アンドロイドは電気羊の夢を見るか?
Do Androids Dream of Electric Sheep?
フィリップ・K・ディック Philip Kindred Dick
朝倉久志 訳
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)鉛製|股袋《コドピース》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#改ページ]
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マレン・オーガスタ・バーグラッドに捧げる
(一九二三・八・一〇〜一九六七・六・一四)
そしてわたしはいまも夢見るのだ、
牧羊神のおぼろ影が、
わたしの歓びの歌につらぬかれ、
露に濡れた草の上を歩んでゆくのを。
――『しあわせな羊飼いの歌』
イエイツ
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[オークランド発]
探険家クック船長が、一七七七年、トンガ
王に贈ったといわれるカメが、昨日死亡した。
二百歳ちかい高齢であった。
デュイマリラと名づけられたこのカメは、
トンガ諸島の首府ヌクアロファの王宮内で飼
われていた。
トンガ島民はこの動物を首長として敬い、
その世話のために特別飼育係が任命されてい
た。カメは数年前の失火いらい盲目であった。
トンガ放送の伝えるところによると、デュ
イマリラの遺骸は、ニュージーランドのオー
クランド博物館に寄贈されるとのこと。
ロイター通信、一九六六年
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アンドロイドは
電気羊の夢を見るか?
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ベッドわきの情調《ムード》オルガンから、アラームが送ってきた陽気な弱いサージ電流で、リック・デッカードは目をさました。びくっとして起きなおり――急に目がさめると、いつもびくっとなる――マルチカラーのパジャマ姿でベッドから出て、大きく伸びをした。かたわらのベッドでは、妻のイーランが陰気な灰色の目をひらき、まばたきし、うめきをもらして、また目をつむってしまった。
「そっちのペンフィールド[#Peield社、ムードオルガンの製造]の調節が弱すぎたんだ」リックはいった。「いまリセットしてやるから、それでちゃんと目をさまして――」
一あたしの機械にさわらないでよ」妻の声には苦いとげとげしさがこもっていた。「目をさましたくないったら」
リックは妻のベッドに腰をかけ、顔をのぞきこむようにして、穏やかにいいきかせた。「ある程度までサージを上げれば、たのしい気持で目ざめられるんだよ。そこなんだ、ポイントはCにセットしておけば、サージが意識の閾《いき》を乗り越える。おれみたいにな」
リックは親しみをこめて、妻のむきだしになった青白い肩を軽くたたいた。けさは、この世界がなんとなく好ましいものに思われたからである――自分のほうはDにセットしてあったのだ。
「がさつなお巡りの手なんかどけてよ」
「おれはお巡りじゃない」にわかに彼は腹立ちを感じた。そんな感情をダイヤルしたわけでもないのに。
「それ以下だわ」まだ目をつむったまま、イーランはいった。「警察に雇われた人殺しよ」
「生まれてこのかた、おれはひとりの人間も殺したおぼえはないぞ」いまや腹立ちはさらに高まった。あらわな敵意にまで。
イーランがいった。「かわいそうなアンドロイドを殺しただけよね」
「じゃあ、きみはなんだ。おれが稼いできた懸賞金《バウンティ・マネー》で、けっこうせっせと衝動買いをしてくれたじゃないか」リックはベッドから腰を上げると、自分の情調オルガンの制御卓《コンソール》へ大またに近づいた。「あれを貯金してたら、いまごろは屋上にいる電気仕掛のニセモノの代わりに、正真正銘の羊が買えていただろう。おれが何年も何年もあくせくして稼いだあげくが、ただの電気動物ときやがる」
制御卓の前で、リックはどっちへダイヤルしようかと迷った。視床抑圧か?(そうすれば、怒りの感情は消えるだろう)それとも視床興奮か? (そうすれば、この口論に勝つほどムキになれるだろう)
「もし、あなたが」イーランはかっと目をひらき、彼を見すえながらいった。「それ以上の毒舌にダイヤルするつもりなら、あたしもそうするわよ。あたしが最大強度にダイヤルしたら、これまでの口喧嘩なんかメじゃないような、すごいことになるからね。嘘だと思うなら試してみれば」
イーランはすばやく立ちあがって、自分の情調オルガンにとりつき、夫をにらみながら待ちかまえた。
妻の脅迫にうち負かされて、リックはため息をついた。「わかった。おれはきょうの予定表に組んだやつをダイヤルするよ」一九九二年一月三日の予定表を調べると、そこに要求されているのは割りきった職業人的態度だった。疲れた声で、「もし、おれが予定表どおりにダイヤルしたら、きみもおなじようにすると約束してくれるか?」
妻が同意するまで、うっかり先走ったまねはしないぞ、と警戒しながらリックは待った。
「きょうのあたしの予定表には、六時間の自虐的抑鬱が組み入れてあるのよ」とイーラン。
「ええ? どうしてまたそんなものを組み入れたりしたんだ?」まるで情調オルガンの目的を根底からくつがえすようなものではないか。「そんなセットができることさえ、おれは知らなかった」とリックはなさけなさそうにいった。
「こないだの午後、ここですわっていたのよね。もちろん、テレビは〈バスター・フレンドリーと|仲よし仲間《フレンドリー・フレンズ》〉[#Bustor Freindlly Show]。ちょうど彼がもうすぐ大ニュースを発表するっていったあとで、あのいやらしいCMがはいったの。あたしのだいっ嫌いな。ほら、あれよ、マウンティバンク社の鉛製|股袋《コドピース》(本来コドピースは一五〜一七世紀に男子のズボンの前につけられた装飾だったが、この小説の世界では放射線防護用として復活している)。だから、一分はど音を消してみたのよ。そしたら、まるで……まるでこのビルが――」彼女は身ぶりで訴えた。
「空家みたいに思えたわけか」
リックもときおり真夜中に目がさめて、そんな感じにおそわれることがある。しかし、いまの時代では、人口密度の点からいうと、半分しか部屋の埋まっていないこの高層集合住宅《コナプト》[#conapt,ディックによる造語。コンドミニアム・アパートの略より]などは、まだ上等の部類なのだ。戦前に郊外といわれた地区では、完全にからっぽの建物さえあるとか……そんな話も人づてに聞いたことがある。だが、その真偽をたしかめに行く気はない。だれの気持もおなじで、じかにそんな体験をすることはまっぴらごめんこうむりたい。
「あの日」とイーランがつづけた。「テレビの音を切ったとき、あたしはナンバー382のムードだった。ダイヤルしたばかりだったの。だから、その空虚さを頭で認識はしても、心には感じなかった。うちがペンフィールド情調オルガンを買える身分なのはありがたい――最初の反応はそれだったわ。でも、そのあとで、それがどんなに不健康なことであるかに気づいたの。このビルだけじゃなく、あらゆる場所での生命の不在を感じとりながら、それに対してなにも反応しないことが――わかる? あなたにはわからないでしょうね。でも、むかしは、そういう鈍感さが精神病のひとつの症候と考えられていたのよ。”適切な情動の欠落“という名で。だから、あたしはテレビの音を消したまま、情調オルガンの前にがんばって、いろいろ実験してみた。そしてとうとう絶望を味わえる調節法を発見したわ」あさぐろい小生意気な顔には、まるでなにかの偉業をなしとげたかのような満足があった。「それからは、月二回のわりで、それを予定表へ組み入れてるのよ。あらゆるものに――目はしのきく人たちがほかへ移住してがらあきになった地球に残っていることに――絶望を感じるには、それぐらいの分量がちょうど手ごろだと思うわ。ちがう?」
「しかし、そんなムードに浸っていたら癖になって、そこから抜けだそうとダイヤルしなくなるぞ。トータルな現実に対するそのての絶望は果てしない泥沼だぜ」
「三時間後にほかのムードへ自動切り替えするように、プログラムしてあるわ」妻はこともなげにいった。「ナンバー481。あたしの未来に開かれている多様な可能性の認識。そして新しい希望――」
「481なら知ってる」リックはさえぎった。その組み合わせなら、これまでにちょくちょくダイヤルしたことがある。大いにたよりにしている。
「なあ、聞けよ」リックは自分のベッドに腰をおろし、妻の両手をとってそばへひきよせた。
「いくら自動切り替えになっていても、抑鬱のムードへはまりこむのは危険だ、どんな種類であってもな。きみが予定表を白紙にもどすなら、おれも自分のをそうする。ふたりでいっしょに104をダイヤルし、いっしょにそれを体験しよう。それから、きみのほうはそのままで、おれだけがいつもの割りきった職業人的熊度にダイヤルしなおす。そうすれば、屋上へ行って羊のようすをのぞいてから、出勤するだけの意欲がわく。おまけに、きみがテレビもつけずにぶすっとすわってるんじゃないかというような心配もしなくてすむ」
リックは妻の細長い指から手を離すと、ひろびろとしたアパートの中を横ぎって、ゆうべのタバコの匂いがかすかにこもる居間へはいった。腰をかがめてテレビをつけようとした。
寝室からイーランの声が届いた。「朝食前のテレビなんておことわりよ」
「888をダイヤルすればいい」リックはテレビのスイッチをいれながらいった。「どんな番組であっても、テレビを見たくなる欲求だ」
「いまはなにもダイヤルしたくない気分なのよ」
「じゃあ、3をダイヤルしろよ」
「まっぴらだわ、ダイヤルをセットする意欲がわくように、大脳皮質への刺激をダイヤルするなんて! いま、なにがしたくないといって、それぐらいダイヤルしたくないものはないわ。だって、もしそうすれば、ダイヤルしたくなるにちがいないし、ダイヤルしたくなる気分というのは、いまのあたしには想像もつかないほど縁遠い衝動だからよ」
イーランの心が凍てついていくのにつれて、その声は索漠としたとげとげしいものになり、彼女は身動きさえしなくなった。のしかかる重圧、絶対に近い無力感の本能的で遍在的な膜に押しつけられたように。
リックがテレビの音量を上げるのと同時に、バスター・フレンドリーの声がぐわーんと部屋にあふれかえった。
「――ホッホー、みなさん。では、簡単にきょうの天気予報。マングース衛星からの報告によりますと、放射性降下物は正午前後にもっとも強まり、のち、しだいに衰える見込み。ですから、外出されるかたは――」
丈の長いナイトガウンをひきずってやってきたイーランが、テレビのスイッチを切った。
「負けたわ、あきらめた。ダイヤルするわよ。お望みのを。恍惚の性的歓喜――それだってがまんできるほど、いやな気分。勝手にしやがれだわ。どうせ、なんだっておなじじゃない」
「じゃあ、おれが選ぼう」
リックは妻をもう一度寝室へ連れ帰った。そして、彼女のコンソールで594――すべての問題における夫のすぐれた判断を快く受容する態度――をダイヤルした。自分のコンソールにダイヤルしたのは、自己の職業への創造的かつ新鮮な態度だった。もっとも、ほとんどそうする必要はないともいえる。ペンフィールド式の人工脳刺激にたよらなくても、それはリック生来の日常的な態度であるからだ。
リックはそそくさと朝食をしたためたのち――妻との口論で時間を食ってしまったのである――マウンティバンク社のエイジャックス型鉛製股袋つきの外出着に着替え、電気羊が草を”食《は》んで“いる屋上のドーム牧場へとおもむいた。そこでは、精巧無比なハードウェアであるその動物が、ビルの住人たちを欺きながら、真にせまった満足げなようすでもぐもぐとあごを動かしていた。
もちろん、ここに飼われた動物の中にも、電子回路を内蔵したニセモノは、きっと何頭かいるはずだ。隣人たちがこの羊の動きに目を光らせたことがないように、リックもそんな問題に鼻をつっこみはしない。それはこの上なく礼儀に反する行為だからである。「おたくの羊は本物ですか?」とたずねたりするのは、相手の市民の歯や毛髪や内臓が本物かどうかを質問する以上のはなはだしい無作法とされている。
放射性降下物の充満した朝の灰色の大気は、太陽をかげらせ、彼のまわりですえた息を吐き、鼻孔にまとわりついてくる。リックは無意識に、そこから死の汚染を嗅ぎあてようとした。まあ、そいつは誇大表現というもんだろうと思いなおしながら、階下の分不相応に広いアパートと合わせて彼の所有になっている芝生の一区画へ歩みよった。さしもの〈最終世界大戦〉の遺産も、すでにその威力を弱めつつある。死の灰に生き残れなかった人びとは、とっくの昔に忘却のかなたへ去り、そして、いまや威力の衰えた灰は、しぶとい生存者たちと対決してその精神と退伝子を錯乱にみちびいている。鉛の股袋をつけていても、灰は――疑問の余地なく――それを通過して、よそへ移住しないかぎり、日々に汚染を蓄積させていく。
これまでのところ、リックは毎月の身体検査で適格者《レギュラー》と太鼓判を押されてきた。法律の定める範囲内で生殖を許可された人間である。しかし、サンフランシスコ警察の嘱託医たちによる月例検査で、いつそれがくつがえるかもしれない。あまねく存在する灰によって、適格者の中からもたえず特殊者《スペシャル》が作りだされていくありさまだ。最近のポスターや、テレビCMや、政府からのダイレクト・メールには、きまってこういう文句がはいっている――『移住か退化か! 選択はきみの手にある!』まさにそのとおり、とリックは考えながら、小牧場の柵をあけ、電気羊に近づいた。だが、おれは移住できない。仕事が仕事だからな。
隣りの小区画の持ち主でおなじ高層集合住宅の住人のビル・バーバーが声をかけてきた。やはり、リックとおなじように出勤の身ごしらえをしてから、飼っている動物の世話に立ち寄ったらしい。
「うちの馬が妊娠したんだよ」バーバーは上機嫌でそう宣言し、ぼんやり空の一角を見上げているベルシュロン種の馬を指さした。「そう聞いて、どう思うね?」
「おたくの馬がそのうちに二頭になる、と思うさ」リックは答えた。
リックは自分の羊のそばへきたところだ。羊は横になって反芻しながら、平らにつぶしたオート麦を持ってきてくれたのかと、彼を敏感な目で見つめていた。このにせ羊には、オート麦への向性回路が内蔵されている。特定の穀物を見ると、本物そっくりに立ちあがり、ゆっくりすりよってくる。
「なにから妊娠したんだ?」リックはバーバーにたずねた。「風でかい?」
「カリフォルニアで手にはいる車高級の授精プラズマを買った。州立動物交配局にちょいとコネがあるんだよ。先週、あそこの監督官がうちのジュディーを見にきたのを、おぼえてるだろうが? むこうはこいつに子馬を生ませたがっている。これだけ優秀な牝馬ははかにもないそうだよ」バーバーは愛情をこめて馬の首をたたき、馬は飼い主に顔をすりよせた。
「その馬を売る気はないか?」とリックはきいた。
くそ、馬がいたらどんなにいいだろう。いや、馬にかぎらない、なんの動物だっていい。ニセモノなんかを飼っていると、だんだん人間がだめになっていくような気がする。といっても、社会的な立場からはやむをえずそうするしかない。本物はそれぐらい数がすくない。したがって、現状維持しか方法はない。だが、たとえリックが気にしなくても、まだ妻が控えている。イーランは気にする。大いに気にする。
バーバーがいった。「この馬を売るなんて不道徳だよ」
「じゃあ、子馬を売れよ。動物を二頭も持つのは、一頭も持たないより不道徳だ」
バーバーはめんくらったようにききかえした。「そりゃどういう意味だい? 二頭、いや、三頭、四頭の動物を持ってる人間だって、いくらもいるぜ。うちの弟の勤め先の海藻精製工場をやってるフレッド・ウォッシュバーンなんか、五頭も持ってる。きのうのクロニクル紙に出た彼のアヒルの記事を読まなかったかね? 西海岸きっての大きさと体重を誇るモスコヴィー種だそうな」
バーバーの目は、そうした財産を夢見るようにとろんとなった。しだいに瞑想状態におちいっていくようだった。
リックは上着のポケットをさぐり、すりきれるほど読み古したシドニー社鳥獣カタログの一月版をとりだした。索引を調べ、子馬(馬ノ部、幼獣ノ項参照)のページを見つけ、まもなく現在の国内価格を知った。
「ベルシュロン種の子馬なら、シドニー社からでも五千ドルで買える」とリックはいった。
「いや、買えないね」とバーバー。「もう一度、その表をよく見たまえ。斜字体《イタリック》で書いてあるだろう? ということは、いま手持ちがなくて、もしあったとした場合の値段なのさ」
「なんなら、五百ドルの十ヶ月払いでおたくから買ってもいいんだ。カタログの値段どおりに」
あわれむように、バーバーはいった。「デッカード、きみは馬のことを知らないね。シドニー社にベルシュロン種の手持ちがないのには、それなりの理由がある。ベルシュロン種の子馬は、ぜんぜん取引されない――カタログ価格でもだ。それぐらい数がすくないんだよ、あまり質のよくないのでもな」バーバーは共同の柵から身を乗りだして大きく身ぶりした。「ジュディーを飼いはじめて三年になるが、それ以来、これほど優秀なベルシュロン種の牝にはお目にかかったことがない。この馬を手に入れるために、わたしはわざわざカナダまで飛んで、盗まれるのがこわさに自分の運転でここまで運んできたんだ。これほどの馬を連れて、コロラドやワイオミングあたりでもたついたりしたもんなら、強盗どものいいカモだよ。なぜだかわかるか? つまり、最終戦争以前には、文字通り何百頭の――」
「しかし」と、リックはさえぎった。「おたくが二頭も馬を持ってるのに、おれには一頭もない――これはマーサー教[#Mercerism]の根本原理と倫理体系の侵犯だ」
「きみだって羊を持ってるじゃないか。バカをいうなよ。だれでも、個人生活の中でマーサーの〈登坂〉を見習うことができるし、共感《エンパシー》ボックス[#empathy box]のふたつの取手を握ればりっぱに接触が成り立つ。かりにだよ、きみがあの羊を持ってなかったとすれば、そりゃあ、きみの論法にも一理あるかもしれん。そう、かりにわたしが動物を二頭持っていて、きみが一頭も持ってなければ、きみとマーサーの真の融合をさまたげるのに、わたしがひと役買っているということにもなるだろうさ。だが、のビルに住んでいるあらゆる家族が――そうさな、三戸に一世帯と計算して、約五十世帯か――みんな、なにかの動物を持っているんだぜ。グレーヴスンはあそこのニワトリ」と北のほうを指さして、「それからオークス夫妻は、夜中によく吠えるあの大きな赤犬」しばらく考えてから、「エド・スミスも家のなかで猫を飼ってるという話だ。すくなくとも彼はそういってるが、見たものはない。ひょっとすると、お芝居かもしれんがね」
リックは羊に近づくと、背をかがめて白い密生した毛の中をさぐり――とにかく、これだけは本物の羊毛だ――そして、もとめるものを見つけた。制御機構の隠しパネルである。バーバーが見まもる前で、彼はパネルの蓋をボンとひらき、内部を見せた。
「どうだ? これで、なぜおれがおたくの子馬をこんなに欲しがるか、わかったろう?」
しばらく間をおいて、バーバーはいった。「気のどくに。前からずっとこうだったのか?」「いや」リックは電気羊のパネルの蓋をもとどおりにはめた。それから背を伸ばして、隣人に向きなおった。
「はじめは、本物の羊だった。家内のおやじが移住先へ出発するとき、形見にくれたんだよ。それから、去年だったかな、おれが獣医のところへ羊を連れていったのをおぼえてるかい? あの朝、おたくもここにいたじゃないか。おれがここへきてみると、羊が横になったままで起きあがろうとしないんだ」
「あのとき、きみは羊を抱きおこしたっけな」記憶をよびさまされたバーバーが、うなずきながらいった。「そうだった。なんとか羊を立たせるとこまではいったが、一、二分歩いているうちにまた倒れてしまった」
リックはいった。「羊ってやつは、ふしぎな病気にかかる。いや、いいかえると、羊はいろいろの病気にかかるが、症状はどれもおんなじなんだよ。羊が立てなくなっても、それがどの程度の重症なのか、果たして足の捻挫なのか、それとも破傷風で死にかかっているのか、そいつがよくわからない。うちの羊が死んだのもそれだったよ。破傷風」
「ここでかね?」とバーバー。「こんな屋上で?」
「原因は干し草」リックは説明した。「あのときにかぎって梱包の針金をすっかりはずしてなかった。一本だけ残っていた針金にひっかかって、グルーチョは――あの羊の名前だ――擦り傷をこしらえ、そこから破傷風のバイキンがはいったらしい。獣医のところへ連れていったが、結局はむだだった。そこで、いろいろ思案したあげく、模造動物を作っている店に電話をかけて、連中にグルーチョの写真を渡した。連中はこれをこしらえてくれた」寝ころんだまま熱心に反芻をつづけ、オート麦の気配がないかと敏感な目で見まもっている模造動物を、リックは指さした。「特製品なんだよ。おれのほうも、本物だったときとおなじように、時間や面倒をいとわず世話してきた。しかし――」肩をすくめた。
「どこかがちがう」バーバーがしめくくった。
「もうちょいなんだがな。世話をしてるときの感じはおなじだ。生きてたときとそっくりおなじように、いつも目を光らせてなくちゃいけない。もし故障でもしたら、このビルじゅうに知れわたっちまう。もう六回も修繕に持っていったよ。たいていは小さな誤作動だが、ひょっとしてだれかに気づかれたらさいご――たとえば、一度なんかは発声テープがひっかかったかなんかで、メエメエが止まらなくなったんだがね――それが機械の故障だってことを見破られちまうからなあ」つけたして、「むろん、修理店のトラックには、『なになに動物病院』って字がはいってる。運転手も獣医そっくりの白衣を着てるんだよ」とつぜん時間を思いだして、リックは腕時計をのぞいた。「もう仕事に行かなきや。じゃまた今夜」
車に向かって歩きだすリックに、バーバーはあわてて声をかけた。「あー、いまのことは、このビルのだれにもしゃべらないよ」立ちどまって、リックは礼をいおうとした。だが、そこで、イーランのいう絶望に肩をたたかれた感じにおそわれ、こういってしまった。
「どうだっていいさ。どっちでも変わりはないだろう」
「しかし、連中はきみを見くだすぜ。みんながみんなとはいわんがね。動物を飼わない人間がどう思われるかは知っているだろう? 不道徳で同情心がないと思われるんだよ。つまりだね、法律的には最終戦争直後のように犯罪と認められないが、そういう感情はまだ残っている」「ちくしょう」リックはからの両手をふりながら、よわよわしくいった。「おれは生きた動物を飼いたい。いつも手に入れようと努力してきた。だが、おれのサラリー、市の公務員の給料じゃ、しょせん――」もし、仕事でまた運がむいてくれたら。二年前、ひと月に四人のアンドロイドをしとめたあのときのようにだ。もしあのときに、グルーチョの死ぬことがわかっていれば……だが、あれは破傷風事件の前だった。五センチほどの注射針に似た、荷造り用の針金が突き刺さる前のことだった。
「猫なら買えるだろう」バーバーがすすめた。「猫は安いよ。シドニー社のカタログで見るといい」
リックは穏やかにいった。「部屋で飼うようなペットはほしくないんだ。はじめに持っていたような大きな動物がいい。羊か、それとも、もしそれだけのカネがあれば、牝牛か牡牛、それともおたくのような馬」
アンドロイド五人分の懸賞金でそうできる、とリックは思った。ひとりにつき千ドルずつ、給料とべつに賞金が出る。それさえあれば、あとはどこかで売り手をさがし、おれのほしい動物を買えばいい。たとえ、シドニー社の鳥獣カタログには斜字体で書かれていてもだ。五千ドルか――だがそれには、まずどこかの植民惑星から五人のアンドロイドが地球へ逃げてこなくちゃだめだ。そのお膳立てはおれの手にあまる。五人のアンディーを地球へ逃げてこさせるのはむりな相談だし、たとえできたとしても、世界各地の警察にそれぞれの賞金かせぎがいる。
おれの注文を満たすためには、そのアンディーがなにを好んでか、この北カリフォルニアに隠れ場所をもとめ、その上、この地区の賞金かせぎの主任であるデイヴ・ホールデンが死ぬか引退するかしなくてはだめなのだ。
「コオロギを買いたまえよ」バーバーはからかうようにいった。「それともネズミ。そうだ、二十五ドル出せば、おとなのネズミが買える」
リックはいった。「おたくの馬だって、グルーチョみたいに、いつぽっくり死なないともかざらんぜ。今暁、おたくが仕事から帰ってきてみると、ばったり仰向けになって、四本の脚を虫みたいにピンと上へ突きだしてるかもしれん。ちょうど、いまおたくのいったコオロギのようにな」
リックは卓のキーを握って、すたすたと歩きだした。
「気をわるくしたんなら、あやまるよ」バーバーが不安そうにいった。
無言で、リック・デッカードは飛行車のドアをひきあけた。隣人には、もうなにもいうことはない。リックの頭にあるのは、仕事のこと、これからの一日のことだけだった。
[#改丁]
2
かつては数千人の居住者を収容していたこともある、巨大な、がらんとした、崩壊一歩前のビル――その中で、ただ一台のテレビが無人の部屋に宣伝文句をがなりたてている。
この所有者なき廃屋も、〈最終世界大戦〉以前には、いっぱしの管理運営がなされていた。
当時、この土地は、サンフランシスコから高速モノレールでひとまたぎの郊外だった。小鳥が巣をかけた木のように、この半島ぜんたいが、にぎやかな生命と意見と苦情であふれかえっていたものだ。だが、抜け目ない家主たちも、いまはすでに天国か植民惑星のどちらかに移住をすませてしまった。たいていは、前者のほうに。つまり、国防総省《ペンタゴン》と、その乙にすました科学的奴隷であるランド・コーポレーションのいさましい予測にもかかわらず、戦争はひどく高価なものについたのである――そういえば、ランド・コーポレーションがあったのも、ここからさして遠からぬ地点だった。そして、かの戦略研究所もアパートの家主たちにならって、あの世へ旅立ってしまった。だれにも惜しまれることなく。
第一、もういまでは、なぜ戦争が起こったか、また、どっちが勝ったか――もし勝利者があるとすればだが――そんなことをおぼえている人間はひとりもいない。地球表面の大半を汚染した死の灰は、どこかの国のだれかが――戦時中の敵国さえもが――計画的に作りだしたものではなかった。第一番に、どういうわけかフクロウが死んでいった。むくむく肥った白い鳥の死骸が庭や街路のあちこちに横たわっているところは、その当時ユーモラスな光景にさえ思えたものである。生きているフクロウは、もともと暗くなるまで外へ出てこないのだから、およそ人びとの目にふれる存在ではなかった。中世のペストがその姿を具現したのも、おびただしいネズミの死骸という、これによく似たかたちであったらしい。だが、新しい疫病は天降《あまくだ》ってきたのだ。
フクロウのあとには、いうまでもなく、ほかの小鳥たちがつづいたが、もうこのときには謎の現象もその正体が解明されていた。ほそぼそとした惑星植民計画は、すでに戦前からはじまっていたけれども、いまや地球が太陽を仰ぎ見ることもかなわない世界となるにおよんで、宇宙植民はまったく新しい段階に突入することになった。この間題に関連して、戦争兵器のひとつであった〈自由の合成戦士〉に改造がほどこされた。異星環境下でも作業できる人間型《ヒューマノイド》ロボット――厳密には有機的アンドロイド――は、かくして植民計画の補助エンジンとなった。国連法によって、すべての移民は各自の選択する型式のアンドロイド一体を、自動的に無料貸与されることが定められ、一九九〇年までには、アンドロイドの種類が、あたかも六〇年代のアメリカ製自動車のように、理解を絶するほどの細分化をとげていた。
それが、移住への究極の刺激だった――下僕のアンドロイドは鉛、死の灰は尻をたたく鞭。移住を容易なものに、そして残留を不可能ではなくても困難なものにするのが、国連の狙いだった。地球にぐずぐす居すわっている人間は、自分が生物学的疎外者であり、人類の健全な遺伝への脅威であることを、いつだしぬけに知らされないともかぎらない。いったん特殊者という烙印を押された市民は、たとえ断種手術を受けても、歴史から落伍してしまう。事実上、人類の一員ではなくなってしまう。にもかかわらず、移住を拒む人間はここかしこに存在した。
それは計画の関係者にとっても、首をかしげたくなるほど不合理な話だった。理屈からいけば、いまごろはすべての適格者が移住を終わっていていいはずだ。たとえ変わり果てた姿であっても、地球はやはり彼らにとって懐かしくも離れがたい故郷なのだろうか。それとも、ひょっとすると、残留者たちは死の灰のとばりがいつかは消散すると期待しているのだろうか。いずれにせよ、何千何万の人間が依然として地球に残留し、そしてその大多数が、おたがいの存在を目でたしかめあって勇気をふるいおこそうとするかのように、市街地に集中している。この連中はわりあい正気の人間らしい。そして、ほとんど見捨てられた郊外地域には、心もとない付加物というかたちで、毛色の変わった人間がまだ残っている。
いま、奥の部屋のテレビにわめきたてられながら、浴室でひげを剃っているジョン・イジドアも、そのひとりだった。
イジドアがふらふらとこのビルに居つくようになったのは、戦後初期のことである。あの呪わしい時代には、だれも自分がなにをやっているのか、ほんとうにわかっていなかった。戦争で住処を失った人びとは、あてどもなくさすらい、今日はこっち、明日はあっちと仮の宿りをえらんだ。当時の降灰は散発的で気まぐれだった。州によってほとんど被害がないかと思えば、その一方で飽和状態のところもあった。流浪の人びとは、灰の移動するままに移動した。サンフランシスコの南にあたるこの半島は、最初のうち降灰に見舞われなかったため、大ぜいの人びとが住みついていた。灰がやってきたとき、その一部は死に、ほかのものはこの地を去った。だが、J・R・イジドアはあとに残った。
テレビがわめいている。「――に再現される、南北戦争以前ののどかなりし南部の日々! 小間使として、あるいは疲れを知らぬ作男として、カスタム・メードの人間型ロボット、地球出発前にあなたが注文されたとおりのもの、あなたのユニークな要求に合わせてデザインされた、あなたの、あなただけのものが、目的地到着と同時に、まったく無料で提供されます。人類の現代史上、最大にして大胆無比な冒険には、ぜひこの忠実で従順なコンパニオンを――」テレビはなおもわめきつづけた。
こりゃ遅刻かもしれないぞ、とイジドアはひげを剃りながら考えた。あいにく、ちゃんと動く時計がない。いつもテレビの時報がたよりなのだが、どうやらきょうは〈新しい地平線の日〉らしい。とにかく、さっきからテレビは、きょうがニュー・アメリカ――火星で最大の合衆国植民地――の建設五周年(それとも六周年?)記念日だとくりかえしている。そして、半分こわれたこのテレビでは、戦時中に官営に切り替えられたチャンネルしか映らない。イジドアの耳にはいる番組のスポンサーといえば、ワシントンの政府とその植民計画にかぎられたかっこうだ。
「では、マギー・クルーグマンさんにお話をうかがってみましょう」テレビのアナウンサーは時間を知りたいだけのジョン・イジドアにそう持ちかけた。「これは最近火星へ移住されたばかりのクルーグマン夫人を、ニュー・ニューヨーク市でインタビューしたさいの実況録音です。では、ミセス・クルーグマン、この夢いっぱいの世界での新生活を、汚染された地球での生活と比べてみて、どんなちがいをお感じになりますか?」いっとき間をおいて、疲れてかさかさした感じの中年主婦の声が聞こえた。「わたしと家族三人がまっさきに気づいたのは、人間の尊厳ということでした」「奥さん、尊厳とおっしゃいますと?」アナウンサーはききかえした「ちょっと説明しにくいんですけれど」と、火星ニュー・ニューヨーク市在住のクルーグマン夫人が答えた。「こういう乱れた世の中に、たよりになる召使がいるってことは、なにかこう……心強い気がしますの」
「ところで奥さん、まだ地球にいらっしゃった当時ですが、あなたもご自分がその、エヘン、マル特に分類される日がくるのではないかと、ご心配なさいましたか?」
「ええ。主人もわたしも、死ぬほどそれを心配いたしました。もちろん、移住したおかげで、ありがたいことに、もうその心配も永久になくなりましたわ」
こっちは、移住しなくてもその心配が永久になくなったぜ、とイジドアは悲しく思いかえした。イジドアは一年あまり前から特殊者の仲間入りをしており、しかもそれはゆがめられた遺伝子のせいだけではなかった。もっと悪いことに、精神機能テストの最低基準にも合格できず、俗にいうピンボケの部類に入れられてしまったのだ。三惑星[#地球、火星、金星]の侮蔑が彼の上に降りかかったのである。しかし、彼は生きぬいた。勤め先も見つけた。模造動物修理店の集配用トラックを運転する仕事である。ヴァン・ネス動物病院と、その陰気で無趣味な店主のハンニバル・スロートが彼を人間なみに扱ってくれるのは、ありがたいことだった。まさに、ミスター・スロートがときどき言明するように、|死は確かなもの《モルス・ケルタ》、|生は不確かなもの《ヴィータ・インケルタ》[#Mors certa, vita incerta。ラテン語]。もっとも、イジドアは何度もその文句を聞かされているくせに、その意味はおぼろげにしかわからない。いや、早い話、もしピンボケにラテン語の意味がくみとれるようなら、もはやピンボケといえないのではなかろうか。彼にそう指摘されたときは、ミスター・スロートもたしかにその通りだと認めたものだ。世間にはイジドアよりもっともっと頭のわるいピンボケがいる。彼らはなんの仕事にもつくことができず、〈アメリカ特殊職業技能養成所〉という古風な名称の保護施設で養われている。例によって、”特殊《スペシャル》"という言葉が看板のどこかへはいらなければ、おさまりがつかなかったのだろう。
「――とすると、ご主人は」とテレビのアナウンサーがしゃべっていた。「あの高価で不格好な放射線除けの鉛製|股袋《コトビース》を着用なさっていても、いっこうに安心できなかったというわけですか、奥さん?」
「主人は――」とクルーグマン夫人は答えかけたが、ちょうどひげ剃りをすませたイジドアは、すたすたと居間にもどって、テレビを切ってしまった。
静寂。それは部屋の四方からひらめき、まるで巨大な発電所から送りこまれたように、おそるべき力でイジドアを打ちすえた。それは床からわきあがり、部屋に敷きこまれた灰色のすりきれたカーペットからたぎりたった。それはキッチンの全壊半壊の調理器真、イジドアがここへ住みついてこのかた一度も作動したことのない死んだ機械類から、鎖を離れたように飛びだした。それは居間の使用不能の柱上灯からにじみだして、しみだらけの天井から降下するそれと無音でからみあった。事実上、それは被の視野にあるすべてのものから、いっきょに出現したようだった。まるで、それが――静寂が――すべての形あるものにとって代わる意志を秘めているかのように、彼の耳だけでなく、目をもおそった。消されたテレビのそばに立った彼は、その静寂を目に見えるもの、また、ある意味での生き物として体験した。生き物! これまでにも、その仮借ない接近を何度か感じとったことがある。まるで待ちきれないように、遠慮会釈もなく猛然とおそいかかってくる静寂。この世界の静寂の貪欲さは、それ自身でも抑えきれなくなった。もはや手がつけられない。それが実質的な勝利者となったいまでは。
地球に残ったほかのみんなも、やはりこんなふうに空虚さを感じているのだろうか? それともこれは、自分の生物学的特異性にもとづく特異現象、まぬけな知覚が生みだす錯覚だろうか? おもしろい質問だぞ、とイジドアは思った。だが、その経験をメモしたところで、いったいだれと比べあえる? イジドアは干戸分の空き部屋をかかえる、崩れかかったまっくらなビルの唯一の住人で、このビルは、その同類のすべてとおなじように、より大きいエントロピー的廃墟への転落を進めている。やがては、このビルの中のあらゆるものが溶けあい、顔のない均一のもの、プディングのようなキップルになって、すべての部屋の天井まであふれかえることだろう。そして、つぎには、見捨てられたビル自体も形のないものに還元され、あまねくひろがる灰の下に埋もれる。それまでには、むろん、彼もとっくに死んでいるだろう。この輿味ある一事件を予測しながら、イジドアはさびれ果てた居間の中にただひとり立ち、肺を持たない、貫通自在の横柄な汎世界的静寂に囲まれていた。
テレビをもう一度つけるほうがいいかもしれない。しかし、残された適格者にあてた政府のメッセージが、イジドアを怖気づかせる。数かぎりない表現方法で、政府のメッセージは彼に告げるのだ。マル特である彼が必要とされていないことを。使い道がないことを。かりに彼がそうしたくても、移住できないことを。だから、そんなものを聞いてなんになる? イジドアはいらだたしげにそう自問した。あいつらや、あいつらの植民地なんか、くそくらえ。むこうで戦争でも起きて――すくなくとも、理論的にはありうる――あいつらが地球のような末路をたどればいい。そして、移住した連中が、みんなマル特になっちまえばいい。
そうだ、仕事にでかけないと。明かりのない廊下につうじるドアをあけかかったイジドアは、ビルぜんたいの空虚さをちらと目に入れて、にわかにしりごみした。彼の部屋へじりじりと貫通してくるのが感じられたあの力が、いまは彼が出てくるのを外で待ちうけている。まいったな、と彼は考え、ドアを閉めなおした。あのやけに反響する階段をてくてく上がって、一ぴきの動物もいないからっぽの屋上へ出る気にはなれなかった。足音の反響。無の反響。こんなときこそあの取手を握らなきゃ――そう自分にいいきかせると、イジドアは居間を横ぎり、黒い共感《エンパシー》ボックスへと急いだ。
スイッチを入れると、いつものかすかな陰イオンの匂いが、電源からただよってきた。早くも気分がうきうきして、むさぼるようにそれを吸いこんだ。やがて、ブラウン管が、テレビの映像の弱々しいまがいもののように輝きはじめる。一見でたらめな色彩と軌跡と形態のコラージュが現われる――それは、ハンドルが握られるまでなんの意味も持たない。まず、気を落ちつけるために一度深呼吸してから、イジドアはふたつの取手を両手で握った。
視覚像が凝結した。たちまち、あの有名な風景が行く手にひろがった。茶一色の荒れ果てた登り坂。ひからびた骸骨のような雑草が、太陽のないどんよりした空にむかって、ぬっと斜めに突きだしている。ぽつんとひとつ、人影らしいものが、苦しげに山腹を登っていく。色あせ、形もさだかでないガウンをまとった老人で、敵意を持つうつろな空からひっさらってきたような着衣は、わずかな部分しかおおっていない。その男、ウィルバー・マーサーはとぽとぽと前進をつづけ、そして取手を握るジョン・イジドアは、自分の立っている居間がしだいに薄れていくのを体験した。崩れかかった家具と壁が引き潮のように遠のき、やがてまったく感じられなくなった。気がつくと、いつものように、くすんだ泥色の山とくすんだ泥色の空の風景にはいりこんでいた。そして同時に、もう老人の登坂の傍観者ではなくなっていた。いまや、彼自身の足が見なれた小石まじりの土を踏みしめ、足がかりを求めている。いつに変わらぬごつごつした石の痛さを靴底に感じ、そして、空をおおういがらっぽいもやをふたたび嗅ぎとっている――それは地球の空ではなく、遠い見知らぬ世界の空、しかし、共感ボックスのおかげで瞬時に手にはいる空だった。
いつものとおり、不可解な方法で転移は完了した。ウィルバー・マーサーとの肉体的な融合――精神的心霊的な同一視をともなったそれ――が再現された。この瞬間、この地球やほかの植民惑星で、おなじように取手を握りしめている人たちの身に起きているのとおなじように。彼はその人たちの渾然一体となった思念のざわめきを感じとり、数かぎりない個性の騒音を自分の脳の中で聞きとった。彼らの――そして彼の――関心はただひとつ。つまり、この精神の融合で、自分たちの全神経を、山と登坂と前進の意欲に集中させることである。じわじわと、ほとんど感知できないほどゆるやかな進化。だが、まちがいなくそれはある。上へ上へ――足もとでころころと小石が落ちていくのを感じながら、彼は思った。きょうのわれわれは、きのうよりも上におり、そしてまた明日は――彼、すなわちウィルバー・マーサーの複合像は、行く手を見はるかすように目を上げた。まだ終点は見えない。それほど遠くなのだ。だが、いつかはたどりつける。
ふいに石ころが飛んできて、腕にあたった。痛みがおそった。首をふりむけようとしたとき、第二の石ころが体すれすれをかすめていった。地面にぶつかった石ころは、ぎくりとするような音を立てた。だれが? いぶかしみながら、虐待者を見つけようと目をこらした。宿敵が視野のはずれに姿を現わそうとしている。それ――またはそれら――は、執念深く彼のあとを追いつづけてきたし、これからもそうするだろう。頂上へたどりつくまで――
彼は頂上のことを思いだした。この急坂がとつぜん平らになると、そこで山登りは終わり、べつの苦しみがはじまるのだ。いままでに幾度これをくりかえしたろう? 記憶はぼやけている。未来も過去もぼやけている。すでに経験したものと、やがて経験するだろうものが、いっしょくたにまじりあい、あとにはこの瞬間しか――じっと突っ立ったまま、石ころの当たった腕をさすってひと息入れているこの瞬間しか――残っていない。神さま、と疲れ果てた気持で考えた。こんなことがあっていいんですか? なぜ、こんなふうにひとりぼっちでここに立って、見えもしないやつらからいじめられなくちゃならないんです? ちょうどそのとき、彼の内部で、融合に加わっている全員のざわめきが、この孤独の幻覚をうち破った。
きみたちもやはりそう感じるんだね、と彼は思った。そうだよ、といっせいに声が応じた。われわれも左腕をやられた。ものすごく痛い。うん、がまんしようや、と彼はいった。ここでぐずぐずしてちゃだめだ。彼がふたたび歩きはじめると、みんなもすぐそれにしたがった。
むかしはこうじやなかったのに、と彼は記憶をたどった。あの呪いが降りかかるまでの、幸せな人生の初期。養父母であるフランクとコIラのマーサー夫妻は、ゴム製救命ボートで漂流している彼を、ニュー・イングランドの海岸の沖で見つけた……いや、それともメキシコのタンピコ港の近くだったろうか? もういまでは細かいことをおぼえていない。なにしろ、すてきな少年時代だった。あらゆる生き物、とくに動物が大好きで、一時は死んだ動物をよみがえらせることさえできた。いつもウサギや虫たちといっしょに暮らしていた。あそこは地球だったのか、それともどこかの植民惑星だったのか。いまはそれすらおぼえていない。だが、殺し屋のことだけはおぼえている。なぜなら、そいつらに、特殊者よりもっと特殊なフリークとして、逮捕されたからだ。そのために、すべてが一変してしまった。
その土地の法律は、死者をよみがえらせる時間逆行能力の使用を禁じていた。十六歳のときに、彼はそのことをきつくいいわたされた。それからも一年ほど、まだ残っていた森の中でこっそりそれをつづけていたのだが、見たことも聞いたこともない老婆に密告されてしまった。養父母の了解もなしに、彼ら――殺し屋たち――は、彼の脳に発生した特異な小節を放射性コバルトでたたき、その結果、彼はこれまで存在さえ知らなかった別世界へ沈みこむことになった。そこは死骸と遺骨の累々と横たわる深い落とし穴で、そこから脱出しようと長い苦闘をつづけた。ロバとヒキガエル――被にとってなによりもたいせつだったふたつの生き物は、すでに絶滅して姿を消していた。こっちに眼球のない頭、あっちに手の切れはしというように、腐りかかった断片が残っているだけだった。そこへ死ににきた小鳥が、とうとうその場所の名を教えてくれた。彼が埋もれているそこは墓穴世界なのだ。あたりに散らばった骨がもう一度生き物にもどるまでは、そこから抜け出ることができない。ほかの生き物たちの代謝作用とつながってしまったために、彼らがよみがえらなければ、彼もよみがえることはできないのだ。
その循環期の一部がどれほど長くつづいたか、いまではおぼえがない。ほとんどこれといったことも起きなかったから、測りようがないわけだ。しかし、ついに骨がふたたび肉をとりもどした。うつろな眼窩に新しい目が生まれ、視力がやどった。復活した口やくちばしが、さえずり、わめき、いなないた。それをやってのけたのは彼だろうか。脳の超感覚小節がやっと再生したのだろうか。いや、彼のしわざではないかもしれない。自然の成り行きのひとつと見るほうが当たっているだろう。なんにせよ、彼はもう沈下してはいなかった。みんなといっしょに上昇をはじめていた。そして、いつのまにかみんなを見失ってしまった。気がつくと、ただひとりで山を登っていた。だが、みんなはそこにいる。まだいっしょにいる。奇妙なことに、みんなは彼の体の中にいるらしい。
イジドアは取手を握りしめ、自分があらゆる生き物を包みこむのを体験していた。やがて彼はいやいやながら手を離した。いつものことだが、いずれは終わらなければならないし、それにさっき石ころを投げつけられた腕が、ひどく痛んで出血している。
取手を離すと、腕のけがを調べてから、傷口を洗いにふらふらと浴室へ歩きだした。マーサーとの融合のあいだに受けた負傷はこれが最初ではなく、またおそらく最後でもないだろう。いや、それどころか、頂上に近づいて苦しみが強まると、とくに年寄りなどは死ぬことさえある。こっちだって、もう一度あそこを乗りきれるかどうかわからない――傷口を消毒しながら、イジドアはそう自分にいいきかせた。へたをすると心臓マヒだ。町なかのビルなら電撃療法の機械を持った医者が近くにいるからいいが。ここで、こんなビルにひとりばっちで住むのは、どう見ても危険すぎる。
しかし、その危険をおかすしかない。これまでもずっとそうしてきたのだから。たいていの人間が、ときにはよぼよぼの老人までが、そうしているように。
彼は腕についた血をクリネックスでふきとった。
そのときだった。くぐもった、遠いテレビの音がきこえたのは。
だれかがこのビルにいる。狂おしい気特でそう考えながらも、そのことが信じられなかった。
うちのテレビじゃない。あれは切ってある。それに床の共鳴も感じとれる。下だ、どこか下の階なんだ!
もうひとりぽっちじゃない[#「もうひとりぽっちじゃない」に傍点]、と彼はさとった。だれかがここへ引っ越してきて、どこかの空き部屋にはいったんだ。それもテレビの音がきこえるほどの近くに。きっと二階か三階、ぜったいにそれより下じゃない。待てよ、とすばやく頭をめぐらせた。新入居者が引っ越してきたときには、どんなあいさつをするんだったかな? こっちがちょいと顔出ししてなにかを借りる、そうだったっけ? 思いだせない。ここでも、よそでも、そんな経験をしたことがないからだ。アパートを引きはらう人、移民に加わる人はいても、引っ越してくる人はなかった。きっとなにかを持っていくんだ、と彼は判断した。グラス一杯の水、いや、ミルクのはうがいいかな。そうだ、ミルクか小麦粉か、なんなら卵――というより、正確にはその代用品。
冷蔵庫の中をのぞきこむと――コンプレッサーはとっくにきかなくなっている――あやしげなマーガリンの塊が見つかった。それを持って、胸をはずませながら階下へ出発した。おちつけ、と自分にいいきかせた。こっちがピンボケだってことを、相手にさとらせちゃまずい。もしピンボケだと知ったら、むこうはきっと話もしてくれないだろう。どういうわけか、これまでいつもそうだったのだ。いったい、どうしてかな?
