ロビンソン・クルーソー
ダニエル・デフォー作/佐山栄太郎訳
目 次
ロビンソン・クルーソー……生涯と冒険
解説
年譜
[#改ページ]
わたしは一六三二年にヨーク市に生まれた。家柄はよかった。といっても代々この国の者であったのではなく、現に、父はブレーメン生まれの外国人で初めはハルに落ち着いたのであった。父は貿易でひと財産つくったが、商売をやめて、それから後ヨークに住みつき、この町の出のわたしの母と結婚した。母の実家はロビンソンという姓でその地方の名門であった。それにちなんでわたしはロビンソン・クロイツナーエルと呼ばれたが、イギリスによくある言葉のなまりで、わたしたちは今はクルーソーと呼ばれるようになった。いや自分たちもそう呼ぶし、署名もする。それでわたしの仲間はいつもわたしをそう呼んでいた。
わたしには兄が二人あった。一人は陸軍中佐で、以前あの有名なロッカー大佐が指揮していたフランダース派遣のイギリス歩兵連隊に所属していたが、ダンケルク近くのスペイン軍との戦いで戦死してしまった。次の兄がどうなったかわたしはなにも知らない。わたし自身がどうなったか、父も母もまったく知らなかったと同じことだった。
三男坊であったし、これという職業に仕込まれもしなかったので、わたしはずいぶん早くから放浪生活の思いに耽《ふけ》り始めていた。父はたいへん古風な人だったので、わたしにひととおりの学問はさせてくれた。つまり、家庭教育と田舎《いなか》の無月謝学校の教育程度のものであったが、それでもわたしを弁護士にするつもりでいた。しかしわたしは船乗りにならなければどうしても承知できなかった。こういう気持ちが父の意志、いや、父の命令と真っ向から衝突し、母の哀願や友人の説得にも逆らうことになった。やがてわたしの身に振りかかってくるあの悲惨な生涯に、直接向かっていこうとする持って生まれた傾向というものには、何か宿命的なものがあるように思われた。
賢くて謹厳《きんげん》な父は、わたしの計画を見抜いて、心をこめたりっぱな警告をしてくれた。痛風で閉じこもっていた自分の部屋に、ある朝わたしを呼んで、この問題について懇々《こんこん》と説諭《せつゆ》してくれた。
お前は親の家を出、生まれ故郷を捨てるというが、いったいどんな理由があるのか、ただお前のもっている放浪癖《ほうろうへき》にすぎないではないか。ここにいれば、りっぱに世間に出してもらえるし、勤勉と努力しだいでは身代《しんだい》を作る見込みもじゅうぶんあり、安楽なたのしい生活が送れるだろうに。冒険を求めて海外に乗り出し、思い切ったことでひと旗あげ、尋常一様《じんじょういちよう》でない仕事をやって名をあげようなんて連中は、やぶれかぶれになった人間か、幸運に恵まれた野心家か、そのどちらかなのだ。こういうことはお前などのとうてい企《くわだ》て及ぶところではない。あるいは、そこまで身をおとすべきことではない。お前の身分は中位のところだ。下層社会の上の部といってもよかろう。自分の長い経験によるとこれがいちばんいい身分で、人間の幸福にもいちばんぴったり合ってもいる。身分のいやしい連中の、みじめさや苦しさ、その労苦や苦悩をなめる必要もないし、身分の高い人たちの虚栄や贅沢《ぜいたく》や野心や嫉妬になやまされることもない。こういう中位の立場がどんなに幸福であるかは、ほかの連中がみんなうらやましがっていることを考えて見るだけでよくわかるだろう。たとえば、古来いくたびか、王者たちは権勢の地位に生まれついたばかりになめねばならないみじめさを嘆き、貴賎《きせん》の両極端の中間に生まれたかったと願ったことであろう。また、貧も富もさけたいと願った賢者は、この中位の身分こそ真の幸福の基準であることを証言したのだ。
父はこのように語ったのである。父は続けた。
お前もよく見てみるがいい。そうすればわかることだが、人生の災いは人生の上層と下層の者が引き受けているのだ。中位の者は最少の災いを受けるだけだし、上と下の者たちほど人生の浮沈《ふちん》に会うこともない。いや、心身の不調や不安にそれほど苦しむこともない。ところが、ほかの連中は一方では不徳な生活と贅沢と放縦《ほうじゅう》のため、他方では激しい労働と必需品の欠之と食料の粗悪《そあく》や不足とのために、そういう生活の当然の結果として心身の異状を来たす。
中位の生活はあらゆる美徳とあらゆる楽しみをうけるようにできている。平和と豊かさはこの中位の運にかしずく侍女《じじょ》のようなものである。節制や中庸《ちゅうよう》や平静や健康や社交、またあらゆる楽しい娯楽やあらゆる望ましい快楽は、中流の人々についてまわる恵みなのだ。このようにしてこそ人間は静かに安らかに世間をわたっていき、心持ちよく世間に暇《いとま》を告げることができ、肉体や頭脳の労働に苦しめられず、日々の糧《かて》のために奴隷の生涯に身を売ることもなく、魂の平和を奪い肉体の休息を奪う苦しい事情に悩まされることもないのだ。また、嫉妬の念にさいなまれること、も大望野心《たいもうやしん》の炎に身をこがすこともない。ただ安楽な生活をいとなんで安らかに世の中をわたり、生きる喜びをしみじみと味わい、苦《にが》さというものは知らず、わが身の幸福を思い、日々の経験を重ねるにしたがって、いっそうしみじみとその幸福を知るようになるのだ。
こういう言葉のあとで、父はあふれるばかりの愛情をこめて、若者の血気《けっき》にはやるのはやめてくれ。悲惨な目に自分からとび込むことはよしてくれ。神様もお前の生まれついた境遇もそんな悲惨はなめさせないようにしてくださっているのだからと、しきりに説いた。
お前は無理をしてパンを求める必要はないんだ。わしはお前のためによくしてやる。今も今お前にすすめていたような生活にうまくはいれるように骨を折ってやろうじゃないか。それでもお前が安楽に幸福になれないというのであれば、幸福をじゃまするものはただただお前の罪か、お前の運命に相違ないんだ。わしの責任はなにもないはずだよ。お前の災難になるのはわかりきっている企てに、あんなに警告をして親としての義務はじゅうぶんに果たしたんだからな。
つまりだ、わしが指図《さしず》するとおりに家にとどまって生業《せいぎょう》につくというなら、お前のためになんでもしてやろうと思うし、お前が出てゆくのを勧めてお前の不幸に力をかすようなまねはしたくないんだ。
そして父は最後にこういった。
お前の兄がいい見本だ。低地方の戦争へゆくのはやめてくれと、お前の場合と同じように、いっしょうけんめい説いたんだが、いうことを聞かず、若い情熱にかられて軍隊にはいり、けっきょく戦死してしまった。お前のために祈ることをやめるとはいわないが、これだけはいっておくぞ。お前がこのようなばかなまねをすれば、神様はお前に祝福は与えてくださらないだろう。そしていまさら出直そうにも誰一人たよる者もなくなった時、わしの忠告を無視したことをゆっくり後悔することになるのだ。
父のこの談義の最後のところは、父自身はそうとは気がつかなかったろうが、ほんとうに予言的で、わたしはここでじっと父を見た。実際、目から涙がはらはらと流れるのを見たのだ。とくに、戦死した兄のことを話す時はひどかった。わたしが孤立無援《こりつむえん》となって後悔する時がくるという時なぞは、胸が迫って、言葉がとぎれるほどだった。そして胸がいっぱいでもうこれ以上ひと言もいえないと口に出していうのであった。
父のこの説諭《せつゆ》はひしひしと身にこたえた。これが身にこたえないという人はあるまい。もう外国へ行くことは考えないで、父の望みどおり家に落ち着くことに決心した。けれども、ああ! 二、三日たつとこの決心もすっかり消えうせてしまった。つまり、父がさらにくどくどと説くのをだし抜いて、二、三週間後には、きれいに家出してしまおうと決心をしたのだった。とはいっても、決心の興奮にかられるままに性急に実行したのではなかった。母がいつもよりいくぶん機嫌がよさそうだと思える時を捕《とら》えて、母にうちあけた。
わたしは、世間を見たいという気持ちでいっぱいだから、どんな仕事についたところでそれをとことんまでやりとげるほどの確信はない。で、お父さんの承諾なしでもどうせ家出するのだから、いっそのことお父さんも承諾してくれたらいいのではなかろうか。わたしももう十八になったから、いまさら商人のところへ奉公に行く年でもなく、弁護士の書生になる年でもない。かりにそういうところへ行ったとしても年季を勤めあげることはぜったいにあるまいし、年季があける前に主人のところから逃げ出して、船乗りになるのは間違いなしだ。ただ一回の航海でいいのだから許してくれるようにお父さんに話してもらえないだろうか。もしそうしてもらえれば、わたしが家に帰ってきて海は好《す》かないとわかれば、もう二度と家を出るようなことはしない。そしてこんどは二倍も働いて留守の間の償《つぐな》いをすると、固く約束します。
こんなふうに母に話したのだ。これを聞くと母はたいへんに怒った。
そんなことをお父さんに話したって、なんの役にも立たないことはわかりきっているよ。お父さんはお前のもくろんでいることは百も承知しているのだから、お前の身のためにならないことを承諾されるはずがない。お前はお父さんとあんなに話し合ったし、お父さんはお前にとても親切にやさしくいって聞かせなさったんだろうに、それでもまだ、お前は家出のことなぞ考えているとはお母さんにはわからないことだよ。お前がどうしても身を滅ぼしたいというなら、そりゃどうにもしようがないが、とにかく両親の承諾は得られないものと考えてもらいたい。お母さんとしても、お前の身の破滅になることにそんな手を貸すつもりはない。それにお父さんが反対だのに、お母さんは賛成しましたなぞという口はきかせませんよ。
母は父にとりつぐことを断わったのだが、あとで聞いたところでは、母は話の一部始終を父に告げていた。そして父はひどく心配の色を浮かべてため息をつきながら母に、「あの子も家にとどまっていればしあわせになれるだろうに、外国なぞに行ってはこの上なしのみじめな人間になるだろう。なんといっても承諾はできないね」といった。
このことがあってからほぼ一年たってわたしは家出した。もっともその一年の間、定業につけという話にはいっさい強情《ごうじょう》に耳をかさなかったし、わたしの性分だからどうしようもないことを承知しながら、わたしの外国行きに断固として反対していた両親とはしばしば議論をした。
ところがある日のこと、わたしはハルに来ていた。ぶらっと出て来たので、その時は家出するつもりなぞ全然なかった。だが、実際のところ、ハルに来てみると、仲間の一人が父の持ち船で海路ロンドンに出かけるところで、いっしょに行かないかと誘った。船乗りのよく使う誘惑《ゆうわく》の手、つまり船賃はただだというのである。
父にも母にももはや相談することはなく、伝言ひとつさえ残さなかった。風の便りで聞くことになればそれでよしと考え、神の祝福も父の祝福も願わず、今の事情も先の結果もいっさい考えず、一六五一年九月一日、これが運のつきかという時刻に、ロンドン行きの船に乗り込んだのであった。若い冒険家が遭遇《そうぐう》する災難もいろいろあろうが、わたしほど早くから、しかもわたしほど長い間苦しめられたものはなかろうと思う。
船がハンバーの河口を出るやいなや風が吹きだし、波がものすごく立ち始めた。それまで海に出たことは一度もなかったので、ひどい船酔いにかかり、おびえきってしまった。わたしはそれまでしてきたことを真剣に考え始めた。父の家を捨て自分の義務を放棄した悪業《あくぎょう》に天罰がてきめんにくだったと思った。両親の忠告、父の涙、母の切なる願い、こういうものがいまさらのようにまざまざと心に浮かんできた。わたしの良心は、なにしろ今のように麻痺《まひ》してはいなかったから、忠告を無視し神と父への義務を怠《おこた》ったことで、わたしをいたく苦しめた。
この間に嵐《あらし》はいよいよ激しくなり、わたしにとって初めての海はますます荒れ狂った。もっともこんなものは、その後いく度も会った時化《しけ》にくらべればたいしたものでなく、二、三日後に出会ったものとくらべてもたいしたものではなかった。それでもまだ海になれず、何がなんだかわからなかった若者の船乗りにとっては相当にこたえるものだった。波がくるたびに船がのみこまれてしまうかと思い、波くぼか海の穴《あな》に船が落ちこんでいくと思うたびに、二度と浮かび上がることはないだろうと観念した。苦しまぎれにわたしはあれこれと誓いを立てたり決心をした。もし神のおぼしめしでこの航海で命拾いができ、ふたたび陸地に足を踏むことができたならば、まっすぐ父のところへとんで帰り、生涯二度と船には足を踏み入れまい。父の忠告をよく聞いて、こんなみじめなことにとび込むことは決してすまい、と心をきめた。
今にしてはっきりわかったのだが、中位の生活についての父の所見はまことに正しかった。父は生涯を通して無事安穏《ぶじあんのん》に暮らし、海の嵐にも陸の災難にも会わないですんだのだった。
わたしは真《しん》から前非を悔《く》い改めた聖書の放蕩息子《ほうとうむすこ》のように父のもとへ帰ろうと決心した。
こういうまことに殊勝《しゅしょう》な考えも嵐が続いている間、いや、ちょっとその後までのことであった。翌日は風は和《やわ》らぎ海はないできて、わたしも少しばかりなれてきた。それでも、その日は一日じゅう、まだ少し船酔いのせいもあって、しごく神妙にしていた。しかし夕刻になると天気は晴れ上がり風はまったくやんで、非常に美しい、すがすがしい夕暮れとなった。くっきりと鮮かに太陽は沈み、翌朝の日の出もまた晴れわたっていた。風はほとんどなく海面はなめらかで、太陽がその上を照らしていた。こんな美しい景色は見たことがないと思った。
前の晩はぐっすり眠って、もう船酔いも消えて、しごく爽快な気分になり、海を眺めて、これが昨日あれほど恐ろしく荒れ狂ったのか、ほんの僅《わず》かの間にこんなに穏《おだ》やかな気持ちのよいものになるのかと不思議でならなかった。
さて、わたしの殊勝な決心が続いていては困るとばかりに、わたしをまんまとおびき出した例の友人がやって来て肩をたたいていった。
「おい、ボッブ、その後はどうだい。ゆうべはたしかに青くなっていたぞ。ちょっと風がざわついたからね」
「ちよっとざわついたって。冗談《じょうだん》じゃない、恐ろしい嵐だったよ」
「あれが嵐だって、ばかも休み休みいえよ。あんなのはなんでもないんだ。船がよくて操船余地《そうせんよち》さえあれば、あの程度のスコールなんか平気なんだよ。だが君はなにしろ新米だからな。さあ、パンチを作って飲んで、いやなことはみんな忘れてしまうんだな。なんてすばらしい天気になったじゃないか」
わたしの話のうちでもこのなさけない部分をはしょっていえば、われわれ二人は船乗りの定石《じょうせき》どおりをやったわけだ。さっそくパンチを作り、それですっかり酔ってしまう。そのひと晩の放埒《ほうらつ》で、後悔も過去の不《ふ》行跡《ぎょうせき》の反省も将来への決心も、いっさいがっさい吹きとばしてしまうという次第であった。ひと言でいえば、嵐が凪《な》いで海面が滑らかに落ち着いてくるにつれて、心中のはやても去り、海底にのまれる恐怖も心配も忘れ、以前からの欲望の波が寄せ返ってきて、困却《こんきゃく》にまぎれて立てた誓いも約束もすっかり忘れてしまった。なるほど反省する折りもあったし、まじめな思慮が戻ってこようと努《つと》めるかに見える時もあるにはあった。けれどもわたしはそれを振りきり、まるで病気ででもあるかのようにそれからのがれようとけんめいに努力した。そして酒と友との付き合いに身を入れることによって、わたしが発作と呼んでいたこの殊勝な考えのぶり返しを抑えたのだ。
かくして、五、六日のうちに良心に対する完全な勝利をおさめてしまった。その完全さといえば、およそ良心の苛責なぞは受けまいと決心した若者の望み得る最高のものだった。けれどもわたしには、まだもうひとつ良心の試練が残されていた。こういう場合の例にもれず、摂理《せつり》はわたしに弁解の余地を全然残さないつもりであった。というのは、こんどのことは神の手による救助であったと考えたくなければそれもよかろうが、この次の試練ではどんな非道残忍《ひどうざんにん》な船乗りでも神の恐ろしさと恵み深さとを告白せざるを得ないものだったからである。
海に出てから六日目にわれわれはヤマース港外の錨地《びょうち》にはいった。風は向かい風であったり、海はないでいたりしたので、嵐の後、あまり航程《こうてい》は進んでいなかった。ここで投錨《とうびょう》を余儀なくされ、風は依然として南西の向かい風であったので、七日か八日停泊した。この間にニューカースルからの船が続々とこの錨地にはいってきた。この錨地は船がテムズ河をさかのぼるための追い風を待つたまりの港となっていた。
しかしながら、風さえあまり強く吹かなかったら、ここにそんなに長く停泊していないで、河をさかのぼっているべきであった。事実、停泊を始めてから四、五日たつと猛烈な風が起こった。それでも錨地は港そのものと同じくらい安全だと考えられていたし、船がかりはいいし、われわれの船の停泊要具はきわめてがんじょうだったので、船員はいっこう平気で危険なぞ少しも気にせず、船乗りの流儀で、休息と歓楽に時をすごしていた。しかし八日目の朝になると風はいよいよ猛威《もうい》を増してきたので、われわれは総動員でトップマストをおろしたり、諸道具をきちんと整頓したりして、船ができるだけ楽に停泊できるようにした。
正午ごろまでには波はますます荒くなり、船は船首部を海中につっこみ、なん度も波をかぶった。一、二度|錨《いかり》がずれて船が移動したような気がした。すると船長は非常用の大錨をおろすことを命じた。そこでわれわれの船は、船首から二つの錨をおろし、錨づなはぎりぎりまでたぐり出して、繋留《けいりゅう》されることになった。
もうこのころには実にものすごい嵐になっていた。さすがの船員たちの顔にさえ恐怖と驚愕《きょうがく》の色が見え始めた。船を守ることに油断なく気をくばっている船長も、わたしのわきを通って船長室に出たりはいったりする時に、「ああ、もうだめだ。もうこれでおしまいだ。神様、お助けください」などとひとり言をささやいているのがわたしの耳にはいった。
この大騒ぎの初めのころは、わたしは船尾にあてがわれた自分の室にねころんで、ただ呆然《ぼうぜん》としていた。その時の気持ちは今なんともいい表わせない。いまさら初めのあの後悔をくり返す気にもなれなかった。あれほどはっきりと踏みにじり、がんこにしりぞけた後悔の念であったのだから。死の苦しみはすでに過ぎ去っていて、こんどのことも初めのと同じく大したことはあるまいと思った。けれども今しがたいったように、船長自身がわたしのそばに来て、もうだめだ、というのを聞いては、さすがにわたしも慄然《りつぜん》とした。
船室からとび出してあたりを見回した。こんなすさまじい光景は見たことがなかった。海は山なす怒涛《どとう》となって三、四分おきに頭上に崩れおちてきた。見渡したとき目にはいるものは、ただ遭難《そうなん》そのものであった。近くに留まっていた二|艘《そう》の船は、荷が重すぎたため、マストを切断して海中に投じていた。一マイル先方に泊まっていた一艘は浸水して沈没したとわれわれの船員がさけんだ。もう二艘は錨《いかり》をとられ、錨地から沖合へと運《うん》まかせに流されていった。しかも立っているマストは一本もないありさまだった。空《から》荷船はわりに動揺が少なくていちばん始末がよかった。それでもそういう船も二、三隻、一|斜檣帆《しゃしょうはん》だけで、風に吹きまくられてわれわれのすぐ近くを押し流されていった。
夕方近くなると、航海士と水夫長は前檣《ぜんしょう》を切り払わせてくれと船長にたのんだが、船長はそんなことはさせたくなかった。けれども、もしそうしないと船は沈んでしまうという水夫長の強硬な主張で、ついに船長も承諾した。前檣が切りのけられると、大檣がぐらぐらしだし、船の動揺もはげしくなったので、やむなく大檣も切り払った。甲板はきれいさっぱりになってしまった。
この嵐の中で、わたしがどんな気持ちであったか、だれでも判断がつくだろう。なにしろ船の経験は浅く、この前のちょっとした嵐でもあれほどすくみ上がったわたしだったから。
長い歳月を経た今日、当時いだいていた気持ちをいい表わすことができるとすれば、前に一度|殊勝《しゅしょう》な覚悟をしながら、またもとの非道な決心に逆もどりした、そのことのために、死の恐怖にまさること十倍の恐怖に陥ったのである。これに嵐の恐怖が加わったのだから、その気持ちは言葉で述べうるものではなかった。だが、最悪の事態はこれからというのであった。嵐は依然として猛威《もうい》を振るっていて、船員たちでもこんなひどい嵐は初めてだといった。船はがんじょうだったが積荷が重く、波にひどくもまれるので、乗組員たちももう浸水して沈むぞと、しょっちゅうどなっていた。彼らのさけぶ言葉の意味が、聞いてみるまでわからなかったのは、わたしにはありがたいといえばありがたいことだった。とにかく嵐は猛烈をきわめた。で、わたしはめったにない光景を見たのだ。それは船長や水夫長や乗組員の中でもしっかりした連中までが、今にも船が海底に沈んでしまうんだと考えて、お祈りをささげている光景だった。
真夜中になって、うち続く災難の中に、見回りのために下に降りていった船員の一人が水|漏《も》れがあるぞとどなった。別な男は船倉に四フィートも水がたまっているとさけんだ。そこで総員ポンプにかかれと命令された。その言葉を聞いてわたしは心臓が止まってしまったと思った。それまで腰かけていたベッドのはしに、あおむけにぶっ倒れ、床に落っこちた。しかしわたしはたたき起こされて、今まではなにも役に立たなかったがポンプをつくくらいは人並《ひとなみ》にできそうなもんだ、といわれた。そこでわたしはがぱっとはね起きてポンプのところへかけつけ、けんめいに働いた。
この作業をしている時に、嵐を乗り切ることができず、錨からはずれて沖へ流されて行く空《から》の石炭船が数隻、本船の近くにくるのを船長が見つけて、遭難信号の発砲を命じた。わたしはそれがなんのことだかまったくわからなかったのでびっくり仰天して、船がこわれたか、それとも何か恐ろしいことが起こったのだと思った。要するに、わたしは驚愕《きょうがく》のあまり気絶して倒れたのだ。みんな自分の命《いのち》のことだけしか考えていない時だったので、わたしのこと、わたしがどうなったかなんて、気にとめるものは一人もいなかった。別な男がポンプのところに寄ってきて、わたしを死んだものと思って足で押しのけて、そのままころがして置いた。わたしが気がついたのはかなりたってからだった。
排水作業は続けられたが、船倉の水は増すばかりで船の浸水沈没は明らかであった。嵐は少しは静まったけれども、港に入港できるところまで本船が動けるとは考えられなかった。そこで船長は救助を求める発砲を続けた。
すると、暴風を乗り切って、われわれの前方にいた空船が思いきって救助のボートを出してくれた。そのボートがわれわれの船に近づくのには最大の危険をおかさねばならなかった。近づきはしたものの、われわれがボートに乗り移ることも、ボートを本船に横づけにすることも不可能であった。だが、ついに、救助の人々はわれわれの生命を救うために自分たちの生命を賭《と》して必死に漕いできたので、こちらでは浮標《ブイ》のついた綱《つな》を船尾から投げ、それをずっと長くくり出した。彼らはたいへんな苦心と冒険のすえ、その綱をつかまえた。われわれはボートを船尾のすぐ下までたぐり寄せ、一同ボートに乗り移った。
さて、こうしてボートに乗り移ってみると、ボートの母船に漕ぎつけるなんてことは、彼らにもわれわれにも考えてもむだな話であった。そこでその母船は漂《ただよ》うにまかせ、ただできるだけ岸のほうへ引き寄せるということに衆議一決した。船長はもしボートが岸にぶつかって壊れた場合にはむこうの船長に弁償《べんしょう》すると彼らに約束した。こうして、漕いだり流されたりしながら、ボートは岸に接近しつつ、北へ北へとウィンタトン岬《みさき》近くまで進んだ。
われわれが船から退避《たいひ》してから十五分をちょっと過ぎたころ、船が沈むのが見られた。わたしは海で船が浸水沈没するとはどういうことか、初めて知った。白状すると、乗組員に、そら船が沈んでいくぞといわれた時に、わたしはほとんど目を上げて見ることができなかった。というのは、ボートに乗り移った、いや、むしろボートに押しこまれたあの瞬間から、わたしの心臓は死んだも同然であったからだ。それは驚愕《きょうがく》と恐怖とそれから先の不安とのためであった。
われわれがこんな状態にあって、船員がボートを陸に近づけようとけんめいに漕いでいる時、ボートが山のような波の波頭に乗り上がると海岸が見えて、われわれが岸に近づいたら助けてやろうと岸べを走っているたくさんの人々の姿がみとめられた。けれども海岸にはなかなか近づけず、まして陸に到達はなかなかできなかった。
ウィンタトンの灯台をすぎて、海岸線がクロウマーに向かって西のほうへ折れたところで、陸地が風の猛威を少しさえぎる地点まで来てしまった。ここでようやく海岸に近づき、さんざん苦労したすえ全員無事に上陸することができた。
それから歩いてヤーマスへ行った。ヤーマスに着くと、われわれは遭難者として町の当局者からも関係の商人や船主たちからも手厚いもてなしを受けた。町の役人は結構な宿を世話してくれた。また、ロンドンへ行くなり、ハルに帰るなり、すきなようにせよと、じゅうぶんな旅費まで与えられた。
もしこの時、ハルに帰り家に戻るだけの分別《ふんべつ》があったならば、わたしも仕合わせになったであろう。父も、救世主イエスのたとえ話の父親そっくりに、肥えた子牛を殺してわたしをむかえてくれたかも知れなかった。わたしの乗り組んだ船がヤーマス沖の錨地《びょうち》で難破したことを聞いてから、わたしが溺死《できし》を免れたという確証をつかむまでには相当の時がたっていたからである。
しかし、不吉な運命がどうにも抗《こう》しがたい執拗《しつよう》な力でわたしを押しまくっていった。わが家に帰れと、理性と冷静な判断が高らかに呼びかけるのを幾度も聞いた。けれども、わたしは無力であった。この力をなんと呼んだらいいか、わたしにはわからない。目の前に破滅があっても、目をちゃんと開いたままそれに突進して、われとわが身を滅ぼす手だてになるようにかりたてる、抗しがたい神秘のさだめがあるのだと主張するつもりもない。ひとり静かに反省して、そこに冷静な理性のはたらきも説得もありながら、また、初めての企てに二度までもまごうかたなき教訓を受けながらも、なおこれに反する方向へわたしを押し進めたものは、たしかに、わたしにつきまとってしょせんのがれられない、あの定められた不幸の宿命というものにほかならなかった。
船長の息子で、さきにはわたしに気を強くするように激励した仲間は、わたし以上に弱気になった。ヤーマスに来てから彼が初めてわたしに口をきいたのは、町でいくつかの宿舎に分宿していたために、二、三日たってからだったが、その初めてわたしに顔を合わせた時に、調子がすっかり変わったようであった。ひどく悄然《しょうぜん》として頭をふりながら、君どうだい、とあいさつをして、それから彼の父に向かってわたしの素性《すじょう》をうちあけ、実は遠い外国へ行くためのほんの試しのつもりでこんどの航海に参加したいきさつを話した。すると彼の父はわたしのほうに向いて、重々しく心配そうな口調でいうのであった。
「君はもう船になぞ乗るべきじゃないよ。こんどのことは君が船乗りになってはいけないということを示す、はっきりとした間違いのない前兆と考えなくちゃならんよ」
「すると船長さんももう航海に出ないのですか?」
「それは話は別だよ。こりゃわしの職業だ。したがって義務なんだよ。君は試《ため》しにこの航海に加わったんだ。だから強情《ごうじょう》張って船乗りになったらどんな目に会うか、神様の示されたみせしめでおわかりだろう。ひょっとするとこんどの災難も君のせいかも知れんな。タルシシ行きの船に乗ったヨナの話のようにな」
さらに言葉を続けて、「いったい、君はどういう人なんだ。なんのために海に出たのかね?」
そこでわたしは身の上話を多少話したが、話が終えると、船長は恐ろしい剣幕でどなった。
「わしは何も悪いことをした覚えはないのに、なんで君のような罰あたりの人間を船に乗せたんだろう。千ポンドもらったって、もう二度と君と同じ船に乗るのはまっぴらだ」
これはたしかに、わたしのいったように、船を失ったので動転した心から出た狂気の沙汰《さた》で、口に出せるいわれのない暴言であった。しかしながらあとではたいへんまじめに話して、親のところへ帰り、これ以上神様を怒らして身の破滅を招かないようにしたほうがよいと懇々《こんこん》と説いてくれた。はっきりとした天の戒《いまし》めの手も見たではないかといい、「もし君がどうしても家に帰らないというならば、どこに行こうと、災難と絶望がついて回って、君のお父さんのいわれたとおりになることは間違いなしだ」
わたしはろくに返事もしなかったので、われわれはほどなく別れた。それっきりわたしは彼に会わない。どっちへ行ったかも知らない。わたしのほうは、ポケットにいくらか金があったので、陸路ロンドンへ出た。その途中はもちろん、ロンドンに着いてからも、今後の身のふり方について、また家に帰るべきかそれとも船乗りになるべきかと、さんざん煩悶《はんもん》したのであった。
家に帰ることについていうと、たいへん殊勝な考えがいろいろ頭に浮かんだが、面目まるつぶれの感じがいっそう強かった。何より先に、隣近所の連中の笑いものになるだろうし、恥ずかしくて父や母はもちろん、知合いの誰彼《だれかれ》にも会えた義理ではないことが頭に浮かんだのだ。
その後しばしば気がついたことだが、人間、ことに若者の気持ちは、こうした場合に、自分を導くべき道理とうらはらの理不尽《りふじん》になるのが普通なのだ。つまり、罪を犯すのは恥と思わないが、悔いるのは恥と思う。当然ばか者扱いにされていいような行動は恥としないが、これを行なってのみ賢い人間となれるような正道《せいどう》へ立ち帰ることは恥ずかしいと思うのである。
とにかく、こんなありさまのままで、どういう手段を講じたらいいものか、どう身のふり方をつけようか、決断もつかず、ずるずると時をすごした。どうしても家には帰りたくない気持ちは続いた。そうこうしているうちに、あんなに悩まされた苦しみの記憶がうすれていき、それについて僅《わず》かに心のすみに残っていた郷里へ帰りたいという気持ちもまた消えて、しまいにはそんな考えはきれいさっぱり捨て、もうひとつ航海してみようと思った。
わたしの背後には悪い力が働いていて、そのためにまず初めに父の家を出奔《しゅっぽん》し、ひと旗あげようなどという未熟無謀な妄想《もうそう》にかり立てられ、そういう妄想に根づよくとっつかれたものだから、どんな忠告にも耳をかさず、父の頼みも、いや命令さえ聞こうとしなかったのだ。この力はなんであったにせよ、不運きわまる企てをわたしの目の前につきつけたのも、この力にほかならなかった。わたしはアフリカ沿岸行きの船に乗りこんだ。船乗りたちが俗にいうギニア航路の航海であった。
いくたびかのこうした冒険において、水夫として船に乗り込まなかったのは、わたしの大きな不幸であった。水夫として船に乗っていたならば、仕事は少しはつらかったかも知れないが、平水夫としての義務と職務を覚えただろう。やがては、船長はともかく、航海士から副船長になる資格くらいはとれたかも知れない。しかし悪いくじを引くのはわたしの宿命であって、こんどもそうだった。ポケットに金はあるし、上等な服は身につけているしで、船に乗る時はいつも紳士になりすましていたい。そういうわけで、船中で何ひとつ仕事はなく、また何ひとつ覚えることもなかった。
まず初めに、わたしはロンドンでかなりりっぱな連中とめぐり会った。こんなめぐり合わせは、当時のわたしのような、だらしないでたらめな若者にはめったにないことである。とかく悪魔はそういう手合いには、忘れずに早くからわなをしかけるものだが、わたしの場合は違っていた。わたしが最初に知り合いになったのはギニア沿岸の航海から帰ってきた船の船長で、ギニアで大もうけをしてもう一度そこへ行こうと決意していた。わたしの応対の態度がその時なかなかよかったので、それにほれこみ、世界が見たいのだというわたしの言葉を聞いて、自分たちの船でいっしょに航海するつもりなら船賃はただにしてやろうといってくれた。わたしは彼の食事仲間と話し相手になってくれればいいし、持ってゆく品物がもしあれば取り引きの許す範囲でできるだけ便宜《べんぎ》を計ってやろう。もうけ仕事の糸口をつかむかも知れない、というのであった。
わたしはこれ幸いと申し出を受けいれ、この正直でさっぱりした船長とすっかり仲良しになっていっしょに航海に出た。
わたしは試みとして少しばかりの商品をたずさえていたが、これは船長の私欲を離れた誠実さによって、いちじるしく増大した。船長の指図で金額にして四十ポンドほどの玩具や安物の雑貨類を買い込んで持っていったわけである。この四十ポンドという金は親類の者に手紙を出してその援助でかき集めたものであるが、おそらく、その親類の者はわたしの父か、少なくとも母をくどいてそれだけの金額をわたしの最初の事業に出させたものであろう。
わたしのすべての冒険の中でまず成功したといえるのはこの航海だけであった。それはわたしの友である船長の誠実さと正直のおかげであった。またこの船長のもとでわたしは相当な数学や航海術の知識を学び、船の針路の記録のつけ方や天体観測の方法を学んだ。つまり一人前の水夫としてぜひ知っておかなければならないことを学んだわけである。船長は教えるのを楽しんだが、わたしのほうも勉強がうれしくてたまらなかったからだ。
要するにこの航海でわたしは一人前の船乗りになり、同時に貿易商になったわけだ。持っていった商品を売って五ポンド九オンスの砂金《さきん》を手に入れたが、それがロンドンに帰って売るとなんと三百ポンド近い金になった。これで味をしめて大それた野心をいだいたが、それがやがてわが身の大破滅をもたらしたのであった。
しかしこの航海でさえ、わたしは災難に会ったのだ。熱帯地方の酷暑《こくしょ》にあてられてひどい熱射病にやられ、病気のしどおしだった。われわれのおもな取り引きは北緯十五度から赤道|真下《ました》までの沿岸であったからだ。
わたしは今や、一人前のギニア貿易商となった。わが友、船長が帰国早々亡くなったのは非常な痛手であったが、もう一度同じ航海に出ようと決心した。前の航海には航海士であったが、今は船長の地位についている男といっしょに同じ船に乗り組んだ。この航海は人類の試みた最悪な航海となった。最近もうけた金のうち百ポンド足らずを持っていたにすぎなかった。残りの二百ポンドは死んだ船長の後家さんに託《たく》したが、彼女は忠実にその責任を果たしてくれた。それはいいのだが、この航海では数々の災難に会った。まず最初のはこういうのである。
船はカナリア諸島に向けて、というよりはこの諸島とアフリカ沿岸との中間を航行している時、薄暗い朝まだき、サリー〔モロッコの今のラバットに隣する港で海賊の根拠となっていた〕を根拠地とするトルコ海賊の奇襲を受けた。その海賊船は全帆を張ってわれわれを追跡してきた。われわれも帆桁《ほげた》のゆるすかぎり、帆柱の耐えうるかぎり、帆布を張って逃げきろうと試みた。しかし海賊船は次第に迫ってきて、もう二、三時間すれば追いつかれるのがはっきりしたので、一戦|交《まじ》える覚悟をきめた。
われわれの船には砲十二門、敵方には十八門。午後三時ごろ彼らはついにわれわれに追いついた。わがほうの船尾《スターン》を横ぎるつもりであったのを誤って船尾《クオター》側を横ぎる形で寄せてきたので、わがほうは八門の砲をそちら側に向け、片舷《へんげん》斉射をくらわせた。すると敵もこれに応戦し、かつ、乗組みの二百人近い連中も小銃を撃ってきたが進路を急転して離れ去った。こちらは全員身をかくしていたので、まったく無傷であった。相手はふたたび攻撃する準備をし、こちらは防御《ぼうぎょ》の態勢をとった。ところがこんどは反対側の船尾《クオター》側に船をのりつけ、六十人の男がわがほうの甲板に乗りこみ、たちまち甲板や索具を切り刻み始めた。われわれも小銃や短槍《たんそう》や爆薬その他で攻め立て、二度まで敵を甲板から撃退した。けれども、こんな陰惨な話は簡単にきり上げていうと、けっきょくわれわれの船は航行不能に陥《おちい》り、三人が殺され、八人が負傷し、やむなく降服ということになり、全員|捕虜《ほりょ》として、ムーア人の港であるサリーに連行されたのである。
わたしがそこで受けた取り扱いは初めに案じていたほど恐ろしいものではなかった。また、ほかの連中のように皇帝の宮廷に引っぱってもいかれなかった。そのかわり、海賊の船長の個人の分捕品《ぶんどりひん》として手もとにおかれ、若くてはしこく、船長の用たしにはうってつけというので、奴隷《どれい》にされてしまった。
貿易商人から哀れな奴隷への転落という、この思いもかけぬ境遇の変化にわたしはまったく呆然《ぼうぜん》としてしまった。お前はきっとみじめな目に会い、誰も助け手のないようなことになるぞといった父の予言がいまさら思い出された。その予言はものの見事に的中《てきちゅう》して最悪の事態をもたらし、摂理《せつり》の御手《みて》がわたしを捕え、もう救われる見込みはないのだと思った。ところが、ああ! これはわたしがこれからなめねばならない悲惨のほんの序の口にすぎなかったのだ。それはこの話の続きで明らかになるはずである。
わたしの新しい保護者、つまり主人は、わたしを自分の家に連れていったので、こんど航海に出る時にはいっしょに連れていってくれるだろう。いずれは彼もスペインかポルトガルの軍艦に捕えられる運命となり、そうなれば自分も自由の身になれる、とこんな希望をいだいた。ところがこの希望はすぐに奪われてしまった。というのは、彼が船に乗る時はわたしは陸に残されて、小さな庭の手入れや家のまわりの奴隷仕事をさせられるし、彼が獲物《えもの》捜しをひと回りして帰ってくると、船室に泊まって船の片付けをしろと命じられるというぐあいであったからだ。
こうなると、考えるのは逃げ出すことばかり。どういう方法をとったらうまく逃げおおせるかだが、やれそうな方法は皆目《かいもく》見当たらなかった。これならばと思えるものは何ひとつ浮かばなかった。いっしょに逃げようと相談をもちかける相手は一人もいなかった。イギリス人にしろアイルランド人にしろスコットランド人にしろ、相棒になる奴隷仲間は一人もいないのだ。そんなわけで、逃亡の夢を描いて自分を慰めることはしばしばあったが、それを実現する見込みは全然なく、二年の月日が経《た》った。
二年ほどたった後、ある妙なでき事が起こって、そのためまたもや、逃げ出して自由になる企てをしてみようかという考えが頭に浮かんだ。主人はいつになく長いこと家にごろごろしていて、これは金がないからだと聞いているが、船の艤装《ぎそう》に手もつけず、週に一度か二度、天気さえよければもっと頻繁《ひんぱん》に、きまって、本船付きの小艇《しょうてい》をおろして港外に漕ぎ出して釣りをするのであった。そのボートを漕ぐのにいつもわたしと若いマレスコをお伴に連れていったので、二人で彼を大いに笑わせたり、わたしはわたしで釣りの名人ぶりを発揮したりした。そういうわけで、わたしは、主人の縁者のムーア人とマレスコと呼ばれたあの青年といっしょにごちそうの魚をとるために沖に出されることもあった。
ある時こんなことがあった。
まるで死んだように凪《な》いだ朝、釣りに出かけたところ、深い霧が立ちこめて、岸から半リーグも沖に出ていないのに、その岸を見失ってしまった。いったいどっちへ向かって漕いでいるのかわからないまま、その日まる一日と、またまる一晩けんめいに漕いだ。朝になってみると、岸のほうへ漕ぎ入れているどころか逆に沖へ向かって漕いでいたわけで、陸から少なくとも二リーグは離れてしまったことがわかった。しかしとにかく無事に帰ることはできた。だいぶ骨は折れたし危険も多少あった。なにしろその朝かなり強い風が吹き出したからだ。しかし、とくにつらかったのは、みんなひどく腹がすいたことだった。
主人はこの災難にこりて将来はもっと用心をすることにきめた。以前に彼らが拿捕《だほ》したイギリス船の大型ボートが手もとにあったので、これに羅針盤《らしんばん》と食糧を積みこまなければ、もう釣りには出ないことにした。そこで彼は、これもわたしと同じくイギリス人の奴隷である船大工に命じて、その長艇《ちょうてい》の中央に、御座船《ござぶね》にあるような小さな特別室、つまり船室《キャビン》を作らせた。その船室のうしろには人が立って舵をとったり、主帆の帆脚索《ほあしづな》をたぐったりする場所があり、その前には一人か二人の水夫が立って帆をあやつることのできる余地がある。この長艇はいわゆる長三角帆ではしり、帆のすそを張る円材は船室のすぐ上を左右に自由自在に動いた。船室はこじんまりと低く作られていて、主人のほかに、一、二名の奴隷が横になれるくらいの余裕があり、食卓も備えつけてあり、主人の好みの各種の酒のびんをいれたり、もちろん、パンと米とコーヒーをいれるための小さな戸棚《とだな》もついていた。
われわれはこのボートでたびたび漁《りょう》に出かけた。わたしはとても巧みに魚を釣ってやるものだから、釣りにはかならずわたしをともなった。ある時、主人は、土地ではかなり知名の二、三のムーア人とともに、舟遊びか魚釣りかのために、この船で出かける計画を立てた。この人たちのためにおびただしいごちそうを用意した。それでいつになく大量の食糧を前の晩から船に運びこませた。それからわたしに命じて、本船にあった三|挺《ちょう》の火縄銃《ひなわじゅう》を火薬と弾丸といっしょに用意させた。つまり釣りはもとより、鳥撃ちもしようという計画であった。
わたしは指図どおりに準備万端を整えて、翌朝は、船はきれいに洗い、旗《はた》のぼりをにぎやかに掲《かか》げ、すっかり客の到着を待つばかりにしていた。するとやがて主人が一人で舟にやってきて、客人はなにか急用ができて出かけられなくなったといった。しかし客人は夕食はうちですることになっているから、いつものとおり、親類の者と若者と三人で出かけて魚をとってこい。そして魚がとれたらすぐに家へ届けるのだ、と命じた。わたしは、万事承知してその準備をした。
その瞬間にかねていだいていた脱走の考えが頭にひらめいた。今こそ小さいながら一艘の舟が自分の自由になるのだと知った。主人が行ってしまうとさっそく準備にかかった。もちろん魚釣りではなく航海の準備だった。どっちへ進路をとるかは知りもしなかったし、考えてもみなかった。ここから逃げだせたらどこでもかまわなかったのである。
わたしの手初めのたくらみは、なんとか口実《こうじつ》を設けてこのムーア人に話しかけ、船中での食料品を持ってこさせることであった。主人のパンに手をつけるのは申し訳ないからというと、それもそうだといって、大きな篭《かご》いっぱいのラスク、つまり彼ら独特のビスケットと、飲料水の三|甕《かめ》とを舟中へ持ちこんできた。酒壜《さかびん》の詰まった箱のあるところは先刻ちゃんと知っていた。その格好からイギリス船からの分捕品《ぶんどりひん》の一部であることは一目瞭然《いちもくりょうぜん》だった。
ムーア人が岸に上がっている間にこれを舟に運びこんで、主人用として前から置いてあったような顔をしていた。重さが五十ポンド以上もある大きな蜜《みつ》ろうの塊《かたまり》と、ひとまきの麻糸、手斧、鋸《のこぎり》、金槌《かなづち》などもいっしょに舟に運んだ。どれもこれもあとで大いに役だった。とりわけ蜜ろうはろうそくをつくるのに重宝した。
もう一つこの男をだましたが、これにもたわいなくひっかかった。彼の名はイズメイルといったがみんながミューリー、またはモウリーと呼んでいた。それでわたしは彼に「モウリー」と呼びかけ、「親方の銃は舟に積みこんであるんだが、火薬と弾丸を少し手に入れてもらえまいか。ことによるとおれたちでアルカミ(イギリスのしぎに似た渡り鳥)が撃ち落とせるかも知れない。たしか親方が砲手用の弾薬を本船にしまっておいたはずだから」
「そうだ、じゃ少し持ってこよう」といって、そのとおり、ポンド半かそれ以上も火薬のはいった大きな皮袋《かわぶくろ》と、五、六ポンドの散弾と若干《じゃっかん》の弾丸《ブレット》のはいったもうひとつの皮袋を持ってきて舟にしまいこんだ。同時に、船室の中で主人の火薬を見つけていたので、酒をつめた箱の中の、ほとんど空になりかけた大壜の一本を見つけ、残りの中味を他の壜に移して、その空壜《あきびん》の中に火薬を詰めこんだ。こうして必要なものは全部揃ったので、われわれは魚釣りのため港を出帆した。港の入口にある要塞《ようさい》の連中はわれわれをよく知っていたので別にとがめなかった。
港から一マイル以上は離れない地点まで来ると、帆をおろして釣りを始めた。風はこちらの望みに反して、北々東から吹いていた。もし南風であればスペインの海岸に出ることができ、少なくともカディス湾《わん》に到達できたに相違なかった。とにかく、風がどっちに吹こうと、わたしの決心は今のいまわしいところから逃げ出し、あとは運命にまかせるということであった。
しばらく糸を垂れていたがいっこうに釣れなかった。それもそのはずで、魚が鉤《はり》にかかっても、ムーア人に見られないようにして、釣り上げなかったからだ。わたしはムーア人に向かって、「これじゃだめだ、親方にごちそうはさしあげられない。もっと沖へ出なくちゃ」といった。彼は別にさしつかえあるまいと思って賛成した。彼は舟首のほうにいたのですぐに帆を張ってくれた。わたしは舵《かじ》をとっていたので、一リーグばかり沖へ舟を走らせ、釣りをするように見せかけて舟をとめた。奴隷の少年に舵をあずけてムーア人のいるところに歩みより、そのうしろにある何かを拾うかのような格好でかがみこみ、不意に腕をのばして彼のまたぐらを捕え、きれいに海中にほうりこんでしまった。なにしろ泳ぎの達人だったのですぐに浮かび上がって、「舟に引き上げてくれ。連れていってくれるなら世界じゅうどこへでも行く」と大声でさけんだ。ほとんど風もなかったので、彼は舟を追って力いっぱい泳いだから、今にも追いつけそうだった。これを見てわたしは船室にとびこみ猟銃をとってかえし、銃口を彼に向けていった。
「お前に怪我をさせたわけじゃない。おとなしくしてさえいれば危害を加えるつもりはないんだ。お前は泳ぎがうまいんだから岸までじゅうぶん泳ぎつける。波も静かだし、せっせと泳いで帰れよ。おれは何もしやしないから安心しろ。だが舟に近よったら頭を撃ち抜いてやるぞ。おれは自由な身になると固く決心しているんだからな」
そういうと、彼はくるっと身を返して陸に向かって泳いでいった。なにしろ泳ぎの達人だかららくらくと岸に着いたことは疑いない。
このムーア人をつれていき、少年のほうを海に投げこんでもよかったのだ。けれどもこの男はどうしても信用する気になれなかった。彼が行ってしまってからジューリーと呼ばれていた奴隷の少年に向かっていった。
「おいジューリー、お前がもし忠実におれにつかえるなら、お前をりっぱな人間にしてやる。だが、お前が顔をなでて忠節を誓うならともかく(これはマホメットとその父のひげにかけて誓うことだが)、でなければお前も海にほうりこむが、それでもいいか」
少年はわたしの顔をみてにっこり笑って、まことに無邪気な口のきき方をするので、疑いをさしはさむ余地はなかった。あなたに忠実につかえます、世界じゅうどこまでもおともします、と誓うのであった。
泳いでいくムーア人の姿がまだ見えている間は、舟はまっすぐ沖のほうへ向け、やや風上のほうに進路をとっていた。ジブラルタル海峡の入口に向かって行ったように思わせるためであった。(事実、分別のある者なら誰だってその方角をえらぶものと思われたからだ)まさかわれわれが南方へ航路をとり、文字どおりの蛮地《ばんち》沿岸へ向かっていたと、考えるものは一人もいなかったであろう。
この沿岸に行ったが最後、黒人が総出で、丸木舟でわれわれを取り囲み、みな殺しにするにきまっている。岸に一歩でも上がれば、猛獣か、あるいは、それより残忍な蛮人に食い殺されるのがおちである。
しかし、夕方うす暗くなるとさっそく進路をかえ、南微東に舵をとり、陸から離れないように少々東に傾けていった。好都合の疾風《はやて》があり、海はおだやかであったので舟脚は速く、翌日の午後三時、初めて陸地の影を認めた時には、少なくとも、サリーの南方百五十マイルのところに来ていたと思う。もはやモロッコ皇帝の領土外であり、いやそれどころか、そのあたりのどの王侯の領土でもなかった。人間の姿は見当たらなかったからだ。
それでもムーア人に対する恐怖感は深刻《しんこく》で、彼らの手に陥《おちい》る不安ははなはだしかったので、舟をとめることも上陸することも錨《いかり》をおろすこともできず、(風は依然として順風だったので)そのまま五日間帆走を続けた。すると風は南に変わった。これでは、たとえわれわれを追跡してきた帆船があったとしても追跡をあきらめるだろうと思った。そこで少し冒険とは思ったが岸に近づき、小さな河の河口に錨をおろした。なんという河だか、そこがどこかも知らない。緯度が何度かもなんという国かも、どんな人種かも、何河かもいっさいわからない。人間は見かけなかったし、見たいとも思わなかった。何よりも欲しいものは飲料水だった。われわれは夕方ここの入江にはいったが、暗くなりしだい岸に泳ぎわたって陸地の状況を調べるつもりだった。
ところが、あたりが暗くなるとすぐに、なんともわからない野獣の吠えさけぶ恐ろしい声が聞こえてきた。少年は今にも死にそうにすくみ上がってしまって、夜があけるまで陸に上がらないでくれと哀願した。
「うんよし、じゃ今晩はよそう。だが昼だったら人間に会うかも知れんぞ。あのライオンに劣らないほど危い人間にな」
するとジューリーは笑いながら「そしたら鉄砲を撃って追っぱらってやろうよ」といった。ジューリーはわれわれイギリス人の奴隷とつき合っていたのでこんな英語をつかった。とにかく少年がそんなに元気になったのでうれしかった。で、親分の酒壜《さかびん》の箱から一本とり出してひと口飲ませて勇気をつけてやった。けっきょく、ジューリーの忠告はもっともであったので、これに従った。小さな錨をおろして、ひと晩中じいっと横になっていた。じいっとしていたというのは、まんじりともしなかったからだ。二、三時間もたったころ、名はなんというか知らないが、いろんな種類のとてつもなく巨大な動物が海辺におりてきて水中にとびこみ、のた打ち回って水浴びし、体を冷やして楽しんでいるのを見た。これまで聞いたことのない、実に恐ろしい怒号と叫喚《きょうかん》を上げているのであった。
ジューリーは極度におびえた。いや実はわたしも同じだった。が、二人ともそれ以上に恐怖をおぼえたのは、その巨大な動物が一頭、われわれの舟に向かって泳いでくる音を聞いた時だった。姿は見えなかったが、その息づかいを聞けば、途方もなく巨大で獰猛《どうもう》な野獣であることは想像できた。ジューリーはライオンだといった。あるいはそうだったかも知れない。ジューリーはかわいそうに、錨をあげて逃げようとさけんだ。
「いや、そりゃだめだ。錨索《いかりづな》に浮標《ブイ》をつけたまま流して沖へ出よう。そんなに遠くまで追っかけては来るまい」とわたしはいった。が、その言葉も終わるか終わらぬうちに、なんともわからぬその野獣がオール二本の長さの近くまで寄ってきているのを見つけた。その時にはわたしも相当ぎょっとした。しかしすぐさま船室の扉のほうにとんでいって、銃をとってきて野獣をねらってぶっぱなした。野獣は見るまに身をひるがえして岸辺に向かって泳いでいった。
この銃声に応じて、岸辺とともにもっと奥地に起こったものすごい怒号や咆哮《ほうこう》のひびきは、なんとも名状しがたかった。銃声などというものはここの動物は今まで聞いたことはなかったと信じていい理由がある。これで、この沿岸には夜上陸することは不可能であることがはっきりした。昼間上陸を敢行《かんこう》するのも、これまた考えねばならない問題だ。野蛮人の手中に落ちることはライオンや虎の手にかかると同じことだ。少なくともその危険を感じる度合は同じであった。
それはともあれ、水を手に入れるためどこかに上陸はしなければならなかった。舟中には一パイントの水も残っていなかったのだ。いつどこで上陸するかが問題であった。ジューリーがいうには、甕《かめ》をひとつもって上陸させてくれるなら、水がありそうなところを見つけて水を持ってくる、というのだ。なぜお前が行こうというのか、おれのほうが行ってお前が舟に残ったっていいわけじゃないか、と聞いてみた。少年は親愛の情をこめて答えたので、それからのち、彼がとてもかわいくなったのだ。彼のいうには、「野蛮人来れば、おれ食われる。あなた逃げる」と。
「ジューリー、それじゃ二人で行こう。もし野蛮人が来たら二人で殺そう。こっちはどっちも食われないことにしようじゃないか」
そこで、ジューリーにラスク、パンをひと切れ食べさせ、前にいったあの親方の酒壜の箱から酒をとり出してひと口飲ませてやった。そしてこれならだいじょうぶだと思われるところまで舟を岸辺に寄せ、武器と二個の水甕《みずがめ》だけをたずさえて水を渡って岸に上がった。
蛮人が丸木舟に乗って河上からくだってきやしないかという心配で、ボートの見えなくなるほど遠くへは行く気がしなかった。けれども一マイルくらい奥のほうに低地があるのを見つけてそちらへぶらぶら行ってしまった。やがて彼がこちらへ走ってくるのが見えた。てっきり蛮人に追いかけられているか、さもなければ野獣におどかされたのだと思って、彼を助けにかけ出した。近よって見ると両肩から何かぶらさげている。彼が撃ちとったもので、野兎《のうさぎ》に似ているが毛色が違うし脚《あし》も長かった。とにかくわれわれは大喜びだった、すてきなごちそうだったから。
だがジューリーの奴がもたらした吉報は清水を発見し、蛮人を見かけなかったということであった。
しかしあとになって、水のためにそんな苦労をする必要はないことを知った。われわれのいた所から入江を少しさかのぼったところで、潮がひくと真水が出ているのを知ったからだ。そして潮はあまり上流まではいかなかった。そこで甕《かめ》にいっぱい水を満たし、殺した野兎のごちそうを食べて、このあたりには人間の足跡をまったく見かけなかったので、われわれの旅を続けることにした。
以前に一度この沿岸に航海したことがあるので、カナリア諸島とケープ・ヴェルデ諸島もこの沿岸からそう遠くないことをわたしはよく知っていた。しかし、現在の位置を知ろうにも測定の器具はなかったし、それらの諸島の緯度《いど》も正確に知らなかった。少なくとも正確に覚えていなかったので、その諸島はどちらの方角にあたるのか、またどの辺から沖に出てそちらへ向けての進路をとったらいいか、さっぱりわからなかった。こういう事情でなかったら、これらの島のどれかは苦もなく捜しあてたであろう。
しかしわたしは望みをもっていた。もしこの沿岸ぞいに進んでいってイギリス人が貿易している土地にたどり着けば、彼らが常習としている貿易に出てきたイギリス船のどれかに出会って、それに収容されて救われるかも知れない、というのであった。
推測をせいいっぱい働かしてみたところでは、わたしの現在いる場所はモロッコ帝国と黒人地帯の中間にあって、野獣だけしか住んでいない無人の未開地に違いなかった。黒人たちはムーア人を恐れてこの土地を捨てて南下し、ムーア人はこんな不毛の地では住むのに値《あたい》しないと考えたのだ。いや実際、どちらも、ここに棲息《せいそく》するおびただしい虎、ライオン、豹《ひょう》、その他の獰猛《どうもう》な野獣を恐れてこの土地を放棄したのだ。そういうわけでムーア人にとっては単なる狩猟地にすぎず、猟に出るとなるとまるで軍隊のように、一時に二、三千人も動員した。実際、この沿岸ほぼ百マイルにわたって、われわれは昼は広漠たる無人地帯のほか何も見ず、夜は野獣の怒号と咆哮《ほうこう》のほか何も聞かなかった。
昼間のことだが一、二度、テネリフの峰《ピコ》を望見したように思った。これはカナリア諸島にあるテネリフ山の山頂であった。そこへ行けるかも知れないと思って、勇気をふるって沖に出てみようと思った。けれども二度やってみたが、逆風に押し返された。波も高くてわたしの小さな舟ではどうにもならなかった。そういうわけで最初の計画どおり沿岸にそって南下を続けることにした。
ここを立ち去ってから、何度も、飲料水の補給のため上陸しなければならなかった。ある時などは、かなり高い小さな岬の下に錨をおろしたことがあった。潮がさし始めていたので、もっと岸に近づけるのを待ってじっととどまっていた。どうもわたしより鋭い目をもっていたと思われるジューリーがそっとわたしに呼びかけて、岸からもっと離れたほうがよいという。
「ほら、見なさい。あそこの丘のわきに恐ろしい怪物がぐっすり眠っている」
彼の指すほうを見ると、いかにも恐ろしい怪物がいた。見るからにものすごい巨大なライオンで、その体の上に少しかぶさるような形をした小丘の陰《かげ》で海辺に寝そべっているのだった。
「おい、ジューリー、お前ひとつ陸に上がってやつを殺してこい」というと、ジューリーはちぢみ上がって、「わたし殺す! あっちがわたし、ひとつの口で食う」
つまり、ひと口で食ってしまうというつもりだった。しかしわたしはそれ以上は少年になにもいわないで、静かにしていろと命じた。わたしはマスケット銃ほどの口径の、一番大きな銃を持ち出し、多量の火薬と二発の弾丸《たま》をこめてそこに置き、もう一つの銃をとって二発の弾丸《たま》をこめ、三番目の銃には小型の弾丸五発をこめた(われわれは全部で三挺の銃を持っていた)。最初の銃でライオンの頭に撃ちこんでやろうと最も慎重に狙《ねら》って撃ったが、ライオンは鼻づらをかくすように前脚一本上げてねていたので、弾丸はその前脚の膝のあたりに命中して骨を打ちくだいたのであった。ライオンはいきなり唸《うな》ってとび上がったが脚が砕《くだ》けていたのでどっと倒れ、こんどは三本脚で起き上がって世にもものすごい唸り声をたてた。狙いが頭部をはずれたので少々面くらったが、すぐさま二番目の銃をとり上げた。ライオンは逃げかけていたが、発砲すると、こんどはみごとに頭に命中した。ライオンがどたりと倒れ、少しばかり声をたてて、瀕死《ひんし》の苦しみにもがいているのを見て、わたしは満悦《まんえつ》だった。ジューリーはすっかり元気づいて岸に行かせてくれとせがんだ。
「よし、行け」というと、少年はざぶんと水中にとびこみ、片手に小銃をかかげ、片手を使って岸に泳ぎ着いた。ライオンに近づくと銃口を耳にあてて、またその頭に一発撃ちこんだ。これですっかり片が付いたのだった。
これはたいした獲物には違いなかったが、食糧にはならなかった。何の役にも立たない獣のために三発分の火薬と弾丸をむだにしたことは残念でしかたがなかった。しかしジューリーはライオンの一部がほしいといい、舟に来て斧《おの》をかしてくれと頼んだ。「どうするつもりか」と聞くと「頭を切りおとすのだ」と答えた。けれども頭は切りおとせないで、足を一本切って持ってきたが、それはものすごく大きな足であった。
ところが、その毛皮は何かの役に立つかも知れないと思いついた。そこで、できるならその毛皮を剥《は》いでやろうと思った。ジューリーと二人でさっそく仕事にとりかかった。ジューリーのほうがはるかに仕事は上手だった。わたしはてんでやり方がわからなかった。二人がかりでまる一日かかったが、とうとう獣皮をはぎとることができた。これを船室の屋根にひろげておいたら、太陽の光で二日たったらすっかり乾いた。これはあとになって寝るのに手ごろな敷き物になった。
ここで足をとめてから後は、十日か十二日の間、休みなく南下し続けた。食糧が急速に心細くなってきたので極度に節約し、陸に上がるのも飲料水のため余儀《よぎ》ない場合にかぎることにした。この時のわたしの計画はギャンビア河かセネガル河まで行く、つまりヴェルデ岬付近のどこかに行き着くことであった。そこまで行けばヨーロッパの船のどれかに会えそうな気がした。もしそういう船に会えなかったら、ヴェルデ岬諸島を捜してみるか、さもなければ黒人のあいだであえなく最後をとげるかしか、ほかに方策はなかった。ヨーロッパからギニア沿岸、ブラジル、あるいは東インドへ向かう船はどれもこの岬かヴェルデ諸島に進路をとることをわたしは知っていた。要するに、どこかの船に会うか、それとも野垂《のたれ》死にをするか、このたった一点にわたしのすべての運命を賭けたのである。
今もいったように、初めの決意どおり、なお十日ほど南下を続けた。すると人が住んでいる土地が見え始め、二、三個所では舟が岸のそばを進んでいくとき海岸に立ってわれわれを見ている人影を認めた。彼らは真っ黒でしかも素っ裸であることも認められた。
わたしは岸に上がって彼らのところへ行ってみようかと思ったこともあったが、ジューリーはわたしより分別《ふんべつ》があって、「行く、だめ」というのであった。けれども、わたしは彼らに話しかけてみようと岸のほうに舟を近づけた。すると、彼らはかなり長い道のりを、舟と並行して浜を走ってついてきた。彼らは武器を持っていないことがわかった。ただその中の一人だけは細くて長い棒を持っていた。これはジューリーの話だと槍《やり》というもので、ずいぶん遠くから投げてもよく的中するのだ。そこでわたしは一定の距離を保って、けんめいに手まねで話を試み、とくに何か食べるものがほしいのだという合図をした。向こうも手まねで、舟をとめれば食物を持っていってやると応じた。
そこで、帆をおろして停船すると、二人の男が奥のほうへ走っていって半時間もたたないうちに、土地の産物と見られるふた切れの乾肉《ほしにく》と穀物とを持って戻って来た。その品がどんなものかとんと見当がつかなかった。とにかく喜んでちょうだいすることにしたが、さてどういうふうにしてそれを受けとるかが次の問題であった。思いきってこちらから岸に上がって行く気にはなれなかったし、向こうでもやはりわれわれを恐れていた。彼らは両方にこれならだいじょうぶだという方法をとった。すなわち、彼らはその食物を岸辺まで持ってきてそこに置いてずっと遠くまで引きさがり、その間にわれわれはその品を舟に持ちこむというのであった。そのあとで彼らはまた浜辺まで出てきた。
食物のお返しにやるものは何もなかったので、ただ感謝の意を手まねで示した。ところがじつにその瞬間に、思いがけないことが起こって、お陰でご恩がえしができることになった。われわれがまだ岸近くに停泊している時に、二頭の巨大な野獣が現われた。見たところたけり狂ってその一頭が他の一頭を追っかけて山から海に向かって走ってきたのだ。雄《おす》が雌《めす》を追っかけているのか、ただふざけているのか、それとも本気で怒っているのか、われわれにはまったくわからなかった。わからないといえば、こんなことはいつものことか、それともめったにないことなのかも見当がつかなかったが、おそらく後者だったと思う。第一、こういうえじきを強奪《ごうだつ》する野獣は夜のほかはめったに現われないし、第二に、土人たちの狼狽《ろうばい》ぶり、ことに女たちの狼狽ぶりは尋常《じんじょう》でなかったからである。槍だか投げ槍だかを持っていた例の男のほかはみんな逃げてしまった。けれども二頭の野獣はまっすぐに水にとび込んでいったところをみると、黒人を襲うつもりはなかったらしい。まるで水浴のためにでも来たかのように、海中にとび込んで泳ぎまわっていた。
ところが、しまいにはそのうちの一頭が、まさかと思うほど舟のそばまで近よってきた。わたしは手ばやく銃に弾丸《たま》をこめ、残りの二挺の銃にも弾丸をこめるようジューリーに命じておいて、じっと待機した。獲物がじゅうぶん射程内にはいった瞬間、一発ぶっぱなして見事に相手の眉間《みけん》を撃ち抜いた。野獣はたちまち水に没したが、またすぐに浮かび上がり、それから浮きつ沈みつ必死にもがいた。ほんとうに必死だったのだ。岸に向かって泳ぎ出したものの、致命的な傷は受けているし、水で窒息《ちっそく》するしで、岸にたどり着かないうちに死んでしまった。
わたしの鉄砲のごう音と火を見た時の、土人たちの仰天《ぎょうてん》ぶりはいいようもなかった。恐怖のため今にも死にそうになり、事実死んだように地面にぶっ倒れるものさえあった。しかし猛獣が死んで水中に沈んだのを見、わたしが手まねで浜辺までこいと合図すると、ようやく元気をとり戻し、岸にやってきて野獣の死体を捜し始めた。わたしは水を染めている血の痕《あと》でその死体を見つけた。縄をそれにまきつけ、黒人に縄をわたして引かせると、やがて陸に引き上げた。見ればまれに見る豹《ひょう》で、みごとな斑点《はんてん》をもった逸品《いっぴん》であった。黒人たちはわたしが獲物を殺すのに用いた武器を珍しがって、両手を上げて感嘆の声をもらした。
もう一頭の獣は鉄砲の閃光《せんこう》とごう音におどろいて岸に上がると、もと来た山のほうへ一目散に逃げていった。だいぶ離れていたのでその正体はわからなかった。わたしは黒人たちがこの獣の肉を食べたがっているのにすぐ気がついた。そこで贈り物として喜んで彼らに提供することにし、受けとりなさいと手まねで合図をすると、大へん感謝してさっそくその処理にとりかかった。ナイフは持ち合わせてはいなかったけれども、鋭くとがった木片を使って皮をはいだ。われわれがナイフを使ってやると同じくらい、いやそれよりはるかに鮮かにやってのけた。獣肉の一部をわたしに差し出したが、それをこちらからやるのだといった格好をして断わり、その代わり毛皮がほしいという手まねをした。彼らはよろこんでそれをこちらにくれ、その上に、さらに多量の食糧を持ってきた。どんな食糧だかわからなかったが、もらうことにした。それから水がほしいのだという手まねをして、ひとつの甕《かめ》を出して逆さにして見せ、それが空であることを示し、水をいっぱいにしてもらいたいことを伝えた。
彼らはすぐに仲間に声をかけた。すると二人の女が出て、上製の、おそらく天日で焼いたと思われる大きな容器を持ってきた。これを前のように岸辺に置いた。ジューリーに甕をもたせて上陸させ、三つの甕に水をいっぱい満たさせた。女たちも男同様|素《す》っ裸であった。
さて、これで食用の根と穀物(とにかく穀物なるもの)と飲用水とがすっかりそろった。そこで親切な黒人たちに別れを告げ、さらに十一日ばかり南進した。その間、岸に近づこうとはしなかったが、やがて、前方ほぼ四、五リーグのところに、陸地がずっと海中に突き出しているのが見えてきた。海はおだやかであったので、この突端を目ざしてずっと沖合に出た。
ついに、陸から約二リーグほどのところでその突端を回ると、向こう側の沖合にはっきりと陸地が見えた。そこで、これがヴェルデ岬で、あちらがそれにちなんで名づけられたヴェルデ諸島であることは、もう疑う余地はないと断定した。しかしながらその諸島ははるかに遠いので、どうしたらよいものかとんとわからなかった。もし途中で突風にでも会ったら、どの島にも着けないことになるかも知れなかったからだ。
この窮地《きゅうち》に陥ってすっかり気が沈んでしまって、ジューリーに舵をまかせて、わたしは船室にはいってどかっと腰を降ろした。すると突然少年がさけんだ。
「だんな、だんな、帆船だよ」
おろかにも少年は、これはてっきり海賊の親方がわれわれを追跡するためによこした船に相違ないと思って周章狼狽《しゅうしょうろうばい》していたのだ。まさかこんな遠くまで追ってこられるはずはないと、わたしは承知していたのだが。
船室からとび出して見ると、船の姿ばかりでなく船の正体まですぐに見わけられた。つまり、それはポルトガルの船であって、わたしの考えるところでは、黒人奴隷の買入れにギニア沿岸地方へ行くのであった。ところが、その船の進路をよく見ていると、他の目的地に向かっていて、陸地へ接近するつもりはないのだと確信するに至った。そこでわたしはできるかぎり沖に乗り出して、もしできるならばその船に信号をしようと決心した。
すべての帆を張って全速力を出しても目指す船の進路へ出ることはできず、彼らに向かって合図を発する前にわれわれのところを行きすぎてしまうに違いないことがはっきりした。しゃにむに進んでみたが、もうだめだと絶望しかけたときに、先方の船のものが望遠鏡でこちらを認めたらしく、難破したどこかの船に積んであったヨーロッパのボートだと思ったのだろう。帆をしぼってわれわれが追いつくのを待ってくれた。
これに勇気づけられ、幸い親方の旗が舟中にあったのでこれを打ち振って遭難の信号をし、さらに一発鉄砲をはなった。両方とも先方に見えたそうだ。あとで聞いたところでは銃声は聞こえなかったが、煙は見えたそうだ。この合図を認めたので彼らは親切にも進行をとめ、われわれを待っていてくれた。ほぼ三時間後にわれわれはその船に到達した。
彼らはわたしが何ものであるかと、まずポルトガル語で、それからスペイン語で、次にフランス語で尋ねた。わたしはどの言葉もわからなかった。しまいに甲板《かんぱん》にいたスコットランドの水夫が話しかけてきたので、これには答えられた。つまりわたしはイギリス人で、サリーのムーア人の奴隷になっていたがそこを逃げ出してきたことを告げた。そこで彼らはわたしに乗船しろといい、親切に船にむかえ入れ、持物も全部運びこんでくれた。
あのようなみじめな、ほとんど絶望の窮地からこのように救い出されたこと、これこそまさに、救いだと思ったのだが、それがほんとうに名状しようのない喜びであったことは、わかる人にはわかってもらえるだろう。わたしはさっそく、救われたお礼に、所持品を全部船長に贈りたいと申し出た。けれども船長は、自分は何もいただかない、ブラジルに着いたら品物はそっくりお渡しすると、大様《おおよう》にいってくれた。
「わたしは君の生命を助けたが、それはわたしも助けてもらったらさぞありがたいだろうと思う同じ立場からです。わたしだっていつなん時、君と同じ状態から救われる運命に遭遇しないともかぎりませんからね」といい、さらに言葉をついで、「それにまた、ブラジルへ君を連れていけば、なにしろ君の国からとても遠いのだから、もし君の持物をこちらへもらってしまえば、君はそこで餓死《がし》しなければならなくなるでしょう。そうなるとせっかく助けてあげた命をまた取りあげるも同じことになります。いや、いや、いただくわけにはいきませんよ、イギリスの方。わたしは施《ほどこ》しのつもりでブラジルまでお連れするんです。その持物があればブラジルで生活に必要なものが買えるし、帰国の船賃にもなりますよ」
船長の情《なさけ》ぶかさは単に口先ばかりではなく、いうとおりきちんと実行してくれた。誰もわたしの所持品に手をふれてはいけないと船員一同にいい渡し、いっさいの物を自分の保管とし、返却の時のために、土器の水甕《みずがめ》三個に至るまで品物全部の正確な目録を作って渡してくれた。
わたしのボートのことであるが、これは非常にりっぱなもので、さすがに船長もそれを見ぬいて、わたしから買いとって本船用にしたいと思うが、代価としていくらほしいかと聞いた。なにからなにまでこんなに親切にしてもらったのだから、いくらいくらとこちらから値をつけるわけにはいかない、まったく船長のおぼしめしでよい、と答えた。すると彼は、代価としてブラジルに着いたらスペイン・ドル貨八十枚を支払うという約束手形を渡そう、また、いよいよブラジルに着いた時、もっと高い値をつける者があったら、不足分は追加しよう、といった。
わたしのボーイのジューリーに対しては六十枚のスペイン・ドル貨を払おうといったが、それは受けとりたくない金であった。船長に彼をゆずりたくないというわけではない。わたしが自由を獲得するのにあんなに忠実に協力してくれたこの少年の自由を、金で売るのがとてもたまらなかったのだ。
しかし、わたしがこういうわけを話すと、船長はいかにももっともであるといって、こういう妥協案を出した。もし少年がキリスト教信者になるならば、十年後には自由の身にしてやるという証文を少年に渡そうというのである。それに、ジューリーも船長のところに行きたいというので、わたしは彼を船長にゆずることにした。
ブラジルまでの航海は実によい旅であった。およそ二十二日後に、われわれはトドス・ロス・サントス、すなわち、万聖湾というところに着いた。わたしは今やふたたび、人生の最も悲惨な境遇から解放されて自由の身となった。さてこれから身の振り方をどうつけるか、じっくり考えねばならなかった。
船長がわたしに示してくれた心のこもった親切さは、思い出しても心がいっぱいになる。船賃などは一文も受けとろうとはしなかったし、豹《ひょう》の皮を二十ダカットで、自分のボートにしまってあったライオンの皮を四十ダカットで買いとってくれ、本船のほうへ移しておいたわたしの所持品は一つ残らずきちんと返却するように取りはからってくれた。わたしが売り払いたいと思うものはなんでも買い取ってくれた。それは酒壜《さかびん》の詰まった箱や二挺の銃や蜜ろうの小さな塊《かたまり》などであった。蜜ろうの大部分はろうそくを作るのに使ってしまっていた。そんなわけでけっきょく、わたしの荷物の代金は全部でスペイン・ドル貨約二百二十枚となり、これだけの資金を懐《ふところ》にしてブラジルの土を踏んだのであった。
ここに来てほどたたぬうちに、船長と同じように実直な人のところに紹介されて勤めることになった。この人はいわゆるインゲニオ、すなわち農園と精糖所を持っていた。わたしはここにしばらく厄介《やっかい》になり、農業の経営法や砂糖の製法を覚えた。経営者たちの裕福な暮らしぶりや、金もうけのすばやさを目のあたりに見て、もしここに定住する許可を手に入れることができたならば、自分も経営者の仲間入りをしようと考え、その間に、ロンドンに残してきた金を取り寄せる何かいい方法を見つけようと心にきめた。
この目的でまず帰化の書類を手に入れ、持っている金で買えるかぎりの未開墾《みかいこん》地を買い求め、農業経営の計画を立てた。つまり、やがてイギリスから受け取るはずの資金にみあうほどの計画なのであった。
わたしの隣の人は、リスボン生まれのポルトガル人で、両親はイギリス人、その人の名はウェルズといい、境遇はわたしと似たりよったりであった。彼を隣人と呼ぶのは、彼の農園がわたしの農園の隣であったからであるが、大へん仲よくやっていった。わたしの資金は彼のと同様、まことに僅少《きんしょう》であったから、約二年間は、何をおいてもまず食糧のために耕作せねばならなかった。しかしやがて収穫もふえ、土地も整ってきたので、三年目にはわれわれはたばこを少々植えつけ、次の年には甘蔗《かんしょ》を植えようとお互いに広大な土地を準備した。しかし二人とも人手が不足していた。わたしはジューリー少年を手離したのは不覚だったと、いまさらのように悔やまれた。
だが、なさけないかな! まともなことは何ひとつやったことのないわたしが、また、へまをやったとて別に不思議ではなかった。わたしとしては乗りかかった船でいまさら引っこみはつかず、前進するばかりであった。今や自分の性分《しょうぶん》とはまるでかけ離れた仕事、自分の好きな生き方とはまったくうらはらな仕事に従うことになったのだ。こんなことのために父の家を捨て、父の親切な忠告もことごとくはねつけたわけか。
ところがわたしは、父があれほどわたしに勧めてくれたまさにその中位の生活、あるいは、下層階級の上の部の生活に、はいろうとしている。もしこの生活を続けていくとすれば、故郷にとどまっていたほうがまだましであったということになり、何もあれほど苦労することはなかったのだ。こういう生活ならイギリス本国で友人たちの間でも結構できたはずだ。それをわざわざ五千マイルも離れた異境の荒野で他国人や蛮人《ばんじん》の間にはいり、自分と少しでもつながりのあるところからは風の便りもこないこんな遠国に、なぜ来てしまったのかと、愚痴《ぐち》の出るのもしばしばであった。
こういうふうに、わたしは現在の境遇を深い深い悔恨の情をもって見るのであった。話し相手といっては例の隣人のほかなく、それもほんの時たまであった。仕事といってもただ自分の手でやるよりほかはなかった。これでは絶海の孤島《ことう》に島流しにされ、ただ一人で暮らしているようなものだと愚痴をこぼした。われわれがもっとひどい境遇を引き合いに出して現在の境遇の不平をこぼす時、天はただちにその境遇をとり替えてくれて、新たな体験によって、以前の境遇がいかに幸福なものであったかを人に知らせるものだが、この天の配剤の妙! まことに人はよくよく考えてみるべきである。事実、天罰てきめん、わたしが先ほど考えたその絶海の孤島の天涯孤独の生活がわたしの運命となったのである。わたしは当時の生活を島流しの生活同様だなどといったのはまったくの見当ちがいであった。もし当時の生活をあのまま続けていたならば、大金持ちになって栄華《えいが》をきわめていたことはまず間違いのないところであった。
わたしの農場経営の方策も一応めどがついたころであったが、わたしを海上で拾い上げてくれた例の船長、わが親切な友がいよいよ帰ることになった。この船は荷を積んだり、出航の準備をしたりして三か月近くも港にとどまっていたのであった。出発するという時に、些少《さしょう》ながらわたしがロンドンに残してきた金のことを話すと、彼は真心のこもった親切な忠告をしてくれた。いつものようにわたしを「イギリスのお方《かた》」と呼んで、こういうのであった。
「もしあなたがしかるべき書状と正式の委任状をわたしにくださって、ロンドンであなたのお金を保管している方に、あなたの財産をリスボンのわたしの指定する者へ送るように、それもここの土地に向くような商品で送るように、と命じてくださったらどうでしょう。うまくいけばわたしがこんど当地に戻ってくる時にその商品を持ってきてあげられます。しかし人間のすることはどんな変事、災害に会わないともかぎりませんから、あなたの資産の半分といわれる百ポンド分だけの注文をして、まず手始めの試しにやってみたらどうでしょうか。それが無事に行ったら、同じ方法で残りも注文するのですね。もし万一途中で事故があって失敗しても、残りの半分に頼ってなんとか必要なものは間に合わせることができましょう」
これはまことに有益な勧告であり、友情に満ちたものであったので、これこそわたしのとるべき最善の策だと考えざるを得なかった。そこでわたしはポルトガル人の船長のいうとおりに、金を託してきた婦人あてに手紙をしたため、船長への委任状をととのえた。
わたしはイギリスの船長未亡人にわたしの思いがけない経験を一部始終書いてやった。奴隷になったこと、逃げ出したこと、海上でポルトガルの船長に会った顛末《てんまつ》、この船長の情ぶかい振舞い、現在の自分の生活の状況などを、欲しい品物についての必要な依頼の向きとともにこまごまと書き送った。
この誠実な船長はリスボンに着くと、そこにいたあるイギリス商人の手を経て、わたしの注文書ばかりでなく、わたしの身の上話の手紙もともにロンドンの商人のところへ送ってくれた。この商人はさらにそれをちゃんと未亡人に伝えてくれた。これを知って未亡人はわたしの預けた金を渡してくれたばかりでなく、自分の金を出して、ポルトガル船長がわたしに示してくれた深いなさけに報いるために、ずいぶんりっぱな贈り物をしたのである。
ロンドンの商人はこの百ポンドの金で船長が指定したようなイギリスの商品を買い込み、直接リスボンの船長あてに送り、船長はそれを全部無事にブラジルのわたしの手もとまで運んできてくれた。荷物の中にはわたしの指図をまたずに(というのはわたしはまだ新米だったので、そこまで気がつかなかったのだ)船長が気をきかして農場経営に必要な道具一式、鉄器類、用具がはいっていた。これは大いに役に立った。
この荷が着いた時、まったく思いがけない喜びだったので、これで産をなしたような気がした。わたしの支配人のようなこの船長は、未亡人が贈り物として彼に送った五ポンドを投げ出して、六年の年季奉公という契約で、一人の召使いを雇って連れてきてくれた。そのお礼心に何かやろうとしても、少しばかりのたばこのほか何も受け取ろうとしなかった。たばこはわたしの手作りだからというのでむりに受け取ってもらったのである。
それだけではなかった。わたしの受け取った品物はすべてイギリス製で、たとえば、布地、毛織物、あら織りの毛織物などといった、当地ではとくに貴重で需要の多い品物であったから、大いに利益の上がる売り方ができた。そんなわけで、最初の着荷は原価の四倍を上回る利潤《りじゅん》を上げたといってもよい。わたしはあの隣人をはるかにしのぐことになった。つまり農場経営の規模においての話である。まず第一に黒人奴隷一人とヨーロッパ人の召使い一人を買った。これで船長がリスボンから連れてきてくれたヨーロッパ人の召使いのほか、もう一人召使いができたことになる。
しかし好事《こうず》魔多しということがあるが、わたしの場合もまさにそれだった。翌年の農場収穫は大成功であった。たばこは自分の土地から大束五十個も上げたが、これは近隣の人たちと日用品と交換したほかの分であった。これら五十束はいずれもひと束の重さが百ポンド以上もあったが、じゅうぶんに乾燥して、船がリスボンから帰ってくるまで貯蔵しておいた。
さてこうして事業は繁昌《はんじょう》し、金がたまってくると、わたしの頭は力不相応な計画や企業のことでいっぱいになってきた。こういうのが、えてして敏腕《びんわん》な事業家の破滅のもととなるものである。
もしわたしが現状に甘んじてこれを続けていたならば、まだまだ幸福はいくらでも訪れたかも知れなかった。そういう幸福を願えばこそ、父はあんなに熱心にじみな静かな生活をわたしに勧め、中位の生活こそそういう幸福に恵まれるのだと、あんなによくいって聞かせたのであった。
ところがわたしはほかのことに心を奪われていた。わたしは依然として強情にみずから不幸を招こうとしていた。次々に過失を重ね、やがては悲しみに身を沈めて、自責《じせき》の念をいよいよ深めようとしていたのだ。こういう失敗はことごとくは、わたしのどうにもならぬ強情が招いたもので、愚かな放浪癖を後生《ごしょう》大事と守り、その赴くままに走り、神と摂理が相まってわたしの任務として与えた人生の目的と方途を、正々堂々と遂行《すいこう》してさえいけば自分のためになることは明らかであるのに、あえてこれに背いた結果なのである。
両親のもとから家出した時にもそうであったが、こんどもまた現状にがまんができなくなり、農場の経営を続けていけば裕福な人間になれるのだという何不足ない考えを打ち捨て、ものの順序というものを無視して、いっきょに名を成そうという無謀誇大《むぼうこだい》な欲望の達成へと走らねばならなかった。このようにして、いまだかつていかなる人間もおちいったことのないような、人間の生命と健康がいまだかつて堪ええたことのなかったような、悲惨のどん底へとわれとわが身を投じたのである。それでは順序を追ってこの話の顛末《てんまつ》を詳細に述べることにしよう。
読者も想像できるだろうが、ブラジルに住みついて四年近くなり、農場経営もきわめて順調に発展しかけてきたのだが、その間に土地の言葉を覚えたのはもちろん、同業の農場主たちの間や、最寄りの港であるサン・サルヴァドルの貿易商人たちの間にも知己友人を得た。こういう連中と話をしている時に、わたしはよくギニア沿岸に二度の航海をしたこと、そこで行なわれた黒人との交易の仕方などを話し、そこでは数珠玉《ビーズ》、玩具、ナイフ、鋏《はさみ》、手斧、ガラス器具といった安っぽい雑貨と交換に、砂金、薬用種子、象牙《ぞうげ》などはもちろん、ブラジルで使用できる黒人をいくらでも手に入れることができると語った。
こういういろいろの話題に彼らはいつもじっと聞きいるのであったが、黒人が買えるという話にはとくに熱心であった。当時、黒人の売買は余り広く行なわれていたわけでなく、行なわれているといえば、スペイン、ポルトガルの国王の特別の許可のもとに、公然と独占的になされていた。したがって売買される黒人の数は少なく、その値段も法外に高かった。
たまたま、わたしは知合いの商人や農場主たちといっしょになり、今いったようなことを熱心に話したことがあった。すると翌朝、そのうちの三人がわたしのところへ来て、実は昨晩、あなたの話されたことをいろいろ考えてみたあげく、ある秘密の提案を持ってきたのだ、という。固く秘密を守ってもらいたいと念を押してから、次のようにいうのであった。
われわれはギニア行きの船を仕立ててみたいと思っている。われわれ三人はあなたと同様、みんな農場を持っているが、困ることといえば農場労働者の不足ほど困っていることはない。ギニアから黒人を連れてきても公然とこれを売るわけには行かない以上、商売としては成り立たないのだから、ただ一航海だけ試みて、ひそかに黒人を運びこみ、自分たちの農場で分配したい。要するに問題は、ギニア沿岸で取り引きを処理するために貨物|上乗人《うわのりにん》として、あなたに行ってもらえるかどうかだ。資金のほうの負担はかけないで、黒人の分前《わけまえ》は等分にさしあげるという条件でどうであろうか。
こういうことであった。
もしこの提案が、ちゃんと自分の農場を持ち、しかもそれが発展の一路をたどろうとしているもので、資本も相当におろしている、という人間でないものに出されたとすれば、正直にいって、結構な提案に違いなかった。だが、わたしにはそうではなかった。なにしろ、しっかりした地盤もでき、もう三、四年今までどおり仕事を続けていけばそれでよいし、イギリスから残りの百ポンド取り寄せる手はずをすればよい。そうしているうちに、この僅かな金額を加えて、三、四千ポンドの金持ちになるのは間違いっこなしで、それもなおふえていく一方なのだ。そういう順境にあるわたしがこんな航海に心をひかれるなんて、およそ非常識のかぎりであった。
しかしながら、みずから破滅の手を下すように生まれついているわたしには、この提案に抗《こう》することはできなかった。父の懇篤《こんとく》な勧告を無にして、放浪への誘惑をおさえることができなかったとまったく同じ事情であった。
けっきょく、わたしは喜んで航海に出かける旨《むね》を答えた。ただし、留守のあいだはわたしの農場の世話をしてくれること、もし万一失敗した場合には、わたしの指示するとおりに農場を処分すること、これを条件として出した。これにはみなが同意し、それを実行する趣旨《しゅし》の契約書を書いた。
それから私が死んだ場合、農場と動産の処分に関して正式の遺言《ゆいごん》書を作製して、命の恩人であるポルトガルの船長を、前のとおり、わたしの包括《ほうかつ》相続人と定め、彼にはわたしが遺言書の中で指定したとおりに動産を処分する義務があるものとした。すなわち、農産物の半分は彼の所有に帰し、他の半分はイギリス本国へ送るべきことを記したのである。
要するに、わたしは自分の財産を保護し、農場を維持するためには周到なる注意を払ったのである。せめてこの半分の思慮を払ってわが身のためを考え、何をなすべきか、何をなすべきでないかを判断していたならば、万事好調な事業を手離し、繁栄を約束された前途を放棄して、危険をともなうことは当然のあんな航海などには出かけないはずであった。航海に危険はつきものであるが、わたしにはわが身に特別に不幸を招くいわれがあったことは、いうまでもなかった。
わたしはせき立てられるままに、理性よりも感情の命ずるところに盲目的に従った。船の準備はでき、船荷も積みこまれ、その他万端契約どおりに共同出資者たちによってなされたので、いよいよ乗船することになった。時あたかも一六五九年九月一日の不祥《ふしょう》の時刻、ちょうど八年前、両親の権威に反逆し、わが身を誤まる愚行にふみ出し、ハルの父母の家を出奔《しゅっぽん》したその同じ日であった。
われわれの船はおよそ百二十トン積みの船で、六門の砲を備え、船長と給仕とわたしのほかに十四名の乗組員がいた。大きな積荷はひとつもなく、荷物といえば黒人との取り引きに手ごろな雑貨だけで、数珠玉《ビーズ》、ガラス器具、貝殻《かいがら》製品、その他雑多な品、とくに小さな鏡、ナイフ、鋏《はさみ》、手斧といったものであった。
わたしが乗船したその日に船は出帆した。海岸に沿うて北方へ進路をとり、北緯《ほくい》十度か十二度あたりに達した時、アフリカ海岸を目指して航行する計画であった。それが当時のきまった航路らしかった。沿岸航行中はずっと非常によい天気であった。ただものすごく暑かった。やがてサン・アウグスティノ岬のあたりまで上って、そこから沖に出ていくにつれて陸地の影が見えなくなった。進路を北東微北にとり、フェルナンド・デ・ノローニャ島を一応の目標にしているようすであったが、やがてこれらの島を東方に望んで進んだ。この進路のまま約十二日たって赤道を通過し、最後の観測によれば北緯七度二十二分の地点に達した時、まったく不意打ちに大旋風《トルナードー》、あるいは大暴風《ハリケーン》というものに襲われた。
風は初めは南東から吹き、やがて北西に変わり、それから北東にすわり、猛烈に吹きまくった。われわれの船は十二日間ぶっとおし、暴風に追われて疾走に疾走を続けるほかなく、運命を暴風の猛威の思うままにどことも知らず流されるにまかせた。
この十二日間というもの、今日こそ海にのみこまれるだろうと思わない日は一日もなかったし、乗組員の誰一人として命が助かると思ったものもいなかった。これはいまさらいうまでもない。
この遭難の最中に、暴風の恐怖に加えて、乗組員の一人が熱射病で死に、もう一人と船長付きの給仕が波にさらわれるということがあった。十二日目ごろに嵐もやや静まってきたので、船長もかろうじて観測を試みた。
その結果、現在の位置が北緯で約十一度、経度は二十二度も、サン・アウグスティノ岬から西にずれていることがわかった。つまり、船はギニア沿岸か、アマゾン河のずっと北、通称大河というオリノコ河の河口に近い、ブラジルの北部かに来ていることがわかった。船長は、船には水漏れができ、損傷が大きいから、今後どういう進路をとるべきかわたしに相談をもちかけた。彼はまっすぐブラジル沿岸へ向けて帰航しようという腹であった。
