P・K・ディック
欠陥ビーバー(短編集「模造記憶」より)
むかしむかし、まだお金というものが発明されない前の時代に、キャドベリーという雄のビーバーが、自分の歯と足で築きあげた貧弱なダムの中に住み、藪や、樹木や、そのほかの植物をかじり倒すのとひきかえに、何色かのポーカー・チップを稼いでいた。彼は青のポーカー・チップがいちばん好きだったが、これは非常に大規模なかじり仕事の支払いに使われるもので、めったに手にはいらなかった。長年働いてきても、そんなチップは三枚しか持ってない。しかし、この世の中にもっとたくさんのそれが存在することは、推論によって知っていたから、ときどきは一日のかじり仕事の合い間に、インスタント・コーヒーを自分でいれては、青も含めてすべての色のチップのことを瞑想するのだった。
妻のヒルダは、ことあるたびに、たのみもしない忠告をよこした。「自分をよく見てみなさいよ」と、いつもヒルダはいう。「一度精神分析医に診てもらったほうがいいんじゃないの。あなたの白チップの山ときたら、このへんでおなじかじり仕事をしているラルフや、ピーターや、トムや、ボブや、ジャックや、アールの半分もない。それはいつもばかばかしい青チップのことばっかり空想しているからよ。どのみち、そんなものは手にはいらないのに。なぜって、歯に衣着せず事実をいうと、あなたにはそんな才能も、精力も、意欲もないから」
「精力と意欲はおなじものだ」とキャドベリーはいつも憂鬱に反論する。しかし、反論しながらも、妻がどれほど正しいかを感じる。これが妻の最大の欠点だ。妻はいつも事実を味方につけているのに、こっちはたんなるだぼらだけしか味方がいない。人生の闘技場で、事実がだぼらと争った場合、勝敗は戦わずして明らかだ。
ヒルダのいうとおりなので、キャドベリーは秘密のチップ隠し場から――それは小さい岩の下の浅いくぼみにすぎなかったが――白チップを八枚掘りだし、四キロ半の道のりを歩いて、もよりの精神分析医を訪れた。この医者は、ボウリング・ピンのような体つきをした、軟弱なぐうたらウサギだが、ヒルダにいわせると、年に一万五千も稼ぐという。それがどうした?
「きょうは冴えたお天気だね」ウサギのドクター・ドラットは愛想よくいって、胃腸薬を二錠のみくだしてから、おそろしくクッションのよくきいた椅子にもたれた。
「なにが冴えたお天気なもんか」キャドベリーは答えた。「もう二度と青チップにお目にかかれる甲斐性がない、とわかったんだ。夜昼のべつまくなしに働いてもだめ。そもそもいったい、なんのために働く? うちのヒルダは、ぼくが稼ぐはしからどんどん使ってくれる。たとえぼくが青チップをこの歯にくわえてきても、そいつはたった一晩で、なにかバカ高くてろくでもないもののローンに消えてしまう。たとえば、千二百万燭光の自動充電式懐中電灯とかさ。永久保証つきの」
「あれは実に冴えた商品だよ」ドクター・ドラットがいった。「いまきみのいった、自動充電式の懐中電灯はね」
「ぼくがここにきたただ一つの理由は、女房がそうしろといったからだ。ヒルダがその気になれば、ぼくになんだってやらせることができる。だけど、もしヒルダが、『川のまんなかまで泳いでいって溺れなさい』といったら、ぼくがどうすると思う?」
「きみは反抗するよ」ドクター・ドラットはにこやかに答えると、木目のゆがんだウォールナットのデスクに前足をのせた。
「あいつの腐れ面をけとばしてやる」キャドベリーはいった。「かじりまくってずたずたにしてやる。どてっ腹に穴をあけて、まっぷたつにしてやる。あんたのいうとおりだよ。つまり、これは冗談じゃない。事実だ。ぼくはあいつを憎んでいる」
「きみの奥さんは、どの程度きみのお母さんに似ている?」
「ぼくに母親はいない」キャドベリーは不機嫌に答えた。ときどきこんな態度をとることがある――ヒルダの指摘によれば、それはふだんからの性質だそうだが。「ぼくは靴箱にはいって、ナパ沼に浮かんでるところを発見されたんだ。靴箱には、『拾った方にさしあげます』という手書きのメモがくっついていたらしい」
「きみが最後に見た夢は?」ドクター・ドラットはたずねた。
「ぼくが最後に見た夢は、ほかのどの夢ともおなじだ――いや、おなじだった。いつもぼくはドラッグストアで二セントのミントを買う夢を見る。ひらべったいチョコレートの衣にくるまれたミントで、緑色のホイルに包んである。ところがホイルを剥がすと、ミントじゃないことがわかる。中身はなんだと思う?」
「まあ、きみが話してみなさい」ドクター・ドラットの口調は、こういいたげだった――答えは先刻承知だが、そんな判じ物を当てるために料金をもっらているわけじゃない。
キャドベリーは猛然といった。「青チップだ。それとも、青チップのように見えるものだ。青くて、ひらべったくて、丸くて、大きさも似ている。だが、夢の中のぼくはいつも、『たぶん、ただの青ミントだろう』と、そういう。つまり、青ミントなんてものがあるとしてだけど。そいつを秘密のチップ隠し場に――といっても、ありふれた岩の下の浅いくぼみなんだが――貯めこんだあとで、あとになって青チップを――それとも青チップと思ってるものを――掘りだしにいったら、それがチップじゃなく、ミントだったために、すっかり溶けてなくなってた、なんてことになったら頭へくるじゃないか。いったい、だれを訴えりゃいい? メーカーかね? とんでもない。青チップだなんて、むこうはひとこともいってやしない。ぼくの夢の中では、緑色のホイルの上にはっきり――」
「お話し中だが――」とドクター・ドラットがものやわらかにさえぎった。「きょうはもうそろそろ時間だ。また来週、きみの精神内部のその側面を探索してみようじゃないか。どうやら、それはどこかにつうじているようだから」
キャドベリーは立ち上がった。「ぼくの問題はなにかね、ドクター・ドラット? 答えがほしい。正直にいってくれ――うろたえたりしないから。ぼくは精神病か?」
