荒涼館 3
C.ディケンズ/青木雄造・小池 滋訳
目 次
第三十三章 侵入者
第三十四章 絞り上げ
第三十五章 エスタの物語
第三十六章 チェスニー・ウォールド
第三十七章 ジャーンディス対ジャーンディス訴訟事件
第三十八章 苦闘
第三十九章 弁護士と依頼人
第四十章 国の問題とお|家《いえ》の問題
第四十一章 タルキングホーン氏の部屋にて
第四十二章 タルキングホーン氏の事務室にて
第四十三章 エスタの物語
第四十四章 手紙と返事
第四十五章 約束
第四十六章 その子をつかまえて!
第四十七章 ジョーの遺言
第四十八章 迫り来るもの
第四十九章 職務と友情
訳註
解説3 ディケンズの後期作品について
[#改ページ]
荒涼館 3
BLEAK HOUSE
第三十三章 侵入者
さあ、そこで、前に「日輪亭」でおこなわれた検死官の審問に出席した、シャツの袖口の辺が薄汚い例の二人の紳士が、またもや、この附近におどろくばかりの早さで姿をあらわし(実は、敏活聡明な教区の役人につれられて、息せき切ってやって来たのだが)、クック小路じゅうを綿密に調べ始め、「日輪亭」の特別室へ飛びこみ、字に飢え切っているちいさなペンで|薄葉紙《うすようし》に記事を書く。そこで、二人はまだ夜の内に、昨日の真夜中ごろ大法官府横町の|界隈《かいわい》は次のような驚愕すべき出来事を知って、この上もない熱狂興奮におちいった、と書き付ける。そこで、読者諸氏はきっと憶えておられるだろうが、少し以前に、クルックという名前の、大酒癖のある偏屈者の老人が営んでいるくず屋兼古船具店の二階で起った、阿片による変死事件が、世間を|聳動《しようどう》させたことがあり、その時の死因審問は、問題のくず屋のすぐ西隣りにある、信望家ジェイムズ・ジョージ・ボグズビー氏の営業に係る「日輪亭」という経営のよい居酒屋でおこなわれたことを、ご記憶のかたがたもあろうと思うが、偶然の符合ながら注目すべきことに、その時クルックは変死人の死因に関する審問を受けたのである、と述べる。そこで、二人は次のような説明に移る(できるかぎり多くの言葉を費して)、すなわち、この記事の題材である惨事の起った小路の住民たちは、昨夜、数時間にわたって、きわめて異様なにおいがすることに気づき、一時はその臭気が余りにも強烈なため、J・G・ボグズビー氏に専門家として雇われている道化歌手のスウィルズ氏が本紙記者に語ったところによれば、スウィルズ氏はM・メルヴィルソン嬢に向って――同嬢は同氏と同じくJ・G・ボグズビー氏に雇われて、ジョージ二世(1)法令によりボグズビー氏の監督下に「日輪亭」で催されているらしい、「音楽の集い」または「音楽会」と称する連続コンサートで歌っており、自分の音楽の才能をかなり自負している女性である――空気が不潔なために自分(スウィルズ氏)は声をすっかり駄目にしてしまった由で、その時使った同氏のおどけた言葉は次の通りである。「おれはからっぽの郵便局みたいだよ、だっておれには|手紙《ノート》(2)一つないものな」スウィルズ氏のこの話を同じ小路に住むミセス・パイパーおよびミセス・パーキンズという二人のインテリ既婚女性が完全に確証して、両夫人は双方ともその鼻をつく異臭をかぎ、これは非業の死を遂げたクルックの居住している家から出たものと思ったと話した、という説もある。この陰惨な悲劇のために友好関係を結んだ二人の紳士は、こういったことばかりでなく、さらに多くの事柄を即座に書き記すが、この小路の男の子たちは(たちまちのうちに寝床を抜け出して)「日輪亭」の特別室のよろい戸に、群をなしてよじのぼり、仕事中の二人の紳士の頭のてっぺんを眺めようとする。
男の子のみか大人まで、その晩は小路じゅうが一睡もせず、多くの人たちはただもう頭を包んで、その不吉な家の話をしては眺めてばかりいる。フライトばあさんは、まるで彼女の部屋が燃え上ったみたいに、はなばなしく助け出されて、「日輪亭」のベッドに寝かされた。「日輪亭」は一晩じゅうガス灯もつけっ放し、入口も開けっ放しになっている、というのは、なにごとによらず世間に騒ぎが起ると、店は繁昌するし小路の人々は慰安を求めるからである。この前の検死官審問以来、「日輪亭」でこれほど|肉桂《につけい》入りのリキュールやホット・ブランデーがさばけたことはない。深夜の事件を聞くやいなや、店の給仕はシャツの両袖を肩の辺までしっかり巻き上げて、「さあ、お店は大入りだぞ!」といったものである。最初のわめき声があがると、ミセス・パイパーの男の子は消防ポンプ車のところへ駆け出してゆき、この|不死鳥《フエニツクス》(3)の上に高々と腰かけ、消防夫たちのヘルメットと|松明《たいまつ》にかこまれて、その神話の霊鳥に必死の思いでしがみつき、激しくゆられながら得意満面になって、飛ぶような速力で帰って来る。一人の消防夫が問題の家をすみずみまでくわしく調べ終ると、あとに残って、同じようにそこの管理を任された二人の警官のうちの一人とつれ立って、ゆっくりと歩調正しく家の前をゆきつ戻りつしている。六ペンスの持ち合せがある、小路じゅうの人たちはみな、この三人に一杯買って手厚くもてなしてやりたくてたまらない。
ウィーヴル君とその連れのガッピー君は「日輪亭」のバーにいるが、「日輪亭」にとっては、二人が店にいてくれるなら、バーの品物をなんでも振舞ってやるだけの値打ちのある人物である。「今夜はお金のことを、とやかくいってる場合じゃありませんよ」と主人のボグズビー氏がいうが、そういってからカウンター越しにやや油断のない目で相手を見ながら、「こちらのお二人さん、ご注文下さい、お望みの品をなんなりと召し上って下さってけっこうですから」
こうして懇切に頼まれると、こちらのお二人さん(特にウィーヴル君)は時がたつうちに、ずいぶんいろいろな品をお望みになるので、とうとう、もうなに一つ余りはっきりとお望みになれなくなってしまうが、それでもあい変らず、新来の客全部に向って、二人のその夜の体験や、しゃべったこと、考えたこと、見たことについての意見をいくぶんか物語っている。そのあいだにも、警官のどちらか一方は、たびたびドアの附近を身軽に巡回していて、腕をいっぱいに伸ばしてドアを少し押し開け、外の暗闇の中からバーの中をのぞきこむ。といっても、別に嫌疑をかけているわけでなく、二人がバーの中でなにをしているのか心得ておくほうがよかろうというのである。
こうして、夜は鉛のように重い歩みをつづけてゆくが、なおも小路の人たちは常にない時刻まで寝つかず、なおもおごったりおごられたりして、なおも、思いがけず少々の金を遺産に贈られた小路の人たちと同じような振舞いをしている。こうして、とうとう夜はのろい足どりで退却し、巡回に来た街灯夫が、暴君の首をはねる刑吏のように、暗闇を減らそうと願っていたガス灯のちいさな頭を切り落す。こうして、いやおうなしに昼がやって来る。
すると昼は、あのロンドン特有のかすんだ目で見てさえ、この小路が夜どおし起きていたことに気づく。あちこちのテーブルの上にねむたげに伏せた人々の顔や、ベッドでなくて固い|床《ゆか》の上に、かかとを上に向けたまま倒れている脚ばかりでなく、小路自体の、|煉瓦《れんが》とモルタルでできた容貌まで疲れきったように見える。もう近所界隈が目を覚まし、昨夜起った事件のうわさを耳にし始めて、ろくに身支度もしないまま続々とせんさくにやって来るので、例の二人の警官とヘルメット帽の消防夫とは(見たところ、彼らは小路の人たちよりもずっと感じやすくないらしい)くず屋の入口の監視にいそがしい。
「まあ、おどろきましたねえ、みなさん!」とスナグズビー氏が近づいて来ていう。「ちょっとうわさを聞きましたが、あれは一体どういうことですか?」
「なに、ほんとの話さ」と警官の一人が答える。「うわさどおりのことが起ったんだ。さあ、ここに立ち止っちゃいかん、ほら!」
「いや、おどろきましたねえ、みなさん」スナグズビー氏は少々手早く押し戻されたので、こういう。「わたくしは昨夜、十時から十一時のあいだにこの家の入口にいて、ここに下宿している若い人と話をしていたのですよ」
「そうかね? そんなら、隣りへいけば、その若い人がいるだろう。さあ、ここに立ち止っちゃいかん、あんたたち」
「けがはしなかったのでしょうね?」とスナグズビー氏が尋ねる。
「けが? しなかったさ。あの男がなんでけがをするというんだ?」
スナグズビー氏は不安になって、この質問にも、いや、どんな質問にも全然答えることができないので、「日輪亭」へ出向いてゆくと、ウィーヴル君が元気のない様子で紅茶とトーストを食べているが、その顔には興奮が尽きはて、煙草の煙が尽きはてたような表情がありありと浮んでいる。
「それからガッピーさんまで!」とスナグズビー氏がいう。「まあ、まあ、まあ! まったく、これはふしぎな運命のめぐり合せのようでございますな! ところで、うちのち――」
「うちのちび」といいかけているスナグズビー氏の体から、ものをいう力が抜けてしまう。というのは、感情を害された当のその女性が、朝のその時刻に「日輪亭」へはいって来て、ビール吸い揚げ器の前に立ったまま、さながら罪を責める幽霊のように、彼を見すえている姿を目にすると、スナグズビー氏は茫然として口がきけなくなる。
「ねえ、おまえ」スナグズビー氏はこわばっていた舌が解けると、「なにかもらわないかね? 少し――ありていにいえば――シラブ(4)を一杯どうかね?」
「いいえ」と細君がいう。
「ねえ、おまえはこのお二人を存じ上げているね?」
「ええ!」と細君はいって、固苦しい態度で二人の存在を認めるが、その目はあい変らずスナグズビー氏を見すえている。
細君を熱愛しているスナグズビー氏はこのあしらいぶりに耐えられない。彼は細君の手をとって、近くのビール樽のところへ連れてゆく。
「ねえ、うちのちびや、なぜおまえはそんな目つきでわたしを見るのだい? お願いだから、やめておくれ」
「こういう目つきで見ずにはいられないんですよ、それに、たといやめることができたとしたって、やめるつもりはありませんね」
スナグズビー氏は柔和な咳をしながら、「ほんとうにそうなのかい?」といい返してから、じっと考えこむ。それから不安の咳をして、「これはおそろしい|謎《なぞ》だよ、ねえ」というが、彼の心は細君の視線のために依然として動転している。
「たしかにおそろしい謎ですよ」と細君はかぶりを振りながら答える。
「ねえ、うちのちびや」とスナグズビー氏はいじらしいばかりに説きつける。「後生だから、わたしにそんなつれない言いかたをしたり、そんな探るような目つきをして見ないでおくれ! そんなことをしないように心から頼むよ。ああ、まさかおまえは、わたしが人さまを自然発火させて殺し回っているなんて、思ってはいないだろうね、ねえ?」
「わたしにゃ、なんともいえませんね」と細君が答える。
スナグズビー氏が自分の不運な立場を、もう一度いそいで吟味し直してみると、彼自身でも「なんともいえない」。彼は、自分がそれになにか関係していたかも知れないということを、絶対的に否定するつもりはない。この点についていえば、前から謎めいたことにいろいろと関係して来たから――どんな関係か分らぬが――今度の事件に、自分では意識しないで、巻きこまれてさえいたのかも知れない。彼はひたいをハンケチで力なくぬぐい、あえぎあえぎ息をする。
「わたしの大事なおまえ」と不運な文具商はいう。「ねえ、おまえはふだん、たいそう周囲に気を配って慎重に振舞っているのに、なぜ今日は朝飯前に酒場へなんか来たのか、そのわけを話してもらえないかい?」
「あなた[#「あなた」に傍点]はなぜここへ来たんです?」と細君が質問する。
「それはねえ、あの――燃えてしまった老人の身の上に起った変死事件の真相を知るためだよ、ただそれだけのことさ」スナグズビー氏はうめき声を立てまいとして、話をしばらく中止する。「そうすれば、おまえの手作りのフレンチ・ロールで朝飯を食べながら、おまえに真相を話してあげられると思ったからだよ」
「たぶん、話してもらえたことでしょうよ! あなたはなんでもわたしに話してくれますからね」
「なんでも――ねえ、うちのち――?」
「お願いしたいんですけど、あなた」と細君は悪意のこもった、きびしい薄笑いを浮べてから、スナグズビー氏のろうばいが激しくなったのを、じっと見つめながら、「わたしといっしょにうちへ帰ってくれないかしら、あなたはうちにいるのが一番安全だと思うわ」
「なるほど、そうかも知れないねえ。よろこんでいくよ」
スナグズビー氏はさびしげにバーを眺め渡し、ウィーヴル、ガッピー両君に別れのあいさつをして、お二人ともおけががなくてなによりでしたと述べ、細君に同行して「日輪亭」を去る。
近所界隈一帯の評判になっている惨事に、自分がなにか思いがけない役割を演じたのかどうかというスナグズビー氏の疑惑は、細君がそういう凝視をしつこくつづけるので、夜にならないうちにほとんど確信に変ってしまう。彼の|煩悶《はんもん》はひじょうなもので、そのため、ひとつ自首して出て、もし潔白なら身のあかしを立ててもらい、もし有罪なら法律によってもっともきびしい処罰を加えてもらおうなどと、あれこれとりとめもないことを考える。
ウィーヴル君とガッピー君は朝飯をすませると、リンカン法曹学院の構内へはいり、庭園をしばらく散歩して、その短い散歩のあいだにできるかぎり暗い気分を一新しようとする。
「きっと今が絶好の機会だろうから、トニー」二人ともむっつり考えこんだまま庭園を一周すると、ガッピー君がこういう。「僕たちが早急に取決めておくべき事項について、内々にちょっと話をしようじゃないか」
「おい、いっておくぞ、ウィリアム・G!」と相手は充血した目で友だちをじろじろ見ながら答える。「なにかのたくらみについての取決めなら、わざわざいうに及ばないよ。たくらみごとはもう充分やったから、おれはこれ以上やる気はない。今度は君[#「君」に傍点]が発火するか、それともドンと爆発する番だぞ」
この仮定の事件はガッピー君にとってひどく気持が悪いので、説教口調で次のようにいう彼の声が震える。「トニー、僕たちの昨日の晩の経験で、君は、もう一生涯他人の一身上のことに立入るべきでない、と悟りそうなものなのに」それにウィーヴル君は答える。「ウィリアム、君[#「君」に傍点]こそ、もう一生涯たくらみごとをすべきでない、と悟りそうなものなのに」それにガッピー君はいう。「だれがたくらみごとをしているんだ?」それにジョブリング君は応ずる。「もちろん、君[#「君」に傍点]だよ!」それにガッピー君は逆襲する。「いや、僕はしていない」それにジョブリング君はまた逆襲する。「いいや、君はしている!」それにガッピー君は逆襲する。「だれがそういうんだ?」それにジョブリング君は逆襲する。「おれ[#「おれ」に傍点]がそういってるんだ!」それにガッピー君は逆襲する。「ああ、そうなのか?」それにジョブリング君は逆襲する。「うん、そうとも!」もう二人ともかっかと熱していて、しばらく物もいわずに歩きつづけるので、ふたたび熱がさめて来る。
「トニー!」と、そこでガッピー君がいう。「友だちに食ってかかったりしないで、話をしまいまで聞けば、誤解なんかしないのに。しかし、君は気が短くて、それに思いやりがない。トニー、君は人の目を魅惑するような長所をすべて身に備えていながら――」
「ああ! 人の目なんか、くそくらえだ!」とウィーヴル君はどなって、相手にあとをいわせない。「君の言い分をいえよ!」
友だちがこういう不機嫌で粗野な気分になっているのを知ると、ガッピー君はむっとした語気にだけ自分の洗練された感情を示しながら、またいい始める。
「トニー、僕たちが早く取決めておくべき事項がある、と僕がいう時には、どんな無邪気なたくらみだろうが、なかろうが、たくらみなんかとまったく関係のないことをいっているんだよ。君の知っているとおり、どんな事件を審理する場合でも、証人たちがどういう事実を立証すべきか、あらかじめその手はずを専門的に整えておくものだ。あの年とった不幸な大――紳士(ガッピー君は大法官といいかけたが、今度の場合には紳士のほうが適当だと考える)の死因を調べる際に、僕たちがどういう事実を立証すべきかを知っているのが望ましいだろうか、望ましくないだろうか?」
「どういう事実だって? ありのままの[#「ありのままの」に傍点]事実だよ」
「その調べに関係のある、ありのままの事実だ。それは」――ガッピー君はそういう事実を指で数え上げる――「あの紳士の習慣について僕たちの知っていたこと、君が最後にあの人に会った時刻、あの人のその時の状態、僕たちによる事件の発見、その発見の仕方だ」
「そうだ。大体それがありのままの事実だ」
「僕たちが事件を発見したのは、あの人が、いかにも変り者らしく、夜の十二時に君と会う約束をしたからで、その時刻に君はあの人に、前にもたびたびしたとおり、ある文書を説明してやることになっていたが、それはあの人が字を読むことができないからだった。僕はその晩に君のところへ来ていたので、呼ばれて階下へおりていった――それから、それ以後のことだ。この調査は故人の死に関係している事情を調べるだけだから、こういう事実以上の範囲にわたる必要はない、たぶん、君も同じ意見だろう?」
「そうだ!」とウィーヴル君が答える。「その必要はないと思う」
「それで、おそらく、これはたくらみごとじゃないね?」と気を悪くしているガッピー君がいう。
「うん、ただこれだけのことなら、僕のさっきの発言は撤回するよ」
「ところで、トニー」ガッピー君はふたたびウィーヴル君の腕をとり、彼を引っ張って散歩をつづけさせながら、「これは友だちとして知りたいんだがね、君がこれから先も引きつづいて、あの家に住んでいてくれると、いろいろ好都合なんだけど、もうそのことを、よく考えてくれたかね?」
「そりゃどういう意味だい?」トニーは立ち止っていう。
「君がこれから先も引きつづいて、あの家に住んでいてくれると、いろいろ好都合なんだけど、もうそのことをよく考えてくれたかね?」とくり返し、ガッピー君はまた彼を引っ張って歩かせる。
「どこの家にだ? あの[#「あの」に傍点]家にか?」と相手はくず屋の家の方角を指さす。
ガッピー君がうなずく。
「おい、君がどんな報酬をくれたって、おれはあの家でなんか、もう一晩だって泊るのはいやだ」ウィーヴル君は気が狂ったような目つきで凝視する。
「でも、それは本気でいっているのかい、トニー?」
「本気でいってる? おれは本気でいってるように見えるか? 本気でいってるような気持がするぞ、おれにはそれが分るんだ」といいながら、ウィーヴル君はまぎれもない本物の身震いをしている。
「すると、世界じゅうに親類一人いないように見えた孤独な老人が、最近まで持っていたあの財産を君が占有しても、たぶんいや、十中八九まで――きっと、そうにちがいないよ――邪魔されず、また、その老人が、実際のところ、あそこになにを|溜《た》めこんでいたかを、かならず知ることができるのに、君は|昨夜《ゆうべ》の事件のためそういうことなんかどうでも構わないんだね、トニー、僕が君を理解したかぎりでは?」ガッピー君はいまいましさのあまり親指をかみながら、こういう。
「構わないとも。そんなに平気な顔をして、あそこに人が住む話なんかするのか?」とウィーヴル君は憤慨して大声をあげる。「自分こそあそこへいって住んでみろよ」
「ああ! 僕がか、トニー!」ガッピー君は相手をなだめながらいう。「僕はあそこに住んだことがないから、住もうと思っても、今ではもう部屋を貸してもらえないだろう。ところが君はあそこに部屋を借りているもの」
「あれは君が自由に使っていいよ」と相手が答える。「そして――ああ、胸くそが悪い――あそこでくつろぐがいいさ」
「それじゃ、じっさいほんとに、君はこの際いっさい手を引くというんだね、僕の理解したかぎりでは、トニー?」
「君の一生のうちで、今いった言葉ほど当った言葉はないね。おれはいっさい手を引くんだ!」とトニーは、だれでも納得せずにはいられぬような、確固とした態度で答える。
二人がそんな話をしているあいだに、一台の貸馬車が庭園の中へ突進して来るが、その御者台に、たいそう|丈《たけ》の高いシルクハットが一つ、人目にはっきりと見える。車の中には、従って、あたりの人々にはあまりよく見えないけれども(馬車がガッピー君たち二人のすぐ足もと近くに止るので、二人にはよく見えるが)、スモールウィード老夫婦が孫娘のジューディを付添いにして乗っている。
馬車の一行は興奮したあわただしげな様子をみなぎらせ、シルクハット(その下に孫のスモールウィード君がいるのである)が車から降りると、スモールウィード老人が窓から頭を突き出し、ガッピー君に向って「元気ですかね! 元気ですかね!」とわめき立てる。
「チックの一家が朝っぱらから、こんなところになんの用事があるんだろう!」といって、ガッピー君はこの親友に軽くうなずきながら、あいさつする。
「旦那」とスモールウィード老人が叫ぶ、「お願いできませんかね? バートと妹がばあさんを、あの小路の居酒屋へつれていくあいだに、すいませんが、旦那とお友だちとでわたしも担いでいっちゃ、いただけませんかね? 年寄りにそれだけの親切をしちゃ、いただけませんかね?」
ガッピー君は「あの小路の居酒屋?」と、いぶかしげにくり返しながら、お友だちのほうを見る。それから、二人はこの古ぼけた荷物を「日輪亭」まで運ぶ支度をする。
「そら、車賃だ!」と老家長は御者に向って、にやりとものすごい笑みを浮べ、|萎《な》えた握りこぶしを振りながら、「これ以上一文でも請求しようもんなら、お上の掟に従って仕返しをしてやるぞ。お若い旦那がた、どうぞ、わたしのことを気にかけたりせんで下さい。旦那がたの首につかまらせてもらいますぜ、必要以上にきつく締めたりしませんや。ああ、神さま! ああ、大変! ああ、骨が!」
ウィーヴル君は道の半分もゆかないうちに、もう卒中を起したらしい様子を見せる始末なので、「日輪亭」が遠方でなくて幸いである。しかし、呼吸が困難なことを示す、があがあという数種類の声を出すだけで、それ以上に症状を悪化させることもなく、片棒の責任をはたし、情深い老人は自分の望みどおり「日輪亭」の特別室におろされる。
「ああ、神様!」とスモールウィード老人は息を切らせながら、ひじかけ椅子の上からあたりを見回して、あえぎ声でいう。「ああ、大変! ああ、骨と背中が! ああ、痛い、うずく! すわれ、このおうむ。踊ったり、はねたり、よろけたり、はい上ったりしやがって! すわれ!」
なぜ老人が急に途中から細君に向って、こういう短い呼びかけの言葉を浴びせるかというと、このふしあわせな老婦人は、立っている時にはいつも、ぶらぶら歩き回って、魔女の踊りでするように、無生物をパートナーにして向い合い、べちゃくちゃ早口の文句を添える癖があるからである。おそらく、こういう感情表示は、この老婆のあらゆるおろかしい目的と同じく、神経疾患によるものであろうが、この時は、スモールウィード老人が腰かけているウィンザー型のひじかけ椅子に対して、特別熱烈に発揮されるので、孫たちに抑えつけられて腰をおろしたあげくに、ようやく老婦人は静かになるが、亭主のほうはそのあいだも、「強情っぱりの、豚頭のからすめ」という愛称を、細君に向って何度も何度もひどく能弁に、くり返し浴びせかける。
「旦那」それがすむとスモールウィード老人はガッピー君に向って話をつづける。「ここで災難が起りましてね。お二人とも、もう聞きましたかね?」
「もう聞きましたかですって! いや、僕たちが見つけたのですよ」
「あなたがたが見つけた! あなたがたお二人が見つけた! バート、この人たち[#「この人たち」に傍点]が見つけたんだとよ!」
二人の発見者がスモールウィード家の祖父と孫とを、じっと見つめると、彼らも同じように二人をじっと見つめる。
「旦那がた」とスモールウィード老人は両手をさし伸べ、あわれっぽい声で、「うちの女房の弟の遺骨を見つけるなんていう、陰気な役目をはたして下さいまして、ほんとにありがとうございます」
「えっ?」とガッピー君がいう。
「女房の弟ですよ、旦那――あれのたった一人の親類でしてな。わたしたちは仲がよくなかったんで、これは今としちゃ悲しいことですけども、あの男がどうしても[#「どうしても」に傍点]仲よくしなかったんで。わたしたちをきらっていましたからね。あれは変り者でした――たいした変り者でしたよ。あの男が遺言状を残していなけりゃ(残してる見込みは全然ないね)、裁判所に遺産管理状を出してもらうことになりますね。今、わたしゃ家屋を監督しに来たんですわい、家を封印しなきゃいけないし、保護しなきゃいけないですからね。今、わたしゃ」とくり返しいいながら、老人は十本の指全部を一度に使って、空気を手もとに引き寄せる身ぶりをし、「家屋を監督しに来たんですわい」
「ねえ、スモール」と、しょげてしまったガッピー君がいう。「クルックじいさんが君の大叔父さんだと、僕に話しておいてくれればよかったのに」
「あなたたち二人が大叔父のことを、ひどく秘密にしていたんで、僕も同じようにしたほうがいいだろうと考えたんですよ」と、ませて用心深いスモールウィード君がひそかに目を光らせながら答える。「それにね、自慢になるような人だと思っちゃいなかったですからね」
「それにね、大叔父だろうが、なかろうが、あなたにはどうでもいいことでしたからね」とジューディがいう。そして、これまたひそかに目を光らせている。
「あの人は一度だって、僕に会って懇意になろうなんてことをしなかったんですよ。僕があの人[#「あの人」に傍点]を紹介してあげるなんて、まったく、考えられないなあ!」
「あの男はわたしたちと一度も文通したことがありませんでしたな――これは悲しいことですけども」と、急にスモールウィード老人が話に割りこんで、「しかし、今、わたしゃ家屋を監督しに来たんですわい――書類を調べ、家屋を監督しにね。わたしたちは自分の権利を確保しますよ。権利証は弁護士さんが持ってます。あの道の向う側の、リンカン法曹学院広場のタルキングホーン先生が、わたしの弁護士をして下さっているんでね、あの先生なら、きっと、てきぱき片づけてくれますわい。クルックはうちの女房のたった一人の弟で、あれにゃ、クルックのほかに一人も親類はなく、クルックにゃ、あれのほかに一人も親類はなかったですよ。おい、このごきぶりのちきしょう、今、おまえのな、七十六歳だった弟の話をしてるところだ」
スモールウィード老人の細君は、たちまち、頭を振って金切声をあげ始める。「七十六ポンド七シリング七ペンス! 七万六千袋のお金! 七百六十万包みのお|札《さつ》!」
「だれかわたしに一クウォート(5)びんをくれんかね?」激怒した夫は自由のきかぬ体であたりを見まわすけれども、手のとどくところに飛び道具が一つとして見つからぬので、大声をあげて、「すいませんが、だれか|痰《たん》つぼを下さらんかね? なんでもいい、あいつにたたきつけて傷をつける、堅いものを渡してくれんかね? この鬼ばばあめ、この猫め、この犬め、このわあわあほえるちきしょうめ!」ここでスモールウィード老人は自分の雄弁に極度に興奮してしまい、ほかになにもないので、じっさいにジューディを祖母に向って投げつけようと、満身の力を振りしぼって、このうら若い乙女を老妻目がけて突き出すが、たちまち自分の椅子に転倒してしまう。
「だれかゆすぶり起して下さらんか?」老人が倒れて、まるでかすかにもがいている洋服包みのようになった中から、こういう声がする。「今、わたしゃ家屋を監督しに来たんですわい。わたしをゆすぶり起して、隣りの家の番をしている警官を呼んでくれんかね、あの家屋のことを説明してやるんだから。もうじき、ここへわたしの弁護士が家屋を保護しに来るんだ。あの家屋に手を触れる者は、だれでも流刑か絞首台行きだぞ!」忠実な孫たちが、息を切らせている老人をまっすぐに起して、ゆすぶったり、たたいたりする、例の治療法をおこなうと、老人はなおも「あの――あの家屋! あの家屋!――家屋!」と、こだまのようにくり返す。
ウィーヴル君はもうこの仕事を全部放棄してしまったという表情を浮べ、ガッピー君はまだいくぶん未練を残しているらしい当惑のおももちをして、二人はたがいに顔を見合わせる。しかし、スモールウィード家の権利に対抗しうるようなことは、なにもできない。タルキングホーン氏のところの事務員が事務所から、監視をしている警官のところへやって来て、クルックの相続人に関する件については万事まちがいない、とタルキングホーン弁護士が保証しており、書類と財産はしかるべき手順と時日を経て正式に占有することになると伝える。それで、スモールウィード老人はその絶大な権利を主張することを即座に許可され、人手に担がれたまま隣りの家へ感傷的訪問に出かけ、階上にあるフライトばあさんの|人気《ひとけ》のない部屋へ登ってゆくが、ここへはいると、彼はまるでフライトばあさんの鳥の|檻《おり》に新しく加えられた、いまわしい|猛禽《もうきん》のように見える。
この思いがけない相続人の到着が、やがて小路に知れ渡ると、前と同じように「日輪亭」はにぎわい、小路じゅうが活気づく。パイパーのおかみさんとパーキンズのおかみさんは、もしほんとに遺言状がないとすると、あの下宿していた若い人はかわいそうなことになるだろうよといい、あの人に遺産のうちから相当な贈り物をしてやるのが当り前だと思うねと話す。パイパーの息子とパーキンズの息子は、大法官府横町を徒歩で通行する人々の恐怖の|的《まと》になっている腕白小僧たちの仲間なので、一日じゅう、ポンプのうしろやアーチの下の通路で、焼けくずれて燃えがらになるまねをし、仲間たちは二人の遺骸に熱狂的な叫びと弥次を浴びせる。リトル・スウィルズとM・メルヴィルソン嬢は、ごひいき連中と気がるに話をし合い、こういう異常な事件が起ると、|素人《しろうと》と|玄人《くろうと》のあいだのへだたりがとれるものだ、と考える。ボグズビー氏は「音楽の|集《つど》い」の今週の大呼び物として、「流行歌『死の帝王』! ご出席のかたがた全員によるコーラス付き」というビラをはり出し、そのなかで、「J・G・ボグズビーは、大ぜいの皆々さまより本店のバーにおいて示されました御希望に答え、また最近、一大センセーションを巻き起しました不幸な出来事に哀悼の意を表しまして、相当な経費を増額の上、この催しをおこなうことになりました」と知らせる。なくなったクルックについて、小路の人たちが特に心配している問題が一つある。つまり、それは、等身大の棺おけでは、中に入れるものがちいさすぎるけれども、とにかく、そういう形式を守ってもらいたいというのである。その日のうちに、「日輪亭」のバーで、葬儀屋が「身長六フィート用」を作るようにと注文されたと話すので、人々は大いに安心して、スモールウィード老人の振舞いはりっぱなものだと考える。
この小路以外のところ、しかもたいそう遠いところでも、事件は相当なさわぎになって、何人もの科学者や哲学者が見学に来る、同じ目的の医者たちが小路の角で馬車を降りる、というわけで小路の人々が想像したこともないような、可燃ガスやら燐化水素についての学問的談義がおこなわれる。そういう権威者たち(もちろん最高権威者である)の中には憤慨しながらクルックは伝えられているような死にかたをする権利などなかった、と主張する者があり、それを聞いたほかの権威者たちは、『イギリス学士院会報』第六巻に転載されている、そういう死にかたについての証拠を調べたある論文や、また、ある程度名の知られている、あるイギリスの法医学書や、それから、一、二冊学究的な著書を出して、その当時ときどき、多少の才智の持ち主だと噂されたことのある、ヴェローナの司教座聖堂聖職録収入者ビアンキーニという人物がくわしく述べている、コルネリア・バウディ伯爵夫人の、イタリーにおける例や、それに、この問題をあくまで[#「あくまで」に傍点]調査するといって聞かなかった、二人のうるさがたのフランス人、すなわちフォドレ氏およびメール氏の証言や、さらにまた、それを確証するルキャ氏、これはかつてはかなり有名な外科医者で、ぶしつけにもそういう死亡者が出た家に住み、それのみかそれについて書きさえした人であるが、そのルキャ氏の証言までも思い出すが、それでもやはり、この権威者たちは、いわば、そのような抜け道を通ってこの世から出ていった故クルック氏の強情さを、まったくけしからぬ、個人的に不愉快なことだと考える。こういったことすべてが、なんのことやら分らなければ分らないほど、小路の人たちはそれが気に入って、ますます「日輪亭」の在庫品を楽しむ。それから、ある絵入り新聞の画家が、もう前景と模様を描いて、どんな絵にでも(コーンウォール海岸の難破船から、ハイド・パーク公園の観兵式や、マンチェスターの労働者集会に至るまで)合うように準備して、小路へやって来、パーキンズのおかみさんの自室(それ以後、ここは永久に記念すべき部屋になる)で、即座にクルック氏の家を実物に負けないほどの大きさに――じつは、本物よりも相当大きくまるで神殿と見ちがえるほどりっぱに――なぐり描く。それから、あの非業の死が起った部屋を戸口からのぞくことを許可されると、同じように、奥行き四分の三マイル、長さ五十ヤードの大きさに描くが、小路の人たちはこの絵に格別の魅力を覚える。そのあいだじゅうもずっと、始めに述べた二人の紳士は家々に|軒《のき》なみ飛びこんでは飛び出し、哲学的な論争の席に臨み――あらゆるところへゆき、あらゆる人の話に耳を傾け――しかも、いつも「日輪亭」の特別室にかけこんで、字に飢えきったちいさなペンで薄葉紙に記事を書いている。
とうとう、前と同じように検死官審問になるが、ただ前とちがって、検死官はこの事件を異常な事件として大切にとり扱い、陪審員諸君に向って、個人の資格で、「どうも、隣りのあの家は縁起の悪い家のようです、宿命の家です、みなさん。しかし、ときどき、そういうことがあり、これは私たちに説明のできない神秘なのです!」と告げる。それが終ると、例の身長六フィート用が活動を開始して、大いに賞讃される。
この審問のあいだじゅう、ガッピー君は自分が証言をする時のほか、ほんの軽い役割しか演じないので、一般の人と同じように、立ち止ってはいかんといわれ、ただ外からあの秘密の家につきまとっているばかりであるが、家の中でスモールウィード老人がドアに|南京錠《なんきんじよう》をかけているのを見、自分が締め出されているのを痛切に知って、屈辱感を覚える。しかし、この審問が終らないうちに、つまり、惨劇が起った次の日の夜に、ガッピー君はデッドロック家の奥方に話さなければならぬことがある。
そういうわけで、めいるような気持と、それから、「日輪亭」にいるあいだは心の奥にたたみこまれていた恐れと警戒心から生れた、あの|下衆《げす》びたやましさとを胸に感じながら、ガッピーという名の若い男は夕方の七時ごろ、デッドロック家のロンドンの邸宅に出頭して、奥方に面会を求める。従僕のマーキュリーが、奥方さまはこれから外へ晩餐にお出かけになる、ドアのところの馬車が見えないのか、と答える。そう、たしかにドアのところに馬車が見えるが、若い男もまた奥方さまに面会したいのである。
マーキュリーは、まもなくあとで|朋輩《ほうばい》の従者にいい放つとおり、「あの若い男をしかりつけて」やりたいと思うが、奥方から受けている命令は絶対的である。それで、彼は不機嫌そうに若い男に向って、たぶん、書斎へ上ってもらわなければならないだろう、と告げる。客の来たのを知らせにゆくあいだ、マーキュリーは彼を、その余り明るくない大きな部屋に残してゆく。
ガッピー君が四方の物陰をのぞくと、いたるところに、焼けこげて白くなった石炭やたき木のちいさな山が見つかる。まもなく、|衣《きぬ》ずれの音が聞える。あれは――? いや、それは幽霊ではなく、いともきらびやかな装いをした、うるわしい、血の通った人間である。
「ほんとうにあいすみません、奥方さま」とガッピー君はたいそうしおれて、口ごもりながら、「ご都合の悪い時刻に――」
「いつ来てもよいと、前に申しましたよ」と奥方はこの前の時と同じように、彼のほうをまっすぐに見ながら、椅子につく。
「ありがとうございます、おやさしいお言葉をいただきまして」
「おかけなさい」その口調にはあまりやさしさがこもっていない。
「腰かけて、奥方さまのおひまをいただくだけのことがありますか、どうですか。じつは私は――私は、前にお目どおりした時に申上げました手紙を、手に入れていません」
「ただそれだけのことを話しにいらっしゃったのですか?」
「ただそれだけのことを申しに参りました」ガッピー君は失意落胆して不安になっている上に、奥方の輝くばかり美しい容姿のために、一層形勢が不利になる。奥方は自分の美貌の威力を、充分承知しているし、これまでにもよく調べてあるので、相手がだれであろうと、その効果を少しでもとり逃すことがない。奥方がきわめて冷やかにガッピー君を凝視していると、彼は、奥方がほんとうになにを考えているのか、皆目見当がつかないと悟るばかりでなく、一瞬ごとに自分が、いわば、奥方からますます遠ざけられてゆくことに気づく。
奥方がしゃべろうとしないことは明白である。そこで彼がしゃべらなければならない。
「手みじかに申せば、奥方さま」とガッピー君はさもしくも悔い改めた盗賊のようにいう。「私が手紙を渡してもらうことになっていました人が急死しまして、それで――」彼は言葉を切る。デッドロック家の奥方が落着いて終りまでいう。
「それで、手紙はその人といっしょになくなってしまったのですね?」
ガッピー君は、できれば「いいえ」といいたげである――そういう様子を隠すことができない。
「きっとそうだと思います、奥方さま」
今、奥方の顔にほんのわずか|安堵《あんど》の色がひらめくのを、もし彼に見ることができたとしたら? いや、彼にはそんなものを見ることができない。たといその大胆な顔のおもてに|気《け》おされて、顔の向うやまわりを見ていなかったとしても。
彼は自分の失敗のぎごちない弁解を、ひとこと、ふたこと、どもりながらいう。
「あなたのお話は、それで全部なのですか?」レスタ卿夫人は彼が終りまで――むしろ、つかえつかえできるだけ終り近くまで――話すのを聞いてから、こう尋ねる。
ガッピー君はそう思うという。
「もうそれ以上わたくしに話したいことがないかどうか、確かめるほうがようございますよ。あなたにとってはこれが最後の機会なのですから」
ガッピー君は、もう確かにないという。事実、今のところ、彼にはそれ以上話したい気持など、まったくない。
「それでけっこうです。弁解の手数を省いてあげましょう。さようなら!」そういって、奥方はベルを鳴らして、マーキュリーを呼び、ガッピーという名前の若い男を送り出させようとする。
しかし、その同じ時、その家の中には、偶然、タルキングホーンという名前の年とった男がいる。その年とった男は静かな歩きかたで書斎のところまで来て、その時、ドアのハンドルに手をかける――中へはいる――部屋を去ろうとしている若い男と顔をつき合わせる。
年とった男は奥方とたがいにちらりと視線をかわす。一瞬、いつも顔を覆っているブラインドが急に上がる。鋭い激しい疑惑が警戒の目を開ける。次の瞬間、また閉じる。
「あいすみません、奥方さま。|幾重《いくえ》にもおわび申上げます。こんな時刻に、こんなところに奥方さまがいらっしゃいますとは、まことにおめずらしいことでございます。部屋が|空《あ》いていると思いました。あいすみません!」
「お待ち下さい!」奥方はむぞうさに彼を呼び戻す。「どうぞ、ここにお残り下さい。わたくしはこれから外へ晩餐に参ります。もうこの若いかたに、なにもお話することはありません!」
ろうばいした若い男は、部屋を出がけにお辞儀をして、法曹学院広場のタルキングホーン先生、お変りないことと思います、とあいさつする。
「うん、うん?」といって、弁護士は二度見る必要はないのに――この男にそんな必要はない――ひそめた|眉《まゆ》の下から、ガッピー君のほうを見ながら、「たしか、ケンジ・アンド・カーボイ事務所の者だね?」
「ケンジ・アンド・カーボイ事務所の者です、タルキングホーン先生。ガッピーといいます」
「たしかにそうだ。いや、ありがとう、ガッピー君、私はしごく達者だよ!」
「それはけっこうでございます。法曹界のために、先生にはますますお達者になっていただきたいものです」
「ありがとう、ガッピー君!」
ガッピー君は逃げるように立ち去る。タルキングホーン氏は古色蒼然とした黒服で、レスタ卿夫人のきらびやかさをたいそう引立てながら、奥方の手をとって階段を下り、馬車のところまで見送る。それから、下あごをなでなで戻って来るが、その夜、彼は大いに下あごをなでる。
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第三十四章 絞り上げ
「さあ、こいつは一体なんだろう?」とジョージ氏がいう。「空包かな、それとも実包かな? 空発かな、それとも発射かな?」
騎兵軍曹の思案の種になっているのは一通の開いた手紙で、それにひどく頭を悩ましているらしい。軍曹は手紙をできるだけ離して眺めたり、まぢかに近寄せたり、右手に持ったり、左手に持ったり、頭をこちら側あちら側にかしげて読んだり、眉をしかめたり、上げたりするが、やはり|納得《なつとく》がいかない。手紙をテーブルの上にのせて、重たい手のひらで伸ばし、考えこんだまま射撃場をゆきつ戻りつしながら、ときおりその前に立ち止って、新しい目で見直してみる。それでもだめである。「こいつは」とジョージはなおも沈思黙考する。「空包かな、実包かな?」
フィル・スクウォッドは|刷毛《はけ》とペンキつぼを使って、遠くのほうで|的《まと》を白くぬりながら、あとに置いて来た娘っ子のとこへ、おれは帰るぞ、帰らにゃならん、と口笛を|速歩《はやあし》行進の速度で鼓笛隊ふうに、静かに吹いている。
「フィル!」軍曹は手招きをして彼を呼ぶ。
フィルは例のとおり、最初は、まるで当てもないところへゆくように、横に歩いてゆき、それから、突撃するみたいに急に隊長に向って近づいて来る。その汚れた顔には、白ペンキのはねた|痕《あと》が数カ所、くっきりと盛り上っており、彼は片方の眉の上のはねを刷毛の|柄《え》でこすり落す。
「気をつけ、フィル! これをよく聞けよ」
「落着いて、隊長どの、落着いて」
「『拝啓 失礼ながら御注意申上げ候(但し小生においてかかる事を為す法律的必要全く無き事は、貴殿も御承知の通りに候)。マシュー・バグネット氏より貴殿に振出し、貴殿が御引受けになられ候二カ月後払いの九十七ポンド四シリング九ペンスの手形は明日満期に御座候えば、同日呈示次第御皆済相成り度く候。敬具 ジョシュア・スモールウィード』これをどう思う、フィル?」
「悪いことになるねえ、親分」
「なぜだ?」
「おれの考えじゃね」とフィルは物思いにふけりながら、刷毛の柄でひたいに十字の皺を描いてから答える。「金を請求する時にゃ、相手はいつも胸に|一物《いちもつ》あるからでさあ」
「いいか、フィル」軍曹はテーブルの上に腰をおろしていう。「おれは利息やなにやかやで、大体、もうこの元金の半分は返しているといっていいんだぞ」
フィルは、そういうことがあっても、この手形の問題がうまくゆくとは思えない、と遠回しに告げるため、自分のゆがんだ顔をなんとも異様なほどねじまげて横ざまに一、二歩あとしざりをして見せる。
「そればかりじゃない、いいか、フィル」軍曹は片手を振って自分の早まった結論を中止して、こういう。「この手形はいわゆる書替え手形にするということに、いつも取り決めてあったんだ。それで、これまでにもう何回も書替えて来たんだ。さあ、おまえの意見はどうだ?」
「おれの意見はね、その何回というやつが、とうとうおしまいになっちまったんだと思うね」
「そうか? ふん! おれも大体同じ考えだよ」
「ジョシュア・スモールウィードっていうのは、ここへ椅子にのせてつれて来られたやつですかい?」
「そうだ」
「親分」とフィルはひどく真剣になって、「あいつは、気性と来たら、人の血を吸う|蛭《ひる》だ、やることといったら、ねじや万力みたいに締めつけやがる、からみつくところは蛇だ、爪はかにのはさみだ」
スクウォッド君はこんなふうに、自分の見解を表現豊かに述べ終ると、もっと意見を求められているのかどうかを確かめるため、少しのあいだ待ってから、例の歩きかたをくり返しながら、やりかけた的のところへ帰り、前と同じ楽器を使って、あの理想の乙女のもとへ、おれは戻るぞ、戻らにゃならん、と元気よく告げる。ジョージは手紙をたたんでから、そちらのほうへ歩いてゆく。
「隊長どの、この問題を解決する方法が、ほんとに[#「ほんとに」に傍点]ありますぜ」といってフィルはずるそうな顔をして軍曹を見る。
「金を払うんだろう? たぶん? それができたらなあ」
フィルは頭を振る。「いいや、親分、ちがいまさあ、それほどまずい方法じゃありませんや。ほんとに[#「ほんとに」に傍点]ありますぜ」そういってフィルはきわめて芸術的な手つきで刷毛を動かしながら、「おれが今やってることでさあ」
「白くぬってしまう(1)のだな」
フィルがうなずく。
「けっこうな解決法だろうよ、それは! そんなことをしたら、バグネット一家がどうなるか、おまえ、知っているのか? おれの古い借金を全部払うために、あの一家が破滅してしまうのを知っているのか? おまえ[#「おまえ」に傍点]は道義心に富んだ人間だよ」ひどく腹を立てた軍曹は例の堂々とした態度で相手を見すえて、「ほんとにそうだぞ、フィル!」
フィルは標的のところに片ひざをついたまま、刷毛でペンキをすくったり、親指で標的の白い表面の|縁《へり》をなでつけたりするような身ぶりを、なんべんもくり返しながらも、真剣な顔つきになって、おれは手形を振出したバグネットさんの責任ってものを忘れていたが、あのりっぱな一家の人たちの髪の毛一本だって、傷つけるつもりはねえでさあ、と弁解していると、外の長廊下に足音が聞えて、ジョージは家にいるのかしらという快活な声がする。フィルが主人のほうを眺めて、びっこを引き引き立ち上り、「親分はここにいますぜ、バグネットさんの奥さん! ここにいますぜ!」というと、そのバグネット氏の女房が夫に付添われて姿をあらわす。
バグネット氏の女房が外出の服装であらわれる時は、季節を問わずいつも、ねずみ色の生地で作った、粗末でずいぶん着古しているけれども、たいそう清潔なマントを一着に及んでいるが、この衣裳は彼女とこうもりがさといっしょに、別の大陸からヨーロッパに帰って来たため、バグネット氏にとってきわめて愛着の深い、例のマントに相違ない。その忠実なこうもりがさもまた、彼の女房が外へ出る時は、いつも手もとを離れたことがない。これはなんともいいようのない色をしていて、|柄《え》は波形の刻みがはいった曲った木、その柄の、いわば、へさき、あるいはくちばしには、家々の表戸口の上にある|扇形《おうぎがた》の窓のちいさな模型か、それとも|楕円形《だえんけい》の眼鏡のレンズに似た形の金属がはめてあるが、この飾りは、イギリスの陸軍と昔から関係の深い或るもの(2)に対して要望されるような、自分の部署を固守する、ねばり強い能力に欠けている。このこうもりがさは腰の辺に締まりのないたちで、コルセットが必要らしい――そんな姿をしているのは、おそらく、長い年月のあいだ、家庭では戸棚の、旅さきでは旅行カバンの、役をつとめて来たからであろう。バグネット氏の女房は、大きなフードのついたあの頼もしいマントに、全幅の信頼をおいているので、こうもりがさを一度もさしたことがなく、ふつう、それを使うのは、買物のさいに大きな肉の切り身や野菜の束を指したり、商人たちを親しげにこづいて注意をひいたりする|杖《つえ》としてである。それから、彼女は表へ出かける時はいつも、|垂《た》れ|蓋《ぶた》が二つ付いた、やなぎ細工の井戸のような買物かごを持ってゆく。そうしたわけで、バグネット氏の女房はこれらの信用できる道づれを従え、日焼けのした|律義《りちぎ》な顔を、素朴な感じの麦わら帽子の下から明るくのぞかせながら、みずみずしい顔色をして晴れやかに、今ジョージ射撃練習場へ到着する。
「まあ、ジョージ、ねえ」と彼女はいう。「こんなによくお日さまの照っている朝だけど、あんた[#「あんた」に傍点]のごきげんはどう?」
ジョージと親しげに握手をしてから、彼女は歩いて来たあとの大きな息をつき、休息を楽しむために腰をかける。どこででも手軽に休息することのできる能力を、これまで荷馬車のてっぺんや、それに類したいろいろの場所できたえて来ているので、彼女は荒削りのベンチに腰をおろし、帽子の結びひもをほどいて、帽子をうしろへ押しやり、腕を組み、この上もなく気持よさそうな様子をしている。
そのあいだにバグネット氏は昔の戦友と、それからフィルと握手をすませるが、女房も同じようにフィルに向って愛想よくうなずき、にっこり笑いかける。
「さあ、ジョージ」とバグネット氏の女房が活発にいう。「リグナムとわたしが来たわよ」彼女はよく夫のことを、こういう名前で呼ぶが、それは、二人が初めて知り合った遠い軍隊時代に、彼はたいそう堅くて頑丈な顔つきをしているので、「リグナム・ヴァイティ(3)」とあだ名されたためらしい。「いつものとおり、あの証文のことを、まちがいのないようにしておこうと思って、ちょっと寄ったの。ジョージ、新しい手形をこの人に渡してサインしておもらいなさい、ちゃんとサインしてくれるわ」
「今朝、あなたたちのところへ出かけるつもりでしたよ」
「ええ、今朝あんたがうちへ来るだろうと思っていたわ。でもわたしたちは早くに外出したので、ウーリッジに(あんなにいい男の子はいないわ)妹たちの世話を任せて、そのかわり、わたしたちのほうがあんたのうちへ来たのよ――ごらんのとおりにね! だってリグナムはね、今すっかり仕事にしばられて、ほとんど運動しないから、散歩すると体にいいのよ。でも、どうしたの、ジョージ?」と女房は元気よく話しているのを止めて尋ねる。「いつものあんたと様子がちがうわ」
「いつもの自分と少しちがいます」と軍曹は答える。「ちょっと閉口しておりましてね、奥さん」
彼女の鋭敏な涼しい目がすぐに真相を見抜く。「ジョージ!」と人さし指を上げて、「リグナムのあの証文のことで、なにか悪いことが起ったなんて、いわないでちょうだいね! 子供たちのために、ジョージ、そんなことをいわないでちょうだいね!」
軍曹は心配そうな|面持《おももち》で彼女を眺める。
「ジョージ」と、バグネット氏の女房は両腕を使って言葉に力を入れ、ときどき、開いた両手をひざの上におろしながら、「もしあんたがリグナムのあの証文になにか悪いことをひき起して、この人をのっぴきならないはめにおとし入れて、わたしたちの財産が競売されるような危険に巻きこんだとしたら――あんたの顔に、ジョージ、競売されるってはっきり書いてあるわ――あんたは|破廉恥《はれんち》なおこないをして、わたしたちを無慈悲に裏切ったのよ。ほんとに、無慈悲によ、ジョージ。さあ、どう!」
バグネット氏はまるで自分のはげ頭にシャワーの湯が降りそそぐのを防ぐみたいに、頭のてっぺんに大きな右手をのせ、体のほかの部分は、ポンプかガス灯の柱のように少しも動かさずに、ひどく不安そうに女房のほうを眺める。
「ジョージ!」とバグネット氏の女房がいう、「ほんとにあきれた人ね! ジョージ、わたし、あんたを恥ずかしく思うわ! ジョージ、あんたがそんなことをしたなんて、信じられないくらいだわ! あんたが仕事ばかり変えて、財産のできない人だっていうことは、わたし、いつも知っていたわ、でも、バグネットと子供たちが頼りにしている、わずかの財産まで奪いとってしまう人だなんて、思っても見なかったわ。この人がどれほど勤勉で堅実な男か、あんたは知っているわね。ケベックとマルタとウーリッジがどんな子供たちか、あんたは知っているわね――あんたがわたしたちにそんな仕打ちをするような気持を持っているだろうなんて、そんな気持を持つことができるだろうなんて、思っても見なかったわ。ああ、ジョージ!」バグネット氏の女房はマントをかき寄せて、少しのいつわりもない態度で目の涙をふき、「どうしてあんたはそんなことができるの?」
女房がしゃべるのをやめると、バグネット氏はまるでシャワーの湯が止ったみたいに、頭から手をとり、やるせなそうにジョージ氏のほうを眺めるが、ジョージ氏はもう真っ青な顔色に変ってしまい、ねずみ色のマントと麦わら帽子のほうを苦しげに眺める。
「マット」と軍曹は声を低めてバグネット氏に話しかけるが、目はやはり彼の女房のほうを見ている。「君をそんなに悲しませて、すまないな。だっておれはそんなにひどいことにはならないと、ほんとに思っているのだ。たしかに、おれは今朝この手紙を受取った」といって軍曹は大きな声で手紙を読み、「しかし、まだうまく解決できるだろうと、思っているよ。おれが商売を変えてばかりいる、腰の落着かない人間だという点は、そう、君のいうとおりだ。じっさい[#「じっさい」に傍点]、おれは腰の落着かない人間だ。しかし、おれはそのために人さまに迷惑のかけっぱなしをしたことなど、一度もなかったつもりだ。しかし、だれにしろ、放浪性のある古い戦友で、このおれ[#「おれ」に傍点]ほど君の奥さんと子供たちに好意を持っている者がいるはずはない、マット。だから、おれは君ができるかぎり寛大な目でおれを見てくれるものと信じているよ。おれが君に隠しごとをしていたなんて思わないでくれ。この手紙を受取ったのは、つい十五分ほど前なのだ」
「ねえ、おまえ」バグネット氏は少しのあいだ黙っていてから、こうつぶやく。「おれの意見をジョージにいってくれ」
「ああ! なぜこの人は」とバグネットの女房は半ば笑い、半ば泣きながら答える。「北アメリカでジョー・パウチャーの後家さんと結婚しなかったんでしょう? そうしていたら、こんなもめごとを起さなかったでしょうにね」
「うちの女房のいうとおりだ――なぜ君はそうしなかったんだ?」
「なに、今ごろはもうあの人には、もっといい亭主ができているさ」と軍曹は答える。「とにかく今おれは、ほら、このとおり、ジョー・パウチャーの未亡人と結婚しちゃいない[#「いない」に傍点]。おれはどうしようか? おれの持っている全財産は、ご覧のとおりだ。これはおれの物じゃない、君の物だ。君が命令を下せば、一つ残らず売り払うよ。もしそれで大体必要な金額がつくれると思ったら、とっくの昔に全部売ってしまったのに。君や君の家族をおれが見殺しにするだろうなんて思わないでくれ、マット。そうするくらいなら、まず第一にこのおれが身売りをするよ。ただ、願わくは」と軍曹は軽蔑するように自分の胸を一つなぐって、「こんな古道具を買ってくれる人を知っているといいんだが」
「ねえ、おまえ」とバグネット氏がささやく。「またちょっと、おれの気持をジョージにいってくれ」
「ジョージ、よく考えてみると、あんたにそれほど責任はないわね。資力もないのにこんな商売を始めたりした点を除けば」
「しかし、その点がいかにも自分らしいことでした」と後悔した軍曹は頭を振って、「たしかに、自分らしいことでしたよ」
「黙っていろよ! 女房のいうとおりだ――おれの意見を伝えてるわけだが――おれのいうことを終りまで聞けよ!」
「こんな商売を始めたりしたっていうのは、リグナムに借金の保証を求めるべきでなかったのに、ジョージ、そしてどう考えても保証を受けるべきでなかったのに、そうしたことよ。でも、してしまったことは、もとに返らないわ。あんたは少し軽はずみだけど、いつも、自分の力の及ぶかぎり、名誉を重んじて曲ったことをしない人よ。ところが、あんたは、わたしたちの頭の上にそんな保証がのしかかっていれば、わたしたちが不安になるのが当り前だということを、認めることができないのね。だから、みんなしてきれいに忘れて水に流してちょうだい、ジョージ。さあ! みんなしてきれいに忘れて水に流してちょうだい!」
バグネット氏の女房が律義な手をジョージ氏にさし出し、もう一方の手を亭主にさし出すと、ジョージ氏はそれぞれ二人に自分の手をさし出し、相手の手を握ったまま話を始める。
「あなたがた二人に誓ってもいい、自分はどんなことをしてでも、必ずこの負債を支払いますよ。しかし、少ないながらも自分がかき集めることのできた金は全部、元金を維持するため、二カ月ごとに消えてしまいました。フィルと自分はここでごく質素に暮して来ました。しかし、射撃場はどうも期待したようにいかず――つまり、たいした金にならんのです。自分がこれを始めたのはまちがいだったというんですな? なるほど、そうでした。しかし、いわば自分は引きずりこまれるようにして射撃場を始め、これで自分が落着いて、身が立つようになるだろうと考えたわけで、こういう期待をかけた点は、あなたがたも大目に見てくれるでしょうし、ほんとに、自分は大いに感謝もし、大いに恥じ入ってもいます」こういう結びの言葉とともに、ジョージ氏は握っている二人の手を振り、それから自分の手を引いて、まるで最後の|懺悔《ざんげ》を終え、今すぐ軍葬の礼遇を受けて銃殺されるかのように、幅広い胸を張ったまっすぐな姿勢で一、二歩うしろへさがる。
「ジョージ、おれのいうことを終りまで聞けよ!」とバグネット氏は女房のほうをちらりと眺め、「ねえ、おまえ、話をつづけろ!」
バグネット氏はこういう奇妙なやりかたで自分の話を終りまで聞いてもらうと、あとはただ、一刻も猶予せずに例の手紙の処置をしなければいけない、すぐさまジョージと彼が直接スモールウィード老人を訪ねるのがよい、第一の目的は一文の金も持たないバグネットを無事に救い出すことだ、とだけ意見を述べる。ジョージ氏は全面的に賛成して、帽子をかぶり、バグネット氏といっしょに敵の陣営へ進軍する支度をととのえる。
「女のわたしがひとこといっても、あんたは怒らないでしょうね、ジョージ」とバグネット氏の女房は彼の肩を軽くたたきながら、「うちのリグナムをあんたにお任せするわ。必ず、この人を無事に切り抜けさせてくれるわね」
軍曹は、うれしいことをいってくれる、ぜひ[#「ぜひ」に傍点]なんとか無事に切り抜けさせるつもりだと答える。そこでバグネット氏の女房はマントを着て、買物かごとこうもりがさを持ち、ふたたび明るい目つきに戻って、子供たちのいる家へ帰り、二人の戦友は勇み立って、スモールウィード老人の気持をなだめに出かける。
ジョージ氏とマシュー・バグネット氏の両人ほど、スモールウィード老人相手のあらゆる交渉に成功しそうもない人間が、イギリスじゅうにいるかどうか、まことに疑わしい。それにまた、彼らの軍人らしい風采、四角ばった広い肩、どっしりした歩きかたにもかかわらず、この両名ほど、スモールウィード老人が手がけているような人生問題に無知で不慣れな子供が、イギリスじゅうにいるかどうか。二人して町々を通り抜け、マウント・プレザントの地域へ向ってゆくあいだに、バグネット氏は連れが考えこんでいるのを目にとめると、女房のさきほどの興奮について説明するのが友人としての義務だと考える。
「ジョージ、君はうちの女房を知ってるな――あれはまったく、やさしくておとなしい女なんだ。しかし、あれの子供たちに――あるいは、おれに――触れる者があると、まるで火薬みたいに爆発するんだ」
「さすがに、あの人はあっぱれなものだ、マット!」
「ジョージ」とバグネット氏はまっすぐ前を見ながら、「うちの女房の――やることはみんな――あっぱれなものだ。大体においてね。あれに向っては絶対そういわんのだ。規律を維持せねばならんからな」
「あの人は、じっさい、千金に値する人だよ」
「金だって? いいことを教えてやろう。女房の目方は十二ストーン六ポンド(4)だ、それだけの目方の――金だろうが銀だろうが――女房のかわりに[#「かわりに」に傍点]、おれがもらうと思うか? いやだ。なぜかって? あの女房は――どんな貴金属よりも――ずっと貴重な金属なんだ。しかも、あれは全身[#「全身」に傍点]メッキなしだよ!」
「君のいうとおりだ、マット!」
「あれがおれを亭主にして――結婚指環を受取った時――あれは心と頭のいっさいを挙げて、終身――おれと子供たちの|麾下《きか》に入隊した。女房はとてもまじめで、自分の軍旗に忠実なんで――おれたちに指一本でも触れると――出撃していって――武器を向けて戦闘隊形をとるんだ。もしも女房が義務感に駆られて、ときたま――|的《まと》はずれの射撃をしても――見逃してやってくれ、ジョージ。あれは忠義者なんだから!」
「そうとも、あの人に神さまの御恵みあれだ、マット!」軍曹が答える。「そういう人だから、おれはなおさら高く買っているのだ!」
「君のいうとおりだ」とバグネット氏はこの上もなく感激していいながらも、全身のこわばった筋肉は少しもゆるめない。「うちの女房をジブラルタルの岩山(5)ほど――高く買っても――そういう長所は、まだ買い足りないよ。だが、あれの前では絶対そういわんのだ。規律を維持せねばならんからな」
こういう賛辞を捧げているうちに、二人はマウント・プレザントへ来て、それからスモールウィード老人の家へ来る。表のドアを、|甲羅《こうら》を経たジューディが開け、格別の愛想も見せず、いや、それどころか、皮肉なあざ笑いを浮べながら、二人を頭のてっぺんから爪先まで眺めたのち、そこに立たせたまま引き下り、中へ通してよいかどうか御神託に伺いを立てる。それから、「はいりたけりゃ、はいんなさい」という、|蜜《みつ》のように甘い言葉を伝えに戻って来たところから察すると、御神託が承知したらしい。この恩典に浴して二人が中へはいると、スモールウィード老人は、まるで紙製の小だらいで足湯でも使っているみたいに、自分の腰かけている椅子にとり付けた引出しに両足を突っこみ、彼の細君は、鳴くことを禁じられた鳥のように、クッションで覆いかくされている。
「ねえ、あんた」とスモールウィード家の祖父は、親愛の念をこめた、かぼそい両腕をさし延べて、「元気ですかい? 元気ですかい? お連れの人はどなたで、ねえ、あんた」
「いや、これは」ジョージは、最初のうち、あまり相手をなだめる気にもなれずに、「例の件で自分が世話になっているマシュー・バグネットですよ」
「ああ! バグネットさんね? たしかにそうだ!」老人は片手をかざしてバグネット氏を眺める。
「お達者でしょうな、バグネットさん? りっぱな人だね、ジョージさん! いかにも軍人さんらしいね!」
椅子をすすめられないので、ジョージ氏は自分に一つ、バグネットに一つ、手ずから持ち出して来る。二人は腰をおろすが、バグネット氏は、まるでおしりの辺しか体を曲げることができないような、すわりかたをする。
「ジューディ」スモールウィード氏がいう。「パイプを持って来い」
「いや、どうやら」とジョージ氏が口をはさむ。「お孫さんにわざわざ持って来てもらう必要はなさそうですな、じつをいうと、自分は今日はたばこを吸いたくないのです」
「そうかね?」と老人は答えて、「ジューディ、パイプを持って来い」
「じつは、スモールウィードさん」ジョージは話をつづけて、「自分は少々不愉快です。どうも、あなたの財界の友だちがいたずらをしているようですな」
「えっ、とんでもない! あの人は絶対そんなことはしませんわい!」
「そうですか? まあ、それを聞いて安心しました、あの人[#「あの人」に傍点]のしわざかも知れんと思ったのでね。これです、自分がいっているのは。この手紙です」
スモールウィード老人は見憶えのある手紙を出されると、ひどく醜悪な薄笑いを浮べる。
「これはどういう意味です?」とジョージ氏が尋ねる。
「ジューディ、パイプを持って来たか? おれに渡してくれ。あんたは、これがどういう意味だといったのかね、ねえ、あんた?」
「はい! さあさあ、ねえ、スモールウィードさん」と、軍曹は片手に開いた手紙を持ち、もう一方の手を握って大きな|拳骨《げんこつ》をももの上にのせたまま、できるだけ愛想よく親しげに話すように自制しながら、説きつける。「自分たちは相当な大金を受け渡しして来て、今こうして差し向いで話をしていますし、それに双方とも、これまでいつも守って来た申し合せをよく承知しております。自分は今まで期日ごとにやって来たとおりにやって、この取引をつづける覚悟です。これまであなたから、一度もこういう手紙をもらったことがないので、今朝これを見て、ちょっと困りましたよ。なぜかというと、ここにいる友だちのマシュー・バグネットは、一文も金がなくて――」
「ねえ、わたしゃそんな話は知りません[#「ません」に傍点]わい」と老人が静かにいう。
「なんだと、この野郎め――いや、この話のことをいったんですよ――自分がそれを話しているじゃないですか?」
「そう、そうだね、あんたはそう話しているね」とスモールウィード老人は答える。「だけど、わたしゃそんな話は知りませんわい」
「なるほど!」と軍曹は燃える怒りをこらえながら、「だが、自分[#「自分」に傍点]は知っていますぞ」
スモールウィード老人は上機嫌で返事をする。「ああ! それはまったく話が別だね!」それから言葉をついで、「だけど、かまいませんわい。どっちみち、バグネットさんの事情はどうでもいいことだからね」
かわいそうにジョージは一所懸命になって、話を円満にまとめ、相手のいいぶんを使って相手をなだめようとする。
「自分がいっていることも、まさにそれですな。あなたのいうとおり、スモールウィードさん、どっちみち、ここにいるマシュー・バグネットは、窮地に陥るのを免れることができません。ところで、お分りでしょうが、そうなるとバグネットの奥さんがひじょうに心配するし、自分にしても同じです。というのは、自分のような骨折り損のくたびれもうけをして当然の、無鉄砲なやくざ者とはちがって、もちろん、この男は堅実な世帯持ちだからですよ、お分りですな? ところで、スモールウィードさん」軍曹は軍人式に交渉を進めるにつれて自信を得て来て、「あなたと自分とは、ある意味では大の親友ですが、自分の口からあなたに、友だちのバグネットの責任を全部免除していただきたい、などと頼むわけにいかないことは充分承知しています」
「おや、あんたはずいぶん遠慮深い人だね。なんなりと頼む[#「頼む」に傍点]がいいさ、ジョージさん」(今日のスモールウィード老人には、人食い鬼の|剽軽《ひようきん》さといったようなものがある)
「あなたのほうは、断るから構わないというのですな、え? あるいは、あなたというより、むしろあなたの財界の友人がですな? はっはっは!」
「はっはっは!」とスモールウィード老人はおうむ返しにくり返す。その笑いかたがいかにも冷酷な上にスモールウィード氏の目が異様なほど緑色に光っているので、この老人をじっと見つめているうちに、バグネット氏の生れつきの|生《き》まじめな顔がいっそう生まじめになる。
「さあ、さあ!」と快活なジョージがいう。「自分はこの話を気持よくまとめたいので、おたがいに気持よくなれて、けっこうだと思いますな。バグネット君がここにいるし、自分もここにいます。どうか、スモールウィードさん、いつものように仕事を即座に片づけましょう。それから、自分たちがどんな申合わせをしているのか、ちょっとバグネット君に話してくれると、バグネット君と家族の者たちが安心するでしょうな」
この時、かんだかい声の幽霊があざけるように、「あらまあ! 大変だこと!」と大声で叫ぶ――しかし、じつは、これはほかでもない、ふざけることの好きなジューディで、びっくり仰天した客たちがあたりを見回して見ると、ジューディは黙っているけれども、つい今しがた、あざけりと軽蔑を示すために、下あごをぐいと持ち上げたばかりである。バグネット氏はさらにいっそう生まじめになる。
「だけど、あんたはわたしにこう尋ねたようでしたね、ジョージさん」と、それまでのあいだずっとパイプを手にしていたスモールウィード老人が、今度は口を開いて、「あんたはわたしに、この手紙はどういう意味だと尋ねたようでしたね?」
「そうですとも、尋ねましたよ」と軍曹は例のむぞうさな口調で答える。「しかし、万事異常なくて気持よく片づくのなら、格別その意味を知りたいとも思いませんな」
スモールウィード老人はわざと軍曹の頭にパイプを当てそこなったふりをして、床に投げつけて粉みじんに打ちくだく。
「これが手紙の意味ですわい、ねえ、あんた。わたしゃ、あんたを打ちこわしてやるぞ。くずにしてやるぞ。こなごなにしてやるぞ。くたばっちまえ!」
二人の友だちは立ち上って、たがいに顔を見合わせる。バグネット氏の生まじめさが今や絶頂に達した。
「くたばっちまえ!」と老人がくり返す。「あんたのパイプふかしと、ふんぞり返ったかっこうは、もうたくさんだ。ええ? それに、あんたは自尊心の強い竜騎兵だってね! おれの弁護士のところへいって(どこだか憶えているな、前にそこへいったことがあるな)、今度はあんたの自尊心を見せてくれんかね? さあさあ、ねえ、あんた、いい機会だ。表のドアをあけろ、ジューディ、この威張り屋たちを追い出せ! いかなけりゃ、助けを呼べ。やつらを追い出せ!」
老人がこういうことを余り大きな声でわめき立てるので、バグネット氏は戦友がまだ|驚愕《きようがく》から|醒《さ》めないうちに、その肩に手をかけて、表のドアの外へつれ出すが、すぐさま、勝ち誇ったジューディがぴしゃりと音高くドアを締める。すっかりろうばいしたジョージ氏は、しばらくのあいだ、立ったままドアのノッカーを眺めている。バグネット氏はいやが上にも生まじめになって、スモールウィード家のちいさな居間の前を、歩哨みたいにゆきつ戻りつし、通るたびに中をのぞくが、心のうちでなにかしきりに思いをめぐらしているらしい。
「さあ、マット」落着きをとり戻すとジョージ氏がいう、「その弁護士に頼んでみなくちゃいかん。おい、君はここの悪党をどう思う?」
バグネット氏は立ち止って、なごり惜しげに居間をのぞきこみながら、室内に向って頭をひと振りして答える。「もしも、さっき、うちの女房がここにいたら――あの悪党におれの意見を話してやったのになあ!」こんなふうに、さきほどからの思案の種を吐き出してしまうと、彼は歩き始め、軍曹と肩をならべて歩調正しく立ち去る。
二人がリンカン法曹学院広場の弁護士事務所へやって来ると、タルキングホーン氏は忙しくて会うことができない。全然会う気がないのである。というのは、たっぷり一時間待たされてから、ベルが鳴って奥へ呼ばれた事務員が、ついでにそのことを告げても、タルキングホーン氏は、なにも二人に話すことはない、帰ったほうがいいと、きわめてかんばしからぬ伝言をよこすだけである。しかしながら、二人は軍隊の戦術にある|不撓不屈《ふとうふくつ》の精神で、あくまで待っていると、とうとうまたベルが鳴り、タルキングホーン氏を占有していた依頼人が彼の部屋から出て来る。
その依頼人はきれいな老婦人、ほかでもない、チェスニー・ウォールドの屋敷の女中頭、ミセス・ラウンスウェルである。しとやかに古風な|会釈《えしやく》をして、その神聖な奥の院から出て来て、静かにドアを締める。ここではかなり丁重に扱われていると見え、事務員が席を立って来て案内し、表の事務室を通って送り出そうとする。老婦人はその心づかいに礼を述べている時に、待ちもうけている老兵たちに目を留める。
「失礼ですが、あのかたがたは陸軍の軍人さんだと思いますが?」
事務員はこの質問を目顔で二人に伝えるが、ジョージ氏は煖炉の上の|暦《こよみ》を見ていて振り返らないので、バグネット氏が返事を引受けて、「はい、奥さん。以前はそうでした」
「そうだと思いましたわ。そうにちがいないという気がしました。みなさんのお姿を拝見していると、なつかしくなるのですよ。こういうかたがたを拝見すると、いつもそうなのですよ。みなさんに神さまの御恵みがありますように! 年寄りの失礼をお|赦《ゆる》し願いますが、むかし、わたしには兵隊にいった息子がありました。きれいな、すばらしい若者で、向う見ずながら、いい子でした、もっとも、あの子のことをこのかわいそうな母親に向って、悪くいう人もいましたけれど。お邪魔をいたしまして、ごめん下さい。みなさんに神さまの御恵みがありますように!」
「ご同様に、奥さん!」とバグネット氏は心からの好意を見せて答える。
老婦人の真情のこもった声、その一風変った老いの身をゆるがした身ぶるいには、たいそう胸を打つものがある。しかしジョージ氏は煖炉の上の暦にすっかり心を奪われているので(たぶん、これから先の何カ月かを暦で数えているのだろう)、老婦人が立ち去って、うしろからドアが締められるまで、振り返らない。
「ジョージ」彼がようやく暦からこちらへ向き直ると、バグネット氏はしゃがれ声でささやく、「気を落すなよ! 『なんで、兵隊さん、なんで――おれたちがしょげこむものか、おい?』だ。元気を出せ、よう、君!」
またしても事務員が、二人はあい変らず待っていると告げにゆき、タルキングホーン氏がややかんしゃくを起して、「そんなら、連中を入れるがいい!」という声が聞えて、二人が天井に絵の描いてある大きな部屋に通ると、タルキングホーン氏は煖炉の火の前に立っている。
「さあ、君たち、なんの用だ? 軍曹、この前会った時、ここへ来てもらいたくないといってあるぞ」
軍曹は――そこへゆくまでの数分間のうちに、ふだんの口のききかたを、いや、ふだんの姿勢さえも、すっかりなくしてしまって――自分はこの手紙を受取り、スモールウィード氏のところへいったところが、ここへ来るようにいわれました、と答える。
「君にいうことはなにもない。負債をつくったなら、それを支払うか、それともその結果に責任を負わなければいかん。それを教わりにここへ来るまでもなかろう?」
軍曹は、残念ながら金を用意してありません、という。
「よろしい! それなら、もう一人の男が――ここにいるのがそうなら、この男が――君のかわりに払わねばいかん」
軍曹は、残念ながらもう一人の男も金を用意してありません、といい添える。
「よろしい! それなら君たち二人で払うか、さもなければ二人とも訴えられて、二人とも苦しまなくてはいかん。金を借りたのだから、返済しなくてはいかん。他人の金を、一ポンド、一シリング、一ペニーでもふところに入れて、そのまま済ませるべきじゃない」
弁護士は安楽椅子に腰を下して、火をかき起す。ジョージ氏は口を開いて、どうかお願いいたしますが――
「いいか、軍曹、君にいうことはなにもない。私は君の仲間を好まんし、君にここへ来てもらいたくない。こういう問題を扱うのは、まったく私の業務じゃないし、役目でもない。スモールウィード君は親切にもこういう事件を私に提供してくれるが、私の専門外だ。クリフォード法学予備院のメルキゼデク法律事務所へゆくがいい」
「そんなにお気がすすまないのに、むりなお願いをすることになってまことに申訳ありませんが――この点は自分としましても、先生に劣らぬほど、好ましくないのですが、内々で少々お話し下さいませんでしょうか?」
タルキングホーン氏は両手をポケットに入れたまま立ち上り、窓辺の切りこみのところへ歩いてゆく。「おい! 私は時間をむだ使いしてはいられないのだ」まったく無関心をよそおいながらも、彼は光を背にして立つとともに、相手の顔を光のほうに向けさせるように注意して、鋭い視線を相手にそそぐ。
「それで、自分といっしょにいるこの男が、この不幸な事件に巻きこまれたもう一人の当事者でありますが――それも名義だけ、ほんの名義だけのことです――自分のただ一つの目的は、自分のためにこの男が罰を受けないようにすることであります。この男は妻子のある、いたってりっぱな人間で、以前は近衛砲兵連隊におりまして――」
「おい、君、私は近衛砲兵の編制全部に――将校にも、兵隊にも、運搬車にも、輸送馬車にも、大砲にも、弾薬にも――これっぽっちの関心もないよ」
「そうでございましょう。しかし、自分は、自分のためにバグネットとその妻子が損害を受けないようにすることに、大いに関心があります。それで、もしバグネット一家をこの事件から救い出すことが自分にできますなら、ほかの条件はいっさい付けずに、先日先生がお望みになった品を手離してもいたしかたないと考えております」
「それをここに持っているのか?」
「ここに持っております」
「軍曹」と弁護士は、相手からすればどんなすさまじさを見せられるよりも、はるかに始末しにくい、例の、そっけない冷静な態度で話をつづけ、「私が話しているあいだにきっぱり決心をつけたまえ、今度が最後だから。話し終えたら、この問題はおしまいにして、もう二度と取り上げない。それを心得ておきたまえ。君が望むなら、ここへ持って来たというその品を、数日間ここへ置いてゆくがいい、あるいは、君が望むなら、すぐに持ち帰るがいい。もし置いてゆきたいなら、これだけのことをしてあげる――つまり、この問題をもとどおりの条件に戻してあげるし、その上、こういう証文を書いてあげてもいい、すなわち、バグネットは、君が訴えられてぎりぎりのところへゆくまで、いっさい迷惑をこうむらない、君の資産が尽きるまで、債権者はバグネットの資産を当てにしない、という証文だ。決心をしたかね?」
軍曹は片手を胸にさし入れ、ため息をつきながら答える。「ぜひそうしなければなりません」
そこでタルキングホーン氏が眼鏡をかけて、腰を下し、証文を書いて、それをバグネットに
ゆっくり読んで説明してやると、こちらはそのあいだじゅうずっと、天井を見つめていたが、この新しい、言葉のシャワーを浴びせられると、はげた頭に片手をのせて、どうやら、自分の意見を述べてくれる女房を、大いに必要としているらしい。それから軍曹は折りたたんだ書類を一枚、胸のポケットからとり出し、気のすすまぬ手つきで弁護士の手近に置く。「これは、ほんの指令の手紙一通だけであります。あのかたからいただいた最後のであります」
ジョージ氏よ、石うすが表情を変えるかどうかを、もし君が調べてみるなら、今その手紙を開いて読んでいるタルキングホーン氏の顔の中に、石うすの場合に劣らぬほど早く、表情の変化を見つけ出すことだろう! タルキングホーン氏は手紙をたたみ直し、死人のように動じない顔つきで、机の中にしまう。
そして彼はもうそれ以上なにもいうことも、することもなく、ただ一度だけ、同じ冷たい無礼な態度でうなずき、手短かにいう。「君たちは帰るがいい、ほら、この人たちを送りなさい!」二人は送り出されると、食事をしにバグネット氏の住いへ向う。
この前の時の、豚肉と野菜のごった煮の夕食に変って、この日の夕食は牛肉と野菜のごった煮だが、バグネット氏の女房は同じやりかたで食事をくばり、彼女のこの上もない上機嫌を調味料にして、その味を引立てる。というのは、彼女はじつに貴重な女房で、自分が手に入れたよいものを、なに食わぬ顔で、よりよいものに変え、身近のどんなちいさな闇からでも光をつくり出すのである。この日の闇はジョージ氏の暗いひたいで、彼はつねになくもの思いにふけり、ふさぎこんでいる。最初、バグネットの女房はケベックとマルタ二人がかりの愛撫で、彼をふだんの気分に戻そうとするが、おさない娘たちが、今日の「|無骨《ぶこつ》おじさん」はふだんの陽気な友だちの「無骨おじさん」でないと気づいたことを知ると、目くばせをしてこの軽歩兵隊を立ち去らせ、ジョージ氏を炉ばたの、いわば、開豁地に置いて悠々と展開させようとする。
しかし、彼は悠々と展開しない。密集隊形のまま、暗い色をしてふさぎこんでいる。女房が木ぐつをはいて洗い物をしている長いあいだ、彼とバグネット氏はパイプをあてがわれるが、彼は夕食の時と同じである。煙草を吸うことを忘れ、火を眺めては物思いに沈み、パイプをとり落し、こんなふうに少しも煙草を楽しんでいる様子も見せないので、バグネット氏の胸は不安とろうばいでいっぱいになる。
それで、ようやくバグネット氏の女房が、心身を活気づける洗いおけのおかげで、ばら色の顔であらわれ、腰かけて裁縫を始めると、バグネット氏は「ねえ、おまえ!」とうなり、いったいどうしたのか調べろと、目くばせをする。
「まあ、ジョージ」とバグネット氏の細君は静かに針に糸を通しながら、「ずいぶん元気がないのね!」
「そうですか? おもしろくない客ですか? なるほど、そうかも知れない」
「おじさんはちっとも『無骨おじさん』らしくないわ、お母さん!」とちいさなマルタが叫ぶ。
「気分がよくないからだと、あたし[#「あたし」に傍点]は思うわ」とケベックがいい添える。
「『無骨おじさん』らしくないのも、たしかに悪い徴候だ!」と二人の少女にキスしながら、軍曹が答える。「しかし、ほんとうなんだよ」と、ため息を一つ――「どうも、ほんとうらしい。この子たちのいうことはいつも当っている!」
「ジョージ」バグネット氏の細君は忙しげに仕事をしながら、「もしわたしが、あんたは、年とった軍人の口やかましい女房が今朝いったことを考えて、気を悪くしているのだと思ったら――その女房はあとで舌を|噛《か》みきりたいような気持になったし、そうすべきだったわ――今度はどんなことをいい出すか分らないことよ」
「ほんとにやさしい、いい人だ」と軍曹が答える。「そんなことはちっとも思っていません」
「なぜかというとね、じっさいほんとに、ジョージ、わたしがいったり、いおうとしたことはね、わたしはあんたにリグナムを任せて、きっと無事にこの人を助けてくれると信じていたのよ。そしたら、あんたはじっさい[#「じっさい」に傍点]この人を助けてくれたのね、りっぱに」
「ありがとう、奥さん」とジョージはいう。「御親切にそういって下さってうれしく思いますよ」
裁縫物を持っている、バグネット氏の女房の手を、親しげに握った時に――女房は彼のわきにすわっていたのである――軍曹は彼女の顔に注意をひかれる。針をせっせと動かしている彼女の顔を、しばらく眺めたのち、彼は、部屋の隅で腰かけにかけているウーリッジ少年のほうを向き、この横笛吹きにそばへ来るようにと身ぶりで知らせる。
「おい、君、あそこを見たまえ」とジョージは母親の髪を手でそっとなでながら、「あの慈愛にみちた、やさしいひたいは、君のものだ! 君に対する愛情が一面に輝いている。君のおやじについて歩き回り、君の世話をしたために、太陽と気候の|痕《あと》が少し残っているけれども、木で成熟したりんごのように、みずみずしくて健康だ」
