちは用心して、いく日もいく日も、どこにも止まらずにどんどん川をくだって行った。
もうぐっと暖かい南の地方で、家ははるか遠くになってしまった。木の枝からスペイン苔《ごけ》が長いねずみ色のあごひげのように垂れているのなんかも見られるようになった。これが生えているのを見るのははじめてだったが、この苔がからんでいると、森はおごそかで恐ろしげに見える。
公爵と王様はもう危ないことはあるまいと考えて、またぞろ村の衆をたぶらかしに出かけはじめた。
まずふたりは禁酒講演会をやってみたが、収益《あがり》は二人の飲み代にも足りなかった。それから別な村でダンス教室をひらいて見たけれども、公爵も王様もダンスの心得なんてカンガルー程度のものだった。だからお手本にひと跳《は》ねしてみせたとたんに、村中の人がワッと襲いかかってきて、二人はとんだり跳ねたりして退散する破目となった。それからまた別なときには、雄弁術とかいうものをやってみたが、そんなに雄弁をふるいもしないうちに聴衆が総立ちになって猛烈な野次《やじ》を浴びせたので、ほうほうのていで逃げだす始末。
それから伝道もやれば、催眠術もやったし、医者にも占い師にも化けてみたし、そのほか何でもちょっとずつやってみたが、ちっとも運がついていないみたいだった。そこで最後には二人はまるで無一文になってしまい、川の流れの筏《いかだ》の上にただごろごろして、恐ろしく陰気でぶっそうな顔をして、小半日《こはんにち》もしんねりむっつりと考えこんで、口もきかず、ひどくしょげかえって、やけ気味であった。
それがとうとう様子が変わって、テントの中で鼻をつき合わせて寝っころがって、二時間も、三時間もヒソヒソ内緒話をするようになった。ジムもおれも心配になってきた。どうも雲行きがおもしろくなかった。やつらはこれまでにない悪いことを企んでいるのにちがいない、とおれたちは考えた。いったい何の企みだろう、とあれこれ頭をひねったあげく、これはどこかの店屋か屋敷に押し入って強盗を働くとか、にせ金づくりをやらかすとか、何かそういうことだろうと当たりをつけた。そこでおれたちはひどくこわくなって、そういう悪いことの片棒は絶対かつぐまい、ちょっとでも臭《くさ》い様子がみえたら二人をすっぽかして置きざりにして逃げてしまおう、とジムと二人で申し合わせた。
さて、ある日の朝早く、おれたちはパイクスヴィルという薄汚ない小さな村の二マイルばかり下手の安全な場所に筏《いかだ》をかくした。王様は、おれはこれから村に行って『王室の絶品』の見世物の噂がもうこの辺まで伝わっているかどうか嗅《か》ぎまわってくるから、みんな筏で待ってろ、と言った。(「とか何とか言って、本当は強盗に入る家の眼をつけに行くんだろう」とおれは心の中で思った……「強盗を働いて帰ってきてから、おれとジムと筏が消えたと言ってびっくりするなよ。びっくりして腰をぬかすなよ」)
そして王様は、昼になっても戻ってこなければ大丈夫ということなんだから、公爵とお前も村に出て来い、と言って上陸した。そこでおれたちは筏で待った。公爵はいらいらした様子で、やたらと当たり散らして、すごく機嫌が悪かった。何かにつけてこごとばかり言い、おれとジムは「けんつく」の食らいどうしで、何をやっても公爵の気に入るようにはできないみたいだった。どうも何かがくすぶっているような気配だった。そこで王様が戻ってこないままに昼になったとき、おれはやれやれと思ってほっとした。陸にあがれば、とにかくこんな気づまりな思いはしないですむ。その上、すっぽかしのきっかけだってつかめるかもしれない。おれと公爵は村に出かけると、王様を探してまわった。
するとやがて、薄汚ない居酒屋の奥部屋でぐでんぐでんになって、村ののらくら連中のからかいの種にされている王様が見つかった。王様はせいいっぱい罰当たりな口をきいたり、おどし文句をならべたりしていたが、もう足腰の立たないほど酔っぱらっていたから、のらくら連に何の手出しもできずにいた。
公爵は、このフーテン爺《じじ》いとばかり王様を口汚なくやっつけはじめ、王様も負けずにやり返し、二人が本格的にいがみ合いをはじめたとたんに、おれは外に飛び出して、今だと思ったから、いちもくさんに川沿いの道を鹿みたいに走った。やつらはもうこれでおれとジムには長いこと会えないぞ、おれはそのとき思ったものだ。おれは息せき切ってうれしさではち切れそうになって筏のところまで来ると、どなった。
「筏《いかだ》を出せ、ジム、もう大丈夫だ!」
だが返事がない。だれもテントから出てこない。ジムはいなくなっていた! おれは大声で呼んだ。それからもういっぺん、……またもういっぺん呼んだ。森の中をあちこち走りながら、オーイ、ジムやーい、と呼んでまわった。金切り声をあげて。だがむだ骨だった。……ジムじいやはどっかに行ってしまっていた。たまらなくなっておれはすわりこんで泣いた。おれは、泣かないでいられなかった。だがいつまでもすわってはいられない。どうしたらよかろうと一生けんめい考えようとしながら、街道に出た。
すると男の子が歩いて来るのに行き会ったので、これこれの身なりをした、よそ者の|黒んぼ《ニガー》を見かけなかったかと聞いてみた。するとその子は、
「見たともよ」
「どこらで?」とおれは言った。
「サイラス・フェルプスさんちに連れて行かれる途中でさ、ここから二マイルばかり下手《しもて》の。その|黒んぼ《ニガー》は奉公先から逃げていたのをつかまったんだ。あいつを探してんのかい?」
「とんでもない。おれはその|黒んぼ《ニガー》に一、二時間まえに森の中で出くわしたんだ。すると、大声を出すでねえぞ、出すとおめえの生き肝《ぎも》えぐり出すぞ、とこうだ。……そして、ここから動くでねえ、そこらに寝っころがってろ、と言うから、おれはそのとおりにして、今まで森にいた。こわくて出てこれなかったんだ」
「そうかい。でももうこわくはねえ。つかまっちまったからな。ずっと南のほうから逃げて来たやつだったんだ」
「あいつをつかまえた人たちはうまいことをしたな」
「そうともさ! 何しろ賞金が二百ドルだもんな。濡れ手に粟《あわ》だよな」
「まったくだよな。おれが大人だったら、その金はおれのもんだ。最初にめっけたのはおれなんだから。つかまえたのはどんな人だった?」
「どっかよその爺さんさ。その爺さんはこれから川をのぼる仕事があってぐずぐずしていられんと言って、賞金をもらう権利を四十ドルで人にゆずったんだ。もったいないことをするじゃねえか。おいらなら七年だって待つのに」
「おれだって。でもそんなに安く売ったのなら、ひょっとすると賞金の権利なんてそれくらいの値打ちしかないのかもしれないぜ。ひょっとすると、まっすぐな話じゃないのかもしれない」
「それがそうじゃねえんだ。……糸みてえにまっすぐな話よ。おいらはこの目で懸賞のビラを見たんだ。ビラにはその|黒んぼ《ニガー》のことがくわしく書いてあって、まるで絵に描いたみてえなんだ。ずーっと川下のな、ニューオーリヤンズの先のどの農場から逃げたなんてこともちゃんと書いてあるんだぜ。いやいや、あのもうけ話にはけちのつけようがねえ。うけあうよ。ときに、噛みタバコひと噛みくんねえか」
だが噛みタバコの持ち合わせはなかったから、その子は行ってしまった。おれは筏《いかだ》に戻ると、テントの中にすわって思案した。だがちっとも良い知恵が浮かばない。頭がズキズキするまで考えてみたが、この難境を切り抜ける道は見つからない。いっしょにここまで旅をしていろいろとつくしてやったあげくに、悪者どもが無慈悲にもジムをあんなふうに裏切ったおかげで、何もかもおじゃんになり、何もかもこっぱみじんになってしまった。けがらわしい四十ドルとひきかえに、やっらはジムを売り飛ばし、死ぬまで、それも赤の他人のところで、ジムを奴隷として働かせることにしてしまったんだ。
一度はこういうふうにも思ってみた。どうせ奴隷にならなきゃならないんだったら、家族のいる、前の村で奴隷になっているほうが千倍もましだろう。それならおれがトムに手紙を書いて、ジムの居場所をトムからワトソンのおばさんに言ってもらえばいいじゃないか。だがこの考えは二つの理由からやめにした。
つまり、ワトソンのおばさんは逃げたジムことを悪党の恩知らずの|黒んぼ《ニガー》めと怒っているだろうから、居場所なぞ知らせたらこのへんの人にジムをさっさと売り飛ばすかもしれず、よしんばおばさんが怒っていなくても、同じ町の人たちは当然ジムのことを恩知らずの|黒んぼ《ニガー》めと軽蔑して、そのことをしょっちゅうジムに思い知らせようとするだろうから、ジムは面目玉をつぶしてみじめな思いをすることになる。
それからこのおれの立場だって考えなくちゃ。うっかり手紙なんか書いたら、ハック・フィンは|黒んぼ《ニガー》が自由州に逃げようとする手伝いをしたそうな、とみんなに知れわたってしまい、そうなると、あの町のだれかと出くわしたようなとき、おれは恥ずかしくて顔むけならなくなる。よくあることだ。卑劣なことはやらかしたが、その責めを負いたくはない。そして露顕《ろけん》しないうちは恥じゃないという了見《りょうけん》でいる。おれの困ったところはまさしくそこなんだ。そう考えれば考えるほど、良心がチクチク痛みだし、いよいよ自分が悪党で卑劣で下等な人間に思えてきた。するととつぜんこういうことが頭にひらめいた。
こんなに良心がうずくというのは、おれのやらかす悪いことはぜんぶ天の神様がお見通しだってことを思い知らせるために、まごうかたない神様の手がピシャリとおれをひっぱたいたということなんだ。おれに何の悪いこともしていないおばさんから|黒んぼ《ニガー》を盗んだりしたものだから、いつも油断なく見張っている神様というものがあって、そういう悪いことをするのはいいかげんにしろ、これ以上は許さん、とこの際はっきりさせてらっしゃるということなんだ。そう思い当たったとたんに、おれはすっかりこわくなって、その場にぶっ倒れそうになった。ところでおれは、とにかく自分は悪人になるように育てられたんだから、そんなに責められることはない、と言いわけをして、自分なりに精いっぱい何とか取りつくろおうとした。
ところがおれの心の中では、「日曜学校があったじゃないか。行こうと思えば行けたのだ。行ってさえいれば、あの|黒んぼ《ニガー》におれがしてやったようなことをする者は地獄の火に焼かれるってことを、教わったはずなんだ」という声がしつづけていた。そう思っておれはふるえあがった。それでおれはお祈りをしよう、そして前みたいじゃないもっと良い子になるようがんばろう、と決心した。そしてひざまずいた。ところが祈りの言葉が出てこない。どうしてか? 神様に隠しごとをしようとしてもだめなのだ。自分に隠しごとをしようとしてもだめなのだ。
なぜ言葉が出てこないのか、おれにはよくわかっていた。おれの心が正しくないからだ。おれがまっとうでなくて猫っかぶりだからだ。罪を捨てるふりをしながら、心の奥のほうでは、でっかい罪にしがみついていた。正しいこと、きれいなことを致します、ジムの居場所を持ち主に知らせます、などということを自分の口に言わせようとしながら、心の奥底ではそれが嘘っぱちなことがわかっていた。……神様にもそれがわかっているのだ。嘘っぱちを祈れるもんじゃない……そうおれは悟《さと》った。
そういうわけでおれは悩みをいっぱいしょいこんでしまっていて、どうしたらよいのかわからなかった。だがやっとあることを思いついた。そうだ、手紙を書こう、そのあとでお祈りができるかどうかやってみよう……と、こう思い当たったのだ。するとどうだ、たちまちおれは心が羽根のように軽くなって、悩みはすっかり消えうせた。そこで紙と鉛筆を取りだすと、いそいそと腰をおろしてこう書いた。
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ワトソンのおばさん逃げた黒人ジムはパイクスヴィルから二マイル川下のところです。
フェルプスさんにつかまってます賞金を送ればひきわたしてくれます。 ハック・フィン
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おれは生まれてはじめてといっていいくらい、罪をすっかり洗い流したようないい気持ちになって、さあこれでお祈りができると思った。だがすぐお祈りはしないで、紙を下においてすわったまま、こんなぐあいになってよかった、もうちょっとで地獄に落ちるところだった、と思った。それから続けてもの思いにふけった。川をくだってここまで来るまでのことをいろいろ思いだすうちに、ジムの姿が心に浮かんできた。
あいつはいつもすぐ目の前にいた……昼も、夜も、月夜のときも。おれたちはしゃべったり、歌ったり、笑ったりして、大川を流してきた。だが、ジムのことを悪く思いたくなるような場面はひとつも思い当たらなかった、思い出されるのはその反対のことばかりだった。
あいつは自分の見張り当番をすませた上におれの分までやってくれた。おれを起こしもせずに寝かしておいてくれた。霧の晩におれが無事で戻ってきたときは大喜びしてくれたっけ。血で血を洗う争いのあったあの村で、沼のところに隠れていたジムのところに帰ってきたときも喜んでくれたし、ほかにもそんなことがあった。ジムのやつはいつもおれを坊やと呼んでかわいがってくれた。何かと気をつかって、いつも親切にしてくれた。
それからおれは、筏《いかだ》に天然痘《てんねんとう》の患者が乗っていると言ってジムを助けてやったときのことを思いだした。あのときあいつは喜んで、おれのことをジムじいやの世界一の良い友だちだ、今じゃたったひとりの友だちだと言ってたっけ。
そのときふと見まわすと、さっきの手紙が目に入った。さあ、せっぱ詰った羽目《はめ》に追いこまれたぞ。
おれは手紙をとりあげて手に持った。善か悪か、二つに一つ、ここできっぱり決めなくてはならない。そう思うとおれは身ぶるいが出た。
おれは息をこめるようにして、しばらく考えてから、こうひとりごとを言った。
「ええい、よし地獄に行こう!」……そして手紙を破り捨てた。恐ろしい考えだった。恐ろしい言葉だった。だがもう口に出してしまっていた。そしておれはその言葉をひっこめようとは思わず、行ないを改めようという考えもやめてしまった。そんな考えは振り捨ててしまって、やっぱりおれは悪の道に戻ろう、それがおれには似合いなんだ、人さまとはちがって育ちが育ちだからしかたがないんだ、と自分に言いきかせた。手はじめに、まず、奴隷の身になったジムのやつを何とか企《たくら》んでまた盗みだしてやろう。それよりもっと悪いことを思いついたら、そいつもやってのけよう。毒をくらわば皿までだ。
そこでおれはどういうふうに仕事にかかろうかと考えはじめ、ああでもない、こうでもないと思案したあげく、これならという計画をひとつ練りあげた。すこし川下《かわしも》のほうに木の生い茂った小島があったが、おれはその場所をよく覚えておいて、すっかり暗くなるのを待ちかまえて、筏を出してその小島に移り、茂みに筏を隠してから、小屋にもぐりこんで寝た。
その晩はぐっすり眠って、夜が明ける前に起きだし、朝めしを食ってから、新しく買ったほうの服を着こんで、ほかの着物や何かを荷物にまとめると、カヌーに乗って岸に向かった。そしてここいらがフェルプスさんの家の下手だと見当をつけたあたりに上陸して、荷物を森に隠した。それから蒸気で機械|鋸《のこぎり》をまわしている小さな製材所の四分の一マイルほど下流の、必要なときはいつでも引き上げられる場所に、カヌーに水を入れ、石をつめて沈めておいた。
それから街道に出て、製材所の前を通りすぎるときに見ると、「フェルプス製材所」と看板が出ていた。それから二、三百ヤードそのまま進んで、農家のあるあたりに来た。おれは目を大きく見開いて気をつけていたのだが、もうすっかり明るくなっているというのに、あたりには人っ子ひとりいない。だが、ちっともかまわなかった。というのはまだだれにも会いたくなかったからだ……さしあたりこのへんの様子をつかんでおきたいだけだった。川下からではなくて、村のほうから、ここへ来ることにするのがおれの計画だった。そこでひとわたり偵察すると、まっすぐ町のほうに歩きだした。
さて、おれがパイクスヴィルの村に着いて、まず出くわしたのが、何と公爵のやつだった。公爵はいつかのように「王室の絶品……上演三日限り」というビラを貼っているところだった。何ていけ図々《ずうずう》しいやつらだろう、このペテン師どもは! おれはいきなり公爵に出くわしたもので、身をかわすひまもなかった。公爵はたまげたような顔をして、言った。
「いよう! どこから来たんだ?」と声をかけて、うれしそうにせかせかと……「筏《いかだ》はどこだ? うまいところに隠してあるか?」
おれは、「えっ? それはおれのほうから閣下に聞こうとしてたんですが」
すると公爵はそんなにうれしそうでない顔になって言った。
「おれに聞くたあ、どういうことだ?」
「それはつまり、きのう王様を居酒屋で見かけたとき、これは酔いがさめて筏に連れて帰れるようになるまでには何時間もかかるぞと思ったもんで、それまでのひまつぶしにおれは村をぶらぶら歩きだしたんです。するとある人が、小舟で向こう岸に行って羊を一ぴき連れて帰る仕事を手伝ってくれれば、十セントやろうと言いました。それでいっしょに向こう岸に行ったんだけど、いざ羊を舟にひっぱりこもうとする段になって、その人はぼくに引き綱を持たせて自分は羊のけつを押しにかかったんだけど、羊の力が強くておれの手におえなくなって、引き綱をふりきって逃げだしたもんだから、二人で追っかけました。犬なんか連れて来てなかったから、羊がくたびれるまで二人でそこいらじゅう追い回すよりしかたがなかったんです。
やっとこさつかまえると、もう夜で、それで羊を舟にのっけてこちらの岸に戻ってきて、それからおれは筏《いかだ》の隠し場へ行きました。
ところが筏がなくなっているもんで、『これは何か厄介《やっかい》ごとが持ちあがって、陛下と閣下は行っちまわなくちゃならなくなったんだ。天にも地にもたったひとりのおれの|黒んぼ《ニガー》を連れて打っちまったんだ。そしてこのおれは、見知らぬ土地で何の財産もなくなって、着のみ着のまま、暮らしを立てる道もないんだ』おれはそう思ってすわりこんで泣きました。ゆうべは森の中で寝たんです。でも、筏はどうなったんです? それからジムは、かわいそうなジムのやつは?」
「おれが知るけえ……つまりだ、筏《いかだ》のことなぞ知るけえ。あのフーテン爺いはな、商売をやって四十ドルせしめたんだが、居酒屋であいつを見つけたときには、もう素寒貧《すかんぴん》になっていやがった。のらくら連中と半ドル賭けのばくちをやって、飲んだウイスキーの勘定のほかはすっかり捲《ま》きあげられてしまったんだ。それで夜おそくなって、ふたりで筏の隠し場に戻ってみると、筏がねえ。おれたちは『あのガキめ、おれたちの筏を盗みやがったな。おれたちをすっぽかして川をくだって行きやがったな』と思ったんだ」
「おれの|黒んぼ《ニガー》を、おれがすっぽかしたりするもんですか。天にも地にもたったひとりの|黒んぼ《ニガー》で、おれのたったひとつの財産なんだから」
「そいつは気がつかなかった。正直、あの|黒んぼ《ニガー》はおれたちのだという気になっていた。うん、てっきりおれたちのものだという気でいたんだ。何しろ、さんざん世話をやかせやがったからな。とにかく、筏は消えたし、素寒貧《すかんぴん》にはなったし、もう一度『王室の絶品』でもやってみるよりしようがなくなったんだ。それで昨日から火薬入れの筒みたいに酒っ気なしで、せっせと働きづめなんだよ。その十セントはどこだ? 出せ」
おれは金はそうとう持っていたから、十セント玉を公爵に渡して、これで何か食べるものを買って、おれにもすこしわけてください、もうこれっきりお金はなくて、昨日から何も食べてないんですから、と頼んだ。公爵は何とも言わなかった。だがやがていきなりおれのほうを向くと、言った。
「あの|黒んぼ《ニガー》がおれたちのことをばらすと思うか?そんなことでもしてみやがれ、生き皮ひんむいてやるぞ!」
「ばらすですって? あいつは逃げたんじゃないんですか?」
「ちがう! あのフーテン爺いが売り飛ばしやがって、おれには分け前もよこしやがらねえで、その金はもうねえんだ」
「売り飛ばした?」おれは泣きだした。「そんな。おれの|黒んぼ《ニガー》なのに。そのお金だって、おれのお金なんだ。あいつ、今どこにいるんです?……取り返さなきゃ」
「あの|黒んぼ《ニガー》は取り返せねえよ。そりゃはっきりしている。だからおめえもめそめそ泣くんじゃねえ。それとも何か、おめえがおれたちのことをばらそうという気ででもいるのか? おめえを信用なぞしてねえぞ。おれたちのことをばらしでもしてみやがれ……」
その先は言わなかったが、おれは公爵がこんなにいやな目つきでじろりと人を見るのを見たことがない。おれは相変わらず泣き声で言った。
「おれはだれのこともばらしやしませんよ。だいいち、そんなひまなんかないんです。ジムのやつを探しに出かけなきゃなりませんから」
公爵はちょっと困ったような顔をして、腕にかかえたビラをばたばたさせながら、じっと立ったまま、額に八の字を寄せて思案をしていたが、とうとう言った。
「いいか、よく聞きな。おれたちはこの村に三日間いなくちゃならん。それでおめえがだな、おれたちのことをばらしたりしない、ジムにもそんなことはさせない、と約束さえすれば、ジムの居場所を教えてやろうじゃないか」
おれが約束しますと言うと、公爵は、「百姓で名前をサイラス・フェ……」と言いかけてやめてしまった。はじめは本当のことを教えるつもりだったのが、そんなふうに言葉をきって、また思案しだしたところを見ると、考えが変わったらしいなとおれは思った。
実際、公爵は考えが変わったのだ。おれを信用しようとはせず、まる三日のあいだ確実におれを厄介払いしておきたい気持ちになったのだ。やがて公爵は、
「あの|黒んぼ《ニガー》を買い受けたのは、名前をアブラム・フォスター、うん、アブラム・G・フォスターと言ってな、ラファイエット街道を奥地に四十マイルばかり行ったところに住んでいる人間だ」
「わかりました」とおれ。「歩いて三日で行けます。今日の午後からさっそく出かけます」
「いんや、今すぐ出かけろ。そして歩きだしたら、道草を食ったり、むだ口をきいたりするんじゃねえぞ。口をちゃんとしめて、とっとと行くんだ。そうすりゃおれたちと何のいざこざも起こさずにすむんだ。わかったか?」
そう言ってくれるといいと、おれは思っていたのだ。そう言わせるために、おれはかけひきをしたのだ。
自分の計画にとりかかれるよう、一人にしておいてもらいたかった。
「じゃあ行け。フォスターさんに会ったら、何でも言いたいことを言え。ひょっとすると、ジムがおめえの|黒んぼ《ニガー》だって言い分を信じてもらえるかもしれねえ。……証文があるかなんてうるさく言わねえ馬鹿もいるからな。……とにかく、南部のここいらにはそういう馬鹿がいるそうだ。それで、ジムがお尋ね者だというビラも懸賞金の話も嘘だってことを話してだな、そういうビラがどういうわけで出されたかってことを説明してやれば、おめえの言うことを信用してくれねえでもあるめえ。さあ、行け。フォスターさんに会ったら、何とでも言え。だが、あっちに着くまでは余計な口をたたかぬようにしろ」
そこでおれは公爵と別れて、とことこ奥地のほうへ歩きだした。ふり返りはしなかったが、じっとうしろから見られているような気がした。けれども向こうが根《こん》負けするにきまっているとわかっていた。おれは田舎のほうにまっすぐ一マイルも歩いてから、やっと足をとめ、森の中を通ってフェルプスさんの家のほうへ戻ってきた。ぐずぐずせずに、すぐに計画の実行にうつったほうがいいとおれは思った。あの二人がこの土地を離れるまでは何もしゃべるな、とジムに口止めをしておきたかった。あのような手合《てあ》いといざこざを起こすのはごめんだった。あの二人の正体なら、いやというほど見て知っていたから、この際、きれいさっぱり手を切ってしまいたかった。
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三十二 日曜日のような静かな日
舞いもどってきてみると、あたりはひっそりして日曜日みたいで、暑くて日が照りつけていた。作男たちはもう野良《のら》に出ていた。カブト虫や花アブの羽音がかすかに空にひびくのが何とも寂しくて、人がみんな死に絶えてしまったような気がした。そよ風に木の葉がさやぐのさえ……ずっと前に死んでしまった人たちの魂がささやきあっているみたいで……しかもそれが自分のことを話しているようにだれの耳にもきこえてうら悲しかった。ぜんたいに、いっそのこと自分も死んでいっさいがっさいおさらばしたい、そんな気を起こさせるようなぐあいだった。
ここいらのさほど大きくない棉花《わた》づくりの農家はどれもこれも同じような構えだが、フェルプスさんの家もそのひとつだった。二エーカーくらいの敷地が木の柵《さく》で囲んである。柵には高さの違う樽《たる》でも並べたみたいに、ふとい丸太を段々に打ちこんだ踏み段がつけてある。家畜の通れない柵を人間が乗り越えるための工夫だが、女の人はこいつを踏み台に馬にまたがったりした。広い敷地のところどころには、いじけたような芝生もすこし生えていたが、大体は「けば」のすり切れた古帽子みたいにツルツルの地面がむきだしになっていた。
主人一家の住んでいる母屋《おもや》は、玄関の右にも左にも部屋のある、丸太づくりの大きな家だった。……荒けずりの丸太を組んで建て、その隙間に壁土やモルタルを塗りこめたやつだが、仕上げの化粧しっくいはもう長いこと塗りなおしてないみたいだった。この母屋から吹き抜けの広い廊下でつながっている丸太づくりの別むねが台所で、その裏にあるのが、これも丸太づくりのハムやベーコンをこしらえるいぶし小屋。いぶし小屋の向こうに一列に並んだ三軒の丸太小屋は|黒んぼ《ニガー》たちの住居らしい。そのずっと向こうの、裏手の柵の近くに一軒だけ離れて掘立小屋があり、それとは反対の方角にもすこし離れて納屋《なや》が二つ三つ。掘立小屋のそばには灰汁《あく》の樽と石鹸を煮る大釜が置いてある。台所の入口のわきには、低い台にのっかった飲み水の桶とひょうたん。犬がひなたぼっこをして寝ている。あっちにもこっちにも何びきも寝ている。
向こうの隅のほうには影の濃い立木が三本ばかり。柵沿いの一か所にはカラントとグーズベリーの植込み。柵の外側には野菜と西瓜《すいか》の畑があって、その向こうには棉花畑が森のほうまで続いていた。
おれは裏手にまわって、灰汁《あく》の樽のあたりで柵を乗りこえ、台所めざして歩きだした。すこし行くと紡《つむ》ぎ車が歌うように高く低くかすかにうなっているのが聞こえてきた。おれは死んでしまいたいような気がした……世の中にこんなに寂しい物音はない。
おれは、とくに計画は立てず、その時が来ればちゃんとした受け答えの文句は神様が教えてくださると信じて、どんどん歩いて行った。神様にまかせてさえおけば、ちゃんとした文句をいつだっで教えてもらえるってことに、おれは前から気がついていた。
途中まで来たとき、犬が一ぴき、また一ぴきと吠えついてきた。もちろんおれは犬どもと向き合って立ちすくんでしまった。何て「けんけんごうごう」の騒ぎになったことだろう! 十秒か二十秒のうちに、おれはいわば車の心棒になった。……犬どもが車の輻《や》というわけだ。……十五ひきもの犬がぐるりとおれを取り囲み、首をのばし鼻づらをつき出してうなったり吠えたりする。見るとほかにもどんどんやって来る。垣根をとび越えたり小屋の角をまがったりして、あっちからもこっちからもかけつけて来る。
だが、|黒んぼ《ニガー》の女が麺棒《めんぼう》片手に台所からとんで来て、「あっち行け、虎公《タイグ》! お前もだぁ、斑公《スポット》! 行かねえか、こん畜生!」とどなりがら一発ずつどやしつけたので、その二ひきはキャンキャンないて逃げだし、ほかのやつもみんなうしろについて行ってしまった。ところがそのうちの半分は、すぐまたもどってきて、しっぽをふっておれにお愛想《あいそ》をする。犬にはまるで悪気というものがない。
|黒んぼ《ニガー》の女のうしろからは、粗末な麻のシャツを着ただけの|黒んぼ《ニガー》の女の子がひとりに男の子がふたり、小さい子がよくやるように、恥ずかしそうに母親のワンピースにつかまって、そのかげにかくれるようにしてそっとこっちを見ていた。すると今度は母屋《おもや》のほうから白人の女がやってきた。四十五か五十くらいで、帽子はかぶらず、手に紡ぎ棒を持っていた。そのうしろから白人の子供がついて来ていて、|黒んぼ《ニガー》の子供たちと同じ要領ではにかんでいた。その人はうれしくてたまらないといったふうににこにこしながら言った。
「まあ、あんただったの? とうとう来てくれたのね!」
それでおれは、つい、「はい、奥さん」と言ってしまった。女の人はいきなりおれをつかまえると、ぎゅっと抱きしめた。それから両手をつかんで何度も何度も握手をした。目からは涙をぽろぽろこぼしている。いくら抱いても握手をしても気がすまないらしくて、それでしきりにこんなことを言った。
……「思ったほど、お母さんに似てないね。でもそんなことはどうでもかまわない。よく来てくれたわねえ、叔母さんはほんとにうれしいよ。よかった、よかった。食べちまいたいような気がする。ほら、これがおまえたちのいとこのトムだよ! こんにちはを言いなさい」
だが子供たちは、頭をひょいとひっこめ、指をくわえて母親のかげにかくれてしまった。それで女の人は|黒んぼ《ニガー》の女に言った。「リズや、急いであったかい朝ごはんをこしらえておあげ。それとも何かい、朝ごはんは船ですませたのかい?」
船ですませました、とおれは答えた。
すると女の人はおれの手を引いて母屋のほうへ連れて行った。子供たちはうしろからぞろぞろついて来る。中に入ると、おれを柳細工《やなぎざいく》の椅子にかけさせて、自分は小さな腰掛けを引きよせてすわると、おれの両手を取って、こう言った。
「これでちゃんとあんたの顔が見られる。あんたの顔を見たい、見たい、と叔母さんは何年も前から思ってたんだよ。やっと念願がかなったわ。うちじゃもう幾日もあんたが着くのを待ってたんだよ。どうして遅くなったのかい? 船が浅瀬に乗りあげでもしたのかい?」
「はい、奥さん。そのう……」
「よしなさいよ、『はい、奥さん』だなんて。サリー叔母さんと言っておくれ。それで、どこで浅瀬に乗りあげたの?」
これにどう答えたらいいのか、よくわからなかった。上りの船なのか下りの船なのか知らなかったからだ。
だがおれはカンを働かして、たいてい察しをつける。このときのカンでは、船はニュー・オーリアンズあたりからのぼって来たやつらしかった。
だがそうと察しがついても、川下のどのへんに浅瀬があるのか知らないのでたいして役に立たない。浅瀬の名前を発明しなきゃなるまいとおれは思った。それとも何というところだったか忘れましたと言おうか。それともどうしよう、と迷っているところへ、いいことを思いついて、おれはこう言った。
「浅瀬じゃなかったんです。浅瀬じゃほんのちょっとしか手間どらなかったんです。実は、船の汽罐《かま》が爆発したんです」
「あれまあ! それで怪我人でも?」
「いいえ、でも|黒んぼ《ニガー》がひとり死にました」
「まあ、それは運がよかった。人間さまが怪我することだってあるんだからね。二年前のクリスマスにもね、あんたには叔父さんにあたるうちのサイラスがニューリヤンズからラリー・ルック号で帰ってくる途中で、船の汽罐が爆発して、人間がひとりかたわになったんだよ。バプテスト教会の信者さんだったがね。それで後になって死んじまったんだっけ。その人の家族のことをよく知っている人たちが、バトン・ルージュの町に住んでいてね、その人たちとサイラス叔父さんはつき合いがあったのさ。ああ、思い出した、やっぱり死んだのよ、その人。壊疽《えそ》になったもんで手術したんだけど助からなかった。そう、そう、壊疽になったんだっけ。それで、色が青黒くなって、復活の日に輝かしい体でよみがえることを願いながら死になすったんだ。見るもあわれな様子だったっていうよ。このところ、サイラス叔父さんはあんたの出迎えに、毎日町まで出かけているんだよ。今日だって小一時間前に出かけたんだから、もうそろそろ帰ってくるころだ。街道で出会ったはずだけど。会わなかったかい……もういいお爺さんで、それで……」
「いえ、会わずに来ました、サリー叔母さん。とにかく船が夜明けに着いたもんで、荷物を桟橋《さんばし》において町をすこし見物して、田舎のほうへもちょっと行って見たりして、時間をつぶしてたんです。あまり早くお宅に来るのも何だと思ったもんですから。それから裏道を通って来たんです」
「荷物はだれにあずけたの?」
「だれにも」
「そんなことをして、盗まれちゃうじゃないの!」
「いや、大丈夫なように、うまく隠しておきましたから」
「そんなに早く、船でどうやって朝ごはんが食べられたの?」
おれはひやりとしたが、言った。
「おれがぼんやり立ってるところへ船長さんが来て、上陸する前に腹ごしらえしといたほうがいいと言うんです。それで上甲板の船員さんの食堂で、好きなだけ食べさしてくれたんです」
おれはだんだん心細くなって、おちおち話を聞いていられなくなった。子供たちのことばかり考えていた。子供たちを片すみに呼んで、うまいこと持ちかけて、おれの正体を聞き出したくてたまらなかった。だがそんな機会のあらばこそ、サリー叔母さんとやらは、どんどんしゃべりまくっている。ところが、やがて、こう言い出したもので、おれは背すじに寒気がした。
「だけどあたしたちって、こんなにおしゃべりをしているけど、姉さんのことだとかみんなのことを、まだ何にもあんたから聞いてないわ。あたしはしばらく黙っているから、今度はあんたの話を聞かしておくれ。すっかり聞かしてちょうだい。みんなのことならどんなことでも聞きたいわ。みんな元気? どんなことをしてるの? サリー叔母さんに会ったら何を話しなさいって言ってた? さ、思いつくことを何でも話して」
さあ、めんどうなことになった。……えらく面倒なことになった。これまでのところは神様がついていてくだすったのだが、これでおれはにっちもさっちもゆかなくなってしまった。これ以上がんばってもだめだってことがおれにはわかった。降参するよりしかたがない。本当のことをしゃべるという危い橋をまた渡らなきゃならなくなった。そう観念して、おれは口をひらき、実は、と切りだそうとした。ところがサリー叔母さんはいきなりおれをしょっ引いて、ベッドのかげにおしこんで、言った。
「叔父さんが帰って来た! 頭をひっこめて! それでいい、それでもう見えない。そこでじっとしてるんだよ。叔父さんをかつぐんだから。おまえたちも何も言うんじゃないよ」
これでは袋の鼠《ねずみ》だとおれは思った。だが、くよくよしてもはじまらない。じっと息を殺してかくれていて、雷が落ちたら、いさぎよく姿をあらわす覚悟をきめておくよりしかたがない。当家のあるじの立派な老人が入ってくるのがちらりと見えたが、じきにベッドのかげになった。
フェルプスの奥さんはとんで行って、言った。
「来ましたか、あの子は?」
「来なかったよ」とご主人。
「どうしたんでしょうねえ。なにが起こったのかしら?」
「見当がつかん。どうもこりゃ心配なことになってきた」
「心配どころか! あたしは気違いになりそうですよ。あの子はきっと町に着いたのだわ。それをあなたが道で見つけそこなったんですよ。そうにきまってます。虫が知らせるというか、そんな気がします」
「だって、サリー、道で見つけそこなうなどということがあるはずがないじゃないか。……それは、おまえだって、わかっていることだろう」
「ああ、どうしよう、どうしよう、姉が何て言うかしら! あの子は着いたことは着いたのだわ。それをあなたが見つけそこなったんだわ」
「そんなことを言って、この上わしを苦しめないでくれ、いいかげんわしも参っているのじゃから。どう考えたらよいのかさっぱりわからん。わしも思案にあまって、ほとほと心配でならんのじゃ、まったくの話。もう着いておるというが、そんなことは考えられん。あの子が着いておって、わしが見つけそこなうというはずはない。サリーや、こりゃまったくただごとではないぞB船が何か事故をおこしたにちがいないぞ」
「おや、サイラス、あそこを見て……ほら、道のほうよ! だれかこっちに来ませんか?」
サイラス叔父さんは窓のほうにとんで行った。その窓がベッドの頭のほうだったので、サリー叔母さんにおあつらえの隙《すき》ができた。叔母さんはベッドの裾《すそ》のほうにさっとかがんで、おれを引っぱりだした。
それでサイラス叔父さんが窓からこちらに向きなおると、叔母さんは得意満面、まるで火事みたいに顔を輝かせて、にこにこ笑いながら立っており、そのわきにはおれがすごく神妙な顔をして、冷や汗をながしながらひかえていたというわけだ。
サイラス叔父さんは目をむいて、言った。
「おや、だれだね、その子は?」
「だれだと思います?」
「わからん。どこの子だ?」
「これがトム・ソーヤーですよ!」
さあ、驚いたの何のって、おれはあやうく腰を抜かすところだった。やにわにサイラス叔父さんはおれの手を取って、握手をし、何度も何度もその手を振った。そのあいだじゅうサリー叔母さんは笑ったり泣いたりしながら、まわりをとんだりはねたりした。それから二人でいっせいにシッドやメアリやほかの家族のことを矢つぎばやにたずねた。
二人とも大喜びだったが、おれのうれしさにくらべると、それも問題じゃない。なぜというに、おれはもう一度生まれかわったようなものだ。おれは自分がトム・ソーヤーだと知って、うれしくてたまらなかった。二人は二時間ものあいだ、おれのそばから動かず、おれは顎《あご》がくたびれて、ほとんど物が言えなくなるまでしゃべりにしゃべって、おれの家族のこと……というのはソーヤーの家族のことだが……について、ソーヤー家が六軒あってもそれらの家族に起こった出来事よりも、もっとの多くのことを話してきかせた。
それからホワイト川の川口で船のシリンダー・ヘッド(蒸気機関の気筒の上部)が吹っ飛んで、それを修繕するのに三日かかったという話もしてきかせた。その話もうまくいって、すらすらと信じてくれた。それというのも、この家の人は何を修繕するのに三日かかるかなどということを知らなかったからで、ボルト・ヘッド(ねじの頭)が吹っ飛んで三日遅れたと言っても、やっぱり信じてくれたと思う。
さて、おれはゆったりとしたよい気分になった一方、そわそわと落ちつかない気分でもあった。トム・ソーヤーになりすますのは簡単で、よい気分だった。そして蒸気船が一隻ポンポン音を立てて川をくだるのが耳に入るまで、おれはよい気分でいた。だがそのとき、こう思ったのだ……あの船でトムが来たら、どうしよう? ひょっこりここに入ってきて、目くばせして黙らせるひまもなく、いきなり大声でおれの名前を呼んたらどうしよう?