「きみはさまざまな妄想をかかえてる」しばらく熟考ののちに、ドクター・ドラットはいった。「だが、精神病じゃないね。キリストの声とか、外へ出てみんなをレイプしろという声とか、そんなものが聞こえるわけじゃない。ちがう、たんなる妄想だ。自分自身について、きみの奥さんについて、きみの仕事についての妄想。ほかにもまだあるかもしれない。じゃ、さよなら」ドクター・ドラットは立ち上がり、ピョンピョン診察室の戸口まで跳びはねていくと、礼儀正しく、だが、きっぱりとドアをあけて、外につうじるトンネルを示した。
なんとなくキャドベリーはだまされた気分になった。話をはじめたばかりなのに、もう帰る時間だとは。「きみたち精神分析医は、きっとたんまり青チップを稼ぐんだろうな。ぼくも大学まで行って、精神分析医になるんだった。そうすりゃ、もう問題はなにもない。ヒルダ以外は。もっとも、それでもまだ彼女はいるわけだ」
ドクター・ドラットがなんのコメントも述べないので、キャドベリーはぶすっとした顔で六キロ北へもどり、最近のかじり仕事の現場へもどった。ペイパーミル川の岸辺に生えた大きなポプラの木だ。そのポプラの木がドクター・ドラットとヒルダの陰陽両霊体(シジジー)だと想像しながら、キャドベリーはその根もとへ猛然と歯を食いこませた。
ほとんどそれと同時に、小粋な身なりの鳥が近くの糸杉の木立をぬけて舞いおり、かじりかけのポプラのゆらゆらする大枝にとまった。「きょうの郵便だよ」鳥はキャドベリーにそう告げて、一通の手紙を落とし、手紙は風に乗って、キャドベリーの後足のそばへひらひら舞いおりてきた。「おまけに航空便。おもしろそうだね。日にすかしてみたんだが、タイプじゃなく、手書きだった。女の筆跡らしい」
鋭い歯でキャドベリーは手紙の封をきった。案の定だ、郵便鳥の読みは正しい。明らかに、未知の女性のハートが綴った肉筆の手紙だ。文面はごく短く、たったこれだけだった――
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親愛なるミスター・キャドベリー
あなたを愛してます。
[#ここで字下げ終わり]
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ご返事を待ちつつ、
ジェーン・フェックレス・ファウンドフリー
[#ここで字下げ終わり]
キャドベリーはそんな名前を聞いたおぼえがなかった。手紙をひっくりかえしてみたが、裏にはなにも書いてない。クンクン鼻を近づけると、ある匂いがした――いや、したように思った。かすかで、微妙な、ちょっと煙くさい芳香。しかし、封筒の裏には、ジェーン・フェックレス・ファウンドフリーの(彼女はミスなのか、ミセスなのか?)筆跡で、もういくつかの単語があった――返信用のアドレスだ。
彼の五官は、限りなく興奮した。
「わたしの読みは当たったかい?」郵便鳥が頭上の大枝からきいた。
「いや、ただの請求書だ」キャドベリーは嘘をついた。「信書みたいにみせかけてある」やりかけのかじり仕事へもどるふりをした。しばらくすると、郵便鳥はころりとだまされて、ばたばたと飛び去ってしまった。
さっそくキャドベリーはかじるのをやめ、小高い芝土の上にすわって、べっこうの嗅ぎタバコ入れをとりだし、お気に入りの銘柄、ミセス・シドンの三号と四号のミックスをひとつまみふかぶかと吸いこみ、もっとも深遠かつ鋭敏なやりかたで熟考した。(A)ジェーン・フェックレス・ファウンドフリーの手紙に返事を出すべきか、それとも、手紙を受けとったことさえ忘れてしまうべきか、それとも(B)返事するとすれば(Bの1)おふざけ調で返事を書くべきか、それとも(Bの2)アンダーマイヤー編の『世界名作詩集』から意味深長な詩を引用した上で、こちらの感性をほのめかすような注釈を添えるべきか、それともまた、(Bの3)いきなりつぎのような文面にはいるべきか――
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親愛なるミス(ミセス)ファウンドフリー
お手紙拝受。実はぼくもあなたを愛しています。ぼくはいま現在も、また過去にも、一度たりとも愛情を持ったことのない女性との結婚関係に悩んでおり、また、自分の職業に大きな失望を感じ、悲観的で、不満をいだいております。現在はドクター・ドラットのもとにかよっていますが、正直な話、彼は助けになりそうもありません。もっとも、それはおそらく彼の欠陥でなく、ぼくの情緒障害が重症だからでしょう。たぶん、近い将来にあなたとお会いして、おたがいのおかれた状況を語りあい、なんらかの向上が得られれば、と思います。敬具
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ボブ・キャドベリー(もしよければ、ボブと呼んでください。いいですか? もしよければ、ぼくもあなたをジェーンと呼ばせてもらいます)
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しかし、問題はこんなわかりきった事実だ、とキャドベリーは気づいた。いずれヒルダがこれを嗅ぎつけて、なにかおそろしいことをするだろう――どんなことかはわからないが、その兇暴さを考えただけで憂鬱になる。しかもその上――だが、第二義的な問題として――ぼくがミス(またはミセス)ファウンドフリーを好きになったり、愛情をいだいたりすると、どうしてわかる? 明らかに、むこうはなにか説明のつかない方法で、ぼくのことを直接に知っているか、それとも共通の友人からぼくの噂を聞いたのだろう。いずれにしても、むこうはぼくに対する感情や意図をはっきり自覚しているようだし、結局、最大の問題はそこなのだ。
この状況は気が重い。これが不幸な生活からの出口なのか、それとも逆に不幸な生活を新しい方向へ悪化させることになるのか、どうして見当がつく?
