荒涼館 2
C.ディケンズ/青木雄造・小池 滋訳
目 次
第十七章 エスタの物語
第十八章 デッドロック家の奥方
第十九章 立ちどまってはいかん
第二十章 新しい下宿人
第二十一章 スモールウィード家の人々
第二十二章 バケット警部
第二十三章 エスタの物語
第二十四章 上訴事実記載書
第二十五章 スナグズビー氏の細君すべてを見抜く
第二十六章 狙撃兵たち
第二十七章 老兵は一人にあらず
第二十八章 鉄工場主
第二十九章 若い男
第三十章 エスタの物語
第三十一章 看護人と病人
第三十二章 約束の時間
訳註
解説2 ディケンズの前期作品について
[#改ページ]
荒涼館 2
BLEAK HOUSE
第十七章 エスタの物語
私たちのロンドン滞在中、リチャードはずいぶんたびたび会いに来て(もっとも、手紙をくれるという約束のほうは、まもなく止めてしまいました)、例の利発さ、元気旺盛さ、機嫌のよさ、快活さと若々しさで、いつも私たちを楽しくしてくれました。しかし、私は知れば知るほど、リチャードが好きになりましたものの、これまでリチャードが物事に注意を集中して勤勉に努力する習慣を、少しも養ってこなかったことは、じつに惜しいと、ますます感じました。性格も能力もそれぞれちがう、ほかの何百人という生徒とまったく同じ教育を受けながら、リチャードは一気|呵成《かせい》に勉強をやってのけ、いつも相当な出来ばえを示し、しばしば優秀な成績もあげることができましたが、そのやりかたが気まぐれで、いかにもあざやかでしたから、本当は、よくきたえて|矯《た》め直してもらいたかったような性質に頼る気持を、いよいよ強めてしまったのです。たしかに、それはすぐれた性質で、それを欠いては、よい席次にも高い地位にも就く値打ちはありませんが、しかし、火や水と同じで、使いようで役にも立てば害にもなる性質なのでした。もしリチャードが自分のその性質を支配していたなら、味方になったことでしょうが、リチャードのほうが支配されていたのですから、敵になってしまいました。
私がこういう意見を書くのは、このことについても、そのほかすべてのことについても、私がそう考えたからそのとおりなのだったというのではなく、ただ、私はじっさいそう考えましたし、自分が考えたり実行したりしたことを全部、つつみかくさず話しておきたいからです。リチャードについての私の考えは以上のとおりでした。そればかりでなく、これは自分の目でたびたび見たように思ったことですが、以前ジャーンディスおじさまがおっしゃったことは、ほんとうに当っていましたし、大法官府の訴訟がはっきりせず、長びいているため、リチャードの性質にも、|賭博師《とばくし》が自分を大きなばくちの世界の一部だと考える、あのなげやりな気持が伝染して来ました。
ある日の午後、おじさまの留守にベイアム・バジャー医師夫妻がまいりましたので、話のあいだに、当然私はリチャードの消息を尋ねました。
「あら、カーストンさんは」と奥さんがいいました。「とても元気ですよ、ほんとうに、あの人はわたしたちにとって掘出し物のお話し相手ですわ。スウォサー大佐はよくわたしのことを、君は主計官が食事に出す塩づけ肉が、|前檣《ぜんしよう》の中段横帆のタール塗り|耳索《みみづな》みたいに堅くなった時に、少尉候補生たちの食堂にはいって来る『前方に陸地見ゆ』とか『後尾より微風あり』とかいう知らせよりもすばらしい、といったものですわ。つまり、一般に海軍言葉で、わたしはだれにとっても掘出し物の話し相手ということなのです。たしかに、カーストンさんにも同じ賛辞をさしあげることができますわ。でも、わたしとしては――今からこんなことをいうのは早まっているとお考えになりはしないでしょうね?」
そんなことはございません、と私はいいました。奥さんのなにかほのめかすような口調を聞くと、そう答えなければいけないように思いましたので。
「クレアさんもそうですか?」と奥さんはやさしくいいました。
エイダも、はい、といって、心配そうな顔になりました。
「ええと、ごらんのとおり、かわいいみなさん」奥さんがいいました。「――あなたがたのことを、そう呼ばせていただきますよ?」
おっしゃるまでもございません、と私たちは申しました。
「失礼な呼びかたですけれど、お二人とも」と奥さんは言葉をつづけ。「ほんとうにチャーミングなんですものね。ごらんのとおり、かわいいみなさん、わたしはまだ若いのですけれど――いえ、うちのベイアム・バジャーがお世辞に若いといってくれるのですけれども――」
「ちがうよ」とバジャーさんが、まるで公開の会合の席で反ばくをする時のように、大声をあげました。「ぜったいにお世辞じゃないよ!」
「分りましたわ」奥さんはにっこりほほえんで、「それでは、まだ若いといいますわ」
(「もちろんさ」とバジャーさんはいいました。)
「かわいいみなさん、わたしはまだ若いのですけれども、これまで若い男のかたがたを観察する機会に、ずいぶん恵まれて来ました。あのなつかしいクリプラー号には、そういうかたがたがたくさんにいました、ほんとうですよ。そののち、スウォサー大佐と地中海にいった時には、機会のあるごとに、大佐の部下の少尉候補生たちと知り合いになり、目をかけてあげました。あなたがた[#「あなたがた」に傍点]はご存じないでしょうが、少尉候補生は『若い紳士』って呼ばれていたのですよ、それに、たぶん、あの人たちが毎週の勘定を|みがき立てる《パイプ・クレイ》なんていっても、お分りにならないでしょうね、清算することなのです。でも、わたしはちがいますわ、だって|青海原《あおうなばら》がわたしの第二の家で、これでもちょっとした船乗りでしたもの。ディンゴー教授といっしょになってからもね」
(「あの、ヨーロッパじゅうに名声のとどろいていた人ですよ」とバジャーさんがつぶやきました。)
「わたしは最初の愛するひとをなくして、二番目の愛するひとの妻になってからも」と奥さんは前の夫たちのことを、まるで|言葉当て《シヤラード》の謎(1)でもかけているみたいに話しながら、「やはり若い人たちを観察する機会に恵まれました。ディンゴー教授の講義に出席したクラスの人たちは大勢いましたが、すぐれた学者の妻として、わたし自身も学問の中にできる限り慰めを求めようとしていましたから、学生さんたちに家庭を、いわば学問の取引所として開放するのが、わたしの誇りになりました。毎週火曜日の夜、レモネードと盛り合せのビスケットを出して、希望する人たち全部にいただいてもらいました。あの席上には無尽蔵といってよいくらい、学問的な雰囲気がありましたわ」
(「すばらしい集りでしたよ、あれは、サマソンさん」バジャーさんはうやうやしくいいました。「ああいう人物が主催していたのですから、きっと、その席上では知的な摩擦が大いに起ったに相違ありません!」)
「そうして今、三番目の愛するひとの妻になってからも、わたしはスウォサー大佐の生きているうちに養われて、ディンゴー教授の生きているうちに思いもよらぬ新しい目的に向けられるようになった、あの観察の習慣を、やはりつづけているのです。ですから、わたしはカーストンさんのことを考えるにしても、初心者というわけではありません。でもねえ、どう見ても、あの人はよくよく考えた上で、ご自分の職業をえらんだとは思えませんわ」
そういわれてエイダが大そう不安らしい表情になりましたので、私は奥さんに、そうお考えになる理由はなんですか、と尋ねました。
「それはね、サマソンさん、カーストンさんの性格と振舞いですよ。あの人はとてものんきなたちですから、自分がじっさいどう感じているのか、人に話したところで始まらないと、たぶん思っているのでしょうけれど、医学という職業に気乗りうすですね。医学を自分の天職と感じるような、積極的な関心を持っていませんわ。もしなにかはっきりした気持を持っているとすれば、おそらく、退屈な仕事だというくらいのことでしょう。しかし、これでは末が案じられますわ。例えばアラン・ウッドコートさんみたいに、医学のすべての活動に強い関心を身につけて、この職業にこころざす若い男の人たちは、さんざん働いても、ほんのわずかなお金しか手にはいらず、長い年月かなりの苦労と失望をかさねても、医学の中になにか報いになるものを見つけることでしょう。でも、カーストンさんの場合は事情がちがうと、わたし、確信していますわ」
「バジャー先生もそうお考えになっていらっしゃるのですか?」エイダがおずおずと尋ねました。
「いや」バジャーさんはいいました。「じつをいうと、クレアさん、こういう意見は、家内が述べるまで、私の頭には浮ばなかったのです。しかし、そういわれましたので、もちろん、私は大いに考えました、というのは家内の頭脳は、生来の長所に加えて、スウォサー海軍大佐とディンゴー教授という、きわめてすぐれた(令名の高い、といってもいいでしょう)二人の公人によってきたえられるという、世にもまれな長所を持っておりますのでね。そして私の達した結論は――簡単に申せば、家内の結論どおりです」
「これはスウォサー大佐が」と奥さんがいいました。「例の海軍調で|喩《たと》えをいった格言ですけれども、ピッチを温めるなら、いくら熱くしてもすぎることはない、側板一枚ふき掃除するにも、海の悪魔に追われているつもりでやれ。この格言は海軍の軍人にばかりでなく、医者にもあてはまるようですね」
「どんな職業にもあてはまりますよ」バジャーさんがいいました。「さすがにスウォサー大佐の言葉だ、みごとなものです、すばらしいものです」
「わたしがディンゴー教授と結婚してから、デヴォン州の北部にいました時に、教授は人家やいろいろな建物を、地質学用の|槌《つち》で少しずつ欠きとって傷物にするという非難を受けました。しかし、自分は学問の殿堂のほかには、どんな建物も認めないと教授は答えたものでした。これもスウォサー大佐と同じ考えかたでしょう?」
「まったく同じだよ。りっぱな言葉だ! サマソンさん、教授は最後の病気にかかったさいにも同じことをいいましたよ。その時には(もう意識が乱れていましたが)、ぜひとも、そのちいさな槌をまくらの下に入れておいて、看護してくれる人たちの顔を欠きとるといってきかなかったのです。執念ですなあ!」
バジャー夫妻の長たらしいお話は聞かずにすませたいくらいに思いましたけれども、お二人は利害関係をはなれて、今述べたようなご意見を伝えて下さいましたし、十中八九は正しいご意見だと、私たち二人は感じました。それでリチャードに話をするまで、ジャーンディスさんにはなにもいわないことにし、次の日の夕方にはリチャードが来るはずなので、その時三人でまじめな話合いをしようということに決めました。
それで、リチャードが来て、しばらくエイダと二人きりにしておいてから、私が部屋にはいってゆきますと、エイダは(そうなるだろうと私には分っていましたが)、リチャードのいうことはなんでも全部正しいと思いこんでいるのでした。
「どんな具合です、リチャード?」と私は尋ねました。いつも私はリチャードと向い合ってすわりました。リチャードは私をすっかり兄妹扱いにしていました。
「ああ! 順調ですよ!」
「申し分ないでしょう、エスタ?」と私のかわいい人は得意げに大声でいいました。
私は大いに分別くさい顔をしてエイダを見ようとしましたが、もちろん、できませんでした。
「順調ですの?」私はくり返し尋ねました。
「ええ、順調ですよ。少し平々凡々で退屈ですがね。しかし、医者でもなんでも同じことさ!」
「まあ! リチャード、なんということを!」と私はいさめました。
「なにがいけないっていうんです?」
「医者でもなんでも同じことだなんて!」
「あたし、そういっても別に悪いことはないと思うわ、ダードンおばさん」とリチャードの向うから、エイダが信頼し切った様子で私のほうを眺めて、「なぜかというと、もしお医者さんでもなんでも同じことなら、順調にゆくでしょうから」
「ああ、そうですとも、そうあってもらいたいもんですね」とリチャードは答えながら、むぞうさに頭をふってひたいに乱れた髪を直しました。「結局、まあ今のところは見習いというところで、そのうちに僕らの訴訟が――しかし、忘れていた。訴訟の話をしてはいけないんだ。禁句だったっけ! ああ、そうですとも、大丈夫ですよ。なにかほかの話をしましょうよ」
エイダは、問題は全部解決したと信じこんでいるので、よろこんでそうしたかったことでしょう。けれども、私はそこでやめてしまっては、なんにもならないと思いましたから、また話をむし返しました。
「だめよ、でもリチャード、それから、ねえ、エイダも! リチャード、あなたの腹蔵のない気持を、ほんとうにまじめにいって下さるのが、あなたがた二人にとってどんなに大切か、またジャーンディスさんに対してどんなに信義をつくすことになるか、そこをよく考えてちょうだい。もうじきに時間がおそくなってしまいますから」
「ああ、そうね! その話をしなければいけないわ!」エイダがいいました。「でも、あたしはリチャードのいうとおりだと思うわ」
私が分別くさい顔をしようとしても、なんの役にも立ちませんでした、エイダがいかにも可憐で、いかにも魅力的で、リチャードにすっかり夢中になっていたのですから!
「バジャーさんご夫妻が昨日ここへいらっしゃったのですけど、リチャード」私はいいました、「あなたはお医者さんになるのを、あまり望んでいないと見ていらっしゃるようでしたわ」
「そうですか? ああ! なるほど、それなら大分事情が変って来る、だって僕はあの人たちがそう考えているとは、ちっとも知らなかったから、失望させたり、迷惑をかけたりしたくなかったんですよ。じつはね、僕は医者という職業が大して好きじゃないんです。しかし、ああ、そんなことはどうでもいい! 医者でもなんでも同じことさ!」
「エイダ、この人のいうことを聞いていて下さいね!」
「じつはね」とリチャードは半ばしみじみと、半ばふざけて話をつづけ、「僕はどうも医者は苦手ですよ。好きになれないんです。それにあの奥さんの最初のひとと二番目のひとの話を、あんまり聞かされるのでね」
「たしかに、それ[#「それ」に傍点]は当然よ!」エイダはすっかりよろこんで大きな声でいいました。「昨日あたしたち二人が話したこととそっくり同じよ、エスタ!」
「それから単調でね、今日は昨日に似すぎているし、明日は今日に似すぎている」
「でも、そんなことをいえば」と私はいいました。「すべて勤勉に努力することが――生きてゆくこと自体が(なにか特別な場合を除いて)――いやだということになるのじゃないかしら」
「そう思いますか?」リチャードはなおも思案しながら答えました。「たぶん、そうでしょうね! ああ! いや、それならば、ねえ」と急にまた陽気になって、「そんな輪からぬけ出して、ついさっき僕がいったことへ戻るんです。医者でもなんでも同じことですよ。ああ、大丈夫ですとも! なにかほかの話をしましょうよ」
けれども、やさしい顔をしたエイダでさえ――その顔は、あの忘れられない、十一月の霧の中で初めて見た時に、無邪気で、人を疑うことを知らぬように思われましたが、この人の無邪気で、人を疑うことを知らぬ心を知った今では、ますますその顔が心と同じように思われました――そのエイダでさえ、リチャードの言葉を聞くと、頭を振って、まじめな表情になりました。そこで、これはよい機会だと思いましたので、私はリチャードに向って、あなたは時々自分のことをあまり考えない場合があるにしても、まさかエイダのことを考えないつもりではないでしょう、二人の生活に影響を及ぼすような重大な行動を軽く見ないことが、エイダに対するやさしい心づかいの重要な一部分なのです、と遠回しにいいました。そういわれるとリチャードは真剣といってよいほどの態度になりました。
「いや、ハバードおばさん、まさにそれなんですよ! これまでに僕はそのことを何度か考えては大いにまじめになるつもりでいながら――どういうものか――じっさいには、かならずしもそうでなかったんで、自分で自分にすっかり腹を立てて来たんです。どうしてそういうことになるんだか分らない、僕にはなにか自分を支えるものが欠けているらしい。あなたにだって想像もつかないほど、僕はエイダが好きなんです(僕のいとしい従妹、僕はとても君を愛しているんだよ!)、それなのに、ほかの物事については、ただ一筋に専念することができません。とても骨が折れて、とても時間がかかるんです!」とリチャードはじれったそうにいいました。
「それは自分のえらんだ仕事が好きでないからかも知れませんわ」と私はほのめかしました。
「気の毒な人!」エイダがいいました。「好きでないのも無理はないわ、ほんとうに!」
私が分別くさい顔をしようとしても、全然だめでした。もう一度やってみましたが、どうしてそんなことができましょう、いいえ、もしできたとしても、なんの効果があったというのでしょう、なにしろエイダは組み合わせた両手をリチャードの肩の上に置き、リチャードはエイダのやさしい青い目を眺め、エイダのやさしい目はリチャードを眺めていたのですから!
「ねえ、僕の大事な子」といってリチャードはエイダの金髪のカールを、自分の手でくり返しすきながら、「たぶん、僕は少し早まったのかも知れない、それとも自分の意向を誤解したのかも知れない。僕の意向はああいう方面にはないらしいんです。試してみるまでは分らなかった。ところで問題は、今までやって来たことを、全部とりやめにする価値があるかどうかです。つまらないことに大さわぎをするような気がするなあ」
「まあ、リチャード」私はいいました。「つまらないことだなんて、よくも[#「よくも」に傍点]そんなことがいえますのね?」
「文字どおりの意味でいっているんじゃありませんよ。僕には好きになれないようだから、つまらないことかも知れない[#「かも知れない」に傍点]っていう意味なんです」
エイダも私もその返事として、今までして来たことをとり止める価値が、もちろんあるばかりでなく、止めなければいけないとすすめました。それから、私はリチャードに、なにかもっと|性分《しようぶん》に合った仕事を思いついたのかどうか尋ねました。
「やあ、ミセス・シプトン、あなたは急所を突いて来ますね。ええ、思いつきましたよ。今度は法律をやろうと考えていたんですよ」
「法律を!」とエイダはまるでその言葉がおそろしいみたいに、おうむ返しにいいました。
「もしケンジ弁護士の事務所へはいって、あの人の実習生になったら、僕はあの――えへん!――あの禁句――から目をはなさずに、研究したり、精通して、あれが放っておかれないで、しかるべく処理されているかどうか確かめてゆくことができますよ。それからエイダの利益と、僕の利益を(同じことですよ!)守ることができるし、ブラックストン(2)やそのほかの連中を、猛烈ないきおいで勉強しますよ」
私はこの話を決してそれほど信用したわけではありませんし、また、あの訴訟にかけた長年の希望から、まだ出ても来ない漠然とした利益をリチャードが渇望しているのを知って、エイダの顔に影がさしたのを見ました。けれども、リチャードには、絶えまない努力をそそぐ仕事なら、どんな仕事でもすすめるのが一番よいと思いましたので、もう決心がついたのかどうか、自分でよく確かめるようにと忠告しただけでした。
「おや、ミネルヴァ(3)の女神さん」リチャードはいいました。「僕はあなたに負けないくらい、しっかりしているんですよ。一度はまちがいを犯したけれど、人間だれしも、まちがいを犯しがちなものです、僕は二度とそんなことはしないで、めったにお目にかかれないような弁護士になって見せますよ。つまり、ねえ」とリチャードはまた疑いにとりつかれて、「結局のところ、つまらないことにこんな大さわぎをする価値が、もし本当にあればそうなって見せるということですが!」
そこでまた私たちは、今まで話し合って来たことを全部、たいそうまじめに話し合い、そのあと大体前と同じ結論に達しました。けれども、私たちはリチャードに、一刻も猶予せず、ジャーンディスさんに包みかくさず率直に話をするようにと強くすすめ、またリチャードの気性も、生れつき、かくし立てをすることが大きらいでしたから、リチャードはすぐに(私たちをつれて)ジャーンディスさんをさがし出し、事情をすっかり打明けました。「リック」とおじさまはリチャードの話を、よく注意しながら聞いたのちにいいました。「名誉ある退却はしてもよいものだし、しようじゃないか。しかし、私たちはもうそういうあやまちを犯さないように、注意しなければいけないね――私たちの従妹のためにだ、リック、私たちの従妹のためにだ。だから、法律の件に関しては、決定する前に充分ためしてみよう。|跳《と》ぶ前に見るのだ(4)、しかもたくさんに時間をかけてね」
リチャードはひどく性急に、気まぐれに活動するたちでしたから、すぐさまケンジさんの事務所へ出かけ、その場で実習生の契約を結びたくてたまらなかったことでしょう。しかし、慎重にしなければいけないと説かれたばかりなので、こころよく従い、しごく浮き浮きとして私たちのあいだにすわり、まるで、今頭にこびりついている法律家志望が、子供の時から終始変らぬ、人生のただ一つの目的だったような話をするだけで満足しました。おじさまはリチャードにたいそうやさしくして、心から打ちとけておりましたが、かなり真剣になっていましたので、もうリチャードが帰り、私たちも寝るために階上へゆきかけた時、エイダがこう尋ねました。
「ジョンおじさま、リチャードのことを悪くお思いにならないでしょうね?」
「ああ、そんなことはないさ」
「こんなむずかしい問題でリチャードがまちがいをするのは、ほんとに無理もないことでしたもの。めずらしいことじゃありませんわ」
「そうとも、そうとも。悲しそうな顔をしてはいけないよ」
「あら、あたし、悲しんでなんかいませんわ、ジョンおじさま!」といってエイダは、さっき、おやすみのあいさつをした時、おじさまの肩にかけた片手を、なおもはなさずに、明るくほほ笑みました。「でも、もしおじさまがちょっとでもリチャードのことを悪くお思いになるんでしたら、あたし、少しばかり悲しくなりますわ」
「ねえ、君」とジャーンディスさんがいいました。「私はね、もしリックのために、君が少しでも悲しい思いをするようなことがあった時にだけ、リックのことを悪く思うだろうね。そういう場合にだって、かわいそうなリックよりも、むしろ私自身をとがめるだろうね、だって君たちをめぐりあわせたのは私なのだから。しかし、ちぇっ、こんなことはくだらない! リックは前途に長い年月があり、これから人生の行路を走るのだ。私が[#「私が」に傍点]リックのことを悪く思うって? とんでもない、この私が悪く思うなんて、ねえ、私のかわいい従妹! もちろん、君だってそうだ!」
「ええ、そうですとも、ジョンおじさま。ほんとに、あたし、たとい世界中の人がリチャードのことを悪く思っても、あたしは思いませんわ――思えませんわ。そういう時には、どんな時にもまして、よく思います――思えます!」
エイダはおじさまの肩に手を――もうその時は両手を――かけ、「誠実」そのもののような顔をあげて、おじさまの顔をのぞきこみながら、たいそう静かに、正直に、そういいました!
「たしか」とおじさまはしみじみエイダを眺めながら、「たしか、なにかに、父親の罪ばかりでなく母親の徳も、ときどき、子供たちに報いられると書いてあるように思ったね。おやすみ、私のばらのつぼみ。おやすみ、ちいさなおばさん。楽しくお眠り! しあわせな夢を見るのだよ!」
この時初めて、私はおじさまがあのいつくしみ深い目に、どこか暗い影を宿しながら、エイダを見送っているのを見かけました。もっと以前、エイダが煖炉の火に照らされながら、歌をうたっていた時に、おじさまがエイダとリチャードをじっと眺めた目の色を、私ははっきり覚えていましたし、また、この晩は、二人が日射しのさしこんでいる部屋を通りぬけ、日陰に去ってゆくのを、おじさまが見守った時から、まだほんの少ししか経っていませんでしたけれども、おじさまの目つきは変っていて、今二人を見送ったあと、この時もまた、私のほうへ黙って向けて下さった、信頼のこもった視線にさえ、一番最初の時ほどの希望と安心の色は見られませんでした。
その晩、エイダはこれまでにないほどリチャードをほめちぎりました。そしてリチャードにもらった、ちいさな腕環をはめたまま、眠りにつきました。リチャードのことを夢に見ているらしい、と思ったのは、エイダが寝ついてから一時間ほどして、私がそのほおにキスをし、満ちたりた安らかな寝顔を見た時でした。
というのは、その晩、私は少しも眠たくないので、起きて編み物をしていました。そんなことはお話しするほどのことではないでしょうが、じつは目がさえて、いくぶん気が沈んでいたのです。なぜか分りません。少なくとも、分らないように思います。少なくとも、分っているのかも知れませんが、それはどうでもよいことだと思います。
とにかく、私はなにかうんと仕事をして、沈んだりしているひまなどないようにしようと思い立ちました。というのは、当然のことながら、自分に向って「エスタ! おまえが沈んでいるなんて、おまえが[#「おまえが」に傍点]!」といいましたし、じっさい、もうそういってもいい頃でした、というのは――ええ、事実、鏡を見ましたら、私は今にも泣き出しそうな顔をしていたのです。「楽しいことばかりなのに、まるで悲しい目にでも会っているみたい、この恩知らず!」と私はいいました。
もしなんとかして眠ることができたなら、すぐにも眠ったのですけれども、それができませんでしたから、私はその時精を出してつくっていた、家の(つまり、荒涼館の)飾りにする編み物をバスケットからとり出し、一大決心をして編み始めました。編み目の数を全部数えなければなりませんでしたから、眼をあいていられなくなるまでつづけて、それから寝ようと決めました。
まもなく仕事に精が出て来ました。しかし、階下の臨時の「怒りの部屋」にある裁縫台の引出しに、絹糸を置き忘れて来ましたので、編むのを止めて、蝋燭を持ってとりに降りました。部屋へはいると、たいそうびっくりしたことに、おじさまがまだそこにいて、椅子にかけたまま、煖炉の燃えがらを眺めているのでした。そばに本を置き放しにして、じっと思案にふけり、銀白になった鉄灰色の髪の毛は、まるでうわの空で考えごとをしながら、我れ知らず手でかきまわしたみたいに、ひたいに乱れ落ち、顔はやつれて見えました。まったく思いもよらず、おじさまに出会いましたので、私はぎょっとするほどおどろいて、一瞬立ちどまってしまい、もしおじさまが、またしても無意識に髪に手をやったひょうしに私を見て、はっとされなかったならば、なにもいわずに引きさがったことでしょう。
「エスタ!」
私は自分の来たわけを話しました。
「こんなにおそくまで仕事をしているのかね、君?」
「今晩、おそくまで仕事をしていますのは、眠れませんでしたので、つかれるようにと思ってしたことなのです。でも、おじさま、おじさまもおそうございますし、おつかれのようですわ。心配ごとがおありになって、起きていらっしゃるのじゃございませんでしょうね?」
「うん、ちいさなおばさん、君に[#「君に」に傍点]すぐ分るような心配ごとは、なんにもないよ」
私にはまったく初めての、残念そうな口調で、おじさまがそういいましたので、私は、まるでその意味を理解する手がかりになるかのように、「私に[#「私に」に傍点]すぐ分るような心配ごと!」と心の中でくり返しました。
「少しいておくれ、エスタ」おじさまが申しました。「君のことも考えていたのだ」
「私がその心配ごとの種だったのじゃございませんでしょうね、おじさま?」
おじさまは軽く手を振って、ふだんの態度に戻りました。その変化があまりきわ立っていましたし、そうするのにおじさまは、ひどく自制心を必要とするように見えましたから、つい私はまたも心の中でくり返してしまいました。「私に[#「私に」に傍点]すぐ分るような心配ごとは、なにもない!」
「ちいさなおばさん、私は考えていた――つまり、ここにすわってから考えていたということなのだが――君は、私の知っている、君の経歴を全部知って置くべきだとね。だが、それはごくわずかなことだ。なにもないに等しいよ」
「おじさま」私は答えました。「前におじさまがそのことについて、私に話して下さいました時には――」
「しかし、あの時以来」とおじさまは私がいおうとしたことを、いち早く察して、おもおもしい口ぶりで言葉をさしはさみ、「私は、君のほうに私に尋ねることがあるのと、私のほうに君に話すことがあるのとは、別の問題だと考えて来たのだ、エスタ。少ないながらも私の知っていることを君に伝えるのが、おそらく私の義務だろうよ」
「もしおじさまがそうお思いになるのでしたら、それにまちがいございませんわ」
「私もそう思っているのだよ」おじさまはたいそうおだやかに、やさしく、たいそうはっきりと答えました。「ねえ、君、今ではそう思っているのだよ。男にせよ女にせよ、もしだれか考慮に値するような人間が、君の身分について実際に偏見をいだくようなことがありうるとしたら、真相をはっきり知らないために、そういう偏見を大げさに考えるようなことが、少なくとも君だけにはあってはならないのだ」
私は椅子に腰かけて、きちんと落着くように少し努力してから、いいました。「私の一番古い思い出の一つは、おじさま、こういう言葉なのです、『エスタ、おまえのお母さんはおまえの恥だし、おまえはお母さんの恥だったのだよ。そのうちに、もうじきにだよ、それがおまえにもっとよく分り、女でなければ感じられないくらいしみじみと、おまえもそう感じる時が来るよ』」この言葉をくり返した時、私は顔を両手でかくしていましたが、もうこの時は、もっとりっぱな(と願っていますが)はずかしさを感じながら手をとりのけ、おじさまに向って、私が子供の時から今まで、おさない時にいわれたような恥を一度も、一度も、一度も感じなかったしあわせはおじさまのおかげです、と申しました。おじさまは、まるで私の言葉をさえぎるみたいに、片手をあげました。私はおじさまに決してお礼をいったりしてはいけないことを、よく知っていましたから、それ以上なにもいいませんでした。
「ねえ、君、今ではもう九年前のこと、私は、世間からはなれて暮している、ある婦人から手紙をもらったのだが、そのきびしい怒りと力をこめた書きぶりは、今までに読んだほかのどの手紙ともちがっていた。私に宛ててよこしたのは(中にはっきりそう書いてあったが)、そういう信頼を私に寄せるのが、たぶん、その婦人の特徴だったからだろうし、また、それを認めるのが、たぶん、私の特徴だったからだろう。手紙には、ある子供、当時十二歳だった、あるみなし子の少女のことが、君の思い出に残っているような残酷な言葉で書いてあった。その婦人は少女を、生れた時から内証で育て、その子が生きているという|痕跡《こんせき》を、いっさい抹殺してしまったので、もし少女が成人しないうちに、婦人が死んだとしたら、少女はまったく寄るべなく、名もなく、世間に知る人もなくなってしまうのだった。それで、そういう場合には、自分がし始めたことを、私にしとげてもらえるかどうか、考慮してもらいたいと頼んで来たのだよ」
私は黙って耳をかたむけ、じっとおじさまに注目していました。
「君がおさない時分のことを思い出せば、こういったことすべてを予測して書かれたその陰鬱な手紙と、その少女に、全然犯したこともない罪をつぐなわせなければいけないと考えて、陰惨な気持になったその婦人の、ゆがめられた信仰心とが分るだろう。私は暗い生活を送っている、そのちいさな子供のことが心配になって、手紙に返事を出した」
私はおじさまの手をとって、キスをしました。
「その手紙には、私がその婦人に会おうとしたりしては、ぜったいにいけないと書いてあった、それはその人がもう長らく世間といっさい交際を絶っていたからだが、しかし、信用のおける代理人をえらんでくれれば、代理人に会うということだった。私はケンジ弁護士に委任状を持たせて、会いにゆかせた。婦人は、ケンジ氏に聞かれたからでなく自発的に、自分の名前は仮名だと告げた。それから、もしそういう事情の子供に対して、血のつながりがあるとすれば、自分は伯母にあたるといった。そしてそれ以上のことは、たといどんな理由があろうとも、ぜったいに打ち明けないというのだった(その決心のゆるがないことは、ケンジ氏にもよく分った)。ねえ、君、話はこれだけなのだよ」
私はしばらくのあいだ、おじさまの手をにぎりしめていました。
「こうして後見をすることになった子が私を見るよりも、もっとひんぱんに私はその子を見て」とおじさまはなんでもないことのように、明るい口調になって、つけ加えました。「その子がかわいらしく、みんなの役に立ち、幸福にしているのを、いつも私は知った。その子は毎日毎時間、私がしてあげた二万倍も、そのまた二十倍も、お返しをしてくれているのだ!」
「それよりももっとたびたび、その子は自分にとって父にも等しい、後見人のおじさまに、神さまのみめぐみがありますようにと祈っております!」
父という言葉を聞くと、おじさまの顔にさきほどの心配の色があらわれました。前と同じように、おじさまがそれを抑えましたので、たちまち消えてしまいましたが、たしかにあらわれましたし、私の言葉を聞くやいなや、顔色に出ましたから、まるでその言葉にショックでも受けたような感じでした。私はいぶかしく思いながら、またしても心の中でくり返しました。「私に[#「私に」に傍点]すぐ分るような心配ごと。私に[#「私に」に傍点]すぐ分るような心配ごとは、なんにもない!」ええ、そのとおりでした。私には分りませんでした。それからほんとうに長いあいだ。
「お父さんからおやすみのあいさつを受けておくれ」とおじさまは私のひたいにキスをして、「そして寝たまえ。編み物や考えごとをするには、もう時刻がおそいよ。なにしろ、君は一日じゅう私たちみんなのために、そうしているのだから、かわいい主婦君!」
その晩、もう私は編み物も考えごともしませんでした。神さまに感謝の気持を打ち明け、私に対するご摂理とご配慮をありがたく思いながら、寝つきました。
翌日、うちにお客さまが一人ありました。アラン・ウッドコートさんがいらっしゃったのです。私たちにいとまごいに見えたのですが、前もってそう決めてありました。船医になって、シナとインドへ出かけるのでした。長い、長いあいだゆくことになっていました。
たしか、ウッドコートさんは裕福ではなかったと思います――少なくとも、私はそう心得ています。未亡人になったお母さんの貯えは全部、医者の資格をとるために使いはたされてしまいました。ロンドンでほとんど|羽振《はぶ》りのきかない、若い開業医にとって、この職業はもうかりませんでしたから、昼も夜も、大勢の貧しい人たちを治療して、目ざましいほど親切に手腕をふるいましたけれども、ほとんどお金にならなかったのです。年は私より七つ上でした。もっとも、こんなことはいう必要はありません、なんの関係もなさそうですから。
開業してから三、四年になっていて、もしあと三、四年つづけられる見込みがあったなら、予定した航海にゆかなかったことでしょうと思います――つまり、ウッドコートさんが私たちにそう話したのです。しかし、資産も収入もありませんでしたから、これから遠くへ出かけるのでした。それまでに、うちへは数回訪ねてまいりました。ウッドコートさんが遠くへ出かけるのを、私たちは残念に思いました。なぜなら、専門家の中でもすぐれた技術の持主で、その道の大家のうちにも、高く買っているかたが何人かいたのです。
私たちに別れを告げに見えた時、ウッドコートさんは初めて、お母さんをつれてまいりまいた。お母さんはぱっちりした黒い目をした、きれいな老婦人でしたが、気位の高い人らしく見受けられました。ウェールズ(5)の出身で、ずっと昔、ご先祖の一人に――ギムレットとかいうらしい土地に――モーガン・アプ=ケリグという名前の偉人がいましたが、そのかたはかつてないほどの傑出した人物で、その親戚は全部、一種の王族なのでした。そのかたはいつも山の中へはいりこみ、だれかと戦いをして、一生を過したらしく、クラムリンウォリンワーとかいうらしい名前の吟遊詩人が、私の聞きとったかぎりでは、「ミューリンウィリンウォド」と呼ばれる詩の中で、そのかたの武勲をたたえ歌ったそうでした。
ウッドコート未亡人はその一族の偉人の名声について、くわしい説明を聞かして下さったのち、うちの息子のアランはどこへいっても、きっと自分の血筋を忘れず、どんなことがあっても、身分ちがいの結婚はしないでしょうといいました。それからウッドコートさんに向って、インドには、ひと山当てに出かけるイギリス美人が大勢いて、なかには財産つきの拾い物もあるけれども、うちのような家系の子孫には、生れがよくなければ、美貌も富もなんのたしにもならず、つねに生れこそまず第一に考えなければいけない事柄です、と申しました。お母さんがあまり生れのことをいいますので、一瞬、私はつらくなって半ばこう想像しました――けれども、このお母さんが私の[#「私の」に傍点]生れがどうかと考えたり、気にしたりするなどと思うのは、なんという下らない想像でしょう!