そんなことをさせてはならん。そんなことは絶対困る。道に出て待ち伏せをしなきゃ。おれはサイラス叔父さんたちのところに出向いて、これから町にでかけて荷物を取って来ようと思います、と言った。サイラス叔父さんは、わしも行こう、と言ってくれたが、おれは、いいんです、自分で荷馬車くらい走らせられます、お手数をかけたくないから一人で行かせてください、と言った。
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三十三 |黒んぼ《ニガー》盗み
そこでおれは、荷馬車に乗って、町へ向かったが、途中まで来ると向こうからも荷馬車がやって来て、見ると、乗っているのはまさしくトム・ソーヤーだった。おれは馬車をとめて、先方が近づくのを待った。
「とまれ!」と声をかけると、こっちの馬車と並んでとまった。トムの口がトランクの口みたいにあんぐりと開いて、そのままひらきっ放しになった。それから喉《のど》がからからになった人みたいに、二度三度|唾《つば》をのみこんでいたが、やがて言った。
「きみに恨《うら》まれるようなことは、何にもしてないぞ。それはきみが知ってるはずだ。だったら、どうしてあの世から舞い戻ってきて、ぼくにとりつこうとするんだ?」
おれはこたえて……「舞い戻ってきたんじゃないや。あの世になんか行ってないもん」
おれの声を聞くと、トムもすこししゃんとなったが、まだ心から納得はしなかった。
「いいかい、だましっこなしだぜ。天地神明《てんちしんめい》、きみは幽霊じゃないのかい?」
「天地神明、幽霊じゃないとも」
「それならいいが、ぼくはまた、てっきり……いやいや、きみがそう言うのなら間違いあるまい。だがさっぱりわけがわからないなあ。おい、ハック、きみはぜんぜん殺されなかったのかい?」
「うん、ぜんぜん殺されてなんかいないんだ。みんなをかついでやっただけさ。信用できないと言うんならここに来てさわってみるがいいよ」
トムはおれにさわってみて、やっと納得した。どうしたらいいのかわからないくらい、おれにまた会えたことを喜んだ。そしてすぐさますっかり話をしろと言う。これはたいした冒険の物語、しかも魔訶不思議《まかふしぎ》な物語なので、トムの好みにぴったりだった。
だがおれはくわしい話はあとにしようと言って、トムの馬車の御者《ぎょしゃ》にはちょっとここで待っててくれと頼んでから、トムと二人きりですこし馬車を走らせた。そしておれの厄介な立場を話して、どうしたらいいだろうと相談した。トムはしばらく考えさせてくれと言って頭をひねっていたが、やがて言った。
「うん、わかったぞ、こうすればいい。ぼくのトランクをこっちに移すんだ。そいつをきみは自分のトランクというふりをして持って帰る。でも道草を食いながらゆっくり馬車をやって、帰ってもおかしくないような頃合いに向こうに着くようにするんだぜ。ぼくのほうは、これからまた町に戻って出なおすことにする。そしてきみよりも二、三十分遅れてぼくも乗りこむけど、はじめはぼくを知ってるそぶりは出さないでくれないか」
「よし、わかった。だがちょっと待ってくれ、もひとつ言っとくことがあるんだ。おれのほかだれも知らないことなんだ。それはね、この土地に来ているある|黒んぼ《ニガー》のことなんだが、おれはそいつを盗みだして、奴隷の身分から解放してやるつもりなんだ。ジムって名のニガーで……ほら、あのジムさ、オールドミスのワトソンさんとこの」
トムは言った。
「えっ? だってジムのやつは……」と言いかけて、トムは口をつぐむと、思案顔になった。おれは言った。
「きみが言いたいことはわかってる。|黒んぼ《ニガー》を盗むなんて、汚いやくざな行ないだと言いたいんだろう? だがそれが何だい。……おれはどうせやくざな人間なんだ。だからおれはジムを盗みだしてやるんだ。人には黙っててくれ。ばらさないでくれ。たのむ」
だがトムは目を輝かせて、言った。
「ジムを盗みだすのなら、ぼくもひと肌ぬぐぞ」
さあ、おれは鉄砲玉をくらった。こんなにびっくりするようなことを言われたのははじめてだった。そして打ち明けて言えば、それを聞くなりトム・ソーヤーに対する尊敬の念がぐっと薄らいでしまった。自分の耳を疑いたくなるようなことだった。トム・ソーヤーともあろうものが、奴隷泥棒になりさがろうとは!
「チェッ! 冗談はよせよ!」
「いや、本気だ」
「冗談だろうと本気だろうと、これだけは忘れずに覚えといてくれよ。いいかい、逃げた|黒んぼ《ニガー》の話がでても、そいつのことは何にも知らないことになってるんだぜ、きみもおれも」
それからトランクをこっちの馬車に積みかえると、おれたちは別れてお互いにもと来た道に馬車を走らせた。おれは浮き浮きして、それに考えごとで頭がいっぱいだったので、のろのろ帰れというトムの注意はもちろんすっかり忘れてしまい、道のりの割にはとんでもなく早く帰りすぎてしまった。するとサイラス叔父さんが玄関のところにいて、言った。
「ふわあ、これはたいしたもんじゃ。あの雌馬がこんなに早く走れるなんて、だれが思ったろう。時間を計っておくのじゃった。それにどうだ、この馬は汗ひとつかいておらんではないか。……ちっともかいていない。これはたいしたもんだ。百ドル出すと言われても手ばなせないぞ、……まったくの話。それを前には十五ドルでなら売ってもいい、それくらいの値打ちしかない、なんて思っていたんだからなあ」
それだけがサイラス叔父さんの言ったことだった。こんなまっしょうじきな人格者の叔父さんにおれは会ったことがない。だが、それももっともだというのは、この人はただのお百姓ではなくて牧師さんでもあって、農園の向こうには小さな丸太づくりの教会も持っているのだ。これは教会と学校を兼ねた建物で、サイラス叔父さんはこれを費用自分持ちで建てたのだが、説教をしても、その値打ちはちゃんとあるのに、礼金など取らなかった。ここいら南部地方にはそんなお百姓牧師がたくさんいた。
ものの三十分もすると、トムが荷馬車に乗って表の柵《さく》の踏み段のところへやって来た。母屋から五十ヤードくらいのところだったので、サリー叔母さんは窓からそれを見て、言った。
「おや、だれかやって来た。だれだろうね。よその人のようだけど。ジミーや」(というのが男の子のひとりだった)
「昼ごはんの支度を一人前ふやすようにリズに言っておいで」
みんな玄関のほうに急いで行った。よその土地の人が来るなんてことは一年にいっぺんあるかないかなので、来たとなると黄熱病《おうねつびょう》の患者だってかなわないくらい珍しがられる。トムはもう柵をこえてしまって、こっちのほうに歩いてくるところだった。馬車は町のほうへ戻って行く。
おれたちはみんな玄関口にむらがった。トムは新調のよそ行きを着こんでいて、しかもみんなの注目の的《まと》になっている。トムとしてはまったくこたえられない。その場にふさわしいもったいをつけることだって、いくらでもできる。トムはこんなとき羊みたいにおどおどと庭を歩いてくるような子じゃない。実際、トムは、羊は羊でも立派な牡羊みたいに、落ちつきはらって偉そうにやってきた。そしておれたちの前まで来ると、いかにも品よく小意気に帽子をちょっと持ちあげたが、その手つきのやさしさと言ったら、まるで蝶々《ちょうちょう》の入った箱のふたを蝶々を起こさないようにそっと持ちあげるところ、といったぐあいだった。そして言うには、「こちらが、アーチボルド・ニコルズさんのお宅ですね?」
「いいや、違います」とサイラス叔父さん。「気の毒だが御者《ぎょしゃ》がいいかげんなことを言ったと見える。ニコルズさんのお宅ならまだ三マイルも先ですじゃ。まあお入んなさい」
トムは肩ごしにふり返って、見てから、言った。「もう間に合わない。馬車は行ってしまった」
「そう、もう行ってしまいましたな。うちに入って、いっしょにお昼を食べて行きなさい。そのあとで馬車の支度をして、ニコルズさんの家に送って進ぜよう」
「いえ、そんなご迷惑をおかけしては。とんでもない。ぼくは歩いて参ります。遠くったって平気です」
「いいや、あんたを歩かせたりはしませんぞ。そんなことをするのは南部式の客もてなしの法ではない。さあ、遠慮なくお入り」
「そうよ、遠慮はいらないのよ」とサリー叔母さん。「うちじゃちっとも迷惑なんかじゃないんですから、本当に。中でひとやすみしてらっしゃい。砂ぼこりの三マイルの道のりを歩かせたりはできないわ。それにね、お前さんの姿が見えたとき、食事の支度を一人前ふやすようにってもう言いつけてしまったの。あたしたちをがっかりさせてはだめよ。さあ、入ってゆっくりしてらっしゃい」
そこでトムはていねいに心のこもったありがとうを言って、ではせっかくですからと言って入ってきた。そして中に入ると、ぼくはオハイオ州はヒックスヴィルから参ったウィリアム・トムソンと申す者ですと言って……またおじぎをした。
さてトムはヒックスヴィルのことやその町のだれかれのことを口から出まかせ出ほうだいにしゃべりまくったから、こんなおしゃべりをして、おれの厄介な立場をどうしてくれるつもりだろうとおれはすこし心配になってきた。するとそのうち、しゃべる口は休めずにトムがいきなり立って、サリー叔母さんの口にキスをしたかと思うと、またゆったりと椅子に掛けて話をつづけた。だが叔母さんはとびあがって、手の甲でキスのあとを拭《ぬぐ》い取ると、言った。
「この失礼な犬っころめが!」
トムはすこし気を悪くしたような顔をして、言った。
「驚きますね、おばさまには!」
「おどろ……あたしを何だと思ってるの? ええ、いやというほど……いったい何のつもりだね、あたしにキスするなんて?」
トムはしおらしそうにして言った。
「何のつもりって、そんな。悪気《わるぎ》じゃなかったんです。ぼくはただ、おばさまがキスしてもらいたいのだとばかり思って」
「この仕様のない大馬鹿!」
サリー叔母さんは紡ぎ棒をむんずとつかんで、そいつで一発くらわしたいのをやっとのことでがまんしながら……「あたしがキスしてもらいたいなんて、どこから思いついた?」
「さあ、それは。ただ、そのう、みんなにそう言われたもんですから」
「みんなにそう言われた? だれだか知らんがそんなことを言う人もやっぱりキ印だよ。よくもまあ、そんなたわごとを。みんなとはだれのことだね?」
「それはだれもかれもですよ。みんなだれもかれもそう言ったんです、おくさま」
サリー叔母さんはやっとのことで自分をおさえていたが、目の色は変わっているし、さも引っかいてやりたいといわんばかり指をむずむずさせていた。
「だれもかれもって、だれのことだね? 名前をさっさとお言い! さもないと馬鹿がひとり世の中から減るよ」
トムは立ちあがると困ったような顔をして、帽子をいじっていたが、言った。
「すみませんでした。こんなことになるなんて思ってもみませんでした。言われたとおりにしただけなんです。みんなが、彼女にキスをおし、といったんです。そして彼女もよろこぶだろうって、言ったんです、だれもかれも。でも、すみませんでした。もう二度としませんから……本当に、もうしません」
「もうしませんと言うのかい? そうとも、二度とされてたまるものかね!」
「ええ、本当にもうしません。二度といたしません……おばさまのほうから頼むまでは」
「あたしのほうから頼む? よくもまあ、ぬけぬけとそんなたわごとを! メトセラみたいに千年も生きなくてはなるまいよ、お前なんかにキスしてくれとあたしから頼むのを待ってた日にゃ!」
「いや、もう驚きました」とトム。
「どうしてそうまでおっしゃるのか、ぼくにはどうもわかりません。キスしてあげると喜ぶよってみんなが言ったし、ぼくもそうとばかり思ってたんです。でも……」と言いかけて口をつぐむと、思いやり深いまなざしを探しでもするようにゆっくりと見まわしていたが、サイラス叔父さんの目をとらえると、「ぼくがキスしてあげたら、おばさまが喜ぶだろうとお思いにはなりませんでしたか、おじさま?」
「そりゃあ、その何だ、思わないよ、そんなことは思わなかったような気がするよ」
するとトムはまたみんなの顔をずっと見まわして、おれに目をとめると、……言った。
「ねえトム、兄さんはこう思わなかったかい、サリー叔母さんがぼくを歓迎して、『よく来たね、シッド・ソーヤー』と言ってくれるだろ……」
「あんただったの!」
サリー叔母さんはしまいまで言わせず、トムにとびついた。「このいたずらっ子! ひとをこんなにからかうなんて」
そしてトムを抱きしめようとしたが、トムは手で突っぱるようにして、言った。
「だめです、おばさまのほうから頼むまでは」
サリー叔母さんは頼む頼むと言って、トムを抱いてさんざんに頬ずりをして、もみくちゃにしたあとを、サイラス叔父さんに引きわたした。騒ぎがすこしおさまってから、サリー叔母さんが言った。
「本当にまあ、こんなにびっくりしたことはないよ。シッドが来るなんてねえ。トムだけだとばかり思っていた。姉さん何も書いてよこさなかったんだよ、ほかにだれか来るなんてことは」
「いや、最初はトムのほかだれも来ないことになってたんです」とトム。「でもかあさんを拝み倒して、出発まぎわになって、やっとぼくも行っていいというお許しをもらったんです。それで船の中でトムとふたりで考えたんです、トムがまず最初に行って、そのあと、ぼくがよそ者のふりをして乗りこんで驚かしてやれば、すごくおもしろいぞ、って。でも、よそ者のふりをしたのは失敗でした。叔母さんちじゃ、よそ者はえらい目に会わされるんですね」
「ああ、なまいき小僧が来ればね、シッド。あんたの顎《あご》をぶんなぐってやるんだったよ。あんな迷惑な思いをしたことはない。でも、もう気にしちゃいないよ。どんな目に会わされたってかまわない、それと引きかえにでなきゃ来てもらえないんだったら、千べんだってあんないたずらをがまんしてあげる。でも、あのときのお芝居ぶりったら! あんたにチュッとやられたときにゃ、あたしはすっかり肝をつぶしてどうかなりそうだったよ、正直な話」
おれたちは母屋と台所をつなぐ広びろした廊下で昼飯を食った。食いものは七家族分もテーブルにのっかっていて、しかも、そいつがみんなほかほかあったかいときている。しめっぽい地下室の戸棚で宵《よい》を越させたおかげで、ひねた人喰土人の肉みたいにまずくなった、しまりのない固い肉なんかを世間じゃよく食べさせるが、ここじゃそんなものはひとつも出なかった。サイラス叔父さんはそうとう長い食前のお祈りをしたが、この家のごちそうはそれだけの値打ちがあった。また、こういう邪魔が入ると、えてして料理がさめてしまうものだが、そういうこともなかった。
その日の午後は、みんなでいろんな話をしてすごした。トムとおれはずっと気をつけていたけれども、逃亡奴隷の話はちっとも出てこない。さりとておれたちのほうからそっちに話を持って行くだけの勇気もなかった。だが日も暮れて晩飯になったとき、男の子のひとりが言った。
「パパ、トムとシッドといっしょに見せ物を見に行っちゃいけない?」ときいた。
「いや、見せ物は取りやめになるはずだ」とサイラス叔父さん。「よしんばそうでなくっても、あんなものに行ってはいけない。例の逃げてきたニガーがわしとバートンにすっかり話してくれたのだが、あれは恥知らずな見せ物なのだ。バートンは村の衆に話すと言っておったから、もういまごろはあの図々《ずうずう》しい宿なしどもは村から追い出されているはずじゃ」
そうだったのか!……だがおれにはどうしようもない。その晩、トムとおれはいっしょの部屋に寝ることになった。そこで、くたびれたからと言って、晩飯がすむとすぐ部屋に引きさがり、二人して避雷針《ひらいしん》の針金を伝わって壁をよじ降りると、町をさして急いだ。王様と公爵に危いぞと教えてくれる者などいないだろうから、おれが急いで教えてやらないと、必ず面倒な目に会わされてしまうと思ったのだ。
みちみちトムは、みんなおれが殺されたと思ったこと、そのあとじきにおやじが見えなくなって二度と姿を現わさなくなったこと、ジムが逃げて大騒ぎになったことなどを話してくれた。おれは『王室の絶品』の悪党どものことをすっかり話してやって、筏《いかだ》の旅のことを時間のあるだけ話してきかせた。
そのうち町に着いてどんどん歩いて行くと、……もう八時半ごろだったが、……向こうからたくさんの人がたいまつを持って、ブリキ鍋を叩いたり角笛《つのぶえ》を吹いたり、どなったりわめいたり、気がちがったようになっておしよせて来る。おれたちは、それをやり過ごすために、片がわにとびのいた。そして、それが、とおり過ぎて行ったとき、見るとこの連中は王様と公爵を鉄棒にまたがせてかついで行くのだ。……おれにはそれが王様と公爵だとわかったが、体じゅうにコールタールを塗られた上に鳥の羽根をまぶしつけられて、人間というよりは……でかい兵隊の羽根飾りみたいだった。おれは気分がわるくなった。あわれな悪党どもがかわいそうになった。もう二度とこの二人を憎いやつと思うことはできないような気がした。見るも恐ろしいながめだった。人間というものは、お互い同士、途方もなくむごたらしい真似ができるものだ。
おれたちは間に合わなかったのだ。……もうどうしようもなかった。野次馬をつかまえて、わけを聞いてみると、町の衆は何も知らないような顔をして見せ物を見に行ったのだそうだ。そしていよいよ王様のやつが舞台で裸踊りをやりだすまでじっとしていて、ソレッという合図もろともいっせいにとびだして、二人を取りおさえたのだそうだ。
そこでおれたちはとぼとぼと帰って行った。さっきまでの元気はどこへやら、しょんぼりとなってしまった。しゅんとなってしまって、何か悪いことでも仕出かしたような気がした。……何も悪いことなどしてないのに。だが、いつだってこういうふうなんだ。
人間の良心ってやつは、人が良いことをしようと悪いことをしようと見さかいがない。どっちみち人に噛みつくのだ。人間の良心ほど見さかいのない野良犬がいたら、毒の餌《えさ》で片づけてやる。良心ってやつは人間の心の中で一番場所を取るくせに、まるで何の役にも立たないものだ。トム・ソーヤーもそれには同感だと言った。
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三十四 灰汁樽《あくだる》わきの小屋
おれたちはしゃべるのをやめて、物思いにふけっていた。やがてトムが言った。
「おい、ハック。いまごろ気がつくなんて、おれたちは何て間抜けなんだ! わかったぞ、ジムの居場所が」
「ええっ? どこだ?」
「灰汁《あく》の樽の置いてある掘立小屋だ。だって、ほら、昼ごはんのとき、|黒んぼ《ニガー》の下男があの小屋に食べ物を運ぶのはきみも見たろう?」
「うん、見た」
「何のためだと思った?」
「犬の餌《えさ》だろ」
「ぼくもそう思った。だがあれは犬の餌じゃないよ」
「どうして?」
「西瓜《すいか》が入ってたじゃないか」
「そうだった……入ってたよ。だが犬が西瓜を食わないってことを考えもしなかったのは大失敗だ。これがほんとのあきめくらだ」
「それであの|黒んぼ《ニガー》はだね、食べ物を持ってあの小屋に入るときには南京錠《なんきんじょう》をあけ、出てくるときにはまた鍵をかけていた。そしてぼくたちが席を立とうとするころに、あの|黒んぼ《ニガー》が来て鍵を叔父さんに返していたけど、あれがその鍵にちがいないよ。
西瓜で人間だってことがわかり、鍵で監禁中たってことがわかる。そして、よい人ばかりのあの小さな農園で、人が二人も監禁されているはずはない。
ジムだよ、監禁されているのは。こいつはうまいぞ……探偵みたいなやりかたでジムの居場所がわかってぼくは満足だよ。そのほかのやりかたじゃうれしくも何ともない。それじゃ、ハック、ひとつ頭をひねってジム盗みだしの計画を立ててくれないか。ぼくも考えてみるから。そして二人の計画のうちで、気に入ったほうを採用することにしよう」
ほんの子供なのに何て頭がいいんだ! おれにトム・ソーヤーの頭があったら、公爵、高級船員、サーカスの道化、そのほかどんな偉い者にしてやると言われたって取りかえたいとは思わないだろう。おれも一応計画を立ててはみたが、お義理でそうしただけの話だ。ちゃんとした計画がだれの頭から生まれてくるかってことが、おれにはよくわかっていた。
やがてトムが言った。
「できたかい?」
「うん」とおれ。
「よし、聞かしてくれ」
「おれの計画はこうだ。掘立小屋にいるのがジムかどうかはすぐわかる。ジムだったら、明日の晩におれのカヌーを浮かべて島から筏《いかだ》を持ってこよう。そしてこんど闇夜の晩になったとき、叔父さんが寝たあとでズボンから鍵を盗んで、ジムを連れだし、筏に乗りこむんだ。そして前みたいに昼間は隠れて晩に筏を流して行く。この計画、うまく行くんじゃないかな」
「うまく行く? そりゃあ、うまく行くことは行くだろうよ、すらすらとね。でもそれじゃ簡単すぎて、まるでおもむきがないよ。そんなにお手軽な計画に何の値打ちがある。鵞鳥《がちょう》のミルクみたいにコクがないじゃないか。だめだよ、ハック、それじゃ世間の人は、石鹸工場にだれかが押入ったそうな、という程度にしか噂してくれないよ」
おれは黙っていた。そんなふうにこきおろされるだろうってことは、ちゃんとわかっていた。そして、トムが発表する計画には非のうちどころがないだろうってこともわかっていた。
実際、トムの計画は非のうちどころがなかった。説明を聞いてみると、おれの計画が束になってかかってもかなわないような格調の高いもので、ジムを自由の身にしてやるという点はおれの案と同じだが、それまでにおれたちがみんな殺されてしまうかもしれないというおまけまでついているのだ。
それでおれはすっかり満足して、この計画にしようと言った。トムの計画は、とても原案どおりには行くまいから、くわしくここで話す必要はない。いざとなると、トムが原案のあっちこっちに手を加えて、折りあるごとに改良してゆくだろうってことがおれにはわかっていた。そして実際にそのとおりになった。
さて、疑う余地のないことがひとつあった。それは、|黒んぼ《ニガー》を盗みだして奴隷の身分から解放する仕事にトム・ソーヤーが本気で手を貸そうとしているということだった。おれはさっぱりわけがわからなかった。トムは紳士然とした育ちのいい子で、自分の体面や家族の体面というものを考えなくてはならない立場にあり、低能ではなくて利口《りこう》で、無知ではなくて物知りで、意地悪をしない、思いやりぶかい人間なのだ。そのトムが、自尊心も正義も感情もふり捨てて、こういういやしい仕事に身を落とし、自分の体面、家族の面目を、だれはばかることなく汚《けが》そうとしている。おれにはどうしても合点がゆかない。どうもけしからん、とおれは思った。はっきりそうトムに言ってやらなきゃならん、変な考えはこのへんでやめさせて、破滅から救ってやらなきゃ本当の友だちじゃない、と思った。
そこでその話をきりだすと、トムは途中でさえぎって、言った。
「自分のすることが自分でわかっていないって、ぼくのことを思うのかい? ぼくは自分のすることを大体いつも自分でわかっているじゃないか?」
「それはそうだけど」
「|黒んぼ《ニガー》を盗むのならひと肌ぬごう、とぼくは言ったね?」
「うん」
「だったらそれでいいじゃないか」
それだけがトムの言ったことだった。おれもそれ以上は言わなかった。トムはいったんこうと言いだしたらきかない子だから、それ以上なにを言ってもむだだった。だが、どうしてトムがこの仕事に肩を入れるのか、おれにはちっともわからない。それで、このうえ邪魔をしないでしたいようにさせることにした。どうしてもトムがやりたいと言うのなら、おれとしてはどうしようもない。
フェルプス農園にもどってみると、家じゅう真暗でしんとしていた。おれたちは灰汁の樽の置いてある掘立小屋のほうに行って、調べてみることにした。犬がどうするかと思って中庭を通って行ったが、犬はおれたちだとすぐわかって、暗闇の中を何かがやってきても驚かない田舎の犬らしく、あまり騒ぎたてなかった。掘立小屋に着いて、正面とそれから両側を調べてみた。するとこれまで知らなかった北側の壁のすこし高いところに、四角な窓があって、それが一枚の厚板を打ちつけてふさいであるのがわかった。そこでおれが、
「や、ちょうどいい。あの板をひっぱがすとジムが窓から出て来られる」と言うと、トムは、
「そんなのは、≪三つ並べ≫遊びみたいに簡単で、学校をサボるくらいにやさしいじゃないか。そういうのよりもうすこし手のこんだやり方を見つけなくちゃ、きみ」
「それじゃ、せんにおれが殺されたときみたいに、鋸《のこぎり》で壁を切ることにしたら?」
「そのほうがましだね」とトム。「実に謎めいていて、手がかかって、立派なものだ。でも、それより二倍も手間取るやりかたが見つからないはずがあるもんか。急ぐことはないんだ。裏のほうにまわってみよう」
掘立小屋の裏側には小壁の軒をのばしたぐあいに板張りの物置きがくっついていて、その向こうは柵だった。物置きは間口《まぐち》は掘立小屋と同じ長さだが、奥行きは浅くて六フィートばかりしかない。物置きの戸口は南側についていて、これには南京錠がかかっていた。トムは石鹸釜のあるあたりを探し、釜のふたを持ちあげるための鉄の棒を持ってきて、そいつをあてがって錠の取付け金具を引っこ抜いた。戸締りの鎖がはずれたので、戸をあけて入ってみた。マッチをつけてみると、物置きは掘立小屋の壁を利用して建てたもので、掘立小屋の中に通じてはいない。床はなく土間になって、錆《さ》びた古い鍬《くわ》や、鋤《すき》や、つるはしや、こわれた犁《すき》なんかが置いてあるだけだった。マッチが燃えつきたので、おれたちは外に出た。そして錠の金具を押しこむと、戸締りはもとどおりみたいになった。トムはもう大喜びで、言った。
「さあ、これでいい。トンネルを掘ってジムを救い出すんだ。一週間はかかるぜ」
それから母屋にもどって、おれは裏口から入った……この家の人は鍵をかけないので、皮ひもを引っ張って掛金をはずすと、すぐに戸があくのだ。
だがそんなのはトム・ソーヤーのお気に召すような伝奇的《ロマンチック》なやりかたじゃない。トムはぜがひでも避雷針の針金を伝わって壁をよじ登らなければ承知しなかった。それで、途中までは三べんも登れたのだが、その都度《つど》足をふみはずして落っこって、三べん目にはもうすこしで頭をぶち割るところだったから、これは諦めなくてはなるまいとトムも考えた。しかしすこし休んでから、もういっぺんだけ、運を天にまかせてやってみると言って、それでやっと成功した。
次の朝、おれたちは明るくなるとすぐ起きだして、ニガーたちの住んでいる小屋に出かけ、犬をかわいがったり、ジムに食事を運ぶ役目の(もらっているのがジムなら、の話だが)|黒んぼ《ニガー》と仲よしになったりした。|黒んぼ《ニガー》たちはもう朝飯をすませて野良《のら》に出ようとするところだった。ジムの係りの|黒んぼ《ニガー》は、ブリキの鍋にパンや肉や何やを盛りつけていた。そしてほかの連中が出かけて行こうとしているときに、母屋から鍵がとどいた。
ジムの係りの|黒んぼ《ニガー》は、人の好さそうな、すこし足りないような顔をしていて、頭のちぢれ毛を糸でいくつもの玉にゆわえていた。魔女よけのおまじないだった。何でも、このところ夜になると魔女どもがしきりにこの|黒んぼ《ニガー》に悪さをして、妙なものをいろいろ幻《まぼろし》に見させたり、妙な話し声や物音をいろいろ聞かせたり、そういうことが生まれてはじめてというほど長く続いているのだそうだ。
それでだんだん興奮してきて、自分の災難を夢中にしゃべっているうちに、その|黒んぼ《ニガー》は食事運びの仕事があることをすっかり忘れてしまった。そこでトムが、
「このごちそうは何だい? 犬たちにやるのかい?」
すると、泥んこの水たまりに石ころをほうりこんだみたいに、|黒んぼ《ニガー》の顔にじわじわと笑いがひろがった。そして言うには、
「そう、犬に食わせるだよ、シッドさん。一匹の犬だけど。めずらしい犬だよ。見に行きたいんかね?」
「うん、行きたいね」とトム。おれは肘《ひじ》でトムをつっついて小声でささやいた。
「こんな朝早くにかい? 計画と違うぜ」
「うん、でも計画が変わったんだ」
しようがないな、と思いながらおれはついて行ったが、どうも気乗りがしなかった。掘立小屋に入ってみると、暗くってほとんど何も見えない。だがいるのはたしかにジムのやつで、おれたちの顔がわかると、こうどなりだした。
「おやあ、ハックさんじゃねえか! それにこりゃどうだ、そこにいるのはトムさんじゃねえかよ!」
だから言わないことじゃない。こうなることははじめからわかってたんだ。だが、おれにはどうしたらいいかわからない。わかったとしてもどうしようもなかった。というのは、案内の|黒んぼ《ニガー》が割りこんできて、こう言ったからだ。
「ひやあ、こいつはおったまげたぞ! ぼっちゃんがた、おっさんの知り合いだったのかね?」
おれたちも目が慣れてあたりが見えるようになった。トムはけげんそうに|黒んぼ《ニガー》をまじまじと見ながら、言った。
「ぼくたちがだれの知り合いだって?」
「だれのって、そら、その逃げてきたおっさんの」
「そんなことはないだろ。だが、どうしてそう思うのかね?」
「どうしてそう思う? だって、たったいま、このおっさんがぼっちゃんたちを知ってるような口をきいて、どなったじゃねえですか」
トムは狐につままれたような顔をしてみせながら、言った。
「フーン。変だなあ。どなったって、だれが? いつ? 何てどなったの?」
そしておれのほうをふり向くと眉《まゆ》ひとつ動かさずに言った。
「おい、だれかどなるのを聞いたかい?」
もちろんその返事はひとつしかない。「いいや。ぼくは聞かないね、ぜんぜん何も」
トムは今度はジムのほうを向いて、前に一度も会ったことのないような顔をして……
「お前、何かどなったかね?」