まだすわったまま、嗅ぎタバコをつぎからつぎへとつまんで、キャドベリーはいろいろな代案を考えた。その中には自殺という線もあったが、これはミス・ファウンドフリーの手紙のドラマチックな性格にはぴったりに思われた。
その夜、かじり仕事で疲れきり、元気なく家に帰りついて、夕食をとりおわり、自分の書斎にはいって鍵をかけると、ヒルダに知られないようにヘルメスのポータブル・タイプライターをとりだし、用紙をはさんで、魂の奥底までさぐる長考のすえ、ミス・ファウンドフリーへの返信をうちはじめた。
背をまるめてその仕事に没頭しているとき、妻のヒルダが鍵のかかった書斎へとびこんできた。錠とドアと蝶番の破片、それに何本かのねじ釘までが、四方八方に飛びちった。
「なにしてるのよ?」ヒルダは詰問した。「まるで虫けらかなんかみたいに、ヘルメスのタイプライターの上に体をまるめてさ。不気味なひからびたクモみたい。夜になると、いつもこうなんだから」
「図書館に手紙を書いてるんだ」キャドベリーはひややかな威厳をこめて答えた。「ちゃんと返した本を、未返却だというもんだから」
「この嘘つき」ヒルダは激怒にかられていった。夫の肩ごしに手紙の最初の部分を見てとったのだ。「このミス・ファウンドフリーって何者よ? なぜ、そんな女に手紙を書いてるのよ?」
「ミス・ファウンドフリーは」とキャドベリーは巧妙な嘘をついた。「ぼくの問題を担当している司書だ」
「おあいにくさま、それが嘘なのはお見通しだよ」と彼の妻はいった。「なぜかっていうと、香水をふったあの偽手紙は、あんたを試すためにわたしが書いたんだもの。思ったとおりよ。あんたは返事を書いてる。へどの出るほど安っぽいそのタイプライター、あんたが後生大事にしてるそいつをパチパチやりはじめたとたんに、ピンときたわ」ヒルダはタイプライターを手紙ごとひったくると、キャドベリーの書斎の窓から、夜の闇の中へと投げつけた。
「とすると」しばらくしてからキャドベリーはようやく声を出した。「ミス・ファウンドフリーは実在しないわけだから、手紙をかきおえるために、懐中電灯を持ってきて、外でぼくのヘルメスを――あれがまだ実在するとして――さがしまわる必要もない。そういうことだね?」
せせら笑いながらも、その質問に答えて自分の値打ちを下げたりはせずに、ヒルダは書斎から荒々しく出ていった。あとにはボズウェルズ・ベストの一缶が残されたが、この嗅ぎタバコは、こうした状況にはなまぬるすぎる。
まあ、しかたがない、とキャドベリーは考えた。結局、ヒルダからの逃げ道はないってことか。そして、思った――かりにミス・ファウンドフリーが実在していたら、いったいどんな女性だったろうな。それから、また思った――ひょっとすると、たとえ女房が彼女をこしらえあげたとしても、この世界のどこかには、ぼくの想像する――というか、真相を知る前に想像した――ミス・ファウンドフリーに似た女性がいるかもしれない。わかるかな、きみ、と彼は憂鬱に考えた。つまり、この世界には、ヒルダが考えるようなミス・ファウンドフリーばかりじゃない、ってことだ。
翌日仕事に出て、半分かじったポプラの木のそばでひとりきりになると、キャドベリーは小さいメモ帳と短い鉛筆、封筒と切手をとりだした。ヒルダに感づかれないように、こっそり家から持ちだしてきたのだ。小高い地面にすわって、ベゾア・ファイン・グラインドの嗅ぎタバコをすこしつまみ、短い手紙を書いた。読みやすいように活字体で。
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この手紙を読むあなたに!
ぼくはボブ・キャドベリーという名前で、若くていちおう健康体のビーバーです。ほとんど独学ですが、政治、科学と神学にはくわしいので、神とか、存在の目的とか、そういった種類の話題について、あなたと話しあいたいと思います。なんなら、チェスの勝負はいかがですか?
[#ここで字下げ終わり]
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誠意をこめて
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書きおわると、そこに署名を入れた。しばらく考え込み、ベゾア・ファイン・グラインドの特大のひとつまみを嗅ぎおわってから、こう書き足した――
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追伸。あなたは若い女性ですか? もしそうなら、きっと美人でしょうね。
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その手紙を折りたたんで、空になりかけた嗅ぎタバコの缶に入れると、スコッチ・テープで厳重に目張りをしてから、北西と思われる方向をさして、川の流れに浮かべた。
数日がたったのち、彼が興奮し、大喜びするようなことがおこった。新しい嗅ぎタバコの缶が――このあいだ送りだしたのとは違う缶が――南東と思われる方角からゆっくりと流れをさかのぼってきたのだ。
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親愛なるミスター・キャドベリー(嗅ぎタバコの缶の中に折りたたんであった手紙の書きだしは、そんなふうだった)
わたしの知り合いで俗物じゃないのは、兄弟姉妹だけです。マドリッドから帰ってきてみると、みんなが俗物になっていました。あなたがそうでなければ、ぜひお会いしたいと思います。
[#ここで字下げ終わり]
その手紙には追伸がついていた。
[#ここから2字下げ]
追伸。あなたはものすごく頭が切れて、しぶい感じです。きっと禅にもくわしいでしょう。
[#ここで字下げ終わり]
その手紙には読みにくい筆跡の署名があり、苦労したすえにようやくキャロル・スティッキーフットと判読できた。
さっそくキャドベリーは返信を出した――
[#ここから2字下げ]
親愛なるミス(ミセス)スティッキーフット
あなたは実在の人物ですか、それとも、ぼくの妻がこしらえた架空の人物ですか? ぜひとも、いますぐそれを知りたいと思います。過去にその手にひっかかったことがあるので、用心が必要だからです。
[#ここで字下げ終わり]
この手紙は嗅ぎタバコの缶にはいって、北西の方向へと流れていった。
その翌日、キャメロパード五番の嗅ぎタバコの缶にはいって南東の方角から流れついた返信は、こんな短い文面だった――
[#ここから2字下げ]
ミスター・キャドベリー、もしわたしのことを、奥さんのゆがんだ心が生みだした絵空事だと思うのなら、人生をつかみそこなうわよ。かしこ
キャロル
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うん、これはたしかに適切な忠告だ、とキャドベリーはその手紙を再読三読しながら思った。とはいえ、その一方では、これこそ妻のヒルダのゆがんだ心が思いつきそうな絵空事とも考えられる。とすると、なにが証明されたのか?