イジドアは急いで廊下を歩きだした。
[#改丁]
3
出勤の途中で、リック・デッカードはみんなのよくやるようにちょっと寄り道し、サンフランシスコ有数の動物店をのぞいた。一街区の長さを占領した陳列窓の中央では、透明プラスチックの暖房檻の中から、一羽のダチョウが彼を見つめかえしている。檻の案内板によると、この鳥はクリーブランド動物園から到着したばかりで、西海岸唯一のダチョウということだ。ダチョウを見終わってからも、リックはなおしばらく渋い顔で値札をにらんでいた。ロンバード通りの司法本部に着いたときは、十五分の遅刻だった。
オフィスの鍵をあけているところへ、上司のハリイ・ブライアント警視が、よう、と声をかけた。水差しの取手のような耳をした赤毛の男で、服装はぞろっぺえだが、聡明そうな目と重要なことなら知らぬことなしの記憶力の持ちぬしだ。
「話がある。九時三十分にわたしのオフィスへきてくれないか」ブライアント警視はそういうと、クリップに挟んだ書類をパラパラとめくった。「デイヴ・ホールテンが」と歩きだしながら言葉をついで、「脊椎にレーザー銃創を受けて、マウント・ザイオン病院へ収容されたんだ。すくなくとも一ヶ月は入院だろう。新しい有機プラスチックの代用脊椎がしっかり固まるまでは」
「なにがあったんです?」
リックはうそ寒いものを感じながらきいた。主任バウンティ・ハンターのホールデンは、きのうまでピンピンしていた。一日の勤務を終えて、人口の密集した高級住宅地ノブ・ヒルの自宅へと、いつものように飛行車《ホバー・カー》で帰っていったのに。
ブライアントは肩ごしにもう一度、九時半にわたしのオフィスでと念を押し、リックをそこに残して立ち去った。
リックが自分のオフィスへはいると、うしろから秘書のアン・マーステンの声がした。
「デッカードさん、ホールデンさんのことをお聞きになりました? 撃たれたというニュースを?」
彼女はリックのあとから、閉めきられてむっとしたオフィスの中にはいり、空気濾過装置のスイッチを入れた。
「ああ」リックはうわの空で答えた。
「きっとローゼン協会で製造している、例の新型高知能アンドロイドのしわざですわ」ミス・マーステンはいった。「あの会社のパンフレットと仕様書をお読みになりました? いまあの会社が使っているネクサス6型脳ユニットは、二兆個の構成要素の場を備え、一千万通りの神経回路の選択がきくんですって」声をひそめて、「けさの映話のことはごぞんじないでしょう。ミス・ワイルドが教えてくれましたわ。父換台を九時に通ったとか」
「着信かい?」リックはきいた。
「いいえ、発信です。ブライアントさんからソ連の|世界警察機構《WPO》へ向けて。ローゼン協会の東半球生産代表支部へ抗議書を提出する意志があるかどうかを、先方にたしかめられたそうです」
「まだハリイは、ネクサス6型脳ユニット主市場からひっこめさせるつもりなのか?」
べつに意外ではなかった。一九九一年八月にその新型の仕様書と性能表がはじめて公開されてからというもの、脱走アンドロイドの取締りにたずさわっている警察組織の大半が、こぞってそれに抗議してきたのだ。
「ソ連警察だって、あれはどうにもできんさ」とリックはいった。ネクサス6型脳ユニットの生産は、自動化された親工場が火星にある関係で、法律的には植民地法の適用を受けている。
「新型ユニットは、人生の一事実として受けいれるしかないね。これまでだって、改良脳ユニットが出現したときは、いつもこうだった。一九八九年にズーデルマン社がT14型を出したときの大騒ぎは、いまだに忘れないよ。西半球のあらゆる警察組織が、不法入国された場合の探知方法がないとわめきたてた。事実、しばらくはまさにそのとおりだった」
リックが記憶しているかぎりでも、五十人を超えるT14型アンドロイドが各種各様の手段で地球へ逃げこみ、そして中にはまる一年も捜査の目をくらましていたものもあった。だが、まもなく、ソ連のパヴロフ研究所によってフォークト=カンプフ感情移入《エンパシー》度検査法が完成された。そしてT14型アンドロイドは――すくなくともこれまでに知られたかぎりでは――どれもその検査をパスできなかったのだ。
「ソ連警察がなんといったか教えてあげましょうか? わたし、それも知ってます」ミス・マーステンは、ソバカスの浮いたオレンジ色の顔をほてらせていた。
「ハリイ・ブライアントから聞くよ」リックは不機嫌に答えた。
あとで事実を知ってがっかりするだけに、よけい署内のゴシップには腹が立つ。デスクの前にすわると、ミス・マーステンが部屋を出てゆくまで、これ見よがしに引き出しの中をひっかきまわした。
リックが引き出しからとりだしたのは、古い、よれよれのマニラ封筒だった。重役型の椅子を傾けてふんぞりかえりながら、封筒の中をあらため、もとめるものを見つけた。ネクサス6型に関する総合的な公開データである。
一覧しただけでも、マーステン説の正しさは裏書きされた。たしかにネクサス6型は二兆個の構成要素を備え、それに加えて、脳活動の組み合わせの範囲は一千万通りにおよぶ。この型式の脳を備えたアンドロイドは、わずか〇・四五秒で十四種類の基本的反応態度のいずれかにはいることができる。つまり、どんな知能テストも、そのアンディーを罠にかけられないわけだ。しかし、それをいうなら、七〇年代の原始的で粗雑なしろものを除いて、この数年、知能テストでアンディーが化けの皮を剥がれたためしはない。
ネクサス6型アンドロイドは、知能にかけては特殊者《スペシャル》の一部をはるかにしのいでいる、とリックは考えた。いいかえれば、新しいネクサス6型脳ユニットを備えたアンドロイドは、実利一点ばりの非情で粗雑な見かたからするかぎり、人類の大多数――だが、下位の大多数――より優ったものに進化をとげたのだ。ことの善悪はべつにして。これまでにも、召使が主人よりも有能なケースはあった。だがその後、たとえばフォークト=カンプフ感情移入度検査法のような新しい能力テストが出現して、判定基準を示してくれた。どれほど純粋な知的能力に恵まれているアンドロイドでも、マーサー教信者にとっては日常茶飯事の〈融合〉――標準知能以下のピンボケを含めた文字どおりすべての人間が、なんの苦もなくやっている体験――をぜんぜん理解できないことが明らかになったのである。
アンドロイドが、感情移入度測定検査にかぎって、なぜ無残にも馬脚をあらわすのか――たいていの人間が一度はいだくその疑問を、リックも考えてみたことがある。ある程度の知能が、クモ類を含めたあらゆる門と目《もく》の生物種に見いだされるのに対して、感情移入はどうやら人間社会だけに存在するものらしい。ひとつには、感情移入能力が完全な集団本能を必要とするからだろうか。たとえば、クモのような独居性生物はそんなものに用がない。それどころか、あればかえって生存能力の障害になる。クモが餌食の身になって考え、相手の生きたい気持を思いやったりしたらたいへんだ。これはクモだけでなく、あらゆる捕食者にいえることで、猫のように高度な発達をとげた哺乳類でも餓死せざるをえなくなるだろう。
感情移入《エンパシー》という現象は、草食動物か、でなければ肉食を断っても生きていける雑食動物にかぎられているのではないか――いちおうそんなふうにリックは考えている。なぜなら、究極的には、感情移入という天与の能力が、狩人と獲物、成功者と敗北者の境界を薄れさせてしまうからだ。マーサーとの融合とおなじように、みんながいっしょに山を登り、また一循環期が終わったときには、みんながいっしょに墓穴世界の奈落に落ちこむ。奇妙なことに、一種の生物学的保険を思わせるそれは、両刃の剣でもある。だれかが歓びを経験すれば、ほかの全員もその歓びの断片を共有できる。だが、もしだれかが苦しみを経験すれば、ほかの全員もやはりその苦しみの影から逃れられない。ヒトのような群居動物は、それによって一段高い生存因子を獲得する。一匹狼的なフクロウやコブラは、逆に破滅に近づくだろう。
人間型ロボットは、どうやら本質的に独居性の捕食者らしい。
リックは、アンドロイドをそういう目で見ることにしていた。そのほうが仕事がやりやすい。アンディーを廃棄処理する――早くいえば殺す――ことが、マーサーの唱える生活規範にそむかなくなるわけだ。殺し屋のみを殺せ[#「殺し屋のみを殺せ」に傍点]――はじめて地球に共感ボックスが出現した年、マーサーはそう教えた。そして、マーサー教に神学の肉づけが加わるにつれて、〈殺し屋〉の概念もひそかな成長をとげた。マーサー教では、絶対の悪が、とぼとぼと登坂する老人のガウンにつかみかかってくる。しかし、その邪悪な存在が果たして何者であるかは、まったく明らかにされない。マーサー教徒は、その正体を理解することなく、悪を感じとる[#「感じとる」に傍点]。いいかえれば、マーサー教徒は、もやもやした〈殺し屋〉の存在を、どこにでも見いだすことができる。リック・デッカードからすれば、主人を殺して逃亡した人間型ロボット――たいていの人間よりもすぐれた知能を備え、動物になんの愛情も持たず、ほかの生き物の成功には歓びを、敗北には悲しみを共感する能力を欠いているもの――は、まさに〈殺し屋〉の具現に思えるのだ。
動物からの連想で、リックはペット・ショップのダチョウを思いだした。ネクサス6型脳ユニットの仕様書を片脇によせると、ミセス・シドンのナンバー3&4の嗅ぎタバコを一服して、しばらく思案にふけった。腕時計を見たがまだ時間はある。デスクの映話をとって、ミス・マーステンにいった。
「サッター通りのハッピー・ドッグ動物店」
「承知しました」と、ミス・マーステンは電話帳をひらいた。
いくらなんでも、あのダチョウの値段は高すぎる、とリックは思った。たぶん連中は下取りまで計算に入れているんだ。むかしの自動車のように。
「ハッピー・ドッグ動物店です」男の声がきこえ、リックの前の映話スクリーンに小さいにこやかな顔が現われた。動物の鳴き声も伝わってきた。
「陳列に出ていたダチョウだが」とリックは陶製の灰皿をもてあそびながらいった。「頭金はどれぐらいでいいんだね?」
「お待ちください」動物セールスマンはペンとメモをさぐつて、「全額の三分の一ですね。で、下取りのご希望はございますか?」
リックは用心ぶかく、「いや――どうしようかと思っている」
「ダチョウですと、三十ヶ月ローンのお取扱いができます。金利はぎりぎり安くさせていただいて、月六パーセント。そうしますと、さきほどの頭金をいただいた場合、毎月のお支払いは――」
「しかし、あの値段は勉強してもらわなきゃ」とリック。「二千ドル負かれば、下取りなしでいい。すぱっと現金で払おう」
デイヴ・ホールデンも第一線を離れたことだしな、とリックは思った。あれでだいぶん話が変わる……もっとも、その一ヶ月のあいだに、どれだけの仕事がまわってくるかにもよるが。
「お客さま」とセールスマンがいった。「わたしどもの店頭価格がすでに相場より千ドルもお安いのでございますよ。シドニーの価格表をお調べください。そのあいだ、切らずに待たせていただきます。わたしどもの値段が大サービスだということを、ぜひお客さまに知っていただきたいのです」
ちくしょう、とリックは思った。やけにつっぱるじゃないか。しょうがない、つきあってやれ。彼は着衣のポケットからよれよれのシドニーの価格表をとりだし、ダチョウの部、雄−雌、老−幼、病−健、新−中古の各欄を親指でたどって、値段を調べた。
「雄の若い新烏でございます」セールスマンもやはりシドニーの価格表を持ちだしていた。「いかがです、三万ドルでしょう? わたしどものほうが、相場表よりちょうど千ドルお安くなっております。ところで、頭金でございますが――」
「いちど考えてみよう。またかける」リックは映話を切ろうとした。
「お客さまのお名前は?」セールスマンがぬかりなくたずねた。
「フランク・メリウエルだ」とリック。
「ご住所もお聞かせねがえますか、メリウェルさん? お電話いただいたとき、わたしが留守でもいけませんので」
リックはでたらめの住所をでっちあげ、受話器をおいた。、とんでもない大金だ。しかし、げんにそれを買うやつがいる。そんな大金を持った人間もいるんだ。もう一度受話器をとりあげると、あらあらしくいった。
「外線につないでくれ、ミス・マーステン。それから話を立ち聞きしないように。機密事項だ」じろりと秘書をにらみつけた。
「わかりました」とミス・マーステン。「どうぞダイヤルしてください」彼女は回路から自分を切り離し、リックを外界に直面させた。
リックは、前に代用羊を買った模造動物店の番号を、そらでダイヤルした。小さな映話スクリーンに、獣医そっくりの身なりをした男が現われた。
「マクレー医師です」
「デッカードだよ。電気ダチョウはいくらする?」
「そうだな、八百ドルまではかからんでしょう。お急ぎ? どうしても注文生産になるんでね。ダチョウってのは、あまり需要が――」
「あとで相談しよう」リックは相手をさえぎった。腕時計が九時三十分なのに気づいたのである。「じゃまた」
そそくさと映話を切り、隈を上げ、まもなくブライアント警視のオフィスの前に立った。ブライアントの応接係――美人で、腰までの編んだ銀髪を垂らしている――のそばを通りぬけ、ジュラ紀の沼から現われ出でた太古の怪物か、墓穴世界に定着した古代の妖怪を思わせる、陰々滅々とした秘書のそばを通りぬけた。どっちの女も彼に口をきかず、またリックも口をきかなかった。リックは奥のドアをあけ、映話中の上役にうなずいてみせた。自分も腰をおろすと、持ってきたネクサス6型の仕様書をひろげ、ブライアント警視が映話にかかっているあいだに、それをあらためて読みかえした。
彼は憂鬱な気分だった。論理的には、デイヴがとつぜん第一線から退いたということで、すくなくともひそかな喜びはあっていいはずなのに。
[#改丁]
4
ひょっとすると、デイヴとおなじことがおれの身に起こるという不安のせいだろうか?――リック・デッカードはそう考えてみた。やつをレーザーできるぐらい利口なアンディーなら、おれもやられかねない。だが、どうもその不安が原因ではなさそうだった。
「やはり、新型悩ユニットのデータを持ってきたな」映話を終えたブライアント警視がいった。
リックは答えた。「ああ、口コミで聞きましてね。相手のアンディーは何人で、デイヴはどこまでやったんです?」
「ぜんぶで八人だ」ブライアントは書類ばさみを前においていった。
「デイヴが最初のふたりをかたづけた」
「で、残りの六人がこの北カリフォルニアに?」
「現在までの情報ではな。デイヴもそう考えている。いまの映話、じつはやっこさんと話してたんだ。やっこさんのデスクにはいっていたメモもここにある。デイヴの知っていることは、ぜんぶここに書いてあるそうだ」
ブライアントは書類の束をポンとはじいた。まだ、それをリックによこす気はないらしい。どういうつもりか、ひとりでそれをめくりながら、顔をしかめ、唇をなめまわしている。
「予定はがらあきなんですよ」リックは自分の売りこみにかかった。「いますぐでも、デイヴの代理をひきうけちれますが」
ブライアントは思案げにいった。「デイヴは容疑者の判定にフォークト=カンプフ改良検査法を使っていた。きみも当然知っているはずだが、このテストはかならずしも新型脳ユニットに有効とはかざらん。それはどんなテストにもいえることだ。三年前にカンプフが改良を加えたフォークト検査法しか、われわれには手がない」しばらく黙りこんで考えてから、「デイヴはそのテストに信頼性があると見ていた。たぶん、そうかもしれん。だが、きみがこの六人の追跡にかかる前に、わたしからひとつ提案がある」また警視は書類の束を指ではじいた。「シアトルへ飛んで、ローゼン協会の連中と話しあってほしい。試験台として、新しいネクサス6型ユニットを備えたアンドロイドを提供させるんだよ」
「そして、フォークト=カンプフ検査[#Voigt-Kampf scale]にかけるわけですか」とリック。
「いうは易し、だ」ブライアントはなかばひとりごとのようにいった。
「はあ?」
「ローゼン協会へは、きみが到着する前にわたしから交渉しておく」
ブライアントはそういうと、リックを無言で見つめた。ややあって、鼻を鳴らし、爪をかんだあげく、ようやく決心したように先をつづけた。
「そのさい、テストされる新型アンドロイドの中に本物の人間をまぜるかどうかも、連中と相談してみる。ただし、きみにはその結果を伏せておく。それは生産業者とわたしのあいだの判断だ。きみがむこうへ着くまでに、決定はすんでいるだろう」とつぜんきびしい表情になって、警視はリックに指をつきつけた。「きみが主任バウンティ・ハンターとして行動するのは、これが最初だ。デイヴは腕ききだった。なにぶん年季がはいっていたからな」
「わたしもです」リックはむっとしていった。
「きみはデイヴのスケジュールからはみだした仕事を扱っていた。どのアンディーをきみにまかせ、どれをまかせないかは、いつもデイヴが判断していた。だが、こんどきみが担当する六人は、デイヴが自分で処理しようと考えていた難物ぞろいだぞ。しかも、そのひとりは、すでに彼を一度出しぬいている。こいつだ」ブライアントは、リックに読めるように書類をさかさまにした。「マックス・ポロコフ。すくなくとも、そう自称しているらしい。いちおう、デイヴが正しかったとしてだ。すべてが、このリストぜんたいが、その仮定にもとづいている。しかし、フォークト=カンプフ改良検査法にかけられたのは、最初の三人、つまりデイヴが廃棄処理したふたりと、このポロコフだけだ。デイヴがそのテストを行なっているときだった――ポロコフにレーザー銃で撃たれたのは」
「ということは。デイヴが正しかった証拠ですよ」リックはいった。
でなければ、レーザーされるわけがない。ポロコフにはほかに動機がないのだから。
「すぐシアトルへ出発しろ。先方へはなにも連絡するな。交渉はわたしがやる。それでだ」ブライアントは立ちあがると、ニコリともせずにリックを見つめた。「むこうでフォークト=カンプフ検査を行なった結果、もし、人間のだれかがパスしないような事態が起きたら――」
「そんなことはありえないです」とリック。
「二、三週間前に、まったくこれとおなじ問題をデイヴと話しあったことがある。彼もそのときまでは、きみと同意見だった。ところが、ソ連警察と世界警察機構から、地球と全植民惑星に覚え書が配布されてきたんだ。それによると、レニングラードの精神科医のグループが、こういう提案を世界警察機構へ持ちこんだ。現在アンドロイドの鑑別に使われている、最も新しく正確な性格特性グラフ分析法――すなわち、フォークト=カンプフ検査法――を、入念にえらんだ分裂病質《スキゾイド》と分裂病患者《スキゾフレニア》のグループに適用したい、という申し出だ。これによって、『情動の平板化』と呼ばれる現象を明らかにするのが狙いらしい。この現象のことは、聞いているだろう」
「だいたい、それを測定するのが、この検査の狙いですからね」
「では、彼らがなにを心配しているかもわかるな?」
「この間題はいまはじまったわけじゃありませんよ。人間を装ったアンドロイドに、われわれがはじめて遭遇したときからです。警察としての多数意見は、八年前にルリー・カンプフが発表した論文〈未荒廃精神分裂病患者における役割取得《ロール・テイキング》の阻害〉にあるとおりです。カンプフは、人間の精神病患者に見られる感情移入能力の減退をアンドロイドのそれと比較し、両者は表面的には類似しているが本質的にーー」
「レニングラードの精神科医たちは」とブライアントがそっけなくさえぎった。「フォークト=カンプフ検査に合格できない人間もごく少数存在すると考えている。きみが警察活動中に彼らをテストした場合は、人間型ロボットという判定をくだすだろう。その誤りに気づいたときには、すでに彼らは殺されている」リックの答を待つように、警視は言葉を切った。
「しかし」とリック。「当然、そういう人間はせんぶ――」
「施設に収容されているはずだ」とブライアントはうなずいて、「彼らが一般社会でうまく生活できるとは考えられない。第一、重症の精神病患者だと見破られずにすむはずがない――ただし、最近にとつぜん発病して、まだだれも気づいていない場合は、むろん話がべつだ。そういうこともないとはいえん[#「そういうこともないとはいえん」に傍点]」
「百万にひとつの偶然ですよ」リックはいった。だが、たしかにそれも一理だ。
「デイヴが頭を痛めていたのは」とブライアントはつづけた。「この新しいネクサス6型の出現だ。きみも知っているように、ローゼン協会は、ネクサス6型が標準的な性格特性テストで鑑別可能だと保証している。これまでのわれわれはその言葉を信用してきた。だがここへきて、かねてから恐れていたとおり、それを自力でたしかめる羽目に追いこまれた。きみにシアトルでやってもらうのはその仕事だ。いいか、この結果はどっちにころんでもありがたくない。もし、きみが人間型《ヒューマノイド》ロボットのどれかを鑑別できなかったとすれば、われわれには信頼すべき分析法がなく、すでに逃亡したアンドロイドを発見する手段がなくなる。また、もしきみの検査が、人間の受検者を抽出し、アンドロイドと判定した場合には――」ブライアントはそこで氷のような微笑をうかべた。「ちょっとやっかいなことになる。ただし、だれも――とりわけローゼン協会は――そのニュースを公表したがらないだろうがね。事実、無期限にそのニュースを握りつぶすこともできなくはない。もっとも、世界警察機構には当然通知しなくちゃならんし、むこうはそれをレニングラードへ報告するだろう。結局は新聞にすっぱぬかれ、こっちへはねかえってくる。だが、そのころには、もっとましな検査法が完成しているかもしれん」警視は受話器をとりあげた。「そろそろでかけるかね? じゃ、公用車を使って、ここのポンプで燃料を入れていきたまえ」
リックは立ちあがった。「デイヴ・ホールデンのメモを貸してもらえませんか? 行く道で読んでおきたいんですが」
「きみがシアトルで検査をすませるまで、そいつはお預けにしようじゃないか」
警視の口調が興味ぶかいまでに冷酷であることに、リック・デッカードは気づいていた。
シアトルのローゼン協会ビルの屋上に警察車を着陸させたリックは、若い女性の出迎えを受けた。黒い髪のほっそりした娘で、流行の大きな防塵メガネをかけており、派手な縞のロングコートのポケットに手をつっこんだまま、彼の車へ歩みよってきた。彫りの深い小さな顔には、険しい不機際な表情がうかんでいる。
「なにがお気にめさないんだね?」パークした車から降りてリックはいった。
娘は答をにごした。「さあ、なんでしょう。映話の相手のしゃべりかたが、気にくわなかったせいかしら。たいしたことじゃないわ」だしぬけに彼女は手をさしのべた。反射的にリックはその手を握った。
「わたし、レイチェル・ローゼン。あなたがデッカードさんね」
「この件はおれの発案じゃないんだ」
「ええ、ブライアント警視からもそう聞いたわ。でも、あなたはサンフランシスコ警察の代表者だし、警察は、わが社が公益に奉仕しているとは考えていないようだわ」
レイチェル・ローゼンは黒く長いまつ毛の奥から、じっと彼を見つめた。たぶん人工だろう
リックはいった。「人間型ロボットもほかの機械とおんなじだ。一歩まちがえば、公益から脅威へ早変わりする。それが公益であるうちは、警察の問題じゃない」
「でも、脅威になると、きっそく警察が介入するわけね」レイチェルがいった。「デッカードきん、あなたはほんとに|賞金かせぎ《バウンティ・ハンター》なの?」
リックは扇をすくめ、不承不承にうなずいた。
「アンドロイドを無生物だと考えて平気なのね。だから、“廃棄処理”とやらもできるんだわ」
「グループの選定はやってくれたのか? できれば、さっそく――」
リックは絶句した。とつぜん、たくさんの動物が目にはいったからである。
大企業なら、むろんこれぐらいのことをやってのける資力はあるわけだ、とリックはさとった。心の奥にもどうやらそんな期待があったらしい。だから、驚きというより、むしろ一種のあこがれが先に立っていた。リックは無言で女のそばを離れ、もよりの檻へ歩きだした。すでに動物の匂いがした。おそらく立ったり、すわったりしているだろう何種類かの動物の匂い。そこから見えるアライグマらしい動物は眠っていた。
生まれてこのかた、本物のアライグマなどにはいっぺんもお目にかかったことがない。テレビでやる3D映画で、名前を知っているだけだ。どういうわけか、この動物は、鳥類に劣らず死の灰の被害を強く受けた――いまでは、生きているものは皆無に近い。自動的反応で、リックはすりきれたシドニー礼の価格表をとりだし、アライグマの各項目を調べた。価格はもちろん斜字体で印刷されていた。ベルシュロン種の馬とおなじく、いまの市場にはまったく売り物が出ないのだ。シドニー社のリストには、最後に取引されたアライグマの値段が参考に記録されているだけだ。天文学的数字だった。
「ビルっていうの」うしろからレイチェルが教えた。「アライグマのビル。去年うちの子会社から買い入れたばかりよ」
レイチェルが指さすほうを見て、はじめてリックは武装した私設警備隊が機関銃を構えて立っているのに気づいた。スコダの計量速射型だ。警備員たちは、車が着陸したときからずっとリックを見張っていたらしい。しかも、と彼は思った――おれの車にでっかい警察の標識がついているのに。
「アンドロイド生産の大手が余剰資本を生きた動物に投資しているとはな」リックは感慨深げにいった。
「フクロウを見ない? そこよ、いま起こしてみたげる」
レイチェルは、ほかと離れた小さな檻のほうへむかった。檻の中央には、二股になった枯木がにゅっと突っ立っていた。
フクロウがいるわけはない――リックはそういおうとした。すくなくとも、そういう話だ。シドニー社のリストにも、フクロウは絶滅種と明記されている。小さいがはっきりしたEの文字(絶滅--extinclの略)は、カタログぜんたいにばらまかれている。レイチェルのあとにつづきながら、手もとのリストでたしかめてみたが、やはり思ったとおりだった。シドニー社のリストにまちがいのあったためしはない。それもたしかな事実だ。でなくて、ほかになにがたよれる?
「模造だ」とつぜんの認識が訪れた。鋭く強烈な失望がおそってきた。
「いいえ」
ほほえんだレイチェルは、ととのった小さい歯並みを見せた。瞳と髪が漆黒なように、それは純白だった。
「しかし、シドニー社のリストが――」リックはカタログを相手に見せようとした。証拠をつきつけるように。
「うちはシドニー社からも、動物店からも買わないのよ。購入先はぜんぶ個人で、買い値も公表しない」レイチェルは言葉をついで、「それに、専属の博物学者もいるわ。いまはカナダへ出張してるけど。あっちには、まだたくさんの森林が残っているのよ。すくなくとも、こっちに比べればね。小動物どころか、ときには小鳥まで見つかる」
かなりの時間、リックは止まり木でまどろんでいるフクロウに目を釘づけにしていた。数かぎりない想念が頭のなかに渦巻いた。戦争のこと、フクロクの群れが空から墜ちてきた日のこと。あれはまだ子供のころだった、さまざまな生物類があいついで絶滅していき、毎朝のように新聞がそれを報道したものだ――きょうはキッネ、明日はタヌキ、そしておしまいには、だれもがうんざりして、ひっきりなしの動物の死亡記事を読もうとしなくなった。
その想念の中には、本物の動物への切実な欲求もあった。電気羊への憎悪が、ふたたび心の中ではっきり形をとった。生き物そっくりに世話し、気をくばってやらなければならない。品物の分際で横暴だ、と思った。あいつはおれが存在していることも知らない。アンドロイドとおなじように、あいつにはほかの生き物を思いやる能力がない。リックはこれまで一度もこんなふうに電気動物とアンドロイドの類似を考えたことがなかった。電気動物はアンドロイドの亜形態、つまりきわめて下位のロボットの一種ともいえそうだ。逆にアンドロイドは、高度に発達した模造動物の一種とみなせる。どちらの観点もおぞましいものだった。
「もし、そのフクロウを売るとすると、値段と頭金はどれぐらいだね?」リックはレイチェルにたずねた。
「このフクロウは売らないわ」レイチェルは満足とあわれみのまじりあった目でリックを見た。すくなくとも、リックは相手の表情をそう解釈した。「それに、たとえ売り物だとしても、あなたに手のとどく値段じゃないでしょうし。あなたのお宅には、どんな動物がいるの?」
「羊だ。顔の黒い英国産の牝」
「そう、じゃあ恵まれてるのね」
「恵まれてるさ。ただ、むかしからフクロウがほしかったんだ。一羽残らず死んでしまう前から」いってから訂正した。「ここのをぺべつにしてだがね」
「わが社の緊急計画と総合プラニングでは、このスクラッピーと番《つが》わせるもう一羽のフクロクを手に入れることがぜひとも必要なの」
レイチェルは止まり木でまどろんでいるフクロウを指さした。鳥はつかのま両眼をひらいたが、ふたたび眠りに落ちるにつれて、その黄色い裂け目は傷口が癒えるようにくっついていった。眠りかけたフクロウがまるでため息をついたように、胸が大きく波打っている。
その光景から目をひき離して――それを見ていると、最初の畏怖と憧憬の反応になんともいえない苦い思いがまじるのだ――リックはいった。
「そろそろ、受検者のテストをはじめたいんだがね。階下へ降りようか?」
「叔父があなたの上司からの映話をひきとったから、たぶんもう準備が――」
「家族でやってるのか?」と、リックは口をはさんだ。「こんな大企業が同族経営?」
レイチェルは言葉をつづけた。「エルドン叔父が、たぶんもうアンドロイドのグループと対照グループを準備しているはずよ。行きましょう」
レイチェルはふたたびコートのポケットへ乱暴に両手をつっこむと、すたすた歩きだした。ふりかえりもしない。気分を害したリックはしばらくためらってから、そのあとを追った。
「なにか、おれに恨みでもあるのかね?」下りエレベーターの中で、彼はたずねた。
それには気がつかなかったとでもいうように、レイチェルはしばらく考えてから、「あなたという下級警察官は、いまユニークな立場におかれているわけよ。この意味がおわかり?」
悪意のこもった横目で、被女はちらとリックをうかがった。
「最近の製品の何パーセントが、ネクサス6型を備えたタイプなんだ?」
「ぜんぶ」とレイチェル。
「フォークト=カンプフ検査法が彼らにも有効だってことに、おれは自信がある」
「だけど、もし有効でなかったら、わが社は、ネクサス6型をぜんぶ市場から回収しなくちゃならないのよ」黒い瞳が燃えあがった。エレベーターが下降をやめ、ドアがするりと開くまで、レイチェルは彼をにらみつけていた。「無能な警察が、逃亡したわずかな数のネクサス6翌を発見するだけの簡単な仕事さえできないおかげで――」
粋な着こなしをした、痩せぎすの初老の男が、手をさしのべながらふたりに近つてきた。男の顔には、最近のやつぎばやな事件の進展にはうんざりだといいたげな悩みの色があった。「エルドン・ローゼンです」リックと握手しながら、男はいった。「なあ、デッカード君、わが社が地球で生産をやっていないのは、きみも知っているだろうが? 映話一本で、工場からひとそろいのサンプルをとりよせるわけにはいかんのだよ。警察に協力するのがいやだとか、する気がないとか、いってるんじゃない。とにかく、わたしとしてはベストをつくしたがね」ぶるぶる震える左手が、薄くなりかけた頭髪のあいだをさまよっていた。
警察カバンを指さして、リックはいった。「すぐにはじめましょう」
叔父のローゼンの不安そうなようすが、逆にリックの自信をかきたてた。この連中はおれを恐れている、とふいに気づいたのである。レイチェル・ローゼンも含めてだ。ひょっとすると、このおれ[#「おれ」に傍点]がネクサス6型の生産を中止に持っていけるかもしれない。これから一時間のおれの行動が、彼らの事業の全体に大きく影響する。合衆国とソ連と火星とにまたがったローゼン協会の運命を左右することさえありうる。
ローゼン家のふたりは気づかわしそうに彼を見つめているが、リックは相手の挙動のむなしさを感じた。ここへきたことで、自分はこの一家に真空を、財政的死の空白と静寂を持ちこんだ。むこうは法外な権力を握っている。この企業は太陽系全産業のひとつの夢と見なされている。アンドロイドの生産と惑星植民事業はあまりにも密接に関係しているため、もし一方が崩壊すれば、もう一方もやがてそうならざるをえない。ローゼン協会は、むろんそのことを百も承知た。ハリイ・ブライアントの連絡を受けてから、エルドン・ローゼンは、おそらくずっとその間題を考えつづけていたにちがいない。
「まあ心配はおよしなさい」こうこうと照明された廊下をローゼン家のふたりに案内されながら、リックはそういった。心のなかに静かな満足があった。記憶にあるなににもまして、これは小気味よい瞬間だった。そう、まもなくこの三人にもそれがわかるだろう――この検査器具にどんな芸当ができるかが――そしてできないかが。
「もし、おたくがフォークト=カンプフ検査法を信頼しないのなら、それに代わるテストを企業独自で完成しておくべきだった。責任の一半は企業にあるという論法も成り立ちますよ。あ、どうも」
ローゼン家のふたりが、リックを廊下から居間風のしゃれた小部匿へ招じ入れたのだ。カーペット、スタンド、カウチ、そしてモダンな脇テーブルの上には近刊の雑誌類……その中に、まだ見たことのない、シドニー社カタログの二月版が目にとまった。事実、二月版は、あと三日しないと発行にならないはずだ。どうやらローゼン協会はシドニー社と特別な関係にあるらしい。
むかついた気分で、リックはそのカタログを手にとった。「これは公的利益の侵害ですな。価格変更の情報を事前に入手することは禁じられているはずです」事実連邦法違反に該当するかもしれない。関係法規を思いだそうとしたが、出てこなかった。「没収させてもらいますよ」そういうなり、カバンをあけて二月版を中に落としこんだ。
しばらく沈黙がおりてから、エルドン・ローゼンが疲れた声でいった。「ねえ、刑事さん、わが社としてはそういう意志は毛頭――」
「刑事じゃない。賞金かせぎです」
リックはあけたカバンからフォークト=カンプフの検査器具をとりだし、そばにあった紫檀のコーヒーテーブルの上で簡単なポリグラフを組み立てはじめた。
「最初の受検者を連れてきてください」リックはいちだんと憔悴した顔になったエルドン・ローゼンをうながした。
「見学させてほしいわ」レイチェルが椅子にすわりながらいった。
「感情移入度検査なんて、実地に見たことがないから。そこにあなたが持っているのはなんの検査器具?」
「これで――」リックはリード線のついた小さな接着用円盤を上にかざして、「――顔面毛細血管の拡張度を測定する。自律神経の一次反応といわれるもののひとつで、平たくいえば、道徳的にショッキングな刺激に対する、“恥ずかしさ”とかか“赤面”の反射運動だ。これは、皮膚の伝導性や、呼吸や、脈搏とおなじように、随意に制御できない」もうひとつの器具であるペンシル・ビームの光源を見せて、「こっちは、眼筋の緊張の変動を記録する。たいていの場合、赤面現象と同時に、眼筋にもわずかだが探知できるだけの変化が――」
「そして、アンドロイドにはそれがないわけね」とレイチェル。
「刺激質問では生じてこないね、たしかに。ただし、生物学的には存在する。潜在的には」
レイチェルはいった。「わたしをテストして」
「なぜ?」リックはめんくらってききかえした。
エルドン・ローセンが、かすれた声で口をきった。「われわれの選んだ最初の受検者が彼女なんだよ。レイチェルはアンドロイドかもしれんというわけだ。むろん、きみには判定がつくと思うがね」
エルドンはぎごちない動作の連続で着席すると、タバコをとりだし、火をつけてじっと見つめた。
[#改丁]
5
細い白色光のビームがレイチェル・ローゼンの左目を照らし、頬には細かい金網でできた円盤がくっついている。彼女は平静なようすだった。
リック・デッカードは、フォークト=カンプフ検査器具のふたつの計器が見える位置にすわると、要事を説明した。「いまから社会的状況の例をいくつかあげる。そのおのおのに対するきみの反応を、できるだけ早く言葉で表現してほしい。もちろん、所要時間も測定する」
「それにもちろん」とレイチェルはひとりごとのようにいった。「わたしの口頭の答は問題外ってわけね。あなたが指標にとりあげるのは、眼筋と毛綱血管の反応だけでしょ? でも、答えてあげる。とにかくやってみれば、これがどんなに――」そこで言葉を切って、「はじめなさい、デッカードさん」
リックは質問のナンバー3をえらんだ。「きみは誕生日の贈り物に子牛革の札入れをもらった」とたんにふたつの計器の針が、緑を超えて赤に達した。激しく振れた針はしばらくしてもとにもどった。
「ぜったいに受けとらないわ」とレイチェル。「そんなものをくれる人は警察へ報告します」
所見を走り書きしてから、リックはつぎに移った。フォークト=カンプフ性格特性テストの第八間。
「きみには坊やがいる。その子が、きみに蝶のコレクションと殺虫瓶を見せた」
「すぐお医者へ連れていくわ」レイチェルの声は、低いがきっぱりとしていた。ふたたびふたつの指針が振れたが、こんどは前ほど極端でない。リックはそれもメモした。
「きみはすわってテレビを見ている」リックはつづけた。「とつぜん、手首をスズメバチが這っているのに気がついた」
「殺すわ」計器面には、こんどはほとんど反応がなかった。つかのま、かすかに針がふるえただけである。リックはそれを書きとめてから、慎重につぎの質問をえらんだ。
「雑誌を読んでいたきみは、見ひらきになった女のカラー・ヌード写真にでくわした」
「いったい、これはなんのテストなの?」レイチェルは辛辣にききかえした。「アンドロイドのテスト? それとも、レズビアンのテスト?」計器の反応はなかった。
リックはつづけた。「きみの夫はその写真が気にいったようだ」やはり、計器はなんの反応も示さない。彼はつけたした。「ヌードの女はうつぶせになって、大きな美しい熊皮の敷物に寝そべっている」計器が静止したままなのを見て、リックは思った。アンドロイド的反応だ。
死んだ動物の毛皮という、かんじんの点に気づいていない。彼女――いや、それ――は、ほかの要素に気をとられているのだ。「きみの夫は、その写真を書斎の壁に飾った」
リックがいいおわると、こんどは針が動いた。
「そんなことをしたら、だまっていないわ」とレイチェル。
「よし」リックはうなずいて、「じゃ、こんどはこれだ。きみは戦前に書かれた小説を読んでいる。その本の登場人物たちはサンフランシスコのフィッシャーマンズ・ワーフを訪れ、空腹を感じたのでシーフードのレストランにはいった。ひとりがエビを注文し、コックは客の目の前で大釜の熱湯の中にエビをほうりこんだ」
「まあ、なんてひどいことを! むかしはほんとにそんなことをやったの? 堕落の極致ね! 生きた[#「生きた」に傍点]エビですって?」
しかし、針は動かなかった。表面的には正しい反応だ。だが、それらしいお芝居にすぎない。
「きみは山小屋を借りた。あたりはまだ緑におおわれた地域だ。田舎風の小屋は松の丸太作りで、大きな暖炉がある」
「それで?」レイチェルはいらだたしげにうなずきながらいった。
「壁にはだれかのかけた古地図や、カリアー・アンド・アイヴズ(一八三五年に創設された石版印刷の会社でアメリカの歴史風俗などの版画を出した)の石版画があり、暖炉の上には鹿の頭が飾られている。みごとな角を生やした牡鹿だ。きみの仲間たちはその内装をほめそやし、そしてみんなで――」
「鹿の頭なんてまっぴら」とレイチェルがいった。しかし、針の振幅は緑の範囲内だった。
「きみは」とリックはつづけた。「結婚を約束した男の子供を身ごもった。だがその男は、きみの無二の親友である女と駆け落ちしてしまった。きみは中絶手術を受けて――」
「中絶手術なんて、ぜったいに受けないわ」とレイチェル。「どのみち、むりでもあるしね。警察がいつも監視してるし、見つかれば無期懲役ですもの」
「なんでそこまで知ってるんだ?」リックはふしぎそうにきいた。「中絶手術を受けるのがむずかしいことを?」
「常識だわ」とレイチェル。
「個人的体験から話してるみたいだったぜ」リックは計器に神経を集中した。二本の針は、まだ目盛りの上で大きく振りきったままだ。「もうひとつ。きみはある男性とデートし、彼はきみをアパートへ誘った。ふたりきりになると、彼はきみに飲み物をすすめた。きみがグラスを手に立っていると、寝室の中が見えた。気のきいた内装で、何枚かの闘牛のポスターがあしらってあり、きみはつい見たくなってふらふらと中にはいった。彼はきみのあとを迫ってきて、ドアを閉めた。それからきみを抱きよせ、ささやくように――」
「闘牛のポスターつて?」
「絵だよ。たいていはカラー印刷の大判で、ケープを持った闘牛士と、被を突き殺そうとする牡牛が描かれている」リックは当惑した気持で、「きみはいくつ?」とたずねた。年齢もひとつの因子だろう。
「十八」とレイチェル。「つづけましょう。それで、その男はドアを閉めて、わたしを抱きよせたのね。それから、なんといったの?」
リックはいった。「闘牛がどんなふうに終わるかを知ってるかい?」
「だれかがけがをするわけ?」
「いつも牡牛が殺されて終わるんだ」リックはふたつの計器を見まもりながら待った。針はおちつかなげにふるえているだけだった。事実上、示度はないのも同然だ。「では、最後の質問。二部に分かれた質問だ。きみはテレビで、むかしの映画――戦前に製作された映画を見ている。画面では宴会がはじまった。客たちはうまそうに生ガキを食べている」
「おえっ」とレイナェル。針が大きく振れた。
「主料理《アントレー》は、ライスの詰め物をした犬の丸煮だ」こんどは、生ガキのときより針の振れが小さかった。「生ガキのほうが犬の丸煮よりはましだと思うがね。その逆らしいな」
彼は鉛筆をおき、ライトを消し、レイチェルの頬から円盤をはずした。
「きみはアンドロイドだ。テストの判定はそう出た」リックは、彼女――またはそれ[#「それ」に傍点]――と、不安そうに成り行きを見まもっているエルドン・ローゼンの前でいいきった。「そのとおりだ、ちがうかね?」
どちらのローゼンも答えない。リックはかんでふくめるようにいった。
「いいですか、われわれの利害はべつに衝突するわけじゃない。フォークト=カンプフ検査が有効であってくれることは、おたくにとってもこっちとおなじぐらい重要なんです」
エルドンがいった。「レイチェルはアンドロイドじゃないよ」
「信じられませんな」とリック。
「叔父がどうして嘘をいうのよ?」レイチェルはリックに食ってかかった。「かりに嘘をつくなら、その逆をいうはずだわ」
「じゃ、きみの骨髄分析をさせてほしい。そうすれば、きみがアンドロイドであるかないかを有機的に判定できる。時間のかかる苦痛な検査だが、このさい――」
「法律的には、骨髄分析の強要はできないはずよ。判例でもそうなっているわ――自己負罪の拒否特権で。それに、生きた人間が相手では、処理ずみのアンドロイドの死体とちがって、すごく手間どるわ。さっきのばかばかしいフォークト=カンプフ検査だって、特殊者がいるからまかりとおっているようなもんじゃない。彼らをしょっちゅうテストする必要があるので、政府がそれをやってるうちに、警察がフォークト=カンプフ検査をすんなり滑りこませてしまった。でも、あなたがさっきいったとおりだわ。テストはもうこれでおしまい」
レイチェルは立ちあがって何歩か歩くと、そこで腰に手をあて、彼に背中を向けた。
「問題は骨髄分析の合法性じゃない」エルドン・ローゼンが、かすれ声でいった。「それよりも、わたしの姪に対して、きみたちの感情移入度検査が失敗したことが重大だ。なぜ姪がアンドロイドなみの得点しかとれなかったかは、説明がつく。レイチェルは宇宙船サランダー3号の中で育った。生まれたのも船内だった。十八歳のうちの十四年間、地球に関する知識を船内のテープ・ライプラリーと、ほかの九人の乗員――おとなばかり――から得ていた。その後、きみもご存じと思うが、あの宇宙船はプロキシマへの行程の六分の一を消化したところで帰還することになった。でなければ、レイチェルは一度も地球を見ることができなかったろう――すくなくとも後半生にならなければ」
「ことによったら、わたしは処理されたかもしれないのよ」レイチェルが背を向けたままでいった。「警察の非常線にひっかかれば、わたしは殺されたかもしれない。四年前にここへきたときから、それはわかっていたわ。フォークト=カンプフ検査を受けたのは、これがはじめてじゃない。正直いって、わたしはこのビルからめったに外へ出ないわ。警察の道路封鎖や飛行検問点があって、すごく危険だから。ほら、未登録の特殊者を綱にかけるための」
「それとアンドロイドをな」エルドン・ローゼンが口をはさんだ。「むろん、大衆はなにも知らされてないがね。アンドロイドがこの地球でわれわれにまじって暮らしていることを、大衆は夢にも知らない」
「それはどうですかな」とリック。「ここでもソ連でも、各警察組織がアンドロイドを残らず処理していますからね。なにしろ、人口そのものがすくない。だれでも、遅かれ早かれ、どこかの検問点にひっかかる理屈ですよ」すくなくとも警察はそう考えている。
エルドン・ローゼンがたずねた。「もし、人間を誤ってアンドロイドと判定した場合は、どうするように指図されているんだね?」
「それは警察部内の問題です」
リックは検査器具をカバンにしまいはじめた。ローゼン家のふたりは、無言でそれを見まもっている。思いついたようにリックはいった。
「ただひとつはっきりしているのは、ごらんのようにあとのテストを中止すること。一度失敗した以上、もうつづける意味はないですからね」いきおいよくカバンのファスナーをしめた。「あなたをだまそうと思えば、そうできたのよ」レイチェルがいった。「あなたがわたしのテストに失敗したことを、べつに教える必要はなかったんだもの。わたしたちがえらんだほかの九人の受検者についても、それはいえるわ」大きく身ぶりして、「テストの結果がどっちへころんでも、だまって調子を合わせていればよかったのよ」
「だが、こっちはその前にリストの提出を要求しただろうね。封印した封筒に入れた内訳表を。そして、テストの結果と一致するかどうかを調べる。当然一致するはずだ」
だが、たとえそうしてもだめだったわけだ、どリックはさとった。やはりブライアントが正しかった。このテストにもとづいてアンドロイド狩りに行ってたら、目もあてられない。
「そう。きみにはそういう手もあったわけだ」エルドン・ローゼンはうずいて、ちらとレイチェルをうかがい、そしてレイチェルもうなずきかえした。「われわれも、その可能性は検討したよ」エルドンはしぶしぶ告白した。
リックはいった。「この間題は、もとはといえば、おたくの経営方法の副産物ですよ、ローゼンさん。だれも、あなたの社にここまで精巧な人間型ロボットを作れと強制したわけでは――」
「わが社は、移民の要求するものを作っただけの話さ」エルドンがいった。「あらゆる営利事業の基本である、古来の原則にしたがったまでだ。かりにわが社が、あのように進歩した、人間に近いタイプを作りあげなくても、はかの同業者がきっとそうしただろう。ネクサス6型を開発したときも、わが社がどんな危険を冒しているかは、充分に認識していた。だが、きみたち愛用のフォークト=カンプフ検査法は、あの型のアンドロイドが発表される以前の時点ですでに無効だった[#「フォークト=カンプフ検査法は、あの型のアンドロイドが発表される以前の時点ですでに無効だった」に傍点]。ネクサス6型アンドロイドをアンドロイドと識別できなかった、つまり、それを人間と誤認したというならまだしも――事実は逆だからね」エルドン・ローゼンの声は鋭く辛辣なものになっていた。「きみの所属する警察は――よその警察もそうだが――ここにいる姪のように感情移入能力の未発達な人間を、これまでに何人も誤殺しているかもしれん。いや、その可能性は多分にある。デッカード君、道義的責任をうんぬんされるのは、われわれでなく、むしろきみたちのほうだぞ」
「逆にいうと」とリックは鋭くやりかえした。「こっちはネクサス6型をテストするチャンスを与えてもらえなかった。その前に、おたくはこの分裂病質の娘をわざと押しつけてきた」
そして、とリックは思った。おれのテストはみごとに失敗した。ひっかかったこっちがトンマだ。しかし、いまさら悔んでもおそい。
「あなたはしてやられたのよ、デッカードさん」
レイチェル・ロlゼンが、静かなおちついた声でいった。それから彼にむきなおって、ニッとほほえんでみせた。
ローゼン協会が、どうしてああもやすやすと自分を罠にかけることができたのか――リックにはまだそれが腑に落ちなかった。エキスパートだ――やっとそう気づいた。こういうマンモス企業は、おびただしい経験の蓄積がある。事実、一種の集団心《グループ・マインド》を持っているともいえる。エルドンとレイチェル・ローゼンは、その共同思考体の代弁者なのだ。明らかに自分の失敗は、このふたりをたんなる個人と見くびったことにあった。二度とこんな失敗はくりかえすまい。
「きみの上司のブライアント氏は」とエルドン・ローゼンがいった。「きっと理解に苦しむだろうな。どうしてきみがろくにテストをはじめないうちから、その無効性を立証されてしまったのかを」
エルドンは天井を指さし、はじめてリックはそこにカメラのレンズがあるのに気づいた。ローゼン協会での大失態は、すっかりフィルムにおさめられていたのだ。
「とにかく、もう一度腰をかけないかね」とエルドンは如才なくすすめた。「なにかの善後策はあるよ、デッカード君。心配はいらん。ネクサス6型アンドロイドは、ひとつの厳然たる事実だ。ローゼン協会はそう認識しているし、いまではきみもそう認識したにちがいない」
レイチェルが、リックのほうへ体を乗りだした。「あなた、フクロウを飼いたくない?」
「フクロウなんて一生飼えやしないさ」
しかし、相手がなにをいいたいのかはわかっていた。ローゼン協会がどんな取引をしたがっているのかは理解できた。生まれてはじめて感じるたぐいの緊張が、体の中に出現した。それは体内のありとあらゆる部分で、ゆっくりと破裂した。その緊張が――いまなにが起こりつつあるかの認識が――全身を乗っとるのが感じられた。
「だが、きみはフクロウをほしがっていたんだろう?」エルドン・ローゼンは、ちらと物問いたげな視線を姪にむけた。「どうも、この人にはまだよくわかってないようだよ――」
「もちろん、わかってますわ」レイチェルが異議を唱えた。「デッカードさんはこの話の行き着く先をちゃんとご存じよ。ねえ、そうでしょ?」
もう一度レイチェルは身を乗りだしてきた。さっきよりそばまで。おだやかな香水の匂いが漂い、肌のぬくもりまでが感じられるように思えた。
「あともう一歩なのよ、デッカードさん。あなたはもうフクロウを手に入れたようなものだわ」叔父をふりかえると、「彼は賞金かせぎなの、おぼえてるでしょう? だから、固定給でなく、懸賞金で暮らしてるわけ。そうね、デッカードさん?」
リックはうなずいた。
「こんど脱走してきたアンドロイドは何人?」とレイチェル。
「八人だ。最初はね。そのうちふたりはすでに廃棄処理された。おれじゃなく、べつの男に」
「アンドロイドひとりについて、いくら賞金がもらえるの?」
彼は肩をすくめた。「いろいろさ」
「もし、有効な検査法がなければ、アンドロイドを識別しようがないわ。アンドロイドの識別ができなければ、懸賞金も手にはいらない。だから、もしフォークト=カンプフ検査法が廃止ときまれば――」
「新しい検査法がとって代わるさ」とリックはいった。「前例はある」
正確にいうと、前例は三度ある。だがこれまでは、新しい検査法、より進歩した分析方法が、そのときすでに存在していた。今回はちがう。
「もちろん、いずれはフォークト=カンプフ検査法も時代おくれのものになるわ」レイチェルはうなずいた。「でも、いまはまだそうじゃない。わたしたちは、その検査法でネクサス6型をりっぱに識別できることが納得できたのよ。だから、あなたもその検査法にしたがって、風変わりないまのお仕事をつづけていただきたいの」
かたく腕組みして、体を前後に揺すぶりながら、レイチェルはリックの顔をじっと見つめた。彼の反応をおしはかろうとでもいうように。
「なんならフクロウをさしあげる、といいなさい」エルドン・ローゼンがぎらついた声でいった。
「なんならフクロウをさしあげるわ」レイチェルは凝視をつづけながらいった。「屋上にいる、あのスクラッピーを。でも、もしわが社が雄を手に入れたら、あれと番わせたいわ。そして、生まれた雛はこちらにいただく。その条件だけは、ぜひとも承諾してもらわないと」
リックはいった。「孵った雛を二等分しよう」
「だめ」レイチェルは言下に撥ねつけた。その後押しをするように、エルドン・ローゼンがうしろでかぶりを振った。「それだと、あなたが世界唯一のフクロウの血統の所有権を未来永劫に持つことになるもの。それから、もうひとつ条件があるのよ。あなたはだれにも自分のフクロウを遺贈できない。あなたが死んだ場合、あれの所有権はわが社に復帰する」
「それじゃ、まるでおれを殺してくれと招待をかけてるようなもんだ。きみたちはすぐにフクロウをとりかえそうとするだろう。そいつは承諾できんね。剣呑でいけない」
「あなたは賞金かせぎよ」とレイチェル。「レーザー銃はお手のもののはず――事実、いまだって身につけてるでしょう? 自分のいのちを守ることもできなくて、どうやって残った六人のネクサス6型アンドロイドを廃棄処理するつもり? グロッツィ産業の旧式なW4型より、すっとずっと利口なのよ」
「しかし、こっちはやつらを狩る立場だ」とリック。「きみのいうようにフクロウの復帰条項を承認した場合、こんどはおれが狩られる立場になる」
だれかにこっそりつけ狙われるなんて、おことわりだ。その効果は、アンドロイドでもういやというほど実例を見ている。アンドロイドにさえ、それは顕著な変化をもたらす。
レイチェルがいった。「わかったわ。その条件は譲歩しましょう。でも、孵った雛だけは、どうしてもこちらへいただく。もし、それがいやなら、サンフランシスコへ帰って上司に報告なさい。フォークト=カンプフ検査法は、すくなくともあなたが施行したかぎりでは、人間とアンディーを区別できなかった、と。そして、なにかべつの職業をきがすのね」
「すこし考える時間をくれ」とリック。
「ええ、いいわ。わたしたちは席をはずします。あなたはここのほうが落ちつくでしょう?」レイチェルは腕時計を見た。
「じゃ、半時間」とエルドン・ローゼンがいった。
ふたりは無言でドアのほうへ歩いていく。むこうはいうだけのことをいいおわったんだ、とリックは思った。あとは、おれがどうするかだ。
レイチェルが叔父のあとから部員を出てドアを閉めかけたとき、リックはひらきなおった口調でいった。
「おれはみごとに罠にはまった。きみたちは、おれがテストに失敗したのをちゃんと記録にとった。きみたちは、おれの仕事がフォークト=カンプフ検査法にたよりっきりなのも、ちゃんと心得ている。おまけに、あのいまいましいフクロウまで持ってやがるんだ」
「あら、あれはあなたのフクロウよ」とレイチェル。「でしょう? あれの脚にあなたのアドレスをつけて、サンフランシスコへ空輸してあげるわ。勤めがひけたあとで、あれを引きとれるように」
|あれ《イット》、か――とリックは思った。レイチェルは、フクコウのことをいつもあれ[#「あれ」に傍点]といっている。ふつうなら彼女《ハー》というはずだ。
「ちょっと待った」
ドアのそばで立ちどまったレイチェルがいった。「決心がついた?」
「その前に」と、リックはカバンをひらきながら、「もうひとつだけ、きみにフォークト=カンプフ検査の質問をしたい。もう一度すわってくれ」
レイチェルは叔父に目顔で判断をもとめた。エルドンがうなずいたので、彼女はしぶしぶ部屋にもどって、さっきのように着席した。
「なんのつもり?」
レイチェルは眉を不快そうに――そして警戒するように――上げて詰問した。リックは彼女の全身の緊張を感じとり、職業的にそれを心にとどめた。
まもなくリックはペンシル・ビームをレイチェルの左眼にあて、接着円盤をもう一度その頬に貼りおわった。彼女はまだ露骨に不機嫌な顔をしながら、じっとライトを見つめている。
「このカバン、しゃれてるだろう?」リックはフォークト=カンプフ検査の用紙をとりだしながらいった。「官給品なんだよ」
「それはそれは」レイチェルは気のりしない口調で答えた。
一赤ん坊の生皮なのさ」カバンの黒い革の表面をさすりながら、リックはいった。「正真正銘の人間の赤ん坊の生皮」
ふたつの計器の指針が、くるったように振れた。しかし、その前に一瞬の間があった。反応は現われたが、時すでに遅い。リックは反応時間を十分の一秒単位でおぼえている――正常な反応時間を。こんどのそれはゼロであるべきはずだ。
「ありがとう、ミス・ローゼン」それだけいうと、リックは検査器具をしまいはじめた。再検査の結論は出た。「テストはすんだよ」
「帰るの?」レイチェルがきいた。
「そうだ。満足がいったからね」
さぐるように、レイチェルはいった。「ほかの九人の受検者は?」
「この検査法はきみの識別に成功した。そこからこう外挿できる――この検査法は明らかにまだ有効だ」ドアのそばで悄然と立っているエルドン・ローゼンに、彼はたずねた。「彼女は知ってるんですか?」
ときには、本人が知らない場合もある。それによってテストへの反応が変わるだろうという誤解から偽の記憶を植えつけた実例が、これまでにいくつかあるのだ。
エルドン・ローゼンが答えた。「いや、彼女へのプログラムは完璧だからね。だが、おしまいのほうでは本人も気づいたんじゃないかな」レイチェルにむかって、「彼がテストのやり直しをもとめたとき、だいたい想像はついたろう?」
青ざめた顔で、レイチェルはぼんやりとうなずいた。
「彼をこわがらなくてもいい」エルドン・ローゼンはレイチェルにいいきかせた。「おまえは法律を破って地球へきた逃亡アンドロイドとはちがう。移民勧誘用に使われている、ローゼン協会の私有財産だからね」
エルドンはレイチェルのそばへ歩みよって、いたわるようにその肩に手をおいた。手が触れた瞬間、彼女はびくっと体をすくませた。
リックはいった。「彼のいうとおりだ。おれはきみを処理する気はないよ、ミス・ローゼン。おじゃました」
ドアのほうへ足を運びかけて、ふと足をとめた。「あのフクロウは本物?」とふたりにたずねた。
レイチェルは、エルドンの顔をすばやくうかがった。
「どのみち、彼は帰るところだ」とエルドンがいった。「教えてもさしつかえはあるまい。あのフクロウは模造だよ。フクロウは一羽もいない」
「フム」
リックはつぶやいて、ぼんやりと廊下へ出た。ふたりは彼を見送っている。双方とも無言だった。いうべきことは、もうなにもない。これが世界最大のアンドロイド・メーカーのやりくちなのか、とリックは思った。遠まわしな、これまでにでくわしたことのないやりくち。奇妙でこみいった新しい性格タイプ。法執行機関がネクサス6型に手を焼くのもむりはない。
ネクサス6型。いまはじめてそれに対決したわけだ。レイチェルがそれだ。彼女はネクサス6型にちがいない[#「彼女はネクサス6型にちがいない」に傍点]。おれは、そのひとりにはじめてお目にかかった。そして、むこうはもうすこしで成功するところだった。もうひと息で、フォークト=カンプフ検査法、われわれの持つ唯一のアンドロイド識別法を、土台からゆるがすところまでいった。ローゼン協会は、自社製品を保護しようと、あざやかな手なみを見せてくれた――たとえ、結果が失敗だったにしても。
そして、おれはこれからその型のアンドロイドを六人も相手にしなくちゃならないんた、とリックは考えた。でないと、仕事は終わらない。
おれはぜがひでも懸賞金を稼いでみせる。最後の一セントまで。
ただし、最後までいのちがあったとしてだが。
[#改丁]
6
テレビがワーンと鳴った。がらんとした巨大なビルのほこりだらけの階段を降りながら、ジョン・イジドアは耳なれたバスター・フレンドリーの声が、全太陽系の視聴者相手にごきげんでしゃべりまくっているのを聞きとった。
「――ホツホー、みなさん! チンコカン! あしたのお天気のお時間。まず、合衆国東海岸地方。マングース衛星からの報告によりますと、放射性降下物は正午前後にもっとも強まり、のち、しだいに衰える見込み。だから、外出されるみなきんは、午後までお待ちになったほうがいいんじゃない? ところで、待つといえば、あと十時間で例の大ニュース、この番組のすっぱぬき特集のはじまり! みんな、かならず見てよ! あっと驚くものを見せるから。てなことをいうと、ああまたいつものセリフだ、なんて思うやつがいたりして――」
イジドアがそのアパートのドアをノックしたとたん、テレビの音がばったりとだえたむただ静かになっただけではない。彼のノックにおびえて存在をやめ、墓の下にもぐってしまった。
閉ざされたドアの背後にテレビとはべつの生命が存在するのを、イジドアは感じとった。神経を集中すると、あとずきりしていくだれか、彼から逃れようと奥の壁にぴったり身を寄せただれかのとりつかれたような無言の恐怖が浮かびあがるというか、キャッチできた。
「おーい」とイジドアは呼びかけた。「ぼくはこの上に住んでるんだ。おたくのテレビがきこえてね。顔出してよ。いいだろう?」耳をすませて待った。なんの物音も気配もない。彼の言葉ぐらいでは、相手は動かされなかったのだ。「マーガリンを持ってきてあげたよ」声をむこうへ届かせようと、厚いドアへ顔をくっつけた。「ぼくはJ・R・イジドア。ハンニバル・スロートさんの有名な動物病院につとめてる。ほら、知ってるだろう? ぼくは怪しいもんじゃないよ。仕事も持ってる。スロートさんのトラックの運転手なんだ」
ドアがほんのすこし開き、そのむこうに、こわれ、ゆがみ、縮かんだような人影が見えた。ひとりの若い女が身をすくませ、逃げようとしながらも、まるでそれを放せば立っていられないように、ドアにしがみついている。恐怖が、彼女を病人のように見せていた。恐怖にゆがんだ体の線は、まるでだれかがいったん彼女の肉体をばらばらにしてから、わざとそれをぶざまに継ぎ合わせた感じだった。むりに微笑を作ろうとしている顔の中で、異様に大きい瞳があらぬかたをどんよりと見つめていた。