「いんや」とジム。「おらは何も言いましねえだ」
「ひとことも?」
「へえ、ひとことも」
「お前は前にぼくたちに会ったことがある?」
「いんや。会ったような覚えはないね」
そこでトムは、錯乱《さくらん》したような顔をして途方にくれている|黒んぼ《ニガー》に向かって、きびしい声で言った。
「お前、いったいどうしたのだね? だれかがどなったなんて、どうしてそんなことを考えたのだね?」
「やれやれ、また魔女の畜生ですだ。おらあ死んじまいたいだよ。いつもこんなふうにたぶらかして、おらを死ぬほどびっくらさせやがる。このことはだれにも言わねえでおくんなせえ、サイラス旦那に知れたらまたお目玉食うだから。旦那が言うには世の中に魔女なんぞいねえとよ。旦那が今ここにいなすったら何て言っただか、聞きてえもんた。今度ばかりは、おらを言いくるめようったってそうは行かねえところだったに。だが、どうせだめだよなあ。ものわかりの悪い人はいつまでたってもわかりが悪いんよ。自分でものを見るちゅうことがねえ。そんで、ものを見た人が、こんなことがあったんよと教えてやっても、てんから信用しねえ」
トムは十セントくれてやって、ぼくたちはだれにも言いはしないよ、これで髪の毛をくくる糸でも買いたまえと言った。そしてジムを見ながら、言った。
「サイラス叔父さんはこの|黒んぼ《ニガー》を絞《しば》り首にするつもりだろうか。主人のところから逃げるような恩知らずの|黒んぼ《ニガー》をつかまえたのがぼくだったら、引きわたすようなことはしないで、絞り首にしてやるね」
そして|黒んぼ《ニガー》が戸口のところで、もらった十セント玉をながめすかしたり、本物かどうか歯で噛んで調べたりしているあいだ、こうジムにささやいた。
「ぼくたちを知ってるようなそぶりをしちゃだめだよ。それから夜になって穴を掘るような音がしたら、それはぼくたちだよ。ぼくたちの手で自由の身にしてやるからね」
|黒んぼ《ニガー》がすぐ戻ってきたので、ジムはおれたちと握手するだけのひましかなかった。それでおれたちが、また来てもらいたければ来てあげるよと|黒んぼ《ニガー》に言うと、来てもらいたい、あたりが暗いときには特に来てもらいたい、魔女が出るのは暗いときで、そんなとき人についていてもらえるとありがたいから、という返事だった。
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三十五 堂々たる逃避
まだ朝飯には一時間ちかくあったので、柵をこえて二人で森にでかけて行った。というのも、トンネル掘りには灯りが要《い》るが、カンテラは明るすぎて人目をひいて剣呑《けんのん》だ、狐火という暗いところでぼんやり光る朽ち木をうんと集めて来よう、とトムが言いだしたからだった。そこでそんな朽ち木をひと抱えも持ち帰って、草の中に隠してから、腰をおろしてひと休みした。
するとトムが、さも不満そうに、言った。
「どうもおもしろくないね。何もかもやさしすぎて処置なしだ。むずかしい計画をこしらえるのがえらくむずかしい。しびれ薬を牢屋の番人にのませたくても、番人なんていないじゃないか。番人がひとりくらい、いるべきだよ。眠り薬をやるような犬さえいやしない。それで、ジムはといえば、十フィートの鉄の鎖で片足をベッドの脚につながれているのはいいが、その鎖だって、ベッドをちょいと持ちあげればはずせるという、いいかげんなものだ。叔父さんは叔父さんで、だれもかれも信用しちまって、鍵を平気であのカボチャ頭の|黒んぼ《ニガー》にわたすし、カボチャ頭を人に看視させることもしない。ジムは逃げようと思えばとっくにあの窓から逃げられたんだ。もっとも、十フィートの鉄を足にくっつけて旅をするわけにもゆくまいけど。
とにかく、ハック、こりゃひどいもんだよ。こんな間抜けな警護ぶりって見たことがない。むずかしいことは何から何までこっちででっちあげなくちゃならない。でも、まあしかたがないよ。ぼくたちはあり合わせの材料でせいぜいうまくやってゆこうよ。でも、とにかく、多大の困難と危険を克服して囚人を救出するぼくたちの名誉が、普通の場合よりずっと大きいということだけは確かだよ。何しろ、普通なら困難と危険をちゃんと手配するはずの人たちが、ちっともその手配をしてないもんだから、困難も危険も全部ぼくたちが考えださなきゃならないんだものね。
早い話があのカンテラの話だってそうだよ。カンテラが剣呑《けんのん》だなんて言ってるけど、冷厳な真実の光に照らして見るならば、ぼくたちはやむを得ずそういうふりをしているだけだもんな。なに、本当は松明《たいまつ》行列をやりながら仕事をしたって危ないことなんかありゃしないよ。ときに、いま思いついたんだけど、こんど折りがあったら鋸《のこぎり》をこしらえる材料を探しとかなくちゃ」
「鋸なんて何にするんだ?」
「何にするんだ? 鎖をはずすためにベッドの脚を挽《ひ》き切るんじゃないか」
「でもたった今言ったぜ、ベッドをちょいと持ちあげると鎖がはずれるって」
「やれやれ、きみらしいことを言うなあ、ハック・フィン。よくもまあ、きみはそういう幼稚園児童みたいなやりかたばかり思いつくねえ。きみは書物というものを読んだことがないのかい?……トレンク男爵とか、カサノバとか、ベンベヌート・チェリーニとか、アンリ四世とか、そういう牢やぶりの英雄たちの話をひとつも読んだことがないのかい? そういう無粋《ぶすい》なやりかたで囚人を救いだすなんてことは聞いたことがないよ。
いいかい、この道の最高権威といわれる人たちはだね、きまってベッドの脚を二つに挽き切って、もとのようにつないでおくのだよ。鋸屑《おがくず》は見つかるといけないから食べてしまい、どんなに目の鋭い家令にだって鋸で挽いたってことが見破られないように、ベッドの脚は完全無欠だと思わせるように、つぎ目には脂《あぶら》と泥を塗っておくんだ。そしていよいよ脱出準備のできた晩、ベッドの脚をヤッと蹴《け》ると、脚はパッと取れて、鎖がサッとはずれるから、もうしめたもんだ。あとは城壁になわ梯子《ばしご》を垂らしてするすると降りるだけだよ。そして濠《ほり》におっこって脚の骨を折るんだけど、それはなわ梯子の長さが十九フィート(六メートル)ばかり足りないからなんだ。でもそのへんにはもう馬も忠義な家来も来て待っているから、さっと鞍《くら》の上にひきあげられて、ラングドックでもナヴァールでも、どこでもいいから生まれ故郷に引きあげて行くのさ。何と華やかなもんじゃないか、ハック。ジムの小屋にも濠《ほり》があるといいのになあ。脱出の晩に時間があったら濠をひとつ掘ろうぜ」
おれは言った。「トンネルを掘ってジムを出すのに、何で濠なんか要るんだ?」
だが、トムは聞いてなんかいなかった。おれがいることなど忘れたみたいに、顎をさすりながらしきりに考えこんでいた。やがて、トムは溜息をつき、首をふり、また溜息をついて、言うことには、「いや、だめだ。そのための必要な条件がたりない」
「何のための?」
「ジムの足を鋸で切るためのだ」
「そんな無茶な! そんな必要はひとつもない。でもジムの足をちょん切ってどうするつもりなんだ?」
「それはだ、この道の最高権威でそんなことをした人が何人もいるんだよ。どうしても鎖をはずすことができなくて、手をちょん切って逃げたのだ。足だとますますいい。でもそいつはやめなくちゃなるまいよ。ジムの場合、必要な条件が足りないからな。それにジムは|黒んぼ《ニガー》だから、そんなことをする理由を理解できないだろうし、そうするのがヨーロッパの習慣だってこともわからないだろう。だから、これは諦《あきら》めよう。でもほかにやることがある。ジムになわ梯子《ばしご》を持たせよう。ぼくたちのベッドのシーツを引き裂けば、簡単になわ梯子ができる。そいつをパイの中に入れて差し入れるんだ。たいていみんなそうしている。ぼくなんか、もっとひどいパイだって食べたことがある」
「おいおい、トム・ソーヤー、きみは何てことを言うんだ。ジムになわ梯子なんて使いみちがないよ」
「使いみちはちゃんとあるよ。きみこそ何を言ってるんだ。何もわかっちゃいないんだな。ジムになわ梯子を持たせることがぜひ必要なんだよ。みんなそうするんだ」
「いったい、なわ梯子で何をするんだ?」
「何をする? ベッドの中に隠すってことができるじゃないか。だれだってそうするんだから、ジムにもそうしてもらわなくちゃ。ハック、きみはいくつになっても物事を本式にやろうという気にならないらしいな。前例のないようなことばかりやりたがってるじゃないか。たとえジムがなわ梯子で何もしなかったとしても、それがどうしたってんだ。脱出したあと、ベッドの中に証拠物件として残るじゃないか。みんなが証拠物件を欲しがらないとでも思ってるのかい? もちろんみんな欲しがるにきまってるさ。だのに、きみは何も残してやらないつもりなのかい? それじゃ困るじゃないか。そんなことって聞いたことがないよ」
「わかったよ。規則がそういうふうになっていて、どうしても必要なのだったら、いいよ、ジムになわ梯子を持たせよう。なにもおれは規則をやめちまえなんて言うつもりはないんだから。だがひとつ提案があるんだ、トム・ソーヤー。つまりだね、ジムになわ梯子を作ってやろうというので、おれたちのベッドのシーツをやぶきにかかったら、こりゃ間違いなしにサリー叔母さんとひと悶着《もんちゃく》おこすぜ。それでおれが考えるにだ、ヒッコリーの樹皮《かわ》でなわ梯子をこしらえることにしたら、金は一文もかからないし、何も品物をむだにすることもない。そしてどんな上等の布の梯子にもまけないくらい、ちゃんとパイのあんこにもなるし、わらぶとんの中に隠すことだってできるじゃないか。それにジムのやつは牢やぶりのほうじゃまだ新米だから、どんな梯子をあてがっても気にしな……」
「やれやれ、呆《あき》れたもんだ、ハック・フィン! ぼくがきみのように物を知らないんだったら余計な口はきかないね。……そうとも、黙っているね。国事犯人《こくじはんにん》がヒッコリーの樹皮の梯子で脱出するなんて話がどこの世界にある? まったくあいた口がふさがらないよ」
「じゃあいいよ、トム。きみの言うとおりにしたらいい。でも、せめてシーツはおれの忠告をきいて、ベッドからはがさずに物干場から拝借させてくれないか」
よかろう、と言って、トムはそのことからまた別のことを思いついて、言った。
「シャツも一枚拝借してきてくれよ」
「シャツなんか何にするんだ、トム?」
「ジムが日記をつけるのに使う」
「日記……馬鹿な。ジムは字が書けないじゃないか」
「かりに字が書けないとしてもだ、古いスプーンか樽《たる》のたがの切端からペンを作ってやったら、いろんな印をつけることができるじゃないか」
「ペンなら、鵞鳥《がちょう》から一本羽根をひっこ抜けば、もっと上等のが、もっと早くできるのに」
「囚人が幽閉《ゆうへい》されているお城の塔の中に、羽根をひっこ抜けるような鵞鳥がうろちょろしているものか、おたんちん。囚人というものはだね、とてつもなく固くって頑丈《がんじょう》で細工しにくい古い真鍮《しんちゅう》のろうそく立てとか、何かそういう手近な道具の切端から、ペンを作るときまっているのだよ。そして、そいつを石の壁にこすりつけてとがらせなくちゃならないので、仕上げるのに何週間も何週間も、何ヵ月も何ヵ月もかかるんだ。ほんとの囚人なら、かりに鵞鳥の羽根を持っていたって、使いはしないよ。本式じゃないからな」
「じゃあ、インキは何から作るんだ?」
「鉄の錆《さび》と涙から作ることが多いんだ。でもそれは、ぼんくらの囚人や女の囚人のやることで、この道の最高権威者はみんな自分の血を使うのだよ。ジムだってそうしたらいい。そのほか、自分がどこに幽閉されてるかってことを世間の人に知らせるために、ありきたりの短い謎めいた通信文を出したいときには、ブリキの皿の底にフォークで書いて窓から投げだせばいいんだ。≪鉄仮面≫なんかいつだってそうしたし、これはとてもいい方法なんだ」
「ジムはブリキの皿なんか持ってないぜ。鍋でご飯をもらってるから」
「そんなことは何でもない。ぼくたちが皿を都合してやればいい」
「でもだれにも読めないよ、ジムが皿に何か印をつけても」
「そんなことは問題じゃないよ、ハック・フィン。ジムとしてはだね、皿に何か書いて投げだしさえすれば、それでいいんだ。読める必要はないんだ。そもそも、囚人の書いたものなんて、皿に書いたものだろうと何だろうと、半分は読めないのだよ」
「それじゃ、皿をむだにして何になるんだ?」
「気にしなくっていいんだ、囚人の皿じゃないんだから」
「でもだれかの皿だろ?」
「だとしたらどうなんだ? だれの皿だろうと囚人の知ったこと……」
と言いかけて、トムは話をやめた。朝飯の合図の角笛が聞こえてきたからである。おれたちは母屋のほうに歩きだした。朝のうちに、おれは物干場のロープから、シーツを一枚にシャツを一枚はずして拝借すると、古い袋を見つけてしまいこんだ。
それからトムとふたりで狐火を取りに行って、そいつも袋に入れた。拝借したとおれが言うのは、おれのおやじがいつもそう言っていたからだが、トムは、これは拝借じゃなくて泥棒だと言った。トムによると、おれたちは囚人の代理人なのだそうだ。
そして囚人というものは、品物が手に入りさえすればそれでいいので、どんなふうに手に入れたかってことは問題にしないし、世間の人だって何も文句を言わないのだそうだ。トムが言うことには、脱出に必要な品物を泥棒しても、囚人の罪にはならない。泥棒することが囚人の権利なのだ。だからおれたちが囚人の代理人であるかぎり、牢から脱出するのにすこしでも役に立ちそうなものは何をかっぱらってもいいという完全な権利がある。でもおれたちが囚人でなかったとしたら話はまるでちがってくる。囚人でもないのに泥棒をするのは、人間の屑《くず》なのだそうだ。そういうわけで、おれたちは手当たりしだい何でもかっぱらうことにした。
それでも、この相談があってから幾日かたったある日のこと、おれが|黒んぼ《ニガー》の家族の畑から西瓜をひとつかっぱらって食っちまったら、トムがえらく文句を言って、おれに|黒んぼ《ニガー》たちのところに行って、わけは話さずに十セント玉をひとつやってこいと命令した。必要なものなら何でもかっぱらっていいとだけ言ったんだから勘違いしちゃ困る、とトムは言った。おれは、だっておれはあの西瓜を必要としていたんだ、と主張したが、トムは、いや、牢を脱出するために必要としたのじゃないから、そこが違う。これが、家令を刺し殺すための短剣を西瓜の中に隠してジムに差し入れたい、ついては西瓜がひとつ欲しい、そういうことならさしつかえなかったのだと言った。
そこでおれはもうそれ以上さからわなかったが、西瓜をかっぱらうチャンスのあるごとに、そんな七面倒《しちめんどう》くさい区別をいろいろ立てなきゃならないんだったら、囚人の代理人になってもちっともよいことはないと思った。さて、話をもとにもどすと、その日の朝、おれたちは、みんなが仕事場に出はらって、中庭のあたりに人かげのなくなるまで待った。それから、ジムの小屋と背中合わせの例の物置きの中にトムが袋を持ちこみ、おれはすこし離れて見張りをした。やがてトムが出てきたので、二人で薪が積んであるところに行って、腰をおろして話をした。トムが言うには、
「さあ、これで何もかも大丈夫。あとは道具だが、これも簡単に手に入る」
「道具?」とおれが言う。
「うん」
「何の道具?」
「穴を掘る道具にきまってるじゃないか。ジムを出す穴を口でかじりあけるわけにはいくまい」
「物置きにあったおんぼろつるはしや何か、|黒んぼ《ニガー》を出す穴を掘るには手ごろじゃないのかな?」とおれは言った。
トムは、泣きたくなるほど露骨に、ああ憐れなやつだ、というような顔をした。そして言った。
「ハック・フィン。脱出の穴を掘るために、つるはしとかシャベルとか、そんな近代的な道具一式を囚人が戸棚にしまって持っているなんて話を、一度でも聞いたことがあるかい? まあ、考えてもみてくれ……きみにすこしでも理性というものがあればだがね……そんな道具なぞ持っていたら、牢やぶりの英雄になるどんなチャンスがあるというんだ? そんなものを持たせるくらいなら、いっそ牢の鍵を貸してやって、あっさり逃がしたほうがましだよ。つるはしにシャベルか! 王様が牢屋に入ったって、そんなものはもらえやしないよ」
「なら、つるはしやシャベルが要らなくて何が要るんだ?」
「包丁が二本だ」
「ええっ? 小屋の土台を掘ってトンネルをこしらえるのに?」
「そうだよ」
「よせよ、トム、馬鹿馬鹿しい!」
「どんなに馬鹿馬鹿しくったってかまわないんだ。それが正しい、本式のやりかたなんだから。……そしてぼくの聞いたかぎりでは、そのほかに方法はひとつもないのだよ。ぼくはそういう話の本なら、全部読んで知ってるんだ。みんな包丁でトンネルを掘る。……それもいいかい、きみ、やわらかい土なんかじゃなくて、たいていは固い岩をくり抜くんだよ。そこでトンネルを完成するのに何週間も、何週間も、何週間も、いつまでも、いつまでもかかるんだ。マルセーユ港外のイフ城塞《じょうさい》の土牢の囚人だった、あのモンテ・クリスト伯のことを考えても見ろよ。この人がトンネルを掘りあげるのにどれくらいかかったと思う?」
「わからない」
「まあ、当ててごらん」
「わからないけど、ひと月半くらいかな?」
「三十と七年だよ!……そして中国に出て来たんだ。それが本当のやり方なんだよ。ジムの牢屋の土台も固い岩だといいのに」
「ジムは中国に知った人なんかいないぜ」
「そんなことは問題じゃないんだってば! モンテ・クリスト伯だって、知った人はいなかったんだ。しかしきみはどうも脇道《わきみち》にばかりそれるね。どうしてちゃんと本筋を追うことができないんだ?」
「わかった、わかった。おれはね、ジムが娑婆《しゃば》に出られさえすりゃいいんで、どこの国に出て来ようと気にしないよ。そして当人も気にしてないかもしれないよ。しかしそれがどうでも、包丁でトンネルを掘ってしまうのには、ジムが年をとりすぎてるってことだけは確かだ。ジムはそれまで保《も》つまい」
「いいや、保つとも。小屋の土台はやわらかい土なんだぜ。そいつを掘り抜くのに三十七年もかかるとは、きみだって思うまい」
「どれくらいかかるのかい?」
「それなんだが、心ゆくまで時間をかけたりすると、ちょっと危ないんだ。というのが、サイラス叔父さんは王様と公爵にだまされて、ニュー・オーリアンズあたりの農場にジムのことを問い合わせているんだけど、その返事がやがて来る。するとジムがそんなところから来たんじゃないってことが知れる。そしたらつぎに叔父さんは、ジムを広告に出すとか何かそんな手を打つだろう。だからトンネル掘りに心ゆくまで時間をかけていたりすると危ない。本来なら二年くらいかけなきゃいけないんだが、そんなことをしちゃいられない。それでだね、情勢が流動的だから、ぼくとしてはこう提案したい。
まずトンネルは急げるだけ急いで掘ってしまおう。そのあとで三十七年かかったふりをするのさ。そうしておいて、急に危険が迫ったら、さっとジムをさらってずらかろう。ぼくはそうするのが一番だと思う」
「うん、そいつは名案だ」とおれ。「うんと手間どるふりをするだけなら、一文もかからないし、何のめんどうもない。なんなら、百五十年かかったことにしてもいい。そうしておけば、仕事にかかってから余裕があるからね。じゃあ、おれはこれから包丁を二本かっぱらってくる」
「三本かっぱらって来いよ」とトム。「鋸《のこぎり》をこしらえるのに一本要るから」
「あのね、トム。こんな提案をするのが規則違反でも罰当たりなことでもないんだったら、聞いてもらいたいんだが、燻製《くんせい》小屋の裏の羽目板に、錆びた古い鋸の刃が一枚さしこんであるぜ」
トムはげんなりしたような、気落ちしたような顔をした。
「ハック、きみに何を教えようとしてもむだだな。いいから走って行って、包丁をかっぱらって来てくれよ……三本だよ」
そこでおれは言われたとおりにした。
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三十六 避雷針《ひらいしん》
その晩、みんなが寝しずまった頃合いを見はからって、おれたちは避雷針の針金を伝わって庭におり、例の物置きに入って戸をしめると、袋から狐火を出して積みあげ、仕事にかかった。
まず、仕切りの壁の真中を中心に、四フィートか、五フィートばかりの幅に土間をきれいにかたづけた。トムは、このちょうど向こうがジムのベッドなので、ここをどんどん掘って行けば、トンネルが通じても向こうからは何も見えないはずだ、ベッドのかけぶとんが地面すれすれまで垂れているから、そいつをはねあげでもしなきゃ、トンネルがあるなんてことはわからない、と言った。それからおれたちは包丁をふるって、真夜中ちかくまで掘りに掘った。
すると二人ともくたくたになって、手には水ぶくれができたのに、仕事のほうはさっぱりで、ちょっとでも穴が掘れたようにさえも見えない。
とうとうおれは言った。
「こりゃあ、三十七年ぶんの仕事じゃないよ、トム・ソーヤー。三十八年ぶんの仕事だ」
トムは何も言わなかった。だがやがて溜息をついて、掘る手を休めると、長いことあれこれ考えている様子だったが、言った。
「これではだめた、ハック。こんなやり方じゃうまくゆかない。ぼくたちが囚人なら、何十年かけたってかまわない、ちっとも急ぐことはないんだから、こんなやり方でもいい。それに囚人なら、仕事ができるのは一日のうちで牢番の交替する二、三分のあいだだけなんだから、手にまめができるなんてこともない。何年も何年もかけて、作法どおりの正しいやり方でせっせと掘ってゆけばいい。だが今のぼくたちは、ぐずぐずしているわけにはいかない。急ぐ必要があるし、時間をむだにはできないんだ。もうひと晩もこんなことをしていたら、手のまめがなおるまで一週間も休まなきゃなるまい。そのくらいたたなきゃ、また包丁に触ることもできまい」
「じゃあどうしよう、トム?」
「うん、いま話すよ。これはまっとうなことじゃないし、牢破りの仁義にそむくことだから人に聞かれると困るんだが、道はひとつしかない。つるはしで掘って、包丁でやったというふりをするよりしかたがない」
「そう来なくっちゃ!」とおれ。「ますます冴えてくるじゃないか、トム・ソーヤー! 仁義《じんぎ》にそむこうとそむくまいと、穴掘りはつるはしにかぎるよ。それに、おれとしちゃ、仁義なんかどうだっていいんだ。|黒んぼ《ニガー》なり、西瓜《すいか》なり、日曜学校の本なり、何かを盗もうとするとき、おれは、どういうやり方で盗むかってことにはこだわらないね。欲しいのは|黒んぼ《ニガー》さ、西瓜さ、日曜学校の本さ……そのほかのことはどうでもいいんだ。つるはしがいちばん手っ取りばやいとなったら、|黒んぼ《ニガー》なり、西瓜なり、日曜学校の本なりを、おれならつるはしでさっさと掘っちまう。そしてその道の権威が何と言おうとくそくらえだ」
「いいかい、きみ」とトムは言った。「今のような場合につるはしを使ったり、それを包丁でやったふりをしたりするのは、ちゃんと申し開きの立つことなんだよ。さもなければ、なんでぼくがそれを認めたりするものか。みすみす規則が破られるのを、手をこまねいて見ていたりするものか。……正しいことはどこまでも正しく、間違ったことはどこまでも間違ったことなんだ。そして知識と分別があるかぎり、人は間違ったことをしちゃならんのだ。包丁だというようなふりをしないで、つるはしで掘ってジムを逃がそうという考えは、きみなんかには向いているかもしれないよ。きみはわかっちゃいないんだからな。だがぼくには向いていないのだ。ぼくには、して良いことと悪いことのけじめがわかるのだから。包丁を取ってくれ」
トムは自分のを持っていたのだが、そう言われておれは自分の包丁をわたした。
するとトムはそいつを投げすてて、言った。
「包丁を取ってくれ」
おれはいったい、どうしたらいいのかさっぱりわからなかったが、はたと思い当たって、がらくたの中からつるはしを探しだし、トムにわたした。するとトムはだまってそいつを受け取って、穴掘りにかかった。
トムはいつもこんなふうに潔癖《けっぺき》で、筋を通すということをうるさく言った、そこでおれはシャベルを取った。それから二人で掘ってはしゃくいだし、掘ってはしゃくいだし、猛烈な勢いで働いた。三十分たつと、二人ともへたばってしまったが、それでも大威張りで人に見せられるような穴が掘れた。母屋の二階の部屋に戻ってから、窓の外を見ると、トムが避雷針の針金を一生懸命登ろうとしているが、手が痛いのでちっとも登れないでいるのが見えた。とうとうトムは、
「だめだ、登れない。どうしたらいいかなあ。何かうまい考えはないか?」
「あるけど、本式じゃないかもしれないぜ。階段からあがってきて、避雷針の針金だってふりをするのさ」
トムはそのとおりにした。
つぎの日はトムが母屋を荒して、ろうそくを六本と、ジムにペンを作ってやるための「しろめ」のスプーン一本に真鍮《しんちゅう》のろうそく立て一本をかっぱらった。おれは|黒んぼ《ニガー》たちの住居のあたりをうろついて、すきを見てブリキの皿を三枚せしめた。トムは二枚じゃ足りないと言ったが、どうせジムが窓から皿をほうりだしても、窓の下のイヌゼリやチョウセンアサガオの中にもぐってしまって、だれの目にもつかなくなるのだから、おれたちが回収してやればまた使えるじゃないかとおれが言うと、なっとくしてくれた。
それからトムは言った。
「さて、これから考えなきゃならんのは、どうやってジムのところにいろんな物をとどけるかってことだ」
「トンネルができたら、あそこから運びこめばいい」
そうおれが言うと、トムはただもう軽蔑したような顔をして、そういう白痴的な思いつきは聞いたことがないというようなことを言って、思案にふけりだした。それからややあってトムは、二つ三つ方法を思いついたが、どれにするかはまだきめる必要がない、それよりもまず、ジムに事態を話しておかなきゃならん、と言った。
その晩、十時をちょっと過ぎたころ、おれたちはちょろまかしたろうそくを一本持って、避雷針の針金をつたわっておりて行った。掘立小屋の窓のところで耳をすまして模様をうかがうと、ジムのやつはいびきなんかかいている。ろうそくを投げこんでみたが、目をさまさない。そこでおれたちは物置きに入って、つるはしとシャベルで掘りまくり、二時間半くらいでトンネルを完成した。それからジムのベッドの下から掘立小屋の中に出てくると、手さぐりでろうそくを見つけだし、そいつをつけた。しばらくベッドのそばに立って、ジムが身も心も元気そうなのを見とどけてから、静かにゆり起こした。ジムはおれたちの姿を見ると泣くほど喜んで、ハックさんよ、トムさんよ、会いたかったんよとなつかしがって、しっかりした「たがね」を一本見つけて来てもらいたい、そしてすぐにも鎖をぶった切ってずらかろうと言った。
だがトムは、そんなやり方が本式の牢破りの法ではないゆえんを説いてから、腰をおろして、おれたちの立てた遠大な脱出計画のことを話して聞かせた。そしてその遠大な計画は、急に危険が迫るようなことがあれば、すぐさま緊急脱出の計画に切りかえるのだから、何も心配なことはない、どんなことがあっても、必ず娑婆《しゃば》に出してやるから安心しろと言ってやった。
するとジムは、そういうことならそれでようがす、と言った。おれたちはしばらくすわりこんで昔の話などをした。そしてトムがいろいろと質問するのに答えてジムが言うには、サイラス叔父さんは一日か二日にいっぺんはいっしょにお祈りをしに小屋に来てくれる、サリー叔母さんはジムが居心地よくしているか、食い物は十分もらっているかを見に来てくれる、二人ともこの上なくやさしくしてくれているという話だった。それを聞くとトムは言った。
「それでわかったぞ、どうしたらいいのか。叔父さんと叔母さんを利用して品物を差し入れるとしよう」
おれは、「そんなことをするやつがあるか。そんなひどい話って聞いたことがない」と言ったが、トムはおれにはかまわず、差し入れの話をどんどん進めて行った。かれは、自分の計画を決めたときには、いつでも、こうなのだ。
トムが言うには、なわ梯子入りのパイだとかそういう大きな品物は、ジム係りの|黒んぼ《ニガー》のナットを利用して差し入れる。だからジムは、品物が隠されてないか気をつけるようにして、何が出てきても、驚いてはいけない。それから、小さな品物は叔父さんの上衣のポケットに入れておくから、ジムはうまく掏《す》り取らなくちゃいけない。またチャンスがあれば、叔母さんのエプロンのひもに物をくくりつけるし、エプロンのポケットにも何か入れておく。品物の種類はこれこれで、その使い道はしかじかである。それからジムは自分の血でシャツに日記をつけなくちゃいけない。そのようなことをトムはすっかり話してやった。
ジムは、そういうことをして何になるのか、大体においてわからないようだったが、お前さまがたは白人だから、おらたちよりものがわかっていなさる。だから安心して、トムさんの言うとおりに何でもやりますだよ、と言った。
ジムはコーン・パイプを何本も持っていてタバコもたっぷり持っていたから、おれたちは実に愉快な、社交的なひとときを過ごした。それからまたトンネルをくぐって、母屋にもどって寝た。二人とも手はまるで赤むけだった。だがトムは意気揚々《いきようよう》としていた。そして言うことには、こんなすばらしい、知的な楽しみを味わうのは生まれてはじめてだ。なろうことなら、この事業におれたちの余生を捧げて、ジムの救出の仕事はおれたちの子供の代まで残しておきたい。ジムのほうでも、慣れればだんだんこの事業が気に入ってくるはずだ。そんなふうにして救出を八年ものばすことだってでき、そうなるとこれは世界新記録だから、この事業に手をかしたおれたちはみんな有名人になるだろう……そういうことをトムは話した。
