荒涼館 4
C.ディケンズ/青木雄造・小池 滋訳
目 次
第五十章 エスタの物語
第五十一章 謎が解ける
第五十二章 強情な人
第五十三章 捜査の|道程《みちのり》
第五十四章 地雷爆発
第五十五章 逃亡
第五十六章 追跡
第五十七章 エスタの物語
第五十八章 冬の日の昼と夜
第五十九章 エスタの物語
第六十章 未来への希望
第六十一章 思いがけない発見
第六十二章 もう一つの発見
第六十三章 鉄の国にて
第六十四章 エスタの物語
第六十五章 新たに出直す
第六十六章 リンカンシア州にて
第六十七章 エスタの物語――終り
訳註
単行本初版への序文
解説4 ディケンズ文学の魅力
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荒涼館 4
BLEAK HOUSE
第五十章 エスタの物語
私がディールから家に帰ると、たまたまキャディ・ジェリビー(私たちはいつもまだ結婚前の名前で呼んでいました)からの手紙が来ていました。それによるとしばらく前から病気がちだったのが悪くなって、あなたに来て貰えればどんなに嬉しいか言葉でいえないくらい、とありました。この手紙は寝椅子に寝たまま書いたわずか数行のものでしたが、それに同封してあるご主人からの手紙にも、ぜひぜひ来て頂きたいと書いてありました。キャディは今では一児の母親で、私はその名付け親なのですが、そのかわいそうな赤ちゃんときたら、ほんとに小さい子で、その年寄りじみた顔つきは|頭巾《ずきん》のへり飾りにそっくり。小さな細長い指をした片手を、いつも顎の下のところで握りしめているのです。一日じゅうこんな格好で寝ていて、きらきら光る黒い目をぱっちり開けて、まるでどうして私はこんなに小さくてか弱いのかしらと考え込んでいるみたいでした(そうではないかと、よく私は思ったものでした)。この赤ちゃんは動かすといつも泣くのですが、そうしなければとても我慢強いので、どうも人生唯一の願いはただじっとして考えることだけらしく思われました。顔には妙に薄黒い血管が浮いて見え、両眼の下には妙に薄黒いしみがあり、キャディが、インクだらけになっていた昔の頃を、なんとなく思わせるものがありました。全体として、この赤ちゃんを見なれていない人には、ひどく憐れに思えたものです。
でもキャディはこの赤ちゃんを見なれていたのですから、それでよかったのです。この赤ちゃんエスタの教育のこと、どんな人と結婚するか、この子にまた赤ちゃんエスタができたら、お祖母さんの私はどうなるかしら、なんぞと考えながら自分の病気のつらさをまぎらわしている母親の姿を見ていると、自分の誇らしい生きがいともいうべき赤ちゃんへのけなげな愛情がありありと感じられて来て、彼女の未来の設計のいくつかをついここに書き記してみたくなるのですが、例によって私はまた筆が脱線しかかりました。話を手紙のことに戻しましょう。
キャディは私について一つの迷信を抱いていました。それはずっと前のあの夜、彼女が私の膝に頭をもたせて寝てしまった時から、次第に彼女の頭の中に強くしみついてしまい、今では私がその傍にいればその間じゅう何かいいことがあるのだと、ほとんど信じこまんばかり――いえ、全くそう信じこんでいた、というべきかもしれません。これは心やさしい彼女の空想に過ぎないので、ここに書きつけるのも恥ずかしいくらいなのですが、彼女が病気になったいまとなれば、それは事実と同じ働きをしてくれるかもしれません。ですから私はジャーンディスさんのお許しを頂いて、大急ぎでキャディのところへ飛んでゆきました。すると彼女とプリンスがなんともいいようのないほど喜んでくれました。
翌日私はまた彼女を看病にいきました。そのまた翌日もゆきました。通うのは全然苦になりません。朝いつもより少し早く起きて、家を出る前に家計簿をつけ、家の仕事をかたづければそれでよかったのですから。ところがこういう具合に三日続けて通って晩帰って来ますと、ジャーンディスさんがおっしゃるのでした。
「ねえ、ちいさなおばさん、これはいけないよ。雨だれも長い間には石に穴をあけるというが、馬車で出歩くのも毎日長いあいだ続けば、ダードンおばさんが参ってしまう。しばらくのあいだロンドンに移って、昔借りた家に住むことにしよう」
「私のためでしたらよろしいんですよ」私がいいました。「私は全然疲れたりはいたしません。本当ですわ。私は人から頼まれるのはとっても楽しいんですもの」
「じゃあ私のためということにしよう。それともエイダのためか、私とエイダの両方のためでもいい。明日は誰かさんの誕生日だから」
「あら、本当にそうですわ」と私はいって、かわいいエイダにキスしました。彼女は明日で二十一歳になるのでした。
「さて」とジャーンディスさんは、なかばふざけ、なかば真面目な口調で、「これは重大な行事で、彼女が成年に達し一人立ちできることを確証するために、必要な手続きを行なうことになっているので、皆でロンドンへいく方が便利なのだよ。だから皆でロンドンへゆこう。さてこの点が決ったら、次の問題なのだが――キャディの容体はどう?」
「とても悪いんですの。なおって元気になるまでに、かなりかかりそうですわ」
「かなりというのはどのくらい?」ジャーンディスさんは、考え込みながらおききになりました。
「数週間はかかりそうです」
「なるほど」ジャーンディスさんはポケットに手を入れて部屋の中を歩き出しました。これはいろいろ考えて考えがまとまったという証拠なのです。「それでキャディのお医者のことだが、いいお医者さんだと思うかい?」
私は、悪くはないと思うのですけど、プリンスも私もつい今晩、別のお医者さんにみて貰って確かめた方がいいのではないかと思いました、と正直に申しました。
するとジャーンディスさんはすぐに、「そう、ウッドコート君がいるしね」
私はあの方のことを考えていた訳ではないので、いささかびっくりしてしまいました。一瞬の間、ウッドコートさんについてこれまでいろいろ思っていたことが頭に浮んできて、うろたえてしまったらしいのです。
「あの人に反対じゃあるまい?」
「反対だなんて、とんでもありません!」
「病人も反対はしないだろうね?」
それどころか、間違いなく彼女はあの方をまえまえから信頼していましたし、好いていました。あの方がフライトおばあさんを親切に看病していて下さった頃、彼女はよく会っていたので、親しく知り合っていたのです。
「それは結構だ。ウッドコート君は今日ここを訪ねて来たのだが、明日そのことで会おう」
こんな短い言葉のやりとりの間に――どうしてだか私にはわかりません。エイダは黙ったままでしたし、私と顔を見合わせていたわけでもありませんでしたのに――ほかならぬキャディが、私にあの方からの小さなお別れのしるしの花束を持って来てくれたあの時、エイダがとても陽気に私の腰を抱きしめてくれた(1)のを、エイダは今でもよく憶えているのだという気がふっとわいて来ました。それで私は、私が間もなく荒涼館の主婦になるのだということを、エイダにもキャディにも話してあげなくてはいけないと思いました。もしこれ以上黙っていたら、ますます自分が荒涼館のご主人さまに愛される資格のない女に見えて来そうになるからです。そこで私たちが二階に上っていって、私が最初にお誕生日おめでとうをいう人になりたかったので、時計が十二時を打つまで待ってから、私は彼女に打ち明けました。前に私がそうしたように、彼女のジョンおじさまの善良で高潔なことを話し、私の前途には幸せな生活が待っていることを話しました。知り合ってからこれまでエイダはいつも私のことを好いてくれましたが、その夜この話を聞いた時の彼女は、それにもまして私のことを好きになってくれたのでした。それがわかって私も嬉しくなりましたし、このことを隠し立てせず打ち明けてしまってよかったと思うと、気持がとてもほっとして前より十倍も幸福になりました。数時間前には隠し立てとすら思っていなかったのですが、打ち明けてしまった今となってみると、隠し立てであったことが、ますますよくわかったような気がするのでした。
翌日私たちはロンドンに出ました。もと借りていた家が空いていましたので、ものの三十分もすると、昔からずっとそこに住みついていたみたいに落ち着いた気分になれました。エイダのお誕生祝いの食事にはウッドコートさんも列席して下さいましたので、こうした場合当然いるべきリチャードのいないのは寂しく感じられましたが、その点を除けば申し分ないほど愉快に過すことができました。その翌日から私は数週間――八、九週間くらいかと思いますが――キャディにつききりでした。そのためにエイダとは、知り合いになってから初めてのこと(私の病気の間は除いて)ですが、あまり会う機会がなくなりました。よくキャディの見舞いに来てはくれましたが、その際の私たちのつとめが病人を元気づけたり、気をまぎらわしたりすることでしたので、二人だけでいつものようにうちとけて話をしている暇はありませんでした。私が家に帰れる晩にはエイダと一緒になれましたが、キャディが苦しくて夜眠れない時もありましたので、よく泊りがけで看病したこともあったのです。
愛する夫といたいけな赤ちゃんをもち、その家庭を支えて努力しなければならないキャディは、なんとけなげな人でしょう! 自分のことは辛抱して文句もいわず、家族のために早くよくなりたいと願い、面倒をかけては済まないと思い、ひとりで働いている夫とターヴィドロップ老人の身のまわりのことをいつも考えてやっている彼女の気だてのよさが、今はじめて私に充分わかりました。ダンスが一家の職業であり、毎日朝早くから徒弟たちが小型バイオリンに合わせて練習場でレッスンを始め、午後いっぱいはうすぎたない子供が台所で一人でワルツを踊っている、といったような家で、彼女が蒼ざめた顔をして寝たきりのどうにもならぬ格好で、毎日毎日を送っているというのが、何だかふしぎにすら思えるのです。
キャディに頼まれて私は、彼女の部屋のとりしきりを一手に引き受けることにしました。部屋をとりかたづけ、籐椅子ごと病人を前よりも明るくて風通しがよくて、気分がよくなる側へと移しました。毎日部屋をきちんと整えてから、私と同じ名前の赤ちゃんを母親に抱かせて、私は座っておしゃべりをしたり、縫い仕事をしたり、彼女に本を読んで聞かせたりするのでした。こうして静かにしていられる時が来るとまっ先に、私はキャディに荒涼館の話を聞かせました。
エイダの他にも見舞いに来てくれる人がいろいろいました。まず第一にプリンスです。忙しいダンス教授の合間を縫って、よくそっと入って来てはそっと座るのですが、その顔にはキャディと小さな赤ちゃんへの愛情と気づかいがあふれていました。キャディは自分の容体がどんなであっても、いつもプリンスにはもうだいたいよくなったのよといい、私も嘘とは知りつつも、一緒にその通りですといわないわけにはいきませんでした。これを聞くとプリンスはすっかり元気になってしまい、時にはポケットから小型バイオリンを取り出して、キュッキュッと弾いて赤ちゃんを驚かそうとすることもありました――が、赤ちゃんの方は全然驚くどころか、気がつきもしないのです。
それからジェリビー夫人も来ました。時おりいつものうわの空の調子でやって来ては、座ってじっと孫娘の遙かかなたの方を見つめているのですが、まるでその様子といったら、アフリカ海岸にいるボリオブーラ・ガーの土民の子供のことで頭がいっぱい、といったふうでした。前と同じく目を輝かせ落ち着きはらって、だらしない格好で、「ねえ、キャディや、今日は具合はどう?」といってから、答えには耳もかさず、ただにこにこ笑いながら愛想よく座っているだけでした。あるいはまた、最近受け取って返事を書いたたくさんの手紙の数や、ボリオブーラ・ガーのコーヒーの生産量について、いともやさしい口調で話してくれるのですが、そういう時には、私たちのやっていることがいかにもこせこせして視野が狭い、といわんばかりに、嫌悪の情ではありませんが、穏かな軽蔑の色を浮かべるのでした。
それからターヴィドロップ老人のことがありました。朝から晩まで、そして晩から朝まで、たえずこの人のためにあれこれ気を使わねばなりません。赤ちゃんが泣き出すと、泣き声で彼を不愉快な目に会わせてはいけないと、あやうくその息を止めかねない始末ですし、夜中に火を起さねばならない時も、彼の眠りを邪魔してはいけないと、こっそり焚くのでした。家の中にある何かでキャディの世話をやいてあげる必要がある時には、彼女はまず第一にお|義父《とう》さんにもその必要があるのではないかしら、といろいろ考えるのです。こうした思いやりへの返礼として、彼は一日に一度病室へ見舞いにやって来るのでしたが、その様子といったらまるで祝福をたれんばかり――えらそうにもったいぶって、ひどく上品な身のこなしを見せ、その堂々たる背丈を運んでご光臨の栄をたまわるわけですから、(もし私がその間の事情をよく知っていなかったら)この人はキャディの生涯の恩人なのだと考えたかもしれません。
「キャロラインや」この人にしては出来る最大限度に病人の上に身をかがめながら、「どうかね、今日は気分がよくなったろう?」
「お父さま、有難うございます。ずっとよくなりました」キャディは答えるのでした。
「それは嬉しい! 満足のいたり! それからサマソンさんも、お疲れで弱ってはおられますまいな?」そういうと彼はしわだらけのまぶたを上げて、私に投げキッスをするのでした。もっとも私の顔かたちが変ってしまってからは、いいあんばいとあまりぎょうぎょうしい態度をとらなくなったので、助かりました。
「少しも疲れておりません」私がいうのでした。
「それは結構! サマソンさん、私どもはキャロラインの世話をしてやらねばなりませぬ。元気を取り戻させるよう、全力を傾けねばなりませぬ。栄養をつけてやらねばなりませぬ。キャロラインや」こういいながら彼は、無限の親切と思いやりをこめた様子で、息子の嫁の方を向いて、「不自由なこと、欲しいものは遠慮なくいいなさい。すぐかなえてあげるから。この家にあるもの、わたしの部屋にあるものは、すべていっさい自由に使ってもよろしい」時には行儀作法のほとばしるあまりに、こんなことまでいうのでした。「わたしのささやかな安楽すら、そなたの安楽の妨げになるなら、遠慮なく無視して貰いたい。そなたの必要の方がわたしのよりも大事だから(2)のう」
この人はこういう行儀作法を、これまで永い時効によって得た権利(これは彼の息子が母から譲られた遺産でしたが)として確立していたのですから、キャディもその夫も、このわが身を犠牲にした父親の愛情に感激の涙を流すことが何回かありました。
「いけない、いけない」老人は二人をいさめるのでした。そしてキャディがそのか細い腕を老人の肥った猪首にまわすのを見て、私まで涙にくれてしまうこともありました。もっとも同じ理由からではありませんが。「いいのだ、いいのだ。わたしは決してそなたたちを見すてぬと約束した。だからわたしに対して愛と孝とを尽してくれ。それ以外の返礼は求めぬ。さあ、わたしはこれからハイド・パークへ散歩にいってくる!」
彼は間もなくそこで散歩をし、適当に食欲をつけるとホテルへ食事にゆく。私は何もターヴィドロップさんの悪口をいうつもりはないのですが、このように忠実に書きしるすのが、彼の特徴を示す一番いい方法だと思うのです。もう一つだけつけ加えておきますと、確かに彼はピーピィが好きになって来て、あのもったいぶった散歩の時にこの子を連れていってやりました――が、その後自分がホテルにいく前に、いつも子供を家に追い返してしまうのです。ときどき半ペニーくれてやる時もありました。でも、こうした老人の親切にもかなりの出費が伴ったことを、私は知っています。といいますのは、ピーピィが行儀作法大学の教授と手に手をとって散歩する栄誉を与えられる前に、キャディと夫とがこの子の頭のてっぺんから足の先まで、すっかり新調ずくめにしてやらねばならなかったのですから。
最後の見舞客として、ジェリビーさんがあります。彼がよく晩方やって来ては、やさしい声でキャディに具合はどうだいと尋ねてから、壁に頭をもたせかけて座ったまま、それ以上一言も口をきこうとしないでいる姿を見ると、本当にこの人はいい人だと思えて来るのでした。私があたりでばたばた何かちょっとした仕事をしていたりすると、彼は自分も手伝って一骨折ろうとでもいうように半分上着を脱ぎかけることが時たまありました。が、それ以上先にいかないのです。彼のやる仕事ときたら、ただ頭を壁にもたせて座り、考え込んでいるみたいな赤ちゃんをじっと見つめるだけです。きっと二人はお互いに相手の気持がわかるのではないかしら、と思わないではいられなくなるのでした。
私はウッドコートさんを訪問客のなかに入れませんでしたが、それはあの方が今ではいつもキャディにつききりで|看《み》て下さっていたからです。その看護のおかげで、病人は間もなく快方に向いだしました。でもウッドコートさんがあんなにやさしく、上手に、そのうえ骨身を惜しまずに看て下さったのですから、それも当り前のことでしょう。この頃私はウッドコートさんによくお会いしましたが、人が考えるほどしょっちゅうではありません。といいますのは、あの方に看て頂いている間はキャディも安全だと思ったので、お医者さんのおいでになる時分になると、私はそっと抜け出して家に帰ってしまうことがよくありましたから。でも、私たち二人はよく顔を合わせました。私はもう自分のことに何の未練も持っていませんでしたが、それでもウッドコートさんが私のことを気の毒だと考えていて下さると思うと、嬉しい気持がしました。いまだに私のことを気の毒だと考えていて下さることは間違いありませんでした。あの方はお医者のバジャー先生の忙しい仕事のお手伝いをなさっていらっしゃいましたが、まだ将来のはっきりした計画は立てていらっしゃらないようでした。
私のだいじなエイダの態度が何だか変ったように思い始めたのは、キャディが快方に向いだした頃でした。一番はじめどうしてそれに気づいたのか、私にもわかりません。それ自体は何でもない小さなことがいろいろと起って、それを全体としてつなぎ合わせてみると、はじめてある一つの重大なことになったわけなのです。でも、いろいろと考え合わせてみると、エイダが以前ほど何でも私に陽気に打ち明けてくれなくなったことに気づいたのです。私に対しては前と同じように愛情とまごころにあふれていました。この点は一瞬たりとも疑いありませんが、どこかその態度のうちに無言の悲しみが見られ、それが何であるか私に話してはくれないのです。そしてそれが口に出せない困ったことらしい、と私にはわかりました。
私にはこの態度が理解できませんでした。私はエイダの幸せを願う気持が強いあまり、いささか不安になり、よく考え込んでしまうことがありました。とうとうしまいに、きっとエイダは私をも不幸にさせたくないので、何かを私から隠しているに違いないと思った時、私ははたと思い当りました。彼女は私が荒涼館について話したことを聞いて、少し悲しんでいる――私のために――のだ、と。
どうしてそうに違いないと思い込んでしまったのか、私にはわかりません。それが自分勝手な考え方だとは少しも気づきませんでした。私は自分では悲しんでいないで、すっかり満足してしあわせでした。でも、エイダは――私自身はそんな考えをすっかりすててしまったのに、私のために――今ではすっかり変りはててしまった昔のあのことを考えているのかもしれない、と、こう考えるのが至極自然に思われて、私はすっかりそう思い込んでしまったのです。
私にはそんな昔を考える気持がみじんもないことをエイダに見せて、安心させてあげるにはどうしたらよいのでしょう(と、私は考えたのでした)。そうだ! できるだけ元気にきびきび忙しく仕事さえすればいい。そこで私はいつもそうするように努めました。でもキャディの病気のおかげで、多少なりとも私の家での仕事が妨げられました――もっとも私はいつも朝はうちにいて、ジャーンディスさんの朝ご飯を作りましたから、よくお笑いになって、ちいさなおばさんが二人いるに違いないね、だって、いないと思うことが全然ないのだから、とおっしゃっていました――ので、私は二倍よく働いて明るくなろうと決心しました。そこで私は家の中をばたばた歩き、知っているだけの歌を口ずさみ、しゃにむに針仕事をやり、朝昼晩としゃべりまくりました。
それなのに、私とエイダの間には、やっぱり影がさしているのです。
「トロットおばさん」ある晩のこと、私たち三人が一緒にいる時、ジャーンディスさんが本を閉じながらおっしゃいました。「じゃあウッドコート君のおかげで、キャディ・ジェリビーはまた人生を充分楽しめるだけ元気になったわけだね?」
「ええ、キャディから受けた感謝がお金に換算されれば、あの方はたいへんなお金持になれますでしょう」
「いや全くあの人がお金持になってくれればいいのだがね」ジャーンディスさんが相槌をお打ちになりました。「つくづくそう思うよ」
そういえば私も同意見でした。私はそう申しました。
「やり方さえわかっていれば、二人であの人をユダヤ人みたいな大金持にしてやりたいものだ。そうだろう?」
私は仕事をしながら笑って、こう答えました。かならずしもそうとは思いませんわ。そんなことをしたらあの方怠け者になって、他人に尽してくれなくなるかもしれません。そうなったら残念に思う人がたくさんいるかもしれませんわ。フライトおばあさんとか、当のキャディとか、その他にもいろいろ。
「それはそうだね。その点を僕は忘れていた。でも、暮しにこと欠かないくらい金持になって貰いたい、これなら賛成してもらえるだろう? かなり落ち着いた気持で仕事ができる程度の金持ならね? 自分のしあわせな家庭を築き、そこに一家の神様を――それから女神様もね――迎えられる程度の金持になるのならいいだろう?」
それなら話は別ですわ、と私が答えました。それならみんな大賛成ですわ。
「その通り。みんな大賛成だ。僕はウッドコート君が大好きで、とても尊敬しているので、将来のプランについてこのところそれとなく聞いているのさ。一人前の男で、しかも彼のような誇りを持っている男に、助けてあげようかなどとはいいにくいものだからね。でも、できれば、やり方さえわかれば、喜んで助けてあげたいのだがねえ。彼はもう一度航海に出たいらしいのだが、せっかくの人物をもったいない気がするね」
「でも、そうしたら新しい世界が開けるかもしれませんわ」
「それはそうかもしれないがね。どうも彼は古い世界にあまり希望をかけていないらしく思えるのだよ。彼はその古い世界に何かある特別な失望とか、不幸とかを感じることがときどきあるのじゃないかと、そんな気がしたのだがねえ。何かそんなふうなことを聞いたことはないかい?」
私は首をふりました。
「そうかい。じゃあ、私の勘ちがいかもしれない」
しばらく沈黙が続きました。その間私はエイダを安心させてやろうと思って、仕事をしながらジャーンディスさんの好きな歌を口ずさむのでした。
「ウッドコートさんはまた航海におでかけになるとお思いになりますか?」私は歌を静かにうたい終ると、ききました。
「それは何ともわからないのだよ。でも今のところの様子では、どこか外国へ永いこといってみようと考えているらしいね」
「どこへおでかけになっても、私たちみんなで心から見守ってさし上げるわけですから、そのためにお金持にならないとしても、少なくともそのために貧乏にはなりますまいね」
「その通りだよ、ちいさなおばさん」
私はいつもの椅子に座っていました。というのはジャーンディスさんのお隣りの椅子のことで、あのお手紙を頂く前は私のいつもの椅子ではありませんでしたが、今はそうなのです。私が目を上げて向いに座っているエイダを見ますと、エイダも私を見つめていましたが、その目には涙がいっぱいあふれていて、頬を伝ってしたたり落ちていました。彼女の誤解をといて安心させてあげるためには、私はただ落ち着いて楽しそうにしていればいいのだ、と思いました。実際私はその通りだったのですから、自然のままにする以外に仕方なかったのです。
そこで私はかわいいエイダを私の肩にもたせかけて――彼女の心に重くのしかかっていたものが何なのか、ろくに考えもせずに――あなたは病気らしいわね、といってから腕で抱き寄せて、二階へ一緒にいきました。私たちが自分の寝室に入ってから、彼女が私に思いもかけぬことを打ち明けそうに見えた時にも、私の方から特にそれをうながすようなことをしませんでした。私に打ち明けねばならない何かがあるなどとは、思いもかけていなかったからです。
「親切なエスタ」エイダがいいました。「あなたとジョンおじさまが一緒の時に、お話する決心がつきさえすればよかったのだけど!」
「エイダ、どうして私たちに話して下さらないの?」私がいいました。
エイダはただ頭を垂れると、私をいっそうきつく抱きしめるだけでした。
「あなたはまさか忘れていらっしゃらないでしょうけど」私は笑いながらいいました。「私たちはとても古風な人間ですし、私はこの上なしの慎しみ深い淑女になってしまったのよ。私のこれからの生活の設計が全部幸せと平和にみちていることもお忘れにならないでしょうね。しかもその設計をして下さった方が誰なのか、どんなに気高い人柄の方であったかも、お忘れじゃないでしょう? そんなはずありませんわね、エイダ」
「ええ、忘れていないわ」
「それじゃ、もう何も困ったことなんかないじゃありませんか――どうして私たちに話して下さらないの?」
「エスタ、何も困ったことなんかないわ」エイダはおうむ返しに答えました。「でもね、これまでの何年間のことを考えると、おじさまが父親同然に親切に世話して下さったこと、私たちの昔からの間柄や、それからあなたのことを考えると――ああ、どうしたらいいのかしら、どうしたらいいのかしら!」
私はいささか驚きいぶかりながらエイダを見つめましたが、彼女を元気づけるだけで、返事はしないでおく方がいいと考えました。そこでこれまで一緒に暮して来た間のいろいろなことを思い出しては話し、これ以上彼女にしゃべらせないようにしました。彼女が寝いってしまうと、私はジャーンディスさんのところに戻っておやすみの挨拶をし、またとって返すとエイダのそばにしばらく座っていました。
彼女は眠っていました。その寝顔を見ていると、前と少し変ったように思えました。この頃一度ならずそんなふうに思えることがあったのです。今なにも気づかず眠っている彼女の顔を見た時でも、どんなに変ったのかは私にもはっきりわかりません。でも、いつも見なれているあの美しい顔のどこかが、私には違っているように思えたのです。彼女とリチャードのことについて、以前ジャーンディスさんが抱いていた希望のことを思い出すと、私の心は悲しくなって来るのでした。「エイダはきっとリチャードのことを心配しているのだ」私は心の中でつぶやき、彼女の愛がしまいにはどういう結果になるのかしら、と考え込んでしまいました。
キャディの病気の間私が病人のところから家に帰って来ますと、よくエイダが針仕事をしていることがありましたが、彼女は私の顔を見るといつもその縫物をしまってしまうので、それが何だかわかりませんでした。そのうちのいくつかは彼女の脇のよく閉っていないたんすの中に入っていましたが、私はそれを開けてみることもしませんでした。でも、いったいそれは何かしらという気がしてならないのです。彼女自身にとってはどうでもいいものらしいので。
私が屈んで彼女にキスをした時気づいたのですが、彼女は片方の手を枕の下に隠すように入れて寝ていました。
自分の元気と満足のことばかり考えていたあまり、このいとしいエイダを元気づけ安心させるのは私だけしかできない、と思い込んでいた私は、ひとさまがお考えのほど、いいえ、自分で考えているほども気だてのよい女とはいえなかったのでしょう!
でも私は自分で自分にそう思い込ませるようにして、床につきました。そして翌朝目を覚ましてみると、私とエイダの間にやっぱりあの影がさしているのでした。
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第五十一章 謎が解ける
ウッドコートさんはロンドンにお着きになると、さっそくその日にシモンズ法学予備院のヴォールズ弁護士を訪ねていかれたのでした。私があの方に、リチャードのお友達になってあげて下さいとお願いしたその時から、あの方はその約束をかたときも忘れたことも、おろそかにしたこともなかったのです。あの方は私に、リチャードのことは神かけて責任を持ちましょう、とおっしゃって下さいましたが、そのお言葉にそむくようなことは一度もなさいませんでした。
ウッドコートさんは事務所にいたヴォールズ弁護士に、リチャードの住所を教えていただけると聞いたので、やって来た旨を告げたのでした。
「いかにもさようで」弁護士が答えました。「カーストン氏の家はここから百マイルも離れてはおりません。さようで、カーストン氏の家はここから百マイルも離れてはおりません。どうぞお座り下さい」
ウッドコートさんは、有難う、でも住所をお尋ねしたいだけですから、と遠慮しました。
「いかにもさようで。たしかあなたは」ヴォールズ弁護士はあい変らず静かな口調で、しかし座るまでは住所を教えてあげない、というような様子で、「カーストン氏にご忠告のできる立場の方とお見うけしますが。それはちゃんとわかっております」
「私の方ははっきりとはわからないのですが、でも、おそらくあなたの方がよくご存知でしょう」
「さよう」声から何から例の落ち着きはらった様子で、ヴォールズ弁護士が答えました。「よく知ることは私の職業がらのつとめの一つですからな。私に事件を依頼なさったお客さまを研究し理解するのは、私の職業がらのつとめの一つですからな。それをよく知っておれば、私の職業のつとめに欠けることはありませぬ。よく知らなければ、いかに善意ありとも職業のつとめに欠けることになりましょうが、知っておれば欠けることはありませぬ」
ウッドコートさんはもう一度、住所を教えて下さいと頼みました。
「しばらくお待ち下さい。少々ご辛抱下さい。カーストン氏は高額を目当てに勝負なさっておられますが、ご本人がその無――この先はもう申し上げる必要ございますまい?」
「本人が無一文では、というのですか?」
「さようで。あなたに正直に申し上げますが(正直こそ私の黄金律で、そのために損得は度外視です。まあ、概して損する場合の方が多いですがな)、無一文ではだめです。さて、カーストン氏の勝負の勝ち目いかんにつきましては、私は何も申しません。何も申しません。こんなに長いこと、こんなに多額の金を注ぎ込んだ後に、下りるというのは、きわめてまずいかもしれませんし、そうでないかもしれません。私は何とも申しません。さよう」ヴォールズ弁護士は片手を机の上にぴったりとつけると、きっぱりとした口調でいうのでした。「何とも申しません」
「私はあなたに何もお尋ねしませんでしたし、あなたのお言葉に何の関心ももっておりません。それをどうかお忘れなく」と、ウッドコートさんがいうと、
「いや、お言葉ですが」とヴォールズ弁護士は反論しました。「それはお間違いというものですぞ! 違います! お言葉ですが、あなたのお間違いを知って、私が黙っておるわけには参りませぬ! あなたはお友達に関係したどんなことでも、あらゆることに関心をもっておられるのです。私は人間性というものをよく知っておりますから、あなたのようなお方がお友達に関係したいかなることにも、関心をお持ちでないなんぞとは認めることはできませぬ」
「そうですか。それならそうかもしれません。私の目下の関心は彼の住所なのですが」
(「住所はすでに申し上げたと思いますが」)と、ヴォールズ弁護士はカッコに入れたような言い方をしました。「もしカーストン氏がかくも高額を目当てに勝負を続けられるのでしたら、資金がなくてはいけません。おわかりですかな。現在は手もとに資金がありますから、私は何もいりません。現在は手もとに資金がありますから。しかし今後も勝負を進めるつもりなら、もっと資金が必要になります。カーストン氏がすでにここまでやって来た勝負を投げるつもりでないならば、です――この点を、この点だけをカーストン氏のためにじっくり考えねばなりません。この点をカーストン氏のお友達であるあなたに、この機会にはっきり申し上げておきたいのです。資金がなくなっても、私は喜んでカーストン氏の代理人として仕事を続けていきたいと思っておりますが、それは諸経費を財産からまかないうる安全な限度内に留まるところまででありまして、それ以上のことはできませぬ。それ以上のことをやりますと、私は誰かに被害を及ぼすことになりましょう。私の愛する三人の娘か、トーントン渓谷におります私の扶養する敬愛すべき父親か、あるいは誰かに被害を及ぼさねばなりませぬ。しかし私としましては(弱気と思われようと、愚かと呼ばれようとかまいませぬが)、誰にも被害を及ぼすまい、と決意しております」
ウッドコートさんは少々きつい口調で、それはまことに結構なお心がけで、といいました。
「私は死後よい名前を残したいと思っておりますからな。それ故にカーストン氏の現在の立場を、お友達にこの機会に大っぴらに申し上げておきたいのです。私のことにつきましては、働き|人《びと》のお給料に恥じないだけの仕事(1)をやっております。全力をあげて車を押すつもりになりますれば、それだけのことをやって、然るべきお礼を頂く。私はそのつもりでここに事務所を出しております。そのつもりで玄関の外に表札を掲げておりますので」
「それでカーストンさんの住所ですが?」
「さよう、すでに申し上げたと思いますが、お隣りです。三階にカーストン氏の部屋があります。法律の相談相手のそばに住みたいとのお望みでしたので。私もそれに反対いたしませぬ。ご相談を受けるのが商売でありますから」
そこでウッドコートさんはさよならをいって、リチャードを探しに出かけました。彼の顔色がこのごろ変った理由が、ほぼわかりかけて来たのです。
彼はお粗末な家具の置いてある、陰気な部屋に住んでいました。つい数日前私が彼を訪れた兵営の部屋と大して変ったところはありませんでした。もっとも今は何かを書いているのではなくて、本を前にして坐っていたのですが、目も心もどこかよその方に飛んでいるのです。たまたまドアが開け放しになっていましたので、ウッドコートさんは向うが気づくまでしばらくのあいだ眺めていたのですが、リチャードが夢からはっとわれに返るまでの、やつれた顔とがっくり打ちしおれた様子は、二度と忘れられないものだったそうです。
「やあ、ウッドコート!」リチャードは叫ぶと、両手をひろげて立ち上がりました。「君の姿が僕にはまるで幽霊が現れたみたいに見えたよ」
「仲よしの幽霊さ。よくいうように、幽霊は人間から声をかけられるのを待っているのさ(2)。さて、人間世界はいかがかね?」二人は向い合って坐りました。
「まるでだめだ。全然進展せず、さ」リチャードが答えました。「少なくとも僕に関係のある部分はね」
「というのは?」
「大法官裁判所の部分さ」
「あれがうまくいったという話は、僕はまだ聞いたことがない」ウッドコートさんが頭をふりながらいいました。
「僕だってさ」リチャードはむっつりした口調で、「誰だってそうさ」
それからまた元気を取り戻すと、いつもの率直な態度で、
「ウッドコート、僕は君から間違った目で見られるのはいやなんだ。たとえそのために買いかぶられるとしてもいやなんだ。はっきりいうけれども、このところずっと僕はろくなことしなかった。他人に迷惑を加えるつもりじゃなかったのだけれど、僕にはそんなことしかできないらしい。僕の運命が張りめぐらした網から逃れていたら、もう少しましなことができたかもしれない。でも、そうとも限らないんだ。まだ話してなかったらこれからすぐに話すつもりだけれど、僕の考えは少し違っているんだ。てっとり早くいってしまえばね、これまで僕は一つのはっきりした目的を持っていなかった。だが、今はちゃんと持ってる――というより、目的の方が僕をつかまえているのかな――まあ、今さらそんなことをとやかくいっても仕方ない。とにかくありのままに僕を見て、いたらないところは辛抱してくれたまえ」
「交換条件がある」ウッドコートさんがいいました。「その代り僕に対しても同じようにしてくれたまえよ」
「君に対してだって!」リチャードが答えました。「君は自分の医術をそれ自体目的として|究《きわ》めることのできる人間、いったん仕事に志したらあれこれと|右顧左眄《うこさべん》しない人間、どんなことにも目的を見つけ出せる人間だ。君と僕とは全然違う人間なんだよ」
彼は悲しそうにいうと、ちょっとの間また元気をなくしかけましたが、すぐ気をとりなおすと、
「まあいいさ! どんなことだっていつかは終りがあるんだからね。いまにわかることだ! だからとにかくありのままに僕を見て、いたらないところは辛抱してくれたまえね」
「よし、わかった。協定成立だ!」二人は笑いながら、でも大いに真面目な気持で手を握り合いました。少なくとも二人のうちの一人が真面目だったことは、心から請け合えるのです。
「君が来てくれたのはまるで天のお使いみたいなものだよ」リチャードがいいました。「ここへ来てからまだヴォールズのほか誰の顔も見ていないのでね。ウッドコート、協定の第一条としてまっ先に、そして今の一回だけのこととして話しておきたいことがあるんだ。これを話しておかないと、僕をありのままに見て貰えないと思うんでね。僕がいとこのエイダを愛していることは、たぶん君も知っているだろう?」
ウッドコートさんは、そのように私から聞いていると答えました。
「それなら、どうか僕のことを私利私欲のかたまりだとは思わないでくれたまえよ」リチャードがいいました。「僕がこのなさけない大法官府の裁判沙汰に頭をくだき、なかば胸も痛めんばかりにしているのが、自分の権利と利害のことだけ考えているからだ、と思ってはいけないよ。エイダの権利や利害が僕の場合に結びついて、離れなくなっているんだ。ヴォールズは僕たち二人の法律顧問なのだ。そう考えてくれたまえよ!」
彼があんまりこの点をしつこく頼むので、ウッドコートさんはよくわかったといって安心させてあげました。
リチャードがこの点にこだわるのは、べつに前からそうしようと意図していたわけではなかったのですが、その態度の中に何となくいたいたしいところが見えました。「ねえ、君のようにまっ正直な人間が、わざわざ友達がいにここへ訪ねてくれたんだから、僕も私利私欲を求める卑劣漢だと思われるのはたまらないんだ。僕は自分もそうだが、エイダにも正当な扱いがなされるように望んでいるし、そのために全力を尽したいんだ。自分もそうだがエイダをこの泥沼から救い出したいために、なけなしの金をかき集めて裁判に賭けているんだ。そういうふうに考えてくれたまえよ、お願いだ!」
その後でウッドコートさんがその時のことを考えてごらんになると、リチャードがこの点に強くこだわったことが特に印象に残ったので、シモンズ法学予備院をはじめて訪問したことを私にお話しになる時にも、特にこの点を詳しくおっしゃいました。これを聞いて私は前に抱いていたおそれがまたぶり返して来ました。私のエイダのささやかな財産がヴォールズ弁護士にみんな吸いとられてしまうのではないか、リチャードが自分に一所懸命正しいといいきかせようとしているのは、正直のところこの点ではないのか、と。ウッドコートさんとリチャードが最初に会ったのは、私がキャディの看護を始めた頃でした。ですから話をキャディが元気になった時、そしてエイダと私との間にやっぱりあの影がさしていたあの朝へと戻しましょう。
その朝私はエイダに、一緒にリチャードに会いにいきましょうよ、といいました。すると彼女はためらって、私が思っていたほど嬉しそうにいそいそした様子を見せないので、少々驚きました。
「ねえ」私がいいました。「私が長いこと看護にいっていた間に、あなたとリチャードと仲たがいでもなさったの?」
「いいえ」
「じゃあ、きっとリチャードの消息を聞いていないのね?」
「いいえ、消息は聞いているわ」
そういうエイダの目に涙があふれ、その顔には愛情がみなぎっていました。私には彼女の態度が何とも|解《げ》せませんでした。じゃあ、私一人でリチャードのとこへいきましょうか? と私がいいますと、エイダは、いいえ、あなた一人でいかない方がいいわ。じゃあ、一緒にいきましょうか? ええ、一緒にいった方がいいわ。今すぐ出かけましょうか? ええ、今すぐ出かけましょう。どうしたのかしら? 私には目に涙をため、顔に愛情のあふれている彼女の様子が、何とも解せなかったのです。
私たちはすぐ支度をして出かけました。ゆううつな日で、ときどき冷たい雨がぱらぱらと落ちて来ました。何もかも一面に灰色で、重苦しくきびしく見える日でした。家並みは私たちをにらみつけ、埃が私たちに向って吹きつけ、煙が私たちに襲いかかり、なにひとつとしてやわらいだり、やさしい顔をしているものはありませんでした。連れの美しいエイダの姿が、あたりのとげとげした街並みの中で、ひどく場違いな感じでした。陰気な街頭でそれまでに見たこともないくらい多くの葬式に出会ったような気がしました。
私たちはまずはじめにシモンズ法学予備院を見つけねばなりませんでした。店で道をきこうとしましたら、エイダがきっと大法官府横町の近くだと思うわ、といいました。「そちらの方角へゆけば、そう見当違いではなさそうね」と私がいって、大法官府横町にいきますと、間違いなく書いてありました――シモンズ法学予備院。
次に番地を見つけねばなりませんでした。「ヴォールズ弁護士の事務所でもいいのよ。すぐお隣りだそうですから」私が思い出してそういうと、すぐエイダが、あそこの角の家がヴォールズ弁護士の事務所らしいわ、というのです。そして間違いなくその通りでした。
次の問題は、そのどっち隣りかしら? 私が一方の隣りを見にゆき、エイダがもう片方の隣りへゆきましたが、またエイダの当りでした。そこでその三階へ上ってゆきますと、まるで|霊柩車《れいきゆうしや》みたいなドアの板に、大きな白い字でリチャードの名前が書いてありました。
私がノックをしようとしましたら、エイダが握りを廻して入ってもいいでしょうというのです。そこで入ってみますと、リチャードが埃だらけの書類のちらばったテーブルに向って、夢中になって読みふけっていました。私にはその書類が、まるでリチャード自身の心を映す埃だらけの鏡みたいに見えました。どこを見まわしても、彼の心の中にはりついている不吉な言葉が書いてあったからです――ジャーンディス対ジャーンディス訴訟事件。
彼は私たちをあたたかく迎えてくれました。私たちが腰を下しますと、「もう少し早く来れば、ウッドコートに会えたんだけどなあ。あんないい男はいないよ。あの半分も忙しくない男でも来られないと思うような時に、ちゃんと万障くり合わせて来てくれるんだからね。それに快活で生き生きしていて、思いやりがあって真面目で、それから――要するに僕に欠けているところを全部そなえているんだから、彼がやって来ると部屋じゅうが明るくなるし、彼がいってしまうとまた暗くなるんだ」
「あの方は私に約束した通りにやって下さっているのだ。何とご立派な方だろう!」と私は心の中で思いました。
「エイダ、彼はこの件については」とリチャードはいいながら、書類の束の方を力なく眺めるのでした。「ヴォールズや僕ほど明るい見通しを持っていないんだ。でも結局彼は部外者に過ぎないのだし、この事件の謎を知らないのだからね。僕たちはその奥底まで知りぬいているけど、彼はそうでないのだから、こんな迷宮の内側まで知り尽すわけにはいかないというものさ」
また彼が書類の方をちらちらと眺め、両手で頭をかいているのを見ると、彼の目がひどくくぼんで大きいこと、その唇がひどくかさかさに乾いていること、その指の爪がみんなかみきられていることに気がつきました。
「リチャード、こんなところに住むのが健康にいいと思う?」私がいいました。
「ミネルヴァさん」リチャードは昔のように陽気に笑って答えました。「そりゃここは田園の趣きもないし、明るい場所でもないさ。それに太陽が照っても、明るくなるのは確かに外の開けた場所だけさ。でも当座のところは、ここでまあまあ充分さ。役所にも近いし、ヴォールズにも近いし」
「その両方からしばらく離れた方が――」私がいいかけますと、
「僕のためになるんじゃないか、といいたいんだろう?」リチャードはむりに笑いながら私の言葉を横取りしました。「そりゃそうかもしれないさ! でもね、今となってはどちらか一つ――つまり、二つのうち一つしか、なりようがないんだ。訴訟の方のけり[#「けり」に傍点]がつくか、訴訟人の方のけり[#「けり」に傍点]がついてしまうか、さ。だがね君、絶対訴訟の方のけり[#「けり」に傍点]をつけてやるさ。やるともさ!」
この最後の言葉はすぐ隣りに坐っていたエイダに向けられたものでした。彼女は私から顔をそむけて彼の方を見ていましたので、私にはその顔つきは見えませんでした。
「うまくいっているんだよ」リチャードは言葉を続けました。「ヴォールズがうけ合ってくれるさ。本当にぐんぐん進んでいるんだよ。ヴォールズにきいてみたまえ。事件を停滞させちゃいけないんだ。ヴォールズはいっさいのからくりを知っているから、僕たちは急所を全部おさえているんだ。不意打ちをくらわしてやったのさ。いいかい、僕たちは眠っている奴らの巣をたたき起してやるつもりなんだ!」
これはかなり前からのことでしたが、リチャードが希望の色を見せる方が、失望の色を見せるよりも私にはもっと痛ましく思えたのです。それは本当の希望とは似ても似つかぬもので、絶対に有望なんだとしゃにむにいっているみたいで、ひどく熱心のあまり渇えている様子、それなのに、むりにそう信じ込んでいるのだからどうせ永持ちしそうもない、と自分でもわかっている様子なので、私はまえまえからかわいそうに思っていたところでした。ところが今や彼のととのった顔の上に、この希望も実はから[#「から」に傍点]元気なのだと、消すことのできぬ文字で書かれてあるみたいで、以前にましていたいたしく見えたのです。消すことのできぬ文字で、と申しましたが、確かにそんな気がしたのです。といいますのは、たとえこの悲劇的な訴訟事件が、この瞬間にこの上なく明るい期待通りの解決がついたとしても、これまでにつもりつもった失望、自責の念、若いうちからなめた不安などの痕跡が、死ぬまで彼の顔の上にはっきり残ったことでしょうから。
「親愛なるちいさなおばさんのいつも見なれた姿を見ていると」リチャードがいいました。エイダはあい変らずじっと黙ったままです。「それから昔と変らぬ思いやりあふれた顔――」
いいえ、違います、違いますわ! 私はほほえむと頭を振りました。
「昔と全く変らないそのままの顔だよ」リチャードは心のこもった口調でくり返すと、昔と同じく兄のような愛情のこもった態度で私の手をとりました。「それを見ていると、僕はとても見せかけの嘘なんかいってはいられないよ。だから正直にいうけれども、僕は少々ぐらつくこともある。時には希望を持つけれども、時には――絶望とまではいかないが、それに近くなることもある。僕は」彼はやさしく私の手をはなすと、部屋の中を歩き廻りました。「ひどく疲れてしまうんだ!」
彼は二、三度歩き廻ると、ソファにぐったり身を沈めました。「僕はひどく疲れてしまうんだ」陰気な口調でまたくり返すのでした。「とっても疲れる、うんざりする仕事だからね!」
彼が片腕をついて身をもたせかけ、思いに沈んだような口調でこういいながら床を見つめていると、エイダが立ち上り帽子を脱ぐと、その金色の髪の毛をまるで太陽の光のように彼の頭の上に垂らしかけ、その傍にひざまずくと両手でしっかと彼の首のまわりを抱きしめ、顔をこちらに向けました。その顔は、なんと愛情と献身にみちあふれた顔だったでしょう!
「エスタ」彼女は静かにいうのでした。「あたし、もう家に帰らないわ」
そのとたん、私の頭の中にぱっと明りがひらめきました。
「これからずっと帰らないわ。愛する夫と一緒にここにいるつもりよ。あたしたちはふた月前に結婚したの。エスタ、あたしをおいて家に帰ってちょうだい。あたしはもうこれからずっと帰らないわ!」エイダはこういうと彼の頭をしっかりと胸に抱き寄せました。死のみが変えることのできる愛のすがたをまのあたりに見たのは、一生のうちその時だけでした。
「エスタに話しておあげ」リチャードが間もなく沈黙を破りました。「ことの次第を話しておあげ」
エイダがこちらに来る前に私の方から駈け寄って、腕でしっかり抱きしめました。私たちは二人とも口をききませんでしたし、彼女と頬と頬を寄せ合っている私は、何も聞きたいと思いませんでした。「私のかわいい、大事なエイダ」私はいいました。「かわいそうな、かわいそうなエイダ!」本当にかわいそうに思ったのです。私はリチャードが好きでした。でも、その時のとっさの気持といったら、彼女がとてもかわいそうだという気持でした。
「エスタ、許してね。ジョンおじさまは許して下さるかしら?」
「エイダ、あの方のことを一瞬でも疑うなんて悪いわよ。それに私は――」私が、この私[#「この私」に傍点]が許すことなんてあるでしょうか!
私は彼女の涙にぬれた目を拭いてあげてから、ソファの上の彼女とリチャードの間に座りました。今日とはまるで違ったあの晩、この二人がはじめて私に内証で打明けてくれ、二人で向うみずながら幸福な道を切り開いたあの晩のことを私が思い出している間に、二人はかわるがわる、ことの次第を話してくれました。
「あたしの全財産はリチャードのものだったのよ」エイダがいいました。「でも、リチャードがどうしても受け取らないっていうんですもの。エスタ、あたしはこの人をあんなに愛していたんですもの、この人の妻になるよりほかどうしようもないでしょう!」
「そのうえ親切なダードンおばさんは病人の看護で一日じゅう忙しそうだったから」リチャードがいいました。「そんな時にとても話すわけにはいかなかったじゃないか! それにね、まえまえから考えてやったことじゃなかったんだ。ある朝ふと思い立って、結婚してしまったんだよ」
「その後でね、エスタ」エイダがいいました。「どうやってあなたに話したらいいか、どうするのが一番いいかと、いつもあたし考えていたのよ。今すぐ話してしまおうと思った時もあったし、話さない方がいい、ジョンおじさまには内証にしておいた方がいいと思った時もあったの。どうしたらいいのかわからなくなって、じりじりしていたのよ」
もっと前にこのことに気がつかなかったとは、私ってなんて自分勝手な人間だったのでしょう! 私が二人に何といったのか、自分でもいまだにわかりません。二人のことがとても気の毒でもありながら、同時に二人が好きでしたし、二人が私を好いてくれたのが嬉しかったのです。かわいそうな気もしましたが、でも二人がお互いに愛し合っているのを見て、誇らしげな気持にもなりました。同時につらくて嬉しい気持になったのは、この時がはじめてでしたが、そのうちどちらの気持の方が胸の中でより強かったのか、自分でもわかりませんでした。でも私は二人の前途を暗くするようなつもりはありませんでしたし、また事実そんなことはしませんでした。
私の頭の中の乱れがおさまって、気持が落ちついて来ると、エイダはふところから結婚指輪をとり出し、接吻してから指にはめました。それを見て私は昨夜のことを思い出し、リチャードに、エイダは結婚してからずっと毎晩、人が見ていない時は指輪をはめていたのよ、と教えてあげました。エイダは顔を赤らめながら私に、どうしてそれがわかったの? とききました。そこで私は、エイダが片手を枕の下に隠して寝ている姿を見たこと、その時はなぜなのか考えてもみなかったことを話しました。すると二人はまたことの次第を初めから全部くり返して話してくれました。そこで私はまたもや気の毒になったり嬉しくなったりして来て、頭の中が混乱してきたので、私の顔色を見て二人が気落ちしないようにと、できるだけ私の醜い顔を見せまいと努めたのです。
このようにして時がどんどん過ぎ去り、私が帰ろうとしなければならなくなりました。そうなった時が一番つらい時でした。何しろエイダはすっかり泣き崩れてしまって、私の首にすがって、思いつく限りのありとあらゆるやさしい呼び名で私を呼んで、あなたと別れたら私どうしたらいいかしら! というのです。リチャードもほぼ同様でした。私はといいますと、私が三人のうちで一番弱気になりかかりましたので、自分に向ってきびしく叱りつけたのです。「ほら、エスタ、しっかりしなさい! あなたが泣いたら、二度と口をきいてあげないわよ!」
「まあ、驚いたわ、こんな奥さんているかしら」私はいいました。「ご主人を全然愛していないらしいわね。そら、リチャード、お願い、私の子供を連れていってちょうだい」そうはいいながらも私はエイダをしっかりと抱きしめ通しでした。いつまでもきりなしに泣いてしまいたい気持だったのです。
「このお若いご夫婦にあらかじめお断りしておきますけど」私はいいました。「私は今帰りますけど、明日また戻って来ますよ。その先もずっといったり来たり、シモンズ法学予備院が私の顔を見るのもうんざりだというまで続けるつもりですからね。だからリチャード、さよならはいいませんよ。またすぐ私が戻って来るのに、そんなこといったってしようがありませんものね!」
私はやっとエイダを彼に渡して帰りかけようとしました。でももう一度足を止めて、あのやさしい顔をもう一目見ようとしました。その顔が見えなくなったら、胸がはりさけてしまうだろうという気がしたのです。
そこで私は(陽気にふざけた口調で)、あなたたちが戻って来てちょうだいといってくれないなら、私は戻って来ないかもしれないわよ、といいました。するとエイダが顔を上げて涙に濡れた顔をかすかにほころばせました。私は彼女の顔を両手で挟むと、最後のお別れのキスをしてから、笑って、駈け出しました。
でも階段を下まで降りた時、ああ、なんと私は泣いたことでしょう! 私はエイダを永久になくしてしまったみたいに思えたのです。彼女がいないと本当に淋しい、うつろな気持になり、家に帰っても彼女の姿が見られないと思うと、なんともわびしい気持で、しばらくの間は薄暗い街角をいったり来たりしながら、泣いたりしゃくりあげたりして全くつらい思いでした。
しばらくして自分を少し叱ってからやっと気をとり直し、馬車をひろって家に帰りました。スントールバンズで私が見つけたあのかわいそうな少年が、そのちょっと前にまた見つかり、死にかかっていたのでした。いえ、その時私は知りませんでしたが、すでに死んでいたのでした。ジャーンディスさんは子供を見舞いに出かけていて、昼食には帰ってこられませんでした。一人ぼっちでしたので、私はまた少し泣いてしまいました。もっともそう見っともなく取り乱しはしなかったように思いますが。
私のかわいいエイダがいなくなったことにまだ気持がなじめないのも、しごく当然のことでした。何年も一緒に暮したあと、別れて数時間しか経っていないのですから。でも私は、今さっきあとにして来た悲しい場面が頭にちらついて離れず、しかも暗い冷たい場面に見えてたまりませんでしたので、彼女のそばにいってやりたい、何とか面倒を見てやりたいという気がつのって来て、夕方になったらあそこへもう一度いって、せめて窓くらい見上げよう、と決心しました。
ばかばかしいことかもしれません。でもその時私はそうは考えませんでしたし、今でもそうは考えておりません。私はチャーリーに事情を打ち明けて、暮れ方に一緒に出かけました。エイダの新しい住みなれぬホームにたどりついた時、もうあたりはまっ暗で、黄色い日除けの向うに明りがついていました。私たちは気づかれないように注意しながら、その窓の下を二、三度往復して見上げました。一度はあやうくヴォールズ弁護士にぶつかるところでした。弁護士は私たちが外にいるとき事務所から出て来て、同じように窓を見上げてから家へ帰っていったのです。そのまっ黒でひょろ長い人影を見、暗闇の中に包まれたあの部屋のわびしい空気を思い浮べると、私の気持はますます沈んできました。若く、美しく、愛情にあふれたエイダが、こんな場違いの感じの陋居に世をはばかって住んでいるかと思うと、ひどく残酷だという気がしてならなかったのです。
|人気《ひとけ》もなく寂しい建物でしたから、三階までそっと忍んでいっても見つかるまいと思いました。そこでチャーリーを下に残し、足音を忍ばせて、階段の途中のランプのかすかな光を迷惑に思うこともなく、上ってゆきました。しばらく立ち止って耳をすましますと、しんとしたかび臭い家の中から、二人の若々しい声が小さく聞えて来たように思いました。エイダにお別れのキスをするつもりで、霊柩車みたいなドア板に口をつけると、いつかここへ来たことを二人に話そうと思いながら、そっと降りて来ました。
これで私の気持が本当に軽くなりました。このことを知っているのはチャーリーと私だけでしたが、なんということなしに、これでエイダと私との間の距離が近くなった、ここに来ていた間は私たち二人が一緒だったのだ、という気がしたからです。彼女のいないことに、完全に気持がなじめたわけではありませんが、彼女の近くを歩き廻ったことでだいぶ気分が明るくなって、家に帰りました。
ジャーンディスさんはすでにお帰りになっていて、暗い窓辺に立って考えに沈んでいる様子でした。私が入ってゆくとそのお顔が明るくなり、ご自分の椅子にお座りになりました。私が自分の椅子に座ると、明りに照らされた私の顔をご覧になって、
「おや、泣いていたの?」
「ええ、少し泣いてしまいましたわ。エイダがとってもつらい思いをして、申しわけないといっていたものですから」
私は腕をおじさまの椅子の背に掛けました。ジャーンディスさんが私の言葉を聞き、主のいない椅子に向けられた私の視線を見て、すべてをお察しになったらしいことが、その目の色からわかりました。
「あの人は結婚したのだね?」
私は一部始終をお話して、彼女が何よりも先に、おじさまに許していただきたいといっていました、と申しました。
「許しなんかはいらないよ。エイダも、その夫も、神さまが守って下さいますように!」さっき私がまっ先に感じたことは彼女をかわいそうに思ったことでしたが、ジャーンディスさんも同じでした。「かわいそうに、かわいそうに! かわいそうなリック! かわいそうなエイダ!」
それから私たち二人とも黙ってしまいました。やがておじさまが溜息まじりにおっしゃいました。「やれ、やれ! 荒涼館はだんだんやせ細ってゆくねえ」
「でも、そこの主婦は残っていますわ」ジャーンディスさんのおっしゃり方があまり悲しそうでしたので、私は恥かしかったのですが、思いきってこういいました。「荒涼館をしあわせにするよう、一所懸命にやりますわ」
「きっとうまくやってくれることだろう!」
あの手紙のやりとりがあってから、私たち二人の間には、並んで椅子に坐るようになったほかには、何の変ったことも起りませんでしたが、今もやっぱりそうでした。ジャーンディスさんは昔ながらの父親のような明るいまなざしを私に向け、昔の通りに手を私の手の上に重ねて、もう一度くり返されました。「きっとうまくやってくれることだろう! でもね、荒涼館はだんだんやせ細っていくねえ!」
間もなく私は、このことについて私たちの話し合ったのがこれだけで終ってしまったことを、残念に思いました。いささか失望したのです。あの手紙のやりとりがあってから、私がなろうと心がけていた通りのものに、充分なりきれていなかったのではないかしら、という懸念がわいたのです。
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第五十二章 強情な人
ところが翌々日の朝早く、私たちが朝ご飯を食べようとしておりますところへ、ウッドコートさんがびっくりするようなニュースをもって、あわただしく入っていらっしゃいました。おそろしい殺人事件が起り、容疑者としてジョージ軍曹が捕えられ、監獄につながれているというのです。犯人を逮捕した者には多額の金を支払うという懸賞を、レスタ・デッドロック卿がお出しになった、とのウッドコートさんのお話でしたが、びっくりしてしまった私には、それがどうしてなのか、はじめのうちはさっぱりわけが分りませんでした。けれども、さらに重ねて説明していただくと、殺された人はレスタ卿の顧問弁護士なのだそうでした。途端に、私の母がその人をこわがっていたことが、はっと思い出されました。
母が長いこと疑いの目で見張っていた人、そして逆に母を長いこと疑いの目で見張っていた人、母がほとんどやさしい言葉をかけてあげたこともなく、危険な敵としていつもひそかにこわがっていたその人が、思いもかけず非業の死をとげたとは、何ともおそろしいことで、私がまっ先に考えたのは母のことでした。このような死の知らせを聞いても、全然あわれみの気持が感じられないとは、なんとおそろしいことではありませんか! 時々母が、いっそこの世にいなければよいのに、とまでいっていたあの老人が、こんなにもあっさりとこの世から姿を消してしまうなんて、考えただけでも身がぞくぞくするような気がいたしました!