バグネット氏の顔が、その無表情の許すかぎり、精一杯の同意と承認の色を示す。
「ねえ、君、そのうちに、君のおふくろのこの髪が白くなり、このひたいじゅうが|皺《しわ》だらけになる時が来るよ――その時はりっぱなおばあさんになるだろうなあ。君は若いあいだによく気をつけて、そういう時が来たら、『おれ[#「おれ」に傍点]はお母さんの髪の毛一本、白くさせたことはなかった――おれ[#「おれ」に傍点]はお母さんの顔に、悲しみの皺一筋、つけたことはなかった!』と思うことができるようにするんだ。なぜって、君が|大人《おとな》になった時に考えることのできる、たくさんのことすべてのうちで、それ[#「それ」に傍点]を身につけるほうがいいんだ、ウーリッジ!」
ジョージ氏は最後のしめくくりとして、椅子から立ち上り、少年を母親のかたわらに腰かけさせ、それから少しあわただしげな様子で、表へいってちょっとパイプをふかして来よう、という。
[#改ページ]
第三十五章 エスタの物語
私は数週間病いの床についていたので、つね日頃の生活はまるで昔の記憶のようになってしまいました。でも、これは時間の経過によって起ったことではなく、病室でどうしようもなく、ただじっと寝ているだけという、習慣の上の変化から生じたことだったのです。病床についていく日もたたないうちに、病気以外のことはどれもこれも、遥かかなたに遠ざかってしまったようで、これまでの私の生涯に起ったいろいろなことは、実際それぞれかなり間をおいて起ったのに、ほぼ一緒のように思えるのでした。病気になったことで、私はいわば暗い湖を渡ったようなもので、これまでのすべての体験は健康の岸辺に置きざりにされ、遠く離れているためにひとまとめにごっちゃになっているように見えるのでした。
はじめのうちこそ家事ができないのを心配していましたが、まもなく家事のこともグリーンリーフ塾での昔の仕事や、折りカバンを小脇に抱え、小さな影法師をお伴に従えて、学校から養母の家へ帰って来た、あの夏の午後のこと同様、すっかり遠いかなたに去ってしまいました。人の一生が実に短いものであること、心の中で考えればほんの小さな空間になってしまうことを、この時はじめて知りました。
私の病気が重かった間、このようにいろいろな時間の区別がお互いにつかなくなってしまったために、私はとてもつらい思いをしました。同時に子供にも、少女にも、あんなにも幸せだった小さなおばさんにもなった私は、それぞれの場合に応じた心配やら面倒ごとやらに苦しめられたばかりでなく、なんとかそれらのつじつまを合わせようと、際限なく苦しんでいたのです。実際にそうした経験をお持ちでない方には、私の申している意味も、またこのようなところからどんなつらい不安の気持が湧いて来るかも、わかっていただけないだろうと思います。
同じ理由から私は病気中――それは長い一夜のように思えるのですが、夜も昼もあったに違いありません――のある時のことをお話するのがこわいくらいなのです。私は途方もなく大きな階段をあえぎあえぎ上って、頂上にたどり着こうといつも思っていながら、庭の小道でいやな虫を見た時のように、いつも何か邪魔物に会って引き返し、またもう一度上りはじめるのです。自分がベッドで寝ているらしいとは、だいたいいつでもぼんやりと考えてはいましたが、はっきりわかるのは時折のことでした。私はチャーリーと話をしたり、チャーリーの手にさわったりして、彼女のいることはよくわかっていたのですが、気がつくと自分でぶつぶついっているのです。「チャーリー、このきりのない階段は――どこまでも、どこまでも続いて――天までとどいているのよ、きっと!」そしてまたもう一度、あえぎあえぎ上りはじめるのです。
もっと病気がひどくなった時のことは、とうていお話する気にもなりません。まっ暗な大きな虚空のどこかに、炎となって燃えるネックレースだか、指環だか、何か円の形になった星のようなものがかかっていて、その玉の一つがこの私[#「私」に傍点]なのです。そして私のただ一つの祈りというのが、私だけそこからはずして下さいと願うことで、こんな恐ろしいものの一部になるのが、言葉でいい尽せないほど情けなくつらいことだったのです。
こんな病気中の経験のことは、話せば話すだけ退屈で、ばからしく思えることでしょう。こんなことを思い出すのも、他の人たちを不幸にさせたいためでもなければ、いま思い出すと気安めになるからでもありません。このようなふしぎな苦しみをよく理解できればできるほど、その痛みをやわらげることができるからかもしれません。
悪夢が終ってからは安息、長い気持のよい眠り、幸せな憩いが続きました。ぐったり弱ってしまったあまり、気持がすっかりおだやかになって、心配を感ずることもできなくなり、私が危篤だと誰かがいっている声を聞いている(それとも今から思うと、気のせいだったのでしょうか)余裕もできました。あとに残してゆく人たちにあわれみのこもった愛情を感じただけで、他の気持はないのです――こんな気持はたぶんもっと多くの人にわかって頂けると思います。もう一度光が私の目の前にまたたいて、ひとたびははっと恐れおののきはしたものの、それからとても言葉ではいいあらわしようもない歓喜とともに、また目が見えるようになったのだ、と知った時、私はちょうどそんな気持だったのです。
昼となく夜となく、ドアの外でエイダの泣いている声が聞えました。ひどい人、私を愛してくれないのね、と彼女が泣き叫んでいるのも聞えました。入れてちょうだい、看病して慰めてあげたいのよ、絶対に枕辺から離れないから、と懇願している声も聞えました。でもそんな声が聞えるといつも私は、「だめよ、いけないわ!」というだけでした。私は何度も何度もチャーリーに向って、私が死んでも助かっても、絶対あの人を部屋に入れてはだめよ、と念を押しました。この一大事に当ってチャーリーは私を裏切らず、そのか弱い手と強い愛情とで、ドアを守り続けてくれたのです。
でも、いまや私の目はだんだんよく見えるようになりました。あのすばらしい光は日ごとに明るく輝かしくなって来て、毎朝毎晩やさしいエイダがよこしてくれる手紙を読み、それを唇や頬におし当てて、これなら彼女に病気をうつす心配はない、と思うことができました。私のかわいい小間使がいかにも親切にまめまめしく、二つの部屋をいったり来たりしながら、あれこれ整頓したり、開いた窓からエイダに明るい声で話しかけているさまを、見ることができました。お屋敷中がしんと静まり返っているのは、これまでいつも私に親切にして下さったかたがたの、思いやりのしるしだとわかりました。嬉しさと幸福とで胸がいっぱいになって涙がこぼれ、身体は弱ってはいるものの、元気だった頃と同じように幸せを感じました。
間もなく身体も力がついて来ました。ただ寝たきりでおとなしく、なすがままにされていながら、まるで自分が他人で、それにそっとあわれみをかけているみたいな気持ではなくなって、少しはお手伝いができるようになり、それが少しからだんだん増えて来て、自分の用は自分で足せるようになり、また生活に興味と愛着を覚えるようになりました。
はじめて枕をあてがってベッドの上に起き上り、チャーリーと一緒においしいお茶を飲んだあのすばらしい午後を、今でもまざまざと憶えています! 小さなあの子――きっと弱いもの病めるものを助けるようにと、この世につかわされた天使なのでしょう――はすっかり嬉しがってしまって、忙しくお茶の支度をしながらも、始終手を休めては私の胸に頭をもたせかけたり、私を抱きしめたり、嬉しい、嬉しい! といって泣き笑いしたりしますので、とうとう私は、「ねえ、チャーリー、いつまでもそんなふうだと、私はまた寝込んでしまわなくちゃならないわ。だって思ったよりも弱っているんですもの!」といわざるを得なくなりました。するとチャーリーはとてもおとなしくなって、二つの部屋の中をあちこち歩きまわり、日蔭と輝かしい|日向《ひなた》の間をこまめにいったり来たりします。私は安らかな気持でじっとそれを見つめています。支度が全部整い、きれいなお茶テーブルに白いテーブル掛け、|活《い》けられたお花、私の気に入りそうなお菓子と、下でエイダが私のためにすばらしく上手に揃えてくれたものが、私のベッドの傍にやって来た時、私はまえまえからいいたいと思っていたことを、今なら口に出してチャーリーに尋ねても大丈夫なくらい、気持が落ちついていると感じました。
まず第一にチャーリーの部屋の整頓のしかたをほめました。本当にさわやかな空気で、|塵《ちり》一つなくきちんと清潔で、私がここであんなに長いこと寝ていたなんて、信じられないくらいだわ。チャーリーはほめられるとすっかり喜んで、顔がいっそうはればれして来ました。
「でもねえ、チャーリー」私はあたりを見廻しながら、「見なれたもので、見当らないものが一つあるんだけれど」
かわいそうにチャーリーもあたりを見廻して、全部揃っているのにへんねえ、と首をかしげるふりをするのでした。
「私の絵の額は全部もとのところにあるかしら?」私が尋ねました。
「はい、全部あります」
「家具は?」
「広くしようと思って、動かしはしましたけど」
「でもねえ」私がいいました。「見なれたものが何か一つ見当らないわ。ああ、わかったわ、チャーリー! 鏡よ」
チャーリーは何か忘れ物をしたみたいにテーブルから立ち上ると、隣りの部屋にいってしまいました。そこからすすり泣きの声が聞えて来ました。
これまでいく度も考えていたことが、これではっきりわかりました。もうそれがわかってもショックを受けないで済んだことを、神さまに感謝する気持になれました。私はチャーリーを呼び戻し、彼女がやって来ると――はじめのうちは無理に笑おうとしていましたが、近づくにつれて悲しげな顔になるのです――腕で抱き寄せて、こういいました。「チャーリー、何でもないのよ。私はもとの顔がなくても平気でいられるでしょうから」
まもなく私はひじ掛椅子に坐れるくらい元気になり、その上、目まいがしましたがチャーリーにすがって隣りの部屋まで歩けるようになりました。その部屋でも鏡がもとの場所から姿を消していました。でもそれだからといって、私がそれだけ余計につらい思いをしたわけではありません。
ジャーンディスさんも私の病気中ずっと熱心にお見舞に来たがっていらっしゃいましたが、もうそれをお断りする必要もなくなりました。ある朝のこと、はじめておいでになると、ただ私を抱きしめて、こうおっしゃっただけでした。「元気になって、よかったね!」私にはまえまえからわかっていました――私にはいちばんよくわかっていたのです――ジャーンディスさんの心の中に、どんなに深い愛情と温情の泉が秘められているか、ということが。私のとるに足らない苦しみや変りはてた顔かたちなんか、その泉にひたる資格はとてもないのではないでしょうか? 「わかったわ!」私は心の中で思いました。「私の顔をご覧になって、まえ以上に私を愛して下さっているのだ。私の顔をご覧になって、かえってますます私を愛して下さるのだ。それなのに私は、何を悲しむことがあるのだろう!」
私の傍のソファにお坐りになると、私を腕で支えて下さりながら、しばらくのあいだ手をご自分の顔に当てていらっしゃいましたが、その手を離すとまたいつもの態度に戻りました。いつものようにこの上もなく快活な態度でした。
「ちいさなおばさん、ずいぶんつらい思いをしたね。でもはじめから終りまで、見上げたがんばりおばさんだったねえ!」
「つらいあとにはいいことがありますわ」私がいいました。
「いいことだって?」ジャーンディスさんはやさしい顔で、「もちろん、いいことだとも。でも、エイダと私はほんとに淋しくて情けない思いをしたし、君のお友達のキャディは始終足を運んで来たし、この屋敷のあたりの人は誰も彼も、ほんとにがっくり参ってしまったし、あの気の毒なリックまでが、君のことを心配して、手紙をよこしたのだよ――しかもこの私[#「私」に傍点]にね!」
キャディのことはエイダの手紙で知っていましたが、リチャードのことは聞いていませんでした。私がそういいますと、
「それはそうだろう。そのことはエイダに話さない方がいいと思ったのでね」
「でも、リチャードがおじさま[#「おじさま」に傍点]に手紙をよこしたとおっしゃいましたが」私も同じところを特に強めてくり返しました。「まるでそんなことをするのがふしぎみたいなおっしゃりようですね。まるでほかに手紙を出すもっといい友達がいるみたい」
「彼はそのつもりでいるのだよ。もっといい友達がたくさんいると思っているらしい。実をいうと彼は、あなたに手紙を出しても返事を貰えないものだから、私あてにいわば抗議の手紙をよこした――冷淡で、つんとしてそっけない、腹を立てた調子の手紙を。でも、私たちは大目に見てやらなくてはいけないよ。彼が悪いんじゃない。ジャーンディス対ジャーンディスの訴訟事件が彼の性格を歪めてしまい、私を見る目をひねくれさせてしまったんだから。私はそうした悪い、いやもっと悪い影響が生まれた例をたくさん知っている。天使だってあの事件にまき込まれたとしたら、性質が変ってしまうことだろう、きっと」
「でも、おじさまの性質は変りませんでしたね」
「いやいや、変ったよ」おじさまは笑いながらお返事なさいました。「何度南風が東風に変ったか、わからないくらいさ。リックは私を疑いと不信の目で見る――そこで弁護士のところへ出かけていくと、私を疑いと不信の目で見ろ、と教えられる。私が彼と敵対する利害をもち、彼の権利に不都合な権利を主張しているとか、なんとかかんとか聞かされる。ところが、私の不幸な名前があんなにも長いことつけられて来た、この仰々しいさわぎの山から、もし私が逃げ出すことができるものだったら(そんなことはできっこないが)、それとも私のもともとからの権利を放棄することで、その山を平らにすることがもしできるものだったら(それもできっこない。どうしたって人間の力でできるものではないよ。ことここにまでなってしまったのだからね)、今すぐにでもやりたいよ。大法官裁判所の車にかかって、魂も心も八つ裂きにされて死んだ訴訟人が、むざむざ経理局長官の手に残したお金――その金たるや、大法官裁判所の天までそびえる害悪を永遠に記念すべき、ピラミッドを鋳造するに充分なくらいあるが――そんな金を貰うくらいなら、気の毒なリックにもとの性質をとり戻させてやりたいよ」
「リチャードがおじさまのことを疑いの目で見ているなんて、そんなことあるものでしょうか?」私は驚いてしまって、こう尋ねました。
「このような害毒は知らず知らずのうちに、そうした病気を生み出すのだねえ。彼の血が毒されてしまって、目に見えるものすべてが、自然の形でなくなってしまうのだよ。彼の[#「彼の」に傍点]罪じゃない」
「でも、たいへん不幸なことですね」
「ジャーンディス対ジャーンディス事件の渦の中にまき込まれてしまったというのが、そもそも大変な不幸なのだ。これ以上の不幸はあるまい。しだいしだいに彼はあの腐れ葦(1)を信頼するように仕向けられて、それが腐敗菌の一部を彼の周囲のすべてのものにうつしていくのだよ。でも、もう一度いうが、気の毒なリックを辛抱強く見守ってやらなくてはいけない。彼を責めてはいけない。彼と同じような若い立派な心の持主が、同じようにしてむしばまれた例を、私はこれまで何回となく見たのだから!」
ジャーンディスさんのような私利私欲のない、慈愛深い方の善意が実らないのを見て、私は驚きと悲しみの言葉をもらさずにはいられませんでした。
「そんなことをいってはいけないよ、ダードンおばさん」おじさまは陽気な声でおっしゃいました。「エイダの方がしあわせになってくれる、それで充分だよ。私とあの二人とが、疑ぐり合うかたき同士ではなくて友人になり、訴訟の毒を消して勝利をおさめることができはしないかと思ったこともあったが、これはあまりにも虫のよすぎる希望だった。ジャーンディス対ジャーンディスの訴訟事件は、若いリックに目かくしをしてしまったのだよ」
「でも、少し実際の経験を積めば、それがどんなに当てにならない、ひどいものか、わかるようになるのではありませんか?」
「そうなって欲しい[#「欲しい」に傍点]ものだね、エスタ。手遅れにならないうちにわかって欲しいね。どちらにしても、私たちは彼を責めてはいけない。世間を知った立派な一人前の大人でも、もし同じこの訴訟事件にまき込まれれば、十中八九は、三年――いや、二年――いや、一年とたたぬうちに、がらりと人が変って堕落してしまうだろう。あの気の毒なリックではむりもないさ。あんなに若いんだから」ここでおじさまの声は低くなって、思わずひとりごとをいっているような口調になりました。「誰だってはじめのうちは、大法官裁判所の実情を信じられやしないんだ。期待をかけて、何か自分のためになることを主張して、相続分配にあずかろうと熱を上げあくせくするが、訴訟はのびのび、失望と苦痛にさいなまれ、明るい希望も忍耐もしだいしだいに種切れになる。それなのにまだ期待をかけて、追い求め、全世界に不信と幻滅を抱いてしまう。なんたることだ! 全くこれは、ひどいことだ!」
おじさまははじめから終りまで私を寄り添わせて下さいました。その慈愛が身にしみて感じられましたので、私も頭をその肩にもたせかけ、まるで父親に対するような愛情を感じました。言葉がしばし途切れた間に、私は元気になったらぜひリチャードに会いにいって、彼の迷いを覚まさせてあげよう、と決心を固めました。
「せっかくエスタの病気がなおったおめでたい日なのだから、もっと楽しい話をしよう。まっ先にきいて下さいと頼まれたことがあるのだ。エイダはいつになったら会いに来てよいのだろうか?」
私もそのことを考えていたところでした。鏡が消えてなくなったことに関連してですが、それほど関係があったわけでもありません。やさしいエイダは私の顔かたちが変っても、決して態度の変るような人ではない、とわかっていましたから。
「そうですね」私が答えました。「長いことあの人を閉め出してしまいましたから――でも、本当は、本当は、あの人、私にとって光のように思えたのですけど――」
「ダードンおばさん、それはよくわかっているよ」
ジャーンディスさんは本当に思いやりのある方なので、慈愛と同情にあふれたその腕に抱かれ、心にやさしく響くその|声音《こわね》を聞いていますと、私はしばらく言葉を続けることができなくなりました。「そうだ、もう疲れただろう」おじさまがおっしゃいました。「少し休みなさい」
「エイダをこれまで長いこと閉め出してしまいましたから」しばらくしてから、私はもう一度話し出しました。「いっそのこと、もう少しのあいだ私のわがままを続けたいのですけど。エイダと顔を合わせる前に、ここからよそへ出かけた方がいいと思うのです。私が旅行できるようになったらすぐ、チャーリーと一緒にどこか田舎に部屋を借りて、一週間ばかりそこに滞在して、清らかな空気で身体も心も元気づけて、エイダとふたたび顔を合わせる喜びを待ち望むようになってからの方が、二人にとっていいのではないかと思うのです」
私があんなに会いたいとこがれていたかわいい人と顔を合わせる前に、変り果てた自分の姿にもう少し慣れておきたい、こんなことを願うのは決して情けないことではあるまいと思うのですが、ともかくそれが正直な気持でした。私はそうしたいと願ったのです。おじさまにはきっとわかっていただけたと思います。でも、べつに私はそのことを気に病んではいませんでした。情けないことだとしても、おじさまはそれをおとがめにはならなかったでしょうから。
「甘ったれのおばさんだから、わがままのがんばりも許してあげよう。もっとも、|階下《した》で涙を流す人もいることだろうがね。ああ、そうそう! 騎士道精神のかたまりのボイソーンから手紙が来ているのだよ。もしあなたが小生の屋敷へお出で下さって、全部使って下さらないのなら、小生はすでにそのつもりで屋敷を引きはらったのでありますから、断固として屋敷を打ちこわし、煉瓦のかけら一つたりとも残さぬ所存に御座候、と、これまでの手紙に見られないようなものすごいけんまくだ!」
ジャーンディスさんが手紙を渡して下さいました。「ジャーンディス様」とか「拝啓」とかの世間並みの書き出しぬきで、いきなり本文が始まっていました。「万一サマソン嬢小生宅に御来訪賜わらざらむ節は、小生本日午後一時にそのつもりにて拙宅を立ちのく所存なれば」というあとに、おじさまのおっしゃったような、たいへんなけんまくで猛烈な決意の程が大真面目に書いてありました。私たちはそれを読んで腹をかかえて笑いはしましたが、好意は身にしみて有難く思いました。そこで明日さっそくお礼の手紙を出して、お招きに応ずることにしました。このお招きはとても嬉しく感じました。私の思いつく場所の中で、チェスニー・ウォールドほどいきたいと思ったところはありませんでしたから。
「さて、ちいさな奥さん」おじさまは時計を見ながら、「この部屋に来る前に、きっかり時間の予定を立てて来たのさ。まだ君はあまり疲れてはいけないからね。で、予定の時間はもうすっかりなくなってしまった。もう一つだけお願いがあるのだよ。あのフライト婆さんが、君が病気だという噂を聞いて、二十マイルの道を遠しとせずに歩いて――まあかわいそうにダンス用の靴をはいてだよ――お見舞いにやって来てね。私たちが家にいたのは天の助けというものさ。さもないとまた歩いて帰ったことだろうからね」
私を幸せにして下さろうと、またもや皆さんでぐる[#「ぐる」に傍点]になっていらっしゃる! 誰も彼もがそれに荷担していらっしゃるみたい!
「ねえ、あのお婆さんなら会ってやっても迷惑にも退屈にもなるまい。ボイソーンの愛する屋敷を破壊から救ってやってくれる前に、一度会ってやってくれれば、お婆さんきっと大喜びして得意になるよ――この高名天下にとどろくジャーンディス氏が一生かかっても、させてやれないほどね」
あのかわいそうなお婆さんの無邪気な姿を見れば、何かその時の私の気持にためになる教訓が得られることになるだろう、とジャーンディスさんにはちゃんとおわかりになっていたのです。おじさまの言葉を聞いているうちに、私はそう感じました。私は喜んで会うことにしました。いつもあのお婆さんをかわいそうだと思っていましたが、その時ほど痛切に感じたことはありませんでした。困っているお婆さんを慰めてあげることができて、いつも嬉しく思っていたのですが、その時ほど嬉しいと思ったことはありませんでした。
フライトお婆さんに馬車で来てもらって、早目の昼食を一緒にとるよう打ち合わせました。ジャーンディスさんが帰ってから、私は寝椅子の方に向い、私がこんなにまわりの人たちから大事にされているのに、もし私の小さな苦しみを大げさに考えているようなことがありましたら、どうかお許し下さい、とお祈りしました。子供のとき誕生日に、勤勉、満足、親切を身につけ、人のためにつくし、できれば人からも愛されたい、とお祈りを捧げたことを思い出して、それ以来こんなにしあわせになれ、いろいろな人から親切にされたのが、悪いみたいな気持がするのでした。もし私が今弱気になったら、こうした慈愛に恵まれたことが、なんの役にもたたないではありませんか? 私は子供の時のお祈りを、子供の時の言葉通りに唱えて、昔通りに平穏な気持になることができました。
ジャーンディスさんは毎日のように訪ねておいでになりました。一週間ばかりすると、私は部屋の中を歩き廻れるようになり、窓掛けの蔭からエイダと長いことおしゃべりできるようになりました。でも、エイダの姿を見ることはしませんでした。彼女に見られないようにして、こちらから彼女の顔を見ることはたやすくできたでしょうが、私にはまだそうする勇気がなかったのです。
約束の日にフライトお婆さんがやって来ました。いつもの堂々たる態度は忘れてしまい、私の部屋に駈け込むやまごころをほとばしらせて「まあ、フィツ=ジャーンディス!」と叫ぶと、私の首にすがりついて、何度も何度もキスをしました。
「まあ、どうしましょう!」お婆さんは手提げの中に手を突込みながら、「ここには裁判書類しか入っていないわ。ハンケチを借りなくては」
チャーリーがハンケチを差し出しますと、お婆さんは大いにそれを利用しました。何しろそれから十分ばかりの間、両手でハンケチを目に押し当て、涙を流しながら坐っていたのですから。
「嬉し泣きなんですよ、フィツ=ジャーンディス」お婆さんはわざわざ説明するのでした。「悲しいからじゃないんですよ。またお会いできて嬉しいのです。会っていただいて光栄だからです。私は大法官閣下よりも、あなたの方がずっとずっと好きなんですよ。もっとも私は法廷にきちんきちんと通ってはいますけれど。ところで、ハンケチといえば――」
ここでフライトお婆さんは、馬車の停留所までお迎えにいって来たチャーリーの方を見るのでした。チャーリーは私の方をちらと見ましたが、お婆さんの言葉をとり上げたくないような様子でした。
「そう、そう」フライトさんがいいました。「その通り、ですね。全く、私としたことが、あんなこと口に出すなんて、軽はずみでした。でもね、フィツ=ジャーンディス、私はどうもときどき(ここだけの話ですが、あなたはそうお思いにはなりますまいが)少し――その、ここがおかしくなることがあるんですよ」そういいながら額をさしました。「それだけのことなんですよ」
「何のお話をなさろうとしていたのですか?」私は笑いながら尋ねました。どうやらお婆さん、実は話を続けたそうに見えたからです。「私の好奇心をもうそそってしまったのですから、お話して下さらなくてはいけませんわ」
フライトさんはこの重大な危機に臨んで、どうしたらいいでしょう、といわんばかりにチャーリーの方を見ました。するとチャーリーが、「それでは、お話なさった方がよろしいですわ」といってくれたので、たいへんな喜びようでした。
「こちら、賢いお嬢さんですね」お婆さんは私に向かって意味ありげな口調でいいました。「小粒でも、とてもお利口ですね! いえね、ちょっとしたことなんですよ。それだけのことなんです。でも、すてきだと思いますよ。馬車を下りたら、私たちのあとからついて来たのが、誰かと思いましたら、みっともない帽子をかぶった貧しい女の人で――」
「お嬢さん、ジェニーなんですよ」チャーリーが説明しました。
「そうそう、その通り!」フライトお婆さんが調子を合わせて、「ジェニーでした、その通り! そのジェニーがこちらのお若い方に話すことが、何かと思いましたら、フィツ=ジャーンディスの病気の具合を尋ねに、ヴェールをかぶった立派なご婦人がその女の家にやって来て、フィツ=ジャーンディスのハンケチがあると聞いて、記念のためにと持っていったんですって! ヴェールをかぶった立派なご婦人だなんて、すてきじゃないですか!」
私が少々びっくりしてチャーリーの方を見ますと、彼女が、「ジェニーの申しますには、ジェニーの赤ちゃんがなくなった時、お嬢さんはあそこにハンケチをおいてゆかれました。それでジェニーは赤ちゃんの形見の品と一緒に、それをしまっておいたのですって。きっと一つには、それがお嬢さんのものだからで、もう一つには、死んだ赤ちゃんの上にかけてあったからだろうと思うんです」
「小粒だけど」フライトさんは、いかにもチャーリーの頭のよさに感心したというように、額のあたりをいろいろ指しながら、小声でささやきました。「とっても、とってもお利口ね! 本当にはっきりした説明ね! こんなはっきりした説明は法律家の口から聞いたことありませんよ!」
「ええ、憶えていますよ、チャーリー。それで?」と、私がうながしました。
「その立派なご婦人の持っていったのは、そのハンケチなんです。ジェニーはどんなにどっさりお金を貰っても、それを手離したくなかったのですけど、そのご婦人がもっていってしまって、お金をおいていったのだ、ということをお嬢さんにお知らせしたかったんです。ジェニーの全然知らない女の人だったそうです」
「まあ、いったい誰かしら?」私がいいました。
「ねえ、お嬢さん」フライトさんはひどく意味ありげに私の耳もとに口を寄せながら、「この私の[#「私の」に傍点]考えではですね――これはあの小粒のお嬢さんにいってはいけませんよ――そのご婦人は大法官閣下の奥さまですよ。大法官閣下には奥さまがいるんですよ。それにひどく横暴なんですって。旦那さまが宝石屋のつけを払ってくれないと、旦那さまの法律書類を全部火の中にすてちゃうんですって!」
その時は私はこの婦人のことをあまり考えはしませんでした。キャディかもしれないと思ったからです。それに馬車旅行のあとでいかにも寒そうで、おなかをすかしているらしいお客さまのことを、考えてあげなくてはなりませんでした。それに食事が出ると、お客さまはいそいそとして紙包みの中から、ひどく古ぼけたスカーフと、さんざん使い古して何度もつくろった手袋をとり出して、食事の正装をするというので、手をかしてあげなくてはなりませんでした。それに私が食事の主人役をつとめて、魚料理、鳥の焼肉料理、スイートブレッド(2)、野菜、プディング、マデイラぶどう酒などをすすめねばなりませんでした。お婆さんがいかにもおいしそうに、しかも堂々と威儀をこらして食べてくれますので、見ていても嬉しくて、じきに他のことは私の頭の中から消えてしまいました。
食事が終るとデザートが出ました。やさしいエイダの手で飾りを添えられたもので、彼女は私のために出すものは絶対に|他人《ひと》|手《で》任せにはしないのです。フライトお婆さんはすっかり幸せそうにおしゃべりを続けておりますので、いつも自分のことを話すのが好きな彼女に、身の上話をするように仕向けました。私はまず次のように口火を切ったのです。「フライトさんはもう何年も、大法官閣下のところに通っていらっしゃるのでしょう?」
「ええ、もう、何年も何年も何年も。でも、判決を待っているのです。もうじきです」
もうじきと希望をかけながらも、ひどく不安そうな様子なので、こんな話題をとり上げたのは悪かったかしら、と私は思いました。もうこのことについては何もいうまい、と思いました。
「私の父は判決を待っていました」フライトさんが続けました。「私の兄も。私の姉も。みんな判決を待っていました。私が待っているのと同じものを」
「で、その方たちはみんな――」
「そう――なんです。もちろん死にましたよ」
お婆さんはなおもこのことについて話し続けたがっていますので、私は話をそらすよりも、あいづちを打つ方が相手のためになるのだろう、と思いました。
「もう判決など待っていない方が賢明なのではありませんか?」私がいいました。
「それはもちろん、その通りですよ!」お婆さんは即座に答えました。
「もう法廷通いもやめた方が?」
「それもその通りです。フィツ=ジャーンディス、やって来もしないものを、いつまでも待っているのは、じりじりするものですよ。本当に、骨まですり切れてしまいます!」
というと彼女はちらとその腕を見せました。本当におそろしいくらい|痩《や》せ細っていました。
「でもねえ」お婆さんは意味ありげな口調で続けました。「あの場所には、何かおそろしく人を吸い寄せるものがあるのですね。しっ! あの小粒のお友達がやって来ても、そんな話をしてはいけませんよ。こわがるかもしれませんから。むりもありません。あそこには、何か情け容赦なく人を吸い寄せるものがあるのですよ。どうしても[#「どうしても」に傍点]離れられないのです。待たないではいられなくなるのですよ」
まさかそんなことありますまい、と私はいって聞かせようとしました。お婆さんは私の言葉を辛抱強く、にこにこ笑いながら聞いていましたが、また即座に返事をしました。
「そうでしょう、そうでしょうとも! あなたはそうお思いになるでしょう。何しろ私は少々おかしいですからね。ばかげていますよ。どうかしていますよ。ね? 頭が。そうですとも。でもねえ、私は何年も何年もあそこに通って、気がついたのです。大法官のテーブルの上にある大法官杖と|国璽《こくじ》(3)ですよ」
それがどうしたというのですか? と、私は穏やかに尋ねました。
「吸い寄せるのですよ。人々を吸い寄せるのです。人々から平静を吸い取ってしまうのです。正気を吸い取ってしまう。いい顔色を。いい性質を。夜になると私の安らかな眠りすら吸い取ってしまうような気さえしました。あの冷たい、きらきら光る悪魔めが!」
お婆さんは私の腕を何回か叩くと、こんな憂鬱な口調で、こんな恐ろしい秘密を打ち明けるけれど、こわがらなくてもいいのですよ、とでもいいふくめるつもりのように、機嫌よくこっくりうなずくのでした。
「ねえ、私の身の上話をしましょう」彼女はいいました。「吸い寄せられるまでは――あんなものを見るまでは――私は何をやっていたのでしょうか? タンバリン叩き? いえ違いました。タンブール刺しゅうです。私と姉とはタンブール刺しゅうの仕事をやっていました。父と兄とは大工の仕事でした。みんな一緒に住んでいました。とってもまっとうな暮しを立てていたんですよ。最初に父が吸い寄せられました――ゆっくりと、です。父と一緒にその家庭も。数年もすると父はかんしゃくもちの、苦虫をかみつぶしたみたいな、破産者になってしまい、誰にもやさしい言葉一つかけず、やさしい顔一つ見せないようになってしまいました。全く人が変ってしまったのですよ、フィツ=ジャーンディス。破産者監獄に吸い寄せられてしまい、そこで死にました。次は兄が吸い寄せられてしまいました――あっという間に――酒と、ぼろへと。そして死へと。次に姉が吸い寄せられました。しっ! どこへ? と、きかないで下さい。それから私は病気になって、みじめな目に会いました。そして、前の時もそうでしたが、これはみんな大法官裁判所のしわざだと聞きました。私の病気がなおると、私はその怪物を見にゆきました。そしてその正体がわかると、私がそこに吸い寄せられて、離れなくなってしまったのです」
まるでその時のショックが、いまだになまなましく感じられるかのように、低い緊張した声で、自分の短い身の上話を終えると、お婆さんはしだいにまたいつもの、人のいいもったいぶった態度に戻りました。
「きっと私のいうことなんか、あんまり信用なさらないでしょうね。そうでしょう、そうでしょう! でも、いつかは信用する時が来ますよ。私は少々おかしいでしょう。でも、気がついたのです。これまで何年もの間に、つぎつぎにと新しい顔がそんなことつゆ知らず、職杖と国璽の魔力に吸い寄せられたのを、この目で見ているんですよ。私の父みたいに。私の兄みたいに。私の姉みたいに。そして私自身みたいに。私はおしゃべりケンジやその仲間が、新顔の人たちにこんなことをいっているのを聞くのです。『こちらがフライトお婆さんです。おや、あなたは新顔ですね。じゃあ、フライトお婆さんに紹介しなくては!』結構ですね。お目にかかれて光栄です! そういって私たちは一同大笑いします。でも、私には将来どうなるかがわかっているのです。あの連中よりもずっとよくわかるのですよ。いつ吸い寄せられ始めるか、が。私にはその兆候がわかるんです。グリドリーの時にも、その兆候の現れるのがわかりました。それの終末も見ていました。ねえ、フィツ=ジャーンディス」またここで声を低めて、「私たちのお友達、ジャーンディスの被後見人(4)に、その兆候が現れるのが見えて来たのですよ。誰かがあの人を引き止めなくてはいけません。さもないと、破滅の淵に吸い寄せられてしまいます」
ちょっとの間彼女は黙って私を見つめていましたが、その顔はしだいにほころびて来ました。自分が憂鬱な気分になりすぎた、また頭がおかしくなりそうだという気がしたのでしょうか、お婆さんはぶどう酒をすすりながら、ていねいな口調でいいました。「そうです。さきほどもいいましたように、私は判決を待っているのです。もうじきです。その時こそ私は鳥を全部放してやって、財産を授与してやりましょう」
彼女がリチャードについていったことがひどく気になりました。その悲しい意味が彼女自身の哀れなよたよたの姿の中に、如実にあらわされていましたので、言葉のつじつまは合わなくとも、よく理解できたのです。でも彼女にとっては幸いなことに、彼女はふたたびご機嫌になり、にこにこ笑いながらうなずき続けるのです。
「でもね」彼女はもう一度私の手をとりながら、陽気な声でいいました。「あなたはまだ私のお医者さまについて、称讃の言葉をおっしゃいませんでしたね。一度もいいませんでしたね!」
それは何のことですか? と私はいうしかありませんでした。
「私のお医者さま、私にあんなに親切にして下さったウッドコート先生のことですよ。もっとも先生の方では、医は仁術だからとお思いになってらっしゃるでしょう。最後の裁きの日まで。私のいう『裁き』とは、大法官杖と国璽の魔力から私を解いてくれる裁きのことですよ」
「ウッドコート先生はもう遠くへいっておしまいになったのですから」私が答えました。「そんな称讃を述べるのは、もう昔のこととなってしまったではありませんか」
「では、あなたはひょっとしたら、あの出来事をご存知ないのでは?」
「知りませんわ」
「みんなが噂していることを?」
「ええ。私が長いことここにひきこもっていたことを、お忘れになったのですね」
「ごもっともです! このところ――ごもっともです。私がばかでした。でも、さきほど私の申した例のものに、何から何まで、私の記憶まで吸い取られてしまったのですよ。ものすごい魔力でしょう? つまりですね、インド洋でおそろしい難破が――」
「ウッドコートさんの船が難破したんですか?」
「まあまあ落ちついて下さい。先生は無事です。ひどい災難で。いっぱい人が死にました。何百人という死人や|瀕死《ひんし》の患者です。火事、暴風雨、暗闇。座礁して、大勢ほうり出されて、溺れそうになりました。そのとき、私のお医者さまの英雄的行為です。終始沈着、勇敢。多くのいのちを救い、飢えと渇きにもぐちをこぼさず、自分の着物を他人に与え、率先模範を示し、指揮をとり、病人を看護し、死者を葬り、最後には生き残りをぶじ陸地へと導いたのです! 一同骨と皮ばかりになりながらも、先生を神さまのようにおがまんばかりでした。上陸した時はその足もとにひざまずき、感謝を捧げました。イギリス中そのニュースでわき立っていますよ。ちょっとお待ちなさい! 私の書類入りの手提げはどこ? そら、ここにあった。さあ、読んでごらんなさい。ぜひ読んでごらんなさい!」
そこで私はその感激の記事を読みました。しだいしだいに目がぼやけて来て字が見えなくなり、泣けてしまったために、お婆さんが切り抜いてくれた長い新聞記事を下に置かねばならないことが、何度もありました。このような慈愛と勇気にみちた行為をなしとげた方とお近づきになれたことを、私はとても誇りに思いました。あの方の名が全国にとどろいたことを思うと、嬉しさに顔が赤らむのでした。あの方の行いに感激しました。命の恩人の足もとにひざまずいて、感謝を捧げた難破船の人たちの身になってみたいとすら感じました。そうすれば自分もこんな遠くにいながらひざまずき、感謝を捧げて、あの方の真の慈愛と勇気に感激できたはずだからです。誰一人として――お母さんでもお姉さんでも奥さんでも――私のようにあの方をご尊敬申し上げることはできない、という気がしました。本当にそういう気がしたのです!
お客さまはその新聞記事を私に下さいました。そして夕方になりかけて来ましたので、帰りの馬車に間に合うようにと腰を上げかけた時にも、まだ難破の話ばかりしていましたが、私の方はまだ興奮がおさまらず、こまかい点まではとうてい耳に入りませんでした。
彼女は大事そうにスカーフと手袋をたたみながらいいました。「あの先生には当然爵位が与えられるべきでしょうね。きっといただけると思いますよ。あなたもそうお思いでしょう?」
当然それにあたいするとは思いますが、事実いただけることにはなりますまい。
「どうしてだめなのですか?」少し怒ったような声で、彼女が尋ねました。
私は答えました。イギリスの習慣では平和時の功績に対しては、それがどんなに立派なものでも、爵位は与えられないのです。ときどき莫大なお金を積んでそれを貰う人はありますけれど。
「まあ、へんなことおっしゃるのねえ! だって、学問、芸術、慈善、その他いっさいの高邁な行為において、イギリス最高の功績のあった人たちが、すべて貴族に列せられるのは、わかりきったことじゃありませんか! まわりを見廻して、よく考えてごらんなさいよ。それだからこそわが国では、爵位が不滅の名誉となるんですよ。それがわからないなんて、今度はあなた[#「あなた」に傍点]の方が少しおかしくなっているんだわ!」
どうもお婆さんは自分のいった通りだと信じていたらしいのです。してみると、ときどき本当に頭がおかしくなることがあったのですね。
いまここで私は、これまで内証にしておこうと思っていたささやかな秘密を、明らかにしてしまわねばなりません。これまでときどき思ったことなのですが、ウッドコートさんは私を愛していらっしゃったのです。もしあの方がもっとお金持だったら、船でお出かけになる前に、私にそうおっしゃって下さったことでしょう。これまでときどき思ったことなのですが、もしそうおっしゃって下さったら、私は嬉しかったことでしょう。でも今になってみると、そうならなかったことがとてもよかったのです! もし私があの方に、あなたのご存じのあの顔はもうなくなってしまいました、あなたはこれまで見たこともない顔にしばられる必要なんか全然ないのです、と手紙を書かなければいけなくなったとしたら、どんなに私は苦しい思いをしたことでしょう!
だから、今までのままでよかったのです! 運よくつらい思いをしないで済んだので、あの方のようなすばらしい人になりたいという、子供っぽい祈りを胸の中に引っ込めることができたのです。いまさらもとに戻すものは、何ひとつとしてありません。私が鎖を断つ必要もなければ、あの方が鎖を引きずる必要もないのです。私は義務の道をつつましく歩めばよいのだし、あの方はもっと輝かしいけだかい道を歩まれるのです。二人が別れ別れの道を歩んだとしても、その道の終点にたどりついた時には、お会いできることでしょう。自分勝手な気持も、うしろめたい気持ももたず、あの方が私をいくらか好意の目でご覧になったあの時の女よりも、いっそう立派な女となって。
[#改ページ]
第三十六章 チェスニー・ウォールド
リンカンシア州へ出発したのは、チャーリーと私だけではありませんでした。ジャーンディスさんは私がボイソーンさんの屋敷へぶじに着くまで、私の姿を見失いたくないと決心なさって、私たちと一緒にお出かけになったのです。道中は二日かかりました。吹く風、漂って来る匂い、花、木の葉、草、流れる雲をはじめとして、自然のたたずまいの一つ一つがみな、前に見たよりもいっそう美しく,すばらしく見えました。病気になってよかったと思ったのは、この時がはじめてのことでした。この広い世界がこんなにも私にとって喜びの種にみちみちているのに、愚痴をこぼすことなんかないではありませんか。
ジャーンディスさんはすぐお帰りになるつもりでしたから、私たちはゆくみちみちで、いつエイダに来てもらったらいいか打ち合わせました。私は彼女に手紙を書いて、ジャーンディスさんに持っていって頂きました。私たちが初夏の気持のよい夕方目的地に着くと、三十分もたたぬうちにおじさまは戻っていかれました。
もし親切な妖精が魔法の杖をひとふりして、私のためにお屋敷を建ててくれ、私がそのお気に入りの名付け子で王女さまになったとしても、あれほどまで申し分のないもてなしは受けられなかったことでしょう。私のためにあれこれと準備が整えられてあり、私のちょっとした趣味や好みを、ちゃんとご親切に憶えていて下さいましたので、お屋敷の部屋を半分と見廻らないうちに、胸がいっぱいになって何度も坐り込んでしまいたくなりました。でもそんな気弱なことはせず、その代りチャーリーに部屋を案内して見せました。チャーリーがあまり大喜びするので、私の喜びも度を越さずに済んだのです。二人で庭を散歩して、チャーリーの感嘆の言葉が全部種切れになってしまうと、私は申し分なしの安らかで幸せな気持になりました。お茶が終ったのち自分にこういい聞かせることができるのは、たいへん楽しいことでした。「エスタ、さあ、腰をおろして、このお屋敷のご主人にお礼の手紙を書くのが礼儀だと思いますよ」ボイソーンさんは私あてに歓迎の手紙を書き置いて下さいましたが、それはそのお顔と同じように明るい輝きにあふれていました。鳥の世話をよろしく頼む、と書いてありましたが、これはボイソーンさんの最高の信頼のしるしだということを、私はよく知っていました。そこで私はロンドンにいるボイソーンさんあてに、お気に入りの植物や木は元気です、あの驚くべき鳥はたいそういんぎんな態度で、歓迎の挨拶をしてくれました、私の肩の上で歌って私の小さな小間使を有頂天にさせてから、いつもの籠の隅のとまり木にとまりましたが、夢を見ているのかどうかは、私にもわかりません、と書きました。手紙を書き終って郵送すると、荷物をほどいて整理する仕事に忙殺されました。それからチャーリーに、今夜はもう用はないから早くおやすみなさい、といいました。
というのは、私はまだ鏡を見ていませんでしたし、私の鏡を返してと頼みもしなかったからです。自分でもこれは弱気だから、打ち勝たなくてはいけないとわかってはいましたが、今いるこの屋敷に来たら、心機一転あたらしく再出発しましょう、といつも自分にいい聞かせて来たのです。ですから私は一人だけになりたかったのです。ですから自分の部屋で一人だけになった今、私はこういったのです。「エスタ、もしあなたがしあわせになろうというつもりなら、もしあなたが自分を偽らず忠実になれるというなら、約束を守らなくてはだめよ」私は守ろうと決心を固めました。でもまず最初にしばらく坐ったまま、自分の幸福のことをじっくり考えました。それからお祈りをして、それからまた少し考え込みました。
私の髪の毛は病気中一度ならず切らなくてはいけない瀬戸際までいったのですが、切らずに済みました。長くてこわい毛でした。私はそれを全部垂らしてから、化粧机の上の鏡のところに近寄りました。鏡にはモスリンの布が掛かっていました。私はそれをめくりました。するとちょっとの間は自分の髪のヴェール越しに見ているので、髪の毛だけしか見えませんでした。それから私は髪の毛をかき分けて、鏡に映っている顔を見ました。その顔が落ちついて私を見つめているので勇気が出たのです。私はすっかり変りはてていました――おお、ひどく変っていました。初めのうちは他人の顔みたいなので、さきほどいった勇気が湧いて来なかったとしたら、手で顔を覆って飛んで逃げたことでしょう。すぐに前よりは見なれた顔になりました。どのくらい顔かたちが変ってしまったのか、最初よりはよくわかるようになりました。思っていたほどではありませんでした。といっても、はじめからはっきりこのくらいかと思っていたわけではないのです。どんなに思っていたとしても、やはり意外な驚きに打たれたことでしょう。
私は以前から美人ではありませんでしたし、自分でそう思ったこともありませんでした。でも、以前はこんな顔ではありませんでした。昔のおもかげは全然消えていました。神さまのご慈悲のおかげで、私は涙を――でも、にがい涙ではありません――数滴流しただけで済み、本当によかったと思いながら髪をといて寝支度をしました。
気にかかることが一つだけあって、眠りにつく前に長いこと考えていました。私はウッドコートさんの下さった花束を、ずっとしまっておいたのです。しおれてしまった後は乾かして、好きな本の間に挿んでおきました。このことは誰にも、エイダにさえ話してありませんでした。全く別人となった昔の人に下さったものを、そのまましまっておいていいものかしら――そんなことしたらあの方に悪いのではないかしら、という気がしたのです。あの方が決して知ることのない、私の心の秘密の奥底においてさえ、あの方に悪いようなことはしたくなかったのです。私はこうならなければあの方を愛したかったから――あの方に身も心も献げたかったからです。とうとう私はしまっておいてもいいでしょう、という答えに到達しました。もう取り返しのつかぬ消えた昔の思い出として、大切にしまっておいて、今後それ以上のものとして未練を感じないのならば、です。この決心はつまらぬこととは思いません。私は真剣に考えたのです。
翌朝は早く起きて、チャーリーがつま先立ってやって来る前に、鏡の前に坐っているように心掛けました。
「まあ、お嬢さん!」チャーリーはびくっとして叫びました。「ここにいらしたんですか?」
「そうよ、チャーリー」私は落ちついて髪をゆいながら、いいました。「今朝はとっても元気で、しあわせよ」
チャーリーは見るからにほっとした様子でした。でも、私の方がそれ以上にほっとしたのです。私はいまや最悪のものを知ってしまって、落ちついてそれに対していたのですから。これから先も自分の弱気に打ち勝つことができなかった時には、隠さずにそう書くつもりです。でも私の弱気はいつもすぐに消えてしまい、かえって前よりもしあわせな気持が、私の心の中に忠実に宿ってくれたのです。
エイダが来る前に心身ともに充分元気になっておきたいので、私はチャーリーと一緒に、一日中新鮮な戸外の空気の中にいるようにと計画をたてました。朝食の前に戸外に出て、昼食も早目に済ませることにし、その前後にも戸外に出て、お茶の後で庭を散歩し、早目に寝ることにしました。そして近くの丘という丘、道という道、野原という野原を全部探索することにしました。強壮剤と栄養のある食物に関しては、ボイソーンさんの親切な女中さんが、いつも何か食べもの飲みものを持ってやって来てくれます。お屋敷の庭園で休んでいても、いつもバスケットを持って、元気な顔を輝かせながら、栄養をしょっちゅうつけていなくてはいけませんよ、と説教しながらついて来るのです。私専用の小馬まで用意してありました。まるまると肥った小馬で首が短く、たてがみが目の上に垂れ下っていて、らくらくと穏やかに早駈けもできる――ただし馬がその気になった時のことですが――ので、なんともすばらしい小馬でした。数日もすると、私が庭でその名を呼ぶとやって来て、私の手から餌を食べ、私の後をついて廻るようになりました。私と小馬とはすっかりお互いに気心が通じ合うようになりまして、私を乗せてどこか木蔭の道を歩いている時に、ぶらぶらと、というよりはぶすっとして、足どりが鈍ったりすると、私はその首をやさしく叩いていってやるのです。「スタッブズや、私が早駈けが好きだということお前知っているはずなのに、早駈けしてくれないなんて、どうしたの? 私のためだと思ってやってちょうだい。だってお前、だんだんぽかんとして眠り込んでしまうじゃないの」そうすると馬は、おかしな具合に頭を一、二度振ると、すぐ駈け出すのです。立ち止ってそれを見ているチャーリーが面白がって笑い出しますと、その笑い声は音楽のように響きました。誰がスタッブズ(1)と名付けたか知りませんが、全く生れながらに身についているように思えました。ある時私たちは小さな二輪馬車を引かせて、意気揚々と緑の木蔭道を五マイルばかり走らせたことがあります。ところが、私たちが小馬のことを口をきわめてほめちぎっていたちょうどその時、それまでずっと馬の耳のあたりでぶんぶん輪を描いて飛び廻っていた、小うるさい|虻《あぶ》の群に突然腹を立ててしまったらしく、立ち止って考え込んでしまいました。きっとこれは我慢ならんという決心に到達したのだろうと思います。断固として動かなくなってしまいました。とうとう私は手綱をチャーリーに預けて、下りて歩き出しました。すると馬は頭を私の腕の下に突込んで、耳を私の袖にこすりつけながら、頑固そうながら機嫌よさそうな様子で、私について来るのです。私がいくら、「さあ、スタッブズや、お前がいい子だっていうことはよくわかっていますから、私を馬車に乗せて少し走ってくれるわね」といってもだめなのです。私が馬のそばを離れるやいなや、また立ち止ってしまうものですから、仕方なく私はそのままずっと馬の案内をして歩きました。私たちがお屋敷に戻る道々、村の人たちはその格好を見て大喜びでした。
チャーリーと私とにいわせれば、確かに村の人たちはこの上なく親しみやすい人たちでした。一週間もすると村の人々は、私たちが一日のうちに何度通りすぎても、一軒一軒から顔を出して挨拶してくれるようになりました。その頃にはたくさんの大人と、ほとんど村じゅう全部の子供たちと、お友達になりました。村の教会の塔までが、親しげなやさしい顔をしているように見えました。新しくできたお友達のなかに、一人のとてもお年寄りのお婆さんがいました。小さな白壁のわらぶき屋根の家、窓の|鎧戸《よろいど》を観音開きに開けると、正面の壁が見えなくなってしまうくらい小さな家に住んでいました。お婆さんには一人の水兵の孫がいて、私はお婆さんの代筆をして手紙を出してあげました。そしてその便箋の上のところに、その孫が育った家の炉端と、まだそこに置いてある昔坐った椅子の絵を描きました。これを見た村じゅうの人たちが、世界一すばらしい名画だといいました。そしてはるばるプリマス(2)から、この絵をもってこれからアメリカまでゆきます、アメリカからまた手紙を出します、という返事が来た時には、私はみんなからいろいろほめられましたが、考えてみれば、ほめられるべきなのは郵便制度の方ではないでしょうか。
こんなふうにしてせいぜい戸外に出て、たくさんの子供たちと遊んだり、たくさんの大人とお話をしたり、たくさんの家に招かれたり、チャーリーの教育をしたり、毎日エイダに長い手紙を書いたりしている間に、私の変りはてた顔のことなど考える暇がほとんどなくなってしまい、だいたいいつも明るい気持でいられました。ときどき何かのはずみでそんなことを思い出した時には、私は忙しく働いて忘れてしまえばいいのでした。ある時一人の子供が、「お母さん、あのお姉さんどうして前みたいにきれいでなくなったの?」といっていた時、私はわれ知らず胸がしめつけられるような気持になりました。でも、その子供は昔通りに私になついてくれて、いかにもかわいそうだ、なおしてあげようというように、やわらかい手で私の顔を撫でてくれましたので、私はすぐに気をとり直しました。その他にも、かわいそうな人に対して、思いやりと慈愛をさしのべるのが、やさしい人間自然の情なのだ、ということを私に教えてくれるいろいろな出来事があって、とても心が慰められました。そうした出来事の一つで、特に私が心打たれたことがありました。私がたまたま小さな教会に入っていったところ、ちょうど結婚式が終りかけていて、若い夫婦が結婚登録簿に署名するところでした。
はじめにペンを手渡された新郎は、字が書けないらしく署名の代りに、へたな筆蹟で十字を書きました。次の新婦も同じ印を書きました。私は以前教会に来た時、彼女のことを聞いて知っていました。その教区いちばんの美人であるばかりでなく、教会の学校でいちばんよく出来る生徒だ、とのことでした。ですから私はびっくりして、彼女を見つめないではいられなかったのです。彼女は私のところにやって来て、私にささやくのでした。きらきら光る目には、素朴な愛と感激の涙があふれていました。「あの人はとってもいい人なんです。でも、まだ字が書けないのです――これから私から習うことになっているのです――でも、絶対にあの人に恥をかかしたくありませんもの!」農家の娘の心の中にさえ、このような高貴な魂が宿るのです。私は何を恐れる必要があるでしょう!
空気は昔同様私にさわやかに吹きつけて、私を元気づけてくれましたし、私の新しい顔にはもとの顔のような健康な色が戻って来ました。チャーリーも見るからにかわいらしく、ばら色の顔からは明るい光が射しているようでした。私たち二人ともその日一日じゅうを嬉しい気持で過し、夜もぐっすりよく眠れました。
チェスニー・ウォールドの猟園の森の中に、私の好きな場所がありました。そこは小高い、すばらしい見晴らしのきくところで、椅子がこしらえてあったのです。そこのところは見晴らしをよくするように、森が切りひらかれてあって、よく晴れた日には太陽に照らされた風景がかなたに広がって、実に美しい眺めでしたので、少なくとも一日に一度はそこへ出かけて休んでいました。ご領主のお屋敷の中でも特に美しい部分、「幽霊の小道」と呼ばれるところが、この高みからとてもよく眺められました。この恐ろしい名前と、デッドロック家にまつわる古い伝説とは、ボイソーンさんの説明を聞いて知っていましたので、もともとの景色の美しさの上に、もう一つ何か神秘の魅力をつけ加えてくれました。すぐ近くに土手もあって、すみれの花で有名でした。チャーリーは毎日野の花を摘むのが大好きでしたから、彼女も私同様にこの場所が気に入っていたのです。
デッドロック家のお屋敷の近くや、その中へいかなかったのは、べつに他意があったわけではありません。ご一族は今いらっしゃらないし、近くおいでになる予定もない、と私は到着早々に聞いたからです。お屋敷の建物に興味や好奇心がなかったわけではありません。それどころではないので、この高みに坐っているとよく、お部屋はどのように並んでいるのかしら、とか、今でも伝説にあるように、淋しい「幽霊の小道」にときどき足音のようなこだまが聞えることが、本当にあるのかしら、と考えたりしたものでした。デッドロック家の奥方さまにお会いした時に感じた、何ともいいようのない気持のせいで、奥方がいらっしゃらない時ですら、あのお屋敷を敬遠するようになったのかもしれませんが、この点は自分でもはっきりとはわからないのです。あのお屋敷を見て奥方さまのお顔や姿を思い出すのは当然のことでしょうが、お顔や姿を思い出して敬遠するわけではないのです。でも、何か敬遠したくなるものがあったのです。理由は何であろうと、また理由がなかろうと、これからお話するその日まで、一度もお屋敷に近づいたことはありませんでした。
その日私は長いこと散歩をした後で、お気に入りの場所で休んでいました。チャーリーは少し離れたところですみれの花を摘んでいました。私が遥かかなたの石造りの建物の蔭にある「幽霊の小道」を眺めながら、そこに出没するといわれている女の姿を想像していましたその時、森を抜けて誰かがこちらに近づいて来るのに気がつきました。森の道はずっと遠くまでまっすぐに見通せて、木の葉でほの暗くおおわれ、地面には枝の影が複雑な模様を落して目がちらちらしますので、はじめのうちはその人影が誰かはっきりとはわかりませんでした。しだいしだいにそれは女の人――立派なみなりの女の人――デッドロック家の奥方さまだとわかりました。お供も連れず一人だけで、しかもいつもよりもずっと足早に、私の坐っているところに近づいていらしたのを見て、私はびっくりしました。
奥方さまが意外なくらい近くまでいらしたのを見て(私が奥方さまだとわかった時には、もう声の聞えるところにいらっしゃいました)、私は胸騒ぎを覚えて、立ち上って散歩を続けようとしました。ところが立ち上る力がありません。身動きできなくなってしまったのです。奥方さまがあわただしく懇願するような身振りをなさったからではありません。手を拡げて足早に近づいて来られたからでもありません。いつもと様子が違っていらしたからでもありません。いつもの気位高く、自分をぐっと抑えたような態度が消えていたからでもありません。そのお顔に、私が子供だった頃夢に見てまでこがれた何かが、他の人の顔には見られなかった何かが、奥方さまのお顔にも以前は見られなかった何かがあったからなのです。
恐ろしさに気が遠くなりそうになった私は、チャーリーを呼びました。するとそのとたん奥方さまは立ち止って、私がいつも知っているような奥方さまの態度に戻りました。
「サマソンさん。お驚きになったようですね」今度はゆっくりと近づきながら、おっしゃいました。「まだすっかりよくおなりになっていないのですね。ご病気だったそうですね。そうお聞きして、たいへん心配しておりました」
私は坐っていたベンチに|金《かな》しばりになってしまったように、奥方さまのまっ蒼なお顔から目をそらすことができませんでした。奥方さまは私に手をさし伸べました。その手は死人のように冷たくて、むりに落ちつきを見せているそのお顔と、ひどくうらはら[#「うらはら」に傍点]な感じでしたので、ますます私は呆然としてしまいました。頭の中がぐるぐる渦を巻いているみたいで、何を考えていたのか全然わかりません。
「快方に向われているのですね?」奥方さまはやさしい声でお尋ねになりました。
「はい奥方さま、いまさっきまでは、もうすっかり元気でございました」
「こちらの方はあなたのお伴の方ですか?」
「はい」
「お伴の方を先にやって、私と一緒にお宅の方へ参りませんか?」
「チャーリー。お花を家に持って帰ってちょうだい。すぐあとからゆきますから」
チャーリーはせいいっぱい丁寧なお辞儀をして、顔をまっ赤にして帽子をかぶってから、いってしまいました。その姿が見えなくなると、奥方さまは私の隣りにお坐りになりました。
私が前に死んだ赤ちゃんに掛けてあげた私のハンカチを、奥方さまが手にしていらっしゃるのを見た時、どんな気持がしたか、とても言葉ではいいあらわすことができません。
私は奥方さまの方に目を向けましたが、そのお顔も見えず、お声も聞えず、息をすることもできませんでした。心臓が荒々しく早鐘のように鳴って、破れてしまうのではないかと思ったほどです。でも、奥方さまが私を胸にしっかり抱きしめて、キスをして、私の上に泣き崩れ、憐れみの言葉をかけてくれ、私を正気に戻してくれた時――ひざまずいて、「おお、私の娘、私の娘、私はお前の罪深い不幸な母なのよ。どうか私を許しておくれ!」と叫んだ時――苦しそうに私の前の地べたにひざまずいている姿を見た時、私は気持が|千々《ちぢ》に乱れましたものの、神さまのご摂理の有難さに、はたと心を打たれたのでした。私の顔かたちがこんなに変り果ててしまったのですから、顔が似ていることで母に恥かしい思いをさせないで済むのです。今では私と母とを見くらべても、誰一人として二人の間に関係があろうなどと、こればかりも考える人はいなかったことでしょう。
私は母に、どうかそんなに苦しそうに私の前に|土下座《どげざ》なさらないで下さい、と懇願してたすけ起しました。そういう私の言葉もとぎれとぎれで、意味をなしていませんでした。何しろ私は困惑した上に、母がこの私[#「この私」に傍点]の足もとにひざまずいているのを見て、恐ろしい気持に襲われてしまったからです。私は、もしも子供である私に、かりそめにも母を許すなどということができるものなら、私はもう何年も前に許しております、といいました――いえ、何とかいおうと努めたのです。お母さんを愛する気持でこの胸はいっぱいです、それは子としての自然の愛情で、過去にどんなことがあろうと変りはしませんし、変るはずがありません、といいました。生まれてはじめてお母さんの胸に抱かれているこの私に、この世に私を生んだといってお母さんを責めることがどうしてできましょう。お母さんに感謝し、世界中の人がお母さんから顔を背けようとも、迎え入れるのが私の義務ではありませんか。どうかそれだけは私にやらせて下さい。私は母を、母は私をひしと抱きしめました。夏の日のしんとした森の中で、平静を失ったものとては、私たち二人の千々に乱れた心だけのように思われました。
「私を感謝して迎え入れてくれる」母はうめくようにしていいました。「もうそれは手遅れなのです。私は一人で私の暗闇の道を歩まなくてはなりません。そのゆきつく先は運命まかせなのです。毎日毎日、いえ、時には一刻一刻と、私の罪深い足もとから道が消えてゆきます。これがこの世でわが身にもたらした罰なのです。私はその罰を担って、しかも秘密にしておかなくてはなりません」
わが身に担った罰のことを考える時ですら、母はまるでヴェールをかぶっているみたいに、いつもの気位の高い、ひとごとみたいな態度をあたりにただよわせていました。でも、まもなくそれをまたかなぐりすてました。
「私はそれをできる間は何としてでも秘密にしておかなくてはいけない。私のためにだけではないの! 情けない破廉恥な、この私には夫があるのだから!」
こういった時の母の口調は、絶望の叫びを押し殺したようで、それは悲鳴よりもいっそう恐ろしく聞えました。両手で顔を覆うと、母は私に抱かれながらも、私に触れたくないとでもいうように、身を引こうとしました。私は必死になってなだめ、慰めようとしましたが、どうしても母を起すことができませんでした。いけない、いけない――母はただそういうだけでした。他の場所ではどこへいってもあんなに気位高く、まわりを見下していた母も、ここでは、生まれてはじめて人間自然の情にあふれて、恥を知りへり下った気持になったのです。
私の不幸な母は、お前の病気のあいだ気も狂わんばかりだったのだ、と申しました。その時になってはじめて、自分の子供が生きていることを知ったのでした。以前は私が実の娘であろうとは、夢にも考えたことがなかったのです。ここまで私のあとを追って来たのは、一生にただの一度だけ私と話をしたかったからなのでした。私たち二人は交際、文通はおろか、今後この世では二度とふたたび言葉をかわすこともできないでしょう。母は私に手紙を一通渡していいました。お前だけに読んで貰おうと思って書いたのだから、読み終ったら焼き棄てておくれ――これは私のために頼むのではありません。私は何も頼みはしません。私の夫とお前のためにいっているのです。この先は私を死んだものと思っておくれ。お前が私の苦しみをまのあたりに見て、私がお前に母親としての愛情を傾けているのだということが、もし信じて貰えるのなら、信じておくれ。そうして貰えれば、私の苦しみが察して貰えて、私にいっそうの憐れみをかけて貰えるだろうからね。私自身はもう何の希望も、救いも、手の届かないところに来てしまったのだよ。私の秘密を死ぬまで守ろうと、それとも発覚して、私が名乗った家名に恥と泥を塗ることになろうと、私だけがひとりで苦しまなくてはいけないのだよ。身近にいる誰からも愛しては貰えず、人間から救いの手をさし伸べて貰うこともできないのだよ。
「でもお母さん、これまでは秘密は安全だったのですか?」私がききました。「今も安全なのですか?」
「いいえ。あやうく発覚寸前だったことがあるの。その時は偶然のことで救われたけれど、いつなんどきまたあぶなくなるかもしれない――明日にでも」
「誰か特別に恐ろしい人がいるのですか?」
「しっ! 私のためにそんなにふるえたり泣いたりしないで。私は涙を流して貰う値打ちのない女です」母は私の手にキスしてから、「一人だけたいそう恐れている人がいるの」
「敵ですか?」
「味方ではないわ。敵になるとか味方になるほどの熱情を持ち合わせていない人。レスタ・デッドロック卿の顧問弁護士なの。愛情も感じないで、ただ機械のように忠実に職務を果し、|大家《たいけ》の秘密を握って利益と特権と名声を得ようと、|汲々《きゆうきゆう》としている人間です」
「疑いをかけているのですか?」
「ええ、いろいろと」
「まさかお母さんのことも?」私はこわくなって来ました。
「ええ! いつも目を光らせて、私の近くにいる人だから。ある程度近づけないでいることはできますが、追いはらうことはできないの」
「そんなにあわれみも良心の呵責もない人なのですか?」
「全然ない人間。怒りも感じない人。職業以外には何も関心のない人。その職業というのは、他人の秘密を握って、それによって絶対さからえない権力を一人で握ろうということなの」
「信頼のできる人ですか?」
「信頼しようなどとは思っていませんよ。私がこれまで何年ものあいだ歩んで来た暗闇の道のゆきつく先は、運命まかせなのだから、ゆきつく先が何であれ、最後までひとりでゆくつもり。その最後は近いかもしれないし、遠いかもしれない。道が続く限り、私は歩き続けるだけなのよ」
「お母さん、そう決心なさったのですか?」
「私はそう決心したの。私はこれまで愚行に愚行を重ね、自尊心に自尊心を重ね、軽蔑に軽蔑を重ね、傲慢に傲慢を重ね、沢山の虚栄に一層沢山の虚栄のうわ塗りをして来たわ。できればこの危険もうまく乗り切れて、死ぬまでぶじでいられるかもしれない。私は危険にひしひしととり囲まれているのです、ちょうどチェスニー・ウォールドの屋敷がこの深い森に囲まれているように。でも私はその中をどこまでも歩き続けるの。私のゆくべき道はただ一つ、ただ一つしかないのよ」
「ジャーンディスさんが――」私がいいかけますと、母はあわてて尋ねました。
「あの人は感づいていらっしゃるの?」
「いいえ、そんなことありません! 絶対にそんなことありません!」それから私はジャーンディスさんが、私の生い立ちについて知っていることを全部私に話して下さった、その次第を伝えました。「でも、あの方はとても思いやりと分別のある方ですから、もしお話すれば――」
この時まで母は全然姿勢を変えずにいましたが、急に私の唇に指を当てて、私を黙らせました。
「あの人には全部お話をしてもいいわ」しばらくしてから母がいいました。「私が許します――私のような母親からかわいそうなわが子にしてあげられるのは、せいぜいそのくらいのことだからね――でも、話したということを私にいわないでおくれ。この|期《ご》に及んでもまだ、私にはいくらかの自尊心が残っているのよ」
私はその時、あるいは今思い出せる限り――と申しますのは、子供の時から愛する母の声だと教えられたこともなく、子守唄を聞いて寝入ったこともなく、祝福を受けたことも、希望を与えられたこともない母の声、その耳なれない陰鬱な声で語られた一言一句は、一生忘れられない印象を私に与えはしましたものの、その時の私の悲しみと興奮がひどかったので、自分でも自分が何をしていたかわからなかったくらいなのです――母に向って、ジャーンディスさんは誰よりも私にとってお父さんのような方ですから、きっとお母さんに何か忠告か助けをかして下さるでしょう、と説明しました、というよりは、説明しようと努めました。ところが母は、それは駄目なの、誰も私を助けることはできないの、と答えるのでした。目の前に続く沙漠をひとりで歩いていかなくてはいけないのよ、と。
「私の娘、私の娘!」母はいいました。「これが最後よ! これが最後のキスよ! これが最後の抱擁よ! 二度とふたたび会えないのだからね。私のしたいようにしようと思ったら、これまで通りの態度をとり続けなくてはいけないのよ。それが私の報い、私の運命なの。きらびやかで、華やかで、崇拝者に囲まれているレスタ卿夫人のうわさを聞くことがあったなら、その仮面の下には良心の呵責にさいなまれている、みじめなお前の母親がいるのだ、と思っておくれ! 苦しみ、|甲斐《かい》のない後悔にくれながら、胸の中でただ一つ感じられる愛と真実を殺している女の姿こそ、本当の姿なのだと思っておくれ! それで許せるものなら許しておくれ。神さまに許しをお願いしておくれ。許してはいただけないだろうけれど!」
私たちはまたしばらく抱き合っていました。でも母の決心は固く、私の手をふりほどくと私の胸に押しつけ、その手を握って最後のキスをしてから、手を放し、森の中へ消えていってしまいました。私は一人だけ残されました。私の目の下には古いお屋敷のテラスや尖塔が、静まりかえって、太陽の光を浴びて立っていました。前にはじめてお屋敷を見た時、そこは全くの平穏の巣のように思えましたが、今では私の母の不幸を、情け容赦もなく執拗に見つめているように思えるのでした。
茫然自失した私は、はじめのうちこそ病いの床にいた時のように、がっくりとなすすべを知らぬありさまでしたが、真相が発覚しないように、一片の疑惑すら生まれぬように、気をつけなくてはいけないと考えたことが幸いしました。私は泣いていたことをチャーリーにさとられないよう、細心の用心をしました。注意深く落ちつくのが、子としての母に対する何よりの孝行なのだ、と一所懸命自分にいいきかせました。何とか悲しみの|嗚咽《おえつ》を抑えることすら、なかなかできませんでしたが、一、二時間もすると落ちつきをとり戻し、帰っても大丈夫という気になりました。ゆっくり家に戻ると、門のところで私を待っていたチャーリーには、デッドロック家の奥方さまと別れた後、散歩の足をのばしたくなったのよ、くたくただから休みたい、といってから、ぶじ部屋にとじこもり、手紙を読みました。それで私は母に棄てられたのではない、ということがわかりました――その時はそれがわかって大いに慰められたのです。母のただ一人の姉――私の子供の時の養母でしたが――は、死んだと思われてほったらかしになっていた私に、まだ息があるとわかると、私が生き永らえるのは望ましくない不本意なことと思いながらも、その厳格な義務感から、全く誰にも話さずに私を育て上げ、私が生まれた数時間後以来二度とふたたび妹と顔を合わせたことがなかったのでした。このようにして私はこの世でひどく奇妙な地位を占めることになり、つい最近まで、母の知る限りにおいては、私は一度も呼吸をせず――埋葬され――生命を与えられず――名前もついていなかったのです。母ははじめて私の姿を教会で見た時、はっとして、もしあの子が生きて大きくなったとしたら、あんなになっただろうに、と思いはしたものの、その時はそれ以上考えはしなかったのだそうです。
手紙の内容をこれ以上ここに述べる必要はありますまい。それは私の物語の中のしかるべきところに、すでに書いてあります。
私が第一に気を使ったのは、母の手紙を燃やして、その灰まで散らしてしまうことでした。それからこれはどちらかというと、人間自然の情に反したよくないことかもしれませんが、私が育てられ大きくなったことが、ひどく悲しく思われたのです。いっそ生きていなかった方が、多くの人にとって幸せだったに違いない、というような気持になったのです。実の母親と誇り高い家名をあやうくしたり、泥を塗ったりするのではないかと思うと、自分が恐ろしくなってきたのです。私の頭がすっかり混乱してしまって、私は生まれたなり死んでしまった方がよかったのだ、その方が神さまのご意志にかなっていたのだ――なまじ生きていたのは間違いだったのだ、神さまのご意志に反していたのだ、と信じ込むようになったのです。
事実本当にそういう気持になったのでした。私はぐったりとなって眠り込んでしまいました。そして目が覚めて、自分は他人を不幸にする運命を背負って、ふたたびこの世に舞い戻ったのかと思うと、また泣き出してしまいました。母の身をあやうくする証人とでもいうべき私自身のこと、チェスニー・ウォールドのご領主のことを考え、昔聞かされた言葉、「エスタ、お前のお母さんはお前の顔に泥をぬったのだし、お前はそのお母さんの顔に泥をぬるのだよ。いつかそのうちに――もうじきにだよ――お前にもその意味がもっとよく分って、身にしみて感じる時が来るだろうけれども、その気持は女でなければ分らないよ」という言葉が、新しい恐ろしい意味を持ち、私の耳の中で海岸に打ち寄せる大きな波の音のようにとどろくのを覚えた時、私は前にもまして自分が恐ろしくなって来ました。またそれと一緒に、もう一つ他の言葉が思い出されて来ました。「他人の罪の報いが、自分の頭の上に加えられないように、毎日お祈りしなさい(3)」私は私の身のまわりにまつわりついているものを掃いのけることができず、|罪科《つみとが》と恥辱がすべて私一身のうちにあり、その報いが私の頭の上に加えられたのだ、という感じがしたのです。
日が暮れて、厚い雲に覆われた、もの悲しい陰鬱な夕方になりましたが、私はあい変らず同じ悲嘆にくれていました。私はひとりで外へ出て、デッドロック邸の領地をしばらく散歩しながら、木々に夕闇が落ちかかるさまや、ときどき私すれすれにぱたぱたと飛びかうこうもり[#「こうもり」に傍点]を眺めていますと、はじめてお屋敷の近くまでいってみたい気にかられました。私がもっとしっかりした心持になっていたら、そんなことはなかったのかもしれません。でも実のところ、私はお屋敷のすぐそばの道を歩いたのです。
立ち止ったり見上げたりする勇気はとても出ませんでした。かぐわしい匂いのするテラスの庭や、そこの広い道、よく手入れされた花壇やきれいに刈り込まれた芝生の前を通りすぎますと、いかにも美しく荘重なたたずまいで、古びた石の手すりには時と雨風のために割れ目がついていました。そのまわりや古い石の日時計の台座には、こけ[#「こけ」に傍点]やつた[#「つた」に傍点]が巻きついていました。噴水の落ちる音が聞えました。それから道は長く並んだ暗い窓の下を通りました。ところどころに妙な格好をした屋根の尖った小塔やポーチがあり、古びた石のライオンやグロテスクな怪物が、薄暗い|住家《すみか》の外で毛を逆立てて、かかえている|盾《たて》形の紋章越しに夕闇をにらみつけていました。そこから道は曲ってアーチの下を通り、正面玄関のある中庭(そこは急いで通り過ぎましたが)を抜けて、|厩《うまや》のそばを通ります。そこでは太い声らしきものが聞えるだけでしたが、それが果して、高い赤煉瓦の壁にすがりついているつた[#「つた」に傍点]の繁みを吹き抜ける風のささやきなのか、それとも風見の鳥の低いつぶやきなのか、それとも犬の吠える声なのか、時計がゆっくり打った音なのか、よくわかりません。まもなく、さらさらと葉ずれの音が聞えるライムの木のかぐわしい匂いのするあたりで、道が曲ってお屋敷の南正面に出ました。すると私の頭上に「幽霊の小道」の手すりが見え、一つだけ明りのついた窓が見えましたが、それは母の部屋かもしれません。
このあたりの道は頭上のテラスと同じく、石畳が敷いてあって、それまで音を立てなかった私の足が、ここではあたりに反響する音を立てはじめました。足をとめて何ということなしにあたりを見つめ、また足を早めてもう少しで明りのついた窓のところを通りすぎようとした時、突然こだまする私の足音から、私にはっと思い当ることがありました。「幽霊の小道」の伝説には恐ろしい真実がこもっているのだ、この豪壮なお屋敷に災厄をもたらそうとしているのはほかならぬこの私なのだ、私の足音が今その不吉な警告を発しているのだ、と。自分自身がさらにいっそうこわくなると、身体中がぞっとして来て、私は何もかも忘れて無我夢中でもと来た道を駈け戻り、猟園の入口の門番小屋のところにたどりつき、怒っているようなまっ黒いデッドロック家の猟園をあとにするまで、息もつきませんでした。
自分の部屋に戻ってひとりぼっちになって、また不幸な打ちしおれた気持になった時、やっと私はこれではいけない、恩知らずの罰当りだ、と気づくようになったのです。明日来るはずのいとしいエイダから、嬉しい手紙が届いていました。明日が待ち遠しい待ち遠しいと、やさしい言葉がつらねてあるこの手紙を読んで、もし感動しなかったとしたら、私の心は大理石だったでしょう。ジャーンディスさんからも私あてにお手紙が来ていて、それにはこう書いてありました。もしあなたがダードンおばさんにどこかで会う機会があったら、どうかあのちいさなおばさんに伝えてほしい。おばさんがいないのでこちらでは家中情けないくらい不景気で、家事はめちゃくちゃになる寸前、他に誰も鍵を扱える者がおらず、家の内外のものは誰もかも、まるで他人の屋敷みたいになってしまったといって、帰って来てくれないなら反乱を起しかねない有様です、と。このような手紙を二通読むと、私は自分が実際以上に皆さんからよく思われ、愛されているのだから、幸せと思わなくてはいけないのだ、と考えるようになりました。またさらに、これまでの私の一生を思いあわせて、もっと早くから元気を出さなくてはいけなかったはずなのに、という気持になりました。
というのは、私にはしみじみわかったからです。私は死んだ方が神さまのご意志にかなっていたわけではないのだと。だからこそ私はこれまで生きて来られ、こんなに幸せな生涯を送ることができたのだ、と。いろいろなことがからみ合って、私のために幸運を生み出してくれたのだ、もし父の罪が子に報いる(4)ことが時にあるとしても、それは今朝私が心配したような意味ではないのだ、とはっきりわかったのです。私は自分の出生については、ちょうど女王が自分の生まれについての場合と同じく、何の責任もないのです。天にまします私の父の前では、私は生まれたことで罰せられることはなく、女王もその生まれの故にご褒美を頂くこともないのです。今日受けた大きなショックのおかげで、私の変りはてた顔かたちのことも、考えようによってはこんなに早くも慰めのたねになれるのだ、という経験を得たのです。私はもう一度私の決心を新たにして、くじけないようにとお祈りをしました。私と不幸な母のことで思いっきり神さまにおすがりした後、今朝の暗雲が晴れていくような気持がしました。眠っている間もそれにうなされることはなく、翌朝目をさましてみると、完全に晴れていました。
いとしいエイダは今日の午後五時に到着する予定でした。それまでの時間気持をしゃんとしておくには、彼女が通って来るはずの道を散歩するのが一番いいと思いましたので、私とチャーリーとスタッブズは――スタッブズには例の大事件以来馬車を引かすことは止めてしまいましたので、今日は|鞍《くら》を置きました――その道に沿って遠足してから、戻って来ました。帰りがけにあのお屋敷と庭園を遥かに望みますと、どこもかしこも壮麗な様子で、鳥までがその邸宅の重要な一員みたいに舞っているのが見えました。
帰ってからまだ彼女の到着まで、たっぷり二時間ありましたので、長く長く思えたその間じゅう、白状しますが私は自分の変りはてた顔のことを考えてやきもきしました。エイダの気心をよく知っていましたから、私よりも彼女のことの方が心配だったのです。私の方はいろいろ嘆いたとしても――少なくともその日は嘆いたりはしませんでしたが――それでこんなにやきもきしたわけではないのです。でも、彼女の方は心の準備がすっかりできているかしら? 私の顔をはじめて見た時、いささかどきっとして、失望するのではないかしら? 思っていたよりひどい、もとのエスタに会いに来たのに、その跡形もない、と思わないかしら? 変りはてた私になれ親しむためには、もう一度はじめからやり直さなくてはいけなくなるかしら?
