ジブラルタルの水夫
マルグリット・デュラス/三輪秀彦訳
目 次
第一部
第二部
訳者あとがき
[#改ページ]
第一部
ぼくたちはすでにミラノとジェノアを訪れていた。ピサへ着いて二日たったとき、ぼくはフィレンツェへ出発しようと決心した。ジャクリーヌも賛成した。もっとも彼女はいつだって賛成するのだ。
戦後の二年目だった。汽車の席はなかった。あらゆる方向のあらゆる時刻の列車が満員だった。旅行はスポーツ同然となっており、ぼくたちはだんだんうまく旅行できるようになった。しかし今度は、ピサの駅へ着いたとき、窓口は閉され、もはやどこへ向う列車の切符も売っていなかったのだ。電車のことを考えてみたが、その切符さえ発売していなかった。こうした妨害にもかかわらず、ぼくはその日のうちにフィレンツェへ着こうと心に誓った。旅行するときには、ぼくはいつもこんな具合にむきになった。いつだって無理に旅行しなくてはならなかったからだ。そしてその日には、フィレンツェの見物を翌日まで待つと考えるだけで、ぼくには耐えがたいことだった。その都会に何を期待していたのか、どんな啓示や心の安らぎを望んでいたのか、たぶんぼくにはその理由をうまく説明できなかったろう。たしかに、ぼくにはほかに焦燥の原因がなかったから、こんなに急ぐ理由を明らかにしようともしなかった。電車がだめだとなっても、ぼくはなおも探しまわった。すると、毎土曜日の六時頃にフィレンツェへ帰る労働者の団体があり、彼らのトラックは駅前広場に駐車して、時にはお客も乗せてくれると教えてくれた人がいた。
そこでぼくたちは駅前広場へ行った。五時だったので、一時間ほど待たねばならなかった。ぼくは自分のスーツケースに、ジャクリーヌは彼女のに腰を下ろした。広場は爆撃を受けており、壊れた駅の建物ごしに、列車の発着が眺められた。疲れきった汗くさい何百人もの旅客たちがぼくたちの前を通り過ぎた。ぼくは彼らがみんなフィレンツェから来たのか、それともそこへ行く人たちだと想像し、うらやましげに見つめた。すでに暑くなっていた。広場に残された数本の並木も、太陽や汽車の煙で葉を焼かれ、ほんのわずかの影しか投げかけていなかった。ぼくはトラックのことしか考えなかったので、暑かろうと平気だった。三十分ほどすると、ジャクリーヌが喉が乾いたのでレモネードでも飲みたい、まだ時間はたっぷりあるからと話しかけた。ぼくは彼女にひとりで行くように言った、労働者たちに会いそびれたくなかったからだ。彼女はあきらめて、アイスクリームを買った。ぼくたちはそれを急いで食べた。指のなかで溶けてしまいそうだった。それは甘すぎて、よけいに喉の乾きを増した。八月十一日だった。イタリア人たちは、もうじき土用になること、ふつうそれは八月十五日頃だと警告していた。ジャクリーヌがそのことを思い出させた。
「まだこれからなのよ」と彼女はいった。「フィレンツェで何を食べるつもりなの」
ぼくは答えなかった。三度のうち二度まで彼女に返事しなかった。夏のためぼくはまいっていた。たぶんぼくは、彼女の口に合う食物を見つけることに絶望していたからだろう。彼女がそんな口調で話すことがぼくにはやりきれなかった。
やっと労働者たちが現われた。グループを作ってやってきた。彼らはピサの再建に従事している石工たちだった。何人かは仕事着のままだった。先頭のグループの連中は、ぼくらからそれほど離れていないホロをつけたトラックへ駆けていった。
ジャクリーヌは、トラックの運転席へ座った労働者のところへ走り寄った。女の方が、男よりもなびかせやすいと信じたからだろう。彼女はイタリア語で説明した。彼女は、もちろんぼくもだが、今度のヴァカンスのためにアシミル方式で二ヶ月イタリア語を勉強したのだ。つまり、ぼくたちは乗物がなくて困っているフランス人で、フィレンツェへ行きたいのだが、もしそのトラックに便乗させてくれればありがたい、と。彼はただちに承知した。ぼくは道路を知りたかったので男の隣りに座った。ジャクリーヌは後ろへ乗った。植民地省でも、ぼくの席は彼女より窓に近かった。それはぼくにはすでに習慣となったやり方だったので、彼女は文句ひとつ言わなかった。少くともぼくはそう信じていた。彼女はおとなしく後ろへ乗った。トラックはホロつきだったが、その日の午後は日蔭でも三十六度近くもあった。しかし彼女は暑さには平気のはずだった。数分で車の仕度は完了した。そこでスタートした。午後六時だった。市の出口は、自転車の侵入でひどく混雑していた。運転手は、クラクションを鳴らしてもゆうゆうと列をなして走る自転車の群れをののしりつづけた。男は子供のときにフランスで二年生活したことがあった――そのことを最初に話してくれたのだが――だからフランス語が喋れた。というわけで彼はフランス語でののしったのだ――むろんぼくが隣りにいたから、猛烈な調子で。やがて、自転車が片づいても彼の悪態はつづいた。フィレンツェには仕事がないので、七十五キロも離れたピサまで働きにこなくてはならないのだ。労働者には辛いことばかりだ。まともな生活なんてものじゃない。物価は高いし、給料は低い。こんなことは長つづきさせてはいけない。すべてを変えるべきだ。まず最初に変えるべきものは、政府だ。政府を倒して、いまの大統領をクビにすべきだ。男は大統領の話をした。その呪うべき名前を口にする度に、怒りと無力のしぐさで両手の拳を振りかざし、ぎりぎりの瞬間にさも残念そうにハンドルをまた握り直した。車は左右に揺れ、風がトラックのなかまで吹きこんで、ホロは鞭《むち》のように音をたてた。しかし車内では誰もうろたえなかった。きっと毎土曜日、ピサを出る際に、運転手は自転車の群れに苛立って、いつもこんなしぐさをするのだろう、とぼくは考えた。ぼくは怖くなかった。その日のうちにフィレンツェに出発できないことのほうがはるかに怖かったので、それ以外のことは平気だった、たとえ目的地へ着かないことでも。ぼくは満足にうっとりして、運転手の話に耳を傾けていた。
ピサを出た直後、まだカシーナへ着かないうちに、ホロの下から押し殺したような小さな悲鳴が聞えてきた。ジャクリーヌだ。労働者たちが少ししつこくからかっているのだろう。その陽気な悲鳴はとてもはっきり聞えた。運転手もそれに気づいた。
「もしよかったら」と男は気まずそうな顔をしていった。「あんたの女を、こっちへ座らせてもいいよ」
「そんな必要はないよ」
男はびっくりしてぼくを見つめ、それからにやりとした。
「おれたちの国じゃ、みんなやきもち焼きなんだ。フランスじゃ、そうでもないのかな?」
「たぶんね」
「みんな発つ前にちょっと飲んでるんだ。今日は給料日だからね。ほんとに、大丈夫なんかい?」
彼は楽しげだった。
「当然のことだよ」とぼく。「一人の女が何人かの男と一緒に閉じこめられてるんだからね、ましてみんな飲んでるときてはな」
「だからといってやっぱり心配だろうよ。おれなら我慢できんな」
労働者たちが笑った。ジャクリーヌがもう少し強く叫んだ。男は相変わらず驚いた顔つきでぼくを見つめた。
「ぼくたちはとても淋しいんだ。ずっと他人とつき合ってないからね、だからぼくは楽しいんだよ、他の人たちが……ねえ、わかるだろう?」
「もう結婚して長いんだろう、だからじゃないかい?」
「知り合ってからもう長いけど、まだ結婚してないんだ。これから結婚するところさ。彼女がそうしたがってるからね。女って結婚しなくちゃ幸福になんないんだろうね」
二人して笑った。
「女たちって、結婚については、みんなそうさ」
いつもなら、自分たちの運命に満足したり、または不安を感じてない人たちに出会うと、ぼくはいやな気持を味うのだが、その男にはとてもうまく耐えることができた。
「愛なんて」と男はいった。「ほかのものと同じさ、永久にはつづかんものだよ」
「彼女はやさしいよ」とぼく。
「わかるよ」と彼はいって笑った。
車はカシーナを通過した。道路はずっとすいてきた。男はお喋りしたい気分になった。そこでおきまりの質問を投げかけた。
「イタリアへ来たのははじめてかい?」
「はじめてだよ」
「もう長いこといるのかね?」
「二週間だ」
「じゃ、イタリア人のことを、どう思うかい?」
彼はその質問をいくらか挑むような口調で、子供っぽい横柄さをこめて投げかけた。それから、急に真面目な様子をして、トラックの運転に気を使っているような振りをしながら、ぼくの返事を待ちうけた。
「まだあまりよくわらないね」とぼくはいった。「一人も知り合いがないからな。だけどそれでも、イタリア人を愛さないではいられないように思えるね」
彼は微笑した。
「イタリア人を愛さないのは」とぼくはいった。「人類を愛さないことだよ」
彼はすっかり気分を直していた。
「戦争中はイタリア人についていろんなことがいわれたからね」
「戦争中の人の話なんか信じられるものか」とぼくはいった。
ぼくは疲れていた。彼はそのことにすぐには気づかなかった。
「じゃ、ピサは、美しいかい?」
「ああ、もちろん、美しいよ」
「うまいことに、あの広場は爆弾でやられなかったからな」
「よかったね」
彼はぼくの方を振り向いた。ぼくが無理に返事していることに、彼は気づいた。
「あんたは疲れてるね」
「いくらかね」
「暑さと、旅のせいだよ」
「そうだね」
だがそれでも彼はお喋りがしたかったのだ。彼は自分のことを話し、ぼくは二十分ほどのあいだ、それに相槌を打つほかはなかった。彼は解放以来、そう、とりわけピエモンテ地方の工場委員会に加入してからは、政治に関心を持っていることを話した。それは生涯で最も素晴しい時代だった。その委員会が解散してからは、いや気がさしてトスカーナへもどった。だが、彼はミラノがなつかしかった、ミラノは活気があるからだ。彼はその工場委員会のこと、英国軍が行なったことなどを大いに語った。
「やつらはひどいことをしたと思うだろう?」
それは彼にとって大切なことだった。ぼくはそれがひどいことだと答えた。彼はまた自分の話にもどった。いま、彼はピサで石工をしている。ピサには再建の仕事がいっぱいあるのだ。そのトラックは彼の持物で、解放のときに手に入れて、それ以来持っているわけだ。喋りつづけながらも、車が村のなかを通過するときには、スピードを落して、教会や、記念碑や、塀にチョークで書かれた≪共産党万歳!≫の文字をぼくに見せてくれた。その度にぼくがとても熱心に見つめているので、彼はひとつもやりすごさなかった。
車はポンテデラに到着した。彼はまたトラックの話をした。それを手に入れた方法が、いくらか気になっていたのだ。
「あんたはどう思うかしらんけど、おれはこいつを委員会の仲間に返すべきだったろうが、手ばなさなかったんだ」
彼はすぐに、ぼくがそのことで怒ってないことを見ぬいた。
「そうすべきだったんだが、できなかったんだよ。このトラックを二ヶ月も前から運転してたんだから、そんなことは不可能だったのさ」
「同じようなことをした者が大勢いるだろうよ」とぼくはいった。
「おれは考えたんだ、こんなことはもう二度とするまいとね。あんな状態だったから、どうしようもなかったんだよ、泥棒だってできたんだからな。そりゃ、おれはこの車を盗んだよ、だけど、申し訳ないとは思ってないな」
彼はそれが六十キロ以上はでないボロ車だと説明した。そんなことはぼくにもよくわかっていたが、それでも彼はそれを持っているのが大得意だった。ああ! 彼は自動車が大好きなのだ。それにバルブをぴったり合わせれば、楽に八十は出るのだ。ただ彼にはその暇がないだけだ。その車はほかにもいろいろと役に立ってくれる。車があるおかげで、陽気がいいときには、友だちを連れて、地中海の小さな漁港へ週末を過ごしに行くこともできる。汽車で行くより費用は半額ですむのだ。それはどこだい? とぼくはたずねた。ロッカさ、と彼は答えた。そこに家族がいるのだ。遠くはないのだが、毎週行くわけにもいかない、ガソリンが二週間に一度しか配給にならないからだ。先週そこへ行った。ああ! それはごく小さな港だ。この間行ったとき、そこには大金持のアメリカ女がいた。あんなところへ何しに来たのかさっぱりわからない。アメリカの女だ、たしかみんなそう話していた。彼女は海岸のまん前に美しいヨットを停泊させていた。泳ぐ姿を見たけど、すばらしい女だった。それまで彼は人の噂を信じていた、つまりアメリカの女はイタリアの女よりきれいではないと。だけどあの女ときたら、これまでそんなに美しい女にはお目にかかったことがないほどの美人だった。彼はその女が可愛らしいとか気に入ったとかいわなかった、ただ美しいとだけ、しかもイタリア語で、真面目な口調でいったのだ、≪|とびっきり美しい《ベリツシマ》≫と。それからこう付け加えた。≪|しかも独身なんだ《エ・ソーラ》≫
つづいて彼はロッカのことを話した。実際その時間があるなら、なぜ行かないのか? イタリアの正確な姿を掴むには、都会ばかりにたよってはいけない。村を訪ねたり、田舎へも行くべきだ。そしてロッカこそ、イタリアの庶民の暮しを見るのに最適の場所である。それら庶民はひどく苦しんだのだ、誰よりも働き者なのだ、それでいて気立てのいいこと。彼は庶民をよく知っている――両親が百姓だったから――いまは彼らの無知に賛成できないが、だからなおさら彼らを愛しているのだ。彼は誇らしげに、まるで奇蹟のように庶民のことを語った。そう、時間があったら、ぜひロッカへ行くべきだ。宿屋は一軒しかないが、行ってみればきっといい思いをするだろう。彼は語った。
「一方に海があり、もう一方に川があるんだよ。海が荒れていたり、暑すぎたり、それともただ気分を変えたいと思ったときなんか、川へ泳ぎに行けばいいよ。川はいつだって冷たいからね。それに、宿屋はちょうど川に面してるんだ」
彼はその川のこと、宿屋のこと、谷間にそそり立つ山のこと、海底の魚捕りのことなどを話した。
「経験がないと想像もできんだろうな。最初は怖いけど、すぐに慣れるよ。海底の色彩や、腹の下を泳ぐ魚たちはとってもきれいだよ。それに静かなんだ、とても想像できんだろうな」
彼はその地方の大衆のダンスパーティや果物――オレンジのように大きなレモン――のことを話した。
車はアルノー川の谷間のサン・ロマーノへ着いた。空は鉛色だった。道路にはもう陽がさしていなかったが、しばらくのあいだ丘の頂きは日光を浴びていた。丘はふもとから頂上までオリーブの木が植わっていた。大地と同じ色をした家々は美しかった。どこの家のまわりにも糸杉が立っている。それは心を乱すほどやさしい風景だった。
「きみはトスカーナのこの地方出身なのかい?」とぼくはたずねた。
「そう、この谷間のね、だけどフィレンツェ側じゃないんだ。だけど家族はいまロッカにいるよ。おやじは海が好きなんだ」
太陽は丘の背後に没し、谷間はアルノー川の光を浮き上らせた。それは小さな川だった。そのキラキラ輝くおだやかな水面、数多くのゆるやかなカーブ、グリーンの色などは、陽光を浴びた動物の姿態を思わせた。
「アルノー川は美しいねえ」とぼくはいった。
「それであんたは、どんな職業なんだい?」と彼がたずねた。
「植民地省さ。公務員だよ」
「その仕事は面白いかい?」
「ひでえもんだよ」
「どんなことしてるんだい?」
「出産や死亡の証明をコピーしてるんさ」
「なるほど。もう長いんか?」
「八年」
「おれには」と彼はしばらくしていった。「とてもできないね」
「そうさ、あんたには無理だね」
「だけどね、石工ってのもつらいよ、冬は寒いし、夏は暑い。それでも、年中コピーするなんて、おれにはできんな」
「ぼくだってできないよ」
「だけどやってるんだろう?」
「やってるよ。最初のうちは死にそうに思ったけど、それでもやってるんだ、きみにはわかるだろう」
「で、いまでもそう思ってるかい?」
「死にそうだとかい? うん、他の連中を見てるとそうだけど、自分ではもう感じないよ」
「年中コピーするなんて、ひでえことだろうな」と彼はゆっくりいった。
「きみには想像できんだろうね」
ぼくはきっとその言葉を冗談口調でいったにちがいない。それを耳にした人は、それだけでは冗談とは思わなかったかもしれないし、それともぼくが人生のことを話すときはいつもそんな口調を使うと思っただろう。
「自分の仕事って大切なものだよ」と彼はいった。「どんなことでもするなんてことは、できっこないからな」
「だけどそうしなくてはいけないんだ。なぜぼくはできないんだろう?」
「できっこないよ、なぜだい?」
「ぼくはほかのことをしようとしたんだけど、それが見つかったためしがないよ」
「そんなくらいなら、飢え死にしたほうがましだね。おれがあんたなら、むしろ飢え死にするだろうよ」
「いつも失業の心配があるんだ。それから、恥ずかしい気持もね」
「だけども、しないよりもする方が恥ずかしい場合だってあるよ」
「ぼくは自転車競走の選手や探検家になりたいと思ってたんだよ。かなわぬ夢さ。そして結局は植民地省入りさ。父が植民地の役人だったから、入りやすかったんだ。一年目はまだ信じない、これは冗談だと思ってる、二年目にはもうやりきれんと思いだす、三年目に入ると、もうだめさ……」
ぼくの話は彼を面白がらせた。
「戦争中は、ぼくは幸福だった。電信隊に入っていたんだ。電柱にのぼることも教わったよ、こいつは危険なんだ、感電して落ちるかもしれんからね、それでも幸福だった。日曜日になると我慢できなくて木にのぼったものさ」
二人で笑った。
「退却するときに、ぼくは電柱の上にいたんだ。ほかの連中はぼくを置き去りにしたが、道を間違えたんだ。ぼくが降りてきたときには、誰もいなかった。ぼくはひとりで退却したよ、もちろん安全な方向へね。ぼくは幸運だったんさ」
彼は楽しげに笑った。
「ああ! 戦争、時には戦争も笑い話になるね」
「それからは」と男はしばらくしてたずねた。「レジスタンスのときには?」
「ぼくは政府と一緒にヴィシーにいたんだ」
彼はまるでそのことが余分の説明を必要とするかのように、黙っていた。
「ぼくは潜伏しているユダヤ人たちのために偽の戸籍謄本を作ってやったんだよ、とりわけ死亡証明書をね」
「ああなるほど、わかったよ。それであんたは厄介な目にあわなかったかい?」
「ぜんぜんね。ただし、戦後になってから、ヴィシーで三年を過ごしたことによって、ぼくは等級を下げられたよ」
「で、そのユダヤ人たちは、あんたに助けられたっていってくれなかったのかい?」
「そんな人間には一人もお目にかからなかったね」とぼくは笑いながらいった。
「それにしても、あんたはそれで平気なのかい?」
彼はまたもぼくをうさんくさげに見た。ぼくが嘘をついたと思っているのだ。
「ぼくはたいして努力しなかったんだ。たとえ等級を下げられなくても、ぼくは戸籍係をやめなかったろうね、だから……」
「それにしてもね」と彼はまたいった。
彼はぼくの話を信じていなかった。
「本当なんだよ」とぼくは微笑しながらいった。「きみに嘘をついたってはじまらないからね」
「あんたを信じるよ」と彼はやっといった。
ぼくは笑い出した。
「ふだんはぼくだってよく嘘をつくよ。だが今日はちがう。そんな日もあるものさ」
「みんな嘘をつくよ」と彼は少しためらってからいった。
「ぼくはみんなに嘘をつく、彼女や、役所の上役たちにね。役所じゃその常習犯だよ、よく遅刻するからね。仕事がいやだってもういえないから、肝臓病を偽造したんさ」
彼は笑ったが、心からではなかった。
「そんなことは、嘘のうちにははいらんよ」
「時どき、なにか口実をつくらなくちゃならないんだよ。肝臓のことは、ぼくがいちばんうまく話せるものだから、毎日のようにその具合を説明してやるのさ。役所ではぼくに≪今日は≫をいう代りに、≪肝臓の具合はどうだい?≫ってみんないうよ」
「彼女はそれを信じてるんかい?」
「わからんね、そんなことは話さないから」
彼は考えこんでいた。
「で、政治は、あんたやるんかい?」
「学生時代にはやってたよ」
「いまじゃもうぜんぜんやらないのか?」
「だんだんやらなくなったね。いまじゃもうぜんぜんやってないよ」
「あんたはコミュニストだったのか?」
「そうだ」
彼は沈黙した。長いあいだ。
「ぼくは早くはじめすぎたんだ」とぼくはいった。「だから疲れて……」
「ああ! わかるよ」と彼はやさしくいった。
彼はまた沈黙した、やはり長いあいだ。それから急にいった。
「週末にロッカへ来いよ」
戸籍係がぼくの全人生を支配していた、だからその災難にくらべたら、三日ぐらいロッカで過ごしたところで、何になろう? それでもぼくは彼のいいたいことを理解した。時として人生はひどく耐えがたくなるから、たまにはロッカへ出かけて、時には人生がそれほど耐えがたくないことを知るべきなのだ。
「もちろんさ」とぼくはいった。
「なぜだか知らんが、おれはロッカが好きなんだよ」と彼はいった。
車はエンポリに着いた。
「ここは、ガラス製品の町だよ」
ぼくは彼に、人生は美しいと思うといった。彼はその話にのらないで、ほかのことを考えていた、たぶんぼくのことを。エンポリを過ぎると、暑さはしだいに減少した。アルノー川と別れたのだが、そんなことはどうでもよかった。ぼくは満足だった。時間を無駄にしているのではないのだ。彼はぼくを見つめ、ぼくの話に耳を傾けた。ぼくはピサとフィレンツェのあいだを旅行する多くの人たちに匹敵するのだ。ぼくを仲間だと思っていいのだ。ぼくには満足する習慣がない。時には満足しても、そのために疲れてしまって、回復するのに一週間もかかってしまう。酒に酔っても以前ほどいい気持になれないのだ。
「だからロッカへ来たまえよ」と彼はまたもいった。「来ればよくわかるよ」
「休暇はあと十日残ってるよ、行くとも」
車は、いまや最高のスピード、時速六十キロで走っていた。もう暑くなかった、少なくともホロの下にいないぼくたちは。そして夕暮れと共に涼しい風が吹いてきた。それはすでに夕立がはじまった地方から吹いてくるらしく、雨の匂いがした。
ぼくたちはなおも、彼のこと、仕事のこと、給料のこと、彼の生活のこと、一般の生活のことを話し合った。人間の幸福は何にあるのか、仕事か、愛情か、それとも他のものかと論じ合った。
「あんたの話では、あんたには仲間がいないそうだが」と彼はいった。「おれにはわからんね。人間はいつも仲間を持つべきじゃないかい?」
「そういわれると弱いけど、ぼくは役所の同僚たちとつき合えないんだ。それに彼女だって、知り合いはないからね」
「で、あんたは?」
「ぼくには大学の旧友しかいないんだけど、その連中とももうつき合ってないんだ」
「おかしいな」と彼はいった。――やさしい口調で、彼はもうぼくを警戒しなかった――「おれは仲間なんか、いつだって見つかると思うけどね」
「戦争中は、ずいんぶんといたよ。だけどいまではひどくむずかしいと思うね、たとえば……うまくいえないけど……」
「女を見つけるのと同じくらいかい?」
「まあね」とぼくは笑っていった。
「だからといってね」
彼は考えこんだ。
「いいかい、おれたちにはあんたたちよりずっと簡単なんだぜ、別に問題もない、すぐに知り合いになるんだ」
「あちらじゃだめなんだ、時間がかわるんだよ。それにコピーをとるときなんか、お喋りはできないんだよ」
「そこだよ。おれたちはいつだって喋りたいときに喋れるんだ。まるで戦争してるみたいだよ、ほとんどいつもね。給料のために、食うために戦わねばならんのだ、だから、仲間なんかすぐ見つかるよ」
「ぼくの同僚なんか、殺したいとは思っても、話したいとは思わんよ」
「たぶんひどく悲しいときなんか、そうだろうね、仲間ができないんだよ」
「たぶんね」とぼくはいった。
「きっと、そいつは人生の不幸だろうな? だけど毎日のように、仲間を拒否する人間なんて、考えられないな」
彼はさらに付け加えた。
「おれは、仲間がいなかったら不幸だろうな、やりきれないよ」
ぼくは返事しなかった。彼はいまの言葉を後悔しているようだった。それでも、急に、彼はとてもやさしくいった。
「おれはね、あんたはいまの仕事をやめるべきだと思うよ」
「そのつもりだよ、いずれ近いうちにね」
おそらくは彼は、ぼくがあまりそのことを真面目に考えていないと思ったにちがいない。
「いいかい」と彼はいった。「おれには関係ないことだけど、あんたはいまの仕事をやめるべきだと、おれはいってるんだよ」
彼はしばらく後で付け加えた。
「あんたの人生は、うまくいってないよ」
「もう八年も前から、ぼくは仕事をやめたいと思っているんだよ。そのうちにきっとやめるよ」
「すぐにやめるべきだ、とおれは考えるんだ」と彼はいった。
「おそらくきみの考えは正しいだろうね」とぼくは少し間を置いていった。
風はこの上もなく心地よい涼しさだった。だが彼はぼくほどその風を喜んではいなかった。
「なぜきみはそんなことをいうんだ?」とぼくはたずねた。
「だけどあんたが待ってるというんだから、何もいうことはないよね」と彼は静かにいった。
彼は繰り返した。
「あんたの人生は、うまくいってないよ。誰だってそういうだろうね」
彼はしばらくためらい、それからあらためて心を決めたような口調で、
「あんたの女のことでも同じだよ。あの女をどうするつもりなんだい?」
「ぼくは長いことためらってたんだ。だけどいまでは反対することもないって心境だね。彼女はとても熱心だし、それにぼくと同じ役所にいるから、一日中そうしたがってるのをぼくは見てるんだよ、この意味はわかるだろう?」
彼は返事しなかった。
「だんだんにくだらない生活から逃れられなくなるものだよ。ほかにどうしようもないから、くだらない生活でもできるようになってしまうんだ」
彼はにこりともしなかった。
「だめだ」と彼はいった。ぼくの皮肉が不快だったのだ。「そうすべきじゃないよ」
「みんなぼくみたいにやってるよ。ぼくにだって彼女と結婚していけないまともな理由なんかないんだからね」
「彼女はどんな女なんだい?」
「ごらんの通りさ。いつも満足して、陽気なんだ。楽天家だよ」
「なるほど」と彼はいって、顔をしかめた。「おれはいつも満足してる女はあまり好きじゃないね。そういう女は……」彼は言葉を探していた。
「疲れさせるよ」
「そう、疲れさせるんだ」彼はぼくの方を向いて、微笑した。
「ぼくの考えではね、満足するためだけだったら、なにも人生全体にかかわるような重大な理由を持つ必要はないよ。もし三つか四つの小さな条件がそろえば、どんな場合だって……」
彼はぼくの方を向いて、また微笑した。
「たしかに小さな条件は必要だよ」と彼はいった。「だけど人生では、満足するだけでは充分でないんだ。時には、もう少し多くのものが必要なんだよね」
「それは何だい?」
「幸福になることさ。そのためには愛情が役に立つ、そう思わないかい?」
「ぼくにはわからんね」
「いやちがう。あんたは知ってるんだ」
ぼくは返事しなかった。
「ロッカへ来いよ」と彼はいった。「もし土曜日に来たら、おれもいるからな。一緒に海底での釣りをやろうじゃないか」
それ以上はもう自分の話をしなかった。車はラストラに到着し、やがてアルノー川の渓谷を離れた。
「あと十四キロだ」と彼はいった。
彼が前窓を下したので、ぼくたちは顔にまともに強い風を受けた。
「だけどいい気持だね」とぼくはいった。
「ラストラを過ぎると、いつもこうするんだ。なぜだかしらんけどね」
風のせいで、前よりずっと速く走っているような感じだった。ぼくたちはもうほとんど口をきかなかった。前窓を下したからそうなったともいえるが、とても気持がいい風だったので、話をすることなぞ考えもしなかった。ときどき、彼はどなるように告げた。
「あと三十分、あと二十分、あと十五分で、あんたは彼女に会えるよ」
彼女とはフィレンツェのことだった。しかしもしかしたら彼は、何かほかのことを、よくはわからないが幸福のことを話したのかもしれない。ぼくは彼の隣りに座って、風に吹かれてとてもいい気持だったので、あと一時間でもそうしていられただろう。だが彼の方は、ぼくに早くその都会を見せたくてうずうずしていたので、彼の欲望はぼくの欲求を圧倒してしまった。ぼくもたちまち早くフィレンツェへ着きたいと思いはじめた。
「あと七キロだ」と彼は叫んだ。「もうじき丘の上へ出たら、下の方に見えるよ」
たぶん彼はこれまでにピサとフィレンツェのあいだを百回も往復していただろう。
「見ろよ!」と彼は叫んだ。「ちょうどいま市の真上にいるんだ」
その都市は裏返しにされた空のように、ぼくたちの真下に輝いていた。それから、カーブにカーブを重ねて、車はその深みへと下っていった。
しかしぼくはほかのことを考えていた。こうして、この男みたいな行きずりの仲間に満足しながら、都市から都市へと旅行することは、ひとつの解決法とはならないのではないか、とぼくは考えた。それからまた、妻を持つことは、ある場合には、余分なことになるのではないか、と。
到着すると、ぼくたちは駅の近くのカフェで、みんな一緒に白ぶどう酒を飲んだ。ジャクリーヌはホロの下から頭髪を乱して出てきたが、たいして被害は受けていなかった。たぶんぼく以外の男には美しく見えただろう。ぼくは彼女の顔色がよいと思った。とても上機嫌なのだ。
カフェでも彼はまたぼくにロッカの話をした。ぼくは話をしているあいだ彼の顔をしげしげと見つめた――車のなかでは横顔しか見えなかったから。ほかの労働者たちはみんな似ているのに、彼だけは誰にも似ていないことにぼくは気づいた。彼と話をしてとても楽しかったのはそのせいなのか? 急にぼくは少し彼が怖くなった。ロッカへ行くべきだよ、と彼はまたいった。休息するだけのためにも。もうじき土用だ。一週間ぐらい、なんとでもなるだろう? マグラ川で一緒に泳いだり、時間があったら、よく知っている場所で、海底の釣りをやろう、従兄が水中眼鏡を持っているから、借りればいい。じゃ、行くね? 行くよ、とぼくはいった。ジャクリーヌは本気にしないで、微笑していた。彼女には、彼はロッカへ行くようにすすめなかったのだ。
フィレンツェでのそれらの日々は、一年中で最も暑い日々だった。ぼくはそれまでに暑さの経験を持っていた、熱帯地方の植民地で生れて育ったのだし、文学作品でそうしたことを読んだこともある。だがフィレンツェでのこれらの果しない日々のあいだに、ぼくは暑さのすべてを学んだのだ。その暑さはまさに特筆すべき出来事だった。ほかには何も起らなかった。ただ暑い、それだけだった。四日のあいだ、都市は炎も悲鳴もない、静かな火炎に包まれていた。ペストや戦争に苦しめられると同様に、住民たちはその四日間、とにかく生きのびることしか考えなかった。それはキリスト教徒向きの気温ではないばかりか、非キリスト教徒にとっても、まして他の動物たち向きの気温でもなかった。その証拠に、動物園でチンパンジーが暑さのため死んだのだ。それに魚たちも窒息死したものだ。死んだ魚のためにアルノー川が臭くなった、と新聞は報じていた。町の喧嘩はしつっこかった。その都会からは愛が追放されたみたいだった。この期間には一人の子供もはらまれなかったにちがいない。また新聞以外には一行も書かれなかったろうし、その新聞も暑さのことしか報じなかった。犬たちも交合するためにもっと温和な日々を待っていたにちがいない。殺人者たちは犯罪を敬遠し、恋人たちはなげやりになった。知性がどういうものか、もはや誰も知らなかった。粉砕された理性は、何の役にも立たなかった。個性はひどく相対的な概念となり、その意味は失われた。それは兵役よりもはるかにきつかった。街で使われる言葉も同一のものとなり、ひどく減少した。五日のあいだ誰でも同じだった――喉が乾いてしかたないのだ。こんなことはもう長つづきすべきではない。長つづきしないだろうし、過去にも数日以上つづいた例はなかったのだ。四日目の夜に嵐が訪れた。いい頃合だった。市内の誰もが、たちまち各自の持ち味を回復した。ぼくは、そうでなかった。ぼくはまだ休暇中だったのだ。
ぼくにとって、その五日の日々は、とてもよく似ていた。ぼくはその五日間をすべてあるカフェテリアで過ごした。ジャクリーヌの方は、フィレンツェを見物していた。そのために彼女はひどくやせたが、それでもとことんまでやりぬいた。たぶん彼女は一週間で見られるかぎりのすべての宮殿、美術館、記念物を見物しただろう。彼女が何を考えていたのかぼくは知らない。ぼくの方は、カフェテリアで、アイスコーヒー、アイスクリーム、はっか水などを飲みながら、マグラ川のことを考えていた。彼女が何を考えようと、それはマグラ川のことではなかった、ぜんぜん別のこと、たぶんマグラ川とは正反対のことだったろう。そしてぼくは、一日中、マグラ川は涼しい、もっと暑い日でも、ずっと涼しい、と心で繰り返していた。海だけではもはや充分ではないように思われた、ぼくには河が、木蔭の水が必要であった。
最初の日、ぼくはホテルからカフェテリアへ行った。アイスコーヒーを飲んだら、市内をひとまわりするつもりだった。午前中ずっとカフェテリアで過ごした。ジャクリーヌは正午に、六杯目のビールを前にしたぼくを見つけた。彼女は腹を立てた。何てことなの! 生れてはじめてフィレンツェへ来て、午前中をカフェで過ごすとは! 「午後になったら、やってみよう」とぼくは答えた。二人は別々に行動して、食事のときに顔を合わせる約束になっていた。だから、昼食後、彼女はぼくを残していった。ぼくはレストランの近くのカフェテリアへ戻った。時間がどんどん過ぎていった。夜の七時になっても、ぼくはまだそこにいた。ジャクリーヌは、今度は、はっか水を前にしているぼくを見つけた。彼女はまた怒った。「動いたら、死にそうなんだ」とぼくはいった。それはたしかだった。しかしぼくはまた明日には元気になるだろうとも確信していた。
翌日になっても、元気にはならなかった。それでもその日、ぼくはある程度は努力してみた。昼食後、ジャクリーヌが出発してから一時間後に、ぼくはやはり一度は逆戻りしたカフェテリアを離れて、ツルネヴォネ街へとびこんだのだ。アルノー川はどこですか? その方角を観光客にたずねると、すぐに教えてくれた。とりわけぼくは、川面に浮んでいる死んだ魚たちを見たかったのだ。そこへ着いて、河岸からぼくは魚たちを見た。新聞は誇張していた。たしかにいることはいたが、新聞に書いてあるよりずっと少なかった。ぼくは失望した。アルノー川も、ピサから来るときに見た川と、要するに昔見た川とたいして違ってもいなかった。くだらない、とぼくは呟いた、ちょろちょろ流れてる水と、そこに死んだ魚が浮んでるだけではないか。これがアルノー川か、とぼくは半信半疑で呟いた。もう駄目だった。その川はぼくに何の感動も与えなかった。ぼくは退散した。街は人であふれていた、とりわけ観光客たちで。みんなひどく暑がっていた。アルノー川の支流が二、三本流れていた。ぼくは勇気を出してその一本に沿って歩き、とある広場へ着いた。その広場には見おぼえがあった。おれはいったいどこにいるのだ? 絵葉書のなかだ、とぼくは考えた。そこはもちろん主《しゅ》の広場だ。そのはずれで、ぼくは足をとめた。なるほど、これがそうか、とぼくは呟いた。広場は太陽の下で燃えていた。そこを横切ると考えただけで、文字通りがっくりした。だけど、着いたからには、横切らなくてはならない。観光客たちはみんなそうしてるのだから、そうすべきなのだ。なかには女たち、子供たちも横切ぎっている。彼らが、ぼくとそんなに違う人間なのか? 行こう、とぼくは考えたが、不覚にも、歩廊の石段の上に腰を下してしまった。ぼくは待った。ぼくのシャツはじわじわと濡れて、背中にくっついていった。上衣もまた濡れて、シャツにはりついていった。そしてぼくは、その上衣とシャツに包まれながら、そのことを考えた、それ以外には考えられなかった。広場の上空の空気は、まるで湯わかしの上の空気のように湯気を立てていた。行こう、とぼくは心で繰り返した。そのとき一人の労働者が真直に歩廊へ近づいてきた。彼はぼくの数メートル先で立ちどまり、道具袋から大きなスパナを取り出し、ぼくの足下にあった水道の栓を抜いた。溝はたちまち水で一杯になった。それを眺めていると頭がくらくらとした。水は蛇口から輝かしい奔流となって溢れ出た。蛇口に口をつけて、その溝みたいに水をいっぱい溢れさせたい。だが幸いなことに、ぼくの記憶の表面にあの死んだ魚たちが浮び上がった。その水はたぶんアルノー川から来てるのだろう。ぼくには飲めなかった、しかしそれだけいっそうあのマグラ川の水のことを考えた。到着以来、ひとつひとつの事物、一刻一刻が、ますますあの川を望ましいものとした。はっきりと予感できたが、ぼくをロッカへ出発させるには、さらに少しのもの、ほんの少しのものが必要だったのだ。ごくゆっくりと、ぼくはそこへ行くのだろう。だがその必要な少しのものは、その日にはまだ訪れなかった。広場だけでは充分でなかった。もっともぼくは広場に執着しなかった。溝の水を見てから、ぼくは広場を横切るのをあきらめた。ぼくは立ち上って、退散した。狭い小路を通って、ぼくは午前中を過ごしたカフェテリアへもどった。まだ話さないうちに、給仕はぼくの様子を見ただけで、なぜ帰ってきたかを理解した。
「冷たいはっか水」と彼はいった。「お客さんに必要なのはこれですよ」
ぼくは一息に飲んだ。それから、椅子にへたりこんで、ジャクリーヌがもどってくるまで、ながながと汗をかいた。
それはぼくの唯一のフィレンツェ市内の散歩だった、もちろん市内見物の散歩という意味だが。その後ぼくは、さらに二日間、カフェから動かなかったのだ。
一人だけ気に入った人間がいた。それは通いつけのそのカフェの給仕だったが、彼がいるせいでぼくはいつもそこへ帰っていったわけだ。朝の十時から正午まで、午後の三時から七時まで、ぼくは彼が働くのを眺めていた。やがて彼はぼくに気を使って、時どき新聞を持ってきたり、「何て暑いんでしょう!」と声をかけたりした。また時には、「土用のときにいちばんきくのは、アイスコーヒーですよ。喉がすっきりして長持ちしますからね」ぼくは彼のいうことをきいた。彼がすすめるものは何でも飲んだ。彼はぼくに対してそういう役割を果すのを好んでいた。
そのカフェに座って、給仕を相手に、一時間に半リットルの飲料を飲んでいると、ぼくには人生はまだ耐えうるものに、つまり生きるに値するもののように思われた。その方法は、じっと動かないことだ。ぼくは観光客たちと何らの共通性も感じなかった。明らかに彼らは、それほど飲む必要を感じていなかった。自分のなまけ心も手伝って、ぼくは彼らの体が何か特別のスポンジ状の組織、たとえばサボテンの組織みたいなもので作られているように想像した――もちろんそれは知らぬまに彼らの性向を決定している特徴であるわけだが。
ぼくは飲み、読み、汗をかき、ときどき場所を変えた。カフェの奥から出て、テラスの上へ行ったりした。そしてもちろん、街を眺めた。観光客の波は、正午近くに減少することにぼくは気づいた。五時頃になるとまた勢いをもり返すのだ。ものすごい数だった。彼らは土用に挑戦していた。特別製の組織にもかかわらず、彼らはその都市の唯一の英雄、観光事業の英雄であった。ぼくの方は、観光事業の恥辱だった。ぼくは自らを恥じた。一度、そのことをカフェの給仕に話した。「ぼくはフィレンツェの何も見ないらしい。その資格がないんだよ」給仕は微笑して答えた。それは気質の問題であって、意志の問題ではない、できる人とできない人とがあるのだ、と。彼はこれまで幾度も土用を見ているから、自分の言葉には自信を持っている。それから彼はやさしく付け加えた、それにしてもぼくのケースはこれまでで最も典型的なものだと。ぼくはその返答にとても満足したので、その夜ジャクリーヌにそのまま伝えたほどだった。
午後の四時頃、散水車が通った。その後で、マカダム式通路は煙り、街の無数の匂いが立ちのぼった。ぼくはその匂いを吸った。それは心を慰めるようないい匂いだった。とにかくぼくはある程度はフィレンツェと和解したのだ、とぼくは考えた。
ジャクリーヌとは食事のときにしか会わなかった。ぼくには彼女に何も話すことがなかった。ところが彼女の方はそうでなかった。当然のことだ。彼女は午前中や午後に見たこと、行ったことを物語った。もうぼくに努力するようすすめないで、もっぱらフィレンツェの素晴らしさをほめたたえた。きっとその方がぼくに見たい気持を起させると思ったのだろう。彼女はとめどなくほめそやした。ぼくは彼女の話を聞いていなかった。喋りたいだけ彼女に喋らせておいた。ぼくはいろいろなこと、彼女のこと、人生のことをなんとか耐え忍んでいた。ぼくはまさしく人生に疲れた男だった。つまり自分にふさわしいペシミズムが見つけられないという悲劇を背負った男の一人だった。その種の男たちは、相手に長いこと喋らせはするが、その話を完全には信じられないわけだ。ぼくは三日間、一日に二度、食事の度に、彼女に喋らせた。それから、三日目が訪れた。
三日目に、ぼくは七時にホテルでという約束に従わないで、カフェテリアを離れなかった。ホテルでぼくの姿が見つからなかったら、きっと彼女はカフェテリアまで探しに来るだろう、とぼくは考えた。それまでは、ぼくはとにかく約束を破らなかった。ところがその日、もうその必要性を認めなかったのだ。予想通りに、七時半になると彼女がカフェテリアに呼びに来た。
「やっぱり、さぼっているのね」と彼女はやさしい口調でいった。
彼女は上機嫌のようだった。
「ぼくがさぼってると思うんかい?」
「まあね」と彼女はおだやかにいった。
彼女は会話をつづけたがらなかった。ぼくは彼女が厚化粧をして、ドレスも代えているのに気づいた。朝の九時から彼女はフィレンツェを見物していたのだ。
「あなたはどこかへ行ったの?」
「ううん、どこへも」
「どんなことにも慣れるものよ」と彼女はいった。「暑さにもね。ちょっとその気になりさえすれば……」
すでに三年も前から、彼女は毎日のように、ぼくに少し努力するようすすめていたのだ。時がたつのもはやいものだ。
「きみはやせたよ」とぼくはいった。
「あたしなんともないのよ」と彼女は微笑しながらいった。「すぐに回復するわよ」
「もっと疲れないようにすべきだよ」
「そんなことあなたにいわれることないわ」
「そうかね」とぼくはいった。
彼女はびっくりしてぼくを見つめ、顔を赤くした。
「あなたはご機嫌が斜めなのね」
「ぼくが悪かったよ。せっかくフィレンツェへ来てるんだから、それを利用するのが本当なんだ」
「そういうあなたは? なぜあたしにそんなこというの?」
「ぼくには、その気がないんさ」
「あなたって変人なのね」
「そうじゃないよ、ただその気になれないんだよ」
「まさかこの市が気に入らないってわけじゃないんでしょうね?」
「別に意見はないね」
彼女はしばらく沈黙した。
「今日は、ジオットを見たのよ」
「ぼくには興味ないね」
彼女は驚いて見つめたが、やがてもう一押ししようと決心した。
「あの画家が十四世紀の人だってことを考えると……」と彼女ははじめた。
彼女はジオットのことを話した。ぼくは彼女が話すのを眺めていた。彼女はぼくの視線に満足し、ぼくが傾聴していると信じたようだ。その可能性は大ありだった。もう何ヶ月も前から、ぼくは彼女を本気で見つめたことはなかったからだ。
ぼくたちはカフェテリアを出た。彼女はジオットのことを喋りつづけた。ぼくの腕に自分の腕をからみつけた。いつものように。街がぼくを閉め出した。小さなカフェが急に大洋のごとく思われた。
その女と暮らして以来はじめて、ぼくは、そう、彼女の腕が自分の腕に巻きつけられるのを恥ずかしく感じた。
水滴がついには瓶から溢れ出るときがあるものだ。その水滴が、どんなに信じがたいほど複雑で入り組んだ方法で瓶のなかへ入り、ついにはそこから溢れ出るかを知らなくても、その事実を信じたい理由とはならないのだ。それを信じるばかりでなく、時には溢れ出るままにしておくこともある。ぼくは彼女がジオットの話をしているあいだ、溢れ出るままにしておいたのだ。
翌日、一緒に出かけないことはすでに了解ずみだったが、ぼくは彼女に、今日もまた、一緒に市内見物へは行かないと宣告した。彼女は驚いたが、あえて反論しなかった。ぼくをホテルへ置き去りにした。ぼくはおそくなってからベッドを離れ、バスに入って、すぐにカフェテリアへ行った。これからすべきことがわかったのだ。ぼくは例のトラックの運転手を探そうとした。カフェの給仕とは、めったに口がきけなかったし、話題はいつも土用のこととか、頭をすっきりさせる飲物のことばかりだった。最後には、彼の方でも気づいていたらしいが、いつも同じ話題の繰り返しとなった。やがてぼくは、彼がひっきりなしにテーブルのあいだを動きまわるのを見るのに疲れてしまった。二日のあいだ、給仕がぼくと一緒にはっか水を飲むために十五分の暇を見つけてくれるのを期待したあげく、それが実現不可能の望みであることに気づいた。そこでぼくは例のトラックの運転手のことを考えたのだ。コーヒーを二杯飲むと、この市へ到着したとき白ぶどう酒を飲んだバーを見つけるために、駅へ向って二度目の市内探検に出かけた。市内を見物するために用いなかった努力を、ぼくは彼を、あのトラックの運転手を見つけるために捧げた。あまりに暑かったので、何度もこんなことをしては死んでしまうと考えたほどだ。それでもぼくは最後までやりとげた。例のバーを見つけ、説明した。みんなぼくの言葉を理解してくれたが、残念なことにトラックの労働者たちはみんなピサへ出かけていて、今日は水曜日だから、土曜日にならないと帰ってこないと話した。要するにみんなぼくが知ってることばかりだった。そのことをぼくは忘れていたのか? そうは思わない。そうじゃなくて、ぼくはそのことを忘れたふりをしようとした、不可能なことを望んで、この不当な宿命を呪うだけで、それを避けられぬこととあきらめようとしていたのだ。それにぼくは成功した。そのニュースはぼくを絶望させた。バーを出るとき、このフィレンツェには、グラニータをしゃぶりながらお喋りができる相手は一人もいないと、ぼくは考えた。あの運転手もいないのだ。フィレンツェには、観光客たちと、ジャクリーヌしかいなかった。ぼくのようなタイプの人たち、時間をもてあまし、動きまわるのが嫌いな連中も、きっといるだろうと思ったが、どこにいるのか? それに、ぼくは本気で彼らを見つけようとしているのか? いや、そうではない。ぼくが望んでいたのは、その都市で彼女と二人きりになることだった。ぼくはそうした。五日と五夜のあいだ。
ぼくはすべての自由を失った。彼女はぼくのすべての思考を占め、ぼくの昼間を、ぼくの夜々を抵当に入れた。心に打ち込まれた一本の黒い釘。
ぼくは植民地官吏の息子だった。父はマダガスカルで、ドルドーニュ地方と同じくらいの広さの地方の主席行政官だった。父は毎朝、部下の将兵たちの視察に出かけたが、小銃が不足していたので、部下の耳を見てまわるのだった。フランスの偉大さと同様に衛生思想を発揮したわけだ。父は自分の領土のすべての学校で、授業のはじめに≪ラ・マルセイエーズ≫を歌うよう義務づけた。父は予防接種の普及に躍起になっていたが、自分のボーイが病気になると遠くへ追いやって死なせた。父は時として開発のために五百人の新兵を駆り集めるよう命令を受けた。ああ、素晴らしい狩猟! 父は部下の将兵や警官たちと出発して、目をつけた村を囲んで、カービン銃で追いたてた。それから彼らを開発地向けの家畜列車に押し込み、疲れ果てて、だが大威張りで帰宅すると宣言した。「つらい仕事だったよ。やつらにフランスの歴史を教えたのは失敗だったな。大革命のためにいまだにえらい迷惑をうけるよ」このろくでなしの行政官は、九万人の人口を持つ地方を支配し、ほとんど専制君主なみの権力をふるっていた。そして彼は十六歳まで、ぼくの唯一の教育者だった。だからぼくは、誰かをあくなき監視の下におくとはどんのことかよく知っていた。彼の死を毎日のように願いながら生きるとはどんなことか――父が土人の兵によって殺されるのを想像することは、十五歳の頃のぼくの唯一の甘美な夢であった――また食卓の上にナイフを見て時として味う独特のめまい――また部下の耳を視察する父の姿を見て、草むらのなかに姿をかくすことがどんなことかよく知っていた。しかしフィレンツェでは、土用のあいだ、ぼくはこんな子供の頃の思い出にまどわされなかった。
一日中、カフェテリアに座って、ぼくは彼女のことを考えつづけた、一緒にその都市に閉じ込められた彼女のことを。
ぼくは何時間も彼女を待ちつづけた、恋に狂った男のように。
彼女は一度たりとカービン銃を手にしたり、誰かの耳を視察したことはなかった。だがむろんそんなことはどうでもよかった。彼女は朝食をとり、カフェ・オ・レにクロワッサンを浸す、それだけでぼくには充分だった。ぼくは彼女にやめるように叫んだ。彼女はびっくりしてやめた、ぼくはあやまった、彼女はゆるしてくれた。彼女は小さかった、それだけで充分だった。彼女はドレスを着ていた、彼女は女だった、それだけで充分だった。彼女のちょっとしたしぐさ、ありふれた言葉がぼくを圧倒した。その五日間、ぼくは彼女の何ひとつ見失わなかった。要するにぼくは、五日間で、三年分ぐらい彼女を見つめたのだ。
ぼくは沢山のことを発見した。彼女がいきのよい女性であるとか、ぼくに性が合わないとかいうことばかりでなく、もっとほかのこと、つまり彼女は特別の存在、楽天的な人種であることなどを。ぼくはそうした人種について無数のことを思いめぐらせた――楽天家の特徴は、他人をうんざりさせることだ。彼らは一般にすばらしく健康で、決して失望せず、すごいエネルギーの持主である。彼らは人間が大好きだ。彼らは人間を愛し、人間を偉大だと考える、人間こそ彼らの主たる関心の対象である。聞くところによれば、たしかメキシコの赤蟻は、ごくわずかの時間で、死体を骨まで食いつくすとのことだ。彼女は美しい姿態、子供のような歯をしている。彼女は二年前から、ぼくの蟻なのだ。その間にぼくのシャツを洗い、とても正確にぼくの細々した仕事を片づけてくれた。彼女のなよなよしたところも蟻そっくりで、指先でたちまち押し潰せそうである。その彼女とぼくは二年間、一緒に暮したのだ。
だからフィレンツェで、ぼくは彼女が自分のあらゆる希望をこえた存在であることを発見したわけだ。
ぼくの彼女に対する、何といったらいいか、新しい情熱の涸れざる源泉は、もちろん暑さだった。彼女はいっていた。「あたしは暑いのが好きよ」または、「あらゆることに興味があるので、暑さを忘れてしまうわ」ぼくはそれが本当でないこと、人間がこんな暑さを愛することは不可能なこと、それこそ彼女がいつも使う楽天的な嘘というやつで、彼女が物事に興味を持つのは、いったんこうだと決めて、自分の生活から自由を、気分をひどく変えやすくする自由を追放したからなのだ、ということを発見した。
「魚たちでさえ、この暑さで死んでしまうんだぜ」とぼくはいった。彼女は笑った。
むろんぼくはそれ以上言い張らなかった。毎日の天候についてさえ、ぼくたちは一度も意見が一致しなかった。どんな天候でもそれぞれ魅力があり、どれが特に好きということはない、と彼女はいったが、ぼくはいつもある種の天候に対してはどうしようもない敵意を抱いていた。ところが彼女はぼくの敵意そのもののなかに、なおも希望の理由を発見していたのだ、フィレンツェにおいても。あたしたちはまだ結婚してないのよ、と彼女は冗談をいった。
ぼくはまた、たとえば彼女が他人に対して、寛大さも好奇心をも持ってはおらず、誰にも気持ちを乱されないことを発見した。ぼくはもう退屈しなかった。ぼくは倦きることなくこの女のなかに、忙しげでか弱い彼女の蟻の存在のなかに穴をあけ、幾トンもの発見を掘り出した。ぼくの眩《くら》んだ目には、それは黄金のごとく見えた。
いちばん実りの多い時間は、夜になって床に入ってからの時間だった。ぼくはもう市の暑さや彼女自身の暑さを考慮に入れる必要はなかった。彼女を前にすると、ぼくはもう何ものも考慮に入れられなかった。こんな夜に、ベッドに入れば、彼女以外の誰であろうと、耐えがたいものになると考えたりした。いや、それでもぼくは、この世の中には、眠っている肉体が友情に溢れた耐えうる暖かさを発散する人たちが存在していると確信した。彼女の肉体は、彼女自身を裏切って派手で淫らな方法でその楽天主義を告発しているように見えた。それらの夜は、透明な創造の点では素晴しかった。ぼくの人生で最も美しい夜だった。ぼくはうまく眠れなかった。ひっきりなしにギクリとして目を覚ました――彼女がそこにいるだけで目が覚めてしまう、とぼくは信じた――そして彼女が薄闇のなかで不当な眠りに浸るのを、ぼくは長いこと見つめた。そんなとき、毎晩のように、一筋の同じ河が姿を現わした。それは大河だった。それは冷たく、いかな女性の痕跡にも汚されていなかった。ぼくはそれをやさしくマグラ川と名づけた。その名前を口にするだけでぼくの心は爽やかになった。ぼくたち、あの運転手とぼくと二人きりだった。風景のなかには二人しかいなかった。彼女はぼくの人生から完全に消え失せていた。ぼくたちは河の畔りを散歩した。彼には時間がたっぷりあった。長い土曜日だった。空は曇っていた。ときどきぼくたちは水中眼鏡をつけて水に潜った、海中ではなく、その河のなかへ。そして緑色の薄暗い燐光の未知の世界のなかを、海草や魚たちをかき分けて泳いでいった。それから陸へ上り、また水へ潜った。ぼくたちは言葉を交さなかった、そんな必要は全く感じなかった。三晩のあいだ、その土曜日はつづいた。いつ果てるとも知らぬままに。河岸や水中で彼の傍らにいたいという欲望はとても強烈だったので、ほかのすべての欲望は消えてしまった。一度たりと女性のことは考えなかった。その河のなかでぼくの傍に女性の姿を想像することは不可能だっただろう。
しかし、ぼくの生活から河が消え失せる日がやってきた。彼女の存在がぼくの喉もとに襲いかかったのだ。ぼくには自分のために何かを想像する暇はまったくなかった。
それは土用の終りの前に、かなり急激に終りを告げた。ある日の午後、だしぬけに。
彼女はサン・マルコ博物館へ同行するように求めた。そんなことは到着以来はじめてのことだった――彼女に対して新しい情熱を抱いてから、ぼくはやさしかった。ぼくは承知した。フィレンツェの博物館は、彼女の様子をうかがい、楽天主義の現行犯で彼女を捕えるのに最も適した場所のように思えた。だからぼくは勢いこんで承知した。ぼくたちは出かけた。その日は土用のうちでいちばん暑い日だった。街のアスファルトは煮えたぎっていた。みんな悪夢のシロップのなかにいるみたいに歩いていた。こめかみはガンガン音を立て、肺は燃えた。多くの魚が死んだ。チンパンジーが死んだのもその日のことだ。彼女は喜びいさんで歩いていった――ぼくの少し前を――まるでぼくを導き、ぼくの跳躍を助けるかのように。このあまめ、とぼくは心で叫んだ。彼女は勝ったものと信じ、ぼくがちゃんと後をついてくるかどうかを見るためにときどき振り返った。そしてぼくは、どんなことかはっきりしなかったが、最大の大胆な行為へ向って進んでいた。あらゆることが起りそうだった。やっと何かが起るのだ、とぼくは考えた。成行にまかせるつもりだった。ぼくはそう決心した。どうなるのだろう? ぼくにはわからなかった。
ぼくたちは博物館へ到着した。
それはぼくがそれまでに見た博物館とは異っていた。避暑用に建てられた昔の別荘で、薄い灰色に塗られた二階家、しかも市に面してはおらず、内庭の方を向いていて、周囲には赤い切石を敷きつめた歩廊がついていた。
「こちらへいらっしゃいよ」とジャクリーヌがいった。
ぼくは彼女に従った。彼女は案内人に、≪受胎告知≫がどこにあるかとたずねた。十二歳の頃、父の休暇中に、ぼくはその絵の天使の複製をベッドの上にかけていた。ブルターニュでの二ヶ月。だからぼくはその本物がどんな具合なのか見たいと漠然と思っていた。その絵は入り口の傍の部屋にあった。ぼくたちは真直ぐにそこへ向った。部屋にはその絵が一枚あるだけだった。十人あまりの観光客が立ったままでそれを眺めていた。三脚のベンチが並んでいたが、誰も座っていなかった。ちょっとためらってから、ぼくはそこに座った。するとジャクリーヌもぼくの隣りに腰を下した。ぼくは天使に再会した。昨夜もその傍に眠ったみたいに、それをよくおぼえていた。
「きれいね」とジャクリーヌが耳もとで囁いた。
充分に予期していたその感想も、ぼくには期待通りの効果を与えなかった。つまり何らの効果も与えなかったのだ。ぼくは絵の前に腰を下して、うとうととした。例の河の夢を見るようになった四日前から、ぼくはほとんど眠らなかったのだ。ぼくは突如として疲労を意識した、ひどい疲労だった。膝の上の両手は鉛のように重くなった。戸口からは、庭の芝生に反射する緑色の光が射しこんできた。絵も、観光客たちも、ぼく自身もその色彩の中に浸っていた。それはとても心が安まる感じだった。
「とりわけ天使がね」とジャクリーヌが耳元で囁いた。
以前に見たほかの複製画は、ブルターニュでの休暇中に見たのよりも不正確なものだったことにぼくは気づいた。婦人の顔もぼくはおぼえていた。天使の方は、あまりに幼くて自分の気に入っているのかどうかわからなかったが、婦人の方はいつもあまり好きになれなかった。
「とってもきれいだわ」とジャクリーヌがまたいった。
あの休暇のあいだ、天使は誰に向ってそんなに頭を下げているのかよく考えたことを、ぼくは思い出した。
「あの婦人もよ、ねえ」とジャクリーヌが付け加えた。
ぼくは急に、この野郎、この天使のことはとてもよく知っていると彼女に話してやろうかと思った。そんなことはぼくの人生のとるにたらない瑣末事で、誰に話したところでぼくについて何も教えないだろうし、彼女に対してもぼくをまったく束縛しないだろう。それでも、ぼくは話そうとしている。だが、そんな価値があるのか? ぼくは話すことができなかった。ぼくばかりでなく、ぼくの唇がいうことをきかなかった。唇は開いたままでしびれ、そのままバルブのように閉された。声は出なかった。調子がよくないな、とぼくはいくらか心配になって考えた。
「とりわけ天使がね」とジャクリーヌがまたいった。
ぼくはもう一度やってみたが、やはりだめだった。その天使が竹馬の友と同じくらい親しいものだと彼女に話すことができなかったのだ。というわけで、簡単なことだった。ぼくは人生とあまりにうまく折合いをつけてしまったので、こんなことを話す相手もないばかりか、そんなことを話すこと自体がひどく困難な男なのだ。ところがそれを話すのはたやすいことだった子供の頃、ぼくは二ヶ月ほどその絵の複製を持っていた。それとも、これは旧友に再会するみたいだ、なぜなら、ブルターニュで二ヶ月ほど、ぼくはベッドの上にその複製画をかけておいたのだから。犬や魚だったら、そんなことは問題にならないだろうが、ぼくは人間なのだ。これは自然ではなかった。話し方はいくらでもあったが、彼女相手には、ひとつも見つからなかった。太陽はいまや絵の上に照りつけていた。絵は燃えていた。いずれにせよ、ぼくが知っていることを、他人に知らせないままでいていいのだろうか?
そんなことはないように思えた、というよりいつかはそのことを誰かに話すときが来るように思えた。
それはぼくがぜひとも話したいことだった。なるほどとるにたらないことだったが、急に見のがすのが困難なことに思えたのだ。だからぼくはそのことを発見したのだ(今度はぼくだけにしか関係ないことだったが)――人間はそれが可能な年齢と可能な機会に、可能なことを発見するものだ――つまりぼくが子供の頃ブルターニュでその天使を知っていたことを、世間にこれ以上知らせないでおく理由はないし、またこれ以上ぼくが黙っている理由もないことを。そのことは言われるべきなのだ。こうした考えがぼくのなかでみだらな幸福感と共にふるえた。ぼくはとても感動した。
ぼくはとても長いあいだベンチに座っていた。たぶん絵を見るに要するよりも長い時間、三十分以上も。その天使は、むろんずっと目の前にあった。ぼくは機械的に眺めていたが、見てはいなかった。例の発見につづく心の安らぎに気をとられていたから。ぼくの愚かしさは消え失せていた、ぼくはそれが消え去るままにしておいた。とても長いあいだ小便がしたいのを我慢したあげく、やっとぼくは小便を出したのだ。大の男が小便をするときは、いつもできるかぎりうまくするように注意するものだし、また最後の一滴まで注意をつづけるものだ。ぼくは自分の愚かしさを最後の一滴まで排泄した。それで終りだった。ぼくはほっとした。ぼくの傍にいるこの女は、ゆっくりとまた自らの神秘をまとうだろう。ぼくはもう彼女を少しもうらんでいなかった。要するにぼくは三十分間で成年に達したのだ。これは必ずしも言葉の綾ではない、ひとたび成年に達するや、ぼくはまた天使を見直しはじめたのだ。
プロフィール。それはやはり絵だった。だから冷淡だった。天使は婦人を見つめていた。婦人もやはり絵で、天使しか見つめていなかった。三十分後、ジャクリーヌがいった、相変らず低い声で。
「まだほかに見るものがあるわ。博物館ははやく閉まるのよ」
ぼくはやっと、彼女がそんなことを口にしたのは、ぼくがその天使を知ってることを知らないからであり、彼女がそのことを知らないのは、ぼくがそれを口にしないからで、ほかの理由はないことを理解した。それでもぼくはそのことを口にしないで、ベンチから動かなかった。たぶんそのためにはもっと多くの時間が必要だったろう。天使は太陽に燃えさかり、ずっと輝いていた。その天使が男なのか女なのか言うのは不可能、いや、困難だった。どちらとも考えられるのだ。なるほど背中には、偽物の暖かそうで見事な翼がついていた。ぼくはできることなら天使をもっとよく見たいと思った、たとえばそれが首を少しまわして、ぼくを見つめてくれたらと。あんまりその絵を見つづけ、浸りきっていたので、ぼくにはそのことが不可能とも思えなかった。天使がぼくに目くばせしたと信じたときさえあった。そんなことは二度と起らなかったから、きっとそれは芝生の反射のせいだったろう。天使はそこで絵のなかに閉じ込められているあいだ、観光客の一人にだに視線を向けなかった、ただひとえに自分に与えられた使命を果そうとつとめていたのだ。天使は永遠に、その女性だけに関心を抱いていた。もっとも天使の顔のあと半分は存在していないかもしれなかった。それにもし首を曲げてぼくを見つめたとしても、その顔はフィルムみたいに薄っぺらで片目だったにちがいない。それは芸術作品だった。美しいか美しくないか、ぼくには意見はない。だがとにかく、芸術作品なのだ。いずれにせよ、あまり長いあいだ眺めるべきではなかった。四百年前から、天使は誰に対しても目くばせひとつしなかったのか? ぼくはそれを持ち去ることも、焼くことも、それに接吻することも、目をえぐり取ることも、顔につばをかけることも、話しかけることもできなかった。これ以上天使を眺めていても何の役に立つのか? ぼくはそのベンチから腰を上げて、人生をつづけねばならなかった。ぼくに幸福を説きながら、学校をさぼった子供のようにトラックを運転していたあの男の、やはりプロフィールを眺めていて何の役に立つのか? ぼくが毎晩のように夢見るあの男も、この絵のなかの天使と同様に、ピサの石工の仕事に捕えられているのだ。胃の上あたりの胸に、はげしい苦痛が襲いかかった。その苦痛は最初のものではなかった。ぼくはこれまでに二度、一度はパリで、もう一度はヴィシーで、戸籍係のことで泣いたことがあった。あれは天使なのだ、とぼくは考えた、あの運転手、あの裏切者は。だがなぜ泣くのだ? 苦痛が増大した――胸と喉との火のごときものは、涙と一緒でなければ外へ出ないのだ。だがなぜ、とぼくはなおも自問した。なぜ泣くのだ? この奇妙な欲望の理由を発見することによって、その苦痛を阻止できたら、苦痛の限界にまで達しえたら、とぼくは希望した。しかしやがて火はぼくの頭へ移り、ぼくはもう何も探すことができなかった。ぼくはこうとしか考えられなかった――もしお前にその欲望しかないのなら、いいとも、お前は泣くべきなのだ。そうすれば、その理由がわかるだろう。お前が泣くまいとするのは、自分自身に対して誠実ではないからだ。お前は一度も誠実であったことはなかった。いますぐにでも誠実になりはじめるべきだ、わかったか? その言葉がぼくに襲いかかった、恐ろしい大波のように、ぼくをのみこんだ。ぼくにはそれをかわすことができなかった。
誰にもそれぞれの泣き方があるものだ。部屋は鈍いうめき声で充たされた。秣《まぐさ》をいっぱい食べて、母牛が恋しくなって、牛小屋へ帰りたがっている子牛のうめき声。ぼくの目からは一滴の涙も出なかった。しかしうめき声はますますはげしくなった。その直後に訪れた静けさのなかで、ぼくはみんなと同様に、こうした言葉を耳にした。
「戸籍は、終りだ」
もちろん、それを口にしたのはぼくだった。ぼくはたいしてぎくりとしなかった。ジャクリーヌはぎくりとした。観光客たちもぎくりとした。ジャクリーヌは、ほかの観光客たちよりもはやく立ち直った。苦痛は消え失せた。
「まったくあなたは変った人ね」と彼女はいった。
そうした行動はぼくにはそうたびたびあるものではなかったが、彼女はぜんぜん質問しなかった。それでも彼女はぼくの腕をとって、≪受胎告知≫がぼくの理性を狂わせただけに、あわててぼくをその部屋から連れ出した。
ぼくはなんとか彼女の後に従った。今度はそれも可能だった。なぜなら、今度こそ確実に決まったのであり、ぼくはもう戸籍係にもどらないつもりだったからだ。彼女は、そうでなかった、彼女はそこへもどるだろう。ぼくが誠実になったからには(突然にであろうとなかろうと、人間は突然に発狂するものだが)、そして戸籍係に彼女と一緒にとどまることは――ぼくはその二つを分けて考えていなかった――不誠実であったから、もはやぼくは戸籍係にも彼女にもとどまることはできなかった。ちがう、ぼくは人間をこんな具合に扱ったはずがない、たとえ彼女であろうと。それではいったいどんな心の迷いからぼくはこれほど不当に自分自身を取り扱ったのだろうか?