こんなにたくさんのことをあれこれと考えておりますと、そうでなくてもその名前を聞いただけでいつも心が痛み、おびえるような思いをしていましたのが、今朝はますますひどくなり、私は気もそぞろで、おちおち朝ご飯の食卓についていられなくなりました。しばらくして気をとり直すまで、皆さんのお話もうわの空でしたが、気持が落着いてみると、ジャーンディスさんは|愕然《がくぜん》としたご様子、お二人で真剣になって、容疑者にされたジョージ軍曹のことを、私たちが知っているあの人なら、まことに善良そのもので、思い出すだけでも立派な人物だと話していらっしゃいました。それを聞くと私は、あの人のためになんとかしてあげなくては、という気持が強く心の中に|湧《わ》いて来て、また気持がしゃんとなりました。
「おじさま、まさかこの容疑が正しいなどとは、お考えになりませんでしょう?」
「とても考えられない[#「られない」に傍点]ことだよ。あんなに率直でなさけ深い男がねえ。巨人のような力を持ちながら、子供のように心がやさしく、くらべる者もない勇者だけれども、とても素直でおとなしい人物だ。こんな男にかけた容疑が正しいかだって? とても信じられない。信じないとか信じたくないではないんだ。とても信じられないのだよ!」
「私だって信じられません」とウッドコートさんが申されます。「でも、私たちがどんなにあの人をよく知りつくして信じているとしても、いくらか不利な情況があるということは、忘れてはなりますまい。軍曹は殺された人に敵意を持っていましたし、それをあちこちで公言しておりました。故人をひどくののしったりしたとのことですし、私の知っているかぎりでも、たしかにそうしたことがありました。殺人がおこなわれた時刻から五分以内に、現場にたった一人でいたことを認めております。私は彼がこの事件では、私同様絶対に潔白で無関係なことは信じておりますが、以上のように、彼が疑われる理由もかなりあるのです」
「なるほど」ジャーンディスさんはこうおっしゃると、私に向って、「こういった点が全部真実だということに目をつぶるのは、かえってあの人にあだ[#「あだ」に傍点]をすることになるだろうね」
もちろん私も、情況がきわめてあの方に不利であることを、私たちだけではなく、他人に対しても認めねばならないとは思いました。そうはいってもやっぱり、どんなに不利であっても、あの人を今となって見殺しには出来ません、といわないではいられませんでした。
「見殺しなんて、とんでもない! 私たちは彼の味方だよ。彼があの亡くなったかわいそうな二人の味方になってくれたようにね」ジャーンディスさんのおっしゃるのは、ジョージ軍曹がかくまってあげたグリドリーさんと、ジョー少年のことなのです。
それからウッドコートさんは、騎兵軍曹が気が違ったみたいに一晩中街なかを歩き廻った挙句の果てに、夜明け前に自分のところにやって来たこと、ジャーンディスさんが彼を有罪だと思いはしないかということが、彼の第一に心配していることだったこと、荒涼館のかたがたに、自分は天地神明にかけて潔白であると、ぜひぜひ伝えて欲しいと頼まれたこと、朝早々に荒涼館へいってその旨を伝えてあげると約束して、軍曹を安心させたこと、などをお話しになって、自分はこれから彼に面会にゆくところです、と言葉を加えました。
ジャーンディスさんはすぐに、自分もゆこうといわれます。私はと申せば、あの退役の軍人さんがとても好きでしたし、あの方も私に好意をもってくれましたし、その上この事件には人に話せない――ジャーンディスさんだけはご存知の――秘密の関心を持っております。私にはごく身近なかかわりを持つ事件で、真相を究明して無実の人を救うのは、|他人《ひと》|事《ごと》ではなくなってきたような気がするのです。と申しますのは、疑いというものはいったん広がりだしたら、とめどもなくなるものですから。
早い話が、お二人に同行するのが私の義務のように思われたのです。ジャーンディスさんが反対なさらなかったので、私もいっしょに参りました。
大きな監獄でした。どこもかしこも同じように石が敷いてあって、似たり寄ったりの様子の中庭や通路があちこちにありますので、本で読みましたように、ひとりぼっちで閉じこめられた囚人が、毎年毎年いつも同じ壁とにらめっこをしていると、一本の雑草、石の割れ目の一つの芽生えまでいとしくなってくるという気持が、いま実際にここを通っているとわかるような気がするのでした。二階に天井がアーチ形になった、穴蔵みたいな部屋があって、壁が目にしみるほど真白なので、太い窓の鉄格子や、鉄の枠のついた扉が、実際以上にもっと黒々と見えるみたいでしたが、この部屋の隅っこに、騎兵軍曹がひとりぽつんと立っていました。そこのベンチに坐っていたのですが、錠の開く音を聞いて立ち上ったのでした。
私たちの姿を見ると、いつものようにどっしりした足どりで一歩前進すると、立ち止って軽くお辞儀をしました。でも私の方からなおも進み寄って手を差し出すと、すぐ私たちの気持がわかったらしく、
「皆さん、これで自分の胸の重荷がすっかりとれました」というと、元気よく私たちに敬礼をしてから、息をぐっと深く吸い込んで、「もうこれで、この始末がどうつこうとまったく平気であります」
ジョージ軍曹にはおよそ囚人らしいところは見られず、落着きはらった軍人らしいものごしのせいで、むしろ看守みたいでした。
「ここはお嬢さんをお迎えするには、自分の射撃練習場以上にむさくるしい所でありますが、サマソンさん、ひとつご辛抱いただきたいと思います」そしてこれまでご自分が坐っていたベンチを私の方に下さいますので、私が腰を下しますと、彼は大変満足した様子で、
「有難うございます、お嬢さん」
「さて、ジョージさん」ジャーンディスさんがおっしゃいました。「私たちがあなたにいまさら釈明してもらうつもりがないように、こちらからもいまさらあなたにくどくどいうこともないでしょう」
「全然ありません。心から感謝しております。かりに自分が下手人だったといたしましても、このようにご親切にお訪ねいただきまして、お顔を拝見しましたら、とても包み隠すようなことは出来まいと思います。お訪ねいただいて本当に有難く思っております。自分は口べたでありますが、皆さんのお気持は深く身にしみております」
ジョージさんはちょっとの間、がっしりした胸に片手をあてて、こっくりと私に頭を下げましたが、またすぐもとの気をつけの姿勢に戻りました。この簡単なしぐさが心の中の感激を充分に伝えてくれました。
「ジョージさん、まず第一に、あなたの身のまわりの居心地をよくするために、何かお手伝いをしたいのですが」ジャーンディスさんがおっしゃいました。
「自分のなんでありますか?」咳ばらいをしてから、軍曹が尋ねました。
「身のまわりの居心地をよくすることですよ。ここに閉じ込められた不自由をいくらかでも減らすことで、なにかお望みがありませんか?」
「はっ、有難うございます」軍曹はしばらく考え込んでから、「でも、たばこは規則で禁じられておりますので、なにもほかに欲しいものはございません」
「おそらくそのうちに、いろいろとこまごましたことを思いつくでしょうが、どうかそのたびごとに私たちに教えて下さい」
「有難うございます。でも」ここで日にやけたほおをほころばせて、「自分のように世界中をぶらぶら渡り歩いて参りました者は、このような場所でも、まあまあ不自由なく暮らせるものであります」
「では、次にあなたの事件のことですが」
「その通りであります」ジョージさんは落着きはらって、いささか好奇心を示すように腕を組みました。
「今のところの情況はどうですか?」
「現在は再拘留中であります。バケットの申しますには、証拠がもっと固まるまでは、再拘留更新を何回か続けて申請するつもりだそうであります。どんな証拠が固まりますのやら、自分には判りませぬが、バケットのことですから、たぶん何とかやってのけるでありましょう」
「おいおい、君、冗談じゃない!」おじさまは驚きのあまり、またいつもの風変りな態度に戻ってしまって、大声で叫ばれました。「自分のことなのに、まるで|他人《ひと》|事《ごと》みたいな口ぶりじゃないですか!」
「ご免ください。皆さんのご親切は自分も本当に痛み入っております。ですが、こんな風にでも考えませんと、潔白な人間は事件のことを思うたびごとに、壁に頭をぶつけなければいけなくなります」
「それはまあそうかもしれないが」ジャーンディスさんは少し冷静を取り戻しました。「だけどね、あなた、いくら潔白な人間だって、自分の身を守るためには世間並みの注意くらいしなくては」
「その通りであります。ですから、自分もそういたしました。自分は治安判事にこう申しました。『皆さん、自分はこの容疑に対しては、皆さんと同じく潔白であります。自分に不利な事実が数々述べられていますが、それらはすべて真実であります。それ以上のことは自分は存じませぬ』これからもそう陳述を続けるつもりであります。他にどうしようもございますまい? それが真実なのですから」
「しかし、真実だけではどうにもならないよ」
「そうでありましょうか? それはいささかがっかりであります!」ジョージさんは愉快そうな口調でいいました。
「あなたは弁護士を雇わなくてはいかん。あなたのためにいい弁護士をつけましょう」
「せっかくでありますが」軍曹は一歩後退しました。「お志は有難いのでありますが、そういったことは絶対にお断わりいたさねばなりません」
「弁護士を断わるって?」
「そうであります」ジョージさんは断固として首を振り、「お気持は有難く頂きます。しかし――弁護士はいけません」
「どうして?」
「自分はあの種の人間を好かぬのであります。グリドリーもそうでありましたし――こんなことを申して失礼でありますが――あなたもそうでございましょう」
「だって、それが法の公平というものです」ジャーンディスさんはいささかへきえき[#「へきえき」に傍点]なさって、「だって、あなた、それが法の公平というものですよ」
「そうでありますか?」軍曹は平然として、「自分にはそうしたこまかい言葉のあやはわかりませんが、だいたいのところ、あの種の人間は嫌いであります」
組んでいた腕をほどき、姿勢を変えると、軍曹はがっしりした片手をテーブルの上にのせ、もう一方の手を腰に当てて、いったんこうと決めたらてこ[#「てこ」に傍点]でも動かない人間の標本みたいでした。私たち三人であれこれと話しかけて、説得しようとしましたが無駄でした。あのごつい身のこなしにしっくり合った穏やかな態度で、私たちの話に耳を傾けてはいましたが、この監獄の壁と同じで、他人の説得では絶対に決心はゆるがない、といった様子がありありと見えました。
「ジョージさん、どうかもう一度考えて下さいまし」私が申しました。「この事件について、なにかお望みはございませんの?」
「自分の望みは軍法会議で裁いてもらいたいということでありますが、それが無理なことは自分でもわかっております。お嬢さん、自分の申し上げることを二分間だけお聞きいただけますなら、自分はできるだけはっきり自分の心境を申し述べたいと思います」
ジョージさんは私たち三人を順々に眺め廻し、きつい囚人服の襟飾りやカラーの中にうまくはめ込むみたいに、首を少し振って、ちょっと考え込んでから言葉を続けるのでした。
「お嬢さん、ご覧の通り自分は手錠をかけられ、監視つきでここへ護送されて来ました。自分は辱しめの|烙印《らくいん》を押された男であります。自分の射撃練習場はバケットの手で、隅から隅まで家宅捜索され、自分の財産は――ささやかなものでありますが――めちゃめちゃに乱暴狼藉を受け、その挙句の果てに自分は(先ほど申しましたように)このていたらくであります。自分はそのことに愚痴をこぼすのではありません。自分がこんなところにおりますのは、直接自分の|罪咎《つみとが》のせいではありませんが、自分が若い頃に放浪生活などを送らなかったなら、こんな次第にはならなかったでしょう。でも、事実はこんな次第になってしまったのであります。そこで問題は、どう対処すべきか、であります」
ジョージさんは愉快そうな顔付きをして、浅黒い額をちょっとこすると、弁解するように、
「自分は演説をするとすぐ息切れがしますので、少し考えなくてはいけません」
少し考え終えると、また目を上げて言葉を続けました。
「どう対処するか、であります。さて、あの不幸な故人自身が弁護士で、自分はあの男にかなりきゅうきゅうの目に会わされたことがあります。自分は死人の悪口はいいたくありませんが、もしあの男が存命でしたら、鬼畜にも等しい行為、といってやりたいくらいの目に会わされました。それで自分は弁護士稼業が嫌いであります。自分がそんなものにかかわりあいにならなかったら、こんな所にほうりこまれないですんだろう、と思っております。ですが、話が脱線してしまいました。さて、自分が本当にあの男を殺したといたします。バケットは自分の射撃練習場から、最近発射した痕跡のあるピストルを一梃見つけました。実際ずっと前から自分の家に置いてあったのですから、いつでも見つけようと思えば見つけられたはずなのですが、そのピストルで自分があの男に弾を射ち込んだといたします。そうしましたら、自分がここに監禁されるやいなや、なにをしたでありましょうか? 弁護士を頼んだことでしょう」
扉の錠が外される音を聞いて軍曹は口をつぐみましたが、扉が開いてまた閉ると――なんのためかはのちに申しましょう――さらに話を続けました。
「自分は弁護士を頼んだことでしょう。弁護士は(よく新聞などで読みました通り)こんなふうに申すでしょう。『小生の依頼人はなにも申すことはありません。小生の依頼人は答弁を保留いたします――小生の依頼人はうんぬん、うんぬん』自分の考えではああした種類の人間は、まっすぐ|一途《いちず》な行き方はやらないものですし、他人がやるとも思わないのです。では、私が無実で弁護士を雇ったといたします。弁護士はきっと自分が本当にやったのだ、と信じるに決っています。信じるにせよ、信じないにせよ、弁護士のやり方はどうするかというと――私が下手人であるようなやり方をするのです。私の口を封じ、言質を与えるなと忠告し、情況を伏せ、証拠を切り刻み、こじつけ文句を並べたてて、おそらく私を放免にしてくれるでありましょう。しかしです、サマソンさん、自分はそんな流儀で放免になるのはまっぴらです。そんならいっそのこと、自分流にやって死刑になったほうがましです――こんな不愉快な話をご婦人にして失礼でありますか?」
もう軍曹は話に熱中して、こちらの答えを待たずに、
「自分は自分流にやって死刑になったほうがましであります――自分はそのつもりであります。自分はなにも」たくましい両手を腰に当てて肘を張り、黒い眉をそびやかして私たちを眺め廻しながら、「死刑になるのが好きというわけではありません。自分の申すのは、完全に潔白で身の|証《あか》しを立てるか、さもなければ全然立てないか、のどちらかであります。でありますから、自分に不利な証言がなされても、それが真実ならば真実だと申し立てます。警察で『君の申し立ては、のちに君に不利な証拠として使われることがあるかもしれない』といわれても、自分は全然平気だと申します。使ってもらいたいと思っているのです。自分を全くの真実に基づいて潔白だといってくれないのでしたら、自分は中途半端な潔白なんかはご免をこうむります!」
軍曹は石の床の上を一、二歩歩き廻ってから、テーブルのところへ戻ると、最後につけ加えていいました。
「お嬢さん、皆さん方、ご心配やご足労いただいて本当に感謝しております。これが事件のありのままの情況であります。自分のような、なまくらの剣みたいな鈍い頭を持った男には、これだけのことしかわかりません。自分は軍人として勤めを果しましたほかは、これまでろくなことはいたしませんでした。最悪の事態が到来しましても、それは自分の蒔いた種を自分が刈りとるだけ(1)であります。殺人犯人として捕えられて、一時はがっくりいたしましたが、自分のように世の中を放浪して廻った人間は、すぐさま気持が取り戻せるものでありますから、いろいろと考えまして、今ではこういう心境になりました。これから先も同じ気持だと思います。自分のおかげで面目をつぶしたり、不幸になる親類縁者とておりませんし、それに――いや、これで申すことは終りであります」
先ほど扉が開いた時に入って来ましたのは、これも軍人風ですが、一見したところではジョージ軍曹ほど人目をひきそうなところのない一人の男と、日やけした顔に、きらきら輝く目をもった丈夫そうな一人の女でした。女の人はバスケットを持って入って来ると、ジョージさんの言葉に喰い入るように聞き入っていました。軍曹は話の途中では、その人たちに親しげな眼差で会釈をするだけで、それ以上特別な挨拶はしませんでしたが、話がすむと心をこめて握手を交し、
「お嬢さん、皆さん、こちらは自分の旧友、ジョゼフ・バグネット(2)、こちらはその奥さんであります」
バグネットさんは軍人風に堅苦しく一礼し、奥さんは膝を屈めてお辞儀をなさいました。
「二人は自分の無二の親友であります。自分が逮捕されましたのは、この人たちの家を訪問中でありました」
「中古のチェロとかなんとかいわれてね」バグネットさんは口をはさむと、怒ったように頭を振るのでした。「いい|音色《ねいろ》のが欲しいとか、友達に頼まれたとか、金に糸目はつけないとかなんとかね」
「マット(3)」ジョージさんがいいました。「君はおれがこの方々にお話し申し上げたことを、大体聞いたろう? もちろん君はおれの気持に賛成してくれるだろうね?」
バグネットさんはしばらく考え込んでから、奥さんに答えを任せました。
「お前返事をしておくれ。おれが賛成かどうかをな」
「なにいってるのよ、ジョージ」その時まで持って来たバスケットを開けて、なかから冷たい豚肉の酢漬や、お茶や砂糖や黒パンなどを取出していたバグネット夫人が叫びました。「わかりきってるでしょう、賛成なんかできないって! わかりきっているじゃないの。あんたの言うのを聞いてたら、誰だって頭に来るわよ。こんなふうに放免されるのはいやだ、あんなふうに放免されるのはいやだ――あれこれ|選《え》り好みなんかしようっていうつもり? ばかいってるわ、ジョージったら!」
「奥さん、自分は弱っているところです。あんまりがみがみいわないで下さい」騎兵軍曹はおどけた口調でいいました。
「弱っているですって! 弱っていても、ちっともそれらしくものわかりのほうはよくならないのね。あんたが今ここでしゃべってたのを聞いてた時ほど、恥ずかしい思いをしたこと今までなかったわ。弁護士ですって? こちらのお方が弁護士を推薦して下さろうっておっしゃるのなら、多すぎて迷惑にならない限り、なん人だって結構じゃないの?」
「こりゃものわかりのいい人だ」ジャーンディスさんはおっしゃると、「バグネットの奥さん、どうかジョージ君を説得してくださいな」
「この人を説得ですって? とても駄目ですわ! 皆さん方はこの人をご存知ないのですわ。ご覧なさいまし」バグネット夫人はバスケットをそこへ置いて、手袋をはめていない日に焼けた両手でジョージさんを指差すと、「この人を! こんな強情で、我儘で、つむじ曲りのわからず屋ったらありませんわ。誰だって癇癪が起きますわよ! この人がいったんこうと思い込んでしまったら、それを変えるのは、一人で四十八ポンド砲を持ち上げて肩でかつぐより大変ですわ。わたしはこの人をちゃんと知っているんです。そうでしょう、ジョージ? 今まであんなに長く附き合っていた後で、全然別な人間に豹変なんかしないでしょうね?」
奥さんのざっくばらんな憤激はその夫にいいお手本を示したわけで、旦那さんは軍曹に向っていくども頭を振り、無言で降服を呼びかけるのでした。その間に奥さんは私の方を向きました。その目くばせから、私に何かやって欲しいといっているらしいのはわかるのですが、何をやれというのか私にはわかりませんでした。
「でも、あんたに話したって駄目だってことは、もう何年も前からわかってるのよ」奥さんは豚肉にたかったほこりを吹き払い、またわたしの方をちらと眺めるのです。「こちらの皆さんだって、わたしみたいにあんたの|性根《しようね》がおわかりになれば、きっと同じように、口をきいても無駄だとお考えになるわよ。いくら|意固地《いこじ》なあんたでも、ちょっと一口くらいやってもいいと思うんだったら、さあどうぞ」
「有難くご馳走になりますよ」軍曹が答えました。
「おや、そう? へええ!」奥さんは相変らず冗談に愚痴を続けて、「こりゃ驚きだわ、まったく。あんた自分流に飢え死にしようっていうんじゃなかったの? そのほうがあんたらしいと思ってね。おそらく、この次はそうしようっていうんでしょう」
ここで奥さんはまた私の方をちらと見ました。やっと私は、奥さんが扉の方と私の方をかわるがわる見るところから、私たちにこの場をはずして欲しい、後から行くから監獄の外で待っていて欲しい、というつもりなのに気がつきました。そこで、私は同じ合図でジャーンディスさんとウッドコートさんにその旨を伝えると、立ち上って申しました。
「それではジョージさん、どうか考え直してくださいましね。また参りますから、その時はもっと聞きわけよくなってくださいな」
「お嬢さん、これ以上なんともお礼の申しようもないくらいです」
「では、私どもの気持をもっとお受けいただきたいものですわ。それから、この謎の事件を解決して真犯人を見つけ出すというのは、あなたお一人だけではなくて、別な人たちにとっても、きわめて重大な意味を持っているかもしれないのですから、そのことをどうぞお忘れなく」
私は扉の方に向いながら、ジョージさんの方をまともに見ずにこう申したのですが、軍曹はうやうやしく聞きながらも、どうやら馬耳東風の様子で(これは後になって皆さんがおっしゃったことなのですが)、私の背丈や身体つきにすっかり気を取られて、じっと見つめているのでした。そしてこういいました。
「どうも不思議だ。でも、あの時はそんなふうに思ったのだけど」
ジャーンディスさんが、それはなんの話ですかとお尋ねになると、軍曹は答えて、
「それはです。自分が運悪くも殺人のあった晩に、被害者の家の階段のところまで出かけました時、サマソンさんそっくりの姿の人影が、暗闇の中で自分とすれ違いました。あやうく話しかけようと思ったくらいでありました」
一瞬私は、その前にも後にも経験したことのないような、ぞっとした気持に襲われました――これからも、そんな経験はご免です。
「自分が階段を上って行くところで、その人は下りて来るところでした。大きな黒いマントを着ていて、月に照らされた窓のあたりを通りました時、そのマントに幅広い縁飾りがついているのに気がつきました。でも、これは今の事件となんの関係もありません。サマソンさんがその人にそっくりだったので、自分がふと思い出しただけであります」
これを聞いたのちに私の胸の中に湧き上って来たいろいろな感情を、ひとつひとつ区別してはっきり説明することは、とても私には出来ません。ただ、この事件の解明、捜査に協力しなくてはいけないという初めからの決心が(理由を自分に問いかける勇気はありませんでしたが)ますます強まったということ、それから、自分はなにもこわがる必要など全然ないのに、と腹立たしい気持が高まった、ということだけを申しておきましょう。
私たち三人が監獄から出て、門から少し離れた人目につかぬあたりを、行きつ戻りつしておりますと、さして待つこともなく、バグネット夫妻が出て来て、すぐ私たちのところにやって来ました。
奥さんの両の目は涙にうるんでいて、顔は真赤で落着かない表情を浮かべていました。やって来るが早いか、いうことには、
「わたしの思っていることを、ジョージに気づかれたくなかったんですよ、お嬢さん。でも、あの人はかわいそうに、ひどく参っていますね」
「思いやりと、分別のある助けの手をさし伸べれば、大丈夫立ち直るでしょう」ジャーンディスさんがいわれました。
「あなたさまのようなご立派な方が、そうおっしゃるなら間違いありますまいが」と奥さんは灰色の外套の裾で、せわしく目を拭いながら、「でも、わたしはあの人が心配なんです。あの人ったら、ひどく向う見ずで、心にもないことをぽんぽんいうんですから。陪審員の人たちは、リグナムやわたしみたいに、あの人のことをわかってくれますまいし、それにあの人にとって不利な事態がたくさん起りましたし、大勢の人があの人に不利な証言をしに法廷に出頭するでしょうし、バケットときたらそれは喰えない男ですからね」
「中古のチェロなんていうんだからな。自分も子供の時にゃ笛を吹きました、なんてね」重々しい口調で、バグネットさんがいい添えるのでした。
「さて、お嬢さん、お話があります」と、バグネットさんの奥さんがいいました。「わたしがお嬢さんと申す時には、皆さんごいっしょのつもりなのですよ! ちょっと壁の隅までおいで願います、お話がありますから!」
バグネット夫人はそそくさと私たちを、もっと人目につかぬ場所に連れて行きましたが、初めのうちは息が切れて口もきけないほどでしたので、旦那さんが、「さあ、お前! 話しなさい!」とうながしました。
「では、お嬢さん」もっと楽に息がつけるようにと、帽子の紐をほどきながら、奥さんは言葉を続けました。「この点でジョージの決心を動かすのは、ドーヴァーの要塞を動かすくらいむずかしいことですから、あの人を動かそうと思ったら、なにか新しい手を打たなくては駄目です。わたしは、その手を知っているのです!」
「あなたは素晴らしい人だ」ジャーンディスさんがおっしゃいました。「先を聞かせてください!」
「さて、お嬢さん」気が|急《せ》くのと興奮のあまり、奥さんはのべつ幕なしに両手を打ち合わせながら、「あの人が親類縁者は一人もいないなんていったのはでたらめです。向うでは知らないのですが、あの人のほうでは知っています。あの人は何かの暇々に、他人にはいわないことまでわたしに話してくれたことがありました。いつかうちのウーリッジに、自分のお母さんの白髪や顔の|皺《しわ》が増えるのどうのと話していたのは嘘じゃありません。五十ポンド賭けてもいいですわ。その日あの人はお母さんの姿を見たのですよ。お母さんは生きています。すぐここへ連れて来なくてはいけません!」
いうが早いか奥さんは、針を何本か口にふくむと、またたく間に見事な手さばきで、スカートの裾を灰色の外套の裾よりも少し上までたくし上げました。
「リグナム、あなた、子供たちの面倒を頼みますよ。わたしに傘をちょうだい! これから、お母さんを連れにリンカンシア州へ行って来ますから」
「だって、奥さん」おじさまが叫ぶと、手をポケットへお入れになりました。「どうやって出かけるんです? お金はいくら持っているのですか?」
バグネットさんの奥さんはまたスカートに手を突込むと、革の財布を取出し、中にある数シリングのお金を勘定すると、すっかり満足して財布の口を閉めました。
「お嬢さん、ご心配なく。わたしは軍人の女房ですから、自分流に旅行するのは慣れております。じゃあ、リグナム」というと、接吻をしながら、「一つはあなたに、三つは子供たちに。さあ、それではジョージのお母さんを連れに、リンカンシア州へ出かけますよ!」
私たち三人が驚きのあまりぽかんとして、お互いに顔を見合わせているうちに、奥さんは本当に出かけていってしまいました。灰色の外套を着て大股に歩き去ると、角を曲って姿が見えなくなりました。
「バグネットさん」ジャーンディスさんがおっしゃいました。「あんなぐあいに奥さんを行かせて、いいんですか?」
「しようがないのであります」旦那さんが答えました。「前にも一度こんなことがありました。世界の端から家へ帰っていったのです。同じような灰色の外套を着て、それに同じ傘を持ってであります。女房にやってちょうだいと頼まれましたら、何でもきかないわけにはいきません。女房はいったんやるといい出しましたら、必ずやるのであります!」
「じゃあ見かけ通りの正直で立派な方だ」おじさまがお答えになりました。「もうこれ以上いうことはない」
「女房は天下一品連隊の軍旗護衛曹長であります」バグネットさんも帰りかけながら、後を振り向いていいました。「あちこちにそうざら[#「ざら」に傍点]にいる女房ではございません。でも、自分はあれに向っては、そうはいわんのであります。規律を維持せねばなりませんから」
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第五十三章 捜査の|道程《みちのり》
バケット警部と彼のずんぐりした人差指は、このところ相談を交わすのに忙しい。彼が焦眉の急の関心事に心を用いねばならぬ時には、そのずんぐりした人差指は、お使いの魔物(1)なみに昇格するらしい。その指を耳許へ持ってゆけば、情報を小声で教えてくれる。口許へ持ってゆくと、口をつつしめよと忠告してくれる。その指で鼻をこすると、鼻がますますきくようになる。真犯人の前でその指を振ると、呪術の力にかかったように相手はおそれいる。刑事警察大本山の予言僧たちが口を揃えていうところによれば、バケット警部と例の指が相談に忙しい時には、恐るべき因果応報の終局が迫っているという。
そうでない時には、人間性の研究におとなしく没頭し、普段は寛容と悟りの精神を持ち、人間の愚かしい行為をきつく責めたてるようなことをせぬバケット警部は、多くの家々の内側まで知りつくし、無数の街路を歩き廻る。|外目《そとめ》に見たところでは、目的もなくぶらぶらしているみたいだ。同じ警官仲間に対しては実にきさく[#「きさく」に傍点]で、たいていの連中と一杯やるのを辞さない気質。鷹揚な金使い、人好きのする態度、邪気のない話しっぷり――だが、この平穏で波ひとつない彼の生活の流れの下には、例の人差指が潜んでいる。
バケット警部は時にも場所にもとらわれない。うわの空の人間みたいに、今日ここにいたかと思うと、明日はもういない――だが、その次の日にまたここに立ち戻る、というところが、なみ[#「なみ」に傍点]の人間と違うところなのだ。今夜彼が、レスタ・デッドロック卿のロンドンのお屋敷の門についている、鉄製の消灯器をなにげなしにのぞいているかと思うと、明日の朝はチェスニー・ウォールドのお屋敷に通ずる路を歩いている。そこはかつて死んでから幽霊になって、百ギニーで浮かばれたというあの老人が歩いた路だ。レスタ卿の引き出しから、机から、ポケットから、その他ありとあらゆる持物をバケット警部は調べあげる。数時間もすれば、警部は、故タルキングホーン氏宅の天井に描かれたローマ人と二人きりで、互いに人差指の比べっこをすることだろう。
こうした職責と家庭のだんらんとは、どだい両立し得ないものかもしれないが、ともかくバケット警部がこのところ家に帰らないのは事実だ。彼はバケット夫人――彼女は生まれながら探偵になる才能に恵まれ、専門的訓練をほどこしたら、どえらい功績を挙げたことだろうが、今のところは頭のきれるアマチュアの段階で満足しているのだ――とさし向いで過すのは大いに好むところだったが、そのやさしき妻とも顔を合わしていない。そこでバケット夫人は家の下宿人(幸いにも愛想のよい婦人で、大いに彼女の関心をひいた人物である)を相手に、世間話などをするのである。
葬儀の日、リンカン法曹学院広場に集った群衆の数はおびただしいものである。レスタ・デッドロック卿もじきじきに参列なされる。正確にいうと、人間の葬送者というと他には三人しかいない。すなわちドゥードル卿、ウィリアム・バフィー氏、それによいよい[#「よいよい」に傍点]の従兄(これはまあ|足《た》し前として加えたようなもの)だけである。しかしながら、おくやみの馬車の列はあとを絶たず、貴族たちは、このあたりにかつて見られぬくらいの悲嘆の色を四輪の馬車に乗せ、その扉にいろどられた紋章は数知れず、まるで紋章院がその父親と母親をいちどきになくしたみたい。フードル公爵は、すべてこれ最新改良の銀の軸箱と、特別製の軸受を備えた、見事な|埃《ほこり》と|塵《ちり》の塊みたいな馬車をくり出し、その後には喪に服した六尺豊かな三匹の虫けら(2)が、悲しみにくれてしがみついている。ロンドン中の高級|馭者《ぎよしや》が全部喪服を着てしまったようで、もしいつも古色蒼然たる服を着ていた故人が、いささかなりとも馬に趣味を持っていたとしたら、(そんなことはとてもあり得ないことだったが)この日はたいそう目を楽しませることが出来たことだろう。
葬儀屋や従僕の群や、悲嘆にうちくれたなん本もの脚に囲まれて、バケット警部はおくやみの馬車の一台の中に、ひっそりと身を隠して乗込み、格子窓の日除け越しにゆっくりと群衆を見渡している。群衆だけではない――あらゆるものに目のきく彼は、ある時は馬車のこちら側の窓から、またある時はあちら側の窓から、ある時は沿道の家々の窓を見上げ、ある時は人々の頭越しに視線を投げ、なにひとつ見逃すまいとばかりに目を光らせているのである。
「やあ、いたね、相棒さん!」彼の口ききで故人の家の玄関口に頑張っている、バケット夫人の姿を見ながら、警部はひとりごとを言う。「やあ、いたね、いたね。たいそうお元気そうですな、奥さん!」
葬列はまだ動き出さず、本日の儀式の立役者が担ぎ出されるのを待っているところ。バケット警部は一番先頭の紋章つきの馬車に乗込み、ずんぐりした二本の人差指で格子窓をほんのわずか開けて、外を眺めているのである。
バケット警部の夫としての妻への思いやりが、いかに深いかを如実に物語るごとく、彼はなおも小声でひとりごとを繰返す。「やあ、いたね、相棒さん! 下宿人もごいっしょかい? よく見ているぜ、奥さん。元気らしいですね!」
それっきり彼はなにもいわずに、あいも変らず目を光らせながら坐っていると、やがてやんごとなき方々の秘密を詰め込んだ袋が担ぎ出されて来て――あの秘密は皆、今やどうなってしまったのか? まだ彼が握っているのか? 彼とともにぽっくりあの世へ旅立ってしまったのか?――葬列が動き出し、奥さんの姿が見えなくなる。すると、彼はゆったりとくつろいで、馬車の附属品などを眺め廻す。いつかこうした知識が役に立つこともあろうかと思って。
真黒な馬車に閉じ込められたタルキングホーン氏と、自分の馬車に閉じ込められているバケット警部との間の相違の、なんと著しいことよ! あの小さな傷から永遠の眠りにおちいり、街路の石畳の上を重々しく進んでゆく一方の、前途に待ち受ける何万里の|道程《みちのり》と――それから頭の毛の一本一本までを目にして、監視を続けている他方が、これから真相にたどりつくまでのごくわずかな道程と! だが、どちらにとってもそれは同じことだ。どちらもそんなことを思いわずらってはいないのだから。
バケット警部は、彼特有のゆったりした態度で車に乗り続けているが、やがて彼の目指す所にやって来ると、馬車から下り立って、レスタ・デッドロック卿のお屋敷に進み寄る。今のところ彼にとっては、この屋敷が自宅であって、四六時中好きな時に出入りし、いつでも丁重に迎えられ、屋敷中を知りつくし、得体の知れぬ偉そうな態度でわがもの顔に歩き廻るのだ。
バケット警部にはノックも、呼鈴を鳴らすことも不要。鍵を貰ってあるから、自由に出入り出来る。玄関の広間を通り抜けようとすると、従僕が「バケットさま、また一通お手紙が郵便で参っております」といって、彼に手渡す。
「おや、またか」と、バケット警部。
もし従僕が、かりそめにもバケット警部の手紙について、いささかの好奇心にとりつかれていたとしても、用心深い警部はその好奇心を満足させてやるような男ではない。警部は相手の顔をじっと見つめる。まるでそれが何マイルも遠くに見えていて、向うからもこちらをのんびり眺めているかのように。
「君、ひょっとして|嗅《か》ぎたばこの箱を持っていないかね?」バケット警部がいう。
残念ながら手前は嗅ぎたばこを愛用しておりませんので。
「どこかからちょっとばかり持って来てもらえまいか? いや、有難う。どんなのでもいいんだ。品種をとやかくはいわないよ。有難う!」
使用人の誰かからわざわざ借りて来た入れ物から、嗅ぎたばこをゆっくりつまみ上げると、まずはじめに一方の鼻の穴、次にもう一方の鼻の穴で、じっくり吟味する様子を見せてから、うん、これは結構な品だ、と重々しく仰せられると、手紙を手に歩き去る。
さて、バケット警部は、いかにも毎日手紙を二、三十通は受取りつけているような顔をして、二階の大きな書斎の中にある小さな読書室に入ってゆくのだけれども、実は彼は一生を通じてそう文通をする男ではない。ペンを握る手つきときたら、いざという時すぐに手にすることが出来るよう、いつも携帯している便利なポケット警棒を握る手つきみたい。それに他人に向っても、おれに手紙をよこすのは扱いにくい仕事をひどくぶざま[#「ぶざま」に傍点]にずけずけやることになるのだから、といってあまりすすめない。おまけに、手紙が証拠として持出されたのがもとで、身を滅ぼした例をいくたびも見ているものだから、そんなものを書くのはうかつな|素人《しろうと》のやることだと思っているのである。というわけで、彼は手紙を送ることも、受取ることもほとんど縁のない男なのだが、この二十四時間というもの、六通はたっぷり受取っている。
「これも同じ筆蹟で、同じことしか書いてないわい」バケット警部は手にした手紙をテーブルの上にひろげながらいう。
どんなことが書いてあるのだろう?
彼はドアに鍵をかけ、自分の手帳(多くの人間の運命を握っている手帳だ)をひろげると、もう一通の手紙を傍に並べてみる。どちらの手紙にも乱暴な字でこう書いてある。「デッドロック夫人[#「デッドロック夫人」はゴシック体]」
「ふうん、そうかね」バケット警部がひとりごとをいう。「だけど、わざわざ匿名の手紙なんかで教えてもらわなくても、こっちは懸賞金はいただけたんだぜ」
二通の手紙を運命の手帳の中にしまい込み、再びそれをひもでしばってからドアの鍵を開けると、ちょうど折よく、立派なお盆にのって、シェリー酒のびんまでついた晩飯が運び込まれるところだ。警部は遠慮なく話の出来る仲間に向ってよくいうのだが、褐色をした東インドの上等のシェリー酒(3)がなによりの大好物なのである。というわけで、彼は舌をぴちゃぴちゃとうまそうに鳴らして、グラスになん杯もお代りをしてから、ご馳走を平らげにかかった時、ふとある考えが心に浮んで来る。
バケット警部は隣りの部屋に通ずるドアをそっと開けると、中を覗き込む。書斎にはひと気もなく、炉の火が細々と燃えている。警部の目が部屋中をさっとひとわたり見渡すと、配達された手紙をいつも載せておくテーブルの上でとまる。レスタ卿宛の手紙がなん通かそこに置いてある。警部は近寄ると表書きを調べる。「違う。これも筆蹟が違う。おれだけに宛てられた手紙だったのだな。では、明日レスタ・デッドロック准男爵閣下にこのことを話そう」
そういうと彼は部屋にとって返し、うまそうに食事を済ませる。それからちょっとひと眠りしたところで、応接間に呼ばれる。レスタ卿はこのところ数日、毎晩警部を呼んで何か報告はないかと尋ねるのである。例のよいよい[#「よいよい」に傍点]の従兄(葬式ですっかりくたくたになっている)と、ヴォラムニアがおそばに控えている。
バケット警部はこの三人にそれぞれはっきり違ったお辞儀をする。レスタ卿にはうやうやしいお辞儀、ヴォラムニアにはご婦人向きのお辞儀、よいよい[#「よいよい」に傍点]の従兄にはちょっと会釈のような一礼(まるで「あんたは町方ではたいしたハイカラですな。手前をご存知でしょうね。こちらでも存じ上げておりますぜ」と呼びかけているみたい)。このようにいかにも如才なく、三人別々にお辞儀を配給すると、警部は両手をこすり合わせる。
「警部、なにか新しい情報があるかね?」レスタ卿がお尋ねになる。「特に私だけと内々に話したいかね?」
「いえ、いえ――今晩は結構です。レスタ・デッドロック准男爵閣下」
「こんなことを申すのも、このように侵された法の尊厳の雪辱のためなら、私の時間はいくらでも、自由に使ってもらいたいからだ」
バケット警部は咳ばらいをすると、口紅を塗り頸飾りをつけたヴォラムニアの方をちらと眺める。まるでうやうやしい口調で、「本当にあなたはかわいいねえ。あなたの歳でもっとみっともない顔になったかたがたを、なん百人と見たことがあるからねえ」とでもいっているかのように。
うるわしのヴォラムニアは、自分の魅力が警部の鉄の心をも和らげる力のあることに、まんざら気付かぬでもないように、三角帽子の形に折った手紙を書く手をちょっと休めて、もの思わしげに真珠の頸飾りを手でまさぐる。警部は心の中でその頸飾りの値ぶみをしながら、きっとヴォラムニアは詩を書いているのだな、と考える。
「この残忍なる事件解決のために」レスタ卿はつづける。「君の全知全力を傾けてもらいたい。このことをもし私がこれまで特に強く強調して命じてなかったとしたなら、この機会に私はそれをお願いしておきたい。費用などは問題にするでない。私が全部負担する。君の目的達成のために必要な費用なら、私は負担するのに一刻たりとも躊躇するものではない」
この気前のよさに、バケット警部はもう一度お辞儀をくり返す。
「容易に察しられることであろうが、この鬼畜のごとき事件以来、私は気持がまだもとの調子に戻っておらぬ。おそらく今後も戻ることがあるまい。だが、あの忠実勤勉で献身的な顧問弁護士の遺骸を、ついさきほど墓に葬るという辛い思いをしたばかりなので、今晩は特に怒りに燃えているのだ」
レスタ卿の声はふるえ、白髪は頭の上でゆれている。目には涙さえあふれ、卿の天性もっとも善良、誠実な心がいまや目覚めているところなのだ。
「私は断言する。神かけて断言するが、この犯罪の下手人が発見され、正義の手によって罰せられるまでは、私自身の名前に泥が塗られたような気さえするのだ。故人はその生涯の大半を私のために捧げ、その生涯の最後までを私のために捧げ、私と寝食をともにし、私の屋敷を出てから一時間とたたぬうちに、その自宅で倒れたのだ。故人は私の屋敷から追跡され、私の屋敷で監視され、私の屋敷とかかわりを持ったが故に――そのために彼自身の人目にたたぬ振舞いが示す以上に巨大な富を持ち、それ以上に貫禄ある人物と思われたが故に、目星をつけられたのだ、といわざるを得ぬ。もし私が私の財力、権力、地位をもってしても、かかる犯罪の下手人を明るみに出すことが出来ないとしたならば、その時には、私が故人の冥福を祈る真心に欠け、私に対して常に忠誠であった者に対して、私が忠誠心に欠けていると思われてもしかたないのだ」
卿は熱と感情をこめてこう語ると、まるで議会で演説をしているみたいに部屋中を見廻す。一方バケット警部は、真剣な目つきでじっと卿を見つめているが、そこには――こんなことは考えるだに無礼に当るだろうが――なにか一抹のあわれみがあるかのようである。
「今日の葬儀は、わが亡き友[#「友」に傍点]が」と、卿はこの「友」という言葉に特別に力をこめる。なんとなれば死ねば万人の身分の違いはなくなり、すべて平等になるからである。「わが国の貴顕高紳の尊敬をいかに一身に集めていたかを如実に示すものであったが、今日のこの葬儀のために、私がこの極悪非道この上もなき犯罪からこうむったショックが、また激化したのだ。その下手人がたとえ私の実の兄弟であっても、決して容赦はせぬ」
バケット警部はたいそう真剣な顔をしている。ヴォラムニアは、故人はこの上もなく信頼のおける、やさしい人でした、と感慨を述べる。
「本当にお心落しでございましょう」いたわるように警部が答えて、「無理もございません。故人は人の心落しになるように運命づけられていたのですから」
ヴォラムニアはそれに答えて、私の繊細な心は今後一生を通じて悲しみにくれることでしょう、私の神経は永久に|千々《ちぢ》に乱れ、二度と再び笑おうと思ってはおりません、といいながら、自らの悲しみにくれた気持を物語るがごとくに、バースで会ったかのおそれ多き老将軍のために、三角帽子を折るのである。
「かよわいご婦人にはショックでございましょう」バケット警部は同情するようにいう。「でも、やがてなおります」
ヴォラムニアはなににもまして事件の成り行きを知りたいという。あの恐るべき軍人に有罪判決――というのかよく知りませんが――を下すことになるのでしょうか? 共犯者――とか何とか法律でいうところのものがいたのでしょうか? といったような、およそ要領を得ない質問をどっさり持ち出す。
「それはですな」バケット警部は例の人差指でなだめるような動作をするのだが、彼は生まれながらに婦人にはいんぎん丁重であるために、もう少しであやうく、なあ、嬢さんよ、といいそうになった。「現在の段階でそのご質問に答えるのは、むずかしいのでございます。現在の段階では、です。レスタ・デッドロック准男爵閣下」ここで警部は閣下の貫禄に敬意を表して呼びかける。「私は日夜この事件にかかりきりでありまして、シェリー酒を一、二杯いただきませんと、このように気持を張りつめてはいられないところであります。答えようと思えば、ご質問に答えることも出来るのでありますが、職務上答えられないのであります。もうじき閣下にこれまでの捜査の結果をご報告出来ると存じます。きっと」ここで警部はまた真剣な顔付きに戻り、「ご満足のいける結果をご報告出来ると存じます」
よたよたの従兄はだれでもいいから縛り首にしてくれりゃそいでいいぞ、とのたもう。だれかに年収千ポンドの官職くれてやるよりゃ――早いとこ縛り首にしちまったほうが――ずうっと面白いのう。だれも縛り首にしないよりゃ――間違った奴を縛り首にしちまった方が、確かにずっといいと思うがのう。
「閣下はわけ[#「わけ」に傍点]知りでいらっしゃる、まったく」バケット警部は敬意を示すつもりでウインクすると、例の指を曲げてみせる。「そして私がこちらのご婦人にただいま申し上げましたことを、裏書きしてくださるわけですな。閣下は[#「閣下は」に傍点]私が聞込みにもとづきまして仕事にとりかかりました話は、聞きたくはないとおっしゃいます。ご婦人ではとうてい達し得ないようなご心境に閣下はお達しになっていられる。特にこのようなやんごとなきご身分のご婦人では」ここでまた警部は、なあ、嬢さんよ、といいそうになったのを、きわどいところで口を押えたので真赤になる。
「ヴォラムニア、この警官は職務に忠実なのだ。この男のいう通りだ」
「レスタ・デッドロック准男爵閣下、ご賛意をいただきまして、まことに光栄のいたりでございます」と、バケット警部は小声でつぶやく。
「じっさい、警官に向ってお前のような質問を発するのは、よい模範を示すこととはいえない。この男は自分の職責をいちばんよく心得ており、自分の職責にもとづいて行動しておるのだ。われわれ立法に力をかす者が、その法を執行する者に干渉や妨害を加えるのはよくない。かりそめにも」と、レスタ卿がいささか厳しい口調でいうのは、ヴォラムニアが卿の言葉の終らぬうちに口をはさもうとしたからである。「われわれがそのようなことをしたならば、侵された法の尊厳の雪辱を、だれがやったらよいのだ?」
ヴォラムニアは、私は(一般の若い、はしたない女性と同じく)好奇心にかられていただけではないので、皆が悲しんでいる故人をいたむ気持がせつせつとしているからなのです、とおとなしく弁解する。
「わかった、ヴォラムニア」レスタ卿が答える。「それなら慎重に|如《し》くはない」
言葉がとぎれた機会を捕えて、バケット警部が口をはさむ。
「レスタ・デッドロック准男爵閣下のお許しを得まして、またここだけのこととしまして、こちらのご婦人に申し上げますと、私はこの事件はほぼ解決に近いと見ております。明快な事件――すっきりした事件でありまして、解決に要するわずかな事実は、数時間のうちに私が発見出来ると存じております」
「それを聞いてたいへん嬉しく思う」と、レスタ卿がいう。「君の大手柄だな」
「レスタ・デッドロック准男爵閣下」ひどく真剣な口調でバケット警部が答える。「私の大手柄になりますと同時に、皆さまにご満足のいける結果となりますよう、私は望んでおります。私が明快な事件と申しますのは、お嬢さま」ここでレスタ卿の方をちらと真剣な目つきで見やりながら、「私の見方からのことでございます。別な見方からしますれば、このような事件は常に多かれ少なかれ不快な面を持っておりましょう。さまざまな家族の中には、たいそう奇妙な事が起って、私どもの目につくこともございます。よく申す異常事でございます」
ヴォラムニアは正直に金切声を張り上げて、まあ、そうかしら、という。
「さようでございます。身分のあるご名家、やんごとなきご名家、立派なお家柄でもそうであります」また真剣な目つきで傍らのレスタ卿をじろりと見やって、「以前私はやんごとなきご名家に雇われる光栄に浴していたこともございます。そして、思いもかけぬ――さよう、閣下でも[#「閣下でも」に傍点]思いもかけぬとまで申しましょう」と、これはよいよい[#「よいよい」に傍点]の従兄に向って、「奇怪なことが起るのでございます」
これまで自分の頭の上にソファの枕を投げつけて、退屈をぼやいていた従兄は、あくびまじりに「そじゃろな」――これは「そうじゃろうな」の短縮形である。
レスタ卿はもうこの辺で警官を退出させるしお[#「しお」に傍点]時だと思い、おもおもしく口をはさむ。「よろしい、ご苦労であった」それから、会談はこれでおしまいである、そしてまた、もしやんごとなき名家が下賤な習慣におちいったとしても、それは彼らが責任をとるべきことだ、というこの二つの意味をこめて手を振りながら、「警部、わしに会いたい時には、いつでも遠慮なくいってくれ給え」と、ご親切にも仰せられる。
バケット警部が(相変らず真剣な態度で)、では、お言葉に甘えまして、明朝はご都合いかがでございましょうか、と尋ねると、レスタ卿は「いつでもよろしい」と答える。警部はまた三人にそれぞれお辞儀をすると、退出しかけたが、その時忘れていたことを思い出し、用心深く戻って来ると小声で尋ねる。
「ところで、ちょっと伺いますが、階段のところの懸賞金のビラは、どなたがお貼りになりましたのでしょうか?」
「この私が貼るよう命じたのだ」レスタ卿が答える。
「レスタ・デッドロック准男爵閣下、その理由を伺いましては失礼でございましょうか?」
「いっこうにかまわん。屋敷中でいちばん目につく場所として選んだのだ。家中の者どもの目に大いについてもらいたいと思っておるのだ。この犯罪の兇悪なこと、下手人を必ず罰しようとする私の決意、逃れようとしても無駄であることを、肝に銘じてもらいたいのだ。だが警部、君の考えでいかんというのなら、もちろん――」
警部は、いけないとは申しません、せっかくお貼りになったビラですから、はがさないほうがよろしいでしょう、というと、もう一度三人にそれぞれお辞儀をしてから引きさがる。彼がドアを閉めるやいなや、ヴォラムニアが金切声をあげてから、あのすてきで恐ろしい男は、本当に青ひげの秘密の部屋みたいですこと、としゃべり出す。
つき合いがよくて、あらゆる身分の人間とうま[#「うま」に傍点]が合うバケット警部は、やがて玄関の広間の煖炉――早くも冬の夜のとばりが落ちかかるころ、あかあかと暖かく燃えさかる煖炉の前に立ちはだかって、従僕相手に感嘆の言葉を発している。「君はおそらく六フィート二インチはあるだろうね」
「三インチでさあ」
「そんなにあるかね? でも、君はわりと横幅があるから、そう見えないのだ。君は脚もがっしりしているし、前に彫刻のモデルになったことがあるかね?」バケット警部はまるで芸術家もどきに頭をかしげ、目をこらしながら尋ねる。
そんな経験はありません、と従僕が答える。
「それじゃ、ぜひなるべきだね。私の友達で、いつかは王立美術院彫刻部会員として名を聞かれるはずの男がいるが、君のような均斉のとれた体格をスケッチして、大理石に刻めたら、きっと気前よくうんとはずむだろうよ。奥方さまはお出かけだね?」
「夕食会に出かけられました」
「毎日よくお出かけになるのだろう?」
「さようで」
「当然なことだとも! 奥方さまみたいなご立派で、お美しくて、上品で、みやびやかなお方は、食卓の新鮮なレモンみたいなものだから、どこへ出かけられてもその場が引き立つというものだ。君のお父さんも君と同じ仕事だったのかね?」
答は、いいえ。
「私のおやじはそうだったのさ。はじめは少年給仕、それから従僕、それから召使頭、それから執事、それから宿屋の亭主だ。生前は皆から尊敬され、惜しまれつつ死んだが、臨終の時に、ご奉公こそわが生涯の最大の光栄だと思うといってたが、まさにその通りだったな。私の弟も、義理の弟もご奉公をしている。奥方さまはご機嫌およろしいかな?」
「たいへんおよろしゅうございます」
「ああ、そうかね! 少しわがままではないかな? 少し気まぐれで? なるほどね! あのようなお美しい方なら無理もないことだね。そのほうがかえっていいようなものさねえ」
従僕はきっちりした派手な桃色の半ズボンのポケットに手をつっ込み、絹のタイツをはいたかっこういい脚をいかにもいんぎん丁重に伸ばして、その通りでございます、と答える。と、その時、車のきしる音、呼鈴を乱暴に鳴らす音が聞えて来る。「ほい、お噂をすれば何とやらだ」と、バケット警部がいう。
扉がばたんと開かれ、奥方が広間を通り過ぎる。まだ顔の色は蒼ざめ、略式の喪服を身にまとい、両の腕に美しい腕輪をはめている。その腕輪の美しさにか、奥方の腕の美しさにか、警部はことさらうっとりと目を見はる。喰い入るような目つきで眺めると、ポケットの中でなにか――おそらく半ペニー銅貨だろう――をじゃらじゃらと鳴らす。
遠くにいる警部の姿に気づくと、奥方は自分につき添っている別の従僕に目顔で尋ねる。
「奥方さま、バケット警部でございます」
警部は一歩進み出ると、例のお使いの魔物である人差指で口のあたりをなでる。
「レスタさまにお目通りを待っているのですか?」
「いいえ、奥方さま、もうお目通りをすませました」
「私になにか話があるのですか?」
「いいえ、奥方さま、今のところはございません」
「なにか新しい発見でもありましたか?」
「少々ございました」
この会話はほんの通りすがりに交されるのである。奥方はろくに立ちどまりもしないで、ひとりですうっと二階へ上ってゆく。警部は階段の下まで歩み寄ると、あの老人がついには墓場へ向って下りていった階段を、奥方が上ってゆく姿をじっと眺める。物騒なかっこうをして壁の上に黒々と兇器の影を投げかけている彫像のかたわらを通りすぎ、懸賞金のビラを、通りしなにちらりと眺め、奥方は姿を消してしまう。
「お美しい方だ、本当に」警部は従僕のところに戻って来ると、こういう。「でも、あまりお丈夫そうでないね」
実際、あまりお丈夫でないのです、ひどく頭痛に悩んでいらっしゃるので、と従僕が教えてやる。
そうかね、そりゃお気の毒な! それには散歩がいいんだがねえ、と警部。
ええ、奥方さまはつとめて散歩をなさっておられますよ。頭痛がひどい時には二時間もご散歩を、それも夜中になさることだってあるんです。
「ちょっと話の腰を折って悪いけど、君、本当に六フィート三インチあるのか?」と、警部が尋ねる。
そりゃもう、間違いありません。
「とても均斉がとれたからだつきなもので、私にはそうとは思えなかった。でも、近衛兵だって立派な体格だと一般に思われているけど、からだつきはみんなまちまちだからな――夜中に散歩なさるって? でも、月夜の晩だろう?」
ええ、そうです。月夜の晩です! もちろんでさ。そうとも、もちろんでさ! 双方ともよく話が合い、よく話がはずむ。
「君は散歩の習慣はあるまいね?」警部が尋ねる。「おそらくそんな暇ないだろう?」
それに、手前は好みません。馬車で運動に出るほうが好きです。
「そうとも、そうとも。そりゃまた話が別だからな。ところで、散歩といやあ」警部は燃える火を気持よさそうに眺め、手をあぶりながら、「例のことがあったその晩も、奥方さまは散歩にお出かけなすったんだったね」
「確かにその通りでしたね! 向うのお庭にお連れ申しました」
「そこで奥方さまを一人残してお別れした。その通りだね。私は君がそうする姿を見たよ」
「手前の方からはあなた[#「あなた」に傍点]のお姿はお見かけしませんでしたが」
「私はちょっと急いでいたものでね。チェルシーに住む伯母を訪ねて行くところだったのさ――元の菓子パン製造所(4)から二軒おいて隣りに住んでいるんだ――九十歳で、独身で、ちょっとした財産持ちなんだ。うん、私はちょうどその時間に通りかかったのさ。ええと、なん時ごろだったかな? 十時じゃなかった」
「九時半です」
「そうだ、そうだ。そうだった。それから、私の思い違いでなかったら、奥方さまは幅広い縁飾りのついた、大きなマントを着ておられたね?」
「もちろん、そうです」
もちろん、そうともさ。私は二階でちょっとしかけた仕事があるんで、いかにゃならんのだよ。たいへん愉快なおしゃべりが出来て、とても楽しかった。お礼のしるしに、さあ君、握手だ。それから、おしまいにお願いだが、君、三十分くらい暇があったら、例の王立美術院の彫刻家のためにさいてもらえないかしら? お互いのためになると思うんだがなあ。
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第五十四章 地雷爆発
ぐっすり眠って元気を取り戻すと、バケット警部は朝早く起き上って、重大なこの日の身支度をする。清潔なシャツに着替えて心身ともに爽快、大切な仕事にそなえて、永年の激務でかなり残り少なくなった髪の毛を、濡れたヘア・ブラシですき上げると、羊肉二切れ、お茶、玉子、トースト、マーマレードなど適量の朝食で、仕事の腹ごしらえをする。この栄養満点の食事を舌づつみを打って平げ、例のお使いの魔物とこまかい相談が終ると、彼は「レスタ・デッドロック准男爵閣下に、ご都合のよろしい時に参上いたしたいと、そうっと申し上げてくれないか」と従僕に耳打ちする。レスタ卿から、急いで身支度をして十分後に書斎で会おう、という有難いご返事をいただいたので、警部は書斎に赴き、炉の前に立って例の指を|顎《あご》にあてたまま、あかあかと燃える石炭をじっと見つめている。
重大な任務を持った人間なら当然のことながら、バケット警部はじっくり考える。落着きはらって、自信と確信にみちあふれている。彼の顔つきを見ていると、まるで有名なカードの勝負師が多額の金――例えばかけ値なしの百ギニー――を賭けてすでに勝利の鍵を掌中に収めてはいるものの、最後の札を出すまでの名人らしい手さばきに、自分の高い名声がかかっている、といった様子である。レスタ卿が現れた時にも、不安や動揺の色はこればかりも見せない。卿がゆっくりと椅子に進み寄るのを、昨日のようにじっと真剣な目つき――こんなこと考えるだに無礼に当るだろうが、一抹のあわれみをこめたように見えた昨日の目つき――で、横目に眺めるのである。
「警部、お待たせしてすまない。だが、私は今朝いつもより起きるのが遅かったのだ。具合がよろしくない。このところ神経の興奮と怒りが度を越しておるものだから、私は、その――痛風の持病があって」レスタ卿はただ気分がすぐれないとだけいおうと思っていたのだし、他人に向ってだったらきっとそういっただろう。だが、バケット警部はもちろん全部見抜いている。「最近のもろもろの出来事のために、それが出て来たんじゃ」
レスタ卿がいかにもつらそうに、やっとの思いで腰を下ろすと、バケット警部は進み寄り、片方の大きな手を読書テーブルの上に置く。
「警部」レスタ卿は目を上げて相手の顔を見る。「君は二人きりで話をしたいというつもりかどうかわからぬが、君のいいようにし給え。もしそのつもりなら、それで結構。そうでなくともよいのなら、デッドロック嬢にも聞かせてやれば――」
「レスタ・デッドロック准男爵閣下」警部は相手を説得するように首を片方にかしげ、人差指をイアリングのように片方の耳たぶに当てながら、「今のところはできるだけ内々にしておきたいと存じます。その理由はすぐにおわかりになると思います。デッドロック嬢のようなやんごとなき身分のご婦人にご同席いただけますのは、今のところ私にとりましてはむろん喜ばしいのでありますが、私は自分の勝手を離れて申しますならば、失礼でございますが、出来るだけ内々でお話しいたしたいのでございます」
「よろしい、わかった」
「というわけでございますので、レスタ・デッドロック准男爵閣下、扉に鍵をかけますことをお許し願いたいと思うのですが」
「よろしい」
警部はそっと手際よく、用心のために膝をついて、いつもの習慣からであるが、外から誰も覗けないように、鍵を鍵穴に差し込む。
「レスタ・デッドロック准男爵閣下、私は昨晩、この事件解決のためにはほんのわずかな事実が足りないだけですと申し上げましたが、私は今や事件を解決いたしました。犯罪の下手人に対する証拠固めも終りました」
「あの軍人か?」
「いいえ、レスタ・デッドロック准男爵閣下、あの軍人ではございません」
レスタ卿はびっくりしたような顔をして尋ねる。「下手人の男はすでに逮捕してあるのか?」
警部はちょっと間をおいてから答える。「下手人は女でございました」
レスタ卿は椅子にどたりともたれかかると、息を切らして叫ぶ。「なんだと!」
「レスタ・デッドロック准男爵閣下」バケット警部は片方の手を読書テーブルの上にひろげ、もう片方の手の人差指を思わせぶりに突き出すと、口を開く。「あらかじめお断り申しておくのが私の職務かと存じますが、これからお話しいたします一連のことから、ひょっとしますと、いや、きっとと申し上げてもよいと思いますが、ショックをお受けになるかと存じます。しかしレスタ・デッドロック准男爵閣下は紳士でいらっしゃいます。私は紳士がなんたるかを、また紳士の気力をよく承知しております。紳士とは、それが避けられない時には、男らしく、落着いてショックに耐え忍べるお方であります。紳士とは、たいていの苦痛にも断固として立ち向う決心の出来る方でございます。ですから、レスタ・デッドロック准男爵閣下、どうか気をしっかりとお持ちください。苦痛にお思いになりましたならば、きっとお|家《いえ》のことをお考えくださいますでしょう。ジュリアス・シーザー――それ以前のことは今は申しますまいが――にいたるまでの、歴代のご先祖さまが、そうした苦痛に耐え忍んだのだ、とお考えくださいますでしょう。立派に耐え忍べたはずのお方がなん十人とあったことを思い起されて、そのご先祖さまの名誉のためにも、家名を汚さぬためにも、立派に耐え忍ぼう、と、そうお考えになって、そう行動なさいますでしょう」
レスタ卿は椅子の背にもたれかかり、|肘掛《ひじかけ》をぐっと掴んだまま、石のように無表情な顔で相手を見つめている。
「さて、レスタ・デッドロック准男爵閣下」バケット警部は続ける。「このようにあらかじめお断り申し上げましたが、この私[#「私」に傍点]が何かを知ったということで、ご心配なさらぬようにお願いいたします。私は身分の高低を問わず、実に多くの方々につきまして、実に多くのことを知っておりますから、たかがひとつの聞き込みくらいは、程度の差こそあれ、わら一本ほどの意味すら持たないのであります。私の意表をつくような駒の動きなどは、ひとつもありません。また、あの手この手と駒が動きましても、なぜ私がそれを知ったかは勝負に関係ないことです。どんな駒の動きであろうとも(それが間違った一手である限りは)、私の経験でたいてい見当がつくことだからです。でありますから、レスタ・デッドロック准男爵閣下、私が閣下の家庭の事情についてなにかを知ったからと申しまして、どうかご心配なさらないようお願いいたします」
「わざわざ前置きをいってくれるのは有難いが」レスタ卿はややあってから、手足も顔色も動かさずにいう。「それは不要のことと思う。むろん君が善意でいってくれたことはよくわかっておる。どうか話を続けてもらいたい。それから」レスタ卿の姿が警部の影にかくれて、ちぢこまってしまうように見える。「もしかまわなかったら、座り給え」
警部は、ちっともかまいません、というと、椅子を持って来る。立ちはだかっていた彼の影が小さくなる。
「さて、レスタ・デッドロック准男爵閣下、これだけ簡単に前置きを済ましましてから、要点を申し上げます。デッドロック家の奥方さまが――」
レスタ卿は座ったまま身じまいを正し、相手をきっとにらみすえる。バケット警部は例の人差指を動かして、相手をなだめすかすように、
「奥方さまが広く一同の尊敬を集めておられるのは、ご存知の通りです。その通りでございまして、奥方さまは広く一同の尊敬を集めておられるのです」
「警部、この事件に奥の名を引き合いに出さないで欲しいものだが」レスタ卿がぎごちない口調でいう。
「レスタ・デッドロック准男爵閣下、私もそうしたいのでございますが――そうはいかないのであります」
「そうはいかぬ、と?」
バケット警部はかたくなに首をふる。
「レスタ・デッドロック准男爵閣下、どうしても、そうはいかないのであります。私の申し上げねばなりませぬことは、奥方さまについてでございます。奥方さまこそ、あらゆることの中心となっておるのでございます」
「警部」レスタ卿は目をらんらんと光らせ、唇をふるわせていい返す。「君は自分の職務を知っているはずだ。職務は果し給え。しかし越権行為にならぬよう気をつけ給え。私は越権は許さぬ。我慢ならぬ。君が奥の名をここに引き合いに出したことについて、君は責任をとらねばならぬぞ――君が責任をとるのだぞ。奥の名はしもじもの者どもが、みだりに口にしてはならぬ名前だ」
「レスタ・デッドロック准男爵閣下、私は必要なことだけを申すのです。余計なことは申しません」
「ぜひそうしてもらいたいものだ。よろしい。では、先を続け給え、警部」
もはや自分をまともに見ようとはしないレスタ卿の怒りに燃える目や、頭のてっぺんから足の先まで怒りでわなわなふるえ、しかもそれを抑えようとしているレスタ卿の姿をちらと見やると、警部は例の人差指を手さぐりするようにひらひら動かし、小声で話を続ける。
「レスタ・デッドロック准男爵閣下、私の職務として申し上げねばなりませんが、故タルキングホーン氏は長いこと奥方さまに対して、疑惑と猜疑心を抱いておられました」
「もしも彼が、そんなことを一言でも私に洩らしたとしたならば――そんなことはせなんだが――私は彼を殺してやったところだ!」と、レスタ卿は叫ぶと、テーブルをどんと手で叩く。が、そうした大仰な身振りは、すべてを見通すような警部の視線に出会うと、途中ではたと止ってしまう。警部はゆっくりと人差指を動かし、なかばなれなれしげに、なかば辛抱強く首を振る。
「レスタ・デッドロック准男爵閣下、故タルキングホーン氏はひとくせもふたくせもある人物で、口も固うございました。氏が一番最初からどのようなことを考えておられたかは、私にもはっきりとはわかりません。しかし、私は氏の口から聞いて知っておりますが、ほかならぬこのお屋敷で、しかもレスタ・デッドロック准男爵閣下がいらしたその面前で、奥方さまはある筆蹟をご覧になりまして、ある人物、閣下が奥方さまに求婚なさる以前に、奥方さまの愛人であり、当然その夫となるべきはずであった」ここでバケット警部は口をつぐみ、ゆっくりと繰返す、「疑いもなく当然その夫となるべきはずであったある人物が、いまや貧窮のどん底におち込んでいることを、お知りになったのですが、このことも氏はかなり前から感づいておられました。これも氏の口から聞いたことでありますが、間もなくその人物が亡くなりました時、奥方さまは彼のみすぼらしい住居とお墓とを、たった一人で、おしのびでお訪ねなさったのですが、氏はこのことにも感づいておられました。私は自分の耳と目による捜査から、奥方さまがご自分の女中のなりをなすって、そのような場所をお訪ねになったことを知っております。と申しますのは、私はタルキングホーン氏から奥方さまの足どりを洗え――私ども平常使います言葉を用いまして、まことに恐縮でありますが――と雇われましたからであります。で、私はこれまでに奥方さまの足どりを完全に洗ってまいりました。私はリンカン法曹学院広場の弁護士宅で、奥方さまの侍女と奥方さまの案内役をつとめました証人とを対決させました結果、奥方さまが侍女の知らぬうちに侍女の着物を着てゆかれたことは、一点の疑いもございませぬ。レスタ・デッドロック准男爵閣下、昨日私は、やんごとなきご名家でも時には奇妙な出来事の起ることがあると申して、この不愉快な真相をそれとなく示唆したわけでございますが、閣下ご自身のお家の中で、ご自身の奥方さまの身の上に、また奥方さまが原因となって、そうしたこと、それ以上のことが起ったわけでございます。故タルキングホーン氏が死の直前まで、こうした点を|詮索《せんさく》なさっておられたこと、氏と奥方さまとが他ならぬ氏の亡くなられるその晩に、このことで仲違いをなさったことは、私の信じて疑わぬところであります。さて、このことを奥方さまにお話しできる唯ひとりの方、また、タルキングホーン氏がこのお屋敷を辞して後、なにかほかのことを氏に話されるために、幅広い縁飾りのついた大きな黒マントを召されて、氏の事務所までお出かけにならなかったかどうか、奥方さまにお尋ねになれます唯ひとりの方は、レスタ・デッドロック准男爵閣下なのであります」