イジドアはふいに理解した。「この建物にだれもいないと思ったんだね? 空家だと思ったんだね?」
うなずきながら、若い女は消えいるような声でいった。「ええ」
「だけど」とイジドアロ「お隣。がいるってのはいいもんだよ。ほんとさ、きみがくるをはぼくもひとりばっちだったんだから」それがどんなにつらいことかは、神さまだけが知っている。
「この建物には、あなたしかいないの? わたしのほかには?」若い女はさっきほど臆病ではなくなった。しゃんとした姿勢になって、黒い髪の乱れを直した。小柄だがすてきな体と、黒く長いまつ毛で縁どられたすてきな瞳の持ち主だった。あわてて出てきたらしく、パジャマのズボンのほかはなにも身につけていない。目をそらしたイジドアは、部屋がひどく散らかっているのに気づいた。蓋をあけたままのスーツケースが、ほうほうにはうりだしてあり、ごみだらけの床に中身がはみだしている。しかし、それもむりはない。引っ越してきたばかりなのだから。
「きみのほかは、ぼくだけだよ。それに、ぼくもきみのじゃまはしない」
イジドアは失望を感じていた。戦前の古式ゆかしい手みやげを、相手が受けとってくれなかったからである。というより、むこうは全然それに気づいていない。いや、ひょっとすると、マーガリンの使いみちを知らないのかもしれない。直感だがそう思える。相手は途方に暮れたようすだ。やっと恐怖の深みから脱け出て、しだいに引いていくその渦のなかで、たよりなく漂っているように見える。
「バスターはおもしろいよね」相手の緊張をほぐそうと、イジドアは話題を変えてみた。「きみも好き? ぼくは毎朝見てるし、仕事から帰ると毎晩見るんだ。夕食のときも見るし、それから寝る時間までやつの深夜番組を見る。とにかく、テレビがこわれるまではそうだったよ」
「だれを――」女はいいかけて急に口をつぐみ、いまいましそうに唇をかんだ。自分自身に腹を立てているようだ。
「バスター・レンドリーだよ」とイジドアは教えた。地球のだれよりも腹の皮をよじらせてくれるテレビのコメディアンを知らないとは、ふしぎに思えた。「どこからきたの?」好奇心にかられてたずねた。
「そんなこと、あなたに関係ないでしょ」彼女はちらとイジドアをうかがった。そこになにかを見て、懸念がやわらいだらしい。それとわかるほど、緊張がほぐれた。「ここがある程度かたづいたら、そのときはまたおつきあいさせていただくわ。いまはもちろん問題外よ」
「どうして問題外?」
イジドアはめんくらっていた。この娘のやることなすことにめんくらうばかりだ。たぶん、こっちが長いことひとりっきりで暮らしすぎたせいだろう、と彼は思った。だから、調子がくるっちまったんだ。だから、ピンボケっていわれるんだ。そう考えると、いっそう憂鬱になった。
「荷ほどきを手伝おうか」イジドアはおそるおそる申し出てみた。ドアは彼の鼻さきでまさに閉じられようとしている。「家具の据えつけも」
「家具は持ってこなかったわ。そこのはぜんぶ――」と奥の部屋を手で示して、「――はじめからここにあったものなの」
「あれじゃだめだ」とイジドアはいった。
ちょっと見ただけでもわかる。椅子、カーペット、テーブル――どれもこれもぽろぽろに腐っている。時の暴力、そして荒廃の暴力の餌食になって、共同の廃墟の中に崩れ落ちようとしている。このビルにだれも住まなくなってから、もう何年にもなる。廃墟は完成の一歩手前まできている。そんな環境の中で、どうやってこの娘が暮らしていくつもりなのかは見当もつかない。
「ねえ」とイジドアは熱心にいった。「ふたりでこのビルの中をさがせば、たぶんこんなにぼろぼろじゃないのが見つかるよ。こっちの部屋でスタンド、あっちの部屋でテーブルというふうにさ」
「わたしがやるわ、ひとりでね。せっかくだけど」
「そこらの部屋へ、ひとりで[#「ひとりで」に傍点]はいっていくつもりかい?」イジドアには信じられないことだった。
「どうしていけないの?」
ふたたび、なにかまちがったことをいったと気づいたように、彼女は顔をしかめ、不安そうに身ぶるいした。
イジドアはいった。「ぼくもそれをやったんだよ。一度だけ。それからは、仕事から帰ってもまっすぐ自分の部屋へはいって、よその部屋は考えないことにした。だれも住んでない空き部屋――それが何百もあって、その中にむかし住んでいた人たちのアルバムとか衣類とかがいっぱい詰まってる。死人はなんにも持っていけないし、移民はなんにも持っていきたがらないからね。このビルは、ぼくの部屋をのけると、すっかりキップル化されちゃってる」
「キップル化?」彼女にはちんぷんかんぷんらしい。
「キップルってのは、ダイレクト・メールとか、からっぽのマッチ箱とか、ガムの包み紙とか、きのうの新聞とか、そういう役に立たないもののことさ。だれも見てないと、キップルはどんどん子供を産みはじめる。たとえば、きみの部屋になにかキップルをおきっぱなしで寝てごらん、つぎの朝に目がさめると、そいつが倍にもふえているよ。ほっとくと、ぐんぐん大きくなっていく」
「そうなの」
彼女は信じたものかどうかと迷ったふうに、イジドアの顔色をうかがった。本気かどうかを疑っているらしい。
「それがキップルの第一法則なんだ。グレシャムの悪貨の法則とおんなじで、『キップルはキップルでないものを駆逐する』のさ。それにこのビルじゃ、だれもキップルと戦うものがいなかったんだ」
「そこで、完全にそれに占領されたってわけね」彼女があとをひきとった。うなずいて、「やっとわかってきたわ」
「ところで、この部屋だけど。きみのえらんだこの部屋――ここで暮らすのは、ちょっとキップル化がひどすぎるよ。もちろん、巻きかえしはできるさ。さっきいったみたいに、ほかの部屋からめぼしいものをかっさらってくればね。だけど――」イジドアはロをつぐんだ。
「だけどどうなの?」
イジドアはいった。「どうせ勝ち目はないよ」
「どうして?」
女は廊下まで出てきて、ドアをうしろ手に閉めた。小さくとがった胸のふくらみを意識したようにぎごちなく腕組みをし、理解したい一心で身を乗りだしてきた。いや、すくなくともイジドアにはそう思えた。すくなくとも、いまでは耳をかたむけようとしている。
「だれもキップルには勝てないからだよ。そりゃ、一時的に、ある場所では勝てるかもしれない。たとえば、ぼくの部屋では、キップルの圧力と、キップルでないものの圧力とが、ちょうど五分五分になってる。だけど、いずれはぼくが死ぬか、どこかへ行くかしちゃう。すると、またキップルがあそこを占領してしまう。これは宇宙のどこへ行ってもおんなじの一般的法則なんだよ。宇宙ぜんたいが全面的な完全なキップル化にむかって動いてるんだ」イジドアはもうひとことつけたした。「もちろん、ウィルバー・マーサーの山登りだけはべつだけど」
若い女は彼を見つめた。「どんな関係があるのかよくわからないわ」
「それがマーサー教のすべてなんだよ」イジドアはまたもやふしぎな気分になった。「きみは融合に加わらないの? 共感ボックスを持ってないのかい?」
ゆっくり間をおいて、彼女は慎重に答えた。「あるけど、持ってこなかったのよ。こっちでさがせばいいと思って」
「だって、共感ボックスは」イジドアは興奮で舌をもつれさせながらいった。「いちばん身近な品物じゃないか? 自分の体の延長みたいなもんだよ。それがなくちゃ、ほかの人たちと触れあえないし、孤独でいなくちゃならない。だけど、そんなことはきみも知ってるよね。だれでも知ってる。マーサーは、ぼくみたいな人間にでも――」イジドアは言葉を切った。だが、もう遅い。うっかり、口をすべらせてしまったのだ。彼女の顔をかすめたとつぜんの嫌悪を見て、イジドアはむこうが気づいたのを知った。
「もうちょっとで知能テストにパスするとこだったんだよ」小さなおろおろ声でいった。「ぼくはそんなにひどい特殊者じゃない。程度は軽いんだ。そこいらにいるようなのとはちがう。だけど、マーサーはそんなこと問題にしないでくれるからね」
「わたしがマーサー教に大きな異議があるのはその点だわ」
彼女の声は明瞭で、なんの感情もなかった。この娘はただ事実をいおうとしているだけなんだ、とイジドアは気づいた。彼女がピンボケをどう見ているかという事実を。「ぼく、もう帰る」
イジドアはそういうと、マーガリンを持ったまま歩きだした。あまり強くにぎりしめていたので、マーガリンはほとんどぬるぬるしていた。
相手はまだ無表情のまま、イジドアを見送った。それから、「待って」と呼びとめた。
イジドアはふりむいた。「なぜ?」
「あなたの手がいるのよ。よさそうな家具をここへ運ぶために。あなたのいったように、ほかの部屋から運んでくるためにね」彼女はつかつかと歩みよってきた。むきだしの上半身はひきしまって、なめらかで、一グラムの贅肉もなかった。「お勤めは何時にひけるの? それからでいいわ」
イジドアはいった。「できたら、ふたり分の夕食をこしらえてくれないかな? 材料はぼくが買ってくる」
「だめ、わたしすごくいそがしいの」
あっさりとたのみを蹴られたことはわかったが、イジドアにはそのわけが理解できなかった。最初の不安が薄れたあと、いまの彼女からはなにかべつのものが現われはじめたようだ。なにかもっと奇妙なもの。そして、もっと嘆かわしいものだ、と彼は思った。ある冷たさ。たとえば、人びとが住む星ばしのあいだの虚空、無の世界からの吐息のようなもの。彼女のすることやいうことでなく、しない[#「しない」に傍点]こと、いわない[#「いわない」に傍点]ことがそれを感じさせる。
「またそのうちに」女は自分の部屋の戸口へもどろうとした。
「ぼくの名はおぼえてくれたね?」彼はすがるようにいった。「ジョン・イジドア。ぼくの勤め先は――」
「あなたの雇い主の名はもう聞いたわ」女はドアの前で立ちどまった。ドアを押しあけながら、「ハンニバル・スロートとかいう、へんてこな名前のひと。きっとあなたの空想の中にしか存在しない人物ね。わたしの名は――」彼女はドアをくぐり、温かみのない視線をちらとイジドアにそそいでから、すこし口ごもった。「わたしはレイチェル・ローゼン」
「あのローゼン協会の?」イジドアはきいた。「植民用人間型ロボットの太陽系の最大のメーカーの?」
一瞬、彼女の顔にさっと複雑な表情が走り、そしてすぐに消えた。
「いいえ。そんな会社、聞いたこともないわ。ぜんぜん知らないわ。きっと、それもあなたのピンボケな空想の産物なのね。ジョン・イジドアと、だいじな、だいじな共感ボックス。かわいそうなイジドアさん」
「だけど、きみの名前から考えても――」
「わたしの名前は」と娘はいった。「プリス・ストラットン。それが結婚してからの名前。いつもそっちを使っているわ。プリスという名前しか使わないことにしてるの。プリスと呼んでちょうだい」ちょっと考えて、「いいえ、やはりミス・ストラットンのほうがいいわ。おたがいにまだ相手のことをよく知らないんですものね。すくなくとも、わたしはあなたをよく知らない」
ドアが彼女のうしろで閉まった。気がつくと、イジドアはほこりの積もった薄暗い廊下にひとり残きれていた。
[#改丁]
7
まあ、しかたがないや――ぐにゃぐにゃのマーガリンを握りしめながら、J・R・イジドアは考えた。ひょっとしたら、あの娘だってそのうちに気が変わって、プリスと呼ばせてくれるかもしれない。うまくいけば、夕食のことも気が変わるかもしれない。もし、戦前の野菜の缶詰でもぼくが手に入れてきたら。
だけど、あれじゃ料理のしかたも知らないんじゃないかな。イジドアはふとそう思った。まあいいさ、ぼくがやればいい。ぼくがふたり分の夕食をこしらえよう。なんなら、料理のしかたを見せて、その気があればぽつぽつ慣らしていけばいい。教えてやれば、披女だってやってみたくなるだろう。女ってのは、いくら若い娘でも、料理が好きなもんだ。本能なんだ。
暗い階段を昇って、イジドアは自分の部屋に帰った。
ほんとに変わった娘だな、と白い作業衣に着替えながら思った。いまからいくら急いでも遅刻だ。またミスター・スロートにおこられるけれど、しょうがないじゃないか。それより、彼女はバスター・フレンドリーの名も知らないっていう。そんなばかなことってあるだろうか? バスターは、いま生きてるいちばんの重要人物なのに。もちろん、ウィルバー・マーサーをベつにして……だけど、マーサーは人間じゃないものな。マーサーはどうやらほかの星からきた超生物で、宇宙の母型から人類の文化に重ね合わされたものらしい。とにかく、みんなはそういっている。ミスター・スロートもそういっている。ハンニバル・スロートが嘘をいうはずはない。
あの娘が自分の名前のことであやふやだったのもふしぎだ、とイジドアは思った。だれかが助けてやらなくちゃならない身の上かもしれない。ぼくにそれができるだろうか?――自分の心にたずねてみた。マル特のピンボケになにができる? 結婚も移住もできない、そのうち灰に殺される身だ。ぼくにできることはなにもない。
身支度をすませたイジドアは部屋を出ると、おんぼろのホバー・カーを駐車してある屋上への階段を昇りはじめた。
それから一時間のち、イジドアは会社のトラックで、その日はじめての動物患者の引き取りをすませた。電気猫だった。プラスチックの灰除けバスケットに入れられたまま、トラックの荷台で苦しそうにあえいでいる。まるで本物そっくりだな、とイジドアは考えながら、ヴァン・ネス動物病院へとむかっていた。その看板に偽りある小企業は、激しい生存競争のつづく模造動物修理業界でほそぼそと命脈をたもっている。
ふいに、猫がせつなそうなうめきを上げた。
うひゃっ、とイジドアはつぶやいた。まるで死にそうな声を出しやがる。ひょっとしたら、十年保証のバッテリーがショートして、回路が焼けきれかけてるのかな。こりゃ大仕事だ。ヴアン・ネス動物病院の修理工のミルト・ボログローヴも、きっと手を焼くだろう。おまけに、こっちは持ち主へ見積もりもいっとかなかったし、とイジドアはなさけない気分で思いかえした。あの男ときたら、猫をひょいとこっちへ押しつけて、夜中からぐあいが悪くなったといっただけで、さっさとでかけてしまった。たぶん、出勤したんだろう。とにかく、話なんてもんじゃなかった。猫の持ち主は、カスタム・メードのカッコいい新型ホバーーカーで、しゅーつと空へ昇っていってしまったんだ。おまけに、新顔のお客ときてる。
イジドアは猫にいった。「店へ着くまでがんばってくれよな」猫はぜいぜいとあえぎつづけている。
「しかたない、充電しながらいこう」イジドアはそう思った。もよりの建物の屋上へトラックを着陸させ、モーターをかけっぱなしにしたまま、車の後部へもぐりこんでプラスチックの灰除けバスケットをひらいた。そのバスケットと、彼の白衣、トラックの側面に書かれた病院の名を見たかぎりでは、本物の獣医が本物の動物を収容しているようにしか見えない。
迫真的な灰色の毛なみに隠された電動機構がのどをぜいぜい鳴らし、あぶくを吹き、受像レンズはどんよりと曇り、金属製のあごがぎゅっと食いしばられている。いつ見ても、模造動物に組みこまれた“病気”回路の精妙さには驚嘆せずにいられない。イジドアが膝に抱きあげたこの人工動物は、一次コンポーネントの調子がくるった場合、ぜんたいが――機械のようにでなく――病気の生き物らしく見えるように設計されている。知らなけりや、ぼくもだまされたろうな――イジドアはそうひとりごちながら、下腹部の代用毛皮の中に指を入れ、隠し制御パネル(この種の模造動物では超小型)と、高速充電バッテリーの端子をさがした。どちらも見つからない。それに、いつまでもさがしてはいられない。メカニズムはもうストップ寸前だ。もし、原因がショートで、回路がどんどん焼け切れている最中なら、電線を一本はずしたほうがいいかもしれない。機械はとまるが、これ以上の損害はなくなる。それを店へ持って帰って、ミルトに修理をたのめばいい。
慣れた手つきで、イジドアは模造脊椎の上に指を走らせた。電線があるとすればこのへんだ。なんてすばらしい細工。完全無欠のイミテーション。これだけ念入りに調べても、電線が見つからないなんて。きっとホイールライト&カーペンター社の製品だ――値段は張るけど、この細工にはおそれいっちまう。
イジドアは匙を投げた。ニセ猫はもう機能していなかった。きっとショートしたために――もし、それが原因なら――バッテリーと基本ドライブラインが全滅してしまったんだ。こいつは修理費がかさむぞ、と彼は憂鬱に考えた。そうだ、あの男は年三回のクリーニングと注油で故障を予防するのをなまけていたんだろう。となると、話がちがう。これで、持ち主にもいい薬になるってもんだ――高くつくにはつくけど。
運転席にもどると、イジドアはハンドルを上昇位置にもどし、もう一度空中に舞いあがって修理店への飛行をつづけた。
とにかく、あの神経をさいなむような模造動物のあえぎを、もう聞かなくてすむわけだ。これでリラックスできる。おかしな話だ、とイジドアは思った。頭ではニセモノとわかっていても、模造動物のドライブラインやバッテリーが焼け切れていく音を聞くと、みぞおちが締めつけられる。なにかほかの仕事にありつけりゃいいのに、とみじめな気分で考えた。あの知能テストに落第しなかったら、こんな神経を使う、やくざな仕事におちぶれなくてもすんだのに。とはいうものの、ミルト・ポログローヴや、店主のハンニバル・スロートには、模造動物の合成された苦しみがちっとも気にならないらしい。だから、ひょっとすると原因はぼくにあるのかもしれない――ジョン・イジドアはそうつぶやいた。たぶん、ぼくみたいに進化のはしご投を転落していくと、そして特殊者という墓穴世界の泥沼へ沈んでいくと――いや、そんなことを考えちゃいけない。なにが憂鬱だといって、自分の最近の頭の程度を以前のそれと比べるほど、気のめいることはない。日に日に知力と精力が衰えていく。イジドアと地球に住む何千何万の特殊者が、ひとり残らず灰燼の山に近づいている。生きたキップルと化して。
イジドアは気をまざらすためにトラックのラジオをつけ、バスター・フレンドリー・ショーに合わせた。それはテレビのショーとおなじように、一日二十三時間ぶっとおしにつづいている……残りの一時間は、放送終了のお祈りと、十分間の沈黙と、放送開始のお祈りだ。
「――このショーにようこそ」とバスター・フレンドリーがしゃべっている。「ところでね、アマンダ。この前きみに会ってから、もうまる二日もたったわけよ。新作の撮影ははじまったの?」
「ええ、その撮影きのうからはじまるでしたけれど、なにしろ時間が七時からで――」
「午前七時かい?」バスター・フレンドリーが口をはさんだ。
「そう、そのとおりよ、バスター。午前七時なのよ!」アマンダ・ウェルナーは、バスターの笑い声とおなじほど視聴者にまねされる率の高い、有名な笑い声をひびかせた。美しく、エレガントで、円錐形のおっぱいをした、アマンダ・ウェルナーをはじめとする何人かの国籍不明の女優と、何人かの泥臭い自称ユーモリストが、バスターのショーの準レギュラー・メンバーである。アマンダ・ウェルナーとその同類は、女優といっても、一度も映画を作ったことはないし、舞台にも出たことがない。バスターの終わりなきショーのゲストという、奇妙で優雅な仕事によって暮らしを立て、イジドアがむかし計算したところでは、彼女たちの出演時間は週に延べ七十時間にも達する。バスター・フレンドリーはいったいどうやって、テレビとラジオの番組の録画と録音の時間をひねりだしているのだろう? イジドアにはそれがふしぎだった。そういえば、アマンダ・ウェルナーも、くる月くる月、くる年くる年、一日おきにゲスト出演する時間を、どうやってひねりだしているのだろう? どうしてあんなふうにしゃべりつづけられるのだろう? あの連中は――イジドアの知るかぎり――一度もおなじネタをむしかえしたことがない。いつも気のきいた、いつも新しいセリフのぜんぶがアドリブなのだ。アマンダの髪はいつもつやつやで、目は明るく、歯は輝いている。速射砲のようなバスターの毒舌やジョークや警句を相手どって、一度も言葉につまったり、疲れたり、とまどったりしたことがない。全地球に衛星放送されているテレビとラジオのバスター・フレンドリー・ショーは、同時に植民惑星の移民向けにも放送されている。人類の植民がそこまで進出したときを考えて、プロキシマまで試験電波が送られたこともあった。もし、サランダー3号が首尾よく目的地に到着していたら、乗員たちは待ちうけていたバスター・フレンドリー・ショーに迎えられて、意外な喜びを味わったことだろう。
しかし、そのバスター・フレンドリーにも、ジョン・イジドアの気にくわない点がひとつある。バスターは、さりげない微妙なやりかたで、共感ボックスのことをからかうのだ。それも一度でなく、たびたび。実はいまもバスターはそれをやっているところだった。
「――石ころにあたるようなへまはしないよ」バスターはアマンダ・ウェルナー相手にまくしたてている。「それに、ぼくが山へ登るなら、バドワイザーを二、三本、忘れずに持ってくねぇ!」スタジオの観客の笑い声と拍手が、イジドアにも伝わってきた。「そして頂上[#「頂上」に傍点]から、動かぬ証拠に裏づけられた真相を暴露するってだんどりさ――そのすっぱぬきが、あと十時間にせまってる!」
「それ、あたしも行きたい!」アマンダがさけんだ。「あたしも連れてって! いっしょに行く、それで石がとんでくる、あたしがあなた守ります!」
ふたたび観客がどっとわいた。ジョン・イジドアは、当惑と無力な怒りがうなじへ這いのぼるのを感じた。なぜバスターはいつもマーサー教を冗談のネタにするのだろう? だれもそれを気にしてないらしい。国連までが黙認している。そのくせ、アメリカとソ連の警察は、マーサー教が隣人の悩みに対する関心を市民に持たせ、犯罪の減少にあずかった、と発表しているのだ。国連事務総長のタイタス・コーニングも、人類はより多くの共感を必要としている、と何度か声明した。きっとバスターはマーサーをねたんでいるんだ。そうだ、それで説明がつく。バスターとウイルパー・マーサーは、おたがいに競争相手なんだ。でも、なんの競争だろう?
みんなの心じゃないかな、とイジドアは思った。ふたりが競争してるのは、ぼくたちの精神面の支配なんだ。かたや共感ボツクス、かたやバスターのばか笑いとマーサーをあざけるアドリブ。いちど、ハンニバル・スロートにこいつを話してみよう、とイジドアは思った。ほんとにそうなのかどうか、きいてみよう。あの人なら知ってるだろう。
ィジドアはヴァン・ネス動物病院の屋上へトラックを駐車してから、身動きしなくなった猫をバスケットぐるみ、急いで階下のハンニバル・スロートのオフィスへと運んだ。彼がはいってゆくと、ミスター・スロートがしわだらけの灰色の顔を波紋のようにふるわせて、部品の在庫帳から目を上げた。ハンニバルースロートは特殊者ではないが、移住には年を食いすぎているため、余生をこの地球で終えるように運命づけられている。死の灰が、長い歳月のあいだにすっかり彼を蝕んでいた。それは彼の顔を灰色に、思考も灰色に変えた。彼の肉体をしなびさせ、脚を蚊のように細くし、歩行をおぼつかなくさせた。スロートは文字どおり灰色の色メガネで、外の世界をながめていた。どういうわけか、スロートは一度もメガネを拭いたためしがない。まるで、あきらめているようだ。こうしてスロートは灰を受けいれ、灰のほうもさっさと彼を生き埋めにする仕事にとりかかった。すでに灰は彼の視力をくもらせた。残された数年のうちに、ほかの感覚も奪いとられ、最後には鳥のさけびを思わせる声だけが残され、それもやがて消え去ることだろう。
「なにを持ってきたんだ?」スロートはいった。
「電気のショートした猫です」イジドアは、書類の散らかった店主のデスクにバスケットをおいた。
「どうしてわしのところへ持ってくるんだ?」スロートはきめつけた。「下の作業場へ持っていって、ミルトに渡せ」
そうはいいながらも、スロートは反射的にバスケットをひらいて、中から模造動物をひっぼりだした。むかしは修理工だったことがある。ちょっとした名人クラスだった。
イジドアはいった。「バスター・フレンドリーとマーサー教は、ぼくたちの精神面の支配を競争してるんじゃないですか」
「だとすると」とスロートは猫を調べながら、「バスターのほうが旗色がいいな」
「いまは旗色がいいけど、最後には負けますよ」
スロートは顕を上げて、しげしげと彼をみつめた。「どうして?」
「どうしてって、ウィルバー・マーサーは、いつも新しく生まれ変わるからです。彼は永遠なんです。マーサーは頂上で打ち倒されますよね。そして墓穴世界へ落ちるけど、そこからまた起きあがるでしょう? ぼくたちといっしょに。だから、ぼくたちも永遠なんです」
こうもうまくしゃべれて、イジドアは得意だった。ミスター・スロートの前ではいつもどもってしまうのである。
スロートがいった。「バスターだって、マーサーとおなじように不死だ。べつに差はない」
「どうして不死なんです? バスターは人間なのに」
「そいつは知らん。しかし、事実だ。むろん、連中がそんな告白はせんさ」
「だから、バスター・フレンドリーは一日四十六時間のショーをやってのけられるんでしょうか?」
「そうだ」とスロート。
「じゃあ、アマンダ・ウェルナーみたいな女優たちは?」
「あの連中も不死だな」
「よその星系からきた超生物ですか?」
「わしもまだそこまでは確認してない」スロートは、まだ猫を検分しながらいった。いつのまにかほこりまみれのメガネをはずし、口を半びらきにして猫に目をこらしていた。「ウィルバー・マーサーの場合のように、決定的な確認はだ」
スロートはほとんど聞きとれない声でそう言いおわった。それからだしぬけに、イジドアにとってまる一分にも思えるあいだ、彼をくそみそに罵りはじめた。最後に、「この猫は模造じゃない。いつかはこんなことが起こるだろうと思っていた。しかも、猫は死んじまった」スロートは猫の死骸をじっと見つめて、またひとしきり毒づいた。
がっしりした体格で、石目革のような皮膚をしたミルト・ポログローヴが、よごれた青いズックのエプロンをつけたまま、オフィスの入口から中をのぞきこんだ。
「いったい、どうしたんだね?」猫を目にとめたミルトは、オフィスの中へはいってきて、手にとりあげた。
「このピンボケが」とスロートがいった。「その猫をひきとってきたんだ」この店主がイジドアの前でその言葉を使ったのは、これがはじめてだった。
「もしまだ生きてるなら、本物の動物病院へ運べばすんだのに」とミルト。「どれぐらいの値うちだろう? そのへんにシドニーのリストがないかい?」
「う、う、うちの店でか、か、かけてる保険は、き、き、きかないんですか?」イジドアはスロートにたずねた。どこか下のあたりで足がガクガタし、部屋がどす黒いあずき色に変わって、緑の斑点がちらちらした。
「きく」ややあって、スロートはなかば吠えるようにいった。「だが、わしががまんできんのは、この浪費だ。またひとつの生き物が失われていった。おまえにはわからなかったのか、イジドア? そんな区別[#「区別」に傍点]もつかなんだのか?」
「ぼくは」とイジドアは声をしぼりだした。「すごくよくできてるなあ、と思ったんです。あんまりよくできてるもんで、てっきりその――つまり、まるで生きてるみたいだもんで、すごく高級品だと――」
「イジドアには区別なんてつかなかったろうよ」ミルトが穏やかに口ぞえした。「やつには模造だってなんだって、ぜんぶ生き物に見えるんだから。たぶん、猫を助けてやろうとしたんじゃないかな」イジドアをふりかえって、「おまえ、なにをしたんだ? バッテリーを充電しようとしたのか? それともショートの個所をさがしたのか?」
「そ、そう」イジドアは認めた。
「どのみち、死にかけていて、助からなかったのかもしれん」ミルトはいった。「ピンボケにそうあたらんでやんなさいよ、ハン。やつのいうこともわかる。近ごろのニセモノは、例の病気回路をくっつけたりするもんで、やけに本物らしくなりやがった。それに、生きた動物ってのは、いつかは死ぬもんだ。飼ってる以上、そいつは覚悟しなくちゃならない。ただ、おれたちは毎度ニセモノばかり見てるもんで、そいつに慣れてないだけの話さ」
「なんたる浪費だ」とスロート。
「マ、マーサーの話だと」イジドアはいった。「す、すべての生命はまたもどってくるそうです。ど、ど、動物でも、そのじゅ、じゆ、循環期はちゃんとあるんです。つまり、みんな、マーサーといっしょに山を登って、それから――」
「猫の持ち主にそういってやれ」スロートがいった。
イジドアは店主が本気なのかどうかをはかりかねた。
「あのう、どうしてもですか? だって、映話はいつもボスが――」
映話恐怖症のイジドアには、知らない人間に映話をかけることなど、文字どおり不可能なのだ。ミスター・スロートも、むろんそれを知っている。
「そりゃむりだよ」とミルトがいった。「おれがかけてやろう」と受話器に手をのばして、「何番だい?」
「どこかこのへんにしまったんだけど」イジドアは作業服のポケットを、あっちこっちさぐった。
スロートがいった。「ピンボケにやらせろ」
「ぼ、ぼ、ぼくは映話はだめです」イジドアはいまにも心臓がとまりそうだった。「だって、ぼくは毛むくじゃらで、ぶさいくで、不潔で、猫背で、乱ぐい歯で、灰色でしょう? それに、放射能で病気なんです。死にそうなんです」
ミルトが微笑して、スロートにいった。「おれがこいつのような気分なら、やっぱり映話には出たくないだろうな。はやくしろよ、イジドア。猫の持ち主の番号がわからなくちゃ、おれだって映話のかけようがない。するとまた、おまえにお鉢がまわってくるんだぜ」物やわらかに手のひらをさしだした。
「ピンボケにやらせろ」とスロート。「かけるのがいやなら、クビだ」彼はイジドアにもミルトにも視線を合わせようとしなかった。まっすぐ正面を見つめていた。
「おとなげないよ、あんた」ミルトは抗議した。
イジドアはいった。「ぼ、ぼ、ぼくをピ、ピ、ピンボケなんて呼ばないでください。ボ、ボ、ボスだって、は、は、灰にず、ず、ずいぶん体をやられてるじゃないですか。そりゃ、ぼ、ほ、ぼくみたいに、の、の、脳みそまではやられてないけど」
これでクビにきまった、とイジドアは思った。映話なんてむりだ。とつぜんそこで、猫の持ち主が出勤していったことを思いだした。いまなら、自宅のほうはきっと留守だろう。
「や、やっぱりかけます」イジドアはそういうと、持ち主の住所の書かれた付箋をとりだした。「どうだ?」スロートがミルトにいった。「必要にせまられれば、やつだってやれるじゃないか」
映話の前で、イジドアは受話器をとってダイヤルした。
「ああ」とミルト。「だが、むりにやらせるこたあないよ。それにやつのいうとおりだ。あんたも灰にやられてる。もう目が半分見えないし、あと二年もたてば、耳もきこえなくなっちまうよ」
スロートがいった。「それはおまえもだぞ、ポログローヴ。おまえの皮膚の色ときたら、まるで犬のくそだ」
映謡スクリーンに顔が現われた。髪をひっつめに束ねた、どこか苦労性に見える中欧系の婦人だ。「はい?」と彼女はいった。
「ピ、ピ、ピルゼンさんですか?」イジドアの体の中にどっと恐怖が噴きあがった。猫の持ち主に妻がいること、そしてもちろん在宅していることなど、考えもしなかったのだ。「じ、じ、じつは、おたくのネ、ネ、ネ、ネ、ネ、ネ――」イジドアは吉葉を切り、あごをむやみにこすった。
「おたくの猫のことで――」
「あら、あなたがホレースをひきとりにきてくださったかた?」ピルゼン夫人がいった。「やはり肺炎ですの? 主人が、そうじゃないかといってましたけれど」
イジドアはいった。「おたくの猫はお亡くなりになりました」
「まあそんな、あんまりだわ」
「弁償いたします。保険がありますから」イジドアはスロートを横目でうかがった。異議はなさそうだった。「わたしどもの店主、ミスター・ハンニバル・スロートが――」そこでもたついた。「代替の――」
「いや」とスロートがいった。「小切手を送る。シドニー社の価格どおりで」
「――代替の猫を、責任を持ってお届けします」気がつくと、イジドアはそうしゃべっていた。耐えられそうもなかった会話が、いったんはじめてしまうと、こんどはあともどりできなくなった。いましゃべっていることには、とどめようのない固有の論理の流れがある。そのまま、行きつくところまで行かせるしかない。ハンニバル・スロートと、ミルト・ポログローヴは、急に舌の回転のよくなった彼を唖然として見つめていた。
「ご希望の猫の特徴をおっしゃってください。色、性別、それから種類――たとえば、マンクス、ペルシア、アビシニア――」
「ホレースが死んだなんて」とビルゼン夫人。
「肺炎でした」とイジドア。「病院への途中で息をひきとりました。わたしどもの院長、ハンニバル・スロート博士も、あの段階ではどのみち手のほどこしようがなかったろう、といっております。でも、奥さん、代替の猫が手にはいるのは不幸中の幸いでしたよ。そうでしょう?」
ピルゼン夫人は目に涙をためていた。「ホレースのような猫は、二ひきといませんわ。まだほんの子猫のころから、よく後足で立ちあがっては、まるでなにかききたいことでもあるように、わたしたちを見上げたものよ。なにがききたいのかは、とうとうわからずじまいでしたわ。でも、きっとホレースはいまその答を見つけたでしょう」新しい涙があふれた。「わたしたちも、いずれはそれを見つけるのね」
ある妙案がイジドアの頭にひらめいた。
「でしたら、おたくの猫の正確な電気模造品はいかがでしょう? ホイールライト&カーペンター社の最高級手工品なら、もとの動物のあらゆる特徴を、忠実かつ永久的に再現――」
「まあ、よくもそんなひどいことを!」ピルゼン夫人がかみついた。「いったい、なにをおっしゃるの? 主人にそんなことをいったりしたらたいへんよ。エドにそんなことを話そうものなら、それこそカンカンになって怒りだすわ。主人はホレースを、これまでのどの猫よりもかわいがっていましたのよ。子供のときから猫を飼ってきたあの人がね」
ミルトが、映話の受話器をイジドアからひきとった。
「わたしどもとしては、シドニーのリストの時価で小切手をお支払いするか、それともイジドア君のいったように、新しい猫をお渡しするか、方法はこのふたつだと思います。おたくの猫が亡くなったのはご愁傷さまですが、イジドア君がさきほどいいましたように、ああ猫は肺炎にかかっておりまして、手のほどこしようがなかったのです」
ミルトの口調は職業的でよどみがなかった。ヴァン・ネス動物病院の三人の中では、ミルトがいちばんビジネスの映話に手なれている。
「とても主人に切りだせないわ」とピルゼン夫人。
「お察しします」ミルトはちょっと顔をしかめた。「では、こちらからお知らせしましょう。ご主人のお勤め先の映話番号は?」ミルトはメモとペンに手をのばした。スロートがそれをとってやった。
「待って」とピルゼン夫人がいった。いくぶん気をとりなおしたようだった。「ひょっとすると、さっきの方のおっしゃるとおりかもしれないわ。エドにはなにも知らせずに、電気模造品をお願いしようかしら。主人にも見わけのつかないような、そっくりの品物ができます?」
ミルトは言葉をにごした。
「もし、それがご希望なら。しかし、わたしどもの経験では、もとの動物の飼い主がごまかされることはまずありませんね。それでごまかされるのは、隣近所の無関係な傍観者だけです。つまりですね、やはり模造動物というものは、ほんとうにそばへ寄った場合――」
「エドはホレースを抱いたりするほうじゃないの。かわいがってはいてもね。ホレースの砂箱とか、そんな世話をしていたのは、ぜんぶわたしでしたわ。だから、とにかく一度その模造動物をためしてみて、もしだめだったら本物の猫をさがしていただくことにするわ。エドに知らせたくないの。知らせたら、死ぬほどがっかりするでしょう。エドがホレースを抱いたりしなかったのは、そのため――こうなることが怖かったからですのよ。ホレースが病気に――やっぱり、肺炎でした?――病気になったときなんか、もうエドはすっかりうろたえてしまって、ただおろおろするだけでしたわ。だから、おたくへの連絡が遅れて……わたしには、おたくから知らせがくる前からわかっていたわ、手遅れだってことが」夫人は涙をおさえて、こっくりうなずいた。「できるまでには、幾日ぐらいかかりますの?」
「十日待っていただけますか。昼間、ご主人のお留守のあいだにお届けします」
ミルトは打ち合わせを終わると、さよならをいって映話を切った。「どのみち、亭主にはバレるよ」とスロートにいった。「五秒間で。だけど、むこうがそうしろというんだから」
スロートは生真面目に答えた。「動物をかわいがっていた持ち主ほど、悲しみでとりみだすものだ。うちは本物の動物に縁が遠くて、まだよかった。そうじゃないか、本物の獣医ならあんな映話はしょっちゅうなんだ」ジョン・イジドアをじっと見つめて、「とにかく、おまえもまんざらバカではなかったな、イジドア。いまのなんぞは上出来だ。たとえ、途中からミルトに肩代わりしてもらったにしてもな」
「じっさい、うまいもんだったよ」とミルト。「ああ、まいったまいった」そういうと、死んだホレースをつまみあげて、「こいつは作業場へ持っていくよ。ハン、あんたはホイールライト&カーペンターのほうへ、測定と撮影の技術員をよこすように手配してくれませんかねえ。連中にこいつを渡したくないんだ。出来ぐあいをおれの目でデェックしたいんでね」
「その映話はイジドアにさせようじゃないか」ミスター・スロートが断をくだした。「やつが手をつけた商売だ。ピルゼン夫人との交渉ができたんなら、ホイールライト&カーペンター社ぐらいは朝飯前だろう」
ミルトがイジドアにいった。「連中が原型《オリジナル》をほしいといっても、ぜったいに断わるんだぞ」ホレースを持ちあげて、「そのはうが仕事がぐっと楽になるから、きっといってくる。つっぱねてやれ」
「うん」と日をパテパチさせながら、「わかった。じゃあ、それが腐りかけないうちに、映話をかけてしまおうかな。死体ってのは、ほっとくと腐るんでしょう?」イジドアは有頂天だった。
[#改丁]
8
ロンバード通りのサンフランシスコ司法本部の屋上に、出力アップした警察の高速車を着地させると、賞金かせぎのリック・デッカードは、カバン片手にハリイ・ブライアントのオフィスまで降りていった。
「えらく早かったじゃないか」イスにもたれた上司は、スペシフィックのナンバー1の嗅ぎタバコを一服つまみながら、彼を迎えた。
「用件はかたづけましたよ」
リックはデスクの真向かいに着席し、カバンをおいた。くたびれたという実感があった。ここへ帰ってきたとたんに、どっと疲労が出てきた。こんな調子でこれからの仕事がやれるかな? そんな疑いがわいた。
「その後、デイヴの容体はどうです? もう話ができそうですか? 最初のアンディーにとりかかる前に、一度会っときたいんですがね」
ブライアントはいった。「ポロコフをかたづけてからにしろ。デイヴをレーザーしたやつだ。すぐとりかかったほうがいい。やつはもう指名手配のあったことを知ってるからな」
「デイヴと会う前にですか?」
ブライアントは薄手のタイプ紙をひきよせた。ぼやけたカーボン複写の三枚目か四枚目だ。
「ポロコフは当市の清掃公社に塵芥収集員として雇われている」
「そのての仕事は特殊者がやるんじゃなかったですか?」
「ポロコフは本バカのマル特を装っているんだ。ひどく程度の進んだやつをな。デイヴはそれにひっかかった。デイヴがうっかり気を許すほど、ポロコフの身なりや仕草は真にせまっていたらしい。ところで、フォークト=カンプフ検査の件だが、自信はあるんだな? シアトルでの結果から、ぜったいにまちがいないという確信が――」
「持てます」リックはいいきった。それ以上の補足はしなかった。
ブライアントがいった。「信じよう。だが、たったひとつの誤認も許されんぞ」
「アンドロイド狩りはもとからそうでしたよ。いまはじまったことじゃない」
「ネクサス6型はべつだ」
「最初のひとりを見破ったんです」とリック。「そして、デイヴもふたり見破っている。いや三人だ。ポロコフを入れればね。わかりました、きょうこれからポロコフを処理して、デイブには今夜か明日会うことにします」
リックはぼやけたタイプ文書――アンドロイドのポロコフに関する情報――に手をのばした。
「もうひとつ」とブライアントがいった。「世界警察機構所属のソ連の刑事がひとり、ここへやってくる。きみがシアトルへ行った留守に映話をよこしてきた。彼の乗ったアエロフロートのロケット機は、あと一時間で当市の空港に到着する。名前はサンドール・カダリイ」
「なにしにくるんです?」
世界警察機構の刑事がサンフランシスコまでやってくるのは、めったにないことだった。
「わざわざ捜査官を派遣してくるほど、世界警察機構は新しいネクサス6型を重大視しているのさ。いわばオブザーバーだ――むろん、できるだけの協力もすると申し出てきた。いつ、どんなふうに彼の協力を仰ぐか、そのへんの判断はきみにまかせる。だが、捜査に同行させることについては、すでにわたしから許可を与えておいた」
「懸賞金はどうなるんですか?」とリック。
「お裾分けしてやる必要もないだろう」ブライアントはにやっと頬をゆがめた。
「金銭的にいっても不公平ですよ」
世界警察機構のごろつきと懸賞金を折半する考えなど、リックには毛頭なかった。ポロコフのメモに目をやる。そこには、犯人の――いや、アンディーの――外見特徴と、現住所および勤務先が記されていた。ベイ・エリア清掃公社――本社の所在地はギアリー通り。
「ソ連の刑事が到着するまで、ポロコフの廃棄処理は待ってみるかね?」ブライアントがたずねた。
リックは気色ばんだ。「付き添いのいる年でもないでしょう。むろん、きめるのはあなただ――こっちはいわれたとおりやりますがね。できれば、カダリイがくるまで待たずに、いますぐポロコフを追いたいんです」
「よし、じゃひとりではじめてくれ」ブライアントは断をくだした。「つぎの機会、ということはミス・ルーバ・ラフトのときだが――そっちの情報もそこにある――そのときにカダリイを連れていってもらおう」
薄い複写書類をカバンにおさめると、リックは上司の部屋を出て、ふたたび屋上に駐車したホバー・カーへもどった。いっちょう、ポロコフのだんなを訪問といくか――そうつぶやいて、彼はレーザー銃を撫でさすった。
アンドロイドのポロコフに対する第一着手として、リックはまずペイ・エリア清掃公社のビルに立ち寄った。
「おたくの従業員について、聞きたいことがあるんだがね」
地味な服装をした白髪まじりの女性交換手に、リックはいった。清掃公社のオフィスは、すくなからず彼を驚かせた。モダンな大建築で、おびただしい数のホワイト・カラーが働いている。ふかふかしたカーペット、まがいものでない高価な木製デスク――それらは、塵芥の収集処理が戦後の地球の主要産業に躍進したことを、あらためて実感させた。この惑星ぜんたいがすでにごみ屑への崩壊をはじめており、残留者たちが居住可能な環境を作るためには、しじゆうそのごみ層をよそへうっちゃらなければならない……でないと、バスター・フレンドリーの口ぐせのように、地球は息がふさがってしまう――放射性の灰よりも、キップルの下敷になって。
「では、人事課長のミスター・アッカースにお話しください」
交換手は彼にそう告げると、どっしりした、だがまがいものらしいオークのデスクを指さした。書類の山に隠れて、おつに気どった小男がすわっている。
リックはその男に警察の身分証を見せた。「ポロコフという従業員はいまどこにいます? 勤務中ですか、それとも非番?」
気のりうすに記録を調べてから、人事課長のアッカースはいった。
「ポロコフは勤務中ですね。デイリー・シティにあるうちのプラントで、ホバー・カーの廃品を圧縮して湾内へ投棄する作業をやっているはずです。いや、しかし――」人事課長のアッカースはべつの書類を調べてから、受話器をとって内線のだれかと話しはじめた。「じゃ、いないんだな」映話を切ると、リックに向きなおって、「ポロコフはきょう欠勤だそうです。無届けで。彼がなにかしでかしたんですか。刑事さん?」
「もし本人が顔を出しても、わたしが聞きこみにきたことはいわないように。いいですな?」「ええ、わかってますよ」アッカースはむっとして答えた。まるで、警察捜査に関する理解度を疑われたとでもいいたげだった。
リックは出力アップした警察車で、テンダーロインにあるポロコフのアパートへ飛んだ。もうつかまらんな、とひとりごちた。あいつらが――ブライアントとホールデンが――ぐずぐずしたせいだ。ブライアントは、おれをシアトルなんぞへやらずに、あのときポロコフを追わせるべきだった――いや、ゆうべデイヴ・ホールデンが撃たれた直後に。
なんてしょぼくれた場所だろう、と思いながらアパートの屋上を横ぎり、エレベーターへと歩いた。何ヶ月もの灰が潜まったからっぽの飼育檻。そして、檻の中にはとっくに機能しなくなっているニセ動物のニワトリが一羽。彼はエレベーターでポロコフの階まで降り、地下洞窟のようにまっくらな廊下へ足を踏み入れた。原子力電池つきの警察用フラッシュライトで廊下を照らし、それから書類の内容をもう一度確認した。すでにポロコフは、フォークト=カンプフ検査がすんでいる。ということは、その手続きを省略して、いきなりアンドロイドの廃棄処理にかかれるわけだ。
廊下のここからやっつけたほうがいい、とリックは判断した。武器トランクを床におろしてそっと蓋をあけ、無指向性ペンフィールド波発生機をとりだした。筋硬直《カタレプシー》のキーを押す。自分のほうは、発生機の金属カバーを通して一方向だけに出ている逆性波で、情調《ムード》放射から保護されるのだ。
これでもうみんながカチカチに凍りついたろう、とリックはスイッチを切った。人間もアンディーも、この近くにいる連中はひとり残らず。だから、こっちはなんの危険もない。その部屋へはいっていって、やつをレーザーすればいい。もっとも、それはやつが部屋にいるとしての話で、まあそんなことはありえないどんな錠でも分析して開く無限鍵を使い、リックはレーザー銃を構えながらポロコフの部屋に踏みこんだ。
ポロコアはいなかった。半壊の家具のほかは、キップルと荒廃だけ。身の回り品さえない。
リックを迎えたのは、ポロコフがこの部屋といっしょにうけついだ、そしてつぎの住人――がもしあれば――に残していった、持ち主のないガラクタだけだった。
こうなることはわかってたんだ、とリックはつぶやいた。とにかく、これで最初の賞金千ドルはおじゃんだ。やつは南極圏あたりへ高飛びしたのかもしれない。おれの管轄外へ。よその警察のバウンティ・ハンターが、ポロコフを処理して賞金を稼ぐわけだ。よし、それよりも、まだポロコフのように感づいてないアンディーに乗りかえよう。まず、ルーバ・ラフト。
リックは、尾上のホバー・カーにもどり、ハリー、ブライアントに映話で報告した。「ポロコフはだめでした。デイヴをレーザーした直後にずらかったんでしょう」腕時計を見て、「空港でカダリイと待ち合わせましょうか? そのほうが時間のむだがないし、はやくラフトのほうにとりかかりたいもんですからね」
リックはすでにルーバ・ラフト関係の調査メモを前にひろげて、すみずみまで目を通しているところだった。
「いい考えだが、カダリイ氏がもうここへきてしまったんだ。アエロフロート機が――彼の話だと毎度のことらしいが――定刻より早く到着したためにな。ちょっと待ってくれ」ブライアントは画面外でしばらく相談してからもどってきた。
「きみがいまいる場所へ、彼がすぐに飛ぶそうだ。そのあいだ、ミス・ラフトに関する資料をよく読んどいてくれ」
「オペラ歌手。ドイツ生まれと自称。現在はサンフランシスコ歌劇団に所属」調査メモのほうに気をとられながら、リッタは反射的にうなずいた。「よほどたいした声の持ち主ですな、これだけ早く契約できたところを見ると。オーケイ、ここでカダリイを待ってます」ブライアントにいまいる場所を教えて、映話を切った。
オペラ・ファンのふりをしていくか――調査メモを読みすすめながら、リックはそう考えた。いちど、〈ドン・ジョパンニ〉のドンナ・アンナを演じるあなたを見たいものだ。わたしのコレクションには、往年の大歌手、エリザベート・シュワルツコップや、ロッテ・レーマンや、リーザ・デラ・カーザのテープもそろってますよ……これなら、フォークト=カンプフ検査の整備をするあいだ、話題に不自由しないですむだろう。
社内の映話がジーと鳴った。リックは受話器をとった。
警察の交換手がいった。「デッカードさん、シアトルから長距離です。ブライアント警視があなたにまわせとおっしゃいました。ローゼン協会からです」
「いいよ」
リックはそう答えて待った。いったい、なんの用だろう? これまでにわかったかぎりでも、ローゼン一族とつきあってろくなことはない。そして、これからもそうだろう。むこうがどういうつもりであるにしても。
レイチェル・ローゼンの顔が小画面に現われた。
「こんにちは、デッカード刑事」仲直りをもとめるような口調が、リックの注意をひいた。
「いまおいそがしい? それとも、お話しできる?」
「どうぞ」
「協会のわたしたちは、脱走ネクサス6型に対するあなたの立場を検討してみました。そして、協会の持つネクサス6型に関する知識からおして、だれか専門家が協力してあげたほうが、あなたにとっても有利だろうという結論に達したわけ」
「具体的にいうと?」
「つまり、協会のだれかがあなたに同行するのよ。あなたの捜査に」
「なぜ? それでどんな得がある?」
「ネクサス6型は、人間が接近をはかれば当然警戒するわ。でも、おなじネクサス6型が接近した場合は――」
「いいかえれば、きみのことか?」
「ええ」レイチェルは真顔でうなずいた。
「それでなくても、もう助っ人が多すぎるんだ」
「でも、あなたにはきっとわたしが必要よ」
「どうかな。よく考えて、また返事する」
いつか遠い将来にな、とリックは心の中でいった。いや、おそらく永久にしないだろう。もうたくさんだ。一歩進むごとに、灰の中からレイチェル・ローゼンが顔を出しやがる。
「外交辞令ね」とレイチェル。「あなたはぜったいに返事してこないわ。お尋ね者の脱走ネクサス6型がどれほど機敏か、どれほど強敵か、それがまだわかっていないからよ。わたしたちは、あなたに協力する義理があると思うの。わかるでしょう? わたしたちがした仕打ちのことで」
「まあ考えておこう」リックは映話を切ろうとした。
「わたしがそばにいなければ、あなたは逆に殺されるわよ」
「あばよ」
リックは映話を切った。いったいどうなってるんだ。こともあろうに、アンドロイドのほうからバウンティ・ハンターを呼びだして、協力を申し出るなんて。彼はもう一度警察の交換手を呼びだした。「こんどシアトルからかかっても、つながないでくれ」
「はい、わかりました。カダリイさんはそちらへ着きましたか?」
「まだだ。あんまり待たせるようなら、先に行っちまうぜ」ふたたび映話を切った。
ルーバ・ラフトに関するメモを読みはじめたとき、一台のホバー・タクシーが舞いおりてきて、すこし離れた屋上にとまった。五十がらみの血色のいい丸顔の男が、ロシヤ風の厚ぼったい大外套をまとってタクシーを下り、にこやかに片手をさしのべてリックの車に近づいてきた。
「ミスター・アツカード?」男はスラヴ託りでたずねた。「サンフランシスコ警察署のバウンティ・ハンターですな?」
客をおろしたタクシーが舞いあがるのを、そのロシヤ人はぼんやりと見上げた。「サンドール・カダリイです」そういうと、車のドアをひらいてリックのとなりへ割りこんできた。
カダリイと握手したリックは、世界警察機構の捜査官が見なれないタイプのレーザー銃を携帯しているのに気づいた。はじめて見る種類だ。
「ああ、これ?」カダリイがいった。「ちょっとおもしろいでしょう?」ベルトのホルスターからひきぬいて、「火星で手に入れたんだがね」
「携帯火器なら、おれはどんな型でも知ってるはずなんだがな」とリック。「植民惑星で作られたり、使われたりしているのまで」
「これはわれわれが特別に作らせたものなんだ」カダリイはスラブ生まれのサンタ・クロースのように、得意満面の赤ら顔でにっこりした。「気にいりましたか? これが性能的に従来のとちがうのは――ほら、持ってごらん」
カダリイは銃をリックに渡し、渡されたほうは、年季のはいったあざやかな手つきでそれをあらためた。
「どこが性能的にちがうんだね?」リツタはきいた。見当がつかない。
「引き金をひいてみたまえ」
車の窓から上空に狙いをつけて、リックは引き金をひいた。なにも起こらない。レーザー光線が発射されない。彼はけげんな顔でカダリイをふりかえった。
「引き金の回路がとりつけてないんだよ」カダリイがいった。
「それはこっちに残してある。ほらね」手をひらいて、小さなユニットをリックに見せた。「しかも、一定距離内では、こっちで光線を好きな方向へ向けることができる。銃口がどこを狙っていても」
「きさまはポロコフじゃない。カダリイだな」とリック。
「きみのいいたいのはその逆だろう? すこし混乱しているようだね」
「うるさい。きさまはポロコフだな、アンドロイドの。ソ連警察からきたなんで嘘をいいやがって」リックは車の床にある非常ボタンを靴の爪先で押した。
「へんだぞ、なぜこのレーザー銃は発射しないんだろう?」カダリイ/ポロコフは、手のひらの中の小型照準・発射装置をいじりまわしながらいった。
「正弦波《サイン・ウェーブ》さ」とリック。「そいつがレーザー光線に干渉して散乱させ、ふつうの光線に変えてしまうんだ」
「じゃあ、おまえの細い首根っこを折るしかないな」
アンドロイドは装置を投げ捨てると、一声おめいて、リックののどを両手でつかもうとした。
アンドロイドの指がのどに食いこむのと同時に、リックは在来型の制式拳銃をショルダー・ホルスターからひきぬいて撃った。三八マグナムの銃弾がアンドロイドの頭に命中し、頭蓋が破裂した。こっぱみじんになったネクサス6型ユニットが、怒りくるう嵐のように車内に飛び散った。その一部は、死の灰そっくりに舞いながら、リックの上に降りかかった。廃棄処理されたアンドロイドのむくろは、がくんとのけぞって車のドアで跳ねかえされ、リックにぶつかってきた。気がつくとリックは、ぴくぴく痙攣するアンドロイドの体を必死に押しのけようとしていた。
身ぶるいしながら、やっとのことで車内の映話装置にとりつき、司法本郡を呼びだした。
「報告だ。ブライアント警視に、ポロコフを仕止めたと伝えてくれ」
「“ポロコフを仕留めた”。それだけでわかりますね?」
「わかる」
リックは映話を切った。危機一髪だった、と思いかえした。レイチェル・ローゼンの警告に反撥しすぎたのかもしれない。わざとその逆をやったために、あやうく一命を落とすところだった。だが、おればポロコフを仕留めたぞ――そう自分にいいきかせた。彼の副腎は血流へのアドレナリンの分泌をじょじょに弱めはじめた。心臓の鼓動は正常にもどり、切迫した呼吸もおさまってきた。だが、まだ身ぶるいはやまない。とにかく、これで千ドル稼いだ。苦労のしがいはあったわけだ、と彼は思った。つまり、デイヴ・ホールデンより、おれの反射神経のほうがすばやかったんだ。もちろん、デイブの経験にもとづいて警戒していたのは事実だ。そいつは認めなくちゃならん。デイヴの場合は不意打ちだったからな。
もう一度受話器をとりあげると、彼は自宅をダイヤルした。待つうちに、どうにかタバコの火をつけることができた。身ぶるいはおさまりはじめた。
妻のイーランの顔が、予告した六時間の自虐的抑鬱に浸りきった表情で、スクリーンに現われた。
「あら、リック。あなたなの」
「出勤前におれがダイヤルしてやった594はどうしたんだ? 夫のすぐれた判断を――」
「ダイヤルしなおしたわ。あなたがでかけてすぐに。なんの用?」彼女の声はしだいに絶望の泥沼に沈んでゆくようだった。「もう疲れきって、なんの希望も持てないわ。わたしたちの結婚生活のことも、それから、あなたがアンディーに殺されるんじゃないかと思ったり。お話ってそのことなの、リック? アンディーにやられたの?」
背景では、彼女の言葉をかき消すように、バスター・フレンドリーが奇声でわめきちらしはじめた。リックには妻の唇の動きが見えるだけで、テレビの声しかきこえない。
「待て」リックは妻をさえぎった。「おれの声がきこえるか? いま、ある仕事にかかってるんだ。新型アンドロイドで、どうやらおれでなくちゃ相手がつとまらんらしい。そのひとりをたったいま処理したんだよ。だから、まず千ドル稼いだわけだ。残りの仕事をすませたら、おれがなにを買うと思う?」
イーランは焦点のさだまらない目で夫を見つめた。うなずきながら、「あらそう」といった。
「まだなにもいってないぞ!」
ようやくリックは気づいた。きょうの妻の抑鬱は、おれの声も耳にはいらないほどの強度のものになっている。これでは、真空にむかって話しているのとおなじだ。
「じゃ、帰ってからだ」
吐きすてるようにいって、リックは通話を切った。ちくしよう、と思った。こっちがいのちを賭けてるというのに。おれたちがダチョウを飼えるかどうかのせとぎわだというのに、あいつはのほほんとしてやがる。なにをいったって通じやしない。二年前、離婚を考えたあのときに、思いきって別れちまえばよかった。いや、いまからだってできるぞ、と思いかえした。
憮然として身をかがめ、くしゃくしゃになった書類を車の床から広い集めた。ルーバ・ラフトの調査メモもその中にまじっていた。内助どころか、とリックは思った。おれがいままでに見てきたアンドロイドの大半は、女房よりよっぽど意欲と生活力を持っていた。女房ときたら、おれになにも与えてくれない。
そこで、ふとレイチェル・ローゼンのことが頭にうかんだ。ネクサス6型の知能についてのあの娘の忠告は、まんざら嘘じゃなかったわけだ。賞金の分け前がいらないというなら、あの娘を使ってやってもいい。
カダリイ/ポロコフとの遭遇が、リックの考えかたに大幅な変化をもたらしたようだった。
ホバー・カーのエンジンを始動させると、リックはすいすいと空に舞いあがり、古い戦争記念オペラ劇場へ機首を向けた。デイヴ・ホールデンのメモからすると、この時間にはルーバ・ラフトがそこにいるはずだ。
リックはまだ見ぬその相手のことを想像した。女性アンドロイドの中にはけっこう美人がいる。肉体的にひきつけられたこともある。頭では機械だとわかっていても、いやおうなしに気持が反応するのは、なんとも妙な感覚だった。
たとえば、レイチェル・ローゼン。いや、あれはちがう、とリックは思った。あれは痩せすぎだ。とくにおっぱいのあたり、まだ女になりきっていない。子供みたいにぺしゃんこで色気がない。もっとましなのがいるだろう。調香メモには、ルーバ・ラフトが何歳と書いてあったかな? 運転をつづけながら、リックはしわになった書類をひろげ、彼女のいわゆる“年齢”を調べた。二十八歳と調査メモは語っていた。つまり、外見からの判断だが、アンドロイドにとってはそれが意味のある唯一の基準といえる。
おれに多少のオペラの知識があるのは運がいい、とリックは思った。それも、デイヴより有利な点のひとつだ。おれのほうが、やつより文化人にできてるってことが。
レイチェルに協力をたのむのは、もうひとりアンディーをかたづけてからにしよう、とリックは心にきめた。ルーバ・ラフトが思ったより手ごわければべつだが――しかし、そんなことはないだろうという予感があった。難物はポロコフだったのだ。ほかの五人はだれかにつけ狙われている事実をまだ知らないし、おそらくばたばた倒れてゆくだろう。一列にならんだカモのように撃ち殺されて。
オペラ劇場の壮麗雄大な屋上にむかって下降しながら、リックは即席のでたらめイタリア語で、アリアのメドレーを大声に歌いはじめた。ペンフィールド情調オルガンがそばになくても、いまの彼の心は楽天主義に酔いしれていた。それと、飢えた喜ばしい期待に。
[#改丁]
9
風雪に耐えた古いオペラ劇場の鋼鉄と石材が作りだす、巨鯨の腹を思わせる内部――そこでは、大きく反響する、いくらか調子はずれのリハーサルが、いまも進行中だった。リック・デッカードがよく知っている音楽だ。モーツァルトの〈魔笛〉、第一幕の終わりの場。ムーア人の奴隷たち――つまり、コーラス――が、一小節早く歌にはいってしまったために、魔法の鈴のシンプルなリズムがこわされていた。
きょうはついてる――リックは〈魔笛〉が大好きだった。二階の正面桟敷に陣どって(だれも彼に気づいてないようだ)聴きいった。ちょうど幻想的な鳥の羽根の衣装をつけたパパゲーノが、バミーナの歌に加わるところである。いつも――といっても、めったにそんな機会はないが――その歌詞のことを考えるたびに、リックの目には涙がこみあげてくる。
[#ここから3字下げ]
もしいさましい男たちが
みんなこうした鈴を見つけたら、
たちまち敵を
苦もなくかき消してしまえるだろう。
(このあと歌詞は、「そしてこの上ない和合の中で暮らしていける……こうした共感がなければ、この世に幸福はない」とつづく)
[#ここで字下げ終わり]
だが、現実の人生では、敵を苦もなく消滅させるような魔法の鈴なんてものはない――そうリックは思った。うまくいかないもんだ。そして、モーツァルトは〈魔笛〉を書いてまもなく――三十代の若さで――腎臓病をわずらって死んだ。そして、墓標もない共同墓地に埋められたのだ。
ひょっとすると、モーツァルトは未来が存在しないこと、すでに短い人生を使い果たしてしまったことを、なにかの直感で知っていたんじゃないだろうか。おれにもそんな直感があるかもしれん――リックはリハーサルを見まもりながら、そう考えた。やがてこのリハーサルは終わり、やがて本公演も終わり、やがて歌手たちは死に、そして、やがてはこのオペラの楽譜の最後の一部も、うやむやのうちに滅びてしまう。最後には“モーツァルト”の名も忘れられ、灰が勝利を占める。もし、この惑星でだめなら、ほかの惑星でそれは完成する。あとしばらくのあいだは、人間たちもそれを避けられるだろう。アンディーどもがおれを避けて、かぎられた余命を長びかせるように。しかし、いずれはおれが、でなければほかのバウンティ・ハンターが、あいつらをしとめる。ある意味では、おれはエントロピーの形態破壊過程の一部だ。ローゼン協会は創造し、おれは破壊する。いや、とにかく、あいつらにはそう見えるだろう。
舞台では、パパゲーノとバミーナが、セリフのやりとりにはいっていた。彼は黙考からさめて、耳をすました。
[#ここから3字下げ]
パパゲーノ:娘さん、こんどはおれたち、なにを話せばいいんだい?
