椿姫
デュマ・フィス/石川登志夫訳
目 次
椿姫
解説
あとがき
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椿姫
本気で勉強してからでなくては、どんな国の言葉でも話せないように、十分に人間というものを研究しつくしてみなければ、小説中の人物をつくり出すことはできない。これがわたしの意見である。
わたしの年齢は、こうした人物をつくり出せるまでには、まだ間があるので、ただ単に事実を語るだけで満足するほかはない。
さて、この物語は事実あったことで、女主人公をのぞけば、登場人物はすべて皆、今なお生存しているということを読者に信じていただきたいのである。
なおまた、ここに取りまとめて書く大部分の出来事については、パリの現場にいあわせて、実際にまのあたりに見た人たちもいるのだから、もしわたしの話だけで不十分ならば、その人たちに証人になってもらっても結構である。ただ、ある特別の事情から、その出来事を書きしるすことができるのは、わたし一人だったのである。それというのも、最後のいきさつをうち明けられたのはわたしだけで、このいきさつを知らなくては、興味ぶかく、そしてまとまった一編の物語をつくることは、とうてい不可能なことだからである。
ところで、こうしたいきさつを、どうしてわたしが知るようになったか、その次第は次のとおりである。
……一八四七年三月十二日のことだった。家具や、みごとな骨董品《こっとうひん》の売立てをするという黄色い大ポスターを、ラフィット街で見かけたのだった。この売立ては持ち主が亡《な》くなったので行なわれるのだった。ポスターには故人の名前はなかったが、売立てはアンタン街九番地で、十六日の正午から五時までの間に行なわれることになっていた。
このほかポスターには、十三日と十四日に、部屋と家具の下見をさせると書いてあった。つねづね骨董《こっとう》好きなわたしは、この好機をいっせず、買わないまでも、せめて見るだけは見ておこうと心にきめた。
そこで翌日になると、アンタン街九番地に出かけてみた。
時間がまだはやいというのに、部屋のなかには、男それに婦人も加えて、もう多くの見物人が詰《つ》めかけていた。婦人たちは、皆ビロードの服をまとい、カシミヤの肩掛けをはおり、戸口には優雅《ゆうが》な二人乗りの馬車まで待たせているような身分でありながら、目のまえにならべられている贅沢《ぜいたく》な品々を、おどろきのまなざしや、感嘆の面持《おもも》ちで、眺めわたしていた。
しばらくしてからわたしには、こうしたおどろきや感嘆の理由が、なるほどと合点《がてん》がいった。というのは、わたしもよく注意して、あたりを見まわしてみて、いま自分が男に囲《かこ》われていた女性の部屋にいることに容易に気づいたからである。
さて、そこに集まっていたのは社交界の婦人だったが、こうした上流社会の婦人が見たがっている一つのものがあるとすれば、この種の女性の内幕なのである。この種の女性たちの馬車は毎日のように、上流婦人の馬車に泥水をはねかけるし、オペラ座やイタリア劇場では、同じように肩をならべて桟敷《さじき》にすわるし、またその美貌《びぼう》や、宝石や醜聞《しゅうぶん》を、パリの中で厚顔無恥《こうがんむち》に、たっぷりと見せびらかしているのだった。
今わたしがいるこの家の女主人は、もうすでに亡くなっているのだった。だから、きわめて操《みさお》の正しい婦人がたでも、この女の部屋にはいりこんでもさしつかえないわけである。死というものがこの華やかな巣窟《そうくつ》の空気をきよめてしまっているし、そのうえ、もし必要とあれば、この部屋の住人がだれであったか知らずに、ただ売り立てがあったから来たのだといえばすむ。ポスターをみて、そこに書いてある品物を、前もって下見しておきたかったまでだといえば、申しわけがたつのである。これより簡単なことはあるまい。そうはいうものの、こうしたさまざまな逸品《いっぴん》のあいだから、彼女たちがきっと奇妙な噂《うわさ》をきいているこの娼婦《しょうふ》の生活の名残《なご》りをさがし出すことは少しもかまわないのである。
しかし、あいにくと秘密は女神とともに消えうせてしまった。そこで貴婦人たちがどんなに目を皿《さら》のようにして捜してみたところで、部屋を借りていた女の死後、売りにだされた品物があるだけで、生前女がどんなものを売っていたのか、とんとわからないのである。
それにしても、買いたい品物はそろっていた。家財道具はすばらしいものだった。バラの木をつかった家具、ブール細工の家具、セーヴル焼やシナ焼の花瓶《かびん》、ザクセン焼の人形、繻子《しゅす》、ビロード、レースなど、何ひとつないものはなかった。
わたしは骨董好きな先客の貴婦人たちのあとについて、家のなかを歩きまわった。彼女たちがペルシャ布をはった部屋にはいったので、わたしも続いてはいろうとした。すると好奇心をおこしたことを恥じるように、彼女たちは微笑をうかべながら、すぐと部屋から出てきた。こうなると、わたしはいっそうこの部屋にはいってみたかった。そこは化粧室で、こまごました小道具がかざり立ててあった。こうした品のなかにこそ、いまは亡き女の贅沢三昧《ぜいたくざんまい》の様子がいちばんよくあらわれているようだった。
壁ぎわに片よせられた幅三尺、長さ六尺の大テーブルのうえには、オーコックやオディオのような名匠がきざんだ数々の金銀宝石類が光りかがやいていた。それはまことにすばらしいコレクションだった。この家の主人のような女の化粧には、ぜひとも必要な装身具ばかりで、その数多い品のひとつとして、金銀細工でないものはなかった。しかしこうしたコレクションはわずかずつ集めて、つくり上げられたもので、同じ男との情事で、これだけ何から何まで集められるものではない。
わたし自身は、囲《かこ》いものの化粧室をのぞいたからといって、べつに驚くほどの人間でもないので、その部屋のこまごました品々を、それが何であろうと、ひとつひとつ丹念にしらべて楽しんでいた。するとみごとな彫《ほ》りがあるこの道具類にはすべて、さまざまな頭文字や、ちがった紋章がついているのに気がついた。
わたしはこうした品々をじっと眺めていた。どれもこれも哀《あわ》れな女の春をひさぐ生業《なりわい》をそぞろ偲《しの》ばせるものばかりだった。そこで、わたしはこの女への神の慈悲を、心のなかで考えたのだった。神はごくありふれたこらしめの時という寿命《じゅみょう》が来るまでこの女を生きながらえさせずに、娼婦にとって第一の死である姥桜《うばざくら》の年齢をむかえぬうちに、栄華《えいが》と美貌のさなかで死なせたもうたからである。
実際、身もちの悪かった老人を見るほど哀れなものはない。まして女であれば、なおのことではなかろうか? 気品すらなく、人の目もいっこうにひかなくなる。自分が不品行な道を歩んできたことは棚《たな》にあげておいて、ただもう金勘定《かねかんじょう》がへたで、むだ遣《づか》いしてきたことの愚痴《ぐち》ばかりならべているのは、聞いているほうでも、まことにうんざりする。
わたしは以前浮気っぽい暮らしをしていた老婆《ろうば》を知っていた。この老婆には、一人の娘のほかには、華やかな過去の名残《なご》りは何ひとつ残っていなかった。老婆と同じ時代の人たちの言葉によると、娘は老婆の若いころに匹敵《ひってき》するほどの美しさを持っているということだった。
このかわいそうな娘に対して、母親は自分の老後を養わせようとする場合以外には、娘を自分が育ててやったのだからといって、一度だって、「おまえはわたしの娘だ」とは言わなかった。このかわいそうな娘はルイズという名で、母親の言いつけにしたがって、意志も、情熱も、楽しみも捨ててしまって、男に身をまかせていた。もしだれかが仕事のひとつでも教えようとしたならば、この娘はそれを同じようにやっていただろう。
絶えずこの娘は、ふしだらなことばかり見ていたし、うら若いころから身もちが悪かった。おまけに始終身体の調子がよくなく、神からさずけられているにちがいない善悪の判断さえも持っていなかった。もっともこうした判断を正しくみちびいてやろうというような人は、だれ一人として現われなかったのだった。
ほとんど毎日、同じ時刻に、並木道をとおっていたあの娘の姿を、わたしはいつまでも覚えているだろう。母親がいつも付きそっていた。まるで堅気《かたぎ》の母親が熱心に娘に付いて歩いているようだった。そのころ、わたしはまだ若かったし、当時ののびのびした安易な道徳を受けいれる素地《そじ》は十分にあった。がしかしこんな破廉恥《はれんち》な監督ぶりをみると、たちまち軽蔑《けいべつ》と嫌悪《けんお》の気持ちがわいてきたことを、いまでも思いだすのである。
なお付けくわえれば、どんな清純な処女の顔にも、これほど無邪気な感情と、これほど哀調《あいちょう》をおびた苦悩の表情は見いだせないのである。
いわば「諦《あきら》め」の姿だったのである。
ある日、この娘の顔が喜びでかがやいた。母親の指図《さしず》どおりにいやしい稼業《かぎょう》をしている間に、神はこの罪ぶかい娘にも、ひとつの幸福を許したもうたとみえる。娘を無力なものにお造りになった神といえども、何ひとつ慰めもあたえず、生活の苦しい重荷の下に置きざりになさるはずがないではないか?
ある日のこと、娘は身重になったことに気づいたのである。それに彼女にはまだ、こうした喜びで身をふるわせるような純潔な心根がのこっていた。魂には、不思議な避難所があるものだ。ルイズは自分をこんなに喜ばせた出来事を知らせようと、母親のもとにかけつけた。元来こういうことを口に出すこと自体が恥ずべきことだが、わたしだって何も喜んで特に不道徳のことを書くわけでなく、ある事実をただありのままに物語るにすぎないのである。世間では、この種の女に対して、なんの同情もなく、頭から非難したり、ろくに判断もせずに軽蔑したりする。だがこうした女たちの絶えざる苦悩を、ときおり世の人々にあからさまに暴露《ばくろ》する必要があると信ずるのでなければ、むしろ何事も口にしないほうがましであろう。
ところで、まことに恥ずかしい話だが、母親は娘にこう答えたのである。「二人でも楽じゃないのに、三人になったら、どうしてたべてゆけるの。そんな子供なんかいりもしないし、第一おなかがふくれていては、その間お客もとれやしない」と。
翌日、ただ母親の友だちだという産婆が、ルイズを見舞いにきたが、ルイズはその後二、三日床についていた。そして起きだしてきたときには、以前よりずっと青ざめて、弱々しくなっていた。
それから三か月すぎて、ある男がルイズを不憫《ふびん》におもって、心身ともに回復してやろうと手をつくした。しかし最後の衝動《しょうどう》があまり身体に激しすぎた。ルイズはうけた堕胎《だたい》手術のあとで死んでしまった。
ところが母親のほうは今もなお、生きながらえている。どうしてであろうか? それは神しかご存じないのである。
銀製の器具類を眺めながら、わたしはこんな話を心にうかべていた。こうした物思いにふけっているうちに、相当な時間がたったらしい。家のなかには、わたしと番人しかいなくなってしまった。番人はわたしが何か盗むのではないかと、戸口のところから注意して見張っていた。それで、これほどひどく心配をかけた律気《りちぎ》そうな男のほうに近づいた。
「さしつかえなかったら、ここに住んでおられた方のお名前をきかしてくださいませんか?」とわたしは言った。
「マルグリット・ゴーチエさんです」
わたしはこの女性なら、名前も知っていたし、姿も見かけたことがあった。
「へえ! マルグリット・ゴーチエが亡くなったんだって?」と番人にわたしはきき返した。
「そうです」
「それはいつのことです?」
「三週間前だと思います」
「なぜまた家のなかを見せるんです?」
「債権者のほうは、競売のとき、こうすれば売上げがいいと考えているんでしょうね。それにお客さまのほうでも、前もって布地や家具がどんなものか、ごらんになっておけば、自然買いたくなるんじゃないでしょうか」
「じゃ、借金があったんですね?」
「そりゃ旦那、たくさんございました」
「しかし競売をすれば、もちろん埋めあわせがつくでしょうね?」
「埋めあわせがつくどころか、余ります」
「では余った分は誰のふところにはいるんだろう?」
「身内にわたすんです」
「身内があるんですね?」
「そうらしゅうございます」
「やあ、どうもありがとう」
わたしの意向がわかってほっと安心したとみえ、番人はあいさつした。わたしは外に出た。
帰宅の途中、わたしは「かわいそうな女だな!」と思っていた。あの女はひどくみじめな死に方をしたにちがいない。何しろ、あの社会では身体が元気でなければ、男がめんどうをみてくれないのだから。思わず、マルグリット・ゴーチエの境遇に同情した。
こんなことを言うと、おそらく多くの人々の物笑いになるかもしれないが、わたしは娼婦に対して限りない寛容《かんよう》な気持ちをいだいているのだ。この寛容な気持ちがどんなものか、わざわざここで議論するまでもなかろう。
ある日、県庁に旅券をもらいに行ったとき、近くの通りのひとつで、二人の憲兵が、一人の街の女を引きたててゆくのを見かけた。それに、その女がどんなことをしたのか知らないが、自分がつかまったばかりに、生後数か月の子と引きはなされて、熱い涙をこぼしながら、赤ん坊を抱きしめているところを見たのだった。その日以来、ひと目見ただけで、女を軽蔑するようなことは、わたしにはもうできなくなったのである。
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競売《きょうばい》は十六日だった。
下見と競売との間に、一日の余裕をおいたのは、室内装飾の商人が壁掛けや、カーテンや、そのほかのものを取りはずすためだった。
当時、わたしは旅先から帰ったばかりだった。マルグリットの死についてはだれからも聞いていなかった。噂《うわさ》の都パリに帰ってきたのだから、こうした大ニュースのひとつである彼女の死は、友人たちからでも聞くのがあたりまえなのだ。ところが、わたしが何も耳にしなかったのは、それだけの理由があった。なるほどマルグリットは美しかった。だがこうした女性は生きている間こそは、世間から大騒ぎされ、評判になるが、ひとたび死んでしまえば、まったく人々の口の端《は》にものぼらないのだ。それはちょうど昇るときと同じように、光りかがやくこともなく沈んでゆく太陽のようなものだ。パリでは、名の知れた女性の情人たちは、たいてい皆お互いに親しく交際しているから、女性が若くして死ねば、その死んだことは男たちの間にいっぺんに知れわたってしまう。当分のうちは、思い出の二つや三つは男たちの間に交わされもしようが、まもなく彼らはこんな出来事に涙ひとつこぼすでもなく、相変わらずめいめいの生活をつづけてゆくのである。
こんにちでは、人間二十五歳にもなれば、涙をながすようなことは、いたって稀《まれ》で、相手かまわず泣くなんてことはありえない。せいぜい両親が、子供から泣いてもらうぐらいなもので、それさえも、それだけのことをしておく金の値段に左右されるのだ。
さてわたしは、自分の頭文字がマルグリットの道具類のどれにもついてないとはいえ、さきほども述べたような、やむにやまれぬ寛大な心と、持ってうまれた同情の気持ちから、それほどまで考えこまなくてもいいと思われるほどに、彼女の死について、長い間考えさせられた。
マルグリットには、シャン・ゼリゼでたびたび出会ったことを思い出した。彼女はかならず毎日、すばらしい二頭の鹿毛《かげ》の馬にひかせた小型の青い馬車に乗ってやってきた。そして彼女がその仲間の女にはない気品をそなえていることに、そのときわたしは気づいたものだった。またこの気品こそは、比類のない美しさによって、さらにいっそう引きたてられていた。
こういう薄幸《はっこう》な女性が外出するときには、きまってだれかが付きそっているものだ。こうした女性と連れだって歩き、闇《やみ》にかくされた情事を大っぴらにさらけ出すような男は、そうざらにあるわけがない。だからといって彼女たちは、一人でいることは好まないので、自分たちよりふしあわせで馬車も持てない女とか、今でこそ昔の面影《おもかげ》はまるで見られないが、以前はあでやかなお洒落《しゃれ》女としてきこえていた年増《としま》を連れて歩くものだ。だからお目あての女性について、何かくわしく知りたければ、この連れの女に何の懸念《けねん》もなくきけるというわけだ。
しかしマルグリットはそうではなかった。シャン・ゼリゼにくるときは、いつも一人だった。冬は大きなカシミヤの肩掛けをまとい、夏はごく飾りのない服をきて、できるだけ人目をさけるように馬車にのっていた。大好きな散歩のみちすがら、多くの知りあいの人たちに出会うのだったが、ほんのときたま微笑をおくるだけで、それも公爵夫人でもするような、当の相手にしかわからない微笑だった。
彼女は、仲間の女たちが今も昔もするように、円形広場からシャン・ゼリゼの入り口の間をぶらつくようなことはしなかった。二頭の馬は彼女をまっしぐらにボワ・ド・ブーローニュに連れて行った。そこで馬車からおりて、一時間ほどあたりを散歩し、また馬車にのって、馬を大急ぎにはしらせて家に帰るのだった。
わたしが、かつて時々見かけたこうした情景のひとつひとつが、今また目の前に浮かんできた。それでわたしはみごとな美術品が粉《こな》みじんにこわれたのを愛惜《あいせき》するような気持ちで、この女の死を惜しんだ。
それにしても、マルグリットの持つ美しさ以上に魅力のある美しさには、そうめぐりあえるものではない。
背丈《せたけ》は高すぎるほどで、身体もほっそりしすぎてはいたが、ちょっとした服の着こなしで、生まれつきの欠点をたくみに覆《おお》いかくすすべを心得ていた。端《はし》が地にふれるほど垂れたカシミヤの肩掛けは、左右に絹の衣服についている幅のひろい裾《すそ》かざりをのぞかせていた。両手を入れて胸のあたりに当てた厚いマフには、ひだがじょうずにとってあった。そのえがく輪郭は、どんな文句の多い人がみても、一点の非のうちどころがなかった。
顔かたちは、これまたすばらしく、一種独特なあだっぽさがあった。ごく小さくて、ミュッセの言葉をかりていえば、母親が念入りにつくろうとして、こんなにも小さい顔に仕上げたとでもいうようだった。
言葉に表現できぬ卵なりの優雅な顔に、黒い瞳《ひとみ》を入れ、その上に絵にかいたような清らかな眉《まゆ》を弓形にひく。伏し目になれば、頬にバラ色の影をおとすような長い睫毛《まつげ》でこの目をおおいかくす。ほっそりして、まっすぐな、利口そうな鼻をえがいて、その鼻孔《びこう》は官能的な生活への激しいあこがれに少しばかりふくらんでいる。口もとは形よくととのって、くちびるがしとやかにほころびると牛乳のような真白な歯並みがのぞく。だれもまだ手をふれたことがない桃《もも》をつつんでいるあのビロードのような柔かな毛で肌をいろどる。まずこう言えば、読者はその魅力ある容貌《ようぼう》をほぼ想像することができよう。
黒玉のような漆黒《しっこく》の髪は、自然のままなのか、それとも手を入れてあるのか波うっていて、額《ひたい》の上で左右に大きくふたつにわけられて、うしろに垂れていた。その間からのぞいている耳のはしにぞれ四、五千フランもするダイヤモンドが二つかがやいていた。あんなにも燃えるような生活を送ったマルグリットでありながら、その顔の上に、その特徴をなしていた処女のような、むしろ子供っぽい表情がのこっていたのはどうしてであろうか。その理由はわからないが、とにかくそれは事実として認めないわけにはいかなかった。
マルグリットはヴィダル〔フランスのパステル画家〕の筆になるみごとな自分の肖像画をもっていた。この画家こそは彼女の面影《おもかげ》を如実《にょじつ》に写すことができる唯一の人であろう。彼女の死後、この画は数日わたしが持っていたので、心ゆくまでこれを眺めることができた。それは驚くばかり彼女に生き写しなので記憶がうすれているようなところは、いろいろとこの画のおかげで補えたようである。
この章のこまかい部分のなかで、そのいくつかは、後になってやっとわかったこともあるのだが、この女性の逸話《いつわ》が多い身の上話をはじめるにあたって、あともどりするようになってもいけないから、今すぐ書いておこう。
マルグリットは芝居の初日といえば、欠かさず出かけた。そして毎晩、劇場や舞踏会で夜をすごした。新作が上演されるたびに、彼女の姿が見られないことはなく、一階の桟敷《さじき》の前には、いつもきまって三つの品が手近にならんでいた。オペラグラスとボンボンの袋と椿《つばき》の花束である。椿の花は、月の二十五日間は白で、あとの五日間は赤だった。こんなぐあいに色がとり変わる理由はだれにもわからなかった。わたしだとて、ただこう書くだけで、理由は説明できない。椿の色の変化については、彼女がいちばんよく足を運んだ劇場の常連や、彼女の愛人たちも、わたしと同じように気がついていたのだった。
マルグリットが椿よりほかの花を持っているところを見かけたものは、だれ一人としていなかった。彼女は行きつけの花屋バルジョンのおかみさんの店で、しまいには「椿姫」というあだなをつけられ、それがそのまま彼女の別名になってしまったのである。
そのほか、パリのある社会に出入りしている人々なら、皆知っていることだが、わたしもマルグリットがとびきり粋《いき》な青年たちの情人になっていたことを知っていた。彼女のほうでも公然とそうだと言ってはばからなかったし、男たちのほうでもそれを得意になっていたところからみると、双方でお互いに満足していたにちがいない。
しかし三年ほど前、バニェールの旅からかえってからは、彼女はある外国の老|公爵《こうしゃく》としか交際していないという噂《うわさ》がたった。その公爵は莫大《ばくだい》な資産をもち、なるべく彼女を過去の生活から遠ざけようとつとめていた。また彼女のほうでも、かなり喜んで、世話されるままになっていたようだった。
このことについては、次のように聞いている。
一八四二年の春、身体が衰弱し、すっかりやつれ果ててしまったので、マルグリットは医者のすすめに従って、バニェールへ湯治《とうじ》にでかけた。ところが、この湯治客のなかに、この公爵の令嬢がいたのだった。令嬢は同じ病気であったばかりでなく、姉妹かと思われるほど瓜《うり》二つの顔だちをしていた。ただ、うら若い公爵令嬢のほうは肺結核の第三期だったので、マルグリットが着くと間もなく死んでしまったのだ。
自分の心の一部を葬った土地は、だれだって離れがたいものだ。公爵とても同じ気持ちで、バニェールに滞在していたが、ある朝、散歩道の曲がり角で、ふとマルグリットの姿を見かけたのだった。公爵はわが子の亡霊が通りすぎるのを見るような気がして、つと歩みよると、彼女の手をとって、涙ながらに抱きしめた。それから素性《すじょう》などきかずに、これからも会ってくれるように、そして彼女のうちにある亡《な》き娘に生き写しの面影を愛させてくれるように、ひたすら願った。
マルグリットはバニェールへは、小間使いを一人連れてきているだけだったし、それに別段、体面にかかわるようなおそれもなかったので、乞《こ》われるままに公爵の願いをうけいれた。
ところがバニェールには、彼女が何者だかを知っている連中がいたから、公式に公爵を訪ねて、マドモワゼル・ゴーチエの正体を告げて注意した。これは老人にとって大きな打撃だった。この事実は彼女が娘に生き写しだという感じを消し去ってしまったからである。だがもうすでに手おくれだった。この若い女性は、老人の心にはなくてはならぬより所、これから先、生きながらえて行くための、ただひとつの口実、言いわけとなってしまったのだった。公爵は何ひとつ彼女をとがめようとはしなかった。またそうする権利もなかった。しかし彼女に、今までの生活を変えられると思うかどうか、もしもそれを変えてくれさえすれば、その犠牲に対して、希望どおりのつぐないをしようと約束した。そこで彼女は承知し、約束した。
生れつき狂信的であるマルグリットが、そのころ病気だったということを、ここに断わっておかねばならない。過去の生活が病気の主要な原因のように思った彼女は、一種の迷信から、悔《く》いあらためて、教えに帰依《きえ》さえすれば、そのかわりに、神さまが美しさと健康とを授《さず》けておいてくださるだろうと思ったのだった。
事実、湯治や、散歩や、自然の疲れや、睡眠などのおかげで、夏も終わりのころには、その健康はほとんど回復していた。公爵はマルグリットを連れてパリへ帰った。そしてその後も、バニェールにいたときと同じように、相変わらず彼女に会いにきた。
こうした関係については、だれも本当の原因も動機も知らなかった。だがパリでは、大きな評判をひきおこした。巨万な資産をもつ金持として有名だった公爵が、今ではそのご乱行《らんぎょう》で、名を知られるようになったからだった。人々は、老公爵が若い女性にこんなふうに接近したことを、金のある老人にありがちな放蕩《ほうとう》だと見なした。つまり事実あったこと以外は、何もかも憶測《おくそく》していたのである。
しかしマルグリットに対する老公爵の父のような感情は、きわめて清純な動機から出ていたので、心と心とのふれあい以外の関係は、公爵にとってすべて不倫《ふりん》なものに思われたのであろう。そこで自分の娘に聞かせられないような言葉は、いっさい口にしなかった。
もとよりこの女主人公を、ありのままの姿とは別の姿に描こうなどと、わたしは少しも考えてもいない。そこで言っておきたいのだが、バニェールに滞在している間は、彼女だって公爵との約束をまもることは、さほどむずかしいことではないので、かたくそれをまもっていたのだ。ところが、いざ一度パリに帰ってくると、放蕩《ほうとう》な生活や、舞踏会や、≪らんちき≫騒ぎの酒の席にさえも慣れていたのであるから、公爵が日をきめて訪ねてきて、寂しさをまぎらしてくれるということだけでは、彼女は退屈で今にも死んでしまうような気がしたのであろう。そこで以前の生活の燃えるような息吹《いぶ》きが、またもや頭と胸のなかを同時に吹きすぎて行ったのだった。そのうえ、この旅行から帰ってきたマルグリットは、今までとは見ちがえるばかりに美しくなっていた。年は二十歳で、病気は潜伏していて、治りきっていなかった。したがって胸の病気にほとんどつきものの、あの熱狂的な欲情を絶えず彼女の心のなかにかきたてるのだった。
ある日、公爵は訪ねてきた友人たちから、公爵が通ってこないとはっきりわかっている時刻になると、彼女は幾人もの男を自宅に引きいれ、たびたび翌朝まで泊まらせているということを聞かされ、その証拠まで見せられて、ふかい悲しみにうち沈んだ。こうした連中というのは、絶えず若い女性に醜聞《しゅうぶん》があったら、あばいてやろうと、うかがっているような種類の人たちだった。この連中は公爵がこんな女と関係しては、きっとやがては身を破滅することになると言っていた。
問いつめられるままに、マルグリットは公爵にすべてを洗いざらい告白した。そして自分にはとても約束をまもる力はなさそうだし、それにだましている方《かた》から、これ以上長くめんどうを見ていただくのは心苦しいから、もう世話をするのはやめてほしい、と心の底から公爵に申しでた。それから一週間ほど公爵は姿を見せなかった。しかしそれ以上は辛抱《しんぼう》できなかった。八日目にマルグリットを訪れて、会ってくれさえすればどんなことにも目をつむるから、もとどおりつきあってくれるように頭をさげて頼んだ。そしてたとえ死んでも、決して咎《とが》めるようなことはしないと誓った。
これはマルグリットがパリに帰ってきてから三か月目、すなわち一八四二年の十一月か十二月のことだった。
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十六日の一時に、わたしはアンタン街に出かけた。
正門のところまでくると、競売人のわめき叫ぶ声がきこえた。
家のなかは、物見高い人でいっぱいだった。
粋《いき》な玄人《くろうと》で名の知られた女たちはみな来ていた。数人の貴婦人がそういう女たちをじろじろと抜け目なくぬすみ見ていた。この競売を口実に、こうした種類の女をもう一度間近で見ておこうという寸法なのである。この機会をのがしては、二度と会うこともあるまいし、また恐らくは、こうした気楽な享楽《きょうらく》にふけっている身分が、内心うらやましかったのかもしれない。
F公爵夫人は、近代的娼婦の最も浅はかな標本ともいうべきA嬢ととなりあっていた。T侯爵《こうしゃく》夫人が、ある家具を買おうかどうしようかと迷っていると、当時最もおしゃれで最も名の知られた品行の悪いD夫人が、その値をせりあげていた。Y公爵といえば、パリで破産しそうになるとマドリッドに逃げ、またマドリッドで破産しそうになるとパリに逃げるとうわさされ、その実、自分の歳入だけも使ってない人物だが、M夫人と話しこみながら、N夫人と何やら意味ありげな視線をかわしていた。
さて、このM夫人はなかなか機知に富んだ話じょうずで、ときどき自分の言ったことを文章にしたり、また書いたものに自分の名前を出したりしたがる夫人である。またN夫人というのは、いつもシャン・ゼリゼで見かける美人で、たいていばら色か空色の服を着て、たくましい二頭の黒馬にひかせた馬車を乗り回していた。この馬もトニーから一万フランで買ったもので、支払いもちゃんと済んでいるということだった。最後にR嬢だが、この女性は才能だけで、社交界の婦人たちが持参金を元手《もとで》でこしらえるものの二倍や、またほかの女性が色仕掛けでかせぐものの三倍くらいはお手の物だという女性だった。この日は寒さも物かは、何か買物をしようと駆けつけて来たので、人目をひくことでは、けっして人後に落ちなかった。
このほかにも、この客間に集まってきて、互いに顔を合わせて驚いている多くの人たちの頭文字なら、もっといくらでも挙《あ》げることができるが、読者も退屈だろうから止めておこう。
ただ次のことだけは言っておきたい。それはだれもかれも気が狂ったように陽気に騒いで、そのなかには生前故人と知りあいだった女性も大勢いるのに、彼女のことを思い出している様子がいっこうに見えなかったことである。
皆は笑い騒いでいた。競売人は声を限りにわめきたてていた。商人たちは、競売のテーブルの前にある腰掛けに割りこんですわっていた。そして落ちついて取引をするために、騒ぎをしずめにかかったが、さらにききめがなかった。これほど種々様々で、そうぞうしい人の集まりもなかった。
あの哀れな女性が報《むく》いをうけて死んだ部屋の近くで、借金を払うための家財道具の競売が行なわれているのかと思いながら、わたしは人の胸をしめつけるような騒ぎのなかに、つつましくそっと滑《すべ》りこんだ。何か買うためよりもむしろ見物しにやって来たわたしは、品物を売りたてさせている債権者たちの顔を見つめていた。すると彼らは、思いもかけない高い値段で、何か品物がひとつでも落札《らくさつ》されるたびに、相好《そうごう》をくずして喜んでいた。
この女性のいやしい稼業《かぎょう》につけこんで金を貸し、十割の高利をしぼり取っていた抜け目ない連中は、死ぬという間際《まぎわ》まで、証文を楯《たて》に彼女を責めたのだった。さてこんどは死ねば死んだで、その貸金の利息ばかりか、計算をごまかして、あまい汁を吸おうとしているのだ。ギリシア・ローマの人は、商人の守護神と泥棒の守護神を同じにしていた〔ギリシア神話のヘルメス、ローマ神話のマーキュリーのこと。盗賊・商人の守護神〕が、まったくなるほどと思う!
衣服、カシミヤの肩掛け、宝石など、またたくまに売れてしまった。そうした品はわたしに用はないから、そのまま待っていた。
すると突然、大声に叫ぶ声がした。
「書物一冊。製本とびきり上等。天金《てんきん》〔上方に金箔をつけて製本したもの〕。標題は『マノン・レスコー』。扉に何か書き入れがあります。十フラン」
「十二フラン」と、かなり長い沈黙があってから、だれかが叫んだ。
「十五フラン」とわたしは言った。なぜそんな値をつけたのか、自分でもわからない。きっと何か書き入れがあると言われたからであろう。
「十五フラン」と、競売人がくりかえした。
「三十フラン」と、最初にせり上げた男が、これ以上に値をつけられまいというような挑戦《ちょうせん》的な口調で言った。
そこで競争になった。
「三十五フラン」とわたしも同じ口調で叫んだ。
「四十フラン」
「五十フラン」
「六十フラン」
「百フラン」
一座の人々の注意をひくつもりでやったのだったら、わたしはどこから見ても大成功だったであろう。このせりあいのために、あたりはしんとしずまりかえってしまった。そして何としてもこの書物を手に入れようと心にきめているらしいこの男は、いったい何者であろうかと、一同はわたしの顔をじっと見つめたからである。
わたしの最後に言った言葉の調子に、相手もさすがに参ってしまったようであった。結局、値うちの十倍もの金をわたしに支払わせるだけでおしまいという、こんなつまらない競争から早く手を引くに越したことはないと思ったのである。相手は一礼して、少々おくれはしたが、しごく丁重《ていちょう》な物腰で言った。
「お譲りいたしましょう」
それ以上、だれももう叫び声をかけるものはいなかったので、書物はわたしの手に落ちた。
この上さらに意地を張るようなことをすると、自尊心は維持《いじ》できるかもしれないが、財布のほうの都合がわるいにきまっているので、自分の名前をつけさせ、書物をとって置いてもらうことにして、外に出てしまった。その場にいあわせた人々はきっと、十フランかせいぜい十五フランも出せば、どこででも手にはいるような本に、わたしがいったい何のつもりで百フランも出したのだろうと、さぞ不審に思い、首をかしげたことであろう。
一時間ほどしてから、わたしは買った本を取りにやった。
第一ページに、この本を贈った人の献辞《けんじ》が、ペンの上品な筆跡で書いてあった。それはただ次のような数語だった。
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マノンよりマルグリットへまいる、
あなたには頭がさがりました
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それにはアルマン・デュヴァルと署名してあった。
この、あなたには頭がさがりました、という言葉はいったいどんな意味であろうか? このアルマン・デュヴァル氏の考えでは、マルグリットのほうがマノンよりも放埒《ほうらつ》であるというのであろうか? それともまた愛情がさらに深いというのであろうか?
どうもあとの解釈のほうが真実に近いように思われた。はじめの解釈のほうはあまりにも遠慮がなく率直に言っているので、たとえマルグリットが自分でそう思っていたとしても、そのままを承知しそうもないからである。
わたしはそれからまた外出したので、夜になって床にはいるまで、本のことは、もう頭に浮かんでこなかった。
まことに『マノン・レスコー』は人の心を動かす物語である。わたしはこの物語のどんな些細《ささい》な部分までも知りつくしている。しかしそれでいて、この本を手にするたびに、いつも共感をおぼえて、ひきつけられるのだ。そしてページをめくれば、何度読みかえしても、作者アベ・プレヴォの女主人公とともに在る気がしてならないのだった。実際この女主人公は、まるでわたしが現実に知っていた女かと思われるほど、いかにも本当の人物らしいのである。それで今の場合、この女主人公とマルグリットとを比較してみると、この物語を読むことに思いがけない魅力がわいて来て、寛容の気持ちはさらに憐《あわ》れみの情を加え、やがては、わたしのものとなったこの本を残して亡くなったあの哀れな女性に対する恋に似た気持ちさえこみ上げてくるのだった。
なるほどマノンは砂漠のなかで命を絶ったが、自分を命の限り愛しつづけてくれた男の腕に抱かれて死んだのである。マノンが死んだ後には、男は墓穴を掘り、その亡骸《なきがら》に涙をそそぎ、そのうえ自分の心までもそこに埋めたのだった。それにひきかえ、マルグリットはマノンと同じく過《あやま》ちを犯した女で、おそらくマノンと同じように悔いあらためたであろう。それだというのに、わたしの見たところに誤りがないならば、贅沢《ぜいたく》で豪奢《ごうしゃ》な生活のうちに、過ぎた日をしのばせる寝台で、息をひきとったのである。しかもマノンが葬《ほうむ》られた砂漠よりも、はるかに荒れはてた、広々とした、血も涙もない心の砂漠のまんなかで死んだのである。
マルグリットの晩年の事情を知っている数人の友だちの話をきくと、彼女がゆるやかではあるが苦しい断末魔《だんまつま》がつづいた二か月のあいだ、だれ一人として、その枕辺《まくらべ》にすわって、心から慰めてくれる人はいなかったということだ。
マノンやマルグリットのことを思い浮かべているうちに、思い出されるのは、以前わたしが知っていた女たち、歌をうたいながら、ほとんどいつも変わらない死への旅路をたどっていった女たちのことだった。
哀れな女たちよ! 彼女たちを愛することがもし間違いだというなら、せめて憐れんでやるがいい。日の光を見たこともない盲《めくら》や、自然の歌声を聞いたこともない聾《つんぼ》や、魂の叫び声として出したこともなかった唖《おし》のことを、人々は不憫《ふびん》に思う。
ところが差恥心《しゅうちしん》という誤った口実のもとに、こういう心の盲や、魂の聾や、良心の唖のことは憐れんでやろうとはしないのだ。こうしたことのために、深く悲しんでいる薄幸《はっこう》な女は気が狂って、心ならずも、善を見ることも、神の御声《みこえ》を聞くことも、愛や信仰のけがれのない言葉を口にすることもできなくなってしまうのだ。
ユゴーは『マリオン・ド・ロルム』を書き、ミュッセは『ベルヌレット』を書き、アレクサンドル・デュマは『フェルナンド』を書いた。どんな時代でも、思想家や詩人は娼婦に、慈悲にあふれた供物《くもつ》をささげた。また時には偉人でさえも、その愛情や、その名声で、娼婦の汚名《おめい》をそそいでやったのである。
これほどまで、わたしがこの点について、しつこく言うのは、これからわたしの物語を読んでくださる人のなかには、この本はこれでは悪徳や売春の弁護ばかりしているのではないかと気づかい、おまけに作者が弱年ときては、おそらくさらにいっそう、懸念《けねん》の理由ともなって、もう途中で本を投げだそうとしている人もたくさんあろうかと思うからである。しかしそう思われている人は、ぜひ誤解をといていただきたい。もしそんな懸念だけで、読むことをやめていられるのなら、どうか先をつづけて読んでくださるようにお願いしたい。
わたしはただひたすらに次のようなことを信じている。教育によって善というものを教えられなかった女のために、神はこうした女をご自分のもとに連れもどす二つの道をほとんどいつも切りひらいておかれるものである。その道とは苦悩と恋である。二つながら歩きにくい道である。ひとたび踏みこめば、足は血にまみれ、手は傷つけられる。しかし、それと同時に、悪徳の衣装はこれを路傍《ろぼう》の茨《いばら》のなかに脱ぎすてて、神の御前にひれふしても恥ずかしくない裸身で、めざす目的の地に着くのである。
こういう思いきった人生の旅路をたどる女性たちに出会うならば、人々は彼女らに力を貸し与え、また彼女らに会ったことを皆に話してやらなければならない。一般の人々にこうしたことを知らせてやることが、結局は正しい道を教えることになるのだから。
人生の入口に、ただ二つの道しるべを立てて、一方には『善の道』、もう一方には『悪の道』としるして、姿を見せた者に、「どちらかを選べ」と言うだけではなんにもならない。やはりキリストがしたように、近くまで来て誘惑に負けた人々に、第二の道から第一の道へ連れもどす数々の道を教えてやらなければならない。しかも何よりも、その道の最初のところがあまり苦しかったり、また、とてもはいりにくいと思われるようであってはならない。
キリスト教は、放蕩《ほうとう》息子のたくみな寓話《ぐうわ》を使って、寛大と赦《ゆる》しを世の人に教えている。イエスは男の愛慾によって傷を負った魂に対して、愛に満ちあふれていた。そして喜んでその傷をいやすことのできる香油《こうゆ》をとりだして、手当てをしてやった。こうしてイエスは、罪の女マグタラのマリアに向かって、「なんじ多く赦さるべし。なんじ多く愛したればなり」と言った。崇高《すうこう》な赦しこそは、崇高な信仰を目ざめさせないではおかなかった。
なぜキリストよりも、われわれは厳格でなければならないのであろうか? 意志が強い人間と見られたいために、優《やさ》しみのない無情な人間となる人々が世間にいる。そうした世間なみの考えをあくまで守って、何度か血にまみれた傷口から、病人の悪い血のように、自分の過去の罪悪を吐きだしながら、傷口に包帯をし、心の痛手《いたで》をいやしてくれるような親切な手を待ちこがれている魂を、冷たく振りすてていい理由がどこにあろう?
わたしが呼び訴えるのは、わたしと同時代の人々に対してである。幸いにもヴォルテール氏の理論をもう認めない人々に、そしてまた、人類がここ十五年来、最も高く飛躍をしたことを、わたし同様に認めている人々に対してである。善悪を批判する科学は永久に確立されたのだ。信仰は再建され、神聖なものに対する敬意がわれわれの心によみがえったのだ。
また社会は根底からよくなったとはいえないまでも、少なくとも昔よりはよくなったのである。すべての知識人の努力は、同じ目的に向けられているし、すべての偉大な意志は、同じ原理に専念している。すなわち善良になろう、元気になろう、真実なものになろうというのである。
悪はむなしいものにすぎない。善なるものに誇《ほこ》りを持とう。何よりも絶望しないようにしよう。母でも、妹でも、娘でもなく、さりとて人妻でもない女を軽蔑《けいべつ》しないようにしよう。家庭に対しては尊敬の念を失わず、利己主義に対しては寛大な心を忘れないようにしよう。神は一度も罪を犯したことのない百人の正しい人よりも、ただ一人の罪人が悔い改めるのをいっそう喜びたもうものであるから、われわれは神をお喜ばせするようにしよう。そうすれば、神はわれわれに十分に報いたもうであろう。現世の情欲のために身を破滅させたものの、神にすがれば救われるような人々に対しては、われわれは道すがら、赦しという施《ほどこ》し物を与えてやろう。ちょうど親切な老婆《ろうば》が自家製の薬を人にすすめるとき、効《き》きめはないかもしれないが、害になることはないからというように。
もちろん、今わたしが取りあつかっているような小さな問題から、こんな大きな結果を引きだそうと望むのは、非常に大胆だと思われる。しかし、わたしは、あらゆるものは些細《ささい》の事柄のなかにあると信じて疑わないものの一人である。子供は小さいながらも、その中には大人が含まれている。頭脳は狭いが、思想を保護している。目はひとつの点にすぎないが、数里の間のものを見てとるのである。
[#改ページ]
二日後には、競売はすっかり終わっていた。売り上げは十五万フランだった。
債権者はその三分の二を、お互いのあいだで分配し、残りは遺族の妹とその男の子に渡されることになった。この妹は代理人から五万フランを相続した旨《むね》の通知をうけて、目をまるくして驚いた。
もう六、七年も彼女は姉に会っていなかった。姉はある日、だれにもわからないように家出してしまい、その後は当人からはむろんのこと、ほかのだれからも姉の消息を少しも聞いていなかったのである。
妹は取るものも取りあえず急いでパリに出てきた。マルグリットを知っている人々は、生まれてから一度も自分の村をはなれたことがないという、この太った美しい田舎《いなか》娘が、彼女のただ一人の遺産相続人だと知って、非常にびっくりした。
彼女はたちまち金持になった。しかしこんな思いがけない大金がいったいどこから出てきたのか、どうして自分のものになったかということさえわからなかった。その後聞くところによると、彼女は姉の死をひどく悲しんで田舎に帰ったが、預金すれば年四分五厘の利息がとれるのだから、その悲しみの埋め合せを十分つけたということである。
こうした事情はみな、醜聞《しゅうぶん》の母胎《ぼたい》のようなパリでは、つぎからつぎへと伝えられたが、やがてそれもいつしか忘れられ始め、この出来事にまんざら掛かりあいがないでもなかったわたしでさえも、ほとんど忘れていた。ところがそのとき、ひとつの新しい事件がおきて、わたしはマルグリットの生涯を知るようになり、人の心を動かすようなすべての事情がわかったのである。それでその物語を書いてみようという気になり、また現に今、こうしてそれを書いているのである。
三、四日前から、マルグリットの住居は、売られた家具もすっかりなくなって、空き家になり、貸家札がはられた。
ある朝のこと、わたしの家の呼び鈴を鳴らす人があった。召使いというよりも、むしろ召使いの役までしてくれていた門番が戸口の扉《とびら》をあけ、やがてこの人がお目にかかりたいと言っておりますと、一葉の名刺を取りついだ。名刺に目をやると、そこには次の二字がしるされてあった。
アルマン・デュヴァル
どこかで見た名前だなと考えていると、やがてあの『マノン・レスコー』の扉の書きこみを思いだした。あの本をマルグリットに贈った人物が、何の用があってわたしに会いたいというのであろうか? とにかく待っている方をすぐお通しするようにと言いつけた。
すると、はいって来たのは金髪で、背の高い、あお白い顔をした旅行服をきた青年だった。その服は数日前から着たままのようで、パリに着いてからまだ一度もブラシをかけなかったものと見えて、すっかり埃《ほこり》にまみれていた。デュヴァル氏はひどく興奮していたが、心の動揺をべつだん隠そうともせず、目に涙を浮かべ、声をふるわせながら言った。
「こんな身なりでお伺いしまして、申しわけがありません。それに、若い者同士なら、こんな失礼も許していただけると思ったからでもありません。実はどうしても、きょうお目にかかりたいと思いまして、ホテルへ寄る時間も惜しく、トランクだけ先に送り届けまして、こんな早い時間で、お目にかかれないのではないかと心配しながら、大急ぎで駆けつけた次第です」
わたしはデュヴァル氏に暖炉《だんろ》のそばにすわるようにすすめた。彼はすすめられるままに腰をおろすなり、ポケットからハンカチを取りだして、しばらく顔をかくしていた。
「何のことだかおわかりにならないでしょう」と、悲しげにため息をつきながら、彼はふたたび口を開いた。「見も知らぬ客が、こんな時間に、こんな身なりで飛びこんで来て、そのうえ、ごらんのとおり泣いたりして、おわかりにならないのは当然です。実は、ほかでもありませんが、折り入ってお願いにあがったのです」
「何なりとおっしゃってください。できますことなら何でもいたしましょう」
「あなたはマルグリット・ゴーチエの売立てにいらっしゃいましたね?」
この名前を口にすると、一時は抑《おさ》えていた感動が、またもやこみあげてきて、青年は両手を目のところにやらずにはいられなかった。
「あなたには、さぞ滑稽《こっけい》に見えることでしょうが」と彼は言葉をつづけた。「この点はどうぞお許しを願います。もしわたしの申しあげることを辛抱して聞いて下さるならば、そのご親切はけっして忘れはいたしません」
「さあどうぞ」とわたしは答えた。「もしわたしが何かお役に立つことができて、あなたの悲しみがいくらかでも軽くなるのでしたら、どうすればよいのか早くおっしゃってください。何なりとも喜んでお力添えいたしましょう」
デュヴァル氏の悲しみ悩んでいる様子は、同情させるものがあった。それでわたしも、つい釣りこまれて、何とか彼を喜ばしてやりたいと思った。
すると彼は言った。
「マルグリットの競売で、何かお求めになりましたか?」
「ええ、買いました。本を一冊」
「それは『マノン・レスコー』でしょうか?」
「そうです」
「本はまだお持ちですね?」
「寝室においてあります」
これを聞くと、アルマン・デュヴァルは、ほっと重荷をおろしたように見えた。それから、わたしがこの本を持っていたということが、もう彼のために骨を折ってやったことででもあるように、感謝するのだった。
そこで、わたしは立ちあがって寝室に行き、本を持って来て、手渡した。
「あっ、これです」と、扉《とびら》に書きこんである献辞《けんじ》をながめたり、ページをめくったりしながら言った。「たしかにこれです」
そして、ふた粒の大きな涙がページの上にはらはらと落ちた。
「時に」と、彼はわたしのほうに顔をあげながら、今まで泣いていたことも、また今にも泣きだしそうにしていることも、もう隠そうとはしないで言った。「この本をたいせつにお手もとにおいておかれるのでしょうか?」
「また、なぜそんなことを?」
「実は、この本を譲っていただきたくて参上したのです」
「ぶしつけなことをお伺いするようですが」と、わたしはたずねた。「では、あなたがこの本を、マルグリット・ゴーチエにお贈りになったのですね?」
「そうです、わたしなんです」
「では、これは差し上げましょう。どうかお持ちください。お返しできれば、わたしもうれしいのです」
「しかし」とデュヴァル氏は当惑して言った。「せめて、お払いになった代金ぐらいは差し上げなくてはなりません」
「まあ、どうか受けとってください。たかが本一冊の値段ぐらい、ああした競売では問題になりません。それに、いくら払ったか、もうおぼえてもいないのですから」
「あなたは百フランもお出しになったではありませんか」
「ああ、それはそうですが」と、今度はわたしのほうで当惑した。「どうしてそんなことをご存じなのです?」
「ほかでもありません。わたしはマルグリットの競売に間に合うように、パリに着きたかったのです。それがやっと今朝《けさ》着いたような始末です。あの女の持ち物のうちで、何かひとつ、ぜひどんなことがあっても手に入れたいと思っていたものですから、競売人のところへさっそく飛んで行って、売れた品とその買い手の名前を書いたリストを見せてもらったのです。そして、この本をあなたがお求めになったことを知りますと、譲っていただけないものか、ひとつお願いしてみようと決心したのです。何しろ、あなたにしても、何か思い出があればこそ、高い値段をつけて、この本をお求めになったのではないかと、実はとても心配だったのです」
こう言いながらも、アルマンの顔には、自分と同じように、このわたしもマルグリットを知っていたのではあるまいかという心配の色がありありと見えていた。 そこで、わたしは急いで、彼を安心させようとした。
「ゴーチエさんは、お見かけしただけで、心やすかったわけではありません」とわたしは言った。「あの人が亡くなったということを聞いたときのわたしの気持ちは、世間一般の若い男が道で見かけるたびに楽しんでいた美しい人が死んだときに感ずる、つまりあの気持ちでした。競売のときには、何か買いたいと思っていましたので、つい夢中になって、この本をせりあげてしまったのです。なぜあんなことをやったのか、今でもわからないのですが、何しろ、むきになって、わたしの鼻をあかしてやろうという人がいて、取れるものなら取って見ろといわぬばかりの剣幕《けんまく》だったので、その人を怒らせるのがおもしろかったのでしょう。それだけのことですから、くり返して申しあげますが、この本はあなたのご自由にしてください。改めて、どうかお納め願います。競売人から買ったように、あなたに買っていただくということは、わたしの本意ではありません。これをご縁《えん》に、末長くご懇意に願いたいと思っているのですから」
「なるほど、よくわかりました」と、アルマンは手を差しだして、わたしの手をしっかりと握りしめながら言った。「ありがたく頂戴します。このご恩は一生忘れません」
わたしはマルグリットのことを、アルマンにたずねてみたくてたまらなかった。本の献辞といい、青年の旅行といい、またこの本をこれほどまでにほしがっている様子といい、いずれもわたしの好奇心をそそったからである。しかし、うかつにそんなことをたずねると、彼に関係ある問題に立ち入る権利を得たいばかりに、本の代金を受けとらなかったのだろうと思われるおそれがあった。
すると、わたしの気持ちを察したとみえ、アルマンは次のように言った。
「本をお読みになりましたか?」
「ええ、全部読みました」
「書きこみの二行の文句を、どうお思いですか?」
「あなたがこの本を贈られたあのかわいそうな人は、あなたの目には世間なみの女とは、どこかちがって映っていたということが、すぐわかりました。あの文句は、単にありふれたお世辞《せじ》だとは思いたくなかったからです」
「そうです。おっしゃるとおりです。あの女は天使でした。まあこの手紙をごらんください」
そう言うと、彼はもう幾度も読みかえされたらしい一通の手紙を差しだした。ひらいてみると、次のようなことがしたためられてあった。
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おなつかしいアルマンさま、お手紙拝見いたしました。いつも変わらぬご親切なお言葉、身にしみてうれしく存じます。お察しのとおり、ただ今は病気で、とうていよくなる見込みはございません。でも今もなお、わたくしのことを心配していてくださるかと思えば、苦しみもたいそうやわらぎます。今しがた、いただきましたようなやさしいお手紙を書いてくださいましたお手を、もう一度にぎりしめることのできるうれしい日まで、たぶん生きながらえていることはできませんでしょう。でも、もし病気が何かの力でなおるものでしたら、それはお手紙のあのやさしいお言葉でしょう。
それにしても、もうお目にかかることもできません。もう死ぬのも間ぢかですし、あなたは幾千キロもはなれた遠いところにいらっしゃるのですもの。ああ、あなたの昔のマルグリットはすっかり変わってしまいました。こんな姿のマルグリットをごらんになりますよりは、いっそもうごらんにならないほうがよいかと存じます。あなたは、わたくしがあなたをお許しするかどうかおたずねですのね。ええ、よろこんでお許しいたします。あのとき、つれなくなさいましたのも、ひとえにわたくしをかわいいとお思いになってのことですもの。
このひと月というもの、床についたきりでございます。あなただけを信じて、お別れしました日から毎日、日記をつけておりますが、いよいよペンをとる力がなくなるまで書きつづけるつもりでおります。
アルマンさま、もしもわたくしのことを本当に思ってくださいますなら、パリへお帰りの節は、ジュリー・デュプラのところにおいでください。あの人がこの日記をお渡しするでしょう。あなたとの間に起きたことのわけも、その申しひらきも、みなこの日記の中に書いてございます。ジュリーはほんとに親切にしてくれます。二人で始終あなたのおうわさばかりしております。お手紙がつきましたときも、ジュリーがここにいまして、二人して読みながら泣きました。
あなたからのお便りがなくても、フランスにお着きになりましら、お手もとに差しあげるように、ジュリーに頼んでおきました。ごらんになっても感謝などなさらないでください。毎日こうして書きつづけていますと、一生のうちでいちばん幸福だったあのころのことが思い出されて、楽しい思いがいたします。ですから、もしこれをごらんになって、過ぎし日の申しひらきさえお目にとめてくだされば、それだけでもう、何も思い残すことはございません。
わたくしのことをいつも思い出していただけるような形見の品を残しておきたいと存じますが、うちにあるものはみな差し押えられておりまして、わたくしのものといっては何ひとつございません。
どうかお察しください。わたくしはきょうあすとも知れない命でございます。それなのに、ここの寝室からは、客間のなかをあちらこちらと歩きまわっている番人の足音が聞こえてまいります。債権者は何ひとつ持ち出せないように、また万一わたくしが死ななかった場合に、何ひとつ手もとに残らないようにと、あんな番人をつけておくのでございます。せめて死ぬまで、競売をのばしてくれればよいがと思っております。
ああ、人間てどうしてこんなに情け知らずなのでございましょう。いいえ、そう思うのは、わたくしの思いちがいですわ。神さまは、いつも正しくて、きびしいお裁《さば》きをなさるのです。
では、おなつかしいアルマンさま、競売の日にはどうかおいでください。そして何かお求めください。
こんなことを申しあげるのも、何かつまらぬ品を取っておいても、それが知れでもしますと、差し押えた品物を隠したといって、あなたにご迷惑がかからないとも限らないからでございます。
悲しい一生とも、やがてお別れです!
死ぬまでに、もう一度どうかしてお目にかかれるようにと神さまにお願いしておりますけれど! でも、これが永久のお別れでしょう。もっと書きたいのは山々ですが、これにてお許しください。お医者さまが、病気をなおしてくださるとおっしゃって血をお取りになりましたので、これ以上書こうとしましても、手に力がございません。
マルグリット・ゴーチエ
[#ここで字下げ終わり]
実際、最後のほうの字は、ほとんど読みとれないくらいだった。わたしは手紙をアルマンに返した。わたしが紙の上で読んでいたとき、彼は心の中でくり返し読んでいたにちがいなかった。彼は手紙を受けとると、
「これが囲《かこ》われている女の書いたものと思えるでしょうか!」と言ったアルマンは、数々の思い出に胸がつまってか、手紙の文字をじっと見つめていたが、やがてそれをくちびるに押しあてた。
「考えてみますと」と彼は言葉をつづけた。「あの女にもう一度会いたいと思いながら、それも果たさぬうちに死んでしまったのです。もう二度と会うことはできないのです。実の妹もおよばないくらい尽くしてくれたことを思うと、あんなふうにして死なせたことが悔《くや》まれてなりません。もう亡くなってしまったのです! ああ、あの女は死んだのです! わたしのことを思いながら、わたしに手紙を書き、わたしの名を口にしながら。ああ、かわいそうな、いとしいマルグリット!」
そしてアルマンは、いろいろの思いが胸にうかぶままに胸のうちを打ちあけ、あふれる涙をとめようともせずにわたしに手を差しだして、なおも話しつづけた。
「世間の人から見れば、あんな女が死んだからといってこんなに嘆き悲しんでいるわたしを、まるで子供のような男だと思うでしょうね。しかしそれは、わたしがあの女を苦しめたことをだれも知らないからです。そして、どんなにわたしがつれなくしたか、またどんなにあの女がすなおに諦《あきら》めていたか、だれも知らないからです。今まで、あの女を許してやるのは自分のほうだとばかり信じていましたが、きょうになってみると、このわたしこそ、あの女から許してもらうだけの値うちもない男だということに気がつきました。ああ、あの女の足もとにひざまずいて、せめて一時間泣くことができるなら、寿命《じゅみょう》がたとえ十年縮まってもかまいません」
見も知らない他人の悲しみを慰めるということは、どんな場合でもむずかしいことである。だが、わたしはこの青年に対して深い同情を寄せていたし、彼のほうもその悲しみを包みかくさず打ち明けてくれたので、自分の言葉だけでも何か力になると思って、次のように言った。
「あなたにはご両親やお友だちがおありでしょう。希望を持ってください。ご両親やお友だちにお会いになってごらんなさい。きっと慰めてくださいますよ。わたしには、ただお気の毒に思うことしかできないのですから」
「おっしゃるとおりです」と、彼は立ちあがって、部屋の中を大股《おおまた》に歩きながら言った。「退屈な話をお耳に入れて申しわけありません。わたしの悲しみはあなたには何の関係もないということに、ついうっかりしていました。またあなたに興味がないばかりか、興味をお持ちになるはずもない話を申しあげて、さぞかし、うるさいとお思いになったことにも気がつかずにいました」
「申しあげた言葉を、そんなふうにお取りになっては困ります。わたしはどこまでもあなたのお役にたちたいと思っているのです。ただ残念ながら、あなたの悲しみを慰めてあげたくても、自分の力が足りないのです。もし、わたしの仲間や友人の仲間で、お気持ちをまぎらせてあげることができるのでしたら、つまり何ごとによらず、わたしでお役に立つことがありましたら、いつでも遠慮なくそうおっしゃってください。喜んでお力になりますから」
「申しわけがありません、申しわけがありません」と彼は言った。「あまり悲しいので、頭がどうかしているのです。こんな大きな子供が泣いているところを、物見高い往来の人に見られてはたまりませんから、もうしばらく涙をふく間だけ、ここにいさせてください。本を頂戴《ちょうだい》して、どんなにうれしいかわかりません。何とお礼を申しあげていいやら」
「では、いくぶんでもお心安く願って」とわたしはアルマンに言った。「お悲しみの原因をお話しくだすってはいかがでしょう。悲しみを打ち明ければ、だれしも気分が晴れるものですから」
「ごもっともです。しかしきょうは、ただ泣きたい気持ちで胸がいっぱいで、取りとめもないお話しかできないと思います。いずれ日を改めてお話し申しあげましょう。そうすれば、あのかわいそうな女のことを、わたしがこんなに嘆《なげ》くのも無理はないとわかってくださいますことでしょう。そしてきょうのところは」と、彼は最後にもう一度涙をふいて、鏡に顔をうつして、「それほどばかだとお思いにならないようにお願いいたします。いずれそのうちに、またお目にかかりに参ります」
この青年のまなざしは善良で、優しかった。わたしはもう少しで抱きしめるところだった。
彼はまた、涙で目を曇《くも》らせかけたが、わたしに気づかれたとわかると、つと目をそらした。
「さあ、元気をお出しなさい」とわたしが言うと、
「では、さようなら」と彼は言った。
泣くまいと非常な努力をしながら、彼はわたしの家から出てゆくというよりは、むしろ逃げるようにして立ち去った。窓のカーテンをあげると、門のところに待たせてあった一頭だての二輪馬車に乗る姿が見えた。しかし馬車に乗るとすぐに、彼は泣きくずれて、ハンケチの中に顔を埋めてしまった。
[#改ページ]
アルマンの噂《うわさ》は、それからかなり長い間、耳にしなかったが、その埋め合わせのように、マルグリットのことがしばしば取り沙汰された。
読者でこんなことに気づかれた人があるかどうか知らない。だが今まで知らずに過ごしてきたとか、あるいは何のつながりもなかった人の名前をひとたび耳にしたのが縁《えん》で、その名前をめぐって、それからそれと細かな噂《うわさ》が少しずつ伝わってくるようになり、友人のだれかれの口から、以前聞いたこともないようなことを聞くようになるものである。そうなると、その人が今までかなり自分と接触していたことがわかってきたり、またこちらこそ気がつかなかったが、その人はたびたび自分の生活の中を通りすぎたことが思い当たる。そして人づてに聞くさまざまな出来事が、自分の身におきた出来事と、偶然に一致していたり、また実際によそごとでなかったことに気づくものである。
わたしとマルグリットとの関係が、まったくこのとおりであったというのではない。わたしはマルグリットを見たこともあり、途中で出会ったこともあるし、また彼女の顔も、その習慣も知っていたからである。そうはいうものの、あの競売から後は、彼女の名前も幾度か耳にしているし、また前の章で述べたような事情から、この名前には深い悲しみがまつわっていることを知ると、わたしの驚きはますます大きくなり、好奇心も次第につのるばかりであった。
そこで今までマルグリットの話などしたこともなかったような友人にさえ、顔をあわせれば必ずこう言うのであった。
「きみはマルグリット・ゴーチエという女を知っていたかい?」
「椿姫のことだろう?」
「そうさ」
「知ってるどころか!」
この「知ってるどころか」という言葉には、ときおり微笑がともなった。この微笑の意味は何ひとつ疑う余地がなかった。
「じゃ、どんな女だった?」とさらに、わたしはたずねた。
「気だてのいい女だったよ」
「それだけかい?」
「そうだね、まあ、ほかの女にくらべれば才気はあったし、それにたぶん、少しは情も深かったようだね」
「そのほかに何か特に知ってることはないかね?」
「G男爵《だんしゃく》は財産を棒にふってしまったし……」
「それだけかい?」
「ある老公爵の妾《めかけ》だったこともある……」
「ほんとに妾だったのかい?」
「そういう噂だよ。どっちにしろ、あの女に、うんと金をやっていたね」
だれにきいても、だいたいこんな調子である。
しかし、わたしが知りたいのは、マルグリットとアルマンとの関係であった。
ある日、浮名《うきな》で評判の高い女たちと、絶えず親しくつきあっている友だちの一人に出会ったので、このことをたずねてみた。
「マルグリット・ゴーチエを知ってたかい?」
例によって「知ってるどころか」という返事であった。
「どんな女だったい?」
「美人で気だてのいい女さ。死んだので、がっかりだよ」
「アルマン・デュヴァルという愛人があったっていうじゃないか?」
「背の高い、ブロンドの髪の男だろ?」
「そうだ」
「じゃ、それだよ」
「あのアルマンってのは、何者かね?」
「なんでも、わずかばかり持っていた財産を女といっしょに食いつぶして、あげくのはては、別れなくちゃならなくなったんだ。噂では、女に首ったけだったというがね」
「で、女のほうは?」
「これも人の噂だけど、女のほうでも惚れてたようだ。ああいう種類の女の惚れかただったのさ。ああいう女にそれ以上のことを要求するのは、要求するほうが無理だよ」
「アルマンはどうなったのかね?」
「知らないね。ぼくたちには、あの男のことはほとんどわからないんだ。なんでもマルグリットと五、六か月いっしょに暮らしていたという話だが、それも田舎のことでね。女がパリに帰って来たときには、男は別れて、行っちゃったんだ」
「で、その後は見かけないんだね?」
「一度もないね?」
わたしもその後、アルマンの姿を見かけなかった。それで先日来たときは、マルグリットの死を聞いた直後のことでもあり、むかしの恋を誇張して考えた結果、その悩みも大げさであったのかもしれないと思った。おそらく近くまた訪ねて来るという約束も、亡《な》くなった女のことといっしょに、すっかり忘れてしまったにちがいないと思った。
こうした当て推量も、ほかの人には当てはまるかもしれないが、アルマンの絶望には、いかにもつきつめた真剣な調子がこもっていた。そこで今度は、わたしの想像も極端から極端へとはしって、苦悩のあまり、病気になったのではあるまいか、その後便りのないのは病気のせいか、ひょっとすると死んでしまったのではないかとまで考えた。
考えまいとしても、わたしはこの青年のことが頭にこびりついて離れなかった。おそらく、この懸念《けねん》の中には、利己的な考えがはいっていたのであろう。また彼の悲しみの中に、人の心を打つような悲痛な物語がかくされていると思ったのだ。アルマンのこの沈黙を心配する気持ちの中には、結局わたしが、この物語をぜひとも知りたいという欲望があったのかもしれない。
デュヴァル氏が姿を見せないので、ついに、こちらから彼の家に行ってみようという気になった。口実をみつけるのは割にむずかしくもなかった。ところがあいにくと、その住所がわからなかった。きいてみても、だれも知らなかった。
わたしはアンタン街へでかけた。マルグリットの門番がアルマンの住所をたぶん知っているかもしれなかったからだ。ところが門番は変わって別の男がやっていて、やはり知っていなかった。そこでゴーチエ嬢《じょう》が葬られた墓地は、どこかときいてみた。するとモンマルトルの墓地とのことだった。
またも四月がめぐってきて、空も晴れわたっていた。数々の墓石も、冬のようにもうあんなうら悲しく、荒れはてた様子はしていまい。つまり生きている人たちが死んだものを思いだして、墓参にでも出かけようと思うくらいに、暖かくなっていたのだ。一度、マルグリットの墓に行ってみるだけで、アルマンが今でもなお悲嘆《ひたん》にくれているかどうかもわかるであろうし、またその後どうなったかという消息もたぶん知れるだろう、などと思いながら、わたしは墓地のほうに出かけて行った。
わたしは墓守《はかもり》の小屋にはいって、二月の二十二日に、マルグリット・ゴーチエという婦人がこのモンマルトルの墓地に葬《ほうむ》られはしなかったかとたずねた。
墓守は、この最後の安息所にはいっている人々の名前が、もれなくしるされ、それに番号がうってある大きな帳簿をくってみて、たしかに二月二十二日の正午に、そういう名前の婦人が葬られていると答えた。
わたしはその男に向かって、だれかその墓まで案内させるようにたのんだ。なにしろ、この死んだ人間の町にも生きている人間の町と同じように、道が幾つもあって、案内人がいなければ、どこがどこだかとうてい見当がつかないからである。墓守が一人の園丁《えんてい》を呼んで、必要な指示を与えると、相手はその言葉をしまいまで言わせずに、
「知ってます、知ってます……あの墓ならすぐわかりますよ」とわたしのほうを向きながら言った。
「なぜかね?」とわたしはたずねた。
「あの墓には、よその墓の花とちがった花があげてありますからね」
「では、その墓の世話《せわ》をしているというのだね?」
「へえ、さようで。どちらさまでも、あっしにあの墓の世話をお頼みになったお若い旦那《だんな》くらい、亡くなった方のお世話をなさりゃいいんですがね」
幾度か道を曲がってから、園丁は立ちどまって、わたしに言った。
「ここでございますよ」
なるほど正方形の花壇があった。名前を彫《ほ》りつけた白い大理石があるので、それとわかるが、もしこれがなければ、墓だと思う人はあるまい。
墓石の大理石はまっすぐに立っていた。鉄柵《てっさく》で買いとった墓地の周囲をかこってあって、その地所は、あたり一面、白椿で埋まっていた。
「いかがです?」と園丁が言った。
「とても、きれいだね」
「一輪でも椿がしおれたら、新しいのと取りかえろというお言いつけなんです」
「いったい誰だい。そんなことを言いつけたのは?」
「お若い方ですがね。初めて見えたときは、ずいぶんお泣きになってましたよ。おおかた、亡くなった方の昔なじみでしょうな。何しろ女のほうは玄人衆《くろうとしゅう》らしいですから。それに、とびきり美人だったという噂《うわさ》ですが、旦那さまもご存じですか」
「ああ」
「じゃあ、あの旦那ご同様に」と園丁はいたずらっぽい薄笑いを浮かべながら言った。
「いや、ぼくは口ひとつきいたことはないんだよ」
「それで、お墓まいりとは、旦那もずいぶん思いやりのあるお方ですね。美人もぴんぴん生きてたときは、大勢して会いにやって来たくせに、いったん死んでしまえば、お墓まいりにも来ねえなんて、かわいそうですよ」
「じゃ、だれも来ないんだね?」
「へえ、どなたも見えません。あの若い旦那がいっぺん見えただけで」
「たったいっぺんかね?」
「へえ、そうなんで、旦那」
「それっきり来ないんだね?」
「へえ、でもお帰りになれば、またお見えになりますよ」
「じゃ、旅行でもしているんだね?」
「へえ、そうでございます」
「じゃ、どこへ行ってるかも知っているんだな?」
「たぶん、ゴーチエさんの妹さんのところだと思いますが」
「どんな用事があるんだろう?」
「死体を掘りかえして、ほかの場所へ埋めようというんで、許可をもらいにお出掛けなさったんで」
「どうして、このままじゃいけないんだ?」
「旦那もご存じのとおり、亡くなった方に対して、皆さまがそれぞれお考えがありましてね。あっしどもは毎日それを見ておりますよ。この墓地は五年間しか買い切ってないんでして、あの若い旦那《だんな》は、もっと広い永代墓地がお望みなんです。何ていったって、そりゃ新墓地のほうがよござんすからね」
「新墓地というと?」
「左手の今売りに出ている新しい地所でございます。この墓だって、今のように始終手入れをしていたら、とてもりっぱになっていたんでしょうがね。けっこう見られるくらいにするまでには、まだ骨が折れますよ。それに、世間には奇妙な人たちがおりますからね」
「それは、どんな意味ですかね」
「いや、こんな所まで、いばる連中がいるということでさあ。何と申したらいいやら、このゴーチエさんは、水商売をやっていたとか。しかし今じゃ、お気の毒に、あの世のお人です。こうなれば、毎日あっしどもがお水をあげる、あの堅気《かたぎ》のご婦人がたと、ぜんぜん変わったとこはありませんやあ。
ところがですよ旦那、この近くにあるお墓にはいっているご親戚《しんせき》が、この娘さんの素姓《すじょう》は何だ、ここに葬っちゃならん、あんな女たちには、貧乏人なみに、離れた別の墓地があるじゃあないか、とお小言《こごと》でさあ。まったく、むちゃな話ですよ。ですからね、こんな奴らはひどい目にあわしてやるんですよ。しこたま収入があるくせに、年に四度もお参りにくればいいほうですね。お花はご持参とくるが、その花ときたら、まったく何といったらいいのか! 亡くなった人のために泣いてると言いながら、お墓の維持費のことばかり気にかけたり、涙なんか流したこともねえくせに、お墓には哀れっぽい文句を刻《きざ》ませたり、おまけに、近所のお墓には難癖《なんくせ》をつけたりするんでさあ。
ねえ、旦那、まあ、あっしの言うことを信じておくんなさい。あっしは、この娘さんと懇意《こんい》だったわけでもなく、どんなことをなすった人だか知らねえが、かわいそうな娘さんが好きなんでさあ。それでお墓のめんどうもみてあげれば、椿の花も手ごろなお値段で、あげてるようなわけですよ。ここに眠ってるお方は、あっしのいちばん好きな人です。旦那、あっしたちは、墓地に眠ってる人をかわいがるぐらいがせきのやまでさあ。何しろ、こう、めっぽう忙しくちゃ、ほかの者なんか、かわいがってる暇《ひま》なんかござんせんからね」
わたしはこの男をじっと見つめていた。この話を聞きながら、どんな感動をおぼえたかは、説明するまでもないことと思う。男もきっと、こちらの気持ちに感づいたらしく、なおも言葉をつづけた。
「世間の噂《うわさ》では、この娘さんのために財産をなくした人もあるし、惚れこんでいた男もたくさんいたってことですが、今じゃ花一本買って供えてやろうという人もいねえとはねえ。そんなことを思うと、とても不思議なような気がして、まったく気の毒ですねえ。それでも、この娘さんなんかまだ文句は言えねえほうですよ。何しろ、りっぱなお墓はあるし、思い出してくださるおかたは一人だけだといったって、ほかの人の分までめんどうを見てくださるんですからねえ。ここの共同墓地ときたら、同じ商売の、同じ年格好のかわいそうな女たちが埋められてるんですが、死骸《しがい》が墓穴の中に落ちる音を聞くと、まったく胸の裂《さ》ける思いがしますよ。そして死んだら最後、もうだれ一人、かまってくれる者なんかありゃしません!