レスタ卿は彫像のように身じろぎひとつせず、彼の心臓から生血をしぼり取ろうとしているあの情け容赦のない人差指を見つめている。
「レスタ・デッドロック准男爵閣下、このことを私、バケット警部から聞いたと、奥方さまにおっしゃいませ。そしてもし奥方さまがなにかと仰せられて、それをお認めなさらぬようでしたら、今となってはもう駄目です、バケット警部は全部見通している、とおっしゃってくださいませ。奥方さまが故人の家の入口の階段で、閣下が軍人とお呼びになった人物(もっとも、現在は退役でありますが)とすれ違われたこともわかっていますし、奥方さまがその男とすれ違われたことをご自分でご承知であることも、わかっております。ところでレスタ・デッドロック准男爵閣下、なにゆえに私はこのようなことを|逐一《ちくいち》お話するのでありましょうか?」
レスタ卿はいまや両手で顔を覆ってしまい、一声うーんとうめくと、しばらく待ってくれと警部に頼む。ややあって手を顔からとりのけると、顔の色は髪の毛同様にまっ白であるが、卿の威厳とうわべの落着きとはしゃんととり戻すので、バケット警部もいささか気おされ気味だ。いつもの尊大な殻のその上には、なにかが凍りつき固まりついたような気配が見られる。間もなく警部は卿の口のきき方が、いつになくまだるっこしいのに気がつく。ときどき口のきき始めが妙にもつれて、そのために発音がはっきりしないのである。このような口のきき方で卿はしゃべり始めるが、やがて自制をとり戻すとはっきり口がきけるようになり、次のようにいう。故タルキングホーン氏ともあろう忠実で職務熱心な紳士が、この痛ましき、この悲しむべき、この意外で恐るべき、この信じがたき事実を自分にぜんぜん伝えてくれなかったとは、およそ不可解千万だ、と。
「その点もはっきり奥方さまに説明していただいたらよろしゅうございましょう。よろしければバケット警部がそう申したとおっしゃってくださいませ。私の考え違いでないのでしたら、おそらく故タルキングホーン氏は、すべての真相を機が熟したと思いしだい、レスタ・デッドロック准男爵閣下にお話するつもりだったのでありましょう。そしてさらに、そのむねを奥方さまに申し上げたのでありましょう。ひょっとしますと、私が氏の死体をしらべておりましたその朝にでも、お話するつもりだったのかもしれません。今から五分先に人がなにをいい、なにをするか、見当もつきませんから。かりに私がただいまぽっくりまいったといたしましても、レスタ・デッドロック准男爵閣下はどうして私がもっと前にそうならなかったのかとお思いになりますでしょう。そうではございますまいか?」
その通り。レスタ卿はやっとの思いで、余計な言葉は省いて、「その通り」とだけいう。と、その時、玄関の広間のあたりで、数人でかなりやかましく騒ぐ声が聞える。バケット警部は耳をすますと、書斎のドアに進み寄り、鍵を外して開き、またきき耳を立てる。それから出していた首をひっこめると、早口に、しかし落着いた様子でささやく。
「レスタ・デッドロック准男爵閣下、この不幸な家庭内の事件が、私の恐れておりました通り、外に洩れたようでございます。故タルキングホーン氏があまりにも不意に亡くなられたものですから。なんとかそれをもみ消すには、今お屋敷の従僕といい争っているあの連中を入れてやる以外にありますまい。私が連中をなんとか始末しますから、閣下はなにもおっしゃらずに――家庭内の事件についてはです――座っていらしてください。私が目くばせをいたしましたら、ただうなずいて見せてくださいませ」
レスタ卿はもつれた口調で答える。
「警部、君のいいと思うように、全力をふるってやってくれ」
バケット警部はうなずくと、万事のみ込んだように例の人差指を曲げ、玄関の広間の方に下りてゆくと、急に騒ぎが静かになる。ほどなく彼が戻って来ると、その数歩後から従僕と、これも桃色の半スボンをはき、かつらをかぶったその相棒が、間に身体のきかぬ老人が座っている椅子を担ぎ上げて来る。そのあとからもう一人の男と、二人の女が入って来る。警部はきさくで落着いたものごしで、その椅子をちゃんと置くようにと命じて、従僕どもを返し、またドアに鍵をかける。レスタ卿は冷やかな目つきで、これら聖域を侵すやからを眺めている。
「さて、おそらく皆さんは私をご存知でしょう」バケット警部は打ちとけた口調でいう。「さよう。私はバケット警部です。これが」と、胸のポケットから彼の便利なポケット警棒をとり出して、「私の職権のしるしだ。ところで皆さんはレスタ・デッドロック准男爵閣下にお会いになりたいとのことですな。よろしい! 閣下はここにおられます。だが、よろしいかな。だれでもかれでも閣下に拝謁の栄を賜わるというわけにはいかぬのですぞ。お爺さん、君の名前はスモールウィードだね。そのくらいはちゃんと知っとる」
「だが、べつにわしはこれまでなにも悪いことなんかしちゃおらんでな!」大きなかんだかい声で、スモールウィード老人が叫ぶ。
「ところで君は、どうしてあの豚めが殺されたかご存知かな?」警部は相手をじっとにらみつけ、しかし、かんしゃくだまを爆発させずにやり返す。
「知るもんかね!」
「あんまりなまいきだったから、殺されたのさ。君も同じ目に会いなさんなよ。君の顔をつぶすことになるからな。君はふだんつんぼの人と話をしているな、そうだろう?」
「ええ」スモールウィード老人は怒ったような声で答える。「わしの家内はつんぼでね」
「道理で君はきんきん声を張り上げるはずだ。しかし君の奥さんはここにはいないんだから、声を一オクターブか二オクターブくらい下げ給え。そのほうが私も有難いし、君にも|箔《はく》がつくというものだ。さて、こちらのお方は、たぶん説教稼業方面の人だろうね?」
「チャドバンドさんで」スモールウィード老人が口をはさむ。その声は以後ずっと低くなる。
「私にもかつて刑事仲間に同じ名前の友人がおりましてね」バケット警部は手を差し伸べて、「それでその名前が好きなんですよ。こちらは奥さんですね?」
「それからもう一人はスナグズビー夫人」と、スモールウィード老人が紹介する。
「ご主人は法律文具商でしたね。私の親友です」警部がいう。「実の兄弟同然の交わりです――ところで、いったいどうしたというんです?」
「なんの用事でわしらが来たかというんですね?」こうも不意に話題が急転回したので、ややどぎもを抜かれたスモールウィード老人が尋ねる。
「さよう! おわかりだな。ではレスタ・デッドロック准男爵閣下のご前で、その用件を聞こうじゃないか。さあ、話した!」
スモールウィード老人はチャドバンド氏を手招きすると、ちょっとの間ひそひそと相談を交わす。チャドバンド氏は額と両の掌の毛穴から脂汗をたらたら流しながら、「どうぞ、あなたからお先に!」というと、もとの場所にひき退る。
そこで、スモールウィード爺さんが、笛のような声でしゃべり始める。「わしはタルキングホーン先生の依頼人で、また友人だった。わしは先生と取引関係があった。わしも先生の役に立ったし、先生もわしの役に立った。死んだクルックはわしの義理の弟だ。あいつはわしのかささぎばばあ――つまり、家内の弟なんだ。わしはあいつの持物を相続した。身の廻りの品物や書類を全部調べてみた。この目で全部洗いざらい調べたんでさ。手紙の束がジェイン奥方――つまり、あいつの飼猫のベッドの横の棚の裏に隠してあった。あいつはいろんな持物をほかのところにも隠していたんだね。タルキングホーン先生がそれを欲しいというんで上げた。が、わしはその前に目を通しておいたんだ。わしゃ商売人だからね。目を通しといたんだ。やつの下宿人の恋人からの手紙があった。署名はホノーリア。いいかな、ホノーリアとはあまりあちこちにある名前じゃないねえ。このお屋敷にはホノーリアと名乗るご婦人はおるまいねえ。まさか、とは思うがね! うん、まさか、とは思うがね! たぶん同じ筆蹟じゃあるまいがね! まさかね!」
ここでスモールウィード老人は調子に乗ったあまりひどく咳き込み、言葉を途切らせて叫ぶ。「ああ苦しい! まったく、身体がばらばらになっちまう!」
バケット警部は相手がしずまるのを待った後で、「さて、君。レスタ・デッドロック准男爵閣下に関係したことで、なにかいうことがあるのなら、閣下は、ほら、ここにいらっしゃるぞ」
「警部さん、もういいかけてたところでさ。ここの殿様は関係ないっていうのかね? ホードン大尉や、そのいとしいホノーリア、おまけに間に出来た子供にさね。なあ、わしゃあの手紙の束がどこにあるか知りたいでさあ。その手紙はデッドロックの殿様に関係はないとしても、このわしにはあるんでさ。そのありかを知りたいんじゃ。こっそり消えてもらいたくないんでさ。わしの友達の弁護士タルキングホーン先生に渡したんだ。他人の手にゃ渡しておらん」
「ふうん。それで弁護士は君に代金を払ってくれたんだね。それも、たんまりとね」バケット警部がいう。
「そんなこたあどうでもいい。わしゃ誰がそれを手に入れたかを知りたいんでさ。いいかね、警部さん、わしらの用件をいおう――わしら一同がなにしにここへ来たかをね。わしらはこの殺人事件をもっと骨折って、念入りに調べてもらいたいんでさ。事件に関係ある利害や、その動機をわしらは知っとるぞ。君の取調べはまだ充分じゃない。あののらくら兵士のジョージがかかりあっているとしても、やつはただの共犯でさ。だれかにそそのかされたんだね。わしのいうことがおわかりだね?」
「おい、いいか!」バケット警部は突然態度をがらりと変え、老人の目の前へ行くと、例の人差指でぐっと相手をにらみつけるようにしていう。「私は自分の事件がほんの半秒だろうと、他人にじゃまされたり、とやかく口出しされたり、先廻りされたりするのはご免なんだ。もっと骨折って、念入りに調べてもらいたいだと? おまえの分際で、なにをいうか! この手が見えんか? このおれ[#「おれ」に傍点]がこの手を伸ばして、あの鉄砲玉を撃った下手人の腕をむんずとつかむしかるべきしお[#「しお」に傍点]時を、ちゃんと心得ているってことがわからんのか?」
警部の威厳たるやまことに恐るべきもので、それに彼が口先だけのはったりをいっているのではないことも明々白々だったので、スモールウィード爺さんはあやまり出した。警部は突然の怒りをさらりと捨てると、相手の言葉をさえぎり、
「あんたに忠告しておくがね、殺人事件のことをくよくよ考えるのはやめ給え。それは私の仕事なんだ。あんたはそのしょぼしょぼの目で新聞をよく読んでいればいい。気をつけて読んでいれば、間もなくなにか記事に目が留まるさ。私は自分のやるべきことはちゃんと心得ている。この事件について私のいうことはこれだけだ。ところで、例の手紙の件だが、あんたはだれが手に入れたか知りたいというんだな? 教えてやってもよろしい。この私が手に入れた。これがその包だろう?」
バケット警部が上着のどこか秘密のかくし場所から小さな包をとり出すと、スモールウィード爺さんは貪欲そうな目でそれを眺め、まさにそれです、と答える。
「それで、どうだというんだね?」警部が尋ねる。「おいおい、あんまり口をぽかんと開けるのじゃない。男前が下がるぞ」
「五百ポンド欲しい」
「まさか。五十ポンドの間違いだろう?」バケット警部はからかうようにいう。
しかし、スモールウィード老人は五百といい張るらしい。
「つまりだ、私はレスタ・デッドロック閣下の代理人として、この件の交渉を(別に相手のいいぶんを認めたり、あらかじめ約束を与えるわけではないが)まかされている」警部がこういうと、レスタ卿はあやつり人形のようにこっくりする。「君は五百ポンドでどうかというんだな。冗談じゃない、そりゃ法外な要求だ! 二百五十でも法外だが、まだましというものだ。二百五十のほうがよかろう?」
スモールウィード老人ははっきり、駄目という。
「そうか。それならチャドバンドさんと話をしよう。私は同じ名前の刑事仲間とよく話をしたことがあったが、彼ほどあらゆる点で謙虚な男を見たことがないな」
こう誘い水をかけられると、チャドバンド氏は一歩進み出て、少しにやにや笑いながら掌をこすり合わしてから、こう語る。
「皆さん、わたくしども――妻のレイチェルとわたくしでありますが――は、いまお金持の有力者のお屋敷にまいっております。なにゆえにわたくしどもは、いまお金持の有力者のお屋敷にまいったのでありましょうか? わたくしどもがお招きを受けたからでしょうか? 食事におよばれしたからでしょうか? お祝いに招かれたからでしょうか? 音楽の演奏のためでしょうか? 舞踏会のためでしょうか? いえいえ、違います。では皆さん、なにゆえにわたくしどもはここにまいったのでしょうか? わたくしどもがある罪深い秘密を握っており、その口どめのために、穀物酒油(1)――つまるところはお金――を望んでいるのでありましょうか? たぶんそうでありましょう」
「あなたはなかなか抜け目がないですな」警部はたいそう丁寧な口調で、「そこであなたはいま、その秘密とはなんであるかをいうつもりなのですね。結構です。ぜひいってください」
「では、博愛の精神にもとづいて」チャドバンド氏はずるそうに目を光らして、「その話に移りましょう。わが妻レイチェルよ、進み出なさい」
チャドバンド夫人は待ってましたとばかりに、夫を押しのけて進み出て警部に面と向うと、にやりと不敵な笑いを浮べる。
「私どもの知っていることを知りたいとおっしゃるのですから、お話しましょう。私はホードン嬢、つまり奥方さまのお嬢さまをお育てする手助けをしたのです。私は奥方さまのお姉さまのところにご奉公しておりました。お姉さまは奥方さまによって加えられた恥辱がひどく身にこたえましたので、赤ちゃんはお生まれになったとき死んだと――実際あやうく死にかかったのですが――奥方さまにお伝えしたのです。しかしそのお嬢さまは生きています。私はその方を存じております」
にやにや笑いながら、また「奥方さま」という言葉をわざと意地悪く強めて話し終ると、チャドバンド夫人は腕組みをして、警部をにらみつける。
「そこでつまり」警部は答えて、「あなたは二十ポンドか、それ相当の贈物を期待しておられるのですな?」
チャドバンド夫人はただせせら笑うと、そのくらいならいっそ「二十ペンス」とおっしゃい、と吐き捨てるようにいう。
「さて、そちらのわが友文具屋さんの奥さん」バケット警部は、人差指でスナグズビーの細君をおびき寄せながらいう。「あなたのご用件はなんですかな?」
スナグズビーの細君ははじめのうち、涙と|嗚咽《おえつ》で自分の用件の説明ができないでいるが、だんだんとりとめないながらも、話の筋がわかって来る。私はいつもひどい目に会わされ、辱しめられて来た女です。|主人《たく》はいつも私をだまし、かまってもくれず、なにも教えてくれませんものですから、この苦しみの中にあって、唯一つの慰めは故タルキングホーン先生の同情でございました。あのお方は、私の不実な亭主の留守の間に、クック小路をお訪ねくださいまして、たいそう私をあわれんでくださいましたので、私もよく悲しい胸のうちを全部お打ち明け申したものでございます。ここにおいでの方々は別といたしまして、だれもかれもがぐるになって、私を苦しめようとしているのですわ。たとえばケンジ・アンド・カーボイ法律事務所のガッピーさんは、はじめのうちこそ真昼の太陽みたいになんでもあけっぱなしに話してくださいましたのに、もちろん|主人《たく》が買収してちょっかいを出しましたために、急に真夜中みたいに口を閉じてしまいました。ガッピーさんのお友達でなにかいわくありげに横丁に住んでいる、ウィーヴルさんもやっぱり同じですわ。クルックさんも死にましたし、ニムロッドさんも死にましたし、ジョーも死にましたけど、みんなひとつ穴のむじななんです。みんなでなにをたくらんでるのか、はっきりとはわかりません。でも、ジョーは|主人《たく》の隠し子に間違いありません。これは最後の審判の「トランペットのごとくに(2)」確かなことですわ。|主人《たく》がジョーを最後に見舞いに行った時、私あとをつけたのです。もしあの子が|主人《たく》の実の子でなかったら、なんだって出かけていったのでしょう? ここしばらくの間、私は|主人《たく》のあとをつけるのに夜も日も明けないんです。それでうさんくさい事情をいろいろ綜合するんですけど――これまでのところどの事情も全部うさんくさいんですわ。こんなぐあいにして、私の不実な亭主の面の皮をあばいて、罰してやろうと日夜奔走していたんですわ。そうしているうちに、私はチャドバンド先生ご夫妻と、タルキングホーン先生をお引き合わせしたんです。ガッピーさんの態度の変りようについて弁護士さんとご相談して、ここにおいでの方々がたまたまなにかのはずみで関心をお持ちになった事情について、解決のお手伝いをしたんです。でも結局目ざすところは、|主人《たく》の面の皮をあばいて、別れてやろうというのです。以上のことをこの私は、虐げられたる女として、チャドバンド先生の奥さんの友として、チャドバンド先生のお弟子として、故タルキングホーン先生の冥福を祈る者として、絶対うそいつわりないこと、絶対他言しないことを誓います――というわけで、話は混線また混線、あることないことを引き合いに出して口走る。金めあてなんて思いもよらぬこと、目的はただただひとつだけ。やきもちを焼く|紅蓮《ぐれん》の炎から立ち昇るもうもうたる黒煙は、ここもかしこもすべてを包んでしまうのだ。
このように前置き――これで結構ひまがとれた――を述べたてている間に、バケット警部は相手の|悋気《りんき》を見すかしてしまったらしく、例のお使いの魔物と相談したり、チャドバンド夫妻やスモールウィード老人を油断なく見まもる。レスタ卿はあい変らず氷のように冷やかな表情で、身動きひとつしない。一、二度、バケット警部の方を、全人類中頼りに出来るのは君だけだ、とでもいうようにちらと眺めるだけである。
「よろしい、これでわかりました」警部がいう。「さて、レスタ・デッドロック准男爵閣下の代理として、このささやかな用件の交渉を任されましたから」もう一度レスタ卿は、その通りとばかりあやつり人形のようにこっくりする。「私は充分かつ公正に考慮するつもりであります。ここにおります私どもは、すべて世の中を知りつくした人間であり、私どもの目的は和気あいあいとやっていくことでありますから、私はだれかが金をせしめようとたくらんだ、とかいうようなことは申しますまい。しかし、なんともこの私に不可解で驚くべきことは、皆さんが下の玄関口で大騒ぎを演じたということです。これは私の見るところでは、ひどく皆さんの利害に反する行為でありましたな」
「でも、わしらは中に入りたかったからなんでさ」とスモールウィード老人が弁解する。
「いかにもその通り。皆さんは中に入りたがっておいででした」陽気な口調で警部がいう。「ですが、あなたのようないい年をしたご老人――いいですか、私は心から尊敬してこういっているのですよ――で、しかも手足がきかないために、からだじゅうの生気が全部頭に上ってしまって、間違いなく頭もしゃっきりしている人がですな――今のような用件は出来るだけ内密にやらねば、びた一文の金にもならんという道理がわからないとは不思議ですねえ。つまり、頭にかっと来たというんでしょう。それでもうかけひきは皆さんの負けですぞ」警部はうちとけた口調でいって聞かせる。
「わしゃ召使のだれかが上へいって、レスタ卿に伝えなければ絶対に帰らん、といっただけなんでさ」
「それ、それ! それが頭に来た証拠なのさ。今度やる時にゃぐっと抑えなきゃ、金にならんよ。呼鈴を鳴らして、あんたを運びおろしてもらおうかね?」
「その先はいつ聞かせてもらえるんです?」チャドバンド夫人がきつい口調で尋ねる。
「いや、まったく、女の中の女ですなあ! いつも好奇心のかたまりで!」警部はいんぎんな態度で答える。「明日か明後日お訪ねいたしましょう。それからもちろん、スモールウィードさんと二百五十ポンドの件についても――」
「五百ポンドだぞ!」
「よろしい! 五百ポンドとしておきますか」警部は呼鈴の紐に手をかけながら、「今日のところは私が、このお屋敷のご主人を代表して、さようならを申しましょうか」と、まるめ込むような口調でいう。
誰一人としてあえてそれに反対するだけの勇気はないので、それではと一同が退出する。バケット警部はドアまで送り出し、戻って来ると真剣な口調でいう。
「レスタ・デッドロック准男爵閣下、これを買い上げるかどうかは閣下のお考えひとつです。私としましては、まあ、買い上げてもよろしいでしょう、と申し上げたいのです。かなり安く買える見通しです。あの|漬物《つけもの》のきゅうりみたいなスナグズビーのおかみは、さんざんに思惑で利用され、あのうぞうむぞう[#「うぞうむぞう」に傍点]どもを寄せ集めて、自分でも思いがけぬくらいの迷惑を及ぼしているのです。故タルキングホーン氏はあの馬車馬どもの手綱を一手に握り、きっと自分の思い通りにあやつるつもりだったのでしょう。ところが、自分が馭者台から振り落されたもので、馬どもは引き綱をふり払い、めいめい勝手に駈け出してしまったのです。しようがありませんな。人生とはこんなものです。鬼のいぬ間に洗濯というわけです。寒気がとければ水が流れ出すというわけですね。ところで、逮捕すべき下手人のことでありますが」
レスタ卿はそれまでずっと目を大きく見開いていたものの、この時はっと目を覚ましたみたいな様子で、警部をじっと見つめる。警部は時計を出して眺める。
「逮捕すべき下手人は、今このお屋敷の中におります」警部はしっかりした手つきで時計をしまい込むと、しだいに元気が増して来る。「私はこれから閣下のご面前でその婦人を逮捕しようと思っています。レスタ・デッドロック准男爵閣下、どうか一言もおっしゃらないでください。身動きひとつなさらないでください。騒ぎも混乱も起りません。よろしければ私は晩のうちに戻ってまいって、この不幸な家族内の出来事について、またそれを内々に済ませる最上の方法について、|思召《おぼしめ》しに添うように努力いたすつもりであります。ところでレスタ・デッドロック准男爵閣下、間もなく行なわれます逮捕につきまして、どうかご心配なさいませんように。事件の全貌を始めから終りまで、はっきりお目にかけましょう」
警部は呼鈴を鳴らし、ドアのところへゆくと、従僕にひとことふたことなにか耳打ちする。それからドアを閉め、そのうしろに腕を組んで立ちはだかる。一、二分ばかりすると、ドアがゆっくり開いて、一人のフランス女が入って来る。マドモアゼル・オルタンスである。
彼女が部屋に入るやいなや、バケット警部はドアをばたんと閉め、そこにもたれかかる。この不意の音を聞いて彼女がふり向くと、その時やっとレスタ卿が座っているのに気づく。
「あら、ご免くださいませ」彼女はあわててつぶやく。「ここにだれもいないと聞きましたもので」
彼女がドアの方に戻りかけたところで警部と鉢合わせ。とたんに彼女の顔がぴくっとゆがむとまっ蒼になる。
「レスタ・デッドロック准男爵閣下、この方が私の家の下宿人でございます」と言うと、警部は彼女に会釈する。「この外国のお方は数週間前から私の家に下宿しておられました」
「そんなことレスタさまがお知りになりたいっていうの?」冗談めかして女がやり返す。
「なあに、今にわかりますよ」
マドモアゼル・オルタンスはきつい顔をしかめて警部をにらみつけていたが、やがてせせら笑うように、「妙に気をもたすわね。酔っぱらってるの?」
「いいえ、かなり正気ですよ」
「あたし、あんたの奥さんといっしょにこのいやらしい屋敷に来たばかりなのよ。いましがた奥さんと別れたとこ。下であんたの奥さんがここにいると聞いたものだからね、ここに来たの。だのに奥さんはいないのよ。いったいぜんたいこの悪ふざけどういう意味よ、ええ?」マドモアゼル・オルタンスは落着きはらって腕を組み、こう尋ねるのだが、彼女の浅黒い頬の中で、なにかがぴくぴく時計のように動いている。
バケット警部はただ彼女に向って人差指を振って見せるだけ。
「まあ、あんた頭がどうかしてんのね!」マドモアゼルは頭をつんと振って笑いながら叫ぶ。「さあ、下へゆかせてちょうだいったら、このおばかさん」じだんだを踏み、相手を脅迫するようなしぐさで。
「さて、マドモアゼル」落着いた断固たる口調で警部がいう。「あそこのソファに座ってください」
「いやです、座るもんですか」首をぴょこぴょこ動かしながら、彼女が答える。
「さて、マドモアゼル」警部は人差指を動かすだけで、ほかにはなんの身振りも見せずに、「あそこのソファに座ってください」
「どうして?」
「私がこれからあなたを殺人の容疑で逮捕するからです。わざわざいうまでもないことでしょうがね。さて、私は女でしかも外国の方は、できれば丁重に扱いたいと思っておりますが、それがだめなら、手荒にせねばなりませんし、外にはもっと手荒な連中が控えておりますよ。私がどういう態度をとるかは、あなたしだいですぞ。ですから、私はお友達としてあなたに、たった今あそこのソファにお座りになるようおすすめします」
マドモアゼルは頬のぴくぴくをさらに激しくさせ、息をつまらせて、「この悪魔め!」といいながらも、いいつけに従う。
「さあ、これで居心地もよくなったし、外国の分別あるご婦人にふさわしい振舞いというものです。そこで私がひとつご忠告申し上げましょう。つまり、あまりおしゃべりなさるな、ということです。ここでは何もおっしゃらぬほうがいい。黙っていればいるほどよいのです。つまりパーレー(3)しなけりゃしないほどいいというわけで」警部は自分のフランス語にすっかりお得意である。
マドモアゼルは虎のように歯をむき出し、燃えさかる黒い目で相手をにらみつけ、両手を握りしめ――それからおそらく両足もしっかりくっつけて――からだをまっすぐこわばらせながら、「バケット、この悪魔め!」と、小声でつぶやきながら座っている。
「さて、レスタ・デッドロック准男爵閣下」警部はいうと、これから例の人差指をのべつ幕なしに動かすのである。「このお嬢さんは私の家の下宿人で、さきほど申しましたその当時は奥方さまの小間使でありましたが、クビにされましてからは激しく奥方さまを怨むばかりか――」
「うそっ! あたしの方から出てやったんだわ!」
「ねえ、どうして私の忠告をきかないんですか?」落着きはらって、ほとんど哀願せんばかりの口調で警部がいう。「あなたの軽はずみにも驚きますな。そのうちあなたは自分に不利な証拠として使われるようなことをいい出しますよ。きっといい出しますよ。私が法廷に立って証言する時までは、私のいうことなんか気にかけなさるな。今はあなたに向ってお話しているんじゃないのですから」
「奥方さまからクビにされたですって!」かっとなって、マドモアゼルが叫ぶ。「ふん、ごたいそうな奥方さまだこと! あんなふしだらな奥方さまにいつまでも使われていたら、あたしの名前にまで傷がつくわよ!」
「驚いたなあ。私はフランス人は礼儀正しい国民だと思っていたのになあ。本当だよ。それなのにレスタ・デッドロック准男爵閣下の御前で、婦人がこんな口をきくなんて!」
「なにさ、あんなばか殿さま! 知らぬはなんとかばかりなりじゃないの! あんな人の屋敷にだって、家名にだって、まぬけづらにだって、つばをひっかけてやるわ」こういうたびごとに、代理としてじゅうたんの上につばを吐きかけて間に合わせる。「ふん、あんな人が大人物ですって! お偉いんですって! へへへんのふん! だわ」
「さて、レスタ・デッドロック准男爵閣下」バケット警部は言葉を続ける。「この逆上した外国人は怒り狂ったあまり、自分は故タルキングホーン氏に当然の権利を主張できると思い込み、私が前に申しましたその時に、故弁護士の事務所へ出かけてゆき、なんらかの要求をつきつけたのです。もっとも彼女はそれ以前にその足労に対して、たんまり謝礼を貰っていたのですが――」
「うそっ! あいつの金なんか叩き返してやったんだから!」
(「ねえ、どうしてもパーレーをするつもりなら、自分で責任をとらなきゃいけませんぜ」警部が口をはさむ。)「さて、レスタ・デッドロック准男爵閣下、このお嬢さんが私の家に下宿しましたのは、このことをなしとげるにあたって私の目をごまかそうというこんたんからであったかどうか、私にはわかりません。が、ともかく彼女は私の家に下宿人として住み込み、他方、いい争うつもりで故タルキングホーン氏の事務所のあたりをうろつき、またかわいそうな文具商を死ぬほど悩まし続けたのです」
「うそっ! うそばっかり!」
「レスタ・デッドロック准男爵閣下、殺人が行なわれました時の情況はご存じの通りです。さて、しばらく私の説明をよっくお耳に留めてくださいますようお願いいたします。私は派遣されて、この事件を担当しました。現場や死体や書類などすべてを調査しました。聞き込み(事務所の書記からですが)によりまして、私はジョージを逮捕しました。彼は殺人の晩ほぼその時刻にあたりをうろついていたそうですし、また以前しばしば故人と激しく口論しているのを聞いた者があり――証人の言葉によれば、脅迫めいた言葉を吐いたとのことだからです。レスタ・デッドロック准男爵閣下、もしはじめから私がジョージを犯人と思っていたのか、とのお尋ねでしたら、私は正直にいいえと申します。しかし、それでも彼は犯人かもしれません。彼に不利な証拠が充分揃っておりましたので、職務上逮捕して再拘留処分にしておかなくてはなりませんでした。ところがです!」
バケット警部は――彼としては――いくぶん興奮して身を乗り出すと、口を開く前に人差指で薄気味悪く虚空を打つ。マドモアゼル・オルタンスは険悪に顔をしかめ、かさかさに乾いた唇をきゅっと引きしめると、黒い目で彼をじっとにらみつける。
「レスタ・デッドロック准男爵閣下、私が晩になって自宅に戻ってまいりますと、このお嬢さんが私の家内と晩飯を食べているところでありました。この人ははじめて下宿したいといって来てから、終始私の家内にすこぶる親愛のそぶりを示しておりましたが、その晩はまたふだん以上――実際、度が過ぎました。故タルキングホーン氏をいたむしぐさも度を越しておりました。そこで私は、この人と向い合って食卓につき、ナイフを手にしているこの人の姿をまのあたりに見た時、やったな、と第六感でわかったのであります!」
マドモアゼルのくいしばった歯、引きしめた唇のあい間から、「この悪魔め!」という言葉の洩れるのが聞える。
「さて、犯行の当夜この人はどこへいっていたのでしょうか? 芝居見物にいっていました。(あとで調べましたところ、確かに芝居にいっていました。が、犯行の前と後になのです)これはなかなか手ごわい相手だわい、証拠固めは大いにむずかしかろうとわかりましたので、私はわなをかけました――これまでかけたことのないようなわなをかけ、これまでやったことのないような思いきった手を打ったのであります。食事中この人と話をしながら、頭の中でいろいろ考えました。二階へ上って寝る時に、私の家は小さいし、このお嬢さんは耳が鋭いので、家内が驚きの声を上げないようにと、その口の中へシーツを押し込め、それから真相を全部話してやりました――おい君、二度とそんなこと考えちゃいかんよ。さもないと君の足首を縛っちまうぞ」警部は突然話を中断すると、音もなくマドモアゼルにとびかかり、がっしりした手でその肩をつかんだ。
「どうしたっていうのよ?」
「二度とふたたび窓から身を投げようなんて考えてはいけませんぞ」警部は人差指で警告を発する。「それだけのことだ。さあ、私の腕をとって! 立ち上るには及びません。私が隣りに座りましょう。さあ、私と腕を組んで! いいかね、私は女房持ちだからね。君は私の女房を知っているだろう? さあ、私と腕を組みなさい」
彼女はいかにも苦しそうな音をたてて、かさかさに乾いた唇をしめそうと無益な努力をしながら、内心で苦悶懊悩してから言いつけに従う。
「さあ、これでよろしい。レスタ・デッドロック准男爵閣下、もし五万人に一人――いや、十五万人に一人しかいないような天下一品の私の家内がおりませんでしたら、この事件は今のような解決を見なかったでありましょう! 私はこの女の警戒心を解くために、それ以来自宅に足踏みしませんでした。もっとも私は必要に応じて、配達されるパンや牛乳を使って、家内と連絡を取りましたけれども。家内の口にシーツを詰め込んでから、私が小声でささやいたことはこうです。『ねえお前、僕がジョージを疑っているとか、そのほかなんとかかんとかを、つねづねごく自然に話してやって、あの女を油断させてくれるかい? 夜昼休みなくあの女を見張ってくれるかい? 「あの女が犯人なら、正体をつかまえるまで、あの女のやることなすこと全部調べてあげるわ。気づかれずにあの女をうちに拘禁してあげるわ。絶対私の目から逃げられなくしてあげるわ。あの女と毎日をともに暮してあげるわ」と、こういってくれるかい?』家内は口にシーツを詰め込まれてはおりましたが、せいいっぱいに『ええ、やってあげるわ!』と答えました。そしてその通りにやってくれました!」
「うそっ! うそばっかり!」
「レスタ・デッドロック准男爵閣下、私の計略がこの段階でいかに功を奏しましたことか! 私はきっとこの向う見ずの女が新しい戦術に出て、度を越すだろうと予想しておりましたところ、その予想は当たったでしょうか、はずれたでしょうか? まんまと当たりました! 彼女はなにをしようとしたでしょうか? どうかお驚きにならないでください。殺人の罪を奥方さまに着せようとしたのです」
レスタ卿は椅子から立ち上ると、またよろよろと腰を下ろす。
「私がいつもここにいると聞いて(これはわざとそうしたのですが)、この女はますます図に乗りました。さて、レスタ・デッドロック准男爵閣下、失礼でありますが、この私の手帳をお投げいたします。それをお開きくださって、中に入っている私あてに送られました手紙をご覧ください。全部デッドロック夫人[#「デッドロック夫人」はゴシック体]と書いてあります。閣下あてに送られた手紙で、ほんの今朝がた差し止めておいたのがございますから、開いてご覧ください。中に殺人犯、デッドロック夫人[#「殺人犯、デッドロック夫人」はゴシック体]とあります。手紙はこのところ雨あられと舞い込みました。全部この女が書いているのを、私の家内はのぞき穴からちゃんと見ております。私の家内はつい三十分前ほどに、これと同じインク、便箋、残りの半片などなどを全部押収して来ました。家内はこの女が全部の手紙を投函したのを、ちゃんと見ております」警部は女房の天才ぶりを誇らしげに披瀝するのである。
バケット警部の物語が終りに近づくにつれ、二つのことがことさらに目立つのである。第一に、彼がいつの間にかじりじりとしだいにマドモアゼルをしっかりとつかまえてしまうらしいこと。第二に、彼女の呼吸している空気までが息を切らしている女の周囲に、窮屈な網かとばり[#「とばり」に傍点]のように、徐々に迫ってゆくことである。
「犯行のあった晩、奥方さまが現場へいかれたことは疑いありません。わがフランス人の友が階段の上から奥方さまを見ていたのでしょう。奥方さまとジョージとわがフランス人の友は、お互いにすぐ近くにいたわけです。ですが、それはそれだけの話でして、私はくどくどとは申しません。私は故タルキングホーン氏を射ったピストルの弾おくりの詰め物を発見しました。それは閣下のチェスニー・ウォールドのお屋敷を描いた版画の紙でした。そんなことどうでもよい、とおっしゃるかもしれません、レスタ・デッドロック准男爵閣下。その通りです。しかしわが友はあまりにも油断をしすぎまして、残りの紙を全部引き裂いて捨てました。そして私の家内がその切れはしを全部集めて合わせてみますと、ピストルの詰め物にした所だけがちょうど足りなくなっているのです。こうなったらもうぐう[#「ぐう」に傍点]の音も出ませんよ」
「よくもそんなにうそばかり」マドモアゼルが口をはさむ。「たんと作り話をするわね。そろそろこのへんで種切れ? それともずっといつまでも続けるつもり?」
「レスタ・デッドロック准男爵閣下」バケット警部は続ける。彼は相手の氏名称号をまるまる全部呼ぶのが大好きで、ほんの少しでも省略すると自分の気に入らないのである。「この事件の最後の一点をこれから申し上げますと、私どもの仕事にいかに忍耐が大切であり、決して|急《せ》いてことをしてはならぬ、ということがおわかりかと存じます。昨日私の家内はこの女をわざと葬儀に連れて行きまして、いっしょに見物しておりました。私はこの女を気づかれないようにして見張っておりました。この女を有罪にするだけの証拠はかなりたくさん持っておりましたし、この女の顔つきを見ただけでも充分でありましたし、奥方さまに対するこの女の敵意も実にはっきり読み取れましたし、いわゆる因果応報の機は充分に熟しておりましたので、私がもし経験の浅い若造でしたら、きっとその場でこの女を逮捕したことでありましょう。同様に昨晩、広く一同から尊敬を受けていらっしゃる奥方さまがご帰宅になられました時――まるで海から生まれ出たヴィーナスのお姿と申したいほどでございまして、このお方が身におぼえのない罪を着せられるなどとは、考えるだに不愉快、不合理なことでございますので、私は本当にもう事件にけりをつけてしまいたく思いました。その場合欠けておりますものはなんでしょうか? レスタ・デッドロック准男爵閣下、兇器でございます。この被告は昨日葬儀が済みましてから、私の家内に、乗合馬車でちょっと郊外へ出かけ、上品なお休み所でお茶を飲もうではありませんか、と誘いました。さて、このお休み所の近くに池がございます。お茶の時にこの被告は、帽子の置いてある寝室へハンカチを取りに行って来ると申しまして、かなり長い間中座しておりまして、帰って来た時やや息を切らしておりました。二人が家へ帰るやいなや、家内は見聞したことならびに疑惑の点をちくいち私に知らせました。私は部下を二人やって、月の光をたよりに池をさらわせましたところ、投げ込んで六時間とたたぬうちに、ポケット・ピストルが上って来ました。さあ君、腕をもうちょっとこっちにかして。しっかり持ち上げて。べつに痛くはしないからね!」
たちまちのうちにバケット警部は彼女の手首に手錠をかける。「これで一つ。さあ、これでもう一つ。全部で二つだ」
警部が立ち上ると、女も立ち上る。女は大きな目がほとんど隠れるくらいまぶたを垂れながらも、なおもじっとにらみすえたままいう。「あの裏切者の、くわせ者のきつねばばあはどこにいるの?」
「家内は警察署へいったよ。そこへゆけば会えるぜ」
「あいつにキスしてやりたい!」虎のようにはあはああえぎながら、マドモアゼル・オルタンスが叫ぶ。
「かみつくつもりだろう?」
「そうよ!」目を大きく見開いて、「あいつの手足をばらばらに引き裂いてやりたい」
「やれやれ」警部はひどく落着きはらって、「そんなこと聞いても驚きゃせんよ。女ってやつはお互い同士仲たがいすると、おそろしく憎み合うものだね。わしのことは半分も憎らしく思わないだろう?」
「ええ。もっともあんただって悪魔だけど」
「上げたり、下げたりだな。しかしわしは職業柄やってるんだからね。それを忘れては困るよ。さあ、ショールをきちんと直そう。わしは前にご婦人の小間使を何度もやったことあるんだ。帽子はそれでいいかい? 玄関に馬車が待っているぜ」
マドモアゼル・オルタンスは怒ったように鏡をにらみつけ、全身をしゃんとさせて身づくろいを整えると――これは正直のはなし――たいそう優雅な姿になる。
「ねえ、あんた」彼女は人をこばかにしたように何度もこっくりしてからいう。「あんたはとっても頭がいいけど、あいつを生き返らすこと出来て?」
「そりゃどうもね」
「笑わせるわね。もうひとつ。あんたはとっても頭がいいけど、あの女[#「あの女」に傍点]を品行のいい女にすることが出来て?」
「そう意地悪をいうなよ」
「それともあの男[#「あの男」に傍点]を高慢な閣下にすること出来て?」レスタ卿に向っていいようのない軽蔑をこめて、女が叫ぶ。「そら! ご覧よ、あの男を! 哀れな赤ん坊! は! は! は!」
「こらこら、こりゃいくらなんでもひどすぎるパーレーだ。さあ来い!」
「そんなことできゃしないだろう? そんならあたしのことを存分にしてもいいわよ。どっちみち死ぬだけだ。同じことよ。さ、ゆきましょう。さよなら、白髪のじいちゃん。哀れんでやる! 軽蔑してやるわよ!」
こうすてぜりふを吐くと、女は歯をまるでバネ仕掛けみたいにぱちんと鳴らして閉じる。バケット警部がどうやって彼女を連れ出すかは、とても筆では説明し尽せない。が、ともかく彼独特のやり方でやってのける。まるで彼がお粗末なジュピターで、女が彼の愛人であるかのごとく、彼は雲のように女をくるみ込み、いっしょにふわふわと飛び去るのである。
一人残されたレスタ卿は、同じ姿勢のままで、いかにもまだ耳をすまし、注意を集中させているかのように見える。やっとからっぽの部屋を見廻し、ひと気がなくなったのに気づくと、よろよろと立ち上り、椅子をうしろに押しやり、テーブルでからだを支えながら、二、三歩進むと、立ちどまる。それからまた例のはっきりしない声をたてながら、目を上げると、なにかを見つめているようだ。
なにを見ているのか、だれにもわからない。チェスニー・ウォールドの緑の森か。立派なお屋敷か。先祖の肖像か、それを汚す|他所《よそ》|者《もの》か。いと尊い先祖伝来の家宝に遠慮会釈もなく手をつける警官か。彼にうしろ指差す幾千もの指か。彼をあざ笑う幾千もの顔か。だが、このような幻影が彼の目の前にちらつき、彼を悩ますとしても、もうひとつ別の幻影がある。その名は今でもいくらかはっきり呼ぶことが出来るし、それだけに向って白髪頭をふり乱し、腕をさし伸べて呼びかけるのだ。
それはあの女。彼の威厳と自尊心の根の大きな支えと思ってはいたものの、彼が一度たりとも利己的な気持で考えたことのないあの女。彼が愛し、|崇《あが》め、尊敬し、世間にも尊敬の的として示して来た女。彼の一生を通じて強いられた虚礼と格式のただなかにあって、人間らしいやさしさと愛情の源であり、彼の感ずる苦悩を一番よく感じとってくれた女である。彼には自分の姿すらほとんど見えないのに、彼女の姿だけが見える。彼女がこれまで立派に占めていた高みくらから、引きずりおろされる姿は、とても見るに忍びないのだ。
自らの苦しみもうち忘れ、床にほとんど崩れ倒れんばかりになりながらも、いまなお彼女の名前だけは、もつれる舌の耳ざわりな音にもかかわらず、いくらかはっきり発音することが出来るのである、とがめるというよりは、むしろ憐れみ、|悼《いた》むような声音で。
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第五十五章 逃亡
バケット警部が前章で述べたような決定的一撃をまだ加えておらず、重要な日に備えて眠りについている頃、こごえるような冬の街道の夜の闇をついて、二頭立ての馬車がリンカンシア州から出発すると、ロンドンに向ってひた走る。
間もなく鉄道が全国を縦横にまたぎ、轟音をたてて赤い火を吐く機関車の引く列車が、夜の広野を彗星のように横切り、月の光も顔負けさせる日がやって来るのだ。しかしこのあたりでは、かかる光景は予想されないではなかったが、まだ実際に見ることは出来ない。建設の準備が進み、測量が行なわれ、地面に囲いの杭が打たれる。橋の工事が始まり、まだつながれていない橋脚が淋しそうにお互いを見つめ合ったまま、道路や川をまたいでいる様子は、まるで煉瓦とモルタル造りの夫婦が、邪魔されて添えないでいるみたい。あちこちに土手がばらばらに築き上げられ、断崖になったまま放り出された上から、さびたトロッコや手押車が滝のようにころがり落ちている。背の高い三本脚の柱が山の頂きに現れるあたりは、トンネルが掘られるのだとかいう噂だ。あらゆるものが混乱のまま、見込みのないままに打ち棄てられている。こごえるような街道の夜の闇をついて、急行馬車は鉄道のことなど考えもせずにひた走る。
長らくチェスニー・ウォールドの女中頭をつとめているミセス・ラウンスウェルが、馬車の中に座っている。その傍らにはねずみ色のマントにくるまり、洋傘をもったバグネットの女房が座っている。彼女はむしろ風雨にさらされている正面馭者台の横棒に、原始的なとまり木よろしく座るほうが、いつもの旅行ぶりにもっと似合っていていいと思うのだが、ミセス・ラウンスウェルは彼女の身を案じて、そんな申し出には耳をかそうとしない。老婦人は彼女を愛することひとかたならず、堂々たる態度で座ったまま彼女の手を握り、ざらざらしているのもおかまいなしにしばしば唇に押しあてる。「あなたが人の子の母親なので」と、何度もくり返していう。「それで、私のジョージの母親を見つけ出してくださったんですよ!」
「だって、ジョージはいつでもわたしにはなんでも話してくれましたから」バグネットの女房は答える。「いつだったか、わたしの家で息子のウーリッジに、君が大人になっていろいろ思うこともあろうが、自分は母親の顔に悲しみのしわ一筋、頭にしらが一本も増やしたことはない、と思う時ほど気持のいいことはあるまいよ、なんていっているのを聞きましてね。その口調から、きっと近ごろなにかお母さんを思い出す新しい種が出来たのだ、とわたしは思ったものでしたよ。まえまえから、自分は母親にひどい仕打ちをしたとよく私にいっていましたもの」
「そんなことありませんよ!」ミセス・ラウンスウェルは答えると、どっと涙にくれる。「ひどい仕打ちなんて、とんでもない! あの子は、ジョージはいつも私を愛して、やさしくしてくれましたよ! ところが気が強いもので、ちょっとぐれ[#「ぐれ」に傍点]てしまって、兵隊になってしまったんです。将校になるまでは私たちに消息を知らせないでおこうと、はじめは思っていたのですけれども、昇進しなかったものですから、|面目《めんもく》ない、私たちに会わす顔がないと思いつめてしまったのです。ジョージは赤ん坊の時から、いつも気が強かったんですもの」
老婦人は昔のようにわなわなと手をふるわせながら、息子がいかにも頼もしい、立派な、元気で気持のいい、賢い若者だったこと、チェスニー・ウォールドでは皆に好かれ、まだ若殿さまだった頃のレスタ卿にも好かれ、犬にまで好かれる青年だったこと、彼に腹を立てていた人たちでも、故郷を飛び出したとたんに彼を許してくれたこと、などを思い起すのである。それなのに、今やっと息子に会えると思ったら、監獄の中だなんて! 幅の広い胸衣がぐっともち上り、古風でしゃんとした彼女の姿勢も、懐しくも悲しい思いに、つい崩れ倒れんばかりになる。
暖かい親切な心のバグネットの女房は、もちまえの如才なさから、しばらく老婦人をもの思いにふけらせておいてから――もっとも、自分も母親のこととて、身につまされて目を手の甲でこするのだが――やがてうきうきとした口調で、こう話し出す。
「それでわたし、ジョージにお茶を飲みにお入りなさいと呼びに行った時(あの人ったら、外で煙草を吸ってるふりをしていましたのでね)、ききました。『ねえジョージ、今日はいったいぜんたいどうしたのよ? これまであんたのいろいろなところを、国内、国外、時節ぴったり、時節はずれを問わず、いろいろ見たことあるけど、今日みたいにがっくりしおれているのは見たことないわよ』するとジョージが答えます。『奥さん、それはね、今日自分がこれまでにないほど、がっくりしおれているからなのです』『何をしたというんです?』『だけどもね、自分のやったのはずっと昔のことです。だから、なまじ今さらもとに戻そうなんてしないほうがいいのです。もし自分が天国へ行けるとしたなら、それはやもめ暮しの母に、息子として孝行をつくしたからではありますまい。自分のいうことはこれだけです』さて、奥さん、ジョージが自分のやったことはなまじ今さらもとに戻そうとしないほうがいいのだ、といった時、わたしはいつものように考えをめぐらして、ジョージがどうして今日に限ってそんな気持になったのか、その次第を聞き出しました。ジョージは弁護士の事務所で一人の立派な老婦人の姿を見て、それで自分のお母さんをはっきり思い出したのでした。ジョージはしまいにわれを忘れんばかりになるまで、その老婦人のことを口走り続け、なん年も昔のお母さんのおもかげを描いてみせるのでした。そこでジョージの話が終ってから、あんたが会った老婦人とはだれなの、とわたしがききますと、リンカンシア州チェスニー・ウォールドのデッドロック邸に半世紀以上も仕えている女中頭のミセス・ラウンスウェルだ、というのです。ジョージはよく以前に自分はリンカンシア州の生まれだといってましたから、それでわたし、この間の晩うちのリグナムに、『ねえ、あの人がジョージのお母さんよ。四十五ポンド賭けてもいいわ!』といったのです」
バグネットの女房がこうした話をするのは、ここ四時間のうちで少なくとも二十回目である。わだちの轟音に消されないで老婦人の耳に入るようにと、かなりかんだかい声で、鳥のように朗らかにしゃべるのだ。
「ほんとにほんとに、有難うございます」と、ミセス・ラウンスウェルはいう。「ほんとにご親切に!」
「とんでもありません!」この上もなく自然な態度でバグネットの女房が叫ぶ。「わたしにお礼をおっしゃることはありません。そんなにすなおにお礼がおっしゃれるご自分にこそ、有難うとおっしゃるべきですわ。それに奥さま、ジョージがご自分の息子だとおわかりになりましたら、ぜひやっていただきたいことがあるのです。あなたや私同様なにも身におぼえのないジョージが、自分の疑いを晴らし身のあかしを立てるための、あらゆる援助を進んで受けるように――お母さんのためにですよ――させてください。真実と正義があの人の側につくだけでは駄目なのです。法と弁護士がつかなくてはいけないのです」と彼女は大声でいう。まるで法と弁護士が真実や正義と永久にたもとを分って、別個の商売を始めたと思い込んでいるかのように。
「世界中で頼める限りの援助をあの子のためにお願いしましょう。そのためなら私のありったけのお金を喜んで使います。レスタさまも、そのご家族も出来る限りのご尽力をしてくださいますよ。私――私、知っていることがあるんです。ですから、私からお願いしてみます。ここ何年も別れ別れになっていて、やっと監獄で再会できた母親としてのお願いを」
老婦人がこう言っている間のしごく不安な様子、とぎれとぎれの言葉、ひしと握りしめた両手、これらはバグネットの女房をたいそう感動させ、こうした態度がすべて息子の身の上を思う悲しみから出たものだと思えば、さほど驚くにあたらない。だが、どうしてミセス・ラウンスウェルが気がふれたように、いくどもいくども、「奥方さま! 奥方さま! 奥方さま!」とくり返しつぶやくのか、なんとも不可思議である。
いてついた夜が明けて、|曙《あけぼの》の光がさしそめる頃、急行馬車はまるで死んだ馬車の亡霊のようにぼうっとした姿で、夜明けの霧をついてひた走る。あたり一面も亡霊だらけみたいで、ぼうっとかすんだ木や生垣の亡霊がゆっくりと消えて、日中の|現実《なま》の姿と変る。ロンドンに着くと旅人は馬車から降り立つ。老婦人はおろおろそわそわし、バグネットの女房はすっかり元気と落着きを取り戻している。たとえ彼女の次の行先が喜望峰でも、南大西洋のアセンション島でも、|香港《ホンコン》でも、またその他の軍駐屯地でも、そして新しい旅支度がぜんぜん出来ていなくても、彼女は同じように落着きはらっているだろう。
しかし、騎兵軍曹の拘留されている監獄に向って出発する時には、老婦人はラヴェンダー色の洋服といっしょに、それと切っても切れぬお供である変らぬ落着きを、身のまわりにかき寄せようとしている。見るからにすばらしく堂々として、整った端正な古陶器といった様子だ。もっともその心臓は早鐘のように打ち、胸衣はここ何年というもの、自分のわがまま息子のことを思い出して、こうも乱れたことのないくらい乱れているのである。
独房に近づくとドアが開いていて、ちょうど看守が出て来るところである。バグネットの女房が、どうかあの人になにもいわないでください、という身振りをすると、看守はよろしいとうなずいて、彼らを入れてやり、ドアを閉める。
というわけで、テーブルに向ってなにかを書いているジョージは、自分が一人きりだと思い込んでいるので、目も上げずに書きものに没頭している。老女中頭は彼の姿を眺める。彼女のわなわなとふるえる手を見るだけで、バグネットの女房は自分の間違っていなかったことがわかる。
老婦人は衣ずれの音ひとつ、いや一言すら発しない。彼女は身動きひとつせずたたずんだまま、全然気づかずに書きものをしている息子を眺めている。ただ彼女のわなわなふるえる手だけが、その内心の激情を、雄弁に、きわめて雄弁に物語っているのが、バグネットの女房にはわかる。その手は感謝、喜び、悲しみ、希望、そしてこの大の男がまだ少年だった頃から、返礼を受けることもなくただひたすらに傾けた、尽きることのない愛情を物語っている――性善良な息子は愛されること少ない、というが、この息子はかくもいとしげに、誇らしげに愛されたのである。このようにいたいたしくも雄弁な母の手を眺めているバグネットの女房の目には涙があふれ、日にやけた頬をつたってきらきらと流れ落ちる。
「ジョージ・ラウンスウェル! 私のかわいい息子、こっちを、私の方を向いておくれ!」
騎兵軍曹はぱっと立ち上ると、母のくびにひしとすがりつき、それからその前にひざまずく。遅ればせながらの悔恨からなのか、それともとっさの間に思いが子供の頃に飛んだのかはともかく、彼はちょうど子供がお祈りをする時みたいに両手を組み合わせ、その手を母の胸の方に捧げると、頭を垂れて泣き出してしまう。
「私のジョージ、大事な子! いつでも、今でも私のかわいい子供。このつらい何年もの間、いったいどこへ行っていたのかえ? こんなに立派な、強い大人になって。神さまのおかげで生きていてくれたら、きっとこんなに大きく立派になっているだろうと、私の思っていた通りになってくれたね!」
しばらくの間は母も子も、互いにただつじつまの合わぬ問答をくり返すだけである。その間バグネットの女房はそっぽを向き、白壁に片腕をもたせかけ、そこに額を当て、なんでも兼用になるねずみ色の外套で目を拭いながら、いかにも親切な女房らしく、嬉しくてたまらない様子である。
「お母さん」二人がもう少し落着きを取り戻してから、軍曹がいう。「まず第一に僕を許してください。僕があやまらなくてはいけないことは、自分でもわかっていますもの」
お前を許すだって! もちろん心から許してあげますとも。私はいつでも許していましたよ。私はもう何年も前から、自分の遺書の中に、愛する息子ジョージと書いておいたのですよ。私は一度だってお前のことを悪く思ったことなんかありませんよ。もし私がこんな幸せな目に会えずに死ぬことになったとしたら――だって、私はもう齢をとったし、老い先も長くはないだろうしね――いまわの際にまだ意識がはっきりしていたら、私の愛するジョージに祝福を与えてあげたことでしょうよ。
「お母さん、僕はずいぶん親不孝な苦労をかけました。僕はそのばちが当たったんです。でも、やっとこのごろになって僕は少しは目的らしいものがわかりかけて来たのです。僕が家を飛び出したころは、家出をしたことなんかあんまり――それほどは――気にしなかったのです。僕は飛び出して向う見ずに軍隊へ入りました。僕はだれのこともかまわないし、逆にだれも僕のことなんかかまっちゃくれないんだと、無理に思い込むようにしたんです」
軍曹は涙を拭くと、ハンケチをしまい込んだ。でも、いつもの彼の話し方や物腰と、いま、ときどき抑えきれずにしゃくり泣きしながら話している穏やかな調子とは、まるで雲泥の相違だ。
「そこで僕は、お母さんもよくご存知の通り、変名して軍隊に入りましたと一筆手紙を家に出してから、外地へ行ったのです。外地へ行ってからは、ある時は来年になったらもうちょっと昇進するかもしれないから、それから家へ手紙を出そう、なんて思って、その一年がたつと、また来年になってもっと昇進してから書こうと思って、またその一年がたつ頃には、どうでもいいやという気持になって、とうとう軍隊生活も十年になると、齢もとるし、なあに手紙なんか出すもんか、という気になってしまいました」
「私は怒ってなんかいないよ――でもね、ただ心配だったのよ。お前を愛しているお母さんだって、やっぱりだんだん齢をとって行くのだから、せめて一筆くらい――」
こういわれると、またもや軍曹はあやうく泣き崩れそうになるが、彼はあらっぽくごほんとせきばらいして、気をとり直す。
「ご免よ、お母さん。でもその時は、僕の消息を聞いてもたいした慰めにゃなるまいと思っていたんです。お母さんは皆から立派だと尊敬されていましたし、ときおり北国の地方新聞を手にすることがあると、兄さんは金持の名士になっているという。それにひきかえこの僕はいっかいの兵士で、あちこちうろつき廻って腰も落着かず、兄さんのように独立独歩で身を立てたのじゃなくて、独立独歩で身をもち崩した人間です――子供の頃身につけたものも全部ほうり出すし、わずかながらの教育も忘れてしまうし、その後に身につけたものでは、これはと思う仕事もまるで役に立たずです。これではとても自分の消息を知らせるどころの義理じゃない。こんなに時がたってしまった今さらになって、僕の消息を知らせたところでなんになるんだ? お母さんにとっては、もう最悪の事態は過ぎてしまったんじゃないか? その頃になれば(僕だって人間だから)お母さんが僕のことを悲しんでくださって、涙を流してくださって、お祈りしてくださったことはわかっていました。それでも、つらい時期は過ぎてしまったか、和らいでいたのだから、そのままにしておいたほうが、お母さんの心の中に僕はかえってよい思い出となって残るんだ」
老婦人は悲しげに首を横に振ると、彼のがっしりした片手をとり、いとしげに自分の肩の上にのせる。
「いえ、お母さん。僕がそう考えたというんじゃありません。強いてそう思い込もうとしたというんです。今さら僕の消息を知らせたところでなんになる、と僕はさっきいいましたね。そりゃいくらかは得になることもあったかもしれません――でも、そんなことするのはいやしい|沙汰《さた》です。お母さんは僕を探し出し、お金を出して除隊させてくださったことでしょう。チェスニー・ウォールドに連れていってくださったり、僕を兄さんや兄さんの家族に引きあわせてくださったことでしょう。そして皆さんでなにくれとなく僕のために、僕をまっとうな人間に仕立てるために、力を尽してくださったことでしょう。でも、当の本人の僕が自分で自信が持てないのに、どうして皆さんに信用してもらえるでしょう? 結局のところあいつは持てあましのやっかい者、一家のつらよごし、のらくら兵士だ、軍隊でびしびししごかれないと自分で自分を持てあまし、自分で自分のつらに泥を塗るような奴なんだ、と皆さんお考えにならざるを得なくなるでしょう。僕は兄さんの子供たちにどのつらを見せることが出来ましょうか? どんな手本を見せることが出来ましょうか?――家から逃げ出して母さんを一生悲しませ、不幸にした、このごろつき少年の僕が? こんなことを考えてみながら、僕はひとりごとをいったんです。『いかん、いかん、ジョージ。自分でまいた種だ。さあ、自分で刈り取れ』」
ミセス・ラウンスウェルは誇らしげな気持が心中に湧きあふれて来たのか、堂々たる身を起して、「ほら、私のいった通りでしょう!」といわんばかりに、バグネットの女房に向って頭を振ってみせる。彼女は相手の気持をいたわるように、また二人の会話に関心を寄せていることを示すように、持っているこうもり傘で軍曹の背中をぐいと突く。こうした親愛の情のこもったきちがいじみた動作をその後もときどき繰り返しては、また白塗りの壁ぎわに戻って、ねずみ色の外套で目を拭うのである。
「お母さん、僕はこんなふうに自分で強いて考えようとしたんです。僕にできるいちばんのつぐないは、自分のまいた種を自分で刈り取って、それで死ぬってことだ、とね。(僕はこれまで一度ならず、お母さんが僕のこと夢にも考えていない時に、お母さんの姿を見にチェスニー・ウォールドに出かけたことがありましたけど)ここにいる僕の旧友の奥さんがいなかったら、結局僕はそんな死に方をしたことでしょう。でも、この奥さんにかかっては僕はかぶとを脱ぎました。だけど、有難いと思ってますよ、バグネットさん。本当に心から有難いと思っております」
バグネットの女房は返事の代りに、傘で二度ぐいぐいとこづく。
そこで老婦人は、私の息子ジョージ、私の取り戻したかわいい息子、私の喜び、私の誇り、私の目の光、私が死ぬまで老いの身の嬉しい慰め、などと思いつく限りのいとしい言葉で息子に呼びかけると、彼にじっくりいい聞かせる。いいかい、金とひき[#「ひき」に傍点]の力で得られる限りの忠告に従ってくれなくてはいけないよ。頼める限りの立派な弁護士に事件をまかせてくれなくてはいけないよ。この重大な危機に及んでは、忠告された通りにやってくれなくてはいけないよ。いくら正しくとも強情を押し通してはいけないんだよ。釈放されるまでは、お前のかわいそうなお母さんの心配と苦労のことしか考えないと約束してくれなくてはいけないよ。そうでないとお母さんは悲嘆にくれるんだからね。
「お母さん、そんなことたやすい約束です」軍曹はキスして母親の言葉を途中でさえぎる。「僕にこうしろとおっしゃってください。そうすればおそまきながら孝行の手はじめに、その通りやります。バグネットさん、もちろん僕のお母さんの面倒を見てくださいますね?」
こうもり傘が威勢よくごつんと一撃。
「お母さんをジャーンディスさんとサマソンさんに会わせてくだされば、お二人とも意見が合うでしょうから、お母さんにいい忠告と力添えをしてくださるでしょう」
「それにね、ジョージ、一刻も早く兄さんを呼びにやらなくちゃ。皆さんの話じゃ、兄さんは常識分別のある人だそうだから――私は自分じゃ世間のことはよくわからないけど、兄さんはチェスニー・ウォールドよりももっと広い世間を知っているからね――きっと役に立ってくれるよ」
「お母さん、さっそくにこんな勝手なお願いをするのは気がひけるんですが――」
「いいんだよ。遠慮はいらないよ」
「じゃ、ひとつだけお願いがあるんです。兄さんに知らせないでください」
「知らせないって、なにを?」
「僕のことをです。正直いって僕、気がひけるんです。とてもそんな勇気が出ないんです。僕が兵隊稼業なんかやってる間に、兄さんは僕とは全然違った道を歩んで、あんなにも出世したんですから、こんな場所で、こんな身の上で、兄さんに顔を合わせるなんて、いくらなんでもとても出来ません。兄さんみたいな人にこんなこと知らせて、喜んでもらえるわけがないじゃありませんか。とても無理な話です。ですから、お母さん、僕のことを兄さんにはいわないでください。こんなお願いをする資格は僕にはないんですけど、どうか他人はともかく、兄さんにだけは僕のことをいわないでおいてください」
「でも、いつかはいってもいいんだろう?」
「いいえ、永久にいわないほうがいいんだろうと思うんです――いつかそのこともお願いするかもしれません――でも、ともかく今のところはいわないでおいてください。もし、どうしても兄さんに、やくざな弟が見つかったとうちあけるのなら」軍曹は、そんなことめっそうもないというように首を振りながら、「出来れば僕が自分で話したいんです。それで兄さんの受けとりようしだいで、進むなり退くなりを決めたいと思うんです」
この点については見るからに断固たる気持のようだったし、その意志の固いことはバグネットの女房の顔つきからも察しられるので、母親は彼の願いをそのままかなえてやる。息子は厚く礼をいいながら、
「お母さん、その他の点ではお望み通りすなおに、おいいつけ通りにいたします。僕ががんばるのはこの点だけなのです。ですから、僕はもう弁護士でもなんでもこばみません。ちょうど今」彼は机の上の書きかけの紙の方をちらと見て、「僕が故人について知っていること、この不幸な事件にまき込まれるようになったいきさつについて、くわしい陳述書を作っていたところです。命令伝達簿みたいに、明確にきちんと書いてあります。事実として必要な事項しか書いてありません。自分で弁護すべきことを申し立てよと命ぜられた時に、いつでも直ちにそれを読み上げるつもりでした。今でもそうしたい気持ですけれども、この事件ではもはや僕一人のわがままを通してはいけないのです。だから、どんなこといわれようと、どんな仕打ちを受けようとも、勝手な振舞いはしないとお約束します」
かくも申し分なく決着がついたし、時間も遅くなって来たので、バグネットの女房はもう帰りましょうといい出す。老婦人はいく度もいく度も息子のうなじにすがりつき、騎兵軍曹はいく度もいく度も母親をがっしりした胸に抱きしめるのである。
「バグネットさん、母をどこへ連れて行ってくれるのですか?」
「私はロンドンのお屋敷へゆくよ。すぐにかたづけなくちゃいけない用事があるからね」ミセス・ラウンスウェルが答える。
「奥さん、母をそこまで馬車で無事に送っていってくださいますか? でも、もちろんやってくれますね。尋ねるまでもないことだった」
まったくその通り、とバグネットの女房はこうもり傘で返事をする。
「母と、それから僕の感謝もいっしょに受けてください、奥さん。ケベックとマルタにキスしてあげてくださいよ。僕の名づけ子によろしくね。リグナムには僕の握手を伝えてください。それから、これはあなたに。これが金貨一万ポンドならいいんですがねえ!」こういうと、彼はバグネットの女房の日にやけた額にキスをする。そして彼を残して独房の扉が閉まる。
親切な老婦人がバグネットの女房に、どうかこのままお宅まで馬車に乗り続けていってください、といくら頼んでも、女房はがんとしてきかず、デッドロック邸の戸口の前で元気よく馬車から飛び下り、老婦人を階段の上まで送りとどけると、握手をしてからずんずん歩き去ってゆく。間もなく彼女はバグネット一家に囲まれると、なにごともなかったように野菜を洗いはじめる。
准男爵令夫人は、殺された弁護士と最後に言葉を交したあの部屋の、その時と同じ椅子に座り、その時故人が奥方をじっくり眺めまわしながら立っていた炉端を、じっと見つめていると、ドアを叩く音がする。誰だえ? ラウンスウェルでございます。なんだってこんなに不意に、ロンドンにやって来たのかえ?
「奥方さま、困ったことが起りました。なんとも悲しいことなのでございます。少々お耳を拝借出来ましょうか?」
またもやどんなことがもち上って、この穏やかな老婦人がこんなにもふるえているのだろう? 前からよく思っていたことだけれども、私よりもずっとずっと幸せそうなこの老婦人が、どうしてこんなにおろおろして、妙に疑ぐるような目つきで私を見つめるのかしら?
「どうしたの? 腰をかけて、気をしずめなさい」
「奥方さま、奥方さま、見つかりましたのです――あんなに昔、家を飛び出して兵隊になっていた下の息子が、見つかりましたのです。それが、監獄に入っております」
「借金でもしたのかえ?」
「いいえ、違いますんです。借金くらいなら、私が喜んで払ってやるんですが」
「では、どうしてまた監獄に?」
「それが、奥方さま、殺人の容疑なのです。息子はぜんぜん――私同様に無実潔白でございますのに。あの、タルキングホーンさま殺人の容疑なのです」
どうしてこの女中頭はあんな目つきで、懇願するような身ぶりをするのだろう? どうしてこんなに私のそば近くに寄って来るのだろう? 手に持っている手紙はいったいなにかしら?