わたしはそれには絶対反対であった。そして船長といっしょにアメリカ沿岸の海図を調べて、カリブ諸島の海域まで行かないかぎり、その付近には頼ろうにも人の住んでいる土地がない、という結論に達した。そこでバルバドス島に向けて進路をとることにきめた。メキシコ湾の内流を避けて外海を航行していけば、希望どおりに行けば、ほぼ十五日の航海で楽にそこに着くことができる予定であった。とにかく船体にも人員にも若干《じゃっかん》の補給をつけなければ、どうしたってアフリカ沿岸までたどり着くことはできなかった。
この計画にもとづいてわれわれは進路を変更して北西微西に舵をとり、イギリス領諸島のどれかに着いて、救援を求めようと考えた。ところがこの航海は当てはずれの運命となった。というのは北緯十二度十八分の地点にさしかかった時、第二の暴風に襲われたからだ。われわれは前の暴風とまったく同じ激烈さで、西へ西へと吹きまくられ、普通の通商航路からはまったくそれたところに押し流されてしまった。それでたとえ海上で命は助かったとしても、無事に国へ帰れるどころか、野蛮人に食われる危険のほうが多かった。
風は依然として猛烈に吹いているこの遭難の最中、朝がた早く船員の一人が「陸だ!」とさけんだ。
ひょっとすると今どの辺に来ているのかわかるかも知れないと思って船室からとび出していくと、まさにその瞬間、船は浅瀬に乗り上げ、たちどころに船は動かなくなり、すさまじい勢いで怒涛《どとう》が頭上に砕けてきた。われわれは一人残らずもうだめだと思った。とにかく、砕ける波の泡《あわ》しぶきを避けようと狭い船室へかけこんだ。
このような目に会ったことのない人には、こんな場合に人がどんなにうろたえ騒ぐものか想像することもいい表わすこともできないだろう。われわれはいったいどこにいるのか、なんという土地に打ち上げられたのか、島なのか本土なのか、人が住んでいるところか無人のところか、皆目《かいもく》わからなかった。初めほどではないにしても、風の激しさはなおはなはだしく、奇蹟《きせき》でも起こって風向きが急転しないかぎりは、数分もたたないうちに船はばらばらになってしまうと考えないわけにはいかなかった。
そんなわけで、われわれはお互いに顔を見合わせて今か今かと死を待つばかりであった。各自そのつもりのしぐさであの世へ行く覚悟をきめていた。こうなってはほかになんのしようもなかったからだ。さし当たっての慰《なぐさ》め、ただひとつの慰めは、われわれの予想に反して船がまだ破砕《はさい》しないことと、風の勢いが弱り始めたという船長の言葉とだけであった。
なるほど風の勢いは少し弱るには弱ったと思われたけれども、船は浅瀬に乗り上げて、そこから離れることなぞ思いもよらぬほどしっかりくっついてしまっているのだから、われわれの危機はまったく恐ろしいもので、なんとか命だけは助かりたいとあせるだけであった。暴風の直前には船尾にボートを一隻つないでいたが、風が起こると真っ先に船の舵《かじ》にぶつかって壊れ、それから本船から離れてしまった。沈んだにせよ、押し流されたにせよ、このボートは当てにならなかった。もう一隻のボートが船に積んであったが、これを水面に降ろすことはあぶなっかしいことであった。けれどもそんなことをあれこれいっている余裕はなかった。船は今にもばらばらになりそうに思われたし、いや、事実すでに壊《こわ》れてきたという者もいた。
この騒ぎのなかで、航海士はボートに手をかけ、他の乗組員の手を借りてそれを舷側《げんそく》からつり降ろし、全員をこれに乗りこませて船を離れた。こうして、われわれ全員十一名は神の慈悲と荒海に生命を託した。いかにも暴風は目に見えて静まってはきたが、まだ、岸辺には山のような怒涛が打ち寄せていた。これはオランダ人が呼ぶように、まさに「|狂える海《デン・ウイルド・ゼー》」と称してしかるべきものであった。
今や事態は実に暗澹《あんたん》たるものであった。波浪《はろう》は高くボートはとうてい乗り切ることはできず、もはや溺死をまぬがれないことは明らかであった。帆を張るにも第一、帆そのものがなかったし、かりにあったとしたところで、どうにもしようはなかった。オールだけを頼みとして陸地に向かってけんめいに漕いだが、心は死刑におもむく囚人《しゅうじん》のように重かった。舟が岸に近づけば、砕ける波浪のために木《こ》っ端《ぱ》微塵《みじん》になることはわかりきっていたからだ。しかしわれわれは、心から魂を神に委《ゆだ》ねていた。陸地に向かって風に押し流されながら、必死にオールを漕いで、わが手を下して自分の破滅へと急いだわけであった。
海岸はどうなっているのか、岩礁《がんしょう》なのか砂州《さす》なのか、絶壁かそれとも浅瀬か、皆目《かいもく》わからなかった。万が一にもという望みにもならない望みといえば、湾か河口へたどりつき、よほど運がよくてそこに舟を漕ぎ入れるか、あるいは陸地の陰にはいって風を避け、静かな水面に逃げこむか、というところであった。しかしそういう見込みは全然あらわれなかった。岸に近づけば近づくほど陸地は沖よりももっとすさまじい様相を呈した。
一リーグ半ほど漕いだかな、いやむしろ、風に押し流されたかなと思った時、山のような激浪が舟の背後からおおいかぶさってきた。われわれはついに最後が来たと観念した。ひと言でいえば、その波の猛烈な一撃で、ボートはあっという間に顛覆《てんぷく》し、われわれはばらばらに舟からなげ出され、「おう、神よ」という暇《いとま》もあらばこそ、一瞬にしてみんな海中にのみこまれてしまったのだ。
海中に沈んでいった時に感じたあの混乱した気持ちはまったく名状《めいじょう》のしようがない。わたしは水泳は達者であったけれども波から首を出して息をつくこともできなかった。波は陸地に向かってかなりの距離、わたしを押し流した、いや運んでいった。波の力が抜けて引き返したとき、わたしはほとんど乾いた砂の上に、多量の水を飲んで死んだように、投げ出されていた。それでもまだ多少は息をつく力も、心の落着きも残っていたし、思っていたよりも陸地に近く来ているのを見て、ふらふらと立ち上がって、次の波が寄せ返してきてまたさらわれてはかなわないと思い、いっしょうけんめいに陸地へ向かって進んだ。
しかし、とうていその波からのがれられないことがすぐわかった。山のような激浪《げきろう》が、抵抗するすべも力も許さぬ敵のような猛威をみせて背後に迫っていた。わたしのできることは息をつめて、できるだけ水面に体を浮かしておくこと、息をついては泳ぎ、できるかぎりは岸のほうへ身を進めることであった。今の最大の心配は、寄せ波はわたしを陸のほうへだいぶ運んでくれるだろうが、逆に、返す波には遠く沖のほうへもっていかれるのではないかということであった。
ふたたび襲ってきた大波はわたしをいっきょに二、三十フィートも深く水中へ埋めてしまった。そしてものすごい力と速さでずっと岸のほうへもっていかれるのを感じた。わたしは息をつめて全力を出して陸のほうへと泳いだ。息をつめていたので、今にも胸がはり裂けようとした。
ちょうどその時、体がすうっと浮かび上がって水面に顔と両手が出たので、ほっとひと息つくことができた。水面に出たのは二秒にも足りなかったけれども、それでもたいへん助かって息もつけたし勇気も出た。またかなり長いこと水をかぶっていたが、何とかもちこたえることができた。波の力が減じて引き始めたので、寄せ返す次の波にさらわれまいとけんめいに泳いでいくと足が底に触れた。ちょっと立ち止まって息をつき、水が引いていくのを待って、残っていたあらんかぎり力を出して岸へとかけだした。けれどもこんども激浪からのがれられず、追いかけて襲ってくる波をかぶり、二度までも巻きこまれ、またまた岸のほうへと運ばれていった。浜はずっと遠浅になっていたのだ。
この最後の時は、すんでのことに命を失うところであった。激浪は前の時と同じようにわたしを押し流して、岩の一角にわたしを打ち上げた、というより、たたきつけたからだ。そのたたきつけようがひどかったので、わたしは気を失ってしまって逃げようにもどうにもしようがなかった。脇腹と胸をひどく打ったので息がつけなくなっていた。で、波がすぐに寄せ返してきたら、わたしは溺死《できし》していたに違いなかった。幸い次の波が返してくる前に少し回復していた。また水をかぶるに相違ないと思って、岩にしっかり掴《つか》まり、できるかぎり息をころして水の引きさがるまでがんばろうと決心した。陸に近いせいか、こんどの波浪は初めのほど高くはなかったので、それが引くまで岩にしがみついてもちこたえた。それからひと走りするとだいぶ岸に近づいたので、次の波はかぶったけれども、のみこまれてさらわれることはなしですんだ。さらにひと走りすると陸地だった。岸のけわしいがけをよじ登って草の上に腰を降ろした。初めて危険を脱し波のとどかないところにたどりついて、ほんとうにほっとしたのであった。
わたしはこれで無事に陸地を踏むことができたのだ。わずか数分前まではほとんど望みがなかったのに、生命がこのように助かったことを、天を仰いで神に感謝した。いわばいったんはいった墓穴から救い出された時の魂の狂喜、忘我の境地を如実《にょじつ》にいい表わすことはとうていできないと思う。罪人が首に絞首索《こうしゅづな》をまきつけられ、体をしばられてまさに刑を執行されるという時、執行猶予《しっこうゆうよ》の令状がもたらされる、それといっしょに外科医も連れてこられる。それは執行猶予をしらせた瞬間に囚人の血を採ってやるためである。さもないと囚人は驚喜のあまり生気を失いがっくりときてしまうかも知れない、
『突如と訪れれば悦《よろこ》びもまた悲しみと同じく、まず人を呆然《ぼうぜん》たらしめる』
からである。こういう情景も今にしてみればあながち不思議とは思われない。
わたしは両手をさし上げながら、海岸を歩き回った。救われたという歓喜に、いわば全身つつまれて、手の舞い足の踏むところを知らずというありさま。仲間はみんな溺《おぼ》れ死に、助かったのはただ自身一人だといまさらのごとく思うのであった。仲間のものはその後まったく見かけることもなく、手がかりになるものとて、縁《へり》のついた帽子三個と縁のない帽子一個、片方ずつの靴二つとだけしかなかったからである。
坐礁《ざしょう》した船のほうへ目をそそいだが、砕ける波のしぶきが高くてよく見えなかったが、ずいぶん遠くのほうにあった。よくもあんな遠くから岸にたどりつけたものだと、あらためて考えこんだ。
助かったといううれしさでひと安心したあとで、あたりを見回してみた。いったいここはどこなのか、次に何をしたらいいのか、考えてみるとあまり安心もしていられない。せっかくの命拾いも≪ぬか喜び≫になるかも知れないことがすぐわかった。体はずぶ濡れで着替えの服はなし、元気づけようにも食べるもの飲むもの、何ひとつない。前途は、餓死するか、さもなければ野獣の餌食《えじき》になるほかない。とくに困ったことは、武器を何ひとつ持っていなかったことで、自分の食糧のために狩猟するにも、こちらを餌食にするために殺そうとする相手を防ぐにも、まったく無手《むて》であった。わたしが身につけているものとしてはナイフ一丁、パイプ一本、箱に入れた僅《わず》かのたばこだけ、これがわたしの全財産であった。この事態を知ると、恐ろしい苦悶に陥り、しばらくの間狂人のように走り回った。夜が迫ってくると、もしこの付近に飢えた野獣がいたとすれば、はたして自分の運命はどうなるだろうかと考えて、暗澹《あんたん》たる気持ちになった。そういう野獣はかならず夜間に獲物をあさりに出歩くからである。
この時に思いついた唯一の打開策は、近くに生えていた一見|樅《もみ》の木のようであるが、とげの多い、鬱蒼《うっそう》たる木に登って、とにかく一夜を明かすということであった。まだなんとも生きのびる見込みはないので、死ななければなるまいが、それは明日考えることにした。飲めるような真水《まみず》があるかどうか捜して岸から二百メートルばかり歩いてみると、うれしいことにそれが見つかった。水を飲んでから、飢えをしのぐために少量のたばこを口に入れ、さっきの木のところに戻り、木の枝の中に登って、眠っても落ちないよう身の置き場を工夫した。それから、護身用に、警棒のような短かい棒を切りとって、そこに一夜の宿をとった。極度に疲れていたのですぐに寝ついて実に気持ちよく熟睡した。こんな状態でこんなに気持ちよく眠れるものはまずあるまい。眼がさめた時も、こんな場合にはとうてい考えられないほど、きわめて爽快な気分であった。
目をさました時はもうすっかり明るくなっていて、天気は晴れて、暴風はおさまり、海は前日のように荒れてもおらず、うねりも大きくなかった。しかしいちばん驚いたことは、船が、坐礁していた浅瀬から夜のうちに潮のうねりでもち上げられて、前に述べた例のわたしがたたきつけられて大けがをした岩のあたりまで押し流されてきていることであった。そこまではわたしが今立っている海岸から一マイル足らずで、船はまだちゃんと浮かんでいるように見えるので、船に行けたら、少なくとも必要な手回り品くらい手に入るだろうに、と思った。
木の上の宿から降りてきて、もう一度あたりを見わたしてみると、最初に目についたものは、左手約二マイルほどの海岸に、風と波に打ち上げられたボートであった。岸辺伝いにボートのところへ行こうと思って歩いていったが、およそ幅半マイルばかりの入江にへだてられていることを知った。そこでひとまず引き返して、さし当たって生きるためのものが見つかるかも知れない本船のほうへ行くことを考えた。
正午少しすぎると海はすっかりなぎ、潮もずっと遠くまでひいたので、船から四分の一マイル足らずのところまで歩いていけた。ここでわたしはまた新たに悲しみを感じた。もしわれわれがあのまま船に残っていたならば、われわれはみな無事であったろう。つまり、みな無事に上陸していたであろうし、わたしにしても今のように、なんの慰めもなく、天涯孤独のみじめな思いをしなくてもすんだはずだ。これがいまさらのようにはっきりとわかったからである。そう思うとまた涙がとめどなくあふれ出た。しかし涙を流していてもなんのたしにもならなかったので、できることなら船まで行こうと決心した。極度に暑かったので衣服を脱いでしまって海の中へとび込んだ。
船に着くには着いたが、甲板に登るすべが見つからないのでさらに困ったことになった。船は浅瀬に乗り上げているので船体は水面からずっと高くなっていて、掴《つか》まえる手がかりになるものは何もなかったからだ。船のまわりを二度泳いで回って、二度目の時に短いロープが船首の錨鎖《いかりぐさり》のところから垂れ下がっているのを見つけた。どうして最初に気がつかなかったか不思議だが、とにかくさんざん苦労してそれを掴んで、それを頼りに前甲板に登ることができた。この部分は船底に漏れ口ができて、船倉には水がいっぱいはいっていることを知った。船は固い砂洲《さす》、というより地面の斜面に乗り上げているため、船尾は洲《す》の上にもち上がっていて、船首は水面近くまで突っこんでいた。こんなぐあいで船尾《クオーター》側は難を免《まぬが》れ、そこにあったものはみんな水に濡れていなかった。これを確めたのは、ご推察のとおり、水のために使いものにならなくなったものとそうでないものを確かめることを真っ先の仕事としたからであった。
まず、船中にたくわえてあった食料品は全部無事で、少しも水に潰《つか》っていないことを知った。何しろ物が食べたかったので食料品室へ行ってビスケットをポケットに詰めこみ、それをかじりながらほかのものを見回った。一刻もぐずぐずしている余裕はなかったからだ。大船室ではラム酒を見つけ、思いきりひと口ぐいと飲んだ。これがだいぶ利《き》いたので、これからの仕事に立ち向かう元気が出た。これから必要になると思われるいろいろの物を運ぶためのボートが、まず何よりも欲しかった。
じっと手をこまねいて、ないものねだりをしていてもなんにもならないことであった。切羽《せっぱ》つまると創意工夫も浮かぶ。船には予備の帆桁《ほげた》が数本、大きな円材が二、三本、予備のトップ・マストが一、二本あった。これらを材料にして仕事にとりかかることにした。
これらの材木を流れないように、ひとつひとつ紐でしばって、持てる重さのものをできるだけたくさん海中に投げこんだ。それがすむと舷側《げんそく》を降りていって、その材木を引きよせ、そのうちの四本の両端をしっかりと結び合わせて筏《いかだ》の格好に作り上げた。その上に二、三枚の短い板を十文字に置くと、その上を歩いても結構沈む心配はないことがわかった。けれども材木が軽すぎるのであまり重い物は載《の》せられなかった。そこでもうひと仕事することにし、大工用の鋸《のこぎり》で予備のトップ・マストを三つに切断し、さんざん苦労して筏に結びつけた。生活に必要な物を確保したい一心から、普通の場合にはとてもできそうもないことをやりおおせる勇気が出たのであった。
わたしの筏《いかだ》はこれで少々重いものを載せてもだいじょうぶになった。次の問題は、何をこれに載せるか、また載せたものをどうして波に濡れないようにするかであったが、それは長く思案するまでもなかった。手にはいるかぎり多くの板をまず載せた。何がいちばん必要かをよく考えて、水夫用の衣服箱を三つ持ち出して、錠前《じょうまえ》を壊《こわ》して中身をからにし、筏に降ろした。まず第一の箱には食料品を詰めた。パン、米、オランダチーズ三個、航海中たいへん厄介《やっかい》になった乾燥|山羊肉《やぎにく》五切れ、それにヨーローパの穀物の残りものが僅《わず》かなどであった。この毅物は船中で飼っていた鶏の餌《えさ》だったが、鶏はすでに死んでいた。大麦と小麦もあったはずだが、鼠《ねずみ》にすっかり食い荒らされているのを知って、まったくがっかりしてしまった。酒類は船長用の壜詰《びんづめ》が数箱あって、その中には強壮飲料と全部で五、六ガロンのアラック酒とがあった。これらは箱に入れる必要もなく、またその余裕もなかったので、それだけひとまとめにして筏に載せた。
こういうことをしている間にいつのまにか潮がしずかに満ち始めていた。しまったと思った時はすでに手おくれで、砂浜に脱いでおいてきた上衣とシャツとチョッキがふらふらと流れていってしまった。ズボンはリネン製の半ズボンだったが、これとストッキングだけで船に泳いできたのだった。それで衣類のことが気になり、捜してみるとずいぶんたくさん見つかったが、さし当たって必要な分だけ持っていくことにした。それはほかにもっと目をつけたものがあったからだ。たとえば、まず陸で使う道具類などである。さんざん捜し回ったあとで大工の道具箱が見つかったが、これこそ重宝この上なしの収穫で、その時としては船一杯の黄金《こがね》よりもはるかに貴重なものであった。この道具箱をそっくりそのまま筏《いかだ》に積んだ。箱の中身など調べもしなかったが、だいたいどんなものがはいっているのか承知していたからである。
次にほしいものは弾薬と武器だった。大船室に上等な猟銃《りょうじゅう》が二挺とピストルが二挺あった。まずこれらの武器と、角《つの》製の火薬筒数本、散弾入りの小袋一個、古い錆びた剣二本とを確保した。船内には火薬|樽《だる》が三本あったはずだが、砲手がどこかにしまったのかわからなくて困ったが、さんざん捜してやっと見つけた。二樽は異状がなく、もう一樽は湿気をくっていた。異状のない二樽を武器といっしょに筏に積んだ。これでまずまずじゅうぶんの荷積みはできたわけだが、さてこれをどうして陸に運ぶか考えこんでしまった。なにしろ、帆もオールも舵もないし、ちょっとした軽風でも吹けば、この筏の運行はまったくだめになってしまうからだった。
わたしを勇気づけてくれるものが三つあった。第一、海面が凪《な》いでいたこと、第二、潮が満ち始め岸のほうへ流れていること、第三、わずかながら陸地に向かって吹いている風があったこと。ボートについていた壊れたオール二、三本と、道具箱にはいっていたもののほかに、鋸《のこぎり》二挺と斧《おの》一個と金槌《かなづち》一本とを見つけ、これらを筏《いかだ》に積んで、ようやく浜辺へと向かった。一マイルかそのへんまでは筏は調子よくいった。ただ、わたしが前に上陸した地点からやや離れたほうへ流されていくのがわかった。それによって、潮の内流があることを知り、その方向に入江か河口が見つかるかも知れないし、それが荷物を陸揚げする港として使えるかも知れないと思った。
事実、想像したとおりで、やがて前方に小さな河口が見え、強い潮の流れがその中へ流れこんでいた。そこで筏を潮流のまん中に乗せておこうとけんめいに舵をとった。しかし、ここで危《あやう》く難破の惨事をくり返すところであった。もし実際に難破したら、それこそ悲嘆にくれたであろう。このあたりの海岸の地形にまったく不案内であったものだから、筏がついに浅瀬に乗り上げてしまった。筏の一端だけが浅瀬に乗り上げ、他の一端は乗り上げていないので、もう少しでも傾けば積荷は全部ずるずるとその端のほうへ滑ってきて水中に落ちてしまうところであった。積荷の箱がずり落ちないようにこれに背中をあてて防ぎながら必死にやってみたが、わたしの力では筏を浅瀬から離すことはできなかった。また、体をちょっとでも動かすわけにもいかないので、全力をだして箱をささえたまま半時間近くがんばっていた。
そのうちに潮が上がってきて筏《いかだ》の傾きがなおってき、やがて潮がなお満ちてきたもので筏がちゃんと浮き上がった。持っていたオールで筏を潮流のまん中に押し出し、ぐんぐんと進めて、とうとう小さな河の河口にたどりついた。その左右には陸地がひろがり、強い潮流が河をさかのぼって流れていた。上陸するに適当な場所はないかと西岸を眺めた。そのうちに沖を通る船を見かけることもあるだろうと思って、あまり上流まで行く気はなく、できるだけ海岸近くに落ち着こうと決心した。
ついに河口の右岸に小さな入江を見つけ、ずいぶん苦労して筏をそこへ近づけ、とうとう、オールを河底につき立てて、まっすぐ入江へ押し入れることができた。ここでまた、危《あやう》く荷物全部を水浸しにするところであった。岸がけわしく、つまり傾斜が急であるので、せっかく上陸地点を見つけても、筏《いかだ》の一端が岸につくとそちらがずっと高くなり、他の端はやはりずっと低くなって、荷物が水にずり落ちる危険があったのだ。そこで岸辺の平坦《へいたん》なところ近くを選んで筏を浮かべ、オールを錨《いかり》がわりにして筏の片側を岸にくっつけるようにしておさえ、潮が満潮になるのを待つという以外に手はなかった。満潮になればその平坦な地面も水をかぶることになると予想した。そして予想どおりになった。喫水《きっすい》が一フィートほどあるわたしの筏が動けるほど水かさがましてきたのを見すますやいなや、平坦の地面の上まで筏を押しやり、折れた二本のオールを一方の側の一端と他方の側の一端にそれぞれ地中につきさして、筏をしばりつけた。つまり、繋留《けいりゅう》したわけである。こうして待つうちに、潮はひき、筏も荷物も全部地上に残ったのであった。
次の仕事はあたりの地形をよく見て、住居に適当な場所と、不慮《ふりょ》のでき事から守るために、荷物をしまって置くところを捜すことであった。
自分が現在いるところは、いったい大陸なのかそれとも島なのか、人が住んでいる土地かそれとも無人の土地か、野獣の危険があるのかないのか、皆目《かいもく》わからなかった。ここから一マイル以上は離れていないところに小さな山があって、それはけわしくそそり立ち、そこから北方へ尾根のように連なっている幾つかの小山の上にそびえているように見えた。猟銃とピストル各一挺と、火薬を入れた角筒一個とを携えて、その小山の頂上まで探索《たんさく》に出かけた。ずいぶん苦労して頂上にたどり着いたが、そこでわたしははなはだ不幸なわが運命を見たのであった。すなわち、わたしは四面海にかこまれた孤島にいて、はるかかなたにある岩礁と、西方九マイルほどのところにある、この島よりもっと小さなふたつの島のほかには、陸の影はまったく見えないことを知ったのである。
わたしはまた、この島が不毛《ふもう》の地であることを知った。そして、無人の島と考えてまず間違いない、と思った。住んでいるものがあるとすれば野獣であるが、その姿はまだ見かけなかった。しかし野鳥は豊富に見られた。けれどもその種類は見当がつかず、数羽殺してみたが、どれが食用になるのかならないのかも全然わからなかった。
帰り道で、大きな森の縁にある一本の木の上にとまっていた大きな鳥を撃ち落とした。この時の銃声が天地|開闢《かいびゃく》以来この島で鳴り響いた最初の銃声であったと思う。この発砲と同時に森のあらゆるところから多種多様の鳥が無数に飛び立ち、騒々しく鳴き立てた。それぞれの鳥がいつもの鳴き声を出していたのだろうが、わたしの聞き慣れたものはひとつもなかった。わたしが殺したやつは一種の鷹《たか》だったと思う。羽の色と嘴《くちばし》が似ていた。けれども爪は鷹のらしくなく、ありふれたものにすぎなかった。肉は腐肉《ふにく》も同然で食用にはならなかった。
発見もこのくらいのところで一応満足して、筏《いかだ》のところへ帰ってきて、荷物を陸揚げする仕事にとりかかった。それが日暮れまでかかってしまった。さて夜はどうしたものか、いや、どこに寝たものかもきまらなかった。地面に横になるのは、野獣に食われることもあるかも知れないと思うといやだった。もっともそんな心配はまったく不要だということはあとでわかった。
とにかく、陸揚げした箱や板でできるだけ自分の周囲に防塞《バリケード》をめぐらし、一夜の宿のために小屋のようなものを作った。食物のほうはどう補給したらいいか見当がつかなかった。ただ、先に鳥を撃った森の中から野兎《のうさぎ》に似た動物が二、三匹逃げ出すのは、見たことは見た。
役に立つものが船からまだまだたくさん運び出せるのではないかと考え始めた。とくに索具《さくぐ》とか帆とか、その他陸に持ってこられそうないろいろな物である。できるなら、もういっぺん船まで行ってこようと決心した。こんど暴風が襲ったら船はひとたまりもなくばらばらになることはわかりきっているから、運べるものはなんでもかんでも船から持ち出して、ほかの物はいっさい一応そのままにしておこうときめた。そこでわたしはとくと相談した。というのは、わが心と相談したのであるが、問題は筏《いかだ》を本船までまたもっていくべきかどうかであるが、これは実行不可能とみえた。潮がひいた時に、もう一度前と同じようにして船に行くことにし、そのとおり実行した。ただ、小屋を出かける前に衣服は脱ぎすてて、格子縞《こうしじま》のシャツとリネンのズボンと軽い靴だけを身につけていたのだった。
前のときと同じようにして船に上がり、二番目の筏を用意した。最初のときの経験があるので、こんどのはもっと扱い易いものにこしらえ、荷物もそんなにむりに積まなかった。それでもぜひ必要なものはいくつか持ち出してきた。第一に大工用の備品の中に、小釘と犬釘のいっぱいはいった袋が二、三個、大きなねじジャッキが一個、手斧が一、二ダース、とくに重宝な砥石《といし》というものが一個見つかった。これらの品をまずひとまとめにしておいて、それから砲手のものであったいろいろの品、とくに鉄挺《かなてこ》二、三個、マスケット銃弾二|筒《つつ》、マスケット銃七挺、猟銃一挺、それに若干《じゃっかん》の火薬と、散弾のはいった袋一個、鉛板ひと巻などを手に入れた。しかしこの最後の品は重くて持ち上げて舷側から降ろすことはできなかった。
これらの品物のほかに、見つかった衣類全部、予備の前檣帆《ぜんしょうほ》一枚、吊床《つりどこ》一個、寝具類若干などを持ち出し、これを二番目の筏に積みこんで全部無事に陸揚げすることができ、ほんとうに安心した。
島を離れている間多少心配になることがあった。他のものはともかく食料品が何ものかに食い荒らされはしまいかと思ったのだが、帰ってみると何も来た様子はなかった。ただ、山猫に似た動物が箱の上に坐っていて、わたしが近づくと少し離れたところへ逃げていき、じっと立ち止まった。
この雌《めす》山猫は平然と落ち着きはらってこちらの顔をまじまじと見つめて、仲良しになりましょうといわんばかりの様子であった。鉄砲を向けてみたが、なんのことかまったくわからないらしく、平然とすましたもので、動こうともしなかった。そこでビスケットをひと切れ投げてやった。たくわえが多いわけでないのであまり気前よく分けてやったわけではなかった。とにかくひと切れ分けてやると、寄ってきて匂いを嗅ぎ、食ってしまった。気にいったらしくもっとくれという顔をしたが、もういいだろうといってそれ以上やらなかったら、どこかへ行ってしまった。
二番目の荷物も陸揚げしたが、火薬の樽《たる》は大きなもので大へん重かったので、樽をあけて小さな包みにして少量ずつ運ばなければならなかった。それがすむと、数本の柱を適当に切り、それと帆とで小さなテントを作った。雨や日光に当たるといたむと思われるものをなんでもこのテントの中へ持ちこみ、空の箱や樽は全部テントのまわりにぐるっと積んで、人間にしろ野獣にしろ、外からの不意の襲撃に備えることにした。
この仕事がすむと、テントの入口を内側からは数枚の板で、外側からは空の箱をたてに立てて、ふさいだ。そこで地面に寝具のひとつをひろげ、枕もとに二挺のピストルを置き、銃は体にそって横たえ、久しぶりに床についた。疲れ果てていたので、ひと晩じゅうぐっすりと眠った。何しろ前の晩はほとんど眠らなかったし、船から荷物を運び、またそれを陸揚げしたりして、この日は一日じゅう働きどおしであったからである。
こうしてあらゆる物資を詰めた倉庫ができたわけだが、一人の人間の使用するものとしては、まず最大の倉庫であったと思う。それでもわたしはまだ満足しなかった。本船があのままの姿勢でちゃんと立っている間は、持ってこられるものはいっさいがっさい持ち出してくるべきだと考えた。そういうわけで毎日潮がひくと船に行ってあれこれといろんな物を持ち帰った。
とくに三度目に行ったときなどは、持ち運べるだけの索具《さくぐ》、細綱と麻紐《あさひも》、それに必要に応じて帆の修理に用いる予備の帆布、濡《ぬ》れ火薬ひと樽などを持ってきた。要するに、帆という帆は全部持ち帰ったわけだが、ただ、小さく切って一度に持てる分だけずつ持ってこなければならなかった。帆といっても帆として役に立つものではなく、ただ帆布として使えるにすぎなかったからである。
しかし最後の最後にもっとうれしいことがあった。このようにして五、六回も船に往復して、もうこれ以上苦労して捜すほどのものは何ひとつ残っていないと思っていたが、その後でなのだ。まったく意外にもパンのはいった大樽一個とラム酒か何かの大きな酒樽三個、砂糖ひと箱、上等の小麦粉ひと樽を発見した。これにはまったく驚いてしまった。食料品があるとしたところで、水浸しになったもの以外には何もないとあきらめていたからであった。大樽の中のパンを取り出し、帆をこまかく切った布でいくつもの小包にした。そしてけっきょく、これもまた全部、無事に陸に揚げることができた。
翌日また船に行った。手で持ち運びできるものはみんなかっぱらってしまったあとなので、こんどは錨索《いかりづな》の番だった。大きな錨索を手で持てるように切断し、けっきょく二本の錨索と太綱一本を、ありったけの鉄器とともに、陸揚げすることができたのだった。まず斜檣帆桁《しゃしょうほげた》と後檣帆桁、その他切りとれる物は、みんな切りとって筏を作り、それに今いった重い物を載せて船を離れた。
だが、わたしはそろそろ幸運に見はなされ始めた。何しろこんどの筏は扱いにくくできていた上に荷が勝ちすぎていたもので、それまで荷物の陸揚げがうまくいっていた例の小入江に、はいるにははいったが、前の筏のように手際《てぎわ》よくあやつれないで、筏は転覆《てんぷく》し、わたしも荷物もいっしょに水中に投げこまれてしまった。岸が近かったのでわたし自身はたいしたこともなかったが、荷物のほうは大部分失ってしまった。とくに大いに役立つものと期待していた鉄器をあらかた失った。もっとも潮がひいたときに、切断した錨索の大部分と鉄器類の一部は陸に引き揚げた。これには大へんな苦労をした。何しろそれを引き揚げるには水にもぐらなければならなかったので、これがひどく疲れる仕事だった。この後もわたしは毎日船に通い、持ってこられるものはなんでも持って帰った。
上陸してからもう十三日になった。船に行くこと十一回に及んだ。その間に、およそ一人の手で運べるものと考えられるものはすべて船から持ち去った。いや、ほんとうのところ、もし穏やかな天気さえ続いたならば、ばらばらにして船全体を持ってきてしまったかも知れないのだ。しかし十二回目に船に出かけようと準備している時に、風が出てきた。それでも、引き潮を見はからって船に行った。船室はあれほど徹底的に捜しつくしたのだから、もう何も見つかるはずはないと思っていたのに、引出しのついた錠前《じょうまえ》つきの戸棚が見つかった。引出しのひとつには、剃刀《かみそり》が二、三挺、大きな鋏《はさみ》が一挺、上等なナイフとフォークが一ダースばかりあり、別の引出しには、ヨーロッパやブラジルの貨幣、スペインのドル貨、その他金貨銀貨とりまぜて、英貨にして約三十六ポンドのお金がはいっていた。
このお金を見てわたしはにやっと笑った。思わず口に出していった。
「無用の長物よ。お前はいったいなんの役に立つのか。わたしにはなんの値打ちもない、地面に落ちていたって拾う値打ちもありはしない。お前のひと山よりも、あの一本のナイフのほうがもっと貴《とうと》い。お前はわたしには全然用がないのだ。そこに今いるままに留まっていて、救う価値なきものとしてやがて海底の藻屑《もくず》となるがいい」
とはいうものの、わたしは考え直して、その金を持っていくことにした。帆布の切れに金を全部包んで、さてもうひとつ筏《いかだ》を作ろうと考えた。しかしその準備をしているうちに、空がかき曇り、風が吹きだし、ものの十五分もたつと陸の方角からの強風となった。風が陸から沖へ吹いているのに筏を作ろうなんてむだな話だと気がついた。それより高潮のくる前に退却することが肝心《かんじん》で、さもないと全然陸に帰れないかも知れなかった。
そこでわたしは水中にとび込み、船と浅瀬の間の水路を泳ぎ渡った。これもなまやさしいことではなかった。身につけたお金の重さもあるし、荒い風波のせいでもあった。風は急速に激しくなり、高潮になる前に、もうりっぱに暴風となっていたからだ。
しかしわたしは小さなテントのわが家に帰り着いて、全財産をわが身の周りにおいて安心しきって横になった。風はひと晩じゅう吹き荒れた。
翌朝、起きだして外を見ると、どうだろう、船の姿はどこにも見えないではないか。少々驚きはしたが、落ち着いて考えてみると運がよかったと満足感に満たされた。自分に入り用なものは何から何まで船から持ち出したのだが、それには一刻の時間もむだにせず、少しの骨惜しみもしなかった。もっと時間があったとしたところで、いまさら持ち出せるようなものは船には何ひとつ残っていなかったと、つくづく考えたのであった。
もうこれ以上船についても、船から持ち出せる物についても考えることは止めにした。ただ、難破した船体から何か岸に打ち上げられるものがあるかも知れないとは思った。事実そのとおり、あとで船体の破片がいろいろ打ち上げられたが、それはほとんど役に立たない代物《しろもの》ばかりであった。
今や、わたしがもっぱら頭を使ったことは、もし蛮人が現われた場合、また、島に野獣がいた場合、どうしてわが身を守るかということであった。その方法はいくつも考えられた。またどんな住居をつくるか、地中に洞穴《ほらあな》を掘るか地上にテントを張るかを考えてみた。けっきょく、両方を作ることにきめたが、それがどんなふうのものか、ここでくわしく説明しても別に不都合なことはあるまい。
現在いる場所が定住するには向かないことはすぐにわかった。ここが海に近くて低い湿地で健康によくないと思われることが一つの理由だが、それよりも、付近に清水がないことがもっと大きな理由であった。そこでもっと健康的でもっと便利な地点を見つけようと決心した。
わたしの現在の境遇からみて適切と思われる条件をいくつか考えた。第一はついさっき挙げた健康と清水、第二は太陽の暑気が避けられること、第三は蛮人にせよ猛獣にせよ、貪欲《どんよく》な敵から身が安全に守れること、第四に海が見えるところであること。この最後のことは、もし万一神のおぼしめしで船の姿が見えた時、救われる機会をのがさないためで、今となってもその希望は捨てる気にはならなかったのだ。
こういう条件にあてはまる場所を捜すと、小高い丘の中腹にちょっとした平地を見つけた。この平地に面した丘の斜面は家の側面のようにけわしくて、どんなものも丘の頂上のほうからわたしを襲ってくることはできそうもなかった。この岩の斜面には洞穴の入口のように見える少し凹《へこ》んだ空洞があったが、実際には洞穴も、岩窟《がんくつ》への通路もなかった。
この平坦《へいたん》な草地の、空洞のすぐ前に、テントを張ることにした。この平地は幅は百ヤードを越えず、奥行きはその約二倍で、テントの入口の前に緑の庭のように広がっていて、その端はどちら側も、不規則に海岸に接した低地へとくだっていた。ここは丘の北北西側に位しているので、太陽が西微南あたりに回るころまで、つまりこの地方では日没に近いころまでは、毎日太陽の暑熱を避けることができるわけであった。テントを建てる前に空洞の前に半円形の線を描いた。それは空洞の岩を中心にして半径十ヤードのもので、岩の端から端まで計れば直径二十ヤードとなった。
この半円の線の上に二列のがんじょうな杭《くい》をうち込んだが、地面に深くうち込んだので建物の基礎杭のようにしっかりしていた。太いほうの端は地上に五フィート半出ていて、先端は鋭く尖《とが》らせておいた。二列の杭の間隔は六インチ以上はなかった。それから船の中で切断した例の錨索《いかりづな》を二列に並んだ杭と杭の間に詰めこみ、杭のてっぺんまでの高さに積み重ねた。一方、内側の杭にたてかけて、ちょうど≪けずめ≫のように、約二フィート半の高さの支柱をずっとめぐらした。これでこの柵も非常に強化されて、人間でも獣でも突破することも乗り越えることもできそうもなくなった。これを作るには多大の時間と労力を要した。ことに森から棒杭を切り出してここまで運んできて、地面に打ちこむのは大へんな仕事であった。
この場所への出入りには、入口を設けないで、短い梯子《はしご》を使って柵の上を越してはいり、はいってしまうとその梯子を引き上げてしまうのである。そうするとわたしは完全に外界から遮断され、また防衛されることになり、したがって夜も安心して眠れる。こうでもしなければおちおち眠ることはできなかった。もっともわたしが心配した敵の襲撃に対して、これほど警戒する必要はなかったことは、あとでわかった。
この柵、いや砦《とりで》、の中へ、前に述べたようなわたしの財産、食糧、武器弾薬、物資を全部運びこんだ。それから大きなテントを張った。一年のうちのある季節に、非常に激しく降る雨を防ぐために、テントを二重にした。つまり内側に小さなテントを張り、その上に大きなテントを張ったわけで、その外側のテントを、帆布《ほぬの》の中から取っておいた大きな防水布でおおったのであった。
ところで、船から持ってきたベッドにはしばらく寝ないことにして、その代わりハンモックに寝た。このハンモックは大へん上等なもので、もとは本船の航海士のものだった。
このテントの中に食糧の全部と、雨にぬれると損《そこな》われるものをすべて運び入れた。このように品物を全部囲いこんでしまうと、それまであけておいた柵の入口をふさいでしまって、前にもいったとおり、短い梯子で出たりはいったりした。
この仕事がすむと、こんどは岩の中へ穴を掘る仕事にとりかかった。そして掘り出した土や石をテントから外に運んで、柵《さく》の内側にテラスのように盛り上げると、地面が一フィート半足らず高くなった。こんなふうにしてテントの真うしろに洞穴をこしらえた。これはわが家の穴蔵《あなぐら》の用をなした。
これらのものがすべて完成するまでには多大の労力と多数の日数を要した。それで話を少し前に戻して、わたしの頭を占領していた、いろいろほかのことを語らなければならない。
テントを建て洞穴を掘ろうという計画を立てた後のことだったが、真っ黒な雲から豪雨が降り出したかと思うと同時に稲妻がひらめき、その当然の結果としてすぐあとにごう然たる雷鳴《らいめい》がなり響いた。わたしは稲妻に驚いたというよりも、稲妻そのもののように、わたしの頭にひらめいた一事に周章狼狽《しゅうしょうろうばい》したのだ。
ああ、火薬だ! 雷光一撃でわたしの火薬は全部ふっ飛んでしまうのだと思うと生きた心持ちはしなかった。思えば、火薬あってこそわが身の防御のみならず食糧の補給も可能なのだ。もし火薬に火がつけば、わたしがどんな危害をこうむろうと、だれがわるいも彼がわるいもあったものではないが、実は自分の身の危険をそれほど心配したわけではなかった。
この時の恐ろしかった印象が実に生々しかったので、嵐が過ぎてしまうと、建築や防御などのすべての工事は放り出してしまい、火薬を分散させるための袋や箱を作り、火薬を小さな包みにして少量ずつにしておく仕事をせっせとやった。それはどんなことが起こっても、全火薬が一時に爆発しないようにと思ったからである。またその包みを離れ離れにしておいたのは、火薬が次々に引火しないようにと考えたからである。
この仕事を終えるのにほぼ二週間かかった。火薬は全部で約二百四十ポンドあったが、これが少なくとも百個の包みに分けられたと思う。水浸しになった火薬の樽のほうは危険の心配はなかったので新しい洞穴、冗談に台所と呼んだ洞穴に入れておいた。その他の火薬は岩壁のあちこちにあるいくつもの穴の中に隠して湿気がこないようにし、注意ぶかく隠し場所の目じるしをつけておいた。
こういう仕事をやっている間もあいまを見ては、少なくとも一日に一回は銃を手にして出かけていった。気晴らしのためでもあるが、食糧になる獲物もとれるかも知れないし、またこの島からどんなものが出るか、できるだけ知っておくためでもあった。最初の時には、さっそく、この島に山羊《やぎ》がいることを知った。これは大へんうれしかった、けれどもすぐがっかりすることになった。というのは、山羊は大へん臆病で、敏感で、そのうえ足が速いので、これに近づくことは難事中の難事であった。それでも時にはきっと一頭くらい仕止められると思って、失望はしなかった。
事実、果たしてそのとおりになった。山羊のよく出てくる所が多少わかってから、こんなやり方で待ち伏せをすることにした。すなわち、わたしが谷間にいるのを見つけたら、山羊は岩山の上にいてもびっくりして逃げてしまうが、もし山羊が谷間でものを食っていてわたしが岩山の上にいる場合には、山羊はわたしのほうは全然気がつかないことがわかった。このことから、その目の位置のために山羊の視線は下のほうに向けられていて、自分より上のほうのものは易々《やすやす》とは見えないのだなと断定した。
そこでその後にとった方法は、いつも先手をうってわたしのほうが先に岩の上に登り、山羊を下に見おろして目標をうまくつけるというのであった。
山羊の群れに向かって放った第一弾は子山羊《こやぎ》に乳を飲ませていた雌を撃ち殺した。わたしはひどくかわいそうなことをしたと思った。親の山羊が倒れても子山羊はそばにじっと立ったままで、わたしが近づいて雌山羊を抱き上げても離れようとしなかった。そればかりか、親山羊を肩にかついで帰ってくる時もわたしのあとについて柵《さく》のところまで来てしまった。そこでわたしはまず母親の山羊を下におろして子山羊を抱きかかえて柵を越えて中に入れてやった。それは飼いならしてみたいと思ったからだが、子山羊はどうしても餌を食べようとしなかった。仕方なしにわたしのほうでこれを殺して食べてしまった。
この二頭の山羊の肉はずいぶん長い間わたしの食糧となった。少しずつ食べて、できるかぎり食糧、とくにパンを節約することを心がけたからである。
住居がきちんと定まると、火をたく場所と、そこで燃やす燃料を備えることが絶対に必要となった。そのためにわたしが何をしたか、たとえばどんなふうに洞穴を広げたか、またどんな設備をしたか、これはいずれ適当な場所でくわしく述べることにする。さしあたりまず自分のこと、生活についてのわたしの考えなどを少しく話さなければならない。想像されるとおり、これはけっして少なくはなかったのである。
わたしの今の境遇に対する見通しは暗澹《あんたん》たるものであった。わたしがこの島に漂着したのは猛烈な暴風にいわば押し流され、予定の航路からまったく離れ、普通の貿易船の通る航路からは遠く数百マイルもそれた所に押し流されたのであるから、この絶海の孤島でさびしく生涯を終えるということはまさに天の配剤であると考えざるを得なかった。これを考えると涙がとめどもなく頬を濡《ぬ》らすのであった。時にはまた、なぜ神はこのように情容赦《なさけようしゃ》なくみずから造ったものを滅ぼそうとし、なぜこのような悲惨な目に会わせようとするのか、なぜこのように救いなく見棄て、悲嘆にくれさせるのか、それでもなおこのような生活に感謝せよというなら、ばかばかしいことだというべきではないか、などとわが心に問いかけるのであった。
しかし、すぐあとから、こんな考えをおさえ、わたしを叱りつけるものがつねに現われた。ことにある日のこと、銃を片手に海岸を歩いていて、自分の現在の境涯を考えて悲しい思いに沈んでいた時、理性が、いわばまったく別な立場からわたしに向かって説くのであった。
お前がみじめな境遇にあることはいかにも事実だ。しかし考えてみるがよい、いったいほかの連中は今どこにいるか。ボートに乗ったのはお前たち十一人ではなかったか。その十人のものはどこにいるか。なぜその十人が助かってお前が亡くなるということにならなかったか。なぜお前だけが選び出されたのか。ここにいるほうがいいか、それともあそこのほうがいいか。
そして、わたしは海のほうを指した。どんな悪いことでもその中に含まれる良いことといっしょに考えなければいけないし、また、その悪いことにともなうさらに悪いことも、ともに考えなければいけないのだ。
さらにこういうことも頭に浮かんだ。生きていくに事欠かぬほどじゅうぶんな備えもできているではないか。船がいったん坐礁したのに、そこからふたたび浮かび上がって海岸のすぐ近くまで押し流され、そのおかげであんなにいろいろの物を運び出すひまもあったのだが、こんな文字どおり千載一遇《せんざいいちぐう》の事が起こらなかったならば、果たして今ごろ自分はどうなっていただろうか。また初めて上陸した時の生活の必需品もなければ、それを手に入れるに必要な用具もないあの状態で生きていかねばならなかったとしたら、いったい自分はどうなっていたか。
ひとり言ではあるが、口に出していった。ことに、鉄砲も弾薬もなく、ものを作ったり、ほかの工作に使ったりする道具がなく、衣服も寝具もテントも身をおおういっさいのものが、もしなかったとしたら、いったい自分はどうしたろうか。
ところが、こういったものはじゅうぶんに持っていた。たとえ弾薬が尽《つ》きて銃が使えなくなっても、生きていく方策を立てる目途《めど》もりっぱについている。したがって生きているかぎり、なんの不自由もなしに暮らしていける見当もかなりはっきりついているのだ。というのも、わたしは初めから不慮《ふりょ》の事態に備えるのはもとより、弾薬が尽きた後はおろか、健康や体力が衰えた後までの将来を思っていたからである。
正直いうと、弾薬がただ一発ですっ飛んでしまう、つまり、落雷で引火すればわたしの火薬は一時に爆発するのだということは全然頭になかったのだ。それで、今いったように、実際に雷《かみなり》が鳴り、稲妻がひらめいてみると、このことが思われて、あわててしまったわけであった。
さて、これからおそらく前代|未聞《みもん》ともいうべき沈黙の生活の場面の憂鬱《ゆううつ》な物語にはいるのであるが、その発端から始めて順次に進めていきたいと思う。
前に述べたような経緯《いきさつ》でわたしがこの恐るべき孤島に足を踏み入れたのは、わたしの計算によると九月三十日であった。われわれには秋分にあたっていて、太陽はほとんど頭上真上にあり、天測によればわたしは北緯九度二十二分の地点にあったのである。
十日か十二日ほど経ってから、こんなふうに帳面もペンもインクもないと、日数の計算がわからなくなり、聖なる安息日と平日の区別さえつかなくなると思いついた。そんなことにならないように、大きな柱にナイフで頭文字で文句を刻みつけ、その柱で大きな十字架を作り、わたしが最初に上陸した地点にそれを立てた。文句は「一六五九年九月三十日我ここに上陸す」というのである。
この四角な柱の側面には毎日ナイフで刻み目をつけ、七番目ごとに刻み目は他のものの二倍の長さにし、毎月の第一日にはそのまた二倍の長さにした。こうしてわたしは暦《こよみ》をつけた。すなわち週、月、年という時間の算定をしたのである。
次にいっておかねばならないことは、上に述べたとおり何度も船に行っていろいろな物を持ち出してきたが、その中に他にくらべてはたいして価値はないが、わたしにとってなかなか有用なものが若干《じゃっかん》あり、それを前に書き落としていたということである。その品は、たとえばペン・インク・紙、それから船長、航海士、砲手、大工などがめいめい持っていた数個の包み・三、四本のコンパス・製図器械・日時計・遠眼鏡《とおめがね》・海図・航海術の本などで、必要になるかどうかわからないが、とにかくひとまとめにして置いた。それにりっぱな聖書が三冊あった。これはイギリスから送ってきたわたしの荷物の中にはいっていたもので、他の所持品といっしょにひっくるんで置いたものだった。ポルトガル語の本も数冊あり、その中にはカトリックの祈祷書《きとうしょ》が二、三冊まじっていた。ほかにもまだ数冊の書物があったが、これらをみんな大切にしまっていたのだ。
船中で飼っていた一匹の犬と二匹の猫のことも忘れてはならない。これらの動物の特筆すべき物語も然《しか》るべきところで述べる機会があるだろう。
二匹の猫はいっしょに連れてきたが、犬のほうは一回目の荷揚げをした翌日、自分で海中にとび込んで陸に泳ぎ着いてわたしのところに来て、それ以来長年わたしの忠実な僕《しもべ》となったのである。わたしは犬が獲物をくわえてきてくれるのを望んだわけでもなく、仲間つき合いをしてもらいたいわけでもなかった。ただ犬に話しかけてもらいたかったのだが、それは所詮《しょせん》むだな願いであった。
前にもいったとおり、ペンとインクと紙を見つけたが、わたしは極力節約して使うことにした。これからお目にかけるように、インクが続くかぎりはわたしはいろいろの記録をひじょうに正確につけたが、インクがなくなってしまうと、それが全然できなくなった。いくら工夫してもインクを作ることはできなかったからである。
インクのことから、すでにずいぶんたくさんのものをたくわえこんだにもかかわらず、まだ欲しいものがたくさんあることに気がついた。インクもそのひとつだが、その他に、たとえば土を掘ったり持ち運んだりするための鍬《すき》・鶴嘴《つるはし》・シャベルの類、針・ピン・糸などがそうである。リネンの衣類はなくてもそう困らないようにすぐなれた。
こういう道具類がないために仕事がどんなに渋滞《じゅうたい》したか知れなかった。わたしの小さな柵、つまり柵に囲まれたこの住居に完全に造作を備えるまでに満一年近くを要した。わたしに持ち上げられるほどの重さの棒杭《ぼうぐい》でも、森の中で切り出して準備するのにずいぶん長い時間がかかったが、それを家へ持ってくるにはもっと時間がかかった。一本の柱を切って住居まで運ぶのに二日、それを地面に打ちこむのにもう一日かかることも時々あった。杭を打ちこむのに初めは重い木材を用いたが、あとで鉄挺《かなてこ》があったことを思い出して、とり出して使ってみたが杭打ちはひじょうに骨が折れて退屈な仕事であった。
しかし考えてみると、時間はあり余るほどあるのだから、ぜひしなければならないことであるなら、どんなに退屈だって文句はないはずではないか。またその仕事がすんでも、少なくとも当座のところは、次の仕事が待っているわけではなかった。ただ仕事といえば食糧を求めて島を歩き回るくらいのことで、これは多かれ少なかれ毎日実行していたのだ。
自分がおかれている境遇、自分が今陥っている窮境《きゅうきょう》をわたしはまじめに考え始めた。そして今の事態を記録に書いてみた。自分には跡とりなどできる当てはないのだから、あとに来る者のために遺《のこ》すつもりではなく、むしろ毎日同じことをくよくよと考えて思い悩むことから解放されたいためであった。理性が憂欝《ゆううつ》な気持ちをおさえるようになるにつれ、だんだんわれとわが身を慰め、良い点と悪い点とを並べてみて、自分の場合よりもっと悪いこともあり得ることを知る≪よすが≫としようと思うようになった。
そこでわたしはきわめて公平に、貸し方と借り方というように、わたしの味わっている喜びとわたしがなめている苦しみとを、次のように書き記してみた。
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凶 恐ろしい孤島に漂着して、救出の望みは絶無である。
吉 他の乗組員は全部溺死したのに、自分は溺死を免れて、こうして生きている。
凶 わたしは、いわば全世界からえり抜かれ、隔離されて悲惨な目に会っている。
吉 わたしだけが全船員からえり抜かれて死を免れた。奇蹟的にわたしを死から守ってくれた神は、この境遇からもわたしを救い出してくれることができる。
凶 わたしは全人類から引き離された孤独者、人間社会から追放された亡命者である。
吉 食うものもない不毛の地におりながら餓死《がし》を免れている。
凶 身にまとうべき衣類もない。
吉 幸い暑い地帯にいる。衣類があったとしても着ることはできまい。
凶 人間や野獣の襲撃をうけたら、防御《ぼうぎょ》あるいは抵抗の手段もない。
吉 わたしが打ち上げられた島には、アフリカの海岸に見たような人間に危害を加える野獣の姿は見られない。アフリカ海岸で難破したとすればどうなっていたであろうか。
凶 わたしには話しかける相手も慰《なぐさ》めてくれる人もまったくない。
吉 不思議にも神様は船を浜辺近くに押し流してくれたので、多くの必要な物資をとり出すことができた。それでわたしの必要はじゅうぶん満たされるであろうし、また一生涯必要品の補給ができることになるであろう。
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概《がい》してみれば、この世の中のいかなるみじめな境遇であっても、そこには消極的にせよ積極的にせよ、感謝に値する何ものかがあるということを、わたしのこの表がはっきりと証明していた。この世の中での、最も悲惨な境遇の体験から生まれたものとして、これを生活のひとつの指針とされたい。すなわち、どんな悲境の中にも、何かしらわれわれを慰めるものがあり、吉凶の貸借勘定《たいしゃくかんじょう》ではけっきょく貸し方のほうに歩《ぶ》がある、ということである。
自分の境遇にいくらかでもなじむような心持ちになり、船の姿を求めて沖ばかり眺めることをやめるようになると、こんどは生活条件の改善に努力し、できるだけ住み心地よいものにしようと努め始めた。
わたしは自分の住居のことはすでに述べたが、それは岩壁の下に設けられたテントで、杭《くい》と錨索《いかりづな》でできた堅固な柵で囲まれていた。その柵は今では壁と呼んでよいかも知れなかった。というのは柵の外側に約二フィートくらいの厚さの芝土《しばつち》を壁のようにそえて築いたからである。それからしばらくして、たしか一年半くらい経ってから、その壁から岩壁へ垂木《たるき》をわたし、雨を防ぐように、木の枝やその他手に入るものでそれに屋根を葺《ふ》いた。季節によって雨はひどく降ることを知ったからである。
わたしは物資全部をこの柵の中と、またうしろに掘った洞穴の中に運び込んだことはすでに述べたとおりである。けれども、ことわっておかなければならないが、最初はこれがやたらに積み上げた荷物の山で、まったく乱雑をきわめていて、自分のいる場所も占領されて身動きひとつできない始末であった。
そこで洞穴をもっと深く掘り広げる仕事にとりかかった。岩はもろい砂岩であったので、わけなく掘ることができた。猛獣の危険がまずないと見きわめがつくと、洞穴を中途から右手に掘り進み、さらにまた右に折れて進み、けっきょく、外に出ることになり、わたしの柵、または砦《とりで》なるものの外側に出る出入り口を作ったわけである。
これでいわばテントと倉庫への裏道ができ、出入りに便利になったばかりでなく、荷物をしまう場所も広くなったのである。
そこでこんどはわたしにいちばん必要だと思うものを作る仕事にとりかかった。それは椅子とテーブルで、これがないとこの世でせっかく自分に許されているわずかの楽しみも味わえなかった。テーブルがなくては書くことも食事をすることも、その他いろいろのことも気持ちよくするわけにいかなかった。
そこで仕事にとりかかった。しかしここでぜひいっておかなければならないことがある。理性は数学の本質であり根源である以上、すべてのことを理性で処理し、すべての事物をもっとも合理的に判断していくならば、どんな人間でもやがてはりっぱな機械屋になれるということである。わたしはそれまでは道具ひとつ使ったことはなかった。それでも時が経つうちに、努力と勤勉と工夫のお陰《かげ》で、欲しいものはなんでも作れないものはなくなった。ことに道具があればなおさらの話であった。いや、道具がなくても、実にたくさんの物を作った。≪ちょうな≫と手斧だけで作ったものさえある。これはけだし前代未聞の方法で、しかも果てしもない手間をかけたものであった。
たとえば、もし一枚の板が欲しいとすると、木を切り倒してそれを自分の前に立てかけ、斧で両面から削《けず》っていって相当の厚さの板にする、それから≪ちょうな≫で表面を平らにする、というほかに方法はなかった。もちろん、この方法ではまるまる一本の木から一枚の板しかとれなかったが、辛抱《しんぼう》するより仕方がなかった。厚くても薄くても、とにかく一枚の板を作るのに途方もない時間と労力がいることも、やはり辛抱ひとつであった。
だが、時間にしろ労力にしろ、たいして惜しいものではなかったので、どんな使い方をしても大差はなかった。
とにかく、前に述べたとおり、まず第一にテーブルと椅子を作った。これは筏《いかだ》に積んで船から持ってきた短い板切れで作ったのである。しかし、上に述べたような方法で数枚の板を仕上げると、幅一フィート半の大きな棚を作り、洞穴の側面に沿うて幾段にも重ね、その上に諸道具や釘や鉄器などいっさいを置くようにし、つまり、品物を分類してそれぞれの置き場をきめ、いつでもすぐに取り出せるように考えたのである。岩の壁に釘を打ちこんで鉄砲など懸《か》けられる物は全部それに懸けるようにした。
こういうわけで人がこの洞穴を見たならば、生活必需品の大倉庫と見たであろう。あらゆる物がいつでもすぐ使えるように並んでいるので、自分の所有物がこのように整然としているのを見るのは、ことに生活必需品がこんなに豊富に揃えてあるのを見るのは、実に楽しいことであった。
わたしが毎日の行事の日記をつけ始めたのはちょうどこのころからであった。というのは、初めのころはあまりにあわただしく、仕事のことであわただしいばかりでなく気持ちの上でも狼狽《ろうばい》していたので、日記をつけたとしてもただ退屈なことばかりになったであろうと思われるからである。たとえばこんなことを書いたに違いない。
「九月三十日、溺死を免《まぬが》れて岸にたどりついたが、命が助かったことを神に感謝するどころでなく、腹いっぱい飲みこんだ塩水を吐きだすのが先。少し元気が回復すると海岸をかけずり回って、手をもみ頭や顔をたたきながら、自分の不幸を呪《のろ》い、もうだめだ、もうだめだとどなりちらして、そのあげく疲れ果てて気が遠くなり、地面にぶっ倒れて休息せざるを得なくなったが、何かに食い殺されはしまいかという恐怖で眠るわけにもいかなかった」と。
この後数日経って、船に行って持ち出せるものはすべて持ち出してきた後、沖を通る船でも見えはしまいかと、小高い山の頂上に登って海上を望んでみたい気持ちを、自分でどうにもおさえられなかった。頂上から見ていると、遥かかなたに帆影をたしかに認めたような気がして、希望に満たされて喜んだ。目がかすんで何も見えなくなるほどその帆影を追っていたが、とうとうそれを見失い、はては地上にひれ伏して子どものように泣きだしてしまった。こんな愚《おろ》かしいことをして、いたずらにわが不幸を深めるのみであった。
このような不安な心境もいくぶん克服し、家の道具や住居もちゃんと整え、椅子とテーブルを作り、身の回りもすっかり整頓するに至って、日記をつけ始めたのであった。その日記の写しをここに示すが、すでに述べたことをもう一度操り返すことになるかも知れない。インクがなくなって中断せざるを得なくなるのであるが、それまでの日記をずっと記すことにしよう。
〔日記〕
一六五九年九月三十日
哀れなロビンソン・クルーソーと名のるわたしは、恐ろしい嵐のため沖合で難破し、この無気味な不幸な島に漂着した。この島をわたしは「絶望の島」と呼ぶことにしたが、他の乗組員は全部溺死し、自分もほとんど瀕死《ひんし》の状態であった。
この日一日じゅう、この身にふりかかった不幸な境遇を思い、悲しんですごした。食物も家も衣服も武器もなければ逃げるところもなく、救われる望みもまったくなく、前途には死あるのみであった。野獣に食われるか、蛮人に殺害されるか、食べるものがなくて餓死するかのいずれかである。夜になると野獣を恐れて樹上に寝たが、終夜の雨にもかかわらず熟睡した。
十月一日
朝になってみると、満潮のために船は浮き上がり、ずっと島近くに流されてきているのを見て大いに驚いた。船が横倒しにもならず、ばらばらに砕かれてもいないのを見ると、風が静まれば船に行って食糧やその他の必用品をとってきて当座はしのげるかも知れないと思って、ほっと安心はしたが、一方ではまた、仲間の死を悲しむ心がまた新たに起こった。
もしわれわれ全員があのまま船に止まっていたならば、船を助けることができたかも知れない。少なくとも全員溺死ということは免れたであろう。もし船員たちが助かっていたら船の破片でボートを作り、ほかのところに行けたかも知れない。こんな想像もできるのであった。
この日の大部分はこんなことをあれこれ思いわずらってすごしたが、やがて潮がひいて船体全部がほとんど水面に現われたのを見て、できるだけ近くまで浅瀬を歩いていき、その先は泳いで船に着いた。この日は一日じゅう雨がふり続いたが風はまったくなかった。
十月一日より同二十四日まで、この間はもっぱら、いく度も船に往復して持ち出せるものはなんでも持ち出すことに費やした。荷物は潮が満ちるごとに筏《いかだ》に載せて陸に運んだ。時々晴天の日もあったが雨の日が多かった。雨季のように思われた。
十月二十日
筏《いかだ》に積んであった品物全部ごと筏を転覆させてしまった。しかし水が浅かったし、品物も大体重いものばかりであったので、潮がひいてから大部分は引き揚げることができた。
十月二十五日
夜も昼も雨が降り続き、時折激しい突風が加わった。風が前よりいっそう激しくなって、船はいつの間にか打ち砕かれて、姿が見えなくなってしまった。ただその残骸《ざんがい》が干潮時に見えるだけであった。船から持ってきた荷物が雨に濡れて損われないように、おおいをかけて安全にしておくような仕事に終日をすごした。
十月二十六日
住居を定める場所を捜して、ほとんど一日じゅう海岸を歩き回った。野獣や蛮人から夜、襲撃されないようにすることが大事なことなので。
夕方近く岩壁の下に適当な場所を定め、そこに野営の場所として半円形を地面に描き、その区画に、二列の杭《くい》を打ち、内側には錨索をめぐらし、外側には芝土《しばつち》を積んで、構築というか、壁というか、砦《とりで》というか、そういうもので強固なものを作る決心をした。
二十六日より三十日まで、荷物を全部この新しい住居に運搬《うんぱん》することをけんめいに実行した。この期間中、時折猛烈な雨が降った。
三十一日の朝、鉄砲を携えて食物を捜し、地勢を調べるために島の奥へ出かけた。一匹の雌山羊《めすやぎ》を撃ち殺したが、その子山羊が家までついてきた。餌をやっても食べようとしないので、これもあとで殺してしまった。
十一月一日
岩壁の下にテントを張って、まず最初の夜をそこに寝た。杭を打ちこみ吊床《つりどこ》をつって場所をできるだけ広く使うようにした。
十一月二日
箱や板や筏の材料になっていた木切れなどを集めて、身のまわりに囲いを作った。それは砦として区画していたところの少し内側であった。
十一月三日
鉄砲を持って出かけ、鴨《かも》に似た鳥を二羽うち殺したが、これはすこぶる美味《びみ》であった。午後はテーブルを作る仕事にとりかかった。
十一月四日
けさからは働く時間、鉄砲を持って出かける時間、睡眠の時間、娯楽の時間などをきちんと定めることにした。すなわち、毎朝、雨が降らないかぎり、鉄砲を持って二、三時間歩き回る、それから十一時ごろまで労働する、次にあり合わせの物で食事にする、ものすごく暑いので十二時から二時までは昼寝、夕方はふたたび労働する、こういうことにした。
今日と翌日の労働の時間はもっぱらテーブルの製作に使われた。何しろわたしはまだ、まことに情《なさけ》ない職人であったからだ。しかし、必要にも迫られ時間もかけたので、わたしもやがて生まれながら職人のようなりっぱな職人になった。これはだれだって同じことだと思う。
十一月五日
今日は鉄砲を持ち犬を連れて出かけ、山猫を一匹撃ち殺した。毛皮はなかなかやわらかかったが肉は全然お話にならない。わたしは殺した動物はどんなものでも、その毛皮を剥《は》いで保存しておくことにした。
海岸伝いに帰ってくる途中、わたしの知らないいろいろな種類の海鳥を見たが、二、三匹のあざらしがいたのには驚き、ほとんど肝《きも》をつぶした。初めよくわからないのでじっと見ていたら、この時は、海中へもぐって逃げてしまった。
十一月六日
午前中の例の外出のあと、ふたたびテーブル作製の仕事にとりかかり、完成したがどうも気にいらなかった。これを直す要領も間もなく覚えた。
十一月七日
どうやら天気も定まりかけてきた。七日、八日、九日、十日と十二日の一部(十一日は日曜だったので)これを椅子作りに全部あてた。さんざんに骨を折ってどうにか見られる形に仕上げたが、どうも満足できず、途中で幾度かばらばらに取り壊したりした。
付記、わたしはこの後ほどなく安息日を守らなくなってしまった。柱に安息日のしるしを付けるのを怠《なま》けたので、いつが安息日かわからなくなってしまったからである。
十一月十三日
今日は雨が降った。お陰で非常に爽快《そうかい》な気分になり、涼しくなった。けれどもこれは恐ろしい雷鳴と稲妻をともなったので、火薬のことで恐ろしい恐怖に襲われた。雷雨がすぎると直ちにたくわえてある火薬を、できるだけたくさんの小さな包みに分散して万一の危険に備えることにした。
十一月十四、十五、十六日
この三日間、一ポンドか、多くても二ポンドどまりの火薬のはいる小さな四角な箱をいくつも作ることに費やした。箱に火薬を入れて、相互にできるだけ離して安全な場所にしまった。この三日のうちのある日、大きな鳥を一羽撃ち落とした。肉は美味であったが、なんという鳥か知らない。
十一月十七日
場所を広げてもっと便利にするように、テントの後《うしろ》の岩壁を掘り始めた。
付記、この作業のためにぜひとも欲しいものが三つあった。すなわち、鶴嘴《つるはし》とシャベル、それに手押し車か篭《かご》である。そこで作業はひとまず中止して、この必要をどうして補うか、道具類をどうして作ったものだろうかと考えこんだ。鶴嘴には鉄挺《かなてこ》を利用することにした。重いが結構間に合った。次のものはシャベルか鍬《くわ》であったが、これは絶対に必要であって、これがなくては仕事の能率は全然上がらない。しかし、さてどんなのを作るかとなると、皆目《かいもく》見当がつかなかった。
十一月十八日
昨日《きのう》の今日《きょう》であるが、森の中を捜し回って、木の質が非常に堅いのでブラジルでは鉄の木と呼ばれている木、あるいはこれに似た木を見つけた。斧を台なしにするほどさんざん苦労してこの木を一本切りとり、家まで運んできたが、非常に重いので、これまたずいぶん骨が折れた。
木が極度に堅いし、ほかに方法もないので、この道具を作るには長い手間がかかった。わたしは少しずつシャベルか鍬《くわ》の形になるように作っていって、柄《え》はイギリスにあるものとまったく同じにできたが、端の広い部分は鉄がかぶせてないので、あまり長くもちそうではなかった。しかし、ときどき使うぶんには結構役に立った。それにしても、こんなふうにして、またこれほど長い時間をかけて作られたシャベルはかつてなかったと、わたしは思っている。
それでもまだ不足しているものがあった。篭《かご》か手押し車が欲しかった。篭《かご》はどうしても作れなかった。編み細工《ざいく》が作れるような撓《しな》う小枝がなかった、少なくとも今までのところ見つからなかったからである。手押し車のほうは車輪以外の部分はなんとか作れると思ったが、車輪だけは見当がつかなかった。どこから手をつけるかも全然わからなかった。それに、車輪の心棒を通す鉄のつぼ金の作り方にいたっては、全然その方法が考えられなかった。そこでこれはあきらめることにした。しかたがないから、洞穴から掘り出した土を運搬するためにホット(もっこ)のようなものを作った。これは煉瓦工《れんがこう》の下働きをする人夫がモルタルをいれて運ぶ入れ物である。
これはシャベルを作るほどむずかしくはなかった。それでも、これとシャベルと手押し車を作ろうとしたむだ骨折りとで、じつに四日もかかってしまった。もっとも鉄砲を持って朝出かけることは別で、これはめったに欠かしたことはなく、また出かければ必ず何か食べられる物を持って帰ることができた。
十一月二十三日
こういう道具を作らねばならなかったため、ほかの仕事は停頓《ていとん》してしまっていたが、道具が一応でき上がると、前の仕事を継続して、力と時間の許すかぎり毎日働き、持ち物が便利よく片付けられるように洞穴を広く深くするのにまるまる十八日を費やした。
付記、この十八日間、この部屋つまり洞穴を広げて、倉庫あるいは貯蔵所、台所、食堂、および穴蔵まで設けられるほどの広さにしようとせっせと働いた。寝泊りするところはテントのほうにしたが、ただ雨季にはひどい雨が降って、どうしても濡れるのを防げない時があるのでテントを避けることもあった。それで後には柵の内側全体に垂木《たるき》の格好に長い棒を岩壁にわたし、それに≪すげ≫と大きな木の葉を載せて草ぶきの屋根のようにした。
十二月十日
わたしの洞穴、あるいは貯蔵所というものが完成したと思ったとたんに、天井と片方の壁から大量の土砂《どしゃ》が崩れ落ちてきた(洞穴をあまり大きく広げすぎたせいかも知れない)。むりもない話だが、わたしはびっくり仰天《ぎょうてん》した。もしその下にいたとしたら、墓掘りの手をわずらわす必要はなかっただろうからだ。この災難でまたやり直さねばならない仕事がたくさんできてしまった。崩れた土砂を運び出さねばならないし、それより肝心なことは、二度と土砂《どしゃ》崩れがないように天井を支柱で支えなければならなかった。
十二月十一日
さっそくその仕事にとりかかり、二本の支柱を天井まで立てて、そのおのおのの柱の上に二枚の板をわたした。この仕事は翌日には終わった。さらにいく本もの支柱を立て、板をわたす仕事を続けて、ほぼ一週間たったら、屋根は安全に仕上り、列をなして立った柱はわが家の部屋の仕切りの役を果たすことになった。
十二月一七日
今日から二十日までの間、棚を作り、懸《か》けられるものはなんでも懸けるように柱に釘を打ちこんだ。これで家の中はどうやらきちんと整頓してきた。
十二月二十日
いっさいの物を洞穴の中へ持ちこんだ。それから家の造作にとりかかり、幾枚かの板を並べて、食料品がきちんと置けるように、食器棚のようなものを作った。だが、板の手持ちが欠乏してきた。テーブルをもう一台作った。
十二月二十四日
終日終夜大雨。一歩も外出しなかった。
十二月二十五日
終日雨。
十二月二十六日
雨はやみ、気候もずっと涼しくなり、爽快となる。
十二月二十七日
若い山羊を一頭殺し、もう一頭は脚をびっこにしたので、これを捕えて紐につないで家に引っ張ってきた。さっそく折れた脚に添え木を当てて包帯してやった。
付記、介抱してやった甲斐《かい》があって、命は助かり、脚もよくなって以前のように丈夫になった。けれども、長い間世話してやったせいか、自分に懐《なつ》いてしまい、入口の前の草地で草を食べたりして、いっこう逃げ去ろうとしなかった。火薬や弾丸をみんな使い果たしてしまった時にも食糧に困らないように、ひとつ家畜を飼ってみようかと思いついたのはこの時が初めてであった。
十二月二十八、二十九、三十日
猛暑で微風さえなし。外出はできず、ただ夕刻食糧さがしにちょっと出ただけ。この機会に屋内で持ち物の整理を行なった。
一月一日
暑さはまだ続いていた。だが早朝と夕刻には鉄砲を持って出かけ、日中はじっと横になっていた。夕方、島の中央部に向かってのびている谷の奥のほうまで行ってみたら、山羊が群れをなしているのを見つけた。しかし彼らは臆病《おくびょう》でなかなか近よれなかった。こんどは犬を連れてきて山羊狩りをしてみようと思った。
一月二日
そういうわけで、つぎの日の今日は犬を連れて出かけ、山羊の群れにけしかけてみた。ところがこれは間違いだった。山羊のほうがみな犬に向かってきて、犬は身の危険を知って相手に近づこうともしなかった。
一月三日
柵《さく》、または壁なるものを作り始めた。まだ何ものかに襲撃されることを恐れていたので、柵は厚く、がんじょうなものにするつもりであった。
付記、この壁のことは先に述べたので、日記の中の記事はことさらに省略した。ただこれだけつけ加えておけばじゅうぶんであろう。すなわち、一月三日から四月十四日までという長い間、この壁にかかりっきりで完成したのである。全長は約二十四ヤードにすぎず、岩壁の一点からいちばん遠い点まで八ヤードの半円形で、洞穴の入口は岩壁の中央にあった。
わたしはこの間ずっといっしょうけんめいに働いたが、雨のためいく日も、いや、時にはいく週間も仕事がじゃまされることもあった。それでもこの柵が完成するまではまったく安心はできないと思っていた。どの仕事ひとつとってみても、いかに言語に絶する労苦を払ってなされたか、人にはとうてい信じられないほどである。なかでも森から棒杭《ぼうぐい》を運んできて、これを地面に打ちこむことはとくにひどい仕事であった。じつは棒杭も必要以上に太いものにしたからであった。
この壁が完成して、その外側に芝土の壁を築いて二重に囲った時には、だれかがここに上陸してきても、まさかこんなところに人の住居があろうとは気がつくまいと、自信たっぷりであった。あとで起こったある重大な事件でわかるのであるが、わたしのこの処置はまことに適切であったのだ。
この間も雨に崇《たた》られないかぎり、毎日獲物をとりに森の中を巡って歩き、しばしばためになるものをあれこれ発見することができた。たとえばある時、一種の野鳩《のばと》を見つけた。これはじゅずかけ鳩のように木に巣をかけるのでなく、家鳩のように岩の穴の中に巣を作るものであった。雛《ひな》を数羽つかまえてきて飼いならしてみようとやってみたらうまくいった。けれども大きくなるとみな飛んでいってしまった。何しろそれらにやる餌がなかったので、何よりも餌不足のために逃げたのであろう。それでもそれらの巣はよく見つかったので雛鳥を掴《つか》まえてきたが、肉は非常においしかった。
ところで、いろいろと家事をやっていくうちに、まだ不足しているものがたくさんあるのに気がついた。初めはそんな物は自分には作れないものだと思っていた。事実、なかにはほんとうに作れないものもあった。たとえば、たがをはめた樽《たる》はどうしても作れなかった。前にいったように葡萄酒《ぶどうしゅ》の小樽は一、二個持っていたが、これをもとにして樽をひとつ作ろうと、数週間も苦労してみたが、どうしても作れるところまでにはこぎつけなかった。蓋《ふた》や底をつけることも、水が漏《も》らないように桶板をぴったりとはめ合わせることもできなかった。それでこれも諦《あきら》めてしまった。
その次にはわたしはろうそくに窮していた。それで暗くなると、これはだいたい七時ごろだったが、さっそく寝床にはいらざるを得なかった。アフリカの冒険の時に蜜ろうの塊からろうそくを作ったことを思い出したが、今はそんなものは持っていなかった。ただひとつの策は、山羊を殺した時にその獣脂《じゅうし》をとって置き、太陽の光にあてて焼いた土製の小皿にその脂《あぶら》を入れ、≪まいはだ≫〔古い麻綱などをほぐして麻くずのようにした〕の芯《しん》を浸して、ランプを作ることであった。ろうそくのように一定した明るい光とはいかなかったが、とにかく明りが得られた。
このようないろいろの仕事をやっている最中、ふと荷物をひっかき回しているはずみに、小さな袋を見つけた。これは前にもちょっとふれたように、家禽《かきん》用の穀物がはいっていたものだったが、今回の航海ではなく、その前、つまり船がリスボンからくる時に用意したものらしかった。袋の中に残っていた僅かばかりの穀物もすっかり鼠に食われて、もみ殻《がら》とごみだけしか見当たらなかった。袋は何かほかの用に、ちょうど落雷を恐れて火薬を分けている時だったから、多分火薬を入れるつもりか何かで、役に立てようと思ったので、袋をうち振って中のもみ殻を岩の下の砦《とりで》の片わきに捨てた。
これを捨てたのは、今いったあの大雨の少し前のことだった。何を捨てたか気にもとめず、それどころか、何かをそこに捨てたということさえ忘れてしまっていた。ところが、一か月かそこら経ったころ、地面から何か緑色の茎が数本でているのが目についた。これはまだ見たことのない草だろうくらいに考えていた。ところが、なおしばらく経ってみると、十本か十二本ほどの根が出てきて、それがまぎれもなくヨーロッパ種の大麦《おおむぎ》、いや、まさにわがイギリス種の大麦とまったく同じものであることを知った時、わたしはまったくびっくり仰天《ぎょうてん》してしまったのである。
この時のわたしの驚愕《きょうがく》と心の混乱は表現のしようのないものであった。わたしはそれまで宗教的信念にもとづいて行動するなど全然なかったのだ。それどころか、宗教がなんであるかもほとんど頭になかった。また、自分の身に起こったいかなることも、たんなる偶然としか、あるいは、われわれが何気なしにいう神のおぼしめしとしか感じなかった。そういう事柄に示される神の摂理《せつり》の意図とか、世界のさまざまな事件を支配する神の命《めい》とかいうことを詮索《せんさく》するなぞ思いもよらない人間であった。ところが、穀物は明らかに育ちそうもない風土に、しかも生えた経路もさっぱりわからないのに、事実大麦がそこに生えたのを見ては、異様な感銘に打たれざるを得なかった。神は、種もまかないのに奇蹟のようにここに穀物を生ぜしめたのだ。しかもこのようなみじめな土地でわたしの生命を保たせようという、ただそれだけのおぼしめしからなのではあるまいかと考えた。
こう考えるとわたしの心は少なからず感動を覚え、目に涙があふれてきた。そして、このような自然の驚異がほかならぬわが身のために起こったことをほんとうにありがたいことと思い始めた。その上いっそう不思議に思われたことは、岩壁に沿ってずうっと、大麦の近くにまばらに他の種類の茎が生えていることだった。これは稲の茎とわかったが、わたしがアフリカの海岸に上陸した時、そこに生えているのを見たことがあるのでそれに相違なかった。
これはわたしを助けようという神の恵みの物であると考えたが、同時にまた、このあたりにこういうものはもっとあるに相違ないと思って、島の中で前に行ったことのあるところは全部くまなく歩き回り、どこのすみも岩の下ものぞき込んで捜したが全然見当たらなかった。とうとうしまいに、その場所に鶏《にわとり》の餌《えさ》の袋をはたいたことがあったと思いついた。そうなると今までの驚異の念も消えかかってきた。そして正直にいうと、こんなことはすべてありふれたことにすぎないとわかると同時に、神の摂理に対する敬虔《けいけん》な感謝の念もまた薄らいでいった。しかしながら、このような不思議な、思いもよらぬ摂理に対しては、奇蹟も同様と考えて、感謝の念を捧げるべきであった。ほかは全部|鼠《ねずみ》が食い荒らしてしまったのに、十|粒《つぶ》あまりの穀物が天からでも降ってきたかのように、無きずのまま残るよう定められたということは、わたしにとってまさしく摂理のわざといわなければならないからである。わたしが穀物を捨てた所がよりによって高い岩の陰《かげ》であったため、すぐに芽が出たということも、これまた摂理のわざであった。あの時、もしほかの所に捨てたとするならば、陽に焦《こ》がされて死滅していたであろう。
六月の終わりのころであったが、実りの季節がきた時、その大麦の種を注意深くとり入れたことはいうまでもない。ひと粒ひと粒を大切にしまっておいて、もう一度それを全部まいて、やがてパンを作るにじゅうぶんな収獲を上げようと望んでいた。しかしようやく四年目になって初めて少量ながら食べられる収穫を上げたが、それもまことにけちけち食べられる程度であった。その仔細《しさい》はいずれ適当なところで述べるつもりである。最初の季節にまいた種は、播種《はしゅ》の適時を守らなかったので全部だめにしてしまった。つまり乾燥季の直前にまいたために、全然芽が出なかった、少なくとも予想に反することはなはだしかった。これについてはまた適当なところで述べよう。
この大麦のほかに、先にも述べたように、二、三十本の稲穂《いなほ》があったが、これも同じように大切にしまっておいた。この用途も同じ種類、つまり同じ目的のもので、パンを作る、いやむしろほかの料理にして食べることであった。つまりパンのように焼かないで料理する方法をいくつか発見したからだ。もっともこれもまたしばらく後のことであった。話を日記のほうへ戻そう。
壁を仕上げるためにこの三、四か月極度に働いた。そして四月十四日に壁をすっかりふさいでしまった。出入りは入口からでなく、梯子《はしご》で壁を乗り越えるように工夫し、外側からは中に住居があるとは誰にも気づかれないようにしたのである。
四月十六日
梯子ができあがったので、その梯子で柵《さく》のてっぺんに登り、それを引き上げてそれを柵の内側へ降ろした。これでわたしを入れる完全な囲いができた。というのは、内側にはじゅうぶんの広さがあるし、外側からは、まず壁によじ登れるものでないかぎり、何ものもわたしを襲うことはできなかったからだ。
この壁が完成したというその翌日に、わたしの今までのせっかくの努力が一瞬のうちに危く崩壊し、わたし自身危く死ぬところであった。事情は次のような次第であった。
壁の内側のテントの後ろ、ちょうど洞穴《ほらあな》の入口のところで仕事をしている時、世にも恐ろしい突発の事件でわたしは恐ろしさに肝《きも》をつぶした。突如として、洞穴の天井《てんじょう》から、また頭上に高く立っていた岩山の崖っぷちから、土砂が崩れ落ちてきて、洞穴の中に立ててあった二本の柱がみるも無惨にばりばりと折れてしまった。わたしは生きた心持ちがしなかった。それでもなんのことやらさっぱりわからず、ただ、前にも一部が落ちたことがあったが、こんども洞穴の天井が落ちてくるのだとばかり思った。生き埋めになったらたいへんだと思って梯子のところへとんでいき、そこでもなお安心できず、山の一角が頭の上から崩れ落ちてきはしまいかと恐れて壁を越えて外に逃げた。
大地に足を下ろしたその瞬間に、これは恐ろしい地震であることがはっきりわかった。わたしが立っている地面が約八分の間隔をおいて、三度揺れたからだ。この三回の激震では地上に建てられたどんな堅固な建物でも倒壊を免れることはできまいと思われた。わたしのところから半マイルくらい離れて海に接近して立っていた岩壁の頂上の巨大な岩が、今まで聞いたこともないような、ごう然たる音をたててころげ落ちた。地震のため海まで激しく揺れ動くのが認められた。震動は島の上より海の中のほうが激しかったのだと思う。
わたしは地震そのものに驚きあきれてしまった。なにしろこんな経験は初めてだし、そういう経験をした人から話を聞いたこともなかったわけで、わたしはまるで、死人か痴呆《ちほう》みたいになっていた。地面が揺れるので海上で波にもまれた者のように吐気《はきけ》をもよおした。しかし、岩石が落ちた音が、いわばわたしの目をさまし、呆然自失の状態から正気に引き戻した。するといまさらのように恐怖におそわれ、岩山がテントと家財道具の上に落ちてきて、何もかも一気に埋めてしまうのではないかと、そればかりが気になった。そうなるとまたしても魂が消えてしまうようであった。
三度目の震動がすぎさり、しばらく何も感じなかったので、わたしは少し元気を回復した。それでも、生き埋めになるのがこわくて、壁を乗り越えて内側へはいっていくだけの勇気はまだなく、ただじっと地面に腰を降ろして、どうしたらいいのか途方に暮れ、まったく、意気|消沈《しょうちん》のありさまであった。
こうしている間もわたしは別に敬虔《けいけん》な思いなど少しも起こさず、ただありきたりの「主よ、われをあわれみたまえ」と念じるだけであった。それすらも地震が終わると同時に消えてしまった。
こうして坐っている間に、空は一面にかき曇り、今にも雨になりそうになった。まもなく風も少しずつ立ち始め、半時間も経たないうちに、ものすごい具風《ハリケーン》になった。あっという間に、海面は泡だつ激浪《げきろう》におおわれ、海岸は砕ける波におおわれ、樹木は根こそぎ引き抜かれた。まったくもって恐ろしい嵐《あらし》となった。これがおよそ三時間も続き、やがて次第に衰えはじめ、二時間も経つとぴたりとやんで、こんどは雨がはげしく降り出した。
この間、わたしはおびえきって、気が抜けたように、じっと地面に坐っていた。と、突然、この暴風も豪雨も地震の余波であるから、地震そのものはもう終わったのだ、洞穴《ほらあな》にはいってもだいじょうぶかも知れない、という考えが頭に浮かんだ。こう考えるとふたたび元気がでてきた。それに雨にもせき立てられたので、ともかくテントにはいって腰を降ろした。しかし雨はいよいよ激しくなり、今にもテントが潰《つぶ》れそうなので、仕方なしに洞穴へはいったが、天井が頭の上から落ちてきはしまいかと不安でたまらなかった。
この激しい雨でまたひとつ仕事がふえた。すなわち、わたしの新しい砦に、雨水を外に流すための流しのような溝《みぞ》を作ることであった。そうしないと洞穴が水びたしになる恐れがあった。洞穴の中にしばらくいたが、もう震動も続いて起こらないとわかったので、気持ちも落ち着いてきた。このさい大いに元気づける必要があったので、そのために、貯蔵所に行ってラム酒を少し飲んだ。ラム酒はこの時ばかりではなくいつも、少しずつしか飲まなかった。飲みつくしてしまえば二度と手にはいらないことを知っていたからである。
その晩は夜どおし、翌日もその大半、雨は降り続いたので、一歩も外へは出られなかった。けれども、心はだんだん落ち着いてきたので、これから何をしたらいちばんよいかと思案し始め、けっきょく、結論としては、もしこの島がこのようにたびたび襲われるものとすれば、洞穴に住むことはできない。だからひらけた土地に小屋を建てることを考えなければならない。その小屋はちょうどここでやったように壁で囲み、野獣または蛮人の攻撃から身を守るようにするのだ、ということになった。また、もしあくまで今のところに留《とど》まるとすれば、いつかは生き埋めになることは確かだ、ということである。
このような考えでテントを現在のところから移すことにきめた。テントは岩山の懸崖《けんがい》の真下にあるので、もう一度地震がひと揺れすれば、その岩がテントの上に落ちてくることは間違いなかった。
そこで次の二日間、四月の十九、二十日の両日、今の住居をどこに、どうして移したらよいか思案に暮らした。
生き埋めになるという心配から夜もおちおち眠れなかった。そうかといって、防衛の柵もない外に寝る不安もほぼ同じようなものであった。しかも、身のまわりを見わたしてみると、すべてのものが整然としているし、自分の身は実に気持ちよく外から隠され、なんの危険もないのであるから、いまさらほかへ移るのはまったく気が進まなかった。
そうこうしているうちに、移るということになるまでにはずいぶん時間がかかる。新しいキャンプを作って、それに移ってもだいじょうぶとなるまでは、危険をおかしても現在のところに辛抱していなければならないということに気がついた。こう覚悟がきまるとしばらくは心が落ち着いた。とにかく大急ぎで、前と同じように円形を描いて、杭《くい》や錨索やその他のもので壁を作り、それが仕上がり次第、その中にテントを張ろう。しかし、それができ上がって移れるようになるまでは、危険をおかしても現在のところに留まっていよう、とこう決心した。これが二十一日のことであった。
四月二十二日
この朝、この決心を実行に移す手段を考慮し始めたが、道具のことで、はたといき詰まった。大斧《おおおの》が三挺、手斧のほうは多数にあったが(土人と交易する目的でたくさんの手斧を船に積んでいたからだ)、節《ふし》くれだった堅い木を切り倒したり削ったりしたため、刃がこぼれてなまくらになっていた。丸|砥石《といし》はあるにはあったが、これを一人で回しながら同時に道具をとぐという芸当はできなかった。これにはずいぶん頭を使った。政治家が重大な政治問題について、裁判官が一人の人間の生死の問題について、頭を悩ますようなものだった。とうとうしまいに、片足で回せるように紐《ひも》をつけた輪を考案した。そうすれば両手が自由に使えるわけである。
付記、イギリスではこういう物を見かけたことはなかった。見かけたとしてもどんなふうに動かすのか注意したことはなかった。しかしその後、これはイギリスでは非常にありふれたものであることを知った。それに、わたしの丸砥石《まるといし》は並はずれて大きくて重かったのだ。この機械を完成するのにたっぷり一週間かかった。
四月二十八、二十九日
このまる二日間、道具類をとぐことに費やした。丸砥石を回す。わたしの工夫した機械はなかなか調子がよい。
四月三十日
