宇宙の操り人形
フィリップ・K・ディック/仁賀克雄 訳
目 次
宇宙の操り人形
地球乗っ取り計画
地底からの侵略
奇妙なエデン
あとがき
初出一覧
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宇宙の操り人形
[#地付き]――The Cosmic Puppets
第1章
ピーター・トリリングは仲間の子供たちが泥遊びをしているのを、ポーチ脇で黙って眺めていた。子供たちは遊びに夢中になっている。メアリは一心不乱に褐色の粘土塊をこねて、何かのかたちを作っていた。ノークスは汗を流しながら彼女を見習っている。デイヴとウォルターは自分たちの分をすでに作り上げ、手持ちぶさただった。いきなりメアリは黒髪をばさっと後ろに振り、その細い身体を弓なりに反《そ》らせた。そして粘土の山羊を地面に置いた。
「どう?」彼女は尋ねた。「あんたのは?」
ノークスはうなだれた。手先が器用ではないので、メアリのすばやく動く指先にとても追いついていけなかった。彼女は早くも粘土の山羊を崩してしまい、すでに馬のかたちを作っている。
「ぼくのを見て」ノークスはもったりと呟《つぶや》いた。
彼はぎごちない手つきで飛行機の尾翼を作っていた。その濡れた唇からぶつぶつと呟きが洩《も》れる。
「どう? うまいだろう?」
デイヴは鼻を鳴らした。
「なっちゃいないや。これを見ろよ」
彼は自分の作った粘土の羊を、ウォルターの粘土の犬のとなりに並べた。
ピーターは黙ってそれを見つめている。ほかの子供たちとは離れて、ポーチの階段下に背を丸めてすわっていた。腕を組み、焦茶色の瞳はうるみ、大きかった。乱れた灰色の髪は広い額に垂れ下がっている。顔は真夏の太陽によく灼《や》けていた。手足の長い、やせて背の低い子供だった。首筋は骨がごつごつし、耳は奇妙な格好をしている。口数が少なく、黙ってすわっては他の子供たちの遊ぶのを見ていた。
「それなあに?」ノークスが尋ねた。
「牛よ」
メアリは牛の脚《あし》を完成させると、ノークスの飛行機のとなりに置いた。ノークスはそれを感嘆の眼で見た。そして飛行機に置いた片手をがっかりしたようにひっこめた。やがて飛行機を持ち上げると、悲しげに飛ばすまねをした。
ドクター・ミードとミセス・トリリングが下宿の階段を一緒におりてきた。ピーターは脇に寄って道をあけ、ドクターの青いピン・ストライプのズボンと、黒光りのする靴に触れないように注意した。
「帰るよ」
ドクター・ミードは金製の懐中時計を見ながら、娘のメアリに声をかけた。
「シャディ・ハウスに戻る時間だ」
メアリはなごり惜しそうに立ち上がった。
「もう少しここにいちゃいけない?」
ドクター・ミードはやさしく娘を抱きしめた。
「もう帰るんだよ、おてんばさん。車に乗りなさい」
彼は医師としての立場に戻り、ミセス・トリリングの方を振り向いた。
「心配するほどのことはない。エニシダの花粉のせいだよ、おそらく。いまちょうど花ざかりだからな」
「あの黄色い花?」
ミセス・トリリングは涙のとまらぬ眼をこすった。ふくよかな顔は腫《は》れて赤く、眼はなかばふさがっている。
「去年はそんなことありませんでしたわ」
「アレルギーというのはえたいの知れないものでね」
ドクター・ミードはあいまいにいうと、葉巻の吸い口をかんだ。
「メアリ、車に乗りなさいといったはずだよ」
彼は車のドアを開け、ハンドルのうしろにすべりこんだ。
「抗ヒスタミン剤が効かなかったら電話を下さい、ミセス・トリリング。とにかく今夜また夕食にこちらにやってきますよ」
ミセス・トリリングはうなずくと、眼を拭《ぬぐ》いながら自分の下宿の暑い台所に姿を消した。台所には昼食の汚れた食器が山積みになっている。
メアリはジーンズのポケットに両手を突っ込んで、むっつりしたままステーション・ワゴンに乗りこんだ。
「これで遊びもおしまいね」彼女は呟いた。
ピーターは階段をずり降りた。
「ぼくも作ろうっと」彼はぼそっといった。
メアリの捨てていった粘土を拾い上げると、かたちをこねはじめた。
うだるような夏の日の光は起伏に富んだ農場にも注いでいた。雑木林、突き出た杉、月桂樹、ポプラ、それに松もある。車はパトリック郡をすぎ、キャロルの近く、ビーマー・ノブという突き出した岩のあるところまできた。道路の補修はひどいものである。ピカピカの黄色いパッカード車は、ヴァージニア州の丘陵の急坂を登って行くと、エンストを起こし、スピードが落ちた。
「戻りましょうよ、テッド」ペギー・バートンはぼやいた。「もううんざりしたわ」
彼女はかがみこむと、シートのうしろからビールの罐を探し出した。すっかり温かくなっている。それを袋の中にもどすと、むっつりとして車のドアに寄りかかった。顔や組んだ腕には汗の玉が吹き出している。
「もう遅い」テッド・バートンは呟いた。
窓は開けてあり、できる限り身を乗り出していた。その顔はうっとりと昂奮《こうふん》した表情を浮かべている。妻の声には何も感じなくなっていた。関心はひたすら道路の前方、向こうの丘陵の陰に横たわる景色にあった。
「もうじきだ」しばらくしてから彼はいった。
「あなたの生まれた所がね!」
「いまはどうなっているかな。なにしろ十八年も昔のことだ。家がリッチモンドに引っ越したのは、わずか九歳の時だった。おれのことを覚えている人がいるかな。あのオールド・ミスのベインズ先生、庭木の手入れをしてくれた黒人の庭師。ドクター・ドーラン、いろいろな人がいたなあ」
「たぶんもうこの世にいないわよ」
ペグは身体を起こすと、いらだたしげにブラウスの襟をひっぱった。黒髪がべっとりと首筋にまとわりつく。汗の玉が白い肌をすべって胸の谷間に降りてくる。靴とストッキングを脱ぎ、袖をまくり上げた。スカートはしわだらけ、埃《ほこり》で汚れている。ハエがぶんぶんと車内を飛びまわり、一匹が汗で光る腕にとまった。彼女は邪険にそれをぴしゃりと叩いた。
「こんなことで休暇を使うなんて! ニューヨークにいた方がまだましだったわ。少なくとも飲みものぐらいは不自由しないものね」
前方に丘陵がけわしくそびえている。パッカードのエンジンがとまった。バートンはギアをローに入れ替えて走り出した。大きな峰々が地平から隆起している。車はアパラチア山脈の近くを走っていた。バートンの眼は迫りくる森林や山脈への畏敬の念で大きく開かれている。昔見慣れた風景、懐しい峰や溪谷やつづら折りの道を、再び眼の当たりにしようとは、夢にも思わなかった。
「ミルゲイトの町は小さな溪谷の底にあってね。四方を山に囲まれ、この道路だけが町を結んでいる。おれが引っ越した後に、別の道路を作っていなければな。小さな町だよ、ペグ。どこにでもある小さな町のひとつで、眠たくなるような平和なところさ、金物屋が二軒、ドラッグストア、鍛冶屋――」
「バーはあるの? いい店があるのかどうか教えて!」
「人口は二、三千。この道路をやってくる車は多くない。このあたりの農園はあまり作物のできがよくない。土地は岩ばかりで、冬には雪が深く、夏は地獄のように暑い」
「それはたしかね」ペグは呟いた。
彼女の紅潮した顔はすでに白くなっていた。唇のあたりは青みがかっていた。
「テッド、車に酔ってきたわ」
「もうじきだよ」バートンはあいまいに答えた。
彼は車窓から身を乗り出し、首を伸ばすと、前方の景色を確認しようとした。
「そら、あそこに見覚えのある古い農家がある! 思い出したぞ。これは近道だ」
彼は幹線道路から脇道に車を乗り入れた。
「この峰の向こうだ。そこに故郷があるんだ」
パッカードはスピードを増した。干上がった畑とこわれた柵の間を走って行く。道路はひび割れができ、雑草が生い茂り、崩れたところもあり、ひどい補修がしてある。狭く急な曲がり角が続く。
バートンは首をひっこめた。
「やっとここに戻ってきた」
彼は上着のポケットに手を突っ込むと、幸運の方位磁石《コンパス》を取り出した。
「これが案内してくれたんだよ、ペグ。おれが八歳の時、おやじがくれたものだ。セントラル・ストリートのバーグ宝飾店で買ってくれたんだ。ミルゲイト唯一の店でね。おれはいつもこれを頼りにしている。このちっぽけなコンパスを肌身はなさず持っているんだ――」
「知っているわよ」ペグは疲れたように呟いた。「耳にタコのできるほど聞かされた話よ」
バートンは小さな銀のコンパスをいとおしそうにしまった。ハンドルをしっかり持ち直すと前方を見つめた。車がミルゲイトに近づくにつれ、彼の昂奮は高まった。
「この道は隅々まで知っているんだ、ペグ。いちど覚えたら――」
「そうね。あなたはよく覚えているわ。でもね、いいかげんにしてほしいの。あなたの子供の頃のミルゲイト、ヴァージニアの楽しい思い出を始終聞かされるのはうんざりするわ。聞かされる身にもなってよ!」
道路は急なカーヴを回ると、厚い霞の壁の中に入っていた。ブレーキに足をかけると、バートンはパッカードの鼻面を回し、坂を下りはじめた。
「あそこだよ、町は」彼は静かにいった。「ほら」
眼下には小さな溪谷があり、日中の青い霞の中に薄れている。濃緑の林の間を黒いリボンみたいな一筋の流れが蛇行していた。埃っぽい道路が網の目のように張りめぐらされ、家屋が中心部に密集している。それがミルゲイトである。溪谷を四方から取り巻く巨大な暗い峰々。
バートンの心は苦しいほどの昂奮で高鳴った。自分の故郷――生まれ、育ち、少年時代を送ったところだ。再び見ようとは夢にも思わなかった。それは彼とペグが休暇を取り、バルチモアをドライヴ中に、突如ひらめいた思いつきだった。結局リッチモンドで急に近道をした。故郷をもういちど見たら、どんなに変わっていることか……
ミルゲイトは前方にだんだんと姿を現してきた。道路沿いに埃まみれの家屋や商店が並んでいる。立て看板、ガソリン・スタンド、カフェ、旅館が二軒、空き地に駐《と》まっている車。ゴールデン・グロウ・ビールの広告。パッカードはドラッグストアを通り、汚れた郵便局を過ぎ、いきなり町の中心部に入った。
脇道、旧家、車、バーと安ホテル。ゆっくりと歩いている人々、農民、白シャツ姿の商店主。喫茶店、家具店、食料品店が二軒、果物と野菜の大きなマーケット。
バートンは交通信号で車のスピードを落とした。車は脇道に入り、小さな中学校の前を通りすぎた。子供たちが数人、埃っぽい校庭でバスケットボールに興じていた。家数も増え、大きくなり、新しくなっている。太った中年女が不格好な服を着て、庭に水まきをしていた。馬の群れ。
「ねえ?」ペグがせがんだ。「何とかいったらどうなの! 故郷の感想はどうなの?」
バートンは返事をしなかった。片手でハンドルをにぎり、車の窓から身を乗り出し、ぼんやりしていた。次の角で車は右に曲がり、また元のハイウェイに出た。数分後パッカードはドラッグストア、バー、カフェ、ガソリン・スタンドなどのある商店街をゆっくりと走っていた。バートンは依然として無言だった。
ペグはいささか不安だった。夫の顔にはただならぬ気配が漂っている。いままで見たこともない表情だ。
「どこか悪いの?」彼女は尋ねた。「すっかり変わってしまったの? 見覚えのあるところがないの?」
バートンの唇がやっと動いた。
「まちがいない」だみ声で呟いた。「右に曲がった……あの峰も丘も変わっていない」
ペグは彼の腕をつかんだ。
「テッド、どうかしたの?」
バートンの顔は白蝋《はくろう》のようだった。
「この町はいままで見たこともない」その声はかすれ、ほとんど聞きとりにくかった。
彼は妻の方を向いた。その顔は当惑し、怯《おび》えていた。
「ここは記憶にあるミルゲイトじゃない。おれの生まれ育った町じゃない!」
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第2章
バートンは車を駐《と》めた。震える手でドアを押し開け、炎暑の歩道にとび降りた。
見覚えのあるものは何ひとつなかった。すべてが見知らぬもの。全く異質の存在だった。思い出のあるミルゲイトではなかった。肌合いのまるでちがうものを感じた。いままで住んだこともない町だ。
バーのとなりに金物店がある。木造の古い建物で、傾き、ひび割れができ、黄色いペンキがはげていた。薄暗い店内には、馬具、農機具、工作具、ペンキ罐などが並び、壁には色あせたカレンダーが貼ってある。ハエ糞のついたショーウインドウの中には、肥料と化学薬品が展示されている。昆虫の死骸が隅の方に山積みになっていた。クモの巣、歪んだ看板。古い店だった――途方もなく古い店。
彼は錆《さ》びた網戸を引いて中に入った。干枯らびた小柄な老人が、まるでしわだらけのクモみたいにカウンターのうしろにすわり、椅子の陰で身を縮めている。メタルフレームのメガネをかけ、ヴェストを着て、サスペンダー付きのズボンをはいている。
書類やちびた鉛筆があたりに散乱していた。店内はうすら寒く、暗く、ひどい乱雑ぶりだった。バートンは埃だらけの商品の山をかき分け老人に近寄った。心臓が激しく高鳴った。
「もしもし」彼はしゃがれ声で話しかけた。
老人は近視みたいな眼つきで見上げた。
「何かご入用かな?」
「ここにどのくらいお住みですか?」
老人はきっと眉《まゆ》を上げた。
「何のことですかな?」
「この店に! この場所に! あんたはここに暮らしてどのくらいになるんですか?」
老人はしばらく無言だった。それからふしくれだった手を上げ、旧式の真鍮《しんちゅう》製キャッシュ・レジスターのプレートを指さした。一九二七年。この店は開業してから二十六年にもなるのだ。
二十六年前といえば、バートンはまだ一歳だった。この店は彼の発育ざかりにはもうあったのだ。子供の頃はずっとこのミルゲイトですごした。ところが彼にはこの店が全く見覚えなかった。それにこの老人もはじめて見る顔だ。
「ミルゲイトに住んで何年になりますか?」バートンは尋ねた。
「四十年になる」
「私に見覚えありませんか?」
老人は怒ったようなうなり声を出した。
「全く知らん顔だ」
彼は不機嫌そうに黙りこんだ。そしてわざとバートンを無視した。
「ぼくはテッド・バートンです。ジョー・バートンの息子です。ジョー・バートンを覚えていませんか? 黒い髪をした、肩幅の広い大男でした。パイン・ストリートに住んでいました。そこにわが家があったんです。ぼくのことを知りませんか?」
彼はいきなり激しい恐怖感におそわれた。
「そうだ、公園だ! どこにありますか? よくそこで遊んだものです。南北戦争時代の古い大砲が置いてありました。ダグラス・ストリートの学校もあった。それはいつ取りこわされたんですか? ステイジーの食肉マーケット。ミセス・ステイジーはどうなりましたか? 亡くなられましたか」
小柄な老人は、ゆっくりと椅子から立ち上がった。
「日射病にやられたのだな、お若いの。このあたりにはパイン・ストリートなどという通りはないよ」
バートンは膝《ひざ》の力が抜けた。
「名前を変えたのか?」
老人は黄ばんだ両手をカウンターにおくと、けんか腰でバートンをにらみつけた。
「わしはここに住んでからもう四十年になる。あんたが生まれるよりずっと昔からだ。だがな、このあたりにはパイン・ストリートもなければ、ダグラス・ストリートもなかった。小さな公園はある。たいしたものじゃない。おそらくあんたはあまり長いこと日なたに出すぎたんだ。どこか涼しいところに横になっていた方がいい」
彼は猜疑《さいぎ》と恐怖の眼でバートンを見つめた。
「ドクター・ミードのところに行って診てもらいなさい。頭が混乱しているのだ」
バートンは呆然として店を後にした。歩道に出ると、めくるめく陽光が全身に降りそそぐ。両手をポケットに突っ込んでぶらつき出した。通りの向こうに小さな古い食料品店がある。それを思い出そうとつとめた。あそこには何があったのだろう? 何かほかの店があったはずだ。食料品店ではなかった。何か……靴屋だ。ブーツ、馬の鞍、革製品を扱っていた。ドイルの革製品だ。生皮、なめし革、旅行カバン。そこで父へのプレゼントにベルトを買ったことがあった。
通りをわたると食料品店に入って行った。果物や野菜のまわりをハエがぶんぶんとびまわっている。埃だらけの罐詰、奥にはうなりをあげている冷蔵庫、バスケット入りの卵。
肥えた中年女がにこやかにあいさつした。
「こんにちは、何をお求めですか?」
彼女の笑顔は親しみあふれるものだった。バートンは太い声でいった。
「失礼します。ぼくは昔この町に住んでいた者です。実は探しているものがあるんです。場所ですが」
「場所を? どこの場所ですか?」
「店です」
彼は唇を歪めてやっとその言葉を発音した。
「ドイル革製品店です。この名前に聞き覚えはありませんか?」
女の大きな顔に当惑の色が拡がった。
「それはどこですの? ジェファースン・ストリートかしら?」
「いいえ」バートンは呟いた。「町の中心部で、この辺です。ぼくの立っているあたり」
彼女の当惑は怯えに変わった。
「何のことやらよくわかりませんが。私は子供の頃からずっとここに住んでいます。親の代の一八八九年にこの店ができました。私はここで生まれ、ずっと暮らしています」
バートンは入り口の方に戻って行った。
「よくわかりました」
その女は心配そうに彼を追ってきた。
「場所をまちがえたのではありませんか? 別の町を捜されたらいかがですか。あなたのいわれたのは何年前のことか……」
バートンがドアを押しあけ通りに出ると、彼女の声も消えた。道路標識のあるところまできた。ぼんやりとそれを読んだ。ジェファースン・ストリート。
ここはセントラル・ストリートではなかった。彼は通りをまちがえていた。急に希望がわいてきた。自分は道に迷ったのだ。ドイルの店はセントラル・ストリートにあった――ここはジェファースン・ストリートなのだ。彼はすばやくあたりを見まわした。セントラル・ストリートはどちらの方向だったろうか?
彼は走り出していた。最初はゆっくりと、そのうち駆け足になった。角を曲がると、小さな脇道に出た。くすんだバー、はやらないホテル、煙でいぶった商店。
彼は通行人を呼びとめて尋ねた。
「セントラル・ストリートはどこですか? 捜しているのですが、なかなか見つからなくて」
その男のやせた顔に疑いの眼がきらりと光った。
「ばかをいえ」
彼は吐きすてるようにいうとさっさとその場を去った。風雨にさらされたバーの壁に寄りかかっていた酔っぱらいが、大声で笑った。
バートンは恐怖にまごついていた。次の通行人を呼びとめた。包みを抱えて急ぎ足の若い娘だった。
「セントラル・ストリートですが!」彼は息を切らせた。「セントラル・ストリートはどこでしょうか?」
くすくす笑いながら娘は走り去ったが、数ヤード行ったところで立ちどまると、振り向きざま叫んだ。
「セントラル・ストリートなんてどこにもないわよ!」
「セントラル・ストリートなどないわ」
バートンの前を通りすぎて行く老婦人が呟き、首を振った。他の通行人たちもうなずいていた。かれらは立ちどまりもせず、早足で去って行った。
酔っぱらいがまたげらげら笑い、それからげっぷをした。
「セントラル・ストリートなんてないよ。みんながそういったろう、旦那《だんな》。そんな通りなんかありゃしないことを、みんな知っているんだ」
「あるんだ!」バートンはやけになって叫んだ。「あるはずだ!」
彼は生家の前に立っていた。もちろんここにはもう彼の家はなかった。広壮なホテルが、赤白の小さな木造の平家に代わって建っていた。通りの名もパイン・ストリートではなく、フェアマウント・ストリートだった。
彼は新聞社を訪れた。そこはもう〈ミルゲイト・ウイークリー〉社ではなく、いまは〈ミルゲイト・タイムズ〉社となっていた。元は屋根のたわんだ二階建てで、タール・ペーパーの板張りの黄色く塗った建物であり、アパートを改造したものだった。それが角ばった灰色のコンクリートの建物に代わっている。
バートンは中に入って行った。
「何かご用ですか?」カウンターのうしろにいた青年がにこやかに尋ねた。「広告ですか?」彼はメモ帳をまさぐった。「それとも購読申し込みですか?」
「お尋ねしたいことがあるんです」バートンは答えた。「古い新聞を見たいんです。一九二六年六月ごろの新聞を」
青年は眼をぱちくりさせた。ふくよかな、身体の柔らかそうな男で、白いシャツの胸元を開けていた。プレスのきいたズボンをはき、指の爪をよく切りそろえてある。
「一九二六年ですか? 一年以上経った新聞はたしか地下室に保管されて――」
「見せてくれ」
バートンはいらだたしげにいうと、十ドル札をカウンターに投げ出した。
「急ぐんだ!」
青年はなまつばをのみ、尻ごみした。それから怯えたネズミみたいに、慌てて戸口からとび出していった。
バートンはテーブルに腰をすえ、煙草に火をつけた。一本吸い終え、二本目に火をつけた時、先ほどの青年が顔を紅潮させ、息を切らせながら戸口から現れた。分厚い台紙付きの新聞の綴じこみをさげていた。
「これです」
彼は大きな音をたてて新聞をテーブルにおくと、ほっとしたように背のびをした。
「他にごらんになりたいものはありませんか――」
「これでいい」バートンは呟いた。
震える指で古く黄ばんだ新聞をめくりはじめた。一九二六年六月十六日。これが彼の生まれた日だ。誕生・死亡欄を探すと、あった。急いで記事に眼を走らせる。
そこに目あての記事はあった。黄ばんだ紙に黒い活字。指先がそこに触れ、唇が声も立てずに動いた。父の名がドナルドとなっており、ジョーではない。住所もちがっている。パイン・ストリート一七二四番地ではなく、フェアマウント・ストリート一三八六番地となっている。母の名はルースではなくサラだった。しかし最も重要な部分はシオドア・バートン、体重六ポンド十一オンス、郡立病院出生というところだ。それもまちがっている。変えられていた。すべてが歪曲されていた。
彼は新聞綴りを閉じ、それをカウンターに持っていった。
「もういちど頼む。一九三五年十月の新聞を見せてくれないか」
「いいですとも」青年は答えた。
彼は急いで戸口を走りぬけて奥に入り、しばらくして戻ってきた。
一九三五年十月。それは彼の家族が住居を売り、引っ越した月だ。一家はリッチモンドに移転した。
バートンはテーブルにすわり、ゆっくりと新聞をめくった。十月九日号。そこに彼の名があった。急いで記事に眼を走らせる――心臓がとまった。すべてが完全に行きどまりとなった。時間も動きも停止した。
「猩紅《しようこう》熱再発生
二人目の幼児患者死亡。井戸は州保健所により閉鎖された。フェアマウント・ストリート一三八六番地に住む、ドナルドおよびサラ・バートン夫妻の九歳になる息子シオドア・バートンは、今朝七時自宅で死亡した。これは二人目の死亡報告で、この地域では六人目の患者で――」
呆然自失してバートンは立ち上がった。いつ新聞社を出たのかさえ思い出せなかった。気がつくと、めくるめくほど暑い日なたに立っていた。人の群れが通り過ぎて行く。建物の群。彼は歩き続けた。街角を曲がり、見知らぬ商店街を過ぎた。よろめき、ふらふらと人に倒れかかりそうになりながら、夢中で歩き続けた。
ようやくのことで、自分の黄色いパッカードにたどりついた。ペグが渦巻く霞の中から現れ、彼の姿を見てほっとしたように高い声をあげた。
「テッド!」
彼女は昂奮して駆けよった。汗ばんだブラウスの下で乳房が踊っている。
「どうしたというの? 私を置き去りにして姿をくらましてしまってさ。どうなることかと気が気でなかったわ!」
バートンはぼんやりとしたまま車に乗りこむと、運転席にすわった。黙ってキーを差しこむとエンジンをスタートさせた。
ペグは慌てて彼のとなりにすべりこんだ。
「テッド、どうしたの? 顔がまっ青よ。気分でも悪いの?」
彼はあてもなく大通りへと出た。人々も車も眼中になかった。パッカードはみるみるスピードをあげていった。もやもやしたものが四方にむらがっていた。
「どこへ行くの?」ペグは尋ねた。「ここから出て行くの?」
「そうだ」彼はうなずいた。「ここを出るんだ」
ペグは安心して気がゆるんだ。
「よかった。文明の地に戻れるのはうれしいわ」
彼女は、注意をうながすように彼の腕に触れた。
「私に運転させてくれない? あなたは少し休んだ方がいいわ。何かひどい目に遭ったみたい。私にも話せないことなの?」
バートンは答えなかった。彼女の話さえ上の空だった。新聞の見出しが目の前に吊り下がっているような気がした。黒い活字、黄ばんだ紙。
「猩紅熱再発生
二人目の幼児患者死亡……」
その幼児とはテッド・バートンだった。彼は一九三五年十月九日にミルゲイトを引っ越したわけではなかった。その前に猩紅熱で死んでいたのだ。そんなばかなことがあるか! 自分はこの通り生きている。現にパッカードに乗り、となりには汗にまみれ、汚れた妻がいる。
自分はテッド・バートンではなかったのかも知れない。
疑似記憶だろうか。姓名も身元さえも。記憶にあるすべてのもの――一切のものがだ。何者かが、あるいは何かが偽造されたのか。彼はハンドルをきつく握りしめた。自分がテッド・バートンではなかったとしたら――何者なのだろうか?
彼は幸運の方位磁石《コンパス》に手を伸ばした。悪夢か。すべてのものがまわりで異様な渦を巻いている。コンパス、どこにあったろう? それさえどこかに行ってしまった。いや、失くなったわけではない。ポケットの中にはほかのものが入っていた。
探ってみると、固くなった古いパンのかけらが出てきた。銀のコンパスの代わりのものは、干枯らびたパンのかたまりだった。
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第3章
ピーター・トリリングはかがみこむと、メアリの捨てた粘土を拾い上げた。彼はすばやく粘土の牛をくずし、別のかたちを作りはじめた。
ノークスとデイヴとウォルターは怒りと不信感とで、彼をにらんでいた。
「だれがその粘土で遊んでもいいっていった?」デイヴはむっとして詰問した。
「ぼくんちの庭だもの」ピーターはすまして答えた。
彼の粘土はもうかたちを成していた。それをデイヴの羊と、ウォルターのできそこないの犬のとなりにおいた。ノークスは粘土の飛行機を飛ばすことに夢中で、ピーターの作業を無視した。
「それは何だい?」ウォルターもとげのある口調で訊《き》いた。「かたちになっていないな」
「人間さ」
「人間! それが人間か?」
「いいさ」デイヴは冷たく笑った。「まだ仲間に入るには幼すぎるよ。家に行って、お母さんにクッキーでももらってこいよ」
ピーターは返事をしなかった。褐色の眼を見開き、緊張しながら粘土の人形作りに夢中だった。その小さな身体を固く強《こわ》ばらせている。背を丸め、うつむき、唇をわずかに動かしていた。
しばらくは何事も起こらなかった。それから……
デイヴはぎゃっと叫ぶと一目散に逃げて行った。ウォルターは大声でわめくと、顔面が蒼白になった。ノークスは粘土の飛行機を飛ばすのをやめた。口を開けたまま凍りついたようにすわってしまった。
小さな粘土人形は動いていた。最初はわずかに、それから勢いよく、人形は子供たちの後ろをぎごちなく歩いていった。腕を曲げ、身体を改め、それからいきなり、急いで子供たちから離れていった。
ピーターは子供らしい甲高い笑い声をあげた。そしてすばやく手を伸ばすと、走って行く粘土人形をつかまえた。引きよせようとすると、人形はもがきあばれた。
「あれっ!」デイヴは呟《つぶや》いた。
ピーターは手のひらにすばやく人形をころがした。柔らかい粘土をこねて、元の、かたちのないかたまりにしてしまった。それから粘土をちぎり、あっという間に手ぎわよく二体の人形を作り上げた。どちらも最初の人形の半分ずつの小さなものだった。それを地面に置くと、静かに身体を反《そ》らして待った。
最初に一体が、続いてもう一体が動いた。どちらも立ち上がると手足を伸ばし、きびきびと行動をはじめた。最初の人形はまっすぐ走り出し、もう一体の人形はためらっていたが、仲間のあとを追った。やがて反対のコースを選び、ノークスの前を通りすぎると通りの方に行った。
「あいつをつかまえろ!」ピーターは厳しく命令した。
手前の人形をつまみ上げると、すぐに立ちあがり、もう一体のあとを追った。それは一所懸命に走って――まっすぐドクター・ミードのステーション・ワゴンの方に向かった。
ステーション・ワゴンがスタートするや、粘土人形は狂ったようにぴょんと跳んだ。すべすべした金属のフェンダーをつかまえようと、やっきになって腕をふりまわした。そんなこととは無関係に、ステーション・ワゴンは往来に出て行った。小さな人形はあとに取りのこされ、すでに遠くに去った車をつかまえようと、むなしく腕をふりまわしていた。
ピーターは人形に追いついた。足で踏むと粘土人形はぐしゃとつぶれ、湿った粘土のかたまりと化した。
ウォルターとデイヴとノークスはゆっくりとそこにやってきた。かれらは大きな輪を組んでこわごわそばによった。
「おまえがこんなことをしたのか?」ノークスがしゃがれ声で尋ねた。
「うん」ピーターは答えた。
彼はもう靴から粘土をこすり落としていた。その幼い顔は冷静で無邪気だった。
「だってぼくのものだもの。いいだろう?」
少年たちは無言だった。かれらが怯えているのをピーターは見てとった。それが彼には不思議だった。何をそんなに怖がっているのだろうか? 彼は尋ねてみようとした。その時、埃まみれの黄色いパッカードがブレーキをきしませて停った。彼の注意はそちらにいった。粘土人形のことは忘れてしまった。
エンジンが止まり、ドアが開いた。一人の男がゆっくりと現れた。ハンサムな若い男である。黒くもじゃもじゃした髪、濃い眉、白い歯。疲れているように見えた。グレイのダブルの背広にはしわがより、しみがついている。茶色の靴は擦りへり、ネクタイは片方に曲がっていた。その顔にもしわが刻まれ、疲労で憔悴《しようすい》していた。眼は腫れぼったく、光がなかった。彼はゆっくりと少年たちの方にやってくると、ぼんやりと見下ろしていった。
「ここは下宿屋かい?」
少年たちは無言だった。その男がこの町の人間でないことを知っていた。町の人間でミセス・トリリングの下宿を知らない者はなかった。だからこの男はよそ者だ。車のナンバー・プレートはニューヨークだった。ニューヨークからきた男なのだ。少年たちにとっては初めて見る顔だった。この男は奇妙なアクセントでしゃべる。早口で、吠えるようなだみ声で、何となく不快な印象を与えた。
ピーターはかすかに身じろぎをした。
「何の用なの?」
「部屋を借りたい」
男はポケットから煙草とライターをとり出した。そして震える手で火をつけた。煙草は指先から落ちそうだった。少年たちはいくらかの興味と、わずかの嫌悪感をまじえて、彼の様子をうかがった。
「ママに知らせてくる」
ピーターはそれだけいうと男に背を向け、静かに玄関に歩いて行った。うしろをふり返りもせず、涼しくて薄暗い家の中に入って行った。その足で皿洗いの物音のする台所に向かった。
ミセス・トリリングは気むずかしい顔で息子を見た。
「何がほしいの? 冷蔵庫を開けちゃだめよ。夕食の時間まで我慢しなさい。いいわね!」
「外に男の人がいるよ。部屋を借りたいんだってさ」ピーターはつけくわえた。「よそからきた人だよ」
メイベル・トリリングは急いで手をふくと、むくんだ顔を急にほころばせた。
「そんなところにボーと突っ立っていないで! 早くその人にお入り下さいとおいい。一人かい?」
「うん」
メイベル・トリリングは息子より先に玄関に出て、たわんだ階段を下りて行った。
男はまだそこにいた。よかった。彼女はほっとしてため息をついた。もうこのミルゲイトにやってくる客はいないと思っていた。下宿はやっと半分しかふさがっていなかった。退職した老人、町の図書館員、事務員、それに彼女の一家しか住んでいない。
「ご用でしょうか?」彼女は息を切らせて尋ねた。
「部屋を借りたいのですが」テッド・バートンは遠慮深そうに答えた。「一部屋でいいんです。どんな部屋でも、部屋代がいくらでもかまいません」
「賄《まかな》い付きがよろしいですか? ここで食事をなされば、町のステーキ・ハウスで支払う食費の半分で足ります。私の作る食事ならいろいろな献立がありますが、外食だとひどいものを押しつけられます。特によその土地からこられた方ですと。ニューヨークからおいでですか?」
男の顔に苦悩の影がさした。しかしすぐにそれを押さえた。
「ええ、ニューヨークからきました」
「ミルゲイトが気に入って下さればよいのですが」
ミセス・トリリングは手をエプロンでふきながらいった。
「全く静かな小さい町です。いままで事件らしい事件もありませんでした。お仕事でおいでになったのですか、ミスター――」
「テッド・バートンです」
「お仕事ですか、ミスター・バートン? 休暇でこられたものと思っていましたわ。ニューヨークでは大勢の人たちが夏休みにはお出かけになるんでしょう? 大変なことですわね。おさしつかえなかったら、ご職業をお知らせ願えませんか? 自営業ですか? お一人ですの?」彼女は彼の袖をつかんだ。「どうぞお入り下さい。部屋をお見せしますから。どのくらいお泊まりですか?」
バートンは彼女のあとについて階段をのぼり、玄関に入った。
「わかりません。ほんの二、三日かも知れませんし、それ以上になるかも」
「お一人ですか?」
「長い逗留となれば妻を呼びよせます。いまマーティンズヴィルにいます」
「ご職業は?」
ミセス・トリリングはすり切れたカーペットの階段をのぼりながら、もういちど尋ねた。
「保険屋です」
「ここがあなたのお部屋。丘に面しています。よいながめでしょう。実にきれいじゃありませんか?」
彼女は洗いざらしの無地のカーテンを開けた。
「いままで、これほど美しい丘陵をごらんになったことがありますか?」
「いいえ」バートンは答えた。「すばらしいながめですね」
彼はぶらぶらと部屋を歩きまわり、みすぼらしい鉄製のベッド、大きな白いタンス、壁の絵に手を触れた。
「けっこうです。部屋代はおいくらですか?」
ミセス・トリリングの眼がずるそうに動いた。
「もちろん賄い付きですわね。一日二食、昼食と夕食です」彼女は唇をなめた。「一日四十ドルです」
バートンはポケットから財布を取り出した。全く無頓着そうに見える。数枚の紙幣を財布から抜き出し、黙って彼女に手渡した。
「ありがとうございます」ミセス・トリリングは息をはずませ、金を手にすばやく部屋を出た。
「夕食は七時です。昼食はもう終わりましたが、ご希望なら――」
「いや、けっこうです」バートンは首をふった。「昼食はいりません」
彼はミセス・トリリングに背を向けると、ゆううつそうに窓の外をながめた。
彼女の足音は廊下に消えて行った。バートンは煙草に火をつける。なんだか胃が重かった。ドライヴのせいか頭も痛い。ペグをマーティンズヴィルのホテルにおき、すぐさまここに引き返してきたのだ。ここに戻り、何年かかろうと滞在する覚悟だった。自分が何者であるかを知りたかった。それを知るチャンスのある唯一の場所がここだった。
バートンは自嘲した。ここにいても、それほどチャンスに恵まれるようには思えない。一人の少年が十八年前に猩紅熱で死んだ。そんなことを覚えているものはいない。ごくささいな事件にすぎない。すでに何百人の子供が亡くなり、住民の出入りもある。一人の少年の死、たった一人の死なんか……
部屋のドアが開いた。
バートンは急いでふり返った。そこには一人の少年が立っていた。ちびでやせこけており、褐色の眼玉だけが大きい。すぐにこの下宿の女主人の息子だとわかった。
「何が目的なの? どうしてここにくる気になったの?」少年は尋ねてきた。
少年はうしろ手でドアを閉め、しばらくためらった後に、いきなり質問をぶつけてきた。
「あんたはだれなの?」
バートンは緊張した。
「バートン。テッド・バートンさ」
少年は満足したようだった。バートンの周囲を歩きまわり、四方八方から彼を吟味していた。
「どうやって抜けてきたの? 普通の人だと通り抜けられないのにな。何かわけがあるんだな」
「抜ける?」バートンは当惑した。「何を通り抜けるんだい?」
「バリアーさ」
急に少年は生気を失いはじめた。眼がぼんやりとしてきた。何かをいいまちがえたのか、いうべきでないことを口にしたのかな、とバートンは思った。
「何のバリアーだい? どこにあるの?」
少年は肩をすくめた。
「山脈だよ。ずっと遠くの。道路も悪い。どうしてここにきたの? 何をしようとしているの?」
それは単なる子供らしい好奇心かも知れなかった。あるいはそれ以上のものだろうか? この少年は何となく奇妙だ。やせて骨ばり、大きな眼をし、異常に広い額にもじゃもじゃした褐色の髪が垂れ下がっている。ヴァージニア南東部の人里はなれた町に住んでいる子供にしては、神経が過敏すぎる。
「たぶんね」とバートンはゆっくりといった。「バリアーを越える方法を身につけているんだ」
その反応は急激にやってきた。少年の身体は緊張し、その眼はいままでのトロンとしたものから、神経質そうにきらきらと光った。後ずさりをすると、バートンからはなれ、不安そうにいきなり震えだした。
「ふうん、そう?」彼は呟いた。
その声はどこか頼りなかった。
「どんな方法? バリアーの弱い場所を這って抜けたんだね」
「普通に道路を通ってきただけだよ。中央ハイウェイをね」
大きな褐色の眼がぱちぱちした。
「時々バリアーが消えるんだ。その消えた時に入りこんだんだよ、きっと」
バートンは不安を感じはじめた。彼は探りを入れられている。正体を見破られている。この少年はバリアーなるものが何だか知っている。それなのにバートンは知らなかった。恐怖が背筋を這う。考えてみると、ミルゲイトに出入りする車には一台も会わなかった。道路の状態はひどく、ほとんど使いものにならない。表面には雑草がはびこり、乾き切って割れ目を生じていた。全く車両の通行がなかった。丘陵と田畑、いたんだ柵。
たぶんこの少年からは何かつかめるかも知れない。
「そのバリアーのことを知ってからどのくらいになるの?」バートンは慎重に尋ねた。
少年は肩をすくめていった。
「それどういう意味? バリアーのことなんかずっと前から知っているよ」
「ここに住む者ならみんなが知っているのかい?」
少年は笑い出した。
「そんなことはないさ。もし知ったら――」
彼は絶句した。大きな褐色の眼には再びヴェールがおりた。バートンはつかのまの手がかりも失ってしまった。少年はまた心をとざし、尋ねる代わりに受け身で質問に答えた。少年はバートンより事情にくわしいようだ。そのことはお互いに認めていた。
「きみはなかなか賢い子供だよ。何歳になるの?」
「十歳」
「名前は?」
「ピーター」
「ずっとここに住んでいるの? ミルゲイトに?」
「うん」彼は薄い胸を張った。
バートンはためらったが、あえて尋ねた。「いままで町から外に出たことがあるかい? バリアーの向こう側に?」
少年は眉をひそめた。顔をゆがめている。バートンは痛いところを突いたのだなと感じた。ピーターは色あせたブルー・ジーンズのポケットに手を突っこみ、部屋の中をせかせかと歩きまわっていた。
「うん、何度もあるよ」
「どうやってバリアーを越えるの?」
「やり方はいろいろさ」
「そのやり方を比べてみようじゃないか」バートンは即座に提案した。
しかしエサには喰いついてこなかった。他に打つ手もあまりなかった。
「時計を見せてよ」少年は話題を変えた。「何石なの?」
バートンは慎重に時計を外すと、少年に手渡した。
「二十一石だ」
「そいつはすごい」
ピーターは時計をひっくり返すと、細い指先で裏蓋をなぞり返してよこした。
「ニューヨークの人なら、みんなこんな時計を持っているの?」
「それなりの人はね」
しばらくおいてピーターはまた尋ねた。
「ぼくは時間がとめられるんだ。そんなに長くじゃないけど――四時間ぐらいかな。そのうち一日中できるようになるかも知れない。どう思う?」
バートンはそれをどう受け取ってよいのかわからなかった。
「ほかに何ができるの?」彼は用心しながらいった。
「たいしたことじゃないけど、ぼくはそれ[#「それ」に傍点]の手先を自由に操れるんだ」
「だれの?」
ピーターは肩をすくめた。
「それのだよ、知っているだろう。こちら側にいるやつさ。両手を突き出しているだろう。あの輝く髪をした金属みたいなやつじゃないよ。別のやつさ。見たことないの?」
バートンは思い切っていった。
「いや、見たことない」
ピーターはとまどったようだった。
「見たはずだよ。両方ともさ。いつもそこにいるんだもの。時々ぼくは道路をのぼって、自分の岩棚にすわるけど、そこから両方ともよく見えるよ」
しばらくして、バートンはやっと言葉を選び出した。
「いつか私を連れて行ってほしいな」
「いいとも」
少年の頬は紅潮し、もう疑いはすてて、すっかりそのことに熱中していた。
「晴れた日には両方ともよく見えるよ。特にかれ[#「かれ」に傍点]がね、遠くにいる方がさ」彼はくすくす笑った。
「面白い見ものだよ。最初はだいぶぶるったけど、もうすっかり平気になった」
「かれらの名前を知っているのかい?」バートンは緊張して尋ねた。
何とかして手がかりを、少年の言葉のうらにひそむ真実を、見つけようとした。
「かれらは何者だい?」
「知らない」
ピーターは頬をいっそう紅潮させた。
「だけどいつか見つけてやろうと思っているんだ。方法はあるはずだよ。第一レヴェルの連中に訊いたんだけど知らなかった。ぼくは特大頭脳を持つ人形《ゴーレム》を作ったんだけど、何も話してくれなかった。あんたならどうやったらいいか、教えてくれるかも知れないな。粘土をどういう風にしたらいいの? 経験あるでしょう?」
彼はバートンに身を寄せると、低い声で話を続けた。
「このあたりじゃだれも知らないんだ。みんながすべて向こう側にいる。ぼくは何もかも一人きりでやらなくちゃならないんだ。もし手を貸してもらえれば……」
「いいとも」
バートンは何とかごまかした。ちくしょう、どうすればいいんだ!?
「ワンダラーズの一人のあとをつけてみたいんだ」ピーターは激しく昂奮して続けた。「そうすれば、かれらがどこから、どうやってくるのかもわかる。手を貸してくれれば、たぶん明らかになるはずだよ」
バートンは全く当惑した。ワンダラーズとは何だ? それが何をしたというのだ?