「奥方さま、ご親切な奥方さま、どうぞ私をあわれにお思いくださって、ご慈悲をおかけくださいませ。私は奥方さまがお生まれになる前からこのお屋敷にご奉公申し上げております。身も心も捧げつくして参りました。でも、どうぞ無実の罪を着せられた私のかわいい息子のことをお考えくださいまし」
「このわたしは、お前の息子に罪を着せたりはしませんよ」
「奥方さまはそうおっしゃってくださいますけど、ほかの人たちはそうはいいません。それで、息子は監獄につながれて、その身があやうくなっております。奥方さま、一言で結構でございますから、あの子の罪を晴らすお口添えをしていただけますなら――お願いでございます!」
いったいこれはなんの間違いかしら? この女は、私にこの無実の――もし無実ならば――容疑を晴らすどんな力があると思って歎願しているのだろう? 奥方さまの美しい目には驚きの色、ほとんど恐怖に近い色が浮ぶ。
「奥方さま、私は老いの身で息子を見つけに、昨晩チェスニー・ウォールドを発ちましたのでございます。幽霊の小道に聞えます足音は、これまでにないほどおもおもしく、絶え間なく響きました。夜ごと夜ごと、日が暮れますと、その足音は奥方さまのお部屋にこだまするのでございましたが、昨晩はこれまでになく恐ろしい響きでございました。そして昨晩、日が暮れましてから、私はこの手紙を受け取りました」
「それはなんの手紙?」
「しっ! お声が高うございます」老婦人はおびえたようにささやくと、あたりを見廻す。「私はこの手紙のことを、まだだれにも話してございませんし、書いてあることを信じもいたしません。それがうそいつわりであることはよく存じております。でも、私の息子は監獄につながれておりますのです。どうぞ奥方さま、私をあわれにお思いになってくださいませ。もしや奥方さまがなにか他人の知らぬことを、だれか怪しいと思う者を、なにか解決の糸口をご存知でしたら、それを外に洩らしてならぬご事情がおありだとしても、どうぞ私のことをお考えくだすって、そこをまげて、おっしゃってくださいませ。これが私の、せいいっぱいのお願いなのでございます。奥方さまは無情な方ではございません。それは私も存じております。でも、奥方さまはいつでもだれの手もお借りにならずに、ご自分の思うようになさっておられますので、お友達と親しくお附き合いなさることもありません。ですから、だれでも奥方さまをお美しい、上品なお方とあがめております――そう思わぬ者がおりましょうか?――が、そばに近寄りにくい、遠くにおられるお方と思っているのでございます。なにかご存知のことを、口に出すのも愚かしいとお考えになって、お腹立ちのご事情もおありかもしれませんが、もしそうでございましたら、どうぞお願いでございます。一生愛するお屋敷のためにご奉公申し上げました忠実な召使のことをお考えください。お情けをおかけくださって、息子の罪をはらすのにお手をおかしくださいませ。奥方さま」老婦人は真心をおもてにあらわして懇願する。「私めはいやしい身分の者で、奥方さまは生まれながらに高貴な、私とはまるで身分の違うお方ですから、私のような者が子供をどんなに思っておりますか、お考えにもなるまいとは存じますけれども、私とても子供のことをたんと[#「たんと」に傍点]思えばこそ、ここにまかり出まして、私どもにも少しは目をおかけくださいませ、この危急の場合に私どもを踏みつけになさるようなことのないようにと、あつかましくもお願いしているしだいなのでございます」
奥方さまはひとことも口をきかずに相手を起してやり、その手から手紙を受け取って、
「わたしがこれを読めばいいの?」
「私がいってしまいましてから、お読みください。その節は、どうぞ私のせいいっぱいのお願いをお忘れくださいませんように」
「わたしにはどうしたらよいのかわからない。お前の息子のことで、わたしはなにひとつ隠しだてをしていることはありませんよ。お前の息子に罪を着せたこともありません」
「奥方さま、その手紙をお読みくだされば、無実の罪を着せられております息子のことを、いっそうあわれにお思いになると存じます」
老婦人は奥方の手に手紙を残して立ち去る。確かに奥方は生まれながら無情な人間ではないし、昔だったら、こんなにまごころこめて歎願する老婦人の姿を見て、あわれみの情をもよおしたことであろう。だが、彼女はこうも長い間自然の感情をおし殺し、人間本来の姿をおし隠す習慣がついてしまって、ひとりよがりの気持ばかりを身につけてしまったのだった。ちょうどこはく[#「こはく」に傍点]の中に閉じ込められたはえのように、自然の人情を閉じ込めて、善も悪も、情も無情も、分別も盲目も、全部おしなべて同じつや[#「つや」に傍点]で染めてしまうような、無茶な教育を受けてしまったものだから、今にいたると、自分でそれがおかしいと思う気持すら、おし殺してしまうようになったのである。
奥方は手紙を開く。中には、心臓を射ち抜かれ、うつぶせに床に倒れた死体発見の新聞記事の切り抜きが入っており、その下に「殺人犯」、さらに奥方自身の名が書き加えられてある。
切り抜きがぱたりと彼女の手から落ちる。どれほどのあいだ床の上に落ちていたか、自分にも覚えがない。が、ふと気がつくと、切り抜きは相変らず床の上に落ちており、召使が彼女の前に立って、ガッピーというお若い男の人がお見えになりました、と告げている。きっとその名前はいく度もくり返されたのだろう。しばらくの間彼女の頭の中に、その名がこだまのように鳴り響いたあげくの果てに、やっとその言葉の意味がつかめるようになった。
「ここへ案内しなさい!」
客が入って来る。彼女は床から拾い上げた手紙を手にしたまま、なんとか気持を落ち着けようと努める。ガッピー君の目に映るのは、いつもの通り落ちつきはらい、つんとして、冷やかな態度のデッドロックの奥方さまである。
「奥方さま、二度と会いたくもない男の訪問を、最初はお腹立ちになるかもしれません――それもごもっとものことと存じます。なんとなれば私自身、表面上はお訪ねする理由がなにもなかったと認めねばならないからです。しかし、私がその動機を申し上げましたら、お許し願えることかと存じます」
「どうかいってください」
「有難うございます、奥方さま。まず最初に申しておかねばなりませんが」ガッピー君は椅子のへりに浅く腰を下ろし、帽子を足もとのじゅうたんの上に置く。「奥方さまに以前申し上げましたように、サマソンさんはある時期私の心に忘れがたい面影を残してくれたのでありましたが、私としましてはどうしようもない事情のために、忘れねばならぬしだいとあいなったのでありますが、そのサマソンさんが、このまえ私が奥方さまにお目通りの栄に浴しました後で、自分に関することではなにも手を出さないで欲しいと、私に特にくれぐれも申されました。サマソンさんの希望は私にとりましては至上の法律でございます(もっとも、私としてはどうしようもない事情に関しましては別でありますが)ので、それゆえ私といたしましては、二度と奥方さまにお目通り願うつもりはございませんでした」
それなのに、今ここにやって来たではないかと、奥方が不機嫌な口調でいう。
「それなのに、私は今ここにやって参りました。私のつもりでは、奥方さまにごく内々に、ここにやって参りましたわけをお話しいたすはずでございます」
では、どうか手短かに、はっきりいって欲しいと、奥方が命ずると、ガッピー君は侮辱されたような面持で答える。
「奥方さま、私がここにやって参りましたのは、べつだん私の私事からではない、ということを、特にくれぐれもご承知いただかねばなりません。べつに自分のためを思って、ここに参ったわけではございません。私がサマソンさんと約束をし、その約束を天地神明に誓って守るつもりがございませんでしたら、まったくの話、ふたたびここの敷居をまたぐこともなく、敬して遠ざけたことでございましょう」
この機を利用して、ガッピー君は両手で髪の毛をさか立て始める。
「私が申し上げますと、奥方さまに思い出していただけると存じますが、この前ここに参上いたしました時、私は私どもの名高い同業者、最近亡くなられて皆から|悼《いた》まれておりますある人物と出会いました。その人物はその時以来、私にいわせますと、えらくすごうで[#「すごうで」に傍点]をふるいまして、私の邪魔だてをいたしまして、なにかにつけましては私に、うっかりサマソンさんの意に逆らう行動をとらせるように仕向けたのでございます。しかし手前みそ[#「みそ」に傍点]はあまりほめたものではございませんが、私は仕事にかけましてはそれ程のどじ[#「どじ」に傍点]ではございません」
それはどういう意味? というように、奥方はきついまなざしを彼に向ける。とたんにガッピー君は目をそらし、あらぬ方を眺める。
「その人物が他の人々と手を結んでなにをもくろんでいるのか、想像するだに難いことでございましたので、最近亡くなられますまでは、私は完全にお手上げ――しもじもの言葉をご存知ない奥方さま、これはつまり困惑と同じ意味とお考えください。それにまたスモールも――これはまた別人物で、私の友人で、奥方さまのご存知ない者でありますが――ときにえらくこそこそ二枚舌を使うことがありますので、知らん顔をしているのはなまやさしいことではありませんでした。でも、私のささやかなる腕前と、両者共通の友人トニー・ウィーヴル(これはたいそう貴族趣味の男でございまして、奥方さまの肖像をいつも自分の部屋に飾っております)の助けによりまして、今や私はある懸念を持つにいたりました。そこで、奥方さまにお気をつけくださるようご注進に参ったわけであります。第一に、失礼なお尋ねでありますが、今朝奥方さまのところに見なれぬ訪問客がございませんでしたか? 私の申すのは上流の方々のお客さまではありませんで、例えばミス・バーバリの昔の女中だとか、下半身がきかないので、ガイ・フォークス(1)のわら人形みたいに、担がれて上って来た人間とか、ですが」
「そんなことは知りません!」
「それでは申し上げますが、そのような客が間違いなくこのお屋敷の、それも中までやって参りました。私はご門のところで連中の姿を見かけ、連中が出て来ますまで広場の隅で待っておりましたのですから。連中に会わぬようにと、私は三十分ばかりそのへんをぶらぶらしていたのでございます」
「それが私となんの関係があるの? あなたにもなんの関係があるの? 私にはわからない。それはどういう意味?」
「奥方さま、私はお気をつけくださるよう、ご注進に参ったのです。そんな必要はないかもしれません。それなら、それでよろしいのです。それで私はサマソンさんとの約束を果たすために、最善を尽くしたことになるのですから。私の推測では(スモールがふと洩らした言葉や、私どもがそいつからむりやりに聞き出したことなどから察してです)、私がこの前できれば奥方さまにお見せするはずと申していた手紙の束は、私の思っておりましたように焼かれたのではありませんでした。もし、なにか密告の種があったとするならば、すでに密告はなされております。私が先刻申しました客は、それで金をせしめるために今朝このお屋敷に参ったのであります。金をすでにせしめたか、これからせしめようとしているか、です」
ガッピー君は帽子を拾い上げると、立ち上る。
「私の申しましたことがつまらぬことか、重大なことか、これは奥方さまが一番よくご存知のはずです。いずれにもせよ、私はできるだけサマソンさんの御意に添うようにと、余計なおせっかいもやきませんでしたし、やりかけたこともふい[#「ふい」に傍点]にいたしました。私はこれで充分です。万一そんな必要もないのに、奥方さまに気をつけるようになどと無礼な口をききましたのでしたら、その無礼をお忘れくださいますよう、どうぞお願いいたします。私のほうもいつかはお許し願えるように、せいぜい心掛けるつもりです。ではこれでご免をこうむります。今後二度とふたたびおん前にまかり出るようなことはございませんから」
この別れの言葉に奥方はろくに目もくれず、客が立ち去ってややあってから、呼鈴を鳴らす。
「旦那さまはどちらに?」
|御前《ごぜん》さまはお一人で書斎にこもっていらっしゃいます、との従僕の答え。
「今朝旦那さまのところにお客さまがあったかえ?」
用談のためのお客さまがなん人かいらっしゃいました。それからその|風体《ふうてい》の説明にかかる。ガッピー君のいっていた通りの風体だ。よろしい、もうさがってよい。
やっぱりそうだった! 万事休す! 今や奥方の名前は多くの口さがない連中の口に上り、夫は自分が妻からひどい仕打ちを受けたしだいを知り、彼女の恥辱は世に知れる――いや、こう思っている間にも世に広まりつつあるのだろう――夫は思いもかけなかったが、奥方はかねてからいつかは来ると恐れていたこの一撃がついに下った。かてて加えて、姿なきなに者かによって、彼女はその敵の殺害犯人と訴えられているのだ。
確かにあの男は彼女の敵だった。これまでいく度もいく度も、あの男が死ねばいいと願ったことがあった。ところが、死んでも相変らず敵なのだ。まるで死せる彼の手が新たな責苦をもたらしたかのように、この恐ろしい殺人の罪がかぶさって来たのだ。あの晩ひそかに彼の事務所の戸口まで出かけたこと、それからその直前、ただ人目に立つのをはばかって、お気に入りの小間使に暇を出したことが、他人にどう受け取られるだろうかを考えると、彼女はまるで死刑執行人の手がわが首もとにかかっているかのように、身ぶるいを覚えるのである。
奥方は床の上に倒れ伏し、髪を一面にふり乱して、顔を長椅子の座ぶとんに埋めている。つと身を起して、急ぎ足であちこち歩き廻るかと思えば、また倒れ伏し、身をゆすって|呻《うめ》き声を発する。奥方を襲った恐怖は、とても言葉ではいいつくせないものだ。もしかりに本当に殺人犯だったとしても、この時以上の恐怖にかられはしないだろう。
というのは、もし真犯人だったとしたなら、殺人決行前にどんなに入念に注意を払ったとしても、その殺意のきわまるところ、憎むべき人間の姿が途方もなく大きく立ちはだかり、殺した後にどうなるかまでを考えることはなかったろう。そして――これは殺人が行なわれる時にいつでも起ることだが――相手が倒れたそのとたんに、この後どうなるのかという恐怖が、思いもかけぬ洪水となってどっとばかりに押し寄せて来たことだろう。というわけで、彼がかつて彼女の一挙手一投足までを見張り続けたあげく、彼女が「いっそなにか致命的一撃があの邪魔な老いぼれの上に下って、かたをつけてくれればよい」なぞとよく考えたものだったが、それはただ、彼が手中に握っている自分に不利ないっさいのことが四散し、ばらばらになって欲しいと願っただけなのだ。彼が死んだ時に、いけないことだが彼女が正直いってほっとしたのも、同じ気持からだった。だが、彼の死は結局、頭の上に陰気にのしかかっているアーチのかなめ石が取り払われたことを意味するにすぎないのだった。そして今や、アーチは無数の破片となって、がらがらとぶつかり合い、こわし合いながら、落ちかかって来たのだ。
このような恐怖の念が奥方の心にしのび寄り、不吉な影を落す。この追っ手――生きているにせよ、死んでいるにせよ、今も忘れ得ぬあの格好で、彼女の面前に落ちつきはらって執拗に立っているにせよ、棺の中にやはり落ちつきはらって執拗に横たわっているにせよ――この追っ手から逃れるには死しかない。追いつめられて永遠に逃れ去るのだ。恥と恐怖と悔恨と悲歎とが混り合い、ぎりぎりまできわまるところ、彼女はついにがっくりとくずおれる。彼女の強い自負心すら、強風にめくられ、吹き飛ばされる一枚の木の葉にすぎないのだ。
急いで夫宛に手紙を一通したため、封をするとテーブルの上に置く。
[#ここから1字下げ]
もし私が彼の殺人の嫌疑を受け、追われる身となっても、どうか私の潔白を信じてください。私が無実潔白をいい通せるのは以上の点だけです。あなたがすでに耳になさったか、または今後耳になさる他のいっさいの私に対する汚名、罪名については、私は敢えて無実を申し立てません。あの恐ろしい晩に、彼は私の罪をあなたに明かすと私に予告を与えました。彼が辞して後、私はいつもの庭の散歩をよそおって外へ出ました。実は彼のあとをつけて、最後の歎願をしようと思ったからなのです。これまで私をさいなみ続けて来た――どんなに長い間か、あなたはご存知ないでしょうが――不安の恐怖をこれ以上続けさせないで、後生だからいっそのこと明朝明かしてしまってください、と。
彼の家へ来るとまっ暗で、しんとしていました。入口の呼鈴を一度鳴らしましたが、答えがないので、家に帰って来ました。
私にはもはや家はありません。今後もはやあなたにご迷惑をかけることもありません。これまであなたからいとも寛大な愛情を過分に賜わりながら、この家名に泥を塗った女に対して、お腹立ちもごもっとものことと存じますから、どうかこの女をお忘れくださいますよう。あなたのもとを去ろうとしておりますのは、いま逃れようとしている恥辱よりもさらに深い恥を感じているからです。では、これが最後のおいとまごいです。
[#ここで字下げ終わり]
彼女はヴェールを下ろすと急いで身支度を整え、いっさいの宝石類や持ち金を部屋に残し、耳を澄ましてから、下の広間にだれもいない折をねらって階段を下り、正面玄関を開き、閉じ、吹きすさぶ寒風の中を行くえも知らず立ち去ってゆく。
[#改ページ]
第五十六章 追跡
いかにもそのよい|氏《うじ》素姓にふさわしく、デッドロック家のロンドンの屋敷は堂々として、陰気くさい同じ街なみの近所の家々を落着きはらってにらみつけ、家の中にとりこみ[#「とりこみ」に傍点]ごとのあることなど少しも外へあらわさない。馬車のがらがらと走る音、扉をどんどんたたく音、そして人々は訪問を交わし合う。|骸骨《がいこつ》のような|咽喉《のど》|首《くび》をして、昼間見るとまるで死神と乙女(1)をいっしょくたに鋳造したみたいで、いささか気味悪いくらい赤味を帯びたまんまるのほおをした昔の美女のなれの果てが、男の目をまばゆくさせ、ひえびえとした|厩《うまや》からはきゃしゃなつくりの馬車がゆらゆらと現れ、御者台には亜麻色のかつらをかぶった脚の短い御者が、ふわふわした掛け布に深くくるまって坐り、後部には派手な身なりの従僕が堂々たる杖を持ち、三角帽子をよこっちょにかぶって立っている。天使のための見世物だ(2)。
デッドロック家のロンドンの屋敷は外見は全然変るところがない。|内《うち》ではその堂々として退屈な気配がかき乱されるのは、まだもっと先のことである。ところがうるわしのヴォラムニアは、例によって流行性退屈病にすぐかかりやすく、そのおかげで気分がひどくすぐれないものだから、とうとう気ばらしのために思いきって書斎へ出かけることにする。軽く戸をたたいても返事がないので、開けてみると、だれもいないので、部屋を占領する。
あの緑の草の生い茂る老人の町バースでの評判によれば、この元気あふれるデッドロック家のご婦人は、いつも激しい好奇心にかられているとのことだが、その好奇心から都合不都合にかかわらず、ありとあらゆる時機を利用して、金ぶちめがねをかけてあちこち歩き廻り、ありとあらゆる種類の物をのぞき見る。それ故間違いなく今の好機をつかまざるべけんやで、彼女の従兄の手紙やら書付け類の上を鳥のようにぴょんぴょん飛んで廻り、この書類をちょいとついばむかと思えば、あの書類を見ては首をかしげて、目をパチパチさせたり、こっちのテーブルからあっちのテーブルへと、めがねをかけてせわしなくなんでも見てやろうとばかりにつつき歩いている間に、なにかにつまずいた。めがねをそちらの方に向けると、彼女の従兄が切り倒された大木のよう、床の上に横たわっているのを見つける。
ヴォラムニアおはこ[#「おはこ」に傍点]の金切り声で、この不意の驚きがさらにいっそうの現実味を増し、たちまち屋敷は大騒ぎとなる。召使は階段を上へ下へと駈け廻り、呼鈴を乱暴に鳴らし、医者を呼びにやり、奥方さまを屋敷中探し廻るがどこにも見つからない。奥方さまはさっき呼鈴をお鳴らしになって以来、どこにも姿も声も聞いた者がいない。レスタ卿に宛てた彼女の手紙がテーブルの上に見つかる――が、御前さまに宛てて、受取人じきじきに答えよという、もう一通のあの世からの呼出状がはたしてやって来たものやらなにやら、まだはっきりはわからない。今はまだ、生きている人間の言葉も死人の言葉も、どちらも同じことなのである。
御前さまのからだをベッドに入れ、さすったり、風を送ったり、頭に氷をのせたり、生き返らせようとありとあらゆる手段を尽くすのだが、そのうちに日もとっぷり暮れて、部屋に夜のとばりが落ちる頃になり、やっと卒中の高いびきが静まり、うつろに開いたままの目は、すぐ前でろうそくをときどき左右に動かすと、それを認めるようになる。しかしいったん変化が始まると、それは止むことなく続き、間もなくうなずいたり、目を動かしたり、ついには手を動かしたりして、相手のいうことが聞える、わかるという合図をするまでになる。
いささか持病に悩まされるとはいえ、まだ頭もはっきり、顔だちも立派なこの御前さまは、けさ倒れたのであった。いまや頬は落ちくぼみ、老いさらばえ|瘠《や》せ衰えた幽霊のような姿でベッドに横になっている。つい先刻まで彼の声は朗々と豊かで、まるで声音そのもののうちになにか重大なものが宿ってでもいるかのように、なにを語っても他人に大きな感銘を与えることができると、いつも自信満々であったのに、今はささやき声を出せるだけ。しかもそのささやきたるや――ちんぷんかんぷん、まるでわけのわからぬことばかり。
御前さまお気に入りの忠実な老女中頭が枕もとに控えている。御前さまはまずなによりも先にそれに気がつくと、見るからに嬉しそうな様子をする。なんとか言葉で意を伝えようと努めたが駄目なので、彼は石筆をくれという身振りをする。その身振りもなんとも不可解なものなので、初めのうちは誰もその意味がわからない。なにを欲しがっているかを察し取って、石板を持って来たのはその老婦人である。
彼はしばらく考え込んでから、以前とは似ても似つかぬ筆蹟でゆっくりと、「チェスニー・ウォールド?」と書きなぐる。
いいえ、と老婦人がいう。ここはロンドンですよ。御前さまはけさ書斎でご病気になられたのです。たまたま私がロンドンにいて、お世話出来ますのは、本当に幸いでした。
「御前さま、重病ではありませんよ。明朝になればずっとよくおなりになります。皆さんそうおっしゃっておられます」
こういう間にも、彼女の上品な老いた顔に涙がしたたり落ちる。
彼は部屋を見廻して、医者たちが控えている枕辺を特に注意深く眺めてから、また石板に書く。「奥方は?」
「奥方さまは、御前さまがご病気になられる前に外出されましたから、ご病気のことはまだご存知ありません」
御前さまは取り乱した様子で、ふたたび石板の言葉を指差す。皆で彼を静めようとするのだが、彼はいっそう取り乱した様子で、またもや石板を指差すのである。一同がなんと答えたらよいかわからずに、顔を見合わせていると、彼はもう一度石板を手にとると、「奥方、どこ? 頼む」と書き、なにかを訴えるように呻き声をあげる。
そこで、奥方さまの手紙の内容はだれもわからなかったし、想像もつかないが、ともかく老婦人がお見せするほうがいいということになり、彼女がそれを開いて御前さまの目の前に示す。彼はやっとの思いでそれを二度繰り返して読むと、その手紙を人目につかぬように下へおしやると、また呻き始める。いわばまた病気のぶり返しか失神かで、一時間もしてやっとまた目を開き、忠実で愛情あふれる老いたる召使の腕にもたれかかる。医者たちもそうするのが彼にいちばんいいとわかったので、特に手当を加えていない時は、傍に控えたままでいる。
また石板が入用になる。だが、彼は書こうと思った言葉が思い出せない。この時の彼の不安と熱意と苦悩は見るもいたいたしいくらいだ。急を要すると感じていながら、なにをしたらいいのか、だれを呼んだらいいのかをいいあらわせないそのつらさに、いまにも気も狂わんばかりの様子で「バ」という字を書くと、また止ってしまう。彼のせつなさが絶頂に達したところで、突然「ミスター」をその前につける。老婦人がバケットじゃないですかと尋ねる。ああ有難い! その通りだ。
バケットさまはご命令で|階下《した》に控えております。呼びますか?
レスタ卿が警部に会いたくてじりじりしていること、女中頭以外の一同に席をはずしてもらいたいと思っていることは、見ただけではっきりわかるほどなので、すぐその通りにした。バケット警部がやって来る。レスタ卿はそのやんごとなき権威も振り棄てて、この世のだれにもましてこの男だけを信頼し、万事を託したがるのである。
「レスタ・デッドロック准男爵閣下、ご病気とはいけませんですな。どうか元気をお出しください。お|家《いえ》の名誉のためにも、元気を出してください」
レスタ卿は奥方の手紙を彼に渡し、相手がそれを読んでいる間、その顔をじっと見つめている。読むにつれて、これでわかった、というように警部の目が光り出す。まだ目で手紙の字を追いながらも、例の指をかぎの形に曲げて、「レスタ・デッドロック准男爵閣下、わかりました」と合図をする。
レスタ卿は石板の上に「すべて許す。見つけ出――」と書いたところで、警部は閣下の手を止める。
「レスタ・デッドロック准男爵閣下、私は見つけ出します。ですが、私の捜索は今すぐに取りかからねばなりません。一分一秒たりとも無駄には出来ません」
レスタ卿の目がテーブルの上の小箱の方に向くのを素早く読みとって、
「レスタ・デッドロック准男爵閣下、あの箱を持って来いとおっしゃいますか? かしこまりました。この鍵の一つで開けろと? かしこまりました。いちばん小さい鍵? わかりました。|札《さつ》を取り出せ、と? 承知しました。数えろ、と? ただいま数えます。二十と三十で五十、それに二十で七十、それに五十で百二十、それに四十で百六十。それを費用に使え、と? かしこまりました。もちろん後刻明細書をお見せいたします。費用を惜しむな、と? 承知しました」
バケット警部がこうした点で相手の心を読みとる素早さと確かさとは、まさに奇蹟である。明りを掲げているミセス・ラウンスウェルが、彼の目と手の動きを見て自分も目が廻りそうになっているうちに、警部は出発の支度が出来て立ち上る。
「奥さん、あんたはジョージのお母さんだね。その通りだろうね?」すでに帽子をかぶり、外套のボタンをかけながら、警部はそっと尋ねる。
「はい、私があれの悲しめる母でございます」
「そうだろうと思った、今しがた私の聞いた話でな。ところであんたにいって聞かせることがある。あんたはもう悲しむ必要ない。あんたの息子さんは釈放だ。これこれ、泣くんじゃない。あんたの仕事はレスタ・デッドロック准男爵閣下の看病じゃないかね。泣いてちゃその大事な仕事が出来んよ。息子さんの件は万事解決だ。息子さんからどうかよろしく、お母さんお元気で、とことづかって来たよ。息子さんは青天白日、その通りだとも。あんた同様なんのきずひとつつかない。あんただってそうだろう。一ポンド賭けてもいいが、私の言うことは信用してもよろしい。だって、あんたの息子さんを逮捕したのはこの私なんだからな。その時も息子さんはなかなか見上げた態度だった。彼は立派な男だ。あんたも立派なご婦人。この母にしてこの子ありで、二人とも模範として巡回興行に廻ってやりたいくらいだ。レスタ・デッドロック准男爵閣下、閣下がお託し下さいました仕事を私はやりとげます。ご心配無用です。私は目的の人を見つけるまでは、右にも左にも寄り道ひとつせず、眠るのも、顔を洗うのも、ひげをそるのも忘れます。レスタ・デッドロック准男爵閣下のお言葉として、すべて心から許すと申せばよろしいのですな? かしこまりました。そう申します。どうか病気をお大事に。この現在の家庭内の事件も、過去、未来の同様な事件と同じく、最後には万事うまくおさまることを望みます」
この結びの文句でちょうどボタンを全部留め終えた警部は、はやすでに夜の闇をついて逃亡者の後を追うみたいに、まっすぐ前を見ながらそっと部屋を出て行く。
その第一歩は奥方さまの部屋に赴いて、どんな些細なことでも、彼の役に立つかもしれないものがあるかどうかを捜索することである。部屋は今や暗闇に包まれ、片手に持ったろうそくを頭上にかかげながら、およそ警部とは似合わしくないいろいろな上品な品物を、ひとつひとつ記憶に刻みつけながら歩いている姿は、確かにみものである――が、だれも見る者とていない。彼が特に気を配ってドアに錠をかけてしまったからだ。
「なかなかしゃれたブードワール(3)だわい」けさの出来事以来、いささかフランス語にみがきがかかったような気分になっているバケット警部がいう。「うんとこさ金がかかったことだろう。これだけのものを置いて逃げるなんて、よっぽど夫人は追いつめられてたんだなあ」
テーブルの引出しを開けたり閉めたり、小箱や宝石箱をのぞいたりしながら、彼は自分の姿がいろいろな鏡に映るのを見て、ひとつ説教を垂れる。
「人が見たら、まるでわしが上流社交界に出入りして、オールマック(4)に顔出ししていると思うだろうな。自分でも気のつかぬうちに近衛兵の伊達男(5)になったみたいな気がしてくる」
あたりを見廻すことなく、内側の引出しの中のしゃれた小箱を開き、彼の大きな手ではほとんど感じられないほど、軽くてしなやかな手袋をひっくり返すと、白いハンカチーフを見つける。
「ふふん、ひとつお前さんを拝見といくか」ろうそくを下におろす。「どうしてお前さん、ひとりぼっちでこんな所に入れられているんだい? どういう動機からだい? 奥方さまの持物かい、それともだれかほかの人のものかい? どこかにしるしがついているだろうね、きっと?」
しるしを見つけると、読み上げる。「エスタ・サマソン」
「そうか!」指を耳もとにもってゆくと、ちょっと言葉を切って、「じゃあ、お前さんを連れてゆくぜ」
警部はそれまでと同じように、そっと注意深く捜査の後始末をつけ、いっさいの品物をきちんともとの通りにすると、五分ばかり後にするりと外の通りへ抜け出る。ぼんやりと明りのともったレスタ卿の窓をちらと見上げてから、足早にもよりの貸馬車の立て場に向い、金に糸目をつけずに馬を選び出すと、例の射撃練習場へやれと命ずる。バケット警部は馬にかけて学者的知識をもっているとは義理にもいえないが、その方面に関する主なる事件にいささかの金をかけているから、結局のところ、これならいけそうと彼がにらんだ馬なら、まず間違いないというところまでになっている。
今度の場合でも、彼の目に狂いはない。危険なくらいのスピードで、石畳の上を|蹄《ひづめ》の音も高く走らせながらも、真夜中の街頭ですれ違うこそこそ歩きの通行人の一人一人を、すでに床についているか、これからつこうとしている道端の家々の高い窓の明りを、通りすぎる街角のひとつひとつを、雲が重くたれこめた空を、薄く雪の積った地上を鋭い目で見つめつつ――というのは、どこに彼の捜索に役立つものが現れるかわからないから――あっという間に目的地に着くので、彼が降りる時、馬のもうもうたる鼻息の湯気で、あやうく窒息せんばかりになる。
「ちょっとのあいだ馬を馬車からはずして、ひと息入れてやれ。おれはすぐ戻って来るから」
長い木の入口を駈け上ると、軍曹はパイプをふかしているところである。
「ジョージ、君にあんな辛い思いをさせた後で、お願いするのもなんだが、今は余計な弁解をしている暇はない。本当だ! 名誉にかけていうが、すべてこれ一人のご婦人を救うためだ。グリドリー――たしかそういう名前だったね――よし、その通りだ!――あの男が死んだ時にここにいたサマソン嬢、あの方の住所はどこだ?」
騎兵軍曹は今そこから戻ったところだといい、オックスフォード街近くの住所を教えてやる。
「ありがとう、ジョージ。これは絶対に悪いようには使わんよ。おやすみ!」
警部はさむざむとした|炉端《ろばた》に坐り、ぽかんと口を開けて彼を見つめているフィルの姿をちらと見ながら駈け足で立ち去ると、またもうもうたる鼻息の湯気の戸外に出る。
家の中で一人起きているジャーンディス氏が、まさにこれから寝ようとしている時、あわただしい呼鈴の音がするので、読んでいた本をおいて立ち上ると、化粧着のまま玄関に下りて来る。
「どうか驚かないでください」たちまち訪問客は、なれなれしくいっしょに玄関の中まで入って来ると、ドアを閉め、錠をかけたまま立ちはだかって、「前に一度お目にかかったことがございます。バケット警部です。このハンケチをご覧になってください。エスタ・サマソン嬢のです。今から十五分前に、デッドロック閣下の奥方さまの引出しの中にしまってあったのを、私が発見したのです。一刻も無駄に出来ません。生死の問題ですから。あなたさまはデッドロック家の奥方をご存知で?」
「ええ」
「今日あることが発覚して、家庭内のある出来事が表沙汰になりました。レスタ・デッドロック准男爵閣下はお倒れになりまして――卒中か、半身不随かです――まだ回復していません。それで貴重な時間が無駄になってしまったのです。奥方さまはこの午後家出をなさって、ご主人あてに書置きをなさいました。それがどうも困った文面なのです。どうかご覧ください。そら、これです!」
ジャーンディス氏は読み終ると、どう思いますかと警部に尋ねる。
「わかりません。自殺らしく見えます。ともかく、刻一刻とそれに近づきつつあるおそれがあります。今よりももっと早く仕事を開始できたら、私は一時間につき百ポンド出したって惜しくはないんですがねえ。ところで、ジャーンディスさん。私はレスタ・デッドロック准男爵閣下の命を受けて、奥方さまを追跡発見し――奥方さまをお救いして、いっさいを水に流して許すという閣下のお言葉を伝えねばなりません。私は金と充分な権限は持っておりますが、もうひとつ他のものが入り用です。サマソン嬢が入り用なのです」
ジャーンディス氏はうろたえた声で、おうむ返しにいう。「サマソン嬢ですって?」
「よろしいですか、ジャーンディスさん」これまでじっと目をこらして、相手の顔を読みとっていた警部がいう。「私はあなたさまが温かい人情の持ち主と思っておりますからこそ、また今はふだんとは違った緊急非常の場合なので、こう申し上げているのです。もし、一瞬の遅延が致命的となる場合があるとすれば、それは今ですぞ。もし、後刻あなたさまがその遅延をもたらした張本人として、一生くやまれることがあるとするならば、それは今のことですぞ。前にも申しましたように、一時間につき少なくとも百ポンドにも価いする貴重な時間が、デッドロック家の奥方が家出をなされてから、すでに八時間ないし十時間も無駄に過ぎているのです。私は奥方を見つけよとの命を受けております。いやしくも私はバケット警部です。奥方さまはいろいろと重い責苦を身に負うておられますが、その上に殺人容疑者の|濡《ぬ》れ|衣《ぎぬ》を負うていると、ご自分で思い込んでおられる。もし私が一人だけで追跡いたしますと、奥方さまはレスタ・デッドロック准男爵閣下が私に申されたことをご存知ありませんから、自暴自棄におちいるかもしれません。ところが、もし私が一人のお嬢さん同伴で、しかも奥方さまがたいへん可愛がられていた――いえ、私はなにもお尋ねしませんし、これ以上はなにも申しますまい――そのお嬢さんの人相そっくりのお方同伴で参れば、私は敵意を持っていない男だと信用してもらえるはずです。あのお嬢さんとごいっしょして、お嬢さんを先に立てて奥方さまの急所を握ることができれば、奥方さまがもしまだ生きておられれば、お救いして説得できましょう。お嬢さんと二人で出かければ――これは辛い仕事ですが――私は最善を尽くすつもりです。でも、なにがその最善かは保証できません。時はどんどん経ちます。もう一時近くです。一時が打てば、また一時間遅れをとることとなります。そうなると一時間が百ポンドでなくて、千ポンドの価いになりますぞ」
まことに警部のいう通りで、事態が緊急非常であることは疑うべくもない。ジャーンディス氏は彼に、サマソン嬢に話をしますからそこにお待ちを願うというと、警部は承知しましたと口ではいうが、いつものやり口で、黙って待つようなことはしない――後について|階上《うえ》に上って、相手の姿を見失うまいとする。というわけで、ジャーンディス氏とサマソン嬢が話を交している間、彼は階段の暗闇のあたりにひそんで、様子をうかがっているのだ。待つこともなくジャーンディス氏が下りて来ると、サマソン嬢はすぐにやって来て、どこへなりともご同行いたします旨を伝える。バケット警部は満足して、それはたいへん結構ですというと、玄関で彼女の来るのを待ち構える。
そうしながらも、彼は頭の中で高い塔に登って、広くあたりを見廻す。街頭をこそこそと一人ぼっちで歩く人影がたくさん目にとまる。家の炉端に座っていたり、街道筋をとぼとぼ歩いたり、また干し草を積んだ山の下に寝ている、一人ぼっちの多くの人影が見える。だが、彼の求める人影はそこにはない。橋の欄干の蔭で一人ぼっちで下の川面を眺めている人影、水面近くの暗闇に一人ぼっちでうずくまっている人影が目に映る。さらに、それよりももっと一人ぼっちで、潮の流れとともにただよっている、まっ黒で姿かたちもよくわからぬ物体が、わらをもつかむような姿で彼の目をひこうとしている。
彼女はどこにいるのだろう? 生きているにせよ、死んでいるにせよ、どこにいるのだ? もしかりに、彼があのハンケチを折りたたんでうやうやしく持ち上げると、なにか魔法の力がはたらいて、奥方がそのハンケチを見つけた場所、それがあの幼な児の顔の上にかかっていた小屋近くの夜景が、目の前に浮んで来るのだとしたら、彼はそこに奥方の姿を見出しただろうか? 荒野の果て、煉瓦を焼くかまどが薄青い光を出して燃えているあたり、煉瓦を造る惨めなあばら家のわら屋根が、風のまにまに散らばっているあたり、粘土も水も堅く|凍《い》てつき、やせこけた、めくらの馬が、一日じゅうぐるぐる、ぐるぐる廻って歩いている粉ひき小屋が、まるで人間の責苦の道具みたいな様子を見せているあたり――こうしたひとけのない、荒涼たる野を横切って、とぼとぼ歩く一人ぼっちの人影がある。この哀しい|憂《う》き世に唯一人、雪に叩かれ風に打たれ、あたかもすべての同胞から追放されたかのよう。それは一人の女の影だ。だが、ひどい身なりで、デッドロック家のお屋敷の広間や大玄関では、これまで一度も見たことのないような着物を身にまとっている。
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第五十七章 エスタの物語
私が床についてもう寝入っておりました時、ジャーンディスさんが私の部屋の戸を叩いて、すぐ起きるようにと申されました。私が急いでどうしたのですかとおたずねしますと、おじさまはひとことふたこと前置きをおっしゃってから、レスタ・デッドロックさまのお宅でことが表沙汰になったこと、私の母が家出をしたこと、いま私たちの家の玄関に一人の男がやって来て、もし母を見つけ出せれば、その身を守って、いっさいを水に流して許すという准男爵さまのお言葉を伝える権限をゆだねられているのだが、万一彼の説得が功を奏さない場合、私の懇願なら相手にきいてもらえるだろうから、ぜひ私に同行して欲しいといっている、とこういったことを私にお話しなさいました。ざっとこういったような意味だったと私は理解したのですが、私の頭の中には恐怖と狼狽と心労とが、ごっちゃに渦を巻いて、いくら落着こうと努めても、なん時間もたつまで気をしっかりととり直せなかったように自分でも思えるのです。
でも、私はチャーリーや他の誰も起さぬようにして、急いで身支度を整えると、バケット警部のところへ下りてゆきました。そこへ下りてゆく途中に、おじさまは、その人が秘密を託された人だということ、またどうして警部が私の名を思いつくようになったかの次第を話してくださいました。下の広間でバケット警部は、ジャーンディスさんのかざすろうそくの明りで、母がテーブルに残していった書置きの手紙を低い声で読みました。それから、私が起されて十分とたたぬうちに、もう私は警部の横に坐って、急いで馬車を走らせていたのでした。
警部はたいそう鋭い、でも思いやりのある口調で、あなたにこれからおたずねする二、三の質問に、はっきり答えていただけるかどうかが大事なことなのですから、と説明なさいました。その質問とは、おもに私がこれまで母(警部はデッドロック家の奥方という言葉を使うだけでしたが)とかなり交渉があったかどうか、このまえ母と口をきいたのはいつ、どこであるのか、どうして母が私のハンケチを手に入れることになったのか、ということでした。この点について私がお答えをすると、警部は私に――ゆっくり落着いて――特に注意をはらって考えて貰いたいのですがと前置きしてから、あなたの知っておられる限りで、奥方がぎりぎり決着の場合となったら、ひょっとして頼ってゆくような人が、どこでもいいけれどもだれかいるでしょうか、とたずねました。私はジャーンディスさんの名しか思いつきませんでした。が、やがて私はボイソーンさんの名前をあげました。その名を思い浮べたのは、あの方が前にたいそう騎士道あふれる態度で私の母の名前を口になさったことがあったこと、またあの方が私の母の姉と婚約なさっていて、ご自分では気づかぬうちに母のかわいそうな物語に関係しているのですと、おじさまが私にお話しなさったことなどを思い出したからです。
私たちがこの話をしている間、お互いの言葉がよく聞きとれるように、警部は御者に車を止めろと命じていましたが、また進めの命令を発しました。それからしばらく一人で考え込んでいた後に、どんな方針でゆくか決心が固まったといって、その計画を進んで私に話してくれたのですが、私は頭が混乱してそれをはっきり理解できないありさまでした。
私たちの住居からかなり遠くまでやって来た頃、裏通りにある、ガス燈のついたなにか公けの建物らしいところで馬車が止りました。バケット警部は私を中に案内して、ぱちぱち燃える炉端の肘掛椅子に座らせてくれました。壁に掛った時計を見るともう一時過ぎでした。徹夜で起きている人とはおよそ思えぬくらいきちんと制服を着た二人の警官が、机に向って黙ってなにかを書いていました。あたりはしんとしていて、地下の遠くの方で、扉をどんどん叩く音や、どなったりする声が聞えるだけでしたが、だれもそんなものに気を留めませんでした。
バケット警部は制服を着た三人目の人を呼んでなにか小声でいいつけますと、その人は出てゆきました。それから残った二人は相談し合い、一人は警部が低い声でいう言葉を書き取りました。それは私の母の人相書で、でき上ると警部が持って来て、小声で私に読んで聞かせてくれましたが、たいそう正確でした。
第二の警官はそれまで人相書にじっと目を注いでいましたが、その写しをこしらえると、別の制服の人(外の部屋には他にも数人いました)を呼び寄せてそれを持ってゆかせました。こうした仕事はすべて一刻の無駄もなくてきぱきと行なわれたのですが、それなのにだれ一人として忙しそうにしている者はいません。手配書が送り出されると、二人の警官はまたもとのように、きちんと注意深く筆を動かし始め、バケット警部は考え込んだまま近寄ると、炉の火で靴の裏を片方ずつ温めるのでした。
「サマソンさん、身支度は充分できていますか?」警部は私と目が合うとたずねました。「今夜はお嬢さんが外出なさるには、ひどくきつい晩ですからな」
私はお天気なんか平気ですし、暖かく着込んでいますと答えました。
「長びくかもしれませんぞ。でも、首尾よく終れば心配はご無用です」
「首尾よく終りますよう、神さまにお祈りいたしますわ」
警部は慰め顔で首をこっくりすると、
「なにをなさるにしてもですな、どうかいらいら、やきもきしないで下さいよ。どんなことが起っても、落着いて平気でいて下さい。その方があなたのためにもいいし、私のためにもいいし、デッドロック家の奥方のためにもいいし、レスタ・デッドロック准男爵閣下のためにもいいんです」
警部は本当にとてもやさしく親切でした。炉端に立って靴をあぶりながら、人差指で顔をこすっている姿を見ていると、警部のかしこさに信頼が持てて、こちらも安心するのでした。一時四十五分頃、外に馬の足音と馬車の音がしました。「さあ、サマソンさん、出掛けましょう」警部が申しました。
警部に腕をかしてもらい、二人の警官におじぎで送られて外へ出ると、入口のところに二頭立て、御者付きの四輪馬車が一台止っていました。バケット警部は私を車に乗せ、自分は御者台に坐ると、さっき使いに出してこの馬車を呼んで来させた制服の警官に命じて、明暗自在のカンテラを持って来させ、左の曵き馬にまたがった御者に二、三命令を発すると、馬車は走り出しました。
私は自分でも夢かうつつ[#「うつつ」に傍点]かはっきりはわかりませんでした。すごいスピードで複雑に入り組んだ街なかを走り過ぎましたので、じきに今どこにいるのかわからなくなりました。わかっいるのは、二度もテムズ河を渡り、大河沿いの低地の人家がびっしり立ち並び、狭苦しい道路が錯綜し、ドックや船溜りや大倉庫やはね上げ橋や船のマストなどが、陸続と連なっているあたりを通り抜けたということだけです。とうとう馬車はとある街角に止りました。そこは泥だらけで、河から吹きつける風がぶつかっていつも薄汚れている場所でした。警部の持っているカンテラの明りで、警部が警官と船員のカクテルみたいな身なりの数人の男たちと話をしているのが見えました。その人たちが立っているすぐ傍の崩れかかった壁に看板が出ていて、「水死人」という字が読みとれました。おまけに地引き網についてなにか書いてある模様ですので、私はこんな所に来るところを見ると、もしや、という不吉な疑念に取りつかれてしまうのでした。
私がここに来ましたのは、つまらぬ私の感情にとらわれて捜索を難渋させたり、希望を遠のかせてますます手遅れにさせるためではないのですよ、と自分自身にいい聞かせる必要もなく、黙ってはおりましたものの、この恐ろしい場所でどんなに辛い思いをしたか、一生忘れることはできますまい。いつまでもなにかこわい悪夢にうなされているような気持でした。大きくふくらんでびしょびしょの長靴をはき、それに似たような帽子をかぶった泥まみれの真黒な男が、ボートから呼ばれてやって来ると、バケット警部といっしょにつるつる滑る段々を数歩下りて――なにか秘密のものを見せてもらいにゆくみたいに――行き、小声でささやき合っていました。二人はなにか濡れた物をひっくり返した後に、外套で手をふきながら戻って来ました。でも、ありがたいことに、私の恐れていた通りではなかったのです!
さらになにやら言葉を交してから、バケット警部は(だれからも顔を知られ、尊敬を受けているようでした)他の人達といっしょに入口から建物の中に入り、私は一人馬車に残されました。御者はからだを温めるために馬の傍らをいったりきたり歩いています。音から察して潮が満ちて来るところらしく、路地の突き当りの辺で水のぴしゃぴしゃいう音が聞え、さざなみが私の方に押寄せて来ます。そのたびごとに――せいぜい十五分か、それ以下だったのでしょうが、その間になん百回もくり返されたような気がしたのです――私は母の死体が馬の足もとに打ち寄せられて来るのではないかしらと思うと、身ぶるいがするのでした。
バケット警部はふたたび出て来ると、他の人たちに警戒を怠るなと命令し、カンテラを暗くすると、また御者台に座り、私の方を向くと、
「お嬢さん、私たちがここへ来たからといってこわがってはいけませんよ。私はただ万事をきちんと整えておきたい、きちんとなっているかどうか、自分の目で見届けたいだけなのですから。それ、進め!」
もと来た道を引き返したようでした。といっても、私は気もそぞろになっていたのですから、途中のものに特に注意をはらっていたというわけではないので、街の一般のたたずまいから見て、そう申したのです。馬車はまた別の事務所だか派出所だかにちょっと立ち寄り、またテムズ河を渡りました。初めから終りまで、外套に身をくるんで御者台に坐っていた警部は、一瞬の間も警戒の目をゆるめませんでしたが、橋を渡っている時は前よりもさらにいっそう緊張しているようでした。御者台から立ち上って欄干越しに覗き込んだり、一人の影のような女と風のようにすれ違うと、わざわざ馬車から下りて後を追ったり、私が見ただけで消え入りそうな顔をして、下に深くくろぐろと見える水面をにらんだりするのです。河は見るも恐ろしいばかりの様子で、陰鬱になにか秘密をはらんだように、低い平べったい両岸の間を矢のように流れてゆきます。姿もはっきりせず、身の毛もよだつような、影やら実物やらわからない姿かたちをいっぱいに漂わせて、不可解な死神のように流れます。それ以来日の光、月の光の下でこの河を眺めたことはいく度もありますが、いつでもあの晩の印象が忘れられないのです。私の記憶の中では、橋のランプはいつもぼっと薄暗く、身を切るような風が馬車とすれ違う家なし女(1)のまわりに渦を巻き、単調な|轍《わだち》の音はがらがらと響き、馬車のランプの明かりがうしろに気味悪く映って、まるで恐ろしい河の中から立ち上った蒼白い顔のように、私を見つめているのです。
ひとけのない通りをがらがら走り過ぎると、やがて石だたみの街路から暗い平坦な道に変り、あたりに家並もなくなりかかって来ました。しばらくして私は、通いなれたスントールバンズに向う道だとわかりました。バーネットでは新しい替え馬の準備ができていましたので、すぐ馬をつけ替えて走り続けました。たいへんな寒さで、雪は降ってはいませんでしたが、あたり一面雪で真白でした。
「この道はサマソンさんのおなじみでしょう?」バケット警部が元気な声でいいます。
「ええ。なにか情報がありましたか?」
「今のところはまだ信頼に足る情報はありません。でもまだ時間が早いですからね」
警部は明りのついている居酒屋(当時この街道は、家畜を追って市場に送る商人の往来が多かったので、夜遅くまで、あるいは夜明けからやっている居酒屋がかなりたくさんありました)をかたはしから聞いて廻り、通行料金取立て人に話しかけていました。酒を注文して、金をちゃらちゃらさせながら、どこでも愛想よく振舞っている警部の声を聞くことができましたが、馬車に戻って来るとふたたび油断のないきっ[#「きっ」に傍点]とした顔つきに戻って、いつでもそっけない態度で、「それ、進め!」と御者に命令するのでした。
こんなふうにあちこちで止りながらゆきましたので、五時と六時の間になっても、まだスントールバンズの手前数マイルのあたりでしたが、警部はとある居酒屋からお茶を一杯持って来て、私に下さいました。
「サマソンさん、飲んで下さい。元気が出ますよ。そら、だいぶ人ごこちがついたでしょう」
私はお礼をいって、ええ、そんなようです、と答えました。
「初めのうちはぽかんとしていたみたいですね。もっとも無理もありませんがね。いいですか、大きな声を出さないで下さいよ。間違いありません。あの方はこの先にいます」
私がどんな歓声を上げたのか、あるいは上げようとしたのか、自分ではわかりませんが、警部が指を上げますので、私は自分をおさえました。
「昨晩八時か九時頃、徒歩でここを通過しました。私は最初ハイゲイトのアーチウェイの通行料金取立て所で、奥方の情報をつかんだのですが、あまり確信が持てなかったのです。それからずっと足どりを追って来たのですが、見つけたり、見失ったりでした。ある所では通ったといい、別の所では通らないというんです。でももう、この先にいることは間違いありません。おい、給仕、この茶わんと受皿を持ってくれ。君がすぐ物をおっことすぶきっちょ[#「ぶきっちょ」に傍点]者でないんなら、いいか、もう片方の手で半クラウン銀貨(2)を受取るんだぞ。それ、一つ、二つ、三つ。さあ、早駈けでやれ!」
じきにスントールバンズに着き、夜明け少し前に車から下りました。やっとこの時になって、前夜の出来事の筋道がちゃんとわかりかかって来て、あれは夢ではなかったのだと思い始めるのでした。馬車を馬のつけ替え場に残し、新規の替え馬の準備を命じてから、警部は私に腕をかすと、わが家の方に向いました。
「サマソンさん、ここはあなたのいつものおすまいですからね、あなたか、あるいはジャーンディスさんかを、これこれの身なりにかなう見知らぬ人が訪ねて来たかどうかを私は知りたいのです。たいして期待をかけてはいませんが、一応当ってみましょう」
坂を登りながら警部は目を光らせてあたりを見廻し――ちょうど夜が明けかかって来ましたので――こんなことを私にきくのでした。あなたは、ある晩のこと、小さな女中さんとジョー(「難物小僧」と警部は呼ぶのですが)を連れて、この坂を下りて来たのを憶えておられるでしょう? もちろん私にはあの晩を忘れられないわけがあるのです。
どうしてご存知ですか、と私がたずねました。
「ちょうどあのへんの道ばたで、一人の男とすれ違ったでしょう?」バケット警部がいいました。
私はそれもよく憶えています(3)。
「あれは私でした」
私が驚くのを見て、警部は言葉を続けて、
「あの午後、私はあの子供を監視するために二輪馬車に乗ってやって来たのです。あなたご自身があの子に会いに出て来られた時に、私の馬車の音を聞かれたはずですよ(4)。私が馬を引いて坂を下りて来た時に、あなたと小さな女中さんが上って行ったのを知ってますからね。町で子供について聞込みを二、三やって、あの子がだれといっしょかがわかったので、探しに煉瓦造りの仕事場の方へ行こうとしたところで、あなたがあの子を家に連れて帰られるのに会ったです」
「あの子はなにか悪いことをしたのですか?」
「いいえ、罪になることはなにもしていませんでしたよ」バケット警部は死者に敬意を表して静かに脱帽しました。「でも、どうもあの子は口が軽かったのでね。ええ。デッドロック家の奥方についてのことを内々にしておきたかったものだから、あの子をつかまえようと思ったのです。故タルキングホーン氏に金をもらってやったちょいとした仕事について、余計なことまでおしゃべりしていましたし、そんなことを勝手にさせとくのはどう考えてもいかん。そこでロンドンから出てゆけと警告してやった後で、私は午後ひと走り出かけて、いったん出たら二度とロンドンに足踏みするな、もっと遠くへいってしまえ、二度と戻ってひっくくられるようなことはするなよ、といってやろうと思ってたんです」
「かわいそうな子供!」私がいいました。
「まったくかわいそうです」警部もうなずいて、「それにまったくやっかいな子供で、ロンドンからもどこからも追っ払われていましたしね。お宅に連れていかれたのがわかって、私はほとほと困ってしまいました。本当ですよ」
どうしてですか、と私がたずねますと、警部は、
「どうしてか、ですって? だってそうなれば、あの子のおしゃべりは際限なしだからですよ。あの小僧は、舌から先に生まれて来たみたいですからな。しかも一ヤード半におまけつきの舌でしてね」
私はこの会話を今でも憶えていますけれども、その時は頭が混乱していて、警部がこんなにこまかいことを私に話すのは、きっと私の気をまぎらわしてくれるためなのだろう、と気づくのがやっとでした。明らかに同じ親切心からでしょうが、警部はいろいろととるに足らぬ世間話をしてくれましたが、その間も抜け目のない顔で、目当てのものを油断なく見張っているのでした。こんな調子で私たちは庭の門から屋敷へ入りました。
「さあ、着きました」と警部がいいました。「静かな、いい住いですね。いかにも「きつつき[#「きつつき」に傍点]がつついている(5)」に出て来る田園のお屋敷という気分になりますよ。あの優雅に立ちのぼる煙突の煙を見るからにそうですな。朝早くから台所の火がおこっているってことは、いい召使がいるという証拠ですからね。でも、召使について気をつけなきゃいかんのは、だれが監督するかってことです。それがわからないと、召使の仕事ぶりなんて、てんでわかりませんよ。それからもうひとつ。台所の戸の裏に若い男が隠れているのを見つけたら、そいつはなにか不法な目的で住居に潜入していると見て、|挙《あ》げちまわねばなりませんよ」
私たちは家の正面に着きました。警部はそっとたんねんに足跡はないかと砂利の上を検分してから、窓を見上げました。
「サマソンさん、あのだいぶ年寄りじみた少年がここに客に来ると、いつも同じ部屋に泊めるのですか?」スキムポールさんがいつも泊まる部屋を見上げて警部はききました。
「スキムポールさんをご存知なんですか!」
「え、なんという名前ですって?」耳を傾けて、警部はきき返しました。「スキムポールですか。いや、私はなんという名前かなと思ったことがいく度もありましたよ。スキムポールね。ジョン、ではありませんでしたな? ええと、ジェイコブでもなかった」
「ハロルドですわ」
「ハロルド。そうでした。あのハロルド君は妙な男ですな」というと、警部は意味ありげに私の方を見つめました。
「いっぷう変った人物ですわ」
「金というものを知らんのですな――もっとももらうことはちゃんともらいますがね!」
私は思わず、あら、スキムポールさんをご存知なのですね、といいました。
「ええ。お話しましょう、サマソンさん。ひとつことばかりいつまでも長く思いつめていない方がよいでしょうから、気分転換のためにお話しましょう。例の『難物小僧』の居場所を私に教えてくれたのは、あの男なんです。私はあの晩このお屋敷へ来て、是が非でもあの子を引渡してもらいたいと、正々堂々談判しようとはらを決めたんです。が、できれば二、三手を使おうと思いまして、人影の映っている窓に砂利をひと握り投げつけました。ハロルド君が窓を開けて、私がその顔を一目見たとたんに、こいつならいけると思いました。そこで私はやっこさんをうまくなだめて、家のほうぼうが寝静まった後で起すのはお気の毒だし、こんな恵み深いご婦人がたの家に浮浪人を泊めるのは考えものだ、とかいって、やっこさんの気質がかなりよくわかったところで、騒ぎやごたごたを起さずに、屋敷からあの小僧を追い払えれば、五ポンド|札《さつ》一枚くらい出してもいい、といったんです。するとやっこさん、ひどく目を輝かして、
『君、僕に五ポンド札なんていっても無駄さ。僕はそういったことに関してはまるで子供で、お金というものを全然知らんのだから』
そこでもちろん私は、これはあっさり受取るよ、という意味だと解釈しまして、この男なら絶対いけると思ったもんですから、お札で小石をくるんで投げてやりました。やっこさんにこにこ笑うと、えらく無邪気な顔をしていうことには、
『でも、僕はこういったものの値うちがわからないんだ。これでどうすりゃいいんだい?』
『使えばよろしいのですよ』私がいいました。
『でも、僕はごまかされるかもしれない。おつりをきちんとくれないかもしれない。もらっても無駄だよ』
あんな無邪気な顔ったらありませんな。もちろんやっこさん『難物小僧』の居場所を教えてくれましたから、私はつかまえました」
私にはどうもこのスキムポールさんのやり方は、ジャーンディスさんに対する卑劣な裏切り行為で、あの人の子供っぽい無邪気さの限度をこえるもののように思えますが。
「限度ですって? お嬢さん、限度ですって? よござんすか、ひとつ忠告をしましょう。お嬢さんが幸せに結婚なさってご家庭を持った時に、旦那さんに教えてあげれば役に立ちますよ。金に関してまるで子供みたいに無邪気なんだ、なんていう人間が現れましたらね、どうかあなたご自身の金に気をつけなさい。そいつはできさえすれば、金をかっさらってゆくに決っていますからね。『世間的なことに関しては私は子供だ』なんていう人間が現れましたらね、そいつはただ責任逃れをしようとしているだけなんで、鉄面皮ナンバー・ワンだと思って下さい。この私は、自分じゃ詩なんぞはわからない――もっとも皆で集って歌をうたう時は別ですがね――実際的な人間で、経験からものをいっているんですよ。この忠告だってそうです。ひとつことにだらしのない人間は、なんにでもだらしないんです。これは間違いのないことですよ。あなただっておわかりになることでしょうし、だれにだってわかることです。さて、このような教訓を垂れたところで、ご免をこうむってこの呼鈴のひもを引きまして、私たちの仕事に戻ることにしましょう」
そうはいうものの、警部が私同様、一瞬の間といえども仕事を忘れてはいないということは、その顔を見ればよくわかりました。屋敷の人たちは、こんなに朝早く前ぶれもなしに、こんな人を連れてやって来た私の姿を見てびっくりしていました。私が質問をしても、一同の驚きは少しもおさまりませんでしたが、だれも訪ねて来た者はないとのことです。この答えは疑いようもなく本当でした。
「サマソンさん、それでは一刻も早く例の煉瓦造りの職人の家へゆきましょう。だいたいの質問はお嬢さんにおまかせしますから、よろしくお願いします。自然になさるのが一番いいんです。それに自然になさるのがお嬢さんの本領ですからね」
私たちはすぐに出かけました。小屋について見ますと、戸は閉まり人が住んでいない様子。でも、近所の人たちになんとか頼みを聞いてもらおうとした時、私の顔を知っていた一人が出て来て、例の二人の女とその夫たちは、今はいっしょに別の家で暮していること、その家は煉瓦を焼くかまどのある仕事場の端の、煉瓦を並べて乾かすあたりにあって、出来そこないの|粗《あら》煉瓦で造った家だということを教えてくれました。すぐに数百ヤード先のそこへいってみますと、扉が半開きになっていましたので、押し開けました。
三人だけがちょうど朝食中で、子供はすみの寝台で寝ていました。いないのはいつか死んだ幼児の母親ジェニーでした。もう一人の女は私を見ると立ち上り、その夫たちはいつものようにむすっと押し黙っていましたが、私が誰だかわかったらしく、めいめい無愛想にうなずいて見せました。私の後からバケット警部が姿を現すと、二人の男はちらと顔を見合わせました。女も警部のことを知っているらしいのには私が驚きました。
もちろん私は入っていいですかとたずねますと、リズ(としか私はその女の名を知りませんでした)は立ち上って、自分の座っていた椅子を私にくれようとしましたが、私は炉の近くの木の腰掛に座り、バケット警部は寝台のすみに腰を下しました。私がしゃべる番なのですが、親しくない人々に囲まれているもので、いささかあわてて、とり乱しているのが自分でもわかりました。なんといって口を開いたらよいのかわからず、どっとこみ上げて来る涙を抑えることもできませんでした。
「リズ、私は夜通しこの雪の中をやって来たのよ。ある女の人のことで――」
「つまり、お嬢さんのいわれるのは、ここにやって来た女の人という意味だよ」バケット警部が口を挿むと、落着いた、なだめすかすような顔つきで一同に説明しました。「つまり、昨夜ここに来られた女の人のことさ」
「ここにだれかが来たって、だれに聞きましたね?」ジェニーの夫は食べるのをやめて、不機嫌な顔で警部の言葉を聞いていましたが、相手をじろじろ眺めながらたずねました。
「マイケル・ジャクソンという名前の男だ。真珠のボタンがダブルについている、青ビロードのチョッキを着た男さ」警部がすぐさま答えます。
「だれだか知らねえが、よけいなおせっかいはやめといたほうがいいな」男が無愛想につぶやきますと、
「確かその男はいま失業中でね。それでついおしゃべりがしたくなるんだな」と、警部はマイケル・ジャクソンの弁護をかって出るのでした。
女は椅子に腰を下ろさず、立ったまま椅子のこわれた背に手を置いて、ためらいながら私の方を見つめていました。きっと私にだけ内々に話したいのでしょうが、そういいだす勇気がないのでしょう。このようにもじもじしていますと、女のつれあい[#「つれあい」に傍点]は片手にヘットのついたパンの塊を持ち、片手に折畳みナイフを握ってむしゃむしゃやっていましたが、ナイフの柄でテーブルをどしんと乱暴に叩くと、妻に向って、よけいな口をきくんじゃねえぞ、さっさと座りやがれ、と口汚く命じました。
「私はジェニーに会いたかったのですけど」と、私がいいました。「私、さきほどいった女の人に追いつきたいのです――ぜひとも追いつきたいんです――ジェニーなら、きっと私にその人のことを教えてくれるでしょう。ジェニーはもうじき戻りますか? どこへいったのですか?」
女は答えたそうな様子でしたが、その夫がまた口汚い言葉を浴せると、おおっぴらに長靴で妻の足をけとばし、いいたいことがあるんならジェニーの亭主にいわしておけ、という素振りをするので、ジェニーの夫はしばらくかたくな[#「かたくな」に傍点]におし黙っていましたが、やがてもじゃもじゃ頭を私の方に向けました。
「お嬢さん、前にもいったと思うんだけどもな、おらあ[#「おらあ」に傍点]お上品な方がおれの家にやって来るのがきれえなんだ。連中にはおらあなにもよけいなおせっかいはやかねえ。それなのにどうして連中がおれにちょっけえを出すのかわかんねえんだ。おれが連中の家へ出かけていったら、どえれえ騒ぎになるだろうさ。でもよう、あんたさんには他の連中ほど文句はいいたかねえ。だから、おとなしい返事をしてやってもいいと思うけんどよう、断っておくけどな、しつこくぎゃあぎゃあいわれるのはごめんだぜ。ジェニーはじきに戻るかって? いや、じきにゃ戻らねえ。どこへいったかって? ロンドンへいったんだ」
「ゆうべいったんですの?」
「ゆうべいったかって? ああ、ゆうべだよ」男は答えると、不機嫌そうに頭をぐいと振りました。
「でも、あの女の人がいらした時は、まだいたのでしょう? その人はジェニーになんとおっしゃったのです? それからその人はどこへゆかれたのです? お願いですから、どうか教えて下さい。私は知りたくてたいそう難儀しているのですもの」
「うちの旦那がしゃべっていいっていうんなら、なにも悪いことは――」女がおずおずと口を利きますと、
「旦那はてめえの首根っこ折ってやるぞ」彼女のつれあい[#「つれあい」に傍点]がゆっくり、ぶつぶつ口汚い罵りを浴せました。「てめえが関係ねえことにちょっかいなんか出したらな」
またしばらくおし黙っていましたが、留守のジェニーの夫は私の方を向き、ぶつくさと、いつものしぶしぶながらの口調でいいました。
「その女の人が来た時にゃ、まだジェニーがいたかって? ああ、まだいたよ。その女の人がなんといったかって? よし、おれが教えてやろう。こう言ったのさ。
『私が前にここを訪ねて来た一人のお嬢さんのことをお前に話したのを憶えているだろうね? 私がそのお嬢さんの残して行ったハンケチを大金で買い取ったのを憶えているだろうね?』
ああ、ジェニーだって、おれたちだって、皆よく憶えてたさ。
『それで、あのお嬢さんは今お屋敷におられるかえ?』
『いいえ、今はいらっしゃいません』
『そうなの。それじゃねえ、お前がた変に思うかもしれないけれど、私はいま一人で旅をしているのよ。だから一時間かそこいら、お前の座っているところで休ませてくれないこと?』
ええ、よござんす、てえわけさ。そいで女の人は休んでからいっちまった――十一時二十分すぎだか、十二時二十分すぎだか、おれたちゃ時計なんか持ってねえからわかんねえ。どこへいったかって? おら知らねえよ。女の人とジェニーはべつべつの方角へいったんだ。一人はロンドンへいったし、も一人はそっちから来たんだ。これで全部だよ。この男に聞いてみな。こいつは全部を見聞きしてたんだから、よく知ってらあ」
もう一人の男も繰返して、「それで全部だよ」
「その女の方は泣いていらっしゃいましたか?」
「全然泣いてなんかいなかったよ」最初の男が答えました。「靴も着物もびしょびしょだったけんど、女の人はしゃんとしてたよ――とにかく、おれの見たところじゃなあ」
女は腕を組んで床をじっと見おろしたまま、座っていました。そのつれあい[#「つれあい」に傍点]は椅子を少しそちらの方にむけて向かい合い、もしいうこときかなきゃ思い知らせてくれるぞとばかりに、ハンマーのようなその手をテーブルの上に置いていました。
「あなたの奥さんにおたずねしてもよろしいでしょう?」私がいいました。「その女の人、どんなご様子でしたか?」
「おい!」男は乱暴に妻に向って、「この人のいうのが聞えたか? 簡単にいってやれ!」
「弱った様子でした」妻が答えました。「顔の色が悪くて、疲れきったようで、弱った様子」
「いろいろなことをおっしゃいましたか?」
「たいしておっしゃりませんでした。でも、声はしゃがれていました」と、相変らず許しを乞うように、夫の方を見ながら答えるのです。
「ふらふらでしたか? 飲んだり食べたりなさいましたか?」
「さっさと返事しろ!」妻の目つきを見て夫がいいました。「簡単にいえ!」
「ちょっと水を飲みました。ジェニーがパンとお茶を持って来ましたが、ほとんど手もつけませんでした」
「その方はここを出てから――」私がいいかけると、ジェニーの夫はかんしゃくを起して私の言葉をさえぎり、
「その人はここを出てから、街道をまっすぐ北へいったんだ。うそだと思うんなら街道筋で聞いてみな。すぐわかるこった。さ、これでおしめえだ。これで全部だよ」
私が警部の方をちらと見ると、警部はもう立ち上って出かけようとしていましたので、皆にお礼をいってから帰りました。出がけにバケット警部と女とは、じっと目と目を見合わせていました。
「ところでサマソンさん」私たちが足早に帰る途中で警部がいいました。「あの連中は奥方さまの時計を持っていますな。これは間違いのないところです」
「ご覧になったのですか?」私が叫びました。
「見たも同然ですよ。そうでなければ、どうしてあの男は時計も持っていないのに『二十分すぎ』なんてわかったんでしょう? 二十分だなんて! いつもはどうせそんなにこまかく時間を割りはしないでしょうよ。半時間とでもいえればせいぜいのとこでしょうな。さて、奥方がやつにあげたか、あいつがとったかですな。きっと奥方があげたのだと思います。そこで、なぜあの男に時計をあげたか、ですな。なぜあげたのでしょう?」
警部はしばらくこの言葉をくり返しながら、急いで歩き続けました。いろいろと心に浮んで来る答えを比較検討しているみたいでした。
「時間さえたっぷり使えるんでしたらねえ――もっとも、この事件でたっぷり使えないのは時間だけなんですけども――それがたっぷり使えさえすれば、あの女から聞き出せるのですけどねえ。でも、今の情勢では、それに頼るのは見込みうすですな。やつらはあの女を監視しているでしょうし、それに、あんなかわいそうな女というものは、頭のてっぺんから足の先まで、なぐられたりけられたりして、傷やあざだらけにされながらも、そんな虐待を加える亭主にいつでも味方するものなのです。こいつは馬鹿にだってわかることですよ。なにかを隠しているに違いないんですが、もう一人の女に会えなかったのは残念ですな」
私もたいそう残念に思いました。あの人なら恩を知っていますから、私の頼みを聞き届けてくれただろうと思うのでした。
「サマソンさん、ことによるとですね」バケット警部は考え込みながらいうのです。「奥方はお嬢さんあてになにかことづてを持たせて、女をロンドンに使いに出したのかもしれませんよ。それで女の亭主はいかせる代りに奥方さまの時計をもらったのかもしれません。この説は私を充分満足させるだけ明白ではありませんが、まあ五分五分のところですかな。それに私は、レスタ・デッドロック准男爵閣下のお金を、こんなごろつきどものために使う気にはなれませんよ。今のところたいして役に立つとも思えませんしね。さあ、サマソンさん、ともかく前進です――万事内々にしておかねばなりません!」
もう一度家に寄って、ジャーンディスさまあてにとり急ぎ一筆したためてから、私たちが馬車を残しておいたところに戻りました。戻って来る私たちの姿が見えると、すぐに馬がつながれ、数分のうちにまた街道を進んでゆきました。
夜明けにまた雪が降り出して、いまや大降りになりました。昼間というのにたいそう薄暗く、そのうえ激しい降りなので、前後左右とも一寸先も見えぬくらいでした。ひどく寒いのに雪はみぞれまじりで、馬のひづめに踏まれると――小さな貝殻の散らばっている浜辺を歩いているみたいな音がして――泥水になります。ときどき一マイルも続けざまに、馬が足をすべらせたり、よろけたりすることがありました。一頭の馬は次の宿場までの間に三度も倒れ、ひどくおびえてぶるぶるふるえますので、馬の上に乗っていた御者は|鞍《くら》から下りて、曳いて歩いてやらねばなりませんでした。
私は食物も口に入らず、眠ることもできず、こんなに遅れて足どりが進まないのにひどく不安になって来て、いっそ下りて歩いてゆきたいなどとわけのわからぬ気持に襲われました。でも、警部の分別に従って、馬車の中に留まりました。その間警部はというと、目下たずさわっている仕事にある種の喜びを感じて、そのために元気が出るらしく、途中の家の一軒一軒で馬車から下りてはたずねて廻りました。前に一度も会ったことのない人でも、まるで旧知のように話しかけ、炉端に駈け寄ってはからだを温め、居酒屋へ来るごとに一杯やっては握手をし、馬車屋や車大工や鍛冶屋や通行料金取立て人の一人一人に、仲良く振舞うのですが、一刻も無駄にせぬように、油断のないきっ[#「きっ」に傍点]とした顔で御者台に戻って来ては、そっけなく「それ、進め!」と命令するのです。
次の宿屋で馬をとり替える時、警部は水を含んでからだにこびりつく雪を払い落し、びしょ濡れの膝のあたりをぱしゃぱしゃやりながら――スントールバンズを出てから、いく度もそうしていたのですが――|厩《うまや》から出て来ると、馬車の傍らへ寄って来て私に話しかけました。
「元気を出して下さい、サマソンさん。奥方がここへ来られたことは確かです。今度は着物の点で絶対間違いありません。着物をちゃんと見た者がいるのです」
「相変らず歩いていらっしゃったのですか?」
「相変らず歩いてです。お嬢さんがおっしゃったお方の家が目的地らしいのですが、その人のお住いが奥方のお屋敷近くというのがどうも気に入りません」
「私の知っていますことはほんのわずかですから、だれか私の聞いたことのない人が、もっとこの近くに住んでいるのかもしれませんわ」
「そうかもしれません。でも、どちらにしても、泣いちゃいけませんよ。必要以上に気に病んではいけません。それ、進め!」
みぞれは一日じゅう小止みなく降り続け、間もなく霧が立ちこめて、一時も晴れず、明るくもなりません。私が前に見たこともない道を進みましたので、ときどき、馬車が道に迷って耕やした畑や沼地へはまり込むのではないかしら、と心配になることもありました。家を出てからどれくらいたったのかと考えてみると、永い永い時間がきりなしにたったように思われて、それでいて妙なことですが、一瞬の間も心配が晴れなかったような気がしたのです。
馬車が進むにつれて、警部も自信を失ったのではないかしらと心配になりだしました。道端のひとびとに対する態度は前と同じでしたが、一人で御者台に坐っている時の顔は、前よりも深刻になっていました。宿場から次の宿場まで、長いものうい道のりをたどる間、警部の指が不安げに、口もとをいったりきたりするのが見えました。それとなく聞いておりますと、すれ違う乗合馬車や、その他の車の御者に向って、私たちの先を進んでゆく他の乗物に、どんな客が乗っているのを見たかねとたずね始めました。でも、その答えはあてはずれでした。御者台に乗る時は、いつも安心しなさいというように、指を曲げて見せたり、まぶたを上げたりするのですが、今では困却したような様子で「それ、進め!」と命令するのです。
とうとう馬を替えている時に、警部は例の着物の主の足どりを長いこと失ってしまって意外なのだといいました。一時ちょっと見失うならたいしたことはない、またしばらくして見つかったりするのだが、なんとも不可解なことに、ここでぷっつり消えてしまって、それきり見つからないというのです。警部がみちしるべを眺めたり、十字路に来ると馬車を下りて、十五分もあちこち調べにいったりしだしたので、私のこれまでの心配がいまや本物となったのです。でもお嬢さん、がっかりしてはいけませんよ、次の宿場へゆけばまたちゃんとわかるかもしれませんからねと、警部はいっていました。
しかし次の宿場も同じこと、新しい手がかりはありません。そこは大きな宿で、淋しい場所に建っていましたが、いかにも居心地よさそうなどっしりした構えで、大きなアーケードをくぐり抜けて馬車を中庭へ乗り入れると、私の気のつかぬうちに、宿の奥さんとかわいらしい娘さんたちが馬車のドアのところにやって来て、馬を替える間どうぞ下りてお休みなさい、としきりにすすめますので、断わるのは悪いような気がしました。私は二階の暖かい部屋に案内され、一人きりになりました。
今でも憶えておりますが、その部屋は家の角にあって、二方向が見晴らせました。一方の窓からは裏通りに面した厩が見え、馬丁が泥だらけの馬車から、これも泥だらけで疲れきった馬をはずしているところでした。その遙か向うには裏通りが見え、その上に看板が重たくゆれていました。もう一方の窓からは松林がくろぐろと見渡されました。枝には雪が重くつもり、窓辺に立って眺めている間も、雪は音もなく落ちると、地上に水っぽい山を築きました。夜が迫りかかって、外のさむざむとした風景は、窓ガラスに映るあかあかとした炉の火と比べると、さらにいっそうさむざむと見えました。私が木の枝の上の雪がしだいしだいに融けていって、色が変ってできるしみ[#「しみ」に傍点]を見つめていますと、今しがた花のような娘さんたちに囲まれて私を暖かく迎えてくれた、この家の母親の晴れやかな顔のことを思い、また私の[#「私の」に傍点]母がこんな森の中で倒れて死にかかっているのではないかしらと思うのでした。
気がついて見ると、ここの奥さんや娘さんたちがみな私のまわりに集っているのでびくっとしましたが、私が気を失う前に、一所懸命気絶すまいと努力したことを思い出しましたので、いくらか気が楽になりました。皆さんで私を炉のそばの大きなソファのクッションの上に寝かせて下さり、それから宿のきれいな奥さんが今夜はもう旅を続けてはいけません、お休みにならなくてはいけません、と私にいうのでした。そういわれると、私はここに留め置かれるのではないかしらと、急にわなわなふるえ出しましたので、奥さんはすぐに前言を取消して、半時間ばかり休んで下さればいいんですよと約束しました。
奥さんはとても親切でいい方でした。かわいらしい三人の娘さんといっしょに、あれこれと私の世話をやいてくれるのです。バケット警部が他の部屋で洋服を乾かして食事をしている間に、暖かいスープと鳥の焼肉料理を召し上れとすすめられました。間もなく炉端の気持よさそうな丸テーブルに食事が並べられたのですが、せっかくの親切を無にしたくないと思っても、どうしても口に入りません。でも、やっとトースト二、三枚と、砂糖湯割りのぶどう酒だけいただくことができ、たいそうおいしかったので、いささか埋め合わせがついたというものです。
予定通りきっかり三十分後に、馬車がアーケードの下にやって来る音が聞えますと、皆で私を下にたすけおろしてくれました。からだも暖まり、食事もいただいたし、親切にしてもらって気分もよくなりましたので、もう気絶する心配もなくなりました(ですから、皆さん安心して下さいと私が申したのです)。私が馬車に乗って、皆さんにお礼とさよならをいった時、一番年下の娘さん――十九の花ざかりで、一番先にお嫁にゆくはずですとか聞きましたが――が、入口のステップにやって来て、身を乗り出すと私にキスをしました。その時以来私は一度もこの娘さんに会っておりませんが、今でも私のお友達だと思っています。
ともしびや炉の火がすけて見えて、寒い戸外の暗闇から見ると、いかにも明るく暖かそうな宿の窓はすぐに消え去り、馬車はまた融けかかった雪の中をばしゃばしゃと進みました。進むのにかなり骨が折れましたが、この陰気な道はこれまでとさして変りありませんでしたし、次の宿場まではただの九マイルでした。警部は御者台に座ってたばこをふかしながらも――この前の宿の大きな炉の傍らで、いかにもおいしそうにたばこをくゆらしている警部の姿を見ましたので、ふと思いついて、どうか私に遠慮なさらないでたばこをすって下さいと申し上げたのでした――これまで同様油断なく目を光らせて、人の住んでいる場所や、人の姿を見かけるたびごとにすばやく飛び降りて、聞き込みをするのでした。馬車のランプがあるのに、警部はお気に入りらしく自分の小さなランタンに火をつけ、ときおりその光を私の方に向けて元気かどうかを確かめるのです。馬車の正面に両開きの窓がありましたが、私はそれを閉めませんでした。そんなことをすると、私たちの希望を閉め出してしまうように思われたからです。
次の宿場に着きましたが、まだ失われた足どりは見つかりません。止って馬を替えている間、私は心配になって警部を見つめていましたが、前よりもいっそう深刻な顔をして、馬丁の仕事を眺めているところから、なにも聞き込みがなかったことがわかりました。と、ほとんど次の瞬間、私が馬車の背にもたれているところへ、警部がランタンを手にして覗き込みましたが、まるで人が変ったように興奮していました。
「どうしたのですか?」私はぎくっとしていいました。「ここで見つかったのですか?」
「いや、いや、お嬢さん、早がてんしてはいけません。ここにはだれもいません。ですが、私にはわかりました!」
雪の結晶が警部のまつ毛にも、髪の毛にも積もり、着物にもくっついてしまになっています。顔についた雪を払って、呼吸を整えてから、警部は私にいうのでした。
「いいですか、サマソンさん」馬車の膝掛け布を指で叩きながら、「これから私のしようとすることで気落ちしてはいけませんよ。私をご存知でしょう? いやしくも私はバケット警部です。私を信頼して下さい。だいぶ遠くまで来てしまいましたが、構いません。おい、上り方向の次の宿場まで馬を四頭頼む! 早くしろ!」
厩は大騒ぎになりました。一人の男が厩から駈け出して来て、
「旦那、上りなんですか、下りなんですか?」
「上り方向だっていったろう! 上りだ! 英語がわからんのか? 上りだ!」
「上り方向ですって?」私も驚いてたずねました。「ロンドン方向ですか? 戻るのですか?」
「お嬢さん、戻るのです。まっすぐ逆戻りです。私をご存知でしょう? 心配ご無用です。もう一人の後を追うんです」
「もう一人の? 誰のことですか?」
「ジェニーとかいいましたね。あの女を追うのです。おい、そこの二頭を連れてこい。一人に一クラウン(6)ずつほうびをやるぞ。だれか起きて来い!」
「まさか、いま後を追っているお方を見棄てるのではありますまいね。こんな晩に、さぞ辛い思いをしていらっしゃるはずのあのお方を!」私は悲嘆のあまり、警部の手をしっかり握りしめていいました。
「もちろんですとも。見棄てはしませんとも。でも、私はもう一人の後を追うのです。おい、その馬をさっさと車につけるんだ。だれか一人、早馬でつぎの宿場まで使いをやって、替え馬を四頭準備させとけ。それから順ぐりにロンドン方向のつぎつぎの宿場へ、替え馬を四頭ずつ準備するように申し送るんだ。お嬢さん、心配はご無用ですよ!」
警部が厩のあたりを駈け廻って、こんなに命令を下しながら馬丁をせき立てるものですから、宿場じゅうが大騒ぎになりました。こんなに不意に予定が変ったので、私同様に面喰ってしまったのです。でも、皆がうろうろしているうちに、一人の男が馬に乗り、大急行で次の宿場めざして替え馬の準備を命じに飛んでゆき、私たちの馬車にも急いで馬がつけられました。
「ねえ、お嬢さん」バケット警部は御者台に飛び乗ると、また私の方を覗き込み――「私がちとなれなれしすぎたらごかんべん願いますがね――必要以上にやきもき心配しなさんなってことです。今のところはこれ以上なにもいいませんけど、私をご存知でしょう、え、この私を?」
私はやっとの思いで答えました――どうしたらよいのかは、私よりもあなたのほうがずっとよくご存知です。それは私もわかっております。でも、確かにこれで間違いないのですか? 私ひとりで、あの――また悲嘆のあまり、私は警部の手をしっかり握って小声でいいました――私の母を探しにいってはいけませんかしら?