朝になって、おれたちは薪《まき》置場に行って、真鍮《しんちゅう》のろうそく立てを手頃な大きさに叩き割った。トムはそいつと、それから「しろめ」のスプーンをポケットにしまった。それからニガーたちの住まいのほうに行って、おれがナットに話しかけているすきに、トムがろうそく立てのかけらを鍋の中のとうもろこしパンの中に押しこんだ。それから、うまくいくだろうかとふたりでナットについて行った。するとうまくいったの何の、ジムはかぶりついたとたんに、歯を全部折りそうになった。実に申し分ない、とトムもそう言っていた。ジムのやつは、パンの中によくまぎれこむ石か何かのふりをしていたが、それからというもの、フォークで二、三度突き刺してからでなくては、どんなものにもかぶりつかなくなった。
そうやっておれたちがほの暗い小屋の中に立っていると、ジムのベッドの下から、もっくり、もっくりと犬が二ひき現われたと思うと、あとからあとから湧《わ》いてでて十一ぴきにもなったから、小屋の中は息もつけなくなった。しまった、物置きの戸をしめるのを忘れてた! |黒んぼ《ニガー》のナットのやつは「出たぁ!」と叫ぶなり、犬どものあいだにひざをついて、頭をかかえこみ、今にも死にそうな声をだして、うなりだした。
トムが戸をパッとあけてジムの肉をひときれほうった。犬どもがそいつを追う。トムは自分も出て行ったが、すぐ戻ってきたので、物置きの戸をしめてきたな、とわかった。それからトムは、今度はナットをごまかしにかかり、なだめたり、やさしい口をきいてやったりして、何かまた悪いものでも見たような気がしたのかい、とたずねた。するとナットは立ちあがって、パチクリあたりを見まわして、言った。
「シッドさん、こんなこと言やあ、おらのことを馬鹿じゃねえかと思わっしゃるだろうけんどよ、たった今、百万びきもの犬だか、悪魔だか、何だかを、おら、たしかに見たような気がするんよ。それが嘘なら、今ここでおら、おっ死《ち》んでもかまわねえ。本当だ。それにシッドさん、おらやつらに触ったんよ、……本当に触ったんよ。おらの上におっかぶさっていやがった。ええ、口惜しい、一度でええから、あいつら魔女どもの一ぴきでも取りおさえてやりてえ。……一度でええから。……おら本当にそう思うんよ。でもまあ、やつらがおらのこと放っといてくれりゃ、それに越したこたぁねえだよなあ、まったく」
するとトムが、「なるほど。ぼくの考えを言おうか。魔女たちがだよ、この逃亡奴隷の朝めしどきにばかり出てくるのは、なぜだと思う? それはね、おなかがすいているからだよ。そのためなのだよ。だから魔女のお供《そな》えのパイをこしらえなきゃならない。お前はそれをやらなきゃだめだよ」
「そらぁ困ったな、シッドさん。どうやって魔女のパイをこしらえたらええだかね? おら作り方を知らねえだよ。そんなもん、聞いたこともねえ」
「そう。じゃあ、ぼくがこしらえてあげなきゃなるまい」
「やってくださるかね、シッド坊っちゃま? お願え申すだよ、拝《おが》みたてまつるだよ」
「よろしい、ひきうけた。ほかならぬお前の頼みだ。お前はぼくたちによくしてくれたし、この逃亡奴隷を見せてもくれたからね。だが、それについては、お前もよく気をつけてもらいたい。ぼくらがやって来たら、お前はうしろを向いて、ジムのごちそうにぼくらが何を入れようとも、見て見ないふりをしなくちゃいかん。それからジムがごちそうをぱくつくとき、何だかわからないが何か起こるかもしれないけどお前は見ないようにしなくちゃいけない。それからこれは特に大切なことだけど、魔女のお供えをいじったりしちゃいけないよ」
「お供えをいじくる? 何ちゅうことを言うだね、シッドさん! 一億万ドルもらっても、そんなもんに指一本触れることでねえだよ!」
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三十七 最後のシャツ
話は全部きまった。そこでおれたちは外へ出て、裏庭のごみの山のところへ行った。そこには、古靴とかぼろとか瓶《びん》のかけらとか、使いものにならなくなったブリキ製の道具とか、そんながらくたばかりがつみあげてある。そこらじゅうひっかき回したあげく、古いブリキの洗い桶《おけ》を見つけだし、できるだけうまく穴をふさいだ。こいつでパイを焼くためだ。それを地下室に持っておりて、そいつに一杯小麦粉を盗んで、朝飯を食べに家の中へ入った。そのほかに、屋根板を打つのに使う釘を二本見つけたのだが、トムが言うには、囚人が牢屋の壁に自分の名前や悲しい心のうちを書きつけるのにちょうどいいというので、その一本は、サリー叔母さんのエプロンが椅子にかかっていたのでそのポケットに入れ、あとの一本は、サイラス叔父さんの帽子のバンドに差しておいた。帽子のほうはタンスの上にあった。どうしてそんなところに入れたかといえば、子供たちのしゃべっているのを聞いたところによると、叔父さんと叔母さんは今朝、例の逃亡奴隷の小屋へ出かけるということだったからだ。
それから朝飯に行って、トムは「しろめ」のスプーンをサイラス叔父さんのポケットにしのびこませた。だがサリー叔母さんがまだ来てなかったので、しばらく待ってなければならなかった。叔母さんがやって来たのをみると、真赤になって怒っていて、食前のお祈りがすむかすまないかのうちに、片手でコーヒーをつぎながら、そして、もう一方の手の指ぬきでいちばん手近の子供の頭をコツンとたたきながら言った。
「どこもかしこも探してまわったけど、あんたのもう一枚のシャツがどこへ行ったのか、さっぱり見当がつかないのよ」
おれは、心臓が肺や肝臓やなにかのあいだを落ちて行くような感じで、その心臓のあとを追っかけて、ちょうど飲みこんだばかりのパンの固い皮が喉《のど》をくだって行った。ところが下からつきあげて来た咳《せき》と途中で正面衝突して、その勢いでパンはテーブルの向こう側まで鉄砲玉みたいに飛んで行き、子供たちの一人の目の玉に命中したものだから、その子は釣針の先のミミズみたいに体をねじまげて、敵陣へつっこむ兵隊みたいにでかい声でわめきだしてしまった。トムもへどもどするし、ちょっとのあいだとんでもない騒ぎになって、おれは入札者があるものなら、半値で、自分の地位を売ってしまいたかった。だが、すぐみんな平静になった。みんながそんなに肝《きも》を冷やしたのは、事があんまりだしぬけで、不意をつかれたからだった。サイラス叔父さんが言った。
「いや、まったく不思議だ。わけがわからん。脱いだことははっきりおぼえている。というのはだな……」
「というのはですね、たった一枚しか着てないからですよ。まったくいうことが聞いて呆れる。あんたが脱いだのはわたしだって、ちゃんとおぼえています。あんたのそのぼんやりした記憶なんかより、もっとしっかりとしたやり方でね。だって昨日《きのう》物干綱にかかってたんですから。……わたしはちゃんとこの目で見たんですから。それが今はなくなってる。不思議もなにも、話はそれだけですよ。とにかく、赤いフランネルのシャツに着かえてもらいますよ。そのうちひまができたら新しいのを作りますから。これで三枚目ですよ、この二年間に新しいシャツを作るのは。
ほんとに、あんたにシャツを着せとくのに、わたしはいっときも手がはなせやしない。一体あんたがあのシャツをみなどうしちまうのか、見当がつきませんね、このわたしには。あんたくらいの年にもなれば、シャツをなくさないくらいのことは、もうそろそろできたってよさそうなもんじゃありませんか」
「そりゃわかっているよ、サリー。できるだけのことはやっているんだ。しかしな、わしのせいだけでもないにちがいない。というのはだな、自分で着ているときでなきゃ、シャツなんてものは目にふれもしないし、手にふれもしないからだ。まさか着ているうちになくしたおぼえはないものな」
「そりゃね、あんたにそんな覚えがないんなら、あんたのせいじゃないんでしょう。でも、なくせるものなら、きっとなくしてしまったでしょうけどね、あんたなら。それに、なくなったのはシャツばかりじゃありませんよ。スプーンもなくなってるんです。いえ、ほかにもなくなったものがあるんだけど、とにかくスプーンは、十本あったのに九本しかないんです。シャツなら小牛が持ってったということもあるかもしれないけど、まさかスプーンを持って行く子牛はいませんからね」
「それで、その、ほかになくなったものというのは何だね、サリー?」
「ろうそくが六本ないんです。まあ、ろうそくはネズミがとったのかもしれません。きっとそうなんでしょう。だって、あんたは、いつだってネズミの穴をふさぐふさぐといいながら、けっきょく実行しないんだもの、この家ごとネズミに引かれたって不思議はありませんよ。気のきいたネズミなら、あんたの髪の毛の中へもぐりこんで寝てるでしょうよ。ほんとにあんたっていう人は、そんなことされて気がつかないような人なんだから。でもね、まさかスプーンはネズミのせいにはできませんよ。そんな言いわけは、わたしには通用しませんからね」
「いや、サリー、わしも悪かった。認めるよ。怠慢《たいまん》だった。しかし明日という明日は、かならずネズミの穴はふさぐから」
「いいえ、けっして急ぎません。来年でけっこうです。マチルダ・アンジェリナ・アラミンタ・フェルプス!」
指ぬきがコツンときて、頭をぶたれたその女の子はあわてて砂糖つぼから手をひっこめた。ちょうどそのとき、黒ん坊の女が廊下に入って来て言った。
「奥さま、シーツが一枚なくなりました」
「シーツがなくなったって! まあ、ほんとに、なんてこってしょう!」
「今日穴をふさぐから……」
サイラス叔父さんは泣きそうな顔で言った。
「黙っててください。シーツをネズミが引いたとでも言うんですか。リズ、どこへなくなってしまったんです?」
「それが、さっぱり見当がつかねえんです。昨日は物干綱にかかってたのに、どっかいっちまって、今はもう見あたらねえんです」
「この世の終わりだね、これじゃあまるで。生まれてから今日まで、こんな目にあったことってありゃしない。シャツに、シーツに、スプーンに、ろうそくが六本……」
「奥さま」と、そこへ混血娘がやってきて、「真鍮《しんちゅう》のろうそく立てがなくなってます」
「あっちへお行き、うるさい娘だね。でないとフライパンをぶっつけるよ!」
まるでもう、叔母さんはカッカときていた。おれはこっそり逃げだすチャンスをうかがっていた。この大嵐がなんとかおさまるまで、そっと抜けだして森へ行っていようと思った。
叔母さんはしばらくは猛烈に怒りつづけて、ひとりでがんがんどなりちらし、ほかの連中はみんなウンともスンとも言わずに神妙《しんみょう》にしていた。そのうちに、サイラス叔父さんは、まるで狐につままれたような顔をしながら、ポケットから例のスプーンをだした。叔母さんはぴたりとどなるのをやめ、口をぽかんとあけ、両手をふりあげたまま突っ立っていた。おれはといえば、それこそエルサレムでもどこでも、思いきり遠いところへ雲がくれしたい気持ちだった。だがそれも束の間で、叔母さんがしゃべりだした。
「思ってたとおりだ。最初からそのポケットにじっと入れてたってわけなんですね。ほかの物もきっとそこに入っているんでしょう。一体どうしてそんなところへ入ったというんです?」
「ほんとに知らないんだよ、わしは」と叔父さんは言いわけがましく言った。「知ってればもちろん話すさ。朝飯の前、聖書の研究をしておったんだ。使徒行伝の十七章だ。今朝それについて説教することになってるからな。きっとそのとき、聖書をポケットに入れるつもりが、うっかりして知らないまにスプーンを入れてしまったんだろう。うん、そうにちがいあるまい。というのはだな、聖書がここに入っていないからだ。とにかく行って見てくる。もし聖書がもとのところにあったら、たしかに聖書をポケットに入れなかったとわかるわけだ。そしたら、聖書を下において、そのかわりにスプーンを取りあげたということが証明される。そして……」
「ああ、もう、どうか後生だから、わたしを静かにさせてくださいな。さあ、みんな、子供たち向こうへ行って! もうそばへ来ないでちょうだい、わたしの気持ちがおさまるまで」
そんなにがみがみどならなくったって、たとえひとりごとくらいに言ったって、おれにだって耳はあるんだから聞こえるというものだ。たとえおれが神経のない木か石コロだって、黙って席をたって叔母さんの言うことを聞いただろう。
とにかく、おれたちが居間を通りぬけていたとき、叔父さんは帽子を取りあげた。すると、あの屋根板用の釘がぽろりと床の上に落ちた。叔父さんはただ黙って拾いあげて暖炉の棚にのせ、ひとことも物を言わずに出て行った。トムはその叔父さんの様子を見て、スプーンのことを思いだし、こう言った。
「まあ、叔父さんに物を運んでもらおうとしてもだめだね。頼りにならないもの」
それからまた、トムは言った。「でも、スプーンのことでは、自分では知らないうちにではあるけれど、とにかくおれたちにいいことをしてくれたんだ。おれたちも、叔父さんの知らないうちにいいことをしてあげようや。……ネズミの穴をふさいであげるんだ」
地下室にはやけにたくさん穴があって、たっぷり一時間はかかったが、水ももらさぬくらいぴっちり穴をふさいでしまった。するとそのとき階段に足音が聞こえたので、明りを消してかくれていると、おりて来たのは叔父さんで、片手にろうそく、片手に穴をふさぐ材料を持って、まるで一昨年《おととし》みたいにぽかんとした顔をしていた。穴から穴へとうろうろと見てまわって、けっきょく全部見てあるいた。それから五分ばかりじっと立っていた。流れたろうをろうそくから取りながら、しきりに考えこんでいる。やがてくるりと向きなおって、こんなことを言った。
「いや、どう考えても、いつやったのか、いっこうに覚えがない。これで、ネズミのことではわしが悪いんじゃないとサリーに言ってやれるわけだが、まあ、よかろう。……放っておけ。そんなことをしたって、なんの役にも立つまいからな」
そこで、叔父さんは口の中でぶつぶつ言いながら階段をのぼって行ったので、おれたちもそこを出た。すごく気のいいおじいさんだった。いや、今だって、いつだってそうだ。
どうやってスプーンを手に入れるか、トムは大いに心をなやましていた。しかし、どうしても手に入れなくちゃいけない。そう言って、トムは頭をしぼった。やっと計略をしぼりだすと、どうやるのかおれに話してきかせた。そこでおれたちは出かけてって、スプーン入れのバスケットのところで待っていると、やがてサリー叔母さんがやって来るのが見えたので、トムはさっそくスプーンを数えはじめ、片側に一列に並べて行く。おれはその一本をこっそりシャツの袖にすべりこませた。するとトムが言った。
「あれ、サリー叔母さん、スプーンはまだ九本しかありませんよ」
叔母さんは言った。
「いいから向こうへ行って遊んでなさい。かまうんじゃありません。わたしのほうがよく知ってますよ。自分で数えたんだもの」
「だって叔母さん、二度数えてみたんですよ。ぼくが数えたんでは、やっぱり九本しかないんだ」
叔母さんは今にもカンシャク玉を破裂させそうな顔だったが、それでも数えに来たのはもちろんだ。……だれだってそうするにきまっている。
「ほんとだ、九本しかない! いったいぜんたい……ええ、いまいましい。もう一度数えてみよう」
そこでおれはさっき取った一本をこっそり元にもどしておいた。数えおわると、叔母さんはいった。
「なんてまた厄介なガラクタだろう。今度は十本だ」
おこった顔と、困った顔と、両方いっぺんにしている。
しかしトムは言った。
「だけど叔母さん、ぼくが数えたのでは十本ないんだよ」
「馬鹿だね、お前も。わたしが数えてるのを今見てたでしょう?」
「ええ。だけど……」
「とにかくもういっぺん数えてみるわ」
そこでおれはまた一本ちょろまかす。数えあげると、また前と同じ九本だ。もう叔母さんはやっきになって、……体《からだ》じゅうがぶるぶるふるえて、たいへんな怒りようだ。しかし叔母さんは何度も何度も数えに数えて、しまいにはあんまり気が転倒してしまったもんだから、ときにはバスケットまでスプーンとまちがえて勘定に入れたりするありさまだった。それで三度は正しい数が出たが、三度は変な数になってしまい、叔母さんはいきなりそのバスケットをひっつかんで室の向こうの隅にたたきつけ、それが猫に当たって、やつはノビてしまった。
さあ出て行っておくれ、放っといておくれ、昼御飯のときまでにまたやって来てうるさくするとひっぱたくと叔母さんはいう。そこでおれたちは、叔母さんが退去命令をがなり立てているあいだに、その余分のスプーンをこっそり彼女のエプロンのポケットにしのびこませたので、けっきょくジムは、屋根板の釘といっしょにそのスプーンを昼までにうまく手に入れることができた。おれたちはこの首尾に大満足だった。あの二倍の手間がかかっても十分その甲斐《かい》のある仕事だったとトムも言った。というのは、トムも言うように、今となっては、叔母さんはもう二度とスプーンを同じ数に数えることはぜったいにできないだろうし、かりにできたとしても、それが正しい数だとはどうしても思わないだろうからだ。それに、これから三日ばかりは頭が変になるまで数えに数えるだろうが、そのあげく、もうあきらめてしまって、だれかもういっぺん数えさせようとでもしようものなら、殺してやるとでも言いだすにちがいない。トムはそう判断した。
そこで、おれたちはその晩、例のシーツは物干綱にかえし、かわりに叔母さんの戸棚から一枚失敬した。それから二日ばかりは、もどしたり取ったりをくりかえしたので、何枚シーツがあるのやら叔母さんにもわからなくなり、さすがの叔母さんももう気にしなくなって、それ以上心を悩ますのをやめてしまい、二度と数えようとはぜったいにしなくなった。そのくらいなら、いっそ死んじまったほうがいいと思ったのだろう。
そういうわけで、これですっかり準備ができた。シャツもシーツもスプーンもろうそくも、子牛とネズミとめちゃくちゃになった勘定のおかけですっかりそろったのだ。ろうそく立ての問題があったが、たいしたことはあるまい。そのうち風もおさまるにちがいない。
しかし例のパイのことはひと仕事だった。あのパイについては面倒のタネがつきなかった。家からはなれた森の中で準備をし、そこで作った。
けっきょくはやってのけて、それもしかも、とてもうまくできたのだが、一日で仕上がったわけではない。仕上がるまでに洗い桶《おけ》に三杯分も小麦粉を使いはたしてしまったし、おまけに、体じゅうあちこち、いいかげんひどい火傷《やけど》はするし、煙にやられて目がつぶれそうだった。というのは、けっきょくおれたちにいるのは皮だけだったわけだが、そいつにちゃんと固く張りをもたせることができないで、いつでもグシャリとつぶれてしまったからだ。だがもちろん最後にはうまい手を考えついた。なわ梯子《ばしご》もいっしょにパイの中へ入れてしまうという方法だ。
そこで二日目の晩はおれたちはジムのところにこもって、シーツをこまかく裂いて小さなひもにし、より合わせて、まだ夜明けにはだいぶ間がある時分に、人の首でも吊《つ》れそうなすてきなロープを作りあげた。しかしそう簡単にできたのではおもしろくないので、こいつを作るのには九か月もかかったんだ、ということにした。それで翌朝そいつを森に持って行ったのだが、どうしてもパイの中にはいらない。何しろそうやって、一枚のシーツ全部を使ったのだから、入れようと思えばパイ四十個分に入れるくらいのロープがある。いや、それでもまだたっぷりあまって、スープにだって、ソーセージにだって、なんにだってお好みしだいで入れられるくらい。フル・コースの食事全部だってできただろう。だけど、そんなものはおれたちには必要がなかった。そのパイに入れるだけあれば十分だった。だから残りは捨ててしまった。洗い桶ではパイはひとつも焼かなかった。……「はんだ」がとけてしまっては大変だからだ。
ところがサイラス叔父さんは、すごい真鍮《しんちゅう》の寝床暖め器を持っていた。長い木の柄がついていて、ちゃんとふたがあって、こいつに火を入れて寝床の中へ入れておくと、ぽかぽかしてくるというわけだ。叔父さんはこれをとても大事にしていた。というのは、これは、叔父さんの先祖がウィリアム征服王といっしょに、メイフラワー号かなんか、とにかく建国時代の古い船にのってイギリスから海を渡って来たとき、自分でさげて来た代物《しろもの》だからだ。だから、ほかの古いつぼやなにかといっしょに、屋根裏の物置きにしまいこんであったものだ。みなとても貴重な品物だった……といっても別に何かの役に立つからではなくて、(というのは実際何の役にも立たないからだが)、つまり古い遺品だからというわけなんだ。
で、おれたちは、こっそりその暖め器を持ち出して、森へ持って行ったのだが、最初のパイのときはうまくゆかなかった。おれたちが扱いかたを知らなかったからだ。しかし最後のときはまったくの大成功だった。おれたちは練り粉をパンの内側にぬりつけ、火の中へ入れ、ぼろのロープをつめ、その上に練り粉で屋根をつくり、パンのふたをしめ、熱い燃えさしをその上にのせた。そこで、その長い柄を持って火から五フィートもはなれて立ったので、今度は汗だくになることもなく、しごくらくちんだった。
十五分で、見たところではまったくうまそうなパイができあがった。だがどっこい、こいつを食うやつがいたら、楊子《ようじ》をふた樽分くらいはほしがることまちがいなしだ。あのなわ梯子を食い切るのに四苦八苦《しくはっく》しなかったら、おれのことを嘘つきだといってもらっても文句はいわない。おまけにそいつは腹をこわして、このつぎ食うときまでになおる気づかいはまずあるまい。
ナットは、その魔女のパイをジムの鍋に入れるとき、約束どおり見ないでいた。それに、おれたちは、その鍋の底の食物の下に例の三枚のブリキの皿も入れておいた。そこでジムは、なにもかもちゃんと手に入れることができたわけだ。ひとりきりになると、ジムはいきなりパイを割って、なわ梯子をわらぶとんの中にかくし、一枚の皿の上に印を書きつけて、窓の穴から外へほうりだした。
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三十八 紋章
ペンを作るというのは、いやになるくらい厄介な仕事だった。鋸《のこぎり》もそうだった。ジムの考えでは、文句を書きつけるのが、中でもいちばん厄介になりそうだった。つまり、囚人が壁に書きつけなきゃいけない、どうしたって書かなきゃいけないんだとトムはいった。国事犯なら、かならず何か自分の文句を書きつけ、それから自分の家の紋章も残しておくものだからね、と言った。
「ジェイン・グレイ夫人を見ろ」とトムは言った、「ギルフォード・ダッドレイを見ろ。ノーサンバーランド老公爵を見てみろ! なあ、ハック、よっぽど面倒だと思うか?……お前ならどうする。……どうやってやってのける? ジムはやっぱり文句と紋章を書きつけなきゃいけないよ。だれだってみなそうするものなんだから」
ジムは言う。
「だってね、トムさん、おらにゃモンショーなんて持ちあわせがねえだ。持ってるのはこの古シャツしかねえ。だけんどこれには日記を書きつけなきゃなんねえからね」
「わかってないんだなあ、ジム。紋章ってのはそんなもんじゃないよ」
「いや」と、おれは言った。「ジムの言うとおりだよ。とにかく紋章なんて持ってないのはたしかなんだから」
「おれだってそのくらいは知ってるつもりだよ」と、トムが言う。「だけど、ここを出るまでには紋章を作らなきゃいけない。……だってさ、ジムはまっとうに脱獄するんだぜ。それなら記録にひとつでも足りないとこがあっちゃだめだよ」
そこで、おれとジムとがれんがのかけらでこすってペンを作っているあいだに……ジムは真鍮《しんちゅう》で、おれはスプーンで作っていたのだが、トムは紋章の図案を考えだすのに熱中した。やがてトムが言うには、あんまりたくさんいい案を思いついたので、どれにしていいかわからないくらいだが、ひとつ、こいつに決めようと思うのがあるといって、こう説明した。
「全体は盾《たて》の形だ。右下の隅に金の斜線を入れる。中央点に紫のX十字、これにうずくまった犬をあしらう。これはまあ、ありきたりの意匠だ。それから、犬の足の下に、城壁のはざま型の凸凹《おうとつ》にしてくさりをおく。これは奴隷制を表わすもんだ。盾のいちばん上は緑の山形を鋸歯《のこぎりば》状にして、そのすぐ下に空色の紋地にはラセン状の線を三本入れて、中下点はぎざぎざの中帯の上に後足で立つ形にする。で、この盾形全体の上に家紋をつけるんだが、これは黒で、逃亡奴隷が左斜めの棒で肩に包みをかついでいるところ。それに、左右両側に赤線を入れる。これはこのニガーの支柱で、つまり、ハック、お前とおれを表わしてるんだ。
さて、紋章には標語がつきものだが、ジムの紋のはな、『マジョーレ・フレッタ、ミノーレ・アットー』てんだ。本から取った文句だぞ。どういう意味かっていうとな、『急がばまわれ』だ」
「へーえ」とおれは言った。「だけど、そのほかのところはどんな意味なんだ?」
「そんなこと、かまってるひまなんかないぜ」と、トムが言う。「ほかのことに気をちらしちゃいられないんだ」
「でも、とにかく」とおれは言った。「すこしくらい教えてくれたっていいじゃないか。『中央点』ってのはなんだ?」
「中央点か? 中央点は、だな……いや、お前にはわからなくたっていいじゃないか。ジムが仕事にかかったらジムには教えてやるよ」
「チェッ。教えてくれたっていいだろう。左斜めの棒ってのは?」
「おれに聞いたって知るもんか。だけどとにかくジムは紋章を作らなきゃいけないんだ。貴族はだれでも紋章があるんだから」
トムはいつもこの調子だった。説明したくなければぜったいしない。たとえ手をかえ品をかえて一週間ねばっても同じことだ。
トムは、紋章の件はそれですっかり片がついたことにして、今度は残りの仕事の仕上げにとりかかった。つまり、壁にきざむ悲しみの言葉を作りあげることだ。……みんなそうするんだから、ジムだってそうしなきゃいけないというのだ。いろいろ考えついたのを紙に書いて、読みあげたのだが、それは例えば、
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一 ここに囚《とら》われの胸は裂けた。
二 ここにあわれなる囚われの身、世にも友にも見捨てられ、悲しき生涯を千々《ちぢ》に悩む。
三 ここに、ただひとり心やぶれ、疲れはてし魂、三十七年の孤独なる囚われの日を送り、ついに永遠の安息に到る。
四 ここに家なく友なく、三十七年の苦しき囚われの日々を送り、滅びたるは高貴の旅人、国王ルイ十四世の忘れ形見。
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読みあげているうちにトムの声はふるえ、今にもこらえきれなくなりそうだった。読み終わったあとも、ジムが壁に書きつけるのにどれがいいか、とても決心がつかなかったからだ。
けっきょく、みんな書くことにしようと言いだした。ジムは、そんなにたくさんのものを針で丸太に彫りつけるには一年もかかるだろう、と言った。それに字の書き方を知らないという。しかしトムは、おれが字の型をとっといてやるから、お前はただそのあとをなぞってゆけばいいのだと言った。それからすぐに思いなおして、トムはこんなことを言いだした。
「考えてみろ、丸太じゃだめだ。地下牢の壁が丸太ということはないからな。文句を彫りつけるのは岩じゃなきゃいけない。岩を持ってこよう」
岩じゃ丸太よりなお始末が悪い、とジムが言った。岩にこれだけの文句を彫りこむとなれば、おっそろしく時間がかかって、いつまでたっても仕上がりゃしないというのだ。ならハックにも手伝わせるとトムが言った。そして、おれとジムのペンがどのくらい進んでいるかのぞきこんだ。それは、やけにしんきくさい大変な仕事で、なかなかはかどらず、おれの手のスリ傷がよくなるひまもなかった。だからおれたちの仕事はぜんぜん進んでいなかった。それでトムは言った。
「いいやり方がある。ひとつの岩に紋章と悲しみの文句と両方彫るんだ。つまりその岩で一石二鳥《いっせきにちょう》というわけだ。粉ひき小屋にすごくデカい丸|砥石《といし》がある。あいつをかっさらって来よう。そいつに紋や文句を彫りつけて、ペンやノコもいっしょにとがらせりゃいい」
それは、なまやさしい思いつきでもないし、なまやさしい砥石でもなかった。しかしとにかくやってみることにした。まだ真夜中にはなっていなかったので、ジムひとりをあとに残して仕事をさせ、おれたちはその粉ひき小屋に出発した。その丸砥石を盗みだし、ころがして持って帰ろうとしたのだが、こいつはとてつもなく骨のおれる仕事だった。ときには、どんなにがんばっても石が横倒しになるのをもちこたえられず、そのたびに、もうちょっとで押しつぶされそうになった。持って帰るまでに、おれたちのうちどちらかはきっとやられるぞとトムは言う。
途中まで来たときには、おれたちはもうくたくたにへたばって、汗で全身ずぶぬれだった。
もうだめだ、ジムをつれて来なきゃどうしようもない。それでジムはベッドを持ちあげ、ベッドの足から鎖をはずし、それを首のまわりにぐるぐるまいて、例の穴から三人いっしょに這《は》い出して石のところへもどった。そしてジムとおれとで砥石にとっついて、今度はまるで嘘みたいにらくらくと押して帰った。トムは監督だった。おれの知ってるどんな子供でも、トムほど監督のうまいやつはほかにいなかった。どんなことだって、みなそのやり方を知っていたのだ。
おれたちの掘った例の穴は相当大きかったが、それでも砥石をくぐらせるほど大きくはなかった。だがジムがつるはしを使ってすぐに大きくした。