私は彼女のいろいろな表情はよく知りつくしていましたし、彼女の顔はかわいらしくてとても正直でしたから、私を最初に見た時の表情を隠すことはできないだろう、と私には前からよくわかっていました。もし彼女の顔がさきにいったような意味をあらわしたとしたら(それはいかにもありそうなことでしたから)、私の方も平気でいられるかしら?
ええ、きっといられるでしょう、昨夜のことがあったのですから、大丈夫でしょう、と私は思いました。でも、あれこれと考え、やきもき思いわずらいながら、いらいら待っているのは何とも我慢できませんので、もう一度外へ出て、途中まで迎えにゆこう、と決心しました。
そこで私はチャーリーにいいました。「チャーリー、エイダが来るまで、私ひとりで散歩して来るわ」チャーリーは私の気に入ることは何でも賛成してくれますので、私は彼女を残して外へ出ました。
ところが私が二マイルばかり歩いて、遠くに埃が立ち上るのを見ると、すっかり胸がどきどきしてしまって(私にはまさかあれが彼女の馬車ではない、そんなはずはない、とわかってはいたのですが)、廻れ右をして帰ることに決めました。そして廻れ右をすると、馬車がすぐ背後まで迫って来るような気持になって(そんなことはない、そんなはずはないと、よくわかってはいたのですが)、追いつかれてはたいへんと家までの大部分を走り通しました。
家にぶじ戻りつくと、私は考え込んでしまいました。まあ、何というみごとなていたらくなんでしょう! と。すると私は身内がぽうっとほてってしまい、それで反省するどころか、ますます気もそぞろになってしまったのです。
まだ到着まで少なくとも十五分はあるはずと思っていた時でした。私が庭でがたがた身ぶるいをしているところへ、チャーリーがいきなり大声で呼びました。「お嬢さん、おいでになりました! お着きになりましたよ!」
私はそんなことをするつもりはなかったのですが、二階の自分の部屋へ駈け上って、ドアの蔭に隠れてしまいました。私がそこでふるえていますと、階段を上って来るいとしい人の声が聞えて来ました。「エスタ、かわいい人、どこにいるの? ちいさなおばさん、ダードンおばさん!」
彼女は部屋に駈け込んで、また外へ走り出そうとした時に、私の姿を見つけました。おお、私の天使! 昔のままの、やさしい愛にあふれた表情でした。忘れもしません――昔のままのあの顔つきでした!
おお、何と私は幸福だったことでしょう! 私が床の上に崩れるように坐り込むと、かわいい、やさしいエイダも床の上にしゃがみ、私の変りはてた顔を自分の美しい頬にこすり合わせ、涙とキスを浴びせながら、私を赤児のようにゆり動かし、思いつく限りのやさしい名前で私を呼びながら、その誠実な胸に私を抱きしめてくれたのです。
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第三十七章 ジャーンディス対ジャーンディス訴訟事件
私が守らねばならぬ秘密が私だけのものでしたら、エイダに会ったらすぐに打ち明けたことでしょう。でもそれが私の秘密ではないので、必要に迫られた場合でなければ、ジャーンディスさんにもお話してはいけない、という気がしました。ひとりで胸にしまっておくにはかなり重荷でしたが、私には、そうするのが子としての義務だとはっきりわかっていましたし、エイダがやさしくしてくれて幸せな気持になれましたから、とくに他から力づけて貰わなくても大丈夫でした。彼女が眠ってしまって、家じゅうが静まり返ると、母のことを思い出して眠れなくなり、夜が悲しく思えることがよくありましたけれども、それ以外の時にはつらい思いをすることはありませんでした。ですからエイダの目には私はもとのままの私に見えたのです――もちろんあの点は別ですが、そのことについてはこれまでさんざんお話しましたから、今のところはもう必要以上には申し上げないつもりでおります。
エイダと一緒に過ごした最初の晩、編物をしながら彼女に、あそこのお屋敷にデッドロックご夫妻がいらっしゃるの? ときかれて、私が、ええ、そうらしいわ、だって一昨日奥方さまと森の中でお会いして、お話をしましたから、と答えなくてはいけなくなった時、私はとても落ちついてはいられませんでした。それからエイダが、奥方さまは何とおっしゃっていたの? と尋ね、私が、とてもご親切に私のこと心配して下さったわ、と答え、またエイダが、あの奥方さまは美しくて端正であることは間違いないけれど、気位が高くて、もったいぶった冷たい態度ね、といった時、私はいっそう落着きを失いかけました。ところがチャーリーが無意識のうちに私を助けてくれたのです。奥方さまはロンドンから隣りの州のどこかご|大家《たいけ》を訪問なさる途中、二晩だけお寄りになったので、私たちがあの見晴らし台(これは私たちがあの場所につけた名前です)でお会いした翌朝早く、お|発《た》ちになりました、と教えてくれたからです。チャーリーはまさに小さな水差しのことわざ通り(1)で、私が一カ月かかっても耳に入ってこないようなたくさんのことを、一日で聞いてしまうのでした。
私たちはボイソーン邸に一カ月いる予定になっていました。エイダが来てからいいお天気続きの一週間(そのように記憶しています)くらい経ったある夕方のこと、一日中庭師の手伝いをして花に水をやったあとで、ちょうどろうそくに火をともした時、チャーリーが何か偉そうな様子でエイダの椅子のうしろにやって来ると、いわくありげに私を手招きして、部屋の外へ連れ出しました。
「お嬢さん、ちょっと」チャーリーはこの上もないくらい目を大きく丸くして、ささやくのでした。「デッドロック・アームズ亭で会いたいといっている人があります」
「えっ、何ですって? 誰が私に居酒屋なんかで用があるの?」
「誰だか知らないんです」チャーリーは答えると、頭を前にかしげ、小さなエプロンの|紐《ひも》の上で両手をしっかり組み合わせました。これは彼女が何か秘密めかした内証話をしようと、ご機嫌になっている時いつもやるしぐさなのです。「でも、男の人です。何にもいわずにすぐ来て頂きたい、とのご伝言なのです」
「伝言って、誰から?」
「その男の人さんからです」チャーリーの文法の勉強は着々と進んではいるのですが、あまり急速な進歩は示していないのです。
「でも、チャーリー、どうしてその人にお使いを頼まれるようなことになったの?」
「私がお使いを頼まれたんじゃないんです、お嬢さん。W・グラッブルです」
「W・グラッブルって誰のこと?」
「グラッブル氏のことですわ。お嬢さん、ご存知ないのですか? デッドロック・アームズ亭。W・グラッブル経営」チャーリーは看板の字をひろい読みしているような口調でいいました。
「なるほど。そこのご主人なのね?」
「はい、そうです。奥さんはとっても美人なんですけど、くるぶしをくじいてしまって、どうしてもなおらないんです。奥さんの弟は|木挽《こび》きなんですけど、ぶた箱に入れられてしまいました。しまいにはビールの飲みすぎで死んでしまうのではないかという噂ですよ」
何のことやらわかりませんけれども、この頃では何かというとすぐ心配になりますので、私は自分だけで出かけて見る方がいいと思いました。チャーリーに急いで帽子とヴェールとショールを持ってきて貰って、それを身につけると、ボイソーンさんのお庭同様勝手を知った小さな丘の上の村の通りへと出かけてゆきました。
グラッブルさんは上衣を脱いで、小さな清潔な居酒屋の前に立って私を待っていました。私が来たのを見ると彼は、両手で帽子を脱ぐと、それをまるで鉄のお|碗《わん》(そんなに重そうに見えました)のように両手で抱えたまま、私の先に立って砂をまいた廊下を通って、いちばんいい客間に案内しました。そこはじゅうたんを敷いた小ぢんまりとした部屋で、少々邪魔になるくらい植木鉢が並んでいて、カロライン王妃(2)の色刷りの肖像画が一枚かかっており、貝殻がいくつか、たくさんのお茶のお盆、ガラスのケースに入った魚の|剥製《はくせい》が二つ、それから奇妙な卵ともかぼちゃ[#「かぼちゃ」に傍点]ともつかないもの(私にはどちらかわかりません。わかる人はあまりいないだろうと思います)が天井からぶら下っていました。グラッブルさんはよく店の前に立っているのを見かけたことがありますから、顔はよく知っていました。愉快そうな顔をしたやや肥り気味の中年の男で、帽子をかぶって大きな長靴をはかないと、家庭の炉端でくつろげないらしいのです。ところが教会へゆく時のほかは上衣を着たことがありません。
彼はろうそくのしんを切ってから、少しあとずさりしてその燃え具合を眺め、それからあとずさりしたまま部屋から出ていってしまいました――これには私は意外でした。誰に使いを頼まれたのか尋ねようとしていた矢先きでしたので。すると向いの客間のドアが開いて、聞きなれた(そのように私には思えました)声が話していたのがはたと止み、軽い足音がすたすたと私の部屋に近づき、なんと私の目の前に立っていたのは、リチャードではありませんか!
「エスタ! なつかしいなあ!」彼が本当に実の兄弟のようにまごころこめて、やさしくいってくれましたので、私ははじめのうちは驚きと嬉しさのあまり、息が止りそうになってしまいましたが、やっとのことで、エイダは元気です、と口に出しました。
「まさに僕の思っていたことをいってくれたね――いつも変らない思いやりだ!」リチャードはそういうと、私を椅子に掛けさせてから、自分も並んで坐りました。
私はヴェールをあげましたが、完全に上までではありませんでした。
「いつも変らない思いやりだね!」同じような明るい口調でリチャードがいいました。
私はヴェールを全部上まであげると、リチャードの袖に手をやり、彼の顔を見つめながらいいました。こんなに親切に迎えて下さって、お礼の言葉もありませんわ。あなたに会えてとても嬉しい。特に私は病気中にある決意をしましたので、なおさらよ――といって、その決意を彼に伝えました。
「あなた以上に話し合いたいと望んでいる人はほかにいないよ。あなたに僕の気持をわかって貰いたいのでね」
「リチャード」私は頭を振りながらいいました。「私もあなたにあるほかの方の気持をわかっていただきたいのよ」
「さっそくジョン・ジャーンディスのことをいい出したね――あなたのいっているのは彼のことでしょう?」
「もちろん、そうですわ」
「では僕もさっそくいうけれども、それは嬉しいよ。というのは、僕の気持をわかって貰いたいというのは、そのことについてなんだから。あなたに――いいですか、あなたにわかって貰いたいんですよ! ジャーンディス氏やほかの何とか氏のことは、僕は知ったことじゃない」
リチャードがそんなもののいい方をするのを聞いて、私は悲しくなりました。彼はそれに気づいて、
「まあ、まあ、今はその話はよそう。僕はね、あなたと腕を組んで、ここのあなたの別荘へそうっと現れて、僕のかわいい|従妹《いとこ》をびっくりさせてやりたいんだ。ジョン・ジャーンディスに忠誠を誓ったあなたでも、そのくらいのことは許してくれるでしょうね?」
「リチャード、ジャーンディスさんの家へいっても、暖かく迎えて貰えることはご存じのはずでしょう――あなたさえその気になれば、あなた自身の家なんですもの。こちらの家でも同様に暖かくお迎えしますわよ!」
「それでこそ世界一親切なちいさなおばさんだ!」リチャードは陽気に叫びました。
私は彼に今度の職業は気に入りましたか? と尋ねました。
「ええ、大いに気に入ってますよ! 文句なしさ。当座のところはこれで結構。財産が貰えるようになればそんなことどうでもいいのだもの。そうなれば金を出して除隊することができるし、それに――でも、今はそんな面倒くさいことなんかどうでもいいや」
こんなに若くて美男子で、どの点から見ても完全にフライトお婆さんと正反対なのに、彼の顔を黒雲のようにかすめた、何かをむき[#「むき」に傍点]になって求めようとしている表情は、恐ろしいほどお婆さんに似ているのでした!
「僕はちょうど今休暇を貰ってロンドンに出て来ているんです」リチャードがいいました。
「おや、そうですか?」
「うん、長期休廷期に入る前に僕の――つまり僕の訴訟問題に目を通そうと思って」リチャードは強いて無造作な作り笑いをしながらいいました。「あの昔ながらの訴訟事件を、やっとてきぱきかたづけようとしているところさ。今度こそ間違いないよ」
私が頭を振ったのもむりないことです!
「あなたのいうように、あんまり愉快な話じゃないから」リチャードがいうと、さっきと同じ暗い影がさっと顔をよぎりました。「今晩のところは、そんなもの風で四方八方へ吹っとばしてしまおう――ひゅう! ぱっ!――僕と一緒にいるのは誰だと思う?」
「スキムポールさんの声が聞えたみたいでしたけれど?」
「その通り! あの人は僕にとって誰よりもためになるんだ。なんと魅力のある子供だろう!」
私はリチャードに、あなた方二人が一緒に旅行していることを、誰か知っているのですか、と尋ねますと、彼は、いや誰も知らない、と答えました。彼がいうには、あのかわいい年寄りの子供――スキムポールさんのことをそう呼んでいました――を訪ねていったら、私たちがここに来ていると教えてくれたのだそうです。そこで、そのかわいい年寄りの子供に、リチャードがぜひ二人に会いにゆくつもりだといったら、かわいい年寄りの子供がすぐ自分も一緒にゆきたいというので、連れて来たのだそうです。「それにあの男は」と、リチャードがいいました。「身体の三倍の重さだけ金を積むくらいの値打ちがある――日常のけちな雑費は別としてね。あの男は本当に愉快な人間だもの。世俗の|垢《あか》ひとつついていない。みずみずしい新鮮な心の持主だ!」
スキムポールさんが日常の雑費をリチャードに支払わせているのが、世俗の垢に汚れていない証拠とは、どうしても思えませんでしたが、私は黙っていました。当のご本人が入って来て、私たちの話題をそちらに向けてしまったのです。お嬢さんにお会いできて嬉しいです、この六週間というもの、あなたのために同情と嬉しさの涙をかわるがわる流していたのですよ、といいました。お嬢さんが快方に向ったと聞いた時ほど、嬉しい思いをしたことはありませんでした。今になってみるとこの世にはわざわいと幸福がまじり合っているんですねえ。誰か他の人が病気だと聞くと、つくづく自分の健康が有難く思えます。だからAさんがやぶにらみになれば、Bさんは目がまっすぐでよかったと思うし、Cさんが義足をつけていれば、Dさんは血の通った脚に絹の靴下がはける満足をいっそう身にしみるようになる、という具合にこの世の中の万事の仕組みができ上っているわけですな。
「サマソンさん、ここにいるわれらが友リチャード君は」スキムポールさんが言葉を続けます。「大法官裁判所の暗闇の中から、輝かしい未来への希望をひき出しているのです。なんと喜ばしい、なんとはればれとした、詩にみちあふれたことではありませんか! いにしえの頃は、淋しい森に住むといわれたパンの神と|妖精《ニンフ》たちが、笛を吹き踊りを踊って羊飼いを喜ばせたといいます。こんにちの羊飼いである牧歌的なリチャード君は、判事席から流れる判決の心地よい調べにのせて、幸運の神とそのおつきをはね廻らせることによって、あの陰気くさい法曹学院内を明るくさせてくれます。なんと楽しいことではありませんか! 誰かが不景気なふくれっ面をして僕にいうかもしれません。『こんな不法で不公平な裁判制度なんかなんの役に立つんだ? よくもあんなものを弁護する気になるもんだ?』僕は答えます。『わがふくれっ面の友よ、僕はべつに弁護しているわけではないんです。ただ僕にとって愉快なだけなんです。ここにいるわが友羊飼いの若者が、裁判制度とやらを、この単純素朴な僕のひどく気に入る何かに変えてくれるのです。裁判制度が存在するのがそのためだとは申しません――だって僕はあなた方みたいな世俗的な不平屋さんとは違ってただの子供なんですから、自分に対してもあなたに対しても、いちいち理屈を並べて説明する必要なんかないんですからね――でも、もしかするとそうかもしれません』」
私は本気になって、こんな人とつき合うのは、リチャードにとって一番有害なのではないかしら、と考えるようになりました。今こそ彼は正しい方針と目的を一番必要とすべき時なのに、こういう魅力的ですがだらしなく、なんでもかでもほったらかしの人物、いっさいの方針も目的も持ちあわせぬ軽々しい人物といつも一緒にいるのを見ると、私は心配になったのです。この世の実情をよく知り抜いて、一家族内の争いやら、いつまでたっても解決しない難題やらをいやというほど考えさせられた、ジャーンディスさんのような方が、スキムポールさんのように、自分の弱味を全部さらけだしてけろりとしている人間を見て、あんなに気持が安まるという事情が、私には理解できたように思えました。でも私には、スキムポールさんがみかけほど無邪気だとは、得心がいきませんでした。しかもその一見無邪気そうな態度を、スキムポールさんの怠惰な性格が一番やすやすと利用できたのではないかと思えたのです。
二人が私を家まで送ってくれました。スキムポールさんとは門のところで別れましたので、私はリチャードと一緒にそっと家の中に入り、声をかけました。「エイダ、あなたに男のお客さまをお連れしましたわ」びくっとして、顔を赤らめた彼女の顔色を読みとるのは、いともたやすいことでした。彼女はリチャードをとても愛していましたし、リチャードもそれを知っていました。私も知っていました。いとこ同士が顔を合わせたのですから、これは誰にも隠し立ての必要のない、おおっぴらなことです。
私は|怪《け》しからぬ疑心暗鬼のとりこになってしまったためか、本当にリチャードが彼女をまごころから愛しているのかどうか、あやしいと思うようになってしまったのです。彼が彼女を尊敬していたことは確かですし――誰だって彼女を尊敬しないではいられますまい――若い頃にとりかわした結婚の約束をもう一度結びなおしたいと、熱意と誇りをもって望んでいたことでしょう。でも、彼女がおじさまとの約束を尊重するつもりでいることも、彼は知っていました。それに訴訟が彼に及ぼした感化がこの点にまで拡がってしまい、ジャーンディス対ジャーンディス訴訟事件のかたがつくまでは、他の問題同様この問題についても、真剣に誠実に考えるのをのびのびにしているのではないかしら、と考えると、私は本当につらい気持になるのでした。ああ! あの害悪にさえ染まらなかったならば、リチャードはこんなにはならなかったものを!
リチャードはエイダに、君がジャーンディス氏ととり結んだ約束事項(少々相手を無条件に信用しすぎたように、僕には思えるのだけれども)を、こっそり破ろうというつもりでやって来たわけではないのだ、大っぴらに君に会い、エスタに会って、僕とジャーンディス氏との間の関係について、事情を理解してもらうつもりで来たのだから、と、いつもの率直な態度でいいました。あのかわいい年寄りの子供がもうじきやって来るから、その前にエスタと|明日《あす》の朝会う打ち合わせをしたい、互いに腹蔵なく話し合って、立場をはっきりわかって貰いたいから、というのです。私は、では明朝七時にご一緒に散歩に出ましょう、といいました。やがてスキムポールさんがやって来て、一時間ばかり私たちとにぎやかに話しました。彼は特にコウヴィンセズの娘(チャーリーのことです)に会いたいといいました。そしていかにも父親然とした態度でこういうのです。私はあなたのおとうさんの生前に、せいいっぱい活躍の場を与えてさし上げました。もしあなたの弟さんの誰かが、早まって同じご商売につくようなことがあったら、きっとまだ大活躍の余地が残っていることでしょうよ。
「といいますのはね、僕はいつでも例の網にひっかかっているからなんですよ」水割りのぶどう酒を飲みながら、スキムポールさんはにこやかに私たちの方を見つめるのでした。「僕はいつでも保証人に請け出して、つまり、代りに払って貰っているんです。いつでも誰かが僕の代りにやってくれるんです。僕はできやしないんですよ。だって無一文なんですから。でも誰かがやってくれます。僕は誰かのおかげで出られるのです。むく鳥とはちがいますからね、僕は出られます。その『誰か』とは誰のことか、とお尋ねですか? いや、それは絶対にいえません。その『誰かさん』のために、乾杯! 『誰かさん』の健康を祈りましょう!」
リチャードは翌朝少し遅刻しましたが、長く待たされたわけではありません。私たちはデッドロック領内の猟園へはいりました。空には一点の雲もなく、明るく晴れて、朝露がいっぱいでした。鳥が楽しそうに歌い、|羊歯《しだ》や草の葉や木の葉の上の露の輝きは、見るも美しい眺めでした。昨日に比べて森の豊かさが二十倍も増したようでした。まるでどっしりと静まり返って眠りについた夜のうちに、自然がいつもよりも心をこめて翌朝の支度を整え、一枚一枚の葉に至るまで美しく手入してくれたみたいでした。
「すばらしいところだなあ!」リチャードがあたりを見廻しながらいいました。「ここには訴訟の不愉快な気苦労なんか、全然ないんだから!」
でも、ここには別の苦労があるのでした。
「いいことを思いついた」リチャードがいいました。「財産問題のけりがついたら、僕はここへ来て、休養をとろう」
「休養は今とった方がよくはありません?」私が尋ねました。
「今、休養をとることも、今、何かはっきりした行動を起すことも、どっちもむずかしいんだ。つまり、できない相談なんだよ。少なくとも、この僕[#「僕」に傍点]にはできない」
「どうして?」
「わかっているはずじゃないか、エスタ。もしもまだ出来上っていない家に住んでいて、いつ屋根が取り付けられるかはずされるかわからない――屋根から土台までいつこわされるか建てられるかわからない――それも明日のことか、明後日のことか、来週のことか、来月のことか、来年のことか、かいもくわからないとしたら、ゆっくり落着いて休養できると思うかい? 僕だって同じことさ。『今』だなんて、僕たち訴訟関係者は、『今』なんて考えられやしないんだ」
私は昨夜のあの暗い影がまた彼の顔をよぎるのを見ると、あのかわいそうな頭のおかしいお婆さんが長々と述べたてていた、吸い寄せる力とかいうものを、本当に信じたい気持になりかかって来るのでした。思い出しても恐ろしい気持になるのですが、死んでしまったあの気の毒な人(3)の顔にも、そんな暗い影がさしていました。
「ねえ、リチャード」私がいいました。「私たちの話し合いを、こんなふうに始めるのはよくないわ」
「ダードンおばさんにそう言われるだろうと思っていたよ」
「そういうのは私だけではないわ。こんな一家の呪いに希望や期待を寄せるのはおやめなさいって、前に注意して下さったのは、私ではありませんでしたよ」
「そらまた、ジョン・ジャーンディスの話になった!」リチャードはいらいらした口調でいいました。「でも、いいや! どのみちいつかは彼の話にならなきゃいけないんだから。僕の話の主題は彼なんだから、いっそのこと今すぐその話をした方がいいや。ねえ、エスタ、あなたにはわからないのかなあ! 彼だって訴訟の利害関係者の一人なんだよ。だから僕に訴訟事件のことをなんにも知らせないでおいて、僕に関心を全然持たせないでおく方が、彼には有利かもしれないさ。でも、僕にとってそれが有利なことだろうか?」
「まあ、リチャード!」私はいいました。「あなたこれまであの方のお姿を見て、そのお言葉を聞いて、同じ屋根の下で暮して、よく知りぬいているはずなのに、いくら誰一人あたりで聞いているもののいないこんな淋しい場所だからといって、いくら聞き手が私だからといって、よくもそんな根も葉もない中傷がいえたものね!」
彼はまるで生まれながらの高貴な性質が、良心の呵責に打たれたかのように、まっ赤になって、しばらく黙ったきりでいましたが、やがて低い声で、
「エスタ、僕が卑劣な人間でないっていうことは、わかって貰えるだろう? 僕だって人を疑ったりするのは、僕くらいの若い者としてあまり感心したことでないことくらい、わかっているよ」
「あなたの性質はよくわかっていますわ。一番よくわかっているわ」
「それでこそエスタだよ! それを聞いて僕も安心した。いうまでもないことだけど、この訴訟問題はどんなにうまくいったって、やっぱり不愉快なのさ。だからなんとかしてちょっとでもいいから、安心させて貰いたかったんだ」
「よくわかりますわ、リチャード。あなたは生まれながらに、そんな――なんといったらいいかしら?――そんな誤解なんかできる性質ではないということは、ご自分でもおわかりでしょうけど、私だってよくわかります。それから、あなたの生まれながらの性質を、そんなに変えてしまったのがなんであるか、ということも」
「もういいさ、いいさ」リチャードは少し元気をとり戻しながら、いいました。「少なくともあなたは僕を公平な目で見てくれるね。僕が不幸にして訴訟事件のために性質が変ったとするならば、彼だってそのはずだろう。そのために僕の気持が少々ねじけたとするならば、彼だって少々はねじけたかもしれないのさ。彼が立派な人物で、こういった当てにならない面倒ごとから超然としている、ということは否定しない。確かにその通りだと思う。でも、この訴訟事件はあらゆる人間を毒してしまうんだ。それは知っているだろう。彼自身何度となくそういっていたのを、聞いたことがあるだろう。それならなぜ彼だけ[#「彼だけ」に傍点]が毒されないで済むのだろうか?」
「それはあの方がなみなみならぬ人格者で、断固として事件の渦中にまき込まれまいと決心していらっしゃるからですよ」
「やれやれ、降参、降参!」リチャードはおどけた口調でいいました。「僕にはどうだかわからないが、あんなふうにうわべだけ無関心を装うのは、もっともらしく賢明かもしれんな。あんな態度を見ると他の利害関係者は、自分の利害に興ざめして来るかもしれん。それで人々が死んでしまった後も、不愉快な思い出が残らず、都合のいいことがたくさん、しかも波風を立てずに起るかもしれんな」
私はリチャードがかわいそうでかわいそうでたまらず、とてもこれ以上彼を責めるどころか、そんな顔さえ見せる気になりませんでした。ジャーンディスさんが彼のあやまちについて、少しも腹を立てずにやさしい気持を抱いておられたことを、私は思い出したのです。
「ねえ、エスタ」リチャードはまた口を開くと、「まさか僕がジョン・ジャーンディスの悪口をこっそりいうために、ここにやって来たとは思わないだろうね。僕は自分の立場をわかって貰おうと思って来たのさ。つまり僕のいいたいことは、僕が子供で、この訴訟について何も知らない間は、僕たちの間は万事うまくいっていたのだけれども、僕が事件に関心を持ち出して、注意を払うようになると、事情が全く変って来た、ということなのさ。そうなるとジョン・ジャーンディスは、エイダと僕は婚約を解消せねばならないの、僕があの|不埒《ふらち》な行動を改めない限り、彼女と結婚する資格はないのといい出すんだ。僕は絶対その不埒な行動を改めるつもりはないよ、エスタ。ジョン・ジャーンディスはこんな不公平な交換条件を押しつける権利はないはずだし、僕は彼のご機嫌をとるつもりもない。彼の気に入ろうと入るまいと、僕は自分の権利と、エイダの権利を主張しなければならない。僕がこれまでさんざん考えて、到達した結論が以上の通りなのだ」
かわいそうなリチャード! 確かにさんざん考えたらしいのです。彼の顔、声音、態度を見れば、いやというほどそれがわかりました。
「だから僕は彼に堂々といってやった(僕はこの問題のことで彼に手紙を書いたんだ)。僕たちは意見が合わないのですから、合わないということをこそこそいっていないで、大っぴらにした方がいい。あなたのご好意と、僕を守って下さろうというお気持には感謝しますが、あなたはあなた、僕は僕の道を歩んでいるのです。はっきりいって、僕たちは同じ道を歩んでいるのではないのです。係争中のある遺言書の一つによれば、僕の方があなたよりも余計に相続できることになっている。それがはっきり正当と認められているわけではありませんが、ともかくそういう遺言書もあるのだし、先のことはわかりませんから、と、こんな内容の手紙をね」
「リチャード、手紙のことはあなたに教えて貰わなくても、もう知っています。私に教えてくれた方は、腹を立てたりはしていませんでしたよ」
「おや、そう?」リチャードは気持を和らげて、「さっき僕は、あの人は立派な人物で、こういういやな事件から超然としているといったけど、やっぱりその通りだね。そういってよかったと思うよ。僕はいつもそういっているし、これまでだっていつもそう信じていたさ。ねえ、エスタ、僕の考え方はあなたにはひどく不愉快に思えるだろうし、あなたがこれから僕たちの間で話したことをエイダに伝えれば、彼女もそう思うだろうね、きっと。でもね、あなた方が僕のやったみたいにこの事件に首を突込んで、ケンジ法律事務所で書類と首っぴきで調べ上げたり、それに関係した訴訟や反訴や容疑や反容疑の山を知るようにさえなれば、それに比べて僕なんかはおとなしいと思うだろうよ」
「それはそうでしょうね。でも、リチャード、そんなにたくさんの書類の中に、多くの真実と正義が埋もれていると思うのですか?」
「どこかには真実と正義があるはずだよ――」
「というよりむしろ、昔はあった、というべきでしょうね」私がいいました。
「いや、いまでもあるとも――いや――絶対あるはずだ」リチャードが激しい口調でいいました。「なんとしてでもそれを掘り出さなくてはいけない。エイダを|賄賂《わいろ》に使ったり、口留め料にしたって、正義は掘り出せないんだ。訴訟事件のせいで僕は人が変ってしまった、といったね。ジョン・ジャーンディスも、事件になんらかの利害関係のある人間は、過去、現在、未来にわたって、全部人が変ってしまうといっていた。それならなおさら僕のやっていることは正しいんだ。僕は断然この事件のかたをつけようと、全力を傾けているのだからね」
「全力とおっしゃるけれど、これまで何年もの間、他の人たちは全力を傾けなかったと思っているんですか? これまであんなに多くの人が失敗したおかげで、それだけやり易くなったとでもいうのですか?」
「永久に続くはずないじゃないか」リチャードはかっと激して来て、その様子を見るとまたある他の気の毒な人のことが思い出されて悲しくなりました。「僕はまだ若いし、真剣なんだ。エネルギーと根性が奇蹟を生んだ例は、いくらでもあるじゃないか。他の連中は中途半端にしか力を傾けなかったのさ。僕は全力を傾けているんだ。一生の仕事と考えているんだ」
「ああ、リチャード、それだからますます困るのよ。ますます心配なのよ!」
「そんなことない、大丈夫、心配いらないんだよ」彼はやさしくいいました。「あなたは本当にやさしい、親切な、賢い、おとなしい、いい人だ。でも偏見を持っている。それでまた、ジョン・ジャーンディスの話になるんだが、いいかい、エスタ、彼と僕とが彼にとっては都合のいい間柄にあった時、僕たちは不自然な間柄にあったんだよ」
「じゃあ、別れ別れになって、敵意を持つのが自然の間柄なんですか?」
「いや、そうはいわない。僕のいうのはね、この事件と自然の間柄とは共存不可能なものだから、いったんまき込まれれば、僕たちは不自然な関係にならざるを得ない、ということなんだ。そこに急いでこの事件を解決しなくてはいけないもう一つの理由があるんだよ! 解決がついた時に、ひょっとして僕はジョン・ジャーンディスを誤解していたと気がつくかもしれない。訴訟から離れて僕の頭がはっきりした時、あなたが今日いったことに賛成するようになるかもしれない。よろしい。そうなったら僕はいさぎよくそれを認めて、彼に賠償を払おう」
なんでもかんでも、当てにならない未来の解決を当てにしているのです! その時まではいっさいをどっちつかずの混沌の中に留めておこうというのです!
「ねえ、あなたには何もかも胸の中を打ちわって話してるんです」リチャードがいいました。「僕の従妹エイダに、僕はべつにジョン・ジャーンディスに対してあら探しをしたり、気まぐれなわがままをいっているのではない、僕にはちゃんとはっきりした目的と理由があってのことなのだ、と、わかって貰いたいのですよ。エイダはジョンおじさまを大いに尊敬しているから、あなたを通して僕という人間を見て貰いたいんです。あなたは僕の行為に賛成はしてくれないだろうが、大目には見てくれるでしょうからね。だから――つまり、その」リチャードはややためらった後に、「僕は――つまり、エイダはすぐ信じやすい|性質《たち》だから、彼女に僕のこの訴訟好きで、喧嘩早い、疑ぐり深い性格を見せたくないんです」
この最後のところは今朝聞いたあなたの言葉のうちでも、一番リチャードらしい、率直な響きがしますわ、と私がいいました。
「その通りかもしれないなあ」リチャードも認めました。「僕もなんだかそんな気がする。でもそのうち僕は自分を公平に見る目を持てるようになるだろう。そうなれば僕は大丈夫もとに戻るさ。心配いらないよ」
エイダに伝えてほしいのはこれだけですか? と私が尋ねました。
「いや、まだある。ジョン・ジャーンディスの返事の内容も知らせておかなくてはいけない。いつものような手紙の調子で、『親愛なるリック』と僕を呼んでいる。なんとか僕を説得して意見を変えさせようとして、自分の方はあい変らずなんとも思ってはいない、と書いてあった(それはもちろんそうかもしれない。でも、だからといって事件の成り行きが変るわけではないからね)。それからこれもエイダに伝えて貰いたいんだけれども、このごろエイダにあんまり会わないのは、僕だけでなくてエイダの利害についても研究しているからなのだ――僕たち二人は文字通り一つ運命をともにしているのだからね――だから、万一僕がおっちょこちょいで軽薄だ、なんていう噂を耳にすることがあっても、信じないで貰いたい。それどころか、僕はいつも裁判の解決を望み、いつもそのために対策を立てているのだ、とね。僕は今では成年に達しているし、こういう行動をとったのだから、僕自身はジョン・ジャーンディスになんら縛られるところはないと思っているが、エイダはまだ法定後見人が必要な身分だから、僕はまだ彼女に婚約を結びなおしてくれと頼むつもりはない。彼女が独立できるようになったら、僕ももう一度ちゃんと元通りに戻って、きっと二人とも今と違って楽な境遇になれると思うよ。こういったことを、あなたのその思いやりのある話し方でエイダに話してくれれば、僕は本当に有難い。ますます元気を出して、ジャーンディス対ジャーンディス訴訟事件をやっつけてやる。もちろん僕のいったことを、荒涼館で内証にしておいてくれなんて頼みはしないよ」
「リチャード、よく私にいろいろと打ち明けて話して下さいました。でも、私が忠告をしても聞いて下さらないでしょうね?」
「このことについてだったら、とてもむりです。ほかのことだったら、喜んで聞きますよ」
ほかのことに関心ありそうにはとても思えないのに! 彼の生涯と性質の全部が一つの色に染められているというのに!
「でもリチャード、質問くらいしてもいいでしょう?」
「まあね」彼は笑いながら答えました。「あなたにいけないといったら、ほかにいいという人がいなくなりますからね」
「あなたはご自分でも落ちついた生活ができないといっていたけど」
「いっさいが落ちついていないのに、生活だけ落ちつくはずがないでしょう?」
「また借金しているの?」
「そりゃ、当り前さ」リチャードは私の単刀直入な質問に驚いていました。
「借金が当り前なの?」
「その通りさ。何かある目的に没頭すれば、費用がかかるのは当り前じゃないか。君は忘れたのか、あるいは知らないのかもしれないけれど、どちらの遺言書によっても、エイダと僕は何がしかの金が貰えるのさ。額が多いか少ないかだけの違いさ。いずれにしても僕は低く見積っておくつもりだ。いや、全く驚いたなあ!」リチャードは私の質問にひどくおもしろがった様子で、「僕は大丈夫! がんばるからね!」
私は彼の陥っている危険をひしひしと身に感じましたので、エイダのために、ジャーンディスさんのために、私のために、その他考えつくありとあらゆるやり方で、思い止まらせよう、彼の間違いを知らせようとしました。彼は私の言葉の一つ一つを辛抱強く、やさしく聞いてくれましたが、結局何の効果もなくはね返るだけでした。むりもないと思いました。はじめから偏見をもってジャーンディスさんの手紙をあんなふうな受取り方をしたあとなのですから。でも、エイダに説得を頼んでみよう、と私は決心しました。
そういうわけで、私たちが村に着き、私が朝食のために家に帰って来ると、まずエイダにどういう話かをあらかじめ教えておいて、それからリチャードが身をもち崩し、一生を棒にふってしまうおそれがあるその理由を正確に話して聞かせました。当然のことながら、彼女は悲しみました。でも彼女は、私よりも彼のあやまちを直せる自信がずっと余計にありましたから――彼女の愛情からすれば当然のことでしたが――間もなく彼あてにこんな手紙を書きました。
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親愛なる従兄リチャード
今朝のお話は全部エスタから伺いました。私がこの手紙を書きますのは、エスタがあなたにいったことを全部、もう一度くり返したいからです。遅かれ早かれいつかきっとあなたは、私たちのジョンおじさまが忠実と誠実と善意の|鑑《かがみ》であることを知り、おじさまをあんなに誤解していた(そのつもりでしたのではないとしても)ことを深く悲しむようになるでしょう。
私がこれからいいたいと思うことを、どう文字に書きあらわしたらよいか、よくわからないのですが、あなたはきっと私の意味をよく|汲《く》んで下さると信じています。ひょっとするとあなたがご自分をあんなに不幸にしているのは――もしご自分を不幸になさっているなら、私をも不幸になさっていることになります――一つには私のためをも思って下さってのことではないか、と思うのですが、もしそうでしたら、またあなたがなさっておられることが、私のことをいろいろとお考えになってのことでしたら、どうかそれはおやめ下さいますよう、切に切にお願いいたします。私を幸せにして下さるおつもりでしたら、私たち二人が生まれながらに背負っている影に背を向けて下さるのが、一番うれしいのです。こんなことを申す私にお腹立ちのないよう、お願いいたします。どうか、リチャード、私のためを思って、それからあなたご自身のためを思って、それから私たち二人をこんなに若いうちから孤児にしてしまった原因の一つともなった、この不幸を憎む気持が当然おありかとも思いますが、どうか、どうか訴訟のことなど永久にお忘れ下さい。あのようなものにはなんの益も、希望もなく、出て来るものは悲しみだけということは、もう充分おわかりのはずではありませんか。
親愛なるリチャード、いまさら申すまでもありませんが、あなたは完全に自由ですし、そのうち一時の気まぐれ以上に深く愛する人が誰かできるかもしれません。その場合あなたの選んだ人は、何年も何年ものびのびの希望と心配にさいなまれる代償を支払って、あなたと一緒にお金持になりたいと望む、あるいは本当にお金持になる(そんなことありそうにないことですが)よりは、むしろ、どんなに貧しくつつましくとも、自分の選んだ道を歩み、自分の義務を果して幸せになれたあなたと、どこまでも運命をともにしたいと願うことでしょう。世の中のことをろくに知りませんのに、このように自信にみちたことを申す私に、お驚きになるかもしれませんが、私は心の底からその通りだと確信しています。
[#地付き]かしこ
[#地付き]あなたの愛情にあふれた
[#地付き]エイダより
[#ここで字下げ終わり]
この手紙を受取ると、リチャードはすぐ私たちのところにやって来ました。でも、彼の気はほとんど変っておりませんでした。彼はいうのです。どちらが正しくてどちらが間違っているか――とにかくやって見れば――いまにわかるさ! 彼はエイダのやさしさに嬉しくなってしまったのか、すっかり元気|溌溂《はつらつ》としていました。でも私は、もう一度あの手紙をよく読み返してくれて、もっと別な感動に打たれてくれればいいのに、と願って溜息をつくだけでした。
二人がその日は私たちの家に泊り、翌朝馬車で帰るよう手筈が整いましたので、私は機会をみてスキムポールさんにひとこと話そうと思っていました。私たちはよく戸外で過していましたので、その機会はすぐやって来ました。私は失礼にならないよう遠廻しに、リチャードをけしかけるからには、責任が伴いますわ、と申しました。
「サマソンさん、責任ですって?」彼はこの上もなく晴れやかに笑いながら、私のいった言葉を捕えると、「僕はとうてい責任なんかとれない人間です。生まれてこの方、責任なんかとったことありません――そんなことはできない人間なんです」
「でも、誰でも責任はとらねばなりませんもの」私はおずおずとした口調でいいました。彼が私よりずっと年長で、ずっと賢い人でしたから。
「いや、そんなことありますまい」彼は私の言葉を聞くと、いかにも愉快そうに、おどけて驚いた様子を見せました。「誰でもが借金を払えねばならない、というわけではないでしょう? 僕は払えないのです。払えたことなんか一度もないんですよ。サマソンさん、ご覧なさい」彼はポケットからばら銭の銀貨と半ペニー銅貨をつかみ出して、「こんなにお金があります。いくらだか僕にはわかりません。僕は勘定ができないのです。四シリング九ペンスでもいいし――四ポンド九シリングでもいいのです。僕の借金はもっと多いのだそうです。そうかもしれません。僕は人のいい方がたが貸してくれるだけ、借金するでしょう。向うが貸してくれるのをやめないなら、こっちも借りるのをやめることないでしょう? これがハロルド・スキムポールというものです。もしこれが責任を取ることなら、僕は責任を取っているわけですな」
そういって、ひどく自然な態度でお金をまたしまい込み、優雅な顔に微笑を浮べて、まるで誰か他人の奇妙な点について話しているかのように、私の顔を見ますので、私もあやうく彼は関係なさそうだという気持になりかけました。
「責任のことをおっしゃったので気がついたのですが」彼はまた話しはじめました。「僕はあなたくらい気持よく責任をとる方に、これまでお目にかかったことがありませんね。あなたはまさに責任の標本みたいに僕には思えますな。サマソンさんを中心にいただく、きちんとした秩序を完全に働かそうと、あなたが一所懸命になっている姿を拝見しますと、僕はよくいいたくなるのです――いや、本当によく自分にいうことがあるのです――あれこそ[#「あれこそ」に傍点]責任というものだ!」
こういわれてしまうと、私のいわんとすることを説明しにくくなってしまいましたが、なんとかがんばって、どうかリチャードが現在抱いている楽天的な考えを、けしかけるようなことをいわずに、おしとどめていただきたいと思っているのです、と申しました。
「喜んで致しますとも」彼は答えました。「もし私にできれば、ですな。でも、サマソンさん、私は隠したり、術を使ったりができないんですよ。リチャードが私の手をとって、私の先に立ち、幸運の神を追っかけて浮き浮きとウェストミンスター・ホールの法廷を走り抜けるのでしたら、私もいかないではいられません。彼が私に、『スキムポール、一緒に踊れ!』といえば、私は踊らないではいられないのです。常識ではそれはおかしいでしょうな、きっと。でも、私には常識が全然[#「全然」に傍点]ないんです」
「リチャードにとって不幸なことですわ」私がいいました。
「そうお思いですか? まさか、とんでもない! リチャードがあの常識というやつなどと仲よしになるんですって?――こいつは立派なじいさんです――とてもしわだらけで――ものすごく実際的で――ポケットというポケットに十ポンド|札《さつ》分の小銭を入れていて――手には帳簿を抱え――つまり、大ざっぱにいえば税務署の役人みたいですな。楽天的で熱心で、障害もものともせず、若いつぼみのように詩ではち切れんばかりの、われらの友リチャードが、このたいそうご誠実な友人に向って申します。『前途は黄金色に見えるよ。明るくて、美しくて、愉快だ。そら、僕は野山を越えてあそこへゆくんだ!』とたんにこのご誠実な友人は帳簿で彼を殴り倒してから、文字通り散文的な調子でいいます。そんなものは見えんね、見えるのは手数料と、詐欺と、馬の毛のかつら、黒いガウンだけじゃ。ねえ、こうなったらなさけないじゃありませんか――そりゃ確かにこの上もなく常識に富んではいますが、不愉快です。この僕[#「この僕」に傍点]はご免です。僕は帳簿なんかもっていませんし、税務署の役人みたいなところはこれっぱかりもありません。僕は全然ご誠実でありませんし、なりたくもありませんな。へんてこかもしれませんが、その通りなんです!」
これ以上いうのはむだでした。そこで私は、少し先を歩いているエイダとリチャードと一緒に歩きましょう、とスキムポールさんにいって、この人のことはどうしようもなくあきらめました。彼はその日の午前中デッドロック邸へ出かけて、広間にあるご先祖の肖像画を見て来ましたので、散歩しながらおもしろおかしく説明するのでした。いにしえの歴代のデッドロック夫人の中には、ものすごい羊飼い姿のがいて、平和な牧羊杖もこの人たちが手にすると、ぶっそうな攻撃用武器となり、|衿《えり》を糊で固め、かつらに粉を散らして、ばんそうこうをくっつけて、ものものしいいでたちで羊の群を世話し、庶民どもをこわがらせているさまは、まるでどこかの土民の酋長が身体に絵具を塗って出陣するみたいだったとか。それからなんとかデッドロック卿の肖像では、乗っている馬の二本の後脚の間に、戦争、地雷火の爆発、もくもく上る煙、稲妻のひらめき、燃えさかる都市、嵐に叩かれる城砦などが描かれてあって、これで見るとデッドロック家はこんなつまらぬ狂瀾怒濤は歯牙にもかけぬらしい、とのこと。要するにあの一族の方々の実物は、スキムポールさんの説明によると、みんな剥製人形だったらしいのです。ガラスの目をして、いろいろな枝や止まり木の上でいい格好をして、本物そっくりで、全然生気がなくて、いつもガラスのケースに入って、どっさり並べて陳列してある、というわけです。
デッドロックの名前が話に出ているあいだ私は気が気でなくなりましたので、リチャードが大きな驚きの声を上げて、さっきからこちらにゆっくり歩いて来るのが見えていた、一人の見知らぬ人を迎えに駈け出した時、正直いってほっとしたのです。
「これは驚いた! ヴォールズじゃないか!」スキムポールさんがいいました。
リチャードのお友達ですか? と私たちがききました。
「友達で顧問弁護士です」スキムポールさんが答えました。「さあ、サマソンさん、もし常識と責任と誠実をいっしょくたにしたものをご覧になりたければ――模範的人物をご覧になりたければ――ヴォールズこそその[#「その」に傍点]人です!」
リチャードがそんな名前の人を顧問に頼んだとは知りませんでした、と私たちがいいました。
「彼が成年に達した時、わがおしゃべりの友ケンジと別れて、ヴォールズと提携したのだと思います。実をいうと僕はそのいきさつを知っているのです。何しろ彼をヴォールズに紹介したのはこの僕なのですから」
「長い間のお知り合いですか?」エイダが尋ねました。
「ヴォールズですか? 僕はあの職業の人たちを数人知っていますが、彼もその程度の知り合いです。彼が僕に何か愉快な、親切なことをしてくれたんですよ――手続をとる、とかなんとかいうんですね、確か――その結果彼が僕をとるという手続になったのです。誰かさんがご親切にもやって来て、金をくれたのです――額はなんとかと四ペンスでした。ポンドとシリングのところは忘れちゃいましたが、最後のところは四ペンスでしたよ。僕が誰かに四ペンス借金するなんて妙だなあ、と思ったのを憶えていますからね――それから僕が二人を引きあわせたんです。ヴォールズが僕に紹介してくれと頼んだので、してやったんです。今から考えると」彼は何かに思い当ったみたいに、いつもの率直きわまりない微笑を浮べながら私たちを見つめるのでした、「ヴォールズは僕に|賄賂《わいろ》を使ったのかしら? 僕に何かくれて、手数料だとかいってました。五ポンド|札《さつ》だったかしら? そうだ、確か五ポンドのお札だったと思いますよ!」
まだそれ以上考えていたかったらしいのですが、そこへリチャードが興奮した様子で戻って来ると、急いでヴォールズ弁護士を紹介しました――顔色は青白く、いかにも冷たそうな唇をきゅっとすぼめて、顔のあちこちに赤いできものが出ていて、痩せて背が高く、年は五十くらい、肩が高く、猫背でした。黒い手袋をはめ、黒い上着のボタンを襟もとまで掛け、特に印象に残る点はというと、そのいかにも生気のなさそうな態度と、ゆっくりじっとリチャードを見つめるその目つきでした。
「お嬢さま方のお邪魔ではございませんでしょうね」ヴォールズ弁護士がいいました。そこで気がついたのですが、もう一つ彼の印象的な点は、口の中でもごもご[#「もごもご」に傍点]するようなそのしゃべり方でした。「私はカーストン氏との約束で、氏の訴状が大法官の手もとに上った時は、必ずお知らせすることになっていたのです。ところが昨夜郵便差出しの締切り時刻以後に、私のところの書記の一人から、思いがけなくも訴状が明日上程の予定になったと知らされましたもので、今朝早く馬車に乗りまして、相談のために駈けつけました次第で」
「その通りさ!」リチャードは上気して、勝ち誇ったような顔でエイダと私の方を見ました。「僕たちは昔みたいにスローモーにことを運んでいるのとは違うのさ。今ではてきぱきかたづけているんだ! ヴォールズ君、なんとかして車を雇って、郵便馬車の出る町までゆかなくちゃいけない。そこから今夜の急行郵便馬車でロンドンに戻らなくちゃ!」
「ご希望通りにいたします」ヴォールズ弁護士が答えました。「いつでもご命令通りに」
「ええと」リチャードは時計を見ながら、「僕がこれから宿屋へ急いで帰って、荷物をまとめさせて、二輪馬車か何か手に入る車を雇えば、出発前に一時間余裕があるな。エイダ、お茶を飲みに戻って来るから、僕のいない間エスタと一緒にヴォールズ君のお世話を頼むよ」
リチャードは興奮して大急ぎでいってしまい、間もなくその姿は夕闇の中に消えました。残された私たちは家の方に向って歩き出しました。
「明日はどうしてもカーストンさんが法廷に出頭しなくてはいけないのですか?」私が尋ねました。「そうすれば何かためになるのですか?」
「いいえ、お嬢さん。そんなことはあるまいと思います」弁護士が答えました。
エイダも私も、それじゃただ失望するために出かけるようなものじゃありませんか、と残念そうにいいました。
「カーストン氏はご自分の訴訟の成りゆきをこの目で確めたい、と強く主張なさったのです」弁護士はいいました。「依頼人が自ら強く主張し、その主張が道にはずれたものでない限り、私はそれを実行に移す義務があるのです。私は仕事においては、ことを正確に大っぴらに運びたいと願っております。私は家内をなくし、娘が三人おります――エマ、ジェイン、カロライン――ですから私の願いは、生きているうちに義務を遂行して、死後娘たちによい名前を残したい、ということでございます。こちらは気持のよいところでございますね、お嬢さん」
私が弁護士のすぐ隣りに並んで歩いていましたので、この言葉は私に向けられたのだろうと思います。そこで私もうなずいて、あれこれ魅力のある風景を数え上げました。
「なるほど」ヴォールズ弁護士はいいました。「私は老父をトーントン渓谷――父の生まれ故郷です――で養っているのです。あちらもたいそう美しいところですが、こちらがこんなすばらしい場所とは、思ってもいませんでした」
話の腰を折らないために私は、田舎にお住まいになりたいとお思いですか? と尋ねました。
「そこです。実にいいことをきいて下さいました。私は健康がすぐれませんもので(ひどい消化不良なのです)、私だけのことさえ考えていればよいのでしたら、田舎にひっ込んでしまいたいところでございます。とくに仕事の関係上、一般の方々、とりわけご婦人の方々とお付き合いすることが(実はたいへん好きなのでありますが)、なかなかでき兼ねるものですからね。しかしエマ、ジェイン、カロラインの三人の娘――それに老父――をかかえておりますので、手前勝手なぜいたくにふけっている余裕はございません。私の祖母は百二歳でなくなりましたので、もう養わなくてよろしいわけでありますが、まだ生活を支える義務がかなり残っておりますから」
例のもごもご[#「もごもご」に傍点]したしゃべり方と、生気のない態度のために、弁護士の言葉を聞くには耳をよくすましていなければなりませんでした。
「娘たちのことばかり申して恐縮でございますが、私はもうあれのこととなりますと、目がございませんで。私はかわいそうな娘たちに名声だけでなく、ささやかでも何がしかの資産を残してやりたいのでございます」
私たちがボイソーンさんのお屋敷に戻ると、ちゃんとお茶の支度が待っていました。じきにリチャードが落ちつきなくせわしげに入って来ると、ヴォールズ弁護士の椅子の上に身をかがめて、耳もとに何かささやきました。弁護士は大声を出して――というより、たぶん、これまで出したことがないほどの声で――答えました。
「私を馬車に乗せていって下さるのですね? どちらでもよろしゅうございますが。ご希望通りに。かしこまりました」
その後の話によると、スキムポールさんは翌朝まで残って、もう料金の払ってある二人分の馬車席を占領して、帰ることになったのだと聞きました。エイダも私もリチャードのことが心配で、こんなふうにして彼と別れなければならないことで気持が沈んでしまいましたので、できるだけ礼を失しない程度に、スキムポールさんにはデッドロック・アームズ亭にお引取り願うことにして、夜の旅人を見送ったらすぐ寝ることに決めました。
リチャードの元気は誰もさからえないくらいでしたので、私たちが二輪馬車を待たせておいた村の上の丘の頂きまで、一緒に見送りにゆきますと、馬車を引く痩せこけて青ざめた馬(4)の前に、カンテラをもった一人の男が立っていました。
カンテラの光に照らされてあの二人が並んで坐っていた姿は、一生忘れることができません。手綱をとったリチャードはすっかり興奮して元気よく笑ってばかりいました。黒い手袋をはめて、襟元までボタンを掛けたヴォールズ弁護士は、じっと坐ったまま、まるで自分の獲物に|呪文《じゆもん》をかけているような目付きで、リチャードを眺めていました。今でも目の前にあのなま温かい暗い夜の光景が浮んで来ます。夏の稲妻、生け垣と高い木に挟まれた狭い埃だらけの道、耳をそば立てた痩せこけて青ざめた馬に引かれて、ジャーンディス対ジャーンディス訴訟事件めがけて疾走する馬車。
その晩やさしいエイダが私にいいました。今後リチャードがお金持になろうと破産しようと、友達に囲まれようと見棄てられようと、結局のところ、もし一人の変ることないまごころの持ち主の愛を必要とするなら、その変ることないまごころの持ち主はいっそうあの人を愛してあげなくてはいけないのよ。今誤った道に踏み迷いながらも、あの人は私のことを思ってくれるのですもの、私はいつもいつもあの人のことを思ってあげるつもり。あの人に身も心も捧げることさえできるのなら、私は自分のことなんかどうでもいいの。あの人の幸せの助けにさえなれるならば、私の幸せなんかどうでもいいのよ。
そしてエイダはこの誓いを守り通したのです!