「お嬢さん、わかってます。わかってますとも。ですから、私があなたに|悪《あし》かれと思ってやるはずはないじゃありませんか。いやしくも私はバケット警部ですぞ。ねえ、私をご存知でしょう、え、この私を?」
はい、と私は答えるよりほか仕方ありませんでした。
「それなら、できるだけ元気をふるい起して下さい。私を信頼して下さい。私はレスタ・デッドロック准男爵閣下の味方ですが、同様にあなたの味方でもあるんですからね。おい、準備はできたか?」
「はい、できました」
「それじゃ、出発だ。それ、進め!」
馬車はいまさっきやって来た陰気な道をまた戻り始めました、まるで水車が水をかくように、泥だらけのみぞれと雪融けをかき立てながら。
[#改ページ]
第五十八章 冬の日の昼と夜
いかにもそのよい氏素姓にふさわしく、デッドロック家のロンドンの屋敷は、堂々として陰気くさい同じ街なみの近所の家々に向って、相変らず落着きはらったその態度を崩さない。広間の小さな窓からは、ときどきかつらをかぶった頭が外をのぞき、終日空から降って来る税金のかからない白い粉(1)を眺めるかと思うと、同じ温室では外の寒気を避けて、広間の炉の火の方をなつかしげに見る桃色の頬がある。奥方さまはリンカンシア州のお屋敷へお出かけになって、間もなくお帰りの予定と、一般には知らされてある。
しかし、口さがない噂はリンカンシア州へ流れて行かずに、ロンドンのあたりにいつまでも渦を巻いている。哀れな不運な男、レスタ卿がひどい仕打ちを受けたものだと、ちゃんとわかっているのである。噂というものは、いいかね、ありとあらゆるひどいことを耳にするものなのだ。そしてそこを中心にして、周囲五マイルばかりはすっかり愉快になる。デッドロック家でなにか不祥事が起ったことを知らずにいるのは、結局自分自身がもののかずでない人間であることを、証明する以外のなにものでもない。骸骨みたいなのど首をした、桃色の頬の昔の美女のなれの果ての一人は、あれこれのいきさつを全部知っている。それはやがてレスタ卿の離婚請求となって、貴族院で表沙汰になるだろう。
宝石商のブレイズとスパークルの店や、絹織物商のシーンとグロスの店などでは、それが数時間にわたって歴史的事件、世紀の|椿事《ちんじ》として語り伝えられるであろう。これらの店舗のお得意さまがたがいかに尊大であろうとも、お店の売物同様にきちんとその銘柄正体を見抜かれているので、ずぶの新米店員さえも、ちゃんとその新しい流行のこつ[#「こつ」に傍点]をのみ込んでいるのである。「ジョーンズ君、うちのお客さまがたはだな」とブレイズとスパークルがその新米の店員を雇う時に、いうものである。「うちのお客さまがたはだな、つまり羊の群、羊の群にすぎぬのだ。二、三頭の目立ったのがゆく後から、他のもの全部がついてゆくのさ。その二、三頭のゆくさきによく気をつけてさえいれば、群全体を把握することができるというわけだ」
同様にしてシーンとグロス商店も、流行の尖端を行くひとびとを、どこで捕え、それから彼等(商人のことである)が選んだものをどうはやらせるかのこつ[#「こつ」に傍点]を、そこの店員ジョーンズ君に教えるのである。同様に間違いのない商策を、貸本商のスラダリー氏(紙をあきなうのだから、文字通りお羊さまに餌を与えているわけだが)はまさに今日すでにかく認めているのである。
「はい、さようで。デッドロック家の奥方さまについて、確かにある情報が、手前どもの高貴なごひいき[#「ごひいき」に傍点]筋の間に流れておりますな。手前どもの高貴なごひいき[#「ごひいき」に傍点]筋のかたがたは、なにか話の種が必要ですからな。手前の指名できます一、二のご婦人だけの間に、ある話の種をはやらせさえすれば、全体のごひいき[#「ごひいき」に傍点]筋に|卸《おろ》すことができるのです。普通の場合でしたら私が仕込みをまかされて、これらのご婦人がたに卸すようなことを、今度の場合では、そのご婦人がたがご自分からおやりになります。奥方さまをよくご存知で、それに少々ねたましく思っておられたからでしょうな。この話題は手前どもの高貴なごひいき[#「ごひいき」に傍点]筋の間ではたいそうな評判でして、これが投機商売でしたら一財産儲かったでしょうな。手前がこう申しますのは、絶対間違っておりません。手前どもの高貴なごひいき[#「ごひいき」に傍点]筋をよく検討して、時計のように時間をきめてねじを巻くのが、手前の商売ですから、はい」
というわけで、その噂は|都《みやこ》ロンドンに広まって、リンカンシア州には流れてゆかない。近衛騎兵連隊の有名な大時計で午後五時半には、早くもステイブルズ閣下(2)が新しい警句を一つひねり出した。これは長いこと閣下の名文句と定評のあった、この前のやつも顔負けの傑作だとの評判である。その警句というのは、彼女の毛並みの手入れのいいことは前から知っていたが、逐電にかけても駿足だとは思いもよらなかった、というので、競馬愛好家の間ではひどくもてはやされたものである。
宴会や夜会においても同様である。彼女はこれまで天空高く輝いて、つい昨日まで他の星々を圧していた。いまでも人の口に広く上っていることは間違いない。なにが? だれに? いつ? どこで? どんなふうに? 彼女の親しい友達の間で、まるで他人ごとのようにひどくお上品に、最上流の流行語や、最新の言葉、物腰、話しぶりを交えて、話のさかな[#「さかな」に傍点]となる。そして驚くべきことに、そのゴシップ熱が高まるあまり、いままでてんで話題にもされなかったような人間が、話題に上るようになる――ばかりか、自分から噂をまいて歩く者までいる! ウィリアム・バフィ(3)がこういった愉快なゴシップの一つを、クラブから仕入れて登院すると、そこでは院内幹事がさぼ[#「さぼ」に傍点]りたがる自党の議員を狩り集めるために、そのゴシップをかぎ煙草入れにつけて皆に廻す始末。その結果議長が(ご自分だってこっそりそのゴシップを、かつらの下からお耳に入れていたのであるが)「議場内では静粛に願います!」と、三回も叫んだのに、なんの効き目もないのである。
彼女がロンドンの噂の種となった次第の、もう一つ驚くべき点は、スラダリー商店の高貴なごひいき[#「ごひいき」に傍点]筋の周囲にうろついている連中、つまりこれまでも今でも彼女についてなにも知らないような連中までが、彼女をゴシップの種にするふりをして、評判を上げようとやっきになっていることで、上流社会での最新の言葉、物腰、話しぶり、他人ごとのようなお上品さ、その他いっさいを、逐一セコハンで仕入れて来て、彼女の噂をセコハンながら新品同様ですよと、さらにしもじもの社会や人たちに卸すことである。もし、このようなけちな卸商人の中に、誰か文学者か芸術家か科学者がいたならば、このように立派な松葉杖をついた文学、芸術、科学のよぼよぼ三姉妹を支援して、高貴な名をあげることになろう。
このようにして、デッドロック家のお屋敷の外で冬の日は暮れてゆく。屋敷の中ではどうだろうか?
レスタ卿は寝台に横たわったまま、やっとのことで、言葉がはっきりしないながらも、少しは口をきけるようになる。絶対安静と沈黙を命ぜられ、まえまえから卿を苦しめている痛風の痛みがひどいので、それを和らげるために少量の阿片が与えられた。ときどき夢うつつのようにまどろむことはあるが、なかなか寝つかれない。ひどいお天気だと人がいうのを耳にすると、卿は寝台をもっと窓際に近寄せ、吹きつける雪みぞれ[#「みぞれ」に傍点]が見えるように頭を向け変えてくれ、と命ずる。卿は冬の日がとっぷりと暮れるまで、降る雪みぞれ[#「みぞれ」に傍点]をじっと見つめているのである。
屋敷じゅうつとめて音をたてないように注意しているのだが、ちょっとでも物音がすると、卿は石筆を手にとる。枕もとに座っている老女中頭は、卿の書こうとすることを察しとって、こうささやく。「いいえ、御前さま、警部はまだ戻って参りません。昨夜遅く出かけていったのですから、まだ少ししかたっておりません」
卿は手を引っ込めると、また雪みぞれ[#「みぞれ」に傍点]を見つめ始める。とうとうしまいに、あまり長く見つめているために、降りしきる雪みぞれ[#「みぞれ」に傍点]があまりに激しく早く思えて来て、白い雪片と窓にくっつく氷の塊が渦を巻いて、目がくらみそうになるので、一瞬目を閉じないではいられなくなって来る。
明るくなるや否や、卿はまたもや窓の外を眺め出す。夜が明けてからまだそれほどたってもいないのに、卿は奥方が戻られた時の準備を整えねばならぬ、と思いつくのである。雪模様の寒い日だから、奥方の部屋に火をいっぱい燃やして暖かくするように。召使一同に奥方がお帰りになる予定だと伝えおくように。人まかせにしないで、自分で手筈を整えるように。卿がこのように石板に書きつけるので、ミセス・ラウンスウェルは重い心を抱きながら、その命令に従う。
「だってね、ジョージ」老婦人は少々暇が出来ると、階下に待ち受けている息子と話し合うのである。「どうも奥方さまは二度とふたたび、この屋敷へお戻りにならないような予感がするんだもの」
「お母さん、どうも悪い予感ですね」
「チェスニー・ウォールドへもお戻りになりそうもないし」
「ますます悪い予感ですね。でも、お母さん、どうしてそんな気がするのですか?」
「昨日奥方さまにお会いした時のご様子が――それに私をご覧になる時の目つきまでが――まるで幽霊の小道の足音にすっかりとりつかれてしまったみたいだったもの」
「そんな馬鹿な! お母さんは昔の怪談ばなしで一人で怖がっているんですよ」
「そうじゃないよ。違うんだよ。私がこのお屋敷にご奉公に上ってから六十年間、あの足音は毎晩のように聞いていたけれども、昨夜みたいにこわかったことなかったもの。でも、いよいよ最期が近づいたのだよ。デッドロックの大旧家にも、最期が近づいたのだよ」
「まさかね」
「私はレスタの御前さまがこんな病気にかかられて、お困りになる時まで長生きできてよかったと思うよ。私ゃ年はとってるけども、御前さまは召使のだれよりも私の姿をご覧になると喜んでくださるのだから、それだけでも生きがいがあるというものさ。でも、幽霊の小道の足音が奥方さまにとりついてしまう日は近いのだろう。かなり前から、足音が奥方さまを追いかけていたから、いよいよ追いつく日が迫ったのだよ、ジョージ」
「お母さん、もう一度申しますがね、僕はまさかと思いますよ」
「私だってそう思いたいのはやまやまだがね」老婦人は頭を振ると、組んでいた両手をほどきながら答える。「でも、もし私の心配がその通りになって、御前さまに申し上げねばならなくなったら、申し上げる役はいったいだれがつとめたらよいのでしょう!」
「ここが奥方さまのお部屋ですか?」
「そうよ。奥方さまが出て行かれた時のままです」
「なるほどね、これでわかりかかって来ましたよ」騎兵軍曹はあたりを見廻しながら、声をひそめて、「どうしてお母さんが、あんな気味の悪いことを考えるようになったかが。部屋というものは、この部屋みたいに、いつもそこに見なれている人の姿が見えなくなって、ましてやどこにいるかわからなくなった時には、ひどく恐ろしく見えるものですよ」
ジョージの言葉はいかにももっともである。すべて別れというものは、いつか必ずやって来る人生最後の別離を、予感させるものがあるが、ちょうどそれと同じように、いつも見なれた人のいないからっぽの部屋というものも、君の部屋も私の部屋もいつかは同じことになるのだと、ものがなしい声でささやきかけるものだ。このようにひと気がなくなった陰気な奥方の部屋には、どこかうつろな様子が見られる。昨夜バケット警部がこっそり捜索を行なった奥の小部屋には、奥方の衣裳や装飾品や、それから奥方のからだの一部といってもいいような物を毎日映していた鏡などが、ぽつんと残され、淋しそうな、がらんとしたたたずまいである。冬の日は薄暗くひえびえとしているが、このひと気のない部屋の中は、寒風の吹きさらす野原のバラック小屋よりも、いっそう薄暗くひえびえとしている。召使たちが煖炉に火を燃えさからせ、そこからあかあかとした明りが、暖かいガラスの板をつき抜けて部屋のすみずみまで達し、そこに椅子やソファが並べられてはいるものの、部屋いっぱいに暗い雲がたれこめて、どんなに明るくしても晴れそうに見えない。
老女中頭とその息子は準備が済むまでこの部屋にいたが、それから母親だけ二階へ上っていく。ミセス・ラウンスウェルが座をはずしていた間は、ヴォラムニアがかわりに病人を見とってくれていた。真珠の頸飾りや口紅の小びんは、バースの住人の目を楽しませるにはよかったろうが、今となっては病人を喜ばせるすべもない。ヴォラムニアはことの真相を知らないことになっている(それに実際知らないのだ)ので、もっともらしい言葉を述べるのはしゃくにさわるから、その代りに敷布のしわを伸ばして退屈をまぎらわしたり、そっとつまさき立ってじっと従兄の目を覗き込んで、腹立たしげに、「眠っているわ」とひとりごとをいったりすると、レスタ卿は、よけいなこというな、とでもいいたげに石板の上に、「眠っていない」と怒ったように書きなぐる。
だから老婦人が戻って来ると、ヴォラムニアは枕もとの椅子をあけ渡し、少し離れたテーブルに向って座ると、気の毒そうにため息をつく。レスタ卿は相変らず雪みぞれ[#「みぞれ」に傍点]を見つめ、戻って来る足音を待ち兼ねるように耳を澄ます。古い祖先の肖像画の額縁からぬけ出して来て、お召しを受けたデッドロックのお供をしているみたいな老婦人の耳には、このしじまの中に自分自身の言葉が、いく重にもこだましているように聞こえる――「御前さまに申し上げる役はいったいだれがつとめたらよいのでしょう!」
卿は今朝になってから従僕の助けをかりて身だしなみを整え、容態の許すかぎりからだを起す。枕にもたれかかり、白髪まじりの髪の毛をいつものようにとかし、シャツもきちんと着て、人前に出ても見苦しくないような化粧着をまとっている。眼鏡と懐中時計も手もとに置いてある。できるだけ落着きと平静を取り戻して見せることが――今は自分の体面のためではなく、奥方のためにであろう――必要なのだ。女というものはおしゃべりなもの。ヴォラムニアはデッドロックの一族とはいえども、やはり例外ではない。だから卿は彼女がよそへいっておしゃべりしないように、ここに引き留めているに違いない。卿の病気は重い。しかし敢然として身心の苦しみに負けまいと立ち向うのである。
うるわしのヴォラムニアは、長いことおしゃべりをしないでいると、たちまち「退屈」という恐竜に襲われずにはいられない陽気な女性のこととて、間もなくその怪物の襲来を示すがごとく、隠しきれぬあくびを盛んに連発させる。どうにもあくびを抑えきれぬものだから、彼女はミセス・ラウンスウェル相手に立派な息子さんですこと、などと話を始める。これまで見たことのないような立派な体格で、いかにも軍人さんらしい態度で、私の好きな近衛兵――ええと、なんて名前でしたっけ?――とってもいい人でしたけど、ウォータールーで戦死したあの人みたいでしたわ。
レスタ卿がこのほめ言葉を聞いてびっくり仰天、うろうろとした目であたりを見廻すので、ミセス・ラウンスウェルは説明が必要だと感じて、
「御前さま、私の長男のことではありません。次男のことでございます。見つかりましたのです。帰って来たのです」
沈黙を破ってレスタ卿のしゃがれ声が響きわたる。「ジョージかね? あなたの息子さんのジョージが、帰って来たのかね?」
老婦人は涙を拭くと、「はい、おかげさまで」
あんなに永いこと行方不明だった男が見つかったこと、あんなに永いこと消息を絶っていた男が戻って来たことが、卿を大きく力づけて、希望の光を与えるのだろうか? 「こんな奇蹟があった後だから、あれだけ手を尽くせば、家内も無事戻って来るのではあるまいか? ジョージの場合はなん年も行方がわからなかったのに、家内の場合はほんの数時間の問題なのだから」と考えているのではあるまいか?
いくら止めようとしても無駄で、レスタ卿は断固として口をきこうと決心をする。そして実際に口をきくのである。いろいろな雑音が混じるけれども、とにかくわかるようにはっきりと口をきく。
「ミセス・ラウンスウェル、どうして私にいわなかったのだ?」
「つい昨日のことだったのでございます。それに御前さまのお加減がお悪かったので、こんなことお耳に入れてはいけないと思いました」
その上に、そそっかしいヴォラムニアはあっと金切り声をあげて、そうそう、あの人がミセス・ラウンスウェルのお子さんだとは、だれにもいってはいけなかったのでしたわね、話してはいけなかったのでしたわね、という。でも、もちろん私は御前さまがよくおなりになり次第、お話をするつもりでした、とミセス・ラウンスウェルは胸をふくらませて熱心に弁明する。
「ジョージはどこにいるのかね?」と、レスタ卿がたずねる。
卿が医者の制止を全然守らないので、老婦人は少なからず驚いたが、ロンドンです、と答える。
「ロンドンのどこかね?」
ミセス・ラウンスウェルはやむなく、実はこのお屋敷に、と白状する。
「この部屋に連れて来なさい。すぐ連れて来なさい」
老婦人は仕方なく息子を探しに行く。レスタ卿は不自由な手をできるだけ動かして、ジョージを迎える身じまいを整える。それが終ると、卿はまた窓の外に降りしきる雪みぞれ[#「みぞれ」に傍点]を見つめ、戻って来る足音が聞こえないかと耳を澄ます。おもての街路に音を消すためにわらをいっぱいまいたので、かりに奥方が馬車で戻られても卿の耳には入らないだろう。
このように横になったまま、卿はこの新たな、そして奥方の失踪に比べれば枝葉末節ともいうべき驚きなどは、すっかり忘れてしまったような様子でいるところへ、老婦人が息子を連れて戻って来る。ジョージ軍曹はそっと枕もとに近寄るとお辞儀をし、それから面目なさそうに顔を真赤にして、気をつけの姿勢をとる。
「これはどうだ! ジョージ・ラウンスウェルではないか!」レスタ卿が叫ぶ。「ジョージ、私を憶えているかね?」
軍曹は最初は言葉もろくに出ないくらいで、しばらくは相手をじっと見つめ、あれこれと口をきこうと努めたあげく、母親にはげまされてやっと答える。
「レスタ閣下、閣下のお顔をお見忘れするなどとは、とんでもございません」
「君の顔を見ていると」レスタ卿はやっとの思いで言葉を続ける。「チェスニー・ウォールドでいっしょに遊んだ子供の頃が思い出されて来る――よく――よく憶えているよ」
軍曹をじっと見つめているうちに、卿の目に涙があふれて来る。それからまた卿はおもての雪みぞれ[#「みぞれ」に傍点]を眺める。
「閣下、失礼でありますが、自分の腕におつかまりくださいませんか? おからだを起して差上げたいと思いますが。自分におまかせくだされば、もっとお楽な姿勢でお休みになれると思います」
「ありがとう、ジョージ。頼む」
軍曹は卿をまるで子供のように腕にかかえると、かるがると抱き上げ、顔が窓の方を向くようにからだの向きを変える。
「ありがとう。君はお母さんのようなやさしい心と、君自身の強い力を持っているね。どうもありがとう」
卿は手で軍曹にいかないでくれという合図をする。ジョージはおとなしく枕もとに控えて、相手の言葉を待つ。
「どうして君は人に知られたくなかったのだ?」しばらくたってから卿がたずねる。
「閣下、実際のところ、自分はあまりいばれたような人間ではございません。自分は――その――閣下がかりにご病気でなかったとしましても――すぐにお元気になられると思いますが――やっぱり、あまり世間に知られたくないと存じております。これにはいろいろと説明いたさねばならない事情がございまして、ここはお話する場所でもありませんし、自分の名誉にもならないことであります。いろいろな事情について、いろいろ違ったご意見もありましょうが、自分があまりいばれたような人間でない、と、このことはどなたがご覧になっても間違いのないところでございましょう」
「君は軍隊に入って、忠実にお国に尽くしてくれていたのだったね」
ジョージは軍隊式に最敬礼をすると、「閣下、その点に関しましては、自分は規律に従って職務を果しました。これが自分のせめてものご奉公でございました」
「ジョージ、見た通り、私はひどく弱ってしまった」レスタ卿の目はじっと相手に注がれている。
「たいへん悲しいことと心を痛めております」
「ありがとう。それだけではないのだ。私の前からの持病の上に、急激な卒中にやられて、おかげでこれが――」というと、一所懸命片手を動かそうとし、「それからここも――」と口許に手をやる。
ジョージはいかにも同情にあふれた顔つきで、もうひとつ最敬礼をする。二人とも若かった頃(ジョージの方がずっと年若だった頃)、チェスニー・ウォールドで向い合っていた時の情景が目の前に浮かんで来て、お互いの心がやわらいで来るのである。
レスタ卿は沈黙の淵に沈み込む前に、思っていることをいってしまいたいという様子をありありと見せながら、枕の上にもう少し身を起そうとする。ジョージはこれを見てとると、また両腕で抱きかかえて、望むような姿勢にしてやる。「ありがとう、ジョージ。君は私の手足みたいだ。チェスニー・ウォールドにいた頃、君はよく私の使っていない猟銃をかついでいたな。こういった妙なことを私はよく憶えているんだ。よく覚えているよ」軍曹はレスタ卿の自由のきく腕を自分の肩の上にのせて、からだを起してやる。レスタ卿はゆっくりとその腕をはずしながら、こういうのである。
「わたしはこういおうと思っていたのだ。つまり、不幸なことにこの卒中にやられたのと時を同じくして、私と奥との間に、ささいな誤解が生じたのだ。私たちが仲たがいをしたというのではない(そんなことは今まで一度もなかった)。ただ、私たちだけに関係したあることについて、誤解が生じただけで、そのためにしばしのあいだ奥がここを出て、旅行をせねばならなくなった――じきに戻ると思っている。ヴォラムニア、私のいうことがはっきりわかるかね? 私はまだ言葉をはっきりと、自由自在に発音できんものだから」
ヴォラムニアはよくわかりますとも、と答える。実際、いまさっきの卿の容態からは思いもかけぬくらい、はっきりした口をきくのである。そうするのにどんなに苦労しているかは、卿の顔にあらわれたいかにも辛そうな表情のうちに読みとれる。卿のような強固な意志の持主にしてはじめてできることだ。
「それ故に、ヴォラムニア、私はあなたの面前で――それから私に昔からかしずいてくれて、その誠実はだれも疑うことのできぬ友人のミセス・ラウンスウェルと――それからその息子のジョージ、先祖伝来のチェスニー・ウォールドの屋敷で過した、私の少年時代を思い起してくれる昔なじみのジョージの面前で、今はっきりといっておく――私はもっと元気になるつもりだが、私に万一のことがあって、回復不能となった時をおもんぱかって、私が万一話す力も書く力もなくした時をおもんぱかって――」
老婦人は声を殺してすすり泣く。ヴォラムニアはひどく興奮をして、その頬にぽっと赤みがさす。騎兵軍曹は腕を組み首をかしげて、うやうやしく聞き入っている。
「それ故に、私は今ここではっきり――ヴォラムニア、あなたをはじめとして、ここにいる諸君一同に証人になってもらうが――いっておく。私と奥との間柄は前と少しも変ったところはない。私は奥に対しなんらの不平苦情を持つものではない。これまで奥に対して常にこの上もなく強い愛情を持って来たし、今もなお変らずに持っている。この旨を奥と、他のすべての者に伝えてもらいたい。君たちが万一これを割引きして伝えるようなことがあったら、それは私に対する故意の裏切り行為だと思ってもらいたい」
ヴォラムニアはふるえ声で、お言葉の一字一句まで従いますと約束する。
「奥はその身分があまりにも高く、容姿才能においてあまりにもすぐれ、周囲をとりまく最もすぐれた人物よりも、さらにあらゆる点にわたって群を抜いているので、おそらく敵や裏切り者を持つのは止むを得ぬことかもしれぬ。これらの敵どもに、これから私のいうことを告げてもらいたい。精神、記憶、理性ともに健全なる者として(4)、私は奥に対してこれまで示した好意を、今もすべてそのままもち続ける。これまで与えたいっさいのものを、今もすべてそのまま与える。奥に対する間柄は少しも変るものではない。奥のためを思ってこれまで行なった行為を――かりに取消すつもりがあればわしにはできるのであるが――いっさい取消すつもりはない」
卿がこのようにれいれいしくもったいぶった言葉を並べると、いつもであればいささか滑稽に見えたかもしれない。が、この際は真剣そのもので、感動的ですらある。卿の高貴な熱意と、その忠誠心と、妻をかばう雄々しい気持と、自分のこうむったひどい仕打ちや傷ついた自尊心を、妻ゆえにこらえようとする態度は、まことに見上げた、男らしい、誠心誠意にあふれたものである。身分のいやしい一介の労働者の目の輝きにも、生れながらにして高貴な素姓の紳士の目の輝きにも、同じ見上げた誠意というものはあらわれるものである。こうした点に関しては、両者ともその志の高さに変るところはない。人間というはかない生物に生れあわせた両者ともに、その尊厳に変るところはないのだ。
こうした努力のためにぐったりとした卿は、枕にもたれかかって目を閉じる。が、一分とたたぬうちに、ふたたび目を開けると外の天気を見つめ、物音にきき耳を立てる。こうした場合にいろいろと世話をやくにつけても、また世話をされるほうでも気軽に受け入れられるので、ジョージはいまやなくてはならぬ存在となった。ひとことも口にこそ出さぬが、暗黙のうちに気持は通じ合っているのだ。軍曹は一、二歩退くと、レスタ卿の見えないところで、母親の椅子の背後から見張り続ける。
日はまさに暮れようとしている。霧につつまれ、雪からみぞれ[#「みぞれ」に傍点]に変った|戸外《おもて》は、ますます暗くなり、炉の火の明りはますますはっきりと、部屋の中の壁や家具に影を投ずるようになる。夕闇がさらに深まると、街路にガス灯がぱっと明るくともる。いまだに立場を頑強に死守している石油街灯は、その生命の源流が半ば凍り、半ば融けているらしく、まるで水から打上げられた魚みたいに、息も絶え絶えにあえぐように、ちかちかと光りまたたく。道路にまいたわらの上に車をきしらせ、呼鈴を鳴らして、「お見舞に参上」したお歴々は、三々五々家に帰り、着物を着替えると、食事をとり、前に述べたような最新のゴシップについて、友達と語り合う。
いまやレスタ卿の容態は悪化し、不安焦躁と苦痛にさいなまれる。ヴォラムニアときたら(いつでもなにか気に入らないことをやる、天才的な才能の持主なので)ろうそくに火をつけるものだから、まだそんなに暗くない、消せと命ぜられる。でも、もうかなり暗い。真夜中と同じくらいの暗さだ。間もなくまた火をつけようとする。いかん! 消せ! まだそんなに暗くない。
卿が必死になって、まだ遅くないと自分自身に信じ込ませようとしているのだ、と最初に気がついたのはミセス・ラウンスウェルである。
「御前さま、私は御前さまのためを思って、こんな失礼なことを申さなくてはならないのですが、こんな真暗な中でじりじりしながら、お待ちになるのはよくありません。カーテンを引いて、ろうそくをつけ、身のまわりをもっと居心地よくいたしましょう。どんなにしましても教会の時計は鐘を打ちますし、夜はだんだんとふけてゆきますし、奥方さまは時が来ればお戻りになりますもの」
「それはわかっている。だが、私は弱っているのだ――そのうえ警部が出かけてからだいぶになるし」
「だいぶとおっしゃいますが、御前さま、まだ二十四時間たっておりません」
「だが、それならもうだいぶではないか。とてもだいぶではないか!」
卿がうめくようにこういうのを聞くと、老婦人の胸ははりさけんばかりになる。
彼女は今は明りをまともに卿に当てるのはよくない、と心得ている。卿の目に浮かぶ涙は、いくら彼女でも見るにしのびないという気がするのだ。そこで彼女はしばらくの間、暗闇の中に黙ったまま座っている。それからあたりを静かに歩き廻ると、こちらで炉の火を掻き立てたり、あちらで暗い窓から外を眺めたりする。とうとうレスタ卿は気持を落着かせていう。「ミセス・ラウンスウェル、あなたのいう通りだ。正直にいってしまおう。かなり夜もふけたし、まだ戻って来ない。明りをつけておくれ!」明りがついて|戸外《おもて》の天気が閉め出されると、あとは耳を澄ますしかない。
だが、やがて皆の気づいたことだが、卿がどんなに弱っていようとも、奥方の部屋の炉の明りをちょっとご覧になりませんか、もうすっかりお迎えの準備が出来ております、というと元気を取り戻すのである。あざとい手かもしれないが、奥方をお迎えするという話をするだけで、心の中に希望が湧き続けるのだ。
真夜中がやって来る。やはりなにごとも起らない。街頭を通る馬車もまばらで、その他にはあたりにもの音ひとつしない。あちこちはしご[#「はしご」に傍点]酒をしたあげく、こんな寒帯地方に放り出された酔っぱらいが一人、どなりわめきながら歩道を通るだけである。この寒い冬の夜ふけ、こととも音のしない静寂に耳を傾けるというのは、真暗闇を見つめるに等しい。もしたまに遠くでもの音がすると、それは暗闇の中にかすかな光が見えるようなもので、その後は前よりもいっそうしんと静まりかえる。
召使連中は寝てもよいと申し渡されて(前の晩は徹夜だったので、この命令は大歓迎だ)、ミセス・ラウンスウェルとジョージだけが、レスタ卿の部屋で寝ずの番をつとめる。夜がゆるゆるとふける――というよりはむしろ、午前二時と三時の間でまったく止まってしまったみたい――につれて、卿は外が見えないので、いっそう天気の模様が知りたくなるらしく、じりじりいらいらした様子を示す。そこでジョージはきっかりと三十分おきに、きちんと整えられた部屋を通り、広間の戸口まで巡回をして、夜の悪天候についてせいぜいましな報告をもたらそうと努めるのである。みぞれ[#「みぞれ」に傍点]はまだ降り続け、庭の石だたみの上さえ半分融けかかった雪が、くるぶしくらいまで積っている。
ヴォラムニアは階段の上の奥まったところにある自分の部屋――彫刻や金の装飾が終るところから二つめの角を曲ったところにあって、できそこないのレスタ卿の肖像が不興をかって追放され、ここに置いてある。昼間なら、古代の紅茶の見本みたいにぱさぱさに枯れた木立の植わった、堂々たる庭を見下ろしているのだが――にとじこもって、さまざまな恐怖にさいなまれている。そのうちのひとつ(決して小さからぬ恐怖であるが)は、彼女のいうように、レスタ卿に「万一のこと」があった場合には、自分のささやかな収入はどうなるかしら、ということだ。この場合の「万一のこと」というのは、この世のいかなる准男爵の意識にも起りそうにないこと、そのことだけを意味しているのである。
こうした恐怖にとりつかれた結果、ヴォラムニアはとても自分の部屋で寝つくことも、炉の傍らに座っていることもできず、美しい頭をいく重にもショールでくるみ、からだに布を巻きつけて、屋敷中をまるで幽霊のように歩き廻るのである。特にまだ帰らぬ主を待って、支度の整った暖かいぜいたくな部屋に出かけてゆく。こんな場合一人ぼっちでいるなど論外であるから、小間使をお伴に連れるわけだが、そのために寝床から引きずり出され、寒さにふるえながらねむい目をこすっているこの女中は、年収一万ポンドを下らぬ華族さまの召使になるつもりでいたのに、なんの因果かその従妹のご用を勤めねばならないと、日頃から不平たらたらだったのだから、とうていえびす顔などしてはいられない。
この|丑満時《うしみつどき》にきちんと三十分ごとに、軍曹が巡回の途中で立ち寄ってくれるというのは、他に人がいるというだけでも気が安まるのだから、ヴォラムニアにとっても小間使にとっても大歓迎だ。軍曹の近づいて来る足音が聞こえると、二人とも彼を迎える準備の身づくろいをいそいそと始める。そうでない時には二人は時にぽかんと我を忘れたり、また時にかなり辛辣な口調で議論を戦わせるのだ。なんの議論かというと、先刻ヴォラムニアが煖炉の端に足をのせてこくりこくりやっていて、あやういところを守護神の小間使に救われた(これがたいそうご主人には気に入らない)のだが、その時炉の火の中にいまにも落ちそうでした、いやそんなことはない、という論争なのである。
「ジョージさん、レスタ卿のお加減はいかがですか?」ヴォラムニアは頭巾をかぶりながらたずねる。
「まあ、同じようなものでございます。閣下はひどく弱っておられて、ときどきうわごとさえおっしゃいます」
「私を呼んでいますか?」やさしい口調でヴォラムニアがきく。
「いいえ、そんなことございません。と申しますのは、自分の聞こえた限りでは、という意味であります」
「ジョージさん、本当に悲しい晩ですね」
「そうであります。お休みになられたほうがよろしくはないですか?」
「お休みになったほうが本当によろしいですよ」と小間使がきつい声でいう。
だがヴォラムニアは、いいえ! と答える。とんでもない! 私のことを呼ぶかもしれない、今すぐ来いと呼ぶかもしれない。もし「万一のこと」があって、私が所定の場所にいなかったら、一生くやんでもくやみ足らないわ。これに対して小間使が、所定の場所というのは、この部屋ではなくてヴォラムニアさまご自身の部屋(そのほうがレスタ卿の部屋にも近いのですから)のはずではありませんか、と疑義を提出するのだか、彼女はそれにとり合わず、断固として私は所定の場所にとどまるわ、と宣言を下す。さらに、私はこのところひとつも目をつむったことがない――まるで目が二十も三十もあるみたいないい方だが――と得々としていう。ところがこの陳述はさきほど五分もたたぬ前に、二つの目を間違いなくぱっちり開けたという事実と、どうもくい違っているのである。
ところが、午前四時ともなって、相変らずなにごとも起らないと、ヴォラムニアの堅い決意も怪しくなって来る。いや、むしろますます強固になった。なんとなれば、いまや彼女は明日になれば私は用があるから来いといわれるかもしれぬから、それに備えるのが私の義務だ、と考えるようになったからだ。実際この所定の場所にとどまりたいのはやまやまだけれど、自分のわがままをすててこの場を退却するのが、人のためかもしれない。というわけで、また軍曹がやって来て、「お休みになられたほうがよろしくはないですか?」といい、小間使が前よりもいっそうきつい口調で、「お休みになったほうが本当によろしいですよ!」とすすめると、彼女はおとなしく立ち上って、こういうのである。「私はどうでもいいから、あなたがたのいいと思うようにしておくれ!」
ジョージ軍曹は、もちろん、彼女の腕をとってその部屋まで送るのがいいと思うし、小間使もこれまた、もちろん、遠慮会釈もなく彼女を寝台の中へ放り込むのがいいと思っているわけである。そこでその通りにされて、いまや屋敷じゅうで起きているのは軍曹一人となってしまった。
天気は少しもよくならない。玄関の屋根から、ひさしから、欄干から、すべての出っぱりや柱のてっぺんから、融けた雪がぽたぽたと落ちて来る。そしてまるで避難所を求めるかのように、大扉の上から吹き込もう――扉の下から流れ込もう、窓の隅から、すべてのすき間や割れ目から入り込もうとしては、そこで痛ましい往生をとげる。みぞれはまだ降り続ける。屋根の上、天窓の上、そのうえ天窓のすき間を伝って、ぽたり、ぽたり、ぽたり、と、まるで幽霊の小道の足音のように、きちんと間を置いて小止みなく、下の石だたみの上に落ちて来るのである。
ろうそくを持つ手をいっぱいに伸ばして、大階段を上り、部屋をいくつも通り過ぎて行く軍曹は、たった一人で豪壮な邸内――かつてチェスニー・ウォールドにいた頃は、大邸宅は珍らしくもなかった――にいると、昔の頃が思い出されて来る。この数週間のうちにわが身の上に起ったさまざまな|有為転変《ういてんぺん》のことを考えながら、田舎で過した少年時代のことをも思い起すと、この生涯の二つの時期が、その間にかくも長いへだたりを持ちながら、奇妙にもここに結びついて来るのだ。いまさらながらにその姿が脳裡に浮んで来るあの殺された弁護士のこと、つい最近この部屋から姿を消し、そのおもかげを|偲《しの》ばせる品々がみなここにある奥方のこと、二階にいるこの屋敷の|主《あるじ》のこと、それからあの不吉な「御前さまに申し上げる役はいったいだれがつとめたらよいのでしょう?」という言葉のことなどを考えながら、ジョージはあちこちへ視線を投げかけ、なにかが目に見えるような気がするごとに、勇を鼓して近寄り、手で触ってみて、それが単なる気の迷いにすぎぬことを自ら|証《あか》してみないではいられない。しかし、屋敷内のどこにも、なにごとも起らない。階段を上ってゆくが、階上も階下もどこもかしこもまっ暗で、なにごともない。重くのしかかるようにしんと静まりかえって、なにごともなく夜はふける。
「ジョージ・ラウンスウェル、準備万端は整っているかね?」
「閣下、万事きちんと整っております」
「何か報告があったか?」
軍曹は首をふる。
「手紙の配達の見落しもないかね?」
そんな希望の無駄なことは卿自身もよくわかっているので、答えを待たずにまたがっくりと頭を枕に埋める。
卿がさきほど自分でもいったように、「昔なじみ」のジョージ・ラウンスウェルは、なにごとも起らずにふけてゆく長い冬の夜中起きていて、卿を楽な姿勢に直してくれる。昔なじみだけに卿の口に出さぬ気持がちゃんとわかっていて、明け方の最初の光が射し始めると、ろうそくを消しカーテンを開ける。曙の光は幽霊のようにやって来る。ひえびえとして、物の色も形もさだかには見えぬが、気味の悪い曙の光は、まるでなにかの前兆のように到来するのだ。あたかも、「おい、そこで見張っている者よ、これから見せてやるものがあるぞ! 彼に知らせる役はだれかね?」と呼んでいるかのように。
[#改ページ]
第五十九章 エスタの物語
とうとう田舎が終って、ロンドン郊外の家並が見え始め、都の街路が迫って来た頃は、午前三時でした。前日の昼間通って以来、雪の降るのも融けるのも止むことがなかったので、前よりずっとひどい道になっていました。でも警部の元気は少しも衰えることがありませんでした。道がはかどったのは曳き馬のおかげはもちろんですが、警部の元気もそれに負けず劣らずの働きだったと私は思います。それどころか、しばしば警部が馬を助けることすらありました。馬が坂を登る途中で疲れきって止まってしまったり、濁流が渦を巻く中を乗切ったり、足をすべらせて馬具がからまったりすると、警部はお気に入りの小さなランタンを持ってすぐ飛んでゆくのです。そして故障がなおると、いつも変らずあの落着きはらった「それ、進め!」という声が聞えて来るのです。
帰りはすこしも躊躇せず、まるで自信たっぷりに道を進めるのには、私も理解に苦しむのでした。一度も迷わず、馬車を止めて人にたずねることすらせずに、ロンドンから数マイルのあたりまでやって来ると、あちこちで二、三聞き込みをするだけ。こんなふうにして午前三時と四時の間に、イズリントンに着きました。
刻一刻と私たちは母を置きざりにして遠のいているのではないかしらと、その間じゅう私がどんなに気づかい不安に思ったか、それをくどくど申すつもりはありません。警部は絶対に間違っていないのです、あの女の後を追うにはなにかもっともな目的があってのことなのでしょう、というなにか強い希望が持てたのだとは思いますが、車がロンドンに着くまで、私は絶えずその希望を疑ったり、くよくよ思い悩んだりしていました。その女を見つけてからどうするのかしら、こんなに時間を無駄にしてそれがどんな役に立つのかしら、こんな疑念がいつまでも私の頭につきまとい、考え込めば考え込むほどますますせつない気持になって来たのですが、そのうちに馬車が止まりました。
そこは街道筋の馬車の立て場でした。警部はこれまでいっしょに来た二人の御者――まるで馬車同様、泥道を引きずられて来たみたいに、からだ一面泥のはねが上っていました――に金を払うと、馬車をどこそこへ引いてゆけと手短かに命令を与えてから、私を抱き下して、新たにここで選んだ貸馬車の中へと乗せて下さいましたが、その時いいました。
「これは驚いた! お嬢さん、びしょ濡れじゃありませんか!」
そういわれるまで私自身気がつきませんでしたが、融けた雪が馬車の中まで入り込んでいましたし、馬が倒れた時に引き起さねばならないので、二、三度車の外に出たこともありましたから、私は着物の下までぐっしょりになっておりました。私は本当に大丈夫なのですからと申したのですが、警部を知っている御者は、私の止めるのもきかず、馬小屋へ駈け出して行くと、腕にいっぱい新しい乾いたわらを抱えて来ました。それをほぐして私のからだをくるみ込んでくれましたので、ほかほかいい気持になりました。
「さて、お嬢さん」私がすっかりくるまれると、警部が窓から覗き込んでいいました。「これから例の人を探しにゆくのですが、少々時間がかかるかもしれません。でも、心配はご無用です。私にはちゃんと考えるところがあるんだと、わかっていただけましょうね、え?」
私にはなんのことやらさっぱりわかりませんでしたし――いつになったらもっとよくわかるのか、それも怪しかったのですが、あなたをご信頼申し上げていますわ、といいました。
「そうしていただければありがたいですな」警部が答えました。「お嬢さん、正直なところを申しますとね、これまでお嬢さんとごいっしょして、私のほうこそお嬢さんをその二倍も信頼しているんですよ。本当ですとも! お嬢さんは全然世話のやけないお方でしたからね。私もいろいろ良家の令嬢を存じ上げておりますが、身分の上下を問わず、お嬢さんの昨夜起こされて以来の態度ほどご立派なのは、これまで見たことありませんな。いや本当に模範的な方です。お手本ですな、まったく」
私はそのお言葉痛み入ります、これまで同様、今後ともお仕事のお邪魔はしないつもりです、と申しました。
「お嬢さんみたいにおとなしくってしっかりしていて、勇気があってしとやかでいて下されば、私は申すことありません。いや、それどこじゃないです。尊敬おくあたわずですな。女王さまみたい、そう申し上げてもいいです」
このようなはげましの言葉――こんなに一人ぼっちで心配している私にとって、本当にはげましになりました――をかけると、警部は御者台に上り、私たちはまた前進です。どこに向って進んでいったのか、その時も知りませんでしたし、今でもわかりません。でも、どうやらロンドンでいちばん狭苦しくて、きたならしい街に向っているみたいでした。警部が御者に道を指差すのを見るたびに、私はどうせもっとひどくむさ苦しい、ごみごみした地域に入り込むのだろうと思っていますと、まず間違いありませんでした。
ときどき馬車はわりと広い大通りに出たり、そのあたりでは大きいほうの、明るい照明のついた建物の傍らにやって来ます。そこは私たちが捜索に出がけの時に立ち寄ったようなお役所で、そこに止まると、警部が別の人たちと相談している姿が見られるのです。ときには警部はアーケードの下とか街角で馬車を下りると、小さなカンテラを仔細らしくチカチカとつけます。すると、いろいろな方角の暗闇から同じようなカンテラの光がほたるのように寄って来て、またそこで言葉を交すのです。立番中の警官は、一人残らず警部の知りたいことを知っているらしく、行き先を教えてくれるのでした。とうとう馬車が止まって、警部とそうした警官の一人とがかなり長く話し合っていましたが、警部がときどきうなずいているところを見ると、たいそう満足の様子でした。話が終ると、警部は私のところへやって来ましたが、ひどく忙しそうな緊張した顔つきをしていました。
「さて、サマソンさん。お嬢さんはなにが起ってもこわがったりはなさらないはずですね。現在わかったところでは、とうとう例の人物をつき止めて、思いがけず早くもお嬢さんのお力添えをかりることになりました。こんなこと申しにくいのですが、ちょっとそこまで歩いて下さいませんか?」
いわれるまでもなく私はすぐ外へ出ると、警部の腕をとりました。
「足もとが危いですからね。ゆっくり歩いて下さい」警部がいいました。
私は通りを横切りながらうろうろ、きょろきょろあたりを見廻しましたが、なんだか見憶えのある場所のように思えました。
「ここはホウバンですか?」私はききました。
「ええ。この曲り角をご存知ですか?」
「大法官府横町のようですね」
「ええ、そういう名前です」
私たちがそこを曲り、みぞれ[#「みぞれ」に傍点]の中をよろよろ歩いてゆくと、時計が五時半を打ちました。無言のまま、足もとが危いながらできるだけ急いで進んで行きますと、狭い歩道をだれかマントを着た人がこちらへ来ました。すれ違うおりに、その人は立ち止まり、私のために道をよけて下さいましたが、そのとたん、あっと驚く声とともに、私の名前が呼ばれるのを聞きました。声の主はウッドコートさんです。私はあの方の声はよく存じ上げておりました。
無我夢中であちこち歩き廻ったあげくの果てに、しかもこんな真夜中にお会いするとは、なんとも思いがけぬこと、なんとも――嬉しいのか辛いのか、自分でもどういったらよいのかわかりません――思わず知らず涙が湧いて来てしようがありませんでした。見知らぬ国であの方の声を耳にしたみたいでした。
「おや、サマソンさん。驚きましたね、こんな時間、しかもこんなお天気に!」
あなたがある異常な用事で連れていかれたとは、すでにジャーンディスさんから聞きました、とおっしゃるので、説明の手間がはぶけました。ですから、私はただ、いま馬車を下りてこれから――そこで私は警部の顔を見ました。
「やあ、ウッドコートさん」警部は私の言葉からあの方の名を知ったらしく、「私たちはつい次の通りまでゆくところなんですよ――私はバケット警部と申します」
ウッドコートさんは私のとめるのも聞かず、急いでご自分のマントを脱ぐと私に着せ掛けて下さいました。警部はそれに手をかしながら、
「ああ、いいことに気がついてくれましたな」
「私もごいっしょに参ってよろしいですか?」ウッドコートさんは、私にともなく警部にともなくたずねました。すると警部がその答えを引き受けて、
「どうぞ、どうぞ。もちろんいいですとも」
こうした言葉のやりとりは一瞬のうちに終り、二人はマントにくるまった私をなかにして歩き出しました。
「私はちょうど今、リチャードのところから帰る途中だったのですよ」ウッドコートさんが申されました。「昨夜十時からそこで夜明かしをしたのです」
「まあ、あの方ご病気なのですか!」
「いえ、いえ、違うのです。病気じゃないのです。でも、あまり健康でもないのです。あまりふさぎ込んで弱っていますので――彼はときどきひどくくよくよ気に病んで、参ってしまうことがありますね――エイダが私を呼んだのです。私が家に帰ってみると、エイダの手紙があったものですから、真っすぐここへやって来たのです。しばらくいる間にリチャードはすっかり元気を取り戻すし、エイダも大喜びで、私がそうしてあげたように思い込んでいる――本当いえば私は全然なにもしなかったのですがね――ものですから、リチャードがぐっすり寝入るまでいっしょにいたのです。きっともう今頃は、エイダもぐっすり寝入っているでしょう」
ウッドコートさんがあの人たちのことを親しげに、心安くお話しになるのを聞いたり、あの人たちを親身になってお世話下さったおかげで、エイダからも安心して信頼されているさまを見ていますと、私はいつもウッドコートさんの約束を思い出さないわけにはいきませんでした。私の顔かたちが変ってしまったのをご覧になって、あの方がすっかり心を動かされた時、私におっしゃった言葉を私が思い出さなかったとしましたら、私はなんという恩知らずでしょうか! 「私はリチャードをお引き受けします。神かけて責任をもちましょう!」
私たちはまた狭い小路に曲りました。みちみちあの方をじっと見つめていた警部は、
「ウッドコートさん、これからあの法律文具商の店へゆくのです。スナグズビーという人の店ですがね。おや、ご存知なんですか?」
警部は勘が鋭く、すぐそれとわかったのです。
「ええ、ちょっとばかり知っています。前にここへ来たこともあります」
「へえ、そうですか。じゃあすみませんが、ちょっとサマソン嬢をお願いしますよ。私は中へ入って少し話がありますから」
バケット警部と最後に話をしていた警官が黙って私たちのうしろに立っていました。それまでは私も気がつきませんでしたが、私が、だれかが泣いていますわ、というと、その警官は初めて口をはさみました。
「お嬢さん、ご心配いりません。あれはスナグズビーの女中です」
「つまりですね」バケット警部が説明しました。「あの子はよくヒステリーを起すんですが、今夜はだいぶひどいようですな。私にはたいへんぐあいが悪いんですよ。私はあの子から聞き込みをしなくてはいけないんで、なんとかあの子を正気に戻さねばなりませんのでね」
「いずれにしても、あの子がいなかったら、まだ旦那と奥さんも起きていなかったでしょうね」相手の警官はいいました。「一晩じゅうかなりひどかったですよ」
「うん、まあその通りだな」警部が答えました。「おれのカンテラは油がなくなった。君のをちょっと見せてくれ」
こんな会話は、泣き声やうめき声の聞える家から二、三軒手前で、しかも小声で交されたのです。借りたカンテラの光の輪で照らしながら、バケット警部はその家の玄関までゆくと、ノックしました。二度叩くと戸が開き、警部は私たちを外の通りに残したまま、中へ入りました。
「サマソンさん」ウッドコートさんがおっしゃいました。「もし私がそばにいてお邪魔でありませんでしたら、どうかいさせて下さい」
「本当にありがとうございます。私、自分の秘密でしたら、あなたにお隠しすることはないのですけれど、これは他人の秘密でございますので」
「わかりました。どうか私を信じて下さい。私はいてよろしい間だけおそばにいることにいたしますから」
「あなたを心からご信じ申しておりますわ。あなたがお約束を絶対破らない方だということは、私にもよくわかっておりますもの」
しばらくするとまた小さな光の輪が現れ、バケット警部が真剣な顔をして私たちの方にやって来ました。
「サマソンさん、どうぞお入りになって、炉のそばにお座り下さい。それから、ウッドコートさん、聞き込みによりますと、お医者さまだそうですね。あの女中、なんとか治るかどうか、見てやって下さいませんか? あの子は私がぜひ見たいある手紙を、どこかに持っているんです。手箱の中にはないので、きっと身につけているのだと思いますが、歯を喰いしばって、|海老《えび》みたいにからだをよじっているもんだから、うっかり手をだすとけがをさせてしまいそうなのです」
私たちは三人揃って家に入りました。中はひえびえとして寒いのに、一晩じゅう人が起きていたせいか、むっと人いきれ[#「いきれ」に傍点]がしました。正面玄関を入ったところの廊下に、ねずみ色の上着を着て、おびえてかなしげな顔をした小さな男の人が立っていましたが、生れつきお行儀のいい人らしく、おとなしい口調で話しかけました。
「警部さん、どうぞ|階下《した》へいらして下さい。お嬢さんには失礼ですが、正面の台所へお越し下さい。うち[#「うち」に傍点]では普段の居間に使っておりますので。裏がガスタの寝室で、そこでかわいそうに、あの子はえらく泣き続けております」
私たちが下へおりると、スナグズビーさん――やがてその小さな男がそうだとわかりました――があとからついて来ました。正面の台所の炉の傍らに、スナグズビーさんの奥さんが、真赤な目をして、たいそうきつい顔をして座っていました。
「ねえ、お前」スナグズビーさんは私たちのあとについて入って来ると、いいました。「いいかい、この今日の夜長に、一瞬たりとも――その、ありていにいえば――敵意の生ずることがないように、紹介しましょう。こちらはバケット警部さんと、ウッドコート先生、それからお嬢さん」
奥さんは無理もないことでしたが、ひどく驚いた顔をして、特にじろじろと私を見つめるのでした。
「ねえ、お前」スナグズビーさんは、まるでなにか申訳のないことをしたみたいに、入口のそばのいちばんすみの椅子に腰を下すと、「おそらく、なぜバケット警部とウッドコート先生とお嬢さんが、この時刻に、このカーシター通り、クック小路のわが家をお訪ねになったのかときくかもしれないけど、私にもわからないのだ。全然わからない。教えてもらってもなんのことか私にはかいもくわからんだろうから、いっそ教えてもらわないほうがいい」
スナグズビーさんは頭を手で抱えて、ひどく情けなさそうな様子ですし、それに私も歓迎されない客らしいので、お詫びをいおうとしていますと、バケット警部が口を切りました。
「さて、スナグズビーさん、あなたにいちばんいいのはウッドコート先生といっしょにいって、あなたのガスタの介抱を――」
「手前のガスタですと、バケットさん!」スナグズビーさんが叫びました。「それで、それでどうしたというんです。それで次は手前をひっくくろうというのでしょう」
ところが警部は平然として言葉を続けます。
「ろうそくを持ったり、あの子をおさえたり、なんでもいわれる通りにお手伝いをするんですな。あなた以上の適任者はおりますまい。なにしろ、あなたは態度が上品でやさしくて、他人にぐっと来るような思いやりがあるんですからな。(ウッドコート先生、あの子を見てやって下さい。それで身につけているあの手紙が手に入りましたら、できるだけ早く私に渡して下さい)」
二人が出てゆくと、バケット警部は私を隅の炉端に坐らせ、私のぐしょ濡れの靴を脱がせると炉の囲いによせかけて乾かしましたが、そうしている間じゅうこうしゃべり続けるのでした。
「ここのおかみさんが仏頂面をしていても、どうか怒らないで下さいよ。おかみさんはぜんぜん勘ちがいをしているのですから。すぐそのことがわかるはずです。私が話してやりますから。もっとも、あんなふうにいつもものごとを考えている人間には、あまりすぐわかるのは嬉しくないでしょうがね」
そういうと、全身濡れねずみの警部は濡れた帽子と肩掛を手に炉の前に立ち、奥さんの方を向くと、
「よろしいですかな。あなたはいわゆる魅力を持った奥さまなんですから、いちばん先に申し上げることは――『われを信ぜよ、もしかの若き日の魅力が(1)』――この歌はよくご存知でしょう。だって、奥さまは上流社交界とまんざら縁のない方じゃないんですからな――いえ、違うなんていっても駄目ですよ――なにしろ、その魅力と美貌ですからな、自信を持ってよろしいですよ――つまり、それはです、あなたがなさった仕業なのですぞ」
奥さんは少々びっくりした顔になると、ややおとなしくなって、おろおろ声で、それはいったいどういう意味ですか? とききました。
「どういう意味か、ですって?」警部はおうむ返しにいいました。そして、こうしゃべりながらも、手紙が見つかったかどうか耳を澄ましているのが、その顔を見るとわかりました――私自身も、そわそわして気もそぞろでした。その手紙がどんなに大事かはよく知っていたからです。「奥さま、どういう意味か申しましょう。オセロの芝居をご覧なさい。これはあなた向きの悲劇です(2)」
奥さんは思い当たることがあるような口調で、どうしてですか、といいました。
「どうしてか、ですって? なんとなれば、奥さまも気をつけないと、ああなってしまうからですよ。私がこう申しております今の今でも、奥さまは心の中でこのお嬢さんのことを、あれこれ考えておられるでしょう。ちゃんと知ってますよ。じゃあ、このお嬢さんがだれだか申しましょうか? ですがねえ、奥さまはいわゆるインテリのお方――からだのわりに精神が立派すぎて、じれったいというわけですな、つまり――ですからおわかりでしょう。このまえ私がお会いした時のこと、あの連中の間で話していたことを思い出してご覧なさいましよ。え? そう、そう! そうですよ、このお嬢さんはそのお嬢さんなんです」
私にはなんのことかわかりませんでしたが、奥さんにはわかったらしいのです。
「それからあの『難物小僧』――奥さまがジョーと呼んでいた子供ですよ――あの子も同じ事件に巻き込まれていたのです。それだけです。それから奥さまもご存知の代書人も同じ事件に巻き込まれていたのです。それだけです。あなたの旦那さんも、あなたのひいお祖父さんと同様なんにもご存知ないのに、(いいお得意さまだった故タルキングホーン氏のおかげで)同じ事件に巻き込まれていたのです。それだけです。全部の連中がみんな同じ事件に巻き込まれていたのです。それだけです。それだというのに、こんな魅力たっぷりの奥さまともあろう方が、きらきら輝くきれいな目をつぶって、かっこうのいいおつむを壁にぶつけるなんて、まあ、みっともない、あきれましたよ! (もうそろそろウッドコート先生が手紙を手に入れていい頃なのになあ)」
奥さんは頭を振ると、ハンケチを目に当てるのでした。
「それだけでしょうか?」興奮したバケット警部は続けます。「いやいや、まだありますぞ。もう一人の人物がこの事件に巻き込まれていたのです。それだけです。その人はかわいそうな境遇の女で、今夜ここに来ました。お宅の女中さんに話をして、そっと書類を手渡しましたな。その書類を私は即金百ポンドでも買いたいと思っているんです。ところが、奥さんはなにをしました? 隠れて見張っていて、女中さんを不意打ちにとっつかまえて――女中さんは、ほんのちょっとしたことでも、すぐヒステリーを起しやすいということを知っていながら――厳しくしめ上げたものですから、ご覧なさい、ヒスをおこしっぱなしです。一人の人間のいのちが、女中さんの言葉ひとつで助かるか助からないかというせとぎわなのに!」
まったくまさに警部のいう通りで、私は思わず知らずこぶしを握りしめ、部屋がぐるぐる廻り出すような気持になりました。でも、すぐ止まりました。ウッドコートさんが入って来て、一枚の紙を警部に手渡すと、また出てゆかれたからです。警部はちらとそれに目をやると、
「さあ、奥さま、奥さまに出来るただひとつのつぐないは、私とこのお嬢さんにここでちょっと内々の話をさせて下さることです。お隣りの台所にいるお方に手を貸したり、あの子を正気に返すのに、なにかできそうなことがあると思ったらば、急いでできるだけのことをして上げなさい!」
たちまち奥さんはすっ飛んでゆき、警部はそのあと扉を閉めました。
「さあ、お嬢さん、落着いて、気を確かに持って下さいよ。大丈夫ですか?」
「大丈夫です」
「これはだれの筆蹟ですか?」
母の筆蹟でした。くしゃくしゃになってちぎった一枚の紙の上に鉛筆で書かれてあって、水で字が消えかかっているところもありました。手紙みたいにざっと折りたたんであって、ジャーンディスさま気付で私あてになっていました。
「筆蹟はおわかりですね」警部がいいました。「もし大丈夫なら、読んで聞かせて下さい。一字一句違えずにお願いしますよ」
べつべつの時に、ばらばらに書かれた手紙でした。私の読んだ文面は次の通りです。
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「私がここへ来たのは二つの目的からです。第一は、できればもう一度かわいいあの子の姿を一目見たいということ――でも、姿を見るだけで、口をきいたり、私がそばにいることを知らせるわけにはいきません。もう一つは、追跡の目をくらまし、姿を消すことです。あの煉瓦造りの妻に一役買わせたことをとがめないで下さい。彼女が私に手をかしてくれたのは、私がこれはかわいいあの子のためなのですから、とせつにせつに願ったからのことなのです。あの人の亡くなった子供のことを憶えているでしょう。彼女の夫の同意はお礼目当てのものですが、彼女の手助けは欲得抜きでやってくれたものです」
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「『ここへ来た』と書いてあるところを見ると」警部がいいました。「これは奥方が煉瓦造りの家で書いたのですな。私の推理が裏書きされました。私は間違っていなかったのですな」
次の一節は別の時に書いたものでした。
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「私は長いこと、遠路はるばるさまよい歩きました。私がじきに死ぬことはわかっています。このひどい街中で! 今は私には死ぬだけのつもりしかありません。家を出た時はもっと悪いこと(3)もやるつもりでしたが、これまでのいろいろな罪に、もうひとつその罪を重ねないですみました。私の死体が発見される時は、寒さと雪と疲れのためと考えられることでしょう。そのため私が病んでいるのは事実ですが、死ぬのは別の原因からです。今まで私を支えて来てくれたものがすべて一瞬にして崩れ落ち、私が良心の呵責におののいて死ぬのは、当然の報いなのです」
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「元気をお出しなさい」バケット警部がいいました。「あと、ほんの二、三行残っているだけですよ」
その最後の部分はまた別の時に、見たところほとんど暗闇の中で書かれたようでした。
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「私は自分の姿を隠すために、できるだけのことを全部しました。じきに私は忘れられ、あの方に及ぼす汚名をせめてなりとも小さくくいとめることができるでしょう。私の身のまわりには私の正体を示すものはなにもありません。この手紙ともいまお別れです。今までいくたびも思い浮べたことのあるあの場所までたどりつければ、そこで倒れ伏すつもりです。さようなら。赦しておくれ」
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バケット警部は腕で私を抱えると、そっと椅子に座らせてくれました。
「元気を出して下さい! こんなことをいって無情な男だとお思いになるかもしれませんが、気分がしゃんとなったら、すぐ靴をはいて身支度をして下さい」
私はいわれた通りにしましたが、かなり長いことその部屋に一人でとり残されていましたので、その間かわいそうな母のためにお祈りをしました。他の人たちは皆あの女中さんにかかりきりで、ウッドコートさんがあれこれ指図なさったり、女中さんに話しかけておられる声が聞えました。とうとう警部といっしょに部屋に戻って来られると、女中さんにやさしく聞いてあげることがかんじんだから、お嬢さんに必要なことを聞いて貰うのが一番いいと思う、といわれました。おびえさせないで、なだめすかせば、女中さんはもう返事ができるくらいに落着いたとのことです。警部が聞きたがっていることは、どうして女中がこの手紙を手に入れたか、女中さんとその手紙をくれた人物との間に、どういうやりとりがあったか、それからその人物はどこへいったか、の三つでした。私はできるだけ落着いてこの三点に心を留めるようにして、いっしょに隣の部屋へゆきました。ウッドコートさんは遠慮して外にいましょうかとおっしゃいましたが、私がお願いしていっしょに入って頂いたのです。
かわいそうな女中さんは、ゆかの上に敷いた|床《とこ》の上に起き上って坐っていました。息苦しくならないようにと、皆さんは少し離れたまわりに立っていました。女中さんは見るからによわよわしく元気もなく、美しくはありませんが、ものがなしい善良そうな顔立ちで、まだ少し病気の影が残っていました。私がすぐ傍らに膝をついて、その頭を私の肩にもたせてやりますと、娘さんは腕で私の首のまわりに抱きついて、わっと泣き出しました。
「よし、よし、かわいそうにね」そういいながら私は相手の額に私の顔をすりつけました。本当は私も泣き出しそうで、身をふるわしていたからです。「こんなこと聞くのはひどいと思うかもしれないけど、簡単にはいい尽せないいろいろな事情があって、あの手紙のことが知りたいのよ」
女中さんはおろおろ声で、わるぎはなかったんですよ、奥さん、本当にわるぎはなかったんですよ、といい始めました。
「よくわかっているわよ」私がいいました。「でも、どうしてあの手紙を手に入れたの? 教えてちょうだい」
「はい、お嬢さん、本当のことをいいます。うそはいいません、奥さん」
「よくわかっているわ。さ、どんなにして手紙をもらったの?」
「お嬢さん、わたし、お使いにいったんです――暗くなってから――かなり遅くです。帰って来ると、あんまりみなり[#「みなり」に傍点]のよくない人が、からだじゅうずぶ濡れで泥だらけになって、この家を見上げているんです。わたしが玄関から入ろうとすると、その人が呼びとめて、あなた、こちらにお住い? ってきくんです。わたしが、はい、っていうと、その人は、このあたりに知っている場所が二、三あったんだけど、道に迷ってしまって見つからない、っていうんです。あら、わたし、どうしましょう、どうしましょう! だれもわたしのいうこと信用してくれないの! あの人、なんの悪いこともいわなかったし、わたしだってなんにも悪いこといわなかったのに、奥さん!」
奥さんになだめてもらわないと、どうにも話が先に進みそうになかったので、奥さんは確かに悔恨の情をはっきりあらわして、女中さんをなだめてやりました。
「その女の人は道に迷っていたのね」私がうながしました。
「そうなんです!」娘さんは頭を振って、しゃくり上げます。「場所が見つからないというんです。その上、気の毒なくらい、ふらふら、よろよろしているんです。本当に、見ててかわいそうなくらい! 旦那さんだってご覧になってたら、半クラウンあげなさったでしょう、きっと!」
「うむ、まあ、そのな」旦那さんは当座はなんといったらよいかわからず、なま返事をしました。「やっただろうさ」
「それなのにその人は、とってもていねいな口をきくもんですから」娘さんは大きな目で私を見つめて、言葉を続けます、「いっそう気の毒に思ったんです。それからその人が、墓地へ行く道をご存知? ってきくんです。わたしが、どこの墓地ですか? っていうと、貧乏人の無縁仏の墓地ですっていうの。そいでわたしが、わたしだって貧乏人で、どうせお|上《かみ》のご厄介になるんですわ、といいました。そしたらその人が、私のいうのは、このへんの近くにある貧民の無縁仏を葬る墓地で、アーチの入口と段々と、鉄の門がついている所です、っていうの」
私が女中さんをなだめて、それから? とうながしながら警部の方を見ると、警部はこの話を聞いてぎくりとしたような様子でした。
「ああ、お嬢さん! わたし、どうしましょう、どうしましょう!」娘さんは両手で髪の毛をおさえつけながら叫ぶのでした。「その人のいうのは、あの眠り薬を飲んだおじさん――旦那さんがいつだったか、家へ帰って来てそのお話なさって――わたし、聞いててとてもこわかった――そのおじさんを葬った墓地のことなのよ。奥さん、わたしまたこわくなって来た! 助けて!」
「大丈夫、もう大丈夫よ」私がなだめてやりました。「お願い、その先を話してちょうだい」
「はい、お話しますわ! でも、わたしのこと怒らないでね。わたし、病気だったんですもの」
こんなかわいそうな子を、どうして怒りなんかできるものですか!