絵がつづいていた。ぼくは先ほどの叫びと宣言以来ひたりつづけていた心の安らぎを乱すまいとして、ロボットみたいに、注意深く歩いていった。それはいとも簡単なことで、ぼくはもう暑さも感じなかった。ずいぶん長年前から、たぶんドイツ軍から脱走して以来はじめて、ぼくは自己に対して、ある種の尊敬を抱いた。まず第一にぼくは苦しんだのだ、しかも思ったよりもずっと激しく。なぜならぼくは泣いたのだから、どうして疑えようか? 次にぼくはあらかじめ考えもしないばかりか、ほとんど意識もしないで喋っていた。そこで自分でもよく承知していたが、ぼくは気違いではなかったし、≪受胎告知≫などはそうざらにあることではなかったから、自分が対象となったこの奇妙な現象は、いささかぼく自身に感銘を与えたわけだ。ぼくのなかの誰が、これほど巧みに、しかもぼくの知らぬまに、ぼくの個人的な問題に手をだしたのか? これほど巧みにといったが、その理由はこれが安定した職、たとえそれが植民地省の二級書記という最低の職であろうと、その職を離れるようにはちっとも感じさせなかったからだ。ところがぼくは――とりわけ八年後には――そうするためには、相当のヒロイズムが必要なのをちゃんと知っていたのだ。ぼくはこれまで一人で百回もそうしようと試みたが、一度だって成功しなかった。ところが、ぼくのなかの誰かがそれをやってのけたのだ。神様だろうか? それが誰だかわからなかったので、ぼくはそれを確かめるのに時間をつぶすよりも、その命令に従ったほうがいいと判断した。それらの命令はぼくの気持にかなっていた。それにそもそも、戸籍係にもうもどらない人間は、やはりぼくがいちばんよく知っている自己のなかの誰かであったのだ。
ジャクリーヌはぼくがぜんぜん壁面を眺めていないことに気づかなかった。少くともぼくはそう思う。彼女はぼくの前を歩き、ぼくは相変らず彼女の後に従った。彼女は一枚ごとに立ちどまった。「ごらんなさいよ」と彼女はぼくを振りかえっていった。「とっても美しいでしょう」一枚ごとに、彼女は美しいとか、とても美しいとか、すてきだとか、すごいとか、いった。ぼくはそれらの絵を眺めた。時には、ジャクリーヌを。まだ昨夜だったら、彼女のそんな話を耳にしたら、きっとぼくは博物館を逃げ出していただろう。ぼくは好奇心をもって彼女を見つめた、なぜなら、一時間前だったらきっと彼女を殺したく思ったからだ。ぼくはもうまるきりその気はなかった。それはすべきことではなかった。ぼくの悪しき心を知らない彼女を、ぼくは無邪気だと思った。ぼくがすべきことは、楽天家であろうとなかろうと、他人に彼女を返してやることだった、魚を海へ返すように。
その後の何日間、ぼくは彼女のことを考えはじめた、もちろん、誠実に。ぼくは彼女の幸福を願った。しかしその幸福はとても特殊なもので、ぼくには与えることが不可能であった。ぼくが彼女と別れた場合、少くともしばらくは彼女は自分を疑い、それまで信じていたように人間の幸福がいとも簡単に手に入ることに疑いを抱くわけだから、彼女には当分は何かが残されることになるだろう。それが彼女のためにしてやれるすべてであった。
例の博物館の出来事の翌日、ぼくは彼女にいった。
「ここへ来てから、ぼくらは同じ方向に市内を見物したことは一度もなかったね。きみは歩きまわり、ぼくは座ったままでいる。一度でいいから同じ事をしようじゃないか。これからカフェテリアへ行こう」
ぼくは彼女を行きつけのカフェテリアへ案内し、少し話をした。少しは時間を無駄にすべきだ、とぼくは説明した、これまで手に入れた時間をすっかり失う危険があっても。それを説明するのは困難だったが、といってやはり事実であった。たしかにぼくは時間を無駄にしすぎているが、彼女は無駄にしなさすぎるのだ。彼女をカフェテリアへ連れてきたのはこうしたことを説明するためで、ぼくはそのことをとても重要だと考えている、とぼくは話した。当然、彼女は今日から一週間、泣いて時間をつぶすだろうが、もしぼくの立派な演説を思い出せば慰めになるだろう、とぼくは考えた。たちまち臆病そうになったまなざしから、ぼくは彼女が今の話を信じないで、何が起ったかを考えているのを見抜いた。だがそんなことはどうでもよかった。ぼくは自分がすべきだと信じたことを、誠実に果したのだ。
その翌日も、ぼくはまた彼女をカフェテリアへひっぱっていった。
今度は、彼女にロッカのことを話した。ぼくはもうフレンツェの暑さに耐えきれないこと、例のトラックの運転手がロッカのことを大いに話してくれたから、そこへ行く決心をしたと語った。彼女に行く気がないなら、フィレンツェに残っていてかまわない。好きなようにすればいいのだ。ぼくにはもう決まったことで、ロッカへ出発する。彼女は昨日と同じまなざし、問いただすような、そしていくらか警戒した目つきをした。もう一年以上も、ぼくは彼女にこんな愛想よい口調で、しかもこんなに長く話したことはなかった。それでも、ひどく警戒しながら、彼女はぼくの計画を断念させようとした。あと休暇は四日しかないのに、フィレンツェを離れて、余分な旅行をする価値があろうか? ぼくはあると答えた、その価値はあるのだ。なぜ海を見たいの? と彼女はつづけた。海なんかどこでも同じじゃないの? フランスでもいくらだって見られるわ。ぼくはその意見に反対であり、海はどこでも同じではないと答え、もう一度、彼女はそのつもりならフィレンツェに残ってもかまわないが、ぼくはその海を見に行くと話した。彼女は返事しなかった。ぼくが話をやめると、そのおなじみの沈黙がいくらか彼女を安心させた。夜、部屋へ戻ったときはじめて、彼女は自分もロッカへ行くと告げた。海を見るために行くのではなく、ぼくと一緒にいたいからだ、と彼女はいった。今度はぼくの方が返事しなかった。彼女がロッカへ来たって邪魔にはならぬだろう、とぼくは考えた。それどころか、もう一度ぼくの計画を告げるにはかえって便利なくらいだ。彼女はきっと海へ泳ぎに行くだろう、ふつう海があるとみんなそうするものだ。ところがぼくはマグラ川へ泳ぎに行くつもりだった。もし必要とあらば三日間でも、いや三晩でもマグラ川に浸りつづけて、彼女が汽車に乗るのを待つのだ。ホテルの部屋よりも川のなかで待つほうがはるかにうってつけのように思われた、たぶん暑さのせいでだろう。それに人間はそれぞれ、誰かと別れるのにいちばん有効で苦痛が少ない方法を考えるものだ。ぼくはマグラ川のなかでその機会を待とうと考えた。ぼくはすでに、最も安全な防壁の中にいるみたいに、気持ちのよい水に浸っている自分を想像できた。そこだったら勇気が出そうだった。ホテルの部屋では、だめだ。
ぼくらのフィレンツェでの最後の夜、土用の五日目に、嵐が訪れた。夜の九時から深夜まで、風が市内を吹き荒れ、空は稲妻で引き裂かれた。雷鳴がとどろいた。街には人気がなく、カフェテリアはいつもより早く店じまいをした。雨はなかなか降らなかった。絶望して、雨は翌日にならなくては降らない、と考える人たちもあった。しかし深夜すぎ、雨は駿馬のように、気違いじみたスピードで降りはじめた。ぼくは眠らないで、それを待っていた。雨が降りだすと、ぼくはとび起きて窓へ見に行った。トスカーナ地方全体に水の竜巻が荒れ狂っていた。街の反対側やほとんど全市のいたるところで窓に灯りがついた。人々は起き出して雨を眺めた。ジャクリーヌも起きた。彼女は窓辺のぼくの隣りに来た。しかし彼女は雨のことを口にしなかった。
「これで少しは涼しくなるわね」と彼女はやさしくいった。「なぜフィレンツェに残らないの?」
そこでぼくはカフェテリアでいったことを繰りかえした。
「ぼくはロッカへ行くべきなのだ」
「あたしには理解できないわ」と彼女はしばらくしてからいった。
「ぼくにだってまだよくわからないさ」とぼくはいった。「だけどあそこへ行ってみればきっとわかると思うよ」
「行けばもっとよくわかる自信があるの?」
「そうさ」
「あなたっていつも妙なことを考えるのね」――彼女は微笑しようとした――「だけどあたしは、どこまでもあなたについていくわ」
「きみはやさしいね」とぼくはいった。
彼女は返事をしなかった。それ以上は言い張らないで、しばらく窓のところにいたが、急にその光景に我慢できないみたいに、彼女はベッドへ駆けていった。ぼくは動かなかった。彼女は来るようにせがんだ。
「もうおやすみなさいよ」と彼女はいった。
ぼくは答えないで、聞えないふりをした。もう何日も前から彼女の体には触れてなかった。第一に、ぼくにはそれができなかったからだし、それにあの博物館以来、ぼくは自分がそれほど丈夫ではないから、来るべき日にそなえて体力を保存しようと考えていたからだ。
「ねえ、おやすみなさいよ」
「ぼくは雨を見てるんだよ」
「ずっと見てるつもり?」
「もっと見てたいんだ」
彼女はもうそれ以上は求めなかった。ぼくは彼女のこと、そしてロッカのことをまた考えた。もう一度あの河のこと、そして河岸や河の中に、ぼくと一緒にいるあの男のことを。魚の群れがぼくらの目の前を光線の束のように逃げていった。空は相変らず曇っていた。今日は木曜日だった。彼は二日後の土曜日にロッカへ着くだろう。まだ先の話だ。もし彼がフィレンツェにいたら、一緒に雨のなかを散歩できるのに。駅の方には、一晩中開いているカフェテリアがいくつもあった。通いつけのカフェテリアのボーイがそう話していた。ぼくらは飲んだり、お喋りできるだろうに。だが彼はここにいない、土曜日まで待たねばならないのだ。忍耐が必要だった。ぼくは長いこと窓のところにいた。生涯でいちばん長いあいだ窓を離れないで、タバコをすったり、あの河やあの男のことを考えた。そしてはじめて、ぼくが戸籍係をやめて後にするであろうことを考えた。
ロッカへ行くのは容易ではなかった。まずサルザナまで行き、そこから電車に乗りかえねばならなかった。旅行の前半はつらかった。土用は終っていたが、依然として列車内は息づまるほど暑かった。ジャクリーヌはフィレンツェを出てから一時間後にやっと席を見つけた。ぼくは最後までドアのところに立ちづめだった。彼女はぼくのところへ一度も来なかった。彼女はめったに景色も眺めなかったように思う。
午後五時にサルザナへ着いた。電車は七時に出るのしかなかった。ぼくは市内を散歩したが、ジャクリーヌはずっと黙ったまま一緒についてきた。街にはほとんど婦人の姿しか見かけなかった。男たちはみんなスペチアの兵器|廠《しょう》で働いており、その時刻にはまだ帰宅していなかったのだ。それは樹木のない狭い街路の小さな町で、家々は貧しく、大きく開かれていて、ただひとつの同じ住居のように――お互に影によりそうように集っていた。生活が苦しいのだ。しかし海は近かった――空気の匂いでそれが感じられた――わずか数キロのところに、まるで幸福のつきせぬ倉庫みたいに。とても早く、三十分たらずで町をひとまわりできた。その後でぼくはジャクリーヌに、電車を待つあいだ何か飲もうと申し出た。彼女は承知した。ぼくは電車の駅の近くの広場に面したカフェテリアを選んだ。
ぼくたちはそこでコーヒーやビールを飲んで一時間を過した、相変らず黙りこくって。広場は陽光に溢れ、子供でいっぱいだった。
六時半頃、満員の市外電車がスペチアから到着した。それは汐風に錆びた、とても古くさい電車だった。子供たちは遊びをやめ、女たちは家から出て眺めていた。三十分あまり、広場は叫び声や挨拶や笑いや、電車の轟音に充たされた。
「休暇はあと四日なのよ」とそのときジャクリーヌがいった。
彼女は電車の音に不平をいって、頭痛を訴えて、アスピリンをのんだ。最後の市街電車と同時に郊外電車が到着した。それもまた信じがたいほどボロ電車だった。その駅での乗客はぼくたちだけだった。電車は数キロほどスペチアへ向い、それからある河に出会うと(それがマグラ川だった)海へ向って曲った。線路はしだいに狭くて悪くなっていった。だがそんなことはかまわなかった、河に沿っていたからだ。河は広くておだやかだった。右岸には防備された村を頂く一連の丘がつづき、左岸はオリーブの木が並ぶロッカの大平原だった。
電車の旅はとても長いあいだつづいた。海へ向いはじめてから三十分後に太陽は沈み、到着したときには完全に夜だった。電車は河に面した宿屋の前にとまった(その店のことは来る前から知っていた)。ぼくは六日と六晩前から彼のことを考えに考えた。生れてから、あることを、誰かのことをこんなにまで考えたことはないほどだった。要するに十年前から、ぼくはこの河岸へ着くの待っていたのだ。その河を目にして、ぼくはまるで大事業によってそれを手にしたみたいに、がっくりしてしまった。
老人がぼくたちを迎え入れた。彼は名前を教えた――エオロ。彼はフランス語を話した。ぼくは名前を知らない若い男から聞いて来たと伝えた。ピサで働いている石工で、グリーンのトラックを持っていて、一週おきにロッカの伯父さんの家へ週末を過しにやってくる……彼はしばらく考えてから、はたと思いついた。老人は青葉で覆われた園亭で、ほかに何もないからと言い訳を述べながら、ハムやパイを給仕してくれた。お客はすべて夕食をすませて、と彼は話した、いまは海岸や河岸へ散歩に出かけている。みんなダンスパーティーの時間を待っているのだ。ぼくたちが返事をしなかったので、老人も黙った。それでも食事のあいだ、彼はその場を離れずにぼくらを眺めていた。たぶんぼくらの疲れ切った様子や沈黙にいくらか好奇心をそそられたからだろう。夕食後すぐに、ぼくは部屋とビールを注文した。疲れているから、ベッドで飲みたいのだ、とぼくは説明した。彼は二人用の部屋だと思ったが、ぼくは別に反対しないで、老人の後に従った。部屋は狭くて、水道もなかった。ベッドには蚊帳《かや》がついていた。老人が姿を消すと、ジャクリーヌがいった。
「やっぱりフィレンツェに残っていたほうがよかったみたいね」
彼女は本気でそう考えていたのか、それともこんな海岸のひなびた村へぼくが何をしに来たのか探りを入れるためだったのか? ぼくは知らなかった、知りたいとも思わなかった。ぼくは来てよかった思っていると答えた。彼女はぼくがとても疲れていて、話すのがつらそうなのを見て、そっとしておいてくれた。ぼくはビールを飲み、体を洗う気力もなく、すぐに眠ってしまった。
ぼくは二時間後に目覚めたらしい。あの暑さ以来、ほとんど毎晩のことだった。夜中に何度もギクリとして目を覚まし、いつもよく眠った、眠りすぎたという印象を味うのだった。そしてもう一度眠るのは困難で、時には不可能であった。壜のなかにはまだビールが残っていた。ぼくはそれを飲み、いつもの習慣通りに、起き上って窓のところへ行った。河の対岸ではダンスパーティーがまっ盛りだった。スピーカーから流れるダンス曲が部屋まで聞えてくる。ぼくはもうぜんぜん疲れていなかった。月は見えなかったが、山の背後に出ているらしく、夜は着いた時よりも明るかった。部屋は片側が河に、もう一方は海に面していた。二階なのであたりの地形、とりわけ河口がよく見えた。その河口の少し左手に、船の白い形が浮かんでいる。中甲板にかすかに灯りが見えた。それは例のアメリカ女のヨットだった。海はおだやかだったが、河面《かわも》の完全な滑らかさにくらべると、水面はざわめいていた。きらきらと輝く泡のリボンが海と河との出会いを示している。ぼくはいつもこの種の、いわば地理学的な風景、岬、デルタ、河の合流点、そして特に河と海が出会う河口が大好きだった。海岸のすべての村に灯りがついていた。ぼくは腕時計を見た。まだ十一時だった。
ぼくはまた横になった。蚊帳のなかは窓辺より暑かった。ぼくと一緒に、一匹の蚊が入りこんでいた。蚊がいるなんて話は聞いてなかった。植民地以来、ぼくは蚊帳のなかでは眠れなかった。蚊がいっぱいいるにちがいない。河。河岸は蚊が多いだろう。それでも平気だ。ジャクリーヌはぼくに背を向けて熟睡している。眠っている彼女は、とても小さく、起きているときよりずっと小さく見えた。彼女の寝息が規則的にぼくの腕を愛撫した。ぼくは目を閉じて、もう一度眠ろうとした。蚊が目を覚まさせた。たとえ一匹の蚊でも、ぼくは絶対に眠れなかった。しかしジャクリーヌの目を覚まさせないで蚊を殺すためには、灯りをつけるわけにもいかなかった。真夜中に彼女と二人きりで同じベッドで目を覚ましていると考えただけで、その夜のぼくは恥ずかしさと、たぶん恐怖とで逃げ出しただろう。二年間、彼女とつづけていた関係が、いまのぼくには恐怖を感じさせた。
ぼくが寝つかれないのは、明らかに彼女か、蚊か、ダンスパーティーのせいだったので、そのどれなのか選ぶべきだった。ぼくはダンスパーティーを選んだ。そのように暗い部屋でただひとり目覚めて、遠くから耳を澄ませていると、それが盛大なパーティーで、女たちがいっぱいいて、みんな大いにたのしんでいると考えがちである。ぼくはやがて蚊もジャクリーヌの寝息も気にしなくなり、聞えるのはスピーカーとパーティーの音ばかりだった。ぼくは身動きひとつしないで、眠ろうとつとめた。スピーカーの音など聞かないで、どうでもいいことしか考えまいと、あの男のこと、とりわけ彼のことや、河のことは考えまいとした。一時間近くも、ぼくはその努力をした。そのように何も考えまいと、どうでもいいこと、たとえば今日は何日かを思い出そうとしていたとき、地獄がはじまったのだ。ふつうはこの美しい牧場には羊が何匹いるかと数えたりするものだが、時にはきりがなくなることがある。それにぼくは数の計算は昔から得意だったのだ。調子にのったぼくは、羊ではないことを数えはじめた。休暇の終りまで何日残っているか、ジャクリーヌの出発する日までは? お金はあといくら残っているか? そのお金であと何ヶ月、何週間、何日生活できるのか? 正確なところ、ぼくはジャクリーヌと何年間一緒に暮したのか? そして役所には? あの便所の匂いのする役所で? 八年と三ヶ月と六日。ジャクリーヌとは、二年と三ヶ月と二日。サンバが演奏されていた、ぼくが起きたときと同じ曲だ。退職金の権利を得るにはあと何年残っているのか? 十二年。ぼくの額には汗がにじみ出た。いま権利がある比例退職金の金額はいくらなのか? よくわからない、たぶん普通の退職金の半分以下だろう。それを要求すべきか、それとも捨てるべきか? ぼくの年齢で、そんな心配をする必要があるのか? ぼくはいくつなのか? ぼくは突然に、三日前フィレンツェで、土用の真夜中、三十二歳であったことを発見した。誕生日まであとわずかなのだ。ある数字が火の文字となって襲いかかり、ぼくをたたきのめした。サンバがもう一度演奏された。やめよう、とぼくは決心した、勤務年月に比例した退職金を請求しないでおこう。植民地省に何かを請求することを軽蔑することで、僕の誕生日を祝おう。音楽が止った。拍手の音が聞えた。やがえ音楽がまたはじまった。ぼくにとってもまたはじまりだった。ぼくはまたしても地獄のごとき計算のとりことなった。ぼくの理性は解きえない運算の鳥もちにかかってしまった。人間の平均寿命を考えた場合、その寿命の十年間の比例退職金を放棄できるものなのか? 別の言葉を使えば、八年間を無駄に働く、というより生きることが許されるだろうか? とりわけ三十二歳にもなって? ぼくは汗びっしょりだったが、そうすべきか否か決めかねていた。それに誰がこの種の計算からぼくを救い出せたであろうか? ぼくが戸籍係で過した八年間をつぐなってくれるどんな数字、どんな退職金があるというのだ? もちろん、そんなものはない。むしろそれこそほんのちょっぴりもとを取ろうとはしないための、ひとつの理由ではないか? アペリチーフ代や煙草銭を失うための?
それは長いあいだ、ほとんど不眠のあいだつづいた。やがてぼくは解決法を見つけた――ぼくはジャクリーヌを起さないようにそっと起き、暗闇のなかで着物を着て、下へ降りていった。涼しかった。旅館の前で河はオリーブ畠すれすれに拡がっていた。対岸にダンスパーティーの明るい場所が望見された。平原の彼方のそこかしこに、同じように明るい場所が見えた。いたるところでダンスをしているのだ。夏の海岸では、みんな夜ふかしをする。もっともな話だ。ぼくは河岸に立ったまま、ダンスパーティーを眺めた。例の計算は頭から消え失せて、ぼくはダンス以外のほかのことは考えられなかった。それは火のごとく輝いていた。音楽や光のなかでひとりぼっちでいるときには、同じようにひとりぼっちの誰かに会いたくなるものだ。それを我慢するのはとても困難だ。ぼくは勃起してることに気づいた。自分でもびっくりした。いや、ぼくは特に女が欲しかったわけではない。そのダンス音楽のせいなのか? 誕生日の反動なのか? 比例退職金の仕返しか? しかしぼくはもはや誕生日のことも比例退職金のことも頭にはなかった。それにこれまでの誕生日がそんな効果を及ぼしたことなぞ一度もなかったし、それに比例退職金ときたら、きっと正反対の効果を生んだだろう。それでは? この誰かに会いたいという欲求のせいか? 誰かに話しかけたいという? 誰にも会えないので絶望してるせいか? ぼくはその分析を中止した。そんなことはどちらでもよかった。ぼくはダンスパーティーを見つめながら、十五分ばかり歩きまわったのだろう。それから、今夜もやはり我慢しなくてはならないと思いはじめたとき、だしぬけにエオロ老人と出会ったのだ。
「今晩は、だんな」と彼はいった。
彼は煙草をふかしながら河岸を歩いていた。ぼくは彼に会って嬉しかった。これまでぼくは老人が嫌いで、彼らの話にはいつもいらだたせられたものだが、その夜は百歳の老人とでも、いや、狂人とでも話したい気分だった。
「暑いですな」と彼はいった。「蚊帳に入ってると暑いでしょう?」
「そですよ」とぼくはいった。「こんなに暑くては眠れませんね」
「蚊帳があるから暑いんですよ。わしは蚊帳なしでねますよ、わしの皮膚はしなびてるから、蚊も欲しがりませんわ」
河面に映る微光で彼の顔がはっきり見えた。ごく細かいしわの束みたいだ。笑うと頬がふくらみ、目は輝き、少し意地悪な老少年といったところだ。
「あの山のふもとへ、DDTをまくって話だよ。三年前から、来る来るっていっとるんだがね」
彼が何を話してもかまわなかった。ぼくは彼の話をとても重大なことみたいに、傾聴していたにちがいない。やはり彼はいささかびっくりしたように見えた。
「蚊のせいばかりじゃありませんよ」とぼくはいった。「音楽のせいで眠れないんです」
「なるほど。一日で慣れるのはむずかしいが、明日になればもう慣れてますよ」
「そうでしょうな」
「それに、やっぱりダンスパーティーをやめさせるわけにはいかんじゃろう?」
「おお、もちろん、それはできませんよ」
「だけどね、蚊よりも音楽には早く慣れるもんじゃよ」
「でしょうね」
「蚊に関するかぎり」とぼくはつづけた。「植民地にくらべたらここは問題になりませんよ」
「あんたは植民地帰りかね?」
「そこで生れて育ったんですよ」
「わしの家内の弟はチュニジアにいたよ、チュニスで食料品屋をやってたんだ」
しばらく植民地の話をした。それからまた蚊のことにもどった。その問題が彼の心をとらえ、彼はいささか参っていた。
「蚊が一匹いても」とぼくがいった。「ひと晩だめにされますからね」
「サルザナの連中はそんなこと知らないと思うだろうが、ちゃんと承知してますよ。ただサルザナには蚊がいないんで、連中は忘れてるんですわ」
「だけど簡単なことだがなあ。DDTをさっとふりかければ、それで終りですよ」
「サルザナの役場はもたもたしとるんだ」
「来るときに通ってきましたけど、美しい小さな町ですね」
「美しいかどうか知らんけど」と彼はいらだって答えた。「あの連中はサルザナのことしか考えとらんのだ」
「ぼくはやっぱり美しい町だと思いますよ」
彼はきっとなった。
「あれが美しいとおっしゃるんかね? 妙な話だ、ふつうはそう思われんのだがね。あそこのいい点は、補給がうまくつくところさ。毎週マグラ川を船で行くんだがね」
航行とは、これまた大問題だった。ぼくがうまく話をもっていけば、あとしばらく老人を引き止めることができるだろう。
「マグラ川の航行はさかんですか?」とぼくは切り出した。
「かなり多いよ」と彼はいった。「平野の桃はみんなここを通るからね、船の方が汽車や電車よりいたみが少ないんだよ」
「で、その桃はどこへ行くんですか?」
彼は指で光り輝く海岸の遠い一点を示した。
「あそこじゃよ。ヴィアレッジオさ。それから次に――彼はまた別の海岸の一点を指さした――スぺチアさ。上等品は河で運び、ジャムにするようなのは電車だよ」
話題は桃や果物へ移った。
「この地方の果物はとてもいいって話ですがね」とぼくはいった。
「とてもいいよ。だけどピエモンテの桃のほうがもっといいね。ここでいちばんいいのは、大理石さ、もちろん」
「さっき話した若い男もそういってましたよ。彼のおやじはここに住んでるそうですね」
「マリナ・ディ・カラーレさ」と彼はいった。「海岸を三キロほど行けば、マリナ・ディ・カラーレへ着くよ、そこさ。大理石の船積港でな、船がわんさと出入りするよ」
「彼の従兄がここに住んでるそうですね、海底の釣りをやってるとか」
「彼の従兄はここに住んどるよ、だけど向う側なんだ、海じゃなくて河のね。果実商人じゃよ。だがあの村はあまり美しくないね、マリナ・ディ・カラーレはとても美しいけどね」
「彼は土曜日に来るはずです、そうしたら一緒に水中の釣りをするのです」
「わしにはわからんね、今年はみんなが水中の釣りをやっとるようだが」
「やってみないことには想像がつきませんよ」とぼくはいった。「とてもきれいですよ、すごい色彩なんです。魚がお腹の下を通るし、とても静かなんです、想像できないでしょうね」
「じゃあんたも、それをするんかね?」
「まだやったことはないけど、土曜日に彼と一緒にやるのです、だけどわかってるんですよ」
もう話し合うべきことはたいしてなかった。彼はまた大理石のことを語った。
「行けばわかるけど、マリナ・ディ・カラーレでは、大理石がみんな港に積まれて、船出を待っているんじゃよ」
「彼は大理石の話はしてくれませんでしたよ」とぼくは気のない返事をした。「カラーレの大理石は高価でしょうね?」
「運賃が高いんだよ、重いし、こわれやすいからね。だけどここでは、むろん高くないよ。この平野ではみんなが大理石のなかに埋まってるんじゃ、貧乏人でもね」――彼は微笑した、ぼくも微笑した。二人とも同じことを考えていたのだ――「ここでは台所の流しだって大理石でできてるからね」
次にぼくは、世界中に輸出される大理石の話から、彼に旅行のことを話させた。彼はまだローマへ行ったことがなくミラノへしか行ってないが、その折にピエンモンテの桃を見たのだ。しかし彼の妻はローマを知っていた。一度そこへ行ったことがある。
「ムッソリーニに結婚指輪を捧げに行ったのさ、イタリアのすべての女がしたようにな。いまから考えると、手もとへ置いておいたほうがよかったよ」
彼はフランス人を愛していた。一九一七年に知り合ったのだ。彼はフランス人がイタリア人を軽蔑していると信じていた。
「戦争中の人たちのことなんか信じられませんよ」とぼくはいった。「しかしフランス人にも一理はありますよ」
「それにしても、彼らは同じラテン系の妹を、爆撃させたんだからね。そのことは忘れることができまい?」
明らかにその追憶がまだ彼を苦しめていた。ぼくは話題を変えた。ところで、彼はこんな夜おそく歩きまわって何をしているのか?
「ダンスパーティーで眠れんのだよ。そこでダンスの夜わしは散歩するんだ。それにいちばん下の娘のカルラの見張りもしてるよ。わしらが年とってからできた娘で、いま十六なんだ。わしがねたら、娘はパーティーへとんで行くからな」
彼はカルラをとても愛しているにちがいない。微笑しながら彼女のことを話した。
「まだ十六なんだ。もう少し見張ってないと、何をしでかすやらわからんからな」
「それでも、たまには行かせたほうがいいですよ。ダンスパーティーにも行かせないで、どうやって結婚させるつもりですか?」
「そのためなら、昼間だってたっぷり会えるんだ。彼女は一日に五回ですむところを十回も井戸へ出かける、その必要があるんだと思って、わしは黙認してるんだ。それにな、わしのほかの娘たちは、もう三年もパーティーに出かけてるけど、いっこうに役に立たんね、まだ結婚してないからね」
彼は娘たちを、特に上の娘を結婚させることができるかどうか心配していた。ところがまったく予想しないことに、彼が娘たちの話をはじめると、ぼくはまた勃起しだしたのだ。かすかな不安が心をよぎった。自分が何を望んでいるかいつかはっきりとわかるだろうか? ぼくに何が必要かを?
「ときどき候補者が現われるんだけど、みんな貧乏で、結婚を怖れているんだよ。イタリアでは稼ぎがわるいからね」
「それに」と彼は付け加えた。「みんなカルラを欲しがるんだ、ほかの娘じゃなくてな」
ぼくは前より熱心に耳を傾けないで、ダンスパーティーを眺めていた。いずれにせよ、ぼくがすべきことは、そこへ行くことだろう。
「それというのも」とエオロはつづけた。「彼女は結婚のことなんか考えないで、ただダンスをしたがるからだ。ところがほかの娘たちはそうじゃない、結婚のことを考えてるのだ。そういうことは男たちにはいつもぴんとくるものだよ」
「いつだってね、そうですよ」
「男たちばかりじゃないんだ、みんながカルラを好んだよ」
彼は例のアメリカ女のことを話した。彼女もほかの娘よりカルラを好むのだ。
「そのアメリカ女のことはもう聞きましたよ、トラックの運転手からね。あなたも彼女と知り合いですか?」
もちろん彼も知り合いだった。彼女は旅館で食事をしているのだ。彼女は、彼の妻のつくる料理が好きなのだ。明日、ぼくは旅館で彼女に会うだろう。彼はその女が美人かどうか話さなかったが、たぶんそれは彼にはそんなことはまるきり興味がなかったからだろうし、それに視力がおとろえていて判定ができなかったからだろう。それでも彼女がとてもやさしい女だとは話した。それからまた、大金持だとも。そして独身だと。彼女はここへ休みに来ている。海岸に横づけにされたヨットは彼女の持ち物だ、と彼はいった。知っている、もう見たから。美しいヨットで、乗組員は七人もいる。彼女は遊びで航海してるのではない。噂によると、彼女は誰かを、昔知り合いだったある男を探しているとのことだ。妙な男で、妙な話だ。だが、噂によると……とにかく確実なのは、彼女がとてもやさしい女だということである。
「カルラとよく似て飾り気がない女ですよ。二人はよく気が合うのです。時には一緒に井戸まで行きますよ」
時どき彼女はヨットの水夫たちと夕食をする。水夫たちは彼女に親しげな口調で話し、彼女は水夫たちを名前で呼ぶ。
「それで彼女は独身なんですか? ほんとに、男と一緒では? 老人だとの噂ですが?」
「ある男を探しているから、ほかの男は持たんのだろうね?」
「ぼくのいう意味は、彼女がその男をずっと探してばかりいるかと……」
問題が問題だけに彼はいささか狼狽してるようだった。
「つまり、彼女に男がいないという意味は、いつもきまった男がいないってことさ。しかしわしの家内の話だと、女がどういうものかご存知だろうが、彼女には男がいないわけがない、時どき男がいるはずだというのだけどね」
「女のほうがそういうことはよく知ってますよ」
「家内の話では、そんなことはすぐにわかるそうだ、あの女は男なしではいられないってね。別に悪意があっていうんじゃなくて、反対に家内はあのアメリカ女が大好きなんだ。たとえ彼女が貧乏だって同じことさ」
「そういうことは一般にすぐわかりますよ。要するに、手のかからない女ですね」
「そうもいえるね」と彼は目をそむけるよういった。「たしかに手のかからぬ女とはいえるだろうな。家内の話では、海では水夫たちで間に合っとるらしいからな」
「なるほど」とぼくはいった。「妙な話ですね」
もう何も話すことがなかった。彼はぼくにダンスパーティーへ行くようにすすめた。よかったら彼の小船で運んでやろうといった。ぼくは承知した。彼はまた河のことを話した。次に対岸へ着く少し前になって、また娘たちのことを口にした。あんたもこれからわしの娘たちに会うんだよ、と彼は親身な忠告と思える微笑をこめていった。要するに、と彼は付け加えた。娘たちがパーティーで夫を見つけられなくても、彼女たちは楽しんでるんだから、それだけはもうけものだ、人生はそう楽しくないから。それから――彼は元気をなくした――理由がよくわからない、なぜ彼の娘たちはほかの娘のように夫を見つけられないのだろう? このダンスパーティーは誰が主催しているのか? とぼくはたずねた。サルザナの役場だ、それはあのろくでもない役場のやる唯一の立派な事業だ。スペチアの労働者たちがやってくるから、一般にこの地方の娘たちは彼らと結婚するのだ。彼はぼくを対岸でおろしてくれた。ぼくは煙草を一本さし出した。彼はまたカルラの見張りに出かけた。
ダンスパーティーは河の畔りの、柱の上の板敷きの上で催されていた。それは葦の柵で取り巻かれ、その柵には提灯がいくつもぶら下っていた。会場の外の、入口に面した狭い土手の上で踊っている人たちもあった。ぼくはためらったが、外には椅子がなかったので、会場へ上っていった。彼の姿が見られるかもしれないと思って、ぼくは一同の顔をひとわたり見まわした。彼が今週はいつもより早めにピサから来てるかもわからないからだ。しかしだめだった。彼は着いていなかった。彼に似た顔は一つも見あたらない。またしても疲労がぼくを襲った。ぼくはレモネードのグラスが四つ置いてあるテーブルに坐って、ダンスが終ったら一人の娘に接近しようと思った。娘たちは大勢いたが、ぼくみたいな相手のいない男たちが二十人あまりもいた。早く話し相手を見つけねばならない。サンバらしい曲が終ったが、すぐに次の曲へ移ってしまった。誰も腰を下さない。今度の曲が終ったら、誰か娘に接近しようとぼくは心に誓った。ぜひそうしなくては。まさしく一人の娘を。なるほど対岸の旅館の一室にひとりぼっちの娘が一人いるわけだが、その娘ではもう役には立たなかった。彼女とていましがたぼくが接近しようとした娘とたいして変ってもいないが、不思議にことに彼女ではもう役に立たないのだった。彼女はヴィシーで採用され、ぼくと知り合いになった。ぼくは三日間、彼女をひそかに観察した。それからぼくは、当時よく考えていたひとつの考えに到達した。ぼくはこう考えたのだ――六年前からぼくはこの淫売屋から脱出したがっているのに、ひとりで脱け出す勇気がない、だからあの女書記を強姦してみよう、きっと彼女は泣き叫ぶから、人にそれを聞かれて、ぼくはクビになるだろう。ある土曜の午後、ぼくと彼女の二人だけが残業していたので、ぼくはそれをやってみた。ところがへまをしでかしてしまった。彼女はひどく男に飢えてたにちがいない。そこでそれは土曜の午後の習慣になってしまい、そうして二年が経過した。ぼくはもう彼女に少しも欲望を感じなかった。彼女がぼくの気に入るようにしむけることができなくなった。もっともぼくだって、他人と同様に誰でも愛せる自信はあった。しかしぼくには、彼女を普通の人にしたてて、自分の方でも愛するようにはできなかった。たぶんこの不公平さを彼女に承知させるべきなのだろう。明日、彼女を苦しめてやろう。彼女は泣くだろう。そんなことは太陽が昇るのと同様にはっきりと予測できる。彼女の涙は新しい魅力で彼女を飾るだろう、それはたぶん彼女がぼくに示す唯一の魅力なのだ。そんなものにひっかかってはならない。ダンスをしている女たちは、すでに新しい力で彼女のことを思い出させていた。彼女はいま部屋でひとりでいる、眠っているか、目を覚ましてぼくがどこへ行ったかと考えているのか知らないけど。ぼくは彼女に勝手にロッカへ来させた、ところが四日前から、ぼくの決心についてはまだ何も話していない。自分の決心に自信がないからなのか? いや、そんなことはないと思う。明日、彼女は泣くだろう、そして必ずや、ぼくは何らかの形で彼女に話すだろう。彼女はきっぱり拒否して、涙を浮べながら帰り、ぼくはここに殘ることになる。最後の瞬間まで、二人の結びつきは幻影なのだ。急にぼくの心に、彼女をダンスへ連れてこなかったことを悔む、いささか気違いじみた気持が起った。ダンスをしてからだったら、もしかしたら、もっとよく話し合い、理解し合えるかもしれない。ぼくは彼女をしっかり抱きしめて、こういうだろう、≪ぼくはロッカへ残るよ、どうしようもないんだ。この別離は必要なんだ、きみだってよくわかるだろう。ぼくたちは性が合わないんだ、世界の豊かさの真中で飢え死にしそうなんだよ。なぜぼくらはこんなひどい目に会うんだろう? 泣くんじゃない。ほら、きみをしっかり抱きしめてるじゃないか。ぼくはきみを愛せるようになるかもしれない。いま別れる事がその奇蹟を生み出すのだ。それがどんなに必要なのかわかってくれよ。そうすればぼくらはやっとお互に理解し合えるようになるのだ――人間はいつだってどんな人でも理解できるものだよ≫
ぼくは心のなかであまり熱心にこの美しい演説をぶったので、もはやダンスパーティーの娘たちは目に入らなかった。しかし一方でぼくは、彼女を前にして、愚かしい涙で盲目になった彼女の目を前にして、こんな言葉は口にできないことをよく知っていた。要するにそれはぼくにはわかりきったことなのだ、そして人生の度しがたい不正、つまり死を前にしていろいろなことを想像するように、それらはぼくの心に浮んだのである。
サンバは終った。
四人の若い娘が、ぼくのいるテーブルへ坐りに来た。ぼくはそのなかで、こちらを見ている一人をすばやく選んだ。ダンスがまたはじまった。今度はブルースで、下手くそな演奏だった。ぼくはダンスを申し込んだ。やはりぼくはひとつの質問をしないわけにはいかなかった。
「あなたは河向うで、宿屋をやってるエオロの娘さんじゃありませんか?」
彼女はそうではなかった。
「あなたにお会いできてうれしいですよ、ぼくはひとりぼっちでしたからね」彼女は得意そうだった。ぼくはその席で唯一人のフランス人だったのだ。
「あなたがいらしたとき、あたしはすぐに誰かお相手の女の子を探してらっしゃると思ったわ」
ぼくは別に反対しなかった。
「ぼくはひとりなんだよ。今日ここへ来たんだけど」
「知ってるわ。イタリアでひとりぼっちなの?」
「うん」とぼくはいった。
河向うに、これまたひとりぼっちで部屋にいる彼女、その彼女がいない場合よりももっとひとりぼっちなのだ。彼女よりもひとりぼっちだ。たぶんぼくが彼女を愛している場合よりもひとりぼっちなのだ。相手が誰であろうと別離は決して自然のものではない。ぼくは彼女と共に恐怖と混乱の日々を生きたのだ。彼女の後がまを決して見つけられないことをぼくは知っていた。そしてまた、どんなことが起ろうと、ぼくらの悲しい実体のない関係、ぼくらの失錯も、要するに今後は真実のものになることを。
「あたしは」と娘がいった。「嫌いだわ、ひとりぼっちなんて」
「実をいうとぼくは世間並みにはひとりじゃないんだよ。ある女と一緒にいて、彼女はいま部屋でねてるんだ。ぼくたちは別れるところなんだよ」
ダンスは終った。ぼくたちはバーの近くに、隣り合って坐った。娘は真剣になった。
「別れるってつらいことね」
彼女はぼくに質問したくてうずうずしていたが、おとなしくぼくの話を待っていた。きっとこういう話に夢中になる娘なのだろう。
「彼女はやさしいし」とぼくは打ちあけた。「それに美人なんだ。彼女には別にとりたてて欠点は見つからない。ぼくらはお互に性が合わない、それだけなんだ。ありふれた話なのさ」
あの男がピサへもどったら、ぼくはロッカのエオロの旅館に滞在しよう。サルザナへ電車が通るのを見に行こう。まず手はじめに、最初の数日はそんなことでもするのだ。その先のことは何も考えたくなかった。いま夏のまっ盛りだから、帰るわけにはいかない。夏が終ったらフランスへ帰らねばならないだろう。その前はいやだ。いまのぼくには、現在いる場所にぼくを釘づけにして、疑いの気持を溶解してしまう酷暑が必要なのだ。たとえば、比例退職金のことで植民地省へ手紙を書くべきか否かを疑う気持を。それは書きにくい手紙だが、ここにいれば、太陽と夏と河とがぼくにそれを書く気力を失わせるだろう。二日後には、ぼくたちは水中の釣りをするのだ。二日間。それからぼくは、次週の土曜まで彼を待つだろう。ロッカではエオロ老人と知り合いがいる場所に残るべきだ。ぼくはもうひとりではいられない、もうそんなつらいことには耐えられない、さもないと何が起るかわからない。ぼくは自分をよく知っている、ぼくは弱い男で、どんなひどいことをしでかすかわからないのだ。
「あなたあんまりお話しないのね」と若い娘がいった。
「もちろんさ、例の話でいささかうんざりしてるんだよ」
「わかるわ。彼女はあなたと別れることを知ってるの?」
「一度だけ話したけど、きっと彼女は信じてないだろうね」
ロッカで、夏の力を借りれば、なんとかなるだろう。ぼくはペストみたいに自分を信じていなかった。こんなことをすれば、何年ものあいだ、ぼくが度しがたい浮気男だという評判が立つだろう。
「いつだってそうなのよ」と娘がいった。「みんな信じたくないんだわ。きっとあなたはそうする勇気もないのに、何度も別れるって話したのでしょう」
ぼくは彼女にそのことを話すのが自然だと思っていた。ぼくがどんなにつらい立場にいるか誰だってわかってくれるだろう。それにぼくは、誰にも、たとえ女性にだって、ぼくの事件以外には何も話すことがなかった。
「そうじゃないよ、ぼくは二年前から、彼女と知り合ってからずっと考えてたんだが、話したのははじめてなんだ」
「そうだったら、彼女は信じたはずよ」
「彼女は信じてないんだよ」
娘は考えこんだ。彼女にとって人生でもっとも深刻なのは、恋愛の問題なのだ。
「じゃ、彼女はどう思ってるのかしら?」
「彼女はそれをただの言葉の綾だと信じているんだよ」
娘はまた考えこんだ。
「彼女はあなたをよく知っているのよ」娘はいった。「やっぱりあなたにはできないと思ってるはずよ」
「何を?」
「もちろん、彼女と別れることよ」
「そりゃ、最後の瞬間までわからんだろうが、ぼくはやってみるつもりだよ」
娘はぼくをじっと見つめながら、また長いあいだ沈黙していた。
「妙な話ね」とようやく娘はいった。「あなたは口ほど信じてもいないのに、あたしの方はきっとあなたがそうすると思っているわ」
「ぼくもそう信じてるよ、理由はよくわからないけど、信じてるんだ。だけどぼくはこれまでこうした真面目な決心をしたことが一度もないんだよ、決してうまくいかないんだ」
「まずね」と彼女は考えをたどりながらいった。「人間って何かやろうと決心したって決して自信が持てないものよ。それからね、あなたはとっても落着いてるから、きっとそれをやりとげると思うわ」
「ぼくもそう思うんだ。要するに、とても簡単なことさ。まずはじめに、彼女が荷物をまとめる、それをぼくが眺めてる、次に彼女は汽車に乗る、それをぼくが眺める。ぼくが望むことには、別に小指一本動かす必要さえない。ぼくはしょっちゅう、じっとしてろ、じっとしてろ、と自分にいいきかせてればいいんだからね。それだけさ」
彼女はすべてを見た。彼女は部屋のなかのぼくを、トランクを、汽車を見た。最後に、娘はいった。
「彼女が荷物をまとめてるあいだ、あなたは部屋にはいられないわよ、そんなことできっこないわ、彼女がそうしてるあいだは、外に出るべきよ」
「なるほど」とぼくはいった。「トランクなんか、やりきれないだろうね。それに怒ってるときには、荷物をまとめるのは早くすむものだからね」
「そうよ、それに時には、出て行くためじゃなく、相手を怖がらせるためにそうするときだってあるのよ。女ってどんな人でも一生に一度はなんでもないのに荷物をまとめたりするわ。相手に引きとめられたくてそうするのよ」
「彼女は勇気のある女なんだ、彼女はきっぱりとそうすると思うね」
「彼女がどんな性質の人だか」と娘はしばらく沈黙した後でいった。「あたしわかるわ」
「ぼくは部屋にいられないだろうね、きみのいう通りだよ。マグラ川へ泳ぎに行って、水に浮んでようかと思ってたんだよ――必要ならば三日間でもね、つまりたとえば彼女が三日間一人では発ちたくないと思ったらね」
娘は微笑した。
「ぜったいあなたは彼女と別れるべきだわ」
きっと娘はもっと話してもらいたかったのだろうが、突然にぼくがこれ以上は口を割らないことに気づいたのだ。
「踊らない?」と彼女はいった。
娘は立ち上り、ぼくもそれに従った。彼女はうまく踊った。しばらく口をきかないでダンスをつづけた。やがて彼女の方がまたはじめた。
「妙なことだけど、あたしこういう話になると、いつも女性よりも男性の味方をするのよ、なぜだか知らないけどさ。きっと女性ってみんな手もとに置いときたいからね、いい男性でも悪い男性でも。女って変化が嫌いなのよ」
「ぼくは彼女をつらい目にあわせているんだよ、まったく思いやりがないんだね」
「きっと彼女は真面目なのよ、あなたを欺したりできないのね。真面目な女性って、最低なのよ。女らしさがなくなるのね」
娘は喉が乾いたから、少し飲みたいといった。そこでダンスをやめた。バーで注文したキアンチは生ぬるかったが、彼女は気がついていないようだった。酒好きなのだ。
ぼくははじめて娘の顔を見つめた。目鼻立ちがいくらか間のびした平凡な顔つきで、頑健な肉体と見事な乳房の持主だった。二十五歳前後だろう。キアンチを飲むとまたダンスをはじめた。
「あなたの話もしてくれない?」とぼくは求めた。
「あたしはサルザナで売り子をしてるの。今夜ここへ踊りにきたのよ。水夫と結婚してるんだけど、もうだいぶ前から縁が切れてるの、だけどイタリアでは離婚できないのよ。スイスまで行かなくちゃならないから、とってもお金がかかるわ。そのために三年間も貯金したけど、もうあきらめたわ。この分だと、十五年もかかるんだもの。あたしは人生をありのまま受け入れているの」
ぼくらのテーブルは占領されていた。そこでみんなと一緒にスピーカーのそばに立っていた。流行のサンバがはじまった。それは今年、北イタリアで大流行の曲で、みんなが歌っていた。その娘はぼくの気に入った。ぼくは彼女に名前をたずねた。
「カンディーダ」と彼女は、まるでそれがぼくひとりのための名前みたいにいって、笑い出した。
「きみには恋人がたくさんいるんだろう?」
「かなりいるわよ。あたし死ぬまで売り子をして、あの水夫と結婚してるわ。だけど……残念なのは、子供のことだけよ」
「気にいった男がいたら、手放さないかい?」
「どんなことがあっても手放さないわ」
「泣いたりせがんだりするかい?」
「泣いたりせがんだりするわよ」と彼女は笑いながらいった。「だけどもしかすると相手の方がそうするかもしれないわよ」
「ぜったいにそうだね」
あと一時間あまりお喋りしながら踊り、それからダンスの途中で、ぼくは彼女を外へ連れ出した。
彼女と別れたとき、月は沈んでいて、真暗だった。彼女は河の土手で半ば眠っていた。
「あたしは夜ふかしして、朝早く起き、一日中働くのよ。そうすると、よくねむれるわ」
「ぼくは帰るよ。そんなとこで眠っちゃいけないよ」
彼女はあちらに自転車があるから、それで帰ると答えた。ぼくは再会を約した。彼女は承知して、サルザナの住所を教えてくれた。
ぼくは渡舟で帰った。エオロはまだ散歩していた。彼はまたお喋りしたがったが、ぼくはねむかった。ぼくは彼に自分ひとり用の部屋を求めた。彼はたいして驚かなかった。途中でぼくはジャクリーヌの部屋の前を通った――ドアの下からはまったく光がもれていなかった。彼女はずっと眠っていたのだ。
翌日、ぼくはおそく目を覚ました。ジャクリーヌは下の園亭でぼくを待っていた。いったいどうしたの? 彼女はエオロからぼくが夜中に部屋を変えたことを聞いていた。ぼくは短い説明を与えた。一部屋に二人でねてると、暑さで息苦しくなって眠れなかったのだ。彼女はその説明で満足したようだった。ぼくたちは一緒に朝食をとった。彼女は洋服を変え、上機嫌らしかった。やっぱり、ここへ来たのはそう悪い考えではない、いい休息になるだろう。ぼくは別に皮肉をいわなかった。これからマグラ川へ泳ぎに行く、とぼくは告げた。海がそこにあるのに、つまらないじゃない、と彼女はいった。ぼくは彼女を誘わなかった。彼女は海岸へ出かけ、マグラ川で泳いだらそちらへ来るように約束させた。ぼくはその約束をした。
フィレンツェと同じくらい暑かった。しかしここでは、それほど苦にならなかった。ぼくは長時間泳いだ。エオロが小舟を貸してくれたので、ぼくはときどき水から出て、舟のなかで日光浴をして休んだ。それからまた水に潜ったり漕ぎまわった。しかし流れが急なので、舟を漕ぐのはきつかった。それでもたいして河口へ流されないで対岸へ渡ることができた。完全にさびれたダンスーパーティーの跡、そしてその少し先に、カンディーダと過した場所が見つかった。河に面した家はごくわずかで、たいていは柵に囲まれた果樹園だった。その前には小さな船台が作られて、農夫が果実を運ぶはしけがつないであった。正午近くになると船の往来もはげしくなった。荷物を積んだはしけの大部分は海へ向った。日光を防ぐため積荷には覆いがかけてあった。マグラ川は彼の話した通りにすばらしかった。水は澄んで生暖かく、なかで居眠りできるほどだった。しかしピサのビルの上で、地獄の太陽にさらされて一週間を過した後なら、きっとぼくよりももっと楽しめただろう。ぼくには悪い過去、嘘、誤り以外に何もいやすものがなかった。少しでも長く水から出ていると、ふたたびぼくの心はかげり、未来に疑いを抱きはじめた。それに反して水の中では、ぼくは未来を忘れ、物事はずっと容易に見え、未来は肯定的で、幸福そうに思えた。ダンスパーティーへ出かけてよかったのだ。今後もつづけるべきだ。彼以上のほかの仲間、ほかの娘たちと知り合おう。カンディーダの新鮮さはぼくを圧倒した。彼女自身もそれに驚いて、ぼくにいった――あなたは彼女と別れるべきよ、彼女を発たせるべきよ。ぜひともそうすべきなのだ。ぼくはあきることなく、これまでみたいな生き方はできたら、そうすべきでないと繰り返し口にしなくてはならない。イタリアではほかの国よりもはるかに容易に、こちらに話しかけ、一緒に時間を過したりつぶしたりしてくれる人たちが見つけられるのだ。ぼくはこうした信条を心で繰り返しながら泳ぎまわり、当然の帰結として、もし人生を変えることができなかったら、自殺しようと心に誓った。別にむずかしいことではなかった。ぼくは二つのイメージから選べばよかった――汽車に乗る自分の姿と、死んでいる自分の姿との。ぼくは死んでいる自分を選んだ。汽車に乗りこむ自分の目は、死者の閉された目よりもはるかに恐ろしいものに思えた。その決心がつくと、河は眠りやぶどう酒、彼との友情みたいに、世にも甘美なものとなった。
海岸のジャクリーヌに会いに行く時間となった。あのアメリカ女のことを急に思い出さなかったら、ぼくはまたしても約束を破っていただろう。ぼくはその女に会いたかった。それは軽い気持で、十日前なら我慢するところだが、いまではもう我慢できなかった。もちろんそのアメリカ女と知り合いになるのが問題ではなく、ただ会いさえすればよかった。彼女の美貌についてさんざん噂を聞かされたから会いたくなったのではなく、彼女がどんな生活をしてるのかほとんど耳にしなかったからだ。それに、ぼくはもともと船が大好きだった。だから、たとえ彼女に会えなくても、ヨットは見られるだろう。この時刻には、みんなが海岸へ来ているにちがいない。またしてもぼくはジョクリーヌに話しかけねばならないことを忘れたいと思った。
ぼくはエオロに小舟を返し、海浜へ向った。
彼女がそこにいないことにぼくはすぐ気づいた。エオロを除いてみんなが彼女はとっても美人だと話していたので、海浜にそのアメリカ女と思われる女性がいないことは容易に知られた。何人かの海水浴客たちがいたが、大部分はホテルのお客で、今朝の朝食のときに顔を見た連中だった。しかし例のヨットは、みんなが泳いでいる場所の真正面に河口から二百メートルほど離れて碇泊していた。ぼくの姿を見つけると、ジャクリーヌがとんできた。
「どう? よく泳げた?」
「うん」
彼女はぼくに微笑し、今朝話したことをまたそのまま繰り返して語った。昨夜ホテル中ぼくを探したこと、エオロが夜中にぼくに部屋を頼まれたと話したこと(彼はぼくがダンスへ行ったとはいわなかった)、彼女はぼくを起す勇気がなかったこと、等々……この三日来これほど彼女が喋ったことはなかった。海水浴のせいだ、とぼくは考えた。彼女をロッカへ連れてきたことが悔まれた。部屋のことでは、今朝話さなかったこと、つまりぼくは誕生日のせいで眠れなかった、人間はよく誕生日の夜はひとりになりたくなるものだと話した。≪悪かったわねえ!≫と彼女は叫んだ。≪あたしあなたの誕生日のことなんかすっかり忘れてたわ≫海水浴のせいなのだ。今日にでも彼女に話すべきだ。彼女はたしか、前年にボールで着てるのを見たスタイルも色合も少し古びた空色の海水着をつけていた。その上機嫌にもかかわらず、彼女はやせて疲れているように見えた。
「泳ぎましょうよ」と彼女はいった。
ぼくはそこまでカンカン照りの道を歩いてきたのだが、マグラ川で長時間泳いだので、体が冷えきって海浜の太陽も平気だった。いや、いますぐは泳ぎたくない。彼女はぼくが来たとき抜け出したボール遊びの仲間のところへもどった。彼女は一人の青年と遊び興じ、叫んだり笑ったりして、いかにも楽しげな様子をぼくに見せようと努めていた。彼女の芝居は下手くそで、ぼくの方を見てばかりいた。ぼくは目を半ば閉じ、遠くを眺めていたが、それでも彼女を見ていた。彼女がこちらに背を向けると、はじめてヨットを見ることができた。ヨットは目がくらむほど真白だった。目がちかちかしてとても長いこと見ていられなかった。それでもぼくは目の限界まで、これ以上見えなくなるまでヨットを見つめた。それからやっと目を閉じた。暗闇のなかまでそれを持ちこんだ。ヨットはぼくの全身をしびれさせた。三十六メートルの長さで、デッキが二つついていた。歩廊はグリーンに塗られている。まったく、見てるのがひどく苦痛だったので、目から涙が出そうだった。しかしそれまでぼくは目に毒になるものを多く見すぎていたらしくて、この種の疼痛《とうつう》はむしろ快かった。時折、男たちがデッキを往来する。彼らは歩廊と前甲板とを往復してるのだ。信号マストにはなにも掲げられていない。横腹には、赤い文字で船名が書かれている、≪ジブラルタル≫。ジャクリーヌは青年とぼくのあいだを走りまわっていたが、すぐに邪魔にはならなくなった。それにしても何という過酷な白さだ。青い海にじっと碇泊したヨットは、孤立した岩みたいに傲然《ごうぜん》と落着いている。噂によると、彼女はヨットで一年中暮しているとのことだ。しかし水夫たちのなかには一向に女性の姿は見えなかった。
海上のヨットはもはや影を投げかけない。猛烈な暑さだった。正午近いのだろう。ジャクリーヌはボール遊びをやめ、もう我慢できないから海へ入るとさけんだ。そのときぼくは河のなかで心にちかったことを思い出したが、とてもその気にはなれなかった。もうジャクリーヌに話しかけないで、帰ってアペリチーフでも飲みたかった。エオロ老人と一杯やろう、とぼくは考えた。そう考えると、これまでになくうまい考えに思えてきた。どんなアペリチーフがいいかぼくはいろいろと考えつづけた。そのことがぼくの心を完全に奪った。最後に、パスチスとソーダ入りのブランデーのどちらにしようか迷った。パスチスこそ、太陽の下で胃に流し込むべき絶好の飲物だった。それにくらべると、ソーダ入りブランデーは、たしかに夜のものだった。日光の下でなければ、パスチスが濁り、虹色となり、乳白色になるのを見られないのだ。ソーダ入りブランデーは有名だが、ソーダのためにブランデーが薄くなる恐れが多分にある。ところがパスチスは、水なしでは飲めないから、ちっとも心配する必要はない。ぼくは自分の健康を祝して一杯パスチスをやろうと思った。しかしそのパスチスのことしか考えていなかったとき、急に不思議な連想が起った。金属磨きの考えだ。なぜぼくはあの船の上で金属磨きをしないのか? ぼくはその考えを追い払い、パスチスへもどった。ああ! 地中海で海水浴をした後でパスチスを飲みたいと思わない人は、地中海での朝の海水浴の味がわからないのだ。しかし金属磨きは、おまえにはできるのか? できないことがあろうか? そうだ、海水浴の後で太陽の下でこのパスチスへの欲望を感じない人は、自らの肉体の死すべき運命の不滅性を一度も感じなかった人なのだ。しかし急にぼくは不安になった。ぼくはこれまでパスチスは嫌いだった。二、三度味わってみたが、うまいと思わなかった。ソーダ入りのブランデーの方がずっと好きだった。ずっと嫌いだったのに、一度もためしてみないでなぜパスチスが飲みたくなったのか? もう一度、いったいぼくはどうしたのか? 日射病にかかったのだ、とぼくは、この新しい趣向と、それに寄せる途方もない喜びとを同時に説明するために考えた。ぼくは頭をぐるぐるまわして、頭を冷やして理解しようとつとめた。もしかすると日射病のために気違いになりかけているのではないか? この欲望――そして金属磨きの欲望――を除いて、ぼくにはほかに異常はない、気分はとてもいい。落着くのだ、とぼくは自分にいいきかせた。ぼくはまた砂の上に横になった。しかし水から上ったジャクリーヌが、ぼくの妙な恰好を見て驚き、そばへ寄ってきた。
「またどうかしたの?」
「なんでもない、ちょっと日光にやられただけさ。ぼくはパスチスを飲みに行こうと思うんだけど」
「パスチス? パスチスなんか嫌いなくせに」彼女は攻撃的になった。「またアペリチーフなんかはじめるの」
「近代の最初の人間は、最初にアペリチーフのようなものをほしがった人間だよ」
彼女はぼくをじろじろ見つめた。
「どうかしたの?」
「ある朝、健康と活力に溢れて狩猟から自宅への道を急ぎ、わが家へ帰って幸福を見出す直前に、森と小川のかぐわしい空気を吸いながら、自分には妻も子供も必要なものすべてがあるのに、何か不足してるものがあると考え、誰よりも先にアペリチーフを思いついた人間、これこそ真に天才的なアダム、最初の神への反逆者であり、われわれ万人の兄弟なのさ」
ぼくは疲れきって沈黙した。
「そんなことを話すために、あたしをロッカまで来させたの? ねえ、あまり日光に当たらないほうがいいわよ」
「蛇が食べるように命じたのは木になっているリンゴじゃなくて、地面に落ちて腐ったリンゴだったのさ。われらのアダムは腐ったリンゴの上にかがんで、その匂いをかぎ、気に入ったんだ。腐ったリンゴのなかに、カルヴァドスのリンゴの泡立って虫のついた酢っぱそうな醗酵のなかに、彼は何を発見したと思う?――アルコールさ。彼は頭がよかったから、それを欲しがったわけさ」
「ねえ」とジャクリーヌはせがんだ。「水へ入ったほうがいいわよ」
「ほんとにそう思うかい?」ぼくは海へ駆けていき、水に潜って、すぐに出てきた。パスチスの欲望に我慢できなかった。ジャクリーヌには何もいわなかった。
「よくなった?」
「うん、ふざけてたんだよ、それだけさ」
「あなたがそんなになるなんて珍しいわ。太陽は怖いってみんな話してるんだから」
それから彼女は、少し後で、言い訳するように付け加えた。
「あたしはちょうどあなたに、葦の向うで一緒に日光浴しようとたのむつもりだったのよ」
ぼくは承知した。立ち上って、濡れた体のまま、葦の生えている砂丘をよじのぼっていった。葦は乾いて黒く、かさかさ音をたてて、海の音さえかき消した。ジャクリーヌは空地にタオルを拡げて、水着を脱いだ。
「ここ二、三日前からどうかしたの?」とジャクリーヌがたずねた。「あたしのこと怒ってるの?」
「そうじゃないんだ、ぼくはただぼくらは別れるべきだと信じてるんだよ」
左手の頭上には、カラーレの山脈の雪のように白い山肌が輝いていた。反対側の丘の上には、対照的にとても薄暗く、塀やぶどう畠やいちじく畠に埋った村が姿を見せている。
彼女はいつまでも返事をしなかった。ぼくはサルザナの街の埃がとても白いと思ったが、あれは大理石の埃にちがいないと考えていた。
「あたしにはわからないわ」とついに彼女はいった。
ぼくも少し時間を置いてから返事をした。
「そうじゃない、きみはわかってるよ」
彼女が出発したら、とぼくは考えた。カラーレの採石場へ散歩に行こう。
「でもなぜ、なぜ急にそんなことをいうの?」
「急にじゃないよ。フィレンツェの博物館でもう話したじゃないか」
「じゃ、博物館の話をしましょうよ」彼女はつっけんどんにいった。「たしかあなたは戸籍係のことを話したわよ」
「そうだよ、だけどいつまでたっても同じことさ。ぼくはイタリアに残るよ」
「でもなぜなの?」と彼女はおびえた口調でたずねた。
たぶん彼女も大理石の採石場へ来るだろう。
「ぼくはきみを愛してないんだ。わかってるだろう」
ぼくはすすり泣きを耳にした。すすり泣きだけ。彼女は返事をしない。
「きみもぼくを愛してないんだよ」とぼくはできるかぎりやさしくいった。
「そんなはずがないわ」と彼女はいった。「あたしが何をしたというの?」
「何も。ぼくにはわからないんだ」
「そんなはずがないわよ」と彼女は叫んだ。「ちゃんと説明すべきだわ」
「ぼくたちは愛し合っていないんだよ。そんなことは説明できないね」
暑さは息苦しいまでになってきた。
「じゃどうするのよ?」と彼女は叫んだ。
「ぼくはイタリアに残る」
彼女はしばらく間を置いて、きっぱりとした口調でいった。
「あなたは気違いよ」
それから、今度は別の、皮肉な口調で彼女はつづけた。「それでイタリアでどうするつもりなの?」
「なんだってするさ。しばらくはここにいる。後のことはわからない」
「じゃ、あたしは?」
「きみは帰るんさ」
彼女は気をとり直して、攻撃口調になった。
「あなたの話なんか信じないわ」
「信じなければいけないんだよ」
突然に彼女は泣きはじめた。怒りもなく、そしてまるでそのことをずっと昔から待っていたかのように。
風はなかった。葦のために吹いてこないのだ。汗がいたるところから、眉毛のあいだや頭髪のなかから溢れ出た。
「嘘つきの話なんか信じないわ」と彼女は泣きながらいった。「あなたなんか信じられないわ」
「嘘なんかついていないよ。それになぜぼくがこんなときに嘘をつくと思うんだい?」
彼女は聞いていなかった。
「嘘つき、あなたは嘘つきよ」
「わかったよ。だけどなぜぼくがいま嘘をつくと思うんだい?」
彼女はやはり聞いてないで、泣きつづけた。すすり泣きながらいった。
「あなたは嘘つきになったのよ。あたしは嘘つきのために人生をだめにしちゃったわ」
何もいうことはなかった。待つよりしかたがない。葦のなかへ入ってから、ヨットの姿は見えなかった。ぼくはヨットが見たかった。それはぼくに活力と希望を与えてくれた。ヨットはいまにも出帆しそうな気がした。
「嘘つきが相手だと」とジャクリーヌはつづけ、しばらく間を置いてから付け加えた。「卑怯者が相手だと、証拠もなにもあったものじゃないわ」――彼女の口調は辛辣だった。「――だから平気だわよ」
ぼくは体を起した、静かに、そっと体を起した。すると海上に、やはり目くるめくばかり真白のヨットが見えた。そのヨットとぼくとのあいだに、ぼくから十メートルほど離れて、一人の婦人が横になっていた。日光浴をしてるのだ。ぼくはすぐに、それが彼女、あのアメリカ女だと思った。
「あなたが口から出まかせをいったって」とジャクリーヌがいった。「あたしはあなたがパリへ帰ってくると思ってるわ。あなたはとっても臆病なのよ、あたしにはちゃんとわかってるんだから……」
ぼくは返事をしなかった。したくてもできなかっただろう。ぼくはその女を見つめていた。女のほうはぼくらを見ていなかった。彼女は片手を枕にして横になっている。もう一方の手は、乳房のあいだに置かれていた。両足は軽く折り曲げて、眠っているみたいに体を投げ出していた。太陽の暑さにはまったく平気であるように見えた。
「どうかしたの?」とジャクリーヌがたずねた。
「いや」とついにぼくはいった。「よかったら帰って、一緒にぺルノーでも飲もうよ」
きっとぼくは気のない様子をしてたのだろう。彼女は怒り出した。
「ぺルノーなんか嫌いなくせに。お願いだから、もう嘘をつかないで」
女は目を開いて、ぼくらの方に向いたが、ぼくらを見てはいなかった。彼女に話をきかれてはまずいと思って、ぼくは小声で喋った。
「本気で飲みたいんだよ、自分でも驚いてるんだがね」
彼女の怒りはまたおさまった。
「レモンなら持ってるわよ」と彼女はいくらかやさしい声でいった。「そんなふうに話もしないで行っちゃいけないわ。話し合う必要があるわよ」
「これ以上話すべきだとは思わないね」とぼくはいった。「あとでアペリチーフを一緒に飲もう、その方が話すよりましだよ」
「とにかく横になりなさい、いったい何をしてるの?」
彼女はぼくが顔を正確には海へ向けていないことに気づいたのか?