「そうだ。われわれ二人が力を合わせればな」
彼はあまり確信なさそうに話しはじめる、ピーターはそれをさえぎった。
「手を見せてよ」
ピーターはバートンの手首をにぎり、手のひらを丹念に改めた。いきなりピーターは身を退いた。頬から血の気が失せた。
「あんたはうそつきだ! 何も知りゃしない!」狼狽《ろうばい》の色が顔に拡がった。「何もわかっちゃいないんだ!」
「とんでもない。知っているさ」
バートンは力説したが、実際は何の確信もなかった。少年の驚愕《きようがく》と恐怖は、嫌悪と敵意に変わった。
「あんたは何ひとつ知らないんだ」
彼は怒りが半分、軽蔑《けいべつ》が半分の表情でくり返した。そして一息入れてからいった。
「だけどぼくは知っている」
「どんなことを?」バートンは尋ねた。
もうここまできては引き返すには遅かった。「あんたの知らないことさ」
すべすべした少年の顔に秘密めいた笑みがかすめた。とらえどころのない邪悪な表情だった。
「それは何だい?」バートンはかすれた声で尋ねた。「私の知らない何を知っているというんだ?」
彼はその答えを期待していなかった。行動を起こす前にドアは音をたててしまり、少年は廊下にとび出していた。バートンは棒立ちになったまま、擦りへった階段を駆け下りる靴音を聞いていた。
少年は屋外のポーチに走り出た。バートンの部屋の窓の下で、口に手を当てると胸をふくらませて叫んだ。その声は細かったがよく通り、バートンの耳に届いた。同じ言葉が何度もくり返された。
「あんたがだれだか知っているぞ!」その声は不快に耳朶《みみたぶ》を打った。「あんたが本当は何者なのかわかっているんだぞ!」
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第4章
その男が自分のあとをつけてこないことはたしかだった。少年は自分のしゃべった言葉の効果にいくらか満足しながら、瓦礫《がれき》の間を家の裏手にまわった。大きな囲いを通りすぎ、門を開けると裏庭に入り、うしろ手で門をしめる。そして納屋に向かった。
納屋は干し草と堆肥の匂いがした。中はむっとする熱気があり、空気はかび臭く、よどんでいる。まるで午後の熱気を吸いこんだ大きな毛布だった。彼は足元をたしかめながらはしごをのぼったが、一方の目は燃えるように暑い戸口から離しはしなかった。あの男があとをつけてくるおそれはまだあったのだ。
納屋の二階に上ると、彼はいつものように腰をおろし、休んだ。息をととのえると、何があったのかを思い返してみた。
自分は失敗を犯した。ひどい失敗だった。あの男にはかなりのことを知られてしまった。いや、一部始終を知られたわけではない。どう考えても、あの男がかなり深くまで理解したようには思えない。いろいろな点で不可解な男だった。自分としては十分に気をつけることだ。足元を見つめ、ゆっくりと歩こう。しかし、あの男はそのうち役に立つかも知れない。
ピーターは立ち上がると、大きな梁《はり》の交差する頭上の、錆びた釘に吊るしてある懐中電灯をつかんだ。その黄色い光は継ぎでも当てたように納屋の二階の奥を照らした。
それは彼の置いた時そのままに残っていた。だれも上がってきた者はない。ここは彼の仕事部屋だった。かび臭い干し草に腰をすえると、脇に懐中電灯を置いた。手をのばし、最初のカゴをそっと持ち上げた。
ネズミの眼は光っていた。つやのない灰色の毛皮の間に小さく赤く見える。ネズミは動き、奥に引っこんだ。彼はカゴの戸を開け、手を突っ込んだ。
「おいで」彼は小さな声でいった。「こわがることはないよ」
彼はネズミを外にひっぱり出し、手の中で震えている身体をやさしくなでた。その指や袖の匂いをかぎながら、ネズミの長いひげは鼻の動きに合わせて、絶えずピクピク動いていた。
「いまたべものはないんだよ」彼はネズミにいった。「おまえがどのくらい大きくなったか見たかっただけさ」
彼はネズミをカゴに戻し網戸をしめた。それから次のカゴにライトを移した。灰色ネズミたちは震えながら、金網を背にうずくまっていた。赤い眼とたえず動く鼻。全部そこにいた。みんな体格のいいネズミたちだ。太って健康そうだ。カゴを奥に戻し、つみかさねた。いくつものカゴが層を成している。
彼は立ち上がり、一様にならんでいるクモの壷を調べた。頭上の棚にきちんとおさめられている。壷の中には厚いクモの巣が張っていた。老婆の髪の毛みたいにもつれ合っている。クモがのろのろと動いているのが見える。暑さのせいですっかり動きがにぶくなっている。クモのかたまりがライトの光を反射した。彼は蛾の入っている箱に手を突っ込み、死んだ蛾をひとつかみ取り出した。クモが逃げ出さないように注意して、それを慣れた手つきで各々の壷に入れた。
万事うまくいっていた。彼はライトを消すと釘に吊るした。しばらくは燃えるように暑い戸口を調べるために一息入れた。それからはしごを這い下りた。
仕事机からプライヤーを二本つかむと、ガラス窓のついたヘビの飼育箱を作り続けた。仕事はうまくいっていた。それは最初に考えた作品だった。あとになればもっと経験を増し、それほど時間をかけなくてすむだろう。
彼は枠を測り、必要なガラスの寸法を計算した。人に気づかれず窓ガラスの材料を、どこで見つけたらよいだろうか? 燻製室がよいかも知れない。去年春から屋根が雨もりするのでそのまま使われずにいた。彼は鉛筆をおくとヤード尺をつかみ、急いで納屋から明るい日ざしの中に出た。
庭を横切って行くと、心臓が昂奮に高鳴った。すべてがうまくいっている。ゆっくりだが確実に優位に立とうとしている。当然あの男は一切をひっくり返そうと図るかも知れない。ピーターは自分の力があの男に負けないことを確かめる必要があった。バートンの力がどのくらいか知りようもない。即座には自分にも見当がつかなかった。
何はともあれ、あの男はこのミルゲイトで何かをしている? 漠然たる疑惑の触手が少年の心をつかんだ。それなりの理由があってやってきたはずだ。テッド・バートン。それを問いただす必要がある。ことあらば、あの男を無力化すればよい。彼を手中に操れるかも知れないし――
何かブーンという音がした。ピーターは悲鳴をあげ、身体を横倒しにした。はげしい痛みが首筋を貫いた。次に別の痛みが腕にやってきた。彼はほてった草の上をころげまわり、金切り声をあげ、いたずらに地を叩いた。恐怖の波にのみこまれた。固い地面に身体を隠そうと必死になっていた。
ブーンという音が消えた。それはおさまった。もう風の音しか聞こえなかった。彼は孤立無援だった。
恐怖に震えながら、ピーターは頭を上げ、眼を開ける。全身が戦慄《せんりつ》した。衝撃の波に身体がふるえていた。腕と首筋がひどくひりひりしている。やつらは二カ所に攻撃をかけてきたのだ。
しかしさいわいなことには、やつらはそれぞれ別々だった。組織化されていなかった。
彼はふらふらと立ち上がった。ほかには襲ってこなかった。口汚くののしる。自分は何というばかだったんだろう。何の防備もなくこんなところをうろつくなんて。二匹ぐらいだったからよかったものの、群れをなしてかかってこられたら、ひとたまりもない。
彼は窓ガラスのことをすっかり忘れ、納屋に戻って行った。まさに危機一髪だった。おそらく次はこんなことではすまされまい。あの二匹は逃げてしまった。どうしても叩きつぶすことができなかった。やつらは状況を報告するだろう。彼女はそれを知り、ほくそえむことだろう。たやすい勝利だった。有頂天になることだろう。
彼は有利な状況にあった。しかし決してまだ安全とはいえない。引き続き警戒を要する。あまり力を過信すると、いままで築き上げてきたいっさいのものを、あっという間に失いかねない。
下手をすればバランスを崩し、ドミノはガラガラと将棋倒しになってしまう。それはかなり入りくんでおり――
彼はミツバチの針を防ぐための粘土をさがしはじめた。
「どうかしましたか、ミスター・バートン?」やさしい声が耳元で聞こえた。「鼻炎ですか? 鼻炎になりやすい鼻の持ち主は沢山いるのですよ」
バートンは身体を起こした。夕食の料理を前に危うく居眠りをしかけた。コーヒーは冷えて茶色いかすが浮き、むきたてのポテトは早くも硬くなっていた。
「すみません」彼は小声で謝った。
隣席の男は椅子をひき、口をナプキンで拭った。太っているが身だしなみはよい。ダーク・ブルーのピン・ストライプのスーツに白いワイシャツ、趣味のよいネクタイをつけた中年の男で、白く太い指には大きな指輪をはめていた。
「私はミード、アーネスト・ミードです。気を楽にされた方がよい」
彼は金歯を見せて職業的な笑みを浮かべた。
「医師をやっています。お役に立てると思いますが」
「単なる疲れです」バートンは釈明した。
「ここに着かれたばかりでしたな? なかなかよい場所ですよ。手料理にあきるとたまにはここに食べにきます。ミセス・トリリングが下宿人と同じような待遇をしてくれますのでね。そうですな、ミセス・トリリング?」
テーブルの隅でミセス・トリリングはあいまいにうなずいた。夜になると花粉もあまり遠くまで飛ばなくなるので、顔のアレルギーの腫れもすっかりひいている。すでに下宿人の大部分は食堂を去り、網戸を張ったポーチに出て、床につくまで涼しい外気にあたっていた。
「ミルゲイトにはご用事でもおありですかな、ミスター・バートン?」医師はていねいに尋ねた。
彼はポケットをさぐり褐色の葉巻を取り出した。
「近頃はここにくる人もめっきり少なくなりましてね。どうも不思議なことです。昔はかなり交通もひんぱんだったのですが、いまではごらんの通りひっそりしています。思えば久しぶりに会う新顔のお客さんですよ」
バートンはこの話を頭の中でよく考えてみた。いくぶん興味がわいてきた。ミードは医師だといった。彼なら何か知っているかも知れない。バートンはコーヒーをのみほすと、慎重に尋ねてみた。
「ここで開業されてからだいぶ長くなられますか、ドクター?」
「医師の資格を取って以来です」ミードは親指でこまかなジェスチュアを見せた。「あの丘の上で個人病院を経営しています。シャディ・ハウスと呼ばれています」彼は声をひそめた。「この町には十分な医療施設は何もありません。でも、私はできるかぎりの力をつくしています。独力で病院を建て、経営しているのです」
バートンは気をつけて言葉を選んだ。
「当地には親類が住んでいましてね。だいぶ昔の話ですが」
「バートン家ですか?」ミードは頭をめぐらせた。「どのくらい前のことですか?」
「二十年ほど前になります」
医師の血色のよい理知的な顔を見ながら、バートンは言葉を続けた。
「ドナルドとサラ・バートンの夫婦です。一人息子がいましてね。一九二六年に生まれました」
「息子さんが?」ミードは興味を持ったようだ。「記憶にあるような気がするな。一九二六年? おそらく私が出産に立ち合ったでしょうな。その頃にはもう開業していましたから。もちろんまだ全くのかけだしの医者で、他にも医師はいましたからな」
「その子供は亡くなりました」バートンはおもむろにいった。「一九三五年の猩紅熱のためです。汚れた井戸水から感染しましてね」
医師の血色のよい顔はゆがんだ。
「それはお気の毒に。私も覚えていますよ。その井戸を閉鎖させたのはこの私ですから。あなたのご親類でしたか? そのお子さんとも関係があったわけですな?」
彼は怒ってでもいるかのように、葉巻の煙を吐き出した。
「はっきり記憶しています。その時は三、四人の子供が死んで、猩紅熱は終息しました。あの子の姓はバートンでしたか。思い出すような気がします。あなたとは親類関係にあったわけですな?」彼は記憶をよりわけた。「ほんの子供でしたな。可愛らしい男の子で、あなたのように黒い髪をしていました。顔もよく似ていられる。そうか、お顔を拝見した時、だれかに似ていると思ったわけだ」
バートンは息をのんだ。
「彼のことを覚えているのですか?」彼は医師の方に身をよせた。「彼の死に立ち合ったというのは本当ですか?」
「ええ、私はその死をみとりました。たしか州立の古い病院でした。まるでペストの穴倉みたいで、あれでは患者が亡くなるのも不思議はありません。汚くて、病院として不適格でした。そのために私は自分で病院を建てることを決意したのです」
彼はしきりと頭をふっていた。
「現在であればあの人たちを救うことはできたでしょう。難しいことではありません。いまさら悔んでも仕方ありません」
彼はバートンの腕に軽く触れた。
「これは失礼。その頃あなたはまだそれほどのお歳ではなかったでしょう? その少年とはどういう関係でしたか?」
核心をついた質問だとバートンは思った。自分もその答えを知りたいものだ。
「考えてみれば」ドクター・ミードはゆっくりと、なかばひとりごとのようにいった。「その子供の名とあなたの名は似ていますな? あなたのクリスチャン・ネームはシオドアですか?」
バートンはうなずいた。「そうです」
医師は血色のよい顔の眉をひそめ、当惑したようだった。
「全く同姓同名ですな。ミセス・トリリングからあなたの姓名をうかがいましたが」
バートンはテーブルの端をぎゅっとにぎりしめた。
「ドクター、彼はこの町に埋葬されたのですか? 墓はこのあたりですか?」
ミードはゆっくりとうなずいた。
「そうです。市営墓地です」彼はバートンにするどい一瞥《いちべつ》をくれた。「墓に行かれますか? すぐに行けますよ。そのためにわざわざおいでになったのですか? 墓参のために?」
「いえ、それだけではありません」バートンはぎごちなく答えた。
テーブル隅の母親のとなりにはピーター・トリリングがすわっていた。首筋は腫れたままで不機嫌だった。右腕には汚いガーゼの包帯が巻いてある。彼はいらだたしげだった。
事故だろうか? それとも何かに噛まれたのか? バートンはパンを突っついている少年の細い指を見つめた。
『あんたがだれだか知っているよ』と少年は先ほど叫んだ。『本当は何者なのかわかっている』と。
この少年は真実を告げたのだろうか? それともただかま[#「かま」に傍点]をかけただけなのだろうか? 思いあがりの脅しなのか、全く意味のないことなのか?
「いいですか」ドクター・ミードはいった。「あなたの私事を詮索《せんさく》するつもりはありませんが、何か悩みごとがおありのようですね? 当地にただの休養でこられたわけではありませんね?」
「ええ」バートンは答えた。
「よかったらわけを話してもらえませんか? 私もそれだけ歳を重ねており、この町には長く住んでいます。ここで生まれ、ここで育った人間だ。この町の人たちはみんな知っています。かれらの大半をこの世に送り出してきたのですからな」
この人は腹を割って話のできる人なのか? 何でも相談できる友人になれるだろうか?
「ドクター、死んだ少年と私とは関係がありました。ところがその関係がさっぱりわからないのです」彼は疲れたように額をこすった。
「理解しがたいのです。そこで私とその少年とがどういう関係にあるのか、はっきりさせたいのです」
「どうしてですか?」
「それは話せません」
ドクターは小さな彫刻箱から銀のつまようじを取り出した。そして臼歯をせせりはじめた。
「新聞社に行かれましたか? ナット・テイトなら役に立ちますよ。古い記録、写真、新聞があります。警察署に行けば膨大な町の記録が見られます。納税書、督促状、課税額、罰金。家族関係を調べようとするなら、郡裁判所が最適です」
「私の知りたいことはこのミルゲイトで十分です。郡裁判所まで行くほどのことではありません」一息入れてバートンはつけくわえた。「この町全体のことが知りたいのです。テッド・バートンのことだけではありません。それにかかわる一切のことです」手で円を描いた。「とにかくすべてのことです。テッド・バートンに関係ある事柄です。私のいうのはもちろん亡くなったテッド・バートンのことです」
ドクター・ミードはじっと考えこんだ。いきなり銀のようじをおくと立ち上がった。
「ポーチに出ませんか。ミス・ジェームズとはまだお話しになっていませんな?」
バートンはふと気をひかれた。疲れが消えて行き、急いで眼を上げた。
「お名前は聞いています」
ドクター・ミードはじっとバートンを見つめていた。
「おそらく夕食の時向かい側にすわっていたはずです」彼はポーチのドアを開けた。「彼女は町の図書館の司書をしています。ミルゲイトの生き字引です」
ポーチは暗かった。バートンは眼が慣れるまでしばらくかかった。下宿人が数名、古びてたわんだ椅子に腰を下ろしている。煙草を吸ったり、うたたねをしたり、夕方の涼をとっていた。ポーチは網戸で守られ、血を吸うような害虫は一切入ってこなかった。薄暗い電球がたったひとつ片隅に吊り下がっていた。
「ミス・ジェームズ」ドクター・ミードが呼びかけた。「こちらはテッド・バートンさんだ。あなたの手助けをお願いしたいんだがね。この方はちょっとした問題を抱えているのでね」
ミス・ジェームズは厚いふちなしメガネを通してバートンを見るとほほえみかけた。
「はじめまして」彼女はやさしい声でいった。「このあたりにははじめておいでになったのですか?」
バートンは長椅子のひじかけにすわった。
「ニューヨークからきました」
「久しぶりの来客だ」ドクター・ミードはいった。
葉巻の煙が暗いポーチに吐き出された。葉巻の赤い火が暗闇に光る。
「道路はこの通り荒れてしまい、だれもこんなところにやってこなくなった。私たちはくる日もくる日も同じ顔をつき合わせている。でも仕事がある。私には病院がある。新しい医学を勉強したいし、実験もあり、患者の世話もある。病院には入院患者が十名いる。時に町の主婦に手伝いをたのむこともあるが、いまは何の問題も起こっていない」
「バリアーについて何かごぞんじですか?」
バートンはいきなりミス・ジェームズに尋ねた。
「バリアーだって?」ドクター・ミードがきき返した。「どんな種類のバリアーだね?」
「そのことを耳にしたことはありませんか?」
ドクター・ミードはゆっくりとかぶりをふった。
「いや、聞いたこともない」
「私もありませんわ」ミス・ジェームズは同調した。「何か関係があるんですか?」
その会話をほかに聞いているものはなかった。ほかの下宿人たちはポーチの隅で居眠りをしているか、おたがいにひそひそ話を交わしている。ミセス・トリリング、下宿人、ピーター、ドクター・ミードの娘メアリ、近所の人々。
「トリリングの息子さんについて何か聞いていますか?」バートンは尋ねた。
ミードが答えた。「元気そうな坊やだが」
「診察されたことはありますか?」
「もちろん」とミードは答えたが、その質問の真意を計りかねている様子だった。「私はこの町の住民みんなを診ている。あの子はかなり知能指数が高い。すばしっこそうだ。ひとりでよく遊んでいる。正直にいってあまり早熟な子供は好きではないがね」
「でもあの子は本には興味を持っていませんよ」ミス・ジェームズが反論した。「図書館にきたこともありませんもの」
バートンはしばらく無言だった。それからおもむろに口を開いた。
「かりにだれかが『向こう側にいるもの。手を拡げているもの』といったら、それはどういう意味ですか? あなたがたにとって何を意味しますか?」
ミス・ジェームズもドクター・ミードもすっかり面くらっていた。
「何かのゲームみたいだな」ドクター・ミードは呟いた。
「いいえ、ゲームではありません」バートンは意図があっていったのだ。「何でもありません。私のいったことは忘れてください」
ミス・ジェームズは彼の方にかがみこんでいった。
「ミスター・バートン。私の誤解かも知れませんが、あなたがここで何かを解決したいと考えられているという、はっきりした印象を受けました。それはこのミルゲイトにとってきわめて重要なことなのですね。そうではありませんか?」
バートンは唇をゆがめていった。
「何かが起こっています。それは人間の意識を超えたものです」
「ここに? このミルゲイトに?」
バートンの唇から思わず言葉がとび出した。
「それを見つけたいのです。このままではいたくはありません。町のだれかが必ず知っていることなんです。あなたがたはみんな何もしないで、すべてがあたりまえのようなふりをしている! しかしこの町のだれかが本当のことを知っているはずだ」
「どんなことを?」
ミードは咽喉《のど》を鳴らし、わけがわからないという顔をしていた。
「私についてのです」
ミードもジェームズも動揺していた。
「どういう意味ですか?」ミス・ジェームズは口ごもりながらいった。「ここにあなたの知人でもおられるのですか?」
「すべてを知っている人がここにいるのです。何かわけがあるのです。私の理解力を超えるものです。いまわしく異質なものです。あなたがたはただ座視して、それを甘受している」
彼はいきなりすっくと立ち上がった。
「すみません。疲れているんです。またあとでお目にかかりましょう」
「どこに行くのかね?」ミードが尋ねた。
「自分の部屋です。少しねむります」
「ねえ、バートン。少し睡眠薬をあげよう。心が落ちつくよ。よかったら明日にでも病院にいらっしゃい。診察してあげる。あなたはストレスがたまりすぎているようだ。あなたみたいな若い人には何か――」
「ミスター・バートン」ミス・ジェームズは笑顔を作りながら、やさしくかんでふくめるようにいった。「ミルゲイトにはおかしなことなど何もありませんよ。保証します。どこにでもある平凡な町ですよ。何か興味あることでもこの町に起こっているとしたら、まっ先に知りたいのはこの私ですよ」
バートンは何かいおうとして口を開けた。しかし言葉が出てこなかった。それは心の中にとどまり、永久に出てこなかった。彼がこの二人から知ったことは、各自の記憶でさえ、すっかり無に帰してしまっていることだった。
その時、二つのかすかに光る人影がポーチの片隅から現れた。男と女で、腕を組んで歩いてきた。二人ともしゃべっているように見えるが、その声は聞こえなかった。静かにポーチを横切ると反対側の塀《へい》の方に行った。
バートンから一フィートとはなれていないところを通りすぎた。彼は二人の顔をはっきりと見た。二人とも若かった。女性はブロンドの長い毛を編んだおさげ髪をし、首筋から肩まで垂らしていた。やせた細おもてに蒼白《あおじろ》い肌をして、なめらかでしみひとつなかった。彼女の脇の青年もなかなかのハンサムだった。
どちらもバートンや下宿人たちには目もくれなかった。二人は眼を固くとじており、下宿人たちの椅子を通りぬけて行った。ドクター・ミードとミス・ジェームズを通りぬけ、向こうの塀を突きぬけて急に消えた。二つのおぼろに光る人影は、現れたときと同じように一瞬にして消えた。物音ひとつたてなかった。
「あれっ」バートンはやっと声を出した。「いまのを見ましたか?」
だれも身動きしなかった。下宿人のなかには話を中断した者もいたが、再び何事もなかったように低い声でおしゃべりを続けた。
「あれを見ましたか?」彼はいきおいこんでまた尋ねた。
ミス・ジェームズは当惑しているようだった。
「もちろんです」彼女は低い声でいった。「みんな見ています。毎晩いまごろになるとここに現れます。散歩しているんです。すてきなカップルじゃありませんか?」
「しかし――何者です――何のために――」バートンは息を切らせた。
「ワンダラーズを見たのは、これがはじめてかね?」ドクター・ミードは尋ねた。
彼の平静さが突然崩れた。
「きみの住んでいるところにワンダラーズはいないという意味かね?」
「ええ」バートンは答えた。
みんながものめずらしげにこちらを見つめていた。
「あれは何者ですか? 塀や椅子を通り抜けて行きますね。あなたがたさえも!」
「もちろんです」ミス・ジェームズはとりすましていった。「それがワンダラーズと呼ばれている理由です。どこにでも行けるのです。何の中にも入れるのです。いままで知らなかったのですか?」
「もうどのくらい続いているのですか?」バートンは尋ねた。
答えは驚くほどのことはなかった。しかしその平静さには驚かされた。
「いつもですよ。ものごころついてからずっとね」とミス・ジェームズ。
「ワンダラーズはずっと昔からいたようだ」ドクター・ミードは同調して葉巻を吹かした。「全く自然なことだ。どこがそれほど不思議なのかね?」
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第5章
その朝は暖かく、太陽の光が一面に溢れていた。草叢《くさむら》にはまだ露が残っている。空は穏やかで青くかすみ、まだ燃えたつような炎暑には間があった。やがて太陽が天頂にのぼりつめるころ、激しい暑さがやってくる。
巨大な石造りの建物の背後の土手沿いに植えてある杉木立を、かすかな風が吹きわたっていた。杉木立は日蔭を作っている。それはシャディ・ハウス(日蔭の家)の名にふさわしいものだった。
シャディ・ハウスは町全体を一望に見下ろしていた。一本道が曲がりくねって坂をのぼり、建物のある頂上の平坦地に続く。土地は十分に手入れが行きとどいており、草花や樹木、長い木柵が広場を囲んでいる。
患者たちは三々五々あたりを散歩したり、ベンチに腰を下ろしたり、陽あたりのよい暖かい場所に椅子を持ち出し休んでいる者もいる。病院らしい平和で静かな雰囲気に包まれていた。建物の奥のどこかでドクター・ミードは仕事に余念がなかった。顕微鏡、スライド、X線装置、薬品類がところせましとならんでいることだろう。
メアリは、高い杉木立のうしろの隠れたくぼみにうずくまっていた。シャディ・ハウスが建設された時に、固い土はシャベルですっかり削りとられた。それで彼女のすわっているところは、病院のだれからも気がつかれないほどえぐれていた。
杉木立と岩壁が病院からの視界を妨げている。彼女の眼下には三方に溪谷が拡がっていた。その向こうには永遠不変の峰々が青緑を成し、かすかな霞の白がまじっている。静かで、動くものとてない。
「それで」とメアリは促した。身体を少しずらし、そのほっそりした脚を尻の下に入れた。ずっと楽な姿勢をとる。彼女は耳を傾け、一言も聞きもらすまいとした。
「めったにないチャンスよ」ミツバチは続けた。
その声は細くかすかで、杉木立を鳴らして吹きわたる早朝の微風の中に消えてしまいそうだった。それは少女の耳元近くの花の葉にとまっていった。
「私たちはたまたまあの地域を偵察しているところだったの。だれも彼の侵入に気づいていなかったわ。急にあの子が現れたので、私たちはすぐに急降下したの。もっと仲間がいたら効果的だったわ。彼はそれまであれほどこちらへはやってこなかったわ。あの時は本当に境界線を越えたのよ」
メアリは深く考えてみた。首筋にゆたかにかかった黒髪は陽光に輝いた。彼女は黒い瞳を光らせて尋ねた。
「彼があそこで何をしているのか話してもらえるかしら?」
「あまりうまく話せないわ。彼はいたるところで妨害工作をたくらんでいる。近づけないの。間接的な情報に頼るしかないわ。それが、知っての通りあてにならないの」
「彼は防衛網を組み立てていると思う? それとも――」
「それより悪いわ。もう公然たる段階に近づきつつあるのかもしれないわ。沢山の容器を作ったわ。いろいろなサイズのをね。その中には明らかなあてつけもあるわ。私たちが送りこんだ斥候は中立地帯で死んだ。彼は毎日その死骸を集め、それをエサに使っている。楽しんでいるのよ」
反射的にメアリは自分の小さな靴に手をのばし、急いで逃げていく黒い草グモを叩きつぶした。
「わかったわ」彼女はおもむろにいった。「昨日遊びから帰ったあと、彼は私の使っていた粘土で人形を作ったわ。あれは悪い兆候よ。彼は勝っていると思い上がっているのよ。さもなければ私の粘土をいたずらしないわ。彼は危険を承知の上よ。ふつうは、他人の集めた粘土なんてあてにしないわ。きっと私はある種の痕跡を残してきてしまったのよ」
「彼が少しばかり有利になったというのはたぶん本当よ」ミツバチは答えた。
「彼は勤勉な働き者よ。私たちが攻撃した時は、それでも明らかな恐怖を見せたわ。まだ弱点もあるし、彼もそれを心得ているわ」
メアリは草の葉を引きぬくと、考え深げに白い歯でかんだ。
「彼の操り人形はどちらも逃げようとしたわ。ひとつは私の方にまっすぐ走ってきた。ステーション・ワゴンによ。だけど私は停まらなかったわ」
「あの人はだれ?」ミツバチは尋ねた。「外部からきた人ね。バリアーを越えてくるのは珍しいわね。あなたは彼が別の者かも知れないと思っているでしょ。何かがたくらまれ、その外部因子として持ちこまれたんじゃない? いままでのところ、まだ何の影響も与えていないようだわ」
メアリは黒い瞳を上げていった。
「ええ、いままでのところはね。でもあの男はそのうち必ず何かやると思うわ」
「そうかしら?」
「まちがいないわ。もしも――」
「もしもなあに?」ミツバチは興味を持った。
メアリはそれを無視した。彼女は深く考えこんだ。
「彼はいま興味ある状態にあるわ。記憶が現状と一致しないという事実に直面しているの」
「記憶と一致しないの?」
「もちろんしない。彼は大きな矛盾に気づきはじめているわ。特に彼の記憶にあるのは全くちがう町の全くちがう人たちよ」
メアリはそろそろと這い上がってきた小さなクモをもう一匹殺した。しばらくその死骸を改めていた。
「事態を納得するまで決して引き下らない男だわ」
「事態を紛糾させるわよ」ミツバチはこぼした。「だれに対して引き下らないの? 私に?」
メアリはゆっくりと身体を起こすと、ジーンズから草の葉を払いおとした。
「ピーターによ、おそらく。彼はかなりあれこれと慎重な計画をたてているわ」
ミツバチは葉から飛びたって少女の襟にとまった。
「おそらくピーターはあの男からいろいろと学ぶつもりよ」
メアリは笑った。「もちろんそうするでしょうよ。だけどあの男が説明できることはあまりないはずよ。なにしろかなり混乱しているし、あやふやだわ」
「ピーターはやるつもりよ。元気いっぱいだからね。知識をふやすためには手段をえらばないのが彼のやり方よ。まるでミツバチみたいにね」
メアリはうなずき、丘の斜面をおりて杉木立の方に戻って行った。
「そうね。ピーターは活動的だわ。だけど少し自信過剰じゃない。自分を利することより害する方に持っていくことで、自分に活を入れているのかも知れないわ。あの男の正体を突きとめる過程で、学ぶよりも秘密をもらしてしまう可能性の方が大きいわ。それにくらべあの男は利口だと思うの。必ず自分の正体を突きとめるわよ。おそらくそのうち成功するでしょうね。それがいままでのパターンよ」
バートンはあたりにひとけがないのをたしかめた。旧式の電話のそばに立つとふり返った。廊下、各ドア、向こう端の階段を見わたした。電話のコイン穴に十セントを入れた。
「電話番号をどうぞ」耳の中に甲高い声がひびく。
マーティンズヴィルのカルフォーン・ホテルの番号をいった。もう三枚十セントを入れるとカチカチという音がし、しばらく間をおいてかなり遠い呼び出し音がした。
「カルフォーン・ホテルです」遠くの方でねむたげな間のびした男の声がした。
「ミセス・バートンにつないでくれないか、二〇四号室だ」
やや間をおいてカチッと音がし、それから――
「テッド!」いらだちと驚きとで尖《とが》ったペグの声だ。「あなたなの?」
「ぼくだよ」
「どこにいるの? このひどいホテルに私をおきっぱなしにして、いったいどうする気なの?」
彼女の声は激しいヒステリで高ぶっていた。
「テッド、もうたくさんよ。これ以上がまんできないわ。車を返してよ。これじゃ何もできないし、どこにも行けない。あなたのやり方は常識じゃ考えられないわ」
バートンは電話口によると声をおし殺していった。
「きみにも説明したろう。この町はぼくの記憶とはちがう。そのために頭が混乱している。新聞社で見つけた記事では、ぼくの身元さえあやふやで――」
「もうたくさんよ」ペグは口をはさんだ。「あなたの子供時代の幻影を追いかけまわしているひまはないわ! いつまでこんなことをやっているつもりなの?」
「わからない」バートンはやりきれなさそうにいった。「理解しがたいことが多すぎるんだ。わかりさえすれば、話せるんだが」
しばらく沈黙が続いた。
「テッド」ペグが改まった口調でいった。「あなたが二十四時間以内に戻ってきてくれないのなら、私だけ帰るわよ。ワシントンに戻るくらいの旅費はあるわ。帰れば友だちもいるしね。そうなれば二度とあなたと会わないわ。会うとすれば法廷でしょうね」
「本気なのか?」
「そうよ」
バートンは唇をなめた。
「ペグ、ぼくはここに留まるつもりだ。まだ調べも序の口だ。いくらも知らない。少しばかりだ。十分な手がかりが得られるまで追跡したい。ここに長く滞在することで、それはかなえられると思う。何かの力がここには作用している。束縛されない力が――」
鋭くカチッという音がした。ペグが電話を切ったのだ。
バートンは受話器をフックに戻した。頭がぼんやりとしていた。手をポケットに突っ込むとあてもなく電話からはなれた。まあ、そんなものだ。彼女は真剣なんだ。もし彼がマーティンズヴィルに迎えに行かなければ、彼女はそこを出てしまうだろう。
小さな人影がテーブルと鉢植えのシダのうしろから出てきた。
「おはよう」ピーターは慌てもせずいった。
彼は黒いかたまりに腕を這いまわらせて遊んでいた。
「それは何だい?」バートンは気味悪げに尋ねた。
「これ?」ピーターは眼をぱちぱちさせた。「クモだよ」
彼はクモをつかまえると、ポケットの中に押しこんだ。
「ドライヴに行くの? 一緒に乗せてくれないかな?」
少年は先ほどからずっとそこにいたのだ。シダのうしろに隠れていたのだが、奇妙なことに、そのそばを通って電話のところに行った時には見かけなかった。
「どうしてだい?」バートンはぶっきらぼうに尋ねた。
少年はそわそわした。そのすべすべした顔がうれしげにゆがんだ。
「ぼくの岩棚を見せてあげようと思ってさ」
「え、えっ?」
バートンは興味のなさそうなふりをしたが、胸の中では急に動悸《どうき》が早くなった。何か手がかりをつかめるかも知れない。
「いいとも」バートンは答えた。「どのくらいあるの?」
「そんなに遠くない」
ピーターは急いで玄関に出るとドアを押し開けた。
「道は教えてやるよ」
バートンはゆっくりと彼のあとについて行った。玄関のポーチにはひとけがなかった。くすんだ色のからっぽの古い椅子や長椅子。それを見ると、バートンはぞっと背筋が冷たくなった。
ワンダラーズが二人、ここを通り抜けて行ったのは昨夜のことだった。ポーチの塀にためしに触れてみた。堅い。しかし二人の若いカップルはそこをやすやすと通り抜けて行った。椅子も、よりかかっていた下宿人をも通り抜けて行ったのだ。かれらは自分も通り抜けられるだろうか?
「おいでよ!」ピーターが叫んだ。
埃まみれの黄色いパッカードのそばに立ち、いらいらとドアの取っ手をひっぱっている。
バートンは車に乗ると運転席にすわった。少年は助手席にすばやくすべりこんだ。エンジンを回転させながら見ていると、少年は車の隅々まで念入りに調べていた。シート・クッションを持ち上げ、フロアにかがみこみ、フロント・シートの下をのぞきこんだ。
「何をさがしているんだい?」バートンは尋ねた。
「ミツバチさ」ピーターは息をはずませて立ち上がった。「窓をしめきりにしておけないかな? ミツバチが道沿いにとびこんでくるおそれがあるんだ」
バートンはブレーキをゆるめた。車はゆっくりと大通りに出た。
「ミツバチがどうかしたのかい? ミツバチが嫌いなの? クモは好きなくせに」
ピーターは答える代わりに首筋の腫れものにそっと触れた。
「そこを右に曲がって」
彼は指示した。満足気にシートによりかかると足を投げだし、手をポケットに突っ込んだ。
「ジェファースン・ストリートでUターンして別の道を戻るんだ」
その岩棚から、溪谷とその四方を囲む丘陵の広大なパノラマ風景が見わたせた。
バートンは岩棚にじかに腰をおろすと、煙草を取り出した。暖かい日中の空気を胸いっぱい吸いこんだ。
岩棚は雑木林と薮で一部が蔭になっていた。眼下に拡がる溪谷のせいで、涼しく静かだった。太陽は遠い峰々を取り巻く青い霞の厚い層を通して輝いている。何ひとつ動くものはなかった。野原、田畑、道路、家屋、どれも絵のようだ。
ピーターは彼のそばにかがみこんでいた。
「すばらしいと思わない?」
「思うよ」
「昨夜、あんたとミード先生は何を話していたの? ぼくには聞こえなかったけど」
「それはきみに関係のないことだよ」
少年は顔を赤らめると、唇をむすんでむっつりとした。
「ぼくはミード先生とあの葉巻の匂いにはがまんできないんだ。それに銀のつまようじにもね」
彼はポケットからクモをとりだすと、手のひらで遊ばせた。クモは袖の中に入って行った。バートンは少しはなれて、それを無視しようとした。
しばらくするとピーターが尋ねた。
「煙草をくれない?」
「だめだ」
少年は首をたれた。
「ようしおぼえていろ」
しかし彼は急に顔を輝かせた。
「昨夜のワンダラーズのことどう思った? あれは役に立たない?」
「わからん」バートンはさりげなく答えた。「あの連中はちょくちょく現れるのかい?」
「ぼくもかれらがどうやって出てくるのか知りたいんだ」ピーターはしみじみといった。
それから、急に感情をあらわにしたことを後悔しているようだった。
彼はクモを集めると斜面に放り投げた。クモは文字通りクモの子をちらすように逃げて行った。ピーターはそれを眺めているようなふりをしていた。
ある考えがバートンにひらめいた。
「こういう戸外でミツバチはこわくないのかね? 一匹でもおそってきたら、隠れる場所もないだろう」
ピーターはまた元のように軽蔑の笑いを浮かべた。
「ミツバチはここまでこないよ。ずっと遠くにいるんだもの」
「遠くに?」
「そうだよ」
ピーターは優越感をあらわにしていった。
「ここは世界中でいちばん安全な場所なんだ」
バートンは少年の言葉からは何も汲みとることはできなかった。しばらくの沈黙のあと、彼は注意しながらいった。
「今日の霞はばかに厚いな」
「何だって?」
「霞だよ」
バートンは遠くの峰々に漂う青い静かなよどみを指さした。
「あれは地熱で生じるんだ」
ピーターの顔はさらに軽蔑した表情を見せた。
「あれは霞じゃないよ。あれはかれ[#「かれ」に傍点]なんだ!」
「ええっ?」
バートンは緊張した。やっと手がかりがつかめかけてきたぞ――ここは一番、慎重にふるまわなくてはいけない。
「だれのことをいっているんだい?」
ピーターは向こうを指さした。
「かれ[#「かれ」に傍点]が見えないの? あんなにでかいのがさ。まさしく最大で最古だ。ほかのものを合わせたよりも古い。この世界よりも古いくらいだ」
バートンには何も見えなかった。霞と山脈と青空だけだった。
ピーターはポケットをさぐり、安物のニッケル枠の拡大鏡のようなものを取り出した。彼はそれをバートンに手わたした。バートンはそれをはじめて見たようにひっくり返して改めた。それを返そうとするとピーターは押しとどめた。
「これを使って、あの山を見てごらん!」
バートンはのぞいてみた。するとそれが見えた。ガラスは一種のレンズ・フィルターだった。それは霞をカットし、風景をとても鮮明に見せてくれた。
彼はそれを誤解していたのだ。それが風景の一部だと思っていた。ところがその風景自体がかれ[#「かれ」に傍点]だった。かれは世界の向こう側、溪谷の端、山脈、空、それらのすべてだった。宇宙の遠くの縁に巨大な柱が立っていた。広大無辺な存在の塔で、バートンがレンズ・フィルターの焦点を合わすと、そのかたちと存在が明らかになった。
それはまちがいなく人間だった。谷底に足を据えており、その足が向こう側の谷の縁を成している。かれの脚は山脈だった――あるいは山脈が足だといってもよい。バートンはそれをうまく表現できなかった。二本の柱は拡がり、太く堅かった。しっかりと大地に根をおろし、つり合いをとっていた。その身体は青灰色の霞のかたまりか、あるいは彼がいままで霞だと思っていたものだった。山と空とが接するところに巨大な人間の胴体が存在していた。
かれ[#「かれ」に傍点]はその腕を溪谷の上に突き出していた。その谷の上につり合いをとっている。かれの腕は不透明な幕の中にあった。それをバートンは埃と霞の層と誤解していた。その巨大な姿はわずかだが前に傾いていた。意識的に自分の一部である谷の片側に傾いているかのようだった。かれは溪谷を見下ろしていた。その顔はぼんやりとしていた。かれは動かなかった。全く不動だった。
動きこそないが生きてはいた。決して石像のイメージでも、凍りついた立像でもなかった。かれは生きていたが、時の外側にいた。従ってかれにとっては変化も、活動もなかった。かれは永遠の存在だった。そむけた頭こそかれの最もめだつ部分だった。それは輝き、活力と光彩とで脈動する澄んだ光球だった。
かれの頭は太陽だった。
「かれの名前は何というのだ?」バートンはしばらくして尋ねた。
いちど見た姿は決して忘れられなかった。狩りの獲物のひとつみたいに――その隠れたかたちが見えてくると、目をそらすことは不可能だった。
「名前なんか知らないといったろう」ピーターは不機嫌そうにいい返した。「彼女なら知っているかもね。おそらく両方の名前がわかっているよ。名前を知っていたら、かれを自由にできたかもよ。そうしたいんだけど。ぼくはあいつが嫌いだ。でも、こいつはぼくを悩ますことなどまるでない。なにしろぼくはこちら側に岩棚を持っているからね」
「こいつだって?」バートンはおうむ返しにいってから考えこんだ。頭を回すと小さなレンズを通してまっすぐ見上げた。
「こいつ」がここの一部だとわかると何か妙な気がした。溪谷の向こうにはひとつのかたちがあり、もうひとつのかたちはこちら側にあった。バートンはこちら側にすわっていた。
その姿はバートンのまわりにそびえ立っていた。彼にははっきりとは見えなかった。ぼんやりとしか感じられなかった。それだけだった。それは彼の周囲に充満していた。岩場、野原、薮や蔓《つる》のからまりにも。
これはまた自分を溪谷や山脈、空や霞から作り上げていた。しかし輝いてはいなかった。その頭や全体の大きさは見えなかった。バートンはぞっとするさむけにおそわれた。彼ははっきりと直感した。こいつは輝く太陽の下では力をふるえない。ほかのところで勢力をのばしているのだ。
暗黒の中で?
バートンはふらふらと立ち上がった。
「もうけっこうだ。帰るぞ」
彼は丘の斜面をおりはじめた。さて、自ら進んでわざわいを求めてしまったのだ。まだピーターの拡大鏡を漫然とにぎっていた。それを岩棚に放りなげると谷底におり続けた。
この溪谷にいるかぎり、バートンはどこにいようと、すわっていようと、立っていようと、歩いていようと、寝ていようと関係なく、あいつか、別のやつの一部だった。どちらも溪谷の片側を成している。半分を占めている。バートンはこちら側から向こう側に行ける。しかし常にそのどちらかに属していることになる。溪谷の中央に境界線があった。その境界線の向こうに行けば、バートンは別のかたちに吸収されることになる。
「どこにいくの?」ピーターが叫んだ。
「ここから出ていくんだ」
ピーターの顔がまがまがしく暗くなった。「出られないよ。ここにいるしかないんだ」
「どうしてだ?」
「すぐにわかるよ」
バートンは彼の言葉を無視した。道をえらんで丘をおり続け、下の道路にとめてある車へと向かって進んで行った。
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第6章
彼はミルゲイトから脱出しようとしてパッカードを走らせていた。杉や松の大木が前後に密生している。道路は森の中をえぐり、細いリボン状に続いていた。道路は荒れ果てている。彼は慎重に運転し、細かいところにも気をくばった。舗装道路の表面はひびわれ、亀裂が沢山走っている。雑草はのび放題だった。雑草と枯れ草。こんなところにくる人もいない。全く車の影もなかった。
彼はきついカーヴを回り、いきなりブレーキをふんだ。車は悲鳴をあげてとまり、タイヤがきしんだ。
そこにはそれがあった。前方の道路いっぱいに拡がっている。その光景に彼は完全に打ちのめされた。この道路を走るのはこれで四度目だった――一度出て、二度入ってきた――その時には何もなかった。それがいま、ここにそれがあった。
彼がすべてを忘れ、ここを去り、ペグと合流して、何も起こらなかったかのように休暇を続けようと決心した、その時、それはとうとう姿を現した。
彼は何かものすごいものを想像していた。巨大な恐ろしいもの、いまわしい一種の壁、神秘的で宇宙的なもの、道路をふさぐ超地球的層。
ところが彼はまちがっていた。そこにあるのは立ち往生した丸太運搬用トラックだった。ぽんこつトラックで、鉄のハンドルが付いており、ギア・シフトはなかった。丸いヘッドライトと旧式の真鍮ランプ。積み荷はハイウェイ沿いのいたるところに散乱している。荷かけワイヤが切れたのだ。トラックは片方に傾いたままエンコし、丸太を四方にぶちまけたのだ。
バートンはがっくりして車をおりた。あたりは静寂そのものだった。どこか遠くで鳥が一羽わびしい声で啼《な》いていた。杉林が風に鳴っている。彼は丸太の山に近づいて行った。道路の中央に突き出した古風な島という感じだった。バリアーとしては悪くない。これを突破できる車はない。丸太は道路のいたるところを占め、どれもかなりの大きさがあった。幾重にもなっているものもあった。てんでんばらばらな材木の、危険で不安定な山だった。いつ崩れてころがり出すかもわからない。そして道路は急坂になっていた。
トラックはもちろん無人だった。放置されてどのくらいになるのか知るよしもなかった。それはあきらかに意図的なものだった。バートンは煙草に火をつけ、上着を脱いだ。日ざしは暑くなりかけていた。これを越えて行くにはどうすればよいか? 以前には通ってきた道なのだが、今度ばかりは手のつけようがなかった。
おそらく歩いてなら回れるだろう。
高い方は問題外である。ほとんど垂直に近い土手を這い上がることは不可能だ。すべりやすい岩にかけた手がはずれたら、丸太の山の中に投げ出されてしまう。低い方はどうだろう。道路と斜面との間に水路がある。あの水路を越えることができれば、斜面に生えている松の間を這いおりて、枝から枝を伝って、丸太の山を回り、水路をとび越えて道路に戻れる。
越えようとするところで水路を見た。バートンは眼をとじ、しっかりと考えてみた。
水路はそれほど幅がなかった。とび越すことはできそうだった。しかし底が見えなかった。彼は底なしの淵を見おろして立っていた。一歩さがるとそこをはなれた。それから息をはずませ、煙草をにぎりしめた。底はずっと深い。まるで空を見上げているようだ。どこまでなのかわからない。たえず落下する水滴がついには暗くいまわしい混沌を作り出していた。
彼は水路を諦め、注意を丸太に戻した。車で通り抜けられる見込みはまったくなかった。しかし人間の足ならこの道路を通り抜け、向こう側に出られるかも知れない。途中まで行ければ、トラックのところでとまり、座席に腰をおろして休める。二つの別々の仕事に分けて考えた。
彼は慎重に丸太に近づいた。最初の丸太はそれほど手ごわくなかった。小さく比較的しっかりとしていた。彼は丸太に乗ると両手でつかまり、次の丸太にとんだ。足元で丸太の山が不気味にゆれた。バートンは急いで次の丸太にとびうつり、しっかりとつかんだ。ここまでは何とかうまくいった。目の前の丸太は巨大な赤ん坊を思わせ、枯れて乾いており、われめができている。その丸太は鋭い角度に突き出していた。その下には三本積み重なっている。まるでこぼれたマッチだ。
彼はとんだ。丸太は崩れた。懸命に次の丸太にとび移った。夢中で手がかりをつかんだ。指先がすべる。彼はあおむけに倒れた。必死になって丸太をどけ、自分の身体を平らなところにひきあげようとした。
それは成功した。
はあはあ息を切らせながら、バートンは丸太の上に長々と横になっていた。ほっと安堵の波につつまれる。やっと身体を起こしすわることができた。もう少し進めたら、トラックをつかまえることができたのだが。彼は立ち上がった。あそこが中間点になる。そこまで行けば休めるのだが……
まだまだ先がある。一向に近くならなかった。一瞬彼は自分の正気を疑った。それから少しずつ事態がのみこめた。彼は進む方向を誤ったのだ。丸太群は迷路だった。全然ちがう道をえらんでしまったのだ。一向にトラックの方には進んでいなかった。閉じた円の中を回っていたのだ。
脱出するのは容易なことではない。とりあえずは自分の車に戻ることだった。出発点に帰ろう。丸太は四方に散乱していた。山積みになり、あるいは鼻先を突き出している。ちくしょう、そんなに遠くまできたわけではないのに、これほど深くはまりこんでしまうとは。道路の端から数ヤードのところにいた。それほど遠くまで這ってきたのではないことはたしかだった。
いまきた道を四つんばいで戻りはじめた。丸太はななめにかしいでおり、足元が危険だった。恐怖にかられて神経質になった。枝をつかみそこねて二本の丸太の間に落ちた。下敷きになって何も見えず、恐怖の瞬間だった。日光がさえぎられた暗く狭い穴の中にいた。ありったけの力を出して丸太を押すと、その一本が動いた。夢中でもがくと、やっと日光の中に出た。そこに長々とのびて、あえぎ、震えた。
どのくらいそこに横たわっていただろうか。すっかり時間の観念を失っていた。次に気づいたのは、自分を呼ぶ声だった。
「ミスター・バートン! ミスター・バートン! ぼくの声が聞こえるかい?」
彼は何とか頭をもたげた。丸太の山の向こう、道路の中央に立っているのはピーター・トリリングだった。彼は腰に手をあて静かに笑っていた。その顔は明るい日光に焼け、輝いている。特別心配している様子も見えない。実際はむしろ楽しげに見えた。
「助けてくれ!」バートンは叫んだ。
「そんなところでなにをしているの?」
「ここを越えようとしたんだ」
バートンは身体を起こしてすわった。
「いったい戻るにはどうすればいいんだ?」
その時彼はあることに気がついた。もう真昼ではなかった。夕方だった。太陽は彼方の丘陵に沈みかけており、あの巨大な姿は溪谷の向こう側にぼんやりと浮かび上がっていた。彼は腕時計を改めた。午後六時三十分。彼は丸太の上に七時間もいた計算になる。
「向こうに渡ろうなんて気を起こすからだよ」ピーターは慎重に近づきながら声をかけた。「かれらがあんたを逃がしたくないのなら、じたばたしない方がいいよ」
「おれはこの谷まで入ってきたんだぞ!」
「それはかれらが認めたからだよ。でも外に出るのは許さない。気をつけた方がいいよ。その中で身動きできなくなって飢え死にするかも知れないよ」
ピーターは明らかに彼の苦境を楽しんでいた。しかしすぐに身軽く手近の丸太にとび乗ると、ひょいひょいと丸太をえらんで移り、バートンの方にやってきた。
バートンは足元おぼつかなく立ち上がった。彼はかなり怯えていた。これは溪谷に作用する力の最初の経験だった。バートンは感謝しながらピーターの小さな手をにぎった。そして少年について、安全な端の方に行った。
奇妙なことに、それは数秒しかかからなかった。
「助かった」
バートンは額の汗をぬぐい、先ほど投げすてた上着を拾い上げた。大気がしだいに冷えてきた。もう肌寒く、暮れかけていた。
「当分はくり返す気はないな」
「もう金輪際やめた方がいいよ」ピーターは静かにいった。
その少年の声に含まれた何かに、バートンは顔を上げた。
「それはどういう意味だ?」
「特に意味はないよ。あんたはそこに七時間もいたんだろう」ピーターの自信に充ちた笑いが拡がった。「ぼくがそこに閉じこめておいたんだ。時間を混乱させたんだよ」
バートンはその情報をゆっくりと頭に入れた。
「きみの仕業だったのか? しかし結局は逃がしてくれた」
「そうとも」彼は気軽くいった。「ぼくがあんたを閉じこめ、逃がしたんだ。面白かったよ。だれがボスなのか知ってもらいたくってね」
長い沈黙があった。少年の自信に充ちた笑いがまた拡がった。ピーターは自分で楽しんでいた。彼は本当にうまくやってのけたのだ。
「ぼくは岩棚からあんたを見ていたんだ」ピーターは説明した。「行く先もわかっていた。歩いて越えようとしたこともね」彼は胸を張った。「こんなことはぼく以外だれにもできないよ。ぼくだけさ」よこしまな薄い膜が彼の眼を覆った。「ぼくはいろいろな方法を知っているからね」
「くそくらえ」バートンは呟いた。
彼は大股で少年を追いこすと、パッカードの車内にとびこんだ。エンジンをかけ、ブレーキを外しながら、ピーターの自信ありげな笑いにためらいがあるのを見てとった。車をミルゲイトの向きに変えるまでに、それは神経質な渋面に変わっていた。
「ぼくも乗せて行ってくれないの?」
ピーターは急いで車窓に寄るといった。彼の顔は蒼白になっていた。
「沢山の死頭蛾が丘のふもとに下りてくる。もう夜だよ!」
「お気の毒さま」
バートンは吐きすてるようにいうと、車を急に発進させた。
激しい憎悪がピーターの顔にひらめいた。彼はおきざりにされた。遠ざかっていく暴力的敵意の権化。
バートンはびっしょりと汗をかいていた。おそらく彼はあやまちを犯していた。あの丸太の迷路を水草の虫みたいに這い回らされた不快さかげん。あのすごい力を持つ小僧。やつはそれを使うほど向こうみずだ。その上にほかのいろいろなトラブルがある。彼は好むと好まざるとにかかわらず、ここに足どめされた。
次の日かそこいらには一帯が閉鎖されることになりそうだった。
バートンがジェファースン・ストリートに戻ったころには、ミルゲイトは陰うつな暗闇にすっかり覆われていた。商店の大半は閉まっていた。ドラッグストア、金物店、食料品店、ずらっと並んだカフェや安バーも閉店していた。
バートンはマグノリア・クラブの前に駐車した。老朽化したこの建物は刻々と崩壊の危機にさらされているように見えた。表通りには田舎風の若僧が二、三人たむろしていた。無精ひげをはやし、焦点の定まらぬ赤くねばっこい眼で彼を見つめていた。彼はパッカードをロックし、バーの回転ドアを押しあけた。
バーには男が二人しかいなかった。テーブルはひとけがなかった。その上に椅子が積み上げられており、椅子の脚がたよりなげに上を向いていた。彼はだれにもわずらわされることのないよう、バーの奥まったところに腰をおろした。バーボンを三杯注文すると、たてつづけにあおった。
彼の心は混乱の極にあった。すでにミルゲイトに入ってしまった以上、出るに出られなかった。早くも囚《とら》われの身となってしまった。谷間の道路では散乱した材木につかまってしまった。そこにはどのくらいいたのだろう? ちくしょう、長いこと留めおかれたのかも知れない。彼の時間の記憶に小細工した、宇宙規模の敵。特別なユーモアをそえた地球での敵、ピーターのことはいうまでもない。
バーボンをあおると、彼は平静になった。かれら――あの宇宙的力――は何らかの理由で自分を必要としている。自分は何者なのかを見つけようとしているせいかも知れない。たぶん一切が仕組まれたことだろう。自分がここにきたこと、長い年月のあとの帰郷も。すべての行動も、過去に、いままで人生でやってきたことも……
彼はバーボンをもう一杯注文した。忘れていることが沢山あった。かなり大勢の人たちがバーに入ってきていた。革のジャケット姿の背を丸めた男たち、ビールを抱えてうずくまっている。おしゃべりもしなければ、動きもしない。ひたすら夜をすごす覚悟をしていた。バートンはかれらを無視し、自分の大切な酒にひたすら没入した。
六杯目のバーボンをのみほそうとして、気がつくと客の一人がじっと自分を見つめていた。彼はそしらぬふりを装った。ちえっ、この上またいざこざにまきこまれるのか?