あっしどもの渡世《とせい》も、これでちっとは人なみの人情があったら、あんまり、いい気持ちでもいられませんでねえ。旦那はどうなんで? とてもたまったもんじゃねえんです。あっしにも、二十《はたち》になる、たけの高い別嬪《べっぴん》の娘がいますがね、同じ年ごろの死人がかつぎこまれるたんびに、娘の身を思いますね。それが大家《たいけ》の奥さんだろうと、宿なし女だろうと、まったく人ごととは思えず、身につまされますよ。いや、こりゃあ勝手なおしゃべりばかりして、ご退屈さまでした。何も旦那はあっしの話を聞きにおいでになったわけじゃねえのにね。ゴーチエさんのお墓へご案内しろって言われたんでしたっけ。お墓はこれですが、ほかにご用はございませんか?」
「アルマン・デュヴァルさんのお宅を知っているかね?」とわたしはたずねた。
「へえ、存じております。○○街にお住まいです。ただ今のところ、このお花の代金はそちらに頂戴《ちょうだい》にあがっております」
「いや、ありがとう」
わたしは、最後にもう一度、この花で飾られた墓場を眺めた。すると思わず、そこに葬られている美しい女性が、今、どんな姿に変わりはてているか、土の底を探ってみたいような気持ちになった。そしてすっかり物悲しい気持ちになって、その場を立ち去った。
「旦那はデュヴァルさんにお会いになりたいんですか?」と園丁はわたしと並んで歩きながら、また口を開いた。
「ああ」
「きっと、まだお帰りになってませんよ。お帰りになれば、ここへもうおいでになるはずですからね」
「じゃあ、きみは、あの人がまだマルグリットのことを忘れてないと信じてるんだね?」
「信じてるどころじゃありませんよ。墓を移したいとおっしゃるのも、実はもう一度、娘さんの顔を見たいからだと、こう、あっしは見抜いたんですがね」
「それは、またどうして?」
「そりゃ、あの方は墓地へおいでになると、さっそくあっしをつかまえて、『もう一度顔を見るには、どうしたらいいだろうね?』とおっしゃるんでさあ。それには、お墓を移すよりほかに≪て≫はありませんやあ。そこで移転許可をもらう手続きをいっさい、あっしがお教えしたんですよ。ご承知でしょうが、死骸《しがい》をひとつの墓からほかの墓へ移すときには、警官立ち会いのもとに、死骸認知が必要なんです。その許可の権利をにぎってるのは遺族だけですよ。デュヴァルさんがゴーチエさんの妹さんのところへお出かけになったのは、つまり許可をもらいにいらしったんです。ですからお帰りになれば、すぐにもここへおいでのはずですがね」
わたしたちは墓地の入り口のところまで来た。わたしはあらためて園丁に礼を述べ、その手にいくらかの心づけを握らせると、教えられた住所のほうへ足をむけた。
アルマンはまだ帰っていなかった。わたしは、帰ったら、すぐ家まで来てくれるなり、どこかで会うなら、場所を知らせてくれるようにと、ひとこと言い残して来た。
翌日、朝のうち、デュヴァルから手紙を受けとった。それには、帰宅した通知と、どうか訪ねて来ていただきたいという旨《むね》が書いてあった。最後に、非常に疲れていて、外出ができない、と書きそえてあった。
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アルマンは床についていた。
彼は、わたしの顔を見ると、燃えるような熱い手をさしのべた。
「熱がありますね」とわたしは言った。
「何でもありません。急ぎの旅行だったので疲れているのです。ただそれだけのことです」
「マルグリットの妹さんのところへ行かれたのですね?」
「ええ、そうです。でもだれがそんなことを言いました?」
「知ってますとも。で、お望みのものは手にはいりましたか?」
「ええ、どうやら。でも旅行のことや、その目的のことなどを、だれがお話したのです?」
「墓地の園丁ですよ」
「墓を見にいらしたんですね?」
わたしは返事をしかねていた。というのは、この口調から察すると、彼は今でもやはりこの前のときみたいに興奮しやすい状態にあり、あの苦しい問題を自分で考えたり、人の言葉で思い出したりすると、必ずや長いこと感情がたかぶって、とても意思では押えきれなくなりそうだということがよくわかったからだった。
それで、わたしは、ただ軽くうなずいて見せるだけにとどめた。
「墓の手入れはよくしてあったでしょうか?」とアルマンはつづけて言った。
大粒の涙が二滴、病人の頬をつたわって流れた。彼は涙を見られまいとして、顔をそむけた。わたしも見ないふりをして、話題を変えようとつとめた。
「ご出発になってから、もう三週間になりますね」とわたしは言った。
アルマンは手で目をこすりながら、答えた。
「ちょうど三週間です」
「長いご旅行でしたね」
「いや、ずっと旅行ばかりしていたわけじゃありません。二週間ほどは病気でした。そうでなければ、もっと早く帰れたんですが。何しろ、先方へ着いたとたんに、熱を出しちゃって、ずっと部屋に閉じこもっていなければならなかったものですから」
「では、すっかりご回復しないうちに、先方をお立ちになったのですね」
「あんなところに、このうえ一週間もいたら、死んでしまいますよ」
「しかし、こうしてお帰りになったのですから、大事になさらなくてはいけませんよ。お友だちもお見舞いに見えるでしょうし、お差しつかえなければ、わたしも喜んで伺いますよ」
「もう二時間もすれば、起きます」
「そんなむちゃな!」
「そうしなくてはならないのです」
「また何で、そんなにお急ぎになるのです」
「警察へ行かなくてはならないので」
「だれか代理をお頼みになればいいでしょう。さもないと、また身体にさわりますよ」
「いいえ、こうするよりほかには、わたしの病気は回復しません。あの女に会わなければならないのです。あの女が亡くなったと聞いてから、ことにあの女の墓を見てからというもの、一睡もできないのです。別れたときは、あんなに若くて、美しかったあの女が、もうこの世にいないなどとは、どうしても思えないのです。本当かどうか、この目でちゃんと確かめてみなくては気がすみません。あんなに愛していた女を、神さまがどんな姿に変えておしまいになったか、はっきりと見とどけなくてはなりません。そしてあさましく変わりはてた姿を見れば、たえがたいこの悲しい思い出もどうやら消えてなくなるかもしれません。あなたもごいっしょに行ってくださいませんか?……もし、たいしてご迷惑でなければ」
「あの妹さんは何と言ってましたか?」
「別に何とも。見ず知らずの他人が、墓地を買って、マルグリットの墓をつくりたいと言い出したので、たいそう驚いていたようでした。しかし、わたしの頼みをきいて、すぐに許可証に署名してくれました」
「いかがです、墓を移すのは、すっかり回復なさってからにしては?」
「いや、なおりますよ。ご安心ください。何しろ、できるだけ早くこの決心でやってしまわないと、気が狂いそうなのです。わたしの悩みをいやすには、ぜひそうすることが必要なのです。実のところ、マルグリットをひと目見ないことには、気持ちも落ちつきません。たぶんこれは、わたしの身をやきつくそうという熱のためのかわきかもしれませんね。眠れないままに見た夢かもしれません。妄想《もうそう》のはてに、こうなったのかもしれません。しかし、たとえ見とどけたうえで、ド・ランセ〔十七世紀のフランスの名僧〕のように、トラピストの修道士とならなくてはならぬとしても、わたしは見るだけは見るつもりです」
「わかりますよ」とわたしはアルマンに言った。「ご希望どおりにしましょう。ところで、ジュリー・デュプラにお会いになったのですか?」
「ええ、帰って来た、その日に会いました」
「マルグリットがあなたに残しておいたという書いたものを、お受け取りになったのですか?」
「これがそれです」
アルマンは枕の下から、紙の巻いたものを取り出したが、またすぐもとの場所にしまった。
「この中に書いてあることは、そらで覚えています」と彼は言った。「この三週間、日に十ぺんもくりかえし読んでいるのです。いずれあなたにも読んでいただくつもりでおりますが、しかしそれはもっと後になって、わたしの気持ちも落ちつき、この告白が真心と愛情を打ち明けたものであるということをご説明できるようになってからにいたしましょう。時に、ひとつお願いがあるのですが」
「何ですか?」
「下に馬車を待たせていらっしゃいますか?」
「ええ」
「それでは、わたしの旅券を持って、郵便局へ行かれて、わたしあての局留郵便が来ているかどうか、きいて来てくださいませんか? 父と妹から、パリのわたしあてに手紙が来ているはずなのです。なにぶん大急ぎで出発したものですから、立つ前には問いあわせる暇がなかったのです。あなたがお帰りになったら、ごいっしょに、あすの改葬式《かいそうしき》の届けを出しに警察に参りましょう」
アルマンはわたしに旅券を渡した。そこでわたしはジャン・ジャック・ルソー街へ出かけて行った。
デュヴァルの名あてで、二通の手紙が来ていたので、わたしはそれを受け取って帰って来た。帰ってみると、アルマンはいつ出かけてもいいように、すっかり身支度をととのえていた。
「ありがとう」と彼は手紙を受け取りながら言った。「やっぱりそうでした」と、上書きを眺めて、こう付けくわえた。「やっぱり父と妹からでした。何も言ってやらないので、どうしたかと心配したことでしょう」
彼は手紙を開くと、読むというより、意味だけを拾った。それは、この手紙がどちらも四ページもあるというのに、一瞬の後には、折りたたんでしまったからである。
「出かけましょう」と彼は言った。「返事はあすにします」
わたしたちは警察に行った。そしてアルマンはマルグリットの妹の委任状を差しだした。
警官は、それと引きかえに、墓地管理人あての通知書をくれた。そこで、改葬は明日午前十時に行なうこと、それより一時間前に、わたしは彼を迎えに行き、いっしょに墓地に出かけること、などを打ちあわせた。
わたしもまた、そうした場面に立ち会うことに興味をそそられて、白状すると、その夜はまんじりともしなかった。このわたしでさえ、さまざまな思いになやまされたのだから、アルマンにとっては、さぞや長い一夜だったにちがいない。
翌《あく》る朝、九時にわたしが訪ねたときには、彼はぞっとするほど青い顔をしていたが、見たところ落ちついた様子をしていた。
彼はわたしにほほえみかけて、手を差しのばした。
ろうそくはすっかり燃えつきていた。アルマンは出がけに父あての厚ぼったい手紙を取りあげた。それは、おそらく昨夜の感慨を書きしたためたものにちがいなかった。
それから三十分ほどして、わたしたちはモンマルトルに着いた。
警官は、すでにわたしたちを待っていた。皆はゆっくりした足どりで、マルグリットの墓のほうへ歩いて行った。警官が先に立ち、アルマンとわたしは数歩おくれて、あとにつづいた。ときどき、わたしは連れの腕が痙攣《けいれん》的にふるえるのを感じた。ちょうど彼の全身を悪寒《おかん》が走るかのようだった。それでわたしは彼の顔をじっと見つめた。すると彼のほうでわたしの視線の意味がわかったとみえ、ほほえみを浮かべた。だが、わたしたちは彼の家を出てから、まだひとことも言葉をかわさなかった。
墓の少し手前で、アルマンは立ちどまって、顔一面に流れる大粒の汗をふいた。
その間に、わたしも大きな息をついた。わたし自身も、心臓が締《し》め木にでもかけられたように苦しかったからだった。こうした種類の光景に接して、人間が感じるあの苦痛のような喜びは、いったいどこから来るのであろう! 墓地に着いたときには、園丁はもう花の鉢《はち》をすっかり片づけてしまい、鉄柵《てっさく》も取りはらわれて、二人の男が土を掘りかえしていた。
アルマンは立木《たちき》にもたれて、眺めていた。彼の全生命は、その両眼にそそぎこまれているように思われた。
突然、ふたつの鶴嘴《つるはし》のひとつが、かちっと石にあたった。この音に、アルマンは電気にでも打たれたように後ずさりして、痛いほど力強くわたしの手を握りしめた。
墓掘り人夫は大きなスコップをとって、少しずつ穴をひろげていった。そして棺《かん》をおおっている石ころばかりになると、ひとつひとつそれを外にほうり出した。
わたしはアルマンの様子をじっと見まもっていた。わたしは彼がわきから見ていて、それとわかるほど、明らかに懸命《けんめい》になってそのたかぶる気持ちをおさえているので、今にも参ってしまいはせぬかと、各瞬間ごとにはらはらしていたからだった。しかし彼は絶えず瞳《ひとみ》をこらしていた。両眼はまるで狂人のようにじっと見すえられ、見開かれていた。ただ頬《ほお》とくちびるのかすかな震えが、激しい神経の発作《ほっさ》におそわれていることを証明していた。
わたしのほうは、こんなところへ来るのではなかったということで頭がいっぱいだった。棺がすっかり掘りだされると、警官は墓掘り人夫に言った。
「開けろ」
人夫たちは命令されるままに、世の中でこれほど簡単なことはないと、これに従った。
棺は樫材《かしざい》でできていた。人夫たちは蓋《ふた》になっていた上の板の釘《くぎ》を抜きはじめた。ところが釘は湿気ですっかりさびついていたので、棺を開けるのは骨が折れた。中には、いい匂いを放つ植物が詰まっているのに、いやな臭気《しゅうき》がつんと鼻をついた。
「おお! ああ!」とアルマンはつぶやいた。その顔色はいっそう青ざめていた。
墓掘り人夫でさえも、後ずさりした。
大きな白い経帷子《きょうかたびら》が死体をおおい、ところどころ身体の曲線を描きだしていた。この経帷子は片すみの一方がすっかり腐《くさ》って、死人の片足がのぞいていた。
今にも、わたしは胸がむかつきそうになった。今こうして書いているときでさえ、あの光景の思い出が、重々しい現実となって、目の前に浮かんでくるのだった。
「さあ、急ごう」と警官が言った。
すると、二人の男の一方が手をのばして、経帷子の縫い目をほどきにかかった。片端《かたはし》をつかんで、それを取ると、いきなりマルグリットの顔があらわれた。
それは見るも恐ろしく、語るもすさまじい光景だった。両眼は、もうふたつの穴でしかなかった。くちびるは跡形《あとかた》もなくなり、白い上下の歯はかたく食いしばっていた。ひからびた長い黒髪は、こめかみにぴったり付き、両頬の緑色のくぼみをわずかにおおい隠していた。しかしわたくしはこの顔の中にも、かつてたびたび見たことのある、あの色白で、ばら色の、楽しげな面影《おもかげ》を認めたのだった。
アルマンは、その顔から目をそらすこともできずに、ハンカチを口に当て、それをかみしめていた。
わたしも鉄の輪で頭を締めつけられ、ヴェールで目をおおわれ、耳の中では激しい耳鳴りがするような気がした。そして、万一のときにと持って来た瓶《びん》をあけて、なかの気付け薬を強く吸いこんだが、それすらやっとの思いだった。
こうした、めまいを覚えている中で、警官がアルマンに言う声が聞こえた。
「間違いありませんね?」
「ええ」と青年はかすかに答えた。
「では蓋《ふた》をして、運べ」と警官が言った。
墓掘り人夫たちは死体の顔に、経帷子《きょうかたびら》をもとどおりに投げかけて、棺を閉じてしまうと、めいめい片端をかついで、指定された場所へ運んで行った。
アルマンは身動きもしなかった。目はからっぽになった墓穴に釘づけにされていた。顔は、今しがた見た死体のように青ざめていた……。まるで化石になってしまったようだった。
あの光景が眼前から消えさって、苦痛もしずまり、従って、もう彼の緊張を支えるものもなくなると、いったいどんなことになるか、わたしにはよくわかっていた。そこで、わたしは警官に近づいて行った。
「この人の立ち会いが、まだ必要でしょうか?」とアルマンを指さしながら言った。
「いやあ」と警官は答えた。「それどころかお連れ帰りになってはいかがです。ご病気のようですからな」
「さあ、行きましょう」とわたしはアルマンの腕をとって言った。
「何ですか?」と彼は、わたしの顔さえも見わけがつかないように、見つめながら言った。
「すみましたよ」とわたしはつづけて言った。「さあ、きみ、帰らなくちゃいけません。顔色がまっさおです。寒いんでしょう。そんなに興奮しては、命にかかわりますよ」
「そうですね。帰りましょう」と彼は機械的に答えた。しかし一歩も歩こうとはしなかった。
そこでわたしは腕をつかんで、引きずるようにして行った。彼は子供のように引っぱられるままになっていたが、ただ時々つぶやいた。
「あの目をごらんになりましたか?」
そして、その幻影《げんえい》が彼を呼びかえしているかのように、うしろを振りかえるのだった。
そのうちに彼の足どりが急に乱れて来た。身体をゆすぶるようにしなければ、もうこれ以上歩けない様子だった。歯ががちがち音をたて、両手が冷たくなり、激しい神経の興奮が全身をとらえていた。
話しかけても、返事もしなかった。わたしに連れられて行くのが精いっぱいであった。
門のところまで来ると、馬車が客を待っていた。ちょうどいいところだった。
腰かけるとすぐに、ふるえはますますひどくなり、神経の発作が本物になってきた。そうした中でも、わたしを心配させまいとして、手を握りしめながら、つぶやいた。
「何でもありません、何でもありません。ただ泣きたいんです」
わたしは、彼の胸があえいでいるのを聞いた。目は血走っていたが、涙は浮かんでいなかった。わたしは、さっき使ったあの瓶《びん》を彼にかがせたが、家に着いても、悪寒《おかん》だけはまだつづいていた。
召使いに手つだわせて、彼を横にならせ、部屋にどんどん火をたかせた。それからわたしのかかりつけの医者のもとにかけつけて、今しがた起こった委細《いさい》を語った。医者はすぐやって来た。
アルマンの顔は紫がかった紅《あか》い色で、精神|錯乱《さくらん》を起こしていた。そして、とりとめない言葉を口走っていたが、その中でもマルグリットという名前だけは、はっきりと聞きとれた。
「いかがでしょう」と、診察が終わると、わたしは医者にたずねた。
「そうですな。これはまさしく脳炎《のうえん》です。がしかし、かえって幸いでしたよ。なぜかと言いますと、こう申してはなんですが、ご病人はすんでのことで発狂なさるところでした。ちょうど都合よく、この肉体の病気が精神の病気を退治してくれることになるでしょう。一か月もすれば、おそらくどちらの病気もよくなりますよ」
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アルマンがかかったような病気は、すぐ死んでしまうか、さもなければ、たちどころに治るという小気味《こきみ》のいい病気だった。
前に述べたような出来事があってから十五日もすると、アルマンはすっかり回復期にはいっていた。そしてわたしたちも互いにきわめて親密な友情でむすばれた。彼の病気中は、ほとんどわたしはその部屋を離れなかったのである。
春は、花と葉と、小鳥と歌とを、一面にまきちらしていた。病室の窓は、庭園に向かって大きく晴れやかに開けはなたれていたので、庭のさわやかな香気《こうき》が彼の枕べまで立ちのぼってきた。
医者からもう起きあがってもいいという許可が出たので、日射《ひざ》しのいちばん暖かな正午から二時までの間、わたしたちはたびたび、開けはなした窓べに陣《じん》どって、何かと語りあった。
わたしはマルグリットのことは話すまいと、つとめてひかえていた。この名前を口にして、病人のうわべは平静であるが、その裏に眠っている悲しい思い出を呼び起こしてはならないと、絶えず心配していたからだった。ところが案に相違して、アルマンは彼女の話をするのが楽しみのように見えた。それも以前のように目に涙を浮かべながらではなく、やさしい微笑をたたえながら語るので、彼の気持ちが落ちついてきたことがわかって、わたしもほっと、ひとまず胸をなでおろした。
彼が最後に墓地を訪れて以来、すなわちこの激しい発作をひき起こしたあの光景に接して以来、彼の精神的苦痛は、病気のために薄らいだようであって、マルグリットの死も、どうやら以前ほどには目にちらつかないらしかった。彼女の死亡を現実にたしかめて、かえって一種の慰めをおぼえたのだろう。そして、ともすれば眼前に浮かぶ陰うつな幻影を追いはらうために、マルグリットとの仲の楽しい思い出にひたり、それ以外のことはもう考えまいとするように見えた。
病魔におかされた肉体は疲れはて、そのうえ高い熱がやっと引いたばかりだったので、彼の精神は激しい感動にたえられる状態にはなっていなかった。
だがアルマンの周囲に満ちあふれた春の喜びは、彼の思いを、おのずと晴れやかな面影のほうへと持って行くのだった。
彼は自分が重態だったことを家族に知らせるのを、相変わらず頑強に拒《こば》んでいた。命拾いをした今日でも、父親はまだ彼の病気のことは知らないのだった。
ある夕方のこと、わたしたちは、いつもよりおそくまで窓べに腰をおろしていた。すばらしい天気で、太陽は紺青《こんじょう》と金色にかがやく薄明りの中に沈んでいた。パリの中にいながら、あたりを取り巻いている緑のために、わたしたちだけがこの世から孤立しているような気がした。時おり聞こえる馬車の音が、わずかに二人の会話をみだすだけだった。
「ちょうどこんな時候の、こんな夕暮れでした。わたしがマルグリットを知ったのは……」と、アルマンはわたしの言葉よりも、自分自身の物思いに耳をかたむけながら言うのだった。
わたしは何も答えなかった。
すると、彼はわたしのほうを向いて、言った。
「とにかく、この話を聞いていただかなければなりません。そして本に書いて下さい。だれも本当にあったこととは思わないかもしれませんが、お書きになる分には、おそらくおもしろい話だと思うのです」
「お話はまた後ほどうかがいましょう」とわたしは言った。「まだすっかりよくなっていらっしゃらないのですから」
「今晩は暖かいし、それに好物の若鶏《わかどり》の白肉《しろみ》をたべましたから」そう言いながら、彼は微笑を浮べて、「今まであった熱もありません。こうやっていても、することもありませんから、何もかお話することにしましょう」
「ぜひにとおっしゃるなら、うかがいましょうか」
「きわめて単純な話なのです」と彼は付け加えた。「出来事の順を追ってお話しましょう。もしあとで、なんとかお書きになるようでしたら、どうご変更になりましょうと、かまいません」
さて、これからが彼の話になるのだが、この心を動かすような物語に対しては、わたしはほとんど筆を加えなかった。
「そうです」とアルマンは安楽椅子《あんらくいす》の背に頭をもたせかけながら、言葉をつづけた。「そうです。ちょうどこんな晩でした! わたしは昼間、友人のガストン・Rといっしょに、郊外で過ごしました。夕方にパリに帰ったものの、さて、これといってすることもないので、わたしたちはヴァリエテ座にはいったのです」
幕間《まくあい》に外へ出ますと、廊下で、背のすらりとした女性とすれちがいました。すると、友人はその女性にあいさつしました。
「今あいさつしたのはだれだい?」とわたしはたずねました。
「マルグリット・ゴーチエさ」というのです。
「何だかまるっきり変わってしまったようだね。見ちがえてしまったよ」と、わたしは、ある感慨をこめて言いました。それがどんな感慨であるかは、すぐおわかりになるでしょう。
「病気だったんだよ。かわいそうに、長くはもつまいね」
そう言った友人の言葉は、まるできのう聞いたように思い出されます。
さて、まずここで知っておいていただかなければならないのは、二年前、わたしはこの女性を見てからというもの、途中で出会うと、不思議な感銘を覚えていたのでした。
なぜだか自分にもわからないのですが、顔色が青くなり、心臓が激しく動悸《どうき》をうつのでした。友人の一人に占《うらな》いにこっている男がいまして、その男に言わせれば、わたしのこうした感動は、まあ相性《あいしょう》とでもいうようなものかもわかりません。しかしわたしとしては、ただ単純に、自分はマルグリットと恋におちいる運命になっていたので、その予感があったのだと思っているのです。
彼女に出会いますと、わたしはいつも事実、感動させられました。そこで幾人かの友人はそれをそばで見ていて、わたしが感動を覚える相手がどういう女性であるかを知っているものですから大笑いしていました。
はじめて彼女を見かけたのは、株式取引所《ブルフ》の広場の、シェッスという店の入り口でした。幌《ほろ》のない四輪馬車がそこにとまると、中から白い服をつけた女性がおりてきました。その女性が店にはいって行くと、感嘆のささやき声が彼女を迎えました。わたしのほうは、彼女が店にはいったときから、出てくるときまで、その場に釘《くぎ》づけにされていたのでした。窓ガラスごしに、店の中で買物を選《え》っている彼女の姿を、じっと眺めていたのでした。店の中にはいればはいれたのですが、わたしにはそれだけの勇気はありませんでした。第一、その女性が何者であるかもわからなかったし、店にはいって行く理由を彼女に見抜かれはしまいか、そのために機嫌を悪くさせるのではないかと恐れたのです。それにしても、この女性に二度、会うことになろうとは、夢にも思いませんでした。
彼女は気が利《き》いた身なりをしていました。裾《すそ》全体に飾りのついたモスリンの衣服をまとい、隅々《すみずみ》に金糸の刺繍と絹の花飾りをつけたインド織りの四角な肩掛けをし、イタリア製の麦藁《むぎわら》帽子をかぶり、当時はやり始めていた太い金鎖の腕輪をひとつはめていました。
彼女はふたたび馬車に乗ると、行ってしまいました。
店の小僧が一人、入り口にたたずんで、この粋《いき》な女客の馬車を見送っていました。わたしはそばに近寄って、今の女性の名前を教えてくれるように頼みました。
「マルグリット・ゴーチエさんです」と彼は答えました。
さすがに住まいまで聞くわけにもいかず、わたしはその場を立ち去りました。
これは実際に見た幻《まぼろし》だったのですが、この幻のような思い出は、かつて見たいろいろな幻と同じように、わたしの心からは消えませんでした。そしてわたしは、この高貴な美しさをたたえた白衣の女性を求めて、いたる所をさがしました。
それから数日後、オペラ・コミック座に大物の芝居がかかりましたので、わたしも行ってみました。ところが前|桟敷《さじき》へ目を向けると、いちばん初めにわたしの目に映ったのが、このマルグリット・ゴーチエだったのでした。わたしといっしょにいた青年も、彼女の姿を見つけたものとみえ、彼女の名前を口にしながら、こう言いました。
「見たまえ、あの美人を」
そのとき、マルグリットは観劇眼鏡《ロルニエット》でわたしたちのほうを見ていましたが、にっこりと笑って、こちらへ来ないかという合図をしました。
「ちょっとあいさつしてくるから」と彼はわたしに言いました。「すぐ帰ってくるよ」
「きみは幸福だなあ!」とわたしは思わずこう言わずにはいられませんでした。
「なにが?」
「あんな女性に会いに行けるなんて」
「なんだ、きみはあの女に気があるのかい?」
「いや」とわたしは顔を赤らめながら言いました。実際、この女性が好きかという点については、どう考えていいかわからなかったのです。「しかし、近づきになりたいような気はしてるんだが」
「じゃあ、いっしょに来たまえ。紹介するよ」
「でも、その前に、差しつかえないかどうか聞いてくれたまえ」
「何を言うんだ。あんな女に遠慮は無用さ。さあ、来たまえ」
この言葉に、わたしの心は暗くなりました。これほどまでに思いつめているマルグリットという女性が、その値うちのない女性だと、はっきりわかってきそうで、こわくなったのでした。
アルフォンス・カールの『喫煙しつつ』という本の中に、こんな話があります。
ある夕方、一人の男がとてもきれいな女性のあとをつけて行ったのです。男がひと目見ただけで惚れこんでしまったほどの美人だったのです。男はその女性の手に接吻するためには、どんなことでも企《くわだ》てる力、どんなことでも征服する意思、どんなことでもやりとげる勇気が、自分にあるような気がしました。
そのくせ、この男には、裾《すそ》をあげて、服が地面にふれてよごれないようにしているその女性の、魅惑《みわく》的な美しい脛《はぎ》さえ、まともに見る勇気がありませんでした。何とか自分のものにしたいものだ、それにはどうしたらいいか、いろいろと思案していると、その女性は街角で男を呼びとめ、寄っていかないかと言葉をかけるのでした。さて、そうなると男は顔をそむけ、道を横切るとすっかりうら悲しくなって、自分の家に帰って行きました。
わたしはこの話を思い出したのでした。何しろ、わたしはマルグリットのためなら、どんな苦労もいとわないつもりでしたから、彼女があまりにも無造作に自分の言うことをきき、長い間の辛抱《しんぼう》と大きな犠牲とで報いようと考えていた恋を、手早くかなえてくれるのではないかと、わたしにはそれが気がかりだったのでした。われわれ男性というものは、皆こうしたものです。完全無欠な神のような男性は別ですが。
想像がこういう詩を感覚に残しておいてくれればこそ、そしてまた肉体の欲望が魂の夢に対して、こういうふうに譲歩してくれればこそ、とても幸福なのです。
つまり『おまえはこの女を今夜自分のものにすることができる。しかしその代わり、あすは殺されるんだぞ』と言われてもわたしは承知するだろうと思います。しかし『十ルイ渡してごらん。そうすれば、あの女を自由にすることができるよ』と言われたら、わたしはきっぱりと断わり、夜中に夢でみた城が、目がさめてみたら消えてしまったので、泣いているあの子供のように、泣くことでしょう。
そうはいうものの、わたしは彼女と近づきになりたいと思いました。それは、どうやったら彼女を恋しているかどうかがわかるひとつの、たったひとつの手段なのでした。
そこでわたしは、友人にぜひとも紹介の許可をもらって来てほしいと言いました。そして廊下をぶらつきながら、今にあの女性と会えるのだ、顔を合わせたら、いったいわたしはどんな態度をとるだろうか、などと考えていました。
わたしは、これから彼女に言う言葉を、前もってまとめておこうと、つとめました。
恋というものは、まあなんと崇高《すうこう》な、子供らしいものでしょう!
友人はすぐもどってきました。
「あちらは待ってるよ」と彼は言いました。
「一人きりかい?」とわたしはたずねました。
「連れの女性が一人いるよ」
「男はいないんだね?」
「いない」
「じゃあ、行こう」
友人は劇場の入り口のほうへ行きました。
「おい、そっちじゃないだろう」とわたしは言いました。
「ボンボンを買いに行くんだ。頼まれたんでね」
わたしたちは、オペラ座の廊下にある菓子屋にはいりました。
できるものなら、店全部の品物を買い切ってしまいたいくらいの気持ちで、何を袋に詰めさせたものかと、わたしが眺《なが》めまわしていると、友人が注文しました。
「砂糖|漬《づ》けの干し葡萄《ぶどう》を一ポンド」
「そんなものが好きなのかい?」
「ほかのボンボンはけっして食べないよ。わかっているんだよ」と、友人は店を出ると、つづけて言いました。「ねえ、きみに紹介する女がどんな女だか知ってるだろうね? 公爵夫人だなんて思っちゃあだめだよ。たかが男に囲われている女だ。お妾《めかけ》さんの中のお妾さんというところさ。だから遠慮などせずに、思いついたことは、何でも言っていいんだ」
「わかった、わかった」と、わたしはどもりながら言いました。これで自分の情熱も静まるだろうと思いながら、彼について行きました。
桟敷《さじき》にはいると、マルグリットは大声で笑っていました。わたしは沈んでいる彼女であってほしかったのでしたが。
友人はわたしを紹介しました。マルグリットは軽く頭をさげてから、言いました。
「ボンボンは?」
「ここにあります」
ボンボンを受け取りながら、彼女はわたしの顔をじっと見つめました。わたしは目を伏せて、まっかになりました。
彼女は隣の女の耳もとに身をかがめると、何やら小声でささやきました。それから、二人で、いきなり吹き出しました。
たしかに、わたしのことを笑ったにちがいありません。それで、わたしはますます気おくれしてしまいました。そのころ、わたしは実に優《やさ》しいセンチメンタルな町娘を恋人にしていましたが、その女の沈みがちな感情や手紙を見ては、よく笑ったものでした。ところが自分が味わった苦痛から察して、あのとき彼女もさぞ辛《つら》い思いをしたことだろうと、今になってしみじみと感じたのでした。そして五分間ばかりというものは、ついぞ女など愛したことのない男のように、その娘をいとしく思いました。
マルグリットはわたしのことなどはもう眼中《がんちゅう》になく、干し葡萄《ぶどう》を食べていました。
紹介の労をとってくれた友人は、わたしをいつまでもこんなばつの悪い目にあわせておきたくないとみえ、
「マルグリット」と彼は言いました。「デュヴァル君が何も言わないからって、驚いちゃいけないよ。あなたのおかげで、すっかり面くらって、ひとことも言えなくなったんですから」
「あら、あなたがお一人でおみえになるのが嫌《いや》さに、こちらをお連れになったのかと思っていましたわ」
「そうだとすれば」とわたしが口を出しました。「わたしは何もエルネスト君に頼んで、紹介していいか、うかがったりはしなかったでしょう」
「ではたぶん、あたしに会うのがこわさに、その時間をのばそうとなさったのね」
マルグリットのような種類の女に、少しでもなじみのある人なら、彼女たちが初対面の人に対して、理由もなく小生意気《こなまいき》なことを言ったり、またからかったりして、うれしがるものだということは、皆知っていることだと思います。これは、彼女たちが毎日お客にしている人々から、いやというほどあびせられる侮辱《ぶじょく》に対する一種の憂《う》さばらしなのです。
ですから、彼女たちと応対するには、その社会にある習慣を知っていなければなりません。ところが、わたしはそれには、まったく不案内でした。そのうえ、マルグリットを理想の女として描いていたので、この冗談《じょうだん》がなおのことこたえたのでした。わたしにとってはこの女性のすることは、何によらず無関心ではいられませんでした。
そこで立ちあがると、次のようなことを言ったのですが、われながら声の調子が変わってしまい、それを隠しおおせませんでした。
「わたしのことをそんなふうにお取りになるのでしたら、自分の慎《つつし》みが足りなかったことをお詫《わ》びするほかありません。もう二度とこんなまねはしませんと誓《ちか》って、失礼することにします」
わたしはそう言うと、あいさつしてそこを出てしまいました。
扉を閉めるか閉めないうちに、三度目の高笑いが聞こえました。このときは、わたしはだれかが自分を肱《ひじ》で突きとばしてくれればいいがと思いました。
わたしは自分の席にもどりました。
開幕の合図がひびきました。
エルネストはわたしのそばに帰って来ました。
「おい、どうしたんだ!」と彼は腰かけながら言いました。「あいつらはきみを気が変だと思ってるよ」
「ぼくが出たら、マルグリットはどう言ってた?」
「笑ったよ。そして、きみみたいな変な人は見たことがないと言ってたよ。しかし何もがっかりすることはないさ。あんな女どもの言うことなんか、そうまじめにとらなくてもいいんだよ。礼儀作法なんて、いっこうにご存じない連中だからね。犬に香水を振りかけてやるようなもんだ。犬はその匂いが嫌で、小川の中にとびこんで、転《ころ》げまわるというわけさ」
「結局、そんなことはどうでもいいんだ」とわたしは、つとめてゆとりのある調子で言いました。「二度とあの女と会わないよ。知らないうちは好きだったにしろ、知ってしまった今は、気持ちはすっかり変わってしまったからね」
「へえ! しかし彼女の桟敷《さじき》の奥に、いつかきみがおさまっているんじゃないかという気がするよ。きみが彼女のために、すってんてんになったという噂《うわさ》も、案外聞くかもしれないね。まあ、それはそれとして、きみの言うことはもっともだろうな。たしかに、あの女は育ちは悪いが、情婦にするにはいい女だぜ」
幸いに、そのとき幕があがったので、友人は黙ってしまいました。舞台で何を演じていたか、今お話することもできません。ただ記憶に残っていることは、わたしが、あんなにいきなり飛び出してきた桟敷のほうへ、ときどき目をやると、そこには、入れかわり新しい男の顔が見えていたことだけです。
しかし、わたしはマルグリットのことを考えないどころか、今ひとつ別な感情がわたしの心をとらえてきました。彼女の侮辱とわたしのこっけいな立場は、どうかして忘れてしまいたいという気持ちでした。そこで心中ひそかに思いました。『持っているものを残らず使いはたさなければならないにしても、必ずあの女を自分のものにしてやるぞ。さっき、あんなにあわてて捨て去った場所を取り返してみせるぞ』と。
芝居が終わる前に、マルグリットと連れの女は桟敷を出ました。
わたしもこれにつられて、ついうっかり座席を立ちました。
「帰るのかい?」とエルネストが言いました。
「ああ」
「なぜ?」
このとき彼も桟敷がからになっているのに気づきました。
「行きたまえ、行きたまえ。いい機会だ。またとない機会だ」と彼は言いました。
わたしは出ました。
階段のところで、衣《きぬ》ずれの音と話し声とが聞こえました。そこでわきへ身をひそめ、先方から見られないようにして、二人の女と連れの男をやりすごしました。
劇場の柱廊《ちゅうろう》のところで、少年の従者が彼女たちの前に現われました。
「御者《ぎょしゃ》にカフェ・アングレの入り口で待ってるように言ってちょうだいな。あたしたちはそこまで歩いて行くから」とマルグリットは言いました。
数分の後、大通りをぶらぶら歩きまわりながら、その料理店の大きな別室の窓に、バルコンにもたれたマルグリットが、花束の椿《つばき》をひとつひとつむしっているのを見かけました。
二人の男のうちの一人が、彼女の肩によりかかって、小声で何かささやいていました。
わたしはメーゾン・ドールにはいって、二階の広間に席をとると、例の窓から片時も目をはなしませんでした。
午前一時になると、マルグリットは三人の連れといっしょに、また馬車に乗りました。わたしは二輪馬車をひろって、そのあとをつけました。
馬車はアンタン街九番地にとまりました。
マルグリットは馬車からおりて、一人で家にはいりました。
これはきっと偶然のことだったでしょうが、この偶然がひどくわたしを喜ばせてくれました。
この日から、わたしは劇場や、シャン・ゼリゼで、たびたび彼女に出会いました。彼女はいつも相変わらず陽気で、わたしはまたわたしで、いつも同じように胸をときめかすのでした。
するとそのうちに、二週間ばかりというもの、彼女の姿が、どこにも見られないようになりました。ガストンに会ったとき、彼女の消息をたずねてみました。
「かわいそうに、あの女はだいぶ悪いんだ」と彼は答えました。
「どうしたんだい?」
「肺病なんだ。それに、あんな生活をしていちゃなおりっこないよ。ずっと寝たっきりなんだが、もう助かるまいね」
人間の心というものは奇妙なものです。病気と聞いて、わたしは何だか満足したような気持ちになりました。
毎日、その容体をききに行きました。しかし名前はしるさず、名刺もおいてきませんでした。
こうしてわたしは彼女が回復しかけたことも、バニェールへ旅立つことも知ったのでした。
やがて時がたつにつれて、思い出のほうはそれほどでないにしても、印象のほうは、わたしの心から次第に薄らいで行ったようでした。わたしは旅に出ました。女のかわりに、交友とか習慣とか仕事のことを考えるようになりました。そしてあの最初の出来事を思い浮かべても、青春期にありがちな、それも少し時がたてば笑い草になってしまうような、情熱のひとつとしか思えなくなりました。
しかし、こうした思い出を克服したからといって、別にてがらでもありませんでした。何しろマルグリットが旅立って以来、まったくその姿を見かけないばかりか、また前にお話したように、ヴァリエテ座の廊下で、わたしのそばを通ったときでさえ、彼女を見覚えていなかったというわけですから。
なるほど彼女はヴェールをかけていました。しかし、たとえ顔を隠していたとはいえ、これが二年前なら、あらためて見なおすまでもなく、彼女だということを見抜いたはずです。
しかし、彼女だとわかったときには、胸の動悸《どうき》が激しくなるのをどうしようもありませんでした。そして二年間も会わずに過ごしたことや、こうした別離がもたらしたらしい結果などは、ほんのわずか彼女の服にふれただけで、まるで煙のように消えうせてしまったのでした。
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「しかし」とアルマンはひと息いれて、また言葉をつづけた。
「自分が今もなおマルグリットを想《おも》っていることがよくわかってみると、何だか以前より気持ちがしっかりしてきました。もう一度マルグリットに会ってみたいという欲望の中には、自分のほうが今では役者が一枚上だぞということを見せてやりたい意志もあったのです。人間の心というものは、いったん自分の望みをとげようと思えば、その手段をえらばず、いろいろと理屈をつけるものですよ。
さて、わたしはいつまでも廊下にじっとしていることはできませんでした。そこで、どの桟敷に彼女がいるのかと、すばやく場内を見まわしながら、平土間《ひらどま》の自分の座席にもどりました。彼女は一人で、舞台ぎわの桟敷にいました。
先ほども申しあげたように、彼女はすっかり変わっていました。くちびるには、もうあの冷たくつれない微笑は見えませんでした。彼女は病気に悩んだのです。そして今もなお悩んでいるのです。
もう四月になっているのに、まだ冬支度で、びろうどの服にすっぽり身体をくるんでいました。
あまりしつこく彼女のほうを見つめていたので、わたしの視線は彼女の視線をひきつけてしまいました。
彼女はしばらくわたしを見つめていましたが、あらためてよく見なおそうと観劇眼鏡《ロルニエット》を取りあげました。そしてわたしがだれであるかはっきりわからないながらも、どこかに見覚えがあると思ったにちがいありません。眼鏡《めがね》を置くとこちらからもあいさつするだろうと思ったらしく、女の愛すべきあいさつともいうべき微笑を口もとにたたえたのでした。
けれどもわたしのほうは相手にうち勝って、そっちが思い出しても、こっちは忘れてしまったというふうに見せたくて、その微笑にはこたえませんでした。
人ちがいをしたと思ったのでしょう、彼女はそのまま顔をそらしてしまいました。
そのうちに、幕があがりました。
その後も幾度か、わたしはマルグリットを劇場で見かけましたが、ついぞただの一度だって、舞台の演技に少しでも注意をはらっているのを見たことはありません。わたしとても、もちろん芝居はいっこうにおもしろくありませんでした。彼女に気づかれないようにいろいろと心をくばりながら、彼女のほうにばかり気をとられていました。
そのうちに、彼女が自分の正面の桟敷《さじき》にいる女性と、何か、目くばせをしているのに気づきました。
それで、その桟敷のほうを見ると、そこには、わたしがかなり心やすくしている女性の姿をみとめました。
この女性も元来はやはり玄人《くろうと》で、一時芝居のほうへはいろうとしたこともありましたが、うまくゆかなかったので、パリの粋筋《いきすじ》に知りあいがたくさんいたのを幸いに婦人装身具の店を開いたのでした。わたしはこの女性を橋渡しにすればマルグリットに会えると思ったので、その女性がこちらを向いた瞬間をとらえて、今晩はと、手と目であいさつしました。
案の定《じょう》、彼女はわたしを自分の桟敷へ招きました。
プリュダンス・デュヴェルノワだなんて、柄《がら》にもないいい名前〔プリュダンスはフランス語で「慎重」という意味〕の婦人装身具の女主人は、世間にざらにある四十格好の太った女で、こんな女性なら、こちらの知りたいことをしゃべらせるには、たいした駆《か》け引きもいらないし、ことに今わたしが聞きたいと思っているような簡単なことなら、なおさら造作《ぞうさ》もないことなのです。
わたしはこの女性がまたマルグリットと合図をし始めたときをとらえて、言いました。
「だれをそんなにして見ているのだね?」
「マルグリット・ゴーチエよ」
「知ってるの?」
「ええ、お得意さんよ。おまけにお隣なんですよ」
「じゃ、きみはアンタン街に住んでるんだね?」
「そうよ。七番地。あのひとの化粧《けしょう》部屋の窓とあたしの化粧部屋の窓とが、ちょうど向かい合ってるわ」
「きれいな女性という評判だね」
「お知りあいじゃないのね?」
「うん。だが、知りあいになりたいものだね」
「では、この桟敷へ来るように言いましょうか?」
「いや、それより、きみからあの女性に紹介してもらいたいんだ」
「あの人の家で?」
「そうさ」
「それはむずかしいわ」
「なぜ?」
「だってあの人、とても焼きもちやきの公爵のお爺《じい》さんに後援されてるからだわ」
「『後援』とはおもしろいな」
「そうよ、『後援』だわ」とプリュダンスは言葉をつづけた。「かわいそうにそのお爺さんは旦那《だんな》になるのは困るんですって」
プリュダンスはそこでわたしに、マルグリットがバニェールで公爵と知りあいになったいきさつを話してくれました。
「それでなんだね」とわたしはつづけて言いました。「ここへ一人で来ているのは?」
「そうなのよ」
「しかし、帰りのお供はだれだい?」
「公爵だわ」
「じゃ、迎えに来るんだね?」
「間もなくだわ」
「ところで、きみの帰りのお供は?」
「そんな人いないわ」
「じゃ、ぼくがお供しよう」
「でも、お友だちとごいっしょでしょう」
「二人でお供するよ」
「お友だちってどんな方?」
「いい男だよ、なかなか気のきくほうだ。きみと近づきになれば、喜ぶよ」
「だったらいいわ。この幕がすんだら四人して出ましょう。おしまいの幕は知ってるんですもの」
「よかろう。じゃ友だちにそう言って来るから」
「あらっ!」とわたしが桟敷から出ようとしたとき、プリュダンスが言いました。「ほら、公爵がマルグリットの桟敷にはいったわ」
わたしは、じっと見つめました。
なるほど、年のころ七十ばかりの老人が、ちょうど彼女のうしろに腰をおろしたところでした。そして彼女にボンボンの袋を渡すと、彼女は微笑しながら、さっそくそれをつまんでいました。それから今度は、袋を桟敷の手すりの前に突き出して、プリュダンスにこんな意味の合図をしました。
「これ、ほしい?」
「いらないわ」とプリュダンスが答えました。
マルグリットは袋をひっこめると、うしろを向いて公爵と話しはじめました。
こんなこまごましたことをお話するのは、子供じみたことかもしれませんが、あの女性に関することなら、何でもすべてがありありとしていますので、今日になっても、思い出さずにはいられないのです。
わたしは、今しがたお互いのためにとり決めた相談を、ガストンに伝えようと思って、おりて行きました。
彼も承知しました。わたしたちは、デュヴェルノワ夫人の桟敷へ行くために席を立ちました。
平土間の扉を開けたとたんに、わたしたちは出て行くマルグリットと公爵に道をゆずるために、立ちどまらなければなりませんでした。
わたしは、この好々爺《こうこうや》に代われるものなら、命を十年くらい縮めても惜しくないと思いました。
大通りに出ると、公爵は自分で御《ぎょ》して来た四輪馬車に彼女を乗せました。そして二頭の駿馬《しゅんめ》を急がせて、いずれへか姿を消してしまいました。
わたしたちはプリュダンスの桟敷にはいりました。
その幕が終わると、わたしたちは並木通りの辻馬車に乗って、アンタン街七番地に行きました。
プリュダンスは自分の家の門口に着くと、店を見てくれとすすめるのでした。わたしたちはまだ見たこともなかったのですが、どうやらだいぶご自慢らしい口ぶりでした。わたしがどんなに乗り気になってこの申し出に応じたか、おわかりになるでしょう。
わたしはこうして、自分が少しずつマルグリットに近づいて行くような気がするのでした。やがて、わたしは話題を彼女のほうに向けました。
「公爵の爺さん、お隣に来てるのかい?」とわたしはプリュダンスに言いました。
「いいえ、あのひと一人のはずだわ」
「それなら、ひどく退屈だろうな」とガストンが言いました。
「あたしたちは、たいてい毎晩いっしょにいるのよ。でなきゃ、あのひと、帰ってくればあたしを呼ぶわ。あのひとは午前二時前には寝たことなんかないわ。それより早くは、寝つかれないんですって」
「なぜ?」
「なぜって、胸が悪いからだわ。それに、ほとんどいつだって熱があるからよ」
「いい人はないのかい?」とわたしはたずねました。
「あたしがあのひとの家から帰って来るときには、だれも残ってるのを見たことはないわ。でも、あたしが帰ってから、だれも来ないか、それは請《う》け合えないわ。晩によく、あのひとのとこで、N伯爵《はくしゃく》とかいう方にお目にかかるのよ。その人は十一時ごろに訪ねて来て、あのひとの言いなり放題に宝石を贈ったりして、何とか物にしようというつもりなんだけれど、あのひとったら、てんで見向きもしないのよ。心得ちがいだわ。だって、伯爵は大金持のおぼっちゃんですもの。だから、あたしときどき言ってやるのよ。
『ねえ、おあつらえ向きの人じゃないこと!』って。でも、やっぱりだめね。いつもだったら、たいていのことはあたしの言うとおりにするのに、この話となると、そっぽを向いてしまうんだもの。そして、まあ、あんなばか野郎なんて言うのよ。そりゃ、あたしだって、そう思うけど、でもね、いくらばか野郎だって、あのひとにとっちゃ、いい話だわ。あの公爵のお爺さんなんか、遅かれ早かれ死んでしまうんですもの。年寄りなんて、自分勝手なものと相場が決まっているし、それに、公爵の家では、マルグリットをかわいがっていることに反対しているのよ。こうしたふたつの理由から考えてみても、マルグリットには、何ひとつ遺《のこ》してもらえそうもないわ。だから、あたしが小言《こごと》をいってやるんだけれど、そうすると、公爵が死んでから、伯爵に乗りかえたっておそくはないわ、ですって」
「そりゃ、あんな生活をしていちゃ、いつもおもしろいことばかりはないわ」とプリュダンスはさらに言葉をつづけました。
「あたしだったら、真《ま》っ平《ぴら》ご免だわ。あんな爺さんなんか、さっさとたたき出してやるわ。あの爺さんときたら、そりゃ野暮《やぼ》で、あのひとを自分の娘だと言って、子供の世話を焼くような真似をして、始終うるさく小言を言うのよ。きっと今時分は、召使いが一人往来をうろついて、だれが家から出てくるか、特にだれがはいって行くかを見張ってるにちがいないんだわ」
「へえ、マルグリットもかわいそうだな」とガストンはピアノに向かってワルツを弾《ひ》きながら言いました。「少しも知らなかったよ。もっとも、ここしばらく、以前ほど陽気でないことは気がついていたがね」
「しっ!」とプリュダンスは聞き耳を立てながら言いました。ガストンはピアノを弾くのをやめました。
「あのひとが呼んでるようだわ」
わたしたちは耳をすましました。
なるほど、声はプリュダンスを呼んでいるのでした。
「さあ、あなた方、帰ってちょうだい」とデュヴェルノワ夫人は言いました。
「おや! それがお客さまに対する礼儀ですかね?」とガストンは笑いながら言いました。「帰っていい時分と思えば、帰りますからね」
「なぜ、帰らなくちゃならないんだい?」
「マルグリットのとこへ行かなくちゃならないんですもの」
「ぼくたち、ここで待ってるよ」
「そりゃ、困るわ」
「じゃ、いっしょに行こう」
「なお、困るわ」
「ぼくはマルグリットとは知りあいだよ」とガストンが言いました。「訪ねて行ったって、かまわないんだよ」
「だって、アルマンはご存じじゃないわ」
「ぼくが紹介するさ」
「そんなことできないわ」
またもプリュダンスを呼んでいるマルグリットの声が聞こえました。
プリュダンスは化粧部屋に駆けこみました。わたしもガストンといっしょにそのあとについてはいりました。彼女は窓を開けました。わたしたちは外から姿を見られないように身体を隠しました。
「十分も前から呼んでたのよ」とマルグリットは窓越しに居丈高《いたけだか》に言いました。
「なんか用?」
「すぐ来てもらいたいの」
「なぜなの?」
「例のN伯爵がまだがんばってるのよ。うんざりしているのよ」
「今、だめだわ」
「だれかいるの?」
「若い人が二人も来てて、どうしても帰ろうとしないんですもの」
「出かけるからって言えば、いいじゃないの」
「そう言ったのよ」
「じゃ! うっちゃっときなさいよ。あんたが出かければ、帰るわよ」
「そのかわり、家中がめちゃめちゃにされるわ!」
「いったいその人たち、どうしてほしいって言うの」
「あんたに会いたいんだって」
「何という人たちなの?」
「一人は、ご存じのガストン・Rさん」
「ええ、その人なら知ってるわ。もうひとりのほうは?」
「アルマン・デュヴァルさん、知ってる?」
「知らないわ。でもかまわないから、二人とも連れていらっしゃい。だれだって伯爵よりましだもの。待ってるわよ。早くいらっしゃいね」
マルグリットは窓を閉めました。プリュダンスのほうでも閉めました。
マルグリットはわたしの顔をちらっと思い出したものの、名前は思い出せなかったのでした。
わたしにしてみれば、こんなふうに忘れられてしまうよりは、たとえ、よくは思われていないにしても、とにかく覚えていてもらったほうが、どれだけうれしいかわかりません。
「ちゃんとわかっていたんだ」とガストンが言いました。「ぼくたちに会えば喜ぶんだから」
「何を喜ぶものですか」とプリュダンスは肩掛けをかけ、帽子をかぶりながら答えました。「来てもらうのは、伯爵を帰したいからよ。伯爵より愛想よくしてちょうだい。でないと、あたし、マルグリットの気性《きしょう》を知ってるけど、あたしたち仲たがいしてしまうのよ」
わたしたちはプリュダンスについて、下におりました。わたしは身体がふるえていました。この訪問がなんだか自分の一生に、大きな影響を与えるような気がしたのでした。オペラ・コミック座の桟敷で紹介されたあの晩よりも、わたしはいっそう興奮していました。
あなたもご存じのあの家の入り口まで来ると、心臓の鼓動《こどう》があまりに激しくなって、頭の中がぼうとなってしまい、何が何だかわからなくなりました。
ピアノの音がわたくしのところまで聞こえて来ました。プリュダンスは呼び鈴を鳴らしました。
ピアノがやみました。
小間使いというよりは、むしろマルグリットの付きそいというふうな女が出て来て、扉を開けてくれました。わたしたちは客間に通され、客間から居間へと案内されました。この居間というのは、そのころも、先日あなたがごらんになったとおりの部屋でした。
一人の青年が、暖炉《だんろ》にもたれていました。
マルグリットはピアノの前にすわって、キーの上に指を走らせていました。そして終わっていなかった曲を弾きはじめました。
その場の情景はだれきっていました。男は自分の無能を持てあましていたし、女は女で、陰気くさい男の訪問にくさりきっているのでした。
プリュダンスの声を聞いて、マルグリットは立ちあがりました。そしてデュヴェルノワ夫人に感謝の目くばせをしてから、わたしたちのほうへやって来て、言いました。
「おはいりください。よくいらっしゃいました」
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「今晩は、ガストンさん」とマルグリットは友人に言いました。「よくいらっしゃいましたわね。ヴァリエテ座では、なぜ桟敷へいらしてくださいませんでしたの?」
「ぶしつけのような気がしたんですよ」
「お友だち同士なら」と言ったマルグリットは、たとえガストンを親しげに迎えても、昔も今も単なる友だちに過ぎないということを、その場に居合わせた人たちにわからせようとするように、とりわけこの言葉に力を入れて言いました。「お友だち同士なら、ぶしつけだなんてことはありませんわ」
「では、アルマン・デュヴァル君を紹介してもいいですね」
「そのことなら、もうプリュダンスに、差しつかえはございませんと言いましたのよ」
「実は」と、そのときわたしはおじぎをして、どうやら聞き取れるくらいの声で言いました。「あなたには以前に紹介していただいたことがあるのです」
マルグリットの人の心をとらえるような目は、自分の思い出の中を探るようにみえましたが、彼女はいっこうに思い出せないようでした。あるいは、思い出せないふりをしていたのかもしれません。
そこで、わたしは言いました。
「前に紹介されたときのことをお忘れくださって感謝します。あのときは、ずいぶんばかげたまねをしまして、さぞかしうんざりするやつだとお思いになったことでしょう。二年前になります。オペラ・コミック座で、わたしはエルネストといっしょでした」
「あ、そう、そう、思い出しましたわ」
とマルグリットは微笑しながら答えました。
「あれは、何もあなたがばかげたまねをなさったわけじゃありませんわ。あたしこそ人をからかうことが好きだったんですわ。今でもやっぱり、少しそうですけれど。でも前ほどじゃありませんわ。ほんとに、すみませんでしたわね」
そう言って彼女が差しのべた手に、わたしは接吻しました。
「ほんとですわ」と彼女は言葉をつづけました。「あたし、はじめての方を困らせたがる悪い癖《くせ》がありますの。とてもばかなんですわ。お医者さまのおっしゃるのには、あたしが神経質で、いつも身体が悪いからなんですって。お医者さまのおっしゃることを信じてくださいね」
「でも、ずいぶんごじょうぶそうに見えますよ」
「あら! ひどい病気をしましたのよ」
「存じています」
「だれがそんなこと申しましたの?」
「だれだって、みんな知っていましたよ。わたしはよくご容体を伺いにあがりました。よくおなりになったと伺って、とても喜んでおりました」
「お名刺をいただきませんでしたわ」
「一度も置いて来たことはありません」
「それでは、病気のあいだ毎日、お見舞いに来ていただいて、お名前をおっしゃらなかった若い方というのは、あなたでしたの?」
「ええ、わたしです」
「それなら、あなたは寛大なばかりでなく、お人柄がりっぱな方ですわね。ねえ、伯爵、あなただったら、そうはなさらないわねえ」と彼女は例のまなざしをわたしに投げた後、N氏のほうに振り向くと、こう付け加えましたが、このまなざしの中には、男に対する女の気持ちが完全に表現されていたのです。
「ぼくは、きみと知りあってから、まだやっと二か月だからね」と伯爵は答えました。
「でも、あたし、こちらとお近づきになってから、まだ五分とはたたないのよ。あなたったら、いつも間の抜けた返事をなさるのね」
女性というものは、虫の好かない男には、むごいものです。
伯爵は顔を赤くして、くちびるをかんでいました。
伯爵が気の毒になりました。この男もまた、わたしと同じように、どうやら彼女を恋しているようでした。それだのに、こんなにずけずけと手きびしく当たられては、さぞかしたまらなかったことでしょう。まして見ず知らずの男が二人もいる前でのことですから。
「わたしたちが伺ったとき、何か弾いていらっしゃいましたね」とわたしは話をそらそうと考えて言いました。「わたしを昔からの知りあいのおつもりで、どうぞつづけて弾いてくださいませんか」
「まあ!」と、彼女はソファに身を投げかけ、わたしたちにもそこに腰かけるようにと、身振りですすめながら言いました。「あたしの弾く音楽がどんなものか、ガストンさんがよくご存じですわ。伯爵と二人だけのときならまだしも、あなたがたにまで、そんなご迷惑はかけたくありませんわ」
「ぼくに対して、そんな歓待《かんたい》をしてくれているのかね?」とN氏は微笑しながら答えました。彼はその微笑をつとめて、洗練された皮肉なものに見せようとしました。
「あなたが非難なさるのは間違ってるわ。それがあなたへのただひとつの歓待なんですもの」
こうきめつけられては、かわいそうにこの青年は、ひとことも口をはさめませんでした。彼は心から嘆願《たんがん》するようなまなざしを彼女のほうに投げかけました。
「ねえ、プリュダンス」と彼女はつづけて言いました。「お願いしたことしてくだすって?」
「ええ」
「それならいいわ。あとで話してね。まだほかにお話したいことがあるからそれがすむまで帰らないでね」
「どうも失礼しました」とわたしはそこで言いました。「わたしたちといっても、これはわたしだけのことですが、最初紹介していただいたときのことを忘れていただこうと思って伺ったのですから、このへんでガストンといっしょに失礼しましょう」
「あら、かまいませんのよ。今のは、あなた方のことを言ったのではございません。それどころか、もっといていただきたいんですの」
伯爵は非常に気がきいた時計を出して、時間を見ました。「クラブへ行く時間だな」と彼は言いました。
マルグリットは何も返事をしませんでした。
そこで、伯爵は暖炉のそばを離れて、彼女のほうにやって来て、「さよなら」と言いました。
マルグリットは立ちあがりました。
「さよなら、伯爵、もうお帰りになりますの?」
「うん、退屈させては悪いからね」
「きょうはいつもほど退屈ではなかったわ。今度は、いつお目にかかれます?」
「いつでも、きみのいいときに」
「では、さようなら」
実に残酷ですね。あなたもそうお思いになるでしょう。幸い伯爵は、教養も高く、人格もりっぱな人でした。彼はマルグリットがかなり無頓着《むとんちゃく》にさしのべた手に接吻するだけで満足し、わたしたちにあいさつしてから出て行きました。戸口を出るとき、彼はプリュダンスのほうをじっとにらみつけました。
プリュダンスは『できるだけのことをして上げたんです。このうえ、どうしろと言うんです?』とでも言いたげに、肩をすくめました。
「ナニーヌや!」とマルグリットは叫びました。「伯爵さまにあかりを見せておあげ」
扉が開いて、また閉まる音が聞こえました。
「やれやれ」とマルグリットはふたたび姿を現わして叫びました。「とうとう行っちゃったわ。あのぼっちゃんときたら、わたしをひどくいらいらさせるわ」
「ねえ、あんた」とプリュダンスは言いました。「あんたってば、あの人に少し邪慳《じゃけん》すぎるわ。あんたに親切で、よく気がつく人なのにね。あの暖炉の上の時計だってあの人がくれたんでしょう。あれなら少なくとも、千エキュはしたわよ、きっと」
そう言いながら、デュヴェルノワ夫人は、暖炉に近寄って、今言った時計をいじくりながら、さもうらやましそうに眺めていました。
「でもねえ」とマルグリットはピアノの前に腰をおろしながら言いました。「あたし、一方で、あの人のくれる物をはかり、もう一方で、あの人の言う文句をはかってみると、家に出入りさせているのは安いもんだと思うの」
「でもかわいそうに、あのぼっちゃんはあんたに首ったけよ」
「好きだという人の言うことを、いちいちきいていなくちゃならないんなら、それこそ食事をするひまもありゃしないわ」
そう言って、ピアノの上に指を走らせていましたが、やがてわたしたちのほうを向いて言いました。
「何か召しあがりません? あたし少しポンスがいただきたいわ」
「じゃ、あたしは若鶏《ブーレ》を少しいただくわ」とプリュタンスが言いました。「みんな、お夜食をいただかないこと?」
「賛成、たべに行こう」とガストンが言いました。
「でも、ここでいただきましょうよ」
マルグリットは呼び鈴を鳴らしました。ナニーヌが出てきました。
「お夜食のものを買いにやってちょうだい」
「何にいたしますか?」
「何でもいいから、みつくろっておくれ。でも急ぐのよ、大急ぎよ」
ナニーヌは出て行きました。
「そうだわ」とマルグリットはまるで子供のように小おどりして言いました。「みんなしていただきましょうよ。あの伯爵の間抜けったら、ほんとに、うんざりだわ!」
わたしは、見れば見るほど彼女にひきつけられていました。彼女は、うっとりと見とれるくらいの美しさでした。やせていることさえ、それが一種のしとやかさに見えるのでした。わたしはじっと眺めていました。
そのとき、わたしが心の中でどんなことを考えていたか、とても説明することはできません。彼女の生活に関する思いやりと、彼女の美しさに対する感嘆の情とで、胸がいっぱいでした。彼女のためには破産してもいいとまで思いつめている金持で、男ぶりもいい青年を受け入れようともしない欲得《よくとく》を離れた態度をまのあたり見ては、もうこれだけで、りっぱに過去のいっさいの過失は償《つぐな》われているような気がするのでした。
この女には、またどこか、あどけないところがありました。彼女は、身を持ちくずしているといっても、まだ純潔さがありました。しっかりした歩きぶり、柔らかな身体つき、ばら色のふくらんでいる小鼻、ほんのりと青くくまどられた大きな目、こうしたものは、彼女の情熱的な性質の一端を示していました。この性質は、どんなに固くしっかりと栓《せん》をしておいても、中身の液体の香気《こうき》を発散させずにはおかない東洋の香水|瓶《びん》のように、彼女の周囲に官能的な快楽のかおりを振りまいているのです。
要するに、生まれつきなのか、それとも病状の結果なのか、この女性の目には、時おり、情欲の輝きがひらめきました。この情欲の発露は、彼女から愛せられる男にとっては、天来の啓示《けいじ》であったのです。しかしマルグリットを愛していた片思いの男たちは、数えきれないほどいましたし、また彼女が愛した男たちも数えきれないほどでした。
要するに、彼女はふとしたはずみで処女から娼婦《しょうふ》になってしまったので、また何かのはずみがあれば、逆に娼婦から、きわめて惚れ惚れさせる清純な処女になることができるのであって、このことは、だれしも認めていたことでした。そればかりか、マルグリットには誇《ほこ》りと独立心とがありました。このふたつの感情は、一度傷つけられると、差恥心《しゅうちしん》がする役割をすることができるのです。わたしは何も言い出せませんでした。わたしの魂はそっくり胸の中に移ってしまい、胸の思いはさらに目へと移ったような気がしました。
「そうでしたのね」と彼女は突然言いました。「あなたでしたのね。病気のとき、容体をききに来てくださったのは?」
「そうです」
「よくまあご親切にねえ! どうしてお礼をしたらいいんでしょう?」
「これから、ときどきお邪魔にあがらせていただきます」
「ええ、いくらでも。五時から六時までと、十一時から十二時までの間でしたら、いつでも。ねえ、ガストンさん『舞踏への勧誘《かんゆう》』を弾いてくださらない?」
「なぜ?」
「まず第一に、聴《き》いて楽しみたいから、次には、あたしまだ一人ではうまく弾けないから」
「どこがうまくゆかないんですか?」
「第三部の嬰《えい》記号の経過楽句《パサージュ》のところ」
ガストンは立ちあがって、ピアノに向かうと、譜面台の上に開かれていたウェーバーのみごとなメロディーを弾きはじめました。
マルグリットは、片手をピアノにかけ、楽譜を見つめて、音符をひとつひとつ目で追いながら、低い声でついて歌っていました。ところがガストンが彼女のさっき言った経過楽句まで弾いてくると、ピアノの背に指を走らせながら、口ずさみました。