ウッドコートさんはお母さんのくどい話に、やや困惑した様子でしたが、思いやりの深いかたなので、それと気づかれるようなことはせず、うまく話を持っていって、おじさまにその手厚いもてなしと、これまでに何度かうちで過した大そう楽しい訪問――大そう楽しい訪問といわれました――のお礼を述べました。そして、この訪問の思い出は、どこへゆくにも持っていっていつも大切にします、と申しました。それから私たちは一人一人、ウッドコートさんと握手をし――とにかく、ほかの人たちはそうしました――私もそうして、それからウッドコートさんはエイダの手にキスし――私の手にもキスし、それから遠い遠い航海に旅立ってゆきました。
私は一日じゅう、ほんとうにいそがしく、荒涼館の召使たちに|指図《さしず》を書き送り、おじさまの手紙を代筆し、おじさまの本と書類のちりをはらい、家事用の鍵をあちらこちら、大いにじゃらじゃら鳴らしまわりました。夕暮れになっても、窓辺で歌ったり編み物をしたりで、やはりいそがしくしていますと、その時だれが部屋の中へはいって来たかと思えば、意外にもキャディでした!
「あら、キャディ」と私はいいました。「なんて美しい花なんでしょう!」
キャディはとてもみごとな、ちいさい花束を手に持っていました。
「ほんとに、あたしもそう思うわ、エスタ。こんなきれいな花、見たことがないわ」
「プリンスからなのね、あなた?」と私は声をひそめていいました。
「いいえ」と答えて、キャディは頭をふり、私のほうへ花をさし出して、香りをかがせました。「プリンスじゃないわ」
「まあ、おどろいた、キャディ! きっと、あなたには恋人が二人いるのね!」
「なんですって? この花がそんなふうに見えて?」
「この花がそんなふうに見えて?」と私はキャディのほおをつねりながら、おうむ返しにいいました。
キャディは返事がわりに、笑ってばかりいて、三十分だけ来たんです、そうすると、プリンスが通りの角で待っているんですといってから、窓の下の腰かけにすわって、私とエイダとおしゃべりをしていましたが、ときおり、また私にその花束を渡したり、私の髪に花がうつるかどうか試したりするのでした。とうとう、帰る時間になると、私の部屋へ私をつれてゆき、花束を洋服につけてくれました。
「私に下さるの?」私はびっくりしていいました。
「あなたによ」といってキャディはキスをしました。「これはだれかさんが置き忘れていったのよ」
「置き忘れて?」
「かわいそうなフライトさんのところへね。あの人にとてもよくして下さっただれかさんは、船に乗るといって、一時間前にあわてて帰っていって、この花を置き忘れたの。だめよ、だめよ! それをはずしちゃいけないわ。かわいい花をここへつけて置くのよ!」といってキャディはていねいな手つきで花をそろえ、「だって、あたしもそこにいあわせていたんですもの、きっと、だれかさんはわざと置き忘れたのよ!」
「この花がそんなふうに見えて?」といってエイダは笑いながら私のうしろへ回って、陽気に私の腰を抱きしめました。「ええ、そうよ、ほんとにそんなふうに見えるわ、ダードンおばさん! この花はとても、とてもそんなふうに見えるわ。まあ、ほんとに、とてもそんなふうに見えるわ、ねえ、あなた!」
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第十八章 デッドロック家の奥方
リチャードがケンジさんの法律事務所で見習いをする件は、最初に思ったほど簡単ではありませんでした。一番の障害は当のリチャードでした。バジャーさんのところを、いつやめてもいいようになるやいなや、自分がはたしてやめたいのかどうか迷い始めたのです。じつは分らないんです、とリチャードはいいました。医者は悪い職業じゃない、僕のきらいな職業だとは断言できません、たぶん、ほかのどの職業にも劣らぬくらい好きなんでしょう――そうだ、もう一度だけ試してみたらどうでしょう! そういうと、リチャードは本と骨の標本とをかかえて、数週間のあいだとじこもり、かなりな分量の知識をひじょうな速さで身につけたようでした。その熱意は、ひと月ほどつづいてから、さめ始め、すっかり冷えきると、また熱し始めました。法律と医学とのあいだでの動揺は、たいそう長くつづきましたから、リチャードがバジャーさんと完全に縁をきって、ケンジ・アンド・カーボイ法律事務所の見習いを始める前に、夏も半ば近くなってしまいました。そういったむら気にもかかわらず、リチャードは「今度は」まじめにやる決心だといって、大手柄顔なのでした。それに終始一貫してとても気立てがやさしく、とても元気で、エイダをとても愛していましたから、リチャードに腹を立てるのは、じつにむずかしいことでした。
「ジャーンディスさんはね」そのジャーンディスおじさまは、お話してもさしつかえないでしょうが、このごろは東風ばかり吹いていると申しました。「ジャーンディスさんはね」とリチャードはよく私にいったものでした。「世界一すばらしい男ですよ、エスタ! 僕はあの人によろこんでもらうためだけにでも、特別気をつけて、仕事にすっかり打ち込み、今度のことをりっぱにやりとげなくちゃいけない」
どんなことにも気をひかれ、どんなことにも長つづきしない、気まぐれ屋のリチャードがあの笑い顔とむとんじゃくな態度で、仕事にすっかり打ち込むなんて、考えてもこっけいなほど異例のことでした。今度のことをりっぱにしとげるというのは、夏の半ばころ、仕事が気に入るかどうかためしに、ケンジさんの事務所へゆくことなのでした。
こうしているあいだじゅうも、リチャードはお金については、前に例をあげて述べたとおりでした。つまり、おうようで、お金使いが荒く、ひどくうかつなのに、自分ではかなり損得に抜け目がなく、慎重だと信じこんでいたのです。ケンジさんのところへゆくようになる時分、リチャードのいる前で、たまたま私がエイダに、冗談半分まじめ半分に、この人はとてもお金を粗末にするから、フォーチュネイタス(1)の財布が入り用だといいますと、リチャードはこんなふうに答えました。
「僕の大事なエイダ、このおばあさんのいうことを聞きましたね! なぜあんなことをいうんだろう? それはね、二、三日前に僕がボタンつきのしゃれたチョッキを、八ポンドあまりで(それとも、いくらだったか)買ったからですよ。でも、もしまだバジャーさんのところにいたら、悲しいかな、授業料に一挙十二ポンド払わなければならなかったんです。だから、僕はこの買物で――ひっくるめて――四ポンドもうけているわけですよ!」
リチャードが法律の見習いをしているあいだ、ロンドンでの住居をどうしたらよいかという問題は、リチャードとおじさまとのあいだで、ずいぶん相談しました、というのは、私たちはもうずっと前に荒涼館に帰っていましたから、ここはリチャードには遠すぎて、一週に一度以上来ることはできなかったのです。おじさまは私に、もしリチャードがケンジさんのところに落着くとしたら、どこかアパートか部屋を借りるようにすれば、私たちも時々上京した時に、数日滞在することができるのだがといい、「しかし、ちいさなおばさん」とたいそう意味ありげに頭をこすりながら、こうつけ加えました。「まだリチャードはあそこに落着いたわけじゃないからね!」
相談した結果、クィーン広場近くの古い静かな家の家具つきの小ぎれいなちいさい部屋に、月ぎめで下宿することになりました。リチャードはこの下宿に置く、奇妙きわまるちいさな装飾品、ぜいたく品を買うために、すぐさま持ち合わせのお金を全部使い始め、特に高価で不必要な買物をしようとしている場合に、エイダと私が思いとまらせますと、そのたびに、その代金に相当する額を自分の収入と考えて、もっと安い別の物を買えば、差額だけもうけになるみたいなことをいうのでした。
こういった問題がまだ決まらないでいるあいだは、ボイソーンさんの家への訪問は延期になりました。リチャードが下宿してしまうと、私たちの出発を邪魔するものが全部なくなりました。もちろん、その季節にはリチャードもいっしょにゆけたのですが、新しい職がめずらしくてたまらない時なので、あの不吉な訴訟の|謎《なぞ》を解決しようとして、精力的な勉強をしていました。それで私たちはリチャードを仲間に加えずにゆきましたが、可憐なエイダは、リチャードがそんなに精を出して仕事をしているのを大よろこびでほめていました。
私たちは乗合馬車で、遠いリンカンシア州への楽しい旅をしましたが、スキムポールさんが愉快な道づれになってくれました。スキムポールさんのところの家具は、青い目のお嬢さんのお誕生日に差押えに来た男のために、全部持ってゆかれたようでしたが、スキムポールさんは家具がなくなったので、まったくほっとしたらしく見受けられました。椅子やテーブルというやつは、退屈な物体だ、とスキムポールさんはいうのでした。単調な観念だ、表情になんの変化もないんだ、やつらに見られると、こっちは恥ずかしくなり、こっちが見ると、やつらが恥ずかしがる。だから、いつもきまった椅子やテーブルに束縛されずに、全部貸し家具のあいだをちょうのように戯れ、|紫檀《したん》からマホガニーへ、マホガニーからくるみへ、こういう形のやつからああいう形のやつへと、気の向くままに飛びかうのは、なんと楽しいことだろう!
「ところが、こっけいなことにはね」とスキムポールさんは面白がっていいました、「僕の椅子とテーブルはまだ払いがすんでいなかったのに、うちの家主はまったく平然として持っていってしまうのだ。だが、それはおかしいようだね! ちょっとばかげているよ。椅子とテーブルを売った家具商は、僕の家賃を払うなんて約束しなかった。それなのに、一体なぜ家主が家具商と[#「家具商と」に傍点]争うんだろう? もしかりに僕の鼻に、家主独特の審美観に合わないにきびがあったところで、にきびのない家具商の鼻を、家主がひっかく必要はないよ。家主の論理には欠陥があるようだね!」
「それはとにかく」とおじさまが上機嫌で申しました。「だれにしろ、その椅子とテーブルの保証人になった者が、代金を支払わなければならないことは確かだ」
「そのとおり!」スキムポールさんは答えました。「それが不合理きわまる点だよ! 僕は家主にいってやった、『ねえ、君、君は気づかないけれども、君がそうやって慎みもなくさらってゆく品物の代金は、僕の親友のジャーンディス君が払わなければならないんだよ。あの男の[#「あの男の」に傍点]持ち物なのに、君はしんしゃくしてやらないのかね?』家主はちっともしんしゃくしなかった」
「そして、あらゆる申し出を拒否したのだね」
「あらゆる申し出を拒否したんだ。僕は取引を申し出たんだよ。家主を僕の部屋へつれこんで、こういった。『たしか、君は商売人だったね?』すると、こういう答えだった、『そうでございます』『よろしい』と僕はいった。『それじゃあ、事務的にやろうじゃないか。ここにインクスタンドがある、ここにペンと紙がある、ここに封緘紙がある。君の要求はなんだね? 僕は君の家にかなりな期間、僕の信ずるところでは、この不愉快な誤解が起るまで、双方とも満足して住んで来た、だから友好的、かつ事務的にやろうじゃないか。君の要求はなんだね!』それに答えて、家主は|比喩《ひゆ》的な表現を使って――ちょっと東洋的な感じのする文句だよ――自分はまだ一度も、払ってもらうお金の顔色も見たことがない、というんだ。『ねえ、君』と僕はいった。『僕はお金は全然持っていない。お金のことなんか全然知らないよ』、『では、旦那』と向うはいった、『もしわたくしが時日を猶予するとしましたら、どうしていただけますか?』『おいおい、君、僕は時間の観念なんか全然ないけれども、君は商売人だそうだから、君がペンと、インクと、紙で――それに封緘紙で――事務的にやろうと提議することなら、なんでもよろこんでやるよ。他人を犠牲にして、自分の家賃をとったりしないで(そんなことは、おろかしいことだ)、事務的にやりたまえ!』しかし、家主が承知しないから、それでおしまいだった」
これは、スキムポールさんが子供であるために起った不愉快な出来事の例でしたけれども、子供であるために、得をすることも、たしかにありました。道中で売りに来た食べものに(かご入りの上等の、温室づくりの桃まで含めて)、スキムポールさんは旺盛な食欲を見せましたが、どれひとつにも代金を払おうなどとは考えませんでした。それで、乗合馬車の御者が料金をもらいに来ますと、君、料金はどのくらいあれば充分かね――たっぷり払ってだよ――と尋ね、御者が一人まえ二シリング半と答えますと、いろいろな点を考えれば、まったく安いものだといって、ジャーンディスさんに払わせるのでした。
たいそう気持のよい天気の日でした。緑の麦がとても美しく波打ち、ひばりはとても楽しげに歌い、いけ|垣《がき》には野生の花が、とてもたくさん咲き乱れ、木々は青葉をとてもこんもりと茂らせ、豆畑の上を軽い風が吹き渡って、あたりにはとてもかんばしい香りがみちみちていました! 午後おそくなって、乗合馬車を降りる予定にしていた、市場のある町に着きました――ちいさな活気のない町で、教会の|尖塔《せんとう》、市場、市場の十字標、それに強い日射しのさしている通りが一つ、一匹の年とった馬が水に足を入れて冷している池があり、せまい、ちいさな木陰に、ごくわずかな人たちが立ったり、寝ころんだりしていました。木々の葉ずれと、麦の穂波を見て来たあとなので、イギリスじゅうのどこを探してもないほど、静かで、暑く、淀んだような町に見えました。
宿屋へゆくと、馬にまたがったボイソーンさんが、数マイルはなれたところにあるお宅へ、私たちをつれていって下さるために、ほろ型の馬車を従えて待っていました。私たちを見ると大よろこびをして、たいそう身軽に馬から降りました。
「神にかけてもいい!」とボイソーンさんは私たちに礼儀正しくあいさつしてから、いいました、「まったくけしからん馬車だ。こいつは、今までに大地の場所ふさぎをした|言語道断《ごんごどうだん》な乗合馬車のうちでも、もっとも悪質きわまる例だ。今日の午後は二十五分おくれている。御者を死刑にすべきだ!」
「あの御者はほんとに[#「ほんとに」に傍点]おくれたのかね?」たまたまボイソーンさんにそう話しかけられたスキムポールさんはいいました。「僕の弱点は君の知ってのとおりだが」
「二十五分だ! 二十六分だ!」ボイソーンさんは時計を調べながら答えました。「淑女が二人乗っているというのに、あの悪党はわざと二十五分到着をおくらせおった。わざとだぞ! これが偶然であってたまるか! しかし、あいつのおやじは――それに伯父めも――かつてないほどの|極道者《ごくどうもの》だったからな」
ボイソーンさんは、極度に憤慨した口調でそういいながら、他方では、この上もなくやさしい態度で私たちに手を貸して、小型の二頭立て馬車に乗せて下さり、満面に微笑とよろこびをたたえているのでした。
「残念ながら、お嬢さんがた」とボイソーンさんは、用意万端がととのうと、帽子をぬいで、馬車のドアのところに立って、いいました、「二マイルばかり遠まわりしなければならんのですよ。まっすぐの道はレスタ・デッドロック卿の猟園を通っているんでね、わしは生きて呼吸をしているかぎり、あの男との訴訟がかたづくまで、やつの地所には絶対足を、いや、わしの馬の足も、ふみ入れぬと誓ったんですよ!」そこまでしゃべって、おじさまと目が合うと、ボイソーンさんはいきなり例の高笑いを始めましたので、そのちいさい淀んだような町までが震動するかと思われました。
「デッドロックご夫妻が見えているのかね、ロレンス?」私たちは馬車を走らせ、ボイソーンさんは道ばたの緑の芝の上を、馬にだく足をふませながら進んでゆく途中、おじさまがいいました。
「|傲慢阿呆《ごうまんあほう》卿は来ているぞ」ボイソーンさんは答えました。「はっはっは! 傲慢卿は来ているが、うれしいことに、ここへ来て以来、足かせをかけられて寝ているんだ。奥方は」ボイソーンさんはこのかたの名前をあげる時には、まるで両方の争いから奥方を、特に除外するように、いつもうやうやしい身ぶりをするのでした、「たしか、毎日、今日にも見えるかと待たれているはずだ。奥方ができるだけ長く帰宅を延ばしているのは、いっこうおどろくに足りんよ。あの、たぐいまれな夫人が、一体どうしてあんなでくの坊のような准男爵と結婚したのか、こいつはどんな人間にも|探索《たんさく》できなかった、不可解千万な|謎《なぞ》の一つだ。はっはっは!」
「たぶん」とおじさまは笑いながら、「私たちは[#「私たちは」に傍点]、ここにいるあいだに、あの猟園に足をふみ入れてもいいのだろうね? 君の禁令は私たちにまでは及ばないのだろう?」
「わしはうちの賓客に、禁令を布いたりすることはできませんよ」とボイソーンさんは、いかにもこの人に品よくうつる、にこやかな|丁重《ていちよう》さを見せながら、エイダと私に頭をさげていいました。「もっとも、もう帰るなどといい出されたら別ですが。ただ残念ながら、みなさんに付き添って、チェスニー・ウォールド猟園に参ることはできません、あそこはじつにすばらしいところなんだが! しかし、この夏の日の光にかけて誓うがね、ジャーンディス、たとえ君がわしのうちに滞在しているあいだに、あそこの持ち主を訪ねても、冷たいあしらいしか受けないだろうな。いつでもあの男は、八日巻き時計みたいに、つまり、豪華なケースにおさまっているくせに、一度だって動くことも、動いたこともないようなたぐいの八日巻き時計みたいに、ふるまっているが――はっはっは!――しかし、自分の友人であり、隣人であるボイソーンの友人たちに対しては、君、受け合ってもいい、きっと特別かた苦しい態度をとるだろうな!」
「私があの人に、そういうことを試してみることはあるまい。あの人が私と近づきになることを望んでいないのと、おそらく、同じように、私もあの人と近づきになることを望んでいないのさ。あの地所の空気と、たぶん、ほかのどの参観者にも見られるような、あの屋敷の眺めだけで、もう私には充分なのだよ」
「ほう! それなら、大体、けっこうだ。そのほうがいい。この辺では、わしは稲妻に挑戦する第二のアジャックス(2)だと見なされているんだ。はっはっはっは! 日曜日に、わしがここのちいさな教会へはいってゆくと、わずかな会衆のうちの相当大勢は、わしがデッドロックの不興を買って、焼けこげてしぼんで、石だたみの上に倒れるところを見ようと、待ちもうけている。はっはっはっは! きっと、あの男はわしが倒れないんで、びっくりしているに相違ない。なぜって、あの男は、神にかけて誓っていい! 自己満足、浅薄、|伊達《だて》|者《しや》気どりでは較べる者もない、からっきし知恵の足りない馬鹿者なんだ!」
それまで登っていた小山の峰まで来ると、ボイソーンさんは、今話に出たそのチェスニー・ウォールドの屋敷を、指でさし示すことができましたので、そこの当主のことは頭から消えてしまいました。
樹木の豊かなすばらしい猟園の中にある、絵のような古い家でした。その邸宅からほど遠からぬところに、木々のあいだにある、今しがた話した、ちいさな教会の尖塔を、ボイソーンさんは指でさし示しました。ああ、まるで天使の翼が夏の大気を切って、愛の使いに飛び去ってゆくみたいに、光と影がたちまち上を通り過ぎてゆく、おごそかな感じの森、緑のなだらかな坂、きらきら輝く川の水、花々が、この上もなく色あざやかな群をつくって、いかにも調和よく配置された庭園、なんと美しい眺めだったことでしょう! 家には|破風《はふ》、|煉瓦《れんが》づくりの煙突、塔、わきにあるちいさな塔、うす暗い出入口、テラスの幅広い散歩道があり、そこの手すりにからまったり、テラスにならべた花びんの上にむらがったばらが一面に咲きほこっていて、この家の優雅でしかもどっしりした趣、まわりじゅうにやすらいでいる平穏な静けさは、ほとんどこの世のものとも思えませんでした。エイダと私には、この静けさが、ほかのなにものにもまさる影響力となって、あたり一帯にみなぎっているらしく見受けられました。邸宅、庭、テラス、緑の坂、川の水、オークの老樹、しだ、こけ、それからまた森といったすべてのものの上にも、この風景のあいまを越えてはるか前方に、紫色の輝きをおびて広々と横たわっている遠くのほうにまでも、こういうかき乱されることのない閑静さが見えるように思われました。
私たち一行がちいさな村にはいり、デッドロック亭という看板を、店の正面の道路にかかげた、ちいさな宿屋の前を通りかかりますと、ボイソーンさんは、店先のベンチに腰かけている若い男のひとと、あいさつをかわしましたが、その人のそばには釣り道具が置いてありました。
「あれはデッドロック家の女中頭をしている女の孫で、名前をラウンスウェル君というんですよ」とボイソーンさんがいいました。「あの男はお屋敷のきれいな女中に|惚《ほ》れていましてな。デッドロックの奥方はそのきれいな娘が気に入ってしまって、おそば近くに置いておこうとしているんです――この名誉を、ラウンスウェル君はちっともありがたがらないんですな。だが、ラウンスウェル君は目下のところ、まだ結婚できないんですよ、たとえそのうるわしの君に、その気があってもね。それで、ラウンスウェル君はよろこんで我慢しているというわけです。それはそれとして、ここへはかなりひんぱんに、やって来ますよ、一日か二日ずつね、それは――釣りをしにですよ。はっはっは!」
「あの人と、そのきれいな娘さんとは、婚約しているんですか、ボイソーンさん?」とエイダが尋ねました。
「それはですね、クレアさん、たぶん、おたがいに理解し合っている仲だろうと思いますね、しかし、そのうち、じきに二人をごらんになるでしょうから、そういう点については、わしはあなたに教えてもらわねばなりませんな――あなたがわしにおそわるのでなくて」
エイダは顔を赤らめましたが、ボイソーンさんはきれいな、あし毛の馬にまたがったまま、だく足で先にゆき、自分の家の入口のところで降り、私たちが着いたら歓迎しようと思って、片腕をさし出し帽子をぬいで、待ちかまえていました。
ボイソーンさんは、以前牧師館だった、きれいな家に住んでいましたが、その表のほうは芝生、片側は目のさめるような花園、裏はいろいろな木の植えてある果樹園と野菜畑で、それを、いわば熟して自然に赤味を帯びて来た、さびのある|塀《へい》がかこんでいました。しかし、そればかりでなく、この家のものはすべてみな、成熟と|豊饒《ほうじよう》の趣をそなえていました。古い|菩提樹《ぼだいじゆ》の並木道は緑の回廊のようでしたし、さくらんぼとりんごの木はその影にさえ、たわわに実をつけていましたし、すぐり[#「すぐり」に傍点]の木はあまり実がつくので、枝が弓なりに曲って大地につき、いちごと木いちごも同じように豊かにみのり、桃は塀の上に百箇も日なたぼっこをしていました。広げた|網《あみ》のあいだや、日に照らされてきらきら光り、ちらちらまたたいているガラスの温室のあいだには、しだれたさや豆、かぼちゃ、きゅうりが山のようにころがっているので、地面はどこもかしこも野菜の|宝庫《たからぐら》のようですし、かんばしい薬草や、体のためになる、いろいろな植物のにおいが(牧草を刈って干し草積み場へ運んでいた、となりの牧場のにおいはいうまでもなく)、あたりの空気を、まるですばらしく大きな花束みたいにしていました。赤い|古塀《ふるべい》にかこまれた、この整然とした庭内には、すみずみまで静寂と落着きがゆき渡っていましたので、鳥おどしにつるした羽の輪さえ、ほとんど動きませんでしたし、またその塀には、物を熟させる力が大そうありましたから、そのあちらこちら高いところに、役に立たなくなった、くぎと細長い布切れが、なおもすがりついていましたが、これも移り変る四季とともに、やわらかく熟し、ほかのものと同じ運命をたどって、もうさび|朽《く》ちてしまっていたことは、容易に察しがつくのでした。
家は庭にくらべると、やや整然さを欠いていましたが、これもほんとうに古い家で、床を|煉瓦《れんが》で敷いた台所の煖炉のところに、古風な|長椅子《セトル》があり、天井には大きな|梁《はり》が渡してありました。家の片側には、訴訟中の例のおそろしい地所があって、ボイソーンさんはそこに昼も夜も、|野良着《のらぎ》姿の番兵を立てていて、その任務は、侵略を受けた際に、すぐさま、わざわざそこにつるした大きな|鐘《かね》を鳴らし、同盟軍として犬小屋に入れてある、大きなブルドッグの鎖をはずし、そのほか全体として、敵に破壊を加えるのだということでした。こういう警戒だけでは満足せず、ボイソーンさんは自分の名前を入れたペンキぬりの板に、次のようなおごそかな警告を、みずから書いて、そこに立てました。「ブルドッグに御用心。おそるべき猛犬なり。ロレンス・ボイソーン」「ラッパ銃に弾丸を|装填《そうてん》してあり。ロレンス・ボイソーン」「人捕りわなおよびバネ銃を、ここに昼夜二十四時間しかけてあり。ロレンス・ボイソーン」「御注意。|何人《なにびと》たりとも、ふらちにもあえてこの土地に不法侵入せんとする者は、もっとも厳格なる私的制裁によって罰せられ、もっとも|苛酷《かこく》なる法律によって告訴せらるべし。ロレンス・ボイソーン」これをボイソーンさんは、応接間の窓から見せて下さりながら、飼っている小鳥に、自分の頭の上をぴょんぴょん跳ばせていましたが、その警告を指さしているうちに、「はっはっは! はっはっは!」と、からだが裂けてしまうのではないかと思われるほど、高笑いをするのでした。
「しかし、これは相当ご苦労なことですね」とスキムポールさんが例の屈託のない調子でいいました、「結局、君は本気じゃないんでしょうからね?」
「本気でないと!」ボイソーンさんは、なんともいいようもないほど興奮して答えました。「本気でないと! もしライオンを訓練できるものなら、あの犬のかわりに一匹買って、わしの権利を侵害しようなどと、大胆不敵にも初めて企ておった、あの我慢のならん泥棒野郎にけしかけてやったものを。レスタ・デッドロック卿が外へ出て、一騎打ちでこの問題を決めるのを承知したら、いつの時代、どこの国の武器でもかまわん、わしは人間の知っているかぎりのどんな武器でも手にとって、相手になってやるぞ。わしはその程度に本気なんだ。それだけのことさ!」
私たちがボイソーンさんのところへ来たのは土曜日でした。日曜日の朝には、みなでデッドロック家の猟園の中にある、ちいさな教会へ歩いてゆきました。訴訟中の土地のすぐ隣りぐらいのところから、猟園にはいり、青々した芝生と美しい木々のあいだをうねっている、気持のよい野道をたどってゆくうちに、教会の車寄せに出ました。
会衆はたいそう小人数で、しかも、ごく|田舎《いなか》ふうの人たちでしたが、例外はデッドロック家のお屋敷から来た、大勢の召使たちで、もう席についている者もいくぶんかありましたが、残りはちょうど中へはいって来るところでした。そのなかにはなん人か、堂々とした従僕もいれば、一人、年とった御者の典型のような男もいて、いままでに自分の馬車に乗せた、尊大で虚栄心の強い人たちの、公けの代表者のような様子をしていました。若い女の人たちのたいそうきれいな姿も見られましたが、それをぬきん出て、ひときわ目立ったのは、女中頭のととのった年老いた顔と、いかにもしっかりした、押し出しのよい、りっぱな姿でした。ボイソーンさんの話した、きれいな娘さんは女中頭のそばにいました。とてもきれな人でしたから、あの若い釣り師(この人があまり遠くないところにいるのを私は見つけました)の目を意識して顔を赤らめている有様を見なくても、その美貌ですぐにその人と分ったことでしょう。一つだけ、目鼻立ちはととのっていましたが、感じのよくない顔が、意地の悪い目をして、このきれいな娘さんを、いいえ、それどころか、教会じゅうのすべての人、すべてのものを、じろじろ見ているようでした。それはフランスの女の人でした。