私が目の前に延びている道を眺めやると、前途はもういくらもなく、旅路の果てがしだいにはっきり見えて来ます。大法官府訴訟の死の海と、その岸辺に|累々《るいるい》と打ち寄せられた死の果実(5)の遥か上の方に、私のかわいいエイダの善良で忠実な姿が見えるような気がするのです。
[#改ページ]
第三十八章 苦闘
私たちが荒涼館に戻った時は、予定通り一日もたがえぬ帰宅で、歓迎ぜめに会いました。私はすっかり元気になりました。私の部屋には家事用の鍵の束が待っていて、私がまるで新年ででもあるかのように、鐘みたいな賑やかな楽しい音を立てて私を迎え入れてくれました。「エスタ、さあ、また仕事、仕事よ」私は自分に向っていいました。「仕事ができて嬉しくないのなら、何もかも満足で元気になれないのなら、そうなるように努めなさい。これがあなた[#「あなた」に傍点]への忠告よ!」
着いたばかりの数日はばたばた忙しくて、家計簿を締めくくったり、「怒りの間」とその他のところを何度もいったり来たりして、たんすの引出しや戸棚やらをかたづけ直したり、何やかやとやり直しの仕事に追われていましたので、一刻の暇もありませんでした。でもこうしたかたづけが終り、万事整頓されると、ロンドンへちょっと人を訪ねに出かけました。チェスニー・ウォールドで焼き棄てた手紙の中に書いてあったあることに関連して、ぜひやらなければならないと決心したことがあったからです。
キャディ・ジェリビー――お嫁入り前の名前にすっかりなじんでしまいましたので、いつもそう呼んでいました――をこの訪問の口実に使いました。事前に手紙を書いて、ちょっとした用件で一緒にいってくれませんか、と頼んでおいたのです。朝早く家を出てロンドンまで馬車で出ましたので、ニューマン街に着いた時は、午前もそんなに廻ってはいませんでした。
キャディにはその結婚式の日以来会っていませんでしたので、彼女はとても喜んでやさしくしてくれました。ご主人がやきもちをやかないかと半分心配になったくらいです。でもキャディの夫もこれまた駄目で――というのは、つまり親切にしてくれ、結局、昔通りで、誰も私に仲裁役などさせる余地を与えてくれなかったのです。
ターヴィドロップさんのお父さんはまだ二階で寝ているのだそうで、キャディはそのチョコレートを|挽《ひ》いていたところですが、そのそばにいる小さな陰気くさい少年は徒弟で――ダンス教師に徒弟がいるなんて妙な話ですが――チョコレートを二階へ持ってゆく役でした。キャディがいうにはお|義父《とう》さんはこの上もなく親切で、思いやり深くて、とても幸せな暮しをしているのだそうです。(キャディが「暮し」という意味は、老父がいいものといい部屋を全部とってしまって、彼女と夫とは厩の上の隅の二つの部屋に押し込められて、やりくり生活をしている、ということなのです)
「お母さんは元気?」私が尋ねました。
「ママのことは、パパの口から聞くのよ。ママにはめったに会わないから。あたしとママは大の仲よしだけど、ママはあたしがダンス教師と結婚したのはばかげている、と思っているの。ばかげたことが自分にまで伝染しやしないかと心配しているのよ」
自分がばかげて見える心配をするくらいなら、その前に自分の当然の義務を果すべきで、望遠鏡で遥かな地平線にころがっている義務を探し求めるのはやめた方がいい、と私は思ったのですが、もちろんこんな考えは私の胸の中だけにおさめておきました。
「パパはお元気?」
「パパは毎晩ここに来るわ。あそこの隅に坐っているのが大好きなの。それを見ているだけで嬉しくなるわ」
その隅を見ると、壁にはっきりとジェリビーさんの頭のあとがついていました。こんな頭の憩いの場所を見つけたと聞くと、とても気持が安らかになりました。
「それからキャディ、あなたはきっといつも忙しいのでしょう?」
「ええ、とても忙しいの。大秘密を教えてあげましょうか。あたし今ダンス教師の免状をとろうとしているのよ。プリンスは体があんまり丈夫でないので、あたし手伝ってあげたいの。学校で教えたり、ここでレッスンしたり、個人教授をしたり、その上[#「その上」に傍点]徒弟をとったりで、あの人かわいそうに働きすぎなのよ!」
徒弟というのは考えるとどうも妙な話なので、たくさんいるの? とキャディに尋ねました。
「全部で四人」キャディが答えました。「一人は住み込みで、三人は外から通いなの。いい子ばかりよ。でも――子供のことだから――四人一緒になると、練習しないで遊びたがって仕方ないの。だからさっき見たあの子は、今誰もいない台所で一人でワルツを踊っているわ。他の三人はできるだけばらばらにして、家中の他の場所においておくのよ」
「もちろん、ステップの練習だけでしょう?」私がいいました。
「ステップの練習だけよ。そんなふうにして、何のステップでもいいから、一度に何時間も練習するの。ダンスは学院で習うのよ。いまの時節だったら、フィギュアの練習は毎朝五時から」
「まあ、なんという重労働でしょう!」
「外から通いの子が朝呼鈴を鳴らすと(お|義父《とう》さんの眠りの邪魔になるといけないから、呼鈴は私たちの部屋に通じているのよ)、私が窓を開けて外を見るでしょう。そうすると小さなダンス靴を小脇に抱えて、入口の階段の上に立っているの。いつも煙突掃除の子供みたいだなあって思うのよ」キャディは笑いながらいいました。
こんな話を聞くと、私には舞踊というのがなんとも奇妙な芸術に思えて仕方ないのです。キャディは私が驚いているのを見るとすっかり嬉しくなってしまって、元気な口調で自分の勉強ぶりを詳しく話して聞かせるのでした。
「費用を節約するために、あたしはピアノを少しと、キット(1)も少しひけなくてはいけないのよ。だからダンスと一緒にこの二つの楽器を習わなくてはいけないの。ママがもし他のママみたいだったら、あたしも少しは音楽の初歩を知っていたはずでしょうけど、全然知らないでしょう。だから音楽の勉強の方は、白状するけど、はじめは少し気が進まなかったのよ。でも、あたしは耳がいいし、いやな仕事をむりやりするのはなれているでしょう――少なくともこの点ではママに感謝しなくてはね――それに、精神一到何事か成らざらん、というわけよ」こういうとキャディは、笑いながら小さな|竪型《たてがた》ピアノに向って、本当にたいそう元気よくカドリールの曲を弾き始めました。顔を真赤にして笑いながら、「笑っちゃいやよ、お願い!」
私はむしろ泣き出したいような気持だったのですが、でも、泣きも笑いもしませんでした。まごころこめてほめてあげ、激励しました。というのは、彼女は一介のダンス教師の妻で、自分もダンス教師になるのがささやかな願いでしたけれども、その健全な人情と愛情から生まれた勤勉と忍耐とは、蛮地に|赴《おもむ》く宣教師に少しも劣るところはない、と私は心からそう思ったからです。
「エスタ、そういって貰うと、なんともいえないくらい元気が出るわ」キャディは嬉しそうにいいました。「本当にあなたにはいろんなことでお礼をいわなくては。あたしの小さな世界にも、ずいぶん変化があったものね! 二人がはじめて会った晩、あたしがインクだらけで、失礼なことをいった時のこと憶えていて? あの時あたしが将来、人にダンスを教えるだろうとか、なんとかかんとか考えていた人がいたでしょうか!」
私たちがこんなおしゃべりをしている間、姿を見せなかった彼女の夫が戻って来て、これから舞踏室で徒弟にダンスを教えることになりましたので、キャディは、さあ一緒に出かけましょうか、といいました。でも私は予定の時間にはまだ間がありますから、といいました。そんなにすぐ彼女を連れ出しては悪いと思ったのです。そこで私たち三人は徒弟の練習場へゆき、私もひと役加わりました。
徒弟はなんとも奇妙な子供たちでした。例の陰気な少年(誰もいない台所で一人でワルツばかり踊っていたために、まさか陰気になってしまったのではないと思いますが)のほかに、もう二人の少年と、薄い|紗《しや》の着物を着たきたならしい足の悪い少女が一人いました。ひどくませた[#「ませた」に傍点]女の子で、みっともない帽子(これも薄い紗の布でできていました)をかぶり、古いすりきれたビロードの手提げの中に、サンダル靴を入れて持って来ました。男の子たちはひどくみすぼらしくて、ダンスをしていない時はポケットに入れている|紐《ひも》や、おはじき玉や、羊の膝蓋骨(2)で遊んでいるのですが、とてもきたならしい足――とくにかかとのところは――をしていました。
私はキャディに、どうしてあの子たちの親は子供にダンスを習わせる気になったのかしら、と尋ねました。キャディは、分らない、たぶんダンス教師にするつもりか、舞台に立たせるつもりでしょう、といいました。親たちはみんな貧しい人たちで、陰気な子供のお母さんは、ジンジャー・ビール店をやっているのだそうです。
私たちは大真面目になって一時間ダンスをしました。例の陰気な男の子は脚さばきが驚くほど上手でした。踊るのがおもしろくてたまらないらしいのですが、それは腰より上には通用しないのです。キャディは夫のやり方を注意深く見よう見まねで、自分独自の落着いた優雅なスタイルを身につけていましたが、その美しい顔や姿態とあいまって、とてもみごとなものでした。もう子供たちの練習はほとんど彼女が夫に代ってやってやれるようになり、夫はフィギュアで自分の受け持つ部分があると、それをやって見せるだけで、その他はめったに口出しをしません。もっぱら曲を弾く役でした。紗をまとった女の子の気取りぶりと、男の子に見せるえらぶった態度は見ものでした。このようにしてきっかり一時間、私たちはダンスをしました。
練習が終ると、キャディの夫は郊外の教習所へ教えにゆく支度をし、キャディも大急ぎで私と一緒に出かける支度をしにいきました。その間私は舞踏室に坐って徒弟たちを見ていました。二人の通いの男の子は半長靴をはくために階段のところへゆき、住込みの男の子がいやがっている様子から見ると、彼の髪の毛を引っぱっているようでした。上衣のボタンをかけ、舞踏靴をその中につっ込んで戻って来ると、冷たい肉サンドウィッチの包みをとり出し、壁にかかったギリシャ|竪琴《たてごと》の絵の下で露営の陣を張りました。紗をまとった女の子はサンダル靴を手提げの中へ入れ、はき古した靴にはき替えると、頭をひょいと振ってみっともない帽子をかぶり、ダンスは好きですか、という私の問いに、「男の子と一緒じゃいやよ」と答えてから、帽子の紐を|顎《あご》の下で結び、軽蔑しきったような態度で帰ってゆきました。
「|義父《ちち》がまだ着がえを済ましていないので、あなたにお出かけ前にご挨拶ができずにまことに残念です、といっていたわ。エスタは義父の大のお気に入りなのよ」キャディがいいました。
私はそれは恐縮です、といいはしましたものの、実はご挨拶はご免こうむった方が有難いのよ、といいかけたのをやめました。
「義父は着がえにひどく時間がかかるの。なにしろ服装にかけては大いに尊敬されているので、名声を落したくないのね。義父はあたしのパパにそれはもう親切なのよ。晩になるとパパに摂政宮殿下(3)の話をするの。パパがあんなに聞き惚れていたのを見たことがないわ」
ターヴィドロップ氏がジェリビー氏に行儀作法のお説教をしている図は、考えただけでもおもしろそうだと思いました。ターヴィドロップさんはあなたのパパをよく外へ連れ出すことがあるの? と、私はキャディにききました。
「いいえ。そんなことはないらしいわ。パパに話をして聞かせるのよ。パパは義父を大いに尊敬しているので、じっと聞いていて、とても嬉しそうなの。もちろん、あたしのパパは行儀作法なんか、とても口に出す資格のない人だけれど、それでも二人はとても仲がいいのよ。びっくりするくらいよくうまが合うのよ。あたし生まれてこの方、パパが嗅ぎたばこなんか嗅いでるの見たことなかったわ。ところがパパは義父の箱からいつもひとつまみ貰って、毎晩鼻につめたり、出したりしているわ」
ターヴィドロップさんが、世の中の何かのはずみで、ジェリビーさんをボリオブーラ・ガーから救い出すことになったのだとしたら、それは奇妙なことながらとても愉快なことだ、と私は思いました。
「ピーピィのことなんだけど」キャディはややためらいがちにいいました。「あたし、あの子のことが一番心配なの――自分の子供ができればそっちの方に気をとられるでしょうけれどもね――義父に面倒かけることになりはしないかと思って。義父はあの子を目に入れても痛くないような、かわいがりようなの。義父の方から会いたい、なんていってくれるんですもの! 寝ているところへ新聞を持ってゆく役をやらせてくれたり、パンの耳を分けてくれたり、家の中の用事をいいつけてくれたり、そのお駄賃の六ペンスをあたしのところに貰いにゆけ、といってくれたりするの。要するに」キャディは陽気な口調でいうのでした。「てっとり早くいえば、あたしは幸せ者よ。だから感謝しなくてはいけないと思うわ。エスタ、これからどこへゆくの?」
「オールド・ストリート・ロードまでよ。法律事務所の書記の人に話があるの。その人は私が初めてロンドンに出て来て、あなたに最初に会った時に、馬車の発着所まで迎えに出てくれた人よ。ああそうそう、私たちをあなたの家まで案内してくれた人」
「それじゃあたしが一緒についてゆくのは、しごくあたり前のことね」キャディがいいました。
オールド・ストリート・ロードまでいって、ガッピー夫人の家で奥さまはご在宅ですかと尋ねました。客間に陣取っているガッピー夫人は、尋ねられる前から鍵穴越しに外を覗いていたらしく、好奇心でいまにも|胡桃《くるみ》みたいに割れそうな様子でしたが、すぐ現れると、私たちを中へ招じ入れました。この老婦人は大きな帽子をかぶり、いささか赤い鼻をして、目をきょろきょろさせながら、顔中こぼれるばかりに|笑《え》みをたたえていました。彼女の狭い居間にはお客を迎える支度がしてあり、息子の肖像画がかかっていました。その肖像画は実物以上に本人に似ていました。頑強にご本人を押えつけ、絶対に放しはしないぞ、というようなふうに見えましたから。
肖像画だけではなくて、実物もその部屋にいました。いろいろな色模様の洋服をきて、人差し指を額に当てながら、テーブルに向って法律書類を読んでいるところでした。
「サマソンさん」ガッピーさんは立ち上りながら、「ここは本当のオアシスです。母さん、どうかもう一人のお客さまに椅子をおすすめして、入口からどいてくれませんか」
たえず笑ってばかりいてひどくひょうきんな様子のお母さんは、息子からいわれた通りにし、それから部屋の隅に坐ると、まるであんぽう[#「あんぽう」に傍点]でもやっているみたいに、両手でハンカチを持ってお腹の上にのせました。
私がキャディを紹介しますと、ガッピーさんはサマソンさんのお友達でしたら大歓迎です、といいました。それから私は用件にとりかかりました。
「ぶしつけでしたがお手紙を差し上げました」私がいいました。
ガッピーさんは確かに頂きましたという代りに、その手紙を胸ポケットから取り出し、唇に当ててから一礼して、もとのポケットにしまい込みました。お母さんはひどくおもしろがって、笑いながら頭をゆすり、キャディを肘でつついて、何かを無言で催促しました。
「しばらく二人だけでお話したいのですが」私がいいました。
その時のお母さんの様子ほど滑稽な光景を私は見たことがありません。彼女は声を出して笑いはしませんでしたが、頭を前後左右に動かし、口にハンカチを当てて、肘やら手やら肩やらで何かキャディに催促しているのです。ひどくおもしろがっている様子で、やっとのことキャディを小さな両開きのドアから、隣りの自分の寝室へと連れてゆきました。
「サマソンさん」ガッピーさんがいいました。「どうか母の勝手な振舞いをお許し下さい。息子の幸福を願うがあまりなんです。お腹立ちかもしれませんが、親ごころからのことなんです」
私がヴェールを上げた時のガッピーさんの突然の顔の赤くなりよう、態度の変りようといったら、とても|他所《よそ》では見られないものでした。
「ケンジさんの法律事務所でなく、こちらにちょっとお邪魔させて頂きましたのは」私がいいました。「この前あなたが私と二人だけでお話し下さった折に、事務所ではどうも具合が悪くなりはすまいかと思ったものでございますから」
事実ガッピーさんは全く具合悪そうな様子でした。こんなに口ごもったり、まごついたり、うろたえたり、びくびくしたりした人を見たことがありません。
「サマソンさん、し――失礼でご――ございますが、て――手前どもの商売では、ことをはっきりさせる必要がございますので。いまお嬢さんのおっしゃいました折といいますのは、手前が――その、手前が――あの申込みを――」
何か|咽喉《のど》にひっかかってとれない様子で、ガッピーさんが手を咽喉にやり、咳ばらいしたり、顔をしかめたりしてから、またそれを呑み下そうとして、また咳をして、また顔をしかめ、部屋を見廻しますと、持っていた書類をぱたぱたと振りました。
「ちょっと目まいがしましたもので、どうも失礼しました。手前は――その、ときどきこうなることがございまして――えへん!」
私は気をとり直す暇を少し与えてあげました。ガッピーさんはその間、額に手を当てたり、その手をどけたり、椅子をうしろの隅へずらしたりしていました。
「手前の申そうと思いましたことは――えへん!――どうも気管支がやられたらしいです――えへん!――つまり、お嬢さんがその折に手前の申込みをお断り下さいました、ということですが――その、この点にはご異議ございませんでしょうな? 別に証人がいたわけではございませんでしたが、ご異議はないと――その――ご承認いただけますれば――」
「その点は問題ございません。私はいっさい無条件であなたの申込みをお断りいたしました」
「有難うございました」ガッピーさんは答えると、ふるえる手でテーブルの測量を始めました。「その点までは両者異議なしでございますね。いえ、よくおっしゃって下さいました。それから――これは本当に気管支カタルですな――だいぶ進んでいるようだ――こう申し上げましてもお腹立ちないかとも思いますが――いえ、べつに申さなくてもよいのです――お嬢さんの良識でも、誰の良識でもはっきりわかることでございますから――つまり私の申込みはあれをもちまして、完全に無効になったと考えるのでございますが?」
「その点もよく承知しております」
「たぶん――その――形式にとらわれる必要はないと思いますが、その点に異議はないとご承認願えましょうか?」
「喜んではっきりと認めます」
「有難うございます。全くご立派な態度で。遺憾ながら手前は、いろいろと止むを得ません事情もございます故に、かの申込みを再びどのような形式におきましても更新することはあるまいと思っております。しかし友情の|絆《きずな》の一端から将来思い返して――ええと――その」ここでまたガッピーさんの気管支が助け舟を出してくれましたので、テーブルの測量は止まりました。
「私から用件を申し上げましょうか?」私がきり出しました。
「そうして頂けますれば、光栄でございます。お嬢さんの良識と思いやりはよく存じ上げておりますから――決して不当なことをおっしゃる方でないことも――ですから、どうかご用件をおっしゃって下されば、たいへん嬉しゅうございます」
「その折にあなたは言外の意味として――」
「失礼ですが、お嬢さん、言外の意味については除外した方がよろしいと思います。手前は言外の意味に関しては承認できません」
「それでは」私はいいなおしました。「あなたはその折に、私に関係のある諸事実の発見に努めて、私の立場を有利にし、私の幸福を増進させるようにする、ということをおっしゃいました。それはおそらく私が孤児で、ジャーンディスさんのご好意に全面的に頼っている立場にある、とお考えになってのことと存じますが、ガッピーさん、一言で申しますと、どうかそのように私のためにお力を尽すことを、いっさいおやめになって頂きたいのです。これまでもそのことを考えたことがときどきございましたし、つい最近も――私の病気のあとのことですが――そのことを考えました。その結果私は、万一あなたがあの決心を思い出されて、それを実行にお移しなさることがあるといけませんので、そのお考えは間違いです、ということをお伝えに上ろうと決心いたしました。私のためになり、私を喜ばせるような事実が発見できることはあるまいと思います。私は自分の身の上をよく存じておりますから、あなたがそのような発見に努力なさっても、私の幸福が増すことはないと、ここではっきり申すことができます。おそらくあなたはそのような計画は、とうの昔に断念なさっておられるかもしれませんが、そうでしたら、私が余計な差出がましいことを申した無礼を、どうぞお許し下さい。もしそうでございませんでしたら、ただ今申しましたような理由で、今後はそのことをお忘れになって頂きたいと思います。どうか私を安心させるために、そうして頂きたいのでございます」
「先ほど手前も申しましたが、お嬢さんの良識と思いやりの心に恥じぬご立派なおっしゃりようでございました。お嬢さんのこのような思いやりの心に大いに感じ入りました。もし先刻手前がお嬢さんのお心を誤解するようなことがございましたら、謹んでここにお詫び申し上げます。今お詫びと申しましたが、それはあくまで――お嬢さんの良識と思いやりの心をもってすればおわかりのことと思いますが――現在の情況のみについて申しましたことを、どうかご了承いただきたいと思います」
ガッピーさんの鼻のつまったような態度は、だいぶよくなって来ました。私のお願いが承知できるような類のものでほっとしたらしく、恥ずかしそうな顔をしました。
「二度とこの問題を繰り返す必要のないように」私はガッピーさんが何かいい出しそうなのを見て、言葉を続けました。「率直に申し上げましたが、最後に一言だけつけ加えさせて頂きとう存じます。私がこちらにできるだけ目立たぬように参りましたのは、前にあなたがお申し出になりましたのを、内証にしておきたいとお考えになっておられたからで、そのお気持はその折も、またこれまでずっとご尊重いたすつもりでございます。私はさきほど私の病気のことを申しました。これも率直に申しますが、私があなたに先のお願いをしますに当って、いささか気を使わねばならなかった点も、これで解消したと存じます。そこで私は先のお願いをいたすわけでございますから、どうかそれをお聞きとどけ下さいますよう」
ガッピーさんの名誉のために申しますが、ガッピーさんはますます恥ずかしそうな顔になって、最後に顔をまっ赤にして、消え入るような、しかし真剣な態度でこう答えました。
「サマソンさん、手前の名誉、いやこの命にかけまして、おっしゃる通りにいたします! それに背くようなことは絶対にいたしません。お望みとあらば宣誓します」それからガッピーさんはさんざん耳なれたきまり文句を唱えるように、早口でつけ足しました。「この件につきまして手前は、真実を、全面的真実を、真実のみを申上げることを、ここに――(4)」
「それでもう結構でございます」私は腰を上げかけました。「どうも有難うございました。キャディ、もうお話は済みましたよ!」
ガッピーさんのお母さんがキャディと一緒に現れると(今度は私がその声なき笑いの受取人となり、肘で突つかれる役になりました)、私たちはおいとましました。玄関まで見送りに出たガッピーさんは、まるで寝ぼけているか、夢遊病にかかっているみたいな様子で、帰っていく私たちをぽかんと見つめているばかりでした。
ところが次の瞬間、ガッピーさんは帽子もかぶらず、髪をふり乱したまま私たちを追いかけて来ると、熱心な口調でこう呼びかけました。
「サマソンさん、まじめなお願いがあります!」
「はい、何でしょうか」私が答えました。
「失礼でございますが」ガッピーさんは一方の足をふみ出して近寄ろうとしましたが、他方の足は踏み止まったままでした。「こちらのお方がいらっしゃいますから――証人になって頂いて――どうか(将来の安心のために)もう一度確認して頂きたいのでございますが」
「では、キャディ」私は彼女の方を向いていいました。「あなた聞いてもべつに驚かないだろうと思いますが、こちらのお方と――」
「ミドルセックス州、ペントンヴィル町、ペントン・プレイス在住のウィリアム・ガッピーと、です」ガッピーさんがいいました。
「ミドルセックス州、ペントンヴィル町、ペントン・プレイス在住のウィリアム・ガッピー氏と私の間に、いかなる婚約――」
「いかなる求婚並びに婚約の類も」ガッピーさんが訂正しました。
「いかなる求婚並びに婚約の類も行なわれなかったことを証言します」
「有難うございました、お嬢さん。これで正式です――ええと――失礼でございますが――こちらのお方のお名前を、姓名ともに伺いたいのですが」
私は教えてあげました。
「奥さんでいらっしゃいますな?」ガッピーさんがいいました。「奥さんで、なるほど。有難うございました。もと、キャロライン・ジェリビー、独身、ロンドン、シティ区内、ただし教区外、セイヴィ法学予備院居住。現住所、オックスフォード・ストリートはずれの、ニューマン街。どうも有難うございました」
ガッピーさんは家へ走っていったと思ったら、また駈け戻って来ました。
「例の件のことですが、なんとも心から申訳ないと思っているのですが、手前はいろいろと止むを得ない事情もございます故に、しばらく前に完全に無効になりましたことを、ふたたび更新することはあるまいと存じております」ガッピーさんは私に向って、がっかりしたような淋しげな口調でいいました。「でも止むを得ないことなのです。そう[#「そう」に傍点]ではありますまいか? これはお嬢さんに伺うのですが」
私は、確かに止むを得ぬことです、その点は全然疑いの余地のないことです、と答えました。ガッピーさんはお礼をいうと、またお母さんの家へ走っていきました――と思ったら、また駈け戻って来ました。
「お嬢さんの態度は実にご立派です」ガッピーさんがいいました。「もし友情の|園《その》に聖堂を|建立《こんりゆう》することができるものでしたら――いや、本当です、まじめな話ですが、手前は大いにご尊敬申し上げておりますが、その、恋愛感情だけは別でございまして!」
ガッピーさんの胸の中の苦闘と、その結果生じたお母さんの家の玄関口と私たちとの間の頻繁な往復運動は、風の吹きさらした街頭でひどく人目に立ちましたので(特にガッピーさんの髪の毛がひどく伸びていましたから)、私たちは急いで退却しました。私はやっとほっとしましたが、最後にふり返って見ると、ガッピーさんはまだ気がもめるらしく、せっせと往復運動を繰り返しているのでした。
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第三十九章 弁護士と依頼人
大法官府横町にある、シモンズ法学予備院の建物の表札には、「一階、弁護士ヴォールズ」と書いてある。この建物は二つの仕切りとふるいのついた、大きなごみ箱みたいなもので、小さく、血色が悪く、白目をむき出して悲しそうな顔をしている。まるでシモンズという男がしまりや[#「しまりや」に傍点]で、古建材で家を建てたものだから、すぐ乾いたまま立ち腐れになり、不景気でうすぎたなく崩れかかったまま、貧乏たらしいシモンズの永遠の記念碑となってしまったかのようだ。このシモンズの名を不朽に留めるきたならしい墓標の一画に、ヴォールズ弁護士の法律事務所がまつられているのである。
ヴォールズ弁護士のひっ込み思案の気質を反映してか、その事務所もひっ込んだ場所で、隅っこのめくら壁に面したところに|蟄居《ちつきよ》している。床がでこぼこの暗い廊下を三フィートばかりいくと、ヴォールズ弁護士事務所の|漆黒《しつこく》のドアがある。そこはうららかな盛夏の朝でもまっ暗な隅っこのところで、地下の穴蔵へ下りる階段の壁が前に黒く出っぱっているので、なれぬ|素人《しろうと》が夜遅くでも通ろうものなら、たいてい頭をぶつける。ヴォールズ弁護士の事務所の部屋はどれもこれもひどく小さく、一人の書記が席から立たずにドアを開けることができ、同じ机のすぐ隣りに並んで坐っているもう一人の書記が、これもやはり席を立たずに煖炉の火を掻き廻すことができるのである。病気の羊みたいな臭いがかびと埃の臭いと交りあっているのは、夜な夜な(いや昼間でも始終)羊の脂のろうそくをともし、脂で汚れた引出しの中で法律書式の羊皮紙がじりじりと虫に食い破られているからであろう。その臭いを別とすると、部屋の中の空気は、むっとして|淀《よど》んでいる。この前に壁を塗り変えたのはいつのことか、人間の記憶では知るすべもなく、二本の煙突はくすぶり通しで、どこもかしこも|煤《すす》の薄い膜が張っている。重たい枠にはまった鉛色のひび割れた窓ガラスは、どれを見ても、腕ずくででも来ない限り、絶対にきれいになってやらない、開いてもやらない、と決心しているみたいだ。というわけで、二つの窓のうちの弱い方が、暑くなるといつも口を薪の束でこじ開けられるのである。
ヴォールズ弁護士はきわめて誠実な人物である。それほど繁昌してはいないが、きわめて誠実な人物である。産をなした、あるいはなさんとしている大物弁護士たちからは、この上もなく誠実な人物であると認められている。彼は仕事の上でチャンスがあれば絶対に逃がさない。これこそ誠実のしるしである。絶対に快楽にふけらない。これも誠実のしるしである。口数少なく|生《き》まじめである。これも誠実のしるしである。消化不良に悩んでいる。これは大いに誠実のしるしである。三人の娘のために、いつも将来への遠き|慮《おもんぱか》りをめぐらし、トーントン渓谷にいる父親を養っているのである。
イギリスの法律の一つの大原則は、いらぬお節介をやんな、ということである。これほどはっきりした、確実な、またこれまできわどい目にいろいろ会いながら、終始一貫守られて来た原則はない。こう考えてみると、法律というものは首尾一貫した体系で、とかく|素人《しろうと》が考えるようなめちゃくちゃな|混沌《こんとん》ではない。法の大原則とは君らの腹を痛ませてでも他人のお節介を排除することなのだ、と素人どもにはっきりわからせてやれば、きっと彼らはぶつぶつ不平をいうのをやめるだろう。
ところが、この大原則がはっきりわからない――いい加減|生半可《なまはんか》にしかわかっていない――ものだから、素人どもは心を痛めたり|財布《さいふ》を痛めたりして、しかも思いきり悪くぶつぶつ不平をいったりするのだ。その時こそヴォールズ弁護士のこの誠実さが実例にもち出されて、ぐうの|音《ね》も出なくなる。「え、なんですと、この法を廃止せよ、とおっしゃるのですか?」ケンジ弁護士が怒れる依頼人にいう。「これを廃止せよ、ですって? とんでもない、私は賛成できかねます。この法を改正せよ、ですって? そんなことを早まってやったら、弁護士一般にどんな影響を及ぼすと思いますか? 例えば、ええと、そうですな、この事件の相手方の弁護士、ヴォールズ君が代表するような立派な弁護士諸君にですぞ。あのような弁護士諸君がこの地表から消え去ってしまいますぞ。まさかあなたは――いや、わが社会制度全体は――ヴォールズ君のような人たちを失って平気ではいられますまい。勤勉、着実、忍耐、敏腕の人物を。それはね、あなたが現状に対してお感じになっていることはよくわかります。今度の事件では確かにあなたに少しきつかったことは認めます。しかし私はヴォールズ君のような人たちを抹殺することに賛成できません」ヴォールズ弁護士の誠実さは議会の委員会でも例に引かれて、相手はぐうの音も出なくなる。例えば次にあるような高名な弁護士の証言が、議事録に載せられている。「質問(第五十一万七千八百六十九)。あなたのお言葉によりますと、この制度では間違いなく遅延が生ずるのですね? 答え。はい、いくらかの遅延。質問。それにたいそう費用がかかりますね? 答え。もちろん|無料《ただ》ではできません。質問。それに数知れぬ迷惑がかかりますね? 答え。そうは思いません。少なくともこの私[#「この私」に傍点]には迷惑はかかりませんでした。その正反対でした。質問。しかしこれを廃止すると弁護士諸君に危害を及ぼすとお考えですか? 答え。それは間違いありません。質問。例えばどのようなタイプの人にですか? 実例をあげて下さいませんか。答え。はい、躊躇なくヴォールズ氏をあげたいと思います。氏は破滅するでありましょう。質問。ヴォールズ氏は弁護士として誠実な人と認められていますか? 答え」――この答えで今後十年間、問題は疑問の余地なしと決まってしまったのだが――「ヴォールズ氏は弁護士として、きわめて[#「きわめて」に傍点]誠実な人物と認められております」
というわけで、もっと日常的な会話においても、同様に天下国家を憂うる|巷《ちまた》の論客が、この世の成りゆきがわからない、と歎くのである。いまやわが国は下り坂をまっしぐらだ。またもや廃止されたものがある。かかる変化はヴォールズのごとき人間には死を意味する。誠実は疑うべくもなく、トーントン渓谷に住む父を養い、家に三人の娘を抱えている男。もう少し突っ込んで考えて貰いたい。ヴォールズの父親はどうなるのだ? 死ねというのか? 娘たちは? シャツ工場のお針子か家庭教師にでもなれというのか? まるでヴォールズ弁護士とその一族が人喰い人種の下っぱ酋長で、人喰いの習慣を止めようという声が出た時に、義憤に燃えてこう弁護するみたいなものである。人喰いの習慣を不法と認めよ、だと? じゃあ君はヴォールズ一家を飢え死にさせようというのか?
要するに、三人の娘とトーントン渓谷の父親を抱えたヴォールズ弁護士は、腐って足もとがあぶなくなり迷惑千万になった土台をなんとかして支える任務を、たえず果しているのである。多くの場合の多くの人たちに見られるように、問題は弊害を改善するなどいうことではなく(そんなことは全く枝葉末節のことで)、きわめて誠実なる一団、ヴォールズの仲間に害を加えるか利益をもたらすか、なのである。
大法官閣下は十分もたたぬうちに「閉廷」を命じ、長期休廷期に入る。ヴォールズ弁護士とその若い依頼人は、まるで大蛇が何かを呑み込んだばかりの時のように、|慌《あわ》ててめちゃくちゃに書類を放り込んだためにふくれ上ったいくつかの青い袋と一緒に、弁護士の巣へ戻って来る。ヴォールズ弁護士はいかにも誠実無比の人らしく、少しも騒がず落ちついて、まるで手の皮をむくみたいに、きっちりした黒い手袋をとり、頭の皮を|剥《は》ぐみたいにきつい帽子を脱ぐと、机の前に腰をかける。依頼人の方は帽子と手袋を床の上に叩きつける――どこへいこうが知るもんかとばかりに、ろくに見もせずに放り出すと、どっかと椅子に身を投げ、なかば溜息、なかばうめき声をあげながら、ずきずき痛む頭を手で抱える。まるで絶望の鬼の子供といった様子。
「またまた何にもなされず、か!」リチャードが叫ぶ。「何ひとつなされず、か!」
「何にもなされず、じゃありませんよ」ヴォールズが泰然自若としていう。「それはいくらなんでもひどいいい方というものですよ!」
「じゃあ、いったい[#「いったい」に傍点]何がなされたというのだい?」リチャードは不機嫌そうに彼の方を向く。
「それだけの問題ではありますまい」ヴォールズが答える。「問題は、何をしつつあるか、何をしつつあるか? に分化されるのかもしれませんよ」
「じゃあ、何をしつつあるんだい?」依頼人がふくれ|面《つら》をしてきく。
ヴォールズは坐ったまま両腕を机の上に置き、静かに左右の五本の指先をそれぞれくっつけてから、また静かに離し、じっとゆっくり依頼人を見つめながら答える。
「いろいろなことをしつつありますよ。私たちは全力をあげて、車を押しているのです、カーストンさん。車は廻っています」
「車は車でも地獄の火の車だ。これから四、五カ月の間、どうして過ごしたらいいんだ?」青年は叫ぶと椅子から立ち上り、部屋の中を歩き廻る。
「カーストンさん」ヴォールズは彼をじっと目で追いながらいう。「あなたは血気にはやっていらっしゃる。あなたのために残念なことだと私は思いますよ。失礼ですが、そんなにあせらず、はやらず、いらいら神経をすり減らさずに、もっと忍耐強くならなくてはいけません。もっと辛抱なさらねばいけません」
「つまりヴォールズ君を見習わなくてはいけない、というわけだね?」リチャードはまた腰を下ろすと、いらいらしたように笑い、足で模様のないじゅうたんをせわしなく叩く。
「いえいえ」ヴォールズは答えると、彼の職業的な食指と目と両方を働かして、ゆっくり相手を食べているかのように、じっと眺める。「いえいえ」もごもごとした口調で、血の気のないような落ちつきぶりで、ヴォールズは答える。「私は自分を模範としてあなたに、いや、どなたにも、見習えなんぞと|僭越《せんえつ》なことは申しません。私は自分の三人の娘によい名前を残せば、それで充分です。私はうぬぼれやではありません。しかしあなたがそうもはっきりと私のことをおっしゃったのですから、私もありていに申しますが、あなたに私の――そうですな、あなたなら無感動とでもおっしゃりたいでしょうな。いや、結構、私も異存ありません――無感動を――無感動を少々さし上げたいと思いますな」
「ヴォールズ君」依頼人はいささか顔を赤らめながら弁解する。「僕は何もあなたを無感動だと責めるつもりはなかったんですよ」
「いや、無意識のうちにそうだったのだと思いますよ」ヴォールズは平然としていう。「それもごもっともです。あなたの利害を冷静に護るのが私の職務ですから、あなたの興奮した感情をもってすれば、ときどき、例えば今なんかは、私が無感動に見えるのも無理ないことと思います。私の娘たちはそんなふうには考えません。私の老父もそんなふうには考えません。でも彼らはあなたよりもずっと前から私を知っておりますし、信頼しきった愛情の目と、ビジネスの不信の目とは違いますからね。ビジネスの目が不信だといっても、私は不平を申しているのではありませんよ。その正反対です。あなたの利害を護っている私に、ありとあらゆる点から批判検討を加えて頂きたいのです。そうされるのは当然のことです。私は疑心の目で見られることを歓迎いたします。しかしあなたの利害を考えますと、私は冷静で論理的でなければなりません。私はそうならないではいられないのです――たとえあなたにお気に入られたいと思っても、だめなんです」
ヴォールズ弁護士は忍耐強く|鼠《ねずみ》の穴を見張っている、事務所の一員みたいな猫をちらりと見てから、また若い依頼人をじっと見つめながら、すっかりくるみ込んでボタンでとめてしまったような、半分しか聞えない声で続ける。まるで彼の身体の中に不潔な妖精がひそんでいて、外へも出ず、大きな声も出せないでいるみたいだ。
「休廷期間中何をしたらいいのか、とお尋ねでしたね。あなたのような軍人は、その気にさえなるなら、いくらでも楽しむ方法はあると思うのですが、もしこの私[#「この私」に傍点]なら休廷期間中何をするか、とお尋ねになるのでしたら、私の答えはもっと簡単です。私はあなたの利害を護るのです。私は毎日毎日ここにいて、あなたの利害を護るのです。カーストンさん、それが私の職務です。開廷期間であろうと休廷期間であろうと、私にとっては変りありません。もしあなたがご自分の利害の問題でご相談なさりたいことがありましたら、私はいつでもここにおります。他の仲間は休廷期に田舎へ出かけますが、私は出かけません。私は何も他の人たちを責めるつもりはないのです。ただ、私は出かけない、といっているだけです。この机こそあなたの|巌《いわお》(1)なんですぞ!」
ヴォールズ弁護士が机を叩くと、まるで棺桶みたいなうつろな音がする。もっともリチャードにはそうは聞えない。彼には何かたのもしい音に聞えるのだ。おそらくヴォールズ弁護士はそれを知っているのだろう。
「ヴォールズ君」リチャードが前よりも元気よく、親しげな口調でいう。「君がこの世でいちばん頼りになる人間で、君に仕事を任せるということは、絶対にごまかされない実務家に任せることだと、僕にはよくわかっているんだ。だけど僕の身にもなってくれたまえ。このめちゃくちゃな生活をずるずると続け、毎日毎日やっかいな深みにはまり込んでゆき、希望と失望の連続、自分自身がしだいしだいにひどい方へと傾いてゆき、その他に好転しそうなものは一つもない、というていたらくだ。君だって僕みたいに、ときどき絶望的な訴訟事件だと思うことがあるだろうよ」
「ご存知のように、私は絶対に希望的観測はいたしません。最初から申しましたように、私は絶対に希望的観測はいたしません。特にこのような、訴訟費用が大部分その資産からまかなわれねばならない訴訟事件の場合には、私が希望的観測をしましたら、私の名声を踏みにじることになりましょう。訴訟費用が私の目的のように思えるかもしれませんが。しかし、あなたは好転の見込みは全然ないとおっしゃいましたが、それは厳然たる事実として考えるならば、違うと申さねばなりません」
「おや、そうかい?」リチャードの顔が明るくなる。「でも、どうしてわかるのだい?」
「カーストンさん、あなたの法廷代理人は――」
「君がさっきいった通りさ――|巌《いわお》だ」
「その通りです」ヴォールズ弁護士はゆっくり頭を振りながら、うつろな机を叩くと、灰の上に灰が、|塵《ちり》の上に塵(2)がこぼれ落ちるみたいな音がする。「|巌《いわお》です。これはかなりたいせつなことです。あなたは他の人たちとは別の代理人を持っていらっしゃるから、もはや他の人たちの利害の中にうずもれているわけではありません。この点も[#「この点も」に傍点]かなりたいせつなことです。訴訟事件は眠っているわけではありません。私たちがそれを目覚めさせ、空気を送り、歩かせるのです。この点も[#「この点も」に傍点]かなりたいせつなことです。名前の上でもまた実質の上でも、全部ジャーンディスの訴訟事件というわけではないのです。この点も[#「この点も」に傍点]かなりたいせつなことです。今では何でも自分の思うようにやろうとしても、誰もできないのです。この点もまた[#「この点もまた」に傍点]確かに、かなりたいせつなことです」
リチャードは突然顔をぱっと赤く染めると、こぶしで机を叩く。
「ヴォールズ君! 僕がはじめてジョン・ジャーンディスの家へいった時、もし誰かが僕に、あの男はうわべに見えるほど無欲|恬淡《てんたん》な味方ではないんだよ――のちにだんだん正体を現わした通りの人間だ――といったら、僕はいくらでも激しい言葉を吐いてその中傷をはねつけたことだろうし、あの男のためにいくらでも熱心に弁護したことだろう。僕は世の中というものを全然知らなかったんだなあ! だが今となっては君にはっきりいうが、あの男は僕にとっては訴訟の|権化《ごんげ》となっているのだ。この訴訟事件は抽象的なものではないんで、ジョン・ジャーンディスそのものなんだ。僕がつらい目に会えば会うほど、ますます僕はあいつに怒りを燃やすんだ。訴訟が一日遅れれば遅れるほど、失望が積み重なれば重なるほど、ジョン・ジャーンディスの手から受ける損害が増えたことになるんだ」
「いけませんな、そんなことをおっしゃっては」ヴォールズがいう。「私たちはみんな忍耐強くならなくてはいけませんよ。それに私は絶対に人の悪口はいわないことにしています。絶対に人の悪口はいわないことにしているのです」
「ヴォールズ君」依頼人が憤然としていい返す。「あいつができればこの訴訟事件をうやむやに葬ってしまいたがっていることは、君だって僕と同様よく知っているはずじゃないか」
「あの方は訴訟事件に対して熱心に行動しません」ヴォールズはいやいやながらといった顔で承認する。「確かにあの方は熱心ではありません。しかしですな、しかしですな、あの方だって善意はお持ちだったのかもしれませんぞ。人間の真意なんてなかなかわからぬものですからな」
「君ならわかるはずだ」
「私がですか?」
「あいつの真意が何だったか、わかるはずだ。あいつと僕の利害は、互いに相反するものなのかね、それともそうでないのかね? それを――はっきり――教えてくれたまえ」リチャードはそういうと、最後の三つの区切りの伴奏として、たのみの|巌《いわお》を三つこぶしで叩く。
「カーストンさん」ヴォールズは少しも動じた態度を見せず、飢えた目をまたたきもせずに答える。「もし私があなたの利害とジャーンディス氏の利害とを同等に代表したとしましたら、私はあなたの法律顧問としての職務を怠たり、あなたの利害を忠実に護らなかったことになります。そんなことはありません。私は絶対に他人の動機を臆測したりはいたしません。私は父親を養い、同時に私自身父親でもありますが、絶対に他人の動機を臆測したりはいたしません。しかし私は弁護士としての職責とあらば、たとえ家族内に不和のたねをまくおそれがあろうとも、躊躇するものではございません。あなたは今あなたの利害に関して、顧問弁護士としての私に相談をなさっておられるのだ、と了解してよろしいですな? その通りですな? それならお答えいたします。あなたの利害とジャーンディス氏の利害とは、同一のものではございません」
「わかりきっているさ!」リチャードが叫ぶ。「君はそのことをずっと前から知っていたのかい?」
「カーストンさん、私は第三者については必要以上のことを申したくありません。私は私の名声をけがさぬままに、勤勉と忍耐によって得るかもしれぬささやかな資産とともに、私の三人の娘、エマ、ジェイン、カロラインに残してやりたいのです。私はまた同僚の法律家とも仲よく暮していきたいのです。スキムポール氏が、私とあなたをはじめてこの事務室でひきあわせて下さる労をとって下さいましたおりに――光栄を賜った、なんぞとは申しませんよ。私は絶対に卑屈なお世辞はいいませんから――私はこう申し上げましたな。あなたの訴訟問題が他の同業者に任されているのでしたら、私はそれに関して何の意見も忠告も申し上げることはできません、と。それから私は有名なケンジ・アンド・カーボイ法律事務所について、私として然るべき言葉を使って、意見を述べました。あなたはあなたの訴訟問題の代行をその事務所から私の手に移すのが適当とお考えになりました。あなたは完全にあとくされなく始末をなさったのちに、私の手に委ねられたので、私もそういうものとしてお引受けいたしました。でありますから目下当事務所では、あなたの訴訟問題が最重要です。あなたもすでにお聞きになられたことかもしれませんが、私の消化器官はあまり健康でありません。休めばよくなるかもしれません。しかし私があなたの代理人である間は、私は休みません。ご用の時にはいつでも、ここにお出で下さい。どこへでもお呼び出し下さい。私は参上します。長期休廷期間中私は寸暇を惜しんで、あなたの訴訟問題をもっともっと綿密に検討し、ミクルマス開廷期になりましたら、天地をも(その中には大法官閣下ももちろん入っています)動かせるよう、準備をいたすつもりです。最後になりまして」いかにも決断力の強い人らしい厳しい態度で、ヴォールズ弁護士がいう。「最後になりまして、あなたの財産ご相続に心からお祝いを申し述べることができるようになりました時――それはもう少し先のことかとも思いますが、しかし私は絶対に希望的観測は申しません――でも、あなたは資産の中から天引きした費用に含まれない、弁護士と依頼人との間の必要経費の未払い分が些少なりともあれば、それをお払い頂くだけで、それ以上は何のお礼もなさる必要はないのです。カーストンさん、私の方でも何の恩着せがましいことも申しません。ただ私が職務を|欣然《きんぜん》として能率的に――ずるずると慣習的に、ではありません。その点だけは認めていただきたいと思います――履行したことに満足して下さればよいのであります。私の職務がめでたく終りました時に、私ども二人の関係もいっさいが終るわけであります」
ヴォールズはこのように彼の一般方針演説をしたあとで、補足として最後につけ加える。カーストンさんはこれから連隊にお戻りになるのでしょうが、恐れ入りますが二十ポンドを約束手形でお支払い頂けませんでしょうか?
「このところいろいろと、こまごましたご相談や出張がございましたからな」ヴォールズは日記帳をめくりながらいう。「これらの手数料がだいぶ溜まっております。私は義理にも資産家とは申せぬ人間です。私どもがはじめて現在の契約を結びました時に、私は隠しだてせず大っぴらに――弁護士と依頼人の間はいくらでも大っぴらにした方がいい、というのが私の持論でして――自分は資産家ではない、資産家がお目当てでしたら、ケンジ法律事務所にそのまま任せておかれた方がよろしい、とはっきり申し上げました。カーストンさん、この事務所には資産家はおりませんから、それに伴う有利な点も不利な点もありません。これは」ヴォールズは机をまた叩いて、うつろな音を立てる。「あなたの|巌《いわお》なんです。それ以上のものとは義理にも申すつもりはありません」
依頼人は落胆がかすかながらもやわらげられ、漠然たる希望がまた湧いて来たらしく、ペンにインクをつけて約束手形を書く。決済の期日をいつにしたものか、交換所でどれほどの信用が得られるものか、と困ったような顔であれこれ思案している様子だ。その間ヴォールズは身体も心もきっちりボタンをかけてくるみ込んでしまったみたいに、じっとその姿を見ている。その間ヴォールズ事務所の一員みたいな例の猫が、じっと鼠の穴を見張っている。
最後に依頼人はヴォールズ弁護士と握手をしながら、どうかお願いだから僕のために全力をふるって大法官裁判所の訴訟を、「なんとかやり抜いてくれ」と頼む。絶対に希望的観測は述べることのない主義のヴォールズ弁護士は、手のひらを相手の肩にのせ、ほほえみながら答える。「私はいつもここにおります。全力をあげて車を押していますから、ご用の節はお手紙でも、直接お訪ね下さっても、どちらでも結構です」このようにして二人は別れ、ひとり残されたヴォールズは、日記帳に書きとめてあるこまごましたことを手形記入帳に書き写す。三人の娘の将来のためを思ってである。勤勉な狐や熊は同じようにして、子供のためを思いながらつかまえた|雛鳥《ひなどり》や迷い込んだ旅人の獲物を帳面につけるのである――とこう書いたとて、ケニントン(3)の湿地帯の庭の穴の中に、父親ヴォールズと一緒に住んでいる、三人の骨ばった顔でひょろっとして、ボタンをきっちりはめたお嬢さん方に失礼には当るまい。
リチャードはシモンズ法学予備院の陰気な日蔭から、あかるい日の射している大法官府横町――たまたまこの日はそこにも日が射していたのである――へ出てから、もの思いに沈んだように歩き続け、リンカン法曹学院に折れると、そこの庭園の木蔭を通る。このようにあてもなくさまよい歩く通行人の上に、まだらな木の影が落ちる。同じようにうなだれた頭、かみ切った爪、いつも下ばかり見ている目、重い足、あてもなく夢を見ているような態度の人間にとっては、人生は苦汁にみち、その善性はじりじりとむしばまれてゆくのだ。今ここをさまよい歩く男はまだ落ちぶれてはいない。が、やがてそうなるかもしれぬ。先例以外に何の知恵もわかぬ大法官裁判所では、このような先例がいやというほど見られたのだから、この一人だけがどうして他の何万人の運命を免れることができようか?
しかしリチャードの場合、彼の|凋落《ちようらく》がまだ始まったばかりなので、憎みながらも今後数カ月離れたくないこの場所をさまよい歩きながら、結局は自分のケースだけが驚くべき異常なものなのだ、と思っているのかもしれない。心をむしばむ心配、不安、不信、疑惑で気が沈みながらも、一方自分がはじめてここを訪れた時、自分の気持が今とどんなに違っていたか、を考えていくらかの驚きと悲しみに打たれているのかもしれない。だが絶えず不当な扱いに苦しんでいると、自分も他を不当に扱う気持になってしまうものだ。姿も見えぬ影を相手に戦い、それに敗れてしまうと、はっきり目に見える敵を作り上げないではいられなくなってしまう。遥か昔から続いているために、今ではこの世に生きる人間が誰一人として理解できなくなってしまった、姿なき訴訟事件よりは、はっきり目に見える一人の友――彼を破滅から救ってくれようとしてくれた友――を敵に廻した方が、憂鬱ながらも気持がすかっとするのだ。さっきリチャードがヴォールズにいったのは、正直ありのままのことだった。彼の気持が硬化しようとやわらごうと、どちらにしてもあいつ[#「あいつ」に傍点]から被害を受けていると思っている。あいつ[#「あいつ」に傍点]のおかげで自分の決めた目的に邪魔が入ったのだ、と。しかも彼の決めた目的というのは、自分の一生をかけようとした訴訟問題でしかあり得なかったのだし、その上誰かはっきり形にあらわれた横暴きわまりない敵を持った方が、自分に自分の立場を立派に見せることになるのだ。
このようなリチャードは果して人でなしなのか――それともこのような先例は、記録天使の手から示されることができるならば、大法官府には|掃《は》いて捨てるほどあるのだろうか?
彼が爪をかみかみ、もの思いに沈みながら、庭園を横切り、南の門の影の中に吸い込まれてゆくうしろ姿を、さほど珍しくもないというように見つめている四つの目がある。その目の持主はガッピー君とウィーヴル君、二人は木蔭の低い石の手摺りによりかかって話し込んでいるところである。リチャードは二人のすぐそばを通り過ぎたのだが、地面ばかり見つめていたのである。
「ウィリアム」ウィーヴル君が頬ひげをしごきながらいう。「そら、発火薬があそこへゆくぞ! こいつは自然発火じゃなく、くすぶり続ける発火だぞ」
「ああ、あの男はジャーンディス訴訟事件からどうしても脱け出そうとしないのだ」ガッピー君がいう。「もう借金で首が廻らないんだと思うがね。僕はあいつのことはあまりよくは知らないのだ。うちの事務所に見習いでつとめていた時、まるで記念塔(4)みたいに意気天をつくばかりだった。厄介払いして僕は助かったよ、事務員としても依頼人としても! ところでトニー、さっきもいっていたように、結局そういう次第なのさ」
ガッピー君はもう一度腕を組み直すと、また手摺りによりかかり、興味|津々《しんしん》たる話を続ける。
「結局のところ、いまだに在庫品整理、いまだに書類あさり、いまだにがらくたの山を掘り返しているという次第さ。この調子だとそれに七年はかかるね」
「スモールも手をかしているのかい?」
「スモールは一週間の予告を出してうちの事務所をやめたよ。お祖父さんの仕事が老人の手にあまるようになったので、私が自分で手がけた方がよさそうなんです、とケンジにいっていた。スモールはあんまり隠しだてばかりするから、僕との間はしばらくあんまりうまくいっていなかった。でもあいつは、君と僕とが始めたことだ、というのさ。それであいつに一本とられちゃったんで――だってあいつのいう通りなんだものね――僕はまた仲なおりしたんで、そういうわけでさっきの話も聞いたんだよ」
「君はまだ全然あそこの家へいっていないのか?」
「トニー」ガッピー君はややうろたえたように、「君だから率直にいってしまうけれども、僕は君と一緒ならいいけど、一人であそこの家へいくのはいやなんだ。それ故にまだいっていない。それ故に君の荷物を移しにゆこうと打ち合わせたわけなのさ。ああ、また一時間たっちゃった! トニー」ガッピー君は何か思わせぶりな様子になって、ひどく感傷的におしゃべりになる。「もう一度君にはっきりいっておかなくちゃいけないが、やむを得ぬ事情から、僕のたいせつに温めて来た計画が、前に親友の君にだけ話したけれども、わが思いの報いられぬかの人のおもかげ[#「おもかげ」に傍点]が、はかなくもうつろうてしまったんだ。あのおもかげ[#「おもかげ」に傍点]は粉みじん、偶像は崩れてしまった。親切な君の助けをかりてあそこで追及したいと思っていた計画については、今ではもう手を引きたい、忘却の|淵《ふち》に沈めたいと願うばかりだ。君はどう思うかね? (僕は親友としての、トニー、君にききたいんだが)例の自然発火の犠牲者となったじいさんの、気まぐれでえたいの知れぬ性格を知っている君が判断するところでは、君が生きている彼に会った後に、もう一度じいさんが思いなおして例の手紙をどこか別のところにしまい込み、従って手紙が焼けなかったということは、可能性のあり得ることだろうか?」
ウィーヴル君はしばらく考え込んでいる。頭を振る。絶対にそんなことはあるまいと思うよ。
「トニー」ガッピー君は友達と一緒に例の袋小路の方に足を向けながらいう。「もう一度だけ親友として、僕のいうことをわかってくれ給え。これ以上くどくどと説明しないが、もう一度いうと、僕の偶像は崩れてしまったんだ。今では何の目的も持っていない。ただ忘却の淵に沈めたいだけなんだ。そうしますと僕は誓った。僕自身に対しても、その粉みじんになった偶像に対しても、なんとしてもやむを得ぬ事情に対しても、そうしないわけにはいかない。もしかりに君が、問題の書類によく似ている紙が君のもとの下宿のどこかに落ちている、と身ぶり、目くばせで教えてくれたとしても、僕は僕の責任において、それを火の中にくべてしまうつもりだ」
ウィーヴル君はうなずく。ガッピー君はなかば法廷弁論めいて、なかばロマンチックな調子で、これだけ大熱弁をふるったので――この紳士はなんでもかでも尋問口調か、法廷の最終要約陳述みたいな口調にしたくてしかたない――すっかり自分で男を上げたつもりになってしまい、堂々たる態度でもとクルックの住んでいた小路の方へと向う。
この袋小路が始まって以来、この頃の古着屋の店での作業ぶりほどに、フォーチュネイタスじいさんの財布(5)よろしく、ゴシップのたねの尽きなかったことはない。毎朝八時になると必らずやスモールウィード老人が、スモールウィード夫人と、ジューディとバートをお伴に従えて、担がれて来て家の中に入り、一日中夜九時まできちんとそこで仕事をしている。休息といえば、近所の安料理屋から運ばれるわずかな量の粗末な食事の時だけで、絶えず故人の財宝の山をひっかき廻し、掘っくり返し、ほじくり出している。いったいその財宝が何なのか、彼らはがんとして秘密にしているために、小路の住人は頭がおかしくなってしまった。お茶のポットからギニー金貨が飛び出して来るのではないか、パンチ・ボウルからクラウン銀貨があふれ出て来るのではないか、古椅子やマットレスにイングランド銀行のお|札《さつ》が詰っているのではないかなどと、とんでもない臆測をたくましゅうする。ダニエル・ダンサー氏兄妹や、サフォーク州のエルウィス氏(6)のことを書いた六ペンス本(極彩色の折りたたみ挿絵入り)を持っているので、こういう事実疑いなしの物語の内容を、全部クルック氏の場合に適用してしまうのである。二度もくず屋が呼ばれて、古い紙の束、灰、こわれた瓶などが荷車いっぱいに積まれて運び出されると、小路じゅうの連中がよってたかって覗き込む。字に飢えた、ちいさなペンで|薄葉紙《うすようし》に書きなぐりながら、近くをうろつき廻っている、例の二人の紳士の姿が幾度となく見られる――彼らは最近まで共同で記事を書いていたのだが、けんか別れしてしまったらしく、今ではお互いに敬遠し合っている。この人気をぬけ目なく利用した日輪亭は「音楽の集い」の中にそれをとり上げる。芸人仲間で、「パター(7)」と呼ばれている歌の中に、リトル・スウィルズがこの事件を盛り込んで|大喝采《だいかつさい》を浴び、すっかり味をしめたので、ギャグにも使う。M・メルヴィルソン嬢までが、最近リバイバルで人気の出たスコットランド民謡「うなずき合って」のメロディを使って、「犬はブルー(8)が大好き」(そのご馳走がどんなものにもせよ)と歌うのだが、その時のちゃめっ気たっぷりな、隣りの家の方をうかがうしぐさを見れば、「スモールウィードさんはお金探しが大好き」の意味をこめているのは一目瞭然なので、毎晩のように何度もアンコールを要求される。これだけ大騒ぎになったのに、近所の連中はなんにも見つけ出すことができない。パイパーとパーキンズの両おかみさんがかつての下宿人(彼が姿を見せたために全員集合の非常呼集がかかったわけである)にいっているように、なんでもかでも、いやそれ以上に見つけてやろうという熱が、いつまでもさめずに続いているというわけである。
ウィーヴル君とガッピー君は小路の全住人の視線を一身に浴びながら、町内第一の人気者となって故人の部屋の閉ったドアを叩く。ところが大方の野次馬の予想に反して中に入れて貰えたために、とたんに人気を失墜し、あいつはろく[#「ろく」に傍点]な者じゃないという評判をちょうだいすることとなる。
家中の鎧戸の大部分が閉っているので、一階は暗くてろうそくがいるくらいだ。二人はスモールウィード少年に案内されて、明るい太陽の下から急に店の裏へ入ると、はじめのうちは暗闇と人影らしいものしか見えない。が、やがて紙くずの井戸か墓場みたいなところの端に、椅子に坐ったスモールウィード老人の姿が見えるようになる。それから女の墓掘人みたいに紙くずの墓場の中を手で探っている淑女ジューディと、近くの床の上に坐って、一日のうちに舞い込んだファンレターの吹き溜りみたいな、紙くずの山に埋れているスモールウィード夫人の姿もある。スモールを含めて一同埃と泥でまっ黒になり、まるで悪鬼のような|形相《ぎようそう》だし、周囲の部屋の情景がそれをさらに引き立てている。昔よりもがらくたの山が増え、昔もきたなかったが今はそれに輪をかけ、壁に書かれたチョークの字など、死んだ住人を思い出させるものを見せつけられると、うす気味悪くなって来る。
お客が入って来ると、とたんに、スモールウィード老人とジューディは紙くず探しの手を休めて腕を組む。
「よう!」老人がかすれ声でいう。「あんた方、お元気かね? ウィーヴルさん、荷物をとりに来たんだね? それは結構、結構。は! は! は! これ以上ここに置いておいたら、倉敷料を払うために、あれを競売にしなけりゃならんところだった。久しぶりでわが家に戻ったような気持でしょうが、え? いや、ようこそおいで下さった、ようこそ!」
ウィーヴル君は答礼をすると、あたりを見廻す。ガッピー君もそれについて目を走らせる。ウィーヴル君の目は何も新しいものを見つけることができない。ガッピー君も同様で、ふとスモールウィード氏と目が会う。この魅力的な老人は、ゼンマイを巻いたオルゴールがひとりでにゆるんでゆくみたいに、まだぶつぶつつぶやいている。「お元気ですか――お元気――お元気――」そして全部ゆるんでしまうと、あとは無言でにやにや笑うだけである。その時ガッピー君は反対側の暗闇に、うしろ手を組んで立っているタルキングホーン弁護士の姿を見て、ぎくっとする。
「あの方は私の顧問弁護士になって下さったわけでね」スモールウィード老人がいう。「私はとてもああいう有名な先生の依頼人になれるがら[#「がら」に傍点]ではないんだが、先生がご親切にも承知して下さってね!」
ガッピー君は親友の肘をつついて注意をうながしてから、タルキングホーン弁護士にぺこりとお辞儀をすると、先生はおうようにうなずく。先生はまるで他にすることがないので、珍しいものを見て気晴らしをしているのだ、というような様子。
「ずいぶんたくさんありますね、ここには」ガッピー君がスモールウィード老人にいう。
「たいていのところはぼろとがらくたばかりでしてな! ぼろとがらくたですわい! わしとバートと孫娘のジューディとで、何か売れる品物はないものかと、整理しようとしているところでな。ところがまだろくなものが見つからんです。まだ――ろくなもの――見つからん――で!」
ここでまたスモールウィード老人のゼンマイが切れてしまう。ウィーヴル君はガッピー君と一緒に部屋の中をひと廻り見渡してから、
「なるほど。私たちはこれ以上お邪魔はいたしませんが、ちょっと二階へいかせて頂きます」
「さあさあ、どこでもどうぞ。ご遠慮なくやって下さい、どうぞ!」
階段をのぼりながらガッピー君は、眉を上げて目顔でトニーに尋ねる。トニーは首を振る。昔の部屋はうす暗く陰気で、あの忘れられぬ晩に燃えていた炉の火の灰が、まだ錆びついた火格子にたまったままだ。荷物に手を触れるのもいやな気持がして、まず最初に丁寧に埃を吹き払う。長居は無用とばかり、できるだけ手早く二、三の品物を包みながら、ひそひそと内証話を交わす。
「やっ! あのいやな猫めが入って来た!」トニーはそういって逃げ腰になる。
ガッピー君も椅子のうしろに退却する。「スモールがいってたけど、こいつあの晩はまるで悪魔みたいに、飛んだりはねたりして暴れ廻って、屋根の上へ上ってから二週間くらいそこでぶらぶらしていて、それからひどく痩せこけて煙突を伝って下りて来たんだとさ。こんな気持の悪い動物って見たことあるかい? まるで真相を全部知っているみたいな顔をしているじゃないか? クルックそっくりみたいな顔。しっ、しっ! 出てゆけ、このばけものめ!」
ドアのところに立っているジェイン奥方は両耳をぴんと張って、しっぽを棒のように立てて、ううとうなると、いっかないうことをききそうに見えない。ところがタルキングホーン弁護士の足が猫にぶつかると、その錆びついた足につばをひっかけて、すごいけんまくでぎゃあおと鳴いてから、階段を上へのぼっていってしまう。きっとまた屋根の上をぶらついて、煙突伝いに戻って来るつもりなのだろう。
「ガッピー君、ちょっと話があるのだが」タルキングホーン弁護士がいう。
ガッピー君は壁にはりつけてある『イギリス美女名花集』を集めて、この芸術作品集を古いみっともない箱にしまおうとしていたところだったが、顔を赤らめながらこう答える。「はい、先生。手前は法律の業にたずさわるお方には、誰にも敬意をもってご用を勤めたいと存じております――とりわけ先生のような有名な、いえ、かくも高名なお方と申しましょうか、でございましたら、なおのことでございます。ですが先生、一つ条件がございまして、それは、もし手前にお話がございますなら、ぜひこの手前の親友の面前でお話いただきたいのでございます」
「おや、そうかね?」タルキングホーン氏がいう。
「さようでございます。その理由は決して私的な性質のものではございませんが、手前にとりましては充分な理由でございます」
「いかにも、いかにも」タルキングホーン氏は静かに煖炉のそばへ歩み寄り、その煖炉の石のように泰然自若と、「私の話はわざわざ条件をつけるほど重要な用件ではないよ。ガッピー君」ここで口をきるとにやりと笑う。彼の笑いは彼のはいているズボンのように、くすんで錆びついている。「君におめでとうをいおうと思ってな。君は運のいい青年だな、ガッピー君」
「かなりそうかと思っております、先生。手前は愚痴は申しません」
「愚痴だって? 立派な友達がいて、名家のお屋敷に自由に出入りができて、やんごとなきご婦人にお目通りが叶う! ええ、ガッピー君、このロンドンには君の身代りになりたくて、うずうずしている人間がたんといるぞ」
ガッピー君はまっ赤に耳をほてらして、手前こそそういう人間になりたくてうずうずしているのです、という様子をしながら答える。「先生、手前が用務上ケンジ・アンド・カーボイ法律事務所のために必要なことを行ないます時には、手前の知己友人といえども眼中にありません。法律家の方々といえども、たとえリンカン法曹学院のタルキングホーン先生といえども、であります。手前はこれ以上ご説明の義務はないと存じます。失礼とは存じますが――」
「――いやいや、そんなことはない!」
「――これ以上ご説明申すことはございません」
「よくわかった」タルキングホーン氏はゆっくりとうなずく。「もう結構。ところでそこの絵から拝察すると、君は社交界の名士に大いに関心があるらしいな?」
こう話しかけられたトニーはびっくり仰天して、その軽い|譴責《けんせき》を認める。
「イギリス人なら誰しもそうだろうね」といいながら|煤《すす》だらけの煖炉を背に立っていたタルキングホーン弁護士は、急にめがねをかけて向きなおる。「これは誰だ? 『デッドロック夫人』とな。なるほど! よく似ているところもあるが、意志の強いところが出ていないな。いや、諸君、失礼しました。さようなら!」
弁護士が出ていってしまうと、大汗をかいたガッピー君は元気を出して、『美女名花集』を急いでかたづけにかかり、最後にデッドロック夫人の絵をしまう。
「トニー」度胆を抜かれた親友に向ってせかせかという。「さあ早く荷物をまとめて、ここから出よう。トニー、もう君に隠そうったってだめだが、僕と、僕が今手にしている白鳥のごとき華族の一員との間には、ある知られざる交際、文通があったんだよ。できれば君にも打ち明けたかったんだ。でも今後打ち明けるわけにはいかないんだ。僕の立てた誓い、崩れ落ちた偶像、それからやむを得ざる事情と、この三つのために、万事は忘却の淵へと沈めなくてはならないんだ。親友としての君にお願いいたす。社交界の事情に君が寄せた関心のことを思い、これまで僕が君に用立てたささやかな前借金のことを思って、僕の頼みを聞いてくれ。なにとぞひとことも問うことなく、忘れてくれ給え!」
こうも気違いじみた弁舌でまくし立てられた彼の親友は、呆然として頭の毛をかきむしり、丁寧に形を整えた頬ひげまでかきむしってしまう。
[#改ページ]
第四十章 国の問題とお|家《いえ》の問題
このところ数週間というもの、イギリスじゅうが恐ろしい危機に見舞われた。クードル閣下は政権を投げ出し、トマス・ドゥードル卿も入閣しない。クードルとドゥードルの他には(数えるに足る人間は)イギリス広しといえども一人もいないのだから、政治は活動が止ってしまった。この二人の大人物が敵意にあふれた顔と顔を合わせることが、ある時には避けられないように見えながら、結局くい止められたのがせめてもの幸せである。というのは、万一両者のピストルが的に当り、クードルとドゥードルがお互いに殺し合おうものなら、イギリスの政治の|舵《かじ》は、現在ベビー服を着て長靴下をはいているクードル、ドゥードル両者のおん曹子が成長するまで、誰も握るものがなくなってしまったであろうから。しかしながらそのような国の大不幸は避けられた。というのはクードル閣下が、もし自分が白熱した激論のあまり、トマス・ドゥードル卿の卑劣なる全政治生命を歯牙にもかけぬ、といったとしても、その真意は、党派の差にもかかわらず、自分は深い尊敬の念を捧げるにやぶさかではない、ということに尽きるのであります、と時機をえた発言をしたからであり、また、たまたまトマス・ドゥードル卿の方も、クードル閣下こそ名誉と美徳の|鑑《かがみ》としてのちの世に伝えるべき人物であると、心中ひそかに考えていたことが判明したからである。にもかかわらず、イギリスはここ数週間というもの、(レスタ・デッドロック卿の適切な表現をかりるならば)舵とるパイロットを失う危機にさらされていたのである。さらに驚くべきことには、イギリスじゅうの人々は、この危機にあまり心配せず、昔のノアの大洪水の直前のように、平気で飲んだり食ったり結婚したりを続けていたのだ。しかしクードルはその危険を察知し、ドゥードルもその危険を察知し、それぞれの家の子郎党もその危険をはっきりと意識していた。ついにトマス・ドゥードル卿は政権を継ぐことに同意して下さったのみか、実にみごとな態度を見せてくれた。つまり甥やら従兄弟やら義兄義弟やらを全部引きつれて入閣しようというのである。そこでイギリスという古ぼけた大船はまだ安泰と思われる。
ドゥードルは国じゅうに自分の存在を知らしめなくてはならない、と思った――主として金貨とビールの形(1)で。このように姿を変えれば、彼は同時に幾多の場所に、また国内の大部分に姿を現わすことができるのだ。イギリスの全国民はせっせと金貨の形をしたドゥードルをポケットにしまい、ビールの形をしたドゥードルを飲みながら真剣な顔をして、自分はそのようなことは絶対してはいないとがんばるので――これでこそイギリスの栄光と道徳が宣揚されるというものだ――ロンドン社交界も突然幕が下りてしまう。全ドゥードル党、全クードル党が、全国にちらばってこの宗教儀式に惜しまぬ協力を与えているからである。
というわけで、チェスニー・ウォールドの女中頭ミセス・ラウンスウェルは、別にまだ命令を受け取ってはいなかったが、ちかぢかお殿さまご一家が、国家的大行事に何やら協力する多くの親類やら取り巻きやらを引き連れて、このお屋敷においでになるものと予想している。というわけでこの堂々たる老婦人は先手を打って、家の内外、回廊やら通路やら、各部屋の支度をあっという間にとり揃える。床をぴかぴかに磨き上げ、カーペットを敷き、カーテンの埃を落し、ベッドを整え、食料貯蔵庫や台所をいつでも使えるように準備し――デッドロック家の威厳に恥ずかしくない支度が全部整えられる。
今、太陽が沈みかかっている夏の夕べ、いっさいの支度が終り、ものさびしい堂々たる構えの古いお屋敷には、居住のための設備はいろいろと揃いながらも、実際に住んでいるものとしては、壁に並んだ先祖の肖像画だけである。その中の、あるデッドロック家の当主は、そこの間を通りすぎながら、こういう思いに沈んだことかもしれない――かくの如くこれらの人々は来たり、また去っていった。彼らもまた私と同じように、しんと静まり返った回廊を見て、自分がいなくなったら、どんな空白が残るだろうか、と考えたのだ。私と同じように自分のいない屋敷など信じられなかったのだ。私が彼らの世界から去るように、彼らも私の世界から去ってゆく。こだまする扉を閉めて、後に悲しみの空白を残さずに死んでゆく。
この日没の時、外から見ると、陰気な灰色の石でなくて黄金で造られたかと見える輝かしい建物にはめ込まれた、あかあかと燃える窓ガラスを通して、他の鎧戸の閉じた窓からしめ出された日光が、いかにも夏らしくたっぷり、ありあまるくらい入って来る。すると凍りついたようなデッドロックのお歴々の顔が融け出す。彼らの顔の上に、まるで木の葉の影がちらちら揺れるように、奇妙な動きが現れる。隅っこの鈍い顔をした判事殿が思わずウインクをする。英国紋章院院長の職杖を握り、こわい顔でにらみつけている准男爵の顎先にえくぼができる。羊飼の服装をした石のような麗人の胸もとに、暖かみと光とがしのび寄り、それが百年前だったらよかったのに、と思わせる。ヴォラムニアそっくりで、高いヒールの靴をはいた、彼女の祖先に当たる、ある女性は――あの処女の生涯の影を、この二百年間というもの彼女の目の前に投げかけて来た――背に後光を浴びて聖女となる。チャールズ二世の宮廷の侍女だった美女は、大きな丸い目をして(それにふさわしい他の魅力もそなえている)あかあかとした水の中で、紅の|小波《さざなみ》にひたっているようだ。
しかし太陽の炎は消えかかっている。もはや床はうす暗くなり、影がゆっくりと壁を這い上り、デッドロック一族に老年と死をもたらす。大きな煖炉の上に掛かっている現在の奥方さまの肖像画の上に、どこかの老木の気味悪い影がしのび寄り、その影を蒼ざめさせ、ゆり動かし、まるでヴェールか|頭巾《ずきん》を持った誰かの大きな腕が、顔を覆う機会をうかがっているかのよう。影がしだいに壁に這い上り、しだいに暗くなる――天井がぼっと赤黒くなったかと思うと――火は消えてしまった。
テラスから見るとさっきまであんなに近くに見えた風景が、ゆっくりと遠ざかり、形が変ってぼんやりとした遠い幻となる――あんなに近くに見えながら、すぐに変りはててしまう美しいものによくあることだ。薄い霧が立ちのぼり、露がおち、庭の植物の芳香があたりに重く立ちこめる。並木が一色に塗りこめられ、一本の奥ゆきの深い木のようになる。月が昇り、また一本一本が別々に見えるようになり、あちこち枝の向うに水平線が並んだように光りはじめ、並木路はこわれて奇妙な形になった大教会のアーチの下の、光の舗装道路のように見える。
月が高く昇った。大きなお屋敷は前よりもいっそう住む人が欲しいような様子で、まるで生命のない肉体のよう。一人ぼっちの寝室で眠っていた生ける人びとのことを考えると(死人はもちろんのことだが)、ぞっとした気持がしのび寄る。影のさす時刻となった。家のすみずみは墓穴のように暗く、下へ降りる階段は底なし穴のように見え、ステンドグラスが床の上にぼんやりと蒼ざめた色を映し、階段を支えるどっしりした|梁《はり》は種々雑多な途方もない形のように見え、飾られた鎧はぼんやりと照らされて、ひそかに動くがごとくに見え、置き物の|胄《かぶと》は中に頭が入っているのではないかと思わせて、見る者をぞっとさせる。しかしチェスニー・ウォールドにしのび寄るありとあらゆる影の中で、大きな長い応接間の奥方さまの肖像画の上に落ちる影が、一番最初にあらわれ、最後まで留まっている。この時刻にこの明りで見ると、影はあたかも誰かが手を上げて、その端麗な顔を脅やかしているがごとくに思える。
「奥方さまはご気分がすぐれません」ミセス・ラウンスウェルの接見室で、下男がいう。
「奥方さまのご気分がすぐれないって! どうなさったのかしら?」
「奥方さまはこの前こちらに見えてから――といいますのはお殿さまとご一緒の時ではありませんよ、まるで渡り鳥みたいにお立ち寄りになった時のことですよ――どうもお加減が悪いのです。奥方さまにしては珍しいくらい、外出もなさらず、お部屋にひきこもったきりなんで」
「トマス」女中頭が誇らかに答える。「チェスニー・ウォールドにおいでになれば、お元気になられます! ここ以上にいい空気、健康な土地は、世界じゅう探したってありません!」
トマスにはこの件について何か個人的意見があるらしく、すべすべした頭を首のうしろからこめかみまで撫で廻して、それとなく述べたつもりらしいのだが、それ以上口に出すことは遠慮して、雇い人溜りの部屋へ下ると、冷たいミート・パイとビールのご馳走をちょうだいする。
この下男はいわば偉い人の前ぶれみたいなもので、翌日の晩レスタさまご夫妻がお伴を連れておいでになり、その親類縁者一同が四方八方からやって来る。それから数週間というもの、さして名乗るほどの名もないえたいの知れぬ連中が、あっちこっちへと駈け廻り、ドゥードル卿が目下金とビールの雨となって降り注いでいる地域を、ちょろちょろ飛んで歩いているのだが、こういうやからは尻が落ちつかないだけで、どこへいってもたいして役には立たない。
このような国家的大事の折には重宝な|従兄弟《いとこ》たちだと、レスタ卿は思う。「狩り出し」の晩餐会の時には、国会議員ボブ・ステイブルズ先生がもってこいの人物である。あちこちの投票場や政見演説会場では、イギリス愛国党の大見栄を切るのに、他の従兄弟連中くらい適任者はいない。ヴォラムニアもいささか影が薄れてはいるが、血筋正しい一族の一人だから、彼女の気のきいた会話や、何世紀もがぐるっとひとまわりするくらい古くさいフランス語の謎々を聞いて、感心してくれる人がたくさんいるし、このうるわしのデッドロック嬢につき添って晩餐会に出席したり、舞踏会でダンスの相手をしてくれる人さえいるのだ。このような国家的大事の時には、ダンスとても愛国的ご奉仕なのだから、ヴォラムニアはいつもいつも、自分に年金一つ与えてくれぬ恩知らずの国家のために、はね廻っているのである。
奥方さまは大ぜいの賓客の歓待にはあまり精を出さない。それにまだ気分がすぐれないので、夕方にならぬと顔をお見せにならない。しかし陰気な晩餐会や、鉛のような昼食会や、化け物だらけの舞踏会や、その他の不景気な催し物に、奥方さまが顔を出して下されば、一同は救われる。レスタ卿はといえば、かたじけなくもわが邸宅に招かれたからには、お客はどのような点でも不服不満のあるはずはないと信じきっているので、ご自身もすっかり満足しきって、巨大な冷凍器のように、一同の間を歩き廻っている。
毎日毎日従兄弟たちは埃の中を、道端の芝生の上を馬で飛ばして(田舎へ出かける時は荒皮手袋に狩猟用の鞭を持ち、町へ出かける時は小羊皮の手袋と乗馬杖持参で)、投票場へ、政見演説会場へとおもむき、毎日毎日報告を持ち帰って来ると、晩餐の後でレスタ卿がそれについて大いに弁ずる。毎日のように何の職ももたず腰の落ちつかぬ連中が、いささか忙しそうなふりをする。毎日のようにヴォラムニアは、国家の情勢についてレスタ卿と話をかわすのだが、その結果レスタ卿は、ヴォラムニアも思っていたよりは考えのしっかりした女だわい、と思うようになる。
「情勢はいかがですの?」ヴォラムニアは両手を握りしめながらいう。「わが党[#「わが党」に傍点]は大丈夫ですか?」
重大な行事はもう終りに近くなって、ドゥードルはあと数日だけ、自らの存在を知らしめていればいいのである。レスタ卿は晩餐を終えて、つい今しがた大応接間に姿を現し、雲のような従兄弟に囲まれた、ひときわ輝く明星といったところ。
「ヴォラムニア」手にリストを持ったレスタ卿が答える。「わが方はかなりうまくいっています!」
「かなり、という程度ですか!」
夏とはいえ、レスタ卿はいつも晩になると自分用に煖炉に火を焚かせる。いつもの炉端の椅子に坐ると、しっかりした、ややご機嫌を損じたような口調で、まるで、私は一般平民とは違うのだぞ、だから私が「かなり」といったら、一般平民のいう意味にとっては困る、とでもいっているように、もう一度繰り返す。「わが方はかなりうまくいっています!」
「少なくとも、あなた[#「あなた」に傍点]に反対する派はまさかございますまい」ヴォラムニアは確信にみちた口調でいう。
「もちろんです。残念ながら、わが狂える英国はいろいろな点で最近正気を失っているが、しかし――」
「それほど狂ってはいない、とおっしゃるわけですね。それはようございましたわ!」
こうヴォラムニアが言葉のあとを引き継いでくれたので、レスタ卿は大いに気に入った。卿は上品に首をかしげながら、ひとり言をいっているようである。「概してあれは、分別のある女だ。もっとも、時々早まったことをいうが」
事実反対派の問題では、うるわしのデッドロック嬢がわざわざいうまでもないことだった。こうした行事の時には、デッドロック卿は自分の選挙区では、いわば気前のいい大口の注文を出して、すぐ品物を納めさせるようなものなので、彼の息がかかった他の二つの議席はそれほど重要でない小口の注文と考えている。だからただ人間を二人つかわして、商人にこう指図すればいい。「どうかこの材料で議員を二人こしらえてくれ給え。出来たら送り返してくれ給え」
「ヴォラムニア、まことに遺憾なことですが、最近いろいろな場所で危険思想が横行し、政府に反対する行動が頑迷|固陋《ころう》になって来たのです」
「な、な、なげかわしいこと!」ヴォラムニアがいう。
「これまで与党が圧倒的に不穏分子を抑えて来た多くの選挙区――いや、大多数の区においてすら――」レスタ卿は周囲の長椅子や寝椅子にころがっている従兄弟どもを眺めながら、言葉を続ける。
(ついでながらいっておくと、ドゥードル党にとってクードル党はいつも「不穏分子」であり、クードル党にとってドゥードル党はいつも全く同じ名前で呼ばれている。)
「――このようなことをいうのは、イギリス国民の名誉のために戦慄すべきことですが、そういう選挙区ですら、わが党は莫大な出費をした末にやっと勝利を収めたといわねばならぬのです」レスタ卿は従兄弟どもを眺めながら、しだいに威厳と義憤が高まって来る。「何十万ポンドという出費です!」
ヴォラムニアに欠点があるとすれば、それは少々無邪気すぎるというところなのである。飾り帯やモスリン布などをつける、しもじもの者にはしごく似つかわしいが、ルージュや真珠の首飾りをつける身分の方にはややふさわしくない、そういう無邪気さというものである。それはともかくとして、無邪気さにかられて、彼女が尋ねる。
「何のためにですか?」
「ヴォラムニア」レスタ卿はこの上もなく厳しい態度で叱る。「ヴォラムニア!」
「まあ、うっかりいってしまったんですわ」例の金切り声をあげてヴォラムニアが叫ぶ。「私としたことが、ばかなことを! 『なんと遺憾なこと!』というつもりだったのですよ」
「いや、それならばよろしい」
ヴォラムニアはあわてて、そんなひどい人たちは裏切者として裁判にかけ、わが党の支持者に転向させるべきですわ、とつけ加える。
「ヴォラムニア、それならばよろしい」レスタ卿は相手の弁明など耳もかさずに繰り返す。「確かに遺憾なことです。選挙人の恥です。だが、あなたがいま、もちろんうっかりと、まじめな質問のつもりではなく口にしたのだとは思いますが、『何のために?』ときいたのに答えましょう。必要な経費のためにです。ヴォラムニア、お前の良識を信用していっておきますが、そんなことはここでもよそでも、口にしない方がよろしい」
レスタ卿はヴォラムニアに向って、うむをいわさぬようなこわい態度を示しておくべきだと思ったのである。というのは、|巷間《こうかん》にささやかれるところによれば、その必要な経費というのが、選挙に関する二百もの異議申立ての請願では、|賄賂《わいろ》という不愉快な言葉と結びつけられ、その結果イギリス国教会の礼拝式から議会高等法廷(2)のための祈りを削って、その代りに不健康な状態の六百五十八人(3)の紳士のための、集会の祈りを入れて貰うがいい、なんて品の悪い冗談をいう者がいるからである。
さっき叱られたあと少ししてから、元気をとり戻したヴォラムニアがいう。
「きっとタルキングホーンさんは、死ぬほどお疲れでしょうね」
「どうしてタルキングホーン君が死ぬほど疲れるのです?」レスタ卿が目を開けながら尋ねる。「タルキングホーン君にどんな仕事があるのです? あの男は候補者ではありません」
ヴォラムニアは、あの方にもひと役働いていただけばよかったのに、という。レスタ卿は、誰が、何のために彼に働いて貰うのです? ときく。ヴォラムニアはまた恥ずかしそうな顔をして、誰かが――いろいろ手筈を整えたり、忠告して貰うためにですよ、と答える。レスタ卿は、タルキングホーン君の依頼人で、彼の援助を必要とする者はいなかったように思う、という。
デッドロック夫人は、開いた窓際に坐って、クッションのついた窓敷居に腕をのせ、庭園に夕べの影が迫るのを見つめていたが、弁護士の名前が出ると気をひかれたような様子を見せる。
ひどくよいよい[#「よいよい」に傍点]で口ひげをはやした一人の|従兄《いとこ》が、寝椅子の上からこういう――何でもキノ(きのう)タルキンホンが鉄の町いたそじゃから、今日選挙戦も終ったから、タルキンホンがクードル党ぺしゃんこのしらせをもてきてくれりゃいいんだがのう。
そこへコーヒーを持って現れた従僕マーキュリーがレスタ卿に、タルキングホーンさまがおいでになって、ただ今お食事を召し上っておられます、と告げる。奥方さまはちらと室内の方を眺めるが、すぐまた目を戸外へと戻す。
ヴォラムニアはあのすてきな人が来てよかった、という。あの人はとても風変りで、のっそりしていて、何でもいっぱい知っているくせに、何にもいわないのよ! きっとあの人はフリーメイソンだわ。きっと支部会長で、短いエプロンをしめて、|燭台《しよくだい》とこて[#「こて」に傍点]を持って、皆から偶像と仰がれているのよ。うるわしのヴォラムニアはいかにも若々しい口調で、このようなことを元気よく口走りながら、眉をしかめる。
「私がこちらに来てから、一度も顔を見せないのよ」彼女はつけ加える。「あの不実な人のために、心臓も破れんばかりの思いをしたことがあるのに。いっそあんな人死んでしまえばいい、と思いかけたことさえありましたわ」
迫り来る夕闇のせいかもしれぬし、心の中のもっと暗い影のせいかもしれない。しかしともかく奥方の顔がふっとかげる。まるで、「私もあの人が死んでしまえばいいと思う!」と考えているかのように。
「タルキングホーン君ならいつでもここへ歓迎するし、彼はどこへいっても常に慎重です」レスタ卿がいう。「立派な人物で、当然の尊敬をかちえています」
よいよ[#「よいよ」に傍点]いの従兄がいう。「あいつすごい金持だろな」
「たしか国家的な事件にも関係しているし、もちろん高い報酬もとっています」レスタ卿がいう。「最高の位階の人々とも対等につき合っています」
一同がびくっとする。すぐ近くで銃声がしたのだ。
「まあ、あれは何でしょう!」ヴォラムニアは少しかすれた金切り声をあげる。
「鼠です」奥方がいう。「鼠を撃ったのです」
タルキングホーン弁護士が、ランプと燭台を持った従僕を従えて入って来る。
「いや、違う」レスタ卿がいう。「そうではあるまい。奥や、夕闇は嫌いかね?」
いいえ、むしろその方がよろしゅうございます、と奥方が答える。
「ヴォラムニアはどうかね?」
おお、暗闇の中で坐っているくらい、すてきなことはございません、とヴォラムニアが答える。
「それでは明りは持っていってくれ」レスタ卿がいう。「タルキングホーン君、失礼した。元気かね?」
タルキングホーン弁護士はいつものように落ちついた足どりで進み寄り、通りすがりに奥方に挨拶してから、レスタ卿と握手すると、准男爵の小さな新聞テーブルを隔てて反対側にある、いつも何か話をする時に都合のよい椅子に坐る。レスタ卿があまり気分のすぐれない奥方に、開いた窓の傍で風邪をひくといけないね、というと、奥方は、有難うございます、でもここに坐って空気を入れたいと思います、と答える。レスタ卿は立ち上ると、奥方の肩掛けを直してやってから、もとの席に戻る、その間タルキングホーン弁護士は、嗅ぎたばこをひとつまみ吸う。
「さて」レスタ卿がいう。「選挙戦の結果はどうだったかね?」
「ああ、初めからだめでした。全然勝ち目がありませんでした。相手方は二人とも入りました。閣下方は完全な敗北です。三対一です」
いっさいの政治的意見を持たぬのが、タルキングホーン弁護士の巧妙な政策の一つである。全然政治的意見なし[#「なし」に傍点]である。だから彼は「閣下」が負けました、といって、「私ども」とはいわない。
レスタ卿は威厳をこめて激怒する。ヴォラムニアはそんな話って聞いたことございませんわ、という。よいよい[#「よいよい」に傍点]の従兄は――愚民どもに――選挙権くれてやりゃ――必ずそなるにきまちょる――と、のたまう。
「ご承知でしょうが」一同が黙ってしまうと、しだいに濃くなる暗闇の中でタルキングホーン氏が言葉を続ける。「ミセス・ラウンスウェルの息子を立てようとしていた選挙区です」
「そのとき君が私に正確に教えてくれたところによると、あの男は然るべき趣味と明敏な頭脳を持ちあわせていたから、その計画には反対したはずだが。ラウンスウェル君がこの部屋で、半時間ばかりの間に述べた意見は、私のとうてい賛成しかねるものであったが、彼の決心はなかなか礼節に叶っていると私は感心しているのだ」
「はあ!」タルキングホーン弁護士がいう。「ところがです、彼は平気で今回の選挙で熱心に動いておりました」
レスタ卿のぐっとあえぐ音がはっきり聞える。そしてそれから、「何だと? ラウンスウェル君が今回の選挙で熱心に動いたと?」
「きわめて熱心に動きました」
「私の――」
「そうです、閣下の敵にまわってです。彼は弁が立ちます。やさしい言葉で強く聞き手を打つのです。彼は痛い武器を使ったのです。大きな影響力を持っています。職業上の面では彼のいくところ、できないことはありません」
誰もレスタ卿の顔を見ることはできないが、卿が威厳をこめて呆然と目を見張っているのが一同にはっきりわかる。
「それに彼には息子が大いに力をかしておりました」最後にタルキングホーン弁護士がいう。
「彼の息子ですと?」レスタ卿は、恐ろしいほど丁寧な口調でいう。
「息子です」
「奥方に仕えている娘と結婚したがっていた息子ですか?」
「その息子です。息子は一人しかおりません」
「なんということだ」レスタ卿はしばらく恐ろしいように押し黙っていて、その間すごい鼻息が聞え、呆然と目を見張っているのが感じられたが、そのあとでいう。「私の名誉、生命、名声、確信にかけていうが、社会の水門が押し流され、奔流が万物の連帯の機構を破砕してしまったのだ!」
一族の者がいっせいに憤怒を爆発させる。ヴォラムニアは今こそ誰か力のあるものが立ち上って、断固たる処置をとるべき時です、と叫び、よいよい[#「よいよい」に傍点]の従兄は――この国は――もういちもくさんに――地獄ゆきじゃ。
「諸君」レスタ卿はあえぎあえぎいう。「この問題についてはもうやめよう。いくらいってもむだなことだ。それから奥や、あの娘のことだが――」
「私はあの娘を手離すつもりはありません」奥方が窓辺から、低い、しかしきっぱりした口調でいう。
「いや、そのことではないのです」レスタ卿がいう。「その言葉は私も嬉しく思う。私のいいたかったのはこうです。あなたがあの娘は目をかけてやるにあたいすると思うからには、あの娘をこうした危険なやからの手から守ってやるよう、力をかしてやりなさい。あのようなやからと付き合えば、あの娘の義務と処世の方針にとんでもない危害が及ぶということを、教えてやりなさい。あの娘にはもっと幸福な未来を与えてやりなさい。然るべき時が来たら、チェスニー・ウォールドで――」レスタ卿はちょっと考え込んでから、「彼女の先祖に対して恥ずかしからぬ夫を見つけてあげようと、いってやったらいいでしょう」
いつもレスタ卿が奥方に対して口を開く時と変らない、丁重な敬意にあふれた言葉づかいである。奥方はただ頭を動かして答えるだけ。月が昇りかけている。奥方の坐っているあたりが、その冷たい蒼白い光に照らされていて、その中に彼女の頭が見えている。
「しかし彼らもまた彼らなりに」タルキングホーン弁護士がいう。「高い誇りを持っていることは、申しておいてよろしいでしょう」
「誇り、ですと?」レスタ卿はわが耳を疑う。
「もしその娘が今のような状態の下でチェスニー・ウォールドに留まるならば、娘が彼らを相手にしないのではなく、彼らの方から――さよう、恋人もだれもかれもです――進んで娘を相手にしなくなったとしても、私は当然のことと思います」
「これは驚いた!」レスタ卿が声をふるわせていう。「これは驚いた! しかし、タルキングホーン君、君がいうのだから間違いあるまい。君はあの連中と話をかわして来たのだから」
「その通りです、閣下」弁護士が答える。「私は事実を述べているのです。そうです、一つお話をお聞かせいたしましょう――奥方さまのお許しを願って」
奥方はよろしいとうなずく。ヴォラムニアはすっかりわくわくしてしまう。お話! とうとうあの人が何かお話をしてくれるのよ! 幽霊が出て来るお話だといいのだけれど!