「レ・ミ・レ・ド・レ・ファ・ミ・レ、そこのところよ、どうしてもできないのは。もういっぺん弾いてちょうだいな」
ガストンはもう一度弾きはじめました。それが終わると、マルグリットは彼に言いました。
「どれ、今度はあたしにやらせてね」
ピアノの前にすわって、彼女が代わって弾きはじめました。しかし、今言った音符の一つに来ると、いつも指がいうことをきかないので間違ってしまいました。
「わからないわ」と彼女はいかにも子供らしい抑揚《よくよう》で言いました。「この経過楽句をどうしても弾けないなんて! ときどき午前二時ごろまで、やっているんですのよ! それだのにあの伯爵のおばかさんったら、楽譜も見ずにすばらしく弾くわ。あの人が、しゃくにさわるのは、このせいらしいわ」
そう言っては、また弾きはじめましたが、何度やっても同じことでした。
「ウェーバーも、楽譜も、ピアノも、みんな悪魔が持って行けばいい!」と言って彼女は、楽譜を部屋のすみに投げつげました。「どうしてまたあのシャープが八つ続いているところが弾けないんでしょう?」
そして彼女は両腕を組んで、わたしたちを見つめながら、じだんだを踏みました。頬《ほお》に血がのぼり、くちびるをなかば開くと軽い咳《せき》をしました。
「おや、まあ」と、さっきから帽子をぬいで鏡に向かって髪をなでつけていたプリュダンスが言いました。「またご立腹なのね。身体にさわりますよ。さあ、お夜食をいただきましょう。そのほうがいいわよ。あたし、おなかがペコペコで死んじまいそうだわ」
マルグリットはふたたび呼び鈴を鳴らしました。それからまたピアノに向かうと、小声でみだらな歌を歌いはじめましたが、さすがに伴奏ではまごつきませんでした。ガストンもこの歌を知っていましたので、二人は二重唱のように歌いました。
「そんな下品なのは歌わないでくださいよ」と、わたしはマルグリットに親しげに頼むような調子で言いました。
「まあ、純真な方ねえ!」と彼女はわたしに手をさしのべて、微笑しながら言いました。
「わたしのためではありません。あなたのためです」
すると、マルグリットは≪あら! 純真なんて、そんなものは、とっくの昔に捨てちゃったわ≫とでも言いたげな身ぶりをしました。
このとき、ナニーヌが姿を見せました。
「お夜食の用意ができたの?」とマルグリットがたずねました。
「はい、もうすぐでございます」
「それはそうと」とプリュダンスがわたしに言いました。「あなたはまだ家の中をごらんになったことはありませんでしたね。いらっしゃい。ご案内しますわ」
ご存じのように、客間はすばらしいものでした。
マルグリットはちょっとわたしたちといっしょに来ましたが、間もなくガストンを呼んで、夜食の用意ができたかどうかを見に、二人で食堂に行きました。
「あら」とプリュダンスが棚の上を見渡して、そこにあったサクソン焼の人形を取りあげて、大声で言いました。
「こんなかわいい人形があるなんて知らなかったわ」
「どれ?」
「鳥篭《とりかご》を持った小さな羊飼いよ」
「持ってらっしゃいな、よかったら」
「でも、あんたのものを取りあげちゃ悪いわ」
「それ、小間使いにやろうと思ってたところなの。いやなんですもの。でも、気に入ったら、持ってらっしゃいよ」
プリュダンスは贈り物にばかり見とれていて、そのときマルグリットがどんな態度で、それを自分にくれたかは、まったく気がつきませんでした。彼女はもらった人形をわきに置いて、わたしを化粧部屋に案内しました。彼女はそこに並んで掛けてある二つの小形の肖像画を指して、言いました。
「これがマルグリットに夢中だったG伯爵よ。あのひとを引き立ててやった人ですわ。あなた、伯爵をご存じ?」
「いや、知りませんね。こっちの人は?」
とわたしは、もう一つの肖像画を指して言いました。
「それはL若子爵。その人は、よんどころなく都落《みやこお》ちしてしまったのよ」
「なぜ?」
「だって、ほとんど破産してしまったのよ。マルグリットに熱をあげた一人よ!」
「マルグリットのほうでも、きっととても愛していたんだろうね」
「ところが、あのひとったら、ずいぶん変なのよ。どういうつもりだか、てんでわかりゃしないわ。子爵が出発した日の晩だって、あのひと、いつものように芝居に行ってるんじゃないの。子爵と別れるときには、泣いたくせにね」
ちょうどそこへ、ナニーヌが姿を見せて、夜食の用意ができたことを知らせました。
わたしたちが食堂にはいりますと、マルグリットが壁にもたれていました。ガストンは彼女の両手をとりながら、何か小声で話をしていました。
「おばかさんね」とマルグリットは彼に答えました。「あなたなんか、好きじゃないってことぐらい、よくご承知のくせに。あたしみたいな女と二年もこうしてつき合っていて、今さらいい人になりたいなんておかしいわ。あたしのような女は、ふたつ返事で身をまかせるか、でなきゃ、何て言ったって肘鉄《ひじてつ》なのよ。さあ、皆さん、食卓におつきください」
マルグリットはガストンの手を振りはなすと、彼を自分の右に、わたしを左にかけさせて、それからナニーヌに言いつけました。
「腰かける前に台所へ行って、呼び鈴を鳴らす人があっても玄関を開けちゃいけないと言って来ておくれ」
こう言いつけたのは、午前一時でした。
皆は、食事中、おおいに笑ったり、飲んだり、たべたりしました。やがて、この陽気な騒ぎが、落ちるところまで落ちてしまい、ある社会の人々がおもしろがるような、しゃべるだけでも口がけがれるような言葉まで、ときどき飛び出すようになりました。
それをまたナニーヌやプリュダンスやマルグリットが大声ではやしたてるのでした。ガストンはいい気になって、大騒ぎをしている始末でした。
この男は人情味のある人間でしたが、若いころからの悪習が身にしみて、気性が少しだらしなくなっていました。一時は、わたしも目の前の光景など問題にせずに、気分をくつろがせ、これもご馳走のひとつぐらいに心得て、自分もその騒ぎの仲間入りをしようと思いました。しかしいつとなく、だんだんこの騒ぎから、一人ぽつねんと離れてしまいました。
わたしのグラスには、酒がなみなみと注《つ》がれたままになっていました。そしてこの二十歳《はたち》の美しい女性が、まるで人夫か何かのように、飲んだり、しゃべったり、また話が淫《みだ》らになればなるほど、うれしそうに笑い興じたりしているのを見ているうちに、わたしはもの悲しい気分になってきました。
しかしながら、このはしゃぎかた、口のききかた、酒の飲みかたは、ほかの会食者のは放蕩《ほうとう》とか、習慣とか、精力などから、そういう結果が現われているようでしたが、マルグリットのはそうではなくて、熱や神経のいらいらするのを、忘れようとする要求から、こんなことをしているように見えました。シャンパンのグラスを重ねるごとに、彼女の頬は熱っぽく赤くなり、夜食のはじめには軽かった咳《せき》も、終わりにはだんだん激しくなって、ついに椅子の背にのけぞって咳のたびごとに、両手で胸を押さえなければなりませんでした。
こんなかよわい体質で、毎日このような乱行をしていては、いったい病気はどうなるのかと、わたしは心配でした。
ついに、わたしがひそかに気づかっていたことが事実になって現われました。夜食が終わろうというころ、マルグリットは今までになく激しく咳きこみました。胸が中から裂けてしまうのではないかと思ったほどでした。かわいそうに彼女はまっかになって、苦しんで目を閉じました。そしてナプキンを口に当てると、そこに血が一滴赤くつきました。すると彼女は立ちあがり、化粧部屋に駆けこみました。
「どうしたんだ、マルグリット?」とガストンがたずねました。
「あんまり笑いすぎて喀血《かっけつ》したのよ」とプリュダンスが言いました。「ええ、何でもないのよ。毎日のことだわ。じき来るわ。ほっとけばいいのよ。あのひとも、そのほうがいいんだわ」
わたしの身になれば、じっとしてはいられませんでした。そこで、プリュダンスやナニーヌがびっくりして呼びとめるのも聞かずに、マルグリットのあとを追って行きました。
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彼女が逃げこんだ部屋は、テーブルに置かれた、ただ一本のろうそくで照らされているだけでした。彼女は大きなソファにあおむけに倒れ、服は乱れたままで、片手で胸を押え、もう一方の手をだらりとたらしていました。テーブルの上には、半分ほど水を入れた銀の鉢《はち》がありましたが、その水には血が細い糸のように流れて、大理石のような模様を浮かべていました。
マルグリットはまっ青な顔をし、口を半ばあけながら、ひと息つこうとつとめていました。ときどき大きく胸をはって深く息を吸いこみ、それを吐くと少しは楽になるらしく、二、三秒間はほっとしたように見えました。わたしは彼女が身動きしないように、そばに近寄って、腰をおろすと、ソファの上に投げだしている手をとりました。
「あら、あなたなの?」と彼女は微笑を浮かべながら言いました。わたしがよほど取り乱した顔つきをしていたのでしょう、彼女はさらにこう言いました。
「あなたもお悪いの?」
「いいえ、どうなんです、まだ苦しいですか?」
「ええ、ほんのちょっとだけよ」と言って、彼女は咳のために目にたまった涙をハンケチでふきました。「このごろは、もう慣れてしまいましたわ」
「あなたは、自分で自分の命を縮めているようなものですよ」とわたしは落ちつかない声で言いました。「できるなら、お友だちなり、お身内の方なりになって、こんな身体にさわるようなことを止《と》めてあげたいんです」
「あら、そんなにご心配いただくほど苦しくはありませんのよ。ほんとうですわ」と彼女は少し悲しげな口調で答えました。「ごらんなさいな。ほかの人たちがあたしの世話をしてくれて? あの人たちは、こんな病気では、今さらどうにも手のつけようがないことを、よく知ってるんですものね」
そう言い終わると、彼女は身体を起こし、ろうそくをとって暖炉の上にのせ、鏡に映る自分の姿をじっと見つめました。
「まあ、青い顔だこと!」と、服のひもをむすんだり乱れた髪を指でかきあげたりしながら、彼女は言いました。「さあ、もうだいじょうぶだわ。ごいっしょにもう一度食卓につきましょう。いらっしゃらない?」
しかし、わたしは腰をおろしたまま動こうとはしませんでした。彼女は、さっきからの様子に、わたしがどんなに心を痛めているかがわかったと見え、わたしのそばに寄りそうと、手を差しのべながら、こう言いました。
「ねえ、いらっしゃいよ」
わたしはその手をとって、くちびるにあてると、長い間こらえていた涙が思わずあふれて、手をぬらしました。
「おや、おや、あなた坊《ぼう》やね!」と彼女はわたしのそばにまた腰をおろしながら言いました。「まあ、泣いてらっしゃるのね! どうかなすったの?」
「あなたの目には、なるほどぼくがばかに見えるでしょう。しかしさっきからのことを見ていて、胸がいっぱいになってしまったんです」
「あなたって、ほんとうに優しい方ね! でも、どうしたらいいんでしょう? だってあたし眠れないんですもの。少しは気のまぎれることをしなければなりませんわ。それに、あたしのような水商売の女など、一人くらいいなくたって、何でもないじゃありませんか? どのお医者さまも、あたしの吐く血は気管支から出るのだとおっしゃいますし、あたしもそれを信じているような様子をしています。お医者さまには、そうするよりほかに、しようがないんですものね」
「ねえ、マルグリット」とわたしは、そのとき押えきれない胸の思いを打ち明けて言いました。「あなたがぼくの一生にどんな影響をおよぼすかは知りません。しかし今ぼくにわかっていることは、現在自分の肉親の妹にもまして、あなたほど気にかかる人は、この世の中にだれ一人いないということです。これは、はじめてお目にかかったときからそうなのです。ねえ、くれぐれも身体を大事にしてください。そうしてこんな生活はもうしないでください」
「もし自分の身体なんか、いたわっていたら、死んでしまいますわ。あたしの身体がどうやら保っているのは、こうした熱に浮かされた生活をしていればこそですわ。身体をいたわるというようなことは、家庭やお友だちのある社交界のご婦人なら結構なことですわ。でもあたしたちのような者は、一度男たちの虚栄心《きょえいしん》や楽しみの役に立たなくなったら最後、すぐその日から捨てられてしまって、それから先は、退屈な長い夜と昼とがいつまでも続くばかりですわ。わたしにはよくわかっていますのよ。ねえ。あたしが二か月|床《とこ》についてたときだって、三週間目の終わりには、もうだれ一人見舞いに来てくれる人もありませんでしたわ」
「なるほど、あなたにとっては、ぼくなんかものの数じゃないんですね」とわたしはまた言いました。「しかし、もしあなたさえよかったら、ぼくは兄弟のような気持ちで看護してあげましょう。あなたのそばを離れますまい。そして、あなたをなおしてあげますよ。あなたが今のような生活を、それでもまだつづけたいなら、身体がじょうぶになってから、また始めればいいじゃありませんか。でも、きっと静かな生活がお好きになるだろうと思います。そのほうが、いっそう幸福であり、またいつまでも美しいままでいられるんですからね」
「あなたは今晩、お酒で気がめいってらっしゃるから、そんなふうにお思いになるんですわ。えらそうなことをおっしゃっても、その辛抱《しんぼう》はとても長続きはしませんわ」
「でも、マルグリットさん、これだけは言わしてください。あなたは二か月間病気でした。そしてこの二か月の間、ぼくは毎日、一日も欠かさず、容体を伺いにきたのですよ」
「そうでしたわね。でも、なぜおあがりにならなかったの?」
「あのときは、ご懇意《こんい》じゃありませんでしたからね」
「あたしみたいな女に、そんな気兼《きが》ねがいるでしょうか?」
「女性に対しては、いつでも遠慮しなければなりません。少なくとも、ぼくはそう思っています」
「それならあなた、あたしの看護をしてくださる?」
「ええ」
「毎日、そばについていてくださるの?」
「ええ」
「毎晩でも?」
「あなたさえ、ご迷惑でなかったら、いつでも」
「そんな気持ちを、何と言うのでしょう?」
「献身とでも言うのでしょう」
「どんなところから、そんな献身が生まれてくるのでしょう?」
「あなたに対して抱いている押えがたい同情からですよ」
「だったら、あたしを愛してらっしゃるのね? それならそうとおっしゃいよ。そのほうが、ずっと手っ取り早いわ」
「そうかもしれません。しかしいずれいつか、あなたにそれを打ち明けなければならないとしても、きょうはその時期ではありません」
「では、永久におっしゃらないほうがいいわ」
「なぜです?」
「なぜって、そんなことをお打ち明けになれば、その結果は二つしかないんですもの」
「どんな結果です?」
「もしあたしがあなたのお言葉に従わない場合には、あたしという女をお恨《うら》みになるでしょうし、またもしお言葉に従ったとすれば、あなたは、ふさぎ込んだ恋人をお持ちになることになるでしょう。神経質で、病身で、険気な女をお持ちになるのよ。陽気なと言えば言えても、その陽気さも表面ばかりで、ほんとうは悲しみ嘆くというよりも、もっと陰気な女をよ。血を吐いて、年に十万フランもむだ使いするような女をね。公爵みたいな大金持のお爺さんにはいいでしょうけれど、あなたのようなお若い方には、とてもやりきれたものじゃないわ。だってその証拠には、あたしのいい人だった若い男の人たちは、みんなすぐ離れて行ってしまいましたわ」
わたしはひとことも答えず、じっと聞いていました。懺悔《ざんげ》ともいうべきこの卒直さ、彼女をおおい隠している金色のヴェールの下に垣間《かいま》見たこの痛ましい生活、そしてこのかわいそうな女はそうした現実から逃避して、放蕩《ほうとう》と乱酔《らんすい》と不眠とに身をゆだねているのだ。
こんなふうに、あれこれと考えると、わたしは胸がつまって、ひとことも口がきけませんでした。
「さあ」とマルグリットは言葉をつづけました。「子供の言うようなお話ばかりしてましたわね。お手をかしてくださいな。食堂へ帰りましょう。あたしたちがいなくなったので、みんなどうしたかと思ってますわ」
「よかったら、いらしってください。しかしぼくはここに残らせてください」
「なぜなの?」
「あなたにはしゃがれると、苦しくてたまりませんから」
「いいわ! それならあたし、陰気にしていますわ」
「ねえ、マルグリット、ひとこと言わしてください。こんなことは、あなたもきっと聞きあきるほど聞かされ、慣れっこになっていて、信用する気にもなれないでしょうけれど、そうかといってやっぱり真実のことなんです。それに二度と繰り返して言いませんから」
「といいますと?……」と彼女は子供の無理を聞く若い母親のように微笑しながら言いました。
「というのは、はじめてあなたをお見かけしてからというもの、どうしてだか、なぜだか自分でもわからないんですが、あなたがぼくの生活の中にはいり込んでしまって、いくら思うまいとしても、あなたの面影《おもかげ》がいつも目の前にちらついているんです。その後二年間はお目にもかからずに過ごして、今日こうしてあなたとお会いしてみると、ぼくの胸にも頭にも、あなたというものが、いっそう大きな力となって現われて来ました。そしてついにこうしてお邪魔にあがり、お近づきになったうえに、ほかの女とはちがったあなたの色々な点をすっかり知った今となっては、あなたはもう、ぼくにとっては、なくてはならぬ人になったのです。こうなれば、ぼくを愛していないとおっしゃる場合はもちろんのこと、ぼくの心のままに、あなたを愛させてくださらないとおっしゃるだけで、ぼくは気がちがってしまいます」
「そうでしたら、あなたは不幸な方ですわ。B夫人の言い草じゃないけど、『では、あなたはとてもお金持なのね!』とでも言いましょうか。だって、あたしが月に六、七千フランずつむだ使いすることも、これだけのお金がどうしてもあたしの生活にいることも、あなたはご存じないのよ。ねえ、またあたしのために、ちょっとの間に破産しておしまいになることも、それから、お宅の方《かた》だって、あたしみたいな女と同棲《どうせい》していると聞かれたら、きっと大反対なさるに決まってることもご存じないんだわ。ですから、あたしをたくさん、かわいがってちょうだい、いいお友だちとしてね。だけどそれ以上はいけませんわ。会いにいらしってちょうだいね。ごいっしょに笑ったり、お話したりしましょうよ。でも、あたしを買いかぶっちゃだめだわ。つまらない女なんですから。あなたはおやさしい方ですわ。愛してくれる女性もほしいでしょうけど、あたしたちの社会でお暮らしになるには、あなたはまだお年も若すぎるし、それにあんまり思いやりがありすぎるわ。それより、どこかの堅気《かたぎ》の奥さんのお相手をなさったほうがいいわ。あたしは根が正直な女ですから、こんなことを明けすけに言うんですけど、わかってくださるわねえ」
「あら! こんなところで何してんの?」
こちらに来る足音も聞こえず、いつの間にかプリュダンスが部屋の入り口に姿を見せて叫びました。髪はなかば乱れ、服ははだけたままでした。このだらしのない乱雑ぶりは、てっきりガストンの仕業《しわざ》だな、とわたしは見抜きました。
「まじめなお話をしてるのよ」とマルグリットは言いました。「ちょっと、このままにしておいてちょうだいな。すぐ行くから」
「いいわよ、いいわよ、せいぜいお話なさいよ」と言いながら、プリュダンスは自分が言ったこの最後の文句の調子をいっそう強めるように、扉をばたんと閉めて、行ってしまいました。
「これで、話は決まりましたわね」とマルグリットは二人きりになると、言いました。「これからはもう、あたしを好きになるなんて、およしになってね」
「お暇《いとま》します」
「そんなにまで思いつめていらっしゃるの?」
わたしはあまり進みすぎて、今さら、ひくにもひかれなくなっていました。そればかりか、この女のために最後のわきまえもなくなっていました。この女には陽気なところがあるかと思うと、ふさぎ込んだところがあります。無邪気な一面があるかと思うと、男に春をひさいだりしているのです。またあの病気のせいか、とかくものに感じやすく、神経がいらいらしているようです。
こんなことをいろいろと考え合わせると、こうした忘れっぽく、はすっ葉な性質を、最初から強く押えておかないことには、とうていこの女は自分のものにはなるまい、ということにわたしは気がついたのでした。
「まあ、それじゃ、あなたは本気でそんなことをおっしゃるのね」
「本気ですとも」
「だったら、なぜもっと早くおっしゃらなかったの」「言う機会がなかったじゃありませんか?」
「オペラ・コミック座で、あなたに紹介していただいたあの翌日だって」
「もしお訪ねしたところで、とてもひどいおもてなしを受けたでしょうよ」
「なぜ?」
「なぜって、前の晩にとてもへまなことをやったんですからね」
「それもそうね。でもあの時分もうあたしを好きでいらっしったの?」
「ええ」
「でもお芝居がはねると、お宅に帰って、お床にはいってから、よく眠れたんでしょう? 熱烈な恋だなんてよくおっしゃるけど、まずそんなところなんだわ」
「とんでもない。大ちがいですよ。オペラ・コミック座がはねてから、あの晩どうしたかおわかりになりますか?」
「わかりませんわ」
「カフェ・アングレの入り口で、あなたを待っていたのですよ。ぼくは、あなたとお友だちの三人の方が乗った馬車のあとをつけたんです。そしてあなただけが馬車からおりて、一人家の中にはいって行くのを見たとき、とてもうれしかった」
マルグリットは笑い出しました。
「何がそんなにおかしいんです?」
「何でもないのよ」
「言ってくださいよ。お願いですから。でないと、またからかわれているような気持ちになりますから」
「お怒《おこ》りにならないこと?」
「ぼくに怒る権利なんかあるもんですか」
「なら言いますけど、一人で帰ったのは、それだけのわけがあったんですの」
「どんな?」
「ここで待ってる人がありましたのよ」
たとえ彼女が短刀でいきなりわたしを突き刺したとしても、これほどひどい痛手《いたで》はうけなかったでしょう。わたしは立ちあがると、手を差しのべながら、
「さようなら」と言いました。
「お怒りになるにちがいないと思っていましたわ」と彼女は言いました。「殿方《とのがた》って、耳になされば、いやな思いをなさるにきまっていることを、夢中になって聞きたがるのね」
「しかし、ぼくははっきり言っておきますが」と、わたしはもうすっかり情熱もさめてしまったという証拠を見せてやろうというような冷淡な口調《くちょう》で言いました。「別に怒ってなんかいませんよ。午前三時に、お暇《いとま》して帰って行くのが当たり前であるように、あのときだれかがあなたを待っていたところで、それは当たり前のことなんですよ」
「ではあなたも、どなたかお宅で待ってらっしゃるのね」
「まさか。とにかく帰らなくちゃなりません」
「では、さようなら」
「ぼくを追い返そうとなさるんですか?」
「まあ、とんでもありませんわ」
「それなら、なぜこんなにぼくを苦しめるんですか」
「あなたを苦しめたんですって、どんなふうに?」
「だって、待っていた人があったと、おっしゃったじゃありませんか」
「でも、それ相当のわけがあって、一人で帰ったのに、それをごらんになって、あなたがそんなに有頂天《うちょうてん》におなりになったなんて、おかしくてしかたがないじゃありませんか」
「だれだって、子供らしいことを喜ぶことがよくあるもんです。そのままそっとしておけば、もっと楽しい気持ちになるのに、その喜びをむざむざこわしてしまうなんて、ずいぶん罪じゃありませんか」
「ちょいと、あなた、いったいだれを相手にしてらっしゃるおつもり? あたしは生娘《きむすめ》でもなければ、公爵夫人でもありませんのよ。あなたとは、きょう初めておちかづきになったばかりだし、何もあなたから、あたしのすることをかれこれ言われる筋合《すじあ》いなんかありませんわ。かりにもし、あたしがいつかあなたのものになる日があるとしても、あなたのほかにまだ好きな男が何人もあったんですから、このことだけはよく承知しておいてちょうだいな。今からもう、やいてるんじゃ、この先どうなるんでしょう! でもこれは、この先があってのことですけど。あなたのような方、今まで見たことはありませんわ」
「それは、ぼくみたいにあなたを愛した男が、これまで一人もなかったからですよ」
「ねえ、ありのままおっしゃってね、あなたはそれほどあたしを愛してくださるの?」
「精いっぱい愛しているつもりです」
「で、それはいつからのこと?」
「あなたが馬車からおりて、シュッスの店におはいりになるのを、見かけた日からです。三年も前のことですが」
「まあ、おやさしい方ね。そんなにまで思っていただいて、あたし、どうお礼をすればいいのでしょう?」
「少しでもいいですから、ぼくのことを思ってください」とわたしは胸をどきどきさせ、ろくろく口もきけないほどになりながら、やっとのことで言いました。というのは、こうした会話の間、彼女は絶えずなかば人をからかうような微笑を浮かべていたものの、わたしの苦しい胸のうちをどうやら察してくれるようになったらしく、わたしとしても長いあいだ待ちわびていた時が、ようやく近づいて来たような気持ちがしたからでした。
「でも、あの公爵が」
「どの公爵?」
「例の焼きもちやきのお爺さんよ」
「知れるもんですか」
「でも、もし嗅《か》ぎつけたら?」
「あなたのことなら、許してくれますよ」
「とんでもないわ! あの人、あたしを捨ててしまうわ。そしたら、あたしどうなるんでしょう?」
「捨てられることが心配だなんて、あなたはだれかと、あぶない橋を渡ってるじゃありませんか」
「どうして、そんなことをご存じなの?」
「今晩はだれも入れないようにと、さっきお言いつけになったじゃありませんか」
「そうだわねえ、でもあの方はまじめなお友だちですわ」
「こんな時刻に門前払いをくわせようなんていうんじゃ、あんまりだいじにもしていないんじゃないかな」
「そんなことをおっしゃって、あたしをお責めになるもんじゃありませんわ。あんなふうに言ったのも、あなた方、あなたとお友だちをお迎えしたかったからだわ」
わたしは少しずつマルグリットに近寄り、身体に両手をまわしました。すると組み合わせた両手に、彼女のしなやかな身体の重みが軽くかかって来るのが感じられました。
「ぼくがどんなにあなたを愛しているか、わかってくださったらなあ!」とわたしは低い声で言いました。
「ほんとうなの?」
「誓います」
「それなら、もしあなたがひとことも逆《さか》らわず、あたしを監視するようなこともなさらず、いろいろと質問もしないで、どこまでもあたしの思うままになさると約来してくださるなら、たぶんあなたが好きになれそうだわ」
「どんなことでも、お望みどおりにします」
「だけど、これだけは前もってお断わりしておきますわ。あたしは自分の生活については、どんな些細《ささい》なことだってご相談なんかせずに、自分でいいと思ったら思うままに勝手にやってみたいんですの。ずっと以前から、あたしの言いなりになってくれて、まったく信用して愛してくれるし、また権利なんか主張せずにかわいがられているような、若い恋人がほしいと思っていましたわ。でも、そんな方はついぞ見当たらなかったのよ。殿方っていうものは、なかなか望みどおりにならなかったことが、いよいよこれから先いつまでも許されるとなると、今度はそれに満足しないで、愛人に対して昔のこと今のこと、それに行く末《すえ》のことまでもいろいろと詮索《せんさく》したがるものですわ。女になじみ深くなればなるほど、押えつけようとしたがり、女のほうが望みどおりのものを与えてやれば、つけあがっていい気になり、なにかと要求が多くなるもんですわ。
ですからあたし、これから新しくいい人をつくろうと思っても、相手になってくれるような方には、だれもめったに持っていないような、三つの資格を持っていていただきたいと思うのよ。それは、あたしを信じること、おとなしくよく言うことをきくこと、それから出しゃばったりしないこと、この三つですわ」
「いいですとも。お望みどおりになりましょう」
「いずれそのうちね」
「いずれそのうちって、いつですか?」
「もっと先になってからだわ」
「なぜです?」
「なぜって」とマルグリットは、わたしの両腕からぬけ出して、その朝届けて来た赤い椿の大きな花束から、一輪の花を抜き取って、わたしのボタン穴にさしながら言いました
「なぜって、条約というものは、調印した日から実施されるとはきまっていませんものね」
これは納得できないことではありません。
「では、いつまたお目にかかれます?」と、わたしは彼女を抱きしめながら言いました。
「この椿の色があせたら」
「いつ色があせるでしょう?」
「あした、夜の十一時から十二時の間。いいでしょう?」
「今さら、そんなことをおたずねになるんですか?」
「これは内緒よ。お友だちにも、プリュダンスにも、だれにもね」
「だいじょうぶです」
「さあ、接吻《せっぷん》してちょうだいな。そして食堂へもどりましょう」
彼女はわたしにくちびるを差し出しました。そしてまた髪をなでつけ、それからわたしたちはこの部屋を出ました。彼女は歌をうたいながら、わたしは半ば気が狂ったようになって。
客間へ来ると、彼女は立ちどまって、小声で言いました。
「きっと変にお思いでしょうね、まるで待っていたように、ふたつ返事であなたの言うことをきいてしまって。どうしてこんなことになったか、おわかりになります?」
「それは」と、彼女はわたしの手をとって、自分の心臓の上に押し当てながら、言葉をつづけました。
わたしは繰り返し、激しくうっている心臓の鼓動《こどう》を感じました。
「それはね、あたしなんかどうせ人さまのように長く生きられないんですから、いっそのこと太く短く生きようと決心したからなのよ」
「もうそんなことは言わないで、後生《ごしょう》だから」
「まあ! 心配なさらなくたっていいのよ」と、彼女は笑いながら言葉をつづけました。「これから先、いくらあたしの命が短くっても、あなたがかわいがってくださる間よりは長く生きますわ」
そして彼女は歌をうたいながら、食堂にはいったのでした。
「ナニーヌはどこへ行ったの?」と、彼女はガストンとプリュダンスの二人しかいないのを見て、言いました。
「あんたの部屋で眠ってるわ、あんたが寝るまでね」とプリュダンスは答えました。
「困ったひとだわねえ! ひどい目にあわしてやるから! さあ、皆さん、お帰りになってちょうだいな、もう時間よ」
それから十分ほどして、ガストンとわたしは暇《いとま》を告げました。マルグリットはわたしの手を握って、さようならと言い、プリュダンスがあとに残りました。
「どうだい」と外に出るとすぐガストンがたずねました。「マルグリットをどう思うね?」
「天使だよ、夢中になってしまったよ」
「いずれそんなことだろうと思っていた。きみはそれを打ち明けたのかい?」
「うん」
「きみを信じるって約束したかい?」
「いいや」
「プリュダンスのようにはいかないね」
「あの女、きみにそんなことを約束したのかい?」
「きみ、それどころじゃないんだよ! まさかと思うだろうが、あれでまだたいしたもんさ、あのふとっちょのデュヴェルノワは!」
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十一
このあたりまで話して、アルマンは言葉を切った。
「窓を閉めてくださいませんか」と彼は言った。「寒くなってきました。その間、横になりましょう」
わたしは窓を閉めた。まだひどく衰弱していたアルマンは、部屋着をぬいで、ベッドにはいり、長旅に疲れきった人か、または悲しい思い出に心をかき乱された人のように、しばらくの間、頭を枕の上に休めたままじっとしていた。
「あまり話しすぎたかもしれませんね」とわたしは彼に言った。「ぼくもお暇《いとま》しますから、おやすみになったらいかがですか? お話の結末はまたいつか伺うことにしましょう」
「退屈なさったのでしょうか?」
「いや、どういたしまして」
「では、続けてお話いたしましょう。どうせ一人になっても、眠れないんですから」
「さて、家へは帰りましたが」と彼は細々《こまごま》した事柄まで残らず覚えていたので、思い返してみるまでもなく、ふたたび言葉をつづけるのだった。
「わたしは寝ようともしませんでした。その日の出来事をつくづくと考えてみました。マルグリットとのめぐりあい、紹介、二人の間の約束、すべてがあまりに早く、あまりに思いがけなく、まるで夢でも見ていたのではなかったかと思うくらいでした。とはいうものの、マルグリットのような女なら、口説《くど》かれたその翌日に男の言うことをきこうと約束したとしても、何もこれが初めてではありますまい。
こんなふうに思いなおしてみるのでしたが、むだでした。わたしの未来の恋人となるべき女性から受けた第一印象が非常に強烈だったので、その印象はいつまでも頭にこびりついて離れませんでした。どう考えても、彼女が世間並みのいやしい稼業《かぎょう》の女とは受けとれず、また男という男に共通なうぬ惚《ぼ》れの気持ちから、ともすれば、自分が心をひかれているのと同じように、女のほうでもきっと自分に思いを寄せているにちがいないと、思いこんでいました。
そうはいうものの、それとはまるで反対な実例もたくさん見ていました。それにマルグリットの色恋は、季節によって多少値上がりする農作物みたいなものになったという噂もたびたび聞いていました。
しかし、そうだとすると、一方からいって、先ほど彼女の家で見たような、あの若い伯爵にたてつづけに肘鉄砲《ひじでっぽう》をくらわしたのは、どうもこの噂《うわさ》と一致しないことになるではありませんか? こう言えばあなたは、それは伯爵があの女にきらわれているからだ、仕送りは別の公爵からちゃんとしてもらっているのだから、どうせほかに情人《おとこ》をこしらえるなら気に入った男にしようと思っているのだ、とおっしゃるかもしれません。それならなぜ、男振りのいい、才人肌の、しかも金持のガストンを望まなかったのでしょう? 初対面のときに、あんなばかげたまねをしたわたしみたいな男を、どうして選んだのでしょうか?
なるほど、一年越しに口説《くど》いても、いうことをきかなかったものが、たった一分間でうまくゆくということも実際にはあるものです。
あの夜食のときに居合わせた者の中で、彼女が食卓を離れるのを見て心配したのは、わたし一人きりでした。わたしはそのあとを追ったのですが、隠そうとしても隠しきれぬほど、胸がいっぱいでした。彼女の手に接吻したときには、涙がこぼれました。こうしたいきさつと、彼女が病気で寝ていた二か月の間、毎日欠かさず見舞いに行ったこととがいっしょになって、わたしという男を、これまでに知っていた男とは別の人間に見てくれたのかもしれません。そしてこんなふうに恋ごころを打ち明ける男に対しては、今までに幾度もしてきたとおりのことをしてやっても構うまい、とたぶん思ったのでしょう。これぐらいのことは、彼女にしてみれば、何でもないことなんですからね。
こうした推測は、あなたにもおわかりでしょうが、まずおおよそ事実に近いようでした。しかしどんな理由で承諾したにせよ、ともかく彼女が承知してくれたということだけは、たしかな事実でした。
さて、わたしはマルグリットに思いを寄せていて、その女性が間もなくわが掌中《しょうちゅう》のものになろうというのですから、今さらこれ以上に何を彼女に望むことがあるのでしょう。ところが、繰り返して申しあげますが、たかが人の妾《めかけ》にでもなるような女であるというのに、たぶん彼女を詩的に考えたかったからでしょうが、わたしにはこの恋がとうていかなえられないものだという気持ちがしてきて、もう何も望む必要がない瞬間が近づけば近づくほど、ますます疑いまどうのでした。
わたしは、その夜はまんじりともしませんでした。
わたしには、もう自分で自分のことがわからなくなってしまいました。半ば気が変になってしまったのでした。男振りがいいわけでもなく、そんなに金があるというほどでもなく、そのうえ、しゃれ者でもないこのわたしに、あんな女を手に入れるだけの資格なんかありゃしないと思ってみたり、そうかと思うと、それほどの女を自分のものにしたのだと思い返して、すっかりうぬ惚れてみたりするのでした。
それからまた、マルグリットはほんの二、三日の浮気から、あんなふうに自分を相手にしたのではないかと心配してみたり、そしてあっけなく別れてしまうときの辛《つら》さを今から考えて、晩に彼女のところへ行くのはやめにして、このさまざまな気がかりを手紙で書き送って、いっそ旅にでも出たほうがましではないか、と考えたりしました。すると今度はいつの間にか、はてしない希望や限りない信頼の念がわいてきました。わたしは、とても信じられないような未来の夢を描きました。自分の力で、あの女の身も心もなおしてやろう、あの女と一生涯ともに暮らそう、そしてあの女の愛はいかなる処女の愛にもまして自分を幸福にしてくれるのだ、などと思うのでした。
所詮《しょせん》、わたしには、このように胸から頭へと浮かんでくる多くの思いをひとつひとつあなたに繰り返してお伝えすることはできそうもありません。そしてこの物思いも、夜があけるころになって襲《おそ》ってきた眠りの中に、少しずつ消えて行きました。
目が覚めたのは、午後の二時でした。すばらしい上天気でした。今までに、人生というものが、この日ほど美しく、満ち足りて見えたことはありません。胸に思い浮かぶ前夜のいろいろな思い出には、もうなんの陰影《いんえい》も障害もなく、ただ浮かれるほど心も軽く、今宵《こよい》の楽しい希望だけが思われるのでした。わたしは大急ぎで服を着ました。すっかりうれしくなって、どんなすばらしいことでもやれそうでした。胸の中では、ときどき心臓が歓喜《かんき》と愛情におどり、何だか楽しい熱病にかかったように、そわそわと落ちつきませんでした。眠る前に気がかりだったいろいろな根拠など、いっこうに心配しなくなっていました。わたしは結果だけしか見ていなかったのでした。マルグリットにふたたび会うことになっている時間のことしか考えていませんでした。家にじっとしているなんてことは、とてもできません。部屋はわたしの幸福を入れるには、あまりに小さすぎるように思われました。胸の思いを吐露《とろ》するには、自然全体が必要だったのでした。
わたしは外へ出ました。アンタン街を通りました。マルグリットの箱馬車が戸口で主人を待っていました。わたしはシャン・ゼリゼのほうへ向かいました。行きかう人々がだれもかれも、見ず知らずの人までが、みんな好きになってしまうのでした。恋というものは、ほんとに人間を善良にするものですねえ!
シュヴォ・ド・マルリーと円形広場《ロン・ポワン》との間を、一時間ばかりぶらぶら歩いていますと、遠くのほうにマルグリットの馬車が見えました。たしかにそうとはいえませんが、どうも、それらしいのでした。
シャン・ゼリゼの角を曲がろうとするとき、彼女は馬車をとめさせました。すると背の高い一人の青年が、ひとかたまりの男たちの中で今までしゃべっていましたが、つかつかと馬車のほうに寄って行って、彼女に話しかけました。
二人はしばらく話していましたが、やがて青年はまた仲間といっしょになり、馬はふたたび駆け出しました。その連中のそばに近づいてみますと、マルグリットと話をした男は、例のG伯爵だったということがわかりました。この男なら、前に彼女の部屋にあったその肖像を見たことがありましたが、マルグリットは彼のおかげで今日の地位を得ることができたという話も、プリュダンスから聞いていました。
前の晩、彼女から門前払いをくわされたのは、この男だったのでした。彼女が馬車をとめさせたのは、たぶんその言い訳をするためだったのだろうとわたしは想像しました。そしてそれと同時に、今晩も彼がやって来ないように、この際、何か新しい口実をみつけてくれたらいいが、と思いました。
それからあと、その日の残りの時間が、どういうふうに過ぎたか、覚えていません。歩いたり、たばこをふかしたり、おしゃべりをしたりしましたが、しかしどんな話をしたか、だれに出会ったか、夜の十時になると、もう何ひとつ覚えていませんでした。覚えていることといえば、帰宅してから、三時間もかかって身じたくして、百ぺんも掛時計と懐中時計とを見くらべましたが、残念ながら両方ともよく合っていたということです。十時半が鳴ると、いよいよ出かける時刻だと思いました。
当時わたしは、プロヴァンス街に住んでいました。それでモン・ブラン街を通って、ブールヴァールを横切り、それからルイ・ル・グラン街からポール・マオン街に出て、アンタン街へ行きました。わたしはマルグリットの家の窓に目をやりました。
明りがついていました。
わたしは呼び鈴を鳴らしました。門番にゴーチエさんは帰っていますかとたずねました。
ところが、十一時か十一時十五分にならなければ、いつも帰宅しないという返事でした。
わたしは時計を見ました。ずいぶんゆっくり歩いて来たつもりだったのに、プロヴァンス街からマルグリットの家までたった五分かかっただけでした。
そこでわたしは、店もない、ましてこんな時間では、人影もないこの町をぶらぶら歩きました。
三十分もすると、マルグリットが帰って来ました。彼女はだれかを捜しでもするように、あたりを見まわしながら馬車からおり立ちました。
馬車は並足《なみあし》で帰って行きました。厩舎《きゅうしゃ》も車庫もこの家にはなかったのでした。マルグリットが呼び鈴を鳴らそうとしたとき、わたしは近づいて声をかけました。
「今晩は」
「あら! あなたですの?」と言ったその口ぶりは、どうもわたしがそこにいたのを見ても、うれしくもなさそうな調子でした。
「きょう来るように、おっしゃったじゃありませんか?」
「そうですわねえ、ついうっかりしていましたわ」
このひと言で、明け方からのいろいろな物思いや、昼間のさまざまな希望が、いっぺんにけし飛んでしまいました。とはいうものの、わたしもこうしたやり方にはそろそろ慣れていましたので、以前ならもちろんすぐ帰ってしまったところですが、今ではさすがにそんなことはしませんでした。
わたしたちは家の中へはいりました。ナニーヌが前もって入り口を開けておいてくれたのでした。
「プリュダンスは帰ってる?」とマルグリットはたずねました。
「いいえ、まだでございます」
「帰ったらすぐあたしのところへ来るように言ってちょうだいな。その前に、客間の明りを消しておくれ。それからどなたが見えても、あたしはまだ帰らない、今夜もうお帰りになりませんと言うんですよ」
いかにも何か気にかかることがあるらしく、それにどうやら迷惑な男につきまとわれ、うんざりしている様子でした。わたしはどうしたらいいのか、何と言ったらいいのかわかりませんでした。マルグリットは寝室のほうへ行きました。わたしはそのままそこにじっと立っていました。
「いらっしゃいな」と彼女は言いました。
帽子とびろうどの外套《がいとう》をぬぐと、彼女はそれをベッドの上に投げ、それから初夏のころまで、火を入れさせている暖炉のそばの大きな安楽椅子に腰をおとしました。そして時計の鎖《くさり》をいじりながら、わたしに言いました。
「ね、何か変わったお話してくださらない?」
「何もありませんよ。ただ今晩、伺わないほうがよかった」
「なぜ?」
「なぜって、何だかご迷惑そうだし、それにきっと、ぼくでは退屈なさるしょうからね」
「退屈なんてしませんわ。ただあたし、身体の加減が悪いのよ。きょう一日中、苦しかったの。眠れなかったものですから、ひどく頭痛がして」
「ぼくはこれで失礼しますから、おやすみになったら?」
「いいえ、ここにいてくだすっていいのよ。やすみたければ、かまわず勝手にやすみますから」
このとき、呼び鈴の音が聞こえました。
「今時分、だれが来たのかしら?」と彼女はがまんしかねるような身ぶりで言いました。
しばらくすると、また呼び鈴が鳴りました。
「だれも開けに行かないのかしら? あたしが開けに行かなくちゃならないのね」
実際に彼女は立ちあがって、わたしに言いました。
「ここで待っててちょうだいね」
彼女は部屋部屋を通り抜けて、戸口のほうへ行きました。入り口の扉の開く音が聞こえました。……わたしは耳をすましました。
彼女が扉をあけてやった男は、食堂まではいって来ました。最初の二言三言《ふたことみこと》で、若い例のN伯爵の声だということがわかりました。
「どう、今晩の身体の加減は?」と彼は言いました。
「いけないの」とマルグリットは冷淡に答えました。
「お邪魔《じゃま》かね?」
「そんなところね」
「これはごあいさつだな! 何か気にさわることでもしたかしら、え、マルグリット?」
「いいえ、そんなことはちっともなさいませんわ。あたし、加減が悪いのでやすまなければなりませんの。ですから、どうぞこのままお引きとりくださいませな。夜、やっと家に帰って五分もたたないうちに、もうあなたにお目にかからねばならないなんて、あたし、のびてしまうわ。ご用というのは、何ですの? お妾《めかけ》さんになれとでもおっしゃるの? そのことなら、もう今まで何度、お断わりしたかしれやしません。あなたにお目にかかると、ぞっとするほどいらいらしてくるんですから、どこかほかの女に当たってごらんになればいいと何度申しあげたかわかりませんわ。きょう、最後にもう一度繰り返して申しあげておきます。あたし、あなたが好きじゃないのよ。さあ、これではっきりおわかりでしょう。さようなら、あら、ナニーヌが帰って来ました。明りをお見せしますわ。では、ごきげんよう」
それっきりマルグリットはもう、ひと言も口をきかず、この若い男がまだ何やらぶつくさ言うのにも耳をかさず、部屋へもどって来ると、手荒に扉を閉めてしまいました。すると今度は、ナニーヌがその扉をあけて続いてはいって来ました。
「いいこと」とマルグリットが彼女に言いました。「あのばかには、いつでも、るすだとか、会いたくないとか言うんだよ。ああ、いやだ、いやだ。同じことをしつっこくせがんでは、お金さえ払えば万事がすむと心得ているような連中と、四六時中《しろくじちゅう》顔を合わせなくちゃならないなんて、つくづくうんざりしてしまうわ。こんな恥知らずの稼業《かぎょう》をこれから始めようとする女だって、もしこんな内幕を知ったら、いっそのこと小間使いにでもなってしまうにきまってるわ。いや、そうとも言えないわね。いい服を着たり、馬車を乗りまわしたり、ダイヤモンドを身につけたり、そんな虚栄心にみんな引きずられるんだわ。こんな稼業をしていても、なまじっか真心を持ってるもんだから、つい他人の言うことをまに受けて、だんだんと身も心も美しさも無惨《むざん》にいためてしまってさ、世の中からは、けだものみたいにこわがられ、人でなしと軽蔑《けいべつ》されて、取り巻きの男たちといったら、いつだって、向こうからくれる物よりか、こっちから巻きあげられる物のほうが多いような連中ばかりだわ。こんなことをしていた日にゃ、向こうも身の破滅なら、こっちの身も破滅よ、結局のところ、いつかは犬みたいに野たれ死にするより手はないわ」
「まあ、奥さま、お気をおしずめなさいませ」とナニーヌが言いました。「今晩、奥さまは気がたってらっしゃいますよ」
「この服は窮屈《きゅうくつ》だわねえ」とマルグリットは身頃《みごろ》のホックをはずしながら言いました。「化粧着《けしょうぎ》を出しておくれ。そうそう、プリュダンスは?」
「まだお帰りじゃありません。でもお帰りになり次第、すぐこちらへお見えになるはずでございます」
「あの人だってそうだわ」とマルグリットは服をぬいで、白い化粧着に着かえながら、言葉をつづけました。「自分に用があるときは、うるさいくらいあたしのところへやって来るくせに、あたしの用となると、まるで気持ちよくしてくれたためしがないわ。今晩あたしがあの返事を待っていることも、その返事がぜひいることも、こうして気をもんでいることも知っていながら、あたしのことなんかほっておいて、きっとどこかに飛んでいってしまったんだわ」
「たぶん、どこかで引きとめられていらっしゃるんでしょう」
「ポンスでもこしらえて来ておくれ」
「またお身体にさわりますわ」とナニーヌが言いました。
「いっそ、そのほうがいいわよ。それから果物と、パテ料理か、若鶏《わかどり》の片羽か、何でもいいからすぐ持って来ておくれ。おなかがすいたわ」
こんな場面を見て、わたしがどんな印象を受けたか、今さらお話をするまでもなく、十分ご推察くださることでしょう。
「いっしょに召しあがるわね」と彼女はわたしに言いました。「それまでご本でも読んていらっしてね。あたし、ちょっと化粧部屋へ行ってきますから」
彼女は燭台《しょくだい》のろうそくに灯をつけ、ベッドのすそのほうにある扉をあけて、姿を消しました。
一方わたしは、この女の生活について、つくづくと考えてみました。そして不憫《ふびん》と思えば思うほど、恋心がつのるのでした。
物思いにふけりながら、部屋の中を大またで歩きまわっていますと、プリュダンスがはいって来ました。
「おや、いらしってたの?」と彼女はわたしに言いました。「マルグリットはどこ?」
「化粧部屋だよ」
「じゃあ、あたしも待つわ。ねえ、あのひとあんたに気があるのよ。知ってて?」
「知らないよ」
「少しぐらい匂わさなかった?」
「いいや、ちっとも」
「なら、どうしてここに来ているの?」
「ただ訪ねて来ただけさ」
「夜中に?」
「なぜいけないんだね?」
「人をちゃかすもんじゃないわ」
「ぼくにだって、とても無愛想なんだよ」
「今に愛想がよくなるわ」
「そうかな」
「だって、あたしあのひとに耳よりなたよりをもって来たんですもの」
「わるくないね。で、あのひとはきみにぼくのことを何か話したかい」
「ゆうべ、じゃない、けさだわ。あんたがお友だちとごいっしょにお帰りになると……。それはそうと、あの方どうなすって、あんたのお友だち? たしかガストン・Rさんとかおっしゃったわね?」
「そうだよ」とわたしは答えました。わたしはガストンが打ち明けたことを思い出しながら、プリュダンスが彼の名前さえろくに覚えてないのを知ると、思わず微笑せずにはいられませんでした。
「いい方ね、あの人は、何してらっしゃるの?」
「あいつは年に二万五千フランも利息がはいるんだよ」
「まあ! ほんと! あ、そうそう、あんたのことをお話してたんだわね。あれからマルグリットはあんたのことをいろいろときいたわ。どんな人だとか、今何をしているのかとか、どんな女と関係があったかとか、つまり、あんたぐらいの年配の男の人のことをきくときに、だれでもきくようなことを残らずきいたわ。あたし、それで知ってることを全部しゃべっちゃったわ。ついでに魅力のある青年だって言っといたわよ。とまあいったようなわけなの」
「いや、ありがとう。それから、きみがきのう、あのひとに頼まれた用事って、いったい何なのか聞かせてくれないかね」
「何でもないのよ、あんなことを言って、伯爵を追い返そうとしたのよ。でも、きょうは、ほんとに頼まれた用事があるのよ。その返事を、今晩持って来たんだけれど」
このとき、専門的に言えば『玉菜《シュー》』と呼ばれている黄色いリボンの飾りのついたナイトキャップをあだっぽくかぶって、マルグリットが化粧部屋から出て来ました。そういうなりをした彼女は、まったくうっとりするほど美しいものでした。
彼女は素足にしゅすの上靴を突っかけ、爪《つめ》にもすっかり化粧をしていました。
「どうなの」とプリュダンスの姿を見ると、彼女は言いました。「公爵に会った?」
「もちろんだわ」
「で、どう言ってて?」
「くださったわよ」
「いくら?」
「六千フラン」
「持って来たの?」
「持って来たわ」
「いやな顔をしてた?」
「いいえ」
「かわいそうな方!」
この≪かわいそうな方!≫という言葉を、彼女は他人にはまねのできそうもない口調で言いました。マルグリットは一千フランの紙幣を六枚受けとりました。
「間に合ったわ」と彼女は言いました。「ね、プリュダンス、お金いる?」
「あさってが十五日でしょう、三、四百フラン貸してもらえたら助かるわ」
「あすの朝、取りによこしてよ。両替するったってもうおそいから」
「忘れないでね」
「心配しなくてもだいじょうぶよ。いっしょにお夜食たべて行かない?」
「たくさん。だってシャルルが、うちで待ってるんだもの」
「相変わらず、あの人に夢中なのね?」
「首ったけよ。じゃ、またあすね、さようなら、アルマンさん」
マダム・デュヴェルノワは出て行きました。
マルグリットは戸棚をあけて、そのなかに紙幣をほうりこみました。
「失礼して、横になりますわ」と彼女は微笑しながら、ベッドのほうへ行きました。
「どうぞご遠慮なく、ぼくのほうから、お願いしたいくらいです」
彼女はベッドにかけてあった透かしレースの被《おお》いをすそのほうにはねて、横になりました。
「さあ」と彼女は言いました。「そばにおかけなさいな。お話しましょうよ」
なるほどプリュダンスの言ったとおりでした。彼女が持って帰った返事で、マルグリットはとても陽気になりました。
「今晩、あんなにきげんを悪くしてごめんなさいね」とわたしの手をとりながら、言いました。
「あなたのことなら何でも、許してあげますよ」
「じゃ、あたしを愛してくださる?」
「気が狂うほど」
「あたしがこんないけない女であっても?」
「何だってかまやしませんよ」
「それを誓《ちか》ってね!」
「ええ」とわたしは小声で言いました。
そのとき、ナニーヌが幾つかの皿と、鶏の冷やし肉と、葡萄酒《ボルドー》ひと瓶《びん》といちご、それに二人分の食器とを持ってはいって来ました。
「ポンスをつくりませんでした」とナニーヌは言いました。「葡萄酒のほうが、お身体にいいんですもの。ねえ、旦那さま?」
「そりゃそうさ」とわたしは、まだマルグリットの最後の言葉にひどく感動していましたので、熱心に彼女を見つめたまま、答えました。
「まあ、いいわ」と彼女は言いました。「全部それを小さなテーブルにのせて、ベッドのそばへ運んでちょうだいな。勝手にいただくから。きょうで三晩もつづいたから、眠いでしょう。もうおやすみ。用はもうないから」
「玄関の扉《とびら》は、厳重に二重の戸締《とじ》まりにしましょうか?」
「そのほうがいいわ! それから、あすは正午までだれが来ても通しちゃいけないと、よく言いつけといておくれ」と言いました。
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十二
あくる朝、五時に、日光がカーテンを通して射しこめるころ、マグリットはわたしに言いました。
「追い出すようですけど、ごめんなさいね。だって、そうするよりほかに、しかたがないんですもの、公爵が毎朝やって来るのよ。来たら、やすんでると言わせるんですけど、それでもあの方ったら、たぶんあたしの目がさめるまで、待ってるのよ」
わたしは、乱れた髪がふさふさと首のまわりに垂れているマルグリットの頭を両手で抱き、別れの接吻をしながら言いました。
「今度、いつ会ってくれる?」
「あのね」と彼女は言いました。「暖炉の上に金色の小さな鍵《かぎ》があるでしょう。それで表の扉をあけて行ってちょうだいな。それから鍵はまたもとのところへもどしておいて出て行ってくださいね。きょうじゅうに、手紙でご返事するわ。だってあなたは、あたしの言うことは何でも否応《いやおう》なしにきくっておっしゃったでしょう」
「ええ、それからぼく、あなたにお願いしたいことがあるけど、いいかしら?」
「どんなこと?」
「この鍵をぼくに預けてほしいんだけど」
「そんな願いは、まだどなたにもきいてあげたことはないの」
「でも、ぼくのためなら、きいてくれるでしょう。だって、ぼくはほかの人たちのような愛し方で、あなたを愛してるんじゃないって誓ったじゃありませんか」
「いいわ、持っていらっしゃいよ。でも今から言っときますけど、その鍵はあたし次第で何にも役に立たなくなってよ」
「なぜ?」
「だって、扉の内側に閂《かんぬき》があるんですもの」
「意地悪!」
「はずさせておくわ」
「じゃ、少しはぼくを愛してるんだね?」
「どうしてそうなったのかわからないけど、どうやらそうらしいわねえ。さあ、今は、帰ってね。あたし眠くて眠くてたまらないの」
わたしたちはしばらくの間、抱き合っていました。やがてわたしは出て行きました。町々には人影もなく、大都会はまだ眠っていました。数時間後には、大勢《おおぜい》の人たちで騒がしくなるこの区域にも、今はすがすがしい冷たい空気が流れていました。
わたしには、この眠っている都会が、何だか自分のもののように思われるのでした。わたしは今までに、その幸福をうらやんでいた人々の名を、記憶の中に探ってみましたが、そのだれよりも自分のほうがずっと幸福でした。清純な娘に愛されて、その娘に初めてあの愛の不思議な神秘を明らかにしてやるのは、たしかに大きな幸福に相違ありません。しかし、それは世の中でいちばん単純なことです。あまり男から言い寄られていない女心を虜《とりこ》にするなんてことは、まるで守備兵もなく、要害も持たぬ都市に侵入するようなものです。教育だとか、義務の観念とか、家族だとかいうものは、なるほど厳重な歩哨《ほしょう》にはなるでしょう。しかし娘が十六にもなれば、いくら用心深い歩哨でもだまされてしまうものです。自然は、娘が愛している男の口をかりて、娘に初恋の手ほどきを教えるのです。そしてその手ほどきは純粋に見えるものほど、熱烈なものなのです。
娘がすなおであればあるほど、たとえ恋人にたやすく身をまかせないまでも、少くとも恋愛には身も心も投げ出してしまうものです。それは、疑うことを知らない彼女には、抵抗する力などというものが全然ないからです。ですから、こんな娘の愛を得るくらいのことは、男も二十五歳にもなっていれば、だれだって、いつでもできることです。論より証拠、世の中の娘を持つ人々は、絶えず監督の目を光らせ、障壁をめぐらしているではありませんか! こういうかわいい小鳥を篭《かご》の中に押しこめておくためには、修道院の塀の高さも、尼さんが持っているがんじょうな錠前も、宗教のきびしい掟《おきて》も、十分ではありません。それにだれも、その篭の中に、花を投げ入れてやろうとはしないのですからね。そこで娘は目隠しされている世界にあこがれ、それが誘《いざな》いさそってるように思うのは当然のことで、自分が入れられている篭の格子《こうし》越しにいろいろな秘密を見せにきた最初の声に、耳を傾けたり、はじめて神秘なヴェールの端をまき上げてくれた手を祝福しないではいられないのです。
ところが玄人女《くろうとおんな》から実際に愛されるようになるというのは、これとはまったくちがったむずかしさがあります。こういう女にあっては、肉欲のために魂はすさみはて、心は官能にやけただれ、感情は放蕩《ほうとう》生活のために鈍ってしまっています。こんな女に何を言おうが、どんな手段を用いようが、そんなことは先刻ご承知なのです。男に恋心を抱《いだ》かせることさえ、それも金銭ずくなのです。稼業《かぎょう》のうえで愛するので、相手に心をひかれて、恋するのではありません。こういう女は、処女が母親や修道院などによって護《まも》られている以上に、算盤《そろばん》によって護られています。そこでときどき、息ぬきや、申しわけや、もしくは慰みのために、商売気を離れた恋をすることもあるのですが、それには『気まぐれ』という言葉を考案しています。ちょうどあの高利貸が大勢の人からさんざん金品をまき上げておきながら、飢え死にしそうな貧乏人に二十フランの金を貸してやって、利息も証文も取らないで、今までにしたことがいっさい帳消しになると思いこんでいるようなものですね。
それから神が一人の娼婦に恋をお許しになる場合には、その恋は最初のうちは赦《ゆる》しのように見えるものです。しかしいずれは、その女にとって、ほとんどいつもそれは懲罰《ちょうばつ》になってしまうものです。贖罪《しょくざい》のない赦免《しゃめん》はありません。過去いっさいについて、自分を咎《とが》めているような女が、どうかしたはずみに、一生を通じてもできないものと思っていた深い、真剣な、おさえきれない恋を突然知ったとき、そしてその恋を打ち明けたとき、愛された男のほうではどんなに女を見くだすことでしょう!『恋のためだなんて言ったところで、どうせ金のためにして来た以上のことができるものか』などと、冷酷なことが言える権利のあるのをいいことにして、どんなに強くしぶとく出るかわかりません。こうなると、女には、どうして証《あかし》を立てていいかわかりません。
ある寓話《ぐうわ》に、一人の子が、百姓の邪魔をしてみたさに、畑で『助けてくれ!』と叫んでいつもおもしろがっていたところ、ある日ほんとうに熊《くま》が出て来たので、今度こそ実際に助けを呼んだものの、あまりたびたびだましてばかりいたので、だれももう本当にしてくれず、とうとう食われてしまったという話があります。このかわいそうな女もこれと同様に、真剣に恋をしてみたところで、これまでたびたび人をだましているので、だれ一人本当にしてくれるものもなく、後悔に身をもだえながら、自分の恋のために身を滅ぼしてしまうのです。こうしたことから、そういう女の中には、身も心も神に捧げて、厳格な隠遁《いんとん》生活にはいるような者もないわけではありません。
しかし女に過去の罪をつぐなうような恋心を起こさせた男が、度量の大きな心を持って、過去のことなどを思い出さずに、女の気持ちを受け入れてやった場合、そして自分もその恋に身をまかせた場合、つまり自分が愛されているように相手の女を愛してやった場合には、この男はこの世のありとあらゆる感激を、一挙に汲《く》みつくすことができて、それから先は、ほかのいかなる恋にも見向きもしなくなることでしょう。
その朝、帰宅したとき、わたしはこんなことを考えたわけではありません。ただ何となく、そんなことがわたしの身に起こって来そうな虫の知らせがあっただけなのです。マルグリットを愛してはいたものの、こんな結果になろうとは、夢にも思っていませんでした。今になってみると、しみじみ思い当たるのです。何もかも、もう取り返しがつかなくなっていたのですから、ああしたことから、こんな結果になってしまったのも、無理からぬことです。
さて、二人の間にはじめて関係ができた日に話をもどしましょう。家へ帰ると、わたしはもう気がちがうばかりに有頂天になっていました。マルグリットとわたしの間にあるように思っていた障壁はすっかり姿を消してしまったのだ、あの女はわたしのものになったのだ、あの女の心の中には、わたしというものが少しははいっているのだ、それにポケットにはあの家の鍵《かぎ》もある、この鍵をつかう権利もあるのだ、とこう考えると、わたしには人生というものが実に楽しく、また自慢したいような気持ちになって、こうしたことを残らず許してくださった神を好きになってしまいました。
ある日、一人の青年が町を歩いていて、一人の女性とすれちがったとします。彼はその女性の顔を眺め、振り返り、そして行き過ぎました。彼女がどんな女性であるか彼は知りません。彼女には喜びもあれば悲しみもあり、恋もありますが、それは彼の全然あずかり知らないところのものです。彼女にとっては、彼など存在しないも同然です。そしてもし彼がその女性に話しかけたら、おそらくマルグリットがわたしに対してしたように、その青年をばかにするでしょう。
ところがその後、幾週、幾月、幾年かたって、互いにちがった行き方で、それぞれ自分の運命をたどって来た二人が、偶然のめぐり合わせによって、ぱったり顔を合わせるようになったとしましょう。と、この女性はこの男の愛人になって、彼を愛するようになります。どうしてでしょうか? なぜでしょうか? ふたつの存在はもはやただひとつの存在にすぎないのです。やっと親密になったばかりだというのに、もうよほど以前から親密であったような気がするのです。そして愛し合っている二人の記憶からは、過去にあったことがらが、すっかりぬぐい去られてしまうのです。考えてみれば、不思議なものですね。
わたしにしてみても、前日まで、自分がどうして暮らしてきたのか、もうさっぱり思い出せませんでした。初めての夜、言いかわした言葉を思い浮かべると、歓喜にわたしの全生命が熱狂するのでした。マルグリットが男をだますのが巧みだったのでしょうか、それとも、わたしに対する愛情は、最初の接吻からたちまち燃え上がるけれど、時にはぱっと現われたかと思うとすぐ消えてしまうような、あのうたかたの恋だったのでしょうか。
つくづくと考えれば考えるほど、マルグリットが本当に愛してもいないのに、愛しているふりをするわけはないと思われるのでした。そして女が男を愛するには、互いに原因ともなり結果ともなる、二つのやり方があるのだと思いました。つまり、心で愛するか、行動で愛するかです。ただ官能を満足させたいばっかりに愛人を持った女が、思いがけなく精神的な愛の神秘を知り、それからは心の愛だけに生きるというようなこともよくあるのです。また、結婚によって二人の純潔な愛情の結合だけを求めていた娘が、にわかに肉体的な愛に目ざめ、魂に最も清らかな印象を受けた結果が、激しい情欲に身をまかせるようになったという例もしばしばあるのです。わたしはこんなことを考えながら、いつの間にか眠ってしまいました。そのうちマルグリットの手紙で起こされました。それには、こんな文句がしたためてありました。
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『これがあたしの命令よ。今晩ヴォードヴィル座に、第三幕目の幕間にいらっしゃい。M・G』
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わたしはこの手紙を引出しの中にしまっておきました。疑わしいとい思うような場合に、いつでもはっきりした証拠をにぎっておきたいと思ったからです。実際、そんな気持ちになったことも、時々ありました。
昼間会いに来てくれとは書いてなかったのですから、彼女の家へ出かけて行くわけにもいきません。しかし晩までには、せめて顔なりとも見たくてたまらないので、わたしはシャン・ゼリゼへ出かけました。するときのうのように馬車で通りすぎ、また引きかえす彼女の姿が目にはいりました。
七時になると、わたしはヴォードヴィル座へ来ていました。こんなに早く芝居へ来るなんてことはついぞ今までにないことです。桟敷《さじき》は次々にふさがっていきました。ただひとつ、平土間《ひらどま》の前桟敷だけがあいていました。三幕目があくと、さっきからわたしがほとんどじっと目を注いでいたその桟敷の扉のあく音がして、マルグリットの姿が現われました。彼女はすぐ前の方へ出て、奏楽席をさがしましたが、わたしをそこに見つけると、目で感謝の意を表わしました。
その夜の彼女は驚くばかりきれいでした!