まだ鐘が鳴っていますし、えらいかたがたはまだ参りませんので、私はそのひまに、お墓のように土くさい教会の中を一目見渡して、なんと陰の多い、古めかしい、おごそかな、ちいさい教会だろうと思いました。窓は木々の影で重苦しくおおわれていて、弱い光しかはいって来ないため、まわりの人たちの顔は青白くなり、石だたみの床と、古びたり|湿気《しけ》たりして、いたんで来た記念像につけた真鍮の銘板は黒ずみ、単調な鐘つきが鐘を鳴らしている玄関の車寄せに射しこむ日の光が、なんともいえぬほど明るく見えました。しかし、そちらのほうにざわめきが起り、田舎びた人たちの顔に一様に|畏敬《いけい》の念が浮び、ボイソーンさんが、ある人の来たことに断然気づかないようなふりをしようと、にこやかながらも険しい態度を見せましたので、えらいかたがたが到着して、これから礼拝式が始まる先ぶれだと分りました。
「『汝のしもべの|審判《さばき》にかかずらいたもうなかれ、エホバよ、そは|聖前《みまえ》に――(3)』」
立ち上った私が、私に向けられていた視線を見返した時に高鳴った、あの胸の鼓動を忘れることがあるでしょうか! その美しくも誇り高い目が、急にけだるさをふり捨て、私の目をしっかりつかまえるように思われたのを、忘れることがあるでしょうか! それもほんの一瞬の出来事で、私は――もしこんなことがいえるとしたら、つかまえられた目をまた離されましたので――視線を聖書に落しましたが、そんなに短いあいだのことながら、そのうるわしい顔には、たしかに見おぼえがあると思いました。
そして、たいそうふしぎなことには、私の心の中になにか、あの養母の家で送った孤独な日々に関係のあることが、よみがえって来たのです。そうです、しかもそれは、遠いむかし、私がお人形に洋服を着せてから、|爪立《つまだ》ってちいさな鏡に向いながら、自分の洋服を着た時分にまで、さかのぼることなのでした。しかし、私は生れてこのかた、一度もその貴婦人の顔を見たことがなかったのです――たしかにありませんでした――絶対たしかに。
この貴婦人と同じ大きな家族専用席に、もう一人だけいる、|白髪《しらが》まじりの、痛風にかかった、ひどく堅苦しい紳士がレスタ・デッドロック卿で、その貴婦人が奥方さまであることは、すぐに察しがつきました。けれども、なぜ奥方さまの顔が、だれの顔とまちがえたのか、割れた鏡のように、私の古い記憶のかけらを映し出すのか、また奥方さまをなにげなく見返したからといって、なぜ私がそんなに動揺し、不安になるのか(私の気持はまだもとに戻りませんでした)、それが分りませんでした。
そんなふうになるのは、私のつまらない気弱さだと思いましたので、私は朗読されている聖書の言葉に注意を向けて、それを忘れようと努めました。すると、大そうふしぎなことに、耳に聞えて来るのは、朗読師の声ではなくて、あの忘れられない、養母の声のような気がしました。それで私は、奥方さまの顔は、偶然養母の顔に似ているのかしらと考えました。たぶん、少し似ているように思われましたけれども、表情は大そうちがっていましたし、雨や霜が次第に岩にしみこむように、養母の顔にしみこんでしまった、あの断乎としたきびしさが、私の目の前にある奥方さまの顔には、まったくありませんでしたから、私に強い印象を与えたのは、決して顔が似ているからではなかったのです。それにまた、奥方さまの顔に見られるような|驕慢《きようまん》さ、|傲慢《ごうまん》さを、ほかのどの人にも、まったく見た例しがありませんでした。それなのに、単に、これまでまったく会った覚えがないように思われるというだけでなく、ついその時まで全然会ったことがないのを十二分に承知している、この名流夫人の中にある、なにかの力によって、私が[#「私が」に傍点]――つまり、ちいさなエスタ・サマソン、世間からはなれて暮し、お誕生日になんのお祝いもしてもらわなかった子供が――過去の中から呼び出され、私自身の目の前に生き返って来るような気がしました。
私はこういう不可解な興奮におちいって、心配でたまらなくなりましたから、さっきいったフランス人の侍女が、教会へはいって来た瞬間から、あちらこちら、あらゆるところを、じろじろ見まわしていたのを知ってはいましたものの、自分が注目のまとにされると、それさえ気になることに気づきました。しかし、大そう手間どりましたけれども、とうとうこの異様な感情を少しずつ抑えることができました。だいぶ経ってから、私はまた奥方さまのほうを眺めました。それはお説教の前に、みなが讃美歌をうたう用意をしている時でした。奥方さまは私のことなど気に留めませんでしたし、私の胸の|動悸《どうき》も、もうおさまっていました。そのあと、奥方さまが一、二回、エイダと私を片眼鏡でちらりとごらんになった時も、ほんの少しのあいだ動悸がしただけでした。
礼拝が終ると、レスタ卿はたいそう品よく、いんぎんに奥方さまに腕を貸して――もっとも、歩く時は、太いステッキの助けを借りなければなりませんでした――教会から出て、来る時に乗って来た、小型馬に引かせる馬車のところまで付き添ってゆきました。それから召使たちが散ってゆき、会衆も散りましたが、そのあいだずっとレスタ卿は会衆を、まるで天国の大地主のような顔をして(とスキムポールさんがいって、ボイソーンさんをこの上もなくよろこばせました)静かに眺めていました。
「あの男はそう信じているのだよ!」とボイソーンさんはいいました。「確信しているのだ。あれのおやじも、じいさんも、ひいじいさんもそうだったぞ!」
「ねえ、あなた」とスキムポールさんはまったく不意に、ボイソーンさんに向って話をつづけました、「ああいう種類の人間を見て、僕は気に入りましたね」
「ほんとに[#「ほんとに」に傍点]そうか!」
「もしあの男が僕のパトロンになりたがったら、どうでしょう。けっこうなことだ! 僕には異存ありませんね」
「わしには[#「わしには」に傍点]異存があるぞ!」とボイソーンさんはたいそうないきおいでいいました。
「ほんとですか?」とスキムポールさんは浮き浮きとして、気軽にいいました。「しかし、それはご苦労な話ですね、まったく。一体、なぜそんなご苦労なことをするんです? 僕はこのとおり、物事が起るままに、子供みたいに全部受け入れて、満足しているんです、決して求めて苦労したりしませんよ! たとえば、僕がここへやって来ると、忠順を強要している大勢力家がいる。けっこうなことだ! 僕はいう、『殿様、このとおり、たしかに[#「たしかに」に傍点]私は忠順を誓います! 忠順をさし控えるより、捧げるほうがやさしいことなのです。ほら、このとおり捧げます。もし殿様がなにか私の気に入るようなものを、お見せ下さいますなら、よろこんで拝見いたしますし、なにか私の気に入るようなものを下さいますなら、よろこんでいただきます』大勢力家はこういう意味のことを答える、『これはなかなか物の分るやつだ。この男は私の胃と肝臓に合う。この男なら、私は針ねずみのように、体を丸めて針を出す必要がない。むしろ逆に、広がり、開いて、ミルトンの歌った雲(4)のように、銀色の裏地をさらけ出してしまうが、このほうが私たち双方の気に入るのだ』これは、こういう事柄について、僕の意見を子供としていったんですよ!」
「だが、もし君が、明日、どこかよその場所へいったとして」とボイソーンさんがいいました、「そこにその男と――あるいは、この男と――反対の人物がいたら、その時はどうする?」
「その時はどうする?」とスキムポールさんはこの上もなく純真率直な顔をして、「まったく同じですよ! こういうでしょう、『わが尊敬するボイソーンさん』――その架空の友人をあなたと見ていえば――『わが尊敬するボイソーンさん、あなたはその大勢力家に異存があるんですね? よろしい。僕もそうだ。僕は、社交の世界における僕の任務は、気に入るようにすることだと思うし、社交の世界におけるあらゆる人の任務は、気に入るようにすることだと思う。一言でいえば、それは調和の世界ですよ。だから、もしあなたに異存があるなら、僕にも異存があるんです。さあ、ボイソーンさん、もう食事にいこうじゃありませんか!』」
「だが、そのボイソーンさんはこういうかも知れん」とボイソーン家の主人は真赤な顔をして答えました、「わしは絶対に――」
「分りますよ、きっとそういうでしょうね」
「――食事なんかにいかんぞ[#「いかんぞ」に傍点]!」と割れるような声で叫び、ステッキで地面を打とうとして立ちどまりました。「それから、きっとボイソーンさんはこうつけ加えるだろうな、『一体、この世の中には、主義というものがあるのですかね、ハロルド・スキムポールさん?』」
「それに対してハロルド・スキムポールは、こういう返事をするでしょうよ」とスキムポールさんは、この上もなく無邪気な微笑を浮べ、じつに快活に答えました。「『まったくのところ、全然分りません! あなたが主義という名で呼んでいるものがなにか、どこにあるのか、だれがそれを持っているのか、僕は知りませんね。もしあなたがそういうものを持っていて、楽しいものだと思うなら、僕は非常にうれしいし、心からあなたにお祝いします。しかし、ほんとに僕は、そんなもののことは全然知りません、だって僕はほんの子供で、そういうものを要求する権利がないし、ほしいとも思わないから!』だから、ねえ、ボイソーンさんと僕は、結局、食事にゆくことになるでしょう!」
これはボイソーンさんとスキムポールさんとのあいだで、たびたびとり交された、ちょっとしたやりとりの一つで、私はいつも、最後にはボイソーンさんが、なにかすごい爆発を起すことになるだろうと思っていましたし、もしほかの場合でしたら、おそらく、そうなったことでしょう。けれども、ボイソーンさんは接待をする側の主人として、客を手厚くもてなす責任のある立場を、はっきりわきまえていましたし、ジャーンディスおじさまはスキムポールさんのことを、一日じゅうシャボン玉を吹いてはこわしている子供と見て、心から笑ってとり合わなかったり、いっしょに笑ったりしていましたので、事態はそれ以上に進みませんでした。スキムポールさんのほうは自分がきわどいところまでいったことに、いつも全然気づかないらしく、やりとりがすむと、猟園へいって、一度も仕上げたことのないスケッチを描き始めたり、ピアノをひとくさりひいたり、歌をいく節かうたったり、木の下へいって仰向けに寝ころんで、空を眺めたりしてみるのでした――そして、自分の気質には空がぴったり合うから、自分は空を見るために生れて来たのだ、と考えずにはいられないといいました。
「僕は進取の気象と奮闘精神が好きですね」とスキムポールさんは(仰向けに寝たまま)よく私たちにいったものでした、「きっと僕はほんとに世界人なんです。進取の気象と奮闘精神、僕はこれにもっとも深い共感を覚えますね。こういう木陰に寝ころんで、北極へ出かけたり、熱帯の奥地へはいりこんだりする、冒険心に富んだ人たちのことを考えながら、彼らを賛美しているんです。欲得ずくの連中は『北極へ出かけて、なんの役に立つ! なんのためになるんだ?』と尋ねます。僕には分りません、しかし、僕に分っている[#「分っている」に傍点]かぎりでは、たぶん、そういう人たちが出かけてゆく目的は――自分では気づかないけれども――ここに寝ころんでいる僕の思索を働かせるためなんです。極端な例を考えてごらんなさい。アメリカの農園にいる奴隷の場合を考えてごらんなさい。おそらく、彼らは酷使されていて、おそらく、かならずしもそれを好んでいず、おそらく、概して不愉快な経験をあじわっているのでしょうが、しかし彼らは僕のために豊かな風景を見せてくれ、風景に詩を添えてくれるんです、たぶん、これが彼らの人生の楽しい目的の一つでしょう。もしそうなら、僕は大いに感謝します、いや、きっとそうですよ!」
こういう場合に、私はいつも、スキムポールさんは奥さんや子供さんたちのことを考える時があるのかしら、世界人であるスキムポールさんは、ご家族の人たちのことをどう考えているのかしら、と思いました。私の理解したかぎりでは、めったに考えたことはありませんでした。
私が教会で、あの胸さわぎを覚えた時から、その週も日が経って土曜日になりましたが、毎日、とても晴れやかな青空がつづきましたから、森の中をぶらぶら歩いて、日の光が、透きとおるような木の葉のあいだに射しこみ、美しく入り乱れた木陰にきらめいているのを眺めたり、鳥がにぎやかに歌い、あたり一面にねむ|気《け》をもよおすほど、虫がぶんぶんうなっているのを聞いて、じつに楽しく過しました。森の中に、こけと前の年の落葉とにうもれた、私たちの気に入りの場所があり、そこには、切り倒されて、もうすっかり皮がはげ落ちてしまった木が数本ありました。そのあいだに腰をおろして、何千本という天然の円柱にも|紛《まご》う、木々の白くなった幹に支えられた緑の見通しを眺め渡しますと、遠い景色が、私たちのすわっている木陰にくらべて、まばゆいばかり明るく見える上、アーチ形の見通しのため、|数寄《すき》をこらした眺めに見えるので、まるでこの世のものでない国を、かいま見る思いがしました。その土曜日に、ジャーンディスさんとエイダと私とがここにすわっていますと、やがて遠くで雷のとどろきが聞え、大粒の雨が木の葉をぱたぱた鳴らしながら落ちて来る気配が感じられました。
その週はずっと、陽気がひどくむし暑かったのですが、この雷雨はあまり突然でしたから――少なくとも、あの木陰にいた私たちにとっては――まだ森のはずれまでゆきつかないうちに何度も雷が鳴り、稲妻が光り、まるで大きな鉛玉のような雨が、木の葉のあいだから、いきおいよく降って来ました。もう木のあいだで雨宿りをしている時ではありませんから、私たちは森からかけ出して、ちょうど幅の広い段ばしごを二つ、背中合わせに置いたみたいに、植林地の塀にかけ渡してある、こけのはえた階段を登り降りして、すぐ近くの番人小屋へ向いました。それまで何度も私たちは、濃い夕闇のような木々の中に立っている、この小屋の黒ずんだ美しさや、小屋の建物に木づたがからみついているたたずまいや、近くに険しい窪地のある眺めに注意をひかれたものでした。一度は、番人の飼い犬がまるで水にでも飛びこむように、その窪地の|羊歯《しだ》の中へ飛びこんだのを見たこともありました。
もう空が一面に曇っていましたから、小屋の中は大そう暗くて、はっきり見えるものといえば、そこに雨宿りした時に、戸口へ出て来て、エイダと私に椅子を二つ出してくれた男の人だけでした。格子窓が全部明け放してありましたので、私たちは戸口をすぐはいったところに腰かけて、あらしを見守っていました。風が巻き起って、木々を曲げ、雨をもうもうと煙のように吹きはらうのを見、重々しい雷の音を聞き、稲妻を見、私たちのちいさな生命をとりかこんでいる、さまざまな力のすさまじさに、おそろしさを覚えながらも、他方では、それがいかにも恵み深くて、一見激しい怒りと見えるこういうすべてのものを使って、早くも|一茎《ひとくき》の花、一枚の葉の上にも、みずみずしさを注ぎ、ありとあらゆるものすべてを新しくつくり直したように見えることを考えて、おごそかな感じに打たれました。
「そんなに吹きさらしのところにいて、あぶなくはありません?」
「あら、そんなことないわ、エスタ!」とエイダが静かにいいました。
エイダは私に向ってそういったのですが、私は[#「私は」に傍点]しゃべった覚えがありませんでした。
またも私の胸が動悸をうち始めました。あの時まで、あの顔を見たことがなかったと同じように、この時まで、今の声を聞いたことがありませんでしたけれども、前と同じ異様な感情におそわれました。たちまち、またしても、さまざまな私の姿が、数えきれないほど心に浮んで来ました。
デッドロック家の奥方さまが、私たちの来る前からこの猟園の番人小屋に雨宿りをしていて、暗い奥から出て来たのでした。そして私のうしろに立って、椅子に手をかけました。私がふり返ると、私の肩の近くに手をのせている奥方さまの姿が目にはいりました。
「びっくりさせてしまいましたわね?」奥方さまが申しました。
いいえ、私はびっくりしたのではありません。どうしてびっくりすることがありましょう?
「たしか」と奥方さまはおじさまに向って、「ジャーンディスさんでございましたわね」
「ご記憶下さいまして、望外の光栄に存じます、奥方さま」
「日曜日に教会でお見かけして、あなただと分りました。この土地で起っている、宅の主人の争いごとのために――でも、主人が求めて起したのではないと信じます――こちらではあなたにおもてなしをすることが、馬鹿らしい話ですけれども、むずかしくて残念に思いますわ」
「ご事情はうけたまわっておりますから」とおじさまはにこにこ笑いながら、「そのお言葉で、充分ありがたく思います」
奥方さまは、|癖《くせ》になっているらしい無関心な態度で、もうおじさまと握手をすませ、たいそう感じのよい声でしたけれども、同じように無関心な口調で話をしました。その美しさに劣らぬほどの気品があり、いかにも落着いていて、もしご自分で|仕甲斐《しがい》があると思えば、どんな人にでも、魅力と興味を感じさせることのできるようなかたと見受けられました。その前に、番人が椅子を持って来ましたので、奥方さまは玄関のまんなかの、エイダと私のあいだに腰かけました。
「前に主人がお手紙をいただいて、なんのお世話もできませんでしたけれども、あの若い男のかたは、もうお身のふりかたがきまりましたか?」と奥方さまは、おじさまのほうをふり向いていいました。
「きまったと思います」
奥方さまはおじさまを尊敬しているらしく、おじさまの気を悪くしないように望んでさえいるように見えました。その誇りやかな態度には、どこか人を引きつけるところがあり、おじさまのほうを向いて話をするにつれて、だんだん堅苦しさがとれて来ました――うち解けて来た、と書こうと思いましたが、そこまではゆきませんでした。
「こちらのかたが、もう一人の被後見人のクレアさんでございましょう?」
おじさまはエイダを正式に紹介しました。
「そのうちに、ドン・キホーテ式なあなたの、公平無私な性格がなくなってしまうことでしょうね」と奥方さまは、またジャーンディスさんのほうを向いていいました。「もしあなたが、こんなに美しいかたの侵害された権利を回復してさしあげさえすれば。でも、紹介して下さいませ」といって奥方さまは私の方をまともに向き、「こちらのお嬢さんも!」
「じつは、サマソンさんは私個人が後見をしているのです。この人の場合は、大法官閣下などから命じられたのではありません」
「サマソンさんはご両親になくなられたのですね?」
「はい」
「りっぱな後見人ができて、おしあわせなこと」
奥方さまは私をごらんになり、私も奥方さまを見て、ほんとうにそうでございます、といいました。すると急に、奥方さまは不機嫌か嫌悪の念でも示すように、あわただしく顔をそむけ、またおじさまのほうを向いて、話しかけました。
「わたくしたちがよくお会いしていたころから、もう何年にもなりますわね、ジャーンディスさん」
「遠いむかしのことです。少なくとも、先週の日曜にお見かけするまでは、そう思っていました」
「まあ! あなたまでが人の機嫌をおとりになるんですの、それとも、わたくしに対しては、そうしなければいけないと思っていらっしゃるのですか!」と奥方さまはやや軽蔑の色を見せていいました。「たぶん、わたくしがそういう評判を立てたのでしょうね」
「奥方さまはずいぶんいろいろな評判をお立てになりましたから、おそらく、そのたたりを、いくぶんかお受けになることでしょう。しかし、私から受けることはありませんね」
「ずいぶんいろいろな評判!」と奥方さまは軽く笑いながら、くり返しました。「そのとおりですわ!」
奥方さまは高慢、権勢、魅惑、それに私にはなにかよく分らぬものを表に見せながら、エイダと私を、ほんの子供同様に考えているようでした。それで、軽く笑うと、あとは雨を眺めたまま、まるで自分一人きりでいるみたいに、落着きはらって、思いのままに自分の考えごとにふけるのでした。
「わたくしたちがいっしょに外国へまいりました時分には、あなたはわたくしよりも、姉のほうをよくご存じでございましたわね?」奥方さまは、またおじさまのほうを見ながらいいました。
「はい、姉上にお目にかかるほうが|多《おお》ございました」とおじさまが答えました。
「わたくしたちはそれぞれ別の道を歩み」と奥方さまはいいました、「おたがいに理解できないとあきらめる以前でさえ、ほとんど共通の点はございませんでした。残念なことでしょうけれども、致しかたがございませんでした」
奥方さまはまた雨を眺めていました。まもなく、あらしが去り始めました。にわか雨はすっかり小降りになり、稲妻はやみ、雷は遠い岡のあいだでごろごろ鳴り、日の光がぬれた木の葉と降る雨に当って、きらめき始めました。私たちが黙ってそこにすわっていますと、小型馬をつけたちいさな四輪馬車が、浮き浮きとした歩調で、こちらへ向って来るのが見えました。
「奥方さま、お使いの者が馬車をつれて戻ってまいります」と番人がいいました。
馬車が近づくと、二人の人が乗っていることが分りました。外套とマントを持って、馬車から降りたのは、まず最初、教会で見かけたフランス人の侍女、次はあのきれいな娘さんでしたが、フランス女は自信たっぷりのけんか腰、きれいな女中は当惑顔でためらっていました。
「まあ、どうしたの?」奥方さまがいいました。「二人も来て!」
「奥方さま、ただ今のところ、奥方さまの侍女は私でございます」とフランス女がいいました。「おことづては|側仕《そばづか》え宛てでございました」
「わたくしのことかも知れないと思いましたものですから、奥方さま」ときれいな女中がいいました。
「おまえのことだったのよ」と奥方さまは落着いて答えました。「そのショールを着せておくれ」
奥方さまがショールを受けとろうとして、やや肩をかがめると、きれいな女中はふわりとうまく肩にかけました。フランス女は無視されたまま、くちびるを堅くむすんで眺めていました。
「残念でございますが」と奥方さまがジャーンディスさんにいいました。「わたくしたちはご旧交を温められそうもございません。二人のお嬢さんがたのために、この馬車をもう一度よこすことに致しましょう。すぐにここへ参らせます」
けれども、おじさまがどうしてもこの申し出を受けようとしませんでしたから、奥方さまはしとやかにエイダに別れを告げ――私にはなにもいいませんでした――おじさまの差し出した腕につかまって、車に乗りました。ちいさな、低い、猟園用の|幌《ほろ》馬車でした。
「お乗り、おまえ」と奥方さまはきれいな女中に向っていいました。「おまえに用事があるのよ。さあ、車をやっておくれ!」
馬車はがらがら音を立てて去り、フランス女は、持って来たマントを腕にかけたまま、さっき降りたところに立ちつくしていました。
たぶん、誇りにとって一番我慢できないものは、ほかでもない、誇りそのもので、このフランス女は自分の傲慢な態度を罰せられたのでしょう。フランス女の|復讐《ふくしゆう》は、私には想像もつかないほど奇妙なものでした。身動きもせずに、じっと立っていましたが、やがて馬車が車道に曲ると、顔色一つ変えずに、くつを脱ぎ捨て、地面の上に残したまま、びしょびしょにぬれた草の中を、同じ方角に向って、ゆっくりと歩いてゆきました。
「あの若い女は気が狂っているのかな?」とおじさまがいいました。
「とんでもない、旦那!」おかみさんといっしょに、フランス女のあとを見守っていた番人がいいました。「オルタンスは気ちがいなんかじゃありませんや。どんな利口な人にも負けねえくらい、頭のいい女でさ。だけど、あの女はひどく高慢ちきで、かんしゃく持ちだ――すごく高慢ちきで、かんしゃく持ちだ、それに、ひまを出すっていわれたり、ほかの者が自分より引き立てられたりで、面白く思っていねえんです」
「しかし、なぜくつもはかずに、あの水の中をずっと歩いてゆくのだね?」おじさまがいいました。
「まったくでさ、熱をひやそうてんですかね!」番人がいいました。
「それとも、あれを血だとでも思ってるんでしょうかねえ!」とおかみさんがいいました、「あの人は気が立ってる時は、なによりまず血の中を歩きたがるんだと、わたしゃ思いますがね!」
数分後に、私たちはデッドロック家のお屋敷から、ほど遠からぬところを通りました。初めて見た時に、お屋敷は安らかに見えましたけれども、この時はもう、ダイヤモンドのようなしぶきがお屋敷じゅう一面にきらきら輝き、鳥たちはもう黙っていず、力強い声で歌い、すべてのものがさきほどの雨で活気づき、玄関には、あのちいさな馬車が、銀でつくった、おとぎの国の馬車のように光っていて、前にもまして安らかな眺めでした。けれども、この風景の中にいた、もう一つの安らかな人影は、お屋敷目指して静かに、しっかりと、ぬれた草の中を、くつもはかずに歩いてゆくマドモアゼル・オルタンスでした。
[#改ページ]
第十九章 立ちどまってはいかん
大法官府横町のあたり一帯は長期休廷期である。いわば、普通法と|衡平法《こうへいほう》という優秀船、あの、チークの船材でつくり、銅で底を張り、鉄で留め、真鍮で上張りをした(1)、決して快速とはいえぬ二隻の|快速船《クリツパー》が、休航して|繋船《けいせん》されているのである。相手かまわず、いちいちゆきずりの人に、自分の訴訟書類を読んでくれとせがむ訴訟の亡者たちが乗り組んでいる、さまよえるオランダ船は、このところしばらく、どこへか知らぬが漂流してしまった。裁判所という裁判所は、みなとざされ、役所は暑い眠りに落ち、ウェストミンスター・ホール(2)自体が、夜鳴きうぐいすでも鳴き出しそうに、陰に包まれて淋しくなり、ふだん見かけぬ、もっと|情《じよう》の深い|訴訟者《シユーター》たち(3)が散歩にやって来る。
テムプル、大法官府横町、サージャンツ法学予備院(4)、リンカン法曹学院を始め、リンカン法曹学院広場まで、引き潮どきの潮港(5)よろしく、|座礁《ざしよう》した訴訟手続、停泊している法律事務所や、片方にかしいで開廷期の潮がさして来るまで、垂直に戻らない腰かけにもたれて、ぶらぶらしている事務所員たちが、長期休廷期の海底の泥に乗り上げている。何十という裁判官の私室の表ドアはとざされ、門衛所には、通信や小包が山と積まれたままになっている。リンカン法曹学院の大法官裁判所の外では、荷物運びの人夫たちが、木陰にすわっているよりほかに仕事がないので、はえ|除《よ》けに白い前かけを頭にかぶり、石だたみのすきまにはえた草を根こそぎ引きぬき、思案顔で草をかんでいるが、もしそうでもしなかったら、それこそ草がはびこったことだろう。
ロンドンに、裁判官は一人しかいない。その裁判官でさえ、週に二度、私室へ来て事件を審理するだけである。もし今の彼の姿を、地方の巡回裁判区の町々の人たちが見たら、どうだろう! うしろの広がったかつら(6)も、赤いペチコートも、毛皮のえりもつけていない、護衛の|槍《やり》持ちもいない、白い裁判官杖もない。きれいにひげをそった、白ズボンに白い帽子の一紳士にすぎない彼の司法官らしい顔は海のような青銅色に焼け、司法官らしい鼻は、日光のために少し皮がむけ、来る道で貝料理屋に立ち寄り、氷で冷したジンジャーエールを一杯やるのである!