パンの残りが少ないのはずいぶん前から気がついていたが、今日よく調べてみて、一日にビスケット・ケーキ一個にへらすことにした。大へん憂鬱《ゆううつ》になった。
五月一日
朝、海岸のほうを見ていると、潮がひいていて、いつもより広くなっている浜辺に何か打ち上げられているのが見えた。酒樽《さかだる》のような形をしていた。そばへ行ってみると、小さな樽と難破した船の二、三の破片があった。これは先ごろの具風《ハリケーン》で浜辺に打ち上げられたものであった。難破船そのものはどうかとながめると、いつもよりも水面の上に浮き上がっているように思われた。浜に打ち上げられた樽を調べてみると、すぐに火薬の樽であることがわかったが、これは水に浸《ひた》っていたため、火薬は石のように固まってしまっていた。とにかく、ひとまず浜辺の上のほうへ転《ころ》がしておいて、もっと何かないかと、浅瀬づたいにできるだけ難破船の近くまで行ってみた。
船の近くまでくると、妙に前とは位置が変わっているのに気がついた。前には砂の中に埋まっていた船首|楼《ろう》が少なくとも六フィートは高くもち上げられていた。また船尾は、わたしが前に物資をかき集めるのをやめたすぐそのあとで、波のためにばらばらに壊され、船体のほかの部分からちぎられていたのであったが、今見ると、いわばほうり上げられ、横だおしに投げ出された格好になっていた。この船尾に続く側は砂洲がかなり高くもり上がり、前にはそこは一面に水があって泳いでいかなければ難破船まで四分の一マイル以内にも近よれなかったのに、今は潮がひいている時には船まで歩いていけるようになっていた。これには最初おどろいたが、すぐにこれは地震のしわざに違いないと考えた。この地震の暴力によって船は前よりもいっそううち壊され、したがっていろいろな物が毎日岸に打ち上げられてきた。波浪《はろう》が船体から洗い流したものを風と波が徐々に陸地のほうへ押し流してきたわけであった。
こんなことで、わたしの頭は住居移転の計画のことからすっかり離れてしまった。とくにこの日は、船の中へはいる方法はないものかとけんめいに考えた。けれどもその点でなんの見当もつかなかった。船の内部は砂がいっぱい詰まっていたからである。それでも、何ごとにも絶望するものではないという教訓を学んでいたので、船のものでばらばらにできるものはなんでもばらばらにしてやろうと決心した。船からとり出せるものはなんらかの形で自分の役に立つだろうと思ったからである。
五月三日
まず鋸《のこぎり》を使って梁《りょう》の一部を切断した。この梁は上甲板の各部分をつなぎとめていたものであろう。これを切断してから、いちばん高くなっている船側からできるだけ砂をとり除いた。しかし潮が満ちてきたので、中止しなければならなくなった。
五月四日
魚釣りに出かけたが食べられるようなものは一尾も釣れず、釣りも厭《あ》きてしまってちょうど止《や》めようとしていた時に、いるかの子がかかった。かねて縄をときほぐして長い釣糸を作っていたが、釣針はなかった。それでも食べたいだけの魚はじゅうぶんにとれた。それを全部日に干《ほ》して、干物にして食べた。
五月五日
難破船とり壊《こわ》しの仕事をやった。もう一本の梁《りょう》を切断し、甲板から大きな樅《もみ》の厚板三枚をはがして、それらをくくって、潮が満ちてきたとき水に浮かばせて陸に揚げた。
五月六日
難破船の仕事を続けた。鉄のボルトを数個とほかの鉄器類をいくつか船から取り出した。けんめいに働いたもので、帰ってきた時はくたくたに疲れていた。もうこんな仕事はやめようと思った。
五月七日
また難破船に行ったが、働くつもりではなかった。梁《りょう》が切断されたため、船体が自分の重みで崩れて、船のあちこちの部分がばらばらになっているらしく、船倉の内側も大きく開いて中がよく見えたが、水と砂でいっぱいになっているだけであった。
五月八日
難破船に行ったが、水も砂もきれいになくなっている甲板をはがすために鉄挺《かなてこ》を持参した。厚板二枚をはがしとって、これまた潮に乗せて陸にもってきた。鉄挺は翌日のために船に置いてきた。
五月九日
難破船に行き、鉄挺で船の内部へはいって、数個の樽をさぐり当て、鉄挺で掘り起こしてはみたが、打ち破ることはできなかった。イギリス製の鉛板のひと巻もさぐり当てたが、ちっとも動かせない。重くてどうにもならなかった。
五月十、十一、十二、十三、十四日
毎日難破船に通って、おびただしい材木、板、それに二、三百ポンドの鉄などを手に入れた。
五月十五日
鉛板を一板でも切りとってこられまいかと思って、手斧を二挺持っていった。一挺の手斧の刃をさし入れ、もう一挺のほうでたたき込むつもりだった。しかし鉛板は一フィート半も海中に沈んでいるので手斧を打ちこむようにたたくことができなかった。
五月十六日
昨夜はひどく風が吹いて、波のため難破船はいっそうひどく壊れた様子であった。ところが食用にする山鳩をとろうと思ってあまり森の中にいたものだから、満潮にじゃまされて今日は難破船には行けなかった。
五月十七日
約二マイルほど離れたところに難破船の破片が岸に打ち上げられているのを見た。なんであるか行ってみると、船首の一部であった。しかし重くて持ってくることはできなかった。
五月二十四日
十七日から今日まで、毎日難破船の仕事を続け、大いに苦労して、鉄挺でいろいろなものをたくさん掘り返した。それで最初に潮が満ちてきた時、数個の樽と二個の水夫用衣類箱が浮かび出したが、あいにく風が陸のほうから吹いていたので、その日に陸に着いたものは数片の木材と大樽一個だけで、この大樽の中にはブラジル産の豚肉がはいっていたが、塩水と砂でだめになっていた。
わたしはこの仕事を六月十五日まで、毎日続けた。食糧をとりにいくに必要な時間だけは、もちろん別であった。その時間は、この仕事に従事している間じゅうは、潮が満ちている間と定めておいて、潮がひき次第、すぐにもとの仕事にとりかかれるようにした。このころまでに材木と板と鉄具類をたくさん手に入れていたので、作り方さえわかっていたら、上等なボート一隻作るにじゅうぶんな分量になっていた。また、何度にもわたって、断片の形で、総重量にすれば百ポンドほどの鉛板も運んだのであった。
六月十六日
海辺に降りていったら大きな亀を見つけた。これは亀を見た最初であった。それまで見なかったのは場所のせいとか亀が少ないせいとかいうのでなく、自分の運が悪かったためらしい。というのは、あとでわかったことだが、もしわたしが島の反対側にいたとしたら、毎日何百という亀が捕えられたに違いないからである。しかしそのためには大きな犠牲を払ったかも知れない。
六月十七日
亀の料理で一日費やした。卵が六十個も腹の中にあった。その肉は、こんなうまい肉は今まで食べたことがないと思うほどすばらしかった。このひどい島に漂着してから、肉といえば山羊《やぎ》と鳥の肉のほか食べたことがなかったからである。
六月十八日
終日雨で家の中にとじこもっていた。この時にかぎって雨がどうも冷たいような感じがし、少し悪寒《おかん》がした。この緯度のところとしては少し異状だと思った。
六月十九日
容態《ようだい》が大へんよくない。気温がぐっと下がったかのようで、がたがた身震いがしている。
六月二十日
ひと晩じゅう眠れず、激しい頭痛がして熱がでた。
六月二十一日
病状はひどく悪い。病気になって看病してくれる者のない、哀れなありさまが心配になって、死ぬほどひどくおびえた。ハル沖で嵐にあって以来、初めて神に祈った。けれどもなんといって祈ったか、なぜ祈ったか、ほとんど覚えがない。頭がすっかり混乱していたのだ。
六月二十二日
多少快方に向かった。けれども病気の懸念《けねん》が恐ろしかった。
六月二十三日
ふたたび病状悪化、寒気がして震えがくる。そして激しい頭痛。
六月二十四日
ずっとよくなる。
六月二十五日
猛烈な瘧《おこり》であった。発作が七時間も続いて、悪寒と発熱、その後かすかに発汗。
六月二十六日
少しよくなる。食物がなくなったので銃を持って出かけたが体がふらふらしていた。それでも雌《めす》の山羊を仕止めて、やっとのことで家に持ち帰り、その肉をあぶって食べた。じつはそれを煮てシチューにしたかったのだが鍋《なべ》がなかったのだ。
六月二十七日
激しい瘧《おこり》がまたおこって、終日飲まず食わずで床についていた。喉がかわいて今にも死にそうであったが、体が弱りきっていて起き上がる力も、水をとりに行く力もなかった。またもや神に祈った。が、その時は頭がふらふらしていた。そうでない時にはわたしは信仰のことに暗かったので、何を祈ってよいかわからなかった。わたしは寝たなりで叫ぶだけであった。
「主よ、われを省《かえり》みたまえ。主よ、われを憐れみたまえ。主よ、われにめぐみをたれたまえ」
わたしは二、三時間ただそうしているだけであったと思う。やがて発作もおさまってくると、眠ってしまい、真夜中まで目をさまさなかった。目がさめた時には気分はだいぶ爽快《そうかい》になっていたが、まだ力はなく、恐ろしく喉がかわいていた。しかしわが住居にはどこを捜しても水は一滴もなかったので、朝になるまでがまんして寝ているほかなく、そのうちまた眠ってしまった。二度目に眠っている時に次のような恐ろしい夢を見た。
わたしは壁の外側の地面の上に坐っていたようである。場所は地震のあとで嵐が吹きまくった時にわたしが坐っていたところであった。一人の人間があかあかと燃える焔《ほのお》につつまれて大きな真っ黒な雲の中から降りてきて地面に立つのを見た。彼の全身は焔のごとく輝いていたので、そちらへ目を向けるのがかろうじてできる程度であった。その顔は恐ろしく、とても言葉で表現できるものではなかった。彼が地面を足で踏んだ時、少し前の地震のときのように、大地がうち震えたように思った。またあたり一帯の大気も火焔につつまれたように見えて、わたしは不安におののいた。彼は大地に降りたつやいなや、ただちにわたしのほうへ進んできた。わたしを殺すために長い槍か何かの武器を手に持っていた。少し離れた小高いところまで来ると、わたしに言葉をかけた。あるいは、わたしは恐ろしい声を聞いた。その恐ろしさはなんともいいようのないものであった。わたしが理解できたといえることは、ただ次のような言葉であった。
「こういういろいろな目に会っても、お前はまだ悔い改める様子はなきゆえ、さあ、お前は死ぬのだ」
こういって、彼はわたしを殺そうと手にした槍《やり》を振り上げた、とわたしは思った。
この物語を読む人で、この恐るべき幻を見た時のわたしの魂の恐怖をわたしが述べ得ると思う人は、まず一人もあるまい。たとえそれが夢にすぎなかったにせよ、わたしはまさにその恐怖の夢を見たのだからだ。また、目がさめて、それが夢にすぎなかったと知っても、わたしの心に残っていたあの感じを述べることはとうてい不可能であるのだ。
悲しいことだが、わたしは神についての知識は何ももっていなかった。父の懇切な教導によってわたしが身につけたものも、八年の長い間の船乗り稼業の不行跡の連続と、わたし同様、神を神とも思わぬすさみ切った連中ばかりとの付き合いで、跡かたもなく消えうせてしまっていた。わたしはずっとこの間、仰いで神を見、省みて自分の振舞を思うという殊勝な考えは一度もいだいたことはなかったと思う。善を求める心も悪をさける良心もなく、愚かな魂のなすがままに身をまかせてきた。ありふれた船乗りの中でも、最もがんこで無鉄砲で無頼《ぶらい》な人間の見本なるものがこのわたしであった。こういう手合いは、危険に瀕《ひん》して神を恐れるとか、救われた時に神に感謝するとか、そういう気持ちは少しももっていなかったのだ。
わたしの身の上話をすでに前に述べたが、それにつけ加えて次のことを話したならば、わたしの前に述べたこともなるほどと信じられるであろうと思う。
わたしの身の上に起こったさまざまな不幸を通して、それが神の御手《みて》の働きであるとか、父に反抗した振舞や、現在も犯している大きな罪悪に対する正しい処罪であるとか、自分の不埒《ふらち》な生き方そのものに対する報いであるとか、そんなことは一度も考えてもみなかったのである。かつてアフリカの無人の海岸に死に物狂いの航海をした時も、果たして自分がどうなるかと考えてみることさえなかったし、いずこへ行くべきか主よ導きたまえとか、残虐な蛮人や獰猛《どうもう》な野獣の危険に明らかに迫られながら、主よ守りたまえとか、神に願ったことさえなかった。わたしにとっては神とか摂理とかいうものはまったく考慮の外のことであって、ただ本能の理法と常識の命令のままに一個の動物として行動したにすぎなかった。いや、果たして常識の命に従ったかどうかすら怪しかった。
ポルトガル人の船長に海上で拾い上げられて命を救われ、手厚くもてなされ、礼儀正しく、かつ慈悲深く遇せられた時でさえ、わたしはいささかの感謝の念もいだかなかった。さらにまた、この島で難破して破滅に瀕し、溺死《できし》の危険に陥った時でも、悔恨の気持ちはさらさらなく、神の裁きなぞ考えるどころではなかった。ただただ、自分はみじめな境遇に生まれついた不幸な奴だと常にかこつばかりであった。
わたしが初めこの島に着いて、乗組員はみんな溺死して助かったのは自分一人だと知った時には、さすがに有頂天になって、魂の底から驚喜したことは事実である。この時の狂喜に、もし神の恵みが加えられてあったならば、真実の感謝の念にまで高められていたかも知れなかった。しかしその喜びはただありふれた一時の歓喜にとどまって少しの純化もみなかった。いうなれば、自分が生きていることを喜んだだけで、ほかの者がみんな死んでいるのに、自分を助けてくれた、いや、助けようと自分だけを選び出してくれた神の御手の特別な恩恵など、少しも考えてみなかった。なぜ摂理《せつり》が自分にかくも恵みを垂れたもうたかと尋ねようともしなかった。わたしの喜びは、難破から救われて無事に陸に上がった船乗りたちが味わう月並の喜びと少しも変わらなかった。彼らはこの喜びをすぐあとのパンチ酒とともにのみほし、杯《さかずき》をほすやいなやこれを忘れてしまうのである。その後のわたしの生活もこれに似たものであった。
あとになって、自分がこの恐ろしい島に打ち上げられ人間の世界から断ち切られ、救済の望みも見込みもまったくないという窮状を思い知らされた時でさえ、今後の生活の見通しがつき、飢《う》えて死に果てることはあるまいとの見通しがつくやいなや、たちまち今までの苦悩は消え去り、すっかり気が楽になって、生命の維持と衣食の補給に必要な仕事にせっせとはげむばかりで、現在の境遇が自分をこらしめようとする天の裁きであり、神の御手の働きであるなどと考えて苦しむなんてことは、さらさらなかった。天の裁きとか神の御手とかいう考えはめったにわたしの頭に浮かぶことはなかったのである。
日記の中でちょっとふれたように、麦が芽を出した時には、初めは多少の感銘を覚え、厳粛《げんしゅく》な気持ちになったが、それも何か奇蹟のようなものがそこに働いていると考えた間のことにすぎなかった。そんな考えがなくなると同時に、そこから生じた感動もまた消えてしまった。これはすでに述べておいたとおりである。
地震にしても、これほど恐ろしいものはないし、こういう事を引き起こす唯一の目に見えぬ力をこれほど如実に示すものはなかったのであるが、その最初の驚愕《きょうがく》がおさまってしまえば、わたしの受けた感動もまた消え去った。わたしは神とか神の審判とかについてなんとも感じなかった。まして現在の苦境が神の御手によるものだなどと考えることは思いもよらなかった。この点では、わたしが順境の頂上にあったとしても同じことであっただろう。
しかし、こんど病気になり、死の悲惨な姿がじわじわと目の前にせまってき、激しい苦悩の重荷にたえかねて意気が消沈し、猛烈な高熱のため肉体が消耗してしまう。こうなると、長いあいだ眠っていた良心も目をさましてきて、自分の過去の生活をみずから責め始めた。それまでの生活では途方もないわたしの邪心《じゃしん》から、わたしをさんざんひどい目に会わせ、あのように厳しくこらしめた神の裁きをはっきりと憤《いきどお》っていたのであった。
病気になって二日目か三日目に、こういう考えが、わたしの胸をおしつぶした。激しい高熱のため、また同時に激しい良心の呵責《かしゃく》のため、わたしは思わず祈りのような言葉を口ばしった。それは願望か希望のこめられた祈りであったとはいえない。むしろただ恐怖と絶望のさけびであった。わたしの頭は混乱していた。罪業《ざいごう》の深さは心にひしひしと迫った。このようなみじめな姿で死んでゆく恐ろしさで心は不安の黒雲におおわれた。このように魂がかき乱されていたので、どんな言葉が口からでるか自分でもわからなかった。それは絶叫のようなものであった。
「主よ、わたしはなんという憐《あわ》れな人間になりはてたことでしょう。病気になれば看病してくれる者もなくて死んでゆくよりほかはありません。わたしはどうなるのでしょうか」
そういうと涙があふれてきて、しばらくは口もきけなかった。
この間に父の忠告が思い出され、やがて父の予言も思い出された。それはこの物語の初めに述べておいたものだが、要するに、もしわたしがこの愚かな生活に足を踏み入れれば、神の祝福は得られないだろうし、あとになって父の忠告を聞かなかったことをゆっくりと後悔することになるが、もうその時は立ち直ろうにも助けの手をのべる者は一人もあるまい、というのであった。わたしは口に出していった。
「父の予言は的中したのだ。神の裁きが下ったのだ。助けてくれる者も話を聞いてくれる者も一人もない。恵み深くも幸福に安穏に暮らしていける身分にわたしを定めてくださった神の御声をしりぞけたのではないか。わたしはそういう生活をみずから知ろうとしなかったし、またそのありがたさをいくら両親が説いても聞こうとしなかったのだ。両親にはわたしの愚かさを嘆くにまかせていた。そして今わたしはその報いを一人嘆き悲しんでいるのだ。世の中に出してくれ、安楽な生活を送らせてやろうという両親の援助をことわった。そして今、生身《なまみ》の人間には堪えられないような苦難と戦い、助けも、慰めも、助言もない、孤立無援のありさまになっているのだ」
そしてわたしはさけんだ。「主よ、わたしを助けてください、わたしは苦難におちいっているのです」
もしこれが祈りといえるなら、これこそ、長い歳月を通じてわたしが神に捧げた最初の祈りであった。それはさておき、ふたたび日記へもどることにしよう。
六月二十八日
睡眠がとれたのでいく分か気分がよくなり、発作もすっかりおさまったので起き上がった。夢の恐ろしさにはまだひどくおびえていたが、瘧《おこり》の発作が明日はまたぶり返すだろうと考え、病気になった時の用心に、今のうちに何か食べて体力をつけておこうと思った。まず第一に大きな角瓶《かくびん》に水を満たしてベッドから手の届くテーブルの上に置いた。それから、水から寒気や瘧《おこり》を誘発する要素を取り除くために四分の一パイントのラム酒をその中へ注いでよく混ぜた。山羊の肉をひと切れとって炭であぶって食べたが、ほんの少ししか食べられなかった。歩き回ってみたが、体は衰弱しきっているし、その上、自分の情けない状態に心が重く沈んで悲しくてたまらず、明日はまた発作がぶり返すのではないかとおびえていた。
晩には亀の卵三個を夕食にとった。これは灰の中で焼いて、いわゆる殻つきのままで食べた。この卵の食事が、わたしの覚えているかぎりでは、全生涯のうちで神の祝福を祈って食ベた最初のものであった。
夕食をとったあとで少し歩いてみようとしたが、体が弱りきっていて鉄砲もろくに持てないくらいだった(鉄砲なしで出かけたことはまだ一度もなかった)。少し歩いただけで、すぐ地面に腰を降ろし、目の前にひろがっている海をながめた。海は静かで鏡のようであった。そこに坐っていると、いろいろな思いが胸に浮かんできた。
このようによく見なれている大地と海とは、いったいなんであろうか。どこから生じたものであるか。いったいわたしはなんなのであるか。野生であれ飼育されたものであれ、人間であれ動物であれ、生きとし生けるものはみななんであるか。われわれはどこから来たのであるか。
たしかにわれわれはみな、ある秘められた力、大地と海、大気と蒼空《あおぞら》とを作ったその力によって作られたのだ。だがその力は誰であるのか。
理の当然として、すべてを作ったのは神であるということになる。それはいい。けれどもどうも不思議なことがあるのではないか。もし神がこれらすべての物を創《つく》ったとすれば、神はすべてのものと、それにかかわるいっさいのことを導きつかさどることになる。なぜなら、すべてのものを創り得た力は、それらを導きつかさどる力を当然もっていなければならないからである。もしそうだとすれば、神の御業《みわざ》の大いなる圏内において、神が知らず、また定めずして起こり得るものは何ひとつないことになる。
神が知らずして起こるものは何ひとつないとすれば、わたしがここにおり、この恐るべき境遇にいることも神は当然知っている。もし神が定めずして起こるものは何もないとすれば、わたしの身にふりかかるいっさいのことは神が定めたものである。
こういう結論をくつがえす論拠はなにもわたしの頭に浮かんでこなかった。したがってわたしの身の上に起こったことは神が定めたに違いない。わたしだけでなく世界じゅうに起こるあらゆることを支配する唯一《ゆいいつ》の力を神がもっている以上、わたしがこの悲惨な境遇に陥ったのも神の指図《さしず》によったに違いないと、前よりもいっそう強く信じるに至った。するとたちどころに次の疑問が生じた。
神はなぜわたしにこういうことをしたのか。わたしが何をしたから、こういう目に会わせたのか。
良心がすぐさま、わたしが神を冒涜《ぼうとく》したとでもいうように、この質問をおさえた。良心が次の言葉をわたしにささやいたように思った。
「恥しらずめ! 自分が何をやったか聞こうというのか。恐ろしくもむだに費やしたお前の生涯を考えてみろ。そして何をやらなかったか自分自身に聞いてみるがいい。とっくの昔にお前が死ななかったのはなぜか。ヤーマス沖で溺れなかったのはなぜか。船がサリーの海賊船に襲われた時、戦いで死ななかったのはなぜか、アフリカの沿岸で猛獣に食い殺されず、ここではまた、ほかの船員はみんな死んだのに、お前だけ溺死を免れたのはいったいなぜか。よく考えてみろ。それでも、『わたしは何をしたのか』と尋ねるつもりなのか」
このように考えてきたら、突然びっくりさせられたもののように、口もきけなくなった。ひと言も口がきけず、自分に対する答えにも窮《きゅう》してしまった。悲痛な気持ちで立ち上がり、隠れ家《が》のほうへ歩いて帰り、壁を乗り越えて中にはいり、すぐにでも寝るつもりであった。けれども心が悲しく乱れてどうにも寝る気にはなれなかった。折から暗くなってきたので椅子に坐ってランプをつけた。発作がまたぶり返すかも知れないと思うとひどく恐ろしくなったが、ふと思いついたのは、ブラジル人は、ほとんどどんな病気にもたばこ以外の薬は用いないということだった。幸い箱の中にはよく乾燥したたばこのひと巻があり、ほかに乾燥しきっていない青いたばこも多少あった。
わたしがその箱のところへ行ったのは、疑いもなく天の導きによるものであった。箱の中には魂と肉体の両方を癒《い》やす薬があったからである。
箱をあけてみると、わたしの求めていたもの、すなわち、たばこがあったが、わたしがとっておいた数冊の書物もはいっていたので、前にもちょっと話したことのある聖書の一冊をとり出した。この時まで聖書など覗《のぞ》くひまもなければ、そんな気にさえならなかったのだ。それをこの時こそ取り出してたばこといっしょにテーブルのところへ持ってきた。
病気の治療のためにたばこはどう使えばいいのかも、そもそも病気に利くのかどうかも、知らなかった。まぐれ当たりもあるだろうと思って、とにかくいろいろ実験してみることにした。最初はたばこの葉のひと切れを口に入れて噛《か》んでみたが、たばこがまだ青くて強く、そういうものにあまり慣れていなかったせいか、初めは頭がぼうっとしてしまった。次には少しばかりの葉を一、二時間ラム酒に浸しておいて、寝る時に一服のむことにきめた。最後に、たばこを炭火の皿の上でいぶし、辛抱できるだけ長いことその煙の中に鼻をつっこんでいた。熱くもあるし、息がつまりそうになるので、そう長くは辛抱《しんぼう》できなかった。
この療法を試みている間に、聖書をとり上げて読み始めてみたが、たばこで頭がふらふらしているので、とても読めたものではなかった。少なくともこの時はそうだった。それでも偶然に開いてみて最初に目にはいった言葉はこういうものであった。
「なやみの日に我を呼べ。我なんじを援《たす》けん。しかしてなんじ我をあがむべし」
この言葉はわたしの場合にじつにぴったりと当てはまった。読んだ当座かなり強い感動を受けた。けれどもあとで受けた感動にはくらべものにならなかった。というのは、援《たす》けんという言葉は、いうなれば、当時のわたしには空《うつ》ろな響きしかもっていなかったし、そのことはわたしにはあまりにも縁遠くて、とうてい理解しようのないことであったからだ。それで、イスラエルの子らが食するための肉を約束された時に、「神は荒野にて筵《えん》をもうけたまうをえんや」といったように、わたしもまた、「神はこのところより我を援けたまうをえんや」といい始めた。援けられる見込みが現われたのは何年も後のことであったので、こういう思いがしばしばわたしの心を圧したのである。
それはともかく、この聖書の言葉は深い感銘をわたしに与え、これを沈思《ちんし》することもしばしばであった。
さて夜もだいぶふけて、前にいったように、たばこの効き目で、頭がぼうっとしてくると、なんだか眠くなってきた。夜中に何かいるものがあるかと思って、洞穴の中のランプは消さないで床についた。しかし横になる前に、それまでの生涯にいまだかつてやったことのないことをした。すなわちわたしはひざまずいて、「なやみの日に我を呼べ、さらば我なんじを援けん」、という約束を守りたまえと神に祈ったのである。
とぎれがちな覚《おぼ》つかない祈りがすんでから、たばこを浸《ひた》したラム酒を飲んだ。恐ろしく強烈で、しかもたばこの臭気が強く、なかなか喉を通らなかったが、それを飲みおわるとただちに床についた。やがてそれがかあっと頭にくるのを感じたが、ぐっすり眠ってしまった。そして太陽のぐあいから判断して、どうしても翌日の午後の三時に違いないと思われるころまで目をさまさなかった。いや、じつは翌日は夜昼ぶっとおして眠り続け、翌々日の午後三時近くまで眠ったのではないかと、今日に至るまで半信半疑なのである。もしそうとでも考えなければ、数年後に気がついたことであるが、どうして週の日数の計算から一日だけぬけてしまったのか説明がつかないからである。もし赤道を越えたり戻ったりしたために日数をぬかしたとすれば、当然一日以上の日数をぬかしたはずである。とにかく、わたしの暦《こよみ》の計算では、一日だけ足りないことは確かなのだが、どうしてそうなったかはけっきょくわからないのであった。
それはとにかくとして、目がさめてみると至極《しごく》気分爽快で、元気はつらつとしていた。起きてみると前日よりもしっかりして、胃の調子もよいらしく、空腹を感じていた。要するに、翌日も発作は起こらず、ますます快方に向かうばかりであった。これが二十九日のことであった。
三十日はもちろん元気な日であって、鉄砲を持って外に出たが、あまり遠くまで行く気にはならなかった。どこか≪がん≫に似た海鳥を一、二羽撃ち落として家に持ち帰ったが、あまり食べる気にもならなかった。そこで亀の卵を少し食べたが、これは非常にうまかった。今晩も昨日だいぶ利いたと思った例の薬をまた試みた。薬とはラム酒に浸したたばこだが、こんどは前ほどの分量はとらず、たばこの葉を噛むこともたばこの煙の上に顔をだすこともしなかった。しかし翌日の七月一日は期待していたほど調子はよくなかった。少しばかり寒気がしたが、たいしたことはなかった。
七月二日
三通りの治療法を再度試みた。そして初めの時のようにそれでまどろんだ。それから飲む量を二倍にした。
七月三日
発作はそれっきり二度と起こらなかった。もっとも、体力は数週間のあとまで完全には回復しなかった。体力が徐々に回復していく間も「我なんじを援《たす》けん」という聖書の一句が頭にしきりに浮かんできた。救われることはとうてい不可能だということが心に重くのしかかって救助の期待を妨げた。しかしこういう考えで気を落としている時にも、いちばん大きな悩みから救い出されるということばかりを思いつめているために、実際に体験した救いのほうは無視していたことに気がついた。わたしは、いわば、このような質問を自分に対して尋ねるよう仕向けられたのだ。
お前は病気から救われた。奇蹟的にも救われたのではなかったか。この上もないみじめな状態から、お前にとってはまさに恐るべき状態から、救われたのではないか。それをお前はどこまで心にとめたか。お前の当然なすべきことをなしたのか。神はたしかにお前を援《たす》けたが、お前は神をあがめなかった。つまり、援けられていながら授けられたとも思わず、感謝もしていない。それでどうしてもっと大きな救いを期待することができるか。
これはひしと胸にこたえた。すぐさまひざまずいて、病気が回復したことを口に出して神に感謝した。
七月四日
朝、聖書をとり出して、新約聖書のほうから本気になって読み始めた。これからは毎朝毎晩、しばらくの間聖書を読むことにきめたが、何章ずつと無理にきめないで、その気持ちが続くかぎり読むことにしたのであった。この日課をまじめにやり始めてからまもなく、これまでの生活の罪深いものであったことがいよいよ深くわが心にせまってきた。前に見た夢の感動がよみがえり、「こういういろいろな目に会っても、お前はまだ悔い改めようとはしないのか」というあの言葉が痛烈にわたしの心にせまってきた。わたしは真剣に、悔い改めの心を与えたまえと神に願う気になった。
と、その日に、読んでいた聖書の中に、まさに摂理《せつり》によるように、次の句に出会ったのである。
「神は彼を君とし救主として己《おの》が右にあげ、悔改《くいあらため》と罪の赦《ゆるし》とを与えしめたまう」
わたしは聖書をなげうち、両手とともに心を高く天に捧げ、喜びにわれを忘れて声高くさけんだ。「イエス、ダビデの子、イエスよ、高き位の君にして救い主よ、われに悔改《くいあらため》を与えたまえ!」
これがわたしの生涯で、ほんとうの意味で、神に祈ったといえる最初の祈りであった。というのは、この時こそ、自分の境遇をちゃんと考え、しかも神の御言葉のはげましの土台の上に立てた、真に聖書的希望の念をもって祈ったのであるからだ。
この時から、神がわたしの祈りを聞いてくださるという希望をいだくようになった、といってよいであろう。前にふれた、聖書の「我をよべ。さらば我なんじを援けん」という言葉を、前とは違った意味に解釈するようになった。以前には、自分が身をおいている幽囚《ゆうしゅう》の境遇から救い出される以外には、救いの名に値するものは何もないと思っていた。いかにもここでは自由に歩き回ることはできた。それでも島はわたしにとっては確かに牢獄であり、しかももっとも悪い意味での牢獄であった。ところが今ではそれを別な意味にとるようになった。今は、自分の過去の生活をふりかえって恐怖にみたされ、罪は恐ろしい姿でわたしの前に現われてくるので、わたしの魂は、ただただ神にすがって、生きる喜びをすべてうちひしぐ罪の重荷から救われることを求めるのみであった。孤独な生活などはもはや問題ではなかった。孤独な生活から救われたいと祈りもしなかったし、第一考えもしなかった。そんなことはこの罪の問題にくらべれば一考慮にも値しないものであった。
わたしがここにこういうことを付け加えておくのは、もし読者にして、事物の真の意味をさとるに至るならば、罪から救われることが苦痛から救われることよりも、はるかに大きな祝福であることを知るであろう、といいたいためにほかならない。
しかしこのことはこれでやめて、日記のほうへもどろう。
生活そのもののみじめさは軽減したわけではなかったが、自分の境遇が気持ちの上で前よりもはるかに楽になってきた。絶えず聖書を読み、神に祈ることによって、わたしの心はより高い世界に向けられてゆき、それまで全然知らなかった、内なる喜びを深く味わうようになった。それとともに健康も体力も回復したので、必要なものをすべてととのえ、生活をできるだけ規則正しいものにしようと努めることにした。
七月四日から十四日までは、主として鉄砲を片手に歩き回ることをした。いかにも病気の発作のあと徐々に体力を養っている人間らしく、少しずつ出歩いたのである。誰にも想像ができないほどわたしは元気を失い、体力を消耗《しょうもう》していたからである。わたしが行なった治療法はまったく新しいもので、瘧《おこり》の治療法としてはおそらく前代未聞のものであったから、自分の実験からみて、これを他人にやってみるように勧めることはできない。なるほど発作はすっかりなおったけれども、体力の衰弱をもたらした。その後しばらくは、筋肉や四肢の痙攣《けいれん》に悩まされたからである。
わたしはこの経験でもうひとつのことを知ったが、それは雨季に外を出歩くのが健康に最もよくない、とくに、暴風や具風《ハリケーン》をともなってやってくる雨の場合がはなはだ有害だということである。乾燥季にくる雨は常にこういう暴風をともなうので、九月、十月に降る雨よりもはるかに有害であることを知った。
わたしがこのみじめな島に来てから十か月以上たった。この境遇から救い出される見込みは全然ないように思われた。この土地に足跡を印した人間はいまだかつてなかったのだとわたしは堅く信じた。住居のほうはまずこれならばと気がすむようにできたので、こんどはこの島をもっと徹底的に調べ、今まで自分の目にふれなかったどんな産物があるかをたしかめてみたい、という大きな欲望がわいた。
この島じたいのかなり詳しい調査を始めたのは七月十五日であった。前にもふれたことのある、以前|筏《いかだ》を岸につけた例の入江をまずさかのぼってみた。二マイルばかりさかのぼってみると、潮はそれから上流へはのぼらないで、清冽《せいれつ》な水が流れている小川になっているにすぎないことを知った。しかし今は乾燥季であったため、あるところではほとんど水がかれていた。少なくとも流れらしい流れとは見えないところがあった。
この小川の岸には、草の生い茂った、なめらかな平坦な草原《サヴァナ》があちこちたくさんあった。いっそう高い地面に続いているこの草原のやや高くなっている部分は、水をかぶることはなさそうなところで、そこに丈夫そうな茎をしたたくさんのたばこが青々と茂っていた。ほかにもいろいろな種類の植物があったが、名前の見当もつかず、それについては、まったく知識をもたないものであったし、独特な効能をもったものもあったかも知れないが、それも全然わからなかった。
この地方一帯の土人が、パンを作る材料にするカサヴァの根を捜したが、ひとつも見つからなかった。大きな蘆薈草《ろかいそう》を見たが、その時はどういうものかわからなかった。砂糖きびもあったが、野生で人手が加わっていないから、満足なものではなかった。〔砂糖きびは西インド諸島や南米には野生しなかった。栽培したものはスペイン人とポルトガル人によって十六世紀に輸入された〕
今回はこのくらいの調査で満足して家に帰った。これからいろいろな果物や植物を見つけるだろうが、その効能や用途を知るにはどうしたらよいかと途々《みちみち》考えた。しかしどういう方途も考えつかなかった。それというのも、ブラジルにいた時、さっぱり自然観察などをしなかったので、野に生えている植物の知識はほとんどなかった。少なくとも今の窮境にあってなんらかの役に立ちそうな知識は皆無《かいむ》に近かった。
翌日の十六日には、また同じ道をたどっていった。前の日にいったより少しばかり先へ行くと小川も草原も尽きて、あたり一帯がずっと森林の姿になってきた。このあたりでは違った種類の果物があり、とくに地面にはメロンが豊富にあり、樹上には葡萄《ぶどう》がなっていた。葡萄の蔓《つる》はいろいろな木に這《は》いひろがっていて、その房はよく熟してうまそうで、ちょうどたべごろになっていた。これはまったく思いがけない発見で、うれしくてたまらなかった。しかし、経験で懲《こ》りていたので控え目に食べることにした。わたしがかつてアフリカのバーバリ海岸に上陸した時、そこで奴隷として働いていたイギリス人数名が葡萄を食べて下痢と熱病におかされて死んだことを思い出したからである。
わたしは葡萄のすばらしい利用法を考えついた。それは太陽にあててよく乾かして、乾葡萄《ほしぶどう》のように保存しておくことであった。こうすれば、葡萄がないときでも、うまく食べられるし、滋養《じよう》にもなるだろうと思った。事実またそのとおりであった。
その晩はそこで過ごして家には帰らなかった。ついでにいえば、これが家を離れて外泊した最初の夜であった。夜は、わたしがこの島で初めて夜をあかしたときの例にならって木に登って寝た。熟睡ができて、翌朝には調査を続け、谷の長さから判断して四マイル近く進んだ。ずっと真北の方角をとり、わたしの南と北側に、丘陵の屋根を見て進んだのである。
この行進の終わりに急に開けたところに出た。そこから土地は西のほうへ斜面になっているようだった。わたしの立っている山際から小さな清水の泉が湧いていて、それが反対の方向、つまり真東の方角へ流れていた。あたり一面は恒春《とこはる》の萌《も》えるような緑にぬりつぶされ、爽やかにはつらつとした光景は、植込みの茂った庭園のようであった。
わたしはこの気持ちのよい谷のほうへ少し降りていった。この谷を見渡していると、これは全部自分のものだ、わたしはこの国の侵《おか》すべからざる国王であり支配者なのだ、わたしは絶対の所有権をもっているのだ、こういう思いが浮かんできて、ほかの悩みとからみ合ってはいるが、ひそやかな喜びを禁じ得なかった。もしこの土地が自分の財産として譲渡することができるものならば、イギリスの荘園《しょうえん》の領主と同じく、わたしもまたこれを完全な相続財産とするかも知れない、などと考えた。
ここにはおびただしいココアの木、オレンジ、レモン、それにシトロンの木などがあった。しかしみんな野生で、実をつけているものはほとんどなかった。少なくともその時はそうであった。それでもその時とったライムの実はおいしかったし、また滋養にもなった。あとではその果汁に水をまぜて飲んだが、そうすると、大へん滋養もあり、上等な清涼飲料ともなった。
こういう果物を摘《つ》んだり家に持って帰ったりするのはひと仕事であった。まもなくやってくる雨季にそなえて、葡萄はいうまでもなく、ライムやレモンも貯蔵しておくことにした。こういう目的で、葡萄の大きな山を一か所に、もっと小さい山を他の個所に、またライムとレモンの大量を別のところに集めた。それから、それぞれの果物を少しずつ持って家路についた。こんど来る時には、袋か何か、それがなければ何かそんなものを作って持ってきて、残りの果物を家に運ぼうと思った。
こういうわけでわたしは前後三日間の旅行をしてわが家に帰ってきた。テントと洞穴をわが家と呼ばねばならなかったのだが。
ところが家に着く前に葡萄は台なしになってしまった。よく熟れていたのと、自分の果汁の重さとで潰《つぶ》れてしまって、ほとんど全部むだになってしまった。ライムのほうはだいじょうぶだったが、持ってきたのはごくわずかだったのだ。
翌日の十九日には、わたしの収穫を家に運ぶためにこしらえた二つの袋を持って出かけていった。ところが驚いたことに、葡萄の山のところに来てみると、摘んだ時にはあれほどみごとでおいしそうであったものが、あちらこちらと散らかされ、踏みにじられ、蹴《け》ちらされ、大部分は食い荒らされているありさまであった。この辺に何か野獣がいて、その仕業《しわざ》であることはわかったが、さてそれがどんな獣であるか見当もつかなかった。
ところで、葡萄は集めて積んでおくわけにもいかず、袋に入れて運んでゆくわけにもいかない、つまり集めておけば荒らされるし、運べば自分の重さで潰《つぶ》れてしまう、というわけであったから、他の方法をとることにした。葡萄をたくさん摘んで、これを外側に出ている木の枝につるしておいて太陽にあてて乾燥する方法であった。ライムとレモンは自分で背負えるだけ背負ってゆくことにした。
この遠征から家に帰ってきた時、この谷の豊饒《ほうじょう》なことやすばらしいところにあること、それからあの小川と森の向こう側ならば嵐の時も安全であること、などを考えて非常に楽しかった。そして、住居を定めるのに、島の中でも最悪の地点をわざわざ選んでしまったような気がした。けっきょく、住居を移すことを真剣に考え始めた。現在の場所と同じくらい安全で、できることなら、島のあの豊饒な気持ちのよい一角にその場所を見つけようと思った。
この考えは長い間わたしの頭を離れなかった。場所の気持ちよさが魅力となって、この移転のことを考えるのは、しばらくの間、きわめて楽しかった。しかしもう少しよく考えてみるといろいろ問題があった。わたしは今海岸近くにいるが、そこにいれば何かわたしに都合のよいことが起こらないとも限るまい。また、わたしの場合と同じ悲運に見舞われた不幸な人間が、ところも同じこの海岸に漂着するかも知れない。そんなことはまず起こることはあるまいけれども、それでも島のまん中の丘陵と森の中に好んで閉じこもってしまうことは、先まわりして自分を束縛の境涯におくことであり、一応は望みのないことでも、残された一縷《いちる》の望みさえすてて絶対不可能にしてしまうことである。
こう考えると、わたしはどうしても移転すべきではないという結論になるのであった。
それにもかかわらず、この場所にすっかりほれ込んでしまって、七月の残り全部を通じてここで時を過ごすことが多かった。今も述べたように、考え直してけっきょく移転はしないことにきめたけれども、やはり心をひかれて、そこに小さなあずまやのようなものを建て、少し距離をおいてそのまわりに強固な柵をめぐらした。柵はわたしの手のとどくくらいの高さの二重の垣根で、厳重に杭で支え、間には≪そだ≫をいっぱい詰めたものである。わたしは安心してここに泊まることができ、時には二晩も三晩も続けて泊まることがあった。出はいりにはいつも前の場合と同じく梯子《はしご》を用いた。こうなると、わたしは別荘と浜の本邸と二軒の家をもったような気になった。別荘を作る仕事は八月の初めまでかかった。
柵をどうにか作り上げて、さてここで楽しもうとした時に、もう雨季がやってきて、もとの住居に篭城《ろうじょう》せざるをえなくなった。新居のほうにも本邸と同じようにテントや帆布をうまく広げて、張ったのであったけれども、こちらには嵐の時に身を守ってくれる岩壁はなかったし、異状に強い雨の時に逃げこむ、うしろの洞穴《ほらあな》もなかったからである。
先にもいったとおり、八月の初めにはあずまやができあがったのでこれから楽しもうとしていた。八月三日のこと、木の枝にかけてあった葡萄が完全に乾いて、まことにすばらしい乾葡萄《ほしぶどう》になっていた。そこでさっそく枝から降ろし始めた。これはきわどいところがじつにうまくいったのだった。というのは、すぐあとでやってきた雨に会えば葡萄はだめになってしまい、冬の食糧の大半は失ってしまうところであったからだ。何しろ葡萄の大房が二百以上あったのだ。これを全部降ろして大部分を洞穴に運んだかと思うと、もう雨が降りだして、その八月の十四日から十月の半ばまで毎日、多かれ少なかれ雨の降らない日はなかった。時にはあまり激しく降るので、数日間も洞穴から一歩も外に出られないこともあった。
この雨季のあいだに、わたしの家族がふえたのにはまったく驚いてしまった。じつは猫の一匹がいなくなって、これは逃げたか、もしかすると死んだのかも知れないと気にかかっていた。全然|音沙汰《おとさた》がなかったのに、八月の終わりに三匹の子猫を連れて帰ってきたのには、まったくびっくり仰天した。これは、わたしには不思議でしょうがなかった。というのは、わたしはわたしが山猫と呼んでいた奴を撃ち殺したことはあるが、それはヨーロッパの猫とはまったく別種のものと思っていた。ところが子猫は母親の猫と同じく飼い猫なのである。しかもわたしのところにいた猫は二匹とも雌《めす》であったのだから。
なんとしても不思議でならなかった。とにかくこの三匹の子猫のおかげで、家じゅう猫だらけになってさんざん悩まされ、とうとう害獣か野獣かのように殺すか、できるだけ家から追っ払うかせねばならなかった。
八月十四日から二十六日まで小止《こや》みなく雨が降り、一歩も外に出られなかった。このごろはあまり雨に濡れないように非常に用心していた。このように家に閉じこめられていたので食糧に窮してきた。しかし思いきって二回出かけて、ある日は山羊一頭を撃ち殺し、最後の日の二十六日には非常に大きい亀を見つけた。亀は大へんなごちそうであった。食事の献立は次のように定めた。
朝食には乾葡萄をひと房、昼の正餐《せいさん》にはあぶった山羊か亀の肉。残念ながら容器がないので煮たりシチューにしたりすることはできなかった。そして夕食には亀の卵を二個か三個。
このように隠れ場に雨に降りこめられている間に、日に二、三時間働いて洞穴を広げていった。少しずつ一方の側に向かって掘ってゆき、ついに岩山のおもて側に出たので、そこに出口を作った。出口は柵、または壁の外側に出た。それでわたしはここから出はいりした。しかしこうあいているところに寝るのは不安でならなかった。というのは、いろいろ苦心した末、完壁な囲いの中に住めるようになっていたのに、今は外に身をさらしていて、襲ってくるものがあればまるで無|防御《ぼうぎょ》のような気がしたからである。とはいうものの、警戒すべき動物がいるような気配はなかった。今まで島の中で見たいちばん大きな生き物は山羊くらいなものであった。
九月三十日、不幸な上陸一週年の記念日になった。柱の刻み目を計算して、上陸して以来三百六十五日たったことを知った。わたしはこの日を厳粛《げんしゅく》な断食日《だんじきび》として守るこにした。敬虔《けいけん》な礼拝にあてる特別な日とし、心の底からの謙虚さをもって地面にひれ伏し、神に己が罪を告白し、自分に対する神の裁きの正しきことを認め、イエス・キリストをとおして恵みをたれたまわんことを神に祈った。気がついてみるともう夕日が沈むという時まで、十二時間も何ひとつ口にしていなかった。そこでビスケット・ケーキひとつと葡萄をひと房食べ、朝起きた時と同じく敬虔《けいけん》な心をもって一日を終わり、床についた。
わたしはこれまでずっと安息日を守っていなかった。初めのころは宗教的な関心がなかったから、それまで安息日のしるしに普通の日より少し長い刻み目をつけて週の区切りをつけていたのをやめにしてしまい、そのうちいつが何曜だかさっぱりわからなくなっていたからである。ところが今、前に述べたように、日数を計算して自分がここにきてまる一か年になることを知ったので、それを週に区切り、第七日目を安息日として区別しておくことにした。ただし、計算してみると、わたしの計算では一日か二日かぬけていることになった。
この後まもなくインクがなくなりかけたので、いっそう節約して使うことにして、特筆すべき事件だけを書きとめ、ほかの事を毎日|控《ひか》えることはやめにせねばならなかった。
雨季と乾燥季とは規則正しくやってくるように思われた。それでこの季節を分けて、それぞれの季節に応じて諸般の準備を整えるようになった。しかしそうなるまでにはずいぶん苦しい経験をなめたのである。これから話すことももっともひどい失敗の一つであった。
大麦と米の穂を少しばかりとっておいたことはすでに述べた。自然に芽がでたものと思って驚嘆したわけであった。米の穂はたしか三十本ほど、大麦は二十本ほどであったと思う。雨季も終わり、太陽は南の方角にあって次第に遠ざかるので、今こそ種をまく適時だと思った。
そこで木製の鍬《くわ》でできるだけていねいに土地の一隅《いちぐう》を掘りかえし、それを二つの区画に分けて種をまいた。しかしそれをまきながら、播種《はしゅ》の適時をはっきり知っていたわけでないから、全部を初めにまいてしまうのはよくないと、ふと思いついた。そこでおよそ三分の二くらいまいて、どちらもひと握りほど残しておいた。
こういう処置をとったことは、後になってわたしに大へん助けになったのであった。というのは、この時にまいた種からはひとつも芽が出なかったからである。それもそのはず、種をまいた直後、乾燥季にはいり、地面に雨が全然降らず、発芽をうながす湿気がないというわけで、次の雨季がくるまで芽を出さなかった。雨季になるとまるでその時まいたばかりのように芽を出したのであった。最初の種が芽を出さないのは乾燥のせいだとすぐ気がついたので、もう一度やってみるために湿った土地を捜した。
新しく建てたあずまやの近くに少しばかりの地面を耕して、残りの種をまいた。これは二月で、春分の少し前のことだった。こんどは三月と四月という雨の多い月がつづくので、湿気はじゅうぶんとれたから勢いよく成育し、やがてみごとな収穫を上げた。けれどもこの時の種は前の残りものにすぎず、もっていたものを全部思いきって使ってしまうこともしなかったので、収穫もけっきょく僅《わず》かな量にすぎず、全部で大麦と米とそれぞれ半ペックくらいにしかならなかった。
しかしこの実験で栽培の要領を会得し、播種《はしゅ》の適時も正確にわかり、毎年二度種をまき、二度収穫を上げることもできることを知った。
作物が生長している間に、あとになって役に立った、あるちょっとした発見をした。雨季がすぎて、天候が定まりかけたころ、つまり、十一月ごろであったが、わたしは例のあずまやに出かけていった。それまで数か月も行っていなかったが、すべてのものがもとのままになっていた。さきに作った円い、二重の垣根《かきね》もしっかりして少しも壊れていないばかりか、近くに生えていた木を切って作った支柱はみんな芽を出し、それが長い枝になっていた。それは梢《こずえ》を切られた柳の木がその翌年に芽をふくのにそっくりであった。これらの杭《くい》を切り出したもとの木はなんという木か、わたしは知らなかった。とにかくこの若木が生長しているのを見て驚いたが、至極《しごく》満足でもあった。さっそく、枝を刈りこんで、できるだけ一様に伸ばしてやるようにした。とても信じられないことだが、わずか三年のうちに見事な格好の木になった。垣は直径約二十五ヤードの円形となったが、もとの杭で、今はりっぱに木といってよいが、それがすぐにその円全体をおおってしまった。そして乾燥季の間はじゅうぶんそこで暮らすことのできる完全な日陰となったのである。
このことから、もっと杭を切って、わたしの壁、つまり初めの住居の壁をかこんで、ここと同じように、半円形に垣を作ることを思いつき、そうやってみた。もとの柵から約八ヤード離れたところにぐるっと二重にこの杭、つまり木をうち込んだが、それがやがて成長して、初めはわたしの住居に気持ちのよい木陰となり、後には防御の役にも立つようになった。それについては然るべきところで述べることにする。
このころになって、ここでは一年の季節はヨーロッパのように夏と冬に分けるのでなく、だいたい雨季と乾燥季に分けられることを知った。
その分け方はほぼ次のとおりであった。
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〔二月の後半・三月・四月の前半〕
雨季で、太陽はこのころ春分点の上かその近くにある。
〔四月の後半・五月・六月・七月・八月前半〕
乾燥季で、太陽はこのころ赤道の北にある。
〔八月の後半・九月・十月の前半〕
雨季で、太陽はこのころ赤道へもどっている。
〔十月の後半・十一月・十二月・一月・二月の前半〕
乾燥季で、太陽はこのころ赤道の南にある。
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雨季は風が吹くかどうかによって長くなることもあり、短かくてすむこともあった。けれどもこの表はわたしの観察による概略である。雨のときに出て歩くと健康に害があることを経験で知ってからは、雨季になって出て歩かなくてもすむように、前もって食糧を確保するように気をつけた。そして雨季の数か月はできるだけ家の中にいることにした。
雨の降っている時にも、その時期にふさわしい仕事がたくさんあった。それはじっくりと落ち着いて精を出してやらなければできそうもない物をいろいろ作る絶好の機会であったからだ。たとえば、いろいろ工夫して篭《かご》を作ってみようとした。けれども使おうと思ってとってきた小枝はいずれも折れやすくて全然役に立たなかった。ところが、わたしが子供のころ、わたしたちの一家が住んでいた町の篭屋の店先に立って職人たちが篭を作るのを夢中になって見ていたことが、今になって大へん役に立つことになったのだ。
子供というものはたいていそうだが、わたしも手伝いがしたくてうずうずしながら、職人たちの仕事ぶりを細かく観察し、時には手を貸してやったりしてけっこう、篭の作り方を覚えこんでしまった。そういうわけで、今は材料さえあればよかったのだ。
ちょうどその時思いついたのが、例の芽をふき出した杭の原木のことで、その木の小枝ならばイギリスの≪かわやなぎ≫や≪しだれやなぎ≫や≪こりやなぎ≫と同じように強靭《きょうじん》であるかも知れないと思った。で、さっそくやってみることにした。
そこでその翌日、わたしのいう別荘に行って、小枝を若干《じゃっかん》切りとってみると、まさにこちらの注文どおりであった。わたしは次の時には手斧を用意していって、たくさん小枝を切りとることにした。もちろんそれはその辺にたくさんあったから、じゅうぶん手に入れることができた。切った枝は垣の中で乾かし、使えそうになった頃あいをみて洞穴へ運んだ。
ここで次の雨季の間、たくさんの篭《かご》を編むことにせっせと精を出した。土を運ぶためのも、その他必要に応じていろいろな物を運んだり、入れておいたりするものも編んだ。できあがりの体裁はそんなによくはなかったが、役に立つことは申し分がなかった。こうして、その後は篭は決してきらさないように気をつけた。篭が古くなって使えなくなれば、次々と編んで補充し、とくに、丈夫な深い篭《かご》を作ったが、これは後日、穀物が多少まとまってとれるようになったとき袋のかわりにいれておくためのものであった。
多大の時間をかけてこの篭《かご》作りの難事を克服すると、さてこんどは、できるかどうかわからないが、もう二つの不足を満たしてやろうと意気ごんだ。じつは液体をいれる容器がひとつもなかった。あるのは、ラム酒がほとんどいっぱい詰まっている二本の酒樽と数本のガラス瓶ぐらいなもので、ガラス瓶は普通の大きさのものと、水や酒類をいれる四角な瓶とであった。ものを煮る鍋さえなかった。ただ、船から持ち出した釜《かま》だけはあったが、これは大きすぎて、たとえば、スープを作るとか肉を煮たりするような、さし当たっての用には役立たなかった。
もうひとつぜひ欲しいものは、たばこパイプであった。これは作れそうにもなかった。けれどもしまいにはこれもなんとか工夫したのであった。
第二の杭の列を住居のまわりに立てることと、この篭《かご》作りの仕事で、夏の季節、つまり乾燥季を全部つかってしまった。そのあとでまた別な仕事がまっていて、これがまた予想外に時間をとることになった。
これは前にもいったことであるが、わたしは全島をぜひ見たいと思っていたし、事実、小川をさかのぼって、わたしがあずまやを建てたところまで行き、さらに島の反対側の海を見わたすところまで行ったのである。こんどは島を横断して反対側の海岸まで行ってみようと決心した。そこで、鉄砲と手斧を持ち、犬を連れ、いつもより多量の火薬と弾丸を用意し、食糧として二個のビスケット・ケーキと乾葡萄の大房を嚢《のう》中におさめて出発した。例のあずまやの立っている谷間を過ぎると、西のほうに海を一望のうちにおさめるところへ出た。快晴の日であったので、かなたにはっきりと陸地が見えた。それが島なのか大陸なのかはわからなかった。とにかくそれは西から西南西へとのびて非常に高く海上に出ていて、距離はずいぶん遠かった。わたしの推定では四十五マイルから六十マイルはくだるまいと思えた。
そこがアメリカ大陸の一部であるに違いないという以外、いったい世界のどの部分にあたるのか見当がつかなかった。いろいろの点から判断して、スペイン領の近くであるに相違ない。多分蛮人が住んでいる地方であろうと思った。そうとすれば、そこに上陸していたら今よりももっとひどい目に会っていたに違いなかった。そう思うと、いまさらのように、天の配剤の妙に心服し、天がすべてをただただ、よきように計らうのだとようやく認め、これを信じるようになってきた。こういうことで心を静め、そこへ渡ろうなどという空しい願いでわが身を苦しめることはやめたのである。
しばらくこんなことを考えたあとで、もしあの陸地がスペイン領であるならば、いつかは、このあたりを往き来する船の影を認めるに違いないと思った。また、もしスペイン領でないとすれば、スペイン領とブラジルの中間にある沿岸の蛮地ということになる。そこの蛮人は最も獰猛《どうもう》な種族で、つまり食人種であって、捕えた人間は必ず殺してその肉体をみんな食ってしまうのである。
こんなことをあれこれ考えながらわたしはゆっくりと歩いていった。わたしが今歩いている、島のこちら側のほうがわたしの住んでいるほうよりもはるかに快いことを知った。ひろびろとした草原は花に飾られ草におおわれて気持ちよく、非常に美しい森が点在していた。鸚鵡《おうむ》はたくさんいた。できることなら一羽つかまえて飼い馴らし、しゃべることを教えて話し相手にしようと思った。多少骨が折れたが、若い鸚鵡を一羽つかまえることができた。棒でたたき落とし、それから介抱《かいほう》して元気にし、家に持って帰った。それを話ができるまでにするには何年もかかった。とにかくしまいには、非常に親しそうにわたしの名を呼ぶまでに仕込むことができた。そのあとで起こったある事件は、とるに足らないようなものではあったが、適当なところで述べれば非常におもしろい話になるだろう。
この旅行はわたしにとって大へんな気晴らしになった。低地に行くと、野兎らしいと思われるものや狐がいた。今までわたしが見た他の種類とはひどく変わっていた。数匹殺してはみたが、食べてみる気にはならなかった。また、むりをして食べてみる必要もなかった。食物に不足していたわけではなし、しかも上等のものにだって不自由はしなかったからだ。ことに山羊と山鳩と亀とは逸品《いっぴん》で、これに葡萄を加えたら、レドンホール市場〔ロンドンのグレースチャーチ街の角にある鳥獣肉の市場〕だって品数の割には、わたしにまさるごちそうはととのえられなかったであろう。わたしの現状はなさけないものであったけれども、食糧に窮しなかったこと、いやむしろ、うまいものさえふんだんにあったことは、なんとしても大いに感謝すべきことであった。
わたしはこの旅行では一日に二マイルかそれくらいしか進まなかった。何か目新しいものはないかと行きつ戻りつするものだから、その晩野営しようときめたところへ着くころにはすっかり疲れてしまっていた。いよいよ寝るとなると、木に登って寝るか、あるいは周囲に杭を一列にうちこみ、それを木と木の間にわたるようにするか、あるいは野獣が襲ってきたら必ず目がさめるように工夫して、寝たのであった。
こちらの海岸に来てみるとたちどころに、わたしは運悪くよりによって島の中でいちばん悪いところに居を構えたことを知って驚いてしまった。ここの海岸は一面に無数の亀でおおわれているのに、向こう側の海岸では一年半のうちに僅か三匹しか見かけなかった。ここにはまた、多種多様の鳥類が数えきれないほどいた。これまでに見たことのあるのもいるし、見たことのないものもいたが、多数のものはたいへん味がよかった。しかしペンギンと呼ばれるもの以外は名前も知らない鳥であった。
鳥はそのつもりになればいくらでも撃ち落とすことはできたが、火薬と弾丸が惜しかった。それゆえに、できればもっと食べでのある雌山羊のほうを獲《と》りたいと思った。島の向こう側よりこちらのほうが山羊はたくさんいたけれども、近づくことはずっとむずかしかった。地面が平坦であるので、丘の上から近づく場合よりもずっとす早くこちらの姿を見られてしまうのである。
島のこちら側のほうがわたしの住んでいる側よりはるかに住み心地がよいことはたしかに認める、けれどもここへ移る気持ちは毛頭なかった。わたしは自分の住居に定着してしまったので、そこが生まれ故郷のようになったからである。ここへきている間じゅう家を離れて旅に出ているような気がしていた。それはとにかく、わたしは海岸沿いに東に向かって、十二マイルくらい進んだ。そこの浜辺に目印として、大きな柱を立てて、それから帰途につくことにした。次の旅行は島の別な側、つまり、わたしの住居から東にとって、ぐるっと回ってこの柱のところまで来ることにした。それについてはいずれその時に話そう。
帰りには今来た道とは別の道をとった。島全体を見わたすことはきわめて容易であるから、付近の地形を見れば、わたしの住居は見つからないはずはないと思ったのである。ところがこれが間違いだった。二、三マイルも歩くと、いつの間にか広い谷間に降りていた。周囲は丘陵にかこまれ、その丘陵はまた森におおわれているというわけで、太陽の方角によるほか、どちらへ進んだらいいか、道がわからなくなってしまった。その太陽の方角さえ、当日のその時刻の太陽の位置をはっきり知っていないかぎり、おぼつかないことであった。
さらに運の悪いことに、わたしがこの谷間にはいり込んでから三、四日というもの、もやでかすんだ天気で、太陽もろくに見えなかった。非常に不安な気持ちで、うろうろ歩き回ったあげく、やむなく海岸へ出て、わたしが立てた柱を見つけ、前に行く時に通った道をひき返すことにした。こんどは楽な道をとって家路についた。何しろ天気はひどく暑く、鉄砲や弾薬や手斧やその他の持ち物が大へん重く感じられたからである。
この帰途に、わたしの犬が子山羊を奇襲して、これにおどりかかった。わたしはすぐ走っていってそれをとりおさえ、犬から引き離して生けどりにした。できることなら、ぜひこれを家に連れて帰りたいと思った。というのは、一匹か二匹の子山羊を手に入れ、それに子を生ませて山羊の群れを飼いならすことはできないかしらと、かねがね考えていたからであった。それができれば火薬と弾丸が尽きても食糧に困ることはないと思っていた。
この小さな動物のため首輪を作り、いつでも携帯《けいたい》していた綱《つな》で紐を作って、これで子山羊を引っぱっていった。少々手こずったが、とうとうあずまやまでたどりつき、そこに閉じこめたままにして家に帰った。一か月以上も留守にしていたので帰心矢のごとしというわけであった。
なつかしい自分の小屋に帰り、自分の吊床《つりどこ》に寝た時の喜びはなんとも名状のしようがなかった。定まった宿もなかったこんどの放浪の旅はじつに不愉快なものであった。そのせいか、今やわが家と呼ぶこの小屋は、あの旅とくらべると、まったく完璧《かんぺき》の安住の場であった。そしてここではわたしをとりまくいっさいのものが、ただ快適の一語につきた。運命の命ずるところがこの島にとどまることであるかぎり、二度とふたたびこの家を遠く離れることはやるまいと心をきめた。
家に帰って一週間ばかり休養した。長い旅行のつかれをいやし養生するためであった。しかしこの休養期間の大部分は鸚鵡《おうむ》のポルのために篭を作るという重大な仕事に費やされてしまった。ポルはすっかり家族のようになり、わたしと大の仲よしになっていた。すると小さな柵の中に閉じこめてきたかわいそうな子山羊のことが思い出され、行って連れてくるか、何か食べ物をやろうと思った。そこで出かけていってみると、逃げ出すことはできなかったから、もとのままいたが、食べるものがなかったので餓死寸前というところであった。わたしは木の枝やそこいらの潅木《かんぼく》の枝を切って投げこんでやった。こうして餌を食べさせてから家に引いて帰ろうと、前のように紐を結びつけた。しかしひもじかったせいか、すっかりおとなしくなっていて、紐をつけるまでもなかった。まるで犬のようにわたしのあとからついてきた。絶えず餌をやっている間に、この動物もすっかりかわいく、やさしく、なついてしまって、その時以来、わたしの家族の一員となり、もうわたしのそばを離れようとしなくなった。
秋分の雨季がやってきた。九月三十日は前年どおりに厳粛に一日を送った。島に上陸した記念日で、ここに来てちょうど二年になったが、ここに漂着した第一日と同じく、救い出される見込みは少しもなかった。しかしわたしは、この孤独な境涯に与えられた数多くの恵みを心にとめて、謙虚と感謝の念をこめてまる一日を暮らした。もしこれらの恵みがなかったならば、わたしの境涯はどれほどみじめになったか、はかり知れなかった。こんな孤独な境涯にあっても、自由に人と交わり、この世のあらゆる快楽にふけっている時よりもいっそう幸福でありうることを神がお示しくださったことを、うやうやしく心の底から感謝し、また、神はわたしの孤独な境遇の不自由さと人間との交わりの欠如とを、その御姿を示すこととその恩寵《おんちょう》をわたしの魂に啓示《けいじ》することによって、じゅうぶんに補ってくださったことを深く感謝した。この世にあっては神の摂理にたより、死後においては神の永遠の御姿をまち望むようにと、わたしをつねに支え、慰め、勇気づけてくださることもわたしの感謝するところであった。
どんなに悲惨な事情があっても、現在のわたしの生活のほうが、過去のあの不義と呪いと汚れの生活よりもどれだけ幸福であるか知れないと、しみじみと感じてきた。今ではわたしの悲しみも喜びもともに変化していた。欲望さえ変わったし、性情もその好みを変えていた。わたしが今喜ぶものは、わたしが初めてここに来た時のもの、いや、過去二年間のものとはまったく別な新しいものであった。
以前には、狩りにせよ島の探索にせよ、とにかく出歩いている時に、自分の境遇に対する魂の苦悶が突如としてわたしを襲うことがあり、自分をとり囲んでいる森林と山と荒地のことを思い、無人の荒野に、いわば大洋という永遠の牢固《ろうこ》たる獄門《ごくもん》に、救われるあてもなく閉じこめられている囚人となっているのだと考える時、わたしは生きた心地がしなくなるのであった。心がきわめて平静な時でさえ、この苦悩が嵐のように突如としてわたしを襲い、手をふりしぼって子供のように泣きくれるのであった。時には仕事をしている最中に、この苦しみに捕えられ、たちまち坐りこんでしまって溜息をつき、一時間でも二時間でも地面をじっと見つめているのであった。これはじつにつらいことであった。もし涙を流して泣き出すか、言葉にして胸中を吐きだすことができたならば、苦しみも去り、悲しみもおのずから力尽きて微弱になったであろうからである。
しかし今は新しい考えで頭を使うようになっていた。わたしは毎日神の御言葉を読んで、その御言葉の慰めをすべて自分の今の状態にあてはめて考えた。ある朝のこと、大へん気が滅入っていた時、聖書をひらいてみると、次の言葉が目にはいった。
「われさらに汝を去らず、汝を捨てじ」
たちどころに、これこそわたしに向かって語られた言葉だと感じた。わたしは折りも折り、自分を神と人とに捨てられた人間として、わが身の上を悲しんでいた時であるから、その言葉をわたしのためのものと考えるのもむりではなかったであろう。わたしはいった。
「もし神がわたしを捨てたまわないならば、たとえ全世界が自分を見捨てようと、それがどんな不幸な事態をひき起こすというのか。それがどれほど重大だというのか。もしまたその反対に、自分が全世界を得ても、神の恩寵《おんちょう》と祝福を失ったとすれば、これ以上の損失はないではないか」
この瞬間からわたしは堅く心に信ずるものがあった。すなわち、自分がこの世の中で何かほかの境遇にあったら幸福になれたかも知れないけれども、この世間から見捨てられた孤独の生涯にあってもより以上に幸福になれないとはかぎらない、ということである。こう考えて、わたしは自分をこの島に導きたもうたことを神に感謝したいと思った。
この考えに対して、何かわからないが、あるものがわたしの心に衝撃を与えて、感謝の言葉が口に出せなかった。その代わりに耳に聞きとれるほどの声を出してこういった。
「むりに満足しようといかに努めてみても、じつは心の底から救い出されたいと祈っている、そんな境遇を神に感謝するふりをよそおうとは、なんという偽善者《ぎぜんしゃ》だ!」
そこで言葉をきった。しかし、わたしがこの島に来たことを神に感謝したとはいえなかったにしても、とにかくいろいろな苦しい試練をくだされてわたしの過去の生活をふり返り、わが不行跡を悲しみ、悔いる心を起こすように、この目を開きたもうたことに対しては心からの感謝を捧げたのである。聖書を開いたり閉じたりするごとに、わたしが頼みもしないのにイギリスの友人が聖書をわたしの荷物の中に入れるようにとり計らわれ、また難破船からそれを救い出すのにお援けくださったことを、わたしの魂は神に感謝しないではいられなかった。
このようにして、またこんな心境のうちに、わたしは島の生活の第三年目を迎えた。一年目のようにこの年のわたしの仕事のことをくどくどと述べて読者をわずらわすつもりはない。ただ大ざっぱにいえることは、この年もめったに怠けることはなかったこと、その日その日のいろいろな仕事に応じて規則正しく時間をきめて日課を果たしたということである。たとえば、その第一は神に対する礼拝を守り聖書を読むことで、これは常に一定の時間をきめて一日に三回行なった。第二は、食糧を捜しに鉄砲を携えて出かけること、雨が降らないかぎり通例毎朝三時間を要した。第三は、食糧として殺したり捕えたりしたものを処理し、乾燥し、貯蔵し、また料理することであった。これらの仕事には一日の大半を要した。なお、考えてもらわねばならないことは、太陽が真上にきている真っ昼間は灼《や》けるような暑さのため身動きもできなかったことである。したがって、夕方の約四時間が働ける時間ということになっていた。時には狩猟の時間と仕事の時間とを入れ替え、朝のうちに仕事をして午後に鉄砲を持って出かけるという例外もないわけではなかった。
労働にあてた時間が短かい上に、仕事が極度に骨の折れるものであったこともつけ加えていっておきたい。道具がない、手伝いがない、腕がない、というありさまで、何をやっても恐ろしく時間がかかった。たとえば、洞穴の中にぜひ欲しいと思った長い棚に使う板一枚を作るのに、たっぷり四十二日もかかる始末だった。これが、道具と木挽《こび》き穴とが揃っていれば、二人の木挽きで、同じ一本の木から半日で六枚もの板がとれるというわけであった。
わたしの場合はこうであった。わたしの欲しいのは大幅の板であったので、当然切り倒す原木も大きな木でなければならなかった。これを切り倒すのに三日間、枝を払い、丸太か材木にするのにさらに二日間かかった。それからいうにいわれぬ苦労をして切ったり刻んだりして両側をこそげとり、どうにか動かせる重さにまでした。それからこれをひっくりかえし、その一面を端から端まで平たく滑《なめ》らかにし、こんどはそれを下側にして、反対の面をまたけずり、やっとのことでおよそ厚さ三インチばかりの両面の滑らかな板に仕上げたのである。こんな板一枚にもわたしがどれだけ手を使ったか、これでわかってもらえるだろう。しかし、勤勉と忍耐、この二つでこの仕事をはじめ、その他の多くの仕事をやりとげたのである。
わたしがとくにこのことをいうのは、こんなつまらない仕事にもどんなに多くの時間が費やされるか、その理由を明らかにし、手助けと道具さえあればぞうさもなくできる事も、ただ一人で、しかも素手でやるとなると、たいへんな仕事になり、途方もない時間をとるものだ、ということを明らかにしたいからであった。
それにもかかわらず、わたしは忍耐と努力とで多くの仕事をやった。いや、生きていくためにはぜひせねばならないことはなんでもやってのけたのである。それはあとに続く物語でわかることである。
十一月から十二月になり、大麦と米の収穫の見通しもついてきた。この作物のために耕したり肥料を施したりした地面はそう広くはなかった。前にもいったとおり、どちらの種もその量は半ペック以上はなかったからである。乾燥季にまいたため、ひと収穫まるまる失ってしまったのがその原因であった。こんどは収穫の見込みはじゅうぶんであった。ところが、突然、収穫を全部また失う危険に頻《ひん》したことを知った。これは防ぎようもないような、いろいろな害敵が現われたからであった。第一に、山羊と、わたしが野兎と呼んでいる野獣とが穀物の葉のうまさに味をしめて、夜も昼もそこに入りびたりで、葉が出てくるとすぐそれを元まで食ってしまうので、茎が出揃うひまもないありさまであった。
これには垣根で畑のまわりを囲う以外には手の施しようがなかった。ずいぶん苦労してこれをやったが、事が急を要するだけに苦心もたいへんであった。しかし、耕作地は播種《はしゅ》の分量に応じて狭いものであったから、およそ三週間ですっかり垣根で囲ってしまうことができた。昼間は出てくる野兎を撃ち殺し、夜は犬に番をさせた。犬は門の杭につながれて、そこで夜どおしほえていた。こうして間もなく敵は畑をあきらめてしまった。おかげで作物は丈夫に育って、速《すみや》かに実り始めた。
ところが、ちょうど作物がまだ葉だけの時に害獣に荒らされたように、穂が出てくると、こんどは野鳥に荒らされそうになった。作物のできばえを見ようと畑のそばに行ってみると、そのわずかな作物のまわりに鳥が群がっていた。名も知らない多種多様の鳥で、わたしが立ち去るのを待ちかまえているふうであった。鉄砲は身から離すことはなかったから、さっそくその群れのまんなか目がけて一発ぶっぱなした。するとその瞬間、今まで気がつかなかったが、作物の中からまるで黒雲のように鳥が飛び立った。
これにはいたくこたえた。こんなふうだとせっかく楽しみにしていた作物も二、三日で食い尽くされてしまい、わたしは餓死しなければならないかも知れない、とにかく収穫は皆無になるだろうと思ったからだ。だが、さてどうしたものか見当もつかなかった。とにかく、どんなことをしてでも、たとえ夜昼見張りをしても、穀物は失ってはならないと決心した。
そこでまず、すでにどの程度の被害をうけているか調べてみると、相当にやられていることがわかった。けれどもじつはまだ青かったので損害はそれほどでもなかった。もしこの程度で食い止められれば、残りの収穫は相当に上がるだろうと思えた。
畑のそばにとどまって銃に弾丸《たま》をこめ、さて立ち去ろうとすると、この盗賊どもがあたり一帯の木にとまって、わたしが行ってしまうのを待ちかまえている様子なのが、すぐにわかった。事実、待ちかまえていたことはすぐわかった。
そこを立ち去るようなふりをして先へ少しすすんで、わたしが姿をかくすやいなや、すぐさま一羽二羽と作物の中へ舞い戻ってきた。今、鳥どもがついばむひと粒ひと粒が、結果においてはわたしにはまさに一ペックの量にも当たることを知っているので、もっと鳥が集まるまでとても待ちきれず、垣根へかけ寄って一発放った。三羽|撃《う》ち落とした。これはまさにわたしの望むところだった。
わたしはその三羽を拾い上げて、イギリスで名うての盗賊に対してやることをこの鳥どもにしてやった。つまり、他のものの見せしめに、鎖で絞首刑にしたのだ。これがてきめんに効果を奏《そう》したことは、想像もできないほどであった。以後は鳥はぱったり作物に近寄らなくなったばかりか、このあたりからまったく姿を消してしまった。少なくともこの≪かかし≫がぶら下がっている間は、畑の近くには鳥の姿はひとつも見られなかった。
わたしが非常に喜んだことはもちろんである。この年の二度目の収穫期である十二月の末には刈り入れをすませた。
その麦や稲を刈るのに大鎌も小鎌もないのでたいへん困った。窮余の策として、船から持ってきた武器類の中にあった幅広の長剣や短剣のひとつをなんとか改造して鎌を作った。それでも初めての収穫はわずかであったから、刈り入れには大した苦労もしなかった。要するに自我流な刈り入れをしたわけで、穂だけを刈りとって、それを前に作っていた大きな篭《かご》に入れて持ち帰り、手でもんで脱穀した。収穫が全部終わった時、半ペックの種から米が約二ブッシェル、大麦が二ブッシェル半以上とれたことがわかった。ただし当時は桝《ます》がなかったので、以上はわたしの推量にすぎなかった。
とにかくこれはわたしには大きなはげみになった。そのうちには神のおぼしめしによってパンの補給にあずかれるだろうという予想がついた。またもここではたと困ってしまった。籾《もみ》をひいて粉にする方法も知らなければ、そのあと麩《ふすま》と粉をふるい分ける方法も知らなかった。それに、粉にすることができたとしてもそれをどうやってパンにするか、パン粉はこねられたとしてもどうしてそれを焼くか、これが全然わからないのであった。こういう難問題もあり、かたがた相当な量を貯蔵したいし、補給も絶えず確保したかったので、こんどの収穫はひと粒も食糧にまわさず、次の季節にまく種として全部保存しておくことにきめた。そしてその間あらゆる研究をし、働く時間のすべてを捧げて、穀物とパンを自給するという大事業を完成するように努めることにした。
それからわたしはパンのために働いたといったら、真相に近いであろう。一個のパンをつくるのに、その下ごしらえから、生産、保存、加工、調製、仕上げにいたる工程において、思いもよらぬこまごました仕事がどれだけ必要なものか、考えてみれば不思議なものだ。おそらくこれはあまり人の考えてもみないことであろうと思う。
パンの問題は、まったく自然人の状態に追いこまれたわたしにとって、毎日考えるだけでもゆううつのたねであり、時々刻々ますます深刻に感じられるようになった。前にもいったように、まったく思いがけなく、驚異として、あのひと握りの種の穀粒を手に入れたあとでもそうであった。
第一に土を耕す鋤《すき》もなければ、土を掘る鍬《くわ》もシャベルもなかった。なるほど、前にもいったように、木の鍬を作って一応この難問題はかたづけたが、これでは手ぎわの悪い仕事しかできなかった。作るには多くの日数をかけたのに、鉄がはまっていないためすぐに摺《す》り減り、そればかりでなく、仕事はやりにくく、その結果もじつにまずいものであった。
それでもこれをこらえ、辛抱強く仕事をやり、結果がまずくてもがまんした。種をまいても、≪まぐわ≫がないので、仕方がないので大きな重い木の枝を引きずって歩いた。地面をならすというよりは、いわば引っ掻《か》くというところであった。
作物がこうして実る前後に、畑を垣根で囲んだり、害鳥などから守ったり、刈り入れたり、乾燥したり、家に運んだり、脱穀し籾殻《もみがら》をふるい分けたり、貯蔵したり、こういうことをするのに、いろいろとどんなに不自由な思いをしたかは、すでに述べたとおりである。これがすんだとしても、粉を挽《ひ》くための臼《うす》、ふるいわけるための篩《ふるい》、パンにするためのパン種と塩、さらに焼くための窯《アヴン》、こういうものが欲しかった。しかしこういうものがないままでやってのけた。そのことはおいおいお話しする。
とにかく穀物はわたしにとってははかり知れないほど慰めとなり、ありがたいものであった。このために、前にもいったように、ひどく骨が折れたり手間がかかったりしたが、これもまた止むを得なかった。時間にしてもかならずしもまるまるむだになったというわけではなかった。というのは、前もって日課を定めていたので、毎日の一定の時間をこれらの仕事にあてていたからである。もっとたくさんの穀物を確保するまでは、現在手持ちのものをパンにしてしまうつもりはなかったので、いよいよ収穫を上げてそれをパンに使うという時、必要な加工のための器具類を備えるのに努力工夫して、これから半年そのためにもっぱら働くという段取りであった。
しかしまず第一にもっと土地を開墾しなければならなかった。一エーカー以上の土地にまくだけの種ができたからである。だが、その前に、鍬《くわ》作りという少なくとも一週間の仕事があった。その鍬もできあがってみるとまことに情ない代物《しろもの》で、それに非常に重くて、これを扱うには普通の二倍の力を要した。それでも、できるだけ家の近くによさそうな所を見つけ、広い平たい畑を二枚、その鍬で耕して種をまき、それをりっぱな垣根で囲った。それに用いた杭は前に植えた木から切り出したもので、この木は根がつく木であったから、一年も経てば文字どおり生垣になるはずで、手入れの必要もほとんどないと思われるものであった。この仕事も案外ばかにならず、三か月もかかってしまった。大部分が雨季にひっかかってしまって、あまり外に出られなかったからである。
雨が降って外に出られないで家に閉じこめられている間も、わたしは次のように何かと仕事があった。もっとも、仕事をしている間じゅう、鸚鵡《おうむ》に話しかけたり言葉を教えたりして気晴らしをするくせがついた。自分の名前を覚えるようにさっそく教えてやったところ、しまいにはかなり大きな声でポルといえるようになった。これがこの島でわたし以外の口から発せられるのを聞いた最初の言葉であった。そういうわけで、これはわたしの仕事そのものではなく、仕事の助けなのであった。今もいうとおり、次のような大きな仕事が控えていたのだ。
わたしはそれまで長いこと、なんとかして土器を作りたいと研究をしていたのだ。これがなくてずいぶん困っていたが、どうやって手に入れたらよいかわからなかった。ところが、気候が非常に暑いことを考えて、もし適当な粘土《ねんど》さえ見つけることができたら、なんとかこれで壷《つぼ》のようなものをでっちあげ、日に当てて乾かせば持ち運びができるし、乾いたものを湿気をくわないように保存できるほど、堅くて丈夫なものになるに違いないと思っていた。
わたしが目標としている穀物や粉その他を用意しておくのに、どうしてもこれが必要であったから、できるだけ大きいものにし、ただ物をいれておくだけでいいのだから、壷のようにすわりのいいものにしようと思った。
粘土をこねるのにどれだけへまをやったか、どんなに変てこな、無格好な醜悪《しゅうあく》なものを作ったか、粘土が柔らかすぎて自分の重みでどのくらい多くのものがへこんだり、また反対にでっぱったりしたか、早く出しすぎたために、太陽の熱が強すぎてどれだけのものがひび割れたか、乾く直前や直後に、ただ動かしただけでどれくらいがこなごなに壊れたか、こんなことを話したら読者はわたしを憐れむか、それよりもあざけり笑うに違いない。要するに、さんざん苦労して粘土を捜しあて、掘り出し、ほどよく練り、家に持ち帰り、工作にかかったあげく、二か月もかかって、ようやく、壷などとは呼べないような、大きな醜悪な土器を二個こしらえたにすぎないのだから、まったく笑いものであろう。
とにかく、太陽に当てたのでこの二個の容器は堅く乾き上がった。静かにそれを持ち上げて、壊れないようにわざわざそのために作っておいた大きな篭《かご》の中に収めた。すると、壷と篭の間に少し隙間ができたので、そこに稲と大麦の藁《わら》をすっかり詰めた。こうやっておけば、ふたつの壷はいつも乾いているわけで、乾いた穀物や、穀物が挽《ひ》けるようになった時にはおそらくその粉も、いれておけるだろうと思った。
大型の壷をこしらえる計画ではさんざんにしくじったが、小型のものはうまく作れた。たとえば、丸い小壷、平皿、水さし、土鍋、その他手当たり次第に作ったもので、太陽の熱で不思議なほど堅く焼けた。
しかし、液状のものをいれて、しかも火にかけてもだいじょうぶな土器の鍋を作ろうというわたしの目的には、どれもみな不合格であった。しばらく経ってのことであったが、肉を料理するためにかなり強い火をおこしたことがある。料理がすんだのでその火を消そうとすると、火の中に土器の破片が、石のように堅く、タイルのように赤く、焼けているのが目にとまった。これを見てわたしは驚喜して、もし破片がこんなふうに焼けるものなら、一個のものだってきっと完全に焼けるだろうと、一人ごとをいった。
これがきっかけで、土鍋を焼くには火加減をどうすべきか研究し始めた。陶工がものを焼くのに使う炉《ろ》なんかもちろん知らないし、鉛は多少持っていたにしても、鉛を使ってうわ薬をかける方法も全然わからなかった。けれども、とにかく三個の大きな土鍋と二、三個の壷を積み重ね、そのまわりに薪《まき》を置き、その下には真っ赤な炭火をたくさん置いた。外側と上のほうからどんどん薪をくべてゆくうちに、中に置いてあった壷が真っ赤に芯まで焼けとおって、しかも少しもひび割れができていないのを認めた。それが冴《さ》えるように赤くなったのを見て、そのまま五、六時間熱し続けた。すると、壷のひとつが割れないかわりに融《と》けてきた。粘土にまぜておいた砂が、猛烈な火熱で融け出したらしく、もっと熱し続けていたらガラスになったかも知れなかった。そこで、火勢を少しずつ弱めてゆくと、壷の真っ赤な色も薄くなっていった。火勢があまり急に減じないように、その晩は夜どおしつきっきりで見張りをした。
翌朝になると、格好こそあまりよいとはいえないが、三個のりっぱな土鍋と二個の壷とが、まったく申し分なく堅く焼き上がっていた。そのうちのひとつは砂が融けてみごとにうわ薬がかかっていた。
こういう実験をしてからは、自分の使い料としてはどんな土器にも事欠かなかったことはいうまでもない。ただ、誰にも想像がつくように、その形格好については話は全然別であったことは断わっておかなくてはならない。なにしろ子供が泥まんじゅうを作ったり、練った粉をふくらませる方法を知らない女がパイを作ったりするのと同じことで、わたしの土器作りの方法もまったくでたらめであったからである。
たかが土鍋というようなつまらぬ物にせよ、火にかけてもだいじょうぶだという土器を作り上げたと知った時のわたしの喜びは、くらべるものがないほどであった。鍋がさめるのも待ちかねて、さっそくひとつの鍋をまた火にかけ、水をいれて肉を煮てみると、まことにみごとな結果であった。子山羊の肉のひと切れを使って大へんうまいスープを作った。もっとも、望みどおりの味を出すにはオートミールやそのほかの材料が必要だったが、ないものは仕方がなかった。
次に考えたことは穀物を潰《つぶ》したり砕《くだ》いたりするための石|臼《うす》を手に入れることであった。碾臼《ひきうす》のような完璧《かんぺき》な技術を要するものに至っては、わたしの二本の手ではとうてい達し得ないものであった。この石臼をどうして備えるか、わたしはまったく途方にくれた。およそ世間の商売のうちで、石工ほどわたしの素質に合わないものはなかった。それに第一、道具さえなかった。幾日もかかって、内側をくりぬいて石臼を作るのに適当な大きさの岩石を捜し回ったが、けっきょく見つからなかった。見つけたものといえば、大きな岩石の塊《かたまり》で、それから切り出すなどということはまったくできなかった。島にはごろごろしている石はあったが、硬さが不じゅうぶんで、みんなもろもろの砂岩からできていて、重い杵《きね》でつけば、ひとたまりもないだろうし、穀物を砕けばそれが砂まじりになってしまうだろう。
そういうわけで、石を捜すのにさんざんむだな時間をかけたあげく、石はあきらめて、硬質の大きな木材を捜すことにしたが、これはじつに易々《やすやす》と見つかった。わたしの力で動かせる範囲でいちばん大きな木材を手に入れ、まずそれを丸く切り、斧と手斧で外側の格好をつけ、次には火を使ったりして大へんな努力をし、ブラジルの土人たちが丸木舟を作る要領で、木の中に≪へこみ≫を作った。臼《うす》ができると、次には鉄木と称する木から大きな重い杵《きね》を作った。そしてこの次の穀物の収穫をたのしみにこれらの道具をしまって置いた。その時がきたら穀物をひいて、というより打ち砕いてパンを作る粉にするつもりであった。
次の難事は、粉を籾殻《もみがら》と皮からふるい分けるに必要な篩《ふるい》を作ることであった。これがなければパンを作ることはできないわけであった。これは考えただけでも難事中の難事であった。これを作るに必要なもの、つまり、粉をふるう薄い織目のこまかい布地がまったくなかったのだ。これで何か月も立ち往生してしまい、ほとほとどうしていいかわからなかった。リンネル布地で残っていたものは、まったくのぼろ切れにすぎず、山羊の毛はあっても、どう織るか、どう紡《つむ》ぐか、知るはずもなかった。かりにその方法を知っていたとしても、道具がなかった。どうやらこの打開策となったのは、けっきょく、船から持ってきた船員の衣類の中にキャラコかモスリンの襟巻《えりまき》がはいっていたことを思い出したことである。これらの切れで三つの小さい篩を作ったが、これでまず仕事には差しつかえはなかった。こうして数年はどうやら間に合わせることができた。その後どうしたかについて、適当な場所で話をしよう。
いよいよ穀物が手にはいるようになった時、さてどうやってパンをつくるか、どうパンを焼くのかが、次に考えなければならないことであった。第一、パン種《だね》がなかった。しかし、この要求は満たしようがなったのだから、あまり気にかけないことにした。だが窯《かまど》のほうは大いに苦心した。ついにこれに対する方法も考え出したが、それは次のようなものであった。
まず、非常に幅の広い、深さはあまり深くない土器を、つまり、直径約二フィートで深さは九インチを上まわらない土器をいくつか作った。これを他の容器を焼いたと同じように、火にくべて焼いて手もとに用意しておいた。そしてパンを焼きたい時には、炉の上に強い火をおこした。この炉は、わたしが焼いて作った煉瓦《れんが》を敷きつめたものであったが、この煉瓦なるものも四角とはいえそうもなかった。
薪《まき》が相当に燃えて燎《おき》というか炭火になると、それを炉一面にゆきわたるように広げ、炉が非常に熱くなるまでそのままにしておいた。それからその炭火を全部払いのけて炉の上にじかにパンの塊《かたまり》を置き、その上に先にいった土器をかぶせ、ふたたびそのまわりに炭火を掻き集めて、中に一定の熱を保つばかりでなく熱を強めるようにした。このようにして、世界一の窯《かまど》にも負けないようなりっぱな大麦パンを焼くことができた。そのうえ、間もなくわたしは一人前の菓子職人にもなった。いろいろの米の菓子やプディングなども作ったからである。もっともパイはこしらえなかった。中にいれようにも、鳥肉か山羊肉のほか、何もいれるものがなかったのだ。