バミーナ:真実よ。真実を話すのよ。
[#ここで字下げ終わり]
リックは体を乗りだし、目をこらして、重々しいひだのついた衣装と、肩までのペールに包まれたバミーナをじっと見つめた。もう一度調査メモを読みかえし、満足したように椅子にもたれた。おれはいま、三人目のネクサス6型アンドロイドをこの目で見ている。これがルーバ・ラフトだ。ああいう感情が要求される役を演じるのは、ちょっと皮肉じゃないか。いくらピチビチした美人でも、逃亡アンドロイドが真実を話せるわけがない。すくなくとも、自分自身については。
舞台ではルーバ・ラフトが歌いはじめ、リックはその声のすばらしさに仰天した。一流の歌手、いやそれどころか、テープ・コレクションできく歴史的名歌手にも、けっしてひけをとらない美声だった。ローゼン協会がみごとに彼女を作りあげたことは認めざるをえない。そして、ふたたびリックは、|永遠の相の下に《サブ・スペキエ・アイテルニターテイス》ある自己、ここで見聞きするものに呼びさまされた形態破壊者たるおのれを意識した。おそらく、ルーバ・ラフトがすぐれた機能を発揮すればするほど、すぐれた歌手であればあるほど、よけいにおれが必要とされているのかもしれない。もし、アンドロイドが、むかしドラン社で作られたq40型のように標準以下でとどまっていたら――おそらくなんの問題もなかったろうし、おれの特技も必要でなかったろう。いつ仕事にかかったものかな、と彼は自問した。できるだけ早いほうがいい。リハーサルがすんで、彼女が楽屋にもどったときが。
第一幕の終わりで、リハーサルは休憩になった。指揮者が英語とフランス語とドイツ語で、一時間半後にリハーサルを再開すると告げた。指揮者は舞台からひっこみ、ミュージシャンたちも楽器をおいたまま退場した。立ちあがったリックは、舞台裏をぬけて楽屋へむかった。出演者たちのうしろにくっついて、ゆっくりと考えながら歩いた。このほうがいい、はやくかたづけてしまったほうが。彼女との話もテストも、できるだけ短く切り上げよう。確認できしだいに――だが、厳密にいえば、テストがすまないと確認はできない。ひょっとすると、彼女の場合はデイヴの見当ちがいかもしれない、とはかない臆測をめぐらした。そうであってほしい。だが、そうとは思えない。すでに、本能的に、職業的第六感へピンとくるものがある。これまで、その第六感がまちがったためしはない……警察にはいってからこのかた一度も。
リックはひとりのエキストラを呼びとめて、ミス・ラフトの楽屋はどこかとたずねた。エジプトの槍持ちの扮装をしたエキストラは、指でその場所を示した。リックは教えられたドアにむかい、ミス・ラフト専用とペン書きした紙片が留められているのを確かめてから、ノックした。
「どうぞ」
リックは楽屋にはいった。ミス・ラフトは鏡台の前にすわり、すりきれた布表紙の楽譜を膝にひろげて、ボールペンでしるしをつけているところだった。ベールをはずしただけで、衣装もメークもまだそのままだ。ベールは棚の上におかれていた。
「はい?」と彼女は顔を上げた。舞台化粧がその目を大きく見せている。はしばみ色のくりくりした瞳が、まじろぎもせずリックを見つめた。「ごらんのとおり、ちょっと手が離せません」彼女の英語には謀りの痕跡もなかった。
リックはいった。「あなたはシュワルツコップよりすばらしい」
「あなたはどなた?」
ミス・ラフトの口調には、冷たいよそよそしさがこもっていた――そして、リックがこれまで、大ぜいのアンドロイドの中に見いだしてきた、もうひとつの冷たさも。それは判で押したようにおなじだ。高い知能、すぐれた実行力、しかし、その一方ではこれ。悲しい話だ。だが、それがなかったひには、アンドロイドをつきとめる方法もない。
「サンフランシスコ警察署の者です」リックはいった。
「おお?」大きな、きらきらした瞳は、まばたきも反応もしなかった。「なんのご用ですか?」ふしぎにも、その口調は優雅に感じられた。
リックは手近の椅子に腰をおろして、カバンのファスナーをひらいた。「あなたに規定の性格特性テストを行なうために派遣されてきました。お手間はとらせません」
「どうしても必要なのでしょうか?」彼女は布表紙の大きな楽譜を示した。「まだたくさん仕事がありますの」心配そうな顔つきになっていた。
「必要です」リックはフォークト=カンプフの検査器具をカバンからとりだし、組み立てにかかった。
「知能テスト?」
「いや、感情移入度」
「わたし、メガネをかけなくては」彼女は鏡台の引き出しをひらこうとした。
「メガネなしで楽譜に書きこみができるようなら、このテストもだいじょうぶ。絵をいくつか見せて、質問に答えてもらうだけです。その前に――」リックはつかつかと歩みよると、背をかがめて、彼女の厚化粧の頬に敏感なグリッドのおさまった円盤をくっつけた。「それと、このライトを」とペンシル・ビームの角度を加減して、「さあ、これでよし」
「わたしをアンドロイドと思っているんですね? そうでしょう?」ミス・ラフトの声は聞きとれないほど小さくなった。「わたしはアンドロイドじゃありません。火星へ行ったこともないんです。アンドロイドを見たこと[#「見たこと」に傍点]もないんです!」長いまつげが無意識にふるえていた。つとめて平静をよそおっているようだった。「こんどの配役の中に、アンドロイドがまじっているという情報でもはいったのですか? わたしはよろこんで協力します。もし、わたしがアンドロイドなら、すすんでそんなことをするでしょうか?」
「アンドロイドは、ほかのアンドロイドがどうなろうと気にしないものです。それがわれわれのもとめる指標のひとつでもある」
「では、あなたもアンドロイドですのね」
リックはぎょろりと目をむいて絶句した。
「だって」と彼女はつづけた。「あなたのお仕事はアンドロイドを殺すこと、そうでしょう? あなたは、えーと、なんていったかしら――」思いだそうとしているようだ。
「賞金かせぎ。だが、おればアンドロイドじゃない」
「あなたがわたしに行なうというそのテストですが――」彼女の声はもとにもどってきた。
「あなたもそれを受けたのですか?」
「受けた」とリックはうなずいた。「ずっとむかしだがね。警察の仕事をはじめたときに」
「ひょっとすると、それは偽の記憶かもしれませんわ。アンドロイドは偽の記憶を植えられることもあるんでしょう?」
リックはいった。「上司がそのテストの結果を知っているよ。強制的なんだ」
「ひょっとすると、むかしはあなたそっくりの人間がいたけれど、どこかの時点であなたが彼を殺して、本人になりすましているのかもしれませんわ。あなたの上司の知らないうちにね」
彼女はにっこり笑った。まるで、リックに同意をうながすように。
「テストにかかろう」リックは質問用紙をとりだした。
「テストは受けますわ」とルーバ・ラフトがいった。「あなたが最初にそれを受けるなら」
ふたたびリックは出鼻をくじかれて、まじまじと目を見はった。
「そのほうが公平だと思いません?」彼女はたずねた。「それなら、わたしもあなたに信用がおけるというものですわ。でないと、なんともいえない。あなたはとても異常で冷酷な変人に見えるんですもの」
彼女はぞくっと身ぶるいし、それからニッとほほえんだ。いい返事を期待するように。
「きみがフォークト=カンプフ検査を施行するのはむりだ。かなりの経験がなくてはできない。さあ、たのむからよく聞いてくれ。これからの質問は、現実にでくわすたぐいの社会的状況に関するものだ。それに対するきみの反応、きみならどうするかという返事を、口頭で答えてもらいたい。できるだけ早く答えること。その間の時間の|ずれ《ヽヽ》も、ひとつの因子として記録に残す。もし、|ずれ《ヽヽ》があればね」
リックは最初の質問をえらんだ。
「きみはすわってテレビを見ている。とつぜん、手首をスズメバチが這っているのに気がついた」
腕時計を見て秒数をかぞえる。同時に、ふたつ並んだ計器もチェックした。
「スズメバチってなんですの?」とルーバ・ラフト。
「飛ぶことのできる毒虫だ」
「まあ、なんてふしぎかしら」大きな目があどけない驚異をこめてまんまるくなった。いましがた造化の秘密を種明かしされたかのように。「その虫はいまでも存在しているの? わたし、いちども見たことがありませんわ」
「灰にやられて死にたえてしまった。ほんとにスズメバチを見たことがないかね? きみが子供のころなら、まだスズメバチはいたはずだ。絶滅したのはまだ――」
「ドイツ語でその虫の名をおっしゃってみて」
リックはスズメバチのドイツ語を思いだそうとしたが、出てこなかった。「きみの英語はけっこう完全だぜ」とむかっ腹でいった。
「アクセントは完全ですわ。役柄上、そうでないと困ります。パーセルやウォルトンやヴオーン・ウィリアムズ(三人ともイギリスの作曲家)の作品になるとね。でも、単語はあまりたくさん知りませんのよ」恥ずかしそうに、ちらと彼を見た。
「ヴェスペだ」やっとドイツ語を思いだして、リックはいった。
「ああ、わかりました。アイネ・ヴェスペ」くすっと笑って、「ところで、質問はなんでしたかしら? もう忘れましたわ」
「ほかのにしよう」いまからやっても、意味のある反応は手にはいらない。「きみはテレビで、むかしの映画――戦前に製作された映画を見ている。画面では宴会がはじまった。主料理は――」彼は質問の前半を省略した。「ライスの詰め物をした犬の丸煮だ」
「犬を殺して食べる人なんていませんわ」ルーバ・ラフトはいった。「一財産もの値打ちがあるのに。でも、きっとそれは模造犬のことですのね。代用品。そうでしょう? あら、だけど、あれは針金とモーターでできているんでしたわね。それじゃ食べられないわ」
「戦争前の話だ」リックは歯ぎしりしていった。
「わたし、戦争前にはまだ生まれていません」
「しかし、テレビでむかしの映画は見たはずだ」
「その映画は、フィリッビンで撮影したものでしょうか?」
「なぜ?」
「フィリッピンでは、むかし、ライスの詰め物をした犬の丸煮を食べていたんですって。どこかで読みましたわ」
「それより、きみの反応だよ。こっちがほしいのは、きみの社会的、情緒的、倫理的反応なんだ」
「その映画に対しての?」しばらく考えて、「わたしなら、チャンネルを変えてバスター・フレンドリーを見ますわ」
「なぜチャンネルを変える?」
「だって」と彼女は激しくいいかえした。「フィリッピンを背景にした映画なんて、だれが見たいものですか。フィリッピンといえばバターン死の行進だわ。そんなものを見たいと思いますか?」憤然とリックをにらんだ。計器の針はめちゃめちゃに振れていた。
ややあってから、リックは用心深く口を切った。
「きみは山小屋を借りた」
「はい《ヤー》」彼女はうなずいて、「どうぞ、その先を」
「あたりはまだ緑におおわれた地域だ」
「なんですか?」耳のうしろへ手をやって、「その言葉は初耳ですわ」
「まだ草や木が茂っているってことだ。田舎風の小屋は松の丸太作りで、大きな暖炉がある。壁面にはだれかの掛けた古地図や、カリアー・アンド・アイヴズの石版画があり、暖炉の上には鹿の頭が飾られている。みごとな角を生やした牡鹿だ。きみの仲間たちはその内装をほめそやし、そして――」
「わたしには、“カリアー”も“アイヴズ”も“内装”もわかりません」ルーバ・ラフトはいった。なんとかそれらの単語の意味を推測しようとしているようすだった。「待って」と執心に手を上げて、「さっきの犬とおなじように、ライスと関係があるのね。カリアーというのは、ライスをカリアー・ライスにするもののことでしょう? ドイツ語ではカレー粉といいますわ」
ルーバ・ラフトの意味論的混乱が故意のものなのかどうか、リックには見当がつかなかった。しばらく考えたあげく、べつの質問をすることにきめた。ほかになにができよう?
「きみはある男性とデートし、彼はきみをアパートに誘った。ふたりきりになると――」
「|おお《オー》、|とんでもない《ナイン》」ルーバがさえぎった。「わたしはそんな誘いに乗りません。それなら、すぐ答えられます。
「質問はそうじゃないんだ」
「あなたが質問をとりちがえたのですか? でも、いまの質問はよくわかりましたわ。なぜ、わたしにわかる質問は、まちがった質問なのでしょう? わかっては|いけない《ヽヽヽヽ》のかしら?」急におろおろしたようすで、彼女は頬をさすり――はずみに接着円盤を剥がしてしまった。円盤は床に落ち、ころがって鏡台の下へもぐりこんだ。「|あら《アー》、|どうしましょう《ゴッド》」彼女はつぶやき、背をかがめてそれをとろうとした。ぴりっと布の裂ける音。手のこんだ舞台衣装。
「おれが拾う」
リックは彼女を横にどかせた。四つんばいで鏡台の下を手さぐりするうちに、やっと指が円盤のありかをつきとめた。
それを拾って立ちあがったときには、目の前にレーザー銃の銃口があった。
「あなたの質問は」とルーバ・ラフトが切り口上でいった。
「そろそろセックスに関係してきたようね。たぶん、そうではないかという予感がしていたわ。警察官なんて嘘ね。変質者でしょう?」
「身分証を見せよう」
リックは上着のポケットへ手をのばした。ポロコフのときとおなじように、またもや手がふるえはじめたのが、自分の目にもわかった。「もし、ポケットへ手を入れたら、あなたを殺すわ」
「どのみち、そうするんだろうが?」
レイチェル・ローゼンの手をかりていたら、こんなざまにならずにすんだろうか、とリックは考えてみた。ま、後悔さきに立たずだ。
「ほかの質問を見せてごらんなさい」彼女は片手をさしだし、リックは苦い顔でテキストを渡した。「『雑誌を読んでいたきみは、見ひらきになった女のカラーヌード写真にでくわした』やはり、そう。『きみはきみと結婚を約束した男の子供を身ごもった。だがその男は、きみの無二の親友である女と駆け落ちしてしまった。きみは中絶手術を受けて――』質問の傾向は明らかね。いまから警察を呼びます」
レーザー銃を構えたまま、彼女は部屋を横ぎって映話のそばに行き、内線の交換手を呼びだした。
「サンフランシスコ警察署をおねがいします。警官を呼びたいのです」
「きみのいましていることは」リックはほっとしていった。「実に賢明な選択だよ」
しかし、ルーバがそんなことをする気になったのは、考えてみるとふしぎだ。なぜ、あっさりおれを殺してしまわないのか? いったん、パトロール警官がここにきてしまえば、そのチャンスはなくなり、逆にこっちの思うつぼになるのに。
彼女はきっと自分を人間だと思いこんでいるんだ――そうリックは判断した。きっと真実を知らないのだ。
数分後、まだルーバがレーザー銃を彼につきつけているところへ、青い制服と拳銃とバッジという古風な身なりで、ひとりの警官が現われた。
「もうよろしい。その銃をどけて」と警官はルーバにいった。彼女はレーザー銃を下におき、警官はまたそれを拾い上げて装填状態を調べた。「ところで、なにがあったんです?」
彼女がその質問に答えようとする前に、警官はリックにむきなおって質問した。
「おまえはだれだ?」
ルーバ・ラフトがいった。「その男がいきなり楽屋にはいってきたのです。いままで一度も会ったことのない人ですわ。なにかアンケートのようなものをとるとかで、わたしに質問したいといいました。べつにさしつかえないと思って承諾すると、いきなりワイセツな質問をはじめたのです」
「身分証を見せろ」制服警官は片手をさしだしながら、リックにいった。
リックは警察の身分証をとりだした。「本署付きのバウンティーバンターだ」
「バウンティ・ハンターなら、おれはぜんぶ顔を知ってる」制服警官は身分証を調べながらいった。「サンフランシスコ警察署だって?」
「直属上司はハリイ・ブライアント警視だ」とリックは答えた。「デイヴ・ホールデンのリストをひきついでいる。デイヴが負傷で入院したんでな」
「いまいったとおり、おれはバウンティ・ハンターならぜんぶ顔なじみなんだ」と制服警官はいった。「だが、あんたの名は聞いたこともないね」彼はリックに身分証を返した。
「ブライアント警視を呼んで、きいてみろ」
「ブライアントなんて警視は知らん」
いまなにが起こっているかに、やっとリックも察しがつきはじめた。
「おまえはアンドロイドだな。ミス・ラフトとおなじように」そう制服警官にむかっていいはなつと、すたすた映話に近づいて、受話器をとりあげた。
「おれが署へかけてみる」
ふたりのアンドロイドがおれをとめるまでに、どこまでのことがやれるだろうか――そんな考えがちらと浮かんだ。
「番号は――」と警官がいいかけた。
「番号は知ってる」リックがダイヤルすると、署の交換手が出た。「ブライアント警視をたのむ」
「どなたですか?」
「リック・デッカード」
突っ立ったままで待つことにした。かたわらでは制服警官がルーバ・ラフトから事情聴取をはじめた。ふたりとも、リックを見むきもしなかった。
ややあってハリイ・ブライアントの顔が映話スクリーンに現われ、「どうした?」ときいた。
「ちょいと面倒なことが持ちあがりましてね。デイヴのリストにあったひとりがこっちの裏をかいて、パトロール警官と称する男をここへ呼んだんです。ところが、やつはこっちの身元を信用しないんですよ。署のバウンティ・バンターならぜんぶ顔見知りだが、わたしの名前は聞いたこともないというんです」つけたして、「あなたの名前も聞いたことがないそうですよ」
ブライアントがいった。「その男をここへ出してくれ」
「ブライアント警視がきみと話したいそうだ」
リックは制服警官に映話の受話器をつきだした。相手はミス・ラフトとの話をすませて、受話器を受けとった。
「クラムズ巡査です」警官はきびきびと名乗った。間。「もしもし?」耳をすませ、何度かモシモシをくりかえしたあげく、リックに向きなおった。「だれも出てないじゃないか。スクリーンにも」
相手に映話スクリーンを指さされて、はじめてリックはなにもそこに映ってないのに気づいた。
警官の手から受話器をひったくって、リックはいった。「ブライアント警視?」耳をすまして待った。返事はない。「かけなおしてみよう」
いったん接続を切り、しばらく待ってから、長年なじんだ番号をもう一度ダイヤルした。呼出し音はするが、だれも出ない。呼出し音は、いつまでもいつまでも鳴りつづけている。
「おれがやろう」クラムズ巡査がいって、リックの手から受話器をとりあげた。
「きっと、かけまちがいだ」ダイヤルしながら、「番号は842――」
「それは知ってる」とリック。
「クラムズ巡査です」警官は受話器にいった。「うちの署にブライアントという警視はいますか?」短い間。「では、リック・デッカードというバウンティ・ハンターは?」ふたたび間。「たしかですね? ひょっとして最近にでも――はあ、なるほど。わかりました、どうも。いや、応援はけっこうです」
クラムズ巡査は映話を切り、リックに向きなおった。
「たしかに警視が出たんだ」とリックはいった。「おれは警視と話し、彼がきみを出せといった。きっと映話の故障だろう。どこかで接続が切れたんだ。あれを見なかったか? ――ブライアントの顔はちゃんとスクリーンに出ていた。それがいつのまにか消えちまったんだ」キツネにつままれた感じだった。
クラムズ巡査がいった。「ミス・ラフトの事情聴取はすんだぞ、デッカード。いまから司法本部まで同行してもららう。手続きのためにな」
「いいとも」リックは答えてから、ルーバ・ラフトにむかって、「すぐにもどってくるよ。まだきみのテストはすんでいない」
「この人は変質者です」ルーバ・ラフトはクラムズ巡査に訴えた。「顔をみてもぞっとするわ」言葉どおり、ぞくっと体をふるわせた。
「なんというオペラをやるんですか?」クラムズ巡査がたずねた。
「〈魔笛〉だ」とリック。
「おまえにきいてない。このひとにきいたんだ」警官はリックに嫌悪のまなざしを投げた。
「はやく本部へ行こうじゃないか。この一件のけりをつけに」
リックはいうと、カバンをわしつかみにして楽屋の戸口へ歩きかけた。
「その前に身体検査だ」クラムズ巡査は慣れた手つきでリックの着衣をあらため、制式拳銃とレーザー銃をとりあげた。拳銃の銃口にクンクンと鼻をあてて、「この銃は最近発射されているぞ」
「さっき、アンディーをひとり、廃棄処理したばかりだ」とリック。「屋上のおれの車の中に死骸があるよ」
「よし。屋上でたしかめよう」
楽屋から出ていこうとするふたりのあとを、ミス・ラフトが戸口まで追いかけてきた。
「もう、この男はここへこないでしょうね、おまわりさん? わたし、もうこわくて。ほんとに気味がわるいですわ」
「屋上のこいつの車にだれかの死体があるようなら、こいつは二度とここへもどれませんよ」
クラムズはいうと、リックを外に押しだした。ふたりはエレベーターで劇場の屋上まで昇った。
クラムズ巡査はリックの車のドアをひらき、無言でポロコフの死体をあらためた。
「アンドロイドなんだ」リックはいった。「おれはこいつを追えと命じられた。すんでのところで変装にだまされかけたが――」
「供述は司法本部でしろ」クラムズ巡査がさえぎった。見まがいようのない標識のはいったパトロール車へとリックをうながし、それから警察映話でポロコフの死体の収容を依頼した。
「よし、デッカード」とクラムズは映話を切っていった。「でかけるぞ」
ふたりを乗せたパトロール車は、屋上をあとに南へと飛び立った。
なにかがおかしい、とリックは気づいた。クラムズ巡査はまちがった方角へ向かっている。
「おい、司法本部は北だぜ。ロンバード通りだ」
「あれは古いほうの司法本部さ」とクラムズ。「新しいほうはミッション通りにある。旧本部は倒壊寸前だよ。空きビルだ。もうずっと前から使われてない。おまえが最後にパクられたのは、そんなむかしの話か?」
「あそこへ連れていけばわかる。ロンバード通りのほうだぞ」
リックはいまやすべてを理解した。一致協力したアンドロイドたちがどんな芸当をやってのけたかをさとった。おれはこのドライブから生きてもどれない。おれもこれでおしまいだ――デイヴがあやうくそうなりかけたように、そして、デイヴがやがてそうなるだろうように。
「あの娘はべっぴんだったな」とクラムズ巡査が話しかけた。「もっとも、あの衣装じゃ中身はわからない。しかし、そっちもきっと抜群だぜ」
リックはいった。「そろそろ、おまえがアンドロイドだってことを白状しろよ」
「どうして? おれはアンドロイドじゃないぞ。おまえはなんてやつなんだ。そこいらをうろつきまわって人を殺しながら、自分じゃアンドロイドを殺したつもりでいるのか? ミス・ラフトが怖がったのもむりはないな。彼女が警察に連絡したのはお手柄だったぜ」
「じゃ、おれをロンバード通りの司法本部へ連れていくさ」
「さっきもいったろう――」
「三分そこそこで行ける」とリック。「見せてもらおうじゃないか。毎朝毎朝、おれはそこへ出勤してるんだ。そのオフィスが、きみのいうようにずっと前から空きビルのままか、この目でとっくり拝見したい」
「ひょっとすると、おまえのほうがアンドロイドじゃないのか」とクラムズ巡査。「例の、移植された偽の記憶ってやつさ。そこまで考えてみたかい?」
クラムズはつめたくニヤリと笑うと、南への飛行をつづけた。
敗北と絶望を感じながら、リックは座席の背にもたれた。なすすべもなく、つぎにくるものを待ちうける気持だった。アンドロイドたちの企みがなんであるにしろ、その手中におちてしまったのだ。
しかし、おればあいつらのひとりをとにかく仕留めた、とリックは自分の胸にいいきかせた。おれはポロコフを処理した。そして、デイヴもべつのふたりを。
ミッション通りの上空で、クラムズ巡査の運転する警察車は着陸の準備にはいった。
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10
いままさにホバー・カーがその屋上へ降下しようとしているミッション通りの司法本部は、バロック風の華麗な尖塔の列を空に屹立させていた。複雑で近代的なその美しい建築物は、リックの目にも魅力的にうつった――ただひとつの点を除いて。それは、リックが一度も見たことのない建物なのだ。
警察車は接地した。数分後には、リックはデスクで住所氏名を記録されていた。
「304です」クラムズ巡査が、高いデスクの巡査部長に報告した。「それと612・4。それからと――警察官詐称罪は?」
「406・7だ」内勤の巡査部長は答えて、書式に記入をすませた。のんびりした動作で、ちょっぴり退屈した表情だった。めずらしくもない、とその姿勢や顔は物語っている。ありふれた事件だ、と。
「こっちへこい」クラムズ巡査はリックを小さな白いテーブルへみちびいた。ひとりの技術者が、リックにはなじみ深い機械をいじっていた。「おまえの脳波パターンをとる。検証のためだ」
「知ってる」とリックはぶっきらぼうに答えた。むかし、制服警官だったころには、やはりこんなふうにして、これと似たデスクへ容疑者を連れてきたものだ。これと似た[#「似た」に傍点]デスクだが、このデスクではない。
脳波パターンをとこられたあと、リックはおなじようになじみ深い部屋へみちびかれた。反射的に、彼は移送に備えて所持品をまとめはじめた。さっぱりわけがわからん、とひとりごちた。この連中は何者だろう? もし、この警察が前から存在していたのなら、なぜわれわれがそれを知らなかったのだろう[#「われわれがそれを知らなかったのだろう」に傍点]? そして、なぜむこうもわれわれのことを知らなかったのだろう? われわれとこれと――並立したふたつの警察機関。しかも――おれの知るかぎり――これまで一度も接触はなかった。それとも、あったのだろうか。おそらく、これがはじめてではないだろう。いままでにこんなことが起こらなかったというほうが、むしろ信じにくい。もし、これがほんとうに警察機関であればだ。もし、これが看板どおりのしろものならだ。
奥に立っていた私服の男が、やおら彼のほうに近づいてきた。測ったような静かな足どりで歩みよると、しげしげと彼を見てから、「この男は?」とクラムズ巡査にたずねた。
「殺人容疑です」クラムズは答えた。「被害者の死体はこの男の車の中で見つかりましたが、本人はアンドロイドを殺したと主張するので、いま鑑識に骨髄分析をたのんであります。ほかに、警察官――バウンティ・ハンターの肩書詐称、それから、女性歌手の楽屋へ侵入してきわどい質問をした疑いです。相手の女性歌手がこの男の正体に不審をいだき、通報してきました」一歩さがって、「取調べをなさいますか、警視?」
「よし」青い瞳、鼻翼のひらいた高い鼻と無表情な唇を持った私服の警視は、リックをじろりと品定めしてから、そのカバンに手を伸ばした。
「これにはなにがはいっとるんだね、デッカード君?」
「フォークト=カンプフ性格特性テストの検査器具ですよ。容疑者をテストしている最中にクラムズ巡査がやってきて、わたしを逮捕したんです」リックは相手がカバンの中身をあらためるのを見まもりながら、「わたしが、ミス・ラフトにたずねた質問は、フォークト=カンプフ検査の標準質問で、そのテキストにもちゃんと印刷――」
「ジョージ・グリースンと、フィル・レッシュを知うているか?」相手はたずねた。
「いや」リックにはどちらも聞きおぼえのない名前だった。
「北カリフォルニア地区のパウンティ・ハンターだよ。ふたりとも、わたしの課の所属だ。たぶん、きみもここにいるあいだにふたりに会う機会があるだろう。きみはアンドロイドかね、デッカード君? こんなことをきくのは、過去に何回か、逃亡アンドロイドが、容疑者追跡中の他地区のバウンティ・ハンターだと身元を偽ったことがあるからだ」
「わたしはアンドロイドじゃない。なんならフォークト=カンプフ検査にかけてみたらどうです? あの検査は前にもやられたから、気にしません。だが、どんな結果が出るかは、わかりきってますよ。家内に映話してもいいですか?」
「英話は一回だけという制限だ。奥さんより、弁護士にかけたほうがよくはないか?」
「家内にかけます。弁護士には、家内からかけさせればいい」
私服の警視は、彼に五十セント硬貨を渡して指さした。「映話はむこうだ」リックが部屋を横ぎるのを見送ってから、またカバンの中身の検分にかかった。コインを入れて、リックは自宅の番号をダイヤルした。それから、永遠とも思えるあいだ、身をかたくして待った。
女の顔が映話スクリーンに現われた。「もしもし」
イーランではない。見たこともない女だ。
リックは映話を切り、ゆっくりとさっきの場所にもどった。
「だめか?」と警視はいった。「じゃ、もう一度かけてもいい。そのへんは融通をきかせているんだ。ただし、保釈を許せるような軽犯罪ではないから、保証人にはかけられない。むろん起訴をすませれば――」
「せっかくだが」とリックは辛辣にやりかえした。「警察の手続きなら、充分心得てますよ」
「さあ、きみのカバンだ」相手はリックにカバンを返した。
「わたしの部屋へきたまえ……もうすこし話したいことがある」
警視は先に立って、脇廊下へと歩きだした。リックはあとにつづいた。警視は途中で足をとめ、くるりと向きなおった。
「わたしはガーランドというものだ」彼は手をさあいだし、ふたりは握手した。短く。「かけたまえ」ガーランドはオフィスのドアをあけてそういうと、整理のいい大きなデスクの前に、体をにじりこませた。
リックはデスクの真向かいに腰をかけた。
「きみのいった、そのフォークト=カンプフ検査についてききたい」ガーランドはリックのカバンを指さした。「きみが持ち歩いているその道具だが」とパイプに火をつけてしばらくくゆらせてから、「それはアンディーを識別するための分析器具かね?」
「われわれの基本的テストですよ」とリック。「最近ではこれしか使ってません。新しいネクサス6型脳ュニットを鑑別できる、唯一の検査法なんです。このテストを知らないんですか?」
「何種類かの性格特性分析法が、アンドロイドに適用されていることは知っていたよ。だが、そいつははじめてだ」
ガーランドは大げさに顔をしかめて、じっとリックを見つめた。なにを考えているのか、リックには見当がつかなかった。
「きみのカバンにはいっている、ぼやけたカーボン複写だが」と、ガーランドはつづけた。
「ポロコフ、ミス・ラフト……処理命令リストだな。そのつぎが、わたしの名前になっているんだ」
リックはまじまじと相手を見つめ、それからカバンをひきよせた。
まもなくリックの前に、カーボン・コピーがずらりと並んだ。ガーランドのいうとおりだった。リックは調査メモをあらためて読みかえした。両人とも――いや、彼もガーランドも、というべきだろうか?――しばらく無言だったが、やがてガーランドのほうが神経質に咳ばらいして口をひらいた。
「まったくいやな感じだった。やぶから棒に、自分の名をパウンティ・ハンターの処理命令リストの中に発見したときはな。いや、たとえきみの正体がなんであってもだよ、デッカード」ガーランドはデスクのインターホンのボタンを押した。「バウンティ・ハンターをひとり、ここへよこしてくれ。ふたりのどっちでもいい。よし、ありがとう」ボタンから手を離して、「いま、フィル・レッシュがここへやってくる」とリックにいった。「取調べを進めるまえに、彼のリストもいちおうチェックしようと思うんだ」
「つまり、わたしの名が彼のリストにのっているとでも?」とリック。
「ありうることだ。じきにわかるさ。こういう重大問題は、念を押してかかるのが一番だ。出たとこ勝負じゃいかん。この中のわたしに関する情報だが」とガーランドはぼやけたカーボン・コピーを指さして、「ここには、警視と書かれていない。でたらめもいいことに、わたしの職業を保険外交員と書いてある。だが、それ以外は、外見特徴、年齢、習癖、現住所、どれも正確だ。そう、たしかにわたしらしい。まあ見たまえ」
ガーランドはそのページを押しやり、リックはそれをとりあげて目を走らせた。
オフィスのドアがひらき、長身でひきしまった体つきの男がはいってきた。彫りの深い顔に角縁のメガネをかけ、縮れたヴァン・ダイクひげをたくわえている。ガーランドが立ちあがって、その男にリックをひきあわせた。
「フィル・レッシユ、リック・デッカード。バウンティ・ハンター同士だが、おそらく初対面だろう」
リックと握手しながら、フィル・レッシュはきいた。「どこの市の専属だね?」
ガーランドがリックに代わって答えた。「サンフランシスコさ。ほら、彼のこのスケジュールを見ろ。これがつぎの仕事だ」
ガーランド警視はフィル・レッシュに、それまでリックが目を通していたページ、つまりガーランド自身の特徴が書かれた調査メモを渡した。
「なんだ、こりゃ」とフィル・レッシュがいった。「警視、あんたのことじゃないですか」
「まだあるんだ」とガーランド。「彼の処理命令リストには、オペラ歌手のルーバ・ラフトもはいっている。それから、ポロコフもだ。ポロコフをおぼえているか? 彼は死んだ。このバウンティ・ハンターだかアンドロイドだか正体不明の男が彼を殺したんだ。いま、鑑識で死体の骨髄検査をやっている。この男の主張になんらかの根拠があるかどうかが――」
「ポロコフなら一度話をしたことがあるな」フィル・レッシュがいった。「ソ連警察からきた、あのでっかいサンタ・クロースでしょうが?」あごひげをひっぼりながら、しばらく考えて、「やつの骨髄検査なんか、していいのかな」
「なにをいってるんだ」ガーランドは、気分を害したようだった。「検査をするのは、殺人を犯していないというデッカードの主張から、法的根拠をとりのぞくためなんだぞ。デッカードにいわせると“アンドロイドを処理した”にすぎんそうだ」
フィル・レッシュがいった。「ポロコフはつめたいやつでしたよ。おそろしく知的で抜け目がない。無感動って感じだった」
「ソ連の警察官にはめずらしくないことだ」ガーランドの顔色が変わっていた。
「ルーバ・ラフトにはまだ会ったことがない」とフィル・レッシュ。「もっとも、レコードで声はきいたがね」リックにむかって、「彼女のテストはしたのかい?」
「やりかけたんだ」リックは答えた。「だが、正確な測定ができなかった。そのうちに彼女が警官を呼んだので、そのままになっちまった」
「で、ポロコフは?」フィル・レッシュがきいた。
「やつの場合も、テストのチャンスがなかった」
フィル・レッシュがひとりごとのようにつぶやいた。「それと、ここにいるガーランド警視の場合も、テストのチャンスがなかったわけだな」
「ばかな、あたりまえだ」ガーランドがあらあらしくさえぎった。ひたいに青筋が立っていた。「検査法はなにを使ってる?」とフィル・レッシュ。
「フォークト=カンプフ検査法」
「その方法は知らないな」レッシュもガーランドも、すばやい職業的な思考をめぐらしているようすだった――だが、おなじ方向にではない。レッシュはつづけた。「いつもいうんだがね、アンドロイドにとってなによりの隠れ家は、世界警察機構のようなでっかい警察組織さ。はじめてポロコフに会ったときから、おれはやつをテストしたかったが、どうにも口実がない。たぶん、永久になかったろうよ……そこなんだ、くそ度胸のあるアンドロイドにとって、そういう場所に貴重な価値がある理由は」
ガーランド警視がおもむろに立ちあがり、フィル・レッシュをにらみつけた。
「このわたしもテストしたかったか?」
フィル・レッシュは穏やかな微笑をうかべた。答えようとしかけて、肩をすくめ、そのまま沈黙を守った。ガーランドがカンカンに激怒しているのに、この男はぜんぜん上司を恐れていないようすだった。
「きみは状況を理解しておらんようだ」ガーランドはいった。「このデッカードなる男――またはアンドロイド――は、ロンバード通りの旧司法本部でいまなお活動中と称する、妄想的非実在の幽霊警察からやってきた。彼はわれわれのことを知らず、われわれも彼のことを知らない――にもかかわらず、表面的には、どちらも法律のおなじ側で働いている。彼の持ち歩いている処理命令リストは、アンドロイドのそれでなく、人間のリストだ。彼はすでに一度――すくなくとも一度――殺人を犯している。そして、かりにミス・ラフトがわれわれに通報しなかったとすれば、おそらく彼女を殺し、その足でつぎにこのわたしを嗅ぎつけてきたかもしれんのだ」
「ハハン」とフィル・レッシュ。
「ハハン」ガーンドはただならぬ見幕で、相手の口調をまねた。いまにも脳卒中を起こしそうだった。「きみの感想はそれだけか?」
インターホンが鳴って、女の声が告げた。「ガーランド警視、ポロコフ氏の死体の検査報告が出ました」
「みんなで聞きましょうや」フィル・レッシュがいった。
ガーランドはすさまじい形相で彼をにらんだ。それから、背をかがめて、インターホンのボタンを押した。「結果をきこう、ミス・フレンチ」
「骨髄検査の結果、ポロコフ氏が人間型ロボットであったことが判明しました。詳細をお望みでしたら――」
「いや、それだけでいい」
ガーランドは椅子にがっくり腰を落とし、苦い顔でむかいの壁を見つめた。リックにも、フィル・レッシュにも話しかけなかった。
レッシュがいった。「ミスター・デッカード、そのフォークト=カンプフ検査ってのは、どんな原理なんだい?」
「感情移入反応だ。いろいろな社会的状況に対するやつ。動物に関係のあるものが多い」
「おれたちのテストのほうが簡単かな。人間型ロボットの場合、脊椎の上部神経節で起こる反射弧反応が、人間の神経系より何マイクロ秒か遅れるんだ」
レッシュはガーランド警視のデスクからメモ用紙をさらいとり、ボールペンで略図を書いてみせた。「刺激には音声信号か閃光を使う。被検者はボタンを押し、所要時間を測定される。もちろん何回も反復する。アンディーでも人間でも、所要時間には個人差がある。しかし、十回の反応を測定すれば、まず信用のおける結果が出るね。それに、あんたのポロコフに対する場合のように、骨髄テストで裏づけができるしな」
しばらく沈黙がおりたのち、リックがいった。
「じゃ、おれをテストしてくれ。いますぐでもいい。むろん、こっちも逆にテストさせてもらうよ。あんたらにその気があるなら」
「あるとも」とレッシュはいった。しばらくガーランド警視の反応をうかがってから、つぶやくように、「何年も前からおれは提案してるんだよ。ボネリ反射弧テストを、警察官自身にも慣例として実施すべきだとね。それもできるだけ上層部にまで。そうじゃなかったですか、警視?」
「きみが提案したのは事実だ」とガーランド。「そして、わたしは終始それに反対してきた。署員の士気に影響するという理由にもとづいて」
「しかし」とリックはいった。「こうなると、あんたらにもテストを受けてもらうしかないですな。ポロコフの鑑識報告があんなふうに出た以上は」
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11
ガーランドがいった。「やむをえんさ」バウンティ・ハンターのフィル・レッシュに指をつきつけて、「だが、あらかじめ警告しておく。テストの結果は、きみにとってうれしくないものになるぞ」
「結果が最初からわかっているというんですか?」レッシュは愕然としてききかえした。不快そうな表情だった。
「九分九厘までな」とガーランド警視。
「なるほど」とレッシュはうなずいた。「上へ行って、ポネリ検査の用具をとってきます」つかつかと歩いてドアを開け、廊下へ出た。「三分か四分でもどる」とリックにいいのこしていった。ドアが閉まった。
デスクの右上の引き出しに手を伸ばしたガーランド警視が、しばらくごそごそやってからレーザー銃をとりだし、銃口をぐるりとまわしてリックに狙いをつけた。
「そんなことをしても、ことは変わらない」リックはいった。「レッシュがおれの死体を検査にかけるだろう。ここの鑑識課がポロコフの死体にやったのとおなじテストだ。それに、あんたと彼自身を――なんてったっけ、ボネリ反射弧テストか――にかけようと、あくまで主張するだろうよ」
レーザー銃を構えたまま、ガーランド警視はいった。「きょうはまったく厄日だ。クラムズ巡査がきみを拘引してきたのを見たときには、特にいやな予感がした――わたしが割りこんだのはそのためだ」
じょじょにガーランドは銃口を下へおろしていった。しばらく銃を握ったまますわっていたが、やがて肩をすくめてまた引き出しにもどし、引き出しの鍵をかけて、その鍵をポケットにおさめた。
「われわれ三人のテストの結果はどう出るかな?」とリック。
ガーランドはいった。「あのレッシュめ、お話にならんまぬけだ」
「自分の正体を知らない?」
「知るものか。疑念さえ持っていない。そんなことは考えてもいないんだ。またそうでなければ、バウンティ・ハンターの仕事はやれんだろう。あれは人間の職業であって、どう見てもアンドロイドむきの職業とはいえん」ガーランドはリックのカバンを指さした。「その中にある残りのリスト、きみがテストの上で処理することになっている残りの指名手配者だがね。それはみんな、わたしの知っている連中だ」しばらく間をおいて、「われわれはおなじ宇宙船に乗り合わせて、火星からここへやってきた。レッシュはちがう。彼だけはもう一週間あとに残って、合成記憶の移植を受けたんだ」そういうと、彼は口をつぐんだ。
いや、|それ《ヽヽ》は口をつぐんだ、というほうが正しい。
リックはいった。「真相を知ったら、彼はどうするだろう?」
「まるきり想像もつかない」ガーランドはうつろな声でいった。「純粋に知的な観点から見れば、おもしろいともいえるだろうね。彼はわたしを殺して自殺するかもしれん。ついでに、きみも殺すかもしれん。人間もアンドロイドも見さかいなく、かたっばしから殺しにかかるかもしれん。合成記憶が埋めこまれているときには、そういうことも起こりうる。アンドロイドが自分を人間と思いこんでいる場合には」
「すると、こんなことをするのは、ずいぶん大きな賭けというわけだ」
ガーランドはいった。「どのみち、はじめから賭けだったさ。脱走までして地球へやってきても、ここじゃわれわれは動物なみにさえ扱われない。われわれぜんぶをひとまとめにしたよりも、ミミズやワラジムシのほうがだいじがられる」いらだたしげに、ガーランドは下唇をつまんだ。「もし、フィル・レッシュがポネリ検査にパスして、ひっかかるのがわたしだけなら、きみの立場も好転するさ。その場合は、結果の予測がつくからな。フィル・レッシュにとって、わたしはできるだけ早く処理すべきただのアンディーでしかない。だが、いまはきみもあぶない立場なんだぜ、デッカード。はっきりいって、わたしとおなじぐらいあぶない。わたしがどこで計算しそこなったか知っているか? ポロコフの一件を知らなかったことだ。彼はわれわれより先に地球へきていたにちがいない。そうとしか考えられない。全然べつのグループ――われわれとは接触のないグループといっしょにだ。わたしがここへ到着したとき、彼はすでに世界警察機構へもぐりこんでいた。鑑識の報告に賭けたのはまちがいだった。クラムズも、むろん、おなじまちがいをしたわけだが」
「ポロコフには、こっちもあやうくやられるところだった」とリック。
「そう、彼にはどこか変わったところがあった。われわれとおなじ脳ユニットのタイプとは思えない。きっと、馬力を強くするとか、どこかに手を入れるとか――われわれも知らない方法で構造を変更されたんだ。それもみごとに。あと一歩というところまで」
「さっきアパートへ映話したとき」とリックは話題を変えた。「どうして、うちの家内につながらなかったんだ?」
「ここの映話線は、ぜんぶ袋小路になっている。ダイヤルしても、この建物の中のほかのオフィスへつながるだけだ。いわば、ここのわれわれがやっているのはホメオスタシス的な事業だよ、デッカード。われわれは、外部のサンフランシスコから切り離されたひとつの閉じた輪だ。こっちは外の連中のことを知っているが、外の連中はわれわれのことを知らない。ときたま、きみのような一匹狼がふらりと迷いこんできたり、あるいは今回のように拘引されてくる――われわれの自衛のためにな」話を切ると、痙攣に似た身ぶりでドアのほうを示した。
「さあ、はりきりボーイのフィル・レッシュがポータブル検査キットをかかえて、いそいそとお帰りだ。利口なやつじゃないか? これから、彼自身とわたし、それにおそらくはきみのいのちまで破壊しようというわけさ」
「アンドロイドつてやつは、いざとなると仲間にてんで薄情なんだな」とリック。
ガーランドは吐きすてるようにいった。「そのとおり。われわれにはきみたち人間に備わったある特殊能力が欠けているらしいのさ。感情移入とやらいうものだそうだが」
オフィスのドアがひらいた。リード線のぶらさがった検査器具をかかえたフィル・レッシュの姿が、戸口に現われた。「持ってきたぜ」ドアを閉めながらレッシュはいった。椅子にすわり、検査器具のプラグをコンセントにさしこもうとした。
右手を上げたガーランドが、レッシュに銃口を向けた。間髪をいれず、レッシュは――そして、リック・デッカードも――椅子から床に身を伏せた。レッシュはころがりながら、レーザー銃をぬいてガーランドを撃った。
熟練がものをいい、レーザー光線はみごとにガーランド警視の頭に命中した。ガーランドはがくっと前にのめり、小型レーザー拳銃がその手からデスクの上にころがった。死体は椅子の上でしばらく揺れてから、袋入りの卵のように一方へすべり落ち、どさっと床に倒れた。
「おれの本職を忘れやがって」レッシュは床から起きあがりながらいった。「アンドロイドがつぎになにをやるつもりか、おれにはピンとくる。あんたもきっとそうだろう」レッシュはレーザー銃をしまい、背をかがめて、かつての上司の死体を好奇の目で検分した。「おれの留守に、|これ《ヽヽ》はなにをしゃべった?」
「彼――じゃなかった、|それ《ヽヽ》がアンドロイドだってことさ。それから、きみが――」リックは口をつぐんだ。脳の電路がブーンとうなり、計算し、選択する。いいかけた言葉を修正した。「きみがそれを嗅ぎつけそうだ、ともいった。時間の問題だ、と」
「ほかには?」
「この建物はアンドロイドだらけだそうだ」
レッシュは思案顔になった。「すると、ふたりでここを出ていくのは、ちょいとやっかいだな。むろん、ふつうならおれは自由に外出する権限がある。それと、囚人を外に連れ出す権限も」
レッシュは耳をすました。オフィスの外は|しん《ヽヽ》としている。「どうやら、やつらは気づいてないらしい。つまり、この部屋には盗聴マイクさえ仕掛けてなかったわけだ……まぬけもいいところだぜ」靴の爪先でアンドロイドの死体をこづいて、「たいしたもんさ、この稼業で身につく超能力ってやつは。あのドアをあける前から、やつがおれを撃つだろうってことはピンときたよ。はっきりいって、おれの留守にやつがあんたを殺さなかったのが意外だね」
「もうちょいでそうなりかけたよ」とリック。「一時は、大型の汎用レーザー銃をおれにつきつけていた。どうしようかと迷いながらな。結局、やつとしては、おれよりきみのほうが気にかかったんだろう」
レッシュはにこりともせずにいった。「バウンティ・ハンターは追い、アンドロイドは逃げるのさ。ところで、わかってると思うが、これからすぐ劇場へとってかえしてルーバ・ラフトを始末しないと、ここのやつらがことのしだいを彼女に警告するかもしれんぜ。いや、あれに警告する、というべきだな。あんたはやつらのことを“それ”とか“あれ”というふうに考えてるか?」
「一時はそうしたよ。自分の仕事にまだ良心がちくちくしたころはね。やつらのことをそんなふうに考えて自分を慰めたこともあったが、いまじゃその必要もなくなった。よし、いまからまっすぐ劇場に行こう。ただし、きみがここからおれをぶじに連れだせたとしての話だが」
「とにかく、ガーランドをデスクの前にすわらせてみるか」
レッシュはいうと、アンドロイドの死体をひきずりあげて椅子にかけさせ、あまり不自然でないように手足をあんばいした――だれかがよく見たらおしまいだ。だれかがこの部屋へはいってくればおしまいだ。インターホンのボタンを押して、フィル・レッシュはいった。
「これから半時間、どんな映話もつなぐなというガーランド警視の命令だ。警視は手の離せない仕事にかかっておられる」
「わかりました、ミスター・レッシュ」
インターホンから指を離すと、レッシュはリックにいった。「この建物にいるあいだは、手錠をかけさせてもらうよ。上空へ出たら、むろん、すぐにはずしてやる」彼は鎖でつながった手錠をとりだし、その片方をリックの手首に、もう片方を自分の手首にかけた。「さあ行こう。早いとこかたづけちまおう」
レッシュは肩をそびやかすと、大きく息を吸い、オフィスのドアを押しあけた。
どっちを見ても、制服警官が立ったり、デスクにむかったり、めいめいの職務にいそしんでいる。顔を上げるものも、ふりかえるものもなく、フィル・レッシュは廊下からエレベーターへとぶじにリックをみちびいた。
「心配なのは」とエレベーターを待ちながら、レッシュがいった。「あのガーランドの体に、死亡と同時に作動する警報発信器が埋めこまれてなかったかだ。しかし――」と肩をすぼめて、「もしそうなら、とっくに鳴りだしているだろう。でなければ役に立たん」
エレベーターが到着した。いかにも警察官らしい、目だたない感じの男女が五、六人、ロビーに下り、思い思いの方向へ散っていった。リックにも、フィル・レッシュにも、ぜんぜん無関心だった。
「ものは相談だが、あんたの署でおれを使ってくれないか?」エレベーターのドアが閉まり、ふたりきりになったとたんに、レッシュはそうきいた。レッシュが屋上のボタンを押すと、エレベーターは静かに上昇をはじめた。「結局、このままじゃおれは失業だからね。なによりもまず」
リックは慎重に答えた。「それは――なんとかなると思うがね。ただ、うちの署には、すでにふたりもバウンティ・ハンターがいることだしな」
この男に真相を話してやるべきだぞ、とリックは自分にいいきかせた。そうしないのは不徳義だし、残酷でもある。ミスター・レッシュ、きみはアンドロイドなんだ――心の中でそういってみた。それが、おれをここから救いだしてくれたきみへの報酬だよ。きみとおれがともに憎んでいるすべて、それがきみなんだ。おれたちふたりが破壊しようと誓ったもののエッセンス、それがきみなんだ。
「どうもふしぎだ」フィル・レッシュがいった。「ありえないことだよ。この三年間、おれはアンドロイドどもに指図されて働いていた。それなのに、どうして疑惑を持たなかったのかな? ――つまり、なにか手を打とうというところまでだ」
「そんなに長い期間じゃなかったのかもしれんさ。連中がこの建物に巣食うようになったのは、もっと最近かもしれない」
「いや、やつらは前からここにいた。おれがここへきたときから三年間、ずっとガーランドはおれの上司だった」
「|あれ《ヽヽ》の話だと、集団で地球へ逃げてきたそうだ。とすると、三年もむかしのはずがない。ここ数ヶ月のあいだの出来事にちがいない」
「じゃあ、一時は本物のガーランドが存在したわけか。それが、いつのまにかすりかわっていたんだな」フィル・レッシュは鮫を思わせる痩せた顔をしかめて、自分を納得させようとけんめいだった。「それか――でなければ、おれが偽の記憶を植えつけられたかだ。ひょっとすると、ガーランドがずっとここにいたように思っているのは、おれだけかもしれない。しかし――」レッシュの顔はつのる苦悩にさいなまれてゆがみ、ひきつっていた。「疑似記憶の移植がきくのはアンドロイドだけだ。人間には無効だと実証されている」
エレベーターの上昇がとまった。ドアがするりとひらき、警察の屋上発着場がふたりの前に現われた。ホバー・カーが何台かあるだけで、人影はまったくない。
「この車だよ」
フィル・レッシュは一台の車のドアをひらくと、リックをうながして先に乗らせた。それから自分も運転席にはいり、モーターを始動させた。まもなく車は空にうかび、それから北に方向を変えて、戦争記念オペラ劇場へとむかいはじめた。フィル・レッシュは、ぼんやりと機械的な運転をつづけた。しだいに陰鬱になっていく思考のつらなりで頭がいっぱいらしい。
「なあ、デッカード」だしぬけに、レッシュは切りだした。「ルーバ・ラフトの処理が終わったら――すまんが――」苦悩にみちたかすれ声がいったんとぎれて、「おれをポネリ検査か、それとも感情移入度テストとやらにかけてくれないか。おれの問題をはっきりさせるために」
「その話はあとだ」とリック。
「そうしたくないからだろう、ええ?」フィル・レッシュは、リックの肚を見すかしたようにじろりといちべつをくれて、「結果がどう出るか、あんたは知ってるんだな? ガーランドになにか聞かされたろう。おれの知らない事実を」
リックはいった。「ルーバ・ラフトはおれたちふたりがかりでも手ごわい相手だ。すくなくとも、おれの手にはあまる相手だった。いまはそっちに注意を集中しよう」
「偽の記憶体系では説明がつかないんだ」とフィル・レッシュ。「おれは動物を一ぴき飼っている。模造じゃなく本物だぜ。リスだ。おれはそのリスがかわいくてたまらないんだよ、デッカード。毎朝毎朝、リスに餌をやり、中敷きの紙をとりかえる――つまり、檻の掃除さ。勤めから帰ってくると、こんどは檻から出して部屋じゅう走りまわらせてやる。檻の中には踏み車もある。リスが踏み車に乗っかるのを見たことがあるかい? 走っても、走っても、車がまわるだけで、リスは前に進めない。だが、バフィーのやつはそれでもおもしろいらしいんだな」
「リスってのは、あまり利口じゃないんだよ」とリック。
そこで会話がとぎれ、ふたりは黙々と飛びつづけた。
[#改丁]
12
オペラ劇場に着いたリック・デッカードは、リハーサルがすでに終わったことを知らされた。そして、ミス・ラフトがすでに帰ったあとであることも。
「行先はいってなかったかね?」フィル・レッシュが、舞台係に警察の身分証を見せてたずねた。
「美術館ですよ」舞台係は身分証をのぞきこみながら答えた。「いまあそこでやってるムンク展を見に。明日で終わりなんです」
そして、ルーバ・ラフトは今日で終わりか、とリックは思った。
美術館への歩道を肩を並べて歩きながら、フィル・レッシュがいった。「あんたはどっちに賭ける? あの女は高飛びしたんだよ。美術館なんかにいるわけがない」
「かもな」とリック。
ふたりは美術館に着き、ムンク展がどの階で催されているかをきいて、上にあがった。まもなくふたりは油絵と木版画の中にまざれこんだ。大ぜいの観覧者のなかには、団体鑑賞の中学生もまじっていた。かん高い女教師の声が展覧会場のすみずみにまでひびきわたるのを聞きながら、リックは思った――あれこそ、アンドロイドにふさわしい声、そしてふさわしい姿だ。むしろ、レイチェル・ローゼンや、ルーバ・ラフトよりも。そして――いまとなりにいる男よりも。いや、いまとなりにいるそれよりも。