男はストールからこちらを向いていた。垢《あか》じみた年寄りののんだくれだった。のっぽで腰をまげている。すりきれた、みすぼらしい上着に、汚れたズボンをはいていた。すりへった靴。大きな手は日焼けしており、指には無数の切り傷があり、しわみたいだった。酔眼は意識的にバートンを見すえ、彼の一挙手一投足を監視している。バートンが敵意をこめてにらみ返した時でさえ、眼をそらしもしなかった。
男は立ち上がると、おぼつかない足どりでこちらにやってきた。バートンは緊張した。バーボンをつかもうとしていた時のことだった。男はとなりのストールにすわると、ため息をつき、腕を組んだ。
「やあ」彼は呟くとアルコール臭い息をバートンに吹きかけた。湿った白髪を眼から払いのけた。薄い頭髪はトウモロコシの毛みたいに湿り、乱れていた。その眼は子供のように淡い青さだった。
「どうかね?」
「何の用だ?」
バートンはぶっきらぼうにいった。酒に酔った勢いで爆発寸前だった。
「スコッチ・アンド・ウォーターをもらおうか」
バートンはびっくりした。
「なあ、じいさん」
彼が話しはじめると、男は穏やかなやさしい声でさえぎった。
「わしを覚えておらんだろうな」
バートンは眼をぱちぱちさせた。
「あんたを?」
「昨日通りを走っていたな。セントラル・ストリートをさがしていたろう」
バートンはこの男を思い出した。自分をあざ笑ったあの酔っぱらいだ。
「ああ、そうか」バートンはゆっくりといった。
男の眼は輝いた。
「わかったか? わしを覚えているだろうが」
彼はしわだらけの汚い手をさし出した。
「わしはクリストファ、ウイリアム・クリストファだ。貧乏な老ぼれのスウェーデン人よ」
バートンは手をさし出さなかった。
「別に飲み友だちがほしいわけじゃない」
クリストファはにたっと笑った。
「そうだろうとも。だがな、スコッチ・アンド・ウォーターを飲めば、気分は上々になる。そのうちに消えるよ」
バートンは手を振ってバーテンダーに合図した。
「スコッチ・アンド・ウォーターをこの人に」
「セントラル・ストリートはもう見つかったかい?」クリストファは尋ねた。
「いや、見つからない」
クリストファは甲高い張り切った声で笑った。
「別に驚かんよ。わしならそのわけを話してやれるがな」
「あんたが――」
ウイスキーがきた。クリストファは感謝してそれを受けた。
「うまい酒だ」
彼はそういうと、一気にあおった。それからごくりと咽喉《のど》仏を動かした。
「きみはこの町の人間じゃないな?」
「そう見えるかい」
「どうしてミルゲイトにやってきたんだ? こんなちっぽけな町に。今までここにきた人はいないのに」
バートンはゆううつそうに顔を上げた。
「ここに自分をさがしにきたんだ」
どういうわけかクリストファにはそれがおかしくてたまらないらしかった。彼は甲高い声で笑い出した。しまいには、バーの客が心配そうにこちらをふり返った。
「何がおかしいんだ?」バートンは怒って詰問した。「いったいどこがそんなにおかしいんだ?」
クリストファはやっと笑いをおさめた。
「自分をさがしに? それで何か手がかりは見つかったかね? 自分を見つけても果たして理解できるかな? 自分をどのように見ているのかね?」
彼はとめようとしてまた笑いを爆発させた。バートンはがっくりとし、悲しげにグラスに背を丸めた。
「やめろ」彼は呟いた。「もういざこざは沢山だ」
「いざこざだと? どんないざこざだ?」
「いろいろなやつさ。この世でとびきりひどいいざこざだ」
バーボンがだんだんと効きはじめてきた。
「ちくしょう、おれは死人も同然だ。最初に見つけたのはおれの死亡記事だ。おれは大人になるまで生きていなかったんだ――」
クリストファは首を振った。
「そいつはひどい」
「それから妖《あや》しく光る人間が二人、ポーチを通り抜けて行った」
「ワンダラーズだ。そうか、やつらにびっくりしたんだな。でも慣れただろう」
「それからあのガキがミツバチさがしに訪れる。そして五十マイルもの背丈のある男を見せてくれた。その頭は大きな電球みたいだった」
クリストファの態度が変化した。ずっとぜいぜい息を切らしていた酔っぱらいの何かが、微かな光を放ちはじめた。正気の核心が見える。
「ええっ? そいつは何者だい?」
「いままで見たこともない巨大なやつさ」バートンはずばりといった。「百マイルも背丈のあるやつさ。人間を驚かせて気を失わせる。まるで太陽から生まれたようだ」
クリストファはウイスキーをちびちびやっていた。
「ほかにも何かあったか、ミスター――」
「バートン。テッド・バートンだ。それから丸太から落ちた」
「あんたが、どうして?」
「丸太を転がしに行ってね」バートンはみじめに意気消沈した。「七時間も丸太の山に閉じこめられた。ちっぽけな嫌なやつがやっと助け出してくれた」
彼は手の甲で悲しげに眼をぬぐった。
「セントラル・ストリートも見つからなかったし、パイン・ストリートもなかった」
彼の声はだんだんとやけっぱちな調子で大きくなった。
「ちくしょう、おれはパイン・ストリートで生まれたんだぞ! きっとどこかにあるんだ!」
しばしクリストファは無言だった。酒をのみほし、グラスをひっくり返してカウンターに置き、考え深げにそれを回していたが、そのうちいきなり脇におしのけた。
「いや、きみはパイン・ストリートを見つけることはできないね。セントラル・ストリートもだ。とにかくもうないのさ」
その言葉は心をつらぬいた。バートンはきちんとすわり直した。アルコールの霧を通してさえ、頭は急に冷静になった。
「どういう意味だ? もうないとは?」
「ずっと昔のことだ。何十年も前のな」老人はしわだらけの額を疲れたようにこすった。「その通りの名を聞かなくなって久しい」
彼の赤ん坊のような青い眼は、じっとバートンに注がれていた。ウイスキーと時間の霧を通して心を集中させようとしていた。
「おかしなもんだ。昔の名前をまた耳にしようとはな。もうすっかり忘れかけていたよ。なあ、バートン、どこかがまちがっているんだ」
「そうとも」バートンは緊張して答えた。「どこかおかしい。どうしてだろう?」
クリストファはしわだらけの額をこすり、思考を集中しようとした。
「わからん。大きすぎてな」
彼は怯えたようにあたりを見まわした。
「わしは気が狂っているのかも知れん。パイン・ストリートは気持ちのよい場所だった。フェアマウントよりすばらしかった。フェアマウントというのは現在の名前だ。同じ家屋は全くない。同じ町名もない。それをだれも覚えておらん」
その青い眼に涙がいっぱいたまった。彼はそれを哀れっぽくぬぐった。
「きみとわし以外に覚えている者もいない。この世界でたった二人だけだ。いったいわしらはどうすればいいんだ?」
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第7章
バートンはせわしなく呼吸をした。
「いいか、ぶつぶついうのはやめて話を聞いてくれないか!」
クリストファは身体を震わせた。
「わかった。すまん、バートン。すべてのことは――」
バートンは彼の腕をつかんだ。
「それではおれの記憶はたしかだったのか! パイン・ストリート。セントラル・ストリート。古い公園。おれの思い出は本物だったんだ!」
クリストファは汚いハンカチを眼にあてた。
「いかにも、古い公園があった。きみはそれを覚えていたのか? いったいこの辺に何が起こったんだろう?」
その顔から血の気がすっかりひき、気味悪い黄色を呈した。
「ここの住民にどんな不都合なことがあったんだ? どうしてかれらは記憶を失ってしまったんだ?」
彼は恐怖に身を震わせていた。
「町の住民は昔と同じ人間ではない。昔の人たちはみんなどこかへ行ってしまった。場所も変わってしまった。残ったのはきみとわしだけさ」
「この町をはなれたのは九歳の時だった」バートンはいきなり立ち上がった。「ここを出よう。どこかゆっくりと話せる場所はないか?」
クリストファも店を出る用意をした。
「わしの家がある。そこで話そう」
彼はストールからとびおりると、足早に出口に向かった。バートンはうしろをぴたりとついていった。
街路は涼しく暗かった。街灯が時々間をおいて点滅した。人通りはほとんどなく、大部分の人たちはバーからバーへとはしごしていた。
クリストファは脇道を急いだ。バートンはあとについていくのが精いっぱいだった。
「この時を十八年も待っていたんだ」クリストファは息を切らせていった。「自分の頭がおかしいと思っていた。それを他人に話したこともなかった。怖かったんだ。いままでずっとね――うそはいわん」
「その変化が起こったのはいつのことだ?」
「十八年前だ」
「ゆっくりとか?」
「突然だ。一夜のことだ。朝めざめてみると、すべてが変わっていた。わしはどうしようもなかった。家の中に閉じこもり隠れていた。自分が狂ったのだと思っていた」
「それを覚えている者はほかにいないのか?」
「みんないなくなってしまったんだ!」
バートンはびっくりした。
「つまり――」
「だれが覚えているもんか。覚えていた人間はみんないなくなってしまったんだ。すべてが変わってしまった。人間さえもな。全く新しい町になってしまったんだ」
「バリアーのことは知っているか?」
「だれも出入りできないのは知っている。道路がふさがれているんだ。しかし町の連中は一向に気にしていない。どこかおかしいんだ」
「ワンダラーズというのは何者だ?」バートンは尋ねた。
「知らん」
「いつから現れた? 変化の前からか?」
「いや、変化の後だ。それまで見たこともなかった。いまではだれもが全くあたりまえのこととして受け入れているようだ」
「二人の巨人は何者なんだ?」
クリストファは首をふった。
「わからない。一度何かを見たことがある。道路を走っていて、出口をさがしていた時のことだ。車を停めざるを得なかった。道に立ち往生した丸太トラックがあった」
「それはバリアーだ」
クリストファは大きな声でいった。
「こいつは驚いた! 何年も前のことだ! それがまだそこに……」
二人はもう数ブロック歩いていた。周囲はすっかり暗くなっていた。おぼろげな家並み。点々とともる街灯。家屋は荒れ果ててみすぼらしかった。バートンはその傾きかけた有様を驚きの眼でながめた。このあたりがこれほどひどくなっているとは、思いもよらなかった。
「何もかもひどくなっている!」
「そうさ。変化の起こる前はこれほどひどくはなかった。昔はきれいな場所だった。わしのところも、せまいがこぎれいな三部屋ある小さな家だった。わしが自分で建てた。電気も引き、水道工事もやり、屋根もきれいに葺《ふ》いた。ところがあの朝めざめると、わしの住んでいたところはどうなったか?」
老人はひと息入れると鍵をさがしてポケットをまさぐった。
「ただの木枠になっていた。木枠以外のなにものでもなくなっていたのさ。土台さえ失くなっていた。土台を洗い流してしまったんだ。それを直すのに丸一週間かかった。なにしろ地面だけになってしまったからな」
彼は鍵をとり出し、暗がりでドアのハンドルをさぐりあてた。ぶつぶついいながらひねりまわした。やっとドアはがたぴし音をたてて開いた。クリストファとバートンは家の中に入った。
クリストファはオイル・ランプに火を入れた。
「電気はないんだ。それをどう思う? 全部自力で作ったものだ。なあバートン、実に悪魔的な仕業じゃないか? 一所懸命に働いた結果が、わしの財産一切が、一夜のうちに消え失せてしまったんだ。無一物となってしまった。わしも昔は酒などのまなかった。わかるかい? 一滴もやらなかったんだ」
バラック同然の小屋だった。部屋はたった一つで、片隅にコンロと流し、反対側にベッドがあった。がらくたがあたりに散らばっていた。汚れた皿、たべものの包みと箱、卵とごみ袋、かびたパン、新聞、雑誌、着古した衣類、空きビン、古い家具類が雑然と置かれている。それにワイヤ。
「そうだとも」とクリストファ。「この家に電気を引こうと十八年間がんばってきた」
その顔は怯えていた。むきだしの絶望的恐怖があった。
「これでも昔は腕のたつ電気屋だったんだ。ラジオの修理をやっていた。小さなラジオ店を経営していたんだ」
「そうとも」バートンがいった。「ウイル・ラジオ販売修理店だ」
「昔の夢だ。完全に消え失せてしまった。いまではその場所は洗濯屋になっている。通りもジェファースン・ストリートと呼ばれている。荒っぽい店で、わしのシャツをだいなしにされた。わしのラジオ店はあとかたもない。
その朝のこと、眼がさめると、わしは仕事に出かけた。なんだかおかしいとは思っていた。店に行ってみると、そこはあのいまいましい洗濯屋に変わっていた。スティーム・アイロンとズボン・プレス器が置いてあった」
バートンはポータブルのBバッテリーをとり上げた。プライヤー、ハンダ、ハンダごて、ペースト、小型の絶縁管、信号発信機、真空管、コンデンサー、抵抗器、配電図――なんでもそろっている。
「それなのにあんたはこの場所に電気を引けないのか?」
「やってはいるんだ」クリストファは悲しげに手を改めた。「だめだった。手先が不器用になってしまった。ものを落としたり、こわしてしまうんだ。手順も忘れてしまっている。配線をまちがえたり、器具をふみつけたり、使いものにならなくしてしまう」
「どうして?」
クリストファの眼が恐怖で光った。
「やつらが復元することを許さないんだ。そういう仕組みになっている。わしもほかの連中みたいに変身させられるはずだった。いくぶんかは昔と変わってしまったがね。以前には身体の調子もよかったし、重労働にも平気だった。店を持ち、技術を身につけていた。人なみの生活を送っていた。やつらは家の修理も許さない。わしの手からハンダごてを取り上げてしまうんだ」
バートンはワイヤや碍子《がいし》を横に押しやり、仕事机の端に腰かけた。
「やつらはあんたの一部分をおさえた。それでいくらか影響力を及ぼすようになったんだ」
クリストファはこわれた食器棚を昂奮しながらかきまわした。
「そいつは黒い霧みたいにミルゲイトを覆っているんだ! あらゆる窓やドアから忍びこんでくるいまわしい黒い霧だ。それがこの町を破壊したんだ。ここの住民はみな人間もどきなんだ。本物の人間はどこかに行ってしまった。一晩のうちに消え失せてしまった」
彼は埃まみれのワイン・ボトルをさがし出すと、バートンの目の前でふって見せた。
「しめた。これでお祝いをやろう、バートン。これは長い間とっておいたんだ」
バートンはワイン・ボトルを調べた。ラベルの埃をはらうと、オイル・ランプのそばで読んでみた。それは古かった。かなりの年代ものだ。輸入品のワインだった。
「聞いたことのない名だな」彼は疑わしげにいった。
先ほどのんだバーボンのせいで、気分が悪くなりかけていた。
「バーボンとのちゃんぽんは具合が悪い」
「これはお祝いさ」
クリストファはくずの山を床にまきちらし、栓抜きをさがし出した。ボトルを膝にはさんで手ぎわよくコルクをまわし、ポーンとぬいた。
「きみとわしが出会った記念に乾杯!」
ワインの味はいまいちだった。バートンはグラスからちょっぴりすすり、歳を経て傷だらけの老人の顔をうかがった。クリストファは椅子にどさっと腰を落とし、じっと思いにふけっていた。彼は無意識に急ピッチで汚いグラスをのみほした。
「だめだ。やつらはこの町が昔に戻るのを許さない。わしらだけを残し、元の町も、昔の友人もすべてとり上げてしまった」彼は顔をこわばらせた。「やつらは町を元に戻すことには指一本自由に動かさせないだろう。やつらは自分たちがそれほどえらいものだと考えているんだ」
「それでもおれはここに入ってきた」バートンは呟いた。
かなりアルコールが効いてきた。バーボンとワインをちゃんぽんにのんだせいだ。
「とにかくバリアーを越えてきたんだ」
「やつらも完璧じゃない」
クリストファは急によろめきながら立ち上がりグラスを置いた。
「わしをほとんど見のがし、きみを町に入れた。うっかり油断をしていたんだ」
彼はタンスのひきだしを開け、衣類や小包を投げ出した。その底には、封をした箱が入っていた。時代ものの銀製の櫃《ひつ》だった。クリストファはぶつぶついい、汗を流しながらひきずり出し、テーブルの上にドスンとおいた。
「腹はへっていないよ」バートンは呟いた。「好きでここにすわっているだけで――」
「まあ、見てくれ」
クリストファは財布から小さな鍵をとり出した。細心の注意をはらいながら、虫めがねでなくては見えないほどの小さな鍵穴にさしこみ、蓋を開けた。
「よく見てくれ、バートン。きみは唯一の友だからな。この世で信頼できる人間はきみしかいない」
それはよく見ると銀製ではなかった。しかし、中身はかなり複雑にできていた。ワイヤと支柱、こみ入ったメーター類とスイッチがついていた。一種の金属錐で、念入りにハンダづけがされている。クリストファはそれを持ち上げ、かすがいを留め金の中に押しこんだ。ワイヤをバッテリーに接続し、端子キャップをねじこんだ。
「窓のシェイドをおろしてくれ」彼は小声でいった。「やつらにこれを見られたくないからな」彼は神経質そうな忍び笑いをした。「やつらはこの体制を保持しようとあらゆる手を使ってくる。ぬけめがなく、みんなやつらのいいなりになっている。いや、みんなというわけではないな」
彼はスイッチを押した。金属錐はブーンという不気味な音をたてた。その音は彼の操作ですすり泣きに変わった。バートンは不安になってあとずさりした。
「これはいったい何だ? 爆弾か? やつらをそっくり吹きとばそうというのか?」
ずるそうな表情が老人の顔に浮かんだ。
「あとで話す。十分に注意せんとな」
彼は部屋を走りまわり、シェイドをおろし、外をのぞいた。ドアに鍵をかけると、うなりをたてる金属錐のところまでそっと戻ってきた。
バートンは両手と両膝を床につき、その作業をのぞきこんだ。複雑な配線の迷路、整然と並んで熱を発している金属網。その表面にはこう書かれていた。
「S・R 触れるな。ウイル・クリストファ所有品」
クリストファは厳粛な態度を装っていた。バートンのとなりにひざまずくと、両足を尻の下に入れた。慎重に、しかもうやうやしく円錐を持ち上げ、手中でしばらく保持していたが、やがてそれを頭上に固定した。その下からのぞいている青い眼は、まばたきもしない。陽灼けした顔は事態の重要性に真剣味を帯びていた。円錐のブーンという音が消えるにつれ、彼の表情は少し元気を失った。
「ちくしょう」彼は骨を折ってハンダを手さぐりした。「接続があまい」
バートンは壁にもたれ、ねむたげに待っていた。その間もクリストファは接続部をもういちどハンダづけしていた。やがてまたブーンという音が聞こえてきた。少々耳ざわりだが、大きな音で、前よりも強くひびいた。
「バートン」クリストファは声をかけた。「準備はいいか?」
「いいとも」バートンは小声で答えた。
彼は片眼を開けて、その光景に焦点をすえた。
クリストファはテーブルから古いワイン・ボトルをとり、注意深く床において、自分はその脇に腰をおろした。円錐はまだ頭の上にある。それはだんだんと眉の方にさがってきた。かなり重そうだ。彼は円錐をいくらか調整すると腕に抱えあげ、ワイン・ボトルに注意を集中した。
「いったい――」
バートンが口を開こうとすると、老人は怒って口どめした。
「しゃべるな。わしはいま全神経を集中しているんだ」
半眼をとじ、顎《あご》をかたく引き、眉はひきつっている。深く息を吸うと止めた。
静寂。
バートンはしだいにねむけが増してくるのを感じた。ワイン・ボトルに視線を集中しようとしたが、そのほっそりした埃だらけのボトルは、ゆれてぼやけていった。あくびをかみ殺すとげっぷが出た。
クリストファはかみつかんばかりの顔でじろりとにらんだが、すぐまた心を集中させた。バートンはぶつぶついいわけした。すぐにまたあくびが出た。部屋、老人、特にワイン・ボトルがぼんやりとぼやけていった。ブーンという音は、ミツバチの群れみたいに聞こえる。その音はたえず心の中に入りこんできた。
彼にはボトルがほとんど見えなかった。おぼろげなかたちにすぎなかった。注意を集中するが、すぐに外に気をとられてしまう。ちくしょう、もうボトルは全く見えなくなっていた。彼は懸命になって眼を開いておこうとした。それもむだな努力だった。ボトルは単なる影、クリストファの目の前の床に立つ黒い影にすぎなかった。
「すまん」バートンは小声でいった。「もう見分けがつかない」
クリストファはなにも答えなかった。その顔は黒ずんだラヴェンダーの色をしていた。爆発寸前のように見えた。その全神経がワイン・ボトルの占めた場所に集中していた。緊張し、すごい眼つきでにらみ、眉に八の字をよせていた。歯の間から荒い息づかいがもれ、掌をにぎりしめ、身体をこわばらせて……。
今度は元に戻ってこようとしていた。バートンはそれをひしひしと感じた。それは波うちながら視界に入ってきた。影はぼんやりとしたかたちとなった。黒い立方体だった。立方体は凝集し、色と形が決まると不透明なものになった。もうその物体にさえぎられて向こうの床が見えなかった。
バートンはほっとしてため息をついた。あのボトルがまた見えてきたのはよいことだ。彼は壁によりかかり身体を楽にした。
たったひとつ問題があった。それが彼を悩ませ、なんとなく居心地を悪くさせた。クリストファの目の前にあるものは、マスカテル(マスカットで作る甘口の白ワイン)の汚いボトルではなかった。全くの別物だった。
信じられぬほど古いコーヒーひきだった。
クリストファは頭の上から円錐をおろした。彼はため息をついた。長い口笛のような勝利の吐息だった。
「やったぞ、バートン。それが本物だ」
バートンは頭をふった。
「さっぱりわからん」
冷たい悪寒が背筋を走りはじめていた。
「ボトルはどこだ? ワイン・ボトルはどうしたのだ?」
「ワイン・ボトルなどなかった」
「でも、おれには――」
「あれはにせもの。まやかしだ」
クリストファはうんざりしたようにつばを吐いた。
「あれは元々わしの古いコーヒーひきだ。祖父がスウェーデンから持ってきたものだ。わしは、変化のあった前には酒などのまなかったといったろう」
バートンはだんだんとわかってきた。
「変化がやってきた時、コーヒーひきはワイン・ボトルに変わったんだな。でも――」
「中の方ではまだコーヒーひきなんだ」
クリストファはおぼつかなげに立ち上がった。げっそりと疲れはてていた。
「わかるか、バートン?」
バートンはうなずいた。
「昔の町がまだここにあるのだな」
「そうとも。破壊されたわけではない。埋めこめられているのだ。その上にひとつの層がある。黒い霧だ。幻影だ。やつらはやってくると、全体を黒い霧でおおい隠した。それで本当の町はこの下にある。それは元に戻せる」
「S・Rとは念力移動器《スペル・リムーヴアー》のことか」
「その通りだ」
クリストファは得意気に円錐を軽く叩いた。
「これはわしの作った念力移動器《スペル・リムーヴアー》だ。わしときみだけしか知らん」
バートンは手を伸ばしコーヒーひきをつまみ上げた。それは堅牢でしっかりとした造りだった。かなり古く、木部は傷だらけで、金属のハンドルがついている。コーヒーの香りがした。刺すようなかび臭い匂いが鼻をちくちくさせる。ハンドルをまわしてみると、機械もまだ動く。コーヒー豆のかすがこぼれた。
「それでまだここに残っていた」彼は静かにいった。「そう、まだここにある」
「どうやってさがし出したんだ?」
クリストファはパイプをとりあげると、ゆっくり煙草をつめた。疲労で手が震えている。
「最初は全く落胆していた。あらゆるものが変わり、みんなが別人となってしまったのでな。一人として知った顔はいなかった。話は通じないし、わかってもらえなかった。毎晩マグノリア・クラブに出かけた。ラジオ店がなくなってしまい、何もすることがなかったからだ。
ある晩、すっかり泥酔して帰宅した。ここにすわって昔のことを考えていた。元の場所、旧知の人々。住み慣れた古く小さなわが家。そう考えにふけっていると、急にバラックが消えて行き、昔のこぎれいなわが家が出現したんだ」
彼はパイプに火をつけ、まじめな顔で吸った。
「わしは狂喜して走りまわった。全くしあわせだった。ところがそれはなくなりはじめた。ふたたび消えてしまった。そしてこのあばらやがまた現れたというわけだ」
彼は乱雑なテーブルをけとばした。
「ごらんの通りの汚いがらくたがな。どうしてそうなったかを考えていると……」
「バーグの宝飾店を覚えているか?」
「いるとも。セントラル・ストリートにあった。もちろんそれもなくなってしまった。その場所は安普請のバラックに占められた。もぐり酒場だ」
バートンはポケットから古いパンのかけらをとり出した。
「それでやっとわかった。溪谷に入った時、方位磁石《コンパス》がどうしてこんなものに変わってしまったのかがね。この方位磁石はバーグ宝飾店で買ったものなんだ」
彼はそのパンくずを投げた。
「あの念力移動器《スペル・リムーヴアー》は?」
「十五年かけて作ったものだ。やつらのせいですっかり不器用になってしまった。ハンダづけすら手元が狂う。同じ手順を何度もくり返さなくてはならなかった。それはわしの心を、記憶を集中させるものだ。それで自分の考えを投射できるようになった。まるでレンズみたいにね。それを使うことで、あるものをはるばる持ってこられる。底の方から表面に引き上げられる。霧を除けば、それはまた元の場所に現れる。昔通りのまま、当然あるべき姿でな」
バートンはワイン・グラスをのみ干そうとした。前には半分ほど入っていたワインが、いまはからになっていた。まだ残っていたワインはボトルと一緒に消えてしまったのだ。それを嗅いでみると、グラスはかすかにコーヒーの香りがした。
「うまくやったな」バートンはいった。
「わしもそう思う。かなりしんどい作業で、気ままにはできない。わしの一部分はやつらににぎられているからな。この場所の写真があったら見せてやりたいな。わしの作ったタイルの流しがあった。まだ夢にすぎないな」
バートンはからのグラスをさかさにした。ふるとコーヒー粉がこぼれた。
「もちろんこのまま続けて行くんだろう」
「ええっ?」
「この機械を使ってさ。妨害はないだろう? そうだ、みんなとり戻したらどうだい」
クリストファの顔はぼんやりとしていた。「バートン、話したいことがあるんだ」
ところがそううまくはいかなかった。いきなり温かいワインがバートンの袖にこぼれ、手首から指先に伝わった。同時にコーヒーひきが消えていき、マスカテルのボトルが再び現れた。埃まみれのほっそりとしたボトルで、ワインが半分ほど入っていた。
「長くは保てないんだ」
クリストファはいかにも悲しげだった。
「十分がせいぜいなんだ。消えていくのを阻止できない」
バートンは流しで手を洗った。
「いつもそうなのか?」
「いつもさ。どうしても完全に固定できないんだ。本来のものをその場所にとめておけないんだよ。わしの力がそれほど強くないせいだ。やつらが何ものであるかは知らないが、実に強大な力を持っている」
バートンは汚いタオルで手をふいた。そして深く考えこんだ。
「そいつは一個の物体かも知れない。ところで、あんたはその念力移動器《スペル・リムーヴアー》をほかのものにも試してみたことがあるかい?」
クリストファは急に立ち上がると、部屋を横切ってタンスの方に行き、ひきだしの中をかきまわしていたが、小さなボール箱をとり出した。それを持って戻ってくると、床に腰をおろした。
「これを見てくれ」
彼は箱を開け、何かをつかみ出した。震える手にはティッシュ・ペーパーの包みがにぎられていた。バートンは屈むと肩ごしにのぞきこんだ。
ティッシュ・ペーパーの中には褐色の糸玉が入っていた。それは木片を芯にして巻いてあるが、かなり古びていた。
クリストファの顔はきびしくなり、眼は光り、唇をなかば開けながら、指先を糸玉に走らせていた。
「これを試してみた。何回となくね。毎週のようにくり返した。これを元に戻せるのなら、何だってくれてやる。ところがどうしてもちらちらする影しかとらえられなかった」
バートンは視線を老人の手からその糸に移した。
「いったい何かな? ごくふつうの糸みたいだが」
クリストファの疲れた顔に意味深長な表情が横切った。
「バートン、これはアーロン・ノースラップのタイヤ・レンチなんだ」
バートンはあっけにとられて眼を上げた。
「そうだったのか」
「そうとも、本物さ。わしが盗んできたんだ。それが何であるかはもう知る人もいない。わしはそれをさがし出したんだ。覚えているだろう? あのタイヤ・レンチはミルゲイト商業銀行の入り口のドアにかかっていたものだ」
「そうだ。市長がそれをドアにかけた。その日のことは覚えている。まだほんの子供だった頃のことだ」
「ずっと昔の話だ。銀行もいまはない。あの場所は女性専用の喫茶店になっている。この糸玉はそのドアにあったものだ。ある夜それを盗んできた。ほかの連中にとっては何の意味もないものだ」
クリストファは感情がこみ上げてきて、思わず顔をそらした。
「アーロン・ノースラップのタイヤ・レンチのことを覚えている者は一人もいない」
バートンの眼もうるんできた。
「たしかその事件が起こったのは七歳の時だった」
「あんたは見たのか?」
「見たとも。ボブ・オニールがセントラル・ストリートを息せき切って走ってきた。おれはその時菓子屋にいたんだ」
クリストファは身を入れてうなずいた。
「わしはアトウォーター・ケントのラジオを修理していた。そこにあのさけび声がした。まるで罠《わな》にはまった豚みたいな声で、数マイル四方にひびきわたった」
バートンの顔も輝いてきた。
「それからあの強盗が走りすぎるのを見た。やつらの車が動かなかったのだろう」
「いや、昂奮しすぎて頭に血が上ったんだ。オニールが大声をあげたので、強盗はまっすぐ通りの真ん中をつっ走った」
「札束の入った紙袋を小脇にかかえていた。食料品の紙袋みたいなやつを」
「やつはシカゴからやってきたんだ。ギャングの一人だった」
「シシリア人で、大物のギャングだった。彼が菓子屋の前を走りすぎるのを見た。表にとびだすと、銀行の前にはボブ・オニールが立ち、大声で叫んでいた」
「みんなが走り回ったり、わめいたりしていた。ロバの群れみたいにね」
バートンの想像力はしだいに低下してきた。
「強盗はフルトン・ストリートに駆けこんできた。そこでノースラップ老人はT型フォードのタイヤを交換していた」
「そうとも。彼は農園からやってきたところだった。牛の飼料を買いにな。ジャッキとタイヤ・レンチを持ち、そこの縁石に腰をおろしていた」
クリストファはその糸玉をとると、手の中でそっとにぎった。
「強盗は彼の前を走りぬけようとし――」
「その時ノースラップ老はすっくと立ち上がると、タイヤ・レンチで強盗の頭を殴りつけた」
「彼はのっぽの年寄りだった」
「身長は六フィート以上あった。やせていた。老農園主だった。彼はただの一撃で強盗をのばした」
「古いフォードのクランクを始終まわしているので手首が強かったんだ。もう少しで強盗は生命を失うところだった」
「脳震盪《のうしんとう》を起こしていた。あのタイヤ・レンチはかなりの目方があったからな」
バートンは糸玉をとると、そっと触れた。
「これがあのアーロン・ノースラップのタイヤ・レンチか。銀行は強盗犯をつかまえてくれた謝礼に五百ドル払った。クレイトン市長はそのタイヤ・レンチを銀行の入り口のドアに吊るした。大セレモニーだった」
「町中の人々が集まっていた」
バートンは胸をはった。
「おれがそのハシゴを支えたんだよ、クリストファ。そのタイヤ・レンチもこの手でにぎった。ジャック・ウエイクリーがハンマーと釘を持ってハシゴをのぼると、おれはそのタイヤ・レンチを手渡してくるようにいわれた。そこでレンチに触れたのさ」
「いま触れているのがそれだ」クリストファは感慨をこめていった。「それがそのタイヤ・レンチだよ」
長いことバートンは糸玉をじっと見おろしていた。
「忘れもしない。それを持ったんだ。重かった」
「そう、かなりの重量があった」
バートンは立ち上がった。糸玉をそうっとテーブルにおいた。上着をぬぎ、椅子の背にかけた。
「何をしようというんだい?」クリストファが心配そうにたずねた。
バートンの顔を奇妙な表情がかすめた。夢の思い出に巻きこまれるのを決心していた。
「じつはね。念力を使いたいんだ。タイヤ・レンチを元に戻そうと思うんだ。その方法でね」
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第8章
クリストファは部屋の中がやっと見えるまでにオイル・ランプの光度をおとした。ランプを糸玉のとなりに置き、それからまた元の隅に戻った。
バートンはテーブルの近くに立ち、その糸に眼をこらした。それまでは念力を使ってみようなどとは考えたこともなかった。全くの新しい経験だった。タイヤ・レンチのことははっきりと覚えていた。その感触も、かたちも記憶にある。強盗事件の光景と騒動も頭に刻みこまれている。
ノースラップ老人がすっくと立って、それを強盗の頭に叩きつけた有様が脳裏に浮かんでくる。レンチがふりおろされ、シシリア人は舗道に長々とのびた。あのセレモニー。町中の人々が楽しげだった。レンチはほんの少しの間だが自分の手中にあった。
彼は心を集中した。全記憶を一点に集め、褐色の糸玉に焦点をあてた。ランプの脇のテーブルにある、ぐるぐる巻かれほつれている糸。その糸の代わりにレンチを心に思い浮かべた。細長く黒い金属棒。重く硬い金属。
二人とも身動きもしなかった。クリストファは息をつめていた。バートンは身体を堅くしていた。全力をそれに打ちこんでいた。昔の町、本当の町を思い浮かべていた。それは消え失せたのではない。まだ残っている。ここにあるのだ。彼のまわりに、足元に、いたるところに、幻影の幕の下に、黒い霧の層の下に、町はまだ生きていた。
糸玉の内部にアーロン・ノースラップのタイヤ・レンチがあった。
時間はすぎていった。部屋はすっかり寒くなった。どこか遠くの方で時計の音。クリストファのパイプの火も消え、冷たい灰となった。バートンはいくらか震えたが、姿勢をくずさなかった。彼はあらゆる局面を考えてみた。全感覚、視覚、触覚、聴覚……
クリストファはあえいだ。
「波を打ってきたぞ」
糸玉はまだためらっていた。はっきりとした実体のないものがその上を這っていく。バートンは全身を張りつめた。あらゆるものがゆらめいていた。部屋全体、ランプの向こうの陰うつな影もが。
「もういちどだ」クリストファはあえいだ。「続けろ、やめるな」
彼は続けた。やがて静かに糸玉は消えていった。その背後の壁が見えてくる。テーブルの下が見えてきた。しばらくは霧のような影しかなかった。おぼろげな存在物があとに残った。
「ここまでやったのははじめてだ」クリストファは感嘆してささやいた。「わしにはとてもできなかった」
バートンは答えなかった。彼はまだその場所に神経を集中していた。タイヤ・レンチ、これをとり戻さなくてはならない。それをひっぱり出し、実体化することを念じた。それは戻ってくるはずのものだった。それはそこに、幻影の下にあるべきものだった。
長い影がゆらめいた。糸より長かった。一フィート半ぐらいある。それはゆらめきながらしだいにはっきりとしてきた。
「そこだ」クリストファはあえいだ。「出てくるぞ!」
それはまぎれもない姿を現しつつあった。バートンは眼の前におどっている黒い影に意識を集中した。タイヤ・レンチがそこにある。その影は黒く、不透明になった。オイル・ランプの光の中でほんの少し光った。それから……
すさまじい音をたてタイヤ・レンチが床におちてきた。そしてその場にころがった。
クリストファは走り出すと、それを拾い上げた。彼は震え、涙をぬぐっていた。
「バートン、とうとうやったな。きみの力で元に戻したんだ」
バートンはあごを出していた。
「ああ、そうだとも。記憶通りだった」
クリストファは金属棒を上げ下げした。
「アーロン・ノースラップの古いタイヤ・レンチだ。十八年前にお目にかかって以来だ。あれからずっと見たこともなかった。わしには元に戻せなかったものだよ、バートン。それをきみはやってのけた」
「忘れてはいなかった」バートンは小声でいった。
震える手で額をぬぐった。汗をかき、がっくりと弱っていた。
「あんたよりうまくやれたかも知れない。おれは現実にそれをつかんだ。記憶は変わらずたしかだった」
「それにきみは変化の時ここにいなかった」
「そう、変化の影響を全く受けなかったんだ。だから少しも歪められていない」
クリストファの老いた顔は輝いた。
「もう大丈夫だ、バートン。わしらをとめるものは何もない。町をそっくり元に戻せる。少しずつだがな。記憶にあるすべてのものをだ」
「おれは全部は知らない」バートンは小声でいった。「かなり覚えてはいるがね」
「わしが覚えているかも知れん。二人がかりなら町全体を思い出せる」
「他にだれかいるかもな。町全体の完全な地図を手に入れ、町を復元するんだ」
クリストファはタイヤ・レンチをおいた。
「念力移動器《スペル・リムーヴアー》はもう一台作るよ。一人一台だ。そのうちにいろいろなサイズやかたちのを何百台と作るぞ。二人してそれを使いまくり……」彼の声は小さくなり消えた。
その顔がゆっくりと蒼《あお》ざめていった。
「どうした?」バートンは急に心配になって尋ねた。「どこか悪いのか?」
「念力移動器《スペル・リムーヴアー》のことだが」
クリストファはぼんやりとテーブルに腰かけた。そして念力移動器《スペル・リムーヴアー》を持ち上げた。
「実はきみをだましていたんだ」
クリストファはランプを明るくした。
「これは念力移動器《スペル・リムーヴアー》というのはまっかな嘘だ」
彼はやっとのことでそれだけいった。がっくり老けこんで見えた。動きも弱々しかった。
「何年試みてもうまくいかなかった」
「そうだろう。おれもそう思っていた」
「どうしてだろう?」クリストファはやりきれなさそうに訊《き》いた。「では、どうやって成功したんだ?」
バートンは聞いてなかった。頭の中がめまぐるしく回転した。急に立ち上がった。
「そんなことより町を見つけるのが先決だ」
「そうだとも」
クリストファも同意して、やっとのことで立ち上がった。タイヤ・レンチを持ってもなすことなく、すぐにバートンにさし出した。
「これをな」
「何だ?」
「これはきみのものだ、バートン。わしのじゃない。これは決してわしの所有物ではない」
しばらくしてバートンはおもむろにそれを受け取った。
「わかった。もらっておく。これからやることはわかっている。われわれの前には仕事が山ほどある」
彼はタイヤ・レンチを戦いの斧《おの》みたいににぎりしめ、部屋を行ったり来たりした。
「ここに長居をしすぎた。これから行動に移ろうぜ」
「行動に?」
「それができるかたしかめる必要がある。大仕事だからな」
バートンはいらだたしげにタイヤ・レンチをふりまわした。
「こいつはその手はじめにすぎない。われわれには町全体を再建する任務があるんだ!」
クリストファはおもむろにうなずいた。
「そうとも。沢山あるよ」
「全部はできないかも知れない」
バートンはドアを開けた。冷たい夜風がどっと吹きこんできた。
「行こう」
「どこへ行くんだ?」
バートンは先に外に出ていた。
「これから本番をやってみるんだ。大きなやつ、重要なやつをな」
クリストファは急いで彼のあとを追った。
「その通りだ。念力移動器《スペル・リムーヴアー》なんか問題じゃない。それをやることが大事なんだ。きみなりの方法でそれがうまくいけば……」
「何をやろうか?」
バートンはじれったそうに暗い道を歩き出した。手にはまだタイヤ・レンチをしっかりとにぎりしめていた。
「変化の起こる前の町の様子を知っておく必要があるな」
「この近所のあらましを思い出す時間はあった。それでこの地域の地図を作ることができた。ほら、この辺だ」
クリストファは大きな家屋を指さした。
「あそこはガレージと車の修理工場さ。こちらの方は古い廃墟となった商店街だ――」
「あれは何だった?」バートンは足を早めた。
「なんてひどい有様だ。あそこには何があったんだ? あの下には何があるんだ?」
「きみには覚えがないか?」クリストファは静かにいった。
少し時間をかけ、バートンは方角をたしかめるために暗い丘陵を見上げた。
「はっきり覚えていないが……」
彼は呟いたが、そのうち記憶が戻ってきた。
十八年の歳月は長かった。それでもあの大砲のあった古い公園のことは決して忘れてはいなかった。昔よくそこで遊んだものだった。両親と昼食をたべたこともある。そこの草叢《くさむら》では隠れん坊をしたり、カウボーイやインディアンごっこにふけったこともあった。
かすかな光の中で、古い廃屋となった一連の丸太小屋を見つけた。昔の商店街で、いまは住む人もいない。羽目板は剥がれ、窓は割れ放題。ぼろきれが夜風にはためいている。鳥が巣を作り、ネズミがあばれまわっている、むさくるしく朽ちた廃屋の群れ。
「古いだろう」クリストファは静かにいった。「五、六十年は経っている。それでもあれは変化の前から建っていたものではない。あそこは公園だった」
バートンは通りを横切ってそちらに歩いて行った。
「公園はこの辺からはじまっていた。この角だ。いまは何と呼ばれている?」
「ダッドリー・ストリートというのが新しい名前だ」
クリストファはすっかり昂奮していた。
「大砲はその中央にあった。大砲の弾丸の山もあった。南北戦争時代の古い大砲だった。リー将軍がリッチモンドからひっぱってきた代物だ」
二人とも肩をよせ合い、昔の公園の風景を思い浮かべていた。公園と大砲。古い町、頭の中に存在していた本当の町。しばらくおたがいに無言だった。どちらも自分の思い出にひたっていた。
やがて、バートンは歩き出した。
「この先まで行ってみる。たしかミルトン・ストリートとジョーンズ・ストリートに続いていた」
「いまではダッドリー・ストリートとラトレッジ・ストリートになっている」
クリストファは、動きたくてむずむずしているように身体をゆすった。
「わしも行ってみよう」
バートンは街角までくると立ちどまった。暗がりではウイル・クリストファの姿はほとんど見えなかった。老人は手をふっている。
「いつからはじめるかいってくれ!」クリストファは大声で叫んだ。
「いまからはじめよう」
バートンはじれったさで我慢しきれなくなっていた。長い時間がむだにすぎてしまった――十八年もだ。
「あの先で念力を集中してくれないか。おれはここでやってみるから」
「できるかな? 公園はかなり大物だぞ」
「まったくでかいな」
バートンは低い声でいうと、古い廃屋と向かい合い全精力を傾注した。向こうの端ではウイル・クリストファが同じことをやっていた。
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第9章
メアリはベッドで身体を丸めて雑誌を読んでいた。そこにワンダラーが現れた。
それは壁から現れると、ゆるやかに部屋を横切った。眼をかたく閉じ、拳をにぎりしめ、唇を動かしている。メアリはとっさに雑誌を置くと、急いで起き上がった。これはいままで見たこともないワンダラーだった。
おそらく四十代の中年女性で、背が高く、太っていた。灰色の髪をし、粗末なワンピースの下には厚い胸。そのきびしい顔はひどく真剣な表情に歪んでいた。唇を動かしながら部屋を横切り、大きな椅子を通りぬけ、音もなく向こうの壁の中に消えて行った。
メアリは心臓がどきどきした。ワンダラーはメアリをさがしていた。しかしもう手のとどかないところに消えてしまった。その一部始終を語るのはむずかしい。あの女性は眼をとじたままだった。彼女は歩数をかぞえながら、めあての場所に正確に行こうとしていた。
メアリは急いで部屋を出て、廊下から外にとび出した。家の脇を走り、自分の部屋の真向かいの空地に行った。そこでワンダラーの出現を待ちながら、結局あの女性は遠くに行ってしまったのだと考えざるをえなかった。しかしそこは家からはそれほど遠くないようだ。
いちどワンダラーが壁の中で眼を開けたことがあった。とにかくそれからはそのワンダラーは二度と現れなかった。数週間はむかむかするいやな臭いが立ちこめていた。
何かが光った。外は闇夜だった。まばらな星がかすかにまたたいている。あのワンダラーがまぎれもなく現れてきた。ゆっくりと慎重に歩いている。眼を開ける用意をしている。その女性は緊張していた。神経質そうに筋肉をこわ張らせている。唇もひきつっていた。不意にまぶたをぱちぱちさせた。そして安心したように周囲を見まわした。
「ここよ」メアリはすぐ声をかけ、急いで近づいた。
ワンダラーは石の上にすわっていた。
「ありがとう。私こわいわ……」彼女は神経質そうにあたりを見た。「遠くまできてしまったようね? 外にいるのね」
「大丈夫よ。何がほしかったの?」
ワンダラーは少し気分を楽にした。
「すてきな夜ね。だけど寒いわ。スウェーターは着ないの?」そのあとにつけ加えた。「私はヒルダ。お会いするのは初めてね」
「ええ」メアリはうなずいた。「でもあなたがだれだか知っているわ」
メアリはワンダラーのそばに腰をおろした。やっとヒルダはしっかりと眼を開けた。まるで別人のようだった。すでに微光を放つという特性を失っていた。彼女は実体のある存在だった。
メアリは手をのばし、ワンダラーの腕に触れた。かたくしっかりしていた。それに温かかった。彼女は微笑した。ワンダラーも笑みを返した。
「いくつになるの、メアリ?」
「十三歳」
ワンダラーはメアリの濃い黒髪をなでた。
「あなたは可愛らしい娘ね。きっと沢山ボーイフレンドもできると思うわ。まだそうなるには若すぎるかもね」
「私に会いたかったの?」メアリはやさしくたずねた。
彼女は少しばかり心がせいていた。だれかがくるかも知れない。その上何か重大なことが起こっているのだと確信していた。
「どういうことなの?」
「訊きたいことがあるの」
メアリはため息をおさえた。
「どんなこと?」
「あなたも知っての通り、私たちは着々と手を打ってきたわ。あらゆるものを念入りに配置し、合成してきたの。私たちはすべての面で詳細で正確なモデルを作り上げた。それなのに」
「そんなこと何の意味もないわ」
ワンダラーは同意しなかった。
「大いに意味はあるわよ。でもね、どういうわけか十分な可能性を発展させることには失敗したわ。私たちのモデルはエネルギーのない静的なものなの。そのギャップを埋め、それを飛躍させるには、もっと力が必要だわ」
メアリはにっこりと笑った。
「そうね。私もそう思うわ」
ワンダラーの眼はくい入るようにメアリにすえられた。
「そういう力は存在するわ。あなたにはないことは知っている。でもだれかが持っているわ。それはたしかめてあるの。ここに存在しているのよ。その力をつかまえたいの」
メアリは肩をすくめた。
「それで私に何をしてほしいの?」
灰色の眼がきらりと光った。
「ピーター・トリリングの操りかたを教えて」
メアリはびっくり仰天した。
「ピーター? あの子はだめよ!」
「彼は相応な力を持っているわ」
「その通りよ。でもそれはあなたの目的には沿わないわ。一部始終を知ったら、無理な理由がわかるわよ」
「彼はどこでその力を得たの?」
「私と同じレヴェルでよ」
「それじゃ答えにならないわ。あなたはどこから力を得たの?」
「前にも訊かれたわ」
「私たちには話せないの?」
「ええ」
沈黙が続いた。ワンダラーは固く丸くなった爪でとんとんとメアリを叩いた。
「それは私たちにとってかなりの手助けになるのよ。あなたはピーター・トリリングのことはくわしいわね。どうして話せないの?」
「心配しないで。その時がくれば、私がピーターを始末するわ。彼のことは私に任しておいて。現にそのことはあなたの任務外でしょう」
ワンダラーは一瞬ひるんだ。
「そんなこといわないで!」
メアリは笑い出した。
「ごめんなさい。でもうそじゃないわ。たとえ私とピーターのことをあなたに話してみても、あなたの計画に役にたつかどうか疑問だわ。かえってそれを困難にするかも知れなくてよ」
「私たちの計画についてどのくらい知っているの? いままで話したことぐらいでしょ」
メアリはにっこりとした。
「そうかもね」
ワンダラーの顔には疑いの色が残った。
「それ以上は知っているはずもないわね」
メアリは立ち上がった。
「まだ何か訊きたいことがあるの?」
ワンダラーの眼はきびしくなった。
「あなたのためにできることはあるかしら?」
メアリはじれったそうに歩き出した。
「余計なことに使う時間はないわ。かなり重大なことがいたるところで起こっているわ。ピーター・トリリングのことは私に尋ねるよりも、テッド・バートンに訊くべきよ」
ワンダラーは面くらっていた。
「テッド・バートンってだれ?」
メアリは小さな両手を重ねると、心にその姿を描いた。
「テッド・バートンはこの十八年間にバリアーを越えてきた唯一の人間よ。もちろんピーターを除いてよ。ピーターは念力で自由に出入りできるんだから。バートンはニューヨークからきたの。よそ者よ」
「そうなの……」ワンダラーは無関心だった。「私にはわからないわ……」
メアリはいきなり突進したが、それをつかまえそこねた。それはあわてて逃げ去ってしまった。
ワンダラーは急いで眼をとじ、手を突き出すと家の壁の中に消えた。一瞬の間だった。音ひとつしなかった。メアリは暗がりに一人ぼっちだった。
せわしなく息をはずませながら、彼女は茂みをくぐりぬけ、夢中になって逃げて行く小さな影をつかまえようとした。それはあまり逃げ足は早くなかった。背丈も三インチぐらいしかない。見失わないようにするのがやっとだった。突然それは位置を変えた……
彼女はそこに釘づけになり、身体をこわばらせ、油断なく、それがふたたび姿を現すのを待った。どこか近くの落ち葉の山の中か、塀ぎわの腐った枯れ草の中にいるはずだ。いったん塀を越え、木立の中でも入りこめば、もうつかまえるチャンスもなくなる。彼女は息を殺し、じっと動かず様子をうかがった。
かれらは小さくすばしこいが、おろかだった。ネズミほど利口でもなかった。しかしかれらには記憶力があり、それはネズミに欠けているものだった。かれらはミツバチよりもすぐれた観察家だった。いかなる場所にも出没し、聞き耳をたて、眼を光らせ、完璧な報告を持ち返ることができた。とりわけ都合がよいのは、かれらはどんなかたちにもなれる点だった。
彼女がピーターをうらやんだのはこの点だった。彼女は粘土に生命を与える力は持っていなかった。その支配力はミツバチ、蛾、ネコ、ハエに限られていた。ゴーレム(粘土人形)は非常に貴重な存在だった。ピーターはそれをいつも使っていた。
かすかな音がした。ゴーレムは動いていた。それは堆肥の中にいた。そこから彼女の居場所がどこかうかがっていた。おろかなゴーレムめ! 粘土人形のこととて、識別の範囲は極めて限られている。それはあまりにも軽率に動きすぎた。もう我慢ができなくなって枯れ草の中を走りまわっていた。
彼女はじっと動かなかった。落葉の山陰に手と膝を地面につけ、様子をうかがっていた。それが現れたら、すぐにとび出せる用意をしていた。それまで待機していた。かなり時間はかかった。夜は涼しかったが寒くはなかった。遅かれ早かれゴーレムは姿を見せるだろう――しょせんは粘土人形だ。
ピーターはとうとう勇み足をしてしまった。ゴーレムをあまり遠くに送りすぎてしまった。自分の境界線を越えて彼女の側に入りこんでしまった。ピーターは怯えていた。あのバートンのせいで心がかき乱されていたのだ。
外部から入りこんだあの男はピーターの計画をひっくり返してしまった。バートンは新しいひとつの要素だった。それはピーターには理解できぬ要因だった。
メアリは冷笑した。かわいそうなピーター。さぞ驚いたでしょうね。もし彼女が気をつけて……
ゴーレムが姿を現した。それは男だった。ピーターは男のゴーレムを作るのが好きだった。それは不安気に眼をぱちぱちさせ、右側に逃げようとしたが、そこを彼女はつかまえた。
ゴーレムは彼女の手の中で狂ったように身をくねらせた。しかし彼女は放さなかった。勢いよく立ち上がり、小道を走って、シャディ・ハウスの脇をまわると玄関に戻った。
だれも見ていなかった。廊下にはひとけがなかった。彼女の父は患者たちと研究に余念がなかった。常に新しいことを勉強している。その人生をミルゲイトの保健衛生に捧げていた。
彼女は自分の部屋に入り、注意深く錠をかけた。ゴーレムは大分弱っていた。彼女は少し力をゆるめ、それをテーブルに持って行った。生花をゴミ罐に捨て、花瓶をからにし、ゴーレムを逃がさないようにその中に放りこんだ。それでおしまいだ。第一幕は済んだ。さて残りだ。うまくやらなければならない。この機会を長い間待っていた。今を逃したら二度とこないだろう。
彼女が最初にしたのは、自分の衣服をすっかり脱ぎすてることだった。それをベッドの脚元にきちんとたたんで積み上げた。まるで浴室でシャワーを使う時みたいだった。それから陽灼けどめオイルの瓶を薬箱から出し、裸の身体にくまなくオイルを塗りこんだ。
できるだけゴーレムらしく見せかけるために必要な作業だった。もちろん限界があった。それは男だし、彼女はそうでなかった。しかし彼女の身体はまだ幼なく、肉がついていなかった。胸もまだ小さく、あまり発達していない。ほっそりとしてしなやかで、まるで男の子みたいだった。それで化けられるだろう。
裸体が油光りしてくると、彼女はその長い黒髪をきりりと結び、首筋でしっかりと丸めた。本当は髪を切った方がよかったのだが、そこまではできなかった。またのばすとなるとだいぶ時間がかかるからだ。元通りになるか疑問もある。とにかく彼女は長い髪が好きだった。
さて、これからどうしようか? 彼女は自分の身体を改めた。裸になり、髪の毛を首筋でしっかりと結んだので、彼女は花瓶に押しこんだゴーレムとかなり似てきた。うまくいった。さいわい彼女は未成熟だった。胸がもっとふくらんでいたら、とてもその可能性はなかったろう。そうでなかったから反抗心もあったのだ。
ピーターの力は境界線を越えて、彼女の領域にいるゴーレムにさえ及んでいるが、そのうち力は弱まるだろう。ゴーレムが限られた時間内に状況を報告しようとしていたことは疑いない。彼女は急がなければならなかった。ぐずぐずしていると、ピーターは疑いはじめるだろう。
バスルームの薬品箱から、必要な薬瓶三本と包みを一つ取り出した。手ぎわよくすばやく粉とガムと刺激性の液体を練り合わせてかたまりを作り、指でこねて偽のゴーレムを作った。
花瓶の中では本物のゴーレムが驚きながら見上げていた。メアリはあざ笑い、すばやく手足をまねて作った。それはかなり似ていた。それほど正確でなくてもよかった。彼女は手足を作りおえ、でこぼこしている個所を平らにしてから、それをのみこんだ。
そのかたまりは咽喉《のど》につかえた。彼女は眼を白黒させ、涙が眼にあふれた。胃がうら返しになり、苦しくてテーブルの端をつかんだ。部屋全体がぐるぐるとまわり出した。彼女は眼をとじ、しっかりとしがみついていた。あらゆるものがまわり、波を打っていた。胃の筋肉がねじれ、しめつけられた。とうとううめき声をあげたが、やがて気をとり直し、しゃんとした。それからおぼつかなげに二、三歩足をふみ出した……
二つの視界があるのには仰天した。視覚が二重になっているのだ。ほんの少し身体を動かすことさえ、だいぶ時間がかかった。そのくせ一方では、いつもと変わらぬ部屋が見え、彼女の眼も身体も全く元のままだった。
ところが他方の視界は、花瓶のガラス壁を通して見える、奇怪で巨大な、膨張し歪曲した、ゴーレムの世界だった。
彼女は二つの身体を操るという困難に立ち向かっていた。彼女自身と、わずか三インチのゴーレムと。ためしに小さい方の手足を動かしてみた。彼女はよろめいて倒れた。それは小さな身体がよろめき倒れたのだった。彼女の本来の身体は部屋の中央に呆けたように立ちすくみ、すべてを見つめていた。
彼女はふたたび立ち上がった。花瓶の中はつるつるして居心地が悪かった。自分の意識を本来の身体に戻し、部屋を横切り、テーブルに行った。注意しながら花瓶を動かし、中にいる小さな自分を自由にした。
外側から自分の身体をながめるのは、これが初めての経験だった。
彼女はまだテーブルの前に立っていた。一方小さな化身は本体をこまかく観察していた。彼女は大声で笑い出したかった。自分は何と大きいのだろう! 大きく重々しく、黒光りしているなめし革のような皮膚、太い腕と首、途方もない満月のような顔、にらんでいる黒い眼、赤い唇、濡れた白い歯。
二つの身体を交互に動かすことは、それほど混乱するものではないことがわかった。まず自分の本体に服を着せることに専念した。彼女がジーンズやシャツを着ている間、三インチの人形はじっと動かなかった。彼女はジャケットをつけ、靴をはき、髪をとき、顔や手足からオイルをふきとった。それから三インチの人形をつまみ上げると、慎重に胸のポケットに入れた。
自分のポケットにもう一人の自分を入れて歩くのは奇妙な感覚だった。彼女が部屋を出て、廊下を急いで行くと、人形の方は粗い服地に挾まれて息がつまりそうであり、本体の心臓の鼓動がドキンドキンと大きくひびいてきた。本体が呼吸をするたびに、その胸は上がったり下がったりした。人形は巨大な海に浮かぶ木片のごとくゆれた。
夜は涼しかった。彼女は急いで門を走りぬけ道路に出た。町まで半マイルあった。ピーターは自分の仕事場である納屋にいることはまちがいなかった。
彼女の眼下にはミルゲイトの全景が拡がっている。黒々とした建物や通り、ところどころに灯が見える。すぐに彼女は町外れに達し、ひとけのない脇道を急いだ。あの下宿は町の中心部ジェファースン・ストリートにあった。納屋はちょうど家の裏手にあった。
彼女はダッドリー・ストリートまできて、ふと立ちどまった。前方に何かが起こっていた。
彼女は慎重に足を進めた。前方には廃屋になった昔の商店街が左右に並んでいた。その商店街はもう何年間もそこで朽ち果てていることは彼女も知っていた。この道をくる人もいなかった。近所にも全く人は住んでいない。とにかくよくある廃屋だった。
二人の男が一ブロック先の通りの中央に立っていた。かれらは両手をふり、おたがいにどなり合っていた。ジェファースン・ストリートのバーから出てきた酔っぱらいだ。その声は低く太かった。かれらはぶざまによろめいていた。通りをふらつく酔っぱらいは彼女も何度も見ていた。だから、それは彼女の関心をひくものではなかった。
彼女は用心しながら、もっとよく見えるところまで近づいて行った。
かれらはそこに立っているだけではなかった。何かをしていた。どちらも昂奮してわめき、身ぶりで何かを示している。その騒音がひとけのない通りをひびきわたって行く。二人の男はその行為を意図的にやっていた。かれらは背後にやってきた彼女には気づいていなかった。男の一人はかなりの年配で、ブロンドの髪をした老人だった。彼女に面識はなかった。
もう一人の男はテッド・バートンだった。それを知るとショックを受けた。暗い通りの中央に立ちはだかって、両手をふり、咽喉《のど》のかれるほど大声をあげ、何をしているのだろうか?