彼女のこんな嬌態《きょうたい》は、わたしのためだったでしょうか? 彼女を美しいと思えば思うだけ、このわたしが幸福になる、と信じてくれるほどに彼女はわたしを愛していてくれたのでしょうか? 今もって、わたしにはわかりません。しかし、もしそういうつもりだったのなら、彼女はみごと成功したわけです。というのは、彼女が姿を見せると、観衆の頭が波のように揺れて、舞台の俳優までが、姿を見せただけでこんなにまで観衆を騒がせた女性のほうをじっと見たくらいですから。
それに、わたしはこの女性の家の鍵を持っていたのです。そして三、四時間もすれば、彼女はまたわたしのものになろうというのでした。
世間では、女優や娼婦《しょうふ》ゆえに財産を失った人たちのことを非難します。しかしわたしの驚くところは、かえって、そういう人たちがそんな女たちのために、くりかえしそれ以上気ちがい沙汰《ざた》をしないことです。彼女たちが毎日、男をほんの少しばかり喜ばせることが、男の心にどれほどしっかりとその女に対する愛情を≪はんだづけ≫……これよりほかに適当な言葉が見当たりませんが……にしてしまうことでしょう。わたしのようなこんな生活を送って来たものでなければ、このへんの消息は、とうていわかりますまい。
プリュダンスがつづいて桟敷に席をしめました。それからG伯爵と思われる男が奥にすわりました。
その男の姿を見かけると、わたしは思わず胸がひやりとしました。もちろんマルグリットには、この男が桟敷に現われたのを見て、わたしがどんな気がしたかわかったのでしょう。なぜなら、彼女はもう一度わたしのほうに微笑して見せると、伯爵には背中を向けたまま、いかにも熱心そうに芝居に見入っているような様子をしたからでした。三幕目の幕間になると、彼女は振り返って二言三言なにやら言いますと、伯爵は桟敷を出て行きました。すると、マルグリットはわたしに来るようにと合図をしました。
「今晩は」とわたしがはいって行くと、彼女はそういって、手を差しだしました。
「今晩は」と、わたしもマルグリットとプリュダンスに声をかけました。
「おかけなさいな」
「でも、どなたかの席をとることになりますね。G伯爵はもどって来られないのですか?」
「いらっしゃるわ。ちょっとの間でも、二人きりでお話したいと思って、ボンボンを買いに行ってもらったのよ。デュヴェルノワさんは内輪《うちわ》同士だから」
「そうよ、あんたたち」とこの女は言いました。「どうぞご安心なさい。あたし、何にもしゃべりませんから」
「どうかなさったの、今晩?」とマルグリットは立ちあがり、桟敷のかげのほうへ来て、わたしの額《ひたい》に接吻しながら言いました。
「少し気分が悪いのです」
「帰っておやすみにならなくちゃだめよ」と、その美しい才ばしった顔にうってつけの皮肉な口ぶりで、彼女は言いました。
「どこへ?」
「お宅へよ」
「帰ったって眠れないくらい、よくご存じでしょう」
「だったら、あたしの桟敷にほかの男がいたからといって、何もそんなふくれ顔を見せに来なくてもいいのに」
「そんなわけじゃありませんよ」
「いいえ、そうよ。ちゃんとわかってるわ。あなたのほうが悪いのよ。でも、もうこんなお話はやめましょう。お芝居がはねてからプリュダンスの家へいらっしゃい。そしてあたしが呼ぶまで待っててね。いい?」
「ええ」
わたしが、これにどうして従わずにはいられましょう?
「あなた、やっぱりあたしが好き?」と彼女はまたつづけて言いました。
「今さら、そんなことをきくんですか!」
「あたしのこと思っていてくださった?」
「一日じゅう」
「あたし、あなたが好きになってしまいそうで、本当に心配よ、おわかりになる? プリュダンスにきいてみるといいわ」
「おやまあ!」とふとった女が答えました。「おかげで、閉口《へいこう》するわ」
「さあ、お席へおもどりなさい。もう伯爵が帰って来るわ。ここにいらしって見られてもつまらないから」
「なぜ?」
「だって顔が会えば、いい気持ちはしないことよ」
「そんなことはありませんよ。ただもしあなたが、今晩ヴォードヴィル座に行きたいと言っといてくだされば、ぼくだって、あの人のように桟敷をとっておいたのに」
「ところが、あいにくとあの人、別に頼みもしないのに席をとっておいてくれて、いっしょに行こうと言うのよ。まさか断わるわけにもいかないじゃありませんか。どこでお目にかかれるか、手紙でお知らせするだけで精いっぱいだったのよ。だって、あたしだって一刻も早くお目にかかりたかったんですもの。だのに人の気も知らないで、そんなお礼の仕方をなさるんですもの。いいわ、あたしだって、お手本どおりするわ」
「ぼくが悪かった、あやまりますよ」
「さあ早くお席へ、おとなしくお帰りなさいな。もうこれからは焼きもちなんかやいちゃだめよ」
彼女はもう一度わたしに接吻しました。わたしはその場をはずしました。廊下で、わたしはもどって来た伯爵と出会いました。
わたしは自分の座席に帰りました。
結局G氏がマルグリットの桟敷にいるということは、ごく当たり前のことでした。旦那である彼が桟敷を取ってやって、いっしょに芝居にきたのは、きわめて自然なことでした。わたしもマルグリットのような女を愛人に持ったからには、当然そのしきたりに従わないわけにはいきませんでした。
その晩は、それから先どうもあまり楽しくありませんでした。プリュダンスと伯爵とマルグリットが入り口に待たせてあった馬車に乗るのを見とどけてから、わたしはその場を立ち去りながら、ひどく気がめいってしかたがありませんでした。
しかし十五分後には、わたしはプリュダンスの家にいました。彼女もちょうど今しがた帰ったばかりでした。
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十三
「あたしたちと同じくらい早かったのね」とプリュダンスは言いました。
「ああ」と、わたしは機械的に答えました。
「マルグリットはどこだい?」
「うちよ」
「一人で?」
「Gさんとごいっしょ」
わたしは大股《おおまた》で部屋の中を歩きまわりました。
「まあ、どうなすったの?」
「ここでこうして、G氏がマルグリットの家から出て行くのを待ってるのが、ぼくにとっておもしろいとでも思うのかい?」
「あなたもまた、ものわかりがよくない方だわ。マルグリットだって、まさか伯爵を追い出すわけにはいかないじゃないの。Gさんはあのひととは長いあいだの馴染《なじみ》で、あのひとのためには、ずいぶんつかったのよ。今でもやはり貢《みつ》いでいるのよ。マルグリットは年に十万フラン以上は使って、おまけにどっさり借金があるのよ。ほしいだけは公爵が仕送りしてくださっているけど、あのひとだって、そういつもいつも、いるだけのものを全部くださいとは言いにくいわ。
だから一年に少なくとも一万フランは貢いでくれる伯爵と、けんかなんかしちゃ損よ。マルグリットはとても、あんたを愛してるわ。でも、あんたとあのひととの関係は、あのひとのためにもあんたのためにも、あまり深入りしちゃだめよ。七千フランや八千フランのあんたの収入では、あのひとのぜいたくをまかなっていくことなんて無理よ。それっぽっちじゃ、馬車代にも足りゃしないわ。だから、マルグリットはあのとおりの気のきいた、きれいな、いい女としておいて、ひと月なりふた月なり、あのひとの愛人になってらっしゃいな。花束を贈ったり、ボンボンを買ってやったり、お芝居の席をとってやったりするのよ。
だけどそれ以上のことは、考えちゃだめだわ。みっともない焼きもちなんかやくんじゃないのね。自分の相手がどんな女かってことは、よくわかってるでしょう。マルグリットは生娘《きむすめ》じゃないのよ。あんたはあのひとのごきげんをとって、たんとあのひとをかわいがってやればいいのよ。そのほかのことは気にしちゃいけないわ。あんたもずいぶん興奮したがるたちなのね。あんたはパリ一の気持ちのよい女を愛人にしてるんじゃないの! そのひとはといえば、あんたをすばらしい家《うち》に迎えてくれて、身体中ダイヤずくめで、お望みとあれば、あんたに一銭だって出させやしないわ。それでも、あんたは満足しないのね。しょうがない人だわ! あんまり欲ばりすぎるんだわ」
「きみの言うとおりだよ。しかしぼくにはどうすることもできないんだ。あの男があのひとの愛人かと思うと、ぞっとしてくるんだ」
「まず第一に」とプリュダンスはつづけました。「あの方は今でもマルグリットの愛人かしら? あの方はマルグリットにとっては、どうしても必要な人だけど、ただそれだけの話よ。この二日というもの、マルグリットはあの方に門前払いをくわせたわ。それでけさ、いらしったもんだから、せっかく桟敷《さじき》をとっといてくださったのを断わるわけにもいかず、しかたなしにいっしょにお芝居に行ったのよ。あの方はマルグリットを送って来て、ちょっとの間寄ってるだけなんだわ。あんたがここで待ってるんだもの、どうせ腰を落ちつけてなんかいないわ。わたしからみれば、何もかもごく当たり前のことよ。それにあんただって、公爵のことは別に気にしてないんじゃない?」
「そりゃそうさ。だって公爵は老人だし、マルグリットがその妾《めかけ》じゃないことは、ちゃんとわかってるからね。それに一人の男と関係があるというならまだしも、二人じゃこまるよ。それでも平気だというんじゃ、あまり打算的すぎるよ。いくら愛しているからにしろ、そこまで許すようじゃ、まるでそれを商売にして、うまい汁《しる》を吸っている下等なやつらと、なんら変わるところはないじゃないか」
「まあ! あんたも、ずいぶん古くさいのね! もっと家柄がよくて、もっとおしゃれで、もっとお金のある連中で、今あたしがあんたに教えてあげたようなことをしている人だって、いくらいるか知れやしないわ。それも平気で、恥ずかしいとも思わなければ、後悔もしないでよ! そんなことはざらにあることだわ。パリにいるこうした商売女が、一時に三人なり四人なりの旦那《だんな》を持たず、今のような暮らしをつづけて行こうとすれば、いったいどうすればいいの? いくら大金持だって、一人でマルグリットのような女の入費をまかなっていけるような人は、どこにもいやしないわ。年収五十万フランだったら、フランスじゃたいした財産だわ。でもね、五十万フランの年収だって、不足なのよ。そのわけはこうなの。
それだけの収入のある人なら、まず堂々たるお屋敷があって、馬も飼えば召使いもいる。馬車もあれば狩猟もやる。友だちづきあいもある。たいてい奥さまがあって、子供もある。競馬もやれば賭事《かけごと》もする。旅行にも出る。そのほかまだいくらでもあるわ! それで世間から左前《ひだりまえ》になったと思われまい、とやかく噂《うわさ》を立てられまいとすれば、これまでどおりのやり方をくずさないようにしていかなくちゃならない。何もかも全部計算してみると、年収五十万フランじゃ四、五万フランから上のお金は女にもやれません。それだってまだ多いくらいよ。だから、足りない分は、ほかの旦那をとって埋め合わせをつけるのよ。マルグリットなんか、ずいぶん都合よくいってるほうよ。棚《たな》からぼた餅《もち》というように、千万長者のお爺さんに運よくめぐり合わせて、しかもその人はといえば、奥さまもお嬢さまももう亡《な》くなり、今じゃ身寄りといったら甥御《おいご》さんたちがいらっしゃるきり、それがまたお金持ときてるんですものね。マルグリットの言いなり放題にお金を出してくれて、その代わりにどうしてくれというんじゃないんですからね。だけどマルグリットにしてみれば、年に七万フラン以上出してくださいとは言えないわ。もしそれ以上ねだれば、いくらお金持であのひとをかわいがっていても、公爵はきっとはねつけるでしょう。
パリで年に二、三万フランの収入のある若い人たち、つまり社交界に出入りして、どうにかやっているくらいの人たちなら、だれだってマルグリットのような女の愛人となった場合、自分たちの出すだけのもので、その女の家賃と召使いのお給金も払えないってことは十分心得ていますわ。でも心得ているなんて、言うもんですか。まるで気がつかないような顔をしていて、さんざん楽しんで、そのあとは、さようならというわけよ。もしその人たちが何から何まで自分でやろうなどと、よけいな見栄《みえ》でも張ろうものなら、それこそ、とたんにまるでばかみたいに破産して、パリに十万フランの借金を残したまま、アフリカへんで自殺する羽目《はめ》になるわ。
それだからといって、相手の女がその人たちに感謝すると思って? それどころか、まるで反対よ。おかげで稼業《かぎょう》の邪魔《じゃま》になったとか、その人たちといっしょにいる間に、とんだ散財《さんざい》をしたとかと、きっとその女は文句を言うのよ。ああ! どれもこれも、みっともない話だと、お思いになるでしょう? でもこれは本当の話なのよ。あんたはいい方だし、あたし大好きだわ。あたしはこれでもう二十年も妾《めかけ》商売の女の中で暮らしてきて、そういう女がどんなものだか、どのくらいの値うちがあるものだか、よく知ってるのよ。だから、きれいな娘のあんたに対する気まぐれを、あまりまじめにとらないようにお願いしたいわ」
「それから」とプリュダンスはさらに言葉をつづけました。
「もし万一あんたのことを公爵に感づかれて、あんたのほうがいいか、自分のほうがいいか、二つに一つの返事をしろと言われた場合、マルグリットが伯爵や公爵と別れても、あんたに走るほどあんたを愛してるとすれば、あのひとの払う犠牲は、そりゃ大きいわ。その犠牲に相当するだけのものを、あんた払うことができて? そのうちに飽《あ》きがきて、もうあのひとに用がないとなったとき、あんたのためになくしたものを、あのひとにどうやって償《つぐな》ってやるおつもり? 何ひとつ償ってやれやしないわ。あのひとはあんたのおかげで、お金もはいり、行く末幸福になれる世界から、ひき離されてしまうのよ。自分のいちばんはなやかな時代をあんたに捧《ささ》げて、そのまま世の中から忘れられてしまうんだわ。そのとき、もしあんたが世間によくあるような男なら、面と向かって、あのひとの過去をならべ立てて、自分もほかの愛人たちと同じことをしたにすぎないんだと、ぬけぬけとおっしゃるでしょう。そしてあのひとを見すてて、きっとみじめな目にあわせるでしょう。
もしまたあんたが正直な人で、あのひとの行く末までめんどうをみる義務があると思うなら、今度はあんた自身がいやでも不幸な目にあうことになるわ。だってそうでしょう、ああいう女との関係も、若いうちなら世間が大目で見てくれるけれど、年配になればそうはいきませんからね。なにかにつけて、それが邪魔になり、家庭を持つこともできなければ、出世することもできゃしないのよ。それに家庭だの出世だのというものは、殿方《とのがた》にとって、第二の、そして最後の恋なんですもの。だから、あたしの言うことを信用して、物事をその値うちだけに受け取るように、女を買いかぶらないようになさいよ。そしてああいう稼業の女には、何事によらず、頭をおさえつけるような権利は持たせるもんじゃないわよ」
これは理路整然《りろせいぜん》として筋の通った話でした。プリュダンスにこんなことが言えようとは、思いもかけないことでした。なるほどもっともだとしか返答のしようがなく、わたしは彼女に手を差しのべて、その忠告に感謝しました。
「さあ、さあ」と彼女は言いました。「こんなつまらない理屈はよしにして、お笑いなさいな。世の中っておもしろいもんよ。かけるめがねのぐあいひとつで、どうにでも見えますものね。ねえ、お友だちのガストンさんにきいてごらんなさい。どうやらあの方も、恋というものを、あたしと同じように考えてるらしいわ。いいこと、これだけは心得てちょうだいよ、そうでなけりゃ物わかりが悪いのよ。それはね、すぐお隣にきれいな娘さんがいて、お客が早く帰ってくれればいいと、じりじりしながら、心の中ではあんたのことばかり考えているということなの。そのひとは、ひと晩中あんたといっしょにいてくれるし、それにあんたが好きなのよ。それはたしかだわ。さあ、あたしといっしょに窓のそばへいらっしゃいな。伯爵が帰って行くところを見ましょうよ。あたしたちのほうに、もうそろそろお鉢《はち》がまわってくる時分だから」
プリュダンスは窓を開けました。わたしたちはバルコンにならんで肘《ひじ》をつきました。
彼女はときたま通る人影を眺め、わたしは物思いにふけっていました。彼女の言ったことが、頭の中でがんがんと鳴っていました。なるほど、そのとおりだと思わないわけにはいきませんでした。だがマルグリットに対するわたしの真実の恋は、どうしてもその理屈とは合いませんでした。それでわたしがときおり溜息《ためいき》をもらすので、その度にプリュダンスは振り返って、まるで病人にさじを投げている医者のように、両肩をそびやかすのでした。
『感情が急に移り変わるときには、何と人生は短く思われるのだろう!』と、わたしは心の中で思いました。『マルグリットを知ってから、まだ二日にしかならない。彼女を自分のものにしたのは、やっときのうからなのだ。それだのに彼女はもうわたしの頭にも、心にも、生活にもすっかりはいりこんでしまって、あの伯爵が訪ねて来てさえ、こんなせつない気持ちになるのだ』
ついに伯爵が出て来て、ふたたび馬車に乗って立ち去りました。プリュダンスは窓を閉めました。
それと同時に、マルグリットはわたしたちを呼びました。
「早くいらっしゃい。今ご馳走《ちそう》の支度をしているのよ」と彼女は言いました。「お夜食をみんなでいただきましょうよ」
わたしが家へはいりますと、マルグリットはわたしのそばに駆けよって、首に飛びつき、力いっぱいわたしを抱きしめました。
「あたしたち、相変わらず無愛想にしているのね?」と彼女はわたしに言いました。
「ううん、もうすんだのよ」とプリュダンスは答えました。「お説教をしてたところよ。これからは利口《りこう》になるって約束したわ」
「そりゃよかったわ!」
わたしは見まいと思いながら、つい目をベッドへやってしまいました。ベッドは乱れてはいませんでした。マルグリットはと見れば、もう白い化粧着を着ていました。
みんなで食卓につきました。
魅力も、優しさも、あふれるほどの真情も、マルグリットにはすべて兼ねそなわっていました。ですから、わたしにはもうこれ以上何も求める権利はないのだということを、ときどき思わずにはいられませんでした。わたしの身になったら、多くの男はどんなに幸福に思うでしょう。まるでウェルギリウスの羊飼いのように、わたしもただ一人の神、いや一人の女神《めがみ》がさずけてくれたこの安閑《あんかん》たる暇《ひま》をただ楽しんでいさえすればいいのだと思うのでした。
わたしはプリュダンスの言った理論を実行して、二人のように陽気になろうとつとめました。しかし彼女たちの動作は自然で板についているのですが、わたしの場合は少なからぬ努力がいりました。わたしの神経質な笑いを、二人は本当の笑いと思っているので、つい涙が出そうになりました。
やがて夜食も終わって、わたしはマルグリットと二人きりになりました。彼女はいつものように、暖炉の前の絨毯《じゅうたん》にすわって、悲しげに炉《ろ》の火を見つめていました。彼女は物思いにふけっていました! どんな物思いでしょう? それはわたしにはわかりませんでした。この先、彼女のためにどれほど苦しまなければならないかと考えながら、わたしは空恐ろしさといとしさとが交錯《こうさく》した気持ちで、彼女の姿を見まもっていました。
「あたしが今何を考えてるか、おわかりになる?」
「いいえ」
「ちょっとあることを思いついたのよ」
「あることって何です?」
「今はまだ言えないけど、それがどんな結果になるかってことだけは言えるわ。つまり、そのおかけで、ひと月もすれば、あたしはすっかり自由の身体になれて、もう何のおつとめもしなくていいようになるのよ。そうなったら、この夏は田舎《いなか》でいっしょに暮らしましょうね」
「どんな方法だか、ぼくに言っちゃいけないの?」
「そうなの。あなたはただ、あたしがあなたを愛してるように、あたしを愛してくださればいいのよ。いずれ、何もかもうまくいくんだから」
「で、その計画はあなた一人で思いついたの?」
「そうよ」
「そして自分一人でやるの?」
「めんどうなことは、一人でやるわ」と、微笑しながらマルグリットは言いました。この微笑をわたしは、永久に忘れません。「だけど、利益は二人で山分けよ」
この利益という言葉を耳にして、わたしは顔をあからめずにはいられませんでした。デ・グリューといっしょにB氏の金をつかったマノン・レスコーのことを思いだしたのでした。
わたしはつと立ちあがって、少しきびしい調子で答えました。
「ねえ、マルグリット、ぼくは自分で考えて、自分で実行する計画ならともかく、それ以外の利益なんか分けてもらいたくはないよ」
「それは、どういう意味?」
「つまり、その結構な計画には、きっとG伯爵も一枚加わっているにちがいないと、ぼくは思ってるんだよ。そんなことに頭を突っこみたくもないし、利益にあずかりたくもないんだ」
「あなたはお坊ちゃんね。あたしを愛していてくださるとばかり思っていたのに、それじゃ思いちがいだったのね。それならよくってよ」
そう言うと同時に、彼女は立ちあがって、ピアノの蓋《ふた》をあけ『舞踏への勧誘』を弾きはじめました。そして、いつもつかえる例の長調のところまで弾きました。
それは果たして、いつもの習慣からしたことでしょうか、それとも二人が知りあった日のことを、わたしに思い出させるためだったのでしょうか? ただわたしにわかったのは、そのメロディーを聞くと、さまざまな思い出が心によみがえって来たということでした。わたしは彼女のそばに寄ると、両手でその顔をはさんで接吻しました。
「許してくれるね?」
「よくわかってるじゃないの」と彼女は答えました。「あたしたちはまだきょうでやっと二日目なのに、もう堪忍《かんにん》してあげなきゃならないことが起こったのよ。気をつけてちょうだいな。何でも言うことをきくとあれほど約束しておきながら、ずいぶん当てにならないのね」
「だってマルグリット。あんまりきみを愛しているもんだから、きみの考えるほんのちょっとしたことも、何か気になるんだよ。今さっき言ってくれたことは、実はどんなにうれしいかしれないんだけれど、さてその計画を実行する以前のあいまいな点が、ぼくには何とも気がかりなんだ」
「それじゃ、少し落ちついて考えてみましょうよ」と、わたしの両手をとり、男の心をとらえるような微笑を浮かべて、わたしを見ながら彼女は言いました。
「あたしを愛してくださってるのね。それなら、あたしと二人きりで、三月《みつき》なり四月《よつき》なり、田舎で暮らせたら、うれしいでしょう。あたしだってそのとおりよ。二人きりで暮らせたら、どんなにうれしいかしれないわ。あたしの身体のためにも、ぜひそうしなきゃいけないわ。でも自分の用事をちゃんと片づけてからでないと、あたし、そんなに長くパリを離れていられないのよ。ところが、あたしみたいな女の用事ときたら、いつだって、こんぐらかって、とても複雑なんだわ。それでね、あたし、何もかもうまくゆく方法を思いついたのよ。自分のいろんな用事も、あなたへのあたしの愛も。そうよ、あなたへの愛よ。お笑いになっちゃいけないわ。あたし、気がちがったみたいにあなたを愛しているのよ! それだのにあなたってば、何だかもったいぶってるし、えらそうなことばかり言うのね。あなたはお坊ちゃんよ。とてもお坊ちゃんよ。あなたはただ、あたしが愛してるってことだけ忘れなけりゃいいんだわ。そのほかのことは、何にも気をもむことなんかないのよ。いいこと?」
「何でもきみの言うとおりにするよ。そんなことわかってるくせに」
「それじゃ、ひと月しないうちに、二人でどこかの村へ行って、水のほとりを散歩したり、牛乳を飲んだりしましょうね。あたしが、マルグリット・ゴーチエがこんなことを言えば、何だか変な気がなさるでしょう。でも、これにはわけがあるのよ。このパリの生活は、あたしをとても幸福にしてくれてるようだけど、ほんとはおもしろくも何ともないの。かえって退屈だわ。それでふいに、子どものころを思い出させるような、もっと静かな生活がしてみたくなったの。だれだって一度は子どもだったんだわ、今どんな人間になっていたところでね。まあ! 安心なさいよ。あたし別に退役陸軍大佐の娘だとか、サン・ドゥニで育ったなんて言いはしないわ。田舎の貧しい家の娘よ。六年前までは、名前さえ書けなかったわ。これであなたも安心したでしょう? 自分の心に浮かんだ楽しい希望をほかの人と分けあうのに、なぜまず第一にあなたに言ったとお思いになって? それはたぶん、あなたがご自分のためじゃなくて、あたしのためにあたしを愛してくださることが、よくわかったからだわ。ところがほかの殿方ときたら、ただもう自分のためばかりに、あたしを愛してたんだわ。
あたしは何度も田舎《いなか》へ行ったけど、行きたいと思って行ったことは、まだ一度もないのよ。こんなにたやすく幸福を味わえるのも、あなたのおかげだと、あなたを当てにしてるの。だからもう意地悪なんかしないで、あたしを幸福にしてちょうだいね。こんなふうに思っていただければいいんだわ。この女もどうせ長生きできないんだから、この女から頼まれた最初のこと、それも手数のかからないことをしてやらなかったら、いずれはきっと後悔することになるだろうと、ね」
こう言われては、いったい何と答えたらいいでしょう? ことに恋の第一夜の思い出にふけりながら、第二夜を待ちこがれているときではありませんか。
一時間の後には、わたしはマルグリットを両腕に抱きしめていました。もし彼女が何か罪を犯せと命じたら、わたしは彼女の言いなりになったことでしょう。
朝の六時に、わたしは暇を告げましたが、帰りしなに彼女に言いました。
「今晩だね?」
彼女は、さらに力強くわたしを抱きしめましたが、何の返事もしませんでした。
その日のうち、わたしは一通の手紙を受けとりました。それには次のような文句が書かれていました。
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『かわいい坊ちゃん、あたしは少し加減が悪いの。お医者さまから、安静にするように言われています。今晩は早くやすみますから、お目にかかれませんわ。そのかわり、あす、おひるにお持ちしています。
あたし、あなたを愛しています』
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わたしが最初に言った言葉は、こうでした。『おれをだましてるな!』
冷たい汗が額《ひたい》を伝い流れました。わたしはあまりにもあの女を愛していましたので、こんな疑いをいだくだけで、もうすっかり気が転倒してしまうのでした。
しかしマルグリットが相手では、ほとんど毎日のようにこんな出来事にぶつかるものと思っていなくてはなりません。こんなことは、ほかの恋人のときには、よく出会ったものでした。ただそのときは、たいして気にもかけませんでした。では、この女だけがわたしの生活をすっかり支配しているというのは、いったいどうしたわけでしょうか?
そこでわたしは考えました。彼女の家の鍵があるんだから、いつものように会いに出かけてみよう。そうすれば、すぐ真相がわかるだろう。もしまた男でもいたら、そいつに平手打ちをくわしてやろう。
ひとまずシャン・ゼリゼへ出かけ、そこに四時間いました。彼女は姿を見せませんでした。日暮れには、彼女がいつも行く劇場をひとつ残らずのぞいてみました。しかしどこにも彼女の姿はありませんでした。
十一時に、わたしはアンタン街へ行きました。
マルグリットの家の窓には、明りがついていませんでした。わたしはかまわず呼び鈴を鳴らしました。
門番はわたしにどこへ行くかとたずねました。
「ゴーチエさんのところへ」とわたしは答えました。
「お帰りになっていませんよ」
「あがって待っていよう」
「どなたもおいでになりませんよ」
明らかにそう言いつけられているのです。鍵は持っているのだから、無理にでもはいろうと思えばはいれたのですが、妙な噂《うわさ》を立てられてはとおそれて、わたしはそのままそこを出ました。
しかしわたしは帰宅しませんでした。どうもその町を立ち去ることができず、マルグリットの家から片時も目をはなしませんでした。何かきっと気がつくことがあるだろう、少なくとも、わたしの疑いだけは立証されるだろう、そんな気がしたのでした。
夜中の十二時ごろ、たしかに見覚えのある馬車が、九番地のあたりでとまりました。
G伯爵が馬車からおりて、それを帰すと、家の中にはいりました。
一瞬間わたしは、彼も同じようにマルグリットは留守だと言われて、このまま引きかえしてくれればいいがと思いました。しかし朝の四時になっても、わたしはまだ彼が出てくるのを待っていたのでした。
この三週間というもの、わたしはひどく苦しみました。しかしあの夜の苦しみにくらべたら、物の数でもないと思います。
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十四
家に帰ると、わたしは子どものように泣き出してしまいました。男としてただの一度も女に裏切られたことのない者は、たぶんいないでしょうし、それがどのくらい苦しいものか知らない者はないでしょう。
こんなときだれしも、一時はかっとなって、心に固く決したことを実行にうつす力があるように思いこむものです。このわたしとても、まったく同様で、この情事とはすぐにも縁を切ってしまわなければならないと思いました。そして、もとどおりの自分に立ちかえり、自分をたしかに愛してくれて、しかも決して裏切ることのない父と妹のもとに帰って行こうと思いながら、夜があけるのを今か今かと待ちあぐねました。
しかしわたしはマルグリットに、自分が立ち去って行く理由を知らせずに、そのまま立ってしまいたくはありませんでした。一通の手紙も書かずに愛人を捨てることができるのは、もう全然その女性を愛さなくなった男だけです。
そこで頭の中で、何度も手紙を書きあらためました。
わたしは世間一般の商売女とまったく同じような女を相手にしているのでした。わたしは女をあまりに詩化していたのですが、女はわたしを小学生扱いにし、見えすいた策略《さくりゃく》をつかって、わたしをだましたのです。それはわかりきったことでした。そうなると、自尊心がむらむらと頭をもたげてきました。女と手を切るにしても、わたしのほうで別れるのをせつなく思っているのを相手に知られて、いい気にならせてはいけません。そこでわたしは目に怒りと悲しみの涙を浮かべながら、なるたけ優雅な字で、次のように書きました。
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『親愛なるマルグリット、
きのうのご病気は、別にたいしたことでなければよかったと思います。夜の十一時に、お見舞いにあがったのですが、まだお帰りにならないということでした。G氏のほうが、ぼくよりしあわせでしたね。G氏はもっと後でやって来たのに、朝の四時になっても、まだお宅にいられたのですから。
数時間も退屈にすごさせたことを、どうぞお許しください。そしてわたしも、おかげですごすことができた楽しい時間を、永久に忘れはしません。
きょうも、ご様子を伺いにあがるつもりでいましたが、これから父のもとに帰ることにしました。
さようなら、愛するマルグリット。ぼくは自分の思うままにあなたを愛することができるほど金持でもなければ、お望みどおりにあなたを愛することができるほど貧乏でもありません。ですから、もうお互いに忘れることにしましょう。あなたは物の数でもない一人の男の名前を、そしてぼくはもう望みのなくなった幸福を。鍵はお返しします。わたしには一度も用のなかった鍵ですが、もしきのうのようにたびたびご病気になられるのでしたら、さぞかしお入り用でしょうから』
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わたしはごらんのとおり、手紙のおしまいに、とても無遠慮な皮肉を書かずにはいられませんでした。しかしこれは、わたしがまだどんなにか彼女を愛していたかを証明するものです。
わたしはこの手紙を何度か読みかえしました。そしてこれがマルグリットを苦しめることを思うと、いくらか気分が静まりました。わたしはつとめて自分の気をひき立たせて、手紙の中で装《よそお》っているような気持ちになろうとしました。そして八時に、召使いが部屋にはいってくると、手紙を渡して、さっそく先方へ届けるように言いつけました。
「ご返事をいただいてまいるんですか」と、ジョゼフがたずねました。(わたしのところの召使いも世間によくあるように、ジョゼフという名前でした)
「もし返事がいるのかときかれたら、何とも承っておりませんと言って、待っていておくれ」
わたしは、彼女が返事をよこすだろうという望みに期待をかけていたのでした。われわれ人間は、まあ何と哀れな、弱いものなのでしょう!
召使いが外出している間、絶えずわたしはひどく気持ちが落ちつかないでいました。マルグリットがどんなに自分に夢中になっていたかを思いかえすと、自分に何の権利があって、あんな無遠慮な手紙を書いたのかと、自分に問いかけてみました。彼女は、G氏があなたをだましたのではなくて、あなたこそG氏をだましたのだと答えるかもしれません。多くの女性はこんな理屈を言って、何人もの愛人をもつものです。
そうかと思うと、また彼女のさまざまな誓いを思い出して、あの手紙ぐらいでは、まだまだおだやか過ぎた、こんな真剣な恋を冷笑するような女をたたきつけてやるには、どんな手きびしい文句でもかまわなかったのだと思いました。またそれから、いっそ手紙なんか書かないで、昼間のうちに彼女のところへ行けばよかったんだとも思いました。そうすれば、彼女に涙を流させて、いい気持ちになることができただろうとも思うのでした。
ジョゼフが帰って来ました。
「どうだった?」とわたしは彼に言いました。
「奥さまはまだおやすみになっていましたが、お目覚めになり次第、お手紙はお渡しするとのことでございました。もしご返事があれば、先方さまからお届けするそうでございます」と彼は答えました。
彼女は眠っていた!
何度もわたしはあの手紙を取りもどしにやろうとしましたが、しかしそのたびごとにわたしはこう考えました。「手紙はたぶんもう彼女の手に渡っているだろう。すると、こっちが後悔しているようにとられるな」
彼女が返事を寄こしそうな時間が近づけば近づくほど、わたしはますます手紙を書いたことを後悔しました。
十時、十一時、十二時と時計が鳴りました。
正午になると、まるで何事もなかったように、わたしは今にも会いに行こうとしました。結局わたしは、自分をしめつけている鉄の輪から抜け出すには、どうすればいいのかわからなくなってしまいました。
そのときわたしは、待つ身になった人たちがいだくあの迷信から、もししばらくでも外出して帰ってくれば、きっと返事が届いていそうな気がしました。待ちこがれている返事というものは、いつも留守中に届いているものです。わたしは昼の食事に行くというのを口実にして家を出ました。
行きつけのブールヴァールの角《かど》のカフェ・フォワへは行かずに、パレー・ロワイヤルで食事をしようと思い、アンタン街を通って行くことにしました。遠くのほうに女の姿が見えるたびごとに、ナニーヌが返事を持って来るのではないかと思いました。アンタン街を通りすぎましたが、使いの者らしい男にも、ついに出会いませんでした。やがてパレー・ロワイヤルに着くと、わたしはヴェリへはいりました。給仕がたべものを運んで来ました。というよりもむしろ、勝手にいろんなものをわたしの前に運んで来ました。だってわたしは、ひと口もたべなかったのですから。
その気でもないのに、わたしは掛け時計ばかり始終見つめていました。マルグリットの手紙がきっと届いている時分だと思いながら、わたしは帰って来ました。
門番は何も受けとっていませんでした。わたしはそれでもまだ召使いに望みをかけていました。しかし彼もわたしが出かけてから、だれにも会っていませんでした。もしマルグリットが返事をくれるものなら、もうとっくに届いているはずでした。
こうなるとわたしは、自分の書いた手紙の文句を後悔しはじめました。全然沈黙をまもるべきだったのです。そうすれば彼女も心配して、きっと何とかしたでしょう。前日わたしが会いに行かなかったので、どうして顔を見せなかったかをきくでしょう。そのときこそ、はじめてそのわけを言ってやればよかったのです。これでは、彼女は言いわけをするよりほかに、しかたがなかったでしょう。わたしが望んでいたのも、この彼女の言いわけをききたかったのです。二言三言その言いわけをきけば、すぐそのまま信じこむでしょう。二度と彼女と会わないよりは、いっそのこと彼女の何もかもひっくるめて、彼女を愛したほうがましだ、というような気持ちに、もうなっていたのでした。
そのうちにわたしは、彼女は自分できっとわたしのところへやって来るだろうと思うようになりました。しかし時間はいたずらにたつばかりで、いっこうに彼女はやって来ませんでした。たしかにマルグリットは、ほかの女性とはちがっていました。わたしが書いたような手紙を受け取って、何の返事もよこさない女性なんて、ちょっと珍しいですね。
五時になると、わたしは大急ぎでシャン・ゼリゼへ駆けつけました。
「もしあの女に出会っても」とわたしは考えました。「わざとそっけなくしてやろう。そうすればおれがもう自分のことなんか考えていないのだと思うだろう」
ロイヤル街の曲がり角で、彼女が馬車で通りすぎるのを見ました。あんまり突然だったので、わたしはさっと顔色を変えました。
彼女のほうでも、こちらの狼狽《ろうばい》に気がついたかどうかはわかりません。わたしはもうすっかり、どぎまぎしてしまって、馬車しか目にはいりませんでした。
もうシャン・ゼリゼを散歩する気になれず、わたしは芝居のポスターを眺めていました。もう一度彼女に会える機会があったからです。
ちょうどパレー・ロワイヤル座の初日でした。マルグリットはきっとそこへ出かけているにちがいありません。わたしは七時に劇場に行っていました。
桟敷《さじき》は満員でしたが、マルグリットの姿はどこにも見えませんでした。
そこでパレー・ロワイヤル座を出ると、ヴォードヴィル座、ヴァリエテ座、オペラ・コミック座と、彼女がいちばんよく行く劇場を、片っぱしからのぞいてみました。しかし彼女の姿はどこにも見えませんでした。
彼女はわたしの手紙を見て、芝居見物などしていられないほど心配しているのだろうか? それとも、わたしと顔を合わせるのを恐れて、言いわけするのを避けようとしているのだろうか?
こんなふうに心中ひそかにうぬ惚《ぼ》れながら、プールヴァールを歩いていると、ひょっくりガストンに出会って、今までどこにいたのかときかれました。
「パレー・ロワイヤル座だよ」
「ぼくはオペラ座にいたんだ」と彼は言いました。「あそこできみにも会えると思ってたんだが」
「なぜ?」
「だってマルグリットが行ってたからさ」
「へえ! 彼女はあそこにいたのか?」
「そうさ」
「一人で?」
「いや、女の連れが一人いたよ」
「じゃ、二人きりかい?」
「G伯爵がほんのちょっと桟敷に来ていたよ。だが彼女は公爵といっしょに帰ったよ。ぼくは、今にもきみが顔を見せそうなものだとばかり思っていたんだ。ぼくのわきに空席があって、ずっと空いていたままだったから、おおかたきみが借り切っておいたんだと思っていたんだ」
「だがマルグリットの行く先へ、なぜぼくが行かなくちゃならないんだい?」
「そりゃ、きみが彼女の愛人だからさ、決まってるさ!」
「だれからきいたんだい?」
「プリュダンスさ、きのう会ったんだ。おめでとう。彼女は願ってもない美しい愛人だね。大事にしたまえ。きみの名誉になるぜ」
ガストンのそうした単純な物の考え方は、わたしの激しやすい性質がどんなに滑稽《こっけい》なものであったかを教えてくれました。
もし前日、わたしが彼に出会って、こんな話をきかされていたら、もちろんけさのようなばかげた手紙は書かなかったでしょう。
これからプリュダンスの家へ行って、マルグリットに話したいことがあるからと伝えてもらおうかと思いました。しかし彼女が仕返しのつもりで、ただひと言《こと》会えないと返事をするかもしれないので、それが心配でした。で、わたしはアンタン街を通って、家に帰りました。わたしはもう一度、門番に、わたしあての手紙が来ていないかとたずねました。
何も来ていませんでした!