この島に住みついてから第三年目も大部分はこのようなことで過ごしてしまったが、別に不思議とするにはあたらないであろう。というのも、こんな仕事の合間合間に次々の収穫や農耕のことをせねばならなかったことも当然考えられるからである。季節がくれば穀物を刈り入れ、つとめてそれを家へ運び、穂のまま大きな篭《かご》にいれて置き、暇ができるのを待って手でもんで脱穀した。打穀するにも広げる床がなく、また打穀機もなかったからである。
さて、穀物の貯蔵がだんだん増してくると、納屋《なや》をもっと大きくする必要を痛切に感じてきた。穀物の収穫が非常に増大したので、これをしまって置く場所がほしかった。今では大麦が約二十ブッシェル、米がほぼそれと同じかあるいはそれ以上になった。そこでこれからは食物はじゅうぶんとることにした。というのは、船から持ってきたパンは久しい以前になくなっていたし、満一か年にどれだけの量があればじゅうぶんか調べてみ、種まきは一年に一回にしようと思ったからである。
だいたいにおいて、大麦と米の両方で四十ブッシェルあれば、一年間わたしが消費してかなり余ることがわかった。そこで、この前まいたのとちょうど同じ分量を毎年一回まくことにした。これだけあればパンその他をじゅうぶんにまかなえるだろうという見込みであった。
こういうことをしている間もしょっちゅう、島の反対側から眺めた陸地の姿がわたしの念頭に浮かんだことはいうまでもない。そこに上陸してみて、そこが大陸であった場合を勝手に想像し、人が住んでいるところであれば、なんとかしてもっと先のほうへ進んでいけようし、やがては首尾よくこんな生活から脱出できる手段も見つかるかも知れない、と、こんなひそかな願いを心にいだかないわけでもなかった。
けれどもそう思いながらも、そうなった場合のいろいろな危険などは考慮していなかった。実際、野蛮人の手に陥るかも知れない。しかもそれがアフリカのライオンや虎よりももっと凶悪と考えられるふしがじゅうぶんにある蛮人なのである。もし彼らの手中に収められたら最後、十中九分九厘までは殺される、おそらくは食われてしまうという危険がある。話に聞けば、カリブ海沿岸の人種は食人種だというし、緯度から判断してわたしの今いるところはその沿岸からそう遠くないことは明らかであった。かりに食人種でないとしても、殺される恐れはたしかにある。現に今までに多くのヨーロッパ人が彼らの手にかかって殺されている。それも十人とか二十人もいっしょにいてのことである。たった一人で、ほとんど身を守るすべもないわたしの場合はとうてい助かる見込みはない。
すべてこういうことは、重ねていうが、当然じゅうぶん考慮すべき事柄であり、事実、あとでこそ思慮を払ったものであったが、初めはまったく意に留めなかった。ただあの海岸に渡りたいという考えに熱中していたのであった。
今こそあの少年ジューリーがいてくれたら、また、アフリカ沿岸を千マイル以上も航行した、あの三角帆のついた長艇があってくれたら、と願った。だが、それもむだであった。それから、わたしは乗っていた船のボートを見にいってみようと思った。それは前にいったように、われわれが最初海上に投げ出された時、あの嵐の中をずいぶん遠くまで流されて岸に打ち上げられたボートである。行ってみるとボートはほとんど打ち上げられたところにあったが、多少は移動していた。波と風のために転覆して、底を上に向けるようにして高い小砂利のどてによりかかっていた。前のとおり水ははいっていなかった。
もし人手があって修復ができ、水に浮かべることができたとすれば、このボートでも結構役に立って、これに乗って易々《やすやす》とブラジルに帰れたかも知れなかった。しかし、これをひっくり返してもとのように起こすのは、島を動かすほどの難事であることは、ちょっと頭を働かせば予想できたはずである。それだのにわたしは森に行って木を切り、挺子《てこ》とローラーを作り、ボートまでもってきて、やれるだけやってみようとした。もしボートが起こせたら、破損個所の修繕はぞうさないだろうし、そうなればりっぱなボートに仕立てられて、さっそく海に乗り出せることになるだろうと、甘く考えたわけであった。
この無益な仕事にまったく骨身を惜しまずはげんで、三、四週間もこれに費やしたと思う。けっきょく、わたしの貧弱な力ではこれを持ち上げることは不可能だと知って、ボートがひっくり返るように下側の砂を掘り始めた。穴が掘れたら何本かの木材をあてがって、うまくボートを落としこもうというつもりであった。
穴を掘ってボートを落ちこませはしたが、これをもう一度起こすことはできず、その下にはいることもならず、まして水際まで動かしていくことなぞ思いもよらなかった。そこで仕方なくこれはあきらめてしまった。しかしボートのことはあきらめたものの、大陸へ渡りたいという願望は、その手段が絶望と思われれば思われるほど、弱まるどころか、いっそう強くなるばかりであった。
この願いが募《つの》ってくると、とうとう、カヌー、つまり丸木舟が作れはしまいかと思うようになった。この地方の土人が道具も用いず、また、人手も借りずにといってもよいが、大木の幹から作るあの舟である。これなら作れることはもちろん、第一簡単にできると考え、作ると考えただけでたまらなくうれしく、ことに黒人や土人よりも自分のほうがずっと便宜《べんぎ》に恵まれていると思うとなおさらうれしくなった。
ところが、土人と違った特別な不便がこちらにあることを迂潤《うかつ》にも考えなかった。つまり、丸木舟ができあがっても海まで運ぶ人手がないことであった。これは道具がなくて土人たちが困るよりも、わたしにとってははるかに克服しがたい難事であった。森へ行って大木を選び、さんざん苦労して切り倒し、道具を使ってその外側を削ったり刻んだりしてボートの格好に作り、内側は焼いたりくりぬいたりして適当に仕上げる、こうして一隻のボートができあがるとする。
ところがこれだけの手間をかけたあげく、その丸木舟はその場所においたままで、水に浮かべることができなかったとすれば、いったいこれは自分にとってどういうことになるのか。
ボートを作っている間、少しでも現在の事情を考えてみれば、どういうふうにしてボートを海に降ろすかを真っ先に考えるべきだった、と人は当然思うかも知れない。ところが、その舟に乗って海を渡ることばかりに気をとられていたので、どうしてそれを陸から海面へ降ろすかはついぞ一度も考えてみなかったのである。舟というものの性質上、海上を四十五マイルあやつっていくほうが、現在それがある陸上を、水に浮かべるために四十五|尋《ひろ》動かすよりもずっと易《やさ》しいというわけであったのだ。
いやしくも正気の人間ならやりそうもないこんな舟作りの仕事を、まるでばかみたいに、わたしはやりかかったのである。そんな仕事にとりかかって果たしていいかどうか確かめもせずに、その計画だけでうれしくなっていたのだ。ボートを進水させることのむずかしさが時折わたしの念頭に浮かばないわけでもなかった。けれども、わたしは自分から次のような愚かな答えを出して、その問題に深入りすることをみずからやめた次第であった。「まず作ることだ。できあがったら、あとはなんとかうまくやる方法は必ず見つかる」
これはまったく本末転倒のやり方であった。けれども思い付きの熱意に圧倒されてわたしは仕事にかかった。わたしは一本の杉の木を切り倒した。ソロモン王がエルサレムの神殿造営のために切り倒した木も果たしてこれに匹敵するかどうか大いに疑わしいほどのものであった。根のすぐ上のところで直径五フィート十インチ、下から二十二フィートのところで直径四フィート十一インチもあり、それから先は次第に細くなり、やがて枝に分かれていた。この木を切り倒すのもなみたいていの苦労ではなかった。根元のところを切るのに二十日かかり、大小の枝や茂りはびこった梢を切り払うのに、さらに十四日もかかった。これには斧や手斧を用い、いうにいわれぬ苦労をした。この木を大体の舟の格好に切り、さらに釣り合いをとって、ボートの底のような形に仕立て、ちゃんと真っ直《すぐ》に水に浮くようにするために一か月の月日がかかった。さらに内側をくりぬいて、れっきとした一隻のボートに仕上げるまでには三月《みつき》近くかかった。これをするのにわたしはいっさい火を用いず、ただ槌《つち》と≪のみ≫だけを使い、あとはひどい労役にたよったのであったが、できあがったものはじつにみごとな丸木舟で、二十六人はゆうに収容できるほどの大きさ、つまり、わたしとわたしの荷物全部を載せるにじゅうぶんの大きさ、というものであった。
この仕事をなしとげた時、わたしの喜びはじつにたいへんなものだった。この舟は一本の木から作った丸木舟でわたしが今まで見た、いかなるものよりも遥かに大きかった。これを作るのはどんなにしんの疲れる仕事であったか想像もできよう。残るところはただ海に浮かばせることであった。しかしもし水に浮かべることができていたら、わたしは狂気の沙汰ともいうべき、無謀きわまる航海に出たであろうことは、疑いなしである。
しかし、どんな工夫をしてみても、またどんなに骨を折ってみても、丸木舟を海にいれることはできなかった。舟は海辺から約百ヤードの距離にあった。決してそれ以上ではなかった。だが、第一に困ったことは、入江のほうに向かって地面が高くなっていることであった。そこでこの支障を除くために、地面を掘って傾斜をつけることにした。この仕事を始めたものの、それは途方もなく骨の折れることであった。しかし救い出される見込みを前にして、誰が骨惜しみをするであろうか。だが、この作業はやりおおせ、難事は一応片づいたけれども、事態はもととあまり変わらず、前のボートの場合と同じく、丸木舟を動かすことは全然できなかった。
そこで、丸木舟を水際まで運べないとすれば、水を丸木舟のところまでもってきてやろうと、地面の距離を測り、掘割《ほりわり》、つまり運河を掘る決心をした。そこで実際に仕事にとりかかった。とりかかってみて、さてどれほど深く、またどれほど広く掘ったらいいか、掘り出した土はどう処理するか、こういうことを計算してみると、わたしが使用できる人手からいって、ということはわたし一人ということになるが、完成するまでに十年から十二年は間違いなくかかることがわかった。何しろ、海岸は高くて、その掘割のいちばん高いところでは少なくとも二十フィートの深さにしなければならなかった。とどのつまり、残念|至極《しごく》であったが、この計画も断念してしまった。
これでわたしはすっかり悲観した。そして、遅すぎた話であるが、どれだけの代価がいるかも考えず、やりおおせる力があるかどうかも見きわめず、いきなり仕事を始める愚かさをつくづくさとった。
この仕事の中途でわたしはこの島の生活の第四年目を終え、その記念日を前と同じような敬虔《けいけん》な心と大きな慰めのうちにおくった。神の御言葉を常日ごろから学び、まじめにこれを守り、神の恩寵の助けによって以前とは違った知識を身につけるに至ったからである。わたしは物の考え方がすっかり変わったのである。もう今では世間を自分とは関係のない、それについてなんら期待ももたない、遠い存在と見なすようになった。要するにわたしは世間とはまったく無縁であったし、おそらくいつまでもそうであろうと思われた。世間を見るわたしの見方は、おそらくわれわれが来世から見るようなもの、すなわち、かつて自分が生き、現在そこから脱出してあとにしてきたところ、として見ているにほかならなかった。父アブラハムがダイヴィズに向かっていった「我と汝《なんじ》らとのあいだに大いなる淵《ふち》定めおかれたり」はそのままわたしの言葉にしてもよかった。
第一、わたしはこの世のすべての邪悪から隔離されていた。肉の欲も目の欲も生活の虚栄を求める心もなかった。貪欲《どんよく》に求めたいものは何もなかった。現在享受できるものは何ひとつ欠けていなかったからである。わたしは全領土の領主であった。またその気になれば、自分の領有する全土の王とも皇帝ともみずから称することもできた。敵もいなければ競争者もいず、主権や指導権を争う相手は誰一人いなかった。穀物でも、船荷として積み出せるほどの収穫を上げることもできないわけではなかった。けれどもそんな必要はなかった。ただ自分に必要と思われるだけ控え目に生産していたのだ。亀もたくさんいたが、ときおり一匹捕えればそれでじゅうぶん用に足りた。材木もゆうに一船隊を建造するに足りるほどあった。葡萄にしても、あるいは葡萄酒にし、あるいは乾葡萄にして、かりにあの一船隊を建造するとすれば、それに持ちこむにじゅうぶんなほどあったのである。
しかしわたしに利用できるものだけが価値があったのだ。わたしには食べる物も、その他の必要を満たす物もじゅうぶんにあったが、それ以上あったところで、それがわたしになんの役に立ったであろうか。自分で食べきれないほど鳥獣を殺したところで、けっきょくは犬かほかの害獣の餌となるだけのことである。食べきれないほど穀物をまけば、腐らしてしまうことになる。げんにわたしが切り倒した木が地上でころがっていて朽ちている。薪《まき》として使うよりほかに使いようはない。それも食べ物の料理以外に用いる機会もないのであった。
要するに、いろいろの経験と事物の性質をよく考えてみて、わたしが教えられたことは、すべてこの世の良いものはそれがわれわれの役に立つかぎりにおいて良いのであって、有り余って他人に分けてやるほど何を山と積んでみても、ありがたいと思うのは自分で使える限度内のことで、それ以上ではないということであった。どんな貪欲でけちん坊な人間でも、もしわたしの立場におかれたならば、貪欲の悪徳はきれいになおされてしまうであろう。わたしは自分でどうしてよいかわからないほど無限に物資を持っていた。わたしには物欲のはいりこむ余地はなかった。もちろん欲しいものがないわけではなかったが、それはわたしのような者にこそたいへん役に立つが、一般にはがらくた同然のものでしかなかった。
前にもちょっとふれたことだが、わたしは金貨や銀貨で約三十六ポンドのお金を持っていた。「ああ、なんという汚らわしい、愚にもつかぬ代物《しろもの》だなあ」、とわたしは思った。こんな物はまったく使いようがないではないか。十二ダースのたばこパイプか、穀物をひく碾臼《ひきうす》を手に入れるためなら、ひと掴《つか》みの金銀貨を出しても惜しくないとしばしば思った。いや、それどころか、イギリス産の蕪《かぶ》や人参《にんじん》の種六ペンス分、あるいはひと握りの豌豆《えんどう》や隠元豆《いんげんまめ》や、ひと壷のインクのためなら、所持金を全部はたいてもよいとさえ思った。
ところが現状では金はあってもなんの役にも立たず、少しの利益にもならなかった。金はただ引き出しの中に眠っていて、雨季には洞穴の湿気で錆《さ》びるばかりであった。引き出しの中にダイアモンドがいっぱいはいっていたとしたところで、結果は同じことであろう。使い道がない以上、自分にはなんの価値もないわけであった。
このころになると、初めのころよりも生活状態はずっと楽になっていた。肉体的にはもとより精神的にずっと楽になっていた。食卓に向かう時、しばしば感謝の念に満たされ、荒野にあってこのようなごちそうを供えてくだされた神の御摂理《みせつり》に賛美の声を上げるのであった。わたしは自分の生活の暗い面よりもっと明るい面を見、なくて困っているものよりも、現に享受しているものを考えるようになった。
このようにして、わたしは名状しようもないような、しみじみとした心の慰めを与えられた。このことをここに書いておくのも、神が与えなかったものを強いて求めるために、神が与えたものをありがたく享受できない、世の不平家たちに注意を喚起《かんき》したいからにほかならない。およそないものに対するわれわれの不満は、われわれの有るものに対する感謝の念の欠如から起こるものと、わたしには思われた。
もうひとつわたしが反省してたいへんに役立ったことで、また万一わたしのように難儀に陥った人にも確かに役立つと思われることがあった。それは現在の状態を、こうなるかも知れないと初めに予想した状態と比較してみることであった。つまりわたしの場合、もし神の恵みふかき摂理が不思議にもわたしの船をずっと海岸近くまで押し流してくれなかったらどうなっていたかを、今とくらべてみることであった。幸い船が岸に近かったからこそ、船にも行けたし、その物資を取り出して陸揚げすることもでき、苦しみを救われ慰めも得られたのだ。このことがなかったならば、仕事をするにも道具に不自由し、身を守るにも武器もなく、食糧を求めるにも弾薬に不自由したに違いなかった。
もし船から何も持ち出すことができなかったとしたら、いったいどういうことをしただろうかと、その時の光景をまざまざと心に描いて何時間も、いや、何日もすごしたのであった。食物といっても魚と亀のほかは何も獲れなかったであろう。その魚と亀にしても、これを見つけたのはだいぶあとのことであったから、その前におそらく死んでいたに相違ない。かりに死ななかったにしても、まるで野蛮人同様の生き方をしていたであろう。なんとか工夫して山羊か鳥を殺したとしても、その皮を剥《は》いだり、切り開いたり、肉を皮や臓腑《ぞうふ》から分けたり、肉をこまかく切ったりすることには、なんとも手の施しようがなくて、野獣のように歯で食いちぎり、爪で引き裂く始末であったに違いない。
こういうことを考えると、自分に対する神の恩恵のほどをしみじみと感じ、辛《つら》いこと悲しいことがあるにせよ、現在の境遇を心からありがたいと思わざるを得なかった。このことを書くのも、不幸に遭遇して、ともすればわたしの苦しみのようなものがほかにあろうかと嘆く人々の反省に資するためにほかならない。そういう人々には、ほかの人々がはるかにひどい目に会っているかも知れないし、神のおぼしめしによっては、自分がそんなひどい目に会っていたかも知れないのだと、よくよく考えてもらいたいのである。
わたしに希望をもたせて心を慰めるにあずかって力となったもうひとつの反省があった。それは今の自分の状態を自分が当然の報いとして受けるべきであった状態、つまり神の御手から当然受けることを覚悟すべきであった状態と比較することである。わたしはまったく神を知らず、神を恐れない、恐ろしい生活を送ってきたのであった。もちろん父母からは十分教訓を授けられていた。神を畏《おそ》れる敬虔《けいけん》の念や義務感や、あるいはまた人生の意味や目的から、当然わたしのなすべき心構えについて、父母は早くから骨身を惜しまずわたしに尽くしてくれたのであった。
それにもかかわらず残念にも、わたしは早くから船乗り稼業にはいってしまった。船乗り稼業とは、神の威嚇《いかく》を常に眼前にひかえながら、最も神を恐れることのない稼業なのである。そういうわけで、わたしは早くから船乗り稼業にはいり、船乗り仲間の群れに投じて、それまでわずかながらも懐《いだ》いていた信仰の心も仲間の哄笑《こうしょう》にあってふっ飛んでしまい、危険とか死とかを軽蔑する心が募《つの》っていけば敬虔の念はいよいよなくなった。それにいつも話をする相手が似たりよったりの仲間同志だけに、よい仲間との話す機会、よい心掛けを促《うなが》すような話を聞く機会が、長い間まったくなかったために、不届きな心持ちが習慣となってしまった。
このようにして良いものは何もかも失ってしまい、自分がいったいいかなるものであり、またあるべきか、という反省もまったくなくしてしまった。したがって今までいろいろな危難から救われた重大な時も、たとえばサリーからのがれたり、ポルトガルの船長に拾い上げられたり、ブラジルで農業経営に大成功したり、イギリスからの荷物を無事に受けとったり、というような重大な時にも、一度たりとも「神様、感謝を捧げます」という言葉を心の中でも口に出してもいった覚えはなかった。また最大の苦難に際しても、神に祈る気もなく、「主よ、憐れみたまえ」と口に出していうことさえなかった。のみならず、神の御名《みな》を口にするのは、それをだしに使って誓うか、御名を冒涜《ぼうとく》する場合のほかは絶無であったのである。
前にもいったように、わたしはかつて、過去の厚顔《こうがん》無恥《むち》な非道な生活を思って、数か月も恐ろしい反省に眈《ふけ》ったことがあった。わたしははっと気がついて、自分の周囲を見回し、この島に来てからいかに特別の神の配慮がわが身の上にそそがれたか、いかに神は惜しみなく愛をわたしに示されたか、さらにまた、わたしの罪科の重さにくらべていかに軽い罰《ばつ》を課せられたか、それのみならず、豊かに物資を恵みたもうたか、こういうことをつくづく考えた時、わたしの悔い改めは神に聞き届けられ、神はまだわが身を見すててはおられない、という大きな希望が湧《わ》いたのであった。
このように考えて、わたしは現在のわたしの境遇の配剤に見られる神の意志に対しいっさいを委《ゆだ》ねようという気になったばかりでなく、今の生活に対しても心からなる感謝の念をもとうと心に誓った。死を免れてまだ生きている自分にしてみれば、犯した罪に対して相当する罰を免れているのであるから、なんら不平をとなえるべきではなかった。また、こんな島で期待するいわれもない数々の恩恵に浴していた。それゆえ、これ以上自分の境遇について泣き言をいうのはやめ、むしろ喜びを示し、数々の奇跡の結果得られた日々の糧《かて》を日々神に感謝すべきであると思った。わたしが養われてきたことは、鴉《からす》に養われたエリヤのそれにも匹敵する奇跡による、それも一回の奇跡ではなくて奇跡の連続によると考えるべきであった。場所にしても、世界じゅうの人跡|未踏《みとう》の地のうちで、わたしが漂着したこの島ほど恵まれたところはほかにはまずなかろうといえよう。ここは人との交わりはなかった。これは一面わたしの悩みではあったが、その反面、わたしの生命を脅かす獰猛《どうもう》な狼《おおかみ》や虎《とら》のごとき飢えきった野獣もいず、食えば体を損うような有害な生き物も、こちらを殺して貪《むさぼ》り食おうとする蛮人もいないところであったのだ。
ひと言でいえば、わたしの生活は一面では悲しみの生活であるとともに、他面では恵まれた生活でもあった。それを安楽な生活にしようとは少しも欲しなかった。ただこの境遇においてわたしに示された神の慈愛と配慮への感謝の念を日々の慰めとすることができることを念願するばかりであった。こういうことについて心の整理がよくできてしまうと、気持ちも晴れて思いわずらうことはなくなったのである。
ここへ来てからずいぶん長い歳月が経ったので、生活の助けとして船から陸揚げした多くの物もまったくなくなるか、だめになったり消耗するかしてしまった。
前にもいったとおり、インクはかなり前からほとんどきれてしまって、残りはわずかしかなかった。それを少しずつ水で薄めていったので、しまいには紙の上に黒い跡がほとんど残らないほど色が薄くなってしまった。それでも続くかぎりはそれを用いて、月のうちで何か特別の事件のあった日のことは記録にとっておくことにした。そしてまず、過去のいろいろな事件のあった時をたどってみると、わが身に起こった摂理によるさまざまなでき事が不思議と日を同じくしているのに気がつくのである。もしわたしが吉日とか凶日とかを気にするような迷信家であったならば、この不思議な符合を異常な好奇心をもって見ようとしてもむりからぬことであっただろう。
第一に、わたしが船乗りになろうと、父や友人から離れてハルに出奔《しゅっぽん》したその同じ日に、あとになってサリーの海賊船に捕えられて奴隷にされているのである。
ヤーマス沖の錨地《びょうち》での難破からのがれた日は、一年後ボートでサリーから脱出したのと同じ日なのである。
わたしが生まれた日が九月三十日でそれから二十六年後に、この島に打ち上げられて奇蹟的に命拾いしたのがちょうど同じ九月三十日であった。そうするとわたしの不埒《ふらち》な生涯と孤独な生活が始まったのが奇《く》しくも同じ日ということになる。
インクがなくなったのに次いでパンがなくなった。といっても船から持ち出したビスケットのことであるが、じつは一年以上も一日一個という割当てで極端に節約してきたのであった。それでも自分で作った穀物が収穫できるまで、一年近くパンなしで暮らしたのであった。いささかでも穀物がとれたことは、前にもいったように、奇跡に近いことであったのだから、感謝の念をいだいたことは理の当然であった。
衣服もひどくいたみ始めていた。リネン類もだいぶ前からなくなっていた。ただ、ほかの船員の持ち箱の中にあった格子縞のシャツが幾枚かはあった。シャツ一枚でなければ、しのげないような時がしばしばあったので、シャツは大事にしておいた。乗組員たちの衣類を全部調べてみるとシャツが三ダース近くあったのはもっけの幸いであった。厚手の見張り番用の外套も数着あったが、こんなものはあったって気候が暑くてとても着られたものではなかった。たしかにものすごく暑いところであったから衣類の必要はなかったが、さればといって素っ裸でいるわけにはゆかなかった。裸になっている気はもとよりなかったが、かりにその気があったとしてもこれはお断わりだったし、誰も見ている人がなかったにしても、裸ということは考えるだけでもがまんできなかった。
素っ裸になれなかった理由は、素っ裸でいるより何か着ているほうが太陽の熱がいくらか凌《しの》ぎよかったからである。第一、太陽の熱に直接当たって皮膚が火ぶくれになることがしばしばあった。ところがシャツを着ていると、その下をすうすうと風が通って、裸でいるより二倍も涼しさを覚えた。また、日中の日盛りに帽子なしで出歩く気にはとてもなれなかった。この地方では太陽の直射は猛烈であったから、帽子なしで外に出ようものなら、その直射熱にたちどころに頭痛を起こしてしまう。だからこれはどうにもがまんできないことであった。ところが帽子をかぶれば頭痛などはすぐなくなってしまうのであった。
こういういろいろな点から考えて、わたしの衣類、とはいってもじつは手持ちのぼろだが、それをなんとかまともなものに作り上げることを考え始めた。持っていたチョッキはみんな着つぶしてしまっていたので、手もとにあった例の見張り番用の外套やいろいろ有り合わせの材料でジャケツが作れはしまいか、ひとつやってみることにした。そこで仕立て仕事、いやむしろつぎはぎ仕事、にとりかかったわけであるが、つぎはぎもいいところ、まことにみっともない代物であった。それでもとにかく、なんとかやりくりして二、三着の新しいチョッキを作り上げた。それでしばらく間に合うだろうと思った。ズボンやズボン下にいたっては、ずっと後まで見るもあわれな間に合わせ物しか作れなかった。
わたしが殺した動物、つまり四つ足の動物のことだが、その動物の皮は全部保存していたことは前にいったとおりである。それらを細い棒で張って外につるして日に当てるというやり方をしたが、あるものは乾きすぎて固くなって使いものにならなかったが、なかには非常に役に立ちそうなものもあった。この毛皮で最初に作ったものは頭にかぶる大きな帽子で、雨をはじくように毛を外側に出した。
これがみごとなでき栄《ば》えだったので、こんどはこの毛皮だけでひと揃いの服を作った。つまりチョッキと半ズボンとで、両方ともゆるやかにしておいた。暖をとるためよりは涼をいれるのが目的であったからだ。できあがりはひどく無格好《ぶかっこう》であったことは認めないわけにいかない。何しろわたしは大工としてもへたな大工であったが、仕立屋としてはこれに輪をかけてまずかったからである。しかし、とにかくこれでなんとかじゅうぶん間に合わせることができるものであった。外を出歩く時、雨に会っても、チョッキも帽子も外側が毛になっていたから、けっこう濡れなくてすんだ。
これがすんでから、こんどは傘《かさ》を作ることに大へんな時間と労力をかけた。ぜひ傘が一本ほしかったし、どうしても作ってみたかった。じつはブラジルで傘を作るのを見たことがあったのだ。ブラジルは非常に暑いので、傘は大へん役に立つのである。ここの暑さもブラジルに少しもまけない、いや、春秋分点に近いために、もっとひどいように思った。その上、外に出歩かねばならないことが多いので、暑さを避けるにも、また雨をよけるにも、大へんに重宝なものであった。
これを作るにはそれこそ大へんな苦労をして、どうにか傘らしい格好のものにこぎつけるまでには相当な時間がかかった。だいたい骨《こつ》はわかったと思ってからでも、気に入ったものができるまでには二、三本はむだにしてしまった。それでもしまいには、どうにか役に立つようなものを作り上げたのである。いちばん苦心したのはたたみこめるようにすることだった。広げられるようにはできたが、たたみこめないとなると、いつも頭の上にさして歩く以外になく、携帯用とはいかず、それでは困るのであった。それでも、今いったとおり、ついに役に立つものをこしらえたのだった。毛を外にして毛皮で張ったから庇《ひさし》のように雨ははじくし、日の光を遮《さえ》ぎることもきわめてうまくできて、いちばん暑い時でも、以前のいちばん涼しい時よりもずっと楽に出歩くことができた。また、必要のないときにはたたんで小脇にかかえこんで歩けたのである。
こんなぐあいでわたしは至極《しごく》快適に暮らせるようになった。神の御意志に従い、その摂理《せつり》にいっさいをお委《まか》せしているので、心はまったく平静になっていたからである。わたしの生活は人と交わるよりももっと楽しくなった。人間的交際がないために寂しい気がする時には、こうやって自分の心と交わり、こういうことがいえるならば祈りによって神御自身と交わることのほうが、どんなに楽しい世間的な交際よりももっと楽しいのではあるまいかと、自問自答したのであった。
この後、五年間というもの、特筆すべきことは何も起こらなかったといえよう。わたしは以前と同じコースをとり、同じ状況、同じ場所でその日その日を送っていった。大麦と米を耕作し、乾葡萄を乾燥し、これらを一年分の消費量だけ常に貯えて置く、という仕事は毎年変わらなかった。この毎年の仕事と、鉄砲撃ちに出る毎日の仕事のほかに、わたしがした主な仕事といえば、丸木舟を作ることで、これもとうとう完成したのであった。その結果、幅六フィート、深さ四フィートの運河を掘って、約半マイル先の入江までそれをもっていったのだ。最初の丸木舟については、当然これを海に浮かべる可能性を考慮すべきであったのに、それをせずに作ったので、あんな途方もない大きなものにしてしまったので、水辺まてもっていくことも、水をそこまて引くこともできないままに、けっきょく、舟は作った場所に放って置くより仕方がなく、この次からはこんなばかなまねはするなというみせしめのしるしとなったわけであった。
さてその次の場合であったが、丸木舟にちょうど適当な木が見つかったというわけでもなし、水を引くにしても、前にいったとおり半マイル以下という場所でもなかったけれども、とにかくついには実行できるという見通しがついたので、あきらめないでやることにした。これには二年近くかかったが、やがてはこれで海に乗り出せるという希望があって骨身惜しまず働いたのであった。
しかしながら、この二番目の小さな丸木舟ができあがったものの、これだけの大きさでは、最初の舟をこしらえた時にいだいていた計画には全然間に合わないのであった。その計画というのは海をわたって四十マイル以上も向こうにある大地に出かけるというので、こんな小さい舟ではこれを断念せざるをえなかった。わたしはきっぱりとそのことは考えないことにした。だが、舟ができたのだから、次の計画はこれで島を一周することであった。前に述べたように、島を横断して反対側の一角に行ったことがあり、その際のわずかな旅でもいろいろの発見をしたので、反対側の海岸を諸所方々《しょしょほうぼう》見たいという欲望が強くなった。いよいよ舟ができてみると、この島をひとめぐりすることばかり考えるようになった。
この目的のため、万端の準備を周到綿密にして、まずボートに小さなマストを備えつけ、難破船からとってきて多量にしまいこんでおいた帆布の一部で、マストに張る帆をこしらえた。
マストと帆をつけて舟を走らせてみると、なかなかよく走ることがわかった。次には舟の両端に小さな箱を作りつけ、そこに食糧や必需品や弾薬などをいれて雨やしぶきがかかっても濡れないようにした。さらに舟の内側に細長いくりぬきをこしらえて、そこに銃を置き、その上に垂れ蓋《ぶた》をかぶせて濡れないように工夫した。艫《とも》のほうの足場のところにマストのように傘を立て、日除けのように頭にかぶせて太陽の直射を避けるようにした。こういうふうにして時々小航海をやってみたが、けっして遠方までは行かず、小さな入江から遠く離れるようなことはなかった。
ところがしまいには自分のこの小王国の周囲が見たくてたまらなくなり、いよいよ周遊航海を試みることにした。そのために航海に必要な食糧を積みこむことにし、大麦パンの塊(むしろケーキというべきもの)を二ダース、当時大いに愛用していた焼き米のいっぱいはいった土器の壷一個、ラム酒の小瓶一個、山羊肉半身、山羊狩りのための弾薬、乗組員の箱から持ち出しておいた例の大きな見張り番用の外套二着、一着は夜、下に敷き、一着は上からかぶって寝るためであったが、こういう品々を積みこんだのである。
いよいよ航海の途に上ったのは十一月の六日、わたしがこの島に君臨して、いや、捕われの身になって(どちらと考えられてもけっこうだが)、六年目のことであった。そしてこの航海は予想したよりもずっと長くかかることになった。島そのものはたいして大きくはなかったが、東側に来てみると、六マイル以上にわたって大きな岩棚《いわだな》が、水上に頭を出したり、水中に没したりして、ずっと伸びていた。その先には一マイル半ほど全然水のない砂洲が横たわっていた。そんなわけで、その岬を回航するためにはかなり遠くまで沖へ出なければならなかった。
初めにこの岩棚や砂洲を見た時には、この航海はあきらめて帰ってしまおうかと思った。いったいどのくらい沖に出なければならないのかわからなかったし、ことに果たして元に戻れるかどうかも怪しいと思ったからだ。とにかくそこで錨《いかり》をおろした。錨といっても、船から持ってきた、こわれた引っかけ錨でなんとか錨らしいものにこしらえてみたものであった。
舟が流されないようにしてから、銃をとって岸に上がった。岬が見渡せそうな丘へ登ってみると、果たしてその全体の長さがわかったので、航海をつづけてみる決心をした。
その丘の上に立って海をよく見ると、強いほとんど激流のような潮流が東に向かって、しかも岬すれすれに流れているのがはっきり見られた。もしその潮流に乗り入れたら最後、その力のために沖のほうまで押し流されて二度と島へは帰ってこられないかも知れない、という危険があるので、この潮流はとくによく眺めた。実際、もし初めにこの丘に登っていなかったら、そういう危険にきっと陥ったであろう。島の向こう側にもその潮流はあって、ただそれはずっと遠くのほうで沖に向かっていた。岸の近くには強い小渦巻があることもわかった。それであるから、もし無謀に進んだとすれば、最初の潮流に乗り入れ、それを脱出する以外に手はなく、ただちにこの小渦巻の中にまき込まれることになるのであった。
わたしはここに二日間|停泊《ていはく》した。東南東の風がかなり強く吹いていて、それが例の潮流と真正面の逆風なので、岬のあたりはすごい波が砕けていた。したがって余り近く沿岸に沿っていけば激浪のために危いし、余り沖に出ると潮流のために油断ができないというありさまであった。
三日目の朝には、風が昨夜のうちに静まっていて、海は凪《な》ぎになっているので、わたしは出かけることにした。しかし、またしてもわたしは、向こう見ずで愚かな水先案内のみせしめとなった。岬のところに来たとたんに、舟は岸から一艇身と離れていなかったのに、急に水が深くなり、水車場の堰《せき》をきったような激流の中にまきこまれ、舟は恐ろしい勢いで押し流され、いくら必死になっても舟をその潮流の端のほうへ寄せておくことさえできず、左手にあった小渦巻から次第に遠くへとすごい速さで流されていくばかりであった。風はよそとも吹かないのでその助けを借りるわけにはいかず、いくら櫂《かい》で漕いでもまったくむだであったので、もうこれまでとあきらめかけた。
なにしろ、潮流は島の両側を流れていて、何マイルか先で合流することはわかっている。そうなればわたしは絶対絶命であり、それを避ける方途はまったく見当たらない。目前にあるものは、ただ死だけであったが、海は平穏であったから、溺死というのではなく、まず餓死ということになる。なるほど、かろうじて持ち上げられるほどの大きさの亀を浜で見つけて、舟の中に投げこんでおいた。また、大きな甕《かめ》、つまりあの土器の壷に、清水はいっぱいはいっていた。しかしこんなものが広大な大洋に漂流する者にとって、どれほどのたしになるか。少なくとも数千マイルにわたって陸地もなければ島影ひとつない大洋なのだ。
われわれ人間にとって最悪この上はあり得ないと思われる事態でさえも、神の摂理はいともたやすく、それをさらに悲惨にすることができるということをわたしは知った。今わたしはあの荒涼たる孤島も、世界じゅうでいちばん楽しいところであると思われ、わたしの望みうる幸福は、ただふたたび島に戻ることだけであった。わたしは切なる願いをこめて島に向かって両手をさしのべていった。
「おお、楽しき無人の島よ。もう二度とわたしはお前を見ることはできないのだ。ああ、みじめなこの身、いったいわたしはどこへ行こうというのか」
するとわたしはこの恩知らずのわが身を責めるのであった。あんなに孤独な生活をかこっていたのに、今はふたたびあの島に上陸できさえしたら、もう何もいらないと思っているのだ。われわれは自分の境遇のほんとうの姿は、それとすべてに相反するものをつきつけられるまでは、理解することができず、現にわれわれが享受しているものは、それを失ってみなければ、価値がわからないものなのだ。
今、わがいとしい(まことにそれがその時の実感であったが)島から六マイル近くも大海に押し流され、二度とその土地を踏む望みも絶え果てたこの時のわたしの驚愕《きょうがく》は、ほとんど想像に絶するものであった。それでもなお、わたしは力の尽きるまでけんめいに舟を漕ぎ、できるかぎり北のほうへ、つまり渦巻のある潮流の側へ舟を寄せようと努力した。
そうしているうち、太陽が子午線を過ぎた昼ごろ、南南東のほうから吹きはじめた微風が頬《ほお》にあたるのを感じたと思った。これでやや元気をとり戻した。ことに、およそ半時間も経ってそれがちょっとした強風になった時は、大いに元気が出た。そのころにはわたしは島から恐ろしいほど遠方まで流されていた。それでもし少しでも雲霞《うんか》の空模様になったとしたならば、わたしは別な形で破滅したかも知れなかった。なにしろ羅針盤《らしんばん》を持ってきていないのだから、いったん島影を見失ったら、島のほうへ舵をとるすべはまったくなかったわけである。しかし天気はずっと晴れていたので、わたしはけんめいにマストを立て、帆を張り、流されている潮流から抜け出して、できるだけ北のほうへと針路をとった。
マストを立て帆を張り終えて、舟が勢いよく走りだそうとしたちょうどその時、水の澄みぐあいから潮流の変化が近いことを知った。潮流の勢いが強いところでは水は濁《にご》っているからである。水が澄んでいるのを見て流れが弱くなっているのがわかった。
やがて、東方およそ半マイルのあたりに岩礁《がんしょう》に当たって波が砕けているのが見えた。これらの岩礁のため、潮流はまた二つに分かれているのがわかった。主流はこの岩礁を北東に見て南方よりに流れており、他の流れは直接に岩にぶつかってはね返り、はげしい渦巻をつくり、さらに反転して強い流れとなって北西に向かっていた。
絞首台に立った瞬間に刑の執行猶予《しっこうゆうよ》の令状を受けとることがどんなことか、また、まさに強盗に殺されようという時、急に救われることがどんなことか、これを知っている人や、これと同じような窮地を脱した経験のある人ならば、この時のわたしの驚喜がどんなものであったか推察できるであろう。どんなに喜んでわたしはこの渦巻の流れに舟を入れたことか。折から風も強く吹き出したので、どんなに喜び勇んで、風に応じて帆を張り、追い風をうけ、強い潮流、または、渦巻に乗って舟を快走に転じたことか。
この渦潮はまっすぐ島のほうに向かっておよそ三マイルも舟を押し戻していったが、初めに沖に向かって舟を押し流した前の潮流からはほぼ六マイルほど北側に寄っていた。そのため島に近づくにつれて、わたしの舟は島の北岸、つまり、わたしが舟を出した地点とはちょうど反対の地点に向かっていることがわかった。
この渦潮のおかげで三マイル以上も進んだ時、その流れの力が衰えて、それ以上利用できなくなったのを知った。しかし、わたしはその時二つの大きな潮流の間にはさまっていた。すなわち、南側にはわたしを沖のほうへ押し流した潮流があり、その反対の北側には、約三マイルのところに潮流があったのだ。島のかげになっていて、この二つの潮流にはさまれているので、水はほとんど動きがなく、どちらの方向へも流れていなかった。しかし依然として順風が吹いていたので、わたしは真っすぐ島に向けて舵をとり、前ほど快速は出せなかったが着々と舟を進めていった。
夕方の四時ごろに島からおよそ三マイル足らずのところに来ていて、そこで、こんどの災難の原因となった岩礁の岬が、前にもいったように、ずっと南方へ突き出していて、潮流はこれに遮《さえぎ》られてさらに南下し、自然に北側には渦巻ができているのを知った。この渦巻の流れは非常に強かったが、真西に向かっているわたしの針路にはまともにぶつからないで、ほとんど真北に流れていた。ちょうど吹きだした一陣の強風を利用して西北の方向に斜めによぎってこの渦巻を乗り切った。それから一時間ほど経つと、もう岸まで一マイルくらいのところまで来、海面が静かであったのでまもなく上陸できたのである。
岸に上がるとわたしはまず膝まずいて、救われたことを神に感謝した。丸木舟に乗って島から脱出しようという考えはいっさいいだくまいと決心した。所持していた食糧で元気をつけたあとで、舟を岸近く引き寄せ、かねて見つけておいた木のしげみの下にある小さな入江に入れた。それから、この航海の苦労と疲労でへとへとになっていたので横になって眠った。
さて、この舟に乗って家に帰るにはどうしたものかと途方にくれた。あれほど大きな危険をおかし、実情をつぶさに知っていたので、今来た航路をたどってまた戻ってみようとする気はなかった。島の反対側、つまり西側のほうに、どういうものがあるかもちろんわからなかったし、これ以上冒険をする気持ちもなかった。そこで仕方なしに、翌朝、海岸沿いに西のほうへ道をとって、いずれまた必要な時には使えるように、わが快速帆船を安全にしまっておく入江があるかどうか確かめようと思った。
海岸を伝って三マイルかそこら行くと、すばらしい入江、あるいは湾というべきものにぶつかった。幅は一マイルほどだが、陸に向かってだんだん狭くなり、はては小さな小川となっていた。そこはわたしの舟にはあつらえ向きの停泊地で、特別にこの舟のために造られたドックに入れられたという格好であった。ここに漕ぎ入れて舟を安全にしまいこんで、舟から上がってこの付近がいったいどんなところか調べてみようと思った。
まもなく、この前歩いてこの海岸まで来た時に通ったところのすぐそばまで来ていることがわかった。そこで舟からただ鉄砲と、ひどい暑さだったから傘とだけを取り出して歩きはじめた。あのようなひどい航海をしてきたあとでは、この陸路はじつに気持ちよく、夕方にはわたしが作ったあのあずまやに着いた。そこはすべてもとのままになっていた。前にもいったとおり、これはわたしの別邸であったので、すべてきちんと整頓してあったのである。
柵を乗り越えて木陰にはいり、非常に疲れていたので、体を休ませようと横になったら、すぐに眠りこんでしまった。ところが、「ロビン、ロビン、ロビン・クルーソー。あわれなロビン・クルーソー、お前はどこにいるのだ? ロビン・クルーソー。お前はどこにいたのだ?」と、幾度もくり返してわたしの名を呼びつづける声で眠りをさまされた時の、そのわたしの驚きを、この物語を読まれる人々よ、できるものなら想像してみてください。
その日の前半は舟を漕いで、つまりいわゆる櫂《かい》をあやつったので、また後半は陸を歩いたので、すっかり疲れきっていたため、ぐっすり眠りこんでいたわけで、はっきり目がさめないものだから、うつらうつらしながら誰かがわたしを呼んでいる夢を見ていた。しかしその声がいつまでも続けて「ロビン・クルーソー、ロビン・クルーソー」とくり返すものだから、はっきりと目がさめてきた。初めはびっくり仰天し、肝をつぶして飛び起きた。
しかし目をよく聞いて見るやいなや、鸚鵡《おうむ》のポルが垣根の上にとまっているのが目にはいった。たちどころにわたしに話しかけたのはポルであったとわかった。それもそのはず、いかにもこんな哀れっぽい言葉でわたしは彼に話しかけ、また教えこんでいたのであった。鸚鵡はそれをすっかり覚えこんでしまって、いつもわたしの指にとまり嘴《くちばし》をわたしの顔に寄せて、「あわれなロビン、お前はどこにいるのだ? お前はどこにいたのだ? どうしてここに来たのだ?」などと、わたしが教えたとおりにさけぶのが常だった。
あれは鸚鵡《おうむ》だった、事実ほかの者ではありえないのだ、ということはわかっていても、気分が落ち着くまでにはだいぶ時間がかかった。第一、どうしてこの鳥がここに来たのか、不思議でならなかった。それに、どうしてここに居すわって他に行かなかったかも不思議であった。しかし、それが忠実なポルに間違いないことでじゅうぶん満足したので、不安の気持ちもなくなった。そこで手を差しのべて、「ポル」と名を呼ぶと、愛想のいいこの鳥はわたしのところへ飛んできて、いつものようにわたしの親指にとまって、「哀れなロビン・クルーソー! どうしてお前はここに来たのだ? どこにお前はいたのだ?」とわたしに話し続けた。それはまるでわたしとの再会を有頂点になって喜んでいるようであった。わたしは彼を連れて家に戻った。
海の放浪もあれだけやればもう当分は出かける気にはなれなかった。そしてまた幾日もしなければならない仕事があったので、じっとしていて遭遇した危険のことなどくよくよ考えてはいられなかった。島のこちら側までボートをもってこられたらうれしいのだが、さてどうしたらそれができるか皆目《かいもく》見当がつかなかった。島の東側といえば先にわたしが回っていったところで、そちらの道をとることができないことはじゅうぶんわかっていた。いや、考えただけでも心がすくみ血が凍《こお》るほどだった。島の反対側はどうかといえば、そこがどうなっているかさっぱりわからない。もし潮流が東側の海岸にぶつかっていると同じ勢いで西側の岸近くを流れているとすれば、わたしが前に島から押し流された時のように、その流れに押しまくられ、島のそばをさらわれていくという、また同じ危険をおかすことになるだろう。こういうことを考えたあげく、舟をもってくることはあきらめるよりほかはなかった。これを作るのに何か月も辛苦《しんく》をなめ、それを海に入れるのにこれまた何か月もかけた舟であったが、いたしかたがなかった。
このように気を落ち着けて一年近くをすごした。その間、読者も想像できるように、平静な隠退《いんたい》生活を送ったのである。自分の境遇についていまさら思いわずらうことなく、わが身は摂理の支配に委《ゆだ》ねて安心しきっていたので、わたしはあらゆる面できわめて幸福な生活を楽しんだと思う。ただ人との交際のないことだけは仕方がなかった。
わたしはこの間に必要に迫られてしなければならない工作にはなんでも熟練してきた。必要に応じてはじつに腕ききの大工になることもできたと確信する。道具の少ないことを考慮に入れたら確かにそうであった。
このほかに、土器作りのほうも思いもよらぬほど名人になった。轆轤《ろくろ》を使って作る工夫を考え出したので、前よりもどのくらい楽に、しかも上手にできたことだろう。前には見るからに無格好だったが、こんどは丸くていい格好のものが作れたのである。
しかし、なんといっても、たばこのパイプを作った時ほど自分の腕前に鼻を高くしたこともなく、この時ほどいいものが手にはいったことを喜んだこともなかったと思う。できあがったものは、いかにもみっともない無格好なもので、ほかの土器と同じく真っ赤に焼いただけのものにすぎなかったけれども、すこぶる堅く、しっかりしていて煙もよく通ったから、もともとたばこを手離さなかったわたしはこれでどんなにうれしかったかわからない。船の中にもパイプはいくつもあったが、まさか島にたばこがあるとも思わなかったので、つい持ってくるのを忘れたのであった。あとになって気がついて船の中を捜した時には、もうパイプはひとつも見当たらなかった。
篭《かご》作りもなかなか上達し、いろいろ工夫して必要な篭をたくさんこしらえた。見かけはあまりりっぱではなかったが、物をいれたり家に運んだりするには、まことに便利で重宝なものであった。
たとえば、山羊を殺した場合、まず木につるし、皮を剥《は》ぎ、臓腑をぬき、肉を切り、それから篭《かご》に入れて家に持ち帰るというわけであった。亀の場合も同様で、まず亀を割《さ》いて卵をとり出し、自分にはじゅうぶんなだけの肉を一片か二片切って、篭にいれて家に持ってくる、あとは捨ててくるのである。また大きく深い篭は穀物の容器になった。穀物は乾くとすぐに手でこすって脱穀し、日に当てて乾かして大きな篭にいれて貯蔵しておくことにした。
火薬がかなり減ってきているのがわかった。こればかりはなくなったら補充のしようがなかったので、火薬が全部なくなったらどうしようか、つまり、山羊《やぎ》を殺すにはどうしたらいいか、真剣に考え始めた。この島に来て、三年目に子山羊を捕えて飼いならしたことはすでに述べた。その山羊のため雄山羊を手に入れようと思っていたが、どうしてもうまくいかず、そのうちに子山羊も年をとってしまった。とうてい殺すにしのびず、そのままにしているうちに老衰して死んでしまった。
島に住みついてから十一年目、前にもいったとおり弾薬も底をつき始めたので、罠《わな》をしかけて山羊を捕える方法はあるまいか、いく匹かを生け捕りにできないものか、と研究しはじめた。とくに欲しいのは、子をはらんだ雌山羊であった。そのために、山羊の脚にからまるような罠を作った。一度ならずそれにかかったと信じられるふしはあったが、針金がないため仕掛けがきかず、いつも罠はこわされ、餌《えさ》は食い荒らされていた。
とうとうしまいに落とし穴を作ってみることにした。山羊がいつも草を食べに来るところを見ておいて、そのあたりにいくつかの大きな穴を掘った。その穴の上に自製の簀子《すのこ》をかぶせ、その上に大きなおもしを載せて置いた。初め幾度かは、罠は仕掛けないで大麦の種や乾米を撒《ま》いておいた。そのあたりに足跡があったので、山羊がやってきて穀物を食ったことはわかった。そこでひと晩に三か所に罠を仕掛けておいた。
翌朝行ってみると、罠は三つともそのままになっているが餌だけはきれいに食われていた。これにはまったくがっかりした。とにかくわたしは罠を変えてみた。詳しいことは省くとして、ある朝、罠を見に行くと、ひとつの罠には大きな年とった雄《おす》山羊がかかっており、ほかのひとつには三匹の子山羊がかかっていて、そのうち一匹は雄で二匹は雌《めす》であった。
年とった山羊はどうしていいか手こずってしまった。何しろ獰猛《どうもう》なので捕えるために穴にはいっていくこともできなかった。生け捕りにしたいのだったが、引き出そうとして近よることもできなかったのだ。殺すのはわけはなかったが、その気にはなれなかったし、わたしの目的にもそわなかった。それで穴から出してやると、恐ろしさに気でも狂ったように一目散に逃げていってしまった。あとで知ったことだが、飢えさせるとライオンでも飼いならすことができるということを、その時は忘れていた。餌をやらずに、あのままにして三、四日おいて、それから少しずつ水をやり、穀物を持っていってやったならば、子山羊同様おとなしくなったかも知れない。山羊という動物はかわいがってやれば、非常に利口で素直な動物なのだ。
当時はそんな知恵もなかったので、ひとまず逃がしてやった。それから三匹の子山羊のほうにかかって、一匹ずつつかまえて紐《ひも》でいっしょにつなぎ、多少苦労したが、無事にみんな家に連れて帰ることができた。
子山羊が餌《え》につくまで相当の時間がかかった。けれどもうまそうな物を投げてやると、それにつられておいおいなれてきた。
ところで、弾薬がなくなった場合に、山芋の肉を補充しようと思えば、山羊を飼う以外に方法がないことがはっきりしてきた。そうなると羊の群れを飼うように、家の回りに山羊の群れを飼っておくことになるだろう。しかしそうするためには、なれた山羊を野生のものから引き離しておかなければならないことが、すぐに頭に浮かんだ。そうしないと、飼いならしたものも大きくなると野生にもどるからである。これを防ぐ唯一の方法は、ある広さの地面を生垣か柵かでしっかり囲んで山羊を入れておき、内側の山羊が逃げださないように、外側の山羊は侵入してこないようにすることであった。これは一人の手には負えないほど大仕事であった。けれどもこれは絶対に必要なことであることがわかっているので、まず第一の仕事は適当な土地を見つけること、すなわち、山羊が食べる草地があり、飲み水があり、日かげになるところのある土地を捜すことであった。
わたしはこういう条件にぴったり当てはまる場所だけは選び出したのであるが、こういう囲いのことに明るい人からは、わたしはじつにへまなことをやったと思われそうである。場所は広々とした牧草地帯、われわれが西部植民地で用いる言葉でいえばサバナという地帯の一画であって、清水の流れている小川が二、三あり、端のほうには欝蒼《うっそう》とした森があった。わたしは周囲少なくとも二マイルになるほどの生垣か柵でこの土地を囲む仕事を始めたのだが、こんなことを話したら、その道の玄人《くろうと》なら、わたしの計画を笑うだろうと思う。しかし、その広さのことならあながち狂気の沙汰とはいえなかった。というのは、周囲が十マイルあろうと、それをやるだけの時間はじゅうぶんあったと思われるからだ。けれども、山羊がこれだけ広い囲いの中に放たれたら、島全体に放たれたと同じく、野生にかえるだろうし、第一広すぎて、いくら追いかけても捕えることはできないはずである。こういうことを考えなかったのは迂闊《うかつ》であった。
このことに気がついたのは生垣を約五十ヤードほど築いた時であったと思う。わたしはただちに仕事を中止して、まず第一段階として、長さ百五十ヤード、幅百ヤードの地面を囲うことにきめた。これだけの広さがあれば、当分の間必要な数の山羊を入れるのにじゅうぶん間に合うだろうし、山羊が殖《ふ》えれば、それに応じて囲いも広げていけばよいと思った。
これはかなり慎重な行動であった。それでわたしは元気をもって仕事にかかった。初めの区画を生垣で囲むのにおよそ三か月かかった。それができ上がるまでの間、三匹の子山羊は囲いの中のいちばんよい所につないで、できるだけ近くから餌をやって手なずけるようにした。麦の穂とかひと握りの米とかを持っていって自分の手からじかに食べさせてやることもしばしばであった。そういうわけで、囲いが完成して子山羊をその中に放ってからも、ひと握りの穀物をほしがって、鳴きながらわたしのあとを追っかけて歩くのであった。
これでわたしの目的は達せられたわけで、約一年半経つうちに子山羊など含めて全部で十二頭ほどの数になり、さらに二年後には、食用のため屠殺《とさつ》した数頭を除いても四十三頭となった。これらを飼うのに五つの囲い地を作り、捕えたい時に自由に捕えられるように小さな檻《おり》を作り、囲いから囲いに通じる門の扉を作ったりした。
そればかりではなかった。今ではいつでも好きな時に山羊肉が食べられるばかりでなく、山羊の乳も自由に手にはいった。乳のことは初めは考えてもみなかったが、それに気がついてみると、ほんとうにうれしい驚きであった。さっそく搾乳《さくにゅう》場を設けると、時には一日に一、二ガロンの乳がとれることもあった。すべての生きものに食物を与える自然は、当然その利用法も教えるものである。わたしはそれまで牛乳を搾《しぼ》ったこともなく、ましてや山羊の乳を搾ったこともなく、またバターやチーズの作り方も見たことがなかったのに、そのわたしが、何度かやってみて失敗を重ねたとはいえ、ついには手際よくバターもチーズも作れるようになり、それ以後はこういう食物に事欠くことはなくなったのである。
破滅に迫られたとしか思われないような境遇にある創造物に対しても、偉大なる造物主はいかに大きな慈悲を垂れたまうことであろうか。いかに主は悲惨の極《きょく》にある者をも慰め、牢獄にある者にも主を称《たた》える機縁を与えたまうことか。ただ餓死するほかはないと思われたこの荒涼たる孤島において、いかに恵みに満ちた食卓をわたしのために設けてくださったことか。
わたしがわたしの小さな家族とともに正餐《せいさん》の食卓につくのを見る者があったならば、おそらく微苦笑を禁じえなかったであろう。全島を支配する主君である陛下、かく申す私が首座についていた。わたしの臣下の生命はすべて絶対わたしの掌中にあった。首をくびるも、臓腑《ぞうふ》を引き抜くも、自由を与えるもこれを奪うも、それはわたしの思いのままであり、しかも臣下の中に一人の反逆者もいないのである。
家臣にかしずかれてただ一人王様のように食事をとるわたしの姿を見よ。鸚鵡《おうむ》のポルはさながらわたしの寵臣のごとく、わたしにものをいうことを許されている唯一の家臣である。すでに老いぼれてしまい、種族を殖やすための相手を見つけることもできなかったわが忠犬は、つねにわたしの右手に控えていた。そして二匹の猫はおのおの食卓の左右に座を占めて、特別のおぼしめしとして時おりわたしの手からいただくひと切れのごちそうを待っているのである。
ところでこの二匹の猫というのは、初めに船から連れてきた猫ではなかった。あれは二匹ともとっくに死んで住居の近くにわたしの手で葬られていた。このうちの一匹がえたいの知れない動物に子を生まされて、そのうちの二匹がわたしが手もとに飼いならしている猫であって、そのほかのは森に逃げていって野生にかえり、ついにはわたしにたいへんめいわくをかけるに至った。しばしば家の中まではいってきていろんなものを掠《かす》める始末で、とうとうわたしも鉄砲で撃たざるを得なくなり、事実たくさんの猫を撃ち殺すことになった。やがてそういう猫は姿を見せなくなった。
こういうふうに家臣にかしずかれ、豊かなごちそうを食べてわたしは暮らしていた。それで何ひとつ不足はなかったはずだが、人との交際だけが欠けていた。しかしそれもやがてうるさいほど持つことになるのである。
前にもいったように、わたしは自分の舟に乗りたくて多少いらいらしていた。さればといってまた危い目に会うのはいやであった。そういうわけで、時には舟を回航してもってくる方策を考えこんだり、またある時は舟はなくてもがまんしようという気持ちになったりした。しかし、例の島の岬に行ってみたいという妙な不安の念におそわれていた。その岬は、前にいったとおり、この前舟でふらふら出かけた時、これからどうしたらいいかきめるために海岸の地勢や潮流のぐあいを見ようと登った丘のあるところであった。この気持ちは日ごとにつのるばかりで、とうとう海岸伝いに陸上を歩いていくことにきめた。
けっきょく、わたしはそこへ行ったわけであるが、その時のわたしのいでたちといったら、もしイギリスでこんな男に会ったら、それこそ誰でも肝をつぶすか、さもなければ大声で笑い出してしまっただろう。自分でも何度も立ち止まって己《おの》れの格好を眺めたが、こんな装具をつけ、こんな服装をして、ヨークシァを歩き回ったとしたらと考えると、微笑せざるを得なかった。次に述べるようなわたしのいでたちのあらましを頭に描いてください。
わたしは大きくて高い、無《ぶ》恰好《かっこう》な帽子をかぶっていた。これは山羊の皮でできていて、後ろのほうに垂れがついているのは日除けのためでもあるが、雨が首筋に落ちるのをはじくためでもあった。この地方では、着物を通して雨が肌をぬらすほど体に毒なものはなかった。
わたしは山羊の皮の短い上着をきていた。その裾《すそ》は腿《もも》の中途へんまできていた。同じ山羊皮の半ボンを着けていたが、これは年をとった雄山羊の皮で作ったもので、毛が両側に長く垂れ、股引《ももひき》のように脚の中ごろまで達していた。靴下と靴はなかった。ただ、何と呼んでいいか自分にわからないが、半長靴とでもいうべきものを作って脚にまとい、ゲートルみたいに両側を紐で締めておいた。野蛮きわまる格好であったが、そういえばわたしの服装が全部同じようなものであった。
よく乾燥した山羊の皮で作った幅の広いベルトを着けていたが、締め金の代わりに、同じ山羊皮の革紐二本で結び合わせておいた。この左右の側の剣差しのようなものには、長剣と短剣の代わりに、小さな鋸《のこぎり》と手斧をそれぞれぶちこんだ。もうひとつ幅の広くないベルトを前のと同じように結びつけて肩からかけていた。その一端のちょうど左腕の下にあたるところに、やはり山羊皮製の袋が二つぶら下がっていて、一方には火薬、他方には弾丸《たま》がはいっていた。背中には篭《かご》を背負い、肩には鉄砲をかつぎ、頭の上には無格好な大きな山羊皮の傘をかざしていた。いくら無格好でもこの傘は携帯品の中では鉄砲につぐ必要品であった。
ところでわたしの顔だが、無精者であり、昼夜|平分線《へいぶんせん》から九度か十度以内のところに住んでいることから、おおかた白黒混血児みたいだろうと想像するかも知れないが、それほどの顔色はしていなかった。顎《あご》ひげは一時は伸びるにまかせて四分の一ヤードくらいになったこともあるが、鋏《はさみ》も剃刀《かみそり》もじゅうぶんあったので、その後はかなり短かく刈りこんだ。ただ鼻の下のひげは別で、サリーにいた時に見たトルコ人が生《は》やしていたような、回教徒式の大きな頬ひげになるように手入れをした。たしかにあれはトルコ人だったと思う。ムーア人はあんなひげは生やさなかったからだ。この口ひげにしろ、頬ひげにしろ、まさか帽子がかけられるほど長かったというつもりはないが、長さも形も途方もないもので、これがイギリスであったら、たしかに人の度肝《どぎも》をぬくものであった。
しかしこれはまったく余談にすぎない。わたしの格好のことなんか、誰も注意して見ているわけではないし、どうでもよいことであった。であるからそのことはもう何もいわない。とにかく、こういう格好で新たに旅に出て、五、六日家をあけた。わたしはまず浜伝いに歩いて、この前、岩に登ってみるために舟をとめた地点をまっすぐ目ざしていった。こんどは舟を心配する必要はないので、陸上をずっと近道をして行き、前に登った同じ岩の上に着くことができた。そこから、前にもいったように、舟で回っていかなければならなかったあの突き出している岩礁《がんしょう》の岬のほうを眺め、海面は鏡のように滑《なめ》らかで小波《さざなみ》もうねりも潮流もなく、他の海面とまったく変わりはないのを見て驚いてしまった。
これはなんとも理解に苦しむところであった。そこでもうしばらく時間をかけて観察し、はたして潮の干満によって起こるのかどうかを見きわめようと思った。しかし、間もなくどうなっているのかわかった。つまり、西のほうから流れてくる干潮《ひきしお》が島の大きな河からくる流れと合体して問題の潮流となるに相違なかった。その際、風が西のほうからいっそう強く吹くか北のほうから吹くかに従って、この潮流も岸の近くを流れるか遠くを流れるかがきまるのであった。なおその付近に夕方まで待機していて、もう一度岩に登ってみた。するとちょうど干潮が流れており、思ったとおり前と同じ潮流ができているのが明らかにわかった。ただこんどは岸から一マイル半くらい沖のほうを流れていた。ところがわたしが遭難した場合はそれが岸のすぐそばを通っていたため、舟もろともそれに押し流されたというわけであった。ほかの時ならばあんなことにはならなかったであろう。
このことから、潮の干満をよく観察しておれば、舟をもう一度まわしてくることはきわめてやさしいという確信がついた。しかしそれを実際にやってみようかと考えてみると、この前自分が危い目に会ったことを思い出してまったく怖気《おじけ》がついてしまい、二度とそんなことを落ち着いて考えることはできなくなった。その代わり、もっと安全な計画を立てた。それは建造というと大げさだが、とにかくもう一隻丸木舟を作ることで、島のこちら側に一隻、向こう側に一隻おいておく、という案であった。
この時分には、わたしはいわば農園というものを二か所、この島の中に持っていたことは、おわかりであろうと思う。ひとつは小さな要塞《ようさい》、またはテントであって、すぐ上は岩山になっており、まわりには壁がめぐらしてあり、すぐ後ろには洞穴《ほらあな》があり、その洞穴もこのころにはずっと広げられ、洞穴の中の洞穴というふうにいくつも部屋がその内部にできていた。そのうちのひとつでよく乾燥した最も大きい部屋には、壁すなわち要塞の向こう側へ出られる戸口がついている。壁が岩と接しているところより向こう側に出られる戸口なのである。この部屋には前にのべた大きな土器の壷と、いずれも五、六ブッシェルいれられる十五、六個の大きな篭《かご》とがぎっしり詰まっていた。これらの大篭の中には食糧、とくに穀物をいれておいたが、藁《わら》の部分と切り離した穂のままのもあれば、手でこすって脱穀した籾《もみ》もあった。
壁といえば、ご承知のとおり、長い棒杭をうって作ったものだが、その杭が根を降ろして樹木となり、今では欝蒼《うっそう》たる大木になっていたので、誰が見たってその奥に住居があるとは思えないのであった。
この住居の近くに、少し奥にはいったところで低地になっているところに、作物の畑が二枚あった。わたしは季節に順じてきちんと耕しては種をまき、しかるべきときには収穫を得たのである。穀物を増産する必要があれば、今のに劣らぬ適当な地所がその隣にいくらでもあった。
これに加えて、わたしには田舎《いなか》の邸宅があり、そこにもまたかなりりっぱな農園があった。まず第一にわたしのいわゆるあずまやというものがあった。これはいつもよく手入れをしておいた。つまり、そのまわりの生垣をつねに一定の高さに整えたり、梯子《はしご》をきちんと内側に立てかけておいたのである。初めは単なる杭にすぎなかった生垣の木も、今ではしっかりとした高い木になっていた。わたしはそれらの木がよく枝を張って欝蒼と茂って、いちだんと涼しい木陰を作るように、つねに枝を刈りこんでいた。そしてそれはわたしの思うとおり効果をあらわした。このまん中にわたしはふだんからテントを張っておいた。その目的に合うような柱を立ててその上に帆布を張っただけのものであったが、修繕《しゅうぜん》したり取り替えたりする必要はまったくなかった。このテントの下に、撃ち殺したけものの皮やその他の柔らかいものでソファー、または寝台のようなものを作って置いて、船から持ち出してきた船員の寝具用の毛布を一枚その上に敷き、大きな見張り番用の外套を上からかぶるように用意しておいた。本邸を留守にするような機会ができた時には、いつでもここの別荘住いときめたのである。
これに接して家畜のための、といっても山羊のためなのだが、囲いが作ってあった。この地面を柵で囲むのには想像も及ばないほどの苦心を重ねたのであった。山羊が突き破って出ることのできないように完全にしておかねばならないと案じるあまり、惨憺《さんたん》たる苦心をはらって生垣の外側にぎっしりと詰めて小さな杭をうち込まねば気がすまなかった。こうすると生垣というよりもまったくの柵で、手を突っこむ隙間もないくらいであった。この杭が果たして次の雨季には根を降ろし、壁のようにがんじょうな、いや、どんな壁よりもがんじょうな囲いとなったのである。
わたしはけっして怠け者でなく、快い生活を送るに必要と思われるものなら、骨身を惜しまずなんでもやり通したことは、このことでじゅうぶん証明されるであろう。こうやって手もとで家畜を飼っているということは、いわば肉と乳とバターとチーズの生きた倉庫をかかえているようなもので、たとえこれから四十年でも、この土地に生きているかぎりは続くものだと考えた。それらをいつでも手にはいるようにしておくことは、いつにかかって家畜を一匹でも逃がさないように柵を完全なものにしておくことにあった。今いったようなやり方で囲いをがんじょうなものにしたわけであるが、あまりにぎっしりと植えすぎたために、杭が根を降ろして成長しかけると、いくつかは引き抜かねばならないほどだった。
ここの土地では葡萄もまた栽培した。冬季にそなえる乾葡萄は主としてここの葡萄にたよったわけであるが、食卓を飾る最上のごちそうとして、細心の注意をはらって必ず貯蔵したのである。乾葡萄は単においしいばかりではなく、薬用にもなり、健康的で、滋養豊富でその上心身をさわやかにすることかぎりないものであった。
この場所はわたしのもうひとつの住居と舟をおいていたところのほぼ中間にあったので、舟のところに行く途中でよくここに滞在したものである。というのは、わたしはしばしば舟を見にいき、舟に属しているものやそのまわりの物をきちんと整頓しておいたからである。時には舟に乗って気晴らしに海に出ることもあったが、決して危険をおかすようなことはせず、岸から石を投げてとどくくらいの沖より遠くに出ることはなかった。潮流とか風とか、あるいはその他の事故のため押し流されてあわてふためくようなことを極度に恐れていたのだ。
ところで話はわたしの生活の新しい局面のことになるのである。
ある日のことであった。正午ごろ、舟のほうへ行こうとしていたわたしは海岸に人間のはだしの足跡を見つけてびっくり仰天してしまった。砂の上にまぎれもなくはっきりと見えたのである。わたしは雷《かみなり》に打たれたように立ちすくんだ。それとも幽霊でも見たようであった。耳をすまし、あたりを見回したが、何も聞こえず何も見えなかった。もっと遠くまで見ようと小高いところにかけ登った。浜辺を行ったり来たりした。しかしけっきょく同じこと、その足跡のほかなんの跡も見られなかった。
ほかにも足跡がありはしないか、自分の気のせいではなかったかと、それを確かめようとふたたび足跡のところへ行った。疑う余地はまったくなかった。まさしく人間の足跡、指も踵《かかと》も、その他全部揃った足の跡であった。どうしてそれがここにあるのか理解もできなければ、想像もつかなかった。すっかり頭が混乱しきって気が変になった人間みたいに、とめどなく支離《しり》滅裂《めつれつ》な考えにふけったあげく、自分の要塞に帰った。いわゆる足も地につかず、心の底まで怯《おび》えきってしまい、二、三歩いってはふり返り、潅木《かんぼく》や立ち木をそれかと感ちがいしたり、遠方の切り株を人間の姿と見あやまったりした。
恐怖にかられて、いかに奇怪な物のすがたが目の前に現われたか、またいかにとりとめもない妄想《もうそう》が次から次とわたしの頭に浮かんだか、異様ともなんともいいようのない幻想が道すがらわたしの心を襲ったか、これはまったく名状のしようもないありさまであった。
自分の城、この事件以来わたしの家を城と呼ぶようになったと思うが、その城に帰り着くと、何かに追われる者のごとくにわたしはそこに逃げこんだ。この時、かねて工夫していたとおり梯子をかけて乗り込んだのか、それともわたしのいわゆる戸口と称した岩をうがった穴を通って中にはいったのか、まったく覚えてはいない。その翌朝になっても思い出せなかった。どんなに怯えた兎にしろ狐《きつね》にしろ、このときのわたしほど周章狼狽《しゅうしょうろうばい》してその隠れ場所に逃げこむことはなかったほど、わたしはあわてふためいていたのだった。
その晩は一睡もしなかった。わたしの恐怖の原因から遠く離れれば離れるほど、不安は増すばかりであった。こんなことは、普通の事態とは逆のことであり、とくに恐怖に襲われた者の普通にすることとは相反することであった。
ところがわたしは自分で自分の恐るべき妄想に悩まされて、その原因からはるかに離れている今でさえ、ただ不吉な想像を逞しくするばかりであった。あれは悪魔に違いないと、ふと思いつくと、そんな思いつきにも理屈がちゃんと加勢してきた。悪魔以外のどんなものが人間の姿をとってあそこに来られるというのか。それを運んできた舟はどこにあるのか。ほかにどんな足跡があるというのか。人間が果たしてあそこに来られるはずがあるか。
しかし考えてみればおかしいことだ。足跡をひとつ残すほかに何も理由もないのに、どうして悪魔があんなところに来て人間の姿をせねばならないのか。しかもわたしがその足跡を見るという保証がないなら、まったくむだなことでさえあるのに、なぜあんなことをしたのか。これはまた別な見方からするとおもしろいことであった。わたしをこわがらせる方法なら、たったひとつの足跡を残すことよりも、ほかにいくらでも方法が悪魔には考え出せたはずである。また、わたしは島の反対側に住んでいたのだから、わたしがそれを見るなどという機会は万に一つという場所に足跡を残しているのは、悪魔としてはずいぶんばかな話だ。しかも砂の上ときている。ちょっと強い風が吹いて高波が寄せてきたら、ひとたまりもなく消えてしまうはずである。こういったことは、そのこと自体道理に合わないし、われわれが平生いだいている悪魔の狡智《こうち》という考えとも、まったく矛盾するように思われた。
こういうことがいくらでも考えられるとすると、どうも悪魔の仕わざだという不安はまったく根も葉もないように思われてきた。するとすぐさまこれは悪魔よりもっと危険なものに相違ないと判断した。つまり、大陸からこちらにやってきた野蛮人で、丸木舟に乗って海にのり出し、潮流か逆風に押し流されてこの島に上陸したものに違いないと思った。彼らは岸に上がったものの、わたしがそんな連中に来られてはたまらないと思うように、彼らもこんな荒涼たる孤島にとどまるのはまっぴらごめんだというわけで、早々に海上へ引きあげたのであろう。
こんな考えがわたしの頭を去来している間も、彼らが島に来た時、わたしは幸いにも、そのあたりにいなかったことや、彼らがわたしの舟を見つけなかったことを、心に深く感謝した。もし舟が見つかったとすれば、誰かここに住んでいる者があると断定して、おそらくわたしを捜し回ったであろう。
と、急に、彼らは事実わたしの舟を発見し、人が住んでいることを知ったかも知れない、という危惧《きぐ》の念がわたしの心を襲ってきた。もしそうであれば、彼らに大挙してやってこられて、とって食われてしまうに違いない。たまたま、わたしを見つけることがなかったにしても、わたしの囲いを見つけるだろうし、穀物も全部台なしにし、飼いならした山羊の群れもみな持ち去るだろう。そうなれば最後には食糧がなくなって死んでしまうだろう。わたしはこう思ったのである。
このようにして、わたしは恐怖のあまり、神に頼む心をすっかり失ってしまった。神に対するそれまでの信頼は、神の恵みからわが身に起こった不思議な経験にもとづいたものであったが、それが今は消え去ったのだ。今まで奇跡によってわたしを養ってくれた神も、せっかくその恵みによって与えてくれた生命の糧《かて》を、その神の力をもってしても保つことができないのか、と思われた。一年分だけの種をまけば次の収穫期まで間に合う、地上に実っている穀物を手に入れることをできなくするような事故なぞ起きるものではないと考えた、この自分の安易な考えをみずから責めないではいられなかった。
この自責はまことに当然であったので、これからは、二、三年分の穀物を前もって保有しておき、どんなことが起ころうとも、食糧の欠乏で死ぬことはないようにしようと決心した。
人生というものは運命の織りなすなんという不思議な模様であることか。環境の違いに応じて、人間の感情はなんという目に見えぬ力によって動かされることか。今日愛するものは明日は憎み、今日求めるものを明日は避ける。今日欲するものを明日は恐れる、いやそれを考えただけでも身震いする。この時のわたしがこのことをまさに如実《にょじつ》に身をもって示したのだ。わたしのただひとつの苦悩は人間との交わりから絶縁されているらしいことであった。果てしなき大海に囲まれ、人間の世界から遮断され、わたしのいわゆる沈黙の生活に運命づけられて天涯孤独であること、生ける者の一員としてその仲間に伍《ご》するには値しないものとして天から見離された者であることであった。もしそうだとすれば、自分と同じ人間の一人でも見ることはまさに死から蘇生《そせい》した思いであり、神の与えたもう救いの祝福に次ぐ最大の祝福と思われてよいはずであった。
ところがそのわたしが今や人間に会うかも知れないという不安に戦々競々《せんせんきょうきょう》とし、一人の人間がこの島に足跡を印したというその影に、その無言の姿におびえて、身も世もあらぬありさまではないか。
人生はかくも頼りないものなのだ。最初の驚きが少し鎮《しず》まってから、これを機縁にいろいろと珍しい思いがわたしの頭に浮かんできた。これこそ無限の知恵と恩寵にあふれる神がわたしのために定めたもうた境遇に違いないと思った。こんどのことにしても、果たして神意がいずこにあるか予見できない以上、神の主権についてとやかくいうべきでないと考えた。わたしとて神のお創りになった者であるから、神はまさにその創造のゆえに、適当とおぼしめされるままに、わたしを支配し処理する絶対の権利をもっておられるのだ。神の創造物でありながら主に逆らったのであるから、主はいかようにもわたしを罰する正当の権利もまたもっておられる。したがって、主に対して罪を犯したわたしであるから、主の怒りを受けしのぶことは、わたしの当然なすべきことであるのだ。
それからわたしはまた考えた。神は正しいばかりでなく全能でもあるから、このようにわたしを罰し苦しめることをよしとおぼしめしたと同じように、わたしを救うこともできるはずである。わたしを救うに及ばないとお考えになるとすれば、わたしはただわたしのすべてを捨てて神の意志にひたすら従うことが自分の当然の義務なのである。しかしその反面、神に希望を託し、神に祈り、神の日々の意志にもとづく命令と指示に心静かに従うこともまたわたしの義務である。
このような考えがわたしの心を何時間も、何日も、いや数週も数か月も占めていた。この折りにこうした思索からある特別な結果が現われたことを、ここに述べないわけにはゆかない。
ある朝早く、床の中に臥していながら、わたしは野蛮人の出現のために起こる身の危険に思い悩んで、恐ろしい不安に襲われたが、その時、わたしの心に浮かんだのは次の聖書の言葉であった。
「なやみの日に我をよべ。我なんじを援《たす》けん。しかしてなんじ我をあがむべし」
そこでわたしは元気よく床からとび起きた。心が慰められたばかりでなく、導かれ励まされるままに真剣に神に救いを祈った。祈りがすんで聖書をとり上げ、読もうとしてあけた時、まず目にはいった言葉は次のとおりであった。
「主を待ち望め雄々《おお》しかれ。汝の心を堅うせよ。かならずや主をまちのぞめ」
この言葉がわたしに与えた慰めはとうていいい表わせなかった。わたしはこれに応えて感謝の念にあふれて聖書をおいた。もはや悲しい気持ちはなくなっていた。少なくとも当座は悲しくはなかった。
このような思案や懸念《けねん》や沈思に耽《ふけ》っている最中に、ある日のこと、ふと、あれは自分で創り出した奇怪な幻想にすぎなかったのではないか、あの足跡は自分が舟から上がってきた時に残した自分の足跡ではなかったのかという気がした。そう思うといくらか気分が明るくなって、要するにあれは気の迷いで、自分の足跡にすぎなかったのだと自分を納得させようとした。舟に行く時にあそこを通ったとすれば、舟から帰ってくる時にもあそこを通らないとはいえないではないか。それにいったい自分がどこを歩き、どこを歩かなかったかもはっきりいえるわけではなかった。けっきょく、もしあれが自分の足跡にすぎなかったとなれば、自分でけんめいに幽霊化物《ゆうれいばけもの》の話を作り上げて、その話に誰よりも本人がいちばん慄《ふる》え上がるばかな奴のまねを自分が演じたことになるのであった。
わたしは勇気を出して、ふたたびおずおずと外を出歩きはじめた。三日三晩も城から一歩も外に出なかったので、食糧不足で飢えかけてきたからである。家の中には若干《じゃっかん》の大麦のケーキと水のほか、ほとんど何もなくなっていた。山羊の乳も搾《しぼ》ってやらなければならないことに気がついた。これは気晴らしに毎夕やる仕事になっていた。かわいそうに山羊は乳を搾ってもらえないので痛がって困っていたし、そのためにだめになりそうな山羊もあり、乳がとまりかけているのもあった。
あれは自分の足跡にすぎないのだ、己れの影に驚く男とはまさしく自分のことだ、と信じて元気を出してふたたび外に出歩き始め、まず、山羊の乳を搾るために田舎《いなか》の別荘へ出かけていった。わたしがどんなにこわごわと足をはこんだか、いかにたびたび後ろをふりかえり、いかにしばしば篭《かご》を放り出して一目散に逃げ出そうとしたか、もしこの醜態《しゅうたい》を見た人があったとしたら、てっきりこの男はやましい良心に苦しめられているか、さもなければ、最近よほど恐ろしい目に会ったものに相違ないと思ったであろう。事実そのとおり、わたしは恐ろしい目に会った男であったのだ。
二、三日こんなふうに出歩いたが、別に異状もなかったので少しずつ大胆になり、あれは気のせいにすぎなかったのだと本気に考えるようになった。しかしそれでももう一度海岸に行ってその足跡を見、自分の足を当てて測ってみて、それがたしかに自分の足跡といえるほどぴったり合うか、よく似ているかを見きわめるまでは、じゅうぶんに納得できないような気がした。
しかし、いよいよその現場に来てみると、まず第一にはっきりわかったことは、この前舟をつけた時わたしがこのあたりに上陸するはずは絶対にあり得ないということであった。第二には、その足跡に自分の足をあてて測ってみると、わたしの足のほうがはるかに小さいことがわかった。この二つのことでわたしの頭はまたもや新しい妄想でいっぱいになり、真っ黒い雲にとざされてしまった。まるで瘧《おこり》にかかったように悪寒《おかん》で身震いがしてきた。一人かそれ以上の人間がたしかにこの島に上陸したのだと信じこんで家に戻った。要するにこの島は無人島でなく人が住んでいる。したがっていついつ不意打ちを食わされるかわからない。だがどうやって身の安全をはかったらよいのか見当がつかなかった。
人間というものは恐怖にとりつかれるとなんとばかげた決心をするものだろう。恐怖に襲われると、理性で考えていた救いの手段は全然用をなさなくなってしまう。わたしが真っ先に思いついたことは、山羊の囲いをとり毀《こわ》して、飼いならした家畜を全部森に放つことであった。そうすれば敵は山羊を見つけることができず、したがって山羊とかそういう獲物をねらって島をしばしばうかがうこともないだろうと思った。次には二枚の穀物の畑を掘り起こしてしまうという簡単なことで、そうすれば敵が穀物を目当てにこの島にしばしば来るという気を起こさなくなるわけであった。そしてその次にはあずまやもテントも取り毀《こわ》すことで、そうすれば、敵がここに人が住んでいる気配を認め、それに誘われて住んでいる人間を捜し出そうとして探索の手をのばすということが防げるわけであった。
これがふたたび家に帰った最初の晩に考えだしたことで、わたしの心を襲ったあの不安がまだ生ま生ましく、頭が、先にいったように黒い霧に閉ざされている時のことであった。このように、危険を恐れる心配というものは現に目の前に現われた危険そのものよりも幾千倍も恐ろしいものである。不安の重荷はその不安の種である災厄《さいやく》そのものよりも遥かに大きいことを知るのである。
この際もっと悪いことは、今こそぜひ必要であったのに、かねてやっていたように神に身を委ねる心から得られるあの救いが考えられなかったことである。わたしは自分が、ペリシテ人が攻めてきたことばかりでなく、神が自分を見棄てたことに怨《うら》み言をいっているサウルそっくりだと思った。わが身の保全と救いを求めて、前にしたように、苦悩の中より神に呼ばわり、神の摂理に頼れば、心の平静をとり戻す正しい途《みち》がとれたのに、それをしなかったのだ。もしそういう途をふんでいたならば、こんどの不意打ちにもそれほどうろたえることなく、おそらくもっとしっかりした態度でこの窮地を切りぬけたであろう。
このように思いが乱れていたので、ひと晩じゅう眠ることができなかったが、朝がたになって眠りこんだ。いわば物思いのために心が疲れ果て、気力も消耗していたのでぐっすりと熱睡したのであった。
目がさめた時にはそれまでにないほど気持ちが落ち着いていた。そこでわたしは冷静にものを考え始めた。とことんまで熟考した結果、次のような結論に達した。
この島はきわめて快い、実り豊かなところで、本土から遠いといっても、わたしが望見した程度のものである。そうすればわたしが想像するほどの絶海の孤島ではないのだ。この土地に生活している定まった住民はないけれども、時には本土の海岸から舟でやってくる人間もないわけではあるまい。そういう連中はわざわざ来るか、あるいは、逆風に押し流されて仕方なしに来るかであろう。
わたしはここにもう十五年も住んでいたが、ついぞ人影ひとつ見かけたことはなかった。人間がここに流されてきたことがあったとしても、今までは、ここに定住しようという気を起こしたことはなく、できるだけ早く島から引き上げていったのであろう。せいぜい考えられる危険といえば、本土からはぐれてきた連中が偶然にここに上陸するくらいのことであった。そういう連中も押し流されてきたとすれば、当然いやいやながら来たということになるから、滞在するなどはもってのほか、早々に引き上げていったので、おそらく帰り路《みち》に潮や昼の明りの助けを失うことを恐れて、ひと晩だって海岸に泊まることはなかったのであろう。そういうわけで、万一野蛮人がこの土地に上陸する場合に備えて、安全な隠れ場所を考えておきさえすればよかったのだ。
こうなるといたく後悔されることは、洞穴を広く掘りひろげてもうひとつの入口を作ったこと、つまり前にもいったように、要塞《ようさい》の壁が岩に接するところの向こう側に出る入口を作ったことであった。そこでじっくり考えた末、前にもいったとおり、十二年ほど前に二列に木を植えたところで、壁から少し離れた場所に、第一のと同じように半円形の第二の要塞を築くことにきめた。これらの木は初めからかなり密に植えてあったので、これを補強するにはわずかの杭を隙間に打ちこめばよかった。したがって新しい壁はすぐにできあがるはずであった。
こうして二重の壁ができあがり、外側の壁は材木や古い錨索《いかりづな》や、そのほか壁の補強に役立ちそうなものをのこらず持ってきてじゅうぶんに厚くし、わたしの腕がはいるくらいの大きさの孔《あな》を七つあけておいた。壁の内側には洞穴からせっせと運んできた土をその根もとに置き、それを踏み固めて十フィート以上の厚さの壁にした。七つの孔には、船から持ち出した七つのマスケット銃を思い出して、これをなんとか据えつけた。つまり、これらの銃をちょうど大砲のように砲架《ほうか》がわりの枠《わく》の中にはめこんだわけで、わずか二分間のうちに七つとも全部発砲することができるのであった。この壁を作り上げるまでには何か月も苦労したが、できあがるまではまったく安心がならなかった。
これが一段落つくと、壁の外側の広い地面いっぱいにぐるっと、すぐ根がつくことを知っている例の≪こりやなぎ≫の杭を所せましとばかり打ちこんだ。おそらく二万本近くも打ちこんだろうと思う。それでそれらと壁の間にはかなり広い空地を残しているので、敵が外壁に近づこうとすれば、こちらからはじゅうぶん見えるし、敵のほうは若い木では身を隠すところがないはずであった。
こうして二年経つとわたしの住居の前にはこんもりした木立ができ、さらに五、六年経つと欝蒼《うっそう》たる森ができ、まったく通り抜けることができないほど繁茂《はんも》密生したのであった。これではいかなる人間といえども、森の向こう側になにかあるとは、いわんや人の住居があるなどとは、とても見当がつかなかったであろう。
森の中に道を設けていなかったので、住居への出入りには、梯子《はしご》を二つ使うことにして、ひとつは低い岩場の一部にかけることにし、岩をけずってもうひとつの梯子がかかる余地をこしらえた。こうして梯子を二つともはずしてしまえば、どんな人間でもけがをせずには降りてこられないし、降りてきたところで、また外壁の外側に来ただけのことであった。
このようにして自分の身の保全のために慎重に慎重を重ねて考えられるすべての手段を講じた。こういう用心がまったくいわれのないものではないことはやがて明らかになるであろう。もっとも当時は何もはっきりしたものを予想したわけでなく、ただ恐ろしさのあまりの漠然たる不安だけにすぎなかった。
こういうことをしている間も、ほかのことをおろそかにしていたわけではなかった。たとえば、山羊の群れのこともわたしには重大な問題であった。山羊は今ではどんな場合でも手にはいり、弾薬を使わなくてもじゅうぶん間に合い、それに野生の山羊を追い回す労もはぶけるようになっていた。それでこんなありがたいものをなくして、また初めから育て上げるなんてことはまっぴらだった。
このことのために長い間熟慮した末、山羊を保持していくのには二つの方法しかないことを知った。ひとつは適当なところを見つけて地下に穴を掘り、毎晩そこへ山羊を追い込むことであり、もうひとつは離ればなれに、なるべく目立たないところを二、三か所えらんで囲いを作り、そこに五、六頭ずついれておくことであった。そうしておけば、山羊の群れの大部分が災難にかかっても、わずかな手間と時間をかければまた山羊を殖やすことができるわけであった。この計画は多大の時間と労力を要することであったけれども、いちばん合理的なものだとわたしは思った。