「いえいえ。本物の生きた人間のお話です」タルキングホーン氏はちょっと口をつぐむと、いつもの単調なもののいい方をやや強めるようにして、もう一度繰り返す。「本物の生きた人間のお話です、お嬢さま。レスタ閣下、この事実はほんのつい最近私が知るようになったのであります。きわめて短い話でありますが、さきほど私の申したことを裏書きしております。今日のところは名前は伏せておきますが、奥方さま、失礼をお許し下さいますでしょうね?」
細々と燃える炉の火の明りで見ると、彼は月光の方を見つめている。月明りで見ると、奥方は身動きひとつしない。
「このラウンスウェル氏と同じ市に住む男で、私の聞きますところでは全く同じような身分の男だそうでございますが、幸運にもその男の娘がさる高貴なご婦人のお目にとまりました。私が申しますのは本当に高貴なご婦人で、ただその男にとって高貴なだけではなく、レスタ閣下と同じようなご身分のお方の奥方でいらっしゃいました」
レスタ卿はおうように「なるほど」というが、その裏には、その婦人は鉄工場主の目から見れば、かなり道徳的に立派な人に見えたことであろうな、という意味がこめられている。
「そのご婦人はお金持でお美しくて、その娘がお気に入りで、たいそう親切にしておやりになり、いつもそば近くにお置きになりました。さてこのご婦人は高貴にもかかわらず、一つの秘密を、もう何年も前から持っておられました。実は若い頃一人の放蕩者の青年と婚約しておりました――その青年は陸軍大尉でありましたが、なにひとつまともなことはできずに終りました。結局ご婦人はその男と結婚しませんでしたが、その男との間にできた子供を生みました」
炉の火の明りで見ると、彼は月光の方を見つめている。月明りで見ると、奥方は身動きひとつしない。
「その大尉は死にましたので、彼女は自分の身は安全だと思っておりました。ところが、ここでくどくどと申すまでもありませんが、ある一連の事情からそれが発覚に及びました。私が聞いたところによりますと、その糸口といいますのは、ある日そのご婦人がうっかり不意をつかれて、軽率な行動を示したことにあるのだそうです。これでもわかります通り、どんなにしっかりした人間でも(彼女は非常にしっかりした婦人でした)、いつも気を張りつめているわけにはいかないのですね。一同が驚き、大変なお家のごたごたが生じたことはご想像がつくと思います。そのご主人の悲しみがいかばかりか、レスタ閣下、これもご想像にお任せいたします。しかし私がお話しますのはそのことではございません。ラウンスウェル氏と同じ市内に住む男がこのことを聞きまするや、娘が自分の目の前で|足蹴《あしげ》にされたような気持になって、娘をご奉公に出しておくのが我慢できなくなりました。大そう誇り高い男でございますので、まるで娘が世間から叱責され、|辱《はずか》しめを受けたみたいに、憤然として娘を連れ戻してしまいました。そのご婦人に目をかけられたことが、自分と娘にとって名誉だなんぞとは、少しも思わなかったのです。そのご婦人が一介の下層庶民であるかのように、娘の境遇に腹を立てたのであります。これでお話は終りです。奥方さま、悲しいお話でございましたが、どうぞお許し下さいまし」
この話のおもしろさについていろいろな意見がかわされたが、だいたいにおいてヴォラムニアの意見とは反対である。うるわしの令嬢はそんな婦人がこの世にいるなんて信じられないと、全然この物語を相手にしてくれないのだ。大多数の者はよいよい[#「よいよい」に傍点]の従兄の感想に賛意を表した――それは簡単にいうと――「ラウンスウェルの町の野郎のことなんぞ――おれの知たこちゃない」レスタ卿は漠然とまたウォット・タイラー(4)のことを思い出し、自分の意見に従って、いろいろの出来事の因果関係を組み立てるのである。
みなはあまり話をかわさない。というのは、選挙に必要な経費が使われ出して以来、チェスニー・ウォールドでは連日遅くまで宴会のある晩が続き、今夜になってやっと一家の者だけで過すことができるようになったからだ。十時すぎになると、レスタ卿はタルキングホーン弁護士に、呼鈴を鳴らしてろうそくを持って来させてくれと頼む。すると月明りの小川が湖のようにふくれ上る。すると奥方さまがはじめて身動きを見せ、立ち上って、水を飲みにテーブルに近寄る。こうもりのようにろうそくの明りに目をぱちぱちさせた従兄弟どもが、よってたかって水のコップを差し出す。ヴォラムニアも(手に入るものならいつでも、よりよい方をちょうだいしたがる|性質《たち》で)コップを一つ貰うが、気取ってひと口すするともうこれでたくさん。優雅で落ちつきはらったデッドロック卿夫人は、大勢の感嘆のまなこに見守られる中を、ゆっくりと長い部屋の彼方へと立ち去ってゆく。かの|水の精《ニンフ》の像のそばを通る時にも、決してそれとくらべてひけをとることがない。
[#改ページ]
第四十一章 タルキングホーン氏の部屋にて
タルキングホーン氏が屋敷の小塔にある自分の部屋に着くと、ゆっくりと上って来たのだが、それでも少し息を切らせている。彼の顔には、自分の心の中にわだかまっていた何か重大なことに解決をつけ、無言のうちに満足を感じている、とでもいうような表情が浮かんでいる。いつも自分の心をあんなに堅く厳しく抑えている人について、得意満面というような形容を用いたとしたら、それは恋心とか感傷とか、そういったロマンチックな弱点にとりつかれているのではないか、と邪推するのと同じで、たいへん失礼なことだろう。彼は冷静に満足の意を示している。おそらくいつも以上に自分の力の強さを味わっているのだろう、彼は片手でもう一方の血管の浮き上った手首を掴むと、背のうしろにまわして、部屋の中を音もなくあちらこちら歩く。
部屋には大きな書き物机があって、その上に書類がかなりうずたかく積んである。緑色のランプには火がともり、彼の読書用めがねは机の上にのっていて、車のついた安楽椅子が机の前に寄せてあり、どうやら寝る前に一時間ばかり、これらの書類に目を通そうと思っていたらしく見える。ところが今は仕事をする気にならないのだ。彼に見て貰いたいと待ち構えている書類をちらと一瞥する――この老人は夜になると読み書きの視力がにぶるので、机の上に顔を押しつけるようにするのだ――と、フランス窓を開けて屋根板の上のベランダに出る。そこをまた同じ姿勢でゆっくりゆきつ戻りつしながら、さきほど階下で話した物語の興奮をさまそう――彼ほど冷静な人間にさます興奮があるかどうか疑問だが――とする。
むかしむかし、タルキングホーン氏と同じような物知りが、星の夜に塔の屋根の上を歩きながら、空を仰いで運命を読みとろうとしたことがあった。今夜は月の輝かしい光のために、いささか影が薄くなってはいるけれども、無数の星が見える。彼がしっかりした足どりで屋根の上を歩き廻りながら、自分の星を求めているのだとしたならば、それは下界で示される色あせた星でしかないだろう。自らの運命を読みとろうとしているのなら、それはもっと手近に他の文字で書かれているのかもしれない。
彼が高みを見つめながら、おそらく地上はるかな高みに立っているように、気持も同じくらいうわの空になって窓際を通りすぎた時、ふと二つの目と目が合って、突然足をとめる。彼の部屋の天井はむしろ低目で、窓に向い合っているドアの上半分はガラスになっている。その内側にもう一つカーテンの張ってあるドアがあるのだが、今晩は暖いので彼が入るとき閉めないでおいたのだ。彼の目と合った二つの目は、外の廊下からガラス越しに覗き込んでいる。誰の目かよくわかっている。デッドロック夫人だとわかった時、これまで長い間経験しなかったことだが、彼の顔にさっと血が上って赤くなる。
彼が部屋の中に入ると、奥方も入って来て、二つのドアを閉める。彼女の目には、何かあらあらしく乱れた色――恐怖か? 怒りか?――が見える。態度その他の点では、二時間前に階下の部屋にいた時と同じである。
恐怖か? 怒りか? 彼にはしかとわからない。どちらにしても、激しさのあまり顔も蒼ざめている。
「奥方さまでしたか?」
彼女は口を開かない。テーブルの傍の安楽椅子にゆっくり腰を下ろしてからも、何もいわない。二人はまるで二枚の絵のように、向い合っている。
「どうしてあなたは、あんなに大勢の前で私の話をしたのですか?」
「奥方さまに私がその話を知っていることを、お知らせする必要があったからです」
「どのくらい前から知っていたのですか?」
「ずっと前から気配は察していましたが――全部を知ったのはつい最近でございます」
「数カ月前?」
「数日前です」
彼は片手を椅子の背に置き、片手を古めかしいチョッキとシャツとひだ飾りの中に入れて、奥方の前に立っている。奥方がお嫁入りして以来、彼がその前に立つ時にはいつもこの通りの姿勢をとっていた。いつも同じく堅苦しいくらい丁重で、挑戦といってもいいような落ち着きはらった敬意がこもっている。彼の人間全体が、いつも同じ距離をへだてた、同じ陰険と冷酷のかたまりのようだ。
「あのかわいそうな娘についての話は本当ですか?」
彼は頭を少しかしげて、質問の意味がわからないというふうを見せる。
「あなたの話した物語を知っているでしょう。あれは本当ですか? あの|娘《こ》の友達も私の話を知っているのですか? もう町の噂になっているのですか? 壁に落書きされたり、通りで呼ばわれたりしているのですか?」
そうだ! 怒りと恐怖と恥辱。この三つが互いに先を争っている。その燃えさかる三つの激情をぐっと抑えるとは、この女は何たる精神力の持主だろう! 奥方にじっと|睨《にら》みすえられながら、白髪まじりのごわごわの眉を、いつもよりほんのちょっと寄せて、彼女を見つめているあいだ、タルキングホーン氏はこんなことを考えている。
「いいえ、奥方さま。あれは仮定の場合です。レスタさまが無意識のうちにことを高圧的にお運びになった場合のことです。でも、私たち二人の知っていることが皆に知れれば、事実となりましょう」
「では、まだ知られていないのですね?」
「はい」
「皆に知られる前に、あのかわいそうな|娘《こ》を不名誉から救い出すことができますか?」
「これは驚きましたな、奥方さま」タルキングホーン弁護士が答える。「その点につきましては、ご満足のいく答えはいたしかねます」
そして奥方の胸中の葛藤をじっと見つめながら、好奇心にみちあふれた彼は考える。「この女の精神力と意志の強さには驚いた!」
「それでは」奥方ははっきり口がきけるようにと、一瞬全力をふりしぼって唇をぎゅっと噛みしめねばならない。「もっとはっきり申しましょう。私はあなたのおっしゃる仮定の場合については、どうこうとはいいません。ラウンスウェルさんがここに来たと知った時から、そのことは予期していましたし、それが間違いでないことは、あなたに劣らぬくらいわかっていました。もしあの人が私の正体を知ることができれば、私がちょっとの間でも、特にあの|娘《こ》に目をかけてかわいがってやったことが――たとえあの娘自身には罪がないとしても――きず[#「きず」に傍点]になったと考えることでしょう――それもよくわかっていました。でも私はあの娘に関心があるのです。いいえ――もうこの屋敷の者ではないのですから――『あった』というべきでしょう。ですから、あなたの前にもう完全に頭のあがらない女に対して、そのことを忘れない程度の思いやりをかけて下されば、あなたに恩を着ることでしょう」
タルキングホーン氏はじっとその言葉に聞き入りながら、どういたしましてというように肩をすくめるだけで相手にしない。そして彼の眉をいっそう寄せる。
「あなたは私の正体が発覚したことを、あらかじめ警告して下さいました。その点についてもお礼を申します。私に対して何か要求なさることがあるのですか? あなたの発見したことが正しいと承認すれば、私は何かの要求を受入れ、夫に汚名がかからぬようにすることができましょうか? あなたのおっしゃる通りのことをなんでも、今ここで書くつもりです。私はその気でおります」
弁護士は、奥方がペンをとり上げるしっかりした手つきをじっと見つめながら、本当にその気だな! と思う。
「奥方さま、そのようなことをなさるには及びません。どうかご安心を」
「私はとうの昔からこのことを覚悟していました。私は自分を安心させるつもりも、他人から安心させて貰うつもりもありません。あなたがこれまでなさったこと以上に、私がこわがり恐れるべきことはもはやないのです。どうかその先のことを、今やってしまって下さい」
「奥方さま、もうやることはございません。奥方さまのお言葉がお済みになりましたら、ご免をこうむって私にも少々いわせて頂きます」
もう二人が互いに見つめ合う必要はなくなったはずなのに、まだずっとそうし続けている。そして天の星が開いた窓から二人を見つめているのだ。月の光に照らされたずっとかなたに、静まり返った森が見え、広い屋敷内は狭い一軒家と同じようにしん[#「しん」に傍点]としている。狭い一軒家だって! この静かな夜に、タルキングホーンの胸の中にしまい込まれた、たくさんの秘密の袋に、最後の大きな秘密をつけ加えようと、誰かがどこかでせっせと|鋤《すき》をふるって穴を掘り返しているのか? もう穴掘り仕事は始められたのだろうか? 夏の夜、じっと見つめている天上の星の下で、こんなことを尋ねるのも奇妙な話だが、しかし尋ねないのはもっと奇妙ではないだろうか?
「悔恨の情とか、そういった私の感情についてのことでしたら」奥方はまもなく言葉を続ける。「私はひとこともいうことありません。かりにいうことがあるとしても、あなたには話しません。ですからその話はやめにしましょう。あなたにお話すべきことではありませんから」
彼は何か抗議を申込むようなふりをするが、奥方は軽蔑したように手を振って無視する。
「全然別のことについて話そうと思って来たのです。私の宝石類は全部しかるべき所定の場所にしまってあります。そこを探せば見つかります。私の衣裳類も同様です。私の貴重品類も同様です。現金も手もとにいくらかありましたが、たいした額ではありません。私は人目にたつのを避けるために、自分の着物を着ないで、今後は身を隠すために出てゆきました、と、そう皆に知らせて下さい。お願いすることはこれだけです」
「奥方さま、失礼でございますが」タルキングホーン氏がきわめて落ちつきはらった口調でいう。「おっしゃることがどうもよくわかりませんが。出てゆきました、ですと?――」
「ここにいる人々から身を隠すために、です。私は今夜チェスニー・ウォールドを出てゆきます。今すぐに」
タルキングホーン氏は首をふる。奥方は立ち上る。が、彼は椅子の背にかけた手も、古めかしいチョッキとシャツのひだ飾りに入れた手も動かすことなく、ただ首をふる。
「なんですって? 出ていってはいけない、というのですか?」
「いけません。奥方さま」ひどく静かな口調で彼は答える。
「私が姿を消した方が助かる人がいるということが、わからないのですか? このお屋敷の上につけられた汚点を忘れたのですか? 誰がつけられ、誰がつけたかを?」
「いけません、奥方さま。絶対にいけません」
奥方はそれに答えもせずに、内側のドアのところに歩み寄って手をかける。と、弁護士は手も足も動かさず、声を高めもせずにいう。
「奥方さま、どうかお待ちになって、私の申すことをお聞き下さい。そうしていただきませんと、奥方さまが階段をお下りにならぬうちに、私は非常の呼鈴を鳴らして屋敷じゅうの者を起しますぞ。そうなったら屋敷じゅうの者、お客さまや召使の一人一人の前で、真相を話さねばなりませんぞ」
彼の勝ちだ。奥方は一瞬ためらうと、ぶるっと身を震わせ、うろたえたように手を頭にやる。他人の目にはこれはささいな身振りに見えるだろうが、タルキングホーン氏のような練達の士の目から見れば、このような一瞬のためらいも、非常に重要なものであることがよくわかる。
彼は即座にもう一度たたみかけていう。「奥方さま、どうか私の申すことをお聞き下さい」それからいましがた立ち上った椅子の方へと手招きする。奥方はためらうが、彼がまたも手招きすると、椅子に腰を下ろす。
「奥方さまと私の間の関係はまことに遺憾なものではございますが、私がそうしたわけではありませんから、おわびは申し上げません。レスタさまに対する私のお役目がどういうものかは、奥方さまもよくご存知のことでしょうから、私がおっつけこれを発見するのも当然のことと、すでにお考えになっていらしたことでありましょう」
「私は」奥方はじっと床を見つめている目を上げもせずにいう。「出ていってしまった方がよかった。私を引きとめなければよかったのに。私はもう何もいうことがないのですから」
「失礼ですが、もう少し私の申すことを聞いて頂かねばなりません」
「それでは窓のところへいって聞きましょう。ここでは息がつまりそうです」
奥方が窓の方へ歩み寄るのをじろじろ見ていた彼は一瞬、奥方が飛び下りて、出張りやひさしにわが身をぶつけ、下のテラスに落ちて死ぬつもりではなかろうか、と心配したが、窓際に身をもたせもせずに、外の星――といっても頭上の星を見上げるのではなく、低い空の星を憂鬱な顔で見つめて立っている奥方をちらと見ると、安心する。窓際に進み寄る奥方を目で追いながら、彼は立ち上ってその少しうしろのところまで近寄る。
「奥方さま、これから私のとります態度について、自分にも満足のいく決心はまだついておりません。どうしたらよいのか、次にどうことを運ぶべきか、よくわかりません。ですから、しばらくの間は、これまで長い間なさってきた通りに、奥方さまの秘密を守って下さいますよう、また私もその秘密を守るつもりであるとお考え下さいますよう、お願い申さねばなりません」
彼は言葉をとぎらせるが、奥方は返事をしない。
「失礼でございますが、奥方さま、これは大事なことなのでございますよ。私の申しますことを、よくお聞きいただいておりましょうか?」
「ええ」
「有難うございます。奥方さまの精神力の強さはこれまで拝見しただけで、充分存じておりますから、こんなことお尋ねしなくても存じていたはずでありました。お尋ねするまでもないことでございましたが、私はいつも話を進めます際に、一歩一歩確かめていく癖がございますので。この不幸な事態で慎重に考えねばならぬ唯一つの点は、レスタさまのことでございます」
「ではそのために、私をこの屋敷に引きとめようとするのですか?」奥方は遠くの星をじっと眺めている憂鬱な|眼差《まなざし》を動かしもせずに、低い声で尋ねる。
「閣下のことを是が非でも考えねばならないからでございます。申し上げるまでもございませんが、レスタさまはたいそう誇り高いお方であります。閣下は絶対的に奥方を信頼しておられます。万が一奥方さまが、レスタ卿の奥方という高みくらから転落することでもありましたら、空からあの月が転落する以上に、閣下は茫然自失なさることでありましょう」
奥方は息づかいも荒く、しかし大勢のやんごとなき人々に囲まれている時と同じように、いささかもひるむ色を見せずに、立ちつくしている。
「奥方さま、はっきり申し上げますが、現在の事態以外の場合でございましたら、奥方さまがレスタ卿を動かす強い力、閣下の奥方さまに対する信頼をゆるがすくらいでしたら、私は私のこの力と手を用いまして、お屋敷いちばんの古木を根こそぎ引きぬいてしまいたいと思っております。ところがこの事態におきましては、現在でもためらっているのです。閣下が信用なさらないからではありません(それはいかに閣下といえども、あり得ぬことです)。どうしてそのショックの予告を閣下に与えたらいいか、わからないからです」
「私が姿をくらましてもですか? その点をもう一度考えて下さい」
「奥方さまが姿をくらませば、いっさいの真相、いや真相に百倍の尾ひれがついて、ひろまってしまいますぞ。そうなりましたら、お|家《いえ》の名誉を一日たりとも救うことはできますまい。とても考えられぬことです」
彼の答えは静かな口調のうちに断乎たるひびきがこもっていて、とうてい|反駁《はんばく》を許さぬものがある。
「私が慎重に考えねばならぬただ一つの点はレスタさまのことです、と申しましたが、閣下とお|家《いえ》の名誉は一つのものです。閣下と准男爵の爵位、閣下とチェスニー・ウォールド、閣下とご先祖さま、世襲財産とは」ここでタルキングホーン氏はひどくそっ気ない口調になる。「申すまでもありませんが、不可分のものです」
「それで?」
「それでありますから」タルキングホーン氏は例のぼそぼそした口調で続ける。「私はよくよく考えねばなりません。できるならばこの問題はもみ消さねばなりません。万一レスタさまが正気を失われたり、死の床におつきになるようなことがありましたら、どうしてそれがもみ消せましょうか? 万一明朝私が閣下にこのショックを加えるようなことをしましたならば、閣下の様子の急変をどう説明つけたらよろしいのでしょうか? 何が原因であんなことになったんだ? 何が原因であの二人の仲がさかれてしまったのだ? 壁の落書きや町の噂がすぐひろまりますぞ。そのために害をこうむるのは奥方さまひとりだけではなく(奥方さまのことは、この事件では全然度外視しております)、ご主人さま、ご主人さまなのですぞ」
話が進むにつれて彼の言葉はしだいに明快になってくるが、これっぱかりも熱っぽい興奮した口調になることはない。
「この問題にはもう一つの観点がございます」彼は続ける。「レスタさまは奥方さまを、溺愛と申してよろしいほどに愛しておられます。この真相をご存知になりましたとしても、その溺愛を抑えることはおできになりますまい。私は極端な場合を申しているのでございますが、たぶんその場合でもそうなることでございましょう。それならば、閣下は何もご存知ない方がよろしいのです。常識のためにも、閣下のためにも、私のためにも、その方がよろしいのです。私はこうした点をすべて考えに入れねばなりません。そうなりますと、なかなか決心を固めにくくなるわけであります」
奥方は立ったまま、ひとことも口をきかずに同じ星を見つめている。星はしだいに輝きが|失《う》せて来る。星の冷たさで奥方がこごえてしまったかのようだ。
「私の経験から教えられましたところによりますと」タルキングホーン氏はいまやポケットに手をつっこみ、まるで機械のように、ビジネスライクに問題を考えながら言葉を続ける。「私の経験から教えられましたところによりますと、奥方さま、私の存じております大多数のかたがたは、結婚に関係なさらねばよかったのです。その厄介ごとの四分の三は、結婚が原因となっているのですから。レスタ閣下が結婚なさった時にも、私はそう思いましたし、それ以来いつもそう思っておりました。その点についてはこれ以上申しますまい。今後私は状況に即して行動せねばなりません。ここしばらくの間は、奥方さま、秘密を守っていただかねばなりません。そうなさって下されば、私も秘密を守ります」
「私はこれから毎日毎日、今のままの生活をずるずると続けて、あなたのいうがままに、その苦痛に耐えていかなければならないのですか?」奥方はあい変らず遠くの空を見つめながら尋ねる。
「はい、遺憾ながら」
「私をこの|杭《くい》に縛りつけておくことが必要なのだ、とお考えなのですね?」
「私の申し上げましたことが絶対に必要かと存じます」
「これまで私が長いことなさけない偽りの演技を続けてきた、このけばけばしい舞台の上に立ち続けて、それからあなたの合図一つで、舞台がつぶれ落ちることになっているのですね?」
「奥方さま、その際には予告をいたします。警告を発しないでものごとを行なうことはいたしません」
奥方はまるで暗記してきたせりふをくり返すような、あるいは眠りながらしゃべっているような口調で、質問を続けるのである。
「私たち、これまで通りに顔を合わせなくてはいけないのですね?」
「どうぞ、完全にこれまで通りにお願いいたします」
「これまで何年も続けてきたように、私の罪を隠していかねばならないのですね?」
「これまで何年もお続けになったように、です。私の方からその点に触れるべきではなかったと思いますが、奥方さまの秘密は奥方さまにとって、これまでと全く同じなのです。以前に比べて楽にもつらくもなりません。その点はこの私[#「この私」に傍点]がはっきり存じております。でも私どもはこれまでお互いに、心から信頼し合ったことはございませんでしたね」
奥方はしばらくの間、あい変らず凍りついたような様子で立ちつくしているが、やがて尋ねる。
「今夜まだ他に話すことがありますか?」
「そうでございますね」タルキングホーン氏はそっと両手をこすり合わせながら、一分のすきもない口調で答える。「私のとり決めましたことに、はっきりご承知のご返事を頂きたく存じます」
「承知しました」
「結構でございます。では最後に、レスタさまとお話の際思い出して下さる必要がおありかもしれませんから、ビジネス上のご注意として申し上げておきますが、先刻もはっきりと申し上げました通り、私が考慮せねばならぬただ一つの点は、レスタさまの感情、面目、それからお家の名誉でございます。事態が許すのでしたら、奥方さまの名誉を第一に考えたいのはやまやまなのでございますが、遺憾ながら事態がそれを許しませぬ」
「あなたの忠誠心はよくわかっています」
奥方がそういう前にも後にも、あい変らず身動き一つしないが、やっと動きを見せると、生まれながらにそなわってもおり、またその後身にもつけた落ち着きを失うことなく、ドアの方に向って歩き出す。タルキングホーン氏は昨日と全く同じような、いや、十年前と全く同じような態度で、両方のドアを開けてやると、例の古めかしいお辞儀をして奥方を送り出す。その端正な顔が闇の中に消える前に彼に見せた一瞥は、いつもとは違っているし、彼のお辞儀に答える動作は、ほとんど動きといえないくらいのものではあるが、やはりいつもと違ったところがある。しかし、一人残された彼は頭の中で考える。あの女が自分を抑えていた意志の力は、なみなみならぬものがあるわい。
もし彼が、のけぞらせた顔から髪をおどろにふり乱し、頭の後に手を組んで、まるで苦痛に耐えかねたように身体をよじらせながら、自分の部屋の中を歩き廻っているこの女の姿を見たとしたならば、いっそうこの気持が強くなったことだろう。もし彼が、疲れも知らず、一刻も足を止めることなしに、何時間も何時間も足早に歩き廻っているこの女のあとから、彼女の忠実な足音が「幽霊の小道」に反響を響かせているさまを見たとしたら、いっそうその気持が強くなったことだろう。だが彼は、はや冷たくなった夜の空気を窓の外に閉め出し、カーテンを引くと、ベッドに入って寝てしまう。星が消えて弱々しい夜明けの光が小塔の部屋にさし込んで、彼の老いさらばえた寝顔を照らし出すと、その顔はまるで、穴掘り人と|鋤《すき》の用意はできた、もうじき仕事が始まるぞ、といっているみたいだ。
同じ弱々しい曙の光がさし込んで、悔恨の情にくれた英国を許してやっている、いかにも有難きしあわせの宏大無辺の夢を見ているレスタ閣下の寝顔を覗く。さまざまな公職につき、特に給料をちょうだいした夢を見ているいとこ[#「いとこ」に傍点]たちの寝顔を覗く。鍵盤の揃いすぎたピアノみたいに、ぞろっと総入れ歯で、バースでは昔から賞讃の|的《まと》、それ以外の場所ではどこでも恐怖の的であったすさまじき老将軍に五万ポンドの持参金を与えている、貞淑な処女ヴォラムニアの寝顔を覗く。また屋根裏部屋や、中庭に面した|厩《うまや》の上の小部屋にさし込むと、そこではしもじもの者がもっとつつましい幸福の夢、門番小屋の主となったり、ウィルやサリーとめでたく夫婦になる夢をみている。輝かしい朝日が昇り、それとともにいろいろなものが見えて来る――ウィルやサリーの仲間たち。地面にへばりつくように|這《は》う霧。しおれた葉や花。鳥や獣や爬虫類。露に濡れた芝生を掃き清め、芝刈りローラーを押して、その後にエメラルドのビロード布をひろげてゆく庭師たち。大きな台所の炉から輪を描きながら、まっすぐ高い空へと軽快に上っていく煙。そして最後に眠っていて気のつかないタルキングホーン氏の頭の上の方に旗が上って、レスタ卿ご夫妻がリンカンシア州の幸福なお屋敷に戻られた、お客さまを心から歓迎するぞ、と朗らかにあたりに告げている(1)。
[#改ページ]
第四十二章 タルキングホーン氏の事務室にて
デッドロック家の邸宅の緑色濃い起伏と、枝をひろげたオークの木から、タルキングホーン氏はロンドンのあじけない暑さと埃の中へと移る。この二つの場所を往き来する時の彼の態度というのが、彼の不可解な点の一つでもある。まるで事務所のすぐ隣りみたいなつもりで、チェスニー・ウォールドに出かけてゆくし、事務所に戻って来る時は、リンカン法曹学院の構内から一歩も外に出なかったような顔をしている。旅に出る前に服を着替えることもしなければ、帰ってからその話をするわけでもない。ちょうど今そうであるように、けさ例の小塔の部屋からふっと消えてしまったかと思うと、その日の夕方たそがれ時には自分の事務室に|忽然《こつぜん》と湧いてでる。
この法曹学院構内のたのしい草原では、羊は全部羊皮紙にされてしまうし、山羊は全部かつらにされてしまい、牧草はすべてもみがら[#「もみがら」に傍点](1)になってしまうが、そこに住む鳥の中でもひときわうすよごれたロンドン特有の鳥、といったふうに見えるのがこの弁護士で、なにしろ色はあせて煙でこんがり染まり、人間の中に住んではいるもののまじわりは持たず、心温まる青春時代を経験することなく年をとってしまい、長いこと人間性のくぼみやすみっこにひねこびた巣を作る癖がついてしまって、もっと広い快適な住む場所のあることを忘れてしまっているのだから。彼はぶらぶらと家路に向う途中、道路の熱い敷石と熱い建物で造られたかまどの中で、いつもよりいっそうからからに焼き上ってしまう。が、その渇ききった胸の中に、彼は五十年も年を経たポート・ワインを熟成させていたのだ。
街灯点火人夫が、タルキングホーン氏の事務所寄りで、梯子を上り下りしながら仕事をしているところへ、貴族の秘密に通じきったこの高僧が陰気な中庭にやって来て、入口の階段を上って、うす暗い玄関の中へすっと入り込もうとする。と、その一番上の階段のところで、いつもぺこぺこお辞儀をして相手の機嫌ばかりとっている小男に出会う。
「スナグズビーか?」
「はい、さようで。先生お元気で? わたくしはもう今晩はお留守とあきらめて、帰りかけていたところでございます」
「おや、そうかね。どうしたんだ? 何の用だね?」
「さようでございます、はい」スナグズビーは自分の最上のお得意さまに対する敬意をこめて、頭の横っちょに帽子をのせる。「ちょっとお話したいことがございまして」
「ここでいって貰えるかね?」
「もちろんでございます」
「じゃあ、いって貰おう」弁護士は向き直ると、階段の一番上の鉄の手すりに両腕をもたせかけ、中庭の街灯に火をつけている人夫を見つめる。
「実はその」スナグズビー氏は謎めかした低い声でいう。「実はその――ありていに申しますと――ある外人に関することなのですが」
タルキングホーン氏はびっくりして相手を見る。「どこの外人だ?」
「外人の女でございます。わたくしの間違いでございませんでしたら、フランス人だと思いますが。わたくしはフランス語は存じませんが、あの様子や態度からフランス人ではないかと思いまして。とにかく、外人であることは間違いありません。あの晩バケット警部とわたくしとが、道路掃除の子供と一緒に先生のお宅にお邪魔いたしました時に、二階の部屋にいたあの女でございます」
「ああ、わかった、わかった! マドモアゼル・オルタンスだ」
「そうでございますか?」スナグズビー氏は帽子の蔭で、ごもっともで、というように咳をする。「わたくしは一般の外人の名前はよく存じませんが、確かにそのような名前だったと思います」スナグズビー氏はその女の名前を自分で発音しようという無謀な計画をめぐらしかけたらしいが、考え直すとまた咳をしてご免をこうむることにする。
「それで、スナグズビー君」タルキングホーン氏が尋ねる。「彼女がどうしたというのかね?」
「それが、でございます」文具商は口を帽子で隠しながら答える。「いささか困ったことなのでございます。わたくしの家庭の幸福は申し分ないもので――少なくともまあまあというところで――ございますが、わたくしの家内といいますのがいささかやきもち[#「やきもち」に傍点]焼きでございまして。ありていに申しますると、たいへんなやきもち[#「やきもち」に傍点]焼きでございまして。でございますから、あんな上品ななりをしました外人の女が店にやって来て、うろつき廻られますと――わたくしはできますれば露骨ないい方はしたくないのでございますが――その、小路をうろつき廻られますと――何でございます――おわかりいただけますでしょう? それは先生のせいだとしか考えられませんので、はい」
スナグズビー氏は泣くがごとく怨むがごとくの口調でいい終ると、言葉の途切れたところは、何にでも使える便利な咳で代用する。
「何だって、そりゃどういう意味だ?」タルキングホーン氏が尋ねる。
「さようでございます。先生もきっとそういうお気持になられるだろうと思いますし、わたくしの家内の有名な|悋気《りんき》を考えあわせますれば、わたくしの気持がそうなるのももっともだと、お許し頂けるかと思うのでございます。その例の外人の女――先生はその名前をまるでフランス人そっくりに発音なさいましたが――は、ひどく頭がよく切れる女でして、あの晩スナグズビーという名前を聞き知りまして、誰かに尋ねて道を教えて貰いましたらしく、晩飯どきにやって参りました。わたくしのところにおります若い女中のガスタは臆病ですぐ卒倒するんでございますが、それがその外人の顔――それがまたすごいんでございまして――と、歯ぎしりしますような発音――これも臆病者をおどかそうとわざとやったのでございまして――におびえてしまいまして、さっそく卒倒してしまいまして、台所の階段からころげ落ちまして、わたくしの家でしか見られないような猛烈なひきつけ[#「ひきつけ」に傍点]を起してしまいました。というわけでございまして、家内は運よく介抱にかかりっきりということになりましたので、お客に応対するのはわたくし一人しかおりません。その女の申しまするには、タルキングホーン先生のところへいくと、いつも親方(といいますのは、きっと書記のことを外人はそう思うらしいですな)に断られるので、ここに入れて貰えるまで、しょっちゅう来るつもりだ、というんでして。それからというもの女は、先程も申しましたように、うろつき廻るんでございます――年がら年じゅう小路をうろつき廻っているんでございます」スナグズビー氏は情けないような口調で繰返す。「その結果がどうなりますやら、わかったものではございません。もしかしますとすでに近所の人々の間にとんでもない誤解を生んでいるかもしれませんし、家内については申すまでもございません(わかりきったことでございます)。しかし神に誓って申し上げますが」スナグズビー氏は頭をふりながらいう。「わたくしは外人の女なんてさっぱり存じません。以前なら|箒《ほうき》の束と赤ん坊、今はタンブリンとイアリング(2)に関係があるくらいのことしか存じません。本当です。絶対に存じません!」
タルキングホーン氏はこの訴えにじっと聞き入っていたが、文具商の言葉が終ると、尋ねる。「で、スナグズビー君、それだけかね?」
「はい、これだけでございます」スナグズビー氏はこういうと、咳と一緒にもう一つおまけをつける。「これだけでもうたくさんでございますよ――わたくしは」
「わしにはマドモワゼル・オルタンスが何を望んでいるのか、何のつもりなのか、さっぱりわからん。まさか気が違っているのでもあるまいが」と、弁護士はいう。
「かりに気が違っているのだとしましても、わたくしの家族に外国の短刀でも突きつけられでもしましたら、たまったものではございません」
「それはそうだ。よろしい! やめさせよう。君に迷惑をかけてすまん。今度やって来たら、わしのところへよこしてくれ」
スナグズビー氏はほっとすると、ぺこぺこお辞儀をして、いい訳がましく咳をしながら帰っていく。タルキングホーン氏は二階へゆきながらひとりごとをいう。「まったく女という人種は世界じゅうに迷惑を及ぼすために生まれて来たのだなあ。奥方だけでは足りなくて、今度は小間使いか! だが、少なくともこっちの女の方は、てっとり早くかたづけてやるぞ!」
そういいながらドアの錠を開けて、手さぐりしながらかびくさい部屋に入ると、ろうそくに火をともして、あたりを見廻す。暗すぎて天井の寓意画はあまりよく見えないが、あのいつも雲からよろめき出て、指差している出しゃばり者のローマ人は、かなりはっきり見える。タルキングホーン氏はそれにはあまり目を留めずに、ポケットから鍵を出して引出しを開けると、その中にもう一つの鍵が入っていて、それで手箱を開けると、その中にまた鍵が入っている。という具合にして地下室の鍵が出て来て、それを持って古いワインの貯蔵庫へ下りてゆこうとして、燭台を手にドアの方に向いかけた時、ノックの音がする。
「おや、誰だ?――ああ、お嬢さん、あなたですか? いい時に来てくれました。あなたのことをいま聞いたばかりなのですよ。さて、何の用ですか?」
このような歓迎の辞をマドモアゼル・オルタンスに述べながら、彼は燭台を書記部屋の煖炉の棚の上に置き、かさかさの頬を鍵で叩く。猫のような女性は唇をきゅっと結び、横目で相手をじろりと見ながら、そっとドアを閉めてから答える。
「先生を見つけ出すのに、ずいぶん手間がかかりましたよ」
「へえ[#「へえ」に傍点]、そうですか?」
「ここへ何度も足を運んだのです。いつもいつも、お留守だとか、仕事中だとか、ああだとか、こうだとか、お会いできないとかいわれました」
「そう、その通りだったのです」
「そうじゃないわ。嘘よっ!」ときどきマドモアゼル・オルタンスは、突然ぱっと相手に飛びかかろうとするような身ぶりをするもので、その相手が思わずはっとして、あとずさりすることがある。今はタルキングホーン氏がその相手となったわけだが、マドモアゼル・オルタンスは目を半眼に開いて(しかし、あい変らず横目で見つめながら)、ただあざけり笑いを浮べながら、頭をふっているだけである。
「さて、お嬢さん」弁護士は鍵でせかせかと煖炉の棚を叩きながらいう。「何かいうことがあったら、さっさといって下さい」
「先生はあたしをひどくあしらいましたね。あなたはきたない、けちだ」
「きたない、けち、ですと?」弁護士は鍵で鼻をなでながらおうむ返しにいう。
「そうよ。そういったのよ。自分でもわかっているでしょ? あたしをわなにかけて――うまくひっかけて――話を聞き出したんだもの。あの晩奥さまが着ていたはずのあたしの着物を見せてくれって頼んだ。あの子供に会いにここに来てくれって、あたしに頼んだ――そうでしょ? そうじゃないの?」マドモアゼル・オルタンスはまたも飛びかからんとするみたいな気配を見せる。
「こいつは古狐だ。こすっからい女だ!」タルキングホーン氏はうさんくさそうに女を見つめながら、心の中でこう思っているらしい。それから口を開いて答える。「なるほど、なるほど。しかしお礼は払いましたよ」
「お礼を払ったですって!」軽蔑をむき出しにして、彼女が叫ぶ。「たった二ポンドぽっち! まだくずさないで持ってるわ。あんなものいるもんか。ばかばかしい。叩き返してやるわ!」彼女はその通りにする。そういいざまふところからお金をとり出して、猛烈な勢いで床に叩きつけるものだから、はね返ってきらっと光ってから、部屋の隅の方へ転がってゆき、くるくる廻ってからゆっくり倒れる。
「さあどうだ!」マドモアゼル・オルタンスは、ふたたびその大きな目に険悪な色を浮べながらいう。「これでもお礼を払ったというの? ええ、全く、たいしたお礼だわ!」
彼女がせせら笑っている間、タルキングホーン氏は鍵で鼻をなでている。
「お金をあんなふうに投げ出すところを見ると」彼は落ち着きはらった口調でいう。「お嬢さんはたいしたお金持ですな!」
「大金持よ。憎しみの方もどっさり持ってるのよ。あたしは奥さんを、心の底の底から憎んでいるのよ。わかってるでしょ?」
「わかっているかって? どうしてわしにわかるはずがあるのかね?」
「私に話を聞かせてくれって頼む前から、お前はちゃんと知ってたからよ。あたしがフ、フ、フ、フ、フンヌ(憤怒)の炎に燃えているってこと、お前はちゃんと知ってたからよ!」両手でこぶしを固め、歯をくいしばって、猛烈な勢いでこのむずかしい単語を発音しようとするのだが、どうやらマドモアゼルには無理らしい。
「へえ、私が知っていたと?」タルキングホーン氏はいうと、鍵の切り込みをじっと見つめている。
「そうよ、きまってるわ。あたしはめくらじゃないんだからね。お前はそれを知ってたから、あたしを呼んで確かめたのさ。お前の思ってた通りさ! あたしは奥さんが大嫌い」マドモアゼルは腕組みすると、最後のせりふを肩越しに彼に投げつける。
「マドモアゼル、これだけいって、まだほかにもいうことがあるのですか?」
「あたしはまだ職なしよ。いい職を見つけてちょうだい。いい口を世話してちょうだい! それができないなら、それともする気がないんなら、あの女のあとをつけて、尾行して、顔に泥をぬって、辱しめる役にあたしを雇ってちょうだい。あたしならとても役に立つわよ。それに喜んで引きうけるわ。それがあんた[#「あんた」に傍点]のもくろみでしょ? あたしにはちゃんとわかってるんだから」
「あなたはいろいろたくさんご存知のようだな」
「あたりまえでしょ。あたしがあの着物を着てここであの男の子に会うのが、ただの賭けの決着をつけるためだなんて、子供じゃあるまいし、それをまともに信ずるほどばかだと思っておいでなのですか?――笑わせちゃいけないよ、ほんとに!」この返事のなかで、「おいでなのですか」というところまでは、わざと皮肉に丁寧で穏やかな口調を使っていた。ところが、そこで突然、この上もなく痛烈でけんか腰の口調に変り、黒い目がほとんど完全に閉じたかと思うと、そのとたんぎょろっと大きくむき出しになるのだ。
「さて、そこで、と」タルキングホーン氏は鍵で|顎《あご》を叩きながら、平然とした態度で彼女を見つめている。「事態を検討してみることにしますか」
「ええ、いいわ」マドモアゼルは怒ったように何度もこっくりうなずく。
「あなたはいましがた述べられたような、ささやかな要求をしにここにおいでになった。そしてその要求がいれられなければ、またもう一度やってくるでしょうな?」
「もう一度でも、二度でも、三度でも」マドモアゼルはさらに怒ったように、何度もこっくりする。「何度でも来るわ。つまり、いつまででも、よ!」
「そして、ここだけではなく、スナグズビー氏の店にもいくつもりでしょうな? それもだめでしたら、またもう一度いくのでしょうな?」
「もう一度でも、二度でも、三度でも」病的なくらい強硬な口調で、マドモアゼルが繰り返す。「何度でもいってやるわ。つまり、いつまででも、よ!」
「よろしい。さて、マドモアゼル・オルタンス、あなたにご忠告申し上げるが、燭台をとり上げてあなたのお金を拾いなさい。あそこの隅の書記だまりの仕切りの向うにあると思いますから」
彼女はただ肩越しにせせら笑うだけで、腕組みしたまま立っている。
「拾わないのですか?」
「いやっ!」
「それだけあんたは貧乏になり、それだけ私が金持になるわけです! ご覧、お嬢さん。これは私の酒蔵の鍵だ。大きな鍵です。しかし監獄の鍵はもっと大きいですぞ。当市にはたくさんの監獄があって(そこには婦人用の踏み車(3)があります)、その門は頑丈で重い。もちろん鍵もそうです。あなたのように元気で活溌なご婦人は、一定期間その鍵で閉じ込められると不便を感じられるのではないかと思います。どうお思いですかな?」
「あんたは哀れなろくでなしだと思うわよ」マドモアゼルはじっとしたまま、はっきりとした思いやりのある声で答える。
「そうかもしれませんな」タルキングホーン氏は静かに鼻をかむ。「しかし、この私のことをどう思うかと、きいているのではありません。監獄のことをどう思うかと、きいているのです」
「何とも思わないわ。それがあたしに何の関係あるの?」
「いや、大いに関係ありますぞ、お嬢さん」弁護士はゆっくりとハンケチをしまって、ひだ飾りを整えながらいう。「わが国にはきわめて横暴な法律がありまして、善良なるイギリス市民が、たとえご婦人の客であっても、他人から本人の意に反して迷惑をこうむった場合には、介入してそれを禁ずるのです。そして迷惑だという申し立てがあった場合には、法はその迷惑を及ぼした婦人をとりおさえ、厳しい規則の監獄に拘留するのです。鍵で閉じこめるのですぞ」といいながら、地下室の鍵を見せびらかす。
「おや、本当ですか?」マドモアゼルはあい変らず朗らかな声でいう。「まあ、笑わせるわねえ!――でも一体全体――それがあたしに何の関係あるの?」
「お嬢さん、ここか、あるいはスナグズビーの店にまた来てごらんなさい。そうしたら教えてあげます」
「その時にはこのあたしを監獄に送ろうというわけ?」
「おそらくね」
マドモアゼルが片方で陽気にふざけた様子を見せながら、一方で口に泡を吹くというのは矛盾している、と考える人もいるかもしれない。だが彼女の口のあたりが虎のように開かれるのを見ると、もう少し開くと泡を吹くのではないか、という気になって来るのだ。
「簡単に申せばですな、お嬢さん、無礼をして申訳ないとは思うのですが、もしあなたが招かれもせぬのに、ここ――またはあそこ――に二度とふたたび足踏みをなさると、わしはあなたを警察に突き出します。警察はご婦人に対してははなはだいんぎん丁重でありますが、不心得者を街頭連行する際は体裁のよくない方法をとります。つまり板に縛りつけるわけです」
「いまに見ていろ」マドモアゼルは手をさし伸べながら小声でささやく。「そんな生意気な真似ができるかどうか」
「そしてもし私が」彼は相手にせずに言葉を続ける。「あなたに監獄拘留といういい職を見つけてあげた場合には、ふたたび自由になるまでにかなり時間がかかりますぞ」
「いまに見ていろ」マドモアゼルはまた先刻のささやきを繰り返す。
「さあ、もう帰った方がいいです」あい変らず相手にしない態度で、弁護士は続ける。「こんどここに来るなら、二、三度よく考えてから来なさい」
「あんたこそ、二、三百回考えた方がいいわよ」
「あなたは奥方さまから」入口の階段のところまで女を送り出しながら、タルキングホーン氏がいう。「どうしようもないほどわがままで、強情だということで暇を出されたのですよ。さあ、今から心を入れかえて、私のいったことをよくお聞きなさい。私のいったことは、本気ですぞ。私はやるといったら、本当にやるつもりですからね」
女は一言も返事せず、ふり返りもせずに階段を下りてゆく。女がいってしまうと、彼も地下室へ下りていき、くもの巣だらけの酒罎を持って戻って来ると、ゆっくりとその中身を楽しむ。ときどき椅子に坐ったまま頭をのけぞらせて、しつこく天井から指さし続けているローマ人をちらと眺めながら。
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第四十三章 エスタの物語
これから先ずっと私のことは死んだと思っておくれ、といった生きている母について、私がどんなに思っていたかは、今となってはどうでもよいことです。私の母が置かれている立場がどんなに危険であるかを考え、また私のせいでその危険がさらにつのるのではないかと気づかいますと、私はとても母に近づいたり、文通をしたりする気になれなかったのです。私自身が生きてこの世にいるということだけでも、母にとって目に見えない危険な障害となることはわかっていましたので、私は自分がはじめてあの秘密を知った時に襲われた、自分に対する恐れにうち勝つことができませんでした。母の名を口にすることは、恐ろしくてとてもできません。その名を耳にすることさえ、こわいような気がしたのです。当然よく起ったことですが、私がいる席で話がそちらの方へ向いそうになると、私は一所懸命聞くまいと努めました――心の中で数をかぞえたり、自分の知っている言葉を繰り返したり、部屋から出ていったりしました。今になって気がつくのですが、母が話題になりそうなおそれが全然ないのに、私がそんなことをしたことがよくありました。それは私が聞いたふとしたことから、母の正体がわかってしまったり、また私のせいで表沙汰になったらたいへんだと思ったからなのです。
私が何度となく母の声音を思い出したこと、私の切なる望み通りにもう一度それを耳にすることがあるかどうかと考えたこと、母の声が私にとってそんなにも耳新しいのが、へんにうら淋しく感じられたりしたこと、こんなことは今となってはどうでもよいことです。母の名が一般の人の口に上るのにいつも気をつけていたこと、ロンドンの母の屋敷の玄関の前を何度もゆきつ戻りつしながら、立ち去りたくはないが目を向けるのもこわい気持になったこと、一度などは劇場へいった晩、母がいて私の姿をじっと見ていましたのに、お互いに遠く離れて、いろいろな身分の人々の面前だったために、私たち二人がいささかもかかわりを持ち、心を通わせ合うなんて夢のようにしか思えなかった折があったこと、それも今となってはどうでもよいことです。みんな、みんな済んでしまったことですから、そこのところは飛ばして先へ進みましょう。たいそう幸運にも、私に関係したことで、他のかたがたのご親切の話をしないで済ませるところはほとんどありませんから。
私たちが家に戻ってから、エイダと私とはリチャードのことについて、ジャーンディスさんと何度も話し合いました。エイダは彼が親切な従兄に対してあんなひどい仕打ちをしたことで、ひどく悲しんではいましたが、リチャードへのまごころには変りないので、そんなことがあっても彼を咎める気にはなれないのでした。ジャーンディスさんもそのことをよくご存知でしたから、決して彼の名前を叱責の言葉とともに口になさることはありませんでした。「ねえ、リックは考え違いをしているのさ」そうエイダにおっしゃるのです。「私たちだって、これまで何度も何度も考え違いをしたことがあるからね。君と時とに任せて、彼の間違いを正してもらわなくてはいけないね」
私たちはあとになって知ったのですが、やっぱりそうではないかと思っていた通りだったのです。ジャーンディスさんは時に任せるとおっしゃいましたが、実はその前にリチャードの目を開かせようと、何度も努力なさった上のことでした。彼に手紙を書き、訪問をし、話し合い、あの方のご親切でできる限りの穏やかな説得の限りをおつくしになった上でのお言葉だったのです。ところがかわいそうなリチャードは、これだけ思いやりを掛けられても、いっさい耳をかそうとしなかったのです。もし僕が間違っているというなら、裁判のけりがついてから間違いを直しましょう。もし僕が暗中で手さぐりしているというのなら、こんなに多くの混乱と暗黒をもたらした黒雲を吹き払うために、全力をつくすのが一番いいはずじゃありませんか。疑惑と誤解が生まれたのは訴訟のせいですって? それならその訴訟をかたづけて、みごとに正解に達しようじゃありませんか。リチャードはいつもこんなふうに答えるだけだったのです。ジャーンディス対ジャーンディスの訴訟事件が、彼の性格をすっかりとりこ[#「とりこ」に傍点]にしてしまいましたので、どんな見解を彼に示しても、かならず彼は――へ理屈をこねて――自分のやっていることを都合よく解釈してしまうのでした。「それだから、あのかわいそうな男に説教するのは、勝手に放っておくよりもっと有害無益なのだよ」と、ジャーンディスさんはある時私におっしゃいました。
こういったことが起ったある時、私はスキムポールさんははたしてリチャードのよい助言者といえるでしょうか、と疑いの気持を述べたことがあります。
「助言者だって!」ジャーンディスさんは笑いながらお答えになって、「じょうだんいってはいけない。どこにスキムポールの助言を聞く人間があるものかね?」
「では、激励者と申した方がよろしいでしょうか」
「激励者だって? どこにスキムポールから激励される人間がいるものかね?」
「リチャードでもですか?」
「もちろんだとも。あんな世間知らずで、無欲で、ふわふわしている人間は、リチャードにとって息抜きか、気晴らしにはなる。でも、助言者とか激励者とか、|何人《なんぴと》か何物かに対して真剣な立場をとる人間になるなんて、スキムポールみたいな子供には考えられないことだよ」
「おじさま、教えて下さいな」エイダが私たちのところへやって来ると、私の肩越しに顔を出していいました。「どうしてあの人はあんな子供になってしまったのですか?」
「どうしてあんな子供になってしまったか、だって?」ジャーンディスさんは少々困ってしまったように、頭をかきました。
「ええ、そうですわ」
「そうだねえ」ジャーンディスさんはゆっくりお答えになりながら、ますます頭を乱暴にかきました。「あの男は全身これ感情だらけ――感受性だらけ――情緒だらけ――それから想像力だらけで、こういった性質がどうしたわけか、きちんと整えられていないんだ。きっと若い頃彼のこうした性質をほめそやした人たちが、それをあまり重く見すぎて、それを調整してバランスを与えるべき訓練をかろんじすぎたのだろう。そこで今日のような彼になってしまったのだ。ねえ?」ジャーンディスさんはだしぬけに言葉を切ると、私たちの方をそうだろう? というようにご覧になりました。「君たちはどう思うかね?」
エイダはちらと私の方を見てから、でもあの人のためにリチャードの出費がかさむのは困りますわ、といいました。
「それはそうだ。その通りだね」ジャーンディスさんは口早に、「それはいけない。何とかしなくては。やめさせなくては。それはいかん」
私はあの人がリチャードをヴォールズ弁護士に紹介して、五ポンドのお礼をもらったのは困ったことですわ、と申しました。
「えっ、そんなことしたのかい?」ジャーンディスさんの顔に一瞬不快の色がさっと浮びました。「でもね、そういう男なのだよ。そういう人間なんだよ! 彼には金銭ずくなんていうところはまるでないのだ。金の値打ちが全然わからないのだからね。彼はリックを紹介する。それからヴォールズ弁護士と仲よしだ。だから五ポンド借金する。それでどうしようというつもりもないし、どうとも思っていないんだよ。あの男は自分でもきっとそういっていただろう?」
「ええ、その通りですわ!」私が答えました。
「そらご覧!」ジャーンディスさんははればれとした顔で、おっしゃいました。「そういう男なんだよ! もしなんらかの悪気があるとか、悪気に気がついていたとしたら、絶対そんなこといいはしないものね。あの男は全く単純に、自分のやることをありのままにいってしまうのだ。でも自分の家にいる時の彼を見てやってくれれば、もっとよく理解してもらえるだろう。皆でハロルド・スキムポールを訪ねていって、それでこの点について注意してやることにしよう。本当に全く、子供で、困ったものだ!」
そこで私たちはある日朝早くこの計画を実行に移すことにして、スキムポールさんの家の玄関先にやって来ました。
彼はサマーズ・タウンのポリゴンという名の家に住んでいました。そこには当時貧しいスペインからの亡命者(1)が大勢住んでいて、マントを着て紙巻たばこをふかしながら歩き廻っていたものです。いつも結局最後には友人の誰かさん[#「誰かさん」に傍点]が家賃を払ってくれるのですから、案外スキムポールさんはいい借家人だったわけなのか、それともビジネスのこととなるとまるで無能なので、追い出すのが特にむずかしかったためなのか、どちらか私は知りませんが、彼は同じ家をもう数年来借りて住んでいました。思っていた通りひどいあばら屋でした。地下の勝手口へ下りる外の階段の手すりは二、三カ所なくなっていましたし、天水桶はこわれていましたし、ノッカーはぐらぐらになっていましたし、呼鈴の引き手はもうだいぶ前から切れっぱなしになっているらしく、針金がさびついていました。玄関の階段にきたない足跡がついているので、やっと人が住んでいるらしいとわかった次第です。
私たちのノックに答えて出て来たのはだらしないなりをした肥った小娘で、まるで|熟《う》れすぎたいちごみたいで、着物の破れ目と靴の裂け目から、いまにもはち切れそうでした。彼女はほんの少しドアを開けると、その間に身体を割り込ませるのでした。ジャーンディスさんは顔なじみ(エイダも私も考えたのですが、どうやらジャーンディスさんの顔を見ると、お給料がもらえると思い出すらしいのです)なので、すぐ顔をやわらげると私たちを通してくれました。ドアの錠はこわれていましたので、これもうまく動かない鎖で一所懸命なんとか締めると、どうぞお二階へ、と案内してくれました。
私たちは二階へ上っていきましたが、あい変らず家具といったらきたならしい足跡だけです。ジャーンディスさんが遠慮なくどんどん部屋にお入りになりますので、私たちもあとに続きました。うすぎたない部屋で、まるで掃除もしてありませんでしたが、見すぼらしいながらも贅沢品らしい、妙な具合の家具が置いてありました。大きな一本脚の椅子、クッションがたくさんのっているソファーに、枕がいっぱいのっている安楽椅子、ピアノ、本が数冊、絵をかく道具、楽譜、新聞、それからいくつかの絵とスケッチ類でした。うすよごれた窓ガラスの一枚が破れていて、そこには紙が|封緘《ふうかん》シールで貼りつけてありました。ところがテーブルの上には温室作りの桃をのせた皿があり、別の皿にはぶどうが、もう一つの皿にはスポンジ・ケーキが盛ってあり、弱いぶどう酒のびんもありました。当のスキムポールさんは化粧着を着てソファーに寝ころび、古い陶器の茶碗から香りのいいコーヒー――正午近くでしたのに――を飲みながら、バルコニーに置いてある|においあらせいとう《ウオー・フラワー》の鉢植えを見ているところでした。
彼は私たちの姿を見ても少しも驚かず、立ち上っていつものように陽気に私たちを迎えてくれました。
「そら、ご覧ください!」大部分の椅子はこわれているので、少々無理をしながら私たちが腰を下ろすと、彼はいいました。「そら、ご覧ください! これが僕のつつましい朝食です。朝食に|牛肉《ビーフ》と|羊肉《マトン》の脚を食べたいという人間もいますが、僕は違いますな。僕に桃とコーヒーと赤ぶどう酒をくれたまえ。それで僕は満足です。何もそれが食べたいというんじゃないんです。ただそれを見ると太陽を思い出しますからな。|牛肉《ビーフ》と|羊肉《マトン》の脚には太陽を思い出させるものは何にもありません。あれはただの動物的満足にすぎません!」
「ここがわが友の診察室(もしも医者になれればそうしたいというわけです)兼私室兼書斎です」ジャーンディスさんが私たちに説明なさいました。
「その通り」スキムポールさんは明るい顔であたりを見廻しながら、「ここは鳥籠です。鳥が住み歌をうたうところ。ときどき羽毛をむしられたり、翼を切られたりはしますが、でもやっぱり歌をうたうのです!」
彼は私たちにぶどうを渡してくれながら、いつもの陽気な口調で繰り返しました。「歌をうたうのです! たいして自慢できるほどの歌ではありませんが、やっぱりうたうのですよ」
「これはすばらしいぶどうだねえ」ジャーンディスさんがいわれました。「誰かの贈り物かい?」
「いいや、違うんだ! どこかの愛想のいい農園で売っているんだ。そこの配達係が昨晩届けに来た時に、お待ちしてお代を今いただいていきましょうか、というもんだから、僕はこういってやった。『いや、君、やめた方がいいと思うよ――もし君の時間が少しでも大事ならね』きっと大事だったんだろう。帰っていっちゃったからね」
ジャーンディスさんは笑いながら私たちの方をご覧になりました。まるで、「この赤ん坊に世なれた知恵なんか出ると思うかね?」と尋ねているみたいでした。
「今日こそわが家にとって」スキムポールさんはうきうきと赤ぶどう酒を少しコップに注ぎながら、「永久に記念すべき日となるでしょう。聖クレアの日と聖サマソンの日と呼びましょう。ぜひうちの娘たちに会って下さい。青い目の娘は『美』の娘で、もう一人は『感情』の娘で、もう一人は『喜劇』の娘です。皆にぜひ会って下さい。きっと大喜びしますよ」
彼が娘を呼ぼうとしますと、ジャーンディスさんがちょっと待ってくれ、その前にまず話がある、と口をはさみました。「いいとも」スキムポールさんは元気よく答えました。「ちょっとでもたんとでも、お望み通りにしてくれたまえ。ここでは時間なんか問題じゃないんだ。何時だか知りもしないし、気にもしないのさ。世渡りするにゃそれじゃ駄目だ、といいたいんだろう? その通りさ。しかし僕の一家は世渡りなんかしやしないのさ。誰もやるなんていっちゃいないよ」
ジャーンディスさんはまた私たちの方をご覧になると、「ほら、聞いたかい?」とはっきりおっしゃいました。それから、
「さて、ハロルド、僕の話というのはリックのことなんだがね」
「ああ、僕の第一の親友のことだね!」スキムポールさんは心から愉快そうに、「彼は君と仲たがいしているのだから、僕の第一の親友なんかになっちゃいけないのかもしれないが、でもやっぱり親友なんだ。仕方がないんだよ。何しろ若々しい詩情にみちあふれた青年だから、僕は彼が好きなんだ。君にそれが気に入らないとしても、仕方ないんだよ。僕は彼が好きなんだから」
こうはっきり口に出していう時の彼の態度はひどく率直で魅力的で、胸にいちもつ[#「いちもつ」に傍点]あろうとは全然思えそうにありませんでしたので、ジャーンディスさんはそれを聞いてすっかり感激してしまいました。もっともその時エイダは同じ気持になれない様子でしたが。
「リックをいくら好きになってもそりゃ君のご随意だけど」ジャーンディスさんがお答えになりました。「しかし僕たちは彼の財布を救ってやらなきゃいけないからねえ」
「え、彼の財布だって? いや、その話になると僕にはわけがわからなくなる」また少し赤ぶどう酒を注ぐとその中にケーキをひときれ|浸《ひた》し、頭を振りながらエイダと私に向って笑いかけましたが、まるでそのさまは、僕にわけをわからせようとしても駄目ですよ、とあからさまに警告しているみたいでした。
「君がリックとあちこちに出かける時には」ジャーンディスさんもはっきりとおっしゃいました。「彼に二人分金を払わしちゃいけないよ」
「ジャーンディス君」スキムポールさんはそんなこと考えただけでも滑稽だ、とでもいうように人のよさそうな顔を輝かせながら、「僕はいったいどうしたらいいんだ? リックが僕をあちこちへ連れていく時には、僕はついていかなくちゃならん。それで僕に金がどうやって払えるのだ? 僕は一文も持っていない。かりに僕が金を持っていたとしても、使い方を全然知らないんだぜ。かりに僕が相手に、いくらだ? といって、向うが、七シリング六ペンスです、といったとする。僕は七シリング六ペンスってなんのことか全然わからないんだ。相手の男のことをちょっとでも考えてやったら、これ以上話を続けることはできないね。忙しい人を相手に七シリング六ペンスをムーア語にするとなんていうんですか? なんてきいて廻るわけにゃいかんし――第一僕自身なんのことかわからないんだからねえ。だから、七シリング六ペンスをお金にするとどれだけですか? なんてきいて廻るわけにゃいかんだろう?――第一僕自身なんのことかわからないんだから」
このおよそ無邪気な答えを聞いて、ジャーンディスさんは少しも腹を立てた様子もなく、「今度君がリックといっしょに出かける時にはね、金を僕から借りて(そのことについてはひとこともいわずに)金勘定は彼にまかせたまえ」
「ジャーンディス君、君の喜ぶことなら僕は何でもやるつもりだけれど、どうもそれはむだ手間――迷信みたいなものじゃないかね? その上、クレアさんとサマソンさんのお二人に誓って申し上げますが、僕はカーストン君が大金持なんだと思っていたのですよ。あの人は何かをちょっと譲るか、債券か手形か小切手か株券にサインをするか、どこかの書類の束に何かをくっつけるかすれば、すぐ金がざあっと降って来るんだと思っていたのですよ」
「それは全く違いますわ」エイダがいいました。「あの人は貧乏なのです」
「えっ、まさか」スキムポールさんは朗らかに笑いながら、「こりゃ意外ですねえ」
「それに腐れ|葦《あし》(2)を頼りにしたって、余計に金持になるわけないんだから」ジャーンディスさんはこういいながら、スキムポールさんの化粧着の袖をしっかりと掴みました。「ハロルド、それを頼りにしろなどと彼を焚きつけないよう、気をつけてくれたまえよ」
「君、それからサマソンさんとクレアさん、僕にそんなことできるわけないじゃありませんか? それはビジネスだし、僕にはビジネスはわからないんですから。むしろ彼の方が僕を焚きつけるのですよ。彼がビジネスの大偉業をなしとげると、僕に向ってその結果前途は輝かしいばら色だと説明し、それに感服してくれと頼むのです。ですから僕は感服します――前途は輝かしいばら色だと。でも、僕には何にもわからないんだし、彼にもそういっているんですよ」
スキムポールさんがこう私たちに説明する際の頼りないくらい率直な態度、自分は何もしてはいないのだとおもしろそうにいう際のうきうきした態度、自分で自分を弁護する際の何とも奇妙な理屈などは、この人の何を話す時でも見られる自然な態度とあいまって、まさにジャーンディスさんのいわれたことを裏書きしていました。ですから彼の姿を見ていればいるほど、彼の面前では、この人が何かをたくらんだり隠したり、そそのかしたりするはずがないという気持が、ますます強くなって来るのです。ところが彼のいないところでは、それがますます怪しくなり、私が心配をしている人にこの人が関係を持っていると思うと、ますます不愉快な気持になるのでした。
尋問(スキムポールさんのいうところによれば)が終ると、彼はにこやかな顔をして娘を呼びに部屋から出てゆきました(彼の息子たちはこれまでいろいろな機会に逃げ出してしまったのでした)。あとに残されたジャーンディスさんは、彼の子供っぽい性格について自分のいったことが完全に裏書きされたわけなので、すっかり嬉しそうな顔色でした。スキムポールさんはじきに三人の娘さんとスキムポール夫人を連れて戻って来ました。この奥さんは以前は美人だったのでしょうが、今はいろいろな病気が複雑にからみ合い、いかにも身体が弱そうで鼻がつんとしていました。
「こちらが」とスキムポールさんが紹介しました。「僕の『美』の娘、アレシューザです――父親と同じで、あれこれ楽器を弾きながら歌がうたえます。こちらが僕の『感情』の娘、ローラです――楽器は少し弾けますが、歌はうたいません。こちらが僕の『喜劇』の娘、キティです――少しうたいますが、楽器は弾きません。僕たちは皆少々絵がかけて、少々作曲をやりますが、時間と金については誰も全然知りません」
スキムポール夫人が溜息をつきましたが、きっと家族の才能のうちで、特にこの点を強調したいといっているのだろうと、私には思えました。また彼女はこの溜息を特にジャーンディスさんに聞いてもらいたいような様子で、その後も|機会《おり》あるごとに繰返しているように、私には思えました。
「家族内に見られる変った特徴の跡をたどるというのは」スキムポールさんは活き活きとした目で私たちをかわるがわる眺めながら、「楽しいものでもあり、奇抜な興味にみちたものでもありますが、この家族では全員が子供で、僕が一番小さいんです」
娘さんたちは父親が大好きのようで、この冗談を聞くとおもしろそうに笑いました。特に「喜劇」の娘さんがそうでした。
「ねえ、お前たち、その通りだろう?」スキムポールさんがいいました。「そうじゃないかい? そうとも。そうにきまっているよ。なぜというに、歌にある犬みたいに『それが僕たちの天性なんですからね(3)』さて、ここにいらっしゃるサマソンさんは、ものごとのきりもり[#「きりもり」に傍点]についてはすばらしい才能をお持ちで、こまかいことをよく知っておられる点では、まったく驚異的な方だ。サマソンさんには非常に奇妙に聞えるかとも思うのですが、われわれは肉の切り身のことなんか、何も知らないんです。本当ですよ、全然知らないんです。僕たちは料理なんかまるでできません。針や糸ときたら使い方も知りません。僕たちに欠けている実際的な知識の持ち主に敬服はしますが、そういう人とけんかをするつもりはありません。それなのにどうしてそういう人が僕たちとけんかをせねばならないのですか? お互いに共存共栄でゆこうじゃないですか、と僕たちは彼らにいうのです。あなた方は自分の実際的知恵を利用してうまく生きて下さい。そして僕たちはあなた方を利用してうまく生きようじゃありませんか!」
彼は笑い出しましたが、いつものようにとても率直で、思った通りのことを正直に口に出しているようです。
「ねえ、お前たち」スキムポールさんが続けました。「僕たちは興味を寄せるのだね、あらゆることに。そうだろう?」
「ええそうよ、パパ!」三人の娘さんが叫びました。
「実にこの点こそ、この騒がしき世の中にあって、僕たち一家がはたす役割の一端なのです。僕たちははた[#「はた」に傍点]で眺めて、興味を寄せることができる。だから僕たちは現にはた[#「はた」に傍点]で眺め、興味を寄せるのです。それ以上何ができるでしょうか? ここにいる僕の『美』の娘は三年前に結婚しました。この子が別の子供と結婚して、さらに二人の子供をつくったというのは、おそらく政治経済学的見地(4)から見れば、完全に間違っているでしょう。しかし、それはしごく愉快なことでした。そうした折には僕たちはささやかなお祝いをやり、社交的意見をかわしたものでした。この子がある日若い夫を家に連れて来て、夫婦と|雛鳥《ひなどり》たちは三階に巣をこしらえています。いつかそのうち『感情』と『喜劇』もそれぞれの夫を家に連れて来て、三階に巣をこしらえることになるのでしょう。そんなふうにして僕たちは生きてゆくのです。方法は知りませんが、なんとかかんとかしてです」
彼女は二児の母親にしては、なるほどとても若く見えました。私は彼女もその子供もかわいそうに思わずにはいられませんでした。三人の娘さんたちは自分でできるなりの成長ぶりで、教育といったら、お父さんの暇な時にその遊び道具になるのにふさわしい程度の、でたらめな教育をほんのわずか受けているだけなのが、目に見えて明らかでした。見たところ父親の美術趣味を、それぞれの娘が髪の|結《ゆ》い方に反映しているようで、「美」の娘はいかにも古典的な結い方、「感情」の娘はあふれるばかりに豊かに、「喜劇」の娘はアーチふうで、活き活きとした額を広く見せ、目尻のあたりに小さなカールを元気よく巻いていました。服装もひどくだらしないふうでしたが、髪型にふさわしい着方をしていました。
エイダと私とは三人の娘さんと話をしましたが、びっくりするくらい父親によく似ているのがわかりました。その間ジャーンディスさんは(ひどく頭の髪をかきむしりながら、風向きが変ったらしいと口に出しておられましたが)隅の方でスキムポール夫人と話をしていましたが、お金のチャリンという音がいやでも耳に入って来ました。スキムポールさんはその前に私たちといっしょに家へいくといい出し、そのための着替えに引込んでしまっていました。
「お前たち、ママの面倒を見ておあげよ」スキムポールさんは戻って来るといいました。「ママは今日元気がないようだから。ジャーンディス君と一緒に一日か二日家へいっていれば、僕はひばりの鳴き声を聞いて、安らかな心をかき乱されないで済むだろう。さっきはひどい目に会わされたし、このまま家にいればまた会わされそうだからね」
「あの悪者め!」と、「喜劇」の娘がいいました。
「こともあろうにパパが病気で、あらせいとう[#「あらせいとう」に傍点]の花のそばで青空を眺めている時だと承知の上だったくせに」ローラが愚痴をこぼしました。
「それに干し草の匂いがあたりにただよっている時だというのに」アレシューザがいいました。
「つまり、あの男に詩が欠けている証拠だね」スキムポールさんが上機嫌にいいました。「がさつなんだね。人間らしい微妙なセンスに欠けていたんだ。娘たちは」と、彼は私たちに説明しました。「ある正直者に腹を立てて――」
「正直なんかじゃありませんわ、パパ。とんでもない!」三人が口を揃えて抗議しました。
「では、あるがさつな男といいますか――人間はりねずみが現れ出て、これが近所のパン屋なんですが、そこから僕たちは肘掛椅子を二つ借りたのです。肘掛椅子が二つ入り用だったのですが、僕たちは持っていなかったもので、当然のことですがそれを持っている男を探して、貸してもらったのです。さてこの不機嫌な男は椅子を貸してくれまして、僕たちはそれをこわしてしまいました。椅子がこわれてしまってから、この男が返してくれといいました。返しました。それで満足した、とおっしゃるでしょう? ところが大違い! 椅子がこわれたと文句をいうんです。僕はわけ[#「わけ」に傍点]をいってきかせて、彼の間違いを指摘してやりました。僕はこういったのです。『君はいい年をして、肘掛椅子とは棚の上にのせて眺める物だ、なんてむちゃくちゃをいい張るつもりかい? 鑑賞物で、遠くから眺めて、見方をいろいろ検討すべき物だ、なんて? この肘掛椅子は坐るために借りたのだということが、わからないのかい?』ところがその男はわからずやで、いくらいっても馬の耳に念仏で、ひどい言葉を吐いたのです。僕はその時も今と同じくぐっと我慢して、もう一度訴えてみました。『ねえ君、僕たちの事業的才覚はどんなに違っているかは知らないが、僕たちは皆「自然」という大いなる母親から生まれた子供なんだ。このうららかな夏の日の朝、そら君の見た通り』(私はソファーに坐っていたのですが)『僕は花を目の前にして、テーブルには果物を置き、頭上には雲ひとつない青空をいただき、かぐわしい空気を吸いながら、「自然」を見つめて坐っているのですよ。この同じ母から生まれた兄弟の君にお願いしますが、僕とかくも崇高なるものとの間に、|仏頂面《ぶつちようづら》のパン屋などというばかげた姿をわり込まさないでくれ給え!』ところがわり込んで来てしまいました」スキムポールさんはおどけて驚いて見せながら、笑った目を上にあげました。「そのばかげた姿をわり込ませて来たんです。今も、これからもわり込ませて来るでしょう。ですから僕は喜んで逃げ出し、わが友ジャーンディス君の家へ出かけようというわけです」