「ええ、お話しますわ。その人が、そこへ行く道を教えて下さいませんか、っていいますから、わたしは、ええ、っていって、教えてあげたんです。そしたらその人、まるで目が見えない人みたいな目つきで、よろよろしながらわたしを見るんです。それから手紙を取り出してわたしに見せて、これを郵便で出しても、途中でいいかげんに扱われて、配達されないでしょうから、これをお礼は受取人払いということで、使いに持たせてやってくれませんか、って頼むの。わたしが悪いことでないんなら承知しましたっていうと、その人は、全然悪いことじゃありませんっていうもんだから、わたし手紙を受け取ったんです。その人がお礼をなんにも上げられませんけどっていうから、わたしも貧乏だから、お礼なんかいらないっていったの。そうしたら、その人は、ありがとう、お元気で、っていうと、いってしまったんです」
「どっちの方へ――?」
「ええ」女中さんはその質問を見越していたみたいに、叫びました。「ええ! わたしが教えてあげた方へです。それからわたしが家に入って来たら、奥さんがどこかうしろからわたしに飛びついて来るんですもの、わたしとってもこわかったわ」
ウッドコートさんが女中さんをやさしく連れ去りました。警部は私の身支度を手伝うと、すぐに外へ出ました。ウッドコートさんは遠慮しようかとためらっていますので、私が、「お願いです、どうかおいでになって!」と申しますと、警部もそばから口を添えて、
「いっしょに来て下さるほうがありがたい。先生のお力が必要になるかもしれません。さあ、急ぎましょう」
どこをどう歩いたのか、私にははっきりわかりません。私が憶えているのは、それが夜中でも昼間でもなかったこと、夜が明けかかっていましたが、街灯はまだ消えていなかったこと、みぞれ[#「みぞれ」に傍点]はまだ降り続いていて、ゆけどもゆけども道は雪融け水でびしゃびしゃしていたことです。二、三人の人影が寒そうに通りをやって来るのに出会ったことも憶えています。濡れた家々の屋根や、あふれた溝や雨どいから水がどっとほとばしり出ていたことや、積ってうす黒く凍った雪の上を歩いて進んだこと、狭苦しい小路を通り抜けたことも憶えています。それからまた、かわいそうな女中さんの声がまだはっきりと耳もとに聞え、私の首にかけた腕がまだはっきりと感じられるような気がしたことも憶えています。うす汚れた家々の正面がまるで人の顔のように見え、私を見つめているような気がしたこと、私の頭の中か、あるいは空中で、なにか大きな水門が開いたり閉じたりしているような気がしたこと、実際にはなくて、頭の中で描いているもののほうが、現実にあるものよりも、さらにいっそう現実らしく思えたことなどを覚えております。
とうとう私達は、暗いみじめなトンネルのような所に立っていました。ランプが一つ鉄の門の上で燃えていて、暁の光がなんとかして射し込もうと、哀れな努力をしているのでした。門は閉まっていて、その門の向うは墓地でした――恐ろしい場所で、そこはまだ夜の暗闇が支配していましたが、ぼんやりと無縁仏の墓や石塔が見えました。その周囲はきたならしい家々で囲まれ、ぼんやりとした窓の明りが二つ三つちらほらと見え、家の壁には湿気がじっとりと厄病のようににじみ出ています。門の石段には、このような不吉な場所の四方八方からしみ出た気味の悪い水が、じめじめぴしゃぴしゃ流れておりましたが、そこに一人の女が倒れているのを見て、私はこわいやらかわいそうやらで、あっと声を立てました――ジェニー、あの死んだ子供の母親でした。
私が駈け寄ろうとすると、ひき止められました。ウッドコートさんがとても真剣な顔で、目には涙さえ浮べて、お願いです、あそこへゆく前に、ちょっとでいいから、バケット警部のいうことを聞いて下さい、と申されるのです。私はいわれる通りにしたつもりです。確かにそうしました。
「サマソンさん、ちょっと考えて下されば、私のいうことがおわかりかと思うのですが、二人は煉瓦造りの小屋で着物を取り替えたのです」
二人は煉瓦造りの小屋で着物を取り替えたのです。そう私は頭の中で繰り返しましたし、言葉の意味だけはわかりましたが、他にどういう意味にとったらよいのでしょう。
「一人はもとの道を戻りました」警部が続けます。「もう一人は先へ進みます。先へ進んだほうの人は、追っ手の目をくらまそうと打ち合わせたとおりの道を進んだだけで、廻り路をすると家へ帰ってしまったのです。ちょっと考えてみて下さい!」
私は警部の言葉をまた頭の中で繰り返してみましたが、なんの意味やらさっぱりわかりません。目の前の石段の上に、あの死んだ子供の母親が倒れているのです。片方の腕を門の鉄の棒のすき間から差し入れて、棒を抱きかかえるようにしたまま倒れています。ついさっき私の母と話を交したばかりの人が、今ここに、苦しそうな様子で、みぞれ[#「みぞれ」に傍点]に打たれたまま、気を失って倒れているのです。母の手紙を持って来てくれた人、母の居所を知る唯一つの手がかりを私たちに教えてくれるはずの人、これまではるばる探し求めて来た母を救いにゆく道案内をしてくれるはずの人が、母とどういうかかわり合いになってかは知りませんが、この哀れな有様となって、今にも私たちの助けの手も及ばぬところへいってしまいそうなのです。その人がここに倒れているというのに、私をひき止めるなんて! ウッドコートさんの厳粛で憐れみに満ちあふれた顔つきを見るにつけても、私には理解できませんでした。なにかをおしとどめるように、ウッドコートさんが警部の胸にそっと手をやり、なにかに向って敬意を表するように、この寒いのに帽子をとって立っておられるのを見るにつけても、なんのことやら私にはさっぱりわかりませんでした。
二人がささやき合う声が聞えました。
「お嬢さんにいってもらいましょうか?」
「そのほうがいいです。あのかたに最初に触れるのはお嬢さんの手であるべきですから。われわれよりも先にゆくのが当然です」
私は門のところに進み寄って、かがみ込みました。倒れている人の重たい頭をもち上げ、濡れた長い髪の毛をはらいのけて、顔をこちらに向けました。冷たくなって死んでいるのは私の母でした。
[#改ページ]
第六十章 未来への希望
私は今度は他のかたがたについての話を進めましょう。周囲の皆さんのご親切のおかげで、私は思い出しても胸がいっぱいになるような、温かい慰めを得たのです。これまで自分のことばかりお話して来ましたし、まだお話していないことがどっさり残っていますので、私の悲しみについては、ここではなにもいわないことにいたします。私は病気になりました。が、それは長くはありませんでしたから、とくにいわなくてもよいことなのですが、皆さんが同情を寄せて下さったことは、どうしても忘れるわけにはまいりませんので、ひとことふれておきましょう。
そこで私は、今度は他のかたがたについての話を進めましょう。
私の病気の間、私たちはロンドンに滞在していました。ウッドコートさんのお母さまも、ジャーンディスさんの招きに応じてロンドンに出て来られて、私達の家に泊まられました。おじさまは、私がもとのようにいっしょに話しても大丈夫なくらい心身ともに元気になったと判断なさると――私はもっと前からもう大丈夫ですと申し上げたのですが、聞き入れて下さらなかったのです――私はもとのように、おじさまの隣に椅子を置いて、仕事をすることになりました。私たちが二人きりになれるよう、私たちが二人きりになれるように、おじさまが取りはからったのです。
「トロットおばさん、ようこそこの『怒りの間』に戻って来てくれたね」私を迎えるとおじさまはキスをして下さいました。「ねえ、私は一つ計画があるんだ。これから六カ月か、ひょっとするともっと先まで、この家にいようと思って。要するに、しばらくの間はここに腰を落着けようと思うんだよ」
「荒涼館のほうはしばらくほうっておおきになるんですの?」
「荒涼館は自分でなんとかやっていってもらわなくてはいけないねえ」
私にはその口調がなんだか悲しそうに聞えたのですが、私が見つめると、ジャーンディスさんは愉快そうな、明るい笑顔になりました。
「荒涼館は自分でなんとかやっていってもらわなくてはいけない」今度は全然悲しそうな様子でない口調で、もう一度繰り返されました。「エイダからは遠すぎるし、それにエイダは君に近くにいてもらいたいだろうからね」
「いかにもおじさまらしいですわ。そこまでお考えになって、私たち二人を不意に喜ばせてやろうとなさるなんて」
「私を他人思いだとほめてくれるつもりかい? いや、それほど僕は他人思いでもないんだよ。かなり自分勝手な考えさ。だってもし田舎に帰ったら、君が始終ロンドンとの間をいったりきたりして、私といっしょにいてくれる時間がろくになくなってしまうだろう。それに私は、リックと仲たがいしてしまったので、できるだけ多く、またできるだけたびたび、エイダの消息を聞きたいのさ。エイダだけでなくて、あの気の毒なリックの消息もね」
「けさウッドコートさんにお会いになりましたか?」
「毎朝会っているよ」
「リチャードの状態は相変らず同じだとおっしゃっているのですか?」
「ぜんぜん同じだ。とくにどうという、からだの病気だとは思えない。いや、ぜんぜん病気なんかではないんだが、でもやっぱり、彼のことは楽観できないというんだ。もっともなことさ」
エイダはこのごろ毎日、時には日に二回も、私たちの家に来てくれました。でも、私が元気になったらそうはゆかないだろう、とまえまえから私たちにはわかっていました。エイダが昔と変らずジョンおじさまに対して、愛情と感謝の念を抱いていることは私たちにもよくわかっておりましたし、まさかリチャードがいってはいかんなんて止めるわけはないでしょうけど、エイダとしては、できるだけ私たちの家から足を遠のけるのが、夫に対する自分のつとめだと思う気持も、私たちにはよくわかったのです。ジャーンディスさんはこまかい思いやりのある方ですから、じきにこの点に気づかれて、エイダに向って、そう思うのももっともだといってあげたのでした。
「誤解にこりかたまった、かわいそうなリチャード!」私がいいました。「いったいいつになったら自分の迷いから覚めるのでしょう?」
「今のところはだめだろうね」とジャーンディスさんは答えるのです。「自分が苦しくなればなるほど、私に対してますます|意固地《いこじ》になるのだよ。自分をこんなに苦しめる元兇だと思ってね」
「そんな筋の通らないこと!」私は思わず口にしました。
「しようがないさ。このジャーンディス対ジャーンディス訴訟事件に筋の通ったことなんかあるものか! てっぺんから底まで、始まりから終りまで――もっとも終りがあるかしらねえ?――筋の通らぬ不正なことばかりじゃないか。いつもその事件の周辺でふらふらしている気の毒なリックが、その結果筋の通らない人間になったとしても、しかたないじゃないか。昔からこのかた、野いばらにぶどうの実がなったり、あざみにいちじくのなる(1)ためしはないんだから」
リチャードの話が出るたびに、ジャーンディスさんの彼に対する思いやりのほどに私は心を打たれますので、私はいつもすぐ口にする言葉もなくなってしまうのでした。
「大法官閣下や、大法官閣下代理や、大法官府全部隊のおえらがたは、その訴訟人の一人が筋の通らぬ不正なことを申せば、さぞお驚きになることだろうよ」おじさまが言葉を続けました。「こうした法律家のかたがたが、そのかつら[#「かつら」に傍点]にまいた粉からこけばら[#「こけばら」に傍点]の花でも咲かせたら、その時は僕だってびっくり仰天だ!」
急に言葉を切ると、風向きを探るようにちらと窓の方をご覧になりましたが、そのまま私の椅子の背にもたれて、
「そこでだね、話の先を続けよう。このやっかいな暗礁は、時が経って、あるいは、なにか運のよいはずみで消えてなくなるまで、ほうっておかねばなるまい。エイダがそれに乗り上げて難破しないように気をつけてあげなくてはいけない。エイダだって、それにリックだって、これ以上仲たがいして友達を失ったらとてもやりきれないだろう。だから私はウッドコート君にも、そして今は君にも、この話をリックの前では切り出さないでほしいと頼んでいるのだよ。ほうっておきたまえ。そうすれば、来週か、来月か、あるいは来年か、ともかく遅かれ早かれいつかはリックも目が覚めるだろう。私はそれまで待っていればいいのさ」
でも、私はもうすでにその話をしてしまったのですけれど、と正直に白状しました。どうやらウッドコートさんも、同じことをおっしゃったらしいのです。
「そうウッドコート君もいっていたよ。まあ、いいだろう。彼は彼なりに、君は君なりに苦言をいった。それでもう話はおしまいさ。ところで、私はこれからウッドコート夫人のところへいって来るけれども、あのお母さんをどう思うかね?」
この妙にだしぬけの質問に対して、私はあの方はとてもいい方です、以前よりもずっとお付合いしやすくなりました、と答えました。
「僕も同感だ。前ほど家柄、家柄といわなくなった、ということだろう? モーガン・アプ――なんとかを、そんなに鼻にぶらさげなくなった、というのだろう?」
ええ、そういう意味です、と私は答えました。もっとも、それをさんざん聞かされたころだって、べつにいやなご親戚だと思っていたわけではありませんけど。
「でも、まあ、そんなご親戚は故郷の山の中にいてくれたほうがありがたい。まったく僕も同感だ。じゃあ、しばらくウッドコート夫人をこの家にお泊めしておいてもいいだろうね?」
ええ、それはもちろんですけど――
ですけど、なんだい? というように、ジャーンディスさんは私の顔をご覧になりました。
私にはなんとも答えられませんでした。ともかく、はっきりと口に出しては申せませんでした。泊まって下さる方が他の方だったらいいのだけれども、というような気持がぼんやりとしていたのですが、なぜそうなのか自分でもわかりませんでした。かりに自分にわかったとしても、とても他人には申せないことでした。
「つまり」とジャーンディスさんはいわれます。「このあたりはウッドコート君にも便利な場所だし、好きなだけお母さんに会いに来られれば、母子ともに喜んでもらえるだろう。それにお母さんは僕たちとも顔なじみだし、君のことは気に入っているのだから」
ええ、それはその通りなのです。私はそれに反対する理由もありませんし、これ以上のいい考えも浮んでは来ないのです。それなのに、なんだか気持がすっきり割り切れないのです。エスタ、エスタ、どうしたというの? エスタ、しっかりなさい!
「それはとてもいいお考えですわ。本当にいいお考えですわ」
「本当にそう思うかい?」
ええ、本当に。答える前に私はちょっと考え込みました。なにか義務にかられてそう思うみたいな気がしたからです。でも、大丈夫、心から本当にそう思いました。
「よろしい。ではそう決めよう。異議なく決行しよう」
「ええ、異議なく決行いたしましょう」私もそういうと、仕事を続けました。
仕事というのはジャーンディスさんの読書テーブルのカバーに、刺しゅうをすることでした。それは私があの悲しい旅をした前の晩にやりかけたまま、その後手をつけていなかったものでした。それをジャーンディスさんにお見せすると、たいそうきれいだとほめて下さいました。私がその模様とか、これでそのうちずっとひきたちますとか、そんな説明を終えると、またさきほどの話に戻ろうと思いまして、
「いつでしたか、エイダが結婚して私たちの家を去る前に、私たちがウッドコートさんの話をしておりました時に、あの方はまたどこか外国へお仕事においでになるのではないかと思う、とおっしゃっておられましたが、その後なにかご忠告をなさいましたか?」
「うん、いく度もしたよ」
「外国行きを決心なさいましたか?」
「いや、やめたらしいよ」
「じゃあ、なにか別の口が見つかったのですね?」
「うん――まあ――そうらしいね」とひどくゆるゆるとした口調で、返事をなさいました。「これから半年かそこいら先の話だが、ヨークシア州のある場所の貧民救護医師の任命が行われるはずなんだ。そこは産業も盛んだし景色もいいし、小川もあれば町もある、都会もあれば田園もある、工場もあれば荒野もあるといった場所で、ああいう人にはもってこいの口だと思うのだよ。ああいう人というのは、つまり、希望や抱負はなみなみならず高い(おそらく大多数の人は皆そうだろうけれども)が、究極のところが世のため人のために奉仕することであるなら、並の平凡な仕事でも充分やりがいがあると思ってくれるような人、という意味さ。奉仕の精神を持った人は、皆高い志を持っているものだろう。しかしその時その時の気まぐれであれこれ手を染めようとしないで、このような道に落着いて打ち込んでくれる人、これこそ私の好きなタイプ、つまり、ウッドコート君のようなタイプの人間さ」
「それで、ウッドコートさんは任命されるでしょうか?」
「さあねえ」おじさまは笑いながら、「僕も予言者ではないから、確かなところはいえないが、たぶん大丈夫だと思うよ。彼の評判はすこぶるいいんだ。それに例の船が難破した時、その地方出身の人がたくさん乗っていたのさ。妙なことだが、結局のところ立派な人間には運が向いて来るんだね。だからといって、それがすてきなポストだと思ってはいけないよ。ごく、ごくありふれた仕事なのだ。労多くして、給料は少ないというわけだが、そのうちきっといいこともあるだろう」
「もしウッドコートさんに決まれば、そこの貧しい人たちは将来きっとよかったと思うことでしょうね」
「その通り。きっとそう思うだろうね」
その話はそれきりになってしまい、またジャーンディスさんは荒涼館の将来のことについても、ひとこともおっしゃいませんでした。でも、その日初めて私は喪服を着ておそばに坐りましたので、そのせいだからだろうと私は思ったのです。
それから私は毎日エイダの住んでいる、陰気で生気のない部屋を訪ねることにしました。いつも午前中にゆくことにしていたのですが、他にも一時間かそこら暇が出来るたびごとに、帽子をかぶり、大法官府横町をさして飛んでゆきました。いつでも私がゆくと二人とも喜んでくれましたし、私が扉を開けて入ってゆくと(自分の家同様に思って、ノックなどしたことはありませんでした)、たいそう元気になってくれますので、私も自分がじゃまではなかろうかと考えることもありませんでした。
私がゆくとたいていリチャードは留守でした。家にいる時は、いつも変らず書類がいっぱいにちらかっている机に向って、なにか書いたり、訴訟関係の書類を読んだりしていました。ときどき、彼がヴォールズ弁護士の事務所のあたりをうろついているのに出会ったことがあります。ときどき、つめをかみながら、附近をぶらぶら散歩しているのに出会ったこともあります。また、私が彼にはじめて会ったリンカン法曹学院を歩き廻っているのに、よく出会いました。あの時にくらべて、なんという彼の変りようでしょう!
エイダの持参金が、ヴォールズ弁護士の事務所で夜燃えているろうそくのように、どんどん消えていってしまったことは、私もよく知っていました。もともとたいした金額ではありませんでしたし、リチャードは結婚の時すでに借金を抱えていました。ですから、この頃になって、ヴォールズ弁護士がいつか全力をあげて車を押そうといっていた――今でもそういっていましたが――のが、どういう意味だったのかいやでもわかるようになりました。エイダは一所懸命家事のきりもりに努力して、なんとか倹約しようとしているのですが、日一日と貧乏になってゆくことは私にもわかりました。
エイダはそのみじめな陋屋で、美しい星のように光っていました。彼女がそれを立派に上品にしてくれるおかげで、まるで見ちがえるようになったのです。私たちの屋敷にいた時よりも顔の色はすぐれず、また、あんなに元気で希望にみちあふれた性格にしては、少し不自然なくらいおとなしく私には思われるのですが、顔には一点のくもりも見られず、私など彼女はリチャードを愛するあまり、彼のめちゃくちゃな生き方に気がつかないのではないかしら、と思ったりしたほどでした。
こんなことを考えているある日、私は二人に食事に呼ばれました。私がシモンズ法学予備院への角を曲ったところで、フライトさんにばったり出会いました。このお婆さんはいまジャーンディスの後見を受けている方々(彼女はあの二人をまだそう呼んでいるのです)の家にお越し下さったところで、たいそうご機嫌うるわしいところでした。エイダにまえまえから聞いておりましたが、彼女は毎月曜の五時になると、帽子にいつもは付けない白いリボンをもひとつ余分に付けて、書類のいっぱい入った大型の網バッグを小脇に抱えて、やって来るのだそうです。
「おや、これはお珍らしい! お元気ですか! お会いできてよかったこと。これからわれらがジャーンディスの後見を受けている方々をご訪問で? なるほど! 美しい奥方はご在宅で、あなたがおいでできっと喜びますわよ」
「じゃあ、リチャードはまだ帰って来ませんのね?」私がいいました。「まあ、よかった。私、少し遅れたかと心配しておりましたもので」
「ええ、あの人はいません」フライトさんが答えます。「あの人は一日じゅう裁判所にいましたよ。私が帰る時、まだ残っていました。ヴォールズといっしょに。あなたはヴォールズがおきらいでしょう? きらいのほうがいいわ。あれは危険な男だから」
「このごろは以前よりもよくリチャードにお会いなのでしょう?」
「ええ、毎日、毎時間のようにね。いつか私が申したでしょう? 大法官閣下のテーブルには、なにか人を吸い寄せる魅力があるって。リチャードはね、私に次いでもっとも精励勤勉に裁判に通っている人間ですよ。私たちの仲間はね、あの人に興味を持つようになったのです。たいそう仲好しの仲間なんですよ、私たちは」
この気違いおばあさんの哀れなたわごとは、いまさら驚くまでもないとはいうものの、聞いていてやりきれない気持になって来ました。
「簡単にいうとですね」彼女は寄って来て私の耳もとに唇を当て、えらそうでいてまた謎めいたものごし[#「ものごし」に傍点]でささやくのでした。「ひとつ秘密をお教えしましょう。私はあの人を私の遺言執行人にしたんですよ。指名し、選定し、任命したんです。私の遺言でね。ええ」
「本当ですか?」
「ええ、本当ですとも」フライトさんはたいそううやうやしい口調でくり返しました。「私の遺言執行人兼管理人兼譲受人としてです(これは法律用語なんですよ)。私に万一のことがあっても、あの人なら判決を見ることができるはずだと考えたからですよ。実にまめに通っていますものね」
彼のことを思うとためいきが出るのでした。
「以前にはね」フライトさんも同様にためいきをもらして、「私はあの気の毒なグリドリーを指名し、選定し、任命しようと思っていたのです。あの人もよくまめに通っていましたからね。本当に精励|恪勤《かつきん》のお手本みたい! でも、かわいそうにあの人いっちまった[#「いっちまった」に傍点]ものだから、私そのあとがまを任命したのよ。人にいわないで下さいよ。これはないしょですからね」
彼女はバッグを注意深く少し開けると、中に入っている折りたたんだ一枚の紙を見せ、これが今お話した任命書ですと教えてくれました。
「もうひとつ秘密があるんですよ。私は小鳥を増やしました」
「おや、本当ですか?」と私はいいました。せっかく秘密を教えてくれたのですから、いかにも興味のありそうな様子を見せてあげれば、喜んでくれると知っていたからです。
彼女はいく度もこっくりうなずきましたが、顔の色がくもって陰気になりました。「二羽増やしたのです。名前はジャーンディスの後見を受けている人たちというんです。他の小鳥といっしょに籠の中に入れました。希望、よろこび、青春、平和、安息、いのち、ちり、もえがら、ごみ、欠乏、破滅、絶望、狂気、死、|狡猾《こうかつ》、愚劣、言葉、かつら、くず、羊皮紙、強奪、先例、隠語、たわごと、ほうれん草、なんかといっしょにね」
かわいそうなおばあさんは、これまで見たこともないような取り乱した顔つきで私にキスをすると、いってしまいました。まるで自分の口からもれるのを聞くのが恐ろしい、とでもいうような口調で、小鳥の名を早口に並べたてるのを聞いていると、私はぞっとするのでした。
この出会いのおかげで、訪問の前からすっかり気がめいってしまいましたので、私のすぐ後に帰って来たリチャードが、食事をごいっしょにとヴォールズ弁護士を連れて来たのを見て、できればあんな人来ないほうがいいのにと思わずにはいられませんでした。簡素な食事でしたけれども、エイダとリチャードは食物や飲物の仕度のために、数分間座をはずしていました。その間ヴォールズ弁護士は私と低い声で話し合っておりました。私の座っている窓辺にやって来て、シモンズ法学予備院についての感想を述べ出したのです。
「サマソンさん、公けの生活を送っていない人にとっては、ここは退屈な場所ですな」といいながら、黒い手袋をはめた手で、少しはよく見えるようにと、汚れたガラスを拭きました。
「あまり見るものとてありませんものね」私が申しました。
「聞くものだってありませんよ。ときどき流しの音楽師がまぎれ込んで来ることがありますけど、われわれ法律家に音楽は不要ですからな。すぐ追い払ってしまいます。ジャーンディス氏はお元気でしょうね?」
私は、おかげさまで元気です、と答えました。
「私はあの方のお友達の一人に数えられる光栄には浴しておりませんが、われわれ法律家を時とすると白い目で見られているということは、存じております。しかしながら、われわれがとるべき明白なる道は、よく思われようと悪く思われようと、どんなに偏見を持たれようとも(われわれは偏見を持たれがちな職業ですからな)、万事を大っぴらに行なうということです。ところで、カーストン氏はどんなご様子だと思われますかな?」
「顔の色がたいそうすぐれませんね。ひどく心配そうですね」
「まさにその通りですな」
ヴォールズ弁護士は私のうしろに立っていました。黒い服を着たひょろっとしたからだは、部屋の低い天井にいまにも背が届きそうで、顔の吹出物をまるで装飾品みたいに手でつまみ、人間らしい感情とか激情などは生れつき持ちあわせぬというように、抑揚のない口調で、ぼそぼそとしゃべるのでした。
「確かウッドコート先生がカーストン氏をみて下さっているのですな?」彼はふたたび口を切りました。
「ウッドコートさんはまごころのある親友ですわ」私がいいました。
「しかし私の申しますのは、医者として、仕事として、という意味です」
「それだけではあのかわいそうな病人はよくなりませんでしょう」
「まさにその通りですな」
ゆっくりと構えて執念深くて、からだの中に血が一滴もないみたいに痩せこけたこの男を見ていると、まるでリチャードはこの吸血鬼のような助言者の下でしだいしだいに痩せ衰えてゆくのではないか、という気がして来るのです。
「サマソンさん」弁護士は続けました。自分のつめたい触覚にとっては、黒革手袋をはめていようと脱いでいようと、どちらでも同じことだというように、手袋をはめたままの手をこすり合わせながら、「カーストン氏が結婚なさったのは軽率でしたな」
私はその話はいたしたくございません、と申しました。二人が婚約したのはまだずっと若かった頃で(私は少し腹を立てていってやりました)、前途がもっと明るく、有望だった頃なのです。今のように不幸な魔力にとりつかれて、毎日を|暗澹《あんたん》として過ごしていなかった頃なのです。
「まさにその通りですな。ですが、万事を大っぴらに行うという見地から、私は失礼をも省みずに申し上げますが、私はカーストン氏の結婚を軽率だったと思うのです。私がこんなこと申し上げるのは、氏のご親戚――その方々の偏見に対し私はもちろん抗弁せねばなりませんが――のためだけではなく、私自身の名声にかかわるからでもあるのです。私も職業人として体面を保たねばなりませんから、名声はだいじにせねばなりません。家の三人の娘にしかるべき資産を持たせてやらねばなりませんし、年とった父親を養ってやっておりますから、そのためにも名声はだいじにせねばなりません」
「もし現在あなたがリチャードと関係していらっしゃるこの有害な仕事に、リチャードがおとなしく背を向けてくれさえすれば、この結婚はまったく違った、もっと幸せでたのしいものとなったでしょうにねえ」
ヴォールズ弁護士は口に手を当てて、音もたてずにからぜき――というよりあえぐような身ぶり――をすると、その点も反対するつもりはありませんというように、首をかしげて、
「サマソンさん、そうかもしれません。それに、カーストンの姓を軽率にも――またこんな言葉を使いますが、どうか私をお責めにならないで下さい。これは私のカーストン氏のご親戚に対する義務としていっているのですから――名乗られたあの若いご婦人が、たいそう上品なお方であることは私も充分認めます。職業がら私が一般の社会の人たちと交わるのは、いつも職業人としての資格に限られますが、それでも、あの方がたいそう上品なお方であることくらいはちゃんとわかります。器量という点になりますと、私はあまりよくわかりませんし、若い頃からあまり関心を寄せたことがありませんが、それでもあの方は十人並であろうと思います。この法学予備院の事務所員どもの間でも、そんな噂だとか聞いておりますし、こういうことに関しては私よりも連中のほうがよく知っておりますからな。カーストン氏の利害を守ることにつきましては――」
「まあ、利害だなんて!」
「お言葉ですが」ヴォールズ弁護士は前と同じ抑揚のない口調で、ぼそぼそというのでした。「カーストン氏は現在法廷で争われているある遺言状に関して、ある利害をお持ちです。われわれが用いる言葉ではそう申すのです。カーストン氏の利害を守ることにつきましては、私が初めてお嬢さんに拝顔の栄に浴しました折に、万事を大っぴらに遂行したい――私はこの通りの言葉を申しました。のちにその言葉を日記に書きつけてありますから、いつでもお目にかけることができます――という私の希望から、こう申しましたな。カーストン氏は自分の利害をぜひ守らねばならぬと私におっしゃいました。私の依頼人がぜひせねばならぬとおっしゃったことで、道にはずれた(というのは法にはずれたということですが)ものでない限りは、私は遂行せねばなりません、と。そこで私は遂行いたしました。今もそうしているのです。しかし私はいかなることがあっても、カーストン氏のご親戚にはいっさい隠しだてはいたしません。あなたに対すると同じように、ジャーンディス氏に対しても大っぴらに振舞います。そうすることは、特に命じられたわけではありませんが、法律家としての義務だと私は心得ております。ですから、不愉快なことでありますが、私は大っぴらに申します。私はカーストン氏の事件はたいそう困ったものだと思っております。カーストン氏自身も困った方だと思っております。たいそう軽率な結婚だったと思っております。――私ですか? はい、ここにおりますよ。ここでサマソン嬢と愉快なお話をしておりますよ。あなたにここへお招きいただいたおかげですな!」
弁護士は急に話を途切らせると、ちょうど入って来たリチャードの言葉にこうあいづちを打ちました。もうこの時には、私はこの人が自分の身と体面を保つのにきゅうきゅうとしているのがよくわかりましたので、私達の予想していた最悪のことが彼の依頼人の身の上にしだいしだいに及びつつあることを、いやでも思い知らされたのでした。
一同が食卓につくと、私は心配しながらじっとリチャードを見守っておりました。ヴォールズ弁護士は(食事の時はさすがに手袋をとりました)小さなテーブルの私のま向いに座りましたが、私に話しかけはしませんでした。彼がたまに目を上げることがあったとしても、その間じゅうリチャードの顔ばかり見つめていたのですから。リチャードは痩せて元気がなく、身なりもだらしなくなり、いつも放心したような様子で、ときどきむりにから元気をつけるかと思うと、またすぐぽかんとしてなにか考え込むというありさまでした。昔は明るい色をたたえていた大きなきらきらした目は、今ではよわよわしく落着きがなくなり、まるで変ってしまいました。年をとったわけでもないのにわかわかしさが失われ、こうした墓場の中にリチャードの青春も、青春の美しさもみな沈み込んでしまったのです。
彼はろくに食物にも手をふれず、まるで無関心の様子でした。以前よりもずっと短気になり、エイダにまでかんしゃくだまを破裂させるのでした。はじめのうちは昔の陽気な気質が全然なくなってしまったのかと思っておりましたら、ときどきはそれがちらと現れることがありました。ちょうど私が鏡を見ていると、ときどき自分の昔の顔をちらとかいま見ることがあるようなものです。ときには笑うこともありましたが、その笑い声は愉快というにはほど遠いうつろな響きを立て、いつも悲しそうでした。
それでも以前のようにやさしく、よく来てくれましたね、と私にいってくれて、昔の話を楽しくするのでした。ヴォールズ弁護士はときどき微笑のつもりでしょうか、ぐっとあえぐように口を動かすのですが、あまり興味はなさそうで、食事が終ると間もなく立ち上り、ごめんをこうむって事務所に帰りたいのですが、といいました。
「ヴォールズ君はいつも仕事熱心だなあ!」リチャードが叫びました。
「ええ」弁護士は答えました。「依頼人のためを思うことはかたときも忘れてはなりませんからな。私のように職業人としての名声を、同業者や一般社会の間に残したいと思ったら、このことは第一に考えなくてはならぬことです。私がここで楽しい談笑の喜びを犠牲にするというのも、ひとつにはあなたの利害を思えばこそですからな」
リチャードはまったくその通りですというと、明りを持って弁護士を送り出しにゆきましたが、戻って来ると私たちに向って、ヴォールズはいいやつだ、あれに任せておけば安全だ、口でいうだけのことは必ず実行する男だから、まったくいい人物だ、と一度ならずいうのでした。そのいい方があまりにもやっきになって、けんかを売るような調子にさえ聞えますので、私は彼がそろそろ弁護士を疑いかけて来たのだと思いました。
それから彼はぐったりして、ソファに身を投げてしまいました。エイダと私はあとかたづけをしました。召使というと、部屋の掃除をしてくれる女しかいなかったからです。部屋には小型のピアノがあって、エイダはそっとそこに座るとリチャードの好きな歌をうたいましたが、まずランプを隣りの部屋に移しました、その光が目に痛いと彼がこぼすものですから。
私はエイダの隣りに座って、そのきれいな歌声を聞いていますと、ひどく沈んだ気持になって来るのでした。リチャードもそうだったのだろうと思います。だから部屋を暗くさせたのだろうと思います。エイダはときどき立ち上って、夫の上にかがみこんで言葉をかけたりしながら、しばらくのあいだ歌をうたっていましたが、そこへウッドコートさんが来られました。リチャードの傍らに座ると、半ば冗談めかして、半ば真面目に、とても自然できさくな態度で、きょうは具合はどうだったかい、一日じゅうどこへいっていたのだいとお聞きになりました。やがてリチャードに、今夜は気持のいい月夜だから、橋の方へ少し散歩にゆかないかと誘い、相手が承知すると、二人でいっしょに出てゆきました。
あとに残されたエイダはまたピアノに向って座り、私もその隣りに座っていました。二人きりになると、私は腕をエイダの腰にまわし、彼女も左手で(私はそちら側に座っていましたので)私の腰を抱きました。が、右手は相変らず鍵盤の上におき、音を叩かずに、指をその上に走らせているのでした。
「ねえ、エスタ」沈黙を破ったのはエイダでした。「アラン・ウッドコートがいっしょにいてくれる時が、リチャードはいちばん元気で、あたしもいちばん安心なのよ。あたしたちはあなたにそのお礼をいわなくてはいけないわね」
私は、あら、そんなことないでしょう、だって、ウッドコートさんはジョンおじさまの家においでになったのが最初で、それ以来私たちみんなのお知り合いですもの、いつもあの方はリチャードがお好きでしたし、リチャードもあの方が好きだったし、それに――とかなんとか、そういったような答えをしました。
「それはそのとおりよ」エイダがいいました。「でも、あの方があたしたちにあんなに親身のお友達になって下さるのは、あなたのおかげよ」
私は彼女のいうことにこれ以上逆らわないで、黙っているのがいちばんいいと思いましたので、そのとおりよと、少し冗談めかして申しました。というのは、エイダがふるえているのが感じられたからです。
「エスタ、あたしね、いい奥さんになりたいの。とっても、とってもいい奥さんになりたいのよ。あたしに教えてちょうだいね」
私が教える、ですって! それ以上私はなにもいいませんでした。鍵盤の上の手がふるえているのに気づいたからです。また、私が口をきくべきではない、彼女のほうがなにかいいたいことがあるのだ、と気づいたからです。
「あたしがリチャードと結婚した時、リチャードの将来がわからないわけではなかったの。結婚するまであたしは、あなたといっしょに長いことほんとに幸せに暮して、愛され親切にされていたから、気苦労や心配はぜんぜん知らなかったでしょう。でもあたし、リチャードがあぶないということはわかっていたのよ」
「ええ、わかるわ、あなたのおっしゃること」
「あたしたちがいっしょになった時、あたしはいくらか希望は持っていたのよ。リチャードが間違っていることをなんとかわからせてあげられはしないか、あたしの夫になったら、物事を新しい角度から見直してくれはしないか、って。少なくとも、今しているみたいに、私のためを思ってますます死にもの狂いに間違った道を突進するようなことはあるまいと思っていたの。でも、もしそんな希望を持たなかったとしても、やっぱりあたしはあの人と結婚するつもりだったわ。本当よ、エスタ」
絶えず落着かなくふるえていた手が、一瞬しかと私を抱きしめた――その最後の言葉を口にした時にしかと抱きしめ、言葉が消えるとともにまた弱まった――ことからも、エイダが真剣にいっていることがはっきりわかるのでした。
「エスタ、あなたのわかっていること、心配していることが、わからないわけじゃないのよ。あたし以上にリチャードを理解できる人はいないわ。世界一の賢者だって、あたしの愛情以上にあの人を理解することはできないはずよ」
エイダの口調はやさしく、つつましやかでしたが、そのふるえる手は音の出ない鍵盤の上を左右に走り、内心の激情を雄弁に物語っていました。なんというけなげな心でしょう!
「あたしは毎日のように、あの人がどん底に沈んでいる姿を見ているの。眠っている時の様子もじっと見ているの。顔の動きひとつで皆わかるの。でも、リチャードと結婚した時にね、あたし決心したのよ、エスタ。神さまのお助けでできるならば、あの人がやっていることをあたしが悲しんでいるような顔を見せて、あの人をいっそう不幸にするようなことは絶対するまい、って。あの人が帰って来た時、あたしくよくよした心配顔は見せまい。あの人があたしの顔を見たら、昔好きだといっていたその顔を見せてあげよう。あたしはそうするつもりで結婚したの。そのことがあたしを元気づけてくれるのよ」
私はエイダがいっそうふるえているように感じました。私はその先の言葉が出るのを待ちましたが、それがなんであるか、もうわかりかかったような気がしました。
「それにね、エスタ、私を元気づけてくれるものがもうひとつあるの」
エイダはちょっとのあいだ話すのを止めました。止めたのは話すほうだけで、手のほうは相変らず動いていました。
「あたしはもう少し先に期待をかけているの。それがどんな力をかしてくれるかはわからないけど、その時になってリチャードがあたしに目を向けてくれれば、あたしの胸に抱かれているものが、あたしよりももっと雄弁にあの人に訴えかけてくれて、もっと強い力であの人を迷った路から正しい路へと、引き戻してくれるかもしれないわ」
エイダの手が動きを止めました。両腕で私をしっかりと抱きしめました。私も彼女を両腕でしっかりと抱きました。
「その小さな赤ちゃんを見て、それでもまだあの人の目が覚めなかったとしても、あたしはもっと先に期待をかけるわ。もっともっと先、なん年も先になって、あたしが齢をとり、あるいはひょっとして死んでしまってから、あの人の娘がきれいな一人前の女になって、幸せな結婚をしてあの人を喜ばせる頃、あの人はだれにも自慢できる立派な父親になっているかもしれないわ。あるいは、昔のあの人みたいに寛大で男らしくて、希望にみちあふれた立派な美男子が、あの人よりももっと幸せになって、あの人といっしょに明るい太陽の下を腕を組んで歩き、あの人のしらが頭を見上げながら、『この人が僕のお父さんだ! 一度は遺産相続のことで身を持ち崩したけれども、僕のために立直ったのだ!』というかもしれないわ」
エイダの激しく高鳴る心臓の鼓動が、私にまで伝わって感じられるのでした。
「こんな希望があたしを元気づけてくれるのよ、エスタ。これからもずっと元気づけてくれるわ。でもね、ときどきリチャードを見ていると、恐ろしい不安が湧いて来て、そんな希望まで消えてしまうことがあるの」
私は彼女を一所懸命励まそうとして、その恐ろしい不安とはなんなの? と尋ねました。すると|嗚咽《おえつ》にむせびながら、彼女が答えるのです。
「あの人、子供の顔を見るまでいのちがもたないのではないかしら」
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第六十一章 思いがけない発見
エイダのおかげで明るく輝いているあのみじめな陋居を私がよく訪れた頃のことは、いつまでも忘れることができません。今ではその家を見ることもありませんし、見たくもありません。そのころ以来一度しかそこへいったことはないのですけれども、私の思い出の中では、その場所は悲しいけれども後光がさしているように思われ、いつまでもその光を失うことがないのです。
もちろん一日としてその家を訪れない日はありませんでした。はじめのうち二、三回、そこでスキムポールさんがのんびりとピアノをひいたり、いつもの陽気な調子でおしゃべりをしているのに会いました。彼がそんな所にやって来れば、リチャードがますます貧乏になるのはわかりきったことでしたし、さらに彼がのんきにわいわいはしゃいでいるのが、エイダの生活の奥底をよく知っている私には、なんともそぐわないように思われるのでした。エイダも同じように考えているのがはっきりわかりました。そこで私はいろいろと考えた末に、スキムポールさんをひそかに訪れて、それとなく私の意見を伝えようと決心しました。私がこんな大それたことを考えたのは、エイダのことを思えばこそだったのです。
ある朝のこと、私はチャーリーといっしょにサマーズ・タウンへ出かけてゆきました。彼の家が近づくにつれて、私は廻れ右をして帰ってしまいたい気持が強くなって来るのでした。スキムポールさんを相手になにかを肝に銘じさせるなんて、途方もないことのように思われましたし、どうも私のほうが降参してしまいそうだったからです。でも、ここまで来たからには、とことんまでやってしまおうと思って、私はふるえる手でドアをノックして――ノッカーがついていないので、文字通り手でやったのです――アイルランド人の女中さんと長いことやりとりをしたあげく、やっと中へ入れてもらいました。女中さんは私がノックした時、中庭で|天水桶《てんすいおけ》の蓋を火かき棒でこわして、焚きつけを作っているところでした。
自分の部屋のソファに寝ころがって、フルートを慰みに吹いていたスキムポールさんは、愛想よく私を迎えてくれました。さて、だれにお嬢さんのお相手をさせましょうかね? と彼はいいました。だれを相手にしたいですか? 娘の「喜劇」にしましょうか、「美」にしましょうか、それとも「感情」にしましょうかな? それとも娘を三人ともひっくるめて花束にしましょうかな?
私はもうはやくも半分降参したような気持になって、よろしければスキムポールさんお一人にお話がしたいのです、と申しました。
「サマソンさん、たいそう嬉しゅうございますな! もちろん」というと、彼は椅子を私の方に近寄せ、なんとも魅力的な微笑を浮べながら、「もちろん、仕事のお話ではないでしょうね。じゃあ、なにか愉快なお話ですね!」
私はこれは確かに仕事の話ではありませんが、あまり愉快な話でもありません、といいました。
「そんならやめて下さい」この上もなく率直で、陽気な態度で彼はいうのです。「愉快でない[#「でない」に傍点]お話なら、なにも口にすることありませんよね。この僕[#「僕」に傍点]だったらしませんよ。それにあらゆる点から見ても、あなたのほうが僕よりも愉快な方です。お嬢さんは完全に愉快な方、僕は不完全に愉快な人間です。その僕が不愉快なことを口にしないというのですから、ましてやお嬢さんがする筋合いはないじゃありませんか! だから、その話はこれでかたがつきました。なにか別のお話をしましょう」
私はめんくらってしまったのですが、勇気を出して、それでもそのお話を続けたいのです、と申しました。
「ぼくはそりゃ間違いだと思うのですがねえ」スキムポールさんは朗らかに笑いました。「かりにサマソンさんが間違いをしでかすような方だと思っての話ですがね。でも、僕はあなたがそんな方とは思いません!」
「スキムポールさん」私は目を上げて相手をまともに見つめました。「あなたは世間の俗事は全然ご存知ないとよくおっしゃっておられましたけど――」
「つまり銀行にいるわれらの三人の友のことでしょう。ポンド君にシリング君に、ええとそれから下のやつはなんといいましたかな? ペニー君でしたか? ええ、まるっきり存じません!」スキムポールさんは朗らかにいいました。
「――では、その点について私がぶしつけなことを申しても、お許し下さると思うのですが、リチャードは前よりもずっと貧乏になったということを、真面目に考えて下さらなくてはいけませんわ」
「これはしたり! 僕だってそうですよ。皆がそういってます」
「そしてたいそう暮しに困っているのです」
「まったくご同様ですな!」スキムポールさんは嬉しそうな顔でいうのでした。
「そのためにエイダは、このごろ人にはいえない苦労がいっぱいなんです。ですから、お客さまのお世話をしないですめば、それだけエイダの苦労が減ると思うのです。それに、リチャードはいつも大きな心配で悩んでいるわけですから、私、こんなこと申してはなんですが、もしあなたが、その――」
だいじなところへ来て私の言葉がつまってしまいました。するとスキムポールさんは私の両手をとり、明るくにこやかに笑うと私の先まわりをしました。
「あそこへいかないでくれ、とおっしゃるのでしょう? よろしいですとも、サマソンさん。いくのやめます。僕がいくことありませんもの。僕がどこかへいくのは、楽しみたいからです。わざわざこちらから苦しみにいくなんてごめんです。元来僕は楽しむために生れた人間なんですから。苦しみは僕に用があれば向うからやって来ますよ。正直いってこのごろ僕はリチャード君の家へ行っても、まるでおもしろくないんです。お嬢さんの実際的で賢いおつむ[#「おつむ」に傍点]のおかげで、そのわけがわかりました。あの人たちは、かつてはたいそう魅力的だった青春の詩を失って、このごろでは『この男はポンドが欲しいんだな』なんて考え始めます。その通りなんですよ。僕はしょっちゅうポンドが欲しいんです。自分のためじゃなくて、商人がいつも欲しいといって僕のとこへやって来るからなんです。それからあの人たちは金銭ずくになって来て、『この男はポンドを持っていった男だな――借りていった男だな』と考え始めるのです。まさにその通り。僕はしょっちゅうポンドを借ります。そこであの人たちは散文に堕落してしまい、僕に楽しみを与える力がとみに衰えるというわけです。それなら、どうして僕があの人たちに会いにいく必要があるんです? ばかげた話じゃありませんか!」
このように理屈をつけながら、私に向ってにこやかに笑っていると、彼の顔が損得なんかこればかりも考えぬ、なんとも人のよさそうな顔に見えて来るのですから驚きます。
「そのうえ」相手は自信まんまんの様子で理屈を並べ続けるのでした。「僕はこちらからわざわざ苦しみにいくのはごめんなんですから――そんなことしたら、僕の生きる意図をゆがめるとんでもないことになります――僕は苦しみの種を作りにいくのもまっぴらです。現在のような不安定な精神状態にあるあの人たちに会いにいったら、あの人たちを苦しめることになりましょう。僕のことを思い出すだけで、あの人たちは不愉快になるでしょう。きっとこういうかもしれません。『あの男はポンドを持っていって、返せない男だな』もちろん、私は返せませんよ。こんなわかりきった話はないでしょう! だから、僕はあの人たちに近寄らないほうが親切なんです――だから、近寄りませんよ」
最後に彼は私の手にキスをして、お礼をいうのでした。サマソンさんが機転をきかせてうまくこのことを教えて下さらなかったら、僕には絶対わかりませんでしたろう、と。
私はひどくめんくらってしまいましたが、だいじな目的を達したのですから、そこにいたるまでの過程をどんなに奇妙に誤解されてもかまうまい、と思いなおしました。でも、まだ他にもいうことがある、今度は|煙《けむ》にまかれまい、と決心しました。
「スキムポールさん、おいとまをする前に、失礼ですがもうひとついわせていただきます。しばらく前にあの気の毒な子供を荒涼館から連れ去ったのはだれだか、あなたはご存知だそうですね。それからあなたはそのおりに贈物を受け取られたそうですね。これは確かな筋から聞いた話ですから間違いないのですが、私はたいそう驚きましたわ。このことはまだジャーンディスさんには申し上げてありません。無用のお腹立ちの種になると思ったからです。ですが、私はたいそう驚きました、と申さねばなりません」
「まさか。サマソンさん、本当に驚かれたのですか?」
彼は愉快そうに|眉《まゆ》を上げてたずねました。
「大いに驚きましたわ」
しばらくの間ひどく人のよさそうな、気まぐれな表情で考え込んでいましたが、やがて考えても無駄だというようなしぐさで、例の愛嬌たっぷりの様子で話し出しました。
「僕がどんなに子供かはご存知でしょう。なぜ驚かれるのですかねえ?」
私はその話にこまかく立ち入るのがいやでしたが、相手が本当に知りたいのですからぜひともというので、私はできるだけ穏かな言葉づかいで、あなたのなさったことは人の道にはずれたところがかなりあるように思えるのですが、といってやりました。スキムポールさんはこれを聞くとたいそうおもしろそうな顔をして、天衣無縫の無邪気さで「まさか」というのでした。
「僕が責任をとるつもりが全然ないことはご存じでしょう? 僕にはとてもそんなことできない相談なのです。責任というやつはいつも僕の考えの及びもつかぬ――それとも考えにあたいしないのかな、どっちだかそれすらわかりません。しかしサマソンさん(実際的な良識と判断にかけては敬服すべき方ですからな)のおっしゃる意味を僕が判断したところでは、おもにお金についてのことでしょう?」
私はうっかりそういってもいいかもしれませんが、と返事をしてしまいました。
「ああ、それならおわかりでしょう」スキムポールさんは頭を振りました。「僕には理解なんてとても思いもよらぬことです」
私は腰を上げながら、賄賂のためにジャーンディスさんの信頼を裏切るのは、よくないのではありますまいか、といいました。
「サマソンさん」生れついての率直明朗な様子で、彼は答えます。「僕には賄賂なんかききませんよ」
「バケット警部でもですか?」
「ええ、だれでもだめです。僕は金になんの価値も与えないんですから。金なんかなんとも思わないのです。まるで知らないんです。欲しくもないし、貯めもしません――僕のふところからすぐ出ていってしまうのですからね。そんな僕に賄賂なんかくれてなんになるんですか?」
私はこの点についていい争いをするつもりはありませんけど、そうは思いませんわ、といいました。
「それどころか、僕はこういった点については、もっと立派な立場に置かれるべき人間です。こういった点については、他の一般の人間よりすぐれているのです。悟りを開いていますからね。イタリアの赤ん坊のからだをほうたいでゆがめるみたいに、私は偏見でゆがめられてはいないのです。空気のごとくに自由で、シーザーの妻のごとくに、他人の疑いなど及びもつかぬ人間(1)なのです」
スキムポールさんがすべてを羽根の入ったまりみたいに、ぽんぽんと投げとばしながら、僕は絶対公平無私、とでもいうみたいに、自信まんまん口をきく、その軽快でおどけた態度にかなう者を私はこれまで見たことありませんでした。
「サマソンさん、こんなふうにお考え下さい。僕のひどく気に入らぬ状態で屋敷に入れられ、寝かしつけられた一人の子供がいます。その子供が寝ている間に、一人の男がやって来て――童謡にあるジャックの建てた家(2)みたいなものですな。僕のひどく気に入らぬ状態で屋敷に入れられ、寝かしつけられた一人の子供を、引き渡せという一人の男がいます。私のひどく気に入らぬ状態で屋敷に入れられ、寝かしつけられた一人の子供を、引き渡せという一人の男が差し出したお|札《さつ》があります。僕のひどく気に入らぬ状態で屋敷に入れられ、寝かしつけられた一人の子供を、引き渡せという一人の男が差し出したお札を、受け取るスキムポールという男がいます。これが事実です。よろしいですな? さて、そのスキムポールがお札を受け取ってはいけなかったでしょうか? なぜお札を受け取ってはいけなかったのでしょうか? スキムポールはバケットに頼んだのですよ。
『これはいったいなんのためですか? 僕にはこんなものわかりません。こんなもの僕にはなんの役にもたちません。持っていって下さい』
ところがバケットは、しきりに受け取ってくれというのです。偏見でゆがめられていないスキムポールが、このお札を受け取らねばならぬ理由があるでしょうか? ありますとも。スキムポールにはよくわかるのです。その理由とはなんでしょう? スキムポールはとっくりと考えます。これは抜け目のない男、敏腕の警官、利口な男、精力を少しも浪費しない頭も腕も抜群な人間だ。僕たちの仲間や敵が失踪した時には、僕たちに代って見つけ出してくれる人、僕たちが盗みに会うと、僕たちに代って財産を取り戻してくれる人、僕たちが殺されてしまうと、充分怨みを晴らしてくれる人だ。この敏腕で利口な警官は、その腕をふるうに当って金に強い信頼を寄せている。金というのは自分にたいそう役に立つものなので、社会にも役立たせようとしているのだ。僕が金を充分信頼しないからといって、バケットの金への信頼を打ちくだくべきであろうか? 僕は故意にバケットの武器の一つの効力を鈍らせるべきであろうか? バケットの次の仕事を立ち往生させるべきであろうか? そのうえ、もしスキムポールがこの札を受け取るのがいけないとするならば、その札を出すバケットもやはりいけない――いや、バケットはもののよくわかった人間なのだから、そのほうがもっといけないわけだ。さて、スキムポールはバケットを好意的に見てやりたい。スキムポールはバケットを好意的に見るのが、|森羅万象《しんらばんしよう》の筋道にかなっていると考える。国家はスキムポールに、バケットを信頼せよと命じている。というわけで、スキムポールはバケットを信頼したのです。それだけの話なんですよ!」
私はこの理屈に対して、なんと返事をしてよいのかわかりませんでしたので、帰ることにしました。ところがスキムポールさんはひどく上機嫌で、「コウヴィンセズの娘」だけをお伴に連れたのではいけません、といって自分でいっしょについて来るのでした。そしてみちみち、いろいろなおもしろい話で私を楽しませてくれてから、別れしなには、自分に代ってお嬢さんが機転をきかせて、あの若夫婦の家庭の事情を教えて下さった手ぎわのよさは一生忘れません、といいました。
ところが、その後私は一度もスキムポールさんに会うことがありませんでした。ですから、ここで私の知っている彼の生涯を全部いってしまいましょう。彼とジャーンディスさんとの仲がつめたくなりました。これは主として今お話したような事情と、彼がリチャードのことに関して、ジャーンディスさんの願いを無情にもきき入れなかった(これは後にエイダから聞いてわかったことなのです)ことによるので、ジャーンディスさんからさんざん借金をしていたことは、二人の仲たがいとはぜんぜん関係がありません。スキムポールさんはその後五年ほどしてからなくなり、日記や、手紙やらなにやら伝記の材料となるものを残しました。それらは出版されましたが、それによりますと彼は、愛すべき子供を向うに廻してぐる[#「ぐる」に傍点]になった大人どものわな[#「わな」に傍点]にかかったのだそうです。たいそうおもしろい読み物との噂ですが、私はなんの気なしに本を開いてちらと一節を見ただけで、それ以上読みはしませんでした。その一節というのは次の通りです。「私の知っている大多数の他の人間同様に、ジャーンディスは私利私欲のかたまりである」
さて、いよいよ私の物語は、私に大そう密接な関係があって、しかもまったく思いがけない出来事が起きた時の話にさしかかります。これまで私の昔の顔のことを、ときおり思い出して筆の進みが鈍ったこともあったかもしれませんが、それはただ過ぎ去った昔のこと――私の幼い頃や子供の頃のように、過ぎ去った昔のこととして思い出したのにほかなりません。この点に関して、私は自分の愚かしい心をぜんぜん隠すことなく、思い起すがままに正直に書いてまいりました。これからも、今となってはさほど遠からぬこの物語の終りにいたるまで、私はそうするつもりでおります。
何カ月も過ぎました。エイダは私に打ち明けてくれた希望にささえられて、相変らずあのみじめな陋居を照らす美しい星でした。リチャードは前よりもいっそうやつれ衰えて、来る日も来る日も法廷に通っていました。自分の事件が持ち出される見込みが、こればかりもないことは承知の上で、一日中おちつきなくそこに座っているので、そこの名物男となってしまいました。リチャードが初めて法廷へ出かけていった時の姿を憶えている人がいるとは、とても思えません。
リチャードは自分のひとつの考えばかりをいちずに思いつめているので、この頃では「ウッドコートがいなければ」、新鮮な外の空気を吸おうという気にもならない、などと陽気に口走ることもありました。実際、ときどき数時間くらいでも彼の気分をまぎらわしてくれたり、心身ともにぐったりとなってしまっている(そんなとき私たちはひどく心配になって来るのですが、時がたつにつれて、しだいにそんなときが増えて来るのです)彼の元気をふるいたててくれたりするのはウッドコートさんだけなのです。エイダが、あの人は私のためを思って、ますます死にもの狂いで間違った道を突進しているのよ、といったのはそのとおりだったのです。たしかに、前に失ったものを取り戻したいと願うリチャードの心が、若い妻にすまないと思う気持からますますたかぶり、そのために気の狂った闘鶏のように、前後の見さかいがなくなって来たのです。
前に申しましたように、私はしじゅうそこの家へ出かけてゆきました。晩方までいる時には、いつもチャーリーといっしょに馬車に乗って帰りました。ジャーンディスさんが近くまで迎えに来て下さって、いっしょに歩いて帰ることもありました。ある晩のこと、八時にお迎えに来て下さる約束でしたのに、私はいつものように時間きっかりには家を出られませんでした。というのは、その晩はエイダのために針仕事をしていたので、もう少しで仕事が仕上りになるところだったからです。でも、ほんの数分遅れただけで、私は小さな針仕事のバスケットを取り上げて、エイダにおやすみなさいのキスをしてから、あわてて下へおりました。暗くなっていたので、ウッドコートさんもいっしょに来て下さいました。
私たちがいつも落ちあう場所――そこはすぐ近くでしたので、それまでもよくウッドコートさんが送って来て下さることがありました――へ来てみると、ジャーンディスさんはいませんでした。あちこち歩きながら私たちは半時間ばかり待ちましたが、ジャーンディスさんの影さえ見えません。そこで、きっとなにかの事情で来られなくなったか、すでに来てからどこかへいかれたのでしょう、というふうに私たちは考えて、ウッドコートさんが私を家まで送りましょうといって下さいました。
いつも落ちあう場所までわずかなあいだ歩くのは別として、私たち二人がいっしょに歩いたのはこれがはじめてのことでした。途中はリチャードとエイダのことばかり話し続けました。私はウッドコートさんのご尽力に対して言葉ではお礼を申しませんでした――私の感謝の気持は言葉ではいいつくせないくらいだったからです――が、私がそんなに感謝していることを、いくぶんかはわかっていただけたらいいのに、という気がするのでした。
家に帰って二階へ上ってみると、ジャーンディスさんも、ウッドコートさんのお母さまもお留守でした。私たちがいたその部屋は、かつて顔を赤らめているエイダを、今ではあんなにも変りはててしまった夫となった人が、まだその愛する若い恋人だった頃に、案内していったその同じ部屋でした。ジャーンディスさんと私が、前途の希望にみちあふれ、元気よく夕陽を浴びて立ち去ってゆく若い二人の姿を見送ったその同じ部屋でした。
私たちが開いた窓の傍らにたたずんで、下の街路を見おろしていた時、ウッドコートさんが口を開かれました。あの方が私を愛して下さっていることは、すぐに私にわかりました。私の変りはてた顔も、あの方にとってはぜんぜん変っていないのだということが、私にはすぐにわかりました。私がそれまであわれみと同情だと思っていたものが、実は心からの誠実な愛情だったことが、私にはすぐにわかりました。でも、ああ、もうおそすぎたわ。今になってわかっても、もう手おくれ。おそすぎたわ! 私がいちばん最初に抱いたのは、こういう罰当りな考えでした。今ではもうおそすぎたわ!
「僕が故国に帰って来た時には」ウッドコートさんがおっしゃいました。「僕が帰って来た時には、出かけた時と同じ貧乏医者で、あなたはちょうど病気の床から起き上られたばかりのころでしたが、他のひとびとを思うやさしい心ざしで、いきいきと輝いておられました。自分のことはこればかりもお考えにならずに――」
「ウッドコートさん、どうか、もう、おやめになって! 私はそんなにおほめいただけるような女ではございません。あの頃はずいぶんいろいろと、自分勝手なことを考えていたのでございますわ、いろいろと」
「僕のいっていますのは、絶対に恋人の出まかせのお世辞ではなくて、真実なのです。これは神に誓って申します。あなたの周囲の人たちが、エスタ・サマソンをどんなに思っているか、あなたご自身はおわかりにならないのですよ。あなたのおかげでどれほどのひとびとが心を打たれ、心をほだされたか! あなたがどれほどまでに尊敬され愛されているか!」
「ウッドコートさん」私は声をつまらせました。「愛されるということは、とてもすばらしいことですわ! とてもすばらしいことですわ! 私、それをお聞きして誇らしい気持になります。光栄です。嬉しさと悲しさがまじって、涙がこぼれますの――嬉しいと申しますのは、私が愛されているとわかったからです。悲しいと申しますのは、私がそれ以上の愛にあたいしない人間だからです。でも、私はあなたに愛していただいても、それに自由におこたえできる身ではないのです」
私は前よりも元気が出て来ました。ウッドコートさんがあんなにも私をほめて下さって、いかにもまごころこめたように声をふるわせておられるのを耳にしますと、これにもっとふさわしい人間に私はなりたい、という希望が湧いて来たからです。この点ではまだ今からでもおそくはないのです。私の生涯のこの予期しない一ページが今晩で終ったとしましても、これからの一生を通じて、ますますそれにふさわしい人間になれるのです。そう考えると、私は心が慰められ、元気が出て来て、ウッドコートさんのおかげで気持をしゃんと取り直すことができたように感じました。
ウッドコートさんが沈黙を破って、
「あなたが私の愛に自由にこたえられる身ではない、とおっしゃった後で私がさらに強く私の愛を誓ったとしても、今と同じくこれから先いついつまでも愛するあなたに対して、私が寄せる信頼を充分にいいあらわすことはできますまい」そうおっしゃる深い真剣な態度が、一方では私を力づけ、他方では私に涙を流させるのでした。「愛するエスタ、このことだけはいわせて下さい。私が外国へ抱いて出かけたあなたの懐しいおもかげは、帰って来た時には離れがたいくらい強く焼きついていたのです。私にちょっとでも運の向いて来るきざしが見えたら、まっ先にこう申し上げようといつも希望を抱いておりました。その反面、申し上げてもむだではあるまいかと、いつも恐れていたのです。今晩僕の希望と恐れの両方ともが的中しました。こんなこと申すと、お心が痛むでしょうね。僕のいうことはこれだけです」
ウッドコートさんが私のことを、天使だと思って下さったのだとしたら、きっとその天使のような気持が私の心中にしのび寄って来たのでしょう。あの方の失望を思うと本当にせつなくなりましたので、あの方が先におっしゃったように、私もお心を痛めておられるウッドコートさんに、力をかして差しあげたいという気になったのです。
「ウッドコートさん」私がいいました。「今晩お別れする前に、申し上げたいことがあるのです。心で思っているようには、うまく申し上げられませんが――やっぱり――それでも――」
私はあの方の愛と悲しみにもっとふさわしい人間になろう、ともう一度心に決めて、それからやっと話を続けることができました。
「――こんなにご親切に思っていただいて、ほんとうにありがたく思っております。このことは死ぬまでだいじに胸の中にしまっておくつもりでございます。私のすがたかたちが変りはててしまいましたことも、自分でよくわかっておりますし、あなたが私の身の上をご存知ないわけでないことも、よくわかっております。それから、このようなまごころのこもった愛がいかに気高いものかも、わかっておるつもりでございますわ。そうおっしゃっていただいたのは、他のどなたの口からおっしゃられたよりも、ずっとずっと心に深く刻みつけられましたし、ずっとずっと尊く思われましたわ。そのお言葉は一生忘れません。そのお言葉のおかげで、私は今後生まれ変った人間になります」
ウッドコートさんは手でめがしらをおさえると、顔をそむけました。私がこのような涙にあたいする人間に、どうしてなれましょうか?