そこでかなり時間をかけて、島の中でもいちばん人目につかない場所を捜した。そして願ってもないほどひっ込んだ場所を見つけた。そこは窪地《くぼち》になっている繁った森のまん中にある小さな湿地で、この森は前にもいったように、わたしが島の東側から帰ろうとした時に道に迷ったところであった。ここには三エーカー近い空地があって、周囲をぐるっと森に囲まれていて、いわば自然にできた囲いといってもよいほどで、少なくともここならば、囲いを作るにも、ほかのところで苦労したほど骨折らなくてもすみそうであった。
わたしはさっそくこの土地を囲う仕事にとりかかり、ひと月足らずでぐるっと柵で囲むことができた。わたしの家畜とでもいうべき山羊の群れは、初め予想したよりもはるかにおとなしくなっていたので、そこにいれてもまずまずだいじょうぶと思われた。そこで時を移さず、十頭の若い雌の山羊と二頭の雄山羊をこの場所へ移した。一応そこへいれておいてから、柵を完璧《かんぺき》にして、ほかのものに劣らないくらい丈夫なものにするために仕事を続けた。しかしこれは比較的ゆっくりやったので、ずいぶん時間がかかったのであった。
これだけの労力を払ったというのも、まったく人間の足跡を見たことから生じた不安からであった。というのは、わたしはまだ一人でも人間がこの島に近よったのを見なかったからである。
こういう不安な状態で二年経った。そのために、わたしの生活は以前のようにのん気ではなくなった。人間に対する恐怖に絶えず襲われて生活することがどんなことであるか知っている人には、わたしの立場は容易に想像できるであろう。
なおこれは悲しい気持ちでいっておかねばならないことであるが、心の動揺がわたしの宗教心に大きな影響を与えたことである。いつなんどき、野蛮人や人食い人種の手中に陥るかも知れないという恐怖と危惧《きぐ》の念が心に重くのしかかっていたため、わが造物主に祈りを捧げるにふさわしい気分にめったになれなかった。少なくとも以前のように平静|諦観《ていかん》の魂をもって神に祈る気分にはなれなかったのだ。わが身に危険が迫り、今夜こそ夜が明ける前に殺されて食われてしまうのではないかと毎晩のように苦しみ悩んで、神に祈るといったほうがよかった。平和と感謝と愛情にみちた気分のほうが、恐怖と不安の気分よりも祈りを捧げるのにはるかにふさわしい心境であることは、わが身の体験からはっきり証言できる。
実際、さし迫った災厄《さいやく》に恐れおののいていては、人は神に祈るという心地よい務めを果たすにふさわしい気持ちにはなれないが、それは病床にあって悔い改めるにふさわしい気持ちになれないと同じわけである。不安が心をおかすのは不調が肉体をおかすと同じだからである。心の不安は肉体のそれと同じくらい大きな障害となるのは必然のこと、いな、むしろより大きな障害となるのだ。神に祈るということは本来心のいとなみであって肉体のそれではないからである。
しかし、話を先へ進めよう。わたしはあのようにしてわずかな家畜の一部を安全な場所に移したあとで、もう一か所山羊を置く奥まった場所を捜そうと島じゅうを歩き回った。そうしたある時のこと、それまで行ったところよりさらに先の島の西端に出て、海を見渡すと、遠いかなたの海上に一艘《いっそう》の小舟を見たような気がした。わたしは例の船の乗組員の箱のひとつの中に一、二本の望遠鏡を見つけて、とっておいたのであったが、あいにくその時には携帯《けいたい》していなかった。何しろ途方もなく遠方なので、肉眼でもう辛抱しきれなくなるまでけんめいに見つめたが、けっきょく正体は見きわめられなかった。果たして小舟であったかそうでなかったか、わからずじまいであった。
丘から降りてきた時にはもうその姿は見えなかったので、わたしもあきらめてしまった。ただ、今後は、外に出る時にはかならずポケットに望遠鏡をいれていこうと決心したのであった。
丘から降りて、今まで一度も来たことのない島のいちばん端のところに来た時、人間の足跡を見るということはこの島ではわたしが想像していたほど珍しいことではないと、たちどころに確信するに至った。わたしは特別な摂理によって野蛮人が絶対に来ないほうの海岸に打ち上げられたわけであるが、もしそうでなかったら、本土から出た丸木舟が沖合に出すぎてしまった時、避難港を求めて島のこちら側に漕ぎ寄せてくるのは少しも珍しくないくらいのことは、とっくにわかるはずであった。同様にまた、野蛮人は丸木舟に乗ってしばしば戦いを交えるのであるから、勝利者が捕虜《ほりょ》をこの海岸に連れてきて、人食い人種の恐るべき習慣に従って、これを殺して食ってしまうということも、わかるはずであった。このことについてはあとで述べることにしよう。
この海岸は、前にもいったように、島の南西部になっていたが、丘からそこまで降りてきて、わたしはまったく愕然《がくぜん》として色を失ってしまった。その海岸一帯に髑髏《どくろ》と手足と、その他の人間の骨が散乱しているのを見た時のわたしの恐怖の心はなんとも名状のしようもなかった。とくに、火を焚いた跡があり、また闘鶏場のように地面を丸く掘ったところもあって、そこはおそらく蛮人どもが坐って同じ人間の肉をあさましく食って宴《えん》を張ったところであろう。
わたしはこのような光景にびっくり仰天してしまって、しばらくの間は身の危険を感じる余裕もなかった。このような非道|極悪《ごくあく》の残虐さと人間性の堕落の恐ろしさに気を奪われて、わが身の不安などはまったく忘れていた。こういう恐ろしいことはそれまでにしばしば耳にはしていたが、これほど間近かに見たことはなかった。けっきょく、わたしはこの恐ろしい光景に目をそむけた。胸がむかつき、今にも気が遠くなりそうになったが、自然はわたしの胃袋から悪いものを吐き出させてくれた。はげしく嘔吐《おうと》したあと、いくぶん気分はよくなった。けれどももう一瞬もこんなところに留まっていることはできなかった。大急ぎで丘に登り、住居のほうへ歩いていった。
島のその部分から少し離れたところまで来た時、しばらく呆然《ぼうぜん》として立ちとどまっていたが、やがてわれに返り、深い感動をもって天を仰ぎ、両目に涙をためて、自分がこんな恐ろしい人間とは仲間にならないですむ国に生まれたことを神に感謝した。現在の境遇をみじめきわまるものと思っていたけれども、じつはいろいろの慰めを与えられているので、感謝こそすれ、苦情をいうすじはないと思った。とりわけ、こんな哀れな状況にあってもなお神を知り、その祝福の希望によって慰められてきたことは、わたしがこれまでなめてきた、また今後なめるかも知れない不幸をはるかにつぐなって余りある幸福であると思ったのである。
わたしはこのような感謝の気持ちでわが家《や》なる城へ帰り、わが身の安全については、以前よりはるかに心安くなってきた。この野蛮人どもは何かを手に入れようとしてこの島に来るのでないことがわかったからである。おそらく彼らはこの島で何かを捜すとか、求めるとか、当てにするとかいうことはなかったのであろう。たしかに、しばしば一面森におおわれたあたりには来たであろうが、欲しいものは何ひとつ見つけることはできなかったに相違ない。
考えてみればわたしはここに住みつてからほとんど十八年になるけれども、これまで人間の足跡すら見たことはなかった。してみれば、おそらくそんな事態は起こる気づかいはあるまいが、自分のほうから姿を現わさないかぎり、さらにもう十八年くらいこれまでどおり誰にも見られないで暮らすことができるかも知れない。人食い人種とは違って、こちらから進んで近づきたいと思うましな人間でも見つけないかぎり、現在の場所でひたすら身を隠していることがわたしの唯一の仕事であったからだ。
しかしながら、今まで話題としてきたこの蛮族どもと、彼らの骨肉相食《こつにくあいは》む鬼畜《きちく》のような習わしに対する憎悪の念は深く胸に宿っていたので、わたしの欝々《うつうつ》とした気持ちは去らず、ほとんど二年間も自分の狭い世界に閉じこもって暮らした。自分の狭い世界といったが、それはわたしの三つの根拠地、すなわち城と、わたしのいわゆるあずまやと呼んだ田舎《いなか》の別荘と、森の中の山羊の囲いのことである。この囲いもただ山羊を囲うだけの場所として見にいくにすぎなかった。
極悪なこれらの蛮人を憎む自然の情はいかにも激しいもので、彼らに会うのは悪魔そのものに会うほどに恐れていた。その間じゅう、自分の舟を見にいくことすらあえてせず、むしろもう一隻新たに作ろうかと考え始めた。舟を浜伝いに回航しようと企てることは思いもよらなかった。海上で彼らに出くわすこともあるかもしれないと恐れたからで、もし万一彼らの手中におちたら最後、わたしの運命がどうなるかは、はっきりしていたのである。
しかしながら、時が経つにつれ、また、こういう連中に見つかる危険はないという安心感もあって、蛮人に対する不安もうすらいでいった。
わたしはまたもとどおりの落ちついた生活をいとなむようになった。ただ違うところは野蛮人に見つからないように、以前よりもっと用心をして四方八方に目を配るようになったことである。ことに、たまたま島に来ている蛮人の耳にはいっては大へんだから、鉄砲を撃つことにはいっそう用心した。それであるから、かねがね山羊を飼いならして家畜としていたので、森に出かけて狩りをしたり、発砲したりする必要がなかったことは、わたしにとってはまことにありがたい天の配剤であったのだ。
この後も野生の山羊を捕えないわけではなかったが、それは前にやっていたように罠を仕掛けて捕えたのであった。そういうわけで今後二年間は、いつも鉄砲は携行《けいこう》して出かけたけれども、一度も発砲した覚えはなかった。いや、携《たずさ》えていたのは鉄砲ばかりでなく、船から持ち出した三挺の短銃も持って出た。少なくともその二挺はいつも山羊皮のベルトにさして持って歩いた。そればかりでなく、これまた船から持ち出した幅広の短剣の一本を磨き上げて、そのために作ったベルトにさして歩いた。それであるから、前に述べたわたしのいで立ちに、二挺の短銃と腰のベルトにぶら下げた抜き身の≪だんびら≫とをつけ加えて想像していただければ、わたしの出歩く時の姿がいかに恐ろしい男に見えたかわかるであろう。
前にもいったように事態はしばらくこんなふうに続いたので、いろいろ用心を怠《おこた》らなかった点を別にすれば、以前の平静な生活にもどっていたように思う。こういうことをいろいろ考えるにつれて、現在のわたしの境遇はほかの境遇にくらべたら、いや、神さまのおぼしめしの如何《いかん》によってはわたしの運命となったかも知れないほかの事情にくらべたら、とてもみじめだなどとはいえた義理でないことがよくわかってきた。世の中で自分より恵まれた人といつもひきくらべてぶつぶつ不平をいっている者もあるが、もし自分より恵まれない人とわが身をひきくらべて、ありがたいと思うようになれば、人生のどんな境遇に陥っても、それを≪かこつ≫ことがどんなに少なくなるだろうかと、つくづく思うのであった。
現在の境遇では、ぜひともなくては困るというものは実際あまりなかったし、またあの非道な蛮人に対する恐怖と身の安全を保持することに心を奪われていたので、生活の便利をはかる発明の才はにぶってしまった。かつてあれほど熱中していたりっぱな計画も放棄してしまった。それは、大麦から麦芽を作り、それからビールを醸造《じょうぞう》してみようという試みであった。じつはこれは気まぐれな思いつきであった。そんな単純な考えをみずから責めたこともしばしばあった。なにしろビールを作るに必要なもので、わたしの手にはいらないものがいくつもあることが明らかになったからだ。まず第一に、それを貯蔵する樽《たる》で、これは前にもいったように、わたしにはどうしても作れないものであった。いく日も、いく週間も、いや、いく月もかけてやってはみたが努力はまったくむだであったのだ。次にはビールをもたせるホップがなく、発酵させる酵母《こうぼ》がなく、沸騰《ふっとう》させる銅釜がないのである。
このような悪条件にもかかわらず、あのじゃまがはいらなかったならば、つまり、蛮人のために恐怖に陥ることがなかったならば、わたしはビール造りを始めて、おそらく成功したであろうと思う。何しろ、いったんやろうと思いついたら、やりとげないで途中で投げ出すようなことは滅多《めった》にないわたしであったからだ。
しかし、わたしの創意工夫はほかのほうへ向けられた。どうしたら、あの鬼畜どもが残忍な血なまぐさい饗宴《きょうえん》にふけっているところを襲って殺せるか、そしてもしできることなら、彼らが殺そうとこの島に拉致《らち》した犠牲者をどうしたら救えるかと、夜も昼もそのことばかり考えていた。彼らをみな殺しにするか、少なくともおどかして二度とここへ来ないようにするために、わたしが工夫したというか、心の中で思いめぐらした術策をのこらずここに書きしるすとなると、この書物が意図したところよりも、ずっと膨大《ぼうだい》な本となってしまうであろう。しかし何もかも空論に終わった。自分がそれを実行するために現場に赴《おもむ》かないかぎり、何も実効を奏することは不可能であった。投げ槍を持つか、わたしの銃と同じく百発百中の弓矢を持った蛮人が二十人か三十人もかたまっている中に、たった一人で立ち向かったとて何ができるであろうか。
彼らが焚火《たきび》をする場所の下に穴を掘って、五、六ポンドの火薬を埋めておく、そうすると彼らが焚火に火をつけるとき、火薬に点火してそのあたりのものをすっかりふき飛ばしてしまうことになる、こういう案を考えたこともあった。しかしこれには支障があった。まず第一、火薬のたくわえはもうひと樽分そこそこになった現在、そんなにたくさんの火薬を彼ら蛮人のためにむだ使いしたくなかった。それにまた、彼らに不意打ちを食わすのにちょうどよい瞬間に爆発させる自信もなかった。せいぜい彼らの近くで火を吹いてちょっとびっくりさせるくらいがおちで、二度とここへ来させなくするわけにはいかないかも知れない。というわけでこの計画もやめにした。
次の案は、三挺の銃に全部二重|装填《そうてん》し、どこか適当な場所に待ち伏せして、彼らの血の饗宴がまさにたけなわというころを見はからって一斉《いっせい》にぶっぱなす。一発でたぶん二、三人は殺すか傷をおわせることができよう。それから三挺のピストルと剣をもって襲いかかっていったら、たとえ相手が二十人いてもみな殺しにできることは、まずだいじょうぶだろう。この思いつきはすこぶる気に入って数週間はそのことばかり考えていて、ついには夢にまで見る仕末で、彼らにまさに射撃を加えようとしてはっとすることさえあった。
この思いつきはだんだん高《こう》じてきて、ついにわたしは蛮人を見張るため、前にもいったように、待ち伏せする適当な場所を数日間もかけて捜し回った。わたしは例の場所にもたびたび行って、今ではだいぶなれて平気になった。しかし、わたしの心が復讐《ふくしゅう》のことや、二、三十人の蛮人を、いうなれば刀にかけて血祭りに上げることでいっぱいであったとしても、現場に来て、鬼畜のような彼らが互いに相食《あいは》んだ痕跡を目《ま》のあたりに見ると、その恐ろしさにわたしの敵意もにぶるのであった。
けっきょく、丘の中腹に頃合いの場所を見つけた。ここなら彼らの舟がやってくるのが見えるまで安全に隠れていられるだろうと安心ができた。また、ここからは彼らが上陸の準備ができないうちに、こちらの姿は見せないで木の茂みの中へ逃げこめそうであった。そこにはわたしの体がすっぽりかくれるほどの大きさの洞穴《ほらあな》のある木が一本あった。この中にはいって彼らの血なまぐさい振舞いを逐一見ていて、彼らがひと塊《かたまり》になったところを見はからってじゅうぶん狙いをつければ、よもや撃ちそこなうことはあるまいし、最初の一発で三人や四人に負傷をさせることは間違いあるまいと思われた。
それではと、この場所で計画を実行しようと決心した。そこで、マスケット銃二挺と普通の猟銃一挺を用意した。二挺のマスケット銃にはそれぞれ一対のざら玉と、ピストルの弾くらいの小型の弾を四、五発|装填《そうてん》し、猟銃には、いちばん大型の、いわゆる白鳥弾をひと握り近く装填した。ピストルには各々《おのおの》四発ほど弾をこめた。こういう態勢で、第二、第三の射撃用の火薬もじゅうぶん用意して、わたしは出撃の準備をととのえた。
こうして計画の具体案を立て、頭の中ではそれを実行してみたあとで、わたしのいわゆる城から三マイルかそれ以上離れた例の丘の頂上まで毎朝かかさずに出かけていった。そして、この島に近づいているか、こちらに針路をとっている舟が一隻でも海上に見えるかどうか確かめようとした。しかし、二、三か月も絶えず見張りをして、けっきょくいつも、なんの収穫もなしに帰ってくるとなると、こんなつらい仕事がだんだん嫌《いや》になってきた。何しろ、この間、わたしが肉眼で見、望遠鏡で見たかぎりでは、浜辺や海岸近くはもちろん、広い大洋のどこにも、それらしい影は全然見当たらなかったのである。
見張りのため丘への日参を続けていた間は、この計画をやりとおそうという元気を持ち続け、わたしの気力も二、三十人の裸の蛮人をみな殺しにするという途方もない所業を果たす意気込みに、はり切っていたようである。だが、彼らが犯した罪がなんであるかについては、じつは深く検討したわけでなく、ただ、この地方の蛮人の異常な風習を見て恐怖に襲われ、そのためにわたしの激情が燃え上がっただけのことであった。考えてみれば、この蛮人がただそのいとわしくもまた汚らわしき欲望の赴くままに導かれることを、広く世界を統《す》べたまう神は今まで黙認していたのだ、とも思われる。その結果、神からまったく見棄てられ、地獄の堕落によって動かされた自然というものに追いまくられて、おそらく長い年月にわたって、かくも恐ろしい行為をなし、かくも恐ろしい習慣に従ってきたのであろう。
しかし、前にもいったように、毎朝あんなに遠くまで、くる日もくる日も長いことむだ足をはこんだ、この空《むな》しい遠出に嫌気がさしてくると、行動そのものに対する自分の意見も変わり始め、いったい自分がこれからやろうとしていることはなんなのかと、冷静に考え始めた。神は蛮人にこういう行為を続けさせ、いわば、互いに神の裁《さば》きの執行者となることを、長年にわたって、別に処罰することもなく、よしとして黙認してきたのに、その彼らを罪人とみなし、おこがましくも彼らに裁きを加え、処刑を加えようとするわたしに、いったいどんな権威が、あるいは、どんな使命があるというのだろうか。果たしてこの連中がどの程度にわたしに対してあやまちを犯したか。相互に見さかいもなく流し合っている血の争闘の中に、なんの権利があってわたしがはいっていくのか。
わたしはこのことをしばしば次のように考えてみた。
こういう場合、神御自身はどういうふうに裁かれるか。わたしはそれをどうしたら知ることができるか。彼らはこういうことをしても罪を犯しているとは思っていないのは確かである。彼らを責めても良心のとがめも感じないし、非難してもなんのことかわからないのだ。彼らはこれが罪だとは思っていない。したがって、われわれがたいていの罪を犯す時に感じるように、彼らは神の正義に公然とさからって罪を犯しているとは感じていないのである。われわれが牛を殺す場合と同じように、彼らは戦争で捕えた捕虜を殺すことを犯罪とは思っていないし、われわれが羊肉を食べると同じように、人肉を食べることを犯罪とは考えないのだ。
しばらくこういうことを考えてゆくと、理の当然として明らかに自分は間違っていたことになる。彼らはわたしが前に頭の中で強く非難していたような意味では殺人者ではないのだ。その点、戦争で捕えた捕虜をしばしば死刑にしたり、さらにしばしばあったことだが、武器を投じて降伏したにもかかわらず、その命乞《いのちご》いに耳をかさず、全軍を刃《やいば》にかけたキリスト教徒が殺人者といえないのと同じである。
次にわたしが思いついたことは、彼ら相互同士のやり方はあのように鬼畜同然であるが、それはわたしにはまったくなんの関係もないことで、彼らは何ひとつわたしに危害を加えてはいない、ということであった。もし彼らがわたしに危害を加えようとしたり、あるいはわたしが直接身を守るために彼らを襲う必要があるというのであれば、わたしのいい分も立つというものである。しかしわたしはまだ彼らの力のとどかないところにいるし、彼らのほうもわたしのことは何も知らず、したがってわたしに危害の意図をいだくはずはなかった。してみると、わたしのほうから彼らを攻撃するいわれは少しもなかった。もしその攻撃が正当だとすれば、スペイン人がアメリカで行なった幾百万の土人を殺戮《さつりく》するという、あの残虐行為も正当だといわなければならなくなる。
土人たちは偶像崇拝者で未開人であり、人体をいけにえとして偶像に供えるような血なまぐさい野蛮な儀式もいくつか行なっていたであろうが、スペイン人に対しては、なんの罪もない人たちであった。スペイン人はこれらの土人をその国土から殲滅《せんめつ》したのであるが、これは、ヨーロッパのすべてのキリスト教国民はもとより、今日では当のスペイン人自身からさえ、神に対しても人間に対しても、許し難い文字どおりの虐殺、血なまぐさい非道の残虐行為として、極度の嫌悪《けんお》の情をもって語られている。
こういう行為あるために、スペイン人といえば、人道をわきまえ、キリスト教の愛を知る人々にとっては、恐るべき残虐な人間を意味するに至ったのである。あたかもスペイン王国が、高潔な心のしるしとされている同情の精神や不幸な者に対する人間共通の憐憫《れんびん》の情をもたない人間の本場として、とくに悪名高くなったかのごとくいわれる所以《ゆえん》がここにあるのだ。
こういうことを考えていると、計画の実行が躊躇《ちゅうちょ》され、ついには中止となった。つまり、次第次第にわたしの計画から離れていって、けっきょく、蛮人を攻撃しようと決心したことは、手段を誤ったのであると決論するに至った。向こうが先に攻撃をしかけてこないかぎり、こちらから余計な手出しをすることはなかった。むしろ、できることなら、彼らが攻撃しないようにすることこそわたしの務めであった。しかし、もしわたしが見つかって襲われたならば、その時はその時で自分の義務を果たすだけのことである。
また一方では、これはじつは自分を救う途ではなくて、まったく自分を破滅に導く途ではないかと考えていた。つまり、いざという時、岸に上がっている者ばかりでなく、あとから上陸してくる者も一人残らず殺せるだけの見通しがつかなければ、つまり、もし一人でも逃がして、その男にことの顛末《てんまつ》を仲間のものに告げられでもしたら、何千という人数が殺された仲間の仕返しをするために押し寄せてくるだろう。そうなればわたしはわが身の破滅を招くことは確実である。今のところ何も好んでそんな危い目に会う必要はなかったのである。
けっきょく、主義の点からいっても実行策の点からいっても、この事件にはかかわるべきでないというのが、わたしの結論であった。あらゆる手段をつくして自分の身を隠して、この島に何か生きものが、つまり人間が住んでいるという気配を彼らにさとらせないということがわたしのなすべき仕事であった。
この慎重な考慮には宗教心も加わり、まったく罪のない人間、少なくともわたしにとっては罪のない人間を殺そうとする残忍な計画を立てたことは、まったくわたしのなすべきことではなかったと、いろいろな点から確信するに至った。彼らが相互に犯し合っている犯罪はわたしにはなんの関係もないことであった。彼らの犯罪は種族全体としての犯罪であって、わたしとしては、それらは神の裁きに委《ゆだ》ねるべきであった。神はすべての民族の支配者であり、種族の罪に対しては種族全体を罰することによって正しい応報をくだし、公《おおやけ》に罪を犯した者にはその御意《みこころ》のままに、公の裁きをくだしたもうのであるからだ。
この道理がはっきりわかってみると、あのような大それたことをよくも仕出かさなくてすんだと、何にもましてほっとした。実際、もしやっていたとしたら、故意《こい》の殺人に等しい罪を犯したと考えるべきりっぱな理由がはっきりわかったのだ。そこで、流血の罪を免《まぬが》れしめたもうた神に対して、わたしは膝まずいて敬虔《けいけん》な感謝の祈りをささげた。また、わたしがこの野蛮人の手に捕えられないように、わが命を守るためにそうしろと天から明らかな命令がないかぎり、彼らに手を下さないですむように、神の優渥《ゆうあく》な加護がわたしの上にあらんことを切に祈り求めたのであった。
このような気持ちで、その後一年近くをすごした。蛮人を襲撃する機会をねらう気持ちなどは、さらさらなくなり、この期間、彼らが姿を現わすかどうか、あるいは上陸した形跡があるかどうかを見るために丘に登ることは一度もなかった。もしそういうことをしたら、彼らに対してなした仕掛けをまたいじくってみたくなったり、もし万一有利な機会が思いがけなく生じたら、つい襲撃したくなるかも知れないと案じたからであった。
この間にわたしがやったことといえば、島の向こう側においてあった小舟をとりにいって島の東端に回航し、そこの絶壁の下にあった小さな入江に入れたくらいのものであった。この入江なら、潮流の関係から、蛮人も舟でそこに近寄ることはどんなことがあってもできないし、少なくとも近寄ろうとはしないことは、はっきりしていた。
舟に付属していたもので、前のところに残しておいたものはいっさい、舟といっしょに運び去った。これは、ただ回航するだけなら必要のないもので、たとえば、かねてこしらえておいた帆柱と帆だとか、錨《いかり》とも引っ掛け錨ともいいようはなかったが、とにかくわたしの作ったものとしては傑作の錨らしきものなどであった。すべてこういう物を移して、この島から舟らしいもの、あるいは人間の住居らしいものの痕跡を全然なくしてしまおうと思ったのである。
そのうえ、前にもいったとおり、わたしは以前よりいっそう閉じこもりがちな生活をおくり、日常のきまった仕事である雌山羊の乳を搾《しぼ》ることと、森の中に飼ってある小群の山羊の世話をすること以外は、めったに洞穴から出ることはなかった。その森は島のまったく反対側にあったので全然危険はなかった。時としてこの島に来る野蛮人があったとしても、何かをここで手に入れるつもりでやってくるわけではないので、海岸から奥のほうへまぎれこむことはないことは確かであった。
前にもあったことであろうが、蛮人のことが心配になって用心するようになってから後も、彼らが何度か上陸したことは疑いのないところであった。裸も同然で、武器といえば小型の弾をこめただけの鉄砲一挺を携えて、何か手にはいるものはないかとあちらこちらをきょろきょろして歩いている時に、もし蛮人に出会ったら、いや、その前に向こうから見つけられたとしたら、自分の運命はどうなっていただろうか、思っただけでもぞっとするのであった。あの人間の足跡を見つけた時、足跡ではなくて十五人か二十人の蛮人に出会って、それに追いかけられたとしたら、しかも、彼らの速い足で追いかけられ、逃げおおせられない絶対絶命に陥《おちい》ったとしたら、その驚きはどんなであったろうか。
こういうことを考えると魂も消えるばかり、気は滅入《めい》ってしまい、なかなか気をとり直すことができなかった。実際、そういう時になったらどうしただろうか。蛮人に手向かうことができないばかりか、あわててしまって自分に当然できるはずのこともできなかったろう。いわんや周到に熟慮《じゅくりょ》と準備をした後の今ならできたと思われることなど、その当時にはとてもできるはずはなかった、と考えてみるとまったく悲しくてたまらないことであった。
事実、こういうことを真剣に考えると、まったく憂欝《ゆううつ》になり、どうかするとそれがずいぶん長く続くこともあった。しかしけっきょくそれも、多くの見えざる危険からわたしを救い、自力ではとうてい免《まぬが》れ得なかった災難からこの身を守ってくださった神に対しての感謝の念に落着したのであった。まったくのところ、このような危険や災難がさし迫っているなどとは思いもよらず、また実際に起こり得ると想像もできなかったからである。
このことは以前につねにわたしの心に去来していたある反省を新たに呼び起こした。それはわれわれが人生のいろいろな危険を切り抜ける際、そこに恵み深き神の配慮が働いていることを理解し始めたころの反省であった。
われわれがそれに気がつかない時に、いかに不思議にわれわれは救われていることであろうか。われわれがいわゆる窮地に陥り、この途《みち》をとらんか、あの途にせんかと狐疑逡巡《こぎしゅんじゅん》している時、自分ではあちらの途を行こうと思いながらも、いかに不思議な暗示に導かれて、こちらの途を行くことであろう。われわれの分別が、われわれの気持ちが、場合によっては仕事が、あちらの途を行けと命ずところがどこから来るともわからない、どんな力によるともわからない、ある異様な感じがわれわれの心を圧して、こちらの途をとらせる。そして、もしわれわれが行こうとしていた途《みち》、いや、当然行くべきだと思っていた途をとっておれば、われわれは身を滅ぼしていたに違いないことが後になってわかるのである。
こうした、またこれに類する内省にもとづいて、わたしは自分を律するひとつのきまりをつくった。すなわち、何かことがおきてそれをやるかやらないか、あるいはこの途を行くかあの途を行くか、それについてひそかな暗示か予感を心中に感じれば、たとえそれ以外になんの根拠がなくてもわたしは躊躇《ちゅうちょ》なくその不可思議な指令に従うことにした。今までのわたしの生涯のうちでこのような行動をとって成功した例はたくさん挙げることができるが、この寂しい島の生活の後半において、とくにその例が多い。
このほかに、今のようなはっきりものを見る目が当時なかったために、当然気がつくべくして見のがした場合も多かったであろう。しかし、愚を改めるに、はばかることはない。わたしはすべての分別ある人々で、わたしと同じ、もしくはそれに近い異常な事情につきまとわれている人々に忠告したい。どのような目に見えない霊性から来るにせよ、神のひそかなる告示を軽視してはいけない、と。
このことについてわたしは議論を交《か》わそうとは思わないし、おそらく説明もわたしにはできない。けれどもその告示はたしかに、霊と霊との交わり、肉体をもつ者と肉体をもたざる者との交わりの証拠であり、否定することのできない証拠であるのだ。この証拠を示すいくつかのいちじるしい実例を、この暗澹《あんたん》たる島のわたしの孤独な生活の今後の話を述べてゆくうちに、あげる機会もあるであろう。
わたしが絶えず身をおいているいろいろの危険、今またわが身に迫る心配、こうした不安のために、せっかくの発明をやめ、将来の生活の設備や便利のために、立てていた計画も全部中止してしまったといっても、読者はそれをあえて不可解とは思わないだろうと信じる。今はもう食物の心配よりもわが身の安全のほうが大きな問題であった。音が外へ聞こえるのが恐ろしく、釘一本打つのも、材木をひとつ切るのもはばかった。ましてや鉄砲を撃つことも同じ理由でやろうとしなかった。なかでも火を焚くのがたまらなく心配であった。日中だと煙が遠方から見えるので、こちらの居所がばれてしまう恐れがあったからだ。そのために、火のいる用事、たとえば壷で煮たきしたり、パイプに火をつけるようなことは、森の中の新しい隠れ家ですることにした。
そこへ行くようになってからしばらくして、地面に自然にできた洞穴を見つけた。この時のうれしさといったらなかった。これは深い穴で、たとえ蛮人がその入口まで来たとしても、中へはいるほど度胸のいい奴《やつ》はまずあるまいし、蛮人にかぎらずどんな人間だって、わたしのように安全な隠れ場だけを何よりも求めている者以外には、はいる勇気のある者はまずあるまい、と思われた。
この洞穴の入口は大きな岩の底部のところにあった。そこで偶然にも(偶然といったのは、このようなことは今ではみな神の摂理によると考える根拠をいくらでも見ていたが、もし見ていないと仮定しての話だが)、わたしは茂った木の枝を切り倒して木炭を作ろうとしていたのだ。話を進める前にまず木炭を作った理由を説明しておかなければならない。それはこういうのであった。
すでにいったとおり、住居のまわりで煙を立てるのは禁物《きんもつ》であった。といって、パンを焼いたり肉を煮たきしたりせずには生きてはいられなかった。そこでイギリスで見たことを思い出してそれをまねて、芝土をかぶせて木を燃やす工夫をして、いわゆるチャークという乾いた炭《すみ》を作った。それから火を消し、炭はしまっておいてあとで家へもち帰り、火のいるいろいろな仕事を、煙の心配のいらない炭をつかってやることにした。
しかし、これはわき道にそれた話である。さっきの話に戻ると、わたしが木を切り倒している時に、低い潅木《かんぼく》か下ばえの茂った枝のうしろに、穴みたいなところを見つけた。中を覗いてみたくなったので、やっとのことでその入口まで行ってみると、なかなか大きいことがわかった。つまり、高さはわたしが真っすぐ立てるくらいで、幅はだいたいわたしともう一人並べるくらいであった。だが、白状すると、中へはいるどころか、あわてて飛び出したのであった。入口から真っ暗な内部を覗《のぞ》きこむと、悪魔だか人間だかわからない生き物が大きな目を二つぎらぎら光らしていたからである。その目は、洞穴の入口からさしこむ鈍い光を受けて反射しながら、ふたつの星のようにまたたいていたのだ。
それでも、しばらく経つとやっと落ち着いて、われとわが身をなんという底抜けのばか者かと呼び、悪魔が恐ろしいなんて男に二十年も島の中にたった一人で暮らせると思うのか、この穴の中で何がこわいといって自分ほどこわいものはないではないか、と自分にいい聞かせた。そこで勇気を振いおこして、大きな炬火《たいまつ》をとってそれをふりかざしながらふたたび中へ突進した。だが、三歩と進まないうちに、さっきと同じくらい恐ろしさにすくんでしまった。苦しみもだえている人間の溜息《ためいき》のような、大きな溜息が聞こえ、続いて何かわけのわからないことをつぶやくような、とぎれとぎれの声が聞こえ、さらにまた深い溜息を耳にしたからである。
わたしは後退《あとずさ》りしたが、驚きのあまりぐっしょり冷汗《ひやあせ》をかいてしまった。もし帽子をかぶっていたら、髪が逆立って帽子を吹きとばしたかも知れなかった。それでもなお元気を振いおこし、全知全能の神はどこにも遍在《へんざい》しわたしを守りたもうのだと考えて、われとわが身を励ましながら、ふたたび奥のほうへ歩を進めた。頭の少し上に炬火《たいまつ》をかかげてその光で照らしてみると、巨大な、恐ろしいような年老いた雄山羊《おすやぎ》が地面の上に横たわっているのだった。人間でいえば、臨終《りんじゅう》で遺言をしているように、まったくの老衰《ろうすい》から死にかかってあえいでいるのであった。
外に連れ出せるものかどうかと思って、少しゆり動かしてみた。山羊も一度は起き上がろうとしたが、けっきょく起き上がれなかった。わたしもこのままにしておいたほうがよくはないかという気がした。多少でも命がある間ここにおいておけば、蛮人で勇気のある奴がはいってきた時、わたしの場合と同じく、たしかに肝《きも》をつぶすだろうと思われたからだ。
わたしは最初の驚きからようやく落ち着きをとり戻して、あたりを見回した。洞穴《ほらあな》は案外小さく、つまり端から端まで十二フィートくらいもあったろうか。しかし格好は円いとも四角ともなんともいえぬ妙なもので、人間の手の加わらないまったく自然のままであった。奥のほうにはさらに奥に通じる穴があったが、非常に低くて四つん這《ば》いにならなければはいっていけなかった。またどこまで行っているのか見当がつかなかった。あいにくろうそくをもっていなかったのでさし当たり奥に行くのはあきらめたが、次の日にろうそくと≪ほくち≫箱を用意して、もう一度来ることにした。ほくち箱というのはマスケット銃の統機《ロック》を利用し、火皿に燃焼物をのせて作ったものであった。
予定どおり、翌日は自家製の大ろうそくを六本持ってそこへやってきた。もう今では山羊の獣脂《じゅうし》で上等なろうそくが作れるようになっていた。さてその低い穴へ来て、前にもいったように、四つん這いになって十ヤードほど奥へはいった。
これは考えてみれば相当大胆な冒険であった。なにしろどこまで行っているのか、その先に何があるのかも全然わからなかったのだからだ。狭い個所を通り抜けると天井が急に高くなって、二十フィート近くもあることがわかった。地下室というか洞穴というか、ここの四方の壁と天井の光景は、ついぞこの島で見かけたこともないほどすばらしいものであった。壁は二本のろうそくの光を千万の光彩《こうさい》として反射し、目をくらますばかりに輝き、岩壁にちりばめられたものが、ダイアモンドか、あるいはほかの宝石か、それとも黄金か、いずれとも判明しなかったが、わたしの想像ではたぶん黄金ではなかったかと思う。
その場所は、真っ暗であったが、およそ他に類を見ないほど快適きわまる岩屋であった。床は乾いていて平坦《へいたん》で、一面に一種の砂利《じゃり》が敷かれているので、無気味な虫も有害な生き物も見当たらなかった。壁にも天井にも湿気はまったくなかった。ただ難点といえば入口であったが、ここが安全な避難所であり、望むところの隠れ家であってみれば、かえって好都合というものであったと思う。
そういうわけでわたしはこの発見に狂喜し、さっそくもっとも大切なものをここに移すことにした。とくに、火薬庫と、余分の武器、つまり、三挺あるうちの二挺の猟銃、八挺のマスケット銃のうちの三挺とを持ちこむことにきめた。そこで城にはマスケット銃は五挺しか残らなかったが、それは全部大砲のように外側の壁の砲架《ほうか》に据えつけられ、外に出かける時にはいつでも持ち出せるようになっていた。
弾薬を移すのをいい機会に、海から引き上げて濡れたままになっていた火薬樽をあけてみることにした。水は周囲から火薬の中に三、四インチくらいしみこんで、その部分が固まってかちかちになっていて、中心部は殻《から》の中の核のように保存されていた。それで、樽のまん中にごく上等の火薬が六十ポンド近くあったわけである。これはまったくうれしい掘り出し物であった。万が一の不慮の事態を心配して城には二、三ポンドを残したまま、あとの火薬は全部この岩屋へ運んだ。弾丸用にとっておいた鉛もまた全部運んだ。
わたしは、誰も攻めることのできない岩窟《がんくつ》に住んでいたといわれるむかしの巨人気取りであった。ここにいるかぎり、たとえ五百人の蛮人がわたしを捜しにこようが、絶対に捜し出せはしないし、また捜し出したところでここまで攻めてはこられないと、わたしは信じていた。
わたしが見つけたとき息も絶えだえであった老山羊は、わたしがこの洞穴を発見した翌日、入口のところで死んだ。穴から引き出すよりもその場に大きな穴を掘ってそれを埋め、上から土をかぶせるほうがずっと楽だとわかったので、悪臭がただよわぬように深く埋めた。
もうこの島に住みついて二十三年目になっていた。この土地にも生活の仕方にもすっかりなれてしまったので、蛮人がやってきてじゃまをしないというはっきりした見通しさえつけば、甘んじて余生をここで送って、ちょうど洞穴で死んだ老山羊のように、静かに身を横たえて最後の息をひきとってもよいと思った。それにちょっとした気晴らしや娯楽も思いついて、以前よりもずっと楽しく時を過ごすことができるようになった。たとえば第一に、前にもいったように、鸚鵡《おうむ》のポルにしゃべることを教えてやった。彼はたいへん親しげにしゃべり、はっきりと物をいうので、わたしはほんとうに楽しかった。
この鳥は二十六年もわたしといっしょに生活したが、その後どのくらい長生きしたかわたしは知らない。ブラジルでは一般に鸚鵡は百年は生きるといわれているが、もしかすると、ポルのやつは今日でも「可哀そうなロビン・クルーソー!」と呼び続けているかも知れない。
縁起《えんぎ》でもない話だが、もしイギリス人があの島に漂着してポルの声を聞いたならば、てっきり悪魔だと思うであろう。犬も十六年もの間わたしの楽しいかわいい仲間であったが、けっきょく、老衰で死んだ。猫といえば、これは前にもいったように、ものすごく繁殖して、わたしの持ち物はもちろん、わたし自身さえ食い殺しかねまじきありさまだったので、初めは止むを得ず幾匹か鉄砲で撃ち殺した。そのうちに、船から連れてきた二匹の老猫は死に、その後、絶えず追っぱらうか、餌を全然やらないようにしたので、猫どもはみな森へ逃げこんで野生になった。ただ二、三匹かわいがっていたものだけ残し、これはよく飼いならし、もし子猫が生まれたりすると水につけて殺してしまった。以上が、いわばわたしの家族であった。
このほか家庭用の子山羊をいつも手もとに飼っておき、直接わたしの手から餌を食べるようにならした。ポルのほかにもう二羽の鸚鵡《おうむ》がいて、これもなかなかよくしゃべり、みんな「ロビン・クルーソー」と呼んだが、ポルほどうまくはなかった。わたしのほうもポルの時ほど熱心に教えてはいなかった。また名前のわからない海鳥を何羽か飼いならしていた。海岸で捕えたのを翼を切っておいたのである。城の前に植えておいた小さな杭《くい》が今ではりっぱに成長して茂った林になっていたので、海鳥はこの低い木立の間に住みつき、雛《ひな》をかえした。これもわたしにはたいへん慰めとなった。そういうわけで、前にもいったとおり、もし蛮人の恐れさえなかったならば、この生活でじゅうぶん満足できるようになったはずであった。
ところが事態はそうはいかなかった。わたしのこの物語をたまたま読まれる人々がこのことから次のような教訓を得られるならば、これもあながち悪いことではないであろう。すなわち、われわれの人生行路において、それ自体として必死に避けようとする悪、これに陥《おちい》ったら最も恐ろしい目に会うことになる悪があるが、じつはそれがまさにわれわれの救いの糸口となり、現在の苦難から抜け出る手段となることが、往々にしてあるということである。わたしは自分の数奇な生涯においてその実例をいくらでもあげることができる。けれども、この島における孤独な生涯の最後の数年間に起きた事情ほどとくに顕著《けんちょ》な例はほかになかった。
前にもいったとおり、ちょうど二十三年目の十二月であった。折から冬至《とうじ》であって、といっても冬というわけではないが、刈入れの時期に当たっていて、畑に出ていることが多かった。
まだ夜も明けきらぬある朝のこと、かなり早くから外に出ていたわたしは、島の先端に近く、わたしのところから約二マイル離れたあたりの海岸に焚火《たきび》の明りが見えたのでびっくりしてしまった。その端は前にもいったように、たしかに蛮人の来たことのあるところであった。ところがこんどは端の向こう側でなく、こちら側であったからわたしの困却は大きかった。
この光景を見て、わたしはまったく生きた心地もなく驚き、林の中に逃げこんで立ちどまり、見つけられはしまいかと、出るにも出られなかった。もし、この蛮人どもが島をうろついている間に、立っている穀物か刈り倒した穀物を見つけるか、わたしが作ったものや手がけたものを見つけるかしたら、さっそくこの島に人間がいると判断して、あくまでわたしを捜し出さずにはおくまい、と思うと、その不安でじっとしてはいられなかった。窮地に陥ったわたしはまっしぐらに城に帰り、中にはいって梯子を引き上げ、外から見たら何もかも自然のままに見えるようにした。
城の内側にはいると大わらわで防衛の態勢をとる準備をした。わたしのいわゆる大砲、つまり新しい城壁に据えつけたマスケット銃に全部弾をこめ、短銃にもまたすっかり弾をこめて、最後まで断固として身を守る決心をした。もちろん、真剣にわが身を神の御加護に委ねることも、野蛮人の手から救われることを必死に神に祈ることも、忘れなかった。この態勢のまま二時間くらい経った。しかし、偵察に出す者もないので、外の情報がさっぱりわからず、ひどくいらいらしはじめた。
それでも、もうしばらくじっとしていて、この際どうしたらよいかと思案していたが、とうとうこれ以上外の様子を知らないでがまんしていられなくなって、前にも述べたあの岩山の中腹の平たくなっている所へ梯子《はしご》をかけて登り、次にまた梯子を引き上げて、さらに頂上へそれをかけて登った。そこで、そのために持ってきた望遠鏡を取り出し、地面に腹這《はらば》いになって問題の場所を捜した。するとたちまち目に映ったのは、小さな火を焚いてそのまわりに九人ほどの裸の蛮人が坐っている光景であった。彼らは火にあたっているのではなかった。何しろひどく暑い気候なのだから、その必要はなかった。とすると、生きているか死んでいるかはわからないが、彼らが連れてきた人間で、残忍な人肉の饗宴《きょうえん》を開こうと支度をしているものと想像ができた。
彼らは二隻の丸木舟に乗ってきて、それを海岸に引き上げておいた。折から干潮であったので、満潮になるのを待ってふたたび沖へ乗り出そうとしているらしかった。この光景を目のあたりに見てわたしがどんなに狼狽《ろうばい》したか、ことに島のこちら側、しかもすぐ目と鼻の間というのだから、その狼狽ぶりは、ちょっと想像しかねるほどであった。しかし、彼らが来るのはいつも干潮の時であることを見てからは、わたしの心もかなり平静になってきた。満潮になる前に、上陸していない場合は、満潮の間は外を出歩いても危険がないことがはっきりしたからである。この点を確かめたので、わたしはだいぶ落ち着いて畑に出て収穫の仕事に従事することができた。
わたしの予想は的中した。潮が西のほうへ流れ出すやいなや、彼らは舟に乗って漕いで(水をかいてといってもよいが)立ち去るのが見えた。立ち去る前に一時間あまり踊り回った様子であった。その踊り狂っている身振り手振りは望遠鏡ではっきり見られた。望遠鏡で詳細に見ても、彼らが素っ裸で身に一糸も纏《まと》っていないことはわかったが、男であるか女であるか、その区別などは見きわめられなかった。
彼らが舟に乗っていってしまうと、わたしは二挺の鉄砲を両肩にかつぎ、二挺の短銃を腰にさし、抜き身の太刀を腰にぶら下げ、大急ぎで、彼らがこの島に初めて現われたのを発見した例の丘のほうへ行った。そこに着くやいなや、といっても、何しろ今いったように武器を身につけていて、速くは歩けなかったので二時間余りもかかったわけだが、そこに蛮人の丸木舟がさらに三隻も来ていたことを知った。かなたを眺めると、彼らが一団となって本土に向かって舟を進めているのが見えた。
浜辺に降りていって、彼らが今しがたまで狂奔《きょうほん》していたものすごい仕業《しわざ》の恐ろしい痕跡を見た時、光景はまったくぞっとするものであった。陽気にさんざめきながら彼らが貪《むさぼ》り食った人間の体の血と骨と肉片があたりに散らばっていたのだ。これを見てわたしの心は激怒にみたされ、こんど彼らが来たならば、誰であろうと、何人であろうとかまわず、みんな殺してやろうと考え始めた。
蛮人どもがこうして島に来るのもそう頻繁《ひんぱん》ではないことが次第に明瞭になってきた。その証拠には、彼らが次にこの島に来たのは十五か月以上も経《た》ってからであった。つまり、その間、彼らの姿はもちろん、彼らの足跡も、また彼らが来たというしるしも何ひとつ見当たらなかったのである。とくに雨季には彼らは外へ出かけることはなく、少なくともこんな遠くまで出かけることがないことは確実である。そうはいっても、いつ不意をつかれるかも知れないという不安に絶えずつきまとわれていて、この間じゅう安らかに暮らしてはいられなかった。こういったことからも、災いを待つ気持ちは災いそのものよりも苦しいことであると思った。ことに、そういう不安な気持ちを振りはらうすべがない時にはなおさらであるのだ。
この間は明けても暮れても殺意に憑《つ》かれていた。もっとましなことに使えばよかりそうなものを、ほとんどすべての時間をかけて、こんど蛮人どもが来たらどうして彼らを出し抜いて襲撃してやるか、とくにこの前のように彼らが二手に分かれた場合にはどうするか、その策略のことばかり考えていた。しかも、かりに十人か十二人の一隊をみな殺しにしたところで、その翌日に、いや翌週、翌月にはさらにもう一隊を殺さなければならず、こうして次々と際限なく殺してゆけば、やがてはこれらの人食い人種たちにも劣らない、いや、それどころかもっと残忍な殺戮《さつりく》者になってしまう、ということに全然思い及ばなかったのである。
おそかれ早かれ、わたしは彼ら残忍な連中の手に陥るに違いないと思って、困却と不安に明け暮れる日々を送っていた。たまに外へ出る時も、絶えず周囲をうかがって細心の注意と用心を怠らなかった。今にして、山羊を家畜として飼っておいたことがどんなに仕合わせであったかをさとった。今はどんなことがあっても鉄砲は撃つわけにはゆかない。とくに蛮人どもを驚かす恐れがあるから、彼らがやって来るほうの側の近くでは絶対に禁物であった。たとえ一時は追い払うことができても、数日後には二、三百の丸木舟に乗って押し寄せてくることは必定《ひつじょう》で、その後どうなるかは火を見るより明らかであった。
とにかく、ふたたびこの蛮人どもを目撃したのはその後一年と三か月経ってからであった。その時のことはいずれあとで話すことになろう。それまでに一度か二度は島に来たかも知れないが、島には留《とど》まっていなかったか、少なくとも彼らの動静に気がつかなかったのである。しかし、わたしの計算が余り違っていないとすれば、二十四年目の五月のこと、ついに彼らと世にも不思議な邂逅《かいこう》をすることになった。そのことはいずれ適当な折に話すことにする。
この十五、六か月の間における心の動揺は、じつにはなはだしかった。夜は安眠ができず、恐ろしい夢ばかり見て、はっとして目をさますことがしばしばであった。昼間は激しい苦悩に心がうちひしがれ、夜は夜で蛮人を殺す夢にうなされ、殺戮《さつりく》の正当な口実を捜すのに苦しむ夢をしょっちゅう見た。しかしこういうことはしばらくおいて、話を先にすすめよう。
五月の半ばのことであった。依然として柱に刻みつけていたのだが、あの木の暦《こよみ》によって計算すれば、たしか十六日だったと思う。その五月十六日は終日、盛んな稲妻《いなずま》と雷鳴をともなったものすごい暴風が吹き荒れ、夜にはいっても荒天は続いていた。どうしたきっかけであったか知らないが、とにかくわたしは聖書を読んでいて、自分の現在の境遇のことを深刻に考えていたのであった。すると突然、海上で発砲したらしい砲声にびっくりしたのだった。
この驚きはたしかに、わたしが今までに経験してきたものとはまったく性質の違うものだった。とっさに頭に浮かんだ考えは、これまでのと全然別のものであった。とるものもとりあえずとび出して、またたく間に岩の中腹に梯子《はしご》をかけて登り、さらに梯子を引き上げて上のほうにかけ、丘の頂上に登った。
と、その瞬間、閃光《せんこう》がひらめいたので、第二の砲声を予期して耳をすました。果たして、半分の後、砲声が聞こえてきた。その砲声から判断すると、わたしが丸木舟に乗って潮流に流されたあたりの海上から発せられたものらしかった。
わたしはただちに、これはどこかの船が遭難して、その僚船か、あるいは仲間の船がどこかにいて、遭難信号のために大砲を撃ち、救助を求めているに相違ない、と思った。わたしはこの瞬間にも心の平静を失っていなかったので、こちらが遭難船の人たちを救うことはできないけれども、彼らがわたしを救ってくれるかも知れない、と考えた。そこで手近にある乾いた薪《たきぎ》をみんなかき集め、丘の頂上に大きな薪の山を作ってそれに火をつけた。薪はよく乾いていたので盛んに燃え上がった。風は激しく吹いていたが、火は勢いよく燃えるだけ燃えた。もしさっきのが船であったとすれば、この火はきっと見たはずであると思ったが、果たして見たことは疑いがなかった。焔《ほのお》が高く燃え上がるやいなや砲声がとどろき、さらにいく発かの砲声が聞こえ、みんな同じ方角から来たからである。わたしは夜が明けるまで夜どおし薪をくべて火を燃やし続けた。
すっかり明るくなり、天気が晴れ上がってみると、島のちょうど真東の沖合はるかに何かが見えたが、それが帆であるか船体であるか判別はできなかった。望遠鏡で見てもだめであった。それほど遠方であり、幾分|靄《もや》もかかっていたし、少なくとも沖合のほうは靄にかすんでいたのであった。
その日は終日、何度もそちらを眺めてみたが、やがてそれが動かないことをはっきり認めた。これは停泊中の船に違いないと思ったが、もっとはっきり知りたいと考えて、銃を片手にして島の南側の、前に自分が潮に流されていった例の岩のところへ走っていった。そこに着くと、天気もすっかり晴れ上がっていたのでよく見えたのだが、残念なことにそれは難破船で、わたしが舟で沖に出た際に見たあの暗礁に昨夜のうちに乗り上げたものとわかった。その岩礁は急激な潮流をはばんでそこに一種の逆流か渦巻を作っていたため、わたしがそれまでにかつて経験したこともないような絶望的な窮地から命拾いをしたところであった。
このようにある人には救いとなるものが、他の人には破滅となるものだ。思うに、どういう人たちだか知らないが、この連中は、この辺の水路に不案内ではあり、岩礁はすっかり水中にかくれていたので、東および東北東の強風にあおられて夜の間にこの岩礁に来り上げたものであろう。彼らはどうしても島を見なかったと想像せざるを得ないが、もし見ていたとすれば、備えつけの短艇を使って上陸して命を助かろうと努力したに違いなかった。しかし、彼らが救助を求めて大砲を撃ったこと、とくに、わたしの篝火《かがりび》を見たからだと想像できるが、ただちに発砲したことは、わたしにいろいろの解釈を考えさせた。第一にわたしが想像したのは、彼らはわたしの篝火を見るなり全員がボートに乗り移り、海岸めがけて漕いでいった、けれども波が高くて流されてしまった、ということである。また次にはこんな想像もした。
多くの場合によくあるように、もうすでにその前にボートは失っていたのかも知れない。つまり、とくに船が怒涛《どとう》にたたきつけられる場合で、乗組員はボートをたたき壊したり、時には自分たちの手で海に捨てたりしなければならないことがしばしばあるのだ。それからまた、仲間の船が一|艘《そう》かそれ以上近くにいて、遭難信号を見るとすぐ近づき、乗組員を乗せて連れ去ったかも知れない、とこんな想像もした。それともまた、乗組員は全部ボートに乗り移って海に出、わたしが以前に巻きこまれたと同じ潮流に押し流され、大洋までもっていかれているかも知れない。そうなるとそこにあるものは悲惨な運命と死のみであって、今ごろは彼らもまた餓死《がし》することと、相互に相食《あいは》む窮境に立ち至っていることを考えているかも知れない、とわたしの空想ははしるのであった。
こういったことはすべて、要するに推測にすぎなかった。現在のような境遇にある者として、わたしはただこの可哀そうな人々の不幸を傍観し、気の毒と思うよりほかに何もできなかった。
それにしても、これはわたしにはよい結果をもたらしてくれた。つまり、この寂しい生活を送っているわたしに、幸福と慰めを豊かに与えたもうた神に対する感謝の念をいよいよ深める機縁となったことである。世界のこの一隅《いちぐう》で難破した二艘の乗組員のうち、わたしだけがただ一人死を免《まぬが》れたということに、まことに感謝のほかはなかったのだ。神がどんなひどいどん底の生活に、あるいはどんな悲惨な状態に人間をつき落としても、そこにはかならずといってもよいくらい、感謝すべき何ものかがあり、自分より以上にひどい境遇に苦しんでいる人間もいるということを、わたしはここでふたたび学んだのである。
救われてはいまいかと想像する余地すらないこれらの乗組員たちの場合こそ、まさにわたしのいう最もひどい状態なのである。もしかしたら彼らは仲間の船に救われているかも知れないと考えれば別であるが、そうでないかぎり、全員溺死を免れたことを希望し願うなどは、まったくもって途方もないことであった。他の船に救われたなどということも、ほんとうに万が一のことで、そういう気配は微塵《みじん》も見られなかったのである。
この難破船のありさまを見てどんなに異様な渇望《かつぼう》の念に襲われたかは、どのような言葉の力をもってしてもわたしには説明することはできない。わたしは時としてこう口走るのであった。
「一人か二人でもいい、いや、たった一人でもいい、難破船から免《まぬが》れ、わたしのところへ来てくれたら、どんなにありがたいことだったろう。たった一人でも、わたしにものをいってくれ、話をかわしてくれる仲間が、同胞がいてくれたらなあ」と。
孤独な生活を送っていた長い期間中、これほど切実に仲間がほしいと思ったことも、仲間のないことをこれほど嘆き悲しんだこともなかった。
人間の感情の奥に、ある秘めたる原動の力が潜《ひそ》んでいて、何かを見た時、あるいはたとえ見なくても想像の力でまざまざと眼前にそれが描きだされた時に、これが動き出すと、猛烈な勢いで魂を拉《らつ》し、是が非でもそのものを激しく抱きしめたくなるものである。したがって、それが手にはいらなければその苦悩はまったく耐えがたいものとなる。一人でもいいから助かっていたら、という切なる願いはまさにこれであったのだ。「せめて一人だけでも!」
この「せめて一人だけでも!」という言葉をわたしは何度くり返したことか。渇望の度はますますつのっていき、果てはこのような言葉をつぶやきながら、わたしの手は固く握りしめられ、指は手の平にくいこむばかり、もし何か柔らかいものを持っていたら、思わず知らず握り潰《つぶ》したと思われるほどであった。歯も固く食いしばって、しばらくは離しようもなかった。
このような魂の願望というようなこと、またその理由や経過を自然論者〔自然的原因ですべてが説明がつくと考える人々〕はどう説明するかわたしは知らない。わたしが彼らに対していえることは、どこから来たか原因は知らないが、実際に遭遇《そうぐう》して自分でも驚くようなこの事実を述べているということだけである。それはたしかに、同じキリスト教徒の一人と語り合うことができたらどんなに慰めになるかと感じて、わたしの心に生じてきた熱烈な願望と切々たる思いのせいであったのだ。
しかしけっきょく、わたしの願いは達せられなかったのだ。それは彼らの運命か、わたしの運命か、それとも両方の運命の、禁ずるところであったのだ。この島の生活の最後の年に至るまで、この船の乗組員が助かったかどうか知る由《よし》もなかったからである。
数日後に、難破船に近い島の一端に、岸に打ち上げられた少年の溺死体《できしたい》を見て、悲しい思いをしただけであった。少年は水夫用のチョッキとリネンの半ズボンと紺のリネンのシャツを着けているだけで、どこの国の人間か推測する手がかりになるものは何もなかった。ポケットには二枚のドル銀貨と、一本のたばこのパイプしかはいっていなかった。そのパイプはわたしにとっては銀貨よりも十倍も値打ちがあった。
海はもう穏《おだ》やかになっていた。船中に何か役に立つものがあるに違いないと思い、ボートに乗って難破船に行ってみたい気持ちが強くなった。しかしわたしがぜひそうしたいと思ったのは、物を見つけることよりも、船中にまだ生存者がもしかしたらいるかも知れないという推測からであった。もちろんその人の生命を助けたいが、もし助けたら、そのためにどんなに自分が慰められるか知れないという気持ちがあった。
こういう考えがわたしの心から離れなくなって、夜も昼もじっと落ち着いていられなくなり、ボートで難破船に是が非でも行きたくなった。それから先のことは神の摂理《せつり》にまかせるとしても、この行きたいという衝動はあまりにも強くて、とても抵抗できるものではなかった。この衝動はどこか目に見えないところからきているに相違なく、もしこれを実行しなければ自分の責めを果たさないことになるように思われた。
こういう衝動にかられるままに、わたしは大急ぎで城に戻り、航海に必要なものをいっさい整えた。多量のパン、飲料水の大きな壷《つぼ》、針路をきめるための羅針儀、ラム酒ひと瓶(ラム酒はまだたくさん残っていたので)、それに篭《かご》いっぱいの乾葡萄などを用意した。このように必要なものを全部持ってボートのところへ行き、舟の中の水をかい出して海に浮かべ、持っていった品物を積みこんだ上、もっといろいろなものをとりにふたたび家に帰った。二番目の荷物は、米のいっぱいはいった大袋、日よけのために頭の上にさす傘、飲料水のはいったもう一個の壷、追加分の小型パン、あるいは大麦ケーキというもの約二ダース、山羊の乳ひと瓶、チーズなどであったが、これら全部の品を汗水流して苦労してボートまで運んだ。そしてこの航海に神の導きを祈って舟を出した。
海岸沿いに丸木舟を漕いで、いや櫂《かい》で水をかきながら進み、島の目指す側の、つまり北東側の尖端《せんたん》にようやく着くことができた。さてこれから大洋へ乗り出すことになるのだが、思いきって乗り出すか、それともやめるか。遠くはなれて島のこちら側とあちら側を絶えず流れている急潮流を眺めた。この前、危い目に会った思い出があるので恐ろしくなり、意気|沮喪《そそう》しかけてきた。このふたつの潮流のどちらかに巻きこまれでもしたら、沖合はるかに押し流され、おそらくどうにも手に負えなくなって島影も見えないところに運ばれることは確かだと思った。そうなればなにしろ小さな舟のことであり、ちょっとした強風でも吹けば、わたしの生命はそれまでであることは必定《ひつじょう》であった。
こういうことを考えると心が重くなり、この企てはやめようかという気になった。海岸にあった小さな入江に舟を引き入れて舟から上がり、小高いところへ行って腰を降ろし、航海を続けたくもあり、恐ろしくもあり、さてどうしたものかと不安になって考えこんでしまった。
こうして物思いに沈んでいる時、ふと気がつくと潮が変わって満潮になりかけていた。そうなると航行することはもう何時間も実行不可能であった。それではひとつこの付近のいちばん高いところに登って、満潮の時には潮流の向きはどうなるか調べてみようかと思いついた。一方の潮流で押し流されても、こんどは別の潮流にのって同じくらいの速さで島へ押し戻されないでもあるまいか、そんな判断もつくかも知れないと思った。そう思いついてすぐに目を上げると、両側の海を見わたすのにじゅうぶんな小さな丘が目にはいった。そこに登ってみると、潮流のぐあい、潮の方面などがはっきりと見られ、帰航の時はどちらのほうに舵をとったらいいかはっきりわかった。また、干潮は島の南端のすぐそばまでひくが、満潮は北側の海岸のすぐそばまでさしてくることもわかった。そうだとすれば、帰航の時には島の北側の近くを通りさえすればそれで結構うまくいきそうであった。
この観察で大いに元気が出て、翌朝には最初の潮にのって舟を出そうと決心した。
その晩は丸木舟の中で、前にもいった例の大きな見張り番用の外套をかぶって休み、朝になると出発した。初め真北に向かって少しばかり沖に出、やがて東に向かって流れている潮流にうまくのりあてた。それにのるとかなりの速さで流されていった。けれども、前に南側の潮流に流された時のように、舟をあやつる自由がきかなくなるほどの速さではなかった。それでも櫂《かい》でけんめいに舵をとってかなりの速さで難破船のほうへ一直線に進んでいき、二時間足らずで目的のところに到着することができた。
難破船は見るも無残なありさまであった。構造からみるとスペイン船らしく、ふたつの岩の間に挟《はさ》まれて押し潰されていた。船尾も船尾側もすっかり波浪《はろう》に打ち砕かれてばらばらになっていた。岩礁《がんしょう》にはまりこんだ船首|楼《ろう》は猛烈な勢いで突っこんだらしく、大|檣《しょう》も前檣も海中にほうり出されていた。つまりぽきんと折れて飛んだのであった。それでも第一|斜檣《しゃしょう》は満足な状態で船首も船首部もしっかりしているようであった。
船に近づくと、犬が一匹現われて、わたしを見るとほえはじめた。わたしが呼ぶとすぐに海中にとび込んでこちらに泳いできた。舟に拾い上げてみると、飢えと渇《かわ》きとで、ほとんど瀕死の状態であった。パンの一片をやると、雪の中に二週間も飲まず食わずにいた貪欲な狼《おおかみ》のようにがつがつと食べた。それから、この哀れな犬に水をやったが、勝手に飲ませていたら腹がはち切れるまで飲んだろうと思われるような飲みぶりであった。
このあとで船にはいってみた。まず目についたのは、料理室か船首楼にあたるところで互いに抱き合っている二人の男の溺死体であった。想像するところ、この船が坐礁《ざしょう》した時は嵐のことであり、波が絶えず高く船におおいかぶさってくるので、この二人の男はどうすることもできず、海中に沈んだのとまったく同じように、絶えず奔流《ほんりゅう》してくる海水で窒息してしまったものと思われた。
犬のほかには生きているものは何もいなかった。わたしの見たかぎり、品物という品物はことごとく水浸しになっていた。葡萄酒だかブランデーだか、酒樽が数本船倉の下のほうにあった。潮がひいている時にはよく見えたが、なにしろ大きすぎて手のつけようがなかった。乗組員のものらしく思われる箱もいくつかあった。わたしは中味も調べずにその中の二個を舟に積みこんだ。
もしこの難破船の船尾のほうが岩礁に乗り上げて前部が壊れていたのだったら、ここまでわざわざやって来た甲斐《かい》も大いにあったに違いないと思った。ふたつの箱の中で見つけ出したものから判断すると、この船は莫大《ばくだい》な富を積んでいたと思われるふしがあったからである。そのとった針路から察すると、この船はアメリカの南部、ブラジルよりも先にあるブエノス・アイレスか、リオ・デ・ラ・プラタからメキレコ湾のハバナへ、さらにスペインへ向かっていたものに違いなかった。船には莫大な財宝が積みこまれていたことは疑いをいれないが、それも今となっては誰の役にも立たなかった。ほかの乗組員たちがどうなったかは、当時わたしの知るところではなかった。
これらの箱のほかに約二十ガロンの酒のはいった小さな樽を見つけ、骨を折って自分の舟に載せた。船室には数挺のマスケット銃と、ほぼ四ポンドの火薬のはいった大きな角製の火薬筒があったが、銃のほうは必要がなかったのでそのままにし、火薬筒のほうは持ち帰った。ぜひ欲しいと思っていた十能《じゅうのう》と火箸《ひばし》、それから真鍮《しんちゅう》のやかん二個、チョコレートを作る銅鍋、焼き網などを持ってゆくことにした。潮がちょうど島のほうへ向かって流れ始めたので、これらの船荷と犬をともなって船を離れた。日が暮れて一時間くらい経ったころ島に帰りついたが、極度に疲労してしまった。
その晩は舟の中で寝た。翌朝、難破船から持ってきた物を、城に運ばないで、新しく見つけた洞穴《ほらあな》にしまっておくことにきめた。腹ごしらえをした後、荷物を全部陸に揚げてその中味を調べた。酒樽のものは一種のラム酒であったが、ブラジルでできるようなものではなくて、要するにまずい酒であった。
箱のほうをあけてみると大いに役立つものがいろいろはいっていた。たとえば、一方の箱には酒瓶の詰まったきれいなケースがはいっていて、ものすごくりっぱな瓶にすこぶる上等な強壮飲料が詰めてあり、どの瓶も分量は三パイントくらいあり、銀の口がねがついていた。非常にうまい砂糖漬《さとうづけ》のはいった瓶も二つあり、これは口がしっかりしていたので塩水でいたむことはなかった。同じ物のはいっていた瓶がもう二つあったが、これは水がはいってだめになっていた。上等のシャツが数枚あり、これは非常にありがたかった。それから、一ダース半ばかりのリネンのハンカチと色ものの襟巻《えりまき》があった。ハンカチは暑い日にこれで顔をふくと、まことに気分がすがすがしくなるので、これもたいへんありがたかった。
このほか、箱の中の引出しをあけてみるとスペイン銀貨のはいっている大きな袋が三つあり、全部で約千百枚の銀貨があった。袋のひとつには紙に包んだダプロン金貨が六枚、楔杉《くさびがた》の小さな金の棒が数個あり、目方にしたら全部で一ポンドくらいあったろうと思う。
もうひとつのほうの箱には衣類がはいっていたが、ほとんど値打ちのないものであった。しかし、いろいろの点から考えて、この箱は砲手の助手のものに違いなかった。といっても、火薬らしいものは、必要に応じて鳥撃ちの銃にこめるものらしい小粒のつやつやした火薬が三つの小瓶《こびん》にはいっていただけであった。概していって、この航海ではあまり役に立ちそうなものはほとんど手にはいらなかった。
お金はどうかといえば、そんなものの必要はまったくなかった。いってみれば足の下の泥みたいなもので、イギリス製の靴と靴下の三、四足と交換に喜んで全部進呈してもよかった。靴と靴下は大へん欲しいものだったが、もう長い間はいたことがなかった。いかにも、難破船で見つけた二人の溺死体の足からとってきた二足の靴はあったし、箱のひとつの中にさらにもう二足も見つけて、結構ありがたくはあったけれども、残念ながら、はき心地といい、もちといい、とうていわがイギリス製の靴のようにはいかなかった。それらの靴は靴というよりパンプスというべきものであった。この船員の箱の中には、スペイン銀貨が五十枚ばかりはいっていたが、金は全然なかった。この箱の持主はもうひとつの箱の持主より貧しい船員らしかった。もうひとつのほうは、高級船員だったようである。
とにかくわたしは、このお金を引きずるようにして洞穴まで持ってゆき、以前わたし自身の船から運んできたお金と同じようにしまいこんだ。しかし、前にもいったとおり、この難波船のほかの部分に手がつけられなかったことはかえすがえすも残念でならなかった。もしそれができたのだったら、わたしは丸木舟いっぱいにお金を積んで何度も運ぶことができ、それをしまっておけば、万一わたしが救われてイギリスへ帰っても、ふたたびとりに来るまで、安全にそのままになっていたであろうからだ。
荷物は全部陸にあげ、安全な場所にしまったので、ボートにとって返し、岸伝いにもとの港まで漕いで帰り、そこに舟をしまった。それから大急ぎでわたしのなつかしい住家に帰ったが、万事なんの異状もなかった。こうしてわたしは体を休め、従来どおりの生活にもどり、家事万端をするようになった。
しばらくの間はのんびりと日々を送った。ただ以前よりいっそう用心深くなり、警戒の目を前よりも光らせ、外を出歩くのも少なくはなった。時に多少とも自由な気持ちで出歩くことがあったとすれば、それはいつも島の東側に行く時くらいなものであった。そこには蛮人が来る気づかいはまずなかった、そして、反対側に行く時のように、用心する必要もなく、あのように武器弾薬の重荷を携帯《けいたい》しなくてもよかったのである。
このような状態の生活がさらに二年続いた。しかし、わたしの不運な頭は、この肉体を不幸な目に会わせるために生まれてきたのだということを一刻も忘れさせてくれないで、この二年というもの、できるならなんとかしてこの島からぬけ出したいと、もろもろの計画や工夫でいっぱいになっていたのだった。いまさら危険をおかして難破船に行ったところで、それだけの値打ちのあるものは何も残っていないことは理屈ではわかっていても、もう一度行ってみたい気持ちになることもあった。時にはこちらのほうへ、またある時はあちらのほうへと、海上へ漫然《まんぜん》と乗り出したくなることもあった。サリーから逃げ出した時に乗っていたあの舟があったとしたら、行き先がどこであろうと、とにかく海上へ乗り出したであろうと、わたしはかたく信じている。
わたしの今までの境涯は、人間誰しもかかり易《やす》い、あの業病に見舞われた人々へのみせしめであった。思うに、人間の不幸の半分はこの業病に発するのである。その業病とは、人間が神と自然が定めた境遇に満足していられないということなのである。自分の生まれついた境遇や、それにそむいたことがわたしの原罪ともいえるあの父のりっぱな忠告にまでさかのぼっていうつもりはないが、その後に犯した同種の数々の誤りが、現在の不幸な事態に立ちいたる契機となったのである。
たとえば、神の摂理のおかげでわたしはブラジルで農業経営者として幸福な生活を恵まれたが、欲望の節度を知り、徐々に身を立てることに満足していたとするならば、今ごろは、つまり島にいたくらいの年月の間には、ブラジルでも屈指《くっし》の大農業経営者になっていたかも知れなかった。いや、それどころか、ブラジルに住んでいた短期間中にわたしが行なった各種の改良や、あのまま滞在していたとしたら、おそらく、なしとげたと思われる事業の拡張によって今ごろは十万モイドールの資産家となっていただろうと信ずる。
いったいなんの必要があって、増進拡大の一途をたどっていた安定した財産を捨て、内容の充実した農園を捨てて、黒人を買いにいくギニア行きの貨物|上乗人《うわのりにん》にまでならなければならなかったのか。辛抱強く時間をかけさえすれば家にいても財はふえていたろうし、黒人を買ってくることを商売にしている者から、家にいながらにして黒人を買えたはずではなかったか。値段は多少高くつくにしても、それくらいの差額はこれほど大きな危険をおかしてまで節約するに値しなかったはずである。
しかし、こういうことは若い者の陥《おちい》るごくありふれた運命であり、同様にその愚をさとるのは、年を重ね、苦い経験をなめたあとであることも普通のことである。わたしの場合もまさにそのとおりであった。それにもかかわらず、この誤りはわたしの心に深く根をおろしてしまっていたから、依然として自分の現状に満足することができず、しきりにこの島から脱出する手段や見込みについて思案に耽《ふけ》っていた。
読者にこの物語の残りの部分をいっそう興味ぶかく読んでもらえるために、わたしがどんないきさつからこんなばかげた脱出計画を思いついたか、また、どんな方法で、どんな根拠で行動したかを多少説明することも、あながち不適当ではあるまい。
この前に難破船に行ってから後、わたしの快速帆船はいつものように水の底にしっかりと隠してしまい、以前の生活状態に立ち戻って、ひっそりと城にひっこんで暮らしているということになっている。なるほど以前よりも財産はふえていた。けれども豊かになったということはなかった。というのは、スペイン人がやって来る前のペルーの土人と同じく、財産の使いようがなかったからである。
わたしがこの孤島に第一歩を踏みいれてから二十四年目の三月の雨季の、ある夜のことであった。
わたしは床に、つまり吊床に目をさまして横になっていた。健康の調子はすこぶるよく、肉体の苦痛も異状も不安もなく、また心の不安も特別になかった。それにもかかわらず、目をつぶって眠ろうとしてもどうしても眠れなかった。ひと晩じゅうまんじりともしなかったが、それは次のような次第であった。
この晩夜どおし、わたしの脳の中、記憶の中の大道をかけめぐった無数の思い出をここに書きしるすのは、その必要もないばかりか、不可能でもある。この島に来るまでのこと、来てからのことなど、今までの全生涯を一篇の縮図として、いわば短縮した形で思い返していた。
わたしが初めてこの島に上陸して以来の情況をいろいろ考えているうちに、砂の上に人間の足跡を見た後の不安と恐怖と心配に満ちた生活とくらべると、初めてここに住居をきめてからの数年の間の情勢がいかに好都合であったかが、しみじみと思い出された。初めのころにしても蛮人がしばしばこの島にやって来なかったわけでもなかろうし、時として何百人も上陸したかも知れなかった。けれどもわたしはそれを知らなかった、したがって心配しようにもしようがなかった。危険はその時でも同じであったが、わたしは安心しきっていた。危険を知らない以上、危険にさらされていないも同然で、いたってのんきであった。この事実からわたしはいろいろの非常に有益な反省をひき出すことができた。なかでも次のような、とくに有益なものがあった。
神が人間を統治されるにあたって、人間がものを見、ものを知る能力に限界を定めたもうたということは、じつに神の恵みの深さを示しているものだということであった。人間は幾千幾万の危険の中を歩いていても、事態の成り行きに目かくしされていて、自分をとりまく危険をまったく知らないでいるから、きわめて平静な気持ちでいることができる。もし、その危険が目の前に見えたとすれば、それこそ心が乱れ、意気は沮喪《そそう》してしまうであろう。
こういう感慨にしばらく耽《ふけ》っていたあとで、そもそも、この島に来てからどれだけ長い歳月の間ほんとうの危険に直面してきたか、真剣に考えてみた。いかにも、わたしは安心しきって平静そのものの姿で歩き回っていた。そんな時でも、たまたまそこに丘の端があり、大きな木があり、あるいは折よく夜のとばりが降りていたということだけで、悲惨な破滅を、人を食う蛮族の手中に陥る事を、免れていたわけであった。わたしが山羊や亀を捕えるとまったく同じ気持ちで、蛮人はわしを捕えたであろうし、わたしが鳩や≪たいしゃくしぎ≫を殺して食うのを少しも犯罪と思わないと同様に、彼らもわたしを殺して食ってもなんとも思っていなかったであろう。これに対してわたしが真心《まごころ》からわが偉大なる守護者に感謝の意を表していなかったと、もしいうならば、われとわが名誉を不当に傷つけることになるであろう。自分でも知らないうちにたびたび助けられていたこと、すべて神の奇《く》しき守護によることを謙虚に認め、この加護がなかったならばわたしは当然彼らの残虐な手中に陥っていたに相違ないと思ったのである。
こういうことを一応考えつくしたあとで、わたしはこの凶悪な連中、つまり蛮人どもはいったいどういうものかしばらく考えこんだ。万物を統《す》べたもう全知の神が、みずから創った人類の一部がこんな非道に陥《おちい》り、いや、同胞相食むという畜生道《ちくしょうどう》よりも劣るところまで堕《お》ちるのを、捨ててかえりみないのはどうしたわけか。どうしてこんなことになったのであるか。
しかし、この問題はけっきょく、その時は、むだな空論に終わってしまったので、もっと具体的なことを考えようとした。この凶悪な連中は世界のどのあたりに住んでいるのか。彼らがやって来た海岸はここからどのくらい離れているのか。なんのために自分の土地を離れてこんな遠いところまで出かけてくるのか。彼らの舟はどんな舟なのか、彼らがこちらへ来るのならば、わたしのほうだってしかるべく手はずをととのえて、そちらへ出かけて行ったっていいではないか。
しかし向こうへ渡ってからどうするか、蛮人に捕《つかま》ったら自分はどうなるか、命をねらわれたらどうして逃げるか、こんなことは考えてもみなかった。それどころか、彼らの海岸まで行き着けるのかどうかも、襲われたら最後助かる見込みはないのだが、どうしたら襲われないですむようにできるか、かりに捕えられないとしても食糧はどうするか、どちらへ向かって進んだらいいのか、こういった考えは、じつのところ、何ひとつ頭に浮かばなかったのだ。ひたすら思うことは舟に乗って本土に渡るということばかりであった。
自分の現状ほど悲惨なものはあり得ない、もしこれ以上悲惨なことといったら、この身を死に投ずること以外にない、と考えた。本土の海岸にたどり着けばおそらく助かる道があるだろう。すぐに助からなくても、以前にアフリカの沿岸で経験したように、海岸に沿って航行してゆけば、いつかは人の住んでいる土地に着くだろう。そうなればなんらかの救いが得られ、けっきょくはわたしを収容してくれるキリスト教徒の船に出会うこともあろう。最悪の事態に立ち至ったら死ぬだけの話で、死ねばこの不幸のいっさいがいっきょに片づいてしまうのだ。
だが、こういった気持ちが、すべて思い乱れ、焦燥《しょうそう》にかられた心から発したものであることを読者は注意してほしい。わたしの心はいつ果てるともなく続く困苦や、わざわざ行ってみた難破船で遭遇した失望のために、いわば絶望的になっていたのだ。あの難破船に行ったら、話しかける相手が見つかり、現在自分のいる場所について何かの情報が聞け、脱出の手段の手がかりさえ得られようという、かねて切望していたことが叶《かな》えられそうな気がしていたのであった。実際のところ、わたしはこういう思いで焦燥にかられていたのだ。神の摂理にいっさいをまかせ、天の処置を静かに待つという平静な心も今や宙に浮いてしまった。本土に渡るという計画以外のことは考えようとしても、わたしにはその力がまったくなかった。この計画は強烈な力と熱烈な意欲をもってわたしに迫ってきたので、これに抗《こう》すべきすべはなかった。
二時間かあるいはもっと長く、わたしの心はこの計画に激しくかき乱されて、ついに血が沸き返り、ただ異常な熱心さで考えただけなのに、まるで熱病におかされたかのように動悸《どうき》までものすごく高まっていった。しかし自然はよくしたもので、計画を考えただけで肉体も疲れ果てたらしく、おかげでぐっすりと眠りこんでしまった。本土に行った夢でも見たろうと人は思うかも知れないが、そんな夢も、それに関係したような夢も何ひとつ見なかった。わたしが見た夢は、じつは次のようなものであった。
いつものように朝、城から出かけて行くと、海岸に二|隻《せき》の丸木舟と十一人の蛮人が上陸してくるのが目に映った。彼らはもう一人の蛮人を連れていて、それを食うために殺そうとしていた。すると突然、その殺されようとしていた蛮人がとび出して一目散《いちもくさん》に逃げ出した。夢の中だが、その男はわたしの要塞《ようさい》の前の小さな茂った林の中へ逃げこんで身を隠そうとしたように思われた。彼はただ一人で、他の連中は彼のいるほうへ捜しに来るようすもなかったので、わたしは彼の前に姿を現わし、にっこり笑いかけて元気づけてやった。
彼はわたしに助けを求めるようにわたしの前に膝《ひざ》まずいた。そこでわたしは梯子《はしご》を指さして登らせ、洞穴に連れこむと、彼はわたしの召使いになった。この男を自分のものにするとさっそく自分にこういった。
「これでいよいよ確実に本土に乗り出せる。この男はわたしの水先案内になれるだろうし、どういうことをすればよいか、どこへ行けば食糧が得られ、食い殺されなくてすむか、どういうところは行っても差し支えなく、どういうところは避けたらよいか、こういうことを教えてくれるだろう」
ここまで考えた時に目がさめた。夢の中で、いよいよ脱出できるという見込みが立った時の喜びの感銘が名状できないほど深かっただけに、目がさめてそれが夢にすぎなかったことを知った時の失望は、これまたはなはだしかったので、わたしはまったく意気|消沈《しょうちん》してしまった。
しかしながら、このことからひとつの結論を得た。すなわち、脱出を試みる唯一の方法は、できることなら蛮人を一人自分のものにすることであり、それも、彼らが食うことにきめて殺すためにこの島へ連れてきた捕虜がよいということであった。しかしこの案を実行するためには蛮人の一団全部を襲撃してみな殺しにしなければならないという難点が伴った。これはまことに向こう見ずの企てで、失敗のおそれもあるばかりでなく、それが果たして正当な行為であるかどうかも大いに気にかかった。いくら自分が助かるためとはいえ、それほど多くの血を流すことは考えても身震《みぶる》いのすることであった。それが不当であるという理屈は、前にも述べたものと同じであるから、ここに繰り返す必要はないと思う。だが、この際は別な理由も挙げられるのであった。
すなわち、彼らはわたしの生命の敵で、折あらばわたしをとって食おうとしている。生きながらの死から脱出することは最高度の自己保存であり、彼らが実際に襲撃などをしてきた時の自己防衛の行動にほかならないのだ。こういう理由があって、それはもっともな理由であったけれども、自分の救助のために人間の血を流すことは考えても恐ろしいことであり、ずいぶん長いこと、この考えと折り合うことはどうしてもできなかった。
このようないろいろの理屈がわたしの心の中でああでもない、こうでもないと、長い間争い合っていたものであるから、心中ひそかに論議をかさね、さまざまに思い悩んだあげく、どうしてもここから脱出したいという強烈な願望がいっさいを圧倒してしまった。そしてどんな犠牲《ぎせい》を払っても蛮人を一人手に入れようと決心した。
次の段取りはどうして手に入れるかの工夫であったが、これは容易に解決できることではなかった。これならばうまくいきそうだという手段も思いつかないままに、けっきょく自分で見張りに立って彼らの上陸を待ち、それから後は自然の成り行きにまかせて、とにかく臨機応変《りんきおうへん》の処置をとるということに心をきめた。
こういう決心がついたので、わたしはできるだけ頻繁《ひんぱん》に偵察に出かけた。実際、あまり頻繁に出かけたものだから、そのうちすっかり嫌になってしまった。なにしろ一年半以上も待ち続け、その間の大半は、ほとんど毎日、島の西端と南西隅へと行って丸木舟の来るのを見張ったが、ついぞ一隻も現われなかった。これにはまったく失望して、気がくさってきた。といってもこんどはこの前のように、計画をやりとげようという欲望までしぼんでいったというわけではない。むしろ、長びけば長びくほど、ますます熱心になったのだ。ひと言でいうならば、最初は蛮人に会わないように、相手に見られないように気を配ったといってよいが、今ではむしろ彼らになんとかして出会いたいと思うようになったのである。
その上に、もし手にはいれば、蛮人の一人くらい、いや二、三人くらいはうまく御《ぎょ》して、完全に自分の奴隷にした上、思うとおりに使いこなし、どんなことがあっても自分に危害を加えることはさせない自信があるような気がした。これでいい気持ちになっていたのはずいぶん長い間であったが、いっこうに何ごとも起こらず、蛮人はいつまで待っても現われず、わたしの空想も計画も水泡《すいほう》に帰してしまった。
こういう考えをいだいてから約一年半経ち、ただ考えているだけで実行に移す機会がないままに、いわば雲散霧消《うさんむしょう》したわけであったが、じつはある朝早く、丸木舟が五隻もかたまって島のわたしのいる側に着いており、乗ってきた連中はみんなすでに上陸してどこかへ行ってしまっているのを見て、わたしはびっくり仰天した。思いがけない人数でわたしの目算《もくさん》は完全にはずれてしまった。彼らが来る時にはいつも一隻に四人ないし六人、ときにはもっと多いこともあるのを知っていたが、こんなに多数の人数ではどうしてよいのか見当がつかず、たった一人で二十人ないし三十人という相手をやっつけるのにどういう手段をとっていいか、まるっきり見当がつかなかった。わたしは途方にくれ、憂欝《ゆううつ》になって城の中に息をひそめて隠れていた。それでも前から準備していた攻撃の態勢だけはすっかり整え、必要とあらばいつ何時《なんどき》でも行動に出られる用意をしていた。彼らが何か物音を立てはしないかと聞き耳を立てていた。長いこと待っていたが、とうとう辛抱しきれなくなって、梯子の根元に銃を置き、例のごとく二段がまえに梯子を使って丘の頂上によじ登った。
彼らに絶対に姿を見られないように、頂上から頭を出さないようにして、そこから望遠鏡でながめると、数は三十人をくだらず、火は焚《た》いてあり、肉はすでに料理してあるのが見えた。どんなふうにして料理したかなんの肉だか、もちろんわからなかった。けれども、彼らはわたしにわからないほど種々雑多な野蛮な身振り手振りの独特な踊り方で焚火のまわりを踊り狂っていた。
こうして見ていると望遠鏡の中に、二人の可哀そうな男が丸木舟から引きずり出されてくるのが映った。今までそこに投げこまれていたが、いよいよ殺されるために引き出されたものらしかった。二人のうちの一人が、たちまち蛮人独特のやり方で棍棒《こんぼう》か木刀のようなものでなぐりつけられて地面にぶっ倒れるのが見えた。するとすぐに他の二、三人が仕事にとりかかり、料理するためにその男の体を切り裂きはじめた。その間、もう一人の犠牲者は自分の順番が来るまでそこに一人で立たされていた。ちょうどその瞬間、このあわれな男は多少とも身の自由がきくのを知ったらしく、本能的に生きる望みにかられて、ほかの連中のところからとび出し、とうてい信じられないほどの速さで砂原をまっしぐらにわたしのほうへ、というのはつまり、わたしの住居のあるほうへ走ってきた。
彼がわたしのほうへ走ってくるのを見た時には、白状すると、肝をつぶすほど驚いた。ことに蛮人が全部で追いかけてくると思ったものだから驚きはひどかった。今やわたしが見た夢の一部が現実に起こり、あの男はわたしの林の中に逃げこむに相違ないと思った。しかし夢のほかの部分、つまり、蛮人たちがここまで追いかけてきてもけっきょくその男を見失う、という部分までは、どうしても夢どおりになるとは信じられなかった。とにかくわたしは持ち場を動かないで見ていると、追跡してくるのはわずか三人しかいないのがわかって、元気が戻ってきた。その上、逃げる男は追手よりもものすごく足が速くて、どんどん引き離しているのを見ると、ますます勇気が出てきた。もう三十分この調子でゆけば、男は完全に逃げおおせるだろうと思った。
この連中とわたしの城の間には入江《いりえ》があった。その入江については、わたしが自分の船から荷物を陸揚げした時のことを話した、この物語の最初の部分で、しばしば述べたことがある。その男は是が非でも、この入江を泳ぎ渡らなければ捕《つかま》ってしまうのは明らかであった。逃げる男はそこまで来ると、潮が満ちていたにもかかわらず、ものともせずにとび込んで、およそ三十かきぐらいで泳ぎきってしまい、岸へ上がると、ものすごい馬力と速力で走りつづけた。三人の男も入江まで来たが、二人は泳げるが、もう一人は泳げないらしかった。この男は岸の向こう側につっ立って他の二人を見ていたが、それ以上進もうとはせず、やがてゆっくり歩いて帰っていった。結末からいえば、これは彼のためにもっけの幸いであった。
じっと見ていると、追手の二人は逃げている男よりも、入江を泳ぎ渡るのに二倍以上の時間がかかった。いよいよ召使いを、おそらくは仲間か助手を、手に入れる時がやってきた。この哀れな人間の命を救えとはっきり神に命じられたのだ、こう思うとむしょうに興奮して、どうにも抑えようがなかった。
さっそく、大急ぎで梯子を降り、前にもいったとおり梯子の根元に置いてあった二挺の銃を掴《つか》むやいなや、ふたたび大急ぎで岩山の頂上に登っていった。そこを越えて海のほうへ近づき、近道をして岩山を下り、追う者と追われる者との間に突如《とつじょ》身を現わした。逃げている男に大声で呼びかけると、ふり返ってわたしを見て、初めは追手を見たと同じくらいぎょっとしたようであった。わたしはこちらへ来いと彼に手招きした。それからわたしはゆっくりと追ってきた二人のほうへ近づいていった。と、やにわに先頭の奴に襲いかかって銃の台尻《だいじり》でなぐり倒した。他の仲間に聞かれると困るので発砲したくなかったからだ。もっともこれだけ離れておればそう簡単に聞こえるはずはなかったし、煙だって見えるはずはなかったから、連中にはなんのことか、ちょっと見当はつかなかったであろう。