かれらから老朽したひとけのない商店街に目を移すと、それはいかにも奇怪なものに見えた。不気味な非現実的な外観を呈している。かすかな薄あかりが崩れかけた屋根やポーチの上に宿っており、割れた窓は内部のあかりで光っていた。そのあかりが二人の男を狂おしいばかりに昂奮させているようだった。かれらは急いで走りまわり、とびあがったり、どなったり、叫んだりしていた。
あかりがだんだんと数をましてきた。古い商店街は波を打ったように見える。まるで古い活字みたいにしだいに色あせていく。見るみる間に薄れていった。
「いまだ!」老人は甲高い声をあげた。
老朽した商店街は消えかけていた。その存在を失いかけていた。ところが何かがその場所を占めつつあった。別のものが急速にかたち作られている。商店街の外形はかろうじて残っていたが、移動し、だんだんに縮んでいった。その代わりに出現してきた新しいかたちが彼女の眼にも見えはじめた。
それは商店街ではなかった。さら地で、草叢《くさむら》があり、小さな建物が一戸、それに何かがあった。その中心部はぼんやりとふたしかなかたちだった。バートンと連れの男は大変な熱狂ぶりでそちらに走って行った。
「そら出てきたぞ!」老人は叫んだ。
「まちがっているぞ。砲身はもっと長かった」
「いや、そんなことはない。こちらにきて、土台に念力を集中してくれ」
「砲身がどうかしているぞ? 元のとちがう」
「まちがいないさ。台座に念力をかけてくれ。ここには大砲の弾丸の山があったはずだ」
「そうだ。五個か六個あった」
「それに真鍮《しんちゅう》の銘板だ」
「そう銘板があった。名前入りのな。それをきちんと把握しておかなくては元に戻せない」
二人の男が急いで大砲のかたちを作ることに専念していると、公園の向こう端が消えはじめ、商店街の残影がふたたび現れた。バートンはそれに気づいた。甲高い声をあげ、身体をしゃんと立て直すと、公園の端に念力を集中させた。腕をふり、叫びながら、彼はなんとか商店の残影を追いはらった。それらは大きくゆらぎ消えて行った。そして公園の端はしっかりと固定した。
「小径だ」老人は叫んだ。「小径を忘れるな!」
「ベンチはどうする?」
「きみがやってくれ。わしは大砲を固定する」
「大砲の弾丸を忘れるなよ!」
バートンはすっとんで行き、ベンチに心を集中した。ブロックを行ったりきたりして、ひとつずつベンチを作っていった。まもなく六、七台のあせた緑色のベンチが現れた。かすかな星あかりの下に黒ずんで見える。
「旗のポールはどうする?」彼はどなった。「どんなだった?」
「どこにあったかな。思い出せない!」
「こっちの方だ。屋外音楽堂のそばだった」
「いや、ちがう。噴水の近くだった。しっかりしてくれよ」
二人は公園のもう半分に念力を集中した。しばらくするとぼんやりとした円型のものが現れはじめた。真鍮とコンクリートの古い噴水池だった。二人とも歓喜の叫びをあげた。メアリは息をはずませた。水は静かに噴水池を流れている。
「やったっ!」
バートンはうれしげに叫びながら、タイヤ・レンチをふりまわしていた。
「この噴水池にはよく入ったもんだ。覚えているだろう? 子供たちは靴を脱いでは、じゃぶじゃぶ渡ったものさ」
「そうだったな。覚えているよ。ポールはどうする?」
かれらは議論しながら行ったり来たりしていた。老人はある場所で念力をかけたが、何も起こらなかった。バートンは別の場所で心を集中していた。そのうち噴水池はまた影がうすくなってきた。二人はあわてて作業を中断すると、噴水池を元に戻した。
「どっちだったかな?」バートンは尋ねた。
「どちらの旗?」
「南北両方の旗だ」
「いや、南部連盟旗だった」
「きみはまちがっている。星条旗だ」
「おれは絶対にまちがえていない!」
バートンはたしかにその場所を見つけていた。小さなコンクリートの土台と、ぼんやりとしたポールが急速にかたち作られていた。
「やったぞ!」彼はいかにも楽しげだった。
「やったんだ!」
「旗もだ。旗を忘れるな」
「夜だよ。旗はしまわれている」
「そうだった。夜に旗を掲げておくはずはない。もっともだ」
公園はあらまし復元した。遠くの端はまだゆれており、古い商店街のくすんだ家並みが消えかけていた。しかし公園の中心部は美しくしっかりと固定していた。大砲、噴水、屋外音楽堂、ベンチ、小径。すべてが本物で完璧だった。
「わしらは成功したんだ!」老人は叫んだ。そしてバートンの背中を叩いた。「やってのけたんだ!」
二人は抱き合い、肩を叩き合った。それから公園に走りこんだ。小径をめぐり、噴水池をまわり、大砲のそばにきた。バートンはタイヤ・レンチを使って弾丸の一個を持ち上げようとした。それがかなり重そうなことはメアリにもわかった。彼はあえぎながらそれを落とし、よろめきながらへたりこんだ。
二人の男は呼び戻した緑色のベンチの一台にゆったりとすわった。疲れきっていた。背をもたれ、足を投げ出し、腕をだらりとたらした。仕事がうまくいった満足感を味わっていた。
メアリは物陰から出ると、ゆっくりと二人の方に歩いて行った。彼女にとって自分の存在を知らせる時だった。
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第10章
バートンが先に彼女を認めた。急いでベンチにすわり直すと、タイヤ・レンチを手元にひきよせた。
「だれだ?」
彼は暗がりをすかして彼女を見た。すぐにだれかわかった。
「あそこにいた子供たちの一人だな。下宿で見かけたよ」
彼は自分の記憶をさぐっていた。
「たしかドクター・ミードの娘だったな」
「そうよ」メアリは答えた。
彼女は用心深く二人の向かい側のベンチに腰をおろした。
「あなた方の作ったベンチにすわってもよかったかしら?」
「別にわれわれのものではないよ」バートンは答えた。
彼はだいぶ落ちつきをとり戻していた。自分たちの成しとげたことの意味が、しびれた脳にもしたたるように浸透し、それは冷たい水滴のごとく、有頂天になった熱い頭を冷やしていた。
「これはわれわれの所有物ではないよ」
「でもあなたたちが作ったんでしょ? 面白いわね。ここの人はだれもそんなことできないわ。どうやって作ったの?」
「作ったわけじゃない」
バートンは震える手で煙草をとり出し、火をつけた。彼とクリストファはおたがいに尊敬と疑惑の眼で見つめ合っていた。自分たちが本当にこれをやってのけたのだろうか? 古い公園をとり戻したのは現実だろうか? これが昔の町の一部だろうか?
バートンは手をのばし、腰の下のベンチにふれてみた。それはまぎれもなく現実のものだった。彼はその上にすわっているし、クリストファも同じだった。全く関係のない女の子も腰かけているではないか。これは幻覚ではない。三人そろってベンチにいる。これがなによりの証拠だ。
「さてと」クリストファは呟いた。「どう考える?」
バートンはにやっと笑って胴ぶるいした。
「こんなにうまくいくとは思いもよらなかった」
老人の眼は大きく開き、鼻孔はふくらんだ。
「本当の能力があったんだ」
彼はいやます尊敬の念でバートンを見た。
「きみは本当にその方法を会得しているんだ。それを正しく確実なものにした。昔の町に戻したんだ」
「二人でやったことだ」バートンは小声でいった。
彼はもう冷静に返っていた。そして疲れ果てていた。身体はすっかり消耗している。手を上げることすらつらかった。頭はずきずきと痛み、吐き気が咽喉《のど》に這いあがり、むかむかする金気の味わいがした。ともかくも二人はそれを成しとげた。
メアリは驚きで昂奮していた。
「どうやったの? 無から有を作るのをはじめて見たわ。そんなことができるのはピーターぐらいのものだわ。彼でさえも今ではしないわ」
バートンは弱々しく首をふった。話すことさえ億劫《おつくう》なほど疲れていた。
「何もないところからじゃないよ。これはここにあったものだ。それを元に戻しただけだ」
「元に戻したの?」少女の黒い眼が輝いた。「それでは、ここにあった古い商店街はただの空間の歪みだったの?」
「本物じゃない」バートンはベンチをどしんと叩いた。「これが本物だ。本当の町だ。他のものは偽物なんだ」
「あなたの持っている硬そうな鉄の棒は何なの?」
「これか?」バートンはタイヤ・レンチをひねくりまわした。「これもとり戻したものだ。前には糸玉だった」
メアリは熱心にバートンを観察した。
「あなたがここにきたわけはそれだったの? ものを元に戻すことなの?」
うまい質問だった。バートンはよっこらしょと立ち上がった。
「もう行くよ。今夜はめいっぱい働いた」
「どこに行くんだ?」クリストファは尋ねた。
「自分の部屋にね。休みたいんだ。考える時間がほしい」
彼はぼんやりとして、よろめきながら歩道を歩いて行った。
「疲れ果てたよ。休んで何かたべたい」
メアリはすぐに用心深くなった。
「下宿の近くは行けないわよ」
バートンは眼をぱちぱちさせた。
「いったいどうして?」
「ピーターがいるからよ」
彼女も立ち上がると、彼のあとを追った。
「だめよ。あそこには行かない方がいいわ。彼からはできるだけはなれている方が利口よ」
バートンはにがい顔をした。
「あんな小僧なんか怖くはない。もうこれ以上はな」
彼は強がってタイヤ・レンチをふりまわした。メアリはバートンの腕をしっかりとおさえた。
「だめよ。あそこに戻ったら大変なことになるわよ。どこかほかに行った方がいいわ。私がうまくやるまで、どこかで待っていてよ。とにかくこの事の意味をはっきりとつかみたいわ」
彼女は眉根をよせて深く考えこんだ。
「そうね、シャディ・ハウスに行くのがいいわ。あそこなら安全よ。私の父が面倒をみてくれるわ。父のところに直行するのよ。立ちどまったり、ほかの人としゃべったりしない方がいいわ。ピーターはあそこまでは入りこめないわ。境界線を越えているからね」
「境界線? どういう意味だ――」
「彼の領域との仕切り線よ。あなたは心配ないわ。これから私はよく考えて、どうするかを決めるわ。まだ私にもよくわからない要素があるの」
彼女はバートンの行く手にまわりこむと、じれったそうに彼を別の道に押しこんだ。
「早く行きなさいよ!」
バートンとクリストファが無事に境界線を越え、シャディ・ハウスの坂を登って行くのを確かめるまで、メアリはじっと見守っていた。それから急いで町の中心部に戻って行った。
早く手を打たなくてはならない。時間は刻々とすぎていく。ピーターはまちがいなく疑いを抱き、ゴーレムをさがし、戻ってこない理由をあれこれ考えているだろう。
彼女はポケットをやさしく叩いた。同時に、衣服の波にゆさぶられる分身の感覚を味わった。彼女はまだ同時に二カ所に存在することに慣れていなかった。ゴーレムが任務を終えてしまえば、それを見つけた時と同様に意識ははなれていくだろう。
ジェファースン・ストリートがぼんやりと前方に見えてきた。彼女は急いで走って行った。黒髪をうしろになびかせ、胸を波打たせながら、片手でポケットをおさえていた。ゴーレムを落としたり、こわしたりしてしまうといけない。
下宿が見えてきた。下宿人たちがポーチで夕涼みを楽しんでいた。彼女は車回しを走ってうらにまわり、畑を横切って納屋に向かった。納屋が見えた。巨大なまがまがしい姿が夜空にそびえ建っていた。彼女は植えこみの陰にかがんで、息を殺し、いまの状況を考えてみた。
ピーターはたしかに納屋の中にいる。仕事場に上がって、カゴや瓶や粘土壷をいじっている。彼女はほくそ笑んであたりを見まわした。彼女がそこに送りこんだ夜行性の蛾はどうしたろうか? 何も見あたらなかった。とにかくチャンスはこちらにあった。
そっとしなやかな指でポケットを開け、三インチの分身をとり出した。急に視界が大きな粗い服地に代わった。彼女は本体の眼をとじ、ゴーレムにできるだけ自分の意識を注入した。たちまち本体の大きな手、太い指が分身の自分に触れるのを感じた――あまりに荒っぽすぎる。
意識を本体から分身に移すことで、ゴーレムに自ら大地に立たせ、納屋の方向に数歩進ませた。ほぼ同時に中立地帯に入っていた。
彼女は本体を物陰にすわらせ、堆肥にかがみこんでひざをのばし、頭をさげ、両手でかかとを抱きしめた。これで全神経をゴーレムに集中できた。
ゴーレムは気づかれることなく中立地帯を越えた。そして慎重に納屋へと近づいて行った。そこにはピーターが作ったゴーレム用の小さなはしごがあった。彼女はあたりを見まわし、それを見つけようとした。納屋の片側は大きな荒板貼りで、彼女から見ると高くそびえて暗い空に消えていた。あまりに大きすぎる建物で、分身の彼女には途方もない大建築に思えた。
彼女ははしごを見つけた。それにぎごちなく足をかけた時、クモが数匹、彼女のそばを下りて行った。クモは急いで地面に散って行った。いちど、灰色ネズミの群れが昂奮したようにあわてて彼女の脇をおりて行った。
彼女は慎重にはしごを上った。眼下の植えこみではヘビががさごそと動いていた。ピーターは今夜すべての手下を外に出していた。彼にはまだ状況がつかめていないようだ。彼女ははしごを上りつめ、入り口の階段を見つけた。穴、暗いトンネルが目の前にあった。その向こうにあかりが見える。彼女はそこまできていた。夜行性の蛾でもこんなに深くは入りこめなかった。ここはピーターの仕事場なのだ。
しばらくゴーレムは立ちどまっていた。メアリは分身を穴の入り口に立たせたまま、しばらく意識を本体に戻していた。すでに本体は身体がこわばり、冷たくなりつつあった。寒い夜だった。物陰の地面にかがんでいることに耐えられなくなった。
彼女は手足をのばし、筋肉をほぐした。ゴーレムは長いこと納屋にいることになるかも知れなかった。そこでもっとよい居場所を見つけておきたかった。ジェファースン・ストリートのオールナイトのカフェの一軒が適当だろう。ゴーレムが任務を終えるまで熱いコーヒーでものんでいたかった。それにホット・ケーキとシロップもいい。投げすてられた新聞を読み、ジューク・ボックスで音楽を聴こう。
彼女は気をつけながら植えこみをくぐりぬけ、畑の方に歩いて行った。冷気で身体が震え、ジャケットをかき合わせた。二つの身体を持っているのは面白かった。それでも実際はあれこれ気苦労の方が多かった……
何かが頭上から落ちてきて彼女に当たった。びっくりしてそれを払った。樹の上から落ちたクモだった。
さらに数匹のクモが落ちてきた。鋭い痛みが頬を走る。彼女は驚いてとび上がり、それをパシッと叩いた。灰色の群れが行列を成して茂みを横切り、彼女の足に、ジーンズに、身体にと這い上がってくる。
ネズミやクモが、肩、首、髪、シャツにどっとおそいかかってきた。彼女は悲鳴をあげ、懸命にもがいた。ネズミはますます増えてくる。黄色い歯をむき出しにして、黙々と噛みついてくる。彼女は周章狼狽《しゆうしようろうばい》し、夢中で逃げ出した。ネズミたちは追ってきた。彼女にとびつき、服にぶらさがる。沢山のネズミがとびかかってきた。クモは顔を走りまわった。胸の間や脇の下まで忍びこんでくる。
彼女はよろめき、倒れた。蔓《つる》に足をとられたのだ。ネズミはいっせいにおそいかかった。その数は知れぬほどだった。クモは音もなく四方八方から攻めてくる。彼女は身体をのたうち闘った。苦痛に全身がふるい立った。ねばねばするクモの糸が顔をおおい、咽喉《のど》をつまらせ、眼をふさいだ。
彼女はもがき、膝で数フィート這って行った。そこで身体中を噛みつく動物たちの下敷きとなった。それは衣服の中にもぐりこみ、皮膚や肉から骨までかじっていた。身体を喰いつくそうとしていた。彼女は悲鳴をあげ続けた。しかしクモの巣に口をふさがれ、大声が出なかった。クモは口、鼻、耳といたるところにもぐりこんでいった。
暗い茂みの中でがさごそと物音がした。彼女はそれを見るというよりも感じた。曲りくねった光るものが弧を描きながらこちらにやってくる。その時にはもう彼女は、両眼をふさがれ、何も見えず、悲鳴もあげられなくなっていた。いよいよ最期の時がきたことを知った。
彼女は半死半生の状態だった。うつ伏せに倒れた身体に毒ヘビがぬるりと乗った。そして何の抵抗もない肉体に毒牙を立てた。
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第11章
「そのまま立っていなさい!」ドクター・ミードはきびしく命令した。「物音をたててはならん」
彼は長いオーバー・コートに帽子姿で、すごい顔をして二人の背後の物陰からおどり出た。
バートンとクリストファは背後の暗闇から現れた男が、大きな四五口径のピストルをつきつけたので驚いて立ちどまった。バートンは用心のために持ってきたタイヤ・レンチをだらりと下げた。
シャディ・ハウスがぼんやりと前方に見えた。玄関のドアは開いている。窓はあらまし黄色い正方形だった。患者たちはまだ起きている。庭の長い柵は黒く暗かった。丘のはずれの杉木立は冷たい夜風にゆれて、かさこそ音をたてている。
「私はステーション・ワゴンの中にいたんだ」ドクター・ミードがいった。「きみたちが坂を上ってくるのが見えた」
彼は懐中電灯でバートンの顔を照らした。
「きみか! ニューヨークからきた男だな。ここで何をしているんだ?」
バートンはやっと声が出るようになった。
「あなたのお嬢さんがここに行けというものですから」
ドクター・ミードは急に緊張の色を見せた。
「メアリか? いまどこにいる? ちょうどさがしていたところだ。三十分ほど前に出て行ったのだが、きっと何かが起きたのだろう」
彼はためらっていたが、すぐに腹を決めた。
「中に入れ」そういうとピストルをしまった。
二人は彼のあとについて黄色く光る廊下を歩き、診察室に続く階段を下りて行った。ミードは部屋に入ると、ドアに鍵をかけた。そしてブラインドを下ろした。顕微鏡や図表、書類などを脇に押しやり、コーヒーのしみのついた樫机の端に腰かけた。
「メアリをさがしに走りまわっていた。ダッドリー・ストリートを過ぎた時のことだ」
ミードは鋭い眼でバートンをにらんだ。
「ダッドリー・ストリートに公園があるじゃないか。前にそんなものはなかった。今朝そこにはなかった。どこからきたのか? 古い商店街に何があったのか?」
「あなたはまちがっています」バートンは反論した。「公園は前からあったんです。十八年前には」
ドクター・ミードは唇をなめた。
「面白いことをいうね。ところでうちの娘はどこにいるのかね?」
「いまは知りません。われわれをここに送りこみ、行ってしまいました」
しばらく沈黙があった。ドクター・ミードはオーバー・コートと帽子をぬぎ、椅子に放りなげた。
「それではきみたちが公園を元に戻したのか? どちらかが正しい記憶の持ち主だったんだな。ワンダラーズはくり返し試みたが失敗した」
バートンは息をのんだ。
「すると――」
「連中はどこかがおかしいことは知っている。町全体の細かい配置図を作り上げた。かれらは毎晩、眼をつむって現れてくる。そしてぶらつくんだ。町の下層になっている部分の詳細をつかんではいる。しかし成功していない。かれらには活力が欠けているんだ」
「かれらが眼を閉じているのは、どういうわけですか?」
「それはひずみの影響を受けないためだ。もちろんそのひずみを無視することはできる。しかし眼を開くとすぐに元に戻ってしまう。いつわりの場所にだ。かれらにはそれが幻影にすぎず、押しつけられた虚構の層であることを知っている。知ってはいるが、それを排除できないのだ」
「どうしてですか?」
ドクター・ミードは微笑した。
「それはかれら自体がひずみを受けているからだ。変化が到来した時、かれらはみんなここにいた連中だ」
「ワンダラーズとは何者ですか?」バートンはたずねた。
「昔の町の住人だ」
「そうだろうと思っていました」
「変化によっても完全には影響を受けなかった連中だ。かなりの人々が難をのがれた。変化が到来した時、多かれ少なかれ影響をまぬがれた連中がいた。必ずしも一律ではなかった」
「わしみたいにな」クリストファは呟いた。
ミードはじっと彼を見つめた。
「そう、あんたもワンダラーだ。少しばかりの工夫で、ひずみを避けることができた。それにあの連中のような夜歩きもしなくてすむ。しかしそれだけの話だ。あんた方は昔の町をとり戻すことはできていない。だれもがいくらかひずみを受けているからだ」
彼の眼はバートンにすえられ、ゆっくりと話し続けた。
「どちらも完全な記憶を持ってはいないな」
「ぼくは持っています」バートンは彼の顔色をうかがいながらいった。「ここにはその時いなかった。変化の前に引っ越しています」
ドクター・ミードは何もいわなかった。しかしその表情は十分答えになっていた。
「ワンダラーズとはどこで会えますか?」バートンはてきぱきとたずねた。
「かれらはどこにでもいる」ミードはあいまいな答えをした。「かれらを見たことがないのか?」
「かれらだってどこかから出てくるんです。特定の場所で共同生活しているはずです」
ドクターのものうげな顔が優柔不断にゆがんだ。心の内部|葛藤《かつとう》がまだ続いていた。
「かれらを見つけてどうするのだ?」
「それからわれわれの手で昔の町を再建します。元の通りにです。それはまだ下層に残っています」
「ひずみを直そうというのか?」
「できればね」
ミードはゆっくりとうなずいた。
「きみならできる、バートン。きみの記憶はそこなわれていない。いったんワンダラーズの地図を手に入れれば、元のように改めることはできる――」彼は言葉を切っていった。「ぜひ教えてくれ。きみたちはどうして昔の町に戻したいのだ?」
バートンはぎょっとした。
「それが本当の町だからですよ! いまの町は住人も、家屋も、商店も、みんな幻影です。真実の町はこの下に埋もれているんです」
「現在ここに住む人々のなかには、幻影の町の方で満足している人もいるとは考えたことはないかね?」
しばらくは何のことやらわからず、バートンはぽかんとしていた。やがてそれに気づいて「そうか」と静かに呟いた。
ドクター・ミードは顔をそむけた。
「そうなんだ。私自身ひずみから生まれた存在で、ワンダラーではない。変化の前はここに存在しなかった。少なくともいまの私はなかった。だから元には戻りたくないんだ」
バートンにはだんだんと事情がのみこめてきた。
「それはあなただけではありません。お嬢さんのメアリもそうでしょう。変化のあとに生まれたのですから。ピーターも、母親も、ミス・ジェームズもそうです。金物店の主人だってその一人でしょう。かれら全員がひずみの産物です」
「きみとわしだけはちがう」クリストファがバートンにいった。「わしらは本物の住民だ」
「それにワンダラーズだ」バートンは荒い吐息をついた。「あなたのいわんとすることはわかります。しかしあなたは変化の前に何かのかたちで存在していた。何かであったはずです。あなたが無から現れたはずはありません」
ミードの暗い顔は、苦痛で土気色になった。
「もちろんだ。しかしそれが何だったのか? なあ、バートン。このことは何年も前からわかっていた。この町も、住民たちもにせもの、まがいものであることは知っていた。ところがいまいましいことに、私自身もこのひずみの産物だ。私はそれがこわかった。現在の生活が好きだし、仕事もある。病院もあり、娘もいる。町の人たちともうまくやっている」
「模造人間なんですよ」
ドクター・ミードの唇はみじめにゆがんだ。
「聖書にもあるように〈鏡を通して見るようにおぼろげに見ている〉のだ。でも、どうしてそれが私にふさわしくないのか? 以前にはもっと悪い状況だったかも知れない。わからん!」
「変化前の生活について知っていることはないのですか?」バートンは当惑していた。「ワンダラーズがあなたに話すことはできないのですか?」
「かれらも知らないんだ。覚えていないことが多い」ミードは哀願するように眼を上げた。
「何か手がかりを見つけようとしたんだが、何もなかった。何の痕跡も見あたらない」
「彼みたいのが大勢いるんだ」とクリストファ。「大部分の住民は元に戻りたくないんだ」
「どうしてそうなったんです?」バートンは尋ねた。「なぜ変化が到来したんです?」
「私にもよくわからん」ドクター・ミードは答えた。「一種の競争、闘いだ。ルールに従い五分五分で対決していた。そしてここに一方が入りこんできた。無理やりこの谷間に乗りこんだ。十八年前のことだ。ここが力の弱い場所であるのを見つけたんだ。くいこめる隙間をな。その争いはずっと続いた。かれら二人の永遠の対立だ。かれ[#「かれ」に傍点]はこの――ここの世界を創造した。そして優先権をにぎった。やりたいことをやり、すべてを変えたのだ。いい考えがある」ミードは窓辺に歩みより、ブラインドを上げた。「外を見れば、かれらがわかる。かれらはいつもそこにいる。決して動かない。おたがいに両端にいる。一人はこちらに、もう一人は反対側にいる」
バートンは外を見た。ドクター・ミードがいったようなかたちがまだそこにあった。それはこの前ピーターの岩棚から見たものと同じだった。
「かれは太陽から来たものだ」とミード。
「ええ、昼間も見ました。かれの頭は巨大な光り輝く球だった」
「もう一人は冷たい暗闇から生まれた。両方とも常に存在している。私はあちこちで知識を得て、それをまとめてみた。ところがまだわからないことの方が多い。ここでの闘争はかれらにとってはほんの一部にすぎない。顕微鏡で見える範囲だ。かれらはいたるところで闘っている。宇宙全体でだ。宇宙はそのためのものだ。そこはかれらの戦場なのだ」
「戦場か」バートンは呟いた。
窓は暗黒の側にも面していた。それ[#「それ」に傍点]の側は冷たく荒涼としている。バートンはそこに立ちはだかっているものが見えた。巨大で、無限だった。その頭部は宙に消えている。気も遠くなる宇宙深淵の空虚。そこには生物もなく、生命もなく、存在もない。全くの静寂と永遠の荒涼たる空間。
そして、一方のかれ――燃える太陽から生まれたもの。泡だち、沸騰し、暗黒に火を放つ灼熱《しやくねつ》のガス体。虚空をつらぬき、火先をのばし、まさぐり、冷気を押し戻す炎の柱。熱い音響と行動で空白を埋めるもの。
永遠の闘争。不毛の暗黒、静寂、寒冷、不動性、死などを一手ににぎるもの。他方では、炎を上げる生命の熱気。めくるめく太陽群、誕生と生殖、意識と存在。宇宙の両極性。
「かれはオーマズード(ゾロアスター教の光の善神アフラ・マツダ)だ」とドクター・ミード。
「それ[#「それ」に傍点]は?」
「それ[#「それ」に傍点]は暗黒から生まれたものだ。汚濁と死と混沌と邪悪の化身だ。オーマズードの摂理を破壊しようとしている。その秩序と真理をだ。あいつの旧名はアーリマン(ゾロアスター教の闇の悪神)だ」
バートンはしばらく口をとざした。
「最後にはオーマズードが勝つと思いますよ」
「伝説によればね。かれは勝利をおさめ、アーリマンを吸収する。その闘争は何億年も続いている。今後数億年続くことはたしかだ」
「オーマズードは創造者で、アーリマンは破壊者だ」とバートン。
「そうとも」とドクター・ミード。
「昔の町はオーマズードのものだった。そこにアーリマンは黒い霧とひずみと幻影の層を築いたのですね」
ミードはためらいながら肯定した。
「そうだ」
バートンは緊張した。訊《き》くのはいまだ。
「ワンダラーズと接触できる場所はどこですか?」
ミードは心の中で激しく懊悩《おうのう》した。
「それは――」彼は答えを口にしかけて気を変えた。その表情はあいまいなものになった。
「話すわけにはいかないんだ、バートン。もし可能なら今のままでとどまりたい。娘もな……」
ドアにきびきびとしたノックの音が聞こえた。
「先生、入ってもよろしいでしょうか」はっきりとした女性の声がした。「大事なニュースです」
ミードは苦虫を噛みつぶしたような顔をした。
「患者の一人だ」
彼は仕方なさそうに錠をはずし、ちょっとドアを開けた。
「いったい何ごとだね?」
若い女性が勢いよく部屋に入ってきた。細おもてのブロンド娘で、蒼白い頬が紅潮している。
「先生、お嬢さんが亡くなられました。死頭蛾からの報告を受けました。お嬢さんは境界線の向こう側に行き、敵につかまり、殺されました。中立地帯を少し越えたところで、ピーターの仕事場の近くです」
ミードは身ぶるいした。バートンもクリストファも激しいショックを受けた。バートンは心臓の鼓動が完全に停止するような気がした。あの少女が死んだ。ピーターが殺したのだ。そのショックとは関係なく、バートンはドアにとんで行くとバタンと閉めた。これでやっと最後の疑問が解決したのだ。時間をむだにしたくなかった。
その若い女性、ドクター・ミードの患者とは、先夜トリリング下宿屋のポーチを通りぬけて行ったワンダラーズのかたわれだった。バートンはとうとうかれらを見つけたのだ。潮時がきたのだ。
ピーター・トリリングはメアリの遺体を足で蹴った。ネズミはやかましくエサをあさっていた。おたがいがけんかをしながらがつがつかじっている。ピーターはあまり突然の事態にいささか当惑し、しばらく考えこんだ。あてもなく腕ぐみして歩きまわりながら、じっと思案をこらしていた。
ゴーレムたちは昂奮していた。クモは壷に戻ろうとはしなかった。かれらはピーターの周囲でざわめき、走りまわっていた。彼の顔や手足にとりつき、そのあとを追いかけまわした。無数のかすかな鳴き声がピーターの耳をつらぬいた。ゴーレムとネズミたちの休むひまもないおしゃべり。かれらは大勝利を感じとり、それにすっかり酔っていた。
ピーターはアメリカ・マムシをつまみあげ、ぼんやりとそのなめらかな胴体をなでていた。彼女は死んだ[#「彼女は死んだ」に傍点]。ほんのすばやい先制攻撃で力のバランスは変化していた。彼はヘビを投げすてると足を早めた。ジェファースン・ストリートに向かっていた。そこは町の中心街だった。彼の心は激しく動揺している。頭の回転はしだいに早くなっていった。これが本当にあの時[#「あの時」に傍点]なのか? 最後の時がとうとうやってきたのか?
彼は溪谷の向こうの岩壁、暗い空にそびえ立つ峰々に向かい合った。そこにかれ[#「かれ」に傍点]はいた。仁王立ちになり、腕をのばし、脚を開き、頭をもたげている。永遠にのびていく黒い空虚の無限の広がり、宇宙の沈黙と静寂。
その光景を見ると、すべての疑問が消えた。彼はきびすを返すと、仕事場の方に戻りかけた。急にあせりともどかしさを感じた。
ゴーレムの集団は昂奮して彼のそばに集まり、やかましく騒ぎたてて注意をひこうとした。町の中心部からもこちらに続々と走ってやってくる。かれらは全く動転していた。そのきんきんした声は、ピーターのまわりにむらがり大きくひびいた。
かれらはピーターに何かを見せたいようなそぶりで、ひたすら怯えていた。ピーターは腹をたてながらも、かれらについて町中に戻った。暗い通りを歩き、静かな家並みをすぎた。かれらの見せたいものは何なのか?
ダッドリー・ストリートまでくると、かれらは立ちどまった。前方で何かがちらちら光っている。しばらくそれが何だか見当がつかなかった。何かが起こっている。それは何だろう? 重なり合った炎が、低く激しく建物、商店、電話ポール、舗道にゆらいでいる。妙な気がして先に進んだ。
かたちの崩れたかたまりが舗道に横たわっていた。彼は不安そうに身をかがめて見た。粘土。ただの粘土のかたまりだった。死んで動かなくなったゴーレムたちだった。冷たくなっていた。彼はそのひとつをつまみあげた。
ゴーレム、あるいはかつてゴーレムだったものだ。もはや生命を持っていなかった。信じられないが、それは元の粘土に戻っていた。乾いて、かたちを失い、生命のかけらもなかった。粘土の人形ですらなかった。
こんなことはいままではじめてだった。まだ生きているゴーレムたちは恐怖であとずさりした。かれらは死んだ仲間を目のあたりにして戦慄していた。これを見せるために、彼は呼ばれたのだった。
ピーターは当惑しながらも進んで行った。光は前方でおどっていた。炎の舌が建物から建物となめていく。静かに拡がっていた。その輪は刻々と大きくなっていった。そこには驚くべき激しさがあり、一定の性質を備えていた。何ひとつ見のがさなかった。燃える水のごとく押しよせ、あらゆるものをのみつくした。
その中心に公園があった。小径、ベンチ、古い大砲、ポール、小さな建物があった。
ピーターにははじめて見るものだった。こんなところに公園などなかった! これは何を意味しているのか? 荒廃した商店街に何が起こったのか?