「もし、これからあい変らず私たちが――ごいっしょにリチャードとエイダの面倒を見たり、もっといろいろと幸せな出来事を通じて――お互いにお附合いを続けてまいりましたさいに、私が以前とはうって変った立派な女になった、と心からお思いになれることがありましたら、それは、今晩この時から生まれ変ったので、すべてあなたのおかげによるものなのです。ウッドコートさん、私、今晩のことは決して、決して忘れませんわ。私の心臓が打ち続ける限りは、あなたに愛していただけた誇りと喜びを、かたときも思わない時はございませんわ」
ウッドコートさんは私の手を取って、接吻なさいました。もう落着きを取戻しておられる様子なので、私はさらに言葉を続けました。
「今しがたのお言葉から拝察しますと、お仕事のほうがうまく運びましたのですね?」
「ええ。ジャーンディスさんをよくご存知のあなたですから、ご想像がつくと思いますが、いろいろお力添えをいただいたおかげで、うまくゆきました」
「本当にご親切な方ですわ」私はウッドコートさんに手を差しのべながら、「あなたも、本当におめでとうございます!」
「僕もそういっていただくと、元気百倍になります。あなたから託されたお約束と、もうひとつ新しい任務が僕を待っているのですから」
「ああ、リチャード!」私は思わず知らず叫んでしまいました。「あなたがいってしまわれたら、リチャードはどうなるでしょう?」
「まだすぐにゆかなくてはいけないわけではないのです。それに、サマソンさん、いってしまってからでも、僕はリチャードを見すてはしません」
お別れする前に、もうひとつのことをどうしても口に出さなくてはいけないような気がしました。それを黙っていたら、私がお受けできなかった愛に、ふさわしくない女になってしまうでしょうから。
「ウッドコートさん、お別れのごあいさつを申します前に、私のほうから嬉しいお知らせを申しますわ。私の未来は明るく輝いているのです。私はこの上もなく幸せな女に、なにひとつくやむことも、なにひとつ願うこともない幸せな女になれるのです」
それをうかがって本当に嬉しいです、とウッドコートさんがいわれました。私は続けて、
「私は子供の時から、この世界でいちばん立派なあるお方のご親切を、いつも変ることなく受けてまいりました。その方に対するご恩と愛情とは、私が一生かかりましても、一日分の気持さえあらわすことができないくらいですわ」
「僕も同じ気持です。ジャーンディスさんのことをおっしゃっておられるのですね」
「あの方のご立派なことは、あなたもよくご存知と思いますけど、私ほどあの方の広大無辺なお心を知っている者はございますまい。そのいちばんけだかい、ご立派な心が私に示されたのは、先ほど申しました私の幸せな未来の設計ということでしたの。もしかりに、あなたが世界中のだれよりもあの方を尊敬しておられないとしましても――尊敬していらっしゃることは、私もよく存じてはおりますが、もしかりに、です――きっとこう申し上げただけで、あなたは私のためを思って、あの方に尊敬の念を捧げて下さると思いますわ」
ウッドコートさんは、まったくその通りです、と熱心な口調でおっしゃいました。私はもう一度手を差し伸べると、
「おやすみなさいませ。さようなら」
「その最初のごあいさつはあしたお会いするまでで、あとのほうのは、この話は僕たちの間から永久にさようなら、という意味ですか?」
「ええ」
「それでは、おやすみなさい。さようなら」
ウッドコートさんは帰ってゆかれました。私は暗い窓辺にたたずんだまま、街路を眺めておりました。ウッドコートさんの愛情は、そのまごころはいつも変ることがなかったのですが、こうも突然に私に示されたものですから、私のしゃんとした気持は私一人になったとたんにくず折れてしまって、おもて通りはあふれ出る涙でぼっとかすんでしまいました。
でも、それは後悔と悲しみの涙ではありません。そうですとも。あの方は私を愛する人と呼んで下さいました。今と同じくこれから先いついつまでも愛して下さるとおっしゃいました。このお言葉を聞いて、私の心は喜びと誇りであふれんばかりです。私が最初心に抱いたとほうもない考えは、もう消え去っていました。あのお言葉を聞いたのは、決して手おくれではなかったのよ。あのお言葉を聞いて元気をふるい起し、善良で真心のある、感謝にあふれて身のほどを知った女に生まれ変るのには、今からでも決しておそすぎはしないのですもの。私の前途にはたんたんとして楽な道が続いているのです。それにくらべたらあの方の前途は、なん倍も厳しい、つらいものではありませんか!
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第六十二章 もう一つの発見
私はとてもその晩はだれにも会う元気がありませんでした。自分の顔を見る元気すらありませんでした。私の涙が私をとがめはしないかとおそれたからです。で、私は暗闇の中を自分の部屋へゆき、暗闇の中でお祈りを上げ、暗闇の中で床について寝入りました。ジャーンディスさんのお手紙を読むのに明かりはいらないのです。私はそれをそらで[#「そらで」に傍点]憶えていましたから。私がその手紙を取り出すと、その誠意と愛情から発する光で、内容がはっきりと頭の中に繰り返しひらめくのです。私はその手紙を枕もとに置いたまま寝つきました。
翌朝はたいそう早く起きると、チャーリーを呼んで散歩に出かけました。朝食のテーブルに飾る花を買って帰ると、せいぜい忙しく|活《い》ける仕事に没頭しました。時間がとても早かったので、朝食前にチャーリーに勉強を教える暇がたっぷりありました。チャーリーは(相変らず文法を間違えるくせがぜんぜん直っていませんでしたが)とても一所懸命勉強に励んでくれましたので、大いにはかどりました。ジャーンディスさんがお出でになった時に、「おやまあ、ちいさなおばさん、君が買って来た花より君のほうが、もっと|清楚《せいそ》な感じがするねえ!」と、いって下さいました。ウッドコートさんのおかあさまも、『ミューリンウイリンウォッド』の一節を翻訳して、私がまるで朝日に照り輝く山のようだ、とおっしゃいました。
こうもやさしい言葉をかけていただいたので、私は前よりもいっそう山になったような気持がしました。朝食が済んでから、私は機会を待ってあたりを見廻し、ジャーンディスさんがご自分の部屋――昨夜の部屋です――に一人でおられるのをうかがうと、口実をこしらえて家中の鍵を持って入り、ドアを閉めました。
「おや、ダードンおばさん、どうしたのだい?」ジャーンディスさんがおっしゃいました。ちょうど郵便がなん通も届いたところで、返事を書いておられるところだったのです。「お金が足りなくなったのかね?」
「いいえ。お金ならまだどっさりありますわ」
「まったく、こんなにお金を永もちさせる名人はいないね」
ジャーンディスさんはペンを置くと、椅子によりかかって私の方をご覧になりました。前からよく、ジャーンディスさんの晴れやかなお顔のことは申しましたけれども、この時ほど晴れやかで親切そうなお顔をしていたことはありませんでした。いかにも幸せそうな顔つきでしたので、私は「きっとけさは、なにかたいへん親切なことをなさっていらしたのでしょう」と思ったのでした。
「まったく、こんなにお金を永もちさせる名人はいないね」私の方へにこにこ顔を向けながら、考え込んだような口調で繰り返しました。
ジャーンディスさんは昔のままの態度を絶対に変えませんでした。私はその態度も、ジャーンディスさんご自身も大好きでしたから、私が進み寄っていつもの椅子――いつもあの方のすぐ傍らに置いてあって、時には本を読んで差し上げたり、時にはお話をしたり、時には黙って針仕事をしたりしていたあの椅子――に坐った時も、あの方の胸もとに手をかけてその態度にじゃまを入れたくない気がしました。でも、そうしても決してじゃまにはならなかったのです。
「お話がありますの」私がいいました。「私、なにかいたらないところがございまして?」
「いたらないところだって? とんでもない!」
「あの時――私がお手紙にご返事を差し上げましてから、私の真意と違ったようなことをなにかいたしましたかしら?」
「いやいや、まったく申し分なしだったよ」
「それをうかがって嬉しゅうございますわ。あの、いつか、荒涼館の主婦になってくれるかい? とおっしゃいました。そして私、はいと申し上げました」
「うん、そうだった」ジャーンディスさんはこっくりと首を振ると、私をなにかから守って下さるかのように、腕をまわして抱き寄せると、にこにこしながら私の顔を見つめられました。
「それ以来私たちは、このことをたった一度しか話し合いませんでしたね」
「その時僕は、荒涼館がどんどんやせ細ってゆくといったっけね。まったくその通りだったからね」
「その時私は」と、私はおずおずした口調でつけ加えました。「でも、そこの主婦は残っています、と申しましたわ」
ジャーンディスさんは相変らず私を守るように抱いたまま、やさしい晴れやかな顔をしていらっしゃいます。
「それから以後起ったいろいろなことを、おじさまがどんなお気持で感じていらしたか、またとても思いやり深いお気持でいらしたことも、私はよく存じております。あれからずいぶん長い時がたちましたし、ついけさがたも私に、もうすっかり元気を取り戻したねとおっしゃいましたので、きっとこのお話をもう一度繰り返したいお考えではないかと私思います。そうすべきだと私思いますの。私はご希望の時に、いつでも荒涼館の主婦になりますわ」
「僕たち二人は、実によくまあ気持が通じ合うものだねえ!」とジャーンディスさんは陽気にご返事なさいました。「かわいそうなリックのことは別として――これは確かに大きな例外だけれども――私もそのことばかり考えていたのだよ。君が入って来た時も、頭はそのことでいっぱいだったのだ。さて、荒涼館に主婦を与えるのはいつにしようか?」
「いつでもおよろしい時に」
「来月はどうだね?」
「来月で結構ですわ」
「それでは、私が生涯でもっとも幸せな男となるよき日――この世でもっとも得意でうらやむべき男となる日――荒涼館に主婦を与える日は、来月と決めよう」
私は首に両腕をまわして、接吻をしました。ちょうど私がお手紙の返事をした時のあの日のように。
召使が入って来て、バケットさまがいらっしゃいました、と告げましたが、それはまったく不要なことでした。バケット警部はすでに召使の肩越しに、こちらを覗き込んでいたからです。
「ジャーンディスさん、ならびにサマソンさん」警部はいささか息を切らしたような口調で、「おじゃまをしてまことに恐縮でありますが、階段の所におります一人の人間を、こちらへ呼び寄せてよろしゅうございましょうか? その者は自分のいない間に話題にされるかもしれぬから、階段に残されるのはいやだと申しておりますので。ありがとうございます。おい、その議員さんの椅子(1)をこっちへかつぎ上げてくれ」というと、警部はてすりの上から手招きをしました。
この奇妙な依頼に応じて、頭にぴったり黒い頭巾をかぶった一人の老人が、歩けないものですから椅子ごと二人の男にかつがれて入って来ると、部屋の入口近くに下ろされました。するとすぐに、バケット警部はかついで来た二人を帰してしまい、いわくありげにドアを閉めると、鍵をかけてしまいました。
「さて、ジャーンディスさん」警部はそういうと、帽子を下に置き、おなじみの人差指をひらひらと動かして、話の口火を切りました。「あなたも、サマソンさんも私をご存知ですな。ここにいる人も私を知っております。この人の名はスモールウィードというのです。主として手形の割引を商売にしていまして、いわゆる証券取引業者というやつです。なあ、おい、そうだろう?」バケット警部は話をやめて、問題の老人の方を向きました。老人はひどく疑い深そうな目で警部を見つめていました。
老人はこういう説明に抗議しようとしましたところ、とたんに激しくせき込んでしまいました。
「そら、思い知ったかね?」警部はそれを利用してお説教を垂れました。「必要もないのにさからいなさんな、ということさ。そうすればそんなに苦しまなくても済むんだ。そこでジャーンディスさん、私からお話しいたしましょう。私はレスタ・デッドロック准男爵閣下の代理として、この人と取引を行なっているのです。それで、それやこれやでこの人の店に出入りをしておりました。この人の店というのは、以前クルックがやっていた古物商の店です――クルックはこの人の親戚で、確か生前お会いになったことがおありでしたね?」
ジャーンディスさんは「ええ」と答えました。
「そうです。つまり、この人はクルックの店と、そこにあるがらくたいっさいを相続したというわけなのです。そのなかにおびただしい紙くずがありました。まったく、だれにもなんの役にもたたぬ紙くずです!」
警部がいかにもぬけ目なさそうに目くばせをして、傍でじっと耳を澄ましている男から苦情の出そうな顔つきや言葉をいっさい抑えながら、「いま私のいっているのは、あらかじめの打ち合わせに従ってのことで、その気になれば、もっとスモールウィード氏についていろいろお話してあげることだってできるのですぞ」と私たちにそれとなく伝えてくれましたので、これならだれだって警部の真意がすぐ呑み込めたと思います。スモールウィード老人が疑い深そうな目をしている上に、まったくのつんぼで、穴のあくほど顔を見つめるので、ますます警部はやりにくかったことでしょう。
「この人が相続をしました時に、その古い紙くずの山をあさり始めた、というのも至極当然のことでしょう」
「なにを始めたですと? も一度いってくれ」スモールウィード老人がかん高い、鋭い声でいいました。
「あさり始めた、だよ。元来慎重な人間で、自分の身の廻りのことをたんねんにするくせがついているので、君は相続した紙くずをあさり始めたのだろう?」
「もちろんさね」老人が叫びました。
「もちろんだとも」とバケット警部もあいづちを打ちました。「そうしなけりゃ、たいへんな間違いさ。そこで、君はたまたま」と言葉を続けると、警部はスモールウィード老人をからかうように、上から見下ろすのでしたが、老人のほうはぜんぜん冗談を受け付けないような様子でした。「そこで、君はたまたま、ジャーンディスという署名のある一枚の紙を見つけたのだ。そうだろう?」
スモールウィード老人は困ったような目つきで私たちの方を眺め、それからしぶしぶうなずきました。
「それから暇な時を見はからって――別に急ぎもせずにだ。君はべつにその紙を読みたい気にもならなかったからね。当り前のことさね――読んでみると、それがただの遺言状とわかった。そこが大笑いというわけさ、な?」警部は再び、スモールウィード老人をからかって笑わせてやろうとしたようですが、相手は相変らずぜんぜんおもしろくもなさそうな、しょげ返った顔をしていました。「読んでみると、ただの遺言状とわかった、そうだろう?」
「遺言状だか、他のもんだか、わしにゃよくわからんねえ」スモールウィード老人がふくれたようにいいました。
バケット警部はちょっとのあいだ老人をじろりと、まるで飛びかからんばかりににらみつけました――すると、相手はちぢこまって、椅子の中で小さくなりました――が、やっぱりからかったように見下ろし、横目で私たちの方を見ていました。
「にもかかわらず、君はそのことを少々気に病んでいるんだな。なにしろ君はやさしい心の持主だからな」
「ええ? わしがなんだって?」スモールウィード老人が耳に手をやってたずねました。
「やさしい心の持主だからな」
「うむ、まあ、そうさ。で、それから?」
「君は前から、その名前の遺言状に関する有名な訴訟事件のことをいろいろと聞いていたし、あの変り者のクルックがありとあらゆる家具やら本やら紙くずやら、その他もろもろを買い込んで、絶対に手離そうとせずに、いつも読み方を独りで習おうとしてたことを知っていたので、君はこんなふうに考えたのだ――生まれてからこのかた、こんな正しい考えを持ったことはあるまいな――『こりゃえらいこった! 気をつけないと、わしはこの遺言状のことで、面倒なかかわり合いになるかもしれんぞ』と」
「おい、バケット、言葉に気をつけろよ」と、老人は耳に手を当てながら、心配そうに叫びました。「もっと大きな声で話せ。きさまのペテンはごめんだぜ。もっとよく聞こえるように、わしを抱き起してくれ。ええい、ちくしょう! からだがばらばらになるみたいだ!」
バケット警部は即座に老人を抱き起してやりましたが、老人のせき込む音や、「えい、ちくしょう! 息が苦しい! ばらばらになりそうだ!」などという口ぎたない叫び声にまじって、自分の声が聞こえるようになるやいなや、また相変らず陽気な口調で話を続けるのでした。
「そこで、この私が君の店によく姿を見せるようになった機会をとらえて、君は私に打ち明けたんだ。そうだな?」
スモールウィード老人がこれを認めた時ほど、いやいや、しぶしぶ認める人間はこの世に見つかりますまい。まるで、できればバケット警部などに絶対打ち明けたくなかったんだ、といっているみたいでした。
「そこで私は君の相談にひと役買って――たいそう和気あいあいと仕事を進めたんだな。君のその心配はまことにもっともだ、その遺言状を隠し持っていたりすると、やっかいなことになるぞ、と私はいった。そこで、君は私と話合いをして、この遺言状をいっさい無条件でここのジャーンディスさんにお渡ししよう、ということに決めた。もしこれが値打ちのあるものなら、ジャーンディスさんがきっとごほうびのことはお考え下さるでしょう、と、こういうわけだな。そうだろう?」
「そう話が決まったんだ」前と同じように、しぶしぶスモールウィード老人が同意しました。
「その結果」ここでバケット警部はそれまでのおどけた態度をがらり[#「がらり」に傍点]とすてて、ひどく事務的になりました。「いま君はその遺言状を手もとに持っている。だからいまや君のなすべき唯一のことは、さっさと出すこった!」
バケット警部は立ちはだかったまま横目で私たちの方をちらと眺めて、勝ち誇ったように例の人差指で鼻柱をなでてから、打ち明けてくれた友をじっと見つめながら、早く出せ、この方にお見せするのだから、といわんばかりに手を出しました。遺言状はなかなか出て来ません。スモールウィード老人は思いきり悪く、わたしは貧乏で働き者なんで、ジャーンディスさんのような立派なお方なら、わたしが正直ゆえに損をするのを知らん顔はなさるまい、などとぶつぶついっているのでした。ゆっくりゆっくりと、老人は胸のポケットから一枚の汚れた色あせた紙を取り出しました。それは外側が薄くこげて、端が焼けていて、まるでだいぶ前火に投じられて、あわてて拾い上げられたみたいでした。バケット警部は直ちにそれを、まるで手品師みたいに巧みな手さばきで、スモールウィード老人からジャーンディスさんの手へと移しました。ジャーンディスさんに手渡す時、警部は小さな声でいいました。
「いくらで取引をするか、まだ額は決まっていないのです。すったもんだともめているのですよ。私は二十ポンドとふんだのですがね。最初はというと、欲張りの孫どもが、じいさんがあんまりいつまでも|強《ごう》つくばりで生きているものですから、じいさんのことを密告したんです。それから次には、孫同士でお互いに告げ口のし合いをしているんです。まったく、あそこの一家ときたらあきれたもので、一、二ポンドももらえりゃ、お互い同士平気で裏切りますからね! ばあさんだけは別です――ばあさんはもうろくしてしまって、取引に加われないのでこれには関係ないのですよ」
「バケットさん」ジャーンディスさんははっきりした声でいわれました。「この書類がだれにとって、どんな値打ちのあるものかはともかく、お骨折に感謝します。もしこれがなんらかの値打ちがあるもののようでしたら、それに従ってスモールウィードさんにお礼をいたすよう、お約束します」
「いいかい、君の値打ちに従ってじゃないんだから」バケット警部は老人に愛想よく説明してやりました。「心配はご無用だ。この遺言状の値打ちに従ってだよ」
「ええ、そういうつもりです」ジャーンディスさんがおっしゃいました。「私は自分ではこの書類に目を通しません。ありていに申しますと、もうなん年も前に私はこの事件からすっかり手を引いたのです。ほとほとうんざりしているのです。でも、サマソンさんと私とで、この書類を即刻事件担当の弁護士に手渡しましょう。そして、これに関係のあるすべての人に、そのむねを知らせてもらいましょう」
「たいそう公正なおとりはからいだろう?」とバケット警部はその連れの老人にいいました。「さて、これでだれも不当な仕打ちを受けてないとわかって――君[#「君」に傍点]も大いにほっと安心しただろうから――君を椅子にのせて家までお送りしようかね」
警部は戸の錠をあけると、椅子のかつぎ手を呼び寄せ、さようならとあいさつをすると、意味ありげに私たちを見つめ、人差指をカギの手に曲げてみせると、帰ってゆきました。
私たちもできるだけ急いで、リンカン法曹学院へゆきました。ケンジ弁護士は手があいていて、例のほこりっぽい部屋の中で、無表情な本や書類の山にかこまれて坐っていました。ガッピーさんが私たちに椅子をすすめてくれますと、ケンジ弁護士はジャーンディス氏がこの事務所にあらわれるという異様な光景に、驚きとご満悦の顔を見せました。話しながら二重にかけた眼鏡をこちらに向けて、いつもよりいっそう「おしゃべりケンジ」らしい様子でした。
「これはこれは」ケンジ弁護士がいいました。「きっとサマソンさんがご親切にお口添え下さって」と、私の方を向いてお辞儀をしながら、「訴訟事件と裁判所に対するジャーンディスさんの敵意を、少しばかり和らげて下すったのですな?――つまるところ、訴訟事件といい、裁判所といい、われわれ法律にたずさわるものにとっては、それぞれに重大な意義のあるものですから――」
「残念ながらサマソンさんは」ジャーンディスさんが返事なさいました。「裁判所や訴訟事件がどのような結果を生むかを、いやというほど見ておられるので、それに好意的な口添えなどはとてもして下さりそうもありませんよ。しかし私がここにまいりましたのは、そのことに関係があるのです。ケンジさん、私はこの書類をあなたの机の上に置いて、即刻お役ご免になりたいと思いますが、その前にどのようにしてこれが私の手に入ったかの次第を、お話し申しましょう」
手短かに要を得た説明がありました。
「たいそう明解にして要を得たご説明ですな」ケンジ弁護士がいいました。「法廷の発言でもなかなかこうはいきません」
「いったいイギリスの法廷で、明解で要を得た発言がなされたことがありますかね?」ジャーンディスさんがききました。
「ご冗談を!」弁護士がいいました。
初めのうちは弁護士も、その遺言状をあまり重視していない様子でしたが、実物に目を向けると興味が増して来たらしく、開いて眼鏡ごしにその一部分を読むと、驚きの顔になりました。
「ジャーンディスさん」手紙から目をそらすと、「これをお読みになりましたか?」
「とんでもない、読むものですか!」
「しかしですな、これはこれまで法廷に出されたどの遺言状よりも、のちの日付けとなっております。確かに本人の書いた筆蹟らしいですし、しかるべき法の形式もふんでおります。焼けこげの跡から推察しまして、きっと破棄しようとしたのでしょうが、しかし無効にはなっていません。完全に有効ですな!」
「そうですか。でも、私になんの関係があるのです?」ジャーンディスさんがいわれました。
「おい、ガッピー君!」ケンジ弁護士が大声で呼びました――「ジャーンディスさん、ちょっと失礼します」
「はい」
「シモンズ法学予備院のヴォールズ弁護士を呼んで来てくれたまえ。わしからの用事だとな。ジャーンディス対ジャーンディス訴訟事件について、お話したいとな」
ガッピーさんがいなくなりました。
「ジャーンディスさん、自分になんの関係があるのか、とおっしゃいましたな。これをよくご覧になればおわかりになったはずですが、この書類のおかげであなたの利益がかなり減ることになるのですよ。もっとも、それでもまだかなりの取り分がありますけれどもね。かなりの取り分が」ケンジ弁護士は安心させるように、いんぎんに手を振りました、「さらにリチャード・カーストン氏とエイダ・クレア嬢、現在はリチャード・カーストン夫人、の利益はこれにより大幅に増えることになります」
「ケンジ君、この下劣な裁判所で訴訟にかけられている黄金の山が、もしも全部私の若いいとこ[#「いとこ」に傍点]二人の手に渡れば、私は大いに満足ですよ。しかし、このジャーンディス対ジャーンディス訴訟事件から、なんなりとも満足すべき結果が生まれるなどと、私に信じろとおっしゃるのですか?」
「困りましたなあ、ジャーンディスさん! それはあなたの偏見、偏見なのですよ。わが国は立派な国、立派な法治国なのですぞ。そして衡平法の制度というのは、実に立派な制度なんですよ。本当ですよ!」
ジャーンディスさんはそれ以上口をききませんでした。そこへヴォールズ弁護士がやって来ました。ケンジ弁護士の堂々たる職業的権勢の前に、すっかり腰を低くしていました。
「ヴォールズ君、ご機嫌はいかがですか? ちょっと私の傍に座って、この書類に目を通して下さいませんか?」
ヴォールズ弁護士はいわれた通りにしました。一字一句に目を通しているようでした。読んでも決して興奮しませんでしたが、この人はどんなことがあっても、決して興奮したことのない人でした。充分に検討しつくすと、ケンジ弁護士といっしょに窓際にゆき、黒い手袋で口もとを隠すようにして、ながながとしゃべっていました。ヴォールズ弁護士がそれほど口をきかぬうちに、ケンジ弁護士がなにやらそれに反対したそうな様子を示すのを見ても、私はべつに驚きはしませんでした。なにしろジャーンディス対ジャーンディス事件では、二人の人の意見が一致したことがないのでしたから。しかし、「収益管理長官」とか、「経理局長官」とか、「報告書」とか、「財産」とか、「費用」とかいう言葉ばかりを口にして話し合ったのちに、ヴォールズ弁護士の意見が勝ちを制したらしい様子でした。話が終ると二人はケンジ弁護士の机のところに戻って来て、
「さて、しかしこれはきわめて注目すべき書類ですな、ヴォールズ君?」ケンジ弁護士がいいました。
ヴォールズ弁護士がいいました。「まさにその通りです」
「そして、きわめて重要な書類ですな、ヴォールズ君?」と、ケンジ弁護士。
ふたたびヴォールズ弁護士は、「まさにその通りです」
「ヴォールズ君のおっしゃるように、次回の法廷が開かれました時に、訴状が提出されれば、この書類は予期せぬ興味をまき起すことになりましょうな」ケンジ弁護士は、ジャーンディスさんをえらそうに眺めながらいいました。
ヴォールズ弁護士は一介の小弁護士として体面を保つのにきゅうきゅうとしていたのですから、自分ごとき者の意見がかかる大先輩に認められてたいそうご満悦でした。
しばらくの間ケンジ弁護士はお金をじゃらじゃら鳴らし、ヴォールズ弁護士はにきびをむしっていましたが、ジャーンディスさんは腰を上げてたずねられました。
「この次に法廷が開かれるのはいつです?」
「ジャーンディスさん、この次に法廷が開かれるのは来月です。もちろん私どもはこの書類に関して必要な手続きをふみ、必要な証拠をそろえるつもりです。もちろん、いつものように訴状が出来ましたら、そのむねご報告申し上げますよ」
「もちろん、私のほうもいつものように黙殺いたすつもりですよ」
「やれやれ、それほど寛大なお心を持ちながら、やはり世俗の偏見にまどわされていらっしゃるのですね?」ケンジ弁護士は私たちを表の事務室から玄関の方へと案内しながらいうのです。「わが社会は富裕なる社会なのですぞ、ジャーンディスさん。たいそう富裕なる社会なのですぞ。わが国は立派な国、まことに立派な法治国なのですぞ、ジャーンディスさん。そしてこれは立派な司法制度なんですぞ、ジャーンディスさん。立派な法治国にくだらぬ司法制度があって欲しい、とおっしゃるんですか? まったく驚きますなあ! まったく!」
弁護士は入口の段々の上のところでこういうと、右手を銀のこて[#「こて」に傍点](2)みたいにゆっくりと振るのでした。まるでそのこて[#「こて」に傍点]で自分の言葉のセメントをこね、立派な司法制度の骨組みの上に塗りつけて、千代八千代の固めとするかのように。
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第六十三章 鉄の国にて
ジョージの射撃練習場は貸しに出され、器具類は売り払われ、当のジョージはチェスニー・ウォールドでレスタ卿の乗馬の世話をやいている。卿が馬をあやつる手つきがはなはだおぼつかないので、そのたづなのすぐ傍らに並んで馬を走らせるのである。だが、今日のジョージはそんな仕事をしてはいない。今日ははるか北の鉄の国へと旅しているところだ。事態を検討するためにである。
彼がはるか北の鉄の国にやって来ると、チェスニー・ウォールドのような新緑の森は消え去って、炭坑や石炭がらや高い煙突や赤い煉瓦、枯れた緑の木、すべてを焼きつくす火、うすらぐことのない重くるしい煙の雲、などなどがおもだった風景となる。こうしたもろもろのものの中を、軍曹はあたりを見廻しながら、見つけに来た目当てのものを探しながら馬を進めている。
とうとう、これまで以上の火と煙の中に、がんがんと鉄の|轟音《ごうおん》が響きわたっている、あわただしい都市の運河にかかった黒い橋の上にやって来ると、石炭すすだらけの道のほこりにまみれた軍曹は馬を止め、一人の労働者にたずねかける。ここらあたりでラウンスウェルという名前の人ご存知ですか?
「えっ! 自分の名前を知ってるか、というようなもんですわい」と、その男がいう。
「じゃあ、このあたりじゃ知れわたってる名前なんですな?」
「ラウンスウェルがですかい? ええ、その通りでさ」
「じゃあ、どこですか?」軍曹は前方をちらりと見ながらたずねる。
「あの人の銀行ですか? 工場ですか? それとも屋敷ですかい?」
「へえ、ラウンスウェルはたいそうえらいらしいぞ」軍曹はあごをなでながらつぶやく。「こりゃ引き返したほうがよさそうだ。ええと、どっちか僕にもわからないんだけれど、工場へいったらラウンスウェルさんに会えるでしょうかね?」
「居場所は簡単にわかりまさあ――今の時刻だったら工場で大旦那か、若旦那に会えますよ。もっとも、この町にいればの話ですがね。取引のことでよくよそへ出かけますよ」
じゃあ、工場はどこです? それ、あそこに煙突が見えるでしょう――いちばん高い煙突でさ! なるほど、見えますね。あの煙突を目当てにいけるとこまで真っすぐにいくと、間もなく曲り角があって、その左手、道の片側にずっと続いた大きな煉瓦塀の中に煙突が見えまさ。そこがラウンスウェル鉄工場で。
軍曹はお礼をいうと、またあたりを見廻しながらゆっくりと馬を進める。彼は引き返すことはしないで、馬をとある居酒屋にあずける(ついでにきれいに洗ってもらいたい気にもなっている)。その居酒屋の|厩番《うまやばん》の話によると、ラウンスウェル鉄工場の職工たちが昼食を食べているところとのこと。ラウンスウェル鉄工場の職工たちは食事のために工場を出て、町中にあふれているようだ。腕っぷしの強い、がっしりした連中だが――そのうえ少々すすけている。
軍曹は煉瓦塀の門のところへ来て中を覗き込むと、わけのわからぬ鉄があたりにごろごろころがっている。それはいろいろな形をし、いろいろな出来ぐあいになっている。棒状、くさび状、薄板状、タンク、ボイラー、車軸、車輪、歯車、クランク、レール。機械の各部品として、へんてこにひねくれた形に曲げられ、ねじられたもの。鉄の山が崩れ、古く|錆《さ》びついたもの。できたての鉄は遠くの熔鉱炉であかあかと燃え、ぐつぐつと煮えたぎる。蒸気ハンマーの下でぎらぎらした火花の雨を降らす。赤熱した鉄、白熱した鉄、冷たい黒い鉄、鉄の味、鉄の臭い。バベルの塔(1)みたいに多種多様の鉄の音がごっちゃになっている。
「こりゃ頭が痛くなりそうな所だ」事務所を探してきょろきょろしながら、軍曹がいう。「あそこに来るのはだれかな? 軍隊に入る前のおれによく似てるな。顔立ちが遺伝するのなら、きっとおれの|甥《おい》に違いない。もしもし、ちょっとおたずねしますが」
「はい、なんでしょうか。どなたかをお探しですか?」
「失礼ですが、ラウンスウェルさんのご子息さんでしょう?」
「そうです」
「お父さんを探しているんですが。ちょっとお話がしたいのです」
すると青年は、それはちょうどよかったです、父はあそこにおりますから、といいながら、先に立って案内してくれる。「軍隊に入る前のおれそっくりだ――うり二つじゃないか!」うしろに続きながら、軍曹が考える。工場の中庭に建物があって、二階に事務室がある。そこにいる一人の男の姿を見ると、ジョージは顔がまっ赤になる。
「父にお取次ぎしますが、お名前は?」と、青年がたずねる。
鉄で頭がいっぱいになっていたジョージは、苦しまぎれに「スティール(2)です」と答え、そう取次いでもらう。事務室にいた例の男と二人きりになってみると、相手は机に向って坐り、帳簿と、たくさんの数字と複雑な図面が書いてある書類を前にしている。およそ飾りけのない事務室で、これまた飾りけのない窓からは、鉄だらけの光景が見られる。テーブルの上には、テスト用にくだいたのか、さまざまな用途の鉄製品の破片が、ごちゃごちゃころがっている。鉄粉があたり一面に散らばり、窓越しに見ると、高い煙突から煙がもくもくと出ては、バビロンの市のごとく立ち並ぶ他のたくさんの煙突の煙と混り合っていく。
「さて、スティールさん、なんのご用でしょうか?」客が錆びついた椅子に坐ると、その男がいう。
「ラウンスウェルさん」ジョージは答えると、前かがみになって左腕を膝にのせ、帽子を手にもって相手と視線を合わせないように努める。「このたび突然おたずねしまして、かえって余計なご迷惑になりはしないかと思っておるのですが、私は若いころ騎兵隊に勤務しておりまして、そこでかなり仲の好かった戦友が、その、間違いでなければ、あなたの弟さんだとか。たしか弟さんがおられて、一家にやっかいをかけて家出をし、その後いいあんばいと姿を消したままだそうですが?」
「本当にスティールという名前なんですか?」がらりと変った声音で、鉄工場の社長がたずねる。
軍曹はおろおろして相手の顔を見る。兄ははっとすると、弟の名を呼び、両手でしっかり抱きかかえる。
「兄さんの勘のいいのにはかなわない!」軍曹が叫ぶと、両眼から涙がどっとあふれ出る。「兄さん、元気かい? 会った時に兄さんからこの半分も喜んでもらえるとは、夢にも思っていなかったんだよ。元気かい、兄さん?」
兄弟は手を握り合い、抱き合い、弟は相変らず、「兄さん、元気かい?」と、「会った時に兄さんからこの半分も喜んでもらえるとは、夢にも思っていなかったんだよ」をかわるがわる繰返すばかり。
「それどころか、僕は自分から名乗るつもりもなかったんだ」ここに来るまでの一部始終を話してから、弟は言葉をつけ加える。「兄さんが少しでも僕の名前に好意を持ってくれれば、せめて手紙を書くくらいのところまでしようかな、と思っていたんだ。でも、兄さんが僕の消息を聞いていやな顔をしたとしても、僕は当然のことと思ったことだろう」
「ジョージ、君の消息を聞いて僕たちがどんな顔をするか、これから家へ帰って見せてやるよ。今日はめでたい日だなあ。そのうえ君は、またとないいい日に来てくれたものだね。来年の今日、息子のウォットが、世界じゅう旅行した君だって見たことのないかわいい娘と結婚式を挙げることになったので、きょう婚約披露をするのだ。娘のほうは花嫁教育の仕上げのために、あした君の姪の一人といっしょにドイツへゆくことになっているのさ。きょうはその祝宴をするんだが、君はその席の花形になるね」
こういわれるとジョージはすっかりうろたえてしまい、大わらわでその名誉ある招待を辞退するが、兄と甥――彼に対してもジョージはまたもや、会ったとき君からこの半分も喜んでもらえるとは夢にも思っていなかった、を連発する――に説得されて、しゃれた邸宅に連れてゆかれる。その家の構えを見ると、両親本来の簡素な習慣が、出世してからの身分や、子供たちの幸せな境遇としっくり混り合っているさまがうかがわれて、好ましい感じがするのだ。ここでジョージは、現在の姪たちの上品な趣味やら、未来の姪たるローザの美しさやらを目の前にして、すっかりぼうっとなり、彼女たちにやさしく迎えられると夢心地になってしまう。その上、甥から叔父さん叔父さんと、いろいろ尽くしてもらうと、自分が一家の|面《つら》よごしだったことが急にはっと思い出されて、ひどく悲しくなって来る。しかし一同は心の底から大喜びで歓迎してくれて、一家だんらんは尽きることがない。その間じゅうジョージ軍曹は、無骨者らしく肩をいからせ、来年の結婚式にはぜひ参列して花嫁の介添人になるからと約束して、一同の大喝采を浴びる。その夜、兄の屋敷の堂々たるベッドに横になって、こういったいろいろのことを考えていると、頭がくらくらとして来て、(その晩モスリンの着物をひらひらさせていた悩ましい)姪たちが、掛ぶとんの上でドイツ風のワルツを踊って(3)いる姿が、目の前に浮かぶような気がするのだ。
翌朝、兄弟は鉄工場社長の私室にこもって、兄がいかにも明快で分別のある態度で、ジョージの今後の身のふり方をどうつけるのが一番よいか、それを述べようとすると、弟は兄の手を握ってその言葉をさえぎる。
「兄さん、こんなにもったいないくらい暖かく迎えてもらった上に、もったいないくらい心配してもらって、本当にありがとう。でも、僕の計画はちゃんと出来上っているんだ。その話をする前に、一つ家族内の問題について相談がしたいんだ」ここで弟は腕を組むと、断じて一歩も引かぬといった態度で兄を眺め、「どうやってお母さんに、僕をけずるよう頼んだものかな?」
「なんのことか、さっぱりわからないなあ」
「ねえ、兄さん。どうやってお母さんに、僕をけずるよう頼んだらいいだろう? なんとかそう頼まなくちゃいけないんだから」
「お母さんの遺言状から君の名をけずってもらうっていう意味かい?」
「もちろん、そうとも。つまり」軍曹はさらに断固たる態度で腕組みをして、「僕を――けずるってことさ!」
「ねえ、ジョージ。どうしてもそうしなきゃいけないのかい?」
「そうとも! 絶対にそうさ! そのつもりがなければ、どの|面《つら》さげて僕がここまでやって来たと思う? またもやとんでもないことをしでかすはめにはなりたくないんだ。兄さんはともかく、兄さんの子供たちの正当な権利を横取りするために、僕は生まれた家へこそこそ舞い戻ったわけじゃないんだから。自分の権利はとうの昔に自分で|剥奪《はくだつ》してしまったこの僕に、そんなことできるかい! もし僕がこのまま恥ずかしい思いをせずに生きてゆくためには、僕をけずってもらわなくちゃいけない。ねえ、兄さんは頭も切れるし、もの知りで名が通っている人だ。この点をどうしたらいいか、教えてくれないか」
「よかろう」と、兄は慎重に答える。「君の気持に添うようなやり方を教えよう。いいかい、お母さんのことを考えて見たまえ。お母さんが君を見つけ出した時の気持を思い出して見たまえ。自分のかわいい息子をつらい目に会わせるようにと、お母さんに説得できると思うのか? そんなことをいい出しでもしたら、あのやさしいお母さんの気持をどんなに傷つけるか、それに対して何らかの代償でもあると思っているのか? もしそう思ってるとしたら、とんでもない見当違いだぞ! いいかい、ジョージ、けずられまい[#「まい」に傍点]と決心を固めなきゃいけないんだ。もっとも、僕の考えでは」すっかりあてがはずれて考え込んでしまった弟を眺めやる兄の顔に、愉快そうな微笑が浮ぶ。「君の希望とほぼ同じようにする方策もあると思うがね」
「それは、どんな?」
「そんなに思いつめているのなら、君も遺言状を書けば、不幸にしてなにを相続しようとも、君の思い通りのやり方で処分できるわけじゃないか」
「なるほどそうだ!」というと、弟はまた考え込む。それから兄の手を握って、心配そうにたずねる。「兄さん、このことを奥さんと家族の人たちに話してくれないか?」
「いいとも」
「ありがとう。僕はまぎれもない宿なしだけども、無鉄砲の宿なしなんで、卑劣な宿なしじゃないってことは、兄さんも認めてくれるだろう?」
社長は笑いを抑えながら、うなずく。
「ありがとう、ありがとう。これで僕の胸の重荷がとれたよ」軍曹は深く息を吸い込むと、組んでいた腕をとき、手を膝の上にのせる。「もっとも、僕はぜひけずってもらいたかったのだけどもね」
向い合って座っていると、兄弟はよく似ているが、ある種の|生《き》一本さと世なれない態度とは、弟にしか見られない。
「さて」弟は失望の色をかなぐりすてると、言葉を続ける。「次に、そうして最後に、僕の計画のことなんだけどね。兄さんは僕に向ってもったいないくらい親切に、兄さんが永年の辛抱と分別で築き上げたここに住みついて、腰をすえたらどうだといってくれたね。本当にありがとう。さっきもいったけど、もったいないくらいなんだ。本当にありがとう」と、長い間兄の手を握っていたが、「でもね、兄さん、実のところをいうと、僕はその――雑草みたいなものなのさ。だから、いまさらちゃんとした庭に植えようとしても、手遅れなんだ」
「冗談いっちゃいけないよ」兄は濃いまゆを寄せてじっと弟を見つめ、打ち解けた微笑をもらしながら、「そのことは僕にまかせておいとくれよ。ものは試しということがある」
「そりゃ、人にできて兄さんにできないことはないってことは、僕もよく知ってるよ。だけどね、だめなんだ。だめなんだよ。ところが、たまたまレスタ・デッドロック卿が、家庭内の悲しみで病気になられてから、僕にもちょっとばかりお役に立てることができたのでね――それに、だれよりもお母さんの息子の世話になりたいと、おっしゃって下さるんでね」
「そうかい」兄は少し顔をくもらせて、「お前がレスタ・デッドロック卿の家庭親衛隊に勤めるほうがいいというんなら――」
「ほらね、兄さん」弟はまた相手の膝に手をやって、言葉をさえぎる。「ほらね、兄さんはこの考えが気に入らないんだろう。でもかまわないよ。兄さんは軍隊生活に慣れていないけど、僕は慣れているんだ。兄さんは身辺はなにもかもきちんと整っているけれど、僕は身辺のいっさいをほかから整えてもらうしかないんだ。僕たち兄弟は、同じやり方で物事を進めたり、同じ見方で物事を眺める習慣がついていない。僕は自分の軍隊風の態度についてそうえらそうなことをいうつもりはないさ。昨晩だってなかなかくつろいで寝られたし、自分の軍隊風の様子がここですぐさま目に立つということもあるまいからね。でも、僕はチェスニー・ウォールドに住むのが一番いいようだ――あそこは雑草の生える余地がここよりもいっぱいあるし、その上お母さんも喜んでくれるからね。だから僕はレスタ・デッドロック卿の申し出を受け入れることにするよ。来年結婚式の介添役として来る時にも、いやいつ来るにしても、ここの兄さんの陣営じゃ軍隊風は吹かせないように気をつけるつもりだ。兄さん、もう一度お礼をいいますよ。そして兄さんがうち建てたラウンスウェル王国のことを思うと、僕まで鼻が高い気持になるよ」
「ジョージ、君のことは君が一番よくわかっているのだからね」兄は相手の手を握り返した。「そしてひょっとすると、僕のことも君のほうがよくわかっているのかもしれん。好きなようにやりたまえ。お互いに見ず知らずになってしまうのじゃ困るがね、そうでないならば、好きなようにやりたまえよ」
「そんなご心配なしさ。さて、馬首をめぐらして帰る前に、兄さんにお願いがあるのだけども――よかったら僕の手紙を読んでみてくれないかな。チェスニー・ウォールドから出すと、その地名が受取人に今はつらい思いをさせるといけないので、わざわざここから出そうと持ってきたのさ。僕はあまり手紙を書きなれていないし、この手紙には特に気をつかっているのさ。率直で、同時に思いやりをこめたいと思ったのでね」
というと、こまかい字でインクの色はいささかあせていたが、きちんとした書体で書かれた一通の手紙を、鉄工場の社長に手渡す。見ると次のように書いてある。
[#ここから1字下げ]
「エスタ・サマソンさま。
謹啓。さる人物所有の書類中に小生宛ての書簡発見せられたる旨バケット警部より連絡有之候えば、この件につきご一報申上候。そは海外よりの発信にて、イギリス在住の当時未婚の若く麗わしき令嬢宛てに同封の書簡を送達すべく、その日時、宛先、方法などを指示せる数行の書簡に御座候。小生上記の指示を当時遅滞なく履行つかまつり候。
さらに上記書簡は筆蹟の証拠として小生より手渡せしのみにて、もし然らずんば、ピストルにて射殺さるるとも小生の所持せしもっとも悪影響なき書簡なりとも、手渡さざりし所存に御座候。
さらにもしさる不幸なる紳士存命中といささかなりとも考え得る場合に於ては、小生の義務として、更にまた気質として徹底的にその所在の場所を追究し、小生最後の一銭一厘をも共にせざればやまぬ所存にて御座候。然れども(公式の)発表によれば該紳士は西インド諸島よりの囚人護送船がアイルランドのさる港に入港の際、海中に転落し溺死せりとのこと、以上は小生が当船舶の士官・船員より直接確かめ得たるところにて、(公式の)確認ありたる報告と承知致し候。
さて小生一兵卒の身分に御座候え共、現在未来ともに貴嬢の忠実なる下僕として、貴嬢の徳を尊敬・崇拝するの念の変らざること、小生の禿筆の伝え及ばざるところに御座候。
[#ここで字下げ終わり]
[#地付き]頓首再拝」
[#ここで字下げ終わり]
「どうも少し堅苦しいね」困惑した顔で手紙を折り畳みながら兄がいう。
「しかし模範的なお嬢さんに宛てて書いてならぬことは、一つも書いてないでしょう?」
「それはそうとも」
そこで手紙に封をして鉄工場から発送する書簡類の中に加える。これが終るとジョージは家族一同に心からのいとまごいをして馬に乗ろうとするが、兄はこんなに早く別れるのがいやなので、いっしょに無蓋馬車に乗って途中の宿までゆこう、そこで翌朝まで一泊しようではないか、チェスニー・ウォールドから乗って来た馬には、うちの召使を乗せてゆけばよいから、と提案する。弟も喜んで賛成したので、兄弟は仲むつまじく馬車に乗り、たのしく夕食をともにし、たのしく朝食をともにし、それからもう一度長いこと心をこめて手を握り合って別れる。鉄工場の社長は火と煙の方に向い、騎兵軍曹は緑の国の方に向う。その日の午後早く軍隊風の早駈けの馬の蹄の音が、並木道の芝生の上にやわらかく聞こえ、|楡《にれ》の老木の下を彼は心中隊伍を整えたつもりで馬を進めるのである。
[#改ページ]
第六十四章 エスタの物語
私がジャーンディスさんとあのお話し合いを交わして間もなくのある朝、ジャーンディスさんは私に封をした手紙をお渡しになりながら、「これは来月用にね」とおっしゃいました。中には二百ポンド入っていました。
いまや私は必要と思える支度を内々に整え始めました。私の買物はジャーンディスさんの好み(もちろんそれは私もよく知っていました)に合わせるようにして、衣裳類も気に入っていただけるように揃え、自分でも上首尾にことをはこんだつもりです。私はいっさいを内々にとり行ないました。それは、エイダがいくらか悲しむのではないかという懸念に私がまだとらわれていたのと、ジャーンディスさんご自身も、そのことを内々にしておられたからです。どのような形式にもせよ、私たちはきっとごくうちうちだけで、簡素な結婚式を挙げることになるでしょう。たぶん私はエイダに、「あしたちょっと私の結婚式に来てみてちょうだい」というだけでよかったでしょう。私たちの結婚式もリチャードとエイダの結婚式のように、飾らない質素なものになることでしょう。そして済んでしまうまで、だれにもなにもいわなくてよいのかもしれません。もし私の思い通りになるのなら、ぜひそうしたいところでした。
ただ一人の例外はウッドコートさんのお母さまで、私はジャーンディスさんと結婚します、だいぶ前から婚約していたのです、とお話ししました。お母さまはそれはたいへん結構ですね、と本当に心をこめていって下さいました。私たちが初めて知り合ったころにくらべると、今は驚くほどやさしくして下さいました。私のためになることなら、どんな苦労をもいとわずにやって下さいました。もちろんいうまでもありませんが、私もそのご親切を無にしない程度に、できるだけご苦労をかけさせないよう努めたのです。
もちろん、だからといってジャーンディスさんや、エイダをないがしろにしてよいというわけではありませんでした。それで私にはやる仕事がどっさりありました――またそれを嬉しく思いました。そして、チャーリーはといえば、針仕事となるとどうもはかばかしくゆきません。自分のまわりにどっさり仕事を置いて――かごにいっぱい、テーブルにもいっぱい山のように――実際に手を動かすのは少しで、大部分の時間は大きな丸い目を開いて、これからしなくてはいけない仕事を見つめ、ええ、きっとやってみせるわと自分にいいきかせる――これがあの子の誇りでもあり、喜びでもありました。
一方ありていに申しますと、例の遺言状のことでは、私とジャーンディスさんとでは意見が合いませんでした。私はジャーンディス対ジャーンディス訴訟事件に、いくらか楽観的な希望を持っていたのです。どちらが正しいかはじきにわかることです。でも、私は確かに期待を持とうと努めました。リチャードはというと、新しい遺言状の発見によってがぜん忙しくなり、その興奮のおかげでしばらくの間は元気が出ました。しかし今では、希望の多い少ないで気分が変ることすらなくなってしまい、ただ心配の熱にうかされているだけのようでした。いつかジャーンディスさんがこの話をしている時におっしゃったことから、私の結婚は私たちが期待している裁判所の開廷期が終った後になるだろうと、承知していました。私の期待はもっと大きかったのです。リチャードとエイダがもうちょっとお金持になった時に結婚できたら、どんなに私も嬉しいかと思ったからです。
開廷期もまぢかに迫った頃、ジャーンディスさんはウッドコートさんの用事で、ロンドンを留守にしてヨークシア州へ出かけました。まえまえからそこへゆかねばならないといっておられたのです。ある晩のこと、エイダの家から帰って来て、私の新しい衣裳にとり巻かれて考え込んでおりました時に、ジャーンディスさんから手紙が届きました。それには、田舎まで来てもらいたい、これこれの駅馬車に席がとってあるから、いついつにロンドンを発つように、と書いてありました。追伸として、そう長いことエイダと別れるわけではないから、と書き添えてありました。
まさかこんな時に旅行など思ってもいませんでしたが、三十分もすれば旅仕度ができましたので、翌朝早く指定の時刻に出発しました。一日じゅう旅を続けましたが、みちみち、どうしてこんな遠くからわざわざ私をお呼び寄せになったのかしら、と一日じゅう考え込んでいました。あのためかしら、このためかしら、といろいろ思いつくのですが、的を射た答えはまるで出て来ないのでした。
目的地に着くともう夜で、ジャーンディスさんがお迎えに出て下さいました。おかげでとってもほっとしました。なにしろ晩方近くなると、あの方が病気になられたのではあるまいかと心配(手紙がとても短かかったので、なおさら心配)になって来たからです。でも、あの方はいかにも元気そうなご様子でいらっしゃる。その晴れやかで穏やかなお顔を見た時私は、ああ、またなにか親切なことをなさっていらしたのだ、と心の中で思いました。そう思うのには、べつだん特に洞察が必要なわけではありません。ジャーンディスさんがここに来られたということが、そもそも親切な行いなのだと、私は知っていたからです。
宿屋で夕食が出て私たち二人きりで食卓についた時、ジャーンディスさんがおっしゃいました。
「どうして私が君をここへ呼び寄せたのか、きっと知りたくてうずうずしているのだろうね?」
「ええ、別におじさまが青ひげで、私がファティマー(1)とは思いませんが、私少し知りたい気がします」
「では今晩よく寝られるように、明日を待たず今話そう。私はなんとかしてウッドコート君に、気の毒なジョーに親切にしてくれたことや、私たちの若いいとこ[#「いとこ」に傍点]たちにいろいろ尽くしてくれたことや、私たち皆に力になってくれたことへの、感謝の気持をあらわしたいと思ったのだよ。彼がここに住みつくと決った時に、しかるべきささやかな、ほんの身を寄せるだけの家を受け取ってもらえたら、という考えが浮んだのだ。そこでそういったような家を探させたら、てごろな値段で見つかったので、私が彼のために仕上げをして、住めるように手を加えていたのさ。ところが一昨日私がその家を見て廻って、準備万端整ったと報告を受けはしたものの、どうも私は家事のきりまわしになれていないので、万事適当になっているのかどうかわからない。そこで世界一家事に明るい名人を呼んで、忠告や意見を聞かせてもらおうと思った次第。というわけで、ここにその名人がやって来て、泣き笑いをしているのさ!」
だって、あんまりジャーンディスさんが親切で、ご立派で、いい方だったんですもの。私はなんとか自分の思っていることを伝えようとしましたが、おろおろ声になってしまって言葉になりませんでした。
「ほらほら、泣くのおやめ! あんまり考えすぎるからだよ。そらそら、そんなに泣かないで!」
「とっても嬉しいからですわ――感謝で心がいっぱいだからですわ」
「ともかく、ほめてもらえたのはありがたい。きっとほめてもらえると思っていたんだ。私は荒涼館のかわいらしい主婦を、だしぬけに喜ばせてあげようと思ったのさ」
私はジャーンディスさんに接吻して、涙を拭きました。「わかっていましたわ、もう!」私がいいました。「さっきからお顔にちゃんとそう書いてありましたもの」
「まさか。本当にそうかい? たいした読心術の名人だね!」
ジャーンディスさんが妙にうきうきしていらっしゃるので、私もいつまでもうかぬ顔をしてはいられなくなり、そんな顔をしていたのが自分でも恥ずかしくさえなって来ました。私は床につくと泣いてしまいました。正直に白状しますが、泣いてしまったのです。でも、それは嬉し泣きだったつもりでおります。もっとも、嬉し泣きだったという確信はあまり持てないのですけれど。私はあのお手紙の一字一句を、二度繰り返して唱えました。
翌朝は上天気の夏日和でした。朝ご飯の後私たちは腕を組み合って、私が家政上の重大意見を述べることになっている家を見に出かけました。横側の塀についている門を、持っている鍵で開けて中に入ると、花壇がありましたが、私の最初に気づいたことは、花壇の配置が家にある私の花壇とそっくり同じになっていたことです。
「そら、見たまえ」ジャーンディスさんは立ち止まり、嬉しそうな顔をして私の顔つきを眺めていらっしゃいましたが、「あれ以上いいプランが思いつかなかったので、君のを拝借したんだよ」
美しい小さな果樹園のそばを通ると、さくらんぼが緑色の葉の間に顔をのぞかせ、りんごの木の影が芝生の草とたわむれていました。それから屋敷のところへ来ると、それは田舎の屋敷風の、かわいらしいお人形さんの家みたいでした。でも、とても静かで美しいお屋敷で、まわりには平和な田園の風景が広がり、きらきらと日に光る小川が遠くまで続き、緑の枝がいっぱいに垂れているところがあるかと思うと、ことことと水車が廻っているところもあります。牧場を越えて彼方の活気のある町の方を眺めますと、その手前ではクリケットをやるひとびとのにぎやかな群が見え、白いテントの上には旗がさわやかな西風を受けてひるがえっています。私たちがきれいな部屋を通り抜け、小さな簡素なベランダへ出て、すいかずらやジャスミンの花が咲き匂う、小さな木の柱の並んだ渡り廊下までやって来る間にも、壁紙の模様や家具の色、さまざまな調度類の並べ方などに、やはり私の好みや趣向、私独特のやり方や発明や気まぐれ――皆さんがよく笑いながらほめて下さいました――がどこにもかしこにも顔を出しているのがわかりました。
これらの美しいものを眺めて、私の感嘆はとても言葉でいいつくせるものではありませんでしたが、ひそかな疑惑が一つだけ私の胸の中に湧いて来たのです。あの方はこれをご覧になって幸せな気持が増すでしょうか? 私の姿が目の前に浮ばないほうが、あの方の気持が安らぐのではないかしら? だって、私はとうていあの方がお考えになっていたような女ではないとしても、それでもあの方は私をとても愛していらっしゃるのですから、自分の失ったと思ったものを思い出されたら、悲しい気持になるのではありますまいか? 私のことを忘れて欲しいとは思いません――それに、こんなものの助けをかりなくても、あの方はきっと私をお忘れにはなりますまいが――でしたが、私の前途よりもあの方の前途のほうが、ずっと厳しいつらいものなのですから、あの方さえそれで幸せになれるのでしたら、私は忘れられてもじっとこらえるつもりだったのです。
ジャーンディスさんは私にこうしたものを見せ、私がすっかり感心するのを眺めながら、今までになく誇らしげに喜んでおられる様子でしたが、「さて、最後にこの屋敷の名前だがね」
「なんという名前なのですか?」
「さあ、こっちへ来てごらん」
これまで避けて通らなかった玄関へ私を案内すると、そこから出る前に足を止めて、
「ねえ、どんな名前か見当つかないかね?」
「わかりませんわ」
玄関から外へ出ると、そこには「荒涼館[#「荒涼館」はゴシック体]」と書いてあるではありませんか!
ジャーンディスさんは近くの木蔭の椅子へ私を連れてゆくと、私の傍らに腰を下ろし、私の手をとってこうおっしゃるのでした。
「ねえ、これまで私たちの間に起ったことについては、私は心から君の幸せを思ってしたつもりだ。いつか私が君に手紙を書いて、それに返事をもらった時は」といいながら、にこにこ笑って言葉をつがれるのでした、「私は自分勝手なことも考えていたけれども、君のことも考えていたのだよ。事情が違っていたら、君がまだずっと年若だったころに私が抱いていた古い夢を、いつか君を妻にしたいという私の古い夢を私がふたたび心に抱いたかどうか、これはみずから問うまでもあるまい。とにかく、私がその夢をふたたび心に抱いたのは事実だ。そして私は手紙を書いた。そして返事をもらった。私のいうことがわかるかい?」
私は全身が凍るような思いがして、わなわなとふるえました。しかしひとことも言葉を聞き洩らしませんでした。私がじっとジャーンディスさんの顔を見つめておりますと、木の間をもれて来る柔かい日の光が、その帽子をかぶっていない頭のあたりを照らしていました。まるで天使の後光のように輝いている、と私は感じたのです。
「なにもいわないで、私のいうことを聞いておくれ。今は私がしゃべる番なのだ。私のしたことが本当に君を幸せにするかどうか、と疑いを持ちはじめたのがいつの頃か、そんなことはどうでもよろしい。ウッドコート君が国に帰って来た。じきに私は一点の疑いも持たなくなった」
私はジャーンディスさんの首にすがりついて、その胸に頭を埋め、さめざめと泣きました。
「そのままじっとしておいで。心配はいらないよ」ジャーンディスさんは私をやさしく抱き寄せながら、おっしゃいました。「私は今は君の後見人で、父親でもあるのだから。そのまま安心して、じっとしておいで」
ジャーンディスさんのお言葉は、木の葉のやさしいささやきのように心地よく、うららかなお天気のようにゆったりと、日の光のようにほのぼのと暖かく耳に聞こえました。
「私のいわんとすることをわかっておくれよ。君は献身的で恩を忘れない人なのだから、私といっしょになっても幸せに満足して暮してくれることは、私も疑わなかった。でもだれといっしょになれば、もっと幸せになれるか、私にはわかったのだ。君がまだ気づかない頃に、私が彼の秘密を見破ったのは不思議ではあるまい。私には君のいつまでも変らぬよい気だてが、君よりもよく、ずっとよくわかっていたのだからね。アラン・ウッドコート君は、彼の気持をずっと前から私に打ち明けてくれていた。もっとも私の気持はつい昨日、君がこちらへ来る数時間前にやっと彼に打ち明けたばかりだけれどもね。でも、私は私のエスタの模範的な人徳を隠したくはなかったのだよ。その美点を逐一はっきり知ってもらいたかったのだ。おなさけでモーガン・アプ・ケリグの一族に加えてもらうのはごめんだった。ウェールズじゅうの山だけ黄金を積んでもらっても、ごめんだったよ!」
ジャーンディスさんは話を途切らせると、私の額に接吻なさいました。私はまたしゃくりあげ、さめざめと泣きました。こんなにほめられると、嬉しいようなつらいような、なんとも我慢できないような気持になって来たからです。
「しっ! 泣くのはおよし。今日はおめでたい日なんだからね。私は今日のよき日を何カ月も何カ月も前から、楽しみにしていたのだからね」ジャーンディスさんは誇らしげな口調でおっしゃいました。「もう少しで私のいうことはおしまいだよ。私のエスタの真の値打ちを一つ残らず知ってもらおうと決心したので、私は別にウッドコート君のお母さんにも本当のことを打ち明けたのだよ。
『さて、お母さん。私にははっきりわかるのです――いえ、それどころではなく、はっきり知っているのです――が、あなたの息子さんはエスタを愛しておられます。そのうえ私は絶対に間違いないと思いますが、エスタもあなたの息子さんを愛しています。しかし義務感からその恋心を犠牲にしようとしているのです。その犠牲の気持がたいへん献身的で徹底しておりますから、お母さんが夜昼通じてエスタを見張っておられても、絶対におわかりになりますまい』
それから私は私たちの――つまり君と私についての話を逐一してやった。
『さあ、お母さん、このことを知った上で、家へ来ていっしょに暮して下さい。そして朝から晩まであの子を親しくご覧になって下さい。そしてご覧になっての意見と、あの子のこれこれしかじかの氏素姓とを、はかりにかけてくらべて下さい』――私ははっきり、あけすけにいってしまうのが好きだからね――『そしてこの点でお考えが決りましたら、本当の氏素姓というものがどんなものか、私におっしゃって下さい』と、私はいったのだ。すると、さすがにウェールズの名家の出だけあるねえ!」ジャーンディスさんは熱心な口調で叫びました。「君に対して、私にまさるとも劣らぬくらい感心し、気に入って、ほれこんでしまったのだよ!」
ジャーンディスさんは私の頭を起すと、すがりつく私にいくたびもいくたびも、かつてのように父親らしい慈愛にあふれた接吻をなさいました。これまでよくいたわるような態度をお見せになっていたのが、これで私にはっきりとわかりました。
「最後にもうひとこと。アラン・ウッドコート君が君に心中を打ち明けたのは、私にあらかじめことわって諒承を得てからのことだったのさ。しかし、私は彼をけしかけるようなことはしなかったよ。というのは、きょう君をだしぬけに驚かしてやろうと、大いに楽しみにしていたので、その楽しみがこれっぱかりも減るのはいやだったからだよ。彼は君に会った次第を私に話してくれる約束だった。そしてその通り話してくれた。私はもうこれ以上なにもいうことはない。アラン・ウッドコート君は、君のお父さんが亡くなった時、そばで見とってくれた人だ――お母さんが亡くなった時も、そばで見とってくれた。これが荒涼館。今日この屋敷に私はかわいい主婦を与えるのだ。誓っていうが、今日こそ私の生涯のもっとも嬉しいよき日だ!」
ジャーンディスさんは立ち上ると、私をたすけ起しました。私たちはもう二人だけではありませんでした。私の夫――この幸せな七年間、私はその人をこう呼んでおりました――が私の傍らに立っていたのです。
「アラン」と、ジャーンディスさんがおっしゃいました。「私の手からすばらしい贈物を受け取ってくれたまえ。またと得がたい立派な奥さんだ。君もそれにふさわしい立派な男だということは、私もよく知っているから、これ以上君にはなにもいうことはない! 奥さんといっしょにその家庭も受け取ってくれたまえ。この人がそれをどんな家庭にしてくれるか、君はよく知っているはずだね、アラン。これと同じ名前の家を、この人がどんなすばらしい場所にしてくれたか、君はよく知っているはずだね。ときどきは私にもその幸福のおすそわけをしてくれたまえね。え、私がどんな犠牲を払うかだって? いやいや、ぜんぜん犠牲なんか払ってはいないよ」
ジャーンディスさんはもう一度私に接吻なさいました。それから、いまや目に涙を浮べながらやさしい口調で、
「エスタ、こんなに長いこといっしょに暮して来たが、やっぱり別れというものはあるものだよ。私の間違いから、君に少々苦労をかけることになったのは、私にもわかっているが、どうか許しておくれ。昔ながらの愛情で私のことを考えておくれ。苦労は忘れておくれ。さあ、アラン、このかわいい人を受け取ってくれたまえ」
ジャーンディスさんはそういうと、緑の木蔭から立ち去りかけましたが、ひなたに出てから立ち止ると、元気よく私たちの方をふり返って、
「私はそのへんをひと廻りして来るからね。西風になったよ、真西の風だ! これ以上だれも私にお礼などいってはいけない。私はこれからまた元の独身者の生活に戻るのだから。もしこの警告をきかぬ人がいたら、私は逃げ出して、二度と戻って来ないぞ!」
その日一日私たちはなんと幸せだったことでしょう! なんと嬉しい、なんと心の安らいだ、なんと希望にあふれた、なんと感謝にみちた、なんと幸せな日だったでしょう! 私たちは月が明けぬうちに結婚する予定でした。でも、いつ私たちがこの家に住みつくかは、リチャードとエイダしだいなのでした。
翌日私たちは三人揃って帰りました。ロンドンに着くが早いか、アランはまっすぐにリチャードとエイダに、この嬉しい知らせを告げに訪ねてゆきました。夜かなり遅くなりましたが、私は寝る前に数分をさいて、エイダに会いにゆくつもりでした。が、その前にジャーンディスさんといっしょに家に帰りました。お茶を入れて差し上げて、傍らのおなじみの椅子に座るためにです。あの椅子が早くも座る主をなくしてしまうのが、私はいやだったからです。
家に帰ってみると、その日のうちにある青年が三度も私を訪ねて見えた、と聞きました。そして三度目に訪ねて来られた時に、私が晩方十時頃にならないと帰らないといわれると、「それではその頃にまたうかがいます」と伝言をして帰ったのでした。その人は三度とも名刺を置いていったのだそうです。「ミスター・ガッピー」とありました。
私には当然のことながらこの訪問の目的が見当つきましたし、この人のことを考えると、いつも滑稽な気持が湧いて来ますので、笑い出しながら私はジャーンディスさんに、彼がかつて私に求婚したことがあり、のちにそれを取り消して来たことをお話しました。「そういうしだいだったら、ぜひその英雄に会おう」と、ジャーンディスさんはおっしゃって、今度ガッピーさんが見えたらお通しするように、と命令を発しているところへ、ご当人がやってまいりました。
ガッピーさんは私といっしょにジャーンディスさんがいるのを見て、どぎまぎしたようでしたが、やがて気を取り直して挨拶をしました。
「ご機嫌はいかがですか?」と、ジャーンディスさんも挨拶を返しました。
「ありがとうございます。私もまあまあであります。失礼でございますが、私の母、オールド・ストリートに住むミセス・ガッピーと、私の無二の親友ウィーヴル君をご紹介申し上げます。といいますのは、つまりウィーヴルという名前で通っておりますが、本名はジョブリングと申すのです」
ジャーンディスさんが皆さんに椅子をすすめますと、皆さんは腰を掛けました。
「トニー」ガッピーさんはしばらくの間ばつ[#「ばつ」に傍点]が悪そうに黙っていましたが、友人に声を掛けました。「君が冒頭陳述をやってくれるか?」
「君が自分でやれよ」相手はいささかぶっきら棒に返事をしました。
「それでは、ええと、ジャーンディスさん」ちょっと考え込んでから、ガッピーさんが口を開きますと、そのお母さんはいかにもおもしろそうに、ひじでジョブリングさんをつついたり、ひどく意味ありげに私に向ってウインクして見せるのです。「私はサマソン嬢お一人と会うつもりでおりまして、あなたさまのご前にまかり出るとは思ってもおりませんでした。しかし、おそらくサマソン嬢から私どもの間で以前ありましたことについて、なにかお聞き及びのことと思いますが?」
「サマソンさんから、そのようなことについて、すでに聞いております」ジャーンディスさんはほほえみながらお答えになりました。
「それでは話は簡単であります。私、ただいまケンジ・アンド・カーボイ法律事務所における見習の期間を、双方ともに満足のうちにかと存じますが、無事終了いたしました。今や私は(考えただけでも憂鬱になります試験を受け、知りたくもないくだらぬことをさんざんつめ込みましたるのちに)弁護士としての資格を得たのであります。もしご覧になりたいようでしたら、私の免許状を持ってまいりましたが」
「ありがとうございますが、私はその免許状を自発的認知――これはきっと法律用語ですな――いたすつもりです」と、ジャーンディスさんがご返事なさいました。
そこでガッピーさんはポケットからなにかを取り出そうとしたのを止めにして、言葉だけを続けました。
「私は自分ではなんの|資本《もとで》も持っておりませんが、母はささやかな財産を持っております。それは年金の形式をとっておりまして」ここでガッピーさんのお母さんは、こんなおもしろい光景はないというふうに頭を振ると、ハンケチを口もとに当て、また私の方を向いてウインクするのでした。「それに仕事を続けてゆきます際の経費として、数ポンドくらいはいつでも用立ててくれるはずです。しかも無利子でです。これはたいした利得ですよね」と、ガッピーさんはしみじみした口調でいいました。
「まことにたいした利得ですな」ジャーンディスさんがあいづちを打ちました。
「私はランベス地区(2)のウォルコット広場方面にお得意を持っておりますので、私はそこに家を一軒借りました。私の友達連中の意見によりますると、たいへんうまい話だそうで(税金はお話にならぬくらい安く、造作や施設の使用料は家賃に入っているといったしだいで)、ただちに私はそこで開業しようと思っておるのであります」
ここでガッピーさんのおかあさんは、おそろしく熱を入れて頭をゆり動かし始め、自分の目の向くだれかれかまわずに、お愛想笑いをするのでした。
「その家は台所を別といたしまして六部屋あり、私の友達連中の意見によりますと、便利な住居だそうです。友達連中と私が申しますのは、主として親友ジョブリング君のことでありまして、彼は私を幼少のみぎり(3)から知っております。そうだったね?」というと親友の方を、センチメンタルな目つきで眺めました。
ジョブリングさんはその通りというように、脚をずらして見せます。
「ジョブリング君が住み込みの書記の資格で、私の仕事の手伝いをしてくれるはずです。母も現在のオールド・ストリートの住居の期限がきれましたら、いっしょにこの家に住む予定であります。したがいまして淋しいということはないはずであります。親友ジョブリング君は天性貴族的な趣味嗜好の持主でありまして、上流階級のかたがたの動静にくわしいのみならず、私の現在の計画を心から応援してくれるのであります」
ジョブリングさんは「その通り」というと、隣りのガッピーさんのお母さんのひじから少し身を遠ざけました。
「さて、すでにサマソン嬢からお聞き及びのことと存じますので、いまさら申すまでもあるまいかと思いますが、(お母さん、じっとしていてくれませんかねえ)サマソン嬢のおもかげは以前から私の心に焼きついておりまして、私はかつて結婚の申込みをいたしたことがございました」
「そのように聞いております」ジャーンディスさんがあいづちを打たれました。
「止むを得ませぬ事情によりまして、心ならずもしばしの間、そのおもかげのうすらいだことがございました。その間のサマソン嬢の態度はまことにご立派でありまして、そのうえ寛容と申さねばなりません」
ジャーンディスさんは私の肩を軽く叩かれて、たいそうおもしろそうな顔をなさいました。
「今度は私の方でも、寛容のお返しをしたいという精神状態になりましたしだいであります。私がサマソン嬢もよもやと思われるような高潔な心境に達し得るという証拠をお目にかけたいのであります。私の心から消え去ったと思っておりましたおもかげは、やっぱり消え去っていない[#「いない」に傍点]ことがわかったのであります。いまだにその魅力はおびただしきものでありまして、私はそれに屈しましたる結果、人力をもってしてはいかんともしがたい事情には目をつぶってもよい、以前申し出ましたサマソン嬢に対する結婚申込みを、もう一度ここに更新してもよいという心境に立ち至りましたしだいであります。私のウォルコット広場の家を、私の職業、ならびに私自身ともどもに、サマソン嬢にお受けいただきたく、ここに提出いたすしだいであります」
「たいそう寛容なるご処置ですな」
「さようでございます」ガッピーさんはひどく正直に答えました。「私は寛容になりたいという所存でございます。私はサマソン嬢にこの申し出をいたすに当りまして、別に自分を安く投げ売りするつもりは全然ございません。私の友達連中もそう考えておるわけではございません。しかしながら、私のわずかな欠点と差引き勘定をしまして、相殺にして然るべきような事情もございますので、まあこれは公正なる取引と申してよかろうかと存じます」
「あなたのお申込みに対しまして、私がサマソンさんの代りにお答えいたしましょう」ジャーンディスさんは笑いながらおっしゃると、召使を呼ぶ呼鈴を鳴らしました。「サマソンさんはあなたのご親切なお志に感謝いたしております。では皆さん、ご機嫌よう」
「ええっ!」ガッピーさんはぽかんとした顔をして、「これはいったい、承知の意味と了解すべきなのですか、それとも断りの意味ですか、それとも考えさせて下さいの意味ですか?」
「はっきりとお断りの意味です!」
ガッピーさんは信じられないといった顔で、お友達を見、床を見、天井を見、それからお母さんを見ました。お母さんは急に怒り出しました。
「そうですか。それじゃジョブリング君、友達がいにお母さんを連れ出すのに手を貸してくれや。お母さん、頼まれもしないのに、ここに居つづけたってしようがありませんよ」
ところがガッピー夫人は断固として出てゆかないというのです。だれがなんといおうとだめだというのです。
「おい、ちょいと旦那! どういう了見なんだい? うちのせがれじゃ役者が不足だっていうのかい? 恥を知るがいいや! さっさと出てうせろ!」
「奥さん、ここは私の部屋なのですから、出てうせろといわれても無理ですよ」
「そんなことかまやしないよ。出てうせろ! もしあたしたちで役者が不足だっていうんなら、どっかへいって立派な役者を連れて来るがいいや。さあ、いって連れて来い!」
さっきまであんなに愛想がよかったガッピー夫人が、こうも急転直下憤激に変るとは、私は思ってもいませんでした。
「どっかへいって立派な役者を連れて来い」お母さんは繰返しました。「出てうせろ!」私たちが出てうせないのが、ひどく驚きと憤慨の種らしいのです。「なんだって出てうせないんだ! なんだってここで立ち止っているんだ!」
「母さん」息子が割って入ると、ジャーンディスさんに向っていこうとする母親の前に立ちはだかって、片方の肩で押し戻そうとしました。「お黙りなさいよ」
「ウィリアム、いやだよ。黙るもんかい。あいつが出てうせなきゃ、あたしゃ黙るもんかい!」
それでもガッピーさんとジョブリングさんが力を合わせておかあさん(口汚く悪口雑言をどなり始めたのです)をおさえつけ、いやがるのを無理に階下に連れ去りました。階段を一段ずつ下るにしたがって、お母さんのどなり声は一音階ずつ上ってゆき、さっさとどこかへいって立派な役者を連れて来い、とっとと出てうせろ、とわめき続けるのでした。
[#改ページ]
第六十五章 新たに出直す
いよいよ開廷期がまいりました。ジャーンディスさんのところにケンジ弁護士から、訴状は二日もすれば提出される予定と知らせて来ました。私はその遺言状に大きな期待を寄せていましたので、ひどく気になりまして、アランと私でその朝法廷へ出かけることに決めました。リチャードは興奮の極に達して、すっかり元気をなくしてしまいましたので、弱っているのはまだ気持だけで、からだは大丈夫でしたけれども、エイダをときどきしっかり励ましてあげなくてはいけない時がありました。でもエイダは、自分に力をかしてくれるもののやって来る日が、もう近くに迫っているので希望をすてず、決してしおたれたりはしませんでした。
事件が審理されるのはウェストミンスターの法廷でした。おそらくこれまでなん百回となく、そこで審理されたことなのでしょうが、今度こそはなんらかの結果が生まれるかもしれない、という気がしてなりません。ウェストミンスター・ホール(1)に間に合うように着くために、朝食をすますとすぐ出かけました。二人でいっしょに活気にあふれた街々を通りすぎていました――なんでも幸せそうに見えて来るから不思議ですね!