とにかく一人のほうをなぐり倒すと、いっしょに追ってきた他の一人はぎくりとして立ち止まった。わたしは急いで彼に近よっていった。近づいてみると、男が弓と矢を持っていて、矢をつがえてわたしに射ようとしているのがわかった。やむなく先手をうって発砲せざるをえないことになった。わたしは一発でその男を撃ち殺した。逃げかけたが立ち止まってしまっていた哀れな蛮人は、彼の敵が二人とも殺されて倒れたと思ったらしいが、わたしの鉄砲の火と音とにすくみ上がって、棒立ちになり、進むことも退くこともできない様子であった。しかし、まだこちらへ来るよりは逃げたい様子であった。もう一度呼びかけてこちらへ来いと手招きすると、その意味はすぐわかったようで、少し来かかったが、また立ち止まり、また進んではさらにまた止まるというぐあいであった。彼はまた捕虜《ほりょ》になって、二人の敵と同じように今にも殺されるのだと思ったらしく、体をぶるぶる震わせて立っているのがわかった。
わたしはもっと近くに来いと手招きして、考えつくかぎりのあらゆる励ましの身ぶりを示してやった。すると彼は少しずつ近より、十二、三歩ごとに膝まずいては、命を助けられた感謝の心持ちを示した。わたしは彼ににっこり笑いかけ、愉快な顔つきを見せ、もっと近よるように手招きした。とうとうわたしのそばまで来た彼はそこでまた膝まずき、地面に接吻し、そこに頭をつけ、それからわたしの足をとって自分の頭の上にのせた。これは永久にわたしの奴隷になるという、誓いのしるしらしかった。わたしは彼を起こして愛想よく扱い、何くれと励ましてやった。
しかしまだ仕事が残っていた。というのはわたしがなぐり倒した蛮人は死んだのではなく、ただあの一撃で気絶しただけで、今気がつき始めているのがわかったからだ。わたしは助けた男にこの蛮人を指さして、まだ死んでいないことを教えてやると、男はわたしに何か話しかけてきた。彼の言葉はなんのことかわからなかったけれども、とにかく快《こころよ》いものを感じた。なにしろ、過去二十五年以上もの間、自分の声以外にわたしが聞いた最初の人間の声であったのだ。
だがこんな思いに耽《ふけ》っている時ではなかった。打ち倒された男は地面に坐れるほど正気をとり戻していて、わたしの蛮人はまた怖気《おじけ》づいたようであった。それを見てわたしはもう一方の銃を彼につきつけて今にも撃つぞという身がまえをした。
するとわたしの蛮人、もう≪わたしの≫と呼ぶのだが、それがわたしの腰の帯にぶら下がっていた抜身の剣を貸してくれという身振りをした。いうとおりに貸してやると、それを受けとるやいなや彼の敵に向かって突進し、一撃のもとにその首をすっぱりはねてしまった。いかなドイツの死刑執行人でもこれほどす早く、これほど見事にやってのけるものはなかったであろう。しかも自分たちの木刀のほかはほんとうの剣などは一度も見たこともないはずの人間のすることにしては、まことに不思議きわまることであった。しかしあとで知ったことだが、彼らの木刀は非常に鋭利で重く、木そのものがはなはだしく固いので、これで人間の首だろうが腕だろうが、一撃でもって斬《き》り落とすことができるようであった。
彼は相手の首を斬り落とすと勝ち誇った様子で笑いながらわたしのところに来、わたしにはさっぱり意味の通じない身振りをたっぷり見せて、わたしの剣と彼が殺した蛮人の首とをわたしの目の前に置いたのであった。
しかし彼がいちばん驚いたのは、わたしがあんなに離れていたもう一人の土人をどうして殺したかということであった。彼はその死体を指さして、そこへ行ってもいいかと手まねをするので、こちらもできるかぎりの身振りで行ってよいといってやった。そばまで行くとびっくりして呆然《ぼうぜん》と立ち、じっと見つめていたが、やがて死体をあちこち転がしてみて、弾の傷跡を調べていた。弾は胸に当たったらしく丸い傷口があったが、血はそれほど多量には流れていなかった。しかし内出血していたのだろう、もうすっかり死んでいた。彼は死んだ男の弓矢を拾って帰ってきた。
そこでわたしは、あとからもっと多勢追いかけてくるかも知れないと合図をして、自分についてこいと手招きしながら、踵《くびす》を返して立ち去ろうとした。
すると彼は、もしほかの連中が追いかけてくると死体を見られるといけないから、砂をかぶせて埋めたほうがよいと身振りで示した。こちらも合図でそうしろといった。彼はさっそく仕事にとりかかり、またたく間にまず最初の死骸《しがい》を埋めるだけの大きさの穴を両手で砂の中に掘り、その中へ死骸を引きずり込んで、その上から砂をかぶせた。次の死体も同じように片づけた。ふたつの死骸を埋めるのに十五分くらいしかかからなかったと思う。
わたしは彼を呼んで、自分の城のほうではなく、ずっと遠いほうにある例の洞穴へ連れていった。そういうわけで、蛮人が隠れ場を求めて林の中に逃げこんだというあの部分の夢は、実現しないことになったのである。
洞穴に着くと彼にパンとひと房の乾葡萄を食べさせ水を飲ませてやった。走ったために喉が乾ききっていたので水が欲しくてたまらなかったのだ。このように食事をさせてから、わたしが時おり寝床に使用した大きな藁束《わらたば》とその上の毛布を指さして、そこに横になって眠るように合図をした。可哀そうなこの男は横になるとぐっすり眠ってしまった。
彼は顔だちの整ったなかなかいい男で、体の均斉《きんせい》もよくとれていて、真っすぐな四肢《しし》はがんじょうそうで大きすぎず、背は高く格好のいい男であった。わたしの見たところ二十六歳くらいであった。顔は恐ろしくも無愛想でもなく、じつにりっぱであった。なんとなく凛々《りり》しい表情を漂わせていて、しかも彼が微笑する時などことにそうであったが、まるでヨーロッパ人のような柔和《にゅうわ》さがその顔だちに現われていた。
髪の毛は長く黒くて、羊毛のようにちぢれてはいなかった。額は広く高く秀《ひい》でて、目はいきいきと、ひらめくような鋭さをおびていた。皮膚の色は、真っ黒というのでなく、むしろ濃い黄褐色《おうかっしょく》であったが、ブラジル人やヴァージニア人や、その他のアメリカの土人たちのような、黄色がかった気持ちの悪くなるような黄褐色ではなかった。あざやかな焦げ茶がかったオリーブ色とでもいうべきもので、ちょっと説明しにくいが、たいへん好ましいところがあった。顔の形は丸くふくよかで、鼻は小さいが、黒ん坊のようにぺちゃんこではなく、口の格好はよく、唇はうすく、象牙《ぞうげ》のように真っ白なきれいな歯並みをしていた。
彼は三十分ばかり、眠ったというよりうたた寝をしてから、目をさまし洞穴から出てきてわたしのところへやってきた。わたしはその時、すぐわきにある囲いの中の山羊の乳をしぼっていたのだった。わたしの姿を見つけると、すぐに走り寄ってきて、またもや地面に体《からだ》を投げ出し、ただもう、ありがたくてたまらないという気持ちを表わそうと、あらゆるこっけいな身振りをして見せた。しまいには、わたしの片方の足もとの地面に頭をこすりつけ、この前と同じようにその頭の上にわたしのもう一方の足をのせた。それがすむとこんどは服従と隷属《れいぞく》と従順などを示すありとあらゆる身振りをして、一生涯わたしに仕《つか》えたいということを知らせようとした。
わたしも彼の意味することはたいてい理解できたので、まったく満足していることを彼に知らせてやった。
しばらくしてからわたしは彼に話しかけ、こちらにも話しかけるように、言葉を教え始めた。まず最初に、彼の名前がフライディであることを覚えさせた。その金曜日が、わたしが彼の命を救った日であったからだ。その日を記念してそう呼んだのである。同じようにして旦那様《マスター》という言葉を覚えさせ、それがわたしの呼び名であることを教えた。またイエスとノウという言葉と、その意味を教えた。土器の壷にミルクをいれてわたし、自分がミルクを飲んだり、パンをそれに浸《ひた》して食べたりして見せた。それから一片のパンをやって、わたしのまねをさせた。彼はすぐさまこちらのいうとおりにして、それがたいへんうまかったということを身振りで示した。
その夜はひと晩じゅうそこでいっしょに過ごし、夜が明けるとともに連れ出して、何か着る物をやろうと彼に知らせた。彼は素っ裸なのでひどく喜んだようだった。二人の男の死骸を埋めたところを通りかかると、彼はぴたりとその場所を指さし、あとでまた捜せるようにつけておいた目印をわたしに示し、死骸を掘り出していっしょに食べようという意味を合図で示した。
これを見てわたしは非常に怒った顔をして、なんという嫌なことをいうか、考えただけでも≪へど≫が出るというようすを見せた。こっちへ来いと手招きすると素直にすぐついてきた。それから敵が退散したかどうか見るために丘の頂上に連れていった。望遠鏡をとり出して眺めてみると、彼らがいたところははっきり見えたが、もはや彼らの姿も丸木舟も全然見えなかった。二人の仲間を捜そうともせず、置きざりにして立ち去ったことは明らかであった。
しかし、これだけわかっただけでは満足することはできなかった。こうなると勇気が出、したがって好奇心も加わって、従僕のフライディを連れて出かけた。彼には手に刀を持たせ、彼が巧みに使える弓矢を背おわせ、銃も一挺かつがせ、わたしのほうは二挺の銃を携《たずさ》えて、あの蛮人どもがたむろしていた場所へと進んでいった。彼らのことをもっと詳細に知りたかったからだ。
現場に着いて、その惨状を目にしたとき、血も凍り心臓も止まるかと思った。じっさい見るも恐ろしい光景だった。少なくともわたしにはそうだったが、フライディは平気な顔をしていた。あたり一面に人骨が散乱し、地面は血に染まり、あちらこちらに引き裂かれ焼け焦げた大きな肉片が食いかけのまま散らばっていた。これこそ彼らが敵を破ったのち、凱旋《がいせん》の饗宴を張ったその名残《なご》りなのであった。頭蓋骨《ずがいこつ》が三つ、手が五本、脚の骨が三、四本、それに、体の各部が多数あった。フライディが身振り手振りでわたしに伝えたところによると、彼らはごちそうとして食うために四人の捕虜《ほりょ》を連れてきて、そのうち三人は食われてしまい、その四人目がほかならぬ自分だと彼自身を指して見せた。この蛮人たちと隣国の王(フライディはその臣下らしかったが)、この両者のあいだに大戦争があり、多勢の捕虜がでたが、みんなそれぞれのところへ勝利者によって連れ去られ、饗宴に供されるのだということである。この島へ連れてこられた連中があの蛮人どもに食われたと同じ運命になるのであった。
わたしはフライディに命じて頭蓋骨や骨や肉片やその他の残骸を集めさせ、それを山のように積んで火を炎々と燃やして全部灰にさせた。彼はまだ人肉に未練が残っていて、食人種の本性が抜けていなかった。しかし、そんなことを考えただけでも、そんな気配を少しでも見せただけでも、わたしにはがまんできないほど嫌悪の情が起こるのだと露骨に示したので、彼もついにそれとははっきりいい出さなかった。事実、もしお前がそんなことをするといい出すなら、殺してしまうぞ、ととにかく彼に伝えておいたのであった。
残骸《ざんがい》の処理をすましてから、われわれは城に帰ってきた。
さてこんどはフライディのための仕事にとりかかった。まず第一には、前にもいった例の、難破船で見つけた砲手の箱からとり出してあったリネンのズボンを彼にやった。これは、少し手を入れただけでぴったり合った。次にはせいぜい手腕を振《ふる》って、山羊の皮の胴衣を作ってやった。わたしはこのころは相当腕のいい仕立屋になっていた。兎の毛皮で作った、たいへん便利でしかも品のいい帽子もくれてやった。これで一応は身装《みなり》もきちんと整って、主人とほとんど変わらない服装をしたので、彼は大いに満悦のていであった。もちろんこういう服装では最初は妙にぎごちなさそうであった。ズボンを穿《は》くのは窮屈《きゅうくつ》であったし、胴衣《どうぎ》の袖も肩や腕の内側をこすって痛みを与えたが、痛いと訴える個所をちょっとゆるくしたり、彼自身もなれてくると、なかなかよく着こなせるようになった。
わたしが彼を連れてわが家に帰った日の翌日、さて彼をどこに寝かしたものかと思案した。彼の都合もはかってやりたいが、自分の安全もじゅうぶんに考えねばならなかったので、けっきょく二重の柵《さく》の間、つまり、あとで立てた壁の内側と、初めのものの外側の間にある空地に、小さなテントを作ることにした。そこから洞穴に出はいりできる入口があるので、型どおりの戸の枠《わく》と、それに合う戸を板で作り、入口の少し内側のところの通路に立てた。戸は内側からあけられるようにしておき、夜は閂《かんぬき》をかけ、梯子も内側へ入れておくことにした。こうしておけばフライディでもいちばん奥の壁の内のわたしのところまではどうやってもはいってはこられるものではなかった。むりにはいろうとすれば壁を乗り越えるのに大きな音を立てることになり、当然わたしは目をさますことになる。
初めに築いた壁の上には、今では長い棒が一面に並べられて完全な屋根となっており、テントをおおっているばかりでなく岩山の中腹までのびていた。この上には≪こまい≫代わりの小枝が横に並べられ、葦《あし》のように丈夫な稲の藁《わら》がものすごく厚く葺《ふ》かれていた。梯子で出入りするためにあけておいた孔《あな》には一種の落とし戸をつけておいた。これは上からいくらあけようとしても絶対にあかないし、むりをすれば大きな音を立てて下に墜落《ついらく》するようになっていた。武器は全部毎晩とりまとめて自分のそばに置くことにした。
しかしこんな用心をする必要はまったくなかったのだ。フライディほど忠実で真面目《まじめ》で愛すべき召使いを持った者はわたし以外にはなかったであろう。怒ることも不機嫌になることもなく、企《たくら》みをもつこともなく、いつも丁重《ていちょう》で、営々として働いた。彼の情愛は、子の父に対するように、わたしにしっかり結びついていた。必要とあれば、わたしの生命を救うためには自分の生命を犠牲にしてもよいと思っていたらしい。現にその証拠をいろいろ見せてくれたので、彼のためにわたしの安全をはかるための用心は全然必要でないことが疑う余地がなくなり、やがてそれを確信するに至った。
このことがきっかけとなって、わたしはしばしば次のようなことを、しかも深い感動をもって考えたのである。被造者の世界に属する多くの人々がその魂の機能や力をもちながら、それを生かして用いる途《みち》を奪われていることは、みずからの手をもって造りたもうた万象を摂理のままに支配する神の意志であったかも知れない。しかも、神が同時に、われわれに与えたと同じ能力、理性、情愛、恩義を感じる心、不法に対する義憤《ぎふん》の念、感謝と誠実と忠誠の念、善をなし、善を受け入れる能力、こういったものをことごとく彼らに与えたことも事実である。そして神がこれらの力を活用する機会を彼らに与えようとおぼしめす時には、彼らもわれわれと同じく、いな、われわれよりもむしろ進んで、その力を本来の正しい用途に向けようとするのである。
こういうことを考えると、わたしは時々心が暗くなるのであった。われわれの力は聖霊という偉大な光によって教化され、人間の知識に加えて神の御言葉の知識によって啓発されているにもかかわらず、その力を卑劣な目的に使用していることを、折にふれて痛感させられるからである。この哀れな蛮人フライディから判断して、おそらくわれわれよりももっとよくこれを利用したかも知れないと思われる、何百万という人間から、なぜ神は上に述べたような救いの知識を隠したもうたのであろうか。
これを考えて行くと、どうかすると摂理の権限さえ犯しかねない気持ちにはしり、ある者からは光を隠し、ある者には光を啓示し、しかも両者から同じような義務を要求するという、気まま勝手な事物の処理の不当を、いわば糾弾《きゅうだん》したくなることさえあった。しかしけっきょく、次のような結論に達することによって結末をつけるのであった。
第一、これらの蛮人がこのように罰せられているのは、いかなる光と掟《おきて》によるか、われわれにはわかっていない、ということ。しかし神は必然的に、またその本質上、無限に神聖にして正しいものである以上、もしこれらの蛮人が罰《ばつ》として神を知ることを許されていないとすれば、それは聖書にもいってあるとおり、彼らにとって掟である光に対して、彼らが罪を犯しているからであり、たとえその根拠がまだわれわれに示されていないとはいえ、彼らの良心が正しいと認めている法則によるものである、ということにならざるを得ない。
第二に、われわれはすべて陶工《とうこう》の手中にある陶土である以上、いかなる器《うつわ》といえども、陶工なる主に向かって、「なんじなんぞ我をかく作りしや」ということは許されないのである。
しかし、話をふたたびわたしの新しい仲間のことに戻そう。わたしは彼が大へん気にいった。彼が器用な役に立つ人間になるために適当なことはなんでも教えてやることをわたしの仕事とした。とりわけ話すことと、わたしのいうことを理解することを教えた。この男はじつに物覚えが早く、快活で勉強家であり、わたしのいうことがわかったり、自分のいうことがわたしにわかってもらったりすると、たいへんな喜びようであったので、わたしも彼に話しかけるのが楽しみとなった。このようにしてわたしの生活は安楽なものになり、蛮人たちがこれ以上やって来る心配さえなければ、今いるところから一生離れられなくてもかまわないという気持ちにもなってきた。
わたしの城に帰ってから二、三日経ってからのこと、フライディに人肉を食う恐ろしい習慣をやめさせ、人肉の味を忘れさせるために、他の肉を味わせる必要があると思いつき、ある朝、彼を連れて森へ出かけた。じつは飼ってある山羊の群れのうちから子山羊を一匹殺して持って帰って家で料理するつもりで出かけたのであった。ところが途中で木陰に二匹の子山羊を連れて横たわっている雌《めす》山羊を見つけた。
わたしはフライディを掴《つか》まえて、「ちょっと待て、動いちゃいけないよ」といって、身動きしないように合図した。即座《そくざ》に銃を構えて一匹の子山羊を撃ち殺した。可哀そうにフライディは、以前わたしが遠方から彼の敵であった蛮人を撃ち殺すのを見るには見ていたが、それがどういうふうになされたのか知りもせず、想像もできなかったのだから、こんどは眼前でそれが起こったので、ひどくびっくりして、体をがたがた震わせて、今にもへたへたとくず折れるかと思われる様子であった。
彼はわたしが撃った子山羊も見ず、わたしが殺したことも目にははいらなかったらしく、胴衣を引き裂いて、自分の体に傷がありはしないかとさわってみた。そしてわたしが彼を殺そうと決心したとでも考えたらしかった。というのは、彼はわたしの前に来て膝まずき、わたしの膝を抱きかかえて何かわけのわからぬことを盛んにしゃべるのだったが、殺さないでくれと嘆願しているのだということはすぐにわかったからであった。
彼に害を加える気はないということを納得させるのはぞうさもなかった。手をとって彼を引き起こし、笑いかけながら、撃ち殺した子山羊を指さして、走っていってあれを持ってこいと合図すると、すぐいわれたとおりにした。彼がどんな仕掛けで子山羊が殺されたのかと不思議そうにじろじろ見ている間に、わたしはふたたび銃に弾をこめた。と、やがて、射程内にある木の上に鷹《たか》に似た大きな鳥が一羽とまっているのが目についた。そこで、わたしのすることを少し教えてやろうと思い、そばに呼び寄せてその鳥を指さした。それは鷹と思ったがよく見ると鸚鵡《おうむ》であった。その鸚鵡と銃と、鸚鵡の下の地面とを指さしながら、鸚鵡を落として見せるということを知らせ、わたしがその鳥を撃って殺すのだということを理解させた。
したがってわたしは発砲して、彼によく見ろと注意した。鸚鵡が落ちるのを見るやいなや、前もっていろいろいっていたにもかかわらず、彼はまたまたびっくり仰天《ぎょうてん》してしまった。わたしが銃に何かをこめているのを見なかったから、前よりもなおいっそう驚いたのだった。この道具の中には、人間でも野獣でも鳥でも、その他遠近を問わず、あらゆるものを殺戮《さつりく》するものすごい破壊力がひそんでいるに違いないと考えたらしかった。
ここから生じた驚愕《きょうがく》は、当分はおさまらないほど深刻なものだった。もしこちらがそのままにさせておいたら、わたしと鉄砲とを神様のように拝んだかも知れなかった。鉄砲にはその後数日間は手を触れようともしなかった。一人でいる時には、鉄砲が答えるとでも思っているのか、しきりに話しかけていた。あとで聞くと、自分を殺さないでくれと頼んでいたのだそうである。
さて、このことで受けた驚きも少しおさまったころ、撃ち落とした鳥をとってこいと命じた。命じられたとおりすぐ走っていったが、しばらく帰ってこなかった。鸚鵡は死にきってはいなかったので、落ちたところからかなり遠くのほうまでばたばた飛んでいったらしかった。とにかく彼はそれを見つけて持って帰ってきた。わたしは彼が鉄砲のことについては全然無知なのを知っていたので、彼が帰ってくるまでを利用して鉄砲に弾をこめ、彼にはそれを見せないで、獲物が現われ次第いつでも撃てる用意をしておいた。
しかし、それっきり獲物は現われなかった。そこで例の子山羊を家に持って帰り、その晩、皮をはぎとり、できるだけていねいに肉を仕分けし、適当な鍋を見つけてその肉を煮こみ、うまいシチューを作った。自分でまず食べてみて、それから従僕にわけてやると彼は大喜びで、すっかり気に入ったようすであった。
しかし彼が不思議に思ったことは、わたしが塩をふりかけて食べることだった。塩はうまくないと手まねで示し、自分の口にひとつまみ入れて吐き気を催《もよお》すような格好をし、吐き出し、唾《つば》を吐き、あげくの果てに、水で口をすすぐありさまであった。
こんどはわたしのほうが塩をかけずに肉を口の中に入れ、塩がなくては食べられないとばかり、彼が塩をなめた時にやったと同じくらいはげしく、唾を吐くようなふりをして見せた。しかし、それもいっこう効果がなかった。肉でもシチューでも塩を入れるのは嫌がった。少なくともしばらくはそうであった。その後になって塩をかけるようになっても、ほんのちょっぴりだけだった。
このようにして肉の煮たのとシチューを食べさせたが、翌日は子山羊の炙《あぶ》り肉をごちそうしてやろうと思った。そのやり方は、イギリスでよく人がやっているように、火の前に紐《ひも》でつって焼くので、つまり、火の両側におのおの一本の棒を立て、その上に横棒をわたし、それに紐を結びつけ、肉が絶えずぐるぐる回るようにするのである。この仕掛けをフライディは大へん感嘆したが、肉を味わう段になると、どんなに気に入ったか手だてをつくして説明するので、彼の意味はいやでも了解しないわけにはいかなかった。しまいにはもう人間の肉は決して食わないといったので、わたしはほんとうに喜んだ。
その翌日は穀物の脱穀の仕事と、前にもいったように、わたしが前からやっていた方法で、篩《ふる》いわける仕事とをやらせた。たちまち彼はわたしに負けないほどじょうずにやれるようになった。ことに、なぜこんなことをするか、つまりパンを作るためだ、というその意味がわかってからは、なおのことじょうずになった。というのは、この仕事のあとで、わたしがパンを作って焼くのを見せたからであった。わずかの間に、彼はこういう仕事はいっさい引きうけて、わたしと同じくらいうまくやれるようになった。
ひとつの口でなく、ふたつの口を養うことになったので、それだけの収穫を上げるためにもっと広い土地を用意し、従来よりもっと多量の種をまかねばならないということを考え始めた。そこで、広い土地を画《かく》して前と同じように柵を作り始めた。フライディが喜んでいっしょうけんめいに働いたことはもちろんだが、それがいかにも楽しそうであった。なんのためにこういう仕事をやるかといえば、お前が来たためにそれだけ余計にパンを作るので穀物がいるのだ、二人分のじゅうぶんな食糧を確保しなければならないからだ、と彼に話して聞かせた。彼はこのことがよくわかったらしく、自分が一人ふえたために従来よりも余計な負担をかけていると思うし、仕事をいいつけてさえくれれば、どんなにでも働きます、という意味のことをわたしに伝えた。
この年はわたしがここに来てから送った生涯のうちでいちばん楽しい年であった。フライディはかなりよくしゃべれるようになったし、必要に応じてわたしが求める物の名前はもちろん、使いにやる場所の名前もわかるようになってきた。そしてわたしにもよく話しかけた。要するに、わたしは今までほとんど使う機会、つまりしゃべる機会がなかったのだが、これからは自分の舌を使うことが多くなったのだ。彼に話しかける楽しさもさることながら、彼の人柄になんともいえぬ満足を覚えた。彼の表裏のない誠実さは日ごとにはっきりと現われてきて、ほんとうにかわいい奴だと思うようになった。彼のほうでも、それまで彼が愛したいかなるものにもまして、わたしを愛したものとわたしは信じている。
彼がもう一度自分の国に帰りたいとあこがれ求めているかどうか、一度試してみたいと思った。相当に英語も教えてあるのでたいていの質問には答えられるようになっていたから、お前の国は戦争に一度も勝ったことはないのかと尋ねてみた。彼はにっこり笑っていった。
「はい、はい、わたしたちはいつもよく戦います」
つまり、いつも戦いに勝つ、という意味だった。そこでわれわれは次のような問答を始めたのであった。
「お前たちはいつもよく戦うというが、それじゃどうしてお前は捕虜になったのだ、フライディ?」とわたしはいった。
フライディ「わたしの国の人たちは、それでもたくさん勝つ」
主人「どんなにして勝つのだ。お前の国の人が勝つなら、どうしてお前は捕虜になったのか?」
フライディ「わたしのいた所では、あっちのほうがわたしの人たちよりたくさんあった。彼らは一人、二人、三人とわたしを捕まえる。わたしのいなかったあっちの所では、わたしの人たち、彼らを負かす。わたしの人たち一人、二人、何千人も捕まえる」
主人「それじゃ、なぜお前の味方は敵の手からお前を取り戻さなかったのか?」
フライディ「彼らは一人、二人、三人とわたしを追っかけ、丸木舟で行かせる。わたしたちの国はそのとき丸木舟ひとつも持たない」
主人「なるほど。ところでフライディ、お前の国の人たちは捕えた連中をどうする? やはり敵と同じように連れていって食べるのか」
フライディ「はい、わたしの国の人たちも人間を食べる、みんな食べてしまう」
主人「捕虜はどこへ連れていくのか?」
フライディ「あの人たちが考えるところ、ほかの所へ連れていく」
主人「ここへも来るのか?」
フライディ「はい、はい、ここへ来る。ほかのところへも来る」
主人「お前も仲間といっしょにここへ来たことがあるのか?」
フライディ「はい、わたし来たことある」(といって島の北西の側を指さした。これが彼らの来る側と思われた)
このことから、わたしの従僕フライディも島の向こう側にしばしばやって来て、こんどは自分が食べられる番になっていたが、その同じ人肉を食いに来た連中の一人であった、ということがわかった。
この後しばらくして、わたしは勇気を出して彼を島のあちら側、前にわたしが話した場所へ連れていった。彼はすぐにその場所を思い出して、仲間がここで二十人の男と二人の女と一人の子供を食べた時に、その一行の中にいたことを告げた。彼は英語で二十といえないので、それだけの数の石を一列に並べて見せ、指さして数えてみてくれというのであった。わたしがこの一節を書いたのも、じつは次のようなことを述べるためなのである。
上のような話を彼と交わしたあとで、この島から対岸までどのくらいあるのか、丸木舟がしばしば流されてしまうことはないか、と聞いてみた。彼の答えでは、そんな危険はない、丸木舟が失われたことはない、また少し沖へ出ると、ある潮流と風向きがあって、朝と午後と反対の方向に一定して流れている、というのであった。
これは潮の干満による流れの方向のことにすぎないと思った。しかしあとになって、これはあの偉大なオルノコ河の流れの干満によって生ずるのであることを知った。これもあとで知ったことであるが、われわれの島はこの河の河口というか、湾内にあったのだ。そして西および北西に見える陸地は、オルノコの河口の北端にあるトリニダッドの島であった。
わたしは、その地方のこと、住民や海や海岸のこと、どんな民族が付近にいるかなど無数の質問をフライディに発した。彼はきわめて素直に知っていることは全部話してくれた。彼の属しているような種族の名前をいくつか尋ねたが、ただカリブという名だけしか聞き得なかった。それから判断すると、これらの種族はカリブ族で、われわれの地図に記載されているところではオルノコ河口からギアナを経てセント・マーサに至るアメリカの一部に住んでいる種族であることが容易にわかった。
彼はまた、月のずっと向こうに、というのは彼らの国からいえば西にあたる月の沈むかなたの意味だが、そこにちょうどわたしのようにひげを生やした白人が住んでいるといい、前にも述べたわたしの蓬々《ぼうぼう》たるひげを指さした。彼らは彼の表現を借りると多量の人間を殺したというのだ。話を総合してみると、彼のいうのはスペイン人のことで、アメリカにおけるスペイン人の残虐行為はすべての国に喧伝《けんでん》され、あらゆる種族の間で父から子へといい伝えられているものとみえた。
どうやったらこの島から出てその白人たちのところへ行けるか、お前に何か考えはないかと尋ねた。
彼は、「行けます。二つの丸木舟なら行けます」と答えた。
なんのことかわからなかったし、「二つの丸木舟」の意味を説明させたがそれもだめだった。けっきょく、さんざん頭をひねったあげく、丸木舟二つ分くらいの大きな舟でなければだめだという意味であることがわかった。フライディの話のこのところが大いにわたしの興味をそそった。
この時以来、わたしはいつかはこの島を脱出する機会をとらえ、それを実行するのにこの蛮人が手助けになるかも知れない、という希望をいだくようになった。
フライディがわたしと生活をともにし、話もでき、わたしのいうこともわかるようになって以来の長い間、わたしは彼の心に宗教の知識の基礎を植えつけることをゆるがせにしなかった。たとえばある時、誰がお前を作ったかと聞いてみた。可哀そうに、さっぱりその意味がわからなかったらしく、お前の父親は誰かと聞かれたと思ったようだった。そこでわたしは別な手を考え、いったい誰が海やわれわれの歩く大地や丘や森を作ったのかと尋ねた。それはすべてのものの向こうに住んでいる、年とったベナマッキーだと答えた。彼はこの偉大な人物については、ただ非常に年をとっている、彼の言葉でいうと、海や陸よりも、月や星よりも年をとっているという以外は、なんの説明もできなかった。
もしこの老人がすべての物を作ったとすれば、なぜすべての物が彼を拝《おが》まないのか、と聞いた。すると彼は非常に厳粛《げんしゅく》な顔になり、それから天真爛漫《てんしんらんまん》な表情を浮かべて、「すべてのものは彼に向かって『おう』という」と答えた。
お前の国では死んだ人はどこかへ行くのかと聞くと、はい、みんなベナマッキーのところへ行きます、といった。さらに、食われた人間もそこへ行くのかと尋ねると、そうです、と彼はいった。
このような話から真実の神がいかなるものかを彼に教え始めた。天を指さしながら、万物の偉大なる創造主はあそこに住んでおる。神は世界を創造した時に用いたと同じ力と摂理とをもって、今も世界を支配している。神は全能であってわれわれのためにいかなることもでき、いかなるものもわれわれに与え、いかなるものもわれわれから奪うことができる。
こういうことを彼に話して聞かせ、徐々に彼の目をあけてやった。彼は真剣に耳を傾け、われわれを贖《あがな》うためにイエス・キリストがこの世に遣《つか》わされたことや、神に対する祈りの仕方や、たとえ天に在《いま》しても神はわれわれの祈りを聞いてくださることなどを心から喜んで納得した。
彼はある日のことこんなことをいった。
もしわれらの神が太陽のかなたにいてもわれわれの祈りを聞くことができるならば、神はベナマッキーよりも偉大な神に違いない。ベナマッキーはそれほど遠いところに住んでいるわけでないのに、こちらから彼の住む高い山に登っていって話しかけないかぎり、何も聞いてはくれないのだ。
こういうので、お前は彼に話しかけるためにその山に登ったことがあるかと尋ねた。行ったことはない、と答え、若い者は決して登らない。ただウーウォカキーと呼ばれる老人たち、つまり彼の説明から察するところ、聖職者だけが登り、そこで「おう」(祈りを唱えること)といい、それから帰ってきて、みんなにベナマッキーのお告げを伝える、というのであった。
これでみると、このような世界じゅうで、もっとも無知蒙昧《むちもうまい》な異教徒の間にすら、司祭制度があることがわかった。一般庶民の聖職者に対する尊敬の念を維持するために、秘教的宗教を作る政策は単にローマ・カトリック教徒だけでなく、おそらく世界じゅうの全宗教に見いだされ、最も野蛮未開の土人の間にさえ見いだされることを知ったのである。
わたしはこの虚偽《きょぎ》を従僕のフライディにはっきり示してやろうと努めた。老人たちが自分らの神ベナマッキーに「おう」というために山に登るというのは偽りであり、山から神のお告げをもって降りてくるというのはさらにひどい偽りで、もし彼らがなんらかの答えに接するか誰かに会ったとすれば、それは悪霊にちがいないといってやった。
それから悪魔についての長い話にはいった。悪魔の原型、神に対する反逆、人間に対する敵意とその理由、暗愚《あんぐ》な世界で真の神の代わりにみずからを神として崇《あが》められようとした企て、人間を欺《あざむ》いて破滅に陥らせようとして用いる数々の術策、悪魔が人間の情欲や感情に巧みにつけこんでわれわれの性向に罠《わな》をかけ、けっきょく、自分からおのれを誘惑するものとなり、みずから選んで破滅にはしるに至らしめるその顛末《てんまつ》、こういったことを話して聞かせた。
悪魔について正しい考えを彼の心に植えつけることは、神の存在についてそうする場合ほど容易ではなかった。いわゆる、第一原因として、いっさいを支配する力として、不思議な方法によってすべてを導く摂理としての神の存在の必然性や、われわれの創造主としての神を敬《うやま》うことの妥当性は、これを彼に説きあかそうというわたしの議論に、自然界の事象が力を借してくれた。ところが悪魔の概念の中にはそういったものが何もなかった。悪魔の由来、その存在、性質、なかんずく、みずからも悪をなし、人間をして悪を行なわしめる性向を説明するには自然の理の助けが全然なかった。ある時などは、この男がまったく天真爛漫《てんしんらんまん》な質問を発して、わたしはなんと答えてよいかわからず、すっかり狼狽《ろうばい》したのであった。たしか、神の御力とか、神の全能であることとか、罪を激しく憎む御性質とか、不正を働く者を焼き滅ぼす火となるかたであるとか、また、神はいっさいのものを創ったのであるから、われわれ人間も世界も一瞬にして滅ぼすことができるとか、このようなことをとうとうと話していたのであった。彼はその間ずっとわたしのいうことを真剣に聞いていた。
そのあとでわたしは、悪魔はじつに人間の心の中に巣くっている神の敵であって、神のよき計画を潰《つぶ》し、キリストの王国を破壊するために、あらゆる奸策《かんさく》をめぐらし狡智《こうち》を弄《ろう》しているのだというようなことを話していた。するとフライディは、「なるほど、旦那様《マスター》は神がたいへん強く、たいへん偉いという。それなら神は悪魔くらいたいへん強くたいへん力があるのと違うか」という。
「うん、うん、フライディ、神は悪魔より強いのだ。神は悪魔より上なのだ。だからわれわれが悪魔を足もとに踏みにじり、その誘惑を退け、その火と燃える矢を消すことができるよう、神に祈るのだ」とわたしはいう。
彼はさらにいう。「もし神が悪魔くらいたいへん強く、たいへん力があるなら、なぜ神は、悪いことをこれ以上しないように悪魔を殺さないのか」
わたしはこの質問に不意を打たれて面くらった。当時わたしは年こそとっていたが、教師としては若僧《わかぞう》で、決疑論者、困難な問題の解決者などという資格はとうていなかった。初めはなんと答えていいか見当もつかなかったので、聞こえなかったふりをして、なんといったのかと聞き返した。熱心に答えを求めていたのだから、自分の質問を忘れるはずはなく、今述べたと同じたどたどしい言葉で前の質問をくり返した。こうしているうちにわたしは少しばかり落ち着きをとり戻していた。それでこういった。
「神は最後には悪魔をきびしく罰するのだ。悪魔は審判のために生かしておかれ、最後には奈落《ならく》の底になげこまれ、永劫《えいごう》の火に苦しめられるのだ」
フライディはこれでは満足せず、わたしの言葉をくり返して逆襲してきた。「生かしておかれる、最後には! わたしそれわからない。なぜ今、悪魔殺さないか、ずっと以前になぜ殺さないか」
「そんなことをいうなら、お前もわたしも神を怒らせるような悪いことをしているのに、なぜ神はわれわれを殺さないのかと尋ねるようなものではないか。われわれは悔い改めて赦《ゆる》されるため、生かしておかれるのだ」
彼はこの言葉を聞いてしばらく考えこんでいた。それからいかにも感動したように「よし、よし、そのことわかった。旦那様《マスター》、わたし、悪魔、みな悪い。みな生かされる。悔い改める、神みんな赦す」といった。ここでまたわたしは彼に最後の窮地に追いこまれてしまったのだ。これはわたしにはひとつの明らかな証明となったのだ。つまり自然の概念だけに導かれていっても、理性ある人間ならば、われわれの本性からいって、当然神を知り、最高の存在に対して当然払うべき崇拝の念をいだくに至ることはあきらかである。けれども、イエス・キリスト、人間のためにあがなわれた贖罪《しょくざい》、新しい契約の仲保者、神の御座の下にたつ調停者、こういうことについて正しい知識を与え得るものは啓示にほかならない、という証明である。たしかに、ただ天からくる啓示だけが人間の魂の中にこれらの知識を育成することができる。したがって、われらの主なる救主イエス・キリストの福音《ふくいん》、つまり、神の御言葉《みことば》と、信ずる者を導き聖別するために約束された聖霊とが、人間の魂に神の聖なる知識と救いの手段とを教えるのに絶対不可欠なものであるということだ。
わたしはそのために二人の間の話題をそらし、何か急に出かける用事ができたかのように、いそいで立ち上がった。そして彼を遠いところへ何かを取りにいかせて、その留守にわたしは心から神に祈った。この哀れな野蛮人を正しい救いに教え導くことができ、聖霊の働きによって、この無知蒙昧《むちもうまい》な人間の心がキリストにおける神の知識の光に接し、神の御懐《みふところ》に受け入れられるようになるよう、神の力をわたしに与えてくださいと祈り、彼の良心が目ざめ、目が開け、魂が救われんがために、わたしを導いて神の御言葉によって彼に語ることができますようにと願った。
彼が使いから戻ってきた時に、救主《すくいぬし》キリストによる人間の贖罪について、また、天から示された福音の教え、すなわち、神に向かっての悔い改めとわれらの主イエスの信仰とについて、長い話を彼と交えた。それから、なぜ聖なる救世主が天使の本性を身につけず、アブラハムの子孫として生まれたかということ、したがってそのために堕天使は罪の赦《ゆる》しにあずからないということ、キリストはイスラエルの民の失われた羊を救うためにのみ来たということ、このようなことをわたしとしては精いっぱい努力して説明してやった。
この哀れな人間を教え導くのにわたしがとったすべての方法では、知識よりも誠意にたよるほうが多かったのだ。わたしと同じこの方針でことをなす人は誰でも経験すると思うが、フライディにいろいろのことを説明するにあたって、じつはわたし自身が啓発され教えられることが多かったことを認めなければならない。それは、単にそれまで自分が知らなかったことや、じゅうぶんに考えていなかったことばかりでなく、この哀れな野蛮人に教えるために問題を究《きわ》めようとする際、自然にわたしの心に浮かんできた多くの事柄についてであった。この機会に事物の探究に対して感じた感動は、それまでになかったほど深かった。この野生の人間がわたしのために啓発されるところがあったかどうかはともかく、わたし自身は彼が自分のところに来たことを大いに感謝してよいのであった。
わたしの悲しみは軽くなり、わたしの生活ははかり知れないほど楽しくなった。それまで閉じこめられていた孤独の生活の間にも、天を仰いで自分をここへ導いた、神の御手に赴《おもむ》きたいと心動かされることはあった。けれども、今やそればかりでなく、神の摂理のもとに、一人の哀れな野蛮人の生命とおそらくは魂までも救い、これを知ることは永遠の生命であるイエス・キリストを知らしめんがため、宗教とは何か、キリスト教とは何かを真に理解させる、一介《いっかい》の媒介《ばいかい》者に自分がなるのだ、と考える時、じつにこの時こそ、ある密《ひそ》かな喜びがわたしの魂のすみずみまでみなぎるのを感じた。この島に漂流したことも、かつては自分の身に起こり得るもっとも恐ろしき苦難と考えたのであるが、今はそれを喜ぶことがしばしばであった。
この後この島にいる間じゅう、わたしはこの感謝の心持ちですごした。フライディとわたしがともにしたこの交わりは、われわれがいっしょに暮らした三か年の歳月を完璧《かんぺき》に幸福なものとした。この地上に完全な幸福があるとすれば、まさにこれであった。わが野蛮人は今や善《よ》きキリスト教徒、わたしより遥かに善きキリスト教徒となった。とはいえ、われわれ二人とも優劣なく深く罪を悔い、慰められて救われた者であったと思い、それを神に感謝できるのだと思う。われわれはこの島にいても神の御言葉を読むことができ、イギリスにいると少しも違わず、聖霊の導きを身近かに感じることができた。
わたしはいつも聖書を読み、読んだところの意味をできるかぎり彼に伝えようと努めた。彼のほうでもまた真剣に根掘り葉掘りいろいろなことを聞くので、おかげで、前にもいったとおり、聖書の知識にかけては自分一人で漫然と読んでいる時よりも、はるかにすぐれた学者になった。
もうひとつこの際、どうしてもこの島の隠遁《いんとん》生活の体験から記しておきたいことがある。それは、神とキリスト・イエスによる救いの教義との教えが、神の言葉としてきわめて明瞭に、なんの苦労もなしに理解できるように記されているということは、なんと無限の言語に絶する祝福であろうかということである。聖書をただ読むだけで自分の義務をさとることができ、ただちに己《おの》れの罪を心から悔いるという大いなる業《わざ》につき、永遠の生命と救いのために救主にすがって、行ないをはっきりと改め、すべての神の命令に従うことができたのである。しかもこれは、いかなる教師も指導者もなしでであった。もちろん、いかなる人間の力もかりずにという意味である。
同じように、ただ聖書による教えのみが、この未開人の心にじゅうぶんの光を与え、彼をわたしの生涯の中でほとんど匹敵《ひってき》する者を見ないほどのりっぱなキリスト教徒に仕立て上げたのである。
世の中には宗教に関していくたの論争や口論や争闘や抗論が今まで起こったが、それが教義上の微妙な点にせよ教会政治の機構についてにせよ、すべてわれわれには全然無用のものであった。わたしの知り得るかぎりでは、われわれ以外の世界じゅうのすべての人々にとってもそうであったと思う。われわれには天国へ行く確かな導きがあった、すなわち、神の御言葉があった。ありがたいことに、われわれは、その御言葉を通して人間を教え、人間を真理へ導き、かつ御言葉の教えに喜んで従うことを教える聖霊のあることを、心楽しく信じたのであった。したがって、世の中にあれほどの紛争をまき起こした宗教上の争点について、たとえ、どのように偉大な知識をもったところで、われわれには少しも役に立たなかったであろうと思う。
それはさておき、わたしはことの歴史をとり上げ、その仔細《しさい》を順序に従って述べなければならないのだ。
フライディとわたしの仲も、いよいよ親密の度を加え、彼がわたしのいうことはほとんど全部理解し、あやしげな英語ながらかなり流暢《りゅうちょう》にしゃべるようになってから、わたしの身の上話をして聞かせた。少なくともこの島に来た前後の事情、今までの暮らしの仕方、それにどれくらいになるか、などを話した。
火薬と弾丸は彼には摩訶《まか》不思議であったが、その謎を教えてやり、射撃の方法も伝授した。ナイフも与えたがこれには夢中になって喜んだ。イギリスでよく短剣をさすのに用いる剣差しの付いた帯も作ってやった。剣差しには短剣の代わりに手斧をつらせたが、これは時には有力な武器となったが、それ以上に役に立つ場合もあった。
わたしはヨーロッパの国、とくにわたしの祖国であるイギリスのことを説明した。われわれがどんなふうに生活し、神を礼拝し、互いに交わっているか、またどんなふうに世界の各地と貿易を行なっているか、などを話した。わたしが乗っていた難破船の話もし、その坐礁《ざしょう》した場所もできるだけ近いところまで行って見せたが、船はその時はすでにばらばらになって跡形もなくなっていた。
本船脱出の際に波にやられたボートの残骸も彼に見せた。当時全力を尽くしてもびくともしなかったボートであったが、今ではもうほとんどばらばらに壊れていた。これを見るとフライディはじっと考えこんで物もいわなかった。何を考えこんでいるのかと尋ねると、やがて「こんな舟わたしたちのところへ来るの、わたし見る」という。
しばらくの間、なんのことだかわからなかったが、さらに問いただしてみると、このボートと同じようなボートが彼の住んでいた国の岸に打ち上げられたことがある、という意味だとわかった。彼の説明によると嵐のためにそこに押し流されてきたということであった。どこかのヨーロッパの船が沿岸で遭難して、そのボートが漂流して岸に打ち上げられたに相違ないと想像した。しかしぼんやりしていたものだから、難破船から乗組員が上陸したかも知れないとか、いわんや彼らがどこから来たのかということなどは考えてもみなかった。ただボートの様子だけを聞いてみた。
フライディはボートの様子をかなり詳しく説明してくれたが、その際、彼が熱心に「わたしたち白い人々、溺《おぼ》れるの助ける」と一言《ひとこと》付け加えたので、事態がだいぶはっきりしてきた。わたしはすぐに、お前のいうその白い人々がボートに乗っていたかと尋ねた。
「はい、ボートは白い人でいっぱい」というので、何人いたかとさらに尋ねると、指を数えて十七人だと答えた。その連中はどうなったか、と聞くと、「みんな生きている。わたしの人たちのところに住んでいる」という答えであった。
これを聞くとわたしの念頭に新しい考えが浮かんだ。もしかしたら、この連中はわたしのいわゆるわが島の見える沖合で遭難した船の乗組員かも知れない。船が岩に坐礁するとこれはもうだめだと思ってボートに乗って脱出し、けっきょく、蛮人の住むあの海岸に上陸したのではあるまいか。
そこで、この連中がどうなったのかもっと突っこんで彼に尋ねた。彼らはまだ彼の国で生きている、もう四年ほどにもなるが、蛮人たちは彼らに干渉せず、むしろ食糧を与えて養っている、とフライディははっきりいった。どうして彼らを殺して食べないのかと聞くと、「そんなことはしない、彼らは連中と兄弟になる」と答えた。つまり休戦の意味とわたしは解した。それからつけ加えて、「戦争する時のほか、人間食べない」といった。つまり、彼らと戦争し、捕虜になった人間のほかは人間は食わないということであった。
この後かなり経ってからのことであった。島の東側にある丘の頂上、ここから天気のいい日にアメリカ本土を認めたことは前にいったとおりだったが、そこに登ったフライディは、折から晴れわたった天気であったので、じっと真剣な顔をして本土のほうを見ていた。と、突然何かに驚いたかのように、飛んだり跳ねたりし始め、少し離れていたわたしに呼びかけた。いったいどうしたのかと聞くと、
「ああうれしい、ああありがたい、わたしの国あそこに見える。わたしの国があそこに」
という。彼は喜色を満面に浮かベ、目はきらきらと輝き、顔の表情には、自分の国に帰りたい気持ちを歴然と示して、一種特別な真剣さが漂っていた。
この様子を見ると、いろいろな考えが頭に浮かんできた。新しくかかえた従僕のフライディに対して、前と違って不安が感じられてきた。もし彼が自分の同胞のところへ帰ったならば、信仰のことばかりでなく、わたしへの恩義もすっかり忘れてしまうのは疑いない。彼は進んでわたしのことを仲間にしゃべり、百人か二百人の仲間を引き連れて戻って来て、わたしを餌食《えじき》にするかも知れない。そうなれば、戦争で捕えた捕虜を食った時と同じように大騒ぎして喜ぶかも知れない、と思った。
しかしわたしがこう考えたことはこの正直な男をはなはだしく誤解するものであったことがやがてわかり、申し訳ないことをしたと思った。だがとにかく、当座数週間は、彼に対する警戒心はつのるばかりで、かなり用心深くなり、前ほど親しくしなくなった。この点でもたしかにわたしは間違っていた。正直で恩義を知っているこの男は敬虔《けいけん》なキリスト教徒としても恩を知る友人としても本分にもとるようなことは全然考えていなかったのだ。このことはあとになってはっきりして、わたしはしごく満足したのであった。
疑念が去らない間は、わたしが毎日かまをかけて、彼が心中に秘めているらしい新しい計略をなんとか洩《も》らさせようとしたことは確かだ。しかし彼のいうことはまったく正直で、一点の邪心《じゃしん》もなく、わたしの疑念をつのらせるようなものは何ひとつ見いだせなかった。こちらにはかなり不安があったにもかかわらず、けっきょくわたしは元通り彼を信ずることになり、彼もまたわたしに不安な目で見られていたことなど少しも気がついていなかった。彼が人をごまかすなどということは考えられなかった。
ある日、例の丘に登っていったことがあるが、その日は海上に霞《かすみ》がかかっていて大陸は見えなかった。わたしは彼を呼んで聞いた。
「フライディ、お前は自分の国に、自分の仲間のところに帰りたくないか?」
「帰りたい。自分の仲間のところへ行く、たいへんうれしい」
「帰ってからお前はどうする。また野生にかえって、人肉を食べて前のような野蛮人になるのか?」
彼は怪訝《けげん》な顔をして頭を横に振りながら、「いいえ、フライディは彼らにりっぱに暮らすよう、神に祈るよういう。また穀物のパンと家畜の肉とミルクを食べ、人間は食べないように彼らにいう」といった。
「そんなことをしたらお前殺されるぞ」というと、彼は深刻な顔をしたが、「いいえ、彼らはわたしを殺さない。彼らは喜んで愛し学ぶ」という。つまり、彼らは喜んでものを学ぶだろうという意味である。ボートでやって来たひげを生やした人々から彼らはいろいろなことを学んだ、とつけ加えた。みんなのところへ帰りたいかとさらに尋ねると、かすかな笑いをもらして、そんなに遠方まで泳げない、と答えた。それじゃ丸木舟をこしらえてやろうというと、旦那様《マスター》もいっしょなら行きます、といった。
「わたしが行くって。じょうだんじゃない。わたしが行ったら食い殺されてしまう」
「それ違う。わたし彼らがあなた食べないようにする。あなたを大へん愛するようにする」
彼のいう意味は、わたしが敵を殺し彼の命を救った顛末《てんまつ》を話し、みんながわたしを愛するように努める、ということらしかった。遭難のため上陸した十七人の白人たち、彼のいわゆるひげを生やした人々に、彼らがどんなに親切であったかも、けんめいに説明したのであった。
この時以来、思いきって海を渡り、このひげの連中、スペイン人かポルトガル人に相違ないこの連中と合流できるかどうかやってみようという気になったことを白状する。もし合流できたら、大陸のことでもあり、大ぜいの仲間でもあるので、そこから脱出する方法も見つかるに相違なかった。沖合四十マイルもある離れ小島から、助ける者もなくただ一人で、脱出を企てるのとはわけが違った。
そこで数日後、わたしはフライディを仕事に連れ出し、話のついでに、国へ帰るのに必要なボートをやろうといって、島の反対側においてあったわが決速帆船のところへ連れていった。いつも水中に沈めておいたので水中から引き上げて彼に見せ、二人で乗ってみた。
彼は舟を操縦することがきわめて巧みであって、わたしの倍くらい早く舟を走らせることができた。舟が岸に着いた時彼にいった。
「どうだ、フライディ、いっしょにお前の国へ出かけてみようか」
そういわれてもいっこう気乗りのしない顔をした。それは遠く沖に出るには小さすぎると考えたらしい。もっと大きなボートもあるといって、その翌日、以前作るだけは作っておいたが水に浮かべられなかった最初の丸木舟のあるところへ彼を案内した。これだけ大きければだいじょうぶだと彼はいったが、なにしろ放ったらかしたまま二十二、三年も経《た》っていたので、日に当たって乾ききって割れ目だらけで、朽ち果てたも同然であった。
このくらいの舟なら申し分はない。「食糧も飲料もパンもじゅうぶんたくさん」積めるといった。彼の話しぶりはこんなぐあいであった。
要するに、このころでは彼といっしょに大陸に渡るという心がまえがすっかり固まっていたので、これと同じくらいの大きさの舟を作ろう、お前はそれに乗って国に帰ることにしろといった。彼はそれにひと言も答えず、ひどく真剣な悲しそうな表情を浮かべた。どうしたのだと尋ねると、逆にこう尋ねてきた。
「なぜあなたはフライディに怒っている。わたし何をしたか?」
そりゃまたどういうことか、わたしは怒ってなんかいるものか、といってやった。
「怒っていない? 怒っていない?」と何度もくり返していって、「じゃなぜフライディを国へ追い返すのか?」
「だって、フライディ、お前は国へ帰りたいといったじゃないか」
「ええ二人で行きたい。フライディ帰る、旦那様《マスター》帰らない、それ欲しない」
要するにわたしといっしょでなければ帰るつもりはない、ということだった。
「わたしが行ってだな、フライディ、いったい何をすることがあるだろうか?」
彼はこれを聞くなりわたしのほうに向き直って、「旦那様《マスター》はいいことをたくさんする。土人たちに教えてりっぱな真面目なおとなしい人間にする。神を知り、神に祈り、新生活をしろとみんなに教える」
「だがフライディ、お前は何も知らないからそんなことをいうが、わたしはもともと無学な人間なんだ」
「いやよく知ってます。あなたはわたしを教えてりっぱな人間にする。彼らを教えてりっぱな人間にする」
「いや、だめだ、お前はやっぱり一人で帰ってくれ。わたしは前のようにここで一人で暮らすから、そうさせてくれ」
この言葉を聞くとまた当惑した顔をして、いつも腰につけていた手斧のところへ走っていってその一挺をとり上げ、わたしのところへ戻ってきてそれを手渡した。
「これでどうしようというのか?」
「これでフライディを殺す」
「なんのために殺さなければならないんだ?」
すると彼は即座に、「なんのためにあなたはフライディを追い出す。これでフライディを殺せ、フライディを追い出すな」
彼はこれを真剣にしゃべっていて、目には涙さえ溢《あふ》れていた。要するに、これで、彼がわたしをどのくらい深く愛しているか、どんなに固い決意をもっているか、はっきりとわかった。それで、わたしのところにいたいと願っているかぎりは、ぜったいに追い払うことはしないといってやった。これはその後もしばしばいったことである。
けっきょく、彼との話し合いで彼のわたしに対する愛着はすっかり安定していること、何ものをもってしても彼をわたしから引き離すことができないことが判明したのであるが、彼が自分の国へ帰りたがる希望の根底には、ひとつには同胞に対する熱烈な愛情と、もうひとつには同胞を教化してもらいたいというわたしへの願望とがあることを知った。教化などということは自分でも考えたこともなく、したがって引き受ける考えも意志もまったくなかった。しかし、十七人のひげを生やした人間がそこにいるという話のようすから、前にいったとおり、脱出を試みたいという気持ちはいっそう強くなった。それで、もはやぐずぐずしている余裕はなく、この航海に必要な大きな丸木舟を作るのにふさわしい大木を捜しに、フライディを連れて出かけた。
島にはいくらでも木があって、けちな丸木舟などでなく、相当大きな船から成るちょっとした船隊が作れるほどであった。しかしわたしが注意したいちばん大切なことは、舟ができあがったらすぐ進水させられるように、水に近いところにその木を見つけることであった。最初の失敗をくり返さないためである。
とうとうフライディが適当な木を一本見つけた。丸木舟にはどんな種類の木がいちばん適しているか、彼のほうがわたしよりよく知っていた。実際、われわれが切り倒した木がなんという木かわたしは今日まで知らないというありさまだ。ただそれはファスティックと呼ぶ木によく似ている、あるいはそれとニカラグワ木の≪あいのこ≫で、色合いと香りがそっくりだということくらいしか知らなかった。
フライディはボートに仕立てるのにこの木を焼いて空洞《くうどう》を作ると主張した。わたしは道具でくり抜くほうがよいといって道具の使い方を教えると、彼はさっそくこれを器用にやり、一か月ばかりの重労働で、われわれはみごとなものを作り上げた。彼に斧《おの》の使い方を教え、二人でその外側をけずり、ボートそっくりの形に仕上げた。そのあとで、いわばインチ刻みというやり方で大きな≪ころ≫の上を少しずつ転がして水辺までもっていくのに二週間近くかかった。水に浮かんだ姿を見ると、これなら二十人は優に乗れそうであった。
水に浮かべてみると図体がひどく大きいのに、フライディはじつに巧みに、またす早くあやつり、向きを変えたり漕いだりするのを見てじつに驚いてしまった。そこで、どうだこれで海に乗り出す気はないか、いや二人で乗り出してみたらどうか、と彼に聞いた。
「だいじょうぶ。大風が吹いてもこれなら乗り出せる」という。しかし彼が少しも知らない、ある計画をもっていた。つまり、マストと帆を作り、錨と錨索《いかりづな》で艤装《ぎそう》することだった。マストは簡単に手に入れることができた。この島には杉が多く、すぐ近くにも真っすぐな若い杉が一本あったのでそれを選び、フライディにそれを切らせ、それを格好よく整えるようにいろいろ指図をした。
ところが帆のほうは自分でなんとか始末をつけなければならなかった。古い帆、いや古い帆の切れっぱしはたくさんあったはずだ。けれどもなにしろ二十六年も経っているし、こんなふうに用いる機会があろうとは夢にも思わなかったので、いい加減にしまいこんでいた。みんなぼろぼろに腐っているに違いないと思ったが、果たして大部分はだめになっていた。それでもかなりよさそうなのが二枚見つかったので、これを材料にして仕事にとりかかった。針もない次第だから、読者の想像どおり、苦心|惨憺《さんたん》、無器用な手つきでさんざん暇をかけて、ともかくも三角形のはなはだ見栄えのしないものを縫い上げた。
これはイギリスでいう三角帆に似ていて、そのすそには円材を入れ、上部には短い斜檣《しゃしょう》を張ったもので、これは普通大きな船に搭載《とうさい》してある長艇には必ず付属しているもので、わたしが操縦を得意としているものであった。この物語の初めの部分で述べたように、バーバリーから逃げだす時に乗ったボートについていたのも、まさにこれであったからである。
この最後の仕事、すなわちマストと帆の装備を整えることに、二か月近くもかかった。すべてを完璧《かんぺき》にしようと思ったからで、風上に向かう場合に助けになろうかと、小さな支索《なわ》と前檣《ぜんしょう》縦帆もつけることにした。その上さらに、船尾には舵《かじ》さえとり付けた。わたしはまことに下手くそな船大工であったが、このような装備がどんなに役に立つか、いやどんなに必要であるかをよく知っていたので、精根を傾けてその完成に努力し、とうとうまがりなりにもやりとげた。ずいぶんへまなことをやって失敗も重ねたが、そんなことも勘定《かんじょう》に入れれば、ボートそのものを一隻作るのと同じくらいの精力をこれに注いだわけであった。
これもすっかり完成したので、こんどはこの舟の操縦に関することをフライディに教えなければならなかった。彼は丸木舟の漕ぎ方はよく知っていたけれども帆や舵のことは全然知らなかったからだ。それで、わたしが舵ひとつで舟をあやつりながら行ったり来たりするのを見、舟が針路を変えるたびに、あっちこっちと帆が向きを変えたり、風をはらんだりするのを見た時、彼はまったく驚いて唖然《あぜん》とした。重ねていうが、彼がこれを見た時は呆然《ぼうぜん》としてしまったのだ。それでも、ちょっとした手ほどきでこういうことにすっかりなじんできて、ひとかどの船乗りになった。ただ羅針盤《らしんばん》のことだけはさっぱりのみ込めなかったようである。しかし考えてみれば、このあたりは曇った日は少なく、霧《きり》のかかることはほとんどなかったから、羅針盤を使う必要はまずなかった。夜はいつも星が見えたし、昼間は陸地が見えたからだ。例外は雨季だが、雨季には陸上だろうが海上だろうが、あえて出歩こうとするものは誰もなかった。
いよいよこの地で捕われの生活を始めてから二十七年目を迎えた。もっともこの男といっしょに暮らした最近の三年は、それまでの生活とはまったく違ったものであったから、計算から除外すべきであるかも知れない。わたしは最初の場合と同じように、神の恩寵《おんちょう》に対する感謝をもって上陸の記念日を迎えた。もし最初のころでさえ神に感謝するいわれを認めたとすれば、現在はなおさらであった。神の加護がわたしの上に加えられている証拠はさらに加わったし、やがて程なく救い出される見込みもじゅうぶんだったからである。脱出は間近い、この島にはあと一年とはいまい、という抑えることのできない予感があった。けれども農耕作業は依然として続け、掘ったり植えたり、柵を作ったりすることは以前のとおりであった。葡萄《ぶどう》を集めて干すことも、必要なことはすべて前どおりにやった。
そうこうしている間に雨季にはいった。ほかの季節より家の中に閉じこもっていることが多くなった。そこで新しい丸木舟を、この話の初めのころにいったように、本船から筏《いかだ》を降ろして上陸した例の入江のところに引き入れて、できるだけ安全に確保することにした。満潮の時に岸近くに引き上げておいて、舟を入れるにちょうどいい大きさで、舟を浮かべるにちょうどいい深さのドックをフライディに掘らせた。それから潮がひいた時、その入口に丈夫な堰《せき》をこしらえて海水がはいってこないようにした。これで海の潮では濡れる心配はなくなった。雨を防ぐためには木の枝を厚く重ねておいて、まるで家の屋根を葺《ふ》いたようにした。
このようにしてわたしが冒険を試みようと予定している十一月と十二月の到来を待った。天気が定まってくると、その快晴の天候とともにわたしの冒険の思いも戻ってきて、毎日航海の準備にとりかかった。まず最初に、航海用として一定量の食糧の貯蔵をすることであった。一、二週間経てばドックを開いて舟を海に出すことにしていた。
ある朝のこと、わたしはこのような仕事をいそがしくしていた時、フライディを呼んで海岸へ行って亀を一匹|掴《つか》まえられたら掴まえてこいと命じた。亀はたいてい一週間に一回、肉と卵を食用にするため捕えることにしていたのであった。フライディは出かけてからあまり時間も経たないのに、とんで帰ってきて、まるで宙を飛んで足が地につかないかのように、外側の壁も一気に飛び越えてかけこんできた。こちらから声をかけるひまもあらばこそ、大声で呼んだ。
「旦那様《マスター》、旦那様《マスター》、ああ、悲しい、ああ、わるい」
「いったいどうしたんだ、フライディ?」
「あっちに、あすこに、丸木舟が一、二、三、一、二、三」
彼のいい方から丸木舟が六隻来たと判断した。しかし、よく尋ねてみると三隻であることがわかった。
「だいじょうぶ、フライディ、こわがることはないぞ」といいながら、わたしはけんめいに彼をはげました。けれども可哀そうに、彼はひどく怖気づいてしまった。彼の頭にあることは、蛮人たちが彼を捜しにきて、見つけたら体をきり刻んで食べてしまうということだけだった。可哀そうに恐ろしさのあまり身を震わせているばかりで、どうしていいかわたしも途方にくれた。それでもできるかぎり慰めてやり、危いのはわたしだって同じことだ、わたしだって食われてしまうだろう、といって聞かせ、「だが、われわれは彼らと戦う決心をしなければならん。お前戦えるか、フライディ」というと、「わたし撃つ。しかしむこうたくさん来る」
「そんなことは心配ない。鉄砲を撃てば死なない奴でも恐ろしくなって逃げだすに違いない」
わたしはそういって、さらに、もしわたしがお前を守ってやると決心したら、お前もわたしを守り、助け、わたしの命ずるとおりになんでもするかと彼に尋ねた。
「旦那様《マスター》が死ねというなら、わたし死ぬ」と答えた。
そこでラム酒を持ってきてたっぷり一杯飲ませてやった。ラム酒は倹約《けんやく》していたのでまだたくさん残っていたのだ。
飲み終わると、いつもわれわれが携行している二挺の鳥銃を持ってこさせ、小型の拳銃弾くらいの大きさの白鳥弾をつめさせた。わたしはマスケット銃四挺にそれぞればら弾《だま》二個、小弾五個をこめ、二挺の拳銃にもそれぞれ二個の弾をつめた。わたしはいつものように抜き身の大刀を腰にぶら下げ、フライディには彼の手斧を持たせた。
このように用意がすっかりできたので、望遠鏡を携えて何か偵察できるかと岩山の中腹まで登っていった。望遠鏡で見ると、たちまち、蛮人が二十一人、捕虜《ほりょ》が三人、丸木舟三隻とが認められた。彼らのやろうとしていることは、この三人の捕虜の肉を食べて勝利の饗宴(じつに野蛮な饗宴)を張ることらしかったが、前にもいったとおり、彼らにとっては普通のことにすぎなかった。彼らが上陸した地点はフライディが逃走したところではなく、もっとわたしの入江に近いところであることもわかった。そこは海岸が低く、茂った森がほとんど波打ちぎわまで迫っていた。彼らがとりかかろうとしている鬼畜のごとき行為に対するむかつくような嫌悪の情もさることながら、こんな所に上陸したことが、ひどくわたしの怒りをかった。
で、さっそくフライディのところへ降りてきて、これからあいつらを襲ってみな殺しにするつもりだが、自分を助けてくれるかと尋ねた。彼の恐怖の念はもう鎮《しず》まっていて、彼に飲ませたラム酒がきいてだいぶ意気もあがっていたので、すこぶる元気に、死ねといわれればよろこんで死ぬと、前と同じようにくり返していった。
わたしはこのように憤激《ふんげき》にかられて、まず第一にすでに弾をこめてあった武器を二人で分けた。フライディには拳銃一挺をやって皮帯にささせ、肩には三挺の銃をかつがせ、わたしは拳銃一挺と残りの銃三挺を持った。この身構《みがま》えでわれわれは進んだ。
わたしはポケットにラム酒の小壜《こびん》を入れ、フライディには補充の弾薬のはいった大きな袋を持たせた。それから、わたしのうしろにくっついて進み、命令があるまでは発砲はもちろん、やたらに動いたり、その他何ごともしてはいけない、その間はものもいってはいけないと、厳命を下した。こういった態勢で、入江をこえ、森の中へはいるために、約一マイルほど右手に迂回《うかい》していった。彼らに見つからないうちに射程内にはいるためであったが、望遠鏡で見たところでは、それはむずかしくなさそうであった。
こうして進んでいくうちに、以前にも考えたことがまた頭に浮かんできて、決心がにぶってくるのを感じた。もちろん彼らの数が多いのに恐怖をいだいたわけではない。なにしろ相手は裸で武器ひとつ持っているわけではないから、たしかにわたしのほうが、たとえわたしが一人であっても、遥かに有利であった。
わたしの頭に浮かんだのはそんなことでなく、自分になんらの害を加えたこともなければ、そのつもりもない連中を襲い、あえて自分の手を血で染めなければならないという、いかなる使命、いかなる動機、いや、いかなる必要さえあるのか、という疑念であった。
わたし自身に関するかぎり、彼らにはなんの罪もなく、その残虐な習慣は、みずから自身の呪われた災《わざわ》いにすぎなかった。彼らだけでなく、あの地方の他の種族とともに、彼らがこのような愚かな非道な所業におちたのは、じつに神に見棄てられたひとつの証左《しょうさ》であって、わたしなどが彼らの行動を裁くよう求められるいわれはなく、いわんや神の裁きの執行者になるいわれはなかった。必要とおぼしめされれば神みずから立って罪状を問いただし、種族としての罪に対し種族としての懲罰を彼らの上に加えるはずである。その時の至るまでは、それはわたしには無関係なことである。フライディならば懲罰を加えるのも正しいであろう。なぜならば彼は公然たる敵であり、この連中とは戦いを交《まじ》えていたからである。したがって彼が彼らを襲うのは正当であった。けれどもわたし自身についてはそうはいえなかった。
道すがらこういうことがわたしの心に強くのしかかってきて、結局、彼らの近くまで行ってその野蛮な饗宴を眺めるだけにとどめ、それから先は神の指図するままに行動しようと決心した。今は予想できないが、何かわたしがとび出して行かねばならない事態が起こらないかぎりは、彼らに手出しは無用だと考えた。
この決心でわたしは森の中へはいっていった。フライディをすぐあとに従えて、極度の緊張と沈黙を守って、彼らに近い側にある森のはずれまで辿《たど》りついた。わたしと彼らの間は森のその一隅《いちぐう》だけが隔てているにすぎなかった。ここでそっとフライディを呼んで、森の出はずれの一偶にある大きな木を指さし、その木のところへ行って、蛮人たちが何をしているかはっきり見えるかどうか調べてこいと命じた。
彼は命じられたとおりにし、さっそく戻ってきて、そこから彼らの動静がはっきり見え、彼らは火のまわりに集まって捕虜の一人の肉を食っており、もう一人の捕虜が少し離れたところに体をしばられて砂の上に転《ころ》がされているが、これもすぐ殺されるだろう、と報告した。
この最後の言葉でわたしの心はかっと燃え上がった。もう一人の捕虜というのは彼の種族ではなく、ボートに乗って流れついたと前に話したことのある、あのひげの生えた連中の一人だといった。ひげの生えた白人と聞いただけでぞっとしてしまった。自分で大木のところへ行って望遠鏡で覗《のぞ》くと、明らかに一人の白人が蒲《がま》か藺《い》のようなもので手足をしばられて、浜辺に転《ころ》がされていた。たしかにヨーロッパ人で、衣服を着けていた。
現在の地点から約五十ヤードほど彼らに近いところに一本の木と、その先に小さな茂みがあった。少し迂回《うかい》していけば見つからずに行けそうで、そこまで行けば彼らは射程の半分のところにはいることになると思われた。わたしは極度に憤激していたが、じっと怒りを抑えて約二十ヤードほど後退してから、潅木《かんぼく》の中へ身を隠し、それにかくれて伝わってゆくと、さっき見た木のところに出、もう少し行くと小高いところにたどり着いた。そこから見ると、前方約八ヤードのあたりに彼らの動静が手にるように見られた。
もはや一刻の猶予《ゆうよ》もゆるされなかった。というのは、獰猛《どうもう》な十九人の蛮人は肩を並べて地面に坐りこんでいて、ちょうど今仲間の二人をやって、哀れなキリスト教徒を惨殺《ざんさつ》し、その、ばらばらな肢体《したい》を焚火《たきび》のところへ持ってこさせようとしていたからだ。二人はかがみこんで捕虜の足もとの縄《なわ》をほどこうとしているところだった。わたしはフライディに向かっていった。
「いいか、フライディ、わたしが命じるとおりにやってくれ」
彼がはいといったので、「それじゃ、わたしがするのを見ていて、そのとおりにするんだぞ。すこしでも間違ったらだめだぜ」といって、わたしはマスケット銃一挺と鳥銃を地面に降ろした。フライディもそのとおりに自分のを降ろした。もう一挺のマスケット銃で蛮人に狙《ねら》いをつけ、彼にもそうしろと命じた。用意はよいかと聞くと、用意はよいと答えた。
「さあ、撃《う》て」といって、わたしもその同じ瞬間に発砲した。
フライディの狙《ねら》いはわたしより遥かによく、二人を殺し三人に負傷させたが、わたしのほうは一人殺し、二人を負傷させただけだった。ご想像のとおり、彼らの周章狼狽《しゅうしょうろうばい》ぶりは非常なものだった。負傷しなかった者はみんなとび上がったが、どっちへ逃げたものか、どちらを向いたものかもすぐにはわからなかった。どこからこの死の弾が来たか、全然見当がつかなかったからだ。フライディは命じられていたとおり、わたしのすることを見のがさないようにじっとわたしに目をすえていた。わたしが最初の射撃がすむやいなや、その銃を投げ出し、鳥銃を取り上げると彼も同じようにした。わたしが銃の打ち金を起こして狙いをつけるのを見ると、彼もまたそのとおりにした。
「用意はいいか、フライディ」と聞くと、用意はよい、と答えた。
「さあ、ここぞと、ぶっぱなせ」といってわたしは狼狽《ろうばい》している土人どもの中に撃ちこんだ。フライディもそれにならった。銃にはいわゆる白鳥弾、つまり小型の拳銃弾がこめられていたので、斃《たお》れたのはわずか二人であったが、負傷者は大勢でた。ほとんど全部ひどい傷をうけ、血だらけになって、狂人のように悲鳴を上げて逃げまどっていた。負傷者のうち三人はまもなく倒れたが、まったく死んだのではなかった。
発砲した後の銃を投げ出し、また弾のはいっているマスケット銃を取り上げながら、わたしはフライディに「さあ、わたしについてこい」というと、彼は勇敢《ゆうかん》に立ち上がった。そこでわたしは森からとび出して彼らの前に姿を現わした。フライディはぴったりわたしのあとについていた。彼らの目にわたしの姿が映ったと思った瞬間、わたしはできるかぎりの喚声《かんせい》を上げ、フライディにもそうしろと命じた。なにしろ武器を身につけているので、そう早くも走れなかったが、それでもいっしょうけんめいに走って哀れな犠牲者のところへとまっしぐらにかけていった。
この犠牲者は前にもいったとおり、蛮人の一団が坐っていた所と海の中間の浜辺に横たわっていた。まさに彼を片づけようとしていた二人の屠殺《とさつ》者は、われわれの最初の発砲でびっくり仰天して犠牲者をほうりっぱなしにし、海辺のほうへ一目散《いちもくさん》に逃げ、一隻の丸木舟にとびこんだところだった。彼らのほかもう三人の者も同じほうへ逃げていった。
わたしはフライディに向かってもっと先へ出て彼らを撃てと命じた。彼はただちにわたしの意図をのみこんで、四十ヤードほど走って彼らに近づき、銑撃をあびせかけた。彼らがひと塊《かたまり》となってボートの中にぶっ倒れるのが見えたので、全部が撃ち殺されたと思った。しかしそのうち二人はまたすぐに立ち上がるのが見えた。それでもけっきょく、フライディは二人を殺し、一人を傷つけたことになった。その怪我人は死んだように舟底に倒れたままだった。
従僕のフライディが彼らを射撃している間に、わたしはナイフを取り出し、犠牲者をしばっていた蒲《がま》の綱を切り、その手足を自由にしてやり、助け起こしてポルトガル語で君はどういう人かと尋ねると、「キリスト教徒」とラテン語で答えたが、ほとんど立つこともしゃべることもできないほど疲れ、衰弱しきっていた。ポケットから壜《びん》をとり出して彼に渡し、飲みなさいと手まねで示すと、彼はそのラム酒を飲んだ。パンをひと切れやるとこれも食べた。そこで、どこの国の人かと尋ねるとスペイン人だといった。
少し気力が回復すると、あらゆる身振り手振りをしながら、救われてどんなに恩義をこうむったかをわたしに告げた。わたしは知っているかぎりのスペイン語を使って、「ねえ君、話はあとにしよう。今は戦うことだ。少しでも力が残っているならこの挙銃と剣をとって打ちまくってやれ」といった。
彼はその武器をありがたく受けとった。武器が手にはいるやいなや、まるで新しい活力を注入されたかのごとく、鬼神さながらに殺人鬼の群れにとびかかってゆき、一瞬のうちに二人までたたき切ってしまった。それというのもありようは、すべてのことが彼らにとってはまったくの不意打ちで、われわれの銃声にあわてふためき、恐ろしさにすくみ上がって腰をぬかし、逃げようにも力が抜けてしまい、彼らの肉体がわれわれの弾に抗しようがないと同然であったのだ。
フライディが舟に乗っているのを撃った五人の場合もこれと同様だった。三人は受けた傷のために斃《たお》れたが、あとの二人は恐怖のために斃れたのであった。
わたしは自分の拳銃と剣をスペイン人にやってしまったので、いざとなればいつでも撃てるように、まだ発砲していないほうの銃をかかえたままでいた。フライディを呼んで、われわれが最初に発砲したさっきの木のところへ走ってゆき、発砲したあと放り出してある銃を持ってこいと命じた。
彼はものすごい早さでそれを持ってきた。そこで自分の持っていたマスケット銃を彼にわたし、わたしは腰を降ろして他の鉄砲全部にもう一度弾をこめ始めた。必要な時には取りにこいと二人にいっておいた。わたしが弾をこめている間に、スペイン人と一人の蛮人の間に、ものすごい格闘が始まった。この蛮人は彼ら特有の例の大きな木刀をふりかざして、スペイン人に斬《き》りかかったのだ。もし、わたしがこれを妨害しなかったならば、あの木刀にかかってはスペイン人のほうが先に殺されるところだった。
弱っていたが勇敢無比《ゆうかんむひ》なスペイン人はこの土人とかなり長いこと戦っていて、相手の頭に二か所も大きな傷を負わせたが、この蛮人はさすがに元気旺盛なつわ者で、格闘の末、体力の衰えたスペイン人を投げ倒し、その手から剣をもぎ取ろうとした。下になっていたスペイン人はとっさの機転で剣を手離し、腰帯から拳銃を引きぬいて相手の男の胴中に弾をうちこみ、その場に殺してしまった。助けようと思って走っていったわたしが近づく暇もなかった。
自由な行動を許されていたフライディは、手に持った手斧だけを武器として逃げまどう敵を追跡していた。前にいった最初の射撃で傷ついて倒れた三人をまずこの手斧で片づけ、次々に追いついた相手も同じく片づけた。スペイン人もわたしのところに銃をかりにきて、鳥銃を受けとると、それで二人を追いかけ、両方に傷を負わせたが、なにしろ走れないものだから森の中へ逃がしてしまった。フライディがこの二人を追跡し、一人を殺したが、他の一人は彼もかなわないくらい足が速く、手負いながらも海中にとび込んで、丸木舟に残っていた男らのところへ必死になって泳いでいった。そこでこの丸木舟の中の三人と、生死不明のもう一人の負傷者とが、総勢二十一人の中でわれわれの手をのがれた全部であった。残りの内訳《うちわけ》は次のとおりである。
三名 木のもとからの最初の射撃で死んだもの。
二名 次の射撃で死んだもの。
二名 丸木舟の中でフライディに殺されたもの。
二名 初め傷を受けたもののうち、同じくフライディに殺されたもの。
一名 同じくフライディに森の中で殺されたもの。
三名 スペイン人に殺されたもの。
四名 負傷して倒れていて殺されたもの、またはフライディに追跡されて殺されたもの。
四名 丸木舟で逃げたもの。そのうち一人は重傷で生死は不明。
合計 二十一名
丸木舟に乗った連中は、銃の射程外にのがれようとけんめいに漕いでいった。フライディは二、三度彼らを狙って撃ったが、誰かに当たったかどうかわたしにはわからなかった。フライディは丸木舟のひとつに乗って追跡したいと願った。事実、わたしも彼らを逃がしてしまったら一大事だと思った。もし逃げ帰って、仲間に事の仔細《しさい》を知らせたら、二、三百の丸木舟で反撃を企て、数にものをいわせて、われわれをむさぼり食ってしまうかも知れなかった。そこで海上まで彼らを追跡することに賛成し、彼らの丸木舟のひとつに走っていってとび乗り、フライディにあとについてこいと命じた。
ところがその丸木舟に乗って驚いた。そこには先のスペイン人と同じく、屠殺《とさつ》のため手足をしばられたまま生きている男が一人転がっていたのだ。その男は何がなんだかわからず、ただ恐怖のためほとんど死んだようになっていた。首と踵《かかと》をきつくしばられていたので舟の外がのぞけなかったし、長いことしばられたままになっていたので生気もほとんどなくなっていた。わたしはすぐさまその体をがんじがらめにしていた蒲《がま》か藺《い》の綱をたち切り、助け起こそうとしたが、立つことも口をきくこともできず、ただ哀れな声を出して呻《うめ》くばかりだった。綱を解かれたのは殺されるためだと思ったらしかった。
そこへフライディが来たので、その男にもう助かったのだ、といってやれと命じ、また壜《びん》をポケットから出してこの哀れな男にひと口飲ませてやれと命じた。酒の勢いと、救われたのだという言葉で生気を取り戻して、彼はやっと舟の中で身を起こした。しかし、この男が何かいおうとしているのを聞こうと顔を覗きこんだ時のフライディのしぐさ、これを見て感動のあまり涙を流さない者はまずなかったろう。どんなに彼がその男に接吻し、抱きつき、抱きしめ、泣き、笑い、絶叫し、とびまわり、踊り上がり、歌ったことか。
それからまたもや泣き出し、両手を握りしめ、自分の顔や頭をなぐりつけ、かと思うとまた歌ったり踊ったり、まるで狂人そっくりの狂態を演じたのだ。わたしに向かって口を開かせ、いや、どうしたわけかを話させるのにはずいぶん手間がいった。やっと少し落ち着いたとき彼がいったことは、その男はフライディの父だというのであった。
こんな哀れな野蛮人でも父の姿を見、父が死から救われたのを見て、こんなに有頂天になり、こんなに子としての愛情を示すものかと、そのありさまを目の前に見たわたしの感動は容易に表現できるものではない。この感激の情景のあとでさえ、彼の見せた狂気のような愛情の発露《はつろ》はその半分もわたしには表現できないのである。
彼は何度も何度も舟へはいったり出たりした。舟の中へはいると、父のそばに坐って自分の胸をひらき、父の顔をぴったりと胸に押しつけ、半時間もそうやっていたわっていた。そうかと思うと、しばられていたため疲れて硬《こわ》ばった腕や足くびを両手でさすったり揉《も》んだりした。事情を見てとったわたしは壜《びん》から少量のラム酒を出して、これでこすってやれといってやった。その効果はてきめんだった。
こんなことで、野蛮人たちが乗って逃げた丸木舟を追跡することはやめになった。彼らはもう遠く去り、ほとんど見えなくなっていた。しかし、われわれは跡を追わなくて幸いだった。というのは、あれから二時間と経たず、彼らが道程の四分の一も行きつかないうちに、強風が吹き出したからである。風は夜どおし猛烈に吹き続け、しかも北西の風ときていたから、この逆風では彼らの丸木舟が難を免れたとは思われないし、自分たちの海岸にたどり着けたとは、とうてい考えられなかった。
ところで話はフライディのことにもどるが、彼は父につきっきりなので、しばらくは引き離すにしのびなかった。それでも、少しはそばを離れられるらしいと思ったので彼を呼び寄せた。彼はひどく上気嫌でとび跳ね、笑いながらやって来た。父にパンをやったかと尋ねると、頭を振って「いいえわるい犬、わたしみんな食べちゃった」と答えた。そこで、自分の食糧用に携えてきた小さな袋の中からひと切れのパンを取り出して与え、ついでに、フライディ自身に飲ませようとラム酒を一杯ついでやったが、これは飲もうともしないで父親のところへ持っていった。ポケットには乾燥|葡萄《ぶどう》が二房か三房はいっていたので、それもひとつかみ父親にやるように彼に渡した。
彼はこれらのものを父にわたすとすぐさま、何か魔術にでもかけられたように舟からとび出してかけていった。その速いことといったら、まったく彼ほど足の速い人間をわたしは見たことがなかった。いわば、あっという間に消えてなくなり、いくらあとから呼んでも叫んでもけっきょく同じことで、さっと走り去ってしまった。しかし十五分も経つと、行く時ほど速くはなかったが、やはり足早に帰ってくるのが見えた。近づくに従って歩速がのろくなるのがわかった。手に何か持っていたからである。
わたしのそばに来たのを見ると、彼が父に水を飲ませるために土器の壷をとりに家に行ってきたのだとわかった。彼はまたふた切れのパンも持ってきたのだった。パンはわたしに渡し、水のほうは父親のところへ持っていった。じつはわたしもひどく喉が渇いていたので少し飲んだ。この水のほうが、先にわたしがやったラム酒の類よりはるかに父親の生気を取り戻すのに効き目があった。渇きのためにほとんど気が遠くなるばかりになっていたからだ。
父親が飲みおえるのを見て、まだ水が残っているかどうかとフライディを呼んで聞いてみると、残っている、というので、父親同様、ひどく喉が渇いて困っているスペイン人にも回すように命じた。フライディが持ってきたパンのひと切れもスペイン人に回した。
スペイン人はすっかり弱り果てて、木陰の草地の上に横になっていた。体を手荒くしばられていたために、四肢《しし》は硬ばりむくんでいた。フライディが水を持っていくと、彼は起き上がって水を飲み、パンをもらって食べ始めるのを見て、わたしもそばへ行ってひと掴みの乾葡萄を与えた。すると、彼はおよそ人間として表わしうるかぎりの感謝の眼差をもって、わたしの顔をまじまじと見つめた。戦う時にはあれほど活躍したのに、今はすっかり弱り果てて、足腰立たぬありさまであった。それでも二、三度立ち上がろうとやってみたが、踝《くるぶし》がひどく腫《は》れて痛いらしく、やっぱりだめだった。そこでじっと坐らせ、フライディに命じて踝をもませ、父親にしてやったように、ラム酒にひたしてこすらせた。
わたしが見ていると、この孝行者はスペイン人についていながらも、二分おきといわず、絶えず父親のほうへ目をやっては、父がもとのところにもとのままの姿勢でいるかどうかを確めているのだった。そのうち父の姿が見えないのに気がつくと驚いてとび上がり、ひと言もいわずに、足が地に触れるとも思われない例の迅速さで父親のところへかけていった。だが、いって見ると、体を楽にするために横になっただけであったのを知って、すぐさまわたしのところへ戻ってきた。
わたしはスペイン人に向かって、できるならフライディに助けてもらって起き上がり、丸木舟まで連れていってもらったらどうか、そうすればあとは彼がわれわれの住居まで運んでくれるし、そこでならわたしも面倒をみてやれるから、といった。しかし、さすがにがんじょうなフライディで、彼はさっさとスペイン人を背負い、丸木舟まで運んでいって丸木舟の縁にそっと降ろし、まず両足を内側に入れ、それから体を持ち上げて中に入れて静かに父親のそばに寝かしてやった。するとまたすぐに舟から出て、舟を水のほうへ押し出して岸辺づたいに漕いでいった。風がかなり強く吹いていたけれども、わたしが歩くよりも速く漕いでいって、無事に二人を例の入江まで運んだ。
そこに着くと二人はそのままにしておいて、もうひとつの丸木舟をとりに走っていった。わたしとすれ違う時にどこへ行くのかと言葉をかけると「舟をもっと持ってくる」と返事をした。そういうとまったく風のように走り去った。人間でも馬でもこの男のように走るものは確かになかった。
わたしが浜づたいにその入江に着いたとほとんど同時に、彼はもう一隻の丸木舟を入江に漕ぎ入れていた。そこで彼はわたしを向こう岸へ渡してくれ、さらに二人の新しい客を舟から助け出した。助け出しはしたものの、二人とも歩けなかった。さすがにフライディもどうしていいか途方にくれた。
これはなんとかしなければならないと思い、フライディを呼んで、二人にしばらく入江の岸に腰を降ろして待っているようにといわせた。わたしはさっそく彼らを乗せる一種の担架《たんか》をこしらえ、二人をそれに乗せてフライディと二人で前後から担《かつ》いで運んだ。ところが、われわれの壁、つまり要塞《ようさい》の外側まて来た時、それまでより大きな困難にぶつかって、はたと当惑してしまった。二人を壁の上を越えて中に入れることは不可能であったのだ。壁を壊すことは絶対にしたくなかった。仕方なしにまた仕事にとりかかった。フライディと二人で約二時間かかって、なかなかりっぱなテントを作った。古い帆でおおい、その上から木の枝を葺《ふ》いた。場所は外側の柵の外で、その柵とわたしが前に植えた若い木立の間の空地であった。このテントの中に手持ちの物で寝床を二つ作ってやった。それぞれ上等な藁《わら》の上に毛皮を一枚ずつ敷き、寝る時に上からもう一枚毛布をかけるようにしたのである。
わたしの島も今や人間の住むところとなり、臣下がたくさんできて豊かな気持ちがした。王者然としている自分を考えて、しばしば楽しい思いに耽《ふけ》るのであった。第一に、全土がまったく自分の所領であった。したがって絶対的な支配権がわたしにあった。第二に、わたしの家来は完全にわたしに隷属していた。わたしは絶対君主であり、立法者であった。彼らが生きているのはみなわたしのおかげである。したがって必要とあらば、いつでもわたしのために命をなげうつ覚悟ができていた。さらに特筆すべきことは、わたしには三人の臣下しかいないが、三人とも宗教を異にしていることである。従僕のフライディはプロテスタント、その父は異教徒で食人種、スペイン人はカトリック教徒であった。しかし、わたしは全領土を通じて良心の自由を許していた。ただし、これはついでの話である。
衰弱しきった二人の捕虜を助け出し、避難と休息の場所を与えるとすぐに、彼らの食事の手配を考えなければならなくなった。まず第一着手として、フライディに命じて生後一年目の山羊、つまり子山羊と普通山羊の中間のものをそのための一群の中から引き出して殺させた。それから自分でその後四半部を切りとって細かく刻み、フライディにはそれを煮てシチューをこしらえる仕事をさせた。やがてすこぶる美味《びみ》な料理ができあがった。自慢ではないが、大麦や米もはいっている、肉のたっぷりある上等のシチューができたのだ。
内側の壁の中では火は起こさないことにしていたので、この料理も外でしたわけで、これをみんな新しいテントに運び、彼らのため食卓を用意し、わたしもいっしょに坐って自分の晩餐《ばんさん》をとった。食べながら、わたしとしてはできるだけ一同を励まし元気づけてやった。フライディが通訳の労をとってくれたが、父親ばかりでなく、スペイン人に話すにもそうしてくれた。スペイン人は土人の言葉をなかなかよく話せたからである。