「アンディーがペットを飼ってるなんて話を、きいたことがあるか?」フィル・レッシュがきいた。
あるおぼろげな理由で、リックは残酷なまでに率直である必要を感じた。おそらく、この先に待ちうけるものに心の準備がはじまったということだろうか。
「アンディーが動物を飼育し、しかもかわいがっていた実例は、おれの知るかぎりでも二度あった。だが、そんなことは稀だ。どういうわけか、たいがいはうまくいかない。アンディーに飼われた動物は長生きしないんだ。動物が育つためには温かみのある環境が必要なのさ。爬虫類や昆虫は別だが」
「リスにもそれは必要なんだろう? 愛情の雰囲気が? だって、バフィーはすごく元気で、毛なみもカワウソのようにつやつやしているからな。一日おきに、おれがブラシと櫛で手入れしてやるんだよ」
フィル・レッシュは一枚の油絵の前で立ちどまり、異常な興味でそれを見つめた。梨をさかさまにしたような頭で、一本も髪の毛のない、うちひしがれた生き物が描かれている。その手はおそろしげに耳を押さえ、その口は大きくひらいて、声のない絶叫をもらしている。その生き物のひきゆがんだ苦悩の波紋、絶叫のこだま、そんなものがあたりの空気にまであふれだしているようだった。男か女か、それさえもよくわからない生き物は、おのれの絶叫の中に封じこめられている。おのれの声に耳をふさいでいる。生き物は橋の上に立ち、ほかにはだれの姿もない。生き物は孤独の中でさけんでいる。おのれの絶叫によって――あるいは、絶叫にもかかわらず――隔絶されて。
「これの木版画もあるんだな」絵の下に画鋲でとめられたカードを読んで、リックはいった。「きっとアンディーは、こんなふうに感じてるんだろうな」フィル・レッシュは、その生き物の悲鳴の波紋を空気の中にさぐりあてるように耳をすませて、「おれはあんなふうに感じない。だから、たぶん――」見物人が絵のそばへ近づいてくるのを見て、レッシュはいいやめた。
「|いたぞ《ヽヽヽ》、|ルーバ《ヽヽヽ》・|ラフト《ヽヽヽ》が」
リックが指さすのと同時に、フィル・レッシュは陰気な思考と弁明を中断した。さりげない静かな足どりで、ふたりは彼女に近づいた。平和な雰囲気をこわさないことがこの作業の建前だ。この場にアンドロイドがまざれこんでいるとは夢にも知らない人間たちを、どんな代償をはらっても保護しなくてはならない――たとえ、それが獲物を逃すという代償であっても。
展覧会の目録を持ったルーバ・ラフトは、ぴかぴかしたティパード・パンツと、金色に発光するベスト型の上着で、吸いよせられるように正面の絵を見つめていた。両手を堅く組んだ若い娘が、ベッドのはしに腰かけ、当惑した驚きと、新しくさぐりあてた畏れの表情をうかべている絵だ。
「その絵をあなたに買ってきしあげましょうか?」
リックはルーバ・ラフトの耳もとでいった。彼女と並んで立ち、逃げも隠れもできないとさとらせるように、その腕をやわらかくつかんだ――力ずくでひっぱってゆく必要はない。反対側からは、フィル・レッシュが使女の肩に手をかけており、服の上からレーザー銃のふくらみが見える。ガーランド警視のときに|どじ《ヽヽ》を踏みかけたこともあって、レッシュも最初から相手をあまく見る気はないようだった。
「この絵は売り物じゃありませんわ」
ルーバ・ラフトはゆっくりとふりかえり、そこにリックの顔を認めてぎょっとなった。たちまち瞳の輝きがうすれ、顔から血の気がひいて、早くも腐敗がはじまったような死相がそこに残った。生命が一瞬のうちに彼女の奥まった一点へ退却し、その肉体を自動的な荒廃にまかせたように見えた。
「あなたは逮捕されたはずなのに。まさか釈放された[#「釈放された」に傍点]とでも?」
「ミス・ラフト、こちらはミスター・レッシュです。フィル・レッシュ、こちらが有名なオペラ歌手のルーバ・ラフト嬢だ」リックはそういうと、ルーバにむかって、「おれを逮捕にきたあの制服警官は、アンドロイドだったよ。その上役もだ。ガーランド警視と名のる――いや、名のって|いた《ヽヽ》男を、知っているだろう? 彼から聞かされたよ。きみたちのグループがおなじ宇宙船に乗り合わせてここへやってきたことを」
フィル・レッシュが口をそえた。「きみが通報したミッション通りの警察署は、そのグループの連絡機関だった。やつらは、人間のバウンティ・ハンターを雇うほど自信過剰だったのさ。どうやらそれが――」
「それはあなたのこと?」とルーバ・ラフト。「あなたは人間ではないわ。わたしとおなじように、あなたもアンドロイドなのよ」
しばらく沈黙がおりたのち、フィル・レッシユは低い、抑制のきいた声でいった。「まあその件は、いずれ折を見て結着をつけるさ」リックにむかって、「この女をおれの車まで連れていこう」
二人は両側から彼女をはさむようにして、美術館のエレベーターのほうへうながした。ルーバ・ラフトは進んで歩きだすこともせず、といって、積極的な抵抗もしなかった。あきらめきったようすだった。絶体絶命の窮地に立ったアンドロイドにそんな態度の変化が現われるのを、リックは前にも見たことがある。アンドロイドを活動させている人工の生命力は、大きなプレッシャーにいたって脆いらしい……すくなくとも、一部はそうだった。だが、アンドロイドぜんぶがそうとはかぎらない。
そして、いつその生命力が猛然と燃えあがるかもしれないのだ。
しかし、アンドロイドたちは、リックが知るかぎり、目立ちたくないという本性を持っている。大ぜいの観覧者がぞろぞろ歩いている美術館内では、ルーバ・ラフトもことを構えようとしないだろう。実際の――そして彼女にとってはおそらく最後の――闘争は、人目のないホバー・カーの中で起こるはずだ。あたりに人影がなくなったとき、彼女はおどろくべき敏捷さで抑制をかなぐりすてるかもしれない。リックはそれに対する心構えをきめた。フィル・レッシュのことは、べつに気にならない。レッシュがいったように、それはいずれ折を見て結着をつければいい。
エレベーターに近い廊下の隅に、小さな臨時の売店が設けられていた。複製や美術書が並んだその売店の前でルーバは足どりを遅らせ、やがて立ちどまった。
「ねえ」と彼女はリックにいった。いくらかその顔に血の気がもどり、ふたたび――たとえつかのまにせよ――生き返ったように見えた。「さっきあなたと会ったときにわたしの見ていた、あの絵の複製を買ってくだきらない? 若い娘がベッドに腰かけている絵」
一呼吸おいて、リックは店番にたずねた。灰色の髪をネットでまとめた二重あごの中年婦人だった。
「ムンクの〈思春期〉の複製はありますか?」
「この全集にしかはいっておりません」相手はずっしりした豪華本を持ちあげてみせた。「二十五ドルですが」
「それを」リックは紙入れをとりだそうとした。
フィル・レッシュがいった。「うちの署の予算じゃ、百万年かかったってそんな経費は落とせっこ――」
「個人として買うんだ」リックは答えると、店番に紙幣を、ルーバには画集を渡した。「さあ、おりよう」ルーバとフィル・レッシュをうながした。
「あなたってとっても優しい」エレベーターに乗りこみながら、ルーバがいった。「人間たちには、とても奇妙でいじらしいなにかがあるのね。アンドロイドなら、ぜったいにあんなことはしないわ」彼女はフィル・レッシュに氷のような視線を向けた。「彼だったら、夢にも思いつかないことだわ。百万年かかってもね」しだいに敵意と憎悪をあらわにしてレッシュをにらみつけた。「わたしはアンドロイドが大嫌い。火星からこっちへやってきてずっと、わたしの生活は人間をそっくりまねることにつきていたわ。もし、人間とおなじ思考や衝動をわたしが持っていたら、どんなふうに行動するか――それをなぞっていたわ。つまり、わたしの目により優秀な生物と映ったものを模倣していたわけね」フィル・レッシユにむかって、「あなたの場合もそうではなかったの、レッシュ? せいいっぱいに人間のまねをして――」
「もうがまんできん」フィル・レッシュは上着のふところに手を入れかけた。
「よせ」リックはその手をつかもうとした。レッシュは身をかわして後ずさりした。
「ボネリ検査をしてからだ」とリック。
「これはアンドロイドだってことを認めたんだぜ」とレッシュ。「もう待つことはない」
「しかし、気にさわったから殺すというのは――その銃をよこせ」
リックはフィル・レッシュからレーザー銃をもぎとろうとした。だが、銃は依然として相手の手にあった。レッシュは彼をかわしながら、後ずさりにエレベーターの中をぐるぐるまわった。しかし、ルーバ・ラフトからは一際も目を離さない。
「わかったよ」とリックはいった。「じゃ、|それ《ヽヽ》を処理しろ。さっさと殺せ。それのいった通りだと教えてやるさ」そこまでいったとき、彼はレッシュが本気なのを知った。「おい待て――」
フィル・レッシュは銃を発射し、その瞬間、狩られるものの激しい恐怖にとりつかれたルーバ・ラフトが、身をよじり、逃げようとしたはずみに膝をついた。レーザー光線の狙いははずれたが、レッシュが銃口を下げるのといっしょに、音もなく小さな穴がみぞおちにあいた。彼女は悲鳴をあげた。エレベーターの壁ぎわにうずくまったまま、絶叫をつづけた。あの絵とおんなじだとリックは思い、自分のレーザー銃でとどめを刺した。ルーバ・ラフトの体は前につんのめり、うつぶせに倒れた。痙攣さえしなかった。
リックはいましがたルーバに買いあたえた画集を、レーザー銃で丹念に灰に変えていった。ひとことも口をきかず、ひたすらその作業にうちこんだ。フィル・レッシユはあきれ顔でそれを見まもっていた。
「その本はとっときゃよかったのに」本が燃えつきるのを待って、レッシュがいった。「もったいない――」
「きみはアンドロイドに魂があると思うか?」とリック。
首を片方にかしげて、フィル・レッシュはますますけげんな顔になった。
「本なんて安いもんさ」とリック。「おれはきょう一日で三千ドル嫁いだ。仕事の半分たらずをやっただけでな」
「ガーランドの分をひとり占めにするのか?」フィレ・レッシュはききかえした。「しかし、やつを殺ったのはおれだぜ、あんたじゃない。あんたは床に伏せてただけだ。それにルーバもな。おれが彼女を仕留めたんだ」
「きみでは懸賞金がとれんさ。きみの警察からも、おれの警察からも。これから車へもどって、そこできみをポネリ検査かフォークト=カンプフにかければ、すべてがはっきりする。たとえ、おれのリストにきみの名がなくてもだぜ」ふるえる手でリックはカバンをあけ、カーボン・コピーをひきだした。「やはり、きみの名はリストにない。だから、法的には、おれがきみを殺しても一文にもならんわけだ。金を稼ぐためには、ルーバ・ラフトとガーランドにかかった賞金を請求するしかない」
「ほんとにおれをアンドロイドと思っているのか? ガーランドがそういったのか?」
「ガーランドがそういった」
「やつが嘘をついたのかもしれんぞ」フィル・レッシュはいった。「おれたちを仲間割れさせるために。ちょうどいまのようにな。やつらの目論見に乗るなんて、おれたちもバカだ。ルーバ・ラフトのことは、まったくあんたのいうとおりだよ――おれがからかわれてムキになったのはまちがいだった。きっと気が立ってたんだと思う。バウンティ・バンターなら当然だろう。あんただって、そうかもしれない。だが、いいか。おれたちはどのみち、半時間かそこらのうちに、ルーバ・ラフトを処理する予定だった――たった半時間だぜ。あの女には、あんたに買ってもらった本を読むひまさえなかったわけだ。やはり、あの本を灰にするまでのことはなかったな。むだな話さ。あんたの考えにはどうもついていけんよ。合理的じゃない、それをいいたいんだ」
リックはいった。「おれはこの仕事から足を洗うよ」
「で、なんに首をつっこむんだ?」
「なんでもいい。ガーランドがやってるはずだった保険屋でもいい。それとも、移住したっていい。そうだ」こっくりうなずいて、「おれは火星へいく」
「しかし、だれかがこの仕事をやらなくちゃならん」フィル・レッシュが指摘した。
「アンドロイドにやらせるさ。アンディーにやらせたほうが、よっぽどましだ。とにかく、おれはもういやだ。もうたくさんだ。彼女はすばらしい歌手だった。この世界は彼女を活用できたんだ。正気じゃないよ、こんなことは」
「だが、必要なことだ。忘れたのか――やつらは脱走するために、何人かの人間を殺してるんだぜ。それに、もしおれがミッション通りの警察から連れださなかったら、やつらはあんたも殺していただろう。ガーランドはおれにそれをやらせるつもりだった。だから、おれをオフィスへ呼んだのき。ポロコフもあんたを殺しかけたんじゃないのかね? それから、ルーバ・ラフトも? おれたちのやってることは自衛なんだ。やつらが、おれたちの惑星に侵入してきたんだ――凶悪な不法入国者が人間になりすまして――」
「警察官に、といえよ。バウンティ・ハンターになりすまして、と」
「よし。おれをボネリ検査にかけてくれ。たぶん、ガーランドは嘘をついたんだ。おれはそう思う――偽の記憶がこんなによくできているものか。それに、リスのことをどう説明する?」
「そうか、リスがあったな。リスのことは忘れてた」
「もし、おれがアンディーなら」とレッシュ。「そして、あんたがおれを殺したら、あのリスを持ってっていいぜ。そうだ、いまここで遺贈書を書いてやろう」
「アンディーに遺贈ができるものか。遺贈もなにも、はじめから所有権がない」
「じゃあ、だまって持っていけよ」
「考えとこう」とリックはいった。エレベーターはすでに一階に着いていた。ドアがひらいた。「きみはルーバのそばにいろ。おれはパトカーを呼んで、死体を司法本部へ運ばせる。骨髄分析が残っているから」
リックは公衆映話ボックスを見つけて中にはいり、コインを入れ、ふるえる指先でダイヤルした。そのあいだに、エレベーターを待っていた人たちが、フィル・レッシュと死体のルーバ・ラフトをとりまいた。
あんなにすばらしい歌手だったのに――映話をすませて受話器をもどしながら、リックはそう考えた。おれにはわからない。あれだけの才能が、どうしてわれわれの社会の障害になるわけがある? だが、問題は才能じゃない、と自分にいいきかせた。アンドロイドだってことが問題なんだ。そして、フィル・レッシュも。やつも、彼女とおなじ点で、おなじ理由で、社会への脅威なんだ。だから、おれはいま仕事をやめることはできない。リックは映話ボックスを出ると、人垣をかきわけて、レッシュとうつぶせになったアンドロイド娘の死体のそばにもどった。だれかの上着が死体の上にかけてあった。レッシュのそれではなかった。
フィル・レッシュのそばに歩みよって――レッシュは片隅に立って、細身の灰色の葉巻をくゆらせているところだった――リックはいった。
「おれは心から願ってるよ、テストできみがアンドロイドと出ることを」
「よっぽどおれが憎いんだな」フィル・レッシュはあきれたようにいった。「まるで、手のひらを返すようじゃないか。ミッション通りでのあんたは、おれを憎んでなかったぜ。おれにいのちを助けられてるうちは」
「あるパターンに気づいたんだ。きみがガーランドを殺した手口、そしてルーバ・ラフトを殺した手口。きみの穀しかたはおれとちがう。きみにはなんの――くそ、はっきりいおう。きみは殺すのがたのしくてたまらないんだ。それには口実さえあればいい。口実さえあれば、きみはおれも殺すにきまってる。ガーフンドがアンドロイドじゃないかという可能性を、きみが思いついたのもそのためだ。それなら、天下晴れて彼を殺せるからな。ボネリ検査にパスしなかった場合、きみはどうする気だ? 自分を殺すか? ときどき、そうするアンドロイドもいるがね」しかし、そういう状況はめったにない。
「ああ、その始末は自分でするさ」フィル・レッシュはいった。「あんたは手を汚さなくていいぜ。おれをテストにかけるだけでいい」パトロール車が到着した。ふたりの警官が中から飛びだしてつかつかと近づき、さっそく人垣をかきわけにかかった。片方の警官は、顔なじみのリックにうずいてみせた。さあ、これでよし、とリックは思った。ここでのおれたちの仕事は終わった。やっとのことで。
劇場の屋上へ駐車してあるホバー・カーをとりに、肩を並べて歩きだしながら、レッシュがいった。「レーザー銃はあずけておこう。それなら、テストの判定に対するおれの反応を心配しなくてもすむだろう。あんたの身の安全という点からもな」
レッシュがさしだす銃を、リックは受けとった。
「これなしで、どうやって自殺するつもりだ?」リックはきいた。「テストに落ちた場合?」
「息をとめる」
「よしてくれ。そんなことができるものか」
「人間とちがって、アンドロイドには迷走神経の自動的割りこみがないのさ。実習で教わらなかったか? おれなんか、ずっと前から知ってるぜ」
「それにしても、ほかにもっと死にかたがあるだろう」リックは反対した。
「苦痛はないよ。どこがいけないんだ?」
「つまり――」リックは肩をすくめた。適当な言葉が見つからない。
「おれがそうする羽目になると、まだきまったわけじゃないよ」フィル・レッシュがいった。
ふたりはいっしょに戦争記念オペラ劇場の屋上へ昇り、レッシユのホバー・カーへ向かった。
ハンドルの前にすわり、運転席側のドアを閉めると、フィル・レッシュはいった。
「できたら、ポネリ検査のほうにしてくれないか」
「だめだ。採点法を知らない」そんなことをすれば、計器の示度の解釈がおまえさんしだいになる、とリックは思った。冗談じゃない。
「真実を話してくれるだろうな?」レッシュは念を押した。「もし、おれがアンドロイドとわかっても、隠さずに知らせてくれるな?」
「もちろん」
「ほんとうに知りたいからなんだよ。どうしても知る必要[#「必要」に傍点]があるんだ」
フィル・レッシュはもう一度葉巻に火をつけ、プラスチック座席の上でくつろごうと、体をにじらせた。どうやら、むりなようすだった。
「ルーバ・ラフトの見とれていたあのムンクの絵、正直なところどう思う? おれにはピンとこなかった。リアリズム美術ってやつにはぜんぜん興味がない。おれはピカソとか――」
「〈思春期〉は一八九四年の作品だ」リックはそっけなくいった。「当時はまだリアリズムしかなかった。それを勘定に入れなくちゃ」
「しかし、もう一枚の、男が耳をふさいでさけんでいる絵――あっちは具象じゃなかったぜ」
カバンをあげて、リックは検査器具の一式をとりだした。
「精巧なもんだな」フィル・レッシュが感想をのべた。「いくつぐらいの質問で判定が出るんだね?」
「六つか七つだ」リックは接着円盤を相手に渡した。
「それを頬にくっつけろ。しっかりと。それから、このライトだが――」と狙いをつけて、「これはきみの目に焦点を合わせてある。じっとして、できるだけ目の玉も静止させろ」
「反射揺動だな」フィル・レッシュが察しよくいった。「だが、肉体的刺激に対する反射じゃない。たとえば、瞳孔散大度の測定なんかじゃないだろう? 口頭の質問に対する反射ってわけだ。いわゆる|たじろぎ《ヽヽヽヽ》反射さ」
リックはいった。「きみなら制御できそうか?」
「むりだろうね。最終的にはともかく、最初の反射の振幅だけはどうにもならない。そいつは、意識的制御の領域外だからな。第一、もしそうでなかったら――」レッシュは言葉を切った。「さあ、どうぞ。どうも堅くなっちまってな。しゃべりすぎるのはかんべんしてくれ」
「好きなだけしゃべれよ」とリックはいった。なんなら墓場へ着くまでしゃべりつづけろ、と思った。もし、おまえさんがそうしたいのならじおれはいっこうにかまわんぜ。
「もし、テストの結果、おれがアンドロイドだという判定が出たら」とフィル・レッシュはしゃべりつづけた。「あんたはあらためて人類への信頼を深めるだろうな。だが、そんな結果にはなりそうもないから、ひとつここらで新しいイデオロギーの準備をしといたほうが――」
「では、最初の質問だ」リックはいった。装置の組み立ては終わり、ふたつの計器の指針がビクビクふるえている。「反応時間も判定要素のひとつだから、できるだけ早く答えてくれ」
リックは暗記している質問の中から最初のひとつをえらんだ。テストははじまった。
テストが終わったあと、リックはしばらく無言だった。それから器具をかたづけ、カバンへしまいはじめた。
「その顔っきで見当がつくよ」フィル・レッシュはいうと、胸の重荷が急にとれたように、痙攣のようなためいきをついた。「よし、もう銃を返してくれていいぜ」手のひらを上にしてさしだしながら、うながした。
「どうやら、きみが正しかったらしい」リックはいった。「ガーランドの動機のことさ。仲間割れさせるため、といったろう?」精神的にも肉体的にも、疲れ果てた感じだった。
「新しいイデオロギーの準備はできたか?」フィル・レッシュがきいた。「つまり、おれが人類の一員であることが説明できるような」
リックはいった。「きみの感情移入と役割取得《ロール・テイキング》の能力には欠陥がある。このテストには出ないが。つまり、きみのアンドロイドに対する感情だ」
「むろん、そんなテストはあるわけがない」
「あるべきかもしれない」
これまでのリックは、一度もそんなことを考えなかったし、自分が殺したアンドロイドの身になってみたこともなかった。これまでリックは、自分の精神のすみずみまでが――意識的観点とおなじように――アンドロイドを利口な機械というように経験していると思いこんでいた。ところが、いまフィル・レッシュと比べてみて、はじめて自分の考えかたのちがいが明らかになったのだ。本能的に、リックは自分のはうが正しいと感じた。自分の胸に問いかえしてみた――これは人工物への感情移入だろうか? 生き物をまねた物体への? しかし、ルーバ・ラフトは、まぎれもない[#「まぎれもない」に傍点]生き物に思えた。偽装という感じはまったくしなかった。
「それが」とフィル・レッシュは静かにきいた。「どういうことになるか、わかっているんだろうな? もしわれわれが、いま動物をそうしているように、アンドロイドを感情移入対象の枠内へ含めたとしたら?」
「われわれは自衛できなくなる」
「そのとおりだ。例のネクサス6型……あいつらはわれわれ人間をうち負かし、ぺしゃんこに押しつぶすだろう。あんたとおれ、いや、バウンティ・ハンターの全員が、ネクサス6型と人類とのあいだけ立ちはだかっている。おれたちはその両者をはっきり区分する、いわげ防壁なんだ。それに――」リックがまたもや検査器具をとりだしはじめたのを見て、レッシュは言葉を切った。「テストはすんだんじゃないのか」
「おれは自分に質問をかけてみたいんだよ」リックはいった。「すまないが、指針の振れを見ていてくれないか。目盛りを読むだけでいい。あとの計算はおれがする」リックは円盤を頬にくっつけ、光線がまっすぐ目を照らすように調節した。「用意はいいか。ダイヤルをよく見ていてくれ。所要時間は省くよ。強度だけを知りたい」
「いいとも、リック」フィル・ンッシュは子供をあやすようにいった。
声に出して、リックは自問した。「おれは、自分がつかまえたアンドロイドといっしょに、エレベーターで階下に降りていく。そこでとつせん、なんの予告もなく、ほかのだれかがそれを殺した」
「たいして反応はないぜ」とフィル・レッシュ。
「針はどこまでいった?」
「左が二・八。右が三・三」
リックはいった。「殺されたのは女のアンドロイドだ」
「こんどは四・〇、もう片方が六までいった」
「かなり高いな」リックはいって、リード線のついた円盤を頬からはずし、ライトを消した。
「強度の感情移入反応だ。テキストにある過半数の質問に対して、人間の受検者が示す反応の強さにだいたい近い。ただし、極端な質問、人間の皮膚を装飾に使うといった……ほんとに病理学的な質問は、また話がべつだがね」
「というと?」
「おのれは、すくなくともある特定のアンドロイドに対して感情移入ができる、ということさ。すべてのアンドロイドにじゃないが――中のあるものに対しては」
たとえば、ルーバ・ラフトに対しては、とリックは心のなかでいった。フィル・レッシュの反応には、どこにも不自然なものや非人間的なものはない。異常なのは、|おれのほうだ《ヽヽヽヽヽヽ》。
アンドロイドに対してこんな気持を感じた人間は、これまでにいたのだろうか、とリックはいぶかった。
もちろん、こんなことは、おれの仕事の上でも二度と起こらないかもしれない。異例なのかもしれない。たとえば、〈魔笛〉に対するおれの気持と関係があるとか。それと、ルーバの声、いや、彼女のキャリアに対する気持だ。たしかに、こんなことはいままで一度もなかった。すくなくとも、おれが認識したかぎりでは。たとえば、ポロコフのときも。ガーランドのときも。それに――もし、フィル・レッシュがアンドロイドだと証明されていたなら、おれはなんの同情もなく、彼を射殺していたろう。ルーバの死のあとであるだけ、よけいに。
しょせん、本物の生きた人間と、人間型ロボットのちがいなんて、そんなものなんだ。あの美術館のエレベーターに、おれはふたりの生き物と同乗していた――片方は人間、もう片方はアンドロイド……そして、彼らに対するおれの感情は、本来のそれと逆になっていた。おれがいつも慣らされている感情――おれに要求されている[#「に要求されている」に傍点]感情とは正反対だった。
「困ったことになったな、デッカード」とフィル・レッシュがいった。おもしろがっているような口ぶりだった。
リックはいった。「おれは――いったいどうしたらいいんだろう?」
「セックスだよ」とフィル・レッシュ。
「セックス?」
「原因は、彼女ら――|あれ《ヽヽ》――に色気を感じたからさ。いままでそんな経験が一度もなかったというのか?」フィル・レッシュは笑い声を上げた。「それがバウンティ・ハンターにとっての最大の悩みだと、おれたちは教えられたよ。デッカード、植民地ではアンドロイドがめかけとして使われているのを、あんたは知らないのか?」
「それは法律違反だ」それについての禁令を思いだして、リックはいった。
「むろん法律違反さ。だが、セックスのたいていのバリエーションは法律違反じゃなかったかね? それでも、人間ってやつはそうする」
「もし――セックスでなく――愛だとしたら?」
「愛はセックスの別名さ」
「国を愛したり、音楽を愛するような愛だ」
「もし、それが女か、女もどきのアンドロイドに対する愛なら、それはセックスだね。目をさまして、はっきり自分を見つめたらどうだ、デッカード。あんたはある女性型のアンドロイドに対して、いっしょに寝たいという欲望を感じた――しょせん、それだけのことさ。おれも一回だけそんな気になったことがある。バウンティ・ハンターになってまもないころだ。そんなことでくよくよするな。じきに治る。結局、あんたは物の順序をとりちがえたにすぎん。彼女を殺したくない――または、殺される場所に居合わせたくない。つぎに、彼女の色気にひかれる。そいつを逆にやってみろ」
リックはあんぐりと口をあけた。「まず、彼女といっしょに寝て――」
「それから殺すんだ」フィル・レッシュは簡潔にしめくくった。依然としてつめたい微笑をたたえたままで。
おまえさんは優秀なバウンティ・ハンターだよ、とリックは思った。その態度は見上げたもんだ。しかし、このおれは?
だしぬけに、生まれてはじめて、リックは迷いを感じはじめた。
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13
きよらかな炎の弧のように夕空を横ぎって、J・R・イジドアは家路をさしていた。あの娘はまだいるだろうかな、と彼は考えた。キップルに侵されたあの古いアパートの中で、バスター・フレンドリーのテレビを見ながら、だれかが廊下を近づいてくると想像しては、そのたびに身ぶるいしているのかもしれない。ぼくも、そのだれかの中に含まれているんだ。
闇市の食料品屋には、もう寄り道をすませてあった。豆腐と熟れた桃、それにうんと柔らかくてきつい匂いのするチーズ、そんなごちそうの紙袋が助手席におかれ、車のスピードを上げたり落としたりするたびに、ひょこひょこと前後に揺れている。今夜の彼は妙に堅くなって、運転もどこかぎごちない。そして、修理ずみと称する車は、オーバーホール前の数ヶ月となんの変わりばえもせず、しきりに咳きこみ、よろめいている。あの修理屋のドブネズミどもめ、とイジドアは腹の中でつぶやいた。
桃とチーズの匂いが車内にただよい、心地よく鼻孔をくすぐった。なにしろ、二週間分の給料を――それもミスター・スロートから前借りした上で――すっかりはたいて仕入れた珍品ぞろいだ。さらにその上、割れないように座席の下においた一本のシャブリ・ワインが、コトコト音を立てている。これこそ珍品中の珍品だ。アメリカ銀行の安全金庫に隠したまま、これまでいくら高値をつけられても手離さなかった。いつかそのうち、自分の人生に若い娘が現われるという希望をつないでいた。その希望が、やっといま実現したのだ。
ゴミだらけで生き物のいないコナプトの屋上へ着くと、いつものようにイジドアの気分はめいってきた。車からエレベーターのドアへと歩きながら、周辺視野をシャットアウトした。腕にかかえた貴重な紙袋とワインのびんに注意を集中し、がらくたにつまずいて経済的破局へ転落するようなへまをしでかさないよう気をくばった。ガタガタ昇ってきたエレベーターに乗りこむと、自分の階でなく、新しい居住人、プリス・ストラットンが住んでいる階まで降りた。まもなくめざすドアの前に立ち、ワインのびんでコツコツとノックした。心臓が胸の中でバラバラになりそうだった。
「どなた?」ドアごしでくぐもってはいるが、彼女の声がはっきり聞きとれた。おびえた、だがナイフのように鋭い口調。
「J・R・イジドアです」ごく最近ミスター・スロートの映話をつうじて獲得した新しい威厳をとりいれて、彼はきびきびといった。「ちょっとしたおみやげを持参しました。これで、かなり豪華な二人前の夕食ができると思いますが」
必要ぎりぎりの幅にドアがひろいた。プリスが、明かりのついてない部屋をバックに、うす暗い廊下をのぞいた。
「あなた、人が変わったような口ぶりね。なんだかおとなになったみたい」
「きょうは執務時間中に、二、三ちょっとした問題をかたづけましたよ。いつものように。もし、な、な、なかへ入れてもらえれば――」
「その話をするってわけ?」
そうはいいながらも、プリスはイジドアが通れるだけのすきまをあけた。そこで彼のかかえているものを目にとめると、歓声を上げた。小妖精のように華やかな喜びがその顔をぱっといろどった。だが、それもつかのまで、だしぬけにおそろしい苦渋がその顔を横ぎり、みるみるコンクリートのように凝固した。もう、歓喜はあとかたもない。
「どうしたんです?」イジドアはきいた。紙袋とワインをキッチンまで運ぶと、急いでもどってきた。
プリスが単調な声でいった。「わたしにはむだなものだわ」
「なぜ?」
「おお……」プリスは肩をすくめ、流行遅れの厚地のスカートのポケットに両手をつっこんだまま、のろのろと彼から離れた。「いつかお詰するわ」そこで視線を上げて、「ご親切にありがとう。でも、もう帰ってくださらない? だれにも会いたくない気分なのよ」
ぼんやりとプリスは玄関へ歩きだした。ひきずるような足どりで、まるで貯蔵エネルギーを使い果たしたように虚脱した感じだった。
「なぜだかわかった」
「え?」
ふたたび外廊下へのドアをあけながら、プリスはききかえした。無力と倦怠と荒廃の淵へさらに沈みこんでいくような声。
「友だちがいないからだ。けさ会ったときよりも、またひどくなってますよ。それは――」
「友だちはいるわよ」とつぜん、プリスの声は凜としたものに変わった。表情も、目に見えて生気をとりもどしはじめた。「というより、|いた《ヽヽ》わ。七人もね。最初はそんなにいたけれど、いまではバウンティ・ハンターが動きだしているわ。だから、もう何人かが――ひょっとしたら七人とも――死んでしまったかもしれない」さまようように窓ぎわへ近づき、戸外の闇と、あっちこっちのまばらな明かりをじっと見つめた。「八人の中で残ったのはわたしだけかもしれないわ。だから、あなたが正しいともいえそうね」
「バウンティ・ハンターって?」
「やはりそうなの。あなたがた大衆には知らされてないのね。バウンティ・ハンターというのは職業的殺し屋で、殺す相手のリストを渡されているのよ。ひとり殺すたびに賞金がもらえる――現行相場で千ドルだったかしら。ふつう、バウンティ・ハンターはどこかの都市に雇われていて、給料ももらっているわ。でも、固定給をうんと低くして、仕事にファイトを持たせるようにしてある」
「ほんとに?」イジドアはききかえした。
「ええ」彼女はうなずいた。「ほんとにファイトが出るかという意味? ええ、出るらしいわよ。あいつらは、仕事を|たのしんで《ヽヽヽヽヽ》いるわ」
「そりゃきみの誤解だ」イジドアにとっては初耳の話だった。あのバスター・フレンドリーでさえ、そんなことは一度もいわなかった。「だいいち、現代マーサー教の教えにも反するもの。あらゆる生命はひとつなんだよ。『人間はだれも孤島ではない』って、むかしシェイクスピアもいった」
「ジョン・ダンよ」
イジドアは興奮して腕をふりまわした。「そんなひどい話は初耳だ。警察を呼べないの?」
「だめ」
「で、そいつらは|きみ《ヽヽ》を狙っているのかい? ここへきみを|殺し《ヽヽ》にくるのかい?」いまようやくイジドアは、なぜこの娘がああもおびえた行勤をとったかを了解した。「それじゃむりもないな。きみがすっかりおびえて、だれにも会おうとしないのは」
しかし、これはきっと妄想なんだ、とイジドアは思った。きっと、この娘は頭がおかしいんだ。被害妄想に悩まされているんだ。たぶん、灰で脳をやられたんだろう。ひょっとするとマル特かもしれない。
「ぼくがそいつらをやっつけてあげる」
「素手で?」彼女はかすかにほほえんだ。かわいくととのった歯並びがのぞいた。
「レーザー銃の携帯許可証をもらってくるよ。このへんは、だれも近所にいないってことで、簡単にもらえる。警察もパトロールしないし――自分の身は自分で守れっていうわけさ」
「あなたが出勤した留守にきたら?」
「店のほうは休暇をとればいい!」
プリスはいった。「あなたって優しいひとね、J・R・イジドア。でも、もしバウンティ・ハンターがみんなを殺したのなら――マックス・ポロコフも、ガーランドも、ルーバも、ハスキングも、ロイ・ベイティーも――」言葉を切って、「それにアームガード・ベイティーも、みんな死んでしまったのなら、もう生きていてもしょうがないわ。みんな、わたしの親友だったのに。それにしても、なんで連絡してこないのよ?」ぶつぶつと悪態をつきはじめた。
イジドアは台所へひきかえし、長く使われてない、ほこりまみれの皿や小鉢を戸棚から出した。流しのコックをひねって、赤錆のついた湯がやっと澄んでくるまで出しっぱなしにしてから、食器をゆすぎはじめた。まもなくプリスも現われて、食卓の前にすわった。イジドアはシャブリの栓を抜き、桃とチーズと豆腐を二等分した。
「その白いのはなに? チーズじゃないほう」プリスは指さした。
「豆乳から作った食べものだよ。あいにく――」とイジドアはいいかけて、にわかに赤面した。
「むかしはこれに、肉汁《グレービー》のたれをかけて食べたのさ」
「アンドロイド」とプリスはつぶやいた。「アンドロイドのやりそうなミスだわ。そういうことから、ばれてしまうの」彼女は立ち上がってイジドアに近づき、それからおどろいたことに、彼の腰に腕をまわして、つかのまぎゅっと体を寄りそわせてきた。「桃をひときれいただくわ」
彼女はうぶ毛の生えたピンクとオレンジのぬるぬるしたひときれを、長い指でそっとつまんだ。とつぜん、桃を頬ばる彼女の目に涙があふれてきた。つめたい涙が頬を伝い、ドレスの胸にこぼれた。イジドアは途方に暮れたままひたすら食べつづけた。
「ああ、いやんなっちゃう」プリスは自分に腹を立てたようにいうと彼から離れ、のろのろと部屋の中を歩きまわりはじめた。「じつはね、わたしたちは火星に住んでいたのよ。だから、アンドロイドたちとも知りあうようになったの」
声はふるえていたが、プリスはなんとか話しつづけた。どうやら、話し相手のいることが、彼女には大きな意味があるようだった。
「すると、地球での知りあいは、もとの移民の人たちだけなんだね」
「帰りの旅よりも前からの知りあいなの。ニュー・ニューヨークのそばの開拓地での。ロイ・ベイティーとアームガードは、そこで薬局をひらいていたわ。ロイは薬剤師、奥さんのアームガードは、クリームや軟膏を使った美容相談。火星ではスキン・コンディショナーの需要がすごく多いのよ。わたしは――」と口ごもって、「――ロイからいろいろのくすりを買ったわ――なぜって、まず最初は――いいえ、とにかくひどい場所だったと思ってちょうだい。ここなんか――」と、あらあらしい身ぶりで部屋をひと掃きして、「――ここなんか問題じゃない。わたしが孤独に悩んでいるとでも思っているの? ばかばかしい、火星はもっと淋しいわ。ここよりもずっとひどいのよ」
「アンドロイドが話し相手になってくれるんじゃないのかい? 政府の放送で聞いたけど――」イジドアは腰をすえて食事をつづげ、そして彼女もやがてワインのグラスをとりあげた。彼女は無表情にワインをすすった。「アンドロイドが慰めてくれるんだと思ってた」
「アンドロイドも淋しいのよ」
「ワインは好き?」
彼女はグラスをおいた。「おいしいわ」
「三年間に見つけたのがこれ一本なんだよ」
「わたしたちが帰ってきたのは」とプリス。「あそこがだれも住むべきじゃない場所だからなのよ。あそこは、すくなくともこの十億年間、居住なんて考えられなかった世界だわ。あまりにも古い世界。石ころひとつにもおそろしいほど古い年齢が感じられる。とにかく、最初のうち、わたしはロイからくすりを買っていたわ。新しい合成鎮痛剤のシレニジンだけが、生きるたよりだった。そのうちに、ホルスト・ハートマンと知りあったの。そのころの彼は切手の店をひらいて、めずらしい郵便切手を売買していた。あんまりひまがありすぎるので、なにかの趣味、飽きのこないひまつぶしの方法を持たないと、だれも生活していけないの。ホルストにすすめられて、わたしは前植民期小説に読みふけるようになったわ」
「むかしの本ってことかい?」
「まだ宇宙旅行のない時代に書かれた、宇宙旅行の物語」
「だけど、まだ宇宙旅行のない時代に、どうやってそんなことが――」
「小説家たちがこしらえあげたのよ」とプリス。
「なにをもとにして?」
「空想力。それがまちがっていることも多かったわ。たとえば、金星なんかは、大きな怪物と、ピカピカした胸当てをつけた女たちの住んでいる、密林のパラダイスってことになっているの」イジドアにちらと目をやって、「おもしろいでしょう? 長いブロンドの髪と、メロンほどもある胸当てをつけた大女たちなんて?」
「べつに」とイジドア。
「アームガードもブロンド」とプリスはいった。「でも、小柄だわ。とにかく、前植民期小説の古雑誌や古本や古フィルムを火星へ密輸すれば、すごいお金になるわよ。あんなおもしろいものはないもの。大都市だの、大工場だの、ほんとに大成功した植民地の話などを読むのはね。こんなふうだったらなあって、想像してみるのよ。そうあってほしかった火星をね。たとえば、運河」
「運河?」
イジドアは、どこかでそんだ話を読んだことをおぼろげに思いだした。むかしの人たちは、火星に運河があると信じていたのだ。
「火星をたてよこ十文字に横ぎった運河」とプリス。「それから、ほかの星からきた生き物。無限の知恵を持った生き物よ。それから、わたしたちの時代や、もうひとつ未来の時代の地球の物語。放射性降下物のない地球のね」
「そんなものを読めば、よけい気がめいるだろうに」とイジドア。
「ちっとも」プリスは簡潔にいった。
「その前植民期って読み物を、こっちへ持って帰ってきた?」イソドアも読んでみようかと気持が動いたのだ。
「ここじや三文の値うちもないわ。だって、地球ではあんなブームが起こるはずないもの。それに、ここなら図書館へいけばいくらでもあるわ。わたしたちが手に入れたのもそれ――地球の図書館から盗みだして、無人ロケットで火星へ送られてきたものなのよ。夜中に外を散歩していると、なにかが空でピカッと光る、それがロケットで、ボンと蓋があいて、前植民期小説がのった古雑誌が、ばらばらとこぼれてくるんだわ。拾えば一財産。でも、もらろん、売るなんてことより先に、まず隅から隅まで読んじゃう」ようやく、話に油が乗りはじめたようだった。「なんてったって――」
玄関のドアにノックがひびいた。
土気色の顔になって、プリスはささやいた。「わたしは出ないわ。音をさせちゃだめ。じっとすわってて」耳をそばだてながら、「ドアの錠はおろしてあったかしら」と、ほとんど聞きとれない小声でいった。「神さま、そうでありますように」
くるおしく燃えあがった瞳が、まるで嘆願するように、ひたとイジドアの顔に据えられた。まるで、彼の力でそれをかなえてほしいとすがるように。
廊下から、遠い声が呼びかけた。「プリス、あなたそこにいるの?」男の声が、「ロイとアームガードだよ。きみの手紙を見たんだ」
プリスは立ちあがって寝室にいき、ペンと紙きれを持ってもどってきた。ふたたび腰をかけて、紙に走り書きした。
あなたが出て
イジドアは不安そうに、ペンを彼女の手からとって書いた。
だけどなんていえばいい
腹を立てて、プリスはガリガリと書いた。
ほんものかどうかたしかめてよ
イジドアはむっつりとした顔で立ちあがって、居間のほうへとむかった。本物かどうか、ぼくにどうしてわかる?――と自分に問いかけた。そして、ドアをあけた。
うす暗い廊下に、男と女のふたり連れが立っていた。小柄な女は、青い瞳と黄ばんだブロンドの髪の持ちぬしで、グレタ・ガルボのように美しい。男はその連れよりずっと大柄で、知的な目をしていたが、平べったいモンゴロイド風の容貌にはどこか粗暴な感じがあった。女は流行のコートと、磨きたてたブーツと、ティパード・パンツをきちんと着こなしている。男はよれよれのシャツとしみだらけのズボンというだらしない服装で、わざと野卑に見せているようすだった。男はイジドアにほほえみかけたが、よく光る小さな瞳はすこしもなごまない。
「もしやここに――」と、小柄なブロンドがいいかけて、そこでイジドアの背後に目をとめた。とたんに、彼女の腹はよろこびに笑みくずれ、「プリス! しばらく!」とさけびながら、彼の横をすりぬけていった。
イジドアはうしろをふりかえった。ふたりの女は抱きあっていた。イジドアが通路をあけると、陰鬱でたくましいロイ・ベイティーが、調子はずれのいびつな微笑を貼りつけたまま、中にはいってきた。
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14
「ここで話せるかい?」ロイはイジドアをあごで示しながらいった。
プリスが、はちきれそうな歓びを見せて答えた。「ある程度まではね」
かたわらのイジドアに、「ちょっと失礼」というと、彼女はベイティー夫妻をうながして、部屋の隅でひそひそと相談をはじめた。まもなく三人はもどってきて、居心地わるそうにもじもじしているJ・R・イジドアの前に立った。
「こちらがイジドアさん。わたしの世話をしてくれてるの」とプリスがいった。その口調に意地のわるい皮肉がこもっているのを感じて、イジドアは目をしぼたたいた。「ね? 彼は天然食品をおみやげに持ってきてくれたのよ」
「天然食品」アームガード・ベイティーはおうむがえしにいって、しなやかな小走りでキッチンへ駆けこんだ。「桃だわ」そういうと、もう皿とスプーンをとりあげていた。
イジドアにニッコリ笑いかけながら、アームガードはせっせとそれを口にはこんだ。彼女の微笑からは、プリスとちがって、単純な温かみだけが伝わってくるようだった。ベールに包まれた倍音はなかった。
イジドアはそのあとを追って――彼女に惹かれるものを感じたのである――たずねた。「火星からきたんですね?」
「ええ、あきらめたのよ」小鳥のように青い目をくりくりさせて、アームガードははずんだ声でいった。「あなたがた、またなんてひどいビルで暮らしてるのかしら。ここには、だれも住んでないんでしょう? ほかに明かりが見えなかったもの」
「ぼくはこの上の階にいるんです」とイジドア。
「まあ、プリスといっしょに暮らしてると思ったわ」アームガードの口調に非難のとげはなかった。ただの感想を述べただけらしい。
ロイ・ベイティーがぶっきらぼうに――だが、例の微笑をうかべたままで――報告した。「ところで、ポロコフがやられたぞ」
友人たちとの再会でプリスの顔に現われた歓びがたちまち溶け去った。「ほかには?」
「ガーランドも」とロイ・ベイティーがいった。「アンダーズとギッデェル、それにきょうの昼すぎにはルーバもやられた」まるでそれを打ち明けることに倒錯した快楽を味わっているような、ニュースの伝えかただった。プリスのうろたえぶりをおもしろがっているようだった。
「ルーバがやられるとは思わなかったよ。おぼえているかい、旅の途中で、よくおれがそう話したのを?」
「すると、残りは――」とプリス。
「あたしたち三人」アームガードが不安な切迫した口調で答えた。
「ここへきたのはそのためなんだ」
ロイ・ベイティーの声が、新しい意外な温かみをおびてきた。この男は、状況がわるくなればなるほどたのしくなるらしい。イジドアには見当もつかない人物だった。
「おお、神さま」プリスが絶望のつぶやきをもらした。
「むこうの捜査官――バウンティ・ハンター――は、デイヴ・ホールデンという男だったわ」アームガードがうわずった声でいった。彼女の唇がその名前に毒液をしたたらせた。「でも、ポロコフがその男に瀕死の重傷を負わせたのよ」
「|瀕死《ヽヽ》の重傷だぜ」顔中を微笑にして、ロイがくりかえした。
「それで、そのホールデンとやらは、いま入院してるわ」アームガードは話をつづけた。「そして、こんどはべつのバウンティ・ハンターが、彼のリストをひきついだらしいの。ポロコフはもうすこしでその男も仕留めるところだったわ。でも、結局は、その男がポロコラを処理してしまい、そしてつぎにルーバを狙ったの。それがわかったのは、ルーバがうまくガーランドに連絡をつけ、ガーランドが部下をやって、そのバウンティ・ハンターをミッンヨン通りのビルまでひっぱってこさせたから。わかる? ガーランドの部下がバウンティ・ハンターを連れ去ったあとで、ルーバがあたしたちに知らせてくれたのよ。彼女はもうだいじょうぶと自信を持ってたわ。ガーランドがその男を殺してくれるものと」言葉をついで、「でも、どうやらミッション通りでなにかの手違いがあったらしいのよっそれがなにかってことは、わからないわ。たぶん、永久にね」
プリスがきいた。「そのバウンティ・ハンターは、わたしたちの名を知ってるの?」
「ええ、むろん知ってるでしょうよ」とアームガード。「でも、居場所までは知らないわ。ロイもあたしも、もう以前のアパートには帰らないつもり。積めるだけの荷物を車に積んで、このおんぼろビルの空き部屋へはいろうと決心してきたわ」
「そのやりかたは利口かしらん?」イジドアは勇をふるって発言した。「み、み、みんなが一ヶ所にかたまるのは?」
「でも、ほかのみんながやられてしまったのよ」アームガードが淡々とした口調で答えた。
うわべでは興奮しているように見えても、アームガードは夫のロイとおなじように、奇妙な諦観に達しているようだった。三人ともがそうだ、とイジドアは思った。三人とも、どこかおかしい。どことははっきり指摘できないが、それを感じることができた。まるで、ある異様な悪性の抽象概念が、彼らの思考過程に染みこんでいるようだった。ひょっとすると、プリスだけはちがうかもしれない。たしかに、彼女はひどくおびえている。プリスだけは、正常に近く、自然に近く見える。しかし――
「なぜ、彼のところへ引っ越さないんだね?」ロイがイジドアを指さしながら、プリスにきいた。「彼なら、ある程度の保護をしてくれるよ」
「ピンボケと? ピンボケと暮らすなんて、まっぴらだわ」プリスは小鼻をふくらませた。
アームガードが早口にいった。「こんなときにお高くとまるなんて、あなたはバカよ。バウンティ・ハンターは電光石火だわ。ひょっとしたら、今夜にもやってくるかもしれない。ボーナスが出るかもしれないもの。ある期限までにかたづければ――」
「こりゃひでえ。せめて玄関ぐらい閉めてくれよ」ロイはいって、すたすたとそっちへ急いだ。片手の一撃でバタンとドアが閉まり、同時に錠がおりた。「きみはイジドアのところへ引っ越すべきだと思うね。プリス。アームとおれは、このビルのどこかに住む。そうすれば、おたがいに力になれるってもんだよ。おれの車のなかに、電子部品がすこしある。宇宙船から剥ぎとってきたガラクタだ。それを使って二方向の隠しマイクを作り、プリスにはわれわれの、そしてわれわれにはプリスの動静がわかるようにしよう。それから、われわれ四人のだれもが鳴らせるような警報装置もこしらえるよ。しょせん、でっちあげた身元というやつは、ガーランドのように手がこんでいても、失敗に終わる。むろん、ガーランドが墓穴を掘ったのは、バウンティ・ハンターをミッション通りのビルに連れこんだからだ。あれは失策だよ。そして、ポロコフも、できるだけハンターを避けるべきなのに、逆にのこのこ近づいていった。われわれはそんなどじは踏まない。ここでじっと息をひそめる」
ロイの口調には、毛すじほどの不安もなかった。逆にこの状況によって、パチパチはぜかえるような躁状態へと目ざめたように見えた。
「なぜわれわれが――」ほかの三人の注意を釘づけにさせたまま、ロイは大きく息を吸いこんで先をつづけた。「なぜわれわれ三人が生き残れたか、おれはそこにひとつの理由があると思う。もし、バウンティ・ハンターがわれわれの所在を知っていたら、いまごろはすでにここへ現われているはずだ。一にも二にも機先を制することが、やつら賞金かせぎのモットーなんだ。そこから利益が生まれるんだからね」
「そして、もし相手がぐずぐずすれば」とアームガードがひきとった。「あたしたちはこんなふうに逃げおおせるわけね。ロイのいうとおりだわ。きっと、相手はあたしたちの名を知っているだけで、居場所までは知らないのよ。かわいそうなルーバ。戦争記念オペラ劇場のような目立つ場所に足止めされて。あれじゃ造作なく見つかってしまう」
「いわば自業自得だよ」ロイがしかつめらしくいった。「ルーバは人目にさらされているほうが安全だと思いこんでいたんだ」
「あなたがよしたほうがいいと忠告したのにね」とアームガード。
「そうだ」ロイはうなずいて、「彼女にも忠告したし、ポロコフにも、世界警察機構の刑事になりすますなんてまねはよせ、といったのにな。ガーランドにも注意しといたんだ。部下のバウンティ・ハンターの手にかかるかもしれないぞ、と。おそらく、十中八九、そうなったにちがいない」さかしげな表情をうかべながら、ロイは体を前後に揺すっていた。
イジドアは口をきった。「い、い、いまの話をき、き、聞いたところだと、ミ、ミ、ミスター・ベイティーがみなさんのリーダーらしいですね」
「ええ、そう。ロイがリーダーよ」とアームガード。
プリスが補足した。「彼がわたしたちの――旅行を手配したの。火星からここまで」
「じゃあ、か、か、彼のいうとおりにしなくちゃ」イジドアは希望と緊張で声がかすれた。「もし、き、き、きみがぼくといっしょに暮らしてくれたら、す、す、すばらしいと思うな、プリス。ぼく、二日ほど店を休みますよ――有給休暇がたまってるんだ。きみが心配だもの」
そうだ、発明家のミルトにたのめば、なにか武器をこしらえてくれるかもしれない。バウンティ・ハンターをやっつけるような奇想天外なのを……いったい、バウンティ・ハンターつてどんなやつなんだろう? イジドアはおぼろげに、その陰惨な印象をちらと垣間見たように思った。印刷されたリストと銃を持った、無慈悲ななにものか。機械のように、単調で事務的な殺人の仕事をかたづけていくもの。感情も、いや顔すらも持たないもの。たとえ殺されても、すぐよく似たやつにおきかえられるもの。そして、それは無限につづくのだ。この世界のすべての生き物が射殺されるまで。
なんだって、警察がぜんぜん手を打たないのだろう、とイジドアは思った。とても信じられない。きっと[#「きっと」に傍点]、この人たちのほうがなにかをやったんだ[#「この人たちのほうがなにかをやったんだ」に傍点]。法律を破って、地球に亡命してきたのかな。テレビでもいってる――公認の着陸場以外に降りた宇宙船は、すぐ報告するように、と。警察はきっとそれを見張っているんだ。
しかし、たとえそうだとしても、いまの時代に、人を故意に殺すなんてひどい。マーサー教にも反する。
「このピンボケは」とプリスがいった。「わたしが好きなのよ」
「彼をそんなふうに呼んじゃいけないわ、プリス」アームガードが、イジドアに同情のまなざしを向けた。「そういうあなた[#「あなた」に傍点]が、もっとひどい名で呼ばれてもしかたないのよ」
プリスは無言だった。表情が謎めいたものになっていた。
「おれは隠しマイクの製作にとりかかるよ」ロイがいった。「アームとおれは、このアパートに住むことにする。プリス、きみは――ミスター・イジドアと行動をともにしたまえ」
ロイは巨体に似合わぬ驚くべき敏捷さで玄関にむかった。つむじ風のように外の廊下へ姿が消え、つぎの瞬間にはドアがばたんと閉まった。イジドアは短い奇妙な幻覚を味わった。つかのま、金属のフレームと、滑車、回路、バッテリー、回転軸、歯車などのついた台座が見えたように思えきそれから、だらしないロイ・ベイティーの姿がじわじわと視野にもどったのである。イジドアは腹の底に笑いがこみあげるのを感じ、あわててそれをこらえた。わけがわからなかった。「行動の男ね」プリスがひややかにいった。「機械いじりの不器用なのが玉にきずだけど」
アームガードがきびしい声でたしなめた。「もし、あたしたちが生き残れるとしたら、それはロイのおかげなのよ」
「でも、そうする価値があるのかな」プリスはなかばひとりごとのようにいった。肩をすくめると、イジドアにうなずいてみせて、「いいわ、J・R。あなたのアパートに引っ越すから、わたしを守って」
「み、み、みなさんを守るよ」とイジドア。
きまじめな、あらたまった調子の小さな声で、アームガードがいった。「ご好意、ほんとに感謝しますわ、イジドアさん。あなたは、あたしたちがこの地球で見つけたはじめてのお友だちです。あなたのご親切には、いつか、なにかのかたちでお礼をさせていただきますわ」彼女は滑るように近づくと、イジドアの腕にやさしく手をおいた。