「ねえ横になりなさいよ」と彼女は叫んだ。「レモンを持ってるから、ひとつ切ってあげるわよ」
彼女の顔はとても静かに乱れた髪のなかに浸っていたので、かなり離れた距離からでも、彼女が本当に眠っているように思えた。しかし彼女の手は乳房の間から閉ざされた目の上へと移された。美人なのか? ぼくにはよく見えなかった。彼女は海を向いていた。だがむろん、彼女は美人だった。
「ねえ」とジャクリーヌがいった。「あなたはいったいあたしの話を聞いてるの?」
ぼくがやはり動かなかったので、彼女も体を起してぼくがなにを眺めているかを見ようとした。彼女は手に水泳帽を持ち、そのなかに切りたてのレモンが二切れ入っていた。彼女は女を見た。思わず水泳帽を放したので、レモンが地面に転がった。彼女はひと言も口にせず、レモンを拾おうともしなかった。彼女はまた横になった。ぼくもすぐに横になった。ぼくにはもう何もいうことはなかった。事態はぼくが少しも手を加えないのに自然に成立してしまったのだ。ぼくは近くに転がっていたレモンを拾い上げて、すぐに口へ押しつけた。ぼくたちは言葉を交さなかった。ぼくらの頭上には、恐ろしい人生の上には、太陽が相変らず光り輝いていた。
「あなたはあの女を見てたの?」とついにジャクリーヌがいった。声は前と異なり、ゆるやかだった。
「そうだよ」
「あたしが話しているあいだ、ずっと見てたのね」
「きみはぼくに話してたんじゃなくて、自分に話してたんだよ」
彼女はタオルをとって体を覆った。
「暑くてたまらないわ」と彼女はうめいた。
それは真実ではなかったが、彼女はほかに何ができただろうか? ぼくはそういう彼女にほのかな友情を感じた。彼女は寒そうな様子をしていた。ぼくは彼女を見つめる勇気がなかったが、彼女がふるえていることはよく分った。何か彼女に話すことを見つけようとしたが、うまく見つからなかった。空気は重苦しく、あの女性の存在に毒されていた、ぼくは彼女のことしか考えられなかった――そしてジャクリーヌは、ぼくが何かに苦しんでいるとしたら、それは体を起してあの女を見られないことなのを知っていただろう。彼女はいまやぼくが嘘をつかなかったことを知ったのだ。ぼく自身も、それをはっきり自覚した。その明白な事実だけがぼくたちをまだ結び合せていた。いまや彼女は、海上で魚雷をくらった船のように、苦痛のなかに沈みつつあった。ぼくたちはただ手をこまぬいてその事件を傍観していた。そして少くとも数分のあいだ、太陽はぼくらの人生の真実を冷酷に照らし出した。太陽は輝いていた。あまりに強烈なので耐えるのが苦しいまでに。ところがジャクリーヌは、タオルの下で裸かのまま、ますます激しくふるえていた。ぼくはやはり彼女のために何もしてやれなかった。どうしようもなかった。ぼくは苦しんでなかったから。ぼくの苦しみは体を起こさせないことだけだった。彼女のためにしてやれることは、ただひとえに太陽の照りつけを耐えることだけなのだ。
「あなたはここに殘るの?」とついに彼女はたずねた。
「たぶんね」
彼女は急に怒り出したが、それはもう先ほどとくらべてぼくには平気だった。
「聞くだけやぼね」と彼女は冷笑した。
「落着きたまえ、落着いてよく理解するんだよ」
彼女はまたぼくの話を聞かないで、先ほどと同じ言葉を口にしはじめた。
「あなたは臆病者だから平気よ。あなたの話なんか信じないわ。あなたにいくら自信があっても、そんなことできっこないのよ」
「ぼくはできると思うよ」
きっとぼくは確信を持って話したにちがいない、彼女の怒りはぴたりとおさまった。
「もし戸籍係のせいだったら」と急に彼女は泣きついた。「あたしやめてもいいから、別のことしましょうよ」
「だめだよ。きみは戸籍係をやめるべきじゃない」
「それでもあたしがやめたら?」
「ぼくはここに殘るよ。君が何をいったって、何をしたって、ぼくはもうがまんできないんだ」
彼女はまたしても泣きはじめた。
女が立ち上った。グリーンの水着をつけている。その長い肢体が空にくっきりと浮び上がった。女は海へ向った。ジャクリーヌは女の姿を見ると、たちまち泣きやんで、喋りはじめた。ぼくの方はこれ以上焼けるような日射しに耐えられなかった。ぼくはこれまでそれに耐えていたのは、彼女が立ち上って目の前を歩いて行くのを見るためだったのを知った。
「泳ぎに行こう」とぼくはいった。
彼女はかすれた声でまたも哀願した。
「もう話したくないの?」
「うん、もうたくさんだよ」
ぼくはまた水着をつけた。
「一緒に泳ぎに行こうよ」とぼくはもう一度できるかぎりやさしくいった。「二人してするにはそれがいちばんだよ」
ぼくの口調のせいだったのか? 彼女はまた泣きはじめたが、今度は怒っていなかった。ぼくは彼女の肩に手をやった。
「一週間もしたら、ぼくが正しかったことが急にわかるだろうよ。そうしたら、きっとだんだんに、きみは本当に幸福になれるよ。ぼくと一緒じゃ幸福じゃなかったからね」
「あなたなんか嫌い」と彼女はいって、遠ざかった。「ほっといてよ」
「きみは幸福じゃなかったんだ。いいかい、きみは幸福じゃなかったんだよ」
ぼくたちは葦のあいだから出た。ぼくはいまでもすっかりおぼえている。海浜ではホテルのお客たちがボール遊びをしていた。彼らは一人がボールを受けたりはずしたりする度に、異った口調で叫んだ。彼らが叫んでいたのは、砂があつくて、じっと立っていられなかったからでもある。ぼくたちも足があつかったので海へ駆けていった。日光浴の後の海は冷たくて、思わず息をのむほどだった。海はマグラ川と同じくらい静かだったが、それでも小波が海岸を規則的に洗っていた。ぼくらが通り過ぎるとすぐに、ボール遊びの連中も遊びをやめて海へ入った。海浜にはもう人影はなかった。ぼくは水に浮いていた。ぼくの傍でジャクリーヌがクロールを試みていた。彼女はがむしゃらに足をばたつかせ、海の静寂をかき乱した。ほかの連中は体を浮かせていた。ヨットは水平線とぼくらのあいだに碇泊していた。そしてヨットとぼくらのあいだで、例の女が泳いでいた。ぼくはまた金属磨きのこと、つまり未来のことを考えた。もう怖くはなかった。ロッカに残ろう。ぼくの心は完全に決った。ぼくは即座にそう決心したのだ。これまでのすべての決心は底の浅いものに思えた。
旅館へもどると、ぼくはパスチスを注文した。エオロはイタリアにはそんなものはないが、フランス人の客のために何本か保存してあると話した。ぼくは彼に一緒に飲むようにすすめた。テラスの食卓に坐った。ふだんは果物ジュースしか飲まないジャクリーヌも、チンザーノを注文した。ぼくらがテーブルに向うとすぐに、それでもぼくがパスチスを飲み終った後で、例の女が到着した。
「アメリカーナ」とエオロが小声でいった。
ぼくは彼の耳に、すでに彼女が海浜で日光浴してる姿を見たと囁いた。へへえ、と彼はしわくちゃの瞼をしばたたいていった。ジャクリーヌには聞えなかった。彼女は目を大きく見開いて、思わずその女を見つめていた。ぼくは二杯目のパスチスを飲んだ。女はテラスの向う端に坐って、煙草をすいながら、カルラが給仕したぶどう酒を飲んでいた。いまやぼくは彼女を隅から隅まで見ることができた。これまでに見たこともない女だった。こんな女が世の中に存在するとは、思ってもみないことだった。ぼくはそんな女を知ったのだ。二杯目のパスチスが終ると、ぼくはいささか酔っぱらっていた。
「もう一杯パスチスがほしいね」とぼくはエオロにいった。
女はフランス語を耳にして少し顔をこちらへ向けた。それから、またそっぽを向いた。
「こいつは強いですぞ」とエオロがいった。「パスチスはな」
彼女はまだぼくが存在してることに気づいてもいないのだ。
「わかってるよ」とぼくはいった。
ここ数日のあいだ、どうやらぼくはいささか重すぎる重力の下で生きていたらしい。その重力も、この瞬間には、取り払われていた。
「それにしても」とエオロ。「三杯とは……」
「あなたにはわからんのだよ」とぼく。
彼はたしかによくわかりもしないで笑った。ジャクリーヌは怖そうにぼくを見つめた。
「パスチスをみんなが好かんのかね?」とエオロは笑いながらたずねた。
「ちがうね」とぼくはいった。
彼はなおも笑いながらぼくを見つめた。あの女も、とぼくには思えたが、その瞬間にぼくは彼女を見ていなかった。ジャクリーヌが叫んだ。かすかなうめきだった。
「何が?」とエオロがいった。「何がわかってないのだと?」
ジャクリーヌは顔をそむけた、目には涙が溢れていた。エオロを除いて、みんな彼女のうめき声を聞いたにちがいない。
「いや」とぼくはいった。「アペリチーフがどんなものだかをさ」
彼はカルラにパスチスをもう一杯運ぶように命じた。それから、また別のことを話さねばならなかった。
「あそこのぶどうは」とぼくはいった。「一年じゅう実がなるでしょう」
エオロは園亭の方へ顔を向けた。女も同様に、機械的に。
「あのためにあるんですよ」とエオロ。
ぶどうの実は大きく、積み重なるようになっていた。園亭に注がれる陽光は、緑色のぶどうの葉で濾過されている。女はぶどうの光に浸されていた。黒い木綿のプルオーバーを着て、やはり黒の膝のところまで捲《まく》ったスラックスをはいている。
「こんなに多くのぶどうを見たのははじめてだな」とぼくはいった。
ジャクリーヌはいくらかけわしい目つきで、やはりじっと女を見つめていた。女のほうはそれに気づいていた様子だった。女はしごく気楽そうだった、不思議なことに。
「よく熟しても」とエオロがいった。「緑色のままなんだよ。だから熟したかどうか食べてみんことにはわからんのさ」
「妙な話だね」とぼくはいって、笑った。ますます酔っぱらっていくような気分だった。エオロはまだ気づいてなかったが、ジャクリーヌは気づいていた。だが彼女は、そんなことに関心がなかったのだろう。
「人間だって同じだね」とぼくはいった。
「何だって?」とエオロ。
「死ぬまで緑色の人間もいるよ」
「若いのさ」とエオロ。
「いや」とぼく。「ばかなのさ」
落着くんだ、とぼくは自分にいった。しかしそれは困難だった。ぼくはこういう場合には、いつも笑い出したくなるのだ。
「あれを食うのはわしだけだよ」とエオロがいった。「娘たちはいやがるからね。だからわたしひとりには多すぎるんだ。お客さんたちでも、まだ熟してないと思うからね」
「それでも、とても美しいね」
カルラは入り口のドアに背をつけて父の話に耳を傾けていた。彼女は父を愛情と苛立ちとをこめて眺めていた。ぼくはそれを見て、なるべく彼女を見ないようにした。
「カルラだってこのぶどうが嫌いなんだよ」とエオロはつづけた。「あれを食べると寒気がするっていうんだよ」
遠くから援軍が来たみたいだった。カルラがいることを知らないで多くの時間を無駄にしたわけだ。
「あんたはこのぶどうが嫌いなの?」と女はカルラにたずねた。
目と同じくらい甘い声だった。彼女はアメリカ人ではない。イタリア語を話すときでも、フランス風のアクセントをしている。
「父を喜ばすために食べるんですけど」とカルラはいった。「ほんとは好きじゃないんです」
ぼく以外の誰も、ぼくが女にそれほど嫌われていないことに気づかなかった。ジャクリーヌは気づいたかもしれない。
「わしの家内は好きなんだよ」とエオロはつづけた。「結婚したときに植えたんだから、もう三十年になるな」
お客たちが帰ってきた。彼らはエオロにキアンチを注文した。
エオロはカルラに給仕するよう命じた。
「このぶどうで」とカルラは給仕しながら話した。「毎年ひと騒ぎあるんですの。あたしたちが小さい頃から、父は無理に食べさせようとするんです」
「あなたには味がわからないのよ」と女はカルラにいった。
「そうじゃないんです」とカルラ。「でもなぜ無理に食べさせるのかしら?」
女はカルラに返事しなかった。会話はそこで終ったかに見えた。だがそうではなかった。エオロにはもうぶどうのような物にしか興味がなかったが、その興味たるや大きかった。
「近所の人がぶどうの株をくれたが、その株がまちがったんだな。わしは七年後に気がついたんだけど、もう手おくれで、引っこ抜く勇気はなかったね」
「一度植えたものは……」とぼくがいった。
「そうじゃよ」とエオロ。「なんだってよくなるものさ」
自分の声を聞く度に、ぼくは笑い出したくなった。だが今度はがまんした。ジャクリーヌは相変らず苦しんでいた。
「じゃ土曜日にサルザナへ買いに行くぶどうは、好きなの?」と女はカルラにたずねた。
「自分で選ぶんですもの」とカルラはいった。「愛してますわ」
カルラは赤くなった。彼女は女にいろいろと悩みごとを打ち明けているのだろう。
「もう一杯飲みたいな」とぼくはいった。
「だめよ」とジャクリーヌが小声でいった。
「いやだ」とぼくはいった。
「こんなに枝がのびるぶどうはないね」とエオロはひとりごとをつづけた。「ここのテラスは、この地方では有名なんだよ」
本気で聞いているのはカルラだけだった。
「ぶどうがあるんだから、食べるべきだよ」とぼくはいった。
「食べるのはあたしだけよ」とカルラ。
「あなたには味がわからないのよ」と女がまたいった。
「あなたはいつもそうおっしゃるのね」とカルラがいった。
「よく考えてみると」とエオロがいった。「この可哀そうなぶどうは三十年前から毎年のように実をつけるのに、なりっぱなしなんだな。わしは食えるだけ食うんだが、みんな食うわけにはいかんからな」
カルラはアペリチーフを給仕し終ると、またドアに背をつけて、母が食事を給仕するように命じるのを待っていた。エオロはいくらか酔っぱらっていたようだ。
「みんなはとても食えんよ」
「またはじまったわ」とカルラ。「毎年こうなんだから」
「どうしたって慣れることができないものがあるからね」とぼくがいった。
「あんまり食うんで」とエオロ。「わしは毎年腹痛をおこすんだ、二週間はね、毎年」
「ほら」とカルラ。「またお食事の前に腹痛の話なんかするんだから」
「だがわしの考えではな」とエオロ。「この腹痛は健康にいいんじゃよ」
「こういう人なんですのよ」とカルラ。「お客さんのまえで」
「何か話をしなくちゃならないんさ」とぼくはいった。
ぼくは笑った。女も。彼女を見ないでいるのはますます困難になった。ジャクリーヌは話も聞かないで、女とぼくとを、かわるがわるに見つめていた。顔色は真青だった。
「毎年」とカルラがいった。「父はぶどうのおかげで死にそうになるんです。二週間で三キロはやせますわ。そのうちにきっと死ぬんだから」
「あの腹痛でわしはもっとるんだ」とエオロがいった。「血圧が下がるからな。それにわしはこのぶどうをみんなだめにしたくないんじゃ」
「もっともですな」とぼくはいった。
「もしほっといたら」とカルラ。「父は死んでしまうわ。かげでこそこそたべるんですもの」
「いいから食べさせなさいよ」とぼく。
「死にそうになっても?」とカルラ。
「そう」とぼくはいった。
エオロはびっくりしてぼくを見つめた。ぼくは泥酔に近かった。ジャクリーヌはひどく意地悪な目つきでにらんでいたようだ。しばらく誰も口をきかなかった。エオロはぼくの飲んだ空のパスチスを眺めていた。やがて女が話題を変えようとする口調でカルラにたずねるのが聞えた。
「あんたは昨夜ダンスへ行ったの?」
「まさか」とカルラが答えた。「父が一晩じゅう家の前で見張ってますもの」
「今夜もあるのよ」と女がいった。
女はぼくの方をちらりと見たが、ぼくだけしか気づかないほどさりげない視線だった。
「もちろんあたしは知ってますわ」とカルラ。
エオロはいくらか熱心に二人の話に耳を傾けていた。ぼくはもう笑いたくなかった。
「あたしが連れて行くのなら、彼は許してくれるかしら?」と女がたずねた。
「そうは思いませんわ」とカルラは父を見つめながら答えた。
エオロは笑いはじめた。
「だめですよ、前にも話しましたように、あなたとご一緒でも」
ぼくは急にとても慎重になった。心臓がどきどきしていた。
「ぼくがダンスへ連れてってもいいですよ」とぼくはいった。
ジャクリーヌは怒りで爆発しそうだったが、前よりは苦しんではいなかった。ぼくにはもう手の打ちようがなかった。カルラはひどくびっくりしてぼくを見つめた。女の方は、どうやらたいして驚いてもいないようだった。
「えっ」とエオロ。「あなたが?」
「喜んでね」とぼくはいった。
ジャクリーヌはまた小声でうめいた。
「よくわからない」とエオロ。「今夜ご返事しましょう」
「あたしは何もできないのよ」とカルラが叫んだ。「姉さんたちは好きなことができるのに」
カルラはすでに自分の野性的な魅力を知っているのか、いくらか自制していた。彼女は恨めしげに父をにらんだ。
「いいわよ」女はカルラにやさしくいった。「いいわよ、きっと行かせてくれるからね」
女はカルラの髪を愛撫した。カルラはなおもひるまず、父をにらみつけていた。
「今夜になると、父はいけないっていうのよ」
「一時間でいいから」とぼくはいった。「ぼくとしか踊らせないようにしますよ」
「わからん」とエオロがいった。「今夜ご返事しますよ」
「ほんとにわからずやなんだから」とカルラが叫んだ。
母親が呼んだ。昼食の仕度ができたのだ。カルラは椅子をひっくり返して立ち上り、宿屋の奥へ消えた。彼女が姿を消しているあいだ、誰も口を開かなかった。やがて彼女は姉たちと一緒に、湯気が立ちのぼる大皿を手にしてもどってきた。
サフラン煮の魚の匂いがテラスに拡がった。昼食が開始された。
その昼食はとても長くかかった。カルラが給仕した。エオロは妻の手伝いに台所へもどった。だからぼくにはもう誰も話し相手がなかった。ところがぼくはむしょうに話したかった。話したい? いや、叫びたかった。それからとてもはっきりしたこと――船に乗って出発したいという欲求。それは食事のはじめからぼくがとりつかれた固定観念――つまりその日のぼくの酔っぱらい方だったのだ。三度も、その叫びたいという欲求に耐えきれなくなって、ぼくは食卓を離れて出て行きそうになった。三度もジャクリーヌの視線がぼくに坐り直させた。彼女はぼくら二人をたっぷりと眺めたと思う。ぼくにはできなかった。まだ漠然とではあったが、それが危険のように思えたからだ。それにぼくは叫ぶまいとすることで精いっぱいだった。ほとんど食べないで、ぶどう酒ばかり飲んでいた。がぶがぶと、まるで水みたいに飲んだ。ぼくは酔っぱらった。たとえ叫んでも、とりとめのない言葉しか口にしなかっただろう、たとえば≪ヨット≫というような。だから誰にもぼくの計画はさとられなかったろうが、それでも自分ではうまくやれると信じていた小さなチャンスをふいにしてしまうかもしれなかった。
それはジャクリーヌと共にした最後の食事となった。彼女はこらえがたい嫌悪のまなざしでぼくをにらみつけながら食べていた。ぼくの記憶が正しいなら、彼女はほとんど食べていなかったはずだ。ぼくたちは口をきかず、彼女はぼくをにらみ、ぼくは飲みつづけた。ぼくは飲めば飲むほど、物事を一般的に考えるようになった。食事の終りのチーズが出て、十杯目のぶどう酒を飲んだとき、ぼくはもうヨットで出発することを疑わなかった。それはいとも容易に思えたので、ぼくはただ飲みさえすればよかった。ぼくが船で出発したがっていることは、みんなわかってくれるだろう、とぼくは信じた。ぼくは船のこと、それに乗って出発することしか考えなかった。それはもはや避けえないことだった。ぼくは海に浮んだ白い船体を見た。戸籍係はぼくの人生から消え失せていた。ぼくはぶどう酒ばかりでなく、慎重さにも酔っていた。ぼくはある程度はそのことを自覚していた――酔いがさめたら彼女にそれをたのむのだ、酔いがさめたら、いまはだめだ、と心のなかで繰り返した。ジャクリーヌはぼくの秘かな戦術を見抜いているように、小声で冷笑していた。そしてぼくは友情と、そしてまた理解をこめて、彼女に微笑した。しかしぼくは大げさにやりすぎたらしい――事実、食事の終りに、彼女はグラスをつかんで、ぼくに投げつけたからだ。グラスは地面に落ちた。ぼくはおっとりとその破片を拾い集めた。そうしながら、地面にひっくりかえらないようにどえらい努力をせねばならなかった。長くかかった。体を起したとき、頭がくらくらして、もうどうしていいかさっぱりわからなかった――やはり待たないで心のなかをがなりたてて、テラスにいる全員に彼女がぼくをヨットに乗せるべきことを確認させるか、それとも部屋へもどるか。ぼくはなおも余力のあるかぎり真剣に考えた。酔いを眠りでさますつもりなの? とジャクリーヌはぼくが眠っていると信じてたずねた。いや、とぼくは答えた、人生をさましてるのさ。そして自分の返事に満足して笑いはじめた。すると、彼女はひどく恐ろしい目つきをしたので、ぼくはあわてて部屋へ逃げこむ道を選んだ。立ち上って、廊下を目ざしてとび出した。ぼくはこの上もなく慎重に園亭のなかを通った。あの女のテーブルはいちばん端の、ホテルのドアの近くにあった。へまをするな、へまをするな、とぼくは心で呟いた。このチャンスをふいにしないで、へまをするな。こうしてぼくは女を見ないでその困難な岬を迂回するのに成功した――もし彼女を見てたら、そのはげますような視線に出会って、きっとぼくは大声でわめきだし、テラスの全員を追い出してしまっただろう。
ホテルの階段にさしかかったとき、ぼくはひどく自分に満足していた。
部屋へ入ってからものの十分もたたぬうちに、ジャクリーヌが入ってきた。それでもぼくは、パスチスとぶどう酒に酔って、その十分あまり眠っていたようだ、彼女に目を覚まさせられたみたいだから。彼女はそっと入ってきて、暖炉のところへ行って、それに背をもたせかけた。
「人でなし」と彼女は小声でいった。
彼女がそういうと、ぼくはまた眠くなった。
「人でなし」
「人でなし、人でなし」
その悪口は当然のことに思えた。彼女は小銃みたいに怒りをぶちまけた。彼女が口を開くと、言葉は弾丸のようにとび出した。もっともそのことは彼女にかなりの好結果を与えた。
「人でなし、人でなし」
気がすむだけ何度も繰り返すと、急に彼女は平静になった。目をうるませて彼女はいった。
「ぶどうの話しでごまかせると思ったのね、その手はくわないわ」
「落着きたまえ」
「あんたが彼女の気をひこうとしてるのに誰も気がつかないと思ってたのね、ばかよ」
そんな彼女を見るのははじめてだった。まるで別の女だった。その上、今度は、彼女はもう何も望んでいなかった。
「あたしの目の前で」と彼女は叫んだ。「あたしの目の前で」
「落着きたまえ」とぼくは繰り返した。
「だけどみんなあんたの話なんか信じなかったのよ」
彼女は笑いながら付け加えた。
「あの女もあんたの話なんか信じなかったのよ」
彼女はぼくの酔いをさました。ぼくは熱心に傾聴していた。彼女はそれに気づいた。
「それは話の問題じゃないよ」とやはりぼくはいささかふらつきながら答えた。
「じゃ何なのよ? いってよ、何なのよ?」
「ぼくは彼女のヨットに乗りたいんさ」
「彼女のヨットに乗る? 何をするために?」
「わからん、何だっていいよ」
「帳簿づけぐらいしか能のないあなたが、ヨットの上で何ができるというの?」
「わからんね、何だっていいよ」
「それになぜあの女はあんたをヨットへ乗せるの? なぜあの女は男たちを乗せると思う、きっとときどき手に入れるためよ」
「まさか」とぼくはいった。「そのためばかりではあるまい」
「あたし以外の女なら、あんたみたいなひどい男はすぐに追い出すと思わないの? 自分の顔でもよく見てごらんなさい。そのばか面を見たことがあるの?」
彼女は目的を達した。ぼくは起き上って、暖炉の鏡に映ったばか面を見た。いい点を与えようとして――知らず知らずのうちに――気取った顔をつくった。彼女はわめいた。
「人でなし」
ホテル中に聞えたにちがいない。
「ちょっと酔っぱらってるんだ」とぼくはいった。「許してくれよ」
さっきほど眠くなかった。怒りのあまり彼女は面《おも》変りしていたが、その顔は何となく親しみが持てた。
「あたしと一緒に帰るのよ」となおも彼女はわめいた。
「帰るのよ」
そんなことが可能だと彼女は信じはじめたのか? ぼくは猛烈に気を紛らせたかった。それでも、彼女に反論した。
「いや、ぼくは残るよ。君が何といおうと、何をしようと」
彼女の怒りはしずまった。疲れぼんやりした目つきで、待ちかまえていた。やがて沈黙の後、ひとりごとみたいに語りはじめた。
「二年もあなたを引っぱってきたのよ。あなたを無理に役所へ行かせ、無理に食べさせた。下着も洗ってあげたわ。汚ない下着だったのに、あなたは気がつきもしなかったわ」
ぼくは体を起して傾聴していた。彼女はおかまいなしだった。
「ぼくは食べなかったかな?」
「あたしのおかげで結核にならなかったのよ」
「下着のことは、本当かい?」
「あなた以外のみんな気づいてたわよ。それに土曜には、映画へ行かないで……」
彼女は声をつまらせ、両手で顔を覆って、泣きじゃくった。
「下着を洗ってあげたのよ……」
今度はぼくが苦しむ番だった。
「そんなにしてくれなくてよかったのに」
「じゃどうなの? あんたが結核になってもほっておくべきだったの?」
「その方がよかったと思うね。それに下着は洗濯屋へ出すべきだったのさ。そんなことをするからぼくを愛してると思いこんでしまったのだよ」
彼女は聞いていなかった。
「二年も、人でなしと暮して二年もむだにしちゃったわ」
「むだにはしなかったのさ、みんなそういうけど、それは間違いだよ」
「じゃ、得さしたとでもいうの?」
「人生はいつも多くの時間をむだにするものさ、もしそんなことを悔みはじめたら、みんな自殺してしまうよ」
彼女は悲しげな顔をして考えていた。もはや何も望まないばかりか、怒ってもいなかった。ぼくはその沈黙に耐えられなくなって、口を開いた。
「休暇のたびに、ぼくは何か奇蹟が起って、二度と戸籍係へもどらなくてすめばと思っていた。君も知ってるだろう」
彼女は顔を上げ、誠意をこめて、
「ほんとなの? 戸籍係とあたしとは同じものなの?」
「いや、同じものといえば、それはぼくの生活と戸籍係さ。きみの特徴は、戸籍係に苦しまないってことだよ。きみにはどういう意味だかわからないだろうね」
「人間はあらゆることに興味が持てるわ」と彼女はいった、「戸籍係にだって。あんたなんか本質的に哀れな人間で、役所中でいちばんのばか者だけど、そのあんたにあたしは二年も興味を持ちつづけたのよ」
彼女はその言葉をたいした悪意もなく深い確信をこめていった。
「ぼくは役所中でいちばんのばか者だったかね?」
「そういう噂だったわ」
「きみがどんな人間だかまだわからないね」とぼくはいった。
ぼくは彼女と同じくらい真面目であり、彼女もそのことを理解した。
彼女は答えなかった。
「ベッドの端に坐りたまえ」とぼくはやさしくいった。「それからきみがどんな人間なのか話してくれよ」
彼女は暖炉から動かなかった。
「あたしにはわからない」と彼女は完全に自然な声でいった。
「一度も考えたことはなかったけど、きみはとても強い女だよ」
彼女はうろんげな視線を投げかけたが、ぼくに悪意がないことを知った。
「そうじゃないわよ」――彼女はためらった――「あたしはあなたに慣れていた、それだけのことよ、それにできたら……」
「何だい?」
「あなたが変るのを期待してたの」
彼女はしばらく間を置き、それからやはり自然な声でたずねた。
「その奇蹟って、あの女のこと?」
「いや、戸籍係をやめる決心ができたことさ。その決心をしたのはフィレンツェで、まだ彼女なんか知ってなかったよ」
「だけど彼女に会ったとき、よけいに自信がついたのでしょう?」
「自信がついたかどうか知らないよ。ただ彼女は船を持っている、そこで彼女がやとってくれるかもしれないと考えたのさ」
「女から逃げるために女を利用する男は、人でなしよ」と彼女はいった。
「たしかにそういう男もいるけど、ぼくはそういうのはちょっときたないやり方だと思ってたよ。だけど、なぜそうなんだろう?」
「人でなしや卑怯者たちは」と彼女はぼくの言葉におかまいなしにつづけた。「完全な人間じゃないのよ」
「そうかもしれない」とぼくはしばらくしていった。「だけどそんなことはどうでもいいよ」
「どんな人間にだってわかることよ」
「やめようと決心したのは、フィレンツェでなんだ、彼女のことはまだ知らなかったよ」
「じゃ、甲板洗いでもするの?」
「ぼくにはもう昔みたいな野心はないんだ」
彼女はがっくりしてベッドに身を投げた。それからゆっくりと、一語一語をはっきりと、こういった。
「よもやあなたがこんなにまで堕落するとは思ってなかったわ」
ぼくは立ってられないで、また横になった。
「戸籍係にいたとき、ぼくはいちばん人でなしだったんだ。きみと一緒にいても、たしかに、ぼくは人でなしだった。不幸だったのだ」
「それであたしは、幸福だというの?」
「ぼくよりは不幸じゃなかったさ。きみがとても不幸だったら、ぼくの下着を洗うこともできなかったろうよ」
「あなたは甲板洗いをすれば幸福が見つかると思ってるの?」
「わからんよ。ただ船はね、書類や帳簿なんかない場所だよ」
「ばかね、幸福を信じてるなんて。ほかのこともそうだけど、あんたは何もわかっってないのね」
「きみだって時どき、人類の幸福なんて話すじゃないか」
「あたしは幸福を信じてるわ」
「そう、ただし仕事や品位のなかにね」
彼女はこの上もなく自信に溢れて体を起した。ぼくにはもう何ごとであれ、彼女に口をきく気持はなかった。彼女は出て行こうとしたが、それを中止して、疲れた声でいった。
「あの女の財産にのぼせてるの?」
「そうかもしれん、そうにちがいないな」
彼女はまたドアへ向ったが、また立ちどまった。涙が洗われた無表情な顔だった。
「じゃほんとなの? おしまいなの?」
「君は幸福になれるよ」とぼくはいった。
しかしぼくは自信を失っていた。彼女がいつか幸福になるとはもう信じられなかった、それにもうそんなことはどうでもよかった。
「それじゃ」と彼女はつづけた。「あたしは今夜の汽車に乗るわ」
ぼくは返事をしなかった。彼女はためらい、それから、「ヨットの話はほんとなの? あんたは出発するの?」
「十中八九ね」
「もし彼女がことわったら」
「そんなこと平気さ」
彼女はドアの握りに手をかけた。ぼくはまだ心を決めかねているその手だけを見つめていた。
「汽車まで送ってくれる?」
「いやだ」とぼくは叫んだ。「たのむから出てってくれ」
彼女は死んだような目でぼくを見つめた。
「かわいそうな人ね」と彼女はいった。
彼女は部屋から出ていった。
ぼくはしばらく、ホテルの静寂のなかにドアが鳴りひびくあいだ待った。ドアははげしく鳴りわたった。ぼくは起き上り、靴を脱いで、階段をおりていった。裏口へ達すると、靴をはいて、外へ出た。二時頃だったろう。みんな昼寝をしていた。野原には人気なく、日中でいちばん暑い時刻だった。ぼくは河沿いの道を、海とは反対側へ向って、庭園やオリーブ林の方へ歩いていった。まだひどく酔っていた、もっとも話しているあいだずっとそうだったのだが。頭のなかの暗闇にはただひとつのはっきりした考えしかなかった――宿屋から遠ざかろう。まったく完敗といったところで、その限界すらわからなかった。ぼくは妻もなく、幸福になること以外に何らの義務もない自由な身だった。しかしもしなぜ戸籍係をやめたかと問われたら、答えられなかったろう。ぼくは品位と労働のなかでの幸福の世界と縁を切ったのだ。要するにぼくはもう自分自身の運命にしか責任がなく、今後ぼくの行為は自分だけにしか関係がないわけだ。暑気と共にぶどう酒が頭に逆流して、また酔いがぶり返しそうだった。ぼくは立ちどまって雄々しくも吐こうとした。だがだめだった、ぼくは吐き方も、欲望をおさえる方法も知らなかった。これはぼくの教育にはいつも不足してたことで、そのためにひどい目にあったのだ。もう一度ためしてみたが、やはりだめだ。そこでもう少し遠くへ移動した。とてもゆっくりとしか歩けない、この自由人は死者のごとく重いのだ。ぶどう酒は、血と混り合って、全身をかけまわっていた、そしてぼくはそれが外へ出るまで、小便となって排泄されるまで、まだ当分は自分と一緒に運ばねばならなかった。待つのだ。ぶどう酒が排泄されるの待ち、汽車が出るのを待ち、この自由に耐えるのを待つのだ。なぜならぼくが酔っていたのは自由の美酒なのだから。歩いたせいで焼けるように熱い足のなかまで、心臓が吐き気を送りこむ音が聞えた。
長いあいだ歩いた、よくわからないが、一時間あまりも、人に姿を見られないようにずっとオリーブ林のなかを。それから、振りかえって、宿屋が見えなくなると、立ちどまった。河から数メートルのところに一本のプラタナスの木があった。ぼくはその木蔭に横になった。死者のように体が重い、自由と労働のなかの幸福な世界の死者。だが、プラタナスの木蔭はその種の人たち、ぼくみたいな死者のためにあるのだ。ぼくは眠りこんだ。
目を覚ましたとき、プラタナスの影は数メートル離れたところに、いかんともしがたい動きを秘めて、敵意に充ちて投げられていた。ぼくは眠っていた二時間のうち、一時間はカンカン照りのなかで眠っていたのだ。もう酔ってなんかいなかった。いま何時で、彼女の汽車は出発したかと自問した。あの女、ヨット、自由などは忘れていた。すでに出発したか、または出発寸前の女性のことしか考えなかった。それはこの上もなく恐ろしい考えだった。ついその朝まで心にあった彼女と別れるべき適当な理由を、残らず思い返そうとしたが、たとえそれらをはっきりと思い浮かべたとしても、その出発の恐怖の前には何らの救いにはならなかったろう。
ぼくはその恐怖のあらゆる局面を生きたと確信を持っている。
腕時計がなかったので、相変らず待ちつづけた。まだ早すぎて彼女は出発していないとたえず考えていた。そこでただひたすら待ちつづけていたのだ。日が傾いても、まだ待っていた。それから、とても聞えまいと絶望していたのに、その音が聞えたのだ――それは鋭くてもの悲しい、村の駅の汽笛だった。夕方、サルザナからフィレンツェへ登る汽車は一本しかない。間違えるはずがない、それだ。彼女の汽車だ。ぼくは起き上って、ホテルへ帰った。
ホテルの廊下でエオロにつかまった。
「ご婦人はお帰りになりましたぞ」
「ぼくらは別れることに話がついてたんだよ。だけどぼくは駅へ行きたくなかったのでね」
「なるほど」としばらく沈黙してからエオロがいった。「見るも痛々しそうでしたな」
「ぼくに言伝《ことづ》てはなかったかい?」
「夕方の汽車に乗るからと伝えてくれ、それだけでしたな」
ぼくは大急ぎで部屋へ向った。ベッドへ達する前に、もう泣いていたと思う。これまで自由がなくて泣けなかったすべての涙を、やっと流したわけだ。十年分も泣いたのだ。
エオロがドアをノックしたとき、時刻はもうおそかった。彼はドアを半開きにして、部屋のなかへ顔を出した。微笑していた。ぼくは横になっていた。彼に入るようにいった。
「みなさん食卓についています、もうおそいですぞ」
「あんまり腹がへってないな。夕食を食べなくたって平気だよ」
彼は微笑しながら近づき、最後にベッドのすそに坐った。
「人生はつらいですな」と彼はいった。
ぼくはタバコをすすめ、自分でも火をつけた。正午から一度もタバコをすわなかったのに気づいた。
「汽車のなかは暑いだろうな」とぼくはいった。
「イタリアでは、汽車は陰気じゃないですよ。みんなお喋りして、時間がすぐにたってしまいます」
彼はもう何も話すことがなかった。ただ待っていた。
「どうしてあんなことをしたのか、もうよくわからんよ」とぼくはいった。「まるで理由もないのに彼女を殺したみたいなんだ」
「彼女は若いんだから、殺したことになりませんな。あんた方は理解がたりなかったみたいでしたよ」
「たしかに理解してなかったよ。お互に理解し合ってなかったけど、そればかりが理由じゃないね」
「昨夜、あんたが部屋から出てきたとき、そのことに気づきましたよ。いや、あんた方が着いたときかもしれんな」
ぼくは吐きたかった。もう口をきかないで、ただ眠りたかった。
「夕食に来なさい」とエオロがいった。
「くたくたなんだ」
彼は考えこんで、何かに思い当り、大きく微笑した。
「カルラを貸してあげるからダンスへ行きなされ」と彼はいった。「さあ来なさい」
ぼくは彼に微笑した。誰だって微笑しただろう。
「すっかり忘れてたよ」
「あの娘に話しといたから、待ってるよ」
「それにしても、くたくたなんだ」
彼はゆっくりと話した。
「あの娘は若いんだ、これは大事なことなんだよ、それに健康なんだ、ちゃんとした考えも持ってる。ダンスへ行くんだよ。パーティーが終る頃には汽車はフランスに着いてるよ」
「いま行くよ」とぼくはいった。
ぼくは急いで起き上って、下へ行った。彼にカルラに予告する時間を与えた。髪を直し、顔を洗ってから、下へおりていった。
テラスはお客で一杯だった。昼食のときより大勢だった。ダンスパーティーへやってきて、まずうまい夕食からはじめている連中なのだ。あの女も来ていた。ぼくがひとりで、しかもとてもおくれてきたのを見たのに、彼女はほんの少し驚いただけだった。ぼくが行くとすぐに、カルラが廊下から出てきた。彼女はぼくに大きな、恥ずかしくなるような微笑を投げかけた。ぼくはちょっと無理をして、やっとしたり気に微笑を返した。食卓にはまだ二人前の用意がしてあった。カルラは知らなかったのだ。
「奥さまは、すぐにいらっしゃるの?」とカルラはたずねた。
「いや」とぼくはいった。「彼女は帰ったのだ」
女はそれを耳にした。そして女は意味ありげにぼくを見つめたので、ぼくは理解した――ぼくが望むなら、ヨットで出発できるだろう。千に一つのチャンス。ぼくはそれを手に入れたのだ。
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第二部
ぼくはキアンチを、つづけざまに二杯飲み、そして待った、よくわからないが、たぶんカルラが給仕してくれるのを、それともキアンチがききはじめるのを。彼女はぼくが飲むのを眺めていた、そして彼女もキアンチがきくのを待っていた。
キアンチがきいてきた。それが腕のなかに、頭のなかに拡がるのが感じられた、ぼくはそれに身をゆだねた。彼女はお化粧をして、ダンスパーティー用にわざわざつくった黒いドレスを着ていた。すごくきれいで、男心をそそった。彼女をはじめて見るお客たちは、じろじろ見つめて、小声で彼女のことを話していた。彼女の方はぼくを見つめていた。一度なぞぼくは振りかえって、彼女がぼくの背後にいる別の男を見てるのではないことを、たしかめたのだ。そうでなかった、テラスのこちらの端にはぼく以外に誰もいなかった、塀の上に猫一匹いなかった。ぼくはもう一杯キアンチを飲んだ。エオロは入り口のドアの近くに坐って、ぼくが飲むのを眺めていた、やはり同情と不安のまなざしで。彼がカルラに小声でなにかをいうと、カルラは急いで肉パイの皿を運んできた。
「父がね」と彼女は赤くなりながら小声でいった。「あんまりキアンチを飲みすぎないで、食べなくちゃいけないっていうのよ」
彼女はどぎまぎして逃げるように立ち去った。例の女が途中でカルラを呼びとめた。
「あたしはあんたと一緒にダンスへ行くのよ」と彼女はいった。
ぼくは肉パイを少し食べ、またキアンチを一杯飲んだ。頭の闇のなかにはずっと疾走する列車があり、そのイメージに気をくばり、それを忘れるためにぼくは飲んでいた。体中が痛く、顔はひなたで地面の上で眠ったのでヒリヒリした。ぶどう酒はうまかった。女の視線はめったにぼくから離れなかった。ぼくたちの二つのテーブルはかなり近寄っていた。テーブルが近く、しかも互いに見つめ合っていることから、突然に何かを話し合うべき緊急の必然性が生れたのだ。
「ぼくはこのぶどう酒が好きですよ」とぼくは彼女にいった。
「いいお酒ね」と彼女はいった。「あたしも好きですわ」
彼女は少し後で付け加えた。
「あなたもダンスへいらっしゃるの?」
「もちろんですよ」とぼくは答えた。「カルラをあなたと二人きりで行かせるわけにはいきませんからね」
彼女は微笑した。カルラの給仕が終るまで待たねばならなかった。女は夕食を食べ、煙草をふかしながらぶどう酒を飲んでいた。少し言葉を交した後で、彼女はぼくにもう話すことがないと判断したのか? 新聞を読みはじめた。ぼくは飲みすぎないように自制しはじめた。
やがてそのときがきた。エオロはカルラに着替えに行くよう命じた。カルラは家のなかに消え、五分後に赤いドレス姿でもどってきた。エオロが立ち上った。
「行きますかな?」
ぼくら三人は彼の後に従った。彼は対岸まで送ってくれた。
「一時間したら返してくれますな?」と彼はぼくにたずねた。
ぼくは約束した。彼はただちに宿屋へもどっていった、毎度のことだが、カルラの代りに給仕するために、と彼はいった。カルラは笑い、こんなことは年に二度もないと答えた。
女はカルラの腕をとり、ぼくはその隣りを歩いていった。彼女はカルラよりほんの少し背が高いことに気づいていたが、ぼくよりはずっと低かった。そのことが不思議とぼくを安心させた。
ぼくたちはオーケストラからいくらか離れた片隅に、ひとつだけあいた小テーブルを見つけた。カルラはすぐにダンスの申込みをうけた。女とぼくだけが残された。その夜もやはり機械的に、ぼくはあの男が来てるかどうか見わたした。それが最後だった。その翌日には、彼がいることすら忘れてしまい、海岸で会ったときもほとんど思い出せなかった。カンディーダが踊っているのを見たが、彼女の方はぼくに気づかなかった。
「どなたかを探していますの?」
「そうともそうでないともいえますね」
カルラが近くを通り過ぎた。笑いながら踊っている。エオロの考えは正しくて、たしかに相手の男なんかまだ問題じゃないのだ、彼女は子供のように、しかも優雅にとてもうまく踊ったので、思わず微笑したくなるほどだった。
「あの娘を連れてこなかったら、さぞかしうらまれたでしょうね」と女がいった。
ぼくは何か話すことを考えたが、何も思いつかなかった。何も話すことがないのだ。カンディーダが女と一緒のぼくを見つけた、彼女も踊りながら近くを通ったのだ。彼女は悲しんだろうか? そうは見えず、むしろびっくりしていた。ぼくらのテーブルの傍らで、彼女は相手の男をしばらく休ませて、ぼくの方に体を傾けた。
「彼女は発ったよ」とぼくはいった。
彼女はまたダンスにもどったが、女から視線を離さなかった。ぼくらがどういう関係なのか見抜こうとしていたのだろう。
「あの人のことを探してらしたの?」と女がたずねた。
「まるっきりそうじゃないんです」とぼくは答えた。「若い男なんですよ」
女はいぶかしげだった。彼女はカンディーダを示した。「じゃ彼女は?」
「ぼくは昨夜もダンスへ来たんですよ」
ぼくは女にダンスを求めた。立ち上って、彼女を腕に抱き、手と手を重ねるとすぐに、とても踊れそうにないことがわかった。音楽が耳に入らず、リズムも完全に見失い、彼女に合わせることさえできない。ぼくは努力した。だが十秒と音楽を聞いていられなかった。ぼくは足をとめた。
「だめです、踊れないんですよ」
「どうかなさったの?」と彼女はいった。
とてもやさしい声だった。それまでこんな声をかけられたことは一度もなかった。しかしいくら努力しても、だめだ、ぼくにはどうしても踊れなかった。ほかの組にぶつかった。彼女は笑った。彼女を欲しかったからではなかった――いやちがう――ぼくはもう一人の女を欲することができなかった――そうじゃなくて、彼女は誤りを犯したのに、ぼくはそれを注意する方法を知らなかったからだ。彼女は自分が何をしてるのかわからなかったにちがいない、だからぼくは一分ごとに、彼女がぼくに気づいて、パーティーから帰ってしまうだろうと確信した。ぼくの両手はふるえ、腕に抱いた彼女の体は、ぼくを失神させんばかりだった。ある種の偶然の選択、死や好機を前にしたみたいに、ぼくは怖かった。そこでぼくは、少くとも声で彼女に注意するために、行き当りばったりにぼくの存在を気づかせるために、とうとう口を開いた。無数のことを話したかったが、現実には彼女のヨット≪ジブラルタル≫のことしか口にできなかった。
「なぜあんな名前を」とぼくはたずねた。「なぜ≪ジブラルタル≫とつけたんです?」
ぼくの声までふるえていた。その質問をした後で、巨大な責任を解除されたような気持を味わった。
「ああ、それは話せば長いことなのよ」と彼女の顔を見ないでも、微笑してることがわかった。
「時間はたっぷりありますよ」とぼくはいった。
「知ってるわ、あなたがカルラに話してたのを聞きましたもの」
「いつも暇がありますからね」
「一日中って意味ですの?」
「一生涯ですよ」
「そうとは思いませんでしたわ、彼女はただ先にお帰りになっただけだと思っておりました」
「永久に帰ってしまったのです」
「長いこと一緒にいらしたの?」
「二年です」
事情が簡単になっていった。前よりもうまく踊れて、それほどふるえなくなった。とりわけ、前に飲んだぶどう酒が大きな救いになってきた。
「彼女はやさしかったんです」とぼくは付け加えた。「しかし理解し合えなかったのです」
「今朝、食事のとき、うまくいってないってことを拝見しましたわ」
「性が合わなかったのです。彼女はやさしい女でしたが」
彼女は微笑した。はじめて見つめ合った、ほんのちょっと。
「で、あなたは、やさしくないの?」彼女の口調はかすかに皮肉の色を帯びていた。
「わかりません。ひどく疲れているんです」
だんだんうまく踊れるようになった。もう手がふるえなかった。
「あなたダンスがうまいのね」と彼女はいった。
「なぜ≪ジブラルタル≫なのですか?」とぼくはまたたずねた。
「なぜって」と彼女はいった。「あなたジブラルタルをご存じ?」
ぼくたちは急に率直に話しはじめた。
「いや、知りません」
彼女はすぐに返事しなかった。
「あなたに会えて」と彼女はいった。「あたしうれしいわ」
また微笑し合った。
「ジブラルタルって、とても美しいのよ。いつも世界で一、二の重要な戦略拠点として話題になるけど、とっても美しい場所だとはいわれないわ。一方には地中海があり、もう一方は、大西洋。この二つはひどく違うのよ」
「なるほど。そんなに違うんですか?」
「とても違うの。アフリカ側は、とてもきれいで、海中へ切り立った丘が突き出してるわ」
「ジブラルタルはよく通るんですか?」
「よくね」
「何度くらい?」
「たしか、十六回よ。反対側のスペイン側は、もっとなだらかなの」
「ただ美しいからだけでは……」
「それだけじゃないわ」
きっと彼女は、ぼくらの間柄ではその理由をいう必要がないと判断したのだろう。
「昼食にあんなにお飲みになったのは彼女のせいなの?」
「たしかに、彼女のせいです、それに、よくわからないけれど、人生のせいです」
ダンスが終った。三人でまたテーブルに向った。
「楽しかった?」と彼女はカルラにきいた。「ダンスがとてもうまいのね?」
「でもあんまりやらないんです」とカルラ。
彼女はカルラを見つめた。
「発つのがつらいわ」と彼女はいった。
「またいらして下さいね」とカルラ。
彼女はタバコに火をつけ、ぼんやりと虚空を見つめた。
「たぶんね」と彼女はいった。「あんたに会うために、あんたが幸福でちゃんと結婚したかどうかたしかめるために、もどってくるわ」
「あら、あたしまだ若いんです」とカルラ。「それにただそのためにもどってらっしゃることもありませんわ」
「もうじきお発ちなるのですか?」とぼくがたずねた。
「明晩ね」と彼女が答えた。
エオロの言葉がよみがえってきた――あれはむずかしい女じゃありませんよ。
「一日おくらせるわけにはいきませんか?」
彼女は目を伏せ、申しわけなさそうにいった。
「無理ね。それにあなたは、ロッカに長く滞在なさるの?」
「わかりませんが、たぶんかなり長くね」
ダンスがまたはじまった。カルラは踊りにでかけた。
「それまでは、ずっと踊れますね」
「何ですって?」
「あなたが発つまでは」
彼女は返事しなかった。
「あなたの船の話をしてください、≪ジブラルタル≫号の」
「船の話じゃないのよ」
「ある男の話だってことですね。その人はジブラルタルの人なんですか?」
「いいえ。ほんとうはどこの人でもないの。もしかしたら」と彼女は付け加えた。「明後日に出発してもいいかもしれないわ」
ぼくはいったいどんな想像をしていたのだろう? 海へ出ると、とエオロは話していた、水夫たちが彼女の相手をする。ぼくの手はもうふるえず、腕に抱いた肉体も、ぼくを失神させそうにはならなかった。
「もうその人とは一緒に暮らしてはいないのですか?」
「ええ」
「あなたの方から別れたのですか?」
「ううん、彼の方よ」彼女は小声で付け加えた。「明後日なら、大丈夫だわ」
「誰が決めるのですか?」
「あたしよ」
「そういった厳密な予定が決まっているのですか?」
「もちろん必要よ」と彼女は微笑していた。「たとえば潮の問題だけでもね」
「なるほど、特に地中海ではね」
彼女は笑った。
「そうよ、特に地中海ではね」
ぼくはこの女と別れた男のことを考えた。さっぱりわからなかった。もう話せなかった。
「あなたは、なぜあの女の人と別れたの?」と彼女がとてもやさしくたずねた。
「さっき話したように、はっきりした理由はないんです」
「しかし、それでも少しは思い当ることがあるでしょう」と彼女がいった。
「愛してなかったのです。決して愛してなかったんですよ」
ダンスがもう一度終った。カルラがもどってきた。ひどく上気していた。
「あなたがお発ちになったら、とてもつらいですわ」
きっと彼女は、踊りながらそのことを考えていたにちがいない、忘れられなかったのだろう。
「あんたのこと大好きよ」と女はカルラにいった。
女はちらっとぼくの顔を見て、それからまたカルラの方を向いた。しかしぼくは彼女と別れた男のことをずっと考えていた。
「結婚しなくちゃだめよ」と女はカルラにいった。「姉さんたちみたいにしないでね。早く結婚するのよ、なるべく早くね、そうしたらわかるわよ。このまま年をとっちゃいけないわ」
カルラは考えこんで、顔を赤らめた。
「父の話では、結婚ってとっても大変なんですって、だから、選ぶとなったら、もっと大変ですわ」
女の方も、ほんの少し赤くなった、それに気づいたのはぼくだけだった。それから女は小声でいった。
「いいこと、大切なのはあんた自身が選ぶことよ。それがすんだら、あとはただその気になればいいんだわ」
「ああ」とカルラ。「あたしにはできそうにないわ」
「できるわよ」
「喉が乾いたから」とぼくはいった。「何か飲物を探してくるよ」
バーへ行って、キアンチを三杯とってきた。もどってきたとき、カルラはまたダンスへ出かけていた。ぼくは彼女の分も飲んだ。
「また踊りましょうか」とぼくがいた。
「そんなにダンスが好きなの?」
「いや、でもとにかく踊りましょう」
彼女はいやいや立ち上った。きっと話をしたかったんだろう。
「なぜ」とぼくはたずねた。「ぼくのことをばかにするんですか?」
「あなたをばかになんかしてないわ」
彼女は驚いていた。たとえ一晩でも、とぼくは考えた。そこで、はじめて、キアンチの力をかりて、彼女を腕に少し強く抱きしめた。
「あたしのことを悪く思わないで」と彼女はいった。
頭の暗闇のなかでも疾走する汽車はなかった。彼女が欲しかった。欲望がとても遠くから、肉体と記憶の忘れられた部分からよみがえってきた。
「あの男のことを話してほしいな」
これは男と夜を過して、翌日にはさっさと帰っていく女なのだ。ただそういう女として、ぼくは彼女が欲しかった。
「彼はね」と彼女は話した。「つまり、水夫みたいなものだったのよ。ジブラルタルの沖で小さな船に乗ってるとき、ヨットから見かけたの。困ってるような合図をしたので、ヨットに乗せてやった。そうしてはじまったわけよ」
「昔のことですか?」
「数年前よ」
「で、なぜ困ったような合図をしたんですか?」
彼女はいくらか朗読口調で話した。
「彼は外人部隊から脱走したの、三日前にね。外人部隊で三年を過したんだけど、残りの二年を待ちきれなくなったのね、そこでボートを盗んで、逃げ出したってわけよ」
彼女の声は限りなくやさしかった。この女の奥底には限りないやさしさがあるにちがいない。
「なぜ彼は外人部隊にはいったんですか?」
「殺人のかどで追われていたからよ」
そのこともたいしてぼくを驚かせなかった。彼女はその言葉をとてもあっさりと、それにほんのちょっぴり面倒くさそうに口にした。
「あなたは困ったような合図をする人たちが好きなんでしょう、ちがいますか?」
彼女は体を離して、ぼくを探るように見つめた。ぼくはその視線に耐えた。いまでは、彼女の美しさにも慣れていた。
「まさか」と彼女はいくらか狼狽して答えた。「そうばかりでもないわ」
「ぼくは人殺しなんかしませんよ」
「そう簡単にできないわよ」と彼女は微笑していった。「その機会がなくては……」
「その種の機会にぜんぜんお目にかかったことがないですね。八つのときに鳩を撃ち殺したきりですよ」
彼女は嬉しそうに笑った。それにしても彼女は美しかった。
「それにしてもあなたは美しいですね」
彼女は返事しないで微笑した。
「それで彼をヨットへ救い上げたのですね? それから食べさせた? きっと二日も飲まず食わずだったのでしょう?」
「誰だって人殺しができるわ、ある人たちの特権じゃないのよ」
「要するに理想的な悲惨さだった」
「しいていえば、あたしも理想的な悲惨さだったと思うわ」それから少し間を置いて彼女はたずねた。「あなたが何をしてらっしゃるのかきいてもかまわない?」
「植民地省、戸籍係ですよ。結婚、出生、死亡などの証明書を交付してたんです、死亡証明書を書く度に、手を洗いました。だから冬になるとアカギレができましたよ」
彼女は少し笑った。ぼくの顔のすぐ近くで。
「年度末になると、出生証明書の数の統計を作るんです。結果はとても面白いですよ。年によって多少の変化がありますからね」
もし彼女が笑ったら、とぼくは考えた。滞在をもう一日のばすだろう、彼女は笑った。
少しずつ彼女をきつく抱きしめたので、話すのが苦しくなってきた。
「なぜ過去の話みたいにおっしゃるの? 休暇中なの?」
「それ以上ですよ」
「え? 仕事をやめたの?」
彼女ならわかってくれると思っていたが、やはりすぐには、さっぱりわからなかったのだ。
「ぼくの身になって下さいよ。もうやりきれなかったのです、戸籍の筆写なんか。自分の筆蹟までなくしてしまったんですよ」
「いつやめたの?」
「正確にいえば、今朝、食事をしているときに。チーズが出たとき、決まったわけです」
彼女は笑わなかった。ぼくは強く抱きしめた。
「ああ、あたしにはわからなかったわ」
「困ってる人たちはお好きなんでしょう?」
「いけないの?」ダンスは終った。何度もアンコールの要求があり、ぼくたちは長いあいだ踊った。
「楽しいわ」とカルラがいった。「でも喉が乾いちゃった。レモネードが飲みたいわ」
「買いに行かなくては」と女がいった。
「ぼくが行きましょう、ぼくたちはコニャックにしましょうか?」
「まかせるわ。もうおそいのよ」
人がいっぱいでなかなかバーへたどりつけなかった。ぼくはその場でコニャックを一杯飲み、さらに二杯と、レモネードを一杯持ちかえった。カルラは一息に飲みほして、踊りに出かけた。ぼくたちもコニャックを飲んで、またダンスをはじめた。
「あなたってほんとにダンスが好きね」
「一曲もむだにしたくないんですよ」
「エオロは一時間といったけど、もう一時間以上になったわ」
「いや、まだ一時間になってませんよ」
ぼくの声はふるえていたが、もう恐怖のせいではなかった。彼女の髪に接吻した。
「ジブラルタルの水夫の話をして下さい」
「後でね。固定観念になったのね」
「ちょっと酔ってるんですよ」
彼女は無理に笑った。ダンスにいらだって、うまく踊れなかった。
「ぼくはイタリアがとても美しいと思うんですよ」
言葉がとぎれた。ジャクリーヌの記憶がよみがえり、ぼくはふたたび夜のなかを疾走する暑苦しい汽車に投げこまれた。彼女を抱きしめる力を弱めた。女はぼくを見つめた。
「彼女のことを考えてはいけないわ」と女がいった。
「いま汽車のなかはひどく暑いだろうな、そんなところですよ」
女はとてもやさしくいった。
「彼女は昼食のあいだもひどく怒ってたわね」
「あの昼食のとき彼女をとても苦しめたらしいですね」
「彼女はなぜあなたが別れたのかわかってくれたの?」としばらくして彼女がたずねた。
「ぜんぜんね。うまく説明しなかったらしいんです」
「もう考えてはいけないわ」
「しかし彼女はぜんぜんわかってくれなかったのです」
「そんな経験は誰にもあるものよ」
いくらかとがめるような口調だったが、それでもまだとてもやさしかった。
「それでこれからどうなさるつもり?」
「いつも、何かしてなくてはならないのですか? それを避ける場合もあっていいじゃないですか?」
「あたしは何もしないようにつとめてきたのよ。それはできない相談ね。結局は何かをしなくてはならないのよ」
「じゃ彼は? どうしたんですか?」
「殺人犯の場合はずっと簡単よ」と彼女は微笑していった。「他人が代りに決めてくれるものね。あなたは何も考えてないの?」
「何も。まだ数時間前に戸籍係をやめたばかりですからね」
「それもそうね。まだ考えられないのね」
「しかしね」とぼくはいった。
彼女は待っていた。
「何なの?」
「ぼくは戸外にいたいんです」
彼女は驚いて、やがて軽く笑った。
「戸外の職業はあまり沢山ないわよ」
「船員がありますよ」
今度はぼくが笑った。
「そうだけど、それだってやはり職業よ」
ぼくは思いきって、彼女に話した。
「そうともいえませんよ。たとえば金属磨きなら、誰だってできますからね」
ぼくの興奮を見抜いたのか、彼女は返事をしなかった。もう彼女を見つめる勇気はなかった。ぼくはなおもつづけた。
「船には男を一人やとうほどドアの握りがないのですか?」
「わからないわ」
彼女はしばらくして付け加えた。
「そんなこと考えたことがないもの」
「もちろん、こんな話は、ただの冗談ですよ」
彼女は返事をしなかった。ぼくはもうダンスができなかった。
「コニャックが飲みたくなった」
ダンスを中止して、バーへ行って、黙ってコニャックを飲んだ。ひどい酒だった。ぼくはもう彼女の顔が見られなかった。またダンスをはじめた。
「戸籍係ってそんなにひどかったの?」
「話には誇張がつきものですよ」
「時どき休暇が必要なのよ。どんな仕事をしていても」
ぼくはまた希望を抱きはじめた。
「そうじゃないですよ。ぼくはいつもきちんと休暇をとってきたのです。休暇を信ずるなんて、神様を信じるみたいなものだ」ぼくは付け加えた。「お願いですから、いまの話は忘れて下さい」
ダンスが終った。カルラが汗まみれでもどってきた。
「また喉が乾いたでしょう」と彼女がカルラにいった。「レモネードをとってらっしゃい」
「ぼくが行こう」
「いいわよ」とカルラ。「あたし慣れているから、ここでもやってみたいのよ。あなたより早くできるわ。コニャックも持ってきましょうか?」
カルラは姿を消した。女はカルラの後姿を見つめていた。
「彼女の年齢で、あたしもレモネードを給仕してたのよ」
「あなたは明日出発すべきですよ。金属磨きの話なんか、ぼくがちょっと酔ってたからです。ぼくの話は忘れて下さい」
彼女は返事しないでぼくを見つめていた。
「金属磨きの仕事なんか、やれといわれたって引き受けませんよ。ぼくは飲みすぎたんです。酔っぱらうとこんなことを喋るんですよ」
「あたし忘れたわ」と彼女はいった。
それから、別の口調で、
「カルラの年齢で、あたしもほんとにレモネードを給仕してたのよ」
彼女は黙った。つづいて、
「戸籍係には長くいたの?」
「八年です」
彼女はまた長いこと沈黙していた。
「カルラの年齢のとき、レモネードを給仕してたといいましたね?」
「ええ、父がピレネー地方でカフェ兼タバコ屋をやってたの。十九の年に、あたしはあのヨットに、何ていうのかしら、給仕女としてやとわれたわ。若い娘の夢ね。カルラだってそう考えるのが当然だわ」
坐って話すのはこれが最初だった。彼女は金属磨きの話を忘れた、とぼくは信じた。
「あのヨットに?」
「あのヨットに」と彼女は答えた。「あとはどうなったのかわかるでしょう」
彼女は十六歳の頃と同じ微笑を浮べたにちがいない。
「それでなぜ八年もいたの、そんなにつらい仕事だったら?」
「いやな質問だな。臆病だったからですよ」
「二度ともどらない自信があるの?」
「自信ありますよ」
「八年もたってそんなことに自信が持てるものかしら?」
「めったにないことですけど、持てるものですよ。あのヨットの上であなたも経験なさったでしょう?」
「ええ。どうしていいかわからなかったので、彼を水夫としてやとったのよ」
ダンスがまたはじまった。
「あとひと踊りしたら、彼女を送って行きましょう」
ぼくは返事しなかった。彼女は小声で付け加えた。
「よかったら船の上へ何かを飲みに行かない? モーターボートが桟橋に待ってるのよ」
「いや、もう少し踊りましょう」とぼくはいった。
彼女は笑った。
「いけませんね? あやうくカルラを置き去りにするところだった」
しばらくたった。
「ぼくがそれほど途方に暮れてると思いますか?」
「それほどはね、それにあたしにはどうでもいいことなの。いいえ、今朝のアペリチーフのとき、なぜだか知らないけど……」
「あなたはきっと途方に暮れた人たちが好きだと思いますよ」
「たぶん、あたしはそういう人たちに弱いんでしょうね」
「ぼくが彼女と別れたのは、彼女がぜんぜん途方に暮れないからですよ。ぼくたちは似てるんです」
「そうかしら? きっと似てるのね」
ダンスのあいだもう何も喋らなかった。一人の女に対してこれほど強烈な欲望を感じたことはなかった。
「あなたはいま何をしているのかたずねてもかまいませんか?」
「あたしはある人を探して、旅行してるの」
「彼を?」
「ええ」
「それだけしかしてないのですか?」
「それだけ。大変な仕事よ」
「じゃここでは? 何をしているのですか、彼を探してるんですか?」
「あたしだって、たまには休暇をとるわよ」
「なるほど」
いまではずっと彼女の髪に接吻しつづけていた。カンディーダが見つめていた。カルラも気づいた。ぼくにはどうでもよかった。彼女は、かまわないように見えた。
「滑稽だな」とぼくはいった。「やはり滑稽だな」
「それほどでもないわ」
「行きましょう」
ダンスを中止した。彼女はカルラを探しに行った。
「お父さんが待ってるから、帰らなくてはだめよ」
カルラはぼくたち二人を、驚いたような、いくらかとがめるような目つきで見つめた。接吻したのを見たからだ。彼女はそれに気づいたにちがいない。
「どうかしたの?」と女はたずねた。
「別に」とカルラは答えた。
「ねえ、ばかな真似はしないでよ」
「あたし疲れてますの」とカルラは落着きのない口調でいった。
ぼくたちはカルラを、借りていた小舟まで連れていった。河を渡るあいだ、女はぼくから離れて、舟のへさきに横になっていた。カルラの態度にいささか困り果てていたのだ。カルラはそれに気づいた。
「許して下さいね」とカルラはいった。
女は黙ってカルラに接吻した。
エオロは宿屋の前で待っていた。
「ちょっとおくれましたね」とぼくはいった。「申し訳ありません」
彼はかまわないからと答え、お礼を述べた。ぼくは女をモーターボートまで送ると伝えた。たぶん彼は信じただろう。
ぼくたちは海浜への道をたどった。
ダンスパーティーの音楽が遠くなっていった。やがてそれも聞えなくなった。ヨットが姿を見せた。デッキは明るく人気がない。彼女がぼくに何を期待しているのかわかっていた。しかしすぐに彼女にまかせようと決心し、後に従った。たちまち、ぼくのなかの怒りは消えた。海岸へ出ると、彼女を呼びとめてこちらを向かせ、心をこめて接吻した。
「きみは彼を愛してるんだ」とぼくはいった。
「三年前から会ってないのよ」
「それで?」
「彼がいつだって喜ばせてくれると信じてるわ、だからまた会えたら……」
「彼にとっても会いたいのかい?」
「時によりけりよ」と彼女はゆっくりと答えた。「でもしばらくのあいだは忘れられるのよ」
彼女はためらい、それからいった。
「彼のことを忘れてるときでも、彼を探してることは忘れてないわ」
「じゃ、そんな具合に、きみは海の上でひとりきりで、大恋愛に生きているわけ?」
「したりしなかったりよ」
彼女はぼくに近づき、吐き出すように口にした。ぼくは顔を上げて、彼女を見つめた。
「ぼくはまだ一度もジブラルタルの水夫たちの女には会ったことがないよ」
「それで?」
「ぼくに必要だったのはそういう女だと思うね」
ぼくの唇が彼女のに触れる度に、ぼくは幸福で気を失いそうになった。
「あなたが来てくれてうれしいわ」
ぼくは笑い出した。
「来ない連中も大勢いるのかい?」
彼女も楽しそうに笑ったが、返事はしなかった。ぼくたちはモーターボートが待っている桟橋まで歩いていった。
「時には、彼を探すことにあきるだろう、ちがう?」
「そうね、時どきちょっぴり淋しくなるわ」
彼女はおずおずと付け加えた。
「長いのよ」
ぼくたちは立ちどまった。
「わかるよ」
彼女は笑った。二人して笑った。それからまた歩きつづけた。
モーターボートのなかには、水夫が一人いて眠っていた。彼女がおこした。
ぼくは酔っぱらっていた。要するに、その日一日中、酔いがさめなかったのだ。ぼくはおかまいなしにボートの奥に横になった。ついにぼくはほかの連中に、彼らの道徳の心安まる単純さをまかせる決心をしたわけだ。
その間に、彼女が水夫に出発をのばす話をしているのが聞えた。それはぼくには全く関係のないことだ、とぼくはまだ信じていた。
彼女以前に女はなかった。その夜ジャクリーヌははるか昔の追憶となって、もはや決してぼくを苦しめなくなった。
正午頃ぼくたちは船室を出た。ほとんど眠らずに、お互を疲れさせていた。しかしすごくいい天気だったので、彼女は泳ぎたがった。モーターボートに乗って海岸へ向った。たいした距離ではなく、せいぜい二百メートルだった。着く前に、彼女は海へとびこんだ。
長いこと水に入っていたが、ほとんど泳がなかった。水にもぐったり、体を浮かせたりしてから、海浜へ日光浴にもどった。それから、暑さに耐えられなくなると、また海へもどった。昼食の時刻だったので海浜にはぼくら二人しかいなかった。
しばらくして、海から出て彼女の隣りに横になろうとしたとき、ロッカの反対側のマリナ・ディ・カラーレから、一人の男がやってくるのが見えた。五十メートルほど近くに来るまで、彼を思い出せなかった。すっかり忘れていたのだ。彼はぼくを、つづいて女を認めた。美人で独身の例の女を憶えていたのだ。彼は呆気にとられて足をとめた。ぼくたちを長いこと見つめ、それから避けるように斜めに歩きはじめた。ぼくは立ち上った。
「今日は」とぼくは叫んだ。
彼は返事しない。彼女は目を開いて、男を見た。ぼくは彼に近寄った。何といっていいかわからなかった。
「今日は」とくりかえした。
「きみの奥さんは?」と彼はたずねた。今日はといわなかった。
「帰ったんだ。やめたのさ……」
彼はまた女を見つめた。
「よくわからないな」と彼はいった。
ぼくは幸福そうに見えたにちがいない。話をしながら笑いを押さえられなかった。
「わかる必要はないさ」とぼくはいった。
「仕事は?」
「やっぱりやめたよ」
「二、三日で、そんな決心をしたんかい?」
「やむをえなかったんだ。きみ自身はできるっていってたけど、ぼくは信じなかった。いまにそうなってみると、やはり可能だったことがよくわかるよ」
彼は首をかしげていた。理解できないのだ。また彼女を見つめ、言葉ではなく、目でたずねた。
「彼女は今夜発つよ。知り合いになったのさ」
かなり長いあいだ向い合っていた。彼は奇妙に敵意のこもったやり方で、否定するように首をふった。
「ぼくを信じてくれよ」
「こんなふうに」と彼はゆっくり繰りかえした。「二、三日で?」
「そんなこともあるさ。ぼくは信じてなかったけど、そうなったんだ……」
「とてもいいことさ」とついに彼はいった。
「前にもそういってたね」
彼は具合が悪そうだった。何を話していいのかお互にわからなかった。
「さようなら」
「ぼくはロッカに残るよ、また近いうちに」
彼は立ち去った。しかし先へ行かないで、来た道を逆もどりしたのだ。立ったまま、ぼくは彼が遠ざかるのを見つめていた。それから突然に、彼がエオロの宿屋へぼくを探しに来たまさにそのときにぼくに会ったこと、彼は昨夜から来ていて、すでに従兄に水中メガネを借り、二人して泳ぐ場所も決めていたにちがいないこと、そして彼が非難しているのは、一緒に一日を過す約束をぼくが忘れていたことだ、などを理解した。一瞬、彼を呼びもどそうかと思った。ぼくはそうしなかった。彼女の隣りに身を横たえた。
「ここの人たちと知り合いなの?」
「あれはピサからフィレンツェまで運んでくれたトラックの運転手だよ。今日一緒に水中の釣りをすることになってたんだけど、彼はそれをいわなかったし、ぼくは忘れてたんだ」
「彼を呼びもどさなくちゃ」
「いや、それにはおよばないよ」
彼女はためらった。
「それにはおよばないよ、いずれ会うんだから。一週間前からずっとそのことを考えてたのに、今日になって忘れてしまったよ」
二人は笑い出した。
「あたしが今夜出発するって話したわね。明日の夜に発つのよ」
「それは気の長い話だね」とぼくはやはり笑いながらいった。
昼食のために船へもどった。それから、もう一度船室へ行った。そこに長いあいだいた。彼女は眠り、ぼくはすでに柔らかくなった海の光のなかでずっと彼女が眠るのを見つめていた。それからぼくも眠った。日が沈んでから、二人は目覚めた。デッキへ出ると、空は赤く、カレーラの採石場が白く光っていた。海岸では泳いでいる人たちがいた。エオロのお客たちと、ジブラルタル号の船員たちだ。船上にはぼくら二人きりだった。
「あなた淋しそうね」と彼女がいった。
「昼寝して――ぼくは微笑した――目が覚めたときは、いつだって淋しいものさ」それからぼくは付け加えた。「船からだと物事がひどくちがって見えるね」
「とてもちがって見えるけど、結局のところ、やはり反対側から見たくなるわ」
「そうだろうね」
海水浴客たちがボール遊びをはじめた。叫び声や笑いが聞えてきた。
「もうおそいね」とぼくはいった。
「それがどうしたの?」
「おそいね」とぼくはくりかえした。「あと二十分もしたら夜だよ。一日のこの時間が好きじゃないよ」
「よかったら、バーへ行って、何か飲みましょうか」
ぼくは返事をしなかった。彼女の寝顔をたっぷり眺めていた。いくらか怖かった。
「帰ろうかな」
「あなたと夕食をするわ」と彼女は静かにいった。
ぼくは返事をしなかった。
「きっとエオロはびっくりするわね。それでもかまわない?」
「わからんね」
「いつもそんなに気分が変るの?」
「ときどきね。だけど今日は別に気分が変ったわけじゃないんだ」
「じゃ何なの?」
「よくわからないんだ。二日間であんまりいろんなことが起ったからだろうね。何か飲むものはあるの?」
「お安いご用よ。バーには何でもあるわ」
バーへ行って、ウイスキーを二杯飲んだ。飲みつけていなかったので、最初の一杯はあまりうまくなかったが、二杯目はうまかった。それ以上に、やめられないと思えた。彼女は飲みつけていたので、口もきかないで、楽しそうに飲んでいた。
「ウイスキーってとても高いんだ。なかなか飲めないよ」
「高いわよ」
「きみはたくさん飲むの?」
「いくらかね。ほかのアルコールはぜんぜん飲まないのよ」
「気がひけないかい? 一本三千フランもするんだろう?」
「ううん」
無理に話していた。ぼくたちはまだ船のなかで二人きりなのを感じた。
「それにしても、ウイスキーはうまいな」
「そうでしょう……」
「たしかに、うまい。恥じることがあろうか? 彼はウイスキーが好きだったの?」
彼女はバーのドアごしに、暮れなずむ海岸を眺めていた。
「船にいるのはあたしたちだけね」
彼女はぼくを見つめた。
「不思議ね」と彼女はいった。「あなたと会えてあたしとても嬉しいのよ」
「たしかに不思議だね」
「そうよ」
「これは大恋愛だよ」とぼくはいった。
二人は笑った。それから笑うのをやめ、ぼくは立ち上ってデッキへもどった。
「腹がへったよ。エオロの店へ行こうか?」
「水夫たちを待たなくちゃ。モーターボートを使ってるのよ。泳いで行くのなら別だけど……」
甲板の手すりによりかかった。彼女は船員たちに合図した。一人がモーターボートで迎えに来た。エオロの店へ行く前に、海岸べりを少し走りまわった。
「時間があったら、例の話をしてくれないか」
「長い話だから、時間がかかるわよ」
「かまわないよ、ごく簡単な話でもいいからね」
「時間があったら、そうするわ」
エオロはぼくたちが揃って現われたのを見て驚いたが、実際にはそれほどではなかった。あのダンス以後ぼくは帰らなかったし、彼女と一緒なのも知っていたからだ。カルラはぼくたちを見ると顔を真赤にした。彼らに説明したほうがいいとは思えなかった。彼女は昨夜と同じようにカルラに話しかけたが、いくらか気がなさそうだった。ぼくは彼女以外の誰とも話したくなかったので、黙っていた。彼女は疲れていたが、昨夜よりもっと美しく見えた、たぶんぼくのせいで疲れたと知っていたからだろう。彼女はエオロやカルラにぼんやりと話しかけていたが、ぼくの視線を感じていた。食事はどっさり食べたが、ぶどう酒はあまり飲まなかった。食事が終ると、すぐに彼女は小声で船へもどろうと求めた。ダンスパーティーがすでにはじまっていた。昨夜と同じサンバが河を渡ってくるのが聞えた。海岸への道へ出ると、待ちきれないでぼくは彼女に接吻した。桟橋に着く少し前に、彼女の方から、最近ぼくが考えていたことをはじめて切り出したのだった。冗談口調で、笑いながら話したのだが、いささか熱心すぎるように思えた。
「あの金属磨きの仕事は、まだしたいと思ってるの?」
「もうわからなくなった」
「ジブラルタルの水夫たちの女は、もう興味をひかなくなったのね」
「その女のことをよく知らないで、早く話しすぎたらしいね」
「彼女だってほかの女と変りないわよ」
「そうともいえないね。まず第一に美人だし、次に決して満足しないんだ」
「それから?」
「それから、みんな、彼女はみんなのもので、誰のものでもないと信じている、だからものにするのが相当に厄介らしいよ」
「それはどんな女の場合にもいえることだと思うけど」
「そうだろね、だがあの種の女は一秒たりと目をはなせないんだよ」