[#ここから2字下げ]
親愛なるミス・スティッキーフット(と彼は返信を書いた)
ぼくはあなたを愛し、あなたの実在を信じています。しかし、いちおう安全を期するために――というのは、ぼくの観点よりするとですが――もしお手数でなければ、あなたがどういう方であるかを合理的疑いの余地なく証明するような品物を、別便で送っていただけないでしょうか――なんなら代引でもかまいません。ぼくはファウンドフリー事件のような失敗を二度とくりかえしたくないのです。こんどあんな失敗をしたら、ぼくもヘルメスのタイプライターといっしょに窓からほうりだされることでしょうから。
[#ここで字下げ終わり]
[#ここから8字下げ]
熱愛、などなどをこめて
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この手紙を北西の方角に向けて送りだすと、キャドベリーはさっそく返信を待つことにした。しかし、その前に、もう一度ドクター・ドラットのところへいかなくてはならない。どうしても行けとヒルダがうるさい。
「で、その後の調子はいかがですかな、川のほとりでは?」ドクター・ドラットがにこ毛の生えた前足をデスクにのせ、ほがらかにたずねた。
キャドベリーの心に、ひとつの決意がわきあがった。この精神分析医に対して率直で正直になろう。この医者に一部始終を打ち明けても、べつに害はあるまい。この医者はそれを聞くのが商売だ。おそろしい事実も、気高い事実も、もれなく、くわしく聞くのが。
「ぼくはキャロル・スティッキーフットと恋に落ちた」とキャドベリーは話しはじめた。
「この愛情は絶対的で永遠のものだが、それと同時に、ある懸念がしつこくついてまわる。つまり、彼女もミス・ファウンドフリーとおなじように、女房がぼくの本心をさらけださせるために、病的な妄想でこしらえた架空の人物じゃないだろうか。ヒルダには、どうあっても本心をさとられたくない。もし本心をさらけだされたら最後、ぼくはヒルダをこてんぱんにのして、あいつをぺしゃんこにするだろうからね」
「フムフム」とドクター・ドラットはいった。
「それにきみもだ」キャドベリーは、すべての敵意を一度に放出した。
ドクター・ドラットはいった。「だれも信用しない、ということかね? きみは全人類から疎外されている? これまでの生活パターンが、ひそかにきみを完全な孤立状態へとひきよせていった? 答える前によく考えなさい。その答えは肯定でもありうる。もしそうなら、それに直面するのは骨が折れるよ」
「ぼくはキャロル・スティッキーフットから疎外されていない」憤然としてキャドベリーは答えた。「事実、そこが問題の要点なんだ。ぼくは自分の孤独にけりをつけとうとしてる。青チップに夢中だったときのぼくは、たしかに孤独だった。ミス・スティッキーフットに会い、彼女と親しくなれば、ぼくの生活上の誤りがすべて清算できるかもしれない。もしあんたがぼくについていくらかでも洞察をもっていれば、あの日にぼくが嗅ぎタバコの缶を川に浮かべたことを、心から喜ぶはずだ。心からな」彼は長い耳の医者を不機嫌ににらみつけた。
「きみが興味をもつかもしれない事実をおしえようか」とドクター・ドラットはいった。「ミス・スティッキーフットはわたしの以前の患者だよ。マドリッドで発狂し、スーツケースに入れられて飛行機で送りかえされてきた。彼女が非常に魅力的であることを認めるにはやぶさかでないが、情緒障害を山とかかえているよ。それに、左のおっぱいが右よりも大きい」
「しかし、彼女が実在することは認めるんだな!」キャドベリーはこの大発見に興奮のさけびをあげた。
「ああ、彼女はたしかに実在するよ。それは認める。しかし、きみも彼女をもてあますんじゃないかな。しばらくたつと、またヒルダのところへもどりたい、と思うかもしれない。キャロル・スティッキーフットが、きみと彼女自身をどこへ導いていくかは、神のみぞ知る、だ。キャロル自身さえ、よく知らないだろう」
キャドベリーにとって、これは最大の吉報に思われた。天にも昇る気持ちで、ほとんどかじりおわった川岸のポプラの木にもどった。ロレックスの防水腕時計で見るかぎり、時刻はまだ十時三十分、これからなにをするべきかを考えるのに、まる一日近くが残っている。なにしろ、キャロル・スティッキーフットが、妻のこしらえあげた新しい罠でも妄想でもなく、本当に実在する、とわかったのだ。
この川の流域の何ヵ所かはまだ地図ができてないが、キャドベリーは仕事の性質上、そうした場所をくわしく知っていた。帰宅してヒルダに報告するまでには、まだ六、七時間の余裕がある。ポプラ・プロジェクトを一時的に放棄し、自分とキャロルのために、世界のみんながそれと気づかず、また、さがしあてることもできないような、ささやかな隠れ家を、どうして新築しないのか? いまや行動のときだ。思索のときはおわった。
その日の夕方、キャドベリーがささやかな隠れ家の建設に没頭している最中に、ディーンズ・オウンの嗅ぎタバコの缶が南東から流れてきた。彼はばたばたと激しく水をかき、流れていってしまわないうちにその缶をつかんだ。
スコッチ・テープをはがして、ふたをあけると、中にはティッシュにくるんだ小さい包みと、冷笑的なメモがはいっていた。
これが証拠よ。(とメモには書かれていた)
包みの中には青チップが三枚はいっていた。
一時間あまり、キャドベリーはまともに木がかじれないありさまだった。キャロルの実在性の証明、キャドベリーに、そして彼が象徴するすべてのものに、彼女がこうして愛の証しをおくってくれたことは、それほど衝撃的だった。なかば狂乱状態で、キャドベリーはオークの老木の枝をつぎからつぎへかじりとり、四方八方へ枝をまきちらした。奇妙な熱狂にとらえられていた。自分は実在の女性を見つけたのだ、ヒルダからなんとか逃れたのだ――道は前方に伸びており、あとはそれを歩むだけでよい……というか、泳ぐだけでよい。
嗅ぎタバコの空き缶を何個か、紐で結びあわせると、キャドベリーは流れの中へそれを押しやった。空き缶はほぼ北西の方角へと流れはじめ、キャドベリーは期待に息をはずませながら、そのあとを追って水をかいた。嗅ぎタバコの缶が視界から消えないように水をかきながら、キャロルと対面するときのために四行詩を作った。
きみを愛するというものは多い。
だが、ぼくの言葉は誓って真実。
ぼくが探しもとめたこの行動は、
まちがいなく堅実で誠実で確実。
そのあいだにも、結びあわされた嗅ぎタバコの空き缶は、しだいしだいにミス・キャロル・スティッキーフットへの距離を縮めていく――と、少なくとも彼はそう願い、そう信じた。これこそ至福だ。しかし、水をかいているうちに、ドクター・ドラットがいかにもさりげなさそうに口にした言葉を思いだした。あの医者が職業的な手際で植え付けた疑惑の種。もし、キャロルが、ドラットのいうように重症の情緒障害をかかえていた場合、ぼくには彼女とうまくやっていくだけの力と誠実さ、強い目的意識があるだろうか? かりにドラットの言葉が正しかったとしたら? かりにキャロルがヒルダ以上に――病的な激怒のあまり、ヘルメスのポータブル・タイプライターを窓からほうりだしたりするヒルダ以上に――つきあいにくくて、破壊的だとしたら?