彼女のほうでは、わたしが何か新しい行動に出るかどうか、またきょうの手紙を取り消すかどうか、そんなことを見きわめようとしているのかもしれないのです。いや、こちらから手紙をやらないので、おそらくあすにも、向こうから手紙をよこすだろうなどと考えながら、わたしはベッドにはいってしまいました。
その夜はことのほか自分のしたことが後悔されました。家の中に一人っきりでいると、不安と嫉妬に胸をかきむしられながら、一睡もできませんでした。万事を成行きにまかせておきさえすれば、今ごろはマルグリットのそばで、その優しい言葉を聞いていることができたはずでした。まだ二度しか聞いてないあの優しい言葉が、こうして一人でいると、まるで焼けつくように耳に聞こえてくるのでした。
わたしの立場として恐ろしいことは、よく考えてみれば、自分のほうが悪いということでした。マルグリットが、あらゆる点から、わたしを愛していることを語っていました。まず第一に、田舎《いなか》に行って、わたしと二人きりでひと夏をすごそうという計画がそうでした。次には、彼女をむりにわたしの愛人にさせたようなものは、何ひとつなかったという事実です。わたしの財産といったって、彼女の生活費はおろか、わずかの小遣銭《こづかいせん》にも足らなかったのですからね。してみれば、今まで過ごして来た金銭ずくの恋から身をひくつもりで、真実の愛情をわたしに求めようという希望しか彼女にはなかったということです。ところがきょうで二日目だというのに、早くもわたしはその希望をぶちこわしてしまい、あまつさえ、ふた晩にわたる喜んで承知してくれた情事に対して、失礼きわまる皮肉をもって報いたのです。
こうしてみると、わたしの仕打ちはただ単にばかげているというだけでなく、はなはだ思いやりのない行為だったわけです。彼女の生活について、とやかく言う権利を得るために、わたしは幾らかでも金銭を支払っているでしょうか? 二日目には早くも手を引いてしまって、まるで食事の勘定書を出されるのを恐れている恋の寄生虫のように、わたしはみられないでしょうか? 何ということでしょう! マルグリットと近づきになって、まだ三十六時間しかたっていないのです。彼女の愛人になってからだって、まだやっと二十四時間にしかならないのです。それだのにもう憤慨しているのです。そして彼女に愛されている身の幸福も忘れ、これから先に彼女に金を出してくれるこれまでの男たちと、いっぺんに手を切らせて、自分一人だけのものにしようとしているのです。いったい彼女のどこを責めようというのでしょうか? そんなところは何ひとつありはしないのです。ある種の女なら、そのずうずうしい気持ちから、今夜は旦那が来るんだからと、遠慮なく言うことができるのを、彼女はそう言わずに、病気だからと手紙で言ってよこしたのです。
わたしとて、その手紙をそのまま信じ、アンタン街以外のパリの町中を散歩したり、友だちと一夜をすごしたりして、翌日指定の時間に彼女のところへ行けばよかったものを、そうはしないでオセロのような役割をやって、彼女の様子を探ってみたり、もう二度と会わないといって彼女をこらしめたつもりになっていたのです。
しかし彼女のほうはあべこべに、こうして別れたことを喜んでいたにちがいありません。きっと彼女はわたしを、どこまでも間のぬけた大ばか者だと思っているでしょう。そして彼女が沈黙していたのは、わたしを恨《うら》んでいたからではなく軽蔑していたからなのです。
それならそれで、マルグリットに何か贈り物のひとつもすればよかったのでしょう。そうすればこちらの気前のいいところがはっきりわかり、またわたしとしても、彼女を当たり前の娼婦扱いにするわけですから、きれいさっぱり借りたものを返した気持ちにもなれたわけでした。ところがわずかでも商取引のような形になっては、彼女がわたしに対して抱いている恋はともかく、少なくともわたしが彼女に対して抱いている恋を侮辱することになると思いました。この恋がだれにも分けてやれないほど清純なものである以上、たとえどんなりっぱな贈り物であっても、どんな短い幸福であったにせよ、わたしに与えられた幸福の代償とすることはできなかったでしょう。
その夜、わたしはこんなことを、繰りかえし考えました。これからマルグリットのところへ行って、自分の考えを言おうと、何度思ったかしれません。
夜が明けるころになっても、わたしはまだ眠ることができませんでした。熱もあったのです。マルグリットのことばかり考えていました。
あなたもよくわかってくださるでしょうが、とにかく最後の決心をして、彼女と手を切るか、自分のすべての疑念を一掃《いっそう》するか、二つに一つです。もっともこれは彼女がもう一度わたしに会ってくれるものとしての話ですが。
しかしご承知のとおり、だれだって最後の決心というものは、なかなかつきかねるものです。そんなわけで、家でじっとしていることもできず、さりとてマルグリットのところへ出かけて行くほどの勇気もないので、わたしはある手段によって、それとなく彼女に近づこうと試みました。これがうまく成功した場合、偶然の結果ということになって、自尊心を傷つけずにすむ手段でした。
九時になると、わたしはプリュダンスのところへ駆けつけました。すると彼女は、こんな朝早くから、何しに来たのかとたずねました。
わたしは正直に自分の来たわけを話す勇気がなかったので、父の住んでいるCへ行く乗合馬車の席をとるために、朝早く出て来たのだと答えました。
「あなたはおしあわせね」と彼女は言いました。「こんないいお天気に、パリから出て行けるなんて」
自分をからかっているんじゃないかと思って、わたしはプリュダンスの顔を、じっと見つめました。
しかし彼女はまじめでした。
「マルグリットにさよならをおっしゃりにいらっしゃる?」と相変わらずまじめな調子で言いました。
「いや」
「そのほうがいいわ」
「そうかな?」
「もちろんよ。もうあのひとと別れたんですもの、今さら会ったところでしょうがないわね」
「じゃ、ぼくたちが別れたことを知ってるのかい?」
「あんたの手紙を見せてもらったもの」
「で、なんて言ってた?」
「こう言ってたわ。ねえ、プリュダンス、あんたのごひいきの人は礼儀知らずね。こんな手紙、心の中で思ってたって書くもんじゃないわ、って」
「どんな口調でそう言った?」
「笑いながらよ。そのほか、まだこうも言ったわ。あの方、うちで二度もお夜食をあがったのに、まだあいさつにも見えないわ、ってね」
これがわたしの手紙と嫉妬の結果でした。わたしの恋のうぬ惚《ぼ》れは、残酷なまでに踏みつけられてしまったのでした。
「あのひと、ゆうべはどうした?」
「オペラ座へ行ったわ」
「知ってるよ。それから先は?」
「おうちでお夜食をしたわ」
「一人でかい?」
「G伯爵といっしょだと思うわ」
それでは、わたしと別れても、マルグリットの日常には、何の変化もなかったのです。
こんな場合、人はよく次のように言います。
『愛していない女性のことなんか、もう考えるのはよしたまえ』とね。
「そうか、マルグリットがぼくのことで別に気を落としていないとわかって、安心したよ」とわたしは強いて微笑を浮かべながら言いました。
「でも、あのひとの言うのももっともよ。あんただって自分のすべきことをしたんだし、あんたのほうがその点では、あのひとよりもっと物がわかってるわ。だってあのひとはあんたに惚れていて、あんたのことばかり言ってたくらいだもの、このままではこの先どんな向こう見ずなまねをしでかすかしれないわ」
「ぼくを愛してるなら、どうして返事をくれなかったんだろう?」
「それはね、あんたを愛したのは間違いだと気がついたからだわ。それに女ってものは、恋を裏切られるのはがまんできても、女の誇りを傷つけられることは、とうてい堪忍《かんにん》できないのよ。たとえどんなわけがあったにせよ、言いかわして二日目に捨てられたんじゃ、女の誇りは台なしだわ。あたしはマルグリットの気性をよく知ってるけれど、あのひと、あんたに返事を書くくらいなら、いっそ死んじまうわよ」
「じゃ、ぼくはどうすればいいんだい?」
「どうもこうもないわ。あのひとはあんたのことを忘れちゃうし、あんたもあのひとのことを忘れちゃう。そうなればお互いに文句を言うことなんか、ちっともないじゃないの?」
「だけど、もしぼくが手紙で、あやまったら、どうだろう?」
「そんなまねはしないほうがいいわ。あのひときっとあんたを許すでしょうから」
わたしはもう少しで、プリュダンスの首っ玉にかじりつくところでした。
それから十五分の後、家に帰って、わたしはマルグリットへあてて手紙を書きました。
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『ある男が、きのうあなたに差しあげた手紙のことを後悔して、もしあなたがお許しくださらなければ、あすパリを去ろうとしています。何時ごろ伺ったら、あなたの足もとにひれ伏してお詫《わ》びすることができましょうか、お知らせ願いたいと思います。
いつごろお一人でいらっしゃいますか? と言いますのは、ご承知のとおり、懺悔《ざんげ》というものは立会人なしで行なわれるべきものですから』
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散文で書いたこんな恋歌《マドリガル》のようなものを、わたしは折りたたんで封をすると、ジョゼフに持たせてやりました。彼はこの手紙をマルグリットに直接手渡しましたが、彼女はのちほど返事をすると答えたということでした。
わたしは夕食をとりに行くため、ほんのちょっとの間外出しただけでしたが、夜の十一時になってもまだ返事は届きませんでした。
そこでわたしは、もうこれ以上悩むまいと決心し、次の日出発することにしました。
こう決心すると、横になっても、どうせ眠れそうもないと思ったので、荷造りに取りかかりました。
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十五
ジョゼフと二人がかりで、出発の準備にとりかかってから、およそ一時間もたったころでした。だれか表の呼び鈴をはげしく鳴らしました。
「開けましょうか?」とジョゼフが言いました。
「開けてみなさい」とわたしは言いました。こんな時刻に、いったいだれが訪ねて来たんだろうと思いましたが、まさかマルグリットだとは思いませんでした。
「旦那さま」とジョゼフはもどってきて言いました。「ご婦人がお二人でお見えになりました」
「あたしたちよ、アルマン」と叫んだ声は、まさしく聞き覚えのあるプリュダンスの声です。
わたしは部屋から出て行きました。プリュダンスは立ったまま、客間にある骨董《こっとう》品を眺めていました。マルグリットはソファに腰かけて、物思いにふけっていました。
わたしは客間にはいるなり、彼女のそばに寄ると、ひざまずいて、その両手をとりました。そして感動で胸をいっぱいにしながら言いました。「許してください!」
彼女はわたしの額に接吻して言いました。
「あなたを許してあげるのは、これで三度目よ」
「ぼくはあすたつところだった」
「あたしが伺ったからといって、どうして決心をお変えになるの? 何もパリをお立ちになるのを、邪魔しに来たんじゃないのよ。あたしが伺ったのは、昼間のうちはご返事する暇がなかったし、それにあなたに対してあたしが怒っていると思われたくなかったからなの。それからね、プリュダンスはあたしを来させたくないと思ってたのよ。あたしが行くと、たぶんお邪魔になるからって言うの」
「邪魔だなんて、マルグリット、あなたが! どうして?」
「だってさ! もしかしたら、あんたがだれか女の人といっしょかもしれないもの」とプリュダンスは答えました。「そこへ女が二人も押しかけてごらんなさい。その女の人だって、きっといい気持ちはしないにちがいないわよ」
プリュダンスがこんなことを言っている間に、マルグリットはじっとわたしの顔をみつめていました。
「ねえ、プリュダンス」とわたしは答えました。「きみは自分で自分の言ってることがわからないんだね」
「お宅はとてもいいおうちね」とプリュダンスは言いました。「寝室を拝見してもいい?」
「ああ、いいとも」
プリュダンスはわたしの部屋へはいって行きました。部屋を見るというよりもむしろ、つまらないことをしゃべった埋め合わせに、マルグリットとわたしを二人きりにするためでした。
「なぜプリュダンスを連れて来たの?」とわたしは彼女に言いました。
「いっしょにお芝居へ行ったからなのよ。それにあたし、帰りにだれか連れがほしかったの」
「ぼくがいるじゃありませんか?」
「ええ、だけどご迷惑をかけたくなかったし、それにあたしんちの前までいらっしゃれば、あなたはきっと寄って行くとおっしゃるでしょう。ところがあたし、お寄りなさいとは言えないんですもの。お断わりすれば、あなたは当然の権利のように怒ってお帰りになるでしょう。それがいやだったの」
「でも、なぜぼくをうちへあげちゃいけないの?」
「見張りが厳重だからよ。ちょっとでも怪しいと思われたらさいご、ひどい目に会うかもしれないんですもの」
「理由はただそれだけ?」
「ほかに理由があれば、はっきり言うわ。あたしたちお互いに、もう秘密なんかないはずよ」
「ねえ、マルグリット。ぼくは回りくどい言い方をしたくないから、卒直《そっちょく》に言うけれど、きみは少しはぼくを愛していてくれる?」
「とても愛してるわ」
「じゃ、なぜぼくをだましたの?」
「ねえ、あなた、もしあたしが公爵夫人かなんかで、年に二十万リーブルもの収入がある身分で、あなたという人がありながら、ほかに男をこしらえたとでもいうなら、なぜだましたと、あなたからお小言を言われてもしかたがないわ。でもあたしは、ごらんのとおりのマルグリット・ゴーチエよ。四万フランからの借金はあるけれど、財産といったら一文もないわ。それでいて年に十万フランも使っているんですもの。あなたの質問も間が抜けているなら、あたしのほうも返事するだけ野暮《やぼ》というもんだわ」
「そりゃそうだ」と、マルグリットの膝《ひざ》に頭をうずめながら、わたしは言いました。「しかしぼくは、まるで気ちがいのようにあなたを愛してるんだ」
「そうだったら、あたしをそれほどまでに愛さないようにするか、でなかったら、もっとよくあたしというものを理解するか、どちらかにしてくださらなきゃだめだわ。
あなたのお手紙を読んで、あたしずいぶん辛《つら》かったわ。もしあたしが自由な身体だったら、第一におととい、伯爵を家へ入れはしなかったでしょう。たとえ入れても、きっとあなたのところへ来て、今あなたがあたしになさったようにあなたにあやまるでしょうね。そしてそれから先は、もうけっしてあなた以外に男は持たないわ。あたしは半年の間だけでも、そういう幸福に浸《ひた》れるものと一時は思ったけれど、あなたにはそれが気に入らなかったのね。あなたはぜひともその方法を知ろうとなさったけれど、そんな方法なんか造作《ぞうさ》もなくわかることだわ。そのために、あたしはあなたなんかの思いもよらないほど大きな犠牲を払っているんだわ。あのとき、あなたに二万フランいると言えば、言えたんだわ。あなたはあたしを愛してらしたから、あとで文句は出ても、とにかくそれだけのお金を工面《くめん》してくださったでしょう。でもあたし、ご迷惑をかけたくなかったのよ。あなたには、そうした心づかいがちっともおわかりにならなかったのね。だってこれも心づかいのひとつだわ。あたしたちみたいな女だって、わずかでも真心があれば、言うことやすることに、ほかの女たちの知らない意味を含ませたり、別の意味をつけ加えたりすることがあるものよ。
だからくどいようですけど、このマルグリット・ゴーチエの身になれば、いるだけのお金をあなたにせびらずに借金を払う方法を見つけたのは、これでもひとつの心づかいだったのよ。あなたは何もおっしゃらずに、ただそれを利用していてくだされば、それでいいんだわ。もしきょうあたしと知り合いになったとして、あたしがあんなお約束をしたら、とても喜んで、おとといあたしがどんなことをしたかなんて、おたずねになるはずはないわ。あたしたちは時と場合によっては、身体を売って心の満足を買わなくちゃならないのよ。だからあとになって、その満足を取りにがしたときには、どんなにか辛い思いをしなきゃならないのよ」
わたしはマルグリットの話を感心して聞きながら、じっとその顔をみつめていました。以前はその足になりと接吻したいと願ったこのすばらしい女性が、どうした拍子にか、わたしを愛してくれて、彼女の生活の中で、ひとつの役割をわたしに与えてくれているのに、わたしのほうでは、与えられたものにまだ満足していないことを考えると、男の欲望というものには、果たしてこれで満足だという限りがあるものかどうかと疑いたくなりました。わたしのようにこんなに早く望みがかなえられても、まだそれ以上のものを望むのですからね。
「まったくそうよ」と彼女はさらに言葉をつづけました。「あたしたちみたいな行き当たりばったりの女は、ずいぶん変わった望みを持ったり、思いもよらない恋をしたりするものよ。あるひとつのことに夢中になるかと思えば、また別のことに心を奪われることもあるのよ。だから世間にはあたしたちから何ひとつ手に入れないうちに財産をなくしてしまう男もあれば、花束ひとつで、あたしたちを自分のものにする男もあるわ。あたしたちの心は、ずいぶん気まぐれなのよ。でもそれがたったひとつの慰めにもなれば、またたったひとつの言いわけにもなるんだわ。誓って言うけど、だれにだってあたし、あなたにするほど早く身をまかせたことはないわ。いったいなぜかしら? つまりはあなたが、血を吐くあたしを見て、あたしの手を握ってくださったからなのよ。泣いてくださったからよ。あたしのことを心から哀れんでくださった、たった一人の方だからよ。
こんなことを言うと、気ちがいじみているけれど、もう先《せん》、小犬を一匹飼っていたことがあるの。その犬はあたしが咳《せき》をすると、とても悲しそうな様子をして、あたしをじっと見ていたわ。生物《いきもの》で、これまでかわいいと思ったのは、この犬だけだわ。
その犬が死んだとき、母が死んだときよりももっと泣いたわ。母が生きている十二年間というもの、あたしはぶたれてばかりいたんですものね。で、あたしはその犬と同じように、すぐにあなたが好きになったのよ。もしも男が、ひと滴《しずく》の涙でなにが得られたかを知っていたら、もっとあたしたちから愛されるでしょう。またあたしたちだって、これほどみじめにならないわ。
あなたのお手紙は、まるであなたのおっしゃることとちがっていたわ。あれを読んで、あなたには人間の心というものが、少しもわかってないと思ったわ。これから先、あたしにどんなことをなさるかわからないけど、あの手紙ほどあたしのあなたに対する愛を傷つけたものはないわ。そりゃ、焼きもちのせいかもしれないけど、同じやくにしても、皮肉で無遠慮ですわ。お手紙を受けとる前から、あたしとても気が滅入《めい》っていたもんですから、おひるにお目にかかって、いっしょにお食事をするのを楽しみにしていましたのよ。お顔を見れば、くさくさした気分もなおるだろうと思ってね。こんな気持ち、あなたを知るまでは、別にたいして気にもならなかったのよ」
「それに」とマルグリットは続けました。
「この人の前なら、何を考えても何をしゃべってもいいというような気持ちにすぐなれたのは、あなただけだったわ。あたしたちのような女をとりまいている男たちときたら、誰も彼もあたしたちのちょっとした言葉の端々《はしばし》にまで探《さぐ》りを入れて、何でもない動作からもなにか結果を引きだしたりするのに血眼《ちまなこ》になっているのよ。だから自然とあたしたちは、男のお友だちというものはないわ、あるのはただわがままな旦那ばかりで、そういう連中はみんな、あたしたちのためにお金を使ってるように口先では言ってるけれど、その実はご自分の見栄《みえ》のためなのよ。
そんな人たちのために、相手が楽しいときはこっちも陽気にし、お夜食をしたいときはこっちもお腹《なか》がすいている振りをし、ふさぎこんでいるときにはこっちも打ち沈んでいなけりゃならないのよ。ばかにされたり、信用をなくしたりすまいと思えば、あたしたちは自分の気持ちなんか捨てなければならないんだわ。
あたしたちの身体なんか、もう自分のものじゃないんだわ。人間じゃなくて、品物なのよ。その人たちの自尊心にとっては第一番目のものだけど、尊敬なんてことからは、いちばん最後のものなんだわ。女友だちはあるにはあるけれど、プリュダンスみたいにお妾さんあがりで、年をとって何もできないくせに、まだむだ使いの癖《くせ》だけは残っているような連中ばかりよ。
だから女友だちというよりも、いっしょにお食事をするときの相手ね。親切にいろいろと世話してくれるけれど、欲得を離れてまではつくしてくれないわ。自分に得のいかない相談事には、どんなときでも、てんで乗ってなんかくれないわ。あたしたちのおかげで、服や腕輪が買えたり、ときどきあたしたちの馬車で散歩ができたり、あたしたちの桟敷《さじき》で芝居が見られたりすれば、たとえあたしたちが十人以上も旦那を持とうと、いっこう平気なんですからね。前の日の花束は持っていってしまう、カシミヤの肩掛けは借りて行く。そのくせこちらの用事となると、これっぱかしのことだって、その二倍もお礼をしなけりゃ、何ひとつやってくれないのよ。あたしがプリュダンスに頼んで、公爵のところへ六千フラン取りに行ってもらって、それをあのひとが持って来てくれた晩のことは、あなたも現にごらんになってよくご存じね。あの晩あのひとは、あたしから五百フラン借りて行ったけれど、どうせ返しっこないわ。返すとしても、一生、箱から出しもしない帽子で返すくらいのことだわ。
だからあたしたち、というよりはむしろあたしには、楽しみといったって、たったひとつしかなかったのよ。それはあたしがときどき気が滅入ったり、いつも病気がちだったりするもんだから、生活についてかれこれ文句を言わずに、身体よりも気持ちのほうをもっとたいせつにしてくれるような、りっぱな人を見つけることだったの。そして公爵こそそうした人だと思ったのよ。でももう年寄りだし、年寄りなんか、何の頼りにも慰めにもなりはしないわ。はじめのうちこそ、あの人の言うような生活ができそうな気がしたんだけれど、だってしようがないわ。そのうちにすっかり飽き飽きしてしまったの。そんなぐあいに身も心もすりへらしてしまうくらいなら、いっそのこと火の中に飛びこんで、炭酸ガスで窒息《ちっそく》してしまったほうがましだと思ったわ。ちょうどそんなとき、あなたにお会いしたのよ。若くて、情熱的で、愉快そうなあなたにね。
そこであたしは、騒々しい世界の中で、一人さびしく呼び求めていたあこがれの人に、あなたをしようとしたのよ。あたしが愛してたのは、ありのままのあなたじゃなくて、あたしが心で理想として描いていたあなただったのね。ところがあなたはその役割を引きうけてはくださらずに、ご自分の役柄ではないとばかりにはねつけて、世間にありふれた色男になってしまったんだわ。それだったらあなたも、ほかの男たちと同じようにあたしにお金をくださればいいのよ。そしてもうこんなお話は、お互いによしたほうがいいわ」
マルグリットはこの長い告白に疲れきって、ソファの背にもたれかかり、力のない咳の発作《ほっさ》をとめようとして、ハンカチを口に当て、さらに目にも当てました。
「すまなかった、すまなかった」とわたしは小声で言いました。「何もかもよくわかっていたんだよ。ただ一度きみの口からはっきりと聞きたかったんだ。ねえ、マルグリット。ぼくたちは、ほかのことは忘れちゃって、ただひとつのことだけを覚えておこうよ。二人は互いに身をささげ合い、二人ともまだ若くて、お互いに愛しあっているということだけをね。
マルグリット。ぼくをどうにでもきみの好きなようにしておくれ。ぼくはきみの奴隷《どれい》だ。きみの犬だ。ただお願いだから、ぼくが出した手紙は破いておくれ。ぼくをあす立たせないでおくれ。でないとぼくは死んでしまうよ」
マルグリットは服のコルサージュ〔婦人服の胴着〕から手紙を取り出しました。そしてそれをわたしに渡しながら、えもいわれぬ優しい微笑を浮かべて言いました。
「さあ、持って来てあげたわ」
わたしは手紙を引き裂くと、それを返してくれた手に、涙ながらに接吻しました。
そのときプリュダンスが姿を現わしました。
「ねえ、プリュダンス。この人何と言って頼んでいるかわかる?」とマルグリットは言いました。
「堪忍《かんにん》してくれって言うんでしょう」
「そのとおりよ」
「それで許してあげたの?」
「しかたがないわ。でもこの人、まだひとつ頼みがあるんですって」
「何なの?」
「いっしょに食事に行きたいんですって」
「それで、承知したの?」
「あんた、どう思う?」
「二人とも、てんで子どもなのね。でもあたしも、とてもおなかがすいているから、よければ大急ぎでお食事しましょうよ」
「さあ」とマルグリットは言いました。「三人してあたしの馬車に乗るのよ。ねえちょいと」とわたしのほうを向くと付け加えました。「ナニーヌはもうやすんでるでしょうから、あなたが戸をあけるのよ。これ、あたしの鍵よ。もうこれからなくさないようにしてね」
わたしは息もできないほどマルグリットを抱きしめました。
そこへ、ジョゼフがはいって来ました。
「旦那さま」とさも得意げに、彼は言いました。「お荷物ができました」
「全部かい?」
「はい、旦那さま」
「よし、またほどくんだ。出発はやめだ」
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十六
「わたしたち二人がこうして結ばれた初めのころのことは」とアルマンはわたしに言った。「手短かにお話しようと思えばできないことはなかったのですが、ただわたしはどんな事件があり、どんな順序を経て、わたしがマルグリットの思いのままになり、またマルグリットのほうでも、わたしといっしょでなければ生きて行けなくなったかを、あなたによくわかっていただきたかったのです。
彼女に『マノン・レスコー』を贈ったのは、わたしに会いに来てくれた晩の翌日のことでした。
この時から、わたしは自分の愛人の生活を変えることができなかったので、自分の生活を変えてしまいました。まず何よりも、自分の引きうけた役割については、もう考えないようにつとめました。考えるとつい、とても悲しくなるからでした。日ごろごく物静かだったわたしの生活は、突然騒々しい、だらしのないものに一変してしまいました。たとえ、どんなに欲得を離れた恋とはいえ、相手が玄人女《くろうとおんな》であれば、一文の費用もかからないということはないものです。やれ花だ、芝居だ、夜食だ、ピクニックだと、愛人に対して、いやだとは言えないような、したい放題の出費ほど高くつくものはありませんからね。
以前も申しあげたとおり、わたしには格別財産らしいものはありませんでした。父は昔も今もGの税務署長をつとめています。律義者《りちぎもの》というもっぱらの評判で、そのおかげで、官界にはいるに当たって供託《きょうたく》しなければならない身元保証金の工面《くめん》もついたようなわけでした。年に四万フランの収入があるものですから、十年間に借りた保証金も返してしまい、妹の持参金をせっせと貯蓄していました。父くらいりっぱな人は、まず見あたりますまい。
母は年収六千フランの財産をのこしてなくなりました。父はかねて望んでいた地位についた日、この母の遺産を妹とわたしに分配してくれました。それからわたしが、二十一歳になりますと、そのわずかな収入に、五千フランの年額を付け加えてくれました。これで八千フランになったわけですから、わたしがその上弁護士になるか医者になるかして、何か仕事を見つけて身を固める気があるなら、パリで結構楽に生活できるはずというのでした。そこで、わたしはパリに出て法律を勉強し、弁護士の資格をとりました。しかし多くの青年たちと同様に、免状をポケットに入れて、そのままパリののんきな生活をずるずると送るようになりました。わたしの出費はごくつましいものでした。それでも一年間の収入を八か月で使ってしまい、夏の四か月は父のところへ帰っていました。結局、収入は年に一万二千フランになったも同然で、おまけに孝行息子だというので評判になりました。しかも借金はまだ一文もありませんでした。
マルグリットと知りあった当時、わたしはこんな状態だったのです。
申しあげるまでもなく、わたしの生活はいつの間にか次第に派手《はで》になって行きました。マルグリットはとても気まぐれな性質で、毎日さまざまなことをしておもしろく遊び暮らしていながら、たいした出費とも思わないような女でした。そんなわけですから、なるべく長い間わたしといっしょにいたいというので朝手紙を書いて、昼食を二人でたべたいと言って来るのです。それも彼女の家ではなくて、パリなり郊外なりのどこかの料理屋でというのです。そこで彼女をさそい出して、二人で昼食をたべ、芝居へ行き、ときには晩餐《ばんさん》までいっしょにたべることもあります。ひと晩八十フランや百フランはかかりますから、月にすれば二千五百から三千フランになります。その結果、わたしの一年は三か月半に縮まってしまいました。そして借金するかマルグリットと別れるか、どっちかひとつを選ばなければならなくなってしまいました。
ところでわたしは、マルグリットと別れるということ以外は、すべてを受け入れることにしました。
こんな些細《ささい》な点までいちいち申しあげて恐縮ですが、いずれおわかりになるように、これから先起こるさまざまな出来事の原因になるのです。わたしが申しあげるのは、本当にあったごく飾り気のないお話なのです。ですから細々《こまごま》した部分的なことまですっかりありのままに、また話の単純な筋もそのままに、お話しようと思います。
さて、この世の何ものも、わたしに愛人を忘れさせる力がない以上、彼女のために要する費用をなんとか工面しなければならないと、わたしは覚悟をきめました。それにわたしはもうこの恋に無我夢中になってしまって、わずかの間でもマルグリットと離れていると、それがまるで何年も過ぎたように思われ、従って何かに熱中してその時間を消し、自分でも気がつかないくらい早く時を過ごしたい気分になっていたのでした。
わたしはわずかな財産を担保《たんぽ》にして、五千フランとか六千フランとかの金を借りて、賭博《とばく》に手を出しはじめました。賭博場がこわされてからは、どこでも賭博をやれるようになりましたからね。昔はフラスカチへ出かければ、あわよくばひと財産つくれたものでした。当時は現金で勝負をしたので、たとえ負けても、この次は勝って取り返せるという気休めもあったのです。ところが今では、支払勘定がある程度厳重なクラブを除けば、たとえ勝って大儲《おおもう》けをしても、金を手に入れる望みはまずないと思っていて間違いはありません。そのわけは造作なくわかることですがね。
賭博をやるのは、たいていは多くの金がいるとか、現在の生活を支えるのに必要な財産がないとかいう若い人たちです。そこでその連中は賭博に手を出すのですが、その結果当然、次のようなことが起こるのです。
もし勝ったとしても、負けたほうでは相手の馬や女の代価を支払ってやることになるわけですから、心中はなはだおもしろくないのです。そこで、勝ったほうから借金することになり、緑色の絨毯《じゅうたん》のまわりで始まった交際は、しまいにはけんかになって、そのたびに名誉や生命が少しずつ傷ついて行くという始末です。正直な人間ならば、二十万フランの年収のないことだけがただひとつの欠点だという、いたって抜け目のない若者たちによって、すってんてんにされてしまいます。いかさま賭博をやり、そのあげく高飛びをしたり、おそまきながら刑務所入りをする連中のことは、今さらここで申しあげるまでもありますまい。
こうしてわたしは、以前なら考えただけでも身ぶるいしたような、めまぐるしい、騒々しい、激しい生活の中に飛びこみました。でもそうした生活は、わたしにとってマルグリットへの恋の欠くべからざる補いとなったのでした。これがいけないとすれば、わたしはどうすればよかったでしょう?
アンタン街で過ごさない夜々は、たとえ自宅にいても、眠れなかったでしょう。嫉妬のために目がさえてしまい、胸の思いも血潮も燃えるようでした。こういうときに賭博は一時の間だけでも、わたしの心にくい入ろうとする熱病をわきへそらしてくれました。こうして無我夢中になって賭博に気をうばわれている間は、彼女のもとへ行く時間がくるまで、何もかも忘れていられたのです。ところがさていよいよその時間になると、またいっそう自分の恋の激しさがわかるのでした。勝っていようが負けていようが、わたしは未練気なく賭博台を離れるのでした。わたしのように幸福を見いだしに行くために賭博台から離れることのできない連中をあわれみながら。
大部分の人にとっては、賭博は欠くことのできないものでしたが、わたしにとっては、それは一種の薬でした。マルグリットゆえの恋の病がなおっていれば、賭博の病もなおったことでしょう。
こんなわけで、勝負をやっている最中でも、支払える程度しか負けず、また勝つにしても、わたしはいつもすこぶる冷静でした。負けても金が支払える程度しか負けず、また勝つにしても、この次負けそうな額だけしか勝ちませんでした。
それに運もよかったのです。借金もせずに、賭博に手を出さなかったころの三倍ほどの金が使えたのですからね。さしたる苦労もしないで、マルグリットのかずかずの気まぐれを満足させてやれる生活の魅力に抵抗するのは、まったく容易ではありませんでした。そして彼女のほうは、相変わらず以前と同じように、いやむしろ以前よりもわたしを愛してくれました。
前にも申しあげましたように、はじめのころは、夜中の十二時から朝の六時までしか、わたしは彼女の家に入れてもらえませんでしたが、やがては、その桟敷にときどきはいることができ、その後は、彼女のほうでときおりわたしの家へ、食事をしに来るようになりました。ある朝などは、わたしは八時になるまで帰りませんでした。またある日などは、正午ごろまでいたこともありました。マルグリットには、精神的な変化に先だって、肉体的な変化が起こって来ました。
わたしのほうで彼女の身体をなおしてやろうとすると、彼女はすぐわたしの目的を察したとみえ、感謝の気持ちを表わして、よくわたしの言いつけをききました。それで別にとくに骨も折らずに、やすやすと彼女の古い習慣をほとんどやめさせることができました。
わたしのかかりつけの医者の診察を受けさせましたが、医者の話では、彼女の健康を保たせるには、ただ休養して安静にしているよりほかにしかたがないということなので、わたしは例の夜食だの不眠だのをやめさせて、そのかわり摂生《せっせい》と規則正しい睡眠とをとらせるようにしました。
マルグリットもいつのまにかこの新しい生活に慣れ、自分でもその効果があがっているのを感じていました。もうこのごろでは、夜は自宅で過ごすことが多くなり、また天気のいい日には、カシミヤの肩掛けをし、顔をヴェールで包んで、わたしといっしょに徒歩で出かけました。そして夜は、シャン・ゼリゼのほの暗い並木道を、二人して子どものように駆けまわりました。疲れて帰ってくると、軽い夜食をとり、少しばかり音楽をやったり読書をしたりして、それから床につきました。本を読むなんてことは今まで一度だってなかったことでした。また聞くたびに胸をひきさかれる思いをしたあの咳も、もうほとんど完全に出なくなりました。
六週間目の終わりには、伯爵《はくしゃく》はまったく犠牲にされてしまって、もう問題ではなくなっていました。ただ老|公爵《こうしゃく》だけには、わたしとマルグリットとの関係をまだ秘密にしておかなければなりませんでした。それで、わたしが来ているときには、奥さまはまだおやすみ中でお起こししてはいけないと申しつかっておりますからという口実で、公爵はそのまま追い帰されたこともたびたびでした。
マルグリットが始終わたしに会うようになり、また会わずにはいられなくなった結果、わたしのほうでも、練達《れんたつ》の賭博者がいい潮時《しおどき》を見はからって手をひくように、賭博とはふっつりと縁を切りました。総計してみると、立てつづけに勝ったおかげで、一万フランばかり勝ち越しになっていました。それがわたしにはまるで無尽蔵《むじんぞう》の資本のように思われました。
いつものように帰省して父や妹に会う時期がやってきました。しかしわたしはパリを離れようとはしませんでした。そこでわたしは、この二人から、かわるがわる早く自分たちのもとに帰ってきてくれという手紙をたびたび受けとりました。わたしはそのたびに、できるだけうまいことを書いて返事を出しました。どの手紙にも、達者で暮らしているし、お金もべつにいらないと書いてやりました。この二つのことさえ言ってやれば、例年の帰省がおくれても、父も少しは心がやすまるだろうと思ったのです。
そうこうするうちに、ある朝のこと、マルグリットはまばゆい日の光に目をさますと、ベッドから飛びおりて、きょう一日|田舎《いなか》へ連れて行ってほしいと言いました。そこでプリュダンスを呼びにやって、三人で出かけました。公爵には、お天気がとてもいいから、デュヴェルノワ夫人といっしょに田舎へ出かけたと伝えるように、ナニーヌに言いつけておきました。
デュヴェルノワ夫人もいっしょだというのは、老公爵を安心させるうえに必要だったのですが、それ以外に、プリュダンスはこうしたピクニックなどにはおあつらえ向きの女なのでした。いつも変わらない陽気と、底知らずの旺盛《おうせい》な食欲とで、連れの者を片時も退屈させないのです。また卵だの、桜桃《さくらんぼ》だの、牛乳だの、兎肉のソテーだの、そのほか何によらずパリ近在の古風な名物料理に出るものを注文することにかけては、まったく心得たものでした。
あとはただ、行く先をきめればいいだけでした。
このわたしたちの悩みを解決してくれたのもプリュダンスでした。
「ほんとの田舎へ行きたいの?」と彼女はたずねました。
「そうよ」
「だったら、ブージヴァルへ行って、アルヌーおばさんの『あけぼの』へ行きましょうよ。アルマン、馬車を呼んできてちょうだい」
それから一時間半の後には、わたしたちはアルヌーおばさんの店に来ていました。
いつもは客も泊《と》め、日曜日には酒場になるこの宿屋を、あなたもたぶんご存じでしょう。普通の家の二階ほどの高さがある庭からは、すばらしい眺めが見渡されました。左手にはマルリーの水路橋が地平線をさえぎり、右手には丘陵地帯がはてしなくつづいていました。このあたりでは、ほとんど流れのない川は、ガビロン平野とクロワシー島との間を、幅ひろい白い波模様のあるひと筋のリボンのように流れていました。島は背の高いポプラのそよぎと柳のざわめきによって、絶えず揺すぶられていました。
はるか向こうには、日の光をいっぱいあびて、赤い屋根の小さな白い家がいくつも立ちならび、ところどころに見える工場も、こうして遠くから眺めると、工場特有のあの無風流なところや商売根性が消えてしまって、実にみごとな点景となっています。
またその向こうには、パリがかすんでいるのです!
プリュダンスがさっきも言ったとおり、これこそほんとの田舎でした。そしてまさしくほんとの昼食でした。
わたしがこんなことを言うのも、別に彼女のおかげで浸《ひた》ることができた幸福に対する感謝の念からではありません。実際ブージヴァルというところは、名前は恐ろしいものですが、じつに景色のいいところなんです。わたしもほうぼうに旅行して、これ以上りっぱなものをいろいろと見ましたが、丘にまもられてその麓《ふもと》に明るく横たわっているこの小さな村くらい、気持ちのいいところは見たことがありません。
マダム・アルヌーが舟遊びをすすめると、マルグリットとプリュダンスは喜んで賛成しました。人はいつも田舎《いなか》を恋愛と結びつけて考えますが、これはしごくもっともなことです。愛する女性の姿を飾るのに、青い空、草のかおり、花、微風、畑や森の輝くばかりの静けさにまさるものはありません。たとえどんなに深く女を愛していても、いかに信じていても、またその過去からしてどんなに女の将来に確信を持っていても、だれだって常に多少の嫉妬心はあるものです。もし恋をなさったことがおありなら、しかも真剣に恋をなさったなら、あなただってきっと、自分が身も心も捧げつくそうと思う相手の女性を、まったくこの世から引きはなしたいという気持ちにおなりになったでしょう。たとえ彼女がどんなに自分の周囲のものに無関心であっても、愛する女性がさまざまな男や事物に接触すれば、その香気や純一性が失われてしまうような気がするものです。
わたしはほかのだれよりも、こうした気持ちを強く感じました。わたしの恋は、世にありふれた恋ではありませんでした。わたしだって、人並みに男が女を愛するように、愛したにちがいありません。が、しかし相手は何といってもマルグリット・ゴーチエです。ということはつまり、パリにいれば、一歩あるくごとに、以前この女の恋人であったか、あるいはあすにも彼女の恋人になるかもしれない男と互いに隣りあうことがあるかもわからないということでした。
ところがこうして田舎に来て、こちらもまだ一度も会ったこともなければ、向こうでもわたしたちのことなどいっこうに気にもかけない人たちにまじって、年々恵まれる春によってうるわしく飾られた自然の懐《ふところ》に抱かれながら、都会の喧騒《けんそう》から遠く離れていますと、人目を避けて、恥も恐れもなく、思う存分女を愛することできるのでした。
田舎《いなか》にいると、娼婦の面影《おもかげ》が次第に薄れていきました。今わたしのそばにいるのは、一人の若く美しい女性でした。マルグリットという名前の女性を、わたしは愛し、またわたしも彼女から愛されていました。過去はもはや影も形もなく、未来にはもう一片の雲もなかったのです。太陽はあたかも清純|無垢《むく》な許嫁《いいなずけ》の女性を照らすように、わたしの愛人を照らしていました。わたしたち二人はラマルティーヌの詩を思い出すために、またスキュドの歌曲を歌うために、わざわざ作られたような美しいそのあたりを連れ立って散歩しました。
マルグリットは白い服を着てわたしの腕によりかかり、夜になると星空の下で、前の夜言った言葉をもう一度くりかえしました。人の世は遥《はる》かかなたでその営みをつづけ、わたしたちの青春と恋の美しい場面には、もはや暗い形さえ落ちませんでした。
舟をつけた小島の草の上に、長々と寝そべって、これまで彼女を束縛していたあらゆる人生の絆《きずな》から解放され、ほしいままに思いをはせながら、心に浮かぶ希望の花を手あたり次第つみとっていたとき、葉の間からもれる激しい太陽の光がわたしに運んできたものはこんな夢でした。
それに加えて、自分のいた場所から、わたしは半円形の鉄柵《てっさく》をめぐらした川に面した三階建ての風情《ふぜい》のある小さな家を眺めていました。鉄柵ごしに、家の前には、びろうどのようになめらかな芝生があり、建物のうしろには、人目につかぬ深い木陰《こかげ》がいたるところにある小さな森がありました。前の日につけられた小径《こみち》も、ここでは、きっと来る朝ごとに、苔《こけ》の下に消えてゆくだろうと思われました。
蔓草《つるくさ》の花が、住む人もないその家の石段をおおいかくして、二階までのびていました。
あまり長い間眺めていたので、しまいにはこの家が自分のもののような気がしてきました。まったくこの家こそ、わたしの夢想をうまく形であらわしていました。その中にマルグリットと自分の姿を思い描いたのでした。二人は、昼は丘をおおいつくしている森の中を散歩し、夜は芝生《しばふ》の上にすわるのです。もしそうなったら、地上の生きとし生けるものの中に、わたしたち二人ほど幸福なものがあるかしらと思いました。
「まあ、きれいなお家ね!」と、わたしの視線を追っていたマルグリットが言いました。たぶんわたしと同じことを考えていたにちがいありません。
「どこなの?」とプリュダンスが言いました。
「ほら、あそこよ」そう言うと、マルグリットは例の家を指さしました。
「まあ! すてきだわ」とプリュダンスが答えました。「あんた、気にいった?」
「とても気にいったわ」
「じゃ、公爵に言って借りてもらいなさいよ。きっと借りてくれるわ。何だったら、あたし交渉してあげるわ」
マルグリットは、わたしがどう思ってるかたずねるように、わたしの顔を見ました。
わたしの夢はプリュダンスの最後の言葉とともに、どこかへけし飛んでしまいました。急にふたたび現実の世界につき落とされたわたしは、しばらくはただ茫然《ぼうぜん》としているばかりでした。
「なるほど、いい考えだね」とわたしは自分で何を言ってるかもわからずに、口ごもりながら言いました。
「そう、じゃあたしうまくやるわ」とマルグリットはわたしの手を握りしめながら言いました。わたしの言葉を自分の希望どおりに解釈したのでしょう。「すぐ貸家かどうか、見に行きましょうよ」
家は空《あ》いていて、家賃は二千フランでした。
「ここなら幸福になれる?」と彼女は言いました。
「しかしぼくは、ここへ来られるかどうかわからないじゃないか?」
「それじゃあたし、いったいだれのためにこんなところに引っこむの? もしあなたのためでなかったら」
「じゃ、マルグリット、ぼくにこの家を借りさせておくれよ」
「気でもちがったの? そんなことをしたってむだよ。そのうえ危険だわ。あたしがそんなことをしてもらえる人は、たった一人しきゃいないわ。あなたも、よくわかってるはずだわ。だからあたしにまかせておいてね、大きな坊ちゃん、何も言わないことよ」
「そうなったら、あたし、二日続きの休みは、あんたのところへ遊びに来るわ」とプリュダンスは言いました。
わたしたちはその家を出ると、この新しく決めたことを話し合いながら、パリへの道を帰りました。わたしはマルグリットをずっと両腕で抱いていました。そのせいか、馬車からおりるころには、愛人の計画を前よりは少しは落ちついて考えるようになっていました。
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十七
翌日、マルグリットは公爵が朝早く来るはずだからと言って、わたしを早く帰しました。そして公爵が帰ったらすぐに、いつもの夜の逢引《あいびき》の時間を、手紙に書いて知らせると約束しました。
果たして、その日のうちに、次のような手紙を受けとりました。
『公爵といっしょにブージヴァルへ参ります。今晩八時に、プリュダンスの家へおいでください』
マルグリットは言ったとおりの時間に帰って来て、デュヴェルノワ夫人の家でわたしといっしょになりました。
「さあ、万事うまくいったわよ」と、はいって来るなり彼女は言いました。
「あの家を借りたの?」とプリュダンスがききました。
「ええ、すぐ承知してくれたわ」
公爵という人をまだ知りませんでしたが、わたしはこんなやり方で公爵をだましたかと思うと、恥ずかしくなりました。
「でも、それだけじゃないのよ!」とマルグリットは言いました。
「まだ何かあるの?」
「アルマンのお部屋も心配して来たの」
「やっぱり、あの家の中なの?」とプリュダンスは笑いながらききました。
「いいえ、『あけぼの』によ。あそこで公爵と二人でお食事をしたの。公爵が景色を眺めている間に、マダム・アルヌーに、あのひと、たしかマダム・アルヌーって名前だったわね、あたし、きいてみたのよ。手ごろなお部屋があるかって。するとちょうど、客間と次の間と寝室のついているのがひとつあったのよ。あれなら申し分ないと思うわ。月六十フランよ。家具も全部そろっていて、心配症の人の気晴らしにはおあつらえ向きだわ。あたし、お部屋を約束してきたの。よかったかしら?」
わたしはマルグリットの首に飛びつきました。
「そうなればすてきだわ」と彼女は言葉をつづけました。「あなたには裏口の鍵をあげるわ。公爵には表口の鍵をわたすと約束したんだけど、きっと鍵なんか持って行きはしないわ。来たって、どうせ昼間にきまってるんですもの。ここだけの話だけど、しばらくの間でも、わたしがパリを離れようなんて気を起こしたのを、あの人とても喜んでいるらしいわ。おうちの方たちも、これで少しは文句を言わなくなるでしょうから。だけど公爵は、あんなにパリが好きだったくせに、どうしてこんな田舎《いなか》に引っこむ決心をしたのかって、きいていたわよ。あたし、病気保養のためですって返事をしておいたけど、あの人ったら、まだ信用できないような顔をしていたわ。かわいそうにあのお爺《じい》さんは、いつも手のほどこしようもないのよ。でも、あたしたちも十分用心しましょうよ、アルマン。だって、あの人きっとあそこでも、あたしに見張りをつけるわよ。それにあの人にはあたし、家を借りてもらうだけではなく、借金も払ってもらわなきゃならないのよ。あいにくとあたし、まだ借金がいくらかあるんですもの。そんなわけだけど、いいでしょう?」
「いいとも」とわたしは答えました。そんなふうな生活をするのかと思うと、心の中にときおり不安の念が目ざめてきましたが、それをむりにおさえようとつとめました。
「おうちの中を隅々まで見てまわったけれど、とてもよさそうよ。公爵が何から何まで心配してくれたわ。ああ! あなた」と彼女は有頂天《うちょうてん》になってわたしを抱きしめながら、さらにこう付けくわえました。「あなたは不幸じゃないわ。百万長者があなたの寝床をこしらえてくれるのよ」
「で、いつ引っ越すの?」とプリュダンスはたずねました。
「なるたけ早く」
「馬車や馬も持って行くの?」
「家じゅう全部持ってくわ。留守中は、あんたがこっちの家のことを引き受けてね」
それから一週間すると、マルグリットは田舎の家にはいり、わたしは『あけぼの』に泊まりました。
こうして、ちょっと簡単にはお話できないような生活が始まりました。
ブージヴァル滞在の最初のころは、マルグリットはこれまでの習慣から、まったく手を切るわけにはいきませんでした。家の中はいつもお祭り騒ぎで、友だちという友だちが残らず押しかけて来ました。ひと月の間は、絶えず食堂に八人や十人のお客がいない日は、ただの一日もありませんでした。プリュダンスも自分の知りあいの連中を全部連れてきては、まるでこの家の主人のような顔で、大盤振舞《おおばんぶるまい》をしていました。
そうした費用いっさいを公爵が持ったことは申すまでもありません。それでもときどきプリュダンスがマルグリットの使いだと称して、わたしに千フランの紙幣を無心にくることもありました。
わたしが賭博でいくらかもうけていたことは、あなたもご存じでしたね。そこでわたしはマルグリットが無心してくる金は、すぐとプリュダンスに渡してやりました。また万一、手もとにある金では彼女の要求額に足りないかもしれないと思ったので、パリへでかけ、前に一度借りて、その後ちゃんと耳をそろえて返しておいた金額を、もう一度借りて来ました。
そこでわたしは、自分の年収を勘定に入れないで、もう一度一万フランほどを懐《ふところ》に入れたわけです。
しかしマルグリットが友だちを招いて楽しんでいたこの遊びも、ずいぶん金がかかるのと、とりわけ、たまにはわたしにまで無心をしなければならなくなったことによって、いくらか落ちついてきました。マルグリットの保養のために、この家を借りた公爵も、もう姿を見せなくなりました。顔をあわせたくない騒々しい手合いが大勢いつも来ているので、そうした人たちと会いたくなかったのでした。
ことにこんなことがあってからは、なおさらでした。
ある日、マルグリットと差し向かいで昼食をしようと思ってやってきた公爵は、自分が昼食のつもりで来た時間に、十五、六人の連中がまだ朝食をたべている最中にぶっつかってしまいました。そんなこととはまったく知らない公爵が食堂の扉をあけてはいって行くと、連中はみんなそれを見てどっと笑いました。公爵はそこにいた女たちの無作法な歓声に面くらって、そうそうに退却しないわけにはいきませんでした。
マルグリットは食卓から立ちあがると、となりの部屋で公爵に追いつきました。そして何とかしてこの出来事を忘れさせようとしましたが、自尊心を傷つけられた老人は、これを恨《うら》みに思ってしまいました。彼はかわいそうなマルグリットに向かって、自分の家で、このわしを尊敬させることもできないような女の乱行のために、もう金を出すのはごめんだと、かなり手きびしく言い捨てると、ひどく腹を立てて帰ってしまいました。
その日から、だれからも公爵の消息をきかなくなりました。マルグリットはお客を遠ざけてしまい、日ごろの習慣をあらためましたが、何の甲斐《かい》もありませんでした。公爵からは相変わらず音沙汰《おとさた》もなかったのです。そのおかげで、わたしは愛人を前よりもいっそう完全に自分のものにすることができて、ついにわたしの夢は実現されました。マルグリットはわたしなしでは、もう過ごせなくなりました。この先どんな結果になるかなどはまったく考えてもみずに、彼女は公然と二人の仲を吹聴《ふいちょう》してしまいました。またわたしも彼女の家に入りびたりになっていました。召使いたちはわたしを旦那さまと呼び、正式にわたしを主人とみなしていました。
この新しい生活について、プリュダンスがマルグリットにたびたび説教してきかせたのも、もっともなことでした。ところがマルグリットのほうではわたしを愛していて、わたしなしでは生きていけないのだから、たとえこの先どんなことが起ころうと、わたしを自分のそばにいつも引きつけておく幸福は捨てようとは思わない、と答えました。おまけに、それが気に入らないような人は、二度とうちの敷居《しきい》をまたがなくても構わないとまで言い出しました。
ある日、プリュダンスがマルグリットに、とても重要な話があると言ったのを聞いて、二人がはいっている部屋の戸口で、わたしは立ち聞きしました。
しばらくすると、プリュダンスがまたやって来ました。彼女がはいって来たとき、わたしは庭の奥にいましたので、わたしには気がつきませんでした。マルグリットは彼女を迎えに出たらしく、この前ふと聞いたような生活が、また始まりそうに思ったので、この話もひとつ聞いてやろうと考えました。
二人の女は婦人部屋に閉じこもりました。わたしはじっと耳をすましました。
「どうだったの?」とマルグリットはたずねました。
「ええ! 公爵に会ったわ」
「何て言ってたの?」
「この前のことは、気持ちよく許すって。でもあんたがアルマン・デュヴァルさんとおおっぴらに同棲《どうせい》していることはご承知で、こればかりは許せないと言うのよ。あんたはその青年と別れなさい。そうしたら、これまでどおり、いるだけのものは仕送りしてやるが、さもなければ、これからは何ごとによらず、頼んで来てもむだだと言うのよ」
「あんた、何て返事をしたの?」
「お気持ちはよく伝えて、十分に申し聞かせますって約束したわ。ねえ、よく考えてごらんなさいよ。あんたは自分の立場がなくなるのよ。なくしたら最後、アルマンの力では取り返しがつかないわ。そりゃあの人は、あんたに首ったけだわ。でもあんたのいるだけのお金を全部出せるほど、財産家じゃないわ。いずれ別れなきゃならないし、そうなってからではあとの祭りで、公爵だってもう何ひとつめんどうなんか見てくれないわよ。あたしからアルマンに話しましょうか?」
返事がないところをみると、マルグリットは考えこんでいるらしいのです。その返事を待ちながら、わたしの心臓ははげしく鼓動《こどう》しました。
「いいえ」と彼女は答えました。「あたし、アルマンとは別れないわ。あの人といっしょに暮らすのに、いまさら逃げも隠れもしないわ。正気の沙汰じゃないかもしれないけど、あたし、あの人を愛してるんだもの! しかたがないじゃないの。それに今じゃもうあの人、何の邪魔《じゃま》もはいらずに、あたしを愛することに慣れているんですもの。たとえ一日のうち一時間でも、あたしと別れていなけりゃいけないとなれば、どんなに悲しむかしれやしないわ。それに、あたしの命もそう長いことはないんですもの、顔を見ただけでこっちまで年をとってしまいそうなお爺さんのご機嫌をとって、不幸に暮らすなんてまっぴらごめんだわ。公爵は財布の紐《ひも》をしっかりしめておくがいいわ。あたしは自分で何とかやっていくわ」
「だけど、どうしてやっていくつもり?」
「わかんないわ、全然」
プリュダンスはたぶん、何か答えようとしたらしいのです。しかしわたしは突然、飛びこんでいって、マルグリットの足もとに身をなげだし、これほどまでに愛されている喜びに胸がいっぱいになって、熱い涙を彼女の両手に流しました。
「ぼくの命はきみのものだ、マルグリット。あんな男なんか、もう何で必要なもんか。ぼくがここにいるじゃないか。けっしてきみを見捨てるもんか。いったいどうしたら、きみがぼくに与えてくれた幸福に報《むく》いることができるだろう? もうきみを縛るものは何にもないんだ。ぼくのマルグリット。ぼくたちは愛し合っているんだ。ほかのことなんか、どうだってかまやしないんだろう?」
「そうよ! あんたを愛してるわ、あたしのアルマン」と、わたしの首に両腕をまわしながら、彼女はささやきました。「こんなにまで愛せるとは思わなかったくらい、あんたを愛してるのよ。二人で幸福になりましょうね。静かに暮らしましょうね。今思えば、顔が赤くなるような、あんな生活とは永久にお別れだわ。過去のことは、もうけっしてとがめないわね」
涙がわたしの声をくもらせました。返事もできず、ただもうマルグリットをしっかと胸に抱きしめるばかりでした。
「さあ」と彼女はプリュダンスのほうを振り向くと、興奮した声で言いました。「こうしたところを公爵に話してちょうだいな。それからもうあの人には用はないと言ってちょうだい」
その日から公爵は、もう問題ではなくなりました。マルグリットは以前わたしが知っていたような女ではありませんでした。かつてわたしと出会ったころの生活を、わたしに思い出させるようなことは、いっさい避けていました。どんな妻でも、どんな妹でも、彼女のわたしに対して持っていたような愛情や心づかいを、その夫なり兄なりに示したことはないにちがいありません。もとより病身なので、すべての影響に感じやすく、すべての感情に心を動かされやすかったのでした。
これまでの習慣を捨てたと同じように、彼女は大勢の友だちとも絶交してしまいました。昔のむだ遣《づか》いもやめると同時に、言葉づかいもあらためました。わたしの買った小さな美しいボートに乗って舟遊びをしようと、家を出てゆく二人の姿を見た人は、白い服を着て、大きな麦わら帽子をかぶり、川風で冷えないようにと簡素な絹のオーバーを腕にかけたこの女が、四か月前までは、その豪奢《ごうしゃ》と放埒《ほうらつ》とで鳴らしたあのマルグリット・ゴーチエだとは、よもや思いはしなかったでしょう。
ああ! わたしたちは急いで幸福になろうとあせりました。まるでいつまでも幸福でいることはできないと見抜いたかのように。
もう、ふた月というもの、わたしたちはパリへ行きませんでした。プリュダンスと、前にもお話したジュリー・デュプラ以外には、だれ一人訪ねて来るものはありませんでした。デュプラは、のちになってマルグリットが今わたしがここに持っているこの哀れな物語を託した女性です。
わたしは一日じゅう、愛人のそばで過ごしました。二人は庭に面した窓をあけて、咲いている花や木陰に、たのしげに静まりかえる夏の気配を眺めながら、今までマルグリットもわたしも知らなかったほんとうの生活を、二人して寄りそいながら、しみじみと味わいました。
この女性は、わずかのことにも子どものように驚きました。ときには十歳の少女のように、蝶《ちょう》やとんぼのあとを追いかけて、庭を駆けまわるのでした。かつては花束に、一家族全体が楽しく暮らせる以上の金を使ったこの娼婦も、今ではときどき芝生にすわって、自分と同じ名のささやかな花に、一時間もじっと見とれているようなことがありました。
彼女がたびたび『マノン・レスコー』を読んだのも、この時分のことでした。彼女が何度もこの本に、自分の感想を書きいれているところを、わたしはみつけました。そしていつも女が恋をしたら、マノンのようなまねはできるものではないというのでした。
二、三度、老公爵から手紙がきました。彼女は筆跡でそれを知ると、読みもせずにその手紙をわたしに渡しました。
マルグリットに対しては、財布さえしっかりしめておけば、いずれは自分のもとへ帰ってくると、彼は思っていたのでした。しかしこの方法が役に立たないと知ると、いつまでもそれに、こだわってはいられなくなりました。そこでたとえどのような条件付きでもいいから、以前のようにこれからも会ってほしいと頼んでよこしたのでした。
わたしはこの切ない胸のうちをくり返し述べたこの手紙を読むと、マルグリットには内容も知らせず、また老人にもう一度会うようにすすめもせず、それを破ってしまいました。哀れな老人の苦しみには同情しないわけではなかったのですが、よけいなことを言って、またもとどおり公爵を出入りさせ、一家の費用をまた彼にもたせるつもりだというふうに、彼女にとられはしまいかと案じたからです。何よりも恐れていたことは、彼女がわたしに対する恋のために、この先どんな目にあうかもわからないのに、そんな場合、わたしが彼女の生活に対する責任を回避するような男だというふうに、彼女に思われはしないかということでした。
結局、公爵も返事がこないので、もう手紙をよこさなくなり、マルグリットとわたしは将来のことなど気にかけずに、二人だけの生活をつづけました。
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十八
わたしたちの新生活について事こまかにお話するとなれば、なかなかやっかいなことです。わたしたちにとっては、楽しい子どものままごと遊びのようなものであっても、聞くほうの側になってみれば、まことに何でもくだらないことです。一人の女性を愛するということがどんなものか、またどんなに一日がまたたく間に過ぎてしまうか、そしてただうれしくて何もしないうちに翌日になってしまうか、こんなことはあなたもよくご存じでしょう。また互いに信じている情愛の激しい恋から生まれる、あのいっさいのものへの忘却もご存じないはずはありません。愛する女性以外のものは、すべて無用の長物のように思われるのです。ほかの女性に以前、愛情の一端《いったん》でも見せたことさえ後悔するようになり、自分の手に握りしめている愛人の手以外の手をとろうなどとは、夢にも思わなくなるのです。頭は何ひとつ物を考えることも、思い出すこともできません。絶えずつき込まれるただひとつの思いから、心を外にそらすようなことは、ひとつとして頭にはいらないのです。そして毎日、自分の愛人の中に何かしら新しい魅力、今まで知らなかった快楽を発見するのです。人生はもはや、ひとつの絶えまない愛欲をくり返していくことにほかなりません。魂はもはや恋の聖火を燃やしつづける巫女《みこ》にすぎないのです。
夜になると、わたしたちはたびたび、家のうしろにある小さな森へ行って腰をおろしました。そのまま、次の朝まで二人抱きあって過ごす時間がやがてくるのを考えながら、夜の楽しい調《しら》べをじっと聞きいっていました。またあるときは、二人の部屋へ日の光さえ差しこまないようにして、終日、寝たままのこともありました。カーテンはばったりとおろされ、外部の世界は、わたしたちにとって、一時まったく停止していました。ナニーヌだけがわたしたちの部屋の扉《とびら》をあけることが許されていました。しかしそれもただ食事を運ぶときにかぎられていました。その食事も始終笑ったり、ふざけたりしながら、寝たままでたべました。それがすむと、しばらく眠りました。恋に身を沈めているわたしたちは、まるで息をつくときだけ水面に浮かび上がる、根気のいい潜水夫のようなものでした。
そのうちにマルグリットがときどき打ち沈んでいたり、ときには涙を浮かべていたりするのに、わたしは気づきました。どうしてそう急に悲しくなるのかとききますと、彼女はこう答えました。
「あたしたちの恋は世間にありふれたような恋じゃないわ、ねえ、アルマン。あなたは、あたしが一度もほかの男と関係がなかったように、あたしを愛してくださるけれど、いずれあとになって、自分の恋を後悔して、あたしの過去を責めて、あたしがあなたのものになったあのころの生活へ、もう一度あたしを追いやるようなことをなさるんじゃないかしらと思うと、あたし不安でならないのよ。一度新生活を味わってから、またもとの生活に逆もどりするくらいなら、死んでしまうわ。ね、いつまでも捨てないと言って」
「誓って捨てないよ!」
この言葉を聞くと、彼女はわたしの誓いが真実であるかどうか、目の色で読もうとするように、じっとわたしの顔を見つめました。それからわたしの腕の中に身を投げかけると、胸に顔をうずめながら言いました。
「あたしがどんなにあなたを愛しているか、おわかりになってないんだわ!」
ある夕方、わたしたちは窓ぎわのバルコンに肘《ひじ》をついて、雲の寝床からやっと出てきたように見える月を眺めていました。騒がしく木々をゆさぶっている風の音を聞きながら、手をとりあったまま、十五分以上も話もせずにいましたが、やがてマルグリットが言いました。
「もう冬よ。どこかへ行きたいと思わない?」
「どこへさ?」
「イタリアへ」
「じゃ、飽《あ》きちゃったのかい?」
「冬がいやなのよ。ことにパリへ帰るのがいやなの」
「なぜ?」
「いろんなわけがあるからだわ」
いやだという理由を言わずに、急に彼女は言葉をつづけました。
「あなた行きたい? あたし、持ち物を全部売り払うわ。二人で向こうへ行って暮らしましょうよ。そうすれば、あたしの過去なんか、全部消えてしまうし、あたしがだれか知ってるのは、一人もいなくなるわ。ね、いいでしょう?」
「行こう、きみがそうしたいんならばね、マルグリット。旅に行こう」とわたしは言いました。「しかし帰ってからも、あったほうがいいものまで、何の必要があって売るんだね。ぼくには、きみのそんな犠牲を受け入れるほどの財産はないが、五、六か月の間、ちゃんと旅行できるくらいのものならあるよ。旅行が少しでもきみにおもしろければね」
「ほんとうはね、それじゃうれしくないのよ」と言いながら、彼女は窓ぎわを離れ、部屋の薄暗いところにあるソファへ行って腰をおろしました。
「向こうへ行って、よけいなお金を使ったところで何になるんでしょう? ここにいても、もうずいぶんお金を使わせてるんですものね」
「そんなことを言って、ぼくを責めるのかい、マルグリット。そりゃ意地悪というもんだよ」
「ごめんなさいね、あなた」と、彼女はわたしのほうに手を差しのべながら言いました。「こんな嵐《あらし》の季節になると、あたしの神経が変になって、つい心にもないことを言ったりするのよ」
そしてわたしに接吻すると、そのまま長い物思いに沈んでしまいました。これに似た場面がいくたびもおこりました。どうしてこんなことになるのか、わたしにはわかりませんでした。しかしマルグリットが何か将来に不安を感じているらしいことは感じられました。日増しにつのっていくわたしの愛を、彼女が疑うわけはありません。それでも彼女がよくふさぎ込んでいるのを見ました。しかし彼女はただ身体の加減がよくないせいだと言うばかりで、わけはついぞ話してくれませんでした。
あまりに単調な生活に飽きがきたのではないかと思いましたので、わたしは彼女にパリへ帰ることを提案してみましたが、いつもわたしの言葉をしりぞけて、どこへ行ったってこうして田舎《いなか》にいるほど楽しいことはないと言うのでした。
プリュダンスは、もうたまにしか来ませんでした。しかしその代わり手紙をたびたびよこしました。そのたびごとに、マルグリットは深い物思いに沈むのでした。それにわたしも、その手紙を見せてくれとは一度も言いませんでした。何が書いてあるのか、ただ想像するばかりでした。
ある日マルグリットは自分の部屋に閉じこもっていました。わたしがはいって行くと、彼女は手紙を書いているところでした。
「だれに出すんだね?」とわたしはたずねました。
「プリュダンスによ。どんなことが書いてあるか、読んできかせましょうか?」
わたしは、何かにつけて自分が疑っているように思われても心外だったので、どんな手紙だか別に知る必要はないと答えました。さて、そうは答えたものの、この手紙を見れば、きっと彼女が物思いに沈んでいるほんとうの原因がわかったにちがいないと思いました。
翌日は、すばらしい天気でした。マルグリットはボートに乗って、クロワシー島へ行ってみようと提案しました。彼女はすこぶる上機嫌《じょうきげん》のようでした。帰宅したのは五時でした。
「デュヴェルノワ夫人が見えました」と、わたしが家にはいるなり、ナニーヌが言いました。
「もう帰ったの?」とマルグリットがききました。「はい、奥さまのお馬車で。奥さまもご承知のうえだとおっしゃいました」
「ええ、いいのよ」とマルグリットは元気よく言いました。「お食事の支度をしておくれ」
二日後、プリュダンスから手紙が来ました。それから二週間ばかりというもの、マルグリットは例のわけのわからない憂うつとは、すっかり縁が切れたように見えました。そして憂うつでなくなってからは、それまでのことをしきりに詫《わ》びました。
しかし馬車はもどって来ませんでした。
「なぜプリュダンスは馬車を返してよこさないのだろうね」と、ある日わたしはきいてみました。
「二頭の馬のうち、一頭が病気なのよ。それに車体もずいぶん修繕しなきゃならないの。パリへ帰ってから修繕するよりも、まだここにいるうちのほうがいいわ。ここにいれば馬車なんかいらないんですものね」
それから数日すると、プリュダンスがやって来て、マルグリットの言葉を裏書きしました。
女たちは二人きりで庭を散歩しました。わたしがあとから仲間に加わると、すぐに話題を変えてしまいました。その晩、プリュダンスは帰りがけに、寒くてしようがないと言って、カシミヤの肩掛けを貸してくれとマルグリットに頼みました。
こうしてひと月たちましたが、その間マルグリットは今までにもついぞなかったほど楽しそうで、愛情もいっそうこまやかでした。
しかし依然として、馬車ももどってこなければ、カシミヤの肩掛けも返ってきませんでした。あれこれと考え合わせると、わたしは気がかりでしようがありませんので、マルグリットがどの引出しにプリュダンスの手紙をしまっておくかを知っているのをさいわい、彼女が庭の奥へ行っている間にその引出しのそばに駆けよって、あけようとしましたが、だめでした。引出しには、二重に鍵がかかっていました。
そこでわたしは、ふだん、宝石やダイヤモンドがしまってある引出しをあらためてみました。引出しはわけなくあきましたが、宝石箱はなくなっていました。むろん中身もいっしょにです。
はげしい不安がわたしの心臓をしめつけました。わたしはすぐにもマルグリットに、宝石類がなくなった理由を問いただそうかと思いました。だが、そんなことでは、どうせ白状しないにきまっています。
「ねえ、マルグリット」とわたしはそこで彼女に言いました。「ぼくをパリにやってくれないかね。うちじゃぼくがどこにいるかも知らないんだ。それに父からきっと手紙が来てるにちがいないんだよ。きっと心配しているだろうから返事も出さなきゃならないんだ」
「行ってらっしゃいな」と彼女は言いました。「でも早く帰ってきてね」
わたしは出かけました。
その足でプリュダンスの家に駆けつけました。
「ねえ」とわたしはいきなり彼女に言いました。「正直に言ってくれよ。マルグリットの馬はどこにいるんだ?」
「売っちゃったわ」
「カシミヤの肩掛けは?」
「売ったのよ」
「ダイヤは?」
「質に入れたわ」
「だれが売ったり、質に入れたりしたんだい?」
「あたしよ」
「なぜ前もって、ぼくにひと言《こと》言ってくれなかったんだ?」
「マルグリットから口どめされてたのよ」
「ならなぜ、ぼくに金がいると言わなかったんだ?」
「あのひとがいやがったからだわ」
「で、その金は何に使ったんだい?」
「支払いによ」
「じゃ、借金がだいぶあるんだな?」
「ざっとまだ三万フランばかりあるわ。ねえ、よくあたしが話してあげたじゃないの! ところが、あたしの言うことなんか、少しも信じようとはしなかったわね。さあ、こうなれば、あなただって、もうすっかりわかったでしょう。公爵から支払うはずになっていた家具屋が、公爵のところへ行ったら、いきなり追い返されて、その翌日公爵から、ゴーチエにはもういっさい何もしてやらないことにしたからという手紙が来たんですってさ。そのお金を、その男が請求するもんだから、前にあんたからいただいた何千フランだかを、内金として払ったのよ。ところがだれかおせっかいな連中がその男に、おまえさんの債務者のゴーチエ嬢は公爵に捨てられて、一文なしの若造《わかぞう》と同棲《どうせい》してるよと教えちゃったの。同じようなことを、ほかの債務者も聞かされて、お金を請求したり、差し押えをしたりするわけよ。マルグリットもしかたなしに、持ち物全部を売り払う気になったんだけれど、それにしても今じゃもう時期おくれだし、あたしも反対だったわ。そうかといって、払うものは払わなきゃならないし、あんたに迷惑もかけたくなしするので、あのひとは馬とカシミヤの肩掛けを手放して、宝石は質に入れたのよ。なんなら受取りと質札を見せましょうか?」
そう言うとプリュダンスは引出しをあけて、その書類を見せました。
「ねえ、そうでしょう」と、言うだけの権利のある女独特のねばり強さで、彼女は言いつづけました。「あたしの言ったとおりでしょう! あんたなんぞは、ただお互いに好《す》いた同士で、田舎へ行ってのんびりと夢みたいな生活をすればいいように思ってるんでしょう? だめだわ。そんなものじゃないんだわ。理想的な生活には、その裏にちゃんと物質的な生活があるんですものねえ。どんなに美しい決心だって、くだらない鎖《くさり》だけれど、鉄のようなしっかりした鎖で、ちゃんとこの世につなぎとめられているのよ。容易なことじゃ、その鎖をたち切ることはできないわ。
これまでマルグリットがけっしてあんたをだますようなことをしなかったのも、あのひとが人並みはずれた女だからよ。あたしがあのひとに意見がましいことをいろいろと言ってきかせたのも、別に間違ってはいないわ。だって、みすみす裸《はだか》になるのを見るのは、とてもたまらなかったからなの。でも、どうしてもあたしの言うことをきかないのよ! あんたを愛してるから、どんなことがあっても、あんたをだませないと言うんだもの。とても美しい、詩的なことだわ。でも借金取りには、それじゃ通用しなくってよ。もう一度言うけれど、今じゃあのひと、少なくとも三万フランぐらいないと、にっちもさっちもいかないのよ」
「よしわかった。ぼくがその金を出す」
「あんた、借金するの?」
「もちろん、そうさ」
「まあ、結構なことをなさるわね。おとうさんとはけんかする。お金の出所はなくなる。これじゃ三万フランというお金は、とうてい、きょうあすにはできはしないわ。ねえ、アルマン。あんたよりあたしのほうが、女ってものはよく知ってるわ。あとで後悔するにきまってるわ。そんなばかなまねはおよしなさいよ。よく物の道理を考えてごらんなさい。あたし何も、マルグリットと別れろなんて言ってるんじゃないのよ。夏のはじめにやっていたように暮らしていけばいいんだわ。あのひとは自分一人で何とかこの場を切り抜けるでしょうから、あんたは黙って見てればいいのよ。そのうちに公爵も、少しずつ、よりをもどすでしょうし、N伯爵だって、マルグリットさえ承知なら、きのうもあたしにそう言ったけど、借金をすっかり払ったうえ、月々四、五千フランは出してくれるわ。伯爵は年に二十万フランからの収入があるのよ。あのひとにとっちゃ、いい口でしょう。
ところであんたは、いずれはきっと別れなきゃならないんだけど、何も財産までなくして別れることはないでしょう。それにあのN伯爵はまぬけだから、あんたがマルグリットの色男であったって、ちっとも差しつかえないわけだわ。初めのうちこそ、あのひとも少しは泣くでしょうけど、おしまいには慣れちゃうわ。そしていつかは、あんたがしてくれたことに対して、感謝するようになるわ。マルグリットが結婚したものと思って、ご亭主をだますのよ。ただそれだけの話よ。このことはもう以前にも一度、お話したわ。ただあのときは、ほんの忠告だったけど、今じゃもうどうしても、そうしなきゃいけない土壇場《どたんば》なのよ」
プリュダンスの言うことは、残酷ではあっても、いちいちもっとな話でした。
「まあ、ざっとそんなわけよ」とわたしに見せた書類をもとどおりしまいながら、彼女は言葉をつづけました。「玄人女《くろうとおんな》というものは、自分が男から惚れられることをちゃんと心得《こころえ》ていながら、自分のほうからはけっして惚れないものよ。そして、せっせとお金をためて、三十歳ぐらいになったら、好きな男と贅沢《ぜいたく》に暮らそうってわけなの。あたしだってそうだわ。せめて今のあたしくらい、その時分ものを知ってたらねえ! ともかくマルグリットにはいっさい何も言わずに、あのひとをパリへ連れていらっしゃい。もう四、五か月もあのひとと二人きりで暮らしてきたんだから、そうするのが当たり前だわ。目をつぶりなさいよ。お願いすることは、それだけだわ。二週間もすれば、あのひとはN伯爵を旦那にして、この冬はせっせとお金をため、来年の夏には、また二人で始めればいいんだわ。こんなぐあいにやるもんよ、ねえ、あんた!」
プリュダンスは自分の忠告にすっかり鼻高々の様子でしたが、わたしは憤然としてそれをはねつけました。
わたしの愛情からいっても、また体面からいっても、とうていそんなことはできるものではなく、そればかりか、マルグリットの今の立場からしても、そんな役割を承知するくらいなら、むしろ死んでしまうだろうと、わたしは思ったのです。
「冗談はもうたくさんだ」と、わたしはプリュダンスに言いました。「結局のところマルグリットはいくらあればいいんだ?」
「さっきも言ったじゃないの、三万フランばかりよ」
「それで、いついるんだい?」
「ふた月以内に」
「間に合わせるよ」
プリュダンスは肩をすくめました。
「きみに渡すことにするが」とわたしはつづけて言いました。「マルグリットには、ぼくから受け取ったなんてことは、けっしてしゃべっちゃだめだよ」
「だいじょうぶよ」
「それから、もしあのひとから、何か売ったり質に入れたりするものをまた送ってきたら、知らせておくれよ」
「心配はいらないわ。あのひと、もう何にも持っちゃいないから」
わたしはそれから、まず自分の家によりました。父から手紙が来ていはしないかと思ったからです。手紙は四通きていました。
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十九
はじめの三通は、わたしから消息がないのを案じて、そのわけをたずねて来たのでした。最後の一通は、どうやらわたしの生活が変わったことを、だれからか知らされたものらしく、近々にそっちに行くということが書かれてありました。
父に対しては、いつも深い尊敬と、心からの愛情を抱いていました。で返事として、ちょっと旅行をしていたので、ご無沙汰《ぶさた》していたのは、それがためであることを告げ、お出迎えに伺うから、パリ到着の日を、あらかじめ知らせてくださいと書いてやりました。
わたしは召使いに田舎《いなか》の住所を教えて、C市の消印のある手紙が届いたら、さっそく持ってくるように命じました。それからすぐにブージヴァルに引き返しました。マルグリットは庭の木戸のところで、わたしを待っていました。そのまなざしには、不安な色が浮かんでいました。彼女はわたしの首に飛びついて、思わずこう言いました。
「プリュダンスに会ったの?」
「いいや」
「ずいぶんパリに長いこといたのね?」
「父から何通も手紙がきていたんだ。その返事を書くのに手間取ったんだよ」
しばらくすると、ナニーヌが息せき切ってはいってきました。マルグリットは立ち上がると、そのそばへ行って、小声で何やら話しました。ナニーヌが出て行くと、マルグリットはわたしのそばに腰をおろして、わたしの手をとりながら言いました。
「なぜ嘘をついたの。プリュダンスのうちに行ったくせに」
「だれがそんなことを言った?」
「ナニーヌよ」
「どこから、そんなことを聞いてきたのかな?」
「あなたのあとをつけて行ったのよ」
「じゃ、きみがぼくのあとをつけるように言いつけたんだな?」
「ええ、そうよ。今まで四か月も、あたしのそばを離れないあなたが、パリに行くと言うからには、何かよっぽどのわけがあるにちがいないとにらんだのよ。あなたの身に災難があってはという心配もあったし、それにもしかしたら、ほかの女に会いに行ったかもしれないと思ったの」
「子どもだなあ!」
「もう安心だわ、あなたのしたことがわかったから。でも、どんなことを聞いて来たか、まだわからないわ」
わたしはマルグリットに父からの手紙を見せました。
「聞いているのは、そんなことじゃないわ。わたしが知りたいのは、あなたがなぜプリュダンスのところへ行ったかってことだわ」
「会いに行ったのさ」
「嘘つき」
「じゃ言うけどね。ぼくは馬の病気がなおったかどうか、カシミヤの肩掛けや宝石がもう用ずみになったかどうか、聞きに行ったのさ」
マルグリットは顔をあからめましたが、返事はしませんでした。
「それでね」とわたしは言葉をつづけました。「きみが馬やカシミヤの肩掛けやダイヤをどうしたかわかったよ」
「それで怒ってるの」
「怒ってるさ。だってお金がいるくせに、きみは全然ぼくに言おうとはしないんだからね」
「あたしたちのような関係では、女に少しでも自尊心があれば、好きな殿方にお金をねだって、せっかくの恋を金銭ずくで片付けるよりも、むしろ苦労しても自分でできるだけのことをするのが当然なのよ。あなたがあたしを愛していてくださることは、よくわかっていますわ。でも、あたしたちのような女に対する愛情をつなぎとめている糸が、殿方の胸の中では、どんなに弱いものか、あなたはまだご存じないんですよ。そのうちに、いつかお金にこまったり、飽きがきたりすれば、あなただって、あたしたちの仲を、やっぱり勘定ずくだったと思わないともかぎらないわ。プリュダンスはおしゃべりね。あたし馬なんかいらないわ!売って得《とく》をしたわ! 馬なんかなくたって結構やって行けるし、これからは、お金もかからなくていいわ。あたしは、ただあなたさえあたしを愛してくだされば、何にも言わないわ。馬だの、カシミヤの肩掛けだの、ダイヤだのがなくたって、やっぱりあたしを愛してくださるわね」
こうした言葉は、ごく自然な調子で言われましたので、わたしは聞いているうちに、目に涙が浮かんできました。
「だけどねえ、マルグリット」と愛人の手を、いとしさのあまり固く握りしめながら答えました。「わかってるじゃないか。きみのそうした苦労は、やがてはぼくに知れるんだよ。そんなことがわかれば、ぼくだって黙っているわけにはいかないんだよ」
「どうしてなの?」
「だって、きみ。いくらぼくを愛してくれたところで、そのために、きみがたとえ宝石のひとつにしろなくすというのは、ぼくには堪えられないからね。きみが金にこまったり、飽きがきたりした場合、ほかの男といっしょに暮らしていたら、こんな目にはあわなかったろうにと、ぼくだって、やっぱりきみに思われたくないんだよ。たとえ一分間でも、ぼくといっしょに暮らしたことを、後悔してもらいたくないんだ。もう四、五日すれば、馬もダイヤもカシミヤの肩掛けも、みんなきみの手もとにもどってくるよ。生きるために空気が必要なように、ああいったものは、きみには必要なんだ。こんなことを言うと笑われるかもしれないが、きみが地味《じみ》にしているよりも、派手《はで》にしているほうが、ぼくはずっと好きだよ」
「そんなら、あなたはもうあたしを愛しちゃいないんだわ」
「ばかな!」
「もしあたしを愛しているんなら、あたしの好きなように、あなたを愛させてもらえるはずだわ。それだのにあなたは、今でもあたしを、相変わらず贅沢《ぜいたく》しないではいられない女だとしか見ないで、あたしのためにやっぱりお金を出さなきゃいけないものと思ってるんだわ。あたしの愛のしるしを受けるのを恥だと思ってるんだわ。口では何だかんだと言っても、いつかはあたしと別れるつもりなんだわ。そのとき、他人からかれこれ後ろ指をさされないようにしようと、今から気を配っているんだわ。なるほど、ごもっともな話だわ、でもあたし、これでは当てがはずれてしまったわ」
こう言ってマルグリットは、立ち上がりそうにしました。わたしはそれを引きとめて言いました。
「ぼくはただきみが幸福なように、またきみから何も責められないようにと、願ってるだけさ。それだけのことなんだ」
「じゃあ、あたしたちはお別れね!」
「なぜだい、マルグリット? だれがぼくたちを別れさすことができるんだい?」とわたしは叫びました。
「それはあなたよ。自分の立場をよくわかるように話してくれもしないし、またいつまでもあたしをもとのままにしておこうという虚栄心だって捨てないんだもの。今までどおりの贅沢をあたしにさせて、二人の間をはなしている心の距離をそのままにしておこうとするんですもの。あなたの財産を二人で分けあってゆこうと思ってるほど、あたしの愛情が欲得をはなれたものなのに、あなたはそうとは信じてくれないのね。それだけの財産があれば、二人で楽しく暮らしていけるのに、あなたったら、ばかばかしい偏見《へんけん》にとらわれて、むしろ破産したほうがましだなんて思ってるのね。あたしが馬車や宝石と、あなたの愛とをくらべているとでも、思ってるの? あたしの幸福が、そんな虚栄の中にあるとでも思ってるの?