それからトムが、紋章や文句を釘で石の上に書き、ジムはその印にそって彫りはじめた。釘をノミに、例の小屋のがらくたから拾ってきた鉄のボルトをハンマーがわりに使った。それからトムはジムに指図して、ろうそくが燃えきってしまうまで仕事をしろ、そしたら寝てもいい、砥石はわらぶとんの下にかくして、その上に寝るんだ、といった。それからおれたちはジムを手伝って鎖をベッドの足にもどし、さあ、おれたちはもう帰って寝ようということになった。ところがトムは何か考えついて、こんなことを言いだした。
「ここにクモがいるか、ジム?」
「いいや、トムさん、ありがたいことに、ここにはいねえですよ」
「よし。取ってきてやろう」
「とんでもねえ、おめえさま、クモなんかいらねえよ。おらあクモがおっかねえだ。ガラガラ蛇のほうがまだましだよ」
トムはほんのちょっと考えていたが、やがてこう言った。
「そいつあいい考えだ。今までにもそういうことはあっただろう。きっとあったはずだ。理屈にあってるからな。うん、たしかにすごくいい考えだ。どこに飼っとけるかな」
「飼うって、何をだね、トムさん?」
「きまってるじゃないか。ガラガラ蛇さ」
「冗談じゃねえ、トムさん! ガラガラ蛇なんかこんなとこへ入ってきたら、おらあ、それこそあの丸太の壁を頭でぶちわってでも外へとび出しますだ」
「いや、ジム、しばらくすりゃおそろしくなくなるさ。飼いならせばいいじゃないか」
「飼いならすだって!」
「そうさ。簡単だよ。どんな動物だって、やさしくしてかわいがってやれば、ありがたいと思うものさ。かわいがってる人間に喰いつくなんて、考えてもみないもんだよ。どんな本にだってそう書いてあるぜ。とにかくやってみなよ。……それ以上どうしろとも言わないよ。まず二日か三日やってみるんだ。じきになれて、向こうのほうでお前を大好きになるさ。お前といっしょに寝るようになるぜ。一分だってお前のそばから離れたがらなくなって、首のまわりに巻きつけても平気で、お前の口に頭をくわえてもじっとしてるようになるさ」
「後生だ、トムさん、……そんな話はやめてくだせえ! たまらねえだ! やつがおらの口に頭をつっこむだって?……おらのこと好きだからって? いくら向こうさまで待ってくれたって、おらのほうからそんなこと頼む気づかいはねえよ。それに第一、おら、やつにいっしょに寝てもらいたくなんかこれっぽっちもねえすよ」
「ジム、そんな話のわからないこというもんじゃないよ。囚人というものはだな、なんでもいいから口のきけないペットを飼ってなきゃいけないものなんだ。もし今までガラガラ蛇を飼ってみた者がひとりもないとしたら、お前がはじめてやったということで、それはお前の名誉になるんだぜ。生きのびるのにどんな手段を考えついたって、それよりずっと名誉になるんだ」
「いや、トムさん、おらそんな名誉なんか欲しくないよ。蛇がこのジムの顎《あご》を食いちぎった……そんなことになったら、もう名誉もくそもあったもんじゃねえ。いいや、おら、どうしたってそんなこたしたくねえ」
「だめだなあ。やってみることもできないのか? ちょっとやってみるだけでいいんだ。やってみてうまくゆかなきゃ、やめればいいんだよ」
「だけんど、もしやってみてるあいだに蛇に噛まれたら、それでもう万事おしまいだもの。トムさん、おら、無茶なことでさえなきゃ、まずたいていのこた喜んでやってみるだ。けんども、もしおめえさまとハックがガラガラ蛇をここにつれて来て、おらに飼いならせというんなら、おら、ほんとの話、さっさと逃げだすだ」
「まあ、それなら、いいよ。いいことにしとこう。お前がそんなにわからないこと言いはるのなら。シマ蛇を二、三匹取ってくることにしよう。それで、しっぽにボタンをくくりつけて、ガラガラ蛇だと思うことにするさ。それならいけるだろ」
「シマ蛇ならガマンできねえこともねえが、でもトムさん、そんなものいなくったって、おら立派にやってゆけるだよ、まったくの話。囚人になるてのは、これほど面倒なもんとは夢にも知らなかったんよ」
「まあね、まっとうにやろうとすれば、いつだってそういうもんだ。ここにはネズミはいるか?」
「いいや、一匹も見たことねえだ」
「じゃ、ネズミも二、三匹取ってきてやろう」
「いや、トムさん、ネズミなんてまっぴらだ。何がいやだって、ネズミくらいいやな生き物はねえ。人が寝ようとすると邪魔をして、体の上をがさがさ走りまわるわ、足にかみつくわ。いいや、トムさん、どうしてもつれて来るというんなら、シマ蛇にしてくだせえ。ネズミはご免こうむるよ。ネズミなんかにゃ、まずもって用はねえだ」
「だけどな、ジム、どうしたってネズミは飼わなきゃいけないんだ……みんなそうするんだから。もうこれ以上ぐずぐずいうのはよせ。ネズミのいない囚人なんていないんだもの。そんな前例は聞いたことがない。みんなネズミを訓練して、かわいがって芸をしこむもんだ。するとネズミってやつはハエと同じくらいなつくんだぜ。だけど、やつらに音楽を聞かしてやらなきゃいけない。お前、何か楽器になるもの持ってるか?」
「持ってるものといえば、歯のあらい櫛《くし》がひとつに、紙が一枚に、ビアボンしかねえだ。けんど、ネズミはビアボンなんか、おもしろがりゃしめえと思うがな」
「おもしろがるさ。どんな音楽だっていいんだ。ネズミにゃビアボンで結構すぎるくらいさ。動物はみんな音楽が好きなんだ。……牢屋の中では、ことに夢中になるさ。中でもいいのは悲しい音楽だ。ところが、ビアボンでひける音楽といったら、そういうのしかないだろ。だからやつら、いつだって耳をそばだてるよ。それで、なんでお前が悲しがってるのか見に出てくる。よし、これでお前も大丈夫だ。すっかり準備ができてる。夜寝る前と、朝起きたときと、ベッドの上にすわってビアボンを鳴らせばいいだけだ。
そうだ、『最後のきづなも断ち切れて』をやれよ。あれがぴったりだ。……ほかのどんな曲だって、あれくらい早くネズミを手なづけるのはないぜ。二分も吹いたら、ネズミも、蛇も、クモだってなんだって、みんな顔を出して、お前のことをかわいそうに思って集まって来る。そして、お前の体じゅうに群がって、みんなすごく愉快に遊ぶぜ」
「そりゃ、やつらはそうでしょう、トムさん。けんど、このジムはどんな思いをするだろうかね。そこんとこがわかりゃ文句はねえだが。まあ、しかし、やらなきゃならねえんなら、おら、やります。いずれにしても、動物どもを喜ばしといたほうが、この部屋の中で騒動をおこさねえでええだろうからね」
トムはまだしばらく考えこんで、ほかに何かないかたしかめていた。
やがて彼は言った。
「ああ、忘れてたことがひとつある。ここで花は作れるだろうかな」
「わかんねえが、できねえこともなかろうね、トムさん。けんど、ここはええかげん暗えし、いずれにしろ、おら花なんかいらねえだよ。それにえらく手間がかかるだろうね」
「でも、とにかくやってみろよ。囚人で花を育てたやつもいるからな」
「ああ、でかいネコのしっぽみてえなモウズイ花《か》なら、ここでも育つだろうと思うけんど、あんなもなぁ、育てる手間を考えりゃ、その半分の値打ちもあるめえよ」
「そんなことないさ。小さいのを一本取ってきてやるから、あそこの隅のところに植えて育てろよ。それから、モウズイ花なんて呼ぶんじゃないぜ。ピチオーラだ。牢屋の中ではそれが正しい名前なんだから。……そんで、水のかわりに涙をかけてやるんだ」
「いや、泉の水がふんだんにあるだよ、トムさん」
「泉の水なんかいらない。涙の水をやらなきゃだめだ。囚人はみんなそうするもんだ」
「でも、トムさん、おら、ほかのやつが涙でやっと芽を出さしてるあいだに、泉の水で二倍も早くモウズイ花を育てられるだ」
「そんなんじゃないんだ。涙でやらなきゃいけないんだよ」
「きっとおら、持てあまして枯れさせちまうだ、トムさん。きっとそうだ。だっておら、めったに泣くことなんぞねえだもの」
そこでトムはぐっとつまったが、よくよく考えたあげく、なんとかタマネギでもいじって、できるだけうまくやる工夫をしろといった。朝になったら、黒ん坊の小屋へ行って、こっそりジムのコーヒー・ポットの中へタマネギを入れといてやるとも約束した。
「そんなことされるくらいなら、コーヒーの中へタバコを入れられるほうがまだましだ」、とジムは言って、さかんにその考えに文句をつけ、それから、モウズイ花を育てる手間だの苦労だの、ビアボンでネズミを呼び集めることだの、蛇やらクモやら何やらかわいがって気げんをとることだの、そうでなくてもペンを作るだの、紋章や文句を彫りつけるだの、日記だのなんだのかんだのとあるのに、その上そんなにやたら仕事があったのでは、囚人になるにはとてもじゃないが手間がかかって、厄介で、荷が重くて、今までやったどんな仕事でもこれほどじゃなかったと文句をつけたので、トムはもうちょっとでかんしゃくを破裂させそうになった。
そしてジムに向かって言うには、名声をあげる絶好のチャンスがこれほど山のように積まれていた囚人は今まであったためしがないというのに、お前は物を知らないからその本当の値打ちがわからず、むざむざチャンスを逃がしそうになってるんだぞ、と言った。それでジムもあやまって、もう文句は二度といわないと言った。それでおれとトムとは帰ってベッドに入った。
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三十九 ネズミ
翌朝、おれたちは町へ行って、針金のネズミとりを買い、地下室へ持って帰って、いちばんネズミの出そうな穴のつめ物をどけて、もとどおり出入りできるようにした。一時間もすると、すごく元気のいいやつが十五匹もとれた。そこでそいつらを持ってって、サリー叔母さんのベッドの下の安全な場所にかくした。
ところが、おれたちがクモを取りに出かけてるあいだに、チビのトマス・フランクリン・ベンジャミン・ジェファソン・エレグザンダー・フェルプスのやつがそれを見つけて、ネズミが出てくるかどうか、ためしにネズミとりの戸をあけたので、やつらはみんな外に出てしまった。そこへ叔母さんが入って来て、おれたちが帰って来てみると、叔母さんはベッドの上に立ちあがってとんでもない大騒ぎ、ネズミどもは、叔母さんの退屈をまぎらすのにありとあらゆる努力をしているところだった。
それで叔母さんはおれたち二人をヒッコリーの棒でひっぱたくし、おれたちはまた、もう十五、六匹つかまえるのに二時間もかかるし、まったくあの小うるさい小僧め、しゃくにさわるったらない。
おまけに今度のネズミのやつらがまた、まったく手におえないやつらだった。あの、最初のときにつかまえたネズミどもは、ここにいる連中の中では一番タチのいいやつらだったからだ。実際、最初のときのネズミほど手のかからないのは見たことがない。おれたちはいっぱいクモをつかまえて、ちゃんと種類に分けたし、ナンキンムシも、カエルも、毛虫も、それからなにやらかにやら、ものすごくたくさんつかまえた。クマンバチの巣も捕《と》りたかったのだが失敗した。群れが全部巣にいたからだ。すぐにあきらめたわけではない。できるだけはがんばって、巣のところで待っていたのだ。こちらが向こうのしびれを切らさせるか、向こうがこちらのしびれを切らせるか、がまんくらべだと思ったのだ。
けっきょくしびれを切らせたのはこちらだった。それで、おれたちはオグルマの草を取ってきて、刺されたところにこすりつけたら、ほとんどすっかりなおったが、まだうまくすわることはできなかった。そこで今度は蛇をとりに出かけ、シマ蛇と家蛇を二ダースもつかまえて、袋に入れ、おれたちの部屋に入れた。そのときにはもう晩飯の時間で、一日の仕事としてはまったく恥ずかしくない出来だった。それに腹もペコペコだったろうって?……いやいや、そんなことはなかったさ。
ところが、部屋に帰ってみると蛇が一匹もいないのだ。……袋をちゃんとしめてなかったんだな。だから、やつらはどうかこうかして這い出して、影も形もない。だけどそうたいした問題でもなかった。まだこの家か庭にいるはずだったからだ。だから、また何匹かつかまえられるだろうと思った。
そのとおり。それから当分のあいだは、家のまわりで蛇が不足するということはまずなかった。天井のはりやなにかから、ちょくちょくポトリと落ちて来る。だいたいは皿の上とか、首すじとか、蛇なんか落ちて来てもらいたくないところへ落ちてくるのが普通だった。いったい、このての蛇はなかなかきれいで、縞《しま》があってちっともこわがることなんかないものだ。
ところがサリー叔母さんときたら、そんなことには関係なく、蛇と名がつけば、種類にはおかまいなく大きらいで、どうやってみてもがまんがならないのだった。だから、蛇が自分の上に落ちて来るたびに、何をしていようが関係なく、その仕事をおっぽりだして飛びだして行くのだった。こんな女は見たことがない。そして、死にそうな声でわめくのだ。火ばしで蛇をつまみあげることさえできない。ベッドで寝がえりをうったひょうしに蛇が目に入りでもしようものなら、あわてふためいて転がりでて、家が火事かと思うような声を出して吠え立てる。
叔父さんのほうもおちおち寝ているひまもないので、いっそ神様が蛇なんてものをお創《つく》りにならなければよかったんだと思うくらいだといった。まったく、最後の蛇が家からいなくなっても、まだたっぷり一週間のあいだは、叔母さんのそんな様子はつづいていたもんだ。なかなか終わるどころではなかった。叔母さんが何か考えごとをしながらすわっているときに、鳥の羽根で叔母さんの首のうしろにさわろうものなら、飛びあがってびっくりする。実におかしかった。
でも、女というのはそういうものなんだとトムは言った。どういうわけか知らないけど、女というのはそんなふうにできているんだとトムは言った。
おれたちは、蛇が叔母さんの前に出てくるたびにぶたれた。もういっぺん蛇なんか家じゅうに放したりしたら、とてもこんなことじゃすまさないと叔母さんは言った。ぶたれることは何ともなかった。痛くも何ともなかったから。ただ、面倒なのは、もう一度つかまえなおさなきゃいけないことだった。
だが、とにかくおれたちは蛇を仕込み、それからほかのいろんなものも、みな仕込んだ。
ジムの部屋でこの連中が音楽を聞いてぞろぞろ群れになって出て来て、ジムのほうへ寄って行くときのにぎやかさといったらなかった。ジムはクモがきらいで、クモもジムがきらいだったから、クモはジムを待ちかまえていて、ジムにいたたまれない思いをさせるのだった。そしてネズミや蛇や砥石《といし》にはさまれて、ベッドの上で横になるすき間もないくらいだとジムは言った。たまにすき間が見つかっても、とても寝ることなんてできやしない。あんまりにぎやかすぎるのだ。おまけに、たえまなくにぎやかなのだ。
なぜって、とジムは言った、連中はみんなが一度には寝てくれない。交代で寝るのだ。蛇が寝ているときにはネズミががんばっていて、ネズミが寝る番になると蛇が交代で出てくる。だから、一方の連中がベッドをふさいでジムの寝るところを取ってしまうし、もう一方の組は彼の体の上でサーカスをやっている。ほかの場所をさがしに起きあるがと、動いているジムをめがけてクモのやつらがここぞとばかりたかってくる。今度ここを抜け出したら、たとえ月給をもらったってもう二度と囚人になることなんか絶対にいやだ……ジムはそう言うのだった。
さて、三週間後には、何もかもまず完全に準備ができていた。シャツは、パイの中に入れて、もう前から送りこんであった。だから、ジムは、ネズミに噛まれるたびに起きあがって、そのインキのかわかないうちに、日記に一行ずつ書きこんだ。ペンもできたし、紋章やなんかもみな砥石に彫りこんだ。ベッドの足も鋸《のこぎり》でふたつに切り、ノコギリのくずはおれたちがきれいに食べてしまったのだが、あとでおそろしくひどい腹痛をおこした。みんな死んじゃうんじゃないかと思ったが、死ななかった。あんなに消化の悪いノコくずは見たことがない。トムもそう言った。
だが、今も言うように、とうとうおれたちは仕事を全部仕上げてしまったのだ。
おれたちは三人ともいいかげんへたばっていたが、中でもジムがいちばんまいっていた。叔父さんは、オーリアンズの下《しも》の農場に手紙を書いて、逃げた黒ん坊を引きとりに来てくれと言ってやったが、返事はなかった。当たりまえで、もともとそんな農場なんかどこにもないからだった。それで叔父さんは、セント・ルイスとニュー・オーリアンズの新聞に、ジムの広告を出してみると言った。セント・ルイスの新聞と聞いたときには、おれは思わずぞっとした。ぐずぐずしているひまはない。そこでトムは、いよいよ匿名《とくめい》の手紙を書くときだと言った。
「何だ、それは?」と、おれが言った。
「何かがもちあがってることを警告する手紙さ。場合によってやり方はいろいろあるけど、とにかく、いつでもスパイをしてるやつがだれかいて、城主に知らせるものなんだ。ルイ十六世がチェイルリーから逃げ出そうとしたときには、小間使いが知らせたもんだ。とてもうまいやり方だが、匿名の手紙もいい。おれたちはその両方をやろう。それに、囚人のお母さんがその囚人と着物をとりかえて、お母さんが牢屋に残って、囚人はお母さんの着物を着てぬけ出すという手もよくやる。そいつもやってみよう」
「だけど、いいか、トム、何かもちあがってるなんてこと、どうしてだれかに知らせてやらなきゃいけないんだ。やつらが自分で見つけだしゃいいじゃないか。だって、やつらの仕事だろ?」
「そりゃわかってるさ。だけど、やつらは当てにできないからな。そもそもの最初からそのやり口だろ? なんでもかでも、おれたちにまかせっぱなしだ。頭から信用しきっているし、おまけにてんで脳足りんだから、まるっきり何にも気がつかないんだ。もしおれたちのほうから知らせてやらなかったら、おれたちの邪魔をする人間もなくなるし、物もなくなっちまう。そしたら、こんだけ苦労して手間をかけたのに、けっきょくこの脱獄はてんから気の抜けたものになってしまう。ゼロになっちゃうんだよ……脱獄でも何でもなくなっちまうんだ」
「でも、おれとしてはね、トム、そのほうがいいと思うな」
「チェッ!」
トムはうんざりしたという顔をする。そこでおれは言った。「でも、文句はいわないことにするよ。お前の気に入るやり方なら、おれの気に入るやり方だ。小間使いのことはどうやるつもりだ?」
「お前がやるんだ。夜中にこっそりしのびこんで、あの混血娘のドレスをかっぱらうんだ」
「だけど、トム、そんなことしたら、明日の朝、面倒なことになるぜ。だってさ、きっとあの娘にはあれ一枚しかないにきまってるからな」
「わかってる。だけど、いるのはたった十五分だ。匿名《とくめい》の手紙を持ってって、玄関のドアの下につっこむだけだからさ」
「よし、わかった。じゃ、やるよ。だけど、おれの服を着てたって、別に不便はないと思うがな」
「それじゃ小間使いに見えないじゃないか。見えるかい?」
「そりゃ見えないさ。けど、どっちにしたって、おれが何に見えるか、見てる人はいないだろうけどな」
「そんなこと関係ないよ。おれたちのやるべきことは、やるべき義務をちゃんとやることだけだ。だれかが見てるかどうかなんて、そんなことかまってることじゃない。主義てものはないのか、お前には?」
「わかったよ。もう何も言わないよ。おれが小間使いだ。それで、ジムのお母さんはだれだ?」
「おれだ。サリー叔母さんのガウンをかっぱらってくる」
「とすると、おれとジムとが抜けだしたとき、お前は小屋に残るんだな」
「そうじゃない。ジムの服にわらをいっぱいつめて、ベッドの上に置いとく。ジムのお母さんが変装したのの代わりだ。そんで、ジムは、おれから黒ん坊の女のガウンを脱がせて自分で着る。そしてみんないっしょに逃避《とうひ》するんだ。格式のある囚人が逃げだすときは、逃避というんだ。たとえば、王様が逃げだすときはかならず逃避という。王子の場合もそうだ。私生児でもどうでも、その点は変わりはない」
そこでトムは匿名の手紙を書いた。そしておれは混血娘のドレスをかっさらって、トムの言ったようにそれを着て、玄関のドアの下に押しこんだ。手紙の文句はこうである。
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注意せよ。事件発生しつつあり。厳重なる警戒を続けよ。
未知の友より
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翌晩は、玄関の戸にガイ骨の絵をはりつけた。トムが血でかいた絵だ。そのつぎの晩は、棺桶《かんおけ》の絵を裏口にはりつけた。おれは、家じゅうでこんなにびくびくしているのを見たことがない。幽霊が家じゅうにいっぱいで、物かげという物かげに待ちかまえていたり、ベッドの下にかくれていたり、空中を身をふるわせながらさまよっていたりしても、これ以上こわがっていることはできないだろうと思うくらいだった。
戸がバタンとしまるたびに、サリー叔母さんは跳びあがって悲鳴をあげる。何かが落ちると跳びあがって悲鳴をあげる。向こうをむいてるときにうっかり体にふれようものなら、また跳びあがって悲鳴をあげる。どちらを向いていても叔母さんは安心ができなかった。いつでも自分のうしろに何かいると言うのだ。だから叔母さんは、しょっちゅう、サッとうしろをふり向いては悲鳴をあげる。それも、まだ三分の二もふり向いていないのに、また急にこちらをふり向いて悲鳴をあげる。寝に行くのもこわがったが、起きていることもできない。そこでトムは、万事とてもうまくいってる、こんなにうまくいったのははじめてだと言った。やり方がよかった証拠だと言った。
そこでトムは言った、さあ、これからがいよいよ仕事の山だ! それですぐその次の朝、夜がしらじらと明けるころ、おれたちはもう一通手紙を書きあげたのだが、さてこの手紙をどうしたものか、迷っていた。夕飯のときの話では、表も裏も、両方の戸口に黒ん坊を見張りに立たせると言っていたからだ。トムが避雷針を伝っておりて、様子を探ってみると、裏口の黒ん坊が眠りこけていたので、トムはその黒ん坊の首すじに手紙をはりつけて帰ってきた。今度の手紙の文句はこうである。
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私を裏切るな。私はあなたの味方となりたい。今夜、インディアン地区より、命知らずの人殺しの一団が、あなたの逃亡ニガーを盗もうとしている。彼らはあなたをおどかして、家の中に留まらせ、彼らの邪魔をせぬように計画している。私も一味の一人だが、信仰を得たので、一味を去って再び正道に帰り、この悪魔のごとき計画を暴露《ばくろ》せんとするものである。彼らは正十二時、垣根ぞいに北側より忍び入り、合鍵を用いて黒人の小屋に入り、連れ出すであろう。私はすこし離れて立ち、危険があると見ればブリキの笛を吹く。しかしむしろ私は、彼らが中に入るや否《いな》や、羊のような声でメエーと鳴き、笛はいっさい吹かぬことにする。さすれば、彼らが黒人の鎖をはずしおるあいだに、あなたはひそかに来て彼らを中に閉じこめて鍵をかけ、後刻《ごこく》余暇を見てゆっくり殺すにしくはない。今ここに申しのべたとおりに行ない、他の事はいっさいさしひかえられたい。もし何か他の手をうてば、彼ら怪《あや》しみてわいわい大騒ぎを始めること必定《ひつじょう》。私は何らの報酬《ほうしゅう》も望まない。ただ正しいことをなしたことを知りたいのみ。 未知の友より
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四十 釣り
朝食のあと、おれたちはとても気分|爽快《そうかい》で、おれのカヌーにのって、弁当を持って川に釣りに出かけ、楽しくやった。筏《いかだ》を調べてみると、どこも悪いところはなかった。夕方おそくなって晩飯に帰ってみると、家じゅうのみんながやけにおっかながって、気をもんでいて、まるで物の見さかいもつかないくらいだった。晩飯が終わるか終わらないうちに、さあ、もう寝なさいと寝室へ追いやられたが、なんで騒動になっているのかはおれたちには話してきかせず、今度の手紙のこともひと言も洩《も》らさなかった。もちろん、そんな必要はまるでなかった。あの手紙については、おれたちはだれにも負けないくらい、くわしく知っていたからだ。
それで、おれたちは、階段を半分ほどのぼって、叔母さんが向こうをむいたとたん、さっと地下室の戸だなへしのんで行って、たっぷり弁当を作っておれたちの部屋にもってあがり、ベッドに入った。それから十一時半ごろ起きて、トムは盗んできたサリー叔母さんの着物をきて、弁当を持ってでかけようとしたとき、トムは言った。
「バターはどこだ?」
「大きなかたまりをトウモロコシパンの上にのせといたぜ」
「あれ、じゃ、のせたままおいて来たんだな。ここにはないぜ」
「なしでも食えるさ」
「ありでも食えるさ」とトムは言った。「ちょっと地下室へおりてって、取ってこいよ。それから急いで避雷針づたいにおりて、あとから来い。おれは先に行って、ジムの服にわらをつめて、変装したお母さんの人形を作っとく。お前が来たら、すぐ羊みたいにメエーと鳴いて逃げだす準備をしとくよ」
そこでトムは外へ出て行き、おれは地下室におりた。人間のこぶしくらい大きいバターのかたまりが、おれがおいて来たままのところにあった。そいつをトウモロコシパンごと持って、明りを吹き消し、抜き足さし足階段をのぼった。一階までは無事にのぼって来たのだが、そこへサリー叔母さんがろうそくを持ってやって来た。おれはバターを帽子にほうりこんで頭にかぶった。つぎの瞬間、叔母さんはおれを見つけて言った。
「地下室におりてたの?」
「はい」
「何をしてたんです?」
「別に何も」
「別に何も?」
「そうです」
「それじゃ、いったい何のつもりで、こんな夜の夜中に地下室へなんかおりて行ったんです?」
「わかりません」
「わかりませんだって? そんな返事があるもんですか。トム、下で何をしていました? はっきり言いなさい」
「何もしてやしませんよ、サリー叔母さん、ほんとです」
もうこのくらいで勘弁してくれるだろうと思っていた。実際、ふつうなら勘弁《かんべん》してくれただろう。ところがこのときばかりは、あんまり変なことが重なっていたので、ちょっとでもおかしなことがあれば、どんな小さなことにでもまったくびくびくしていたのだろう。それで叔母さんは、きっぱりこう言いきった。
「あの居間に入って、わたしが来るまで待っていなさい。なにか余計なことをたくらんでいたにちがいない。なにをやってたのかわかるまで、ぜったいお前を放《はな》しゃしないからね」
そこで叔母さんは、おれが居間のドアをあけて中に入るのを見とどけてから、行ってしまった。
部屋の中には、ワァ、すごい人数だ。農夫たちが十五人、しかもひとりのこらず鉄砲を持っている。
おれはぞーっといやな気分になって、こそこそ椅子のところへ行って腰かけた。農夫たちは、まわりにすわっていて、ひそひそ声で話している者もすこしあったが、みんなもじもじして落ちつかず、それでもそんな様子を外に見せまいとしていた。しかしおれには、みんなが実はこわがっているのがすぐわかった。帽子をぬいだかと思えば、またかぶってみたり、頭をかいたり、席をかえたり、ボタンをいじくったり、そんなことばかりしていたからだ。おれ自身も実は落ちつかなかったのだが、とにかく帽子はとらないでいた。
早くサリー叔母さんが帰ってくれないかと、そればかり心待ちしていた。帰って来て、おれを放してくれて、ぶちたければおれをぶったっていい。とにかく早くここから出してくれたら、トムのところへすっとんでって、おれたちがあんまり念入りにやりすぎたことを報告しなきゃいけない。実際、おれたちは、ぶんぶんうなってるクマンバチの巣の中へ、自分からとびこんで行ったようなもんだ。今すぐにこんな馬鹿な真似《まね》はよして、さっさとジムをつれて逃げださなければ、ここに集まってるこのけちな連中は、しびれを切らしておれたちに向かってくるにちがいない。
ようやくのことで叔母さんが帰って来て、おれにいろんなことを質問しはじめた。しかしおれにまともな返事ができるはずがなかった。まったく気が転倒していたのだ。なぜって、この部屋の男たちはもうひどくじりじりしていて、今すぐにも出かけてって、あの悪漢どもを待ちかまえていよう、もう十二時まで二、三分もない、と言うものがあるかと思えば、いや、もうちょっとここにいて、羊の鳴き声の合図を待とうと言うものもいる。おまけに叔母さんはしつこく質問を浴びせかけるし、おれはもう体じゅうがたがたふるえて、今にもその場にへなへなとなりそうだった。それほどこわかったのだ。部屋はいよいよ暑くなる一方で、バターが溶けて首やら耳のうしろを流れおちてくる。
やがて男たちのひとりが、「おれは行くぞ。今すぐ、先手をうってこちらが先に小屋へ入って、やつらが来たらつかまえるんだ」と言ったときには、おれはもうちょっとでその場に倒れそうだった。そのとたんに、バターがおれの額をひとすじ、たらたら流れて来て、それを見た叔母さんは真青になり、こう叫んだ。
「あれ、まあ、この子はどうしたの!……きっと脳膜炎だ。脳ミソがにじみ出して来たんだ!」
みんながおれのところに走りよって来て、叔母さんはおれの帽子をひったくった。出て来たのはパンと、とけのこりのバターだ。叔母さんはおれをひっつかんで、両手でだきしめて言った。
「まあ、ほんとに、この子ったら、何て思いをわたしにさせたんだろう。でも、よかった、ありがたいことだ、このくらいのことですんで。このごろは悪いことばかりつづいて、ほんとに泣きっ面《つら》に蜂だったんだもの。黄色いものがたらたら流れてるのを見たときには、てっきりもうお前は命がないものと思ったよ。色から何から、お前の脳みそそっくりだったんだもの。まあ、まあ、ほんとに、どうしてバターを取りに行ったといわなかったの。叱りゃしませんでしたよ、そんなことなら。さあ、もうベッドに行きなさい。朝までもう二度と出て来るんじゃないよ」