そんな思案にふけって、つい目を放したすきに、結びあわせた嗅ぎタバコの空き缶は静かに岸へ近づいていった。反射的にキャドベリーはそのあとを追って水をかき、川から岸に這いあがった。
前方には――質素なアパートがあった。窓のブラインドは手塗りで、玄関のドアの上には非具象的なモビールがのんびり揺れている。そして、正面のポーチには、キャロル・スティッキーフットがすわって、大きな白いふわふわしたタオルで髪を乾かしているところだった。
「きみを愛している」とキャドベリーはいった。毛皮から川の水をふりはらい、愛情を抑制するのに苦労しながら、そわそわと歩きまわった。
キャロル・スティッキーフットは顔を上げ、彼を値踏みした。愛らしい大きな黒い瞳と、長い髪の持ち主で、その髪が夕日に照り映えている。「あの青チップ三枚、もってきてくれたでしょうね」と彼女はいった。「勤め先から借りてきたもので、返さなくちゃいけないのよ」さらに言葉をついだ。「あれはひとつのジェスチャーだったの。あなたが保証をほしがってるようだったから。俗物どもにいろいろいわれたんでしょう。あの精神分析医のドラットみたいのに。あいつは最悪の俗物よ。どう、ユーバンのインスタント・コーヒーでも?」
彼女のあとにつづいて、質素なアパートの中へはいると、キャドベリーはいった。「ぼくの最初の言葉は聞いてくれたよね。これまでの一生で、ぼくはこんなに真剣だったことはない。心からきみを愛してる。しかもいちばん真摯《しんし》なやりかたでだ。ぼくは軽薄なものや、ささいなものや、一時的なものを求めてはいない。ぼくが求めているのは、この世でいちばん長持ちのする、まじめな関係だ。きみが遊び半分じゃないことを、ぼくは神かけて願う。青チップを含めても、なにかに対してぼくがこんなに真剣で緊張した気持ちになったのは、生まれてはじめてだったからだ。もしきみがただのひまつぶしとか、そんなつもりでいるんだったら、いますぐはっきりそういってほしい。そうしてけりをつけてもらったほうが、むしろぼくにとっては慈悲深いわけだ。妻を捨てて、新しい生活をはじめたあとで、真相に気づくなんて苦しみは――」
「ドクター・ドラットは、わたしが絵を描くことを話したかしら?」キャロル・スティッキーフットはそうたずねると、質素なキッチンのコンロに水のはいった鍋をのせ、古風な大きいマッチで、バーナーに火をつけた。
「いや、きみがマドリッドで発狂したということしか話さなかったよ」キャドベリーは、コンロの前の小さい、白木の松のテーブルに向かって腰をおろし、ミス・スティッキーフットがインスタント・コーヒーをスプーンですくって瀬戸物のマグへ入れるのを、心からの愛をこめて見まもった。マグには、パタフィジック的ならせん模様が焼きつけてあった。
「禅についてなにか知ってる?」とミス・スティッキーフットは聞いた。
「考案というものをたずねることぐらいだね。こいつは一種のなぞなぞさ。質問されたほうは、一種のたわごとめいた答をする。なぜなら、質問そのものがまったく馬鹿馬鹿しいからだ。たとえば、『なぜ我々はこの地上にいるか?』とか、そんな類の質問なんだ」キャドベリーは、この答が適切であればいいが、彼女の手紙にあったように、禅にくわしいという印象を受けとってもらえればいいが、と思った。そこで、彼女の質問に対する、非常にうまい禅的な答を思いついた。「禅は完全な哲学体系で、そこにはこの宇宙に存在するあらゆる答を予期した質問が含まれている。たとえば、もしきみの頭に、『ええ』という答があるとすれば、禅はそれにぴったりくるような質問、たとえば、『我々は、おのれの創造物が滅びるのを好む創造主を喜ばせるために、死ななければならないのか?』というような質問を提出するわけだよ。もっとも、そのあたりをつきつめて考えてみると、禅がその答を念頭においてさしだすのは、実際にはきっとこんな質問だろうな。『我々はこのキッチンでいまからユーバンのインスタント・コーヒーを飲もうとしているか?』ねえ、きみもそう思うだろ?」彼女がすぐには答えないのをみて、キャドベリーはあわてていった。「事実、禅はその『ええ』という答が、いまの『ねえ、きみもそう思うだろう?』という質問に対する答だという。そこが禅の最大の価値でね。禅は、ほとんどどんな答に対しても、それにぴったり見合った質問を提出できるんだ」
「よくもくだらないことを長々としゃべれるわね」ミス・スティッキーフットがあきれたようにいった。
キャドベリーはいった。「それこそ、ぼくが禅を理解している証拠さ。わかる? それとも、ひょっとすると、きみが禅を本当に理解していないのかだ」彼はすこしイライラしてきた。
「おそらくね」とミス・スティッキーフットはいった。「つまり、わたしが禅を理解してないってこと。というより、禅なんてまるっきりわからないわ」
「それは実に禅的な発言だ」とキャドベリーは指摘した。「そして、ぼくは理解している。これまた禅的だ。わかる?」
「はい、コーヒー」ミス・スティッキーフットは湯気の上がった二つのカップをテーブルにおき、彼の真向かいにすわった。それからにこっとした。キャドベリーから見ると、すてきな笑顔だった。明るさと優しさがいっぱい、おかしな小じわのできる、はにかんだ笑み。その瞳には、驚異と関心のこもった、いぶかるような、ふしぎそうな輝きがある。本当に美しい大きな黒い瞳、生まれてはじめて見るような美しい瞳だ。ぼくは心の奥底から彼女を愛してる。ただの口先じゃない。
「ぼくが結婚してるのは知ってるよね」とキャドベリーはコーヒーを飲みながらいった。「だけど、妻とは別居したんだ。この川の岸辺の、だれも知らないある場所に、新しく小屋を建ててる。いま小屋といったのは、豪邸だというまちがった印象を与えたくなかったからだよ。本当はとてもよくできてるんだがね。ぼくはこの分野では腕のいい職人さ。これは自慢じゃない。神かけて事実なんだよ。ぼくたちふたりの暮らしなら、充分にまかなっていける。それとも、ここに住んでもいい」キャドベリーはミス・スティッキーフットの質素なアパートの中を見まわした。なんと芸術的で趣味のいいインテリア。すてきな家だ。心に平和がじわじわひろがり、緊張が溶けていくのが感じられた。ここ数年来はじめて。