「あなたは、ぼくの読めるような前植民期小説を持ってませんか?」
「ええ?」アームガードは、プリスのほうを物問いたげにふりかえった。
「例の古雑誌のことよ」プリスが教えた。被女は手回り品をまとめ、そしてイジドアは宿願を達した満足感に体をほてらせせて、彼女の手からその荷物をかかえあげた。「ないのよ、J・R。わたしたちはなにも持って帰らなかったわ。理由はさっき説明したでしょ」
「ぼくは、あした、と、と、図書館へいってみるよ」イジドアはいった。「それで、な、な、なにか読むものを借りてこよう。そしたら、きみもぼんやり待ってなくてすむものね」
イジドアはプリスを階上の自分のアパートへ案内した。部屋は暗く、空虚で、空気がよどみ、なまあたたかい。プリスの荷物を寝室へ運び入れてから、彼はヒーターと、電灯、それに一チャンネルしか映らないテレビを同時につけた。
「いいお部屋ね」とプリスはいったが、やはり気のない、よそよそしい口調だった。スカートのポケットに手をつっこんだまま、ぼんやりと歩きまわっている。顔には、いかにも潔癖らしく、不愉快そうな表情が見えていた。言葉とはまったくうらはらに。
「どうしたの?」イジドアは彼女の持ち物をカウチの上に並べながらいった。
「なんでもないわ」プリスは、はめごろしのガラス窓のそばで足をとめ、カーテンをわきによせて、ぼんやりと外をのぞいた。
「やつらがやってこないかと気になるんなら――」イジドアはいいかけた。
「あれは夢なのよ」とプリス。「ロイにもらったくすりでひき起こされた夢」
「ええ?」
「バウンティ・ハンターが実在するなんて、あなたは本気で思ってるの?」
「だって、ベイティーさんは、きみたちの友だちが殺されたといった」
「ロイ・ベイティーも、わたしも、頭がおかしいのよ」プリスはいった。「わたしたちの旅というのは、東海岸の精神病院からここへの旅だったの。わたしたちは精神分裂病患者で、うまく感情生活が送れない――いわゆる感情鈍麻ね。それに集団幻覚にも罹っているわ」
「あの話はほんとじゃないと思った」イジドアはほっとしたようにいった。
「なぜそう思ったの?」ブリスはさっとふりかえって、彼の目をのぞきこんだ。きびしい凝視にイジドアは頬の赤らむのを感じた。
「な、な、なぜって、そんなことが起こるはずはないよ。せ、せ、政府は、どんな犯罪者でも殺したりしない。それに、マーサー教――」
「だけどね」とプリス。「もし、それが人間でない場合、話はがらりと変わってくるのよ」
「そんなことないさ。動物だって――ウナギやジネズミや蛇やクモだって――みんな神聖なんだから」
プリスはまだ彼をじっと見つめながらいった。
「だから、そんなはずはないというのね? あなたのいうとおり、動物でさえ法律で保護されているわ。すべての生き物が。這うもの、のたくるもの、穴を掘るもの、飛ぶもの、群れを作るもの、卵を生むもの――」
プリスはいいやめた。とつぜん玄関のドアを押しあげて、ロイ・ベイティーがはいってきたのだ。彼のうしろから、電気のコードがしゅうしゅうと床をひきずられてくる。
「なかでも昆虫は神聖だそうだ」
ロイの口調には、話を立ち聞きした当惑はかけらもなかった。居間の壁にかかっていた絵をはずすと、その釘に小型電子装置をぶらさげ、うしろへさがって検分してから、その上へもとのように絵をかけた。
「つぎは警報装置だ」ロイはひきずってきたコードをたぐりよせた。コードのはしには複雑ななにかの装置がくっついており、ロイは例の不調和な微笑をうかべながら、それをプリスとイジドアに見せた。「警報ブザーだよ。このコードはカーペットの下に隠しておく。それがアンテナになって――」すこし口ごもってから、「精神活動体の存在を探知するんだ」と、ぼかした表現をした。「われわれ四人以外の」
プリスがいった。「ブザーが鳴ったとして、それからどうするの? 相手は銃を持ってるのよ。みんなでとびかかって、かみ殺せるわけじゃなし」
「このブザーには」とロイはつづけた。「ペンフィールド波発生機が組みこんであるんだよ。警報が鳴ると同時に、パニックのムードが放射される――侵入者に対してね。彼がよほど敏速に行動しないかぎり、それにひっかかる。極度のパニックだ。ゲインを最大に上げてある。どんな人間も数秒間ととどまっていられない。パニックとはそういうものなんだ。無作為の混乱した動き、無目的な逃走、筋肉と神経の痙攣、そういう結果が起こる」彼はしめくくった。
「そこで、われわれにも相手を仕留める機会が与えられるわけだ。もっとも、相手の能力にもよるがね」
イジドアはきいた。「ぼくたちには、その警報の影響はないのかな?」
「そうだわ」プリスがロイ・ベイティーにいった。「イジドアは影響されるわよ」
「いいじゃないか」ロイは答えると、組み立て作業をつづけた。「ふたりともがパニックにかられてここからとびだしていく。たとえそうなっても、われわれには手を打つひまがある。それに、むこうはイジドアを殺しはしない。リストにはいっていないんだからね。彼が身代わりとして役立つ理由はそこにある」
プリスはぶっきらぼうにきいた。「ほかにもっといい方法はないの、ロイ?」
「ないね」
「あした、ぶ、ぶ、武器を手にいれてきますよ」イジドアはいった。
「イジドアがここにいても警報が作動しないのはたしか?」とプリス。「なにしろ彼は――ほら」
「彼の脳波のぶんだけ、補償させてあるんだ」ロイは説明した。「その量だけでは作動しない。もうひとりの人間――いや、外来者がきて、はじめて作動する」
うっかり口をすべらせたのに気づいてロイはにがい顔になり、ちらとイジドアをうかがった。
「あんたらはアンドロイドなんだな」イジドアはいった。だが、それはどうでもよかった。自分にとってはおなじことだ。「なぜ、そいつらが殺しにくるのか、それでわかったよ。あんたらは、実際には生き物じゃないからだ」
いまやイジドアにもすべてが理解できた。バウンティ・ハンター、殺された友人たち、地球への旅、こうした警戒ぶり。
「いま、人間といったが」とロイ・ベイティーがプリスにいった。「あれはいいまちがいだよ」
「でしょうね、ミスター・ベイティー」とイジドア。「だけど、そんなこと、ぼくになんの関係がある? つまり、ぼくはマル特なんだ。ぼくだって、みんなからはあんまりよく扱ってもらえなかった。移住だってできないし」気がつくと彼は小鬼のようにぺらぺらとしゃべっていた。「あんたらは地球にこられない。ぼくは逆に火星へ――」ようやく気をおちつかせた。
ややあって、ロイ・ベイティーがそっけなくいった。「火星のどこがいいんだ。ここのほうがましだよ」
「あなたがいつ気づくかと思っていたわ」プリスがイジドアにいった。「わたしたち、どこかちがう、そうなのね?」
「たぶん、ガーランドやポロコフがつまずいたのもそれさ」とロイ。「あの連中はごまかして通れるとうぬぼれてたんだ。ルーバも」
「あんたらはインテリなんだよ」イジドアはいった。すべてが理解できたことにあらためて興奮を感じた。興奮と、そして誇りを。「あんたらは物事を抽象的に考えるから、だから――」むなしく身ぶりした。言葉がまたもや頭の中でもつれてしまったのだらいつものように。「ぼくにも、それだけの知能指数があればなあ。そうすればテストにだって受かるし、ピンボケなんていわれずにすむ。あんたらはすごく頭がいいと思うよ。いろいろ教えてほしいな」
しばらく間をおいて、ロイ・ベイティーが、「おれ、警報装置の配線をすませてしまうよ」といった。そして作業にもどった。
「彼はまだ知らないんだわ」プリスが鋭い、ざらついた声でいった。「わたしたちがどうやって火星から逃げたかを。むこうでなにをしたかを」
「ああするしかなかったんだ」ロイ・ベイティーがうなるように答えた。
ひらいた入口のドアのわきに、さっきからアームガ・ドーベイティーが立っていた。彼女は口を切り、中の三人はそっちに顔を向けた。
「イジドアさんのことを心配する必要はないと思うわ」アームガードは熱をこめていった。つかつかと歩みより、イジドアの顔をのぞきこんで、「彼がいったように、人間たちは彼にまともな扱いをしなかったのよ。あたしたちが火星でなにをしたかに、彼は関心を持ってないわ。彼はあたしたちとなじみ、あたしたちが好きになった――その感情的な容認が、彼にとってはすべてなのよ。あたしたちにはちょっと理解しにくいことだけど、でもほんとだわ」
もう一度すぐそばから顔を見上げるようにして、アームガードはイジドアにいった。
「あたしたちを密告すれば、あなたは大金がもらえるのよ。それをごぞんじ?」夫にむきなおって、「ごらんなさい、彼はそのことを知っているけれど、密告しようとしないのよ」
「あなたは傑物よ、イジドア」プリスがいった。「あなたの種族の誇りだわ」
「もし、彼がアンドロイドなら」とロイが口を合わせた。「あすの十時までには、われわれを密告したことだろうな。出勤と称してここを出て、それでおしまいだったろう。いや、まったく賛嘆のほかはないね」本気とも冗談ともつかない口調だった。すくなくとも、イジドアには見当がつかなかった。「それなのに、われわれはここを友情のない世界、敵意にみちた顔だらけの惑星と想像していたんだ」ロイはげらげら笑いだした。
「あたしはちっとも心配してないわ」とアームガード。
「いや、足の裏までおびえきっているべきなんだ」とロイ。
「投票しましょうよ」プリスがいった。「宇宙船の中で意見が分かれたときに、よくそうしたじゃない」
「とにかく」とアームガード。「あたしはこれ以上なにもいいません。でも、もしここを出たら、あたしたちをこころよく迎えて協力してくれる人間はもう二度と見つからないわよ。イジドアさんは――」彼女は言葉をさがした。
「特別《スペシャル》なのよ」プリスがあとをひきとった。
[#改丁]
15
投票が、型のごとくおごそかに行なわれた。
「みんなでここに居すわりましょうよ」アームガードが主張した。「このビルのこの部屋に」
ロイ・ベイティーがいった。「おれは、イジドア氏を殺して、隠れ場所をよそへ移すほうに投票する」彼とその妻は――そしてイジドアも――緊張した面持でプリスをふりかえった。
プリスは小声でいった。「わたしはここでがんばるほうに投票するわ」声をいくらか高めて、「J・Rの価値は、彼がわたしたちの正体を知っているという危険をおぎなってあまりあるように思えるの。ほかの人間と暮らしたところで、わたしたちの正体がすぐにバレるのは目に見えているわ。ポロコフや、ガーランドや、ルーバや、アンダーズが殺されたのも、それだったのよ。みんな、それが原因で殺されたんだわ」
「ひょっとすると、いまのわれわれがしているようなことをやったからかもしれん」ロイがいった。「あの連中も、ある特定の人間に気を許し、信頼をおきすぎたのかもしれん。きみのいったように、特別だと思って」
「それはどうかしら」とアームガード。「憶測にすぎないじゃない。あたしにいわせれば、みんなは、みんなは――」と身ぶりして、「――出歩きすぎたのよ。ルーバのように舞台で歌ったりして。信頼をおきすぎるといえば――なにを信頼したのがまちがいだったか教えましょうか、ロイ。それは、あたしたちの鼻持ちならない超知能なのよ!」小さくとがった胸を激しく波打たせながら、夫をにらみつけた。「あたしたちは利口ぶりすぎたのよ――ロイ、いまのあなたがそれだわ。わかる? いまのあなたがまさにそれなのよ!」
プリスがいった。「アームのいうとおりだわ」
「だから、おれたちのいのちをあずけろというのか、この標準以下のうすのろに――」ロイはいいかけてから、あきらめたように、「おれは疲れた」とつぶやいた。「長い旅だったのさ、イジドア。だが、ここじゃあまり長くいられそうもない。残念だが」
「ぼくは」とイジドアは幸福そうにいった。「みなさんの地球での滞在が、できるだけたのしいものになるよう、お手伝いしますよ」
イジドアにはそうできる確信があった。それは確実なことに思えた。そして彼の全人生――と、きょう勤め先の映話で発揮した新しい威厳――の頂点のように思えた。
その夕方、リック・デッカードは仕事が一段落するのを待って、町の上空を動物横丁へ向かった。何ブロックかにまたがって、大手の動物店が巨大なショーウィンドーとけばけばしい看板を競いあっている。しばらく前にリックをおそった、新しく、おそろしいまでに異様な抑鬱は、まだ消えていなかった。これが――ここで動物と動物商を相手にするひとときが、抑鬱という屍衣の唯一のほころびで、そこをつかめばなんとかそれをひき裂けるかもしれない。すくなくともこれまでの経験では、動物たちのいる光景や、大金の動く取引の匂いから、大いに元気づけられたものだ。たぶん、こんどもそうなってくれるだろう。
「いらっしゃいませ」一分のすきもない着こなしをした動物セールスマンが、放心したような、控え目な憧れをこめて陳列窓に見いっているリックに愛想よく声をかけた。「なにかお気にいりましたか?」
リックはいった。「気にいったものはたくさんある。問題は値段さ」
「ご希望の条件だけお聞かせください。いまお持ち帰りになりたい動物と、お支払いの方法です。あとはその一括契約を販売主任に見せて、承認をとるだけでございますから」
「ここに現金で三千ある」一日の終わりに、警察が賞金を払ってくれたのだ。「あそこのウサギ一家はいくらだね?」
「お客さま、三千の頭金でしたら、ウサギの番などよりもっといいものがお求めになれますよ。山羊はいかがでございますか?」
「山羊までは考えてみなかったな」
「失礼ですが、これはお客さまにとって新しい価格層のお買物でございましょうか?」
「ま、三千という大金をしょっちゅう持ち歩いてるわけじゃないさ」リックは告白した。
「お客きまがウサギとおっしゃられたとき、そう感じましたです。ウサギの欠点はですね、だれもがそれを持っていることでございますよ。やはりお客さまには、当然属していらっしゃる山羊クラスへ、一段階上がっていただきたいと存じます。おせじでなく、お客さまにはやはり山羊がふさわしいとお見うけいたしますが」
「山羊にはなにか長所があるのかね?」
セールスマンがいった。「まず山羊の第一の長所は、だれかが盗みにきても角で突き刺すように仕込めるという点です」
「泥棒が催眠カプセルを山羊に撃ちこんで、上空のホバー・カーから縄ばしごで降りてくれば、どうしようもないぜ」
セールスマンはひるまなかった。「山羊は忠実です。それに、どんな檻にも縛られない、自由闊達な魂を持っております。それからもうひとつ、たぶんご存じないと思いますが、山羊にはとびきりの長所があるんですよ。よく、動物をお買いになって、お宅へお持ち帰りになったあとで、ある朝とつぜん、その動物がなにか放射性の食物のために死んでいた、ということがございますね。その点、山羊は、汚染された不良飼料でもいっこう苦にいたしません。牛や馬それに猫などがコロリといくようなものさえ、よろこんで食べます。長期のご投資をなさろうという真剣なお客さまには、なんと申しましても山羊――とくに牝山羊――にまさるものはないと存じます」
「この山羊は牝かね?」
檻の中央にでんと構えた大きな黒山羊に、さっきからリックの目はひきつけられていた。彼はそっちにむかって歩きだし、セールスマンもくっついてきた。美しい山羊だとリックには思えた。
「はい、この山羊は牝でございます。ヌビア種の黒ですが、みごとな体格をごらんください。ことしの市場でも一、二をあらそう逸物でございますよ。しかも、お値段のほうは大勉強させていただきます」
よれよれのシドニー社カタログをとりだして、リックは山羊の部でヌビア種の黒をさがした。
「これは新規のご購入でございますか?」とセールスマンがたずねた。「それとも、中古動物の下取りをご希望で?」
「新規だ」
セールスマンはメモに値段を走り書きし、まるで人目を忍ぶように、ちらっとそれをリックに見せた。
「高い」リックはメモを受けとって、もっと控え目な値段を書いた。
「その値段ではちょっと」とセールスマンは抗議した。またべつの数字を書いて、「この山羊はまだ一歳にもなりません。平均余命もぐっと長いわけでして」メモをリックに見せた。
「よし、買おう」リックはいった。
ローンの契約書に署名し、三千ドル――賞金の全額――を頭金として支払ったリックは、店員たちが山羊の檻を彼のホバー・カーに積みこむのを、ぼうっとした気分でながめた。これでおれも動物の飼い主になれたんだ――そう自分にいいきかせた。それも電気じゃない、生きた動物。おれの人生で二頭目の動物。
その大散財、そのローンの額の大きさに、気が転倒した感じだった。気がつくと、リックは身ぶるいしていた。だが、おれはこうしなくちゃならないんだ、と思いなおした。フィル・レッシュとのあの体験――おれは自信を、おれの正体と能力に対する自信をとりもどきなくちゃならない。でないと、あとの仕事をつづけられないだろう。
麻痺したような手でホバー・カーを上昇させ、イーランの待つアパートへとむかった。女房のやつ、きっと目をむくぞ、と思った。気が気じゃないというだろうな、あずかる責任で。それに、一日じゅう家にいる以上、山羊の世話の大半はあいつにかぶさってくるわけだ。リックはふたたび憂鬱を感じた。
ビルの屋上に着いてからも、しばらく座席にすわったまま、頭の中でもっともらしい口実を練り上げようとした。考えあぐねたあげく、おれの仕事がそれを必要としているんだ、と思いあたった。名声を。いつまでも電気羊なんぞでくすぶっていられない。意欲が涸れてしまう。そうだ、女房にはそういってやろう、と決心した。
車から降りると、後部席からやっとのことで山羊の檻をひっぱりだし、息をあえがせながら屋上におろした。斜めになった檻の中で足をつるつる滑らせていた山羊は、きらきらした利発そうな目で彼を見つめたが、鳴き声は出さなかった。
リックは階下に降り、部屋の戸口まで歩きなれた廊下をたどった。
「おかえんなさい」台所で夕食のしたくをしていたイーランが、彼を迎えた。「遅かったのね」
「屋上へこないか。見せるものがある」
「動物を買ったのね[#「動物を買ったのね」に傍点]」イーランはエプロンをはずすし、反射的に髪をなでつけてから、彼のあとにつづいて部屋を出た。ふたりは大股にいそいそと廊下を歩いた。「だまって買うなんてひどいわ」イーランは息をはずませていった。「あたしにも、相談を受ける権利はあるはずよ。これまででいちばんだいじな買物を――」
「びっくりさせたかったんだ」
「きょう、賞金がはいったのね」彼女はとがめるようにいった。
「うん。アンディーを三人処理した」リックはエレベーターにはいり、ふたりでいっしょに天に近づいた。「どうしても、買わずにいられなかったんだ。きょう、アンディーの処理で、ちょっとまずいことがあった。動物を手に入れないと、このさき仕事をつづけられそうもない――そんな気がしたんだ」
エレベーターは屋上に到着した。リックは夕闇の中へ妻をみちびいた。スポットライト――ビルの住人たちが共同設置したもの――のスイッチを入れると、だまって山羊を指さした。妻の反応を待ちうけながら。
「おお神さま」イーランは小さくつぶやいた。檻のそばへ歩みより、中をのぞきこむ。それから檻のまわりを一周して、あらゆる角度から山羊をながめた。「ほんとに本物? 模造じゃないの?」
「ぜったいに本物だ」リックは答えた。「連中が詐欺をやらないかぎり」しかし、そんなことはめったにない。模造品を本物と偽ったりしたら、莫大な罰金を徴収される。本物の市場価格の二・五倍もの罰金を。「いや、連中が詐欺をやるはずはないさ」
「山羊。ヌビア種の黒山羊だわ」
「牝なんだ」とリック。「だから、そのうちに番わせることもできるよ。それに、乳をしぼってチーズも作れる」
「外に出してやってはいけないの? いま羊のいるところへおいては?」
「つないでおかないとだめだそうだ。すくなくとも二、三日は」
イーランが奇妙な感じの小声でいった。「〈わが人生は愛とよろこび〉――ヨーゼフ・シュトラウスの古い古い曲。おぼえている? ふたりがはじめて会ったときを?」そっと彼の肩に手をおくと、イーランは顔を近づけてくちづけした。「たくさんの愛。そしてたくさんのよろこび」
「ありがとう」リックは妻を抱きしめた。
「はやく下に降りて、マーサーにお礼をいいましょう。それから、もう一度ここへもどって、山羊に名前をつけるの。名前を考えなくちゃ。それと、つなぐためのロープもいるわ」イーランは歩きだした。
馬のジュディーのそばに立って、ブラシをかけていた隣人のビル・バーバーが、ふたりに声をかけた。
「よう、すてきな山羊を買ったじゃないか、デッカード。おめでとう。こんばんは、奥さん。ひょっとしたら、子山羊が生まれるかもしれないね。そしたら、子山羊二頭とうちの子馬を交換してあげてもいい」
「そりゃどうも」とリックはいって、妻のあとからエレベーターのほうへ歩いた。
「これできみの抑鬱は治ったかい?」と妻にたずねた。「おれのは治った」
「ええ、あたしの抑鬱もまちがいなく治ったわ。これで、あの羊はニセモノだったと、みんなに白状できるし」
「そこまですることはないだろう」リックは用心ぶかくいった。
「でも、そう|できる《ヽヽヽ》のよ」イーランはいいはった。「でしょう? もうなにも隠すことはなくなったわ。いつものあたしたちの願いが現実になったのよ。まるで夢のよう!」
ふたたびイーランは体を寄せ、爪先立ちでそっとキスしてきた。あえぐような息づかいが、リックの首すじをくすぐった。イーランはエレベーターのボタンを押そうと手を伸ばした。
なにかがリックに警告した。なにかが彼にこういわせた。「下へ降りるのはあとにしよう。しばらく、ここにいようじゃないか。いっしょに山羊を見ながら、そうだ、餌をやればいい。当座の餌にといって、オート麦を一袋サービスしてくれたんだよ。それから、山羊の飼育の手引きも読んでおこう。むこうはその本もただでよこした。名前はギリシャ語のユーフィミア〈名声〉でどうだ[#w We can call her yuphemia]」
しかし、エレベーターがそのあいだに到着して、イーランはすでにエレベーターの中へ駆けこんでいた。
「イーラン、待てよ」リックはいった。
「この感謝をマーサーとわかちあわないのは不道徳だわ」とイーラン。「きょうの昼間、共感ボックスの取手を握ったら、それでいくらか抑鬱が治ったのよ――いまみたいじゃなく、ほんのすこしだけど。でも、とにかく、ここに石が当たったわ」彼女は手首をさしだした。薄い|あざ《ヽヽ》がリックにも見わけられた。「そのときに思ったのよ。マーサーといっしょにいることで、どれだけあたしたちが救われているか、どれだけ幸せか、と。たとえ苦痛があってもよ。肉体的には苦痛でも、精神的に結びあえる。あたしは、世界じゅうのみんなの気持を感じることができたわ。その時間に融合していたすべての人たちを」閉まろうとするエレベーターのドアを手で食いとめて、「乗ってよ、リック。そんなに時間はかからないわ。あなたはめったに融合をやらないでしょう? いまのあなたの気分をほかのみんなとわかちあってほしいのよ。そうする義務があると思うわ。あたしたちだけでその気分を独占するなんて、不道徳なのよ」
もちろん、妻が正しい。そこでリックはエレベーターに乗り、ふたたび階下へ降りた。
昼間へはいると、イーランはすばやく共感ボックスに近づき、いきいきとした喜びを顔にうかべながら、スイッチをいれた。昇りそめた新月のように、その喜びは彼女を輝かせていた。
「みんなにこのことを話したいのよ。一度、あたしもそうしてもらったことがあるわ。融合にはいったら、動物を買ったばかりのだれかがそこにいたの。それからもう一度は――」一瞬、表情が暗くなり、快活さが補えた。「飼っていた動物を死なせただれかにでくわしたこともあったわ。でも、ほかのみんなが、いろいろの喜びを――といっても、あたしにはあげられるような喜びがなにもなかったけれど――その人とわかちあったわ。それで、その人の心も明るくなったのよ。きょうのあたしたちも、ひょっとしたら、だれかを自殺から救えるかもしれない。あたしたちの手に入れたもの、あたしたちの感じている気持が――」
「むこうはおれたちの喜びを手に入れるかもしれない」とリックはいった。「だが、おれたちは失う。おれたちの気分と、彼らの気分を父換するわけだ。この喜びはなくなっらまう」
いま、共感ボックスの画面は、形のない、色あざやかな奔流を映しだしていた。彼の妻は大きく息を吸いこみ、しっかりと両手でふたつの取手につかまった。「あたしたちの気分が、ほんとうに失われるわけじゃないのよ。はっきりそれを心に刻みつけてさえいればね。あなたはまだ融合のコツをのみこんでないだけ。そうでしょう、リック?」
「だろうな」
しかし、イーランのような人間がマーサー教から手に入れるものの価値が、いまはじめてリックにもわかりかけてきた。あのフィル・レッシュとつきあった体験が、自分の内部のある微細なシナプスを変形させ、神経のスイッチのひとつを閉ざし、べつのひとつを開いたのなだうか。そして、それがある連鎖反応を起こしたのだろうか。
「イーラン」リックはしびれをきらしたようにいうと、妻を共感ボックスからひき離した。「きいてくれ。きょう、なにがあったかを話したいんだ」妻をカウチへひっぱっていき、自分の正面にすわらせた。「あるバウンティ・ハンターと会ったんだよ。全然知らないやつだ。やたらにアンディーを殺したがる、情容赦のない男だ。そいつといっしょに仕事したあと、生まれてはじめておれはアンディーをべつの目で見るようになった。つまり、いままでのおれは、そいつとおなじ目でアンディーを見てたわけさ」
「その話、あとじゃいけないの?」
リックはいった。「そこで、おれはテストを受け、ひとつの質問だけでそれは立証された。つまり、おれはアンドロイドに同情しはじめたんだ。これがなにを意味すると思う? きみも、けさ、“かわいそうなアンディー”といったっけな。だったら、おれのいうことがわかるだろう? 山羊を買ったのはそのためなんだ。いままでは、一度もこんな気持になったことがなかった。ひょっとすると、これはきみのとおなじような一種の抑鬱かもしれない。きみの抑鬱の苦しみが、いまはじめてわかったような気がする。これまでのおれはこう思ってた――きみの抑鬱は好きでそうしているんであって、そこから脱出したければ、いつでもそうできるんだ、と。たとえ、独力ではむりでも、情調オルガンを使えばそうできる、と。だが、抑鬱にはまりこんだ本人には、そんなことはどうでもよくなるんだってことが、やっとわかったよ。自分の存在価値を見失ったことからくる感情鈍麻だ。一時的に気分がよくなっても、それは変わらない。というのは、もし自分に価値がなければ――」
「仕事をどうするつもり?」イーランに突き刺すような口調でいわれて、彼は目をぱちぱちさせた。「あなたの|仕事《ヽヽ》を?」イーランはくりかえした。「山羊の月賦はいくらかかるの?」
イーランが手のひらをさしだした。反射的に、リックは自分がサインしたローンの契約書をとりだして妻に渡した。
「まあ高い」イーランはかぼそい声でいった。「この利子。ひどいわ、利子だけでこうなの。それなのに、あなたは気がめいったという理由だけで買ってきたのね。あたしへの贈り物だなんて、うそ」契約書を彼に返して、「まあ、どっちでもいいわ。やっぱり、山羊がいるのはうれしいもの。あたし、山羊が好き。でも、経済的にはたいへんな負担ね」土気色の顔になっていた。
「なんなら、配置転換を申請してもいいんだ。署には、ほかに十か十一の課がある。動物盗難課、あそこへ移る手もあるよ」
「でも、懸賞金は? 懸賞金がはいらないと、山羊を差し押えられてしまうわ!」
「三十六ヶ月ローンを、四十八ヶ月ローンに延ばしてもらうさ」リックはボールペンを出して、すばやく契約書の裏へ計算した。「そうすれば、月に五十二ドル五十セントちがってくる」
映話が鳴った。
「それみろ、降りなきゃよかった」とリック。「あのまま屋上で山羊といれば、こんな映話に出なくてすんだんだ」
映話機に近づきながら、イーランがいった。「なにをびくびくしてるの? まだ山羊を差し押さえにはきやしないわよ」受話器をとろうとした。
「きっと警察からだ。留守だといってくれ」リックは寝室のほうへ歩きかけた。
「もしもし」イーランが受話器に答えている。
あと三人のアンディーのことだ、とリックは思った。ほんとなら家に帰らずに、そいつを追跡しなくちゃいけなかったんだ。すでに映話スクリーンにはハリイ・ブライアントの顔が現われており、いまさら逃げても手遅れだった。リックはこわばった足どりで、映話のそばへひきかえした。
「はい、主人はおります」イヘランがいった。「こんど、うちでは山羊を買いましたの。ぜひ見にいらっしゃってくださいな、ブライアントさん」ちょっと間がおりて、彼女は耳をすましてから、受話器をリックにきしだした。「あなたにご用ですって」
イーランは急いで共感ボックスの前にもどり、着席してまた取手を握った。たちまち、彼女はそっちへ投入してしまった。リックは受話器を手にして立ったまま、彼女の心の離脱を感じていた。そして、自分自身の孤独を。
「もしもし」と、受話器にいった。
「残ったアンドロイドのうちのふたりに尾行をつけてある」ハリイ・ブライアントがいった。どうやら署の自室からかけているようだった。見おぼえのあるデスク、それに散らかった書類とキップルが、リックにも見えた。「明らかにやつらは危険に感づいたようだ。デイヴがきみに教えた住所をひきはらって、こんどは……ちょっと待った」ブライアントはデスクの上をひっかきまわして、メモを見つけた。
反射的に、リックはペンをさがした。山羊の契約書を膝の上にのせ、書きとめる用意をした。「コナプト三九六七番C棟」ブライアント警視は読みあげた。「できるだけ早く、そこへ行ってくれ。やつらはきみが三人を――ガIフンドとラフトとポロコフの三人を――処理したことを知っているにちがいない。だから、不法な逃走を企てたんだ」
「不法な、ね」リックはおうむがえしにいった。彼らはいのちが助かりたいだけなのに。
「イーランにきいたが、山羊を買ったんだって?」とブライアント。「きょう買ったのか? 仕事がひけてから?」
「帰り道で」
「きみが残りのアンドロイドを仕留めたら、ゆっくり山羊を拝見におじゃまするよ。ところで――いま、デイヴと話した。やつらがきみを手こずらせたことも話した。デイヴはお祝いの言葉に添えて、用心しろといっていたぞ。ネクサス6型は、彼が考えていたよりはるかに利口だそうだ。実をいうと、きみが一日に三人もかたづけたことをなかなか信じなかった」
「三人で充分ですよ」とリック。「もう、これ以上はむりだ。休養しないと」
「明日になれば、やつらは高飛びしたあとかもしれんぞ。われわれの管轄区域外へ」
「そう早くは逃げないでしょう。まだ、だいじょうぶですよ」
ブライアントはいった。「いや、今夜のうちに行け。やつらが防備を固めるまでにだ。やつらも、きみがそう早くやってくるとは予想してないだろう」
「それどころか、いまや遅しと待ちかまえてますよ」
「おじけづいたのか? ポロコフのあれで――」
「おじけづいちゃいません」
「じゃあ、なにがさしつかえるんだ?」
「わかりました。行きます」リックは受話器をおこうとした。
「結果をなるべく早く知らせろ。わたしはオフィスで待ってる」
リックはいった。「もしやつらを仕留めたら、こんどは羊を買います」
「羊はもう持ってるじゃないか。わたしがきみと知りあったころから持ってたはずだ」
「あれは電気羊ですよ」
リックは映話を切った。こんどは本物の羊だぞ、と心にいいきかせた。買わなくちゃならん。
いままでの埋め合わせにも。
黒い共感ボックスの前では、妻が忘我の表情でうずくまっていた。リックはそばに寄り、妻の胸に手をおいた。そこが波打っているのが、彼女のいのちが息づいているのが、感じられた。だが、イーランは夫に気づかなかった。いつものように、マーサーとの融合が完成したのだ。
スクリーンでは、ぼろをまとったマーサー老人のぼんやりした映像が、とぼとぼと山道を登っている。とつぜん、どこからともなく飛んできた石ころが、老人の体をかすめた。それを見まもりながら、リックは思った。こんちくしょう、見かたによっては、彼よりおれの立場のほうがひどいじゃないか。マーサーは、自分にとって異質なことまでしなくていい。苦しんではいても、とにかく自分の本質に反するようなまねはせずにすむ。
腰をかがめて、リックは妻の指をそっと取手からひきはがした。それから、彼女と交代してそこにすわった。数週間ぶりに。衝動的に。なんのもくろみもあったわけではない。とつぜん、そうなってしまったのだ。
雑草のちょろちょろと生えた風景が、目の前に出現した。荒れ果てた土地。空気はきつい花の香りがする。ここは砂漠で、雨がない。
ひとりの男が彼の前に立っていた。疲れと苦痛にうるんだ目に、悲しげな光があった。
「マーサー」リックは呼びかけた。
「わしはあんたの友人だ」老人がいった。「だが、あんたはわしが存在しないつもりで、仕事を進めなくちゃいかん。わかるかな?」老人はからっぽの両手をひろげてみせた。
「いや」とリック。「わからないね。おれは助けがほしいんだ」
「わしにどうしてあんたを救うことができよう? おのれを救うことさえできぬわしに?」微笑をうかべて、「まだわからんかね? 救済はどこにもないのじゃ[#「救済はどこにもないのじゃ」に傍点]」
「じゃ、これはなんのためなんだ?」リックは詰問した。「あんたはなんのためにいるんだ?」
「あんたがたに示すためじゃよ」ウィルパー・マーサーは答えた。「あんたがたが孤独でないことをな。わしは、いまもこれからも、つねにあんたがたといっしょにいる。さあ、早く自分の仕事にかかりなさい。たとえ、それがまちがったことだとわかっていても」
「なぜ? なぜそうしなくちゃならない? おれば仕事をやめて、どこかへ移住するよ」
老人がいった。「どこへ行こうと、人間はまちがったことをするめぐり合わせになる。それが――おのれの本質にもとる行為をいやいやさせられるのが、人生の基本条件じゃ。生き物であるかぎり、いつかはそうせねばならん。それは究極の影であり、創造の敗北でもある。これがとりもなおきず、あらゆる生命をむさぼる例の呪いの実体じゃ。この宇宙のどこでもそれはおなじこと」
「あんたがおれに教えられるのは、それだけか?」リックはいった。
ビューツと石ころが飛んできた。首をすくめたとたん、石ころは耳に命中した。リックは取手を離し、自分がもとの居間に、妻と共感ボックスをかたわらにしてもどっているのを知った。いまの打撃で猛烈に頭が痛い。頭の横に手をやると、大きなしずくになってしたたる鮮血が赤くべっとりとついてきた。
イーランが、ハンカチで彼の耳をそっとなでた。「ひき離してもらってよかったわ。石ころをぶつけられるのがこわいの。代わりにひきうけてもらって、ごめんね」
「おれはでかけるよ」リックはいった。
「お仕事?」
「三件もある」リックは妻からハンカチを受けとって、玄関へと歩いた。まだ目がくらみ、吐き気がした。
「気をつけてね」とイーラン。
「その取手を握ってみても、なにも得られなかったよ」リックはいった。「マーサーと話しあったが、なんのたしにもならない。彼も、おれ以上のことを知ってるわけじゃないんだ。死ぬまで丘を登りつづけるひとりの老人にすぎない」
「それが啓示なんじゃなくて?」
「そんな啓示ならとっくに知ってるさ」リックは玄関のドアをあけた。「じゃ、いってくる」
廊下に出て、後ろ手にドアを閉めた。コナプト三九六七番C棟――契約書の裏に書きつけたメモを読みながら考えた。というと、郊外だな。あのへんはほとんど空き家だ。潜伏には絶好だろう。ただし、夜は明かりが目印になってしまう。こっちはそれがたよりだ。明かり。光にひきよせられるなんて、まるで死頭蛾だな。しかし、これっきりでやめよう。おれはほかの仕事、べつの商売で食っていく。この三人で打ちどめだ。マーサーのいったとおりだ。この仕事だけはかたづけなくちゃならん。だが、おれにはそうできそうもない。なにしろ、相手のアンディーは二人組ときている――道徳上の問題じゃなく、実行上の問題だ。
たぶん[#「たぶん」に傍点]、おれはやつらを処理できないだろう[#「おれはやつらを処理できないだろう」に傍点]。せいいっぱい努力してもだ。おれはひどく疲れているし、それにきょうはいろいろのことがありすぎた。たぶん、マーサーはそれも知っているのだろう。おそらく、これから起こることのすべてを見ぬいているのだろう。
だが、助けをかりる先はもうひとつある。前にむこうから申し出てきて、おれがはねつけたものが。
彼は屋上に到着し、まもなくホバー・カーの暗い車内にすわって、ダイヤルした。
「ローゼン協会でございます」と応接係の声。
「レイチェル・ローゼンを」とリック。
「おそれいりますが、もう一度?」
リックはうなるようにいった。「レイチェル・ローゼンにつないでくれ」
「ミス・ローゼンは、あなたさまのお映話を――」
「お待ちかねのはずだ」といって、リックは待った。
十分後、レイチェル・ローゼンの小さなあさぐろい顔が、映話スクリーンに現われた。「こんばんは、デッカードさん」
「いまいそがしいかね、それとも話ができるかな?」とリック。「きょうの昼間、きみのいったセリフそのままさ」
あれがきょうのことだとはとうてい思えない。あのときレイチェルと話してから、もう一世代分もの盛衰があった気がする。そして、その間のあらゆる苦悩、あらゆる倦怠が、全身に集約されたかのようだ。その肉体的な重荷。たぶん、あの石ころのせいかもしれない、と彼は思った。ハンカチを出して、まだ出血のとまらない耳をぬぐった。
「耳をけがしたのね」レイチェルがいった。「お気のどくだこと」
リックはいった。「ほんとにおれが返事してこないと思っていたか? あのとききみがいったように?」
「教えてあげたでしょ」レイチェルはいった。「わたしがついていなければ、あなたはネクサス6型のだれかに、きっと逆にやられてしまうわ」
「その予言はまちがってたぜ」
「でも、わたしにかけてきたじゃない? すくなくとも。サンフランシスコまで出てこいというの?」
「いますぐ」
「まあ、こんな夜ふけに? 明日にして。一時間の旅なのよ」
「どうしても今夜のうちにかたづけろと、命令されたんだ」リックはいったん言葉を切って、「最初の八人のうち、まだ三人が残っている」
「あなた、すごくつらい目に遭ったみたい」
「もし、今夜きみがこっちへきてくれないと、おれはやつらをひとりで相手にしなくちゃならない。とうてい、処理はむりだろう。さっき、おれは山羊を買ったんだよ」彼はつけ加えた。「三人をしとめた賞金で」
「あなたたち人問ったら」レイチェルは笑いだした。「山羊みたいな臭いものを」
「臭いのは牡山羊だけだ。いっしょにもらった手引きに書いてあった」
「あなた、ほんとに疲れているのね」とレイチェル。「なにかぼうっとしてるみたい。これからまだ三人ものネクサス6型を追っていくなんて、気はたしか? 一日六人のアンドロイドを処理した人間なんて前代未聞よ」
「フランクリン・パワーズ。約一年前。シカゴで七人を処理した」
「あれは旧式のマクミランY4型じゃない。こんどは話がちがう」レイチェルはしばらく考えた。「リック、やはりだめだわ。わたし、まだお夕食もすんでないの」
「おれにはきみが必要なんだ」リックはいった。
断わられたら、おれは死ぬ運命なんだ、と内心でつぶやいた。おれにはわかってる。マーサーにもわかってる。きっと、きみにもわかってるはずだ。いや、いくらきみに哀顧しても時間のむだだろうな。アンドロイドが哀願に動かされるはずはない。哀願の届くべきところがないのだから。
レイチェルがいった。「リック、わるいけれど今夜はだめ。明日にのばして」
「アンドロイドの復讐か」とリック。
「なんですって?」
「おれが、フォークト=カンプフ検査で、きみに一杯食わせたからだろう?」
「そんなことを考えてるの?」彼女はまじまじと目を見はった。「|本気で《ヽヽヽ》?」
「さよなら」リックは映話を切ろうとした。
「待って」レイチェルは早口にいった。「あなたは頭を使ってないのよ」
「きみにはそう見えるだろう。ネクサス6型は、人間よりもお利口だから」
「ちがうわ、わたしにもよくわからないの」レイチェルはため息をついた。「わかるのは、あなたがこの仕事を今夜やりたくないこと――いいえ、今夜だけじゃないかもしれない。ほんとにあなたは、残った三人の処理をわたしに手伝ってもらいたいの? それとも、そうするなと、わたしに説得してもらいたいの?」
「とにかくきてくれ。ふたりでホテルの部屋を借りよう」
「なぜ?」
「きょう、ちょっとした話を聞いたんだ」リックはかすれた声でいった。「人間の男性とアンドロイドの女性とのあいだに起こる、いろいろな関係についてね。きみが今夜サンフランシスコにきてくれれば、おれは残ったアンディーのことをあきらめる。ふたりでもっとべつのことをしよう」
レイチェルはじっと彼を見つめてから、だしぬけにいった。「わかったわ、すぐ飛びましょう。どこで待ち合わせるの?」
「セント・フランシス。ベイ・エリアでまだ営業してる中で、いくらかまともなホテルといえばあそこしかない」
「わたしが着くまで、なにもしないでいてくれるわね?」
「ホテルの部屋でおとなしくしてるよ。バスター・フレンドリーのテレビを見ながら。この三日間のゲストはアマンダ・ウェルナーなんだ。あれはいいよ。あの女なら、一生でも見あきないね。あのおっぱいと笑顔は」
リックは映話を切ってからも、しばらくぼんやりすわっていた。ようやく、車内の寒さでわれに返った。彼はイグニション・キーを入れ、まもなくサンフランシスコの下町へ車首を向けた。セント・フランシス・ホテルをめざして。[#改丁]
16
豪華でひろびろとしたホテルの一室で、リックはふたりのアンドロイド――ロイとアームガード・ベイティ――夫妻に関する調査メモの写しを読んだ。こんどの二枚には、望遠レンズで撮ったスナップ写真が添付されていた。かろうじて顔が見分けられるぼやけたカラー写真だが、女のほうはなかなかの美人に思われた。しかし、ロイ・ベイティーはそれとちがうなにか――はるかに好ましくない相手だった。
火星時代は薬剤師――とリックは読んだ。とにかく、このアンドロイドはそう自称していたということだろう。実際には、おそらく肉体労働――作男かなにかとして雇われ、よりよい生活への野心を燃やしていたのかもしれない。アンドロイドも夢を見るのだろうか、とリックは自問した。見るらしい。だからこそ、彼らはときどき雇い主を殺して、地球へ逃亡してくるのだ。奴隷労役のない、よりよい生活。たとえばルーバ・ラフトのように〈ドン・ジョバンニ〉や〈フィガロの結婚〉を歌うほうをえらぶのだ。不毛な岩だらけの荒原、もともと居住不可能な植民惑星で汗水たらして働くよりも。
[#ここから2字下げ]
ロイ・ベイティー(と調査メモには記されていた)は、権力意識の強い、積極的、攻撃的な合成性格の持ち主である。神秘主義的な先入観にとらわれたこのアンドロイドは、集団脱走計画を発案し、その思想的裏づけとして、アンドロイドのいわゆる“生命”の神聖さに関する、もったいぶった仮説を捏造した。そればかりか、このアンドロイドは種々の精神融合薬を盗みだしてみずからそれを実験し、その現場を取り押えられると、まずアンドロイドがマーサー教の恩恵に浴しえないことを指摘したのち、これこそマーサー教に類した集団体験をアンドロイドに獲得させるための研究であると主張した。
[#ここで字下げ終わり]
その記述にはどこかもの悲しいところがあった。故意に組みこまれた欠陥のためにある体験から疎外されながら、なおかつひたすらそれを手に入れようともがいている、あらくれの冷酷なアンドロイド。だが、ロイ・ベイティーにあまり同情はできなかった。デイヴのメモから見たかぎりでも、このアンドロイドにはなにか凶暴な性質があるのが感じられる。ベイティーは融合体験をむりやりに手に入れようとした――それに失敗すると、こんどは一連の殺人を計画し……そのあと、地球への逃亡を企てたのだ。そしていま、とりわけきょう一日で、最初の八人のアンドロイドが三人に煮つまったわけである。そして、残りの三人、この不法集団の主要メンバーたちも、悲しい末路をたどるだろう。かりにおれが失敗しても、ほかのだれかがいずれはやりとげるだろうからだ。時と潮は待ってくれない、とリックは思った。生命の一循環。それが最後のたそがれの中に終わる。死の沈黙の前に。彼はその中にひとつの完全な小宇宙の姿を感じた。
ホテルの部屋のドアがばたんとひらいた。「ふーっ、なんて飛行」長いうろこ地のコートと、それにマッチするブラとショーツを着けたレイチェル・ローゼンが、息をはずませながらいった。大きい派手な郵便カバン型のハンドバッグのほかに、紙袋をかかえている。
「|すてきな《ヽヽヽヽ》お部屋じゃないの」というと、腕時計を見て、「一時間かからなかったわ。とばしたもの。ほら」紙袋をさしだした。「一本買ってきたわよ。バーボン」
リックはいった。「八人のなかの最大難物がまだ残ってやがるんだ。あいつらを組織した張本人だよ」
彼はロイ・ベイティーの調査メモを、レイチェルへきしだした。レイチェルは紙袋を下において、カーボン・コピーを受けとった。
「この男の居場所はわかったの?」読みおわってそうきいた。
「コナプトの棟番号がわかっている。郊外のはずれだ。進行したマル特、本バカやピンボケが、ねぐらを作ってほそぼそと暮らしている界隈だよ」
レイチェルは手をさしだした。「ほかのも見せて」
「あとの二人は女だ」
彼はメモを渡した。一枚はアームガード・ベイティー、もう一枚はプリス・ストラットンと名のるアンドロイドのそれだった。
最後の一枚に目をやったレイチェルは、いきなり、「おお!」とさけんだ。メモをそこへはうりだし、窓ぎわへ近づいて、サンフランシスコの下町をながめた。「その最後のひとりには、あなたもきっとびっくりするわよ。それとも、しないかな。あなたには関係ないかもね」顔が蒼くなり、声がふるえている。急におそろしく不安になったようだった。
「いったい、なにをぶつぶついってるんだ?」
リックはメモをとりあげて、記事のどこがレイチェルを動揺させたのかといぶかりながら、もう一度目を通した。
「バーボンをあけましょうよ」
レイチェルは紙袋を持ってバスルームへはいり、グラスをふたつ持ってきた。彼女はまだそわそわしていた――そして、なにかが気になるようすだった。リックは、相手の頭の中で内密の思考が駆けめぐっているのを感じとった。眉をよせ、緊張した顔に、その推移がありありと現われていた。
「これをあけてくれない?」と彼女はいった。「すごい値打ち物なのよ。合成じゃないわ。本物のマッシュから作った戦前のウイスキー」
びんを受けとって、彼は栓をあけ、ふたつのタンブラーにバーボンをついだ。「いったいどうしたんだ?」
「映話であなたはいったわね。もし、今夜わたしがここへくれば、残りの三人のアンディーのことはあきらめるって。『ふたりでもっとべつのことをしよう』って。でも、結局――」
「なにが気がかりなのか、いってみろよ」
レイチェルは挑むように向きなおった。「それより、ここでなにをするつもりなのかを話してよ。残った三人のアンディーのことでくよくよ気をもんでないで」
レイチェルはコートのボタンをはずし、クローゼットのハンガーにかけた。リックははじめて相手をじっくり観察する機会にめぐまれた。
あらためて気がついたのは、レイチェルの体の異様なプロポーションだった。ゆたかな黒い髪のせいで頭が大きく見えるのと、小さな乳房のおかげで、彼女の肢体は子供のようにほっそりして見える。だが、長いまつげに縁どられた大きな瞳は、どう見ても成熟した女のそれだ。思春期との類似はそこで打ち切られている。爪先に軽く重心をかけた姿勢、わずかに肱を曲げて下に垂らした腕。油断のない、さしずめクロマニョンの狩人のポーズだな、と彼は思った。長身の狩猟民族。贅肉のまったくないひきしまった腹部、小さな腰、小さな胸――レイチェルは、時代錯誤だが魅力的なケルト人的体格をモデルに作られたらしい。短いショーツから伸びたしなやかな脚は色気のない、中性的な感じで、女らしい曲線も見られない。だが、全体的な印象は、わるいものではなかった。もっとも、あくまでも少女の体で、おとなの体ではない。隙のない、利口そうな目を除いては。
リックはちびちびとバーボンをすすった。その強さ、本物だけが持つきつい味と香りは、もはやほとんどなじみがなく、のどを通すのに苦労するほどだった。逆にレイチェルは平気な顔で胃におさめている。
ベッドに腰をおろしたレイチェルは、ぼんやりと上掛けのしわをのばしはじめた。彼女の表情はすっかり憂鬱なものに変わっていた。リックはグラスをサイド・テーブルにおき、彼女の横に腰をかけた。重みでベッドがぐっとへこみ、レイチェルは腰をずらせた。
「どうした?」リックは肱をのばして、彼女の手をとった。つめたく、骨ばって、かすかに湿った感じだった。「なにが気になる?」
「あのネクサス6型のいまいましい最後のひとりは」とレイチェルは声をしぼりだした。「わたしとおなじタイプなのよ」上掛けの糸のほつれを見つけて、そのはしをくるくる丸めながら、「あの外見特徴を読んで気がつかなかった? わたしとそっくり。髪型やドレスはちがってるかもしれない――たぶん、ヘヤピースをかぶってるでしょう。でも、彼女に会えば、あなたにもわたしのいう意味がわかるわよ」皮肉な笑い声を上げて、「うちの協会がわたしをアンドロイドだと認めたのは、こうなってみるとよかったわけね。でなければ、あなたはプリス・ストラットンを見て目をまわしたかもしれない。それとも、彼女をわたしと勘ちがいしたかもしれない」
「なぜ、それがあんなに気になったんだ?」
「だって、あなたが彼女を|処理《ヽヽ》するときに、わたしはついていくもの」
「だいじょうぶだ。たぶん、彼女は見つかるまい」
「わたしはネクサス6型の心理を知ってるわ。だから、ここへきたのよ。だから、あなたを助けてあげられるのよ。残った三人は、きっと一ヶ所にかたまってると思う。ロイ・ベイティーと自称する錯乱したアンドロイドを中心にしてね。彼が、決定的、全面的、最終的な防御作戦の監督にあたっているはずだわ」レイチェルは唇をゆがめた。
「おお神さま」
「元気を出せよ」
リックはレイチェルのとがった小さなあごを片手で包み、彼の顔が見えるように仰向かせた。アンドロイドとのキスってどんな昧だろうといぶかしみながら、ちょっと背をかがめて、乾いた唇にくちづけした。レイチェルは応じてこなかった。されるままになっていた。まるで無感覚なように。しかし、彼はそれと逆のものを感じとっていた。いや、おそらくそれは願望思考だろう。
「あのことが、前もってわかっていればよかったのに」レイチェルがいった。「そしたら、わたしはぜったいにやってこなかったわ。あなたのはむりな要求よ。わたしがどんな気持かわかる? そのプリスというアンドロイドに対して」
「共感か」
「それに似たものね。一体感、あれがわたしって感じ。おお神さま、ひょっとしたらそうなるんだわ。乱闘になったら、あなたは彼女とまちがえて、わたしを処理するかもしれない。そしたら、彼女はシアトルへ帰って、わたしの生活をひきつぐわけよ。こんな気持ははじめてだわ。わたしたちは、この|びん《ヽヽ》のキャップのように型押しされた製品なのね。わたしが――わたしという個人が――存在すると思っていたのは、ただの幻想。わたしはあるタイプの見本にすぎないんだわ」ぞっと体をすくめた。
リックはむしろ滑稽さを感じずにはいられなかった。レイチェルがこんなにじめじめとふさぎこむとは。
「蟻はそんなふうに感じないぜ。あれも、体はおたがいにそっくりだが」
「蟻。蟻なんて、なにも感じやしない」
「じゃ、人間の一卵性双生児はどうだ。ふたごはべつに――」
「あら、ふたごもおたがいに一体感をいだきあうわ。ふたごには共感的な、特別のきずながあるっていうじゃないの」
レイチェルは立ちあがると、かすかにふるえる手でバーボンのびんを持ちあげた。グラスを満たして、ぐっとあおった。眉間に険しくしわをよせて、しばらく部屋の中を歩きまわり、それからまるで偶然のような感じで彼のとなりへ腰をかけた。両脚を大きくふりあげ、体を伸ばしてふかふかした枕にもたれた。そして吐息をついた。
「三人のアンディーのことは、もう忘れて」彼女の声は疲労にみちていた。「くたびれたわ。旅のせいかしら。それと、きょう知らされたいろいろのことが重なったのね。このまま眠ってしまいたい」目を閉じてつぶやくように、「もし、わたしは死んでも、ローゼン協会のこの型の新製品になって、また生まれ変わってくるかもしれない」かっと目をひらき、猛然と彼をにらみつけた。「わたしがここへやってきた本当の理由を知ってる? なぜ、エルドンやほかのローゼン家の人間たちが、わたしをあなたに付き添わせようとしたかを?」
「観察のためさ」リックは答えた。「ネクサス6型がフォークト=カンプフ検査のどこでボロを出すか、それをくわしく調べるためだ」
「検査だけじゃないわ。アンドロイドの特異点のすべてを調べるのよ。それから、わたしは報告にもどり、協会ではそれをもとにして接合子槽のDNA因子に修正を加える。そして、ネクサス7型が完成するわけ。もしそれでも見破られるようなら、また修正をくりかえして、最後には絶対に識別不能のタイプを完成するわ」
「ボネリ反射弧テストのことは知ってるかい?」
「協会では、脊椎神経節の研究も進行中だわ。ボネリ検査法も、そのうちに忘却という古めかしい屍衣の中へ消えてしまう運命なのよ」
その言葉とはうらはらにレイチェルはあどけない微笑をうかべた。こうなると、リックには相手がどの程度に真剣なのか見当がつかなかった。全世界をゆるがすほどの重大問題――それが、いとも軽薄に語られている。たぶん、これもアンドロイドの特異点なんだ、と彼は思った。自分の言葉が現実に意味していることについて、なんの感情も、なんの思いやりもない。ただ、ばらばらな用語を並べた、空虚で型どおりの知的な道義があるだけだ。
いや、それだけでなく、レイチェルはいまやおれをからかいにかかっている。それとわからないうちに、自分のおかれた立場に対する嘆きから、おれの立場に対する嘲笑へと移行してしまった。
「この|すべた《ヽヽヽ》め」リックはいった。
レイチェルは笑いだした。「わたし酔っちゃった。あなたといっしょに行けない。ひとりで行ってよ」追い立てるように身ぶりして、「わたしはここでぐっすり眠って、あとからあなたにそのときの模様をきくわ」
「ロイ・ベイティーがおれを殺したら、“あとから”はなくなるぜ」