イギリスの弁護士は、世界中に散らばっている。夏の長い四カ月のあいだ、どうしたらイギリスが、弁護士なしでやってゆけるのか――イギリスでは、弁護士こそ、逆境においては公認の隠れ家、順境においては唯一の正当な功績者なのであるが――それは当面の問題外で、とにかく、ブリテン島のこの|楯《たて》は、現在のところ、使われていない。ある博学な紳士(7)は、相手方が自分の依頼人の感情を先例のないほど傷つけるといって、いつも、大憤慨し、とても平静に戻りそうもないような顔をしているのに、目下スイスへ出かけて、想像もつかぬほど元気に過している。平素、敵を|萎縮《いしゆく》させることが得意で、相手かまわず、陰気な皮肉を浴びせて気をくじいている博学な紳士は、フランスの海水浴場で大うかれである。ちょっと腹を立てても、一パイントも涙を流す博学な紳士は、このところ六週間、涙一滴こぼしたことがない。或る、いとも博学な紳士は、これまで、生れ持った、熱しやすい短気な気質を、法律の池や泉で冷した結果、とうとう複雑な議論に長ずるようになったので、ふだん開廷期には、初心者はむろんのこと、その道に通じた大部分の人も、さっぱり分らぬような法律上の「いたずら」をねむけをもよおすような法廷でいい出して、みなを困らせているが、この人は今コンスタンチノープルの附近を歩きまわって、いかにも人柄にふさわしく、ほこりっぽく乾燥した風土を楽しんでいる。こういう世界の各地へ散っていった、イギリスの偉大な守護者たちのほかに、またヴェニスの運河、ナイル河の第二の滝、ドイツの温泉にいった者がいるし、イギリス海岸の砂浜には、いたるところその仲間がいる。しかし、|人気《ひとけ》のない大法官府横町の界隈では、ほとんどだれにもお目にかからない。たまたま、この荒野と変った界隈を、仲間にはぐれた弁護士が急ぎ足で通りすがり、だれか訴訟者が、不安の種になるこの土地を去りかねて、うろついているのに出会うと、おたがいにぎょっとして、それぞれ反対の方向の物陰に退却してしまう。
今年は、何年にもかつてないほど暑い長期休廷期である。弁護士事務所の若い事務員たちはみな、恋に夢中になっているので、それぞれの熱の度合に応じて、恋人と二人してマーゲト(8)や、ラムズゲト(9)や、グレイヴズエンド(10)で過す楽しさを思いあこがれる。中年の事務員たちはみな、自分のところは子供が多過ぎると考える。法曹学院の中へまよいこみ、階段やそのほか乾いたところを、あえぎ回って水を探している野良犬たちはみな、なお|咽喉《のど》が乾いて、短くほえ立てる。往来を歩いている、盲人たちの犬はみな、主人をポンプにぶつけたり、バケツにつまずかせたりする。日よけをかけて、舗道に水をまき、窓に金魚、銀魚の鉢を置いた店は、まったく心の安まる思いがする。テムプル・バーはすっかり熱し切っているので、隣りのストランド通りとフリート通りは、まるで湯わかしが焼き|鉄《がね》(11)を入れられたかっこうで、一晩じゅうぐつぐつ|煮《に》え立っている。
もしどんなに退屈なところでも、涼しければいいというのなら、法曹学院の附近の事務所には、涼しいところがあるかも知れない。しかし、そういう浮世をはなれた場所のすぐ外の狭い通りは、※[#「火+啗のつくり」、unicode7130]々燃え上らんばかりである。クルック氏の住んでいる小路は、あまり暑いので、小路の人たちは家の内と外とを逆にして、舗道に椅子を持ち出して腰かけている――クルック氏もその一人で、彼は飼い猫(猫というやつは決して暑くなりすぎることがない)をわきに置いたまま、勉強をつづけている。「日輪亭」は、夏のあいだ、「音楽の集い」をやめ、リトル・スウィルズは、テームズ河畔の「牧歌園」に雇われ、ここでは至って無邪気なものごしで登場し、子供向きのざれ歌をうたっているが、こういう歌なら(広告のビラに書いてあるところでは)どんなに潔癖な好みのかたがたも、気を悪くなさらないのだそうである。
ロンドンの法曹関係の地域一帯を、長期休廷期の無為と憂愁が、なにか大きな|錆《さび》の幕か、それとも巨大なくもの巣のように覆っている。カーシター通り、クック小路の法律文房具商スナグズビー氏は、この目に見えない力に気づいている。それも、感応力に富んだ黙想的な人間として、心の中で気づいているばかりでなく、前記の文房具商として、営業上でも感じているのである。長期休廷期には、ほかの季節よりも、ステイプル法学予備院や記録保管所の中庭で、|瞑想《めいそう》にふけるひまがあるので、彼は店の二人の徒弟に向って、こんな暑い陽気になんてすばらしいことじゃないか、自分が島に住んでいて、すぐまわりで海が大きく波打って、するするすべっているなんて考えるのは、という。
長期休廷期のこの日の午後、スナグズビー氏夫婦が客をもてなそうともくろんでいるので、ガスタは例のちいさな応接間で、せわしく働いている。予定された客はチャドバンド氏夫妻だけなので、大人数というより、むしろえりぬきの賓客というわけである。チャドバンド氏は自分のことを、口頭でも文章でも好んで|器《うつわ》(12)というので、ときどき、知らない者は、航海に関係のある人とまちがえるが(13)、氏の言葉を借りれば、「聖職についている」のである。チャドバンド氏は特定のどの宗派にも属していず、氏を迫害する連中にいわせれば、氏はこの最大の問題について、なんら注目すべき主張を持っているわけではないから、自前で自発的に牧師になっているけれども、あれは全然、良心の義務としてやっているとは思えないそうであるが、氏には氏の信奉者があり、スナグズビー氏の細君もその一人である。彼女は、つい最近、チャドバンド号で天国へ渡航したばかりで、暑さのため、いくぶん上気していた時に、この最優秀小型帆船に心ひかれたのであった。
「うちのちびは」とスナグズビー氏は、ステイプル法学予備院のすずめたちに向っていう。「信心も激しいほうが好きなんだよ」
それで、ガスタは、チャドバンドが立てつづけ四時間も長広舌をふるう、天賦の才能の持主であることを知っているし、さしあたり、自分を彼の侍女と心得て大いに感激しながら、ちいさな応接間にお茶の用意をする。家具という家具は全部ふるってちりをはらい、スナグズビー氏夫婦の肖像画には、ぬれぶきんでふいて仕上げを加え、いちばん上等の茶道具一式をならべ、焼きたてのおいしいパン、皮のかたいねじりパン、冷したフレッシュ・バター、うす切りのハム、タン、ジャーマン・ソーセージ、手ぎわよく、ちいさな列を作ってパセリの中に寄りそったまま、ならべたひしこいわし、それに、もちろん、生みたての卵(これはナプキンにくるんで、あたたかいまま持って来る)、と熱いバター・トーストといった御馳走を出す。というのは、チャドバンドはどちらかといえば、よく平らげる器で――がつがつむさぼる器だ、と迫害者たちはいっている――ナイフとフォークといったような、人間的な武器をふるうことが、じつにうまい。
いちばん上等の上衣を着たスナグズビー氏は、準備ができ上ると、いちいち調べて、口に手をあて、うやうやしい|咳《せき》をしながら、細君にいう。「ねえ、チャドバンドさんご夫妻は、何時にいらっしゃることになっていたんだね?」
「六時ですよ」と細君がいう。
スナグズビー氏はおだやかな声で、不用意に「もう過ぎたね」という。
「お二人がお見えにならないうちから、もうあなたは食べたいのね?」と、細君の非難がましい言葉である。
事実、スナグズビー氏は大いに食べたそうな顔をしているが、おだやかな咳をしながらいう。「いや、ちがうよ。わたしはただ時間のことをいっただけだよ」
「時間がなんですよ、永遠にくらべれば」
「そのとおりだね。ただ、人をお茶にお招きするために、食べものを用意した時は――たぶん――よけい時間を気にするよ。それに、お茶を始める時間が決めてあったら、時間どおりに始めるようにいらっしゃるほうがいいね」
「時間どおりに始めるですって!」細君はおうむ返しに激しくいう。「時間どおりに! まるでチャドバンド先生が拳闘でもするみたいに!」
「そりゃ全然ちがうよ、ねえ」
この時、それまで寝室の窓から、外をのぞいていたガスタが、いかにも近所のうわさに高い幽霊らしく、がさがさ、がりがりいわせながら、ちいさな階段を降りて来て、顔を真赤に上気させながら応接間にころげこみ、チャドバンド氏夫妻がクック小路に姿を見せたと告げる。つづいてすぐ、廊下の入口のベルがちりんちりんと鳴ったので、スナグズビー氏の細君はガスタに、もしお客さまの到着を正式に告げないようなことがあったら、すぐさまおまえの守り本尊さまのところへ送り返すよ、と注意する。そうおどかされたガスタは、すっかり神経を高ぶらせてしまい(それまではたいそう具合がよかったが)、礼儀作法もあらばこそ、「チズミング先生と奥さんがお着き、いんや、女の人の名前は分らない!」と告げると、気がとがめるので、その面前から退却する。
チャドバンド氏は色の黄色い大柄な男で、あぶらぎった微笑を浮べ、全体として、体の中に相当な量の鯨油を貯えているように見える。夫人はきびしそうな顔をした、いかめしい、無口な女である。チャドバンド氏は、ものごしが静かで、ぎごちなく、どことなく、立って歩くことを教えられた熊に似ている。まるで両腕が邪魔で、はいたがっているみたいに、ひどく腕を持てあまし、頭にはひどく汗をかいており、話をする時は、これから教訓を与えるぞよ、と聞き手に合図をするように、かならずまず最初片手を上げる。
「みなさん」とチャドバンド氏はいう。「このお宅に平和がありますように! ここのご主人にも、奥さまにも、お嬢さまがたにも、ぼっちゃまがたにも! みなさん、なぜわたくしは平和を願うのでしょうか? 平和とはなんでしょう? 戦争でしょうか? いいえ。争いでしょうか? いいえ。それは愛らしく、やさしく、美しく、楽しく、静けく、よろこばしきものでしょうか? はい、そうなのです! それゆえ、みなさん、わたくしはみなさんと、みなさんのご家族がたに、平和のあらんことを願うのであります」
細君が深い教訓を受けたらしい表情をしているので、スナグズビー氏はアーメンを唱える時期だと考え、みなに歓迎される。
「ところで、みなさん」とチャドバンド氏は言葉をつづけて、「ちょうど、わたくしがこの題目を――」
ガスタが姿をあらわす。スナグズビー氏の細君はチャドバンド氏から目をはなさずに、幽霊のような低い声で、おそろしくはっきりという。「あっちへいっておいでったら!」
「ところで、みなさん、ちょうど、わたくしがこの題目をとり上げ、至らぬながらもわたくしなりに、活用しておりますので――」
ガスタが「千七百八十二」と、わけの分らぬことをつぶやくのが、みなの耳に聞える。幽霊のような声が、前よりもおごそかに「あっちへいっておいでったら!」とくり返す。
「さあ、みなさん」とチャドバンド氏がいう。「わたくしどもは愛の心をもって、尋ねましょう――」
しかしガスタはかさねていう。「千七百八十二」
チャドバンド氏は、いかにも迫害になれた人らしくあきらめて、話を中止し、あぶらぎった微笑であごの先まで、ものうげに包んでからいう。「このお嬢さんの話を聞こうではありませんか! お話しなさい、お嬢さん!」
「すみません、千七百八十二なんです。そのお客さんがあの一シリングはなんのお代だか教えろって、いうんです」とガスタは息を切らせながらいう。
「お代?」とチャドバンド夫人が答える。「その人の代金に!」
「あの人は一シリング八ペンスだ、さもなきゃみんなを呼んで来いっていって、きかないんです」とガスタが答える。スナグズビー氏の細君とチャドバンド夫人は、今度は憤慨して|甲高《かんだか》い声になりかけるが、その時チャドバンド氏は片手を上げて、さわぎを静める。
「みなさん。わたくしは昨日、ある義務をはたさなかったことを、思い出しました。なにか罪を受けるのが、わたくしとしては当然なのです。不服をいうべきことではありません。レイチェルや、その八ペンスを払っておくれ!」
スナグズビー氏の細君が、まるで「あなた、この使徒みたいなかたのお言葉を聞いたでしょう!」とでもいうように、息を吸いこんで、じっとスナグズビー氏を見つめ、チャドバンド氏が謙虚さと鯨の油とで、燃えるように顔を輝かせているあいだに、夫人が金を払ってやる。こういった種類の貸借勘定を最小限度にとどめておいて、どんなささいな機会にでも、人前でそれを|吹聴《ふいちよう》するのが彼の習慣である――いや、彼の信心ごかしの極致なのである。
「みなさん、八ペンスはたいした額ではありません、二倍でも当然であったかも知れません、三倍でも当然であったかも知れません。ああ、よろこばんかな、よろこばんかな! ああ、よろこばんかな!」
この文句は調子から見て、どうやら詩の引用句らしいが、チャドバンド氏はそういいながら、大またにテーブルのところへ歩みより、椅子に腰かける前に、教えさとすように片手をさし上げる。
「みなさん、今わたくしどもの目に見える、このテーブルの上にならべられたものはなんでしょうか? 飲みものと食べものです。では、わたくしどもは飲みものと食べものを必要とするのでしょうか? 必要とします。それでは、なぜわたくしどもは飲みものと食べものを必要とするのでしょう、みなさん? なぜなら、わたくしどもは死すべき者にすぎず、罪深き者にすぎず、地上の者にすぎず、天上の者ではないからです。わたくしどもは飛ぶことができるでしょうか、みなさん? できません。なぜわたくしどもは飛ぶことができないのでしょう、みなさん?」
スナグズビー氏はさきほどの発言の成功につけ上っているので、今度は快活な、やや知ったかぶりの口調で、「翼がないからです」とあえて自説を述べる。しかし、すぐさま、細君がこわい顔で抑えつける。
「ねえ、みなさん」とチャドバンド氏は、スナグズビー氏の意見を全面的に却下、黙殺して言葉をつづけ、「なぜわたくしどもは飛ぶことができないのでしょう? わたくしどもが、歩くようにできているからでしょうか? そうです。みなさん、わたくしどもは、もし力がなかったならば、歩くことができないのでしょうか? できません。力がなければ、わたくしどもはどうするでしょうか、みなさん? 脚はわたくしどもを運ぶことを拒絶し、ひざは折れ曲り、かかとはひっくり返り、わたくしどもは大地に倒れてしまいます。では、人間的な見地から申して、どこからわたくしどもは、この手足に必要な力を|得《え》るのでしょうか? それは」とチャドバンド氏はテーブルの上を、ちらりと眺め渡して、「さまざまな形のパンから、牝牛によってわたくしどもに与えられるところの牛乳によって作られるバターから、にわとりの生む卵から、ハムから、タンから、ソーセージから、その他同じようなものからでしょうか? そうです。それでは、わたくしどもの前にならべられた、これらのよき品々を、いただこうではございませんか!」
こういうふうに、まるで階段でも築き上げるように、ほとばしり出る言葉を、つぎつぎに積みかさねてゆくチャドバンド氏の訓話には、格別なんの才能のひらめきも見られないと、彼の迫害者たちはいった。しかし、それは迫害を加えようとする彼らの決意を示す証拠としか受けとれない。なぜなら、チャドバンド流の雄弁が広く認められ、大いに賛美されていることは、もうだれしも見聞しているに相違ない。
しかし、チャドバンド氏は、ひとまず話を終えたので、スナグズビー家の食卓につき、前後左右にめざましい攻撃を加える。あらゆる栄養分を、前に述べたあの油に改宗させるのが、この模範的な器の体質に本来そなわった作用らしく、飲み食いを始めると、彼はいつも、相当な搾油工場か、あるいは大規模な製油工場になってしまうといってさしつかえない。カーシター通り、クック小路における長期休廷期のこの夕方、彼は|渾身《こんしん》の力をふるって仕事にはげむので、工場が作業をやめるころには、倉庫が油でいっぱいになっているらしい。
宴会がここまで進んだ時、まだガスタは最初の失敗から立ち直らず、可能不可能なあらゆる手段をつくして、スナグズビー家とわが身の恥をさらしつづけて来たのであるが――一つ二つ例をあげるなら、チャドバンド氏の頭上で皿をかち合わせて、ふいにすさまじい軍楽隊の演奏を始めたり、そのあと氏に菓子パンの冠をかぶせたりした――宴会がここまで進んだ時、ガスタがスナグズビー氏に、用事ができたと耳打ちする。
「それで、所用ができましたので、いまから――ありていに申せば――いまから店へまいります!」といってスナグズビー氏は立ちあがり、「三十秒だけ、ご免こうむらせていただきます」
スナグズビー氏が階下へ降りると、店の小僧が二人とも、一心に警官を見つめていて、警官はぼろを着た少年の腕をつかまえている。
「おや、これはこれは」とスナグズビー氏がいう。「どうしたのです!」
「この子供は」と巡査はいう。「何度、立ちどまってはいかんといっても、いうことを聞かんので――」
「おいらはいつも、立ちどまっていたりなんかしないよ、お巡りさん」と大声を張りあげ、少年は|垢《あか》のまじった涙を腕でぬぐう。「生れた時からずっと、歩いて歩いて、歩きどおしなんだよ。これ以上、どこにいくとこがあるんだい!」
「何度も注意したんですが」と巡査は落着きはらっていうと、かたい|襟飾《えりかざ》りを締めた首を、いかにも警官らしく、軽くゆすり上げて立て直し、「どうしても立ちどまっているんで、拘留しなければならんのです。ちんぴらのくせに、こんな強情なスリは見たことがない。どうしても立ちどまっていて、きかんのです[#「きかんのです」に傍点]」
「ああ、こまったなあ! おいら、どこにいくとこがあるんだ!」と少年は叫びながら、やけくそになって髪の毛をつかみ、スナグズビー氏の家の廊下の床に、はだしの足をたたきつける。
「そんなまねはやめろ、さもないと今すぐ始末してやるぞ!」と巡査はいい、平然として少年をゆすぶる。「おれは、立ちどまってはいかんと命令しているんだ。もう五百回もいったぞ」
「でも、どこへいくんだい?」と少年は大声をあげる。
「なるほど! たしかに、お巡りさん、ねえ」とスナグズビー氏は思案顔になり、口に手を当て途方に暮れたらしいせきをして、「たしかに、それが問題のようですね。ねえ、どこへゆくのです?」
「私は、そこまで命令しちゃいません」と巡査が答える。「立ちどまらずに、とっとと歩け、と命令しているんです」
聞いているか、ジョー? ここ数年ほど、議会のおえらがたたちはこの問題について、おまえに、立ちどまらずにとっとと歩く模範を示すことができなかったが、おまえはいっこうに|痛痒《つうよう》を感じない。おまえには一つだけ、すぐれた特効薬が――深遠な哲学的処方箋が――地上におけるおまえの奇怪な人生のいっさいの結末が、残されているのだ。つまり、立ちどまらないで、とっとと歩け、だ! ジョー、おまえは決してあの世まで歩いてゆく必要はない、おえらがたたちも、その点に関してはまったく意見が一致しないのだ。立ちどまってはいかん!
スナグズビー氏はこういうことをいわず、いや、なに一ついわず、ただ、どこへいっても通行どめだといいたげな、ひどくわびしいせきをする。もうこの時には、争いを聞きつけて、チャドバンド氏夫婦とスナグズビー氏の細君が、階段の上に姿をあらわしていた。ガスタはさっきから廊下のはずれに居残っていたので、家じゅうが集ったわけである。
「問題はただ、ご主人がこの子供を知っておられるかどうかです」と巡査がいう。「こいつの話では、知っておられるそうですが」
スナグズビー氏の細君がすぐさま、高いところから大声を張りあげる。「いいえ、知りやしませんよ!」
「ねえ、お―ま―え!」とスナグズビー氏は階段を見あげながらいう。「まあ、聞いておくれ! ごしょうだから、ちょっと辛抱しておくれ、ねえ。たしかに、私は少しばかりこの子を知っていますし、私の知っているかぎりでは、この子に悪いところがあるとはいえませんね、たぶん、その反対ですよ、お巡りさん」そういって彼は巡査に、ジョーに関するいたましい見聞を物語り、半クラウン銀貨を与えた事実はかくしておく。
「なるほど、そこまでは、こいつのいったことに根拠があったようですな。ホウバンでつかまえた時に、こいつは、ご主人を知っているといったんです。すると、集った人たちの中にいた若い男が、自分はご主人の知り合いで、あれはりっぱな世帯をかまえている人だといって、もし訪ねていって調査したいなら、自分も出頭しようといいました。あの若い男は約束を守る気がなさそうですな、しかし――ああ! ほんとに[#「ほんとに」に傍点]、あの男が来た!」
登場したのはガッピー君で、スナグズビー氏に向ってうなずき、階段にいる淑女たちには、弁護士事務所員の騎士道精神を発揮して、帽子に手をやってあいさつする。
「ついさっき事務所からぶらぶら帰って来る途中、あのさわぎを見かけて」とガッピー君は法律文房具商にいう。「あなたの名前が出たもんだから、この事件を調べるべきだと思いましてね」
「それはどうもご親切に、ありがとう存じます」そういってスナグズビー氏はまた自分の見聞を物語るが、またしても半クラウン銀貨を与えた事実はかくしておく。
「さあ、おまえの住んでいるところが分った」その話が終ると、巡査がジョーにいう。「トム・オール・アローンズ通りに住んでいるんだな。りっばな|堅気《かたぎ》の住まいじゃないか?」
「それよりもりっばなところにゃ、住めねえんだよ、旦那。おいらがりっばな堅気の住まいにいったって、だれも相手にしちゃくれねえんだ。おいらみたいな札つきにだれがりっぱな堅気の部屋を貸してなんかくれるかい!」
「おまえはひどく貧乏なんだろう、そうじゃないのか?」と巡査が尋ねる。
「うん、そうとも、大体いつもひどく貧乏だよ、旦那」
「さあ、みなさんのご判断に任せますよ! 私がこいつの体に、ちょっと手をかけたら、この半クラウン銀貨が二つ、ころがり落ちたんですよ!」といって巡査は一同に、銀貨をとり出して見せる。
「それは、スナグズビーの旦那、女中だっていう、ヴェールをつけた女の人が、おいらにくれた金貨の残りの|銭《ぜに》なんだよ。その女中さんは、ある晩、おいらが掃除している道路のとこへ来て、ここの店や、旦那が代書させてたあの人の死んだうちや、あの人の埋められたお墓を案内してくれって頼んだんだ。女中さんがおいらに『おまえが死体ひんもんに出た子かえ?』っていうから、おいらが、『うん』っていうと、『その場所を全部案内できるかえ?』っていうから、『うん、できる』っていった。そしたら『案内しておくれ』っていうから、おいらが案内したら、ソヴェリン金貨(14)を一枚くれて、ずらかっちゃった。でも、もうたいして残っちゃいないよ」とジョーはきたない涙を浮べて、「だってトム・オール・アローンズの宿で、まだ勘定をすませておつりをもらわねえうちに、五シル払わなきゃならなかったし、また五シル、眠ってるあいだに若い男に盗まれたし、それから別の男の子に九ペンス盗まれたし、宿の旦那がもっと沢山とって、みんなに一杯おごっちゃったんだもの」
「そんな、女中とか金貨とかいう話を信じてくれる人がいるなんて、まさか、おまえ、期待しちゃいないんだろう?」と巡査は、なんともいえぬ軽蔑の色を浮べて、ジョーを横目でじろりと眺める。
「そんなこと、おいら知らないよ、旦那。おいらはなんだって、たいして期待なんかしちゃいないよ、でもこれが、うそいつわりのない話なんだ」
「ごらんのとおりのやつですよ、この子供は!」と巡査が聴衆に向っていう。「ところで、スナグズビーさん、もし今回は拘留しないということにしたら、あなたが保証して、この子供を立ちどまらせないようにしてくれますか?」
「だめですよ!」とスナグズビー氏の細君が、階段の上から大声を張り上げる。
「ねえ、おまえ!」と亭主はそれをとりなして、「お巡りさん、この子は立ちどまったりしませんとも、きっと。おい、おまえ、ほんとにそうしなければいけないぞ」
「承知したよ、旦那」と不幸なジョーがいう。
「それじゃ、そうしろ」と巡査はいう。「どうしなければいけないか知っているな。とっとといけ! それから忘れるなよ、この次は、こんなに簡単に釈放されないぞ。おまえの金を持っていけ。さあ、早く五マイル先へいくんだ、早くいけばいくほど、みんなの厄介払いになる」
巡査はこういう別れの言葉を述べ、ジョーがとっとと立ち去る先は、大体、夕日の方角だと考えて、そちらを指でさし示すと、傍聴していた人たちにいとまを告げ、鉄張りの帽子を片手に持って、頭に少し風を入れ、日陰の側を歩いて、クック小路にゆるやかな|木霊《こだま》の伴奏を鳴りひびかせながら、歩み去ってゆく。
ところで、女中と金貨についてジョーが語った、ありそうにもない話に、一同の者はそれぞれ多かれ少なかれ好奇心を起していた。ガッピー君は、もともと証拠というものに関して、せんさく好きなたちであるし、長期休廷期の|無聊《ぶりよう》を大いにかこっていたから、この事件にたいそう興味を持ち、証人ジョーに対して反対尋問を始め、婦人たちはそれがひどくおもしろいので、スナグズビー氏の細君はガッピー君に、さきほどみなが攻撃を加えて、テーブルが荒されているけれども、さしつかえなければ、二階へ上ってお茶をひとついかがでしょう、と丁重に誘う。ガッピー君が申し出に応じたので、ジョーはいわれるままに、そのあとについて応接間にはいり、ガッピー君はこの証人を担当して、まるでバター作りの男がバターを扱うように、この形、あの形、また別な形と、延ばしたり縮めたり、型どおりにジョーを悩ませる。それにまた、この尋問は、型どおり、なんの証拠も引き出さず、ただ、いたずらに長たらしいばかりである。なぜなら、ガッピー君は自分の能力を意識して気負っているし、スナグズビー氏の細君は、それによって、生来のせんさく好きな気質が満足させられるのみか、法曹界における夫の店の地位も高くなると、思っているからである。この激烈な応酬がつづけられているあいだ、チャドバンド号はひたすら油を製造しているので、浅瀬に乗り上げてしまい、浮き上がるのを待っている。
「やれやれ!」とガッピー君がいう。「こいつはあくまで|白《しら》を切っているのか、それともこれは、私がケンジ・アンド・カーボイ事務所で手がけたこともないような、変った事件かも知れませんな」
チャドバンド夫人がスナグズビー氏の細君になにか耳打ちすると、細君は大声で、「まあ、まさか!」という。
「もう何年もですよ!」とチャドバンド夫人が答える。
「ケンジ・アンド・カーボイ事務所を、もう何年もご存知なんですって」と細君は得意になってガッピー君に説明する。「この奥さまがですよ――こちらのかたの奥さまなんです――チャドバンド牧師さまの」
「へえ、そうですか!」とガッピー君がいう。
「今の主人と結婚する前のことです」とチャドバンド夫人はいう。
「なんかの訴訟の当事者だったんですか、奥さん?」とガッピー君は反対尋問の相手を変えて、尋ねる。
「いいえ」
「なんかの訴訟の当事者じゃなかった[#「なかった」に傍点]んですか、奥さん?」
チャドバンド夫人は、ちがう、とかぶりを振る。
「それでは、たぶん、なにかの訴訟の当事者だった、どなたかとお知り合いだったのですね、奥さん?」ガッピー君は弁護士の法廷弁論式の話しぶりをするのが無二の好物なので、こういった調子で尋ねる。
「そういうわけでもありません」とチャドバンド夫人は、いかつい微笑で、この冗談をあしらいながら答える。
「そういうわけでもありません!」とガッピー君がくり返す。「では、奥さん、その人はケンジ・アンド・カーボイ事務所となにか交渉が(どんな交渉か、今は申しますまい)あったお知り合いのご婦人でしたか、それとも、お知り合いの紳士でしたか? ゆっくりお考え下さい、奥さん。じきに分りますよ。男でしたか、女でしたか、奥さん?」
「どちらでもありません」とチャドバンド夫人は前と同じように答える。
「ああ! 子供だ!」とガッピー君は、イギリスの陪審員に弁護士が投げる、いかにも|玄人《くろうと》らしい、本格的な、鋭い視線を投げながらいう。「さあ、奥さん、どういう[#「どういう」に傍点]子供だったか話していただけますね」
「とうとう当てましたね」とチャドバンド夫人は、また、いかつい微笑を浮べていう。「そう、あなたのご様子から考えると、きっと、あれはまだあなたのいない時分のことでしたよ。わたしが預ったエスタ・サマソンという子供を、ケンジ・アンド・カーボイ事務所が世話して、世間へ出してやったのです」
「サマソンさんですって、奥さん!」とガッピー君は興奮して大声を上げる。
「わたしは[#「わたしは」に傍点]エスタ・サマソンって呼んでいます」とチャドバンド夫人はきびしい声でいう。「わたしが預ったころは、『さん』なんて付けたりしませんでしたよ。エスタでしたよ。『エスタ、これをおし! エスタ、あれをおし!』といわれて、あれこれやらされていたものです」
「これはこれは、奥さん」とガッピー君はせまい室内を横切って来て、「今あなたにお話し申し上げているこの小生こそ、ただ今うけたまわった学校から、その令嬢が始めて上京された時に、ロンドンでお迎えした男なんです。恐れ入りますが、どうぞ握手をさせていただけませんか」
この時、とうとうチャドバンド氏は機会を見つけたので、例の合図をして、頭から湯気を立てながら立ち上り、ハンケチでぱたぱた頭をたたく。スナグズビー氏の細君が低い声で、「しっ!」という。
「みなさん」とチャドバンドがいう。「ただ今わたくしどもは、わたくしどものためにご用意下さいました、かずかずの楽しきものを、程よくいただきました。この家が国のあぶらを|食《くら》いますように(15)、この家に多くの穀物と酒がありますように(16)、この家が育ち、繁昌し、栄え、進み、前進し、急進しますように! けれども、みなさん、わたくしどもはそのほかに、なにかをいただきましたか? いただきました。みなさん、なにをいただいたのでしょうか? 霊的な利益でしょうか? そうです。その利益をどこからいただいたのでしょうか? わが若き友よ、前へお出なさい!」
急にそう呼びかけられたので、ジョーはうつむいたまま、うしろへ退き、前へ進み、右と左に寄って、雄弁なチャドバンドと向き合うが、明らかに相手の意向を測りかねているらしい。
「わが若き友よ」とチャドバンドはいう。「あなたはわたくしどもにとって、真珠です、ダイヤモンドです、宝玉です、宝石です。それはなぜでしょうか、わが若き友よ?」
「おいらは[#「おいらは」に傍点]知らねえよ」とジョーが答える。「おいらはなんにも知らねえよ」
「わが若き友よ」とチャドバンドはいう。「あなたがわたくしどもにとって、宝玉であり、宝石であるのは、なんにも知らないからなのです。なぜなら、あなたはなんでしょうか、わが若き友よ? あなたは野のけだものでしょうか? いいえ。空の鳥でしょうか? いいえ。海や河の魚でしょうか? いいえ。あなたは人間の少年です。人間の少年。おお、人間の少年たるは光栄なるかな! それで、なぜ光栄なのでしょうか、わが若き友よ? なぜなら、あなたは智恵の教えを受けることができるからです、あなたのために、今わたくしが授けているこの訓話を学ぶことができるからです、あなたは棒や、|杖《つえ》や、切り株や、石や、|杭《くい》や、柱ではないからです。
[#ここから1字下げ]
おお 人間の少年たることの
きらめく喜びが|迸《ほとばし》る流れよ!