「あなたにはふしぎなオーラがあるわ」ミス・スティッキーフットがいった。「なんとなく柔らかくて、もこもこした、紫色のオーラ。わたしは好き。でも、そんなの見たのはじめてよ。あなたは鉄道模型を作ったりする? なんていうか、鉄道模型を作る人みたいなオーラなのよね」
「ぼくはたいていのものを作れるよ」キャドベリーはいった。「この歯と、両手と、それに言葉をつかってね。聞いてくれ、これはきみに捧げたものなんだ」彼はさっきの四行詩を暗唱した。ミス・スティッキーフットは一心に耳をかたむけた。
「その詩には」と暗唱が終わったところで彼女がいった。「無(ウー)があるわ。無(ウー)は日本語で――それとも、中国語だったかな?――ほら、あれを意味するのよ」彼女はいらだたしげに手をふった。「簡素な味。パウル・クレーの絵みたいな感じ」そういってからつけたした。「でも、出来はあんまりよくないわね。そこをべつにすると」
「だけど」と彼は不機嫌に説明した。「その詩は、あの嗅ぎタバコの缶を追いかけて、水をかいてる最中に作ったものなんだ。まったくの即興なんだよ。書斎に鍵をかけて、ひとりでヘルメスの前にすわれば、もっといいものが書ける。ヒルダがドアをガンガンたたいてなければね。なぜぼくが妻を嫌ってるか、これでわかるだろう。ヒルダのサディスティックな妨害のおかげで、ぼくが創造的な仕事のできる時間といえば、水をかいているときか、弁当を食べてるときだけなんだ結婚生活のこの一面を見ただけでも、なぜぼくがそこから離れて、きみをさがしだす必要があったか、説明がつく。きみのような女性となら、ぼくはまったく新しいレベルの関係を築きあげられる。いまに青チップが耳からどんどん生えてくるだろう。それだけじゃない、きみがいみじくも最悪の俗物と呼んだドクター・ドラットのところへ通って、へとへとに心を消耗しなくてもすむ」
「青チップ」ミス・スティッキーフットはおおむがえしにいって、不快そうに顔をしかめた。「それがあなたのいうレベル? それじゃ、まるで乾燥フルーツの卸売商なみの夢じゃないの。青チップのことは忘れなさい。そんなことで奥さんと別れるのはおよしなさい。あなたは自分の古い価値体系にしがみついてるだけよ。奥さんから教えこまれたことを内面化して、ただ、それをもう一歩先に進めただけの話。それとまったくべつなコースを歩めば、なにもかもうまくいくわ」
「たとえば禅?」と彼はきいた。
「あなたは禅をおもちゃにしてるだけ。本当に禅を理解してたら、あの手紙の返事でわざわざここへ足を運んだりしないわ。この世界には、あなたにとっても、ほかのだれにとっても、完全な相手なんていない。わたしがいまの奥さん以上に、あなたの気分をよくしてあげることなんて不可能。あなたは自分の中に問題をかかえているのよ」
「それにはある程度まで同感だ」キャドベリーはある程度までの同感を示した。「しかし、女房はその問題をいっそう悪化させるんだよ。たぶん、きみが相手でも、その問題はすっかり解決しないだろうが、いまよりはましになる。どうまちがっても、いまよりひどくなるわけがない。すくなくともきみなら、カッカするたびにぼくのヘルメス・タイプライターを窓からほうりだしたりしないだろうし、それにたぶん、ヒルダみたいに、朝から晩までのべつまくなしにカッカしたりはしないだろう。そのことを考えてみた? そこをじっくり考えてみてほしいね」
ミス・スティッキーフットは、彼の議論を無視したようすではなかった。すくなくとも部分的な同意を示して、首をうなずかせた。「わかったわ」ややあってからそういうと、急に大きく魅力的な黒い瞳をきらっと光らせた。「いっしょに努力してみましょう。もしあなたが、なにかにとりつかれたようなそのおしゃべりを――これはたぶん生まれてはじめての経験でしょうけど――たとえしばらくでもやめられるなら、わたしはあなたといっしょに、あなたのために、必要なことをしてあげる。それはあなたひとりでは絶対にできなかったこと。わかる? もっとくわしくいいましょうか?」
「きみのしゃべりかた、なんだかへんてこになってきたぞ」キャドベリーは、驚きと警戒を――それと、しだいにつのる畏怖《いふ》を――こめていった。ミス・スティッキーフットが、目の前で明らかな変身をはじめたのだ。それまで彼にとって究極の美と思えたものが、見まもるうちに、変化していった。それまでに知り、予想し、想像していた美が溶けていって、忘却の川、過去という名の流れ、彼自身の限られた精神の川に運びさられた。いま、そのかわりに現れたものは、もっと遠くにあるなにか、それを超えたなにか、彼自身の想像力ではけっして呼びだせなかったなにかだった。彼自身の想像力をはるかに超えたものだった。
ミス・スティッキーフットは三人の女性になったが、そのひとりひとりは現実の性質に拘束されていた。美しいが架空のものではなく、魅力的だが現実の制約の中にあった。そして、キャドベリーの見たところ、三人ともがそれ以上のものを意味しており、また事実、それ以上のものだった。なぜなら、三人の女性は、彼の願望をみたす顕現でもなく、彼自身の心の産物でもなかったからだ。
ひとりはつやつやした長い黒髪の東洋人ハーフで、澄んだ冷静で知的な瞳に、穏やかな認識の光をたたえていた。その瞳の中の彼に対する認識は、明晰《めいせき》で正しい。感傷によっても、また、優しさや、慈悲や、同情によっても、くもらされていない――なのに、その瞳の中には一種の愛がある。キャドベリーの欠陥を充分に知りつくした上での、反感も嫌悪もない公正な愛。それは同志的な愛だった。ふたりについても、そして、ふたりがおたがいの欠陥によって結ばれあったことについての、彼と共有された、思索的で分析的な評価だった。
つぎの娘は、寛容と忍耐の微笑をうかべ、キャドベリーのどんな欠陥にも気づいていなかった――彼の性格にあるもの、ないもの、能力の程度や限界、そんなものはなにひとつ彼女を失望させないし、彼に対する評価を下げもしない。その笑顔は、ある種の温かく、悲しく、そして永遠に明るい幸福に照り映え、同時に暗くくすぶっている。これこそ瞼の母、けっして姿を消すことのない、けっして去ったり、別れたり、忘れたりしない、永遠の母だ。この母は、息子の保護、息子をかくまうマントをけっしてとりさったりせず、息子を温め、息子が苦痛と敗北と孤独で冷えきって灰になりかけたときには、希望を吹きかけて新しい命の火をともしてくれる……。最初の女性は、キャドベリーと同等の存在。たぶん姉妹だろう。この女性は、かよわくておびえているが、それを外に見せない、優しく、強い母親だ。