あとに残されたスキムポール夫人と娘たちがパン屋の相手をせねばならない、なんていうことはまるで考えてもいないらしいのですが、彼らの方もなれっこで平気でした。スキムポールさんは他の態度を示す時と同じように、かろやかで優雅な情愛をこめて家族に別れを告げると、すっかり心を落ちつかせて私たちといっしょに馬車に乗り込みました。帰りがけに開いているドアを覗き込みますと、彼自身の部屋は他のところに比べると、まるで御殿みたいでした。
この日が終る前に、その時は大きな驚きであり、その後いつまでも忘れられなかったある出来事が到来しようとは、とても予想できないことでしたし、また予想もしておりませんでした。私たちが帰る途中私たちのお客はたいへんな元気で、私は彼の言葉に聞き入り、まじまじと見つめているしかありませんでした。いえ、私だけではありません。エイダも同じようにあっけにとられていました。ジャーンディスさんはと申せば、サマーズ・タウンを出る時は東風のあやしい雲ゆきでしたが、ものの二マイルと来ないうちに、完全に反対の風向きになってしまいました。
他のことでの子供っぽさにはいささかあやしげなところがありましたが、変った所へ出かけたり、いいお天気が好きだという点では、スキムポールさんはまさに子供そのものでした。途中であんなにはしゃいだのに疲れも見せず、私たちの誰よりも早く応接間に飛び込みました。そして私がまだ家事の整理をしているうちに、ピアノに向ってイタリー語やドイツ語の船歌や乾盃の歌やらを、あれこれどっさりうたっているのが聞えました。
夕食が始まる少し前、私たちが皆部屋に集まった時にも、彼はまだピアノに向い、あれこれ気ままにいろいろな小曲を歌いかけてはやめ、歌いかけてはやめ、その合い間に、一、二年前に書きかけてあきてやめてしまったローマ時代の壁の遺跡(5)のスケッチを、あした仕上げようかとしゃべっていました。と、その時、来客の名刺が取次がれ、ジャーンディスさんが驚いた口調で読み上げるのでした。
「レスタ・デッドロック卿!」
私の動く力が出ぬうちに、まだ部屋が私のまわりをぐるぐる廻っているうちに、お客さまは部屋に入って来られました。もし動く力があったら、急いで逃げ出してしまったことでしょう。私は頭がくらくらとしてしまって、窓際にいるエイダの傍に退くだけの、いえ、窓を見たり、窓がどこにあるか気がつくだけの落ちつきさえ持てませんでした。私の名前が呼ばれるのが聞えたので気がつくと、ジャーンディスさんが私のことを紹介していらっしゃいました。
「レスタさま、どうぞお坐り下さい」
「ジャーンディスさん」レスタ卿はお辞儀をして腰をおかけになってから、お答えになりました。「こちらのお宅にお邪魔する光栄に浴しましたのは――」
「とんでもございません。光栄は私の方こそです」
「いや恐縮です――いまリンカンシア州からロンドンに向う途中なのでありますが、一言お詫びを申し上げたいからであります。と申しますのは、さる紳士――それはあなたもご存じの方で、そのお宅にあなたがご滞在なさっておられましたから、これ以上くわしく名を申すまでもないかと存じますが、その紳士に対しまして、私がいかほど強い抗議のたねを持ちあわせているといたしましても、そのためにチェスニー・ウォールドの私の屋敷にありますささやかなるものを、あなた並びにご同伴のご婦人方のご高覧に供することができなかったとしましたら、まことに申訳ない次第でありますから」
「いや、これはどうもわざわざ痛み入ります、レスタさま。ここに居ります婦人になりかわりまして、私から厚くお礼申し上げます」
「ジャーンディスさん、かの紳士――すでに申し上げました理由により、これ以上くわしく名をあげるのをはばかりますが――かの紳士が万一私に関しまして、誤解を生じかねまじき警告をあなたにしたのでありましたら、すなわち、あなたがリンカンシア州なる私の|田舎《いなか》の住居をお訪ね下さった場合、そこのお客さまに対して礼儀作法をもってお迎えするようにと、私どもの召使が然るべきしつけを受けていない、というようなことを、万一あなたに忠告いたしたのでありましたなら、どうかそれは間違いであるといわせていただきたい」
ジャーンディスさんは言葉をはっきり口に出さないで、いえ、そのようなことはありませんとたくみにほのめかしました。
「ジャーンディスさん」レスタ卿はおもおもしい口調で続けました。「あなたとごいっしょにあちらの田舎へお出でになった、美術に関して趣味教養をお持ちであられたらしいさる紳士が、同様な原因から私の祖先の肖像画をご覧下さることがおできにならなかったとか、チェスニー・ウォールドの女中頭から聞きまして、私は――全く――まことに――心苦しく思っております。その方のご見識をもって、ゆっくり注意深く見て頂けましたならば、おそらく見がいのある絵もいくらかはあったことと思っております」というと、卿は名刺を取り出して、おもおもしく、少しうろたえたような様子でめがねごしに読み上げました。「ええ、ヒロルド――いや、ヘラルド――いや、ハロルド――スキャンプリング――スカンピング――いや,失礼しました――スキムポール氏」
「こちらがハロルド・スキムポール君でございます」ジャーンディスさんはいかにもびっくりした様子で、紹介なさいました。
「これはこれは!」レスタ卿は叫びました。「スキムポールさんにお会いできて幸甚です。この機会に私から親しくお詫びの言葉を申し上げます。もしまた私の屋敷の方においで下さる折がありましたら、その節はどうかご遠慮をなさいませんように」
「レスタ・デッドロックさま、ご親切なお言葉痛み入ります。そうおっしゃって頂きましたので、ぜひ閣下の美しいお屋敷をもう一度お訪ねいたしたく存じます。チェスニー・ウォールドのようなお屋敷の持主は」スキムポールさんはいつものように、朗らかで調子のいい様子で、「一般公衆の恩人でございます。ご親切にもかずかずの喜ばしい品物を保存して下さって、われわれ貧乏人を感服させ喜ばせて下さいますのですから、そうした喜びや感服の念を十二分に味わわないというのは、われわれの恩人のご親切をあだにすることになります」
レスタ卿はこの言葉がたいそう気に入ったらしい様子でした。「あなたは芸術家でいらっしゃいますね?」
「いえいえ」スキムポールさんが答えました。「大の怠け者で、ほんの素人でございます」
レスタ卿はこの返事がいっそう気に入ったようで、この次スキムポールさんがリンカンシア州においで下さった時に、私も運よくチェスニー・ウォールドの屋敷にいればよろしいですが、と申されました。スキムポールさんはそうおっしゃっていただいて光栄でございます、と答えました。
「スキムポールさんが、私の屋敷の女中頭に」レスタ卿は再びジャーンディスさんに向って説明なさいました。「その女中頭と申しますのは、スキムポールさんもお気づきのことと存じますが、もう年をとって、私の一家にまごころこめて勤めてくれておりますが――」
(「つまりそれは、先日僕がサマソンさんとクレアさんを訪ねて、お屋敷に立ち入った時のことですよ」スキムポールさんがうきうきした口調で、私たちに説明しました。)
「その節、スキムポールさんが以前ジャーンディスさんの」と、ここでその名の持主に向って一礼なさいました、「お宅に住んでいらしたことがある、とか女中頭にお話になったのです。それで、私はいまお詫び申し上げたような失礼があったことを知りましたわけです。どなたに対しても失礼なことでありましょうが、特に私の奥の以前のお知り合いのお方、奥と遠い縁続きのお方、そしてまた(奥の口から聞いたところによりますと)奥がたいそうご尊敬申し上げているお方に対しまして、このような失礼がありましたことは――全く――まことに――心苦しく思っております」
「レスタさま、どうか、もうそのことはおっしゃいませんように」ジャーンディスさんがお答えになりました。「閣下のお気持は私も、そしてここにおります者全部が、よくわかっております。それに間違いをいたしましたのは私の方ですから、私こそお詫びをいたさねばなりません」
私は一度も目を上げませんでした。お客さまの姿を見ることがありませんでしたし、会話の声も耳に入らないような気が自分でしていました。いまここでその会話が思い出せるのに、われながらびっくりしているのです。その時は私に何の印象も与えなかったように思えたからです。皆さんが何かをしゃべっている声は聞えましたが、私の頭の中がすっかり混乱してしまい、本能的にこのお客さまを避けたい気持が強いために、その場にいづらい気になってしまいましたので、頭ががんがんするやら心臓がどきどきするやらで、何が何だかさっぱりわからないような気がしていたのです。
「このことを奥に申しましたところ」レスタ卿は腰を上げながらおっしゃいました。「奥は、皆様方が近くにご滞在中、偶然にもジャーンディスさんとお嬢さまがたにお会いして、言葉をかわすことができた、と話しておりました。ジャーンディスさん、先刻スキムポールさんに申し上げたお詫びの言葉を、あなたとこちらのお嬢さまがたにもう一度申し上げたい。いろいろな事情から、かりにボイソーン氏が私の屋敷にご光来下さいましても、私は少しも嬉しくはございませんが、しかしそれはあの紳士だけのことでありまして、それ以外の方には関係ないのであります」
「君たちは昔ぼくがあの男を何と評したか知っているだろう?」スキムポールさんがうきうきと私たちに向っていいました。「すべての色を全部まっ赤に変えてしまおうと決心している愛嬌のある牡牛さ!」
レスタ・デッドロック卿はまるで、あんな男に関係したことはこれ以上一言も聞きたくない、とでもいうように咳ばらいをすると、うやうやしく丁重な態度で帰ってゆかれました。私はできるだけ早く自分の部屋に引きあげ、落ちつきを取り戻すまでとじこもっていました。すっかり落ちつきを失ってしまっていたのですが、いいあんばいに、その後で下の部屋へ戻りますと皆さんに、リンカンシア州のやんごとなき准男爵のご前では、すっかりちぢこまって口もきけませんでしたね、とからかわれただけで済みました。
私はこの時までに、いよいよ私の知っていることをジャーンディスさんにお話すべき時が来たのだ、と心に決めていました。私が万一母と出会って、そのお屋敷に連れてゆかれることがありはしないか――万一スキムポールさんが、私とは遠い関係でしかないとしても、母のご主人から親切やご恩を受けるようなことがありはしないか――こう考えるととてもつらい気持になって来て、ジャーンディスさんの助けなしではこれ以上とてもひとりでやってゆけそうにない、という気がしたのです。
私たちが寝室に引きあげて、エイダと私とが私たちのきれいな部屋でいつものようにお話をした後、私はもう一度廊下に出ると、読書室へジャーンディスさんを探しにゆきました。いつもこの時刻には読書をしていらっしゃることを知っていたからです。部屋に近づくと読書ランプの明りが廊下に洩れているのが見えました。
「おじさま、入ってもよろしいですか?」
「いいとも。どうしたんだい?」
「どうもしませんけれど、静かになった今、私、自分のことでちょっとお話したいことがありますの」
ジャーンディスさんは私に椅子をすすめて下さり、本を閉じると傍に置き、やさしいお顔を私の方に向けて、じっと私をご覧になりました。思わず気づいたことでしたが、そのお顔にはいつでしたか前の時――君にすぐわかるような心配ごとは持ってない、と私に向っておっしゃった晩と同じ妙な表情が浮んでいました。
「エスタ、君に関係あることなら、私たち皆に関係あることなのだから、話したいことがあれば、私もぜひ聞きたい」
「はい。でも、私、おじさまにぜひとも忠告とお助けをいただきたいのです。今晩どんなに助けていただきたいか、おわかりになりませんでしょう!」
私があまり真剣な様子なので、おじさまは虚をつかれたような、それどころか少々恐れのまじったような顔をなさいました。
「今日お客さまがいらしてから、ずっと今までお話したくてたまらなかったのです!」
「お客さまだって! レスタ・デッドロック卿のことかい?」
「はい」
おじさまは腕組みなさると、全く驚いたという様子で私を見つめ、私の次の言葉を待っていました。私はどう話の糸口をつけたらよいかわかりませんでした。
「エスタ、正直な話」おじさまは急にほほえみながら、「まさか今日のお客さまと君との間に何らかの関係があるなんて、夢にも考えていなかったよ!」
「はい、それはわかっています。つい最近まで、私もそうだったのです」
おじさまのお顔から微笑が消え、前より真剣になりました。ドアのところへ歩み寄ると閉っているかどうかを確かめ(しかし私はちゃんと気をつけて、しっかり閉めて来たのです)、それからまた坐り直しました。
「おじさま、いつか私たちが夕立ちに会った時、デッドロックの奥さまがお姉さまのお話をなさったのを憶えていらっしゃいますか?」
「もちろん、憶えているとも」
「それから奥さまとお姉さまとが仲たがいをなさって、『それぞれ別の道を歩んだ』とお話になったことも?」
「もちろんだとも」
「なぜ姉妹が別れ別れになったのですか?」
私を見つめているお顔の色が変りました。
「何ということを! 私は知らないよ。当の二人以外誰も知らないことだろう。あの二人の、美しいが高慢な姉妹の秘密なんか、誰が知るものか! デッドロック夫人は君も見ただろうが、もしそのお姉さんを見たことがあれば、妹に劣らず気が強くて高慢なことがわかるだろう」
「私はそのお姉さまを何度も何度も見たことがあるのです!」
「見たことがあるって?」
おじさまは唇を噛みながらしばらく黙っておられましたが、「じゃあ、エスタ、君がずっと以前私にボイソーンの話をして、私が彼はかつて結婚寸前にまでいったこと、相手の女の人は死にはしなかったが、彼にとっては死んだも同然だったこと、そのことが彼の後の生涯に影響を及ぼしている――というようなことを話した時に、君はその話を全部、その女が誰であるかも、知っていたのかい?」
「いいえ」私は答えましたが、何か恐れていたことがだんだんわかりかけて来たような、こわい気持になりました。「今でも知りません」
「それはデッドロック夫人の姉さんさ」
「それではどうして」私はとても尋ねる勇気も出ないくらいでした。「お願いです、教えて下さい。ではどうして、そのお二人が別れてしまったのですか?」
「それは女の方からいい出したことだった。そしてその理由は断固として胸の中に秘めたままだった。彼が後から推測したところでは(しかしあくまで単なる推測でしかなかったのだが)、彼女が妹と仲たがいした際に、その高慢な心が受けたある屈辱のために、気が狂うほどになったのだろうというのだ。がともかく、彼女が彼によこした手紙にはこう書いてあった。今日以後私はあなたにとって死んだ人間です――事実文字通りそうだったのだが――私がこのような決心をしましたのは、あなたが誇り高い精神の持主で、名誉を歯をくいしばってまで重んずる方だということを(そして、その二つの点では私も同じなのです)よく心得ているからです。こうしたあなたの重要な性格を考え、また私にもその点のあることをも考えて、私が犠牲を払います。犠牲の一生を送り、それを背負って死ぬつもりです、と。どうもその通りになったのではないかと思うのだが、確かなことは、そののち彼は彼女の姿を見たこともなければ、消息を聞いたこともない、ということだ」
「ああ、私は何ということをしてしまったのでしょう!」私は悲しみの波を抑えることができずに、叫んでしまいました。「知らずにとはいいながら、何という悲しみの種となってしまったのでしょう!」
「えっ、種となった?」
「そうなのです。知らずにとはいいながら、間違いなくそうなのです。その人目をさけて姿を消したお姉さまこそ、私がもの心ついてはじめて見た人なのです」
「えっ、まさか!」おじさまはぎょっとして、叫びました。
「いえ、そうなのです! そして、その妹[#「その妹」に傍点]というのが私の母なのです!」
私は母の手紙のことも逐一お話しようとしましたが、おじさまがそれをおとめになりました。とてもやさしい分別のあるお言葉で、私自身が以前もっと安らかな気持の時に、ぼんやりと考えたり望んだりしていたことを、とてもはっきりと口に出しておっしゃって下さいましたので、これまで長い年月おじさまに対する感謝の念は身にしみて感じてはいましたが、この晩こそ私は、かつてないほどおじさまを愛し、感謝で胸がいっぱいになってしまったのでした。私の寝室まで送って頂いて、ドアのところでキスを受けた時にも、そして私がやっと床についた時にも、私がひたすらに思ったことは、どれほど善い人間になれば、至らぬながらもどれほど自分のことを忘れて、あの方のために身を捧げ、他の人たちのためにつくせば、私の感謝と尊敬の念をお見せすることができるだろうか――ということでした。
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第四十四章 手紙と返事
翌朝、ジャーンディスさんが部屋へ私をお呼びになりましたので、そのとき私は昨夜お話していなかったことをお話しました。おじさまは、この秘密を守り続けて、昨日のような出会いを今後避ける以外には、どうにもしようがないことだ、とおっしゃいました。私の気持をよくわかって下さり、私と全く同じ気持になって下さり、スキムポールさんにこれ以上あの屋敷へいくのを遠慮させよう、とまでいって下さいました。名前をあげるまでもないある一人の人を助けたり、忠告をしたりすることは、おじさまにもできないことでした。できればいいのだが、とおっしゃいましたが、それはとてもむりでした。その人があの弁護士は信頼できない、といっていたのが本当だとしたら(おじさまは本当らしいとお考えのようでしたが)、発覚する恐れもあるのです。その弁護士は顔を見たこともあり、噂をきいたこともあり、いくらかは知っているが、確かに危険な人物だよ、ともおっしゃいました。しかし何が起ろうとも、君は私同様何の罪もないのだし、またどうしようもない立場にあるのだからね、とおじさまは私のことをやさしく気づかいながら、繰り返し繰り返し強くおっしゃって下さいました。
「それに、あなたにまで疑惑が及ぶとは、とても考えられない。その関係を問題にしないでも、疑わしい点はいくらでもあるだろうからね」
「弁護士に関してはそうです」私が答えました。「でも、私が不安になってから、他に二人の人のことが頭に浮んで来たのですわ」それから私はガッピーさんのことを逐一お話して、あのとき私にはあの方のおっしゃる意味がまるでわかりませんでしたが、もしかするとおぼろげながらに察しがついていたのかもわかりません、でも最後にお会いして以来何も口外なさっていないことは、間違いなく信頼してよいと思います、といいました。
「なるほど、それでは、今のところはその人は考えないでいいわけだね。もう一人は誰だい?」
あのフランス人の小間使が、私に向って雇って欲しいといったことがございましたでしょう? と私が申しました。
「ああ、そうそう!」おじさまは考え込んだ様子で、「あれは法律事務所員よりも警戒すべきだね。でも、結局のところ、新しい仕事口を求めていただけなのじゃないか。あの少し前に君とエイダに会っていたのだから、あのことが頭に浮んだのは自然のことだろう。ただ女中に雇ってほしいといっただけだものね。それだけのことだ」
「でも、あの人の態度が妙でしたわ」
「そう。それに彼女が靴を脱いで、普通なら死の病いになりそうなものだが、はだしで歩きながら、冷たくていい気持なんていっていた時も、態度がおかしかったね。そんなことまでもしや、もしやと考えるのは、むだに自分を苦しめさいなむだけじゃあるまいか。そんなふうに考えたら、どんな無害なことでも、危険な意味をいっぱいはらんでいることになるよ。希望を持ちなさい。いつものままでいるのが一番いいのだよ。この秘密を知った今でも、知る前と同じように、自然のままでいたまえ。そうするのが皆のためにも一番いいのだ。私も君の秘密を知るようになったのだから――」
「そしてその秘密をぐっと軽くして下さったのですわ」
「今後はあの一家の内でどんなことが起るか、私の距離から見てできる限り気をつけることにしよう。そしてここでも名前は出さない方がいいと思うが、あの方に少しでもお役に立てるような時が来たら、そのかわいいお嬢さんのために、ぜひそうしよう」
私は心からお礼をいいました。いわずにはいられなかったのです! 私が部屋から出ようとしますと、ジャーンディスさんはちょっと待ってくれたまえ、とおっしゃいましたので、すぐ振り返ると、おじさまのお顔に、またあの時と同じ表情が浮んでいるのが見えました。そしてそのとたんどうしてだか自分でもわからないのですが、その表情によもや思いもかけぬ意味があったのではないか、という気持が頭にひらめいたのです。
「エスタ、私はずっと前から君に話したいと考えていたことがあるのだが」
「あら、なんでしょうか?」
「なんといって切り出したらいいか、困っていたのだ。今でも困っているのだよ。落ちついてよく話をして、落ちついてよく考えてもらいたいのだ。手紙に書いてはいけないかねえ?」
「まあ、この私に読ませて下さるものに、いけないなんて申すはずがありませんわ」
「それでは、教えてもらいたいのだが」ジャーンディスさんは明るく笑いながら、「今この瞬間、私は完全に率直、自然な態度でいるかい?――いつもと同じくあけひろげで、正直で、古めかしい人間に見えるかい?」
私は大真面目に、「はい」と答えましたが、それは完全に嘘いつわりない答えでした。おじさまの一瞬のためらいは(それは一分と続かぬものでした)消えてしまい、いつもの思いやりのある、温い、まぎれもない立派な態度に戻っておられたからです。
「私がなんであれ隠しているとか、口とうらはら[#「うらはら」に傍点]の意味をこめているとか、はっきりいわないでいるように見えるかい?」輝く澄んだ目でじっと私の目を見つめながら、こうお尋ねになりました。
私は絶対にそんなことありません、とお答えしました。
「エスタ、完全に私を信頼できて、私のいうことが信用できるかい?」
「はい、完全に」私はまごころこめていいました。
「それじゃ、私に手を取らせておくれ」
私の手をとり、腕で軽く私を抱くと、いつもと変らぬさわやかでまごころのこもった態度――そのいつも変らぬ思いやりの態度のおかげで、私はすぐにこの家を自分のホームだと思うことができたのでしたが――で私を見おろしながら、おっしゃいました。「ちいさなおばさん、あの冬の日、駅馬車の中で会ってから、君は私の人間を変えてくれた。あの時からずっと、私にいろいろたくさんいいことをしてくれたね」
「とんでもありませんわ。あの時以来おじさまこそどれほどのことを私にして下さったでしょう!」
「でも、そのことは今思い出さないことにしよう」
「忘れられないことですもの」
「でもね、エスタ」おじさまはやさしい、真剣な様子で、「今は忘れることにしておくれ。ちょっとのあいだは忘れておくれ。現在君の知っているこの私が、今後もう変ることはない――と、この点だけを憶えていておくれ。いいね?」
「はい、わかりました」
「それだけだ。それで全部だ。でも、そういって貰ったからといって、すぐ決めてしまってはいけないよ。君のご存知のこの私が今後もう変ることはない、と君が心の中ではっきり確信もてるまでは、私はこの胸の中で考えていることを手紙に書くまい。もし君がこれっぱかりでも疑念を持っているあいだは、決して私は手紙を書くまい。君がよく考えて、絶対に確かだと思ったら、来週の今晩チャーリーにいって、『手紙』を受取りによこしておくれ。でも、もし確信がもてないと思ったら、絶対によこさないでおくれ。いいかい、私は他のすべてのことでもそうだが、このことでも、君が決していつわりのない人だと信頼しているのだよ。その点でももし確信がもてないと思ったら、受取りによこさないでおくれよ!」
「おじさま、もう決心はついていますわ。おじさまの私に対するお考えもそうでしょうけれども、私も絶対考えが変ることありません。私はお手紙を頂きにチャーリーをよこします」
ジャーンディスさんは私の手を握ると、それ以上は何もおっしゃいませんでした。その後一週間のあいだ、おじさまからも私からも、このことについては一言もいい出しませんでした。約束の晩が来て、私とチャーリーが二人きりになるとすぐ、「さあ、チャーリー、ジャーンディスさんのお部屋の戸を叩いて、私から『お手紙』を頂きに参りました、というのよ」と頼みました。チャーリーは階段を上ると、また別な階段を下り、廊下を通ってゆきました――この古めかしい屋敷のジグザグの歩き方が、私の耳にはひどく廻りくどく感じられました――が、また廊下を通り、階段を下り、階段を上って、手紙をもって戻って来ました。「チャーリー、テーブルの上に置いてちょうだい」私がいいました。そこでチャーリーは手紙をテーブルの上に置いて、寝てしまいました。私はその手紙をとり上げもせず、じっと坐って見つめたまま、いろいろのことを考えていました。
私はまず暗い影でおおわれた私の子供のころを考えました。そのおずおずしていた時代の次には、伯母さんがきつい顔を冷たくひきしめて死んでいた悲しい日のこと、それからミス・レイチェルと一緒に暮していた頃、世界じゅうでたった一人ぼっち、話しかける相手もなしで暮すよりももっと淋しい思いがしたこと。それからがらりと変って、私がまわりをお友達に囲まれ、愛されていた幸せな時代。それから、はじめてかわいいエイダに会って、姉妹同様に愛されて私の生活にうるおいと美しさが加わった時。あの寒いよく晴れた晩、まさにこの窓から私たちの期待にあふれた顔に向けられた輝かしい、そしてその時以来輝きを失ったことのない歓迎の光をはじめて望んだ時のことを思い出しました。ここで送った私の幸せな生活を、もう一度思い返しました。私の病気と回復のこと、私の顔かたちは変りはて、私の周囲の人や物は全然変らなかったこと、などを思い返してみました。こうした幸せの光の源ともいうべき方、それは今私の前のテーブルの上の手紙で代表されている、ある一人の方です。
私は手紙を開いて読みました。私に対する愛情にみちあふれながら、一方では公平無私な忠告を与えて下さり、一語一語に思いやりがこめられていて、私の目は涙でかすんでしまい、長いこと読み続けることができませんでした。でも私ははじめから終りまで三回読み返してから、手紙を下に置きました。読む前からその内容はもうわかっているような気がしていましたが、その通りでした。手紙にはこう書いてあったのです。「荒涼館」の主婦になっていただけませんか?
深い愛情がこめられてはありましたものの、それはラブレターではなく、いつも私に話しかける時と全く同じ調子で書かれてありました。その一行一行のうちに書いた人のお顔が目に浮かび、お声が耳にひびき、親切で思いやりのある態度が感じられるのでした。まるで私たちの置かれた立場を逆にしたような書きぶりで、まるですべての善行が私のやったことであり、そこからジャーンディスさんの感情が芽ばえたかのような書きぶりでした。また、次のようにも書いてありました――あなたはまだ若いが、私はもう盛りを過ぎていて、あなたが子供だった頃にもう不惑の年に達し、この手紙を書いている今はしらが頭です。それがわかっているからこそ、あなたの前にそれを全部示して、よくよく考えて貰いたいのです。この結婚によってあなたは何も得ることはなく、ことわっても何も失うことはありません。というのは、新しい関係になっても、現在私があなたに寄せている気持がこれ以上深まるとは考えられませんから。あなたの決心がどちらにつくにせよ、絶対に間違いないと、私は信じています。でも、つい先日秘密を打ち明けて下さってから、私はこの点をもう一度考え直して、はっきりこう申し上げる決心を固めたのです。あなたの子供時代に聞かされた厳しい予言が誤りだったと、全世界の人が進んで一致して認めているのだということの、一つのささやかな例証をあなたに示すのに役立つだけでも、と思ったからです。あなたが私にどんな幸福を与えて下される方か、あなたご自身には全然わかっていらっしゃらない、でもそのことはこれ以上申しません。あなたは私には何の恩もこうむっていない、私の方こそあなたに大きな大きなご恩を感じているのだ、と、この点だけを憶えていて下さい。私も何度か私たちの将来のことを考えたことがあります。エイダが(もうじき成年に達するのですから)私たちのもとを去って、私たちのいまの生活様式が崩れざるを得なくなる時が、いつかは、いえちかぢかのうちにやって来ることは目に見えていますので、この申し出をしようと、このところずっと考えていたのです。というわけで今その申し出をしているのです。もしあなたが、私をあなたの保護者にしてもよいという有難いお気持になられて、厳粛な死以外のすべて未来に起りうること、変りうることにわずらわされず、私の余生のやさしい伴侶となって、しあわせに正しく暮せるという気持になられた場合でも、この突然の手紙を読まれてしばらくのあいだは、あなたのご返事を最終で、取り消しのきかぬものとして縛るつもりはありません。ゆっくり時間をかけてよく考え直していただかねばなりません。そうした気持になられた場合にせよ、逆の場合にせよ、あなたとの前々からの関係、あなたに対する前々からの態度、あなたを呼ぶ前々からの名前は、すべて変らぬもとのままといたしましょう。この屋敷の家政をあずかるかわいい、利口なダードンおばさんの方でも、同じように考えて下さることと思っています。
以上がお手紙の内容でした。全文を通じて公平で品位あふれる筆づかい、まるで責任のある後見人の立場から、ある友人の求婚に対して誠実に意見を述べているかのような書き方でした。
でも、次のことはこればかりも触れてありませんでした――私が病気の前きれいな顔立ちだった頃、あの方が同じようなことをお考えになって、しかもそれを抑えたこと。昔の顔が消えてしまって、私に魅力がなくなってから、私をきれいだった頃と同じように愛して下さっているということ。私の出生の秘密がわかっても少しもショックを受けなかったこと。あの方の思いやりの前には、私の醜い顔も、生まれながら背負った恥辱も問題でないこと。このような堅い|真実《まこと》の心が必要であればあるほど、一生あの方を信頼してよいこと。
以上のことは書いてはありませんでしたが、私には今やはっきりわかっていました。私が受けて来た慈愛の物語のクライマックスが、このお申し出だったのです。私としてすることはただ一つしかない、と思いました。あの方を幸福にするために私の生涯を捧げることこそ、感謝の万分の一を示すことです。先日の晩も、あの方に感謝の気持を示すためかこれまでにない新しい方法はないかと、そればかり考えていたではありませんか?
それなのに、私はひどく泣いてしまったのです。お手紙を読んで胸がいっぱいになったからだけではありません。お申し出の未来の姿が意外に思われたから――私が手紙の内容を予期していたとはいうものの、やっぱり意外でしたから――だけではありません。まるで私が何か、名をつけることも、はっきり頭に思い浮べることもできない何かを、永久に失ってしまったかのような気がしたからです。私は本当に幸せで、感謝と希望にみちみちていました。でも、私はひどく泣いてしまったのです。
やがて私は私の古い鏡に向いました。目はまっ赤にはれています。私はいいました。「まあ、エスタ、エスタ、あなたよくもそんなになれたものね!」こう叱られて鏡の中の顔はまた泣き出しそうになりましたので、私が指を突きつけますと、泣きやみました。
「それでこそ私をよく慰めてくれた昔の落ちついた顔だわ」私はいうと髪の毛をほどきはじめました。「あなたが荒涼館の主婦になったら、いつも小鳥のように陽気でいなくてはいけないのよ。本当に、いつも陽気でいなくてはいけないのよ。だから今度こそちゃんとやりましょうね」
幸い今度は楽な気持になって髪をとき続けました。まだ少ししゃくり上げていましたが、それはさっき泣いていたからで、今泣いているのではないのです。
「そうよ、エスタ。それであなたは一生幸せになれるのよ。世界一よいお友達にかこまれて、なつかしい家庭をもって、いいことがたくさんできて、世界一立派な男の方から身分不相応な愛をお受けして、幸せになれるのよ」
と突然、もしジャーンディスさんが誰か他の人と結婚なさったら、私はどんな気持になって、どんなことをするかしら、と考えました。そんなことになったら、私の立場がすっかり変ってしまったことでしょう! そう考えると私の生活をすっかり見なおす気になって、私は家事に必要な鍵束をちゃりんと鳴らして、キスをしてから、またバスケットの中に入れました。
それから鏡の前で髪を|結《ゆ》いながら、考えました。私の大病の消すことのできぬ痕跡と私の出生の秘密とがあればこそ、私はなおさらいっそう忙しく、せっせ、せっせと働いて正直でつつましく皆さんの役に立つ、明るい人間にならなくてはいけないのだと、これまでもたびたび心の中で思ったことがあったじゃないの。それだというのに、今になってめそめそ泣いているなんて、何ということなの! 私がいつか荒涼館の主婦になるというのが、一体全体どうして最初は意外に思われたのかしら?(もっとも、それが私が泣いた口実にならないのはわかりきっていましたが)もし私はこんなことを考えなかったとしても、他の人たちなら考えたかもしれません。「不器量のエスタや、忘れちゃったの?」私は鏡の中の私に向って尋ねました。「あなたのその傷跡ができる前、ウッドコートさんのお母さんがいったことを。あなたの結婚の相手は――」
その名前から思い出したのかもしれません。あのしおれた花束のことを。もうあれは捨ててしまう方がいいでしょう。あれは全く消え去ってしまった何かの思い出として、これまで捨てないでしまっておいただけなのですが、今はもう捨ててしまう方がいいでしょう。
あれは本の中にはさんで、たまたま隣りの部屋に置いてありました――エイダの部屋と私の部屋の間にある、私たちの居間です。私はろうそくをとり上げるとそっと部屋に入って、棚から本を取り上げました。手にとってから、開いているドアごしに眠っている美しいエイダの姿が見えましたので、そっと近寄ってキスをしました。
私の弱気だったことは自分でもよくわかっています。何も泣くことなんかなかったはずです。でも、エイダのやさしい顔の上に涙がぽた、ぽた、ぽたとしたたり落ちました。もっと気弱なことに、私はしおれた花をとり出して、ちょっとの間彼女の唇にあてました。彼女のリチャードへの愛情のことを思い出しました。もっともそれは花とは何の関係もないことでしたが。それから私は花を自分の部屋に持ち帰って、ろうそくの火で燃やしました。花は一瞬のうちに灰になってしまいました。
翌朝食堂に入りますと、ジャーンディスさんはいつもの通りの様子でした。まったく率直で開けひろげで、自然な態度でした。ぎごちないところは少しも見られませんでした。私の態度にもぎごちないところは少しもありません(少なくとも自分ではそう思っているのですが)でした。午前中家の内や外で二人きりになることが何度もありました。おそらくお手紙のことを何かいわれるのではないかと思っていましたが、一言もおっしゃいませんでした。
翌朝も、またその翌朝も同じでした。こうして少なくとも一週間は過ぎました。その間スキムポールさんはずっと家に泊っていました。毎日のようにジャーンディスさんからお手紙について何かいわれるのではないかと思っていましたが、一言もおっしゃいません。
そこで不安になった私は、こちらから手紙を書かなくては、と思いました。晩に自分の部屋へ戻ってから、何度も何度も書こうとしましたが、お返事としてふさわしいような手紙をどうしても書くことができません。そこで毎晩毎晩もう一日待とうと思っているうちに、また七日たってしまいました。それでもあの方は一言もおっしゃいません。
とうとうスキムポールさんが帰ってしまい、ある日の午後私たち三人が馬車で出かけることになりました。私はエイダよりもさきに支度ができましたので下におりてみると、ジャーンディスさんが私の方に背を向けて、応接間の窓のところに立って外を眺めていらっしゃいました。
私が入って来るもの音を聞いてこちらに振り向くと、にこにこ笑いながら、「おや、ちいさなおばさん、君だったのか」とおっしゃると、また外を向きました。
私は今こそいわなくてはと心に決めました。はっきり言って、そのために私は下りて来たのでした。「おじさま」私はいささかおずおずと、ふるえながらいいました。「チャーリーにお渡しになったお手紙のお返事は、いつ差し上げたらよいでしょうか?」
「君のいいと思う時で結構だよ」
「もうよろしいと思いますが」
「じゃあ、チャーリーに持って来て貰おうか?」
「いいえ、私が自分で持って参りました」
私はジャーンディスさんのうなじのまわりに両の腕を投げかけて、キスしました。ジャーンディスさんが、これが荒涼館の主婦なのかい? とおききになりましたので、私は、はい、そうです、とお答えしました。じきに普段と同じになりましたので、三人で一緒に出かけましたが、かわいいエイダにはそのことは何もいいませんでした。
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第四十五章 約束
ある日の朝のこと、私はかわいいエイダと庭のまわりを散歩しながら、鍵の入ったバスケットをじゃらじゃらいわせていた時、ふと目をお屋敷の方に向けると、ヴォールズ弁護士に似た背の高い痩せた人影が入っていくのが見えました。ついその朝エイダが私に、リチャードが訴訟に熱をあげすぎるあまり、その熱を全部使い尽してしまうのじゃないかしらといっていたばかりでしたので、彼女の気をめいらせてはいけないと思って、私はヴォールズ弁護士の影のことは黙っていました。
まもなくチャーリーがやって来ました。木の茂みの間をうねうねくねっている小道を、足どりも軽やかに、頬を赤らめながらやって来るかわいらしい姿は、私の小間使ではなくて花の女神フローラの侍女みたいでした。「お嬢さん、ちょっとジャーンディスさまにお話しに来て下さあい!」
これもチャーリーの変ったところの一つですが、ことづてをいいつかって来た相手の人がどんな遠くにでも見えると、いつもすぐその用事をきり出すのです。ですから私はチャーリーの姿を見たとたんに、口を開く前から、ジャーンディスさまと「お話をしに来て下さい」と、彼女おきまりの言葉が出ることはわかっていました。ですから、チャーリーの声が聞えた時は、彼女はさんざん叫んだ後でしたので、すっかり息を切らしているのでした。
私はエイダに、急いで戻って来ますからねといってから、チャーリーと一緒にお屋敷の方に歩き出しながら、ジャーンディスさんのところにお客さまがいらしているんじゃないの? と尋ねました。するとチャーリーの答えときたら、お恥ずかしい話ですが白状しますと、私の教育の成果を全然自慢できないようなひどい文法なのです。「はい、お嬢さん。リチャードさんとお一緒に田舎へござらした男さんです」
ジャーンディスさんとヴォールズ弁護士ほど完全に対照的な二人は、この世の中にいないと思うのですが、その二人がテーブルをはさんで向い合っていました。一人は全く開けひろげで、もう一人は貝のように閉じています。一人は幅広くまっすぐな体格、もう一人は痩せこけて|猫背《ねこぜ》。一人が口を開くと豊かな朗々とした声が流れ出ますが、もう一人の声はふくみ声で、冷血であえぐみたいで、まるで魚そっくり。こんなに似合わない二人を見たのは、生まれてはじめてのように思いました。
「ヴォールズ弁護士は知っているだろう?」ジャーンディスさんの話し方は正直いって、あまり丁重とはいえませんでした。
ヴォールズ弁護士はいつものように手袋をはめ、服のボタンを全部はめたままでしたが、立ち上るとまた腰を下ろしました。それはちょうど馬車の中でリチャードの隣りに腰を下ろした時と同じような坐り方でした。でも今はリチャードを眺めるわけにはいきませんから、まっすぐ前をみつめたままでした。
「ヴォールズさんは」まるで不吉の鳥のような黒ずくめの弁護士を見ながら、ジャーンディスさんがおっしゃいました。「不運なリックについて、いやな知らせをもって来たのだよ」「不運な」という言葉を特にはっきり強くおっしゃるのは、むしろヴォールズ弁護士とかかわりを持ったことを意味しているみたいでした。
私は二人の間に坐りました。ヴォールズ弁護士は黒い手袋で、黄色い顔にふき出ている赤いにきびの一つをそっとつぶすほかは、身動き一つしませんでした。
「それに、リックと君とは大の親友だから、君の意見を聞きたいと思ってね。ヴォールズさん、どうか、その――はっきりとお話し願いましょうか」
ヴォールズ弁護士は全然はっきりしない口ぶりで話し出しました。
「サマソンさん、今しがた申し上げておりましたように、カーストン氏の法律上の助言者といたしまして、私は現在のカーストン氏の財政状態がはなはだ嘆かわしいものであることを、充分に存じております。額そのものはそれほどのものではございませぬが、カーストン氏の借財が特に切迫した事態に立ちいたっておりますこと、それをいかに返済もしくは清算するかがむしろ問題なのでございます。これまで私はカーストン氏のために、何度も些細な困難を切り抜けて参りましたが、それにも限度がございまして、今やその限度に立ちいたりました。これまで私は自分のポケットから何がしかをご用立てして、面倒に対処して参ったわけでありますが、当然のことながら私は返済していただけるものと期待しております。と申しますのは、私は義理にも資産家とは申せませんし、トーントン渓谷に住む父親を養わねばなりませんし、家におります三人のかわいい娘のために、ささやかながら持参金を準備せねばなりません。私の|懸念《けねん》いたしておりますことは、カーストン氏の財政状態がかくのごとくでありますので、最後に氏が軍人を辞職する結果になりはせぬか、ということでございます。少なくともそのことを、氏に関係する方々にお知らせしておくのが望ましいと思います」
しゃべっているあいだ私を見つめていたヴォールズ弁護士は、ここで黙ってしまいましたが、もともとその声が抑えつけられたような声でしたから、ずっと黙っていたのとさして変らないようなものでした。話し終えるとまたまっすぐ前を見つめているのでした。
「今の持ち金までなくなってしまったら、あの気の毒な男がどうなるか、考えてもみたまえ」ジャーンディスさんが私におっしゃいました。「でも、私に何ができるだろうか? 君の知っての通りの男だからねえ、エスタ。今は私からの援助は絶対に受けようとしないだろう。助けてあげようなんて、それとなくにおわしただけで、あの男は何か途方もないことをしでかすにきまっているよ」
ここでヴォールズ弁護士がまた私に向って話しかけました。
「お嬢さま、確かにジャーンディスさまのお述べになりました通りで、そこがむずかしいわけです。私にはどうすべきかわかりませんし、どうこうすべきだなんぞと申すわけでもありません。とんでもないことです。私がここへ内証でやって来ましたのは、ただそのことを申し上げるためです。万事を大っぴらに遂行して、あとになって万事大っぴらにやらなかったなんていわれないようにです。私の望みは万事を大っぴらに遂行したいということです。私はのちのちにまで名声を残したいのです。もし私がカーストン氏に対して私の利益だけを考えているのでしたら、ここにやって来るようなことはしますまい。おわかりのことと思いますが、そんなことを聞いたらあの方は断固として反対するでしょうからね。ここに参ったのは仕事の上のことではないのです。ですからその費用を誰に請求しようもありません。私が関心を持っているのは、ただ社会の一員として、三人の娘の父として――ああ、それから老父の息子としてですな」この最後の点はあやうく忘れかけるところでした。
リチャードの置かれている立場を知る責任を分担させたいがために、ヴォールズ弁護士が私たちにこんなことをいっているのでしょうが、いっていることは確かにまぎれもない真実のように思われました。私にできることはせいぜい、リチャードが派遣されているディール(1)へ出かけていって彼に会い、最悪の事態を回避できるかどうかやってみましょう、と申し出ることだけでした。この点についてはヴォールズ弁護士に相談せずに、私はジャーンディスさんを脇に呼んで、申し出てみました。その間ヴォールズ弁護士は痩せこけた身体を炉端に運び、お葬式用みたいな手袋を暖めていました。
ジャーンディスさんはすぐに、そんな長旅をしたら疲れるだろうと反対なさいましたが、それ以外の反対の理由はなさそうでしたし、私は喜んでいきたい気持でしたから、結局承知していただきました。これであとはただヴォールズ弁護士のかたをつければいいだけです。
「さて」ジャーンディスさんが話しかけられました。「サマソンさんがカーストン君と連絡をとって下さるそうですから、私たちとしては、まだ彼の立場がとり返しのつかぬ最悪のところまでいっていないようにと願うのみです。せっかくおいで下さったのですから、失礼ですがお昼ごはんでもいかがでしょうか?」
「ありがとうございます、ジャーンディスさま」ヴォールズ弁護士は長い黒い袖をさし伸べて、呼鈴を鳴らそうとするのをとめるのでした。
「でも、結構です。感謝いたしますが、ひと口もいただけません。私は消化がたいそう弱っておりまして、それにいつでもひどい少食なのです。こんな時間にどっさり食物をいただきますと、どんな結果になりますことやら請け合えません。これで万事大っぴらにことを運んだわけでございますから、ご免をこうむらせていただきたいと思いますが」
「それではどうぞ。それからヴォールズさん、私どもみんなも、あなたもご存知の例の訴訟事件からご免をこうむらせていただきたいものと思っていますがね」ジャーンディスさんがにがにがしい口ぶりでおっしゃいました。
頭のてっぺんから足のつま先まで黒ですっぽり染まっているヴォールズ弁護士は、炉の火の前ですっかり湯気を立てて、いやな臭いをふりまいていましたが、首の上を片方にちょっとかしげると、ゆっくり振りました。
「立派な弁護士としてひとさまから思われたい、というのがわれわれの希望でありますから、ただ全力をあげて車を押すよう努めるだけであります。われわれは皆そうしております。少なくとも、この私はそうしております。私の法律の同業者全部についても、好意的に考えたいと思っております。それからお嬢さま、カーストン氏に連絡をとられる場合、私の名前をお出しになってはならぬことは、おわかりいただいているでしょうな?」
私はそうせぬように気をつけます、といいました。
「そうしていただきたいものです。ではお嬢さま、ご免下さい。ジャーンディスさま、ご免下さい」ヴォールズ弁護士が、中に手が入っているとはとても思えないような、気味の悪い手袋で私の指にふれ、それからジャーンディスさんの指にふれると、背の高い痩せこけた影は去っていきました。私たちのところからロンドンにゆく途中ずっと、馬車の外の明るい太陽に照らされた道端にこの影がさすと、その辺の地面の下の作物の種が皆凍ってしまうのではないか、と思いました。
もちろん私のいき先と、出かける理由をエイダに話さねばならなくなりました。そしてもちろん彼女は心配で胸を痛めました。でも彼女のリチャードを信ずる|真実《まこと》の心が強いために、ただかわいそうな人、私は許します、としか口には出しませんでした。さらにその上愛情のこもった長い手紙を書いて――本当に何という献身的なエイダでしょう!――私に託しました。
私は一人で出かけたかったのですが、チャーリーが一緒について来ることになりました(本当は家に残して来たかったのですが)。私たちは皆でその日の午後ロンドンに出かけ、急行郵便馬車に席があいていましたので、二人分を予約しました。いつもなら寝静まる時刻に、チャーリーと私はケント州向けの手紙と一緒に、海岸の方へと進んでいました。
馬車しか交通のない時代の夜の旅でした。でもお客は私たちだけでしたし、それほど退屈しませんでした。こういう旅をする人なら、たいていの人がそうだろうと思うのですが、私の場合も同じで、ある時は旅の前途が希望にみちあふれているように思われ、またある時は絶望的に思われました。ある時はきっと何かいいことをなしとげられるように感じられ、またある時はとてもそんな感じは持てません。旅に出たことが本当に正しいことだと思えたかと思うと、この上もなくばかげたことと思えた時もありました。リチャードはどんな有様かしら? 私に何というかしら? この質問が私の頭の中で、楽観的に悲観的にとかわるがわる答えを投げかけます。馬車の|轍《わだち》が一晩じゅうくり返しくり返し一つのメロディーを|奏《かな》で続け、それにあわせてジャーンディスさんのお手紙の文句が、くり返しくり返しうたわれているような気がしました。
とうとうディールの町の狭い通りに着きました。うすら寒い霧のかかった朝で、ひどく陰気な町でした。単調な海岸が長く続き、木造や煉瓦造りの家が不揃いに並んでいます。巻き上げ機や大型ボートやボート小屋、滑車も糸も張ってないまっすぐな柱などが雑然とあちこちに散らばり、砂利の間から雑草がぼうぼうと生えほうだいの荒地もあって、これまで見たこともないほどわびしい風景でした。深いまっ白な霧のとばりの下で、海が大きくうねっていました。動いているものといえば、早起きの職人が二、三人ロープ造りをやっているだけで、この人たちが細い糸を自分の身体のまわりに巻きつけているさまは、まるで今の人生がいやになってしまって、われとわが身をよってロープにしているみたいでした。
でも私たちが立派なホテルの暖かい部屋に入って腰を下ろし、顔を洗って着替えをすませてやっとくつろぎ、早い朝ごはんに向った時(もう今から床について寝るわけにはいきませんでしたから)、ディールはだんだん明るく見えてきました。私たちの小さな部屋はまるで船室みたいで、チャーリーはすっかり大喜びでした。それから霧のとばりが上がりはじめて、そんな近くにいるとは思ってもいなかった、たくさんの船が見えて来ました。給仕さんが、何隻くらいの船が今ケント州の海岸に停泊しているか教えてくれましたが、もう忘れてしまいました。なかにはずいぶん大きな船もあって、イギリスに帰って来たばかりのインド通いの大きな船も一隻いました。雲間から日ざしが洩れて、暗かった海を銀色に照らし出すと、それらの大きな船が輝いたりかげったり、色が変ったりする上に、岸から船へ、船から岸へと小さなはしけが忙しく働き出して、あたりは活気とにぎわいと動きにあふれ、見るも美しい光景でした。
その大きなインド航路の船は、昨夜のうちに港に入って来たので、私たちの注目の的でした。そのまわりをはしけがとり囲み、乗っている人たちも故郷の港に帰ってどんなに嬉しいでしょうと、私たちは話し合いました。チャーリーも航海のこと、インドの暑さのこと、蛇や虎のことにひどく好奇心をもち、そういう知識については文法よりもずっと憶えるのが早いので、私は自分の知っていることを話してあげました。こういう航海をする人びとは、ときどき難破したり、座礁することもあるのですよ、そういう時に一人の人の勇敢な働きと博愛の精神によって、皆が救われたこともあるのです、と話してやりました。チャーリーが、そんなことがあるのかしら、といいますので、私はそうした出来事のニュースをイギリスで聞いた時のことを話してあげました。
私はここに泊っているという手紙を、リチャードに送ろうかと考えましたが、それよりもだしぬけにこちらから訪ねてゆく方がよいと思いました。兵営に住んでいる彼を訪ねることができるのかどうか、いささか不安でしたが、とにかく偵察してみようと出かけました。兵営の門から中を覗いてみますと、朝のこの時刻でしたからどこもしんと静まり返っていました。衛兵所の入口に立っている軍曹に、リチャードのいどころを尋ねますと、一人の兵隊を案内に立ててくれました。案内の兵隊は粗末な木の階段を上り、とあるドアをノックすると、いってしまいました。
「おい、なんだ!」リチャードが中から叫びましたので、私はチャーリーを廊下に待たせ、半分開いたドアのところに近寄ると、声をかけました。「リチャード、入ってよくって? ダードンおばさんよ」
リチャードはテーブルに向って何かを書いていましたが、あたりの床の上一面に着物やら、ブリキの箱やら、本やら、長靴やら、ブラシやら、手さげカバンやらが散らかっていました。彼は身支度を半分しかかっただけで――気がつくと制服ではなく、私服を着ていました――髪もぼうぼう、部屋と同じく乱雑な格好でした。こういった点に気がついたのは、私が心から暖かい歓迎を受け、彼のそばの椅子に腰を下ろして後のことです。といいますのは、私の声を聞くと彼はぱっと飛び上り、あっという間に私を腕に抱きかかえたからです。気のいいリチャード! 彼は私に対していつも同じ態度をとってくれました。その最後――思い出すだけで、かわいそうになるのですが!――まで、私を迎えてくれる時は、いつも昔の子供っぽい陽気さを失うことがなかったのです。
「これは驚いたなあ、どうしてここへ? まさかあなたに会えるとは思ってもいなかった。変りはないでしょうね? エイダは元気?」
「とても元気。前よりもいっそうきれいになったわ」
「ああ、かわいそうなエイダ!」というと、彼は椅子の背にもたれかかりました。「エスタ、ちょうどあなたのところに手紙を書いていたところだったんですよ」
若い男盛りだというのに、やつれて疲れきった顔をして、椅子の背にもたれかかり、びっしり書かれた書簡箋を手で握りつぶしている、そのさまの何と痛ましいこと!
「そんなに骨を折って書いた手紙を、私に全然読ませてくれないの?」私が尋ねました。
「この部屋のありさまを見れば」絶望的な身ぶりをしながら、彼は答えました。「手紙の内容はわかるだろう。軍隊生活はもうおしまいだ」
私は穏やかな口調で、そう気を落してはいけないわ、といさめました。あなたが困っているというのを偶然聞いたので、どうしたらいいか相談しようと思ってやって来たのよ、と説明しました。
「エスタ、いかにもあなたらしいね。でも今度だけは、いかにあなたでもお手上げだよ!」彼は淋しく笑いながらいいました。「僕は今日で軍人を辞職だ――あと一時間もしたらここにいなかったところだぜ――軍人を辞職して、その金で清算するんだよ。まあいいさ! 済んだことは済んだことだ。結局この職業もこれまでのと同じだったね。ついでに牧師になればよかったと思うよ。そうすりゃインテリの職業を全部ひとわたりやったことになるからね」
「リチャード、まだそれほど見込みがないわけじゃないでしょう?」
「エスタ、まったくないんだ。あわや面目失墜の寸前にまで来ているんで、(教義問答の言葉じゃないが)僕の上に立つ人たちも、どうやら僕を放り出したいのだ。むりもないよ。借金やら督促やら、そういった欠点はもちろんとして、僕はそもそもこの職業に向いていないんだ。ある一つのこと以外には注意力もない、頭もない、熱意もない。こんな不始末をしでかさないとしたって」彼は書いた手紙をこなごなに引きさき、不機嫌そうにばらばらに散らしました。「とても僕は海外へなんかいけやしないよ。僕は海外勤務を命ぜられたにきまっている。でも、とても海外へなんかいけやしないよ。例のことについて僕はもう経験があるんだから、あのヴォールズですら、僕がすぐそばで見ているのでなければ、とても任せてはおけないよ」
私の顔を見て私が何をいおうとしているか察しがついたのでしょう。彼の腕に当てている私の手をとると、それを私の口に当てて、封じてしまいました。
「いけないよ、ダードンおばさん! 口に出してはいけないことが二つある――絶対に出していけないことが。一つはジョン・ジャーンディスのこと。もう一つは、何だかわかるだろう。呼びたければ気違い沙汰と呼んでもいいよ。でも、今ではもうやめられないんだ。正気になれないんだ。でも、あれはそんなものじゃないよ。あれこそ僕がなしとげなければいけない、ただ一つの目的なんだ。以前僕が他人の言葉に負けて、僕のいくべき道からよそへそれてしまったのを後悔しているよ。これまでさんざん時間を浪費し、心配と苦労にさいなまれたあげくの果てに、今もとの道に戻るのが賢い策だろうと思うよ! そうとも、本当に賢い策だ。僕がこのまま道を進んだ方が喜ぶ人もいることだろうが、僕はご免だ」
私が反対してもかえって意固地になるばかり(すでにもうこれ以上なれないくらい意固地になっていましたけれども)だと思いましたので、エイダの手紙をとり出して彼に渡しました。
「ここで読めっていうの?」彼がききました。
私がうなずきますと、彼は手紙をテーブルの上に置き、頬杖をつきながら読み出しました。まもなく頭を両手で抱えるようにして、顔を私から隠そうとしました。また少ししてから、まるで暗くて読みづらいふりをして、立ち上ると窓際へゆき、私の方に背を向けて読み終えました。読み終えて手紙を折りたたんだ後も、それを手にしたまましばらく立っていました。もとの椅子に戻って来た時、目には涙が光っていました。
「エスタ。もちろん手紙の内容はわかっているでしょうね?」前よりもやさしい声で尋ねながら、手紙にキスをしました。
「ええ」
「まもなくエイダが受取れるはずの僅かな遺産を」床の上で足踏みしながら、彼は言葉を続けるのでした、「それも僕が無駄使いしてしまった額と同じくらいの、ささやかな額のものですが、それをどうか僕に使ってくれ――それで面倒をかたづけて、軍人生活を続けて下さい、って書いてある」
「エイダのやさしい思いやり通りにするのが、あなたにとってもいいのですよ」私が言いました。「リチャード、何という気高い、やさしい思いやりでしょう!」
「本当にそうだ。僕は――僕は、死んでしまいたい!」
彼はまた窓際へゆくと、腕を窓に寄せかけ、頭をそこに押し当てていました。このありさまを見て私は胸がいっぱいになってしまいましたが、きっとこれで彼ももう少し素直になってくれることと思って、黙っていました。が、私の経験はまだ浅かったのです。まさかこんなに感動している彼が、次の瞬間かっとなって次のようなひどい言葉を吐こうとは、思ってもいなかったのですから。
「それなのに、あのジョン・ジャーンディスの奴が――あいつの名前はここではいわない約束だったが、今度だけは我慢ならない――その気高いエイダを僕と仲違いさせようってんだ」彼は憤然としていいました。「そしてやさしいあの子が僕にこんな寛大な申し出をしてくれるのも、あのジョン・ジャーンディスの屋敷で、あのジョン・ジャーンディスが僕を買収しようとまたぞろ[#「またぞろ」に傍点]もくろんで、黒幕になったり、尻押ししたりしてるからなんだ」
「リチャード!」私は叫ぶと、急いで立ち上りました。「そんな恥しらずの言葉は聞きたくありません!」生まれてはじめて私は彼に対して本当に腹を立ててしまいましたが、それはほんの一瞬の間のことでした。若いのにやつれた顔で、許しを乞うように私の方を見つめている彼を見ると、私はその肩の上に手を置いて、こういいました。「ねえ、リチャード、私に向ってそんな口のきき方をしてはいけないわ。よく考えてごらんなさい!」
彼はすっかり後悔して、真剣な口調で僕が悪かったと、何度もあやまりましたので、私は笑い出しましたが、一方で少し身体がふるえてしまいました。あんなにかっとなったあとなので、気持の落ち着きを失ってしまったからです。
「エスタ、いうまでもないことだけれども」彼は私のそばに腰を下ろすと、また話を続けました。「もう一度あやまるよ。僕は本当に悪かった――いうまでもないことだけれども、やさしいエイダの申し出を受けるなんて、とてもできないことだよ。それに、ここにいろいろな手紙やら書類やらがあるから、見て貰えばはっきりわかるけれども、僕はもう万事休すなんだ。軍人生活はもうおしまいだ。本当だよ。でも、これだけさんざん面倒を起したり困窮したりしているけど、僕が自分の利益だけでなく、エイダの利益のために一所懸命やっているのだと思えば、いくらか満足な気持になれるんだ。ヴォールズが全力をあげて車を押してくれているんで、僕のためばかりか、エイダのためにも奔走していることに、自然となってしまうんだ」
彼の胸の中に明るい希望が湧いて来て、顔が晴れやかになって来ましたが、そうなると私には彼の顔が前よりいっそう痛々しそうに見えて来るのでした。
「いけない、いけない!」リチャードはうきうきした口調で叫びました。「かりにエイダのささやかな財産が、全部僕のものだとしても、それを使って、僕に適してもいなければ興味もないし、うんざりしている職業を続けるわけにはいかないよ。もっと役に立つこと、エイダにとってもっといい結果を生むことに使わなくっちゃいけない。僕のことは心配いらないよ! 僕は今ただ一つのことしか計画していない。そしてヴォールズと僕とでそれを実行に移すんだ。僕は財産を持たなくちゃいけない。軍人をやめれば、証文証文とやかましくいっているけちな高利貸どもと、示談にすることができるはずだ――と、ヴォールズはいっているんだ。どのみち返済した残高はふところに入るわけだけど、そうすればぐっと増えるはずなんだ。エスタ、エイダあての僕の手紙を持っていっておくれ。二人とも僕のことをもっと信頼しておくれ。まだ僕がだめになったわけじゃないんだよ」
私がリチャードにいって聞かせたことを、ここにくり返すつもりはありません。退屈なお説教でしたし、賢明なことだとは義理にも申せません。ただ私のまごころから出た言葉でした。彼はじっと辛抱して、しみじみと私の言葉を聞いてくれましたが、彼が口にしたくないといっていた二つの点に関しては、今のところどんなにいってきかせてもむだだということがわかりました。彼を説得しようとするのは、そのまま放っておくよりももっと有害だ、というジャーンディスさんのお言葉が間違っていなかったことが、今度の話し合いでいやというほど身にしみました。
というわけで私はとうとうやむなくリチャードに、あなたのいうように本当に万事休すなのか、ただの気のせいではないのか、その証拠を見せて下さいと頼みました。彼はすぐに、退役がすでに決定的であることを明白に示す手紙を見せました。彼の言葉からヴォールズ弁護士がこれらの手紙の写しを持っていて、これまでのいきさつについてすべて相談に乗っていたことがわかりました。この点を確かめ得たこと、エイダの手紙の使いをつとめたこと、リチャードと一緒にロンドンに帰って来たこと(そういう次第になったわけですが)以外には、私はわざわざ出かけても何の役にも立たなかったわけです。不本意ながらもこの点を自ら認めた私が、ホテルに戻ってあなたが来るのを待っています、といいますと、彼はマントを肩にひっかけて門まで見送ってくれました。チャーリーと私は海岸べりを通って帰っていきました。
ある場所に人がいっぱい集って、ちょうどボートから陸に上ろうとしている上級船員のまわりを、なみなみならぬ興味でとり囲んでいました。私はチャーリーに、あれはきっと大きなインド航路の船のボートよ、というと、立ちどまって見ていました。
船員たちはゆっくりと上陸しながら、お互い同士や周囲の人々に向って上機嫌で話しかけたり、いかにもイギリスに戻って来て嬉しいとでもいうように、あたりを見廻していました。「チャーリー、チャーリー! 早くいきましょう!」私がそういって、急いで通りすぎてしまいましたので、私のお伴はびっくりしていました。
私たちの船室みたいな部屋に入って、息をつく余裕ができてはじめて、私はどうしてこんなにあわてたのかしら、と考えはじめました。あの日にやけた顔の船員の中に、アラン・ウッドコートさんの姿を見たからです。あの方に私の姿を見つけられたらたいへんだと思ったからです。私の変りはてた顔を見られるのがいやだったのです。私はすっかり度胆をぬかれてしまって、どぎまぎしてしまったのです。
でも、これではいけない、と思いなおして、私は自分にいい聞かせました。「まあ、どうしたというの? 今が前よりもつらい気持だなんて、そんなはずないじゃないの――そんなはずあるわけがないじゃないの。先月のあなたと、今日のあなたは同じ。以前に比べてつらい思いも、楽しい思いも変ることなし。これがあなたの決心だったじゃないの? 忘れちゃったの? さあエスタ、思い出して!」私は全身がぶるぶるふるえて――走ったためです――しまい、はじめのうちは落ちつくことができませんでした。でも、やっと気持をとりなおすことができて、嬉しく思いました。
お客さんたちがホテルにやって来ました。階段で話し合っている声が聞えました。間違いなくさっき上陸した人たちだとわかりました。その声でわかったのです――つまり、ウッドコートさんの声でわかったのです。私がいることをお知らせしないでロンドンに帰ってしまった方が、気は楽でしょう。でも、そうはすまいと決心しました。「いけない、エスタ、絶対にいけないわ!」
私はボンネットを脱ぐと、ヴェールを半分上げ――半分下げ、というべきかもしれませんが、どちらでもかまいません――たまたまリチャード・カーストンさんと一緒にここに来ています、と名刺に書いて、ウッドコートさんに届けさせますと、ウッドコートさんはすぐにおいでになりました。私は偶然にも先生をイギリスにお迎えする最初の一人になれて嬉しゅうございます、と申しました。先生が私のことを憐れんで下さっていることが、私にはわかりました。
「ウッドコート先生、外国へお出かけになってから、船が難破してあぶない目にお会いになったのですって?」私がいいました。「でも、そのおかげで先生の勇気と医術を役立てることができたのですから、不幸とは申せませんわ。私たちはその記事を熱心に読みました。そのことをはじめてうかがったのは、私が重病にかかってそのなおりぎわに、先生の昔の患者のフライトおばあさんに教えて貰ったのですよ」
「ああ、あのフライトばあさん! 相変らずの暮しぶりですか?」
「ええ、もとのままですわ」
私はもうすっかり平気になって、ヴェールをとりのけることができました。
「ウッドコート先生、あのおばあさんは先生に深く深く感謝しておりますわ。あの人は恩を忘れない人ですもの」
「そ――そうですか。それはど――どうも」先生は私を気の毒に思って下さるあまり、口もまともにきけないほどでした。
「本当ですわ。私にその話をしてくれた時も、おばあさんはいかにも嬉しそうで、見ている私まですっかり感動しました」
「あなたは重病にかかられたそうで、お気の毒でした」
「はい、とても重い病気でした」
「でも、すっかりよくなられたのでしょう?」
「心も身体もすっかり元気になりました。ジャーンディスさんがどんなに親切な方か、私たちの毎日の生活がどんなに幸せかご存知でしょう? 私は感謝にみちあふれた毎日で、これ以上の望みなんか一つもありませんわ」
私が自分で自分に対して感じているよりも、もっと強い憐れみをウッドコートさんが私にかけて下さっているような気がしました。私の方が先生を慰めてさし上げなければいけないとわかって、私の心の中に新しい勇気と落ちつきとが湧いて来ました。私は先生に行き帰りの船旅のことや、将来の計画や、今後インドに戻られるおつもりですか、とかいうようなことをおききしますと、それははっきりしていない、というお答えでした。インドでも本国同様あまり幸運に恵まれず、行きと同様、帰りも一介の貧乏船医の身の上だったのだそうです。私たちが話しているうちに、先生が私の姿をご覧になって受けたショック(と、こう申してよいと思いますが)を、私が静めることができて嬉しい気持になって来ましたが、そこへリチャードが入って来ました。彼はすでに下で私と一緒にいるのが誰かを聞いて知っていましたので、二人は心から再会を喜び合いました。
二人が最初の挨拶を終えて、リチャードのいきさつを話し合っている間に、ウッドコートさんはリチャードがうまくいっていないことを見抜いてしまわれたようでした。何度も相手の顔をご覧になっては、何か心配の種がそこにある、というような様子をなさいました。一度ならずも私の方をご覧になって、真相を知っているのですか、と問いかけているような顔つきをなさいます。でもリチャードは例の楽天的な気分で、ひどく元気でした。いつも好いていたウッドコートさんに再会できて、すっかり嬉しくなってしまったのです。
リチャードは皆で一緒にロンドンに帰ろうといい出しましたが、ウッドコートさんはもうちょっと船に残らねばならないので、一緒に帰ることはできませんでした。でも私たちとともに早めの昼食をとって、さらにいっそう以前通りの態度になられましたので、私は先生の悲しみをやわらげることができたのだ、と考えて、さらにいっそう安らかな気持になれました。でも、リチャードのことがまだ気がかりになるらしく、馬車の出発準備がほぼ整い、リチャードが荷物をまとめに下へおりていった後に、私に彼のことをお尋ねになるのでした。
私は話を全部打ち明けてしまってよいかどうかわかりませんでしたので、ごく簡単に彼がジャーンディスさんと仲たがいしたこと、不幸にも訴訟事件にまき込まれて抜け出せなくなってしまったこと、などを話しました。先生は熱心にお聞きになってから、それは困ったことだとおっしゃいました。
「さきほどリチャードの顔を、かなりしげしげ見ていらっしゃいましたが、ひどく変ったとお思いになりますか?」
「変りましたね」こう先生は答えると頭を振りました。
私ははじめて顔に血が上るのを感じました。でも、それはほんの一瞬のことでした。私が横を向くと、すぐもとに戻りました。
「というのは、若くなったとか|老《ふ》けたとか、痩せたとか肥ったとか、顔色がよくなったとか悪くなったとかいうのではなくて、何とも奇妙な顔つきをしているのですよ。若いのに、ああいう表情があんなにはっきり出ている人は、これまで見たことがありません。気苦労か疲れのどちらか一方ではなくて、その両方なので、いわば絶望の芽とでもいうようなものです」
「病気だとお思いになりません?」
病気じゃありません。身体は元気そうです。
「気持を平静にしていられないのです。むりもないと思うのですが」私は言葉を続けました。
「ウッドコート先生、先生はロンドンにおいでになるのですか?」
「明日か、明後日に」
「リチャードに必要なのは、何よりもまずお友達なのですわ。彼はいつも先生が好きでした。お願いですからロンドンにいらしてから、会ってあげて下さい。できましたら、ときどきつき合って元気づけてあげて下さい。そうしていただければ、どんなにためになることでしょう。エイダやジャーンディスさんや、この私もどんなに先生に感謝することでございましょう!」
「サマソンさん」これまでにないくらい感動した様子で、ウッドコートさんがおっしゃいました。「神さまに誓ってお約束します。リチャードの|真実《まこと》の友となりましょう。彼のことはお引き受けします。神かけて責任をもちましょう!」
「有難うございます!」私がいうと、目が涙でうるんで来ました。もっとも私自身のことで目がうるんだのではないと思っていましたけれども。「エイダは彼を愛しています――私たちも皆彼を愛していますけれども、エイダの愛は私たちとは違うのです。私、先生の今のお言葉をエイダに伝えます。エイダに代りましてお礼を申しますわ!」
私たちがこのような言葉を気ぜわしく交していたところへ、リチャードが戻って来て、私に腕をかして馬車の方へ案内しました。
「ウッドコート、ロンドンでぜひ会おうじゃないか!」彼がいいましたが、自分でも気がつかないうちに熱がこもっていました。
「会おうって? 僕はもうロンドンじゃ君のほかに友達らしい友達はいないんだ。君の家はどこだい?」
「そうだなあ、どこかに下宿か何かを見つけなきゃいけないな」リチャードは考え込みながら、「例えば、シモンズ法学予備院のヴォールズのところあたりにね」
「よかろう! ロンドンに着いたらすぐにいくよ」
二人は心をこめて握手をしました。私が馬車に乗り込んで、リチャードがまだ道端に立っていた時、ウッドコートさんがリチャードの肩に親しげに手を掛け、私の顔をじっと見つめました。私にはその意味がわかりましたので、手を振って感謝の気持を示しました。
馬車が動き出した時、先生の別れのまなざしの中に、私を気の毒に思って下さる色がありありと見えました。それを見て私は嬉しい気持になりました。もし死人が生前ゆかりの場所をふたたび訪れることがあるとすれば、その時の気持はちょうど、私がこのとき昔の自分に対して抱いた感慨に似ていたでしょう。人のやさしい思い出の種となり、憐れみの情けを受け、完全に忘れ去られていないことが、嬉しかったのです。
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第四十六章 その子をつかまえて!