[#ここで字下げ終わり]
それで、今あなたはその流れに、わが身を冷していますか、わが若き友よ? いいえ。なぜ今あなたはその流れに、わが身を冷していないのですか? なぜなら、あなたは暗黒の身にあるからです、おぼろな身にあるからです、罪の身にあるからです、とらわれの身にあるからです。わが若き友よ、とらわれの身とは一体[#「一体」に傍点]なんでしょうか? わたくしどもは、愛の心をもって尋ねようではございませんか」
訓話がこの不穏な段階に達した時、もうジョーは徐々に頭がおかしくなって来たらしく、右腕で顔をこすり、すさまじいあくびをする。スナグズビーの細君が、きっと、この子は悪魔大王の手先にちがいないよ、と大憤慨する。
「みなさん」とチャドバンド氏は一同を見まわしながら、いつも迫害される例のおとがいを、あぶら切った微笑の中へたたみこんで、「わたくしは卑しめられるべきなのです、わたくしは試錬を受けるべきなのです、わたくしは屈辱を加えられるべきなのです、わたくしはこらしめられるべきなのです。この前の安息日に、三時間の説教をして誇らしく思った時、わたくしはつまずいていたのです。今これでうまく貸し借りの勘定がすみました。もうわたくしは債権者と和解できました。ああ、われら、よろこばんかな、よろこばんかな! ああ、われら、よろこばんかな!」
スナグズビーの細君がすっかり感動してしまう。
「みなさん」とチャドバンド氏は周囲を見まわしながら、結びの言葉を述べる。「わたくしは、ただ今は、わが若き友とともに進むことはやめましょう。わが若き友よ、明日また来て、わたくしがあなたに訓話をしてあげる場所を、このよきご婦人に尋ねていただけませんか、その翌日も、次の日も、その次の次の日も、それから何日も、|渇《かわ》けるつばめのように、訓話を聞きに来ていただけませんか?」(これを牝牛のように軽やかに述べる)
ジョーは、とにかく、さしあたり是が非でも逃げ出してしまいたいらしく、その場のがれにうなずく。ガッピー君はジョーに一ペニー銅貨を投げてやり、スナグズビー氏の細君はガスタを呼んで、家の外までまちがいなく送り出させる。しかし、ジョーがまだ階下までゆかないうちに、スナグズビー氏がテーブルの食べ残りの肉を沢山やるので、彼はしっかり両腕にだいたまま持って帰る。
そこでチャドバンド氏は――氏の迫害者たちは、氏があのようないやらしいたわごとを、いくらでも長いあいだ、しゃべりつづけるのがおどろくべきことだというよりも、むしろ、一度あつかましく話を始めておいて、止めること自体がふしぎなのだといっているが――そこで彼は夜食というささやかな資本を油の製造に投資するまで、私生活に立ち戻る。ジョーは長期休廷期の町なかを、立ちどまらずにとっとと歩いて、ブラックフライアーズ橋までゆき、焼けるような石だたみの片隅を見つけ、腰を落着けて食事にとりかかる。
そこに彼はすわりこんで、むしゃむしゃ、くちゃくちゃ食べたり、赤むらさき色をした|煤煙《ばいえん》の雲の上に、きらきら輝いている、セント・ポール大聖堂の十字架を打ち仰いだりする。ジョーの顔を見れば、彼の目には、この聖なる表象が、はるか遠く彼の手のとどかぬところにかくばかり|黄金《こがね》色に、いや高く立っている姿こそ、この矛盾した大都会の矛盾の極致と映ることだろうと想像される。太陽が沈んでゆき、テームズ川が速く流れ、人の群が二つの流れをなして、わきを通ってゆく中に――あらゆるものがなにかの目的と、ただ一つの終局に向って、立ちどまらずにとっとと進んでゆく中に――ジョーはすわっているが、やがて警官にせき立てられ、「立ちどまらずにとっとと歩け」と命令される。
[#改ページ]
第二十章 新しい下宿人
|不精《ぶしよう》な河が|平坦《へいたん》な地帯を、いとものんびり流れてゆくように、長期休廷期は悠々と開廷期へ向ってゆく。それに共鳴して、ガッピー君も悠々と過している。彼は、自分の机の四方八方にペンナイフを突き|刺《さ》して、刃をにぶらせ、先端を折ってしまった。別に机に恨みがあるわけではないが、なにかしなければならないし、それも、刺激の強くない、体力や知力にあまり負担をかけないようなことでなければいけない。腰かけを一本足で回転させ、机をナイフで刺し、ぽかんと口をあけているのが、今の気分に一番合うと覚ったのである。
ケンジとカーボイの両弁護士はロンドンからいなくなり、見習い事務員は狩猟の許可証をもらって、|田舎《いなか》の親元へいってしまい、ガッピー君の同僚二人は休暇をとって出かけている。ガッピー君とリチャード・カーストン君の二人が、事務所の権威を分かち合っているわけである。しかし、目下のところ、カーストン君がケンジ弁護士の部屋に陣どっているので、ガッピー君はそれがしゃくにさわる。しゃくにさわって仕方がないので、オールド・ストリート街の家で、母親といっしょに、晩飯に海ざりがにとレタスを食べながら、内証話を始めると、痛烈な皮肉をこめて、どうも、うちの事務所は、しゃれ者には気に入らないだろうなあ、しゃれ者が来ると分っていたら、ペンキをぬって、きれいにしておいてやったのに、と母親に告げる。
ガッピー君は、ケンジ・アンド・カーボイ事務所の事務員になる者は、だれでもみな当然、彼に対して陰謀をたくらんでいると考える。そういうやつらが、みな彼を首にしたがっていることを、充分承知している。もしなぜ、いつ、どうして、どうやってと聞かれると、彼は片目を閉じて、かぶりを振る。こういう深遠な意見に基づいて、彼はなんの策略もめぐらされていないのに、その裏をかこうと、全力をあげて工夫をこらし、相手もいないのに、きわめて読みの深い将棋をさす。
それで、ガッピー君は、今度の新参者が、絶えずジャーンディス事件の書類に読みふけっているのを知って、大いに満足する。それもそのはず、この訴訟が混乱と失敗しか生まないことを、よく承知しているからである。ガッピー君のよろこびは、長期休廷期を悠々と過している、ケンジ・アンド・カーボイ事務所の第三の人物、すなわちスモールウィード少年にも伝染する。
スモールウィード少年(比喩的に、あだ名を|スモール《ちび》、または、まるで冗談にひな鳥だとでもいうみたいに、チックウィード(1)という)が、はたして少年だったことがあるのかどうかは、リンカン法曹学院で大いに疑問視されている。現在、満十五歳に少し間があるけれども、古い事務所員である。みなが笑い話として信じているところによれば、彼は大法官府横町の近くの煙草屋の女に夢中になっていて、この女のために、それまで数年間婚約していた、別の女との契約を解約してしまったという。|柄《がら》のちいさい、顔のしなびた、いわばロンドンの特製品であるが、ひじょうに高いシルクハットをかぶっているので、かなり遠方からでもそれと分る。ガッピー君のような人物になるのが、彼の大望で、自分に目をかけてくれるガッピー君をまねて着飾り、しゃべり、歩き、すべてガッピー君を手本にして自分をつくり上げている。またガッピー君から格別の信頼を受けているので、自分の深い経験にもとづいて、ときおり、ガッピー君に私生活上の難問に関して助言をする。
ガッピー君は、事務所の腰かけを次々に調べて、どれもかけ心地がよくないのをたしかめたり、鉄の金庫に何度も頭を入れて冷そうとしたりしたのち、午前中ずっと、窓にぐったりよりかかって、外をのぞいていた。スモールウィード君は、二度、発泡性飲料を買いにやらされ、二度、事務所のコップ二つについで、定規でかきまぜた。ガッピー君は彼に向って、飲めば飲むほど咽喉がかわくのはなぜだ、と逆説めいたことを尋ねてから、だるくてたまらぬように、窓敷居の上に頭をもたせかける。
こうしてリンカン法曹学院の旧広場の日陰を見渡し、なんとも我慢のならぬ煉瓦やモルタルを眺めているうちに、ガッピー君は、下の回廊にいかにも男性的なほおひげがあらわれ、自分の顔のほうへ向って来るのに気づく。と同時に、低い口笛が風に運ばれて法曹学院の中まで聞え、おし殺した声が「よう! ガッ=ピー!」と叫ぶ。
「おや、まさかあれは!」と、われに返ったガッピー君がいう。「スモール! ジョブリングが来たぞ!」スモールも窓から頭を出し、ジョブリングに向ってうなずく。
「一体、どこから君は降って湧いたんだ?」とガッピー君が尋ねる。
「デットフォード(2)近在の野菜畠からさ。もうあんなものは、まっぴらごめんだ。おれはどうしても軍隊を志願するんだ。ねえ、おい! 半クラウン貸してくれないかなあ。まったくの話、おれは腹がすいているんだ」
ジョブリングは腹がすいているような顔をしているし、デットフォード近在の野菜畠で尾羽うち枯らしたらしい様子もしている。
「ねえ、おい! ちょっと半クラウン投げてくれよ、もし君に余裕があったら。飯を食べたいんだ」
「いっしょに飯を食べにいかないか?」とガッピー君がいって、半クラウン銀貨を投げると、ジョブリング君はたくみに受けとめる。
「どのくらい我慢しなきゃいけないんだ?」とジョブリングがいう。
「半時間もかからないよ。僕はただ敵がいってしまうまで、ここで待っているだけなんだ」とガッピー君は答えながら、事務所の奥のほうへ頭を突き出す。
「どんな敵だい?」
「新しい敵さ。これから見習いをするやつだ。待ってくれるかい?」
「それまで、なにか読むものをくれないか?」とジョブリング君はいう。
スモールウィードが『法曹名簿(3)』をすすめる。しかし、ジョブリング君はひどく真剣になって、「あんなものは、まっぴらごめんだ」といい放つ。
「新聞をやろう。この男に持っていかせるよ。だけど、君はこのあたりじゃ、人に見られないほうがいい。うちの事務所の階段に腰かけて読みたまえ。静かなところだよ」
ジョブリングは了解と黙従のしるしにうなずく。利口者のスモールウィードは、新聞を持っていってやり、時々、おどり場から下を見て、ジョブリングが待ちあぐんで、先に出かけたりしないように用心する。とうとう敵が退却すると、スモールウィードはジョブリング君を上へつれて来る。
「やあ、元気かい?」とガッピー君は握手をしながらいう。
「まあまあだね。君は元気かい?」
ガッピー君が、たいしたことはない、と答えると、ジョブリング君は大胆にも「彼女は[#「彼女は」に傍点]元気かい?」と尋ねる。それを聞いて、ガッピー君は失礼なと憤慨し、「ジョブリング、人間の胸の中には、たしかに[#「たしかに」に傍点]心の琴線というものがあって――」と逆襲する。ジョブリングはあやまる。
「その話だけはやめてくれよ!」とガッピー君は受けた|痛手《いたで》を暗い気持であじわいながら、「だって、たしかに[#「たしかに」に傍点]心の琴線というものがあって、ジョブリング――」
ジョブリング君はまたあやまる。
この短い対話のあいだに、活動的なスモールウィードは、自分も食事の仲間に加わるので、早くも紙きれに、「すぐ帰ります」と法律書体で書いた。そしてこの関係各位宛ての告示を、郵便受けにさしこみ、シルクハットをガッピー君と同じ角度に傾けてかぶると、これで留守にできると、先輩に告げる。
そこで一同は、常連のあいだで俗に「|現金食堂《スラツプ・バング》」といわれている種類の、近所の料理店へ出かけるが、ここの給仕女は芳紀まさに四十歳のおてんば娘で、多感なスモールウィードの心を、いくぶんゆり動かしたものと信じられており、まったく、スモールウィードという男は、年など物の数とも思わぬ、奇怪な取り替え子(4)だといってよい。早熟にも、彼は数百年の|齢《よわい》を経た、ふくろう(5)のような知恵者である。もし赤ん坊の時分に、ゆりかごの中で眠ったことがあるとしたら、きっと|燕尾服《えんびふく》を着て寝ていたに相違あるまい。いかにも老人らしい目つきをしているし、猿みたいなかっこうをして酒は飲む、煙草は吸う。首にカラーをつけて、しゃちこ張っているし、人には絶対だまされないし、なんでも一から十まで心得ている。要するに、おさない時から、もっぱら普通法と衡平法によって育てられたので、小悪魔の化石みたいになってしまい、ほうぼうの役所では、こういう人間が地球上にいる理由を説明するために、あれの父親はジョン・ドウ(6)、母親はロウ(7)の一族中ただ一人の女性で、初めて着た|産衣《うぶぎ》は弁護士の青い皮の書類カバンで仕立ててあった、とうわさしている。
料理店のウインドーに、人を誘惑するように陳列してある、手をかけて白くしたカリフラワーといろいろな鳥の類、さやえんどうを盛った緑のかご、涼しげな色を見せているきゅうり、焼肉用の大きな切り身に、スモールウィードはいささかも心を動かされず、先頭に立って店の中へはいる。店の者は顔なじみなので、うやうやしくとり扱う。彼は自分の愛用のボックス席があり、新聞を全部予約していて、頭のはげた年長者でも、彼がいってから十分以上も新聞を横取りしていると、しかりつけられる。パンを出すなら、大型のやつでないと承知しないし、切り身の肉をすすめるなら、最上のところでなければ、いくらすすめてもむだである。肉料理のソースについては、絶対に人のいうことを聞かない。
ガッピー君はスモールウィードの妖精のような魔力を知っているし、そのおそるべき経験に一目置いているので、給仕女が献立をくり返し読み上げると、彼のほうへ訴えるようなまなざしを向け、「チック、おまえは[#「おまえは」に傍点]なにを食べる?」といって、今日の宴会の料理の見立てを彼に相談する。チックが自分の深い知識にもとづいて、「仔牛肉のハム巻きに、さやいんげんの付け合せ――それから、詰め物を忘れないでね、ポリー」と(その老成した目を、なんともいえぬほど気どって上に向けて、流し目をくれながら)いうので、ガッピー君とジョブリング君も同じ品を注文する。それに追加してハーフ・アンド・ハーフ(8)の一パイント・ジョッキが三人前注文される。給仕女はすぐに、一見バベルの塔とおぼしいものを、かかえて戻って来るが、これがじつは|皿《さら》に盛った料理と、すず製の平らな皿覆いとを積み重ねたものである。スモールウィード君は、自分の前に置かれた料理が気に入ったので顔を上げ、年よりじみた目に、やさしい意味ありげな色を浮べて、彼女に目くばせをする。それから、絶えず人が出はいりしたり、歩きまわる足音、陶器のがちゃがちゃいう響き、調理場から上等の切り身肉料理を運ぶ昇降機の上下する、がらがらというとどろき、それを伝声管で追加注文する甲高い叫び、食べ終えた上等の切り身肉の勘定を計算する甲高い声、切り身や骨つきの熱い肉が一面に上げる熱気と湯気、よごれたナイフやテーブルかけが自然にあぶらのしたたりや、ビールのしみを噴き出すように見える、あたりのかなり熱した雰囲気のただなかで、この法曹三人男は食欲を満たす。
ジョブリング君は単なるおしゃれ以上の必要から、洋服にボタンをきっちりかけているのである。帽子は縁のところが、まるでかたつむりが好んで歩いた遊歩場みたいに、独特のぴかぴかした外観を呈している。同じ現象は上着の数個所、特に縫い目のところに見える。彼は窮迫した人らしい、色あせた様子をしており、色の薄いほおひげまでが、いくぶんみすぼらしげにしおれている。
彼の食欲はきわめて旺盛で、このところしばらく、切りつめた暮しをしていたことを暗示している。仔牛肉のハム巻きをすばやく片づけ、仲間がまだ半分しか食べないうちに、自分の分を平らげてしまうので、ガッピー君がおかわりはどうかと申し出る。「ありがとう、ガッピー」とジョブリング君がいう。「よく分らないけど、おかわりをしてみよう[#「みよう」に傍点]」
おかわりが来ると、彼はいきおいこめて食べ始める。
ガッピー君は黙ったまま、時々彼に注目しているが、やがて彼は二皿目を半ば平らげると、食べるのを中止して、ハーフ・アンド・ハーフのジョッキを(これもおかわりの分である)一口あじわい、両足を伸ばして、両手をもむ。彼がこういう満ちたりた幸福感にひたっているのを眺めて、ガッピー君がいう。
「また人間らしくなったね、トニー!」
「いや、まだもと通りじゃない。だめだよ、生れたての赤ん坊ってところだ」
「なにかほかの野菜を食べるかい? アスパラか? えんどうか? 夏キャベツか?」
「ありがとう、ガッピー。よく分らないけど、夏キャベツを食べてみよう[#「みよう」に傍点]」
料理の注文とともに、「なめくじはいらないよ、ポリー!」という皮肉な追加注文が(スモールウィード君から)出る。こうしてキャベツが運ばれる。
「だんだん大きくなって来たぞ、ガッピー」といってジョブリング君は、いかにもうまそうに、休みなくナイフとフォークを動かしている。
「それはうれしいね」
「じつは、今ちょうど十代になったところだよ」
それきりジョブリング君はもう口もきかずに、食べる仕事のほうをつづけ、ガッピー、スモールウィード両君と同時に終えるが、じつにみごとな仕事ぶりで、仔牛肉のハム巻きとキャベツの分だけ、悠々両君に勝ったわけである。
「ところで、スモール」とガッピー君がいう。「デザートにはなにがいいだろう?」
「マロー・プディング」とスモールウィード君は即座にいう。
「そうか、そうか!」とジョブリング君はずるそうな顔つきになり、大声をあげる。「君はそれにするんだね? ありがとう、ガッピー君、おれは分らないけど、マロー・プディングを食べてみよう[#「みよう」に傍点]」
マロー・プディングが三人前出ると、ジョブリング君はいい機嫌になって、どんどん成年に近づいて来たぞ、とつけ加える。プディングの次には、スモールウィードの指図に従って、「チェシア・チーズが三人前」、その次には「ラム酒の水割りが三人前」出る。こうして、めでたく歓楽の絶頂に達すると、ジョブリング君は(自分のほうの側の席を独占しているので)、敷物を敷いた座席の上に両足をのせて、壁によりかかり、「おれはもう大人になったよ、ガッピー。分別ざかりの年ごろだ」という。
「君、今度はどう思う、さっきの――スモールウィードがいても、かまわないだろう?」
「かまわないとも。スモールウィード君の健康を祝して、おれは乾杯させてもらうよ」
「あなたのために乾杯!」とスモールウィード君がいう。
「今いいかけたのはね、君、今度は[#「今度は」に傍点]どう思う」とガッピー君は話をつづけて、「さっきの軍隊志願[#「軍隊志願」に傍点]の件は?」
「なあんだ、おれが食後に考えることとね」とジョブリング君が答える。「ガッピー君よ、食前に考えることとは別なんだよ。でも、食後にだって、おれはなにをなすべきか? どうやって暮すべきか? と自分に尋ねているんだ。|人間食わざるべからず《イル・フオー・メインジア》、さ」とジョブリング君は、その「|食う《マンジエ》」という言葉を、まるでイギリスの馬屋の必需品(9)みたいに発音しながら、「人間食わざるべからず。これはフランスのことわざだが、おれにとっちゃ、食うことは、フランス人と同じくらい必要なんだ。もしかすると、やつら以上だよ」
スモールウィード君は断然、「もっとずっと必要です」という意見である。
「もしだれかがおれに向って、君とおれとがついせんだって、リンカンシア州へ遊びに出かけて、カースル・ウォールドのあの屋敷へ、馬車で見学にいった時分に――」
スモールウィード君が、チェスニー・ウォールド、と彼の発言を訂正する。
「チェスニー・ウォールドだ。(激励の辞を賜って、あんた、いとも尊敬すべき友人(10)よ、どうもありがとう)あの時分に、もしだれかがおれに向って、今におまえはこんなふうに、文字通り困った身の上になるだろうなんていったら、きっと、おれは――そうさな、そいつに食ってかかって」といってジョブリング君は、やけを起してあきらめたように、水割りラムを少し飲み、「頭をなぐってやっただろうになあ」
「でも、トニー、あのころ君はまずいことを仕出かしていたじゃないか」とガッピー君が異議を唱える。「馬車の中で、君はそのことばかし話していたぜ」
「ガッピー、その点は否定しない。おれはまずいことを仕出かしていたよ。しかし、万事|円《まる》く治まるものと信じていたんだ」
このとおり世間一般では、平らな(11)物事が円く治まるものと信じている! 努力を重ねたり、|工夫《くふう》をこらしたりして、円く治めるのでなく、万事が自然に円く「治まる」のだと! まるで狂人が地球の三角に「なる」ことを信じているように!
「おれは万事円く治まって、あとはまっすぐいくだろうと、固く信じていたんだ」とジョブリング君は、ややあいまいな表現を使っていうが、たぶん、意味もあいまいなのだろう。「ところが、期待を裏切られた。見込みどおりにいかなかったんだ。そこで、債権者たちが事務所へ来て口論する、事務所と交渉のある人たちがけちっ臭い借金のことで苦情をいう、という始末で、もちろん、事務所とは縁が切れた。そればかりじゃない。新しい勤め口とも一切縁切りさ。だって、明日にでも身元を照会されて見ろ、この話が出て、おれは窮地におちいっちゃうもの。そうなると、どうしたらいいんだ? 姿を隠して、野菜畠の近くでほそぼそと暮していたのさ。しかし、一文無しで、ほそぼそ暮したって、しようがないじゃないか? ぜいたく暮しをしたほうがよさそうだ」
「そのほうがいい」とスモールウィード君は考える。
「そうとも。それが上流社会のやりかたさ、それにおれは、上流社会と、ほおひげには目がなかったんだ。こんなこと、だれに知られたって気にしないがね。この二つには、おれはまったく目がないんだ――ちきしょう、まったくすばらしいからなあ。それでだ!」とジョブリング君は、いどみかかるように水割りラムを一口やってから、話をつづけ、「君に聞くがね、軍隊を志願するよりほかに[#「よりほかに」に傍点]、どんな手があるっていうんだ?」
ガッピー君は、どんな手があるか、自分の意見を述べようと思って、前よりも身を入れて話合いを始める。彼の態度は、いかにも、まだ恋の悩み以外には、自分の身を賭けるような人生経験をしたことのない人らしく、もったいぶって、おごそかである。
「ジョブリング」とガッピー君がいう。「僕と、僕たちの共通の友人スモールウィードとは――」
(スモールウィード君は慎み深く、「お二人のために!」といって、杯をあげる。)
「これまで一度ならず、この問題について少々話し合って来たんだ、それは君があの時――」
「首になって以来だ、といえよ!」とジョブリング君は、にがにがしげに大声をあげる。「そういえよ、ガッピー君。そういうつもりなんだろう」
「い、いいえ! リンカン法曹学院を去って以来です」とスモールウィード君が婉曲な発言をする。
「君がリンカン法曹学院を去って以来だよ、ジョブリング。そして君に提案しようと最近考えた計画を、僕らの共通の友人スモールウィードに話して来た。君は法律文房具商のスナグズビーを知っているだろう?」
「そういう文房具商がいることは知ってる。しかし、やつはうちの事務所には出入りしていなかったから、知り合いというわけじゃないよ」
「スナグズビーはうちの事務所に出入りしているし[#「いるし」に傍点]、僕は知り合いなんだ[#「なんだ」に傍点]」とガッピー君がいい返す。「ところで、君! 最近、偶然の事情で、僕は個人的にスナグズビーのうちを訪ねたので、前よりも親しい知り合いになった。この事情は、弁論の中で申し述べる必要はない。それはある問題に関連があるのかも知れない――あるいは、ないのかも知れない、その、ある問題というのは、僕の生活に暗い影を投げたのかも知れない――あるいは、そうでなかったかも知れない」
これはガッピー君の|傍《はた》迷惑なくせで、彼はその問題に親友たちを、得々としていかにもあわれっぽく誘いこんでおいて、相手がそれに触れるやいなや、たちまち、人間の胸の中には心の琴線というものがあるといって、例の至って手きびしい調子で攻撃を加えて来るので、ジョブリング君もスモールウィード君も、沈黙を守って落し穴をさける。
「そういったことがあるのかも知れないし」とガッピー君はまたくり返し、「ないのかも知れない。しかし、これは事件の重要な部分じゃない。必要なことだけいえば、スナグズビー夫妻は僕のために大いに尽したがっているんだが、スナグズビーは、いそがしい時には、代書の仕事をかなり下請けに出すんだ。タルキングホーンのところの代書を全部引受けているし、そのほかにも、ずいぶん仕事がある。その点については、僕らの共通の友人のスモールウィードが証人に立ったら、きっと証明してくれるだろう?」
スモールウィード君はうなずくが、宣誓して証人席に立ちたくてたまらないらしい。
「ところで、陪審員のみなさん」とガッピー君はいう。「――いや、ところで、ジョブリング――君は、こんな話じゃ、たいして暮しの見込みも立たないっていうかも知れない。もちろんさ。しかし、なんにもしないよりましだし、軍隊を志願するよりましだよ。君には時間が必要なんだ。最近の、ああいう事件のほとぼりをさますには、時間をかけなきゃいけない。スナグズビーの店の代書をするより、もっとずっと条件の悪い方法で、ここのところを切り抜けなければならないかも知れないぜ」
ジョブリング君が話をさえぎろうとすると、利口者のスモールウィードは|空《から》ぜきをして、こういう。「えへん! シェイクスピア!」
「この話には二つの部門がある、ジョブリング」とガッピー君はいう。「今いったのが第一部門。今度は第二部門だ。君は大法官府横町の向う側に住んでいるクルック大法官を知っているね。さあ、どうだ、ジョブリング」とガッピー君は相手の発言を促す反対尋問調で、「大法官府横町の向う側に住んでいるクルック大法官を、君は知っているだろう?」
「顔は知ってるよ」
「顔は知っているんだね。大いにけっこう。それから、フライトばあさんを知っているね?」
「あのばあさんなら、だれだって知ってるさ」
「あのばあさんなら、だれだって知っている。大いに[#「大いに」に傍点]けっこう。ところで、そのフライトに、毎週、ある仕送りの金を支払うのが、僕の最近の職務の一つで、あらかじめ、ばあさんの毎週の部屋代の分だけ差引いて、それを、いつもばあさんの目の前で、直接クルックに払っているのだ(そうするようにという指図を受けているから)。そのためにクルックと交渉ができて、僕はこの男の家や習慣を知るようになった。クルックのうちには、貸間が一つある。そこへいけば、君は自分の好きな名前を名乗って、とても安い部屋代で暮すことができる、まるで百マイルも遠いところへいったみたいに落着いてだ。クルックはいろいろ尋ねたりしないし、もし君にその気があるなら、僕からひとこといえば、君に貸してくれるだろう――まだ話がきまっていなければね。それから、もう一つ話すことがある、ジョブリング」といってガッピー君は急に声をひそめ、ふたたび打ち解けた態度になり、「あれはただのじいさんじゃないぜ――いつも書類のほごを引っかきまわしては、なにか探し、ひとりで読み書きの勉強をしているんだ、ちっとも上達しないようだがね。まったく、ただのじいさんじゃないよ。ちょっと訪ねてみる値打ちがありそうだね」
「まさか君はあの男が――」とジョブリング君がいいかける。
「つまりね」とガッピー君は、いかにも彼にふさわしく謙遜に、肩をすくめて答える。「僕には[#「僕には」に傍点]あの男の正体がつかめないといってるんだよ。今までに、僕がそういうのを聞いたことがあるかないか、それは僕らの共通の友人スモールウィード君の証言に訴えるよ」
スモールウィード君は「五、六回!」と簡潔に証言する。
「僕はこれまで同業仲間や世間を、いくらか見て来て、トニー、全然相手の正体がつかめないなんていうことは、めったにないんだ。でも、クルックみたいに、ずるくて、こすくて、秘密の多いじいさんには、(もっとも、しらふでいることなんか、きっと一度もないだろうが)出会ったことがない。ねえ、ずいぶん年を取っているに相違ないけれども、たった一人で暮している、すごい金持ちだといううわさがある、密輸業者なのか、|故買《けいずかい》なのか、それとも無免許の質屋か、金貸しか――どれも本当らしいと、僕はいろんな場合に思った――それを調べてみる|甲斐《かい》がありそうだ。どうして君がやってみないのか、僕には分らないね、ほかの条件は全部そろっているのに」
ジョブリング君と、ガッピー君と、スモールウィード君は、みなテーブルにひじをのせ、ほお|杖《づえ》をついて、天井を眺める。しばらくして一同は一口飲み、おもむろにそり返り、両手をポケットに入れ、たがいに顔を見合わせる。
「もし僕にむかしの元気があったらねえ、トニー!」とガッピー君はため息をつきながら、「しかし、人間の胸の中には、心の琴線というものがあって――」
そのあとのわびしい気持は水割りラムに託して、ガッピー君は最後に、この探険をトニー・ジョブリングに譲り、休廷期で景気が悪いあいだは、「三、四ポンドくらい、いや、五ポンドだっていい」いつでも用立てると彼に告げる。
「だって、ウィリアム・ガッピーが友だちを見捨てたなんて」と彼は力をこめていいそえる。「絶対いわせないよ!」
ガッピー君の提案の後半の部分は、じつに適切な発言なので、ジョブリング君は感激していう。「ガッピー、ねえ、手を出してくれよ!」ガッピー君は手をさし出して「ジョブリング、おい、よし来た!」という。ジョブリング君は「ガッピー、おれたちはもう長年の親友だなあ!」と答える。ガッピー君は、「ジョブリング、そうとも」と応じる。
そこで二人が握手すると、ジョブリング君は感動して、こうつけ加える、「ありがとう、ガッピー、よく分らないけど、とにかく、古いよしみで、もう一杯やってみよう[#「みよう」に傍点]」
「今までクルックのところの部屋を借りていた人は、そこで死んだんだよ」とガッピー君はさりげなく述べる。
「死因審問の評決では、事故死だった。そんなこと、君は気にしないだろうね?」
「うん、気にしないよ、でも、どっかほかのところで死ねばよかったのに。わざわざ、おれの[#「おれの」に傍点]部屋で死ななきゃならないなんて、まったく、おかしな話だ!」ジョブリング君はこの無礼な振舞いにすっかり腹を立て、何度も同じ話題に戻り、「死ぬところなんて、いくらでもあるだろうになあ!」とか、「もしおれがそいつの[#「そいつの」に傍点]部屋で死んだら、たぶん、そいつだって面白くなかっただろうよ!」という。
しかし、もう約束はできたも同然なので、ガッピー君は、もしクルックが家にいるなら、すぐさま交渉を終えようと考え、腹心のスモールウィードを派遣して、彼の在否を確かめようと提案する。ジョブリング君が賛成するので、スモールウィードは例の背の高いシルクハットを頭にいただき、ガッピー式の足どりで食堂を出る。まもなく彼は戻って来て、クルックは在宅で、店の入口からのぞくと、奥の椅子に腰かけたまま、「まるで一時みたいに」眠っていたと告げる。
「それじゃあ僕が勘定をするから」とガッピー君がいう。「会いにいこう。スモール、いくらになる?」
スモールウィード君は、まつ毛をぐいと上げて給仕女を呼びつけ、すぐ次のように答える。「仔牛肉のハム巻き四人前が三シル、それにポテト四人前で三シル四ペンス、それに夏キャベツ一人前で三シル六ペンス、それにマロー・プディング三人前で四シル六ペンス、それにパン六人前で五シル、それにチェシア・チーズ三人前で五シル三ペンス、それにハーフ・アンド・ハーフ四人前で六シル三ペンス、それに水割りラム四人前で八シル三ペンス、それにポリーのチップ三人前で八シル六ペンス。半ポンド金貨で八シル六ペンスだと、ポリー、おつりが十八ペンス(12)!」
この莫大な金額にいささかも動ぜず、スモールウィードは冷静に軽い会釈をして、ガッピー君たちをゆかせ、自分はあとに残って、機会を見てはポリーにちょいちょい賛美の目を向けながら、朝刊を読んでいるが、シルクハットをぬいだ彼のからだにくらべて、新聞のほうがひどく大きいので、『タイムズ』を持ち上げ、紙面に目を走らせていると、ちょうどベッドにはいって、ふとんの中へ姿を消してしまったように見える。
ガッピー君とジョブリング君とが、くず屋へいってみると、クルックは依然として「まるで一時みたいに」眠っている、つまり、あごを胸に付けたまま、大いびきをかいて、外部の物音はおろか、体を静かにゆすぶっても、いっこうに感じる気配もなく、眠っているのである。そばのテーブルの上には、あい変らずのくずにまじって、|空《から》になったジンのびんが一本、グラスが一つ、立っている。濁った空気にすっかり酒がしみこんでいるので、|棚《たな》の上の猫が来客を見ながら、あけたり閉じたり、かすかに光らせている緑色の目までが、酔っているらしい。
「ねえ、起きたまえ!」といってガッピー君は、くつろぎ切った老主人の体を、もう一度ゆすぶる。「クルックさん! もしもし!」