そして、そのふたりのほかに、すねたように口をとがらした、不機嫌な娘がいる。未成熟な、欠点だらけのかわいらしさ。吹き出物のある肌、フリルが多すぎてぴらぴらしたブラウス、短すぎるスカート、細すぎる脚。だが、青い果実なりの魅力がある。彼女は、なにか肩すかしを食らったように、期待を裏切られたように、また、これからも裏切られつづけるだろうというように、失望の目でキャドベリーを見つめている。だが、それでもまだ要求をあきらめず、もっと多くのものをほしがり、自分に必要なもの、自分が憧れてきたあらゆるものを、彼からねだりとろうとしている。全世界、空、あらゆるものを。だが、それを与えられない彼を軽蔑している。キャドベリーは気づいた。これは未来の自分の娘だ。ほかのふたりはけっしてそうしないが、この女は最後には背を向け、ほかのもっと若い男を相手に満足を求める。だから、彼女を自分のものにできるのは、ごく短い期間だ。しかも、けっして彼女を満足させることはできない。
しかし、三人ともがキャドベリーを愛し、三人ともが彼の恋人であり、わびしく、明るく、悲しく、おびえ、素直で、苦しみ、笑い、官能的で、保護者ぶった、温かく、わががまな、現実の女性だ。客観世界の三位一体が、彼と向かいあって立ち、同時に、彼にはないもの、彼がけっしてなれないもの、彼がほかのなによりもいつくしみ、大切にし、尊敬し、必要としているものを補足して、完全なものにしている。さっきまでのミス・スティッキーフットは、どこかへ消えた。この三人の女が、彼女にかわってそこにいる。この女たちは、ぺイパ―ミル・クリークに浮かべた嗅ぎタバコの空き缶に手紙を入れて、文通したりはしない。じかに話しかけてくる。その目は容赦なく、たえまなく彼を意識し、彼を見つめている。
「同棲してあげてもいいわよ」穏やかな目をしたアジア系の娘がいった。「ただし、ときおりの無害な話し相手としてね。わたしとあなたが生きているかぎり――ということは永遠じゃないわよ。人生ははかないものだし、たいていはクソほどの値打ちもないわ。死者のほうが恵まれているんじゃないかと思うときがある。ひょっとしたら、あなたを殺して死者の仲間入りをさせるか、それともわたしの道づれにするかもしれない。いっしょにきたい? いっしょにきたければ、すくなくとも旅費ぐらいは払ってちょうだい。でなかったら、わたしはひとりで707の軍用機に乗るから無料ですむわ。政府から定期的なリベートを終身契約でもらっていて、ある秘密の銀行口座に半合法的な投資目的で預けてあるの。その目的は公開できない性質のものだから、絶対にさぐりださないほうがあなたの身のなめよ」まだ無表情に彼を見つめながら、間をおいた。「どう?」
「質問はなんだった?」キャドベリーはすっかり混乱してたずねた。
「こういったのよ」彼の知能指数の低さにいらだったのか、頭をふりふり、彼女は語気荒くいった。「不特定期間、最終結果は不問で、同棲してもいい。ただし、あなたが充分な生活費を支払い、そして特に――これは義務的よ――家庭機能を――つまり、各種請求書の支払い、掃除、食料品の買い出し、料理などを――能率的に果たすのが条件。わたしのじゃまをしないように。わたしが自由になんでもできるように。ここが重要なの」
「いいとも」彼は二つ返事で答えた。
「わたしは同棲はいやよ」悲しい目をした、温かい、煙色の髪の娘がいった。ぽっちゃりとやわらかそうな体つきの彼女は、房のついたかわいいレザー・ジャケットに、茶色のコードのスラックスとブーツをはき、ウサギ革のバッグをさげていた。「でも、朝の通勤の途中にときどき寄ってみるわ。マリファナをわけてほしいから。もし用意してなかったら、お払い箱よ。目の玉のとびでるほどふんだくってやるからね――でも、いますぐじゃない。わかった?」彼女の微笑はいよいよ強力になった。彼女の目には知恵があふれていた。そして、言葉にならないほど複雑な性格があふれていた。
「いいとも」とキャドベリーはいった。彼の注文はもっといろいろあったが、それが望めないのはわかっていた。この女は彼のものではなく、彼のために存在しているのでもない。彼女は彼女自身であり、この世界の産物、この世界の一部なのだ。
「犯してよ」と第三の娘がいった。真っ赤な、ふっくらしすぎた唇がいじわるそうにゆがみ、同時に、おもしろそうにひくついた。「あたしはあんたから離れないよ、この助平おやじ。なぜって、あたしが出ていったら、ほかの相手が見つかると思う? いまにも心筋梗塞でぽっくりいきそうなロリコンの痴漢と、だれが同棲したがるのさ? あたしが出ていったら、あんたはもうおしまいだわ。この助平おやじ」突然、彼女の目は悲しみと同情にくもった――だが、ほんのつかのまで、それは消えてしまった。「あんたが手に入れられる幸福は、せいぜいその程度。だから、あたしは出ていけない。あんたと同棲して、自分の人生をわざと遅らせなきゃなんない。たとえそれが永遠でもね」しだいに生気が失われた。けばけばしく、未熟で、魅力的な顔だちの上に、一種のあきらめ、機械的で不活発な翳がおりてきた。
「でも、もっといい口が見つかったら」と彼女は冷酷にいった。「あたしはそっちをとるわよ。いろいろ男をあさってみなくちゃ。ダウンタウンのようすを調べて」
「冗談じゃない」むっとして、キャドベリーは激しくいいかえした。早くも恐ろしい喪失感がおそってきた。まるでもう彼女が去ってしまったかのように。こんなに早くそれが起こるとは――これが――自分の人生で考えられるおよそ最悪のことが。
「さあ」と三人の女がいっせいにきびきびした口調でいった。「ずばり聞かせてちょうだいよ。あなたは青チップを何枚もってるの?」
「な、なんだって?」
「そこがかんじんなのよ」三人の女は瞳を光らせ荒々しく、異口同音にいった。その話題で、にわかに三人の総合能力がかきたてられたようだった。個々に、また集団として、いまや注意を集中していた。「あなたの通帳を見せてよ。貯金の残高は?」