「あなたはそんな……何ていうのか……そんな保証なんか気にしない人だと思ってたんだけど」
「気にしないけど、ほかの点ではどうかね? そうした保証が得られないとわかりきっていたら、どうしたってほしくなるんじゃないのかな?」
彼女は思わず微笑した。
「そうかもしれないわね。だけどそうした心配があるからといって自分がしたいことをできないわけでもないでしょう?」
ぼくは返事をしなかった。するともう一度、前よりもいくらか熱心な口調で、
「あなたが言葉通りに自由な体だったら、なぜ来ないの?」
「ぼくにはもうわからない、だけど本当になぜそうしないんだろう?」
彼女は顔をそむけ、いくらか恥ずかしげにいった。
「あなたがはじめての男だとは信じないほうがいいわよ」
「そんなことは一度だって信じなかったよ」
彼女は黙った。それからまたはじめた。
「自分が大変なことをするとあなたが思わないほうがいいと考えて、こんな話をしたのよ。あなたに来てもらいたいのよ」
「これまでにも大勢いたかい?」
「何人かはね……もう三年も彼を探しているのよ」
「その連中にあきたらどうするんだい?」
「海へ捨てるわ」
二人とも笑ったが、あまり楽しそうではなかった。
「よかったら、明日までその決定をのばしたいんだよ」
もう一度ぼくたちは船室へもどった。
またしてもおそく目覚めた。デッキへ出たとき太陽は高かった。すべてが同じで、完全に同じで、しかも同時に完全に新しかった。バーで、ありあわせのチーズとアンチョビーの食事をした。コーヒーとぶどう酒を飲んだ。食事のあいだ彼女は何度も腕時計を見て、心配そうだった、それはぼく自身がどうしていいかわからないのをよく知っていたからで、ぼくに代って彼女が決定できるように感じていたからだ。
「もし来ないのなら、これからどうするつもりなの?」
「いつだってすることが見つかるものさ。ぼくはあんまり沢山のことを決めたので、これ以上は決められそうにないんだよ」
「そんなことをいうんなら、あとひとつぐらい決められるんじゃない?」
「ジブラルタルの水夫とは何者なんだい?」
「前に話したでしょう、二十歳《はたち》の殺人犯よ」
「それから?」
「それだけよ。殺人犯になったらそれだけなのよ、まして二十歳では」
「彼の話を聞きたいな」
「話なんかないわよ。二十歳で殺人犯になると、もう物語なんかないわ。人生で前進も後退も、成功も失敗もできないのよ」
「それでもとにかく彼の話をしてほしいな。どんなに短い話でもいいから」
「あたし疲れてるのよ、それに話なんか別にないんだから」
彼女は椅子に頭を沈めた。ぼくはぶどう酒をとりに行った。
「きっとイタリアで仕事が見つからなくて、フランスへもどって、また戸籍の仕事にもどるでしょうね」
「いや、そんなことはない」
ぼくはそれ以上は求めなかった。日光はすでにバーの床まで達していた。彼女の方から口を切った。
「いいこと、彼は二重に死の脅威を受けていた人間だったの。そういった人間には、いつだって愛情に加えて、なにか特別の愛着を感じるものよ」
「なるほど」
「あなたはパリへもどる、そして彼女に再会し、戸籍係へもどって、またすべてがはじまるでしょう」
「きみ自身の物語のうちで、いちばん短いものでもいいから」
「もうたいして時間がないのよ」と彼女はいって、付け加えた。「あなたがすべき最良の道は、やはりこの船で出発することよ。つまり、あなたのような場合にはね」
「考えてみるよ。話してくれ」
「彼のこと以外に何の話もないわ」
「お願いだから」
「前にも話したように、あたしはスペイン国境の村で子供の頃を過したのよ。父はカフェ兼タバコ屋で、子供は五人、あたしがいちばん上だったわ。お客の顔ぶれはいつも同じで、税官吏や密輸業者たち、夏場には、いくらかの観光客たち。ある夜、十九のときだったわ、お客の車でパリへ家出したの。パリに一年いて、みんながおぼえることをおぼえたわ、サマリテーヌの売子の職業と空腹、固いパンだけの夕食、ご馳走、ご馳走の値段、パンの値段、自由、平等、博愛。いろんなことを学んだような気がするけど、一人の人間に教えられることにくらべたら何でもないわ。一年後、パリにうんざりして、マルセイユへ向ったの。二十歳だったけど、浅はかなもので、ヨットで働きたいと思ったの。海や旅行に対して、白いヨットと結びついて考えていたのね。ヨットクラブの組合には、空いた職がひとつしかなかったわ、給仕女。あたしはそれを選んだ。ヨットは一年もかかる世界一周に出かけることになっていた。あたしがやとわれてから三日後にマルセイユを出発したのよ。九月の朝だったわ。大西洋へ向ったの。翌日の十時頃、水夫が海上に何か小さなものを見つけたの。船長が双眼鏡で眺めると、ボートのへさきに一人の男が見えた。こちらへ向ってくるので、エンジンを切って、タラップを下すと、一人の水夫がよじのぼってきたわ。彼は喉が乾いてて、疲れてると話した。それを口にしたかと思うと気を失ってしまった。ひっぱたいたり、お酒を飲ませたりしたけど、甲板で八時間も眠っていたわ。あたしはその傍らを通る度に、しげしげと見つめた。顔の皮膚は、日光と塩とで焼けただれ、両手はオールをこいだので赤むけだったわ。何日間も船を待っていたのね。軍隊用の、ほら、カーキ色のズボンをはいてたわ。若くて、二十歳だった。それなのにもう犯罪者になる時間があったのね。あたしなんか映画に行く暇しかなかったのに。彼が目をさます前に、あたしはもう愛してたのだわ。夜になって、食事の後で、あたしは彼の船室へとびこんだの。灯りをつけると彼は眠っていた。あんまりはげしい恐怖を味わったので、彼はその夜に自分に会いに来る女がいると想像できないばかりか、そんなことは望みだにしなかったのね。だけど、あたしの方は、まさにそれを望んでいたの。彼はあたしを見て、体を起し、船室から追い出されるのかとたずねた。あたしはそうでないと答えた。こんな具合にはじまったの。六ヶ月つづいたわ。船長は彼をやとったのよ。何週間も過ぎたのに、彼は自分の話を誰にもしなかった、あたしにさえも。まだ彼の名前を知らないわ。六ヶ月後のある夜、上海で、彼はポーカーをやりに行って、それっきり船へもどらなかったの」
「彼が人殺しだってことをずっと知らなかったのかい?」
「ある晩モンマルトルで、彼はアメリカ人を絞め殺したのよ。ずっと後でそのことを知ったわ。彼はお金を奪って、ポーカーをやって、みんなすってしまったの。彼は別にそのアメリカ人からお金を奪うために殺したわけでもなかった。二十歳では、はっきりした理由もなくそんなことをするものよ。相手は高利貸しの親分で、ネルソン・ネルソンとかいう名前の男よ」
ぼくは大笑いした。彼女も笑った。
「でもたとえ金貸しの親分だろうと、人を殺せば殺人犯よ。そしていったん殺人犯になったら、もうそれ以外のものではなくなってしまうのよ」
「ぼくはいつも考えるんだけど、そういう状況だって、いい面が、実際的な面があるんじゃないかな」
「つまりほとんどすべての義務から解放されるってことね、飢え死にしないって義務を除いてはね」
「しかし愛があるよ」とぼくはいった。
「いいえ、彼はあたしを愛してなかったわ。あたしなんか必要なかったのよ、誰も必要でなかったのね。よくこういうわね――一人が欠ければ、みんなが欠けるも同じだ、とね、だけどそれは嘘よ。みんなが欠けているときには、誰もそれを補うことはできないわ。あたしは彼のためにみんなを補ってはやれなかったの。彼はほかの男たちと同様に、ヨコハマが、大通り、映画、選挙、仕事が必要だったのよ。あたしみたいな女なんか、それにくらべたら何になるの?」
「要するに、誰にもなにもいわなかった男というわけだね」
「そうなの。人の話のたねにはなるけど、自分からは誰にもなにも話さない男ね。ときにはね、あたしがすっかり割り出した、つまり彼をもとにして誰かを創り出したのではないかと考えることもあるわ。彼の沈黙は並はずれていて、とても説明できそうにないわ。そして彼のやさしさも、これまた人並みじゃないのよ。彼は自分の運命をひどいとは思っていなかった。そんなことには何の意見もなかったのよ。何にでも楽しみ、子供みたいに眠ったわ。船の上で、彼を裁く勇気のある人はいなかったの」
彼女は少しためらい、またつづけた。
「わかるでしょう、彼の無邪気さを知ってしまうと、自分の傍で眠る姿を見てしまうと、決してすっかり忘れることはできないのよ」
「そのためにきみはずいぶんと変ったろうね」とぼくはいった。
「ずいぶんと」――彼女は微笑した――「そして、おそらく、永久にね」
「じゃ、ポーカーは?」とぼくはたずねた。
「人間って何かを、自分ができることをせずにはいられないのよ。日曜の夜のことだったけど、彼は急にポーカーをやりたくなったのね。船の中の仲間たちとゲームをはじめた。とても若かったけど、すでに彼はポーカーの名手だったのね。例の犯罪の後では一度もやらなかったのよ。はじめのうち、彼は勝った。それから、夜中にかけて、負けはじめたの。勝負のあいだあたしはじっと彼を見つめていたわ。顔つきが変って、まるでお金にせきたてられるみたいに大胆に賭けた。負けはじめると、平然ともうけた以上のお金を、ほとんど一ヶ月分の給料をすってしまったわ。彼は一種の喜びをこめてお金をテーブルの上に投げ出していたわ。彼に残されたほかの人間たちとの唯一の共通点は、お金ではなかったのかしら? じゃ女たちへの愛は? 一人の女ではなく、女たちへの愛は? だってその頃あたしは、彼にとってほとんど何者でもなかったからよ。こういう具合にして、その日曜の夜にそれがはじまったの、つまりあたしは急速に彼を失うことを理解したの。すでに大西洋からパナマ運河を通り、ハワイ、ニューカレドニア、ボルネオ、マラッカ海峡を訪れていたわ。それから、先をつづけないで、太平洋へ逆もどりしたの。それまでに、ごくわずかしか上陸しなかった。タヒチで一回と、ヌーメアで一回だけ。マニラまではそうだったの、つまりそのポーカーの勝負の二日後まではね。マニラで、彼は市内を見物したがった。お金はどっさり持ってたわ。ゲームで一ヶ月分を失くしたけど、まだかきあつめれば相当の金額だったのよ。上陸する機会がほとんどなかったから、浪費の機会もめったになかった、だから上海へ着いたとき、彼は財布にかなりのお金を持っていたわけよ。
上海で、彼はポーカーをやってくるけど、すぐに帰ってくるから、とあたしに告げた。あたしは一晩中待ってたわ。それから次の日も一日中。その翌日になると、あたしは彼を市内へ探しに出かけたわ。上海はあたしがよく知ってる唯一の都市よ、それも当然ね。彼は見つからなかった。そこであたしは彼はもう帰ってるかもしれないと考えて、船へもどったの。だけど彼はもどっていなかった。探し疲れて、もう上陸する気力もなく、ただ船で彼を待っていたわ。あたしは船室へ行って、横になっていた。窓からタラップが見えた。それを見てたけど、そのうちに眠ってしまった。あたしも二十歳で、よく眠ったわ。夜明けに目を覚ましたとき、船は上海の沖に出てたの。あたしは一晩中ねてたのね。彼はもどっていなかったわ。
もしかしたら船長があたしのねてるあいだに出帆する命令を下したのではないか、と後になってよく考えたわ。ずっと後で船長にたずねてみたけど、彼は否定したの。あたしは半信半疑だったけど、それがどうだというの? 上海で下船しなくても、きっと彼はもう少し先で下船したにちがいないわ」
「君は死にたいと思った。船室のドアを開いて、海へ身を投げるのは簡単なことだと考えた」
「あたしはそうしなかったのよ。ヨットの船長と結婚したわ」
彼女は沈黙した。
「ぶどう酒をもう一杯飲みたいわ」
ぼくは取りに行った。彼女はつづけた。
「いいこと、あたしたちは一度も愛してるとは口にしなかったのよ。ただ彼は最初の夜、あたしが船室へ忍びこんだときそういったわ。だけどもちろんその夜は、彼はうれしさのあまり思わずそういっただけで、きっと淫売女にだっていったでしょうよ。いいかえれば、彼は人生に向ってそういったのね。だけどあたしは、彼に愛してるっていう理由がいっぱいあったのに、決してそういわなかったのよ」
しばらく彼女は何もいわなかった。ぼくは立ち上って歩廊へ出た。彼女が呼び返した。
「あなたがしたがってること、つまり人生を変えることは、とてもむずかしいのよ。よほど注意しないといけないわ」
「その後では?」とぼくはたずねた。
「何の?」
「上海の後では?」
「前に話したでしょう。ヨットの持主は合衆国へ離婚をしに行ったわ。彼の妻は莫大な手切れ金を条件に承諾したの。それからすぐにあたしたちは結婚したわ。あたしはお金持の夫人になった。社交界に登場したのよ。文法の勉強までしたわ」
「まだ彼を探そうとは考えなかったのかい?」
「ずっと後になってその考えが浮んだのよ。そのために結婚したとは思わないわ。だけどその考えが浮んだとき、結婚してよかったと思ったわ。だってこんなふうに誰かを探すなんて、とってもお金がかかる贅沢ですもの」
「その結婚のあいだに、きみは……誰とでも寝る習慣をつけたのかね?」
彼女はいくらか狼狽して沈黙した、それから言い訳がましい口調で、
「時には夫に貞節になろうと努力したけど、どうしてもできなかったわ」
「そんなことは努力すべきことじゃないよ」とぼくは笑いながらいった。
「あたしは若かったし、ヨットの生活は陽気だったわ。夫はあたしに忘れさせるために、毎晩ダンスパーティーを開いたわ……」
「海、マストと船員たち……」
「そうよ」と彼女は微笑した。「でもあの連中はパーティーだけでは満足しないのよ」
「なるほど」
「招待客に会えば会うほど、あたしは船艙《せんそう》のなかでパーティーの騒ぎを聞いている水夫たちのことを考えたわ。そこで逃げ出して船艙へ行き、時には夫を裏切ったの。ある日……」
彼女は言葉をとめて、時計を見た。
「もう時間がないわ」
「その気になればあるよ。別に急ぎの用はないんだから」
彼女はまた微笑した。
「ある日、夫は恥ずべき用心深さを思いついたの。上甲板と船のほかの部分とのあいだに分離柵をつくらせたのよ。お客たちはあたしの悪口をいったので追い出されたわ」
「どんな悪口を?」
「たしかこうよ――自然を追い払えば、大急ぎでもどってくる」
笑っているあいだ話を中断し、それからまたつづけた。
「あたしたちは二人で顔をつき合わせて上甲板に住むことになった。夫には決して柵をこえないと約束したわ。あたし本気だったわ、だってそんな極端なことされては、夫の神経を疑いたくなったからよ。そんなことをしたっていっこうに事態は好転しなかったでしょうね。何週間も、何ヶ月も過ぎたわ。あたしはデッキチェアーに横になって、読書して時間を過した。その時期は長い眠りみたいに思うわ。だけどその眠りのうちに、あたしはその後の人生のための余力を貯えたのよ。夫の不信感もねむっていたわ。
ところがある日、ちょうど上海へ寄港することになったの。燃料の都合でどうしようもなかったのね。そこであたしは、永久に目覚めたわけなの。
朝かなり早いうちに入港したわ。あたしたちはもう起床して、柵の内側で本を読んでいた。あたしは読書を中断して、彼をさんざん探しまわったその都会を眺めた。八時から正午まで眺めていた。彼も本を読むのをやめた。正午に、あたしは少し下船する許しを求めた。彼はこういったわ。≪だめだ、きっとお前は二度と帰ってこないだろうから≫あたしは、彼がもう上海にはいないだろうから、心配することはない、ただ一時間ほど市内を散歩したいだけなのだ、と話した。夫は答えた。≪だめだ、たとえ彼がいなくても、お前は二度と帰ってこないだろう≫あたしは、用心のために船員を一人同行させてもいいからといった。夫は答えた。≪だめだ、おれは誰も信用してないんだ≫あたしは夫に、本当に下船をとめる権利があると信じているのか、どんな女性に対してもそんな暴力をふるう権利があると信じているのか、とたずねた。夫は、あると答えた。≪あたしのために≫馬鹿な真似をさせないようにするつもりだと。あたしはそれ以上は求めなかった。お昼になっても何も食べなかったわ。二人ともデッキチェアーに横になって、出発を待ったわ。午後が過ぎて、夕方になった。夜が都市を包んだ。あたしたちはずっと出発を待っていたわ。都市に灯りがつき、赤く燃えていた。その反映があたしたちの甲板にまで届いていたわ。いつまでもその光のなかの夫の顔をおぼえている。あたしはもう一度下船の許しを求めた、彼が望むなら、一緒に来てもいいからと。彼は答えた。≪だめだ、殺されても、だめだぞ≫船は十一時頃に出発した。都市が闇のなかに消えるまでにとても長い時間がかかったわ。なぜあなたにこんな話をするのかしら。きっとその日を境として、あたしにはある種の希望がよみがえったからなのね、つまり、夫と別れて、いつかは別の生活ができると信じはじめたからなのよ。だから、そのいやな日以来、上海に汚いたそがれが訪れるのを見たその日から、夫との生活が少しずつ耐えきれなくなったの。夫とあんまり簡単に別れられるような気がしたので、時間が短く思えたほどだわ。ところが夫と別れるのに、それから三年もかかってしまった。あなたのいう、例の臆病さなのよ。
パリで一年を過したわ。夫が将来の話をするとき、あたしは微笑してたわ。あたしはやさしかった。夫は時にはあたしがジブラルタルの水夫のことを忘れた、と信じたにちがいないわ。でもそう長くは信じなかった、せいぜい一年ぐらいしか」
「それから?」
「彼に再会したわ。二度。二度目は一度目の四年後に。そのときには、彼と一緒に暮らしさえしたのよ」
彼女は沈黙した。日はかげっていた。ぼくはタバコをふかしていた。彼女は急に腕時計を見つめると、バーへ飲物を取りに行った。彼女はぶどう酒のグラスをさし出した。
「もう時間よ」
「妙な話だね」
「そんなことないわよ、ごくあたりまえの話だわ」
「きみの話ばかりじゃないよ」
彼女はぎくりとしたが、すぐに落着きをとりもどした。
「あなたがそんなことをいうのは、あなたがここへ来たせいよ……」
「ぼくはとても怖いんだ」
「そんな必要ないわよ」
「人間っていつも多かれ少なかれ何かを探し求めているものだよ、世界から何かが現われて、自分のところへやってきてほしいと」
「ところが」と彼女はいった。「世界が竿をさし出すとき、それが彼だろうとほかのものだろうと……」
「たしかにそうだ、彼だろうとほかのものだろうとね。それにたとえ彼だろうと、要するにもうすんだことだし、それから毎日ってわけでもないだろうから……」
彼女はぼくの言葉をさえぎった。
「そうとばかりもいえないわよ……」
「まあ、だまっていたまえ」
「何が起るか決してわからない、っていう意味でいったのよ」
「いや、とにかく、だまってくれ」
彼女は疑うような、ためらうような様子でぼくを見つめた。
「いったい何がききたいの?」
「計算の残りかな?」
「そうよ」と彼女はいった。「その通り、残りなのよ」
「真面目なね?」
「そうなのよ、真面目なね。人間って真面目になろうと思えば、なれるものじゃない?」
「その気になればいいんだよ」
「じゃ、あなた発つの?」
すでにエンジンのうなりが聞えていた。
「発つよ」とぼくは答えた。
急に彼女は昨夜とはひどくちがう女となった。これから二人して船の上で多くの楽しみを、楽しみだけを味うかのように。彼女はバーを出て、水夫たちに命令しに行った。やさしい口調で出発を急がせている声が聞えた。それから彼女はもどってきた。
「誰かにエオロにお金を払って、あなたの荷物を持ってこさせるわ」
「一度ぐらいは」とぼくは笑いながらいった。「荷物なんか捨ててしまいたいね」
「それはちょっとばかげてるわ」
「わかってるよ。よかったらエオロに、ぼくの荷物を預かってくれるように伝えてもいいんだよ」
彼女はまた出かけた。
七時だった。ぼくは船の出発までバーにひとりでいた。三十分ほど。錨を上げたとき、日は暮れていた。ぼくはバーを出て、甲板の手すりによりかかった。出発の直後に、カルラが海岸へ駆けつけた。小さな体がハンカチを振るのが見えた。船が遠ざかると、あまりよく見えなくなった。やがて、完全に。マグラ川の河口が海浜を二つに分断していた。大理石の山々が、まばゆい塊となって風景の背後にそそり立っていた。長いあいだずっと。
彼女は何度もぼくの背後を通った。だが一度も手すりのところにいるぼくに近づかなかった。彼女が通る度に、ぼくは振り向いて、何か言葉をかけなくてはと考えたが、その決心がつかなかった。
海はおだやかで、暑く、船は熟れた果実を切る刃物のように、そのなかを前進した。
そう、たしかに彼女は、ぼくが行先をたずねることを、いやもっと正確にいえば、出発に関して、それとも海について、それとも船の歩みについて、それとも八年間も戸籍係で過して、この船の存在も、ジブラルタルの水夫を探すのに生涯を賭けている女の存在も知らなかった男が、突然に船に乗ってどんな気持を味わっているかについて、ぼくが何か口にすることを期待していたにちがいない。
何人かの水夫たちが、ぼくと同様にてすりにもたれて、イタリアの海岸が遠ざかるのを眺めていた。四人いた。ときどきそっと、彼らはぼくのことを盗み見していた。好奇心を抱いているようだったが、控え目に何らの悪意もなく、ただ今度彼女が乗せたのはどんな男なのか見たがっているだけだった。そのなかの一人、小柄な褐色の髪の男がぼくに微笑した。それから、わずか二メートルほど離れたところにいたので、最後には話しかけてきた。
「こんな海なら、楽しいですな」と彼はイタリア風のアクセントでいった。
ぼくは、たしかに楽しいと答えた。船はしだいにスピードをあげて遠ざかっていった。河口はもはや見えず、丘のぼんやりした形だけが見えていた。海岸には一面に灯りが輝いている。ぼくは船員の数をかぞえた。甲板に四人、機関員などを含めて七人、それに料理人が一人か二人だ。定員は九人だろう。ぼくは定員外なのだ。彼女と水夫たちのあいだで。これまでも彼女と水夫たちのあいだには、一人の男しかいなかったにちがいない、とぼくは考えた。
船はさらに遠ざかった。完全な夜となった。海岸は連続した一本の光線の筋、空と海とを分ける火の帯となった。その火の帯もしだいにぼやけはじめたとき、やっと彼女が近づいてきた。彼女もぼくを見つめた、もちろん水夫たちとは別の好奇心をこめて。最初は何もいわないで、微笑し合った。彼女はロッカでと同じ黒のスラックス、黒い木綿のプルオーバー姿だったが、今日はベレー帽をかぶっていた。彼女と知り合ってまだ二日だった。事態は急速に進展していた。ぼくはすでにその衣類の下の彼女の肉体を知っており、彼女の眠る姿さえ見ていた。しかし事態はまた変化していた。彼女が近づいたとき、ぼくは最初のときパーティーでそうだったように、ふるえはじめたのだ。またはじまった。ぼくは彼女が近づいてくるのを見ることに、彼女を見つめることに決して慣れないだろう。
彼女はずっとぼくを見つめていた。率直な目つきの女ではなかった。その夜は、とりわけそうだった。たぶん彼女は、もう何も見えないのに一時間も前からぼくが手すりのところで何をしてるのか、と考えていたからだろう。だが彼女はそのことをたずねなかった。ぼくの方が話しかけたのだ。
「ベレー帽をかぶったね」
「風のためよ」
「風なんかないよ」
彼女は微笑した。
「それがどうだっていうの? ただの習慣よ、ときにはとるのを忘れてねることだってあるわ」
「よく似合うよ。だからいいじゃないか?」
「ときにはね」と彼女は同じ口調でつづけた。「着物を着たままでねることもあるし、髪をゆわなかったり、顔を洗わないことだってあるのよ」
「それだってやはり習慣さ」
静かな暗い海の上に、デッキの光が踊っている。彼女の腕が触れたが、顔はやはり海に向けたままだった。
「食べるのは?」
「ちゃんと食べるわ」――彼女は笑った――「食欲だけはおうせいよ」
「いつも」
「食べないときには、ちゃんと理由があるわ。だけど顔を洗うのを忘れるときは、たいして理由なんかないのよ」
やっと見つめ合った。彼女の目を見て、いくらか神経質な笑いの衝動を感じたが、二人とも笑わなかった。そこでぼくは挨拶めいたことを口にした。
「とうとう、乗ってしまったよ」
彼女はとてもやさしく微笑した。
「あら、たいしたことじゃないわよ」
「そう、たいしたことじゃないね」
しばらく沈黙がつづいた。彼女はずっとぼくの方を見ていた。
「妙な気持?」
「たしかに妙な気持だよ」
「で、あなたは」と彼女はしばらくしてたずねた。「食欲があるの?」
「あるよ。その上に、さっきから……」
「一緒に食べましょうよ」と彼女は楽しげにいった。
彼女はぼくが出発すると告げたときと同じ子供っぽい笑いを見せた。ぼくは彼女について≪バー≫へ行った。それはすでにおなじみの場所だった。一見して、すでに長いあいだ船にはお客が来ていないことがわかった。それはバーというより番人部屋に似ていた。家具は実用第一のものだった。船艙にある以前の船員用食堂は廃止され、いまや水夫たちはそこで彼女と一緒に食事をしている。この船では、朝の七時から夜の十時までのあいだに、食べたいときに食べられるのだ。食事ごとに二枚ずつ供される皿は、保温器で暖められており、みんなセルフサービスだった。バーの上の棚には、いつでもチーズ、果物、アンチョビー、オリーブなど、すぐ食べられる品物が並んでいる。ぶどう酒やビールなどもあった。入って行くと、ラジオが鳴っていた。
彼女はテーブルに向った。ぼくは彼女の前に坐った。少し奥のほかのテーブルでは、三人の水夫たちが食べていた。お喋りしながら彼らはぼくを見つめた。先ほど甲板で言葉をかわした褐色の髪の小男もいた。今度も彼はそっと微笑した。彼女は立ち上り、保温器から皿を二つ持ってきた。皿には二匹の魚が入っていた。
「これお好き? 嫌いだったら、ほかのがあるわよ」
ぼくはそれが好きだった。フォークで魚の頭を切って、皿の縁へ置いた。それからフォークを置いた。彼女がそれを見つめていた。水夫たちの視線を感じてぼくは少し気づまりで、食欲が薄れた。
「好きじゃないのね」
「この船はどこへ行くんだい?」とそこでぼくはたずねた。
彼女はやさしく微笑して三人の水夫の方を向いた。
「セートね、つまり、最初はセートへ行くのね?」
「そのつもりです」と一人が答えた。
「なぜセートへ行くの?」
彼女は返事をしなかった。ぼくは立ち上って、バーへ行き、ぶどう酒をついで飲んだ。
「なぜセートへ行くんだい?」とぼくはみんなにたずねた。
しかし水夫たちもやはり答えなかった。
「行っちゃいけないの?」と彼女は水夫たちの方を見ながらいった。
しかし水夫たちは賛成しなかった、明らかに納得していないのだ。ぼくは待ちつづけた。彼女はこちらを向いて、小声でいった。
「一昨日、セートから手紙をもらったのよ」
彼女がそういうとすぐに、水夫たちは退席した。ぼくたちは二人だけになったが、それもごく短い間だった。別の水夫が入ってきて、皿を片づけたり、グラスを洗ったりした。その間にも好奇の目でぼくを見つめた。ぼくは食べる気がしなくなった。
「お腹がすいてないのね」
「そうなんだよ」
「きっと疲れてるのね。あたし、いつもだったらお腹がすくのに、今夜はだめよ」
「きっと疲労のせいだろうね」
「セートのせいなら、食べないのはまちがいよ」
「その手紙はいつ受け取ったの?」
「ダンスへ行くちょっと前よ」
「誰からの手紙?」
「ギリシア人の水夫よ。エパミノンダス。ずいぶんと目はしのきく男よ。この二年間に三通目の手紙だわ」
ぼくはもう完全に食欲を失くしていた。彼女は偽善的な口調で話した。
「会えばわかるわよ、エパミノンダスみたいな男は二人といないんだから」彼女はやさしく付け加えた。「少しは食べなさいよ」
ぼくは食べようとつとめた。
「きみは港しか探さないんかい?」
「港の方がずっとチャンスがあるのよ、内陸の都市やサハラ砂漠なんてだめね。それから小さい港じゃなく、大きな港ね」
彼女は微笑して付け加えた。
「あたしの話を聞きながら召し上れ」
「先をつづけたまえ」
「あたしずいぶんと考えたのよ。何年ものあいだそのことしか頭になかったの。彼が持ちこたえられるのは港しかないわ、わかるでしょう、人間って身をかくしてるときには、他人と区別をつけられたくないものよ。港町には多くの秘密が見られるってことは、よく知られてることよ」
「そんなのを映画で見たことがあるよ。人間が身をかくす最良の方法は、できるかぎり自分を探してる連中のなかに溶け込むことだってさ」
「そうなのよ。サハラ砂漠には、むろん警察はないけど、同時にたんぽぽ一本はえていないわ。だから……」
彼女はぶどう酒を飲み、急いでつづけた。
「サハラ砂漠で自分の足跡のただひとりの証人になるのは耐えがたいことなのよ。砂漠や、カラブリアや、森林なんかはよくないかくれ場所ね」
「世界には多くの種類のサハラがあるよ」
「たしかにそうだけど、本物のサハラは選ぶべきではないわ」
「なるほど」ぼくは機械的に付け加えた。「それにしてもきみはいささか異常だね」
「ちがうわ、普通の人たちよりも異常じゃないわよ。砂漠と反対に、都会は比較にならないほど安全よ。ジブラルタルの水夫たちが最後に疲れた足を休められるのは、アスファルトの上だけよ」
「大変なことだね」とぼくは笑いながらいった。
「長いこと話さなくちゃいけないの?」
「できるかぎり長くね」
「そこではじめて、身をかくす人間は無数の生きる可能性を見つけられるのよ。地下鉄に乗ったり、映画館へ行ったり、淫売屋や広場のベンチで眠ったり、立小便したり、散歩できるのよ、もちろん絶対に安全とはいえないけど、ほかではとてもそれと同じものは見つからないわ」
「きみはこれまで、それだけしか、ジブラルタルの水夫を探すことしかしなかったのかい?」
彼女は返事をしないで立ち上り、ぼくにぶどう酒を持ってきてくれた。
ほかの水夫たちが入ってきて、やはり新参者を眺めはじめた。ぼくはぶどう酒を飲んだ。体があつくなった。ぶどう酒は冷たくてうまかった。人に見られても平気になった。彼女はずっと嘲るようなやさしい視線でぼくを見つめていた。
「あたしとしては、かなり熱心に探したつもりよ」それから小声で、笑いながらいった。
「これからもこんな具合に話させるつもりなの?」
「きみに話をやめろとはなかなかいいづらいからね」
彼女は立ち上って、ぶどう酒を注いできた。
「いっそ一本持ってきたほうがいいよ」
「気がつかなかったけど」と彼女は笑いながらいった。「ほんとうにそうね」
ベレー帽姿の彼女は、いくらか船員じみた様子をしていた。美貌の船員。髪が首筋にたれていたが、気にもとめていなかった。ぼくがぶどう酒を飲みほすと、彼女は小声で、「あなた、ぶどう酒が好きね」
ぼくは返事をしなかった。
「という意味は、あなたはぶどう酒を飲んでるときはいつも満足なの?」
彼女はまるでそれが大事な質問みたいに身をのり出した。
「そうさ。もっと話してくれよ」
「そうした港町だけが、警察のほしがる不吉な足跡を残さないのよ。港町では、たとえよそよりも数が多くて残忍でも、警察ははるかにしのぎやすい。警察は出入り口を監視してるだけで、その他のところは遠くから眺めてるだけなの、怠けてるのね」
水夫たちはいささかどぎもを抜かれて耳を傾けていたが、大体において賛成していた。
「そうでさ」と一人がいった。「パリよりもツーロンの方がずっと安全ですよ」
「それに」と彼女はいった。「海が近くにあったほうが気分がいいじゃない? 家族もなく、衣裳ダンスも、身分証明書も定住地もないときには、かたぎの人たちが有難がるそういった保証なんか何の役にも立たないし、自分ひとりの体さえもてあましているくらいだから、海岸にいたほうがずっと気楽じゃないかしら? それとも海の上に?」
「どんな場合だってそうさ」
ぼくは笑った。彼女も。つづいて水夫たちも。
「お金があり余って困っている場合でもね」とぼくは小声で付け加えた。
彼女はまた笑った。
「それに」と一人の水夫がいった。「マルセイユにいたら、サンディエゴにいるのと同じみたいですよ」
「最初の貨物船に」ともう一人がいった。「船艙係として乗っちまえばいいんだからな」
「そういったあわただしい出発こそ、港の魅力の大部分を占めるのじゃないかしら? 夏になると、観光客が大勢で港を見物に来るわ。だけど彼らに何がわかるかしら?」
「じゃ、きみは?」とぼくは笑いながらたずねた。「犯罪の経験豊かなきみは?」
「ふつうみんなが見ないものよ、逃亡者にぴったりの狭い街、袋小路など。でもこれまであんまり偽の影をみすぎたから……」
「それで?」
「もう船をおりないの。ヨットはいつも同じで、ただ名前が変るだけよ。おりる必要があるかしら? ヨットにいたほうがずっとよくわかるんじゃない?」
「すごくよくわかるよ」
水夫がラジオをつけた。下手なジャズ。
「チーズを食べない?」
ぼくは立ち上って、それを取りに行った。彼女も立ち上った。
「あたし、もう喋りたくないわ」
「ぼくの船室を見せてくれよ」
彼女は食べるのをやめてぼくを見つめた。ぼくは食べていた。
「もちろん」と彼女はさり気なくいった。「これから見せてあげるわ」
「まだ腹がへってるな。果物を食べよう」
彼女は食べないで、ぶどう酒を二杯とりに行った。
「ねえ……」
彼女はまた身をかがめた。ベレー帽が落ちた。もう遅かった。寝る時刻になっていた。彼女の頭髪は乱れていた。
「何だい?」
「あなた海が好きでしょう? つまり……ここでもよそと変りがないでしょう?」
「彼女をまだよく知らないけど」とぼくは思わず笑っていった。「きっと好きになるよ」
彼女も笑った。
「いらっしゃい、あなたの船室を見せるわ」
ぼくたちは中甲板へ下った。六つの船室は後甲板に面していた。四部屋はいま水夫たちが使っていた。彼女は左舷の六つ目の船室へ入っていった。それは明らかにかなり長いあいだ空室らしかった。小さな寝台が一つあるだけで、彼女の部屋と隣り合っている。鏡はくもり、洗面台には薄い埃がたまっていた。ベッドの仕度は整っていなかった。
「まだあまり使ってないようだね」とぼくはいった。
彼女はドアにもたれた。
「ほとんどね」と彼女はいった。
ぼくは舷窓に近づいた。それは予想と異なり、中甲板ではなく海に面していた。洗面器のところへもどって、栓をひねった。濁った水、つづいて澄んだ水が溢れ出た。顔を水で冷やした。まだ顔がヒリヒリした。ジャクリーヌの汽車が出るのを待ちながら、プラタナスの木蔭で眠ったあいだに、日焼けをしたのだ。彼女はぼくの動きを目で追っていた。
「ずいぶん日焼けしたのね」
「汽車を待ってるときにだよ。長かったからな」
「一昨日、あなたは昼食のときにひどく酔ってたわね。起きてからずっと坐りっぱなしだったわ。楽しそうだったわよ、あんなに幸福そうな人を見たことがなかったわ」
「すごく幸福だったんだよ」
「昼食後、あたし旅館の近くを長いことあなたを探したのよ。すぐにあなたに会いたかった。あなたがいつも幸福じゃないってことがすぐにわかったもの。うまくやったものね」
「ぶどう酒のおかげさ。ずいぶん飲んだからね。おまけにこの日焼けまでもらったよ」
「洗ってはだめよ、クリームをつけるといいわ。いま持ってきてあげる」
彼女は出ていった。船室はしばらく静かになった。するとぼくは、スクリューの振動と、船腹にあたる海の音とを、はっきり耳にした。ぼくは驚こうとつとめたが、うまくいかなかった。ぼくはただ彼女が船室にいないことに驚いただけだった。彼女はすぐにもどってきた。ぼくは顔を洗い終って、クリームをつけた。彼女は両手を枕にして、ベッドの上に横になっていた。ぼくは彼女の方を向いた。
「大変なことだね」とぼくは笑った。
「こんなことははじめてよ」と彼女も笑った。
もう何も話すことはなかった。
「あなたお喋りじゃないのね」
「彼はほとんど喋らなかったんだろう?」
「パリでは、少しは喋ったわ。だけど、そのせいじゃないのよ」
「そうさ、ぼくは殺人犯じゃないからね。そのうちにうんと喋ってあげるよ。いまはとにかく荷物をなんとかしなくちゃ」
「やっぱり、みんな残しておいたのはつまらなかったわね」
突然に、彼女は何かを思い出して笑った。
「ひとりいたわよ」
彼女は中途でやめて、赤くなった。
「どんな男だ?」
「ごめんね」
「どんな男だ?」
「あたしヘマばかりしてるの」彼女は目を伏せ、もう笑っていなかった。
「どんな男だい? 聞きずてならんよ」
「その男はね」と彼女はまた笑いはじめた。「とても大きなトランクを持って乗船したのよ。ほんとにでっかいのだったわ。きっと小さいのがないんだろう、とあたし考えたわ。二日目に彼は白ズボン姿で甲板に現れたの。三日目には白ズボンの上にひさしつきの帽子をかぶっていたわ。水夫たちは駅長さんて呼んだの。それで彼は一刻も早く船をおりたがったわ、帽子をぬいだけど、もう手おくれなのね」
「ほらね、ぼくは勘がいいだろう」
ぼくは笑った。彼女もベッドに横になったまま笑った。
「それで、ほかの男たちは、何を持ってきたんだい?」
彼女は笑いをとめた。
「何にも」
時として、人間は自分がいちばん望むことをしたがるのではなく、反対に、いちばん望むことがないからしたがる場合がある。しかし彼女はそんな矛盾には悩まなかった。彼女にも矛盾はあったが、それとは別のものだった。そしてぼくは、その矛盾を解放するために、船に乗ったわけではなかった。
それでも、彼女は夜遅くなって自分の船室へもどった、たぶん必要以上におそく、船でのぼくの役割が要求するよりもおそくなってから。
その夜の残りはよく眠れなかった。ぼくは十時頃に目を覚まし、食堂へコーヒーを飲みに行った。そこには水夫が二人いた。おはようを交し合った。昨夜、夕食のときに顔を合わせた連中で、すでにぼくの存在に慣れているようだった。コーヒーを飲むと、すぐに甲板へ出た。陽はすでに高かった。めったにない歓喜が黄金の風とともに吹きまくっていた。甲板へ出でたときぼくは目がくらんでバーのドアに背をもたせかけたにちがいない、それほど海は真青だったのだ。
ぼくは中甲板をひとまわりした。彼女はいなかった、まだ起きていないのだろう。船首へ向うと、昨夜微笑してくれた褐色の髪の小柄な水夫に会った。歌をうたいながら、網を修繕している。
「いい天気だね」とぼくはいった。
「いまシチリアですよ、海はずっとこんな調子でさあ」
ぼくは彼の近くに立った。彼はお喋りしたがっていた。シラクサでおりた水夫の代りに、二ヶ月前にシチリアで彼女にやとわれた、と彼は語った。それ以前は、シラクサとマルセイユ間をオレンジを運ぶ貨物船の水夫をしていたのだ。
「ヨットに乗るとちがうね。あんまり仕事が暇なんで、ときどきこうやって仕事をつくるんさ」彼は網を見せた。
船は海岸の近くを走っていた。狭くて人家のたてこんだ平野で、背景には丘陵が見える。
「コルシカ島かね?」とぼくはきいた。
「まさか、まだイタリアだよ」
彼は指で海岸の一点をさした。煙突が林立する大きな町だ。
「リヴォルノだよ」と彼は笑っていった。
「しかし、セートは?」
「セートは反対側さ」
「ピオンビーノあたりから曲るのかな」
ぼくは網を手にして、何となく手にまきつけた。
「昨夜ダンスパーティーであんたを見かけたよ」と彼は急にいった。
この男はまだぼくみたいな種類の人間は見たことがないのだ、とぼくは感じた。ヨットへ来て二ヶ月しかならないのだから。
「三日前に彼女と知り合ったのさ」
彼はいささか困ったような視線を投げかけ、返事をしなかった。
「ぼくはあそこで待ってたわけだよ」
「なるほど」と彼はいった。
彼はお喋りだった。彼もジブラルタルの水夫の話を知っていると語った。ヨットの水夫たちに聞いたのだ。彼はその水夫に感嘆の気持を抱いていたが、≪なぜアメリカ人を殺したのか≫、またなぜ彼女が探しているのか、その理由がわからないのだ。
「じゃ、なぜ彼女がこんなふうに旅行してると思うんだい?」とぼくはたずねた。
「そいつは厄介なことだが、きっとただ旅行してるだけなんだろうさ」
「彼が殺したのはアメリカ人なのかい?」
「アメリカ人だという連中もいるし、そうじゃないっていうやつらもいるよ。みんないろんなことをいうからね」
「アメリカ人かもしれんし、あるいは英国人かもしれないな……」
「そうさね」とブルーノは微笑していった。「おれの見るところ、彼女は退屈してるのさ」
「船にひとりぼっちでいれば、退屈するのが当り前じゃないかな?」
彼は楽しむと同時にとまどっていた。
「ひとりといったって、いつもそうじゃないよ。だからといってやっぱり退屈してるんだよ。あの水夫のこと以外の何かにね、それ以外には考えられんね」
ぼくは別に反対しなかった。そのせいか彼は勢いづいた。
「だけどそのうちに、彼女はやめるだろうさ、しょっちゅうこんなことしてられないからね。船の生活なんて長くつづけられないよ。おれの前の男がそういってたよ、まさかと思ってたが、いまじゃよくわかるな」
彼女は水夫たちに、ふつうの三倍もの高給を支払っており、決して無理な要求もしないのに、二、三ヵ月か半年もすると、みんなやめていく、とりわけ若い連中は、と彼は説明した。
「だけど見つからないままに永久に探しつづけることなんてできないよ」と彼はいくらかためらいがちに付け加えた、「いまにあんただってわかりますよ。どこへも行かないで、ほとんど何もしないで、給料だけはたっぷりもらえるんですからな。どこかへ向うんだって、いつも決った目的地なんかないし、もっとも手紙を受け取った場合は別ですけど、そんなことは稀ですからね。到着したって、ただ待ってるんですよ。何を? あの男が船を見つけて、乗船してくるのを、っていいますけどね」
「だけど彼女にとっては、また別問題だろうね。もし彼女が船を離れたら、何ができるだろうか?」
「その気になれば見つかりますよ」
「そりゃそうさ」
「そのうちに、きっと彼女はこんな旅行に我慢できなくなりますよ」
「きみはね、どう思うかい、彼女にチャンスがあるかな?」
「何の?」
「彼を見つけ出すさ」
「彼女にきいてみればいいでしょう」彼はいくらかとまどった口調でいった。「そんなに興味があるんだったらね」
「いや、ただ何となくきいたまでさ」
またジブラルタルの水夫の話になった。
「おれは何ひとつ信じないね」とブルーノはいった。「とてもありそうにない話さ。みんな小説みたいなつもりで話してるんだよ。手紙だって同じさ。彼を見たっていうのがいたるところにいるからね。だから手紙なんかもらったって、何にもならないさ」
「何もないよりはましだろう」
「つまり実用的なのさ。どこへ行くかを考えなくてすむからね」
「じゃわかりっこないんだね?」
「もちろん、わかりっこないよ。世の中には無数の人間がいるんだからな」
「それでも、彼女が探してるってことを知ってる人がかなりいるんだから、ひとりで探すのとはわけがちがうよ。思ったよりもチャンスがあるかもしれんよ」
「そりゃあね、世界中の主な港では、彼女が探してることをみんな知ってるよ。だけどかんじんの彼にわからなくちゃ、何の役に立つのかい? きっと彼は大陸の真中で暮していて、彼女の話なんか聞きたくもないんだよ。不思議なことに、彼女はもしかしたら彼の方が、それほど彼女に会いたがらないってことを考えてもみないんだよ」
「なるほど、彼女はそれを考えるべきだな」
やはり彼自身の将来の方が、彼女の運命よりも気になっているのだ。彼はすでに船を去りたがっていた。
「セートに着いたら」と彼はいった。「その先のことはわからないね。またもどってくるとみんないっているけど、みんな一度は去るけど、いつも船へもどって来るんだってさ。旅行の途中で彼女は昔の水夫をまた見つけ出すらしいんだ。みんなやめるけど、不思議なことに、後になってもどりたがるのさ。あの舵手だってもう三度目だよ。セートで会うエパミノンダスだって、三度目になるんだぜ」
「彼女はあまりきみたちの気に入らないんだね」とぼくはいった。
彼はびっくりした。
「そういうわけじゃないさ。だけどたしかに、彼女は人をばかにするところがあるね」
「ぼくはそうは思わないけどな」
「おれはちがうね。どうしてもそれを感じちゃうんだ。だけど別にうらんでるわけじゃないんだぜ。それでもおれはたぶんセートでおりるだろうな」
「自分のしたいと思うことをすべきさ」
「時どき、なぜか知らんが、ほんのちょっぴりだけど、この船に乗っているのが恥ずかしくなるんだよ」
「恥ずかしくないことを選ぶ権利はあるんだよ」とぼくはいった。
ぼくは彼と別れ、中甲板へ出て、彼女の船室の前で待った。彼女を待つ以外に何もしたくなかった。金属磨きの考えが、無邪気な夢のようによみがえった。ぼくは何もできないだろう。何年ものあいだ、暗闇のなかで、いやというほど働いたので、もはや女が太陽の下へ出てくるのを待つ以外のことをする気がなかった。ほかの男たちだっておれみたいにするだろうな、ぼくは確信したので、貴い労働の日々よりも孤独感を味わなくてすんだ。
彼女は船室から出てきた。ぼくの傍へやってきた。ぼくは朝海を見たときと同じように目を閉じていたにちがいない。彼女は満足そうだった。
「もうリヴォルノよ、早いわね」後になって、いつもそうなのを知った、つまり彼女は港と港の距離にいつも驚くのだ。たぶんその距離はますます短く感じられたのだろう――彼女はもう三年も旅船をしているのだから。
「セートは?」ぼくはたずねた。
彼女は海を見ながら微笑した。
「まだ時間がかかるわよ」
「だけど、セートで待ってる人がいるんだろう?」
「エパミノンダスに知らせておいたわ」
「いつ?」
「昨夜、発つ前に」
「きみは真面目じゃないね?」とぼくは笑おうとした。
「いいえ、あたしは真面目よ。だけどくどいみたいだけど、それがどうしたの?」
それ以上は話をしなかった。彼女は両手に地図を抱えていたので、それを見せるようにいった。それはプラスチック製の折りたたみできる地図で、南米で作らせたものであった。各大陸の居住区域だけを表示しているものだが、極めて正確だった――彼女はロッカを指さした、それはイタリア海岸の無数の点に混ったごく小さな点にすぎなかった。その地図はまた土地や河川を明記していたが、そのために白くて空虚な大陸は、いつもは海と同様に裸であると感じさせた。それは裏返しにされた宇宙の、地球の陰画の地図だった。彼女はそれを暗記していると自慢した。
「いま住んでる人よりもよく知ってると思うわ」
ぼくたちはバーの前のデッキチェアーに横になった。みんな何かしら仕事をしていた。ぼくひとりが何もしていないのだ。時どきそのことが記憶によみがえった。
「今度寄港したら」と彼女がいった。「よかったら一緒におりてみない?」
彼女はサングラスをかけ、煙草をふかしながら海を眺めていた。
「ほかの男たちのことを話してくれよ」
「またあたしに話をさせるの?」
「夜になると、きみはいやがるからね」
「ほかの男たちがあなたに何の関係があるのよ?」
「いやな質問だな。そんなに話すのがいやなんかい?」
「ううん、でも自分では話さないくせに、なぜそんなにあたしに話させたがるのか、その理由が知りたいわ」
「ぼくだって好奇心があるし、それにきっとぼくみたいな男が自分ひとりじゃないって信じたいからだろうね」
「ほとんど手あたりしだいよ。あたしさんざんヘマをしたのよ」
「どんなヘマをしたのか知りたいな」
「とってもお粗末で滑稽なのよ。だけど時には、それらが本当にヘマなのかどうか考えるわ、もしかしたらあたしの方が……」
「相手をちゃんと見なかった?」
「たぶんね。それにある時期には、あなたがいうみたいに誰でもかまわず船に乗せたこともあったわ」
「ぼくは誰でもかまわないとはいわないよ」
「あたしのいう意味は、自分にあってない人たちってこと」
「きみにあう人とあわない人とがあるんかい?」
彼女は笑わなかった。
「どうかしらね」
「はじめたまえ」とぼくはいった。「ある男は……」
「ある男は最初の日からすっかり落ちついてしまったのよ。出港後、数時間して船室へ行ってみると、もうすっかり住みついていたわ。棚には本が並べてあった。バルザック全集。洗面台の上には、もう化粧道具が揃えてあったわ。その道具のなかに、不幸なことにヤードレーのラヴァンド香水の瓶が何本もあったの。あたしがそれを見つめて目を丸くしているのに気づいて、彼はこう説明したわ、彼はヤードレーのラヴァンド香水を欠かすことができないが、旅行先で見つかるかどうかわからないので、用心のためにストックしてあるんだって」
彼女は笑いだした。
「あたしの失敗ってこんなものよ」
「それ以外には?」
「まあ、みんな話すんなら、何かを飲まなくちゃならないわ」
「待ちたまえ」
ぼくはバーへ行って、ウイスキーを二杯つくって持ってきた。彼女はそれを飲んだ。「いつも」と彼女は話した――いくらかためらいがちに――「あたしは彼らにあの男を探すのを手伝ってくれとたのんだわ。みんな承知してくれた。いつだって出発するのを承知してくれたわ。三日ぐらいはそっとしておいて、彼らにその考えに慣れさせるの。それから三日後に、彼らがさっぱり理解してないことに気がつくのよ」
ぼくもウイスキーを飲んだ。
「だけど」とぼくはいった。「三日間そっとされなくてもわかるはずだがね」
二人は笑った。彼女の方が強く笑った。
「彼らはたずねるのよ。≪何をしたらいいですか? いって下さいよ。何だってお手伝いしますから≫だけど船員の靴の底皮を換えてくれとたのむと、彼らはことわるのよ。≪ぼくはそんなことたのまれたんじゃない。そんなことはぼくがたのまれたことと何の関係もないよ≫」
「ウイスキーをもう一杯飲もう」
ぼくはバーへ行って、もう一度ウイスキーを二杯つくってもどってきた。
「つづけたまえ」
「なかには、乗船するとすぐに時間割をつくった男もいたわ。健康は、規則正しい生活にあるっていうのよ。毎朝、彼は上甲板でリズム体操をしてたわ」
ぼくはウイスキーを飲んだ。
「そのうちにきみをモデルにしてアメリカ小説を書いてあげるよ」
「なぜアメリカなの?」
「ウイスキーのせいだよ。ウイスキーはアメリカの酒だからね。つづけたまえ」
「三週間もいた男がいたわ。その男がいちばん長く残ったわけね。若くて、貧しい美青年だったわ。身のまりの品物はほとんど持ってなくて、白い半ズボンも、オーデコロンも持ってなかった。しかし彼は決して海を見なかった、ほとんど船室から外へ出なかったのよ。ヘーゲルを読んでたわ。ある日それが面白いかとたずねると、それは哲学で、根本的なものだと答えたわ。それから、もしあたしが読んだら、自分の立場がずっとはっきりするだろうと話したわ。なぜだかしらないけど、それは無遠慮な言葉に思えたわ。彼はしょっちゅう本を読んでたわ、それまでこんな機会は一度もなかったから、二度とこんなに自由な時間には恵まれないだろうから、これを利用しなくてはと話したわ。あたしは彼にどっさりお金をやったの、働かないで一年はヘーゲルが読めるだけのお金をね」
彼女は付け加えた。
「あの男なら、残しておいてもよかったんだけど」
彼女はウイスキーを飲んだ。
「酔っぱらいそうだわ」
「少しくらい酔っぱらったって酔っぱらわなくったって、変りがあるかい?」
「ねえ、あたしはこれまでにただの酔っぱらいは一度も乗せなかったのよ」
「一度も?」
「つまりね」と彼女は笑いながらいった。「その種の過ちは一度もおかさなかったのよ」
「これで、きみは全部の過ちをおかしたことになるよ」
「過ちを総なめにするわけね」
「つづけたまえ」
「たくさんいたわ。面白い連中だけを話してあげるわよ。最初の夜に、こう話した男がいたわ。≪さあ、もういいだろう、話してくれよ、あのばかげた話はいったいなんだい?≫あたしはたずねたわ。≪どんな話?≫彼は答えた。≪ほら、あのジブラルタルの水夫の話さ≫まだ港を離れたばかりだったけど、もうわかってしまったのよ」
彼女は笑いすぎて涙を流した。眼鏡をはずして、目を拭った。
「また別の男は」と彼女は話した――彼女はもうとめどがなかった――「三日目にカメラを出したのよ。ライカだったけど、あたしだってローライフレックスと小型のツァイスを持ってたわ。彼はそれらのカメラを手にして甲板を歩きまわったわ、海の変化を捉えるのだ、と話してたわ。海という未知の女のアルバムをつくろうとしてたのよ」
彼女に話させるためにぼくはできるだけ沈黙していた。
「いちばん厄介だったのは」と彼女は話した。「神様を信じていた男よ。そうしたことは陸の上では見えないのね、いや、海の上だってなかなか見わけがつかないのよ。あたしが疑いを持ったのは、彼が水夫のなかに友だちを持ってなかったことと、しょっちゅう水夫たちの私生活をたずねたからよ。でもきっとローランはあたしより前に何かに気づいたのね。ある晩、彼を酔わせてやったわ。彼は喋りはじめた、あたしがけしかけると、ついに口を割ったわ、ジブラルタルの水夫は人殺しをした不幸な男だから、そのために祈ってやるのがいいって」
「きみはどうしたの?」
「そんなことどうでもいいわ。あの時のあたしは意地悪だったのよ」
「そういったことは陸の上では見えないって、きみは信じているんかい?」
「そうともかぎらないけど、あたしはあまり信用しないで選ぶのが自分のつとめだと思っているのよ」
ぼくは二杯目のウイスキーを飲んだ。心臓がひどく激しく鳴っていたが、たぶんウイスキーのせいと、陽なたで横になっていたからだろう。急に、彼女がふき出した。
「なかにはね、最初の夜にこういった男もいるのよ。≪出発しよう、きみ、あの男を忘れよう。きみは自分で自分を不幸にしているんだよ≫」
彼女は哄笑をつづけながら話した。
「すごい食欲の持主もいたわ。陸にいるときからそうだったけど、船に乗ってからはすごかったわ。船の食事だけじゃたりないといって、食事のあいだに台所へ行って、バナナをむさぼったわ。驚くべき健康の持主だったのね。彼は快適な生活が好きで、それを船の上でもつづけたがっていたのよ」
「まるで男のコレクションだね」
「別の男はやさしい男だったけど、出発するとすぐにこういったの。≪ねえ、この船は魚の群れに追われているよ≫たしかにニシンの群れがついてきてたわ。いつもそんな具合で、時には鮫の群れに一週間もつきまとわれたこともあると説明してやったの。彼はもうニシンのことしか考えなかったの。海を見てもニシンの群れしか眺めないの。彼は船をとめて、ニシンを釣りたかったのね」
彼女は言葉をとめた。
「つづけたまえ」
「だめ。もう面白い男はいないわ」
「そんなに面白くなくてもいいよ」とぼくはいって大笑いしたので、彼女も承知した。
「なるほどね」と彼女はいった。「一人忘れてたわ。その男が人生でしたがってたことは、昔から船の上のドアの握りを磨くことだったの。一生涯、彼は待ってたのよ……」
彼女はサングラスをはずして、ぼくの顔をじろじろ見つめた。
「何だい?」
「あなたは何を待ってるのかしら」
「ぼくにもわからんよ。みんな何を待ってるんだろうね?」
「ジブラルタルの水夫よ」と彼女は笑いながらいった。
「そうだね、ぼくもひとりきりじゃ見つけられないだろうな」
二人は沈黙した。それから突然に、彼女に≪出発しよう、きみ、あの男を忘れよう≫といった男のことを思い出し、ぼくは笑い出した。
「何を考えてるの?」
「きみに出発しようといった男のことさ」
「それからニシンのことしか考えなかった男のこと?」
「彼らはどうすればよかったんだろう? 双眼鏡で水平線でも眺めるのか?」
彼女はサングラスをはずして海を見つめた。それから、とても真剣な口調で、
「あたしにはわからないわ」
「彼らは真面目じゃなかったのさ」
「ああ! それはいい言葉ね。その通りなのよ」
「すぐにわかるんだけどね」
「何が?」
「この船には写真機や、オーデコロンや、バルザックとかヘーゲルの本を持ちこんじゃいけないことさ。それから、切手のコレクションとか、頭文字が刻まれた指輪とか、ごく普通の鉄製の靴べらとか、食欲とか、羊の丸焼きへの好みとか、陸に残した家族への心づかい、将来への心づかい、悲しい過去への心づかい、ニシン釣りの趣味、時間表、小説、エッセイ、船酔い、お喋りの趣味、沈黙や睡眠の趣味なんかもね」
彼女は子供のような目をして耳を傾けていた。
「それだけ?」
「きっとまだ忘れてるだろうな。それに、たとえいま一部をあげた禁止事項を承知していても、やはりこの船の上にとどまることができないってことがわからないんだよ」
「あなたの話は」と彼女は笑いながらいった。「はっきりしないわね。あなたがそんな調子で例のアメリカ小説を書いたら、誰にもわからないわよ」
「この船の連中がいくらかでも理解してくれたら、それでいいのさ。あらゆることをみんなに理解させるわけにはいかんよ」
「この船の連中が特別に目ざといとは考えたこともないわ」
「彼らはまったく特別に目ざといよ」
ぼくはウイスキーを二杯飲んでいた、そんな習慣はなかった。
「要するに、きみは美しい淫売婦さ」
彼女はぜんぜん動じなかった。
「かまわないわ。淫売婦って、こんなもの?」
「そうだと思うね」
「それでいいわ」と彼女はいって、微笑した。
「きみはほんとに……そういった過ちを犯さないではいられないのかい?」
彼女は狼狽し、目を伏せて、返事をしなかった。
「それで……彼がそういった過ちを求めさせるようにしたのかい?」
「そうだと思うわ」と彼女はいった。
「そんなものをかかえていては」とぼくは笑いながらいった。「やっぱり大変だろうね」
「だけど、決して過ちを犯さなかったら、やりきれないと思うわ」
「きみはまるで本に書いてあるみたいに話すね」とぼくはいった。
その日の午後、ぼくはそれまでに飲んだウイスキーにぐったりして、船室の寝台に横たわって長時間を過した。眠りたかったが、いざ横になると、眠気は消え失せた。そこで本を読もうとしたが、それもやはりだめだった。ぼくはただひとつの物語しか読めなかったろうが、その物語はまだ書かれていなかったのだ。そこでぼくは本を床へ投げ出した。それから、その本を見て、笑い出した。たぶんウイスキーのせいで、その本が滑稽に見えた。ページの半ばが折り曲っていて、その気になれば、顔をぶんなぐられた男のような恰好だった。彼女は眠っているにちがいない。あの女は、ウイスキーを二杯飲むと、眠ってすべてを忘れるのだ。ニシンを釣りたがった男、出発しようと語りかけた男、それにたぶんヘーゲルを読んでいた男だって、きっと彼女のとらわれない態度には我慢できなかったのだ。ぼくはひとりで笑っていた、ときどきそうするのだが。やがて時間がたち、ウイスキーが薄れると、それと一緒に、笑いたい気持も消えた。すると、当然のことだが、自分の将来への疑問がわき起った。多少とも遠い先のことを考えた場合、ぼくはいったいどうなるのだろう? ぼくにも人並みに、将来のことを思いわずらう習慣があった。だが今度のは最後のものだった、つまり彼女と一緒に旅行をはじめてからという意味だが――すぐに、そんなことは退屈になった。そしてすぐに、ぼくの兄弟、例のニシンを釣ろうとした男のことが、心をとらえはじめた。彼に会ってみたいと思った、ぼくはその種の人間が大好きなのだ。人間は一人の女や、時どきシュラウドにあほう鳥がとまるだけの水平線を相手にしてると、ひとりでいるのが怖くなるものなのか? たぶん、太平洋の真中で、最初の寄港地から一週間もたつと、ひどく不安になるのだろう。だがぼくはそれほど怖くはなかった。ぼくはそんなことを考えながら、何もしないで、長いこと横になっていた。それから、廊下に彼女の足音が聞えた。彼女はノックして、入ってきた。心の底では、彼女を待ちつづけていたのだ。彼女はすぐに床の上の本を見つけた。
「あたし眠ったの」
彼女は本を指さした。
「あなた本を投げたの?」
ぼくは返事をしなかった。彼女は心配そうにつけくわえた。
「きっといささか退屈しはじめたのね」
「そんなことないよ、きみが心配する必要は全くないよ」
「本を読みたくないときには、大体において退屈しかけてるのよ」
「ぼくはヘーゲルだって読めるよ」
彼女は笑わないで、黙っていた。それから、また口を開いた。
「ほんとに退屈してない?」
「そうさ。部屋へもどりたまえ」
彼女はたいして驚かなかった。しかしすぐには出ていかなかった。ぼくは何もいわないで、彼女に向って体ひとつ動かさないで、じっと見つめた。言葉や身振りは何の役にも立たなかったろう。それからもう一度、出て行くようにたのんだ。
「出て行ってくれよ」
今度こそ彼女は退出した。ぼくも彼女のすぐ後で部屋を出た。真直にブルーノに会いに行った。彼はいつもコードを修繕してるのだ。ぼくはぐったりしていた。彼の傍の甲板の上に横になった。彼はひとりではなくて、別の水夫がウインチにぺンキを塗っていた。
「疲れてますね」とブルーノがいった。
ぼくは笑ったが、ブルーノは微笑した。
「疲れる女だよ」とぼくはいった。
別の水夫は微笑しなかった。
「それにぼくはずっと働きづめだったんだよ。何もしないなんてこれがはじめてさ。これも疲れるものだね」
「前にも話したでしょう」とブルーノはいった。「あれは疲れる女ですよ」
「人間は誰だって疲れさせるものさ」と別の水夫がいった。
その水夫には昨日、食堂で会ったことを思い出した。三十五歳ぐらいの男で、ジプシーみたいに褐色の髪をしている。いちばん無口に見えた男だ。彼女の話では、彼はもう一年以上も船にいるが、まだやめたがっていないそうだ。ブルーノが席をはずしたので、ぼくは男と二人きりになった。陽は傾いた。男はペンキを塗りつづけた。彼女がローランと呼んでいたのはこの男だった。
「あなたは疲れてるね」と彼はいった。
彼の口調はブルーノとはちがっていた。たずねているのではなかった。ぼくはそうだと答えた。
「新しいことは、疲れるよ。そのせいさ」
時間がたった。彼は相変らずウインチを塗っていた。夕暮がはじまった、美しく、果てしなく。
「ぼくはこの船でけっこう楽しんでるのさ」とぼくはいった。
「前は何をしてたんです?」
「植民地省の戸籍係さ。八年いたよ」
「どんな仕事だったんです?」
「出生か死亡届を写すのさ。一日中ね」
「ぞっとするね」
「想像できんだろう」
「気が変になるよ」
「だからさ」ぼくは笑った。
「で、きみは?」とぼくがたずねた。
「ほとんどあらゆることをね、長つづきしたことはめったにないね」
「当然だよ」
「そうさ。おれもこの船で楽しんでるよ」
彼は笑みをふくんだとても美しい目をしていた。
「おかしいな」とぼくはいった。「こんな話を本にしたって、誰も信じないよ」
「彼女の話かい?」
「そう、彼女の話さ」
「ロマネスクな女なのさ」彼も笑った。
「そう、ロマネスクだね」そしてぼくも笑った。二人は理解し合った。
夕暮はなおも深まった。船はイタリア海岸のすぐ近くを走っていた。ぼくは海上のぼんやりした光をさした。都市。かなり大きい。
「リヴォルノ?」
「いや。わからない。リヴォルノは過ぎたよ」
彼は冗談口調で付け加えた。
「こんな調子でセートへ向うのさ」
「こんな調子でね」とぼくも笑いながらいって、付け加えた。
「彼女は金持なんだよ」
彼は微笑をやめ、返事をしない。
「ほんとなんだ」とぼくはなおもいった。「彼女は金持ちなんだよ」
彼はペンキ塗りをやめて、いささかつっけんどんにいった。
「彼女にどうしろというんですか。全財産を中国人の子供たちにくれろとでも?」
「むろんそうじゃないさ。だけど、とにかくこのヨットは……」
彼はぼくの言葉をさえぎった。
「これは彼女ができる最良のことだと思うね。いけないわけでもあるかね?」
それから、彼はしかめつらしてつづけた。
「これは世界で最後の幸運の一つさ。彼女がしてるようなことを許されるのは、これが最後かもしれないよ」
太陽は水平線で大きくなっていった。それは突然に真紅となった。微風が吹きはじめた。もう何も話すことがなかった。彼は刷毛をテレピン油がはいった石油罐のなかへ入れて、タバコに火をつけた。
「いつもはね」と彼はいった。「彼女は手紙を受け取ると廻り道をしないよ」
彼はぼくを見つめた。
「ちょっと廻り道だね」
「だけどおれは廻り道には賛成なんだ」
ぼくは話題を変えた。
「リヴォルノはピサから遠いんかい?」
「二十キロだね。知ってるんか?」
「ピサはね。一週間前にいたよ。ひどくやられてた。だけど広場は無傷だったよ。とても暑かったな」
「あんたはロッカで女と一緒だったな、エオロの店で見かけたよ」
「そう、彼女はパリへ帰ったよ」
「あんたは来てよかったよ」
「リヴォルノの次はどこだい?」
「ピオンビーノさ。きっと入港するよ」
「とにかく地図を見なくちゃいかんな」
彼はずっとぼくの顔を見ていた。
「不思議だな」と彼はいった。「おれはあんたが船に残りそうな気がするよ」
「ぼくもそう思ってるんだ」
二人は笑った、それがうまい冗談みたいに。
彼も行ってしまった。夕暮がさらに深まった。彼女と知り合ってから四日と三晩になる。すぐには眠れなかった。いくつかの小さな港が通り過ぎ、夜が訪れるのを眺めていた。暗闇がデッキや海を包んだ。それはぼく自身をも包み、ぼくの心を食い荒した。空はまだ長いあいだ明るかった。ぼくは空が暗くなる前に少し眠ったらしい。たぶん一時間後に目を覚ましたのだろう。空腹だった。食堂へ行った。彼女がいた。ぼくに微笑したので、彼女の傍に坐った。ローランもいて、ぼくに親しげな合図をした。
「妙な様子をしてるのね」と彼女がいった。
「甲板で眠ったんだ、こんなふうに眠ったのはじめてだよ」
「すっかり忘れた?」
「すっかりね。目を覚ましたとき、さっぱりわからなかったよ」
「さっぱり?」
「さっぱり」
「いまは?」
「腹がへってるよ」
彼女はぼくの皿を取って、立ち上った。ぼくは彼女に従ってバーへ行った。また焼魚と小羊のシチューがあった。ぼくはシチューを選んだ。
「船に乗ってるからといって、毎日魚を食べる必要はないよね」
彼女は笑った。
「空気がいいと、腹がへるね」とぼくはいった。
彼女はまた笑った、上機嫌だった、水夫たちと話をして、冗談を交した。セートへ行く前に、シチリアへ寄りたいという者たちがいた。まだ暑いから、ピオンビーノの沖で曲ったほうがいいと話す者たちもいた。セートの後のことは誰も話題にしなかった。夕食後、ぼくは甲板へ出てイタリアの海岸を眺めた。彼女も後からやってきた。
「こんなふうに鼻先を通ると、しょっちゅう下船したくなるだろうな」とぼくがいった。
「さっきあなたを探して、ウインチの近くで見つけたのよ。眠らせておいてあげたわ」
ぼくは海岸の輝く一点を示した。
「クエルキアネーラよ」と彼女がいった。
「デッキチェアーに横になろう。ウイスキーを持ってきてあげるよ」
「あたし、あんまりお喋りしたくないの」と彼女はいくらかせがむようにいった。
「じゃ、いいようにしたまえ、だけど何か話すべきだよ」
ぼくはデッキチェアーに近づいた。彼女はいやいや腰を下した。ぼくはウイスキーを取りに行った。
「あれは半年ほどつづいたのかい?」
「うまく話せないわ」
「きみはヨットの持主と結婚し、金持になり、何年かたった」
「三年よ」
「それから、彼に会った」
「あたしは彼に会ったわ。いつだって同じことよ。やっと信じられるようになったときに、彼に会ったのね、彼を忘れたからじゃなくて、いつか彼の思い出とは別のものを生きられると思ったからなのよ」
彼女は急にぼくの方へ顔を向けて、口を閉じた。
「とにかく、絶望すべきじゃないよ」とぼくはいった。
彼女はウイスキーを飲んだ。それからイタリア海岸を見つめていた。かなり長いあいだ、何もいわないで、彼女はやがてぼくの方を向いて、やさしい皮肉をこめて、
「あなたのアメリカ小説のなかで、その出会いのことを書くなら、それがあたしにとってとても重要だったと書くべきよ。それがあたしに……いくらか、その物語の意味を、つまり彼の持ちうる意味を、それから彼があたしに対して持っていた意味を……把握して、理解させたと……その出会いが起って以来、あたしは彼に出会う可能性を、いつであろうと、誰であろうと、出会う可能性を信ずるようになったと。そしてあたしは彼を探すことのおかげで、まるでほかの人たちが……」
「何だい?」
「あたしにはわからない」
「ぼくが書くよ」
「これはただの文学じゃないのよ」彼女はしばらくして付け加えた。「もしそうだとしたら、あることを理解するために、何度でも、それを我慢しなくちゃならないのよ」
「ぼくはそのことも書くよ」
「もしただの文学だとしたら、あたしはそれを経て文学に到達したのね」彼女は微笑した。
「そうかもしれない。それも書くよ」
「冬のマルセイユのことだったわ。その海岸へ遊びに来て、マルセイユへ泊ったのよ。夜だったわ、朝の五時に近かったと思う。長くて深い夜だったわ。六年前に、彼が犯罪を犯した夜とよく似た夜だったはずよ。その頃のあたしは、まだ彼がどんな犯罪を犯したのか知らなかったわ、前に話したこと、つまり彼がアメリカ人を殺したこと以外はね。
みんなで四人だったわ。あたしの夫、彼の友人たち、それにあたし。キャンヌビエール通りの近くの小路にあるキャバレーで、夜を過したのよ。その小路はキャンヌビエール通りと直接に交叉してたわ。あたしたちの自動車が、その小路には駐車できなくて、キャンヌビエール通りに駐車しなかったら、あの出会いも起らなかったのよ。あたしたちはその小路に駐車する場所がなかったので、車を取りに行く途中で、彼に出会ったの。
だから四人でキャバレーを出たのね。朝の五時だった。とても長く深い夜だったのをおぼえているわ。
キャバレーはあたしたちが出ると看板になったわ。最後の客だったのね。あたしたちはどこでも最後の客だったわ。きっと閑人だったのね。あたしは毎日、お昼まで眠る習慣だったのよ。
マルセイユはひっそりしてた。あたしたちは車の所まで小路を歩いていったの。
友人たちが先に歩いていった、寒くて急いでいたのね。五十メートルほど歩いたとき、誰かがキャンヌビエール通りから入ってきた。その人はあたしたちと逆方向に小路をやってきたのよ。
男だったわ。とても早く歩いていた。軽そうな小さな鞄をさげていたわ。歩きながら、腕の先でその鞄をぶらぶらさせていた。コートは着てなかったわ。
あたしは立ちどまった。男がキャンヌビエール通りから姿を現わすとすぐに、その歩き方から彼だとわかったの。夫はびっくりして、たずねたわ。どうしたんだい? あたしは返事もできなかった。その場に釘づけになって、彼が近づくのを眺めていた。よくおぼえてるけど、夫は振りかえって、彼がこちらへ来るのを見つめたわ。夫には思い出せなかったのよ。彼は夫の人生でもかなりの重要性があったはずなのに、きっとすぐ近くで見なれていたので、遠くからでは見わけがつかなかったのだわ。何か別のことで、妻が歩けなくなったと信じたのよ。それが何だかわからないけど、夫はびっくりしてた。先を行く友人たちは、歩きつづけてたわ。あたしたちがついてこないことに気づいてなかったの。
彼は路上でしばらく動かなかったわ。頭をあげて、あたりを見まわし、それから急に早足で友人たちへ向っていった。彼らの前で立ちどまったので、友人たちもびっくりして足をとめたわ。彼は話しかけたのよ。あたしからそんなに離れてなかった、十メートルぐらいよ。彼の話す声がみんな聞えたわけじゃなくて、はじめの言葉だけよ。≪イングリッシュ?≫とかれは大声の質問口調でいったわ。そのほかの言葉は小声で話したの。片手には鞄を持ち、もう一方には封筒のような小さいものを持ってたわ。落着いた顔だった。ほんのしばらくして、友人たちは何事が起ったか理解したのね。すると人気のない静かな街はたちまち怒りの叫びで充たされたわ。≪とっとと消え失せろ≫と友人が叫んだのよ。夫もそれを耳にして、振りかえり、彼を認めたわ。彼の方はにやりと笑ったわ。彼は真直にあたしのところへやってきた。そして急にあたしのことを思い出したの。彼は立ちどまったわ。
別れてから三年たってたの。あたしは夜会服姿だったわ。彼はじろじろ眺めてた。あたしは高価で立派な毛皮のコートを着てたの。彼はあたしの傍の男に目を向けた。そして夫にも気づいたわ。驚いた顔をしたけど、それも一瞬だった。またあたしの方を見て、微笑したわ。あたしは穴があくほど彼を見つめてたの。彼は体に合ってない古ぼけた夏服を着てたわ。以前と同様に、コートなしだった。それでも、その冬の夜明け方でも、寒そうな様子はしてなかったわ。そう、まるで夏を体につけてるみたいだったの。昔の彼がとても美しかったのをよくおぼえてたけど、その日の夜も、ヨットの甲板でねていた最初の日と同じくらい美しかったわ。上海の後で、あたしはよく彼が、以前ほど美しくないのではないかと思ったわ。だけど、そんなことなかった。彼のまなざしは変りなかった。以前と同じように燃えるようで、内心の乱れを秘めていた。長いこと床屋へも行ってないのか、髪は昔のようにのびほうだいでぼさぼさだったわ。ただひとつ変った点は、ヨットに救われたときと同じくらいやせこけてたこと。だけど彼は、野良猫と同様に、飢えがすっかり身についていたわ。
やせこけていたのに、すぐ彼だとわかったわ。目だけで見わけがついたの。彼は鞄のことを忘れていた、その中味や、夜のそんな時間にその街にいる理由や、寒さや飢えを。彼はあたしに会えて満足してたのよ。
最初に口を開いたのはあたしでも彼でもなかった。夫だった。夫だけがその最初の瞬間の長い沈黙に耐えられなくなって、それを破りたいと思ったのね。夫はとても不器用な人だったわ。でもあたしと結婚して以来、いつかこうした出会いが起ると思ってたのね。いやになるほど考えてたと思うわ。あのひどく慎重な人が不思議と無警戒になったのよ。夫はこうたずねたわ。
≪きみはもう水夫をやってないのかい?≫
それから夫は少し離れて、ビルの戸口にもたれかかったわ。気分が悪くなったのね。夫が遠ざかると、あたしたちは話したわ。彼がたずねたの。
≪元気かい?≫
あたしは答えた。元気よ。
≪そうらしいね≫と彼はいったわ。
あたしは彼に微笑した。時どき、気分のよくない日なんか、彼がとうとう捕まって殺されたと信じたこともあったわ。だけど、まさかあんな男が。絶対にそんなことない、世界は雄々しくもまだ彼を支持していたのね。彼は何と世界の名を揚げたことでしょう! 彼こそ世界にもっともふさわしい住民、つまり世界の深奥に通じた人間なのよ。ああ、彼が生きのびたのはほんとにいいことだったわ! 彼はどんな物語からよみがえったのかしら? どんな真実の旅からもどってきたのでしょう? どのような目がくらむほどの回り道、網の目、夜、太陽、飢え、女、ポーカー、運命の変転をへて、彼はやっとあたしの前にもどってきたのかしら? あたしには自分の話がいささか恥ずかしかった。彼は微笑していったわ――わかるよ。≪はじめからわかってたよ≫と彼はいいたかったのね? そんなことは話題にしたくなかったわ。あたしはこういったの。≪それみんなもらうわ≫そしてあたしは郵便葉書を指さしたの。彼は、相変らず壁にもたれて、はげしい嫉妬に燃えている主人の不在を利用して、小声で囁いたわ。