しかし、アルコールの熱気がくすぶっている古着の包みを起すほうが、むしろやさしい仕事のようである。「酔いと|眠気《ねむけ》で、こんなに正体をなくしてる人間を、君、見たことがあるか?」とガッピー君がいう。
「ふだん、こんな眠りかたをしているんなら」とジョブリングは、ややおどろいて答える。「どうやら、近いうちに長い眠りにつきそうだな」
「この男のは、いつも、うたた寝というより、卒中みたいなんだ」といってガッピー君がまたゆすぶる。「もしもし、閣下! やれやれ、これじゃ泥棒に五十ぺんやられても、気がつかないぞ! 目をあけたまえ!」
大さわぎの末、彼は目を開くが、来客もなにも見える様子はない。それから脚を組み、両手を組み合わせ、かわき切ったくちびるを数回閉じたり開いたりするけれども、じっさいには、あい変らず無感覚らしい。
「とにかく、生きているね」とガッピー君がいう。「お元気ですか、大法官閣下? ちょっとした用事で、友だちをつれて来ましたよ」
老主人は依然として椅子に腰かけたまま、かわいたくちびるを鳴らして何度も舌打ちするが、少しも意識がない。数分すると、立ち上ろうとする。二人が手を貸してやると、よろめいて壁によりかかり、二人をじっと見つめる。
「今日は、クルックさん」とガッピー君はやや当惑しながらいう。「今日は。ご機嫌うるわしいようですな、クルックさん。お達者なんでしょうね?」
老主人は、ガッピー君をねらって、それとも別になにもねらわなかったのか、なんということもなく打ってかかる|拍子《ひようし》に、力なく一回転して、顔を壁にもたせかける。そして一、二分のあいだ、壁によりかかったまま、ぐったりなっていてから、今度はよろめきながら店の中を歩いて、表の入口までゆく。外の空気のせいか、小路の物音のせいか、時間が経ったせいか、それともその全部が作用したせいか、彼は意識をとり戻す。そして頭にかぶった毛皮の帽子を直し、二人の客を鋭い目で眺めながら、かなりしっかりした足どりで戻って来る。
「今日は、旦那がた、わしはうたた寝をしていたんでさあ。ねえ! ときどき、わしはどうも目が覚めなくてね」
「まったく、相当なもんだねえ」とガッピー君が応答する。
「なに? 旦那はわしを起そうとしてたんですね?」と疑い深いクルックはいう。
「ほんのちょっぴりね」とガッピー君が弁明する。
老主人はジンの空びんに目を留めると、とり上げて調べ、ゆっくりと傾けて、さかさにする。
「やっ、こりゃどうだ!」と彼は、物語に出て来る、いたずら好きな小妖精のような叫び声をあげる。「だれかがここへ来て、勝手に飲みやがったぞ!」
「僕たちが来た時も空でしたよ、ほんとに」とガッピー君がいう。「失礼ながら、僕におかわりの分を買わせてもらいましょうか?」
「ええ、いいですとも!」とクルックは大よろこびで叫ぶ。「いいですとも! かまいませんよ! 隣りで――『日輪亭』で――詰めてもらって下さい――大法官閣下ご愛用の十四ペンスのやつでさあ。なあに、店じゃこのわし[#「わし」に傍点]を知ってまさあ!」
老主人がしきりに空びんを押しつけるので、ガッピー君はジョブリング君に合図をしながら、頼みを引受け、表へかけ出し、びんに一杯詰めてもらうと、またかけ戻って来る。老主人は、かわいい孫を迎えるように、びんを抱きとり、やさしくなでる。
「でも、こりゃどうだ!」と彼は一口あじわってから、目を細めて低い声でいう。「こいつは大法官閣下ご愛用の十四ペンスのやつじゃねえ。十八ペンスのやつだ!」
「そのほうが気に入るかと思ったんでね」とガッピー君がいう。
「旦那は貴族さんですね」とクルックはもう一口あじわって答える――すると彼の熱い息がまるで焔のように、二人のほうへ吹いて来る。「華族さんですね」
この好機を利用して、ガッピー君はジョブリングを、ウィーヴルという即席の名前を使って紹介し、この訪問の目的を述べる。クルックはジンのびんを小わきにかかえながら(彼は決して一定の限度以上に、泥酔することも、しらふでいることもない)推薦された下宿人を、じっくり時間をかけて検分し、満足したらしい様子である。「部屋を見なさるでしょうな、お若いの? うん! いい部屋ですぜ! しっくいを塗ったし、水せっけんとソーダで洗ったからね。ねえ! 間代の二倍の値打ちはありますぜ、おまけに、話相手がほしけりゃ、わしがいるし、ねずみを追っぱらってくれるすてきな猫がいるしね」
こんなふうに部屋を推賞してから、老主人は二人を階上につれてゆくが、なるほど部屋は以前より清潔になっており、それに店にある無尽蔵の古道具の中から掘り出した家具も、いくつか入れてある。交渉は簡単にまとまり――というのは、ガッピー君が、ケンジ・アンド・カーボイ事務所や、ジャーンディス対ジャーンディス事件や、そのほかいろいろ、職業|柄《がら》考慮に値する、すばらしい資格とつながりがあるので、大法官閣下も彼にはあこぎなまねができないのである――ウィーヴル君は翌日入居することに決まる。そこでウィーヴル君とガッピー君とは、カーシター通りクック小路へ出かけ、ウィーヴル君がスナグズビー氏に紹介され、(それよりもっと重要なことには)スナグズビー氏の細君の支援と尽力とが確保される。そこで二人は、奇才スモールウィードがわざわざシルクハットをかぶって、事務所で待ちもうけているところへいって、経過を報告して別れるが、ガッピー君は、今日のささやかな歓楽の結びに、芝居をおごりたいところだが、人間の胸の中には、芝居見物の張り合いをなくしてしまうような、心の琴線というものがあるので、と一言釈明する。
明くる日のたそがれどきに、ウィーヴル君は、厄介になるほどの荷物などさらにない、つつましい姿を、クルックの店先にあらわして、新しい下宿に落着くが、部屋のよろい戸の二つの目は、眠りについた彼を、おどろきに耐えないように、じっと凝視する。その翌日、ウィーヴル君は能なしながら器用な若者なので、フライトばあさんから針と糸、主人から金づちを借りて、仕事にとりかかり、窓のカーテンらしきものをこしらえ、棚らしきものを間に合わせにつくり、難破船の水夫が急場をしのぐみたいに、茶わん二つ、牛乳わかし、よせ集めの陶器類を安物の小釘にかける。
しかし、数少ない所持品の中で、ウィーヴル君が(ほおひげをはやしたことのある男性の胸にしか湧かない愛着心を彼が寄せている例のふわふわしたほおひげに次いで)もっとも珍重しているのは、じつに国民的なあの著作『アルビヨンの女神、別名、イギリス美女名花集(13)』からえりすぐった銅版画のコレクションで、この『イギリス美女名花集』というのは、芸術と資本の結合が生み出しうる、ありとあらゆる作り笑いを浮べた、貴族および上流社会の貴婦人たちの姿を描いた画集なのである。こういう目もあやな肖像画は、ウィーヴル君が野菜畠のあいだに閑居していた時分には、もったいない話ながら、帽子箱の中に閉じこめられていたが、今やそれをとり出して、居間に飾りつける。するとイギリス美女の名花たちはありとあらゆる仮装衣裳をよそおい、ありとあらゆる楽器を演奏し、ありとあらゆる犬を愛撫し、ありとあらゆる風景を流し目に見、ありとあらゆる植木ばちと手すりによりかかっているので、この陳列の結果たるや、じつに印象深いものがある。
しかし、トニー・ジョブリングがそうであったと同じように、ウィーヴル君も上流社会にまったく目がない。夕方に「日輪亭」から昨日の新聞を借りて、上流社会の空を縦横に飛びかう、ひときわ光り輝く流星たちの記事を読むと、彼はえもいわれぬ慰めを受ける。ひときわ光り輝くどの仲間のどの人が、昨日この空に加わるという、ひときわ光り輝く偉業を遂げたのかを知ったり、あるいは明日この空を去るという、それに劣らずひときわ光り輝く偉業をはたすのだろうかと考えたりすると、彼は体がぞくぞくするような喜びを覚える。イギリス美女の名花集たちがなにをしているのか、なにをしようとしているのか、どの名花たちの結婚が問題になっているのか、どの名花たちのうわさが広まっているのかを告げられることは、人類のうちのもっとも輝かしい人々の運命を親しく知ることである。ウィーヴル君はこういう消息から、それに関係した名花たちの肖像のところに戻ると、本人たちを親しく知り、親しく知ってもらったような気がして来る。
その他の点に関しては、ウィーヴル君は、前に述べたような、器用なやりくりと工夫に富み、大工仕事のみか、料理も掃除も自分ででき、小路に夕闇が落ちると社交性を発揮する、おとなしい下宿人である。ガッピー君や、彼をまねた、シルクハットの|ちいさな《スモール》知恵者が訪ねて来ない時には、ウィーヴル君は退屈な自分の部屋――ここにある、インクの雨が飛び散った荒野のような、松板づくりのテーブルを、彼は受けついでいる――から出て来て、クルックに話しかけたり、話相手を欲しがっている者と(この小路の人たちが人をほめる時の言葉でいえば)「とてもなれなれしく」する。それで、この小路の女親分株のパイパーのおかみさんは、パーキンズのおかみさんに向って、二つのことをいわずにはいられない。すなわち第一には、もしうちのジョニーがほおひげをはやすんなら、あの若い人のとそっくり同じようなのがいいねえ、であり、第二には、ねえ、あんた、よく聞いてよ、パーキンズのおかみさん、ほんとにおどろいちゃいけないよ。もしかすると、そのうちにあの若い人がクルックじいさんのお金をもらうことになるかも知れないよ! である。
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第二十一章 スモールウィード家の人々
小妖精スモールウィードは、名前をバーソロミューといい、家庭ではバートと呼ばれている。法律事務所とそれに関係した臨時の用事をすませたあと、残り少ない時間を過すのは、かなり、むさくるしくて住み心地の悪い区域である。もっとも、近くの高台の一つには「|嬉しが丘《マウント・プレザント》」という名前が付いているが、彼の|住居《すまい》はせまい、ちいさな通りにあって、いつもここは人通りが少なく、日が当らず、わびしく、まるで墓のように四方を煉瓦でぴったり囲まれているけれども、古い森林樹の切株が一つ、いまだに残っていて、その趣はスモールウィードの若々しさに劣らぬほど、みずみずしく、自然のままである。
ここ数代スモールウィード家には、子供というものは一人しかいなかった。ちいさなじいさん、ばあさんは何人もいたけれども、子供となると、今でも生きている、スモールウィード君の祖母がもうろくして、(その時初めて)子供っぽくなるまでは、一人もいなかった。観察力、記憶力、理解力、関心がいっさいなくなり、煖炉にあたっていると、きまって眠りこんでは中に落ちる性癖といったような、この祖母の小児らしい魅力は、たしかにスモールウィード一家を明るくして来た。
スモールウィード君の祖父も、そういう仲間の一人である。脚はまったく自由がきかぬし、腕もほぼ同様であるが、頭はだめになっていない。以前と同じように、算術の加減乗除と、わずかながらいくつかの厳として動かしがたい事実を、ちゃんと覚えている。想像力、敬虔、驚異の念等の骨相学で扱ういろいろな性質も、以前にくらべて少しも衰えていない。スモールウィード君の祖父が頭の中に貯えたものはすべて、いわば、終始一貫幼虫のままで、これまでちょう[#「ちょう」に傍点]になったものは一匹もいないのである。
「嬉しが丘」の近くに住むこの嬉しい祖父の父親は、堅い皮をした、二本足の、金をつかまえるくもで、うかつなはえどもをとらえるために巣を張り、穴のなかにひそんで、彼らが網にかかるのを待っていた。この年老いた異教徒の神は、その名を「複利」といった。彼はこの神のために生き、この神と結婚し、この神がもとで死んだ。損害を全部相手に負わせるように仕組んだ、ちょっとしたまともな事業に手を出して、大損害を受けたために、彼は大いに心を痛めて――いや、生きてゆくのに必要欠くべからざるところを痛めたのである。従って、心を痛めたはずがなかった――生涯を終えた。彼はりっぱな人格の持主ではなかったし、子供のころに慈善学校で、あの古代の民族、アモリ人(1)とヒッタイト人のことを、問答式にすっかり教えこまれていたので、教育を誤った実例として、しばしば引き合いに出された男である。
彼の気質は息子にはっきりとあらわれた、というのは父親はいつも息子に、早く世間へ「乗り出す」ように説いて、十二歳の時に息子を、抜け目のない金融ブローカーの事務所員にしたからであった。息子は頭が悪くて心配性であったが、この事務所できたえられて、親譲りの才能を伸ばし、次第に出世して手形仲買人になった。父親と同じように、早く世間へ乗り出し、おそく結婚して、彼も頭が悪くて心配性の息子をもうけたが、今度はこの息子が早く世間へ乗り出し、おそく結婚して、バーソロミューとジューディスという|双生児《ふたご》の兄妹の父親になったのである。こういう家系が徐々に発展していったあいだじゅう、スモールウィード家は、いつも早く世間へ乗り出し、おそく結婚することを|旨《むね》として、一家の現実的な特徴を強め、あらゆる娯楽を捨て去り、あらゆる物語本、おとぎ話、小説、寓話を退け、あらゆる|軽佻浮薄《けいちようふはく》な行為を一掃してしまった。その結果、よろこばしいことに、この一家には子供というものが生れず、生れたのは男も女も、ちいさいながら一人前の大人で、どれもみな、心配事をかかえた年寄りの猿に似ているのであった。
今、通りの地面より数フィートも低い、ちいさな暗い居間では――ここは無趣味で、粗野な、すさまじい居間で、置き物といっても、ひどく粗悪なラシャのテーブルかけと、ひどく堅い鉄板製の茶盆しかなく、装飾から見れば、スモールウィード家の祖父の気質を、寓意的にかなりよく表現しているといえる――老いさらばえたスモールウィード夫婦が、煖炉の両側に一つずつ置いた、黒い|馬巣織《ばすお》りを張った門番用の椅子に、それぞれ腰かけて、のどかな時を過している。ストーヴの上には、やかんや、なべをかける五徳が二つ乗せてあり、その世話をするのがスモールウィード老人の平素の仕事で、煖炉の棚の上から二人のあいだに突き出ている、真鍮製の絞首台のような焼き肉ぐしが活動している時には、これも彼が監督する。スモールウィード老人が腰かけている下のほうには、その椅子にとり付けた引出しが彼のかぼそい脚に守られているが、その中には信じられないほどの大金が、収められているという評判である。彼のかたわらには予備のクッションが一つあり、これをいつも用意しているのは、彼の老後の老伴侶が金のことを――この話に彼は特別敏感なのである――口に出すたびに、投げつけるためなのである。
「それでバートはどこへいったんだ?」と、スモールウィード老人がバートと双生児のジューディ(2)に尋ねる。
「まだ帰ってないわよ」とジューディがいう。
「もうあれのお茶の時間だろう、そうじゃないのか?」
「まだよ」
「それじゃ、まだどのくらいあるっていうんだ?」
「十分よ」
「ええ?」
「十分よ」――(とジューディが大声で)
「ほう!」とスモールウィード老人がいう、「十分か」
スモールウィード老人の妻は口の中でぶつぶついいながら、五徳に向って頭をふっていたが、数字の話が出たのを耳にすると、それを金に結びつけて、羽の抜け落ちた、いやらしい年寄りおうむみたいに、金切り声をあげる。「十ポンド札十枚!」
スモールウィード老人はすぐさまクッションを妻に投げつける。
「ちきしょう、静かにしろ!」とこの|好々爺《こうこうや》はいう。
この|投擲《とうてき》は二重の作用をする。まずスモールウィード老人の細君は、クッションを投げつけられて二つに折れ曲った頭を椅子の片側にぶつけるので、孫娘に助け起された時には、帽子が見るもぶざまなかっこうになっている。そればかりではない、スモールウィード老人も投擲の反動で、こわれたあやつり人形のように、自分の[#「自分の」に傍点]椅子の背にはね返る。こういう場合に、この好々爺は、一番上に黒いずきんをのせた洗濯物の袋同然になってしまい、生きているらしい様子はあまり見えないが、やがて孫娘の手で二つの荒療治がおこなわれる。ジューディはまるで大きなびんでも振るように、彼の体をゆすぶり、大きな長まくらでも扱うように、つついたり、たたいたりする。こうして彼のこわれた首はもと通りになったらしく、彼とその人生のたそがれの伴侶とは、椅子にすわり直して向かい合う、さながら死神によって配置されたまま、長らく忘れられている一組の歩哨のように。 双生児の妹ジューディは、この夫婦の相手としてまことにふさわしい存在である。彼女とバート・スモールウィード君とをこね合わせて、一人にしても、とうてい普通の大きさの子供になるまいと思われるほどちいさいところは、たしかにスモールウィード君の妹であるし、また先ほど述べた、家代々の、猿に似た特徴を、じつにみごとに示しているから、ぴかぴか光る飾りをちりばめた衣裳と帽子をつければ、手回し風琴の上を歩き回らせても、変ったしろものだと評判されることはあるまい。しかし、今日のところは、茶色い生地の地味な着換えの上衣を身につけている。
ジューディはいまだかつて、人形を持ったことも、シンデレラの話を聞いたことも、遊戯をしたこともなかった。十ぐらいのころに一、二度、子供たちと付き合ったことがあるけれども、子供たちはジューディと仲よしになれず、ジューディも彼らと仲よしになれなかった。ジューディはみなと種類のちがう動物とみえて、双方が本能的に反感をいだいたのである。一体ジューディが笑いというものを知っているかどうかきわめて疑わしい。これまで彼女は人が笑うのをめったに見たことがないから、十中八九までは知らないだろう。若々しい笑いなどというものは、きっと見当もつくまい。もし試しに笑ってみたとしたら、歯が邪魔になると気づくくらいが落ちだろう。なぜなら、これまでほかの表情を浮べる時、いつも無意識のうちに老人を手本にして来たのと同じように、笑う時も、みにくい老人をまねることだろうから。これがジューディという子なのである。
そして彼女と双生児の兄も、|独楽《こま》を回すことなど、どうしてもできなかった。彼は星に住んでいる人間を知らぬと同じように、大男を退治したジャック(3)や、船乗りシンドバッドを知らない。|こおろぎ《クリケツト》や、かえるに変身することができないと同じように、かえる飛びやクリケット(4)をすることもできないだろう。しかし、妹よりもずっと運がよいので、彼の無味乾燥な狭い世界にも、ガッピー君が期待していると同じような、広い地帯へ進出できる機会が開けて来た。それで、彼はこのすばらしい魅力に富んだ人物を賛美し、模倣しているのである。
ジューディは、がらんがらんとドラのような音を立てながら、鉄板のお盆をテーブルの上に出し、茶わんと受け皿をならべる。パンを鉄のバスケットに入れて出し、|白鑞《しろめ》製のちいさな皿にバターを(たいした分量ではないが)入れて出す。祖父はお茶の配りかたを、じっと看視して、あの女の子はどこにいる? とジューディに尋ねる。
「チャーリーのことね?」とジューディがいう。
「ええ?」と祖父がいう。
「チャーリーのことね?」
この名前が祖母の心のバネに触れるので、彼女はいつものとおり、五徳に向って独りほくそ笑みながら、大声をあげる――「水のところだよ! チャーリーは水のところだ、チャーリーは水のところだ、水のところからチャーリーのところへ、チャーリーは水のところだ、水のところからチャーリーのところへ!」そういって、すっかり夢中になる。スモールウィード老人はクッションのほうに目をくれるが、今しがたの奮闘で、まだ体が充分回復していない。
「ははあ!」叫び声が治まると祖父がいう――「そういう名前なら、その子だ。あいつはお茶の時にかなり食うな。食わせてやるより、日当にくり入れたほうが得だろう」
ジューディは兄と同じ流し目を使いながら、かぶりを振って、声を立てずに、「だめ」というかっこうに口をすぼめる。
「だめ? なぜだめだ?」
「そうしたら、あの子は六ペンスくれっていうけど、もっと安くすませられるんだもの」
「ほんとか?」
ジューディは返事のかわりに、こくりとひどく意味深長にうなずいてから、バターを、むだにしないように万全の注意を払って、パンのかたまりにこすりつけては、薄く切りながら、「ねえ、チャーリーったら、どこにいるのよ?」と声をかける。呼び声におとなしく応じて、粗末なエプロンに大きな大人の帽子をつけた、小柄の少女がせっけんの|泡《あわ》だらけの手をして、片方の手に洗たくブラッシを持ったまま、姿をあらわして、おじぎをする。
「おまえ、今なにをしてんの?」とジューディは、まるで口やかまし屋の老婆みたいに、がみがみチャーリーに食ってかかる。
「二階の裏の部屋を掃除しているんです」とチャーリーが答える。
「いいかい、ぐずぐずしないで、ちゃんとやるんだよ。なまけようたって、あたしにゃ通用しないよ。さっさとおやり! 早くおいきったら!」とジューディは叫んで、どすんと足で床をふみ鳴らす。「おまえたち女の子は、役にも立たないくせに、やっかいばかりかけるよ、まったく」
この厳格な主婦がふたたび仕事に戻り、バターをこすりつけてはパンを切っていると、窓から家の中をのぞきこむ兄の影が彼女の上に落ちる。ナイフとパンのかたまりを手に持ったまま、彼女は通りに面したドアをあけてやる。
「ああ、ああ、バート!」スモールウィード老人がいう。「帰って来たのか、ええ?」
「帰って来たよ」とバートがいう。
「また、あの友だちといっしょだったのか、バート」
スモールがうなずく。
「昼飯をおごらせて来たのか、バート?」
スモールはまたうなずく。
「よし。できるだけおごらせて、友だちのばかさ加減を自分の|戒《いまし》めにするんだ。それがそういう友だちの取りえだ。たった一つの取りえというもんだ」とこの年老いた賢人はいう。
孫のほうは、この有益な忠言をうやうやしく聞き入れることもせず、ほんの軽く目くばせをして、うなずいたまま、お茶のテーブルに向って腰をおろす。それから、四つの年老いた顔が、まるでものすごい智天使(5)の一団のように、茶わんの上でゆれ動き、祖母は絶えず、頭をぐいと引いて五徳にべちゃくちゃ話しかけ、祖父は下剤の大びんみたいに、何度も体をゆすぶってもらう。
「そうとも、そうとも」と好々爺の祖父は、また思慮深い教訓に戻って、「おまえのおやじも、おれと同じような忠告をしただろうな、バート。おまえは一度もおやじの顔を見たことがない。それだけに、余計残念だ。あれは本当におれのせがれだった」本当に自分のせがれだから、特別人好きのする顔をしていたという意味なのかどうかは、よく分らない。
「あれは本当におれのせがれだった」とスモールウィード老人は、ひざの上でバターつきのパンを二つに折りながら、くり返す。「りっぱな会計士で、十五年前に死んだ」
スモールウィード老人の細君が、例のとおり本能的に、いきなり叫び声をあげる。「千五百ポンド。千五百ポンド、黒い箱の中にある、千五百ポンド、錠をおろしてしまいこんである、千五百ポンド、貯めてかくしてある!」老人はバターつきのパンをわきに置くやいなや、クッションを細君に投げつけて、横ざまに押し倒し、自分も力つきて、うしろへ投げ出される。細君にこういう訓戒を加えたあとの彼の姿は、じつに印象深いものがあるが、かならずしも好感を与えない。なぜなら、まず第一に、この奮闘でたいがい黒いずきんが片方の目の上にかぶさって、小妖精みたいにしゃれたかっこうをしているし、第二には、細君に向ってしきりに猛烈な悪態をつぶやくし、第三に、そのすさまじい|形相《ぎようそう》と力ない姿態とを見くらべると、この老人は、もしできれば、ひどく兇悪なことをしようと考えている有毒な老不平家だと思われるからである。しかしながら、こういうことはすべてスモールウィード家においては日常茶飯事なので、なんの感銘も与えない。老人はただ体をゆすぶられて、羽まくらみたいに形を直してもらい、クッションは彼のわきの、ふだんの場所に戻され、細君は、たぶん、帽子をかぶり直してもらって、あるいはそのままで、ふたたび椅子に起き直って、ボーリングのピンのように倒されるのを待っている。
今度の場合は、しばらく経ってから、ようやく老人は訓話をつづけられるくらい冷静になるが、その時でもなお話の中に教訓的な悪罵をまぜながら、ストーヴ上の五徳以外のものとはいっさい話をしない、もうろくした愛妻をののしる。例えばこんな具合である。
「バート、おまえのおやじは、もしもっと長生きをしたら、相当な金持ちになったことだろうがな――このおしゃべり|阿魔《あま》め!――しかし、長年かかって自分が|礎《いしずえ》を築いて家名を復興し始めた、ちょうどその時に――このやかましい、あばずれのかささぎ、からす、おうむめ、なにをいってるんだ!――おまえのおやじは病気にかかって、熱が低くなって死んじまった。いつも質素な、やせた男で、商売上の苦労が絶えなかったからな――おまえなんかには、クッションじゃなくて、猫でも投げつけてやりたい、そんなばかなまねをしやがると、本当に猫を投げつけるぞ!――それから、おまえのおふくろは、|木端《こつぱ》みたいにひからびた(6)、分別のある女だったが、おまえとジューディを生んだあとはまったく|火口《ほくち》みたいにやせ衰えてしまった――おまえは豚ばばあだ。豚阿魔だ。豚の頭だ!」
ジューディは、何度も聞かされたこういう文句に興味がないので、おさない日雇い女の夕食をつくるため、茶わんと受け皿の底や、ティー・ポットの底から、さまざまなお茶のしずくをボールに流し集める。また同じようにして、きびしい節約を|旨《むね》とするこの家の人たちが残したかぎりの、パンの皮やら、すり減った靴のかかとみたいな切れっぱしを、全部鉄のパンかごにかき集める。
「しかし、おまえのおやじとおれとは共同で仕事をしていたんだ、バート、そしておれがいなくなれば、この家の財産は全部、おまえとジューディのものになる。おまえたちが早く世間へ乗り出して――ジューディは花の商売を、おまえは法律を――仕事にするようになったのは、二人にとって、めったにないことだ。おまえたちは財産を使いたくないだろう。財産を使わずに暮しを立てて、ふやすんだ。おれがいなくなったら、ジューディは花の商売に戻って、おまえはやっぱり法律をつづけるがいい」
ジューディの風貌から考えると、花よりむしろ、とげを商売にしているように見えるが、かつて彼女は造花作りの技術と手工を習うため、年季奉公にいったことがある。注意深い観察者なら、年老いた祖父が自分のいなくなった場合を見越して、あとあとの話をしているときに、彼女の目にも兄の目にも、いつ祖父がいなくなるのか知りたくてたまらないあせりと、もういなくなるべき時期だと考える憤慨の色が、いくぶんか浮んでいるのに、おそらく気づくだろう。
「さあ、もうみんなすんだのなら」と用意を終えたジューディがいう。「あの子をお茶に呼ぶわよ。台所で一人で飲ませておいたら、いつまで経ったって止めやしないんだから」
それでチャーリーは部屋へ呼びこまれ、ジューディの両眼から出る猛烈な砲火を浴びながら、お茶のボールとドゥルイド僧の遺跡(7)みたいなバターつきパンとが置かれた席につく。この若い子を|目《ま》のあたりに監督している時、ジューディ・スモールウィードは完全に地質学的な年齢に達して、太古のむかしに生れた人のように見える。口実があってもなくても、いやが応でも、この子を組織的に攻撃し急襲する彼女の方法はじつにおどろくべきもので、老練きわまりない専門家においてさえ、めったに見られないような女中操縦術の|極意《ごくい》を発揮する。
「さあ、いつまでよそ見をしているんじゃないよ」とジューディは、ボールの中のお茶の深さを計っていたチャーリーの視線を目にとめると、頭を振り足をふみ鳴らしながら叫ぶ、「食べるものを食べて、また仕事にかかるんだよ」
「はい、お嬢さん」とチャーリーがいう。
「『はい』なんていうんじゃないよ」とスモールウィード嬢はそれに答えて、「あたしは、おまえたち女の子のことをよく知ってるんだから。そんなこといわずに、実行するんだよ、そうしたら初めて信用してあげるよ」
チャーリーは、いいつけに従った証拠に、がぶりと大口にお茶を飲み、ドゥルイド僧の遺跡をひどく散らかすので、スモールウィード嬢は、がつがつするんじゃないよ、と叱りつけ、それが、「おまえたち女の子」のいやらしいところさ、と批評する。彼女の少女観を満足させるのは、チャーリーにとってまだ少し骨が折れそうに見えたが、その時ドアをノックする音が聞える。
「だれが来たか見ておいで、でもドアをあける時に、口をもぐもぐやってるんじゃないよ!」とジューディが大声でいう。
やさしい心づかいを受けてチャーリーが出てゆくと、スモールウィード嬢はその機会を利用して、残ったバターつきパンをかき集め、ボールの残り少ないお茶の中に、茶わんを二つ三つ突っこんで、もうこれで飲み食いは終ったとにおわせる。
「ねえ! だれなの、なんの用なの?」と、がみがみ屋のジューディがいう。
客は「ジョージさん」という人物らしい。それ以上の知らせも、あいさつもなく、ジョージ氏が部屋へはいって来る。
「いやあ!」とジョージ氏がいう。「ここは暑いですなあ。いつも火を入れておられるのですな? なるほど! たぶん、それももっともな話だ」この最後の文句は、スモールウィード老人に会釈しながらの、ひとりごとである。
「ほう! あんたですかい!」と老人が大声をあげる。「元気かね? 元気かね?」
「まあまあですな」とジョージ氏は答えて、椅子に腰かける。「こちらのお嬢さんにはお会いしたことがありますな、どうかよろしく、お嬢さん」
「これがその兄貴に当る孫息子でね。あんたはまだ会ったことがないね。法律をやっていて、うちにはあまりいないんですわい」
「どうかよろしく! 妹さんに似ていますな。よく似ている。じつによく似ている」とジョージ氏は、似ているという言葉にたいそう力をこめていうが、かならずしもほめているわけではない。
「それで、あんた、景気はどうですね、ジョージさん?」とスモールウィード老人は、両脚をゆっくりこすりながら尋ねる。
「大体あい変らずですな。フットボールみたいに手荒くやられております」
ジョージ氏は濃い赤銅色の五十男で、均斉のとれた体に、ととのった顔立ち、髪は黒いちぢれ毛、澄んだ目、広い胸はばをしている。顔に劣らず日に焼けた、筋骨たくましい両手を見れば、今までかなり苦しい生活をして来たことが一目で分る。ふつうの人とちがって、椅子の前のほうに腰かけ、まるで長いあいだの習慣で、洋服か装具をすっかり脱ぎ捨てて置く場所をつくっているように見える。歩く時も、歩調をととのえて|無骨《ぶこつ》に歩くところは、拍車のがちゃがちゃいう重たい音に似合いそうである。今は顔をきれいにそっているけれども、長年、鼻の下に大きな口ひげをはやしていたみたいに、口をこわばらせているし、幅の広い赤銅色の手を開いて、時々、手のひらを上くちびるに当てるしぐさも、同じような印象を与える。大体のところ、ジョージ氏はむかし騎兵だったように思われる。
ジョージ氏はスモールウィード家の人々と、おどろくばかり対照的である。どんな騎兵も、これほど不似合いな家庭に宿営したためしがない。さながら、広刃の刀と、|牡蠣《かき》の殻割りナイフをならべたような感じがする。彼の|恰幅《かつぷく》のよい姿と、彼らのちぢこまった体つき、一方の、ところせまいばかりに豪放な態度と、他方の、せせこましい、いじけた物腰、こちらの朗々たる声と、あちらの貧弱な|声音《こわね》とは、この上もなくきわ立った奇妙な対照を示している。殺風景な居間のまん中に、彼がやや前かがみに腰かけ、両手をももの上に置き、ひじを張っている姿を見ると、もしこのまま長いあいだ、そうしていようものなら、この一家の人々と、四部屋の家、建増した裏手の台所、その他いっさいを呑みこんでしまいそうな気がする。
「あなたは足をもんで、立てるようになろうと思っておられるのですか?」とジョージ氏は部屋の中を見まわしてから、スモールウィード老人に尋ねる。
「なあに、ジョージさん、半ばは癖で、それから――そう――半ばは血のめぐりをよくするためですわい」と老人は答える。
「血の―めぐり―をね!」とジョージ氏がおうむ返しにいいながら、腕組みをすると、彼の体は二倍も大きくなるかと思われる。「しかし、たいしたこともありますまい」
「たしかに、わたしは年をとってる。だが、年には負けないね。わたしのほうがあいつ[#「あいつ」に傍点]より年をとってるけれど」と老人は妻のほうを、あごでしゃくりながら、「あいつのざまを見て下さい!――こんちきしょう、おしゃべりめ!」と急に彼はさきほどの敵意をまた燃やす。