彼はまだ生きているゴーレムたちをつかみあげると、そのもがき、甲高い声をあげている身体をひとまとめにして、にぎりつぶした。生きている粘土のかたまりをねじり、すばやく新しいかたちを作っていた。そのかたまりから身体のない頭だけをこしらえあげた。眼、鼻、口、舌、歯、口蓋、唇ができた。それを舗道にすえ、首を地面に押しつけ、ころがらないようにした。
「これがはじまったのはいつか?」彼は首に尋ねた。
その唇はいくつかのゴーレムの記憶を呼び起こして動いた。
「一時間前」やっとしゃがれ声が出た。
「ゴーレムたちが死んだ! 何が起こったのか? だれがやったんだ?」
「ゴーレムたちは公園に入り、そこを通りぬけようとした」
「それがゴーレムを殺したのか?」
「ゴーレムたちはゆっくりと出てきた。かなり弱っていた。それから倒れ、死んだ。われわれも危ないところだった」
それは事実だった。拡がる炎の輪にやられたのだ。
ピーターはその頭を押しつぶし、かたちのないものに戻した。それから粘土をポケットにつめた。残りの粘土は足下でのたくり、切れはしは生きていた。ピーターは注意しながら立ち上がった。
炎の輪はすでに一面に拡がっていた。それはたえず動いていた。じわじわ建物を攻めていく。音もなく増大していった。かなり動きの激しいものだった。その脅威はあらゆるものに近づいていった。
やがてピーターにもわかってきた。
それは破壊ではなく変化だった。現在の建物や家屋が炎の中に沈んでいくにつれ、一方では別のかたちが現れ、その場所を占めていった。それらはめらめら燃える炎の中から次々と出現した。ピーターにははじめて見るもので、そのかたちには全く覚えがなかった。彼には異質の存在だった。
長い間、彼は佇《たたず》んで見守った。その間もゴーレムたちは不安気に彼にまとわりつき、身体をつついては早く逃げるよう促していた。炎は身近に迫っていた。ピーターは二、三歩あとずさりをした。
彼は昂奮していた。歓喜と底ぬけの陽気さが心の中で爆発していた。やはりその時がきたのだ。メアリの死――そしていまのこの状態。バランスは崩れてしまった。境界線はもはや何の意味もなかった。
この復元したもの、本来存在したかたちは下層から現れてきた。奥深い所から突如とび出して存在を明らかにしたのだ。復元には最後の要素、最後の一片となるものが必要だったはずだ。
ピーターは決心した。ポケットからもがいている粘土をすばやくとり出し、深呼吸をしてかがみこんだ。しばらくあたりを見まわした。夜空にそびえ立つ暗黒の像が見える。その光景に彼は力を得た――それは彼が必要としている力だ。
彼はまっすぐに、めらめらと燃える炎の中に走って行った。
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第12章
ワンダラーズは、バートンが地図の不適当な個所を訂正するのを熱心に見つめていた。
「これはちがう」
バートンは呟き、鉛筆で一つの通りをそっくり消した。
「ここはロートン・アヴェニュだった。あんた方は家屋をほとんどまちがえている」
彼はじっと考えこんだ。
「小さなパン屋がここにあった。緑色の看板があった。持ち主の名前はオリヴァーだった」
彼は名簿をひっぱり出し、指を走らせた。
「これも落としているな」
クリストファは彼のうしろに立ち、肩ごしにのぞきこんでいた。
「あの店には若い女が働いていなかったかな? 大柄な娘だったような気がする。メガネをかけ、太い足をしていた。店主の姪《めい》か何かだ。ジュリア・オリヴァーだ」
「その通りだ」バートンは訂正した。「復元地図の二十パーセントは不正確だ。公園の復元作業で学んだことは、基礎となる資料を完全なものにしておくことの重要性だった」
「あの大きな褐色がかった旧家を忘れるな」クリストファは昂奮して口を出した。「あそこには犬がいた。小さな、毛の短いテリアだ。わしのくるぶしにかみつきおった」
彼は手をのばしそのあたりに触れた。
「その傷も変化のあった日に消えてしまった」
奇妙な表情が顔を横切った。「あそこで噛まれたことはたしかだ。おそらく――」
「おそらくそうだろう。おれもあの通りの毛の短いスピッツを覚えている。それも元に戻そう」
ドクター・ミードは部屋のすみに佇《たたず》み、悲しみにくれ、呆然としていた。ワンダラーズは大きな製図机にむらがり、図表、地図、データ表などを持ちこんだり、かたづけたりしていた。建物全体が活気でむんむんしていた。ワンダラーズ全員がそこにいた。バスローブを着てスリッパをつっかけた姿で、グレイのパジャマを着ている者もいた。みんなが昂奮し、そわそわしていた。ついにその時がきたのだ。
バートンは立ち上がるとドクター・ミードに近づいた。
「あなたはずっとごぞんじだったんですね。それでかれらをここに集めたのですね」
ミードはおもむろにうなずいた。
「所在のわかるかぎりな。でもクリストファは忘れていた」
「なぜそうしたんですか?」
ミードの苦悩にみちた顔はゆがんだ。
「かれらは昔のところに住んでいる訳ではない。それに――」
「それに何ですか?」
「それに私はかれらが本当の住民だったことを知っている。かれらがあてもなくミルゲイト周辺をさまよっているところを見つけた。行きあたりばったりに、意味もなくね。最初はかれらを狂人だと思っていた。そこでかれらを集めてここにつれてきた」
「だけどそれだけのことで、それ以上は何も手を打っていないんでしょう」
ミードは意味もなく手をひろげたり、とじたりしていた。
「私は行動に移るべきだった。あの少年に全力で当たればよかった。ピーターは悩んでいるんだよ、バートン。何も知らないということでもっと悩ませてやりたい」
バートンは製図机に戻った。ワンダラーズのリーダーのヒルダは急いで彼を机に呼んだ。
「私たちはかなり正しく直したわ。その変えた所についてはまちがいないんでしょうね? 疑問はないでしょうね?」
「ないつもりだ」
「わかってもらいたいのは、私たちの記憶がぼんやりと薄れていることよ。あなたのように鮮明ではないわ。せいぜい変化以前の町のおぼろげな断片しか覚えていないわ」
「あの時あなたがここにいなかったのは幸運だったわ」若い女は呟くとバートンをじっと見た。
「公園を見たよ」度の強いメガネをかけた白髪まじりの男がいった。「われわれの力ではとてもできなかった」
別の男が考え深げに煙草を軽く叩いていった。
「はっきりした真の記憶を持っている者はいない。きみだけだ、バートン。きみは唯一の頼りになる男だ」
部屋の中には緊張が漂っていた。ワンダラーズ全員は仕事の手を休めていた。思いつめた顔でバートンを囲んでいた。緊張した男と女たち。正直でまじめな人々。
部屋のいたるところにファイルが拡げられていた。図表、報告書の山。データや記録の累積。タイプライター、鉛筆、膨大な書類とカード類。壁に貼られた参考写真。グラフ、詳細な調査表が製本されており、よく使われて汚れている。セラミック製のテーブル、実際の三次元モデル、絵の具、ブラシ、顔料、ニカワ、製図用具、定規、メジャー・テープ、ペンチ、ノコギリ。
ワンダラーズは長いこと働いていた。かれらは多くはなかった。町中合わせても小さなグループだった。しかしその顔にはなみなみならぬ決意が表れている。かれらはこの作業に期待をかけていた。二度と町を消滅の危険にさらすようなことはしていなかった。
「おたずねしたいことがあります」ヒルダは慎重にいった。
その器用な指の間で煙草が燃えているのも気づいていない。
「一九三五年にミルゲイトを去ったといわれましたね。その時はまだ子供でしたね。そうですか?」
バートンはうなずいた。「その通り」
「いままで一度も帰ってきたことがないのですか?」
「そうだ」
低いささやきが部屋に流れた。バートンは落ちつかなかった。彼はタイヤ・レンチをしっかりとにぎりしめ、次の質問を待った。
「バリアーは町から二マイル先のハイウェイを遮断しているのは知っていますね?」
ヒルダは慎重に言葉を選びながら続けた。
「知っている」とバートン。
みんなの眼がバートンに集まった。ヒルダは冷静に続けた。
「それではどうやってこの谷間の町に戻られたのですか? バリアーはここにいる私たち全員を足どめしています。脱出した者はいないんです」
「その通りだ」とバートン。
「あなたが入ってくるに際にしては、なんらかの手助けがあったはずです」ヒルダは急に煙草をもみ消した。「超能力を持つ者ですね。それは何者ですか?」
「知らないんだ」
ワンダラーズの一人が立ち上がった。
「やつを放り出せ。さもなくばもっと――」
「待ってちょうだい」ヒルダは手を上げてそれを制した。「バートンさん。私たちはこれだけ作るのに何年も働いてきました。それでもチャンスをつかめません。あなたは私たちを助けるためにここに送りこまれたのかも知れませんし、そうでないかも知れません。私たちがわかっている唯一たしかなことは、あなたが自分の力で入ったのではないということです。何者かの手助け、あと押しがあったはずです。あなたはまだその力の支配下にあるのです」
「おれには手助けがあった。おれはバリアーを越えてここに連れてこられた。おそらくまだ操作されているのだろう。しかしそれ以上のことはわからない」
「彼を殺せ!」やせた茶色の髪の娘がいった。「それが正体をたしかめる唯一の方法よ。何者の手先なのかを白状しなければ――」
「ナンセンスだ!」太った中年男が反論した。
「彼は公園を元に戻したじゃないか? われわれの地図も訂正してくれた」
「訂正?」ヒルダの眼は冷たかった。「変更よ、ただの。それが訂正だとどうしてわかるの?」
バートンは唇をなめた。
「さて、何といったらいいのか? 自分をここに連れてきたのが何者かわからないのに、きみたちに納得のゆく説明などできるわけがない」
ドクター・ミードがバートンとヒルダの間に割って入りこんだ。
「口論はやめて、私の話を聞きなさい、二人とも」その声には厳しくさし迫ったものがあった。「バートンはだれにも理由を説明できない。もしかするとスパイで、きみたちの秘密を暴露するために送りこまれたのかも知れない。その可能性はある。あるいは疑似人間で超ゴーレムとも考えられる。今は説明の方法がない。後で復元がはじまる時にわかる。それが本当にうまくいけば、おのずとわかってくる。しかしいまはむりだ」
「その時では遅すぎるわ」やせた茶色の髪の娘がいった。
ミードは冷たく同意を示した。
「そうとも、あまりに遅い。しかしもう乗りかかった舟だ。あと戻りはできないだろう。バートンがスパイであれば、きみたちはおしまいだ」彼は冷笑した。「その時がくるまで、バートンにさえ自分の役割はわからないんだ」
「あんたは何を言いたいんだい?」やせて血色の悪いワンダラーがたずねた。
ドクター・ミードの答えは直接その点に触れるものだった。
「きみたちは好むと好まざるにかかわらず、彼にチャンスを与えてやるべきだ。きみたちには選択の余地がない。彼しか再建できないんだ。彼は三十分で公園全体を復元した。きみたちが十八年間手をつかねていたことだ」
圧倒的な沈黙が部屋に拡がった。
「きみたちには能力が欠けているのだ」ミードは決めつけた。「きみたち全員がそうだ。それは変化の時ここにいたからだ。私と同じようにゆがめられているんだ。ところがバートンはそうじゃない。だからこそ彼を信頼すべきだ。チャンスをつかむか、それとも歳老いて死ぬまで、役にもたたない地図をにぎって、ここにすわっているかだ」
長いことだれも一言もしゃべらなかった。ワンダラーズは顔にショックを浮かべ、身体を強ばらせてすわっていた。
「そうだわ」やせた茶色の髪の娘がやっと口を切った。彼女はコーヒー・カップを脇に押しやると椅子にもたれた。「その通りだわ。私たちには選択の機会などないのよ」
ヒルダは灰色の服装の男女を一人ずつ見ていった。どの顔も同じ表情をしていた。絶望的なあきらめがあった。
「わかったわ。それでは活動に移りましょう。早い方がいい。時間はそれほどないと思うわ」
板塀はすぐに押し倒された。高台の周囲がすっきりとした。杉木立は切り倒され、薮も刈りとられた。あらゆる障害物がなくなった。一時間もたたないうちに、谷間は見晴らしがよくなった。眼下のミルゲイトの町が一望された。
バートンは不安そうに動きまわり、タイヤ・レンチをふりまわした。地図も図表も慎重にレイアウトした。詳細で完璧な昔の町の地図ができ上がった。あらゆる要素が加えられ、それぞれ適当な場所に納められた。ワンダラーズは地図の周囲に集まって、額をよせ合って相談していた。
蛾がひらひらと坂を上ぼり下りしている。巨大な灰色蛾が溪谷から情報をもたらしたり、伝言を運んでいた。
「私たちの活動は夜だけに限られているのよ」ヒルダはバートンにそう語った。「でも、ミツバチは昼間でないと動きまわれないし、ハエも夜は役にはたたないわ」
「町で何が起こっているのかわからないのかい?」
「正直いってわからないわ。蛾は、あまり頼りにならないし、太陽がのぼれば、ミツバチが使えるけど、かなりの成果を得るには――」
「ピーターはどうしているんだい?」
「全くわからないわ。何も報告がないのよ。どこにいるのかもわからないわ」
彼女はいかにも心配そうに見えた。
「彼は消えてしまったそうよ。それも突然に何の予告もなくよ。それからは全く手がかりがないわ」
「ピーターが境界線を越えてここにやってくるのかどうか、蛾たちにはわからないのか?」
「彼がやってくるとすれば、それなりの防備を固めてくるわ。蛾をあやつるクモが大挙してやってくるでしょうよ。蛾はクモに弱いのよ。ピーターは仕事場で蛾をクモのエサに与えているんですもの。クモを壷に飼っているのはそのためなのよ」
「こちらには他にあてになる味方がいるのかい?」
「ネコがきてくれるかもね。でも組織的な味方は全くいないわ。頼みまわってもむりね。その気持ちのあるものだけしかこないわ。とても強要などできないわ。ミツバチだけが頼りなのだけれど、それもあと二時間ぐらい経たないとだめだわ」
下の方ではミルゲイトの灯が夜明け前の薄闇にぼんやりとまたたいていた。バートンは腕時計を見た。午前三時三十分だった。あたりは寒く暗かった。空は湿ったまがまがしい霧の層におおわれている。バートンはこんなながめがきらいだった。
蛾はピーターを見失っていた。彼は常に動きまわっていた。すでにメアリは殺してしまった。頭がきれる彼は、こんな時には蛾をたやすく混乱させた。いまバートンの隠れ家をさがしていた。
「彼はこの事態をどう収拾するつもりなんだろう?」バートンはたずねた。
「ピーターのこと?」ヒルダは首をふった。「私たちにはわからないわ。彼は恐るべき力を持っているわ。それで私たちは近づくことさえできないの。メアリだけが彼に対抗したわ。彼女も力を持っていたのでしょう。どちらも私たちには理解も及ばないわ。私たちワンダラーズはごく普通の人間ですもの。できるのはせいぜい元の町に現れることぐらいよ」
かれらの集団はひずんだ層を復元すべく、最初の試みの準備を整えていた。バートンは自分の場所に戻り、かれらの輪の中に入った。夜露でかすかに湿った地面に拡げられた地図を全員が注目していた。星あかりは曇った空を通して射していたが、うねりくる霧で散らされている。
「この地図は、地下に埋没された町の復元という目的を達成する符号だと考えるべきだわ」ヒルダは一同を見まわしていった。「この試みに私たちはM動力学の基本原則を使うことになるわ。表示符号は表示される対象物と同一であるということだわ。もしその符号が正確ならば、それは対象物そのものと考えられるのよ。その間のいかなる相違も単なる言葉のあやにすぎない」
M動力学。古風な、無限のマジック作用の正しい用語。符号あるいは言葉の表現を通じた真の対象物の操作。ミルゲイトの地図類はすべて昔の町に関わりがあるものだった。それは完全に描かれたものであり、地図に影響を及ぼすいかなる力も町に影響を与えるものだった。人間に似せて作られた蝋人形のように、地図は町をそっくり模して作られたものだった。その相似が完全なものであれば、失敗などありえない。
「さあ、やりましょう」ヒルダは静かにいった。彼女は活動をはじめた。モデル作りのチームは復元図の最初の三次元区域に入った。
バートンはものうげにその場にすわり、タイヤ・レンチで地図を叩きながら、ワンダラーズのチームが昔の町の完全なミニチュアを設計図通りに作っていくのを見つめていた。次々に手早く家ができ、絵の具が塗られ、完成すると所定の場所におかれた。
バートンの心は上の空だった。彼はメアリのことを考えていた。ピーターが何をしようとしているのか、不安をつのらせながら考えていた。
蛾からの最初の報告はその侵入を告げるものだった。ヒルダは周囲を飛びまわる蛾の群れからこれを聞くと、唇をきゅっと結んでバートンにいった。
「うまくないわ」
「どこか悪いのか?」
「所期の目的が達せられそうもないわ」
不安気なささやきがワンダラーズの輪の中にも拡がっていった。次第にビルディング、街並み、商店、家屋、ミニチュアの男女が増え、所定の場所に納められた。綿密な活動力で計画はどんどん進行していった。
「ダッドリー・ストリート周辺は迂回しましょう」ヒルダは命じた。「バートンの復元がもう三、四ブロック拡がっているわ。その地域はあらかた再建されているわ」
バートンは眼をぱちぱちさせた。
「どうしてそんなに?」
「昔の公園を知っている人たちは、古い町の記憶を思いおこすわ。たった一カ所のひずみ層を破壊することで、あなたは復元の輪を拡げ、それが次第にいつわりの町全体に浸透していったのよ」
「おそらくそれで十分だ」
「普通ならね。しかし問題もあるわ」
ヒルダは頭を傾けて、次々と坂をのぼってくる蛾が伝える一連の新しい情報に耳を傾けた。彼女の表情は暗くなった。
「まずいわね」彼女は呟いた。
「何があった?」とバートン。
「最新の情報では、私たちの復元の輪が拡大を停止してしまったの。無効になってしまったわ」
バートンは思わず顔色を変えた。
「それは停止させられたというのか? われわれの作業を妨害しているものがいるのか?」
ヒルダは答えなかった。昂奮した灰色蛾の一群が彼女の頭のまわりを飛びまわっていた。その話を聞くために彼女はそちらに頭を傾けた。
「事態はだんだんと深刻になってくるわ」彼女は蛾が飛び去った後にぽつりといった。
バートンは聞かずともわかっていた。彼女の顔がそれを十分に物語っていた。
「それでは撤退した方がいいな。もしそんなに悪ければ……」
クリストファがとんできた。
「何が起こっているんだ? 復元作業がうまくいかないのか?」
「われわれは抵抗にあっている。やつらはやっと復元した地域をおしゃかにしてしまった」
「それより悪いわ」ヒルダは静かにいった。
「私たちのMエネルギーを何かが吸いとってしまったのよ。あの地域が収縮しはじめたわ」
皮肉っぽい冷笑が一瞬唇に浮かんだ。
「私たちには一回だけのチャンスだったわ。それをあなたに賭けたのよ、バートン。そして敗れたわ。あなたの愛する公園は固定できたわ。それはすばらしかったけど、永遠のものではなかったわ。かれらは巻き返しに出てきたのよ」
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第13章
バートンはおぼつかなげに立ち上がると、輪からはなれて行った。しわだらけのグレイのスーツのポケットに手を深くつっこみ、薄明の坂をそろそろおりて行ったが、その身辺を蛾がひらひらと飛びまわっていた。
敗勢は濃く、再建の試みは挫折した。
谷の向かいの端に、アーリマンの巨大で陰気な姿が見えた。夜空を背景にした巨体は両手をかれらの上にのばしていた。宇宙の破壊者。オーマズードはどこにいるんだ? バートンは首を傾け、真上の空を見ようとした。オーマズードはここにいるはずだった。この尾根はかれの膝頭あたりだった。なぜ行動にでないのだろうか? 何がかれをひきとめているのか?
下方には町の灯がまたたいていた。アーリマンがひきおこしたひずみでできたいつわりの町。十八年前の変化の日にだ。オーマズードの偉大な計画がこけにされた日。その間オーマズードは何もしなかった。かれがアーリマンを見のがした理由は? 自分の計画に何が生じたかも気がつかなかったのか? かれの関心をひかなかったのだろうか?
「それは古い命題だ」ドクター・ミードが物陰から声をかけた。「神がこの世界を創ったのなら、悪魔はどこから……」
「オーマズードはそこに立っているだけだ」バートンはむなしくいった。「まるで大きな彫刻岩だ。われわれが一所懸命に復元を試みている間も動かなかった。かれは手を貸してくれるのだろうか?」
「かれのやり方は変わっている」
「でも、あんたは特に注意しているようにも見えないが」
「注意はしている。簡単には説明ができないほど気を配っている」
「たぶんあんたのチャンスはくるだろうな」
「そう願いたいね」ミードはつけ加えた。「情勢はよくないが」
「そうだ。われわれは失敗した。おれもたいした手助けはできなかった。危機がやってきたのに何もできない」
「どうして?」
「力不足だ。われわれのモデルと対象物との間に何者かが動いている。われわれを遮断し、復元した区域を巻き戻しているんだ」
「何者だ?」
「いいか」バートンは坂を、下の町を指さした。「そいつはあそこのどこかにいる。ネズミやクモやヘビと一緒にな」
ミードは腕を曲げた。
「この手で彼をつかまえられれば……」
「そのチャンスはあった。しかしあんたは他の連中みたいに現状に満足していた」
「バートン、私は怖かった。自分の元の姿に戻りたくなかった」ミードの眼はいいわけじみていた。「いまでも怯えている。これがすべていつわりであることはわかっている。きみには、私が何もかも承知の上だとは思えないかね? それでも私にはできないんだ。元に戻る勇気はない。その理由はわからない。自分が何であるかさえも知らないんだよ、バートン。本心をいえば、きみたちの計画が失敗するのを喜んでいるんだ。この気持ちがわかるかね? このままの状態でいたいのだよ。ああ、生きているのがいやになった」
バートンは最後まで聞いていなかった。坂の途中の何かを見つめていた。
暗がりで灰色の雲がゆっくりと立ち昇っていた。それはうねり、波うち、刻々と大波になっていった。あれは何だ? 夜明け前の薄明の中ではそれをたしかめられなかった。だんだんとその雲は近よってきた。ワンダラーズの幾人かが輪からはなれて、不安そうに坂の端に走って行った。雲から低いざわめきが聞こえた。遠いドラムのような音である。
蛾だった。
灰色の蛾が数匹ひらひらとバートンを越え、ヒルダの方に向かって飛んだ。死頭蛾の大群はパニックを起こしたように坂をのぼり、ワンダラーズに押しよせた。何千匹という蛾だった。それは谷底からやってきたのだ。しかしどうしてだろうか?
しばらくして彼は知った。その時ワンダラーズの残りの連中の輪も乱れ、坂の端にのがれた。ヒルダは慌てて大声で命令した。復元作業が止まっていた。全員がひとかたまりとなり、蒼白な顔で怯えていた。押しよせる蛾の大群にパニック状態となり、算を乱して逃げ出した。
クモの糸の切れはしがバートンのそばにも漂ってきた。彼はそれをつかんですてた。今度はもっと沢山のクモの巣が顔にからみついた。彼は急いでひきはがした。いまやクモがはっきりと見えてきた。薮の中をとびはねながら坂をかけ上ってくる。灰色の津波のように毛だらけの潮がひたひたと岩場をよせてくる。その勢いは次第に早くなってきた。
クモのうしろにはネズミがいた。小走りするネズミの群れは乾いた音をたてる。無数のぎらぎら光る赤い眼、ピクピク動く黄色い歯。そのうしろには何がいるのか見えなかった。しかしどこかにヘビもいるはずだった。あるいは別の道をやってくるのかも知れない。おそらくうしろの方からぬらぬらと這い上がってきているのだろう。これで筋書きが読めた。
ワンダラーズの一人が悲鳴をあげ、よろめくとうしろに倒れた。激しく動く小さなものがそこからとび出し、次の獲物に向かって行った。ワンダラーはそれをふりはらい、それから激しい勢いで坂をおりていった。それはゴーレムだった。暗がりの中で不気味に白く光るものがあった。
ピーターはゴーレムを準備していたのだった。
それはやっかいなことになりそうだった。バートンはワンダラーズとともに坂の端から退いた。ゴーレムたちはすでにそのあたりまできていた。それまでだれも気づかなかった。蛾がクモを用心していただけだった。ワンダラーズも、走ったり、跳んだりする生きた粘土人形には、気づいてもいなかった。ゴーレムの集団はヒルダに向かって突進した。彼女は必死になって闘っていた。ゴーレムをふみつぶし、両手につかんで引き裂き、顔に這い上がってくるやつを押しつぶした。
バートンはタイヤ・レンチをふりまわし、ゴーレム集団をたたきのめした。残りはあわてて逃げ去った。ヒルダは身体を震わせ、倒れかけた。バートンは彼女を支えた。針が彼女の手足に刺さっていた。ゴーレムが残した小さな剣だった。
「やつらは全員がここに集まってきた」バートンはうめいた。「われわれにチャンスはない」
「どこへ行こうかしら? 谷底がいい?」
バートンは急いであたりを見まわした。クモの群れはすでに尾根の端に溢れている。すぐにネズミがやってくるだろう。バートンの足下で何かがつぶれる物音がした。彼はあとずさりをした。ヘビの冷たい胴体がヒルダに迫っている。バートンは吐き気を催しながらも歩き続けた。
かれらは懸命に歩き、シャディ・ハウスに戻ろうとしていた。ワンダラーズはいたるところで闘っている。じりじりと輪をせばめてくる黄色い歯をむき出したネズミ軍団、光る針を持った三インチの粘土人形軍団を相手に、けちらし、ふみつぶし、もがいていた。クモはあまり役に立っていなかった。蛾をおびやかしたぐらいのものだった。しかしヘビは……
ワンダラーズの一人は灰色の齧歯《げつし》類の攻撃にまいっていた。ネズミとゴーレムである。土と汚い毛と干からびた汚物の固まり。彼にもよく見えてきた。空は濃い紫から白々とした色に変わっていた。もうじき太陽がのぼってくるだろう。
バートンの脚をちくりと突き刺したものがある。彼はタイヤ・レンチでゴーレムを寸断した。敵はいたるところにいた。ネズミはズボンのすそにぶらさがっている。腕を上げたり下げたりすると、毛だらけのクモがあわてて近くの巣に逃げこもうとした。彼はそれらを払い落とすとさらに退却した。
ひとつのかたちが前方に現れた。はじめ彼はワンダラーズの一人かと思っていた。ところがそうではなかった。それは集団とともに坂を上ってきた。ゆっくりとぎごちなくかれらのあとからやってくる。それは集団を監督していた。しかし坂をのぼるのは慣れていなかった。
一瞬、彼は自分に噛みついているネズミやゴーレムのことを忘れた。これまで見たこともないもので、そのための心の用意などもしていなかった。しばらくそれを理解しようとつとめた。やっと理解はできたが、とても信じられなかった。
彼は当然ピーターを予想していた。いつ現れるかと思っていた。ところがピーターは谷底にいたのだ。ピーターは復元作業、公園の拡大によって影響を受けていたのだ。
ピーターは変化のあとにかたち作られた人間である。バートンの知っているピーターはひずみで作られたものだった。バートンの目の前にゆらいでいるのはピーターだった。それはいつわりのかたちであり、そのかたちはいつしか消えていった。これが本来のかたちだった。それはすでに復元されていた。
それはアーリマンだった。
だれもかれもがクモの子を散らすように逃げて行く。ワンダラーズ全員が激しいパニックにかられて、シャディ・ハウスめがけて走っていった。ヒルダはぬらぬらする灰色の幕で遮断され、視界から消えた。クリストファはワンダラーズの一グループと血路を切り開いて、シャディ・ハウスの玄関に達した。ドクター・ミードはやっとのことで車に着き、ドアを開こうと必死になっていた。ワンダラーズの数名はすでにシャディ・ハウスに入り、迫りくる敵にバリケードを作って備えていた。無益な死力をつくしての戦いで、味方は寸断され、ばらばらになってしまった。
バートンは退却しながらタイヤ・レンチをふりまわし、ゴーレムやネズミどもを粉砕した。アーリマンは巨大だった。人間の子供のかたちをしている時には、それも格好に合わせて小さかった。ところがいまやその必要はなくなった。見るみる間にそれは大きくなっていった。泡だちふくれ上がる灰黄色のゼリー状のかたまりだった。汚濁の粒子がその中に埋めこまれていた。濃い毛がもつれ、かたまりを成し、それがひきずるようにずるずると前に進むと、体液がしたたった。その毛はぴくぴくと震え、伸び、四方に拡がった。怪物の断片は上ってきた坂道に落ちて残っている。巨大なナメクジの這った跡みたいに、ぬるぬるした痕跡をとどめていた。
それはたえまなくがつがつしていた。手あたり次第につかまえたものを吸収し、膨張していった。その触手はワンダラーズ、ゴーレム、ネズミ、ヘビなどを無差別におそった。バートンは死骸の山がゼリー状の体中で溶かされ、分解されていく過程をすっかり見た。それは生命のあるもの、触手に当たるもの、すべてをつかまえ、消化した。生命を汚濁と破滅と死の荒涼たるものに変えていった。
アーリマンは生命を吸収し、虚空に痺《しび》れるような冷気を吐き出した。きびしく身も凍る風。死と虚無の暗影。むかつく悪臭、腐臭。それがアーリマンの体臭だった。衰朽と腐敗と死。そしてアーリマンはなおも成長を続けていた。やがてそれは谷間には入れなくなるほど大きくなるだろう。世界よりも大きなものに。
バートンは走った。二列に並んだゴーレムをとびこえ、シャディ・ハウスの脇に生えている巨大杉の木立に逃げこんだ。
クモが滝みたいに降りかかってきた。彼はそれをふりはらい、ひたすら走り続けた。どこへ行くあてもなかった。その背後では、アーリマンの巨大な姿が膨張を続けていた。それは根を生やしたように動かなかった。坂の端でとまり、そこに腰をすえていた。しかし身体をゆすったり、ねじったりしながら、高く高く突出していく、汚濁の山、泡立つゼリーだった。大きくなっていくにつれ、その冷気はあたり一面に拡がっていった。
バートンは立ちどまり、息を切らせながら方向を見定めた。彼は道路の上方、杉並木の向こうの窪地にいた。溪谷全体が下方の暗がりから姿を現し、早朝の美しさを見せていた。しかし野原や田畑や家屋の上には、巨大な姿が影を落としつつあった。それはのぼる太陽よりもはるかに激しいものだった。元の大きさに拡大しつつある破壊神、アーリマンの影だった。そしてこの影は決して消えないだろう。
何かずるずると滑るものがあった。背中の光るものがバートンにぱしっと当たった。彼は驚いて身体をひねった。アメリカ・マムシは襲撃に失敗し、ひっこむともういちど攻撃しようとした。バートンはタイヤ・レンチを放りなげた。それはヘビにまともに当たり、背中がつぶれてぐしゃぐしゃになった。
彼はすばやくタイヤ・レンチを拾い上げた。ヘビはいたるところにいた。せっせと坂を這い上がっているうちに、ヘビの巣にきてしまった。彼はヘビの上を歩いているうちに、よろめき、しゅっしゅっ唸りながらうごめくヘビの大群の中へ倒れてしまった。
彼は坂を転がり、湿った草や蔓《つる》の間を落ちて行った。やがてもがいて起き上がろうとした。そこにクモがとびつき、いたるところを刺した。それをはらいのけ、クモの巣をちぎった。そして何とか起き上がった。
バートンはタイヤ・レンチをさがしもとめた。どこに行ったのだろう? 失くしてしまったのか? 指先にやわらかなものが触れた。糸だ。糸玉だった。むかつくようなみじめさでその糸をひっぱった。タイヤ・レンチは消えてしまい、また糸玉に戻ったのだ。最後の痛烈な一撃だった。彼の敗北のとどめの象徴だった。むなしく開いた手から糸が落ちた。
ゴーレムが肩にとび乗った。彼は光るものを見た。針のきらめきだった。針は目の前数インチのところにあり、脳髄めがけて深く突き刺そうと狙いをつけていた。バートンの腕が弱々しく上がり、汚くもつれたクモの巣にひっかかった。彼はがっくりして眼を閉じた。もうだめだ。失敗した。戦いは終わった。あとは針の一突きを待つだけだった……
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第14章
「バートン!」ゴーレムが甲高い声をあげた。
バートンは眼を開けた。ゴーレムは針ですばやくクモの巣をはらった。クモを二匹、針で突き刺し、他のクモを追いはらった。そして彼の肩にとび乗ると、耳元に近づいた。
「えいっ! こいつ!」ゴーレムは金切り声でいった。「他人には話せないことを話してあげるわ。これは時期が悪かったのよ。あまりに抵抗が多すぎたわ」
バートンはなにもわからず眼をぱちぱちさせた。口を開けたり閉じたりした。
「何者……?」
「静かに。数秒ですむことよ。あなたの復元は未熟よ。すべてをおじゃんにするところだったわ」
ゴーレムは、バートンの耳裏の動脈に近づいていた灰色ネズミを針で串刺しにした。死骸はゆっくりとすべり落ち、まだ温かく脈を打ち、足をぴくぴくさせていた。
「さあ、立つのよ!」
バートンはもがいた。
「しかしおれは――」
「急ぐのよ! アーリマンが動き出したら逃げられるものじゃない。このあたりには隠れ場所もなくなるわ。アーリマンはその変化が止まることを許さないのよ。しかしそれももうおしまい……」
信じがたいようにバートンはその声を確かめた。それは甲高い調子だったが、どこかに聞き覚えがあった。
「メアリ!」彼はびっくり仰天して叫んだ。
「それにしても、どうして――」
針先が彼の頬を突っついた。
「バートン、あなたにはなすべき仕事があるでしょう。あなたの企ては有利に進んでるわよ」
「有利に?」
「父はステーション・ワゴンで逃げようとしているわ。元の自分に戻りたくないのよ。しかし戻さなくてはだめよ! それしか方法がないわ。十分な力を持っているのは父だけですものね」
「ちがう」バートンは静かに否定した。「ミードじゃない。彼はちがう!」
ゴーレムは針を持ち上げ、バートンの眼の近くにすえた。
「私の父は解放されるわ。あなたにはその力があるわ」
「ドクター・ミードじゃだめだ」バートンはくり返した。「おれにはとても――」彼は首をふった。「ミード。煙草と楊子とピン・ストライプの服。彼はそれだけの人間だ!」
「それはあなた次第よ。あなたは父の本当の姿を見たでしょう」彼女の最後の言葉はバートンの胸に突き刺さった。「これが私があなたをここに連れてきた理由よ。元の町の再建のためではないわ!」
ヘビがバートンの脚をすべって行った。ゴーレムは肩からとびおり、そのあとを追った。バートンはもがいて立ち上がった。からんでいたクモの糸は切れていた。ミツバチの群れが現れた。太陽がのぼりはじめていた。だんだんにミツバチが数を増した。ゴーレムやネズミを根絶やしにしていくだろう。
めくるめく困惑の中で、バートンはすべったり、よろめいたりしながら、急坂を道路の方に下りていった。そして呆けたようにあたりを見まわした。ドクター・ミードはすでにステーション・ワゴンを走らせていた。ネズミ、クモ、ゴーレムの集団が、うごめくカーテンのように車を覆っている。ミードは少しずつ路肩に近づいているのを感じていた。彼ははじめてハンドルを切り、崖っ縁から落ちかけた車輪を戻し、車を元に直すとまた進んだ。
その背後にはアーリマンの緩慢な巨体があいかわらず拡大していた。その触手は大きな輪を描き、のたくりながら伸び、あらゆるものをつかんで、ゼリーのかたまりの中に運んでいく。その悪臭は圧倒的なものだった。バートンは吐き気を催し、あとずさりした。それはすでに驚くべき規模にまでなっていた。
ミードは道路に達した。車はスピードを上げていた。車がひどく傾くと、ハンドルを誤って道路フェンスに激突した。ネズミもゴーレムも四方に放り出された。車は震動し、キーキーいう音が続いた。
バートンは丸石を持ち上げた。ほかに方法はなかった。這い上がってくる灰色の層を通りぬけることはできない――それに車はあっという間に彼をひき倒すだろう。車は真っ向から突進してきたので、彼は身体をまげ、力をこめて大きな石を投げつけた。
丸石は見事に役割を果した。車のボンネットに命中し、はずんですべり、風防ガラスの左側を割って車内にとびこんだ。ガラスは四方にとび散った。車はめちゃくちゃに突っ走った――そして坂のふもとの壁にぶつかって、ギーッという音をたてて停車した。水とガソリンが裂けたエンジンから噴出した。ネズミとクモは、好機とばかりに、割れた風防ガラスからなだれを打って入りこんだ。
ミードは車からとび出した。その顔は見分けがつかぬほど、恐怖のあまりゆがんでいた。ステーション・ワゴンから狂気のように抜け出すと、まっすぐ道路の中央に走り出た。衣服は裂け、皮膚は数えきれぬほどの黄色い歯痕で血みどろだった。おたがいにぶつかり合うまで、ミードはバートンに気づかなかった。
「ミード!」バートンは叫んだ。彼はよろめいた男の襟をつかみ、立たせた。「おれだよ」
ミードのうつろな眼がきらりと光って、バートンを見上げた。ミードはものいえぬ動物みたいに口をぱくぱくさせた。識別能力も思考能力も失っていた。恐怖のあまり呆然自失している。バートンにも彼を責める資格はなかった。
灰色の生きものの大群は道路にあふれ、殺戮《さつりく》の対象を求めていた。あらゆるものの上に、アーリマンの復讐《ふくしゆう》の影が大きくおおいかぶさっていた。
「バートン」ミードは嗄《しわが》れ声を出した。「たのむ、放してくれ!」彼は逃げようともがいた。「やつらに殺される。われわれは――」
「いいか」バートンの眼はミードの震える顔にすえられた。「あんたが何者なのかはわかっている。おれは正体を見破っているんだ」
その一言の効果はてきめんだった。ミードの身体がひきつった。口がだらりと開いた。
「何者なんだ――私は!」
バートンは念力を集中した。ミードの襟をしっかりつかむと、あの朝岩棚からはじめて見た巨大な姿の一部始終を思い出した。威厳ある巨人は沈黙のまま腕を宇宙にのばし、その頭は太陽の燃える球体の中で見えなかった。
「そうだ」ドクター・ミードはいきなり不思議なほど静かな声でいった。
「ミード」バートンは息を切らせていった。「わかったのか? 自分の正体が――それをはっきりと――」
ミードは乱暴にバートンの手をふりはなした。ぎごちなく身をひるがえし、よろめき、道路にけものみたいにうずくまった。身体を硬直させ、腕をつき出し、全身をけいれんさせた。それから操り人形のごとく踊り出した。その顔はぴくぴく動き、まるで溶けて崩れはじめ、ワックスのかたまりになるかのようだった。
バートンは急いで彼のあとを追った。ミードは苦悩にころげまわり、それからとび上がった。けいれんが全身を走り、手足を人形みたいにぎごちなく動かし、頭をうしろにかたむけ、やたらとくるくる回って、倒れた。
「ミード!」バートンは絶叫した。
彼はミードの肩をつかんだ。上着がくすぶっていた。ひりひりするような煙が鼻を刺す。上着が裂けた。バートンは彼の体をぐるりと回すと襟をつかんだ。
それはミードではなかった。
いままで見たこともない者だった。いや、見たこともない物だった。それは人間ではなかった。ドクター・ミードの面影はどこにも残っていなかった。再形成されたものは強そうで、粗野だった。バートンはそれを一瞥《いちべつ》できただけだった。タカのように尖った口、薄い唇、狂暴な灰色の眼、ふくらんだ鼻筋、長い鋭い歯。
すさまじいうなり声。大激動がバートンを打ちのめした。盲目となり、聾唖と化した。全世界が目の前で大爆発を起こした。彼はふりまわされ、昏倒《こんとう》した。転がされて置き去りにされた。彼をノックアウトした炎のこぶしは、彼方の虚空へと消えていった。
あたりはすべて空間だった。彼は落下し続けていた。長い道のりを全く重量感もなく落下していた。彼を追いこして漂っていくものがある。球体。光のボール。彼は呆けたようにそれをつかんだ。それは彼を無視し、漂い続けた。
輝くボールの集団は軽やかに周囲を飛びまわった。しばらく彼は、それが火をつかんで飛ぶ夜行虫、灰色蛾だと思っていた。彼はただのおどしのつもりでそれを叩いた。その結果は一通りの驚きではなかった。
その時、彼はひとりぼっちなのに気づいた。ここは全くの静寂だった。しかしそれほど不思議でもなかった。騒音をたてるようなものは何もない。何ひとつなかった。地球もなく、天空もない。自分ひとりと蒸気のたちこめる空間だけだった。
水滴が周囲に落下していた。熱い大粒の水滴がしゅうしゅう音をたて、飛沫をあげている。雷鳴を感じた。それはあまりに遠くて聞こえなかった。いや、彼は聞こえる耳を持っていなかった。眼もなかった。触れることも全くできなかった。光るボールはあいかわらず熱い雨の中を漂い続けていた。いまやそれらは身体に当たっては、突きぬけ、静かに反対側から出て行った。
輝くボールの一集団はなじみがあった。無限の時間と思考のあと、彼はやっとそれを思い出した。
プレアデス《スバル》星団だった。
彼の周囲をいくつもの太陽が漂い、通りすぎて行った。漠然たる警告を感じ、身をひきしめようとした。しかし何の役にもたたなかった。彼は途方もなく、何兆マイルにもわたって拡がっていた。ガス状で混沌としていた。かすかな光も放っていた。銀河系外の星雲に似ていた。拡大していく無数の星塊。無限の星系。しかしどうやって? 何が彼の落下を妨げているのか……
彼はぶらさがっている。しかも一本足で。頭を下にして、刻々と縮小していく太陽群、光の粒子の大海で、身をよじり、回転する。
だんだんと太陽群は彼をかすめ姿を消した。まるで収縮した風船みたいに、宇宙を形成していた球体はしゅうしゅう音をたて、少しの間はねまわり、彼の周囲を取り囲んだ。
その最後の瞬間は計れないほど短かった。突然それは激しくとび、消滅した。浮かんでいた太陽群、光る雲もいっせいに失われた。彼は宇宙の外にいた。彼は元いた場所に右足だけでぶらさがっていた。いまそこはどうなっているのか? 彼は身体をひねって、見上げようとした。暗黒。ひとつのかたち。彼を支えるひとつの存在。
オーマズード。
恐怖のあまり口がきけなかった。長い落下だった。終わりもなく、時間もなかった。オーマズードがそうさせたのなら、彼の落下は止めようがなかったろう。しかし同時にその反対のことも知った。落下する場所がなかった。どうやって落ちることができるか?