≪今日は≫
それはみんなおぼえているってことを告げる彼一流の言葉だったわ。あたしは……そう、目を閉じていたのね、昔みたいに。そこで彼も、あたしも同様に、完全におぼえていることを理解したはずよ。それは数秒間つづいたの。だけどそれだけで、昔、仕事が終った後で、船室で味わったのと同じ感動を、その夜明けのなかでたしかめ合うことができたわ。あたしは目を開いた。彼はなおも見つめていた。あたしは気を取り直して、もう一度いったわ。
≪それみんなもらうわ≫
そのとき夫がもどってきたの。だけど彼は気づいてないようだったわ。彼は片膝をあげて、その上に鞄を乗せた。その鞄は雨のためにぶくぶくになって、洋服と同様に古ぼけていたわ。きっと長いこと持ち歩いていたのね。彼はそれを開いた。なかには何十枚かの封筒が入っていたわ。それから、それらに混って、ひとかけらのパンが。鞄のなかにはパンと封筒のほかは何も入ってなかったわ。彼は封筒を一枚ずつ集めて、あたしにさし出した。
≪きみにあげるよ≫
あたしは受け取って、パフのなかへ入れた。冷たかったわ。きっとパンも凍りついてるにちがいない、だけどその封筒のおかげでパンが買えたんだわ、とあたしは考えた。つまり、彼は自分のパンをあたしにくれたわけよ。とにかく、あたしは受け取った。急に声がしたわ。
≪いくらだ?≫
その声で、夫がいることに気づいたの。
≪ただですよ≫彼はいった。≪奥さんへの贈物ですから≫
しかし夫はそうとはとらなかったわ。ポケットから千フランの札束を取り出して、開かれた鞄へ投げこんだの。小さい鞄だったので、札束はパンを半ばかくしてしまったわ。彼はしばらくそれを見ていたが、やがてゆっくりと一枚一枚拾いはじめた。そこであたしはこういったの。
「あなたがアメリカ人を殺したときには、それより少ないお金だったでしょう、ずっと少ないお金でね、そうでしょう?」
夫の手が腕の下から前へ引っ張るのが感じられたわ。あたしは手荒く体をふりほどいた。夫はあたしを放したわ。
≪ずっと少なかったさ≫と彼は笑いながら答えた。≪半分もなかったな≫
彼は札束を拾い終ると、片手で封筒を握っていたので、空いた手で夫にさし出した。あたしは彼にいった。
≪いけないわ、とってくれなくちゃ≫
≪笑わせるなよ≫と彼はやさしくいった。
あたしはなおもとるようにいった。
≪どういうつもりなんだ?≫と彼はあたしにたずねたわ。
≪とにかくさ≫とあたしはいった、彼はお札を数えもしなかったわ。
彼は夫をじっと見つめていた。
≪なぜこんなことをしたんです?≫彼は怒ってはいなかった。
≪きみに妻をはなさせるためだ≫と夫は弱々しげな声でいった。
彼は夫をにらみつづけた。
≪あんなことをしてはいけませんぜ≫
夫は答えなかった。夫はいささか軽率だったと後悔してるようだったわ。
≪この女はわしの妻なのだ≫と夫はいった。よくおぼえてるけど、泣きつくように真剣な声だったわ。
≪いや、あんなことはすべきじゃなかった≫
あたしはずっとパンを見つめていた。あたしは叫んだわ。
≪この人が鞄のなかへ投げたんだから、返す必要なんかないわよ≫
≪そいつは無理だね≫彼はいささか驚いたが、とても冷静だった。
≪あたしがあげるのよ≫
≪そいつは無理だ、そんなことできんよ、きみだってよく知ってるだろう≫
≪あなたに返してほしくないのよ≫
≪だけどおれにはできないよ≫
≪じゃ、この人はどうしたらいいのよ、教えてよ≫
≪そんなことできるものか≫
≪じゃ、あたしは? この人と結婚してるあたしは?≫
彼はあたしを見つめた。それまで理解するのを避けていたいろいろなことを、やっと理解したのね。
≪アンナ≫と彼はあたしにいったわ。≪おれにはできないんだ≫
≪この人がまるっきり悪いんじゃないのよ、せいいっぱいのことをしたのよ≫
パンは相変らず鞄のなかでひとりぼっちだったわ。いまでは夫もそれを見ていた。札束を受け取ろうとはしなかったわ。
≪たのむから受け取ってくれよ≫と夫がいった。
≪だめだ。やっぱりせいいっぱいにしても、おれにはできんよ≫
そこであたしは彼にはじめていったわ、叫んだの、一度もいわなかったことを。彼を愛していると。
彼は急に顔をあげたわ。今度はお金を受け取れないとはいわなかった。あたしはこう説明したの。
≪あたしがあなたを愛してるから、それを受け取るべきよ≫
あたしは駆け出したわ。夫が後からついてきた。振りかえると、彼が追いかけてこないのが見えたわ。彼はあたしが去るのを眺めていた。手に札束を握ってるのがわかったわ。街角で二度目に振りかえったときには、彼の姿はもう見えなかった、行ってしまったのよ。それから二年後まで彼には会えなかったわ」
彼女は話をやめた。
「その後は?」
「ああ、その後のことは、あたしの人生じゃたいして重要じゃないわ。友人たちに追いついたけれど、彼らはあたしたちの会話は耳にしなかったし、あたしの悲鳴は聞いたけど、何のことだかわからなかったのよ。それでも彼らは自分たちが断った品物をあたし達が買ったのを見てびっくりしてたわ。
≪そんなものを買ったの?≫と友人がたずねたわ。
≪悪を助長するだけよ≫と友人の妻がいった。
どんな悪を、とあたしがたずねると、誰も返事できなかったわ。あたしは世界中で彼と二人きりみたいに感じた。パフのなかで、封筒の包みを握りしめていたわ。きっと、最初の日と同じように、彼を愛してたのね。
≪あの売人と知り合いだったのさ≫と夫が話したわ。
≪ああ≫と友人がいった。≪知り合いなら、また話は別だよ……≫
≪彼は水夫でね≫と夫が語った。≪アンナ号で半年ほど働いたんだ≫
≪違うわよ≫とあたしがいった。≪キュプリス号よ≫≪なるほど≫と夫がいったわ。≪あのヨットはその頃はキュプリスという名前だったね≫夫はいささか軽率にも、彼はジブラルタルの出身だと付け加えたわ。そこであたしは、彼がジブラルタルや上海の出身ではなく、どこの人間なのか誰も知らないと話したわ。
≪妙な男だね≫と友人がしたり顔でいった。
そこであたしは彼らに、彼の素性を話してやったわ。時どきこうした向う見ずなことをするのね。あたしが知っていて夫がまだ知らないこと、つまり彼が二十歳のとき、パリで、あるアメリカ人に対して犯罪を犯したと。すると友人が、あることを思い出したのよ。友人は、その犯罪が何年ほど前のことかたずねた。五、六年だとあたしは答えたわ。友人はちょうどその頃、たしかにパリでだいぶ騒がれた犯罪があったと話した。犯人は青年で、被害者は有名なアメリカの実業家だった。
≪思い出したよ≫と友人が叫んだわ。≪ボールベアリング王のネルソン・ネルソンだったよ≫
あたしはたずねた。
≪ほんとに、ボールベアリングなの?≫
あたしは大笑いしたわ。そんなに笑ったのは三年ぶりだったのよ。
≪でもぴったりだわ≫
≪何だって?≫と夫がきいたわ。
≪よくわからないけど、相手がボールベアリング王だってことらしいわ≫
夫はその理由がさっぱりわからないといったわ。
あたしにだってわからなかったけど、そんなことはどうだってよかったのよ。あんまり笑ったのでもう歩けないほどだったわ。
≪その犯罪はずっと真相がわからなかったんだよ≫と友人がつづけたわ。≪ある夜、モンマルトルで、ネルソン・ネルソンは彼のロールスで一人の青年をひっかけたんだ。街は狭くて薄暗かった。ロールスはスピードを出していた。青年はよけられなくて、ひっくり返った。車の泥よけが頭にぶつかって、彼は出血したんだよ。アメリカ人は青年を車へ乗せて、近くの病院へ行くよう運転手に命じた。病院へ着いてみると、車のなかには絞殺されたアメリカ人の死体しかなかったというわけさ。悲鳴ひとつあげる暇もなかったんだね。運転手は何も気がつかなかった。ネルソン・ネルソンの財布が消えていた。大金が入っていたらしいんだよ。どうやら彼が青年に賠償金を払おうとしたところ、その青年は大金を見て頭にきたらしいね≫
あたしはもっとその犯罪のことを聞き出そうとして友人に質問したけど、彼はそれ以上は知らなかったわ。あたしたちはホテルへ帰ったわ。
その帰り道に、あたしも急にあることを思い出したのよ。彼の頭の髪の下に傷痕があったことを。ある夜、彼が眠っているとき発見したのだけど、その傷の真中に黒い刺《とげ》みたいなもの――ロールスのペンキの跡よ――があるのを見てびっくりしたの。妙なものだと思ったけど、それほど重大だとは考えなかったわ。彼にそれをたずねもしなかったの。
帰りはつらかったわ。夫はずっとこのことを予期しており、あの男は上海に留っているはずがないと話した。あたしは夫に、これまでつらい目にあわせてきたかどうかをたずねた。はじめてあたしは、あてもない約束で夫を慰めても無駄だと考えたわ。
いまでもよくおぼえてる。部屋へ入ってひとりになって、やっと自分の時間ができたわ。着物を脱ぎ、カーテンを閉じて、横になった。それからはじめて例の封筒を取り出して、一枚ずつ開いたの。十枚あったわ。それぞれに写真が十枚と、絵葉書が二枚ずつ入ってた。全体は細いゴムでゆわえてあったわ。十枚の封筒に、それぞれ同じ十枚の写真と、二枚の絵葉書が入っていた。彼は衝動のあまり十度も同じものをくれたのよ。こんなふうに、一度に束にしてくれるのは、花ぐらいのものよ。だけどあたしはたしかに両手に花を抱いていたんだわ。ただし写真はみだらのものと見なされそうなものだったのよ。絵葉書はエッフェル塔と巡礼の日のルルドの洞窟のものだったわ。
その翌日あたしたちはパリへもどったの。
三日三晩のあいだ、あたしは彼からの電話を待ちつづけたわ。あたしの気持としてはそんなに突飛な考えでもなかったのよ。彼は自由に電話できたはずですもの。あたしの名前はどんな年鑑にも出てたわ。だから彼はその一冊を開いて、キュプリス号の持主の名前を探しさえすればよかったのよ。あたしには彼を見つける方法はまったくなかったわ。三日三晩も待ったのに、彼は電話してこなかったの。
数週間後、あたしはその方がよかったと考えたわ。毎日の稼ぎの百倍ものお金を手にしては、彼にはどうしようもなかったのよ。いまでも彼はポーカーをやりに行ったと信じてるわ。彼は人生で誰にも分け前を与えることができない男で、今度もあたしにそれをくれることができなかったのよ。あたしと一緒だと、彼はポーカーの後でしょげてしまうわ。あたしとしては彼があたしをしょげさせてポーカーをしてくれたほうがいいんだけど。だけどあたしは、そのうわべの不貞のなかに、深い貞節の意志を見るようになったの。彼だってあたし同様に、自分が帰るべきところを知っていたのよ。
戦争がやってきた。時間はたっていった。今度は、四年後にしか彼に再会できなかったの」
彼女は話をやめた。
「もう一杯ウイスキーがほしいわ」
ぼくはウイスキーを取りに行った。ローランはまだバーにいて、ほかの水夫とトランプをしていたが、熱中していてぼくに気づかなかった。デッキへもどると、彼女は舷側にもたれて海岸を眺めていた。ぼくはウイスキーを渡した。船はほの暗い空っぽの波止場がある小さな港の前を通過した。
「カスチリオンチェロよ」と彼女はいった。「まだロジニャーノじゃないと思うけど」
中甲板の灯りでは彼女の顔がよく見えなかったので、もっとよく見たかった。でもまだ何とか我慢できた。
「あの話はよくするんだろうね」とぼくはいって、微笑みかけた。
「ううん」と彼女はいった――いくらか恥ずかしそうにためらって――「でもよく考えるわよ」
「話すようにたのまれたら、きみは話すかい?」
「時には、別の話をするのよ」
「きみが乗船させた連中には、話すの?」
「ううん、こんな話はしない。話したいことを話すのよ。世間並みの話なんかできないわ。時にはただヨット旅行をしてると話すこともあるわ」
彼女の顔を見たい気持ちが急に我慢できなくなった。
「来たまえ」とぼくはいった。
ぼくの船室へ行った。彼女はぐったりして、放心したように寝台に横たわった。ぼくはその傍に腰を下した。
「話すとひどく疲れるわ」
「それはいい疲労だと思うね」とぼくはいった。
彼女は驚いたが、体を起さなかった。
ぼくは舷窓を開いて、もどってきた。
「きみは幸福だったんだね」とぼくはいった。「たとえ六ヶ月でも……」
「もう昔のことよ、いまでは」と彼女はいって、それから付け加えた。「あなたは何をいいたかったの?」
「もう忘れたよ。船はいつかとまるのかい?」
彼女は少しずつ物語から脱け出すのがわかった。
「明日、ピオンビーノで、よかったら船をおりてもいいわよ」
「ピオンビーノでもどこでもいいよ」とぼくはいった。
「だんだん船をおりるのが好きになったわ、だけどやっぱり船なしではいられないのね」
「もう船をおりていけない理由はないからね」
「で、あなたは」と彼女はたずねた。「幸福だったの?」
「たまには幸福だったらしいけど、はっきりした記憶はないね」
彼女はぼくの説明を待っていた。
「ぼくは政治をやってたんだよ、戸籍係にいた最初の二年間はね。あの時代はよかったと思うね。だけどその頃だけだよ」
「その後は?」
「もう政治をやらなかった。ろくなことはしなかったよ」
「それで、一度も幸福じゃなかったの……ほかのことでは」
「さっき話したように、時どき、ちょっとしたことで幸福だったはずだよ。どんな場合だって、最悪のときでも、それは可能だからね」
ぼくは笑った。だが彼女は笑わなかった。
「彼女と一緒のときは?」
「だめだった、ただの一日も」
彼女はぼくを見つめた。そこではっきりと感じた。彼女はすっかり物語から脱け出したと。
「あなたはお喋りじゃないのね」と彼女はやさしくいった。
ぼくは立ち上り、昨日と同様に、顔を洗いはじめた。もうたいして痛まない。
「いっぺんには話せないよ」とぼくはいった。「だけどそのうちに話してあげるよ。誰だって話すことはいろいろとあるものさ」
「どんなこと?」
「ぼくの人生さ、なかなか面白いよ」
「前よりずっとよくなったわ」
「もうなおったよ、痛くないんだ」
もう何も話し合うことはなかった。ぼくは煙草に火をつけた。立ったままだった。
「今日の午後は」と彼女はためらいがちにたずねた。「あなたは何を飲んだの?」
「ウイスキーさ、あれには慣れてないからね」
彼女は起き上った。
「今度もあたしに自分の部屋へ行けというの?」
「そうじゃないよ」とぼくはいった。
翌朝はピオンビーノが見えた。またしてもよく眠れなかったのに、朝早く目が覚めてしまった。相変らず上天気だった。デッキへ出ると、船はピオンビーノの運河へ入っていた。ぼくはバーのテーブルの上にあったイタリアの案内書を持ってきた。ピオンビーノについては製鉄業の重要性しか述べられていなかった。しばらくブルーノと暑さについて話し合った。雲が出はじめた。十一時頃、船が波止場へ着いたとき、彼女は姿を現わした。彼女はぼくに一緒に下船して昼食をしに行く約束だったのを思い出させ、それからどこかへ、たぶん自分の船室へ行ってしまった。
ぼくは一時間ほどデッキにいた。ヨットの入港は港の貧しい子供たちを残らず集めた。ローランとほかの二人の水夫は給油車の到着を待って岸壁を散歩していた。ローランがぼくに話しかけた。給油車が来て、まだ終らないうちに、彼女が近づいてきた。ドレスを身につけていた。
「本を読んでたのよ」
「なるほど」とぼくはいった。
彼女はいくらか気を使いながらいった。
「あなたも読書すべきよ」
「たいして読みたくないね」ぼくは子供たちを眺めていた。
彼女はそれ以上はすすめなかった。
「おりる?」
「おりよう」
船をおりて、レストランを探しはじめた。時間をかけてもなかなか見つからない。大きな港だったが、観光客はあまり立ち寄らなかった。街路は直角に交り、新しくて淋しく、並木もなく、同じような建物がつづいていた。大部分が未舗装で、埃っぽかった。長いこと歩きまわってやっと一軒のレストランが見つかった。空は曇って、重苦しかった。いたるところに子供たち。昼食時で、空気はにんにくや魚の匂いがした。街角の小さなレストランで、テラスはなかった。店内は涼しい。テーブルでは二人の労働者が食べていた。バーでは、身なりのいい三人の客がコーヒーを飲んでいる。テーブルは灰色の大理石だった。たいして料理はない、と店の主人はいった、ミネストラ、サラミ、フライドエッグ、だが時間を下されば、パイができる。それに決めた。彼女はぶどう酒を注文した。紫色のどろどろした下等なぶどう酒だったが、地下室から出したばかりで、氷のように冷たく、飲んでうまかった。かなり歩いたので、たてつづけに二杯飲んだ。
「上等じゃないけど、よく冷えてるね」
「あたしこういうぶどう酒が好きよ」
熱心にぶどう酒の話をした。ぼくは何度も彼女に注いでやった。やがて主人がミネストラを運んできた。ほとんど手をつけなかった。
「あんまり暑いと」と彼女はいくらか頬を染めていった。「食べられないわね」
ぼくも同意した。ぶどう酒のせいで疲労がぶり返した。彼女と知り合ってろくに眠っていなかったのだ。しかしそれは奇妙な、抽象的な疲労で、ちっとも眠くならなかった。たいして食欲もなかった。ちょうど四日間、海水浴の後で、宿屋のあずまやにいたときにいくらか似ていた。彼女はあの日、はじめて再会したとき、ぶどうの青い光に包まれていたのと同じ顔つきをしていた。ぼくよりはほんの少したくさん食べた。ぼくに栄養を与えるのは、疲労と、ぶどう酒、それから? ぼくはもう一びんぶどう酒を注文した。
「時どきね」とぼくはいった。「何日間も、ぶどう酒をきらせられなくなるよ」
「わかるわ、だけど酔っぱらうわよ」
「それが必要なのさ」
主人がサラミを持ってきた。それを少し食べた。次にトマトのサラダが出た。生暖かった、きっと少し前に隣りの八百屋の店先に並んでいたのだろう。それにはほとんど手をつけなかった。主人がやってきた。
「ぜんぜん召し上りませんね」と彼はイタリア語でいった。「気に入りませんか」
「とても気に入ってるんだけど」とぼくは答えた。「暑くて食欲がないんだよ」
主人は卵をつくろうかとたずねた。彼女はその必要はないと答えた。ぼくはもう一びんぶどう酒を注文した。
「じゃ、それで終りですか?」
「終りだよ」とぼくは答えた。
それから少し、店の主人や、隅で編物をしているかなり美人のマダムのことなどを話題にした。もちろん、ぼくは彼女に話のつづきをしてくれとたのんだ。
「例の物語の結末を知りたいんだよ、ジブラルタルの水夫の女の話のね」
彼女はすすんで話してくれた。もう食べたくなかったし、飲みつづけていた。話題もなくなっていた、たぶん暑さのせいで。そこで彼女は喜んでロンドンでの生活を話してくれた。ロンドンでの倦怠。今度は、マルセイユでの出会いの後、彼のことを忘れられなかったので、ロンドンの倦怠も深まったのだろう。次いで平和、強制収容所の発見、それから日曜日――その前の数日間に別に何も決定的なことは起らなかったのだが――彼女はパリへもどろうと決心する。午後、夫の留守中に、彼女は置手紙を残して家出したのだ。そこで彼女は話を中断した。
「あたし酔ったわ、このぶどう酒で」
「ぼくもだよ。だけど平気さ。その手紙には何と書いたの?」
「よくおぼえてないけど、いまでも友情を感じてるとかいうことよ。それから、愛の悲しみのつらさはあたしも知ってるけど、もう我慢しては生きられなくなった、もし運命が、そう運命という言葉を使ったのよ、あたしをジブラルタルの水夫に結びつけなかったら、きっと夫を愛していただろう、とも書いたわ」
彼女は顔を歪めた。
「いやな話ね」
「つづけたまえ」
「あたしはパリへ着いたの。三日間、ほとんどあらゆるところを歩きまわったわ。五年前の上海から後で、これほど歩いたことはなかったわ。三日後のある朝、カフェのテーブルの上の新聞で、夫に関する記事を見つけたの。彼は自殺していた。ロンドンの英雄倒る――これが新聞の見出しだったわ。だけど、恐ろしいことに、そのニュースを見てあたしが最初に考えたのは、新聞だからきっと彼も読むにちがいないってことだったのよ。つまり彼にあたしのことを知らせる方法ってわけね。あたしの屋敷はフランス軍に接収されていたわ。そこであたしはフランス軍の所へ行って、三日間だけ部屋を使わせてくれと頼んだの。それは許可され、電話の使用も許されたわ。ニュースが出てから三日間、あたしは部屋に閉じこもった。門番の女が泣きながら食事を運んでくれたわ。ニュースによると、夫は戦争のため神経を疲れさせて自殺したことになってたわ。あたしはジブラルタルの水夫が、パリにいない場合に、あたしに会いに来るまで三日の余裕を考えたの。要するに彼が生きてるかどうかをたしかめるためよ。あたしは本を読んでいたわ、どうしていいかわからなかったもの。彼が電話してこなかったら、自殺するつもりだったわ。ロンドンを離れて犯した自分の罪を、あまり考えないためには、そうでもするよりしかたなかったのよ。あたしは運命に彼を返してくれと祈り、そのために三日の余裕を与えた。二日目の夜、あたしは彼の電話を受けたの」
彼女はまた話を中断した。
「それで!」
「五週間いっしょに暮らしたわ、それから彼は出て行ったの」
「つまり……前のときみたいに?」
「前みたいになりっこないわ。あたしたちは完全に自由だったもの」
「とにかく話してくれよ」
「あたしたちよく話し合ったわ。ある日、彼はあたしを愛してるといってくれたの。ところがね、ある夜あたしはネルソン・ネルソンのことをまた話題にしたのよ。それまでにもその話は少ししたけど、まあ、冗談半分だったのね。その夜、あたしは彼が若い頃、自動車にはねられ、車に乗せられて病院へ運ばれたこと、その車の持主は太った老人で、彼に具合が悪いかとたずねたが、彼は悪くないと答えたことを知っている、と話したの。彼は否定しなかったわ。その話の結末を教えてくれたの。彼の話では、アメリカ人はこういったのよ――頭がひどく出血してるよ、それから相手が妙な顔で自分を見つめてるのに気づいたのね。彼はそんな高級車に乗ったのははじめてだったので、どんな名前の車かとたずねたところ、アメリカ人は微笑してロールス・ロイスだって答えた。その直後に相手はチョッキから大きな財布をとり出して、それを開いたの。街燈のせいで車のなかでもよく見えた。アメリカ人は千フランの札束を一つ取り出したけど、まだ少くとも四束は財布に残ってるのが見えた。アメリカ人は札束をとめてあるピンをはずして、ゆっくりと数えはじめた。出血がひどくてよく見えなかったが、相手の数えてるのはちゃんと見えたわけね。千フラン。彼はいまでもあの白くて太った指先をおぼえていると話したわ。二千フラン。相手はまた彼を見つめたの。それからちょっとためらって、三枚目の札を加えた。次にもっとためらいながら、四枚目。やがて四枚目でやめると、札束を折り曲げて、財布のなかへしまった。その瞬間に彼はアメリカ人を殺したのよ。それ以上は二度と話してくれなかったわ」
彼女はまたしても話を中断して、ぼくをいくらか嘲るように見つめたが、相変らず上機嫌のようだった。
「こんな話はあまり好きじゃないのね」
「そういうわけじゃないけど、とにかくぼくは知りたいんだよ」
「彼のこと? 彼のことが気に入らないのね?」
「そうだと思うね。つまり、ジブラルタルの水夫たちがね」
彼女はとがめるような目つきもなく、微笑しながらぼくの言葉を待っていた。
「ぼくは例外的な運命はあまり信用しないんだよ。きみに誤解されると困るけど」
ぼくは付け加えた。
「たとえどんな運命でもね」
「彼の責任じゃないわ」と彼女はいった。「彼はあたしが探してるのを知りもしないのよ」
「きみの運命のことだよ。きみは地上最大の恋愛を生きようとしたのだからね」
ぼくは笑った。二人とも少し酔っていた。
「それを望まない人がいるかしら?」と彼女はたずねた。
「もちろんそうさ」とぼくは答えた。「だけど彼みたいな相手がいないことには、どうしょうもないさ」
「よくない理由で愛されたからといって、彼らの責任じゃないわ」
「そう、彼らが悪いんじゃないさ。それによくない理由って、どういう意味だい? ぼくだってよくない理由で人を愛することもできるとは信じるけど、この場合がそうだとは思わないな」
「でも彼らのことが気に入らないのなら、なぜあなたは彼らの物語を聞きたがるの?」
「そういう物語が好きだからさ」
「嘘の物語を?」
「いや、つまり、きりがない物語だよ。泥沼さ」
「あたしもよ」と彼女はいった。
「わかってるよ」とぼくは笑いながらいった。
彼女も笑った。それから、たずねた。
「そうじゃないとしたら、何なの?」
「彼がはなばなしい生活をしているとき、ぼくは間抜け面をして戸籍係の椅子に坐っていた、たぶんそのせいだよ」
「あたしはそうだとは思わないわ」
「彼のはなばなしさに目がくらんだのさ」
「そうじゃないわよ」と彼女はいった。「だけどあの人は、世間の恥みたいに思われながら、子供みたいな目で世間を見ているんだもの、みんなが彼を愛せるはずよ……」
「みんながあの男を愛してるよ」とぼくはいった。「きみが彼をそのようにしたのさ……」
彼女は注意深く耳を傾けていた。
「彼はそういう男になったのさ」とぼくはつづけた。「きみのせいで」
「何に?」
「判定者にさ」
彼女は返事をしないで、慎重になった。
「だけどきみには」とぼくはいった。「そのことが理解できないだろうね」
「じゃ」と彼女はゆっくりといった。「人殺しは、ひとりぼっちで、身をひそめていなくてはならないの? 絶対に追求されるべきじゃないの?」
「むろんそうじゃないさ。それどころか、可能なかぎり……」
「たとえ彼が判定者だとしても」と彼女はしばらくしていった。「自分でも知らないのよ」
「しかしきみは知っているよ。彼は完全にきみの産物だからね。物語をつづけたまえ」
彼女はかなり不本意そうに話をはじめた。
「あとはもうたいしたことも起らなかったのよ。何年ものあいだ彼は女性たちとつき合わなかった。それは戦後も、マルセイユであたしたちが出会った後もつづいた、と彼はいっていたわ。それからあの晩から、ますますあたしに会いたくなった、ともいってた。その理由はちゃんと説明してくれなかったけど。
あたしと一緒になると、彼はまた人生が美しいと思うようになった。つまりたちまち、彼はまた船で出発したくなったのよ。あたしが彼にその気を起させたんだけど、もうずいぶん以前からあたしはその役割を選んでいたのね。彼は四年もフランスに閉じ込められていた。戦争中はレジスタンスに参加し、それから少し闇商売もやったらしいわ。あたしと一緒になると、彼は規則正しく食事をするようになり、出発したいといいだした。警察が少くともあと二年は追求するだろうから、いまの生活より逃げた方がいいというのよ。彼はすべての港が閉鎖され、船は停船されるということが考えられなかったのね。要するに、彼に再会するとすぐに、あたしはまた彼を失うことを知ったの。彼はほかの人たちが刑務所の鉄格子を嫌うように、国境が嫌いだった。キュプリス号を去ってから、彼はもう三回も世界を一週してるのよ。あたしは冗談に、そんな生活をつづけてると、地球が小さくなってしまうわよ、といったわ。彼は笑いながら、そんなことはない、まだ地球の狭さに悩まされたことはなく、その丸さにうっとりしてるんだ、と答えたわ。彼はその言葉に満足そうだったわ、なぜってそんな風にしてある場所から遠ざかれば、必然的にほかの場所へ近づくことになるから、定住地がない人間は丸い形の地球の方が具合がいいってわけなのよ。時効になったら、どこへ定住するか決していわなかったわ。彼は次の旅行のことしか話さなかったの。
あたしたちは一緒に暮さなかった。いつも安全のために、まるで戦争がつづいてるみたいに、あたしは一週いくらの部屋に住んでたの。地味な服装をして、夫が財産を残してくれたとは彼には話さなかったわ」
急に、雨がカフェの窓ガラスに降りかかった。彼女は煙草に火をつけて、雨を眺めた。
「その頃きみは、その財産に手をつけまいと決心してたのかい?」
「もちろんよ。あたし仕事まで探したわ」
「だけど見つからなかった?」
「速記術を知らないからよ。キャバレーのホステス仕事がひとつ見つかったきり、それだけなの。それは遠慮したわ」
「なるほどね」
「それだけよ、夜の仕事以外はね」
「ヨットを持ってることは忘れっこないよね、ひと財産だからな。ある日、それを思い出して……」
「忘れる場合だってあると思うけど、あたしは忘れなかったわ」
彼女はもう一度雨を眺めて、微笑した。
「あたしはヒロインじゃないのね。もしヨットを放棄してたら、きっと良心のとがめを軽くしたでしょうけどね」
彼女は告白するような口調で付け加えた。
「あたしにはよくわかるけど、ヨットに関しては、世間のひとたちはみんな意見が一致するのね。つまりスキャンダルじみたものよ。だけどげんにいま空いているヨットがあり、あたしの方は何もすることがないとなると……」
「ぼくのアメリカ小説では、きみはヨットによって人々からうまく遠ざかるのさ。みんなこういうだろう、あのヨットの女は……やっぱり……あの……」
「何よ?」
「あの暇な女、あののらくら女……」
「それから?」
「あのお喋り女……」
「まあ」と彼女はいって、顔を赤らめた。
「アンナ」とぼくはいった。
彼女は目を伏せて、ぼくの方へ身をかがめた。
「きみは仕事を探したんだね」
「もうそんな話なんかたくさんよ」
「だからこそ、早く話さなくちゃいけないんだよ、厄介払いするためにね」
「あたしは仕事を探したわ。だけど見つける暇がなかった。彼はその前に去ってしまったわ。あたしたちのあいだで何が起ったのか、どう説明したらいいのかしら? それは五週間つづいたのよ。そんなことが可能だとはとても信じられなかったわ。彼と五週間も。彼は毎日外出した。どこへ? パリを歩きまわってたわ。でも夕方になるともどってきて、夜になるとまた出かけるの。彼がもどってきたときには、いつだって食べるものがあるようにしといたわ。彼に少しはひもじい思いをさせるほうがいいってわかってたけど、とてもそんな勇気はなかったわ。彼はそれまでにひもじい思いをたっぷり味わっていたものね。ある日彼はまたポーカーをはじめた。彼がそう話してくれたの。あたしはポーカーに望みをかけたわ。それは五週間つづいたの。あたしは買物したり、掃除したり、料理をつくったりしたわ。彼と大通りを散歩もした。彼を待っていたわ。彼と一緒じゃないとき、何度か夫の友人たちに出会った。あたしは招待されたけど、悲しみを口実にみんなことわったわ。彼の存在を知っている友人たちにも出会った、つまりマルセイユで彼に再会したときにいた友人よ。彼のニュースをたずねたけど、あたしは知らないと答えたわ。誰もよもやあたしが幸福だとは思わなかったの。
彼も仕事を探したわ。一度だけ。保険会社へ行ったのよ。あたしが偽の証明書をつくってやったの。彼は外交員になった。二日目には何も食べなくなったわ。日常生活の地獄にどうしてもなじめない男だったのね。あたしは彼をはげまして芝居をやめさせたわ。彼はまた散歩したりポーカーをやったりしはじめた。そしてあたしもまた望みを抱きはじめたの。
時には、酔っぱらうこともあったわ。彼はあたしにいった。≪きみをホンコンへ、シドニーへ連れていこう。二人して船で行こうよ≫そしてあたしも、時にはそれを信じたわ、たぶん二人はもう別れないことを信じたのよ。自分が将来いつか生活と呼ぶにふさわしいものを持ちうるとは一度も考えなかったけど、そしていくらかそれが不安だったけど、彼の話に反対しなかったわ。自分では嘘だと知っていることを、彼が信じるままにしておいた。あたしは彼の過ち、幻影、ばかげた行いまでふくめて彼を愛していたのよ。時には一緒に住んでることが信じられなくなり、彼の帰りがおそくなって、部屋でひとりで心配していると、ある意味では安心になったわ。
五週間。ある日、新聞に≪荷主連合≫の貨物船がマルセイユを出港したと書いてあった。いまでもおぼえているわ。≪銃士≫号よ。マダガスカルまでコーヒーを積みに行ったの。つづいて二隻目、十隻目、二十隻もの貨物船が破壊をまぬがれたフランスの各港から出発したわ。彼はポーカーをやめた。ベットに横になったまま、煙草をふかし、酒量もふえていったの。たちまちあたしは、彼が死んでくれたらと思うようになったわ。ある朝、彼は≪少し社会見学をするために≫マルセイユへ行くと告げた。あたしにも同行するようにすすめたが、ことわったわ。もう彼がいやになった、死んだらいいと思ったの。彼はしいてすすめなかった。あとで連れに来るか、それとも手紙で呼び寄せるといったわ。あたしは承知した。彼は出発したわ」
彼女はまたも話をやめた。ぼくはぶどう酒を注いでやった。雨は小降りになった。狭いカフェの店内は息づかいが聞えるほど静かだった。
「しかしね」とぼくはたずねた。「その五週間のうちに……きみは、何ていったらいいか、少しうんざりしたのではないかい?」
「わからないわ」
彼女はいくらかどぎまぎして付け加えた。
「そんな質問はしないでほしいわ」
ぼくはだまっていた。彼女はつづけた。
「それにたとえあたしがうんざりしても、そんなことはたいしたことじゃないはずよ」
「なんといったって」とぼくは微笑しながらいった。「それが一般の運命なのさ」
「あなたのいいたいことがわからないわ」
「つまりぼくはきみが一般の運命に従ったほうがいいと思うんだよ」
彼女は子供っぽい目つきをした。うろたえていた。
「彼にまた会えば……五週間はつづけられると思うわ」
彼女は考えこみ、つづいて別の口調で、
「そんな具合にして、三、四年ごとに彼と五週間は暮せるような気がするのよ」
「彼はきみに電話してきたのだね」
「彼はあたしに電話してきたわ」
「彼はこういった――きみに会えるかい?」
「そんなこと話せないわ」
「きみはそれを話したいんだよ」とぼくはできるかぎりやさしくいった。「そしてぼくはその話を聞きたいんだ。それで? 彼はいったんだね、きみに会えるかい?」
「ええ。彼はオルレアン通りのカフェですぐに待ってるようにいったわ。あたしはバッグを手にして、部屋を出た。カフェの狭い奥の部屋に坐ると、正面に鏡があって、バーや入口が映っていたわ。いまでもおぼえてるけど、その鏡にあたしの姿が映ってなかったのよ、変なことね、自分が見つからなかった、あたしが見たのは……」
「……ジブラルタルの水夫の女」とぼくはいった。
「あたしはコニャックを注文した。彼はあたしの少し後で、たぶん十五分ほど後でやってきたわ。鏡のなかで、彼がカフェへ入ってきて、立ちどまり、目であたしを探すのが見えた。回転ドアから彼が姿を現わした瞬間から、あたしは心臓が苦しくなった。その痛みははじめてじゃなかったわ。キュプリス号の甲板へ、彼が重油で真黒になり、日光に体を光らせて上ってきたとき、何度もそれを味わったもの。でも今度はあたし気を失ってしまった。それは彼が入ってきてあたしのテーブルへ来るまでの時間よりも、長くつづいたとは思わないわ。彼の声であたしは正気にもどったの。以前には一度も聞いたことがないような言葉を、彼が口にするのが聞えたわ。彼の声はいくらかかすれていた、きっと戦争のせいね。あたしそれまで一度も失神したことなんかなかったのよ。目を開いて、あたしをのぞきこんでいる彼を見たとき、それが信じられなかったわ。よくおぼえてるけど、彼の手に触ってみたわ。そのとき、彼は二度目だったけど、こういったわ――愛するきみ。その妙な言葉はどんな意味だったのかしら? あたしは彼を見つめて、いくらか変ったのに気づいた。今度は服装もずっとよかった、まだかなり新しい既製服だったわ。コートは着てなかったけど、スカーフはしていた。充分に食べていないのか、やはりやせていたわ。彼はこういったの――何かいってくれよ。あたし考えたけど、言葉が見つからなかったわ。急にひどい疲労を感じた。彼に再会するために、つまり、夫を殺してしまったことを思い出したのよ。その瞬間にすべてがはっきりしたのね。あたしびっくりしたわ、それほどまでに彼を愛してることに驚いたのよ。彼はおかまいなしにいったわ――何か話してくれよ。彼はあたしの手を握って、痛くした。あたしはそういってやった、痛いわよと。それがあたしの最初の言葉だったわ。これほどぴったりの言葉はなかったはずよ。彼はにやりとして、手をはなした。それから二人は正面から、すぐ近くから見つめ合った、そして何も恐れることはないのを理解したの。いま二人のあいだにあるあの死でさえも、ほんのちょっとしたことにすぎず、事情に変化はなくて、そんなものはやすやすとあたしたちの歴史のなかに呑みこまれてしまうと。彼はたずねたわ――きみは彼と別れたのか? あたしはそうだと答えた。彼は好奇の目であたしを見つめた、これまでにない好奇心をこめて。よくおぼえてるわ、あのカフェのネオンの光はとても明るくて、あたしたちはまるでスポットライトをあてられてるみたいだった。彼のその質問はあたしをびっくりさせた。彼はなおもたずねた――なぜ今となって? それはロンドンのことで、あたしはロンドンでは暮せないんだ、と答えたわ。彼はまたあたしの手を取って、握りしめた。あたしは痛いといわなかった。彼は目をそらせた。冷たい手だったわ、外から入ってきたし、手袋をしてなかったからよ。彼はいった――長いこと会わなかったな。彼の手はあたしの手を握っていた、もう何もしなくてもいい、やはりこの人があたしの幸福を、それからまた不幸をもたらすのだ、とわかったわ。わたしは答えた――いずれにせよ、おそかれ早かれ、そうするつもりだったのよ。彼はコニャックのグラスを手にして、一息に飲みほした。あたしは話をつづけた――夫はひどく気落ちする習慣がついて、それに暇がありすぎたので、とてもまともに……彼はその言葉をさえぎった。だまるんだ。なぜあたしに会いたくなったのか不思議だ、と彼は付け加えたわ。もう二人は顔を見つめなかった。椅子の背にもたれて、正面の鏡のなかのバーを見つめていたわ。お客がいっぱいだった。ラジオで愛国的な歌が演奏されていた。平和だった。あたしは話した――あの人は可哀そうな人だったのよ、ちょっと類のない結婚だったわ。彼は昨日はまだツールーズにいたけれど、新聞を見て、あたしがパリにいるか自信がなかったけど、とにかく来てみたのだ、と答えた。あたしは話した――だけど、あたしはあの人と結婚する以外にどうしていいかわからなかったわ。しかし彼はほかのことを話しつづけた――おれが戻ってきたとき、キュプリス号は三十分前に出港したところだった。戦争のせいで、マルセイユ以後は、やはり彼はあたしのことを考えたようだ。みんなすっちゃったの? 彼は答えた――おれは勝ってたんだ。勝ってる途中で帰ってしまったのさ。彼は笑った、いくらか狼狽して。あたしがいった――そうなの、じゃ……そしてあたしも笑った。彼はいった――きみはそれを信じないのか? 信じないわけじゃなかったけど、彼がいつかは勝つだろうなんて考えられなかったわ。彼だってそうよ。ゲームの最中で相手の一人が時間を告げると、彼はカードを投げ出して、走って帰ったのね。あたしはいったわ――ひどい人ね。すると彼は――たとえ時間にまにあったとしても、どうしようもなかったのだろう? あたしは返事をしなかった。あることを思い出して、笑いはじめたの。あたしは話した――ねえ、あの男の名前はネルソン・ネルソンで、ボールベアリング王だって。彼は目を丸くして、しばし呆然としてたけど、急に大笑いしたわ。そう……彼はくり返したわ――ボールベアリング王か。何度も。新聞を見てたらわかったはずよ、とあたしはいった。彼は答えた――だけど、おれはもぐってたんだ、どうしてわかると思う? 彼はまた笑いはじめた、もうあたしなんか見てなかった。あたしも笑ったわ。彼はたずねた――ほんとかい? あたしはそうだと答えた。完全に自信があるわけじゃなかったけど、ボールベアリング王なんて、嘘にしろ考えつくと思う? 彼はうっとりしてくり返した――ネルソン・ネルソン。長いことばか笑いをしてたわ。あたし彼が笑うのを見るのが好きだったの……ギロチンに首をかけられても、まだおかしいだろうな……と彼はいった、ボールベアリング王とはな。ボールベアリング王よりもっと悪い場合だって考えられるわよ、とあたしはいった。それもそうだが、ばかの王様かもしれないからな、と彼はいった。まるで朗唱するみたいに、一気にこうくりかえしたわ――ばかの王様を殺害したために無期懲役。二人ともお客がいたので小声で笑ったわ。彼はいった――ああ、もし知っていたら、あいつがばかの王様だと知っていたら。どうするつもり、とあたしはたずねた。彼にはよくわからなかった、たぶん逃がしていただろう。彼の笑いが少し治まったとき、その話をしてくれたのは、彼の商品をすげなく断った友人たちだと話してやったわ。すると彼はまた思い出した――たとえおれが時間にまにあったとしても、どうしようもなかっただろう? あたしは彼に、自分が一度も幸福な生活や、決った収入や、土曜日ごとの映画なんか求めたことはないと説明した。それはわかっているけど、それでも街の曲り角なんかで急に見失ってしまうものだ、と彼はいった。そこであたしは、それを予期してれば、同じことではないといった。彼は努力しながら、ゆっくりと説明した、上海の後で、彼ははじめてそれに気づいたのだ……彼は言葉を探していた。あたしは彼の言葉をさえぎった。彼は落着いて、なおも話しつづけた、あたしと別れてから多くの女を知ったけど、何の役にも立たなかったと。あたしはその言葉をさえぎって、彼にたずねた。――それであたしにあの写真をくれた後でも、やっぱりポーカーだったの? 彼は違うと答えた。郵便局の前で夜明しをして、朝になって局が開くとすぐにパリへ電話を申しこんで、長いこと待たされた。そしてパリに通じたとき、彼は電話を切ってしまっていた、というわけなの、電話をかけないほうがいいと思ったからなのか? 彼はそうでないと主張した、それは疲労のせいで、彼はボックスのなかで眠ってしまったのだ、女なんかどうでもいい場合だってあるものだと。あたしはほかの説明を求めなかったわ。ちょっと待ってから、こうたずねたの――で、いまは? ホテルに部屋を借りている、と彼は答えた。あたしの顔をじろじろ見つめていたので、あたしはまた顔を赤らめた。彼はたずねた――きみを知ったおかげで、おれはもうわからなくなった、きみはそんなに美人なのか? あたしはそうだと答えた。彼はまたこういったわ。マルセイユではとても疲れていた、だけどあたしにとても会いたかったので、パリに電話が通じたとき、もうよくわからなくなってしまったのだと。それからなのよ」
「何が?」
「彼は急にあたしに近寄って、あたしのコートを開いて、じろじろと見つめ、畜生め、といったの。それだけよ。それでまたはじまったのよ」
「それで、きみは?」
「あの人はならず者だった、と彼にいったわ。またすべてがはじまったの」
「そこで」とぼくはいった。「きみは青春を、船艙のうっとりする匂いを、きみたちの欲望の下に拡がる夢のような大洋を再発見した。そしてつい先ほどまで冷たく見えたカフェのネオンも、暖かい太陽となったので、きみは汗びっしょりになったほどだ」
ぼくは主人にまたぶどう酒を注文した。
「すまない」とぼくはいって、付け加えた。「きみはそういう話が好きだね」
「ほかの話でもしてくれというの?」彼女はいった。
ぼくは返事をしなかった。彼女はいささか悲しげに小声で、いった。
「あなたにぜひとも話したかったのよ」
「それでその後のことは?」
「さっき話したわ。一緒に五週間を過して、それから彼は出かけたの」
「彼が出かけた後は?」
「それほど面白くないのよ」と彼女はいって、無理に微笑しようとした。「あたしはパリを離れて、田舎に部屋を借りたわ。とても気落ちしてたので、三週間はパリへ彼の手紙を探しに行かないで過してしまったわ。そのうちにそんなことする必要はない、手紙なんか来ないだろうと考えはじめたの。だんだん理性的になったのね。それから、やっぱりパリへもどったわ。あたしたちの小さな部屋にはぜんぜん手紙が来てなかった。パリには二日しかいないで、また田舎へもどったの。長くいるつもりだったけど、一週間いただけで、また出かけたわ。あたしは南へ向って町から町へ、スペイン国境まで、自分でもその気がないのに、生れ故郷のすぐ近くまで行った。そこへ着くと、ホテルに入って、夕方まで部屋に閉じこもっていたわ。あたしは、家出したときにはまだ幼かった弟や妹たちのことを思い出した。後悔してたのね。夜になってから、小さな酒場へ行ってみた。フランスは解放され、窓にはもう覆いがついてなかった。あたしはみんなおぼえてた。店には四人がいた、父と、母と、妹と弟と。父は椅子で居眠りしていた。母は靴下をつくろっていた。妹は皿を洗い、弟はカウンターの後ろで新聞を読みながらお客を待ってたわ。妹はふけて見え、弟は大きくなっていた。あたしは店へ入らなかった。彼らに話しかけ、説明したいともおもわなかったわ。翌日、あたしは出発した。またしても、パリヘ。夫の屋敷は空っぽで、門番の女はあたしが帰ってきたのを見てまた泣いたわ。彼女はいったの――可哀そうな旦那さまのことを考えますと。そこにも手紙は来てなかったわ。庭は荒れほうだいで、あたしの部屋の窓ガラスは何枚も割れていた。門番にお金を払い、田舎へ行くけど、またもどってくるからと告げたわ。それから例の部屋へ行ったの。そこで夕方になると、自分ではとてもできそうになかったことをやったのよ。夫の昔の友人たちに電話して、一緒に夜を過したいと話したの。誰でもかまわなかったけど、ちょうどマルセイユで彼に出会ったとき一緒だった友人たちがいたわ。彼らはあたしを招待してくれた。電話で声を聞いただけで、もうぞっとしたけど、それでも出かけたわ。彼らはとても親切で、愛想よくしてくれたわ。ところで、ねえ、つらいことでしょうが、どうしてあんなことになったのか教えてくれない? あたしは教えないで、あわてて退散したわ。翌日パリを三度目に離れて、コート・ダジュールへ行ったの。そこでまた部屋を借りたけど、今度は海に面してたわ。まだ暑かったので海水浴ができた。あたしは毎日、しかも日に何度も泳いだわ。そしてはじめてこれ以上は動きたくないと思ったの。自分をどうしたらいいのかさっぱりわからなかったわ。一ヶ月がたった。それから、少しずつ、自分のしたことを後悔しはじめたの。彼についてマルセイユまで、いやもっと遠くまで行かなかったことを。そしてある日、例のヨットのことを思い出し、彼を探そうという考えにたどりついた。それから、もう一度、彼と一緒だろうとなかろうと、いわゆる実存と呼ばれるものを持とうと。
そう決心したとき、彼に会いたいという気持が最高だったわけでもないのよ。その反対だったと思うわ。だけどとにかくあたしはいちばんそうしたかったのよ。
あたしはアメリカへ行き、遺産を請求して、ヨットを動かせるようにして、そして出発したの。
あれから三年も彼を探しているわ。だけどまだ彼の足跡を見つけてないの」
ぼくは残りのぶどう酒を彼女に注ぎ、自分のグラスも充たした。二人とも黙って飲み、それから長いこと煙草をふかしていた。
「これだけよ」と彼女はいった。「もう何も話すことはないわ」
ぼくは主人を呼び、勘定を払った。それから彼女に、船へもどる前に市内をひとまわりしようと提案した。
彼女は反対しなかった、承知もしなかった。彼女はぼくにつづいてたち上がり、レストランを出た。天気は回復していた、前より涼しかった。かなりひどい夕立だったらしく、街路はまだ濡れていて、敷石のところどころに水たまりができていた。町はほとんど幸福そうに見えた。ぼくらが来たときより人出が多くなっていた。町中の子供たちが外へ出て、水たまりのなかをはだしでとびはねていた。彼女は子供たちを眺めていた、朝よりも熱心に。たぶん彼女はぼくが何も口をきかないことに少し驚いていたのだろう――ときどきぼくの顔を盗み見していた。しかしそれでも彼女は楽しげに歩いていた。ぼくたちは同じ足どりで軽やかに歩いていった、ぶどう酒や疲労にもかかわらず何時間でも歩いただろう。時間も無視して――下船の前に彼女がローランに指示した時刻表から、すでに一時間も延長していたが、そんなことはおくびにも出さず、ぼくらは港とは反対方向に市内へ入っていった。三十分後、偶然にとても人通りの多い街へ出た、両側に店舗が並び、混雑した古い市内電車が走っていた。ぼくは彼女に少し話しかけた。
「あれを見るとサルザナの小さな町を思い出すね、ロッカの近くの」
「あたしもカルラと一緒に一度行ったことがあるわ」
「ぼくはほかの町よりこういう町のほうが好きだね。世界の美しくないものが好きなのさ」
「それから?」
「美しくない町、美しくない状況。特別な町や、特別な状況や、特別なものよりね」
ぼくはほほえんだ。
「それは誇張でしょうね」
「いやちがう。その点は自信があるよ」
彼女は少しためらい、それからたずねた。
「なぜだかわかるの?」
「性格の問題さ」とぼくは答えた。「それにほかの場合より気楽に感じるからだろう。だけどほかの理由もあるにちがいない」
「その理由は考えないの?」
「知りたいとは思わないね」
彼女はそれ以上は求めなかった。ぼくは彼女の腕を握りしめて、いった。
「ぼくは出発してよかったと思ってるよ」
彼女はいくらか疑わしげな目つきをした、ぼくの口調のせいだろう、そして返事をしなかった。ぼくはさらにつづけた。
「きみさえよかったら、今度の寄港地でも、下船してみよう」
「あなたしだいよ」
彼女は顔色を和らげて、微笑のうちに付け加えた。
「だけどもうあなたに話すことはないわよ」
「ほかにも話すことはあるよ」
彼女はすっかり微笑していた。
「そう思う?」
「もちろんさ。誰だって話すべき物語を持ってる、誰にだってひとつは物語があるのさ、ちがうかい?」
「ねえ」と彼女はゆっくりといった。「あらゆることが可能だとあなたは思う? つまりさ、彼が今度の街角で待ってるようなことがいつもありうると?」
「そう思うよ、それにもうすでに、彼は船の上でぼくらを待ってるかもしれないよ」
「そうね」と彼女は笑いながらいった。「人を探すって、そんなことね」
「そうだよ。だけどきっとジブラルタルの水夫はものわかりのいい男だろうよ」
しばらく口をきかないで歩いた。
「妙なことだけど」と彼女がいった。「あたし彼を見つけたらどうしようかと考えたこともないのよ」
「一度も?」
「ほとんどね」
「先のことはわからんというわけだね」とぼくはいった。二人は笑った。
「あたし彼に会う瞬間より先のことは考えられないのよ。彼があたしの前に現われる瞬間より先のことは」
「いまでは、時効が成立しているよ。きみが探してる男は自由の身だろう?」
「そうなの。いささか別の人間ね」
「ところがきみは相変らず犯罪の港を探しまわっているんだよ」
彼女は素直に受け入れた。
「一度にあらゆるところを探すわけにいかないのよ」と彼女はいった。
ぼくたちは商店街を離れ、市のはずれに到着した。市がしだいにとうもろこしの畠のなかに消え失せていくのが見えた。
「別に理由なんかないけど」とぼくはいった。「やっぱり帰ったほうがいいね」
また市内をすっかり通り抜けた、たいして時間はかからず、港へ着くまでせいぜい二十分くらいだった。着く少し前に彼女がいった。
「あなたが話すとしたら、どんなことを話してくれるの?」
「きみが期待してることは全部さ」とぼくは答えた。「ぼくは中途でやめたりしないよ」
港へ到着した。水夫たちは不満そうだった。
「ひどいですね」とローランが彼女にいった。「なんであんな時間表なんて作ったんですかい」
しかし彼は本気で怒ってはいなかった。彼女は言訳をした。
「自分でもわからないのよ」と彼女はいった。「きっとその方がほんとうらしく見えるからよ」
彼女はローランと立ち去った。ぼくは二人がバーへ入るのを見た。二人は時どきぼくに関係のない話があるらしかった。ぼくは甲板のウインチの近くへ行き、おなじみの場所へ横になった。おそい時間で、甲板のこちら側には水夫は一人もいない。船はほとんどすぐに出発した。沖へ出ると、南へ向わないで、そのまま真直にイタリア海岸を後にした。数分後に気がつくと、エルバ島が目の前にあった。彼女は何も話してくれなかった。予期してなかったので、ぼくは思わず笑った。それでは彼女は北へ、セートへ向うよう命令を下したのだ、セートにはエパミノンダスとジブラルタルの水夫が待っている。船はスピードを増した。エルバ島は少しずつぼやけ、左手に消え失せていった。船はさらにどんどんスピードをあげた。どうやら全速力を出しているらしい。彼女はぼくにジブラルタルの水夫の話をしたために失った時間を取りもどそうとしているのだ。海はおだやかで、夢のように美しかった。陽が沈んだ。しかし今度は、ぼくも夜の訪れを目にする暇がなかった。ぼくが眠ったとき、空はまだ明るかった。まだイタリアの沖にいるはずだった。
目を覚ましたとき、彼女はぼくの傍に坐っていた。すっかり真暗だった。
「あたしもひとねいりしたのよ」
彼女は付け加えた。
「食事にしない?」
ぼくは長時間、熟睡したらしい。その間、彼女の存在を忘れてしまっていた。ぼくは急に彼女を思い出した、突然にその声で彼女を見つけたのだ。暗くてよく見えなかった。ぼくは体を起し、彼女を抱いて、すぐ近くの甲板の上へ倒した。目覚めのときによくやるように、荒っぽいしぐさで彼女をきつく抱きしめた。いったい何が起ったのか、またどれだけのあいだ彼女を暗闇のなかで抱きしめていたのかわからない。
「どうかしたの?」と彼女は小声でたずねた。
「いや」とぼくは一気に彼女をはなした。
「ちがうわ」
「いや、眠りすぎたんだ」
ぼくは立ち上って、彼女を食堂へ連れていった。暗闇の後では、光がまぶしかった。彼女はたまげたような大きな目、いやそれ以上に、いつもとはちがう目つきをしていた。彼女は何が起ったのかすでに見抜いている、とぼくは理解した。食堂にはローランと、もう一人の水夫がいた。彼らは食事を終って、お喋りをしていた。
「この調子なら」と別の水夫がいった。「セートへ早く着けるぜ」
ローランは立ち上らなかった。彼女は二人に、気がなさそうに話しかけた。エパミノンダスのこと。アルベールという名の水夫は、エパミノンダスを船へ乗せるようすすめた。彼もローランも、例の手紙のことはおくびにも出さなかった。まったく、と別の水夫がいった、エパミノンダスみたいな男は二人といませんぜ。彼女は同意し、彼を乗船させることを約束し、それから急いで彼らとの会話を切り上げた。ぼくらの視線が合ったとき、二人とも目を伏せた。ぼくらは話し合うわけにいかなかった。とても見えすいていたので、ローランもそれに気づいたらしい。彼は急いで食堂から出ていった。そのすぐ後で、別の水夫が二人やってきた。一人がラジオをつけた。イタリアにおける復興のニュースだった。彼女はスラックスのポケットから鉛筆を取りだし、紙のナプキンに書いた。≪来て≫。ぼくは笑った。それから小声で、毎晩なんて、とてもだめだよ、といった。彼女は笑わず、それ以上は求めないで、二人の水夫たちにおやすみといって退出した。
ぼくも彼女のすぐ後で自分の船室へもどった。横になる気力もなかった。彼女はぼくがもどってからほとんどすぐにやってきた。
「なぜ毎晩はいけないの?」と彼女がたずねた。
ぼくは返事をしなかった。
「なにかいけないことでもあるの?」と彼女はつづけた。「あたしと毎晩いっしょにいては? ほかの女の人とするみたいに?」
「二、三日したらね」とぼくはいった。
やはり彼女を眺めることが、ぼくは何よりも好きだったのだろう。
「できることなら、あなたにだって、あたしがただ遊びの旅行をしてると話せたのよ」
その考えに二人は笑った。彼女はぼくのベッドの端に坐り、腕で両膝をかかえていた。
「あれはただのお話よ、あなたは誤解してるんだわ」
「そうじゃない、あれはいささか月並みすぎるお話さ」
彼女はかすかに嘲るように微笑した。ベッドの端は坐りにくいのか、サンダルが脱げて、床へ落ちた。
「じゃ何よ?」
「あの物語のせいじゃないよ。あれはとても疲れるからさ」
彼女は目を伏せて、ぼくと同様に、むき出しの足を見つめていた。かなり長いあいだ。それからすっかり別の口調、ふだんの会話の口調で、彼女はもう一度たずねた。
「じゃ、教えてよ、あたしたちに何かが起ったの?」
「何も起りゃしないよ」
ぼくはいくらか固い声をしていたのだろう。彼女はまた微笑した。
「さっきひとねいりしたって話したけど、あれは嘘なの。あたし眠れなかったわ」
「それじゃ、今夜は早くねるいい理由ができたじゃないか」
彼女は立ち上らなかった。
「あなた知ってる、物語を話すのと話さないのとでは大きな違いがあるのよ?」
「前にも聞いたよ。だけどぼくはこれほど違うとは思わなかったな」
「あたしは、ちゃんと知ってたわ」
彼女は冷静に付け加えた。
「あなたはこの船で何か仕事を見つけるべきよ」
「ニシンでも釣ろうかな」
彼女はにこりともしなかった。
「きみの部屋へもどりたまえ。ぼくはどなりだしそうだよ」
しかし彼女はそれを聞き流して、体を動かそうとしなかった。両手で頭をかかえて、てこでも動きそうになかった。
「ほんとに」と彼女は小声でいった。「たいした違いがあるのね。またひとつ勉強したわ」
「きみはばかだ」
彼女は頭をあげ、静かな皮肉をこめていった。
「だけど、きっといつかは話し合えるわね?」
「話し合えるさ。きみの部屋へもどれよ」
「いま行くわよ」と彼女は静かにいった。「怒らないで」
「いつか」とぼくはいった。「きみがもう少しまともになったら、面白い話をしてやるよ、長くて、えんえんとつづく話をな」
「どんな話?」
「どんな話が聞きたいんだい?」
彼女は目を伏せた。ぼくは彼女の方へ行かれないようにドアで体を支えていた。彼女はそれをはっきりと見た。
「いまよ」と彼女はいった。「いまそれを話して」
「早すぎるね、わかるだろう? だけどそのうちに、彼のいちばん立派な特徴を話してあげよう。それから彼の追い払い方もね。それはきりがない話だよ」
「彼の追い払い方については」と彼女はいささかびっくりしながらいった。「あたしには何か教えてくれる人がいるとは思えないわ」
「二人して彼を追い払う方法は、あるよ、きみに何か教えられると思うな。きみの部屋へもどりたまえ」
彼女は立ち上り、おとなしくサンダルをはくと、自分の船室へもどった。ぼくは毛布を手にして、デッキへ寝に行った。
涼気が、またしてもぼくを目覚めさせた。コルシカ岬を通ったところで、五時少し過ぎだったろう。風が運ぶ潅木の匂いが船まで伝わってきた。ぼくは日の出までデッキを離れなかった。コルシカ島が水平線から消え失せるのを眺め、潅木の匂いが少しずつ薄れるのを味わう時間がたっぷりあった。それから船室にもどり、午前中の大部分をうとうとしながら過した。その後でまたデッキへ出た。彼女の姿を見たのは昼食のときだった。彼女は落着いて、楽しそうにさえ見えた。ぼくらは話し合ったり、バーで二人だけになるのを避けた。同じテーブルで食事する習慣がすでについてしまったのを、ぼくは後悔した。しかしほかにどうしようもなかったのだ。昼食がすむとすぐに彼女と別れて、ぼくはローランに会いに行った。その日の彼は操舵室の当直だった。二人していろいろと喋った。彼女のことは話さなかった。ジブラルタルの水夫のことや、ネルソン・ネルソンのことを。三十分ほどすると、今度は彼女がやってきた。ぼくがそこにいるのを見て少し驚いたようだが、ほとんど顔色には出さなかった。彼女と知り合ってはじめて、今日はいささか手もちぶさたの様子をしていた。彼女はローランの足下に坐って、ぼくらの会話に加わった。ちょうどネルソン・ネルソンの話をしているところで、笑っていた。
「噂によるとね」とローランは話した。「彼は被害者たちにたんまりと終身年金を払ってたってことだぜ。彼はそうやって太っ腹の印象を与えてるのさ。それは二重の利益があるんだ。彼は重要な仕事のために車で早く動かねばならないから、時たま人を轢き殺すより、慎重に運転する方が時間を無駄にすると細かく計算してるんだな」
「あんたって想像力があるのね」と彼女は笑いながらいった。
「どこかで読んだのさ」とローランがいった。「ここまで二十五人を轢いたけど、ちゃんともうけてるのさ。あんたのジブラルタルの水夫の場合だって、計算に上ではたいして間違ってなかったはずだよ」
「やっぱり彼はたいして間違ってなかったよ」とぼくはいった。
「ああ、その点は」と彼女がいった。「絶対に断言できるわね」
「いいことをいうね」とローラン。
「何というジレンマだろう! 誰だってネルソン・ネルソンみたいな行動をするんじゃなかろうか? よく考えてみると、ひどいジレンマだよ」
三人とも笑った、とりわけ彼女とぼくとは。しかしぼくたちは忘れていなかった、いうまでもなく、もしローランがその場にいなかったら、二人ともぜんぜん笑う気がしないことを。
「掘出し物といったら」と彼女が話した。「まさしく彼をそのジレンマから抜け出させたことね」
「しかし世間の人たちにあのネルソンがすべきことがわかるだろうかなあ」とローランがいった。
「そのせいばかりじゃないわよ」と彼女がいった。「あたしの考えでは、彼に残された唯一の道は、やはり死ぬことだったのよ、彼はそれまでに数知れぬボールベアリングをつくり、その王様になった。世界中の車はネルソンの町を走ってるようなものよ。ところが、地球が軸のまわりを回転するのにネルソンのボールベアリングを必要とするチャンスは永久になかったので、ネルソン・ネルソンの空想力はいわば空まわりしちゃったのね。だからこそ彼は、想像力がつきはてて、死んでしまったのよ」
「調子いいな」とローランがいった。
「なぜネルソンは彼にこういってやらなかったのかしら。≪ここだけの話だけど、わたしはボールベアリングにあきあきしてるんだ、きみの事故を機会にわしは考えをあらためて、寛大になるつもりだよ≫そうしたらきっと彼は兎みたいに逃げ出したでしょうよ」
彼女は話を中断して、煙草に火をつけた。
「それとも」と彼女はつづけた。「ただこういえばよかったのよ。≪きみの若い頭に流れてる血を見ると、わしはつらいよ≫そうすれば一文もかからないのに、彼はやっぱり兎みたいに逃げ出したわよ」
「だけど、あんたは逃げないよ」とローランがいった。
「そうね」と彼女がいった。「要するに言葉の問題よ」
「ボールベアリングだけじゃないんだろう」とぼくはいった。
誰も返事をしなかった。
「事実、そうなんだろう」とぼくはたずねた。「あと何があるんだい?」
「鉄よ」と彼女はいった。「いつだって鉄よ。ベアリングの鉄だろうと、ヨットの鉄だろうと……」
ぼくがそれ以上の説明を求めているのを彼女は読みとった。
「彼は鉄で大儲けした莫大な財産家の一人息子だったのよ」
「だけど鉄を恥じたのさ」とローラン。
「彼は家出して」と彼女はつづけた。「海へ出て、あの連中の仲間入りをしたのよ……でも鉄からは永久に逃れられなかった。その証拠に……」
「ヨットだって鉄でつくられるからな」とぼくはいった。
「ばかな鉄屋さ」とローランがいった。「しかしいまでは鉄もまっとうな連中の手におさまったわけよ」
彼女は楽しそうに笑った、相変らずぼくの方を見るのを避けながら。
「いずれにしても」と彼女はいった。「毎日、人殺しに特別な注意を払ってるわけにいかないわね」
「いやいや」とローラン。「人殺しがなくっても、あんたは何かを見つけてるよ……」
「必要なのは」とぼくはいった。「適当な執念さ。これ以上のものはないよ」
「何のために?」
彼女はぼくの顔をのぞきこんだ。
「いい口実さ」とぼくはいった。
「何のための?」
「旅行するためのさ」とぼくは笑った。
ローランは鼻歌をはじめた。話はそこでとぎれた。それから、急に、彼女は出て行った。ぼくは長いことローランの傍にいた。一時間。ほとんど口をきかないで。それから、ぼくも外へ出た。船室へはもどらないで、やはりデッキのウインチのところへ出た。ねむくなかった。ぼくが食堂へ入っていくと、彼女は出ていった。ぼくの顔をちらりとも見なかった。
その晩も、やはり船室で彼女を待つのを避けて、ぼくはデッキで眠った。昨日や一昨日と同様に、夜明けがぼくの目を覚ました。これでまる一日、彼女と一対一で会わなかったことになる。だけどぼくは一緒に寝たのと同じくらい疲れた。ぼくは手すりにもたれた。船はフランス海岸に達していた。かなり近くを走っている。いくつもの小さな港が流れ、街路が海を照らし出した。ぼくは眺めていなかった。手すりに頭を乗せ、目を閉じた。するとぼくは何も考えないで、体の隅々まで彼女のイメージが充たされるのを感じた。彼女は船室で眠っている、そしてぼくは彼女の眠りしか想像できなかった。横を流れる町々は、その眠りが流れる背景の事物の意味しかなかった。そしてすでにぼくは、このような激情に長いあいだ抵抗はできず、そのうちに彼女に話しかけねばならないと考えた。ぼくはそのまま長いこと額を手すりにあてていた。やがて太陽が昇った。ぼくはたいしてその気もなく、眠っている彼女のイメージに酔いながら、自分の船室へ下りていった。彼女はそこにいた。きっと長いあいだ待ちつづけて、おしまいに眠ってしまったのだろう。ナイトテーブルの上にはウイスキーのびんがあった。それは条理を失った女だった。洋服を着たまま、シーツを体にまきつけ、サンダルを床に落し、両足を拡げて眠っている。たいしてウイスキーは飲まなかっただろう、びんの中身は半分ほど残っていた。それでも彼女は熟睡していた。ぼくは床の絨毯の上に横になった、彼女を起したくなかった、そして長いあいだ彼女を見ないようにした。彼女の休息をひどく大事に思った。
そこに落着いて、彼女がいるのを知るとぼくはやっと少し眠れた。目を覚ましたのは彼女より先だった。ぼくも着たままだった。そっと船室を出て、食堂へ行った。コーヒーをどっさり飲んだ。水夫の全員が甲板にいた。九時だった。船はツーロンへ着いたのだ。ぼくは四時間ぐらいしか眠ってなかった。甲板へ出ると、昨日と同様に、いや毎日のことだが、目がまぶしかった。きっとまだ海の光線によくなれていないのだろう。
ぼくは船が停泊しているあいだ、つまり一時間、ツーロンで下船した。彼女を誘わなかった。二度と船にもどるかどうかもわからなかった。しかし船へもどった。寄港があったのに、果てしなく長い一日だった。終日ぼくは船室で過した。彼女は会いに来なかった。夕食のとき彼女に会った。昨日と同様に冷静に見えたが、そのまなざしにはかつて知らないものうげな疲労のごときものがあった。水夫が彼女に病気かとたずねると、彼女はそれを否定した。その夜も彼女は早々に自室へ引きあげた。ぼくはすぐに彼女を追いかけた。
「あなたを待ってたのよ」と彼女はいった。
「ぼくはどうしたらいいのかさっぱりわからないんだ」
「あなたは」と彼女はゆっくりといった。「甲板で眠るべきよ」
ぼくはベッドに横になっている彼女の傍に立っていた。きっとふるえていたと思う。
「話してよ」と彼女はいった。
「できないんだ」
ぼくは笑おうとした。
「ほんとはまだ誰にも話したことがないんだ。ぼくにはできないよ」
「そんなたいしたことじゃないわ」と彼女がいった。
「みんなばかだ。ぼくもばかになるよ」
今度は彼女の方が、ぼくに出て行くように求めた。
ぼくはわずかしか眠らなかった。だけど今夜は、ぼくの船室で。それから昨日よりも早く目を覚ました。眠れない夜の後で、おきまりの香り高く熱いコーヒー。この船では、よく眠れない連中にはコーヒーが必要なのをみんな知っている。ブルーノが近寄ってきた。妙な顔をしている。
「あんたは具合が悪いね」と彼はいった。
ぼくはバーのドアにもたれて答えた。
「光線のせいだよ、慣れていないからね」
彼は笑いながら海岸を指さした。
「セートだよ。あと三十分もすれば着くよ。彼女を起さなくちゃいけないね」
ぼくは彼になぜそんなに上機嫌かとたずねた。
「だんだん面白くなってきたのさ」と彼はいった。
ローランがやってきて、いまの言葉を耳にした。
「いまにはじまったことじゃないよ」とローランがいった。「シチリアあたりからにやにやしてたからな」
「やっぱりセートで船をおりるのかい?」
「おれにはもうよくわからんよ」とブルーノは答えた。「もし面白くなるんなら、もう少し残ってもいいと思ってるんだ。なりゆきしだいってとこだね」
彼女はぼくに少しおくれてデッキへ現われた。バーのドアからぼくを呼んだ。ぼくたちは上機嫌でお早うをかわし、そしてはじめて彼女はぼくの具合をたずねた。例によって黒のスラックスとプルオーバー姿だったが、まだ髪をゆってなくて、頭髪は肩にたれていた。ぼくはあまり眠らなかったが、元気だと答えた。彼女はそれ以上はたずねなかった。ドアにもたれて立ったまま、コーヒーを二杯飲み、それからデッキへ出て、町を眺めた。彼女は、やはり笑いながら町を眺めているブルーノにお早ようをいった。ブルーノのことで心配していたので、彼の笑顔を見て安心したようだった。彼女も一緒に笑った。町を眺めて笑っているみたいで、妙な光景だった。
「セートではおりないの?」
「たぶんまだですよ」とブルーノが答えた。「エパミノンダスの話を聞いたら、少しその男と知り合いになりたくなってね」
「もうちょっと残っててくれたら、あたしも嬉しいわ」
船はドックから数百メートルの位置にいた。岸壁に一人の男が現われて、船に合図をした。彼女は笑いながらそれに答えた。ぼくは彼女に近寄った。
「いまにわかるけど」と彼女はいった。「エパミノンダスみたいな男は二人といないわよ」
「あんたみたいな人もね」とブルーノがやはり笑顔でいった。「彼はどうやら飲み明かしたようだね」
彼女は髪をゆいに行った。船が接岸したとき、彼女はすでにもどってきていた。
エパミノンダスは若くて、美男で、ギリシャ系の男だった。彼女を見るその目つきから、彼がまだかつての船の生活をとてもよくおぼえていることがわかった。ぼくの目に最初にとまったのは、彼の顔というより、奇妙な刺青――半ば開いたシャツから、心臓のあたりに見える――だった。それはちょうど彼の心臓の真上に彫られた心臓の刺青で、一本の短剣に刺し貫かれていた。刃の上には、血の雨のなかにひとつの名前が書いてある。それはAで始まっていたが、その先は見えなかった。そのハート型の刺青が彼自身の心臓と同時に鼓動し、刺し込まれた短剣が傷口のなかでけいれんするように跳びはねる姿はひどく感動的だった。若い頃の大恋愛の名残りだろう。ぼくは彼の手を強く、いささか強すぎるくらいに握りしめた。彼女はぼくがその刺青をよく見ようと努力してるのに気づき、ぼくに微笑を投げた。そしてピオンビーノ以来、はじめてぼくを見つめた。そのしぐさからして、彼女がぼくを安心させたがっていること、ぼくたちのいさかいも終りに近いと認めていること、などが察せられた。また、これは忍耐の、善意の、そう、善意の問題であることを。エパミノンダスが水夫たち、とりわけ旧知の仲のローランと心からの挨拶を交わした後で、みんなでバーで一杯やった。きっとエパミノンダスは彼女と二人きりになりたかったのだろうが、彼女がぼくの同席を強く主張した。シャンペンをあけた。エパミノンダスの方もぼくを見つめたが、ぼくよりも好奇心は少いようだった。たぶんぼく以前にほかの男たちを見る機会があって、もうこの種のことに驚かなくなっているのだろう。それにぼくは、女性が生きるための必需品の一つみたいに見られても、いっこうに平気だった。もっともエパミノンダスの好奇心はたちまち満足させられた。彼は物語をはじめた。
エパミノンダスは職業を変えていた。彼はセートとモンペリエ間のトラック運転手になっていた。その職業に従事していたとき、ジブラルタルの水夫と偶然に知り合ったのだ。ジブラルタルの水夫も、いってみれば職業を変えていた。ちょうどセートとモンペリエ間の国道沿いに給油所を経営しているのだ。彼女はそれを知って微笑した。ぼくも、エパミノンダスが喋りはじめると、たちまち上機嫌になってしまった。彼は極めて魅力的に物語った。給油所のことでは、そんなニュースを彼女に伝えるのをわびたりした。それは超モダンな給油所で、よくはやっているから、収入もすくなくないだろう。ジブラルタルの水夫は噂によると、そこの管理人であり、また共同経営者でもあるようだ。
今度は彼の名前が出た、ピエロだ。そこでは誰でもピエロを知っている。だが彼の出身地は誰も知らない。要するに彼は、三年前、解放の直後にエロオ地方へやってきたのだ。ピエロという名前もたぶん偽名だろうが、あなたと同様に、誰もジブラルタルの水夫の本名を知らないのだから、かまわないではないか? 本名だろうと偽名だろうと、名前ほど相対的なものがあろうか? 彼自身、エパミノンダスだって、セートの町ではヘラクレスというあだ名で呼ばれている、そしてそのことは――彼はあざ笑った――彼にはさっぱり理由がわからないのだ。彼女はうなずいた。ピエロにはお客がどっさりついている、とエパミノンダスはつづけた。それ以外には? 彼はフランス人で、そのアクセントから判断すると、モンマルトルで長く暮らしたらしい。ピエロはいろいろな仕事に手を出す男だ。日曜日には、安く買って自分で修繕したアメリカの車で出かけるのが見られる。ピエロにきまった女がいないのも、特徴の一つだ。きまってない女たちは沢山いて、女客たちも少くない。エロオ地方の大酒造家の有閑夫人たちだが、彼は結婚していなくて、やもめ暮しである。いつかエパミノンダスがその理由をたずねたところ、ピエロはアンナに伝えるのがはばかられる返事をした。
≪昔は一人いたんだけど≫とピエロは語ったのだ――エパミノンダスは真赤になって大笑いした――≪あんまりべたべたしやがったから、二度とその気にはなれないのさ≫
三人とも腹をかかえて笑った。エパミノンダスはまたあやまったが、彼は真実をありのままに語っただけなのだ。
ピエロにはじめて会ったとき、エパミノンダスは心に衝撃を受けた。彼は何も予想してはおらず、例の話には無縁だったのに、ひどいショックを受けたのだ。なぜ? 彼はその理由をはっきりいえない。映画のヒーローみたいな、いくらかぼんやりした、悲しげな彼の様子のせいか? 彼を取り巻く孤独と神秘のせいか? 一度も会ったことがない人間を見わけられるなんてことがなぜできるのか? この確信はどこから生れるのか? 花を手折らないで、選び出すことができようか?