暗闇がトム・オール・アローンズ通りの上に覆いかぶさっている。昨夜日が沈んで以来、暗闇はしだいにひろがり、ふくれ上って、ついにいまあたりのいっさいの空間を満たしている。トム・オール・アローンズ通りにも生命の明りがくすぶっているように、土牢のような家々の明りがむかつく空気の中で、しばらくの間ぶすぶすとくすぶって、多くの怖ろしいものをチカチカと照らし出していたが――ちょうど、あの生命の明りがトム・オール・アローンズ通りで照らし出しているように――やがて消えてしまった。上空では月がぼんやりと冷たいまなざしでこのトムを見つめていた。そのさまはまるで、ここでトムの奴が、私の猿真似をして、生物が住めない、火山の火で荒らされた砂漠を作っているね、といっているようだ。だが、月もやがて通りすぎ、消えてしまう。地獄の悪鬼がもたらしたかのような陰惨な悪夢が、トム・オール・アローンズ通りにのしかかり、トムはぐっすり寝込んでいる。
これまでも議会の内外で、トムを更生させるにはいかにすべきか、と口角泡を飛ばしていくたの議論がなされたものであった。警官の手によってにもせよ、教区役人の手によってにもせよ、鐘を鳴らすことによってにもせよ、数字の力によってにもせよ、正しい趣味の原則によってにもせよ、高教会によってにもせよ、低教会(1)、無教会によってにもせよ、ともかくトムを大通りにしてしまうべきか、彼のひん曲った根性のナイフで、論争の|藁束《わらたば》を切りきざむ仕事をやらせるべきか、それともその代りに敷き石割りをやらせるべきか。こうした|喧々囂々《けんけんごうごう》の議論のうちで、一つだけはっきりしていることがある。それは、トムの更生が可能であるにせよ必要であるにせよ、論議をするものはいるが実行するものはいない、ということだ。目下の事情がかくも前途有望なために、トムはあい変らず昔ながらの意固地の塊りで、全く救われる見込みなしというていたらくなのである。
しかしトムは仕返しをする。風までが彼の使者となり、この暗闇の支配する時刻には彼のためにはたらく。トムの腐った血の一滴一滴は、必ずやどこか|他所《よそ》に感染と伝染をひろげずにはおかない。いまこの夜に、ノルマン貴族(2)の家柄のいとやんごとなき血筋(化学者がその血を分析すれば、きっと純粋に高貴と折紙をつけるだろう)と混り合って汚すであろうし、このいまわしき結合に対しては、やんごとなき閣下といえども反対できないのだ。トムの泥んこのひとかけら、彼が毎日呼吸する有毒空気の一立方インチ、彼の身辺の汚穢、彼の行動にまつわる無知、邪悪、野蛮の一つ一つが、必ずや社会の各階層を通り抜けて、栄華を誇る最高のものにまで仕返しを遂げずにはおかない。間違いなくトムは、汚染、略奪、腐敗によって、復讐を遂げるのである。
トム・オール・アローンズ通りは昼間と夜間とどちらが醜いか、これは議論の余地のあるところだが、そこで目に見える部分が多ければ多いほど、ますます見るに耐えず、どの部分といえどもいかに想像をたくましくしても、現実のひどさにはかなわない、ということになれば、この勝負は昼間のものだ。そして今や夜が明けて昼になろうとしている。トムのごとき世界の驚異的汚点を照らすくらいなら、いっそのことイギリス領土の上に日の沈むことのあった方が、まだしも国威宣揚のためにいいのではあるまいか。
一人の陽焼けした顔の紳士が、寝つけなかったために、枕の上でいらいらして時を数えるよりは、外を散歩した方がましだと思ったのだろう、この静かな時刻にこちらへ歩いて来る。しばしば好奇心にかられて立ち止まり、ひどい有様の横町のあちこちへと目を走らせるのである。もっとも彼のはただの好奇心ではない。きらきらと輝くその黒い目には、憐れみにみちた関心がみなぎっている。あちこち見廻している彼は、いかにもこのあたりの悲惨な様子が理解でき、しかも前々から知っていたらしく思われる。
トム・オール・アローンズの目抜き通りともいうべき、一筋の淀んだ泥水の両側に見えるものといったら、戸を閉めて静まり返ったガタピシの家並みだけである。彼のほかに目をさましている人間はというと、向うの方のとある家の玄関口に一人の女が坐っているのが見えるだけ。彼はそちらの方に向って歩いていく。近づいてみると、その女は遠いところから歩いて来たらしく、足は痛み泥と|埃《ほこり》にまみれている。膝の上に両肘をのせ頬杖をついて、何かを待っているような格好で玄関口に坐っている。その傍に手にして来た布カバンか包みらしいものが置いてある。たぶん、うとうと眠っているのだろう、自分の方に近づいて来る足音に気づきもしない。
崩れかかった歩道はひどく狭いために、アラン・ウッドコートが女の坐っているところまでやって来て、通りすぎるためには泥だらけの道のまん中を通らねばならない。女の顔を見下ろしたとき、目と目が合って彼は足を止める。
「どうしたのですか?」
「何でもありません」
「起きて貰えないのですか? 家に入りたいのではありませんか?」
「ここの家じゃなくて、別の家が――下宿屋ですけど――起き出すまで、待ってるんです」女は辛抱強い様子で答える。「ここで待っているのは、もうじきお|天道《てんとう》さまが上ってこっち側が暖かくなるだろうと思って」
「疲れているようなのに、こんな道路で坐っているなんて、お気の毒ですね」
「ご親切に。でも、大丈夫なんです」
貧乏人と喋りつけているらしく、わざと親切ごかしの見下した口調や、子供っぽい口調(多くの人が好んでよく用いる手だ。貧乏人に話しかける時は、小学一年生の国語の本みたいな口調を使うのが要領だと心得ているらしい)を使わないので、すぐに彼は女と気安く話せるようになる。
「あなたの額を見せてごらんなさい」彼はかがみ込みながらいう。「私は医者です。心配いりません。絶対痛くしないから」
彼は自分の職業柄馴れた手で触れれば、もっと楽にしてあげられるとわかっている。女は「何でもないんです」と少し尻込みするが、彼が指で傷にさわったとたん、顔を上げてそこを明るい方に向ける。
「おやっ! これはひどい傷だ。皮膚がひどく破れている。とても痛いでしょう」
「ちょっぴり痛みます」女が答えると、頬に涙がぽろぽろと落ちはじめる。
「いま楽にしてあげましょう。大丈夫、私のハンケチでさわっても、痛みはしませんからね」
「はい、それはもう!」
彼は傷をきれいに洗うと乾かし、入念に調べて手のひらで軽く押したのち、ポケットから小さいケースを取り出し、ほうたいを巻いてやる。道端で外科を開業したことにおかしくなったのか、笑ってから彼は仕事の手を休めずにいう。
「あなたのご主人は煉瓦造りの仕事をしていますね?」
「どうしてわかりますか?」女はびっくりして尋ねる。
「そうだろうと思いましたよ。あなたのカバンや着物についている粘土の色を見てね。それに煉瓦職人があちこち渡り歩いて賃仕事をやることは知ってますからね。それから困ったことだけど、とかく奥さんに乱暴するというのも聞いてますからね」
女は目を上げると、私の傷はそんなことでできたのじゃありませんといいそうになるが、自分の額に相手の手のふれるのを感じ、忙しく手当をしながらも落着いたその顔を見ると、またおとなしく目を伏せてしまう。
「旦那さんは今どこにいるのですか?」
「ゆうべちょっと面倒ごとを起しまして。でも下宿屋へ私を探しに来るはずです」
「せっかくの腕をこんなふうにばかり使っていると、いまにもっと面倒なことになりますよ。でも、乱暴者でもあなたは許してあげているのだから、私はこれ以上何もいいますまい。こんなやさしい奥さんの思いやりに、自分が恥ずかしいと思ってくれればいいのですがね。小さな子供さんはいないのですか?」
女は首をふって、「私の子供と呼んでいるのがいますけど、本当はリズの子なんです」
「あなたのお子さんはなくなったのですね。わかりますよ! かわいそうに!」
もうこの時には手当てが終って、彼はケースをしまいかけているところだ。女が立ち上って丁寧にお辞儀をすると、彼はこんなこと何でもないことですよと笑いながら、こう尋ねる。
「あなたにはちゃんとした家がどこかにあるのでしょう? ここから遠いのですか?」
「ここからたっぷり二十二、三マイルはあります。スントールバンズです。スントールバンズをご存知なのですね? びっくりなさったみたいでしたね?」
「ええ、ちょっとばかり知っています。さて、今度はこちらからお尋ねしますが、泊る金はお持ちですか?」
「ええ、本当にちゃんと」女は金を見せる。そして女が何度も低い声でお礼を繰り返すのに対して、彼はどういたしまして、ではさよならと挨拶してから歩き出す。トム・オール・アローンズ通りはまだ眠っていて、起きている者は一人もいない。
いや、いる! 彼が玄関口に坐っている女をはじめて見つけた場所まで戻る途中、一つのぼろを着た人影がそっと泥によごれた塀――こんな惨めな人間でもやはりこの塀は敬遠したがるらしい――に沿って、手を前に突き出しながらこそこそ進んでいくのが目に留まる。それは子供の人影で、顔はうつろにおちくぼみ、飢えた目だけがぎらぎら光っている。人目にたたずに通りすぎたいと夢中になっているあまり、ちゃんと服を着た見知らぬ人が現れてもふり向こうともしない。彼が道の反対側を通る時、その子はぼろ服の肘で顔を隠し、おずおずと手を前に突き出し、ぼろぼろで形もわからない着物をひらひらさせながら、這うようにしてこそこそ進んでいく。何の布で何のためにこしらえた着物か、とうていわかりっこなさそうだ。色や地質から見て、どこか泥沼に生えていて、とっくの昔に腐りはてた植物の大きな葉の束みたいである。
アラン・ウッドコートが立ち止って子供のうしろ姿を眺めながら、こんなことを考えていると、前にこの子を見たことがあるに違いないという気持が、おぼろげに湧いて来る。どこでどういう場合にだったかは憶えていないが、あのすがたかたちを見ると何か思い出すものがある。どこかの病院か救護院で見たに違いないと思うのだが、どうして姿だけがこうも特に強く記憶に残っているのか、いまだにわからないのだ。
彼がこんなことを考えながら、トム・オール・アローンズ通りからしだいに朝の光の中へと出ようとしている時、背後に人の駈ける足音を耳にしたので、ふり返ってみると、例の子供が全速力でこちらへ走って来て、その後からさっきの女が追い駈けて来るのが見える。
「その子をつかまえて、つかまえて下さい!」息を切らさんばかりにして女が叫ぶ。「その子をつかまえて下さあい!」
彼は急いで道の向う側の子供の方へ駈け寄るが、子供の方が素早くて――ひょいと身をかわし、屈み込むと彼の手の下をするりと抜け、彼の向う五、六ヤードのところを駈けてゆく。それでもまだ女は、「その子をつかまえて、お願いです!」と叫びながら追い駈ける。てっきりあの子が女の持物を盗んだと思ったアランは、一緒になって追い駈け、スピードを上げたので数回にわたって追いつきそうになる。ところがそのたびごとに子供は身をかわし、屈んで下をすり抜け、また駈け出すのだ。こうした場合に子供をなぐれば、打ち倒し走れなくさせることもできようが、追っ手はとてもそんな気にはなれない。そこでこうしたばかばかしいいたち[#「いたち」に傍点]ごっこが続くことになる。とうとう最後に追いつめられた子供は狭い袋小路に逃げ込んでしまう。腐りかかった板塀の際まで追いつめられた子供は、倒れると追っ手の足もとではあはあ息をはずませている。追っ手の方も立ち止ると、息を切らせて女がやって来るのを待つ。
「まあ、ジョーったら!」女が叫ぶ。「どうしたのよ! やっと見つけたわね!」
「ジョー」アランもおうむ返しにいうと、子供をしげしげと見つめる。「ジョー! まてよ。そうだ! 思い出した! だいぶ前にこの子は検屍官の前に呼び出されたんだった」
「そうだよ、前に死体ひんもん[#「ひんもん」に傍点](審問のつもり)の時に、おじさんに会ったことあるよ」ジョーはなさけない声でいう。「どうしておいらみたいなかわいそな奴ほうっといてくんないんだい? まだおじさんにゃかわいそに見えねえってのかい? どれっくらいかわいそになりゃいいってんだい? おいら年がら年じゅう、ガミガミこづき廻されてんだ。はじめはこっちの奴に、次はあっちの奴にって、しまいにゃおいらの方が骨と皮ばかりになっちまわァ。死体ひんもん[#「ひんもん」に傍点]だっておいらが悪いことしたんじゃないんだぜ。このおいらは何もしなかったんだ。あのおじさんがおいらに親切にしてくれたんだ。あのおじさんはな。おいらが道の掃除をしているとき話し相手になってくれたなァ、あのおじさんだけだったんだ。あのおじさんじゃなくて、おいらの方が死体ひんもん[#「ひんもん」に傍点]になりゃよかったんだ。いっそのことこのおいらの方がどぶりんこ[#「どぶりんこ」に傍点]とやっちまやよかったんだ。ほんとだよ」
子供のいい方がひどくいたいたしく、その頬を伝わるよごれた涙にひどく真情がこもっており、また板塀際の隅に倒れてころがっているその格好が、いかにも不潔と不注意からそこに生えて出た有毒きのこか何かのように見えて来るために、アラン・ウッドコートは子供を憐れに思いはじめる。彼は女に向って、「かわいそうに、この子が何をしたのですか?」
すると女は、倒れている子供に向って、怒るというよりは驚き呆れたというふうに頭を振りながら、ただこう答えるだけだ。「まあ、ジョー、ジョーったら。やっと見つけたわね!」
「この子が何をしたんですか? 何か盗みでもしたのですか?」
「いいえ、とんでもない。盗みですって? この子は私に親切なことしかしませんでしたわ。それがふしぎなの」
アランはジョーから女へ、また女からジョーへと視線を移しながら、どちらかが謎を解いてくれるのを待っている。
「でもこの子は私と一緒だったんですよ」女がいう――「ジョーったら! ええ、私と一緒だったんですよ、スントールバンズで。病気になって、そしたらお嬢さんが――ご親切にも私にやさしくして下さった方なんですけど――この子をかわいそうだとお思いになって、私にゃとても勇気が出なかったんですけど、お家へ連れていかれて――」
アランは急にぎょっとして子供からあとずさりする。
「そうなんです。お家へこの子を連れていかれて、楽にしてやって下さって。それなのにこの子ったら恩知らずにも、その晩に逃げ出しちゃって、それ以来音沙汰なし。やっとつい今さっき見つけたんですよ。それにあのかわいらしいお嬢さんにこの子の病気がうつっちゃって、きれいなお顔がだめになっちゃって、あの天使みたいなお気だてと、きれいなお姿と、きれいなお声がなければ、まるで別人としか思えなくなってしまったんですよ。わかるかい、お前? この恩知らず! それというのも、みんなお前のせい、お嬢さんがお前にやさしくして下さったせいなのよ!」こうつめ寄りながら、女はその時のことを思い起すと怒りがまた燃え出し、どっと涙にくれてしまうのである。
子供は血のめぐりは悪いなりに今聞いたことで愕然としたのか、きたならしい手のひらできたならしい額をこすりはじめ、地面を見つめたまま頭の先から足の先までふるえ出すものだから、よりかかっているよたよたの板塀が、がたがたと音を立てる。
アランは穏やかな身ぶりで、しかし完全に女を制すると、
「リチャードがいっていましたが」彼はここで口ごもってしまう。「――いえ、私もそのことは聞いていますが――ちょっとのあいだ私にかまわないで下さい。すぐまた口をききますから」
彼はそっぽを向くと、しばらくの間おもての方の屋根つきの路地を眺めて立っているが、また戻って来ると、落ちつきをとり戻している。ただしこの子供に近寄りたくないという気持と戦っているのがありありと見えるので、女はそれを見てあっけにとられている。
「奥さんのおっしゃることを聞いたろう。さあ立て、立て!」
ジョーはがたがたふるえ、ぶつぶついいながら、ゆっくり立ち上り、こうした連中が困りはてた時によくやるように、板塀に向って横ざまに片方の突き出た肩をもたせかけ、そっと右手で左手をこすり、左足で右足をこするのである。
「奥さんのおっしゃることを聞いたろう。みんな本当のことだ。私も知っている。お前はその時からずっとここにいたのかい?」
「今朝の今朝になって、トム・オール・アローンズに来たんだよ。嘘だったら首やるぜ」ジョーがしゃがれ声で答える。
「じゃなぜ今日になってここにやって来たんだ?」
ジョーは袋小路になった空き地をぐるりと見廻すと、尋ねるアランの膝のあたりまでしか目を上げずに、やっと答える。
「どうしたらいいかわかんないし、何にもすることねえからだよ。すっからかんで病気にゃなるしで、誰も見てねえ時にここにやって来て、暗くなるまでどっかに隠れて寝てようと思ったんだ。暗くなったらスナグズビーのおじさんとこへなんか貰いにいこうと思ってよ。あのおじさんはいつでも喜んでおいらになんかくれるんだ。おばさんの方はみんなとおんなじで、いつもおいらのことガミガミいってばかりいるけどよ」
「どこからやって来たんだい?」
ジョーはまた空き地をぐるりと見廻すと、きき手の膝をじっと見つめ、最後にあきらめたように横向きになって頬をべたりと板塀に押しつける。
「おい、聞えたのかい? どこからやって来たんだい?」
「乞食してたんだ」
「なあ、おい、教えておくれ」アランは一所懸命になって嫌悪の情を抑えると、子供のすぐ傍に寄り、打ち解けるような顔つきで屈み込みながら、言葉を続ける。「教えておくれよ。お嬢さんがお気の毒にもお前をかわいそうだとお思いになって、お家へ連れていって下さったのに、どうしてお前はそのお家から逃げ出したんだい?」
ジョーは突然あきらめたような態度をがらりとすて、興奮した口調で女に向ってしゃべり出す。おいらはお嬢さんのことなんかなんにも知らねえ。なにも聞いたことねえ。その人をひどい目に会わす気なんかなかったんだ。そんなくらいなら自分がひどい目に会った方がいい。お嬢さんに近寄るくらいなら、このおいらの首をちょん切っちまう方がいい。あのお嬢さんはとっても親切にしてくれたんだよ。こう、たどたどしいなりに、本気でまじめでいっているのだよといわんばかりにしゃべり終ると、最後に悲しそうにしゃくり上げる。
アラン・ウッドコートには嘘ではないことがわかるので、やっとの思いで手を差し伸べて子供にさわると、「さあ、ジョー、教えておくれ」
「だめだ、こわいよ」ジョーはまた板塀に横向きにへばりついてしまう。「だめだ、こわいよ。しゃべりたいんだけど」
「でも、ぜひ聞きたいんだよ」アランがいう。「そら、ジョー」
二度、三度こううながされると、ジョーはまた顔を上げ、あたりを見廻してから低い声でいう。「うん、教えてやろう。おいら、連れ出されたんだ。あそこから」
「連れ出されたって? 夜中にかい?」
「うん!」盗み聞きされるのをおそれるように、ジョーはあたりを見廻し、十フィートばかり上の板塀のてっぺんを見上げたり、その割れ目を覗いたりする。彼のこわがっている相手が上から覗き込んでいないか、向う側に隠れていないか、とでもいうように。
「誰に連れ出されたんだい?」
「おいらこわくていえねえよ。いえねえんですよ」
「でも、あのお嬢さんのお名前にかけても知りたいんだ。私を信用して大丈夫だ。誰にもしゃべらないから」
「でも、あいつがどこで聞いてねえかもわかんねえ」ジョーはこわそうに首を振りながら答える。
「だって誰もここにいないじゃないか」
「でも、本当かい? あいつはいちどきにどこにでもいるんだから」
アランはいぶかしげに子供の顔を見つめるが、この奇妙な答えの底には何か本当の意味と、まじめで信じているものがあるらしいと気づく。彼は辛抱強くジョーがはっきりした答えをいってくれるのを待っている。ところがジョーは、辛抱強く待たれるとますますどぎまぎしてしまい、とうとう最後にどうとでもなれとばかり、彼の耳に誰かの名前をささやく。
「ええっ?」アランが叫ぶ。「お前何をしたんだい?」
「何にもしなかったんだよ。やっかいごとにまき込まれるようなことは、何にもしたことねえよ。道で立ち止ってたのと、死体ひんもん[#「ひんもん」に傍点]に出たのは別だけどね。でも、今はおいら、立ち止っていねえよ。墓場に向ってどんどん歩いてるんだ――おっつけそうなるに決ってるんだ」
「大丈夫だ。私たちがそうならないようにして上げるから。でもその男がお前をどうしたんだい?」
「おいらをお助け病院に入れたんだ」ジョーは小声で答えた。「おいらがそこを出されると、金をちびっとくれた――半ブル、つまり半クラウン(3)を四つくれてから、『いっちまえ! ここじゃお前に用はない』っていうんだ。『いっちまえ。乞食しながらゆけ』っていうんだ。『立ち止っちゃいかんぞ』っていうんだ。『ロンドンから四十マイル以内のところでおれの前に姿を見せるなよ。見せたら後悔するぞ』だからあいつに見つけられると、おいら後悔することになるんだ。それにおいらがこの地面の上にいれば、きっとあいつはおいらを見つけちまうんだ」そういい終るとジョーは、またおどおどしながら前のような用心を繰返す。
アランは少し考え込んでから、ジョーの方を元気づけるように見つめながら、女に向っていう。「この子はあなたが考えているほど恩知らずじゃありませんよ。家を逃げ出すにはそれだけの|理由《わけ》があったのですから。納得のいくだけの|理由《わけ》とはいえませんがね」
「有難う、おじさん」ジョーが叫ぶ。「それごらんよ、おばさん! おいらのことあんなにいうなんてひどいよ。でも、このおじさんのいったことをあのお嬢さんにいっといてくれよね。そうすりゃ悪く思わないよ。だっておばさんもおいらにやさしくしてくれたもんね。おいらわかってるよ」
「さあ、ジョー」アランは子供をじっと見つめながらいう。「私と一緒にいこう。ここよりもっと寝て隠れるのにいい場所を見つけてあげるから。人目にたたぬよう、私はこちら側、お前はあちら側を歩くことにするから、絶対に逃げ出さないね。約束してくれるね」
「逃げやしないよ。あいつ[#「あいつ」に傍点]がやって来るのが見えるんじゃなければね」
「よし、お前を信用しよう。もうロンドンの半分の人が起きかかっているだろうし、もう一時間もするとロンドンじゅうの人が起き出すだろう。さあ、出かけよう。奥さん、さようなら」
「さようなら、先生。いろいろと有難うございました」
これまでカバンの上に腰を下して、じっと二人のやりとりを見守っていた女は、立ち上るとカバンを手に取った。ジョーはまたも、「あのお嬢さんをひどい目に会わすつもりはなかったんだよって、このおじさんのいったことをお嬢さんにいっといてくれよ!」と繰返してから、首をふりふり、足をひきずり、ぶるぶる身ぶるいしながら、額をこすったり目をぱちぱちさせたりして、泣き笑いしながら女にさよならし、アラン・ウッドコートのあとから、道の反対側を家にぴったりくっつくようにして、こそこそ進んでゆく。このようにして二人はトム・オール・アローンズ通りから、明るい日の光と、もっときれいな空気の中へと出てゆく。
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第四十七章 ジョーの遺言
アラン・ウッドコートとジョーが通りを歩いてゆくと、朝の光に照らされて、遠くの方の高い教会の塔までが近くにくっきり浮んで見え、まるで町までが一晩休んで元気を取り戻したようである。みちみちアランは心の中で、この連れをどこでどんな具合に泊めてやったらいいか、といろいろ考えをめぐらす。「まったく奇妙な話だ」彼は考える。「この文明世界のまっただ中で、人間の形をしたこの子供の方が、宿なし犬よりも始末をつけにくいなんて」しかし奇妙だといってもやはり事実は事実なので、つけにくいことには変りない。
はじめのうちは彼もしばしばうしろを振り向いて、本当にジョーがあとからまだついて来ているか確かめていた。ところがいつ見ても、子供はあい変らず彼のうしろの道の反対側を、煉瓦を一つ一つ、戸口から戸口へと用心深く手さぐりしながら、何度も何度もしげしげとアランの方を見つめながら、ついて来るのが見える。じきにあの子は逃げる気が全然ないのだと得心がいったアランは、今度はどうしたらいいかという問題の方を専一に考えながら歩き続ける。
街角の朝食の屋台店を見て、まず第一にすべきことを思いつく。彼は立ち止まり、振り返るとジョーを手招きする。ジョーは道を横切って、もじもじしながら、足を引ずるようにしてやって来る。ゆっくり右手の握りこぶしでくぼんだ左の手のひらをこすりながら――まるで人間のすりばちとすりこぎで泥をこねているみたいに。ジョーにとっては大ご馳走が前に並べられ、子供はコーヒーを飲み、バターパンを噛みはじめる。まるでおびえた動物のように、食べたり飲んだりしている間も、おどおどとあたりを見廻すのである。
ところが子供は気の毒なほどすっかり弱りきってしまい、飢えまでなくしてしまったらしい。「おいらさっきまでは腹ぺこでおっ|死《ち》にそうだったけんど」ジョーはすぐに食物を下においてしまう。「今はこいつもわかんねえよ。|食《く》いもんも飲みもんもほしくねえ」そしてジョーはがたがたふるえながら、ふしぎそうな顔をして朝食を見つめて立っている。
アラン・ウッドコートは子供の脈をとってみてから、心臓の上に手を当てる。「ジョー、息を吸ってごらん!」「まるで荷車みたいに重たいよ」ジョーがいう。「荷車みたいにガタが来てるんだよ」といってもよかったのだが、ただ「立ち止まりませんよ、どんどん歩きますよ」とつぶやくだけだ。
アランは薬屋はないかとあたりを見廻す。近くにはないが、居酒屋でも間に合う。ぶどう酒を少し買って来ると、注意しながらちょっぴり子供に飲ませる。口に入るか入らぬうちに、子供は元気を回復する。その顔をじっと見つめてからアランはいう。「またあとでもう一杯あげるからね、ジョー。さあ、五分ばかり休んでから、また出かけよう!」
屋台店のベンチの上に坐り、鉄の柵に背をもたせかけているジョーをそのままにして、アラン・ウッドコートは朝の光に照らされてあちこち歩き廻りながら、ときどきそれとなく子供の方をちらちらと見る。ジョーが温まって元気を取り戻したことは、誰が見ても簡単にわかる。あんな黒ずんだ顔でも明るくなるものかどうかわからないが、そんな顔でもやや明るくなって来て、さっきあきらめて下に置いてしまったパンをちょびちょびと少しずつ食べる。これだけ元気になったのだからと、アランは子供の口をほぐれさせ、ヴェールをかぶった婦人の物語と、その後に起きたいきさつを聞き出して大いに驚くのである。ジョーはゆっくり話しながら、ゆっくりパンを食べる。話が終り、パンも食べ終ると、二人はまた出発する。
子供の当座の仮住いを見つけるのに難渋して、昔の患者だった熱心なフライトばあさんに相談しようと、アランは彼とジョーがはじめて出会った、あの袋小路へと子供を連れてゆく。ところが例の古衣・|古罎《ふるびん》商の店のところは、すっかり変ってしまい、フライトばあさんはもはやそこに下宿していないし、店は閉っていて、一人のこわい顔をした女――埃でひどく黒ずんでいて、齢はいくつくらいかまるでわからないが、例のジューディその人なのである――が、簡単にそっ気なく返事をする。しかしそれでもアランには、フライトばあさんとその鳥が、ベル・ヤード町のブラインダーのおかみさんとかいう女の家に住んでいることは充分わかったので、すぐ近くのその家へと出かけてゆく。するとフライトばあさんは(彼女の大の親友大法官閣下が開かれる正義の集会に、時間きっかりに出かけられるように、早起きするので)階段を駈け下りて来ると、腕をひろげ涙を流して歓迎してくれる。
「まあ、先生じゃありませんか! わがいとけだかき、仁慈あふるる名医殿!」おばあさんはへんな呼び方をするけれども、正気の許す限りは――いや今朝はいつもよりもっと――まごころこめて迎えてくれる。アランは相手が夢中になって並べたてる讃辞が、たね切れになるまでじっと我慢して聞いてから、戸口のところでがたがたふるえているジョーを指差し、ここにやって来た次第を物語る。
「当分の間このあたりに、この子を泊めるところありませんかね? あなたは知識も良識も豊富に持っていらっしゃるから、いい忠告を与えて下さるだろうと思って」
こうおだてられるとフライトばあさんは、すっかりいい気持になって考え込む。しかしすばらしい考えが浮ぶまでにはずいぶん時間がかかる。ブラインダーのおかみさんの家の部屋は全部ふさがっているし、私自身はあのかわいそうなグリドリーのいた部屋に住んでいるのだしと、これを二十ぺんくらい繰返してからはたと手を打ち、「グリドリー! グリドリー! そうだわ! 決っているわ! 先生! ジョージ将軍が力になってくれますよ」
ジョージ将軍というのがどういう人なのか、おばあさんに死ぬまで尋ねても、とても無駄骨折りに終ったことだろう。それでも彼女はきつい帽子とみすぼらしいショールと、書類の入った手提げを取りにすぐ駈け上っていき、こういった七つ道具を全部揃えて下りて来てから、辻つまの合わない言葉ながらに、ジョージ将軍は彼女のよく訪ねていく人で、親友フィツ・ジャーンディスの知人でもあり、私に関係したすべてのことに大いに関心をもっている人です、と説明してくれるので、アランはそれなら出かけていっても無駄足にはなるまい、と考えるようになった。そこでジョーに、もうあとあんまり歩かなくてもいいんだから、といって元気づけてやってから、一同は将軍の家へ出かけてゆく。いいあんばいにそこはさほど遠からぬ所である。
ジョージの射撃練習場の外観とか、その長い入口とか、入ってから見る中のさむざむした風景などから推して、アランはここならよさそうだという予感がする。また朝の練習をしていたジョージその人が、口にパイプをくわえたまま、襟飾りもつけず、薄いシャツの袖の下に、刀と亜鈴で鍛え上げたりゅうりゅうたる筋骨を盛り上らせて、一同の方にのっしのっしと歩いて来る姿を見て、頼もしそうだと好感が持てるのである。
「いらっしゃいませ」ジョージ軍曹は彼に向っていうと、軍隊風に一礼する。次にフライトばあさんが仰々しい態度でながながと紹介の儀式をとりおこなっている間、広い額から短いちぢれ毛までの顔一面を愉快そうにほころばせながら、彼女に向って敬意を表するのだが、それが終るともう一度、「ようこそいらっしゃいました」と挨拶してから、もう一つ最敬礼をする。
「失礼でありますが、海軍の方でいらっしゃいますね?」ジョージがいう。
「格好だけでもそう見えて光栄ですが」アランは答える。「実のところは、ただ船医をしたことがあるだけです」
「そうでありますか。てっきり海軍の方とばかり思っておりました」
アランは、そういうわけでありますので、お邪魔したことをどうかお許し下さい、といってから、特に、ジョージが礼儀上くわえていたパイプを遠慮しようとしていたので、どうぞそのままパイプをすって下さい、という。
「どうもご親切痛み入ります」騎兵軍曹が答える。「これまでの経験から、フライトさんはたばこが平気なことは知っております。あなたさまもかまわないとおっしゃるのでしたら――」と、そこまでいってから、またパイプを口にくわえる。アランはジョーについて知っている限りのことを全部彼に話すと、ジョージは真剣な顔をして聞き入る。
「で、あれがその子というわけでありますか?」入口の向うに立っているジョーの方を見ながら、彼が尋ねる。子供は意味がわかるわけでもないのに、白い正面の壁に書かれてある大きな字をじっと見つめているのである。
「あれがその子なんです」アランが答える。「それで今私は、あの子のことでたいそう困っているのです。かりにすぐ病院に入れて貰えるにしても、私は病院には入れたくないのです。といいますのは、何とか無理にでも入れたとしても、すぐに逃げ出してしまうことがわかりきっているからなのです。救貧院についても同じことなのです。かりにあの子をそこに入れて貰おうと思って、あっちこっちをたらい廻しにされて、それでも私がかんしゃくを起さなかったとしてのはなしですがね――とかく、こうしたお役所仕事というのは、私は気に入らんのですよ」
「誰だってそうであります」と、ジョージがいう。
「どちらに入れて貰っても、すぐにあの子は逃げ出してしまうにきまっているのです。なにしろ、自分を追払ったその男をひどくこわがっていまして、その上無知なものですから、その男はどこにでもいて、何でも知っていると信じ込んでいるのですから」
「失礼ですが」ジョージがいう。「その男の名前をまだうかがっておりませんが、それは秘密なのでありますか?」
「あの子は秘密だといっていますが、バケットという名の男です」
「警部のバケットでありますか?」
「そうです」
「その男なら自分は知っております」軍曹はたばこの煙を雲のように吹き出し、ぐっと胸を張ってから答える。「その男が――その、にが手だという点では、あの子のいう通りであります」こういいながらジョージは、何か深く意味ありげにたばこをすいながら、黙ってフライトばあさんの方を見つめる。
「さて、私はジャーンディスさんとサマソン嬢に、少なくともこの妙な話をするジョーが見つかったことくらいをお知らせして、もしお望みでしたら、あの子と話をしていただきたいと思っているのです。というわけで、当座のところ、あの子を泊めてもいいといって下さる、どなたか確かな方の安い下宿へ連れていきたいわけなのですが、ジョージさん」軍曹の目につられて入口の方を眺めながら、アランがいう。「ご覧のとおりジョーは、これまで確かな方との近付きがあまりありませんので、それで困ってしまうのですよ。このご近所で、私が部屋代を代って前払いすれば、あの子をしばらく下宿させてもいい、というような方をひょっとしてご存知ありませんでしょうか?」
こう尋ねた時アランは、一人の顔のうすよごれた小男が軍曹の傍に立って、顔をへんにしかめながらじっと軍曹の顔を見つめているのに気がつく。軍曹がしばらくたばこをすってから、横目でその小男を見ると、男は目顔で何かを伝える。
「はっきり申し上げますが」ジョージがいう。「サマソン嬢のお気に召すことでありましたら、いつでも喜んで犬馬の労を惜しまぬつもりであります。どんなつまらぬことでも、あのお嬢さんのお役に立つのは光栄と思うものであります。もともと自分たちは、自分もフィルもでありますが、ここで風来坊的生活を送っております。この家をご覧下されば、どんな所かすぐおわかりになるはずであります。もしそれでよろしいというのでありましたら、どこか静かな一隅を喜んであの子のために提供いたします。糧食代だけで、部屋代はいらないであります。自分たちはさほど金まわりのよい暮しではありませんし、いつなんどき立ちのきをくわされるかわからない状態でありますが、こんな場所でよろしければ、ここに住んでいられる間は、喜んでお役に立ちたいであります」
ジョージ軍曹は家中一切合財全部ご自由にお使い下さい、というように、パイプをひとふりする。
「あなたさまはお医者さまでありますからお尋ねしますが」彼はつけ加えて、「あの気の毒な子供から伝染の危険は、今のところないでありましょうね?」
それは絶対大丈夫です、とアランが答える。
「なにしろ伝染病はもうたくさんでありますから」ジョージは悲しそうに頭を振りながらいう。
するとアランも同じくらい悲しそうな口調で、まったくそうですねという。そして繰り返し伝染の心配はありませんと請け合ってから、「でも、困ったことですが、あの子はひどく弱っています。ひょっとすると――確実にそうだ、とは申しませんが――もう、もと通り元気にはなれないかもしれません」
「現在もその危険がある、とお考えでありますか?」軍曹が尋ねる。
「ええ、そうです」
「それでは」軍曹は断固たる口調で、「一刻も早くあの子を外から連れて来る方がよいと――自分ももともと風来坊でありますから――思います。おい、フィル! あの子を連れて来い!」
スクウォッド氏は命令を実行すべく、片一方にばかり寄る歩きぐせで入口の方へ出ていき、軍曹はすい終えたパイプを傍に置く。ジョーが連れて来られる。彼はパーディグル夫人のトカフーポのインド人の子供でもなければ、ボリオブーラ・ガーとも無関係だから、ジェリビー夫人の仔山羊でもない。遠くに住んでいて見なれないが故にいたわられる人種ではなく、純粋に外国育ちの野蛮人でもない。ただの普通の国産品なのだ。見たところは汚ならしく、醜く、いやらしく、肉体はありふれた普通の街の浮浪児で、魂だけが異教徒なのである。国内産の|垢《あか》にまみれ、国内産の寄生虫にむしばまれ、国内産の傷を負い、国内産のぼろをまとっている。イギリスの土地と風土から生まれた国産の無知のために、神さまからさずかった彼の不滅の性質が、|亡《ほろ》び|失《う》せる|獣《けもの》(1)より卑しく劣るものとなっている。ジョー、さあ、ありのままの旗をはっきり掲げて、そこに立つがいい。おまえの足の裏から頭のてっぺんまで、何ひとつとして関心をひくものとてないのだ。
彼はこそこそとした足どりで、ジョージの射撃練習場へゆっくりと入って来ると、床の上を見廻しながらぼろを着たからだをちぢこまらせて立っている。みんなが、ジョーそのものをきらってか、またそのまき散らす害のためかはともかく、自分を敬遠したがっていることは知っているらしい。彼の方でも普通の人間を敬遠するのだ。あの人たちと同じ部類の人間でもなければ、同じ場所で神さまから|創《つく》られた人間でもない。彼は何の部類にも属さず、どこの場所の者でもない。動物でもなければ、人間でもないのだ。
「おい、ジョー、こちらがジョージさんだよ」アランがいう。
ジョーは床の上をうろうろと探し廻っているが、ちょっと目を上げてから、また目を伏せる。
「お前に親切にして下さるんだ。ここでお前を泊めて下さるんだからね」
ジョーは片手でしゃくうような格好をするが、きっとお辞儀のつもりなのだろう。さらにしばらく考え込みながら、あとずさりしたり、足を動かしたりしていたあげくの果てに、ぼそぼそと「ありがてえです」という。
「ここにいれば安心だよ。しばらくの間はいうことをよくきいて、身体を元気にすることだな。それから、いつでも本当のことを話すんだよ、ジョー」
「嘘ついたら首やるぜ」ジョーは彼お得意の言葉をまた使う。「おいらのやったこととか、厄介ごとに巻き込まれたとか、みんな話したぜ。他の厄介ごとなんか一つもねえよ。おいらにゃ何もわかんねえことと、腹ぺこなことは別だけんどな」
「よしよしわかった。今度はジョージおじさんのいうことを聞くんだよ。おじさんがお前に話があるらしい」
「自分がやりますことは」ジョージは驚くほどはっきり率直にいう。「この子が横になって、ぐっすりよく眠る場所を教えてやるだけであります。さあ、こっちへおいで」軍曹はそういいながら、二人を射撃練習場の向うの端まで案内し、小部屋の一つの戸を開ける。「さあ、ここだよ! これがふとんだ、ここで行儀よく、この先生――ええと、失礼しました」そうあやまりながらアランがくれた名刺を見て、「ウッドコート先生のおっしゃる通りにおやすみ。ピストルの音を聞いても驚くなよ。|的《まと》に向けて射つんで、お前を射つんじゃないからな。さて、もう一つやることがあると思うのでありますが」と、軍曹はアランに向っていってから、「フィル、ここに来い!」
フィルはいつもの歩き方で、急に二人に襲いかかって来る。
「この男は町中で捨て子にされ、育って来た男であります。でありますから、当然あの気の毒な子供に関心を持つことでありましょう。そうだろう、フィル?」
「その通りでさあ、親分」フィルが答える。
「そこで自分は考えたのでありますが」軍曹はまるで前線で急に召集された参謀会議で、軍機の秘密に関する意見を述べているみたいな口調で、「この男があの子を浴場へ連れてゆき、二、三シリング出して粗末な着るものでも買ってやりましたら――」
「ジョージさん、よく気がついてくれましたね。私もちょうどそれをお願いしようと思っていたところなんです」アランは答えると財布を取り出す。
フィル・スクウォッドとジョーが男前をあげるためにすぐさま出かけると、フライトばあさんは自分のもくろみが万事うまくいったのを大喜びし、意気揚々と裁判所へ出かけてゆく。そうしないと親友の大法官閣下が彼女のことを心配したり、または彼女のいない間にかねてから待ちわびていた判決を下してしまうといけないからである。「ねえ先生、将軍さん、そんなことにでもなったら、何年も待っていたのが水の泡になってしまいますもの!」アランもついでに出かけて、強壮剤を近くの店で買って戻ってみると、軍曹が射撃練習場の中をあちこち歩き廻っている。そこで彼も一緒に並んで歩き出す。
「先生は」ジョージがいう。「サマソン嬢をよくご存知のようにお見うけしますが」
ええ、まあ。
「ご親類ではないのですねえ?」
ええ、まあ。
「こんな立ち入ったことを申して失礼でありますが、サマソン嬢がお気の毒にもあのかわいそうな子供に関心を抱かれたので、先生もあの子になみなみならぬ関心を抱いておられるのではないか、とそんな気がしたのであります。これはあくまで自分だけの考えでありますが」
「私の[#「私の」に傍点]考えも同じですよ、ジョージさん」
軍曹は横目でアランの陽にやけた頬や、黒いきらきらした目をちらと見、彼の背丈や体格をざっと見渡してから、この人ならば気に入ったというような様子だ。
「先生が外にお出かけになってから、考えていたのでありますが、あの子の話でバケットに連れてゆかれたという、リンカン法曹学院広場の法律事務所は、自分には間違いなくわかっているつもりであります。あの子はその名前を知りませんが、自分はお教えすることができます。タルキングホーンであります。間違いありません」
アランはその名をおうむ返しに唱えながら、軍曹の顔をまじまじと眺める。
「タルキングホーンという名前であります。自分はその男を知っております。またその男が以前、彼に侮辱を加えたさる故人に関して、バケットと連絡をとっていたことも知っております。この自分はその男を知っているのであります。残念ながら」
当然のことながらアランは、その人はどんな人ですか、と尋ねる。
「どんな男かって? 見た目のことでありますか?」
「見た目くらいは私も知っているつもりです。私の申すのは、つき合ってみて、のことです。一般的にいって、どんな人ですか?」
「それでは申し上げます」軍曹は答えると急に足を止め、がっしりした胸の前で腕を組むが、いかにも怒ったような様子で、顔じゅうがかっかとほてっている。「その男はめちゃくちゃに悪い奴であります。じわりじわりといじめるたぐいの男でありまして、あそこにあるさびだらけのカービン銃同様、血も涙もない奴であります。これまで自分がつき合った全部の人間以上に、自分に心配と不安を与え、自分がいやになるように仕向けた奴であります。タルキングホーンとはそういう男であります!」
「気を悪くなさるようなことをお尋ねしてすみませんでした」アランがあやまる。
「気を悪くですって?」アランは両足を広く開いて、大きな右手のひらを濡らすと、ありもしない口ひげをひねる真似をする。「いえ、先生が悪いのではありません。先生に判断して頂こうと思っているだけであります。あの男は自分の弱いところを握っておるのであります。さきほども申しました通り、自分にいつなんどきでもこの家から立ちのきを食わすことのできるのは、この男であります。こいつは自分をいつまでも蛇のなま殺しのようにいたぶるのであります。自分に向って来ようともいたしませんし、さりとて手を引こうともいたしません。自分が金を支払いにいきましても、またしばらく待って貰いたいと頼みにゆきましても、あいつに何の用がありましても、あいつは自分に会おうともせず、自分の申すことを聞こうともせず――クリフォード法学予備院のメルキゼデクのところへいけといいます。クリフォード法学予備院のメルキゼデクはまたあいつのところへいけといいます。あいつは自分をぐるぐるたらい廻しにしておいて、まるで自分をあいつと同じ石でできた人間と思っているみたいであります。自分はこれまでの半生を、あいつの事務所の戸口のまわりをうろついたり遠ざけたりして、過したことになります。あいつはいったい何を考えているのか? なんにも考えておりません。さっきたとえ[#「たとえ」に傍点]に引きましたさびだらけのカービン銃と同じであります。あいつは自分をいたぶり、いじめ、最後に自分はわれを忘れ――とんでもありません、そんなことするものですか! ウッドコート先生」軍曹はまた歩き出す。「自分の申し上げたいことはこうであります。あいつは年寄りでありますが、自分は名誉の戦場で馬に拍車をくれて、あいつと一戦を交えることのないよう望んでおります。そんなことがありましたら、あいつのおかげでかっかとなっておりまする自分は――あいつを打ち倒してしまうでありましょうから!」
ジョージ軍曹はひどく興奮してしまい、シャツの袖で額の汗を拭わねばならない。興奮をしずめようと国歌を口笛で吹いている間にも、まだつい思わず知らず頭を振ったり、胸をふくらませたりしてその名ごりを見せる。時には|咽喉《のど》がつまるような気持に襲われるのか、両手でもう充分開いているシャツの襟を、あわてて開けようとさえする。要するに、さっきの話に出た名誉の一戦を交える機会があれば、タルキングホーン氏を打ち倒すことは疑いないように、アラン・ウッドコートには思われる。
ジョーと付添人がまもなく帰って来ると、子供は思いやりのあるフィルの手でふとんに寝かされる。アランはまず自分で薬をジョーに与えてのち、フィルに必要な手筈を教えておく。この頃には朝もだいぶ遅くなりかかっているので、アランは下宿に戻って着替えと朝食を済ませてから、休息をとろうともせず、ジャーンディス氏のところへこの発見のニュースを知らせに出かけていく。
ジャーンディス氏は彼と一緒に戻って来ると、ある理由からこの件はぜひ内証にしておいて下さいと頼み、ひどく関心を寄せる様子。ジョーはジャーンディス氏に向って、今朝話したことと大体においてあまり変りない話を繰返す。ただ彼の荷車がますます重く引っぱりづらくなって、もっとうつろな音がする。
「おいらをここにそっと置いといとくれよ。もうガミガミはご免だよ」ジョーはおろおろ声でいう。「誰かおいらがもと掃除をしていたあたりを通りかかる人がいたら、スナグズビーのおじさんにいっとくれよ。ジョーは立ち止まらないで、どんどん仕事をやってるって。おいら恩に着るぜ。おいらみたいな運の悪い子にもお礼がいえるんだったらね」
ジョーが一日二日のうちにあんまり法律文具商のことを口にするので、親切なアランはジャーンディス氏と相談してから、クック小路へ出かけようと決心する。というのは荷車がいまにもこわれそうだからだ。
そこで彼はクック小路へ出かけてゆく。スナグズビー氏はいつもの灰色の事務服に袖をつけた姿で机のうしろに坐り、代書屋から送られて来たばかりの、数枚の羊皮紙に書かれた契約書を点検している。法律書体と羊皮紙の果てしない砂漠の中にも、あちらこちらに大きな字で書かれたオアシスがあり、恐るべき単調を破り旅人を絶望から救ってくれる。スナグズビーはこうしたインクで書かれたオアシスの泉の一つで露営をすると、いつもの仕事の前ぶれである咳ばらいをしてから、お客さまを迎える。
「スナグズビーさん、私を憶えていらっしゃいませんでしょう?」
文具商の心臓はどきどきしはじめる。彼の昔の心配がまだおさまっていないからである。こう答えるのがやっとだ。「はい、憶えがございません。どうも、わたくしは――ありていに申せば――まえにお目にかかったことはないように思いますが」
「二度ほどまえにお会いしました」アラン・ウッドコートがいう。「一度はさる貧しい人の枕辺で、もう一度は――」
「とうとうやって来たか!」記憶がぱっとよみがえると、文具商は苦悶の態で考える。「とうとうお|蔵《くら》に火が廻ったか、もう爆発寸前だ!」しかし彼も客を小さな奥の間に案内して、ドアを閉めるだけの落ち着きはもっている。
「あなたには奥さまがおありですか?」
「いいえ」
「では、独身のお方でも、どうかできるだけ小声でお話し下さいませんか」スナグズビー氏は悲しそうにささやく。「家内がどこかで聞き耳を立てておりますんで。さもないとわたくしは仕事を止めなければならない上に、五百ポンドの罰金を払わされます!」
すっかりしおれたようにスナグズビー氏は椅子の上に腰を下ろし、背を机にもたせながら、なおもいいわけをする。
「わたくしは自分の秘密などございません。頭をいくらしぼり出しましても、家内が結婚の日どりを決めましてからこのかた、わたくしが自分から家内をだまそうとしたことなど、一度も思い出すことができません。だまそうと思ったこともありませんです。ありていに申せば、だますことなどできなかった、とてもこわくてそんなことはできなかったのです。ところが、それなのに、わたくしはまわりを秘密と謎でくるまれてしまい、もう生きるのが重荷となって参りました」
お客はそれはお気の毒ですねといってから、ジョーという子供を憶えておられますか? と尋ねる。スナグズビー氏はうなり出しそうになるのをぐっとおさえて、答える。とんでもありません!
「ジョー以上に家内から怨み骨髄に思われている人間なんて――わたくしを除けば――この世に一人もおりません」
アランは、それはまたどうしてですか? と尋ねる。
「どうしてですかって?」スナグズビーは死にもの狂いで、溺れる者が|藁《わら》ならぬ、自分のはげ頭のうしろの方に残った数本の毛を掴むと、おうむ返しにいう。「このわたくし[#「わたくし」に傍点]にそんなことわかるはずないじゃありませんか。でも、あなたは独身でいらっしゃいましたね。今後永いこと女房もちの男に、そんな質問をなさらないですむことを祈りますよ!」
このようなありがたい祈願を捧げると、スナグズビーはあきらめたというように不景気な咳ばらいをし、お客の話におとなしく耳を傾ける。
「またあのことですか!」スナグズビー氏は深刻な気持になったのと、声を無理におし殺したためとで、顔色が変ってしまう。「またあのことですか! 今度はからめ手からおいでなすった! ある一人のお方がジョーのことは絶対絶対誰にも、うちの家内にさえ話してはまかりならぬぞと、わたくしに断固たる口留めをなさいました。すると今度は別のお方――つまりあなたですが――がおいでなすって、他の人はともかくそのさっきの方には、絶対絶対ジョーの話をしてはならぬと、同じく断固たる口留めをなさいます。まるでここは気違い病院みたいですわ! まったく、ありていに申せば、ベドラム(2)ですわ!」
しかし結局のところは、思っていたほどひどくはない。スナグズビー氏の足下で坑道が爆発したわけでもないし、すでにおっこちている穴がさらに深まったわけでもない。その上もともと情にもろい上に、ジョーの病状について話を聞いてすっかりほろりとなってしまい、晩になってこっそり抜け出せるようになったら、できるだけ早く「見舞いにゆきますから」と進んで約束するのである。晩になると確かにこっそりやって来る。しかしスナグズビーの細君の方も、彼に負けずにこっそりやって来ているのかもしれない。
ジョーは昔なじみに会えて大喜び、二人きりになると、おいらみてえな奴のために、あんな遠くからわざわざやって来てくれるなんて、おじさんすまないね、とお礼をいう。スナグズビー氏は目の前の光景にすっかり心を動かされてしまい、さっそくテーブルの上に半クラウン銀貨(3)を置いてやる。これがあらゆる傷をいやす彼の魔法の妙薬なのである。
「それでお前、気分はどうだい?」スナグズビー氏は同情のこもった咳ばらいをしてから尋ねる。
「おじさん、おいらは運がいいんだ。もうなんにも欲しいものもねえんだ。おったまげるくらい気持がいいんだぜ。おじさん、あんなことしちまってご免ね。でも悪気があってやったんじゃねえんだよ」
文具商はもう一枚半クラウン銀貨をそっと置くと、何をあやまっているのだい? ときく。
「おじさん、おいらはあのお嬢さんに病気をうつしちまったんだ。でも、あのお嬢さんが文句いったんじゃねえんだぜ。みんなやさしくて、おいらがかわいそうなもんで、誰もおいらのやったことを何ともいわねえんだ。あのお嬢さんきのう見舞いに来てくれて、『ああ、ジョー! あなたもう見つからないのかと思っていたのよ!』っていってくれたんだ。それからにこにこ笑いながら黙って坐っていて、おいらのやったことに文句ひとついわないし、いやな顔ひとつしないんだ。おじさん、おいら壁の方を向いちゃったんだ。そしたらジャンダーズのおじさんも、そっぽを向いちゃったんだ。そいからウッドコット先生も、昼でも晩でもおいらに楽になるものをくれるんだけど、おいらの上に屈み込んで、元気に口はきいていたけど、見たらぽろぽろ泣いていたんだぜ」
ほろりとなった文具商はまたもう一枚半クラウン銀貨をテーブルの上に置く。この万能薬をとり出さないでは、彼のいっぱいになった胸がおさまらないのだ。
「ねえおじさん」ジョーが言葉を続ける。「おいら考えていたんだけど、おじさんでっかい字、書けるだろう?」
「ああ、書けるよ」
「ものすごいでっかい字、書けるだろう?」熱心な口調でジョーがいう。
「うん、書けるとも」
ジョーは嬉しそうに笑う。「じゃあ、おじさん、おいら考えていたんだけど、おいらがどんどんいっちまって、この先なしのどんづまりまでいっちまったら、お願いだ、おじさん、どこにもねえようなでっかい字で、こう書いてくんないかい? おいらあんなことしちまってすまねえ、悪気があってやったんじゃねえ。おいらなんにもわかんねえけど、ウッドコット先生が泣いていたのは知ってるし、気の毒だと思ったんだ。どうかおいらを許して貰いてえと思ってる。こうでっかく書いて貰えば、きっと先生許してくれるな?」
「ああ書いてやるとも、ジョー。うんと大きくな」
ジョーはまた笑う。「ありがとう、おじさん。ほんとにすまねえな。これで前よりずっといい気持になったよ」
やさしい文具屋のおじさんは、とぎれとぎれの咳ばらいを最後まで続けられずに、四枚目の半クラウン銀貨をそっと置く――こんなにたくさん銀貨のいる遺言依頼人に、こんなに身近に接したことはなかった――と、逃げ出したい気になって来る。そしてこれがジョーと彼のこの世における見おさめとなるのである。最後の見おさめである。
荷車はいよいよ重苦しくなり、その終点に近づいて、石ころだらけの道をのろのろと進んでいるからである。二十四時間というもの、疲れはて、ガタが来た荷車は、こわれかかった階段を苦しそうに登ってゆく。日が昇って、この荷車があえぎ進むさまを照らすことも、もう何度とはないことだろう。
いつものように火薬の煙で黒ずんだ顔のフィル・スクウォッドは、看護兵と、武器整備兵の二役を一度に兼ねている。よく病人のところへやって来ては、緑のラシャ帽子をかぶった頭をこっくりして、片方の眉を上げながら、元気づけるようにいう。「元気を出せよ、ジョー! 元気を出せよ!」ジャーンディス氏も何度となくやって来るし、アラン・ウッドコートはほとんどつききりみたいになっている。この二人とも、こんなしがない浮浪児が、全然違った世界の人たちの生活の網の目の中にまき込まれてしまったという、運命の不思議ないたずらにいろいろ考え込んでしまうのだ。軍曹もよく見舞いに来ては、戸口をいっぱいにふさがんばかりのがっしりした身体から、力と生命力とをあふれんばかりにほとばしらせると、一時だけでもジョーに活気を与えるように思える。子供は彼から元気のよい言葉をかけて貰うと、いつもよりしっかり力強く返事する。
今日のジョーは眠っているのか、昏睡状態なのかわからない。アラン・ウッドコートはやって来るとすぐ子供の傍に立ち、そのやつれた身体を見おろしている。しばらくすると彼は子供の方を見つめたままベッドのそばに坐って――ちょうど彼があの代書人の部屋で坐っていた時みたいに――、その胸もとに手を触れてみる。荷車はいまにも立ち往生しそうだが、まだ苦しそうにのろのろ進み続けている。
軍曹は黙ったまま身動きもせず、戸口に立ちつくしている。フィルは手に小さなハンマーを持ち、小さくカチカチ音を立てて仕事をしていたのをやめてしまった。ウッドコート医師は深刻な職業的な表情を浮かべたまま振り返ると、意味ありげに軍曹の方をちらと見てから、フィルにテーブルを外へ出すようにと合図する。この小さなハンマーがこのつぎ使われる時までには、きっとさびがついていることだろう。
「おい、ジョー! どうした? こわがらなくてもいいんだよ」
ジョーはぎくりとしてあたりを見廻す。
「おいらトム・オール・アローンズ通りに戻ったのかと思った。ここには先生しかいないのかい?」
「誰もいないよ」
「またトム・オール・アローンズ通りに連れていかれやしないだろうね? 大丈夫だろうね?」
「大丈夫だよ」
ジョーは目をつむると、つぶやくような口調で、「ありがてえ」という。
アランはしばらくの間ジョーを見つめていたが、その耳もとに口をもっていくと、低いはっきりした声で子供にいう。
「ジョー! お前お祈りって知っているかい?」
「なんにも知らねえよ」
「短いお祈りもかい?」
「ああ。なんにも知らねえよ。チャドバンドおじさんが、いつだったかスナグズビーおじさんの家で、お祈りやってたの聞いたことあるよ。だけど、あれは自分でひとりごといってるみたいで、おいらにいったんじゃねえみたいだった。うんとこしょお祈りしてたけど、おいらにはなんにもわかんなかった。別のとき別のおじさんたちが、トム・オール・アローンズ通りにやって来てお祈りやってたけど、みんなお互いに他の人のお祈りが間違ってるというだけで、自分だけでしゃべってて、でなけりゃ他の人の悪口いってるだけで、おいらたちに話してるんじゃなかった。おいらたち[#「おいらたち」に傍点]はなんにもわかんなかったんだ。このおいら[#「おいら」に傍点]はなんのこったか、ちっともわかんなかったんだ」
これだけいうのにかなり時間がかかって、よほど注意深くなれた耳の持主でないと聞き取ることができなかったろうし、また聞き取れたとしても、理解できなかったろう。またしばらくの間、ぐったりと眠りか、昏睡状態におちていたが、突然ベッドから飛び出そうともがきだす。
「ジョー、お待ち! どうしたんだ?」
「いよいよおいらがあそこの墓場へいかなくちゃなんねえ時が来た」彼はすさまじい形相で答える。
「寝ておいで。ジョー、教えておくれよ、どこの墓場だい?」
「ほら、おいらにやさしくしてくれた、うんとやさしくしてくれたおじさんを埋めちまったとこさ。いよいよおいらがあそこの墓場へいって、おじさんの隣りに埋めてくれって頼まなくちゃなんねえ時が来たよ。おいらあそこへいって、埋めて貰いてえんだ。おじさん前によくおいらにいってたんだ。『ジョー、今日はおれもお前と同じで文なしなんだよ』ってね。今度はおいらがおじさんに、おいらおじさんと同じ文なしだよ、だから隣りに置いておくれよ、っていいたいんだよ」
「もうじきだよ、ジョー。もうじきだよ」
「そうだな! おいらの方から出かけていっても、入れて貰えねえかもしれねえからな。でも先生、おいらをあそこに入れて貰って、あのおじさんの隣りに埋めて貰うように頼んでやるって、約束してくれるかい?」
「よしよし、頼んでやるよ、きっと」
「ありがてえ。すまねえな。あそこはいつも戸が閉ってるから、おいらを入れる時にゃ門の鍵がいるんだ。そいから門のとこに階段があって、もとおいらがいつも|箒《ほうき》で掃除してたんだ――先生、なんだか暗くなって来たよ。明りを持って来てくれるかい?」
「ジョー、すぐ来るよ」
すぐやって来る。荷車はばらばらにこわれてしまい、でこぼこ道はもう終点に近いのだ。
「ジョー、しっかりおしよ!」
「先生の声は聞えるよ。暗闇の中で。でもおいら手さぐりしてるんだ――手さぐりしてるんだ。先生の手、握らしておくれよ」
「ジョー、私のいう通りにいえるかい?」
「先生のいうことなら、おいら何でもいうよ。先生のいうことならいいことに決ってるもん」
「『天にまします』」
「天にまします――こりゃいいなあ、先生」
「『われらの父よ』」
「われらの父よ――先生、すぐ明りが来るかい?」
「すぐそこまで来てるよ。『その|御名《みな》を聖となさしめ給え』」
「その――みなを――」
暗いゆき暮れた道に明りがついた。死んだのである!
陛下、死んだのであります、臣民の一人が。上下両院の閣下並びに諸賢、死んだのであります、国民の一人が。各派の教会で道を説く有徳、無徳の先生方、死んだのであります、キリスト教徒の一人が。胸のうちに神のごとき慈悲心を宿しておられる皆さん方、死んだのであります、同胞の一人が。そしてわれわれの周囲には毎日このようにして死にゆく者がいるのですよ。
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第四十八章 迫り来るもの
リンカンシア州にあるお屋敷はまたその多くの目を閉じ、ロンドンのお屋敷が目ざめる。リンカンシア州では、いにしえのデッドロック一族はその肖像画の額縁の中でまどろみ、大応接間を吹き抜ける風の音が、まるで彼らが規則正しく呼吸しているかのように、低くさやさやと聞える。ロンドンでは現在のデッドロック一族の乗った馬車が、火のような目を光らせて夜の闇をがらがらと突っ走り、デッドロック家の従僕たちは髪の毛に灰(あるいはかつらの粉)をつけて、いかにも彼等の謙虚服従の気持を如実に示すがごとくに、広間の小さな窓辺で午前中うとうとうたた寝をしている。ほぼ周囲五マイルにもわたる巨大な天球のごとき上流社交界が、堂々たる回転を続けているので、太陽の運行の方が敬意を表して、定められた遠くの方で動いているのだ。
その社交界の群のこの上もなく盛んなところ、明かりのこの上もなく輝いているところ、人間の感覚がこの上もない美妙と洗練で満ち足りたところに、デッドロック家の奥方がいる。彼女が登りつめた輝ける高みくらから姿を消すことはない。以前のように、彼女はその尊大のマントの下に、望みのものを何でも取り込んでおくことができるのだ、とはもはや信じられてはいないけれども、今日彼女がその周囲のものに示す権勢を、今後保ち続けられるという確証もないけれども、ねたみの目で見つめられている時に降参したり、しおたれたりすることは、彼女の性質が許さない。この頃彼女は前にもまして美しくなり、尊大になったという。よいよい[#「よいよい」に傍点]の|従兄《いとこ》のいうところによれば、彼女はもしぶんなくきれい――おんなの魅力の陳列会ができるくらい――だがぶっそなとこある――あれ見ると思い出すな――不都合な女――ベッドから抜け出し権勢をふりすてる――とシェキスピヤいわく(1)。
タルキングホーン弁護士は何もいわぬし、何も見ない。以前同様今でも、くしゃくしゃの白い襟飾りを旧式に小さく結んだ彼の姿が、部屋の戸口に現われ、貴族諸公のお引立てにあずかりながらも素知らぬ顔をしている。人もあろうに彼が奥方さまに対して、なんらかの力を持っていようなどとは、誰も想像できないし、人もあろうに奥方さまが彼に恐れを抱いていようなどとは、思いもよらぬところだ。
チェスニー・ウォールドの彼の小塔の部屋でこのまえ弁護士と会ってから、一つのことが彼女に気がかりになっている。今や彼女はその一つの気がかりを振りはらおうと決心している。
今は、このすばらしい上流社会では朝、けちな太陽の動きによれば午後である。従僕たちは窓の外を眺めるのに疲れはて、広間で休んでいる。この豪勢な格好をした連中は、まるで満開を過ぎたひまわりみたいに、重たい頭を垂れている。レスタ卿は書斎の中で議会委員会報告書を読みかけのまま、お国のために居眠りをしている。奥方さまはかつてガッピーという名の青年にお目通り下さった部屋に坐っている。ローザはおそばに仕えて、代りに手紙を書いたり、本を読んでさし上げたりしていたが、今は|刺繍《ししゆう》か何かきれいな針仕事をしている。彼女がそれの上に屈み込んでいるさまを、奥方さまは黙って見つめている。これは今日になってからすでに何度もあったことだ。
「ローザ」
かわいい村娘は明るい顔を上げる。そして奥方さまがひどく深刻な顔をしているのを見て、驚き、いぶかしげな表情になる。
「ドアに気をつけて。閉まっているかえ?」
はい。彼女はドアのところまでいってから戻って来て、いっそう驚いたような顔をする。
「これからお前に内証ごとを打ちあけようと思うの。お前の知恵の方はよくわからないけれど、忠誠心は充分信頼できるからね。これから私が話すことについては、少なくともお前には何一つ包み隠さないつもりだよ。お前には内証ごとも打ちあけるつもり。だから私たちの話したことを誰にもいってはいけないよ」
かわいい小間使いはおずおずと、しかし熱心に、ご信頼にこたえますと約束する。
「ローザ、お前にはわかっているかえ?」デッドロック卿夫人は、彼女にもっと椅子を近寄せるようにと合図しながらいう。「私はお前に対して他の者とは違った態度をとっていることが、わかっているかえ?」
「はい、奥方さま。ずっとご親切にして下さいます。でも、それが奥方さまの本当のご性質なのだと、よく思うのです」
「それが私の本当の性質なのだとよく思うのだって? まあ、ローザったら!」
奥方はいかにも軽蔑したような――といってもローザのことをではないが――口調でそういうと、考えに沈んだまま夢見るように彼女を眺めながら坐っている。
「ローザ、お前が私にとって救いや慰みになっていると思うのかえ? お前が若くて人間らしい気持を持ち、私に好意と感謝を捧げてくれるからといって、私がお前をそばに置くのを嬉しがっているなどと思っているのかえ?」
「奥方さま、私にはわかりません。そんな大それたこと思ってもおりませんが、嬉しく思っていただければと、心から願っております」
「嬉しく思っていますよ」
かわいらしい顔が喜びでぽっと紅に染まろうとするが、目の前の端正な顔に浮んだ表情を見て、それも止ってしまう。これはいったいどういうことなのですか、とおずおず尋ねるように相手を見つめる。
「もし今日私がお前に、私のところから暇を出す! いっておしまい! といわなければいけないとしたら、私はどんなにつらい不安な思いをし、また淋しい思いをすることだろうか」
「奥方さま! 私が何かいけないことをいたしましたでしょうか?」
「何もしません。こちらへおいで」
ローザが奥方の足もとの台の上に頭を垂れると、奥方はあの忘れられない鉄工場主が訪れた夜の時のように、母親みたいにやさしくその栗色の髪の毛の上に手を置いたまま、じっとしている。
「ローザ、さっきお前にもいったように、お前に幸福になって貰いたいの。この地上の誰かを幸福にしてあげることができさえすれば、ぜひお前をそうしてあげたいの。でも、私にはできないの。お前には関係ないけれど、私にわかっているある理由から、お前はここにいない方がいいの。ここにいてはいけないの。ここに置いてはいけないと決心したのよ。お前の恋人のお父さんに手紙を出したから、今日ここに来るはずです。それもこれも皆お前のためにやったことなんだからね」
娘は泣きながら奥方の手に幾度も接吻すると、奥方さまとお別れしたら、私どうしたらいいのでしょう、どうしたらいいのでしょう! という。奥方はローザの頬に接吻するだけで、他に返事はしない。
「さあ、もっと別な場所で幸福におなり。愛されて、幸福におなり!」
「奥方さま、前からときどき考えたことがあるのですけど――こんな失礼なこと申してご免下さい――奥方さま[#「奥方さま」に傍点]は不幸なのでございますね」
「私が、だって!」
「私にお暇を下されば、奥方さまはもっと不幸におなりになるのではございませんか? どうぞ、お願いでございます。お考え直しになって下さいまし。私にもう少しここに居させて下さいまし!」
「さっきもいったように、私のためではなくてお前のためを思ってやったことなのだよ。それに私はもう決めてしまったのよ。ローザ、お前に向って見せている私は今の私で、もう少したってからの私ではないのだよ。このことを忘れないで。それから私のいったことを他人にいってはいけないよ。これだけは私のために約束しておくれ。さあ、これで私たち二人の間は終りです」
奥方は純情な小間使いから離れると、部屋を出てゆく。その日の午後遅くふたたび階段に姿を現した時、彼女はこの上もなく尊大な冷たい態度になっている。まるですべての熱情、感情、興味がこの世の古生代に使い尽され、かつての怪獣たちと一緒に地上から消え去ってしまったかのように、まるで無関心の有様だ。
従僕がラウンスウェルさんがお見えになりました、と告げたために奥方が姿を現したのである。ラウンスウェル氏が書斎に通されているわけではないのに、奥方は書斎へと入ってゆく。レスタ卿がそこにいるのだ。奥方はまず卿に話がある。
「レスタさま、ちょっとお話が――でも、お仕事中でございますね」
いや、いいのだ。かまいませんよ。タルキングホーン弁護士だから。
いつも近くにいて、あらゆる場所に出没する。この男の目から逃れて気の休まることはいっときもできないのだ。
「失礼いたしました、奥方さま。私はこれで退出させていただきます」
奥方はあからさまに、「お前がその気になれば、ここに留っていられるだけの力を持っていることは、自分でもわかっているくせに」といっているような目つきで彼を眺めながら、いいえ、それには及びません、といって、椅子の方に近づく。タルキングホーン氏は不格好なお辞儀をすると、椅子を奥方の方にやや押しやってから、向う側の窓の方に退く。すると奥方と、もう静かになった表通りから差し込む暮れかかった日の光との間に、彼の影が割り込んで、奥方の周囲を暗くするのである。彼が奥方の生活の周囲に暗い影を落すのと全く同じやり方で。
どんなに天気のよい日でも表の通りは陰気くさく、両側に並んでいる長い家並みがこわい顔をしてにらみ合い、いくつかの大きなお屋敷は、もともと石で建てられたのではなくて、にらまれたためにだんだん石に変ってしまった(2)かのようだ。ひどく堂々と陰気くさい通りで、活気のごときものを寄せつけまいというたたずまい。そのために玄関口や窓はそれぞれ黒いペンキで塗られたり、厚く埃がたまったりして陰鬱な威儀を正し、そのうしろにある厩舎もうつろな響きをたて、まるで高貴な石像が乗る石の駿馬の専用厩舎のように、乾いた重々しい様相を見せている。この恐ろしい通りに面した門の階段の上には、鉄細工の入り込んだ装飾がついていて、この化石のあずまやから、時代遅れの灯油ランプ用の消灯器が、なり上り者のガス灯に向って怒号を浴せている。あちこちに小さなもろい鉄の輪があって、いたずら小僧は友達の帽子をそこから投げ込みたがるが(これが現在それの果す唯一の役割だ)、それらの輪はさびついた葉の茂る中で、いまは亡き灯油のお墓のように見える。いや灯油さえいまだ死なず、|牡蠣《かき》のような取手のついた小さなへんてこなガラスびんの中で、毎晩ときどきチカチカまたたいては、新参者のガス灯の方を不機嫌そうににらみつけているのだが、そのさまはまるで、そのご主人さまであるかさかさに乾ききった貴族院のお偉方そっくりだ。
というわけで、椅子に坐っているデッドロックの奥方さまが、タルキングホーン弁護士の立っている窓の外を見たいと思っても、たいしたものは見られないはずなのだが、それでも――それなのに――奥方はそちらの方を眺めている。まるでその人影を取り除くのが切なる願いでもあるかのように。
レスタ卿は奥方に向って、何の話ですか? と尋ねる。
「ラウンスウェルさんが参りましたから(私が呼び寄せたのです)、あの小間使いの娘の問題の決着をつけた方がよいと思うのです。私はこのことにもうあきあきしていますから」
「それで――私にできるお手伝いが――なにか?」レスタ卿はかなり懐疑的な態度で尋ねる。
「あの人をここに呼んで、決着をつけましょう。ここに呼ぶようにお命じ下さいませんか」
「タルキングホーン君、すまぬが呼鈴を鳴らしてくれ給え。有難う。あの」レスタ卿は従僕に向ってとっさに何といったらよいか言葉が浮ばずに、「あの鉄工場のお客を、こちらにお通ししなさい」
従僕は鉄工場のお客を探しに行き、見つけて連れて来る。レスタ卿はこの鉄屋を丁重に迎える。
「ラウンスウェル君、お元気ですか? まあ坐りたまえ。(こちらは私の弁護士、タルキングホーンさんだ。)奥が」レスタ卿は重々しく手を振ると、巧みに奥方の方へ切りかえてしまう。「君に話をしたいとのことだったのだ。エヘン!」
「奥方さまのおかけ下さいますお言葉でございましたら、何ごとによりませずつつしんで伺います」鉄工場のお客がいう。
彼が奥方の方を向くと、このまえ会った時よりもさらにまた不愉快な印象を受けるのである。よそよそしい尊大な態度のために、その周囲が何か冷たい空気に包まれ、前のときのように胸襟を開いて話し合おうという気持には、とてもなれないのである。
「ちょっと伺いたいのですが」奥方は大儀そうな口調でいう。「あなたの息子さんの気まぐれについて、その後あなたと息子さんとの間で何か話されましたか?」
この質問を発しながら、客の顔を見るのすら面倒くさい、というようにものうげな目を向ける。
「奥方さま、もし私の記憶が確かでありましたら、この前お目通りいただきました折に私は、せがれにその――気まぐれを」彼は奥方の使った言葉をやや強めてくり返す、「抑えるよう真剣に忠告いたします、と申し上げました」
「それで、忠告しましたか?」
「はい、もちろんいたしました」
レスタ卿は満足そうにうなずく。大いによろしい。鉄工場の客がやりますと約束したことは、やる義務があるのだ。この点では下等な金属も貴金属も違いはないのだから。大いによろしい。
「そして、息子さんは抑えましたか?」
「奥方さま、私にははっきりとお答えいたすことができません。息子にはそれができなかったようであります。おそらく、今のところはまだでございましょう。私どもの生活では、ときどき目的と、その――気まぐれとを結びつけることがございますので、そう簡単に振りきることができないのでございます。私の思いますに、むしろ私どもの方が真剣に考えることが多いようでございます」
レスタ卿はこの言い方の裏には、どこかウォット・タイラーめいた不穏な意味が隠れているのではないかという疑念に襲われて、少し腹立たしい気持となる。ラウンスウェル氏は申し分なしに上機嫌で礼儀正しいのだが、こうした限度を越えない程度に、自分を迎え入れる相手の待遇いかんによって自分の態度を決めているのだ。
「こんなことを尋ねるのも」奥方が言葉を続ける。「私はこれまでこのことを考え続けて――いや気がさしてしまったからです」
「それは何ともお気の毒のことでございます」
「それからレスタさまがこのことについて申された点に、私も全く同感だからです」レスタ卿は大いに満足の意を表する。「ですから、もしあなたがこの気まぐれがおさまったとはっきりおっしゃれないのでしたら、私はあの子に|暇《ひま》を出した方がいいという結論に到達したことになります」
「奥方さま、とてもそのようなことははっきり申し上げるわけにはまいりません。とてもできないことでございます」
「ではあの子に暇を出した方がいいでしょう」
「ちょっと待って下さい」レスタ卿は思いやりのある横槍を入れる。「それではあの娘に何の|罪咎《つみとが》もないのに、不当な処置を加えることになりはしませんか? 考えてもご覧なさい」レスタ卿は給仕がお皿を配る時のように、右手でこの問題をおもおもしく差出しながらいう。「ここに一人の娘がいて、幸運にもあるやんごとなき貴婦人のお目にとまり、ご寵愛を受けることとなって、その貴婦人の保護の下に住みつくようになった。このような身分の娘にしては、疑いもなく大きな――この点については私は確信しますが、疑いもなく大きな――恩恵をいろいろと周囲から受けているのです。そこで問題が起る。この娘がただ単に」ここでレスタ卿は失礼を詫びるように、しかし威厳をそこなうことなく鉄工場主の方に首をかしげると、「ラウンスウェル君の子息の目にとまったからといって、これらの恩恵と幸運を奪われるべきであろうか? この娘はそのような罰を受けるような何か罪を犯したであろうか? こんなことをするのは不当な扱いではないか? このことはわれわれがまえまえから承知していたことであろうか?」
「失礼でありますが、レスタさま」ラウンスウェル君の子息の父親が口をはさむ。「こんなことを申し上げては失礼かとも思いますが、私は問題を簡単に考えたいと存じます。どうか今の点はご考慮からはずしていただきたいと思います。このようなつまらぬことはきっとご記憶ないかとは思いますが――もしご記憶でしたら――私がこの問題についてまっ先に考えましたことは、あの娘がここに留るのは絶対いけない、ということでございました」
デッドロック一家から受けた愛顧を考慮からはずせだと? 何たることだ! 先祖伝来受け継いだこの耳を疑うわけにはいかぬ。とすれば、この鉄工場の客の申し立てを疑うしかない。
「どちらの側からも、その問題に立ち入る必要はありません」卿が呆然としてただ呼吸をはずませるしかすべを知らないでいる間に、奥方が冷やかな口調でいう。「あの子はたいそういい子です。私は一つとして文句はありません。しかしあの子は自分の受けているかずかずの恩恵や幸運がまるでわからず、恋におちたあまり――というよりは、愚かにもそう思い込んで――その有難みに気づいていないのです」
レスタ卿がここで口をさしはさむ。それなら話は全然別です。奥方にはそう考えるだけの充分な理由と根拠があるに違いない。奥方の意見に全く賛成する。あの娘には暇を出した方がよい。
「ラウンスウェルさん、レスタさまがこの前この問題でわずらわされた折に、おっしゃっておられましたように」奥方はあい変らず大儀そうな口調で言葉を続ける。「私どもはあなたに対して何の条件も課しません。現在のところあの子がここに留るのは間違いです。ですから無条件で暇を出した方がよろしい。あの子にはもうそういってあります。私どもの方であの子を村まで送りとどけましょうか、それともあなたが一緒に連れて帰りたいのですか? あるいは他にお望みがありますか?」
「奥方さま、もしはっきり申し上げてよろしければ――」
「遠慮いりませんよ」
「私はできるだけ早くお屋敷にご迷惑をかけないようにおいとまさせたいと思います」
「私の方でもはっきり申しますと」奥方はあい変らずわざとなげやりな態度で答える。「私も同意見です。あの子を一緒に連れて帰るおつもりなのですね?」
鉄工場主は鉄のようなお辞儀をする。
「レスタさま、呼鈴を鳴らしていただけませんか?」タルキングホーン弁護士が窓辺から進み出て、呼鈴の|紐《ひも》を引く。「そうそう、あなたを忘れていました。有難う」彼はいつものようにお辞儀をすると、そっともとの場所に戻る。従僕は素早くお呼びに答えて現れると、誰を連れて来るかの命令を受け、さっと姿を消すと、その人間を連れて来てから、退出する。
これまで泣き続けていたローザは、まだつらそうな様子だ。彼女が入って来ると鉄工場主は椅子から立ち上り、彼女を腕に抱きかかえると、戸口に近づいて帰りかける。
「この方がお前の面倒を見て下さるのだから」と奥方はものうげな口調でいう。「安心して帰ることができるよ。さっきもいったように、お前はたいそういい子です。だから何も泣くことはありませんよ」
「どうやらあの子は」タルキングホーン弁護士は手をうしろに組んで、少し前の方に進み寄りながらいう。「暇を出されることで泣いているようですね」
「それはこの子は育ちのいい子ではありませんから」ラウンスウェル氏は、まるで弁護士にしっぺ返しがいえるのが嬉しいとでもいうように、素早く答える。「それに世間知らずですから。ここに留っていられたら、もっとましになることでしょう、きっと」
「きっとね」タルキングホーン氏が落ち着いて答える。
ローザはすすり泣きしながら、奥方さまにお別れするのは悲しいです、チェスニー・ウォールドで、奥方さまにおつかえできてとても幸せでした、といい、幾度も幾度も奥方にお礼をいう。「もうおよし、ばかだなあ!」鉄工場主は低い声で叱るが、でも腹を立てている様子はない。「元気をお出し、ウォットを愛しているんなら!」奥方は気のなさそうな態度で手を振ると、「そら、そら! いい子だから、早くいきなさい!」というだけ。レスタ卿は威儀を正してこの件から関心をそらすと、青い上衣の奥深くにとじこもってしまう。タルキングホーン弁護士は、いまや明かりの点々とついた暗い表通りを背にして立っているが、そのぼんやりした姿は前よりいっそう大きくくろぐろと奥方の目の前に浮ぶのである。
「レスタさま並びに奥方さま」ラウンスウェル氏はちょっとの間黙ってから、しゃべり出す。「おいとまいたします前に、これは私の方から出たことではありませんが、こんな退屈なことでお手数をわずらわせましたことを、おわび申しあげます。こういったささいな事柄が奥方さまにとってどんなにわずらわしいものであるか、私にはよくわかっております。私のとった処置について自ら不安な点があるとしましたら、それははじめからお二人をわずらわすことなく、そっとこの若い友を連れ戻すだけの力をふるうことが、私にはできなかったからにほかなりません。しかし――この事柄を大げさに考えすぎることになるかもしれませぬが――事情をお二方にご説明申しあげまして、率直にお二方のご意向やご都合をうかがうことの方が、礼儀にかなうのではないかと思われたのでした。こういう上流社会の慣習になれておりませぬ私を、どうかお許し下さいますよう」
レスタ卿はこの言葉を聞いて、尊厳の高みくらから呼び出されたと思ったのか、こう答える。「ラウンスウェル君、あやまるには及ばない。どちらの側からも、弁解は無用なのだ」
「レスタさま、そうおっしゃっていただいて嬉しゅうございます。それから最後にでありますが、私の母がこのお屋敷に長いことご奉公申し上げ、そのために両方の側に大きな恩恵があったことについて、私が以前申しましたことを、ご免をこうむってもう一度むし返しまして、いまこの私の腕にすがっております者こそ、そのまぎれもなき好例であると示したいのでございます。別れに当りましてかくもやさしい忠実な態度をとりましたが、かかる感情をはぐくむのに、私の母もいささかの貢献を果したのではないかと思います――もっとも、心の底からの関心とやさしいご親切をかけて下さった奥方さまの方で、もっと大きな貢献をお寄せ下さったことはいうまでもありませんが」
もしラウンスウェル氏が皮肉の意味でいっているのなら、自分で思っている以上に真実を語っていることになるのかもしれない。しかし、彼はしゃべりながら、奥方が坐っている部屋の中の暗がりの方を向いてはいたが、いつもの真面目な口調を崩すことはない。レスタ卿は立ったまま彼の別れの挨拶に答える。タルキングホーン氏がもう一度呼鈴を鳴らし、従僕がまた飛んで来ると、ラウンスウェル氏とローザはお屋敷を辞去する。
それから明かりが持ち込まれる。坐ったままの奥方の姿と、その前で手をうしろに組んで窓辺に立ったまま、昼間の時と同じように窓の外の夜景をさえぎっているタルキングホーン氏の姿とが、照らし出される。奥方は顔の色がまっ蒼だ。彼女が引きとろうと立ち上った時、弁護士はその顔色を見て、「ああ、無理もないわい! あの女の意志の力はすごい。これまでずっと芝居の役をみごとに演じてきたのだから」と頭の中で考える。しかし彼自身も一役を――いつも変ることのない一役を――演じとおすことができる。彼が奥方のためにドアを開けてやる時、レスタ卿より五十倍も鋭い目を持つ五十人のご先祖の肖像画といえども、弁護士に対して何の文句もつけられないことだろう。
奥方は今日は一人で自室で晩餐をとる。レスタ卿はドゥードル党の救援のため、急いで議会へ呼び出され、クードル党は大いに泡をくったのである。まだまっ蒼な顔をした奥方は食卓につくと、(あのよいよい[#「よいよい」に傍点]の従兄の言葉を全く裏書きするように)旦那さまはお出かけかえ? と尋ねる。はい、さようでございます。タルキングホーンさまもお出かけかえ? いいえ。しばらくしてから奥方はまた尋ねる。弁護士はもうお出かけかえ? いいえ。何をしているのだい? 書斎で手紙を書いていらっしゃると思います、と従僕が答える。お会いになりますか? いや、それには及ばない。
だが、向うの方から奥方さまにお目通りをお願いしたい、といって来る。数分もたたぬうちに弁護士から、失礼でございますが、奥方さま、お食事のあとでちょっとご相談いたしたいことがあるのですが、お会いいただけましょうか? といって来る。今すぐ会ってもよろしい、との奥方の返事。弁護士は許しを得たにもかかわらず、お邪魔をいたしますと詫びながら、食卓についている奥方のところにやって来る。二人きりになると奥方は、そんなばかていねいな態度はよしなさいとばかりに手を振りながら、
「何の用ですか?」
「奥方さま」弁護士は彼女からやや離れた場所の椅子に坐ると、痩せこけたすねをゆっくり、ゆっくり、上下にこする。「あのやり方にはいささか驚きました」
「そうですか?」
「本当です。ああなさるとは思ってもいませんでした。これは私どもの協定にも、奥方さまの約束にも違反すると思いますが。これでわれわれの立場が変ってまいりました。私はああいうことには賛成できかねます、と申さざるを得ませんな」
弁護士は脚をこする手を止めて膝の上に置くと、奥方を見つめる。いつもと変らずものに動じない態度をしてはいるが、今晩は珍しく、何とも言葉ではいいあらわせないような、なれなれしい様子が見られ、それに奥方が気づかぬわけはなかった。
「おっしゃる意味がよくわかりませんが」
「いいえ、わかっていらっしゃるはずですよ。よくわかっていらっしゃるはずだ。奥方さま、とぼけたり、ごまかしたりはもうよしましょう。あの子は奥方さまのお気に入りでしょう?」
「それで?」
「ご自分でもご承知の通り――私も知っておりますが――あの子に暇を出したのは、奥方さまのおっしゃっておられる理由からではありませんね。本当は――こうずけずけいうのをお許し願いたいですが――ご自分の身に迫りかけている非難や恥辱から、できるだけあの子を遠ざけようとするためでございますね」
「それで?」
「それで、ですよ、奥方さま」弁護士は脚を組むと、のせた膝を撫でながら、「私はこれに反対です。ああいうことをするのは危険だと考えます。やらんでもいいことで、しかも屋敷内に臆測、疑惑、風聞その他もろもろをひき起すことになります。その上、これは私どもの協定に違反します。これまでと全く変らぬ態度をとっていただかねばならぬはずでした。それなのに、今晩の奥方さまがこれまでと大いに変っていることは、ご自身にも私にもはっきりわかっております。一目瞭然ではありませんか!」
「もし、私が自分の秘密を――」と奥方がいいかけるのを、弁護士はさえぎって、
「奥方さま、これはビジネスの問題でありますから、それとして前提をはっきりさせておかねばなりません。これはもはや奥方さまの秘密ではありません。失礼ですが、奥方さまのお考え違いです。レスタ閣下とお|家《いえ》のご信任をいただいております、この私の秘密です。もし奥方さまの秘密でしたら、私ども二人がここでこんな話をかわしてはいないはずです」
「その通りです。では、こういいましょう。もしこの[#「この」に傍点]秘密を知った私が、あの無垢な子供を(特にあなたがチェスニー・ウォールドの屋敷で、集っている一同に向って私の物語をなさった時、あの子のことにもふれたのをよく憶えていますから)私の身に迫りかけている恥辱から守ってやるために、全力を尽すとするならば、私は自分で決めた決意に基いて行動します。この世の何ものといえども、この決意をゆるがしたり、変えさせることはできません」以上の言葉を奥方は、しっかりとした口調ではっきりと、弁護士同様全然動じた様子をおもてにあらわさずにいう。弁護士はというと、この用件を論ずる口ぶりはきわめて系統立っていて、奥方のこともその中で使われる単なる一つの道具扱いしているだけである。
「そうですか。それでは奥方さま」と、彼は答える。「私は奥方さまをご信用申すわけにはいきません。奥方さまがそうもはっきり、文字通りの事実に従っておっしゃったのですから、私としては、ご信用申すわけにはいきません」
「私どもがチェスニー・ウォールドの屋敷で夜話し合った時、私がこの点に関してある懸念を示したことを、憶えておいででしょうね?」
「はい、憶えております」タルキングホーン氏は落ちつきはらった態度で立ち上ると、炉の前に足を留める。「はい、憶えております。奥方さまは確かにあの子のことをおっしゃいました。しかし、それは私どもがあの協定に達する前のことでした。私どもの協定は、その字義の上でも精神の上でも、奥方さまが私の発見に基いて何らかの行動をとることを禁じておりました。その点は何ら疑いのないことです。あの子を守ってやるとおっしゃいますが、あの子がどれほどだいじで、値打ちがあるというのですか? まあ、お待ち下さい! 奥方さま、いまや家名が汚されるかどうかの瀬戸際ですぞ。いまやとるべき道は一本しかない――すべてを踏み越えて、右にも左にもそれず、途中はいっさいに目もくれず、いっさいを容赦せず、すべてを踏みつけてゆかねばなりません」
奥方はじっとテーブルを見つめていたが、目を上げると、弁護士を見る。その顔にはきつい表情が浮び、下唇を歯でぎゅっとかみしめている。「この女はわしのいうことがわかっているのだ」彼女が再び目を伏せると、弁護士は頭の中でこう考える。「当の自分が破滅だとわかっているのに、どうしてほかの女を守ろうという気になんかなるのだろうか?」
ちょっとのあいだ二人とも口をきかない。奥方はさっきから何も食べず、ただ二、三度しっかりした手つきで水を注いで飲んだだけである。彼女は食卓から立ち上って安楽椅子に坐り、ぐったりと背をもたせかけると、手で顔に影をつくる。彼女の態度にはどこにも弱気を思わせるものはないし、あわれをもよおすところもない。いちずに何かもの思いに沈み込んだ、憂鬱な様子である。「この女は」タルキングホーン氏が考える。彼が炉の前に立ちどまると、再び暗い影が彼女の目の前に立ちはだかる、「観察の価値があるな」
彼はしばらくのあいだ黙ったまま、じっくり彼女を観察する。彼女の方もじっくりと何か考えにふけっているらしい。彼女の方から話の口火を切りそうにない。真夜中まで待っていても、向うから口をききそうにないので、さすがの弁護士も自分から沈黙を破らざるを得なくなる。
「奥方さま、この事柄につきまして今晩お話しなければならないこと、しかもいちばん話しづらいことがまだ残っておりますが、しかしビジネスはビジネスです。私どもの協定は破棄されました。奥方さまのように賢明で意志堅固な方ならば、すでにご覚悟の上のこととは存じますが、私はこの協定を無効と考え、私の自由な判断に従って行動いたします」
「覚悟はできています」
タルキングホーン氏は頭をかしげる。「奥方さまのお耳をわずらわしますことは、これだけでございます」
彼が部屋から出てゆこうとすると、彼女は呼び止めて質問する。「今の言葉が私への最後の警告というわけですね? 誤解のないようにきいておきたいのですが」
「奥方さま、べつに最後の警告というわけではありません。と申しますのは、警告を与えるということになりますと、私どもの間の協定がまだ生きていることになりますからな。でも、事実上はまあ同じようなものです。事実上は同じことですな。違いはただ弁護士の法律的な考え方にあるだけなのですから」
「もう今後は警告を私に与えるつもりはない、というのですね?」
「その通りです。もう差しあげません」
「今夜レスタ卿に話すつもりですか?」
「これはまたはっきりお尋ねになりましたな」タルキングホーン氏はちょっと笑うと、用心深く相手の方に頭を振る。「いいえ。今夜はお話いたしません」
「明日ですか?」
「いろいろ考えてみまするに、そのお尋ねにはお答えいたさない方がよろしいようです。もし私がいつ話すつもりか正確にはわからない、とお答えしましても、きっと信じて下さらないでしょうし、それでは答えになりますまいから。明日かもしれません。これ以上は申し上げますまい。奥方さまはご覚悟ができていらっしゃるのですから、私は事実ではっきり証明できないような、いい加減な予想は慎しみましょう。では、失礼いたします」
奥方はもう一度手を動かすと、戸口の方にそっと歩み寄る弁護士の方に蒼ざめた顔を向け、まさにそれを開けようとする彼を止めると、
「この屋敷にい続けるつもりですか? さっきは書斎で書きものをなさっておられたとかですが、そこに戻るのですか?」
「ちょっと帽子を取りにゆくだけです。自宅に帰るつもりです」
奥方は頭というより目で会釈をし――本当にかすかな、奇妙な動きだ――彼は退出する。部屋を出ると彼は懐中時計を見る。が、一分かそこいら不正確と感ずるらしい。階段のところにすばらしい立派な時計がある。立派な時計にしては珍しいことだが、正確さにかけてもすばらしい時計だ。「さて、君[#「君」に傍点]に教えて貰おうか」タルキングホーン氏は時計に相談をもちかける。「君に教えて貰おうか」
もしその時計がこの時「家へ帰ってはいけない!」といったとしたら、他の晩はさておき特にこの晩、この時計の前に立つ他の老若の人々はさておき、特にこの老人に向って、「家へ帰ってはいけない!」といったとしたら、その後どんなすばらしい立派な名声を、この時計はかちえたことだろう! 時計は澄んだ、かんだかい音で七時四十五分を打つと、またカチカチ時を刻み続ける。「やれやれ、お前は思ったよりだめなんだなあ」タルキングホーン氏は懐中時計に向ってぶつぶつ文句をいう。「二分も違っているのか? このぶんじゃ私の死ぬまではもちそうにないな」もし懐中時計が「家へ帰ってはいけない!」といったとしたら、文句通り怨みに報いるに恩をもってしたことになっただろうに。
弁護士はおもて通りに出ると、立ち並ぶ大きなお屋敷の蔭の下を、手をうしろに組みながら歩いてゆく。これらのお屋敷のかずかずの秘密やら、面倒ごとやら、抵当やら、あらゆる種類の微妙な事件やらは、彼の黒いしゅすの古チョッキの中に、全部しまい込まれているのだ。家の煉瓦やモルタルまで情報を彼に教えてくれる。高い煙突はその家の内証ごとを彼に伝えてくれる。それなのにそこら一帯一マイルくらいのうちに、「家へ帰ってはいけない!」と彼に告げてくれる声は全然聞えない。
しもじもの人間の住む街の雑踏をかきわけ、多くの車の騒音や足音や人声にかこまれ、こうこうとした店の明りに照らされ、西風に吹きまくられ、人ごみに押されながら、彼はなさけ容赦もなくぐんぐんと進んでゆく。それなのに彼に出会うものは一つとして、「家に帰ってはいけない!」とつぶやいてはくれない。うす暗い自分の部屋に入ってろうそくに火をともし、周囲を見廻し、天井で指差しているローマ人の絵を見上げるが、今夜のローマ人の手に特別新しい意味は見うけられない。またその周囲に描かれているお供の絵も、彼に「ここに来てはいけない!」と遅まきながらの警告を与えてはくれない。
月夜である。だが満月を過ぎた月はロンドンの大荒野の上に今昇ろうとしている。星はチェスニー・ウォールドの小塔の上で輝いていたように、今夜も輝いている。あの女――彼はこの頃そう呼ぶようになったのだが――はじっと外の星空を見つめている。胸の内は|千々《ちぢ》にかき乱されて、落ちつきなく、気がめいってくる(3)。大きな部屋も狭苦しく、息がつまりそうに思える。彼女はその圧迫に耐えかねて、まわりの庭を一人で散歩したくなる。
いつも気まぐれで、やるといい出したらきかない気性だから、彼女が何をやってもその周囲の人々はそれほど驚きはしない。彼女は肩掛けをまとうと月夜の戸外へと出てゆく。従僕が鍵をもってお伴をする。庭に通ずる門を開けると、従僕は彼女の命令でその鍵を渡し、屋敷へと引き返す。私は頭の痛いのをなおすために、しばらくここを散歩するから。一時間かかるかもしれないし、もっとかかるかもしれない。この先はもうお伴はいらないから。バネのついた戸がばたんと閉まり、従僕を残して彼女は一人で木の暗い影の中へと入っていく。
夜空は晴れ渡り、明るい大きな月と、無数の星が見える。タルキングホーン氏は地下の酒蔵に向う折に、あのこだまするドアを開けたり閉めたりして、小さな監獄のような中庭を横切ることになる。ふと空を見上げるとこう考える。なんという美しい夜空だろう、なんという明かるい大きな月だろう、なんというたくさんの星だろう! それに、静かな夜だ。
たしかに、とても静かな夜だ。月がこうこうと明かるく輝くと、孤独と静寂がそこから流れ込んで、人が押し合いへし合いしている場所までが、その感化を受けているみたいだ。静まり返った広い広い田舎の光景が見渡され、遥か彼方に空を背にして森がくっきりと輪郭をしるし、灰色の花が咲いてでもいるように見える丘の頂きや、埃っぽい街道筋だけが静かな夜なのではない。庭や林や、みずみずしい緑の牧草地の間、心地よい島、ざあざあと音をたてる|堰《せき》、ささやきをかわす水草の間を縫って、きらきら輝きながら流れる河だけが、静かな夜なのではない。家がびっしりと群がるところを流れ、水面に多くの橋の影を映し、桟橋や船が黒いおそろしい影を落すところを流れ、さらにそこから蛇行すると、岸に打ち上げられた骸骨みたいな、気味の悪い浮標の立っている沼沢の間を流れ、麦畑や風車や教会の塔の見える丘の間をしだいに河幅を広げつつ流れ、最後にいつもうねり波立つ大海へと注ぐ河のあたりだけが静まりかえっているのではない。大海原だけが静かな海なのではない。灯台守が自分にだけ見えるような気持でいる光の道を、翼を広げて横切る船を見つめている海岸だけが、静かな夜なのではない。このロンドンという見知らぬ人間の大荒野にすら、いくばくかの静けさがある。ロンドンの教会の塔や一つの大きなドーム(4)は、月夜の下でいっそう神秘的に見える。煙でうすよごれた屋根も、蒼白く照らされるとそのきたなさを失い、街路から立ち上る騒音もいつもよりは静かだ。歩道を通る人の足音も、いつもより穏やかに聞える。タルキングホーン弁護士が住んでいる法曹学院構内の草原では、羊飼いが止むことない大法官府の笛を吹き、柵の中に羊たちをなんとかかんとかかこい込み、最後にはその毛を丸裸に刈りとってしまう(5)のだが、いまこの月の夜、ここではすべての音という音が、遠くから響き渡る、わーんという一つのざわめきに吸収されてしまう。まるで町全体が一つの大きなガラスのコップになって、そこに音がこだましているようだ。
あれは何だ? 鉄砲だかピストルだかを発射したのは誰だ? どこで聞えた音だ?