そりゃだれも愛してないときには、それでも満足することもあるでしょうけど、真剣に恋をしているときには、そんなものなんか全然値うちがなくなってしまうのよ。あなたはあたしの借金を払い、自分の財産を使って、結局あたしを囲《かこ》っておこうというのね!
そんなこと、いったいいつまで続くと思って? せいぜい二、三か月よ。そのときになって、あたしの言うような生活をしようと思ったところで、もうおそいわ。なぜってそうなれば、あなたはあたしの世話にならなきゃならないのよ。そんなことは、ちゃんとした殿方《とのがた》にはできなくてよ。ところが今だったら、あなたは八千フランか一万フランの年収があるんだから、あたしたちそれで暮らせるわ。あたしもいらないものは、みんな売っちゃうつもりだけど、それを売っただけでも、年に二千フランの収入になるわ。小ざっぱりした家を借りて、そこで二人きりで暮らしましょうよ。夏には田舎《いなか》に来て、こんなりっぱな家じゃなくて、結構二人で住めるくらいの小さな家を借りるのよ。あなたはだれの世話にもならず、あたしも自由なんだわ。あたしたちは若いのよ。ねえ、アルマン。後生《ごしょう》だから、昔、いやいや送っていたような生活に二度とふたたびあたしを放りこまないでね」
わたしは感謝と愛の涙を目にいっぱいためたまま、返事もできませんでした。そしてマルグリットの腕の中に身を投げいれました。
「あたしはね」と彼女は言葉をつづけました。「あなたには内緒で、一人で何もかもきまりをつけて、借金も残らず返すし、新しい家の準備もしておきたかったのよ。そして十月にはパリに帰るでしょう。そのときすっかり話すつもりだったの。だけどプリュダンスがみんなしゃべっちゃったもんだから、あなたにはあとで承諾していただくかわりに、前もって承諾しておいていただくわ。それくらいあたしを愛してくれるんでしょう?」
これほどまでの献身的な行為に逆《さか》らうことは、とてもできませんでした。わたしは真心こめて、マルグリットの手に接吻しました。そして彼女にこう言いました。「きみの望むことなら、何でもするよ」
彼女がきめたことに、わたしはこうして同意したのでした。
すると彼女は有頂天になってはしゃぎだし、踊ったり歌ったりしました。こんどの新しい家の小ざっぱりした模様を話して今から楽しみにし、その環境や家の構えについてまで、もうわたしに相談をもちかけるのでした。二人の仲を固く結びつけるにちがいないこの決心を、彼女がうれしく思い、得意になっているのが、わたしにもよくわかりました。
そこでわたしも、彼女にひけをとりたくないと思いました。わたしはすぐさま生活の設計をたてました。現在ある自分の財産を計算してみて、母からの遺産の収入はマルグリットにやることにしました。これくらいのことでは、彼女にかけた苦労に報いるには、まだとても不十分だと思いました。わたしにはまだ父からもらう五千フランの年収が残っていました。これだけあれば、たとえどんなことが起ころうと、生活にはまず十分でした。
この決心は、マルグリットには話しませんでした。お金をやると言えば、きっと断わられるのはわかっていたからです。
この収入は六万フランの抵当になっている家からはいってくるのでしたが、その家はわたしもまだ見ていませんでした。知っていることといえば、ただわたしの家の古くからの知人で、父の公証人をしている人が、三月目ごとに、領収書と引きかえに、七百五十フランずつ渡してくれるということでした。マルグリットと二人でパリへ家をさがしに出かけた日、わたしはこの公証人のところへ寄って、他人にこの収入を譲り渡すには、どういう手続きをとればいいかたずねました。
実直な公証人は、わたしが破産したものと思いこんで、そう決心した理由を質問しました。そこで、おそかれ早かれこの人には、贈与する相手を言わなければならないのですから、わたしは今すぐ本当のことを話すことにしました。
公証人としても、また知人としても、当然反対する立場にあるのに、彼は反対めいたことはひと言《こと》も言いませんでした。そして万事自分が引きうけて、うまく切りまわしてあげようと約束してれました。父に対しては、ごく内密にお願いしたいと頼んだのは言うまでもありません。それからわたしはジュリー・デュプラの家で待ち合わしているマルグリットに会いに出かけました。彼女はプリュダンスのお説教を聞くよりもと、ここに立ちよっていたのでした。
わたしたちは貸家をさがしに行きました。見た家はマルグリットには、どれも家賃が高すぎました。またわたしにはあまり粗末すぎるものばかりでした。しかしそのうちに、二人の意見がついに一致して、パリでもいちばん閑静《かんせい》な地区にあって、母屋《おもや》と別棟になった小ぢんまりした離れ家を借りることにきめました。
この小さな離れ家のうしろには、美しい庭がありました。この庭は家に付属していて、周囲には塀《へい》がめぐらしてあり、それは隣の家とわたしたちをさえぎるには申し分のない高さで、そのうえ見晴らしには邪魔にならない程度のものでした。
これなら望んでいたよりも、ましな家でした。
もとの部屋を引き払うからと断わってくるために、わたしが帰宅している間、マルグリットはある周旋人のところへ出かけて行きましたが、その男は以前、彼女の友だちのある女のために、彼女が今度頼みに行ったようなことをしてくれたのだそうです。
彼女は大喜びで、プロヴァンス街のわたしのところへやって来ました。その男は家財道具一式を手放すなら、彼女の借金を残らず支払い、先方から受取証も取ったうえに、約二万フランの金を渡すと約束したのでした。
あなたは競売の売上高からみて、この正直な男とても、お得意さんのおかげで、三万フラン以上ももうけようとしたのがおわかりになるでしょう。
わたしたちはすっかり楽しくなって、ブージヴァルへ帰りました。二人は相変わらず、将来の計画を語り合いました。お互いに呑気《のんき》でしたし、またとくに二人の恋のおかげか、計画は金色にかがやいて二人の目にうつるのでした。
その後一週間ばかりたって、わたしたちが昼飯をたべていますと、ナニーヌがはいって来て、わたしの召使いがたずねてきたと告げました。
そこで召使いを通させました。
「旦那さま」と彼は言いました。「おとうさまがパリにお着きになりまして、お宅でお待ちになっていらっしゃいます。すぐお帰りになるようにとの仰《おお》せです」
このしらせはもとより大したことではありませんが、しかしマルグリットとわたしは、それを聞くと、互いに顔を見合わせました。
この出来事の中に、何か不幸がひそんでいるような気がしたのでした。そこで二人とも同じように感じたその気持ちについて、彼女は別に何とも言いませんでしたが、わたしはそれにこたえるように、彼女に手を差しのべながら言いました。
「何も心配することはないよ」
「なるたけ早く帰ってきてね」と彼女はわたしに接吻しながら、ささやきました。「窓のところで待ってるわ」
わたしはジョゼフを先に帰して、すぐ行くからと父に伝えさせました。実際、それから二時間後、わたしはプロヴァンス街へ行っていました。
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二十
部屋着をきた父は、客間にすわって、手紙を書いていました。わたしがはいると、目をあげてこちらを見た態度から、父が何か重大な問題を持ちだそうとしていることが、すぐわかりました。
しかしわたしは、その顔つきから何も気づかなかったように、そばに近より父に接吻しました。
「おとうさん、いつお着きになったのです?」
「昨晩だよ」
「いつものように、ここにお泊まりになったんでしょうね?」
「そうだ」
「あいにくと留守にして、お迎えもせず、申しわけありません」
父の冷たい顔つきから、こうした言葉には、すぐさま小言が飛びだすのではないかと覚悟をきめていました。しかし父は別に何も言わずに、書き終わった手紙に封をすると、ポストに入れるようにジョゼフに渡しました。二人きりになると、父は立ち上がって、暖炉《だんろ》によりかかりながら言いました。
「アルマン、おまえに重大な話があるのだがね」
「伺いましょう、おとうさん」
「率直に答えてくれるかね?」
「いつでも、そうしてますよ」
「おまえはマルグリット・ゴーチエという女と同棲しているそうだが、本当かな?」
「はあ」
「その女がもと何をしていた女か知っているのか?」
「玄人女《くろうとおんな》でした」
「おまえは、その女のために、今年《ことし》、わしや妹に会いにくるのを忘れたのだね?」
「そうです。おとうさん、実はそのとおりなんです」
「では、その女をよほど愛しているのかな?」
「おっしゃるとおりです、おとうさん。その女のために、神聖な義務を怠ったのです。きよう、それについて幾重《いくえ》にもお詫びします」
父はむろん、こうまではっきりした返事をきこうとは予期していなかったらしく、しばらく考えこんでいる様子でしたが、やがて言いました。
「いつまでもそんな生活をしていられないことは、もちろんよくわかっているだろうね?」
「そのことでは心配しましたが、しかし、おとうさん、できないものとも思いません」
「しかし」と、前よりも少しそっけない口調で、父はつづけました。「わしとしては、それを許しておくわけにはいかないことは、おまえにもわかっているはずだ」
「ぼくは、おとうさんのお名前と、家代々の誇《ほこ》りとをけがすようなことさえしなければ、今のままの生活を続けていっても構わないと思いました。そう思うと、これまでの心配もいくぶん軽くなりました」
情熱というものは、感情に対すると強くなるものです。マルグリットをまもるためとあれば、わたしはどんな闘争でも、たとえ父に向かっての闘争でも辞さない覚悟でした。
「では、別の生活をすべき時がきたのだ」
「え! なぜですか、おとうさん?」
「おまえは現在、自分の家名を傷つけるようなことをしているからだ」
「お言葉の意味が、よくわかりません」
「では説明しよう。おまえに女があるというなら、結構なことだ。紳士が玄人女との色事に金を払うように、おまえがその女に金を使っているというなら、申し分がないことだ。しかしおまえがその女のために、最も神聖な事柄を忘れている。お前の醜聞《しゅうぶん》がわしの田舎にまで伝わって、わしがおまえに与えた名誉ある名前に泥を塗っている。そうだとすれば、もう絶対にいかん。絶対に許すべからざることだ」
「お言葉を返すようですが、おとうさん、ぼくのことについて、そんなことをお聞かせした人たちは、事情をよく知らないのです。ぼくはゴーチエ嬢の恋人で、彼女と同棲しています。しかしこんな例は世間にざらにあることですよ。おとうさんからいただいた名誉ある名前を、ゴーチエ嬢のためにけがしもしません。ぼくは自分の許される範囲で彼女のためにお金を使っているだけなのです。借金はどこにもありません。ですからただ今伺ったような、子として父親から言われてもしかたがないようなことは、結局、何ひとつしていないつもりなんです」
「父親というものは、息子が邪道におちいっているとみたら、いつでもそこから遠ざけてやる責任があるのだ。今まではまだ悪いことはしていないが、そのうちにきっとするようになる」
「おとうさん!」
「いや、わしのほうがおまえよりも世の中というものを知っている。純真|無垢《むく》な感情というものは真に純潔な女にしかないものだ。どんなマノンでも、デ・グリュー一人ぐらいはこしらえられる。時代と風俗が変わっているだけだ。世の中が進んでも、正しくなるのでなければ何の役にも立たんよ。女と手を切りなさい」
「おとうさん。お言葉にそむいて申しわけがありませんが、そればかりはできません」
「無理にでも、手を切らせる」
「おとうさん、残念ですが、娼婦を流したサント・マルグリット島〔フランスとイタリアの国境に近いカンヌ沖合いの小島〕はもうないのです。今なおその島があったところで、あなたがゴーチエ嬢をそこへお送りになるなら、ぼくはあとからついて行きます。だってしかたがないでしょう! ぼくは間違っているかもしれませんが、今のままあの女の恋人になっていなければ、幸福にはなれないのです」
「いいかね、アルマン。目をあけて、よくおとうさんをごらん。わしはいつだっておまえを愛しているのだ。おまえの幸福だけを望んでいるのだ。どんな男とも関係のあった女と、これから夫婦気どりで暮らしていくことが、おまえの名誉になるのかね?」
「おとうさん、これから先、だれとも関係しなければ、それでいいじゃありませんか! その女がぼくを愛してくれて、ぼくに対する愛とぼくの愛とのおかげで、生まれかわりさえすれば、それでいいじゃありませんか! 要するに、心を入れかえたら、それでいいじゃありませんか!」
「おや! それじゃおまえは、娼婦の心を入れかえさせるのが、名誉をおもんじる男子の使命とでも思っているのかね? 神がそんな突飛《とっぴ》な目的を、人生に与えてくださったとでも思ってるのかね? 人間の心はそうしたこと以外に、熱中してはならないとでも思ってるのかね? そんな不思議な配慮の結果は、いったいどんなことになるだろう? おまえが四十になったら、きょうおまえが言っているようなことを、どう思うだろう? さいわいにして今の恋を笑えるような境遇にいられたら、またこの恋がおまえの過去にそれほど深い傷跡《きずあと》を残していなかったら、きっとおまえは自分の恋を笑うだろうな。
もし、おとうさんがおまえと同じような考えをもち、名誉と誠実とのうえに、しっかりと生活を築きあげもせずに、情熱のおもむくままに、耽溺《たんでき》の生活を送っていたとしたら、今ごろおまえはどうなっていたろう? よく考えるがいい、アルマン。もうそんなばかげたことは言っちゃいかんよ。さあ、その女と手を切るのだ。これはおとうさんがおまえに頼むのだよ」
わたしは何も答えませんでした。
「アルマン」と父はつづけました。
「神聖なおかあさんの名にかけて、どうかわしの言うことをきいて、今のような生活をやめてくれ。そんな生活は思ったより早く忘れてしまうものだよ。おまえは実現できないような理屈に引きずられて、そんな生活を送っているのだ。まだ二十四じゃないか。将来のことを考えたほうがいいよ。おまえだっていつまでもその女を愛してはいられまいし、女のほうだって、いつまでもおまえを愛することはできまい。二人とも自分の恋を大げさに考えすぎているのだ。そんなことでは、一生を台なしにしてしまう。これ以上深入りすれば、おまえは現在の道からもう立ち去ることができず、一生涯、若気のあやまちを後悔しなければならないだろう。さあ、国へ帰るのだ。そして一、二か月、妹のそばで暮らすのだ。休養と家庭の敬虔《けいけん》な愛情とは、さっそくおまえの熱病をなおしてくれる。これだってやはりひとつの熱病だからな。そのうちに、女のほうも気が変わってほかに恋人をこしらえるだろう。そうなればおまえも、だれのために、おとうさんとけんかしてまでそうなったか、おとうさんから愛想《あいそう》をつかされそうになったか、そのときはじめて目が覚めて、おとうさん、よく訪ねてきてくださいましたと言って、わしに感謝するだろう。さあ、国へ帰るかね、どうだね、アルマン?」
これがほかの女に対してなら、父の言うことも、もっともだと思ったのですが、マルグリットに対してだけは絶対に当てはまらないと思いました。しかし父が最後に言った言葉の調子が、いかにもおだやかで、いかにも懇願《こんがん》するというふうだったので、わたしは何と返事していいかわかりませんでした。
「そうですね、おとうさん。ぼくにはちゃんとしたお約束はできません」とわたしはとうとう言ってしまいました。「そんなふうにおっしゃられても、ぼくにはどうすることもできません。結局、おとうさんは」と、父がいらだたしそうにするのを見ながら、わたしはつづけました。「ぼくたち二人の関係の結果を、少し大げさに考えすぎていらっしゃいます。マルグリットは、おとうさんが考えていらっしゃるような女ではありません。この恋はぼくを邪道《じゃどう》におとしいれるどころか、かえって反対に、ぼくのいちばん気高い感謝を育てあげてくれているのです。真実の恋というものは、たとえ相手がどんな女であっても、男の心を向上させるものです。おとうさんがマルグリットを知ってくだされば、ぼくが少しも危険に身をさらしてなんかいないことがおわかりになるでしょう。あの女はもっとも気品の高い女にくらべることができるほど気品の高い女です。ほかの女たちが強欲《ごうよく》である程度に、あの女は無私無欲なんです」
「そんな女なのに、おまえの全財産を頂戴《ちょうだい》する分には差しつかえないというのだね。おまえはおあさんから譲りうけた六万フランを、あの女にやろうとしているが、よく覚えておくがいい。あれこそはおまえのかけがえのない財産なんだぞ」
この結論とこの威嚇《いかく》とは、わたしに最後の打撃を与えるために、おそらく保留しておいたものにちがいありません。威嚇されたほうが、懇願されるよりも、こちらはずっと強くなりました。
「その金をあの女にやるということを、おとうさんはだれからおききになったのですか?」とわたしは言いました。
「公証人からだ。正直な男が、前もってわしに知らせもせずに、そんな手続きをすると思うか? いいかね、わしがパリへ出てきたのは、おまえが女のために破産するのを、そうはさせまいと思えばこそだ。おかあさんが死にぎわに財産をのこしたのも、それでおまえに、まともな生活をさせるためだ。色女に気前よくやるためではないのだ」
「おとうさん、誓って申し上げますが、このことについては、マルグリットは何も知らないのです」
「それなら、なぜあんなことをしたのだ?」
「というのは、おとうさんが中傷なさって、ぼくに別れるようにおっしゃるあの女、マルグリットはぼくと同棲するために、自分の持物を残らず犠牲《ぎせい》にしたからです」
「ではおまえは、その犠牲を甘んじて受けるのか? マルグリットのような女に何らかの犠牲を払わせて、それで平気でいるおまえはいったい何という男だ? いや、もうたくさんだ。すぐ女と手を切れ。さっきは頼んだが、今度は命令する。わしの家の者に、そんなけがらわしいまねはさせておけないよ。荷物をまとめろ、わしといっしょに行くのだ」
「お許しください」とわたしはそのとき言いました。「ぼくはお供《とも》はできません」
「なぜだ?」
「ぼくはもう命令に服従しなければならないような年齢ではありませんから」
この返事をきいて、父はまっさおになりました。
「よろしい」と父は言いました。「わしにも考えがある」
父は呼び鈴を鳴らしました。
ジョゼフが姿をあらわしました。
「荷物をパリ・ホテルへ運ばせてくれ」と父は召使いに言いつけました。それと同時に、自分の部屋へ行って、身支度をととのえました。父がふたたび姿を現わすと、わたしはその前に行きました。
「おとうさん、お願いですから」とわたしは言いました。「どうかマルグリットを苦しめるようなことはしないと約束してください」
父は立ちどまると、軽蔑するようにわたしを見つめながら、ただひと言《こと》こう言いました。
「おまえはたわけだぞ」
こう言って、父は背を向けたまま荒々しく扉をしめて、出て行きました。
わたしもつづいて家を出ると、馬車に乗ってブージヴァルへ出発しました。
マルグリットは窓のところで、わたしを待っていました。
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二十一
「あら! 帰ってきたのね!」と叫びながら、彼女はわたしの首にとびつきました。「まあ、まっさおな顔をして!」
そこでわたしは、父とのいきさつを話してきかせました。
「まあ! どうしましょう! きっとそんなことじゃないかと思ってたわ」と彼女は言いました。
「おとうさまがお着きになったとジョゼフが知らせに来たとき、まるで悪いしらせでも受けたようにどきっとしたわ。すみません! あなたをこんな辛《つら》い目にあわせるのも、みんなあたしのせいなんだわ。おとうさまとけんかなんかするより、いっそのこと、あたしと別れたほうがいいかもしれないわ。でもあたし、おとうさまには何もしてなんかいないわ。二人はこうしてしごく平和に暮らしているんだし、これからさきは、もっと平和に暮らしていけるんですものね。おとうさまだって、あなたに愛人が必要なことは、よくわかっていらっしゃるんですもの。あたしがその女だったら、喜んでくださってもいいはずだわ。あたしがあなたを愛しても、あなたの身分にかかわるような、大それたことは望んでいやしないんですもの。あたしたちが将来のことをどんなふうにきめたか、おとうさまに話してくださったの?」
「ああ、しかしそのことがいちばん父を怒らしてしまったんだよ。その決心を話したので、ぼくたちがどんなに相愛の仲であるかわかったんだからね」
「それじゃ、どうすればいいの」
「やっぱりいっしょにいるのさ。ねえ、マルグリット。そして嵐の通りすぎるのを待つんだね」
「嵐は通りすぎてくれるかしら?」
「もちろん、通りすぎるにきまってるよ」
「でもおとうさまは、きっとこのまま黙ってはいないわ」
「父はどうすると思う?」
「どうするか、わからないわ。だけど父親が息子を服従させるためにしそうなことなら、どんなことだってするでしょうよ。あたしの過去を思い出させたり、何か新しい醜聞《しゅうぶん》をつくりあげたりして、あたしと手を切らせようとするにちがいないわ」
「ぼくがきみを愛していることは、きみにもわかっているはずだよ」
「ええ、でも、おそかれ早かれ、おとうさまの言いつけに従わなければならないこともわかってるわ。そしておしまいには、あなただって、きっと説《と》き伏せられてしまうわ」
「そんなことはないよ、マルグリット。父を説き伏せてみせるよ。父がかんかんに怒っているのは、だれか父の友人がよけいなことを言ったからだよ。父は根が善良で正しい人間だから、結局のところ最初の印象をあらためるよ。それに、そんなことは、どうでもいいことなんだ!」
「そんなこと言うもんじゃないわ、アルマン。あたしのことで、おうちの人と仲たがいしたと思われたら、あたし、浮かぶ瀬《せ》がないわ。きょうはこのままにして、あすはパリへ行ってらっしゃいよ。あなたのほうも、もう一度考え、おとうさまのほうでもまた考えなおしてくださるでしょうから、たぶんお互いにもっとよく理解し合えると思うの。おとうさまの理屈に真っ向《こう》からくってかからずに、少しはおとうさまの言い分にも譲歩するような振りをなさいよ。あんまりあたしのことを思っているような振りをしちゃだめよ。そうすれば、おとうさまも、このまま大目に見てくださるかもしれないもの。ねえ、気を落としちゃだめよ。そしてこれだけは、どこまでも信じてちょうだい。たとえどんなことがあろうと、あなたのマルグリットは、いつまでもあなたのものだってことを」
「誓ってくれる?」
「今さら誓う必要があって?」
愛する女の口からこんなふうに納得させられるのは、何と快《こころよ》いことでしょう! マルグリットとわたしとは、二人の計画をもっと早く実現しなければならないことがわかったように、一日じゅう幾度もそれについて語り合いました。絶えず何か起こりそうな気がしてなりませんでしたが、幸いにその日は別に変わったこともなく過ぎました。
翌日、わたしは十時に出発して、正午ごろホテルに着きました。父はもう外出していました。もしかしたら、父が行っているかもしれないと思って、わたしは自分の家へ行ってみました。しかしだれも来ていません。そこで公証人のところへ行ってみましたが、やはりだれもいませんでした。ホテルへ引きかえして、六時まで待ちましたが、父はもどってきませんでした。
わたしはブージヴァルへの帰途につきました。
マルグリットは前の日のように、わたしを待ちもせずに、暖炉のそばにすわっていました。もう火の恋しい季節になっていたのです。
彼女は物思いにふけっていて、わたしが肘掛椅子《ひじかけいす》に近よっても、足音にも気づかず、振りむきもしませんでした。わたしが額にくちびるをあてると、その接吻でびっくりして、目が覚めたように身ぶるいしました。
「びっくりしたわ」と彼女は言いました。「で、おとうさまは?」
「会えなかったんだ。どういうわけだかわからない。ホテルにもいないし、ほかに父の行きそうなところをさがしたが、どこにも見えないんだよ」
「じゃ、あす、また行けばいいわ」
「ぼくは、父のほうから呼びに来るまで、待とうと思うんだ。やることはちゃんとしたんだからね」
「いいえ、あなた、それじゃいけないわ。おとうさまのところへは、いかなければいけないわ、あす、ぜひとも」
「なぜ、あすでなくちゃいけないんだい?」
「だって」とマルグリットは答えました。しかしわたしの質問には少し顔を赤くしたようでした。
「そうすれば、あなたの熱心なことがいっそうよくわかってもらえて、あたしたちもそれだけ早く許していただけるわけですもの」
その日はそれからずっと、マルグリットは物思いにふけり、ぼんやりと、悲しそうにしていました。彼女の返事をきくために、同じことを二度もくり返さなければなりませんでした。ここ二日《ふつか》の間に、突然起こった出来事のために、将来のことが心配になって、そればかり考えこんでいるのだというのでした。
その夜、わたしは彼女を慰めてすごしました。そして翌日には、なぜだかわかりませんが、彼女は相変わらず気がかりな様子で、わたしを送り出しました。
前日と同じように、父は不在でしたが、出がけに、次のような手紙を残していました。
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『きょう面会に来たら、四時まで待ってみてください。四時になっても帰ってこないときは、あすあらためて、夕食をともにするように来てください。ぜひ話したいことがあります』
[#ここで字下げ終わり]
言われた時間まで待ちましたが、父はまたも姿を見せません。わたしは出発してしまいました。
マルグリットは、きのうは沈んでいたのに、きょうは熱に浮かされたように落ちつきがありませんでした。わたしがはいって行くのを見ると、いきなり首にとびついて、わたしの腕の中で長い間泣いていました。
彼女が急にこんなふうに悲しみだし、しかもそれが、だんだん激しくなっていくのに不安を感じて、わたしはそのわけをたずねました。しかし彼女は、どの女も本当のことを言いたくないときするような、言いのがれを言って、はっきりした理由はひとつも言いませんでした。
彼女がいくらか落ちつくと、わたしはパリへ行った結果を話してきかせました。そしてこの分なら、うまく行きそうだと言って、父の手紙を見せました。
その手紙を見、わたしの話をきくと、彼女はまた激しく泣きだしました。そこでわたしもしまいにはナニーヌを呼ばないわけにはいかなくなりました。神経の発作《ほっさ》をおこされてはと思って、二人がかりで彼女を寝かせました。しかし彼女はひと言も言わずにただ泣くばかり、それでもわたしの両手を握って、絶えずそれに接吻しました。
留守中にどこからか手紙でも届いたのか、まただれか訪ねてくるかして、それが原因でこんなふうになったのではないかと、ナニーヌにたずねてみました。しかしナニーヌの返事では、だれも見えなかったし、また手紙もこなかったということでした。
しかし、きのうから何事かあったにちがいありません。マルグリットがそれを隠しているだけに、わたしはいっそう心配でした。
晩には、彼女も少し落ちついたようでした。わたしをベッドの端に腰かけさせて、長い間自分の愛の変わらないことを、何度もくり返し言いたてました。目には涙をいっぱいためているのに、笑顔をつくっていました。無理に笑っていることは明らかでした。
その悲しみの本当の理由を言わせようと、わたしはいろいろな手法でやってみましたが、彼女は相変わらず、前に申しあげたような漠然《ばくぜん》とした理由しか言おうとしませんでした。
そのうちに、とうとう彼女はわたしの腕に抱かれたまま眠ってしまいました。しかしその眠りは彼女の身体を休ませるよりも、むしろ疲れさせるものでした。ときどき彼女はうなされて叫び、びくっとして目を覚ましました。わたしがちゃんとそばにいるのを確かめると、いつまでも愛するということを誓わせました。
朝まで、こうしてときどき起こる苦痛はつづきました。わたしには何のことやら、そのわけがわかりませんでした。彼女は朝になると、どうやらうとうとと眠るようになりました。何しろこのふた晩というもの、彼女はまんじりともしなかったのです。
この休息も長くはつづきませんでした。
十一時ごろ、マルグリットは目を覚ましました。そしてわたしがもう起きているのを見ると、あたりを見まわしながら大声をあげました。
「あなた、もういくの?」
「いいや」と彼女の手をとって、わたしは言いました。「きみをもっと寝かしておきたかったんだよ。まだ早いからね」
「何時にパリへいくの?」
「四時に」
「そんなに早く? それまで、そばにいてくれるわね?」
「もちろん。いつもそうじゃないか」
「まあ、うれしい! お昼ご飯たべましょうか?」と彼女はぼんやりした調子で言いました。
「きみがたべたければね」
「それから、お出かけまで、あたしを抱いていてくれる?」
「いいとも、なるたけ早く帰ってくるよ」
「帰ってくるの?」とものすごい目つきでわたしを見ながら、彼女は言いました。
「当たりまえさ」
「そうだったわね。今晩帰ってくるのね。あたしいつものように待ってるわ。これからもあたしを愛してね。あたしたちは、はじめて知りあったときからずっとそうだったように、これから先も幸福に暮らしましょうね」
ひどくせかせかした口調で言われたこの言葉の裏には、絶え間のない苦しい思いが隠されていたように思われ、マルグリットが今にも精神錯乱におちいるのではないかと、わたしは絶えずびくびくしていました。
「ねえ」とわたしは彼女に言いました。「きみは病気なんだから、このままほっておくわけにはいかない。父には手紙で、待っていてくれないように言ってやろう」
「いいえ! いいえ!」と彼女はいきなり叫びました。「そんなことをしてはいけないわ。せっかくあなたに会いたがっていらっしゃるのに、引きとめたりしては、おとうさまはまたあたしを非難なさるわ。いいえ、いいえ、あなたは行かなきゃいけないわ、ぜひともね! それにあたし病気じゃないわ。とても気分がいいのよ。ただこわい夢を見て、まだよく目が覚めきっていないだけなのよ」
このときから、マルグリットはつとめていっそう快活な振りをして、もう泣くのはやめました。
さて出発の時間がくると、わたしは彼女に接吻して、駅までいっしょに来ないかとすすめました。散歩は気晴らしになるし、そとの空気は身体のためにもいいと思ったからでした。
いやそんなことよりも、わたしはできるだけ長く彼女といっしょにいたかったからでした。
彼女は承知して、コートを着ると、帰りが一人にならないようにナニーヌを連れて、わたしといっしょに出かけました。
いっそのこと出かけるのはよそうと、幾度思ったかしれません。しかしどうせ早く帰るつもりだし、このうえまた父の機嫌を悪くしてもと思ったので、進まぬながらも、ついに汽車に乗ってしまいました。
「じゃ、晩にね」と別れぎわに、わたしはマルグリットに言いました。
彼女は返事をしませんでした。
前にも一度、彼女はこれと同じ言葉に返事をしなかったことがありました。覚えていらっしゃるでしょうが、G伯爵がその夜彼女のところに泊まったのです。しかしそれはずいぶん前のことで、わたしの記憶からもほとんど消えかかっていました。で、何かしら心配になるとはいうものの、よもやマルグリットが自分を裏切ろうなどとは、夢にも思いませんでした。
パリに着くと、さっそくプリュダンスのところへ駆けつけました。この女に頼んで、マルグリットの見舞いに行ってもらえば、快活で陽気なこの女のことですから、彼女の気もまぎれるだろうと思ったのです。
案内も乞《こ》わずにはいって行くと、プリュダンスはお化粧をしているところでした。
「あら!」と彼女は落ちつかない様子で言いました。「マルグリットもいっしょなの?」
「いや」
「どうしたの、あのひと?」
「病気なんだよ」
「来ないの?」
「来ることになってたのかい?」
デュヴェルノワ夫人は顔を赤くしました。そして何か当惑げに答えました。
「こう言うつもりだったのよ。あんたがパリへいらしったので、あのひと、ここであんたと落ちあうんじゃないかと」
「いいや」
わたしはじっとプリュダンスの顔を見つめました。すると彼女は目を伏せましたが、その顔つきには、どうやらわたしに腰を落ちつけられては困るというような心配が、はっきりと見えました。
「実は頼みがあって、やって来たんだがねえ、プリュダンス。もし用事がなかったら、今晩マルグリットを訪ねてほしいんだ。話し相手になってもらいたいんだよ。よければ、ひと晩泊まってもいいんだ。きょうはどうも、あれの様子がいつもと、まるでちがうんでね。病気じゃないかと心配してるんだ」
「あたし、そとでお食事をすることになってるのよ」とプリュダンスは答えました。「ですから今晩はマルグリットのお見舞いには行けないわ。でもあすならきっと行くわ」
わたしはデュヴェルノワ夫人に別れを告げましたが、どうやら彼女もマルグリットと同じように、何か考えこんでいるように見えました。
それから父のところに行きましたが、父は最初のまなざしで、注意深くわたしの様子をさぐりました。
父はわたしに手を差しのべました。
「アルマン、二度も訪ねてくれて、うれしいよ」と父は言いました。「わしもいろいろと考えたが、おまえのほうもどうやら考えなおしてくれたようだね」
「失礼ですが、おとうさん。お考えを伺わしてくださいませんか?」
「それはだね、どうも人から聞いた話を、わしは大げさに考えすぎていたということだよ。そこでおまえにも、やかましいことは言わないことにきめたのだ」
「ほんとですか、おとうさん!」とわたしは喜んで叫びました。
「な、おまえ、だれしも若いうちは女の一人ぐらいあるのは当然だよ。それに、いろいろと事情をきいてみると、おまえの恋人がほかの女でなくて、ゴーチエ嬢であってくれて、まだしもよかったと思ってるのだ」
「おとうさんはすてきだ。ぼくはとてもうれしい!」
しばらく、こんな調子で話したのち、わたしたちは食卓につきました。食事中、父は上機嫌でした。
わたしは大急ぎでブージヴァルへ帰って、この喜ばしい変化をマルグリットに知らせてやりたくて、うずうずしていました。それで絶えず時計ばかり見ていました。
「時間ばかり見ているね」と、父は言いました。「早くわしのそばを離れたくてしかたがないのだろう。若い者にも困ったものだ! おまえたちは、いかがわしい愛情のために、まじめな愛情をいつも犠牲にするのだね」
「そんなことをおっしゃらないでください、おとうさん! マルグリットはぼくを愛しているんです。これはたしかなんです」
父は返事をしませんでした。その態度は疑っているとも信じているとも、どちらともわからないものでした。父はわたしをひと晩自分といっしょに過ごさせようとして、あす帰ってはと、しきりにすすめました。わたしは病気のマルグリットを残してきたことを話して、早く帰らしてほしいと頼み、あす、またやって来ることを約束しました。
天気がよかったので、父はプラットフォームまで、わたしを送ろうと言いました。このときほどうれしかったことはありませんでした。未来は、ずっと前から長いこと求めていたような姿で、わたしの前に現われました。わたしはこれまでにもまして、父がいっそう好きになりました。
別れるまぎわに、父は最後にもう一度、泊まっていけとしきりにすすめましたが、わたしは断わりました。
「ではおまえは、よほどあの女が好きなんだね?」と父はたずねました。
「気が狂うほど好きです」
「なら、お帰り!」と父は言って、何かある考えを追い払おうとでもするように、額《ひたい》に手をあてました。
それから何か言おうとして口を開きましたが、手を握りしめるだけにして、「では、またあす!」と叫ぶと、いきなりわたしのそばから離れました。
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二十二
わたしには、汽車がまるで走っていないように思われました。
ブージヴァルへは十一時につきました。家の窓には、ひとつとして、あかりがついていませんでした。呼び鈴を鳴らしても、だれも答えてくれませんでした。
こんなことは、この晩がはじめてでした。やっと庭番が姿を見せました。わたしは家の中にはいりました。
ナニーヌがあかりをもって出てきました。わたしはマルグリットの部屋へはいりました。
「奥さまはどこにいる?」
「パリへいらっしゃいました」とナニーヌは答えました。
「パリへだって?」
「はい、旦那《だんな》さま」
「いつ?」
「旦那さまより一時間あとに」
「ぼくに何か伝言でもなかったかね?」
「いいえ、何も」
ナニーヌはわたしを残して出て行きました。
『いろいろと心配があったのかもしれない』とわたしは考えました。『父に会いに行くと言ったのを、一日羽根をのばす口実かもしれないと思って、それを確かめに、パリへ行ったのではないかしら』『それとも、何か重大な用事で、プリュダンスから手紙でも来たのかもしれない』と、一人になると、わたしはそう思いました。ところがわたしは、パリに着くそうそうプリュダンスには会っているのです。おまけに彼女はマルグリットに手紙を書いたと推測させるようなことは、ただひと言もわたしに言いませんでした。
このときふとわたしは、マルグリットが病気だと言ったとき『じゃ、あのひとはきょう来ないのね?』とプリュダンスが口に出した言葉を思い出しました。それと同時に、こっそり会う約束でもあって、つい口をすべらしたらしいこの言葉を聞いて、わたしがじっと顔を見つめると、何だか当惑したような様子をしたのを思い出しました。このことを思い出すと、またマルグリットが一日じゅう泣いていたことが胸に浮かんできました。父が愛想よく迎えてくれたので、それをしばらく忘れていたのでした。
このときから、その日の出来事が、すべてわたしの最初の疑惑のまわりに集まってきて、心の中にその疑惑をしっかり植えつけてしまい、何もかもが、父の温情さえもが、それを確証するものとなりました。
マルグリットはほとんど無理に強いるようにして、わたしにパリへ行くことをすすめました。わたしが行かないでそばにいようというと、ことさらに落ちついて見せました。わたしは罠《わな》にかかったのでしょうか? マルグリットはわたしをだましたのでしょうか? 家をあけたことをわたしに気づかれないように、ちょうどいい時分に帰ってくるつもりだったのが、偶然のことから帰れなくなったのでしょうか? ナニーヌにひと言も伝言して行かなかったのはなぜでしょう? またなぜわたしに置き手紙をして行かなかったのでしょう? あの涙といい、この留守といい、またこの不可思議なことといい、いったいこれはどうしたというのでしょう?
がらんとした部屋の中で、じっと柱時計を見つめたまま、わたしは恐ろしい気持ちで、こんなことを考えていました。時計の針は十二時を指して、愛人の帰りを当てにしていても、もうおそいとでも言っているように見えました。
しかし互いに犠牲を払い合い、将来のことも何かと取りきめた今となって、彼女がわたしを裏切るというようなことが、果たしてあることでしょうか? いや、そんなはずはありません。わたしは最初の想像をつとめてしりぞけようとしました。
きっとマルグリットは家財道具の買い手がみつかったので、話をきめるためにパリへ行ったのだろう。前もってわたしに知らせなかったのは、たとえわたしが二人の将来の幸福のために、その売立てを承諾しているとはいうものの、それを心苦しく思うことを知っているので、そんなことを話して、わたしの自尊心や感情を傷つけまいと思ったからだろう。彼女はすっかり片をつけてから帰つもりだろう。プリュダンスが彼女を待っていたのも、たしかにそのためで、それをわたしの前でうっかりもらしたのだ。
ところがきょう中に取引きがすまなかったので、マルグリットはパリの家に泊まったのだ。それとも、今にももう帰ってくるかもしれない。わたしが心配していることは、うすうす感づいているはずだから、まさかこのままわたしをほったらかしておきはしないだろう。
それにしても、あの涙はどうしたというのでしょう? 彼女にしてみれば、おそらく、どれほどわたしを愛しているにせよ、今の今までその中で暮らし、そのおかげで人から羨望《せんぼう》のまとになるほど幸福になることができたその贅沢《ぜいたく》な品物をいざ手離すとなれば、やはり泣かずにはいられなかったのでしょう。
わたしはマルグリットのそうした哀惜《あいせき》の気持ちを、こころよく許しました。そしてその帰りを今か今かと待ちわびながら、もし帰って来たら、接吻の雨を降らして、きみの不可思議な留守《るす》の理由はもうちゃんと知ってるんだ、と言ってやろうと思いました。
しかし夜がふけても、マルグリットは帰ってきませんでした。
不安の輪《わ》が少しずつ縮まって、わたしの頭と胸とを強くしめつけました。もしかしたら何事か起こったのではあるまいか! 怪我をしたのか、病気になったのか、それとも死んだのではなかろうか? 今にも使いの者がやって来て、おそらく何か悲しい出来事を知らせるのではあるまいか? この分だと、夜があけても、同じ疑惑と心配とに包まれているのではあるまいか?
こうして家をあけた彼女の身を案じながら、その帰りを待っているあいだにも、マルグリットがわたしを裏切ったなどという考えは、二度とわたしの頭には浮かんできませんでした。これには何か特別の理由があって、心ならずも帰れないでいるにちがいない。そう思えば思うほど、その理由が何か不幸なことにちがいないと思わずにはいられなくなりました。ああ、男の自惚《うぬぼ》れ! それはあらゆる形となって現われてくるものです。
一時が今しがた鳴りました。もう一時間待ってみて、もし二時になってもマルグリットが帰ってこないなら、わたしはパリへ出かけてみようと決心しました。
それまでは、もう何も考えたくなかったので、何か本はないかと見まわしました。
『マノン・レスコー』がテーブルの上に開かれたままになっていました。ところどころに、涙でぬれたのではないかと思われるようなページがありました。わたしはぱらぱらとめくっただけで、そのまま本を閉じてしまいました。いろいろな疑惑のヴェールをとおして見るせいか、文字の意味も空虚に思われました。
時間はゆっくりたっていきました。空はくもっていて、秋雨《あきさめ》が窓ガラスをたたいていました。からっぽのベッドがときどき墓のように見えました。わたしは恐ろしくなってしまいました。
わたしは扉をあけました。そしてじっと耳をすましても、聞こえるものはただ木《こ》の間《ま》をわたる風の音ばかりで、往来を行く馬車もありません。聖堂の鐘楼《しょうろう》で、一時半の鐘がさびしく鳴りました。今にも、だれかがはいって来るような不安な感じがしました。こんな時刻に、しかもこんな陰気な天気にくるものなら、きっと不幸にちがいないという気がしました。
二時が鳴りました。今しばらく待ってみました。あたりの静けさを破るものは、ただ柱時計の規則正しく時をきざむ単調な音ばかりでした。
心が不安でさびしいせいか、部屋の中にあるものすべてが物悲しく見えるので、ついにわたしは部屋を出てしまいました。
隣の部屋では、ナニーヌが仕事をやりかけたまま眠っていました。彼女は扉の音に目をさますと、奥さまがお帰りになったのかとたずねました。
「いや、まだだ。しかしもしお帰りになったら、心配でじっとしていられないから、パリへ行ったと言っておくれ」
「こんな時間にでございますか?」
「そうだ」
「でも、何でいらっしゃいます? もう馬車はございませんよ」
「歩いて行くよ」
「でも、雨が降っております」
「かまうもんか!」
「奥さまはきっと帰っていらっしゃいますわ。もしお帰りになりませんでも、様子を見にいらっしゃるなら、夜があけてからでもよろしいじゃございませんか。今時分おでかけになるのは、途中で殺されに行くようなものですもの」
「何も危険なんかないよ。ナニーヌ。じゃあすまた」
気だてのいいナニーヌは、コートをとって肩に掛けてくれました。それからアルヌーのおかみさんを起こして、馬車が頼めるかどうかきいて参りましょうか、と言いました。しかしわたしはいらないと断わりました。そんなことをしたって、どうせむだなことはわかりきっていました。こうしている間に、道のりの半分も行けると思ったからでした。
それにわたしにとっては、そとの空気と、全身を苦しめている激しい興奮をしずめてくれる肉体の疲労が必要だったのです。
わたしはアンタン街の家の鍵《かぎ》を持ちました。そして表門まで送ってきたナニーヌに別れて、出かけました。
そのまま最初は駆け出しましたが、雨でぬれたばかりの地面のおかげで、倍も疲れてしまいました。こうして半時間ばかりも走ると、汗をびっしょりかいて、どうしても休まずにはいられませんでした。そこでひと息いれて、また歩きだしました。
あたりは真っ暗闇なので、道ばたの木に突きあたりはしないかと、絶えずびくびくしました。突然目の前にあらわれる木は、まるで飛びかかってくる大きな化け物のように見えました。
荷馬車に一、二台出会いましたが、それもまたたく間にすれちがってしまいました。一台の四輪馬車がブージヴァルへ向かって全速力で走ってきました。そばを通りすぎたとき、マルグリットがもしかしたら乗っているかもしれないと思いました。
わたしは立ちどまると、大声で叫びました。
「マグリット! マルグリット!」
しかしだれも答えるものはなく、馬車はそのまま行ってしまいました。遠ざかって行く馬車を見送って、わたしはまた歩きだしました。凱旋門《がいせんもん》の関門につくまでに二時間かかりました。
パリを見ると、わたしは元気が回復しました。そして幾度も歩きまわったことのある長い並木道を駆けておりました。
その夜は、だれも通っていませんでした。
さながら死の町を歩いているような気持ちでした。
夜があけはじめました。
アンタン街に着いたのは、大都会がまさに目覚めようとして、かすかに動揺しはじめたころでした。
マルグリットの家にはいったとき、ちょうどサンロック聖堂の鐘が五時を打ちました。
わたしは門番に名を告げました。この門番はこれまで、わたしから何度も二十フラン金貨をもらっていたので、わたしが朝の五時でもゴーチエ嬢のところへ来る権利があることをよく心得ていたのです。
わたしは難なく、門を通りました。
マルグリットが在宅かどうか、きこうと思えばきけたのでした。しかしもしかしたら、門番はいないと答えるかもしれません。そんな返事を聞くよりも、せめてあと二分間でも疑いを残しておきたいと思いました。疑っているうちは、まだ希望があるのですから。
わたしは物音か、人の気配《けはい》でもするかと思って、入り口の扉に耳をおしあてました。
何も聞こえません。まるで田舎の静けさが、ここまでつづいているかのようでした。
わたしは扉をあけて、はいって行きました。
カーテンは残らずぴたりと閉ざされていました。わたしは食堂のカーテンを引くと、寝室の方へ進んで行って、扉を押しあけました。カーテンのひもに飛びついて、はげしく引きました。カーテンはぱっと左右に開きました。薄明りが差しこみました。わたしはベッドに駆けよりました。
ベッドはからっぽでした!