毎日エパミノンダスはモンペリエの市場へ野菜を運びに行きながら――彼は野菜運搬人だった――ピエロの給油所の前を通った。夜の十一時頃に通るのだが――ピエロは十二時にならなくては店を閉めなかった。エパミノンダスは時どき立ち寄って、少しお喋りした。しかしピエロはひどく無口だったので――これも驚きのひとつではないか?――彼をちょっと多く知るにも何週間もかかった。
しかしいまでは、そのちょっと多くのことで、エパミノンダスはピエロに関してその地方でいちばんよく知っている。半年間、彼は週に四度も給油所に立ち寄ったのだ。最初に聞きだしたことは、ピエロがかつて水夫として働いていた事実だ。それを知ると、いくらかはやく事態は進展した。彼が立ち寄る度に、二人は昔のことを思い出す習慣になった、彼らが旅行の途中に通った世界中のいろいろな場所を。この点に関して、エパミノンダスは、自分がどんな状況の下に旅行したかをピエロに話さないほうがいいと考えた、彼の方法は正しかったろうか? 正しいわ、と彼女は肯定した。ついにジブラルタルの話をする日がやってきた、いずれはそうなるはずだった。エパミノンダスはピエロに、ジブラルタルを知っているかとたずねた。
≪ジブラルタルを知らない水夫がいるかね≫とピエロはいった。
エパミノンダスも同意した。
≪場所がいいからな≫とピエロはつづけた。その微笑はエパミノンダスには意味ありげに見えた。
その夜はそこで中止された。エパミノンダスはそれ以上は追求しなかった。一週間後にやっとまた話をつづけた。もっと長く待つべきかもしれなかったが、好奇心をおさえられなかったのだ。
≪美しいところだね≫とエパミノンダスはいった。≪ジブラルタルは≫
≪そうともいえるね≫とピエロは答えた。≪見方によってちがうよ。いずれにせよ、人力では考え出せないほど強固な戦略地点だな≫
≪変ってるしな≫とエパミノンダスはつづけた。
≪きみの話はよくわからんね≫とピエロは答えた。≪よくわからん≫
そういいながら、彼は奇妙な微笑を浮べていた、前よりもっと奇妙な微笑を。どう説明したらいいのか? あんたは自分の微笑をどう説明しますかい? そういうことはとても口では話せないのだ。
たしかにジブラルタルはピエロの想像力を刺激したらしく、ほかの場所の場合よりもずっとお喋りになった。
≪きみが絵葉書を手にして≫とピエロはいった。≪あの地中海の入口の岩を見たら、きっと悪魔を信じるだろう≫――彼は付け加えた――≪それとも神さまをな、それはきみの気分しだいだろうね≫
ある場所について、これほど個性的な意見の持主に出会うのは珍しいことではないか? アンナは立ち上って、エパミノンダスに接吻した。
それだけではないのだ、とエパミノンダスは元気づけられてつづけた。まず、ある夜、彼はピエロが外人部隊の歌を口笛で吹くのを耳にした、もちろん水夫出身の男で外人部隊の歌を知っているものは少くないが、それもまた彼の仮説を裏付ける手掛りとなったわけだ。次に、ある晩エパミノンダスは発電気の故障のことで、ピエロと極めて興味深い会話を交したのだ。その故障は実は前日に起ったのだが、エパミノンダスはうまく処理してピエロにいましがた起ったように信じさせたのだった。
≪もしボールベアリングのせいなら≫とピエロはいった。≪おれはいささか通じているから、見てやろう≫
彼は仕事にとりかかった。いくらか神経質そうに、とエパミノンダスは感じた。発電機をはずすと、ベアリングが過熱していたので、それを取り代えた。仕事が終ると、エパミノンダスは少し話をつづけようとした。
≪よく考えてみると、ボールベアリングは便利なものだね。おれにはさっぱりわからんけど≫≪なにごともそうだよ≫とピエロはいった。≪専門家にならなくちゃな≫
彼はその専門家という言葉を奇妙な口調で口にした。エパミノンダスはその口調と例の殺人、つまりネルソン・ネルソンの殺人とのあいだに、ある関連を見た、かすかではあるがそれでも……
≪これを発明したやつは≫とエパミノンダスはつづけた。≪ばかの王様じゃないね≫
≪ばかの王様じゃないだろうが≫とピエロはいった。≪おれはもう寝たいんだよ≫
エパミノンダスはおそくまで引きとめたのをわびた。それでももう少しねばった。
≪それにしても、すごくうまい発明だね≫と彼はいった。
≪いまさら感心したってはじまらんよ≫とピエロがいった。≪二十年も前の発明だぜ。それに、もう十二時十分過ぎなんだ≫
別にこれという確証もなかったが、その会話の拒否のなかに、エパミノンダスは、むろん漠然としたものだが、心にひっかかる証拠のごときものを見たのだ。
彼は物語を終えた。これが自分のなしうるすべてだ、と彼はいった、まるでそれが避けがたい義務、どこにいようと、彼女に手紙を送り、何としてもジブラルタルの水夫を発見することが義務であるかのように。今度はたいしたことができず、現実そのものではなく、直感にたよるような証拠しかもたらさなかったことを、彼女にわびた。しかし、と彼は付け加えた、そうかといってこれらの証拠は無視されるべきだとは思わない。ぼくは彼女が以前に話したこと、これはエパミノンダスが二年前からはじめた三度目の手紙なのを思い出した。ぼくは彼が話してるあいだ、熱心に見つめたり傾聴したりして、大いに笑いもした。しかしぼくはどうやら彼の話を信じたらしい。そしていま彼が話し終り、彼自身も自分の話がほとんど信じられず、急にそれを彼女に話したのは彼女をセートへ来させるためであり、それというのも彼はセートとモンペリエ間の往復にあきがきて、もう一度船で旅行したいからではないかと考えているのを見て、ぼくは彼の真剣な気持を信じつづけた。彼女もそうだと思う。彼がいささか狼狽ぎみなのは、自分の発見が完全に伝達不可能であり、いかなる物語によっても伝えられない――たとえ彼女に対しても――ことに気づいたからではないのか?
床に目を向けて彼は彼女の言葉を待った。彼女はおきまりの質問をはじめた。
「髪は褐色なの?」
「褐色で、少しちぢれてます」
「目は?」
「真青です」
「すごく真青なの?」
「ただ青い、よく注意しなかったけど、そう、とても真青です」
「なるほど」と彼女はいって、しばらく考えこんでいた。
「ほんとにすぐに気がつくほど青かった?」
「すぐにね。見るとこう考えますよ――ふうん、これはちょっと珍しいほど青い目だな」
「青いって、どんなだった、あんたのシャツの色みたい、海の色みたい?」
「海みたいです」
「じゃ背の高さはどのくらい?」
「うまくいえませんね。おれより少し高いかな」
「立ってみてよ」
彼女も立ち上った。二人は背くらべをした。アンナの頭髪はエパミノンダスの耳たぼの上ぐらいだった。
「おれはね」とエパミノンダスはいった。「ちょうどあんたとおれぐらい、彼と背の高さがちがったよ」
彼女はエパミノンダスの頭の上に手をやって高さをはかり、かなり長いあいだ見つめていた。
「それで声は?」
「いつも少し風邪気味みたいですよ」
ぼくは笑った。エパミノンダスも。そして彼女も、ぼくたちよりわずかだったが。
「それもすぐに気づくほどだったの?」
「おれはすぐに気がつきましたよ」
彼女は手を額にあてた。
「まさか作り話をしてるんじゃないわね?」
エパミノンダスは答えなかった。ぼくと同様に、突然に彼女がひどく青ざめているのを彼は見た。それは彼が声のことを話した直後に起ったのだ。もう誰も笑わなかった。
「給油所だって悪かないわね」と彼女は低い声でいった。
彼女は立ち上って、行ってみるといった。バーのドアのところにある昇降口から船艙へおりていった。その船艙にヨットの二台の車がしまってあったのだ。ぼくは彼女の後を追った。エパミノンダスは迷っていたが、ローランにハッチを開けさせるといって岸壁へおりた。船艙はとても薄暗かった。彼女は灯りをつけず、急に振り向いて、ぼくの腕に身を投げてきた。ひどくふるえていたので、泣いていると思った。顔をあげさせると、そうではなく、彼女は笑っていた。シャンペンを一本飲んだだけなので、いつもならもっと飲まなくては酔うはずがなかった。閉された船艙から鈍い音が起った、ローランが歯車をまわしはじめたのだ。ハッチが開きはじめた。船艙は少し明るくなった。ぼくたちはなおも抱き合ったままだった、彼女は笑い、ぼくは彼女を引き離すこともできず。彼女は目を閉じていたので、ハッチがしだいに開き、二人が明るい光のなかにさらされていくのに気づかなかった。ぼくは彼女を離そうとしたが、うまくいかなかった。二日も彼女と一緒に寝なかったのだ。突然にエパミノンダスの顔が現れた、ハッチの上段で首を切られたみたいに。ぼくはあわてて彼女を押した。エパミノンダスはぼくらを見た。それから顔をそむけて、遠ざかった。彼女はハッチのすぐ前の、入口から数メートル離れたところにある自動車へ向った。そのためには途中にある二台目の車をよけて進まねばならない。彼女はその車にぶつかり、泥よけに平行に倒れた。それから起き上ろうとしないで、腕で泥よけをかかえたまま横たわっていた。ローランとブルーノが開いたハッチからそれを見た、次にもどってきたエパミノンダスも。彼女を助けに行こうという考えはすぐに浮ばなかった。ブルーノが何かものすごい悲鳴を発した。そのときはじめてぼくは駆け寄り、彼女を抱き上げた。どこか痛くしたかとたずねると、彼女は否定した。彼女は車へ乗り、エンジンをかけた、冷静で注意深い顔をしている。するとぼくはひどく怖くなった。彼女に大声で叫んだ。エンジンの音のせいか、さっぱり聞えないようだ。ぼくはもう一度叫んだ。彼女は岸壁と船艙の床のあいだに拡げられたハッチを通り、遠ざかった。ぼくは船艙のドアまで走り、またも彼女の名をどなった。彼女は振り向きもせず、岸壁の柵の彼方に消えた。ぼくはもう一台の車に乗って、エンジンをかけた。ローランがすぐに駆けつけ、つづいてエパミノンダスとブルーノも。彼らはぼくの叫びを耳にしたのだ。
「どうするつもりなんだ?」とローラン。
「ひとまわりしてくるよ」
「おれも行こうか?」
ぼくはそれを望まなかった。エパミノンダスは蒼白で、長い眠りから覚めたばかりのようだ。彼は車の前に立っていた。
「どうしたんだ?」とブルーノがいった。「まさか……」
「証拠があるんさ」とエパミノンダスは、得意げなしかし狼狽した顔つきで、ぼくを指さしていった。
ぼくは通してくれるように叫んだ。ローランが彼の腕をつかんでどけた。ブルーノが肩をすくめるのが見えた。彼はエパミノンダスに、ぼくらだけで勝手にさせておけと話した。ローランはきっと彼をどなりつけただろう。
ぼくはセートの出口で彼女の車に追いついた。狭い街で、市場のため交通がとどこおっていたのだ。ぼくは追いかけた。市場の混雑に気をとられて、彼女は気づいていなかった。彼女はよどみなく正確にうまく運転している。時には十メートル近くまで接近したこともあった。モンペリエ街道へ出ると、彼女はスピードをあげた。彼女の車はぼくのより強力らしかったが、ぼくはなんとか二百メートル間隔で追跡できた。天気は上々らしかった。なぜ彼女の後を追うのか自分でもよくわからなかった、きっと船で彼女を待つのが嫌だったからだろう。彼女の姿はよく見えた。何度も追いつきそうになったが、五十メートル以上は無理だった。彼女の頭髪は緑色のネッカチーフでゆわえてあった。そのネッカチーフと黒いプルオーバーのあいだを狙えば、殺すこともできるだろう。到着少し前に、彼女は猛スピードを出し、そのまま給油所まで走りつづけた。ぼくはとても追いつけなかった。だがそれもすぐに終り、エパミノンダスが教えたように、セートを離れて十五分後、約十七キロの地点に、ピエロの経営する赤い色のガソリンポンプが見えた。給油所のポーチの下には、すでに三台の車が並んでいた。彼女はスピードを落し、正確にカーブを切って、列の後部についた。ぼくも同様に、彼女の車の二メートルほど後に並んだ。彼女はやはりぼくを見なかった、少くともぼくはそう信じた。ぼくに背を向けていたので、やはり緑色のネッカチーフと黒いプルオーバーのあいだの首筋しか見えない。彼女はエンジンを切った。数メートル前方で、一人の男がガソリンを入れ、ポンプのメーターを見つめている。彼女は坐席からのび上り、二秒ほど男を見つめて、いくらか荒っぽく腰を落した。最初の車がスタートした。男は二台目のところへ来て、彼女を見た。男も彼女を見つめた。その長いまなざし以外の何も起らなかった。彼は誰にも気づかないようだった。彼女の視線はぼくには見えない。彼の視線は、美しくて独り身の女性に向けられたが、誰だかわからないらしかった。彼は二台目の車のタンクをゆっくりと充たし、ときどき彼女の方を盗み見した。それほど若くない男だった。しかしぼくには彼がよく見えなかった。ぼくら二人のあいだに彼女がいて、その存在のために空気は火を吹いていた。ぼくに見えたのは、その火のために崩れたような顔だけだった。
彼女の番になった。彼女はそれに気づかないみたいだった。ぼくの判断では、彼女はまどろんでいるとしか見えない。男は近寄って、微笑しながらいった。
「前へお出しください?」
男は数メートル先の日光の下にいた。そして突然に、やっと彼を見ることができた。ぼくは彼を認めた。ジブラルタルの水夫だと認めた。むろん彼女は男の写真なぞ見せてくれなかったし、ぼくも一度だってある顔を想像したわけではない。だがぼくには目的なんか必要なかった。ぼくは彼を認めた、ちょうど海や、何にしよう? 無罪を、知らないでもそれとわかるように。それは数秒つづき、やがて終った。ぼくはもう誰も認めなかった。それはあの水夫のまなざしではなく、ただの人間の視線だった。やがて世の常のあきらめの影が彼をすっかり覆いかくした。ほんの数秒間しか錯覚は許されないのだ。だが彼女にはそれで充分だった――後でぼくに話してくれたのだが――だからこそ彼を見たときもう一度失神しなくてすんだのだ。彼女は歩道すれすれにガソリンポンプへゆっくりと向った。ぼくの後ろに一台の車が来たので、ぼくは彼女の車との間隔をちぢめた。彼女は相変らずハンドルにしがみついていた。
「二十リッターほしいわ」と彼女はいった。
よく聞えなかったが、彼女の声だとはわかった。男は完全にもとの顔を取りもどしていた。いまや自信と好奇心の混った俗っぽい図々しさで彼女を見つめている。どうしてこんな顔が、たとえ二秒間にせよ、あの不条理な類似を生みだすことができたのか?
そのまま出発すべきところを、彼女は下車した。そして振り向いて、ぼくを見た。ぼくがいるのを知っていたのか、驚いた顔もしなかった。彼女はぼくが知りあって以来一度も見せたことがない微笑、歪んだ、執拗な微笑を浮べていた。彼女はぼくに、たとえ彼を見つけたと信じたいあいだでもぼくの存在を一瞬たりと忘れなかったことを教えたかったのだ、そしてこんなことになったのをぼくにわびたのだろう。ぼくは彼女に声をかけないためにひどく苦労した。彼女はまたすぐに男の方を向いた。背後から見ると、黒のスラックスと黒の木綿のプルオーバーの彼女は、妙な恰好に見えた。彼女の顔はいま男を避けているのではないか? ところがそうではなかった。
「タイヤを調べてほしいわ」と彼女はいった。
なぜ彼女が残りたがったのかぼくにはわからなかった。ぼくはやっとのことで、もう何年も前から彼女は行きずりの男しか知らず、その習慣を、つまり彼女なりの貞節を身につけたことを思い出した。男はなめるような好奇心をこめて彼女を見つめた。だがいくらか自信を失っていた、たぶんぼくと彼女とのあいだに何か起ったと勘づいたからだろう。
「こちらへ寄せて下さい」と彼はいった。「まずほかの車を片づけますから」
彼はぼくをふくめた客たちを指さした。彼女は車に乗って、下手くそに寄せた。
「時間はあるのよ」と彼女はいった。
ぼくは車をすすめた。男のすぐ近くだった。彼は先ほど見た男とはもはや何の共通性もなかった。いくらか幼稚に思えた、なぜならつい先ほど彼女やぼくにどう見えたのかさっぱり知らなかったからだ。
「十リッター」とぼくはいった。
彼はほとんどぼくを見なかった。そうだ、彼は何が起ったのかぜんぜん気づいていない。気がなさそうにガソリンを入れた、早くほかの客を片づけて女に専心したかったのだ。
ぼくは彼女を残したまま、ふたたびモンペリエ街道へ出た。
モンペリエまであと三十キロだった。車は快調に走った。メーターは百、百十、百二十まで達した。ぼくはできるかぎり百二十を保った。これまでこんなスピードで走ったことはなく、道路もあまり良くなかったので、ぼくはひどく注意して運転した。
途中で車をとめた。何もする気になれなかった、まだ帰りたくなかった。ぼくは煙草に火をつけた。彼女の微笑がよみがえってきた、ついいましがたのことのようにはっきりと思い出した。額は汗まみれだった。微笑は二度、三度と浮んできた。それから、ぼくはそれを見ないで、ほかのことを考えようとした。その幸福を拒否して、たとえば彼女が給油所のなかにあの男と二人きりでいて、黒いプルオーバーの下は素裸かで、しかもそのプルオーバーをいともあっさりと脱ぐ、などと想像しようとした。しかし彼女の微笑の方が強烈だった、それはぼくにのしかかり、ぼくの妄想を追い払ってしまった。
ぼくはまたモンペリエへ向って走った。町の近くへ達すると、また停車した。それから、市中まで走った。そこで車を捨て、最初の酒場へ入って、コニャックを三杯飲んだ。そして主人に話しかけた。
「すごくいい天気だね」
コニャックと涼しい酒場のおかげで、やっとお天気に気がついたのだ。
「九月っていうのはまったくいい日ですな」と主人はいった。
彼はエロオ地方のなまりがなく、思いがけない洗練された口調で話した。ぼくはもう話したくなかった。四杯目のコニャックを飲むと、金を払って、小路へ出た。その道は酒場の少し先で右に曲っていた。ぼくはどうしていいかわからなかった。最初あの海岸で感じたように彼女に会いたかったが、彼女があの給油所の男と片をつけるまで待たねばならない。コニャックのせいか、ぼくはまたも彼女がいま黒いプルオーバーを脱ぎつつあると考えた、だがそれはまだ我慢できた。ぼくは歩いた。道に沿って敷石が乱雑に積まれていた。それらは歩道を作るために運ばれたのに、戦争のため歩道の企画と共に放棄されたのだろう。あまり見すぎたので、とうとう五百メートルほど先で、ぼくはその上に腰をかけた。そしてなおも待ちつづけた。遠くで工場のサイレンが鳴りひびいた。正午だ。その道には車は一台も通らず、時どき自転車が走るだけだった。
ぼくは突然に路上にいるのが自分ひとりだけではないのに気づいた。二人の子供が目の前を行ったり来たりしている。年上のは十歳ほどだ。彼は乳母車に乗せた弟を、ぼくが先ほど来た曲り角から、三十メートルほど先で道をふさいでいる塵埃の山まで散歩させているのだ。背後は、背の低いやぶの垣根、つづいてネットのない二本のフットボールのゴールが立っている野原、その向うは車が往来する国道の並木である。腐敗の匂いがただよっていた。
ぼくが来てからは、子供は距離を短縮して、ますますひんぱんにぼくの前を通った。ぼくは彼の好奇心をそそったのだ。弟は乳母車のなかで眠っていた。首がぐらぐら揺れている。鼻からは透明な鼻汁が流れ出て、上唇のあたりで止っている。夏の終りの執拗な蝿が彼の顔を襲いつづけるが、目を覚まさない。兄の方は、時どき立ちどまって、ぼくを見つめた。裸足で、やせて、油気のないもしゃもしゃの頭髪をしている。シャツは女物だ。顔は小さくて引きしまっている。ぼくがじっとしているので、兄は大胆になった。乳母車を少し離れたところにとめると、気づかれないように、そっと一歩ずつ近寄ってきた。かなり長い時間かかった。彼はぼくを、恐怖と驚愕と、耐えがたいほど珍しい品物みたいに、じろじろと品定めした。ぼくは顔を上げて、微笑した。あまり急にやりすぎたらしい。彼は一歩後退した。ぼくは彼を逃がさないように、またじっとしていた。
「今日は」とぼくはとてもやさしくいった。
「今日は」と彼もいった。
彼は少し安心した。十メートルほど離れた敷石を選んで、腰を下した。ぼくは煙草を出して火をつけた。背後のアカシアの木蔭はわずかで、暑い。ぼくは子供が弟のことを忘れ、乳母車はカンカン照りのなかに放置されているのに気づいた。
「あの子を陽なたに置いといてはいけないよ」とぼくはいった。
彼は失敗を見つかったように立ち上り、乳母車を手荒く敷石の向う側のアカシアの木蔭へ押しやった。弟は目を覚まさなかった。次ぎに彼は先ほどと同じ敷石へ坐って、沈黙のままぼくを見つめはじめた。
「きみの弟かい?」
彼は返事しないでうなずいた。煙草の匂いも空気中の腐敗の匂いを消し去らなかった。二人の子供はこの匂いのなかで生れかつ育ったのだ。
「ぼくは船の上に住んでるんだよ」とぼくはいった。
彼の目は輝いた。彼は立ち上って、ぼくに近寄ってきた。
「ここから家までくらいの大きな船だよ」とぼくはつづけた。
ぼくは手で距離を示した。彼はぼくのしぐさを目で追った。もうぜんぜんおじけづいていなかった。
「おじさんが船長なの?」
ぼくは思わず笑った。
「いや、ちがうよ」
またコニャックが飲みたくなったが、子供と別れる決心がつきかねた。
「ぼくね」と子供がいった。「飛行機が大好きさ」
彼の目のなかには見てつらくなるほどの渇望があった。しばらくのあいだ彼はぼくを忘れ、飛行機のことを考えた。それから夢想からさめて、ぼくのすぐ傍に近寄り、しげしげと見つめた。
「ほんとなの?」
「なにが?」
「船の上に住んでるって?」
「ほんとさ。≪ジブラルタル号≫って名前の船だよ」
「船長じゃなかったら、何をしてるの?」
「なんにも。ただのお客さ」
目の前に花をつけた背の高いイラクサが一本はえていた。時間はいっこうに過ぎていかない。ぼくは身をかがめ、イラクサを折って、手でもみくちゃにした。なぜ? この持続の息の根をとめるために。ぼくは成功した。草を手にすると、手が痛くなった。子供の笑い声が聞えた。ぼくは立ち上った。子供は急に笑うのやめ、逃げ出した。
「おいでよ」とぼくはいった。
彼はゆっくりと近づいて、説明を求めた。
「運勢がわかるんさ」とぼくはいって笑った。彼はぼくをじっと見つめた。
「手が痛くなるって知らなかったの?」
「忘れてたんだよ」
彼は安心した。もう少しぼくに残っていてほしいようだった。
「もう行かなくちゃ。きみに飛行機を買ってやりたいけど、時間がなくってね。いつかもどってきて、買ってあげよう」
「船が出るの?」
「もうじき出るんだ。行かなくちゃ」
「それで、自動車も持ってるの?」
「持ってるよ。きみは自動車が好きかい?」
「飛行機ほどじゃないよ」
「じゃ帰るよ。さようなら」
「また来る?」
「また来て飛行機を買ってあげるよ」
「いつ?」
「わからんね」
「嘘だ、おじさんはもどってこないんだ」
「さようなら」
ぼくは出発した。最後に一度だけ振りかえると、子供は完全にぼくを忘れていた。両手を翼のように大きく開いて、円を描きながら旋回していた。飛行機遊びをしているのだ。弟は相変らず眠っていた。
十七キロの地点を通りかかったとき、何も起ってないことがわかった。車は一台も見えない。例の男は、道路に面した腰掛に坐って、新聞を読みながら客を待っている。ぼくは少し先で車をとめ、煙草を一本すってから、急いで船へもどった。出発してからほぼ二時間たっていた。エパミノンダスはブルーノとお喋りをしながら待っていた。彼は駆け寄ってきた。だいぶ時間がかかったし、彼女もまだもどっていなかったので、彼は希望にみちていた。ブルーノの方はそうでもなさそうだ。
「どうでした?」とエパミノンダスは叫んだ。
ぼくはできるかぎり婉曲に、ぜんぜん人ちがいのようだと話した。ブルーノは肩をすくめ、興味をなくして、退散した。
「彼女がこんなに時間をかけてるのは」とエパミノンダスはいった。「もう少し確かめようとしてるんじゃないですか?」
「そうかもしれない」とぼくは妥協するようにいった。「彼女は本当に彼でないことを確かめているんだよ」
「おれにはよくわからんね」とエパミノンダスはいった。「こんなことはすぐわかることだよ、ある男を知ってるか知らないかなんて、せいぜい一分もあればわかることだよ」
「ぼくもそう思ってるさ」
ぼくはどんな話をしていいかわからなかった。エパミノンダスがコニャックを注いでくれた。同時に自分にも一杯注いだ。
「いずれにせよ」と彼はいった。「彼女は大げさだよ。話しかけても間違えるほど似てる人間なんていやしないよ」
ぼくは答えなかった。エパミノンダスは長いこと考えこんでいた。
「もしかすると」と彼はつづけた。「いるかもしれんな、双子みたいに似ている人間がね。つまりさ、すぐ近くから見なければの話だけどね」
彼はぼくらを待ちながらかなりアルコールを飲んだらしい、そしてこの事件についていろいろと考えたのだろう。
「いいかい」と彼はいった。「彼女がその気になれば、ピエロはジブラルタルの水夫さ。彼女がその気になればいいんだ。うんざりするほど沢山いるよ。そのうちに、彼女は成功するよ。彼女がこの男だといえば、そうなるのさ、それに、いったい誰が反対できるだろう? 誰が?」
「たしかに」とぼくはいった。「誰も反対できないだろうな」
ぼくは彼に煙草をさし出した。
「おれにだって、似た男はいるだろうな。わんさといるだろうよ」
「みんなそうなのさ」とぼくはいった。「だからややこしくなるんだよ」
彼の考えは別の道をたどりはじめた。
「だけどね」と彼は急にはじめた。「もし彼女があの男にネルソン・ネルソンのことをたずねたら?」
「そしたらややっこしくなるぞ」
「いまにわかるさ」とエパミノンダスは冷笑した。「もしピエロが、ピエロでなければ、ネルソン・ネルソンなんか知らないというだろうからな」
彼はぼくの目つきでぼくが聞いていないのを知った。しかしそんなことはかまわなかった。
「だけどな」と彼はつづけた。「あんな女を、なぜあんな女をいやがるんだろう?」
「大げさに考えるなよ」とぼくはいった。
「給油所のせいさ!」とエパミノンダスは自分に答えた。「彼がその男だとしてもだね、いまは超モダンな給油所の持主だし、金はたんまり入る、警察はそっとしていてくれる、だから彼は満足してるのさ。そこへ彼女がやってきて、こういう――みんな捨てて、あたしについてらっしゃい!」
「なるほど、そこまでは考えなかったな」
「彼が反対するってこともありうるだろう? もしかしたら」と彼は少し後で付け加えた。「二人はそのことを二時間も議論してるかもしれんな」
「もしかしたらな」とぼくも同意した。
「それから、いわゆる放浪生活を、海やなにかを捨てて、人並みにガソリンスタンドなんかに腰を落ちつけたのが恥ずかしいのさ」
「きみの話には真実味があるよ」
ぼくたちは話ながら岸壁を眺めていた。彼女は帰ってこない。
「なるほどおれだって」とエパミノンダスはいった。「海を捨てて陸へ上ったよ。だけどおれは、誰ひとり係累はない。トラックだって、おれの持物じゃないんだ。だからいつだって出発できるんだよ」
彼はしばらく話を中断して、自分の運命を考えているようだった。
「いいか」と彼はしばらくしてはじめた。「ピエロがピエロでない場合にだけ、彼は彼女が望むままのこと、ネルソンやなんかを白状するだろうよ。その目的はわかるね?」
「わかるよ」とぼくは答えた。
しかし彼にはまだ疑いが残っていた。彼女が帰ってこないので彼はひどく苛立っていた。
「男ってものは」と彼はいった。「美男であればあるほど見わけがつきにくいものさ。女の場合だって、大体は同じだけどな。うまいことに彼は頭に傷があるんだ」
「うまいことにね」とぼくはいった。
「だけど男の髪の毛のなかを探すようになるには、時間がかかるよ」
彼は突然にとても陽気になった。
「彼女は手が早いからな! 全く手が早いんだよ!」
「新記録だね、それだけのことさ」
「しかし」と彼はまた真顔にもどってつづけた。「もし彼に傷があったら、反対のことがいえるだろうか?」
「またかい」とぼくはそっけなくいった。
「おれを信用しないんかい?」とエパミノンダスは傷ついていった。
「すまん」とぼくはいった、「たしかに彼に……ぼくはちょっと休んでくるよ」
ぼくは別れて、船室へ行った。十分もたたないうちに、彼女の車のエンジンの音が岸壁に聞えた。エパミノンダスが大声でぼくを呼び、つづいて彼女を呼んだ。
「どうでした?」
「だめよ」と彼女はいった。「だねなのよ、エパミノンダス」
「じゃ二時間も何をしてたんです?」
「ぶらついてたのよ。だめだったわ、エパミノンダス」
ぼくはバーへ行った。二人はテーブルに坐ってウイスキーのグラスを前にしていた。彼女はぼくの視線を避けた。
「それでも」とエパミノンダスはうなるようにいった。「あんただってそうじゃないかと思ったんでしょう?」
「つまりね」と彼女はいった。「その気になれば疑うこともできるってことがわかりかけたのよ」
ぼくは二人の傍に坐った。彼女の頭髪は風のために乱れ、ベレー帽からはみ出ていた。
「またつまらんことで迷惑をかけたようですな」とエパミノンダスが泣き声を出した。
「決してつまらないことではないわ」と彼女がいった。
友人の心労を和げるために、彼女はシャンペンを取りに行った。彼女は何となく幸福そうだった。ぼくはシャンペンの口をあけた。たしかに彼女は、長いこと閉じこめられていた暗黒の部屋から抜け出した人みたいに幸福そうだった。
「いずれにしても」とエパミノンダスがいった。「たいしてショックをうけなかったようですね」
「そんなことにも慣れるものよ」と彼女はいった。
彼女はまだぼくを見ないようにしていた。
「とにかく彼でない人間がひとりへったわけだよ」とぼくはいった。
「そんなふうに考えてたら」とエパミノンダスはいった。「時間がいくらあって足りないよ」
彼女は笑いだした、ぼくも。
「あんたはきっと面白がってるんだね?」とエパミノンダスが彼女にたずねた。
「面白くないことがあるの? あたしだって滑稽じゃないでしょう?」
「そうともいえんが」とエパミノンダス。「今日は滑稽じゃないな」
「あたし気が強いつもりだけど、気が弱くなって泣きたいほどだわ」
「おれの責任さ」とエパミノンダス。「あんたはがっくりしたんだよ」
「あんたの気持がわからないわ」とアンナがいった。「あたしが面白がってると気に入らないんだから」
「じゃあんたは」とエパミノンダスがいった。「自分の気持がわかっているのかい?」
彼女はぼくを見つめ、やっと微笑した、とてもぬけぬけとした微笑なので、ぼくは顔を赤らめた。今度はエパミノンダスもそれに気づいて、口を閉じた。
「人間って自分の気持がいつもわかるものかしら?」と彼女はぼくにたずねた。
「そうさ、いつだってわかるよ」
彼女はまだ微笑していた。ぼくは急いで話題を変えて、席をはずそうとしたエパミノンダスを引きとめようとした。
「たとえ地球上の最後の一人しか残らなくても、それが彼かもしれないという望みを捨てるべきじゃないよ。その気になったら最後までやるべきだな」
彼女はその言葉に笑った。そしてグラスにシャンペンを注いだ。彼女はエパミノンダスにもっとすすめた。
「エパミノンダスが知らせてくれたのは、これで三度目なのよ」
ぼくはシャンペンを飲んだ。
「われわれは」とぼくはきびしい口調でいった。「人間の同一性の測り知れぬ神秘にぶつかっているのだ」
エパミノンダスはたまげた様子でぼくを見つめた。アンナが彼を安心させた。
「この人がいいたいのはね、探している相手にうまく出会うのはとても困難だってことよ。あんたおぼえてる? 一度は彼はコンスタンチノーブルで淫売屋をやってたわね。その次はポートサイドだった。ポートサイドでは何をやってたんだっけ?」
「床屋さ」とエパミノンダスが答えた。「話がうまく合わなかったり、声や傷が……いつも何かあるんだよ」
「要するに」と彼女はぼくを見ていった。「あまり沢山の男たちに会うべきじゃないのよ、何ごとにも程度を守らなくてはね」
「そんなことでは決して成功しませんよ」とエパミノンダスがまたがっかりして叫んだ。
「そりゃ容易ではないわ」と彼女がいった。「前にもいったように、エパミノンダス、あんたは時どきわけのわからないことをするじゃないの?」
彼女は笑った。エパミノンダスは笑わない。彼は申し訳なさそうに目を伏せ、自分に高くついた男たちのことを思い出しているようだ。しばらく沈黙を守ってから、彼はいった。
「あんたが本気で会って、ピエロと彼とが似てるかどうか探すもんだから、おれはおかしくなるなさ。あんたはほんとの気違いみたいになるよ」
みんな大笑いした。エパミノンダスは落胆から立ち直ったのだ。
「時どきね」と彼はつづけた。「船が接近すると、彼の姿が波止場に見えるような気がする。だけど陸へ上ると、もういないんだな。時には、陸の上でも、疑いが晴れないで、ますます接近しようとする。ひどい時にはずいぶん接近して、やっとちがうことがわかることもある……」
「ああ、ほんとね」とアンナが叫んだ。
「やっぱり人生は楽しいよ」とぼくはいった。「ジブラルタルの水夫を探していればね」
「あたし考えるんだけど」と彼女が落着いた声でいった。「やっぱりあたしは、彼がどうなったかって時どき考えるわ」
「おれもさ」とエパミノンダスが悲しげにいった。
シャンペンは二本目に移っていた。
「エパミノンダスはね」とアンナがぼくに説明した。「ジブラルタルの水夫の話にひどく感動してるのよ」
「何に感動したのか自分でもわからんけどね」とエパミノンダスが幼い口調でいった。
ぼくはふき出した。
「話はいつだってジブラルタルの水夫からはじまるね」
彼は悲しげに首をふった。三人とも酔っていた。船の上では少量ですぐ酔ってしまう。
「コンスタンチノーブルでは」とエパミノンダスはいった。「もうちょっとのところだったよ。あんたには意志がたりなかったんだ」
彼女はぼくにあきれたような視線を投げた。
「あたしに余ってるものといったら」と彼女はいった。「意志だけよ。だけどそれが何かの役に立つとは思わないわ」
「何をいおうと自由だけどな」とエパミノンダスは固定観念にとらわれはじめた。「コンスタンチノーブルでは、もうちょっとのところだったよ」
「きみはそんなに、彼女にあの男を見つけてもらいたいんかい?」とぼくはいった。
「気がやすまるだろうな」とエパミノンダスはいった。
「小さい頃に、彼女に家族から引き抜かれて、船へ乗せられ、ふうん、それからずっと……」
「コンスタンチノーブルの話をしましょうよ」とアンナがいった。「あんたがいなかったら、あたしきっと淫売になってるわ……」
「彼女が彼を見つけないかぎり」とエパミノンダスはぼくに説明した。「おれは気がやすまらないのさ」
「淫売屋だからいけないわけでもないけど」と彼女はいった。「でも息苦しくて……」
エパミノンダスの顔が明るくなった。
「たしかに」と彼はいった。「おれがあの話をすると、あの男はすぐにそれはおれだから、彼女を来させろといったんだ。実をいうと、おれも少し調子がよすぎると思ったよ、やつの職業が何となく気になったんだな。あんたが船へもどってから、黙ってたけど、おれはやつをぶんなぐってやったよ。立派な傷までつくってやったんだ」
「いけないわね」と彼女は笑っていった。「ことが余計に面倒になるじゃないの」
「もうこれで」とエパミノンダスはいった。「話すことはありませんぜ」
彼はあわてて付け加えた。
「もっとも、これからも情報をさし上げるつもりですがね」
「ああ」と彼女はいった。「それだけは、それだけはしないでよ」
しかしエパミノンダスには何か考えがあるらしかった。それはよくわかったが、彼はそれをうまく話そうとしてまだ口にしなかった。
「ぼくはね」とぼくはいった。「十七キロ地点のピエロは一見に値したと思うよ」
彼女はぼくを見つめ、まるでうまい冗談を口にしたみたいにやさしく笑った。
「とにかくね」とエパミノンダスはいった。「こんなくだらん地方でおれができるのはせいぜいあんなことでさ」
彼は小声で付け加えた。
「ガソリン代を考えたら、誰もこれ以上はできませんぜ」
アンナは彼の方に身をのり出して、やさしく話しかけた。
「あんたはいまの職業に不満らしいわね。ほんとの気持を話してごらんなさい」
「そうすべきだよ」とぼくはいった。「彼女に話さなければ、誰に話せると思う?」
「おれは失望してるんだよ」とエパミノンダスはいった。「何も話したくない」
だがその口の下で、彼は立派な話をした。
「いまの情勢だと、あんたはアフリカへ行って探すべきだと思うね」
その宣言には、それにふさわしい大きな沈黙が伴っていた。
「アフリカって広いのよ」とアンナがいった。「はっきりさせてくれなくちゃ」
彼ははっきりさせた。それは半時間もかかった。彼女とぼくとは、ほかのことを考えついたので、ろくに聞いてもいなかった。どうやらそれはダオメーへ行って、マルセイユ出身のルイという名の昔のヨットの水夫――彼女はおぼえていた――に会うことだった。ルイはちょうど先週、エパミノンダスに手紙をよこして、ダオメーのアボメー地方のエウエ族の家で知り合った、ジェジェという名の男のことを照会してきた。ルイはその男こそジブラルタルの水夫だと確信しているのだ。エパミノンダスはまだこの件で返事を出していない、まずアンナに話すのが先だと思ったからだ。彼はエウエ族のことを話してくれた。よく調べていた。それは農業と牧畜を業とする種族で、一年のある時期をアタコラ高原で過している。それは湖や森林のある美しい地方だ。だからといって、彼女がそこまで行ってもよい理由をルイが持っているかどうか知らない。彼女が判断を下すべきことだ。なるほど遠いところだし……彼は長いこと話した。長すぎた。
「もちろん行くわ」と最後に彼女はいった。「あんたも一緒にいらっしゃい」
「できません」とエパミノンダスは恥ずかしそうに答えた。
「きみのトラックのせいかい?」とぼくはたずねた。
「あれはおれの持物じゃないよ」と彼はいった。「おれは裸一貫でさ」
ぼくはもちろん、エパミノンダスの気持を完全に理解した。しかし彼女は急に考える時間を求めて、その場を離れた。それはエパミノンダスには大きなショックだった。だがぼくは彼の驚きにはかまわず、ぼくも船室へ横になりに行った。運命が何かを投げかけたのだ。ぼくにはまだそれが何であるかわからなかった。ぼくたちは中央アフリカへ出発した。ぼくは緑の大草原でまどろんだ。
ぼくは長時間眠った。夕食の直前に目を覚ました。すぐにバーへ行ったが、彼女の姿はなかった。エパミノンダスだけが、椅子を二つ並べて横になり、熟睡していた。船には誰もいなかった。ぼくは灯りをつけた。エパミノンダスはうなったが、目を覚まさなかった。保温器は消えていた、夕食は作ってないのだ。ぼくは船艙へ駆けおりたが、自動車は二台ともあった。もう一度ゆっくりとバーへ上り、エパミノンダスを起して、彼女がどこへ行ったかたずねた。彼はぼくの知っていること、つまり彼女は船室にいると答えた。
「彼女は考えてるんですよ」と彼はいった。「ダオメーへ行くか行かないかを彼女が考えはじめたら、きりがありませんぜ。こんなことに頭を使う必要がありますかね」
彼の話では、彼女はぼくが船室へ行ったすぐ後でもどってきて、全乗組員に夜の十二時まで自由行動を許したとのことだ。夜中に出発すると告げたが、行先は明らかにしなかったのだ。
「おれは彼女がたっぷり考えるのを待って、それから親方に知らせようと思ってね」
ぼくはエパミノンダスを残して、彼女の船室へ行った、はじめてノックしないで入った。灯りをつけると、彼女は着物をつけたまま、両手を頭の下に組んで横になっていた。ぼくは傍に腰を下した。彼女は泣いたらしかった。
「レストランへ食事に行こう」とぼくはいった。「来たまえ」
「おなかすいてないわ」
「食欲はいつもあるんだろう」
「そうともかぎらないわよ」
「エパミノンダスが上でやきもきしてるよ、きみがエウエ族のところへ行く決心をするまで、親方に知らせるの待ってるんだ」
「もちろん行くわよ、彼に伝えてよ、今晩発つんだから」
彼女は思い出そうとしていた。
「どこへ行くんだっけ?」
「ひどいな」とぼくはいった。「ダオメーのエウエ族のところさ、アボメー地方のね」
「そうだった。大旅行ね」
「十日ぐらい?」
「海がおだやかだったらね。そうでなかったら、二週間よ」
「ヘミングウェーの小説に出てくるみたいに、クーヅー狩りをしたくないかい?」
「したくないわ」と彼女は答えた。それから付け加えた。「彼を探しはじめてから、これで二十三回目の情報よ」
それから、やさしくいった。
「あたしたちが追いかけるのは、クーヅーじゃないのよ」
「だけどあの水夫はいそうにないから、二、三日はほかのものを追いかけたっていいだろう。時には獲物入れに小さな獲物も必要だからね。クーヅー狩りをしようよ」
「もし彼がエウエ族のなかにいたら?」
「そのときは彼と一緒にクーヅー狩りをするのさ」
彼女は黙っていた。あまりじろじろ彼女を見つめる勇気はなかった。
「クーヅー狩りって、危険かしら?」
「ほんのちょっぴりね、特別に危険なわけでもないさ。それに人間の目には、どんなクーヅーだってみな同じさ。だから、つまり、ずっと容易だよ」
「ああ、こんなに立派なハンターを乗船させたとは知らなかったわ。でも、クーヅーって、むずかしい獲物よ」
「世界でいちばん美しい獲物さ」
「じゃ、ほんとに、彼らはクーヅーの話しかしないのかしら?」
「夜、狩りが終った後では、時には文学の話もするさ。だけど、何はともあれ彼らはクーヅーのハンターさ」
「決してほかのことは話さないのかしら?」
「何事も断言できないよ、時にはほかのことだって話すだろうよ」
「あなたは町を見るといいわ、美しいのよ」と彼女はいった。
ぼくは立ち上った。彼女は手でぼくを引きとめた。
「あの女にもこんなに話したの?」
「将来のためにとっておいたのさ、彼女には決して話さなかったよ。ぼくは幸福ではなかったんだ」
彼女はゆっくりといった。
「あたしは、幸福だったわ」
「そうらしいね」とぼくはいった。
ぼくは外へ出て、バーのエパミノンダスのところへ行った。彼はぶどう酒のグラスを前にして、辛抱強くぼくを待っていた。「彼女は何といいました?」
「何も」
「だけど」――彼は飲んで、舌つづみをうった――「こいつは、うまい。じゃ、彼女はもうその気じゃないんだね」
ぼくは彼女の伝言を思い出した。
「エウエ族のところへ行くときみに伝えるようにいってたよ」
彼はぜんぜん喜びの色を示さなかった。むしろ逆に、グラスを手にしたまま、椅子にがっくりと身を沈めた。
「いつ?」
「もちろん、今夜さ」
彼は泣き声をあげはじめた。
「また出かけるのか。おれなんか何の役にもたたないのに」
「きみの気持しだいだよ」
「彼女はマジュンガのおふくろの家へおれを探しに来たんだ――おれをほしがったやり方からすると、彼女はどこへおれを置き去りにするかわかったものではない」彼は小声で付け加えた。
「彼女がおれのことをどう考えてるのかまだわからんよ」
「誰だってみんな似たりよったりさ。泣くことはないよ」
彼は聞いていなかった。
「おふくろは、いつも帰ってくるように手紙をよこすんだ。おやじはいい年だから。オレンジのいい商売をしてたのに、みんなふいになっちまう……」
「きみはマジュンガへ帰るべきだったよ」
彼はげんなりした。
「彼女にテンピコ、ニューヨーク、マニラと引張りまわされた後で、おめおめとマジュンガへ帰れるもんかね。マジェンガヘ行ったら気が狂っちまうよ。あんたには自分の言葉の意味がわかってないんだ」
「なにも、帰ったらそれっきりってわけでもないだろう」
「彼女があの男を見つけたら、おれも帰るんだ。その前はだめだ」
「よくわからんな」
「彼女があの男を見つけたら、おれはどこにいてもうんざりするだろう、だからマジェンガへ帰るんだ」
彼はしげしげとぼくの顔を見つめた。
「あんたにはまるっきり同じわけにはいかないな。彼女はあんたに惚れとるからね」
ぼくが返事をしなかったので、彼はぼくがいまの断言を疑っていると考えた。
「本気で話してるんだよ。見ればわかるさ。彼女が何ごとであれこんなに長いこと考えるのを見たことがないね。彼女もずいぶん変ったものさ」
彼は急にあることを思い出した。
「おれの親方には知らせてないけど?」
「じゃ、行ってこいよ」
「無理だ。二十キロもある。あんたに運転してもらわなくちゃあ」
「きみも厄介な男だね」
彼はこの上もない絶望のしぐさをした。
「簡単なことさ、あんたが連れてってくれなければ、だめだ、おれは行かないよ」
「ぼくは船艙のハッチの開け方を知らないんだよ」
「おれが知ってるさ」
彼にひとりで行けともいえたが、もし残るとしたら、きっとすぐに彼女の船室へ行くことになるだろう。ぼくはそうしたくなかった。彼もひとりで行くのがいやだから、ぼくにそうしろとはすすめなかった。五分もしないうちに、彼は下へおりて、ハッチを開いた。
往復は二時間かかった。親方に知らせて、セートの小さな家具付の部屋から彼の荷物を運ぶに要した時間だ。帰途、彼は少しルイのことを話してくれた。
「おれの相棒さ、面白いやつだよ」
「きみたちはこんな具合に、時どき船で暮すのかい?」
「船でかい! あんたはおれは喜んでダオメーくんだりまで引張られて行くと思ってるんかい?」
「すまない。ぼくは喜んでるけどね」
「そうともいえないよ」
ぼくらがもどったとき、水夫たちも帰っていた。バーには灯りがついていた。ローランは少し酔っていた。ブルーノも、ローランよりひどく酔っている。
「おかしなものさ」とブルーノはわめいた。「どこの馬の骨だかわからん野郎が、あの男はヒマラヤの頂上のテントにいると話すと、彼女はすっとんでいくんだからな。おれは残るよ。人生をむだにしたくないからな」
エパミノンダスは彼におどりかかった。
「いまの言葉をひっこめろ、さもないとぶんなぐってやるぞ」
「面白がる権利もないんなら、いいよ、おれは下船する」とブルーノ。「おれは何もひっこめないからな」
「こいつのいうのももっともだぜ」とローランがいった。
エパミノンダスは胸をはって遠ざかった。
「おれがあきれてるのはな」と彼はどなった。「彼女がこんな何もわからんあほうどもをやとってることさ」
ぼくは彼女の船室へ行った。また灯りが消えていたので、つけた。彼女は先ほどと同じ姿勢でベッドに横になっていた。今度は、彼女がぼくを待っていたように思えた。ぼくはエパミノンダスと出かけたことや、彼のルイについてのお喋りなどを話した。かなり長いあいだ喋っていた。だから、彼女は少し苛立った。それから、もう何も話すことがなくなった。
「あなたはここで下船したほうがよさそうね」と彼女はいった。
それから付け加えた。
「みんなと同様に」
ぼくは床に坐りこんで、頭をベッドにつけた。
「ぼくは下船したくないよ」
「少しぐらい早くたっておそくたって、同じことじゃない?」
「まだだめだ。いずれはおりるけど、まだだめだよ」
「何を待ってからおりるつもりなの?」
「ジブラルタルの水夫さ」
彼女は笑わなかった。
「すまない、よくわからないんだ」
急に固い声で、彼女はたずねた。
「いったいあなたはどこから来たの?」
「前にも話しただろう、植民地省さ……」
「あなたはいま何が起ってるかわからないほどばかなの?」
「ぼくはばかじゃない、何が起っているか知ってるよ」
「それで下船したくないの?」
「まだだめだ。ぼくの望むのはそれだけさ。下船する理由はまったくないよ」
「あたしはね」と彼女はゆっくりといった。「ちがうわ、あなたを下船させる理由がいっぱいあるのよ」
「ぼくはそんな理由なんかぜんぜん問題にしないね」
彼女は冷静にもどった。そして、まるで子供にたずねるみたいに、甘い不信感をこめて、
「じゃ、あなたはここに残って、黙っているのね、黙っているのね?」
「ぼくはできるだけのことをするよ」
「ずっと黙っていられると思う?」
「その気になればいつまでも黙っていられると思うよ。しかし黙っていないとなると……」
ぼくは彼女の傍に横になった。
「もう黙っていられなくなったのね」
黙っていても、しばらくは話しているみたいだった。だがやがて、それも充分ではなくなった。彼女はぼくの顔の上に顔を重ね、そのまま長いあいだじっとしていた。
「何か話して、何でもいいから」
「アンナ」
テーブルの上の時計は二時を示していた。ぼくたちは眠くなかった。
「もっと何かを」と彼女はいった。
「この船は楽しいよ」
彼女は横になり、もう何も求めなかった。彼女が灯りを消した。舷窓から、街燈に明るく照らし出された岸壁が見えた。まるで二人のあいだのすべての欲望が死滅したように感じられた。
「眠らなくちゃ」と彼女はいった。「あたしたちろくにねてないから、とても疲れているのよ」
「ちがうよ、きみは思い違いをしてる」
「結局、あたしはそんなあなたが好きなのね、壁みたいな」
「黙るんだ……」
「世界最大の恋愛って、どんな意味なの?」
街燈に照らし出されて、彼女の顔はぼんやりと見えた。彼女は微笑していた。ぼくは立ち上って帰りかけた。彼女は引きとめようとした。
「ばか」とぼくはいった。
ぼくはふりほどいた。彼女はそのまま、もうまったく引きとめようとしなかった。
「心配しなくていいわ」と彼女はいった。「あたしだってあたしなりに黙っているから」
船は夜のうちに出港した。ぼくはわずかしか眠らなかった。スクリューの振動で目を覚まされ、眠れないまま長いことじっとしていた。それから、すっかりあきらめていたのに、陽が昇ると、眠ってしまった。船室を出たのは正午頃だった。彼女はふだんと変りなく、冷静で楽しげにデッキに立っていた。ブルーノと話している。彼はもう酔ってはいなかったが、ひどく不機嫌だった、彼は欺されて乗船したので、ダオメーへ行くなんて聞いてなかった、等々と主張していたからだ。彼女はクーヅー狩りに行くのだからと慰めていた。
「これは一度はしなくてはならないことよ、だからそれをしたら……」
彼は彼女を疑わしげに見つめていた。ブルーノは船で最年少の水夫だった。世の中の移り変りにまだ慣れていなかった。ぼくたちは彼にこの旅行の必要性を納得させるのにひどく苦労した。しかしみんな彼にはずいぶんと忍耐心を注いだのだ。
全員で朝食をした。エパミノンダスはぼくらのテーブルヘ来た。それ以来、彼は毎日そうした。決して邪魔はしなかった。その朝の彼はご機嫌だった。とても上天気で、彼はマジュンガも、いろいろな心配事も、さらにはダオメーへの旅行の理由さえ忘れているみたいだった。
「さあ、しっかりやろうぜ」と彼は元気よくぼくの肩をたたいていった。
「しっかりやろう、落着いてな」
「あんたは自慢していいわよ」と彼女がいくらか軽い口調でいった。「あたしたちを出発させたんだもの」
エパミノンダスの顔は怒りでくもった。
「あんたを出発させた人間がいるとしたら、やっぱりおれじゃないよ」
彼女は笑って同意した。
「それにあんたがどこへ行こうと」とエパミノンダスはつづけた。「たいして変りないじゃないか?」
「それでも希望を持つべきだよ」とぼくはいった。「さもないと……」
「いちばんいいのは」と彼女がいった。「彼がディジョンの牛乳屋になって、あたしの方はあの男を探すために、海の上で淫売稼業をつづけることなのよ」
「海の上だろうとどこだろうと……」エパミノンダスは哄笑した。
みんな笑った、ほかのテーブルの水夫たちまでが。だれも本気で怒ってはいない。
「ディジョンだろうとどこだろうとね」とぼくはいった。
彼女は笑った。エパミノンダスは理解しなかった、それで例によって、彼の表情はこわばった。
「言葉の綾なのよ」と彼女が説明した。
「いまは冗談を許される場合ですか?」
「冗談によりけりよ」とアンナがいった。
「どうやら」とエパミノンダスは急に悲しげにいった。「おれはタンジールでおりたほうがよさそうだ」
「本気じゃないのよ」と彼女がいった。「あんたは気にしすぎるわ」
「だけどもし彼がエウエ族のなかにいたら」とエパミノンダスがいった。「あんたは滑稽な顔をするだろうな」
「彼女ばかりじゃないよ」とぼくはいった。
その出会いのことを考えると、ぼくはますます果てしない笑いの渦にまきこまれた。
「そんなに笑うわけを説明してくれよ」と傷つきやすいエパミノンダスがいった、きっとぼくが旅行の結果を疑っていると考えたのだろう。
「ぼくはね」とぼくは説明した。「急いで上陸する可能性を考えてるのさ」
「ああ」とエパミノンダスは笑った。「急ぐことにかけては、彼は負けないよ」
「あわててネルソンやボールベアリングに会いに行くだろうよ」
「みんなあたしを忘れてるわ」と彼女がいった。
「大げさに考えるなよ」とぼくがいった。
「あんたは昔みたいじゃないね」とエパミノンダスがいった。「あんたも変ったよ、しかも良くない意味でね」
それから彼は大笑いした。
「旅行は終りだ」と彼は誇らしげに叫んだ。「みんな家へ帰るんだ。おれはコトヌーへ残って、クーヅー狩りでもするよ」
彼はいま思い出したようにぼくと、彼女とを見た。いくらか困った顔をしている。ぼくは彼女を見つめた。
「あんたは?」とエパミノンダスはおずおずとたずねた。「どうする……」
「どうするかね?」とぼくはいった。
みんな黙っていた。彼女はこの上もなく美しい目つきを見せた。みんなぼくが話すのを待っていたが、ぼくは喋らなかった。
「いずれにせよおれは」とエパミノンダスが小声でつづけた。「コトヌーでクーヅー狩りをするよ。生けどりにして動物園に売るのさ」
「コトヌーには」とぼくはやっとの思いでいった。「クーヅーはいないよ」
「だけどザンベーズには、わんさといるそうだぜ」
「でも生けどりができなかったら」と彼女がいった。「どうするつもりなの?」
「きみは知ってるはずだよ」とぼくはいった。
「なぜ彼女が知ってるんだい?」とエパミノンダスが不審顔でたずねた。
「そんなに何でも知りたがらないでよ」と彼女はいった。「あたしがジブラルタルの水夫を追ってるからなの。当てつけよ」
彼女はやさしくつづけた。
「生けどりにできなかったらどうする? 食べるの?」
「その通り」とエパミノンダスが叫んだ。「食べるのさ。それから角もあれば皮もある」
「クーヅーは」とぼくは説明した。「珍しい動物だよ。珍しい動物を狩るのは大狩猟さ」
「珍しければ珍しいほどいいのさ」とエパミノンダスが笑った。
アンナも笑ったが、すぐに顔を曇らせた。
「あたしますます笑うのが好きになるわ、年をとったせいね」
「年をとったからじゃないよ」とエパミノンダスが知ったかぶりでいった。
「夜が明けたからだよ」とぼくがいった。
アンナはまたこのほのめかしに笑った。
「おれが邪魔だったら」とエパミノンダスがいった。「早くそういってくれればいいのに」
「あたしたちの邪魔をしてるのは」とアンナがいった。「あんたじゃないわよ」
エパミノンダスは納得して、腹を立てたが、たいしたことはなかった。
「そんなことわかってるよ」と彼はいった。「それにしてもあんたはひどく変ったな」
その日はずっと本を読もうとしたがどうしても読めなかった。午後の終りになって、ぼくはバーへエパミノンダスを探しに行った。彼も椅子に体を沈めて本を読んでいた。彼女は水夫たちと、船が大西洋へ入る時期について話していた。ぼくがバーへ入ったとき、すぐに気配でわかった。水夫のある者たちは、ブルーノもそうらしいが、ぼくの船上生活の決定的瞬間が訪れており、ぼくはダオメーまでは行かないだろうと考えていた。彼女の様子から、こうしたぼくの立場のあいまいさに、彼女はちっとも困ってはおらず、逆にそれを長引かせることに楽しみを味わっているのがわかった。ぼくはバーを通り抜けてデッキへ出た。エパミノンダスがすぐに追いかけてきた。それはぼくの希望することだった。ぼくらは気持を理解し合っており、ぼくは誰かと話したかったのだ。
「じゃ、きみも仕事がないんかい?」
「書庫の整理でもしようかと思っているんだけど」と彼はいった。「なんとなくね」
「この船で整理された書庫なんか必要な人間がいるかい?」
「それはわからないけど、今度の寄港で彼女が学者を乗せるかもしれないからね」
二人とも大笑いした。
「おれには何も仕事がないんだよ」とエパミノンダスがつづけた。「もっともおれは働くのは好きじゃないけどな」
「ぼくだってそうさ。だけどそのうちに……」
「忙しくなるかい」と彼はひやかした。
「船はジブラルタルへ着くよ」とぼくはいった。
「明日の夜明けにな。おれもはじめて、妙な気持になってるよ」
「きみはどう考えるかい?」
「何のこと、ジブラルタルかい?」
「彼女にチャンスはあるだろうか?」
「もしそれがなければ、みんなでなぜこんなに苦労してるんだ」と彼は立腹した。
「なるほどね。ぼくはきみの考えをききたいんだ」
「妙な質問をするね」
「ひとつきみにいいたいことがあるよ。ネルソン・ネルソンは妙な名前だと思うね」
「そんなことはどうでも……」
「ほかの名前だって、変りないけどね」
「なるほど」とエパミノンダスは譲歩した。「あいつがボールベアリング王だろうとほかの王様だろうと、彼は殺しただろうよ」
「時どきね、ぼくにはジブラルタルの水夫にはいくつも話があるように思えるんだよ」
「そうかもしれんが、ジブラルタルの水夫は一人きりだ。彼は変りないよ」
彼は疑うような顔つきでぼくを見つめて、口を閉した。
「あんたはいろんな質問をするけど」彼はいった。「そんなことしたって無駄だよ」
「何を話すのも自由だろう。ちがうか?」
ぼくは付け加えた。
「もっとも、質問する必要はないな。彼女はよく喋る女でね」
「ちがうよ、彼女は自分の望むことをよく知らない女かもしれんが、お喋りじゃない」
「だけど彼女はエウエ族のところへ行くじゃないか」
「彼女には選ぶ権利はないよ」
「それもそうだね」
「彼女は進退きわまっているんだ、いまさら後退できるかね? だからさ」
「きみはとても彼を見つけたいんだね」
「それが可能だと信じてるのはおれひとりだろうな」
「彼女が何をしようとね」とぼくはいった。
「やっぱり、そうはいかんよ」
「なるほど」とぼくはいった。
ぼくはとても彼に友情を感じた。彼の方もそうだと思うが、いくらか受身だった。
「あんたは休養すべきだよ」と彼はいった。「顔つきがよくない」
「眠れないんだよ。彼女があまり喋らないっていうのは本当かい?」
「本当さ」それから彼は付け加えた。「おれだって、知ってることはみんな、他人の話や噂で聞いたんだ。だけどね、突然にお喋りになることもあるからな」
「そうだね」とぼくは笑いながらいった。
彼はまたぼくの顔をじろじろ見つめた。
「あんたはこれまで何をしてたんだい?」
「植民地省の戸籍係さ」
「どんな仕事なんだい?」
「植民地で生れたフランス人の出生や死亡届けを写していたのさ。八年つとめたよ」
「ふうん」とエパミノンダスが尊敬するようにいった。「よく変ったものだね」
ぼくは彼に向っていった。
「ぼくは幸福なんだよ」
彼は返事しなかった。煙草を出して火をつけた。
「みんな捨てちゃったのか?」
「みんなね」
「まだわからんよ」と彼は親しげにいった。
しばらく前からぼくは彼の刺青に刻まれた名前を読もうとしていた。彼が急にあくびをしたので、見えた。アテーネ〔知恵の女神〕だった。ぼくはとても嬉しかった。
「きみは刺青にアテーネと書いてるね」と今度はぼくが親しげに話しかけた。
「何だと思ってたんだい? そりゃ、おれだって迷ったけど、そのうちにばかな真似をするだろうと思って……」
二人とも完全に理解し合って笑った。それから彼はバーへ、ぼくは船室へもどった。昇降口の途中で彼女に会った。彼女はぼくを引きとめて、小声で、明朝六時半に船はジブラルタル海峡を通ると告げた。
ぼくは昼間の残りと夜の一部を、彼女を待って過した。しかし彼女の姿は夕食のときにも見られなかった。
船はジブラルタルへ、彼女が話した時間より少し前に、六時少し前に着いた。
ぼくは起きて、デッキへ出た。彼女はすでにいた。船の全員が眠っていた、エパミノンダスでさえも。彼女は部屋着姿で、髪は乱れていた。たぶん彼女もよく眠らなかったのだろう。お互に口をきかなかった。何も話し合うことはなかった、というより何も口がきけなかった、お早うでさえも。ぼくは船のへさきの彼女の傍ヘ行った、そして二人ともすぐ近くで手すりにもたれて、海峡に近づくのを眺めた。
船は岩の前を通った。飛行機が二機、きらきら輝きながら岩の上を飛びこえ、しだいに小さな円を描いて旋回し、禿鷹のように岩を狙った。ダイナマイトの上に坐った白い別荘、息づまるような、しかもはげしく愛国的な混淆のなかで重なり合った別荘で、英国は眠っていた、スペインの血みどろな大地の上で相変らず自信に溢れて。
岩は遠ざかった、それとともに目まぐるしく混乱する国際情勢も。そして海峡が現われた、それとともに同じく目まぐるしく混乱する国際情勢の欠除も。海水の色がかすかに変化した。アフリカ海岸は、塩の丘陵のごとくむき出しの乾いた姿でそそり立っていた。それより保護され、薄黒いスペイン海岸が、相手をにらんでいた。こちらはラテン世界の最後の松林で覆われていた。
船は海峡へ入った。風が吹きはじめた。大西洋が現われた。彼女はやっとぼくの方を振り向いて、ぼくを見つめた。
「みんなあたしのつくり話だとしたら?」と彼女がいった。
「みんな?」
「みんな」
ぼくらの間柄はしだいに宿命的になっていった。まるで彼女がそう告げているようだった。
「たいして変りないだろうね」とぼくはいった。
船は急カーブした。海水は緑色になった。海峡は広くなった。海水と空と彼女の目の色のなかに完全な変化が起った。彼女は相変らずへさきを向いたまま、待っていた。
「じゃ」とぼくはいった。「いいね?」
「ええ」と彼女はいった。「いいわ」
ぼくは彼女に近づき、腕をとって、連れて行った。
船がタンジールへ着いて一時間後に、彼女は眠った。ぼくたちは一言も言葉を交さなかった。
ぼくは彼女を船室に残したまま、食堂へ行ってコーヒーを飲み、そして船をおりた。デッキから町を見る余裕もなかったと思う。大急ぎで下船して、歩きはじめた。十一時頃で、もう暑かった。しかし海風が町に吹きこみ、とても過しやすかった。最初の横の街路を十五分ほど歩くと、知らぬまに、背の低い棕櫚の並木のあるにぎやかな大通りヘ出た。前夜ばかりか、ロッカ以来連日のように睡眠不足だったので、息切れがした。大通りはとても長かった。たぶん市内の主要な動脈なのだろう。それは一方は港へ、もう一方は彼方の広場へ通じていた。石炭を積んだ大型トラックが走っていた。ほかにも、箱や、機械や、鉄板を積んだトラックが苦しげに走っていた。高い場所へ達すると、港から広場まで大通りの全部が見おろせた。二本の長い車の列、とりわけトラックの列がほとんど切れ目なくつづいている。大通りは限りがなく、海のようにきらめきうごめいているように思われた。その眺めを受けとめるために、ぼくはベンチに腰を下さねばならなかった。国際警察の巡察隊がファンファーレを先頭にのぼってきた。それは面白がっているトラック運転手たちの前を、足並みそろえて誇らしげに行進した。それが通り過ぎると、ぼくはベンチを立って、広場へ上っていった。広場なら、ぜんぜん木蔭をつくらない小さな棕櫚以外の樹木と、それにカフェのテラスもあるだろう。たしかぼくは、フィレンツェであのトラックの運転手を探し歩いたときと同じくらい疲れていただろう。しかも今度は、都市はぼくを閉じ込めるどころか、逆にどこまでも拡がっていった。だからぼくは、絶対にこの町のはずれまで行けないだろうから、広場のカフェへ着いたら、死ぬまでそこを動くまいと考えたほどだ。ぼくは絶望的に幸福だった。ほとんど各ベンチごとに坐って、耳を傾けた。都市全体が猛烈に働いていた。よく耳を澄ませると、大通りをのぼるトラックの騒音をとおして、港から立ちのぼるはるかな漠としたどよめきが聞えた。ぼくはまた立ち上って歩きはじめた。広場まで行くのに一時間はかかっただろう。涼しげに水をまかれたカフェのテラスは、プラタナスの木蔭に拡がっていた。そのときぼくは、たぶん疲労のせいだろうが、自分に訪れた出来事がもはやぜんぜんわからなくなり、とてもそれを生きる気力はないように思えたのだ。だがそれも長つづきしなかった。あっという間に、それは過ぎ去った。白一色のカフェのガルソンが、何を飲むかとたずねた。ぼくはいった――コーヒー。ぼくはジブラルタルの水夫の女のためにこがれ死にはしていなかった。