「ふしあわせな人だ!」とジョージ氏は老人の細君のほうに顔を向けていう。「奥さんをしからんで下さい。これをごらんなさい、かわいそうに、帽子は半分ぬげて、かわいそうに、髪はすっかりくしゃくしゃだ。しっかりなさい、奥さん。これでいい。ほら、もうすみました! スモールウィードさん、あなたのおふくろさんのことを思い出して下さい」とジョージ氏は老人の細君に手を貸してやるのがすむと、自分の席へ戻って、「もし奥さんだけで足りないなら」
「たぶん、あんたはずいぶん孝行息子だったんだろうね、ジョージさん?」といって、老人は意地の悪い目つきになる。
ジョージ氏はやや顔色を赤らめながら答える。「とんでもない。ちがいます」
「そいつはおどろいた」
「自分もおどろいております。孝行をすべきだったし、するつもりはあったと思っております。だが、しなかったのです。要するに、自分はひどい親不孝者で、みんなの|面《つら》よごしばかりして来ました」
「おどろいたね!」と老人は大きな声でいう。
「しかし」とジョージ氏は言葉をつづけ、「こんな話は、しないほどいいのです。さあ! 約束を覚えておられますな。二カ月分の利息のたびに、煙草一服ですぞ! (ばかな! 大丈夫です。パイプを持って来させても心配ありません。ほら、これが新しい手形で、これが二カ月分の利息の金です、自分のような商売じゃ、これだけ工面するのに、さんざ苦労しましたぞ)」
ジョージ氏が腰かけたまま腕組みをして、この一家の人々と居間とを呑みこまんばかりにしていると、スモールウィード老人はジューディに支えてもらって、錠をおろした大机の引出しから黒い皮ケースを二つとり出し、その一つに今受けとったばかりの証書をしまいこみ、もう一方の中から同じような別の証書をとり出して、ジョージ氏に渡すと、彼はそれをこよりにしてパイプの火つけを作る。老人は、両方の証書を黒皮のケースから出す前に、眼鏡をかけて証書の文字を一画一画しさいに調べ、ジューディのしゃべる言葉を一語一語少なくとも一度は復唱させ、自分もぶるぶる身を震わせながら、できるかぎりゆっくり話し行動するので、この取引きはたいそう手間どる。取引きがすっかり片づくと、初めて彼は貪欲な目と指を仕事からはなして、ジョージ氏の最後の文句に答える。「パイプを持ってこさせても心配ないって? わたしたちはそれほどごうつくばりじゃありませんわい。ジューディ、パイプと水割りブランデーをすぐジョージさんに用意してあげな」
陽気な双生児の兄妹は、黒い皮ケースに心を奪われた時を除けば、ずっとわき目もふらずに眼前の光景を眺めていたが、大体この客を軽蔑しながらも、二匹の子熊が旅人を親熊に任せるように、客をスモールウィード老人に任せて、二人いっしょに引き下がる。
「それで、あなたは一日中そこにすわっておられるのでしょうな?」とジョージ氏は腕組みをしたままいう。
「そのとおり、そのとおり」と老人がうなずく。
「そして、なにもしないでおられるのですか?」
「煖炉の番をしていますわい――それからやかんの番も、肉を焼く番も――」
「そういう仕事がある時にはですな」とジョージ氏はたいそう意味ありげな調子でいう。
「そのとおり。そういう仕事がある時にはね」
「本を読んだり、読んでもらったりしないのですか?」
老人はいかにもわるがしこそうに得々として頭を振る。「そうですとも。うちじゃ本なんか読んだことはないですよ。一文の得にもならないからね。ばかばかしい。くだらない。つまらない。とんでもないことだ!」
「あなたがた二人はたいしてちがいませんな」と客は老人と老妻とを交互に眺めながら、老人のにぶい耳には聞えないくらい低い声でいい、それから「ねえ!」と声を高める。
「聞えますよ」
「自分が一日でも支払いをとどこおらせたら、たぶん、あなたは自分の財産を競売にしてしまわれるでしょうな?」
「あんた!」とスモールウィード老人は大声をあげ、両手をさし伸べて彼に抱きつこうとする。「めっそうもない! めっそうもない、あんた! だが、わたしが世話して、あんたに金を貸してくれた財界の友だちは――あの人なら[#「あの人なら」に傍点]そうするかも知れないね!」
「ああ! あの人のことは保証できないのですな?」と尋ねてから、ジョージ氏は最後に声を低めて、「この嘘つきじじい!」
「ねえ、あんた、あの人は頼みになりませんわい。わたしだったら、あの人を当てにしないね。証文どおりにやるだろうからね」
「ちがいない」とジョージ氏はいう。チャーリーがパイプと、きざみ煙草のちいさな紙づつみと、水割りブランデーとをのせた盆を持ってあらわれると、彼は尋ねる。「一体どうして君はここへ来たのだね? この家の人たちとちがった顔をしているじゃないか」
「わたしは働きに来ているんです」とチャーリーが答える。
騎兵は(もしこの客が騎兵なら、いや、騎兵だったなら)ひどく頑丈な手に似合わぬ、すばしこい手つきで、チャーリーの帽子をぬがせて頭をなでる。「君がいるおかげで、この家もどうやら健全らしくなるよ。この家には新鮮な空気と同じくらい、若さが少し必要なのだ」そういうと彼はチャーリーを去らせて、パイプに火をつけ、スモールウィード氏の財界の友人――それはこの尊敬すべき老人の想像力が生んだ唯一の産物なのである――のために乾杯する。
「それじゃ、あなたは、あの友だちが私をひどい目に会わせるかも知れないと、思っておられるのですな、ええ?」
「そうするかも知れないと思うね――そういう恐れがあるね。そんな例を見て来たんだから、二十回も」とスモールウィード老人は不用意にいう。
不用意にというのは、彼の年老いた妻はしばらく前から、火にあたりながらうたた寝をしていたが、たちまち目を覚まして早口にしゃべり出す。「二万ポンド、二十ポンド札が二十枚、金庫の中にある、二十ギニー、二十パーセントが二千万、二十――」それから宙を飛んで来るクッションで中断され、例の通り倒されると、この奇妙な実験になれないジョージ氏は急いでクッションを彼女の顔からとりのける。
「この馬鹿ちきしょう。おまえはさそりだ――このさそりのちきしょう! このぬるぬるのひきがえるめ。べらべら、ぺちゃくちゃしゃべりやがる、ほうきの柄にまたがった魔女め、火あぶりにされるがいい!」と老人は、椅子にはいつくばったまま、あえぎながら、「ねえ、あんた、ちょっとわたしをゆすぶり起して下さらんか?」
ジョージ氏はまるで心配のあまり気が狂ったように、老妻を見たり老人を見たりしていたが、そう頼まれると、老人の咽喉をつかまえ、人形でも扱うように軽々と引き起して立たせると、老人を振り回して、このまま永久に、クッションを投げる力を奪い、墓へ送りこんでやろうか、どうしようかと迷っているらしい。しかし、この誘惑をおさえると、老人の体を烈しくゆすぶって、その頭をまるで道化役者みたいに回転させてから、手早く椅子にすわり直させ、目の上にかぶさったずきんを手荒くこすり上げてやるので、老人はそのあと一分間ほど、両眼をしばたたいている。
「ああ!」とスモールウィード氏は息をはずませていう。「それでけっこう。どうもありがとう、あんた、それでけっこう。やれやれ、息が切れた。ああ!」そういいながらもスモールウィード氏は、目の前にぬっと突っ立ってなおも自分を見おろしているこの友人に、どうやら恐れをなしているらしい。
しかしながら、不気味な大男はおもむろに椅子に腰をおろして、ぷかりぷかりと悠々煙草を吹かし始め、あきらめよくこんなことを考えて気を休める。「おまえの財界の友だちの名前の頭文字はD(8)だな、だから証文どおりにやるというのはまちがいあるまい」
「なんかいいましたかい、ジョージさん?」と老人が尋ねる。
騎兵はかぶりを振り、前かがみになって右ひざに右ひじを突き、その手にパイプを支え、もう一方の手を左のももの上に置き、軍人らしく左ひじを張って、煙草を吹かしつづける。そうしながらも、スモールウィード老人を一心に見守り、その顔がはっきり見えるように、ときおり、もうもうと立ち昇る煙を払いのける。
「この世の中で(いや、あの世へいったとしても)」と彼はいいながら、グラスをすぐ楽に口もとへ運べるように、ほんのわずか姿勢を変えると、「あなた[#「あなた」に傍点]から、パイプ一服分に当る金額をおごってもらう人間など、およそ自分ぐらいなものでしょうな?」
「へえ! たしかにわたしは人と付き合いはしないし、ジョージさん、他人に御馳走したりはしない。そんなゆとりがないんでね。だが、あんたが、いかにもあんたらしくひょうきんに、パイプを一服振舞ってもらうことを条件にして――」
「なあに、あれは金額が目的ではありません、そんなことはたいしたことではありません。あなたにおごらせようと考えたからです。利息を払うので、せめてなにかせしめようと思ってです」
「ほう! あんたは賢い、ほんとに賢い!」とスモールウィード老人は両脚をもみながら、大声をあげる。
「まったくです。自分はいつもそうでした」ぷかりとひと吹かし。「お宅へ来るようになったのが、そもそも賢い証拠ですな」また、ぷかりひと吹かし。「それに自分の|今日《こんにち》あるのもね」といってジョージ氏は落着き払って煙草をくゆらす。「賢いおかげで身を立てたのですよ」
「気を落しなさるな。あんたはまだ出世するかも知れませんわい」
ジョージ氏は笑ってブランデーを飲む。
「ねえ、あんたにはだれも親類はいないんですかね」とスモールウィード老人は目を輝かせながら尋ねる、「このわずかな元金を皆済してくれるなり、一人二人、世間に通った名前を貸してくれるなりするような親類は? 名前の通った人がいりゃあ、わたしが財界の友だちを説き伏せて、もっと金を借りてあげられるんだが。名前の通った人が二人いりゃあ、わたしの友だちは承知するだろうね。そんな親類はだれもいないんですかね、ジョージさん?」
ジョージ氏はあい変らず落着き払って煙草をくゆらしながら答える。「いたところで、親類に迷惑をかけるつもりはありませんな。自分は若いころから、家族の者にすっかり迷惑をかけて来たのです。一生の一番いい時期をむだに過したやくざ者が、そいつのために恥をかかされ放しの堅気の家族のもとへ、あげくのはてに舞い戻って、また家族を食いものにするなど、大そうけっこうな悔い改めかも知れません[#「かも知れません」に傍点]が、しかし、それは自分の流儀に合いませんな。だから、家を捨てた罪に対する一番いい償いは、自分の見るところ、家に近寄らぬことです」
「しかし、肉親の情というものがあってね」とスモールウィード老人がほのめかす。
「へえ、名前の通った二人の親類に対する肉親の情ですか?」とジョージ氏はかぶりを振りながらいい、あい変らず落着き払って煙草をくゆらしている。「だめ、だめ。それも自分の流儀に合いませんな」
スモールウィード老人は、さきほど助け起された時から、段々体がずり落ちて来て、椅子の上に倒れてしまったので、まるで洋服包みが声を立てるみたいにして、ジューディを呼ぶ。この天女が姿をあらわし、例によって祖父の体をゆすぶり起すと、老人は彼女にそばをはなれぬようにと命令する。なぜなら、客がまたさっきと同じような介抱をしてくれるのではないかと用心しているらしい。
「ああ!」老人はきちんとした姿勢に戻ると、いい出す。「もしあんたがあの大尉のゆくえを突きとめてくれていたら、ジョージさん、あんたも暮し向きが楽になっていたことだろうにね。もしあんたが、わたしたちの新聞広告を見て――『わたしたちの』っていうのは、財界のわたしの友だちと、そのほか一人二人、あの友だちと同じように資金を出して、親切にも、時々わたしのとぼしい収入をふやしてくれている人たちの出した広告のことですがね――もしあんたがあれを見て、初めてここへやって来た時に、わたしたちを援助してくれていたら、ジョージさん、あんたも暮し向きが楽になっていたことだろうにね」
「あなたのいうとおり『暮し向きが楽になる』ことを、あの時分、自分は大いに望んでいました」といって、ジョージ氏は煙草を吹かしているが、前ほどの落着きがない。というのは、ジューディが部屋へはいって来て以来、彼女に悩殺されたわけではないけれども、|呪文《じゆもん》にしばられたように、やや心をかき乱されてしまい、老人の椅子のわきに立っている彼女に、視線を向けずにはいられない。「しかし、今では楽にならないでよかったと思っております」
「なぜだね、ジョージさん? 一体全体――あのちきしょうの名にかけて聞くが、なぜだね?」とスモールウィード老人は、明らかに激怒したらしい顔で尋ねる。(ちきしょうといったのは、うたたねをしている細君に、たまたま目がとまったせいらしい)
「二つの理由があります」
「で、二つの理由っていうのはなんだね、ジョージさん、一体全体、あの――」
「あの財界の友人の名にかけて聞くのですな?」とジョージ氏は落着き払ってグラスを傾けながら、いい出す。
「うん、そういうなら、それでもいい。二つの理由ってのはなんだね?」
「まず第一に」と答えながら、あい変らずジョージ氏は視線をジューディに向け、まるで彼女がひどく年寄りじみて、祖父にそっくりなので、どちらに話しかけても同じことだといわんばかりの様子で、「あなたとお友だちのかたがたは、自分をだましました。あの広告には、ホードンさんに(もしあなたが、一度大尉になれば、つねに大尉ということわざ(9)にこだわるなら、ホードン大尉殿といいましょう)耳よりな話を伝えたいと書いてありました」
「それで?」と老人は甲高い声で鋭くいい返す。
「それでです!」ジョージ氏は煙草を吹かしつづけながらいう。「ロンドンじゅうの手形債務業者のために、牢屋へぶちこまれたとしたら、あまり大尉に耳よりな話ではなかったでしょうね」
「そんなことがどうして分るのかね? 大尉の金持ちの親類のうちに、負債を支払ったり、示談にしてくれる者がいたかも知れなかったのに。それに、大尉がわたしたち[#「わたしたち」に傍点]をだましたんだ。わたしたちみんなに、莫大な借金をしていたからね。わたしゃ金を返してもらうより、しめ殺したほうがましだと思ったよ。ここにすわっていて、あの男のことを考えると」と老人は|萎《な》えた十本の手の指をさしあげて、どなる。「今でもしめ殺してやりたい」そういうと、急に発作的に怒り狂って、なんの罪もない細君にクッションを投げつけるが、クッションは無事に彼女の椅子の片側へそれる。
「話を聞かされるまでもなく」と答えて、騎兵はちょっとのあいだ、口からパイプをとり、クッションのゆくえを見守っていた目を、静かに燃えているパイプの火皿に戻し、「大尉殿は苦しい行進をつづけて破滅しました。大尉殿が全速力で馬を走らせて破滅に向って突撃していた時に、自分は何日もその右側にいたものです。大尉殿が病気の時も丈夫な時も、富んでいた時も貧しくなった時も、いっしょでした。あらゆるものを使いはたして、あらゆるものを押しつぶしたあげく――ピストルを頭にあてがった時に、自分はこの手で大尉殿をおさえたのです」
「あいつは引き金を引けばよかったのに!」と慈悲深い老人はいう。「そして借りた金貨の数ほどに、頭を打ちくだけばよかったのに!」
「まったく、そうすれば木っ葉みじんになったことでしょうな」と騎兵は平然として答える。「とにかく、かつては大尉殿も若くて、希望に燃えた美男子でしたから、もうそうでなくなった時に探し出して、大そう耳よりな話を聞かせてあげなくてよかったと、よろこんでおりますよ。これが第一の理由ですな」
「二番目の理由っていうのも、それに負けないくらいりっぱな理由だろうね?」と老人がどなる。
「いや、ちがいます。これはもっと身勝手な理由です。もし大尉殿を探し出していたら、自分はあの世まで見つけにいかねばならなかったでしょうからね。大尉殿はもうあの世にいっておられたのです」
「あの世にいってたことが、どうして分るんだね?」
「この世にいなかったからです」
「この世にいなかったことが、どうして分るんだ?」
「お金ばかりでなく、落着きも失わないようにしないといけませんな、あなた」といいながら、ジョージ氏は静かにパイプをたたいて灰を落す。「大尉殿はずっと前に溺死したのです。自分はそう信じております。船から落ちたのです。故意にしたのか、事故だったのか、自分には分りません。たぶん、あなたの財界の友だちには分っているでしょうが。――この曲を知っておられますか、スモールウィードさん?」彼は話をやめ、|空《から》のパイプでテーブルをたたいて伴奏にしながら、口笛を吹いてから、そういいそえる。
「曲だって! いいや。うちじゃ、曲なんてやることはないね」
「『サウル(10)』の中の葬送曲ですよ。軍人を葬る時にやる曲です、だから、これでこの話はおしまいというわけですな。では、こちらの美人のお孫さんが――失礼、お嬢さん――このパイプをふた月のあいだ預かって下されば、次の時のパイプ代を節約できるでしょう。さようなら、スモールウィードさん!」
「じゃあ、あんた!」といって老人は両手を出して握手する。
「それで、もし自分が支払いを怠れば、あなたの財界の友だちのために、ひどい目に会わされるというのですな?」騎兵はまるで巨人みたいに、老人を見下しながらいう。
「そう思うねえ、あんた」老人はまるで小人みたいに、騎兵を見上げながら答える。
ジョージ氏は声を立てて笑い、スモールウィード氏をちらりと眺め、さげすみ顔のジューディに別れの会釈をすると、ありもしないサーベルと附属の金具を、がちゃがちゃ鳴らしてでもいるような足どりで、大またに居間を出てゆく。
「この悪党野郎め」と、老人は彼が閉じたドアに向って、ものすごい、しかめつらをする。「だが、おまえを締めあげてやるぞ、この犬め、締めあげてやるぞ!」
そういうやさしい言葉をかけてから、彼の心は、自分の教育と職業とによってつちかわれた、楽しい空想の国へと舞い上り、またしてもスモールウィード夫婦は、前にいったとおり、悪魔の隊長に置き忘れられた二人の歩哨よろしく、楽しい時をのどかに過す。
二人が忠実に部署を守っているあいだに、ジョージ氏はひどくむずかしい顔をしながら、のっしのっしと大またに街々を通り抜けてゆく。時刻はもう八時、夜が足ばやに迫って来る。彼はウォーターロール橋のたもとで立ちどまり、芝居のビラを読んで、アストリ曲馬劇場へゆくことに決める。中へはいると、馬と力わざを見てすっかりうれしくなり、武器をいちいちしさいに眺め、剣の使いかたの未熟さに不満を覚えるが、その情調に深く胸を打たれる。最後の場面で、|韃靼《だつたん》の皇帝が戦車に乗って、めでたく結ばれた恋人たちの頭上で、イギリス国旗を打ち振り、二人を祝福する時には、感動のあまりまつ毛をぬらしてしまう。
芝居がはねると、ジョージ氏はまた引き返してテムズ川を渡り、ヘイマーケットとレスタ広場の界隈の、あの奇妙な地域へ向う。このあたりはみすぼらしい外人宿や、みすぼらしい外人、ラケット球戯場、拳闘家、剣術家、近衛歩兵、古磁器、とばく場、見せもの、さまざまなむさ苦しいもの、人目をさけるものが、寄り集っている中心地域である。彼はこの地域の奥まではいりこんでから、ある小路と白く水しっくいをぬった長い抜け道を通って、一軒の大きな|煉瓦《れんが》作りの建物にたどりつく。はだかの|塀《へい》、床、屋根の|垂木《たるき》、天窓から成るこの建物の正面には(この建物にも正面があるとしての話だが)、「ジョージ射撃練習場」|云々《うんぬん》[#「「ジョージ射撃練習場」|云々《うんぬん》」はゴシック体]とペンキで書いてある。
ジョージ射撃練習場へ彼がはいると、中にはガス灯(その一部はもう消してある)、ライフル銃用の白くぬった二つの標的、弓術用設備、フェンシング用具、イギリス式ボクシングの必要品すべてがある。今晩、ジョージ射撃練習場では、こういった競技や練習は、なに一つおこなわれていず、まったく|人気《ひとけ》がないので、一人の大頭の奇怪な小男が場内を独占して、|床《ゆか》の上に眠っている。
その小男は緑色のラシャの前かけと|縁《ふち》なし帽子というかっこうで、銃工を思わせる服装をし、顔と手は、火薬にまみれ、いつも銃に弾丸をこめるため、うすぎたなくよごれている。ぎらぎら光る白い標的の前に、灯火を浴びて寝ているので、体の黒い部分が光を照り返している。あまり遠くないところに|頑丈《がんじよう》で、荒けずりの、旧式のテーブルがあり、その上に載せた万力を使って、今まで仕事をしていたのである。この小男は顔面がすっかりひしゃげ、片一方の|頬《ほお》が青く、点々とまだらになっているところから察すると、これは、かつての職場で火薬に吹かれたものらしい。
「フィル!」と騎兵が静かな声でいう。
「はい!」とフィルは大声をあげ、はうようにして立ち上る。
「少しはお客があったか?」
「あい変らず、まるで水っぽいビールみたいに、ぴりっとしない景気でして。ライフルが五ダース、ピストルが一ダース出ました。ところが照準ときたら!」とフィルは思い出すとたまらなくなって、わめき立てる。
「店をしめろ、フィル!」
この命令をはたそうとして動き回っているフィルの様子を見ると、たいそう機敏に動いているけれども、びっこらしい。まだらができているほうの顔面には、全然まゆ毛がなく、反対側には黒々とした太いまゆ毛がはえて、左右ふぞろいなため、ひどく異様な、やや陰惨な感じを与える。手の指は、十本とも満足に残ってはいるものの、ありとあらゆる経験をして来たらしく、のこぎりの歯のような刻み目や、割れた傷あとがつき、一面にしわが寄っている。たいそう力の強い男と見えて、まるで重いということを知らないように、重たいベンチを持ち上げて歩き回る。なにか手に持とうと思う時には、目標にまっすぐ向ってゆかずに、塀に肩を当てて、びっこをひきながら場内を回って、それから目的物のほうへ針路を変えるという奇妙なくせがあるため、四方の塀のいたるところに、通称「フィルのしるし」と呼ばれるしみのあとを残すのである。
ジョージの留守のあいだ射撃場を管理しているこの男は、いくつかの大きなドアに錠をおろし、ガス灯を消して、一つだけほのかに光る明りを残すと、片隅の木造小屋から二枚のマットレスと夜具類を引きずり出し、それで仕事を終える。寝具が場内の反対側の両端へ運ばれると、騎兵は自分の寝床をしき、フィルはフィルで自分の寝床をしく。
「フィル!」上衣とチョッキをぬぎ、シャツだけになると、ますます軍人らしく見える射撃場主は、フィルのほうへ歩いて来ていう。「おまえは家の戸口のところで拾われたのだったなあ?」
「みぞのとこでさあ。夜番がおれにつまずきましたよ」
「それじゃ、放浪生活を送るのは、おまえ[#「おまえ」に傍点]には初めから自然のなりゆきだったわけだ」
「まったく自然のなりゆきってわけでさあ」
「おやすみ!」
「おやすみなさい、親方」
フィルはまっすぐ寝床にゆくことさえできないので、射撃場の塀に肩をつけて|二側《ふたかわ》だけ回り、それから自分のふとんのほうへ向きを変える。騎兵はライフル射撃場の中を一、二回歩き、おりしも天窓越しにきらめいている月を仰いでから、フィルよりも近道をとって、自分のふとんのほうへ大またに歩いて、彼と同じように眠りにつく。
[#改ページ]
第二十二章 バケット警部
暑い夕方だが、リンカン法曹学院広場にあるタルキングホーン弁護士事務所の寓意画のローマ人は、かなり涼しげに見える。というのは、窓が明け放してあるし、部屋の中は、天井がひじょうに高く、激しい風が吹きこみ、うす暗いからである。こういった点は、霧とみぞれの十一月や氷と雪の一月ともなれば、好ましくないだろうが、むし暑い長期休廷期の陽気のころには、それなりの取り|柄《え》がある。それで、寓意画のローマ人は桃のような|頬《ほお》に花束のようなひざをして、脚のふくらはぎ、腕の筋肉はばら色にもり上っているけれども、|今宵《こよい》はかなり涼しげに見える。
たくさんの|塵《ちり》が部屋の窓からはいりこむし、家具や書類のあいだには、さらに多くつもっている。どこを見ても|分厚《ぶあつ》くたまっている。田舎から迷いこんで来たそよ風は恐れをなし、あわてふためいて逃げ出す時に、寓意画のローマ人の目に塵を浴びせてゆく、ちょうど法律が――あるいは法律のもっとも信頼すべき代理人の一人たるタルキングホーン氏が――門外漢の目をくらます時にするように。
この暗っぽい、いわば塵の倉庫の中で(その塵に、書類や、タルキングホーン氏や、その依頼人や、生あるものも、生なきものも、すべて一様に帰りつつあるわけだが)、今タルキングホーン氏は明け広げた窓辺にすわって、古いポートワインを楽しんでいる。口が堅くて、そっけない、無口のがんこ者ながら、一流の人士といっしょに、古いぶどう酒を楽しむこともできる男なのである。それで、これは彼の数多い秘密の一つになるが、この広場の家の地下に彼は精巧な酒蔵、値ぶみのできないほど貴重なぶどう酒の貯蔵棚を持っている。今日のように、自室で夕食をとることにして、料理店から魚とビフテキか鶏肉の料理をとり寄せる時には、蝋燭を手にして、この|人気《ひとけ》のない邸宅の下の、こだまのする酒蔵へ降りてゆき、やがて雷鳴のようなドアの音が遠くで鳴りひびくと、土くさいにおいをさせながら、ぶどう酒のびんをさげ、いかめしい顔をして戻って来る。そして五十年の年月を経た、光り輝く美酒をグラスにつぐと、酒は自分がそんなに有名になっているのを知って、おもてを赤らめ、部屋じゅうに南国のぶどうの香りをただよわす。
タルキングホーン氏はたそがれの窓辺にすわって、ぶどう酒を楽しんでいる。ぶどう酒を飲むと、まるでその五十年にわたる沈黙と|隠遁《いんとん》を、こっそり告げられたように、彼はますます堅く口をとざしてしまう。ふだんよりもいっそう測りがたい顔つきになり、すわってグラスを傾け、いわば、ぶどう酒と同じように、ひそやかに熟成しながら、このたそがれどきに、田舎の暗くなってゆく森や、ロンドンの締め切った|空《から》の大邸宅について、自分の知っているかぎりの秘密をあれこれ黙想し、そして、おそらく、自分の身の上や一家の来歴、自分の財産や遺言のこと――これらはすべて、あらゆる人にとって|謎《なぞ》である――それから自分と同じ性格の、同じように弁護士でもある、独身の友人のことも、少しは考える。この友人は七十歳になるまで、彼と同じような生活を送って来たが、突然、あまりにも退屈に感じて(一般にそう考えられている)、夏のある夕方、ゆきつけの理髮師に自分の金時計をやり、テムプルの自宅へゆっくり歩いて帰り、首をつってしまった。
しかし、今晩、タルキングホーン氏は自分一人でいつものように長いあいだ、黙想にふけっているわけではない。はげ頭を光らせた、おとなしそうな男が、遠慮して窮屈そうに椅子を少しうしろに引いたまま、同じテーブルにすわっており、グラスに酒をつぐように弁護士からいわれると、口に手を当てて、うやうやしげな|咳《せき》をする。
「ところで、スナグズビー」とタルキングホーン氏がいう。「その妙な話をもう一度たしかめるのだが」
「はい、どうぞ」
「君のいうところによると、昨晩、ここへ来てくれた時に――」
「その点につきましては、もしわたくしが出過ぎた振舞いをいたしましたのでしたら、申しわけございませんが、前に先生があの者に、なにかご興味をお持ちになりましたように記憶しておりますので、あるいは先生の――ご希望に――ちょっと――添えるかと存じまして――」
タルキングホーン弁護士は、スナグズビー氏が結論を下すのを手つだってやったり、自分がしそうなこと、考えそうなことを認めたりする男ではない。それでスナグズビー氏の声は次第にとぎれ、ばつの悪い咳をしながら、「申しわけございません、ほんとうに」
「いや、そんなことはかまわんよ。君のいうところによると、スナグズビー、君は細君にはなにも知らせずに、帽子をかぶると、ここへやって来たのだったな。それは賢明だったよ、知らせねばならぬほど重要なことがらではないからな」
「それはでございます、お話し申さねばなりませんが、うちのちびは――ありていに申せば――せんさく好きでございまして。あれはせんさく好きな女でございます。かわいそうに、家内はよく発作を起すものですから、なにかに注意を向けているのが、体のためによろしいのでして。そういう次第でございますから、たぶん、なんでも手当り次第、自分に関係のあること、ないことに――とりわけ、関係のないことに――注意を向けるのでございます。うちのちびはほんとに注意|旺盛《おうせい》な女でございます」
スナグズビー氏はポートワインを飲み、それから口に手を当てて、賛嘆の咳をしながら、つぶやく。「おやまったくすばらしいぶどう酒でございますなあ!」
「それで、昨夜、君はここへ訪ねて来たことを、だれにも話さなかったのだね? それから今晩も?」
「はい、今晩もでございます。うちのちびは、ただいまのところ――ありていに申せば――信心深くなっておりまして、いえ、自分でそう思っているのでございます、チャドバンドという名前の牧師さんの『夕べの勤め』(そういう名前で通っております)に出席いたしております。たしかに、この人はたいそう弁の立つ人でございますが、わたくしはあの話しぶりがあまり好きになれませんです。いや、これはどうでもよろしいことで。うちのちびがそういうことをしておりましたから、わたくしはこっそりこちらへ参るのに、好都合でございました」
タルキングホーン氏がうなずく。「酒をつぎたまえ、スナグズビー」
「誠にありがとうございます」と文房具商はへり下った咳をしながら答える。「これはじつにすばらしいぶどう酒でございますなあ!」
「今ではめずらしい酒だ。五十年ものだよ」
「さようでございますか? でも、そう伺っても、ふしぎはございません、まったく。たぶん――何年経っていると申してもよろしいくらいでございます」こういう大まかな賛辞をポートワインにささげてから、つつしみ深いスナグズビー氏は口に手を当てて、それほど貴重な品を飲ませてもらったおわびの咳をする。
「その男の子がいったことを、もう一度かいつまんで話してくれないか?」と頼みながら、タルキングホーン氏は古色蒼然とした半ズボンのポケットに両手を入れて、静かに椅子の背にもたれる。
「よろしゅうございますとも」
それから法律文房具商は、自分の家に集った客たちにジョーが述べたことを、ややくどい語り口ではあるが、忠実にくり返す。話が終った時、彼はぎょっとおどろくなり、こういったまま言葉を切る――「おやっ、ほかのかたがいらっしゃるとは知りませんでした!」
スナグズビー氏は、自分と弁護士の中間の、テーブルから少しはなれたところに、帽子とステッキを手に持った一人の人物が、熱心な顔をしながら立っているのを見て、びっくり仰天するが、この男はスナグズビー氏がはいって来た時は、そこにいなかったし、それからあとでドアや窓からはいりこんだのでもない。部屋の中には衣裳だんすがあるけれども、そのちょうつがいは鳴らなかったし、床を歩く足音一つ聞えなかった。それなのに、この第三の人物はそこに立って、熱心な顔をしながら、帽子とステッキを手に持って、うしろ手を組み、落着き払って静かに耳を傾けている。ふとった体、泰然とした|風貌《ふうぼう》、鋭い目、黒い洋服を着て、年は大体中年の男である。まるで肖像でも描こうとしているみたいな目つきで、スナグズビー氏を眺めている点を除けば、幽霊のような出現ぶりは別として、一見特にこれといって目立つところはない。
「この人を気にせんでもいい」とタルキングホーン氏は例の静かな調子でいう。「別にだれでもない、バケット君だ」
「へえ、さようで?」と文房具商は答えるが、咳を一つして、一体バケット君がどういう人なのか、かいもく分らないと知らせる。
「今の話をバケット君に聞いてもらいたかったのだ、というのは(ちょっとわけがあって)その話をもっと知りたいような気がするし、バケット君はこういうことにかけては、大そう敏腕だからな。この件について、君の意見はどうかね、バケット?」
「きわめて簡単です。私どもの部下がその少年に、立ちどまっていてはいかんといって去らせましたので、もうもとの商売をしていませんから、もしスナグズビーさんにご異存なければ、トム・オール・アローンズ通りまで、同道願って、少年の|面通《めんどお》しをしていただくことにすれば、二時間とかからないうちに、少年をここへつれて来られます。もちろん、スナグズビーさんがいかれなくても、私にできますが、しかしそれが一番早い方法ですな」
「バケット君は警察の捜査係りなのだ」と弁護士が説明する。
「さようでございますか?」とスナグズビー氏はいうが、今にも後頭部の髪のかたまりがさか立つように感じる。