何かが与えられた。彼は夢中でそれをつかみ、ぶらさがろうとした。もがいてのぼろうとした。さながら一本のロープをよじのぼる怯えたサルみたいだった。手をのばし、さぐり哀れみを求めた。その哀れみをこう相手を見ることもできなかった。ただ途方もなく大きな存在だった。実在感があった。
そこにいたのはオーマズードだった。彼はオーマズードの中にいた。追い出されないように哀れっぽく嘆願した。投げ出されることのないようにと。
時間は経過しなかった。しかし長い時間かかったような気がした。彼の恐怖は変わりはじめた。それは微妙に変質した。彼は自分が何者だったかを思い出した。テッド・バートン。自分はどこにいたのか? 宇宙の外に右足だけで吊り下っていた。彼を吊り下げていたのは何者だ? オーマズード、彼が解放した神だ。
ぼんやりとした怒りがわきあがってきた。彼はオーマズードを自由にした。そしてどういうわけか、オーマズードの抛物線《ほうぶつせん》の中に吊り上げられていった。この神が上昇するにつれ、彼はぐいぐいとひっぱられていったのだ。
神は無表情だった。バートンには神が感情もなく、哀れみもないことがわかった。彼ももう哀れみは求めなかった。ひたすら事態をはっきりさせたかった。彼の内部で一切のものが爆発した。ひとつの考えが激しくわき上がってきた。その突き上げで、彼は大声を出して事態をはっきりさせた。
「オーマズード!」
彼の考えは虚空にひびきわたった。その反響が彼を震わせた。
「オーマズード!」
彼の考えは力強いものとなり、血肉と重量を与えられた。勇気がわき、頭に血が上った。
「オーマズード、おれを戻してくれ!」
何の効果もなかった。
「オーマズード!」彼は叫んだ。「ミルゲイトを忘れるな!」
静寂。
その時、その存在が消えた。彼はふたたび落下した。またしても光の点々が身体を漂いぬけていった。彼は気を取り直し、熱い雨のごとく落ちて行った。
やがて何かにぶつかった。
その衝撃は大変なものだった。彼ははねとばされ、苦痛で悲鳴をあげ、それから受けとめられた。そこにはかたちが作られていた。熱、めくるめく白い炎、空、樹木、早朝の薄明、不思議なことにとびはねる火で明るかった。彼は埃っぽい道路に横たわっていた。
仰向けに長々とのびていた。アーリマン一味のネズミやゴーレムが、こちらに群れを成してやってくる。かれらの爪で地をひっかく音がひびき、その騒音はだんだんと大きくなった。全世界、地球、その光と音と匂い。彼は元の場所、元の時代に戻っていた。シャディ・ハウスだ。
全く時間は経過していなかった。ドクター・ミードのぬけがらはまだ目の前でぐらついている。それはまだ立ったままだった。裂かれ、皮をむかれ、縮み、見捨てられていた。やがてゆっくりと崩れ、灰塵《かいじん》に帰した。その周囲数ヤードのあらゆるものが、純粋エネルギーの解放につれ、焦げて干枯びた。
「ありがとう、オーマズード」バートンは嗄《しわが》れた小声で神に感謝した。
バートンはよろよろと後退し、ばったり倒れた。アーリマンの手先である汚い触手が、彼から数ヤードしかはなれていない坂を、分泌物をにじませながらすべって行った。それは黒こげになったネズミ、ゴーレム、ヘビの死体に触れた。オーマズードが残していったものだった。触手は貪欲にバートンに迫ろうとした。ところがもう後の祭りだった。
バートンは安全な場所に這って行き、息を殺してうずくまっていた。大空ではオーマズードが戦いの場に急いでいた。アーリマンはゴムバンドのような触手をいきなりひっこめた。ふと危険を察知したのだ。バンドは、人間には理解できないほどすぐさま縮小し、その長さも短縮された。
その様子がバートンの眼にちらっと映り、戦いの時が近づきつつあるのがわかった。
二体の神の外形はまだぼんやりとしか見えなかった。その時太陽は山脈をはなれ、世界を照らしはじめた。
かれらの成長は急速だった。一瞬にして十億の太陽が爆発するごとき閃光が輝き、二体の神は地球の境界の向こうに飛んでいた。一呼吸おいて、衝撃がきた。全宇宙が震撼《しんかん》した。かれらは正面きって衝突した。一対一の対決。炎の剣はオーマズード。氷のような空虚は宇宙の破壊者アーリマン。たがいに相手をのみこみ、吸収しようとしていた。
戦いが終わるまでには長い時間を要する。ミードがいったように、おそらく数十億年はかかるだろう。
ミツバチが大群を成してやってきた。しかしそれはもうあまり役に立たなかった。溪谷――全地球――はすでに見捨てられていた。戦場は拡大していた。それはすべてを、宇宙のあらゆる分子を、それ以上のものを巻きこんでいた。ネズミは殺到するミツバチに刺されて、あわてて逃げまどった。ゴーレムは隠れ場所を求めて逃げ、やたらと針をふりまわしていた。その小さなこぶしに握りしめた針の相手はミツバチで、一対五十の差があった。それは負けいくさだった。
面白いことに、ゴーレムのいくつかはかたちのない元の粘土に戻っていた。
ヘビは最悪だった。あちこちでわずかに残ったワンダラーズに、昔ながらのやり方で石をぶつけられていた。ヘビは石で打たれ、足でつぶされた。青い眼のブロンド娘が、アメリカ・マムシをハイヒールでふみにじっているのを見て、バートンは心強かった。世界がやっと正しい軌道に戻ってきつつあった。
「バートン!」足元で甲高い声がひびいた。「あなたは成功したわね。ここよ、石の陰よ。安全が確認されるまで出たくないわ」
「もう安全さ」彼はかがんで手をさしのべた。「とんでごらん」
ゴーレムはすぐにとび出してきた。メアリと最後に会ってからそれほど経っていないのに、事態は変わっていた。彼女を高く持ち上げると、あたりがよく見えるようにした。朝の光が彼女のむき出しの手足にきらめいた。ほっそりとしなやかな身体は、かたずをのませるものがあった。
「きみがまだ十三歳とは信じられないな」
「私は十三歳じゃないわ」
すぐ答えが返ってきた。彼女はしなやかな身体をこちらに向けて、もっとよく光に当たろうとした。
「私には年齢《とし》などないのよ。だけど元に戻るには、少しばかり外部の手助けが必要だわ。この姿だとまだ強い印象を残すけど、すぐに消えてしまうでしょうよ」
バートンはクリストファを呼んだ。老人は痛そうに足をひきずりながらやってきた。
「バートン! 無事だったのか!」
「大丈夫だ。ところでまだささいな問題が残っている」
メアリは自分の身体を作っている粘土を手直ししていた。それには時間がかかりそうだった。その姿は明らかに女性のものだった。それは彼の記憶にある少女の身体ではなかった。彼が知っていたのはひずみの結果の姿であって、実像ではなかったのだ。
「きみはオーマズードの娘なのか」彼はいきなりいった。
「私の名はアーマイティ」小さな像は答えた。「かれの一人娘よ」
彼女はあくびをして、ほっそりとした身体を弓なりにそらし、細い腕をのばした。それからいきなりバートンの手から肩にとび移った。
「さあ、あなたたち二人が協力してくれるなら、私は元の姿に戻れるわ」
「オーマズードみたいにかい?」バートンは色を失った。「あんなに大きくかい?」
彼女は鈴のようなきれいな声で笑った。
「いいえ、父は宇宙の向こうに住んでいるわ。でも私はここに住んでいるのよ。ごぞんじなかったの? 父が一人娘をこの地球に住まわせるために送りこんだのよ。ここが私の住み家だわ」
「そうか。きみがおれたちをここに連れてきたのか。あのバリアーを越えて」
「あら、それ以上のことをしたのよ」
「どういうことだい?」
「変化のくる前に、あなたをここから出したことよ。そして、あなたの休暇も私の計画のうちよ。車が行く先を変えたこともよ。中央ハイウェイを通ってレイリーに行こうとした時パンクしたでしょう」
バートンは顔をしかめた。
「あのパンクを直すのに二時間もかかった。サーヴィス・ステーションの中間の事故で、ジャッキだけではどうにもならなかった。それで直った時にはもう遅くなっていた。リッチモンドに戻って、仕方なく一泊したよ」
アーマイティの鈴をふるような笑い声がまたひびいた。
「あの時はそれが一番よい方法だと思っていたのよ。ともかくあなたを操って、ずっとこの溪谷まで連れてきたわ。その時だけバリアーをひっこめたので、あなたは入れたのよ」
「そして出ようとした時に――」
「もちろん戻してあったわ。いつもあそこにあるのよ。だれかが取り除かない限りはね。ピーターはそこを自由に行き来する力を持っていたわ。私もよ。だけどピーターは私の力を知らなかったの」
「ワンダラーズが成功しないことも、地図、模型、図表を使った復元作業が失敗に終わることも知っていたんだな」
「ええ、変化の起こる前からわかっていたわ」アーマイティの声はやさしかった。「ごめんなさい、テディ。ワンダラーズは長年それを計画し、作成し、一所懸命に働いたわ。でもたったひとつしか方法がなかったのよ。アーリマンがここにいる限り、協定が保たれている限り、オーマズードがその条件に従い――」
「この町は全部でもちっぽけなものだった」バートンは口をはさんだ。「きみは特にここと関係があったわけじゃないだろう?」
「そんな気持ちじゃないわ」アーマイティはやさしくいった。「ここは全体像に比較すれば小さなものだわ。でも全体像の一部ではあるのよ。この闘争は大規模なもので、あなたには経験できないほど途方もないものよ。私自身も実際の規模は見たこともないわ。それは現実に闘争している二人にしかわからないわ。でもミルゲイトは重要よ。決して忘れられたわけではないわ。ただ――」
「ただ、その順番を待たなければならなかった」バートンはそういうと少し間をおいて、「とにかくやっと自分がここに連れてこられた理由がわかった」彼は少しにやりとした。「ピーターが拡大鏡を貸してくれたおかげだ。さもなければオーマズードの記憶も甦らなかったし、やるべきこともできなかったろう」
「あなたは自分の任務に最善をつくしたわ」
「さてこれからどうする? オーマズードは帰った。かれらは宇宙の外のどこかにいる。ひずみの層は弱まりはじめている。きみはどうするんだ?」
「私はここにいられないわ。あなたもそう考えているでしょうけど、私はもっとよく知っているわ」
バートンは咳ばらいし、とまどった。
「きみは前に人間のかたちをしていた。もう二、三年そのかたちでいられないか――」
「むりね。ごめんなさい、テディ」
「テディなんて呼ばないでくれ!」
アーマイティは笑い出した。
「わかったわ、バートンさん」しばらくその小さな指で彼の手首に触れていた。「さあ!」と突然いった。「用意はいい?」
「いいよ」バートンはしぶしぶ彼女をおろした。彼とクリストファは彼女の両脇にすわった。
「何をしたらいいんだ? きみの本当の姿を知らないんだ」
アーマイティの答える鈴の音のような声には、かすかな悲しみと、大いなる不安が含まれていた。
「私はいままでさまざまな姿をとってきたわ。あらゆるかたちとサイズになれるのよ。あなた方の考えるものになるのが一番ふさわしいわ」
「用意はできたよ」クリストファが小声でいった。
「おれもいいよ」バートンも同意した。
かれらは顔を緊張させ、身体を硬くして、心を集中しはじめた。老人の眼は大きく開き、頬は紫色になった。バートンは彼を無視し、残された力で心を集中した。
しばらくは何も起こらなかった。バートンは息を切らせ、大きく深呼吸した。眼前のクリストファと、小さな三インチのゴーレムがゆらぎぼやけていった。
それからゆるやかに、気づかぬうちに、それははじまった。
おそらくクリストファの想像力が上まわっていたのだ。彼は十分に年輪を重ねており、それを考える経験と時間が長かったのだろう。とにかく二人の間に現れたものは、バートンを圧倒した。彼女はこの上なく美しかった。信じられぬほど綺麗だった。彼は心の集中をやめ、ぽかんと見とれていた。
しばらく彼女は二人の間にいて、腰に手をあて、顎をつき出し、むき出しの白い肩に黒髪を投げ出していた。朝日にすべすべした肢体が輝いた。大きな黒い瞳、なめらかな皮膚、輝く胸は春のように満ち、硬く、上向いている。
バートンは弱々しく眼を閉じた。彼女は生殖の本質だった。女性の、いや全生命の爆発する力だった。その力、あらゆる成長するもの、すべての活動の背後にあるエネルギーが見える。信じがたい潜在力を持つ生命が、光り輝く波の中で脈動していた。
それが彼女を見た最後だった。すでに彼女は去りかけていた。いちどそのゆたかで楽しげな笑い声が聞こえた。その余韻を残して、彼女はすばやく消えつつあった。大地に、樹木に、まばゆい茂みに、蔓草《つるくさ》に、彼女は溶けていった。純粋な生命の流れとなり、湿った土壤に吸収されていった。彼は眼をしばたたき、こすり、一瞬眼を外らした。
ふたたび眼を向けた時、彼女はもういなかった。
[#改ページ]
第15章
もう夕方だった。バートンは埃だらけの黄色いパッカードで、ミルゲイトの町をゆっくりと走っていた。まだしわだらけのグレイのスーツを着ていたが、あの異常な奮闘をした夜のあと、ひげをそり、風呂に入り、休息をとった。一部始終を考えてみて、彼はかなり満足していた。
公園に入ると、ゆっくりと歩みをおとした。温かな満足感が心中にわき上がってきた。個人的誇りのようなものだ。そこに公園は存在していた。それは全く意図した通りだった。本来の計画の一部として、長い年月を経てふたたび戻ってきた。彼が復元したものだった。
子供たちが砂利道を行ったりきたりしてふざけていた。噴水池の端に腰かけ、おずおずと靴を水に浸している子供。乳母車が二台。丸めた新聞をポケットにつっこみ、足をなげ出している老人たち。これらの人たちの有様は、南北戦争時代の古風な大砲よりも、南部連盟旗よりも、彼には快く見えた。
かれらは本当の人間だった。アーリマンが去ったあと、復元した地域はふたたび拡張していた。次々と住民、場所、建物、街路が原状に復しつつあった。数日以内にそれはこの溪谷全体に拡がるだろう。
彼はメイン・ストリートに車を戻した。その街角にはまだジェファースン・ストリートの表示があった。しかし別の街角では、セントラル・ストリートの標識がゆらめき、その場所に定着しはじめていた。
そこには銀行もあった。古いレンガとコンクリートのミルゲイト商業銀行だ。昔と変わりなかった。婦人専用喫茶店は失くなっていた――永遠に。ひょっとしたら宇宙の果てに現れるかも知れない。すでに銀行には広い戸口から要人が出入りしている。ドアの上に夕陽を受けて輝いているのは、アーロン・ノースラップのタイヤ・レンチだった。
バートンはセントラル・ストリート沿いに車を走らせた。ときおり変化が奇妙な結果をもたらしていた。食料品店は店が半分しかなかった。右半分はドイル皮革品店だった。その奇怪さに首をかしげた人が立ちつくしていた。あの変化は巻き返されつつあった。その店に入っていくと奇妙な感じがするだろう。なにしろ左右二つに分かれた世界を経験することになるのだから。
「バートン!」聞き慣れた声がひびいた。
バートンはゆっくりと車をとめた。ウイル・クリストファがマグノリア・クラブからとび出してきた。ビールのジョッキを片手に、陽焼けした顔をほころばせている。
「待っててくれ!」彼は昂奮して叫んだ。「わしの店がもうじき戻ってくる。幸運を祈ってくれ!」
彼は正しかった。洗濯屋がおぼろげになってきた。なめずる舌のようにひたひたと迫ってくるものがあった。となりの古く老朽化したマグノリア・クラブはすでに消えかけていた。その中に別のかたち、よりはっきりとしたかたちが現れてきた。クリストファは複雑な気持ちでこれを見つめていた。
「わしはあの店を失おうとしているんだ。十八年間も毎日通ったあとにな――」
彼のジョッキも消えていた。同時にマグノリア・クラブの最後のゆるんだ板壁が失くなった。立派な靴店がだんだんとゆらめき、存在がはっきりしてきた。そこは前には安バーだった。
クリストファは狼狽した叫びをあげた。ふと自分が女性のハイヒール・サンダルの革紐をつかんでいるのに気づいたからだ。
「あんたの店は次だ」バートンが楽しげにいった。「洗濯屋は消えてきた。もうすぐだ」
バートンはウイル販売サーヴィス店のおぼろげな外形が中から現われるのを見てとった。彼の脇ではクリストファも変わりはじめていた。彼は店に気をとられているので、自己の変貌《へんぼう》には気がつかない様子だった。
彼の身体はしゃんとのび、あの衰えてたるんだ様子はなくなった。皮膚は張りをとり戻し、バートンもはじめて見る若々しい肉体がそこにあった。眼は明るく輝き、手もごつごつとしてきた。その汚い上着やズボンは、チェッカーの青い作業服とズボン、革のエプロンにとって替わった。
洗濯屋の残りの部分が消えた。それが去ると――ウイル販売サーヴィス店が現れた。
テレビジョン・セットが真新しいショーウインドウにぴかぴか光っていた。それは明るい近代的な店だった。ネオン・サイン、新しい電気製品。通行人はすでに立ちどまり、楽しげに展示品をのぞきこんでいる。カップルが店と一緒に現われた。ウイル販売サーヴィス店は目立つ存在だった。セントラル・ストリートの中で最も人目をひく店だった。
クリストファはもう居ても立ってもいられなかった。しきりに中に入って仕事にかかりたがった。ベルトにさしたドライヴァを指でいじりまわしていた。
「作業台にテレビ・セットがおいてあるんだ」彼はバートンに説明した。「ブラウン管が映るのを待っているんだ」
「わかったよ」バートンは笑った。「中に戻れよ。仕事をじゃまするつもりはないよ」
クリストファはうれしそうな笑いを浮かべてバートンを見たが、かすかなとまどいの影がその善良そうな表情に走った。
「オーケー」彼は勇んでいった。「また会おう、ミスター」
「ミスターか!」バートンはびっくりしておうむ返しにいった。
「きみの気持ちもわかるよ」クリストファは考え深げに小声でいった。「だけどあんたを適当な場所に連れていくわけにもいかん」
バートンは急に悲しくなった。「くそくらえだ」
「わしはきみと働いてきた。気持ちもよくわかっている。しかしいまの環境だと、あんたはいる場所がない」
「ここに住んでいたのは昔のことだ」
「引っ越したんだろう?」
「一家はリッチモンドに移った。ずっと昔のことだ。子供の頃のことだ。ここで生まれたんだ」
「そうとも! わしはきみをよく見かけた。ええと、名前は何といったっけ?」クリストファは眉をひそめた。「テッドなんとかいったな。大きくなったな。あの頃はほんの小さな子供だった。テッド……」
「テッド・バートン」
「そうだった」
クリストファはバートンの車内に手をさし入れ、二人はまじめくさって握手した。
「戻ってきてくれたのはうれしいよ、バートン。ここにはしばらく滞在するんだろう?」
「いや。帰らなくてはね」
「休暇をここで過ごしたのか?」
「そうだ」
「大勢の人間が現れたぞ」
クリストファは道路を指さした。車が数台そこに現れはじめていた。
「ミルゲイトは拡大する町だ」
「電線だ」とバートン。
「おい、わしの店が通りがかりの車の運転者の眼をひいているぞ。これからはここを通って郊外に行く車がもっと増えるぞ」
「そいつはまちがいないな」バートンは認めた。
彼は荒れ果てた道路、雑草、立ち往生していた丸太トラックのことを考えていた。あそこも交通量が増えるだろう。ミルゲイトは十八年間隔離されてきた。それを償うのに十分だった。
「おかしいな」クリストファはおもむろにいった。「何かあったことはたしかだ。それほど昔のことではない。きみもわしも巻きこまれていた何かだ」
「そうかな?」バートンは望みをかけていった。
「大勢の人々が関係していた。医師も一人いた。モーリスだったか、ミードだったかな。ミルゲイトにドクター・ミードはいない。ドーラン老医師だけだ。動物もいた!」
「そのことは心配ない」バートンは笑った。
そしてパッカードをスタートさせた。「さようなら、クリストファ」
「こちらにきた時には寄ってくれよ」
「そうするよ」バートンは答え、スピードを上げた。
うしろでクリストファが手をふっていた。バートンも手をふり返した。しばらくしてクリストファはきびすを返すと店に急いで戻った。仕事に戻れるのはうれしかった。復元の炎は彼が元にもどるとともに、終わりを告げていた。彼はすべてをとり戻していた。
バートンはゆっくりと車を走らせた。あの金物店、気まぐれな店主の老人は姿を消していた。あれは彼を楽しませてくれた。ミルゲイトはそれがなくなっても暮らしむきに不便はなかった。
パッカードはミセス・トリリングの下宿を通りすぎた。いや、むしろミセス・トリリングの下宿屋だったところというべきか。いまそこは自動車販売店になっていた。ぴかぴかの新型フォードが大きなショーウインドウに飾られている。すばらしい。これでよいのだ。
ここは昔のままのミルゲイトだ。アーリマンが決して見せなかったものだ。闘争はまだ宇宙全体に続いていた。しかしこの場所においては光明の神の勝利は確定的だった。いや完全ということはありえない。それに近いものといった方がよい。
パッカードが町をはなれ、山腹の長い坂にさしかかると、車のスピードを上げた。峠を越すとハイウェイだ。道路はまだひび割れて雑草が生えている。ふとあのことを思い出した。バリアーはどうなったろうか? まだあそこにあるだろうか?
バリアーはなかった。丸太トラックと散乱した積み荷の材木は消えていた。それがあったあたりには、下敷きになって折れまがった雑草が証拠として残っているだけだった。彼には奇妙な感じがした。神々を拘束していたのはどんな法則だろうか? そんなことを考えたのははじめてだった。しかし明らかに神々のなすべきことがあった。それはかつて神々が協定したことだった。
カーヴをまわって山の向こう側に出た時、いつかペグのいった二十四時間の制限時間が切れたことに気がついた。彼女はおそらくリッチモンドに向かう途中だろう。ペグのいった言葉を反芻《はんすう》してみた。次に二人が会うのはニューヨークの裁判所だろう。
バートンは暖かいシートに背をもたれ、ゆったりとした。元の生活に戻る可能性はあるまい。ペグは出て行った。彼女との生活はもう終わったのだ。それをはっきりさせた方がよい。
そしていずれにしろ、あれこれ考えてみても、ペグは少し鈍感のように思える。
彼はあのすべすべした輝く身体を思い出していた。しなやかな肢体は早朝の露に湿った大地の中に拡散していった。緑の黒髪、輝く黒い瞳、赤い唇、白い歯、むき出しのまぶしい四肢。彼女はバートンからはなれると、溶けて、ふるさとの大地の中に浸みこんでいった――そして彼女は消えた。
消えてしまった? いや、アーマイティは去ったわけではない。彼女はいたるところに存在している。樹木にも、緑の野原にも、湖水にも、森林にも。彼を取り巻く肥沃な溪谷と丘陵にも。彼女はバートンの周囲にもいた。彼女は全世界を充たした。そこに住み、そこをはなれることはない。
二つの高い山を分けて道路がのびていた。バートンはその間をゆっくりと走りぬけた。どこまでも続く丘陵、峰々は等しく高く、緑に満ちて、午後の太陽の下に暖かく輝いていた。
バートンはため息をついた。今後いずれのところでも、彼女の面影を見い出すことになるだろうと。
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地球乗っ取り計画
[#地付き]――Project; EARTH
その音はだだっ広い木造住宅の中をうつろに反響した。台所の食器類をゆすり、屋根の樋を震わせ、遠い雷鳴のごとくゆるやかに隅々まで響いた。時おり止んではまたはじまり、静かな夜にきまって容赦なく乱暴に聞こえた。家の最上階が発生源だった。
バスルームの中で三人の子供は椅子のまわりに集まり、気が高ぶった嗄《しわが》れ声で話しながら、好奇心でたがいに押し合いをしていた。
「ぼくたちは本当に見つからないかな?」トミーは甲高い声でいった。
「見つかるわけないだろう? 音をたてるなよ」デイヴ・グラントは椅子の上で身をよじると顔を壁に向けた。「あまり大きな声を出すなよ」彼は二人を無視して壁の中をのぞきこんだ。
「私にも見せてよ」ジョアンは小声でいうと、肘で足をつついた。「そこをどいてよ」
「しいーっ」デイヴは妹を押し戻した。「いまいいところだ。電灯をつけたぞ」
「ぼくにも見せろ」トミーはそういうとデイヴを椅子からバスルームの床に突き落とした。
「文句あるか」
デイヴはふくれただけだった。「おまえだけの家じゃないぞ」
トミーは慎重に椅子に乗った。顔を壁にくっつけ割れ目に眼をすえた。しばらくは何も見えなかった。割れ目はせまく、向こうのライトは暗かった。やがて眼が慣れると、壁の向こうのかたちが見えてきた。
エドワード・ビリングズは古風な大机にすわっていた。タイプの手をとめ、眼を休ませている。ヴェストのポケットから丸い懐中時計をとり出した。ゆっくりと念入りにネジを巻く。メガネを外したその顔はやせてしぼんでおり、あからさまに寒々とした老いた鳥を思わせる。しばらくしてメガネをかけると椅子を机に引きよせた。
慣れた指を眼の前にある大きなタイプのキーに置くと打ちはじめた。ふたたびあのまがまがしい音が家中にひびきわたり、そのやかましいリズムをとり戻した。
ビリングズ氏の部屋は薄暗く、ちらかり放題だった。書籍や書類がいたるところにおかれ、書棚、机、テーブル、床に山を成していた。四方の壁は図表、組織図、地図、天文図、黄道十二宮図などで埋めつくされている。窓際には埃をかぶった化学薬品瓶や包みが積み上げられている。灰色の剥製《はくせい》の鳥が本箱の上にとまってうなだれていた。机上には大型拡大鏡、ギリシャ語とヘブライ語の辞書、切手箱、骨製のペーパー・ナイフ。ドアには丸まったハエとり紙のリボンが、ガス・ヒーターの温かい微風にゆれている。
映写器が壁際に置いてある。布製の黒カバンがその上に積んであった。シャツ、靴下、長いフロック・コート、いずれも色あせ、糸がほつれている。茶色の紐で束ねられた新聞雑誌。大きな黒い傘がテーブルにたてかけてあり、石突きのまわりには水滴が小さな水たまりを成している。蝶の標本がガラスケースの中で黄色い綿に押しつけられていた。
そして机には老いた大男が古いタイプライターと、ノートと書類の山にかがみこんでいた。
「ちえっ、またか」とトミー。
エドワード・ビリングズは報告の作成に余念がない。報告書はそばの机に拡げてある。分厚い革張りの本で、ひび割れたとじ目がふくらんでいた。彼はノートの山からデータを報告書に書き移していった。大型タイプライターのどっしりした打音は、バスルームの照明器具や、薬品キャビネットの瓶やチューブをかたかたとゆすった。子供たちの足下の床までもゆれた。
「あの人、共産党のスパイかなにかよ」ジョアンはいった。「町の地図を作って、爆弾を仕掛け、モスクワの指令で爆発させるとかさ」
「あんちくしょう」デイヴは怒りをこめた。
「地図や鉛筆や書類をよく見たらどう? ほかにも何か――」
「しいーっ!」デイヴは制した。「聞こえるぞ。あれはスパイじゃない。スパイにしては老いぼれすぎているよ」
「それじゃ何者?」
「知らない。だけどスパイじゃない。おまえは見る目がないよ。スパイというのはひげを生やしているんだ」
「それなら犯罪者よ」とジョアン。
「ぼくは一度だけ話したことがある」とデイヴ。「下に降りてきて、ぼくに話しかけるとバッグからキャンディを出してくれた」
「どんなキャンディ?」
「名前は知らない。硬いキャンディだった。うまくなかったよ」
「何をしているんだろう?」トミーが割れ目からふり返っていった。
「一日中机にすわってタイプしている」
「働いてないの?」
デイヴは冷笑を浮かべた。
「それが彼の仕事さ。報告書を作っているんだ。会社の役員だよ」
「どんな会社?」
「忘れたよ」
「外には出ないの?」
「屋根に出るよ」
「屋根に?」
「そこにポーチがあるんだ。うちで作ったのがね。アパートの一部分さ。彼は園芸箱を作った。下に降りて、裏庭からゴミを持ってきて堆肥にしているんだ」
「しいーっ!」トミーは注意した。「彼がふり向いたぞ」
エドワード・ビリングズは立ち上がっていた。タイプライターを黒い布でおおい、押し戻すと、鉛筆や消しゴムを集めた。机のひきだしを開け、鉛筆を中にしまった。
「すんだぞ」とトミー。「仕事を終えたぞ」
老人はメガネを外し、ケースに納めた。疲れたように軽く額を叩き、カラーとネクタイをゆるめた。その首は長く、筋が黄ばんだしわだらけの皮膚から突き出していた。喉仏はコップの水をのむと上下に動いた。
その眼は青いが淡くて無色に近い。しばらくその無表情な鷹みたいな顔でトミーの方を見つめていた。それからいきなり机をはなれ、ドアに向かった。
「ベッドに行くぞ」とトミーがいった。
ビリングズ氏はタオルを腕にかけて戻ってきた。机に立ちどまり、タオルを椅子の背にかけた。分厚い報告書を机から書棚にしっかりと両手で運んでいった。かなり重そうだった。書棚におさめるとまた部屋を出た。
報告書はかなり字の細かいものだった。トミーは割れ目から革の装丁に押してある金箔文字を読みとった。その字を長いこと見つめていた――そのうちジョアンがトミーを割れ目から押しのけ、椅子からおろした。
トミーはあとずさりしてはなれた。いま見たものにすっかりとりつかれていた。分厚い報告書は膨大な資料をもとに、あの老人がくる日もくる日もタイプして作り上げたものだ。机上の電気スタンドのちらちらするあかりの中で、トミーは汚れた革装丁の金箔文字をようやく読みとった。
〈プロジェクトB・地球《アース》〉
「行こうぜ」デイヴがいった。「彼は二、三分でここにくるよ。のぞき見している現場をつかまるぞ」
「彼が怖いの?」ジョアンは冷笑した。
「おまえだってそうだろう。ママだってそうだ。みんなそうさ」彼はトミーを見た。「怖くないかい?」
トミーは首をふった。
「あの本に何が書いてあるのか知りたいよ」彼は呟いた。「あのじいさんの狙いは何なのか知りたいな」
午後の陽射しは明るいが冷たかった。エドワード・ビリングズは片手に空バケツ、もう一方の手に丸めた新聞を持ち、ゆっくりと裏階段をおりてきた。途中で一息入れ、まぶしげに眼を細めてあたりを見まわした。やがて裏庭の濡れた草のしげみを押し分け、姿を消した。
トミーはガレージのうしろから現れると、静かに裏階段を二段ずつのぼり、暗い廊下を足早に歩いた。
すぐエドワード・ビリングズの部屋の前に佇んで、大きく息をしながら聞き耳を立てた。
何の物音もしなかった。
トミーはノブをまわしてみた。ドアは簡単に開き、中に入った。生温かくかび臭い空気がどっとおしよせ、廊下に流れていった。
あまり時間がなかった。ぐずぐずしていると、老人は裏庭からゴミバケツをさげて戻ってくるだろう。
トミーは部屋に入ると書棚に向かった。心臓がどきどきしていた。分厚い報告書はノートと書類の山の間にある。書類を押しやり、報告書をとれるようにした。報告書を急いででたらめに開くと、厚いページはばりばり音がし、折れ曲がった。
〈デンマーク〉
国勢と実情。無数の現況、記録と記事がびっしり並んでいる。タイプした文字の列が目の前におどっていた。彼にはほとんどわからなかった。次の項をめくった。
〈ニューヨーク〉
ニューヨークについての現況。彼は記事の見出しを理解しようとつとめた。人口、動静、生活、収入、余暇、市民の信条、宗教、政治、思想、道徳、年齢、健康状態、知能、グラフと統計、平均と評価。
評価。査定。彼は首をふると別の項をめくった。
〈カリフォルニア〉
人口、富、州政府の活動状況、港湾。現況、現況、現況――
すべてが現況で、世界中にわたっている。親指で報告書をめくる。世界のいたるところが出ている。すべての都市、各州と郡。あらゆる入手可能な情報。
トミーは不安気に報告書を閉じた。おちつかなく部屋の中を歩きまわり、ノートや書類の山、クリップでとめた紙片や図表を調べた。あの老人は毎日タイプをしている。現況、世界中の事実を集めている。地球。地球の報告書。地球とそのすべて。全人類。人類の思考と成果の一切。思想と行動。業績、信条、偏見、全世界の情報を総合した一大報告書。
トミーは机から大きな拡大鏡をとり上げた。それで机の表面、その木質を調べた。すぐ拡大鏡を置くと、骨製ペーパー・ナイフをとり上げた。それを置くと隅にあるこわれた映写器を改めた。死んだ蝶のケース、剥製の鳥、化学薬品の瓶。
彼は部屋を出ると屋根のポーチに行った。午後の陽光がさんさんと輝いている。太陽は西にかたむきつつあった。ポーチの中央に木箱がおいてあり、そのまわりにゴミと草が積まれている。手すり沿いに大きな素焼きの壷、肥料の袋、湿った種子の包み、ひっくり返ったスプレー、汚れたタオル、カーペットの切れはし、ぐらぐらする椅子、じょうろ。
木箱の上にはワイヤが網の目のように張りめぐらされていた。トミーは身をかがめ、ネットの中をのぞいた。小さな草が列をなして植わっている。土の上には苔のようなものが生えていた。からみ合った植物、小さいがかなり複雑なものだった。
干し草が一カ所に積み重ねてあった。一種のまゆのようなものがある。
虫? 昆虫の一種? 動物?
彼は麦わらを拾うとネットの間から干し草をつついてみた。草が動いた。何かがその中にいる。草の間にはそこかしこにまゆがあった。
いきなりまゆのひとつから何か走り出し、草の間を横切って行った。それは怯えた泣き声のような音をたてた。二番目のが同じ行動をとった。ピンク色したものが急いで逃げて行く。甲高い声を出すピンクの群れは、二インチぐらいの大きさで、草の中にあわてて走りこんだ。
トミーはさらに身をかがめ、ネットを通し、熱心にそれが何であるか見きわめようとした。無毛である。動物の一種か。バッタみたいに小さい。幼虫なのか? 動悸《どうき》が早くなった。幼虫か、あるいは――
物音がした。トミーはあわててふり返り、思わず身体が硬直した。
エドワード・ビリングズがドアのところに立ち、息をはずませていた。ゴミバケツをおろし、ため息をつくと、ダーク・ブルーの上着のポケットのハンカチを手さぐりした。黙って額をふき、木箱の脇に立っている少年をにらみつけた。
「だれだね、きみは?」ビリングズは一息入れていった。「はじめて見る顔だが」
トミーは首をふった。
「ううん」
「ここで何をしているんだ?」
「何もしていない」
「このバケツをそこまで持っていってくれないか? 意外と重いものでね」
トミーはしばらく棒立ちになっていた。やがてそこに行くとバケツを持ち上げた。それをポーチに運び、木箱のそばにおいた。
「ありがとう」ビリングズはいった。「助かったよ」
彼の淡色の鋭い眼が少年をさぐるようにぱちぱちした。そのやせこけた顔はきびしそうだが、決して意地悪そうではなかった。
「わしよりかなり強そうだ。いくつだね? 十一歳ぐらいか?」
トミーはうなずいた。彼は手すりの方にあとずさりした。二、三階下は表通りだった。マーフィ氏がオフィスから帰宅途中だった。子供が幾人か街角で遊んでいる。向かい側には撫で肩に青いスウェーターをひっかけた若い女性が芝生に打ち水をしている。トミーはすっかり安心した。この老人がどんな行動に出ても――
「どうしてここにきたのかね?」ビリングズは尋ねた。
トミーは無言だった。二人ともじっと向かい合って立っていた。猫背の老人は旧式の黒っぽいスーツを着て大きく見える。トミーは赤いスウェーターにジーンズ、学生帽を冠り、テニス・シューズをはいていた。そばかすだらけのトミーはネットでおおった木箱に眼をやり、それからビリングズに戻した。
「あれか? あれを見たいのかね?」
「あの中には何が入っているの? あれらは何なの?」
「あれら?」
「あそこにいるのは虫? そんな風には見えなかったけど。何なの?」
ビリングズはゆっくりと歩みよった。身をかがめネットの端をはずした。
「何だか見せてやるよ。興味があるかな」
彼はネットをゆるめひっぱった。
トミーは近づき大きく眼を開けた。
「どうだ?」ビリングズはしばらくしていった。「何だかわかるかな?」
トミーは軽く口笛を吹いた。
「ぼくにはこう思えるんだけど」彼はゆっくりと身体を起こすと蒼ざめていった。「あまりたしかじゃないけど――小さな人間みたいだ!」
「それは正確じゃない」ビリングズはいった。
彼はぐらぐらする椅子にどっかり腰をおろした。上着のポケットからパイプと使い古したタバコ袋をとり出した。ゆっくりと震える手でタバコをパイプにつめた。
「人間そのものじゃない」
トミーはじっと木箱の中をのぞき続けた。まゆは小さな家だった。そこに小さな人間が入っている。その幾人かはいま外に出ていた。かれらは肩をよせ合ってトミーを見上げている。小さなピンクの生きもの。二インチほどの背丈。裸だった。ピンク色をしているのはその肌だった。
「もっとよく見てごらん」ビリングズはささやいた。「頭を見てごらん。何が見える?」
「あまり小さすぎて――」
「机の上から拡大鏡を持ってきてごらん」
彼はトミーが急いで書斎に下りて行くのを見守った。トミーはすぐに拡大鏡を持って引き返してきた。
「さて、何が見える?」
トミーはレンズを通してそれを調べた。かれらは完全な人間に見えた。手も足もある。女性もいる。かれらの頭。眼を細くして見た。
そしてトミーは尻ごみした。
「どうした?」ビリングズは尋ねた。
「この連中は――この連中はおかしい」
「おかしい?」ビリングズは笑った。「そうだろう。きみは見慣れていないからな。かれらはきみたちとはちがう。しかしおかしなところはない。悪い点は何もない。少なくともないと信じたいね」
彼の笑いは消え、パイプをくわえるとじっと考えこんだ。
「あんたが作ったの?」トミーはたずねた。
「わしが?」ビリングズはパイプを口からはずすと、「いや、わしじゃない」といった。
「どこで手に入れたの?」
「わしは借りているんだよ、サンプルとしてね。本当はもっといるんだ。かれらは新種でね。できたてなのさ」
「一人でいいから売ってくれない?」
ビリングズは笑った。
「いや、だめだ。すまんがその気はない。保護する責任があるんだ」
トミーはうなずくと、また観察した。拡大鏡を通してかれらの頭がよく見えた。かれらはたしかに人間とは異なっていた。額からアンテナがとび出しており、小さなワイヤ状の突起物は根元がこぶの中に消えている。昆虫の触角に似ていた。かれらは人間ではないが、人間に近かった。アンテナを除けば普通の人間のようだった。アンテナとそのあまりの小ささが異なっていた。
「かれらは別の星から来たの?」トミーはたずねた。「火星、それとも金星?」
「いや」
「それじゃどこから?」
「答えにくい質問だ。その質問には意味がない。かれらと関連がないからな」
「あの報告書は何のためのもの?」
「報告書?」
「部屋にある分厚い本さ。あんたの毎日していることだよ」
「わしは長いことこの仕事に従事してきた」
「どのくらい?」
ビリングズは笑った。
「それも答えられないな。意味がない。だけどたしかに長い間だ。やっと終わりに近づきつつある」
「それで何をしようとしているの? 全部完成した時に」
「それを上司に渡すのだ」
「上司って?」
「きみにはわからんだろう」
「どこにいるの? この町にいるの?」
「そうともいえるし、ちがうともいえる。答えようのない質問だ。おそらくそのうちにきみも――」
「あの報告書はぼくたちについてのものだね」
ビリングズは首をまげた。その鋭い眼でトミーを穴のあくほど見つめた。
「ええっ?」
「あれはぼくたちのことだね。あの報告書、あのゲンキョウばかりの本は」
「どうしてわかる?」
「見たもの。表題がそうなっていたもの。地球についてのことだろう?」
ビリングズはうなずいた。
「ああ、地球のことだ」
「あんたは地球人じゃないね。どこかほかの星からきた人だろう。太陽系以外の」
「ど、どうしてそれがわかる?」
トミーは優越感でにやりとした。
「いろいろな方法でね」
「どのくらい報告書を読んだね?」
「ほんの少し。あれは何のためなの? どうしてあんなものを作っているの? あれで何をしようとしているの?」
ビリングズはしばらく考えこんでからいった。
「それのためさ」彼は木箱を指さした。「プロジェクトCに利用するのだ」
「プロジェクトC?」
「第三プロジェクトだ。その前に二つのプロジェクトがあった。長い期間があった。各プロジェクトとも念入りに計画され、決定に至るまで実に長いこと新しいファクターが考慮される」
「いままで二つもあったの?」
「アンテナはそのためのものだ。完全な知覚能力の新調整。ほとんど先天的動因に寄らないためだ。より大きな柔軟性。全体的感情指数の減少、しかし本能と欲望のエネルギーの中に失ったものは、合理的管理の中に得る。わしは伝統的集団学習よりも、むしろ個人的経験に重点をおくことを望んでいる。ステレオ・タイプの思考の減少、状況管理の急速発展の促進」
ビリングズの言葉の意味は全くわからず、トミーはめんくらっていた。
「ほかのプロジェクトはどうしたの?」
「ほかのプロジェクトか? プロジェクトAはずっと昔の話だ。わしの記憶もおぼろげだ。翼があったな」
「翼?」
「かれらには翼があった。可動性に頼り、かなり個性的な性格を持っていた。最終分析で、自意識過剰が見られた。自尊心だ。かれらは自尊心と名誉心を持っていた。それに好戦的だった。たがいに戦いをいどんだ。小さな対立党派に細分化され、そして――」
「もうひとつのプロジェクトは?」
ビリングズは手すりでパイプを叩いた。彼は話を続けたが、それは目の前の少年にというよりも自分自身にいいきかせていた。
「翼人は高度の生物への最初の試みだった。プロジェクトAが失敗したあと、会議が開かれた。その結論として出てきたのがプロジェクトBだ。プロジェクトAはある面では成功だった。過剰な個性をとりのぞき、かわりに集団指導方法をとり入れた。集団的に学習と経験をさせる方法だ。そのプロジェクトを確実なものにするために全般の管理を望んだ。最初のプロジェクトの経験から、成功をおさめるためにはより大きな監督が必要であることを確信した」
「プロジェクトBはどうだったの?」
トミーはビリングズのこむずかしい話に、どこかわかるところはないかと探りを入れてみた。
「先ほどいったように、翼人から翼を外した。一般的外形特徴はそのまま残しておいた。管理体制はしばらく維持されたが、この第二のタイプもまたパターンから外れ、われわれの監督の及ばない意思強固なグループに分かれてしまった。最初のAタイプの生きのこり連中がかれらに影響を与える媒体となった。ただちに最初のタイプを絶滅させるべきだったのだが――」
「何か残っているの?」
「プロジェクトBのか? もちろんさ」ビリングズはもどかしげにいった。「きみたちがプロジェクトBだ。それがわしのここにいる理由だ。報告書が完成すれば、きみたちのタイプの究極の性質がはっきりしてくる。わしの勧告がプロジェクトAに関しての結論と一致するものであることは疑いない。このプロジェクトがかなり意図や目的の領域を外れたため、きみたちはもはや必要ないと――」
トミーは聞いていなかった。彼は木箱にかがみこみ、中の小さな人影をのぞきこんでいた。九人の小さな男女。九人――世界にこれだけだった。
トミーの身体が震えだした。昂奮が身体を走りぬける。突然ある考えが頭の中に閃《ひらめ》いた。顔がこわばり、身体が緊張した。
「もう帰る」彼はポーチを出て部屋をぬけ、廊下の方に行きかけた。
「帰る?」ビリングズは立ち上がった。「それにしても――」
「帰る時間だ。遅くなるといけないからね。またくるね」彼は廊下へのドアを開けた。
「さようなら」
「それじゃさようなら」ビリングズ氏は驚きながらもいった。「また会いたいね。坊や」
「ぼくもさ」トミーはいった。
彼は全力で家に駆け戻った。ポーチの階段を一足とびにあがると家の中にとびこんだ。
「ちょうど夕食よ」母が台所から声をかけた。
トミーは二階への階段で立ちどまった。
「また出かけるんだ」
「だめよ! どこに行こうと――」
「長くかからない。すぐ戻ってくるよ」
トミーは急いで自室に駆け上がり室内を見まわした。黄色く塗った明るい部屋だった。ペナントが壁にかけてある。大きな洋服ダンスと鏡、ブラシ、櫛。模型飛行機、野球選手の写真、瓶の王冠を入れた紙袋、ひび割れたプラスチック製の小型ラジオ、こまごましたがらくたでいっぱいの木製の葉巻の空き箱。
トミーは木箱を一個つかみ、中身をベッドにぶちまけた。ジャケットの内側に箱を隠し、部屋をとび出した。
「どこへ行くんだ?」
父親は読んでいた夕刊を下ろすと、息子を見上げた。
「すぐ戻るよ」
「夕食の時間だとお母さんもいっていたろう。聞かなかったのか?」
「すぐ帰ってくるよ。大事な用があるんだ」
トミーは玄関のドアを押し開けた。冷たい夕風が吹きこんできた。
「本当だよ。とても大事なことなんだ」
「十分だぞ」ヴィンス・ジャクスンは腕時計を見ていった。「遅くなったら夕食はかたづけてしまうぞ」
「十分ね」
トミーはドアをバタンと閉め、石段を駆けおりると暗がりにとび出していった。
ビリングズ氏の部屋の鍵穴とドアの下から明かりがもれていた。
トミーはしばらくためらった。それから手をあげると部屋をノックした。しばらく何の応答もなかった。やがてもそもそ動く物音がし、重い足音が聞こえた。
ドアが開き、ビリングズ氏が廊下をのぞいた。
「今晩は」とトミー。
「戻ってきたのか!」
ビリングズ氏がドアを大きく開けると、トミーはそそくさと部屋に入ってきた。
「何か忘れものかね?」
「いいえ」
ビリングズはドアを閉めた。
「すわりたまえ。何が好きかね? リンゴ? それともミルク?」
「いりません」
トミーはそわそわと部屋を歩きまわり、あちこちの書物、書類、紙束にさわった。
ビリングズはしばらくこの少年を観察していた。それから机に戻るとため息まじりに腰をおろした。
「わしは報告書づくりを続けるけど、すぐ終わるようにするから」そばのノートの山を叩いた。「これが最後だ。そのあとここを去り、勧告をつけて報告書を提出する」
ビリングズは巨大なタイプライターにかがみこみ、きちょうめんに叩きはじめた。旧式タイプライターのカタカタいう休みない物音が部屋を震わせた。トミーはきびすを返し部屋を出るとポーチに上がった。
夕方の冷気の中、ポーチはすっかり暗くなっていた。彼は立ちどまり暗闇に眼をならした。すぐに肥料袋とぐらぐらした椅子が見えてきた。中央にワイヤを張った木箱があり、周囲にゴミや草が山を成している。
トミーは部屋をふり返った。ビリングズはタイプライターに背をかがめ仕事に余念がない。ダーク・ブルーのスーツは脱いで椅子にかけてあった。ヴェスト姿で袖をまくり上げている。
トミーは木箱の脇にかがみこんだ。ジャケットの下に抱えていた葉巻箱をそっととり出し、地面に置いて蓋を開けた。ネットをつかみ、ひっぱって、とめ釘からはずした。
木箱からかすかに怯えた声が聞こえた。干し草の間をかさこそ逃げまわる物音。
トミーは手をのばし草の間をまさぐった。指先が何かにふれた。怯えて悲鳴をあげ、恐怖で身をよじっている小さな生きもの。彼はそれをつまみあげ空の葉巻箱に入れ、次のをさがした。
全部をつかまえるのはたやすかった。全部で九人を葉巻箱におさめた。蓋をとじると箱をジャケットの内に入れた。急いでポーチを出て部屋に戻った。ビリングズは片手にペン、もう一方の手に書類を持ち、ぼんやりと彼を見上げた。