「冷たいのですか?」
「わからんよ」
「ご気分が悪いのですか?」
「気分はいいが、疲れてるんだ」
「じゃ、熱いのの方がよろしいでしょう」
「そう、熱いのだ」とぼくはいった。
彼は遠ざかった。広場は海に向って、市内でいちばん高いところにあった。町は商業港まで、そしてその右手の少し遠くのヨットハーバーまで拡がっていた。≪ジブラルタル≫号が見えた、いちばん大きなヨットなので、すぐに見わけがついた。彼女はまだ眠っているのか、目覚めているのか、ぼくがどこへ行ったか考えているのか。もしかしたら、ジブラルタルの水夫が船にいるかもしれない。ガルソンがコーヒーを持ってやってきた。
「何か召し上りますか?」
ぼくは何も食べたくなかった。彼はぼくがヨットハーバーの方を眺めているのに気づいた。昼食の時間だったが、客はほとんどいないので、彼はお喋りする暇があった。
「≪ジブラルタル≫号は今朝着いたのですよ」と彼はいった。
ぼくはかすかにぎくりとした。ガルソンは船に興味を持っていた。
「きみはあのヨットを知ってるのかい?」
「三十六メートルのはそうざらにはありませんよ、あれは最新型ですから、見ればすぐにわかるんです」
ぼくは焼けるようなコーヒーを飲んだ。かなりうまかった。ぼくはコーヒーが好きで、朝は何杯も飲む。広場は一方通行で、トラックはよどみなく走りつづけた。鉄板が陽光に輝いた。アラブ人の商人がぼくの前に立った。町の景色の絵葉書を売っている。ぼくは一枚買った。ポケットから鉛筆を出して、葉書の右手にジャクリーヌの、つまりぼくの住所を書いた。それはヨーロッパを離れる前に、心に誓ったことだった。書きながら自分の手を見た。ロッカ以来、着代えもせず、また体を洗う時間も必要もなかった。ガルソンはぼくの傍に立って港を眺めていた。ぼくは彼に知らぬ顔をしていたが、それは一日のうちでカフェのガルソンたちが身をもてあます時間だった。
「あのヨットには女が住んでますよ」と彼は話した。「世界一周をしてるんです」
「しかし、そうやって漫然と世界を一周してるんかい?」
「誰かを探してるって噂ですよ。だけど噂ですから……」
「そうだよ……噂なんか……」
「それというのも、彼女はクロイソスみたいに大金持ちだからですよ。何かすることをみつけなくちゃいけませんからね」
客が入ってきて彼を呼んだ。ぼくはジャクリーヌに書く文句を考えた。だが見つからない。ぼくの手は汚れていた。ぼくは書いた――ぼくはきみのことを考えている。それから葉書を引き裂いた。碇泊中のヨットが海の上で踊っていた。テラスの前を退屈そうな女たち、淫売婦たちが通り過ぎ、相手のいない暇そうな男たちを物色していた。どの女も、まだぼくの船室で眠っている彼女のことを考えさせた。ぼくは彼女が大きな顔をして眠っていたのを思い出した。あんまり彼女のことを想像しすぎたので、体の調子がおかしくなった。
ガルソンがまたぼくの傍に立った。ぼくは彼に冷たいはっか水を注文した。体の奥まで冷やしたかった。ぼくは一気に飲んだ。だがはっか水も彼女を思い出させた。ぼくはフィレンツェで飲んだ何杯もの冷たいはっか水のことを思い浮かべようとしたが、だめだった。ぼくは追憶のない人間になってしまったのだ。ジャクリーヌもフィレンツェのはっか水と同様にうまく思い出せなかった、もはや彼女の顔も、声さえもよみがえらせられなかった。彼女と別れて六日にしかならないのに。
そのカフェには長いこといたらしい。少しずつ昼食に来る人たちがやってきた。ガルソンはもう話しかけず、やがて多忙になった。テラスにはもう空席はない。ガルソンがやってきて、丁重に帰るようにほのめかした。
「百フランです、失礼ですが」
ぼくは財布を出した。全財産が入っている。先日までつづいた八年間の生活の貯金、ぼくはその生活のことを何もおぼえていないのだ。百フラン札をテーブルに置き、もう少しいてもいいかとたずねた。
「じゃ、ほかのものを注文してください」
もう一杯コーヒーをたのんだ。ガルソンはすぐに運んできて、百三十五フランになるといった。千フラン札を出すと、おつりがないのでくずしに行った。これで十分ほどかせげた。ぼくはコーヒーを飲んだ。それは彼女の髪の匂いのように口のなかで拡がった。ガルソンがおつりを持ってきた。ぼくはついに帰ろうと決心した。またしても市内を歩きはじめた。前ほど疲れてはいなかったが、コーヒーのため心臓がはげしく鼓動して、ゆっくりとしか歩けなかった。風はやんで、暑さは午前よりきびしい。ぼくは歩いた。やがて二時になった。きっと空腹だったろうが、食べようなんて考えもしなかった。ほかの悩みごとがあったが、船へ帰ろうか、それともぼくなしでヨットを出港させようか、わからない。辻公園が見つかった。プラタナスの木蔭の空いたベンチ。ぼくは腰を下して、眠った。半時間ほど眠ったらしい。目覚めたとき、幸福はまだまだぼくをおびやかし、船へ帰るかどうかますますわからなくなった。しかしわからないままにぼくは立ち上り、来るときに通った大通りを探しはじめた。かなり時間がかかった。ぼくはその大通りを、港へ向ってゆっくりと下っていった。≪ジブラルタル≫号が見えた、白日の下に、デッキには人影はない。給油中だった。ブルーノが働いていた。彼はぼくに近づいてきた。
「乗りなさいよ」
「きみはタンジールでおりないのか?」
「そのうちにおりますよ。乗りなさい」
こうしてぼくは乗船した、背後からブルーノに監視されて。ぼくは真直にバーへ行った。彼女がいた、ウイスキーのグラスを前にして。彼女はぼくが岸壁を通り、乗船するのを見ていたのだ。エパミノンダスも一緒にいた。彼女は怖かったのだ。ぼくの顔を見ると、恥も忘れて、彼女はそういった。
「あたし怖かったの」
ぼくはすぐに彼女が相当にウイスキーを飲んだのを見た。エパミノンダスはぼくに会えて嬉しそうだった。
「あんたを探したんだよ」と彼は冗談めかしていった。「いつも誰かを探してるなんて、人生とはいえないな。あんたも自分を探しはじめるべきだよ……」
「カフェにいたんだよ」
「飲んでるのね」と彼女がいった。
「コーヒーとはっか水をね」
「酔っぱらってるみたいよ」
「ぼくは酔ってるんだ」
「彼は何も食べなかったんだよ」とエパミノンダスがいった。
彼女は立ち上り、パンとチーズを取りに行って、ぼくにさし出した。それから、ウイスキーを飲んだ後でできるのはこれだけだといわんばかりに、ぼくの傍の椅子に身を沈めた。
「淫売屋へ行ってくれたほうがよかったのに」と彼女はいった。
「その必要があるみたいだな」とエパミノンダスがいった。
次に、彼女はぼくが食べるのを黙って見つめていた、ぼくのしぐさを機械的に目で追いながら、いくらかはじめてぼくを見るみたいに。ぼくが食べ終ると、彼女は立ち上がってウイスキーのグラスを二つ持ってきた。エパミノンダスが彼女を助けた。彼女は千鳥足だった。
「もう飲むなよ」とぼくはいった。「町を見物しに行こう」
「あたしちょっぴり酔ってるのよ」と彼女は微笑しながらいった。
「もう立ってられませんぜ」とエパミノンダスがいった。
「ぼくは飲んでないから、きみを歩かせてあげるよ。きみにぜひ来てほしいんだ」
「何の役に立つの?」と彼女がたずねた。
「ぜんぜん」とぼくはいった。「役に立つものなんか何もないよ」
エパミノンダスは出て行った、きっとぼくが一緒に行くように提案しなかったのでいくらか腹を立てたのだろう。ぼくは彼女の船室まで同行し、着替えを手伝った。知り合ってからはじめて、彼女は夏のドレスを着た。グリーンと赤の木綿のそのドレスは、ぼくもおぼえていた。それから帽子をかぶったが、それは彼女の髪をすべて入れるには少し小さすぎて、頭のてっぺんに置かれていた。その下の顔はまともではなかった。薄目をあけて眠っている女の顔みたいだ。彼女はタラップをひとりでおりたがった。しかし怖くなって、途中で止ってしまった。ぼくは彼女をしっかり腕に抱いておりた。彼女がどれだけウイスキーを飲んだか知らなかったが、本当に泥酔していた。彼女はエパミノンダスと二人きりになると、たてつづけに飲んだのだ。上陸するとすぐに、彼女はカフェでもっと飲みたがった。だがカフェは見あたらなかった。ぼくは彼女を無理に歩かせた。横の街路をのぼって、例の大通りへ出た。そこでも彼女はカフェで飲みたがったが、やはりカフェはなかった。するとベンチへ坐りたいといった。坐ると眠ってしまうといって、ぼくは反対した。彼女は抵抗した。彼女が坐ろうとしたので、ぼくは強く引っ張った。そして彼女がなおも頑張ったので、帽子が落ちて、髪は完全にほどけてしまった。彼女はまるっきり気がつかない。ぼくは帽子を拾った。彼女は髪を乱したまま歩きはじめた。人々は立ち止ってぼくたちを眺めた。彼女は平気だった。時どきぐったりして目をつむった。こんな状態の彼女を見るのははじめてだった。ぼくは弱り果てたが、先ほどよりも元気になったので、彼女を引っ張っていった。大通りの中ほどまでに半時間もかかった。坂道はなだらかになった。午後四時だった。風が吹きはじめて、彼女の乱れ髪の方向を変えた。ぼくがあまり強く引っ張っていたので、彼女は警察へ連行されるか、気が狂ったみたいだった。ぼくはそんな彼女をこの上もなく美しいと思った。その姿を見て、ぼくも彼女と同様に酔っていた。彼女はひっきりなしにはなしてくれと訴えた。
「はなしてよ」
彼女は叫ばなかった。変りなくやさしい口調でそれを訴えた、ぼくが頑固に耳をかさないので、時にはいくらか驚いたような口調で。
「歩くんだ」とぼくはいった。
ぼくはその理由もいわないでそう繰り返した、自分でもなぜなのかわかっていたろうか? わかってなかったが、絶対にそうすべきだった。しばらくは彼女もそれを信じて、足を前に出した。次に酔いがぶりかえして、またもはなしてくれとせがむ。そこでぼくがまた絶対に前進すべきだと説明をはじめる。一度たりとぼくは広場へ到着することをあきらめなかった。ついに着いた。彼女もちょうど一時間前にぼくが立ち寄った、最初のカフェのテラスに腰を下した。彼女は椅子に頭をもたせて、目を閉じてじっとしていた。ガルソンがやってきた。午前中と同じ男だ。ぼくをおぼえていて、挨拶をした。彼はぼくたちの前に立ち、彼はぼくと彼女を見つめた。彼は理解して、ぼくにやさしく微笑した。
「ちょっと待ってくれ」とぼくはいった。
彼は遠ざかった。ぼくはそっと彼女の名を呼んだ。
「アンナ」
彼女は目を開いた。そこでぼくは髪を後ろへなでつけてやった。彼女はされるままになっていた。とても熱い体で、髪は額にはりついていた。
「アイスクリームを食べよう」とぼくはいった。
ぼくはガルソンを呼んで、アイスクリームを二つ注文した。
「何にしますか?」
その質問にぼくは笑った。
「バニラがいいでしょう」と彼はいった。
「いやよ」と彼女がいった。「アイスクリームなんかいらない」
ガルソンは目でぼくにたずねた。
「バニラのアイスクリームを二つ」とぼくは繰り返した。
彼女は反対しないで、通行人を眺めていた。いまでは大勢いた。午後は終りにさしかかっていた。しかしトラックは相変らず走っている。ガルソンがアイスクリームを運んできた。あまり上等の品ではなかった。彼女は一さじ口にして、顔をしかめ、やめた。それからぼくが食べるのを、漠とした興味で見つめた。ぼくはすっかり平らげた。
「きみは食べないのかい?」
「おいしくないの」彼女は微笑しようとして顔をしかめた。
「残しちゃいけないよ」
彼女はもう一度やってみて、あきらめた。
「だめだわ」
あらゆる国籍の船員や兵士が通った。カフェの前で歩調をゆるめると、あっけにとられた顔つきで、その乱れた髪の女を見つめた。
「コーヒーを飲みたまえ、うまいコーヒーだよ」とぼくはいった。
「なぜコーヒーを?」
「いいコーヒーだ、気分がよくなるよ」
数メートル離れたところにガルソンが立っていた、相変らず港の方を向いているが、ぼくらの様子をうかがっている。ぼくはコーヒーを注文した。
「なぜなの?」と彼女はなおもたずねた。
ガルソンがコーヒーを運んできた。生ぬるくてうまくない。彼女はちょっと飲んでから、いとも悲しげな、泣き出しそうな口調でいった。
「このカフェはみんなだめよ。アイスクリームもひどかったし」
ぼくは彼女の手をとって、説明した。
「町中どこでも同じことだよ。どこのカフェでも同じアイスクリーム屋から仕入れてるんだからね」
「じゃ、コーヒーは?」
「コーヒーはちがうよ。よかったら濾過したコーヒーを注文しようか」
「いらないわよ」
彼女は煙草に火をつけようとした。だがライターがつかない。彼女はうめき声をあげた。ぼくは彼女の口から煙草をとって火をつけてやった。いつもの彼女なら、こんなことで苛立ったり、泣き声を上げたり決してしない。彼女は嫌悪で唇をひきつらせて煙草をすった。
「船にいたほうがましだったわ、上陸するときまってこうなんだから」
ぼくは顔がこらえきれぬ笑いで歪むのを感じた。彼女は気づいていない。
「もう二度と上陸しないわ」
「ダオメーのエウエ族のところへ行ったらそうもいかんよ」
彼女はせいいっぱいやさしく微笑した。
「きっとうまくいくよ」とぼくはいった。「クーヅー狩りをして、楽しめるよ。だいたいみんな楽しむのを知らないんだ。ぼくらは変装するんだよ、ぼくは二重底の帽子、サングラス、乗馬ズボンを身につけるよ、それからとても便利な獲物袋をきみにあげよう」
「いやよ」
「夜になったら、テントのなかで、ライオンのほえる声を聞きながら、きみに話をしてあげよう。エパミノンダスは連れて行くかい?」
「いやよ」
「きみに話してあげよう」
「いやよ」と彼女はいった。「クーヅーなんかいないのよ」
「いっぱいいるんだよ、きみはなんにも知らないんだな」
「もう彼じゃないのよ」彼女はいった。「いまのあたしが待っているのは」
「人間はいつも何かを待っているんだよ。あんまり長く待ちすぎると、気持が変って、もっと早く手に入るものを待つようになる。クーヅーはそのために、小さな期待のためにあるのさ。きみはそれに慣れなくちゃ」
彼女は返事をしなかった。話すのは困難で、ほとんど叫ばねばならなかった。規則的な間隔を置いて、つまり赤信号になると、轟音が襲いかかった。家々はふるえ、会話は中断された。
「帰りたいんだけど、きみはまだ歩けないしね。うまいコーヒーを飲むといいよ」
「いや、コーヒーなんかいらない」
ぼくはもう一度ガルソンを呼んだ。そして彼女にはうまいコーヒーが必要だと説明した。
「この人が」とぼくはなにくわぬ顔でいった。「≪ジブラルタル≫号のご婦人だよ」
彼は呆然としたが、たちまちそれを信じた、一瞬も疑わなかった。そしてそれが充分な価値の説明であるかのように、濾過したコーヒーを持参すると告げた。ほんの十分ほどかかるだろう。ぼくは待っていると答えた。彼女はそれに反対した。
「あたしは船へもどりたいわ」
ぼくは聞えない振りをした。コーヒーを待つ十分間、彼女は広場の騒音に我慢していなかった。
「待つことないわよ、きっと今度のコーヒーもまずいんだから」
彼女はすべてが悪しかれと望んでいた。いまにも叫びそうに思えたので、彼女の手を握って、我慢するようにと握りしめた。ガルソンは彼女がひどく苛立っているのに気づいた。彼がもどってきたので、ぼくはうまいコーヒーになることを期待していると告げた。
彼は姿を消して、ほとんどすぐにコーヒーを持ってもどってきた。ぼくは味わった。うまいコーヒーだった。彼女はぼくの手から奪い取って、一気に飲みほした。熱いので、口を焼いて、彼女はまたうめいた。
「うまかったね」とぼくはいった。
「わかんない、帰りたいわ」
ぼくは髪を結ったほうがいいと話した。彼女は髪のまわりにネッカチーフをまきつけた。
「どこへ行きたいの?」
彼女はすっくと立ち上った、目には涙をいっぱい浮べていた。
「ああ、わかんない、わかんないわ」
「映画へ行こうよ」
ぼくは彼女の腕をとった。彼女は帽子を拾った。ぼくたちは港と反対の方角の海浜に通じる街路を進んだ。一見して映画館がないのがわかった、銀行や事務所の地区だった。彼女はそれに気付かなかった。何も見ていなかった。その街路は静かで、はるか前方の公園に通じていた。彼女は別の通りへもどりたいといった。十分ほど歩いてから、逆もどりした。
「あなたは自分が何をしたいのかわかってないのね」と彼女はいった。
「わかってるよ。映画さ。たまには映画も見なくちゃね」
ぼくは自分が彼女を愛しはじめたところなのかどうか、もうわからなかった。そう、もしかしたらそれははじまったところかもしれない。ぼくは彼女の腕をとっても強く握りしめた、彼女は少し顔をしかめたが、まるでぼくが与えたその苦痛を、トラックの騒音やその他のもののように、宿命のように受け入れねばならぬと考えているみたいだった。ぼくは彼女をまだ知らなければいいと思った、そしてその顔と目をした彼女が、ぼくの目の前を歩いている姿を想像しようとした。だがむろんそれは不可能だった。それでもぼくは、あの葦の背後で見た日よりも、彼女がずっと美しいと思った、あの日よりずっと心に衝撃を与えた。
「なぜ映画なの?」と彼女はやさしくたずねた。
「なぜいけないの?」
「どんな映画を見に行くのか知ってるの?」
「もちろん知ってるさ」
彼女は振りむいて、ぼくが何かよからぬ意図をたくらんでいるような顔をした。
「きみにあることを話したいんだよ」とぼくはいった。
「それが映画を見るのと何の関係があって?」
「さあね」
広場から港へ通じる大通りへ出た。鉄板や石炭を積んだトラックの長い列にまた出会った。ぼくは横断歩道の前で立ち止った。横断する必然性はなかった、そして彼女もそれに気づいていると思ったが、彼女は別に注意もしなかった。
「渡ろう」とぼくはいった。
そう、彼女は気づいていたと思う、大通りの向う側に映画館がないのは明らかだったから。それに彼女はもうほとんど酔っていなかった。白服の警官が、同じように白い台に乗って、儀式ばった身振りでトラックの交通規制をしていた。
「あの警官を見たまえ」とぼくはいった。
彼女は見て、微笑した。ぼくは一度、二度と警官の合図を待った。歩行者とトラックとのそれぞれの通行は三分間だった。人通りがはげしかった。
「長いわね」と彼女がいった。
「とても長い」
二番目の合図が止った。今度はトラックの通る番だ。箱を積んだトラックが力強く発車した。横断歩道には誰もいない。警官は半回転して、はりつけにされるみたいに両腕を開いた。ぼくは彼女を掴んで、前へ引っぱった。彼女はすべてを見た、発車するトラック、空っぽの横断歩道。彼女はされるがままになった。はじめてぼくは彼女を前へ引っぱるという気持を失った。トラックのバンパーがぼくの足をかすめた。一人の婦人が悲鳴をあげた。安全地帯へ達する少し前に、婦人の悲鳴の直後に、そして警官の罵声のなかで、ぼくは彼女を愛していると告げたのだ。
彼女は安全地帯でじっとしていた。彼女がトラックの方へよろけないようにぼくはしっかりと抱きかかえた。ぼくが口にしたことはたいしたことではなかった。ぼくが話すことができた幾千もの他の言葉のなかの数語にすぎなかった。しかしジブラルタルの水夫を失って以来、はじめて彼女はその言葉を誰かの口から聞きたいと思ったのだろう。彼女は安全地帯の近くで、少し顔を青ざめさせてじっと立ちすくんでいた。
「書類《ペーパーズ》を!」と警官が叫んだ。
彼女を片腕で抱きながら、ぼくは身分証明書を出して、警官へさし出した。彼はさほど怒っていなかった。ぼくが轢かれるのを恐れて、彼女が立ちすくんだと思っていたのだろう。彼女は警官に微笑した。警官もそれを見てにっこりした。彼はぼくに証明書を返して、トラックを止めぼくらを通すために、半回転した。ぼくらは横断した。
「あたしたいして映画へ行きたくないのよ」と彼女はいった。
彼女は笑った。ぼくも。街はメリーゴーラウンドのようにぼくらの周囲を廻転した。彼女にそう話すと本当に目がまわった。また逆もどりして、今度は信号通りに、横断歩道を渡った。警官はびっくりしていたが、また彼女に微笑した。大通りと交叉する小路に、映画館が見つかった。ぼくたちは夕食の少し前に船へもどった。またしても、ローランが出発のためにぼくらを待っていた。
旅行は十日かかった。
おだやかで楽しい旅行だった。
ぼくは真面目な男になった。それはタンジールの後ではじまり、ずっとつづいた。彼女もやはり真面目になり、そして彼女の場合もタンジールの後ではじまり、ずっとつづいた。コトヌーへ着いたときぼくたちが完全にそうだったとはいいきれないが、出発のときにくらべたらはるかに真面目だった。誰でも知ってることだが、真面目になるには時間がかかるし大変なことなのだ。それにわずか一日で、いや十日かけても真面目になれるものではない、ただそうなりはじめるだけなのだ。
というわけで航海はおだやかで楽しかった。
カサブランカでぼくはシャツを三枚買い、体を洗ったり身ぎれいにしはじめた。もちろんそれもまたいささか大仕事だった。しかもグランバサムでぼくはほぼ完全に清潔になった。眠るのに少し余計に時間をかけるようになった。とにかく毎晩、多かれ少なかれ眠ったのだ、毎晩。少しずつ、日増しに、ぼくは船上での自分にふさわしい位置を占めていた。そして彼女も、日増しに、ぼくにその余裕を与えるようになり、また日増しに、それが彼女とぼくにとってよりいいことだと理解した。その地位は、たちまちぼくにとっても貴重なものとなった。こうした生活に慣れることは、はた目には容易に見えようが、ぼくほどうまくそれになれた人間は少いと思う。何事でも同じだが、うまく探すためには、それ以外のことはすべきでない、しかもほかの仕事をしないからといって悔んではいけないし、一人の男を探すことはもう一人の男の生涯を捧げるに価することを決して疑ってはならないのだ。別のいい方をすれば、これ以上にいい方法はないと確信すべきなのだ。ぼくの場合はまさしくそうだった。ぼくにはこれ以上いい方法はなかった。つまり、彼を探す以外に。そしてこれは極めて微妙で困難な仕事であり、この上もなく矛盾した外観、たとえば完全なる無為の外観を与えるかもしれないが、そしてまたぼくはこの仕事のすべての局面や困難さを窮めつくしたとは夢にも思っていないが、それでもいささか自慢するようだけど、この航海のはじめからぼくは立派なジブラルタルの水夫の探求者になりはじめたということができるのである。
船はカサブランカ、モガドール、ダカール、フリータウン、エディナ、そして最後にグランバサムに寄港した。彼女はダカールとフリータウンの二回しか上陸しなかったが、その二度ともぼくは同行した。しかしぼくはあらゆるところで上陸した。カサブランカ、モガドール、エディナ、グランバサム、そしてそのときはエパミノンダスと一緒だった。このように彼女やエパミノンダスと上陸すると、ぼくはたちまちある種の地理、人間の地理を愛するようになった。こうして誰かを探しながら旅行すると、ただ単に旅行する場合とはずいぶん違った喜びを味うものだ。むろんぼくたちは観光客ではない、そんなものになりうるはずがない。ある人間を探している人たちにとって、寄港地はあらゆる意味を持つ、それは単なる自然の景観以上に、ある種の人間たちの巣窟なのだ。おそらく彼こそが世界とぼくたちのあいだに、何よりも強力なきずなを縫いつける針だったのだ。なるほどぼくたちはコトヌーでも彼を探しに出かけたが、それより以前の寄港地で、彼を見つけえたかもしれないことを忘れなかった。ダカールの大通り、フリータウンの小路、グランバサムのドックを歩きまわるとき、ぼくたちは港の白人たちの一人一人のなかに彼の面影を求めた。それにくらべたら自然も魅力にとぼしかった。ぼくはいつもひどく疲れて船へもどった。元気づけにウイスキーを飲んだ。日増しに酒量が多くなった。もっとも彼女も同様で、しだいにウイスキーの量を増していった。旅行がすすむにつれてますます多く飲むようになった。はじめは夜、次に午後、最後には朝にも飲んだ。日増しに時間が早くなった。船にはいつもウイスキーがあった。彼女はずっと以前から飲んでいたのだが、今度の旅行中は前よりもずっと楽しそうに飲んでいた。ぼくもたちまち彼女のリズムで飲むようになり、彼女に飲みすぎないように注意するのをすっかりやめてしまった。きっとぼくたちが真面目になったからだろう。主としてウイスキーを飲んだが、ぶどう酒やペルノーも飲んだ。しかしもちろんぼくたちはウイスキーがいちばん好きだった。このアルコールは、アメリカ式である前に、海上での長い探求旅行にぴったりなのだ。
船はアフリカ海岸を走り、タンジール以後はいつも海岸が見えた。セネガルまでは岩が多くてけわしかったが、それ以後は灰色で平坦な海岸となった。
コトヌーの少し手前で、三日前に、かなり強い嵐に出会った。舷窓とドアはすべて閉され、デッキへ出ることは禁じられた。エパミノンダスは船酔いにかかり、≪つれてこられた≫ことを悔んだ。それは二日間つづき、船は鯨のごとくにせり上り、たちまち恐るべき深淵に吸い込まれた。そして翌日も嵐はまだつづいていたが、その日太陽は昇った。バーの舷窓から陽光にきらめく荒れ狂った海が見えた。とても美しかった。時としてスクリューが水の上で空転し、船は恐るべき悲鳴をあげた。しかしエパミノンダスの約束の前に船が沈むかもしれないという考えも、その日はぼくたちを楽しませた。
こうして翌々日、到着の二日前に、天候は回復した。それ以後は失った時間を取りもどすために、船は急ピッチでジブラルタルの水夫めざして進んだ。
アフリカへの到着はいつもそっけない。島もなければ、大波が静かに消える湾もなく、いつもは大陸を予告する海に踊る群鳥もない。
その日は快晴だった。ネズミイルカの群れがぼくらを歓迎してくれた。彼らは熱い海中で銀色にきらめきながら眺びはね、ぼくらの一人がその猛烈な食欲に身を供するようさかんに誘惑した。彼女はパンを投げ与えた。さざ波が大洋をなだめ、船はギニア湾へ到着した。水深は六千メートル、完璧な水平線は、午後の終り頃、一筋の貨物船の煙、もう少し後で、ギニアの棉船の黄色い帆で乱されるだけだった。
ルイとエパミノンダスの交歓は長時間かかった。二人は二年前に、最初はマルセイユ、次いで船上で知り合い、親友となったのだ。バーに腰をすえた二人は、別離中の生活を話し合い、半時間ほど完全にぼくらを忘れてしまった。ぼくたちはウイスキーを飲みながら二人の話が終るのをおとなしく待っていた。ルイはいろんな職業を転々としたあげく、現在は倒産した会社から購入した古い一本マスト船で、コトヌーとアビジョン間のバナナ貿易に従事していた。利益はすべて一本マスト船の補修に注いだので、いつも文無しだと彼はエパミノンダスに話した。というわけで冒頭から、ルイが新しい船を買うため五万フランを必要としていることを知らされたわけだ。もっともそのことで彼は、アンナの存在を思い出したわけである。二日後、彼はその五万フランを彼女に求めた。彼女はむろん何のためらいもなくそれを与えた。しかもルイがその手紙をよこしたのは、ジブラルタルの水夫をキャッチしたと信じたばかりか、自宅で彼女に奉仕するためもあったという事実によっても、彼女の喜びは全く影響されなかったのだ。
背が低く、やせぎすで、真黒に日焼けしたルイは、機敏さと洒脱さで印象的だった。彼もまたエパミノンダス同様に、彼女に手紙を送り、おそらくいささか手軽に彼を≪みつける≫水夫たちと同様に、極めて特殊な魅力を備えていた。たぶん彼の場合は、アフリカの太陽の下での滞在の故に、その魅力にはなにか過度のものがあった。ぼくの考えでは、そしてぼく自身も最初はあやうくそう信じたくなったのだが、彼はみんなに狂人だと思われていたようだ。ところが、彼は狂人でなかった。ルイは黒人たちとしか交際しなかった。ポルトノボの白人たちは、彼と話すのをいやがった。うんざりするのだ。黒人たちだけがルイを愛した。彼のやり過ぎも黒人たちには平気だった。そして彼のその日暮らしの不安定な生活も、ぜんぜん彼らを悩ませなかった。
その不安定さはたちまちぼくたちにはおなじみとなった。そしてそのやり過ぎもアンナをひるませなかった。彼女は幾年もの経験から、どんなに漠としたかすかな手掛り、初心者たちの失笑をかうような手掛りでも、時として真実の端緒を開くかもしれないし、そればかりか時には万人を、嘘つきやならず者や、いや狂人たちさえも信用すべきことを知っていた。誰だって間違いはあるものよ、と彼女はいった。彼女はルイを信用するあまり、彼の指示で中央アフリカの奥地、ウエレ族の緑のサバンナまでも出かけたのだ。
ルイは港に面した、二部屋の相当に荒れたバンガローに住んでいた。土人地区に住む唯一の白人だった。彼は、二年前から若いプール族の女と不安定な同棲生活をしていたが、女の方もその不安定さには慣れきっていた。到着の夜、ルイはアンナとエパミノンダスを夕食に招待した。ぼくも同行した。そしてきっと後でエパミノンダスから船上のぼくの地位を注意されたのだろう、ルイの家へ行ったとき、ぼくを忘れたことをあやまった。彼はぼくが来てくれてとても嬉しいと語り、極めて友好的で自然に遇してくれた。その夕食の席に四人目の客がいたが、ルイの親友で、コトヌーの小学校の黒人教師であった。ルイの紹介によると、この教師はダオメーでジブラルタルの水夫をいちばんよく知っている男であり、また植民地省の宣伝局編集の六百ページの著作、ベアンジン王の先祖であるダオメーの女王ドミシギの英雄的行為を物語った著作をフランス語で書いた男でもあった。夕食のあいだ、ドミシギのことが大いに問題になった。とりわけぼくが、植民地省の全局員と同様に、植民地主義の恩恵を証明するこの著作を手にしたことがあったからだ。ルイはその推敲と訂正に協力したと長々と喋った。彼はその本を傑作だと信じていた。ぼくは著者にそれを完成したことを情熱的に祝福した――もちろん一行も読んでないことは白状しなかった。そこでぼくは、ルイと彼の友人にとって、ジブラルタルの水夫と共に、ドミシギを読みかつ評価した唯一の白人ということになった。従って彼らの喜びは倍化されたわけだ。こうした偶然の一致のおかげで、ぼくたちの出会いとダオメー滞在の理由は彼らの目にはますます正当化された。そしてルイの友人がジブラルタルの水夫との出会いを話した物語は、ダオメーの過去の暗示的な事件とすっかりからみ合っていたが、といって決してアンナを困惑させなかったのである。ぼくの場合は、いわば何でもござれの心境だったので、困惑するはずがあったろうか?
夕食は質素ながらすばらしかった。若いプール族の女はしとやかに給仕してくれた。しかし彼女は一度も会話に参加しなかった。ダオメーの過去がどんなに輝かしくても、明らかに彼女は無関心だった。ところがジブラルタルの水夫の話は、例の教師から聞くまでもなくよく知っていたのだろう。夕食が終ると、彼女は玄関先へ出て、アトカラ地方の高原の牧歌を歌った。アンナはイタリア製ぶどう酒を多量に運ばせていたので、宴会は夜おそくまでつづき、ルイの友人が語った物語に誰も驚かされなくなっていた。
以下に述べるのがその物語である。彼は夜中の二時頃、小声で――警察がいたるところにいるから、と彼はいった――叙事詩と宗教劇の口調で、かすかに酔いながら、アトカラ地方の牧歌の英雄的で悲しい歌声を伴奏にして物語ったのである。
ダオメーの首都アボメーに、わしらのダオメーの残忍といわれた王様たちの昔のすみかに、ところで必ずやご記憶されておられようが、その王様たちのなかでいちばんえらいのはいちばん最後のベアンジン、世界の光のごときお方で、いまはその生涯を書きしるし、名誉を回復するべきときでありますが、そのアボメーに、一人の白人のお方がおられますだ。その白人のお方は、ルイの話によれば、彼が二年前から耳にたこができるほど聞かせてくれた話によれば、奥さま、あなたが興味を抱き、生涯をかけてお探しのもう一人の白人のお方と、またとないほど符合しますのだ。植民地のほかの白人たちは彼のことを、悪党だとか、≪ひも≫だとか、女衒《ぜげん》だとか呼んでおります――わしにはこの最後の呼び名が前のと同じくらいの悪口なのかわかりませんが、ルイの話ではもっと悪いとのことです。白人たちはまた彼のことを植民地の恥さらしみたいにいいますだが、わしにはこの淫売窟の、すみません、ルイの言葉を使いますが、全部の白人のなかでなぜ彼ひとりが責任を持たねばならんかわかりませんのだ。そのお方の特徴は、ポルトノボやコトヌーなど、およそ白人の警察があるすべての町の警察から追いかけられてることだが――アボメーだけは例外で、その白人のお方が住んでるこの町は、ルイの話では、警察が腑ぬけだそうで――黒人の警察は、肌の色の違いのせいか、白人の犯罪者の捜査には慣れておりませんのでな。いまさっきそのお方は白人の警察から追われてると申しましたが、わしのしなびたちっぽけな知性の助けをかりて理解しますところ、それこそあなたが長年のあいだ心をこめてお探しのもう一人のお方の最大の特徴の一つとかうかがっております。つまり、失礼して申し上げれば、ジブラルタルの水夫さまというわけで。
そのジブラルタルの水夫さまに向けられた罪状は数も種類も多いのです。窃盗、密輸、それに失礼もかえりみず申し上げれば、奥さま、強姦といったところなので。急いで付け加えさせていただきますが、この最後の強姦なる罪は、当地のダオメーにおきましては極めて相対的な犯罪でしてな。とりわけ相手がジブラルタルの水夫さまとなると、その魅力はわしらに対して、また従ってわしらの妻や娘たちに対して、極めて大きいわけです。それと申しますのも、彼女たちはいつもダオメーの古き時代、つまり年齢を問わず、一日の時間を問わず、地位を問わず、また統制すべき法律もなく、呼吸するように愛が交された古き時代への郷愁を抱いておりますからですのだ。
ところでわしはと申しますと、ジブラルタルの水夫さまに接近する大いなる名誉を与えられましたのです。ご存じないでしょうが、このわしはアボメーの生れで、妻は大部分の時間はそこに滞在しておりますので、しばしば彼女のもとに通いまして夫婦の楽しみを味わうことにしておりますだ。というわけで、わしはジブラルタルの水夫さまと知り合い、時どき友情に溢れた話し合いをする喜びと名誉とを与えられたのですだ。
わしらダオメーの者どもは、一般にジブラルタルの水夫さまを、そのような呼び名では呼びません。その理由は、事情に通じておるルイとわしとを除けば、誰もそれが彼の本当の呼び名、つまりあなたの呼び名だとは存じておりませんので。わしらダオメーの者どもはジェジェなるいまわしい呼び名で彼を知っておりますのだ。
ジェジェの、失礼、ジブラルタルの水夫さまの人相を申し述べるのは、わしにはいささか困難なことですわ。ごらんのようにわしは黒人ですので、白人たちの人相の違いを見分けるのはほとんどだめでしてな。白人たちはみんな同じように見えますので、いつかなぞ総督さまに近づきまして、こう話しかけましたのです――やあ、元気かな、相棒――つまり、まだ知り合ったばかりの頃でしたが、彼をこのルイと間違えてしまったのですだ。それでもお言葉に甘えまして、あえて申し上げますと、ジブラルタルの水夫さまはいささかエパミノンダスさまに似ておるように思えますな。あの人の容貌をご説明する場合さらに厄介なことは、ジブラルタルの水夫さまはヘルメットとサングラスをつけておることで、ご存じのように赤道に近いこのダオメーですべての白人に不可欠のそれらの装備をつけない彼には、まだ一度も会ったことがないのですだ。それでもあえて申し上げれば、当地の女たちは、奥様、あなたのお気持を害すればお許し下さい、女たちは彼の目はブルーだといっております。ある女たちは、朝の青空のようなブルーだと申し、ほかの女たちはたそがれのアコタラ高原の湖のようなブルーだといっておりますだ。こちらへご旅行の機会に、あなたご自身でこの微妙で詩的な相違をご判断下さいませ。わしの見ますところ、彼のサングラスはとてもぴったりと作られていて、顔の造作はうまくかくされておりますし、彼の頭髪は――ヘルメットがありますから、この言葉はいささか独断的とは思いますけど――まだ完全に頭を覆い包んでいますようで。ほんの先端しか見ておりませんが、頭髪は黒いと申せますな。
ジブラルタルの水夫さまの職業は数も種類も多いようです。一般にそれは白人たちが貿易と呼んでいるものですな、この貿易はわがダオメーの産物と金とを対象にしておりますだ。みんなそれを手掛けております。ジブラルタルの水夫さまはアフリカ中に、とりわけコート・ジボワール、ナイジェリア、スーダン、さらにはフータ・ジャロンやラベ、遠くはウエレ盆地のモンブツ族のなかにまで、部下をおもちだと聞いておりますだ。
ジブラルタルの水夫さまの活動に関しましては、わしらの会話は短く、情報の交換にかぎられておりますとはいえ、もれ聞くところそれはアルコール飲料、とりわけウイスキーに重点が置かれているようですな。ルイの話によりますと、ウイスキーは暗い過去や心の重荷を持つ場合には、いちばんよく効くものであり、またそれは植民地のあらゆるけものたち、アボメーの街の≪からす≫たちでさえ追い払うものだそうですな。彼はわしら貧しい黒人たちと一緒に暮らし、兄弟と呼んでいる十人あまりのプール人と住居を共にし、噂によりますと、植民地政府の偽の白い兄弟たちに反抗しておるとのことですだ。なおひとつだけわし自身に関わりのあることを付け加えますと、彼はダオメーの歴史に精通しており、われらが偉大なベアンジンに最高の敬意を抱いておりますのだ。
ジブラルタルの水夫さまは、ここでは、わしらがダオメーでは、ルイの言葉によると、悪賢い男と思われております。素朴な人たち、高原の牧人たちには、さらに不死身の男、神の御子と信じられておりますだ。彼は朝日を浴びて風のごとく駆ける大クーヅーと比較され、豊かな想像力の持主たちには、あの偉大なベアンジンの再来と信じられております。しかしわしはジブラルタルの水夫さまのこうした方面のことはこのくらいにしておきましょう。あなた方の神話は、わしらのとは大いに違いますので、こうした話はおわかりになりにくいでしょうからな。それよりもわしの申し上げたいのは、ジブラルタルの水夫さまが生き方を変えたということです。いまや彼はモーゼル銃で武装しております。しかも一緒に住んでいる連中もみなモーゼルを持っております。ということは、ジブラルタルの水夫さまは手もとに十丁のモーゼル銃を持っておることになりますな。彼はそれを英領ナイジェリアで買ったのです。六連発のモーゼル銃で、大きな殺傷力を持っています。ジブラルタルの水夫さまは必ず肩にモーゼルをさげ、いささかも自分の活動を隠そうとはしません、ある意味ではその歴史的な過去のことまでも。わしらは彼が昔、あの偉大な首府のパリである犯罪を犯したことを知ってますのだ。彼はいとも率直にそして謙虚にそれを話し、もしもう一度やれといわれたら喜んでやり直すだろうと申しております。時にはそれがもうすんだことで、やり直しがきかないのを悔んでいるみたいですな。とはいえ、用心のためでしょうか、彼はいつもどんな状況でその犯罪を犯したのか、また被害者は誰であったかを省略して話すのです。そしてわしとしても、自分の方からジブラルタルの水夫さまにその詳細をたずねるのを遠慮しますのだ。ジブラルタルの水夫さまの気性の激しさを存じておりますので、わしは彼に面と向って、彼がアメリカの自動車のボールベアリング王、ネルソン・ネルソン氏殺害の犯人だとは、とても話す勇気はございませんので。しかしわしは遠まわしに手紙でそれをしようと思っておりましたところ、残念ながら、ジブラルタルの水夫さまはダオメーから逃走を余儀なくさせられたのですだ。
この悲しむべきニュースをお知らせするのは、わしには真実つらいことです。ジブラルタルの水夫さまは本当にこのダオメーで、二つの新しい犯罪を犯し、もはやわしらのところにはおられないですだ。彼はモーゼルのただの一撃で、植民地へ来たばかりで、厚顔にもアボニーの街で彼に身分証の提出を求めた警官を殺し、それと同時に数年前から金の取引で競争をしていた白人を射殺したわけで。わずか一日のうちに、彼はこの二つの犯罪をしでかしたのですだ。ジブラルタルの水夫さまのこうした神経発作を説明すべきでしょうか? 最近アボメーの町には激しい暑気が襲っています。しかしそうした説明はともかく、白人たちはこのジブラルタルの水夫さまの突然の犯行に恐れをなし、総督さまに訴えたのです。そこで総督さまはジブラルタルの水夫さまのところへ、植民地警察の全勢力を派遣されたのですだ。警察がポルトノボからコトヌーへとさかのぼったのに対して、ジブラルタルの水夫さまはコトヌーからポルトノボへと下りました。白人の警官はすべてコトヌーへ集り、ポルトノボには誰もいませんでしたので、これは容易なことでしただ。こうしてジブラルタルの水夫さまはやすやすと新しい目的地へ向えたわけですので。
彼はまず森林へかくれ、次に友人の手引きでベルギー領コンゴへ入りました。ひとたびコンゴへ入ると、ジブラルタルの水夫さまは絶体絶命の窮地に立たされたとの噂を流させました、それというのもベルギー政府は彼のために犯罪人引渡しを行わなかったのですし、それに彼は人喰人種の仲間、モンブツ族からお祭りのときに喰ベてもらう約束を取りつけたからですのだ。この点に関しては、奥さま、少しも心配なさるには及びません。最後に会ったとき、ジブラルタルの水夫さまはこうおっしゃったのです、もしいつか危険が感じられたら、海岸づたいにベルギー領コンゴへ入り、そこでも安全でなかったら、最後の手段、つまりモンブツ族に喰ベられたという噂を流させるとな。彼はこう申された。≪ジェジェは決して警察に捕まらんよ、決してな≫この言葉で一言ご注意いたしますが、ジブラルタルの水夫さまはご自分のことを三人称でしか話さないことです。≪ジェジェは腹がへった≫とか≪ジェジェは元気だ≫といった具合にな。このときの対話で彼はこう説明しました、つまり自分の人生はほぼ望み通りのものであったから、ほかの生き方を考えることはできない――きっと牢屋へ入れられることを意味してたと思いますが――だからモンブツ族の手で命を落したって平気だ、と。それは奇妙なことに、彼が常に望んでいた死に方でもあったのです。≪ジェジェが何の役にも立たないで健康のまま死ぬのは残念だ、この健康が意味もなくアフリカの大地で腐っていくのは残念だ、仲間たち、ウエレのモンブツ族の連中が友情をこめて喰ベてくれるというのに。ジェジェが病気になったり、老いぼれたり、梅毒にかかったりしたら、アフリカの大地もやむをえん、だがいまの状態なら、こんなにうまい肉をむだにするのは残念だ!≫ジブラルタルの水夫さまの住居の前に、警察はボール紙の貼札を見つけました、それは彼が書き残しておいたもので、いまのわしの話を裏付けておりますのだ。≪無駄はよせ。ジェジェを探すな。ジェジェはもういない。死体も探すな。アフリカの大地にジェジェの死体の跡はない。その理由はアボメーでみんなが話してくれるだろう、ジェジェは仲間のウエレのモンブツ族によって喰われたのだ、ざまあみろ。追伸、ジェジェは誰もうらんでいない、デカも、植民地の連中も≫
訊問されたアボメーの住民たちは、もちろん主人の言葉を確認しましたのだ。警察はすごすごとポルトノボへ引きかえしたわけで。
エパミノンダスさまにお知らせするのがいいと思いましたのは、いまジブラルタルの水夫さまの居所がわかったからです。もう一ヶ月前のことですが、彼はレオポルドヴィルから手紙をよこしたのです。その手紙はむろん破棄いたしましたが、内容は完全に憶えておりますのだ。≪親愛なるベアンジン(と彼はわしを冷やかしておるのでして)、ジェジェはいまレオポルドヴィルにいる。調子は上々だ。この町は大きい。植民地のくそのなかから生れた奇蹟の一つだ。ここで生きるには父も母も殺してかからねばならない。それでも仲間を見つけた。トランプで遊んでいる。モーゼルを埋めてくれ。いずれまた、きみのジェジェより≫
この手紙を受け取ると、ルイはジブラルタルの水夫さまに直接に手紙を書こうと決心したわけです。事態は切迫してましただ。あなたはすでに、エパミノンダスに呼ばれてセートへ向っておいででした。そこでやむをえず、わしらは彼に、彼の過去のこと、あなたのこと、奥さま、そしてあなたの目的のことなどを話そうと決めたのです。わしらは彼に、彼が果してアメリカの自動車のボールベアリング王ネルソン・ネルソンの殺害犯人であるかをたずね、もしそうである場合には知らせてくるよう求めました。それからまた、アンナという名の婦人が、≪ジブラルタル≫号という名の船に乗って、世界の隅々まで彼を探しているとも知らせましたのだ。
この手紙はあからさますぎたでしょうか? むき出しにすぎたのでは? 事態の切迫のあまり、いささか急いで書きすぎたうらみはございます。と申しますのは一昨日、ジブラルタルの水夫さまから、いささかお怒りの手紙を受け取りましたからで。こういう文面です。≪ジェジェがネルソン・ネルソンの犯人だとしても、明言せぬであろう、とりわけ文書では。彼がそうすると信じるのは気違いか馬鹿者だけだ。アンナという女性に関しては、今後ともジェジェに知らせてよろしい。彼女のために何かしてやれるだろう。彼女に、レオのコンゴ河の左岸の最初の酒場にいるジェジェに連絡させてくれ≫
とんだ長話になりまして、奥さま、申し訳ありません。わしはもう何もお話することがございません、ただあなたのご計画を絶大なる共感をもって注目しておるということだけ付け加えさせていただきますのだ。
ぼくたちはかなりおそく船へもどった。このジブラルタルの水夫物語の新版を聞きながら無理に笑いをおさえていたので、みんなくたくただった。二人ともバーへ行って、当然の成行としてウイスキーをなめながら、その夜の教訓を引き出そうとした。エパミノンダスがひどく悲しげな顔をしていたので、何となく重苦しい空気だった。
「どうやら今度は」と彼はいった。「うまくないらしいな」
彼女はできるかぎり彼を慰めようとした。
「彼だって変ることもあるわよ」と彼女はいった。「なぜうまくないというの? 彼だって変ったっていいじゃない?」
しかし彼女は最初のウイスキーの後で、急に気が狂ったみたいに笑い出したので、エパミノンダスまで感染してしまった。
「今度は」と彼はいった。「あんたを妙な立場へ追いこんだらしいな」
「ぼくはやっと」とぼくはいった。「彼が実在していることを、しかもどんな生活をしてるかを、信じる気持になりそうだよ」
エパミノンダスはたまげたような顔をした。
「この人の言う意味はね」とアンナがいった。「彼はモーゼル銃で少しは人目につくことをしそうだってことよ」
「神経質な連中が銃を手にすると、いささか早く使いすぎる危険があるんだよ」
「おれはね」とエパミノンダスがいった。「申し訳ないことに……何の危険もおかしてないんだ」
エパミノンダスの思考の流れが変った。
「じゃ、あんたはやっぱりコンゴ河の岸まで行くんかい?」
「人間って変るものよ」と彼女はいった、とてもやさしく。「しかも大いに変るのよ」
彼女は急に放心したようにぼくを見つめた。
「彼がそんなに変ったとしたら」とエパミノンダスがなおもつづけた。「コンゴ河の岸まで出かける価値があると思うんかね?」
「コンゴ河の岸辺には」とぼくはいった。「とりわけウエレ河の岸辺にはクーヅーがうようよいるよ」
「ただそれだけのためなら」とエパミノンダスがいった。「よそへ狩りに行ったっていいだろうに」
「彼はひどく変ったのかもしれないわ」とアンナがつづけた。「完全に変ったかもね。彼だって年をとる権利はあるんじゃない? あの話には彼らしくないところはないわ。彼だって変るのよ」
「たしかに」とぼくがいった。「ジブラルタルの水夫たちだって人並みに年をとらない理由があるだろうか?」
「そんなこと一度も考えたことなかったわ」とアンナがいった。
「みんな年をとるさ」とエパミノンダスが要約した。「だけどもし彼がそんなに年をとったとしたら、あんたはコンゴ河の岸まで行くだけのことはあると思うかい?」
「こんなにあわてないあんたを見るのははじめてよ」とアンナが笑った。
「これまであんたにさんざん迷惑をかけたから」とエパミノンダスはいった。「ちょっと迷っているのさ。それに彼がそんなに変っちまって、あんたに見分けがつかないとしたら、彼を探しに行く意味があるかね?」
「年をとろうととらなかろうと」とぼくがいった。「彼はアメリカのボールベアリング王の殺人犯なんだろう?」
「彼がいまや世界中の人たちを殺すかもわからんというのに」とエパミノンダスがうんざりしていった。「そんなことが何のたしになるかね?」
「こんなにあっさりと」とアンナがおずおずといった。「人生の目的をあきらめてもいいものかしら?」
「あっさりとね」とエパミノンダス。「そいつは気に入ったよ」
「それにさ」とぼくはいった。「彼の実物を見ないかぎり、彼女はみんなの話を信じられないんだよ。彼がそんなに変ったと誰がいったんだい?」
「そんなことしたってたいして変りないよ」とエパミノンダスがいった。「彼女に会う瞬間になって、彼が変装するかもしれんからな」
「じゃどうするのよ?」とアンナがいった。「彼かもしれないチャンスが少しでもあるのに、あたしがあきらめて、よそへ探しに行くとでも思うの?」
「あんた方は二人とも妙な人たちだな」とエパミノンダスがいった。
「このチャンスを利用しないんなら」とぼくがいった。「すぐにあきらめたほうがいいよ」
「どうやらあんたは」とエパミノンダスはぼくにいった。「今度はいやに急いでいるね。あんた方をコンゴ河の岸へひきつけるのは彼しかいないと思ってたのに、どうやらほかのこともありそうだね」
「クーヅーだよ」とぼくはいった。「ほんのちょっぴりはね」
「からかわんでくれよ」とエパミノンダスはいった。「クーヅーのせいじゃないことぐらいわかってるからな」
「じゃ、何なの?」とアンナがたずねた。
「わからんね」とエパミノンダスはぼくたちの顔を代る代る眺めて答えた。「おれが知ってるのは、あそこにゃ彼とクーヅーしかいないことさ。それに千に一つのチャンスもないことぐらい……」
「そんなに悪くないわよ」とアンナがいった。「千に一つって」
「たとえ千に一つだって」とぼくはいった。「やはり無視すべきじゃないね。コンゴ河の水がぼくらの姿を映してくれるよ」
「おれの姿は映るかどうかわからんよ」とエパミノンダスがどなった。
「あんたって大好きよ」とアンナが彼にいった。
「そうかもしれんが」とエパミノンダスがいった。「今の状況だと、彼にモーゼルを捨てさせるのは厄介だろうぜ」
「あたしもそういう道具はけぎらいしないのよ」と彼女がいった。
「じゃ人喰いも、そうなのかい?」
「気のいい連中だよ」とぼくがいった。「彼らにはクーヅーでもやるさ。それに、いざとなったらぼくがきみの代りに犠牲になってやるよ」
「なるほど」と彼は面白そうにいった。「あんたが代りになってくれるなら……」
「あたしはそんなはめにならないと思うわ」と彼女がいった。「ジェジェがきっと弁護してくれるわよ、彼は雄弁家にちがいないことよ」
来る途中に出会った嵐のため船が軽い損傷を受けたので、ぼくたちはダオメーに三日間滞在した。その三日間のおかげで、ルイの友人の学校教師とずいぶん親しくなった。エパミノンダスとブルーノとは、ルイの同伴で、チャベ地方へクーヅー狩りを試みた。エパミノンダスは慣れないせいか一匹も殺さなかったが、さんざん獲物を逃がしたのでだんだん夢中になって、彼の不安は魔法にかかったように消え失せ、一刻も早くウエレ盆地へ出発したいといいだした。ブルーノは名射手の腕前を見せ、子鹿を一匹持ちかえった。ルイは気を使って獲物なしだった。ローランは二日つづきの機会を利用して、コトヌーで退屈してるプール族の娘と二夜を過した。アンナとぼくとは学校教師の申し出により、アボメーまでドライブに出かけた。翌日には英領ギニアのラゴスまで足を向けた。船の他のメンバーはコトヌーやポルトノボの淫売屋で時間を過した。要するに、この滞在はみんなに喜ばれ、長く語りぐさになった。
出発の前日、全員が帰ってきたので、アンナは二人の友人のために夕食会を催すことに決めた。このパーティーはいろいろな意味で楽しく記憶さるべきものだった。夕食が立派だったからではなく、イタリアのぶどう酒が大量に供されたので、みんな上機嫌になった。結局のところ、ウエレ地方へ行くという前途にみんなうっとりしていたのだ。まるでジブラルタルの水夫を本当に見つけてきたみたいに、ぼくたちは陽気だったのだ。誰も成功を疑わず、夕食の終り頃には、たぶんローランと彼女とぼくとを除いて、みんな確信していた。
午前二時頃、急にルイがテーブルから立ち上って、彼がジブラルタルの水夫と、ベアンジンとの二つの寸劇の作者であることを明らかにした。そしてこの機会を利用して、多数の理解ある観客の前で二人の英雄のいずれかの功績をたたえたいと思うと付け加えた。みんながベアンジンの方を選んだ、たぶん気持を一新したかったためだろう。
彼はみんなにテーブルをどけて、『一八九〇年の条約』と呼ばれる寸劇をやる場所をつくらせた。みんな大きな円をつくって思い思いの姿勢で坐った。彼女はまたぼくとかなり離れた場所を選んだ。その方が望ましかっただろう。ルイは学校教師を従えてデッキに姿を消した。やがて彼は奇妙な姿で現われたので、全員がふき出した。海水浴の帽子を思わせる帽子をかむり、白い腰巻を足までまきつけている――アボメーの王様たちの衣裳だ、と彼は説明した。手には一枚の紙片を持っている、一八九〇年の条約書というところだろう。彼はみんなの笑いを制した。
芝居は長い沈黙ではじまった。その間にベアンジンはいましがた調印した条約書を見つめている、彼がついに踏み切ったその怖るべきもの、その正確な意味を理解しないままに調印せざるをえなかったものを。やがてベアンジンは語りはじめた。
「条約、いったい条約とは何なのか? 何であろうか? まず、紙とは何か? 次に、調印とは何なのか? 彼らはわしの手にペンを握らせた。署名せよ、署名せよ! と彼らはいった。何だろう? ダオメーの明け渡しだろうか? ほっといてくれ! 彼らはわしに自らの首をしめさせるのだ!」
ひどく感激した学校教師は、ベアンジンの心の迷いの理由を説明してくれた。
「偉大な慣習の国であるわれわれも」とルイはつづけた。「こんなものは知らない。紙も知らない、署名なんか、知るものか。もし署名しなければ、お前の脳味噌を焼きつくしてやる、と彼らはいったのだ!」
ぼくたちは相当に飲んでいたので、ベアンジンの運命に同情しなかった。ルイは全員を魅了した。水夫たちは大いに楽しんでいた。アンナも笑い、ハンカチで顔をかくすほどだった。ルイのプール族の娘だけはぜんぜん笑わなかった。
絶望のあまり、ルイは涙を流し、髪をかきむしり、床にころげまわった、そうしながら、便宜上、一八九〇年の条約を口にくわえていた。
アンナは笑いに身をゆるがせて彼を見つめた。彼女はぼくを完全に忘れていた。ぼくたちは哄笑と感動の両方に襲われたが、一般に哄笑の方が強かった。
「これを見るために五千キロも旅行してきたとはな!」とエパミノンダスは満足げに膝をたたいてどなった。プール族の娘だけは別だった。彼女は女学生の目つきでぼくたちを見つめた。≪きみはなんて名前?≫とぼくはたずねた。
≪マハウシア、羊の乳房よ≫と彼女は言葉の意味を強めるように自分の乳房を握って答えた。ぼくとエパミノンダスは、それにいささかどぎもを抜かれた。アンナがそれに気づいた。≪きみは何をしてるの?≫とエパミノンダスがたずねた。≪あたしは女王よ、それからポルトノボの娼婦≫
プール族の娘はそわそわしはじめた。
「もう帰らなくては」
「まだこの後が面白いだろうに」とエパミノンダスがいった。
「この後は」と彼女がいった。「ドッド将軍のお話、ベアンジンの流刑。長い苦しみ。時間がかかるわ」
「彼はこれをよくやるのかい?」とぼくがたずねた。
「ほとんど毎晩よ。コトヌーの劇場ではやらないの」
「いつも一八九〇年の条約かい?」
「時には、ジブラルタルの水夫のお話」
ルイは部下たちに武器を取るよう叫んでいた。彼は急に絶望にとらえられて倒れた。疲れているにちがいない。
「我慢するんだ、みんなわかってくれるだろう」と学校教師が叫んだ。「ジブラルタルの水夫さまの時間がやってくるだろう!」
この言葉にルイは天使長のごとき崇高な顔を友人に向けた。彼は芝居をはじめたときより酔っているように見えた。ずっと美しくなっていた。アンナは少し青ざめた。彼は何かをいおうとしたが、それが見つけられず、両手を前にさし出したまま、友人の方へゆっくりと進み出た。誰ももう笑っていなかった。
「まだジブラルタルの水夫さまの時間じゃないぞ」と友人は一歩しりぞいて叫んだ。「我慢するんだ、ベアンジン」
ルイは立ちどまった、そして急に友人のおびえた姿に大笑いをはじめた。それにつられてみんな笑った。友人さえも。ルイはドッド将軍への叫びかけを断念した。
「また今度にしよう」と彼は疲れ果てて宣言した。
「今度だっていったのかい?」とエパミノンダスが不審げにたずねた。
しかし誰も応えず、みんなルイに心からの拍手を送った。また飲みはじめた。三人の水夫が冗談にベアンジンの劇を引きついだ。ルイと友人とは、今度は見物して喜んでいた。プール族の娘がぼくに近づいてきた。アンナは遠くから微笑しながらぼくたちを眺めていた。プール娘の夢はいとも単純だった、それはまさしく≪偉大な首府≫パリへ連れて行ってくれる水夫と出会うことだった。何のために? ≪出世≫するために、と彼女は答えた。何が出世なのか、彼女ははっきり話せなかった。ぼくはとにかく断念するようにすすめた。話しながらぼくはアンナを見つめた。彼女は笑い疲れていたが、なおもぼくに微笑していた。とても美しかった。ぼくはできるかぎり目立たぬように、有金を残らずプール娘にやった。ところが彼女はこのしぐさにうっとりして、船に残りたいといった。ぼくはそれは不可能であり船には一人の婦人の席しかないと話し、彼女を示した。二人の女は見つめ合った。それからぼくはジブラルタルの水夫を探している事情を説明した。娘はきっとウエレ盆地でジブラルタルの水夫は見つかるといった。ウエレの女たちは美人で教養があるとのことだから、たとえ彼を見つけられない場合でも、ジェジェは二度とダオメーにもどらないだろう。ぼくは悲しむ娘をそのままにして、アンナのところへ行った。水夫たちは相変らず大騒ぎをしていた。彼女に近づいたとき、ぼくはもう真面目にはなれないと思った。彼女はそれに気づいた。そして不安に襲われた。目は大きく開かれ、澄んできた。ぼくはそこにかすかな恐怖を認めた。ぼくは彼女を抱きかかえ、膝の上に乗せた。怖がることはない、といった。彼女は安心した。
「出だしは上々ね」と彼女はいった。「クーヅー狩りは」
「まだ獲物はゼロだよ」
「まだゼロなの?」と彼女は笑った。
ローランが近くに坐った。しかし誰がいても平気だった、とりわけローランは。彼女は子供っぽい口調でいった。
「ああ、あなたってほんとにクーヅー狩りの名人ね」彼女はローランに顔を向けた。
「あんたもそう思わない?」
「そう思いますよ」とローランはぼく達の顔を見まわして答えた。「それからクーヅー狩りは、火薬をたくさん使えば、大いに役立つと思いますな」
三人とも笑った。
「そうね」と彼女がいった。「あたしすっかり、船にはポーカーの名手とクーヅー狩りの名人しか乗せないのがかしこいことだと信じそうだわ」
「じゃ酔っぱらいの名人は」とぼくはいった。「どうするつもりだい?」
「酔っぱらいの名人も」と彼女はいった。「きっと大丈夫そうね」
「ぼくは南海の酔っぱらい主義者になりたいな」とぼくは宣言した。
「なぜ?」彼女は大笑いしていた。
「どうしてなぜだい?」とぼく。
「わかんない、どうしてあたしにわかる?」
「なるほど」とぼく。「なぜ笑うんだい?」
「なぜあたしになぜってきくの?」
彼女はローランの方を向いた。彼女とローランはひどく親しそうだった。
「あたしの場合を除いて」と彼女はいった。「あんたはこれまで大恋愛を見たことがあって?」
「陸じゃね」とローランはしばらくしていった。「いくらか見たことがあるよ。見てるとかなり悲しいものだね」
「あんたのいうのは、いかなる脅威にもさらされていない恋愛のことでしょう? つまり、明らかにずっとつづくための障害がないような?」
「永遠に腰を落着けたね」
「永遠とは、大げさだね」とぼくがいった。
「大恋愛ほど、永遠の感情を与えるものはない、といわれてるんじゃないかしら?」と彼女はいった。「つまり、それほど似通ってるものはないと?」
「その日暮らしのちっぽけな恋愛だって」とぼくはいった。「いいところもあるよ」
「そういうのは」とローランが笑いながらいった。「見ていて悲しくないからね」
「そういう恋愛は永遠の取り扱い方を知らないんだよ」とぼく。「人生だけで間にあっているんさ」
「ねえ」と彼女。「大恋愛の終りを告げるしるしって何かしら?」
「明らかにずっとつづくための障害がないことじゃないかな」とぼく。「ちがう?」
「じゃ、ずっとつづくための障害がある恋愛は?」とローラン。
「ああ! そういうのは」とぼく。「わかるわけがないよ」
「あたしクーヅー狩りがこんなに楽しいとは」とアンナがいった。「思ってもみなかったわ」
ぼくもかなり泥酔して、何度も彼女に接吻した。水夫たちはぼくたちのやり方に慣れていた。そしてルイと友人とも酔って楽しそうで、何が起ろうとも平気だった。それに、ジブラルタルの水夫を待つあいだ、誰かが彼女に接吻すべきことを、みんなよく理解していたのではあるまいか? こうした流儀に眉をひそめたのはプール娘だけだった。彼女は帰りたがった。アンナはぼくに送るよう求めた。それでぼくはルイの家まで娘を送ってやった。もどってきたときも、宴会はまだつづいていた。水夫たちは相変わらず楽しんでいた。彼らにジブラルタルの水夫のいる場所をたずねることほど、愚かしいことはなかっただろう。ローランは会話に参加して、大いに笑っていた。彼女はぼくを待っていた。ぼくたちも話に加わり、それはなおも長くつづいた。それからブルーノの提案で、町の淫売窟にもう一度出かけることになった。彼らは下船した。船に残ったのは、彼女とぼくだけだった。