こうやって正餐、というより夕食をすませたあとで、わたしはフライディに命じて、丸木舟に乗ってマスケット銃やその他の火器をとりにやった。それらはその時間がなかったので、修羅場《しゅらば》に残してきたものであった。翌日には、蛮人たちの屍体《したい》を埋めさせた。これは太陽にさらされてすぐ悪臭を放つようになるからであった。同時に血なまぐさい饗宴の、おそらくおびただしい残骸を埋めることも命じた。とても自分でやる気にはなれなかったからである。いや、その場へ行っても、目を向けるに耐えられなかったであろう。
フライディは命じられたとおりに、几帳面《きちょうめん》にあと片づけをして、蛮人の気配なんか何も残らないようにしてくれた。そういうわけで、次に行った時には現場を示す指標になった森の一隅《いちぐう》以外には、どこがどこか、わたしには皆目《かいもく》見当がつかないほどであった。
わたしはこの二人の新しい臣下と話をするようになった。まず第一に、フライディに頼んで父親に尋ねてもらったことは、あの丸木舟に乗って逃げた蛮人どもをどう考えているか、またわれわれの手に負えないほどの軍勢で反撃してくる心配があるかどうか、の点であった。
父親の意見はまず第一に、あの連中が舟に乗って逃げ出した晩に吹いたあのような嵐は、とうてい乗り切ることはできまい、どうしても途中で溺れて死ぬか、ずっと南の異種族の住む海岸まで流されて食われてしまうだろう。難破して海に投げ出されたら溺れるにきまっていると同様、食い殺されることはまず間違いあるまいというのであった。
しかし、蛮人どもが無事に自分たちの海岸にたどり着いたとしたら、その後どう出てくるか、これはなんともわからないという。けれども、ごう音と発火という彼らには思いもよらぬやり方で襲撃されたので、まったく度肝《どぎも》をぬかれた彼らは、仲間のものはみんな人間の手でなく雷と稲妻に殺されたといい、姿を現わした二人、つまりフライディとわたしのことだが、これも武器を持った人間ではなく、彼らを滅ぼすために天から遣わされた霊か鬼神だというだろう、というのが父親の意見だった。蛮人たちが互いに自分たちの言葉でそういうことをどなり合っているのを聞いたのだから、これは確かだと彼はいった。その時、現に行なわれたように、人間が火を矢のように投げたり、雷鳴のように声を出したり、手を振り上げもせずに遠方から相手を殺すなどということは、彼らには全然想像もできないことだ、と彼はいうのであった。
この年とった蛮人のいうことは当たっていた。あとでほかの者から聞いたことによると、例の蛮人どもはあの後二度とこの島へ渡ろうとはしなかったとのことである。四人の連中(というところをみると無事に海を乗り切ったらしい)の報告を聞いて震え上がり、その魔法の島に赴くものは誰でも神々から発せられる火で滅ぼされると信じたという話であった。
これは後のことで、当時は知らないことであったから、ずいぶん長い間、絶えず戦戦兢兢《せんせんきょうきょう》として、わたしもわが全軍もつねに警戒を厳重にしていたのである。今ではわれわれは総勢四人で、敵の百人くらいならいつでも堂々と戦場で相まみえる気持ちはあったのである。しかし、いっこうに蛮人の丸木舟は現われる様子もなかったので、しばらくするうちに、彼らの来襲の心配も薄らいできて、またもや、本土に渡りたいという前々からの計画が頭をもたげてきた。
もしわたしがそこへ渡れば、自分を助けたということがあるのでその民族から歓待されることは間違いない、というフライディの父親の言葉にも大いに励まされたわけであった。
しかしスペイン人と真剣に話し合った結果、わたしの計画はもう少し考え直す必要があることがわかった。なんでも、海に流され命からがらその岸に漂着した彼の同国人やポルトガル人はなお十六人もあり、たしかに蛮人たちとは平和に暮らしてはいるが、生活必需品、いや食糧にさえ困っているということらしかった。それから彼らの航海の顛末《てんまつ》を尋ねてわかったことは、彼らの船がリオ・デ・ラ・プラタからハヴァナへ向かうスペイン船で、主として皮革と銀とからなる積み荷をハヴァナで降ろし、そこで入手できるヨーロッパの貨物を積みこんで帰るように指令を受けていた、ということである。船には別の難破船から拾い上げた五人のポルトガル人の船員がいたこと、彼ら自身の船が難破したとき、仲間が五人も溺死して、残った者もあらゆる危険をおかしてほとんど餓死寸前にこの食人種のいる海岸に漂着したが、いつ食い殺されるか戦戦兢兢としていたことなども彼の話で知った。
彼らは武器も若干《じゃっかん》持っていたが、火薬も弾丸もなかったので全然役に立たなかった。火薬は海水に浸って大半だめになり、残ったわずかな火薬は上陸した当座、食糧を得るために使ってしまった。こう彼は語った。
そこにいる仲間の連中はどうなると思うか、彼らは脱出の計画をもっているのかどうか、とスペイン人に尋ねてみた。彼のいうには、たびたびそのことで相談はしたが、船もなければ、船を造る道具もなし、食糧は何もなし、というわけで相談はいつも最後には涙と絶望の裡《うち》に終わるということであった。
もしわたしが脱出を促すような提案を出したとしたら、彼らはどう受けとるだろうか、またもし一同がこの島に来れば脱出もできなくはなかろうと思うが、それについての意見はどうか、と彼に聞いた。わたしは端的《たんてき》に、自分の生命を彼らに託《たく》した場合、彼らがわたしを裏切って虐待《ぎゃくたい》するのではないかということが一番心配だ、といった。由来、感謝の念というものは人間本来の徳ではなく、人間は何か利益が期待できるかぎりはりっぱな行動を示すけれども、いったん受けてしまった恩義に報いる気持ちからは、かならずしもそうするものではないからだ。彼らを救助するために奔走《ほんそう》したあげく、ニュー・スペインで囚人にされるのではたまったものではない。そこでは偶然必然いずれの事情にせよ、イギリス人がまぎれ込んだが最後、血祭りにあげられるのは必定《ひつじょう》だとされている。スペイン人の司祭たちの残酷な魔手に落ちて異端審問所《いたんしんもんじょ》に引き渡されるくらいなら、蛮人の手にかかって生きながら食われるほうがよほどましである。
しかしまた別な考えもできるので、もし彼らがみなこの島に来るなら、人手もじゅうぶんになるから、一同が乗れるくらいの大きな帆船を造って、南下してブラジルか、北上して諸島やスペイン領沿岸に行くことができるかも知れない。しかしその場合でも彼らに武器を渡したとたんに、わたしを暴力でスペイン人に引き渡してしまうというようなお礼をされたのでは、恩を仇《あだ》で返されたことになり、わたしは前にもまさる窮地に陥ることになるのだ。このようにわたしは話した。
彼は真底《しんそこ》からの率直さを示して答えた。彼らの現状はじつに惨憺《さんたん》たるもので、それを骨身にこたえて感じている。だから自分たちを救ってくれようという人にむごくするなどということは、その考えさえ唾棄《だき》するはずだ。もし差し支えなければ、この老人を連れて彼らのところに帰り、この問題について協議し、その結果をもってもう一度ここに戻ってきてもよい。厳粛《げんしゅく》な誓いを立てさせた上で、あなたを指揮者、船長としてその指揮に絶対に服従するという協定を結ばせてもよい。あなたに忠誠をつくし、あなたが認めるキリスト教国以外の国には行かず、あなたが意図する国に無事に上陸するまではあなたの命令に絶対に、かつ全面的に、服従することを聖礼典と福音書にかけて誓わせてもよい。そして、彼らの署名のある、そのための契約書を持ってきてもよい。こういうのである。
それから彼は、わたしの命令がないかぎり、自分の生きている間はわたしのそばを離れないことを、まず最初にみずから誓いたいと申し出た。もし万一自分たちの仲間の間に少しでも信義を破るものがあった場合、彼は血の最後の一滴にいたるまでわたしの味方に立つことを誓うといった。
彼らはみな慇懃《いんぎん》で正直な人間である。彼らは今、想像に絶するほどの窮地に陥っていて、武器も衣類も食物もなく、ただ蛮人の慈悲と裁量にすがって生きており、祖国に帰る望みはまったくないありさまである。だからもしわたしが救出に乗り出してくれたら、彼はその生死をわたしに託すだろう、というのであった。
このような明確な保証を聞かされては、できることなら彼らの救出に乗り出し、この老蛮人とこのスペイン人を彼らのところに遣《つか》わして交渉させようと決意した。ところが準備万端整っていざ出発という間際《まぎわ》になって、本人のスペイン人が反対を唱え出した。聞いてみるとじゅうぶんの慎重さもあり、また誠実さもあるので、納得せざるを得なかった。彼の忠告によって少なくとも半年は彼の仲間の救出を延期することにした。その間の事情というのはこうであった。
彼がわれわれのところに住むようになってから一か月ばかり経《た》ったころであった。その間わたしは彼に、神の加護のもとに、どんなふうに生活を支えてきたかを見せてやった。彼はわたしの麦や米の貯蔵量もはっきり見た。それはわたし一人分としてはあり余るほどだが、今は四人にふえたわが家族の分としては、少なくとも、かなり節約しなければ不足をきたすのであった。もし彼の同国人、彼のいうところでは生存者十四名、これがこちらに来た場合には、不足はいっそうひどくなる。かりに船を建造するとして、アメリカにあるキリスト教徒の植民地のどこかへ航行するために食糧を積みこむとなれば、その不足はもっともひどくなる。それで、彼のいうには、播種《はしゅ》用として回せるだけの種をまくにじゅうぶんな土地を彼と他の二人に開墾《かいこん》耕作させたほうが得策だろう。スペイン人の一行がやって来ても穀物の補給がつくように、もう一期の収穫を待ったほうがよいというのであった。
食糧不足はとかく不和のもとになり勝ちだし、一難去ってまた一難ではせっかく救っても救われたと思わないかも知れない。彼はいう、「ご承知のように、イスラエルの民はエジプトから救い出されて初めこそ喜んだのですが、荒野をさ迷ってパンの不足に悩むに至った時、自分たちを救ってくれた神御自身に向かってさえ反逆をしました」
彼の用心はまことに時宜《じぎ》を得、彼の忠告はまことに妥当であったから、彼の提案を至極もっともだと納得したばかりでなく、彼の誠実さにも大いに感心した。そこでわれわれ四人は、手持ちの木製器具で耕せるかぎり、開墾の仕事にとりかかった。
ほぼ一か月経ち、播種《はしゅ》の時期になるまでには、大麦を二十二ブッシェル、稲籾《いねもみ》を壷に十六杯分もまけるほど、耕地の準備や整理をすることができた。われわれが播種《はしゅ》用として割《さ》くことができる分量はそれだけだった。いや実際にわれわれが残しておいた大麦は、収穫が見込まれるまでの六か月分の食糧にかならずしもじゅうぶんとはいえなかった。六か月というのは、播種《はしゅ》用に大麦の一部をとりのけた時から数えてのことであった。この地方では畑に植わっている期間は六か月もかからなかったからである。
今では交わりも深くなり、頭数も揃ったので、たとえ蛮人が押し寄せてきても、途方もなく多勢でないかぎりは、こわいとも思わなくなったので、必要に応じて島内いたる所を自由に出歩いた。脱出なり救助なりが今や懸案になっていたから、少なくともわたしにとっては、その手段のことを念頭から取り去ることは不可能であった。そのために、われわれの作業にふさわしいと思われる大木数本に目星をつけて、フライディとその父に命じて切り倒させることにした。それから、このことに関してわたしの意を伝えたスペイン人には二人の仕事の監督と指導をさせた。大木を切り倒し、これを一枚一枚の板にすることがどんなに根気のいることか自分の経験から教えてやり、これを真似《まね》てやるように命じた。
やがて彼らは、幅二フィート、長さ三十五フィート、厚さ二インチないし四インチという良質の樫《かし》板約十二枚を削り上げた。これだけ揃えるのにどれだけ莫大《ばくだい》な労力がいるものか、容易に想像ができるであろう。
一方では、わたしはできるだけ家畜用の山羊《やぎ》の数を殖やすことに苦心した。そのためにある日はフライディとスペイン人を出してやれば、次の日にはわたしとフライディとで出かけるというふうに、交代で出かけた。こうして、すでに前からいるもののほかに、約二十頭の子山羊を飼うことになった。山羊の母親を撃ち殺した時には、かならず子山羊を生け捕りにしてわれわれの山羊の群れに加えていったからである。
しかし、とくに重大なことは、葡萄乾燥の季節がきて、莫大な量の葡萄を乾燥させたことである。これが乾葡萄の貯蔵で有名なアリカントであったならば、優に六十樽から八十樽くらいの生産を上げたであろう。乾葡萄はパンとともにわれわれの食物の主要な部分をなしており、また非常に栄養も豊かであった。まさしく栄養値満点の食物といえるものである。
いよいよ収穫期となり、われわれの穀物のできばえも良好であった。この島に来てからわたしが経験した最大の豊作とはいかなかったが、目標額にはじゅうぶん達していた。二十二ブッシェルの大麦の種をまいて、収納して打穀した結果は二百二十ブッシェル以上であった。米の収穫も同じ割合であった。これだけあれば、十六人のスペイン人が全部来島しても、次の収穫期までわれわれをまかなうにじゅうぶんであった。あるいは、今すぐ航海に出るとしても、行き先が世界の、つまりアメリカのどこであろうと、船に積みこむにじゅうぶんな食糧であった。
こうして穀物の貯蔵がすむと、われわれは篭《かご》作り、つまり穀物をいれる大きな篭《かご》を作る仕事にとりかかった。この仕事にかけてはスペイン人は非常に器用であった。彼はわたしがこういう篭細工で何か防御物を作らないことを、しばしば責めたが、わたしはその必要はないと思っていた。
さて今や、やがて迎える客人たちの食糧もじゅうぶん備えたので、スペイン人に本土へ渡って、そこに残してきた人々とどういう交渉ができるかやってみることを許した。彼とフライディの父親の面前で次のようなことをまず誓わない人間は、絶対にこの島に連れてきてはならないことを文字に書いて彼に厳重に命じた。
その誓いの条項というのは、ただ親切心から彼らを救い出すために遣いを出しているこの島の人間に対して、いかなる形にしろ危害を加えたり争いを挑《いど》んだり襲撃を企てたりしないこと、むしろそのような企てがあればこれを拒《しりぞ》けて彼の味方となって彼を守り、いかなる所に赴《おもむ》くにもその命令に絶対に従うこと、そして最後に、これを文書にしたため署名する、というのであった。
ところが、ペンもインクもないことを知っていながら、文書にして云々《うんぬん》とはどうしてやるのか、その時はそんなことまで考える余裕がなかったのである。
このような指令を受けて、スペイン人とフライディの父親の老蛮人は、一隻の丸木舟に乗って出かけていった。その丸木舟というのは、蛮人どもの餌食《えじき》になるために囚人としてこの島に来た時、乗ってきたというより乗せられてきたというべき丸木舟であった。わたしはめいめいに発火装置のついたマスケット銃一挺と、約八発分の火薬と弾丸を渡し、くれぐれも節約して、非常の場合のほかは火薬も弾丸も決して使わないように命じた。
これはうれしい仕事だった。なにしろ脱出を目標としてわたしがとった、二十七年余の間《あいだ》の最初の措置《そち》であったからだ。食糧としてパンと乾葡萄を与えたが、二人が相当の日数食べられるにじゅうぶんであり、スペイン人全体の分としても約八日分はあった。航海の安全を祈りながら彼らを見送った。島に帰ってくる時には上陸する前に、遠くから帰ってきたという合図をするように、掲《かか》げる信号のことも打ち合わせておいた。
彼らが順風にのって出ていったのは、わたしの計算では十月の満月の日であった。正確にいってそれが何日であるかは、一度日取りを間違えてからは、ついにわからずじまいであった。いや、年の数え方からして正しいと自信がもてるほど正確とはいえなかった。もっとも、あとになって調べてみると、正しい計算をしていたことが判明したのであった。
彼らの帰りを待つこと八日にもなったが、そこへまったく思いもかけぬ妙な事件、歴史上まだ聞いたこともないような事件が起きた。
ある朝、小屋の中でまだぐっすり眠っているところへ、従僕のフライディがかけこんできて、大声で、「旦那様《マスター》、旦那様《マスター》、彼らがやって来ます、やって来ます!」とさけんだ。
わたしはとび起きて服を着るのももどかしく、危険もかえりみず、とび出していった。そしてそのころはもう茂った森といってもよいほどになっていた小さな林を通り抜けていった。まったく危険などかえりみず、武器も持たずにとび出したのである。こんなことはついぞないことであった。海のほうへ目をやったとたんにわたしはあっと驚いてしまった。約一リーグ半くらいの沖合に海岸へ針路をとって、いわゆる羊肩帆という三角帆を張ってはいってくるボートが見えたからである。
ちょうど海岸に近づくのにはもってこいの順風が吹いていた。このボートが海岸に真っすぐ面した方角からでなく、島の最南端のほうからはいってくることもわかった。そこでフライディを呼んでぴったりと身をかくすように命じた。相手はわれわれの待ち受けていた連中ではないし、第一、敵か味方かもまだわからなかったからだ。
さっそくとって返して望遠鏡を持ってきて、彼らの正体を見きわめようと思った。梯子《はしご》を引き出して岩山の頂上に登った。これはわたしが何か気に懸《かか》ることがあり、こちらの姿を見せないで相手をはっきり見たい時にいつも使う手であった。
頂上に着くやいなや、わたしの目にはっきりと一隻の船が停泊しているのが映った。その位置は現在のわたしのいる位置から南南東約二リーグ半、海岸からは一リーグ半以上ははなれていなかった。望遠鏡で見ると、まぎれもないイギリス船で、さっきのボートはイギリスふうの長艇のようであった。
その時のわたしの混乱した気持ちはいい表わしようがなかった。もちろん、船を見た喜び、しかもわたしの同国人、したがってわたしの味方が乗り組んでいるに違いない船を見た喜びは名状のしようもなかった。しかも、どこから来るのかわからない疑惑がひそかに心に懸《かか》り、警戒を命じるのだ。第一、なんの用があってイギリス船がこんな地の果てにやってくるのか、これが問題だと思った。イギリスが多少でも交易を行なっている世界の各地への航路には当たっていないはずである。遭難してここに押し流されるような嵐は最近起こっていないことはよく知っていた。もし彼らがほんとうにイギリス人だとすれば、よからぬ企《たくら》みがあってここに来たことはほぼ確実である。そうとすれば盗賊や人殺しの手中に陥るよりも、このままいるほうがどれだけよいかわからないと考えた。
ほんとうに起こり得るはずはないと思っている時に、危険の予感や暗示が感じられた場合には、決してそれを軽視してはいけない。こういう予感や暗示が感じられるということは、事象の真相をうかがい知った者ならば否定するものはあるまい。それが不可視の世界のある種の告示であり、霊と霊の交わりであることは、われわれは否定できない。もしそういうものがわれわれに危険を警告するように傾いている場合には、好意をいだいている者から出たものと考えて、いささかも不当ではないはずである。その好意をいだく者が至上のものであるか、われわれより劣る従属者であるかは、問題にはならない。それはみなわれわれのためを思う心から発したものと考えてよいのではないか。
当面の事態はこのようなわたしの考え方が正しいことをじゅうぶんに証拠だててくれた。どこから来たにせよ、このひそかな警告に耳をかして用心することを怠ったとしたら、前よりもはるかに悲惨《ひさん》な目に会い、かならず身を滅ぼすに至ったに違いなかった。そのことはやがて述べることになる。
わたしはこんな態勢を長く続ける間もなく、ボートは近づいて、上陸に都合よく、舟を入れる入江を捜しているふうであった。しかしずっとこちらまでは来なかったので、わたしが以前|筏《いかだ》をつけた小さな入江はついに見つからず、わたしのところから約半マイル先の浜に舟を乗りつけた。これはほんとうに幸いだった。もし運悪く、わたしの住居のいわば玄関先にでも上陸されたら、それこそわたしは城からたたき出され、持ち物は全部|掠奪《りゃくだつ》されてしまったであろう。
上陸してきたのを見ると彼らは、少なくとも大部分は、イギリス人であることがはっきりした。一人か二人はオランダ人と思われるが、別に証拠があるわけではなかった。全部で十一人、そのうち三人は武装していなかった。いや、しばられているようにさえ思われた。最初の四、五人が陸にとび降りると、彼らはさっきの三人を囚人としてボートから引きずり出した。この三人のうちの一人は哀願と苦痛と絶望の身振りを、狂気の沙汰と思われるほどに激しく示しているのが認められた。他の二人は時々手を上げるのが見受けられ、さすがに不安の様子ではあったが、最初の男ほどではなかった。
この光景にはわたしもまったく面食《めんくら》って、どう考えてよいのかわからなかった。フライディはいっしょうけんめいに英語を使ってわたしにいいかけた。
「旦那様《マスター》、イギリス人もああして蛮人と同じく捕虜《ほりょ》食べる」
「なんだって? フライディ、お前あの連中が捕虜を食べると思っているのか?」
「はい、きっと食べます」
「いや、いやフライディ、あの男たちを殺すかも知れない。けれども食べるなんてことは絶対にしないよ」
こうしている間も、いったい事態はほんとうにどういうことなのか見当がつかず、ただ、三人の捕虜が今にも殺されはしないかと、その恐ろしい様子に身を震わせていた。いや実際、一度は悪者の一人が船乗りのいう大きな短剣《カットラス》を振り上げて捕虜の一人を打とうとするのが見えた。いつその哀れな男が斃《たお》れるかと思うと、わたしは全身の血が凍るような気がした。
スペイン人と、彼といっしょに出かけた蛮人がここにいてくれたらと、いまさらのように思った。また、かくれたまま彼らの射程内にはいるところまで行く道はないものかな、それがあれば、あの三人が助け出せるかも知れない、連中は火器を持っていないらしいから、と考えた。しかし、別な考えが急にわたしの頭に浮かんだ。
横柄《おうへい》な水夫たちは、三人にひどい仕打ちを加えたあと、島の様子が見たくなったのか、ばらばらに分かれてかけ出していくのが見られた。さっきの三人も行こうと思えばどこへでも自由に行かれるらしいが、三人とも地面に悲しそうにうずくまって、絶望した人間のような様子であった。
そのありさまを見ると、わたしは自分が初めてこの島に漂着《ひょうちゃく》して、あたりを呆然と見渡していた時のことを思い出した。あの時は、万事窮すと絶望に陥り、狂わんばかりにあたりを見回したものだった。なんと恐ろしい不安に襲われ、猛獣に食われることを恐れて、ひと晩じゅう木の上に寝たことだったろうか。
嵐と潮流のために本船が奇《く》しくも海岸近くまで押し流され、その結果食糧が手にはいり、ひいてはそのために今まで生き長らえることができたのであるが、あの晩はそんなことは知るよしもなかったのだ。おそらくこの三人の哀れな孤独な人たちも、自分たちはもうだめだ、絶望だとばかり思い込んでいる時、救助の手と食糧が確実に、しかもそれが身近に来ていることも、自分たちがほんとうに完全に安全な状態にあることも、夢想だにしていないのであった。
人間というものはほんとうに先の見えないものである。それだけに世界の偉大なる造り主に安んじて頼るいわれもあるのだ。神はその被造物である人間を全然無一物の逆境に陥《おとしい》れるということはなく、いかに悲惨な場合でも感謝すべき何ものかを残しておいてくれ、時には想像する以上に人間を救いの途《みち》の近くにおき、いや、自分たちが破滅の手段だと思うものによってじつはわれわれに救いをもたらしてくれることさえある、このように信じてよいのであろう。
あの連中が上陸してきたのは潮がちょうど最高位に達していた時であった。連れてきた捕虜たちと話をしたり、いったいこの島はどんな所か見ようとぶらぶら歩いている間に、うかつにも時間を費やしてしまい、潮はひき、水ははるか遠くまで去ってしまった。ボートは完全に地上に残されてしまった。
ボートには二人の男が残っていた。あとになって知ったことだが、二人とも少々ブランディを飲みすぎて眠りこんでいたのだった。そのうち、どちらかが先に目をさまして気がついて見ると、ボートはすっかり座礁して動かそうにも一人では手におえず、あたりをぶらついていた連中に大声で呼びかけた。みんながボートのところにやって来たが、彼ら全員の力をもってしても水際まで運ぶことはできなかった。ボートは重いし、そこの海岸はほとんど流砂《りゅうしゃ》のように、軟《やわ》らかいどろどろの砂地であった。
こうなると、そこは船乗りで、およそ先慮《せんりょ》などとは縁遠い人種だった。あっさりとボートをあきらめて、また陸のほうへぶらぶらと歩いていった。わたしはある男がボートは放っておくようにと他の男に大声でどなっているのを聞いた。
「そのままにしておけよ、ジャック、潮が満ちてくれば自然に浮かぶさ」
この言葉を聞いていちばん肝心な問題、彼らの国籍のことが判然とした。
この間わたしはずっと身を隠していて、岩山の頂上近くの観察所に行くのがせいぜいで、ほとんど一歩も城からは出なかった。この城が強固に要塞化されていると思うと大へんうれしかった。十時間も経たなければボートがふたたび水に浮かぶことはできないことをわたしは知っていた。そのころになればあたりは暗くなるし、彼らの動静ももっと自由に掴《つか》めるし、何か話でもすればその話も聞けるというわけだった。
さてその間、前の場合と同じく、戦いの用意はしていた。ただ前とは別種の敵を相手にするのであるから、いっそうの用心をした。鉄砲の名射手に仕上げておいたフライディにも武装しておくように命じた。自分では鳥銃二挺を持ち、彼にはマスケット銃三挺を持たせた。わたしのいでたちはまことにすさまじいものだった。山羊皮製のものすごい上衣を着け、頭には前にもいった大きな帽子をかぶり、腰には抜き身の刀をさし、腰帯には拳銃二挺をぶち込み、左右の肩には一挺ずつ鉄砲をかつぐ、というぐあいであった。
前にもいったように、暗くなるまでは何もしないというのがわたしの計画だった。ところが、日盛りの午後二時ごろになると、連中はみな三々五々、森の中へはいってゆき、横になって昼寝を始めたようであった。可哀そうな三人の捕虜は意気|沮喪《そそう》して、行く末を案じて眠ることもできず、ただ大木の陰にうずくまっているのであった。わたしのところから四分の一マイルくらい離れていて、他の連中の目のとどかないところと思われた。
よし今だ、とばかり、わたしは彼らの前に姿を現わし、事情を聞いてみようと決心した。さっそくわたしは今いったような格好で前進した。従僕フライディもかなり離れてあとからついて来た。彼の風体も武装のためわたし同様ものすごかったが、わたしのように、人をぎょっとさせる化物《ばけもの》じみた姿ではなかった。
誰にも見つからないようにしてできるだけ近づいて、先方の誰も気づかない先に、スペイン語で大きな声を出して、「あなた方はどういう方ですか」といった。
三人はその声にびっくりしてとび上がったが、わたしの姿、その異様な風体を見て十倍もびっくり仰天した。彼らはひと言も答えず、まさに逃げ出さんばかりの様子であった。そこでわたしはこんどは英語で話しかけた。
「そんなに驚かんでください。思いもよらない時にあなた方の味方がそばにいるかも知れないですよ」
すると三人のうちの一人が厳粛な面持ちでわたしのほうを見ながら、同時に帽子をとって、「それじゃ、この方は天から遣《つか》わされた方に違いない。わたしたちの窮地は人間では救えないのだから」といった。
「そうです、救いはみな天の賜物《たまもの》です。お見受けしたところ大そう難渋《なんじゅう》していられるようですが、この見知らぬ男にどうしたらお助けできるか教えていただけますまいか。じつはあなた方が上陸するところも見ていましたし、いっしょに来たあの非道な奴らに何か頼もうとされたとき、奴らの一人が剣を振り上げてあなたを殺そうとしたのも見ていました」
その男は可哀そうにさめざめと涙を流して体を震わせながら、呆然自失のていで、「あなたは神様か、それとも人間なのですか。ほんとうの人間ですか、それとも天使じゃありませんか!」といった。
「そんなことを心配なさるな。神様があなた方を救おうと天使を遣わされたとするならば、ごらんのとおりの姿でなく、もっとましな服装をまとい、もっと違った武装をしているでしょう。そんな心配はすててください。わたしは人間です、イギリス人です。あなた方をお助けしたいと思っているのです。召使いは一人しかいませんが、武器も弾薬もあります。さあ遠慮なくいってください。何かわれわれにできることがありませんか。いったい事情はどういうことなのですか?」
「事情を話せば長くなります。われわれの命を狙《ねら》っているものが、すぐそばにいてはゆっくり話せません。が、ひとくちで申しますと、私はあの船の船長だったが、部下が叛乱《はんらん》を起こしたのです。しきりに嘆願した結果、どうやら命だけは助かることになりましたが、けっきょくこの孤島に、この二人、一人は航海士、もう一人は船客、といっしょに島流しということになりました。じつはここは無人島だと思っていましたので、早晩|餓死《がし》するものとあきらめていました。今でもどう考えていいかわからないのです」
「ところであなた方の敵、あの畜生どもはどこにいるんですか? どこへ行ったかご存知ですか?」
船長は木の茂ったところを指さしながら、「あすこに寝ています。私たちの姿を見、声を聞いたのではないかと心配で心臓が震えています。もしそうだったら、私たちはみんなきっと殺されてしまいます」
「連中は火器を持っていますか?」と聞くと、銃が二挺あるはずだが、一挺はボートの中に置いてきた、と答えた。
「それなら、あとはわたしに委《まか》せてください。みんな眠っているようです。みな殺しにするのはわけはないが、それより生け捕りにしましょうか」
彼のいうには、連中の中に向こう見ずの暴漢《ぼうかん》が二人いて、これにはあまい顔を見せるのは危険である。けれどもこの二人さえ抑えてしまえば、あとの者は全部もとの職務に復帰すると思う、というのである。その二人というのはどれかと尋ねたが、こんな遠くからでははっきり説明できないといった。しかし指図があればなんでもわたしのいうとおりにする、とつけ加えた。
「それじゃ、とにかく彼らの目と耳のとどかないところに引きさがりましょう、目をさましたらたいへんですから。そして先の話をきめましょう」
三人は喜んでわたしといっしょに森の中に戻っていった。やがてわれわれは森で彼ら悪党の目から遮断《しゃだん》された。
「さて、そこでですが、もしわたしがあなた方の救出にのり出す場合、わたしの出す二つの条件を承諾していただけましょうか」といった。
すると彼はわたしの提案を先回りして、もし船が取り返せたら、船も自分も万事につけてわたしの指図どおりに動くことにしたい。また船がとり返せない時は、世界のどこに送られようともわたしと生死をともにしたい、といった。他の二人も同じことをいった。
「わたしの条件は二つです。第一は、あなた方がこの島に留まっている間は、どのような権力も自分のものとしようとしないこと。わたしが武器をあなた方に渡しても、いかなる場合もそれをわたしに返却し、わたし自身にも、この島のわたしの所有物いっさいにも害を加えないこと。その間はわたしの命令に服従すること。第二は、多分だいじょうぶだと思うが船が取り戻せた場合、わたしとわたしの従僕をイギリスまで無料で乗せていってくれること。これが条件です」
彼はこれはもっとも至極な要求であるとしてそれに応じる旨《むね》を、あらゆる言葉をつくし満腔《まんこう》の誠意をもって確約した。その上、わたしを命の恩人とし、彼の生きているかぎりあらゆる機会に、そのことを公言するであろう、といった。
「それではここにマスケット銃が三挺あるから、火薬と弾丸をつけてお貸しします。これからどうするのがいちばん適切であるか、意見を聞かせてください」というと、彼は感謝の心を手をつくして示し、ひたすらわたしの指図に従いたいと申し出た。
何をやるにしても困難だと思うが、考え得る最良の方法は、彼らが寝ているところをただちに襲って撃《う》ち殺すことで、もし最初の一斉射撃で殺しそこねた者がいて降服を申し出るならば、助けてやってもよい。とにかく発砲の指図はすべて神の御意志に委せようと、わたしは提案した。
彼は、できるならば彼らを殺したくない、と大へん控え目にいった。ただし、あの二人だけは度すべからざる暴漢で、船の叛乱《はんらん》の元凶《げんきょう》も彼らであった。もしこの二人を逃がしたら、万事窮すということになる。船に戻って船員全部を引き連れてきて、われわれをみな殺しにするだろうからだ、といった。
「それでは、わたしのいうとおりにするよりほかに途《みち》はないことになります。それがわたしたちの生命を救う唯一の途ですから」とわたしはいった。それでもなお彼は血を流すのをためらっているふうであったので、それでは彼らだけで行って、都合のいいように処置をしたらよかろう、と船長にいった。
この話の最中に、連中の中の誰かが目をさました気配が聞こえ、すぐそのあとから二人の男が立ち上がるのが見えた。その中のどちらかが叛乱の元凶だといった男かと聞くと、「そうでない」と答えたので、「それではあの二人は逃がしてやったらいいでしょう。早く目がさめたため命拾いをするというのも神のおぼしめしと思われます。だが、他の奴が逃げたら、あなたの責任ですよ」
この言葉に活《かつ》を入れられて、船長はわたしが渡したマスケット銃を手にとり、拳銃を腰帯にさし、二人の仲間もめいめい銃を一挺ずつ手に持って、いっしょに出かけていった。船長より先に歩き出していた二人が何か物音を立てた瞬間、はっと目をさました水夫の一人がふり返り、彼らを見て他の者に大声で怒鳴《どな》った。しかし、もうその時は遅かった。彼が声を出した時には彼らは発砲していた。つまり連れの二人のことであるが、船長は賢くも発砲しないで待機していた。
二人の狙いはかねて顔見知りの悪党を見事に仕止め、一人は即死し、もう一人は重傷を負った。しかしまだ死にきれず、立ち上がって他の仲間に向かって必死に助けを求めた。船長はつかつかと彼のところに歩みより、今さら助けを求めてもむだだ、悪事の赦《ゆる》しを神に乞うがよい、といいざま、銃の台尻《だいじり》でなぐり倒した。悪党はそれっきり口をきかなくなった。この連中の仲間はこのほか三人いたが、そのうちの一人は軽傷を負っていた。
その時にはわたしはその場に来ていた。彼らは身の危険を知り抵抗してもむだなことをさとって、哀れみを乞うた。船長は彼らに向かって、お前たちが犯した陰謀の罪を悔《く》いている証拠を見せ、船を取り戻し、その後、ジャマイカに回航するのに忠実に献身すると誓うならば命は助けてやってもよい、といった。この船はジャマイカから来たのであった。
彼らはりっぱにその誠意を披瀝《ひれき》した。船長も彼らの言葉を信じ、その命を助ける気持ちであった。わたしも別に異存はなかった。ただ、彼らがこの島にいる間は手足をしばっておくように、船長に命じた。
こんなことをしている一方、わたしはフライディと航海士をボートのところへやって、ボートを確保し、オールや帆をはずしておくように命じた。二人はいわれたとおりにした。やがて、幸運にも仲間から離れてぶらついていた三人の男も、銃声を聞いたので帰ってきた。しかし、ついさっきまで自分たちの囚人であった船長が今では征服者になっているのを見て、降伏を申し出、おとなしく手足をしばられた。かくしてわれわれの勝利は完全なものとなった。
あとは船長とわたしとで、お互いの境遇を話し合うだけだった。まずわたしのほうから先に、今までの境涯を逐一《ちくいち》語った。船長はじっと聞いていたがあっけにとられる様子さえ示した。とくに食糧や弾薬を手に入れたすばらしいやり方には驚いたようだった。事実、わたしの身の上話は驚異の収集であるから、深く彼を感動させたのは当然であった。わたしの話からわが身自身のことに及び、わたしがここで生き長らえてきたのも、いってみれば彼の命を助けるためのようなものであったと考えた時、彼は感きわまって涙にむせび、言葉も出ないほどであった。
この話が終わってから、わたしは彼と連れの二人をわが住居に連れていった。わたしがさっきとび出していったところ、つまり、家の屋根のところから一同を招じ入れ、たくわえてあった食糧を出してごちそうした。そしてまた、この島での長い長い生活の間にわたしが工夫考案したあらゆる物を見せてやった。
彼らには見るもの聞くもの、驚異ならざるはなかった。なかでも船長が感嘆したのは要塞《ようさい》の作り方であった。この隠れ家を木の茂みで完全におおいかくしてあるのも感嘆の種であった。木の茂みといっても植えてから二十年近くにもなり、それにイギリスとくらべものにならぬほど成長の早いこの地方であるから、もうりっぱな森になっていて、密生の度がきわめて高く、わたしが小さな、くねくねした通路を設けておいたところを除いては、どこも通り抜けることができないほどになっていた。これはわたしの城であり本邸だと説明し、このほかにも、王侯のように田舎《いなか》に別荘があり、時に応じてそこへも休息に出かけることもあると話し、そのうち案内しようと思うが、今はさし当たり船を取り戻す算段をするのが大事だといった。
それはまったくそのとおりだ、けれどもどういう手段をとればよいのか、まるで五里霧中《ごりむちゅう》だ、と船長はいう。船にはまだ二十六人残っていて、彼らは忌《い》まわしいあの陰謀に加担《かたん》したために、法に照らせば当然死刑に処せられるべき連中であるが、今は自暴自棄のため硬化しているだろう。降伏したところで、イギリス本国か植民地に着き次第|絞首刑《こうしゅけい》になるのはわかりきっているから、あくまで反抗を続けるだろう。したがってこの小人数のわれわれで攻撃するのは無謀というほかはない、というのであった。
船長のいったことをしばらくじっくりと考えてみて、いかにももっともな結論だと思った。船にいる連中に奇襲をかけて罠《わな》に落とし入れるためにも、彼らが島に上陸してわれわれをみな殺しにするのを防ぐためにも、至急に対策を講じなければならなかった。
その時ふとこういうことが頭に浮かんだ。
まもなく船の乗組員たちがこちらに来た仲間とボートがどうなったか気がかりになって、別のボートに乗って捜しにやって来るに違いない。その際にはたぶん武器を携えてくるだろう。そうなれば強すぎてわれわれには手向かいできまい、と思った。船長ももっともな考えだといった。
そこで、まず第一にすべきことは、浜に乗り上げてあるボートを壊して奴らに持っていかれないようにし、載せてあるものは全部とり除いてしまい、航海に全然役立たないようにすることであった。さっそくボートの中にはいって、そこに残された武器を初め、その他手当たり次第何もかも持ち出した。ブランディひと罎、ラム酒一本、ビスケット・ケーキ若干《じゃっかん》、火薬ひと筒、それに帆布に包んだ砂糖の大塊一個、などがあった。砂糖は五、六ポンドである。こういった品物はどれもありがたいものだったが、とりわけブランディと砂糖は、絶えて久しく口にしなかったものだけに、ありがたかった。
これらの品を全部浜に降ろしてから(オール、マスト、帆、舵などは、前に述べたとおり、すでに前に持っていってしまっていた)ボートの底に大きな孔をあけた。こうしておけば、奴らがいくら優勢でやって来たところで、ボートは運んでいくことはあるまい。
正直なところ、本船が取り戻せる見込みはあまりなかった。しかし、それよりもわたしの考えは、もし彼らがボートをおき去りにしてくれれば、それを修理してリーワード諸島に渡ることも、途中われわれの味方のスペイン人たちをたずねることも、案外難事ではあるまい、ということであった。スペイン人のことはまだ念頭にあったのだ。
こうやって着々と計画を実行に移しながら、まず主力を注いで、最高潮になって流されないように、ボートを陸地に遠くかつぎ上げた。その上、船底にはそう急には修理できないような大きな孔をあけたのだった。
さてこれからどうしたものかと腰を降ろして考えこんでいた時、本船から砲声が聞こえ、ボートに帰ってくるように命ずる信号旗がかかげられるのが見えた。もちろんボートは動き出さなかった。すると何回となく発砲を続け、ボートに呼びかけるいろいろな信号が発せられた。
信号も砲声も効果なく、ボートはいっこうに動く気配がないのを見ると、彼らはついにもう一隻のボートを降ろして島のほうへ漕ぎ出してくるのがわたしの望遠鏡に映った。だんだん近づくにしたがって、ボートには少なくとも十人乗っており、火器を持っていることがわかった。
船はほとんど二リーグの沖合に停泊《ていはく》していたので、ボートの連中が近づくにつれ、次第にはっきり見分けがつくようになり、その顔さえわかるようになった。というのは潮流の関係で、彼らは最初のボートのやや東側に流されていたので、それと同じ上陸地点、また現在それがあるところへ着くために岸に沿って漕いでいたからである。
そういうわけで、彼らの様子は手にとるようにわかった。船長はボートの人間全部の名前から性格まで知っていた。彼のいうところによると、この中には三人正直な男がいて、これらはきっとほかの者にむりやりにおどかされて一味の陰謀に引きずり込まれたに相違ない、というのである。しかし、このボートの指揮者になっているらしい水夫長とその他の連中ときたら、船員中でも名うての乱暴者で、こんどの事件でいっそう向こう見ずになっていることは疑いなかった。こうなってはこちらに勝ち目はない、と船長はひどく心配そうであった。
わたしは彼に笑顔を見せて、われわれのような境遇にある人間は恐ろしいなどという段階は通りこしているはずだ。今後どんな状態に陥ろうと、現在われわれが苦しんでいることになっているこの状況よりわるくなりっこはないと思えば、結果が生であろうと死であろうと、ひとつの救いとなることは確かだと考えるべきだ、といった。わたしはさらに、わたしのような境遇をどう思われるか、それからの脱出はまさにやってみるに値することではないか、と尋ねた。
「わたしがこのようにここに生き長らえてきたのも、けっきょくあなたの命を救うためだったと、さっきあなたはあれほど喜んでおられたが、その信念は今どこへいってしまったのです。わたしの考えとしては、計画のうちにただ一か所困ったところがあるようです」
「というと、いったいなんでしょうか?」
「つまり、あなたがいわれるとおり、連中の中に三人か四人正直な人間がいるが、その連中は助けてやらねばならないということです。もしボートの連中が全部乗組員中の悪党だとしたら、神がわざわざ選び出してあなたの手に引き渡そうとしているといってもいいわけです。いいですか。上陸してくる奴は一人残らずわれわれの自由になるのです。そいつらの出方ひとつで生死がきまるのですよ」
わたしはこういうことを声を高め元気あふれる顔でしゃべったものだから、船長も大いに励まされた様子であった。われわれは元気に仕事にとりかかった。ボートが船から離れるのを見た時から、われわれの捕虜を別なところにおいておくことを考えていたし、事実また完全に安全なところへ隔離《かくり》していた。
他の者ほど安心できないと船長が感じた二人の捕虜は、フライディとわたしの救った三人のうちの一人とをつけてわたしの洞穴に送った。そこならじゅうぶん離れているし、声を聞かれたり姿を見られたりする心配も、また、よしんば逃げ出したところで森の中から外へ出る道など見つかる心配もなかった。フライディたちは捕虜たちをしばったままそこに閉じこめ、食糧をあてがい、静かにしておれば一、二日のうちに自由にしてやると約束し、その代わり脱走を企てたら最後、容赦《ようしゃ》なく死刑にする、といった。
捕虜たちは甘んじて監禁を受けることを忠実に誓ったばかりでなく、食べ物や燈火さえ与えられるという親切な待遇に非常に感謝した。フライディは彼らにろうそく(自家製のものだが)をやって慰めてやったのである。彼らは入口のところでフライディが見張りに立っているとばかり考えていたそうである。
ほかの捕虜たちはもっといい待遇を受けた。そのうち二人は、船長が手放しで信用することができないというので、両手をしばったままにしておいたが、他の二人は、船長のとりなしもあり、また、われわれと生死をともにするという誓いも立てたので、わたしの部下にした。そういうわけで、この二人と、船長たち三人の誠実な人たちを合わせると総勢七人になり、これがちゃんと武器を持っていたのだ。だんだんと岸に近づいてくる十人の敵を迎えうつにはじゅうぶんであることは疑いなしであった。船長がいったように、その十人の中には三、四人の正直者がいることを考えれば、たしかにそうであった。
先のボートのある地点に着くやいなや、彼らは自分たちのボートを浜に乗り上げて、すぐに陸にとび降り、ついでボートを陸に引き上げた。これはありがたいとわたしは思った。もしかしたら海岸から少し離れた海上にボートを停泊させ、数人の監視をそこに残しておくのではないかと心配ししていたからである。そうなるとボートをこっちのものにすることは望めなかったのだ。
上陸してまず最初にしたことは、前のボートのところへ走っていくことだった。前に述べたように、そのボートがまる裸にされ、船底に大孔があいているのを見て驚愕《きょうがく》しているありさまがありありと見られた。
しばらく考えこんでいたが、仲間が聞きつけるかどうか試そうと、二、三回、力をしぼっでさけんだ。けれどもまったくむだだった。するとこんどは円く輪になって、持っていた小銃の一斉射撃をやった。その轟音《ごうおん》はたしかにわれわれの耳に達し、森に響きわたった。けれども結果は同じことだった。洞穴《ほらあな》の中の連中には聞こえるはずもなかったし、われわれの手もとに繋《つな》いである連中とても、たとえ聞いたとしても返事をする勇気はなかったのである。
この思いがけない事態に彼らは仰天してしまった。それで、これはあとで彼らから聞いた話だが、ふたたびボートに乗って本船に引き返し、先に上陸した連中はみんな殺され、長艇は孔をあけられていた旨《むね》を残った連中に報告しようと決心したそうである。そこですぐさまボートを海面に浮かべ、みんなそれに乗りこんでしまった。
これを見て船長は愕然《がくぜん》とした。いや、周章狼狽《しゅうしょうろうばい》さえした。連中が本船に戻って、仲間は全滅したと伝え、そのまま出帆してしまうかも知れない。そうなれば、もしかしたら取り返せるかと期待していた本船もついに失ってしまうことになる、と考えたからであった。しかし間もなく彼はほかのことで同じくらい肝をつぶしたのである。
彼らがボートに乗ってそう遠くまで行かないうちに、ふたたび引き返してくるのが見えた。しかしこんどは前と違った対策を立ててきた。たぶん相談をしてきめたらしいが、三人をボートに残し、他の者は上陸して島の奥地まではいって仲間を捜すというのであった。
これにはわれわれはがっかりしてしまった。今後の処置に窮したのだ。上陸した七人を捕えたところで、ボートを逃がしてしまえば、なんの役にも立たない。ボートの連中はさっさと本船に漕ぎつけるだろうし、そうすれば一同は錨《いかり》をあげて出帆するだろう。それで船を取り戻す計画は水の泡《あわ》となってしまう。
われわれはただじっと待機して事態のなりゆきをみているよりほかに処置なしてあった。七人の男は上陸した。ボートに残った三人は舟を浜辺からかなり沖合に出し、錨《いかり》をおろして一同の帰りを待つことにしたらしい。われわれはボートの連中を襲うことはもはや不可能となった。
上陸した連中は一団となって、わたしの住居の上にある岩山の頂上めざして登っていった。先方からは見えないが、こちらからははっきりと見えた。もっと近くへ来てくれたら、狙いをつけて発砲できるのでありがたいのだが、それとももっと遠くへ行ってくれたら、われわれは自由に外に出られるのでありがたいのだが、と思った。
しかし彼らは岩山の崖ぎわまでやって来ると、そこからずっと北東に向かって、島でいちばん低くなっているところに広がっている谷間と森が遠方まで見渡せるので、へとへとになるまで声をかざりにさけんだ。海岸からあまり奥地へはいっていきたくもなし、互いに離れ離れになるのは欲しないらしく、ひと塊《かたまり》となって木の下に腰を降ろして相談を始めた。前の一隊がしたように、ここでひと眠りすることでも考えてくれたら、こちらは手がはぶけて大いに助かったのだった。ところが危険をひしひしと感じているらしく、とても眠るどころではなかった。もっとも自分たちが恐れている危険の正体がなんであるかは、彼らにもわかっていなかったのである。
彼らが協議しているのを見て、船長はじつに適切な提案をした。すなわち、仲間に合図するために彼らは多分もう一度、一斉射撃をするだろう。そうすると銃から弾《たま》がなくなってからになる。まさにその瞬間を狙って彼らを急襲したらどうか。敵は降参するに違いないし、一滴の血も流さず捕虜《ほりょ》にすることもできよう、というのだった。
わたしはこの提案が気に入った。ただしそれには彼らがふたたび銃に弾をこめる前に襲うことができるくらい接近していることが必要条件であった。
しかし注文どおりにことははこばなかった。われわれはどんな手段をとったらいいか、決しかねて、長いことじっと待っていた。ついにわたしの意見では、夜になるまではどんな手も打てない。そして、夜になっても奴らがボートに帰らなければ、彼らと海岸の間に進出してゆき、なにか計略を用いて、ボートの連中を陸上におびき寄せることができるかも知れない、と、みんなに向かっていった。
早く動き出さないものかといらいらしながら長い間われわれは待っていたが、けっきょく、彼らが長い相談の後に、みんな立ち上がって海岸のほうへ降りていくのを見た時にはひどく不安になってきた。彼らはこの島は危くてどんな目に会うかと不安でたまらず、船に戻り、仲間はもう亡《な》きものとあきらめて、かねての計画どおり出帆しようと決心したらしく思われた。
彼らが海岸へ降りていくのを見た瞬間、これはてっきり捜索をやめて船に戻ろうとしているのだと直観した。事実そのとおりだった。わたしがこの予感を船長にうちあけると、たちまち彼は心配のあまりへたへたとなりそうだった。だが、彼らを呼び戻す、ある計略がわたしの頭に浮かんだ。そしてこの計略はもののみごとに功を奏した。
わたしはフライディと船長の部下の航海士に命じて、入江の西のほうに迂回《うかい》して、ずっと前に蛮人の一隊がやって来てフライディを危く殺そうとした例の場所へ行かせ、約半マイル先の小高い丘に着いたらすぐに、声をかぎりにどなり、水夫たちがその声を聞いたことがはっきりするまで待ち、水夫たちが答えるのを聞いたらさっそくまたそれに応じてどなり、先方が呼べばいつでも答えるというぐあいにし、姿は見せないように迂回をつづけて、水夫たちをできるかぎり奥へ、森の中へと深く誘いこみ、それからわたしが指示した路を遠回りして戻ってこい、とこう命じたのであった。
彼らはちょうどボートに乗ろうとしていると、その時フライディと航海士がおーい、とどなった。彼らはすぐその声を聞きつけ、どなり返しながらその声のする西のほうへ向かって浜伝いに走り出した。しかし入江ではたと行きづまった。潮が満ちていたので渡れなかったのだ。そこでボートにこっちへ来て渡してくれと呼びかけた。これこそわたしの思う壷《つぼ》であった。
入江を渡ってしまった後、ボートはかなり入江の奥まで、いわば港みたいな中まではいっていて、彼らはボートの中から三人のうちの一人を連れ出していっしょに行き、岸の一本の小さな木の株に結びつけられたボートには二人しか残っていなかった。
これでわたしの望みどおりにいった。フライディと航海士にはあてがわれた仕事にかかるようにしろといい残して、他の連中を引き連れ、気づかれないように入江を渡ってこの二人の不意をついて急襲した。一人は岸の上に寝ころんでおり、もう一人はボートの中にいた。岸のほうの男はうつらうつら眠りかけていたが、びっくりして起き上がろうとした。先頭に立っていた船長はやにわに走りよって彼を殴り倒した。それからボートの中の男のほうへ声をかけて、降参しろ、しなければ命はないぞとどなった。
男は一人だし、相手は五人いるし、それに相棒はうち倒されているのを見ては、降伏させるのにあれこれいう手間はかからなかった。そればかりでなく、この男は他の乗組員のように進んで叛乱に加担したのでなかった例の三人のうちの一人らしかった。それだから容易に降伏したばかりでなく、やがて、本気になってわれわれの同志にもなってくれたのである。
その間にもフライディと航海士は与えられた仕事をうまくやってくれた。大声で呼びかわしながら丘から丘へ、森から森へと彼らを誘いこみ、ついに彼らを完全に疲れさせたばかりでなく、暗くなる前にボートに帰り着くことはとてもできないような奥まで連れていってしまった。いや、フライディたち自身もわれわれのところへ帰ってきた時には、ふらふらに疲れきっていたのだった。
さてこうなると、われわれはただ暗やみの中で彼らを見張っていて、やって来たら急襲し、確実に仕止めるということ以外には、何もすることはなかった。
彼らがボートのところへ帰ってきたのは、フライディが帰ってから数時間のちのことだった。先頭の奴がおくれている連中に向かって早く来いとどなっているのがずいぶん前から聞こえていた。おくれたものが足が痛くて、くたくたに疲れてもうだめだとか、これ以上早く歩けるものかなどと、泣き言をいって答えているのも聞こえていた。これこそまさに吉報というものであった。
とうとうボートまでたどり着いたが、ボートは潮がひいたので入江の中の泥に乗り上げている、二人の男の姿は見えない、というので、その周章狼狽《しゅうしょうろうばい》ぶりは名状のしようもなかった。悲痛な声で互いに呼びかわし、魔法の島に来てしまったなどといい合っているのが聞こえた。この島には誰か人間が住んでいて、そいつらにみんな殺されるんだとか、さもなければ悪魔か妖精《ようせい》が住んでいて、それにさらわれて食われてしまうんだなどと、わめいているのも聞こえた。
彼らはまたもや大声をあげてさけび、二人の仲間の名をくり返し何度もさけんだ。けれども答えはなかった。しばらくすると絶望しきった人間のように両手を握りしめながらかけずり回る姿が、わずかに残った薄明りの中に見られた。時にはボートにはいって腰を降ろして休むかと思うと、またボートから降りてきてあたりを歩き回る、というぐあいに、同じことを何度もくり返していた。
わたしの部下は、暗やみに乗じて今すぐ彼らに襲いかかるのを許してもらいたがっていた。しかし、わたしとしては、なるべく彼らの命を助けてやりたい、殺すにしても最小限度に止めたいと思ったので、もっと有利な機会を捕えて襲いたかった。ことに、相手側もじゅうぶん武装している以上、味方を一人でも殺すような冒険はしたくなかった。わたしはじっと待って、彼らがばらばらに分散するかどうか、その機会をねらうことにした。
そこではっきり敵の動静を見きわめるため伏勢をもっと近づけて、フライディと船長に命じて、相手に見つからないようにぴったり地面に身をふせて四つん這《ば》いになってしのびより、いよいよ発砲する前に、できるだけ敵に接近しておれといった。
フライディたちがその態勢にはいってからまもなく、叛乱の張本人で、そのくせ今では仲間のうちでいちばんひどく意気沮喪《いきそそう》している水夫長が、二人の乗組員を連れて彼らのほうへ歩いてきた。さっきはその声を聞いただけだったが、今や悪党の首魁《しゅかい》を完全に自分の手中に収めた船長は、気がはやって、この男が絶対に逃げられないところまで近づくのが待ちきれない様子だった。それでも、いよいよ彼らが近づいたところを見はからって、船長とフライディはがばと立ち上がり、彼ら目がけてどかんとぶっ放した。
水夫長は即死した。次の男は弾を体にうち込まれて水夫長のわきに倒れ、二、三時間後に息が絶えた。三番目の男は逃げ去った。
銃声を聞くとわたしはただちに全軍をあげて突進した。全軍というのは今は八名で、大|元帥《げんすい》のわたし、副将のフライディ、船長とその部下二名、そして今では武器まで与えられている捕虜三名というわけであった。
実際、暗やみに乗じて襲撃したのだから、相手にはこちらの人数はわかるはずはなかった。ボートの中に置いておいたが今はわれわれの味方になった男に命じて敵方の名前を呼ばせ、果たして彼らを談判にもち込んで、降伏させられないものかどうか、ひとつやらせてみることにしたが、結果はわれわれの思うとおりになった。当時の状況からいって、彼らが降参したがっていたのは見やすい道理であった。そこで例の男は声をはり上げて相手方の一人に向かってさけんだ。
「トム・スミス! トム・スミス!」
するとトム・スミスという男がすぐに答えた。
「そっちは誰だ、ロビンソンか?」
声で誰だかわかったらしい。「うん、おれだ。頼むから、トム・スミス、お前たちの武器を捨てて降参してくれ。でなきゃ、お前たちはみんな今にも殺されるんだぞ」と答えた。
「降参しろったって、誰にだ。相手はどこにいるんだ?」とふたたびスミスがいう。
「ここにいる。ここに船長がいる。船長と部下五十人はみんなで二時間も前からお前たちを捜していたんだ。水夫長は殺された。ウィル・フライは負傷した。おれは捕虜だ。お前たちも降参しないと、みんな命はないぞ」
「おれたちが降参したら命は助けてもらえるのか?」とトム・スミスがいう。
「降参すると約束するなら頼んでやってもいい」と、ロビンソンが答える。そこでロビンソンが船長に頼むと、船長は直接自分で大声でいった。
「おうい、スミス、わたしの声はわかってるだろうな。もし即座に武器を捨てて降伏してくるなら、お前たちの命はみんな助けてやる。ただしウィル・アトキンズは除く」
これを聞いてウィル・アトキンズは大声でさけんだ。
「船長、後生です、わしの命も助けてください。わしが何をしたっていうんです。わしが悪いならみんなだって同じですよ」
ついでながらいえば、彼のいうことは事実とは違っていた。連中が初め叛乱を起こした時、真っ先に船長を掴《つか》まえ、その両手をしばったり、毒舌《どくぜつ》を吐いたりして残忍な扱いをしたのはこのウィル・アトキンズだったのだ。
とにかく船長は、無条件に武器を捨てて、総督《そうとく》の慈悲にすがるがよい、と彼にすすめた。総督というのはわたしのことで、味方のものはみなわたしを総督と呼んでいた。
要するに連中はみな武器を捨てて命乞いをした。わたしは談判の衝《しょう》にあたった男のほかもう二人をやって、彼らを全部しばり上げさせた。そこへわが五十人の大部隊、といっても先にやった三人を入れても総勢わずか八人なのだが、これが押し寄せていって連中全部とボートとをこちらの手に収容した。ただわたしともう一人だけは、威厳を保つために連中の前に姿を現わさなかった。
われわれの次の仕事はボートを修理して本船の捕獲を考えることであった。船長は船長で、投降した連中と話をする余裕ができて、自分に対する非道の振舞について、さらに、またその陰謀の悪逆《あくぎゃく》ぶりについて、じゅんじゅんと説き、けっきょく彼らのゆき着くところは悲惨な境遇、おそらくは絞首台となるだろうと、説いて聞かせた。
連中はひどく後悔している様子で、命だけは助けてくれと必死に嘆願した。彼らに対して船長はいった。
「じつはその事についてだが、お前たちは一人として自分の捕虜ではなく、この島の統率者の捕虜なのだ。お前たちはわたしを不毛の無人島に島流しにしたと思ったかも知れないが、神のおぼしめしというか、じつは島には人が住んでいて、しかも総督はイギリス人だったのだ。もし総督がその気になれば、お前たちは全部絞首刑になったかも知れない。しかしいったん命を助けてやったからには、総督はお前たちを全部イギリス本国へ送って、そこで然《しか》るべき法の裁きを受けさせるつもりであろうと思う。ただ、アトキンズだけは例外で、これは総督からの命令で死ぬ覚悟をするよう自分から申し伝える。絞首刑は翌朝行なわれるはずだ」
これは全部船長自身の作り話であったが、その効果は望みどおりであった。アトキンズは膝まずいて命を助けてくれるよう総督にとりなしてくれと船長に嘆願した。残りの者も後生だからイギリス本国へ送還することはやめてくれと頼むのであった。
いよいよわれわれが島から脱出する時がきたという気がした。本船を手中に収めるのにこの連中を進んで協力させるようにすることはきわめて容易だという気がした。そこで、彼らの戴《いただ》くという総督がどんな総督なのか見られたくなかったので、彼らのそばから離れて暗やみの中へ引っこみ、船長を呼んだ。船長を呼ぶ時も、いかにも遠方から呼びつけるかのように、わたしの言葉を部下の一人に伝えて、そのとおり船長にいわせた。
「船長、総督がお召しです」
船長はただちにそれに答えて、「すぐ参上いたしますと閣下《かっか》に申しあげてくれ」
これで連中はいよいよ完全にだまされ、すぐ近くに総督が手勢五十人を連れて控えていると信じこんだ。
船長が来たので、本船を拿捕《だほ》するわたしの計画を話すと、船長もひどく気に入ったので、早速翌朝実行に移すことにした。
しかし、やり損《そこ》なわないように、かつ巧妙に遂行するためには捕虜《ほりょ》を分散しておかなければならないと船長にいい、そのためには船長みずからアトキンズとさらに二名の兇悪な男たちを引っぱっていって、両手をしばったまま、ほかの捕虜たちのいる洞穴に入れておくようにといった。この仕事はけっきょく船長といっしょに上陸した二人の男とフライディとに委《まか》されることになった。
彼らはアトキンズ一味を洞穴へ連れていったが、そこはいわば牢獄みたいなものだった。まったく無気味なところで、とくにこの一味のような状況にあるものには殊《こと》さらそうである。
ほかの捕虜たちはわたしのいわゆるあずまやへ連れていくように命じた。このあずまやについては、前に詳しく説明してある。そこは柵《さく》に囲まれているし、捕虜はしばられているから、けっこう安全であると思われた。ことに彼らは謹慎《きんしん》中であったから。
この連中のところへ翌朝、船長をやって交渉を始めさせた。要するに、本船を急襲するのに安心して助勢を頼めるかどうか、打診して報告してもらうためだった。船長は彼らに自分に加えた危害のことや彼らが陥っている現状を話し、現在のところは総督が命を助けてやっているが、もしイギリスに送還されたら、鎖《くさり》で絞首刑になることは免れない。しかし本船|奪回《だっかい》という正義の企てに参加するならば、免赦《めんしゃ》の約束を総督からもらってやってもよい、と話した。
現在のような窮境にあるものならば誰だって、こういう提案を喜んで受け入れることは、たやすく想像できよう。彼らは船長の前に膝まずき、血の最後の一滴に至るまで忠実に仕えたい、命があるのは船長のおかげだ、世界じゅうどこへでもお伴したい、生きているかぎり父として崇《あが》めます、などといって切々と訴えた。
船長は、「それじゃとにかく総督のところへ行ってお前たちの頼みを伝え、頼みが聞いてもらえるよう、できるだけ骨折ってみよう」といった。船長は、連中の今の心境をわたしに報告し、かつ、彼らが信頼できることをかたく信じているとつけ加えた。
それでもなお、念には念を入れるために、わたしは船長に、連中のところへ引き返し、その中から人を選び出してこういってくれと頼んだ。お前たちも見てわかるように、自分に人手が不足してるわけではないが、お前たち五人を助手にしたいのだ。そして総督は、ほかの二人と城、つまり洞穴に捕虜として送られた三人とは、お前たちが忠誠をつくすかどうかの人質としておく、といわれるのだ。だからもしお前たちが計画実行の際に裏切りをするようなことがあれば、五人の人質は海岸で鎖で絞殺《こうさつ》されるのだ。
これはいかにも苛酷《かこく》なように見えた。したがって総督の決意が容易なものでないことを彼らにさとらせた。しかしけっきょく、彼らにしても承諾《しょうだく》するよりほかにしようがなかった。船長はもちろん、捕虜たちも、この五人にその役目を忠実に果たすよう説得する仕事をせねばならなかった。このようにして遠征の手はずは次のように定められた。
一、船長、航海士、船客。
二、最初の一団の捕虜二名。これは船長からその性行について保証があったので、自由を与え、武器を持たせてやった者たちである。
三、今までしばったままあずまやに監禁していた捕虜二名。これも船長の申し出で釈放したもの。
四、最後に釈放された前記の五名。
こういうわけで遠征の総勢は十二名。ほかに人質として捕虜五名が洞穴に監禁してあった。
これだけの人数で進んで船に乗り込む勇気があるかと船長に尋ねた。というのは、わたしもフライディもこの際動くのは妥当でないと思ったからである。島にはまだ七人残るわけであり、捕虜を分散しておいて、食物を補給することでわれわれは手いっぱいであった。
洞穴の中の五人は厳重に監禁しておくことにしたが、それでもフライディは一日に二回、食物などを持っていってやった。わたしは他の二人の捕虜に、ある一定のところに食物を持たせてやり、そこでフライディが受け取ることにしておいた。
二人の人質のところにわたしが姿を現わした際は、船長といっしょで、船長は彼らに、わたしのことを、これが総督が監視のために遣《つか》わした人だから、その指図がなければ勝手に動いてはいけない、それが総督の命令だ。もしその命にそむくならば、城へ送られて鉄鎖に繋《つな》がれるのだ、といった。こういうわけで、わたしは自分が総督だとは全然感づかれないで、まったく別人として彼らの前に現われ、機会あるごとに、総督のこと、守備隊のこと、城砦《じょうさい》のことなどを語った。
船長はあとはただ二隻のボートを装備すること、その一隻の大孔を塞《ふさ》ぎ、両方に人員を配置すれば、それでほかには何も面倒なことはなかった。彼は乗客を一方のボートの船長に据《す》え、これに四人の乗組員をつけた。彼自身と航海士とほかに五人がもう一方のボートに乗り込んだ。彼らは用意周到に事を運び、ちょうど真夜中ごろ船に着いたのだ。
声が届くくらい船の近くまで来た時、船長はロビンソンに命じて「おーい」と船中の者に呼びかけさせ、連中もボートも無事に連れ戻ったが、見つけるまでにずいぶん手間どった、などと話させた。
こういうふうにして話に引きずりこんでいて、その間に舷側に着くようにした。舷側に着くやいなや、船長と航海士は武器をかざしてまっ先に突っこみ、たちまちに二等航海士と船大工をマスケット銃の台尻《だいじり》でなぐり倒した。部下の者たちも忠実にあとに続いた。彼らは正甲板や後甲板にいた残りの者を全部捕え、下のほうにいた者は上がってこられないように昇降口を締《し》め始めた。ちょうどその時、もう一隻の乗組員も前方の錨鎖のところから乗り込んできて、前甲板と料理室に通じる小さな昇降口を確保し、そこにいた三人の水夫を捕虜にした。
この仕事がすんで甲板が一段落つくと、船長は航海士に三人の部下を連れて後部甲板室に突入するように命じた。そこには謀叛者の新船長が寝ていた。彼は突発事件に驚いてとび起き、二人の部下と給仕とともに火器を手にして構えていた。航海士が鉄梃《かなてこ》で戸をたたき破ってとび込むと、新船長とその部下は思いきって侵入してきた一団に向かって発砲した。航海士は小銃弾で腕をくじかれ、他の二人の部下も傷ついたが、死者はなかった。
航海士は助けを求めながら、重傷にもひるまずその甲板室にかけこみ、拳銃で新船長の頭をぶちぬいた。弾丸は口からはいって片方の耳のうしろにぬけた。それでひと口もきかず即死した。これを見て他の者は降伏し、それ以上死者を出すことなく、船は完全に奪うことができた。
こうして船の確保に成功するやいなや、船長は七発の号砲を撃たせた。これはかねてわたしとの間に打ち合わせてあった成功の合図であった。これを聞いた時の喜びは、どなたにもわかっていただけよう。わたしは午前二時近くまで浜辺に坐ってこの合図を待っていたのだった。
はっきり合図を聞いてからわたしは横になった。なにしろ忙しい一日で、くたくたに疲れていたから、ぐっすり寝こんでしまったが、やがて銃声でびっくりして目をさました。起き上がってみると、「総督、総督」とわたしのことを呼んでいる男の声が聞こえた。すぐに船長の声だとわかったので、岩山の頂上に登っていくと、そこに船長が立っていて、船を指さしながらわたしをその両腕に抱きかかえた。
「わたしの親友で命の恩人、あすこにあなたの船があります。あの船も、われわれも、船の中のものいっさいがっさい、あなたのものです」と船長がいった。
わたしは船に目をやった。船は岸から半マイルもこえないところに停泊《ていはく》していた。船長の一行は船を占領するとともにただちに錨《いかり》をあげ、折からの好天に恵まれて、あの小さな入江の入口に向かった沖合まで船をもってきて錨をおろしたのであった。そして、潮が満ちてきたので、船長は小艇を出して、以前わたしが初めて筏《いかだ》を着けた浜辺の近くにつけ、いわばわたしの住居の玄関口に上陸したというわけだった。
初めわたしは驚きのあまり、へたへたとくず折れそうになった。わたしの脱出は目の前にぶら下がっていた。万事好調にいき、大きな船はわたしの好きなところにいつでも運んでくれるばかりになっている。しばらくは船長に向かってひと言も発することができなかった。わたしは船長に抱かれていたので、かろうじて立っていられた。そうでなければ地面に倒れてしまうところであった。
船長はわたしのうけた衝撃を見て、さっそくポケットから罎《びん》を取り出し、わたしのためわざわざ持ってきていた強心酒をひと口飲ませてくれた。飲んでからわたしは地面にしゃがみ込んだ。これで正気には返ったが、まだしばらくは船長に何も口がきけなかった。
この間じゅうずっと船長のほうもわたし同様忘我の状態であった。もっともわたしのように衝撃のためではなかった。彼は数かぎりなく優しい温い言葉をかけてわたしを落ち着かせ、気をしっかりさせようとしてくれた。しかし、喜びは洪水のように胸に溢《あふ》れて気は乱れるばかりであった。やがてそれが堰《せき》をきって涙となって流れ、しばらくしてからようやく口がきけるようになった。
こんどはわたしのほうから命の恩人として彼を抱きしめ、ともどもに喜び合った。わたしは船長に向かって、あなたこそわたしを救うために天から送られた人だと思う。こんどの一件は驚異の連続のようなものだ。このようなことは摂理のかくれた御手《みて》が世界を支配している歴然たるあかしであり、全能の神の目が世界のどんな僻遠《へきえん》の隅にも届き、必要とおぼしめされる時には哀れな者に救いの手をさしのべたもうということの明白な証拠だ、といった。
わたしは天を仰ぎ、神に感謝してわが心を捧げることを忘れなかった。こんな荒涼たる孤島に住む人間にも奇跡的に食物を恵んだばかりでなく、あらゆる救助の手もつねにそこから発すると認めざるを得ない、この神を、いかなる人間が称《たた》えないでいられようか。
しばらく話し合ったあとで、じつはまだ船に残っていて、今まで長いこと幅をきかしていた悪党どもの略奪を免れたものだが、少々食べ物を持ってきた、と船長がいう。そういって大声でボートのほうに呼びかけ、総督のために用意した品を舟から降ろして持ってこいと部下に命じた。それはいかにもりっぱな贈り物であった。彼らといっしょに船出する人間でなく、依然としてこの島に取り残されて住みつく人間に贈られる贈り物のような気がした。
贈り物としてまず第一に、極上の強壮飲料のはいった罎《びん》のひと箱、二クォート入りのマディラ葡萄酒の大罎六本、極上のたばこ二ポンド、航海用の貯蔵牛肉十二|片《きれ》、同じく豚肉六片、豌豆《えんどう》一袋、それにビスケット約百ポンド、などをわたしに持ってきた。
船長はこのほかに、砂糖一箱、小麦粉一箱、レモンの大袋一個、ライム果汁二罎、その他おびただしい品物を持ってきてくれた。しかし、これだけではない。わたしにとって何百倍もありがたいもの、すなわち、六枚の清潔な新しいシャツ、六枚の上等な襟巻、二組の手袋、一足の靴、一個の帽子、一足の靴下、いくらも着ていない彼自身の上等な衣服ひと揃い、これらもあった。なんのことはない、頭から足の先まで仕度させてくれたというわけであった。
これはわたしのような境遇にあるものにとって、まことに心のこもった、ありがたい贈り物であることは、誰にでも想像できるであろう。だが、こんな衣類を初めて着た時の感じといったら、世にもこんな不愉快で窮屈《きゅうくつ》でしっくりしないものがほかにあろうかと、思われるほどだった。
贈り物の授受の儀礼がすみ、船長のりっぱな品々も全部わたしの小さな部屋にはこんだのち、われわれは監禁中の捕虜をどうするかについて相談を始めた。いったい捕虜を思いきって連れていったものかどうかは、じゅうぶん考慮する必要があった。とくに、度《ど》しがたくてどうにも手に負えないとわかっている二人の男についてはなおさらであった。船長の話では、この二人はまったく極悪非道な奴だから、親切にしてやるなぞもってのほかで、かりに連れていくとすれば、犯人として鉄のかせをはめ、どこか最初に寄港するイギリス植民地で司直の手に引き渡すべき人間として連れてゆくよりほかはない、というのである。船長がこのことをひどく心配しているのがよくわかった。
そこで、もし船長が望むなら、問題の二人を巧みにくどいて自分のほうから島に残りたいといい出させるようにもっていってみようか、と船長にいうと、「そうしていただければ願ってもないことです」という返事であった。
「それでは、その二人を呼んで、あなたに代わってわたしが話をつけましょう」といって、フライディと二人の人質に命じて、というのはその仲間が忠実に約束を果たしたので、この人質も自由な身になっていたのだが、この三人に命じて洞穴に行き、そこに監禁中の五人の男を、両手をしばったままで、あずまやまで連れてきて、わたしが行くまで待たせておくようにといった。
しばらくしてからわたしは新しい服装をしてそこへ出かけていった。わたしは、またもや総督になりすました。一同が揃い、船長もわたしのわきに控えると、問題の連中を目の前に引き出させ、おごそかにいった。
船長に対するお前らの悪逆無道な振舞は全部わかっている。また船を奪って逃げたこと、さらに略奪をもくろんでいたこと、その顛末《てんまつ》もいっさいわかっている。しかし、天意の恐ろしさ、お前らはみずから仕掛けた罠《わな》にかかり、他を落とし入れるために掘った穴にみずから落ちこんだのだ。
さらに、わたしの指図で船は拿捕《だほ》され、今沖合に停泊している。お前らの選んだ新船長がその悪逆に対してどんな報いを受けたかもすぐにわかるだろう。彼の屍体《したい》が帆桁《ほげた》にぶら下がっているのにお目にかかれるからだ、とわたしは話した。
ところでお前らのことだが、わたしに、職責上その執行権があることはお前らも疑う余地はあるまいが、それによってお前らを現行犯の海賊として処刑して差し支えないはずだ。それについて言い分があるなら聞こう。
すると、一人の男が代表格となって、自分たちが捕虜になった時、船長は命は助けてやると約束した。それで総督の慈悲に心からおすがりする。ただこれ以上いうべきことはない、と答えた。
そこでわたしは、どんな慈悲を示せばいいのか自分にもわからない。というのは、わたし自身としては部下全部を連れてこの島から引き上げ、船長と共にイギリスへ向かうつもりだが、船長の意見では、叛乱《はんらん》と船の略奪の罪を裁かれるために手錠足かせをかけられた囚人としてでなければ、お前たちをイギリスに連れていくわけにはいかないというのだ。してみればその結果は絞首刑ということになるのは、当然お前たちも知っているはずだ。そういうわけで、お前たちのためにどれが最善の途《みち》か、自分にもわからないのだが、お前たちがこの島に留まって運を天に託する気があるなら話は別だ。もしお前たちがそれを望めば、それでもかまわない、島はわたしの自由になるのだから。お前たちが島でなんとか生きていける見通しがつくなら、お前たちの命は助けてやってもいいような気がする、とこういった。
彼らはそれを大へんありがたいと思ったようだった。そしてイギリスに連れていかれて絞首刑になるよりも、ここに留まっていたほうがずっとよいといった。話はそれで打ちきることにした。
しかしながら船長はこの処置に異議があるらしく、この連中をこのままおいてゆきたくないというふうであった。そこでわたしは船長に対し少し不機嫌な様子を示し、この連中はわたしの捕虜であって船長の捕虜ではないはずだ。恩恵を施してやるといったからにはそのとおり実行するつもりだ。もしそれが不承知ならこの連中をもとどおり自由な身にしてやる。それでは困るというなら、自分で捕えられるならもう一度捕え直したらいい、といってやった。こういうと捕虜らは大へんありがたそうな顔をした。わたしは約束どおり彼らを自由にしてやり、森の中の今までいたところへ帰るように命じた。彼らに若干の火器と弾薬を残してやるといい、もし必要とあればこの島で楽に暮らす要領も教えてやってもいい、といった。
そこでわたしは船に乗り込む支度にとりかかったが、その晩は荷物の準備があるので島に留まるつもりだから、船長はさし当たり船に帰ってそのほうを手ぬかりなく整えておき、翌朝迎えのボートを岸によこしてくれ、と頼んだ。それから、殺された新船長の屍体《したい》を、こちらの連中の目に触れるように、帆桁《ほげた》につるすようにと命じた。
船長が行ってしまうと、わたしは人をやって島に残る連中を自分の部屋に呼んで、彼らの現在おかれている状況について真剣に話しあった。お前たちは正しい選択をした。もし船長に連れていかれたら絞首刑になるのは必定《ひつじょう》だといい、船の帆桁にぶら下がっている新船長の屍体を指し示して、お前たちの運命もまさにあのとおりになるはずだったといった。
彼らはみな島に残りたいとはっきり表明したので、それでは自分がこの島で生活するようになった経緯《いきさつ》を語ってやろう、またここの生活を暮らしよくする方法を教えてやろうといった。
まず、この島がどういうところであるか、自分がどうしてここに来るに至ったか、その一部始終を話して聞かせ、それから要塞《ようさい》を見せ、ついで、パンの作り方、穀物の栽培の仕方、葡萄の乾燥法などを教えた。要するに生活を楽にするに必要なことは何から何まで教えてやったのである。やがてこの島に来ることになっている十六人のスペイン人のことも話し、その連中のために一通の手紙を残すことにし、スペイン人が来たら自分たちと分け隔てなくつき合ってやるようにと約束させた。
わたしの火器、つまり、マスケット銃五挺、鳥銃三挺、それに剣三振りとをゆずってやった。火薬はひと樽《たる》半以上も残っていた。最初の一、二年はとにかく、その後は少ししか使わなかったし、むだ使いは全然しなかったからである。山羊の飼育法も説明してやり、乳のしぼり方、ふとらせ方、またバターとチーズの作り方なども教えた。
要するに、わたしは自分のことで話すべきことはいっさい話してやった。また船長に、火薬をもう二樽と野菜の種子をぜひ置いておくよう頼んでやろうといった。野菜の種子はわたし自身欲しくてたまらないものであった、といった。それに船長がわたしに食べさせようと持ってきた豌豆《えんどう》の袋もやることにし、これをまいて殖やすようにしろといいつけた。
こうして万事すました後、その翌日この連中を残して船に乗り込んだ。すぐにでも出帆する用意はしたが、その晩は錨をあげなかった。
翌朝早く、残留組五人のうちの二人が舷側《げんそく》まで泳いでき、ほかの三人のことを悲痛きわまる調子で訴え、後生だから船に乗せてくれ、でないと彼らに殺されてしまうと嘆願し、あとですぐ絞首刑になってもいいから船に乗せてくれと船長に頼んだ。
これを聞いて、船長はわたしをさしおいて一存ではからう権限はないといったふりをしたが、あれこれ難癖《なんくせ》をつけた後、彼らがしきりに改心を誓ったので、ついに船に乗せてやった。その後しばらくして、彼らはさんざんに鞭で打たれ塩をすりこまれたが、その後はすっかり正直なおとなしい人間になった。
これからしばらくして、潮が満ちてきたので、残留の連中に約束した品を載せてボートを海岸へやった。わたしのとりなしで、船長は彼らの衣類箱と衣類もいっしょに持たせてやった。彼らはそれを受けとって大いに感謝した。わたしもまた、もしお前たちを収容する船を送れるようなことがあれば、忘れずにきっと迎えによこすから、といって励ましてやった。
いよいよこの島に別れを告げるに当たって、わたしは記念品として、自家製の大きな山羊皮の帽子、傘《かさ》、それに鸚鵡《おうむ》を船に持ちこんだ。また、前にもいった例のお金を持ってくることも忘れなかった。その金は長いあいだ無用のものとしてしまって置かれたので、すっかり錆《さ》びたり変色したりしていて、少しばかりこすったりいじったりするまでは、ほとんど銀とは見えなかった。スペインの難破船の中で見つけたお金も忘れずに持ってきた。
かくのごとくしてわたしは島をあとにした。時に、船の記録によれば一六八六年十二月十九日であった。この島にいること二十八年二か月と十九日であった。そしてこの第二の捕囚から脱出したこの日は、奇《く》しくも、かつてサリーのムーア人たちから大きな舟艇で逃げ出したのと同じ月の同じ日であった。
長い航海を経て、この船でイギリスに着いたのは一六八七年六月十一日で、故国を留守にすること三十五年であった。
イギリスへ帰ってみると、わたしはまったくの異邦人で、初めっから自分を知る人など一人もいなかった国にきたみたいであった。わたしが財産を託しておいた恩人で忠実な世話人はまだ生きてはいたものの、重ね重ねの不幸に会い、二度目の後家さんとなり、ひどく零落《れいらく》していた。預けておいたお金のことについては、何も面倒をかけるつもりはないから、安心しなさいといってやった。それどころか反対に、以前にわたしのために忠実に世話してくれたお礼のしるしに、なけなしの貯蓄からその許す範囲で彼女の窮乏を救ってやった。といっても、当時はたいしたことができるはずはなかった。でも、以前にわたしのために尽くしてくれた親切は決して忘れないといってやった。事実、彼女を援助できる余裕ができた時、まず思い出したのは彼女のことであった。このことはいずれしかるべきところで述べるつもりである。
その後、ヨークシャーに行った。父は死んでいた。そして母もその他の家族も死に絶えていたが、ただ二人の姉妹と、兄弟の一人の遣児二人だけが生き残っていた。わたしはとっくの昔に死んだものと考えられていたから、わたしのための遣産などなかった。要するに助けてやる者も助けてもらう者もまったくないのであった。所持していた金もわずかで、ちゃんと生計をいとなむ元手《もとで》にはなりそうもなかった。
ところがここで、はからずも思いがけない感謝のしるしを受けることになった。それは、運よくもその生命を助け、同じようにして船と積み荷までも救ってやった船長が、乗組員の生命や船をわたしが救助した顛末《てんまつ》を詳細に船主たちに報告をしたので、船主たちは関係の貿易商たちとともにわたしを招き、みんな口を揃えてわたしの行動をほめ称《たた》え、正貨二百ポンドに近い現金の贈り物をわたしにしてくれたのであった。
しかし、自分の生活のことをいろいろ考え、これくらいの金では生計を立てるのに余り役立つとも思えなかったので、ひとつリスボンに出かけていって、ブラジルに残してきたわたしの農園が現在どんな状態だか、共同経営者がどうなっているか、何か情報をつかみたいと思った。共同経営者がわたしをとっくの昔に死んだものと考えていることはまず間違いはあるまいと思った。
こういう考えでわたしはリスボン行きの船に乗り、翌年の四月にリスボンに着いた。従僕フライディはこのような旅に忠実にわたしのお伴《とも》をし、どんな場合にも忠実な召使いぶりを発揮した。
リスボンに着いて、いろいろ尋ねた結果、初めてアフリカ沿岸の沖で私を海から救ってくれた旧友の船長を捜し当てた。これはわたしには格別な喜びだった。彼はもうすっかり年とっていて海上生活から引退しており、相当な年配になっている息子を自分の船に乗せ、依然としてブラジル貿易に従事させていた。老人はわたしが誰だか初めはわからなかった。わたしだって先方がわからないくらいだった。しかし、わたしはすぐ思い出したが、老人もまたわたしが名をなのるとすぐ思い出してくれた。
お互いに感動して懐旧の情を交わした後、当然のことながら、わたしの農園と共同経営者のことを尋ねた。老人のいうことはこうであった。
もうかれこれ九年もブラジルには行っていないが、わたしが最後にこちらへ来る時には、共同経営者はまだたしかに生きていた。けれども、共同経営者といっしょにわたしの財産の管理を頼んでおいた二人の管理者は両方とも死んだはずだ。しかし、農園の収穫の増加についてはりっぱな報告が手にはいるものと信じている。というのは、わたしが難破して溺れ死んだという噂が広がっていたため、管理人たちは農園のわたしの所有分からの収穫の計算書を国庫代理人に提出し、その国庫代理人はわたしがそれを請求しに現われないことを条件に、その三分の一を国王に、三分の二を聖《セント》オーガスティンの修道院に贈るように割り当てたというからである。修道院に贈ったのは、貧民を救うことと現地人《インディアン》をカトリック教に改宗させることに使うためである。
しかしながら、もしわたしなり、わたしの代理人が現われてその相続財産を請求することになれば、当然返還されることになっている。ただ、毎年の収入の分は慈善事業に回されているので回収することはできない。しかし、国王の土地収入役と修道院収入役は、責任者、つまりわたしの共同経営者が毎年収穫について正直な報告を出すように、ずっと今まで厳重に督促《とくそく》してきたし、わたしの受けるべき額を彼らがきちんと受け取っているのだから、安心してよい、というのであった。
わたしは老人に、どれくらいの額に農園の収入が上がっているか知っているかと尋ね、また、農園は今でも経営するだけの価値があるかどうか、さらに、わたしがブラジルへ行ってわたしの当然の権利として受け取るべきものを、請求してもなんの障害にも会わないだろうかどうか、と尋ねてみた。
老人は、農園がどの程度に改良されたかはっきりとはわからないが、わたしの共同経営者が農園収入の半分を手に入れるだけでも、ものすごく裕福になったことだけはよく知っている、といった。また、老人がはっきり覚えているところでは、国王が受け取るわたしの収入の三分の一は、他の修道院か宗教施設へ下賜《かし》されたらしいが、その額は年に二百モイドール以上に達していると聞いたことがある、という。
わたしが自分のものを支障なく手に入れるということについては、それは文句なしにできるだろう。わたしの共同経営者はまだ生きているので、わたしの所有権を証明してくれるだろうし、わたしの名は土地の記録簿にも載《の》っているのだから、といった。
わたしの二人の管理人の遺族たちもりっぱな正直な人たちで、それにたいへんな金持ちだ。だから、わたしが財産をもとどおりに手に入れるのに援助するばかりでなく、わたしに渡すべき金も相当多額に用意しているはずだと思う。つまり、その金は彼らの父親たちが管理していた間、上に述べたように割譲《かつじょう》される前まで、約十二年間と記憶するが、その間に農場から上がった収益に当たるのだ。こういうことも話してくれた。
この説明を聞いて、わたしはいささか気になり、不安に感じている様子を示して老船長に尋ねた。
あなたはわたしが遺言状を作り、あなたを包括《ほうかつ》相続人などに指定したのを承知していながら、管理人たちがそんなふうにわたしの財産を処分するに至ったのはどういうわけか、と。
それはおっしゃるとおりだが、あなたが死亡したという証拠はないし、あなたの死亡について、なにか確かな報告がくるまでは、遣言執行人として行動するわけにいかなかった。それに、そんな遠い将来のことにかかわりたくなかった。いかにもあなたの遺言状を登記し、自分の請求権も書き入れたのは事実だ。もしあなたの生死の確報が提出できたら、委任状どおりに権利を行使し、いわゆる製糖所《インジェニオ》を自分のものにし、今ブラジルにいる息子にその手続きをするように命令を与えることもできたわけであった、といった。
さらに老人はいう。
「しかし、もうひとつあなたに話しておかなければならんことがあるのじゃ。これは今までの話ほど、かんばしくはないかもわからんが、じつは、あなたは死んだものと思い、世間でもそう信じこんでいたわけで、あなたの共同経営者と管理人が、初めの六年ないし八年分の利益をあなたに代わって、わしが受けとるようにと申し出しました次第で、わたしもそれを受け取りましたよ。だが、その時分は、農場の拡張や製糖所の建設や、奴隷の買い込みなどと出費がかさみ、あとでこそ収入も相当になりましたが、当座はそう大した利益も上がりませんじゃった。が、とにかく、わしが受け取ったものの全額、その使途については、はっきりと委細《いさい》をお目にかけますじゃ」
この古い友人とさらに何日か話し合ったが、そのあとで彼はわたしの農園から上がった初めの六年間の収入の精算を見せてくれた。それにはわたしの共同経営者と貿易商の管理人の署名がしてあって、それによると収入は現物で渡されていた。たとえば、たばこの巻いたのがいくつ、砂糖がいく箱、その他ラム酒、糖蜜がいくらといったぐあいであったが、これは製糖工場の産物であった。この精算書で見ると、毎年収入がいちじるしくふえていたことがわかった。ただ、前に述べたとおり、出費も大きく、収入額は初めは少なかった。それでも老人がわたしに明示したところによると、彼はわたしにモイドール金貨四百七十枚の負債があるほか、砂糖六十箱と二重巻きのたばこ十五本の債務があることになっていた。
この品は、わたしがブラジルを去ってから約十一年|経《た》ったころ、船長がリスボンに帰る途中、船が難破した時、海上に失われたものであった。
人のいいこの老人はそれから不幸なでき事をかこち始め、損失を補うためや、新しい船を買う分担金を払うために、わたしの金に手をつけなければならなくなった事情を話した。