わたしは次から次へと扉をあけて、部屋という部屋を残らず見てまわりました。だれもいません。
わたしは今にも、気が狂いそうでした。化粧室にはいって、窓をあけると、何度もプリュダンスの名を呼びました。プリュダンスの部屋の窓は、しまったままでした。
そこでわたしは、門番のところへおりて行って、ゴーチエ嬢は昼間、家へもどったかどうかとたずねてみました。
「ええ」と門番は答えました。「デュヴェルノワ夫人とごいっしょでしたよ」
「何かぼくに伝言はなかったかね?」
「別に何も」
「それからどうしたか、知ってるかい?」
「お二人で馬車へお乗りになりました」
「どんな馬車だった?」
「お宅の馬車でした」
これはいったい、どうしたというのでしょう。
わたしは隣の入り口の呼び鈴を鳴らしました。
「どちらさまへいらっしゃいますか?」と門番が扉をあけてからききました。
「デュヴェルノワ夫人のところだ」
「あの方はまだお帰りになりません」
「それはたしかかね?」
「はい、旦那。このとおりゆうべ、手紙が一通きていますが、まだお渡ししていないようなわけです」
そう言って門番は、一通の手紙をわたしに見せましたが、わたしは機械的に目をやりました。
みると、たしかにマルグリットの筆跡です。
表書きには、次のようにしたためてありました。
[#ここから1字下げ]
『デュヴェルノワ夫人へ、
デュヴァルさまへお渡しください』
[#ここで字下げ終わり]
「この手紙はぼくあてのものだ」と言って、わたしは門番に宛名を見せました。
「あなたがデュヴァルさんですか?」と門番はききました。
「そうだよ」
「ああ、わかりました。前によくデュヴェルノワさんのところへおいでになりましたっけ」
通りに出るとすぐに、わたしはその手紙の封を切りました。たとえ足もとに雷《かみなり》が落ちたとしても、この手紙を読んだときほどびっくりはしなかったにちがいありません。
[#ここから1字下げ]
『アルマンさま。この手紙をお読みになる時分には、あたしはもうほかの男のものになっているでございましょう。二人の仲ももうこれっきりでございます。あなた、どうぞおとうさまのおそばへお帰りなさいませ。あたしたちの惨《みじ》めさなどを何ひとつご存じない、清らかなお妹さまに会いにおいでなさいませ。そうなさればマルグリット・ゴーチエという堕落《だらく》した女のためにお苦しみになったことなど、すぐにお忘れになりますわ。たとえしばらくの間でも、あなたはその女を心から愛してくださいました。あなたのおかげで、その女は一生のうちただ一度きりの幸福なときを過ごすことができたのでございます。
でも今となりましては、残りの生涯も、もう長いことはないようにと、その女は願っているのでございます』
[#ここで字下げ終わり]
この最後の文句を読んだとき、わたしは今にも気が狂うのではないかと思いました。
一瞬、わたしはあやうく通りの敷石の上に倒れそうになりました。目がかすんでしまい、こめかみでは血がはげしく脈打ちました。
わたしは、やっといくらか気を取りなおすと、自分の周囲を見まわしました。そしてほかの人たちの生活が、自分の不幸と何のかかわりもなくつづけられているのを見て、まったくびっくりしました。
わたしはマルグリットから与えられた打撃を、自分一人で耐えられるほど強い人間ではありません。
そのときわたしは、父が同じこの都会の、しかもここからわずか十分で行けるところにいることを思い出しました。そしてどんな原因でわたしが悲しんでいるにせよ、父ならきっとわたしといっしょに悲しんでくれるにちがいないと思いました。
まるで気が狂った男のように、物を盗んだ男のように、わたしはパリ・ホテルまで駆けて行きました。父の部屋のとびらには、鍵が差しこんでありました。わたしはなかにはいりました。
父は本を読んでいました。
わたしが姿を見せても、さして驚いた様子をしなかったところをみると、父はわたしを待っていたのかもしれません。ひと言も言わずに、わたしは父の腕の中に身を投げかけて、マルグリットの手紙を渡しました。そして父のベッドの前に倒れたまま、熱い涙に泣きぬれたのでした。
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二十三
やがて生活のすべてが今までどおりに歩みはじめたとき、わたしはこの日の朝が自分にとって、それまでの朝とちがっているとは、どうしても思われませんでした。自分にははっきりと思い出せないけれど、何かの事情でマルグリットのそばを離れて一夜をすごしたが、さてブージヴァルに帰りさえすれば、前の晩わたしが心配したように、彼女は心配しながら待っていて、どうして帰ってこなかったのときくだろう、などと思う瞬間もあるのでした。人間の生活に、わたしたちの恋愛のようなひとつの習慣がついてしまうと、生活以外の原動力を残らず同時に破壊してしまわないかぎり、この習慣をやめることはできないものと見えます。
そんなわけで、夢ではないということが、十分得心が行くようにするためには、わたしはときどきマルグリットの手紙を読みかえさなければなりませんでした。
わたしの肉体は、精神的な打撃に完全にやられてしまって、今は動く力さえなくなってしまいました。不安、それにゆうべ歩いたことや、けさの手紙とで、わたしはもう精根ともに疲れきってしまいました。こうしてわたしがへとへとになっているのをさいわいに、いっしょに郷里に帰るとはっきり約束するように、父はわたしに言うのでした。
わたしは父が言うがままに約束しました。わたしには議論するだけの気力もなく、こんなことがあったあとでは、真実の愛情の助けがなければ、とうてい生きて行くことができなかったのです。
こんなにまで悲しんでいるわたしを慰めてくれる父の心根が、身にしみてうれしく感じられました。
ただわたしの覚えていることは、その日の五時ごろ、父がわたしをいっしょに駅馬車に乗せてくれたことだけです。父は何も言わずに、わたしの荷物をつくらせ、自分のものといっしょに馬車のうしろにくくりつけて、わたしを連れて帰ったのでした。
パリの町が遠くに消えさって、道中の寂しさがわたしの胸の空虚を思わせたとき、やっとわたしは、自分のしてきたことに気がつきました。
すると、またしても涙があふれ出してきました。
父は、なまじ言葉をかけたところで、たとえそれが父親の口から出たものであろうと、所詮《しょせん》わたしを慰めることができないのをよく心得ていましたので、ひと言も言わずに、わたしの泣くのにまかせていました。そして味方は一人、そばにいることを思い出させようとするのか、ときどきわたしの手を握りしめるばかりでした。
夜になって、わたしは少し眠りました。そしてマルグリットの夢を見ました。思わずはっと目を覚ましました。が、なぜ自分が馬車に乗っているのかわかりませんでした。やがてまたしても現実がまざまざと思い出されて、わたしはがっくりと頭を胸の上に垂れてしまいました。
父と話をするだけの気力もありませんでした。
『それごらん。あの女の愛情なんか当てにはならないと言ったわしの言葉に、間違いはなかったじゃないか』と父から言われはしないかと、絶えず気になっていたからです。
しかし父は、その優勢をむやみに振りまわすようなことはしませんでした。やがてCに到着しましたが、その間父は、わたしが出発するようになった事件とはまるきり関係のないことしか話しませんでした。
妹を抱擁《ほうよう》したとき、わたしは、マルグリットが手紙の中で、妹のことにふれている文句を思いだしました。しかしいくら優《やさ》しい妹でも、わたしに愛人を忘れさせるだけの力はないということがわかりました。
狩猟の時期がはじまっていました。父は猟でもやれば、わたしの気がまぎれるだろうと考えました。近所の人々や友人たちを集めて、父はときどき狩猟を催しました。わたしは別に熱中もせず、また別にいやな顔もせずに、みんなといっしょに猟に出かけました。パリを出発してからというも、わたしはあらゆる行動の特徴となったこんな冷淡な態度をとっていたのでした。
獲物《えもの》は勢子《せこ》で狩りだしました。わたしにも持ち場を当てがわれました。しかし銃に弾丸《たま》もこめず、わきに置いたまま、わたしはぼんやりと空想にふけっていました。
わたしは空行く雲を眺めていました。思いを寂《さび》しい野原にさまよわせていると、ときどき十歩ばかり離れた前方を逃げてゆく兎《うさぎ》を指さして、猟仲間が何やらわたしに呼びかけているのが聞こえました。
父はこんな些細《ささい》なことまで、何ひとつとして見のがさず、わたしがうわべは平静に見せていても、それをそのまま信ずるようなことはしませんでした。今こそこんなに落胆していても、いつかは、わたしの心に、恐ろしい、おそらくは危険な反動がくることを父はよく承知していたのです。それで慰めるようなそぶりは全然見せずに、ただひたすらわたしの気をまぎらすことにつとめていました。妹はもちろん、今度の事件については何事も知らされていませんから、以前はあれほど快活だったわたしが、どうしてまた急に、こんなに物思いにふけったり、寂しそうにしたりしているのか合点《がてん》がいきませんでした。
ときどき悲しみに打ち沈んでいる最中、ふと父の不安げな目つきにばったりあうと、わたしは父のほうに手を差しのべました。そして心ならずも父に心配をかけていることを、それとなく詫《わ》びるように、父の手を固く握りしめました。
こうして、ひと月は過ぎましたが、わたしはこれ以上辛抱することはできませんでした。
マルグリットの思い出は、絶えずわたしに付きまとって離れませんでした。今でも以前と変わらず彼女を深く愛していましたから、急に無関心な気持ちになろうとしてもなれるものではありません。愛するか、憎むか、そのいずれかを選ばなければなりませんでした。彼女に対してどんな感情を抱いているにもせよ、もう一度彼女に、それもすぐにも会うことが、とりわけ必要でした。わたしの心にこういう欲望が起こってきました。この欲望は長い間無気力だった身体にふたたび意志の力が生まれてくるとともに、心の中にしっかり根をすえてしまいました。
マルグリットにぜひとも会いたいというのは、将来のことではなく、一か月先とか一週間先とかのことでもありません。わたしは思い立った日の翌日にも会わずにはいられなかったのでした。そこでわたしは父の前へ行って、すぐ帰ってきますが、パリに残してきた用事を思い出したので、どうしても行かなければなりませんと言いました。
父がしきりに引きとめたところをみますと、むろんわたしの出かける動機を見抜いたにちがいありません。しかしこの望みがかなわないとみると、気が立っているわたしのことですから、どんな無分別なことをもやりかねないと思った父は、わたしに接吻すると、涙を流さんばかりにして、どうか早く帰ってくれるようにと言いました。
わたしはパリへ着くまでは、まんじりともしませんでした。
ところでパリに着いたものの、これからいったいどうすればいいのでしょう? わたしには皆目《かいもく》わかりませんでした。だが何よりもまずマルグリットのことに没頭《ぼっとう》しなければなりません。わたしは自宅へ行って、着替えました。天気もよく、まだ時間もあったので、シャン・ゼリゼへ出かけました。半時間ほどたつと、はるか向こうの円形広場《ロンポワン》からコンコルドの広場のほうへ、マルグリットの馬車がやって来るのが見えました。
馬車はもとどおりのものでしたから、馬を買いもどしたものと思われます。しかし馬車の中には彼女の姿は見えませんでした。彼女がいないのに気がついて、あたりを見まわすと、とたんに一度も見たこともない一人の女と連れだって、こちらに歩いてくるマルグリットの姿が目にはいりました。
すれちがった瞬間、彼女の顔色は青くなりました。神経的な微笑がそのくちびるをひきつらせました。またわたしのほうでも、はげしい心臓の鼓動《こどう》に胸をゆり動かされながらも、やっとの思いで冷たい表情を顔に浮かべると、昔の愛人に冷ややかに会釈しました。それとほとんど同時に馬車に追いつくと、連れの女といっしょにそれに乗りました。
わたしはマルグリットという女をよく知っています。思いがけなくわたしにでくわして、すっりあわててしまったにちがいありません。もちろん彼女はわたしがパリを離れたことを知って、わたしたち二人が手を切った結果については安心していたでしょう。ところが、こうして帰って来たわたしとばったり顔を合わせると、わたしと同じように顔を青くしたのです。わたしが帰ってくるからには、きっと何か目的があると感づいたのでしょう。そしてこれから先、どんなことが起こるだろうかと考えたにちがいありません。
もし現在マルグリットが不幸な境遇《きょうぐう》にあることがわかり、復讐するどころか、かえって助けてやらなければならない場合だったら、わたしはおそらく彼女を許して、苦しめてやろうなどとはけっして思わなかったでしょう。しかし見たところ、少なくともうわべは幸福そうでした。わたしにはつづけさせることのできなかった贅沢三昧《ぜいたくざんまい》を、ほかの男がさせてやっているのです。二人が別れたのも、もとはといえば彼女からで、してみれば、いちばん下等な利害関係から、別れ話が起こったのです。わたしは恋もそうですが、今度は自尊心まで傷つけられてしまったのです。彼女は当然わたしの苦しみをつぐなわねばならないのです。
この女のすることに、わたしは無関心でいられるはずはありません。従って、彼女をもっと苦しめる道は、こっちで無関心な顔をしてやることでした。それで、ただ彼女の前だけでなく、ほかの人たちの前でも、わたしは無関心を装わなければなりませんでした。
わたしはつとめて愛想《あいそ》のいい顔をして、プリュダンスの家へ行きました。小間使いが取次ぎに出て、わたしはしばらく客間で待たされました。そのうちにやっとデュヴェルノワ夫人が出てきて、居間に案内してくれました。わたしが腰をおろしたとたんに、客間の扉が開く音が聞こえ、床を踏む軽い足音がしました。つづいて玄関の扉が荒々しく閉まりました。
「邪魔じゃなかった?」とわたしはプリュダンスにたずねました。
「いいえ、ちっとも。今までマルグリットがいたんだけど、あんたがいらしったと聞いて、逃げだしちゃったわ。今出て行ったのがあのひとよ」
「今じゃ、あの女はぼくがこわいんだね」
「いいえ、そうじゃないの。でもあのひと、会えばあんたが気を悪くしやしないかと思ってるのよ」
「それはまたどうして?」とわたしは思わず胸がつまって、つとめて楽に息をしようとしながら言いました。「かわいそうに、あの女は馬車や、家具や、ダイヤを取りもどすために、ぼくを捨てたんだ。それもまあいいさ。だからといって、ぼくは何も恨《うら》むことはないさ。きょうもあの女に、ひょっくり出くわしたがね」と、わたしは無関心な調子でつづけました。
「どこで?」と言って、プリュダンスはわたしの顔をじっと見つめました。これがあれほど恋にのぼせていた男かと怪《あや》しむような様子でした。
「シャン・ゼリゼでね。すばらしい美人といっしょだったよ。あれはだれかな?」
「どんなひと?」
「金髪で、ほっそりした、髪をイギリス巻きにした女だよ。目の青い、とても粋《いき》な女だったね」
「ああ! それならオランプだわ。とてもきれいな娘よ、まったく」
「相手はだれだい?」
「別にないわ。だれでもいいのよ」
「どこに住んでいるの?」
「トロンシェ街……番地よ。あら、あんた、あの娘《こ》に思召《おぼしめ》しがあるのね!」
「先のことなんかわかりゃしないよ」
「それじゃ、マルグリットはどうするの?」
「もうあの女のことなんか何とも思っちゃいない、と言えば嘘《うそ》になるがね、ぼくという男は、別れ方が非常に気になる男なんだよ。ところで、マルグリットはとてもあっさりとぼくにさよならを言ったんだが、これではあんなに首ったけだったこっちは、まったくばかを見たってわけさ。だって、ぼくのほうじゃ、実際あの女にとても惚《ほ》れこんでいたんだからね」
どんな調子でこんなことを言おうとしたか、あなたにもよくお察しがつきましょう。わたしの額《ひたい》には汗が流れていました。
「でも、あのひとのほうだって、あんたに首ったけだったのよ。今でもやっぱりあんたを愛してるわ。その証拠には、きょうあんたに会うと、すぐにそのことをあたしに言いにやって来たのよ。ここへ来たときは、身体をふるわして、まるで病人みたいだったわ」
「それで、きみに何と言ったんだい?」
「こう言ったわ。『あの方はきっとあんたに会いに来るわ』って。そしたら、あたしからくれぐれも、あやまってほしいって言ってたわ」
「もうとっくに許してると言ってくれたまえ。気立てのいい女だが、やっぱりああいう商売女だからなあ。ぼくにしたようなことは、こっちでも前からそのつもりでいるべきだったのさ。彼女があんなふうに決心してくれたのを、むしろ感謝しているくらいだよ。今となってみると、あの女と二人きりで暮らそうと思ったところで、これから先どうなったかわかりゃしないからね。まったく気ちがい沙汰《ざた》だったよ」
「あのひとも、あのときは、ああするよりしかたがなかったのよ。その事情をあんたがわかってくださったと聞いたら、きっと喜ぶわ。ほんとにいいときに別れたのよ。動産の処分を頼んだ周旋人《しゅうせんにん》のろくでなしが、ほうぼうの債権者のところへ行って、いくら借金があるか、きいてまわったの。それで債権者のほうも心配しちゃってね。二日たったら、競売にするところだったのよ」
「で今じゃ、借金は返したのかい?」
「たいがいね」
「金を出したのはだれだい?」
「N伯爵だわ。ねえ、あんた。こんな場合にまたおあつらえ向きの男がいるもんだわ。つまりこうなのよ。伯爵が二万フラン出して、そのかわり、とうとう思いをとげたってわけなの。マルグリットが自分を愛してないことは承知の上で、やっぱりとても優しくしてやってるわ。だから、ごらんなさい。あのとおり馬も買いもどしてやれば、宝石も投げだしてやったのよ。それに公爵が前に出していただけのお金を仕送りしているのよ。もしあのひとさえおとなしくしている気なら、伯爵はこれからもずっと長くめんどうを見るわ」
「で、あの女は現在どうしているんだい? ずっとパリにいるのかい?」
「あんたが行ってからは、あのひと、何てったってブージヴァルへ帰ろうとしないのよ。だからあたしが行って、あと片づけは全部したわ。あんたの分もよ。お荷物はひとまとめにして、ここに置いてあるから、あとでだれか取りによこせばいいわ。あんたの頭文字のはいった小さな紙入れのほかは、みんなそろっていますから。その紙入れだけはマルグリットがほしいと言って、うちへ持っていったわ。もしご入用なら、取りかえしてあげてもいいわよ」
「持っていたってかまわないさ」と、わたしはどもりながら言いました。あんなに楽しく暮らした田舎のことがしのばれ、またマルグリットがわたしの持ち物を手もとに残して、わたしを思い出してくれるのかと思うと、われしらず涙が目にあふれ出るのでした。
もしこのとき、彼女がはいって来たら、復讐《ふくしゅう》の決心などたちどころに消えうせ、きっと彼女の足もとにひざまずいたことでしょう。
「それにね」とプリュダンスは言葉をつづけました。「今みたいなあのひと、あたしこれまでだって見たことはないわ。夜はろくに眠らないし、ほうぼうのダンスには出かけるし、お夜食はたべるし、そのうえお酒をのんで酔っぱらったりするのよ。ついせんだっても、お夜食をとったあとで、一週間ほど寝こんだような始末なの。そのくせ、お医者さまからもう起きてもいいと言われると、さっそくまた命にかかわるようなことを始めるんですもの。あんた、会いにいらっしゃる?」
「会ったってしかたがないよ。ぼくはただきみに会いに来ただけなんだ。きみはいつもぼくによくしてくれたし、それにきみとはマルグリットを知らない前からの知りあいなんだからね。あの女の恋人になれたのも、きみのおかげなんだ。手を切ることができたのも、きみのおかげだったようにね、ね、そうじゃないか」
「そりゃまあ、そうですけど、あたしもあのひとをあんたと別れさせるには、できるだけのことをしたわ。あとになって、あんたから恨まれるようなことは絶対にしてないつもりよ」
「あのことでは、きみに二重に感謝しているよ」とわたしは腰をあげながら言いました。この女がわたしの言葉を何から何まで本気にとるのをみると、非常に不愉快になったからです。
「もうお帰りになるの?」
「うん」
わたしはもううんざりしていました。
「いつまたお会いできて?」
「近いうちに。さよなら」
「さようなら」
プリュダンスは玄関まで送ってきました。
わたしは目に怒りの涙をたたえ、胸に復讐《ふくしゅう》の炎を燃やしながら、家に帰りました。
こうしてみるとマルグリットは、どこまでも世間なみの女だったのです。わたしに対してあんな深い愛を抱きながら、もう一度もとのような生活をしたいという欲望や、馬車がほしい、お祭り騒ぎがしたいという欲望とたたかおうとはしなかったのです。
わたしは眠れぬままにそんなことを考えていました。これでもしわたしが、表面よそおっていたほど冷静に物を考えることができたら、マルグリットの騒々しい今度の生活のうちにも、つきることのない物思いや、絶えまない思い出を、打ち消そうしている彼女の願いを察することができたでしょう。
不幸にして、そのときのわたしは、よからぬ情熱のとりこになっていました。そしてこの哀れな女を苦しめる方法ばかりさがし求めていたのでした。
ああ! 男というものは、その狭い感情のひとつでも傷つけられると、実に小さな、卑《いや》しい者になってしまうものです。
マルグリットといっしょにいたオランプという女は、マルグリットの親友というほどでもありませんが、少なくとも彼女がパリへ帰ってきてから、いちばん頻繁《ひんぱん》に行き来していた女でした。この女が近く舞踏会を催すことになっていました。わたしはマルグリットもきっと出席するだろうと思いました。で、苦心して招待状を手に入れました。
わたしが苦しい思いで胸をいっぱいにしながら、その舞踏会に着いたときは、会はもはやたけなわでした。人々は踊ったり、大声をあげて騒いだりしていました。そしてひと組のカドリール舞踏の中に、N伯爵と踊っているマルグリットの姿が見えました。伯爵は彼女を見せびらかすのがいかにも得意そうで、まるで皆に向かって、こう言っているようにみえました。
『この女はおれのものだ!』
わたしはマルグリットの真向かいにある暖炉《だんろ》にもたれて、彼女の踊っている姿をじっと眺めました。
彼女はわたしに気づくと、うろたえました。わたしは彼女の顔を見て、いっこうに気がなさそうに、手と目で会釈《えしゃく》しました。
舞踏会が終わってから、彼女が連れだって帰るのは、もうわたしではなく、あの金持のばかであることを考え、二人が彼女の家へ帰ってから、たいていどんなことをするかを想像すると、わたしは頭にかっと血がのぼってしまい、どうかして二人の恋の邪魔《じゃま》をしてやりたい気持ちになりました。
カドリール舞踏がすむと、わたしはこの家の女主人のところへあいさつに行きました。彼女は豊かな肩と、半分むき出しにしたまばゆいばかりの胸を客たちの前にさらしていました。
この女はたしかに美人でした。容姿の点からみれば、マルグリットにもまさっていました。オランプと話している間に、マルグリットが彼女に投げた目つきからも、その美しさがいっそうよくわかりました。この女の恋人になる男は、N伯爵と同じくらい得意になることができるのでした。実際彼女は、マルグリットがわたしに起こさせた情熱に劣らない情熱をかき立てさせるくらい美しい女でした。
その当時、彼女にはまだ恋人がありませんでした。ですからその恋人になるのは、そうむずかしいことではありません。彼女の目をひくだけのお金を見せるだけでよかったのでした。
わたしは決心しました。何とかしてこの女を自分のものにしてやろうと。
わたしはオランプと踊りながら、求愛者の役割にとりかかったのです。
三十分ほどたつと、マルグリットは死人のように青くなって、外套《がいとう》を着ると舞踏場から出て行きました。
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二十四
これだけでもいくらか腹の虫がおさまりましたが、まだまだこれくらいでは足りません。彼女に対する自分の力がどのくらいかわかったので、わたしは卑怯《ひきょう》にもそれを乱用したのでした。
今ではもうあの女は死んでしまっているのだと思うと、彼女をあんなに苦しめたわたしの罪を神さまが果たして許してくださるかどうか、考えずにはいられません。
物すごく騒々しかった夜食がすむと、みんなは勝負事をはじめました。
わたしはオランプのそばにすわって、彼女が注意を払わずにはいられなかったほど、大胆に金をかけました。そして、またたく間に、三千フランか四千フラン勝って、自分の前にならべました。彼女は燃えるような目で、じっとその金をみつめていました。
勝負のことなぞは、まるで眼中になく、彼女の様子に気を配っていたのは、わたしだけでした。その夜はそれからずっと勝ちつづけました。彼女に賭け金を貸してやったのもこのわたしでした。というのは、彼女は自分の前に置いた金をすっかり負けてとられたからです。たぶん有り金《がね》残らずなくしてしまったらしいのです。
朝の五時には、みんな引きあげました。
わたしは六千フラン勝っていました。
勝負事をしていた人たちはみんな階下に降りてしまい、わたしだけがあとに残りましたが、だれ一人として、それに気がつきませんでした。それは、わたしがその人たちのだれとも懇意《こんい》ではなかったからです。
オランプは自分で階段に明りをかざしていました。わたしもいったん、ほかの人たちと同じように降りかけたのでしたが、もう一度彼女のほうへ行きかえすと、こう言いました。
「折り入ってお話したいことがあるんですが」
「あすにして」と彼女は言いました。
「いや、今でなくちゃいけないんです」
「いったい、何のお話?」
「これから言いますよ」
そう言うと、わたしは部屋の中に引きかえしました。
「ひどく負けましたね」とわたしは言いました。
「ええ」
「有り金残らずじゃない?」
彼女はもじもじしました。
「あっさり言ってしまいなさい」
「実は、おっしゃるとおりなのよ」
「ぼくは六千フラン勝った。もしここに泊めてくれたら、さあ、これを全部あげるよ」
そう言いながら、わたしはテーブルの上に金を投げだしました。
「なぜ、そんなことをおっしゃるの?」
「そりゃ、きみに惚れたからさ」
「いいえ、そうじゃないわ。あなたはまだマルグリットを愛してらっしゃるもんだから、あのひとへの面《つら》当てに、あたしの恋人になろうっていうんだわ。あたしみたいな女をだまそうたって、だめよ。おあいにくさま、あたしはまだ若くてきれいだから、お望みどおりの役割をお引き受けすることはできませんわ」
「じゃ、断わるというんだね?」
「そうよ」
「ただなら、ぼくの言うことをきくと言うのかい? それなら、こっちでごめんこうむるよ。よく考えてみたまえ。ねえ、オランプ。ぼくがもし今言ったような条件で、この六千フランをだれか人を頼んで、きみのところへ持ってよこしたら、きみはきっと承知したにちがいないよ。ぼくはそれより、きみと直接交渉したほうがいいと思ったんだ。なぜこんなことをするのか、そのわけなんかどうでもいいんだ。この際、あっさりうんと言いたまえ。おっしゃるとおり、きみは美人さ。だから、ぼくが惚れたって、ちっとも驚くことはないんだよ」
マルグリットもやはり、オランプ同様商売女でした。しかし、はじめて彼女に会ったとき、今この女に言ったようなことを言う気にはどうしてもなれませんでした。それは結局、わたしがマルグリットを愛していたからで、このオランプにはないようないろいろな天分が、彼女にそなわっていることを、ひと目で見抜いたからです。今こんな取引をもちだしたときでさえ、そのすばらしい美しさにもかかわらず、わたしは話をきめようとしている当の相手をきらっていたのでした。
もちろん彼女もおしまいには承知しました。そして正午には、わたしも彼女の恋人として、その家を出ました。わたしからもらった六千フランの手前、そうしなければ義理にも悪いと思ったのでしょう、彼女は懸命に愛撫《あいぶ》や睦言《むつごと》でわたしにつくしてくれましたが、わたしのほうはそれには何の未練もなく、ベッドを離れたのでした。しかし世間には、この女のために財産をなくした者もあったのです。
この日から、わたしは事あるごとに、マルグリットに迫害を加えました。オランプと彼女とは、互いにもう往《ゆ》き来《き》しなくなりました。そのわけは、あなたには苦もなくおわかりでしょう。わたしは馬車や宝石を新しい恋人に買ってやったり、賭事をしたり、要するに、オランプのような女の情人にふさわしいばかりの限りをつくしたのです。わたしの新しい色恋沙汰《いろこいざた》の噂はすぐに広まりました。
プリュダンスさえもそれを真《ま》にうけて、わたしがすっかりマルグリットを忘れてしまったものと、やがて思いこむようになりました。マルグリットは、わたしがそんなまねをするようになった動機を見ぬいたか、それともほかの連中と同様にだまされたのか、いずれにしても日々わたしの加える迫害に対して、非常にりっぱな態度で応酬《おうしゅう》していました。
しかし、どこで出会っても、そのたびごとに彼女の顔色は次第に青ざめて、その様子が次第に悲しげになっていくところをみると、心の中ではよほど苦しんでいたようです。かわいさ余って憎さ百倍とでもいうのでしょうか、わたしは彼女のそうした日々の苦しみを眺めては喜んでいました。ときどき、こちらの出方があまりむごいようなときには、マルグリットはいかにも哀願するような目でわたしを見ました。これには、さすがのわたしも自分のやり方がわれながら恥ずかしくなって、いっそのこと彼女に許しを乞《こ》おうかと思うこともありました。
しかしこうした悔恨《かいこん》の念も、稲妻のように一瞬きらめくだけでした。それにまたオランプも、おしまいには自尊心などかなぐり捨てて、ただマルグリットを苦しめさえすれば、望みのものが何でも手にはいると思うものですから、絶えずわたしを焚《た》きつけては、男をうしろだてにした女にありがちな、例のしつっこい卑怯《ひきょう》な手段で、機会あるごとに彼女に侮辱《ぶじょく》を加えるのでした。
そのうちにとうとうマルグリットは、オランプとわたしに出会うのを恐れて、舞踏会にも芝居にも姿を見せなくなりました。すると今度は、面と向かって侮辱するかわりに、匿名《とくめい》の手紙がぞくぞくと彼女のもとに届くようになりました。そして実に恥ずかしいことですが、わたしは自分の情婦をそそのかして、マルグリットの悪口を言わせ、わたし自身もあることないこと、悪く言いふらしました。
そこまでするには、気でもちがわなければできるものではありません。そのころのわたしは、悪い酒に酔っぱらって、そんな考えは少しも抱《いだ》いていないのに、手では罪を犯しかねないような、神経のひどい興奮状態におちいった男と同じでした。そんなことをしながらも、自分では、まるで殉教者《じゅんきょうしゃ》のような苦しみを味わっていたのでした。こうしたわたしのあらゆる攻撃に対して、マルグリットは別に軽蔑したりする様子もなく、りっぱな気品ある態度を示すだけでした。わたし自身の目から見ても、彼女のほうがはるかにりっぱだというような気がして、それがまたわたしをいらだたせるのでした。
ある晩のこと、オランプはどこかへ出かけました。そして先方で、マルグリットとばったり顔を合わせたのでした。そのときだけはマルグリットも、自分を侮辱したこのばかな女を忌憚《きたん》なくやっつけたので、オランプもついに屈服しないわけにはいきませんでした。そして腹を立てて帰ってくるし、マルグリットのほうでも気絶してかついで行かれるという始末でした。
オランプは帰ってくるなり、事のいきさつを話して聞かせてくれました。それによると、マルグリットは彼女ひとりなのを見て、わたしの恋人になったことに対して復讐《ふくしゅう》しようとしたというのです。オランプはなおもつづけて、わたしが居合わせようが居合わせまいが、わたしの愛している女に敬意を払うように、マルグリットに手紙を書いてほしいと言うのでした。
わたしはこれを承諾して、その日のうちにマルグリットへあてて出した手紙の中に、どんな手きびしい卑《いや》しい、残酷なことのありったけを書いたか、ここにあらためて申しあげるまでもありません。
今度こそは、よほど強く身体にこたえたでしょうから、いくら彼女でも黙ってがまんしてはいまいと思いました。きっと返事がくるだろうと思ったわたしは、その日一日じゅう外出しないことに決めました。
二時ごろ呼び鈴が鳴って、プリュダンスがはいって来ました。
わたしはつとめてなにげない顔をして、何の用事でたずねて来たのかとききました。しかしこの日のプリュダンスは笑い顔ひとつ見せません。そしていかにも思いつめた調子で、わたしがパリにもどってきてからというもの、つまりこの三週間ばかりというもの、あらゆる機会をとらえて、事ごとにマルグリットを苦しめたので、それがためにマルグリットは病気になり、とくに昨夜の事件とけさの手紙で、とうとう床についてしまったというのでした。
要するに、マルグリットはわたしを責めるというのではなく、精神的にも肉体的にも、これ以上わたしのしうちに耐えて行くだけの力がないから、どうかもう堪忍《かんにん》してほしいと言ってよこしたのでした。
「ゴーチエ嬢が」とわたしはプリュダンスに言いました。「ぼくを家から追いだすのは、あのひとの権利だ。しかしぼくの愛している女性を、ぼくの愛人だという口実から侮辱するのは、断じて許すわけにはいかないんだよ」
「ねえ、あんた」とプリュダンスがわたしに言いました。「あんたは義理も人情もない女の言いなりになっているんだわ。なるほどあんたは、あの女に惚れてるでしょうけど、それにしたって、自分を守ることもできない、か弱い女をいじめるには当たらないことよ」
「なら、例のN伯爵をよこすがいい。そうすりゃ、お互いに五分と五分だからね」
「あのひとが、そんなまねをする女じゃないことは、よくご存じじゃありませんか。だからさ、アルマン。あのひとを、そっとしておいてあげなさいよ。あのひとに会えば、あんたは、あのひとに対する自分のしうちがきっと恥ずかしくなるわ。あのひと、いつも青い顔をして咳《せき》をしてるわ。どうせもう長いことはないわ」
そしてプリュダンスは、こう付け加えながら、手を差しのべました。
「会いに行ってあげなさいよ。あんたが行けば、そりゃ喜ぶわよ」
「N氏と顔を会わせたくないんでね」
「Nさんはあのひとの家にはいないのよ。そんなことは、あのひとにはがまんできないことよ」
「マルグリットがぼくに会いたいなら、この住所を知ってるんだから、自分で来ればいいじゃないか。ぼくはアンタン街へは足踏みしないんだから」
「じゃ、あんた、会ってあげてくださる?」
「むろんだ」
「それだったら、あのひときっと来るわ」
「来るがいいんだ」
「きょう外出なさるの?」
「夜はずっと家にいる」
「じゃ、すぐそう言うわ」
プリュダンスは帰って行きました。
わたしはオランプにあてて、会いに行かないなどという手紙は別に書きもしませんでした。こんな女に気兼ねすることはなかったのです。わたしがこの女のところで過ごすのは、せいぜい一週間に一夜ぐらいでした。そのほかの夜はたぶんブールヴァールのどこかの劇場の俳優でもくわえこんで、憂《う》さばらしをしていたのだろうと思います。
夕食のために外出しましたが、ほとんどすぐ、わたしは帰宅しました。家のいたるところに明りをつけさせると、ジョゼフには休みをやりました。
わたしは彼女を待つ一時間ほどの間、胸をかき乱したさまざまな思いは、とうていお話できません。しかし九時ごろになって、呼び鈴の音を聞いたときには、そうした胸の思いはひとつの激情となり、入り口の扉《とびら》をあけに行きながらも、わたしは倒れまいとして、壁によりかからずにはいられませんでした。
さいわい玄関のホールが薄暗かったので、顔の表情が変わっているのも、あまり目立ちませんでした。
マルグリットがはいって来ました。
黒ずくめのなりで、ヴェールをかぶっていました。レースの下の顔は、ほとんど見分けがつきませんでした。彼女は客間へ通って、それからヴェールをとりました。大理石のような蒼白《あおじろ》い顔でした。
「来ましたわ、アルマン」と彼女は言いました。「会いたいとおっしゃるから、あたし、来ましたわ」
こう言うと、両手に顔を埋めて、涙にくれました。
わたしは彼女のそばによりました。
「どうしたの?」とわたしはかすれた声で言いました。彼女はわたしの手を固く握ったまま、返事もありませんでした。涙でまだ声がつまっていたからです。が、しばらくするといくらか落ちつきをとりもどして言いました。
「ずいぶん、ひどい目にあわしたわね、アルマン。あたしのほうは何もしなかったのに」
「何もしなかったって?」と、わたしはにが笑いをしながら答えました。
「いろいろな事情から、どうしてもしなければならなかったこと以外には、何もしなかったわ」
わたしがそのときマルグリットを見て感じたような気持ちを、果たしてあなたはこれまでにご経験になったでしょうか、いや、これから先もご経験になるでしょうか?
彼女がこの前わたしの家へ来たときも、今すわっている同じ場所にすわっていたのでした。ただそれ以来、彼女はほかの男のものになってしまったというだけです。ともすればひきつけられそうになるそのくちびるには、わたし以外の男のくちびるが触れているのです。だが、わたしは今もこの女を、前に自分が愛していたと同じくらい、いや、たぶんそれ以上に愛していることを感じました。
しかし彼女がたずねて来た用件については、どうも話を切りだすことができませんでした。マルグリットにもその気持ちがよくわかったとみえて、さらに次のように言葉をつづけました。
「アルマン。あたし実は、ご迷惑なことで伺いましたの。お願いが二つあるのです。きのうあたしがオランプに言ったことは、どうか許してちょうだいね。それから、きっとこの先もあたしをいじめてやろうというおつもりなんでしょうけれど、どうぞもう堪忍してね。わざとかどうか知りませんけど、パリへお帰りになってからというもの、ずいぶんあたしを苦しめたわね。けさまでは、どうにか辛抱《しんぼう》できたけど、もうこうなっては、これまでの四分の一ぐらい苦しめられても、とてもがまんできずに参ってしまうわ。あたしをかわいそうだとお思いになってくださいな、どうなの? 情《なさけ》のある方なら、あたしみたいな病人の哀れな女に復讐なんかするより、ほかにもっとりっぱなお仕事がいくらもあるはずですわ。ほら、あたしの手を握ってごらんなさいな。熱があるのよ。こうして床を離れてこちらへ伺ったのは、親切にしていただきたいからじゃなくて、あたしをこのままそっとして置いていただきたいと、それをお願いにあがったんですわ」
言われるままに、わたしはマルグリットの手をとりました。その手は燃えるようで、かわいそうに彼女は≪びろうど≫のコートに包まれながら、がたがたふるえていました。
わたしは彼女のかけている安楽椅子《あんらくいす》を、暖炉のそばへ押しやりました。
「ではあなたは、ぼくが苦しまなかったとでも思ってるんですか?」とわたしは言いました。「あの夜ぼくは、田舎の家でさんざんあなたを待ったあげく、パリまであなたをさがしに行ったんです。ところが見つけたものといえば、あの手紙だけなんです。あれを読んで、ぼくはもう少しで気ちがいになるところだった。どうしてぼくを裏切るようなことができたんです、マルグリット、あれほどあなたを愛していたぼくを?」
「そのことは、お話しないことにしましょうね、アルマン。そんな話をしに伺ったんじゃないの。あたしは敵としてではなく、あなたにお目にかかりたかったんです。ただそれだけのことですわ。もう一度、あなたのお手を握りたかったの。あなたは若いきれいな愛人を持って、かわいがっていらっしゃるんですってね。どうぞそのひととおしあわせになって、あたしのことは忘れてくださいね」
「そういうあなたこそ、もちろんしあわせに暮らしているんでしょうね?」
「あたし、しあわせな女のような顔をしてて、アルマン? お願いですから、あたしの苦しみをお笑いにならないでね。何がもとで、どんなに深くあたしが苦しんでいるかということは、だれよりもあなたがいちばんよくおわかりじゃないの」
「それはあなたの心次第で、けっして不幸にはならないですんだんですよ。もっともこれは、あなたが口で言うとおり、今不幸だとしてのことですがね」
「いいえ、ちがうわ。あのときのいろんな事情は、あたしの意志なんかではどうにもできなかったんです。あたしは、おっしゃるような商売女の本能に負けたのじゃなくて、あれには、やむをえない事情や、いろんなわけがあったんですわ。いずれは、あなたにもわかっていただけるでしょうし、そうなれば、きっとあたしを許してくださるにちがいないわ」
「なぜきょう、その理由を言わないんですか?」
「それを言ったって、今さらあたしたちの仲がもとどおりになるわけじゃなし、それにそれがわかれば、もしかすると、あなたは離れてはいけない方たちと、離れるようなことになるかもしれないからですわ」
「その人たちって、いったいだれなの?」
「それは言えないわ」
「それなら、あなたは嘘《うそ》をついてるんだ」
マルグリットは立ち上がって、扉のほうへ行きかけました。
わたしはこの無言のひどい苦悩の姿を見ると、心を動かされずにはいられませんでした。そのときわたしは、心の中で、青ざめた顔を涙でぬらしているこの女と、オペラ・コミック座でわたしを冷笑したあの気ちがいじみた女とを、ひき比べていたのでした。
「帰っちゃいけないよ」と扉の前に立ちふさがって、わたしは言いました。
「なぜですの?」
「きみがどんなことをぼくにしたにしろ、ぼくはやっぱりきみを愛しているからだ。きみをここにひきとめて置きたいんだ」
「あすになったら、追い出そうというんでしょう? いいえ、いけませんわ! あたしたち二人の運命は、引き離されているのよ。もう一度それをいっしょにしようなんて、やめたほうがいいわ。きっといずれは、あたしを軽蔑なさるようになるわ。今でこそ憎んでばかりいらっしゃるけれど」
「いや、マルグリット」とわたしは叫びました。この女に接しているうちに、愛情と欲望のいっさいが目覚めてきたのでした。「いや、ぼくは何もかも忘れてしまうよ。そうすればお互いに約束したとおり、二人は幸福になれるんだ」
マルグリットは疑わしげに頭を振って、言いました。
「あたしは、あなたの奴隷じゃなくって? 犬じゃなくって? あなたの好きなようにしてちょうだい。あたしはあなたのものですもの」
こう言うと、彼女はコートと帽子を脱いで、ソファの上に投げ出し、突然、服の身頃《みごろ》のとめ金をはずしにかかりました。彼女の病気によく起こる反応で、血が心臓から頭にのぼって、息が苦しくなったからでした。
それにつづいて、ひからびて、しゃがれた咳が出ました。
「馬車をかえすように、御者《ぎょしゃ》に言わせてくださいな」と彼女は言いました。わたしは自分で下におりて行って、御者を帰しました。
もどってみると、マルグリットは暖炉の前に横になって、寒さに、歯をがちがち鳴らしていました。
彼女を両腕に抱きかかえると、わたしは身動きひとつさせないようにして、服をぬがせました。そして氷のように冷えきっている彼女をベッドへ運んで行きました。
それから彼女のそばに腰をおろして、撫《な》でたりさすったりして、身体を暖めてやりました。彼女はひと言も言わずに、わたしに笑顔を見せていました。
ああ! それは実に不思議な一夜でした。マルグリットの全生命は、絶えずわたしにあびせている彼女の接吻に、まるで乗り移ったように思われるのでした。わたしは、いとしさのあまり、彼女が熱病のような恋の陶酔《とうすい》にひたっている間に、もう二度とほかの男のものにならぬよう、いっそひと思いに殺してしまおうかとさえ思ったくらいでした。
このような恋をひと月もつづけたら、身も心も、まるで屍《しかばね》同様になってしまうことでしょう。
夜があけるまで、二人とも眠りませんでした。
マルグリットの顔は鉛《なまり》色をしていました。彼女はひと言もものを言いませんでした。大粒の涙がときどき目からあふれ出て、それが頬にたまって、まるでダイヤモンドのようにきらめきました。疲れはてた両の腕は、わたしを抱こうとして、ときどきひろげられるのですが、また力なくベッドの上に落ちました。
わたしはふと、ブージヴァルを出発してからの出来事を、忘れてしまえそうな気がしました。そこでマルグリットに言いました。
「二人で旅へ出ようか? パリを離れようか?」
「いいえ、いいえ」と、彼女はほとんど恐れてでもいるように言いました。「そんなことをすれば、どんな不幸になるかわからないわ。わたしはもうあなたの幸福のお役には立たないのよ。でも、息のある間は、あたし、あなたの気まぐれの奴隷になるわ。昼でも夜でも、気がむいたら、いつでもいらしってちょうだい。これから先もあなたのものですから。でももう、あなたとあたしの将来を一つに結びつけようなどとは、考えないでくださいね。それでは、あなたも不幸になるばかりだし、あたしもあなたのために不幸にされてしまうわ。当分のうちは、あたしも美しい女でいられますわ。だから今のうち、十分利用なさればいいんです。でも、それ以外のことは、お求めにならないでね」
彼女が行ってしまうと、ひとりとり残された寂しさが、ひしひしと胸にせまるのを覚えました。帰ってしまってから二時間もたったのに、わたしはまだ彼女の去ったベッドに腰をおろして、その頭の形どおりにくぼんだ枕を見つめながら、恋と嫉妬の板ばさみになって、これから先どうなるのだろうと考えていました。
五時になると、別にあてもなく、わたしはアンタン街へ出かけました。
扉をあけてくれたのはナニーヌでした。
「奥さまはお目にかかれません」と彼女はもじもじしながら言いました。
「どうして?」
「N伯爵さまがおみえになっていらっしゃいますから。どなたもお通ししてはいけないという、伯爵さまからのお言いつけでございます」
「なるほど、そうだね」とわたしは、どもるように言いました。「つい、うっかりしてたよ」
酔っぱらいのようになって、わたしは家へもどりました。それから、わたしが何をしたかおわかりになりますか? 嫉妬に逆上したそのときのわたしは、恥ずかしい行為さえ平気でやったのでした。何をしたとお思いになります? あの女はおれをばかにしたのだ、とわたしは思いました。伯爵と水入らずの差し向かいで、わたしに昨夜言ったと同じ言葉をくり返している女の姿を、わたしは心に浮かべました。そこで、五百フランの紙幣《しへい》をとり出すと、次のような手紙をそえて、彼女のもとへ届けさせました。
[#ここから1字下げ]
『けさ、お帰りがあまり早かったので、お勘定のほうをついうっかり忘れました。ゆうべの代金を同封しておきます』
[#ここで字下げ終わり]
この手紙を持たせてやってから、わたしは外出しました。こんな卑しい行為をすぐ後悔して、何とかその気持ちからのがれたかったのでしょう。
わたしはオランプのところへ行きました。オランプはちょうど、服の仮縫いをしているところでしたが、やがて二人きりになると、わたしを喜ばせようとして、みだらな歌をうたって聞かせました。
この女こそまさしく、恥も知らなければ人情もなく、また道理もわきまえぬ娼婦の典型でした。少なくとも、わたしにはそう見えました。わたしがマルグリット相手に描いたような夢を、おそらくこの女に対して描いた男もいたでしょうからね。
彼女はわたしにお金をねだりました。わたしは金をやると、あとはこっちの勝手ですから、そのまま家へ帰りました。
マルグリットからまだ返事がきていませんでした。
その翌日の一日じゅう、わたしがどんなに動揺した心で過ごしたか、あらためて申しあげるまでもありません。
六時半に、使いの男が、わたしの手紙と五百フラン紙幣のはいっている封筒を持ってきました。ところが中味はそれだけで、ひと言もしたためられてはありません。
「だれがこれをきみにことづけたのかね?」とわたしはその男にききました。
「ブーローニュ行きの駅馬車で、小間使いといっしょにお立ちになった奥さまからです。馬車が出てから、これをお届けするようにというお言いつけでした」
わたしはマルグリットの家へ駆けつけました。
「奥さまは、きょう六時に、イギリスへお立ちになりました」と門番が答えました。
こうなれば、もうわたしをパリに引きとめておくもの、つまり憎しみも恋も、何ひとつなくなってしまったわけです。今ではさまざまな打撃で、すっかり疲れきってしまいました。折りから友人のひとりが近東諸国への旅行に出ようというところでしたので、その男といっしょに行きたい旨《むね》を、父あてに言ってやりました。すると父は手形《てがた》や紹介状を送ってくれました。それから八日か十日たって、わたしはマルセーユから船に乗りました。
マルグリットの病気を知ったのは、アレクサンドリアで、彼女の家でときどき会ったことのある大使館付きのある男から聞いたのでした。そこでわたしは彼女にあてて手紙を書きました。これに対して、彼女は、あなたもご存じの返事をよこしました。ツーロンでわたしはそれを受けとったのでした。
わたしはすぐに出発しました。それからあとは、あなたもご存じのとおりです。
さてこれから先は、ジュリー・デュプラが渡してくれた書きものを読んでいただきさえすればいいのです。そして、この書きものこそ、今までお話した事柄に対する欠くことのできない補《おぎな》いなのです。
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二十五
アルマンは幾度か涙にとだえがちだったこの長い物語に疲れはてて、マルグリットの手で書かれた手記をわたしに渡すと、考えごとをしようというのか、それとも眠ろうとするのか、額《ひたい》に両手をあてて、目をつぶった。
しばらくして、呼吸がいくらか早くなったので、アルマンの眠ったのがわかった。しかしそれはかすかな物音にもすぐ目が覚めるような、ごく浅い眠りだった。
以下、わたしの読んだままを、一字一句も付け加えず、また削除もせずに、そのまま次に掲げておく。
きょうは十二月十五日です。あたしは三、四日前から、気分がすぐれません。けさは床《とこ》につきました。天気はどんよりと薄曇りで、気がめいります。だれもあたしのそばにはいません。
アルマンさま、あなたのことを考えています。あたしがこれを書いている時分、あなたはどこにいらっしゃるのかしら? パリから遠く、ずっと遠く離れていらっしゃるということですけど、たぶんもうマルグリットのことなんか、お忘れになったかもしれませんね。何はともあれ、おしあわせにお暮らしなさいますように。あたしはあなたのおかげで、一生に一度の楽しい時を過ごさせていただきましたものね。
あたしは、自分のしたことについて、そのわけをどうしてもお話しないではいられなくなりました。それでお手紙を書きましたが、あたしのような女の書いた手紙などは、死というものの力で清められるか、または手紙ではなく懺悔《ざんげ》というものにならないかぎり、嘘のかたまりのように思われてしまいます。
きょうも身体の加減がよくありません。この病気で死ぬかもしれません。前から、いつも若くて死にそうな予感がしていましたから。母も胸の病で死にましたし、それに今までのような暮らし方では、母譲りのただひとつの財産であるこの病気は、もう日ましに悪くなるばかりです。けれど、あたしの立場というものをよくわかっていただかないうちは、死にたくはありません。と申しても、あなたがお立ちになる前に愛してくださったこの哀れな女のことを、お帰りになってからも、まだ気にかけていてくださるものとしての話ですけれど。
そのつもりで書いたのが、この手紙です。あらためて身のあかしを立てるのだと思いますと、もう一度筆をとるのもうれしくなります。
アルマンさま。おとうさまがパリにご到着になったという知らせをブージヴァルで聞いて、あたしたちがどんなにびっくりしたか、覚えていらっしゃるでしょう。そのために、あたしが思わず震《ふる》えあがったことや、また、おとうさまとあなたとの間に気まずいことが起きて、その晩そのことをあたしに話してくださったことも、覚えていらっしゃるでしょう。
あの翌日、あなたがパリにおいでになって、お帰りにならないおとうさまをお待ちになっている間に、あたしのところへ、一人の男がやって来まして、おとうさまからのお手紙を置いて行きました。
その手紙は、ここに同封いたしますが、いかにも、しかつめらしい文句で、何とか口実をもうけて、あすあなたを遠ざけ、おとうさまに会ってくれるようにというご依頼の手紙でした。あたしになにかお話なさりたいことがあるとかで、特におとうさまの奔走《ほんそう》については、一切《いっさい》あなたに言ってくれるなとのことでした。
あなたがお帰りになったとき、あすもう一度パリへいらっしゃるように、あたしがどんなにしつこくおすすめしたかは、あなたもよくご存じのとおりです。
あなたがお出かけになってから一時間ほどして、おとうさまがお見えになりました。あのむずかしいお顔から、あたしがどんな感じを受けたかは、まあ申しあげずにおきましょう。
おとうさまは娼婦というものはみな人情も道理も知らず、男からお金をまきあげる一種の機械みたいなもので、ちょうど鉄の機械のように、何かを差しだす手をかみくだいてしまうし、生活や処世のめんどうをみてくれる男を、情け容赦《ようしゃ》なく引き裂こうと、いつも身構えているものだという、昔流の理屈にこりかたまった方でした。
おとうさまからは、丁重なお手紙をいただいたので、お目にかかることにしたのですが、さてお目にかかってみると、お手紙に書かれたとは大ちがいの、がらりと変わった態度をおとりになりました。最初はひどく人を見くだした失礼な態度で、おどかすようなこともおっしゃいました。あんまりなので、ここはあたしの家で、ご子息さまに対するあたしの心からの愛を別にすれば、自分の生活について、あなたにかれこれ申しあげる義務はありません、とはっきり申しあげました。
おとうさまは、いくぶん落ちつかれましたものの、息子がおまえゆえに身を誤るのを、これ以上黙って見てはいられないとおっしゃいました。そして、なるほどおまえは美しいが、いくら美しいからといって、その美しさをいいことにして、贅沢《ぜいたく》な暮らしをして、若い男の将来を誤るようなことはあってはいけないと、おっしゃいました。
こうおっしゃられると、お返事は一つしかありません。そうでしょう? それは、あなたの愛人になってからというもの、心からあなたのためを思えばこそ、どんな犠牲もいとわず、あなたが無理なさらず出してくださるお金以外のお金は、一銭たりともいただかなかったことを、実際の証拠でお目にかけることでした。質札や、質入れできなかった品々を売り払ったときの受取証などをお目にかけました。また借金を払ったり、あなたにご迷惑をあまりかけずに、ごいっしょに暮らしたりするために、家財道具を人手に渡す決心をしたこともお話しました。そのうえ、あたしたちの幸福な生活や、前にあなたがおっしゃった平和で楽しい生活についても申しあげました。それでおしまいには、おとうさまもやっとわかってくださって、あたしに手を差しだしながら、最初の自分の出方が悪かったとお詫びになりました。
それから、おとうさまはおっしゃいました。
「さて、あなたも息子のために、ずいぶんと尽くしてくださったわけだが、その犠牲よりももっと大きな犠牲を、ひとつ今度はわたしのために払ってくださるまいか。これはけっしてもう小言《こごと》やおどかしではないのです。わたしの心からのお願いなのです」
この前置きを伺って、あたしはふるえあがりました。
おとうさまは、そばにお寄りになると、あたしの両手をおとりになって、優しい調子でつづけておっしゃいました。
「いいかね。これから言うことを、どうか悪くとらないでくださいよ。ただ世間には人情として忍びえないが、しかしどうしてもそうしなければならないような事柄が、間々《まま》あるものだということを、よくわかっていただきたい。あなたはいい方だ。そしてあなたの心には、たとえあなたを軽蔑しても、ほんとはあなたになぞ及びもつかぬ世間の女どものわからないような広い度量がある。
しかしだ。愛人のほかに親兄弟というものがあり、色恋のほかに義務というものがある。情熱の時代の次には、男として人から尊敬されるために、まじめな地位にしっかと腰をすえねばならない時代がくる。息子《むすこ》には別に財産というほどのものもないのに、母親の遺産をあなたに譲《ゆず》ろうとしている。あなたが息子のために払うおつもりの犠牲を、もし息子がお受けするならば、あいつとしても、自分の名誉や体面にかけても、あなたにそれくらいのものはお譲りして、行く末長くあなたの身を保護するのが、そりゃ当然なことです。しかし息子は、どうしてもあなたのご厚意を受けるわけにはいかないのです。なぜと言うに、あなたという方を知らない世間では、こうした同意に何かわたしの家名をけがすような、忌《い》まわしい原因でもあるように思うにきまっているからです。
アルマンがあなたを好き、あなたがアルマンを好いていようが、また二人の恋が息子にはしあわせであり、あなたには名誉回復になろうが、そんなことを世間では問題にはしませんぞ。問題にするのはただひとつ、アルマン・デュヴァルという男は、自分のために商売女、いや失礼な申し分だが、話の順序としてお許し願いたい、その女が持ち物全部を売り払うのを、のほほんと見ていたということだ。
そのうちには、あなた方にも、世間にざらにあるように、互いに非難しあったり、後悔したりする日が必ずやってくる。そして二人とも断ちがたい鎖《くさり》にしばりつけられてしまうようになる。そうなったとき、いったい、どうなさるおつもりかね。あなたの若さは、とうに消えうせ、息子の将来は真っ暗だ。そしてわたしは、父親であるわたしは、二人の子どもに望みをかけていた老後のめんどうを、そのうちの一人からしか見てもらえないことになるのだ。
あなたはまだ若くてきれいだから、これから先の人生で、いくらでも慰められることもあろう。それに気高い心をお持ちだから、よい行ないをひとつでもしたという思い出があれば、過去のさまざまなことも、それで十分|償《つぐな》いをつけることができる。ところがアルマンは、あなたと知りあってから半年というもの、わたしのことなどすっかり忘れてしまっている。わしが四度も手紙をやったのに一度だって返事をよこそうとしない。あれでは、わしが死んでも、息子は知らずにいることだろうよ!
あなたがどんなに今までの生活を一変する覚悟でいても、あなたに惚れているアルマンにしてみれば、自分に甲斐性《かいしょう》がないために、やむなくあなたに、その美しさにふさわしくない佗《わ》び住居《ずまい》をさせなければならないとなれば、不服なはずだ。もしそうなれば、あいつ何をしでかすかわからん! これまでに賭事《かけごと》に手を出したことも、わたしは知っている。あなたには内緒《ないしょ》で手をだしたことも、ちゃんと知っている。しかも一時の気の迷いから、娘の持参金や、あいつのためや、わしの老後の安楽のために、長年かかって貯めているものさえ、あいつはいくらか減らしかねなかったのだ。一度こんなことがあれば、これからもありうるわけだ。
それにあなたもだ。息子のために現在の生活から足を洗おうとしておいでだが、もう二度と前のような生活に、心をひかれないだけの自信がおありかな? これまで息子を愛したあなたが、この先ほかの男を愛さないという自信をちゃんと持てますかな?
それからまた、二人の関係が将来いとしい男の生涯に手枷足枷《てかせあしかせ》をはめるようになるだろうが、それでもあなたは心苦しいとは思いませんかな? 年齢とともに、野心が愛の夢にとってかわる時代がくれば、手枷足枷になやむ男を慰めようとしても、おそらく慰めてやることができないだろう。ここのところをよく考えていただきたい。
あなたはアルマシを愛していてくださる。それならば、その証拠を息子に見せてやってください。その方法は、まだひとつだけあなたに残されている。それは息子の将来のために、あなたの恋を犠牲にすることです。今までは、別に何も不幸は起こっていない。しかしいずれは起こるようになる。それも、わたしの予想するよりもさらに大きな不幸であるかもしれない。もしかしたらアルマンが、あなたの昔愛した男に嫉妬せぬともかぎらん。その結果、その男を怒らせて、決闘|沙汰《ざた》になり、結局殺されぬともかぎらぬ。そうなったとき、息子の命をどうしてくれるとつめよられたら、父親のわたしの前で、あなたがどんな苦境に立つか、よく考えていただきたい。
こうなればいっさいをぶちまけてお話するが、なぜわたしがパリへ出て来たか、そのわけを残らずお話しよう。
さっきもお話したとおり、わたしには娘が一人ある。若くて美しい、まるで天使のような清らかな娘だ。娘は今恋をしていて、この恋を一生の美しい夢としている。アルマンにもこのことを手紙でくわしく知らせたのだが、あいつはあなたに夢中で返事もくれなかった。
ところで娘は近く結婚することになっている。好いた男と結婚して、ちゃんとした家庭にはいるのだが、こちらの家庭もやはり何かにつけて、きちんとしていなくてはならぬ。うちの婿《むこ》となるべき男の家庭では、もうアルマンがパリでどんな生活をしているか知っていて、あいつが今のままの生活をつづけるかぎり、婚約は取り消すと言ってきた。あなたに何も悪いことをしたわけでもなく、将来に望みをかけてしかるべき一人の娘の今後のことは、いわばあなたの掌中《しょうちゅう》にあるわけだ。あなたには、この娘の将来を台なしにする権利がおありかな? またそれだけの力があるとお考えかな? あなたの恋と、あなたの悔いにかけて、マルグリット、どうか娘を幸福にしてやっていただけまいか」
あたしは何も言わずに、ただ泣くばかりでした。これまで幾度となく考えたことながら、今こうしておとうさまのお口から伺ってみますと、すべてのことが、もっともっと重大なことに思えてくるのでした。あたしはおとうさまがおっしゃろうとして、幾度か口の先まで出しながら、ついに遠慮しておっしゃれなかったことを、心の中で考えてみました。つまりそれはこういうことなのです。
『結局おまえなどは、たかが妾《めかけ》商売の女で、おまえたちの関係に、どんなりっぱな理屈をつけてみたところで、よそからみればやっぱり欲得ずくだという匂いがするのだ。おまえの過去から考えてみても、そんな未来を夢みる権利なんかないはずだ。柄《がら》にもない責任を引き受けてみたところで、日ごろの生活や世間の噂がそのとおりだから、だれひとり当てにはしない』
アルマンさま、あたしは結局あなたを愛していたのです。おとうさまの話をなさるときの父親らしい態度、あたしの心に呼びさましてくださった清い感情、あたしがこの律義《りちぎ》なご老人から、かち得たいと思っていた尊敬、こうしたもののすべてが、あたしの胸に気高い考えを呼び起こしてくれました。そのおかげであたしというものが、自分の目にもあっぱれな女として映《うつ》り、今まで知らずにいた清らかな誇りをもって、お話することができたのです。息子さんの将来のために、腰をひくくして頼んでいらっしゃるこのご老人が、いつかはあたしの名前を、一人の不思議な友だちの名前として、お祈りの文句の中に加えるように、その娘さんにおっしゃるかもしれないと考えますと、あたしはまるで別人のようになって、すっかり誇らしい気持ちになりました。
そのときは興奮していましたので、たぶんそうした感想のなまなましさも誇張して感じられたのかもしれません。でもそれがあたしの本当の気持ちでした。そしてそうした新しい感情のために、あなたと過ごした幸福な日を思い出して、いろいろ考えていたことも、つい口に出せなくなりました。
「よろしゅうございます」とあたしは涙をふきながらおとうさまに申しました。「あなたはあたしがご子息さまを愛していることを信じてくださいますか?」
「信じますよ」とおとうさまはおっしゃいました。
「欲得を離れてお慕《した》いしておりますことも?」
「もちろんです」
「あたしがこの恋を、生涯の希望とも、夢とも、これまでの生活の償いともしておりましたことも信じてくださいますかしら?」
「たしかに」
「それではご自分のお嬢さんに接吻なさるように、どうかいっぺん、あたしに接吻してください。そうすればその接吻は、あたしの受けたただ一度の本当に清らかなこの接吻は、きっとあたしを自分の恋に負けないくらい強くしてくれますわ。そして一週間以内には、ご子息さまがおそばへお帰りになるようにいたしましょう。ご子息さまもその当座はたぶん悲しい思いをなさるでしょうが、やがてはきっとすっかりお元気になりますわ」
「あなたは見あげた方だ」と、あたしの額《ひたい》に、おとうさまは接吻なさりながらおっしゃいました。
「あなたがこれからなさろうということは、神さまもきっとよく覚えていてくださるでしょう。だが息子が果たしてあなたの言うことをきくかな。わたしは気がかりだ」
「そのことなら、ご安心ください。あの方はきっとあたしを憎むようになりますわ」
こうしてあたしたち二人の間には、越すことのできない垣をつくらねばならなくなったのです。
あたしはプリュダンスに宛てて、N伯爵の言うことを聞くことにしたから、三人でお夜食をいただこうと思うから、そのことを伯爵に伝えてほしいという手紙を書きました。
それから手紙の封をすると、あたしは内容には触れずに、パリへお帰りになったら、宛名のところへ届けさせるように、おとうさまにお願いしました。
しかしおとうさまは、手紙にどんなことが書いてあるのかとおたずねになりました。
「ご子息さまが幸福におなりになることについて書きましたの」とあたしは答えました。
おとうさまは最後に、もう一度接吻してくださいました。すると、あたしの過去の過失に対する洗礼のように、感謝の涙が二滴《ふたしずく》、頬の上に落ちるのを感じました。そしてほかの男に身をまかせる気持ちになったとき、その新しい罪によって償うことのできたものを考えて、あたしはかがやかしい誇りを覚えました。
アルマンさま。こうなるのが当然です。あなたはいつか、おとうさまのことを、この世でいちばん正しい人だとおっしゃったことがありましたわね。
おとうさまは馬車でお帰りになりました。
でも何といってもあたしは女でした。あなたのお顔を見ると、どうしても泣かずにはいられませんでした。それでも、あたしの気持ちは弱くなりませんでした。
あたしのしたことは、果たして正しかったでしょうか? 死ぬまでは離れられそうもない病《やまい》の床の中で、きょうもこんなことを考えています。
どうしても避けることのできないお別れのときが近づくにつれて、どんなに辛い苦しい思いをしたか、それはあなたがまのあたりごらんになったとおりです。頼りになってくださるおとうさまはもういらっしゃいませんし、これから先あなたに憎まれたり、さげすまれたりするのかと思うと、居たたまれない心地がして、いっそのこと、何もかも打ち明けてしまおうかと思う瞬間もありました。
アルマンさま。こんなことを申しあげても、本当になさらないでしょうが、力をお授けくださるようにと、神さまにお願いしたのです。すると神さまもあたしの犠牲をお受けくださったとみえ、お願いした力を授けてくださいました。
そのお夜食のときも、やっぱりまだだれかの助けが必要でした。それというのも、自分がこれからしようとしていることを、知りたくなかったからです。それほどまでに、自分に勇気が欠けているのではないかと、あたしは心配していたのです!
マルグリット・ゴーチエともあろうあたしが、新しい恋人のことを考えただけで、これほどまでに苦しもうなどと、いったいだれが思ったでしょうか?
あたしはすべてを忘れようとして、お酒を飲みました。そして翌日目が覚めてみると、伯爵のベッドの中にいました。
これまで申しあげたことは、ひとつ残らず本当のことです。とくとご判断のうえ、どうぞあたしをお許しください。あの日以来、あなたがあたしになさったことを、みんな許して差しあげましたように。
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二十六
あの運命の夜からあとのことは、あなたもあたし同様によくご存じです。でも、お別れしてから、あたしがどんなに苦しんだかご存じありません。そんなことは夢にもお思いにならないでしょう。
おとうさまがあなたをお連れになって、お国にお帰りになったことは、承知していました。でもあなたが、あたしから遠く離れて、そう長くお暮らしになることはできまいと、あたしも思っていました。ですからあの日、シャン・ゼリゼでばったりお目にかかったときも、思わず胸をおどらせこそすれ、別に驚きはしませんでした。
それから毎日のように、あなたの手をかえ品をかえての辱《はずか》しめを受ける日が始まったのです。あたしはむしろ喜んで、この辱しめを受けました。これこそ、あなたがやっぱりあたしを愛していてくださる証拠であるばかりでなく、あたしを迫害なさればなさるほど、いつか真相がおわかりになれば、そのときこそ、あたしというものがあなたの目に、いっそう大きく映るにちがいないと思ったからです。
アルマンさま。あたしがこうして受難者の身でありながら、喜んでいるからといって、別にお驚きになるにはおよびません。あたしによせてくださったあなたの愛情が、気高い感激に対して、あたしの心を開いてくださったのです。
そうは言うものの、あたしはすぐさまそんなに強い女になれたわけではありません。あなたのために犠牲になったときから、あなたのお帰りまでには、かなり長い時間がありました。その間あたしは、気がちがってしまわないためと、また逆もどりさせた生活の苦しみをまぎらわすために、どうしても身体を酷使しなければなりませんでした。あたしが宴会や舞踏会やお祭り騒ぎといえば、どこへでも出かけて行ったことは、プリュダンスからお聞きになりましたでしょう?
あたしは、むちゃな生活をして、いっそ早く死んでしまいたいと思いました。この望みも近いうちに実現すると思います。健康は当然のことながら、次第に悪くなっていました。そしてあなたのお許しをいただくために、プリュダンスを伺わせたときには、もう身も心も、すっかり力尽きていたのでした。
アルマンさま。あたしのお見せした愛の最後の証《あか》しに、あなたがどんな仕打ちで報いてくださいましたか、またあなたが一夜の恋をお求めになれば、お言葉にさからうこともできず、愚《おろ》かにも昔と今を結び合わせることができるものと、しばらくの間でも考えた瀕死《ひんし》の女を、どんなにむごくパリから追い出しておしまいになったか、そんなことを今さら思い出していただこうとは思っていません。あなたには当然ああいうことをなさる権利があったのですわ、アルマンさま。だってあたし、あんなにたくさんのお金を一夜の代償として、だれからもいただいたことはなかったのですものね。
あれからあたしは、何もかも捨ててしまいました!オランプがあたしに代わって、Nさまのお世話になり、あたしがパリを立った動機をあの方にお伝えしたそうです。ロンドンには、G伯爵がいらっしゃいました。この方はあたしのような女との恋などには、ほんの一時の楽しい気晴らしぐらいの価値しか認めず、以前に関係のあった女たちとも相変わらず友だちづきあいをして、憎むでもなく、嫉妬するでもないといったような方です。つまり、あたしたちには、心はその表《おもて》の一面しか開いてみせないが財布《さいふ》は裏も表も両面とも開いてみせるといった大金持です。
あたしはさっそくこの方のことを思いつきました。そこでお訪ねすると、とても愛想よく迎えてくださいました。でもあちらでは社交界のさるご婦人と関係がありましたので、いっしょに人前に出ればあたしとの浮き名が立って評判が悪くなると心配していらっしゃいました。それでお友だちの方を紹介してくださって、あたしを晩餐《ばんさん》に招待してくださり、そのあとでその中の一人があたしを連れてお帰りになりました。
でもあたし、そうするよりほか、しかたがなかったのです。
自殺? そんなことをすれば、きっと幸福に暮らしていらっしゃるあなたに、よけいな重荷を負わせることになりましょう。それに死も間近にせまっているのに、急いで自殺なんかしてもはじまりません。
あたしは、まるで魂の抜けた肉体、精神のない物質のようになってしまいました。しばらくの間いわば自動人形のような生活を送っていました。その後パリにもどってきて、あなたのゆくえをたずねてみました。あなたが長いご旅行にお立ちになったのを、そのとき知りました。
もう何ひとつ頼りにするものはなくなりました。あたしの生活は、二年前の、まだあなたとお近づきにならなかったころに逆もどりしました。公爵とのよりをもどそうと骨を折りましたが、あの方のご機嫌をひどくそこねてしまったあとなので、何と申しましても、お年寄りというものは、もう先が長くないことがおわかりになっているものですから、気長にはまいりません。病気のほうは日ましに悪くなって、顔色は青ざめ、ふさぎこんで、前よりは、もっと痩《や》せてしまいました。色恋を金で買う男たちは、前もって品物をよく調べてみるものです。パリには、あたしよりももっと身体がじょうぶで、肉づきのいい女がいくらでもいます。こうしてあたしは、世間からいくらか忘れられました。これがきのうまでの経過です。
今では、あたしはまったくの病人暮らしです。公爵に手紙を書いて、お金をねだりました。手もとには一銭もないのに、借金取りが大勢押しかけてきて、情け容赦もなく勘定書きをつきつけるのですもの。
公爵は返事をくださるかしら?
アルマンさま、なぜあなたはパリにいてくださらないの? いらっしゃれば、会いに来てくださるでしょう。あなたが来てくださればあたしだって、どんなに慰められるでしょうに。
十二月二十日
いやなお天気です。雪が降っています。あたしは家にひとりぽっちです。三日前から、熱が高くて、あなたに一字も書けませんでした。別に変わりはありません。毎日お手紙を当てもなくぼんやりして待っています。でもお便りはありません。きっといつまで待っても来ないでしょう。相手を断じて許さない気強さは、殿方だけにありますのね。公爵も返事をくださいませんでした。
プリュダンスはまた質屋通いを始めました。
あたしの喀血《かっけつ》はとまりません。ああ! もしあたしのこんな姿をごらんになりましたら、あなたもお辛《つら》いでしょうに。暖かい国にいらっしゃるあなたは、あたしのように胸の上に氷をのせて冷たい冬を過ごさないだけ、ほんとにおしおわせですわ。
きょう、ちょっと起きてみました。窓のカーテンのかげから、パリの生活の移りゆく様子を眺めました。ああした生活とも、すっかり縁がきれたように思われました。道を二、三の知った人が、急ぎ足で、楽しげに、何の屈託《くったく》もなさそうな顔をして通って行きました。だれひとりとして、あたしの家の窓を見上げるものはありません。それでも、若い人たちが、幾人かお見舞いに来てくださり、お名前を書いて行きました。前に一度あたしが病気だったとき、それまでお知りあいでもなければ、はじめてお目にかかった折り、失礼ばかり申しあげたのに、あなたは毎朝容体をたずねに来てくださいましたわね。
あたし、またこうして病気になってしまいました。あたしたちは六か月、いっしょに暮らしましたわね。
その間、あたしは女として尽くせるだけの真心を、あなたに尽くしました。それだのに、あなたは今遠いところにいらっしゃって、あたしを呪《のろ》っていらっしゃるのね。またそればかりでなく、慰めの言葉ひとつ送ってくださらないのね。でも、こうして見捨てられたのも、まったく、ちょっとしたもののはずみですわ。あたし、そう信じていますわ。だってパリにいらっしゃるなら、きっとあたしの枕もとを離れずに、いつまでもこの部屋にいてくださるでしょうからね。
十二月二十五日
お医者さまは毎日手紙を書いたりしてはいけないとおっしゃいます。事実いろいろと思い出してみますと、熱が高くなるばかりですの。でもきのういただいたお手紙のせいか、少し元気が出てきました。手紙を届けてくださった優しいお気持ちは、それといっしょにいただいた物質的なご援助にもまして、いっそう、身にしみてうれしく思いました。それで、きょうはこうやってお便りが書けるのです。そのお手紙というのは、おとうさまからいただいたもので、こんなことが書いてありました。
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拝啓
ご病気の由、ただ今承りました。老生パリにおりますれば、もとより自身お見舞いに参上いたすべきところ、また愚息が手近にいるのでしたら、もとより直ちに差し向けるべきところですが、あいにく老生にはとうてい当地を離れがたき事情もこれあり、アルマンもまた三千キロの遠方にいる次第にて、ただ書面をもって衷心《ちゅうしん》よりお見舞いを申しあげることをお許しください。このうえは一日も早くご本復のほどを、神かけてお祈り申しあげます。
親友H氏不日参上いたしますが、その節はご引見願いあげます。同氏へ依頼しました用件については、鶴首《かくしゅ》してその結果をお待ちしております。
敬具
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こういうお手紙をいただきました。おとうさまはりっぱなお心の方ですから、どうぞあなたも、よく孝行してあげてください。これほど人から愛される資格のある方は、広い世間にも、めったに見あたりませんもの。おとうさまの署名のあるこのお手紙は、どんな名医の処方よりも、あたしには効《き》きめがありました。
けさHさまがお見えになりました。Hさまは依頼をお受けになった用件が微妙なものとみえ、なかなか言い出しにくいご様子でした。おとうさまからのおことづけで、一千エキュのお金をただ持って来てくださっただけなのです。あたしも最初はご辞退するつもりでしたけれど、Hさまは、それではデュヴァルさまが気を悪くされるとおっしゃいました。それに、おとうさまのおことづけでは、まずとりあえずこれだけのお金をあたしに渡し、なお必要ならば幾らでも渡すようにとのことでした。あたしは、おとうさまからなら、普通の施し物とはわけがちがいますから、このご厚意をお受けしました。
あなたがお帰りになったとき、もしあたしが死んでいましたら、おとうさまのことを書きましたこの手紙を、どうぞおとうさまにごらんに入れてください。そしてお情け深いお手紙をいただいたかわいそうな女は、この文面をつづりながら感謝の涙を流して、おとうさまのために神さまにお祈りしたとお伝えくださいませ。
一月四日
このところ、しばらく苦しい日ばかりつづきました。人間の身体がこれほどまで苦痛にたえるものとは、ついぞ今まで知りませんでした。
ああ! あたしの過去の生活! 今になって、あたしはその倍の償いをしているのです。
毎晩、夜通し看護してもらっています。もう呼吸をすることもできませんでした。うわごとと咳《せき》とが残り少ないあたしの哀れな生命を、奪い合っているようなありさまです。
食堂は、お友だちが持ってきてくださったボンボンや、そのほかいろいろなお見舞いの品でいっぱいです。その方々の中には、いずれあたしをお妾《めかけ》にでもと思っていらっしゃる方も、きっとあることでしょう。でも、病みおとろえたあたしをごらんになったら、おどろいて逃げ出しておしまいになるでしょう。
プリュダンスは、あたしのいただいたものを自分のお年玉にして、よそにあげています。
きびしい寒さです。お医者さまは、このいいお天気さえつづくなら、二、三日もすれば外出してもいいとおっしゃいました。
一月八日
きのうは馬車で外出しました。すばらしくいいお天気でした。シャン・ゼリゼはたいへんな人出でした。春の最初の微笑とでも言うのでしょうか。あたしのまわりのものはすべてが、お祭り気分で浮き立っているようでした。太陽の光に、これほどの喜びとなごやかさと、慰めがあろうとは、きのう気がつくまでは、ついぞ思ったこともありませんでした。
知っている人たちには、たいてい出会いましたが、みんな相変わらず陽気で、相変わらず遊びごとに夢中でした。幸福な身の上でありながら、それを知らずにいる人が、まあなんと大勢いることでしょう。オランプがNさまから買っていただいた気がきいた馬車に乗って通りました。人をばかにしたような目つきで、あたしをじろりと見ました。そんなつまらない見栄など、とうにあたしなんか気にしなくなっているのを、あのひとは知らないのです。ずいぶん前から存じあげている親切な方が、自分の友人で、とてもあたしと近づきになりたがっている男がいるから、三人で夜食でもたべないかと誘ってくださいました。
あたしは寂しく笑って、熱で燃えるような手を、その方に差しのべました。そのときほど驚いた顔を、あたしはまだ見たことがありません。
四時、うちに帰ると、かなりおいしい夕食をいただきました。
外出したので、気分がよくなりました。
これで病気が治るのでしたら!