おれは大急ぎで二階にあがり、また大急ぎで避雷針をつたっており、真暗の中を小屋のほうへ走って行った。おれはもう、しどろもどろだった。もう気が気じゃなかった。でも、できるだけかいつまんで、トムに言った。すぐに決行しなきゃいけない。一分もぐずぐずしてられない。……向こうの家にはいっぱい人が集まっていて、おまけに銃を持ってるんだ。
トムは、パッと目を輝かせて言った。
「ほんとうか? ほんとなんだな。すごいじゃないか! おい、ハック、もう一度やるとすりゃ、今度は二百人くらい集められるぞ。もうすこし先にのばして……」
「急げ! 急ぐんだ! ジムはどこにいる?」
「すぐ横にいるじゃないか。手をのばしたらとどくくらいだ。着物もきてるし、何もかも準備オーケーだ。さあ、そっと外へ出て、羊の鳴き声の合図をするんだ」
だが、そのとき、男たちがドアのところにやって来る足音が聞こえた。錠前をがたがたやっている。ひとりが言っている。
「やっぱりそうだ。早すぎると言ったろう? やつら、まだ来てないんだ。錠がかかってる。じゃ、だれか二、三人、小屋の中へ入ってろ。外から鍵をかけとく。暗闇の中で待ちうけていて、やつらが来たらブチ殺してしまえ。ほかのものはすこしはなれて散ってろ。やつらの近づく足音がするか、耳をすませてるんだ」
そこで彼らは中へ入って来た。だが、真暗なので、おれたちの姿は見えない。おれたちがベッドの下にもぐりこんでるとき、もうちょっとでおれたちを踏みつけるところだった。とにかく無事におれたちはベッドの下に入り、例の穴から抜け出した。急いで、しかし、音を立てないように。……最初にジム、次がおれ、最後はトム。トムがそう命令したからだ。
こうして小屋に入ったわけだが、すぐ外で足音がしている。そこでおれたちはドアに忍びよったが、トムはそこでおれたちを止め、壁のわれ目に目をくっつけた。しかし何も見分けられない。あんまり暗かったのだ。それでひそひそ声でこう言った。
おれは耳をすませて、足音が遠ざかるのをたしかめる。肘《ひじ》でついたら、最初にジムがとびだせ。おれは最後に出る。……そこでトムは割れ目に耳をおしつけ、一心に聞き耳を立てていたが、いつまでたっても外の足音がつづいている。ついに肘でついた。
おれたちは忍び出て、地面に体をうつぶせて、息を殺し、コトリとも音を立てないで、一列になって垣根のほうへそーっと進んでいった。
そこまでは無事にたどりついた。おれとジムとは垣をこえた。ところが、トムのズボンが、いちばん上の木のぎざぎざにしっかりひっかかってしまった。そのとき、足音の近づくのが聞こえたので、トムは無理にひっぱってはずしたが、木が折れてポキッと音がした。おれたちのほうへとびおりて、走り出したとき、だれかが大声をあげてわめいた。
「だれだ! 返事しろ! 返事しないと撃つぞ」
だが、おれたちは返事なんかしなかった。一目散に走って逃げた。やつらはどっと押しよせて来た。バン、バン、バン。弾《たま》がおれたちをかすめてヒューヒュー飛ぶ。やつらがわめいていた。
「いたぞ! 川へ逃げた。追え! 犬を放せ」
やつらはぐんぐん迫って来た。やつらの動きは音でわかった。長靴をはき、どなっていたからだ。
しかしおれたちは長靴なんかはかず、どなりもしなかった。おれたちは粉ひき小屋へ行く道にいた。やつらがすぐうしろに迫ったとき、おれたちはやぶにとびこんで、やつらをやりすごし、それからやつらのうしろを進んだ。そのときまで、やつらは犬をみんな内にとじこめていた。強盗たちが怖気《おじけ》づいて逃げてしまってはいけないからだ。
だがそのときになって、だれかが犬を放した。犬どもは何万匹もいるみたいなどえらい声でワンワンほえながら走って来た。だが、みんなおれたちのなじみの犬だった。おれたちはその場に止まって、やつらが追いついて来るまで待っていた。やつらは、そこにいたのがほかでもないおれたちで、騒ぎ立てることもないと見てとると、ちょっと「コンチワ」といっただけで、男たちがわいわいどなってがたがたやってるほうへ、まっしぐらにかけて行った。
それからおれたちはまた走り出して、ビュービューかけて行き、粉ひき小屋のすぐ手前まで来たとき、やぶの中へとびこんで、おれのカヌーのつないである方へやぶをつっきって行った。そしてパッと飛びのると、力のかぎり漕《こ》いで川の中流へ出て行った。だが、音を立てるのは最小限にした。中流まで出てからは、ゆっくり、ゆうゆうと島へむかって漕いで行った。筏《いかだ》のかくしてあるあの島だ。
岸では、あちこちで、お互いにさけんだり、吠えたりしているのが聞こえたが、やがて遠く漕いで行くにつれて、その音もかすかになり、とうとう聞こえなくなってしまった。
筏に乗りうつったとき、おれは言った。
「さあ、ジム、お前はもう一度これで自由になったんだ。もう二度と奴隷になることはないんだよ」
「それに、また、えらくうまくいっただね。ハック。すばらしい計画で、すばらしい出来|栄《ば》えだった。これほどややっこしくて、これほどすげえ計画なんてもなあ、ほかにだれにも立てられるもんじゃねえすよ」
おれたちはみんな、これ以上の満足はあるまいと思うくらい満足だったが、中でもトムはいちばん大満足だった。というのは、彼はふくら脛《はぎ》に弾が当たっていたからだった。
おれとジムとは、それを聞くと、今までの意気をいっぺんにくじかれてしまった。傷はかなり痛むし、血も出ていた。それでおれたちはトムを小屋に寝かして、公爵のシャツを引きさいてほうたいをしようとした。だがトムは言う。
「おれにそのぼろきれをよこせ。自分でやれる。今仕事の手を止めるな。このへんでぐずぐずしてちゃだめだ。脱出はすごくうまくいってんだ。オールにつけ。筏を出すんだ。おい、みんな、さっそうたる出来ばえだぞ。実にさっそうたるもんだ。ルイ十六世の身柄《みがら》をおれたちにまかせてもらってたらなあ。そしたら、伝記に、『聖ルイの末裔《まつえい》、天に昇らんことを!』なんて書かれないですんだんだ。そうさ、おれたちだったら、王さまをせき立てて、うまく国境を越えさせたにちがいないんだ。……きっとそうやったにちがいないんだ、まったく。……それも、嘘みたいにすいすいとやったんだがなあ。さあ、オールにつけ、オールにつけ」
だが、おれとジムとは相談していた……そして、思案していたのだ。しばらく考えてから、おれは言った。
「言ってみろよ、ジム」
それで、ジムが言った。
「うん、そんなら、言うだが、おら、こんなふうに思うだよ、ハック。今自由の身になったのがトムで、そんで、子供のうちのひとりが鉄砲で撃《う》たれてるとしたら、トムは何というだろ。『どんどん逃げて、おれを助けてくれ。撃たれたやつに医者を呼んで来て、手当てをするなんて、いらないことだ』そんなの、トム・ソーヤーらしいやり口だろうか? トムがそんなこと言うだろうか? 言うはずがねえ! なら、ジムはそんなこと言うだろうか? いいや。おら、医者が来るまでは、テコでもここを動かねえ。四十年だって、一歩も動かねえぞ」
おれは、ジムが心はきれいなやつだと知っていたので、きっと今言ったとおりのことを言うだろうとは思っていた。……とにかく、これでジムの気持ちがはっきりしたので、トムに、これから医者を呼んで来るといった。トムはひどく反対したが、おれとジムは一歩もゆずらなかった。それでトムは、這って行って、自分で筏の綱をほどこうとしたが、そんなことはおれたちがさせなかった。そこで彼はかんしゃくを起こしておれたちにくってかかったが……おれたちには通用しなかった。おれがカヌーを出す支度《したく》をしているのを見て、トムは言った。
「じゃあ、どうしても行かなきゃならないんなら、村へついたらどうするか、教えてやる。医者の家に入ったら、戸をしめて、医者にしっかり目かくしする。そして、ひとことも声を立てないと誓わせるんだ。金貨でぎっしりの財布をにぎらせるのも忘れるな。それからやつを外へつれだして、暗闇の中で、裏道やらどこやら、そこいらじゅうぐるぐるとひっぱりまわして、それからカヌーに乗せてここへつれて来るんだ。それも、いろんな島のあいだをまわり道して来るんだぞ。そして、身体検査をして、チョークを持ってたら、かならず取りあげる。村につれて帰るまでは返してはいけない。そうでないと、この筏にチョークで印をつけて、あとで探しだす目印にするからな。いいか。これが、こういうときにだれでもやる方法だ」
おれはそうすると約束して、出発した。ジムは、医者が来るのが見えたら森の中にかくれ、医者が帰ってしまうまでは出て来ない、という手はずにしておいた。
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四十一 医者
医者は年よりだった。おれが起こしてみると、とても気のいい、親切そうな年よりだった。おれは、弟といっしょに昨日の午後スペイン島で狩りをして、筏を見つけたので、ゆうべはその上でキャンプしたのだと話した。ところが夜中ごろ、弟は夢を見ていて銃をけったらしい。発砲して弟の足に当たった。だから来て手当をしてやってほしい。ただ、だれにも話したり、知らせたりしないでくれ、今晩帰って家の人をびっくりさせてやろうと思っているから、と話した。
「家の人って、どこの家の人じゃね?」と医者が言った。
「フェルプスの家の人です、向こうの」
「ふーん」と言って、医者はしばらく黙っていたが、やがてまたこう言った。
「何で弾が当たったといったっけな?」
「夢を見てたんです。それで発砲して当たったんす」
「妙な夢じゃな」と医者は言った。
そこで医者はカンテラに明りをつけ、鞍袋を取りあげて、おれたちは出発した。ところが、おれのカヌーを見ると、どうも様子が気に入らないと言いだした。……一人で乗るにはいいが、二人ではあぶなそうだと言う。おれは言った。
「いや、こわがることはありませんよ。三人で乗って大丈夫だったんだから」
「三人? どの三人じゃ?」
「いえ、つまり、おれと、シッドと、それから、それから……それから鉄砲と。つまりその三人です」
「ふーん」と医者が言った。
だが医者は、ふなべりに片足をかけ、ゆすってみてから、頭を振って、もっと大きいのをそこらで捜してみようと言った。
ところが、どの舟もみんな鎖でつないで錠がかかっていたので、医者はおれのカヌーに乗りこみ、わしが帰ってくるまで待ってなさい、と言った。それとも、もうすこし先を捜して別の舟を見つけるか、いや、それより先に家に帰って、みんなをびっくりさせたいんなら、その下準備をしといたらどうだ、と言う。でもおれは、そんなことはしないと言った。ただ、筏《いかだ》へ行く道順だけを教えた。そこで医者は出発した。
おれはすぐにいい考えを思いついた。
あの医者が足の怪我を、よくいうように、それこそ羊がしっぽを三べんふるあいだに手当てできなかったとしたらどうする? と、おれは考えた。三日も四日もかかったとしたらどうする? おれたちはどうすればいい? このへんでぶらぶらしていて、そのあいだに医者の口から秘密が洩《も》れてしまってもいいのか? だめだ。こうしよう。待つんだ。そして、医者が帰って来て、もう一度行かなきゃいけないと言ったら、おれもいっしょに行くんだ。たとえ泳いででもだ。
そこでみんなで医者をつかまえて、しばりつけて、捕《ほ》りょにしといて、どんどん川をくだるんだ。そして、もうトムに医者がいらなくなったら、かかった金を払って、いや、あり金全部やってもいい、岸にあげてやればいいじゃないか。それで、おれは、ひとねむりしに材木の山にもぐりこんだ。
目がさめてみると、お日さまは頭の上にたかだかとのぼっている! おれはとびだして、医者の家へ向かったが、聞いてみると、医者は夜のあいだにどこかへ行ったっきり、まだ帰っていないという。ハハア、とおれは考えた。するとトムはひどく悪いとみえる。よし、今すぐ島へ行ってみよう。
そこでおれは急いでかけだし、角をまがったとたん、もうちょっとでだれかの腹に頭をつっこみそうになった。見ると、サイラス叔父さんじゃないか! 叔父さんは言った。
「や! トム! 今までいったいどこに行ってたんだ、このイタズラ坊主め!」
「どこにも行ってやしませんよ」と、おれは言った。「ただあの逃げた黒ん坊を探しまわってただけですよ、ぼくとシッドとふたりで」
「それにしても、一体全体どこまで行ってたんだ。叔母さんがえらく心配してるぞ」
「心配することなんかないのに」と、おれは言った。「二人とも何でもなかったんだから。みんなや犬のあとを追っかけてたんだけど、おくれちゃって、見失っちゃったんです。でも、川の上で声が聞こえるように思ったんで、カヌーに乗って追っかけて、向こう岸まで行ったんだけど、影も形も見えなかった。そんで、川上のほうへ漕いでったんだけど、なんだかくたびれて、へとへとになっちゃったんで、カヌーをつないで寝ちゃったんです。あんまりぐっすり眠って、つい一時間前まで目がさめなかったんです。それから、何か新しいニュースはないか、こちらまで漕いで帰って来たんです。シッドは今郵便局へ行って、何か聞き出せないかやっています。ぼくは別れて、食べ物を取りに来たんです。二人ともこれから家に帰るところです」
そこで叔父さんとおれとは、「シッド」をつれに郵便局へ行った。だが、おれも、ひょっとすると、そこにはいないんじゃないかと思っていたんだが、やっぱりそこにはいなかった。
それで、叔父さんは局員から手紙を受けとって、おれたちはしばらくそこで待っていた。でもシッドはやって来ない。じゃあ、と叔父さんが言った、来なさい。シッドは、気がすむまでうろついたら、あとは自分で歩いて帰るか、カヌーで帰るか、好きなようにさせとけばいい。お前とわしとは馬で帰ろう……と言うのだ。おれは、もうすこしここにいてシッドを待ってると言ったが、叔父さんは聞いてくれない。そんなことをしてもむだだ、早く帰って、サリー叔母さんに無事なことを知らせてやらなきゃいけない、と言った。
おれたちが家に帰ると、サリー叔母さんはおれの姿を見てとても喜び、泣き笑いでおれを抱きしめ、例の、痛くも何ともないぶち方でおれをぶって、シッドも、帰って来たら、こうしてぶってやると言った。
家の中は、昼飯に集まった近所の農夫やそのおかみさんたちでおそろしくごったがえしていて、やかましいといったらまるでなかった。いちばん始末におえないのはホッチキスのばあさんで、のべつ幕なしにしゃべっていた。ばあさんはこう言った。
「いえね、フェルプス姉妹《しまい》〔教会などで同じ信者仲間を呼ぶ呼び方〕、わたしゃ、あの小屋を隅から隅まで探してまわったんだがね、あの黒ん坊のやつ、ありゃ気がふれてたんだよ。わたしゃ、このダムレルさんにも言いましたよ。……言ったでしょ、わたしゃ、ダムレルさん?……あいつは気がふれてたって。そう言ったんだよ。……わたしゃ。あんたたち、みんな聞いてくださいよ、どこから見たって、あいつは気がふれてたんだよ。あの砥石《といし》を見てごらんよ。正気の人間が、あんなおかしな文句を砥石に彫りつけたりするもんかね。そうだろう。ここに、なんとか、かんとかの胸は裂けただとかさ、ここにだれとか、かれとかが三十七年を送ったとかさ、……それから、あの、ルイなんとかの忘れ形身がどうしたとか、こうしたとか。まるではてしのない寝言の百万辺だよ。てんから気がふれてたんだ。わたしゃ、最初にそれを言ったんですよ。途中でもわたしゃ、そう言ったね。最後にもそう言ったんだ。いえ、いつだってそう言うよ。……あの黒ん坊は気がふれてたんだ。……気ちがいのネブカドネザール大王だよ、ありゃ」
「それから、あの、ぼろで作ったなわ梯子《ばしご》をごらんよ、ホッチキスさん」とダムレルのばあさんが言った。「いったい、なんだってあんなもの入用だったもんだか……」
「そのとおりのことを、つい今のこと、わたしもアタバック姉妹に言ってたとこなんですよ。この人に聞いてごらん、そのとおりなんだから。この人も言ってましたよ、あのなわ梯子を見てごらん、てね、そう言ったんですよ。そいで、わたしも言ったんだ、そうよ、見てごらんよってね、言ったんだ。……なんでまた、あんなものに用があったんだろうってね。そう言いましたよ、わたしも。この人も言ったんですよ、ホッチキス姉妹、そう言ったんですよ。……」
「だけどさ、いったい、それにしても、何だってあんな砥石をあそこに持ちこんだんだろうね。それに、だれがあの穴を掘ったんだか、だれが……」
「まったくだ、ペンロッド兄弟。おらもそのことを言ってたとこなんだ。……ちょっと、その蜜の皿をとってくだせえ。……今もこのダンロップ姉妹に言ってたんだ。どうやってあの石を運びこんだだかってな。それも、……ひとりでだ。ええですか。……ひとりでだ! そこんとこだ。まさかねえって、おら、言ったんだ。やっぱり手助けがあったにちげえねえ。それも、しこたま手助けがあったんだ。十人から上のやつらがあの黒ん坊を助けたにちげえねえ。ここの黒ん坊ひとり残らずぶったたいてでも、おら、きっとだれがやったか見つけて見せるよ。それから、おら、言ったんだ、そればかりじゃない……」
「十人から上だって? いいや、四十人いたって、あれだけのことをみんなやってのけられるもんじゃない。あの包丁の鋸でもなんでも見てみなせえ。まったく、よくもあれだけ手間をかけて作ったもんだ。それに、あのノコで切ったベッドの足だ。六人がかりで一週間はかかる仕事だよ。それから、ベッドの上のあの黒ん坊のわら人形だって、それに……」
「おっしゃるとおりだね、ハイタワー兄弟。わたしも今それを言ってたとこなんですよ、このフェルプス兄弟にね。この人の言うにゃ、ホッチキス姉妹、あんた、どう思うってね。どう思うって、何をですって、わたしゃ言ったんだ。いえ、あのベッドの足さ、あの切り方のことさって、この人が言うのさ。どう思うったってなんだって、ひとりでに切れるわきゃあないじゃないかって、わたしゃ言ったんだ。……だれかが切ったにちがいないんだ。あんたはどう思うか知らないが、わたしゃそう思うね。そりゃ、馬鹿な考えかもしれませんがね、とにかくわたしゃそう思うんだって、わたしゃ言ったんだ。ほかにもっとましな考えがあるというんなら、……そのかたのお説を拝聴《はいちょう》いたしましょ。それだけのことさね。わたしゃ言ったんだ、ダンロップ姉妹にね、わたしゃ……」
「おら、賭けてもええ。あれだけのことをみなやってのけるにゃ、四週間というもの、小屋いっぱい黒ん坊がいたにちげえねえんだ。フェルプス姉妹。あのシャツを見なせえ。隅から隅まで、秘密のアフリカ文字がぎっちり血で書きこんである。おおぜいのやつらが、おおかた四六時中《しろくじちゅう》かかりきりでやってたにちげえねえですよ。だれかあいつを読んで聞かせてくれたら、おら二ドル出してもええ。あれを書いた黒ん坊のやつら、おら、とことんまで鞭《むち》でぶったたいて、それから……」
「手助けする連中がいたんですよ、マープルズ兄弟。しばらく前からこの家にいなすったら、あなたにだってそのわけがわかりますよ。だって、手当たり次第、なんでもかんでもさらってったんですからね。いえ、わたしたちが見はってる目を盗んでですよ。あのシャツだって、家《うち》の物干綱からさっさと盗んでったものなんです。あのなわ梯子を作ったシーツにしたって、何べん盗んだものか数えきれないくらいです。それから小麦粉、ろうそく、ろうそく立て、スプーン、それに古い寝床暖め器やら、何やら、あんまりたくさんで思いだせないくらい。そう、それからわたしの新しいキャラコの服も。わたしも、サイラスも、シッドもトムも、さっき言ってたように、昼も夜もなく見はってたんですよ。それでもそのコソ泥連中のコの字もつかまえられなかった。しかもですよ、最後の最後になって、いいですか、みなさん、連中ったら、わたしたちのすぐ鼻の先まで忍びこんで、まんまと私たちの裏をかいたんです。いえ、わたしたちだけじゃない。インディアン地区から強盗が押しかけてたのに、その強盗たちの裏までかいて、とうとうあの黒ん坊をつれて無事に逃げおおせたんですからね。それもあなた、十六人の男と、二十二匹の犬がすぐあとを追っかけてる、その最中にですものね。
まったく、こんな話って聞いたことがない。魔法使いだってこれほどうまく、みごとにはやってのけられるもんじゃありませんよ。いえ、ほんとにこりゃ魔法にちがいないと思うんですよ。……だって家の犬のことを考えてごらんなさい。あれほどの犬はどこにもいませんよ。ところがあの犬たちが、まるで跡がかぎだせなかったんですからね。そのわけを説明できる人があったらそれを説明してくださいな……どなたでも!」
「いや、これほどの話は……」
「ほんとに、いちどだって……」
「やれやれ、わたしはまだ……」
「家のものまで盗んで……」
「くわばら、くわばら。こんなところに住むなんて、こわくて……」
「こんなところに住むなんて、こわいと言うんですか! こわいも、こわくないも、わたしは寝られもせず、起きてもいられず、横になることも、すわってることもできなかったんです、リッジウェイ姉妹。いえ、ほんとにわたし、着物や道具を盗まれてるあいだはまだいいけど、ひょっとしたらあの連中……まあ、聞いてくださいよ、ゆうべ、真夜中がやって来たときには、わたしゃもう心配で心配で……だって、連中が家族のだれかをさらって行くかもしれないと心配になって来てね。あんまりせっぱつまって、ちゃんと物を考える力がなくなってしまったんですよ。そりゃ今は、昼間になって考えてみると、いかにも馬鹿らしいみたいに思えますけどね。でも、あのときは、わたし、考えたんです。あの二階の寂しい部屋には、あの子供たちが眠っている。わたし、もうとてもじっとしていられなくて、そっとあがって行って、部屋に鍵をかけといたんです! そうですとも。だれだってそうしたにちがいありませんよ。だってね、そうじゃありませんか、あんなふうにこわさがつのってるときには、もう止《と》めどがなくなって、こわい上にもこわくなって来て、すっかり気が転倒しちまって、いろんな気ちがいじみたことをはじめてしまうもんですよ。そいで、わたしはひょっと考えたんです。もしわたしがあの子だったら、そして、あんな離れた二階の部屋にいて、しかも鍵がかけてなかったとしたら、そしたらどんなに……」
そこで叔母さんは急に口をつぐんで、それにしてはおかしいぞ、というような顔をして、ゆっくりふり返って、おれの顔に目をとめた。おれは立ちあがって、散歩に出た。
おれは考えた。今朝おれたちがあの部屋にいなくなってたわけをどう説明するか、ちょっと散歩でもして思案すればいい考えもうかぶだろう。それで外に出たのだが、あまり遠くには行かなかった。そうしないと、叔母さんはおれを捜しに人を出すだろうから。
それで、夕方になって、お客がみんな帰ったころ、おれは家に入って、叔母さんこう説明した。
昨夜は、人のどなる声や鉄砲の音でおれと「シッド」は目がさめた。ところがドアに鍵がかかっていて、おれたちはおもしろそうだから外へ出てみたくて、避雷針をつたっておりたのだが、二人ともすこし怪我をした。もう二度とそんなことはしないつもりだ、と話したのだ。それからおれはまた、前にサイラス叔父さんに話したこともみな叔母さんにも話した。
すると叔母さんは、おれたちのことをゆるしてあげるといった。とにかく、まあそんなことですんでよかったといって、ほんとに男の子というのは何をしでかすかわからない、わたしの見たところ、男の子というのはとても向こう見ずなものだから、と言った。だから、別にそれで悪いこともおこらなかったんだもの、もうすんでしまったことをとやかく言うより、お前たちが生きていて、丈夫で、まだいっしょにいられることをありがたいと思わなきゃいけない、とも言った。それからおれにキスして、頭をやさしくたたいて、なんだか物思いにふけってるみたいだったが、急にハッと気がついて、こう言った。
「おや、大変だ、もうじき夜じゃないの。だのにシッドはまだ帰って来ないんだね。ほんとに、あの子、どうしちまったんだろう?」
しめた、チャンスだ、とおれは思った。それで、とびあがって言った。
「ぼくが町まで行って、つれて来ます」
「いいえ、いけません」と叔母さんは言った。「お前はここにこのままいなさい。一度に二人ともいなくなっては大変だもの。晩ご飯までに帰らなかったら、叔父さんに行ってもらいます」
ところが、晩飯になっても帰って来ないので、晩飯のあと叔父さんが出て行った。
叔父さんは、十時ごろ、すこし落ちつかない様子で帰って来た。トムと行きあたらなかったのた。サリー叔母さんはまるで落ちつかなかった。だがサイラス叔父さんは、そう心配することもない、と言った。……男の子は男の子だ。朝になったらぴんぴんして帰ってくるさ、と言った。叔母さんも、そう思って満足するよりしかたがなかった。
けれども、と叔母さんは言った。わたしはもうすこしあの子のために起きてます。そして、明りをつけたままにしておきます。あの子が帰って来たら目につくようにね、と。
それで、おれが二階の寝室へあがって行くとき、叔母さんはろうそくを持っていっしょについて来てくれて、ふとんをかけて、とてもやさしく、お母さんみたいにしてくれたので、おれはなんだかうしろめたい気がして、まともに顔が見られないくらいだった。
叔母さんはベッドのはしに腰かけて、長いことおれと話していた。ほんとにシッドはいい子だと言って、いつまでも彼のことを話しつづけ、やめたくないふうで、迷子になったんじゃないか、怪我をしてるんじゃないか、ひょっとすると溺《おぼ》れたんじゃあるまいか、きっと、この今の今も、どこかで苦しんでやしないか、死んでるんじゃないか、お前はどう思うねとしょっちゅうおれに聞いた。それなのに、わたしはあの子のそばにいて、介抱《かいほう》してやることもできないのだ、と言って、口をつぐんで、戻をポタポタこぼした。
だからおれは、大丈夫ですよ、シッドは。朝になったら帰って来ますよ。きっとそうです、と叔母さんに言った。すると叔母さんはおれの手をギュッとにぎりしめ、おれにキスしたりして、もう一度そう言っておくれ、いつまででもそう言ってておくれ、そう言われると気が落ちつく、だってほんとに心配でたまらないんだから、と言った。それで部屋から出て行くときには、おれの目をじっとやさしく見つめて、こう言った。
「ドアの鍵はかけないでおいときますよ、トム。それに、窓も、避雷針もありますよ。でも、いい子にしていてくれるね。どこにも行きゃしないね。このわたしのために、そうしてくれるね、トム」
白状するが、おれはそんないい子じゃなかった。トムを探しに出て行こうと思っていたのだ。そして実際、おれはすぐにも出かけるつもりにしていた。だけど、叔母さんにあんなことを言われた以上、おれには出かけることはできなかった。たとえ王様にしてやると言われたって、おれにはそんな真似はできなかった。
しかし、叔母さんのことも気になるし、トムのことも気になって、ぐっすり眠ることはできなかった。だから、夜中に二度、避雷針をつたっており、表のほうへこっそりまわってみると、叔母さんがろうそくのそばにすわっていて、目を道路のほうに向け、涙をためているのが窓ごしに見えた。叔母さんのために、何かしてあげることができたらなあ、と思ったが、おれにできることは何もない。ただ、もうこれ以上叔母さんを悲しませるようなことだけはすまい、と心に誓うだけだった。三度目に、もう明けがた近かったが、目をさましておりて行ってみると、叔母さんはまだそこにいたが、ろうそくは燃えつきそうになっていて、白髪の頭を手の上にのせたまま、叔母さんは眠っていた。
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四十二 トムソーヤーの負傷
叔父さんは、朝食の前にもう一度町へ出かけて行ったが、トムの行く方《え》はいっこうにわからなかった。朝飯のテーブルにすわると、叔父さんも叔母さんも物思いに沈んで、ひとことも口をきかず、悲しげな顔をして、コーヒーは冷えるまま、ひと口も物を食べなかった。やがて叔父さんが口を開いた。
「お前に手紙を渡したかな?」
「何の手紙?」
「昨日、郵便局でわしが受け取って来た手紙だよ」
「いいえ、まだいただいてませんが」
「すると、わしが忘れたにちがいない」
叔父さんは、あちこちポケットを捜したが、どこかへおいて来たと気がつくと、立って取って来て、叔母さんに渡した。叔母さんは言った。
「まあ、セント・ピーターズバーグからだ。……姉さんからですよ」
おれは、もういっぺん散歩に出たい気持ちだったが、動くわけにはいかなかった。ところが、封を切るより前に叔母さんは手紙を手から落とし、急にかけだした……何かが見えたのだ。おれも見た。トム・ソーヤーだった。マットの上に寝ている。それから、あの年よりの医者、それにジム。叔母さんのキャラコの服を着たままだ。両手をうしろ手にしばられている。おおぜいの人がついて来る。おれは、さっと手紙を手近な物のうしろに隠しといて、大急ぎでかけだして行った。叔母さんは身を投げだしてトムにすがりつき、泣きながら言った。
「ああ、死んでしまった、死んでしまった。そうにちがいない。死んでしまったんだ」
するとトムは頭をすこし横にまわして、ひとこと二《ふた》こと何かいった。その様子から、やつは頭が変になっていることがわかった。叔母さんは両手をふりあげて、叫んだ。
「ああ、生きてる。ありがたい! 生きてさえいてくれたら、もうそれだけでいい」
叔母さんはトムに急いでキスして、家にとんで入って、ベッドの用意をさせた。とんで入りながら、ひと足ごとに、これ以上は舌がまわらないくらいの早口で、手あたり次第、黒ん坊だろうがだれだろうがかまわずに、用を言いつけるのだった。
おれは、みんながジムをどうするのか心配なので、男たちのあとについて行った。年寄りの医者とサイラス叔父さんはトムについて、家の中へ入った。男たちはかんかんに怒っていて、ジムを縛《しば》り首にしちまえというものもいた。