「でもな、あんたがお困りになれば不自由はかけませんし、せがれが帰ってき次第、お金は満足に返済しますじゃ」という。
こういって、老人は古い財布を引っぱり出してポルトガルのモイドール金貨百六十枚をわたしに渡し、息子が現在乗りこんでブラジルへ行っている船に対する老人の権利書も渡してくれた。老人はその船の四分の一の所有者で、その息子も同じく四分の一の所有者であった。残金の担保として二人分の証書をわたしの手もとに差し出したのである。
この気の毒な老人の正直さと親切にすっかり感動して、わたしはとうてい彼の差し出すものを受け取る気にはなれなかった。かつて彼がわたしのために尽くしてくれたこと、海上でわたしを救い上げてくれたこと、あらゆる機会に親切にしてくれたこと、とくに、今も今、わたしに誠意のこもった友となってくれたこと、こういうことを思うと、彼のいうことを聞いては涙を抑《おさ》えることができないほどだった。それでまずわたしは、今の事情でこんな大金がほんとうに手離せるのか、生活に困ることになりはしないかと尋ねた。少しも困らないとはいえない。けれどもお金はあなたのものだし、わたしよりあなたのほうがもっと必要だろうと思う、というのであった。
この善良な老人のいうことはいちいち真情のこもったものであった。彼のいうことを聞きながら、わたしは涙を抑えることができなかった。けっきょく、彼が出した金のうちからモイドール金貨百枚だけ受け取り、ペンとインクを借りて受取り証を書いて彼に渡した。残額は彼に返し、もしも農園が手にはいることになった暁《あかつき》には、今日もらった金も返すといった。事実、あとになってそのとおり返した。
息子が乗っている船に対する老人の権利の売渡し証書のほうはどうしても受け取るわけにはいかない。もしわたしが金に困ることがあれば、正直なあなたのことだから払ってくださるでしょう。またもし金に困ることはなく、おっしゃるとおりの財産をわたしが回復することになれば、もうこれ以上一ペニーもいただくことはありますまい、といった。
この問題が一段落つくと、老人は、農園を回復する手続きについて知恵を貸してやろうかとわたしに尋ねた。わたしは自分で現地へ行ってみるつもりだと答えた。そのつもりならそうするもよかろう。だが行くつもりがなければないで、権利を確保し、すぐにでも利益を自分の用に供するようにする道はいくらでもある、といった。ちょうどリスボン河にブラジルに向けて出帆しようとしている便船があったので、彼はわたしに公式登録簿にわたしの名を記入させ、私という者が生きており、当該《とうがい》農園を開拓するためにその土地を最初に手に入れた本人に相違ないという、宣誓《せんせい》の上でなされた老人の供述書も添えた。
これが公証人によって正式に証明され、委任状も添えられると、老人は自筆の紹介状とともに、老人が知っているブラジル在住の貿易商のところへ送るように、といってくれた。そして、財産返還の報告書がくるまで自分のところに逗留《とうりゅう》したらどうかと勧《すす》めてくれた。
この委任状によって、すべての手続きはこの上なく順調にはこんだ。七か月も経《た》たないうちに、かつてわたしに航海へ出てくれと頼んだあの貿易商の管理人たちの遺族から大きな小包が届いた。その中には次のような特別な手紙と書類が同封してあった。
第一に、遺族の父親たちがポルトガル人の老船長と精算した年から六年間にわたる、わたしの農園からの収穫を示す交互|勘定書《かんじょうしょ》がはいっていた。勘定は差引き千百七十四モイドールわたしの貸し方になっているように見えた。
第二に、遺族が財産を管理していたその後の四年間の計算書がはいっていた。その四年間というのは、行方不明の人間、いわゆる民事死という人間、の財産として政府がその管理権を請要するまでの期間であった。その差引残高は、農園の収入も殖えたため、三万八千八百九十二クルセイドーとなっている。つまり、三千二百四十一モイドールになる。
第三に、オーガスティン派修道院の院長の計算書がある。院長は十四年以上にわたって利益を受け取っていたが、慈善施設に与えてしまった分については精算せず、未分配の分が八百七十二モイドール手もとに残っていると正直に明言し、これはわたしに返還すべきものと認めている。国王に渡った分については一文の返還もなかった。
共同経営者からの手紙もあった。わたしが生きていたことを真情をこめて祝い、事業の報告として、農園がどんなに改良され、一年にどれくらい収穫を上げているかということ、その地面の面積が何エーカーになるかという詳しい数字、また、耕作の状況や農園に働いている奴隷の数などをあげたりして説明していた。賛美《さんび》のため二十二の十字架を描き、わたしが生きていたことを聖母マリアに感謝するために、ちょうどそれだけの数のアヴェ・マリアを唱えたと書いてあった。ぜひこちらへ渡航してきて自分の財産を受け取るように熱心にすすめていた。しかし一方、もし来られなければ誰に財産を渡したらよいか指図をしてくれるようにと書いてあった。最後に、家族ともども心からの友情を捧げる、と結んであった。手紙とともに贈り物としてりっぱな豹《ひょう》の皮を七枚も送ってきた。これは彼が貿易のためアフリカに送った船で、わたしのように難破せずに無事に帰ってきたものから手に入れたものらしかった。そのほか、上等な菓子五箱と、モイドールほど大きくはないが、まだ鋳造《ちゅうぞう》してない金百個ほども贈ってくれた。
これと同じ便船で二人の貿易商の管理人も砂糖千二百箱、たばこ八百|巻《まき》、それに残額は金《きん》で送ってきた。
実際、ヨブの終わりは初めよりよかったというのは、わたしの場合にあてはめてよかったと思う。わたしがこれらの手紙を読んだ時、ことに自分の財産が全部すぐ身近にきていることを知った時の、心臓のときめきはここで表現することはまったく不可能である。ブラジル航路の船はいつも船団を組んでいるので、わたしへの手紙を持ってきたその同じ船団が同時にわたし宛ての荷物も運んできて、手紙がわたしの手にはいる前に、わたしの財産は安全に港の河に着いていたのであった。要するに、わたしは真っ青になって気持ちが悪くなったのだ。もし老人が大急ぎで強心飲料を持ってきてくれなかったら、あまり突然の喜びで気が転倒し、その場で息絶えていたかも知れなかった。
その後しばらく、数時間も、かなりぐあいがわるくて、ついに医者を迎えにやった。発病のほんとうの原因がわかると医者は血を取ろうといった。血を取ってもらうと楽になり、だんだん元気になった。実際、こういうふうにして興奮を発散させてもらわなかったら、きっと死んだに違いないと思う。
わたしはまったく突然、現金で正貨五千ポンド以上の金持ちになり、年収千ポンド以上の不動産といってよいものをブラジルに所有することになった。しかも、イギリス本国の地所と同じように確実な不動産であった。要するに、自分でもどういうことか理解できないし、そのありがた味を知るにはどう気持ちを落ち着けたらいいのかもわからないほどの境遇になったわけであった。
わたしがまず最初にしたことは、わたしのそもそもの大恩人である老船長に報《むく》いることであった。考えてみれば彼こそは、海上で遭難していたわたしをまず助け上げてくれ、最初から親切をつくしてくれ、最後まで誠意を示してくれた人だった。わたしに送り届けられた物を全部彼に見せて、これはいっさいを支配する神の摂理《せつり》によるのであるけれども、その次にはまったく老人のおかげである、百倍にしてその恩義に報いるのがわたしの義務だと思う、といった。
そこでまず、前にわたしが受け取った百モイドールを返却した。それから公証人を呼んで、ききに老人が債務として認めた四百七十モイドールに対する一般的免除証書、つまり免責書を十二分に明確に作製してもらった。ついで委任状を書いてもらい、農園から上がる毎年の収入の受取人を老人に指定し、共同経営者に命じて収支勘定を老人に報告させ、定期便船で収益をわたしの代わりに老人あてに届ける、と定めた。最後にその一条として、財産の中から毎年百モイドールを終身老人に贈与し、老人の死後はその息子に年額五十モイドールを終身贈与する、という項目を入れた。このようにしてわたしはこの恩人に報いたのである。
さて、こんどはどっちのほうに針路をとったらよいか、神が授けてくれた財産をどうしたらよいか、じっくり考えなければならなかった。島でのあのひっそりした生活をしていた時よりも、今のほうが心配のたねが多くなったのだ。島では持っているものだけでなんの不足もなく、要《い》るもので不足するものは何もなかった。ところが今は大へんな荷物を背負いこんで、それをどう保持していくかがわたしの仕事となった。お金を隠す洞穴もなければ、誰かが手を出すまで黴《かび》で錆びてしまうままに、鍵もかけずに放りっぱなしにしておける場所もなかった。それどころか、どこにしまったらよいのか、誰に預けたらよいのか、皆目《かいもく》見当もつかなかった。ただ、わたしの恩人である老船長が正直な人間であること、これだけがわたしの唯一のたよりであった。
次に、ブラジルにある財産のことを思うと、どうしても出かけていかなければならないような気がした。といっても、身辺の諸事を片づけ、財産を誰か信頼できる人に託さないかぎり、ブラジルへ渡ることは考えられなかった。初め、昔からの付き合いである例の未亡人のことを思い出した。彼女なら正直で信頼を裏切ることはないだろう。けれどもなにぶん年が年であり、それに貧乏している。おそらく借財に苦しんでいるかも知れなかった。それでけっきょく、財産を持って自身まずイギリスへ帰るよりほかに方法はなかった。
しかし、この決心がつくまでには数か月かかった。そういうわけで、昔の恩人である老船長にはじゅうぶん満足のゆくように恩返しをしたので、こんどは可哀そうな未亡人のことが気になりだした。亡くなったその主人はわたしの最初の恩人であり、彼女もまだしっかりしている間は、わたしの忠実な管理人と相談役をつとめてくれた。
そこで、わたしが最初にしたことは、リスボンのある貿易商に頼んで、ロンドン在住の取引店に手紙を書き、彼女に為替《かわせ》手形を払うばかりでなく、本人を捜し出して、わたしからといって百ポンドの現金を渡してやり、わたしが生きているかぎり、あとあとの送金も絶やさないつもりだということを告げて、貧乏な未亡人を慰めてくれるように、とりはからってもらった。それと同時に、田舎《いなか》にいる二人の姉妹たちにも百ポンドずつ送った。彼らは貧乏しているわけではなかったが、かといって裕福な暮らしでもなかったからである。一人は結婚したのだが未亡人になっており、もう一人はその良人にあまりよくしてもらっていなかったのである。
しかし、自分の親戚や知人を全部見渡してみても、財産全部を委せてなんの心配もなく、安心してブラジルに渡っていけるような人間は、一人も見つからなかった。これにはほとほと困った。わたしはブラジルへ行ってそこに定住したいと思ったことがある。いわばそこに土着化していたからであるが、宗教のことが少し気にかかって、何とはなしに行くのを渋《しぶ》っていた。その間のいきさつはやがてあとで述べる。
しかしこんどブラジル行きを躊躇《ちゅうちょ》したのは宗教の問題ではなかった。ブラジルの人たちに交わって生活していた間、わたしは公然とその国の宗教を奉じて少しも意に介《かい》しなかった。また今でも変わりはなかった。ただ最近になって、宗教のことを前よりも深く考えるようになり、ブラジル人の間にまじって生き、かつ死ぬことを考え始めてくると、自分がかつてカトリック信者だと公言したことを後悔《こうかい》し、これを抱いて死ぬには最上の宗教ではないかも知れない、という気がしてきた。
しかし、前にもいったとおり、これがわたしのブラジル行きを抑えているおもな障害ではなかった。むしろ問題は誰に財産を委《まか》せてゆくか見当がつかないことであった。そこでついに意を決して財産を携えてイギリスに行くことにした。イギリスに着いたら、信頼のおける知人なり親戚を捜し出すことになる。そこでわたしは全財産を持ってイギリスに向かって出発する用意をした。
帰国の準備として、わたしはまず第一に、ちょうどブラジル行きの船団が出航しようとしていたので、ブラジルから来たあの公正かつ忠実な報告書に対する適当な返事を出すことにした。第一に聖オーガスティンの修遠院長宛てに手紙を書き、その公正な処置に対する厚い感謝の念を述べるとともに、まだ処分されていない八百七十二モイドールの寄付を申し入れた。その中の五百モイドールは修道院に、三百七十二モイドールは貧民に、修道院長の適切と考えるように分配して欲しいと希望を述べ、自分のために教父たちの祈りをお願いする云々と書いた。
次には二人の管理人に礼状を書き、彼らの公正と誠実に対して当然払うべき満腔《まんこう》の謝意を表した。何か贈り物をすることも考えてみたが、彼らはそんなことをしてもらう必要のまったくない人であった。
最後に共同経営者にも手紙を書き、わたしの農園の改良に尽くしてくれた労力、事業の資本の増殖のために示してくれた誠実、これを厚く感謝し、わたしが年老いた恩人に与えた権限にしたがってわたしの分け前を処理することについて指図を伝えた。さらに詳細な報告をわたしから聞くまで、わたしの受けるべきものは全部、わたしの恩人に送ってくれるように頼んだわけである。また、この共同経営者のところに行くばかりでなく、そこで余生を送るのが自分の願いであることもいってやった。
この手紙に添えて彼の妻と二人の娘、これは船長の息子が伝えてくれたので知った家族だが、この人たちにみごとなイタリア絹の贈り物をし、それにリスボンで手に入れ得る最上のイギリス羅紗《らしゃ》二反と黒羅紗五反と高価なフランダースのレース若干《じゃっかん》とを送った。
このようにして身の回りのことを片づけ、荷物を売り払い、持っていた財産は全部、確実な為替手形にかえたが、さて次の問題はどの道を選んでイギリスへ行くかであった。もちろん、わたしは海にはじゅうぶんなれていた。が、その時は海路イギリスに行くのが妙に嫌《いや》だった。なぜだか理由はわからないのだが、嫌だという気持ちはますます募《つの》ってきて、船で行くつもりで一度は荷物を船に乗せたのに、気が変わってしまった。それも一度ならず、二度も三度も考えを変える始末であった。
なるほど海ではさんざん不幸な目に会ったので、あるいはこれが理由の一部になったかも知れない。けれども、このような重大な場合に、人の心に起こる強い衝動《しょうどう》というものを決して軽視してはいけないものだ。乗船するつもりでわたしは二隻の船を選んでいた。とくに念を入れて選んだのであったが、一隻にはわたしの荷物を積みこみ、他の一隻には自分で乗船するつもりで船長とも話をつけていた。ところがあとになってみると、この二隻とも航海を全《まっと》うしなかったのだ。つまり、一隻はアルジェリア人の海賊に捕えられ、他の一隻はトーベイ近くのスタート岬で難破し、三人を残してあとは全部|溺死《できし》してしまったのだ。このどちらの船に乗っていたところで、わたしが悲惨な目に会っていたことは間違いなかった。どちらのほうがひどかったかは、なんともいえなかった。
このようにどうしたものかと悩んでいた時、何もかもうちあけた老船長は海路は避けるようにと熱心にすすめてくれた。その代わりに陸路グロイン〔スペインの北西部にある港で現在のラ・コルニヤ〕へ出て、ビスケイ湾をわたりロシェルに上陸すれば、それから先は陸路パリへ、さらにカレー、ドウヴァーへ行くのはたやすくもあり安全な旅程だ。それともマトリッドまで北上して、そこから陸路をとってフランスを横断するのも一案だ、といった。
要するに、カレーからドウヴァーに海を渡る以外は、海路の旅は全然やるつもりはなかったので、全旅程を陸路にすることに決心した。
この旅は別に急ぐ必要もなく、費用を惜しむわけでもなかったので遥かに楽しいものだった。いやが上にも快適なものにしてやろうというので、老船長はリスボン在住の貿易商の息子で、わたしと旅行をともにしたいというイギリス紳士を紹介してくれた。そのあとでわれわれはさらに二人のイギリス商人と二人の若いポルトガル紳士と同行することになった。ポルトガル人たちはただパリまで行くだけであった。これでわれわれの総勢は六人、それに従僕五人ということになった。二人のイギリス商人も二人のポルトガル紳士も費用節約のために、それぞれ二人で一人の従僕を雇ってそれでがまんしていた。わたしのほうは、フライディのほかにもう一人イギリス人の水夫を従僕として連れていくことにした。フライディはなにしろ不慣れで、道々従僕の役目を果たすのはむりであったからである。
このようにしてわたしはリスボンを出発した。一行はりっぱな馬に乗り、武装もちゃんとしていたので、ちょっとした軍隊といった格好で、みんなは敬意を表してわたしを隊長と呼んだ。わたしが最年長者のせいもあったが、従者を二人も連れ、それにこの旅行の発《ほっ》起人《きにん》であったせいもあった。今までわたしは航海日誌で読者をわずらわしたことがなかったように、こんども陸路日誌で読者をわずらわすつもりは毛頭ない。しかし、こんどの長い困難な旅行中に起こった若干《じゃっかん》の冒険は省くわけにはゆくまいと思う。
マドリッドに着いた時、われわれはみんなスペインは初めての連中なので、しばらく逗留してスペイン宮廷やその他の名所を見物したいと思った。しかし、夏も終わろうとするころだったので、長逗留はやめにして、十月の半ばにはさっさとマドリッドを出発した。ところがナヴァールのはずれまで来ると、山脈の向こうのフランス側にものすごい降雪があるという話を道々の町で聞かされた。極度の危険をおかして山越えをしようとしたがけっきょく失敗して、パンペルーナ〔ナヴァール、すなわちナバラ州の首都パンプロナのこと〕に引き返すことを余儀なくされた旅人もいく人かあったという話も聞いた。
いよいよパンペルーナに着いてみると、かねて聞いた話のとおりであった。ずっと暑い地方の生活になれ、衣服などほとんど着ていられないような地方に住みなれていたわたしにとっては、その寒さは堪《た》えられなかった。気温が暖いというより非常に暑かった旧カスティリヤ地方を出たのがわずか十日前のことであったのに、ここに来てたちまちピレネ山脈から吹きおろす骨をさす寒風に身をさらすとは、苦痛におとらず驚きであった。その風の寒いことは堪えがたく、手足の指がこごえ、凍傷《とうしょう》を起こす恐れさえあるほどであった。
可哀そうなフライディはすっかり雪におおわれた山脈を見、痛烈な寒気を身に感じると、ほんとうに肝《きも》をつぶしてしまった。なにしろこんな経験は生まれて初めてのことであった。しかも皮肉なことに、われわれがパンペルーナに着いたころには、雪はいっそう激しく、しかも長く降り続き、土地の人々は冬が以外に早くきたというのであった。以前から悪い道だったのが今はまったく通行不能になってしまった。つまり、ところによっては雪が余り深く積もって歩行ができず、北国の場合と違って固く凍《こお》りつかないので、一足ごとに雪の中に生き埋めになる危険さえあった。
われわれはパンペルーナに二十日間も滞在した。しかし、本格的な冬は迫ってくるし、天候がよくなる見込みもなかった。なにしろこの冬は全ヨーロッパを襲った未曾有《みぞう》の厳冬であったのだ。そこでわたしは、ここからフォンテラビア〔フランス国境に近いスペインの町〕にまわり、そこからボルドーへ船で渡ったらどうか、これは航路もごく短いから、と提案した。
この問題について相談しているところへ、四人のフランス紳士が到着した。われわれが峠のこちらのスペイン側で立往生していたように、峠の向こうのフランス側で立往生していたのだが、うまく一人の道案内を見つけ、この男の案内でラングドックの高地近くの地方を横断して、あまり雪に悩まされない道を通って一同無事に山越えしたのだ、と話した。かなり雪の深い所にも遭遇したが、固く凍っていたので人間も馬も無事に通れたのだ、と彼らはいった。
われわれはさっそくこの道案内を呼んだ。彼は雪の危険のない同じ道を通って山越えの案内をすることを引き受ける、といった。ただし、野獣の襲撃から身を守るためにじゅうぶんな武装をしなければいけないという。彼の話によると、こうした大雪の時には、地面が雪におおわれるので食物に窮して貪欲《どんよく》になった狼《おおかみ》が山のふもとに姿を現わすことがしばしばあるというのであった。そういう野獣に対してならばわれわれの備えはじゅうぶんにできているから、二本脚の狼のほうから守ってくれさえすればよい。なんでもこの狼のほうが大へん危険で、とくに山脈のフランス側では危いそうだから、と彼にいった。
これからわれわれの行く道すじには、そういったたぐいの危険はまったくない、と道案内はわれわれを安心させた。そこでわれわれは喜んで彼についていくことにした。われわれといっしょに従僕を連れた十二人の紳士もまた彼に案内してもらうことになった。フランス人もスペイン人もいたが、前にいったように、彼らは一度山を越えようとしてけっきょく引っ返してきた連中であった。
そこでわれわれ一行は道案内とともに、十一月十五日パンペルーナを出発した。しかし驚いたことに、道案内は前進するかわりに、われわれがマドリッドからやって来た同じ道を真っすぐ二十マイルも引き返すのであった。河をふたつ渡り、平坦《へいたん》なところへ出ると気温もまた暖かくなり、気持ちのよい、雪の気配もない平野となった。しかし突然道を左にとって、案内人は違った方向から山脈に近づいていった。恐ろしそうな丘陵《きゅうりょう》や断崖はあるにはあったが、回り道やうねり道をいくつもいくつも通り、回り回っていくうちに、あまり雪に悩まされもせず、いつの間にか峠を越えていた。そして道案内は突如として、ラングドックとガスコインの、一面緑におおわれた、さわやかな実り豊かな地方を指さし示した。もっともそこまで行くにはまだだいぶ距離はあり、途中難渋な道もあったのである。
しかしながら、一日一晩雪が降りしきり、旅が続けられなくなった時には、さすがにわれわれも少々不安を感じた。けれども、案内人は、すぐすんでしまうから心配するなとわれわれにいう。事実、われわれは一日一日と降り道をとり、北へ北へと向かっていった。こうして万事案内人にまかせて進んでいった。
日が暮れる二時間ほど前のころであったが、少しばかりわれわれの前方を進んでいた案内人の姿がちょっと見えなくなったと思った時、深い森に接した、くぼんだ道から、三匹の巨大な狼と、つづいて一匹の熊がとび出してきた。二匹の狼は案内人にとびかかった。もし彼がわれわれから半マイルも前に出ていたならば、助けに行く前に狼に食われていたかも知れなかった。一匹は彼の馬に食いつき、他の一匹は猛烈な勢いで彼に襲いかかっていた。拳銃を抜くひまも心のゆとりもなく、ただ力いっぱいに大声を上げてわれわれの助けを求めるだけだった。従僕のフライディが自分のすぐそばにいたので、かけつけて何事か見てこいと命じた。フライディはかけつけ、案内人の姿を見るやいなや、案内人にもまけない大声で、「旦那様《マスター》! 旦那様《マスター》!」とどなったが、さすが大胆《だいたん》な男だけに、まっしぐらに案内人のそばにかけより、襲いかかっていた狼の脳天めがけて拳銃をぶっ放した。
フライディであったのは案内人には幸運だったのだ。なにしろフライディは自分の国でこういった野獣にはなれていたので、少しも怯《おじ》けず、狼に密接して、先に述べたように、脳天を撃ち抜いたのであった。これがもしわれわれだったら遠方から発砲して、狼を撃ち損うか、案内人を撃ちかねなかったであろう。
わたしなぞより度胸のすわった男でも肝をつぶすほどの光景であった。フライディの拳銃の音とともに、道の両側から狼の群れの不気味きわまる咆哮《ほうこう》が聞こえてきた時、一同は驚愕《きょうがく》してしまった。咆哮は山々にこだましていよいよ大きくなり、狼は無数の大群であるように思えた。実際、単に杞憂《きゆう》にすぎないというほど少数では決してなかった。
とにかくフライディがこの狼を殺したので、馬に食いついていたほうの狼もすぐ離れて逃げていった。幸い噛《か》みついていたところが馬の頭部で、金具の突起が狼の歯にはさまっていたため、馬はたいした傷もうけなかった。案内人のほうはひどくやられた。たけり狂う狼が二度も噛みつき、一度は腕に、もう一度は膝の少し上に噛みついたのだ。暴れる馬から彼がまさに転げ落ちようという寸前にフライディがかけつけて狼を撃ち殺したというわけであった。
フライディの銃声を聞いてこれは何事かと、われわれ一行が急に速度を速め、道は非常に悪かったが、できるかぎり急いで現場へかけつけたことは容易に想像できるであろう。われわれの目をさえぎっていた林を抜け出るやいなや、どういう事態か、また、フライディが案内人を救い出した顛末《てんまつ》も、はっきりとわかった。もっとも、フライディが殺した獣《けもの》がどんな種類かはすぐには判然としなかった。
しかしながら、そのあと、フライディと熊との間に起こった格闘ほど激烈で、これほど奇妙なものはなかった。これには初めのうちこそ驚きもし、フライディの身を心配もしたが、やがてこれくらいおもしろいものはないことがわかった。熊というものは元来体が重くて無器用な動物で、敏捷《びんしょう》軽快な狼のように速くは走れない。
彼にはふたつの癖《くせ》があり、これが一般にその行動の規則となっている。第一は人間に関することで、人間は本来熊の餌食《えじき》ではないことである。本来といったのは、地面が一面に雪でおおわれている現状のような場合、極度の飢えにかられればどんなことをするかわからないものであるからだ。とにかく人間のほうから初め手を出さないかぎり、通例、熊のほうから人間を襲うことはない。むしろ反対に、森の中で出会っても、こちらからおせっかいしなければ、熊のほうもおせっかいしないのである。
ただその際、熊に対して慇懃《いんぎん》ていねいにするよう気をくばり、道を譲《ゆず》ってやらなければいけない。彼ははなはだ几帳面な紳士で、相手が王侯であろうと、自分のほうから一歩でも道をよけようとはしない。いや、もしほんとうに熊が恐ろしければそっぽを向いて歩き続けるにこしたことはない。もしも立ち止まってじっと熊を見つめたりすると、彼はそれを無礼の振舞ととる。またもし、何か彼のほうへ投げてそれが彼に当たりでもしようものなら、たとえ指ほどの木切れであっても、彼はそれを無礼な行為として、万事をなげうってもその怨《うら》みを晴らさないではおかない。面目のことになると彼ははっきりかたを付けなければ承知しない。これが彼の第一の癖である。
第二の癖は、もし人から無礼なことをされたら最後、復讐《ふくしゅう》をとげるまでは、昼であろうと夜であろうと、つきまとって離れず、追いつくまでは相当の速さであとを追ってくるということである。
従僕のフライディは案内人を危地から救い出し、われわれが行った時には、ちょうど案内人を馬から降ろしているところであった。案内人は負傷もしていたが肝をつぶしてもいた。いや、肝をつぶしたほうがひどかった。
ちょうどその時、突如として熊が森の中から現われてくるのを見つけた。これはまたものすごく大きく、わたしがこれまで見たこともない大熊であった。この熊を見たわれわれ一同は少々驚いた。が、フライディはと見ると、熊を見るなり、彼の顔にありありとうれしさと勇気が湧き上がってくるのがわかった。熊を指さしながら「おう、おう、おう」と三度もさけび、「旦那様《マスター》、お許しください。あれと握手《あくしゅ》させてください。旦那様《マスター》をうんと笑わせてあげますよ」といった。
わたしは彼がそんなに喜んでいるのを見てびっくりした。
「ばかだな、お前は。熊に食われてしまうぞ」
「わたしを食べる? わたしを食べる?」と彼は二度もくり返し、「わたしあいつ食べる。旦那様《マスター》を笑わせてやる。みんなここにいる、わたしみんな大笑いさせてやる」といって、腰を降ろし、たちまち長靴をぬいでしまい、ポケットに入れていた、彼ら常用のパンプスといわれる偏平《へんぺい》な靴にはきかえ、馬をわたしのもう一人の従者にあずけて、鉄砲をひっ下げて、まるで風のようにすっとんでいった。
熊はゆっくりと歩いていて、誰にも手出しする気はない様子であった。そこへフライディが相当近くまでやってきて、あたかも熊が人語を解するかのように、「おい、こら、おれはお前に話がある」と呼びかけた。われわれはかなり離れてついていった。もうすでに峠を降りてガスコイン側に来ていたので、大きな森にはいっていた。たくさんの樹木はところどころに点在していたが、地勢は平坦で広々とひらけていた。
熊より足の速いフライディはたちまち熊に追いつくと、大きな石を拾って熊に投げつけた。石は頭に命中したが、壁にでもぶっつかったように、熊にはなんの痛痒《つうよう》も与えなかった。しかし、結構フライディの目的にはかなった。このいたずら者はまったく恐いもの知らずで、熊に自分を追っかけさせて、彼のいわゆる大笑いをわれわれにお目にかける、というただその魂胆《こんたん》でこんなことをしたのであったからだ。
熊は石の当たったことを感じ、フライディを見るやいなや、くるりと向きをかえてフライディを追いかけてきた。ものすごい大股で、しかも、馬を中くらいのかけ足でかけさせるほどの速さで、すたすたと追いかけてくる。フライディは逃げだし、助けを求めるかのようにわれわれのほうへ向かって走ってくる。われわれはすぐさま熊に発砲してフライディを救うような身がまえをする。
熊がこっちのほうへ来ないで自分の仕事をしようとしているのに、彼がわざわざこちらのほうへおびき寄せるようなことをするので、わたしは腹が立った。ことに、熊をわれわれに向けておいて、自分はさっさとわきへ逃げていくのには腹が立ってしようがない。わたしはどなった。
「この野郎、こんなことをしてわれわれに笑えというのか。早くこっちへ来て馬に乗れ。その熊を撃ち殺すんだから」
フライディはわたしの言葉を聞くとさけんだ。
「撃つのいけない、撃つのいけない。じっとしていてください。たくさん笑うことある」
この敏捷《びんしょう》な男は熊が一フィート歩けば自分も二フィート歩くというぐあいにして、突然われわれの横で向きをかえ、彼の目的にかなうらしい大きな樫《かし》の木を見つけると、われわれについてこいと合図をし、今までの倍の速度でその木にかけより、鉄砲を地面に置いたまま、根本から約五、六ヤードの高さまでするすると登っていった。
すぐに熊もその木のところへ来た。われわれは距離をおいてついていった。熊はまず第一に鉄砲のところで立ち止まり、においをかいだが、そのままにして、木に登り始めた。ものすごく重かったが、猫のように登るのだった。この男はなんというばかなことをするものかと思いながらフライディのしぐさにあきれはて、何がおかしいのかまださっぱりわからなかった。熊が木に登ったのを見て、われわれはすぐそばまで馬を近づけた。
木のところに来てみると、フライディはその木の大枝の先のほうまで行っていて、熊も大きな枝の中ごろまで来て彼にとどこうとしていた。熊がその枝の細いところまで来ると見ると、フライディはわれわれに向かって、「さあ、わたし熊に踊りを教えてやるよ」といい、とび上がるようにして枝を揺さぶり始める。熊はよろよろしはじめたが、またしっかり立って、枝の元《もと》のほうへ戻ろうかと思ってうしろのほうを見始めた。こうなると、われわれも心から笑い出した。
しかし、フライディのふざけはまだ序の口だった。熊が立ち止まっているのを見ると、熊にも英語がしゃべれるといわんばかりに、「どうした。それ以上こっちへ来ないのか。頼むからもっとこっちへ来いよ」と呼びかけ、とんだり跳ねたりして枝を揺さぶるのをやめた。熊はまるで彼の言葉がわかったというように、もう少し先へ進んだ。するとまたフライディは飛び上がって枝を揺さぶり始める、熊はまた立往生するのだ。
われわれは熊の脳天めがけて撃つのにちょうどよい時だと考えて、わたしはフライディに、「じっとしておれ、熊を撃つからな」とさけんだ。
ところが彼は本気になって、「頼みます、頼みます。撃たんでください。そのときわたし撃ちます」とさけんだ。その時というのは「そのうち」のつもりだったらしい。
とにかく話をはしょっていうと、フライディはますます盛んに跳ねたりとんだりするし、熊はふらふらしながら立っている、というわけで、われわれは思う存分笑った。しかしこの男はいったい何をしようというのか、まだ想像がつかなかった。初めは彼が熊を枝から振り落とすつもりだとばかり思っていた。しかし熊もまんまとそんなことをされるほどばかでないことがわかった。振り落とされるほど枝の先まで行こうとはしない。その大きな鉤爪《かぎづめ》と足でしっかりと枝にしがみついているのだ。そんなわけで、これはけっきょくどうなるのか、この見世物の結末はどうなるのか、われわれには想像がつかなかった。
しかしフライディはすぐにわれわれの疑問を一掃《いっそう》してくれた。熊が枝に必死にしがみついていて、いくら口説《くど》いてもそれ以上進もうとしないのを見ると、「よし、よし、お前がそれ以上来ないなら、こっちから行く。お前おれのほうへ来ない、おれお前のほうへ行く」といって、枝のいちばん細い端まで行き、枝が体重でしなるのを利用して、じわじわと降りてきて、枝をすべりおり、地面に近づくとぱっととび降りて地上に立った。それから鉄砲のところへ走っていき、それを取り上げてじっと立っている。
「おい、フライディ、こんどは何をするのだ。なぜ熊を撃たないのだ?」とわたしは聞いた。
「撃たない、まだ撃たない。すぐ撃つ、まだ殺さない。わたし待つ、もう一度みんな笑わせる」
事実彼はわれわれを笑わせたが、そのことはすぐ述べる。
熊は敵が降りてしまったのを見ると、今までいた枝を後戻りしてゆく。一歩ごとに後ろをふり返りながら、ゆっくりゆっくりと後退《あとずさ》りして、どうやら幹のところまでたどり着く。それから同じように尻を下にして、鉤爪で幹につかまりながら、片足ずつ動かして、ゆっくりゆっくりと木を降りてくる。
ちょうどこの時、熊の後足がまさに地面につこうという瞬間に、フライディはやにわに熊に身を寄せたと思うと、銃口を熊の耳にぱっと当てて、あっというまに射殺してしまった。
このいたずら者はみんなが笑ったかどうかとくるりとふり向いて、われわれがおもしろがったことを顔付きから読みとって、自分でも大声で笑い出した。
「こんなふうにわたしの国では熊殺す」という。
「そうやって殺すったって、お前たちには鉄砲がないじゃないか」とわたしがいうと、「ええ、鉄砲はない、でも大きな長い矢を撃ちこむです」と答えた。
これはまったく楽しい気晴らしだった。けれどもわれわれはまだ荒涼たる山野を通り抜けていなかったし、案内人は大けがをしているし、どうしたものかと途方にくれた。狼の咆哮《ほうこう》が耳についていて離れなかった。前にもちょっと述べたが、アフリカの沿岸でかつて耳にしたあの野獣の遠吠《とおぼ》えは別として、このように震え上がるような恐ろしい声は聞いたことがなかった。
こういう事情につけ加えて夜も迫っていたので、そこを立ち去らなければならなかった。事情が許せば、フライディもしきりにせがんだことだし、われわれはこの巨大な熊の毛皮を剥《は》いだに違いなかった。捨てるには惜しい代物《しろもの》だった。しかしこれからまた三リーグも行かねばならず、案内人も先を急がすので、熊はそのままに残して旅を続けることにした。
地面はまた雪におおわれていたが、山中ほど深くもなく危険でもなかった。これはあとで聞いた話だが、あの貪欲《どんよく》な狼の群れは、飢えに迫られ食物を求めて森や平野に降りてきて、村々で多大な危害を加えたそうである。村の人々を驚かしたり、羊や馬を多数殺したり、人間までも若干《じゃっかん》殺したという。
案内者のいうことでは、われわれはもう一か所危険な所を通らなければならない。もしこの地方で狼がまた出るとすれば、そこである、というのだ。その場所というのは、四方を森で囲まれている狭い平地の中にあって、森を抜けるためにはどうしても通らなければならない細長い隘路《あいろ》であった。そこを通り抜ければわれわれが宿泊を予定している村に出るはずであった。
もう半時間も経たないうちに日没になろうというころ、最初の森にはいった。日没後間もなく平地に出た。初めの森では何事もなかった。ただ森の中の小さな平地で、幅も四百四、五十ヤード以上はないところで、五匹の大きな狼が、猛烈な速さで次々に道を横切って走っていくのを見たくらいなものであった。何か前方に見える獲物を追いかけているかのようで、われわれのほうには目もくれず、あっという間に消え去ってしまった。
これを見た案内者は、ついでながら、彼はなさけないほど臆病者であったが、もっと狼がやってくると思うから、ちゃんと用意しておくようにと、われわれにいうのであった。
われわれは武器を構《かま》え、目をあたりにくばっていたが、半リーグ近い森をつっきり平地に出るまで、狼は一匹も現われなかった。平地に足をふみ入れた瞬間からあたりに目をくばる必要があった。われわれが最初に出会ったものは馬の死骸《しがい》だった。つまり狼に食い殺されたあわれな馬で、少なくとも六匹の狼がそれにかかっていた。馬を食っているとはいえない。むしろ骨をしゃぶっているといったほうがよかった。肉はもう前に食いつくされていたからである。
狼どもが獲物を食っているのをじゃまするには及ぶまいと思ったし、狼のほうもあまりこちらを気にしていなかった。フライディは襲いかかりたがったが、わたしは絶対にそれを許さなかった。なんとなく大へんな仕事がわれわれを待ちうけているような気配が感じられたからである。
平地を半分も行かないうちに、左手の森の中から狼のすさまじい唸《うな》り声が聞こえてきた。すぐそのあと、およそ百匹くらいの狼がわれわれのほうにまっしぐらに走ってくるのが見えた。これは一団となって、大部分が一列にならび、老練な士官に統率された軍隊のように整然としていた。どうやってこれを迎え撃ったらよいか見当がつかなかったが、一同が密着した一列陣にならぶ以外に手はないと知った。
たちまちわれわれはそのように列を組んだ。射撃と射撃の間隔が余り長くならないように、一人おきに発砲し、発砲しない者は、狼がなおもこちらへ前進を続ける場合には、ただちに第二の一斉射撃ができる姿勢で待機しておれ、と命令した。また、最初に射撃した者は銃にまた弾《たま》をこめようなんて気を起こさず、めいめい拳銃を構えておるように、といった。われわれの武装はみな銃一挺と挙銃二挺ずつであったからだ。それだからこの方法によると、半数交替で六回の一斉射撃ができることになっていた。
しかしさし当たってその必要はなかった。第一回の一斉射撃で敵はぴたりと立ち止まってしまったからである。発射の閃光《せんこう》とともに銃声にぎょっとしたのだ。四匹が頭を撃たれて斃《たお》れ、ほかの数匹は傷を負うて血だらけになって逃げてゆくのが、雪の上に落ちた血痕《けっこん》からわかった。狼どもは立ち止まったがすぐに退却はしなかった。そこで、どんな獰猛《どうもう》な野獣でも人間の声には恐れをなすものだという話を思い出し、一同にできるだけ大声でどなるように命じた。この考えがかならずしも間違いでないことがわかった。われわれの喊声《かんせい》を聞くと狼どもは退却して、向きを変え始めたからである。そこでその背後から第二の一斉射撃をあびせかけるように命令した。すると狼の群れは急にすばやくかけ出し、森の中へ逃げこんでしまった。
ここでわれわれは銃に弾をこめる余裕ができた。そして今は一刻のおくれもゆるさないので、どんどん前進を続けた。ところが、銃に装填《そうてん》して用意が整ったと思う間もなく、左手に当たって、やはり同じ森の中で、われわれが進もうとしている道のはるか前方に、恐ろしい叫喚《きょうかん》の声が聞こえたのだ。
夜は迫ってくる、あたりは次第に薄暗くなってくるので、形勢はわれわれにいよいよ不利になってきた。叫喚の声は次第に高くなり、それがあの憎むべき狼の咆哮《ほうこう》叫喚であることがはっきりわかった。すると突然、二つか三つの狼の群れを認めた。一群は左手に、他の一群は背後に、残りの一群は前方にあった。われわれは狼にとり囲まれた形であった。しかしながら狼は襲撃してこようとはしなかったから、できるかぎり早く馬をかけさせてひたすら前進を続けた。しかし、なにしろ道が悪く、馬もせいぜい大幅の速歩程度にしか走れなかった。
こんなふうにして平野のはずれにある、われわれが通り抜けねばならぬ、森の入口が見えるところまでやってきた。しかし、そこにある小径の近くまで来ると、森の入口のところに入り乱れてひしめきあっている狼の群れを見て、びっくり仰天してしまった。
そのとき突然、森の別の入口のほうにわれわれは銃声を聞いた。その方角を見ると、鞍と手綱《たづな》だけをつけた一頭の馬が疾風のようにとび出してきた。十六、七匹の狼が全速力でこれを追っかけていた。いかにも、馬は狼より脚が速かった。けれども、その速さをいつまでも続けられるとは思われなかった。やがては追いつかれることは疑いをいれなかった。そうなるのは明らかであった。
しかしわれわれはここで最も凄惨《せいさん》な光景を見た。馬がとび出してきた森の入口まで乗りつけてみると、そこには一頭の馬と二人の人間の死骸が横たわっていた。貪欲な狼に食い荒らされているのだ。二人のうちの一人はさっきわれわれが聞いた銃声を発した男に違いなかった。すでに発砲したあとの銃がそのそばに転がっていたからだ。その死骸は頭と上半身が食いちぎられていた。
この光景を見て、われわれはぞっとした。これからどうしてよいか見当もつかなかった。けれども狼の姿を見るとすぐにおのずから決心がついた。狼が獲物にありつこうとわれわれのまわりにたちまち集まってきたのだ。三百匹くらいいたことは間違いないと思っている。
森の入口のところで、森から遥か離れて、大きな丸木が若干《じゃっかん》転がっていたのは、われわれには非常にありがたいことだった。夏の間に切り倒されて、運搬するばかりになっているようであった。わたしはわが小部隊をこれらの丸木の置いてある場所の中へ集合させ、一本の大きな丸木のうしろに一列に並べ、馬から降りて、その木を胸壁として三角形に立たせる、つまり馬をまん中にして三面の陣地を作るように指示したのだ。
わたしの指示どおりに陣形ができた。そしてこの作戦はうまくいったのだ。ここで狼がわれわれに加えた襲撃ほど狂暴なものはいまだかつてなかった。彼らは恐ろしい唸《うな》り声を立ててわれわれに襲いかかってきた。前にもいったように、胸壁代わりになっていた丸木にとび上がってきたが、ただしゃにむに獲物に突進してくるというありさまだった。彼らのたけり狂いは、われわれの背後にいる馬を見たのにもなお原因があったらしい。彼らが狙ったのは、まさしく馬だったからだ。わたしは前と同じように半数交替で発砲するように命じた。狙いが確実だったので、最初の一斉射撃で数匹の狼を射殺した。しかし、射撃は間断なく続けなければならなかった。なにしろまるで悪魔のようにあとからあとからと、先を争うように押し寄せてきたからである。
第二回目の一斉射撃で、敵は少しくたじろいだと思った。これで退却するだろうと思ったが、それもほんの束《つか》の間のことで、ほかの狼がまたもや襲ってきた。そこで拳銃の一斉射撃を二回行なった。合計四回の一斉射撃で十七、八匹の狼を殺し、その二倍に手傷をおわせたと思うが、それでもなお彼らは攻撃してきた。
あわてて最後の弾まで使ってしまいたくなかった。そこでわたしは従者を呼んだ。従者といってもフライディではなかった。フライディのほうはもっと重要な仕事をしていたのだ。われわれの交戦中、彼は無比の機敏さでわたしの銃と自分の銃に弾をこめていたのだ。そういうわけで、もう一人のほうの従者を呼んで火薬の筒《つつ》を渡し、丸木に沿って火薬をまいて大きな導火線を作るように命じた。
彼はいわれたとおりにしたが、たちまち狼が押し寄せ、丸木にとび上がってくるものさえあったので、かろうじてその場から逃げ帰ることができたのであった。間髪《かんはつ》を入れず、わたしは弾をこめてない拳銃の引き金を火薬のすぐそばで引いて火薬に火をつけた。丸木の上にいた狼はたちまち黒焦げになり、六、七匹は火の力にびっくりして倒れた、というよりもわれわれの側へとびこんできた。これは一瞬のうちに片づけた。もうすっかり夜も暗くなっていたので、燃えさかる火の光はいっそう強烈になり、そのためにほかの狼どもは怖《お》じ気づき、少しくたじろいだのであった。
そこで最後の拳銃の一斉射撃を命じ、そのあとで一斉に喚声を上げた。すると狼は退却しだした。われわれは時を移さず出撃して、すでに手傷を負って地面にのたうちまわっている二十匹近い狼に襲いかかり、刀できりつけた。この計画は予想どおりの結果をもたらし、惨殺《ざんさつ》された狼の絶叫と咆哮《ほうこう》は仲間にひどくこたえたらしく、狼はことごとく逃げ去り、われわれは無事にあとに残ったのである。
われわれは初めから終わりまでで、およそ六十匹の狼を殺した。もしこれが昼間であればもっと多数殺したであろう。このようにしてわれわれの戦場も敵影ひとつなく片づいたので、ふたたび前進を開始した。まだ一リーグ近くも行程が残っていたからである。その途中でも、森の中で貪欲《どんよく》な獣どもがほえたり唸《うな》ったりしているのをいく度も聞いた。時には狼の姿さえ見かけたように思ったが、雪のため目がちらちらしていたので、それとはっきりわからなかった。
かくして約一時間の後に、われわれは宿泊を予定していた町に到着した。ところがその町の人々は戦戦兢兢《せんせんきょうきょう》としていて、みな武装しているのであった。前の晩、狼の群れと数頭の熊が夜中にこの町を襲い、人々を恐怖のどん底へ陥《おとしい》れたものらしい。町の人々は夜も昼も、とくに夜は厳重に見張りをして、家畜のみならず、人間自身さえ守らねばならなかったのである。
その翌朝になると、われわれの案内人は容態が悪くなり、二か所の傷口が膿《う》んで体が腫《は》れ上がり、これ以上旅を続けることができなくなった。そこでやむを得ずここで新しい案内者を雇い、トゥールーズへ行くことにした。
ここは気候は温暖で、地味も肥えた、気持ちのよいところで、雪もなく、狼もいず、そういう心配は何もなかった。われわれがこの土地の人たちに遭難の話をすると、そんなことはあの山麓《さんろく》の大森林では珍しいことでない、ことに雪が地上に積もっている時はなおのことだ、という話だった。しかし、こんな酷《きび》しい季節にあんな道を連れてくるなんて、いったいどんな道案内を雇ったのかとしきりに尋ね、狼にみんな食い殺されなかったのは大出来《おおでき》だったという。
われわれが馬をまん中において陣を布《し》いた話をすると、よくもそんなばかなことをしたものだとわれわれを戒《いまし》め、十中八、九はみな殺しに会うところだった、といい、狼が狂暴になったのは彼らの好餌《こうじ》の馬を見たからだ。ふだんなら鉄砲をひどく恐ろしがるのだが、極度に飢えていて、そのために気が荒くなり、しゃにむに馬にとびかかろうとして身の危険も忘れたのだ。もしわれわれが連続射撃と最後の例の火薬の導火線戦術とで相手を抑えなかったならば、八つ裂きにされたことはまず間違いないところである。ところが、もしわれわれがあくまで馬上にがんばり、馬上から射撃を続けていたならば、から馬でなく人間を乗せている馬のほうは、狼どももそう簡単に自分の餌食になるとは考えなかったであろう。
土地の人はこんなことを話してくれたが、さらに、いよいよとなったら、われわれがいっしょにかたまって、馬を放してしまえば、狼は馬をむさぼり食うほうに夢中になるから、われわれは無事にそこを脱出できたかも知れない、ことに、火器を手にしていたし、人数も多いことであったから、だいじょうぶだったろう、といった。
ほかの人はともかく、わたしは生涯これほど危険を感じたことはなかった。三百匹以上の悪魔のような狼が牙《きば》をむき出し唸り声を上げて食い殺そうと襲いかかってくる、しかも隠れるにも逃げるにも場所はなしで、わたしはもうだめだとあきらめたのだった。こう助かって見ると、わたしはもう二度とあの山を越える気はしない。たとえ一週に一度嵐に会うのがわかっていても、千リーグの航海をするほうがどれくらいましか知れないと思っている。
フランス旅行中は取り立てていうべきことは何もなかった。あったとしても他の旅行者がわたしよりももっとうまく記していることばかりである。トゥールーズからパリに出たが、その地の滞在もそこそこにしてカレーに行き、ドウヴァーに無事上陸したのが一月十四日、まことにつらい厳寒の季節の旅を終わったのである。
いよいよわたしの長い旅の目的地に着き、まもなく、新たにわがものとなった財産も無事に手に入れることができた。持ってきた手形もすみやかに支払われたわけであった。わたしにとっていちばんの指導者、相談役となったのは例の老未亡人であった。彼女は前にわたしが送ったお金を大へんありがたく思って、わたしのためにはどんな苦労も世話も少しも苦にしなかった。わたしは何もかも彼女に委《まか》せ、自分の財産のことについては何ひとつ心配する必要はなかった。まったく初めからしまいまで、この善良な婦人のくもりなき誠実さには、ほとほとそのありがたさを感じいった。
そこで、わたしは全財産をこの婦人に託して、リスボンへ向かい、さらにブラジルへ出かけることを考え始めた。ところが、こんどは別な心配が湧《わ》き起こった。それは宗教のことであった。外国にいた時でさえも、とくに孤独な環境にあった時でも、ローマ・カトリック教の信仰については若干の疑念をいだいていたのであった。それであるから、なんのわだかまりもなくローマ・カトリック教の信仰を受けいれる決心をしないかぎり、逆にいえば自分の主義の犠牲となり、信仰のために殉教者《じゅんきょうしゃ》となり、異端審問《いたんしんもん》にかかって命を捨てるという覚悟がつかないかぎり、ブラジルへ行くわけにはいかず、いわんやそこに定住するわけにはいかないと思った。
そこでわたしは故国にとどまり、なんとか手段を講じて、ブラジルの農園を処分しようと心をきめた。
そういう趣旨の手紙をリスボンの老友人へ書いてやると、さっそく返事をよこしてこういってきた。
自分でもリスボンで農園の処分はわけなくできる。けれども、もしあなたがわたしを代理人として譲渡の交渉をまかせてよいと考えるならば、あなたの管理人の遺族でブラジルに住んでいる一人の貿易商に話してみたい。この人たちは農園のある現地に住んでいるし、農国の価値もじゅうぶんわかっているはずである。財産家であることも知っている。で、この人たちが喜んで農園を買いとるだろうと思う。そうなれば、あなたはスペイン・ドル貨四千枚ないし五千枚はよけいに儲《もう》けになることは請け合いだ、というのである。
わたしはこのことに同意し、その人たちと譲渡の交渉をしてくれと老友人に頼んだ。彼はさっそくそのとおりにした。それから八か月ほど経つと、便船が帰ってきて、友人は、彼らが申し出を受け入れ、その代金としてリスボンの取引先にスペイン・ドル貨三万三千枚を送ってきた、という報告をわたしに書いてよこした。
その返事として、リスボンから送ってきた正式の売却証書に署名して老人へ送り返した。すると先方からはスペイン・ドル貨三万二千八百枚分の為替手形《かわせてがた》を土地代金として送ってきた。わたしが前に約束した、この友人に対する毎年百モイドール、その死後は息子に対する五十モイドールの終身年金の支払い額は別にしてあった。この額は農園からあがる地代から払われることになっていた。
以上がわたしの波瀾《はらん》の多い生涯の、いわば摂理の織りなす禍福《かふく》の人生模様の、第一部として述べたものである。これはまことに世間にざらにお目にかかれる生涯ではなく、愚行に始まりながら、生涯のどの段階においてもとうてい望み得なかったほどの幸福な結末に終止した生涯であったのだ。
複雑な経路をへてこのような幸運な境涯にはいったのであるから、これ以上冒険はいっさいしないだろうと誰しも思うところであろう。事実、他に事情がゆるしたならば、わたしも多分おとなしくしていたに違いなかった。ところが、わたしは放浪生活になれきってしまい、家族はなし、親戚も多くなし、金はあったが友人|知己《ちき》もあまりなかった。ブラジルの土地は売ってしまったが、その国のことは念頭から離れなかった。もう一度とんでいきたいという切なる願いがあった。とくに、わたしの島が見たい、あの可哀《かわい》そうなスペイン人がまだそこにいるかどうか、あとに残してきた悪党たちがスペイン人をどんなふうに扱ったか、これをこの目で見たいという欲求は抗すべくもなかった。
わたしの親友の未亡人は、しきりにそれを思い止まるようにわたしを説得してやまなかった。わたしもその説得に負けて、ほとんど七年の間、海外にとび出すわけにいかなかった。その間に、わたしは一人の兄弟の子供たち、つまり二人の甥《おい》を引き取って世話した。長男のほうは多少自分の財産も持っていたので紳士として育て上げ、わたしの死後には彼自身の財産に多少わたしの財産を遺《のこ》してやることにきめておいた。もう一人のほうはある船の船長のもとに預け、五年後に、なかなか利口で勇敢《ゆうかん》な覇気《はき》のある若者であることがわかったので、りっぱな船に乗せて航海に出してやった。この青年が後になって、年をとっていたわたしをまたもや冒険に引きずり込んだのであった。
それまで当分わたしはここに身を落ち着けることになった。まず第一に、わたしは結婚した。そのため困ったとか不満を感じるということもなく、男二人に女一人という三人の子供ももうけた。しかし、妻も死に、甥もスペインへの航海からうまく成果を上げて帰国してみると、もともと海外に出たい気持ちのあるところへ、甥のすすめも手伝って、ついその気になって、一貿易商として彼の船に乗り込み、東インド諸島へ向かうことになった。これが一六九四年のことであった。
この航海でわたしはあの島に残してきたわたしの新植民地を訪ねた。わたしの後継者であるスペイン人たちにも会い、その後日物語、残した悪党たちの物語も詳《くわ》しく聞いた。初めは、彼らはあわれなスペイン人たちをいじめたが、後には仲良くなり、またけんかをし、いっしょになるかと思えばすぐ分かれ分かれになる。とうとうスペイン人も悪党たちに暴力を加えざるを得なくなり、ついに彼らを屈服せしめたが、その後では寛大に扱ってやったという話であった。これを詳しく述べ始めたら、わたし自身の物語と同じく多種多様な驚くべき事件に富む物語となるだろう。とくに、この島にいく度か侵入してきたカリブ土人との戦争とか、島自体にどれほど改良を加えたとか、仲間のうち五人の者が本土襲撃を試み、十一人の男と五人の女を捕虜として連れかえったとか、興味ある話が数々ある。わたしが行った時、島に二十人ほどの子供がいたのもこのためであった。
この島にはおよそ二十日間滞在して、必要な物資を補給しておいてきた。たとえば、武器、火薬、弾丸、衣類、諸道具など、それにイギリスから連れてきた二人の職人、つまり大工と鍛冶《かじ》工などを残してやった。
そのほか、島の土地を分割してみんなに分けてやった。島全体の所有権は自分のものとしてとっておき、話し合いのついた所をめいめいに与えたのだ。彼らとの取りきめをすっかり片づけ、島を離れないという約束をさせた上で、わたしはそこを立ち去った。
そこからわたしはブラジルに立ち寄ったが、そこで帆船を買いとり、何人かの人を乗せて島へ送った。他の必需品のほかに、七人の女を送った。仕事の役に立ちそうな女であったが、それを望むなら男たちが妻にしてもよいものであった。イギリス人の男たちには、もし農事に従って定住するつもりならば、じゅうぶんな必要品といっしょに女をイギリスから送り届けようと約束した。この約束はあとで実行した。この連中はスペイン人に頭を抑えられ、土地を分けてもらってからはたいへん正直で勤勉な人間になった。わたしはまた彼らにブラジルから三頭の子牛をはらんでいるものをふくめて五頭の雌《めす》牛と、数頭の羊と豚とを送ったが、これらの家畜はわたしが再度そこへ行った時、ずいぶん数が殖《ふ》えていた。
しかしすべてこういった事は、その他の話、たとえば三百人からのカリブ土人が侵入してきて農園を破壊したので、島の住民が侵入者の総勢を相手に二度まで戦い、初めは敗れて三人も死者を出したが、けっきょく、嵐のために敵の丸木舟は沈んでしまい、残りの土人たちはほとんど全部|餓死《がし》させるか殺すかして、農園をとり戻して再建し、その後もなお島で生活しているというようなこと、こういったすべてのことは、さらに十年以上にわたるわたし自身の新しい冒険にふくまれる数々の驚くべき事件とともに、いずれまたお話しすることもあるだろうと思うのである。 (完)
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解説
人と文学
ダニエル・デフォーはロンドンのクリップルゲイト、セント・ジァイルズ教区に住んでいた商人の子として生まれた。父ジェイムズ・フォーは肉屋とも獣脂《じゅうし》ろうそく屋ともいわれる。デフォーの生年も一六六〇年が通説であるが、その前年あるいは翌年という説もある。祖父ダニエル・フォーはノーサムプトンシャーのエットンに住んでいた裕福な地主であったらしい。フォーという姓をデフォーと改めたのは一七〇三年のことである。父は長老教会派に属し、息子を非国教派牧師にするつもりで、チャールズ・モートンという人の学校にあげた。モートンは学識のあった人でデフォーはここに五年ほど在学している間に宗教的教育を受けたわけである。しかしデフォーは聖職にむかないことを自覚し、関心は実業と政治・社会問題にあることをさとって、この方面に活躍を始める。一六八四年にやはり商人の娘メアリ・タフリーと結婚し、後に七人の子供をもうけた。ところで彼はコーンヒルという所でメリヤス商を開業した。靴下仲買人になったという伝記者もある。とにかく初めは商売は繁盛し、イスパニア、ポルトガルまで販路を伸ばし、彼自身もヨーロッパ大陸に旅行している。
一方国事に対する関心は深く、一六八五年には、モンマス公爵がジェイムズ二世に反逆を企てた時、この反乱軍に投じて捕えられ、辛《かろ》うじて処刑を免れた。政治に身を入れすぎたために商売は不振に陥り、開業以来七年にして一六九二年倒産し、約千七百ポンドの借財を背負って一時ブリストルに身を潜《ひそ》めねばならなくなった。しかしデフォーはこのくらいな失敗に屈する男ではなく、一六九四年にはエセックスのティルベリという町で煉瓦《れんが》商を始める。営業は順調にいって、先の負債の三分の一は返済することができた。国事に奔走しようとする志《こころざし》は抑えられず、ジェイムズ二世のあとを継いだウィリアム三世に知遇を受ける機会を得て、短い期間ではあるが政府の税務官吏を勤めたり、国王の政策を支持する政治論文を発表したり、活発な活動を続けた。
〔ジャーナリストとしてデヴュー〕
ウィリアム三世が外国生まれの国王であるというので、国民の間にも偏見《へんけん》があり、そういう偏見やそしりを述べた文書が発表されたことがあるが、これに対してデフォーは一七〇一年に『生粋のイギリス人』という風刺詩を公《おおやけ》にした。この長詩はたちどころにたいへんな評判となり、短期間に九版を重ねるほどであった。彼はいわばアイデアマンであって広く社会問題をとりあげ、いろいろの社会改良の案を提起している。これは『諸政策試案』という書物で述べられているもので、その内容は、銀行、保険、養老院、教育、交通など国民生活の各方面にわたっている。彼はジャーナリストの≪かん≫を備えていて、読書大衆の心を捕える術を速《すみや》かに会得したようである。このころから時事問題を扱ったパンフレットがつぎつぎに発表された。
一七〇二年に『非国教徒処理の近道』という本を公にした。これはウィリアム三世の次に即位したアン女王が高教会派であったため、デフォーの属する非国教会派が弾圧をこうむることを憂慮《ゆうりょ》して、逆説的に非国教会の撲滅《ぼくめつ》を主張する内容をもった文章なのである。宗教上の偏見に対する鋭い風刺なのであるが、逆説の薬がききすぎて非国教会擁護の真意が逆にとられてしまう結果となる。
とにかくこれが当局の怒りをかって作者は罰金、さらし台、禁固の刑を受けることになる。デフォーはこんなことにひるむことなく、「さらし台」をたねにしてピンダル風の詩を書いて気焔《きえん》をあげてさえいる。保守派の政治家ハーリー、後のオックスフォード伯のとりなしで釈放され、それが縁となってこの政治家に接近し、政治的活動をすることになる。その間に商売のほうはだめになり、妻子にはひどい苦労をかけたが、この数か月の獄中生活からは大きな収穫を得たのであった。その一つは同じ獄舎《ごくしゃ》にいた囚人たちからいろいろの身の上話を聞いたことで、これが後年の小説の貴重な資料となったことである。もう一つは週刊紙『レヴュー』の出版の想を練ることができたことである。
『レヴュー』は初めは週刊であったが、のちには週二回の刊行となり、終わりのころには週三回刊行され、一七〇四年から一七一三年まで続いた。内容は国内及びフランスなどの外国の情報を載せたものであるが、のちには、読者の興味をつなぐために日常生活についての随想を載せるようになり、十八世紀の代表的定期刊行物の『スペクテイター』や『タトラー』の先駆《せんく》的役割を演じたといえる。一七〇六年には「ヴィール夫人の幽霊の話」という作品を発表した。これは写実的な短篇小説の体裁を備えたもので、デフォーの物語作法の発達の上から注目すべき作である。
デフォーの政治的活動は続き、一七〇六年には、さきのハーリーの後に政権を握ったコドルフィン卿の委嘱《いしょく》によってエディンバラに赴き、そこに約一年半滞在してスコットランドとイングランドの併合問題のために奔走《ほんそう》している。この間の主要な著作は『併合の歴史』で、一七〇九年に出版されている。デフォーの政治的論争のパンフレットは続々と公にされ、そのひとつが禍《わざわい》して再度投獄の憂き目をみるが、ハーリーの力で出獄できる。出獄後例の『レヴュー』の続刊を試みたが、一七一三年に廃刊してしまう。一七一五年『家庭指導書』という著作の第一巻を公にする。これは対話の形式をとった教訓的寓話で、子女のしつけなどについての意見は現代にもあてはまるものがある。
〔本格的小説家として〕
『ロビンソン・クルーソーの生涯と冒険 The Life and Strange Surprising Adventures of Robinson Crusoe, of York, Mariner.』が世に出たのは、作者が六十歳に近い一七一九年であった。出版後四か月にして四版を重ねるほど好評を博し、その年のうちに『ロビンソン・クルーソー、続篇』が出版された。さらに翌年には『ロビンソン・クルーソーの真摯《しんし》な反省』が書かれた。これは前の二つの冒険談の中に散見する神の摂理に関する意見をまとまった形にした著作と見られる。同じ一七二〇年には『ダンカン・キャンベルの生涯と冒険』、『王党戦士の回想録』、『海賊シングルトン』などが出版されている。このうち第一のものは占《うらな》い師の生涯を描いた、やや散漫な作品であり、第二のものは三十年戦争に従軍した騎士に関する記録で、歴史的事実を適宜に案配し、それに虚構を織りまぜた物語である。
一七二二年は小説家デフォーの生涯中もっとも実り多い年であった。『モル・フランダーズ』と『悪疫《あくえき》流行年の日誌』と『ジャック大佐』という三つの雄篇が世に出たからである。『モル・フランダーズ』は一七二四年に出た『ロクサナ』と同じく女の生涯を描いたもので、いろいろ比較される作品である。『悪疫流行年の日誌』は、一六六五年にロンドンに猖獗《しょうけつ》をきわめたペストの記録としてほとんど公の報告書と考えられるほど写実的な作品であるが、やはりフィクションである。これらと趣を異にしているものは『大ブリテン旅行記』で、一七二四年に第一巻が書かれ三年後に完成している。同じく一七二四年に公にされた『世界一周新航海』とともに紀行文学の書となっている。一七二六年から翌年にかけて作者自身の商人としての体験に基づいて『イギリス商人|鑑《かがみ》』が書かれている。同じ種類の『イギリス紳士鑑』は未完の作品で、一八九五年に初めて光を見たものである。
デフォーは以上に挙げたような著作のほかに、ほとんど数えきれないほどのパンフレットを書いている。さすがの速筆健筆のデフォーも一七二〇年代の末期から精神的衰退を来たしたらしい。一七二九年九月、彼は突如として行くえをくらました。あとで彼の隠れ家はグリニッチの近くにあったことがわかった。一七三一年四月二十六日、モアフィールズのロープメーカー小路の宿で寂しく死去したのであった。
デフォーの晩年は一種の謎《なぞ》である。一七一九年『ロビンソン・クルーソー』が世に出たころから数年は、彼にとっては生涯の最良のときであった。ジャーナリストとして多方面に健筆を振い、おびただしい数のパンフレットを公にしたばかりでなく、矢つぎ早に大作を発表した。したがって経済的にも裕福となり、ストーク・ニューイントンには広大な邸宅を構え、幸福な生活ができたはずである。ところが七十歳にして突如として家から失踪《しっそう》してしまった。どういう事情があったのか、伝記者はいろいろの推測をしている。かわいがっていた末娘の結婚に際して持参金のことで娘夫婦との間にいざこざがあったらしい。また、長男が父を裏切り、母や姉妹たちに無情な仕打ちをしたということが、デフォー自身の筆で書かれている。このような家庭的悩みが彼の失踪の原因だと見る人もある。死後の公文書によると遺産の処分が、実子ではなくて某未亡人に委託されている。デフォーの債権者に対する思わくがあったのかも知れない。このような事情とは別に、彼にはクルーソーと同じように性来の放浪癖《ほうろうへき》があり、孤独の人であったということが陋巷《ろうこう》に身をひそませたのであるまいかと推測する人もある。
〔新興中産階級の代弁者〕
一七〇〇年から一七四〇年の間イギリス文壇に活躍した三人の巨匠《きょしょう》がいる。それはデフォーとスウィフトとポープであるが、デフォーこそ新興中産階級の代弁者であった。彼は新世代の人々がもっていた社会生活諸方面の関心事を新世代の言葉で表現したのである。この中産階級の関心事とは商業と貿易、対フランス戦争、非国教会の宗教と政治、商業人の道徳、投機と倒産、スコットランドとの併合、イギリス労働者の慣習、召使いの行儀、保険と年金、すりと追いはぎ、幽霊と悪魔、悪疫と暴風雨、子女の教育、内外の旅行、異国の国情などである。デフォーはこのような問題をすべてとり上げたといっても過言ではない。もちろんこれらを扱ったデフォーの文献が果たしてどこまで文学であるかは問題であろう。しかしデフォーの最初の読者にはそういう疑義は起こらなかった。デフォーのごとく終始一貫して読者を楽しませた作家はけだし空前であった。
デフォーはイギリス最初の時事記者《パブリシスト》であり、十八世紀のH・G・ウェルズであった。たしかにあらゆる問題についてのアイディアを直截明晰《ちょくさいめいせき》に表現しているところは二十世紀のウェルズに通じるものである。デフォーが読者を捕えた秘訣はそのヴァイタリティであり、中産階級的真剣さである。彼には浮薄《ふはく》さも控え目も意識的気取りもまったくなかった。なんら妨げるものなく発露する快活さと、尽きることなく流露する思想だけがあった。彼の作品を通して一貫するテーマを求めるとすれば、それは「人間はいかにして生きるべきか」であろう。しかし、これは決して単一のレベルで受け止められるものではなく、いくつかのレベルにわたり、肉体的生命を保持するという基底から、倫理道徳の中間層、さらに魂の世界という上層に及ぶものである。これが『ロビンソン・クルーソー』と『モル・フランダーズ』と『ロクサナ』に含まれた課題であると思う。
作品の解説と鑑賞
『ロビンソン・クルーソー』は世界の文学である。およそ物を読む人ならばすべての人がなんらかの形でこの物語を読んでいると思う。読まなくても知っているであろう。しかしほんとうの意味で読んでいる人は案外に少ないかも知れない。ほんとうに読む人々の読み方にも二通りあるように思われる。一つはこの作品を十八世紀イギリスの経済史、社会文化史の線の上に置いて考察するものであり、もうひとつは文芸作品として、イギリス小説の発達史の線の上に置いて考察するものである。
〔経済的社会文化的考察〕
古くはカール・マルクスは孤島におけるクルーソーの生活を労働価値理論の解説として考え、クルーソーの理論には価値ある部分もあるが無用の部分もあるとし、無用なところは宗教的な部分であるといい、唯物《ゆいぶつ》史観《しかん》的な批判をしている。それ以来、クルーソーをホモ・エコノミクス(経済人)としてとり上げる学者が多数ある。その一例をあげれば次のようなものがある。
この作品を経済の枠《わく》として考えれば、二つの部分からなり立つといえる。一つにはクルーソーの経済と商業の取引を直接に扱った記録である。彼はロンドンの親戚から工面《くめん》してもらった四十ポンドの金を懐《ふところ》にして航海に出る。ギニアの航海からは重さ五ポンド九オンスの砂金をもって帰国し、これを三百ポンドで売り渡す。ムーア人の主人のところから逃げてポルトガル船の船長に救われ、ブラジルで農業を始める時にもっていた資金は二百二十枚のスペイン金貨であった。これは自分が乗ってきたボートとライオンと豹《ひょう》の毛皮と蜜ろうと相棒の奴隷とを船長に売り渡した金額である。そして物語の終わりでは、クルーソーは五千ポンド以上の英貨をため、ブラジルの農場を処分して三万二千八百枚のスペイン金貨を手に入れ、そのほかにポルトガル人船長へ贈る年金百モイドールと船長の死後その息子へ贈る五十モイドールがとっておかれた。こういう記録は商売の成功の指数であるけれども、それ以上の意味も含まれている。作者デフォーは、このような経済的成功に対する野望の背後に、この不当な欲望が招いた大きな災難があったということを示している。
経済的枠の第二の部分は「環境」というテーマを発展させて行く、もっと思弁《しべん》的な経済観念である。クルーソーは厚い板一枚を作るのに大へんな時間と労力を消費しているが、それについて、「労力にしても時間にしても大した価値のあるものではなかったから、どういうことに使ってもけっきょく大した違いはなかった」といっている。またこの島に漂着して四年目の記念日にこの島の豊饒《ほうじょう》さを考えるとき、「利用できるものだけが価値があった。食べるものもその他の必要品はじゅうぶんあった。およそこの世の中でよい物というのはそれが役に立つ限度においてよい物である。このことは自分の経験からも物の本質からも明らかである」といっている。引出しいっぱいのダイアモンドも彼にはなんの価値もない。使いようがないからである。クルーソーが難破船の中で貴金属と貨幣を見つけたときにやりと笑って、「くだらない奴め! お前が山のようにあったってなんの役に立つか。わたしにはお前なんか用はない。ここにいて海底に沈んでしまうがいい」という。もっともそういいながら考え直してその金を持って帰るのである。
貨幣とか物の価値、また輸入輸出の問題は当時の人々の間にしきりに論じられていたことで、そういうトピックが想像的物語である『ロビンソン・クルーソー』の中にいろいろな形で持ちこまれ、孤島における孤独な生活の中において新しい角度から見られるのである。
『ロビンソン・クルーソー』は社会と個人というテーマからもいろいろの問題が考えられる。個人と個人、あるいは個人と社会、とくに男と女の関係が主題となるということが近代小説の通念であるとすれば、『ロビンソン・クルーソー』はこの主題が欠けているという点で顕著《けんちょ》である。クルーソーは社会から切り離された個人である。彼が置かれた状態は人間が社会生活を営み始める以前の自然の状態である。この環境においては人間は神のようであるからではなく、獣であるが故に一人の生活ができるのである。人間は社会生活を営むに至って喜んで孤独を放棄し、比較的安全な生活を送るようになる。デフォーが描いている蛮人はヨーロッパ的宗教と文化の恩恵を奪われたとき人間が落ちていくどん底の姿なのである。クルーソーが見たフライディはいわゆるノーブル・サヴェジであるが、これを文明人に造り変えていくことがクルーソーの仕事であった。デフォーは食人種のごとき蛮人の中にも神より授かった自然法があるのだが、横暴な情欲のためにこの神の掟《おきて》を破るが故に、「不自然な」行動に走ると考えているようである。こういう蛮人にさえ人間らしいやさしさとおとなしさの性質を認める故に教化の可能性を信じている。
クルーソーは彼の孤独の生活になんら不満を覚えなくなることが時折ある。フライディは自分の宗教と蛮人の習慣で満足していることがある。島に住みついた人々も統治の制約にしばられずに、けっこう幸福な生活ができると思っている。けれども自然の状態というものは人間の条件として最善のものではない。人間同志の交わりと文明と統治というものがなければ人間は楽しく、安全に、あるいは幸福に暮らすことはできない。これがこの物語の教訓であろう。
〔文芸作品として〕
『ロビンソン・クルーソー』の漂流物語はその当時読まれた、セルカークの漂流談からヒントを得て書かれたことは多くの人が指摘している。セルカークという男は、チリーの・サンチアゴの西方の海上にある、ファン・フェルナンデスという島に四年間孤独な生活を送ったあとで救い出されるのである。デフォーはこのセルカークと会見したといわれるが、真偽のほどは確かでない。デフォーはクルーソーの物語を書くにあたってセルカークの話のみならず、多数の内外の旅行記、航海記を参考にしている。『ロビンソン・クルーソー』はけっきょくフィクションであるけれども、これを実録、あるいはルポルタージュとして読ませるように、作者がいかに徹底的リアリズムを心掛けたかはあまりにも有名な話である。事件の日時にせよ、事物の克明《こくめい》な数量的記録にせよ、読者は彼の数字の魔術にやすやすとかかってしまう。
しかしこのような工夫は表面的なものであって、じつは読者をクルーソーと一体化させてしまうところにデフォーのリアリズムの真髄《しんずい》がある。ある環境に立ち至るときに、ある事件に遭遇するたびに読者はクルーソーとともに、「さあ、わたしはどうしようか」「どういう行動をとったらいいか」と自問しないではいられない。これは逆説的ないい方をすれば、作者の創造的想像力の強烈な働きの結果であって、事実と虚構が融合してしまい、両者の区別を意識しない領域に読者を導き入れるからである。感覚の印象から対象を作っていく想像力が、極度に鋭く働くために、観察そのものがいわば「浪漫《ろうまん》的」な虚構になるのだと評する人があるが、この逆説はうなずける。それであるからもっとも単純な物に意味深遠な次元をもった現実性を賦与《ふよ》することができる。この点についてヴァーニア・ウルフは次のようにいっている。
「デフォーは前景にただ素焼きの壷を置くことによって、読者に絶海の島と人間の魂の孤独をありありと眼前に浮かばせる。じっとその壷の堅さと土質とを信じることによって、彼は万物を自分の計画にあてはめるようにし、宇宙を縛《つな》いでひとつの調和を作り出した」と。
『ロビンソン・クルーソー』をここまで深く読むことのできる読者は多くはないと思うけれども、当時広く読まれていた旅行記や冒険談とははっきり区別される特質があることは明らかである。絶海の無人島に漂着した話といえば読者が予期するものは海上に昇る太陽、山の端《は》に沈む夕陽、そこに点じられる人間の孤影といった浪漫的情景であろう。クルーソーを読むとき、このような期待は頁ごとに裏切られる。「日の出もなければ日没もない。孤独もなければ魂もない。眼前にあるものは素焼きの壷なのである。哲学的静思を可能ならしめる心境を描き出した小説が、ここにあるのである」
『ロビンソン・クルーソー』を寓話《アレゴリー》と考える批評家も多い。さらに進んでこれをデフォーの精神的自叙伝として考察する評者もある。人間にはどうしても御《ぎょ》しがたい衝動《しょうどう》がある。いかなる説教も訓戒《くんかい》も抑えることのできない渇望《イッチ》がある。人間の心には危険と不幸へ駆りたてて止まない、鬼《デイモン》が巣くっている。デフォーはこう考えているが、この人間の業《ごう》をただちに善悪で断定することは躊躇《ちゅうちょ》しているようである。彼がこの制御しがたい衝動をどこまで破壊的動因と感じていたか、われわれには断定できない。クルーソーが物語の発端《ほったん》において父の懇篤《こんとく》な忠告に背《そむ》いて無謀な家出をあえてしたことは、人類の場合の原罪にあたる。クルーソーがこれを父の命のみならず社会と神の掟《おきて》に背いた罪と考えたことは、自分の行動を聖書のヨナと放蕩息子のそれになぞらえていることでも明らかである。したがってクルーソーが遭遇する一連の災難は神がくだした罰なのである。
デフォーはその生涯のうちに国民的災害を三度経験している。一六六五年のペストの流行と翌年のロンドン大火と一七〇三年の暴風雨である。これを国民の罪の深さに対する神の怒りのしるしと解釈するのは当時の一般の人々の考えであった。これをクルーソー個人の場合にあてはめることも当時としてはさほど不自然とは思われなかったであろう。
この物語を精神的自叙伝として見るとき、クルーソーはいく度か試練をうける。それが摂理による救いの機会となる。摂理が果たした役割のもっとも劇的で具体的な事例は海上の遭難からの救助である。それほど劇的ではないけれども、ひじょうに重要なのはクルーソーが聖書の中の文句、「なやみの日にわれを呼べ、我なんじを援《たす》けん、而《しこう》してなんじ我をあがむべし」を読んだことである。これはひとつの転機をなす。クルーソーが孤島に漂流したこと自体が神が彼を救おうとする努力の思いきった試みと見ることができる。繰り返して行なわれた摂理の救いのうちもっとも劇的なものであり、クルーソーの根強い放浪癖を阻止するもっとも効果的な手段となったものである。またクルーソーがマラリアに罹《かか》り夢を見るところがあるが、これもまた彼の精神に一転機を画《かく》するものであった。
一般の場合として悔悟《かいご》の過程はいくつかの段階をとる。まず悔悟を誘発する機会が訪れる。次には自己反省の状態にはいる。やがて自己の罪を確認し、いよいよ回心に至るのである。これが伝統的なパターンであるといわれるが、クルーソーもこのパターンに従っているというのである。この物語でもうひとつの重要な転機は神の罪を戦戦兢兢《せんせんきょうきょう》として恐れている心境から脱出して神の約束を信じ、それまでの陰うつな不安を捨てて希望と安心へ向かうところである。クルーソーが父の命に背くという最初の罪を犯して以来、たびたびの神意の顕示《けんじ》に会ってこれを解釈し、かつその命に従うようになるにつれ敬虔《けいけん》の念と思慮分別が身についてくる。これは外の世界からこの島を訪れる食人種やイギリス船の乗組員に対する態度によく現われている。
この点でクルーソーとフライディの関係は注目に値する。この作品を経済の面から見る読者はフライディを新たに到来した人力《マンパウワー》と見なしているけれども、それは不じゅうぶんな見方である。クルーソーはフライディを異教から救う摂理の代理者となるのである。そればかりでなく、クルーソー自身の信仰を説明し擁護する立場になり、したがって自己の更生の過程を明らかにすることになる。クルーソーは自分が神の命に服従することができて初めてフライディを支配することができるのである。ここにひとつの逆説がなり立つ。すなわち、クルーソーは親に背いて罪深い独立を企てたが、その結果は文字どおりにも比喩《ひゆ》的にも奴隷の身となる。反対に謙虚な依存心が、文字どおりにも比喩的にも、支配者の地位を彼にもたらすことになる。
この逆説は父と子の関係においてもなり立つ。物語の初めにおいてクルーソーは父に背いて事実上、己れを孤児にしてしまう。父の権威に挑戦して子としての安全性を喪失《そうしつ》する。ところがもう一人の父、すなわち神なる父に謙譲に従い子としての義務を果たすことによって、かえって自己に対する支配力を獲得する。クルーソー自身がいっているように、フライディとの関係は大部分、父と子の関係にほかならないからである。
〔小説技法の問題として〕
クルーソーはすべての物をその有用性の立場から価値づけた。作者デフォーは言葉についてこの同じ考えをもっていたと思われる。彼にとっては作品のスタイルはそれ自身が目的ではなく、思想を伝達し、物の知識を伝える手段であった。文章が役に立つということは、読者に理解できることを前提とする。五百人の人を相手として語るとすれば、彼らの能力に差があるとしても、白痴と狂人は別として、ほぼ同じ程度に理解できるような書き方こそ、完全なスタイルであると考えた。彼は創設して間もない英国学士院《ローヤルソサエティ》の推奨するように、インテリや学者の言葉よりも職人、田夫野人《でんぷやじん》、商人の言葉を使うことを心掛けた。これはデフォー自身の商人としての体験からも自然会得した方法であった。彼は用語において、正直さと直接簡明を主張しているが、これは道徳性にも密接な関係がある。彼が牧師、医師、弁護士に信用をおかなかったことは、これらの職業に従う人々の言葉の用法に、不信をいだいていたからでもある。彼にとっては観念《アイデア》は形而上《けいじじょう》的な意味ではほとんど無意味であって、目に見える「物」の世界に直接に参照《リファー》する言葉として重要性があった。
平明簡潔ということがデフォーの文体の特色とされている。しかしこれは単調ということではない。彼は決してマンネリズムの奴隷とはならなかった。彼はいろいろの方法を試み、常に内容と読者に適合するスタイルを考えた。文章の構成にしても、対照的な節を並べ、テンポに変化のある動詞を重ね、文の調子を深めていく彼の技法は、強く意識していなかったとしても、文体的効果を考えないで書いていたのではないことを示している。彼が避けたことは学殖《がくしょく》をてらうこと、優雅な人種の耳をくすぐることであった。彼の表現は神に対して、正直な非国教信徒の市場《マーケット》用の表現であった。彼の最大の努力は、自分の書いている事柄の実在性《アクチュアリテ》を遺憾《いかん》なく表現することにあったといえよう。先にも述べたように、この実在性の極限にこれを超越した形而上の世界を暗示しているところに、この小説の生命があるのであろう。(訳者)
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年譜
一六六〇 ジェイムズ・フォーの長男としてロンドンに生まれる。誕生の年は、この前年または翌年という説もある。姉が二人ある。父は肉屋を営み長老教会派であった。姓をデフォーと改めたのはずっと後のことである。
一六七四(十四歳) チャールズ・モートンの学校に入り五年間勉学する。
一六八〇(二十歳) 父は牧師にするつもりであったが、その意志に背き、シティで商売を始める。メリヤス商とも靴下仲買人ともいわれる。一六八三年ごろまで広くヨーロッパ大陸を旅行している。
一六八四(二十四歳) メアリ・タフリーと結婚。妻は非国教会派の商人の娘でこの時二十歳。その後、デフォーとの間に七人の子供が生まれた。
一六八五(二十五歳) ジェイムズ二世が即位し、新王に対するモンマス公の叛逆の企てが現われ、これに参加したデフォーは危く処刑を免れた。
一六八九(二十九歳) ウィリアム三世と女王がロンドン市庁の祝宴にのぞむ際、デフォーは同業組合員として護衛にあたる。
一六九一(三十一歳) 前から書いていた風刺詩が初めて出版された。
一六九二(三十二歳) 商売に失敗し多額の借財を背負いこんで倒産。
一六九四(三十四歳) 負債の件で訴訟問題が起こるが示談成立。エセックス州のティルベリー・フォードで煉瓦商を開業し、大いに繁盛する。
一六九八(三十八歳) 『諸政策試案 An Essay upon Projects』、『常備軍論 An Argument on a Standing Army』などの政治論文を発表して、ウィリアム三世の政策を支持する。
一七〇一(四十一歳) 『生粋《きっすい》のイギリス人 A True-born Englihman』を公にする。この長詩は外国人国王に対する世人の偏見を風刺したもので、異常な評判をとり、デフォーの名は一躍有名になる。
一七〇二(四十二歳) 『非国教徒処理の近道 The Shortest Way with the Dissenters 』を匿名《とくめい》で発表。 非国教徒である著者が非国教派に加えられる弾圧を憂慮して、逆説としてこの教徒の撲滅策を提唱したもの。逆説の薬がききすぎて災難を招く。
一七〇三(四十三歳) 前年の著作が禍《わざわい》して、治安妨害のかどで逮捕され三日間さらし台にさらされ、ニューゲイトの獄に入れられた。保守派の政治家ハーリー(のちのオックスフォード伯)のとりなしで出獄を許され、デフォーは以後この政治家と親しくなる。煉瓦商は失敗。
一七〇四(四十四歳) 週刊紙『レヴュー』を二月初めから発行。のちに週二回、さらに三回発行となり、九年間続く。政権を握ったハーリーのため秘密情報部員として働くことになる。
一七〇六(四十六歳) 『ヴィール夫人の幽霊の話 The Relation of the Apparition of Mrs.Veal』出版。アン女王及びハーリーの命をうけてスコットランドに赴き併合問題のため活躍。
一七〇八(四十八歳) ハーリーの後継者ゴドルフィンに仕え、正式にアン女王の情報|蒐集《しゅうしゅう》者となる。
一七〇九(四十九歳) 『併合の歴史 The History of the Union』出版。
一七一三(五十三歳) 政治論文が禍《わざわい》して逮捕されたが、ふたたびハーリーに救われる。『レヴュー』廃刊。
一七一五(五十五歳) 『家庭指導者 The Family Instructor』出版。前年アン女王死去して、ハノーヴァ家のジョージ即位。新政府ができて、デフォーは初めその弾圧を受けたが、のちには新政府に協力する。このころ、政治、宗教に関しておびただしい論文を発表している。
一七一九(五十九歳) 『ロビンソン・クルーソー The Life and Strange Surprising Adventures of Robinson Crusoe, of York, Mariner』出版。異常な成功を博し、ただちに第二部『The Farther Adventures of Robinson Crusoe』を公にする。
一七二〇(六十歳) 『王党戦士の回想録 Memoirs of a Cavalier』、『海賊シングルトン Captain Singleton』、『ロビンソン・クルーソー内省録 Serious Reflections of Robinson Crusoe』を公にする。
一七二二(六十二歳) 『モル・フランダーズ Moll Flanders』、『悪疫流行年の日誌 A Journal of the Plague Year』、『ジャック大佐 Colonel Jacque』出版。
一七二四(六十四歳) 『ロクサナ The Fortunate Mistress or Roxana』出版。
一七三〇(七十歳) この九月突如として失踪。
一七三一(七十一歳) ロンドンのモアフィールズの下宿で死去。
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あとがき
『ロビンソン・クルーソー』が初めて世に出たのは日本では享保《きょうほ》四年で、この前後には新井白石がさかんに著述を発表していた。それからほぼ一世紀半ほど経って明治五年(一八七二年)、斎藤|了庵《りょうあん》がこれを訳して『魯敏遜全伝』という題名で公にした。それ以来この物語はもっとも広く読まれたイギリス文学の作品のひとつであろう。もっとも大部分の読者は冒険談、漂流物語として読んだ。児童向きに書きかえられた物語、または学校用の英語教科書という形で読まれる場合が多かった。この事情はスウィフトの『ガリヴァー旅行記』の場合にもあてはまる。しかし夏目漱石が大学でデフォーを講義し、平田|禿木《とくぼく》が『ロビンソン・クルーソー』の全訳を出すようになると、本格的な小説として読む者もふえてきたであろう。
漱石は純然たる小説としてこれを論じ、創作家の目からこれを批評している。彼の評論は理路整然として、じゅうぶん説得力があることは論をまたないけれども、今日のわれわれにとってはやはり一面的な読み方であるという感じを禁じ得ない。小説の構成や情景の描写に関する漱石の批判は、浪漫主義文学理論に基づいていてその限界を感じさせる。われわれはヴァージニア・ウルフの読み方を知っている。作者の精神的自叙伝としてのアプローチの仕方も見せられている。
純文芸作品という見方を離れれば、非国教会派の中産階級出身の事業家の成功談、あるいは十八世紀初期のイギリス経済史の資料、とする読み方もある。この作品の深さはそのように多様のレベルの読み方を可能ならしめている。
私はこれを翻訳しながら、いまさらながら物語のおもしろさに引き入れられたが、同時に十七世紀人の宗教意識に惹《ひ》かれた。またイギリス散文の発達から見たこの作品の意義を考えさせられた。私は原本としてペンギン双書を使用した。この作品の翻訳書としては、近いところでは平井|正穂《まさお》氏のものがある。これはまさに名訳の名に値する。その達意の文章にはいたく感服した。しかし私には和文の調子にいわば乗りすぎたと思われる個所もあるのを感じた。私は私なりにもう少し原文の文体に密着することを心掛けた。成果については私の断ずるかぎりではない。とにかく平井氏の訳業から多大の教示を得たことは、とくに誌して感謝したいと思うところである。 (訳者)
〔訳者紹介〕
佐山栄太郎(さやまえいたろう)
英文学者。東京女子大教授。一九〇二(明治三十五)年栃木県生まれ。東京大学文学部英文科卒。専門はイギリス文学。著書「形而上詩の伝統」「十七世紀中葉の詩人」など、訳書「マーク・トウェーン短篇全集(第三巻)」など。