ほかの人たちの生活や、幸福な様子を見ると、前の日、薄暗い病室で、ひとり寂しく、一刻も早く死んでしまいたいと願っていた者でも、まだ生きていたい気持ちになるものです。
一月十日
また健康になれるかもしれないというあの希望も、ひとつの夢にすぎませんでした。あたしはまた床についています。身体のどこもかしこも灼《や》けるように熱い膏薬《こうやく》をはられました。この身体を投げ出してみたところで、以前あれほど高いお金を払ってくれた人もありましたけど、今ではどれだけ出してもらえるでしょうか!
神さまがこの人生に、あらゆる贖罪《しょくざい》の責苦と、あらゆる試練の苦痛とを与えられているところをみますと、あたしたちは前世でとても悪いことをしたか、それともまた死後大きな幸福がえられるか、きっとどちらかにちがいありません。
一月十二日
相変わらず苦しみつづけております。
きのうN伯爵からお金を送ってきましたけれど、受けとりませんでした。あの方からはなんにもいただきたくないのです。あなたがあたしのそばにいらっしゃらないようになったのも、もとはと言えば、あの方のせいですものね。
ああ! ブージヴァルの楽しかった日々! あれはどこへ行ってしまったのでしょう?
もし生きて、この部屋を出るようなことがありましたら、あたしたちがいっしょに暮らしたあの家を、もう一度訪ねてみるつもりです。でも死んでからでなければ、とてもここから出られないでしょう。
あすまた、あなたにお便りが書けるものやら、それもわからないのです。
一月二十五日
きょうでもう十一日間というもの、あたしはまんじりともせず、呼吸がつまって、今にも死んでしまいそうな気がしています。お医者さまは、もうあたしに、ペンを持たせてはいけないとお言いつけになりました。でも、看護をしてくれるジュリー・デュプラは、このお便りを書くのをおお目に見てくれます。あなたはあたしの生きているうちには、お帰りにはなりませんのね? あたしたちは、これで永久にお別れなのでしょうか? 帰って来てくだされば病気もよくなるような気がします。でもよくなったところで、何になるでしょう。
一月二十八日
けさは、大きな物音で目を覚ましました。あたしの部屋に寝ていたジュリーが、大急ぎで食堂へ飛んで行きました。大勢の男の声がして、ジュリーが男たち相手に何やら言い争っていましたが、やがて泣きながらもどってまいりました。
男たちは差し押えにやってきたのです。あたしはジュリーに、その人たちが正しい裁《さば》きだと称することを、勝手にやらしておくように言いました。執達吏《しったつり》が帽子をかぶったまま、あたしの部屋にはいってきました。そしてあちこちの引出しをあけて、目につくものは片っぱしから封印してしまいました。幸いにも、法律のお情けで残されたベッドに、女が一人死にかかっていることなど、まるで気がつかない様子でした。
それでも帰りがけに、九日以内なら、異議の申し立てができると言いました。しかし番人を一人残して行きました! ああ、あたしはどうなるのでしょう!
こんな騒ぎから、あたしの病気はいっそう悪くなってしまいました。プリュダンスはおとうさまのお友だちに、お金をお願いしてみたらと言いますが、あたしは反対しました。
けさ、お便りを受けとりました。ずいぶんお待ちしていましたのよ。あたしの返事は、間に合うようにお手もとに届くでしょうか? もう一度お目にかかれるでしょうか? きょう一日中とてもうれしくて、この六週間のうちに起こったいろいろなことを、すっかり忘れてしまいました。なんだか、このままよくなるような気がします。あなたにお返事を書いています間は、気がめいっていたのですけれど。
結局、人間はいつまでも不幸だとはかぎりませんのね。もしかしたら、あたしもこのまま死なないで、あなたはお帰りになり、もう一度春にめぐりあって、あなたに愛されて、去年のような生活をまた二人ではじめることができるかもしれない、とこんなことを、あたしは考えましたの!
なんというおばかさんなんでしょう! ペンを持つさえやっとなのに、こうしてあなたにあてて心に浮かぶ愚《おろ》かしい夢を書きつづっているのです。
たとえどんなことがありましても、あたしは心からあなたを愛していますわ、アルマンさま。もしこうした恋の思い出によって元気づけられることもなく、またもう一度おそば近くあなたにお目にかかれるというぼんやりした希望のようなものもありませんでしたら、あたしはもうとっくに死んでしまっていたでしょう。
二月四日
G伯爵が帰っていらっしゃいました。愛人に裏切られたとかで、ずいぶんしょげていらっしゃいます。よほど相手の方を愛していらっしゃったのです。あたしのところへ見えて、すっかり話してくださいました。お仕事のほうもうまく運んでいないようでお気の毒ですが、それでも執達吏《しったつり》にお金を払って、番人を帰らせてくださいました。
あなたのことをお話すると、あなたにあたしのことを話してやると約束してくださいました。そのときあたしは、以前あの方のお世話になっていたことを、まるっきり忘れていましたが、あの方もそんなことは、つとめて忘れさせるようにしてくださったのでした! ほんとにご親切な方ですわ。
公爵はきのう見舞いの人を寄こしてくださって、けさはご自分でいらっしゃいました。あんなお年寄りになって、どうしてまだ生きていられるのか、あたしにはわかりません。あたしのそばには二時間もいらっしゃったのに、二十ぐらいの言葉しかおっしゃいませんでした。あたしの青ざめた顔をごらんになって、大きな涙を二滴《ふたしずく》こぼされました。きっとお嬢さまがお亡くなりになったときのことを思い出されて、お泣きになったのでしょう。お嬢さまの死に目に、二度お会いになるような気がなさったのでしょうね。
あの方も今では背中はまるくなるし、頭はうなだれるし、くちびるは垂れさがるし、目には光がなくなってしまいました。寄る年波とご苦労が、衰《おとろ》えておしまいになったお身体に、二重の重みとなってかかっているのです。
あたしには小言ひとつおっしゃいませんでした。でも心の中では、あたしが病気のためにひどくやつれたのを、ひそかにいい気味だと思っていらしたのかもしれません。あたしがまだうら若いくせに、病苦に打ちひしがれていて、ご自分がともかく生きていらっしゃるのを、内心得意になっていられるようでした。
お天気がまた悪くなりました。だれも見舞いに来てくれません。ジュリーは、なるべくあたしのそばを離れないで看護をしてくれます。プリュダンスは以前ほどお金をあたしからもらえないので、用事にかこつけては、だんだんあたしから遠ざかるようになりました。
お医者さまたちが何とおっしゃろうと、あたしはもう死にかけているのです。今、幾人ものお医者さまにかかっていますが、これだけでも病気が日ましに重くなっていく証拠です。今となってはおとうさまのお言葉に従ったのが、いっそ悔やまれるくらいです。あのときにもし、あなたの将来を分けていただくのも、せいぜい一年にすぎないと知っていましたら、その一年をあなたとごいっしょに暮らしたいという望みをむりに捨てはしなかったでしょう。そうすれば、少なくとも、なつかしいあなたのお手を握りながら、死ぬこともできたでしょうに。あたしたちが今年もいっしょに暮らしていましたら、あたしはきっと、こんなに早くは死なないかもしれませんね。
なにごとも神さまの御心《みこころ》のままです!
二月五日
ああ! 帰ってきて、帰ってきて、アルマンさま、あたしはひどく苦しんでいます、ああ! もう死にそうです。きのうはずいぶん寂しくて、夜も、どうせ前の晩のように長いかと思うと、どこかよそへ行って、夜を過ごしたくなりました。
けさ、公爵がお見えになりました。死ぬことを忘れたようなあのご老人の姿を見ますと、いっそう、寿命がちぢまるような気がいたします。
灼《や》けるような高い熱でしたけれど、服を着かえさせてもらって、ヴォードヴィル座へ馬車を走らせました。頬紅《ほおべに》をジュリーにつけてもらいましたが、さもなければ、まるで死人のように見えたでしょう。あなたとはじめて逢引《あいびき》したあの桟敷《さじき》に行きました。そしてあの日、あなたが腰かけていらした座席から、ずっと目を離しませんでした。きのうは田舎者みたいな男がそこにすわっていて、俳優たちがばかげたことをいうたびに、げらげら笑っていました。あたしは半分死んだようになって、家へ連れもどされました。
ゆうべは夜どおし咳が出て、喀血《かっけつ》がつづきました。きょうはもうものを言うこともできません。腕を動かすのもやっとです。ああ! もう死んでしまいます。かねて覚悟はしていましたものの、今よりもっと苦しむのかと思っただけでたまりません。そしてもし……
この言葉からあとの二、三字は、マルグリットが一生懸命書こうとしたものらしいが、どうしても読めなかった。それから先は、ジュリー・デュプラがつづけて書いていた。
二月十八日
アルマンさま。
マルグリットさまがお芝居へ行きたいとおっしゃった日から、引きつづいてご容体はますます悪くなるいっぽうです。すっかり声は出なくなり、やがて手足の自由がまるで利《き》かなくなりました。
おかわいそうに、その苦しみようといったら、とても言葉ではつくされません。こんな苦しみを見るのは、わたくしも初めてですので、どうなることかと絶えずびくびくしております。
あなたさまさえそばにいてくださったらと、どれほどわたくし思ったことでしょう! ご病人はもう意識が乱れてしまっていますが、そんなときでも、また正気にもどられたときはもちろん、何かひと言でも口になさる場合には、おっしゃるのは、いつもあなたさまのお名前です。
お医者さまも、もう長いことはあるまいとおっしゃいました。ご病人がこれほど悪くなってからは、老公爵さまもいらっしゃいません。こんなありさまはかわいそうで、とても見るにしのびないと、お医者さまにおっしゃったそうです。
デュヴェルノワさんもずいぶんひどい方です。これまで何から何までやっかいをかけて暮らしてきたのに、このうえまだマルグリットさまからお金をもらえると思って、ほうぼうで分不相応な借金までつくってしまったのです。そしてマルグリットさまがもう役に立たないとわかると、顔ひとつ見せません。
みんなマルグリットさまを見捨ててしまいました。Cさまは借金に追われて、余儀《よぎ》なくまたロンドンへお立ちになりました。ご出立まぎわに、いくらかお金を送ってくださいました。あの方もできるだけのことはしてくださったのですが、また差し押さえにあいました。債権者たちは競売にするつもりで、ただもうマルグリットさまがお亡くなりになるのを待っているばかりです。
わたしはまずしい自分の財布《さいふ》の底をはたいてでも、差し押えだけはさせまいと思ったのですが、執達吏はそんなことをしたってむだだ、まだ次々と差し押えがあるのだからと申しました。マルグリットさまはどうせ間もなくお亡くなりになるのですもの、ご自分のほうでもお会いになりたくないし、また先方でもあの方を少しもかわいがりはしなかった遺族の方にお残しになるより、いっそ何もかも捨てておしまいになったほうがましですわ。お気の毒に表面だけは華やかで、その実どんなにみじめなありさまで亡くなろうとしていらっしゃるか、あなたさまには想像もおできにならないでしょう。きのうなどは、うちに一文のお金もありませんでした。食器類も、宝石類も、カシミヤの肩掛けも、残らず質にはいっていますし、そのほかのものは、みんな売るか、差し押さえられてしまいました。マルグリットさまは、まわりでどんなことが起こっているか、まだはっきりおわかりになりますので、そのためにお身体ばかりでなく、魂も心も苦しみ悩んでいらっしゃいます。痩せおとろえた青白い頬に、大粒の涙を流しておられます。あなたさまが、たとえお会いになっても、あんなに愛していらした方のお顔とは、とてもお思いになれないくらいです。
ご自分でもう書くことができなくなったら、わたくしが代わりにあなたさまへお手紙を書くという前々からの約束でした。それで今こうして、あの方の前で書いているのです、あの方はこちらのほうをごらんになっていますけど、その実わたくしの姿はお見えになっていないのです。ご臨終《りんじゅう》が近いために、もう目がかすんでいるのです。それでも、にっこりとほほえんでおいでです。心も魂も、すべてあなたさまに捧げきっていらっしゃるにちがいありません。
だれかが扉をあけるたびに、あの方のお目がかがやきます。あなたがはいっていらしたものとお思いなのです。しかしそれがあなたさまでないことがおわかりになりますと、お顔はまたもとの苦しげな表情にかえって、冷たい汗がにじみ、頬骨《ほおぼね》のあたりが紫色になってまいります。
二月十九日、夜半。
アルマンさま。今日はほんとに悲しい一日でした!けさ、マルグリットさまが息苦しくおなりになり、お医者さまが血をおとりになりました。するとお声が少し出るようになりました。先生は司祭さまに来ていただいてはどうかとおすすめになりました。あの方も、ではそういうことにとおっしゃいましたので、先生がご自身でサン・ロック聖堂へ、神父さまをお迎えにいらしてくださいました。
その間にマルグリットさまは、わたくしをベッドのそばにお呼びになって、箪笥《たんす》をあけてくれとおっしゃいました。そして帽子とレースずくめの長いシュミーズをお指しになって、弱々しい声でおっしゃいました。
「あたし、懺悔《ざんげ》してから死にます。そのとき、それを着せてね。これも死んで行く女の身だしなみのひとつよ」
それから泣きながら、わたくしに接吻されて、こう加えておっしゃいました。
「口はきけるんだけど、口をきくととても息苦しいの。ああ、息が苦しい! 窓をあけて!」
わたくしは涙にむせびながら窓をあけました。それから間もなく、司祭さまがお見えになりました。
わたくしはお迎えに出ました。
司祭さまは、ご自分が今どんな女の家に来ているかがおわかりになると、飛んでもないもてなしを受けなければよいがと心配していらっしゃるご様子でした。
「どうぞご遠慮なくおはいりくださいまし、神父さま」とわたくしは言いました。
神父さまはほんのわずかの間しか、病人の部屋にはいらっしゃいませんでした。そして部屋から出がけに、わたくしにこうおっしゃいました。
「あの方は一生を罪の女としてすごされたが、今はキリスト教徒として死なれるのじゃ」
それからしばらくすると、神父さまは十字架を持った合唱隊の子どもと、聖器係りをつれてお見えになりました。聖器係りは二人の先頭に立って、神さまがこの臨終の女の家へおいで遊ばしたことを知らせるために、鐘をうち鳴らしていました。
三人は寝室にはいりました。以前は奇怪な言葉をたくさんにこだまさせたこの部屋も、今では神聖な聖櫃《せいひつ》となりました。
わたくしはひざまずきました。この光景から受けた印象が、果たしていつまでつづくかわかりませんが、人の世の出来事で、これほどまでに強く胸をうつものが、わたくしの一生にまたあろうとは思えません。
司祭さまは死んでいかれる方の足や手や額に聖油をお塗りになり、短いお祈りをとなえてくださいました。マルグリットさまは今にも天国に昇ろうとしておいでです。神さまがこの方の生涯の試練や、清らかなご臨終をごらんになりましたら、きっと天国へお召しになるにちがいありません。
この時分から、マルグリットさまはもうひと言もおっしゃらず、身動きひとつなさいませんでした。あの苦しそうな呼吸さえ聞こえませんでしたら、幾度かもうお亡くなりになったものと思ったことでしょう。
二月二十日、午後五時。
何もかもおしまいです。
マルグリットさまは夜中の二時ごろから臨終のお苦しみが始まりました。いかにも苦しそうなお声を聞いていますと、どんな殉教者だってこれほどの責め苦にはお会いにならなかったろうと思いました。二、三度、ベッドの上にまっすぐ起きあがられ、神さまのみもとへ昇って行くご自分の生命を、もう一度取りもどそうとするような様子をなさいました。
それからまた二度三度、あなたのお名前をお呼びになりましたが、やがて何もおっしゃらなくなり、ベッドの上にばったりと倒れておしまいになりました。目からは涙がしずかに流れました。そして死んでおしまいになりました。
そこでわたくしは、おそばに近づいてお呼びしたのですが、もうご返事はありませんでした。わたくしはお目をつぶらせて、額に接吻しました。
おかわいそうな、いとしいマルグリットさま。
わたくしは自分が聖女であったらと思いました。そうしたらこの接吻で、あなたを神さまのみもとにお送りいたすこともできますものを。
それからわたくしは、かねてお頼まれしていたとおり、お召物をお着せして、サン・ロック聖堂へ司祭さまをお迎えに行きました。そしてお蝋燭《ろうそく》を二本あげ、一時間ばかり聖堂でお祈りをしました。
あの方の使い残りのお金は、貧しい人々に施しました。宗教のことはよくわからないわたくしですが、わたくしの涙がほんとうの涙で、お祈りには熱意がこもっていて、施しは真心からしたものだということを、神さまもおわかりくださるだろうと思います。そしてお目をつぶらせたのも、死の晴着を着せてあげたのも、このわたくしよりほかにだれもいなかった、このうら若くして亡くなられた美しい方を、神さまはきっと哀れと思《おぼ》し召されるだろうと思います。
二月二十二日
きょうはお葬式でした。マルグリットさまのお友だちが大勢、聖堂にお見えになりました。心から泣いてくださった方も、いくたりかおいででした。行列がモンマルトルへの道を通りかかりましときは、ついて来てくださった方はお二人だけになりました。ロンドンからわざわざ帰っていらしたG伯爵と、二人の召使いに助けられてお歩きになっている公爵でした。
わたくしは今、あの方のおうちで、悲しげに燃えているランプを前にして、涙にむせびながら、その一部始終を書いています。目の前に、お夕食の支度ができています。もう二十四時間以上も、何ひとついただいていませんので、ナニーヌが心配して支度させてくれたのです。しかしわたくしは手をつける気にもなれません。この気持ちは、あなたさまにもよくわかっていただけるでしょう。
こうした悲しい印象も、わたくしのような生活をしていましては、そう長い間覚えていられそうもありません。マルグリットさまの生活が、あの方のものではなかったように、わたくしの生活も、やはりわたくしのものではないのですから。それで、もしあなたさまのお帰りまでに、まだよほど時日がありますようなら、この悲しみのいっさいのいきさつをありのままにお伝えすることができなくなりはしないかという懸念《けねん》もありまして、すべてが行なわれましたこの場所で、一部始終を書きしたためておく次第です。
二十七
「お読みになりましたか」と、わたしがこの手記を読み終わったとき、アルマンは言った。
「拝見したことが全部事実だとすると、あなたも苦しい思いをなされたわけですね!」
「全部が事実であることは、父も手紙の中で確認してくれました」
わたしたちは、こういう結末となった悲しい運命について、なおも話しつづけたが、やがてわたしはいったん家に帰って、少し休息した。
アルマンは相変わらず悲しそうにしていたが、この物語を話してしまったためか、いくらか気持ちにゆとりができたのであろう、すぐと元気をとりもどした。そこで、わたしたちは連れだって、プリュダンスとジュリー・デュプラを訪れた。
プリュダンスはちょうど破産したばかりのところだった。そして、これもマルグリットのせいだと言った。マルグリットの病気中、プリュダンスは彼女に金をずいぶん貸して、そのため、払いきれないほどの借金を背負いこんだが、マルグリットはそれを返済しないで死んだばかりか、証文をとってあるわけではないので、今さら債権者として名乗りをあげるわけにもいかないというのだった。
デュヴェルノワ夫人は、損をした自分の取引の言いわけに、こんな作り話をあっちこっちに触れまわり、そのおかげでアルマンから一千フラン紙幣をまんまとせしめた。そんな作り話をアルマンだって頭から信じたわけではなかったが、自分の愛人に関係のある事柄に対しては何事によらず大事にそっとしておきたかったので、そのまま信じている振りを見せたわけだった。
それからわたしたちは、ジュリー・デュプラの家へ行った。彼女は死んだ友だちを思い出して、心から涙にくれながら、自分の目で見た悲しい出来事を、いろいろと話してくれた。
最後に、わたしたちはマルグリットの墓におまいりした。墓の上には、四月のあたたかな日の光が、若葉を萌《も》えさせていた。
アルマンには最後にもうひとつ果たさなければならなかった義務が残っていた。それは父のもとに帰ることだった。が今度も、彼はわたしに同道を望んだ。
わたしたちはCについた。わたしは彼の息子の話から想像していたとおりのデュヴァル氏に会った。背の高い、気品のある、親切な人だった。
氏はうれしさのあまり、涙を浮かべてアルマンを迎え、親しげにわたしの手を握った。わたしたちを迎えてくれたこの老人の胸のうちには、ほかのどんな感情よりも父性愛がいちばん表われていることに、わたしは間もなく気がついた。
ブランシュという名前のお嬢さんは、その澄んだ瞳《ひとみ》やまなざし静かな口もとなどが、心は神聖なことしか考えず、口は敬虔《けいけん》な言葉しか言わないような少女であることを証明していた。彼女は微笑して、兄の帰りを迎えた。この清純な少女は、遠くはなれたところで、一人の娼婦が、そのけがらわしい名を神によって救われたいばかりに、わが身の幸福を犠牲にしたことなどは、まったく知らないのだった。
しばらくの間、わたしはこの幸福な家庭に滞在していたが、一家の人々は、心の痛手の癒《い》えかけたアルマンを何くれとなくいたわっていた。
パリに帰ってくると、わたしはこの物語を聞いたとおりに書きあげた。この物語には価値については、異論があるかもしれないが、事実だという価値だけはあるはずである。
この物語からわたしは、マルグリットのような娼婦は、それが皆、彼女のしたようなことをするものだ、という結論を引き出そうというのではない。そんな考えは毛頭ないのである。わたしはただ、そうした女たちの中の一人が、生涯に一度真剣な恋をし、そのために悩み、その恋ゆえに死んだということを知ったまでである。
わたしは聞いたままを、読者諸君に物語った。これはひとつの義務であった。わたしは悪徳の使徒ではないが、気高い心を持つ不幸な人々が、いたる所であげる祈りの声を聞けば、自分がその木霊《こだま》となって、それを世に伝えたいというのである。
くり返して言うようだが、マルグリットの物語はひとつの例外である。もしこれが世間一般の出来事であったとしたら、何も苦労して書きつづることはなかったであろう。
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解説
デュマ・フィスの人と文学
〔生いたち〕
アレクサンドル・デュマ・フィス Alexandre Dumas fils は、一八二四年七月二十七日午後六時、パリのイタリア人広場のアパートの屋根裏部屋で生まれた。彼が生まれたちょうどその日に、父デュマは、自分の母(デュマ・フィスには祖母にあたる)と新しくいっしょに住むことになったフォーブール・サン・ドニ街五十三番地に移転してしまった。それがため赤ん坊は誕生四日後の七月三十一日、区役所に母はラベー夫人、父は不明として届けられ、私生児ということになってしまった。
父親は言うまでもなく、『三銃士』や『モンテ・クリスト伯』などの伝奇小説で文名の高いアレクサンドル・デュマ Alexandre Dumas (一八〇二〜一八七〇)であって、また祖父はナポレオンの部下で、かつて「黒い悪魔」と呼ばれた将軍だった。
母親は前述のようにイタリア人広場のアパートに住む、カトリーヌ・ラベー Catherine Labay(一七九四〜一八六八)であって、父のデュマと知りあったころは、数人のお針女《はりこ》を使って、小さな裁縫工場をここで経営していたのである。彼女は金髪で、小ぶとりの、肌がとても白い女で、性質はまじめだった。以前ノルマンディ州のルーアンで結婚したが、その夫が半ば気が狂ってしまったため離婚して、パリに出て来たのだった。彼女は日曜日には、その隣人であるデュマといっしょにムードンの森に遊びに行くのだった。やがて熱血漢で、説得力のあるこの青年の恋を入れて、彼女はその恋人になり、経済上からも、ついに彼女の住居に青年と同棲するようになり、前述のようにアレクサンドルという洗礼名をつけた大きな男の子を、二人の仲にもうけるのである。
しかし当時二十五歳だったデュマは、カトリーヌとの関係や、息子の誕生を父将軍や母親にあえて話すこともせず、母親と同居するために引っ越ししてしまったため、本編の作者はアレクサンドル・ラベーという名で、カトリーヌの私生児となったのである。だがその後デュマもたびたびこの以前の屋根裏部屋を訪れて、日ましに成長する赤ん坊を中心に、カトリーヌと親子水入らずの時間を過ごしたのであった。
一八三〇年からは、父デュマもわずかではあるが文筆生活からの収入があったので、カトリーヌと息子とをパリ郊外のパッシーの小さなアパートに住まわせるようになった。そしてときおり田舎《いなか》の新鮮な空気を吸いに、そこへやって来るのだった。しかし小さなアレクサンドルが病気をしたりするときには、父は不在で、ルーヴルの駅馬車で、そのたびごとに、呼びにやらなければならなかった。
ある日、医者は吸玉《すいだま》療法をするように言ったが、アレクサンドルはむきになってこれに反対した。父デュマは何も害にはならないと、むりにこの療法をさせようとしたが、アレクサンドルは「じゃ、おとうさんが自分の身体につけてごらんよ」と叫んだ。すると父は二つの吸玉を左の手のひらに当てたということである。
これほど父デュマは愛情は持っていたが、まれにしかカトリーヌの家にはやって来ないで、息子との間は疎遠になっていた。それでもデュマはついに一八三一年三月十七日アレクサンドルを息子として認知することになり、産科医が二人の隣人(一人は仕立屋で、もう一人は歯医者であった)といっしょに区役所に出かけ、認知の手続きを済ました。
〔少年時代〕
七歳になっていたアレクサンドルは学校にあがらなければならなかった。デュマは寄宿舎に息子を入れようと決心した。セーヌ県の法廷は、まずラ・モンターニュ・サント・ジュヌヴィエーヴ街にあるヴォチエ学院を選んだ。アレクサンドルは母が買ってくれた銀の食器ひとそろいと銀杯、それに寄宿舎にはいるために用意してくれた衣類を手にして、母との最後の日を過ごしたのだった。
これについては、のちに彼の作品『クレマンソー事件』の中で触れている。しかしアレクサンドルはやがてグーボーの寄宿舎にはいるために、ヴォチエ学院から出されてしまうのである。
ここの校長はプロスペル・パルフェ・グーボーと言って、父デュマの友人であった。劇作家でもあって、有名なメロドラマ『三十年もしくはある賭博者の一生』をディノーという名で合作したこともあり、デュマが『リチャド・ダーリングトン』を書いたとき、そのアイディアを与えたのも彼だった。インテリで教養のあるグーボーは教育者としても活躍し、ブランシュ街にサン・ヴィクトール寄宿舎を創立して、銀行家ラフィットの経済的援助の下に、貴族、資本家、富豪などの子弟の教育にあたっていた。
しかしこの学校生活は、いかに苦悩にみちて、悲惨であったかは、次のような話でも理解できるだろう。
アレクサンドルはいつもののしられ、侮辱され、けんかに巻きこまれた。負けるのは、いつも彼であり、その身体は生傷が絶えなかった。彼は絶望し、肉体的に少しも大きくならなかった。病弱で、勉強にも遊戯にも興味が持てなかった。その睡眠はさまたげられ、食堂ではからになった食器しか渡されなかった。
教室では意地の悪い生徒がおもしろ半分に教師に質問した。
「先生、デュノワのあだなは何と言いますか? ジャンヌ・ダルクの戦友のデュノワのあだなですが……」
「オルレアンのバタールだよ」
「バタールって何ですか、先生?」
アレクサンドルは辞書で batard という言葉をさがす。すると「私生児」と書いてあるのを見つけるのである。
そして特にアンドレという学友から受けた侮辱を一生涯、忘れなかった。この学友はアレクサンドルをいじめる悪友たちの先頭に立っていたのである。
三十五年も後に、彼はある日大通りでアンドレに出会ったことがあった。アンドレは彼の成功にお世辞を言って、手を差しだした。するとアレクサンドルは手荒にアンドレをはばんで、「きみ、おれは今、きみより頭がいいんだよ。今度、おれに声をかけてみろ、そのときは、きみの腰をくだいてやるぞ」と、どなりつけたそうである。
日曜日には、母親がまるで女中のような質素な服をまとって、アレクサンドルにスープを入れた壺《つぼ》を持って面会に来た。肩掛けで包んで来たので、それはまだ温かかった。母親は息子に食事をさせ、済むと編物をはじめるのだった。だれも女中だとしか思っていなかった。人前では、けっして息子に接吻もしなければ、手にも触れなかったのだ。
父からは、思い出したように手紙が来た。一度は、これだけは読むべしと、書物の名がならべてあった。
「原文でシェクスピアやゲーテ、それにホメロスやタキトゥスを読まなければならない。聖書だって翻訳じゃよくないからだ。言葉の神髄《しんずい》は、翻訳することができないのだ。中国語を知らないで、孔子や老子が理解できるかどうか、わしは疑わしく思っている」と父は書いて来たのだった。また旅先からは「プレス」にのった紀行を読んだかと言って来た。
日曜日はいつも礼拝堂の冷たい敷石の上にひざまずいて、祈ってからでなければ母に会わなかった。ある日、ミサのあと礼拝堂に残って、学校付きの若い司祭と話していたが、途中で思わず声をあげて泣き出してしまった。
それからは、二人はたびたび会って、聖書の一節、詩編のひとつ、イエスの寓話、または山上の垂訓《すいくん》をいっしょに読んだ。聖人の生涯について学んだとき、この司祭は聖人が悪霊とたたかい、殉教を恐れない力をやしない、最後に聖徳にたどり着いたいきさつを、特に力をこめてアレクサンドルに話してくれた。それで晩のお祈りのときは、復讐をちかうかわりに、意地悪な学友たちの赦免《しゃめん》を神にお願いするのだった。
一八四〇年、父デュマは、今まで結婚の噂があった女優のイダ・フェリエと結婚した。立会人のシャトーブリアン、ノディエ、ロジェ・ド・ボーヴォワール、ヴィルマンの四人が証書に署名しようとしていたとき、アレクサンドルが飛びこんで来て、新婦のイダを指して、「パパはこんなふとった女と結婚したんですか? ぼくはママと結婚したのかと思っていた」と泣き、そこを出て行ってしまった。
新婦のイダはこれを聞いて、「あんな小僧っ子は二度と寄せつけないでね!」とまっかになって怒った。
アレクサンドルはふたたび学校にもどり、残りの五年間を、いっそう孤独のうちに過ごした。彼は宗教的な難行苦行《なんぎょうくぎょう》もやめて、ひたすら校庭に草花を植えて、自分を慰めていた。
〔青年時代〕
いっぽう父デュマは妻のイダがド・ボーヴォワールと醜聞《しゅうぶん》を起こしたので、離婚した。そしてやがて学校を卒業したアレクサンドルと、一八四四年九月には、いっしょに暮らすようになった。
二十歳になったアレクサンドルは堂々とした美丈夫になって、見たところ健康そのものだった。非常に背が高く、肩は四角ばって、格好のいい頭、まなざしには郷愁《きょうしゅう》の思いをたたえ、髪は赤みがかった栗色で、軽くちぢれて長くのばしていた。広えりのラシャ地の服に、白いネクタイをしめ、ロンドン・ピケ地のチョッキを着こみ、黄金の頭球がついた藤《とう》のステッキを持った、伊達《だて》者の姿をしていた。
しかし学問のほうは非常に遅れていて、数年のうちは大学入学資格試験をとうていパスできそうもない状態だった。アレクサンドルはこのことを父に白状におよぶと、
「おまえは作家になるんだろう。何でまた免状なんてほしがるんだ。免状なんかあったって、おまえの芝居は上演されるもんか。作家には免状はいらん。仕事だけが物を言うんだ。作家の仕事が楽でないことを、実地に教えてやろう。おれの助手になりなさい」
と父は言い、さっそく書斎のとなりの部屋に連れて行き、ルイ・クーザンの『コンスタンティノーブルの歴史』やら、ポーラン・パリス校訂のヴィラルドゥアンの著書などを読むように命じた。
アレクサンドルは、父の言いつけに従い、新作の歴史小説の材料となるべき知識を、何週間もかかって勉強したが、けっして楽な仕事ではなかった。小説の筋をつくるには、史実をまげなければならないので、歴史的人物の取り扱い方がますます困難になった。原稿用紙を片っぱしから反古《ほご》にして、書いては消し、消しては書いているうちに、たちまち反古の山ができてしまった。
自分の文才に失望したアレクサンドルは、文学のことよりも、女で父親を模範とするほうがたやすいと考えるようになり、ついに『コンスタンティノーブルの占領』の仕事を捨ててしまい、遊蕩《ゆうとう》生活のほうに精を出すようになってしまった。
父デュマはやむをえず、『パリ評論』のために別の小説を書かなければならなくなった。
アレクサンドルが遊蕩生活におぼれているのを見て、『レ・ミゼラブル』の作者である当時の文豪ヴィクトル・ユゴーは、以前からアレクサンドルに好意を持っていたので、ある日彼を呼んで、次のような訓戒を与えた。
「悪徳というものは、すぐに喜びを与えてくれるが、美徳が喜びをもたらしてくれるためには、長年それを実践しなくてはならない。その代わり、悪徳の果てはいつも倦怠であるのにくらべて、美徳の生むものはいつも幸福である。アレクサンドル、きみは一日も早くこのことに気がついてほしい」
しかし若いアレクサンドルはこの文豪の親切な忠告に耳をかさずに、相変わらず快楽に身をまかせていた。
〔作家生活〕
父デュマに経済的に頼っていたアレクサンドルも、次第に作家として独立しようと思い、本編の『椿姫』のモデルであったマリー・デュプレシと彼との恋愛事件を、まず小説として発表しようと考えた。一八四七年五月サン・ジェルマンの散歩に出かけたとき、かつてのマリーとの数々の交渉を思い浮かべ、さっそくシュヴァル・ブランの館に帰り、ゆっくりとマリーからの手紙を読み返した。
この小説がいったん世に出ると、たいへんな評判で、大成功を収めた。女性という女性が、老いも若きも争って買い求め、本編の女主人公に同情して紅涙《こうるい》をしぼったのだった。時に作者は弱年二十四歳であり、一八四八年のことだった。
この好評に力づけられた作者は翌年これを五幕物の戯曲に脚色した。しかしやかましい検閲制度その他の事情で、三年間はその上演を見送らねばならなかったが、一八五二年になって、時の宰相《さいしょう》ド・モルニー公の好意と父デュマの口添えによって、ついにヴォードヴィル座ではじめて脚光を浴びたのだった。
ローマン主義劇の最後の作家であるスクリーブなどの、興味深い人物をおもしろおかしく舞台の上にくり出す劇とはちがって、作者みずから親しく目撃し経験した生活事実の描写を劇化した『椿姫』は、観客にすばらしい評判をもって迎えられた。そしてデュマ・フィスは一躍文壇の流行児となったのである。
その後のデュマ・フィスは『淪落《りんらく》の女』(一八五五年)、『金銭問題』(一八五七年)、『私生児』(一八五八年)、『道楽|親父《おやじ》』(一八五九年)、『女性の友』(一八六四年)、『オーブレー夫人の思想』(一八六七年)、『クロードの妻』(一八七三年)、『バグダッドの王妃』(一八八一年)、『ドニーズ』(一八八五年)、『フランション』(一八八七年)と数々の戯曲を発表し、フランスの近代写実劇の作家の中でも、第一の尖鋭《せんえい》な観察眼をそなえた劇作家として、エミール・オージェとともに、フランス第二帝政時代の代表的な作家となった。
〔晩年〕
一八七四年アカデミー・フランセーズにおいて、投票があり、その結果二十二票をもって、デュマ・フィスはその会員に選出された。そして翌年二月十一日同アカデミーの円《まる》天井のある建物の中に、オーソンヴィル伯爵によって迎えられた。その入会演説で彼は父デュマに敬意を表した後、彼の先任者であり一八七三年に亡くなった詩人のピエール・ルブランについて話した。このときの模様について、ゴンクールに連れられて、この会合に臨席したマチルド皇女は「デュマ・フィスの声が聞こえるとすぐ、宗教的|静寂《せいじゃく》はやがて好意に満ちた軽い笑いと温い拍手|喝采《かっさい》とに変わった……」と語っている。これは、彼の人気のほどがしのばれる挿話《そうわ》である。
これより先、彼の生みの母であるカトリーヌ・ラベーは、一人の女中と寂しく暮らしていたが、一八六八年十月二十二日七十四歳で亡くなった。翌二十三日の日付で、デュマ・フィスはショルジュ・サンドにあてて、「昨晩、母は何の苦痛もなく死にました。母はわたしだということもわかりませんでした」と手紙を書いている。
さて、彼の最初の妻であるナディーヌ(ナデイダ・ナリシュキンといい、ロシア貴族の出)が一八九五年四月二日に死んだ後、彼は深い悲しみのうちに毎日を過ごしていたが、同年十月一日最後の戯曲を完成しないうちに病気になってしまった。彼の上の娘コレットに「一日中、耳の中で、こおろぎが鳴いてるのが聞こえるよ」と打ち明けた。
血液はかたくなった動脈を震動させ、間もなく彼は頭痛を覚えた。医師たちは診断を保留した。ある者は充血について話し、他の者は脳の腫瘍《しゅよう》を心配した。十一月の下旬大勢の名医が、病床の枕べで、もうだめだと診断した。デュマ・フィスは数日を錯乱した夢想のうちに過ごした。望郷病の前駆性症状があらわれた。彼は父のあとを追って行くのである。
十一月二十八日、彼の病状は少しいいように見えた。晩秋の太陽が庭の美しい樹々を照らしていた。彼は意識をとりもどして、娘たちに微笑した。「さあ、お昼をたべに行きなさい。わたしを静かにそっとしておいておくれ」と彼は娘たちに言った。
医者が病室を離れるとすぐ、娘のコレットが医者を呼びかえした。
「早く来て! パパが痙攣《けいれん》をおこしたわ……」
筋肉の最後の収縮が、彼をゆり動かし、ついに彼は絶命した。
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作品の解説と鑑賞
〔作品の成立と経過〕
アレクサンドルが父と同居したころ、彼は有名な大女優の息子であるウージェーヌ・デジャゼに、サン・ジェルマンの国道で出会った。二人は馬を借り、森の中を駆けまわり、それからパリにもどってヴァリエテ座にやって来た。初秋のころとて、まだパリは人影も少なかった。しかしパレー・ロワイヤルやヴァリエテ座には、美しくて、すぐ男の誘いになびく女たちが大勢、着飾り、化粧して、つどい集まっていた。
その晩、舞台前面には、当時、美貌と趣味、また金使いが荒いので評判の高いアルフォンシーヌ・プレシ Alphonsine Plessis という女が席をとっていた。彼女は通称マリー・デュプレシ Marie Duplessis という名で呼ばれて、「背は高く、非常にやせて、髪は黒く、顔は色白くバラ色だった。その頭は小さく、日本の女のように切れ目の長い琺瑯《ほうろう》細工の目をし、さくらんぼのような赤いくちびるからは、まっ白な歯がみえた……」と作者は言っている。また身体つきはか弱く、首は白鳥のごとく、あどけない処女のような様子で、バイロン風の青白い顔色をして、白いサテンの襟をえぐった服を着、ダイヤの頸飾《くびかざり》をつけ、黄金の腕環《うでわ》をして、こうしたものが皆彼女に豪華な美しさを与えていた。アレクサンドルは目がくらみ、心を奪われ、夢中になってしまった。
彼女の父はやくざで堕落した男で、ある村の魔法使いだったマラン・プレシといい、母のマリー・デエは身分の低いノルマンディ出身の貴族アンヌ・デュ・メスニルの娘で、二人の仲に二人の娘が生まれたが、その後マリーは姿をくらましてしまった。アルフォンシーヌは一八二四年生まれだから、アレクサンドルとは同い年だった。田舎《いなか》で育てられた彼女は十五、六歳のとき、シプシーに売られ、パリへ連れてこられ、婦人服の仕立屋に奉公させられたそうである。
パリでは学生たちと踊ったり、日曜日にはモンモフランシーの小路の木かげで男の誘惑に身をまかせていた。パレー・ロワイヤルのある料理店の主人が彼女をサン・クルーに連れて行き、ラルカード街の家具付きの小さなアパートに住まわせたが、さっそく一八四〇年理工科大学生でしゃれ者だったギーシュ公爵アジェノールが彼女に恋をささやいた。惚れ惚れするような彼女は当時パリでもっとも華やかな男性、すなわちフェルナン・ド・モンギヨン、アンリ・ド・コンタード、エドゥアール・ド・レセール、ほか十人の男の崇拝《すうはい》の的《まと》となった。この質のよい恋人たちは彼女に、優雅な物腰と表面的ではあるが楽しい教養を教えた。選ばれた教師によって教育を受け、才能に恵まれ、感受性の鋭い彼女は、花ひらく感があった。
一八四四年、アレクサンドルと知りあったころには、彼女の図書には、古今の有名な文学者すなわち、ラブレー、『ドン・キホーテ』、モリエール、ウォーター・スコット、デュマ・ペール、ユゴー、ラマルティーヌ、ミュッセなどがならんでいた。彼女はこうした作者を残らずよく知っていたし、詩を愛好していた。またピアノに向かっては感情をこめて、舟歌や円舞曲を弾くのだった。一八四四年にはパリでもっとも優雅な女性と見なされ、アリス・オジー、ローラ・モンテス、アタラ・ボーシェーヌといった美女と張り合っていた。彼女は年に金貨十万フランを湯水のように使っていたが、これは熱を出しやすい体質で、病身であり、自己に対して不満をいだいていた彼女が、快楽によって、気をまぎらす必要があったからである。
その晩、ヴァリエテ座の桟敷《さじき》に、彼女は元ロシア大使で非常に老人であるスタッケルベルク伯爵とすわっていた。後に彼女が語ったところによると、この老伯爵は亡くなった娘に彼女が瓜《うり》二つだったことから、彼女と交渉を持つようになったと言われる。伯爵は彼女をマドレーヌ大通り十一番地に住まわせ、純血種の馬二頭と、青い二人乗り馬車を与えていた。伯爵やそのほかの賛美者によって、マリー・デュプレシの中二階には、椿ばかりでなく、季節のあらゆる花が飾ってあった。しかし彼女はバラの花は酔わせるので嫌い、椿は匂いがないので好きだった。アルセーヌ・ウーセーは「人々は彼女を椿の要塞《ようさい》に閉じこめていた」と語っている。
マリーはその桟敷から、クレマンス・プラというアレクサンドルも知りあいの婦人帽子調整師であるふとった女に合図を送っていた。ウージェーヌ・デジャゼとも知人であるこの女は、やはりマドレーヌ大通りのマリーの家の近くに住んでいた。マリーは芝居のはねる前に、馬車に乗ってヴァリエテ座を立ちさった。それから少し経って、一台の辻馬車がクレマンスの住居にアレクサンドルとウージェーヌを送って行った。そしてその住居で、出来事が起こるのである。読者もおわかりだろうと思うが、小説『椿姫』の中で、ここの場面が出てくるのである。ただしスタッケルべルク伯爵は老公爵に、クレマンス・プラがプリュダンス・デュヴェルノワとなっている。
間もなくマリーはうるさがたから彼女を解放しに来てくれるように、クレマンスを呼んで、頼みこんだ。このうるさがたのN伯爵は彼女を死ぬほど退屈させていたのである。
「でも行かれないわ」とクレマンスは言った。「二人のお若い方、デジャゼの息子さんとデュマさんの息子さんがいらしってるんですものね」
「お連れしなさいよ。伯爵よりずっといいわ。早く来てね」
そこで三人して出かけると、隣の家の中では、伯爵が客間の暖炉に背を向け、マリーはピアノの前にすわっていた。彼女は二人の男の客を親切に迎え、伯爵をつれなく扱ったので、伯爵は暇乞《いとまご》いをした。すると彼女は非常に陽気になった。皆は夜食をたべ、笑ったが、アレクサンドルは自分の気分が滅入るのを感じていた。彼は今しがたマリーのために、まさに破産しようとしている一人の金持を追い出したばかりのこのマリーという女の無関心さをまのあたりに見て驚いたのだった。こんなにがぶ飲みに酒をあおっている卓《すぐ》れた女性を見て、彼は悩み苦しんでいた。シャンパンの杯がからになるたびに、彼女の頬は熱っぽい赤味をおびてきた。夜食のおわるころ咳《せき》の発作がおこった彼女は、その場から姿を消した。
「どうしたのかね?」とウージェーヌがきいた。
「あのひとったらあまり笑いすぎて、血を吐いたんですわ」とクレマンスが言った。
アレクサンドルは病人といっしょになろうと席を立って、そのそばへ行った。するとソファの上に仰向《あおむ》けになっているマリーを見出した。テーブルの上にある銀製の洗面器の中には、幾筋かの細い糸のような血が流れていた。
なぜマリーはアレクサンドルの愛人になったのだろうか? 彼女は日に十回も愛の熱い告白を聞いたのだった。しかも彼のほうは情熱的にしつこくくり返し主張を述べたからであろう。若いアレクサンドルの母に対する愛情が、社会から不当にも投げすてられているあらゆる女たちに対して、哀《あわ》れみの情を彼の心の中にひきおこしていた。無邪気で同時に無神経だった彼は、こうした女たちの絶望に同情し、女たちに打ち明け話をするようにし向け、そのいつわりの喜びの背後にある涙を見抜いていたのだ。娼婦たちに対して、彼は限りない寛大さを抱いていた。彼は娼婦たちを罪人とは思わず、犠牲者だと思っていた。また彼女たちもその堕落《だらく》に対して彼が示した尊敬を感謝していた。マリーを彼に結びつけたものが、おそらくそこにあったのだろう。
さて、次に父デュマから見た彼の息子とマリー・デュプレシの様子を、父デュマの『閑談《かんだん》』から引用してみよう。アレクサンドルがどんなふうに自分の女を父に紹介したか、次のようにこの書物の中で物語られている。
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≪わたしについてフランス劇場にいらっしゃい。『サン・シールの姫君』が上演されてると思うんです。わたしが廊下を通っていますと、一階桟敷のドアが開きました。燕尾服《えんびふく》の裾《すそ》をひっぱって止めるものがあるので、振りかえってみると、アレクサンドルでした。
「やあ、おまえか!」
「おとうさん、こっちへいらっしゃい」
「おまえ、一人じゃないんだろう?」
「もちろんですよ。さあ目をつぶって、ドアの隙間《すきま》から顔を出してごらんなさい。こわいことはありませんよ。別に不愉快なことなんかないんですから」
そこで実際に目をつぶって、顔を突き出すと、わたしはくちびるの上に、熱っぽく、燃えるような、震えるくちびるが重なるのを感じた。目をあけてみると、アレクサンドルと向かいあって、二十歳から二十二歳ぐらいの、一人の惚れ惚れするような若い女がいて、親子対面にはあまりふさわしくないあの愛情の表示を、今やってのけたのである。わたしは彼女を舞台前面でときどき見かけたので、すでに顔見知りだった。この女が椿姫といわれるマリー・デュプレシだったのだ。
「あなたでしたか?」とわたしは彼女の腕から脱けだして言った。
「そうですわ」
それからしばらく彼女と話した後、わたしは身をかがめて、まるで公爵夫人にするように彼女にあいさつした。ドアはふたたびしまって、わたしだけ廊下に残っていた。わたしがマリー・デュプレシに接吻したのはこれが最後で、また彼女に会ったのもこれが最後だった。わたしはアレクサンドルとこの美しい娼婦を待っていた。数日後、アレクサンドルが一人でやって来た。
「どうした?」とわたしはたずねた。「なぜ彼女を連れて来なかったんだね?」
「彼女の夢中の時期は過ぎ去りましたよ。彼女は劇場にはいりたがっていました。これは彼女たち全体の夢です。ところが劇場では研究し、練習し、演技をしなければなりません。実行に移すには、これは大仕事です。午後二時に起き、服を着て、ボワをひと回りし、カフェ・ド・パリかフレール・プロヴァンソーかに夕食をしに帰り、そこからヴォードヴィル座かジムナーズ座の舞台前面の席へ宵を過ごしに出かけ、劇場を出て夜食をとり、午前三時に自宅かほかのところへ帰る、こうしたやり方のほうが、女優のマルス嬢の職業をするよりも、ずっとたやすいのです! あの女優志願者はその職業を忘れてしまいましたよ……それから彼女が病気だとわたしは思っていることを申しあげておきます……」
「かわいそうに!」
「そのとおりです! おとうさんが彼女に同情なさるのは当然です。彼女は今している職業に打ちかつほどの体力があります」
「おまえは恋心によって、彼女を愛さないのか、そうあってほしいがな?」
「いいえ、ぼくは、哀《あわ》れみによって、愛しているのです」とアレクサンドルは答えた。
その後は、もうマリー・デュプレシについては、彼と話さなかった。≫
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デュマ・フィスの道徳観は父デュマよりも厳格だった。マリーは『マノン・レスコー』を読み、この美貌の彼にグリューの役割を演じてもらいたかった。しかし彼はこれを拒絶した。いったい彼は何を望んでいたのだろうか? 彼女の素行を改めさせたかったのだろうか? 彼女の生活の調子を変えるように導きたかったのだろうか? 彼女は利害のことより物事に感傷的であったので、そうすることはできなかったらしい。彼自身マリーについて、「彼女は真心を持っている、ごく稀《まれ》な最後の娼婦の一人だった」と言っている。
たびたびマリーは眠ることができず、白い毛の化粧着を裸身の上にまとって、暖炉の前の絨毯《じゅうたん》の上にやって来てすわった。こんなとき、アレクサンドルは熱狂的に彼女を愛したのだった。一方また、彼はだまされるのを恐れていた。たびたび彼女がじょうずに嘘をつくのを知っていた。スタッケルベルク伯爵や、フランス銀行の理事で有名な財政家の孫に当たるもっと若いエドアール・ペレゴーがその生活の中にはいりこんでいたのだ。
ある日、人からなぜ嘘をつく癖があるのかと聞かれると、マリーはぷっと吹きだして、「嘘は歯を白くしますわ」と答えたという。彼女は自分の問題と自分の恋人とを両立させようとしたがだめだった。アレクサンドルにとっては、これが数日幸福の日があっても、その後は不安、疑惑、それに小心翼々《しょうしんよくよく》の十一か月となったのである。彼は恋愛と名誉の中間に自分がいるのだと思ったのだ。二か月後、非難が愛情のあとに続いた。彼のマリーに会う回数が前よりも少なくなった。ついに一八四五年八月三十日以後、彼は絶交を決心した。小説とはちがい、彼は自分からマリーと別れたのだった。
さて、父デュマはイダと離婚し、アレクサンドルはマリーと別れた後、二人のデュマはお互いに寛大に、また乱雑のうちに、いっしょに暮らしていた。アレクサンドルはヴォードヴィル座の女優アナイス・リエヴェーヌの恋人となっていた。
一八四六年になって、父と子は少しパリを遠ざかる機会を喜んで承諾した。彼らはスペインとアルジェリアに長い旅行をしたのである。この年の十月十八日マドリッドで、アレクサンドルはまだマリーの思い出につきまとわれていたので、彼女に許しを乞《こ》う手紙を書いたりしている。ところがこの手紙には返事が来なかった。それはマリーが彼の代わりに心の友として、前年の十一月、数奇《すうき》の人、医者で奇人であるコレフに紹介された大ピアニストのリストと親交を結びたいと思っていたからである。しかしリストはこれを断わってしまった。するとエドアール・ペレゴーがマリーを旅行に誘い、一八四六年二月二十一日、彼女をロンドンに連れて行った。そして彼女と、ミドルセックス伯爵領の戸籍吏の前で民法上の結婚をするに至った。これでマリーはペレゴー伯爵夫人となったわけである。
しかし結婚挙行の予告がされていなかったので、この結婚は正規の手続きがされたとは思われなかった。フランスでも有効ではなく、ロンドンの総領事は二人の結婚を承認しなかった。そこでこの夫婦はパリに帰ると、互いに自由の身となった。マリーが奔馬《ほんば》性結核にかかったので、たぶんペレゴーはもうこれ以上緊密な関係を望まなかったのだろう。事実、彼女は病気が重いので、妻にも愛人にもなれないと感じていた。極度の疲労による赤い斑点《はんてん》が、頬の上では、不安げな青白さとかわったのだ。
マリーはペレゴーにあてて、「ナソー公領エムスに留置郵便で、あたしに手紙をくださいまし。あたしは病気が重く、ひとりでここにおります。エドゥアールさま、何とぞ早くお許しを。さようなら」と離別の手紙を書いた。パリに帰ってからは、彼女は病気を治すために、早速金にこまり、大切にしていた大部分の宝石をひとつひとつ売らねばならなかった。死んだときには、彼女の手許には、腕環二個、さんごのブローチ一個、数本の乗馬用のむち、小型|拳銃《けんじゅう》二丁しか残っていなかった。
ペレゴーが見舞いに来たときも、面会謝絶で、ついに一八四七年二月三日謝肉祭の最中に死んだ。そして祭りのざわめきが臨終のマリーの寝ている部屋の窓まで波のように聞こえてきた。マドレーヌ聖堂の助任司祭が、彼女に終油の秘跡《ひせき》を授けた。二月五日、霊枢《れいきゅう》車に従った者は、昔からの友人ではペレゴーとエドゥアール・ドレセールの二人だけだった。遺体は最初モンマルトル墓地に仮に埋葬されたが、その後二月十六日ペレゴーが五百二十六フランで買い求めた永久墓地に改葬された。
マリーが重態だった時分、アレクサンドルはアルジェリアやテュニスにいたが、彼女のことばかり考え、この世にも稀な、いじらしい愛人をけっして嫌いにはならなかった。やがてデュマ父子は帰仏することになり、一八四七年一月五日に、やっとマルセイユに到着した。彼がマリーの死を知ったのは、このマルセイユであって、この知らせに、彼は悲しみと悔恨を感じた。マリーを悪く取りあつかったわけではないが、このかわいそうな女に対して、あまりに厳しい態度を示したからだった。パリに帰ると、彼はマリーの死亡後、その家具と高価な品物がマドレーヌ通り十一番地で競売されるという張り紙を見たのだった。彼はすぐ駆けつけた。そしてそこにかつて彼のつかの間の幸福に立ちあったバラの木でできた家具をふたたび見たのだ。
英国の作家チャールズ・ディケンズもちょうどパリに滞在していて、この競売の席にいた。彼はオルセー伯爵あてに、「上流社会の婦人たちが大勢いました。この社会のエリートは一人の女の運命に対する共感と美しい哀れみで胸をいっぱいにし、興味を持ち、感動して待っていました。常識のある律気《りちぎ》な英国人であるわたしには、彼女が倦怠《けんたい》と飽満《ほうまん》によって死んだとしか思えません。この感嘆と全般的な悲しみを見ると、人々は彼女を英雄もしくはジャンヌ・ダルクのように思っているようです。ウージェーヌ・シューがこの娼婦の祈祷書《きとうしょ》を買ったときには、すごい熱狂さで、もうその限度ははかり知れないほどでした」という手紙を書いた。
デッケンズはその言葉のように、非常にアングロ・サクソン的な感覚の持ち主であったので、娼婦に同情することはできなかった。アレクサンドルの方は思い出の品として、マリーの金鎖を商人から買いもどした。この競売で八万九百十七フランの金が集まり、後継ぎの負債より多くなった。マリーはこの剰余《じょうよ》金をノルマンディの姪(彼女の妹と毛織工パケとの間にできた娘)に、相続人が絶対にパリへ来ないという条件で遺贈したのだった。
〔構成〕
パリのある街で、豪奢《ごうしゃ》な生活を送り、若くして死んだ有名な娼婦ゴーチエの遺品の競売があるのを知った「わたし」という人物が、この競売で『マノン・レスコー』を買う。そして、この書物の扉に書き入れをしたアルマンにこれを譲ることになり、アルマンから娼婦マルグリット・ゴーチエとの純愛物語を聞くことになる。すなわち、彼女と知りあういきさつから、互いに恋心をおぼえ、ついに田舎に美しい別荘を借り、同棲するようになり、夢のような愛の生活を送る。作者はここまで若者らしい純枠でひたむきな恋に陶酔《とうすい》する挿話を各ページごとに展開して、いわゆる青春|謳歌《おうか》の場面によって、若き読者の共感をかちとるのである。ところがアルマンの父の登場によって二人の仲がさかれる。マルグリットはこの父親の息子を思う愛情にほだされて、アルマンと別れるように、心ならずも努力する。この悲恋物語はやがて、アルマンの旅行とマルグリットの死によって終止符をうつのである。結尾はマルグリットがアルマンを慕《した》いながら、肺病でたおれ、ついに死ぬくだりを、付きそいの女の日記によって克明《こくめい》に描写している。
全編にわたって、作者デュマ・フィスは、そのモラリスト的理想を高くかかげ、作品によって、社会の教化と善導をくわだてている。作者は不幸な一娼婦マルグリットの運命に深い同情の涙をそそいで、淪落《りんらく》の女といえども、愛と赦免《しゃめん》によって、光明の彼岸《ひがん》に到達することができることを説いているのである。そのうえ、自然でたくみな会話と、心理的にこまやかなリリックな場面の展開は、多少|冗漫《じょうまん》ではあるが写実的な美しい文体をひきしめて、読者を飽かさないのである。
〔文学史上の位置〕
デュマ・フィスが青少年期を過ごした時代は、フランス文学においてはまだロマンティック文学の華やかなりし時代で、ヴィニーの『サン・マール』、ユゴーの『ノートル・ダム・ド・パリ』、父デュマの『三銃士』などの歴史小説や伝奇小説がもてはやされていた。そしてその後、普仏戦争までが、文学史上から見て、およそ写実主義の時代で、バルザックの『人間喜劇』の数多くの作品によって世に知られている。ちょうどその中間の時期に、小説『椿姫』は刊行されたのである。
文学史上では、必ずしも注目に値するものではなかったかもしれないが、作者自身をモデルにしたこの美しい恋の悲歌は、青春期の純愛と、彼のパリ文壇への登場を記念する思い出の作品である。
また将来問題劇の戯曲作家としての卓越した天分とモラリスト的な理論が、すでにこの作品の中に開花しているのである。そうした点において、これは、恋愛讃歌の風俗小説にすぎないにもかかわらず、作者の代表作といってもよいであろう。
〔作品鑑賞〕
わが国の若い読者の間で、この『椿姫』がとくに愛読せられるのは、アルマンとマルグリットの純情悲恋の物語が、その共感を呼ぶからであろうか? この作品の背景と経過について、すでに述べたように、作者自身の恋愛事件に基づいているので、全体はロマンティックな話であるが、その細部は写実的である。その一例をあげれば、第二章や第七章に出てくるマルグリットの容貌、身体つき、みなりなどの描写はまったく写実的であり、バルザックの描写にあらわれてくるような手法である。
また風俗小説、恋愛心理小説の長所も備えていて、若い男女が純枠の恋の美酒によって、甘い新生活をすごす場面のごときは、読者も何かと心ひかれる思いがしよう。すなわち第十六章のブージヴァルにある田舎の別荘での青春讃歌の絵巻がそれである。この『椿姫』を基としたオペラ、映画は皆、この長所を表に出して脚色してある。
しかしこうした恋愛劇の中にも、作者は至るところに彼独特の道徳観を挿入《そうにゅう》している。恋愛の純情に対する讃美が全編にわたって渦巻いている一方、第二帝政時代の華やかな社会の裏にかくされている不幸な娼婦たちの境遇に同情をよせているし(第二章)、またアルマンをして、その「家」を犠牲にさせるほどまで、恋愛至上主義の気持ちを押し進めてはいないのである(第二十五章)。
そしてこの作者の代表作ともいうべき『椿姫』は十九世紀半ばに書かれたにもかかわらず、前述のような文学上の手法から、今なお世界の読者から愛好されているのである。(訳者)
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あとがき
『椿姫』は明治時代より、すでに『山茶《さんちゃ》夫人』の名で、本邦に紹介されています。その後、多くの諸先輩のすぐれた訳業が刊行されていますので、この新訳を出すに当っても、これらの貴重な訳を参照させていただきました。ここに感謝の意を表するしだいです。
もう三十余年も前に、夏休みの間この作品を読んだ覚えがありますが、今、これを訳出するに当たって、なつかしい気持ちが絶えず心の中にわいて来るのを禁じ得ませんでした。訳文はせいぜい平易にと心がけましたが、いたらぬ点は、小生の浅学非才とご寛容のほどを願っておきます。
なお本書の底本に用いましたものは、カルマン・レヴィ版で、そのほか挿絵《さしえ》入りのスイス本を参照しました。本書の中の絵はこのスイス本より転載しました。
昭和四一年七月 訳者
〔訳者紹介〕
石川登志夫(いしかわとしお)
明治四十四年東京生まれ、横浜国立大学助教授。昭和九年、法政大学仏文科卒業。訳書デュマ『鉄仮面』、バルザック『モデスト・ミニョン』、メリメ『シャルル九世年代記』ほか。