ここいら一帯の黒ん坊全部に見せしめにしろ、さもないと、みんな、ジムのやったのを真似て逃げ出そうとするだろう。おまけにこいつは、大騒動をひきおこして、一家全部に、毎日毎晩死ぬほどの心配をさせたんだ。どうしたって縛り首だというのだ。だが、そんなことはするな、と言うものもいた。そんなことをしたってだめだ、なぜって、これは、この土地の黒ん坊じゃない、もし本当の持ち主が現われて弁償《べんしょう》しろといったらどうする、と言うのだ。
これを聞いて、みんなの興奮もすこし水をさされたかっこうになった。というのは、黒ん坊がちょっとでもよくないことをしたときに、首をくくってしまえといつでもいちばん熱心に言う人は、自分の気がすんでしまうと、弁償をする段になっていつでもいちばん熱心でない人だからだ。
人びとは相当ひどくジムをののしり、ときには横っつらにげんこを食らわせたが、ジムはひとことも口をきかず、おれを知ってるというそぶりはけっして見せなかった。
それから人びとはジムをまた元の小屋につれて行き、自分の服を着せ、もう一度鎖につないだ。だが今度はベッドの足なんかじゃなく、床の丸太にうちこんだ大きな金具につなぎ、おまけに、両手、両足ともつないでしまった。そして、これから持ち主が来るまで、食べ物はパンと水しかやらないぞ、と言った。そして、持ち主がある期間のあいだに来ればいいが、そして、この穴埋めをしてくれるのでなければ競売にかける、というのだ。それから、夜は鉄砲を持ったふたりの農夫を見張りに立たせる、昼間はドアにブルドッグをつないでおく、と言った。
このときにはもう男たちは今言ったような用事を片づけていて、帰りがけにてんでにジムをののしっておいて、おいおいに散って行った。そのとき、あの年寄りの医者がやって来て、様子を見てからこう言った。
「必要以上にこの黒ん坊に手荒なことはしなさんな。悪いやつじゃないんじゃから。わしがあの男の子のところへ行ってみると、だれか手助けがなけりゃ弾を出せんことがわかった。ところがあの子の容態は、わしがひとまず帰って手助けをつれて来る余裕などとてもないんじゃ。だんだん、だんだん悪うなって来て、しまいにゃとうとう頭が妙になってしもうてな、わしをそばへ近寄せんのじゃ。筏《いかだ》にチョークで印をつけたら殺すぞ、だとか、そんな愚《ぐ》にもつかんことばかり言いつづけて、こりゃ、もうどうにも手のほどこしようがないとわしは思うたよ。
それでわしは、何としてでも手助けがいる、と、思わず口に出して言うたところが、とたんにこの黒ん坊がどこからか這いだして来て、おらが手助けしましょうと言うんじゃ。そして、本当に手助けしてくれた、それも、なかなか立派にやってくれたんじゃよ。
もちろんわしは、こいつはてっきり逃げ出した黒ん坊にちがいないとにらんだんじゃが、しかし、その場にいてわしに何ができる? 丸一日とひと晩、ずっとその場にいるよりしかたがなかったんじゃ。
いや、まったく、抜きさしならんとは、このことじゃ。風邪の患者が二人いたから、もちろんわしは町へとんで帰って診察したかった。じゃがそうもできん。黒ん坊が逃げてしまうじゃろうし、そうなりゃ、わしの責任じゃ。小舟でも通りかかればと思うても、オーイというて聞こえる近くには一隻も来ん。
そこでわしゃ、今朝夜が明けるまでそこにずうっといなきゃならなんだんじゃ。しかし、この黒ん坊ほど看護がうもうて、義理のかたい黒ん坊は見たことがない。そんなことをしてりゃ、逃げそこねて、自分の自由がふいになるのに、それを覚悟で看病に精出したんじゃからな。それも、くたくたになっておるのにじゃよ。
最近えらくこき使われていたのにちがいない。
とにかくわしは、そういうわけでこの黒ん坊が気にいってしもうたんじゃ。いや、まったく、皆の衆、こんな黒ん坊は千ドルの値打ちがある。……それに、しんせつに扱ってやる値打ちもな。こいつのおかげで、何ひとつ不自由なしに手当てができた。あの子は、家にいるのと同じ看護が受けられた……いや、ひょっとすると、家にいるよりよかったかもしれん、静かにしとれたからな。じゃが、その場にいたわしの立場というたら! 黒ん坊と怪我人を一手にかかえて、今朝の夜明けまでそこにじっとしてなきゃならなかったんじゃからな。
ところが朝になって小舟が通りかかって、運のいいことに、黒ん坊はわらぶとんのわきにすわって、膝の上に頭をのせてぐっすりねむっていたから、わしは舟の連中にだまって合図をした。そこでその男たちが黒ん坊にそっと近づいて、いきなりとっつかまえて、やつがまだねぼけて、わけがわからないでいるうちにくくってしまったもんだから、まるで面倒はなかったんじゃ。それで、男の子のほうも、熱にうかされて眠っていたので、わしらはオールの音を立てないようにして、舟に筏をつないで、うまぁく、静かにこっちまで引いて来たというわけじゃ。この黒ん坊は最初からこそっとも騒ぐじゃなし、ひとことも口をきかなんだ。やつは悪い黒ん坊じゃないよ、皆の衆。わしはやつのことをそう思うとるんじゃ」
だれかが言った。
「なるほどな。そいつは、たしかに感心だね、お医者さん」
それで、ほかの人たちもすこし心をやわらげたので、おれはこの年寄りの医者にすごく感謝した。ジムに、そんなふうによくしてくれたからだ。それに、この医者が、おれが思ってたとおりの人だとわかったのもうれしかった。最初会ったときから、この人は心のやさしい、いい人だと思っていたからだ。みんなも、ジムはとてもよくやった、と口をそろえて言って、それはやっぱり認めてやって、報《むく》いてやらなければいけないということになった。それで、もうこれ以上ののしったりしないと、みんなが心から約束した。
それからみんなは出て行って、ジムを中に閉じこめてしまった。あの四つの鎖のうち、一つか二つはずしてやるといわないかな、と思っていたのだが……とても重い鎖だった……だめだった。パンと水だけじゃなく肉や野菜をつけてやろうと言いださないかな、とも思ったのだが、これも、みんな考えつきもしなかった。けれども、おれが今、口を出したりしないほうがいいと思った。そのうち、今の医者の話を、なんとかしてサリー叔母さんに伝えよう。だが、その前に難関がひかえている。まずそいつを突っきてからの話だ。
難関というのは、つまり、あの大騒ぎの夜、逃げた黒ん坊を追っかけてすごした有様をこの前叔母さんに話したとき、なぜシッドが撃たれたことをいい忘れたか、そのわけを叔母さんにどう説明するか、ということだった。
だが、まだ時間はたっぷりある。サリー叔母さんは昼も夜も病室にこもっていたし、サイラス叔父さんがうろうろしている姿を見かけるたびに、おれはこっそり避けて、会わないようにしていた。
翌朝、トムはずっとよくなくたという話だった。叔母さんはちょっと寝るために自分の部屋に帰ったということだ。そこで、おれはこっそり病室へ行って見た。トムが起きてたら、家の人たちをうまくごまかせる話を二人で考えられると思ったのだ。だが、トムは寝ていた。それも、とても静かにぐっすり眠っている。顔はすこし青ざめて、運びこまれたときみたいに真赤にほてってはいなかった。それでおれは腰をおろして彼が目をさますのを待っていた。
三十分ばかりすると、サリー叔母さんが足音を忍ばせて入って来た。まずい! また困ったことになった。叔母さんは手真似で、静かにしてなさい、と合図して、おれのそばにすわり、ひそひそ声で話しはじめた。
もう心配はいらない。徴候《ちょうこう》はとてもよくて、今までずうっと、あんなふうに眠りつづけている。だんだん様子がよくなって、落ちついて来ているから、十中八、九、今度目をさましたら正気に帰っているにちがいない、と話した。
それで、おれたちはじっと見つめてすわっていると、やがて彼はちょっと身動きして、ごくふつうなふうに目をあけて、あたりを見まわすと、こう言った。
「オイ!……あれ、おれは家にいるのか! どういうわけだ? 筏はどこにある?」
「大丈夫だよ」と、おれは言った。
「それで、ジムは?」
「やつも大丈夫だ」と、おれは言ったが、そう元気よく、というわけにもいかなかった。だがトムはそんなことには気がつかず、こう言った。
「よし。万事オーケーだ! さあ、これでおれたち、みんな大丈夫だ。安全だ! 叔母さんに話したのか?」
そうだ、とおれが言おうとしたとき、叔母さんが口を出して、言った。
「話したって、何のことを、シッド?」
「え? いや、なりゆき全部をですよ」
「全部って?」
「つまり、あのこと、全部です。ほかにあるわけないでしょう。ぼくたちが、あの逃げた黒ん坊を自由にしてやったこと……ぼくとトムと二人で」
「何だって? 黒ん坊を自由に……何の話をしてるんだろう、この子は。ああ、どうしよう。この子、また頭が変になったんだ!」
「ちがうよ。頭が変なんかじゃないよ。自分の話してることくらい、ちゃんとわかってますよ。ぼくたち、あの黒ん坊を自由にしてやったんです、ぼくとトムとで。ちゃんと計画を立てて、おまけに実にさっそうとやってのけたんだ」
トムは勢いづいてしゃべりだしてしまった。叔母さんは、それを止めもせず、ただすわって、まじまじとトムを見つめたまま、彼がべらべら話しつづけるままにしていた。今さらおれが口を出してもだめだと、おれは見てとった。
「ほんとに、叔母さん、ものすごく大変な仕事だったんだ。……何週間もかかったんだ。……叔母さんたちがみんな眠ってるあいだに、何時間も、何時間も、毎晩準備をつづけたんだ。おれたち、ろうそくも盗まなきゃならなかったし、シーツも、シャツも、叔母さんの服も、スプーンも、ブリキの皿も、包丁、寝床暖め器、砥石《といし》、小麦粉……実際、きりがなかった。それから鋸《のこぎり》を作ったり、ペンや、紋章やら何やら、全部作りあげるのに、どんだけ苦労したか、叔母さんにはとても想像もつかないよ。しかも、それがどんなに愉快だったか、叔母さんには半分もわからないだろうな。それから今度は、棺桶《かんおけ》の絵をかいたり、強盗の匿名《とくめい》の手紙を作ったり、避雷針をのぼったりおりたり、小屋に入る穴を掘ったり、なわ梯子も作るし、そいつを入れてパイを焼いたり、道具に使うスプーンを持ちこんだり……それも、叔母さんのエプロンのポケットに入れて持ちこんだんだよ」
「なんて、まあ、ほんとに……」
「それから、ジムが寂しくないように、ネズミや蛇やなんかをどっさり小屋につれて来たり……ところが、叔母さんたら、トムを、帽子にバターを入れたまま、あんなに長いことひき止めといたもんだから、もうちょっとでこの計画全部をオジャンにするところだったんだよ。だって、ぼくたちが小屋を出る前にもうみんながやって来て、おかげでぼくたち大急ぎで逃げ出したら、足音を聞きつけられちゃって、やつらが鉄砲をブッぱなして、ぼくも一発ちょうだいしちゃったんだ。そんで、道をわきへよけて、みんなをやりすごしたら、今度は犬がやって来た。でも、ぼくたちには目もくれないで、いちばん騒ぎのひどいほうへ行っちゃったんだ。そこでぼくら、カヌーを出して、筏《いかだ》のとこへ行って、これでもうみんな安心、ジムは自由になったっていうわけさ。これ全部、ぼくたちだけでやったんたよ。すごいでしょう、ねえ、叔母さん」
「まあ、ほんとに、わたし、こんな話は生まれてこのかた聞いたことがない。じゃあ、あんたたちだったんだね、あの、このあいだからの騒ぎの張本人は。わたしたちみんなをあんなにびっくりさせて、死ぬほどこわい目を見させたのは、みんなあんたたちの仕わざだったんだね。ほんとに、悪さにもほどがある。ええ、もう、今この場で、こっぴどくお前たちをこらしめてやりたい気持ちでいっぱいだよ、わたしは。このわたしが、毎晩毎晩、やきもきしながらここにこうしていたというのに、それを……よし、お前がよくなったら、お前たち二人とも、思いきり悪魔をたたきだしてやるからね、このいたずら坊主たち!」
だが、トムは得意でたまらず、うれしくてうれしくて、口をつぐむなんてことはとてもできず、舌のほうが勝手にぺらぺらしゃべりつづけてしまうのだ。……叔母さんはいちいちそれをさえぎって、のべつ叱りつけるし、二人がいっぺんにそれをやるもんだから、まるで猫の大集会みたいな騒ぎだった。叔母さんは言う。
「いいよ、今のうちおおいにおもしろがっているがいい。でもね、いいかい、今度あれに手出しするのをわたしが見つけたら……」
「だれに手出しするって?」
トムは急に笑顔をひっこめ、びっくりした様子で聞いた。
「だれに? だれにって、あの逃げた黒ん坊にきまってるじゃないか。ほかのだれだというんだね?」
トムはひどく深刻な顔でおれを見て、言った。
「トム、お前、たしかに、やつは大丈夫だと言ったな? 逃げおおせたんじゃないのか?」
「やつは、だって?」サリー叔母さんは言った。「あの黒ん坊のことかね? 逃げおおせたりするもんですか。ちゃんと無事につれもどして、またあの小屋に入れてあるよ。パンと水をやって、鎖でつないでますよ。そのうち持ち主が来て引きとるか、そうでなければ競売になるのさ」
トムはまっすぐベッドの上に起きあがった。目は怒りに燃えている。鼻の孔はまるで鰓《えら》のように、ひらいたり閉じたりしている。そして、おれにどなりつけて、こう言った。
「やつらにジムを閉じこめる権利なんかない。行くんだ! 一刻もぐずぐずするな。ジムを放せ! やつは奴隷じゃない。やつは自由だ。この地上に生きてるどんな生き物にも劣らず自由なんだ!」
「この子は、いったい、何を言ってるんだろう」
「ぼくの言ってるひとことひとこと、みんな本気で言ってるんです、叔母さん。もしだれも行かないんなら、おれが行く。あの黒ん坊のことは、ぼくは何から何まで知ってる。そこにいるトムだってそうだ。ワトソンさんは二か月前に死んだ。あの黒ん坊を川下のほうに売ろうとしたことがあったけど、恥ずかしいことだったと思ってた。いや、はっきり口に出してそう言ったんだ。それでワトソンさんは、遺言で、やつを自由にしてやったんだ」
「なら、何だってお前はいったい、あの黒ん坊を自由にしてやろうなんてしたんだい? もう自由の身だと知ってたんなら」
「いや、実は、そこが問題なんだ。やっぱり女のいうことだなあ。つまり、ぼくは冒険がしたかったんだ。首のとこまで血の川につかって、その中を進んで行って……あれッ! ポリー伯母《おば》さん」
伯母さんが、立っていたのだ。嘘なんかいうもんか。ドアを一歩入ったところに、パイをどっさり食べて、満足しきった天使みたいに、やさしい顔で、すぐそこに立っていたのだ。
サリー叔母さんはとんで行って、首をもぎ取らんばかりに抱きしめて、抱きしめたまま泣いていた。おれは、ちょうどいいとばかりベッドの下にもぐりこんだ。どうも、おれたちにとっては空気がおかしくなってきそうだったからだ。
そこからのぞいて見ると、しばらくして、ポリー伯母さんは身をふりほどいて、眼鏡ごしにトムをにらんで立っていた。何というか、トムを地面の中ににらみ込むとでもいった例のにらみ方なのだ。それから伯母さんは口を開いた。
「そう、そう。そうやって、こっそり頭を向こうへむけてるほうがよかろうね。わたしがお前だったらそうするよ、トム」
「ええッ!」とサリー叔母さんが言った。「そんなにこの子変わりはてたの?いいえ、あれはトムじゃないのよ。シッドですよ。トムは、トムは……あれ、トムはどこへ行ったの? たった今までここにいたのに」
「お前さんの言うのはハック・フィンのことだろ。ハックのことですよ。家のトムみたいなわんぱくを、この長い年月育てて来て、ひと目見たときわからないなんてことがありますか。そんなことがあったら、それこそとんだ御挨拶《ごあいさつ》というもんだ。出て来なさいハック。そんなベッドの下やなんかにもぐりこんでないで」
それで、おれは出て行った。だが、勇《いさ》んで出て行ったわけじゃない。
サリー叔母さんは、まるで頭がこんぐらがって、何が何だかわからなくなった顔をしていた。あんな顔はほかに見たことがない。……いや、ひとりだけある。それはサイラス叔父さんだった。部屋に入って来て、みんなの話を聞いたとき、おんなじような顔をした。まるでよっぱらったようになったとでもいうか、もうその日一日、何が何やらさっぱりわからず、そのままの頭でその晩、祈祷会《きとうかい》で説教をしたもんだから、叔父さんはものすごい名声を博してしまった。なぜって、世界中でいちばんの年寄りにも、まるで意味のわからないような説教だったからだ。
それで、ポリー伯母さんは、おれの生い立ちや身の上を、すっかりみんなに話した。それでおれも、今までのことを話さないわけにはいかなくなっちまった。フェルプスさんがおれをトム・ソーヤーとまちがえたとき……すると叔母さんは口をはさんで言った。
「ああ、これからもわたしのことをサリー叔母さんと呼んでおくれ。もう今じゃそれに慣れてしまってるんだもの。変えることなんかないよ」……で、つまり、サリー叔母さんがおれをトム・ソーヤーとまちがえたとき、おれはどんなに困ったか。
でも、おれはそのまちがいをそのままにしとかなきゃならなかった。だって、ほかにどうしようもなかったんだもの。それに、本物のトムは怒ったりなんかしないだろうと思った。トムは秘密なんてことが大好きだから、きっとおもしろがるだろう。それをタネにして冒険を考えだして、大満足するだろう。そして実際そのとおりになった。トムはシッドだというふりをして、できるだけおれが楽なようにしてくれた……と、今までのことをすっかり話したのだった。
ポリー伯母さんは、ワトソンさんが遺言でジムを自由にしたというのは、トムの言ったとおりだと言った。とすると、やっぱり本当だったのだ。トム・ソーヤーが、もともと自由な黒ん坊を自由にするために、わざわざあんな面倒で厄介なことを全部やったというわけだ! それで、そのとき、その話を聞いて、やっとおれにもわかったのだ、トムが、ああいうふうにしつけられて育ったのに、なぜ人が黒ん坊を自由にするのを手助けする気になったのか、そのわけが。
で、ポリー伯母さんは、サリー叔母さんから、トムと「シッド」が無事着いたという手紙を受け取ったとき、こう思ったんだと言った。
「そら、このとおりだ! 思ってたとおりじゃないか。あの子を、あんなふうにして、だれか目を光らせる人をそばにつけないで出したりすりゃ、こうなるに決ってるんだ。さあ、こりゃやっぱりわたしが出かけなきゃなるまい。千百マイルも川をくだって、あいつめ、今度は何をしでかしたのか、この目で見とどけて来なくちゃなるまい、ってね。だってさ、あんたからは何の返事ももらえそうになかったからね」
「おや。だけどわたし、あなたから手紙なんか一度も受けとりませんでしたよ」と、サリー叔母さんが言った。
「へえ。おかしいねえ。だってわたし、二度も手紙を出したんだよ、シッドが来てるってのはどういうことかって」
「でも、とにかく、とどいてませんよ」
ポリー伯母さんはゆっくりふりむいて、こわい顔でトムを見て言った。
「これ、トム!」
「ウーン……何?」トムは、すねたみたいな顔でいった。
「何が何? です。こしゃくな子だね。あの手紙を出しなさい」
「どの手紙?」
「あの手紙さ。出さなきゃ、押さえつけといてでも、わたしは……」
「トランクの中だよ。ほら。郵便局からもらって来たときのままだよ。中なんか見てないよ。手をふれてもないんだ。だけど、きっとややこしいことになるとわかってたからさ、どうせ急がないんだから、それならぼく、あずかっといて……」
「どうでも、こりゃ、おしおきしなきゃいけないね。疑問の余地はありませんね。それからわたし、もう一本手紙を出したんだよ、これから出かけるという知らせをね。だけど、それもきっとこの子が……」
「いえ、それは昨日とどきました。まだ読んでないけど、でも、とにかくその手紙は、大丈夫受けとりました」
おれはよっぽど言おうかと思ったんだ、叔母さんは持ってない、二ドル賭けるってね。でも、言わないほうがまず安全だろうと思った。それで、黙っていた。
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最後の章 自由の身にする
おれは、トムとふたりきりになるのを待ちかねて、いったいあの逃避のとき、どういうつもりだったのか聞いてみた。もしあのとき、逃避がうまくいって、もともと自由なニガーを自由にできていたとしたら、いったいそれからどうするつもりだったのか聞いたのだ。
するとトムの答えでは、最初から頭にあった計画は、もしうまくジムをつれだせたら、筏《いかだ》に乗せて川をくだって、河口までずっと冒険旅行をする、そして、そのときになって、ジムに、実はお前は自由なんだということを話して、今度は汽船に乗ってさっそうと故郷の町につれて帰る、そして、そのあいだ自分で働けなかった分はジムに金をやって、前もって町の黒ん坊たちに知らせておいて、ジムが町に入るときには、あのへんの黒ん坊全部がとりまいて、踊りながら迎え入れる、たいまつ行列とブラスバンド入りでやるんだ、そしたらジムは英雄になるし、おれたちだって英雄だ……それがおれの計画だったというのだ。だが、おれは思ったんだ、やれやれ、今のようになってよかった、と。
おれたちはさっそくジムを鎖からはずした。それから、ポリー伯母さんとサイラス叔父さんとサリー叔母さんが、ジムが医者を助けてどんなにトムの看護をよくしたかを知ると、ジムのことで大騒ぎをして、立派な服を着せ、食べたいというものは何でも食べさせてやるし、たのしくすごさせ、仕事はひとつもさせなかった。それで、おれたちはジムを病室につれてあがって、心ゆくまで話をした。トムはジムに四十ドルやった。おれたちのために、あんなに辛抱強く囚人の役をつとめてくれた、それも、実にうまくつとめあげてくれた、その駄賃《だちん》というわけだった。ジムは死ぬほど喜んで、思わず大声をあげて言った。
「ほうら、見なせえ、ハックさん、おらの言ったとおりだ。……ジャクソン島で、おらが言ったとおりでねえか。おら、言っただろ、おら、胸に毛があるって。そんで、それが何の印《しるし》だか、話したでねえか。そんで、おら、前に一度金持ちだったが、またもういっぺん金持ちになる。そう言っただろ。そのとおりになったんよ。
ほら、ここにある。ほら、これだ。なんてったってだめだ。……前兆は前兆だ。いや、まったくだ。おらにゃ、ちゃんとわかってたんよ。たしかに金持ちになるってこた、今、おらがここにこうして立ってるのと同じくらい、たしかにわかっていたんよ、おら」
それで、それからトムはつぎからつぎへと話しに話し、ここ二、三日のうちに、ふたりでまた夜こっそり抜け出そう、と言った。そして、必要な道具を買いそろえて、向こうの准州のインディアンの群れにもぐりこんで、半月か一か月くらい、ものすごい大冒険をやろうじゃないかというのだ。だからおれは言った、よしきた、気に入った。
だけど、道具を買う金がない。きっと家からももらえないだろう。今ごろはおやじが帰って来て、サッチャー判事から金をみんな引き出して、飲んでしまっているにちがいないから、と言った。
「いや、そんなことはないよ」とトムは言った。「まだ全部ある……六千ドル以上だ。お前のおやじは、あれ以来まだ一度も帰って来ない。とにかく、おれが町を出るときにはまだ帰ってなかったぜ」
ジムはちょっとおもおもしい声で言った。
「あの人は、もう帰って来ねえだよ、ハック」
おれは言った。
「どうしてだい、ジム?」
「どうしてでも、それは聞かんがええだ。ハック。……だけんど、あの人は、もう帰って来ねえよ」
だが、おれがどうしてもと聞くので、とうとうジムはこう言った。
「おぼえてるかね。いつか、家が川を流れて来たことがあっただろ? そんで、あの中に人がいて、顔に布がかぶさってただろ? おら、中へ入ってって、布をどけて見た。そんで、あんたには、入るなっていっただね。そんで、だから、あんたは、金がいるときには、いつでももらえるだ。あれはあの人だったんよ」
トムは、今はもうほとんどよくなった。抜きとった弾を、時計がわりに首から鎖でぶらさげて、いつでも、何時かな、といって見ている。それで、これ以上もう書くことは何もない。そして、おれはそれがすごくうれしいんだ。なぜといって、本を一冊書くのがどんなに面倒なものか、そいつを知ってたら、おれはこんな仕事にとりかかるなんてこと、はじめからしなかっただろうからさ。それにこれからももう二度とはしない。だけど、インディアン地区には、ほかの二人より先に、まずこのおれが出かけなきゃならないだろうと思うんだ。なぜって、サリー叔母さんはおれを養子にして、文明人にしようとしてるからさ。おれはそういうのには弱いんだ。前にやって、懲《こ》りてるからな。
これで終わりです。ハック・フィン。(完)
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解説
人と文学
バーナード・ショーは一九〇七年六月マーク・トウェインに会って、新聞記者にむかい「彼はアメリカ最大の作家です。アメリカには文学の至宝が二人いる……エドガー・アラン・ポーとマーク・トウェインです。前者はアメリカ人はよく忘れるが、マーク・トウェインの方は彼を無視する機会をあまり彼らに与えない。わたしは彼をユーモリストとしてよりは社会学者として話しているのです……」と言った。またヘミングウェイは、しばしば引用される言葉だが、『アフリカの緑の丘』のなかで(第一章)「アメリカの近代文学はすべて『ハックルベリ・フィン』というマーク・トウェインの一冊の本から出ている。……これはわれわれの生みだした最初の書物だ」と言っている。
十九世紀のアメリカ文学者の中には、たとえばホイットマンやメルヴィルのように、二十世紀になってからの再評価によって有名になった作家があるが、マーク・トウェインは生存中から人気があり、また世界文学に対するアメリカの重要な貢献者のひとりとして考えられていた。
しかし生存中の評価が今日の評価と同じであったわけではない。彼は「こっけいな文学者」であり、記念|晩餐会《ばんさんかい》などでおもしろい座興のスピーチをしゃべるコメディアンのように見られていたのである。当時はそういう「ユーモリスト」がたくさんいたが、彼らが文学史からみな消えていったのに、トウェインひとりが残った。そればかりでなく、リンカーンとともに十九世紀アメリカの社会の移り変わりを身をもって体験し、それを文学に表現した功績は実に大きい。さらに人間のうぬぼれや弱点や無節操をえぐりだす彼のするどさも文学者としての偉大さを証明している。
〔生いたち〕
マーク・トウェインがサミュエル・ラングホーン・クレメンズのペンネームであることは有名だが、生まれたのは一八三五年十一月三十日、ミズーリ州モンロー郡フロリダという寒村であった。自叙伝の中で、彼は「村の住民は百人で、私は人口を一パーセントふやした」と言っている。ミシシッピ川から三十マイルほど引っこんだ村で、両親は六か月前にテネシーから、前の年に西部へ来た親類の者たちに誘われて来たばかりであった。
父親のジョン・マーシャル・クレメンズはバージニア人で、息子の記憶によれば「完全な誠実さと高い主義をもったきびしい、笑顔を見せない男」で、弁護士となり、また治安判事となる野心を持っていたが果たさず、農業や商業などでかろうじて家族を支えた程度であった。母親のジェイン・ランプトンはケンタッキーの人で、孫娘によれば「非常な美人で、ダンスの名人、また機知にとんでいた」という。動物が好きで、多いときは猫を九匹も飼っていたこともあった。動物愛護に夢中であった孫娘のジーンなどの性質は、この祖母から伝わったものであろう。サムも母親から赤毛とはげしい気性を受けついだ。彼は七人の子ども(そのうち三人は幼いうちに死んだが)の六番目で、一番下のヘンリーは一八五八年二十歳のとき、水先案内の見習い中、汽船の爆発で死んだ。ほとんど自虐的とも言えるような晩年のマーク・トウェインの良心は、幼年時代からの生涯の事件を、自分の意志以外の何かの力によってつくられた因果の鎖としてながめたが、それも母親のつよいカルビン主義的教えによるところが多かったといえるであろう。
一八三九年、サムが四歳のとき、クレメンズ家はミシシッピ川西岸のハンニバルに移った。ハンニバルは一八三〇年には住民わずか三十八人であったが、一八四〇年には千人を越え、父のジョン・マーシャルの死んだ一八四七年には二千五百人をかぞえるまでに発展した町である。「少年にとっては天国のような場所」で、このわずか六年か七年のみじかい牧歌的な期間が、すぐれた作家の精神と想像力の形成に最も大きな影響を与えることになった。『ミシシッピ河畔の生活』『トム・ソーヤー』『ハックルベリ・フィン』と、いわばミシシッピ川を主題とする三部作が生まれたのも、この少年時代のなつかしい思い出が基盤になっていたからで、歳月の霞《かすみ》を通してハンニバルを理想化しようとする衝動はたしかに注目に価いするが、かれの回想が愛情と軽蔑のあいだを往復したこともまた事実であった。奴隷制度をふくむ人生の暗さは何としても無視することができなかったからである。
父親が死ぬと、一家は極度の貧困に苦しめられた。学校教育も、したがって十二歳ころに終わって、リンカーンのいう「貧乏少年の大学」である印刷屋の小僧になった。兄のオライオンが町へ帰って新聞をはじめたので、サムは兄のところで働き、こっけいなニュース物語や詩などを書いた。
〔青年時代〕
一八五三年には彼はハンニバルを去って、ニューヨークやフィラデルフィアを記者として遍歴し、シンシナチにしばらく滞在してから、一八五七年には南米アマゾン川へわたるつもりでニューオーリアンズ行きの船に乗った。その船の中で、著名な水先案内のホレス・ビクスビーに会ってその教授をうけ、少年時代のあこがれのまとであった水先案内となることになった。いよいよ資格を得て、大統領の俸給を上まわるような月収二百五十ドルの高給で水先案内となった彼は、同時に人間性に対する大学院程度の知識をも得ることができた。よく引用される「小説や伝記の中に描かれた人物に会うと、あたたかい個人的な興味をおぼえる。それはその人をもう知っているからで……川の上で会ったことがあるからである」という彼ののちの言葉からも、このことが証明されるであろう。