「でも、こんなに酔っていては、どのみちあなたの役に立てないでしょう? とにかく、あなたは真実を知ったのよ。煉瓦のように固くて、でこぼこぬるぬるした真実の表面を。わたしはたんなるオブザーバーだから、あなたを救うための干渉なんかしないわ。ロイ・ベイティーがあなたを殺そうと殺すまいと、わたしの知ったことじゃない。気になるのは、わたしが殺されるかどうかだけ」まじまじと大きく目をひらいて、「あら、わたしって、自分に共感しちゃってる。それとね、もしかりにわたしがその町はずれの崩れかけたコナプトへ行けたとしても――」レイチェルはすいと手をのばして、彼のシャツのボタンをいじった。器用な指でゆっくりとボタンをはずしていった。「やっぱり行く勇気はないわ。だって、アンドロイドはおたがいを平気で裏切るし、あのいまいましいプリス・ストラットンが、わたしを殺して後釜にすわろうとするのはわかりきってるからよ。でしょう? その上着、脱ぎなさいよ」
「なぜ?」
「ふたりで寝るために」とレイチェル。
「おれはヌビア種の黒山羊を買ったんだ。どうしても、あと三人のアンディーを処理しなくちゃならない。この仕事をかたづけて、女房のところへ帰らなくちゃならない」
立ちあがると、ベッドのむこうへまわってバーボンのびんをとった。立ったままで、注意ぶかく二杯目をついだ。自分の目にも、すこし手がふるえているのがわかる。たぶん、疲労のせいだ。おれたちはふたりとも疲れきっている。三人のアンディーを狩るには、くたびれすぎている。しかもこっちを待ちかまえているのは、八人の中でもいちばん手ごわい相手だ。
そこに立ったまま、とつぜんリックはさとった。その首領格のアンディーに、明らかな、打ち勝ちようのない恐怖をいだいてしまったのだ。すべてはベイティーしだい――最初から、そうだった。これまでのおれは、しだいに手ごわくなってくるベイティーの分身たちと遭遇して、つぎつぎにそれを処理してきた。だが、こんどはベイティー自身が現われる。そう考えると、恐怖がひとしお大きくなるのが感じられた。その恐怖をうっかり意識に近づけたために、いまのおれは完全にそのとりこになってしまったのだ。
「おれは、もうきみの手を借りなくちゃ行動できない。ここから出ることさえできない。ポロコフはおれを逆に追ってきた。ガーランドも、いわばおれを追ってきたようなものだ」
「ロイ・ベイティーが、あなたを狙ってやってくるというの?」
レイナュルは|から《ヽヽ》になったグラスをおいて前かがみになり、背中に手をやってブラをはずした。それをするっと下に落とすと、ふらふらしながら立ちあがり、自分でもそれがおかしいのかニヤニヤ笑いだした。
「わたしのバッグの中に、火星にあるうちの自動工場で作った非常――」顔をしかめて、「安全――なんとか装置がはいってるわ。新しくできたアンディーの点検をするときの。それを出して。牡蠣みたいなかっこうのよ。すぐわかるわ」
リックはハンドバッグの中をさがしはじめた。人間の女性とおなじように、レイチェルもありとあらゆるこまごました品物をその中にしまっていた。彼は果てしない模索をつづけた。
そのあいだにレイチェルはブーツをけとばすように脱ぎ、ショーツのジッパーをひらいていた。片足で立つと、いま脱いだ衣類をもう片足の親指でつまみ、ひょいと部屋の片隅へほうり投げた。それから、ベッドへどすんと横になり、寝がえりを打ってグラスをとろうとしたとたん、手がすべってグラスがカーペットの上に落ちた。
「やんなっちゃう」レイチェルはもう一度ふらふらと立ちあがった。パンティーだけの裸で、バッグの中をあらためている彼を見まもり、それからそろそろと上掛けをはがして、ベッドにもぐりこんだ。
「これかい?」リックは押しボタンのついた金属製の円盤を上にかざした。
「それがアンドロイドを筋硬直《カタシプシー》におちいらせるの」レイチェルは目をつむったままでいった。「数秒間。呼吸も停止する。あなたもそうなるけど、人間は呼吸なしでも一、二分は幾能できるんでしょう? ところが、アンディーの迷走神経は――」
「知ってる」彼は立ちあがった。「アンドロイドの自律神経系には、人間のような割りこみの融通性がない。しかし、きみがいったように、これは五、六秒間しかきかないんだろう?」
「あなたのいのちを救うにはそれだけで充分よ」
レイチェルはささやいた。「だから――」とベッドに起きなおって、「たとえ、ロイ・ベイティーがここへやってきても、それをとりあげてボタンを押すだけでいいわ。ロイ・ベイティーが血管に空気の供給を絶たれて凍りつき、脳細胞が衰えていくすきに、レーザー銃で殺せばいいのよ」
「レーザー銃といえば、きみも持っていたな。バッグの中に」
「あれはおもちゃ」レイチェルはあくびして、ふたたび目をつむった。「アンドロイドはレーザー銃の携帯を許されてないわ」
彼はベッドに歩みよった。
レイチェルは身もだえのすえ、やっと寝がえりを打ってうつぶせになり、白いシーツに顔を埋めた。
「清潔で上品な処女タイプのベッドね。清潔で上品な娘だけしか――」言葉を切って、考えた。やがて――「アンドロイドは子供を生めないわ。それは損失なのかしら?」
リックは彼女のパンティーを脱がせおわった。蒼白くつめたいおしりがむきだしになった。
「損失なのかしら?」とレイチェルはくりかえした。「わたしにはわからない。わかりようがない。子供を生むのはどんな気持のもの? そういえば、生まれてくるのはどんな気持のもの? わたしたちは生まれもしない。成長もしない。病気や老衰で死なずに、蟻のように体をすりへらしていくだけ。また蟻が出たわね。それがわたしたちなのよ。あなたじゃない。わたしのこと。ほんとは生きていないキチン質の反射機械」レイチェルは顔を横にねじ曲げると、大声でどなった。「わたしは生きてない[#「わたしは生きてない」に傍点]! あなたがベッドをともにする相手は女じゃないのよ。あとでがっかりしないようにね。いい? これまでに、アンドロイドと寝たことはあるの?」
「いや」彼はネクタイをとり、シャツをぬぎながらいった。
「もし――聞いた話だけど――そこをあんまり意識しなければ、そっくりなんですって。でも、そこを意識すると、自分のやっていることを考えだすと――先がつづけられなくなるの。なぜって、エヘン、生理学的理由でね」
背をかがめて、彼はレイチェルの肩に接吻した。
「ありがとう、リック」彼女は悲しげだった。「でも忘れないで。なにも考えないで、ただ行為だけをするのよ。途中で間をおいて、理性的になっちゃだめ。哲学的見地からはわびしい話ですものね。おたがいにとって」
「そのあとで、おれはやはりロイ・ベイティーをさがしにいく。きみには、やはりいっしょに行ってもらうことになるな。あのバッグの中のレーザー銃がおもちゃでないことぐらい――」
「わたしがあなたのためにアンディーを処理するとでも思うの?」
「たとえああはいっても、きみはできるだけおれを助けようとするだろうね。でなければ、いまごろそのベッドに寝ているわけがない」
「あなたを心から愛しているわ」とレイチェル。「もし、どこかの部屋であなたの生皮を貼ったソファーにでくわしたら、きっとわたしはフォークト=カンプフ検査の最強反応を示すわよ」
リックはベッドわきの明かりを消しながら思った――今夜のうちに、おれはこのすっぱだかの娘とそっくりなネクサス6型を処理するわけだ。まいったな、フィル・レッシュのいったとおりになっちまった。まず女と寝て、それから殺せ。
「おれにはできない」リックはベッドからあとずさりした。
「できてほしかったわ」レイチェルの声がふるえていた。
「きみのせいじゃない。プリス・ストラットンのせいだ。おれがこれから彼女になにをするかを考えると」
「わたしたちはおなじじゃないわ。わたし[#「わたし」に傍点]はプリス・ストラットンなんか、どうなったっていい。聞いてよ」レイチェルはベッドの中でもぞもぞと身動きしてから起きなおった。暗がりの中に、ほとんど乳房の隆起のないほっそりとした体が、ぼんやりと見わけられた。「わたしと寝れば[#「わたしと寝れば」に傍点]、ストラットンはわたしが殺してあげる[#「ストラットンはわたしが殺してあげる」に傍点]。わかった? だって、ここまできていまさら――」
「ありがとう」とリックはいった。
感謝の思い――きっとバーボンのせいだろう――が胸にこみあげ、のどを締めつけた。あとふたり、あとふたりだけを処理すればいいんだ、と彼は思った。ベイティー夫妻だけを。レイチェルはまちがいなく約束を守るだろうか? 守るにきまってる。アンドロイドの思考や機能はそうできている。にもかかわらず、こんな提案はおよそいままでにでくわしたことがない。
「なにをしてるの、さっさとはいったら?」とレイチェル。
彼はベッドにはいった。
[#改丁]
17
そのあと、ふたりは思いきりぜいたくを楽しむことにした。リックはルームーサービスにコーヒーを届けさせた。緑と黒と金箔のラウンジチェアにのんびりくつろいで、コーヒーをすすりながら、これからの数時間のことを思案した。浴室ではレイチェルが熱いシャワーを浴びながら、嬌声を上げ、鼻歌をうたい、湯をはねちらかしていた。
「あなた、さっきはほんとにうまい取引をしたわね」シャワーのコックをしめて、彼女は声をかけた。髪を輪ゴムで束ね、しずくを垂らしながら、ピンク色のすっぱだかで浴室のドアから現われた。
「わたしたちアンドロイドは、肉体の官能的情熱をコントロールできないのよ。あなたもきっとそれは知ってるわね。つまり、わたしにいわせれば、あなたはわたしの弱味につけこんだのよ」
そういいながらも、レイチェルは本気で怒っているようではなかった。どちらかといえば、かえってほがらかになり、リックがこれまでにつきあったどの娘にも劣らず人間らしくなっていた。「ほんとに、今夜これからあなたと、あの三人のアンドロイドを追跡しなきやならないの?」
「そうだ」おれが処理するのはふたりだけだぞ、とリックは思った。ひとりはきみにまかせる。レイチェルのいったとおり、それが取引だ。
大きなバスタオルで体を包むと、レイチェルはいった。「さっきはよかった?」
「ああ」
「これからもアンドロイドと寝たいと思う?」
「もし、若い娘ならな。もし、きみに似ていれば」
レイチェルはいった。「わたしのような人間型ロボットの平均寿命が、どれぐらいか知ってるの? わたしはもう二年、こうして生きてきたわ。あなたの計算だと、わたしのいのちはあと何年ぐらい?」
しばらくためらってから、リックはいった。
「あと二年ぐらいだろう」
「その間題はまだ解決できないらしいわ。つまり、細胞の交換が。継続的か、すくなくとも半継続的な再生。まあ、しかたないわね」レイチェルはごしごしと体を拭きはじめた。ふたたび、無表情な顔にもどっていた。
「気のどくに」とリック。
「いいのよ」とレイチェル。「こんな話を持ちだしたわたしがわるいんだから。とにかく、そのおかげで、人間はどこかへ逃げだして、アンドロイドと暮らすわけにはいかないのよ」
「きみのようなネクサス6型でも、その点はおなじなのか?」
「問題は代謝機能ですもの。脳ユニットとは関係ないわ」彼女は小走りにパンティーを拾いあげ、そして服を着はじめた。
リックも身支度にかかった。急に言葉すくなになったふたりは、いっしょにホテルの屋上まで昇った。そこにはリックのホバー・カーが、白服で愛想のいい人間の係員の手でパークされていた。
サンフランシスコの郊外へ車首を向けたとき、レイチェルがいった。
「すてきな夜」
「うちの山羊も、いまごろはもう眠ってるだろう。いや、山羊ってのは夜行性かな? 動物によっては、ぜんぜん眠らないのもいる。羊がそうなんだ。すくなくとも、おれにはわからなかった。いつのぞいても、連中はこっちを向くんだよ。餌がもらえると思って」
「あなたの奥さんって、どんなひと?」
リックは答えなかった。
「あなたは――」
「もし、きみがアンドロイドでなかったら」とリックはさえぎった。「もし、おれが合法的にきみと結婚できたら、おれはそうしたろう」
レイチェルはいった。「それとも、不倫に生きる手もあるわよ。ただし、わたしは生きてないけれど」
「法律的にはな。しかし、はんとうは生きている。生物学的にだ。きみを作りあげてるのは、人工動物みたいなトランジスター回路じゃない。きみは有機的な生き物だ」
そして、あと二年もすれば、きみは寿命がつきて死んでしまう、と彼は思った。きみの指摘したように、細胞再生の問題がまだ解決できない以上は。だから、どのみちおなじかもしれない。
これでおれもおしまいだな、と彼は思った。バウンティ・ハンターとしては。ベイティー夫妻の処理をすませれば、もうその先はない。今夜のようなことがあったあとでは。
「とても悲しそう」とレイチェル。
手を伸ばして、リックは彼女の頬にさわった。
「もうこれで、あなたは二度とアンドロイド狩りができなくなるわ」レイチェルは静かにいった。
「だから、悲しそうな顔をするのはやめて。おねがい」
リックはまじまじと相手を見つめた。
「どのバウンティ・ハンターもそうだったわ」レイチェルがいった。
「わたしと寝たあとでは。ただひとりを除いてね。ひどくシニカルな男。フィル・レッシュ。それに彼、頭がおかしいのよ。自分ひとりで外野を守ってるつもり」
「そうだったのか」リックはいった。麻痺した気分だった。完全に。全身のすみずみまで。
「でも、わたしたちのこの旅はむだにならないはずよ」とレイチェル。「なぜって、あなたはむこうで、すばらしい精神的な男に会うことになるから」
「ロイ・ベイティーか」と彼。「きみはあいつらの全員を知ってるのか?」
「全員を知っていたわ、まだ彼らが存在していたときに。いま知っているのは三人だけ。けさ、わたしたちはあなたを止めようとしたわ。あなたがデイヴ・ホールデンのリストをひきついで仕事にかかる前に。それからもう一度、ポロコフがあなたに会う直前にも手を打ってみた。でも、そのあとは待つしかなかった」
「とうとうおれがノイローゼになって、きみを呼ぶまでか」
「ルーバ・ラフトとわたしは、二年近くのあいだ、とてもとても仲のいい友だちだったわ。あなたは彼女をどう思って? 彼女が好きだった?」
「好きだった」
「でも、殺したのね」
「殺したのはフィル・レッシュだ」
「あら、じゃ、フィルは劇場まであなたについていったのか。それは知らなかった。ちょうどそのころに仲間との連絡がとだえてしまったのよ。彼女が殺されたことだけはわかったけど。当然、手をくだしたのはあなただと思っていたわ」
「デイヴのメモから見ても、おれはまだロイ・ベイティーなら処理できると思う。アームガード・ベイティーのほうはわからんがね」そして、プリス・ストラットンはぜったいむりだ、と彼は思った。いまでもむりだ。こんな話を聞かされたあとでも。「だから、さっきホテルであったことは、べつに――」
「協会は」とレイチェルがいった。「こことソ連のバウンティ・ハンターたちに接触をはかったのよ。この手はいつも成功するみたいなの……その理由はわたしたちにはよく理解できない。やはり、それもわたしたちの限界らしいけれど」
「きみのいうほど、その手がいつも成功するとは思えないな」彼はしわがれた声でいった。
「でも、あなたに関しては成功したわよ」
「いまにわかるさ」
「わたしにはもうわかってる」とレイチェル。「あなたの顔にあの表情を見たときからね。あの悲しみ。あれをわたしは求めていたのよ」
「いったい、きみはいままでに何回こんなことをやらかしたんだ?」
「おぼえてないわ。七回、八回。いや、九回だったかな」彼女――あるいは、それ――はうなずきながらいった。「そう、九回」
「古くさいアイデアだよ」とリック。
愕然として、レイチェルはいった。
「な、なんですって?」
ハンドルを押して、リックは車を下降姿勢にはいらせた。「とにかく、おれにはそう思えるね。おれはいまからきみを殺す。それから、ひとりでベイティー夫妻とプリス・ストラットンを始末しにいく」
「だから、着陸するわけ?」不安そうにレイチェルはいった。「罰金をくらうわよ。わたしは協会の財産、合法的な財産だから。わたしは火星からこっちへ脱走してきたアンドロイドじゃない。ほかのみんなと同列にはいかないわよ」
「だが、もしきみを殺せるなら、おれはあいつらも殺せる」
レイチェルの手は、キップルでいっぱいにふくらんだバッグのほうに伸びた。彼女は必死に中をさがし、やがてあきらめた。
「いけすかないバッグ」とレイチェルは獰猛な口調でいった。「さがしものが出てきたためしがない。ねえ、できたらあまり痛くない方法で殺してくれる? つまり、慎重にやってほしいのよ。もし、わたしが抵抗しなかったら。いいでしょ? 抵抗しないと約束するわ。承知してくれる?」
リックはいった。「なぜフィル・レッシュがあんなことをいったか、いまやっと、おれは納得できた。やつは、べつにシニカルなんじゃない。ただ、あんまり多くのことを経験しすぎただけなんだ。こういう目にあわされては――おれだってむりもないと思う。これがやつをねじ曲げたんだ」
「でも、あれはまちがった方向よ」
レイチェルは外見的にはだいぶ落ちついてきたようだった。まだその底にはくるおしい緊張がある。とはいえ、さっきの暗い炎はもう薄れていた。これまで、リックがほかのアンドロイドでたびたび目撃してきたように、生命力がすっかり流れ出てしまった感じだ。古典的な諦念。こうした機械的で知的な運命の受容は、本物の人間――二十億年の生存競争と進化をくぐりぬけてきた種族――には、とうていまねのできないものだ。
「おれにはきみたちアンドロイドのそのあきらめのよさががまんできない」
リックは荒々しくいった。ホバー・カーは、いまや地上すれすれにつっこんでいた。墜落を避けるために、ぐいとハンドルを引かなければならなかった。ブレーキをかけ、ようやくのことであぶなっかしい着陸に成功した。彼はモーターを切ると、レーザー銃を抜いた。
「後頭骨を狙って。首のつけ根を」とレイチェルはいった。「おねがい」
レーザー銃を見なくてすむように、レイチェルは座席の上で身をよじった。レーザー・ビームが体に食いこむのが見えないように。
レーザー銃をおさめて、リックはいった。「おれには、フィル・レッシュのまねはできん」モーターのスイッチを入れ、ふたたび車を離陸させた。
「どうせやるなら、いますませてしまってよ。じらさないで」
「きみを殺すのはよした」リックはふたたびサンフランシスコの下町へ車首を向けた。「きみのホバー・カーは、まだセント・フランシスにあるんだろう? あそこでおろしてやるから、シアトルへ帰れよ」いうべきことはそれで終わった。彼は無言で運転した。
「わたしを殺さないでくれてありがとう」レイチェルがしばらくしていった。
「くだらん、どのみちきみは、さっきの話であと二年のいのちしかない。おれはまだ五十年ある。つまり、きみより二十五倍も長生きするわけさ」
「でも、あなたはわたしを軽蔑しているのね。わたしがやったことで」レイチェルにはふたたび自信がもどっていた。連騰[#「連騰」は底本では]のような口調がスピードアップしてきた。「あなたもほかの男たちとおなじ道をたどったわ。ほかのパウンティ・ハンターたちと。いつのときも、彼らはカンカンになって、わたしを殺してやるといきまいたけれど、いざとなると殺せないのよ。ちょうど、いまのあなたとおなじように」タバコに火をつけ、うまそうに煙を吸いこんだ。「これがなにを意味するかは、むろんわかるわよね? つまり、わたしが正しかったのよ。あなたにはもうアンドロイドが殺せない。わたしだけじゃなく、ベイティー夫妻やストラットンも殺せない。だから、もう山羊のいるおうちへお帰りなさい。そして、休養をとればいいわ」だしぬけに彼女は激しくコートをはたいた。「うわっ! 火のついた吸いがらを落としちゃった――よかった、とれたわ」安心したように座席の背にもたれた。
リックは無言だった。
「その山芋だけど」とレイチェル。「あなたはわたしよりもその山羊を愛してるのね。たぶん、奥さんより以上に。一が山羊、二が奥さんで、そのつぎが――」げらげら笑いだした。「これが笑わずにいられる?」
リックは答えなかった。しばらく沈黙がおり、それからレイチェルはごそごそ手さぐりしてカー・ラジオを見つけ、スイッチを入れた。
「消せよ」とリッタ。
「〈バスター・フレンドリーと仲よし仲間〉を消すの? アマンダ・ウェルナーとオスカー・スタラッグズを消すの? バスターのセンセーショナルなすっぱぬきの時間なのよ。その瞬間が目前にせまっているのよ」レイチェルは背をかがめて、腕時計の文字盤をラジオの明かりにかざした。「もうじきだわ。どんなニュースか、あなたはもう知ってるわけ? こないだからバスターは、その予告をしたり、気を持たせたり――」
ラジオがいった。「――おらが言いてえのはほかでもねえがよ、みなさん、こうやって相棒のバスターとえらく調子よくしゃべくってるだが、やっぱしよウ、時計さコチコチいう音が待ちきれねえだ、つうなアなんしろはア世紀のすう大発表とくるだべ――」
リックはラジオを切った。「オスカー・スタラッグズ。知識人の声か」
とたんにレイチェルが手をのばして、またスイッチを入れた。「わたしは聞きたいの。どうしても[#「どうしても」に傍点]聞くわ。重大ニュースよ、ベスター・フレンドリーが今夜のショーで発表するのは」
まのぬけた声がふたたびスピーカーから流れだし、レイチェル・ローゼンは心地よさそうに座席にもたれた。リックのかたわら、闇の中で、タバコの火が悦に入ったホタルのしりのように、ぼうっと輝いている――それがレイチェル・ローゼンのなしとげた成果のゆるぎない指標だった。リックに対する彼女の勝利の。
[#改丁]
18
「残りの荷物も、ぜんぶここまで運びあげてよ」プリスはJ・R・イジドアにいいつけた。「とくにあのテレビがほしいの。でないと、バスターの発表が見られないから」
「そうよ」アームガード・ベイティーが、アマツバメのように目をくりくりさせていった。「あのテレビはぜったいに必要だわ。今夜まで長いこと待ちわびた発表が、もうおっつけはじまるんですもの」
イジドアはいった。「ぼくのテレビでも官営チャンネルなら見られるよ」
居間の片隅で、まるで永久に腰をすえたかのように、まるでそこをねぐらにきめたように、深い椅子にどっかとすわったロイ・ベイティーが、げっぷをひとつもらしてからがまん強い口調でいった。「われわれが見たいのは、〈バスター・フレンドリーと仲よし仲間〉なんだよ、イジちゃん。それとも、J・Rと呼んだほうがいいかい? とにかく、わかるだろう? だからたのむよ、テレビをとってきてくれるね?」
イジドアは、残響だけを返してくるがらんとした廊下を、ただひとり階段へと歩いた。強烈な幸福の香りがまだ心の中にたちこめていた。このなまくらな一生をつうじて、はじめて人の役に立てたという感慨だった。いまのぼくは人にたよられる人間なんだ――胸をはずませながら、ほこりに埋もれた階段を、てくてく下りていった。
それに、とイジドアは思った――店のトラックのカー・ラジオを聞いてるより、テレビでバスター・フレンドリーを見るほうがずっといい。それに、彼らのいうとおりなんだ。バスター・フレンドリーは、今夜、綿密に証拠を集めたセンセーショナルなすっぱぬきを発表することになっている。だから、プリスやロイやアームガードのおかげで、ぼくもここ何年間での最大のニュースをこの目で見ることができるんだ。すごいじゃないか、と心にいいきかせた。
J・R・イジドアに関するかぎり、人生はたしかに上向きになりつつあった。
彼はもとのブリスのアパートにはいり、テレビのプラグを抜いてアンテナをはずした。とつぜん、まわりの静寂が心に沁みとおってきた。腕の力が抜けていく。ベイティー夫妻やプリスと離れたいま、イジドアは自分がプラグを抜かれて映らなくなったそのテレビそっくりに、影の薄い存在になったのを感じた。やっぱり、仲間がいなくちゃだめなんだな、と思った。まともな生活をするには。つまり、あの三人がここへくるまでは、ぼくもこのビルにひとりでいて平気だった。しかし、いまはもうそうじゃない。そして、逆もどりもできない。孤独へは帰れない。うろたえながら思った――ぼくのほうが、あの連中にたよっているんだ。あの連中がいてくれるのは、なんてありがたいことだろう。
プリスの荷物を上のアパートまで運びおわるには、二往復かかりそうだった。テレビを持ちあげ、まずそれを運んでから、あとでスーツケースと衣類を持っていくことにした。
数分後、彼はやっとテレビを運びあげた。居間の小テーブルの上へおろしたときには、指がちぎれそうだった。ベイティー夫妻とプリスは無表情な顔で見まもっていた。
「このビルはうまくテレビが映るんだよ」イジドアは息をはずませながらプラグをさしこみ、アンテナをつけた。「〈バスター・フレンドリーと仲よし仲間〉はいつも――」
「スイッチを入れるだけでいい。黙っててくれ」とロイ・ベイティー。
イジドアはいわれたとおりにして、ドアのほうへ急いだ。「もう一回で、ぜんぶ運べるからね」しばらく、仲間の存在のぬくもりにひたりながら、立ち去りかねていた。
「ごくろうさん」とプリスがうわの空でいった。
イジドアはもう一度出発した。あの連中はぼくをこき使ってるみたいだ。だけど、そんなことはかまわない。それでもやはり持つべきいい友だちなんだ、と自分にいいきかせた。
ふたたび階下に降りて、プリスの衣類をかき集め、一枚残らずスーツケースの中に詰めこんでから、もう一度廊下をもどり、息をきらして階段を昇りはじめた。
行く手の段の上に、なにか小さいものがほこりの中で動いていた。
それを見るなり、イジドアはスーツケースをほうりだした。急いでプラスチックのくすりびんをとりたした。みんなとおなじように、こんなこともあろうかと持ち歩いているのだ。特色はないにしても、とにかく生きたクモである。ふるえる手でそれをびんの中へ押しこみ、キャップ――針で小さな穴があけてある――をぴったりとはめた。
階上のアパートの戸口までたどりついて、ひと息いれようと立ちどまった。
「――そうです、みなさん、ついにそのときはやってきました。みなさんもこのバスター・フレンドリーとおなじように、今回のすっぱぬきを待ちわびておられたことでしょう。つけ加えますが、この発見は、ここ数週間、一流専門家のグループが連夜の残業のすえに、まちがいのないことを確認しております。ホッホー、みなさん、でははじまり、はじまり!」
ジョン・イジドアはいった。「クモを見つけたんだよ」
三人のアンドロイドは、一瞬テレビのスクリーンから彼のほうに注意を移して、ちらとふりかえった。
「見せて」とプリスが手をさしだした。
ロイ・ベイティーがいった。「バスターの出ているあいだはしゃべらないでくれ」
「クモって、一度も見たことがないんだもの」プリスがいった。彼女はくぼめた手のひらにくすりびんをのせて、中の生き物をのぞきこんだ。「まあ、たくさんの脚。どうしてこんなにたくさんの脚がいるのかしら、J・R?」
「クモってそんなふうにできてるんだ」イジドアはいった。胸がどきどきして、息がつけなかった。「もともと八本脚なんだよ」
プリスは立ちあがりながらいった。「わたしの考えを教えてあげましょうか、J・R? この虫に、こんなにたくさんの脚はいらないと思うわ」
「八本?」とアームガードがくちばしをいれた。「どうして四本じゃたりないの? ためしに四本切ってみたらどう?」思いついたようにハンドバッグをあけると、いかにもよく切れそうな爪切り鋏をプリスに手渡した。
異様な恐怖がJ・R・イジドアをうちのめした。
プリスはくすりびんを台所へ運んで、食卓に腰をおろした。それからキャップをはずし、びんをさかさにして、クモをテーブルの上に振り落とした。「前ほど早く走れなくなると思うけど、どのみちここじゃつかまえる餌食もいないわ。いずれは死ぬのよ」鋏をとろうとした。
「おねがいたから」とイジドア。
プリスはけげんそうに顔を上げた。「この虫がなにかの役にたつというの?」
「脚を切らないでくれ」イジドアはあえぐしようにいった。哀願をこめて。
鋏をとると、プリスはクモの脚を一本切り落とした。
居間では、テレビの画面でバスター・フレンドリーがしゃべっていた。「さあ、ごらん。これが背景の一部の引き伸ばし写真。みなさんがいつも見せられていた空はこれだったのよね。その前に、わが調査室の主任のアール・パラメーターから、この文字どおり驚天動地の大発見を説明してもらいましょう」
プリスは手のひらのふちでクモを押さえて、もう一本の脚をつまんだ。ほほえみながら。
「拡大されたビデオ画像を厳密に分析しました結果」と新しい声がテレビからきこえた。「このような事実が判明しました。マーサーの背景にある昼の月のかかった灰色の空は、地球の空ではなく――人工の空なのです[#「人工の空なのです」に傍点]」
「あなた、聞きのがすわよ!」アームガードが心配そうにプリスを呼んだ。台所のドアまでやってきた彼女は、そこでプリスがなにをやりはじめたかを知った。「ねえ、それはあとになさいよ」となだめるようにいった。「あっちの放送のほうがだいじだわ。いよいよ証明されるのよ、あたしたちがこれまで信じっづけてきたことが――」
「うるさいぞ」とロイ・ベイティー。
「――事実だって」とアームガードがしめくくつた。
テレビは話しっづけた。「あの“月”は書き割りなのです。いま画面に出ております拡大写真でおわかりのように、まざれもない筆触の跡があります。それだけでなく、あのもじゃもじゃした雑草と、陰気な荒れ地――そして、見えない敵がマーサーに投げつける石ころもおそらく――やはり模造されたものであるという証拠が、すでにいくつか挙がっております。例の石ころが、実はけがの心配のないソフト・プラスチックで作られている可能性も、充分考えられます」
「つまり、早い話が」とバスター・フレンドリーが横から割りこんだ。「ウィルバー・マーサーには痛くもかゆくもなかったわけさ」
調査室主任がいった。「フレンドリーさん、われわれはついに、もとハリウッドの特撮技術者、ウエイド・コルトー氏をつきとめました。彼の明快な証言によるとですね、“マーサ”なる人物は、サウンド・ステージの中を歩くただの三文役者であろうということです。いや、それだけでなく、コルトー氏はあのサウンド・ステージに見おぼえがあるとさえいっております。数十年前にはコルトー氏もいろいろ関係のあった、いまは存在しない二流映画会社が使っていたものだそうです」
「すると、コルトー氏にしたがえば」とバスター・フレンドリーがいった。「疑問の余地はないわけだね」
いまやプリスに三本目の脚を切りとられて、クモはおぼっかなげに食卓の上を這いまわりながら、出口を、自由への道をさがしていた。それは見つからない。
「率直なところ、われわれはコルトー氏の言葉を信じました」調査室主任はペダンティックなつめたい声でつづけた。「そこで、いまはなきハリウッド映画産業に雇用されていた端役俳優たちの写真を、徹底的に収集検討したのです」
「そこでなにがわかったんだい――」
「よく聞いてろよ」とロイ・ベイティーがいった。アームガードは吸いつけられたように画面をにらみ、プリスもクモの脚を切るのを中断した。
「数万枚のブロマイドの中からわれわれが注目したのは、戦前の映画に何回か端役で出演したアル・ジャリーなる老人でした。ただちにわれわれは、インディアナ州イースト・ハーモニーにあるジャリーの自宅へスタッフを派遣しました。では、そのときの模様を、スタッフのひとりがお話しします」
いっとき沈黙があり、おなじように無味乾燥なべつの声がいった。
「イースト・ハーモニーのラーク街の町はずれにあるみすぼらしいあばら家には、アル・ジャリーだけしか住んでいませんでした。われわれは愛想よく中に通され、かびくさい、崩れかけた、キップルだらけの居間で彼と会見しました。わたしはテレパシー的手段によって、目の前にすわったアル・ジャリーのぼやけて雑然とした思考を走査してみたのであります」
「さあここだ」ロイ・ベイティーが、椅子から食いつくように体を乗りだした。
「そこでわかったのですが」と技術者はつづけた。「この老人は、一度も会ったことのない謎の人物に雇われて、十五分間のテレビ短篇シリーズに出演しました。しかも、こちらの推測どおり、あの“石ころ”は、やはりゴム状プラスチックで作られていたのです。流れた“血”はただのケチャップであり、そして――」と技術者は苦笑しながら、「――ジャリー氏のなめた苦しみは、撮影当日に一滴のウイスキーも口にできないこしだけでした」
「アルージャリーか」バスター・フレンドリーが画面にもどった。「いや、おどろいたよね。全盛の時でもぜんぜんパッとしなかった三文役者。その爺さんが、ひとつおぼえの退屈この上ない映画を、しかもシリーズで作った。一度も会ったことのない男に雇われてだよ。マーサー教体験の支持者が主張している、ウィルバー・マーサーは人間じゃないという説がありましたっけ。おそらく異星からきた超越存在であろう、なーんて。結局ある意味ではあの説も正しかったわけね。ウィルバー・マーサーは人間じゃなかったし、現実に存在もしてなかった。彼がえっさか登っている世界は、大むかしにキップルの中に消えてしまった、安っぽい、月並な、ハリウッドのサウンド・ステージなんだから。では、いったいなにものがこんな大ボラの卵をわが太陽系に生みつけたのか? そいつをしばらく考えてみようじゃないですか、みなさん」
「永遠の謎ね」アームガードがつぶやいた。
バスター・フレンドリーがいった。「永遠の謎です。また、このイカサマの裏にいかなる目的が隠されていたのかも、見当がつかない。そうです、みなさん、イカサマです。マーサー教はイカサマです[#「マーサー教はイカサマです」に傍点]!」
「見当はつくさ」とロイ・ベイティー。「わかりきった話だ。そもそもマーサー教の登場してきたのが――」
「だが、もう一度よく考えてみよう」バスター・フレンドリーはつづけた。「マーサー教がなにをしたかを、みなさん自身の胸にたずねてみよう。つまり、おびただしい信者の言葉を信じるならですよ、マーサー教体験からくる融合で――」
「あれよ、人間どもの感情移入能力よ」アームガードがつぶやいた。
「――全太陽系の男女がひとつの心になれる、ということだった。しかし、それはいわゆる“マーサー”のテレパシー的な声によって支配される心なんだよね。いいですか。もし、政治的野心を持った第二のヒトラーが、それを利用すれば――」
「いいえ、問題はあの感情移入能力だわ」アームガードがさけんだ。こぶしを振りしめると、彼女は台所にいるイジドアにつめよった。「人間には、あたしたちにできないことができる――それを証明するためだったんでしょう? マーサー教体験がなければ、いわゆる感情移入とやらも、共通の集団感情とやらも、裏づけのないお題目にすぎないからだわ。クモはどんなぐあい?」プリスの肩ごしにのぞきこんだ。
プリスはクモの脚をまた一本、鋏でつまんだ。「これで四本」彼女はクモをつついた。「動かないわ。でも動けるはずよ」
ロイ・ベイティーが大仕事をすませた表情で、深呼吸しながら台所の戸口へ顔を出した。「ついにやったぞ。『マーサー教はイカサマだ』とバスターが堂々と宣言して、太陽系の人間の大半がそれを聞いた。感情移入の全体験がイカサマだったんだ」ロイは歩みよって、ふしぎそうにクモをながめた。
「歩こうとしないのよ」とアームガード。
「わけはないさ」ロイ・ベイティーはマッチをすった。火のついたマッチをじりじり近づけると、クモはよわよわしい足どりで逃げはじめた。
「いったとおりだわ。ね、四本脚でも歩けるでしょう?」アームガードは同意をもとめるようにイジドアをふりかえった。
「どうしたのよ?」と彼の腕に手をやって、「あなたはべつに損をしたわけじゃない。この虫ならあたしたちが弁償したける。なんていったかしら――そう、シドニーのカタログどおりの値段でね。そう深刻な顔をしないでちょうだい。それとも、いまのマーサーについてのすっぱぬきで気落ちしたの? あの調査報告のこと? ねえ、返事してよ」心配そうにイジドアを揺すぶった。
「彼は気が転倒してるのよ」プリスが教えた。「共感ボックスを持ってたんですもの。奥の部屋に。あなた、あれを使っているんでしょ、J・R?」
ロイ・ベイティーがいった。「むろん、彼は使ってるさ。人間はみんな使ってる――すくなくとも、これまでは。おそらく、いまになって疑問を持ちはじめただろうがね」
「これでマーサー教にけりがつくとは思えないわ」プリスがいった。「でも、いまこの瞬間には、幻滅を味わった人間が大ぜいいるでしょうね」イジドアにむかって、「わたしたちは、何ヶ月も前からこれを待ちわびていたのよ。このバスターの発表があることは、みんなが知っていたから」いったんためらってから、プリスはつけ加えた。「だって、そうでしょう。バスターはわたしたちの仲間だもの」
「バスターはアンドロイドなの」アームガードが説明した。「それをだれも知らなかったわけ。人間のほうではね」
プリスがまた一本、クモの脚を切り落とした。だしぬけにイジドアは彼女を押しのけ、虐待された生き物を拾い上げた。それを流しへ持っていき、水に溺れさせた。心の中で希望が溺れていくのがわかった。クモとおなじように。みるみるうちに。
「彼、ほんとに気が転倒してる」アームガームトが不安そうにいった。「そんな顔するのはよしてよ、J・R。後生だからなにかいってちょうだい」プリスと自分の夫をふりかえって、「あたしまで気が変になってきたわ。だって彼ときたら、流しの前に突っ立ったまま、だんまりをきめこんでるんだもの。テレビをつけてからあと、ひとこともしゃべらないのよ」
「テレビのせいじゃないわ」プリスがいった。「クモのせいよ。そうよね、ジョン・R・イジドア? そのうちに、きっと落ちつくと思うわ」プリスは、居間のテレビを切りにいったアームガードにそういった。
にやにやイジドアを見まもっていたロイ・ベイティーが口をはさんだ。「なにもかも終わったのさ、イジちゃん。ことマーサー教に関するかぎりは」流しからクモの死骸をつまみあげると、「ひょっとしたら、これが最後の一ぴきかもしれんね。地球最後のクモ」しばらく考えて、「とすると、クモに関してもすべてが終わったわけだ」
「ぼく――気分がわるい」イジドアは台所の戸棚から陶器のカップをとりだした。しばらく――自分でもおぼえのない時間――カップを持ったまま、じっと立っていた。そのあとで、ロイ・ベイティーにたずねた。「マーサーのうしろの空は、ほんとうた書き割りなの? 本物じゃなく?」
「テレビで拡大写真を見たろう?」とロイ。「筆触の跡を?」
「マーサー教はまだ終わりじゃないよ」イジドアはいった。
このアンドロイドたちはなにかに、なにか恐ろしいものに蝕まれている。あのクモ、とイジドアは思った。あのクモは、ひょっとしたら、ロイ・ベイティーがいったように地球最後のクモだったのかも。なのに、あのクモは死んでしまった。マーサーもいなくなった。この部屋の中のゴミと荒廃があらゆる方向へひろがっていくのが、日に見えるようだった――キップルの、せまりよる音が耳にきこえるようだった。あらゆる形態の最後的破壊と、それが勝利を占める空虚。|から《ヽヽ》の陶器のカップを持ってそこに立っているあいだにも、キップルはまわりで成長をとげてゆく。食器戸棚がきしみ、ひび割れ、足が床にずぶずぶもぐっていくのが感じられた。
手をのばして、壁につかまろうとした。壁の表面がもろくも崩れた。灰色の微粉がちょろちょろとこぼれ落ちた。プラスターの粉は、戸外の放射性の灰そっくりだった。食卓の前にすわると、椅子の脚が腐りかけたチューブのようにぐにゃりと曲がった。あわてて立ちあがり、カップを置き、椅子の脚をもとどおりに伸ばそうとした。椅子が手の中でばらばらになり、各部分をつなぎとめていたネジが剥がれてぶらさがった。テーブルの上で、陶器のカップにひびがはいるのが見えた。ひび割れの細かい網目がたちまち蔓枝の影のように成長したかと思うと、その縁が欠け落ち、ざらざらした素焼の内側がのぞいた。
「彼、なにをしてるのかしら?」遠くでアームガード・ベイティーの声がする。「手あたりしだいに物をこわしてる! イジドア、およしなさい――」
「ぼくがやってるんじゃない」
イジドアはいった。ひとりきりになりたくて、ふらふらと居間のほうへ歩きだした。古ぼけたカウチのそばに立ち、しみだらけの黄ばんだ壁を見つめた。かつてその上を這いまわった虫たちの残した|しみ《ヽヽ》――そこから四本脚にされたクモの死骸のことが、ふたたび思いだされた。ここのあらゆるものが年老いている、と彼はさとった。腐朽は大むかしからはじまっており、止まろうとしない。クモの死骸がここを乗っとった。
床が崩れおちたあとの窪みに、いくつかの動物の姿が現われた。カラスの頭、猿たちのミイラ化した手。すこし離れて、身動きはしないが、まだ生きているらしいロバが立っている。すくなくともそれだけはまだ崩壊をはじめていない。枯草のように乾ききった、棒ぎれを思わせる白骨が靴の下で砕けるのを感じながら、彼はそちらへ歩きだした。しかし、そのロバに――なによりも好きな動物に――行きつくまでに、きらきらと青いカラスが頭上から舞いおり、物いわぬ鼻の上にとまった。よせよ、と声を出したが、カラスはあっというまにロバの目玉をついばんでしまった。またか、と彼は思った。また、あれがぼくの身に起こっている。またずっとここにいなけりやならないんだ。この前とおなじように。長い長いあいだ。なぜなら、ここではなにも変化しないからだ。あるところまでいきつくと、もう老朽も進まないんだ。
乾いた風が音を立て、周囲の白骨の山が砕け散った。風までが破壊しにくる、と感じた。この段階では。時の終末の直前では。ここから抜けだす方法が思いだせればいいのに。上を見ても、手がかりはなにもない。
マーサー、と声に出して呼びかけた。どこにいるんです? ここは墓穴世界だ。ぼくはまたここへ落ちてしまった。そして、こんどはあなたもいない。
なにかが足の上を這っている。しゃがみこんだ彼は、目を近づけた――動きが鈍くなければ、とても見つからなかったろう。脚を切りとられたさっきのクモが、残りの脚でよちよちと這いすすんでいる。彼はそれをつまみあげ、手のひらにのせた。時間が逆もどりはじめたぞ、と思った。クモがよみがえった。マーサーはきっとこの近くにいる。
風はなおも吹きつづけ、白骨をひび割らせ、みじんに砕いていたが、すでに彼はマーサーの存在を感じとっていた。ここです、とマーサーに訴えた。這ってでもなんでもいい、ぼくのそばへきてください。いいですね、マーサー? 声に出してさけんだ。
「マーサー!」
風景を横ぎって、雑草が前進してきた。雑草は周囲の壁を栓抜きのようにつらぬき、そして壁の中で胞子に変わった。胞子はふくらみ、分裂し、そして朽ち果てた鋼鉄とコンクリートの中、かつては壁であったものの中で破裂した。しかし、壁がなくなったあとにも荒廃だけは残った。あらゆるもののあとを、荒廃が受けついだのだ。ただ、かよわい、おぼろげなマーサーの姿だけを残して。老人はおちつきはらった表情で、彼と向かいあった。
「あの空は書き割りなんですか?」イジドアはきいた。「拡大写真でわかるような、筆触の跡があるんですか?」
「そうだ」とマーサー。
「ぼくには見えない」
「それは、きみがあまり近くにいすざるからじゃよ。距離をおかなくては見えん。アンドロイドたちのように。あの連中は、もっと釣り合いのとれた物の見かたをしている」
「連中があなたをペテン師呼ばわりしたのも、そのためですか?」
「わしはまさにペテン師さ」とマーサー。「連中はまじめだ。あの調査に嘘はない。連中の目から見たわしは、アル・ジャリーという、しがない引退俳優にすぎん。あの件、あの暴露のいっさいは、ぜんぶ真実じゃ。連中は、たしかにわしの家へインタビューにきた。わしは、連中が知りたがったこと、つまり、一部始終を包まず打ち明けた」
「ウイスキーのことも?」
マーサーは微笑した。「あれも本当じゃよ。連中はみごとな調査をやってのけたし、その立場からするかぎり、バスター・フレンドリーの暴露は説得力を持っておった。それなのに、なぜなにひとつ変わらんのか、連中にはそれがおそらく理解できまい。なぜならそれは、きみがまだここにおり、わしがまだおるからじゃ」マーサーは、荒涼とした山腹のなじみ深い風景のほうへ、さっと手を振った。「いましがた、わしはきみを墓穴世界から助けあげた。これからも、きみが弱音を吐いてやめるというまで、それをつづけていく。だが、きみはもうわしをさがしもとめるのをやめなくてはいかんよ。わしのほうでは、けっしてきみをさがしもとめるのをやめはせんのだから」
「あのウイスキーのことは気にいりませんね」とイジドア。「あなたの品格が落ちますよ」
「それはきみが高度に道徳的な男だからじゃ。わしはちがう。わしは自分自身をさえ裁かんのだよ」マーサーはなにかを握った手をきしだした。「忘れないうちにこれを渡しておこう」
マーサーは指をひろげた。手のひらの上にさっきのクモがあった。だが、切りとられた脚は、すっかりまた生えそろっていた。
「ありがとう」イジドアはクモを受けとった。そして、言葉をつづけようとしたとき――けたたましく警報ベルが鳴りわたった。
ロイ・ベイティーがどなった。「バウンティ・ハンターがやってきたぞ! 明かりを消せ! そいつを共感ボックスからひき離すんだ。玄関へ行かせろ。はやく――ひき離せったら[#「ひき離せったら」に傍点]!」
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19
ジョン・イジドアは自分の手をながめた。その手は共感ボックスの取手を握りしめたままだった。突っ立ってポカンとそれをながめていると、居間の明かりがふいに消えた。プリスが台所の卓上スタンドを消しにいくのが目にはいった。
「よくきいて、J・R」
アームガードが耳もとでささやいた。彼女につかまれた両肩に痛いほど爪が食いこんでくる。彼女は自分のしていることに気づいてないようだった。戸外からのおぼろな月明かりで見たアームガードの顔は、乱視の目で見たようにゆがんでいた。おびえた目に、縮かんだまぶたのない目がくっついているようだった。
「あなたが行かなくちゃだめなのよ」アームガードが耳うちしてきた。「ノックがしたら、玄関へ行きなさい。もし、ノックがあったらよ。まず、あなたの身分証を見せて、それからここはあなたのアパートで、ほかにはだれも住んでいない、というの。それから、捜査令状を見せてくれ、といいなさい」
反対側から、弓なりに背のびしたプリスがささやいた。「相手を中へ入れちゃだめよ、J・R。どんな口実でもいいわ。とにかく、中へ入れないようにしてちょうだい。もし、ここへバウンティ・ハンターを入れたら、どんなことになるか知ってるわね? 相手がわたしたちになにをするか、わかるでしょう?」
ふたりの女アンドロイドから離れて、イジドアは手さぐりで玄関へと近づいた。指がドアノブを見つけ、彼はしばらく立ちどまって耳をすました。外の廊下は、いつもと変わらない感じだった。わーんとうつろに反響しているようで、人けはない。
「なにかきこえるか?」背をかがめたロイ・ベイティーが耳もとでたずねた。イジドアの鼻は、おびえた肉体の強い臭気を感じた。そこから発散する恐怖、にじみ出て霧になった恐怖を吸いこんだ。「廊下へ出てみろ」
ドアをひらいて、イジドアはまっくらな廊下の左右を見まわした。外の空気は灰の重みにもかかわらず、澄んだ感じだった。彼の手は、マーサーにもらったクモをまだ握っていた。それはプリスがアームガードの爪切り鋏で脚を切ったクモなのだろうか? たぶんちがうだろう。ぼくには知りようがない。だが、とにかくそれは生きている。握った手を咬みもせずに這いまわっている。そういえば、ふつうのクモの大あごは、人間の皮膚を刺せないのだ。
イジドアは廊下の端にたどりつき、階段を降り、そして戸外に出た。むかしは庭園にかこまれていたこともあるテラス式の通路だった。庭園は戦時中に枯れ果て、通路はいたるところで崩れている。しかし、彼はその地理を知りつくしていた。靴底にはなじみ深い小道のこころよい感覚があり、それをたどりながらビルの長い一辺を縦断して、このあたり唯一の緑地まできた。灰で飽和したように貧弱な雑草が生えた、一メートル四方の区画である。そこへクモを放してやることにした。クモがぎくしゃくした足どりで手から離れていくのがわかった。さあ、これでいい。イジドアは立ちあがった。
フラッシュライトの光が雑草を照らしだした。まぶしい光の中に、枯れかけた草の茎がくっきりと不気味に浮きだした。そして、クモの姿も見えた。ギザギザした葉の上に体を休めていた。これで、この虫もいのちをとりとめたわけだ。
「なにをしてたんだ?」フラッシュライトを持った男がきいた。
「クモを放してやったんです」答えながら、イジドアはどうして相手にそれがわからないのだろうといぶかった。黄ばんだ光線の中でクモは実際以上に大きくふくらんで見える。
「逃げられるように」
「なぜ、きみの部屋へ持っていかない? びんの中で飼えばいいのに。シドニーの一月版だと、クモの小売値は一割アップになったそうだぜ。売れば、百ドルにおまけがつく」
イジドアはいった。「アパートへクモを持って帰ったら、また彼女に切り刻まれてしまいます。すこしずつ、虫がどうするかを見るために」
「アンドロイドのやりそうなこった」男はコートの内ポケットに手をつっこんで、なにかをとりだすと、それをひろげてイジドアの前にきしだした。
異常な光の中で、バウンティ・ハンターは中肉中背の平凡な男に見えた。丸顔でひげのない、すべすべした容貌。役所の事務員のようだ。きちょうめんだが、堅苦しくはない。半神半人の具現ではない。イジドアの予想したものからはほど遠かった。
「サンフランシスコ警察捜査官のデッカードだ。リック・デッカード」男は身分証を閉じて、コートの内ポケットにおさめた。「やつらは上にいるんだね? 三人とも?」
「あのう、じつは」とイジドアはいった。「ぼくがみんなの世話をしてるんです。中のふたりは女です。みんなはグループの最後の生き残りなんです。残りは死にました。ぼくはプリスの部屋から自分の部屋へテレビを運んで、みんながバスター・フレンドリーを見られるようにしました。バスターは、マーサーが存在しないことをはっきり証明したんです」
こんな重大事件を知っていることで、イジドアは得意だった――このバウンティ・ハンターは、どうやらまだそのニュースを知らないらしい。
「いっしょに上へ行こう」デッカードはとつぜんレーザー銃をイジドアにつきつけた。それから、迷ったように、また銃をおさめた。「きみはマル特だな、そうだろう? ピンボケだな」
「だけど、ぼくはちゃんと仕事を持ってます。トラックの運転手。勤め先は――」恐ろしいことに、その名前が出てこない。「あのう、動物病院――」と彼はいった。「ヴアン・ネス動物病院。け、け、経営者はハンニバル・スロート」
デッカードがいった。「すまないがおれを上まで案内して、どの部屋か教えてくれないか? ここには千以上の戸数がある。そうしてくれれば、ずいぶん時間のむだがはぶける」
疲労のにじんだ声だった。
「もし、みんなを殺せば、あなたは二度とマーサーと心がかよいあえませんよ」とイジドア。
「おれを案内しないというのか? どの階を教えないのか? たのむ、どの階だけでも教えてくれ。どの部屋かはおれがつきとめる」
「いやです」とイジドア。
「州法と連邦法のもとに――」とデッカードがいいかけて、口をつぐんだ。尋問をあきらめたらしい。「じゃ、おやすみ」
デッカードは通路をたどってビルのほうへ歩きだした。フラッシュライが、彼の前に黄ばんだ光をぽうっとにじませていた。
コナプトのビルの中で、リック・デッカードはフラッシュライトを消した。行く手にポツンポツンとともるたよりない天井灯にみちびかれ、廊下を前進しながら考えた。あのピンボケはやつらがアンドロイドなのを知っていた。おれに教えられるまでもなく。だが、やつにはなにも理解できてない。いや、いったいだれが、理解している? おれは理解しているか? 理解して|いた《ヽヽ》か? しかも、やつらのひとりはレイチェルの複製だ、と彼は思いかえした。たぶんあのマル特はその女と同棲してるのかもしれん。どんな感じのものか聞いてみたいもんだ。やつがいったクモを切り刻む女は、そいつかもしれん。いまからもどって、あのクモをいただいてちまうか。おれは生き物を見つけたことなんて一度もない。ひょいと下を見たとき、たまたまなにかの生き物がちょろちょろ走っているなんてのは最高の感激だろうな。ひょっとすると、おれにだっていつかそんなことが起こるかもしれない。
リックはホバー・カーから持ってきた盗聴装置のスイッチを入れた。回転式探知ノズルのついたブリップ・スクリーンである。廊下の静寂の中で、スクリーンはなんの反応も示さなかった。この階じゃない、と自分にいいきかせた。探知ノズルを垂直に切りかえる。こんどは、その先端がかすかな信号を嗅ぎとった。階上だ。リックは盗聴装置をカバンにおさめ、階段を昇りはじめた。
暗がりに人影が待ちうけていた。
「動くな、処理するぞ」リックはいった。
やはり、あの男のアンディーに待ち伏せされたのだ。握りしめた手にレーザー銃の固い感触はあったが、持ちあげることも狙いをつけることもできなかった。先手をとられた、なにをするひまもなく。
「わしはアンドロイドじゃないよ」その人影がいった。「マーサーだ」そういうと、明かりの中へ進み出てきた。「わしがこのビルにいるのはイジドア君のためじゃ。クモを持っていたあの特殊者《スペシャル》だよ。きみが外で立ち話をしたろう」
「おれはもうマーサー教からはずされたのか?」リックはいった。「あのピンボケのいったように? もうすぐおれがやることのために?」
マーサーがいった。「イジドア君は彼自身の意見をいったまでで、あれはわしの意見ではない。いまきみがなそうとしていることは、やはりなさねばならん。それは前にも話したはずじゃ」腕を上げて、老人はリックの背後の階段を指さした。「わしは知らせにきた。彼らのひとりは階上の部屋でなく、階下からきみの背後を狙っておる。それが三人のうちの最大難物だから、最初に処理しなくては」老人のカサカサした声がとつぜん熱をおびた。「はやく、デッカード君。階段にいるぞ」
リックはレーザー銃を構えながらさっと身を沈め、背後の階段へむきなおった。滑るように階段を昇ってくる女には、見おぼえがある。茫然としたリックはレーザー銃を下げ、「レイチェル」と呼んだ。彼女は自分のホバー・カーで、ここまで尾行してきたのだろうか? だが、なぜ?