「わしに話でもあったのかね?」彼は低い声でいうとメガネをかけなおした。
トミーは首をふった。「帰らなくちゃ」
「もう? 今きたばかりじゃないか!」
「でも帰る」トミーは廊下へのドアを開けた。「さようなら」
ビリングズは疲れたように額をこすった。顔には疲労のかげが刻まれていた。
「わかったよ、坊や。きみには立ちのく前にまた会おう」
彼は仕事に戻り、疲労に身をかがめながら、ゆっくりとタイプを打ちはじめた。
トミーはうしろ手でドアをしめた。廊下を走り、階段をおり外に出た。胸のあたりで葉巻箱がゆれていた。九人。全部で九人。全員が彼のものになった。いまこの葉巻箱の中にいる――ほかにはもういない。世界中どこにもいない。彼の計画は完全に成功した。
トミーは全力で通りを駆けて家に向かった。
トミーは前にガレージで白ネズミを飼っていた古いカゴを見つけた。それを掃除し二階の自室に持っていった。カゴの床に新聞紙を敷き、水飲み皿と砂を入れた。カゴの支度ができると、葉巻箱の中身をその中にあけた。
九つの小さな人影はピンクの束みたいにカゴの中央にうずくまった。トミーはカゴの戸をとじ、しっかりと開かないようにした。そのカゴをタンスに持って行き、椅子に乗って、下から見えるところにおいた。九人の小人はおずおずと動き出しカゴを調べた。トミーの心臓はそれを見ていると昂奮に高鳴った。
彼はビリングズ氏のところから連中を持ち出してしまった。もう彼のものだった。ビリングズ氏はトミーの住所も、名前すら知らなかった。
カゴの小人たちはおたがいに何かしゃべっていた。アンテナをぴくぴく動かすさまがアリでも見ているようだった。そのうちの一人はカゴの端までやってきた。カゴのワイヤをにぎって立ち、部屋の中をのぞいている。その脇に女が一人寄り添っていた。二人とも裸だった。頭髪をのぞけば二人ともピンクで、つやつやしている。
かれらのたべものを思案した。台所の大きな冷蔵庫からチーズとハンバーガー、それにパンのかけらとレタスの葉、ミルクの小皿を持ってきてカゴの中に入れた。かれらはミルクとパンが口に合うようで、肉は残した。レタスの葉で小さな家を作りはじめた。
トミーは興味津々で見つめていた。翌朝も登校時間まで、昼食時間、午後は夕食までずっとつききりだった。
「何か飼っているのかい?」夕食時に父がたずねた。
「別に」
「ヘビでも飼っているんじゃないでしょうね?」母が心配そうにいった。「あそこでまたヘビでも飼ったら――」
「ちがうよ」トミーは首をふり、肉をうのみにした。「ヘビなんか飼っていない」
彼は喰べ終わるとさっさと二階に上がった。小人たちはレタスの葉で小屋を作り終わっていた。幾人かが小屋に、残りがカゴの壁近くをぶらつき調べていた。
トミーはタンスの前にすわり、ながめた。かれらは格好がよかった。前に飼っていた白ネズミよりもはるかに利口で清潔そうだった。トミーが入れておいた砂を使っていた。かれらはスマートで従順だった。
しばらくしてトミーは部屋のドアを閉め、息を殺してカゴの片側を開けた。手をのばし小人の一人をつかまえた。そっとカゴからとり出すと手を開いた。小さな人間は彼の手のひらにしがみついて、端からそっと彼を見上げており、頭のアンテナがひどくゆれていた。
「こわがることないよ」トミーはいった。
小人はそろそろと立ち上がった。歩いて手のひらから手首へとやってきた。ゆっくりとトミーの腕をよじのぼり、ちらっと脇を見る。肩まで達すると立ちどまり、彼の顔を見上げた。
「本当に小さいなあ」トミーは嘆声をあげた。
彼はカゴからもう一人をとり出し、二人をベッドにおいた。二人ともだいぶ時間をかけてベッドを歩きまわった。カゴの開け放した側に数人がやってきて、注意深くタンスの上を見まわしていた。一人がトミーの櫛を見つけた。それを調べ、櫛の歯をひっぱった。もう一人がそれに加わり、二人して櫛をひっぱったがうまくいかなかった。
「何をしたいんだい?」トミーはたずねた。
しばらくして櫛をあきらめ、タンスの上のニッケル貨を見つけた。一人がそれを立てて、ころがした。ニッケル貨は勢いがつき、タンスの端にころがって行った。二人は仰天してそれを追ったが、ニッケル貨はタンスから落ちた。
「気をつけろよ」トミーは注意した。
かれらの身の上に何事も起こってほしくなかった。トミーには沢山の計画があった。サーカスで見たノミみたいに、かれらに芸を仕込むのは簡単そうだ。小さな車を引いたり、ブランコやすべり台。かれらなら芸当ができる。それを訓練して入場料をとる。
旅興行もできるかも知れない。新聞記事になるだろう。気持ちが先走った。いろいろなことができる。無限の可能性。はじめるのは簡単だが気をつけなくてはいけない。
翌日、彼はその一人をガラス瓶に入れ、ポケットにしまって登校した。息ができるように蓋には穴を開けていた。休み時間にトミーはそれをデイヴとジョアン・グラントに見せた。かれらは好奇の眼を輝かせた。
「どこで手に入れた?」デイヴは尋ねた。
「それはヒミツさ」
「それを売りたいの?」
「それじゃない、彼だ」
ジョアンは顔を赤くした。
「まるはだかじゃないの。すぐに何か着せた方がいいわ」
「着るものを作ってくれないか。ほかに八人いるんだ。男四人、女四人」
ジョアンは昂奮した。
「いいわ。一人くれるならね」
「ずうずうしいなあ。全部ぼくのだ」
「どこからきたのかしら? だれが作ったの?」
「そんなこと関係ないだろう」
ジョアンは四人の女性に着るものを作ってきた。小さなスカートとブラウス。トミーはその衣服をカゴにさし入れた。小さな人間たちは服のまわりをおぼつかなげに歩きまわり、なすすべを知らなかった。
「着かたを教えてやったら」とジョアン。
「着せてやるのか? おまえやれ」
「いいわ。私が着せてやるわ」
ジョアンはカゴの中から女性を一人つかまえ、ていねいにブラウスを着せ、スカートをはかせた。それから彼女をカゴに戻した。
「さあ、どうなるか見ものだわ」
全員が服をつけた女性の周囲に集まり、興味深げに服を突っついた。そのうち残りの衣服を分けはじめ、ブラウスやスカートをつけた。
トミーは笑いころげた。
「男のズボンも作ってくれよ。そうすればみんなが着られる」
彼は二人ばかりとり出し、自分の腕を登り下りさせた。
「気をつけてよ」ジョアンは注意した。「死んでしまうか、逃げ出すわよ」
「よく馴れているから逃げはしないよ。いいか見てごらん」トミーは全員を床に置いた。
「これからゲームをやる」
「ゲームですって?」
「かくれんぼさ」
かれらはあわてて逃げ、隠れ場所を探した。すぐにみんな見えなくなった。トミーは手と膝を床について、タンスの下、ベッドカヴァの間を手さぐりした。小さな金切り声があがり、一人が見つかった。
「ねえ? このゲームが好きなんだ」
彼は小人を一人ずつカゴに戻した。最後の一人はなかなか見つからなかった。タンスのひきだしに入り、ビー玉の袋に隠れ、ビー玉の間にもぐりこんでいた。
「頭がいいのね」ジョアンはいった。「私にも一人でいいからくれない?」
「いやだ」トミーはきっぱりいった。「ぼくのものだ。逃がしてやったり、他人になんか一人でもやるもんか」
翌日の放課後、トミーはジョアンと会った。彼女は小さな男物のズボンとシャツを作ってもってきた。
「これよ」彼女はトミーに手渡した。二人は肩をならべて歩道を帰って行った。
「体に合うといいわね」
「ありがとう」トミーは衣服を受けとるとポケットにしまった。
二人は空き地を横切った。空き地の端でデイヴ・グラントと数人の子供が、地面に描いた円の中に輪になってすわり、ビー玉で遊んでいた。
「だれが勝っているの?」トミーは立ちどまってきいた。
「ぼくさ」デイヴは顔も上げず答えた。
「ぼくも入れてよ」トミーはすわりこんだ。「いいだろう」彼は手をさし出した。「ビー玉を一個くれよ」
デイヴは首をふった。「いやだよ」
トミーはその腕を叩いた。
「何だって! たった一個だぞ」彼は首をひねった。「きみに何かいおうと――」
その時、ひとつの影が二人の上に落ちた。
トミーは顔を上げると、みるみる蒼ざめた。
エドワード・ビリングズが傘にもたれかかり、少年を静かに見下ろしていた。傘の石突きは軟らかな土にめりこんでいた。彼は無言だった。その歳老いた顔にはしわがきざまれ、厳しく、眼は色のさめた青い石みたいだった。
トミーはのろのろと立ち上がった。子供たちはみんな黙りこくった。その中の幾人かは自分のビー玉をつかむと、いちはやく逃げた。
「何か用かい?」トミーは開きなおった。彼の声は乾き、かすれて聞きとりにくかった。
ビリングズの冷たい視線には、温かさなどひとかけらもなかった。
「かれらを盗んだのはおまえだな。返してもらおうか。いますぐな」その声は厳しく冷たかった。
「いまどこにいる?」
「何のことだい?」トミーはとぼけてあとずさりした。「ぼくにはさっぱりわからない」
「プロジェクトのことだ。わしの部屋からかれらを盗んだな。早く返せ」
「くそっ、何のことだい?」
ビリングズはデイヴ・グラントの方を向いた。「きみは友だちだったな?」
デイヴはうなずいた。
「ぼくは見たよ。部屋にいたよ。トミーはだれにも近よらせないんだ」
「おまえはわしの部屋にきてかれらを盗んでいった。なぜだ?」
ビリングズは、殺気をみなぎらせてトミーにつめよった。
「どうして連れて行ったんだ? 何をする気なんだ?」
「あんたは頭がおかしいよ」
トミーはとぼけたが、その声は震えていた。デイヴ・グラントは無言のままだった。彼は眠たそうにそっぽを向いた。
「ぼくはそんなことしていない」とトミー。
ビリングズはトミーをわしづかみにした。冷たく老いた手で肩をつかみ、爪がくいこんだ。
「返せ! わしのものだ。かれらに責任があるんだ」
「放せ」トミーは自由になろうともがいた。
「ぼくはあの連中なんか知らない」彼はかたずをのんだ。「ただ――」
「やっぱり持っているんだな。家の自分の部屋に。連れてこい。これから行って持ってこい。九人全部だぞ」
トミーはポケットに手を突っこんだ。勇気がまた戻ってきた。
「知らないよ。何人かくれるの?」
ビリングズの眼がきらりと光った。
「おまえにやる?」彼は脅すように手を上げた。「どうして、おまえのようなちびに――」
トミーはとびさがった。
「おまえになんか返すものか。おまえになんか命令されてたまるか」彼は平然と笑った。「おまえはいったろう。ぼくたちはおまえの権限外なんだ。そういったのを聞いたぞ」
ビリングズの顔は花崗岩みたいにこわばった。
「わしは返してもらうぞ。あれはわしのものだ。わしの支配下にあるんだ」
「かれらを連れて行こうとしたら警察を呼ぶぞ。パパは家にいる。パパと警官も味方だ」
ビリングズは傘をにぎりしめた。口をぱくぱくさせながら、顔色を赤黒くさせた。ビリングズとトミーは無言でにらみ合った。ほかの子供たちはあっけにとられ、大きく眼を開け、こわごわ二人を見つめていた。
ふとある考えがビリングズの頭をかすめた。彼が地面を見ると、不格好な円とビー玉があった。彼の冷たい眼が光った。
「なあ、坊や。ひとつわしと勝負しないか。かれらを賭けて」
「何だって?」
「ゲームさ。ビー玉のな。きみが勝てばあれはきみにやる。わしが勝てば返してもらおう。全員をだ」
トミーはビリングズ氏から地面の円に眼を移し考えた。
「ぼくが勝てばあんたは手をひくね? ぼくが持っていてもいいんだね?」
「そうとも」
「わかった」トミーは歩きだした。「勝負だ。あんたが勝てばあんたのもの。ぼくが勝てばぼくのものか。そうすればあんたは取り戻さないな」
「すぐにここに持ってくるんだ」
「いいとも。これから取ってくる」
自分のビー玉も持ってこようと考えていた。
「すぐ戻ってくる」
「ここで待っているよ」
ビリングズは大きな手で傘をにぎっていた。
トミーは二段とびにポーチを駆け下りた。母親はドアのところまで追いかけてきた。
「もう暗くなるんだから外に出ることないでしょうに。三十分以内に帰ってこなければ夕食はかたづけてしまうよ」
「三十分だよ」トミーは叫ぶと薄暗い歩道に下りていった。
その手はジャケットの下のふくらみを押さえていた。葉巻箱は動きガタガタいった。彼は息を切らせながら走りに走った。
ビリングズは空き地の隅に立ってじっと待っていた。太陽はすでに沈み、夕闇が忍びよっていた。子供たちはもう家に帰ってしまっていた。トミーが空き地に入ると、冷たい風が草叢《くさむら》を吹いてズボンから出た脛《すね》に当たった。
「持ってきたか?」ビリングズが尋ねた。
「うん」トミーは立ちどまり大きく呼吸した。ジャケットの下にそっと手をのばし、重い葉巻箱をとり出した。輪ゴムを外し蓋を少し開けた。「ここにいる」
ビリングズ氏は近づくと息をはずませた。トミーは蓋を閉め、また輪ゴムでとめた。「さあ、勝負をしよう」彼は箱を地面に置いた。「これはぼくのものだ――あんたが勝たなきゃ返さないからね」
ビリングズは腰をおろした。
「わかっている。それでははじめよう」
トミーはポケットをさぐった。ビー玉をとり出し、しっかりとにぎった。夕方の薄れ行く光の中で大きな赤黒いビー玉が光った。灰色と白の線が入った木星みたいに大きく堅いビー玉。
「さあ、やろう」
トミーは膝をつき地面にさっと円を描いた。ビー玉の袋を開けて円の中にぶちまけた。
「持っているのかい?」
「何を?」
「ビー玉さ。あんたは弾く玉があるのかい?」
「きみのをひとつ貸してくれないか」
「いいよ」
トミーは円内からビー玉をひとつ取ると、ビリングズに投げてやった。
「ぼくが先にやってもいいかい?」
ビリングズはうなずいた。
「ありがとう」トミーはにっこりとした。
彼は片眼をとじ、念入りに狙いを定めた。瞬間身体が緊張し、力んで弓なりに反った。それから投げた。ビー玉はカチンと当たって、円内のビー玉をいくつか草叢に弾き出した。うまくいった。彼は弾き出したビー玉を集め袋の中に戻した。
「わしの番かな?」ビリングズは尋ねた。
「まだだよ。ぼくのビー玉がまだ円内にある」トミーはまたかがんだ。「もう一度打てるんだ」
彼は投げた。今度は三個のビー玉を弾き出した。彼のビー玉はまだ円内にあった。
「もう一回だ」トミーはそういうと笑った。
彼は半分近く取っていた。膝《ひざ》をつき狙い定め、息を殺した。二十四個のビー玉が残っていた。あと四個取れば、彼の勝ちになる。もう四個――
彼は投げた。二個のビー玉がとび出した。それに彼のビー玉もころがって、はずんで草叢にとびこんだ。
トミーは二個のビー玉と自分のビー玉を集めた。全部で十九個を取った。二十二個が円内に残っていた。
「いいよ」彼は残念そうにいった。「今度はあんたの番だ」
エドワード・ビリングズは膝をつくと、堅くなって息を切らせふらふらした。その顔は灰色だった。ビー玉を手の中であやふやにころがした。
「ビー玉遊びをやったことないの?」トミーは訊いた。「持ちかたも知らないの?」
ビリングズは首をふった。「知らん」
「ビー玉を人さし指と親指の間にはさむんだ」
トミーはこわばった老人の指がビー玉をにぎるのを見ていた。ビリングズは一度落とし、急いでまた拾い上げた。
「親指で弾くんだ。こんな風にね。教えてあげるよ」
トミーは老人の手をとり、ビー玉をにぎらせた。やっと何とかそれらしくにぎった。
「さあ」トミーは立ち上がった。「やって見せて」
老人は長いこと動かなかった。じっと円内のビー玉を見つめ、手を震わせていた。トミーにはその息づかいが聞こえた。せわしなく深いあえぎが、湿った夕方の空気の中にひびいた。老人は暗がりにおいてある葉巻箱を横目で見た。それから円に視線を戻した。指が動いた――
ぴかっと光った。めくるめく閃光だった。トミーはわっと叫ぶと眼をこすった。周囲のあらゆるものが回転し、突進し、傾斜した。トミーはよろめき倒れ、草叢に沈んだ。頭がくらくらした。地面にすわり、眼をこすり、頭をふり、何が起こったのか見ようとした。
やっとゆらめく火花がおさまった。彼は眼をしばたたきながらあたりを見まわした。円内はからっぽだった。ビー玉はすべてなくなっていた。ビリングズがみんな弾き出してしまったのだ。
トミーは手をのばした。指先が何か熱いものに触れた。彼はとび上がった。草の葉だった。燃えて赤くなった草。周囲の草むらがかすかな光を放ち、ゆっくりと冷えて暗くなった。何万という星のかけらが輝き、消えていった。エドワード・ビリングズはゆっくり立ち上がり、手をこすり合わせた。
「うまくいった」彼は息を切らせていた。「歳をとるとかがみこむのも苦痛だ」
彼の眼が地面におかれた葉巻箱に向いた。「さあ、おまえたちも帰れるぞ。これでわしも仕事が続けられる」彼は葉巻箱を持ち上げ、小脇に抱えた。傘を拾い、足をひきずりながら空き地の向こうの歩道に歩き出した。
「さようなら」ビリングズは立ちどまるといった。トミーは無言だった。
ビリングズは歩道を急いで去った。葉巻箱をしっかりと抱えながら。
ビリングズは息せき切ってアパートに戻った。黒い傘を隅におくと、机の前にすわり、目の前に葉巻箱をおいた。しばらく腰をおろしたまま息を整え、合板と厚紙でできた褐色と白の四角い箱を見つめた。彼は勝った。やっと取り戻した。再び自分のものになった。時期もよかった。ちょうど報告書をまとめる日だった。
ビリングズは上着とヴェストを脱いだ。袖をまくり上げると少し震えた。彼は幸運だった。Bタイプへの支配は極端に制限されていた。かれらは実は権限外だった。もちろんそれ自体問題だった。しかし、AタイプとBタイプはまんまと管理を逃れていた。かれらは反抗し、命令にそむき、そのため計画の範囲外におかれていた。しかし、ここに――新しいタイプ、プロジェクトCがある。そのすべてはかれらにかかっていた。かれらは一度手をはなれたが、再び戻ってきた。最初意図したように支配下に、監督指示の範囲内にある。
ビリングズは箱から輪ゴムを外した。蓋をそっと慎重に開けた。かれらはさっと散った――すばやく。あるものは右へ、残りは左へ。小人たちは二列になって突進してきた。先頭は机の端に達し、とんだ。じゅうたんの上に落ちころがって倒れた。二番目があとを追ってとんだ。ついで三番目が。
ビリングズはやっとわれに返った。あわてて懸命に箱をつかんだ。二人だけしか残っていなかった。一人を叩こうとして失敗した。もう一人は――
彼は残りの一人をにぎりしめた指の間でしめつけた。その仲間は方向を変えた。手には何か持っていた。木片だった。葉巻箱の内側から剥がしたものだった。それは走り上がってくると木片の先でビリングズの指を突き刺した。ビリングズは痛さにあえいだ。そして指を拡げた。捕らえられていた小人は机上にころがり出た。仲間はそれを助けおこし、なかばひきずるように机の端まで連れて行った。そこで一緒にとびおりた。
ビリングズは身をかがめ、かれらをつかまえようと手さぐりした。かれらは一目散にポーチのドアの方に逃げて行った。そのうちの一人は電灯のプラグに向かった。それを引きぬこうとした。二人目がそれに加わり、一緒に力をあわせて引っぱった。コードは壁のコンセントからぬけ、部屋は急に真っ暗になった。
ビリングズは手さぐりで机のひきだしを見つけ、それを引くと、中身を床にぶちまけた。大きなマッチ箱をさがしあて火をつけた。かれらはもう――ポーチに出てしまっていた。ビリングズは急いで追いかけた。マッチの火が消えた。もう一本つけると手で囲った。
小人たちは手すりに達していた。かれらは手すりを乗り越え、蔦葛《つたかずら》つかまり、するすると闇の中に消えていった。彼が手すりについた時は遅かった。全員が逃げたあとだった。九人とも屋根の庇《ひさし》を越え、夜の闇にのまれてしまった。
ビリングズは階段を駆けおり、裏のポーチにとび出した。急いで家の脇にまわり、蔦《つた》の生えているところにきた。動いているものは何もなかった。かさこそ音もしない。静寂。どこにもかれらの気配はなかった。かれらはすでに逃げてしまった。脱出計画を練り、実行に移したのだ。蓋を開けるや、二列になって反対側に突進した。タイミングと行動がぴったり合っていた。
ビリングズはゆっくりと階段をのぼって、自室に戻った。ドアを開け、立ったまま深呼吸した。ショックで呆然としていた。かれらは逃げてしまった。プロジェクトCはもうおしまいだ。ほかのプロジェクトと同じく失敗した。同じ轍《てつ》を踏んでしまった。反抗と独立、管理体制からの脱出、支配からの脱却。プロジェクトAはプロジェクトBに影響を及ぼした――そしていま同様に、悪影響がプロジェクトCに拡がっていたのだ。
ビリングズは不機嫌そうに机にすわっていた。長いこと身じろぎもせず黙考していた。それからしだいに事態を理解してきた。これは彼のあやまちではなかった。過去に二度起こったことなのだ。そしてまたくり返すのだ。各プロジェクトは不満足な点を次に持ち越している。それは決して終わることはあるまい。どれほど多くのプロジェクトが考案され、実行に移されようとも変わらない。反抗と脱出。そして計画の回避。
いっときしてビリングズは手をのばし、分厚い報告書をひきよせた。ゆっくりとまだ書いていない場所を開いた。報告事項から最後の項に移った。要約。現在のプロジェクトを廃棄する必要はない。ひとつのプロジェクトは他のプロジェクトと同じである。それらは一様に等しい――同じ失敗をする。
かれらを見たとたんからビリングズは知っていた。蓋を開けた瞬間からだ。かれらは衣服を着ていた。小さなひとそろいの服をつけていた。それはずっと昔の人間たちと同じだった。
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地底からの侵略
[#地付き]――A Surface Raid
第三|階層《レヴエル》を出ると、ハールは北部方面行きの地下鉄をつかまえた。地下鉄はかなりの速さで巨大な連絡駅のドームの一つを通り抜け、第五階層へと降りて行った。ハールは人ごみや出口の活気のある光景を一瞥《いちべつ》した。そこは日中のさまざまな仕事と重なり合い混雑していた。
すぐにドームは遠ざかり、彼は目的地に近づいた。広大な産業地域、第五階層は煤《すす》に覆われた悪夢の大|蛸《だこ》みたいに、ぶざまに地下に拡がっている。
きらめく地下鉄は、彼を吐き出すと、そのまま走り続け、地下道へと消えて行った。ハールは降車地帯にとびこみ、足をふんばり、身体を巧みに前後に傾けて調子をとり、止まった。
数分後、彼は父のオフィスの入り口に立っていた。手を上げると、コード・ドアがゆっくりと開いた。中に入ると、昂奮《こうふん》で胸がどきどきした。その時は来ていた。
エドワード・ボイントンは、本部に息子がやって来たのを知らされた時、新しいロボット削岩機の概要を調査するために計画部にいた。
「すぐに行く」ボイントンはそう答えると、仕事を立案スタッフに任せ、傾斜路《ランプ》を上ってオフィスに行った。
「やあ、パパ」ハールは肩を張って呼びかけた。父と子は握手を交わした。ハールはおもむろに腰を下ろした。「仕事はどう? 僕にすることないかな」
エドワード・ボイントンは机のうしろに坐った。「ここに何をしに来たのだ?」彼は尋ねた。
「この通りお父さんは忙しいのだ」
ハールは父に向かい軽く微笑んだ。エドワード・ボイントンは褐色のインダストリアル・プランナーの制服を着て、若い息子を見下ろした。大柄で、幅広い肩と濃いブロンドの髪をし、青い眼は冷たく、厳しく、息子に視線を返していた。
「ある情報を耳に入れたんです」ハールは不安気に部屋を見回した。「このオフィスでは盗聴されないでしょうね?」
「あたりまえだ」ボイントンは請け合った。
「壁に耳ありということはないでしょうね」ハールは少しほっとした。「実は、お父さんとその部署の人たちが数名、まもなく地表に上がって行くということを聞いたんです」ハールは父ににじり寄った。「地表に出て――あのまぬけどもを襲撃することを」
エド・ボイントンの顔が翳《かげ》った。「その話をどこで耳にした?」彼は息子をまじまじと見た。
「この部署のだれかが――」
「いいえ」ハールは遮《さえぎ》った。「だれも洩らしていません。教育活動中にたまたま耳にしたんです」
エド・ボイントンにも事情がのみこめてきた。「わかった。おまえはチャンネルの盗聴を試みたのだな、極秘チャンネルに入りこんで、交信中に入りこむ方法を教わったのを悪用したな」
「ええ。お父さんとロビン・ターナーとの地表侵略についての会話を小耳にはさんだのです」
部屋の雰囲気がほぐれ、和やかになった。エド・ボイントンはほっとして椅子にもたれた。
「それで――」彼は話を促した。
「全くの偶然でした。十か十二のチャンネルに入りこんで、各々ほんの一瞬だけ捕らえたんです。若人連盟の無線機を使っているんですが、突然お父さんの声がとびこんできました。それでそのまま固定して、すっかりやりとりを聞いてしまったんです」
「それでは知られてしまったわけか」
ハールはうなずいた。「地表に出るのは正確にはいつですか? 日時は決まっているのですか?」
エド・ボイントンは眉をひそめた。「いや、まだ決めていない。しかし今週中だ。もう準備はあらまし整っている」
「どのくらいの規模で行くのですか?」
「母船一隻と小型車約三十台だ。乗員はすべてこの部署の者だ」
「三十台といえば、六、七十名ですね?」
「そうだ」エド・ボイントンは息子を見守った。「それほど大規模な侵略ではない。過去数年間の幹部会の侵略とは比べものにならない」
「でも一部門としてはかなりの規模でしょう」
エド・ボイントンの眼が光った。「気をつけなさい、ハール。こうしたうっかりした会話が外に洩れでもしたら――」
「わかっています。お父さんの発言の趣旨を拾い上げると、すぐにレコーダーを止めました。一部署がその工場のために、当局の許可なくして地表侵略を企てているのを、幹部会が知ったら、どんなになるかぐらいはわかっています」
「おまえは本当に知っているのかね?」
「母船一隻と小型車三十台か」ハールは注意を無視していった。「四十時間ぐらい地表にいるつもりですね」
「そうだ。もっとも運にもよるがね」
「何人ぐらいのまぬけを狩るんですか?」
「二ダースは欲しい」
「男ですか?」
「大部分はな。残りは女。男優先だ」
「基礎産業の工場用ですね」ハールは椅子から立ち上がった。「それでわかりました。侵略について更に詳しい知識を得たので、僕も仕事に勉めます」
彼は父親を凝視した。
「仕事?」ボイントンはきっとして眼を上げた。「それはどういう意味だ?」
「ここに来た本当の理由はですね」ハールは机越しに父の方に身体を傾け、その声はきびきびと緊張していた。「お父さんに同行して地表に行きたいからです。一緒に行き――まぬけどもを何人か自分用につかまえたいんです」
しばらくは驚きのあまりの沈黙が続いた。やがてエド・ボイントンは笑い出した。「何をいっているんだ? おまえはまぬけどものことを知っているのか?」
内側のドアが開き、ロビン・ターナーが慌《あわ》ただしくオフィスに入ってきた。彼は机の背後のボイントンに耳打ちした。
「彼を行かせるわけにはいかない」ターナーは感情を殺した声でいった。「危険が十倍も増す」
ハールは顔を上げた。「やっぱり壁に耳ありだった」
「もちろんだ。ターナーはいつも耳を澄ましている」エド・ボイントンはうなずき、息子を心配そうに見た。「どうして同行したいのだ?」
「それは僕の問題です」ハールはそういうと唇を堅く結んだ。
ターナーは耳ざわりな声でいった。「情緒未成熟だ。やや理性的若者の冒険と昂奮への渇望といったところだ。古い頭脳を完全に捨てきれない彼のような若者は少数だがまだいる。あと二百年も経てば、君は――」
「そんなところか?」ボイントンは息子に尋ねた。「おまえは地底から上がって、地表を見たいという子供じみた欲求を捨てきれないのか?」
「多分ね」ハールはそれを認め、少し赤くなった。
「おまえは行くべきではない」エド・ボイントンは強い口調でいった。「危険すぎる。われわれはロマンチックな冒険に行くわけではない。これは仕事なのだ――厳しく、辛く、きつい仕事なのだ。あのまぬけどもは用心深くなってきている。それを十分確保して連れ帰るのはだんだんと難しくなってきた。ロマンチックな馬鹿どもに貸し与える小型車などない――」
「厳しい状態になってきているのはわかります」ハールは父の言葉を遮った。「船一杯の連中を集めるのがほとんど不可能だと、僕はわざわざ強調することはありません」ハールは反抗するように父とターナーを見上げた。彼は慎重に言葉を選んだ。「それに幹部会が私的侵略を国家に対する重大な犯罪と見なしている理由も知っています」
沈黙。
とうとうエド・ボイントンはため息をつくと、その視線の中に渋々ながら容認する気配を見せた。彼はゆっくりと息子を見上げ、眼を落とした。「わかったよ、ハール。おまえの勝ちだ」
ターナーは無言だったが、その表情は厳しかった。
ハールは急いで席を立った。「それではこれで一件落着ですね。早速自分の宿舎に帰り準備を整えます。出発用意ができたら、すぐに教えて下さい。第一階層の発着場で会いましょう」
ボイントンは首を振った。「第一階層からは出発しない。かなりの危険を伴う」彼の声は重苦しかった。「あそこには幹部会の警備兵が相当数|徘徊《はいかい》している。それで船を第五階層まで降ろし、倉庫の一つに納めてある」
「それではどこで合流したらいいんですか?」
エド・ボイントンはゆっくりと立ち上がった。「それは後で知らせるよ、ハール。それほどかからない、約束する。せいぜい一両日のうちだ。職業宿舎で待機していなさい」
「地表は寒いのですか?」ハールは尋ねた。「放射能汚染地域は残っていませんか?」
「この五十年間ずっと寒さが続いている」父は彼に保証した。
「それでは放射能|遮蔽《しやへい》については心配いりませんね」とハール。「もうひとつ、どんな言葉を使うのですか? われわれが普通に話す言葉で――」
エド・ボイントンは首を振った。「いや。あの阿呆どもは合理的言語システムがマスターできないのだ。古い伝統的な言葉に戻らざるを得まい」
ハールは落胆の色を浮かべた。「僕は伝統的な言葉など皆目《かいもく》知りません。かれらは最近では教育されていないんですか?」
エド・ボイントンは肩をすくめた。「そんなことはたいした問題ではない」
「かれらの防備はどうですか? どんな武器を持って行ったらいいんですか? 遮蔽膜《スクリーン》と破壊銃銃《ブラスト・ガン》で十分ですか?」
「遮蔽膜は絶対に必要なものだ。あの阿呆どもはわれわれを見ると、クモの子を散らしたようになる。一目見ただけで逃げてしまう」
「そいつはいい」ハールはいった。「僕の遮蔽膜をチェックしてきます」彼はドアの方に行った。
「第三階層に戻ります。そこでお父さんからの連絡を待っています。必要なものを揃えておきます」
「わかった」エド・ボイントンはいった。
二人は若者が去り、ドアが閉まるのを見守っていた。
「なかなかの息子だな」ターナーは呟《つぶや》いた。
「結局何かをつかむだろう」ボイントンは呟いた。「あの子には役に立つだろう」彼は考え深げに顎をこすった。「だがあの子が地表に上って侵略中に調子が乱れはしないか心配だ」
父のオフィスを出て一時間後、ハールは第三階層で自分の属するグループのリーダーと会った。
「それで一件落着したかい?」ファスホルドは尋ね、報告テープから顔を上げた。
「うん。船の用意ができしだい連絡をくれることになっている」
「ところで」ファスホルドはテープを置くとスキャナーを押し戻した。「あの阿呆どもについていくらか学んだ。若人連盟のリーダーとして、おれは幹部会の議事録を見ることができる。そこで他のだれも知らないことを学んだんだ」
「それは何だ?」ハールは尋ねた。
「ハール、あの阿呆どもはおれたちと関係があるんだ。やつらは別の種族だ。だけど非常に密接な関連がある」
「それで」ハールは促した。
「ある時期にはたった一種族だった――あの阿呆どもだ。やつらの正式名はホモ・サピエンスという。われわれはかれらから生じ、進化した。要するに生物発生上の突然変異種《ミユータント》なんだ。二世紀半前の第三次世界大戦中にこの変化が起こった。その時まで、いかなるテクノスも存在しなかった」
「テクノス?」
ファスホルドは笑った。「われわれは当初そう呼ばれたんだ。かれらはわれわれを別の種類と考えたのであって、かれらの遠縁の種族としてではない。テクノス、その名はかれらがくれたものだ。いつもわれわれをそう呼んでいた」
「だけどなぜだ? 奇妙な名前だな。どうしてテクノスなんだ、ファスホルド?」
「最初のミュータントは技術支配者階級に出現し、しだいに他の教育ある階層に拡まっていった。科学者、学者、野外研究者《フィールド・ワーカー》、訓練されたグループなど、さまざまな専門家階級の間に現れた」
「それでもあの阿呆どもは気づかなかった――」
「さきほどもいったように、やつらはわれわれをひとつの種類としか考えなかった。それは第三次世界大戦の前後のことだ。われわれがはっきりと完全に別個の存在として現れたのは最終戦争中のことだった。われわれがホモ・サピエンスの分化した支流ではないことがはっきりとした。いま生き残っている連中よりも高い教養と知能を持った、人類の別種ですらないのだ」
ファスホルドは視線を外らし遠くを見た。
「最終戦争中われわれは出現し、自分たちが本当は何であるかを明らかにした――ホモ・サピエンスがネアンデルタール人に取って代わったと同じ方法で、ホモ・サピエンスに代わる優秀な種族であると」
ハールはファスホルドのいったことを考えた。「われわれがあの阿呆どもと密接な関係にあるなんてとても考えられない。われわれがそれほど最近に現れたとは夢にも思わなかった」
ファスホルドはうなずいた。「つい二世紀前のことだ、戦争のために地表は極度に荒廃した。われわれの大半は別々の山脈――ウラル、アルプス、ロッキーなどの地下の大工場や実験場で働いていた。岩石や土砂の数マイル下にいた。一方、地表ではホモ・サピエンス同士がわれわれの設計した武器で激しく戦っていた」
「だんだんとわかってきたぞ。われわれはやつらが戦争するための武器を作っていたんだな。やつらは深い考えもなく兵器を――」
「われわれが設計した兵器を、やつらは自分たちを破滅させるために使っていたんだ」ファスホルドは一息入れた。「それは天の試練だった。一つの種の滅亡であり、全く別の種の出現だった。われわれの与えた兵器で、やつらは自滅した。戦争が終わった時、地表は焼け爛《ただ》れていた。灰燼《かいじん》と熔岩と放射能雲しか残っていなかった。
われわれは地下実験場から偵察隊を送り出したが、人気《ひとけ》のない不毛の廃墟のほかは何ひとつ見当たらなかった。戦争はその目的を達していた。人間は死に、姿を消していた。そこでわれわれがやつらに取って代わるようになった」
「やつらも全部が殺されたわけではなかった」ハールは指摘した。「地表にはまだかなり多くの人間が残っている」
「その通りだ」ファスホルドも認めた。「生き残った者もいる。生存者はあちこちに散らばっていた。やがて地表が冷えてくるにつれ、かれらは再び集結し、力を合わせて小さな村落や小屋を作った。そう、土地の一部を復旧し――植物を植え育てた。それでもやつらはただの生き残りにすぎなかったんだ、ハール――その生き残りも、あのネアンデルタール人のようにほとんど絶滅しかけている」
「それでは棲み家もない男女のほかには何ひとつ生存していないのか」
「あちこちに少しばかりの村落がある――そこはかれらがやっと土地を改良した所だ。ところがあの連中ときたら全くの野蛮な状態まで堕落しており、動物なみの暮らしをしている。動物の毛皮をまとい、石や槍で狩りをしている。われわれが工場で使役させるために、いくつかの村落にやつらを狩りに出かけても、組織的抵抗すら見られない、けだものなみの人間になってしまっている」
「それで、われわれは――」
ハールはかすかなベルの音にいきなり話をやめた。彼はすぐに気づいてヴィディオ・フォーンのスイッチを入れた。父の顔がスクリーンに浮かんだ。いかめしく厳しい表情だ。
「オーケーだ、ハール。出発準備完了だ」
「いますぐですか? でも――」
「時間を早めた。私のオフィスに来てくれ」
スクリーンの画像は薄れて消えた。ハールはその場に釘づけになっていた。
「おまえのおやじが心配しているぞ」ファスホルドはそういって笑った。「おまえが情報を流しはしないかと怖れているのは確かだ」
「おれの方は準備ができている」ハールはそういうとテーブルから破壊銃を取り上げた。
「どうだい?」
銀色のコミュニケーション・ユニフォームを着込んだハールは、格好よく、目立って見える。重いミリタリー・ブーツと手袋をつけている。片手で破壊銃を握り、手首の周りには遮蔽膜のコントロール・ベルトを巻いている。
「それは何だ?」ハールの黒い保護眼鏡《ゴーグル》を見て、ファスホルドは尋ねた。
「これか? これはサングラスだ」
「ああそうか――太陽か。忘れていた」
ハールは銃を動かし、巧みにバランスを取った。「太陽光線をまともに見たら盲目になってしまう。このサングラスが眼を守ってくれるんだ。遮蔽膜と銃とサングラスがあれば安心して地表に出られる」
「そうだといいが」ファスホルドは薄笑いを浮かべたまま、彼の背中をドンと叩くと、ドアの方に歩いて行った。「沢山の阿呆どもを連れて帰れよ。しっかりやれよ――女も入れることを忘れるな!」
母船はゆっくりと倉庫から出て昇降台に乗った。ずんぐりと黒く涙滴形をしている。荷役口が開きタラップが降りてきた。すぐに資材や備品が上がってきて船の内部に納められた。「あらまし完了」ターナーは舷窓を通して積み込み用タラップを見て、顔を神経質そうに歪ませた。「問題が起こらなければよいが、万一幹部会に見つかれば――」
「心配無用!」エド・ボイントンはいった。「視床インパルスに操縦を引き継がせるには悪い時を選んだな」
「すまん」ターナーは唇をひきしめ、窓からはなれた。昇降台は昇る態勢になっていた。
「さあ出発だ」ボイントンは促した。「各階層の部署からの人間は集まったか?」
「昇降台の近くの部署のメンバーだけだろう」ターナーは答えた。
「乗組員の残りはどこにいるんだ?」ボイントンは訊いた。
「第一階層だ。昼間送ってある」
「そいつはよかった」ボイントンは合図を送った。船下の昇降台がゆっくりと昇りはじめた。かれらを確実に上層に運んで行く。
ハールは舷窓から覗いてみた。第五階層が下に消え、第四階層が現れる。地下システムの巨大な商業センターである。
「それほど長くはかからないだろう」エド・ボイントンはいった。第四階層はゆっくりと下方に消えた。「これまでのところは万事順調だ」
「最後はどこから出るんですか?」ハールが尋ねた。
「戦争の最終段階で、われわれのさまざまな地下構築物はトンネルで結ばれていた。その元の連絡網が現在のシステムの基礎を成した。これから元の出入り口の一つに出る。アルプスと呼ばれる山脈中に位置している」
「アルプスか」ハールは呟いた。
「そうだ。ヨーロッパにある。地表の地図を持ってきたので、あの地域の村落の位置はわかる。村落は昔デンマークやドイツと呼ばれた、ヨーロッパの北部や北東部に集まっている。そこを侵略するのは初めてだ。まぬけどもはその地域の数千エーカーの土地から鉱滓《スラツグ》をやっと片づけた。そしてしだいにヨーロッパの大部分を復旧しようと企んでいるらしい」
「だけど、どうしてです、パパ?」ハールは尋ねた。
エド・ボイントンは肩をすくめた。「わからん。自分たちを系統だった目標に向けているようにも思えない。実際にその野蛮な状態から脱け出そうとする徴候も示さない。その伝統は全く失われたままだ――書物も、記録も発明も、技術も。おまえに訊かれても――」彼はいきなり言葉を切った。「第三階層に来た。もうじきだ」
巨大な母船は轟音を響かせ、ゆっくりと滑走しながら地表に出た。ハールは舷窓から覗きながら下に見えるものに畏怖を覚えた。
横切って行く地表は鉱滓と黒ずんだ岩塊の果てしない地殼だった。鉱床はそのままで、ただ時々丘が鋭く突き出し、灰に覆われ、頂上近くはまばらな薮《やぶ》となっている。空には太陽も暗くなるほどの厚い灰の層が漂っていて、生きものの姿はまるでない。地球の表面は生命のしるしもない、死と不毛の大地だった。
「どこもこのような状態ですか?」ハールは尋ねた。
エド・ボイントンは首を振った。「全体がそうではない。阿呆どもは土地を修復している」彼は息子の腕をにぎり指さした。「あの外れが見えるか? 連中はほんの猫の額ほどの土地だが復旧させた」
「どうやって鉱滓を取り除いたんですか?」
「それは容易なことではなかった」父は答えた。「なにしろ水素爆弾で熔岩のごとく融解してしまったからな。それらを少しずつ、永い年月をかけて取り除いたのだ。かれらの手と石と熔岩で作った斧でな」
「もっと便利な道具を工夫しなかったんですか?」
エド・ボイントンは苦笑した。「その理由はすぐわかる。かれらには昔、沢山の道具を作って与えたことがある。道具、武器、発明品など数百年にわたってだ」
「やっと来たぞ」ターナーが叫んだ。「着陸だ」
母船は降下し鉱滓の表面に着陸しようとした。しばらく黒ずんだ岩塊が下方でがらがら音を立てたが、やがて静かになった。
「着陸したぞ」ターナーはいった。
エド・ボイントンは地表図を調べ、走査器《スキヤナー》に投げこんだ。
「まず小型車を十台送る。うまくいかなかったら、母船をもっと北に向ける。まあうまくいくだろう。この地域はまだ侵略された経験がないからな」
「車の援護はどうする?」ターナーが訊いた。
「車はスペクトルの中を扇状に拡がる。各車ごとに別々の地域を割り当てる。われわれの車は右方向に行く。うまくいけばすぐに母船に戻る。さもなければ日暮れまで待機する」
「日暮れ?」ハールは訊いた。
エド・ボイントンは笑った。「暗くなるまでのことだ。地球のこちら側が太陽面から遠ざかるまでだ」
「さあ、行こう」ターナーはせかせた。
母船の格納口が開き、小型車が鉱滓地帯にとび出した。そのスキッドが滑りやすい地面にもぐりこんだ。一台ずつ母船の黒い船腹から出て行った。小さな球形で背部は細くなりジェット噴射口がとび出しており、前部は丸くなって運転席が張り出している。小型車は鉱滓地帯を轟音を立てて横切り消えた。
「われわれは次のに乗る」エド・ボイントンはいった。
ハールはうなずき破壊銃をしっかりと握りしめた。防護眼鏡をかけると、ターナーもボイントンもそれに倣《なら》った。三人は車に乗り、ボイントンは運転席に坐った。ただちに母船を発車し、滑らかな地表の上に飛び出した。
ハールは外をのぞいてみた。いたるところ鉱滓だった。鉱滓と漂う灰の雲だった。
「惨たるものだ」彼はつぶやいた。「眼鏡をかけてさえ、太陽がまぶしくて仕方ない」
「太陽を直視するな」エド・ボイントンは注意した。「眼を外らせ」
「思わず眼がそちらに行ってしまうんです。あまり――あまりに不思議な眺めなので」
エド・ボイントンは口中でぶつぶついったが、車のスピードを上げた。はるか前方に何かが見えてきた。彼は車をそちらに向けた。
「あれは何だろう?」ターナーは尋ね、警告した。
「樹木だ」ボイントンは安心させるように答えた。「薮の中に樹が成長しているのだ。しばらくは灰の原野だったが、やっとやつらが植物を育てたのだ」
ボイントンは車を鉱滓地帯の端に持って行った。鉱滓が終わり、樹木の薮が始まっているあたりで車を停め、ジェット噴射を切り、ブレーキをかけた。彼とハールとターナーはあたりに眼を配りながら銃を構え、車から降りた。
何ひとつ動くものはなかった。全くの静寂があたりを支配していた。目路《めじ》の続く限りは鉱滓の原。漂う灰雲の切れ目の空は駒鳥の卵みたいに薄青かった。湿気を含んだ雲が灰燼《かいじん》を伴って漂っている。空気はよい匂いがした。希薄ではあるがさわやかな感じがする。大陽は懐かしい暖かさを投げかけていた。
「遮蔽膜をつけろ」エド・ボイントンが注意した。彼はしゃべりながらベルトのスイッチを入れた。遮蔽膜がかすかな音を立て、彼の周囲をすばやく包んだ。すぐにボイントンの姿はおぼろげになり、ゆらめき、薄れて行く。それはまたたき――そして消えた。
ターナーは急いでそれに倣った。「オーケー」その声はハールの右側の輝く卵型の膜から聞こえた。「次は君だ」
ハールは遮蔽膜をつけた。しばらく奇妙な冷たい火が頭から爪先まで取り巻き、火花を浴びせた。やがて彼の身体は薄れ消えた。遮蔽膜は完全に機能した。
ハールの耳元でカチカチとかすかな音がして、前に二人がいることを知らせた。「聞こえますよ」ハールはいった。「あなた方の遮蔽膜はイア・フォーンでわかります」
「勝手に歩き回るなよ」エド・ボイントンが警告した。「われわれから離れず、カチカチという音に耳を傾けるのだ。この地上では一緒に行動しないと危険だ」
ハールは慎重に前進した。他の二人は彼の右側に数ヤード離れて歩いていた。三人はある種の植物の生える乾いた黄色い原を横切って行った。長い茎をした植物は踏むと折れ潰れた。ハールの背後には踏み折られた草が跡を成した。父やターナーも同じ跡をつけているのがはっきりと見えた。
ところでいま彼にとっては、父やターナーから離れたい気持ちが強くなっていた。ハールの前には阿呆どもの村落の外郭が浮かび上がってきた。その小屋は木組みの上をある種の植物繊維で覆ったものだった。小屋にくくりつけられている動物のぼんやりとした輪郭が見えた。村落を囲んで草木が茂っている。彼は人びとの動く姿を見、その声を聞いた。
人間――まぬけども。彼の心は早鐘を打った。運がよければ三、四人つかまえて、若人連盟に連れて帰れるかも知れない。彼は卒然として確信と恐れぬものを感じた。たしかに難しいことではない。草木の茂る野原、つながれた動物たち、倒れそうな小屋の傾き――。
肥料の臭《にお》いが午後の熱気と混ざり合い、ハールの進むのをためらわせた。昂奮した人びとの叫び声や物音が響いてくる。土地は平坦で乾燥し、いたるところに草木が生えている。彼は黄色い野原を後にし、狭い小路に足を踏み入れた。人間の出す屑と動物の糞の臭いがむっと鼻を突く。
ちょうど道の向こうに村落があった。
カチカチという音がイア・フォーンの中で小さくなっていたが、いまや完全に消えてしまった。ハールはにんまりとした。もう父やターナーとはかなり離れて歩いているのだ。かれらとは連絡が取れなくなっていた。かれらもハールの居場所がつかめなかった。
ハールは左側の方に行き、村落の外れを慎重に迂回《うかい》した。一軒の小屋の前を通りすぎた。そこには数軒の小屋が立ち並んでいた。周囲の大きな薮の中には緑なす樹木や草が茂っている。目の前には苔に覆われた、なだらかな土手があり、その間を細いせせらぎが流れていた。
十人余りの人間が小川のほとりで水浴びをしている。子供たちは水にとびこんだり、土手を這《は》いあがったりしている。
ハールは立ち止まり、驚きを浮かべてかれらを見つめた。その皮膚は黒い。ほとんど真っ黒だった。光沢のある赤銅色をしている――濃い青銅色が泥色とミックスしている。あれは泥だろうか?