しかしビクスビーがのちに、クレメンズは「川を本のように知っていたが、自信を欠いていた」と言ったように、良心的な彼は水先案内の手の中にある責任の重さを感じていたのである。この川の生活も、一八六一年の春、南北戦争の勃発《ぼっぱつ》とともに、終わりを告げ、彼は南部連合の義勇軍に身を投じた。だが、もともと奴隷制度維持のために戦うことをいさぎよしとしなかった彼は、やがて軍隊を去り、たまたま兄のオライオンがネバダ准州の知事秘書に任命されたのを機に、七月にはふたりで西部へむかった。大平原とロッキー山脈を越えてカーソン市への十九日間の旅の模様、鉱山熱におそわれた様子、バージニア市「エンタプライズ紙」の仕事を引きうけたこと、勃興《ぼっこう》時のサンランシスコの有様など、彼の『苦難を忍んで』にくわしく描かれている。彼が水深二ひろの深さを知らせる「マーク・トウェイン」という航海用語をペンネームとして使用したのもこの「エンタプライズ紙」時代であった。
実はこのペンネームには西部のユーモア特有の「無表情」スタイルというつかまえにくい二重性、二重の意味がふくまれていた。当時のこっけいな講演者がよく用いたような、自分の口にした言葉のおかしさが自分ではわからなくて無表情に無邪気さをよそおうような外面のおとぼけが入っていた。公けの場所にいるときの「第二の我」の仮面を、サム・クレメンズはこのペンネームによって作りだすことができた。感情にもろく友情にあついクレメンズと、元気いっぱいのきびしい皮肉屋のマーク・トウェインが、まるでシャムの双生児のように、同じ個性から発していたのである。
ネバダで彼は当時有名なユーモリストであったアーテマス・ウォードに会い、話の際の巧みな間《ま》のとり方、とぼけ方などをまなんだ。マーク・トウェインを全米に有名にした『ジム・スマイリーと彼の跳ね蛙』を発表できたのも、ウォードのおかげであった。「講演をはじめるようになったとき、また初期の文章においては、私はただただ自分の見たり聞いたりしたものをすべてこっけいな資本にしようと考えた」と彼自身も言うように、皮肉とおかしみによって名をあげた彼は、三年後には全米の名士になっていた。
〔作家生活〕
彼の重要な発展は一八六七年六月にはじまった。千九百トンの外輪船クェーカー・シティ号が地中海と聖地への観光旅行を募集しているのを聞いたマーク・トウェインは、サンフランシスコの「アルタ・カリフォルニア紙」をスポンサーとして、さらにニューヨークの「トリビューン紙」とも約束して、手紙の形で旅行記を掲載した。それまでどちらかといえば無責任なボヘミアン的な新聞記者であったマーク・トウェインは、スケールの大きな人間像をアメリカの大衆の前に示すことになった。極端なまでの畏敬と嘲笑、謙虚と尊大がこの旅行記にはあらわれているが、これは執筆者が生まれてはじめて見るヨーロッパの圧倒的な現象に直面することによってうごいた精神と感情の振幅の大きさがもたらしたものであろう。多くのアメリカ人が共通して持っていたヨーロッパに対する尊敬と蔑視《べっし》の念を、奇妙に混合していたために、この書簡集は一八六九年『田舎者の外遊』という本の形をとって出版されると、半年で三万部を売ってベストセラーとなった。
一八七二年には、今度は西部への旅行をもとにした『苦難を忍んで』を出版、翌年に、隣人の実業家チャールズ・ダドリー・ウォーナーとの共著で、貪欲《どんよく》のために民主主義の堕落する現実社会を痛烈に風刺する小説『金めっき時代』を出版した。
このころにはマーク・トウェインの私生活も変わっていた。一八七〇年二月、彼はニューヨーク州エルマイラの富裕な石炭商ジャービス・ラングドンの娘オリビアと結婚した。マーク・トウェインの求婚は古典的な物語となっているが、彼がはじめてオリビアを知ったのは、クェーカー・シティ号がイタリアのスミルナ湾に停泊していた九月のある日、親しくなった同船の十八歳の少年チャールズ・ラングドンが船室で姉の小さい肖像を見せたときであった。「その日から今日まで」とマーク・トウェインは四十年後に書いている、「彼女がわたしの心を離れたことはなかった」と。
オリビア《リビー》本人に会ったのは同じ年の暮れで、父親の反対をおしてついに婚約にこぎつけたのは二年後の二月であった。そしてその翌年結婚したのである。
半病人で、治癒《ちゆ》しても五十メートルか百メートルくらいしか歩けなかったオリビアは、しかし、マーク・トウェインにとっては何ものにも代えがたい伴侶であり、貴重な助言者となった。オリビアの死後まもなく書かれた『アダムの日記』の中にある、「彼女のいるところはどこにでも、エデンがあった」という言葉からもわかるように、洗練された東部の教養の持ち主オリビアは、いわば騎士道時代の貴婦人か、あるいは中世の聖母のように、マーク・トウェインからあがめられたようであった。
バッファローでしばらく暮らしてから、マーク・トウェイン夫妻はコネティカット州ハートフォードに豪壮な邸宅を建てた。三人の娘を育て(男の子は幼いうちに亡くなった)、王侯のような生活をしていた。六人の召使いを持ち、専用列車で旅行し、著名な文学者や一流実業家との交際に多くの時間を割《さ》くような生活であった。
最初の作品『田舎者の外遊』を書評してくれてから親しくなった「アトランティック・マンスリー」誌の編集者ウィリアム・ディーン・ハウェルズにその雑誌への寄稿をすすめられたマーク・トウェインは、水先案内の部屋からながめたミシシッピの栄光にみちたなつかしい時代を書きはじめた。
ハンニバルの少年時代の思い出がほとばしり出てきた。つづいて『トム・ソーヤーの冒険』を完成したが、この小説の出版された一八七六年には、『ハック・フィンの自叙伝』という続編の原稿を四百枚ほど書いていた。しかし霊感は途中で消えうせ、彼はその原稿をしばらくそのままにしておかねばならなかった。しかし一八八四年にこの傑作があらわれるまでに、彼は何回目かのヨーロッパ旅行をし、他の小説三編を出版していた。中には有名な『王子と乞食』もある。
〔晩年〕
妻の半病人状態をのぞいて、一八七〇年代終わりから八〇年代はじめにかけて、マーク・トウェインの生活は繁栄と幸福の黄金時代であった。家庭は円満そのもの、名声と収入もますます大きくなってきていた。だが、悲劇の兆候がそろそろあらわれはじめたのも、このころである。いままでの出版者エリシャ・ブリスが一八八〇年に死ぬと、彼は自分の書物の出版をアメリカン出版会社からボストンのジェイムズ・R・オズグッドへ、さらに一八八四年に自分で設立した会社へゆだねた。そして、その会社の経営を甥《おい》のチャールズ・L・ウェブスター(『足ながおじさん』の著者ジーン・ウェブスターの父)にまかせた。最初の出版『ハックルベリ・フィン』は十四か月に五万一千部も売れ、つづく『グラント将軍回想記』も大成功をおさめた。しかし彼が興味をもって投資したページ自動植字機は、その複雑な構造のために失敗した。またマーク・トウェインが手を引いたあとのウェブスター出版社も、ずさんな企画と九十三年の経済恐慌のあおりを食って破産にひんしてしまった。もしもウォール街の大立て物であるスタンダード石油会社のヘンリー・H・ロジャーズの親切な援助がなかったならば、彼の財政状態は絶望的となったであろう。
ロジャーズのおかげで債権者をなだめ、自著の出版はすべてハーパー社にまかせ、彼は莫大な借財を自分の講演によって返済することを決意した。主として九十五年から九十六年の世界をまわっての講演によって、返済を完成することができた。
しかし彼にとっての不幸は、こういう外部的な災難ばかりではなかった。一八九六年にてんかんの症状を示した娘のジーンは、一九〇九年にその発作のために死んだ。また講演旅行の途中、英国にいるあいだに、長女のスージーは脳膜炎のためハートフォードで死んだ。これは両親にとっては非常な打撃で、もともと強くなかった妻のリビーは一九〇二年にはげしいぜんそくに苦しむようになった。一日のうち数分しか面会できないような状態が数か月もつづいたほどである。そのために、医者のすすめで、フローレンス近くの別荘に家族をつれて行ったが、そのリビーも一九〇四年にこの世を去ってしまった。
マーク・トウェインは、妻の死後、孤独の身をかこって、人生観などに変化もあったが、名声だけはほしいままにして、名士の宴会などのスピーカーとして引っぱりだこであった。また、イエール大学やミズーリ大学からすでに名誉学位を受けてはいたが、一九〇七年にはオクスフォードから名誉文学博士号をあたえられ、イギリス朝野をあげての歓迎を受けた。
しかし身辺の不幸な出来事のために、彼の精神はしだいに暗い方向へむかっていった。あるいは少年時代にうけたカルビン的な教義が晩年になって彼の人生観に影響をあたえはじめたのかもしれない。一八八九年出版の『アーサー王宮廷のコネティカット・ヤンキー』からしだいにアメリカの文明にたいする批判がつよくなり、一九〇六年|匿名《とくめい》で出した『人間とは何か』や、死後出版された『ふしぎな見知らぬ男』などには徹底した人間ぎらいの思想があらわれるまでになった。『ハックルベリ・フィン』の終わりで再確認した新しい出発の約束にみられるようなアメリカ的な自信は、ほとんど影をひそめてしまったのである。
マーク・トウェインは、親友ハウェルズの息子が一九〇六〜七年にコネティカット州レディング近くに設計建築した新居に移り、この家を自分の作品中の一人物の名にちなんで「ストームフィールド」と名づけた。そしてここで娘のクララの結婚式をおこない、ハウェルズや親友の牧師トウイッチェルやヘレン・ケラーその他の客人をもてなした。
一九〇六年には若いアルバート・ビゲロー・ペインを公認の伝記執筆者とした。ペインはマーク・トウェインのそばをほとんど離れない友人となり、狭心症の静養のためにバーミューダへ行っていたトウェインの症状が思わしくなくなったときに、迎えに行ったのもペインであった。
一九一〇年の四月十四日に「ストームフィールド」に帰ったトウェインは、なお一週間の余命を保った。そしてヨーロッパからかけつけたクララとその夫を元気で迎えたが、二十一日の夕刻六時二十二分、息を引きとった。その前夜、ハレー彗星《すいせい》が空にあらわれた。
一年ほど前に、心臓の病気が重くなりはじめたとき、マーク・トウェインはペインに言ったことがあった。「わたしは一八三五年、ハレー彗星とともにこの世に生まれた。来年はまた彗星がくる。わたしは彗星とともにこの世を去りたい」と。彼の予言通りになったわけである。
「ストームフィールド」で昏睡《こんすい》状態におちいる前に、彼は「精神の法則」やジィキルとハイドの二重人格について話していたという。さいごまでマーク・トウェイン自身が自分にとっても謎であったのであろうか。
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作品解説
マーク・トウェインは一八七五年七月五日に『トム・ソーヤー』を完成していたが、その成果に必ずしも満足していたわけではなく、すでにその続編を計画していた。友人のハウェルズにあてた手紙のなかで、彼は主人公をおとなにしなかったことを説明し(「自叔伝以外の形でおとなにしたら失敗だったでしょう」)、さらに「一人称で書かなかったのはおそらく失敗でした」とつけくわえた。
もう一冊、少年物語を書こうと考えた瞬間から、彼の想像力を刺激したのは、一人称で書いてみたいという考えであった。(「そのうちに十二歳の少年を主人公にして(一人称で)一生を語らせますが、トム・ソーヤーではありません……彼ではふさわしくないでしょう」)。だが、そういう主人公を新しく創造するまでもなく、『トム・ソーヤー』の第六章にまず姿をあらわしたハックルベリ・フィンが、こっけいな話し手の役に必要な性質の多くを……たとえば豊かな感受性と独立心をそなえているというような……所有していることに気づいた。既成社会の習慣や教育を身につけていないハックは、いろんな事件にたいして新鮮独自の反応を示すことができるし、純真なのか、ばかなのかわからないような、とぼけたおかしみをかもしだすことができるわけである。
また、すでに一八七四年、『トム・ソーヤー』の原稿にマーク・トウェインはつぎのような覚え書きを書いている。一 少年時代と青年時代。二 青年時代と壮年時代。三 多くの国々における人生の戦い。四 (三十七歳から四十歳)帰国、少年時代に貴人だった人たちが年をとって赤ん坊みたいに歯なしになり、よだれをたらしているのに出あう。賛美の佳人も色あせた老女となり、こうるさい説教をがみがみやっている。
この覚え書きのなかで、三つの点がはっきりしている。主人公が人生をわたって成長していくこと。つぎに成人してから多くの国々を旅行すること。さいごに故郷にかえって幻滅をいだくことの三点である。
ハックはこの小説のなかでは肉体的には成長しない。また多くの国々を旅行もしないが、長い旅にでて道徳的に円熟し、戦前の奴隷保有社会の慣習に反逆するまでに成長する。もちろんこのメモは不完全ではあるが、『ハックルベリ・フィン』となるべきテーマと構成に探りをいれているようである。したがって『トム・ソーヤー』の仕事の最初からトウェインはのちの小説をいくらか心にいだいていたのであろう。そして一八七六年八月九日ハウェルズに書いた。
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べつの少年物語をはじめました……ほかのどの作品よりも力をいれています。もう四百ページを書きました……ほぼ半分です。これは「ハック・フィンの自叙伝」です。まあまあの出来で、完成したら、たぶん原稿をしまいこむか、焼いてしまうでしょう。
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マーク・トウェインは、ある計画をたてると、しゃにむに夢中になって書いていくが、途中でタンクがからになると、その原稿をときには数年間もしまいこんで、ほかの作品にとりかかり、そのあいだにタンクがまたいっぱいになるのを待って、前の作品を苦もなく完成させるのが、いつものやり方であった。『ハック・フィンの自叙伝』もその例にもれず、一八七六年八月、この作品を一か月ほど書いてきて、「ほぼ半分」できたと思ったとき、あと六週間くらいで完結できるだろうと考えた。しかし、実際は一八七六年から一八八三年までの七年間にわたって三つの時期に書かれることになるわけで、このときには第十六章の終わり近くまで書いたのである。
第十六章の終わりでハックとジムの筏は蒸気船にぶつかってバラバラになってしまうが、マーク・トウェインがなぜここで原稿を中止せねばならなかったのか、考えてみると、いろいろ興味のある問題がうかんでくる。まず第一に、これは、今までの例のように、ただタンクがからになったという理由のためではない。小説を書いているうちに、作品の調子と性格が変わってしまったのである。最初の意図では、小説のはじめの数章が示すように、『トム・ソーヤー』と同じようなのんきなふざけ気分の「第二の少年物語」を書くつもりであった。ところが、ジムを奴隷の身分から解放してやるというテーマと、話し手としての少年ハックのふくざつな反応を発展させていくうちに、物語のなかに道徳的意味をつよくふくめないわけにはいかなくなってきた。ことに第十五章の終わりでジムの人間としての尊厳をみとめざるを得なくなった場面や、第十六章の終わりの方で、ジムを救うために嘘をつく場面などには、たんなる少年冒険物語の性格とは異質ともいえるような道徳的な調子が入りこんできてしまったのである。
マーク・トウェインもこの点にはもちろん気づいていて、第十五章のはじめでハックに、ミシシッピ川とオハイオ川の合流するカイロについたら、筏を売りはらって、「蒸気船にのってオハイオ川をのぼり、自由州へ行くのだ」と言わせている。この計画が実現すれば、この少年冒険物語も「めでたしめでたし」で幕をとじることができるはずであった。
ところが、ヘンリー・ナッシ・スミス教授が指摘したように、マーク・トウェインはオハイオ川を知らなかったのだ。ミシシッピ川の下流の方は見習いとして、また水先案内としての四年間の経験から、よく知っていた。だが、ミシンッピ川下流の豊富な記憶にたよって物語をすすめていきたいという気持ちと、ジムを自由にする物語を書かねばならないという考えとが、ここで衝突してしまい、彼はのっぴきならないジレンマにおちいってしまったのである。
マーク・トウェインはすくなくとも二年間原稿をそのままにしておいたのち、一八七九年十月から一八八〇年はじめにかけて、十七章と十八章の二章を書きたした。だがここには南へくだる旅行は書かれていない。ジムも姿をあらわさない。まだジムの自由というテーマに代わるものが見つからなかったためである。
一八八〇年六月にもう一度原稿をとりあげたとき、マーク・トウェインは、アメリカ文学全体のなかでも最も美しい散文といわれるミンシッピ川の夜明けをうつす牧歌的な叙景文を冒頭として、悪漢の公爵と王様の登場する十九、二十、二十一の三章を書いた。七九年十月から八〇年六月までのあいだに、彼は『浮浪者の外遊』と『王子と乞食』を書いており、一八八二年には『ハックルベリ・フィン』を完結するまでに、あと五、六年かかるであろうと推定したほどであった。
しかし彼自身にも思いがけなかった力づよい想像力をもって、マーク・トウェインは『ハックルベリ・フィン』の第一稿を一八八三年の夏に完成することができた。その前の年の春、彼は一か月をついやしてミシシッピ川を舟でセントルイスからニューオーリアンズまでくだり、また上流へのぼって、なつかしいハンニバルに三日間とどまったが、このときの経験は決して楽しいものではなかった。一八四〇年代の牧歌的なハンニバルの社会は、今は求めるすべもなく、物質文明の進歩はよろこぶべきこととして嘆賞しつつも、かつての美しい村の変貌には大きな幻滅をいだくのみであった。したがって、翌年『ハックルベリ・フィン』の仕事にもう一度とりかかったき、二十一、二十二章のような貪欲と暴力と残酷の支配する南部社会の暗いみにくい面を書かざるを得なかったのは当然だったかもしれない。
だが、ジムの身を自由にするという重要な問題がまだ残っていた。窮余の策として、マーク・トウェインはふたたびトム・ソーヤーを登場させ、すでに自由の身とされているジムを救いだすというふざけ半分の冒険談をつくることによって、ようやくこの作品を終わらせることができたのである。
自叙伝の中でマーク・トウェインは、ハック・フィンのモデルが少年時代の五人の友人のトム・ブランケンシップであることを明らかにして、「無知で体を洗ったことのない、栄養不良の子ではあったが、およそ善良そのものの心の持ち主で独立心がつよかった」と言っている。他の多くの人物もモデルがあった。トムのポリー伯母さんはマーク・トウェイン自身の母親、ジムは話の非常にうまいアンクル・ダンルという奴隷、ハックのおやじは「ぼろと垢《あか》の記念碑」みたいな、ただれ目の呑《の》んだくれ、ジミー・フィンであった。またハックとジムの友情は、作者の少年時代の奴隷たちとのあたたかい関係がもとになったし、逃亡者の筏くだりは少年時代に経験した感情の再現であった。
一八八三年八月に第一稿を完成してから、マーク・トウェインは七か月をかけて全体を改訂し、翌年の四月に原稿を出版者にわたすことができた。そして『ハックルベリ・フィンの冒険』はイギリスとカナダでは一八八四年の十二月十日に、アメリカでは一八八五年の二月十八日に、出版されたのである。
最初の十四か月で五万一千部売れた。コンコードの図書館がこの作品を猥雑《わいざつ》であるといって禁止したとき、マーク・トウェインは「これで二万五千部はたしかに売れる」といったということだが、禁止されたためにベストセラーになった最初の例であろう。一九〇二年と一九〇七年のあいだにも、デンバー、オマハ、ブルックリンその他の都市の図書館は、この本を書棚から追放することによって有名にした。しかし今日世界じゅうでどれくらい売れているかは不明である。いろいろな版、翻案、翻訳などによって、千万部以上が出ていることはたしかであろう。
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作品鑑賞
マーク・トウェインは『ミシシッピ河上の生活』(一八八二)の第三章のなかで、みずからこの作品の概要をつぎのように書いている。
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それはわたしの若い頃の西部のある町の、のんだくれの男を父とする、世間知らずのいなか少年ハック・フィンの生活をくわしく書いた物語である。ハックは、残虐な父の手をのがれると同時に、彼をりっぱな、嘘をつかない、人前に出しても恥ずかしくない子どもにしようとしている善良な未亡人の迫害の手をものがれて、逃亡の旅に出る。その未亡人の奴隷もハックといっしょに逃げだす。二人はいかだ舟の断片を見つけ(水かさの多い夏のまっさかりであった)、夜は川をくだり、昼はやなぎの木にかくれて、カイロを目ざして行く。カイロは黒人が自由を求めてやってくる、自由州の中心地であった。ところが彼らは、霧のため、それと知らずにカイロを通りすぎてしまう。……
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この作者自身の手による概要からもわかるように、ハックとジムの旅は最初は物理的な危険からの逃亡であった。だからはじめの頃の挿話は、浮浪児と逃亡奴隷とのあいだに奇妙な友情の発展する可能性にあまり関係がない。しかし第十五章において、ハックがジムにいつわって、霧のなかでわかれわかれになったのは夢であったといって納得させようとしたとき、ジムが堂々と反駁《はんぱく》するのを聞いて、二人の関係は新しい次元が生じてくるのである。ハックの謙虚な弁解は、道徳的洞察力の生まれてきた証拠である。当然、これはつぎの章における、自分は逃亡奴隷を助けているのだという、南部社会においては絶対にゆるすことのできない事実に直面させることになり、このジレンマの解決にマーク・トウェインは悩んだにちがないと思われる。
この小説をただ単に牧歌的な少年時代をなつかしむ郷愁の作品として読む人は、今日はほとんどいないであろう。また単に腕白小僧の行状をえがいた道中物語として読むものもいないであろう。マーク・トウェインは、これはおとなのための作品であるといっているが、まさにその通りで、おとなの理解と判断を要求してやまない作品なのである。
〔論争〕
しかし以前は、この『ハックルベリ・フィン』は子どもたちのための本、単なるユーモア作家の作品としてみられ、そのテーマなどについて真剣に考えられることはなかった。論争の起こったのは、ライオネル・トリリングとT・S・エリオットがそれぞれ一九四八年と一九五〇年にこの作品の序文として出した試論からであった。二人ともこの小説をほめたたえ、それまで一般におこなわれていた意見、すなわち小説の最後の挿話は失敗であるという意見を拒否した。この後者の意見の強力な代表者はヘミングウェイで、この解説の最初にも紹介したように『アフリカの緑の丘』のなかで、「アメリカの近代文学はすべて『ハックルベリ・フィン』というマーク・トウェインの一冊の本から出ている」と言いながら、ただし「読むならば、奴隷のジムが少年たちから盗まれたところで止めねばならない。そこがほんとうの終わりで、あとは人だましだ」とつけくわえている。ヘミングウェイとしては、トム・ソーヤーがまたあらわれる三十二章から四十二章までの最後の挿話などないほうがよかったと考えたのであろう。
後半、ことに最後の部分の茶番劇じみたふざけ気分が前半と異質のように思われるために、多くの人びともヘミングウェイの見解に賛成したのであるが、トリリングとエリオットは、最後にフェルプス農場の挿話を加えることによって、マーク・トウェインは読者をもういちど小説のはじめのあそびの気分につれもどすことができたのだ、と言う。そしてトムのロマンティックな想像力による戯画化がなければ、この小説はなんともまとまりがつかなかっただろう、とも言うのである。
しかし、これに対する反論はいくつかある。あの最後の挿話のおかげでハックとジムは、低級な喜劇のおざなりな人物になりさがってしまったとか、川をくだる旅の意味がこのためにぼやけてしまった、いやいちばん重要なことは、この小説の重要な動機のひとつ、すなわちジムの自由を求める切なる気持ちが笑い草にされてしまったとか、の反論である。つまり、あの「逃避」の挿話は、作者の提起した道徳的、政治的な問題を解決しそこねた作者自身の失敗をかくすための手段であると非難したのである。
〔読みかた〕
二種類の読みかたのあることがわかる。ヘミングウェイと同じように結末に不満をもつ読者は、やや古風な読みかたをする。主人公は、物語がすすむにつれて、新しい自覚の状態に入らねばならないと考える。こういう読者にとっては、だから、「真の結末」はハックが真相を知る第三十一章の道徳的危機である。彼らは旅行の意味を明確にするのが結論でなければならないと思う。
これに反して、第二の読みかたは、大きなテーマとしての自由の探求の重要性をできるだけ小さくながめようとする。彼らが関心を払うのは作品のもついろいろな意味よりも、芸術作品として必要な首尾一貫性と統一性をあたえる形式上の要素である。それが極端になると、この小説がまるで叙情詩でもあるかのような読みかたをして、これには物語上の構成など存在しない、あるのはただ心象の象徴的な機構ばかりである、とまで言う。
もしも作品の構成や形式にこだわるならば、前述のような相反する読みかたになるであろうが、もっと別の、楽しい意味のある読みかたがあるのではないだろうか。少年ハックの道徳的成長がいちばん大きな主題であることはたしかで、彼がせまい社会のおきてを脱して人間の尊さにめざめてゆく過程は無視することができない。いやしい奴隷の身分のジムにたいする観念がしだいに向上して、対等の人間、さらには父的な存在にたかまってゆく点も見おとしたくない。しかし、それ以上に、ハックの性格のなかに、試行錯誤的な即興的道徳観、典型的なアメリカ人の性格をみとめることができると思うのである。
つぎに気づくのは、筏《いかだ》と沿岸の町々の社会との対比である。筏には自由と安全と幸福と自然との調和がある。それに反して沿岸の社会は卑俗と悪意と確執と貪欲と暴力を暗示している。マーク・トウェインのハンニバルに対する思い出は、牧歌的ななつかしい印象であったと同時に、またその現在の物質主義的なみにくさにたいする幻滅でもあった。だから、ハックが筏と沿岸とを往復するのは、二つの様式の経験のあいだを往来しているわけで、「筏」対「町」、「川」対「岸」のテーマのくりかえしにすぎないわけである。ゆうゆうたる流れのミシシッピを人生、または運命にたとえてみるのも、ひとつの見かたであろう。 刈田元司
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あとがき
マーク・トウェインはまずユーモア作家として、つぎに少年冒険物語の作者として知られている。トム・ソーヤーやハック・フィンを世界的に有名なわんぱく小僧に仕たてた功績はたしかに大きい。しかしこの『ハックルベリ・フィン』の冒険にしても、通りいっぺんの少年冒険物語ではない。マーク・トウェインは、晩年、極端なまでの人間ぎらいの思想をいだくようになって、それを小説や論文などに書いた。しかし、単なる少年小説と思われているこのハック・フィンの物語の中にも、社会や制度に対する痛烈な批判にかくれた厭世主義をうかがうことができる。
厭世主義のために小説が偉大になるとは決していえないが、いくらかドタバタ喜劇的な『トム・ソーヤー』や、やや感傷的な『王子と乞食』にくらべて、この小説が世界文学の中でも第一級の傑作になっているのは、もちろん形式や文体の巧妙さのためもあるが、それ以上に主人公ハックの精神的成長が描かれているからである。目的と熱情と知覚または理解を悲劇の主人公に欠くことのできない条件と考えた批評家がいたが、ハックの成長過程にはたしかにそれがあって、彼を不滅の英雄に高めてもいるのである。無垢《むく》の少年の眼《まなこ》を通して把握された真実が語られている点にこの小説の偉大さがあるわけで、表面の事件のおもしろさに夢中になった年少の頃の読み方から、読むたびに適確な事態の分析におどろく円熟した読み方にいたるまで、すべてのすぐれた文学にみとめられる価値がここにもあるということができよう。
すでに幾通りかの翻訳があるところに、新しい訳をおこなう以上、なんらかの新味がなければならないが、旺文社文庫のおかげで、それがいくらかでも果たすことができたら幸いと思う。
なお本文中のイラストは、一八八五年出版された初版にある挿絵からとったものである。(訳者)
〔訳者紹介〕
刈田元司(かりたもとし)
英米文学者・上智大学文学部長・東京教育大学、立教大学講師。一九一二年(明治四十五年)新潟県生まれ。上智大学英文科、ジョージタウン大学院卒業。のちハーヴァード大学に学ぶ。専門は一九二〇年代、南北戦争前後のアメリカ文学の研究。一九九七年没。著書「アメリカ文学史」「アメリカ文学の周辺」、訳書「トロイルスとクリセイデ」「一生の読書計画」「ララミーへの道」「ある黒人奴隷の半生」「オーギー・マーチの冒険」「サリンジャー短編集」旺文社文庫「黒猫・黄金虫」「緋文字」他多数。