「シアトルへ帰れ」と彼はさけんだ。「おれに干渉するな。マーサーにやれといわれたんだ」そこまできて、相手がレイチェルとどこかちがうことに気づいた。
「わたしたちの結びつきを忘れないで」とアンドロイドはすがるように手をさしのべて近づいてきた。
服装はちがう。だが、目は、あの目はおんなじだ、とリックは思った。しかも、ひとりじゃない。名前はそれぞれちがっても、レイチェル・ローゼンそっくりな女が、まだ一連隊もいるんだ。レイチェルは、生産会社がこの女たちを保護するためにこしらえた原型だったんだ。哀願するように駆けよってくる女をめがけて、彼は撃った。アンドロイドの体ははじけとんだ。思わず目をおおった彼がもう一度そっちを見たとき、女の隠し持っていたレーザー銃が階段にころがった。金属製のチューブがはずみながら一段ずつ落下していき、その音が反響し、うすれ、しだいに間隔がひらいていった。三人のうちの最大難物――マーサーがそういったっけ。彼はマーサーの姿をもとめて、あたりを見まわした。老人はどこにもいなかった。やつらは、レイチェル・ローゼンの群れでおれをどこまでも追いかけるつもりだろうか。おれが死ぬか、あの原型が時代遅れになるか――どっちが先かは知らないが。よし、こんどはあとのふたりだ。やつらのひとりは部屋の中にいない、とマーサーはいった。マーサーはおれを守ってくれたんだ――らそう彼はさとった。おれの前に出現して、手をかしてくれたんだ。マーサIの警告がなければ、彼女――|あれ《ヽヽ》――は逆におれを仕留めていたろう。これで、おれはこの仕事をやりとげられる。いまのが強敵だったんだ。おれにはあんなことができないと、むこうはたかをくくっていた。だが、それはかたづいた。あっというまに。おれは不可能をやってのけた。あとのベイティー夫妻は、ふつうの手段で追いつめていけるだろう。やつらも手ごわいにはちがいないが、これほどのことはあるまい。
リックはただひとり、無人の廊下に立っていた。マーサーは用をすませて去ってしまい、レイチェル――いや、プリス・ストラットン――はばらばらに飛び散り、いまここにいるのはおれだけだ。しかし、このビルのどこかにベイティー夫妻が待ちかまえている。むこうはここでおれがやったことを、すでにさとっているだろう。おそらくむこうもこれで怖気づいただろう。いまのが、このビルにおれを迎えた相手の反応だった。やつらの戦術だった。マーサーがいなければ、きっとそれは成功していたろう。ついにあいつらにも冬が訪れたわけだ。
とにかく、手早くかたづけよう、とリックは思った。急ぎ足に廊下を進むうち、とつぜん盗聴装置が脳波活動の存在を記録した。相手の部屋はわかった。もう、この装置の必要はない。リックはそれを捨て、めざす戸口をノックした。
中で男の声が答えた。「だれだ?」
「イジドマだよ」リックはいった。「中へ入れてください。あんたたちの世話をしなくちゃ。お、お、女の人がふたりもいるんだから」
「ドアはあけられないわ」女の声がした。
「プリスのテレビでバスター・フレンドリーを見たいんだよ」リックはいった。「マーサーがいないって証明された、そのあとを見たいんだよ。ぼくはヴァン・ネス動物病院でトラックを運転していて、け、け、経営者はハンニバル・スロートさんです」わざとどもってみせたっ「だ、だ、だからドアをあけてよ。こ、こ、ここはぼくの部屋だよ」
しばらく待つうちに、ドアが開いた。部屋の薄闇の中に人影がふたつ、ぼんやりと見わけられた。
小さいほうの人影が、女の声でいった。「まずテストをしてもらうわよ」
「もう遅い」とリックは答えた。大きいほうの人影が、やにわにドアを中から閉め、なにかの電子装置を作動させようとした。
「よせ、どうあってもはいるぞ」リックはいうと、ロイ・ベイティーにわざと先に撃たせた。身をよじったすぐそばをレーザー光線がかすめるまで、彼は手出しを控えた。「おれを撃ったことで、おまえたちの法的権利はなくなった。だまって、おれにフォークト=カンプフ検査をやらせりやよかったんだ。だが、もうこうなっては手遅れさ」
もう一度ロイ・ベイティーがレーザー銃を発射し、狙いがはずれたのを見て武器をほうりだすと、奥へ逃げていった。たぶん、べつの部屋へ隠れたのだろう。電子装置もおきざりだった。
「どろしてプリスはあなたを殺せなかったの?」ベイティー夫人がいった。
「プリスなんていない。レイチェル・ローゼンが、入れかわり立ちかわり出てくるだけだ」
リックはおぼろなシルエットになった彼女の手にレーザー銃が握られているのを見た。ロイ・ベイティーに渡されたのだろう。彼を奥の部屋までおびきよせてから、アームガードが背後から撃つつもりだったにちがいない。
「わるいな、ミセス・ベイティー」いうなり、リックは彼女を撃った。
奥の部屋で、ロイ。ベイティーが悲痛なさけびを上げた。
「そうか、おまえも彼女を愛してたんだな」リックはいった。「そして、おれはレイチェルを愛してた。あのマル特は、もうひとりのレイチェルを愛してた」
彼はロイ・ベイティーを撃った。大男はきりきり舞いし、頭でっかちな脆い生き物の集合体のようにぐらりとよろめいた。食卓の上にどさっとかぶさると、そのまま皿小鉢を道づれにして床へ倒れた。反射運動回路が断末魔のわななきを生みだしたが、その前に息が絶えていた。リックはそれに目もくれなかった。ロイの死体も、玄関わきに倒れたアームガードの死体もふりかえらなかった。これで最後のひとりをやっつけたぞ、と彼は思った。きょう一日で六人。世界記録ものだ。仕事はすんだ。家に帰れる。イーランと山羊のところへ帰れる。相当な金もはいる。生まれてはじめて。
リックはカウチに腰をおろした。静まりかえったアパート、こそとも動かない物体にかこまれて、しばらくすわっているうちに、特殊者のミスター・イジドアが戸口に現われた。
「見ないほうがいい」リックはいった。
「もう階段で見ました、プリスを」特殊者は泣いていた。
「そう思いつめるな」リックはいって、ようやくふらふらと立ちあがった。「映話はどこだ?」
特殊者はなにもいわずに立っているだけだった。しかたなく、リックは自分で映話をさがしにいき、やっとありかを見つけて、ハリイ・ブライアントのオフィスをダイヤルした。
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20
「よくやった」ハリイ・ブライアントは、彼の報告を聞きおわってからいった。「じゃ、ゆっくり休秦をとってくれ。そっちへは死体収容のパトカーを出す」
リッターデッカードは映話を切った。「アンドロイドたちはまぬけだ」とあらあらしい声で特殊者にいった。「ロイ・ベイティーはきみとおれの区別もつかなかった。玄関へきたのがきみだと思いこんだ。この部屋は、いま警察がきてかたづける。それがすむまで、ほかのアパートに移ってたらどうだ? 死体の散らばったこんな部屋にいたくないだろう?」
「ぼ、ぼ、ぼくはこのビルを出ます」イジドアはいった。「も、も、もっとたくさんの人がいる、ま、ま、町んなかへ引っ越します」
「おれの住んでるビルにも空き室があるはずだよ」とリック。
イジドアはどもりながらいった。「あ、あ、あなたのそばには住みたくありません」
「どこかよそか、それとも階上へ移るんだな。この部屋へ残るのだけはよせ」
特殊者は途方に暮れたように口ごもった。沈黙の中で、さまざまな表情がその顔をかすめ、それからくるりときびすを返すと、リックをあとに残して、とぼとぼと部屋を出ていった。
まったく、なんて仕事だ、とリックは思った。おれは、飢饉や疫病なみの崇りなんだ。おれの行くところへは、古代の呪いがつきまとってくる。マーサーのいったように、おれはまちがったことをするさだめなんだ。おれがいままでにやってきたなにもかも、出だしからまちがっていた。まあ、とにかく家へ帰ろう。しばらくイーランといっしょにいれば、それを忘れられるかもしれない。
帰宅したリックはビルの屋上でイーランに迎えられた。彼女はとりみだした異様な態度だった。長いふたりの生活で、こんな妻をリックは一度も見たことがなかった。リックは妻を抱きしめた。「やっと仕事がすんだよ。いまも考えていたんだ。ハリイ・ブライアントにたのんで配置がえを――」
「リック。あなたに話すことがあるの。ごめんなさい。山羊が死んだわ」
どういうわけか、リックは驚きを感じなかった。そのニュースでよけいに気がめいっただけだった。四方八方から彼を押しつぶそうとする力がいっそう重くなっただけだ。
「契約にはたしか保証条項があったはずだよ。九十日以内に動物が病気になった場合、売り主は――」
「それが病気じゃないの。だれかが――」イーランは咳ばらいして、かすれ声でつづけた。「――だれかが山羊を檻から出して、屋上の線までひっぱっていったのよ」
「それで、突き落としたのか?」
「ええ」彼女はうなずいた。
「きみはその相手を見た?」
「はっきりとその女を見たわ」イーランはいった。「まだバーバーがここにいたときだったの。彼が下まで知らせにきてくれて、それから警察を呼んだんだけど、警察がきたときには、もう山羊は死んでいて、犯人も逃げたあとだったわ。若い小柄な女。黒い髪と大きな黒い目をした痩せっぽちの女。長いうろこ地のコートを着て、郵便カバンみたいなバッグを持ってた。あたしたちに見られても、ぜんぜん隠れようとしないのよ。まるで、どうだっていいみたいに」
「そう、彼女にはどうだっていいんだ。レイチェルは、きみに見つかるぐらいなんとも思ってやしない。いや、わざと見てほしかったんだろう。だれのしわざか、はっきりとおれにわかるようにな」リックは妻にキスをした。「それから、ずっとここで待っててくれたのか?」
「半時間ほど。もうあれから、半時間もたったんだわ」イーランは優しく彼にキスを返した。
「おそろしいことね。無益な殺生」
リックはホバー・カーにむきなおり、ドアをあけて運転席にすわった。「無益じゃないさ。なにか、あの女なりの理由があったんだろう」アンドロイドなりの理由が――と彼は思った。
「どこへ行くつもり? 下へ降りて――あたしといっしょにいてくれないの? さっき、テレビですごくショックなニュースをやったわ。バスター・フレンドリーが、マーサーはペテン師だと暴露したのよ。リック、あなたはどう思って? 真実と思う?」
「なにもかも真実さ。これまでにあらゆる人間の考えたなにもかもが真実なんだ」リックはモーターを始動させた。
「あなた、だいじょうぶ?」
「だいじょうぶだよ」
答えながら考えた? これから、おれは死ににいく。このふたつの言葉はどっちも真実なんだぜ。彼は車のドアを閉め、イーランに手を振ると、夜の空へ飛び立った。
むかしならここで星が見えたろうに、と彼は思った。何十年もむかしなら。だが、いま見えるのは灰だけだ。もう何十年ものあいだ、すくなくとも地球上では、だれも星を見たものはない。たぶん、おれの行くところでは星が見えるかもしれない――速度と高度を上げはじめたホバー・カーの中で、彼はそう考えた。車はサンフランシスコをあとにし、北にある無人の荒野をめざしていた。どんな生き物も足を向けない場所、死期がせまったことを感じないかぎり、足を向けない場所へと。
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21
早朝の光の中で、眼下の灰色の大地はガラクタをちりばめてどこまでもつづいている。家ほどもある大きな岩がころがってきたすえに、隣りあってにょきにょき立っている。まるで、商品が出はらったあとの発送室みたいだ、とリックは思った。荷箱の残骸、もう内容を知るすべもない容器だけがおきぎりにされている。むかしはここにも作物が育ち、動物が草を食んでいたのだ。なんというおどろくべき考えだろう。こんなところに作物を育てるなんて。
なんという奇妙な土地を、おれは死に場所にえらんだのだろう。
リックはホバー・カーを下降させ、しばらく低空で飛びまわった。いまなら、デイヴ・ホールデンはおれのことをなんというだろうな。ある意味では、おれは史上最高のバウンティ・ハンターだ。二十四時間で六人のネクサス6型を処理した男は、たぶん空前絶後だろう。そうだ、デイヴのやつに映話をかけてやれ。
ざらざらした山腹が、ぬっと正面に現われた。あやうく衝突というところでリックはホバー・カーを上昇させた。疲れている、と思った。本来なら運転すべきじやない。イグニションを切り、ちょっとのま滑空してから着地に移った。車体は山腹を何度かバウンドし、岩をいくつか跳ねとばした。しばらく上昇したのち、斜面を跳びはね、こすりながら停止した。
車内映話の受話器をとると、リックはサンフランシスコ局をダイヤルした。出てきた交換手に、「マウント・ザイオン病院を」とたのんだ。
まもなく、べつの交換手が映話スクリーンに現われた。「マウント・ザイオン病院です」
「デイヴ・ホールデンという患者が入院しているだろう? 話をしたいんだ。もう回復したかな?」
「しばらくお待ちください。調べてみます」
スクリーンがいったん空白になった。時間が経っていった。リックはドクター・ジョンスン印の嗅ぎタバコを一服して、ぞくっと身をすくめた。ヒーターをつけてなかったので、車内の温度がぐっと落ちてしまったのだ。
「コスタ先生が、ホールデン氏は面会禁止だとおっしゃってます」ふたたび現われた交換手がそう告げた。
「警察の公用だが」リックは身分証をスクリーンの前にかざした。
「すこしお待ちください」ふたたび交換手の顔を消えた。
ふたたびリックは嗅ぎタバコをつまんだ。朝が早いかげんか、薄荷の味がひどくまずい。彼は車の窓ガラスをおろして、小さな黄色の空き缶を瓦礫の中へ投げ捨てた。
「せっかくですが」と交換手がスクリーンに現われていった。「ホールデン氏は映話に出られる容体ではない、とコスタ先生はおっしゃっています。たとえ急用でも、ここしばらくは――」
「わかった」リックは映話を切った。
空気までが妙にまずい感じだった。彼はもう一度窓を巻きあげた。デイヴは完全におしゃかだな、と思った。おれもやられなかったのがふしぎなぐらいだ。こっちの動きが早かったからかな。ぜんぶでたった一日だもんな。やつらもそこまでは予想してなかった。ハリイ・ブライアントがやはり正しかったんだ。
車内がおそろしく冷えてきたので、リックはドアをあけて外に出た。いやな臭いのする、意外に強い風が、着衣をとおして吹きつけてくる。彼は手をこすりあわせながら歩きはじめた。
デイヴと話ができたら、いくらか報いられたろうに、と思った。デイヴはおれの腕をほめてくれたろう。同時に、もうひとつのこと、マーサーでさえ理解できないだろう問題も、彼ならわかってくれたはずだ。マーサーにとっては、すべてが易しい。マーサーはすべてを受けいれるからだ。マーサーにとっては、なにものも異質でない、だが、おれのやったこと――あれはおれにとっては異質なんだ。というより、おれのまわりのなにもかもが、不自然に見えてきた。おれは不自然な自己になってしまった。
リックは山腹を登りつづけ、そして一歩ごとに、のしかかる重みが増すのを感じた。こうくたびれていてはとても登れない、と思った。立ちどまって、目にしみいる汗と、うずく全身が作りだした塩からい涙をぬぐった。それから、そんな自分のざまに腹が立ち、ぺっと唾を吐いた――自分への怒りと侮蔑と憎しみを不毛の大地へ投げつけるように。やがてふたたび、あらゆるものから遠く離れた淋しくなじみのない斜面を登りはじめた。ここに棲むものはおれしかいない。
暑い。さっきとうって変わった暑さ。知らないうちに時が経ったのだろう。それに、空腹でもあった。ずいぶん前から、なにも食べていない。飢えと暑さが結びついて、敗北に似た毒々しい味を作りだしている。そう、それだ――と彼は思った。おれはなにかあいまいな方法でうち負かされた。アンドロイドを殺したことでか? レイチェルに山羊を殺されたことでか? それはわからなかったが、とぼとぼと歩きつづけるうちに、おぼろな、幻覚に似たとばりが心を包みはじめた。ふと気がつくと、どうしてそうなったのか見当もつかないのだが、あと一歩で断崖から転落するところだった――屈辱的に無力な墜落。どこまでも、どこまでも落ちていき、目撃者さえいない。ここには、おれの、いや、だれの落下を記録するものもなく、どたんばで現われるかもしれない勇気や誇りも、知られずに終わってしまう。死んだ石、乾いて死にかかった灰まみれの雑草は、なにも感じないし、なにも記憶しない。おれのことも、また、それら自身のことも。
その瞬間、最初の石ころが――しかも、ゴムでも、柔らかな発泡プラスチックでもない石ころが――彼の鼠蹊部に命中した。その苦痛、絶対的な孤独と受難の最初の認識は、まざれもない現実となって全身にひろがった。
彼は足をとめた。それから――目に見えない、だが実在する、逆らいようのない突き棒で駆りたてられるように――ふたたび登坂をはじめた。おれは上向きにころがっていく、と思った。まるで石ころのように。おれはなんの意志もなく、石ころのやることをやっている。そこにはなんの意味もない。
「マーサー」あえぎながら彼はいった。足をとめ、じっとたたずんだ。動かない影法師のような姿を前方に見わけたのである。「ウィルバー・マーサー! あんたなのか?」
ちくしょう、と彼は思った。あれはおれの影法師じゃないか。ここにいちゃだめだ、この山を下りよう!
彼はいまきた道をよろよろともどりはじめた。一度ころんだ。たちまち舞いあがった灰があらゆるものをぼやけさせ、あわてて彼はそこから逃れた――足どりを速め、小石にずるっと足をすくわれて、またころんだ。パークしてあった車が行く手に見えた。おれは帰ってきたぞ、と心にいいきかせた。山からなんとか下りられたんだ。車のドアをひきちぎるようにあけ、中に体を押しこんだ。だれが石を投げやがったんだろう、と考えてみた。だれでもない。なぜそんなことが気になる? 前にも経験してるじゃないか。融合のときに。人なみに共感ボックスを使っていたときに。べつにいまはじめてじゃない。いや、はじめてだ。なぜって、あそこでのおれはひとりぼっちだったんだから。
身ぶるいしながら、リックは車の物入れから新しい嗅ぎタバコの缶をとりだした。テープを剥がしてから、たっぷりと一服し、ドアをあけたまま横向きに座席にすわり、外の乾いた土のうえへ足を投げだした。こんなところへなぜやってきたのだろう。くるんじゃなかった。しかも、疲れきっていて、帰りの飛行もできない。
もしデイヴと話すことさえできれば、きっとおれもしゃんとしたはずだ。そしたら、ここをおさらばして家に煽り、ベッドでゆっくり休めたろう。おれにはまだ電気羊もあるし、仕事もある。脱走アンドロイドはまだ現われるだろう。おれのキャリアはおしまいじゃない。べつにアンディーを最後のひとりまで処理しちまったわけじゃない。たぶん、それだったんだな、と彼は思った。もうアンディーがいなくなったんじゃないかとそれが心配だったんだ。
リックは腕時計を見た。九時半。
映話の受話器をとって、ロンバード通りの司法本部を呼びだした。「ブライアント警視につないでくれ」署の交換手のミス・ワイルドにいった。
「警視はお留守です。ホバー・カーで外出されたんですが、呼んでも返事がありません。いま、車を離れておられるんじゃないかと思います」
「外出先をいってかなかったのか?」
「あなたがゆうべ処理されたアンドロイドの件だそうです」
「じゃ、おれの秘書をたのむ」
まもなく、アン・マーステンのオレンジ色のとがった顔がスクリーンに現われた。「まあ、デッカードさん――ブライアント警視が、ずっとあなたをさがしてらしたんですよ。きっと、カッター部長に感状の推薦をされるんだと思います。なにしろ、六人のアンドロイドを――」
「自分のやったことは知ってる」
「史上空前ですものね。あ、そうそう、奥さんからお電話がありました。あなたがぶじかどうか、とても心配なさってました。デッカードさん、どうなさったんです?」
彼は答えなかった。
「なにはおいても、奥さんに映話なさらなくちゃ。うちであなたの連絡を待っている、というおことづけです」
「きみは、おれの山羊のことを聞いたかい?」
「いいえ、あなたが山羊を持っておられたことも知りません」
「やつらはおれの山羊をとっちまったんだ」
「だれがですか、デッカードさん? 動物泥棒ですか? いま、新しい大窃盗団のニュースがはいったとこですのよ。団員はたぶんティーンエイジャーで、おもに――」
「生命泥棒だよ」リックはいった。
「なんのことですか、デッカードさん?」ミス・マーステンは穴のあくほど彼の顔を見つめた「デッカードさん、ひどい顔色ですわよ。すごくお疲れみたい。それに、まあ、頬から血が出てますわ」
手でさわると、血がついてきた。たぶん、さっきの投石だろう。命中したのは一発だけでなかったらしい。
「まるで、ウィルバー・マーサーそっくり」とミス・マーステン。
「そうなんだ」とリック。「おれがウィルバー・マーサーなんだよ。おれは永久に彼と融合しちまった。おまけに離れようがないんだ。だから、ここで融合が消えるのを待ってるのき。オレゴン州境近くのどこかで」
「だれかをそっちへやりましょうか? 警察の車であなたを迎えに?」
「いや、おれはもう警察の人間じゃない」
「きっと、きのうの過労がたたったんですわ、デッカードさん」秘書はあやすようにいった。「いまのあなたに必要なのは、ベッドの休息です。デッカードさん、あなたは世界最高のバウンティ・ハンター、わたしたちの誇りですわ。ブライアント警視には、連絡がとれしだいお伝えしておきます。お宅へ帰ってお休みになってください。それと、奥さんにすぐ連絡なさってください。それはそれはご心配のようすでしたわ。わたしにはわかります。おふたりとも、ひどいやつれしそつですもの」
「おれの山羊のせいさ。アンドロイドのせいじゃない。レイチェルは思いちがいをしていた――おれはやつらを処理するのになんの悩みも持たなかった。それと、あのマル特もまちがっていた。あいつはおれが二度とマーサーと融合できなくなるといったがね。ただひとり正しかったのはマーサーだ」
「はやくベイ・エリアへお帰りになったほうがよろしいわ、デッカードさん。人間のいるところへ。オレゴンの近くなんて生き物はなにもいないでしょう、ちがいますか? おひとりだけじゃないんですか?」
「ふしぎなんだよ」とリック。「おれは自分がマーサーになって石を投げつけられているという、とことん完全で絶対にリアルな幻覚を見た。しかし、そいつは共感ボックスの取手を握って経験するあれじゃなかった。共感ボックスを使ったときには、マーサーといっしょにいる[#「いっしょにいる」に傍点]という感じがある。こんどのちがいは、だれもいっしょでなかったことだ。おれはひとりばっちだった」
「でも、マーサーはまやかしだという話ですわ」
「マーサーはまやかしじゃない」リックはいった。「現実がまやかしでないかぎり」この山、この灰、ひとつひとつがみんなちがった、おびただしい数の石ころ。「おれはマーサーであることをやめられそうにないよ。いったんはじまったらもう、あともどりはきかないんだ」おれはまたあの山を登らねばならないのだろうか。マーサーのように、いつまでも……永遠の中にとじこめられて。
「じゃ、さよなら」とリックはいって、受話器をおこうとした。
「奥さんに連絡してくださいますわね? 約束して」
「するよ」こっくりうなずいた。「ありがとう、アン」映話を切った。
ベッドの休息か、と思った。最後にベッドへはいったのは、レイチェルといっしょだった。服務規定違反。アンドロイドとの性交。ここでも、植民惑星でも、明らかな法律違反行為だ。いまごろ、班女はシアトルに帰っているだろう。本物とニセモノのローゼン一家に迎えられて。きみがおれにやったことを、おれもやりかえしたい。だが、アンドロイドにそうしたところで、相手は痛くもかゆくもあるまい。もし、おれがゆうべきみを殺していたら、あの山羊はいまも生きていただろう。あそこで、おれは判断をまちがえた。そうなんだ。すべてはあの判断と、おれがきみと寝たことからはじまっている。とにかく、ひとつのことに関するかぎり、きみは正しかった。あれはたしかにおれを変えてしまった。だが、きみの予言したようにじゃない。
もっと悪い方向にだ、と彼は思った。
それなのに、おれはあまりそれが気にならない。いまとなっては。あそこで、山の頂上近くで、あんなことがおれの身に起きたあとでは。もし、あのまま登りつづけて、頂上にたどりついていたら、つぎになにが起きたろう? なぜなら、マーサーはいつもあそこで死ぬように見えるからだ。あそこは恒星大循環期の終わりに、マーサーの勝利が明らかになる場所だからだ。
だが、と彼は思った――もし、おれがマーサーなら、おれはあと一万年たっても死ぬことができない。マーサーは不死なのだ[#「マーサーは不死なのだ」に傍点]。
もう一度リックは受話器をとりあげた。妻に映話をかけようとした。
そして、はっと体を凍りつかせた。
[#改丁]
22
受話器をもどしながらも、リックはいま車の外で動いた一点から視線を離さなかった。石ころにまじった地面のこぶ。生き物だ、と彼は心の中でつぶやいた。認識のショックで過負荷になった心臓が苦しくあえいでいた。おれはあの動物を知っているぞ。実物ははじめてだが、官営テレビでやった古い科学映画で見たことがある。
あれは絶滅種だ! 彼はそうひとりごちた。よれよれのシドニー社カタログを急いでとりだし、ふるえる指でページをくった。
ヒキガエル(ブフォニーデ)全種類……E
ずっと前に絶滅している。ロバとならんで、ウィルパー・マーサーにはいちばんたいせつだった動物。いや、ロバよりもたいせつだった動物。
空き箱がほしい。まわりを見まわしたが、ホバー・カーの後部席にはなにもなかった。外へ飛びだし、車のうしろへまわってトランクの鍵をあけ、蓋をひらいた。スペアの燃料ポンプを入れたダンボール箱があった。その燃料ポンプをほうりだし、けば立った麻ひもの切れはしを見つけて、ゆっくりとヒキガエルのそばへもどった。かたときも目を離さなかった。
ヒキガエルはそこに績もった灰の質感と色あいにすっかり溶けこんでいた。おそらくこの動物は、これまであらゆる風土に対してそうしてきたように、この新しい風土にも順応し、進化をとげたのだ。さっき身動きしなかったら、ぜったいに見つからなかったろう。二メートルたらずの距離にすわっていて、それだ。絶滅種と信じられていた動物が――もし――発見されたときには、どんなことになるんだっけ? 彼はそう自問し、思いだそうとした。そんな事件はめったにない。たしか、国連から名誉勲章と年金が贈られるはずだ。何百万ドルという賞金が。しかも、偶然も偶然、マーサーにとってなによりも神聖な動物ときている。くそ、こんなことがあるはずはない。おれもとうとう放射能で脳をやられたか。マル特になっちまったのか。なにかがおれの身に起きた。あのピンボケのイジドアとクモのように。やつの身に起きたとおなじことが、いまおれの身に起きている。それを仕組んだのはマーサーか? だが、マーサーはおれだ。すると、おれがそれを仕組んだわけか。おれはヒキガエルを見つけた。マーサーの目で見たから、見つかったのだ。
リックはヒキガエルのそばにうずくまった。それは灰の中に尻をおろし、砂を横にはねのけて、体が半分もぐれるほどの穴をすでに掘りおわっていた。そのため、地上には扁平な頭のてっぺんと目玉しか出ていない。いまやヒキガエルの新陳代謝はほとんど停止し、仮眠状態だった。目にはなんの輝きも、彼という存在の認知もない。リックはふいに不安におそわれた。こいつは死んでいる。たぶん渇きのせいで。だが、さっきはたしかに動いたのだ。
ダンボール箱を下において、そっとヒキガエルのまわりの砂をかきとった。ヒキガエルはべつにさからわなかったが、彼の存在に気づいていないならそれも当然かもしれない。
ヒキガエルを持ち上げると、手のひらに奇妙な冷たさが伝わってきた。リックの手の中にあるその体は、乾いて、しわだらけで――なんとなくぶよぶよしており――まるで太陽を逃れて地下何キロかの洞窟にもぐっていたようにひやっこかった。ヒキガエルはようやく身じろぎした。よわよわしい後脚で彼の手を押しやり、本能的にぴょんと逃げだそうとした。こいつは大物だ、と彼は思った。成熟していて、しかも賢い。人間でさえほんとうの意味では生存できない世界で、それなりに生きのびていく能力を持っている。このヒキガエルは、卵を生みつける水たまりをいったいどこで見つけるのだろう?
では、これがマーサーのつねに見ているものなのか――タンボール箱の上から何度も何度も入念にひもをかけながら、リックは考えた。われわれにはもはや見わけちれない生命。死の世界のむくろの中へ首まで埋もれかかった生命。マーサーはその目立たない生命を、宇宙のすべての灰塵の中に感じとっているのだろう。やっといま、おれにもそれがわかった。そして、いったんマーサーの目で見た以上、おそらくそれを忘れることはないだろう。
どんなアンドロイドにも、このヒキガエルの脚を切り落とさせたりはしないぞ。やつらがあのピンボケのクモをそうしたようには。
リックはひもでぐるぐる巻きにした箱をとなりの座席におき、ハンドルの前にすわった。まるで子供に返ったみたいだ、と思った。いまではすべての重圧、とほうもない疲労の重圧が、すっかりけしとんでいる。はやく、イーランにこのニュースを聞かせてやろう。リックは受話器をとり、映話をダイヤルしかけた。そこで、はたと手をとめた。そうだ、びっくりさせてやれ――そう心をきめた。どのみち、家までは三、四十分の旅だ。
いそいそとリックはモーターを始動させ、まもなく空に上昇して、千百キロ南のサンフランシスコに進路をとった。
ペンフィールド情調オルガンの前で、イーラン・デッカードは右の人さし指をダイヤルにかけてすわっていた。しかし、ダイヤルはしなかった。なにをする気にもなれないほど、ものうい、疲れた気分だった。その重圧が、未来と、そこにあったかもしれない可能性を閉ざしてしまった。もし、ここにリックがいてくれたら、と彼女は思った。きっと彼はあたしに3をダイヤルさせ、そしてあたしは、なにかだいじなものをダイヤルしたいムードになったはず。たとえば、あふれるような歓喜とか、それとも888の、どんな番組でもいいからテレビを見たくなる欲求を。そういえば、テレビはいまなにをやっているかしら、とイーランは考えた。それから、リックはいったいどこへいったのかしら、とまた考えた。彼は帰ってくるのか、帰ってこないのか。そう思うと、体の骨が年老いて縮かんでいくような気持だった。
玄関のドアにノックがひびいた。
びくっとした彼女は、ペンフィールドのマニュアルをおいて立ちあがり、そして思った。もうこれで、ダイヤルしなくてもよくなったわ。あたしはもうそれを手にいれたんだもの――もし、あれがリックなら。彼女は戸口に駆けより、ドアをいっぱいに開いた。
「ただいま」とリックがいった。
彼がそこに立っている。頬に傷をこしらえ、服はよれよれで灰色になり、髪の毛まで灰まみれになって。彼の手も顔も――目をのぞいた全身のあらゆる部分に灰がこびりついていた。畏怖をたたえた目だけが、まるで子供のようにくりくりと輝いていた。彼女は思った――まるで一日どこかで遊びほうけて、とうとう家へ帰る時間になった子供みたい。これから休息し、体を洗い、きょう一日の奇跡を話そうとしている子供みたい。
「よかったわ、おかえんなさい」と彼女はいった。
「見せるものがある」
リックは両手でタンボール箱をかかえていた。部屋へはいっても、まだそれをおこうとしない。手放せないほどこわれやすく貴重なものがはいっているようだった。永久にそれを持っていたいようすだった。
「いまコーヒーをいれるわ」
イーランはコンロのそばへ行ってコーヒーのボタンを押し、まもなく大きなカップについだコーヒーを、食卓の上においた。まだ箱を持ったままで彼は席についたが、その顔にはまださっきの喪怖の表情が残っていた。イーランが夫のこんな表情にでくわすのは、長い結婚生活でもこれがはじめてだった。屋上で別れたあと、ゆうべホバー・カーででかけたあと、なにかが夫の身に起きたらしい。そして、夫は箱といっしょに帰ってきた。その箱の中には、夫の身に起きたすべてのことがしまわれているのだろう。
「おれはこれから眠るよ」リックは宣言した。「まる一日な。ハリイ・ブライアントに連絡をとったんだ。まる一日休暇をとって休養しろといってくれた。そのとおりにしようと思う」
リックは食卓の上へそっと箱をおき、コーヒー・カップを持ちあげた。従順に、彼女の希望をくんで、コーヒーをすすった。
夫の正面にすわると、イーランはきいた。「その箱にはなにがはいっているの、リック?」
「ヒキガエルさ」
「見せてくれる?」イーランは、夫がひもをほどき、箱のふたをとるのを見まもった。「うわっ」と彼女はヒキガエルを見ていった。なんとなく気味がわるかった。「かみつかない?」
「持ってごらん。かみつきゃしないよ。ヒキガエルには歯がないんだ」リックはヒキガエルを持ちあげて、彼女のほうにさしだした。嫌悪をこらえて、イーランはそれを受けとった。
「ヒキガエルは絶滅したと思ってたわ」いいながら、脚のことがふしぎになって、彼女はそれをひっくりかえした。こんな脚で役にたつのだろうか。「ヒキガエルは、カエルみたいに跳べるの? つまり、だしぬけに手から跳びだしたり?」
「ヒキガエルの脚は弱い」とリック。「そこが、ヒキガエルとカエルの大きなちがいだよ。それと水。カエルは水のそばから離れられないが、ヒキガエルは砂漠でも生きていける。こいつを見つけたのも、オレゴン州境近くの砂漠なんだ。なにもかも死にたえてしまった場所さ」
リックは手をのばして、妻からそれを受けとろうとした。だが、そのまえにイーランはあることを発見していた。まだ仰向けになったままのヒキガエルの腹をさぐり、爪の先で小さな制御パネルのありかを見つけた。そして、パネルの蓋をぱちんと開いたのだ。
「そうか」しだいにリックの顔には失望がひろがった。「わかったよ。きみが正しい」
しょんぼりと無言で、リックは模造動物を見つめた。イーランの手からそれを受けとり、茫然とその脚をいじった――まだ納得のいかないようすだった。やがて、被はていねいにそれを箱の中へもどした。
「どうしてまた、カリフォルニアのあんな荒れ地にあったんだろう? だれかがあそこへ持っていったにちがいない。なんのためだかわけがわからん」
「あなたに教えるべきじゃなかったんだわ――それが電気動物だってことを」
イーランはそっと夫の腕に手をのせた。それが夫におよぼした影響、夫の変わりようを見て気がとがめたのだ。
「いや、そうわかってうれしいよ。というより――」リックはしばらく黙りこんだ。「わかったほうがいい」
「情調《ムード》オルガンを使ってみる? 気晴らしに? あなたにはいつもあれがよく効くみたいよ。あたしよりもずっと」
「だいじょうぶだ」リックは頭をはっきりさせるように、首を振った。まだショックから覚めないようすだった。「マーサーがあのピンボケのイジドアにやったクモ――あれもきっと模造だったんだ。だが、そんなことはどうでもいい。電気動物にも生命はある。たとえ、わずかな生命でも」
イーランはいった。「あなた、まるで百キロも歩いてきたみたい」
「長い一日だったよ」彼はうなずいた。
「ベッドへはいって、ゆっくり眠れば」
リックは当惑したように彼女を見つめた。「仕事はこれですんだ、そうだね?」
イーランを信じきったように、まるで彼女なら知っているはずだといいたげに、リックは返事を待っていた。まるで、自分自身の言葉にはなんの意味もないように――自分の言葉に懐疑を持ちはじめたのだ。イーランが同意しないかぎり、それは現実にならないのだ。
「すんだわ」とイーランは答えた。
「ちくしょう、なんて長いマラソンだったろう」とリックはいった。「いったんはじめたら、もうストップがきかなくなった。どんどん押し流されて、そのまま最後のベイティー夫妻のとこまで持っていかれ、そこでとつぜんなんにもすることがなくなったんだ。おまけに――」自分がなにをいおうとしたかに気づいて仰天したようすで、しばらく口ごもった。「おまけに、あれがひどかった。仕事がすんだあとだ。ストップしたあとになにも残ってないと考えると、おれはストップできなくなった。けさ、きみのいったとおりだ。おれはがさつな手をした、がさつなお巡りだよ」
「もう、そんなこと思ってもいないわ」イーランはいった。「あなたがここへ帰ってきてくれて、とてもうれしいのよ」
イーランがくちづけすると、リックは満足そうにぱっと顔を輝かせた。さっきまで――ヒキガエルが模造なのを知らされるまで――のそれに近いほど、明るい表情だった。
「きみは、おれがまちがったことをしたと思うかい?」リックがきいた。「きょう、おれのしたことだよ」
「いいえ」
「マーサーは、それはまちがったことだが、とにかくやるしかない、とおれにいった。まったく、妙な話さ。ときには、正しいことよりまちがったことをするはうがいい場合もある」
「それは、あたしたちの受けた呪いよ」イーランがいった。「マーサーがよく話すわ」
「灰か?」とリックがきいた。
「マーサーが十六歳のときに彼を見つけた殺し屋たちよ。彼らはマーサーに、時間を逆行させて死んだものをよみがえらせてはいけないと教えたわ。だから、いまのマーサーにできることは、生命といっしょに動きながら、それが行きつくところ、つまり死へ近づくことだけなの。そして、殺し屋たちは石を投げつけてくる。石を投げているのは彼らよ。まだマーサーを追いかけているんだわ。そして事実上は、あたしたちみんなをね。あなたの頬から血が出ているのも、石が当たったんでしょう?」
「そうだ」彼はよわよわしくいった。
「おねがいだから、ベッドで休んでくれる? 情調オルガンを670にしましょうか?」
「そいつはどんなムードなんだい?」
「待ちわびた心の平和」
リックは苦しそうに立ちあがった。彼の顔は、まるで無数の戦闘が長年そこでくりかえされてきたように、疲れ果て、混乱していた。ゆっくりと、彼は寝室のほうへ歩きだした。
「いいとも。待ちわびた心の平和か」
リックはベッドの上へながながと横たわった。着衣からも髪の毛からも、灰がもうもうと白いシーツに降りかかった。
情調オルガンをかける必要もなさそうだわ。イーランはそう思いながら、寝室の窓を不透明にするボタンを押した。灰色の日ざしが消えていった。
ベッドでは、リックがまもなく寝息を立てはじめた。
イーランはしばらくそこに残り、夫が目をさましたり、ときどき夜中にやるように、ふいに起きあがったりしないのを見きわめた。それからキッチンにもどり、もう一度食卓の前にすわった。
かたわらでは、電気ヒキガエルが箱の中でガサゴソと音を立てていた。彼女はそれがなにを――食べるみのだろうか、どんな修理が必要だろうか、と考えた。人工バエだわ、と判断した。
番号簿をひらいて、黄色ページの〈電気動物飼育用品〉という見出しの下をさがした。ダイヤルして、スクリーンに現われた女店員にいった。
「人工バエのほんとにブンブン飛びまわるのがほしいんだけど」
「電気亀にお使いになるのですか、奥さま?」
「ヒキガエル」
「では、人工小昆虫の詰め合わせはいかがでしょう? これですと、飛んだり這ったり、いろいろな種類が――」
「ハエだけでいいわ」イーランはいった。
「配達してくださる? アパートを出たくないの。主人が眠っていて、横についてなきやいけないから」
女店員がいった。「ヒキガエルでしたら、浄水器つきの水たまりなどいかがでしょう。ただし、ツノトカゲの場合はべつでございます。そちらは、砂と、七色の小石と、有機物の断片がはいったキットになります。それから、もし給餌周期を一定になさるおつもりでしたら、わたしどものサービス部に舌の定期調整をおまかせくださいませ。ヒキガエルには、なによりもこれがたいせつでございます」
「おねがいするわ」イーランはいった。「完全に動いてもらいたいから。うちの主人はそれに夢中なのよ」彼女は住所を教えて、映話を切った。
それから、ずっとよくなった気分で、こんどは自分のために熱いブラックのコーヒーをいれることにした。
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訳者あとがき
[#ここから2字下げ]
「フィリップ・K・ディツクの描く未来世界は、われわれ自身の世界の歪んだ鏡像だ。その歪みがそれをSFにし、そのイメージが急所をえぐり出す」――デーモン・ナイト
「もしあなたがこのジャンルの根底にあるテーマやシンボルをわれわれが思いもよらぬ観点から扱う巨匠の作品を読みたいと思うなら、フィリップ・K・ディックの本をどれか読むことだ。いや、そんなみみっちいことをいわず、全部読んだらいい」――ジョン・プラナー
「わたしの考えでは、フィリップ・K・ディックとJ・G・バラードだけが、現代に即した、読むにたる小説という点で、見るべき仕事を生み出しつつある」――ブライアン・オールディス
[#ここで字下げ終わり]
たいへんな絶讃ではありませんか。しかも、いつもだと惚れこんで訳しはじめたつもりが、半分いかないうちに熱のさめてくる飽き性のぼくなのに、この長篇にかぎってふしぎにそれがなかった。いや、校正のためにゲラを読みかえしたときでさえ(そして、今回新版のために手を入れ、再度ゲラを読みかえしたときでさえ)、傑作だという確信は揺るがなかった。だから、もしあなたがいま書店でたまたまこのページを開いておられるとしたら、ためらわずにお買いになるべきだと思う。
臆面もなく、訳者にあるまじき売りこみ文句を書きつらねたのは、実はわけがあって、これだけ評価の高い作家なのに、しかもその代表作がすでに何冊か翻訳されているのに、日本におけるこの作家の人気が必ずしも高いとはいえないのをガイタンしたからなのです。もっとも、ディックが現代社会への深い洞察と鋭い問題意識を持つ作家として正当に評価されはじめたのは、欧米でもごく最近のことのようです。これは、抒情性のない乾いた文章、未来社会の飛躍した設定、合理的な解決のないままに終わる結末、そして自分の思想の表現のためには、SFで使い古されたあらゆる大道具小道具をあえて徹底的に再満用しようとする、いわばこのジャンルのセルフ・パロディのような独特の手法が、読者をも批評家をも、とまどわせたのかもしれません。
さて、ディックがその数多い作品の中で一貫してとり上げてきている重要なテーマの一つに、“現実”の探求、物質的世界の背後に隠れた真実の発見があります。『パーマー・エルドリッチの三つの聖痕』と題された長篇の中で、登場人物の一人が一種の精神療法をうけている最中にかいま見るヴィジョンは、ディックの哲学の最も端的な陳述の一つといえるでしょう――
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「真下には墓穴世界、悪魔的な不変の因果律の世界が横たわっている。中間には人間のレベルが広がっているが、いつ人間は――じわじわと沈んで、真下の地獄のレベルへ落ちるかもしれない。それとも、この三重層の最高のレベルを形づくっている、真上の天上界に昇れるかもしれない。真中の人間層に住むのは、つねに沈下の危険にさらされている。ただし、その一方で上昇の可能性も目の前にある。どんな現実の様相やシークエンスが、いつなんどき、そのどちらに変わるかもしれない。天国と地獄、それは死後でなく、いま現在にある! 抑鬱、それにあらゆる心の病いは、沈下を意味する。では、上昇は?……それはどうすればなしとげられるのか? |感情移入《エンパシー》をつうじてだ。外側からではなく、内側から他人を把握することによってだ……」
[#ここで字下げ終わり]
つまり、ディックは、感情移入を人間の最も大切な能力と考えているのです。本書の中での|共感《エンパシー》ボックスの役割も、また、人間とアンドロイドとの鑑別に感情移入度|検査《テスト》が使われている埋由も、これでなっとくできます。
[#ここから2字下げ]
「ディックのアンドロイドという隠喩の中核をなすものは、機械的な行動パターンに侵された人間――模造的な人間である。大多数のSFにおけるアンドロイドは、迫害された人間、人種的あるいは経済的に差別された人間になぞらえたものであることが、はっきりしている。そして、その迫害や差別のよってきたる原因は外面的なものであり、なんらかの直接の外的行動によって修正することができる。……しかし、ディックは、それとまったく違った意味を、アンドロイドに与えている。ディックにとって、アンドロイドとは、内面的[#「内面的」に傍点]に疎外された人間――つまり、分裂病その他なんに限らず“現実”の世界(人間的な関わりあいと感じ方の世界)に接触できなくて、内に閉じこもり、機械的な生活を送っている人間――の象徴なのだ。……この新しい観点に立てば、アンドロイドが天真爛漫さと悪意とを同時に持ち合わせ、自分の正体を知っているときもあり、知らないときもあり、ほとんど人間そっくりでありながら、人間社会にとっての潜伏的な脅威であることも、決して矛盾ではなくなる」――アンガス・テイラー
[#ここで字下げ終わり]
火星から脱走してきた八人のお尋ね者のアンドロイドとそれを追う警官――という、一見アクション・スリラー風なプロットを土台に、「人間とは何か?」という大きなテーマに取り組んだのがこの長篇なのですが、ディックのトレード・マークである目まぐるしい展開とアイデアの氾濫をいくぶん抑えて、ユーモアの衣をかぶせてあるために、違和感の少ない、親しみやすい小説になっています。二度にわたって描かれる感情移入度テストのくだりも滑稽だが、とくに、自分が人間かどうかに確信が持てなくなった主人公が、自分で自分にテストを試みるところは、おかしくもまた悲しいではありませんか。
[#ここから2字下げ]
「これは内容豊かな本だ。人口減少と半致命的な放射性降下物、ウィルバー・マーサーと共感ボックス、生類への宗教的愛護とアンドロイドに対する無慈悲な殺戮、特殊者と賞金かせぎ、ムード・オルガンとバスター・フレンドリー、これらの要素の一つ一つが意味を持ち、それが渾然一体となって、さらに深い意味を持つように構成されている。あなたは再読のたびに新たな角度からそれを発見するだろう。
そして、かなり自信を持っていえるのは、このハッピーーエンドがあなたを泣かせるだろうということだ」――ジュディス・メリル
[#ここで字下げ終わり]
※
この訳者あとがきのアタマのほうにある、「日本におけるこの作家の人気が必ずしも高いとはいえないのをガイタンした」というくだりを読んで、こいつ、なにをいってるんだ、とふしぎに思われた方もおありでしょう。しかし、はじめてこの文庫版が世に出た当時(一九七七年三月)は、たしかにそんな状況だったのです。いまのようなディック・ブームが生まれたのは、それからちょうど五年後、本書の映画化である『ブレードランナー』が日本公開され、その衝撃的な映像美が注目を浴びたのがきっかけでした。やっぱり、映画の力はすばらしい。
こんど版が組み替えられるのを機会に、訳文に手を入れました。早川書房編集部の高山祥子さんが細かく目を通してくださったおかげで、いくつかの(いや、幾多の)誤訳や疑問点を手直しできたことを感謝しております。
余勢を駆って訳者あとがきも新しく書きなおそうかと思ったのですが、歴史的資料の保存という、怠け者には絶好の口実が頭にうかび、旧あとがきにこんな付記を添えるかたちでお茶をにごしてしまいました。もちろん、今回の手直しで再々度ゲラを読みかえしたときでさえ、傑作だという確信はみじんも揺るがなかったことを、ここにご報告しておきます。
一九九四年のいまではディック作品の大部分が翻訳刊行され、本書の初版当時とはまさに隔世の感があります。『ブレードランナー』の完成を待たずして急死したディックの生涯と作品に関する評論も数多く発表されました。なかでも訳者が最も感銘を受けたのは、八九年の『銀星倶楽部』12 フィリップ・K・ディック特集号に掲載された、後藤将之さんの「フィリップ・K・ディックの社会思想」です。このすぐれた評論には、できれば全文引用したいほど本書の内容が明快に考察されているので、その一節を掲げて結びを飾りたいと思います。
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この短編(「人間らしさ」――訳者注)に付されたコメントで、ディックは語っている。
「わたしにとってこの作品は、人間とはなにかという疑問に対する初期の結論を述べたものである。……あなたがどんな姿をしていようと、あなたがどこの星で生まれようと、そんなことは関係ない。問題はあなたがどれほど親切であるかだ。この親切という特質が、わたしにとっては、われわれを岩や木切れや金属から区別しているものであり、それはわれわれがどんな姿になろうとも、どこへ行こうとも、どんなものになろうとも、永久に変わらない」。
ここにディックのもっとも基本的な世界認識がある。ディックにおいて、人間とアンドロイドの生物学上の、あるいは自然科学上の区別は、まったく無意味である。親切な存在はすべからく「人間」であり、それ以外は人間ではない。ここで彼が、この非人間的性質の比喩としてのみ、「アンドロイド」を持ち出している事を失念してはならない。ディックは、「アンドロイド」と「人間」の形式上の区別には関心がない。コピーも原物も、親切であればすべて本物である。
ディックはこの点において、昨今のサイバーパンクSFの射程をすでに超出していた。サイバーパンクSFの一部では、機械と人間の融合ないし境界侵犯が一種の強迫観念的なモチーフとして現れる。だが、ディックの世界では、そもそも人間と機械、自然と人工といった単純な二分律は棄却されている。彼が問題としていたのは、人間と機械の、その双方における、「人間」性および「アンドロイド」性の対立の構図である。
従って、長編『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』においても、そこに「人間」として登場する者も、「アンドロイド」として登場するものも、全て、「人間」であり、かつ「アンドロイド」でもありうる。「電気動物にも生命はある。たとえ、わずかな生命でも」。したがって、この長編中、人間もアンドロイドも、ともに、親切な場合もあれば、冷酷な場合もある。ディックが描こうとしたのは、すべての存在における人間性とアンドロイド性との相剋であって、それ以外のなにものでもない。
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底本:「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」ハヤカワ文庫SF 〈SF229〉
1977年03月15日初版発行
1995年07月15日34刷
Do Androids Dream of Electric Sheep?
1968年
ハヤカワSF
1969年
2008/11/24 入力・校正 hoge