「あなたの年間総生産高は?」アジア系の娘がきいた。
「わたしはあなたを食い物にしたりしないわよ」温かく感傷的で、忍耐づよい母性型の娘がいった。「でも、できたら青チップを二枚貸してくれる? 何百枚も持ってるんでしょ。あなたみたいにえらくて有名なビーバーなら」
「そこのスーパーで買ってきてよ。チョコレート・ミルクを二クォートと、ドーナツの詰め合わせを一箱、それにコークを一本」とすねた娘がいった。
「あなたのポルシェを貸してくれる?」母性型の娘がたずねた。「ガソリンはこっちでいれるから」
「でも、わたしの車は運転させないわよ」とアジア系の娘がいった。「第一、保険料が上がるし、保険料はうちの母が払ってるんだから」
「車の運転、教えてよ」とすねた娘がいった。そしたら、明日の晩、ボーイフレンドといっしょにドライブインの映画見に行けるもん。何人乗っても一台で二ドルなの。ポルノの五本立て。トランクに男ふたりと女ひとりは詰めこめるわ」
「青チップはわたしに預けたほうがいいわよ」母性型の娘がいった。「このふたりはきっとあなたを食い物にするから」
「このブリッコ」すねた娘がののしった。
「その子を信用して、青チップを一枚でも渡したら」とアジア系の娘が猛烈な口調でいった。「あんたの腐れ心臓をえぐりだして、生のまま食ってやるからね。それに、そっちの下品な子、あれは性病持ちよ。あいつと寝たら、一生、子種がなくなっちゃうよ」
「ぼくは青チップなんか持っていないよ」キャドベリーはおそるおそるいった。そのことを知ったら、三人ともがどこかへ去ってしまうのではないかと心配だった。「しかし、ぼくは――」
「ヘルメスのタイプライターを売りなさい」アジア系の娘がいった。
「わたしが売ったげる」母性型の娘が優しい声でいった。「そのお金を――」彼女は頭の中でのろのろと、一心に計算した。「あなたと山分けにするわ。公平にね。わたしはけっしてだましたりしないわよ」彼女はにっこりとほほえみ、キャドベリーはそれが真実なのを知った。
「うちのママは電動式のIBMスペース・エクスパンダーを持ってるもんね。ボールタイプのオフィス用だよ」すねた娘が、侮辱に近いものをこめて、横柄にいった。「あたしもそれを買って、タイプを習って、いい会社にはいるんだ。でも、生活保護をもらってるほうが楽だけどさ」
「今年の末になれば――」とキャドベリーは必死にいいかけた。
「いずれまた会いましょうよ」さっきまでミス・スティッキーフットであった三人の娘はいった。「それとも、青チップを郵便で送ってくれてもいいのよ。わかった?」彼女たちはいっせいに後退をはじめた。ゆらゆら揺れて、実体がなくなった。それとも――
実体がなくなったのは、彼キャドベリー、欠陥ボーバーのほうだろうか? とつぜんの絶望的な直感で、彼は後者だとさとった。自分が消えつつある。彼女たちは残っている。
だが、それでもいい。
それなら耐えられる。自分自身の消失には耐えられる。だが、この女たちの消失には耐えられない。
こうして知り合った短い時間のうちに、彼女たちはキャドベリーにとって、自分自身よりも重要な意味を持つようになった。それだけでも気が休まった。
こっちが青チップを持っていようといまいと――彼女たちにはそれが大問題らしいのだが――むこうは生き残るだろう。もし彼女たちが、ねだったり、盗んだり、借りたり、そんなやりかたで自分から青チップを手にいれられなくても、ほかのだれかから手にいれるだろう。いや、そんなものがなくても、けっこう幸福に暮らしていくだろう。なにも絶対にそれが必要なわけじゃない。ただ、青チップが好きなだけだ。そんなものがあってもなくても、生きていける。しかし、はっきりいって、彼女たちは生存に興味を持っていない。彼女たちは本物の幸福をほしがっていて、それを手にいれようとしている。また、それを手にいれるすべを知っている。たんなる生存では満足していない。生活したがっている。
「またきみたちに会えたらいいな」キャドベリーはいった。「それとも、きみたちがぼくに会えたらいいな。つまり、ぼくは再出現したい。すくなくとも、ときどき、たとえ短いあいだでも、きみたちの生活の中にね。そして、きみたちがどんなふうに暮らしているかを見たいんだ」
「妙なたくらみはよしたほうがいいわよ」三人が声を合わせていうあいだにも、キャドベリーはほとんど存在しなくなっていった。いま、残っているのは、かつて彼を生かしていた疲労ぎみの大気の中に、まだあわれっぽく漂っている灰色の煙だけだった。
「あなたはもどってくるわ」母性型の、ぽっちゃりした、レザー・ジャケットを着た、温かい目の娘が、確信をこめていった。その事実になんの疑いもないことを、本能的に知っているかのように。「また会いましょう」
「だといいけどね」キャドベリーはいったが、いまやその声までが小さくかすかになっていた。どこか遠くの星、とっくの昔に冷えきって、灰と闇と沈滞と沈黙にもどった星からの、薄れいくオーディオ信号のようにまたたいていた。
「浜へいこうよ」アジア系の娘がいい、三人の娘はぶらぶらと歩き出した。自信たっぷりに、実体豊かに、生き生きとして、一日の活動の中にとびこんでいく。彼女たちは遠ざかった。
キャドベリーは――というか、蒸気のひとすじとなって、かつてのキャドベリーの生命の進路を示している名残りのイオンは――こう考えた。彼女たちの行く海岸には、かじるのに適した樹木が生えているだろうか。その海岸はどこにあるのだろうか。そこはすてきだろうか。そこには名前があるのだろうか。
房のついたレザー・ジャケットを着た、同情的な、母性型の、ぽっちゃりした娘が、ちょっと足をとめた。「いっしょにこない? しばらくはお相手をしてあげるわよ。こんどだけは。でも、二度とはだめ。わかるでしょう」
返事はなかった。
「愛してるわ」彼女は自分自身に向かってささやくようにいった。そして、目をうるませ、幸福で、悲しげで、理解にみちた、思い出にふけるような微笑を浮かべた。
彼女は歩きだした。ほかのふたりよりすこし遅れて。名残おしげに、まるで表だってはそうしないが、あとをふりかえっているように。