私たちがリチャードとエイダにどんなにしてあげたらよいかと話し合いながら、道を急いでおりますと、だれかが「エスタ! エスタじゃないの! エスタったら!」と呼ぶ声が聞こえました。みるとキャディ・ジェリビーで、このごろ|出稽古《でげいこ》に教えに行く生徒の数があんまり多くなったので、ハイヤーで契約した小さな馬車の窓から首を出し、百ヤード離れたところから、私に抱きつきたそうな身ぶりをしているのでした。ジャーンディスさんのご親切なとりはからいについて、逐一報告の手紙を書いて知らせてはいましたが、会いにゆく暇がなかったのでした。もちろん私たちが馬車の方へ戻ってゆくと、私のやさしい友はすっかり有頂天になって、私に花束を持って来てくれた晩のことを嬉しそうに話したり、私の顔を(帽子もなにもいっしょくたにして)両手で抱えこもうとしたり、夢中になって私にかわいい言葉で呼びかけたり、アランに向っては、私がキャディにしてあげたかずかずの親切(私が自分では気がつきもしなかったこと)を並べたてたりしますので、私は馬車に入り込んで、彼女に好きなことをいわせ、好きなことをやらせて、気持をしずめてやらねばなりませんでした。窓際に立ったアランもキャディと同様に嬉しそうな顔をしていますし、私も二人同様に嬉しくなりました。笑ったり顔を赤くしたりしていた私は、馬車の窓から身を乗り出して、いつまでもいつまでもふり返るキャディを見送り、やっとの思いで別れを告げたのでした。
このおかげで私たちは十五分ばかり遅刻してしまい、ウェストミンスター・ホールに着いてみると、もうその日の裁判が始まっていました。もっと間の悪いことに、いつにない大勢の群集が法廷につめかけていまして、戸口まで満員でしたので、中でなにをやっているのか覗くことも、耳にすることもできませんでした。なにか滑稽なことがあるらしく、ときどきどっと笑い声がして、「静粛に!」という叫び声が聞えました。なにか興味あることがいわれているらしく、だれもかれもが少しでも近寄ろうと、押し合いへし合いしているのでした。法律の専門家にとってもひどく愉快なことらしく、かつらをつけ頬ひげをはやした若い弁護士が数人人ごみの外側にいましたが、そのうちの一人が他の人たちになにやらいうと、皆はポケットに手を突込んで、身をよじらせるようにして笑い、それからホールの外の敷石に足音を響かせながら、向うへいってしまいました。
私たちがそばにいる人に、なんの事件ですか? とたずねますと、その人は、ジャーンディス対ジャーンディス訴訟事件ですよ、と答えました。どうなっているのですか? とたずねますと、その人は、「わかりません、だれにもわからないんですよ、でも私の見るところでは、けり[#「けり」に傍点]がついたらしいですな」と返事をしました。今日の審理のけりがついたのですか? とたずねますと、その人が答えました。「いいえ、すっかりけり[#「けり」に傍点]がついたのですよ」
すっかりけり[#「けり」に傍点]がついたのですって!
このわけのわからない返事を聞いて、私たちは驚きのあまりお互いに顔を見合わせました。例の遺言状のおかげで事件が解決し、リチャードとエイダがお金持になる、という意味なのでしょうか? どうもあまり話がうますぎて信用できそうにありません。残念ながら、真相はそんなうまい話ではなかったのです!
私たちはじきに真相を知ることができました。やがて間もなく人ごみが割れて、興奮してまっ赤な顔をした人の群が、気持の悪くなるような人いきれを発しながら、どっとばかりにあふれ出て来たのです。まだひとびとの顔には、裁判ではなくて道化芝居か手品を見て出て来たみたいな、おかしそうな表情が浮んでいました。私たちは知った顔が見えはしないかと脇に立っていました。やがて書類の山がかつぎ出されて来ました――袋に入った書類の束、袋に入りきれないくらい大きな書類の束、ありとあらゆる形の、または形もなにもありはしない書類の山を、書記がよろよろしながらかつぎ出して来ては、とりあえずホールの外の敷石の上に放り出して、また次のを取りに入っていくのです。この書記たちまでがげらげら笑っていました。どこにもここにも「ジャーンディス対ジャーンディス」と書かれたこの書類の山をちらと眺めてから、私たちはその山の中に立っている役人風の人に、事件は終ったのですかとたずねました。その人は、「ええ、やっとこかた[#「かた」に傍点]がつきました!」と答えると、これまた腹を抱えて笑い出すのです。
ちょうどその時、ケンジ弁護士がいつものように愛想よくもったいぶった様子をして、そばで自分のカバンをぶらさげてへいこらしているヴォールズ弁護士の言葉に熱心に耳をかしながら、法廷から出て来るのが見えました。ヴォールズ弁護士のほうが先に私たちの姿を見つけました。「あそこにサマソン嬢と、ウッドコート先生がいらっしゃいます」
「おや、本当だ! まったくだ!」ケンジ弁護士はうやうやしく帽子を脱ぐと、「こんにちは。お目にかかれて光栄です。ジャーンディスさんはいらっしゃらないのでしょうね?」
「ええ、あの方はいつも参りません」私が答えました。
「そうでしたな。それに、きょう[#「きょう」に傍点]おいでにならなかったのはむしろ幸せでしたよ。おいでになっていれば、あの方の――つまり、ここにいらっしゃらない方の悪口はいいたくありませんから、あの方のいっぷう変った頑固なご意見、とでも申しましょうか?――それがたぶんますます強固になったかもしれませんからな。正当な道理にはずれておられるご意見ですが、しかしますます強固になったかもしれませんからな」
「どうか今日の審理の模様を教えて下さい」アランが頼みました。
「え、なんとおっしゃいましたか?」きわめていんぎん丁重にケンジ弁護士がいいました。
「今日の審理の模様を教えて下さい」
「今日の審理の模様ですか――そうですな。つまり、ええ、たいした審理もなかったのです――たいしたこともないんです。私どもは突然――その、なんですな――袋小路に入り込んでしまった――とでも申しましょうか?」
「例の遺言状は本物だと認められたのですか? それを教えて下さい」
「ええ、できれば喜んでお教えしたいのですがな。しかし、その問題にまで至らなかったのです。その問題にまで至らなかったのです」
「その問題にまで至らなかったのです」ヴォールズ弁護士が低い声で、こだまのように繰り返しました。
「ウッドコート先生、こうお考え下さい」ケンジ弁護士が言葉を続けました。例によってなだめすかすような口調で、銀のこて[#「こて」に傍点]を振り廻しながら、「この事件はきわめて重大なる事件でありまして、きわめて蜿蜒と延長した事件でありまして、きわめて複雑なる事件でありまして、な。ジャーンディス対ジャーンディス訴訟事件が、大法官府裁判の記念碑と称せられるのも、むべなるかなであります」
「それでかんにんの袋が、その上に長いことぶら下げられて(2)いたわけですな」アランがいいました。
「いや、まったくその通りです」ケンジ弁護士は偉そうに笑みを浮べました。「さらにこうお考え下さい」厳しいといっていいくらい、もったいぶった態度をとりながら、「この事件に関係したかずかずの難問、不測の問題、巧妙な擬制、訴訟手続などの連続によりまして、いくたの勤勉、能力、雄弁、知識、知能、そうです、ウッドコート先生、|高邁《こうまい》なる知能が傾きつくされたのであります。いく年間にもわたって――その――つまりですな――法曹界の精華と申しましょうか――さらに、その、大法官裁判所の豊かなみのりのすべてが――このジャーンディス対ジャーンディス訴訟事件のために、惜しみなくついやされたのであります。国民がこの偉大なる|消費《ついえ》の恩恵にあずかり、国家がその栄誉にあずかったとしたならば、当然それはお金、またはそれに相当するものをもって支払われねばなりません」
「ケンジさん」アランはとたんにはっと思い当ったような様子で、「ごめんなさい、私たちは急いでおりますので。つまり、全財産は結局裁判の経費で消えてしまった、というわけなのですね?」
「まあ、そういうわけだと思います! ヴォールズ君、あなた[#「あなた」に傍点]のご意見は?」
「まあ、そういうわけだと思います」
「そして、そのために訴訟は自然消滅となってしまったというわけですか?」
「たぶんそうでしょうな。ヴォールズ君のご意見は?」
「たぶんそうでしょうな」
「なんということだ」アランは小声でいいました。「リチャードにはたいへんなショックだろう!」
アランの顔色が心配のあまりさっと変りましたし、アランはリチャードのことをなにからなにまでよく知っていましたし、私もリチャードがこのごろだんだんとひどくやつれて来たのをまのあたりに見ていましたので、エイダがいつか私にいった言葉が、不吉な響とともに私の耳もとに聞えてくるのでした。
「もしカーストン氏にご用がおありでしたら」ヴォールズ弁護士が私たちのうしろから声をかけました。「まだ法廷におられますよ。すこしお休みになられたほうがよろしいと思って、そのままにして来ました。では、さようなら、ウッドコート先生。さようなら、サマソンさん」
ゆっくりとむさぼるような目つきで私を眺め、それからカバンのひもをぎゅっと結んで、愛想がよくておしゃべりのケンジ弁護士に置いていかれてはたいへんというように、そのあとをあわてて追いながら、はっとあえぐような身ぶりをしましたが、まるでその依頼人の最後のひとかけらまでこれで呑み込んでしまったというような身ぶりでした。そしてまっ黒な服を上までボタンをかけた不吉な人影は、ホールの端の低いドアの方へと消えてゆきました。
「あなたに頼まれたリチャードのことは、しばらく僕にまかせて下さい」アランがいいました。「この知らせを持って家へお帰りなさい。それからしばらくしてから、エイダのところへいってやって下さい!」
私を馬車のところまで送って下さらなくてもいいですから、一刻の猶予もなくリチャードのところへいって下さい、私はあなたのおおせの通りにしますから、と私はアランに申しました。それから急いで家に帰って、ジャーンディスさんに事情を一つ一つ説明しますと、少しも驚いた色もなく、
「どんな結果にもせよ、この訴訟のかたがついたというのは、私の思いもかけなかった吉報だよ。でも、気の毒ないとこ[#「いとこ」に傍点]たちだ!」
午前中いっぱい私たちは、かわいそうなリチャードとエイダのことを話し合い、どうしたらよいかと相談しました。午後になるとジャーンディスさんは、私といっしょにシモンズ法学予備院に出かけ、入口のところで待っておられました。私だけが階段を上ってゆきますと、エイダが足音を聞きつけて狭い廊下に出て来て、私の首に両腕を投げかけました。でもすぐ気をとり直し、リチャードはさっきからなん度もあなたは来ないかといっているのよ、と話しました。エイダの話によると、アランが法廷のすみへ行ってみると、リチャードが石の像みたいに坐っていたのだそうです。声をかけるととたんにがっくり倒れそうになって、裁判長に向って激しい口調でなにかいいたそうな身ぶりをしたのですが、口じゅうが血だらけで声が出なかったのだそうです。そこでアランが家へ連れて帰ったのです。
私が部屋に入った時、リチャードは目をつぶったまま、ベッドに横になっていました。テーブルには気つけ薬が置いてあり、部屋はできるだけ風通しをよくして、暗くしてありましたが、きちんと整頓されていて静かでした。アランが病人のうしろに立って、じっと真剣な顔をして見とっていました。病人の顔色がまるで抜けてしまったようで、いまは私にまともに見つめられているということに気づかずにいるせいか、なんともひどくやつれているのが初めてわかりました。でも、ここ数日来よりもずっと落着いた、整った顔立ちになっていました。
私はリチャードのそばに黙って腰を下ろしました。彼はしばらくしてから目を開けると、よわよわしい声で、でも昔ながらの笑顔を浮べて、「やあ、ダードンおばさん、キスをしておくれ!」
やつれながらも、元気と希望を失っていないような様子なので、私はほっとするとともに、驚きもしました。リチャードは結婚おめでとう、とても口ではいえないくらい喜んでいるよ、といいました。君のご主人は僕とエイダにとって守護天使だったんだ、お二人とも末長く幸せに暮してくれたまえね、といって、リチャードが私の夫の手をとり、自分の胸に押しあてるのを見ると、私まで胸がはりさけそうな気持になって来るのでした。
私たちはできるだけ未来のことを話し合いました。リチャードはいく度もいく度も、足腰が立ったらぜひ君たちの結婚式にいかねばならない、エイダがなんとかして僕を連れていってくれるだろう、といいました。「ええ、もちろんよ!」と、エイダは希望にあふれた声で答えましたが、なにかが自分を助けにやって来てくれる日が間近いのを知り、朗らかに美しい様子をしているその姿を見るにつけても、私は――私は――!
リチャードがあまり多く口をきくのはよくないので、彼が口をつぐむと私たちも黙りました。そのすぐそばに坐っていた私は、彼がよく私のことをからかって働き蜂さんなんて呼んでいましたので、ほんとにかたちだけエイダのために針仕事をしました。エイダは夫の枕もとに寄り添って、自分の腕に彼の頭をもたせかけていました。リチャードはしばしばまどろみ、目がさめてアランの姿がみえないと、いつもまっさきに「ウッドコートはどこにいる?」とたずねるのでした。
夕闇が迫って来ました。私が目を上げると、戸口のところにジャーンディスさんの姿が見えました。「だれだい?」とリチャードがたずねました。リチャードは戸口に背中を向けていたのでしたが、私の顔色を見て、誰かが来たのだなとさとったのです。
私はアランの方を、どうしたらいいでしょう? というように見ると、アランが「よろしい」とうなずいてくれたので、リチャードの上に身をかがめて、話してあげました。ジャーンディスさんはこの有様をご覧になると、すぐ私の傍らに来られて、リチャードの手を握りました。リチャードは、「ああ、僕がばかでした。あなたは本当にいい方だ!」というと、初めてわっと泣き出しました。
確かに善良を絵に描いたようなジャーンディスさんは、私の椅子にお坐りになると、リチャードの手を握ったまま、
「リック、黒雲は晴れたのだよ。そしてもう太陽が明るく照っているのだ。私たちはもうはっきり物が見えるようになった。今までは、私たちは皆、多かれ少なかれめくらだったのさ。そんなことはもう、どうでもいいじゃないか! ところで、かげんはどうだい?」
「ひどく弱ってしまいました。でも、じきにもっと丈夫になりますよ。僕は新たに出直さなくちゃいけません」
「そうとも、そうとも、よくいったね!」
「今度は昔みたいなふうにやるのじゃありませんよ」リチャードは悲しそうに笑いました。「僕はいい教訓を学んだのです。つらい教訓でしたが、ほんとうに僕は身にしみて学びましたよ」
「そうとも、そうとも」ジャーンディスさんは慰めるように、「そうだとも」
「僕は考えていたのですが、僕はこの世のなによりもまして、あの家――ダードンおばさんとウッドコートの家を見たいのです。動けるくらい元気を取り戻してまっさきにあそこへゆけば、どこにいるよりも早く病気がなおるような気がするんです」
「リック、私もちょうど同じことを考えていたんだよ。それからエスタもね。ついきょうのことさ。二人で話し合っていたのだよ。おそらくエスタの旦那さまも異議あるまい。どうだい?」
リチャードはほほえむと、寝台の枕もとにいるアランの方に腕を伸ばしました。
「僕はエイダのことなにもいいませんでしたが、いつも考えているんです。そして、本当にありがたいと思っているんです。エイダを見てやって下さい。そら、自分でもさぞかし休みたいはずなのに、じっと枕もとで世話をやいてくれるのです。本当にかわいそうに。すまない!」
リチャードはエイダをしっかりと抱きしめました。だれ一人口をきく者もいませんでした。リチャードはゆっくりと妻から腕を放しました。エイダは私たちをじっと眺め、それから天の方を見上げると、なにかつぶやきました。
「僕が荒涼館へいったら」リチャードはまたつぶやきました。「いろいろお話することがあります。あなたもいろいろなものを見せて下さるでしょうね? いっしょにいって下さるでしょうね?」
「もちろんだとも、リック」ジャーンディスさんが答えました。
「ありがとうございます。本当にあなたらしい。いかにもあなたらしいですよ。あなたがいっさいの計画をたてて、エスタのいつもの好みややり方を全部憶えておられたことを、僕はちゃんと聞きましたよ。きっと昔からある荒涼館へ帰って来たみたいな気持になるでしょうね」
「リック、古い荒涼館にも帰って来てくれたまえよ。私はこれから一人ぼっちなんだからね。お慈悲だと思って来てくれたまえよ。お慈悲だと思って来て下さいよね、君も!」ジャーンディスさんはエイダに向ってこう繰り返してから、その金色の髪の毛をやさしく撫でると、口もとにお当てになりました。(きっと心の中で、エイダが一人だけ残されたら、きっと面倒を見てあげると誓っておられたのでしょう)
「まったく悪夢でしたね」リチャードはこういうと、ジャーンディスさんの両手をしっかりと握りしめました。
「そうだとも、リック。まったくそうだ」
「あなたはいい方ですから、そうおっしゃって水に流して下さって、夢にうなされていた男を許し、憐れに思って、目が覚めた時にやさしく励まして下さいますね?」
「もちろんだとも。私だってやっぱり夢にうなされていたんだからね、リック」
「僕は新たに出直しますよ!」リチャードは目を輝かしていいました。
この時私の夫がエイダの方に近寄り、厳粛な顔をしてジャーンディスさんの方を向き、手を上げて制するのが見えました。
「いつになったら僕はあのたのしい場所へ出かけられるでしょう? あそこへゆけば昔の通りで、僕は元気になって、エイダがこれまで僕に尽くしてくれた親切のかずかずをお話することができますし、僕のいろいろな間違いや無知を思い返すこともできますし、これから生まれて来る子供を育てる準備もできます。いつになったらゆけるでしょう?」
「リック、君が元気になったらね」ジャーンディスさんが返事をなさいました。
「かわいいエイダ!」
リチャードは少し身を起そうとしました。アランは彼の望んでいることを察して、エイダに抱いてもらえるように、彼のからだを起してやりました。
「僕は君にいろいろとひどいことをしたね。僕はまるであてどもなく迷っている影みたいに、君のゆく手に立ちふさがり、君と結婚して貧乏と苦労を背負い込ませたね。君の財産を全部風に飛ばしてしまったね。エイダ、これから僕は新たに出直すから、全部許しておくれよ」
エイダがかがみ込んで接吻をすると、リチャードの顔に晴れやかな微笑が浮かんで来ました。ゆっくりと顔をエイダの胸のうちに埋め、その首に廻した腕でさらにきつく抱きしめると、お別れにひとつすすり泣きの声をあげて、リチャードは新たに出直したのです。でも、この世でではありません。違うのです! この世のあやまちも悲しみも、すべてをなおしてくれるあの世へとなのです。
その夜もふけて、皆が寝しずまった頃、かわいそうに気のふれたフライトばあさんが、泣きながら私のところへやって来て、かごの小鳥を全部放してやったわ、と告げました。
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第六十六章 リンカンシア州にて
この数日間、いつもとうって変って、チェスニー・ウォールドは静まり返ってもの音ひとつしない。それはちょうど、デッドロック家の歴史のある一部分について、だれ一人として口を開いて語らないのと似ている。レスタ卿が事情を知っている連中に口止め料を払ったのだという説もある。だが、この説もはなはだあやふやで、あちこちでこそこそ耳うちされてはいたが、まもなく気が抜けたように立ち消えになってしまう。うるわしきデッドロック家の奥方が、木々が暗く覆いかぶさり、夜になるとふくろうの鳴き声が森にこだまする敷地内の|霊廟《おたまや》に葬られているのは確かなこととして知られているが、彼女の遺骸がどこから運ばれて、この淋しいこだまする森の中に納められたのか、どのような死に方だったのかは、いっさい謎に包まれたままである。奥方の昔からの友人、とくに骸骨のようなのどをして桃色の頬をした昔の美女のなれの果ての老婦人たちが――まるで他の伊達男には全部愛想をつかされたあげくの果てに、しかたなく死神の気をひこうとしているかのように――ある時気味の悪い手つきで大扇をもてあそびながら、|霊廟《おたまや》に葬られている先祖代々のデッドロック家の霊が、彼女に神聖を汚されたといって、うらめしやと出て来はしないかしら、などといったことがあった。ところがデッドロック家歴代のご先祖さまは、おとなしく彼女を迎え入れ、ひとことも苦情はいわなかったようである。
森の中にうねうねと通じている小道を通り、くぼ地に生えた|羊歯《しだ》をかき分けて、馬の蹄の音がこの淋しい場所に近づいて来ることがときどきある。すると馬上にレスタ卿の姿――病みやつれて、背も丸くなり、目もろくろく見えないが、しかし今なお見るからに威厳にあふれた――が、そのそばでたづなを取るがっしりした男の姿とともに、眺められるのである。霊廟の戸口の前まで来ると、レスタ卿の馬は慣れているものか、ひとりでにぴたりと止まる。そして卿は帽子を取って、しばらく立ちつくしたのちに、また帰ってゆくのである。
|不逞《ふてい》のやからボイソーンに対する戦いは、ときに激しくなったり、またいくらか間をおいて静まったりしながらも、相変らず続いていて、まるで風にゆらぐ灯のようである。実をいうとボイソーン氏は、レスタ卿が終生の地としてリンカンシア州に隠遁すると聞いた時、自分の通行権を放棄してレスタ卿のいい分を通そうとする意向を示したのであった。ところがこれを聞いたレスタ卿は、私の病気と不幸を憐れんでの仕打ちだな、とたいそうな悲憤慷慨ぶりなので、ボイソーン氏は止むを得ず隣人の元気を取り戻させるために、これみよがしの不法侵入を犯さねばならないはめとなった。同様の理由からボイソーン氏は、争いの的となっている道路に、相変らずものすごい立札を立て続け、自宅に閉じこもっては(頭の上に小鳥を止まらせて)、レスタ卿に対して断固たる陣を張り続けるのだ。同様の理由から、彼は教会へ出かけるおりも、昔の通りレスタ卿には一顧だに与えず完全に黙殺する。しかしあちこちで耳うちされる話によれば、ボイソーン氏がその旧敵に対していかにひどい振舞いをしようとも、本心はまことに思いやり深いのだ。レスタ卿は断固として仲直りなどいさぎよしとはしない気持だが、自分がうまくご機嫌をとられているとは夢にもご存知ない。また自分とその敵とが、二人の姉妹の運命をめぐって同じ悲しみにつながれていたことも、まるでご存知ないのである。卿の敵のほうは今ではその事情を知っているが、相手に話すような人ではない。だから争いは両者の満足のいくまで、いつまでも続くのである。
邸内の番人小屋の一つ――母屋から見渡せるところで、かつてリンカンシア州一帯に洪水が起った時、奥方がよく番人の子供の姿を眺めていたあの小屋だ――に、今は元騎兵軍曹のがっしりした男が住んでいる。元の商売のなごりの品が壁にいくつかかかっていて、これらをいつもぴかぴかに光らせるのが、|厩《うまや》で働く足の悪い小男の大の楽しみなのである。この小男はいつも忙しく立ち働いていて、馬具小屋の扉やら、あぶみ|金《がね》やら、はみ[#「はみ」に傍点]やら、くつわ鎖やら、馬具の金の|鋲《びよう》やら、ともかく厩にあってみがけるものならなんでもみがいてしまう――まさにみがき上げの人生だ。毛深くて、その上雑種の駄犬に似たところがあり、いつもひどくあしらわれるのに馴れているような男で、フィルと呼ばれている。
老女中頭(この頃耳が遠くなって来た)がその息子の腕にすがって教会へ出かけるのは、見るからにほほえましい光景である。この二人がレスタ卿に対して、また卿がこの二人に対してとる態度は、ともに見るからに――といっても、あまり見る人はいない、このごろは屋敷を訪れる人が少なくなったからである――気持がいい。真夏になると、他の時期には見かけない、ねずみ色の外套を着てこうもり傘を持ったお客の姿が木の葉の間に見えることがある。二人の小さな娘が、邸内の隅のおがくず置場や、そうした目立たぬ場所でふざけて遊んでいる姿も、ときどき見うけられる。また、二本のパイプから立ちのぼる煙が、軍曹の小屋の戸口から夕暮の空へと輪を描いて消えてゆく。そんな時には小屋の中から『イギリス|擲弾兵《てきだんへい》行進曲』を吹く威勢のいいファイフの音が聞こえて来たりするのだ。夕闇が深まるにつれて、並んであちこち散歩している二人の男のうちの一人が、断固たる口調でこんなことをいっているのが聞こえる。「だが、女房に向ってはそうはいわんのだ。規律を維持せねばならんからな」
お屋敷はもう大部分が閉めたきりになって、もはや参観用にもならなくなった。にもかかわらず、レスタ卿は長い応接間の、奥方の肖像画の前の昔ながらの椅子に坐って、衰えたりといえども威儀を正している。夜になると周囲に幅の広い|屏風《びようぶ》をめぐらし、その中だけに明りをともしているので、応接間の明りはしだいしだいに小さくちぢまってゆき、しまいにはなくなってしまうのではないかと思えるくらい。実際もう少しすれば、レスタ卿を照らす明りは、完全に消えてしまうだろう。そして固く閉ざされて、いかめしい様子を見せている霊廟の土くさい扉が開いて、卿のいっさいの悲しみをとりのけてくれるだろう。
時が進むにつれて顔はますます紅味をさし、皮膚の生地はますます黄色くなってゆくヴォラムニアは、レスタ卿に本を読んであげたり、あれこれとあくびを隠す術を考えたりして夜長を過すのである(そのいちばん効果のある隠し方は、赤い唇の間に真珠の頸飾りをはめ込むことだ)。バフィならびにブードル問題に関するえんえんと長い論考、バフィは潔白でブードルは悪徳漢、国民がすべてブードル派になって、一人もバフィ派がいなくなればわが国は滅亡するが、すべてバフィ派になって、一人もブードル派がいなくなれば救われる(そのどちらかでなくてはならぬ。それ以外の場合は考えられない)云々、これらが読んで聞かせるおもな題目であるが、レスタ卿はなんであろうとかまわないし、それにあまりはっきり内容を理解している様子もない。ところが、ヴォラムニアが読むのを中断しようものなら、卿はぱっと目を覚まし、最後の言葉を朗々と繰り返してからいくぶん不愉快そうな色を浮かべて、疲れたのかねとたずねるのだ。しかしながら、ヴォラムニアは鳥のようにあちこちの書類をついばんでいる間に、卿に「万一のこと」があった場合に、自分がどうなるかに関するおぼえ書きを見つけたことがあったので、ながながと本を読まされても充分報いられるわけである。そこで「退屈」の恐竜すら吹っ飛んでしまう。
卿の一族の者たちはチェスニー・ウォールドは退屈だと敬遠気味であるが、狩猟のシーズンになるとやって来る。すると狩場では銃の音が響き、数人の|勢子《せこ》や猟番人が定めの場所に散って、不景気な親族の到来を待つのである。例のよいよい[#「よいよい」に傍点]の従兄は、あたりの淋しさのあまりますますよいよい[#「よいよい」に傍点]になり、ひどくふさぎ込んでしまい、狩りに出ていない時は長椅子の枕を抱えて悶々たる時を過す。このいまいまし監獄みたい屋敷にゃ――いつまでたても――気をまぎらせるものひとつないんじゃなと、ぐちをこぼしながら。
このように変りはてたリンカンシア州の屋敷にあって、ヴォラムニアの唯一つの晴れがましい事件は、たまにあちこちで開かれる社交舞踏会のおりに列席して、国や地方に対してなにがしかの貢献をする時である。この晴れの日になると、モスリンの布をまとった風の精はおとぎの国の妖精みたいないでたちで、従兄に附き添われていそいそと、十四マイルたっぷり離れたおんぼろの古い集会場へ出かけてゆく。その集会場たるや、毎年三百六十四日間は、まるで地球の反対側の物置小屋みたいで、古い机や椅子やらがさかさまになっていっぱい詰まっているのだ。ところがこの晴れの日となると、ヴォラムニアはその親しみやすい態度と娘のような元気をもって、並みいる一同をすっかり魅惑のとりこにしてしまい、口じゅう入れ歯ずくめのみっともない老将軍が、一つ二ギニー出しても一本も抜けなかったありし昔の頃のように元気よく跳び廻るのである。この晴れの日になると、この良家育ちの妖精は、目まぐるしい踊りの輪の間をくるくると廻って歩く。それから男どもが、お茶やレモネードやサンドウィッチを捧げ持ってやって来る。それから彼女は親切になったりつれなくなったり、偉そうにしたり謙遜になったり、変幻自在、思うがままに振舞う。すると、会場を飾っている前世紀の遺物みたいなシャンデリアと、彼女とが奇妙に似て見えるのである。ひょろひょろと痩せた柄、垂れ下ったけちなガラス飾り、それもとれてしまって取っ手だけが残っているのもあるし、取っ手も飾りも両方とれてしまって、金具がむき出しになって見えるのもあるし、ちかちかと貧弱な光を放ったりして、まったくどこもかしこもヴォラムニアそっくりである。
こうした出来事を除くと、リンカンシア州でのヴォラムニアの生活は、平凡単調の連続である。家の周囲には木が生い茂り、ためいきをついたり、手をねじったり、頭をたれたり、窓ガラスに涙をしたたらせたりして、いつも退屈でしおたれた様子。壮大な迷路のようなこの家は、旧家の人間やその幽霊みたいな肖像画の住み家というよりはむしろ、物音がするたびごとに数限りない隠れ家から飛出して来て家じゅうに響きわたる旧家のこだまと雷の住み家みたいだ。長らく使わない廊下や階段はくち果てて、夜中に寝室の床に櫛一本落しても、それが屋敷じゅうにこだまして、ひとびとがなにごとかと家の中をびくびく探して廻るしまつ。雇人も一人で歩き廻るのはごめんですといい、炉から燃えがらが落ちる音に女中は悲鳴をあげ、年がら年じゅう泣いたりわめいたりしたあげく、とうとう恐怖で気がおかしくなって、おいとまをちょうだいして逃げ出すのである。
チェスニー・ウォールドはこのような有様である。屋敷の大部分はひと気もなく、まっ暗で荒れ放題。夏の太陽が照ろうと、冬の暗雲がかかろうと、たいした違いもないくらい。いつも陰気で動くものとてなく――昼間も旗がなびくことなく、夜も明りのまたたくことなく、往き来する住人もおらず、ひえびえとしたうす暗い部屋を訪れる者とてなく、人間のいとなみの跡さえ見られず――見ず知らずの者の目から見ても、リンカンシア州のお屋敷からは、人間らしい情熱も矜恃も消えてしまって、ただ生気のない静けさのみが残っているのだ。
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第六十七章 エスタの物語――終り
私が荒涼館の主婦となってから、まるまる七年幸福な歳月がたちました。これまで書き綴って来ましたことに、二、三の言葉をつけ加えるだけになりました。そうすれば私と、私の手記を読んで下さる見知らぬお友達とは、永久にお別れすることになります。私のほうでは大変おなごり惜しい気持がいたします。読んで下さるお友達のほうでも、いくらかはなごりを惜しんでいただけるのではないかと思うのです。
エイダは私のもとに託されましたので、それからなん週間もの間、毎日いっしょに暮しました。あんなにも望みをかけていた赤ちゃんは、父親のお墓にまだ芝も植えないうちに生まれました。男の子でしたので、私と私の夫とジャーンディスさんとで、お父さんの名前をつけてやりました。
エイダが期待をかけていた力添えを、たしかにその赤ちゃんは与えてくれました――もっとも神さまのおぼしめしから、別の目的を果したことになったわけで、父親ではなくて、母親に幸せと元気をもたらすのが、その赤ちゃんのつとめとなったわけですが、その力はまことに大きなものでした。私が赤ちゃんのかよわい手のもつ強い力をまのあたりに見たり、その手にふれるだけでエイダの心の痛みがいやされ、希望がみちあふれて来るのを見るにつけても、神さまのありがたいお恵みをいまさらのように感ずるのでありました。
母子ともにどんどん元気になりました。やがてエイダが私の田舎の家の庭に出られるようになり、赤ちゃんを腕に抱いて散歩できるようになりました。その時には私も結婚していて、幸せの絶頂にありました。
ちょうどその頃、ジャーンディスさんが私たちの家においでになって、エイダにいつ家に来てくれるかね、とおたずねになりました。
「荒涼館は両方ともあなたの家だけれども、旧荒涼館のほうが前から住んでもらっていたのだから、いわば優先権を持っているわけだね。あなたと赤ちゃんが旅行できるくらい元気になったら、ぜひ家へ来てくれたまえ」
エイダがジャーンディスさんを「ジョンおじさま」と呼びますと、いいや、これからは後見人と呼んでくれたまえ、これからあなたと、その子供の後見人になるつもりだからね、とおっしゃいました。そこでそれ以来いつもそう呼ぶことにしました。ですから子供たちもそれ以外の名前はないものと思っています――子供たち[#「たち」に傍点]と申しましたのは、私にも二人の娘がいるからです。
チャーリー(相変らずまんまるな目をして、文法はにがてです)が家の近くの粉ひき屋さんの若主人と結婚したなんて、とても信じられないくらいです。夏の朝早く、ちょうど今私がこの手記を書いている窓辺の机で目を上げたところ、その粉ひき屋の風車が廻り出しました。粉ひき屋さんがチャーリーをあんまりかわいがりすぎて、甘やかさなければいいがと思っているのです。とにかくチャーリーがかわいくてたまらないし、チャーリーのほうもこの縁組みでいささか得意気味――ご主人の粉ひき屋は裕福で、大いに繁昌しているからです。私の女中さんに関する限りでは、時間がこの七年間、さきほどまでの粉ひき屋の風車みたいに、止りっぱなしだったような気がするのです。なにしろチャーリーの妹のエマときたら、昔のチャーリーそっくりだからです。チャーリーの弟のトムは、学校でなんの算数を習っていたのか心配になるのですが、きっと小数計算ではないかしら。ともかくトムは粉ひき屋の徒弟になっているのですが、ひどくてれ[#「てれ」に傍点]屋で、いつもだれかが好きになってしまって、そのたびにてれ[#「てれ」に傍点]ている始末です。
キャディ・ジェリビーは、この前の休暇に私たちの家にやって来ました。前よりもいっそうやさしくなって、いつも子供たちを相手に家の中でも外でも踊っているので、生まれてから一生踊りの先生をやっていたみたいです。この頃では馬車を雇うのではなく、文字通り自家用を持っていて、ニューマン街よりもたっぷり二マイルは西の方に引越しました(1)。夫(とても申し分ないいい人です)が足を悪くして踊りができないので、彼女が一所懸命教師を勤めているのです。それでもすっかり満ち足りた様子で、せっせと仕事に励んでいます。彼女の父さんのジェリビー氏はいつも晩になると彼女の新しい家にやって来て、もとの家でよくやっていたように、壁に頭をもたせたまま坐っているのだそうです。お母さんのジェリビー夫人は、キャディがいやしい男と結婚して、いやしい職業についたので大いに憤慨したとのことですが、いつかはわかってくれることでしょう。ボリオブーラ・ガーの慈善事業にも失敗して、がっかりしていました。というのは、ボリオブーラの王さまが、悪い風土にも耐えて生き残った住民を一人残らず、ラム酒と引きかえに売り飛ばしたがったからです。でも夫人は今度は女権運動をひっさげて代議士に立候補することになりました。キャディの話では、前の事業よりもいっそう手紙のやりとりが多くなりそうだとのことです。キャディのかわいそうな女の子のことを、あやうく忘れかかっていました。今ではもうそう小さくないのですが、耳と口が不自由なのです。実際キャディくらい模範的ないい母親はありますまい。忙しい時間の合間をぬって、ろうあ者の読唇術を習い、子供の不自由を少しでも軽くしてやろうと努めているのですから。
キャディのこととなると、話がきりなしに永びきそうなのですが、ここでピーピィとターヴィドロップさんのことを思い出しました。ピーピィは税関吏になって、仕事に励んでいます。ターヴィドロップ老人は卒中を病んでおりますが、相変らず礼儀作法のお手本を示しています。昔ながらの立居振舞で自分も得意ですし、はたからも昔のままの取扱いを受けています。今でもピーピィが大のごひいきで、自分の化粧室にあるお気に入りの古いフランス製の時計を、遺産として与えるつもりだそうです――が、その時計は実は老人のものではないのです。
私たちに貯金が出来てまっさきにしたことは、私たちの家に建て増しをして、ジャーンディスさんのために小さな「怒りの間」を作ったことでした。ジャーンディスさんがその次にいらした時に、盛大な完工祝いをしました。私はできるだけうきうきと筆を運びたいと思っているのですが、だんだん終りに近づくにつれて、胸がいっぱいになって来るのです。それにジャーンディスさんのこととなると、涙がひとりでにあふれて来て仕方ないのです。
ジャーンディスさんの姿を見るたびに、あのかわいそうなリチャードが、本当にいい方だといっていた声が耳に聞こえて来るのです。エイダとそのかわいい息子にとっては、ジャーンディスさんは本当にやさしい父親です。私にとっては、昔と変らぬ同じもの――いったいなんと呼んだらよいのでしょうか? 私の夫の無二の親友で、私の子供たちのやさしいおじちゃんで、私たち一家のこの上もなく深い愛情と尊敬の|的《まと》です。でも、私にはあの方が私よりも遙かに立派な方と思える一方、とても親しみやすい、気やすい気持になるので、自分でも不思議に思っているくらいです。私のことを昔のように親しげな口調で呼んで下さいますし、私もそうです。私たちの家に来て下さる時は、私はいつもあの方のそばの、昔のままの椅子に坐ることにしているのです。トロットおばさん、ダードンおばさん、ちいさなおばさん!――みんな昔のままです。私がご返事する時も、はい、おじさま! と、昔のままなのです。
ジャーンディスさんが私を玄関へ連れてゆかれて、家の名前を教えて下さったあの日以来、一秒たりとも風向きが東になったことはありません。いつか私は、このごろはぜんぜん東風が吹きませんね、と申したことがありました。するとジャーンディスさんは、うん、吹かないよ、あの日以来東風は消えてしまったのだ、とおっしゃるのでした。
エイダは前よりいっそうきれいになったように思います。かつてその顔に見られた――今ではもう見られません――悲しみの影は、その無邪気な顔をいやが上にも清らかに、|神々《こうごう》しくしたように思えるのです。ときどき、私が目をあげて、まだ黒い喪服を身につけているエイダが、私のリチャードにお祈りを教えている様子を見ると、私は――なんといったらよいのでしょうか――彼女がお祈りをする時に、いつもエスタの名を忘れずに出してくれるのでとても嬉しい、そんなような気持がして来るのです。
私は私の[#「私の」に傍点]リチャード、と申しましたが、あの子はいつも僕にはママが二人いるんだ、といっています。そしてもう一人とは私のことなのです!
私たち一家は、銀行預金はそんなに豊かではありませんが、暮し向きに困ることはなく、みち足りた生活を送っています。私が夫といっしょに外を出歩くと、いつもひとびとから感謝の言葉が捧げられるのを聞きます。貧富を問わずだれの家へいっても、夫をほめたたえる声や、感謝のまなざしに出会うのです。私は毎晩床につくたびごとに、今日一日、夫はだれかの苦しみを和らげ、困っている同胞を慰めてあげたのだな、と考えるのです。手の施しようのなくなった病人がいまわの際に、長いこと親身にお世話いただきましてありがとうございました、と感謝の言葉を残して昇天していったことも数えきれぬくらいあります。これが豊かでみち足りた生活といわなくてなんでしょう?
この私まで「先生の奥さん」と尊敬して呼んでくれるのです。この私まで好いてくれて、いろいろだいじにしてくれますので、恥ずかしくなってしまうのです。これはすべて私の愛する立派な夫のおかげです! 私のするすべてのことは、皆これ夫のためなのですから、つまりは夫あればこそ、私も好かれているのです。
二日ばかり前の晩のことでした。明日やって来るはずのジャーンディスさんや、エイダや、リチャードのために、一日ばたばた仕度に追われたあとで、私がほかならぬあの玄関口、一生忘れることのできない玄関口のところに坐っておりますところへ、アランが帰って来ました。
「僕のかわいい奥さん、こんなところでなにをしているの?」
「お月さまがあんまりきれいで、あんまりすばらしい晩だから、ここに坐って考えごとをしていたのよ」
「なにを考えていたのさ?」
「まあ、聞きたがりやさん! 私、ちょっと恥ずかしいんですけど、いってしまうわ。昔の自分の顔のことを考えていたの――もとのころの顔のことを」
「昔の顔のことをなんて考えていたの?」
「あのね、昔通りの顔だったとしても、いま以上にあなたに愛してはいただけないでしょうって」
「もとのころの顔でもかい?」アランは笑いながらいいました。
「もちろん、もとのころの顔でもよ」
「なにをいっているのさ。君は鏡を見ないのかい?」アランはこういうと、私の腕をとりました。
「見てますわよ。ご存知のくせに」
「それで君は、前よりもずっときれいになったことに気がつかないのかい?」
私は気がついていませんでした。今でもその点についてはっきりとはわかりません。でも、このことだけは確かです。私の子供たちはとてもかわいい子ですし、エイダもとても美人ですし、私の夫だってとても立派な顔立ちですし、ジャーンディスさんもだれにも負けないくらい朗らかで慈愛にあふれた顔をしていらっしゃいます。ですから、私がたいしてきれいでないとしても、それでいいではありませんか――でも、ひょっとして――
[#地付き]終り
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訳註
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第五十章 エスタの物語
(1)第十七章の終りのところ。
(2)イギリスの詩人フィリップ・シドニーは一五八六年戦死したが、死の間際に与えてくれた水を、こう言って別の瀕死の兵士に譲ったという逸話がある。
第五十一章 謎が解ける
(1)新約聖書『ルカ伝』第十章第七節参照。
(2)幽霊は人間から声をかけられるまでは口がきけない、と一般に信じられている。例えば『ハムレット』第一幕第一場参照。
第五十二章 強情な人
(1)新約聖書『ガラテア書』第六章第七節参照。
(2)第四十九章注(1)参照。
(3)「マシュー」の略称「マット」を使っている。
第五十三章 捜査の道程
(1)魔法使いや妖精に付き従って、その意のままに仕事をするといわれる魔物。
(2)すなわち従僕。
(3)スペインやマデイラ島産のシェリー酒は、しばしば香りを豊かにするために樽詰めのままインド通いの船に積まれ、何度も往復することがあった。
(4)チェルシーの菓子パン製造所は一八三九年まであったが、単なる工場ではなく、一種の遊園地として人気が高かった。
第五十四章 地雷爆発
(1)旧約聖書『歴代志略』下、三十二章二十八節にある言葉。
(2)新約聖書『ヨハネ黙示録』第一章第十節ほか参照。
(3)「しゃべる」の意味のフランス語「パルレー」がなまったもの。
第五十五章 逃亡
(1)第二十六章の注(7)参照。
第五十六章 追跡
(1)ルネッサンス以来のヨーロッパ絵画(例えばドイツのアルブレヒト・デューラーなど)では、しばしば死神(骸骨)と乙女というモチーフが見られる。
(2)新約聖書『コリント前書』第四章第九節参照。
(3)フランス語で婦人の私室の意。
(4)当時ロンドン中心部にあった有名な社交場。
(5)イギリス近衛兵は貴族の名門中の名門でないとなれない。
第五十七章 エスタの物語
(1)街娼のことを遠まわしに言っている。ここはウォータールー橋であろう。小池滋『ロンドン』(中公新書)二一四―二一六ページ参照。
(2)二シリング六ペンス。
(3)第三十一章(第二巻)参照。
(4)第三十一章(第二巻)参照。
(5)トマス・モア作詩の歌曲。
(6)五シリング。
第五十八章 冬の日の昼と夜
(1)もちろん雪のこと。税金云々というのは、対ナポレオン戦争の時に政府が軍事費調達のために、流行のかつらの粉に税金をかけて不評をかったことをさす。
(2)第二章の注(3)参照。
(3)第十二章(第一巻)参照。
(4)これは遺言状の書き出しのきまり文句。
第五十九章 エスタの物語
(1)第四十九章の注(4)を参照。
(2)嫉妬を主題にした悲劇だから。
(3)自殺のこと。
第六十章 未来への希望
(1)新約聖書『マタイ伝』第七章第十六節参照。
第六十一章 思いがけない発見
(1)「シーザーの妻は他人の疑いなど及びもつかぬ人間でなければならない」と古くからいい伝えられている。プルタークの『シーザー伝』参照。
(2)だんだんに長く伸びてゆく童謡のこと。
第六十二章 もう一つの発見
(1)かつて当選した議員をかつぎ、椅子に乗せて町中ねり歩く習慣があった。
(2)建物の起工式の時に用いるもの。
第六十三章 鉄の国にて
(1)旧約聖書『創世記』第十一章第一―九節参照。天までとどく塔を建てようとしたため神の怒りにふれ、各人の言語が混乱して伝達不能となった。
(2)「鋼鉄」の意。
(3)ワルツがドイツからイギリスに初めて紹介されたのは一八一二年ころと言われるが、男と女とが抱き合って踊るのが、当時のイギリス人にはひどく下品で驚くべきことのように思えた。
第六十四章 エスタの物語
(1)青ひげの七人目の妻。好奇心のかたまりで、以前の妻について真相を見つけ出す。
(2)ロンドンのテムズ河南岸の貧民街。
(3)トマス・モアの詩「拝火教徒」の一節。
第六十五章 新たに出直す
(1)現在は国会議事堂となっている、ウェストミンスター宮殿内の大広間で、十九世紀初頭までここで裁判が開かれた。現在ではただの空部屋となっている。
(2)シェイクスピア『十二夜』第二幕第四場のせりふをふまえている。
第六十七章 エスタの物語――終り
(1)つまりロンドンの西地区、ウェスト・エンドにある高級住宅地へ引越したこと。暮し向きが楽になったのである。
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単行本初版への序文
これは、かつて私が総勢約百五十名の、精神異常の疑いなどさらにない男女の一人として出ていた席で、ある大法官府の判事が、私に教えて下さったことであるが、大法官裁判所は世間のいちじるしい偏見の|的《まと》になっているけれども(その時、判事の視線が私のほうへ向けられたように思われた)、ほぼ完全無欠であるといわれた。彼の話によると、なるほど、大法官裁判所は訴訟の進行速度において、ささいな汚点が一つ二つあったけれども、それが誇大にいわれていて、すべては「国民の|吝嗇《りんしよく》」によって生じたものであったという。なぜなら、その責めを負うべき国民は、最近まで大法官府の判事の定員を――これはたしかリチャード二世(1)が定めたのだと思うが、どの国王だったにせよ、同じことである――どうあっても増員すまいと、断乎決意を固めていたらしい。
これは私にとってあまりにも意味深長な冗談のように思われたので、この小説の本文中に入れることができなかった、さもなければ私はおしゃべりケンジかヴォールズ弁護士にこの冗談を返上したことだろう、というのは、それを考え出したのは二人のうちのどちらかに相違ないと私は思っているのである。この冗談がそういう人たちの口から出ていたなら、それを聞いて私はシェイクスピアの『ソネット』にある次のような適切な詩句を連想したかも知れない。
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わが性はその勤むる|業《わざ》に
打負けて染物師の手の如くなりぬ。
されば、われを|憫《あわれ》みて、わがために新生を祈りたまいてよ!(2)
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しかし、この点に関して、どのようなことが、これまでおこなわれて来たか、今なおおこなわれているかを、吝嗇な国民が心得ているのは有益なことであるから、ここに書いておくと、大法官裁判所について以下の本文中に述べてあることは、すべて実質的に真実であり、真実の領域を越えてはいない。本質的な点においてグリドリーの訴訟は、この恐るべき不当な事件の全貌を専門家として終始熟知していた、ある公平無私な人物によって発表された実際の訴訟を少しも変えていないのである。目下(原注1)、大法官裁判所では約二十年前に始められた訴訟が審理中であり、これにある時は三十人から四十人の弁護士が出廷したことが知られているし、訴訟費用はもう七万ポンドという金額に達しているが、これは友誼的訴訟[#「友誼的訴訟」に傍点](3)で、今なお始まった時と同じく、少しも終結に近づいていない(と私は確信している)。もう一つ、いまだに決定に至らない有名な大法官府の訴訟があり、これは前世紀の末に始められて、七万ポンドの二倍以上の金が訴訟費用に|蕩尽《とうじん》されている。もし私がジャーンディス対ジャーンディス事件[#「ジャーンディス対ジャーンディス事件」はゴシック体]にもっとほかの典拠を挙げたいと思ったならば、雨のように降り注いで――吝嗇な国民を――恥じ入らせることもできるのである。
その他の点については、ただ一つだけ触れておく。クルック氏が死んで以来、いわゆる「自然発火」の可能性が否定されて来て、私の親友ルイス氏(4)は(斯界のあらゆる権威者がもうこの現象を捨てて顧みないと彼が考えたのは、まもなく彼自身気づいた通り、まったくの誤解であったが)クルック氏の事件が書かれた折りに、私宛ての機智に富んだ数通の手紙を発表して、「自然発火」など、とうてい存在し得ないと論じた。私としては、自分の読者を故意または怠慢によって惑わすようなことはしないとか、あの箇所を書く前に自分は全力を尽くして調査をしたとか述べる必要はない。あの現象については、約三十の例が記録に残っており、そのうちもっとも有名なイタリーのコルネリア・デ・バンディ・チェゼナーテ伯爵夫人の例は、ヴェローナの司教座聖堂聖職録収入者で、学識の誉高いジュゼッペ・ビアンキーニによって詳細に調査、叙述され、その報告書を彼は一七三一年にヴェローナで刊行し、その後ローマで再刊した。この事例において見られる、合理的な疑いをいっさい容れる余地のない諸現象が、クルックの場合に見られる現象なのである。それに次いでもっとも有名な例は、今から六年前にフランスのランスにおいて起り、それを記録したのは、フランスの生んだもっとも高名な外科医の一人たるルキャである。記録されたのはある婦人で、ばかげたことながら、その夫は妻を殺害したかどで告訴されたが、上級裁判所に正式に控訴したところ、彼女がこの「自然発火」と名づけられている死を遂げたことが、証拠によって立証されたため、無罪をいい渡された。これらの著名な事実や、五三四ページ(5)に出て来る、諸典拠に関する概略の言及(原注2)、つまりフランス、イングランド、スコットランドの比較的新しい時代の名医たちが記録した意見と体験とを、これ以上書く必要はないと思うので、次のことを述べるに留めておこう。私は、人間についての出来事をふつう承認する際の根拠となる証言が、かなりの程度まで「自然発火」してしまわないかぎり、これらの事実を放棄するつもりはない、と。
『荒涼館』において、私は日常の事物のロマンチックな面を、ことさらに強調したのである。
一八五三年
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(1)イギリス国王。在位は一三七七―九九年。
(2)『ソネット』一一一。
(3)債権者間の分配を平等にするため、裁判所の承認を得て、遺言執行者または遺産管理人に対し、実質的には自分自身により、名目上は債権者の請求によって提起された訴訟。
(4)ジョージ・ヘンリ・ルイス。一八一七―七八年。イギリスの哲学者、文芸評論家。
(5)本訳書では第三巻第三十三章。
(原注1)一八五三年八月。
(原注2)もう一つ、ある歯科医によってきわめて明瞭に述べられている例が、ごく最近アメリカ合衆国コロンバス町で起った。死んだのはドイツ人で、酒屋を経営し、ひどい酒飲みであった。
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解説4 ディケンズ文学の魅力
[#地付き]青木雄造
『ピクウィック・クラブ』におけるミセス・バーデル対ピクウィック氏の裁判以来絶えず社会的正義の実現を求めて来たディケンズの社会批判は『ドムビー父子』、『荒涼館』、『ドリットちゃん』、『われらの互いの友』、『苦の世』(一八五四年)、『大いなる遺産』(一八六〇―六一年)においてもっともみごとな表現が与えられている。これらの作品を論じた中で、バーナード・ショーは「『ドリットちゃん』は『資本論』以上に暴動をあおる本だ」といった。たしかにディケンズの後期の作品は暗い色をおびていて、議会政治に対する不信、ブルジョアに対する弾劾、上流階級に対する非難には激しいものがあるけれども、それらは多く喜劇的に扱われていて、人間の錯誤を|赦《ゆる》しているかのようである。この笑いは破壊的であると同時に和解の可能性を与える。ディケンズは急進家でなく保守家であった。彼のいう「貧しい人々」とは組合を持った工場労働者ではない。小売商店主や召使たちであり、彼はいつも「負け犬」の味方であった、と『一九八四年』の作者オーウェルはいっている。
結局、ディケンズは、ドムビー氏や『苦の世』のグラドグラインド氏の功利主義、唯物主義を矯正するものとして、愛とか優しさとかいう素朴な感情の原理を提出して、彼らの回心を求めたにほかならなかった。しかし、彼はこのいとちいさきものを、想像力によっておどろくばかり豊かな形に変えたので、当時の歴史的、社会的状況のもとにおいては、時代の反対勢力となるに充分な影響力を持つことができた。
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彼の作品の社会的価値は心理的なものであるように思われる。それは、大ざっぱに知られ、述べられていた人間的不平等に関して、作者が体験し、喚起する感情のうちに存している。一八三〇年から一八五〇年までの間に提示されたような産業社会の特殊な問題に対しては、彼の小説は直接の応答をもたらすものではない。それにもかかわらず、彼の及ぼした影響は現実的であったが、それは人の魂に働きかけるものであったのである。それは民族の気質に由来する深遠なる反動の結果であると同時に、また原因でもあり、功利主義的な|潤《うるお》いのなさに対するキリスト教的感情論の反抗を強調したものである。この点で、彼の及ぼした影響は、英国精神に極めて強く、また由来する所の古い傾向の中のあるものに訴える力を持っていた。(ルイ・カザミアン、石田・臼井氏訳『イギリスの社会小説』)
[#ここで字下げ終わり]
ディケンズのこの感情主義はしばしば感傷主義に堕して、後世の悪評の主要な原因になっているが、それがもっとも純粋なメルヘンになっているのは『クリスマス・キャロル』で、クリスマスは彼の感情主義のシンボルといえよう。それは平生、日々の生活の営みに追われて離れ離れになっていた人たちが再会して親しみ合う、静かな愛の季節であるばかりでなく、活気と笑いにあふれる豊かな祭典の時でもある。
活気と笑いと豊かさはディケンズの創造した世界の大きな特徴である。それはまず文体に現れる。文語的表現を主体にして、それに多彩なイデオムや口語的表現、印象深いさまざまなイメージを縦横に駆使して、書き継ぎ書き足しながら、たたみかけるように叙述をくり広げてゆく文章は、現代から見れば冗漫で無駄が多いと非難されるが、ご馳走が山とつまれたクリスマスの食卓や、ロンドンの雑沓、古い町並みをうちこわして、たちまち新開地をつくりあげてゆく鉄道工事などを、あざやかに描き出しているし、彼が得意とするエクセントリックな人物の描写の武器である。
ディケンズを読んだ人は『ピクウィック・クラブ』のサム・ウェラー、『オリヴァ・トゥイスト』のフェイギン、『骨董屋』の悪魔的なクウィルプ、『マーティン・チャズルウィット』のペックスニフとミセス・ギャムプ、『コパフィールド』のミコーバー氏らの人間群像の強烈な印象を記憶しているだろう。これらの人物はみな忠実な写実ではなく、デフォルメされた「戯画」であることはすでに述べたとおりであるが、写実以上の、現実の人間以上の精彩を帯びている。また彼らはそれぞれ特定の人間タイプとして、偽善者とか楽天家といった主要な一特徴のみをもっぱら強調して、外面から描かれている。それゆえ、彼らは初めから終りまで人間として変化することがない。『大いなる遺産』の主人公のように反省によって変化し、精神的な成長をとげる人物はまれである。外面的観察よりも内面的把握によって、複雑な心を持った人間を描く近代リアリズム以来の方法はまだディケンズの方法ではなかった。しかし、彼の描いた人物に「人間的な深遠さについての驚歎すべき感じ」(E・M・フォースター)があることが認められている。前期のディケンズにおいては、作品の名目上の主人公はあまり生彩がなく、かえって脇役的な人物のほうがすぐれた出来ばえを見せている場合が多い。いわば不必要な人物が作品の豊かさを作り上げているような形であった。
しかし、後期になると彼は小説の構成に深い関心を示すようになり、作品の主題と作中人物とプロットを密接に関係づけることに努め、独特の象徴的、寓意的手法を使って、主題を強調し雰囲気を盛り上げ、重厚な作品をつくることに成功した。しかし、主題と作中人物とプロットの密接な関係づけといっても、彼は主題に即して人物の性格を設定し、人物同士の|葛藤《かつとう》がシチュエーションを生み、それがプロットを発展させるという近代小説のドラマチックな構成法をとったわけではない。彼の小説は最後まで、題材とその扱い方におけるセンセーショナリズム、ストーリーの重視、偶然の暗合に頼るプロット、めでたしめでたしの結末を捨て切れなかったし、一つの作品の中で喜劇、悲劇、メロドラマ、ファースなどを併用した。
それゆえ、彼の晩年以後、リアリズムと小説の芸術的自律性とが確立されるにつれて、彼に対する批判が多くなり、今挙げたいくつかの点の他に、彼の通俗性、誇張、作中人物の内面的またリアリスティックな探求の不足、センチメンタリズムとオプティミズムの過剰、性の問題の欠如、社会批判の幼稚などが指摘された。彼に対して批判的な人々としてはG・H・ルイス、アントニー・トロロプ、ヘンリー・ジェイムズ、オールダス・ハックスレーなどがいる。これに対してディケンズを擁護しているのはラスキン、ジョージ・ギッシング、G・K・チェスタートン、バーナード・ショー、ジョージ・オーウェル、エドマンド・ウィルソン、現代イギリスの作家ではV・S・プリチェット、アンガス・ウィルソンなどである。ことに第二次大戦以来のディケンズ再評価の契機を作ったのは、一九三九年に発表されたエドマンド・ウィルソンとオーウェルの長文のディケンズ論であり、今日におけるディケンズ批評の二つの方向を示している。すなわちウィルソンはディケンズの生活と作品における暗黒な面をあざやかに|剔抉《てつけつ》し、そこから、彼の後期の作品におけるシンボリズムと社会批判を高く評価し、「ドストイェフスキーの師」であったディケンズの偉大さを強調した。他方、オーウェルはディケンズの社会批判における矛盾と複雑さを認めながらも、彼の小説と社会的視点を分析してそのヒューマニティに大きな意義を与えた。この二人によってディケンズに対する新しい見方が開かれ、従来ディケンズといえば『ピクウィック・クラブ』から『コパフィールド』までの作によって代表され、それ以後の作はあまり顧みられなかったのが、急激に後期の作品が注目を浴びるようになった。十九世紀リアリズムの崩壊後の小説におけるシンボリズムの傾向を考えるならば、社会批判と分ちがたく結びついた後期のディケンズの手法に現代の人々が魅力を感ずるのは当然であろう。それ以後、ディケンズのドストイェフスキー、フランツ・カフカへの影響や、ジェイムズ・ジョイス、D・H・ロレンス、マルセル・プルースト、ウィリアム・フォークナーらとの関係が改めて考察されている。もちろん、ディケンズは完璧な作品を書く作家ではないし、彼には欠点や限界、今日においては読むに値いしない部分がある。しかし、ある批評家がいったようにディケンズの作品のように|尨大《ぼうだい》で永続的な作品群に対しては、いつになっても世の人々の好みや発見がつきるということはあるまい、各世代はそれぞれ自分の好みに合った作品をみつけて、その中から思いがけぬ新しいものを発見することだろう。
[#地付き](一九六九年七月)
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C.ディケンズ(Charles Dickens)
(一八一二――一八七〇)イギリスの小説家。女王から貧しい庶民の子供までが愛読したヴィクトリア期最大の国民的文豪。下級官吏の長男として生まれ、貧苦の末に小学校程度の教育を身につけた後は、法律事務所の使い走りを振り出しに、速記者、新聞記者と、わずかな余暇を図書館での勉強と芝居見物に費やすほかは、全て独力で生活の資を稼ぎながら創作生活に入り、一躍人気作家となる。著作活動のほかに慈善事業、雑誌編集、素人芝居、自作公開朗読会等、多方面で活躍。『ピクウィック・クラブ』『オリヴァー・トゥイスト』『骨董屋』『マーティン・チャズルウィット』『クリスマス・キャロル』『デイヴィッド・コパフィールド』『リトル・ドリット』『二都物語』『大いなる遺産』『我らが共通の友』など数多くの名作を残した。
青木雄造(あおき・ゆうぞう)
一九一七年、東京に生まれる。東京大学英文学科卒。元東京大学教授、後に名誉教授。日本英文学会会長をつとめた。一九八二年歿。訳書にギッシング『ライクロフトの手記』『くもの巣の家』、ワイルド『幸福な王子』、コンラッド『秘密の同居人、文明の前哨地点』、ロレンス『死んだ男』、グリーン『密使』、カー『九つの答』など多数。
小池滋(こいけ・しげる)
一九三一年、東京に生まれる。東京大学大学院人文科学研究科博士課程修了。東京都立大学教授、東京女子大学教授を歴任。著書に『ロンドン』『ディケンズとともに』『英国鉄道物語』『もうひとつのイギリス史』など多数。
本作品は一九七五年一月、筑摩書房より「筑摩世界文学大系34」として刊行され、一九八九年五月、ちくま文庫に収録された。