水浴している連中が太陽光線に灼《や》かれて黒くなったことに、彼はふと気がついた。水爆は大気を希薄にし、湿気を帯びた雲の層を吹きとばした。それから二百年間、太陽光線は容赦なくかれらの上に降り注いだ――その結果として、ハールの種族とは際立った対照を成していた。地表下には皮膚を灼き、色素水準を上げるような紫外線はなかった。彼も他のテクノスも皮膚に色はなかった。地下世界ではその必要もなかった。
ところがこの水浴者たちは信じられぬほど灼け、濃い赤黒色をしている。それにかれらはその上に何もまとっていない。熱心にとんだり、はねたりして、水をまきちらし、土手で日光浴をしている。
ハールはしばらくそれを見守っていた。子供たちと、三、四人のやせこけ、年老いた女たち。かれらを連れて行くか? ハールは首を振り、用心して川をぐるりと回った。
彼は小屋の裏をゆっくりと用心しながら歩き続け、銃を構えたまま油断なく周囲に眼を配っていた。
微風が吹きすぎ、右側の樹木がさわさわと鳴った。子供たちの水浴びの音、肥料の臭い、風のささやき、樹々のざわめきが混じり合った。
ハールは注意深く進んだ。彼は目につかない。しかしいつか発見されるかも知れない。足跡を辿《たど》られるか、物音を聞かれる可能性もある。それにもしだれかが彼に衝突したら――。
彼はすばやく忍び足で小屋を通りすぎた。そして広場にとび出した。そこは踏みならされた平らな土地だった。小屋の陰には犬が一匹寝そべり、そのやせた脇腹の上を蝿が飛び回っていた。老婆が一人、粗末な住居の入り口に腰を下ろし、骨の櫛で白髪まじりの長い髪を梳《と》かしていた。
ハールは彼女のそばを気をつけて通りすぎた。広場の中央には若い連中が立ちはだかり、身ぶりをまじえ、おしゃべりに興じている。ある者はその武器、思いもよらないほど幼稚な長槍とナイフをせっせと磨いていた。地面には死んだ動物が横たえてある。長く光る牙と厚い皮膚をした大きな獣である。口から血を流していた――濃く黒い血だ。若者の一人がいきなり身をひるがえした――それを足で蹴った。
ハールは若者たちに近づいた。そして立ち止まった。かれらは身体を覆うものを着けていた。長い脛《すね》あてと服である。草でゆるく編み、甲の部分を露出したサンダルを靴の代わりに履いていた。ひげはきれいに剃っており、皮膚は漆黒に光っている。隆々たる輝く筋肉を見せ、暑い日射しに汗をしたたらせている。
ハールはかれらが何を話しているのか理解できなかった。古めかしい伝統的言葉のひとつであることはたしかだ。
彼は歩き出した。広場の向こう側には老人の群れが車座になってあぐらをかき、粗末な機織り機で衣服を織っている。ハールはしばらくそれを見ていた。そのおしゃべりはやかましく、彼にもよく聞こえた。各人が機織り機の方に身体を曲げ、じっとその眼を仕事に釘づけしている。
軒を並べる小屋の向こうでは、何人かの中年男女が畑を耕しており、腰や肩にしっかりと結びつけた繩で鋤《すき》を引っ張っている。
ハールはぶらぶら歩きながらも目がはなせなかった。みんな何かの作業に従事している――小屋の前で寝そべっている犬を除いては。槍を持つ若者も、小屋の前で髪を梳かす老婆も、機織りの男たちも。
一方の隅では、大柄な女が数字の代わりに小枝を使って、足し算や引き算らしいものを子供に教えている。男が二人、小さな毛皮獣の生皮を剥がし、毛皮の部分を注意深く剥いでいた。
ハールは生皮の壁を通りすぎた。どの皮も日干しにするために吊るされていた。その悪臭に彼は鼻をひくひくさせ、くしゃみを催した。石を穿《うが》った器に穀粒を入れ叩いている子持ちがいた。それを食料にするのだ。彼が通りかかっても顔を上げる者もなかった。
動物たちは集めてつながれていた。樹陰に休む動物たちは巨大な乳房を持っていた。それらは黙って彼を見上げていた。
ハールは村外れまできて足を止めた。そこから先は人気のない原野が拡がっている。向こう一マイルほどは樹木と薮があるが、その先は果てしなく鉱滓が続いている。
彼は踵《きびす》を返し戻って行った。村外れの日陰に若い男が坐り、鉱滓の塊を細かく砕き、粗末な道具類を使って、それを丹念に削っていた。武器を作っているらしかった。ハールはそれを見守った。たゆまぬ真面目な切削作業は続いた。鉱滓は硬く、それは長く退屈な仕事だった。
彼は歩き出した。女たちは折れた矢を直している。そのおしゃべりはしばらく歩いていても耳に入り、彼はそれを理解してみたい気になった。みんな忙しそうにせっせと働いている。黒光りのする腕を振り上げ、振り下ろしながら、ぺちゃくちゃしゃべる声は前後から聞こえた。
活気、笑い声。子供たちの笑い声がいきなり村中に響いた。二、三人がそちらを向く。ハールは屈《かが》みこむと、近くから一人の男をしげしげと観察した。彼はたくましい顔をしていた。より合わせ結んだ髪の毛は短く、歯並びはよく、白かった。腕には銅の腕輪をはめ、それが肌の濃い褐色と合っている。裸の胸には刺青《いれずみ》があり、明るい色素を肌に彫りこんである。
ハールは来た道をぶらぶらと戻って行った。小屋の入り口の老婆の前を通りかかると、ひと休みして彼女を眺めた。老婆は髪を梳かすのを止め、いまは子供の髪の毛を結び、器用に後ろ編みして丹念な髪型を作っていた。ハールは彼女の手さばきに見とれた。髪型は複雑な見事なもので大分長い時間を費やした。老婆の衰えた眼はしっかりと子供の髪に据えられ、細かい仕事を続けた。その萎《しお》れた手はよく動いた。
ハールはまた歩き出し小川の方に向かった。そして水浴びしている子供たちのそばをまた通った。かれらは土手を登り、身体を太陽に乾かしていた。そう、これがまぬけどもなのだ。その種族は滅亡しかけている――滅びゆく種族、まもなく姿を消すものたち。その生き残りたち。
そうはいえ、かれらはとても滅亡寸前には見えない。みんな熱心に休みなく働いている。鉱滓を削り、矢を作り、家を建て、畑を耕し、穀物を脱穀し、機《はた》を織り、髪を梳かし――。
彼は不意に立ち止まり肩にかけた破壊銃を構えた。前方、小川のほとりの樹木を通して何か動くものが見える。そして二種類の声を耳にした――男と女の声だ。昂奮した口調で甲高《かんだか》い。
ハールは慎重に歩み寄った。花をつけた茂みを押しやり樹の間を覗いた。男と女が水辺の木立の暗い陰に腰を下ろしている。男は土器を作っていた。水を掬《すく》って粘土を濡らし、かたちを整えている。その指はすばやく巧みに動く。彼は土器を回し、膝の間のろくろでこねていった。男が土器を作り終えると女がそれを取り、粗末な刷毛《はけ》で器用に赤い絵の具を塗りつけていた。
その女は美しかった。ハールはうっとりとしてその女を見下ろした。彼女は樹に寄りかかって身じろぎもせず坐り、しっかりと土器を持ち彩色している。その黒髪は腰まであり、肩から背中に垂れ下がっている。彼女の容貌はくっきりと彫りが深く、身体の線も清潔で生き生きしており、黒い眄は大きかった。彼女は一個一個の土器を念入りに改めながら、唇をわずかに動かしていた。その手は小さく繊細だった。
彼はそちらに歩み寄った。女は彼の立てた物音に耳も貸さず、眼も上げなかった。彼の心には感嘆の念が湧き上がった。彼女の赤銅色の肉体は小柄で美しく、手足は細くしなやかだった。彼に気づいた様子もなかった。
いきなり男がまたしゃべり出した。女は顔を上げ、土器を地面に置いた。彼女はしばらく休み、刷毛を葉で拭った。粗末な脛《すね》あてをつけ、腰は撚《よ》った亜麻繩で被ってある。他に何もまとっていなかった。足首と肩は露わで午後の日射しの中、その胸の隆起は速い起伏を繰り返していた。
男がまた何かいった。すぐに女は土器を取り上げ彩色をはじめた。二人とも無言のまま熱心にすばやく仕事を続けた。
ハールは土器を改めた。どれも似たような文様だった。男はすばやく粘土をこね、粘土を輪にして形を作り、輪をくねり回し、だんだんとせり上げて行く。粘土に水をうち、表面を滑らかにしっかりしたものにこすり上げる。最後にそれを並べて置き、日に干した。女は乾いた土器を選び、色を塗った。
ハールは彼女を見守った。その赤銅色の肉体の動作、顔の緊張した表情、唇や顎の微妙な動きを長いこと観察していた。彼女の指はほっそりと繊細で先が尖《とが》っている。爪は長く尖端は針のようだ。土器を慣れた手つきで巧みに回しながら、すばやい刷毛さばきで色を塗っていった。
彼は穴のあくほど見つめた。彼女は各土器に同じ文様を描き、何度も彩色した。鳥と樹を描いた。線は地面を意味しているようだ。その上に雲がかかっていた。
あの繰り返されるモチーフの正しい意味は何だろう? ハールは身を屈めて接近し、熱心に覗き見た。それはみな同じものなのか? 彼女が次々と土器を手に取り、文様を描く器用な手つきに注目した。文様は基本的には同じものだ――だがその時々によって少しばかり違えている。その土器は一つとして同じものはなかった。
彼は困惑し、魅了された。同じ文様であるが、その都度わずかに変化している。鳥の色も変わっている。羽毛の長さも違っている。樹木や雲の位置も多少異なる。ある時は地上を漂う二つの小さな雲を描いた。時には背景に草や丘の稜線が加わった。ふと男が立ち上がり布で手を拭った。そして女に話しかけてから、急いでその場を去った。薮を踏みしだきながらやがて姿が見えなくなった。
ハールは昂奮気味にあたりを見回した。女はきちんと彩色を手ぎわよく続けている。男が消え、女が一人残り、静かに色を塗っている。
ハールの心の中で相克《そうこく》が起こった。それは全くあらがい難い感情だった。彼は女と話がしたかった。その絵のこと、文様のことを尋ねてみたかった。その時々でそれが変化するわけを知りたかったのだ。
彼は腰を下ろして話したかった。彼女に話しかけ、彼女の話を聞きたかった。それは何とも不思議なことだった。自分が理解できなかった。彼の視界はゆれ、歪み、かすんで、首筋から汗がしたたり、前屈みになった。彼女は目の前に彼が立っても、眼も上げず、いぶかしむ様子もなかった。ハールの手はベルトに下がり、深呼吸をしてためらった。思い切ってやるか? さもないと男が戻ってきて――ハールはベルトの|鋲を《びよう》押した。彼を取り巻く遮蔽膜が唸り火花を上げた。
女は顔を上げ、驚いた。その眼は不意の恐怖に大きく開かれている。
女は悲鳴をあげた。
ハールは慌てて一歩退くと銃をにぎり、その行為に女は色を失った。
彼女は急いで立ち上がると、彼に土器をぶつけ、絵の具を投げつけた。眼をひろげ口を開けて彼をにらんだ。そしてじりじりと薮の方に後ずさりした。やがて身をひるがえして逃げ、潅木林にぶつかり痛さに悲鳴をあげた。
ハールは突然の恐怖でわれにかえり、急いで遮蔽膜を元に戻した。村はにわかに騒がしさに充ちた。昂奮し狼狽《ろうばい》した村人の声、かれらが走り、薮を踏み鳴らす音を耳にした――全村に高揚した活気の奔流が噴出した。
ハールは急いで小川に下り、薮をすぎ、広場の中央におどり出ようとした。
突然足を止めると心臓が高鳴った。あの連中が群れを成して小川の方にやってくる――男は槍を持ち、老婆と子供は金切り声をあげている。薮の端でかれらは立ち止まり、あたりを見回し、耳を澄ました。その顔はみんな奇妙な意味ありげな表情で凍りついている。そして薮の中にとびこみ、凄まじく枝を押し分け彼を探しはじめた。
突然イア・フォーンが鳴った。
「ハール!」エド・ボイントンの声が鋭く明瞭に聞こえてきた。「ハール、息子!」
ハールはとび上がり、すごい感謝の気持ちで叫んだ。「お父さん、ここです」
エド・ボイントンは彼の腕をつかみ、ぐいと引っ張ってよろめかせた。「どうしたというのだ? どこへ行こうとしたのだ? 何をしかけたのだ?」
「居場所がわかったかい?」ターナーの声が割って入った。
「二人ともこちらに来てくれ。ここから脱け出すのだ、急いで。かれらは至るところに白い粉を撒きちらしている」
まぬけどもは殺到し、厚い雲の空中をめがけ白い粉を投げた。それは空中に漂い、至るところに降った。それはチョークの粉に似ていた。他の連中は大きな壷から油を撒きちらし、大昂奮の有様で叫んでいた。
「ここを出た方がよい」ボイントンは冷静にいった。「やつらが怒り狂っている時にいざこざは起こしたくない」
ハールはためらった。「しかし――」
「さあ、来るのだ!」父は促すと腕を引っ張った。「行こう。ぐずぐずしてはいられん」
ハールは後を振り返った。あの女は見えなかったが、連中は至るところを走り回り、チョーク粉と油を撒いた。尖端が鉄の槍をまがまがしく突き出し、周辺の草叢や薮をつついた。
ハールはおとなしく父に従った。彼の心は乱れた。女は行ってしまった。もう二度と会えないことはたしかだ。彼の姿を見て、彼女は悲鳴をあげて逃げて行ってしまった。
どうしてだろう? 意味がわからなかった。彼女が盲目的恐怖にかられて尻ごみしたのはなぜだ?
彼女と再会するかどうか、彼にどんな関わり合いがあるというのか? どうして彼女が重要なのか? 彼には理解できなかった。自分がわからなくなった。どうも合理的な説明ができない。全く不可解の一語に尽きる。
ハールは父に従い、ターナーと車に戻って行ったが、依然として困惑は続いた。いかにも惨めで、何とか理解の道を探り、自分と女との間に起こったことの意味を把握しようとした。どうしても意味がつかめない。彼の心は乱れ、それから彼女も狂ったようになった。そこに何か意味があるにちがいなかった――それが理解さえできたら。
車の所でエド・ボイントンは立ち止まると振り返った。「逃げ切れたのは運がよかった」彼はハールにそういい、首を振った。「やつらは怒るとけものみたいになる。やつらは動物なのだ、ハール。それがやつらの正体だ。野蛮な動物なのだ」
「さあ」ターナーは気短にいった。「ここから出よう――まだ歩けるうちにな」
ジュリーは小川で身体を洗い清めた後、老婆の一人に油を塗ってもらったが、いまだに慄えが止まらなかった。
彼女は高い所に坐り、膝を抱きかかえながら止まらない慄えに悩んだ。兄のケンはそばに立ち、冷静な表情で妹の赤銅色の裸の肩に手を置いた。
「あれは何だったのかしら?」ジュリーは呟いた。「あれは何だったのかしら?」彼女は慄えた。
「怖いわ。ぞっとして気持ちが悪くなったの。ただ見ただけだというのに」
「どんな風に見えた?」ケンが尋ねた。
「あれは――あれは人間に似ていたわ。でも人間のはずないわね。全部が金属でできているんですもの、頭から爪先までが。大きな手足をして、あの顔は青白く生気のない白さで――粗びきの粉みたい。病気だわ――きっと。すごく不健康な感じよ。白く、金属的、病的で。地中から掘り出した植物の根そっくり」
ケンは脇に坐って耳を傾けている老人の方を向いた。
「あれは何ですか?」彼は尋ねた。「あれは何だったのですか、ステビンズさん? あなたは物知りでしょう。妹の目撃したものは何ですか?」
ステビンズ老人はゆっくりと立ち上がった。「おまえは、それが白い皮膚をしていたといったな? 病気みたいだと? 練り粉のようだと? それに大きな手足か?」
ジュリーはうなずいた。「それに――それに他にも」
「何だ?」
「盲目なのよ。眼の代わりに何かあったわ。二つの黒い穴が。まっくらなの」彼女は慄え、小川の方を見た。
突如としてステビンズ老人は緊張し顎をひきしめた。彼はうなずくと「わかった」といった。「あれが何だかわかったぞ」
「何なの?」
ステビンズ老人はもぐもぐいいながら眉をひそめた。「それはありえないことだ。しかしおまえの話だと――」彼は遠くの方に眼をやった。眉間《みけん》にしわが寄った。「かれらは地下に住んでいるのじゃ」彼はしばらく間をおいてからいった。「地表の下にな。かれらは山奥から現れる。地中にいて、自分たちのために掘った大きな隧道《トンネル》と洞窟で暮らしている。あの連中は人間ではない。人間に似てはいるが、そうではない。地下に住み、地中から金属を掘り出している。金属を掘り、集めている。めったに地表に出てこない。太陽を直視できないからじゃ」
「あの連中は何と呼ばれているのですか?」ジュリーが尋ねた。
ステビンズ老人は記憶を辿り、数年前にさかのぼった。彼が耳にした古い書物や伝説のことだ。地下に住んでいるものは……人間に似て人間に非ず……隧道を掘り、金属を採掘するもの……盲目で、大きな手足を持ち、青白く病的な皮膚をしたもの。
「鬼《ゴブリン》だ」ステビンズ老人はいった。「おまえが会ったのは伝説の鬼だ」
ジュリーはうなずき、地面を大きな眼で見下ろし、膝を抱きしめた。
「そうね。そんな風に見えたわ。驚いたし、怖かったわ。夢中で走ったの。すごく恐ろしかったんですもの」彼女は兄を見上げ少し微笑んだ。「だけどもうよくなったわ」
ケンは大きな黒い手をこすり合わせた。そして安堵《あんど》の色を浮かべてうなずいた。
「よかったな。もう仕事に戻れる。することが山ほどある。しなければならないことがな」
[#改ページ]
奇妙なエデン
[#地付き]――Strange Eden
キャプテン・ジョンスンは宇宙艇から降り立った最初の人間だった。この星の大きな起伏のある森をじっと見つめた。何マイルも続く緑が眼に痛い。頭上の空は透き通るような青さだった。森の向こうは海辺を波が洗っている。空と同じ色をしているが、鮮やかな海草で一杯の泡立つ表面は紫に近い濃紺だ。
彼は操縦席から四歩ほどで自動ハッチに行き、そこから昇降板を下り、着陸時のジェット噴射で抉《えぐ》れた柔らかい黒土に足を降ろした。土は至るところに撒き散らされ、まだ湯気が立っている。金色の太陽に手を翳した。すぐにメガネを外すと袖で磨いた。彼は痩せて血色の悪い顔をした小男だった。メガネを外したまま眼をしばたたくと、すぐにまた掛け直した。暖かい大気を深呼吸すると肺に溜め、体内組織に送り込み、やがてゆっくりと吐き出した。
「悪くないな」
ブレントは開いたハッチから低い声でいった。
「ここが地球に近かったら、たちまちビールの空罐やポリ容器の山になる。森林は伐採され、海には古いモーターボートが浮かび、砂浜は悪臭が鼻を突く。地球の開発会社は何百万というプラスチック住宅をそこいら中に建てるだろうな」
ブレントは無頓着に何かぶつぶつ言いながら跳び降りた。彼は胸板の厚い男で、袖をまくり上げ、腕は黒く毛深かった。
「あの辺に何かありますね? 何かの跡ですか?」
キャプテン・ジョンスンは落ちつかなげに星図を開き調べた。
「この星域を報告した宇宙船はないな。我々が初めてだ。この星図によれば全域無人だ」
ブレントは笑った。
「ここには昔文明があったかもしれないと思わないんですか? 地球以外の?」
キャプテン・ジョンスンは銃をもてあそんだ。これまで銃を使ったことがなかった。銀河系パトロール星域外の探索を命じられたのは、これが初めてだった。
「確かめるべきかもしれん。だが実際にはここの星図を作る必要はないんだ。もう三つも大きな星の地図を作った。これは命令に入っていないんだ」
ブレントは湿った地面を大股で歩き、何かの跡の方に行った。屈み込んで折れた草に指を走らせた。
「この上を何かが通った。土が窪んでいる」
彼は驚いたような嘆声を挙げた。
「足跡だ!」
「人間か?」
「動物のようだ。大きな――ネコ科の動物かも知れない」
ブレントは立ち上がるとごつい顔で考え込んだ。
「まるで新しいゲームみたいだ。そうでなくとも気晴らしにはなる」
キャプテン・ジョンスンは神経質そうに身を震わせた。
「その獣からどうやって身を守るか? 安全を考え艇内にいる方がいい。空中からも調査出来る。このちっぽけな星なら通常のやり方で十分だ。こんなところにいつまでもいるのは嫌だ。身の毛がよだつよ」
「ぞっとしますか?」
ブレントはあくびとのびをした。それから足跡を辿り、数マイル続く起伏ある緑の森の方に歩きだした。
「僕はここが好きですね。標準的な国立公園みたいだ――野性味が溢れている。キャプテンは艇にいて下さい。ちょっと楽しんで来ますから」
ブレントは片手に銃を持ち、慎重に暗い森に入って行った。彼はベテランの調査員だった。これまでに数多く極地を探索し、身の処し方を十分に心得ていた。時々立ち止まると足跡を調べ土を手に取った。大きな足跡は続き入り交じっている。獣の群れがこの道を通ったのだ。何種類もの獣でみんな大きい。おそらく水源に集まったのだ。川か池にだ。
彼は坂を登って行った――その時急いで身を伏せた。自分の前に動物が一頭、平らな石に寝そべっていた。目を閉じて明らかに眠っている。ブレントは大きく円を描いて歩きながらじっと動物を見た。まぎれもなく猫だった。しかし見たこともない猫だった。ライオンみたいでもっと大きかった。地球のサイぐらいある。長い黄褐色の毛、大きな四肢、ねじれたロープのような尻尾。脇腹をハエが這っている。筋肉が波打つとハエは逃げて行った。口は少し開いている。光沢のある牙は日光に濡れて光っていた。大きなピンクの舌。ゆっくりと荒い息遣い、いびきをかきながらまどろんでいる。
ブレントは光線銃をもてあそんだ。スポーツマンとして寝ている獣は撃ちたくない。石を放って起こしてやろうかと思った。しかし体重は自分の二倍はある。心臓を撃ち抜いてから、宇宙艇まで引きずって行こうかという思いにかられた。その頭は格好よいし、毛皮も悪くない。しとめて持ち帰れば自慢話のタネになる――樹から飛びかかってきたことにするか、それとも密林から咆哮と共に飛び出したことにしようか。
彼は地面に膝をつき、右肘を右膝に置き、左手で光線銃をしっかり握り、片目を閉じて慎重に狙いを定めた。深呼吸し銃を固定すると安全装置をはずした。
引金を引き絞ったところに、もう二頭の大山猫が彼の背後から悠然と現われて通り過ぎ、眠っている仲間をちょっと嗅ぐと茂みの中に消えた。
気をそがれてブレントは銃を降ろした。二頭とも彼を無視している。一頭はこちらをちらっと見たが全く関心を示さなかった。彼はふらふらと立ち上がると額からどっと冷汗が流れた。やれやれ、その気なら八つ裂きにされるところだった。背中を向けて屈んでいるところを襲いかかられていたら――。
油断出来なかった。一カ所に立ち止まるのも休むのも危ない。歩き続けるか、宇宙艇に戻るかだ。戻る気はなかった。ジョンスンを驚かすものを手に入れたかった。あのちびのキャプテンは多分操縦席で落ちつかず、ブレントはどうなったかと考えているだろう。ブレントは注意深く茂みを抜け、眠っている大山猫を遠回りして元の足跡に戻った。彼はさらに探索を続け、持ち帰る価値のあるものを見つけるか、安全な場所に野営しようと思った。携帯食糧は持っているし、緊急の場合には交信器でジョンスンに連絡出来る。
彼は平坦な牧草地に出た。いたるところに黄、赤紫色の花が咲き乱れている。急ぎ足でそこを通り過ぎた。この星は処女地だった――まだ未開の段階にある。人跡未踏の地だ。ジョンスンがいったように、やがてはポリ容器やビールの空罐、腐ったごみの山になることだろう。自分がこの星の賃借契約を取得することも出来る。会社を設立しあらゆる権利を確保する。それから時間をかけて上流階級向けに土地を分譲する。商業地化しないことを約束し、最高級の住宅だけとする。十分に余暇のある金持ちの地球人を相手に、庭園付き静養地を建設する。魚釣り、狩り、かれらの望むあらゆる遊び。思うがままである。人間にとってはもの珍しい。
その空想に彼はほくそ笑んだ。牧草地を抜け深い森の中に入りながら、最初の投資資金を集めるのにはどうしたらよいか考えていた。他人を誘い込まなければならない。沢山のコネを持っている人間なら見返りがあるだろう。それに販売促進と宣伝が必要だ。実際うまく計画を推し進めることだ。未開の星は少なくなってきている。これが最後かも知れない。もし失敗すれば、運に見放されることになる……。
そこで彼の空想は終わりを告げた。計画はあっさり瓦解した。重苦しい不快さに息が詰まる。彼はいきなり立ち止まった。
道は前方で広がっていた。樹木は少なくなり、明るい日光がシダ、茂み、草花の静かな暗がりに射し込んでいる。小さな丘の上には建物があった。石造りの家で階段と玄関が付いており、大理石のような堅い白壁で出来ている。周囲を庭が取り囲んでいた。窓、小径、背後に小さな建物がある。すべて小綺麗で――とびきり現代風だった。小さな泉が青い水を溜池に注いでいる。数羽の鳥が砂利道のあちこちを突ついていた。
この星は住人がいたのだ。
ブレントは用心深く近づいた。灰色の煙が一筋、石造りの煙突から立ち上っている。家の裏には鶏小屋があり、日陰の水桶のそばで牛に似た獣がまどろんでいた。他には犬や羊みたいな群れもいる。小農場があったが――彼にはこれまで見たこともない農場だった。建物は大理石か、その類の石で出来ていた。動物たちは一種の力場に囲われているようだ。すべてが清潔だった。片隅には下水処理管が廃水やごみを吸い取り、半埋没タンクに注いでいた。
彼は裏口の階段までやって来た。少し考えてから階段を昇って行った。特に恐れもしなかった。あたりはひっそりとし、秩序立った静寂が漂っている。そこから危害を加えるようなものが出てくるとは思えなかった。彼は戸口まで来るとためらい、ドアのノブを捜した。
ノブなどなかった。触れただけでドアが開いた。拍子抜けして彼は中に入った。豪華な玄関である。壁龕《へきがん》の明かりが厚い絨緞をブーツが踏むごとにまたたく。窓は赤い厚手の長いカーテンで覆われている。重量感のある家具調度――部屋の中を覗いてみた。奇妙な機械や備品類。壁には絵画。四隅に彫刻。角を曲がるといきなり大広間に出た。誰もいなかった。
小馬くらいある動物が戸口から出てきて、彼を興味ありげに嗅ぐと、手首をなめて去った。彼はびっくりしながらそれを見送った。
よく馴れている。すべての動物が馴れている。どんな人間がこの家を建てたのか? 彼は急にパニックに襲われた。人間ではないかも知れない。他の種族、銀河系の彼方から来たエイリアンかも。エイリアン帝国のフロンティア、前紹基地ということも考えられる。
そう思いながら、この家を飛び出して艇に逃げ帰り、オリオンXIの宇宙艇基地に連絡しようか迷っていると、背後に微かなきぬずれの音がした。かれは銃を手にすばやく振り返った。
「誰だ――」かれは喘《あえ》いだ。そして凍りついた。
一人の娘が立っていた。落ち着いた顔つきで、眼は大きく黒々としている。背丈は彼と同じくらい、ほぼ六フィート(一八〇センチ)あった。黒髪が肩から腰まで垂れている。奇妙な金属製の光る部屋着をまとっていた。頭上の光が当たって反射し、きらきら輝いている。唇は深紅色でぽっちゃりしていた。胸の下で腕を組み、呼吸するごとに乳房が微かに揺れる。彼女の隣には、さきほどブレントを嗅ぎ去った小馬のような動物がいた。
「ようこそ。ミスター・ブレント」
彼女はそういってにっこり笑うと、小さな白い歯が光った。その声は優しく軽やかで驚くほど澄んでいた。突然身をひるがえすと、戸口を抜けて次の間に向かう、彼女の部屋着がはためいた。
「こちらにどうぞ。お待ちしてましたわ」
ブレントは注意深く部屋に入った。長いテーブルの向こう端では一人の男が、明らかな不快感を示しながら彼を見つめている。六フィート以上ある大男で、上着のボタンを留める広い肩と太い腕が細かく震えていた。彼は立ち上がると戸口に行った。テーブルは料理の皿や鉢がいっぱい並べられている。ロボットの召使が静かに料理を片づけていた。今まで彼女と男が食事をしていたようだ。
「あれは私の弟よ」
彼女は色の黒い大男を差していった。彼はブレントに軽く会釈し、聞き慣れない流暢な言葉で姉と二言三言交わすと、足早にその場を去った。彼の足音は玄関に消えた。
「これは失礼した。食事の邪魔をするつもりはなかったのだが」とブレントは小声で言った。
「いいのよ。もう行ってしまったから。本当のところ私たちはうまくいっていなかったの」
彼女はカーテンを降ろし、広い窓から森が見えるようにした。
「ここから弟が出て行くのが見えるわ。あそこに彼の宇宙艇がとめてあるの。見えるでしょう?」
その宇宙艇を見つけるまでにしばらくかかった。それはあたりの景色に溶けこんでいた。宇宙艇が九〇度の角度で上昇した時、初めてそこにあったことを知った。そこまでは数ヤードの距離だった。
「大した男でしょう」
彼女はそういうと、またカーテンを元に降ろした。
「お腹は空いていらっしゃらない? ここにお座りになって、一緒にお食事はどう。アイーテスが行ってしまったので、私ひとりきりなの」
ブレントは慎重に腰を下ろした。料理はすばらしく見えた。食器類は半透明の金属製らしい。ロボットは彼の前にナイフ、フォーク、スプーンを置き、命令を待っている。彼女は淀みのない奇妙な口調で命令した。ロボットは直ちにいわれた通り、ブレントに料理を出すと退出した。
彼と女だけになった。ブレントはがつがつ食べたが、料理はおいしかった。彼は鶏のような鳥の手羽を裂き巧みにかじった。深紅のワインをタンブラー一杯飲み干し、袖で口を拭うと熟れた果物に取りかかった。野菜、スパイス入りの肉、魚介類、暖かいパン――彼はわくわくしながら貪《むさぼ》った。彼女は上品に少し口をつけただけだった。彼をじっと見つめていたが、やがて彼がすっかり平らげると、皿は片づけられた。
「キャプテンはどこかしら? 来ないの?」
「ジョンスンのことかい? 彼は宇宙艇に戻ったよ」
ブレントは大きなげっぷをした。
「どうして地球語が話せるの? きみの星の言葉じゃないだろう? 僕のほかに誰かいるのをどうして知った?」
娘は鈴を振るような声で笑った。彼女はナプキンでたおやかな手を拭うと、深紅のグラスを飲み干した。
「スキャナーで観察してきたの。もの好きなの。こんな遠くまでやって来たのは、あなたの宇宙艇が最初よ。目的は何かしら」
「我々の宇宙艇をスキャナーで観察して、地球語を学んだのか」
「いいえ、人類から直接言葉を習ったの。ずっと昔にね。忘れない限り話せるわ」
ブレントは当惑した。
「しかしここに来たのは、我々の艇が最初だといったね」
娘は笑いだした。
「そうよ。でも私たちは時々あなたの小さな世界を訪れていたのよ。だからすっかり知っているわ。地球は中継地点なの――私たちが目的地に向かう途中のね。私は何度も行ったわ――かなりの期間滞在したの。旅をしたのはずっと昔の話だけど」
ブレントは異様なさむけに襲われた。
「きみらは何者だい? どこから来たの?」
「源はどこか知らないわ。私たちの文明は現在では宇宙にゆき渡っているの。おそらく伝説の時代に一カ所から始まったのよ。今ではほとんどいたるところにあるわ」
「どうしてこれまできみたちと出くわさなかったんだろう?」
娘は微笑みながら食べ続けた。
「さきほどいったでしょう。あなたがたはしばしば私たちと出会っているのよ。地球人をここに連れて来たこともあるわ。一度ははっきりと覚えているわ。数千年前のことだけど――」
「きみたちの年でいうとどのくらい?」
「私たちには年などないわ」
彼女の黒い瞳が楽しげにきらきらしながらじっと見つめた。
「地球の年でいっているのよ」
彼は一瞬かなりの衝撃を感じた。
「数千年か。きみは千年も生きているの?」
「一万一千年よ」
彼女はあっさり答え顎をしゃくると、ロボットは食器をかたづけた。彼女は椅子に寄りかかるとあくびをし、しなやかな小猫みたいにのびをした。それからいきなり立ち上がった。
「いらっしゃい。食事は終わりよ。私の家の中を見せるわ」
彼は慌てて彼女の後を追った。自信は崩れていた。
「きみたちは不死なのか?」
彼は彼女とドアの間に入り、早い息遣いで顔を紅潮させた。
「きみたちは歳を取らないのか?」
「歳ですって? ええ、取らないわ」
ブレントは言葉を探すのに苦労した。
「きみたちは神か?」
彼女はブレントを見て笑い、黒い瞳を楽しげに輝かせた。
「そうではないわ。あなたたちは私たちとほぼ同等のものを持っているわ――知識、科学、文化をね。その結果私たちに追いついた。私たちは古い種族なの。数百万年前、私たちの科学者は衰退の過程を遅めることに成功したわ。それ以来私たちは死ななくなったの」
「それではきみたちの種族はいつも変わらないのか。死にもしなければ生まれもしない」
彼女はブレントを押しのけると戸口を通り広間に出た。
「あら、いつでも生まれているわ。私たちの種族は成長し発展しているのよ」
彼女は戸口で立ち止まった。
「楽しみを手放すことはないわ」
彼女は思案気にブレントを見た。その肩、腕、黒髪、ごつい顔。
「永遠性を除けばあなたと同じよ。あなたにもいつか分かるでしょうよ」
「きみたちは我々の間を動き回っていたのか?」
ブレントはそういって理解し始めた。
「それでは古い神話伝説はみんな本当だったんだな。神も奇跡も。きみたちは我々と接触し、いろいろなものを与えてくれたし、さまざまのことをしてくれた」
彼は驚きを交えて部屋に入った。
「そうよ。その通りよ。いくたの経験を重ねながらね」
彼女は部屋を回りながらカーテンを降ろした。椅子、書棚、彫刻は薄闇に包まれた。
「チェスでもしない?」
「チェスだって?」
「私たちの代表的ゲームよ。それをあなたがたの先祖のインテリに教えたの」
彼女の小さな厳しい顔に失望の色が浮かんだ。
「あなたは出来ないの? だめね。何が出来るの? あなたのお友だちは? あなたより知性がありそうに見えたけれど。彼はチェスが出来る? あなたの代わりに来てもらおうかしら」
「無理だね」
ブレントはそういうと彼女ににじり寄った。
「知る限りではやらないよ」
彼は手を伸ばし彼女の腕を捕らえた。彼女は驚いて振り放した。ブレントは太い腕の中に彼女を抱きしっかりと引き寄せた。
「あんなやつほっとけ」
彼はくちづけした。その赤い唇は暖かく甘かった。彼女は喘ぎ激しく抵抗した。そのスリムな肉体が身もだえするのを感じた。黒髪から芳香が湧いてくる。尖《とが》った爪で引掻き、胸が波打った。彼が離すと彼女は逃れ、用心深く目を光らせ、息遣いも荒く身体をこわばらせ、輝く部屋着をかき合わせた。
「変なことをすると命を失うわよ」
彼女は小声で言いながら宝石をちりばめたベルトに触れた。
「わかっているの?」
ブレントは前に出た。
「そうかもな。でもそうはしない方に賭けるよ」
彼女は後ずさった。
「ばかにしないでよ」
彼女の唇は歪み微かな笑いが漏れた。
「あなたは勇敢よ。でもスマートじゃないわ。ともかく男としては悪い組み合わせではないわ。愚かで勇敢なところわね」
すばやく彼女は逃れ、彼の手から届かないところに身を置いた。
「あなたもいい体型をしているわ。あの小さな宇宙艇のなかで、どうやってそれを保つの?」
「年四回フィットネス・コースに通っているんだ」
ブレントはそう答えると、彼女とドアの間に身を置いた。
「こんなところできみひとりじゃ全く退屈しただろう。これまでの数千年間と同様、今後も変わることはあるまい」
「耐えられる方法は見つけたわ。だから私に近寄らないで。あなたの大胆さに舌を巻いているので、警告するのがフェアだと――」
ブレントは彼女を捕まえた。彼女は激しく抵抗した。彼は片手で彼女の両腕を背中に回して抑えつけ、身体を弓なりに張りつめさせて、半ば開いた唇にキスした。彼女は白い小さな歯を彼の口に潜らせた。彼はもぐもぐ言い唇を離した。彼女は争いながらも笑い、その眼は踊っていた。罠《わな》にかかった獣みたいに息遣いが荒くなり、頬が紅潮し、はみ出た乳房が震え、身体がよじれた。ブレントは彼女の腰に腕を回すと抱き上げた。
一種の力波が彼を直撃した。
ブレントは彼女を取り落とした。彼女はしなやかに床に立つと、踊るような足取りで退いた。ブレントは身体を折り曲げ、苦悶で顔が灰色になった。冷汗が首や手から流れた。長椅子に横たわると眼を閉じた。筋肉がしこり、身体が苦痛でねじれた。
「ごめんなさいね」
彼女はそういいながら、彼を無視して部屋を歩き回った。
「あなたのせいよ――気をつけなさいといったでしょう。ここから出て行くことね。あの小さな艇にお帰りなさい。これ以上苦しめたくないわ。地球人を殺すのは私たちの主義に反するの」
「あれは――何だ?」
「大したものじゃないわ。斥力の一種よ。このベルトは私たちの産業星の一つで作られたの。私を守るものだけど作用原理は知らないわ」
ブレントはやっとのことで立ち上がった。
「きみは小娘にしてはかなりしたたかだな」
「小娘ですって? 私は大年増よ。あなたの生まれる前、ロケットが発明される前に、もうかなりの歳だった。衣服を織ったり、考えを文字で記すようになる前からよ。人類が成長しては野蛮に戻り、また進歩して行くのを見ていた。数え切れない国家や帝国の興亡。エジプト人が初めて小アジアに進出し始めた時も生きていた。ティグリス溪谷の都市建設者たちが簾瓦作りの家を建てるのも見た。アッシリア戦争で戦闘用馬車が走るのも目の当たりにした。私は友だちとギリシャ、ローマ、ミノス、リディア、赤銅色の皮膚をしたインド人の大帝国を訪問した。私たちは古代人にとっては神であり、キリスト教徒にとっては聖人だった。何度も行き来したわ。人類が成長するにつれ、その回数も減った。私たちは他にも中継地があるわ。あなたの星だけではないのよ」
ブレントは黙りこんだ。その顔に血の気が戻って来た。彼女は柔らかな長椅子に身を投げだした。枕に寄りかかると静かに彼を見つめ片手を伸ばした。もう一方の手を膝の上に当てた。その長い脚を折ってたくし込み、小さな足を尻に敷いた。彼女は喧嘩のあと満足して休んでいる子猫みたいに見えた。その話はなかなか信じられなかった。しかし彼の身体はまだ痛む。彼女の力場の一端に痛めつけられ、危なく殺されるところだったのだ。考えさせるものがあった。
「ねえ?」やがて彼女はいった。「どうするつもり? 遅くなるわよ。艇に戻るべきだと思うけど。キャプテンはあなたの身に何か起こったと考えるわよ」
ブレントは窓際に行きカーテンを上げた。太陽は沈んでいた。暗闇が森の外を覆っている。星々がまたたき始め、濃紫の夜空を背景に小さな白い点々となっている。彼方の丘陵の輪郭が黒くまがまがしく突き出ていた。
「彼とは連絡出来るよ」
ブレントはそういって首筋を軽く叩いた。
「緊急の場合には、僕は大丈夫だと伝える」
「大丈夫ですって? あなたはここにいるべきでないわ。何をしているのか分かっているの? 私を自由に出来ると考えているんでしょう」
彼女はわずかに身を起こすと、長い黒髪を肩の上に投げかけた。
「あなたが何を考えているか分かるわよ。私をあなたと寝た娘のように考えているのね。あなたの指をよく包んでくれた若いブルーネット娘――彼女を仲間に自慢していたでしょう」
ブレントは赤くなった。
「きみはテレパシー能力があるのか。それを先にいってくれればいいのに」
「大したものじゃないわ。自分に必要なことだけよ。タバコをくれない。私たちにはないものだわ」
ブレントはポケットを探り、タバコ箱を取りだすと彼女に投げた。彼女は火をつけると優雅に吸い込んだ。グレイの煙が周囲に流れ、部屋の暗がりとまじり合う。部屋の隅は闇に溶けていた。彼女も長椅子に丸くなったおぼろげな形になり、深紅の唇の間のタバコが輝く。
「心配はしていない」とブレント。
「そうね。心配することないわ。あなたは臆病者じゃないもの。勇気があってスマートだったら――信じられないけど。あなたの勇気、それが愚かさであっても感心するわ。男は勇敢なものよ。それが無知を基にしている場合でも感動的だわ」
そこで彼女は言葉をとぎりまたいった。
「ここにいらっしゃい。お座りにならない」
「何を心配すべきかな?」
ブレントはしばらくしていった。
「きみがベルトに触れなければ大丈夫だ」
暗闇の中で彼女は身じろぎした。
「そんなことじゃないわ」
彼女は少し身を起こすと、髪を直し、頭の下の枕を引っ張った。
「私とあなたは全く別の種族よ。私たちとの接触は――密着は――致命的だわ。私たちにとってではなく、もちろん、あなたたちにとってよ。私と一緒になれば、人間として残れないのよ」
「どういう意味だ?」
「あなたは変貌を経験するわ。進化論的変化を。私たちはある力を使うの。その力を十分蓄えてあるので、私たちと密着すると、その影響があなたの身体の細胞に及ぶわよ。外に動物がいたでしょう。かれらは少しずつ進化したのよ。もはや野生動物ではないわ。簡単な命令を理解し、やさしい仕事なら出来るわ。まだ言葉は持たないけど。あのような低級動物にも長い話があるの。かれらとの接触は実は密接ではないわ。でもあなたは――」
「わかった」
「私たちは人間をそばに置きたいとは思わない。だからアイーテスはここを出て行った。私は怠惰だから出て行かないけど――特に構わないから。私は分別盛りじゃないし、責任もないから平気よ」彼女はちょっと笑った。「私の接触の仕方は仲間よりも少し密着し過ぎているけど」
ブレントは暗闇の中でも彼女のすらりとした身体はよく見えた。枕に横たわり唇を開き、乳房の下で腕を組み、頭を反《そ》らしていた。彼女は美しかった。これまで出会ったこともない美女だった。すぐさま彼は身体を寄せた。今度は彼女も動かなかった。彼は優しくキスすると、腕を伸ばしてたおやかな身体を抱き、しっかり引き寄せた。彼女の部屋着がきぬずれの音を立てた。ふんわりとした髪が彼を撫で、暖かさと芳香が漂った。
「すばらしい」
「ほんとう? 一度足を踏み入れたら後戻り出来ないわよ。おわかり? もう人間ではなくなるのよ。進化はするけど、種の系統に沿って人間になるには、今から数百万年かかるわ。あなたは除け者になるのよ。未来の人類の先祖としてね。友だちもなく」
「構わないさ」
ブレントは彼女の頬、髪、首筋を愛撫した。その柔らかな皮膚の下に熱い血の鼓動を感じた。喉のくぼみがごくりと鳴った。息遣いが早くなり、密着した乳房が上下した。
「きみさえよければ」
「ええいいわ。私は平気よ。あなたが本気なら。でも私を責めないでね」
半分まじめ、半分いたずらっぽい笑みが、彼女の厳しい顔をかすめた。その黒い眼が輝いた。
「私を責めないことを約束してね。そうなってしまってから非難する人って嫌い。後悔先に立たずよ。たとえどうであっても」
「前にもあったのかい?」
彼女は優しく笑って彼の耳元に近づいた。暖かいキスを浴びせると、しっかりと抱き寄せた。そして囁いた。
「一万一千年のうちにはよくあったわ」
キャプテン・ジョンスンにとってはさんざんな夜だった。緊急呼び出しをブレントにかけたが応答はなかった。微かな空電と、オリオンXIからのテレビ番組のジャズ音楽と、歯の浮くようなコマーシャルだけだった。
文明の音響を聞いて、自分たちが行動を続けなければいけないことを思いだした。二十四時間がその星域でも最小のこの星に、いつも割りふられている。
「ちくしょう」彼は呟いた。コーヒーポットを置くと腕時計を見た。それから宇宙艇を出て、早朝の陽光を浴びながらぶらぶらと歩き回った。太陽は昇り始めていた。あたりは濃紫から灰色に変わっていく。かなり寒かった。身体が震え足踏みし、数羽の小鳥もどきが舞い降り、薮を突ついているのを見ていた。
彼がオリオンXIに連絡しようかと考えているところに女が現れた。
彼女は早足で宇宙艇に歩み寄った。長身ですらりとして、大きな毛皮のジャケットを着ており、両手を厚い毛皮に埋めている。ジョンスンはその場に釘づけになりまごついた。あまりの驚きに銃をつかむのも忘れていた。ぼんやり口を開けていると、彼女は途中で立ち止まり、黒髪をうしろに投げ、銀色の吐息を彼に吹きかけて言った。
「さんざんな夜でごめんなさい。私のせいよ。彼をすぐ返してやればよかった」
キャプテン・ジョンスンは口をぱくぱくさせた。
「何者だ?」
彼はやっとのことでそういった。恐怖に囚《とら》われていた。
「ブレントはどこだ? 何があったんだ?」
「後から来るわ」
彼女は森の方を向いて合図した。
「今すぐ発った方がいいわ。彼はここに留まりたいそうよ。それが一番ですって――彼は変わったのよ。私の森で他の――人間たちと幸せに暮らすわ。あなたたち全ての人間がどれも似通っているのは奇妙なことだわ。人類は変わった道を歩んでいるのね。あなた方をしばらく観察したことは、そのうち役に立つかも知れない。その低い美学的見地をどうにかするものが必ずあるはずよ。生まれついての俗悪さに、結局あなたがたは支配されているのね」
森の中から奇妙な形をしたものが出て来た。しばらくキャプテン・ジョンスンはわが眼を疑った。眼をしばたたき細め、それから信じられないものにうなった。この遠く離れた星で――しかし間違いではなかった。彼女の背後の森の中からゆっくりと哀れっぽく現れたのは、まぎれもなく巨大な猫のような動物だった。
彼女は背を向け、それから立ち止まると獣に手を振った。獣は艇の周囲で哀れっぽく鼻を鳴らした。
ジョンスンは獣を見つめていると、突然恐怖を感じた。本能的にブレントはもう艇には戻ってこないのを知った。この奇妙な星で何かが起こったのだ――あの女は……
ジョンスンはエアロックを閉め、急いで操縦席に就いた。最短の基地に戻って報告しなくてはならない。これは念入りな調査が必要だ。
ロケットが発進すると、ジョンスンは画面を見つめた。そこには去りゆく艇に向かって大きな前肢をむなしく振っている獣の姿が映っているではないか。
ジョンスンは身を震わせた。それはあまりにも人間の怒りの身ぶりに似ていた……
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あとがき
本書は、表題のフィリップ・K・ディックの長編と、短編三作を収録したものである。
「宇宙の操り人形」は、「偶然世界」に次ぐディックの長編の第二作である。元々はSF誌 "Satellite" の一九五六年十二月号に発表された中編 "A Glassof Darkness" に、手を加えて長編にしたものである。
長編というより中編に近い枚数であるのは、この作品が一九五七年に、エース・ダブル・ブックの一冊として刊行されたものだからである。ダブル・ブックというのは、アメリカの出版社エース・ブックが、一九五〇年代にSFやミステリ、ウエスタンなどの小説を、二作一冊の合本にしたものだった。従って長編といっても頁数が少なかった。
「宇宙の操り人形」は、アンドリュウ・ノース(アンドレ・ノートン)の "Sargassoof Space" と一冊になっていた。
ディックの初期の長編は、「偶然世界」「宇宙の眼」(「虚空の眼」) "Dr. Futurity" "Valucan's Hammer" など、すべてこのダブル・ブックで刊行されており、私が愛読したの もこのシリーズである。
「宇宙の眼」は、そのアイデアが当時のSFファンにショックを与えたもので、よく話題になり、ベストSFに挙げられた。しかし他の長編には、それほどずば抜けた面白さは感じられなかった。ところが本書は、当時のディックの短編に見られるような、奇想に満ちた興味で、冒頭から引き付けるものがあった。
主人公のテッド・バートンが、妻を伴って故郷のヴァージニア州ミルゲイトに帰ってくる。ところが町並みが昔の町とは違う、住民にも全く見覚えがない。ここは故郷とは違うのではないか? これこそまさしくディック調でぞくぞくしてくる。
しかも、町の新聞のバック・ナンバーで調べると、自分は九歳の時に伝染病で死亡したことになっている。そうなると、いまいる自分は何者だ? 疑似記憶なのか、それとも自分はシミュラクラなのか。ディック得意のアイデンティティの確認に執念を燃やす男の物語である。
このくだりの面白さは抜群で、いったいどうなるのだろうと、胸を躍らして読んだものだった。初期の作品には、こうした読者を作中にのめり込ます、ミステリアスなアイデアが豊富にちりばめられている。
ディック自身も、本書を「いままで書かれた最高のファンタジー長編」といっているくらいだから、それだけの自信作だったわけである。しかし作品の展開は、それまでのディックの短編の構成とは異なる。長編として成立させるためには、さらに物語の広がりが必要だったのだろう。
そのために、いわゆるスペース・オペラ的になり、オーマズード(光の神)とアーリマン(闇の神)の対決といった構図を持ち出している。こうした話の飛躍が、ディックらしい計算というか、ディックらしからぬ計算違いと取るかは、読者の意見が分かれるところだろう。
初期の習作であるから、欠点を挙げればきりがないだろうが、それにも増してファンを喜ばせてくれるのは、この作品にはディックらしいセンス・オブ・ワンダーが横溢していることである。センス・オブ・ワンダーは、SFの絶対条件ではないが、必要条件であることは今も変わらない。ディックの人気の原点のひとつはそこにもある。
いまの若いファンたちが、すべて後期の小説の小難しい神学論を好むとはとても思えない。むしろディックの作品全体から見れば、ブリミティーヴなものであったにしろ、そのアイデアの斬新さと、普通の読者が読んでも面白い通俗性(悪い意味ではない)を、十分備えたエンターテインメントとして優れたものである。
短編三作は、それぞれ物語性のあるものを収録した。
「地球乗っ取り計画」は、地球を乗っ取るための調査に、何十年も地球人として住みこんでいる老人と、いたずら小僧の話である。おおらかで、のんびりしていた、一九五〇年代のSFの雰囲気がよく出ている。
「地底からの侵略」は、地底人と地表人の関係が、第二次大戦直後のアメリカ占領軍と日本人の関係に似ているように、基地の子だった私には思えるが、今の日本と貧しい東南アジアの国との構図と読めるかもしれない。
「奇妙なエデン」は、レジャー開発にうつつを抜かす日本人への警告みたいだが、アメリカではもう三十年以上も前に、同じようなことを考えていたのだ。物語の面白さの中に、含まれたこうした風刺や皮肉は、いま読んでもうなずけるものがある。
一九九一年十一月
[#地付き]仁賀克雄
[#改ページ]
初出一覧
「宇宙の操り人形」(『宇宙の操り人形』朝日ソノラマ1984年6月30日刊・所収)The Comic Puppets(Ace Book, 1956)
「地球乗っ取り作戦」(同上所収)Project Earth(Imagination, December, 1953)
「地底からの侵略」(『機械仕掛けの神』朝日ソノラマ1984年5月25日刊・所収)A Surface Raid(Fantastic Universe, July, 1955)
「奇妙なエデン」(本邦初訳)StrangeEden(Imagination, December, 1954)
[#改ページ]
フィリップ・K・ディック
(Philip. K. Dick)
一九二八年イリノイ州シカゴ生まれ。多くの職を転々としながら執筆活動を続け、一九五二年の『輪廻の豚』によりSF作家の道へ。珠玉の短篇を次々と発表した後、長篇作家への転身を計る。『流れよ我が涙、と警官は言った』でキャンベル賞受賞。その頃より宗教的色彩の濃い作風への再度転身を試みるが一九八二年卒中で死亡。享年五四歳。
仁賀克雄(じんか・かつお)
一九三六年横浜生まれ。早稲田大学商学部卒。作家、評論家。主著書に『ロンドンの恐怖・切り裂きジャックとその時代』『海外ミステリガイド』、『現代海外ミステリベスト100』、訳書にR・ブラッドベリ『火星の笛吹き』R・K・ディック『人間狩
本作品は一九九二年一月ちくま文庫として刊行された。