数もまばらな通行人ははっとして足を止め、あたりを見廻す。ところどころの窓や戸口が開き、人が出て来て外をのぞく。大きな銃声だった。こだまして窓をふるわせた。家さえもふるわせた、とか一人の通行人がいっている。近所の犬どもがみな目をさまし、猛烈に吠えたてる。おびえた猫があわてて道を横切って逃げる。犬どもが吠えたりうなったりしている間に――一匹なんぞはまるで悪魔のようなうなり声を立てている――あちこちの教会の大時計が、これもびっくりして目をさましたかのように、時を打ちはじめる。通りのざわめきもまたふくれ上って、一つの大きな叫び声みたいに聞える。が、間もなくそれはおさまる。最後の時計が十時を打ちだす頃には、あたりは静まる。その時計が打ち終ると、晴れ渡った夜空と、明るい大きな月と、無数の星は、またもと通りの静けさに包まれる。
タルキングホーン弁護士も眠りを妨げられたのだろうか? 彼の部屋の窓はまっ暗にしんと静まり返って、扉も閉ざされたままだ。彼をいつもの貝殻の中から外へ連れ出すには、よほどの異常事でも起らねば駄目だ。彼の姿も見えないし、彼の声も聞えない。あの錆びついた老人の不動の落ちつきをゆるがすには、どんな強力な大砲が必要だろうか?
ここ何年もの間、あのローマ人は特にどうという意味もなく、絶えず天井から指差し続けて来た。今晩だけ特別新しい意味をもっていそうには思えない。一度指差せば、いつまでも変ることなく指差し続ける――普通のローマ人、いやイギリス人同様に、何か一つのことを思いつめながら。彼は一晩中あのへんな格好で、ただ何ということなく指差し続けているのだ。月光、暗闇、夜明け、日の出、朝。まだあい変らず熱心に指差し続けている。誰もそれにかまうものはいない。
だが、朝になってしばらくしてから、掃除夫がやって来る。ローマ人がこれまでに示したことのない何か特別新しい意味が示されているのだろうか、それとも先頭に立った掃除夫の気が狂ったのだろうか? 彼は天井の差しのべた手を見上げ、それからその下にあるものを見下ろすと、きゃっと叫んで逃げ出す。あとから来る連中も、同じようにして部屋の中を覗き込むと、きゃっと叫んで逃げ出してしまい、おもて通りが大騒ぎになる。
いったいどうしたというのだ? まっ暗な部屋へ明りを持ち込む者もいない。見なれない人間の一群がそこへ入り込み、そっと静かな、しかし重い足どりで何か重たいものを寝室にかつぎ込み、そこへ下ろす。一日中ひそひそといぶかしげにささやき合う声がする。家の隅から隅まで捜し廻る。足跡を入念に調べる。家具の一つ一つの位置を入念に検討する。誰も彼もがみな天井のローマ人を見上げ、異口同音につぶやく。「ああ、あいつが目撃したことを、話してくれればいいのになあ!」
彼の指差すテーブルの上には、一つの酒びん(ぶどう酒がほぼいっぱいに入っている)とコップと、ともして間もなく急いで吹き消された二本のろうそくがある。また主のいない椅子と、椅子の前の床の上の、片手の中に隠れてしまうくらいの小さなしみ[#「しみ」に傍点]をも指差している。これらの物はすぐ彼から手のとどかんばかりの所にある。興奮した想像力を働かせれば、これらの物のうちに何か恐ろしいものを感じて、天井の絵の他のものたち、お供の大きな脚の若者だけではなく、雲や花や柱も――要するに寓意画の肉体も精神も、それからその全頭脳も――完全に狂ってしまったのではないか、と思われて来るのだ。これは間違いのないことだが、このうす暗い部屋に入って来て、これらの物を見ると、誰でもかならず天井のローマ人を見上げる。すると誰が見てもローマ人はおどろおどろしい謎に包まれていて、まるで舌がひきつって口のきけない目撃者のように見えるのだ。
そしてこれも今後何年かにわたって間違いないことだろうが、簡単に片手の中に隠れてしまいながら、簡単に消し去ることのできないあの床の上のしみ[#「しみ」に傍点]について、いろいろな怪談が物語られるであろう。あのローマ人は、天井が埃と湿気とくもの巣で隠れて見えなくなるまで、いつまでも、いつまでも、タルキングホーン弁護士の生前にこめていたよりももっと大きな意味をこめて、しかも不気味な意味をこめて指差すことだろう。そう、タルキングホーン弁護士の生命の|灯《ともしび》は永遠に消えたのである。そしてローマ人は彼の生命を奪った殺人者の手を指差し、心臓を射抜かれて床の上にうつ伏せに倒れていたあの男を、夜中から朝までおろおろしながら指差し続けていたのだった。
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第四十九章 職務と友情
もと砲兵隊員、今はバスーン奏者のジョゼフ(1)・バグネット氏、愛称リグナム・ヴァイティの店に、あるおめでたい年中行事がめぐって来た。お祝いであり、お祭りでもある。一家の誰かの誕生日だ。
バグネット氏の誕生日ではない。バグネット氏は楽器商としての生活の中で、自らの誕生日を特別に扱うとすれば、それは朝食前に子供たちに与えるキスに一つずつおまけをつけたり、昼食後のパイプ煙草を一回分だけおまけしたり、晩方になってから、ああかわいそうなおれの母さんはこれをどう思うかなあ、と感慨にふける――これが無限の感慨をよび起すというのも、彼の母親はもう二十年も前にこの世を去っているからなのだが――ことくらいのものだ。自分の父親についてこんな感慨にふける人間はめったにない。思い出という貯金通帳の中では、親を思う気持の残高を全部母親の名義に書き替えてしまうものらしい。バグネット氏もそういう人間の一人で、おそらくうちの女房の立派さを大いに称揚するあまり、いつも善良という名詞を、女性名詞だと思い込んでしまうのだろう。
彼の三人の子供の誰かの誕生日でもない。子供たちの誕生日にはもう少し特別の扱いがなされるが、おめでとうの言葉とプディングのご馳走くらいで、それ以上になることはめったにない。ウーリッジのこの前の誕生日の時には、確かにそれ以上のところまでいった。バグネット氏は大きくなったな、いろいろ賢くなったな、といってから、時のもたらす変化について深い感慨にふけりながら、わが子に洗礼の際の教義問答を試みたのである。第一問、第二問、すなわち「汝の名は何か?」「汝にその名を与えたのは誰か?」まではきわめて正確に進んだのであるが、第三問目になると記憶の方があやしくなって来たので、代りとして「汝はその名が気に入ったか?」で間に合わしたのだが、いかにも重大であるといわんばかりの口ぶりだったし、その問い自体が教化薫育に益するところ大であるわけだから、この問いはひどく正統的に聞こえたのである。しかしこんな特別行事を行なうのはその誕生日の時だけの話で、いつもやるわけではないのだ。
女房殿の誕生日なのである。この日はバグネット氏のカレンダーのうちでも最大の祝日、赤の二重丸をつけるべき日である。このよき日は、数年も前からバグネット氏自ら制定確立した一つの式次第に従って、いつも祝われることになっている。バグネット氏の深く信ずるところによると、祝宴に二羽の鳥料理を供するのは、国賓をもてなすにも比すべき最高の|贅《ぜい》を尽すことになるのだそうで、彼は毎年この日の朝早々から買出しに出かける。そして毎年のことながら鳥屋にまんまとだまされて、ヨーロッパじゅうの鳥小屋で最古参の代物を二羽おっつけられる。この固さにかけてはひけをとらぬ二羽の|古強者《ふるつわもの》を一枚の青と白の模様の木綿のハンケチ(これが絶対必要なので)でしばって|凱旋《がいせん》して来ると、彼は朝食時バグネット夫人に向いさりげない口調で、昼食には何が食べたいかねと尋ねる。すると奥方は、毎年はずれたことのない偶然の一致なのだが、鳥料理と答える。するとバグネット氏が直ちにどこか隠し場所から例の包みをとり出し、一同びっくりするとともに大喜びという次第だ。それからさらに彼は奥方に向って、今日一日は何にも仕事をしないで、晴れ着をきて坐っていて貰いたい、わしと子供とで万事引き受けるから、と申し渡す。このご主人は料理の名人とは義理にもいえないから、奥方からすればこの祝宴は、美味を満喫するというより、おごそかな気分を味わうものというべきかもしれないが、彼女はいとも晴れやかにそのおごそかな気分にひたるのである。
今日のこの誕生日にも、バグネット氏は例年通りの準備を整えたのである。彼はあぶり焼き用の鳥を二羽買いこんで来たが、この鳥たるや老練中の老練ともいうべきもので、ことわざが間違っていないとするならば、絶対もみがら[#「もみがら」に傍点]なんかでは捕まらない(2)代物だ。この思いがけぬご馳走をとり出して見せて、家族をびっくりさせ、大喜びさせてから、彼自身が陣頭指揮で鳥焼きにとりかかる。バグネット氏の女房はといえば、皆がへま[#「へま」に傍点]をやっているのを見ていて気が気でなく、その丈夫に日焼けした指をむずむずさせながらも、今日は主賓なので晴れ着を召しておとなしく坐っているのである。
ケベックとマルタは食卓を整え、ウーリッジはいかにも後とり息子らしく、父親の指導の下に焼き串をぐるぐる廻している。この二人のにわかおさんどん[#「おさんどん」に傍点]が間違いをやらかすたびごとに、彼等に向って、女房がウインクしてみせたり、頭を振ってみせたり、顔をしかめてみせたりしている。
「一時半きっかり。一分の狂いもなく。焼き上るんだ」バグネット氏がいう。
女房は二羽のうちの一羽が廻るのをやめてしまい、火で焦げだしたのを見て胸もしめつけられんばかりの思いだ。
「そうしたら女王さまにもふさわしい食事。ご馳走するぞ」とバグネット氏。
女房は明るく白い歯を見せてほほえむのだが、息子はさすが慧眼にも母親がそわそわしているのに気づき、母親思いの愛情から、どうしたんですか? と目顔で尋ねる――それだから、目を大きく開けてつっ立ったきりで、鳥の方はますますお留守になってしまい、全然気づきそうにない。幸運にも上の娘が母親の心配のたねを見抜いて、兄さんに突っついて教えてやる。これでとまっていた鳥がまた廻りはじめ、母親はほっと吐息を洩らして目を閉じる。
「四時半きっかり」バグネット氏がいう。「ジョージがやって来るはず。もう何年になるかな? お前の誕生日にジョージが来るようになってから」
「そうねえ、リグナム、もうだいぶになるわ。若い女がお婆さんになってしまうくらい。ちょうどそのくらいね」女房は笑って頭を振りながら答える。
「なに、そんなことあるものか。お前いつも若いさ。ますます若くなってるさ。本当さ。誰でも知ってるさ」
ここでケベックとマルタが手を叩いて、無骨おじさんはきっとお母さんに何かお祝いを持ってくるわよ、何だかあててみましょうよ、という。
「ねえ、リグナム」夫人は食卓の上に視線をやってから、右の目をマルタに向けてウインクして「お塩!」と合図、頭をふってケベックからこしょうを取り上げながら、「またジョージは放浪病にとっつかれかかっているんじゃないかしら?」
「ジョージは大丈夫さ。戦友を見すてるようなことはしないさ。絶対にね。心配いらないよ」
「ええ、リグナム。そんなことはしないでしょうけど。でも、このお金の面倒ごとがかたづいたら、きっとどこかへいってしまうわよ」
「どうして?」
「それはね」女房は考え込みながら、「ジョージはかなりいらいらして、落ち着きをなくしかかっているみたいだわ。前のように自由濶達じゃない、なんていうんじゃないのよ。あの人は自由にきまってる。そうでなかったらジョージじゃなくなるもの。ただね、何か怒ってる。むかっ腹を立ててるみたい」
「しごかれすぎたんだよ。弁護士にね。あの男を怒らせるなんて。誰もこわくてできっこないさ」
「それはそうね。でも、そういうわけなのよ、リグナム」
ここでしばらく会話が途切れざるを得なくなる。というのはバグネット氏が全神経を|危殆《きたい》にひんしつつある料理に集中せねばならなくなるからだ。なにしろ鳥の奴がひどくドライな気質で全然汁気を出さない上に、別に作った肉汁がまるで味がなく、亜麻色だったのがつやがなくなってしまった。じゃがいもまでが同様にひねくれ根性を出して、皮をむいているうちにフォークからころげ落ち、まるで地震みたいにまん中からふくれ出して一面の地割れになってしまう。鳥の脚も不必要にひょろ長い上に、うろこだらけ。こうした難局を全力をふるって打開してから、バグネット氏はやっと皿に盛りつけし、一同が食卓につく。バグネット氏の女房は主人の右手の上座に据えられる。
女房殿の誕生日が一年に一度しか来ないのは全くの幸せだ。二度もこんな鳥のご馳走責めに会ったら|生命《いのち》がもつまい。鳥に生れつきそなわっている足の関節や筋が、この二羽にあっては高度に発達して、まるでギターの弦みたいにつっぱっている。その足はあたかも年ふりたる大樹が地面に根を張ったがごとくに、しっかと胴体に根を張っている。その足の強さといったら、どうやらこの二羽はその苦難にみちた長い生涯にわたって、足の運動と徒歩競走に専念していたらしい、と思いたくなるほどだ。ところがバグネット氏はこうした小さな欠点には全然気づかぬ様子で、ひたすら女房に向って、目の前のご馳走をどっさり食べろとのきびしいご沙汰である。貞淑なる女房殿はいつの日でもそうだが、とりわけ今日という日には、一瞬たりとも夫に失望を味わわせては申訳ないと思って、わが身の不消化もかえりみず危難に立ち向うさまこそ健気なれ。息子のウーリッジはだちょう(3)の子供でもないのに、よくもこの鳥の足をきれいにかじれたものだと、母親ははらはらしながらあきれてしまうのである。
食事が終ると女房はまたひと苦労させられることになる。威儀を正して坐ったまま、部屋がかたづけられ、炉端が掃除され、裏庭で食器類が洗われたり、磨かれたりするさまを眺めていなければならないのだ。二人の若い令嬢が大喜びで元気いっぱい、お母さんの真似をしてスカートをまくり上げ、小さな高い木靴の上にのっかってつるつるすべりながら、この仕事に専心しているそのさまを見ると、将来は大いに有望と感じさせるが、現在のところはいささかあぶなっかしくて心配だ。同様に二人の話し声が混乱したり、陶器類がカタカタいったり、|錫《すず》のコップがカチカチ鳴ったり、箒がさっさと動いたり、水がどえらく浪費されたりするたびごとに、母親ははらはらする。それに令嬢たちがぬれねずみになってしまって、バグネット氏の細君はとてもお客さま然と落ち着いては見ていられない。やっとのことで洗滌作業がめでたく完了。ケベックとマルタは新しい着物に着がえ、さっぱりしてにこにこ笑いながらやって来る。パイプとたばこと飲みものがテーブルの上に置かれ、女房殿はこのすばらしい饗宴の日はじめての気持の安らぎを覚えるのだ。
バグネット氏がいつもの椅子に坐ると、時計の針が四時半に近づいている。それがきっかり四時半を指した時、彼がおごそかに宣言する。
「ジョージだ! 軍隊式に正確だね」
まさにジョージである。彼は女房殿に心からおめでとうをいうと(今日のよき日にはキスを贈って)、子供たちにも、バグネット氏にもお祝いを述べる。「みんな、いつまでも長生きしてくれたまえよ!」
「でも、ジョージ! どうしたの?」バグネット夫人が彼の顔をふしぎそうに見つめながらいう。
「どうしたって?」
「顔がまっ蒼じゃない。それに――あんたにしてはひどくがっくりしてるみたい。ね、リグナム、そうでしょ?」
「ジョージ」バグネット氏がいう。「女房にいってやってくれ。どうしたんだ?」
「自分ではべつに顔色が悪いとは思ってもいなかったし」手で額を撫でながら騎兵軍曹がいう。「がっくりした様子だとも思っていなかった。心配かけてすまない。実は、家で面倒みていた子供がきのうの午後死んでしまってね。それで少々しょげているんですよ」
「まあ、かわいそうに!」いかにも母親らしいあわれみのこもった口調で、バグネット氏の女房がいう。「なくなったの? そりゃまあ!」
「こんな話するつもりはなかったんだ。だって誕生日にする話じゃないものね。でも奥さんは僕が腰もかけないうちに見つけちゃったね。僕が元気を出さなきゃいかん、と思ってたやさきにね」軍曹は前よりも明るい口調になって、「奥さんは目が素早いからなあ、全く」
「そうさ」バグネット氏がいう。「女房は目が早い。鉄砲玉みたいにさ」
「それに、今日は奥さんのお祝いの日なんだから、奥さんに敬意を表そう」ジョージが叫ぶ。「ほら、僕は小さなブローチを持ってきたんだ。つまらない品物だが、今日の記念としてね。それがせめてものとりえ[#「とりえ」に傍点]というところだよ」
ジョージが贈り物をとり出すと、子供たち一同わっと踊り上って拍手する。バグネット氏はほれぼれと見とれていたが、「お前、わしの意見を言ってあげてくれ」
「まあ、すてき!」と、バグネット氏の女房が叫ぶ。「こんなきれいなもの見たことない!」
「その通り! それがわしの意見だ」バグネット氏がいう。
「ジョージ、本当にきれいね」バグネット氏の女房は贈り物をあれこれひっくり返し、手を伸ばして眺めながら叫ぶ。「でも私にはもったいないみたい」
「違う! わしの意見と違う」バグネット氏がいう。
「でも、どちらにしても、本当に有難う」バグネット氏の細君は嬉しさに目を輝かし、手をジョージの方に差し伸べていう。「私はときどきあんたには意地っぱりの軍人の女房に見えたでしょうけれども、ジョージ、私たちは本当はいつも仲よしの親友同士よ。さあ、あんたの手でこれをつけてちょうだい。あんたにつけて貰えばきっと幸運を呼ぶでしょうからね」
子供たちはお母さんがジョージにブローチをつけて貰うのを見ようと寄って来る。バグネット氏もウーリッジの頭越しに見ようとしているが、その顔つきがまるで無表情のくせに、子供みたいに嬉しそうなので、バグネット氏の細君は晴れやかに笑いながら、こういわないではいられない。「まあ、リグナム、あなたったら、なんていい人なんでしょう!」ところが騎兵軍曹はブローチをつけることができない。手がふるえ、どぎまぎしてしまって、ブローチを落してしまう。「なんてこった!」それを途中で受けとめながら、彼はいう。「僕はすっかりどうかしちまった。こんな簡単なことすらとちるなんて!」
バグネット氏の細君は、そういう時にはたばこを喫うのが一番の薬よ、といってから、自分であっという間にブローチをつけ終り、軍曹をいつもの椅子に案内して、パイプを取り出させる。「それでも気持が落ちつかなかったら、このあなたのプレゼントをときどきご覧なさい。二つ合わさればきっと効き目があるわよ」
「奥さん自分でつければよかったんだよ」ジョージが答える。「僕にゃわかっているんだ。あれやこれやで、このところすっかりふさぎ[#「ふさぎ」に傍点]の虫にとっつかれちゃってね。例えばあのかわいそうな子供のことね。あんな死に方を手をつかねて見ていて、手助けひとつできないってのは、つらいことですよ」
「ジョージ、それはどういうこと? あんた手助けをしてあげたんでしょう。その子を家に引き取ってやったじゃないの」
「そこまでは手をかしましたがね。そんなのはたか[#「たか」に傍点]が知れてます。つまりね、奥さん、僕のいうのは、右手と左手の区別くらいしきゃ知らないで、あとはなにひとつ教育も受けないまんまで死んじまった、ということですよ。その点じゃ手助けしようたってもう手遅れだったもの」
「まあ、かわいそうな子!」夫人がいう。
「そうするとね」軍曹はまだパイプに火をつけず、がっしりした手で頭を撫でまわしている。「グリドリーのことが思い出されて来たんだ。あいつも別な意味でひどい死に方だった。この二人のことを考えると、二人にあんな真似をした人でなしの悪党のことが思い出されて来てね。それからあの|錆《さび》だらけのカービン銃が部屋の片隅に立てかけてあって、どっちだってかまやしないよ、といわんばかりに知らん顔をしている――これを思うと身体中の血が煮えくり返って来た、本当ですよ」
「ねえ、悪いことはいわないわよ」バグネット氏の細君がいう。「パイプに火をつけて、そんなぶっそうな考えを吹き飛ばしてしまいなさい。その方が気持も休まるし、身体にもいいわ」
「全くその通りだ、そうしよう」軍曹がいう。
そこで彼はそうする。もっともまだ怒ったみたいにむっつりしているので、子供たちはしん[#「しん」に傍点]としてしまうし、バグネット氏までが夫人の健康を祝す乾盃をいい出しそびれてしまう。いつもこのお祝いの時には、彼自身が簡潔のお手本みたいな乾盃の辞を述べることになっていたのだ。だが若いお嬢さんたちが、バグネット氏がよく「カックテル」と呼んでいるところのものを調合し終ると、彼は今晩の祝盃に移らねばならぬと考えて、一同に向って次のような演説をする。
「ジョージ、ウーリッジ、ケベック、マルタ。今日はあれの誕生日だ。一日じゅう歩いて探したって。ざらに見つからないような。あれのために乾盃!」
一同心からのお祝いの気持をこめて乾盃すると、バグネット氏の細君がこれもまた好一対の簡潔な言葉でお礼の言葉を返す。この簡潔のお手本はたった一言、「では、皆さんも」だけで、その後は一人一人に向って次々にうなずいて見せ、手ぎわよくカクテルの盃を傾けるのである。ところが今晩に限りこの後に全く思いがけぬ叫び声のおまけがつくことになる。「おや、お客さんよ!」
確かに一人のお客さんが居間のドアから中を覗き込んでいるので、一座の者はびっくり仰天。その人は目つきの鋭い男――てきぱきした男――で、彼が自分に向けられた一同の視線を一人ずつ受け止めながらも、それと同時に全部一緒くたに受け止める、その態度からしても、これはただ者ではないと思わせるものがある。
「ジョージ」その男はうなずきながらいう。「元気かい?」
「なんだ、バケットじゃないか!」ジョージが叫ぶ。
「うん」その男は部屋に入って来るとドアを閉めながら、「ちょうどおもての通りを歩いていて、たまたま立ち止ってウインドに飾ってある楽器を眺めていたら――私の友達に中古のチェロを欲しがっている男がいてね、いい|音色《ねいろ》のやつをさ――皆さんがお楽しみの様子が見えて、隅っこに君がいたように思ったのだよ。間違いなく君だと思ってね。このところ元気かね、ジョージ? まあまあ[#「まあまあ」に傍点]というところかい? 奥さんはいかがですか? それから旦那さんは? やっ、これはこれは!」バケット警部は両腕を拡げながら、「子供さんたちもいるじゃないですか! 私は子供ときたらまるで目がないんでね。さあ、おじさんにキスしておくれよ。誰の子供さんか聞かなくたってわかるさ。こんなによく似た顔を見たことないもの!」
バケット警部は皆からいやな顔をされることもなく、ジョージの隣りに坐り込むと、両膝の上にケベックとマルタを坐らせる。「かわいいお子さんたちだなあ! もう一つキスしておくれよ。私はこれが好きで好きでたまらないんですよ。まあ、なんと健康そうな顔色! この子たちはおいくつですか、お母さん? 私の見たところでは八つと十くらいですがね」
「だいたい当っていますわ」バグネットの女房がいう。
「私はいつもだいたい当る男なんで」バケットが答える。「何しろ子供好きなもんでね。奥さん、私の友達に十九人の子持ちがいましてね。全部同じお母さんの子ですがね。そのお母さんもまだ娘みたいに若々しいんですよ。でも、奥さんほどじゃありませんよ。まあ、だいたい同じくらいですな! ほらほら見てごらんよ」バケットはマルタの頬をつまみながら、「まるで桃そっくり! 食べちゃいたいくらい! ねえ、お父さんのことどう思う? お父さんはバケットおじさんのお友達のために、いい音色の中古チェロを世話してくれると思うかい? おじさんの名前はバケットっていうんだ。おかしな名前だろう?」
こう如才なくとり入ったので、一家全部がすっかりこの男を好きになってしまう。バグネットの女房は今日が自分のお祝い日であることも忘れてしまい、お客のためにパイプにたばこをつめてやり、グラスに飲み物を|注《つ》いでやり、あいそよく彼にすすめる。あなたのような愉快なお客さんならいつでも大歓迎ですが、ジョージのお友達なら今晩は特に大歓迎ですわ。だってこのところジョージは、いつもみたいに元気がないんですもの。
「いつもみたいに元気がないんですって?」バケットが叫ぶ。「へえ、珍らしいことがあるもんですな! どうしたんだい、ジョージ? 君は自分の口から元気がないとはいいたくないらしいね。どうして元気がなくなったのだ? 何か心配ごとでもあるんだね」
「いやべつに」騎兵軍曹が答える。
「そうだろうと思ったよ」バケットがうなずいて、「君に心配ごとなんてあるはずないと思ったよ! ねえ、このお嬢さんたちだって心配ごとなんてあるかい? ないだろう? でもそのうちいつか、若い男の子の胸に心配の種をまいて、元気をなくさせてしまうことでしょうね。私はあまり予言は得意じゃないけれど、これはきっとそうなると思いますよ、ねえ、奥さん」
バグネットの女房はすっかり嬉しくなってしまい、バケットさんにもお子さんがおありなんですか、と尋ねる。
「いや、それがですねえ! 嘘だとお思いになるかもしれませんが、ないんですよ。家内と、下宿人が一人と、それで全部なんで。家内も私と同じで子供が大好きで、欲しがっているんですがね。でも、だめなんです。世の中っていうものは、とかく不公平に出来ているもんですから、愚痴はこぼしっこなしですよ。おや、奥さん、とてもすてきな裏庭ですな! 裏庭に出口がありますか?」
裏庭には出口はありません。
「おや、そうですか。てっきりあると思っていましたがね。こんな気に入った裏庭を見たことありませんねえ。ちょっと見せていただけますか? 有難うございます。なるほど、確かに出口はありませんな。でもなかなか小ぢんまりした、いい裏庭ですねえ!」
バケット警部はあたりを鋭い目で見廻してから、また親友ジョージの隣りの席に坐ると、いかにもやさしそうに彼の肩を叩く。
「ジョージ、どうだい?」
「ああ、もう大丈夫」
「そうそう、その調子!」バケットがいう。「そうでなくっちゃ! 君みたいにいい身体の男が元気をなくすなんておかしいよ。ねえ、奥さん、そうでしょう? あの身体つきでねえ? 心配ごとなんてないんだろう、ジョージ? 心配なんてあるはずないもの」
バケットほどの話上手で話題豊富な人にしては少し珍らしいくらい、この同じ言葉を二、三度もくり返し、パイプをふかしながら、この男独特の、相手の言葉をひとこともきき洩らすまいという顔付きを見せているが、やがて彼の太陽のような人好きのよさが、一時の日蝕を終えてふたたび輝きを取り戻す。
「それからこちらがお兄さんだね?」バケットはケベックとマルタに向って、ウーリッジ少年のことを尋ねる。「立派なお兄さんだなあ――でも、お母さんが違うんじゃないかな。奥さんはこの子のお母さんにしては若すぎますもの」
「でも間違いなく私の子です。右証明します」バグネットの女房が笑いながら答える。
「へえ、こりゃ驚きだ! でも、いかにも奥さんに似てますな。これは間違いない。実際よく似ていますなあ! でも額から眉のあたり、ここはお父さん似ですね!」バケットが片目をつぶって二人の顔を比べ合わせている間、バグネット氏は満足そうに黙りこくってたばこをふかしている。
この時バグネットの女房は、この子の洗礼の時にはジョージが名付け親になってくれたんですよ、と教える。
「ジョージがねえ!」ひどく親しげにバケットがいう。「それじゃもう一度この息子さんと握手しなくちゃ。ジョージも君も、お互いに自慢できる立派な人間だもの。ところで奥さん、このお子さんを何にするおつもりですか? やっぱりこの子も楽器が好きですか?」
バグネット氏がだしぬけに口を挿む。「ファイフ(4)が吹ける。みごとだ」
「これは驚いた、お父さん」あまりの偶然の一致にバケットはびっくりして、「私も子供の時にファイフを吹いたんですよ! このお子さんはちゃんと習ったんでしょうけれど、私のはただ耳で習いおぼえただけでね。そら、イギリス|擲弾兵《てきだんへい》行進曲――あれを聞くとイギリス人なら誰でも胸が躍りますな! ねえ君、一つイギリス擲弾兵行進曲を吹いてくれないか?」
このウーリッジ少年への頼みは一座の面々から満場一致で認められたので、少年はファイフをとり出すと、勇壮なメロディを吹く。その間バケットはすっかり元気いっぱいになって手拍子をとり、「イギ・リス・テキ・ダアン・ヘエエイ!」という各節の繰返しのところでは、常に一拍子の狂いもなく声を合わせる。つまり彼がその音楽の才能を惜しみなく示すものだから、バグネット氏は口からパイプをはなすと、こりゃ確かにみごとな歌だという。バケットはこのやさしい叱責をいとも素直に受けとると、自分は以前ちょっとばかり歌をうたっていたことがありましたが、それは自分の気持を吐露するつもりでして、友達に聞かせて喜ばせようなんぞという、思い上ったつもりはありませんでした、と告白するので、さっそく一同からうたって下さいと所望される。この晩の楽しいふんい気を盛り上げるのにおくれをとる気の毛頭ない彼は、すぐ承知すると「われを信ぜよ、もしかの若き日の魅力が(5)」を歌う。バケットはさらにバグネットの女房に向い、奥さんがもし結婚前のお嬢さんだったら、きっとこの民謡はあなたの心を動かし、結婚式の祭壇に向う気持にさせる――バケット自身の言葉によるなら、リングに上る気持にさせる――に役立ったでしょうにねえ、というのである。
このウィットたっぷりのお客がすっかり今晩の人気者になってしまったので、彼が入って来た時はあまり嬉しそうな顔をしていなかったジョージさえ、思わず知らずこの友達のことを得意に思うようになり出す。とても愛想がよくて、よく気がきくし、つき合いやすいというわけだから、こういう男を紹介したというのはたいした功績だ。バグネット氏はもう一回パイプをすってから、お知り合いになれてたいへん嬉しい、来年の家内の誕生日にもぜひおいでいただきたいもので、という。今晩がどういうつどいであるかを知って、バケットのこの一家に対する敬愛の念はますます高まるばかりである。彼はわれを忘れんばかりの熱心な態度で夫人のために祝盃を上げ、来年の今晩お呼びいただければ光栄しごくですといいながら、バンドのついた大型の黒表紙の手帳に書きとめてから、それまでに奥さんと私の家内も姉妹同様のおつき合いができるようにしたいものですな、とつぶやく。個人的な交際がなくては、公けの生活もあじけなくてやりきれませんよ。私も公職のはしくれについておる者ですが、職務のうちに幸福を見出すわけにはいきません。そうですとも、幸福は家庭のだんらんのうちにこそ求めるべきです。
こういったわけだから当り前のことだが、バケットの方でもかかる友人を紹介してくれた恩人ジョージを、片時も忘れないように見える。彼はいつもそのすぐ傍に坐り、何の話をしている時でも、絶えずやさしそうに友人を見つめている。一緒に家に帰ろうと待ち構えているらしい。彼はジョージのはいている靴にまで興味しんしんで、煖炉のそばで脚を組んで坐りながらたばこをすっている彼の靴をじっと見つめている。
とうとうジョージ軍曹が腰を上げて帰りかける。そのとたん親友というものはひそかに気持まで通じ合うものか、バケットも立ち上る。彼は最後まで子供たちに親切なおじさんで、ここにいない友達に頼まれた用事を思い出すと、
「お父さん、あの中古のチェロのことですがねえ――そういったのを一つ世話して貰えますか?」
「いくらでも」バグネット氏がいう。
「それは有難い」バケットはその手を握りしめながらいう。「あなたこそいざというとき頼りになる友達だ。いい音色のをお願いしますよ! 私の友人は正真正銘チェロの名人ですからね。そいつはモーツァルトだろうがヘンデルだろうが、その他の偉いやつのでも、いかにもくろうと[#「くろうと」に傍点]らしく、らくらくとひいちまうんで。それからね」バケットは思いやり深くそっと教えてやる。「べつに格安の値段じゃなくてもいいんですよ。友人のために法外な金を払うのはいやだけれども、あんたにだって然るべき手数料を取って貰いたい。時間を費したことに対してお礼をしたいから。両方とも損のないようにして、世の中共存共栄でいかなくてはいけませんからね」
バグネット氏は女房の方に向って、これはすてきなお客を見つけたものだ、とでもいわんばかりに頭を振る。
「明朝十時半にお訪ねしてよろしいですかな? 二、三のいい音色のチェロの値段をその時に教えて下さい」バケットがいう。
お安いご用ですとも。必要な情報を集めておきましょう、もしかすると現物をいくつかお見せできるかもしれません、とバグネット夫妻は答える。
「どうも有難う。おやすみなさい、奥さん。おやすみなさい、お父さん。子供たちも、おやすみ。今晩はほんとにめったにないような楽しい晩でしたよ。本当に有難う」
こちらこそおいで下さって感謝しております、と一家が答え、双方暖かい言葉をかわしながら別れを告げる。「さあ、いこう、ジョージ」店の入口のところでバケットは友達の腕をとりながら、「さあ、いこう!」二人が狭い往来を歩いてゆくのを一同がちょっとのあいだ見送っている時、バグネットの女房はリグナム旦那に向っていう。「バケットさんたら、ジョージから片時も離れられないというみたいじゃない? よっぽどあの人が好きなのね」
このあたりの往来は狭くて舗装も悪いので、二人が腕を組んで並んで歩くにはやや不便だ。で、まもなくジョージが別々に歩いていこう、という。ところがバケットは親友と別れかねるらしく、「ちょっと待ってくれ、ジョージ。その前に話がある」と答えると、すぐ彼を居酒屋の、しかもパーラー(6)の方に連れ込むと、ドアにもたれかかってジョージに向い合う。
「いいか、ジョージ、職務は職務、友情は友情だ。私はできるだけこの二つをうまくまとめたいんだ。だから今夜もなるべくことを愉快に運ぼうと努力したんだよ。愉快にできたかどうか、それは君に考えて貰わなくちゃいかんが。ジョージ、君は逮捕されたと思ってくれ」
「逮捕だと? 何でまた?」軍曹はびっくり仰天して答える。
「いいかい、ジョージ」バケットはずんぐりした人差し指を突き出して、事態をよくわきまえてくれよという身振りをする。「君もよく知っての通り、職務とおしゃべりとは別なんだ。これは職務として警告しておかなくてはならんが、君がこれからしゃべることは、君に不利な証拠として使われることがあるかもしれない(7)。だからジョージ、言葉に気をつけてくれよ。君はもしや殺人の話を聞いてはいないかね?」
「殺人だって!」
「いいかい、ジョージ」バケットはその人差し指を意味ありげに動かしながら、「さっき私がいったことを忘れないでいてくれよ。私は何も要求をしてるわけじゃない。君は今日の午後元気がなかった。ねえ、君はもしや殺人の話を聞いてはいないだろうね」
「ない。どこで殺人があったんです?」
「いいかい、ジョージ。あとで言質をとられるようなことをいうなよ。私が何で君を逮捕するか話してやるから。リンカン法曹学院で殺人があった――タルキングホーンという名前の人が殺された。昨夜ピストルで射たれた。その容疑で君を逮捕する」
軍曹はうしろの椅子に崩れるように坐ると、額に大粒の油汗が浮び、顔じゅうが死人のように蒼ざめて来る。
「バケット! タルキングホーンさんが殺されたなんて、そんなはずはない。しかも、あなたはこの僕を疑うというのですか?」
「ジョージ」バケットは人差し指を動かし続けながら答える。「間違いなくその通りなのだ。警察沙汰になっているのだから。犯行は昨夜十時に行なわれた。さて、君は昨夜十時にどこにいたか知っているね。もちろんそれを証明できるだろうな?」
「昨夜だって! 昨夜だって?」軍曹は考え込んでいたが、突然はっとしたように、「あっ! なんてことだ。昨夜自分はあそこにいた!」
「それはちゃんとわかっているんだ、ジョージ」バケットは落ちつきはらっていう。「ちゃんとわかっているんだよ。そればかりか、君はあそこに何度もいったことがある。あのへんをぶらぶら歩いているところを見られたことがある。君が故人といい争いをしたのを一度ならず聞いた人がいる。だから故人が君を殺意のある危険な脅迫者と呼んでいたのを、聞いた人がいたかもしれないと考えられる――いいかい、絶対確実にそうだというのじゃない。そうかもしれないとも考えられる、というのだ」
軍曹はただ|咽喉《のど》であえぐような音を出すだけだが、まるで口がきけたら、それを全部認めるとでもいっているみたいだ。
「いいかい、ジョージ」バケットは帽子をテーブルの上に置きながら話を続ける。まるで建具屋が仕事をしているみたいな格好だ。「私の望みは、今晩これまでずっとそうだったが、ことを愉快に運びたいということなんだ。はっきりいってしまうが、レスタ・デッドロック准男爵閣下から百ギニーの懸賞金が出ているんだ。君と私とはこれまでいつも愉快につき合って来た仲だが、私は職務を果さなくてはならないんだ。それにどうせ百ギニーを誰かが貰えるんなら、この私が貰った方がいい。こういったわけで、君にもはっきりわかって貰えたと思うが、私は君を逮捕しなくてはならない。ぜひともそうしなくてはならんのだ。誰か助けを呼ばなくてはいかんかね? それとも私のいうことをわかってくれたかね?」
ジョージ軍曹は気をとり直すと、軍人らしくしゃん[#「しゃん」に傍点]と立ち上る。「わかった。さあ、いこう!」
「ジョージ、ちょっと待ってくれ!」バケット警部は、まるでジョージのことをはめ込み窓とでも思っているみたいに、建具屋然とした態度でポケットの中から手錠をとり出す。「これは重大な容疑だからね。これも私の職務なんだから」
軍曹は怒りで顔をまっ赤にすると、一瞬ためらっていたが、握ったままの両手を差し出すと、「さあ! はめたまえ!」
バケットはすぐ手錠をはめる。「具合はどうだい? はめごこちはいいかい? 悪かったらそういってくれよ。職務にさしさわりない限り、ことを愉快に運びたいと思っているから、ポケットの中に代りの手錠を持っているんだ」これはまるで完全にお客さまの満足いくように注文を仕上げたいと願っている律義な商人そっくりの口のきき方だ。「今のでいいかい? よし! それじゃ、ジョージ」彼は隅からマントをとって来ると、軍曹の襟のまわりにかけてやりながら、「外へ出た時の君の気持も考えてやらねばならんと思って、わざわざこれを持って来たんだ。そら! これなら誰にもわからないだろう?」
「自分自身のほかにはね」軍曹が答える。「だが、もう一つ頼みがある。自分の帽子をもっとまぶかにかぶせてくれ」
「えっ、本当かい? 本当にそうして貰いたいのかい? 困りゃしないかい? 一目でそうとわかる格好になるぜ」
「こんな格好でうっかり誰かに会ったら、まともに顔など見られないからな」ジョージがあわてて答える。「お願いだ。ぐっとまぶかにかぶせてくれ」
こうも強く頼まれたので、バケット警部はいう通りにしてやり、自分も帽子をかぶると獲物を連れて街に出る。騎兵軍曹はいつもの通りしっかりした足どりで、しかしいつもよりいささか頭をうなだれ気味に歩んでゆき、バケット警部は街の四辻や曲り角に来ると、|肘《ひじ》で彼をうながしながら案内していく。
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訳註
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第三十三章 侵入者
(1)イギリス国王ジョージ二世の在位中の一七三七年の法令により、すべての演劇公演は内大臣の検閲を受けることになったが、居酒屋で行なう音楽とダンスの公演は除外例だった。
(2)原語 note の別の意味「(音符のあらわす)音」にかけたしゃれ。
(3)フェニックスはエジプト神話の霊鳥で、五〇〇年ごとに神壇でみずから焼死し、その灰の中からまた幼鳥になってよみがえって来るといわれる。この名を取ったフェニックス火災保険会社は、当時ロンドン業界第二位を誇っていた。一八六六年までロンドンには公設消防隊はなく、各火災保険会社が私設消防隊を持ち、その消防車に会社のマークをつけていた。
(4)ラム酒などにオレンジまたはレモンのジュース、砂糖を加えた飲み物。
(5)液体量の単位で、約一・一四リットル。
第三十四章 絞り上げ
(1)原語 whitewash には別の意味「(支払不能債務者が)破産して弁済の責任を免除される」がある。
(2)軍人のこと。
(3)アメリカ産の熱帯常緑樹のグァヤック樹のこと。きわめて堅く重い木として珍重された。
(4)人の体重の単位で一ストーンは十四ポンド。
(5)ジプラルタル海峡の地中海側、スペインの南端近くにある、高さ四二六メートルの岩山。
第三十五章 エスタの物語
(1)頼りないものを意味する「折れ葦」という言葉が聖書によく出て来る――例えば、旧約聖書「イザヤ書」第三十六章六節――それを言いかえたもの。
(2)小牛や小羊のすい臓。
(3)大法官のもっている職権の象徴。
(4)リチャードのこと。
第三十六章 チェスニー・ウォールド
(1)切株、ずんぐりとかいう意味。あるいは、馬の絵を描くことで有名だったジョージ・スタッブス(一七二四―一八〇六)という画家の名を借りたのかもしれない。
(2)イギリス南西の端の近くにある港町。
(3)第三章注(1)参照。
(4)モーゼの十戒の一つ。旧約聖書「出エジプト記」第二十章五節参照。
第三十七章 ジャーンディス対ジャーンディス訴訟事件
(1)「小さな水差しには大きな耳がついている」つまり「子供は早耳」ということわざがある。
(2)一七六八―一八二一年。イギリス王ジョージ四世の妃。
(3)グリドリーのことをさす。
(4)新約聖書「黙示録」第六章八節「われ見しに、見よ青ざめたる馬あり、これに乗る者の名を死という」。
(5)「死海の果実」あるいは「ソドムのりんご」という言葉がある。死海の近くでは見かけの美しい果実がなるが、口に入れると骨灰の味がするという。失望と死を連想させている。
第三十八章 苦闘
(1)小型のバイオリン。
(2)けいれんを起さないためのおまじないにする。
(3)第十四章注(2)参照。
(4)これは証人が法廷で証言の前に行なう宣誓のきまり文句。
第三十九章 弁護士と依頼人
(1)「安定したよりどころ」の意味、新約聖書「マタイ伝」七章二四節に見られる比喩。
(2)「灰」「塵」ともに「死体」「遺骨」の意味で、埋葬式に読み上げる祈りの中の文句。
(3)ロンドン南部にある貧しい地域。
(4)ロンドン大火を記念して市内に建てられている。高さ約六十メートル。
(5)第十八章注(1)参照。
(6)ともに十八世紀の有名な守銭奴で家の中に金をかくしていた。
(7)早口でこっけいな歌を歌いまくること。
(8)スコットランドで食べる肉汁。
第四十章 国の問題とお|家《いえ》の問題
(1)政権獲得のために賄賂の金と酒で買収をすること。
(2)選挙に関する訴えは選挙後二十一日以内に受けつけられ、その裁決は当時は議会内で開かれる法廷で行なわれていた。現在は一般の法廷で裁かれる。
(3)当時の下院定数。
(4)第二章注(5)参照。
第四十一章 タルキングホーン氏の部屋にて
(1)王宮や貴族の屋敷では主がいる時はそこの紋章のついた旗を立てることになっている。
第四十二章 タルキングホーン氏の事務室にて
(1)老巧な鳥はもみがらの餌にはひっかからないという諺がある。
(2)十九世紀初頭ヨーロッパの各国から来た物売りや街頭芸人などが多くロンドンで見られた。
(3)囚人を働かせる道具。
第四十三章 エスタの物語
(1)一八二〇年代にスペインのドン・カルロスを王位に就けようと運動していた一派が故国から亡命して、ここに住んでいた。
(2)第三十五章注(1)参照。
(3)十八世紀にアイザック・ウォッツ博士が子供のために、教訓的な歌をいくつも作った。その中の一つのけんかをいましめる歌に、「犬がかんだり、熊やライオンが争うのは、彼らの天性なのだから」というのがある。
(4)マルサスの『人口論』を暗にさす。
(5)紀元一世紀ローマ人がイギリスを占領していた頃の遺跡で、スントールバンズに残っている。
第四十五章 約束
(1)イングランド東南部、ケント州にあり、英仏海峡に面した港町。
第四十六章 その子をつかまえて!
(1)高教会とはイギリス国教会中、教会の権威や儀式を重んじる派。低教会は反対にあまり重んじない派。
(2)十一世紀に北フランスから移りイギリスを支配した由緒ある華族。
(3)二シリング六ペンス銀貨。
第四十七章 ジョーの遺言
(1)旧約聖書「詩篇」第四十九章十二節。
(2)ロンドンにある王立精神病院。
(3)二シリング六ペンスに当る。
第四十八章 迫り来るもの
(1)シェイクスピアの描いたマクベス夫人の夢中歩行のことを差しているのであろう。
(2)ギリシャ神話にある怪物ゴルゴンににらまれると、すべてのものが石に変るという。
(3)シェイクスピア『ハムレット』第一幕第一場、幽霊が現れる前のせりふ。
(4)セント・ポール寺院の大ドームのこと。
(5)もちろん皮肉で、悪らつな法律家を羊飼いに、何も知らぬ依頼人を羊にたとえたもの。しかし、リンカーン法曹学院の広場が、十八世までは羊の放牧場であったことは事実である。
第四十九章 職務と友情
(1)バグネット氏の名はジョゼフではなく、マシューのはずである(第二十七章ほか参照)。作者のうっかりミスである。
(2)第四十二章注(1)参照。
(3)石でも消化するという。
(4)軍楽隊でよく用いられる横笛。
(5)トマス・ムーア作詞『アイルランド民謡集』(一八〇七―三四)の中の一篇。広く大衆に愛好された歌である。
(6)イギリスの居酒屋はスタンド式のバーと、椅子に坐れるパーラーと二つに分れ、後者の方が値が高いから、客は少ないのが普通。
(7)警察で容疑者の口述書を取る際あらかじめ与えるきまり文句。
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解説3 ディケンズの後期作品について
[#地付き]青木雄造
彼の小説構成の変化は『コパフィールド』のすぐ前の長篇『ドムビー父子』(一八四八年)においてすでに始った。ディケンズの長篇小説はすべて月刊分冊または雑誌連載という形で発表されたので、前にも触れたように、彼はあらかじめ作品を書き上げたり、全体の構想を決定したりせず、毎月書きつぎながら、世評や売れ行きを考慮しては筋を変え、あるいは人物を出し入れした。そのためプロットが統一を欠いたり、構成が粗末になることがあった。ところが『ドムビー父子』でははじめから全体の構想を細部までまとめたのちに筆を取ったのである。その結果、以前の作品のように、プロットと作中人物が細胞分裂するようにつぎつぎにふえてゆくことなく、構成が緊密になり、統一的な主題のまわりに人物が集中され、主題をめぐってプロットが展開されることになった。この作の主題は「プライド」、実業家ドムビー氏の自己中心的な誇りであり、それに対置されている娘フロレンスの暖い献身的な純情である。その他の人物はみなこの二つの主題の変奏曲として、二人の周囲にいわば対位法的に配置されて、全篇がその時代のイギリス社会の病根を力強く描き出している。ドムビー父子商会主人のドムビーは金銭の万能の力を信じ、人間関係を売買・貸借関係にすぎぬと考えているぱかりでなく、宇宙のいっさいは自分の経営する富裕な商会のために存在しているという、傲慢な誇りにとりつかれている。ドムビーは十九世紀の前半からイギリスの実力者になった中流階級(ブルジョア)――産業経営者、貿易商、銀行家などの典型であり、彼らの信奉する功利主義の経済思想、人生観から生れた黄金万能主義者の見本である。『ドムビー父子』はドムビーとフロレンスをめぐるメロドラマであるとともに、同時代のイギリス社会の回心を要請した社会小説であった。
『ドムビー父子』に現れたもう一つの注目すべき特色は、さまざまなイメージの象徴的、寓意的な使用である。例えばこの小説では汽車が重要なイメージになっている。鉄道の敷設によって古い家々や町並みがとりこわされて新しい市街が出現してゆく情景や、野を越え岡を越えてすさまじい速力で突進する、この怪物に乗ったドムビーの驚異の心理などの描写は、それ自体としてすばらしいばかりでなく、経済史家のいう「鉄道時代」を到来させた産業主義社会の原動力であるドムビーたちの階級のたくましい貪欲な力と分ちがたく結びついている。
『ドムビー父子』における構成に対する周到な配慮と、イメージの象徴的な使用とは、その後の作品において、より顕著になり、両者がいっそう緊密に結合されて、ディケンズの後半期における小説の象徴的ないし寓意的手法となった。特に『荒涼館』、『ドリットちゃん』(一八五五ー五七年)、『われらの互いの友』(一八六四ー六五年)はこの手法を全面的に駆使した力作である。この三つの社会批判のテーマを持った小説は、先に述べたディケンズの再評価が始って以来、それぞれいろいろな評者によって絶讃されているが、『荒涼館』については次にやや詳しく述べるので、他の二作に一言だけ触れると『ドリットちゃん』では、冒頭にあるマルセーユの牢獄内の囚人、彼が飼っている籠の中の鳥、港の検疫所にとじこめられた船客たちから始まって、イギリスの支払不能債務者のはいっている監獄といったように、牢獄と囚人のイメージが随処に使われ、結局、人間の社会自体が牢獄であるとともに、人の心もまた牢につながれていることを読者は知る。『われらの互いの友』は、当時、汚物塵芥の処理が莫大な利益のある事業であった事実を題材にして、富の源泉を不潔な汚物の山によって示し、十九世紀のイギリス社会の物質万能思想を激しく批判している。ディケンズは元来適切なイメージによって人物や情景の描写に効果を与えることに長じていたが、今やイメージによって人間の「心を寓意的に……表現」(本電子文庫二巻、二十一章)することを意識的に行うようになった。それは同時に彼の社会と人間に対する見方の深化と相い伴っていた。初期の作品においては特定の社会的弊害が個別的現象としてとり上げられ、社会悪の責任が特定の個人に帰せられていたが、今やそれらの背後にある社会の制度や組織や階級の全体へ、さらに社会悪の根源へ目が向けられて来た。それゆえ社会を広く全体的に取り扱う主題と方法が必要となった。
『荒涼館』の序章はそのような社会小説の主題と方法をみごとに示している。「ロンドン名物」の霧が全市を暗くおおい、煤煙をまじえて黒い霧雨となり、通りという通りを泥とぬかるみに変えている。その霧と泥の中心にある大法官裁判所では四十年来つづいているジャーンディス対ジャーンディス事件を審理しているが、いっこうに解決する見込みはない。そのため、訴訟当事者の中には自殺者、発狂者、破産者が出たぱかりでなく、訴訟は孫子の代まで引継がれて、憎悪、不信その他多くの害毒と退廃の源になっているのに、訴訟自体はこみいって、だれにもさっぱり分らなくなっている。この訴訟の現状が霧とぬかるみにほかならぬことを読者は強く印象づけられるが、その霧はテームズ河の川下と川上、隣りの諸州、いやイギリス全土をおおっている。第二章では遠いリンカンシア州の豪族レスタ・デッドロック准男爵の所領が霧とぬかるみに包まれていること、イギリス上流社会の代表者の一人たる彼の奥方がその訴訟の関係者であることが分る。そして大法官裁判所と上流社会とは、ともに先例と慣習の支配する世界、という点で共通している。すなわち霧に|鎖《とざ》された世界なのである。|溌溂《はつらつ》とした生命力を失い、本来の機能を失って自己の責任をはたさず、形骸と化した制度、機関、階級、人間に対する批判を、ディケンズはジャーンディス対ジャーンディス事件の直接、間接の関係者が辿る運命を通じて行っている、そのような関係者はイギリス社会の頂点をなす上流社会、政界、官界、法曹界から中流階級、下流階級、さらに下って底辺の貧民、浮浪者にまで及んで、『荒涼館』はスケールの大きい社会小説になっている。
そのような作品に重層的な豊かさを与えているのがディケンズのテクニークである。そのもっとも顕著なのが寓意的、象徴的手法で、例えば、今述べた第一ー二章に現れる霧は、やがてもや[#「もや」に傍点]となり、雨となり、みぞれとなって、全巻を重苦しい雰囲気に包み、むしばまれたイギリスの病患を象徴するわけだが、その他いろいろな種類と段階の象徴的、寓意的方法が見られる。もっとも素朴なのは、人物に寓意的な意味を持った名前をつけるやり方で、デッドロック(Dedlock) は「ゆきづまり」(deadlock) を、宝石商ブレイズ(Blaze) は同じ語の普通名詞の「輝き」(宝石の)を示している。また人物の性格や心理状態を強調するために、それらとその人の外貎やその場の情景や雰囲気をマッチさせることは一般に早くから行われて来たが、先に触れたように、ディケンズはこれを人間の心の寓意的表現として大幅に使っている。それと同種類の巧妙なものが、第十二章第二節末にあり、日光の帯がレスタ卿夫人の肖像に射しこみ、煖炉を引き裂くように見えるのは、夫人に私生児のあることを示し(訳注参照)、煖炉(hearth) に「家庭」の意味もあるので、その後の破局を暗示しているかも知れない。それよりもっと組織的なのは大法官府横町のくず屋クルックとその店の裁判関係の紙くずやボロ、彼の「自然発火」による死(本電子文庫二巻、三十二章の末尾)はパロディー式でグロテスクながら興味深い寓意的方法である。以上はほんの数例で、このほか更に違った種類のものがあるし、彼のシンボリズムは古来からのアレゴリーと縁が深く、また|洒落《しやれ》や地口、あるいはパロディー・バーレスクとも無縁のものでないし、種々な関連性が考えられるが、今は触れる余裕がない。
『荒涼館』全体は作中人物エスタの手記と、作者の「全知」の視点から書かれた章とが交互に展開され、この二つの視点からの叙述が物語の進展につれて次第に交叉し、最後に両者が一体になる。前者は善良で感傷的な娘エスタが物語り手と作中人物(ある意味ではヘロイン)とを兼ねているための限界があり、彼女の性格づけが損われていて、作者の視点からの叙述のほうが奔放な面白さがある。この叙述のテンスが現在形をとっているのは歴史的現在というより、時間に拘束されない普遍性を持った世界の出来事というのであろう。
この作品で主要な地位を占めている大法官裁判所は、裁判官でない大法官が正義の観念に基づいてもともと普通法(コモン・ロー)を補正するために設けられた、いわゆる|衡平《こうへい》法の裁判所であった。始め大法官には国王付きの牧師がなった。また大法官は|国璽《こくじ》の保管者で、その|官衙《かんが》が大法官府である。大法官裁判所の開廷期は、ミクルマス開廷期(十一月二日ー二十五日)から始まり、ヒラリ開廷期(一月十一日ー三十一日)、イースター開廷期(イースター後の第二火曜日から二十八日間)、トリニティ開廷期(トリニティ後の第二火曜日から二十一日間)の四つがあり、長期休廷期は八月十日から十月二十八日までであった。大法官裁判所は一八七三年に廃止されて、衡平法裁判所となった。
[#地付き](一九六九年七月)
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C.ディケンズ(Charles Dickens)
(一八一二――一八七〇)イギリスの小説家。女王から貧しい庶民の子供までが愛読したヴィクトリア期最大の国民的文豪。下級官吏の長男として生まれ、貧苦の末に小学校程度の教育を身につけた後は、法律事務所の使い走りを振り出しに、速記者、新聞記者と、わずかな余暇を図書館での勉強と芝居見物に費やすほかは、全て独力で生活の資を稼ぎながら創作生活に入り、一躍人気作家となる。著作活動のほかに慈善事業、雑誌編集、素人芝居、自作公開朗読会等、多方面で活躍。『ピクウィック・クラブ』『オリヴァー・トゥイスト』『骨董屋』『マーティン・チャズルウィット』『クリスマス・キャロル』『デイヴィッド・コパフィールド』『リトル・ドリット』『二都物語』『大いなる遺産』『我らが共通の友』など数多くの名作を残した。
青木雄造(あおき・ゆうぞう)
一九一七年、東京に生まれる。東京大学英文学科卒。元東京大学教授、後に名誉教授。日本英文学会会長をつとめた。一九八二年歿。訳書にギッシング『ライクロフトの手記』『くもの巣の家』、ワイルド『幸福な王子』、コンラッド『秘密の同居人、文明の前哨地点』、ロレンス『死んだ男』、グリーン『密使』、カー『九つの答』など多数。
小池滋(こいけ・しげる)
一九三一年、東京に生まれる。東京大学大学院人文科学研究科博士課程修了。東京都立大学教授、東京女子大学教授を歴任。著書に『ロンドン』『ディケンズとともに』『英国鉄道物語』『もうひとつのイギリス史』など多数。
本作品は一九七五年一月、筑摩書房より「筑摩世界文学大系34」として刊行され、一九八九年四月、ちくま文庫に収録された。