コトヌーを発ってから三日後にレオポルドヴィルへ着いた。いちばん暑い時期だった。灰色の低い霧が都市を覆っている。日に何度も夕立が霧を切り裂き、三十分ほど追い払った。人々は息苦しそうだった。生暖かい雨の竜巻が都市に降りかかると、やっと息がつけた。豊かな町だった。街路は広く、銀行の三十階ものビルがいくつも並んでいた。警官も多い。植民地の地下にはかなりのダイヤモンドが眠っているのだ。何千人もの黒人たちが、ネルソン・ネルソンの未亡人が指を飾るために、大地を掘り、ふるいにかけているわけだ、都市のすぐ近くでアフリカが包囲していた。この都市は鋼鉄のごときゆるぎなき輝きで、アフリカの黒い夜を照らし出している。
ヨットの錨を下すと、予定通り、コンゴ河沿いのカフェを調べて歩いた――アンナ、エパミノンダス、そしてぼく。客の話を耳にしながら、扇風機の下で多くのビールを飲んだ。エパミノンダスはいつも一緒だった。ぼくたちの話はクーヅー狩りのことに限られていた。ジェジェの実体には疑いを抱いていたので、クーヅーの話しかしなかったのだ。
それは三日つづいた。三日間にまったくビールをどっさり飲んだものだ。そして三日後、エパミノンダスがクーヅー狩りにも、その暑さから生きて帰ることにも絶望したとき、ぼくたちは妙な話を耳にしたのだ。
郊外のしゃれたバーでだった。バーテンのせいで、前に二度ほど訪れたことがあった。初老の冷静なバーテンで、暇なときにアフリカの話をしてくれた。三十分ほどすると、二人の男が入ってきた。白服を着て、脚絆をつけ、負い革つきの銃を手にしていた。一人は背が高く、一人は小男だ。暑いせいか、膝まで汗ぐっしょりだった。コンゴの太陽にひどく日焼けしている。二人は遠方からやってきて、帰れて嬉しそうだった。バーの常連ではないらしい。ウイスキーを注文した。
「遠くからおいでですか?」とバーテンがていねいにたずねた。
「ウエレからね」と一人がいった。
「そら」とエパミノンダスが小声でいった。
「今度は暑さが早いようですな」とバーテンがいった。
「ひでえもんさ。タイヤが溶けそうだったぜ。お前はいい腕をしてるな、アンリ。こいつが運ちゃんさ、名人だよ」
「よろしく」とバーテンがあくびをしながらいった。
「ひやかすなよ、ルグラン」とアンリがいった。
「いや」とルぐラン。「名人さ」
「で、狩りは、どうでした?」とバーテン。
「大山猫が一匹と、かもしかが一匹さ。たいした獲物じゃないね」
「そうだよ」とアンリ。「車で追いかけて撃つんだから、どうしたってすごい砂煙が立って、獲物は……」
「なるほど」とバーテン。
「四百キロも追いかけたんさ」とルぐラン。「アンリ、お前はいい腕だよ。つらいのは辛抱することさ。時速四十で四百キロ、こいつは忍耐のテストだよ」
「何ごとだってそうじゃないかしら?」とそこでその会話に興味を持ちはじめたアンナがたずねた。
「何が?」とアンリが彼女を横目で見ていった。
「忍耐のテストですよ」とアンナ。
「何かお気にさわりましたかな?」とルグランがいきな口調でいった。
「考えるとぞっとするわ」とアンナ。
「何がぞっとするんです?」とルグランがいぶかしげにたずねた。
「ウイスキーを飲みながらじゃできないと思うと」とアンナ。
ルグランは不快げに彼女を見つめはじめた。しかしアンリが怒らないよう合図した。アンナはとてもやさしく微笑した。
「あなたはパリジェンヌですな。パリジェンヌは当意即妙の才があるから、すぐにわかりますよ」
「とにかく」とエパミノンダスがいった。「人生とは忍耐のテストさ」
「きみはそう思うかい?」とぼくはアンナにたずねた。
「そうらしいわね」と彼女は小声でいった。
「小便をしても」とアンリ。「砂煙が立つんだ」
「わたしは八年前からここに住んでますが」とバーテン。「一度でいいから雨氷に小便をかけたいと思いますよ」
「折れない雨氷なんてものはないよ」とアンリ。「ツアンタナで四十三度だからな、雨氷どころじゃないさ」
「雨氷に小便をかけられるなら、何だってあげますよ」とバーテン。
「そうはいっても」とエパミノンダス。「何ごとによらず、行ってみれば、驚くこともないだろうさ……」
「勝手なこといってるね」とアンリ。「氷河期って、やっぱり面白くないだろうぜ」
「判断を下す人が誰もいないんですから」とバーテンがあくびをしながらいった。
「ほんとに誰もいなかったと思うかい?」とエパミノンダスが面白がってたずねた。
「少くとも動物はいたはずよ」とアンナ。
「動物って、人間かな?」とアンリ。
「動物もいなかったとは思えない」とぼく。
「お前は、氷河を見たことがあるかい?」とアンリがルグランにたずねた。
「三六年にな」とルグラン。「いい時代だったよ。妙なことに、波が立ってるんだよ、まるであっというまに凍ったみたいにな」
「何もいなかったと思う?」とアンナがぼくにたずねた。「クーヅーでさえも?」
「いいかい」とアンリ。「氷河期には、地球上が氷河みたいだったんだぜ」
「氷の下には」とアンナ。「小さな動物がいて、氷が溶けるのを待ってたのよ」
「そう思いたいけどね」とぼく。「とにかく、誰にわかるんだい? もしかするとすでにみんないたかもしれんよ」
「何もいなかったとは考えられんな」とエパミノンダスが元気よくいった。「もしそうだとしたら、その後でいろんなものが生まれたのをどう説明するんだい?」
「面白いですな」とバーテン。「寒暖計が日蔭でも四十度だというのに、みんなよく氷河の話をしますよ」
「ほんとね」とアンナ。「いまあるものをどう説明するの?」彼女はぼくに微笑した。
「だまるんだよ」とぼくは小声でいった。「きみはいつもそんなにしつっこいんかい?」
「まだそれに気づいてないとしたら、あんたはよほど……」とエパミノンダスが笑いながらいった。
「我慢しきれないのよ」とアンナ。「あなたはそう思わない?」
「みんな我慢してるのさ」とぼく。「そればかりじゃない。いまぼくが何を我慢してるのかきみにはわからないのかい……」
「こんな調子だから仕事が大変なのさ」とエパミノンダスが怒っていった。
「具合よくないのか?」とアンリがルグランにたずねた。ルグランは両目を閉じて、うっとりしている。
「待てよ」とルグラン。
「どうだい、何か思いついたか?」
「大とかげだ! 氷河期には大とかげがいたんだよ!」
「大とかげはその前だと思うな」と急にエパミノンダスが断言した。
「無理に信じてくれといわないがね」とルグランはもったいぶっていった。「お前は知ってたかい?」と彼はアンリにたずねた。
「だけどね」とアンリ。「氷しかないんだったら、大とかげは何を食ってたんだろう」
「大とかげって、大きいの?」とアンナがぼくにたずねた。
「すごく大きいよ」とぼく。「わにに似てるんだ」
「そんなに大きいとしたら」とアンナ。「きっといなかったと思うわ、だけどやっぱりごく小さな動物はいたのよ」
「わたしはやっぱり一度でいいから」とバーテン。「雨氷に小便をかけたいんですな」
「ごく小さなのよ」とアンナ。「小さな虫ね。何も食べないし、ほとんど呼吸しないけど、それでも氷の下にずっと生きていたのよ」
「なぜそんなにちいさな動物に夢中になるんですか?」とエパミノンダスがいった。
「とにかくね」とアンリがいった。「何もいなかったとどうしてわかるんだい?」
「きみはそんなに小さな動物のことが気になるんかい?」とぼくはアンナにたずねた。
「別に眠るじゃまにならないわよ」と彼女はいった。
「眠るじゃまになるのは何だい?」とぼくがたずねた。
「こんな話をつづけるなら」とエパミノンダスはいった。「おれは帰るよ」
「眠るじゃまにならないけど」とアンナがつづいた。「やっぱり我慢できないのよ」
「みんな立派に我慢してるよ」とぼく。「そんなこと誰も説明できないんだ。絶対に誰もね。安心したまえ」
「氷が溶けたら」とアンリがいった。「すごい泥沼だろうな」
「それも誰にもわかりませんよ」とバーテンがいった。
「考えるとぞっとするね」とアンリがつづけた。「これをもう一杯、アンドレ」
「ブランデーですか? たしかにすごい泥沼だったでしょうな」
「じゃ」とアンナ。「氷の下にいた小さな動物たちは外へ出られたのね」
「幸いなことに、こんなことはしょっちゅう考えていられないよね」
「幸いなことにね」とアンナ。
「ほんとに幸いだよ」とエパミノンダスが陽気に叫んだ。「そうですな」とバーテン。「幸いなことですよ」
「いいかい」とエパミノンダスがつづけた。「みんないろいろと悩みごとがあるものさ」
そのとき新しい客が入ってきた。三十がらみの男で、ひどく疲れていた。
「ジョジョが来たね」とバーテン。「面白くなりますよ」
「今日は」とジョジョがいった。
「今日は」とみんながいった。
ジョジョはアンリの隣りに坐り、すぐにわけ知り顔にアンナを見つめた。
「それで、大とかげは」とアンナがぼくにたずねた。「いつ来たのかしら?」
「大とかげが来たんだって?」とジョジョがたずねた。
「そう」とぼく。「二日前にね」
「三日だよ」とエパミノンダス。
「ほっときなさいよ」とバーテン。
「大とかげっていったい何だい?」とジョジョがたずねた。
「ふつうの人間さ」とぼく。「だけど、ひどく飢えてるので、道で出会うものは何でも食っちゃうんさ」
誰も反論しない。みんな何のことだかわからないのだ。理解するには暑すぎる。
「今夜もだめらしいわね」とアンナが小声でぼくにいった。
「今度、彼らに似顔を描いてやろう」とエパミノンダスがいった。
「大とかげがいったいどうしたんだ?」とまたジョジョがたずねた。
「あとで話してやるよ」とバーテン。「興奮しなさるな」
「決して何もしないわよ」とアンナ。
「とっても大きくって、醜いのさ」とバーテン。「海の上でも陸の上でも、何でも食べてしまうんだよ……」
「そんなものは聞いたことがないね」とジョジョがいった。
「じゃ可哀そうだが」とエパミノンダスがいった。「あんたひとりだけだね」
「じゃ、鳥はどうだろう?」とアンリがたずねた。
「そうよ」とアンナがいった。「今夜はやはりだめなのよ」
「鳥はね」とぼくがいった。「愛みたいなもので、いつだっていたんだよ。すべての動物が絶滅しても、鳥だけはちがう。愛みたいに」
「わかった」とエパミノンダスがいった。「翼があれば、地震でも平気だからね」
「だけど、その大とかげは、いまでもいるんかい?」とジョジョがたずねた。
「さあね?」とぼく。
「何を面白がってるんだい」とエパミノンダス。
「おれたちはここへ楽しみに来たのさ」とアンリが説明口調でいった。「ウエレはとてもいいとこだけど、楽しみはないよ……」
「なるほどね?」とエパミノンダスはさらに説明を求めたが、むだだった。
「彼はまたはじめたようよ」とアンナがルグランを示していった。
「お前はまったく妙な男だな」とアンリ。「また言葉を探してるんか?」
「いや」とルグラン。「おれは考えてるんだよ、わかったか」
「早すぎることはないよ」とぼくは小声でいった。
「大とかげがレオへ来たんかい?」ジョジョがたずねた。
誰も返事しなかった。
「面白い会話だよ」とルグランが皮肉な口調でいった。「まったく退屈しないよ」
「それで、どこまでいったっけ?」とエパミノンダスがたずねた。
「第四紀ですよ」とバーテン。
「もっと近づいてたと思うけどな」とルグラン。
「あたしもよ」とアンナ。
「それでどうなんだい?」とジョジョ。
「別に」とバーテン。「今度は人間がみんな消え失せるってわけだよ」
「大とかげって、爆撃機なのか?」ジョジョがたずねた。
「ほっとけよ」とルグランはアンナを見つめながら、明るい顔でいった。
「その大とかげは、やってきたんかい、それとももうじきやってくるのか?」とジョジョ。
「必ずやってくるだろうよ」とぼく。
「またはじまった」とアンリがバーテンにいった。「おれは少しおかしくなってきたよ」
「人間は大とかげじゃないよ」と急にルグランがいった。「混同しちゃいかん、人間は悪者なんだ。どっかでうまくいかなくなると、よそへテントを移すのさ……」
「大とかげは」とジョジョ。「何も移さないのかい?」
「何もね」とアンドレ。「わかったかい?」
「何か話題が必要ですからな?」とルグランがアンナにいった。「近所の人の悪口をいってるよりいいですよ」
「なぜみんな消え失せるんだい」とジョジョ。「だって食物はすべて移すんだろう?」
「地球はね、たとえば忍耐なんかと同様に、古くなるからさ」とバーテン。「この間新聞で読んだけど、人間が七十五センチ平方の畠を使えるようになるには、千三百万年かかったんだぜ、だからいくら食物を移したって、地球の方がいかれちまってるのさ」
「畜生、面白くないな」とジョジョ。
「そんなものさ」とバーテン。
「みんなにそういうことを知らせるべきだわ」とアンナ。
「もう一杯くれ」とアンリ。「最後のだ」
「なぜ最後なんだ」とルグラン。「毎日レオに来れるわけじゃあるまいし」
「そうだな」と悲しげにアンリ。「楽じゃないよな」
「悲観することないわ」とアンナがエパミノンダスにいった、「消滅すると決まったわけじゃないのよ」
「悲観してませんよ」とエパミノンダス。「それどころか、ジョジョは面白いやつだな」
「あなたは異常に美しいですな」とルグランがアンナにいった。
「なぜ異常なの?」
「言葉の綾ですよ。そんなところ」
「原子爆弾で、その前にけりがついてるよ」と明らかにピンとはずれのアンリがいった。
「何の前にだい?」とジョジョ。
「地球がいかれる前にさ」とエパミノンダス。
「妙な話だな」とバーテン。「氷河期の話からはじめても、いつだって原子爆弾のことにもどってしまう。まるで法則があるみたいだ」
「おれがここへ来るのは」とジョジョ。「アンドレのせいさ。彼はインテリだよ」
「それで、こちらは気に入りましたか?」とルグランがアンナにたずねた。
「まあね」とアンナ。
「まるで原爆までいかなくとも」とアンリがつづけた。
「自然の大災害があるみたいだぜ」
「おれはだまされたな」とジョジョ。「大とかげとは、新型のジェット機だよ」
「大とかげなんか、くそくらえだ」とアンリ。
「大とかげが何だかちょっと教えてくれればいいんだよ」とジョジョ。「そうしたらもう質問なんかしないのに」
「ワニみたいなものさ」とアンドレ。「わかったかい?」
「いや、からかってるんだろう?」とジョジョは怒った。
「最近のワニは原子力かい?」
「原子力さ、まさに」とアンリがわめいた。「わかったかい?」
「人間は悪者さ」とルグランはうっとりして喋った。「大とかげじゃない。お前はなぜそんなことをいうんだ、アンリ? 大とかげとはね(と彼はジョジョに向って)純粋にただの動物だよ、ちゃんとおぼえておきたまえ。もう五回もそう話してるはずだよ」
「そんな調子ではじめたら」とアンドレ。「きりがありませんぜ。そいつは人間じゃなくて、歯車さ。悪夢だよ」
「どんな動物だい?」とジョジョ。
「ワニだよ」とアンリがどなった。「ワニだ!」彼はバーの上でわにの這う有様を手でやって見せた、「さあ、わかったろう?」
「新語には気をつけたほうがいいですよ」とアンドレ。「ジョジョは夢中になるんです」
「おれは何にでも興味があるな」とジョジョ。「だからこんな人間になったんだ。だけどおれという人間は誰の興味もひかんよ」
「それはいかん」とルグランがいった。「そんなことはいうべきじゃない」
「いいか」とアンリがいった。「原子力にもいい面がある。二十年後には、みんな原子力で動くんだ」
「この目で見てから信じますよ」とアンドレ。
「飛行機もそうだよ」とアンリ。
「やっぱりジェット機のことじゃないかと思ってたんだ」とジョジョ。
「ちがうわよ」とアンナ。「ワニのことよ。とっても大きくって、何でも食べちゃうわ。いまからおよそ……」
彼女はルグランの方を見た。
「三十万年前さ」
「ワニか」とジョジョ。「それが何の関係があるんかな?」
「関係って?」
「爆撃機とさ」
「ばからしい」とアンリ。「もう終りにしようや」
「爆撃機とは何の関係もないのよ」とアンナがなだめるようにいった。
「じゃおれが来たときに話してたこととは?」
「ごらんの通りよ」とアンナ。
「おれはたいした人間じゃないけど」とジョジョ。「知ってることは知ってるよ。話があるからこそ話してたんだろう」
「こいつは面白いや」とエパミノンダス。「おれはレオに残るよ」
「ただのお話よ」とアンナ。「こんな調子で話してたのよ、何か話してたほうがいいものね?」と彼女はルグランにいった。
「そうですとも」とルグランはうなずいた。
「彼の病気は」とアンドレ。「何ごとにも関係をつけようとすることですよ、そうだろう、ジョジョ? 大とかげはワニさ。飛行機は、飛行機だよ」
「さっぱりわからん」とジョジョ。
「何が?」とアンナ。
「みんなさ」
「そんな大声だすなよ」とエパミノンダス。「何がわからんのか教えてくれ」
「何もいわんぞ」とジョジョ。
「むくれるなよ」とアンドレ。「物事をそう悪くとっちゃいかんね」
「店を変えましょうか?」とルグランがアンナに心得た口調でたずねた。
「急いでないよ」とエパミノンダスがいった。「おれはジョジョが気に入ったな」
「ほんとに、急いでないのよ」とアンナ。
「死ぬまで時間があるんさ」とぼく。
「あなたはどちらから?」とルグランがたずねた。
「コトヌー」とアンナが笑いをこらえていった。
「で、あなたは?」とルグランはぼくにたずねた。
「コトヌー」とぼくも笑いをこらえて。
ルグランはさっぱり不可解な顔つきをしたが、またつづけた。
「とにかく人生は面白いよ、大とかげや淫売屋の話をしてたんだからな」
「まったくね」とぼくはいった。「それから氷河期の話までしたんだっけ」
「さっぱりわからん」とジョジョ。
「ある意味では」とアンドレ。「彼は正しいよ。わたしにもちんぷんかんぷんでさ」
「大とかげがコトヌーにいるんかい?」とジョジョ。「それがコトヌーと何の関係があるんだい?」
「いまにわかるさ」とルグラン。「よく話を聞きたまえ」
「もしワニだとしたら、何の関係があるんだい?」とジョジョ。
「あるからあるんだよ」とアンリがどなった。
彼はぼくの方を向いて、丁重に、
「さっきはあんたの話を疑ったりしてすまなかったな」
「何を疑ったんだい?」とジョジョ。
「この人が氷河期について話したことさ」とルグランが苛らだたしげに答えた。
「外へつまみ出そうか?」とアンリがどなった。
「だめだ」とエパミノンダス。「そいつはいかんよ」
「落着くんだ」とルグランがアンリにいった。
「ところで」と彼はアンナにいった。「あなたは大とかげにほれてるんですか?」
「その言葉を使わんで下さい」とバーテン。「へどが出そうですよ」
「このジョジョってどんな人?」とアンナがとてもやさしくたずねた。
「いいお客ですよ」とアンドレ。「だろう、ジョジョ? それに大金持だろう?」
「カフェはみんなのものさ」とジョジョ。「おれはいたかったら閉店まで残るぞ」
「だけど、みんないないぞ」とルグラン。
「なぜ?」とアンナ。「急いでないのよ」
「ぼくは思いがけない客が大好きだよ」とぼくはいった。
「彼が帰ったら」とアンリ。「ひどくいやな気がするだろうな」
「簡単なことさ」とルグラン。「追いかけて連れもどすのさ。彼にはそれがわかってないからおかしいよ」
「おれが何をわかってないって?」とジョジョがいった。
「あんたとわれわれとの仲は」とぼく。「切っても切れない縁なのさ」
「おれをばかにしてるんだろう」とジョジョ。「だけどおれは平気さ、平気だよ、大とかげみたいにな」
「うへっ」とアンドレ。
「世界をつくるにはみんな必要なのさ」とアンリ。「これほど真実なことはないぜ。ジョッキを二つ」と彼はアンドレにいった。「ブランデーはあきたよ」
「三つ」とエパミノンダス。
「四つ」とジョジョ。
「七つ?」とぼくはアンナにきいた。
「七つ」と彼女は答えた。
「さし上げたいのは山々ですが」とアンドレ。「これまでお腹に流し込んだブランデーと混ると、大変なことになりますぜ。わたしの二十年のバーテン稼業から申しますが、ブランデーをつづけるべきですよ」
「あんたって本物のパパよ」とアンナ。
「それで」とアンドレ。「ブランデー?」
「ブランデー、水割りのね」とアンリ。
「みなさんに?」
「みんなに」
「だめだ」とジョジョ。「おれはビールがほしいよ」
「ブランデーにしなさいよ」とアンドレ。
「お前の命令には従わんよ」とジョジョ。「ブランデーじゃなくビールだといってるんだ」
「やっぱりブランデーになさい」とアンドレ。「こちらのおごりにしますよ」
「いいかえると」とジョジョ。「おれにビールを飲ませないつもりだな?」
「そうです」とアンドレ。「あんたのためにね」
「これが最後だ」とジョジョ。「アンドレ、ビールをくれ」
「わたしはあんたが好きですよ」とアンドレ。「だがビールはだめです」
「おぼえてろよ、アンドレ」とジョジョ。
「こういう男は」とアンリ。「人生で何をしてるか知りたいものだよ」
「邪魔ならそういってくれよ」とジョジョ。
「そうじゃないよ」とアンリ。「だけどきみがどんな仕事をしてるのか知りたいのさ」
「してることをしてるよ」とジョジョ。
「あたりまえさ」とアンリ。「人間はできることしかしないものだよ」
「そういうんなら」とジョジョ。「おれはお前のところへ引っかえすよ。あばよ」
「さよなら」とアンナがいった。
ジョジョ氏は退出した。
「彼はどこの出身だい?」とぼくはたずねた。
「インドシナ」とアンドレ。「あるいは太平洋のどこかですよ。十年前から知ってますけど、ぜんぜん動きませんね」
「それで」とルグランがいった。「アンナ、とはあんたですね?」
「あたしよ。であなたはどなた?」
「べつに」とルグランはいった。
「変だと思ってたわ」とアンナが小声でいった。
バーテンとアンリは控え目な沈黙を守っていた。
「で、彼らは?」とルグランはぼくたちを示しながらたずねた。
「彼らは、彼らよ」とアンナがいった。
「わかりませんな」とルグラン。
「友達が大勢いるのよ」とアンナが説明した。
ルグランの顔がくもった。
「彼らも一緒に来るんですか?」と彼はたずねた。
「もちろんよ」とアンナは答えた。
「どうもよくわかりませんな」とルグランはいった。
「どうでもいいじゃないか」とエパミノンダスがいった。「みんなわかろうとすると……」
「生命がいくつあってもたりないよ」とぼくがいった。
「遠いの?」とアンナがたずねた。
「車で二日」と暗い顔でルグランがいった。
「世界はやっぱり狭いよ」とエパミノンダスがいった。
「一人でも行けませんか?」とルグランが邪心なしにたずねた。
「できるだけのことはするけど」とアンナがいった。「それは無理ね」
「邪魔はせんよ」とエパミノンダスがいった。「決して邪魔はしないから」
「決してね」とぼく。「調べてもらったっていいよ」
「いや」とルグランは肩をすくめていった。「おれはべつに……」
彼はやはり暗い顔をしたまま別れを告げ、翌朝の約束をした。ぼくたちは船へもどった。エパミノンダスはまた少し心配しだした。
「二つに一つだな」と彼はいった。「あの男か、そうじゃないか」
「あんたは疲れてるのよ」とアンナがいった。「ねたほうがいいわ」
「もし彼なら、彼さ」とエパミノンダスはつづけた。
「またか」とぼくはいった。「きみだって事情は知ってるだろう……」
「しかしもし彼じゃないのなら」とエパミノンダスはあきもせずつづけた。「なぜ彼らはあんたを連れて行くといったんだろう」
エパミノンダスは早起きをして、モーゼルを二丁とカービン銃を一丁買った。ウエレ盆地を横断するためには、と彼はいった。それはどうしても必要なのだ。それに万が一、クーヅーに出会うかもしれない。
ぼくたちは前日会ったバーで、ルグランとアペリチーフの時間に待ち合わせた。エパミノンダスはどうしてもモーゼルやカービン銃を持っていくと頑張った。彼はまた上機嫌になっていた。だがルグランはぼくたちの姿を見ると、ぜんぜんにこりともしなかった。
「それはいったい何ですか?」
この冗談で彼はますます暗い表情になった。
「モーゼルとカービンさ」とエパミノンダスはていねいに説明した。
ルグランは慎重な男だった。彼はすぐに、もっとも丁重にだが、ぼくたちと船との証明書を点検した。
彼は主義と経験の持主で、こうした微妙な任務を果すのは最初ではないと話した。ジェジェに対する彼の献身はなみなみならぬものがあり、慎重さはうんざりするほどだった。旅行中に知りえたことといったら、ジェジェとは二年前から知り合いだということ、彼もまたアボメーから来たこと、それ以後は一緒に働いていることだけだった。彼はアンナをほとんど問題にしなかった。彼女に対しては、もっともぼくらにも同じだったが、何というか、ひどく軍隊式のもったいぶった控え目さを示し、それを破るのは任務の重大さにもとると考えているようだった。彼を信頼すべきだ、と出発前に語った。ぼくたちは彼をとことんまで信頼した。彼は思い通りの場所へぼくらを案内した。唯一の障害はエパミノンダスを原因としたが、それもたちまち克服された。エパミノンダスは、いかに正当なものとはいえ、救世主的な感情に対しては、抗しがたい嫌悪を抱いていた。ルグランはいささか彼を心配させた。少くとも最初の日は。しかし翌日は、クーヅーの助けもあって、彼はそれを忘れた。もっとも一晩中、若いクーヅーのごとき警戒心でルグランを見張るエパミノンダスの姿は、旅情をそそらないわけでもなかった。ああ、あの日々ほどエパミノンダスを愛したことはなかったのだ!
翌朝八時頃、出発した。アンナは自分の車を使った。ルグランは、幸いなことに、彼の車、ジープに乗って、先導した。彼ひとりが、行先や宿泊地を知っていた。
その日はコンゴ北部の湿った大平原を横断した。道路はよく、車は快適に走った。アフリカのこの緯度では、天候は問題なかった。もちろん猛烈な暑さだったが、追求すべき目的が心にあったせいか、誰も不平を訴えなかった。コンゴ盆地では年中雨が降る。その日も降った。果てしない森林だったが、決して単調ではなく、見る位置によってたえず異なった。車のクラクションは大寺院のなかのごとく反響した。相変らず低い雲が森林を覆っている。雲はほぼ毎時間ごとに、森の奥まで、大地の底まで吸いこまれる。大量の水。ぼくたちは車をとめた。雨の音は聞いていて怖くなるほどだった。彼女は驚いて雨の降るさまを眺めていた。雨の音のため話はできなかった。そこでぼくは彼女が雨を眺め、手の甲で額を拭《ぬぐ》うのを眺めていた。ただそれだけのことだったが、彼女のまばたきはぼくの心にしみ通った。そして一度なぞ、あまり見つめすぎて、急に何か名づけがたいもの、たぶん見るべきでないものを見たように思い、ぼくは叫び声を発した。エパミノンダスはぎくりとして、ぼくをののしった。彼もすぐに熱帯の気候に耐えがたいことに気づいた。彼女は少し蒼白になったが、どうしたのかとたずねなかった。時どきコンゴ河が姿をのぞかせた。それは狂人のごとく森林のなかを走り、道路がとてもたどれないカーブをつくった。十キロ離れても急流の音は聞え、それだけで十万の象の叫びに匹敵した。進むにつれて景色もすばらしくなっていったが、ルグランはそれを味う暇を与えなかった。村落はほとんど通らなかった。村は一般に小さく、森の奥にひそんでいた。クーヅーと象だけが――いつも世界最大のだが――森をわがもの顔で歩いていた。
午後、ルグランが食事の必要を認めないままに、コキラトヴィルという奇妙な名前の町へ着いた。その地点ではコンゴ河と離れていたが、夜の六時頃、別の町で、たしかドドというもっと小さな町で河と再会した。そこで河と決定的に別れ、真直ぐに北方して、ウエレの谷間を目ざした。道は変った。それはしだいに悪くなり、ついには小石も敷かれていなくなって、崩れやすい路肩に注意しなくてはならなくなった。八時頃、平原は終り、ウエレの高原へとゆっくり上りはじめた。涼しくなった。とある駐留地で車をとめたが、そこには白人のバンガローがいくつかと、同じくルグランの知り合いの白人が経営する小さなホテルがあった。エパミノンダスは、いくらか不安をこめて、彼らが集って、ぼくたちを待っていたことに注目した。長いシャワーを浴びた。暑さにもめげず、ひどく空腹だった。バンガローは貧相で汚なく、壁はむき出し、灯りといってはアセチレンランプがあるだけだった。それでも、オランダのウイスキーがあるとのことだった。アンナはすぐに注文した。夕食。エパミノンダスはモーゼルを肩につけたまま食べた。ウイスキーを三杯飲んでから、やっと銃を椅子の傍に置いたのだ。ルグランはウイスキーに手を触れなかった。ぼくたちはおかまいなしに彼の鼻先でそれを飲んだ。人を信用しない男だった。ぼくたちのどこを疑っていたのかまだよくわからない。しかし彼は四六時中ぼくたちを疑っていた、その夜ぼくたちが見せた食欲のなかでさえも。それでも、少しは話す必要があった。いったい何を話題にできたのか?
「クーヅー狩りはなさるの?」とアンナがたずねた。
「クーヅーなんか見たこともありませんから、お話できませんな」
「それは残念ね」とアンナがいった。「今夜はクーヅーの楽しいお話を聞こうと思ってたのに」
「あなたに興味があるのは大とかげだと思ってましたよ」とルグランがいった。
「ちがうわ」とアンナ。「あなたが大とかげで、あたしはクーヅーよ」
「昔ね」とぼくが話した。「いや、いまもいるんだが、ソマリーに、小さなクーヅーがいた。アフリカ中でいちばん小さいんだ。キリマンジャロ山脈の斜面に住んでるんだけど、風みたいにはやくて、首には若駒に似たたてがみがついてる。ひどく警戒心が強くて臆病なのさ。頭はいい。一度の経験で、自分がえがたくむずかしい獲物だと知ったんだな」
「いつもえがたくむずかしい獲物だったの?」
「そうでもないさ」とぼくはつづけた。「あるとき、彼は一人の狩人が車に乗ってるのを見た。その狩人はやさしく、車は面白いと思ったんだね。彼は近寄って、挨拶のつもりで、車のタイヤをなめた。タイヤはおいしいと思ったんだ。しかし狩人は、このクーヅーは自分を嘲っていると考えたんだね。狩人はえがたくむずかしい獲物が好きなものだ。彼はそのことをクーヅーに知らせた。いまやそのクーヅーは、人里遠く離れて、キリマンジャロの人跡稀な斜面に住んでいるよ」
ルグランはうさんくさげにぼくを見つめた。
「それは本当にクーヅーの話ですか?」
アンナが保証した。
「あたしたちの大好きな獲物よ」
「それに」とエパミノンダスがいった。「大好きだろうとなかろうと、ほかにあんたに話すことがあるんかね?」
「それにいまはクーヅーの国にいるんでしょう?」とぼくがいった。
喉が乾いたので、ウイスキーとビールとをたてつづけに飲んだ。たちまちその影響があらわれた。
「じゃジェジェは」とエパミノンダスがたずねた。「クーヅーを殺したかい?」
はじめてルグランは意味ありげに笑った。
「ああ! 彼はね」
彼は終りまでいわなかった。ぼくたちはしたりげに笑った。するとまたルグランはそっぽを向いた。
「クーヅー狩りをする人は」とぼくがいった。「特別な人間だよ。我慢づよいんだ」
「そうなりたいものさ」とエパミノンダスが笑いながらいった。
「クーヅー狩りをしながら、睡眠がとれないときもある」とぼくはつづけた。「時には食事ができないことさえね。そんなこともある。気性の問題だけど、出来る人と、出来ない人があるよ」
ルグランはさっぱりわからないといった顔つきでぼくを横目でにらんだ。ところがエパミノンダスは、わからないときの常で、顔を伏せて、不機嫌になった。
「笑ったほうがいいわよ」とアンナが彼にいった。「きっとみんな許してくれるわよ」
彼女はとても美しかったので、彼はついに折れて、明るい顔を見せると思えた。ところがそうではなかった。
アンナは両足をテーブルの上へ乗せた、それは船のバーでぼくたちが二人だけでお喋りするときいつも見せる恰好だった。彼女の足首はクーヅーのそれのごとく優美だった。
「きみはクーヅーみたいな足首をしてるね」とぼくはいった。
「明日には」と彼女はいった。「一匹見られるかもしれないわね。あなたが話したような、小さくて、たてがみがぴんと立って、かわいい額の上に枝みたいな角をはやしたクーヅーがとっても見たいわ」
「そいつがいたら」とエパミノンダスがいった。「一時間ぐらい車をとめられないかな? 一匹ぐらい見られるだろう?」
彼はルグランを挑むように見つめたが、ルグランは反応を示さなかった。
「ねえ、話してよ」とアンナがいった。「彼らがタイヤをなめてから、どうしてえがたい獲物になったのかを?」
ぼくは彼女のクーヅーみたいな足首を愛撫しはじめた。それは明らかにルグランの気持を乱して、彼は目をそむけたが、相変らず耳を傾けていた。これまでずいぶんと退屈していたにちがいない。
「それはね」とぼくは話した。「狩人たちが害を加えようとしたからじゃないんだよ。だけど彼らはえがたい獲物をとりに来たので、かっとなったんだね。その上、彼らはちゃんと用意したカービン銃を持っていて、それを使いたかったのさ。そこで使った。クーヅーはすぐには死ななかった。長いあいだ泣いていた。クーヅーが泣くのを見るなんて、ちょっと見られないことだよ。道ばたに横になり、口を血に染めて、クーヅーは死ぬのが悲しくて泣いた。キリマンジャロの草深い斜面、草原の空地の静かなあけぼののなかで、クーヅーは泣いた。狩人はとどめをさした。それをトランクに入れて、テントへ持ち帰った。彼はその話を誰にもしなかった。それはただの一匹のクーヅーのことで、世界にはクーヅーがいっぱいいるのに、しかしただ一匹のクーヅーの清い心を、誰が償えようか? 翌日、狩人はにがい朝を迎えた。起き上る勇気もなくて、お昼までテントに閉じこもっていたんだよ」
「あっはっは」とルグランがふき出した。「ばかげた話さ……」
「そんなこと聞かなくてもわかるわよ」とアンナが彼にいった。「あなたは決してお昼には起きないわよ。それから?」
「クーヅーはとても狩猟がむずかしくなったのさ、いまでもそうだよ」
「その狩人は?」とエパミノンダスがたずねた。
「起きるとすぐにアフリカを離れて、二度と帰ってこなかったって話だよ」
「彼は狩人じゃなかったのよ」とアンナがいった。「ああ、明日ぜひともクーヅーを殺したいわ」
「だけどおれは」とエパミノンダスがいった。「いくらなんでも……」
「何日も何週間も待って、やっと殺すだんになると、逆に、とても嬉しくなるんだよ。車の屋根に乗せて、角を前に突き出し、到着すると特別のやり方でクラクションを鳴らすんだそうだ。急に人生が美しくなるのさ。アセチレンランプの微光でクーヅーをいつまでも眺めているんだ、それを求めているあいだ完全に自分を忘れていた獲物をね」
「それを眺めてると、ほかのクーヅーもほしくなるのかしら?」とアンナがたずねた。
「なんてことだ」とエパミノンダス。
「ああ、永久にね」とぼくはいった。「その欲望は残るのさ。だけどいっぺんに何匹も殺すことはまずいから、ほかのを待っているあいだ、欲望で気も狂わんばかりになるよ」
「でも」と彼女がいった。「ほかのこともできるんでしょう?」
「もちろんさ」とぼくはいった。「ふだんの仕事にもどることも出来るけど、もう前と同じ人間じゃない。永久に人が変ってしまったのさ」
彼女はウイスキーと、クーヅーを殺したい欲望にいくらか酔って、微笑した。ぼくはますますはげしく彼女の足首を愛撫した。ぐったりするほどの暑さだった。ときどき、彼女は半ば目を閉じた。ぼくたちはひどく疲れていた。ルグランは眠りこみ、かすかにいびきをかいた。エパミノンダスもうとうとしていた。アンナはルグランを見て、微笑した。
「忠義の傷あとね」と彼女はいった。「ジェジェはどうやら厄介な男ではないらしいわ。ところで、あなたのアメリカ小説のなかでも、クーヅーの話をするつもり? すでに書いてるヘミングウェー氏と同様に、あまりいい趣味と思われないんじゃないかしら?」
「ヘミングウェー氏はともかく」とぼくはいった。「ぼくは書くつもりはないね。ところで、嘘をついて、ほかのことを書いてるようにしたほうがいいかな?」
「だめよ」と彼女はいった。「本当のことを書いたほうがいいわ」
彼女はテーブルにうつむいて、両腕を曲げて頭を支えた。髪がほつれ、くしが床に落ちた。
「ほかのことも書くの?」と彼女はやさしくたずねた。「あなたのアメリカ小説のなかでは?」
「ぼくたちの多くの航海のことをね」とぼくは答えた。「だからどうしたって、すごい海洋小説になるよ」
「海の色のことは書く?」
「もちろん」
「それからほかには?」
「アフリカのうだるような夜々。月の光。草原のモンブツ族の太鼓の音」
「それから?」
「さてね。たぶん人喰いのお祭り。しかし毎日の時々刻々の海の色は必ず書くよ」
「ああ、読者がそれを旅行小説と思ってくれればいいのにね」
「そう思うよ、ぼくたちは旅行してるから」
「みんな?」
「みんなとはいうわけにはいかないね。十人ぐらいはだめだろう」
「じゃ、その人たちはどう思うのかしら?」
「自分たちの見たいと思ってるものを見るのさ」
彼女は黙った。やはり両腕で首を支えたまま。
「もう少し話して」と彼女は小声でいった。
「眠っていて」とぼくはいった。「クーヅーがそこに、テントの前に横たわってると思うと、そのクーヅー以上は、もうたくさんだ、ほかのは決してとれない、これが唯一のものだ、と信じるのさ。いくらかそんなものだよ、幸福というものは」
「ああ」と彼女はやさしくいった。「もしクーヅーがいなかったら、どんなに恐ろしいことでしょう」
ぼくはたしか、また彼女の名を叫んだと思う、その朝一度したみたいに。エパミノンダスがまたぎくりとした。ルグランは目をさました。何が起ったのか、とぼくにたずねた。ぼくは安心させた。何でもないよ、と答えた。ぼくたちは寝に行った。場所がなくて、エパミノンダスはルグランと同室になった。部屋の壁ごしに、ルグランがぼくらは彼をばかにしているのではないか、このコメディは長くつづくと思うか、とエパミノンダスにたずねるのが聞えた。
「さあね。きっと明日には終るだろう」とエパミノンダスがいとも賢明に答えた。するとルグランは大笑いした、彼にはわかったのだ。
本物の狩人みたいに、翌朝四時に出発した。ルグランは厳格な時刻表を作製し、それを実行した。暗闇のなかを一時間以上も走った。悪路のためかなりつらかった。やがてウエレの草原に陽が昇った。とても美しい地方だった。谷間や泉があり、空はずっと明るかった。時には森林へ入りこんだが、コンゴ盆地よりもずっとまばらだった。まさしくクーヅーの地方だった。昨日よりはるかに涼しい。ウエレは五百から千メートルの高原で、ゆっくりとキリマンジャロへとつづいている。たえず風が吹いていた。道はますます悪くなり、ルグランのジープを追いかけるのが精いっぱいだった。
正午頃小さな村へ到着した。そこにはもう白人のバンガローはなかった。ルグランは、ここで車の通れる道は終ったのだが、目的地は歩いて約三時間ほどのところだと語った。ぼくらがとても従順だったので、彼は安心したように見えた。ぼくたちも、彼のやり方にいささか慣れていた。
その村でかなり長いあいだ止っていた。ルグランは車をおりて、広場で待つようにいった。彼は出発前にいくらか情報を集めるのだと告げた。そしてぼくらを残して姿を消した。村中の人たちが戸外に出ていた。ぼくたちは広場で腰を下した。ぼくたちはルグランにひどく従順で、彼が不在のあいだ一歩も動かないほどだった。村は円形競技場のように丸く、同様に丸い広場の周囲にかたまっていた。小屋はすべて同じで、それぞれの小屋の前には草で覆われた柱のヴェランダがついていった。住民が残らずぼくたちを見物にやってきた。彼らはアンナやぼくたちを傍でじろじろと見つめた。最初に出会うモンブツ族だ。
やがてルグランがヨーロッパ風のズボンをはいた二人の男を従えてもどってきた。大きな葉巻用パイプで葉巻をふかしている。ルグランはいましがたの情報に不満そうだった。彼の話では、昨日この村を警察が臨検したとのことだ。どうやらぼくたちが来たために警察は感づいたらしく、警察は今日中に帰ってこないばかりか、今度は足をのばして、ジェジェと会うことになっている村まで行ったらしいのだ。ジェジェがその知らせをうけたかどうかたしかではない。もし知らせをうけていたら、彼がどこへ逃走したのかを知るのはもちろん困難だろうし、彼に会うことはひどくむずかしいのだ。
「ひどくむずかしいの?」とアンナがたずねた。
「たぶん不可能でしょう」とルグランは答えた。
「まさか」とアンナがいった。
「警察にあげられるよりはいいでしょう」とルグランがいった。
「あたしはお金持よ」とアンナがいった。
「高くつきますよ」とルグランがいった。
「でも、あたしとってもお金持なの」とアンナがいった。
「そんなにですか?」とルグランが陽気な声をだした。
「そう」とアンナがいった。「恥ずかしいくらい」
「それじゃ」とルグランがいった。「手おくれでなければ、何とか話をつけましょう」
彼は急に何かを思い出したようだった。
「しかし」と彼はいった。「もし彼でない場合には……」
「もうたっぷり彼みたいなものよ」とアンナがいった。
「ちんぷんかんぷんですな」とルグランがしばらくしていった。
「つまりね」とアンナがいった。「たとえその場合でも……」
ルグランは昨日までジェジェがかくれていた村、歩いて三時間ほどの村へ出かけるのがいいと判断した。そこへ行けば、たとえジェジェがいなくとも、今後の捜査をどの方向でつづければいいかわかるだろう。彼はとりわけアンナの提案の後ではやる気まんまんで、レオポルドヴィルを出発後はじめて、いくらかオランダのウイスキーを飲むことに同意した。
ジェジェに会うチャンスを失わないため、ぼくたちはすぐに歩きはじめた。彼はいまこの瞬間にも出発するのかもしれないので、とにかく急ぐ必要があった。二人のモンブツ族の男も同行した。ルグランはよく道をおぼえていなかったからだ。
村を出るとすぐに、とても狭い小道になって、一列になってしか前進できなかった。ルグランと二人のモンブツ族の男、つづいてアンナとぼく、エパミノンダスが後ろを固めた。暑かったが、草原の風が吹いて、歩くのはとても楽だった。ときどきアンナは振り向いてぼくに微笑した、そしてぼくたちは口をきかないで顔を見つめ合った。いまとなって、何を話すことができようか? 彼女はふだんより青い顔をしていた、ほとんど眠らなかったので疲れていたのだろう。三十分ほど歩くと、ルグランはホテルから持参したサンドウィッチとビスケットを分配した。大変うれしかったが、ぼくたちには、エパミノンダスでさえも、もう食欲はなかった。この長い歩行のあいだ何も起らなかった。ただエパミノンダスはときどき奇声を発した――それはモンブツ族の声を思わせたが――クーヅーを見つけたと思ったからだ。彼は本気で見たと信じたので、そのため三十分も予定が狂ってしまった。それからまたときどき二人のモンブツ族の男が、ひどくかん高い奇妙な声で言葉を交したので、その度にぼくたちはぎくりとした。地形はかなりはげしく波打っていた。窪みがひどくなると、風がやんで、歩行は苦しくなった。しかしだいたいすぐに高原へもどって、草原を吹きまくる風を受けることができた。
二時間の歩行の後、小道はひどい坂道となり、それからパンヤの木やマホガニーの木が茂る深くて涼しい谷間へと下った。ルグランが振り返り、もう遠くないとアンナに告げた。次にまた別の谷間の斜面を上り、もう一度草原へ出た。人間の胸のあたりまで草が茂り、そのなかを風が歌っていた。ひっきりなしにほかの小道と交った。それらはウエレ盆地を血管のごとく走っているのだ。三時頃、短い夕立があった。その間は木蔭に身を避けねばならなかった。その時間を利用して煙草をすったり、オランダのウイスキーを少し飲んだ。しかし誰も口をきく気分にはなれなかった、ルグランでさえも。この休息の間に、やはり木蔭へ逃げてきた鳥を、エパミノンダスは撃ったのだが、失敗した。ルグランは立腹した。すぐ近くまで来ているのだから、と彼はいった、そんなことをすれば絶対にジブラルタルの水夫を逃がしてしまうだろう。それでも、歩行を再開する前に、彼自身が空にモーゼルを二発撃った。しかし、と彼はいった、これは合図なのだ。草原にその音は長くこだました、そして雨の後の空気はとても澄んでいて、水晶のごとく鳴った。三十分後、ルグランは腕時計をたしかめて、またモーゼルを撃った、やはり空中に、一発だけ。それから彼は足をとめ、音を立てないように、と命じた。深い静寂のなかで、一分が過ぎた。やがて草原から悲しげな鈍い太鼓の音が起った。ルグランはあと三十分で目的地へ達すると告げた。それ以後はぼくはもうアンナを見つめなかった。彼女もまた後ろを振り向かなかった。エパミノンダスも、もうクーヅーを見なかった。
三十分後、予想通りに、小道が急にカーブすると、白蟻の巣のように草のなかに没した、低くて薄黒い村が現われた。ぼくはアンナを追い抜き、ルグランの後に従ったが、それでも適当に距離を置いた。ルグランが真先に村の広場へ入っていった。彼は足をとめた。ぼくは追いつた。広場には白人の姿はなかった。
その村は先ほどの村に似ていたが、もっと小さくて、広場も円形ではなく長方形をしていた。小屋とヴェランダは同じだった。ひっそりとしている。アンナとエパミノンダスがつづいてやってきた。ヴェランダの下で女たちが織物をしていた。赤銅色の裸体の子供たちが遊んでいる。鍛冶屋が仕事をしていて、陽光の下に青い火花を散らしていた。男たちはうずくまって粟《あわ》をひいている。鍛冶屋はぼくたちの姿を見たが、仕事をつづけた。女たちも熱心に織物をつづけ、男たちも粟をひきつづけた。子供たちだけが鳥のような叫びをあげて近寄ってきた。ルグランは妙な渋面をつくった。明らかにぼくたちは待たれていたのだが、好まれてはいなかった。ルグランは長いこと頭をかきむしり、どうもおかしいと告げた。彼は誰もいないヴェランダをさして、坐るように命じた。到着するとすぐに、二人のモンブツ族の男たちは真直ぐに広場の右手にある小屋へ行ったので、ルグランはそこへ向った。ルグランが出かけたとき気づいたのだが、その小屋のヴェランダには、一人の女がゴザの上に坐って、ぼくたちを見つめていた。二人のモンブツの男が彼女に話しかけていたが、彼女は耳をかさなかった。ほかの連中とちがって、その女だけは何もしていなかった。彼女はアンナを見つめていた。美人だった。ルグランは彼女を知っているらしく、挨拶をして、二人のモンブツ族の男をどけて、代りに話しかけた。とても若い女らしい。その村の出身でないらしく、腰巻はほかの連中と形も色も異って、灰色の地に赤い鳥がいくつも描かれていた。彼女はそれを腰に巻かないで、肩にしばりつけていた。片方の乳房だけむき出しだった。すごくきれいだった。それほど背は高くないが、これまで見たモンブツ族の女たちよりは高かった。腕や肩の皮膚は、まだ子供たちのそれと同様に赤銅色だった。また頬もふっくらと滑らかで、子供じみていた。そう、彼女はこの村に住んではいなくて、遠くの町から来たに違いない。大きくて厚い口には、なるほど口紅が塗られていた。
その村には奇妙な匂いがただよっていた。
ルグランは女に三分ほど話していた。それから待った。彼女の方も待っていたが、やがてとても短い言葉で返事をした、その間もアンナを見つめるのをやめないで。白い歯が謎めいた輝きで黒い顔を照らし出した。
ヴェランダの下には、柱から二つの仮面がぶら下げられていた。白と黒とに塗られた木製の仮面で、炎の形の角をつけ、首輪をつけている。アンナも女をじっと見つめていた。ルグランがまた話しはじめた。しかし彼女はもう答えない。ルグランは考えこみ、また頭をかきむしって、こちらを向いた。
「彼女は彼がどこにいるか教えないんですよ」と彼はいった。
アンナが立ち上って、小屋へ向った。エパミノンダスとぼくとはその後を追った、正直いってじっとしていられなかったからだ。近くから見ても、彼女の美しさは完璧だった。アンナは近寄って、微笑した、すると女はひどく心を動かされた。女はおどろくほど痛々しげな好奇心をこめてアンナを見つめたが、その微笑には答えなかった。
空気中にただよう異様な臭気はさらに強烈になり、鋭いかすかな煙が背後から立ちのぼった。だがぼくを除いて、誰もそれに注意を払わなかった。
アンナは女の前に立ったまま、じっと眺めていた。女の方も同じだったが、やはり微笑はしていなかった。アンナは煙草の箱を取り出して、差し出した。彼女は控え目なしぐさでそれをして、これまでに一度も見たことがないように、自分が求めに来たことも忘れて、相手ひとりのために微笑した。女は煙草の箱を見てぎくりとした。目を伏せて、煙草を一本とり、口へ持っていった。女はふるえていた。ぼくは身をかがめて、火をつけてやった。しかし彼女の手はふるえすぎて煙草を落してしまった。エパミノンダスが拾ってやった。女はそれを機械的にとり、口へくわえて、深く吸った。煙草の好きな女で、そのことで元気と忍耐心とを回復した。彼女の視線ははじめてアンナを離れ、やはり変りない痛々しげな好奇心をこめて、ぼくとエパミノンダスとを見つめた。彼女は理解しようとしたが、できなくて、あきらめた。
「彼女に話して」とアンナがとても低い声でいった。「間違いの可能性が大きいと彼女に話して」
ルグランがなんとか翻訳した。女は無表情に耳を傾けていた。返事はしなかった。
夕風に乗って、濃い煙がぼくたちを襲った。しかしまだ誰もそれに気づく暇がなかった。ぼくを除いて。またしても。ほんのかすかだが、異様に鋭く臭い匂いだった。
「とてもとても」とアンナがいった。「間違いの可能性が大きいのよ」
ルグランがやはり苦しげに翻訳した。彼はいささかへばっていた。女はやっと返事しそうになったが、また口を閉してしまった。
「彼女に話して」とアンナがいった。「あたしは三年前から彼を探していると」
ルグランがまた通訳した。女はじっとアンナを見つめ、先ほどより長く考えこみ、それから目を伏せたが、返事はしなかった。
「ほかの連中が」とルグランは広場の方を振り向いていった。「話してくれるでしょう」
アンナが顔をあげた。
「だめよ」とアンナはいった。「あたしは彼女以外の人とは話したくないわ」
彼女は話す前にまた長く待った。冷静にもどっていた。女が煙草をすい終ると、もう一本さし出した。その瞬間に煙の匂いが急に強くなったので、みんな気づいた。アンナは振りかえり、真青になった。彼女は煙がやってくる遠くを見つめた。広場の背後からで、遠くはなかった。アンナは逃げ出すような素振りを見せた、反対方向へ、来たときの方角へ。それから力なくその動作をやめた。ルグランは明らかに何が起ったのか知らなかった。ぼくはエパミノンダスを従えてとび出した。円形の小さな広場で、二人の男が一匹のクーヅーを焼いていた。脚をしばって、その間に枝を通して回転させている。まだ無傷の顔は、鼻先で地面をこすっていたが、かつては地上で最も深い森のなかで自由を支えていたその長い首も、すでに火勢のためしおれていた。村中に例の匂いをただよわせていたのは、その蹄《ひづめ》の焼ける匂いだった。角は切り取られていた。それは戦士の手から落ちた剣のごとく地面に横たえられていた。ぼくはアンナの方へもどった。
「クーヅーだよ」とぼくはいった。「大きなクーヅーだ」
女もぼくたちの動きを目で追ったが、理解しなかった。そして人間的な想像力を持っていないルグランは、なおさら理解しなかった。アンナはかなり早く気をとり直した。彼女は一分ほどヴェランダの柱に背をもたせていたが、やがて女の方に向き直った。そのとき女が口を開いた。やさしい咽喉の奥から出る声をしていた。
「あなたのために」とルグランが通訳した。「彼は昨日の朝、あのクーヅーを殺したのです」
彼女はまた黙った。アンナはゴザの上の女の傍に坐った。女は少し安心した。
「あたしはもう彼がどこにいるかたずねないわよ」とアンナがゆっくりといった。「それにはおよばないわ。彼はとても、何ていったらいいかしら、特別な傷あとを持っていて、それは外側からは見えなくて、女たちだけが、彼女のような……あたしのような女だけが見えるってことを、彼女に話して。あたしたち二人には、その傷あとのおかげで、彼はとても簡単に見わけられるって、話してよ」
ルグランはなんとか通訳した。女は考えこんで、それから答えた。
「彼女はその傷あとはどんな具合なのかたずねています」とルグランがいった。
アンナはそれでも微笑した。
「あたしが話さないってことを」とアンナはいった。「彼女は知ってるはずよ」
ルグランはまた通訳した。女は微笑の代りにかすかに目をしばたたいた。彼女はわかっていると答えた。それからかなり長いこと話した。
「彼女はいってます」とルグランが通訳した。「傷あとなんかどんな男だって持ってると」
「もちろんよ」とアンナがいった。「だけどあの傷あとは彼の物語の一部なのよ。ふつうの傷あと以上のものなのよ」
彼が通訳した。女はまた考えこんだ。ぼくたちのチャンスはますます少くなっていった。明らかに、女にはわからないのだ。だめだよ、とエパミノンダスがいった。彼は苛立って足を踏んだ。彼はもうクーヅーのことしか考えておらず、夜まで一匹手に入れるために早く帰りたがっていた。ルグランもへばっていた。アンナとぼくだけがこの忍耐のテストになんとか耐えていた。そう、ぼくたちのチャンスはますます減少していった、そのとき突然に女が何か長い言葉を口にした、しかも先ほどよりもきっぱりした口調で。
「彼女はこういってます」とルグランが通訳した。「そういう傷あとは、強くて勇気があるすべての男についていると」
彼は足をたたきながら付け加えた。
「その点が問題みたいなんですよ。今夜までに船に追い返すつもりですな」
「平気よ」とアンナがいった。
女はまた何かをいった、さらに長い言葉を。ルグランの苛立ちも彼女には何の効果も及ぼさない。
「彼女はこういってます」とルグランがいった。「強くて勇気のある男たちは、ここ以外のいたるところにいると」
「どこに」とアンナがたずねた。「その傷あとはどこにあるの?」
ぼくは息をこらした。アンナは女に近づき、もうルグランではなく、女にじかに話しかけた。セートの給油所のポーチの下でぼくに背を向けたときと同様に、彼女の顔はよく見えなかった。女は嘘をついていなかった。詳しくは話さなかったが、その表情はごまかしの顔つきではなかった。
「どこなの?」となおもアンナはたずねた。たぶん彼女にはそれ以上に話す気力がなかったのだろう。明らかに女は譲歩しようと決心したようだ。返事はしなかったが、死刑囚のような目つきでアンナを見つめ、それから運命のように青い指をあげた。ぼくは目を閉じた。目を開いたとき、青い指は左耳の下の首筋にとまっていた。彼女は叫んだ。ルグランがすぐに通訳した。
「ナイフの跡、二十年前の」
アンナは聞いていなかった。恐怖に顔を歪めて、また柱によりかかった。それから煙草に火をつけた。
「そこじゃないわ」と彼女はいった。
ルグランは通訳しなかった。彼はひどくがっかりしていた。
「そこじゃないわ」とアンナは女にいった。手で否定のしぐさをした。目は涙で溢れていた。女もそれを見た。女は彼女の手をとり、笑いはじめた。アンナも笑った。ぼくは席をはずした。
「彼女は嘘をついてます」とルグランがいった。
「ちがうわよ」とアンナがいった。
ぼくはクーヅーの方へ向った。エパミノンダスもついてきた。いまやクーヅーの頭は炎に包まれていた。男たちは火を移動させており、すでに腹から長い金色のくしは抜き取られていた。ぼくは肩にエパミノンダスの手を感じた。彼を見つめた。彼は笑っていた。ぼくも笑おうとしたが、まだできなかった。クーヅーが胸を締めつけるような気がした。アンナが女と一緒にやってきた。女はいまでは子供のようにずっと笑いつづけていた。アンナはぼくに近づき、クーヅーを見つめた。女がルグランに何かいった。
「彼女はいってます」とルグランが通訳した。「あなたもそれを少し食べるべきだと」
女は自らクーヅーのてかてか光る腹の肉を三切れ切り取って、差し出した。そのときはじめてぼくはアンナに目を上げた。
「おいしいわ」と彼女はいった。「クーヅーって」
彼女はまた以前の顔にもどっていた。たき火の炎が目に踊っていた。
「世界中でいちばんうまいものさ」とぼくはいった。
女だけが、たぶん、ぼくたちが愛し合っていることを理解しただろう。
みんな村へ泊るようにすすめた。帰るにはもうおそすぎた。ぼくたちは承知した。夜になる前に、エパミノンダスはぼくたちを散歩にさそった。二人のガイドが同行した。ルグランは疲れ果てたといって、ぼくたちの元気さに感心し、同行しなかった。村を出ると、オランダのウイスキーを少し飲むために足をとめた。そのとき彼女は長いばか笑いに襲われた。二人のモンブツ族の男は、彼女が笑うの見て笑った、そしてエパミノンダスとぼく自身も。
「あなたのアメリカ小説のなかで」と彼女はいくらか冷静にもどってからいった。「ぜひともあたしたちがクーヅーを食べたと書くべきよ……」
「いずれどこかでね」とぼくはいった。「ぼくらの生活はどんなに恐るべきものになってただろう、もし……」
「そんなこと誰にわかるの?」と彼女がいった。
エパミノンダスは近くの草むらがうごめくのを感じた。彼は銃をかまえて立ち上った。「黙って」と彼はアンナにいった。「あんたは物語と一緒にクーヅーまで逃してしまうよ」
ぼくたちは翌朝出発した。ルグランはジェジェを待つために村へ残った。彼はアンナにレオポルドヴィルのある住所を教え、そこへ費用を払うようにいった。別れの言葉はすばらしかった。アンナは女に接吻した。
レオポルドヴィルには少し長く滞在した。というのは、ぼくたちの不在中に、ヨットが火災を起したからだ。ブルーノの不注意によるもので、給油中にタンカーのすぐ近くに吸殻を捨てたからだ。帰ったとき、≪ジブラルタル≫号はまだ煙を出していた。火はバーと上甲板しか残さなかった。
アンナはモンブツ族のところから帰ったところだったので、それに影響されるような気分ではなかった。
「世界から」と彼女はいった。「三十六メートル型が一隻へったわけね」
それから彼女はやさしくぼくにいった。
「これであなたのアメリカ小説も荷が軽くなるでしょうね」
重要なことは、この機会に、ブルーノもまた真面目になったことだ。そのとき以後、彼は完全に上機嫌になった。話によると、消防車が到着したとき、彼もまたすごいばか笑いを見せたので、みんな彼が発狂したと思ったとのことだ。しかしローランは人々に説明した、火事は時として、そうした予期しない反応を引きおこすものだと。
一晩中かかって、人並みに商船で帰るか、それとも別の船を購入するかを考えた。そしてみんな別れないために、また少し仕事をするために、別の船を買うことに決まった。レオポルドヴィルには古いヨットしかなかった。≪ジブラルタル≫号より形も小さくて、乗り心地もよくなかった。しかしみんなの気持は変りやすいので、それでも平気だった。とりわけ彼女は。実のところ、彼女はあの≪ジブラルタル≫号、以前の≪アンナ≫及び≪キュプリス≫号にいささかあきていたのだ。
ヨットに受信機をとりつけ、レオポルドヴィルを後にした。二日後、ハヴァナから通信を受け取った。そこで船はカリブ海ヘ向った。
ローランはプエルトリコで船を去った。エパミノンダスはもう少し先の、ポルトオプランスで。ブルーノはもっと長く残った。彼らの帰るのを待つあいだ、ほかの友人たちと再会した。
カリブ海ヘ向う海はとても美しかった。しかしぼくはまだそれを話すことができない。(完)
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訳者あとがき
本書はマルグリッド・デュラス『ジブラルタルの水夫』(一九五二年、ガリマール社刊)の全訳である。
デュラス女史が現代フランス小説界で最も人気のある作家であることはあらためて説明することもないだろう。デュラスが流行作家となったのは、『辻公園』(五五年)や『モデラート・カンタービレ』(五八年)、またはアラン・レネと共に映画史上に不朽の名を留めた『広島、わが恋』(五九年、邦訳『二十四時間の情事』)あたりからである。それまでのデュラスは、いわばフランスの伝統的心理小説とアメリカの行動主義的客観小説との二つの異った流派の接点で仕事をしている地味な女流作家にすぎなかった。
現在では、デュラスの作家的成長は、次の三つの時期に分けられるのが通例である。処女作『あつかましい人々』(四三年)から『太平洋の防波堤』(五〇年)にいたる第一期、この時期の彼女はアメリカ小説、特にスタインベックの影響をまともに受けて、叙事詩的な背景のなかに人間の運命をリアリズム的手法で追求した。次いで『ジブラルタルの水夫』(五二年)から『タルキニアの小馬』(五三年)などの第二期、つまりようやく初期のアメリカ小説の影響を脱して、彼女独自の小説世界へ向いはじめた時期である。次いで先に述べた『辻公園』以後の第三期ということになる。
従って本書『ジブラルタルの水夫』は中期の代表作といえよう。最近のデュラスの諸作が極めて象徴的で微妙な反リアリズムの傾向をますます深めているのに対して、本書ではまだ初期のリアリズムの色彩を濃くとどめながら、一方において主題的には彼女の最も本質的なテーマを強く押し出している。後において彼女が追求したテーマが、この作品のなかですでに大きな位置を与えられているのである。
別にここで本格的なデュラス論を展開するつもりはないが、彼女の作品の鍵ともなるべきいくつかのテーマを指摘しておこう。その一つは人生における白熱的瞬間の重要性である。人間は人生においていくつかの昂揚した瞬間を体験し、そこにいわば全人生を賭けるのだ。彼女の登場人物たちにとって、生きるとはつまりそうした瞬間を十全に味うことである。本書では、アンナがジブラルタルの水夫と出会う瞬間がそれである。アンナは最後までその体験に魅せられるだろう。そこからデュラス特有の宿命論的なロマンチズムが生まれるのだ。(これは余談だが、デユラス女史はアルコール中毒患者ではないかとの風説がしきりである。もしかしたら彼女のこうした特異な人生観は、病理学的性質のものであるかもしれない)
いま一つの主要テーマは、期待、つまり待つことである。アンナがジブラルタルの水夫の再来を待つように、デュラスの人物たちは常に何ものかを待っている。しかし一度しかない白熱的瞬間を生きた人間にとって、それを再び望むのは不可能な願望ではないか。デュラスにとって、人間とは不可能で矛盾した欲望を内に秘めた悲劇的な存在らしいのだ。彼女が作品の題材や伏線として、ありふれた三面記事的情痴犯罪を選ぶのも故なきことではないだろう。
最後に、デュラスの作品は不思議と映画と関係があるものが多い。これは単にベストセラーの映画化といった商業主義とはちがって、彼女の作品には何かしら映画作家たちの創作欲を刺激するものがあるようだ。すでに『モデラート・カンタービレ』(邦題『雨のしのび逢い』)や『夏の夜の十時半』も映画化されている。そしてこの『ジブラルタルの水夫』もまた、トニー・リチャードソン監督、ジャンヌ・モロー、イァン・バネン、オーソン・ウェルズ主演で映画化され、日本でも公開された。
〔訳者略歴〕
三輪秀彦(みわひでひこ) 一九三〇年生まれ。東京大学仏文科卒。翻訳家。『アンデスマ氏の午後』(デュラス)、『オペラ座の怪人』(ルルー)など多くの訳書がある。