「それで、もしほんとうに君のほうで、問題の場所へバケット君と同行することに異存がないなら」と弁護士は言葉をつづけて、「そうしてもらえると、ありがたいのだがな」
スナグズビー氏が一瞬ためらっていると、バケットは彼の胸の奥底へ突っこんで来る。
「その少年に被害を与えはしないかという心配は、ご無用です。そんなことはありません。少年に関するかぎり大丈夫です。ただここへつれて来て、一つ二つ私の聞きたいことを質問すれば、手間賃を払って、また帰してやりますよ。その子にしてみれば、うまい仕事というわけですな。男としてお約束しますが、無事に帰して見せましょう、そういうご心配はありません」
「承知いたしました、タルキングホーン先生!」とスナグズビー氏は元気のよい声を出し、安心して、「そういうことでございましたら――」
「そうですとも! ねえ、スナグズビーさん」とバケットはまた話をつづけながら、彼の腕をとって、わきへつれてゆき、親しげに相手の胸をたたいて、秘密を打ち明けるような口調になり、「あなたは世なれたかたですなあ、実務家だ、分別のあるかただ。まったく、あなた[#「あなた」に傍点]はそういうかただ」
「おほめにあずかって、まことにありがたい仕合わせに存じます」と文房具商は謙遜の咳をしながら答える。「しかし――」
「まったく、あなた[#「あなた」に傍点]はそういうかたですよ。ところで、あなたのように、ああいう商売をしている人には、いうまでもないことですが、だってあれは責任のある商売で、油断なく気をくばって、抜かりのないようにしなければいけませんからね(私には、以前あなたと同じ商売をしていた叔父があったのです)――あなたのような人には、いうまでもないことですが、こういうつまらない事件でも、内証にしておくに越したことはないし、それが一番かしこいやりかたですよ。分りますね? 内証にですよ!」
「もちろんです、もちろんです」と相手は答える。
「あなた[#「あなた」に傍点]には話してもかまいませんが」とバケットは人を引きつける、率直らしい態度で、「私に分っているかぎりでは、その死んだ人物はちょっとした財産をもらう権利があったのじゃないか、その女はその財産を手に入れようとして、なにかたくらんでいたのじゃないか、という疑いがあるようです、分りますね?」
「へえ!」とスナグズビー氏はいうが、あまりはっきり分るようには思えない。
「ところで、あなた[#「あなた」に傍点]が望んでいられるのは」とバケットは言葉をついで、スナグズビー氏の気持を静めるように、またもその胸を軽くたたきながら、「だれもが正義に従って自分の権利を得ることですね。それがあなた[#「あなた」に傍点]の望んでいられることですよ、ね」
「そうですとも」とスナグズビー氏は答えて、こっくりうなずく。
「そういうわけですし、また同時に、その――あなたの商売では、お客というんですか、それとも依頼人というんですか? 私の叔父がなんていっていたか、忘れてしまいましたよ」
「ええと、わたくしはふつう、お客と申しておりますが」とスナグズビー氏が答える。
「そのとおり!」とバケット氏は応じて、親愛の情をこめて彼と握手する。「――そういうわけですし、また同時に、その名にそむかない、りっぱなお客を援助してあげるために、あなたは私といっしょに、内々でトム・オール・アローンズ通りへ出かけ、そのあとずっと万事を内密にして、だれにも話さないで下さるのですね。大体、そういうご意向ですね、もし私に誤解がなければ?」
「おっしゃるとおりでございます。おっしゃるとおりでございます」
「それでは、ここにあなたの帽子がありますから」とスナグズビー氏の新しい友人は、まるで自分が作った帽子みたいに気やすくいいながら、「もしあなたの支度ができれば、私のほうは、もうできていますよ」
二人は、タルキングホーン氏が測り知れない底意を胸に秘めたまま、表になんの気配も示さず、古いポートワインを飲んでいるのをあとに残して、通りへ出てゆく。
「あなたはグリドリーという名前の、とても人のいい男をご存知ないでしょうね?」とバケットは二人つれ立って階段を降りながら、仲よく話をとりかわす。
「はい」スナグズビー氏は少し考えてからいう。「そういう名前の人は、だれも存じません。なぜですか?」
「別にどうということじゃないんですが、ただその男は少しかんしゃくを起して、まともな人たちを脅迫したものですから、逮捕状が出ているんですが、逃げ回っているのです――分別のある人間がそんなことをするなんて、残念なことですよ」
つれ立って歩いてゆくあいだに、スナグズビー氏はふしぎなことに気づく。つまり、二人がいくら急ぎ足になっても、つれのこの男はあい変らず、なにかぶらぶら進んでゆくような歩きかたをしているように見えるし、右や左に曲ろうとする時はいつも、あくまでまっすぐ前進してゆくようなふりをしながら、最後の瞬間に急角度で方向を変えるのである。時おり、巡回中の巡査のわきを通りすぎる時には、スナグズビー氏が見ていると、巡査も案内役のバケット氏も、たがいに近づきながら、まったく|上《うわ》の空のありさまで、両方とも相手に気づかず、あらぬかたを見つめている様子である。数回ほど、バケット氏は、ぴかぴか光る帽子をかぶって、つやつやした髪の毛を頭の両側にぺったり丸めた、一人の|小柄《こがら》な若い男のうしろにゆき、ほとんど相手に目もくれずに、ステッキでさわる。すると男はふり返るや、たちまち姿を消してしまう。大体において、バケット氏はどんな物事にも目を留めているが、そのくせ少しも表情を変えぬところは、まるで自分の小指にはめた大きな形見の指環か、大きな台にちいさなダイヤをつけた、シャツの胸飾りのピンにそっくりである。
とうとう二人がトム・オール・アローンズ通りに着くと、バケット氏はちょっと町角で立ちどまり、そこに見張りをしている巡査から、火のともった手さげランプを受取る。すると巡査は自分のランプを腰からとって、彼らに同行する。スナグズビー氏は二人の案内者のあいだにはさまれながら、ひどくきたない通りのまんなかを通ってゆくが、よそのところの道路は乾いていたのに、ここは排水が悪くて、風が吹き抜けず、黒い泥とくさった水がたまり、じつにひどい悪臭と光景に満ちているので、生れてこのかたロンドンに住んで来たスナグズビー氏でさえ、自分の目や鼻が信じられないほどである。この通りと、そのくずれた家々から分岐している、ほかの通りや路地のいまわしさに、スナグズビー氏は体も心もむかついて来て、さながら地獄の淵へ一瞬ごとに沈んでゆくような思いにかられる。
「ちょっとこっちへさがって下さい、スナグズビーさん」みすぼらしい一台の|駕籠《かご》のようなものが、さわがしい人々の群にとりまかれながら、自分たちのほうへ運ばれて来るので、バケットがいう。「熱病患者が通りへ来ましたよ!」
姿の見えないあわれな患者がわきを過ぎてゆく時に、人々の群は今まで気をとられていた患者のもとをはなれ、三人の来訪者をかこんで、夢の中で見るすさまじい顔また顔のようにうろつき、それから横町や、くずれた家の中や、|塀《へい》のうしろへ消え、そのあとは、ときどき大声をあげたり、甲高く警告の口笛を吹き鳴らしたりしながら、三人がここを去るまで、近くを飛び回っている。
「あれが熱病の出た家か、ダービー(1)?」とバケット氏は立ちならんでいる、くずれた家々に手さげランプを向けながら、平然と尋ねる。
ダービーは「あれがみんなそうで」、その上、そこの家々では、今まで何カ月ものあいだに、「何十人もやられて」、死んだ者、死にそうになった者が「ジストマ病にかかった羊みてえに」運び出されたのだと答える。ふたたび三人つれ立って先へ進みながら、バケットがスナグズビー氏に、少し気分が悪いように見えるが、というと、スナグズビー氏は、こんなおそろしい空気はとても呼吸できそうにもないと答える。
ほうぼうの家々で、彼らはジョーという名前の少年に面会を求める。トム・オール・アローンズ通りでは、本名を名乗っている者はほとんどいないので、それは「にんじん」のことか、それとも「大佐」か、「絞首台」か、「|鑿《のみ》小僧」か、「テリヤ・ティップ」か、「のっぽ」か、「|煉瓦《れんが》」かと、スナグズビー氏は質問ぜめに会う。そこで彼は何度もくり返し人相を述べる。彼の説明した人相書きの当人について、いろいろ食いちがった意見が出る。「にんじん」に相違ないと考える者もあれば、「煉瓦」だという者もある。「大佐」をつれて来るが、全然本人に似ていない。スナグズビー氏と案内者たちが立ちどまるたびに、群集がぞろぞろまわりに集まり、むさくるしい人垣の奥から、バケット氏に向って|追従《ついしよう》めいた助言が起る。彼らが動いて、怒った手さげランプがぎらぎらにらみつけるたびに、群集は消え、前と同じように、横町や、くずれた家の中や、塀のうしろにかくれたまま、近くを飛び回っている。
とうとう、「難物小僧」別の名「難物」が夜の宿にしている巣がみつかり、その「難物」がジョーかも知れないと一行は考える。スナグズビー氏と宿の女主人――犬小屋のような自分の部屋の床の上に、ぼろにくるまったまま、黒い布で包帯した酔顔をちらりとのぞかせている――との話をくらべると、その結論にまちがいないことが分る。「難物小僧」は病気にかかった女の薬をもらいに、医者のところへ出かけたが、まもなく戻って来るという。
「それで、今晩ここにはだれがいるんだ?」といいながら、バケット氏は別のドアをあけ、手さげランプでその中をまばゆく照らす。「酔っぱらった男が二人だな? それから女が二人か? 男たちはしごく健康だ」と、一人一人、眠っている男の腕を顔からとりのけて、のぞきこむ。「これはおまえたちの旦那かね?」
「はい」と女たちの一人が答える。「わたしたちの亭主です」
「煉瓦職人かね、え?」
「はい」
「おまえたちはここでなにをしているんだね? ロンドンの者じゃないな」
「はい。ハートフォード州の者です」
「ハートフォード州のどこだ?」
「スントールバンズで」
「渡り歩いて来たのか?」
「昨日、歩いて来ました。今、田舎じゃ仕事がないんですけど、こっちへ来ても、なんの役にも立たなかったし、これから先だって、きっと、そうでしょう」
「あんなことをしていちゃ、あんまり役には立たんよ」といって、バケット氏は地面の上に正体なく寝ている男たちのほうへ顔を向ける。
「まったくそうですよ」と女はため息をつきながら答える。「ジェニーとわたしも、それはよく知ってるんです」
その部屋は、ドアより二、三フィート高くなってはいるものの、三人の訪問者のうちの一番|背《せい》の高い者がまっすぐ立てば、まっ黒くなっている天井に頭がさわりそうなほど低い。いかにも気持の悪い部屋で、その不潔な空気の中では、太い蝋燭ですら青白く、弱々しく燃えている。室内にはベンチが二つと、それより高い、テーブル代りのベンチが一つある。男たちはつまずいて倒れたところに寝こんでいるが、女たちは蝋燭のそばに腰かけている。今しゃべった女の腕には、たいそうおさない子供が抱かれている。
「おや、その赤ちゃんは一体いくつなんだい?」とバケットがいう。「まるで昨日生れたみたいに見えるぞ」そういう彼の話しぶりは決して乱暴ではない。彼がそのみどりごにやさしく明りを向けると、ふしぎにもスナグズビー氏は、これまでいろいろな絵で見たことのある、後光に包まれた別のみどりご(2)のことを思い出す。
「まだ三カ月にならないんです」と女がいう。
「おまえの子かね?」
「わたしのです」
もう一人の女は、彼らがはいって来た時、赤ん坊のところにかがみこんでいたが、今また体を曲げて、眠っている子供にキスをする。
「おまえはまるで自分がおふくろみたいに、この子をかわいがっているんだな」とバケット氏がいう。
「わたしはこれと同じような子供のおふくろでしたけど、旦那、子供は死にました」
「ああ、ジェニー、ジェニー!」もう一人の女が彼女に向っていう。「そのほうがいいよ。生きてる子より、死んだ子のことを考えるほうがずっといいよ、ジェニー! ずっといいよ!」
「なんだって、おまえは自分の子供が死ねばいいなんて思うほど、非人情な女じゃないだろうな?」とバケットはきびしく答える。
「そうですとも、旦那、それは神さまにかけて誓いますよ」と女が答える。「わたしゃそんな女じゃありません。わたしゃ、どんなきれいな貴婦人にだって負けないくらい忠実に、この子を死神から守ってやりますよ、もしできることなら自分の命を投げ出したって」
「そんなら、そういうまちがった物のいいかたをするんじゃない」とバケット氏はまたおだやかになって、「なぜそんなことをいうんだね?」
「こんなふうに眠っている子供を見ると」女は目にいっぱい涙をたたえながら答える。「そういう考えが浮んで来るんです。もしこの子がもう二度と目を覚まさなかったら、旦那はわたしの気が狂ったと思うでしょう、わたしゃそれこそせつない思いをすることでしょうから。わたしにゃそれがよく分るんです。ジェニーが子供をなくした時、わたしはいっしょにいて――そうだったろう、ジェニー?――この人がどれだけ嘆いたか知ってるんです。でも、このうちの中を見て下さい。あの人たちを見て下さい」と地面に眠っている男たちを、ちらりと見て、「旦那たちの待ってるあの男の子を見て下さい、わたしに親切をつくしてくれるために外へ出かけたあの子を。お役目柄、何度も何度もつかまえて、育っていくのを旦那[#「旦那」に傍点]の目で見てる子供たちのことを考えてみて下さい!」
「まあ、それはそれとして、おまえはその子をりっぱにしつければ、子供がおまえの慰めになるし、老後の面倒も見てくれるよ」
「それはいっしょうけんめいやるつもりです」と女は目をぬぐいながら答える。「でも、今夜はひどく疲れてるし、おこりのために加減が悪いんで、これから先この子のさまたげになるようなことを、あれやこれや考えていたんです。うちの人はそういうことに反対するだろうし、この子はぶたれるだろうし、またわたしがぶたれるのを見て、自分のうちをこわがり、たぶん、ぐれてしまうでしょう。わたしが子供のためにどんなに、どんなに働いたって、助けてくれる者はだれもありゃしませんし、わたしが精一杯力をつくしても、もし万一この子が悪くなり、今と変って無情になったこの子が眠ってるそばに、わたしがすわっているような時が万一来るとすりゃ、今このひざに寝ている子供のことを考えて、ジェニーの子が死んだと同じように、この子も死んだほうがいいと思ったって、ふしぎはないじゃないですか!」
「ねえ、ねえ!」とジェニーがいう。「リズ、あんたは疲れてるし、病気なんだよ。その子をわたしにおよこし」
子供を受けとる時に、ジェニーは母親の着物をはだけてしまうが、すぐにまた直して、子供が寝ていた胸に残っている打ち傷とあざとを覆ってしまう。
「わたしがこの子をこんなにかわいがってるのは」とジェニーは子供を抱いて、ゆきつ戻りつしながらいう。「死んだわたしの子供のおかげだし、それからリズがこの子をあんなに心から愛して、今なくなってくれることさえ考えてるのも、わたしの死んだ子供のおかげですよ。リズはそう考えてるけど、わたしゃ[#「わたしゃ」に傍点]自分のいとしい子供を返してもらうためなら、どんな財産だってあげるつもりです。でも、わたしたちのいいたいことは同じです、どういったらいいか分んないけど。わたしたち二人の母親は、このあわれな心の中では分ってるんです!」
スナグズビー氏が鼻をかみ、同情の咳をしていると、外で足音が聞える。バケット氏は手さげランプの光を戸口に浴びせながら、スナグズビー氏に向っていう。「さあ、『難物小僧』をどう思います? この子[#「この子」に傍点]ですか?」
「あれがジョーでございます」とスナグズビー氏がいう。
ジョーは幻灯の画面の、ぼろを着た人物のように、光の円の中に|惘然《ぼうぜん》と立ったまま、さては自分がずっと遠くまで立ち去らなかったので、法律に違反したのだと思って震えている。しかし、スナグズビー氏が、「お金になる仕事をしてもらうだけだよ、ジョー」と|請合《うけあ》って安心させるので、落着きをとり戻し、ちょっとした私用の懇談があるというバケット氏に、表へつれ出されると、息を切らせながらも、充分に例の話を物語る。
「ジョーに話をたしかめました」とバケット氏が戻って来ていう。「まちがいありません。さあ、スナグズビーさん、あなたのご用にかかって下さい」
そこでまず、ジョーは、もらって来た薬を渡して、善意の使いをはたさねばならぬので、「これを全部、すぐに飲めってよ」と口頭で簡潔な用法を教えながら手渡す。つぎに、スナグズビー氏は常用の万病薬である半クラウン銀貨を一枚、テーブルの上に置かねばならぬ。三番目に、バケット氏はジョーのひじの少し上をつかんで、引き立ててゆかねばならぬ。このしきたりを守らなくては、「難物」にしろ、どんな「|物《ぶつ》」にしろ、リンカン法曹学院まで|玄人《くろうと》らしく連行することはできまい。こういう準備が完了すると、一同は女たちにお休みをいって、ふたたび黒い不潔なトム・オール・アローンズ通りに出る。
彼らは、さきほど、この|奈落《ならく》へ降りて来た同じいまわしい道をたどって、人々の群がまわりを飛びかい、口笛を吹き、かくれひそんでいる中を歩いて、次第に奈落をぬけ出し、とうとう通りの境まで来ると、ダービー巡査に手さげランプを返す。ここで人々は幽閉されている悪魔の群のように、わめき声をあげながら引き返し、それきり見えなくなる。一同は今までより明るくすがすがしい町並みを(スナグズビー氏はこの時ほど、明るくすがすがしく感じたことがない)、歩いたり馬車に乗ったりしながら、やがてタルキングホーン氏の門口へ来る。
つれ立ってほの暗い階段を登る途中(タルキングホーン弁護士の事務所は二階にある)、バケット氏は、入口のドアの鍵をポケットに持っているから、ベルを鳴らす必要はないと話す。ドアをあける時、たいがいこういった種類のことにはよくなれている男のくせに、彼はかなり手間どり、その上がちゃがちゃと音まで立てる。あるいは予告をしているのかも知れない。
しかしながら、とうとう一行はランプがともっている玄関の間へはいり、それからタルキングホーン弁護士のいつもの部屋へ――今晩、古いポートワインを飲んでいた部屋へ――通る。彼はそこにいないが、例の古風な|燭台《しよくだい》が二つあり、部屋はかなり明るい。
バケット氏はあい変らず、ジョーの腕をいかにも玄人らしくつかんだまま、スナグズビー氏が見ていると、まるで無数の目を持っているような様子をして、部屋の中へ少しはいってゆく。するとジョーはぎくりとして立ちどまる。
「どうしたんだ?」とバケットがささやく。
「あすこに、あの女の人がいる!」とジョーが叫ぶ。
「だれだって?」
「あの奥さんだよ!」
ヴェールできっちり顔を包んだ女性が一人、部屋の中央に光を浴びて立っている。その人物は静止したまま声を立てない。一同のほうに正面を向けているけれども、彼らのはいって来たのには目もくれず、彫像のように立ちつくしている。
「おい、どうしてあれが」とバケットは大声でいう。「その婦人だということが分るんだ、いってごらん」
「おいらはあのヴェールと」ジョーはじっと見つめながら答える。「帽子と、ガウンを知ってるよ」
「それをよく確かめてみろ」とバケットはジョーを綿密に観察していう。「もう一度見るんだ」
「いっしょうけんめい見てるよ」とジョーは目玉を飛び出させながら、「あのヴェールに、帽子に、ガウンだ」
「おまえの話した指環はどうだ?」
「ここんとこに、ずらっと並んでぴかぴか光ってたよ」とジョーは立っている女から目をはなさずに、右手の指の関節で左手の指をこすりながらいう。
女は右手の手袋をぬいで手を見せる。
「さあ、あれをどう思う?」とバケットが尋ねる。
ジョーはかぶりを振る。「あんな指環とまるでちがう。あんな手じゃねえよ」
「なにをいってるんだ、おまえは?」とバケットはいうが、よろこんでいるらしい。しかも大よろこびらしい。
「もっとずっと白くて、もっときゃしゃで、もっとちいさい手だったよ」とジョーが答える。
「なんだって、おまえ今度は、このおれがおれのおふくろだなんていい出すんだろう」とバケット氏はいう。「その婦人の声を覚えているか?」
「覚えてると思うよ」
立っている女が口をきく。「この声に似たところがあったの? はっきり分らなければ、好きなだけしゃべりますよ。この声だったの、それともこの声に少しでも似ていたの?」
ジョーは胆をつぶして、バケット氏のほうを眺める。「ちっとも似ていねえよ!」
「それじゃ、なんだって」とバケット大人は立っている女を指でさしながら鋭くいい返す。「これがその婦人だなんていったんだ?」
「だって」といってジョーは当惑したまま、目を見はっているが、確信を少しもゆるがせずに、「だってあれはあの人のヴェールと、帽子と、ガウンだもの。こりゃあの人で、あの人じゃねえ。あの人の手じゃねえし、あの人の指環でもねえし、あの人の声でもねえよ。でも、ありゃあの人のヴェールと、帽子と、ガウンだし、あの人がしてたと同じようにかぶってるし、この人の背の高さはあの人と同じだし、あの人はおいらにソヴェリン金貨を一枚くれて、ずらかっちゃったんだもの」
「そうか」バケット氏はむぞうさにいう。「おまえ[#「おまえ」に傍点]はあまりわれわれの役に立たなかった。しかし、とにかく、五シリングやろう。使いかたに気をつけて、警察に呼ばれないようにしろよ」バケットは数取り札でも扱うように、音も立てずに、一シリング銀貨を片方の手から他方の手へ数え入れ――これがいつも彼の|癖《くせ》で、彼にとって硬貨は、おもにこういう手品をやるために必要なのである――それを重ねて相手の手に持たせ、少年をつれて表のドアのほうへ出てゆく。あとに残されたスナグズビー氏は、こういう不可解な事情のもとに、ヴェールをつけた人物と二人きりになるので、たいそう気持が悪い。しかし、タルキングホーン氏が部屋にはいって来ると、この人物はヴェールをぬぎ、その下から、表情にかなりどぎついところがあるけれども、かなりみめのよいフランス女があらわれる。
「ありがとう、マドモアゼル・オルタンス」とタルキングホーン氏は、いつもどおり落着いていう。「もうこれ以上このちょっとした|賭《かけ》に、あんたの手をわずらわせることはしないよ」
「どうぞお願いですから、先生」とマドモアゼルがいう。「私がただいま職に就いていないことをお忘れではございませんでしょうね?」
「もちろんだとも、もちろんだとも!」
「それから、先生のご推薦もいただけますのでしょうね?」
「よろしいとも、マドモアゼル・オルタンス」
「タルキングホーン先生のお言葉ぞえがあれば、ほんとに頼りになりますわ」――「かならず口ぞえをしてあげるよ、マドモアゼル」――「心から厚くお礼申上げます」――「おやすみ」マドモアゼルは持ち前の、いかにもお上品な態度を見せながら部屋を出てゆくが、バケット氏も非常の場合には、式部官にでもなんにでも、たくまずしてなれる男なので、いんぎんな礼に欠けることなく、彼女を階下まで見送りにゆく。
「どうかね、バケット?」彼が戻って来るとタルキングホーン氏が尋ねる。
「あの話は全部たしかでしたよ、私が自身でたしかめたんですから。今の女の洋服を別の女が着ていたことは、疑う余地がありませんです。色やその他いっさいについて、あの少年は精確でした。スナグズビーさん、私はあの子をまちがいなく帰してやるとお約束しましたね。約束をはたさなかったなんて、いわないで下さいよ!」
「あなたは約束を守って下さいました」と文房具商が答える。「それで、もうこれ以上わたくしとしてお役に立つことがございませんでしたら、タルキングホーン先生、うちのちびが心配いたしますでしょうから、わたくしは――」
「ありがとう、スナグズビー、もうこれ以上役に立つことはないな。今まで骨を折ってくれて、大いに感謝しているよ」
「どういたしまして。おやすみなさいませ」
「ねえ、スナグズビーさん」といいながら、バケットはドアのところまで彼についてゆく。「私があなたを好きなのは、かまをかけて、なにかいわせようとしても、その手に乗らない人だからです、あなた[#「あなた」に傍点]はそういう人ですよ。ご自分が正しいことをしたと悟ると、万事胸に納めて、これでけりがついたと、いっさいおしまいにしてしまうんです。それがあなた[#「あなた」に傍点]のやりかたですね」
「たしかに、わたくしはそうしようと努めておりますよ」とスナグズビー氏は答える。
「いや、それでは言葉がまだ足りません。しようと努めているんじゃありませんよ」といってバケット氏は彼と握手して、たいそうやさしく祝福しながら、「現にそうなさって[#「なさって」に傍点]いるんです。あなたのようなご商売のかたに対して、私が敬服しているのはその点ですよ」
スナグズビー氏はしかるべき返事をして家路に向うが、今晩の出来事で頭がすっかり混乱しているので、自分が目を覚まして外出しているのか――歩いている通りが本物なのか――頭の上で輝いている月が本物なのか、自分でもよく分らない。しかし、まもなく、彼の細君がカールペーパーとナイトキャップを、蜜蜂の巣さながら頭につけたまま、寝もやらず起きている疑うべくもない本物の姿を見て、こういった疑惑は氷解する。細君は夫が殺されたと、ガスタを警察へやって正式に届け出し、今まで二時間のあいだ、きわめてしとやかなかっこうで気絶に気絶をかさねていたのである。しかし、自分でも感激していうとおり、ちびの細君は厚くお礼をいわれる!
[#改ページ]
第二十三章 エスタの物語
私たちはボイソーンさんのお宅で楽しい六週間を過したのち家へ帰りました。滞在中は、たびたびデッドロック家の猟園と森へ出かけ、あの雷雨の時に雨宿りをした番人小屋のわきを通るたびに、ほとんどいつも小屋に立ち寄っておかみさんに言葉をかけましたが、もう奥方さまの姿は、日曜日の教会でのほか、見かけることがありませんでした。チェスニー・ウォールドのお屋敷にはお客さまが見えていましたので、教会では奥方さまは何人か美しい人たちにとり囲まれていましたけれども、奥方さまの顔を見ると、あい変らず私は最初の時と同じ感じを受けました。それが苦しかったのか、うれしかったのか、惹きつけられたのか、恐れをなしたのか、今でもはっきり分らないのです。一種の恐怖をいだきながらも、奥方さまを崇拝していたと思いますし、このかたを|目《ま》のあたりに見ると、私の思いは、最初の時と同じように、われ知らず、あの幼いむかしのころに立ち帰っていったことを、よく覚えています。
そういう日曜日に、一度ならず私は、この貴婦人と私とのこんなに奇妙な関係は、奥方さまにとっても当てはまるのではないかしらと――つまり、奥方さまが私に動揺を与えると同じように、私のほうでも奥方さまの心を、たとえいくぶんか相違はあるにもせよ、かき乱しているのではないかしらと、ふと思いました。けれども、奥方さまのほうを盗み見して、そのいかにも落着き払って、よそよそしく、近寄りがたいさまを眺めると、そんなことを考えるのは、おろかしい心弱さのさせるわざだと感じました。それどころか、奥方さまに関する私の気持は、すべてみな分別を欠いた、おろかなことだと感じ、こんなことを考えるのはできるかぎり慎しもうと反省しました。
ボイソーンさんの家を去る前に起った事件を一つ、ここに書いておくほうがよいと思います。
ちょうどエイダと二人で庭を散歩していた時に、私に会いに来た者がいると告げられました。その人が待っている朝食の間へはいって見ると、それはあの雷鳴の日に、くつを脱ぎ捨てて、ぬれた草の中を歩いていった、例のフランス人の侍女でした。
「マドモアゼル」と相手は口を切りながら、ひどくひたむきな目つきで私を見すえましたが、その点を除けば、感じのよい様子をしていて、話しぶりも格別厚かましくも卑屈でもありませんでした。「たいそうぶしつけにお訪ねいたしましたが、やさしいお嬢さまのことですから、お赦し下さることと存じます、マドモアゼル」
「そんなご心配はいりませんわ」と私は答えました。「もし私にお話がおありなのでしたら」
「はい、それがわたくしのお願いでございますわ。お赦し下さいまして、ほんとうにありがとう存じます。お話し申上げてもよろしいのでございますね?」侍女は早い、飾り気のない口ぶりでいいました。
「もちろんですわ」
「マドモアゼル、ほんとうにやさしいかたですこと! それでは恐れ入りますが、お聞き下さいませ。わたくしはもう奥方さまからおひまをいただきました。おたがいに意見が合わなかったのでございます。奥方さまはとても気位の高いかたなのです。とても、とても高いかたなのです。ご免下さいませ! マドモアゼル、まったく、そのとおりでございますわ!」利口な侍女は、私がまもなく口に出しそうなことを、まだ考えたばかりのうちに早くも機先を制して、こういいました。「こちらのお宅へ参って、奥方さまについての不平を申上げるなんて、わたくしのなすべきことではございませんでした。でも、たしかに、あの奥方さまはとても気位の高いかたなのです。とても、とても高いかたなのです。もうそれについては、ひとことも申しません」
「どうぞ先をつづけて下さい」
「かしこまりました、ごていねいにありがとう存じます。マドモアゼル、じつは、わたくしはやさしくて、教養が深く、美しいご令嬢にご奉公いたしたくてたまらないのでございます。お嬢さまは天使のように、おやさしくて、教養が深く、美しいかたでいらっしゃいます。ああ、もしわたくしをあなたさまの召使にさせていただけましたら!」
「お気の毒ですけれども――」と私がいいかけました。
「そんなにいそいでおことわりにならないで下さいませ、マドモアゼル!」と侍女はいいながら、思わずそのきれいな黒いまゆ毛をひそめました。「もうしばらく望みを持たせて下さいませ! マドモアゼル、今度のご奉公が、今までのご奉公より地味なものであることは存じております。はい! それは望むところでございます。今度のご奉公が、今までのご奉公よりはなやかでないことは存じております。はい! それは望むところでございます。こちらさまに参れば、お給金も少なくなることは存じております。けっこうでございますわ。それで満足いたします」
「ほんとうです」私はこんな|側仕《そばづか》えを持つことを考えただけで、もうすっかり当惑して、「私は侍女など置きませんから――」
「まあ、マドモアゼル、なぜでございますか? お嬢さまに一身を捧げる侍女が雇えますのに! ご奉公できれば大よろこびいたしますのに、毎日、とてもまじめに、いっしょうけんめいに、忠実にお仕えいたしますのに! マドモアゼル、わたくしは心からお嬢さまにご奉公いたしたいのです。お金のことなど、今はおっしゃらないで下さいませ。わたくしを、このままでお雇いになって下さい。ただで!」
侍女が異様に真剣なので、私はうす気味悪くなって、しりごみしました。相手は気づいた様子もなく、意気ごんで、なおも私を説き伏せようと、一種なんともいえぬしとやかさと礼儀は、あくまで失いませんでしたが、声を低めて早口にしゃべるのでした。
「マドモアゼル、わたくしは南国の人間でございますから、気が短くて、好ききらいがとても激しいのです。デッドロック家の奥方さまは、わたくしにとって、気位が高すぎましたし、わたくしは奥方さまにとって気位が高すぎました。もうそれは終りました――すみました――かたづきました! わたくしをお嬢さまの召使にして下さいませ、そうしましたら、りっぱにご奉公いたしますわ。今のお嬢さまにはご想像もつかないほど、お尽しいたします。ああ、じれったいこと! マドモアゼル、わたくしは――なんでもございません、万事につけて、できるかぎりのことをいたしますわ。もしお雇い下さいましたら、後悔なさるようなことはございませんわ。マドモアゼル、後悔なさるようなことはございませんわ、りっぱにご奉公いたしますから。お嬢さまにはお分りにならないほど、りっぱに!」
あなたを侍女になど雇える身分ではないと(じつは雇いたくないことまで告げる必要はないと思いましたから)説明する私を、立って眺めているフランス女の顔に、烈しい|憤懣《ふんまん》の色が浮びましたので、なんとなく、大革命の恐怖時代にパリの街頭にいた女が、目の前にあらわれたような気がしました。しかし、相手は話をさえぎりもせず、終りまで聞き、それから、しごくおだやかな声で愛想よく、こういいました。
「まあ、マドモアゼル、ご返事たしかにうけたまわりました! 残念でございます。でも、どこかほかへ参って、お勤めを探さなければなりませんわ。恐れ入りますが、お嬢さまのお手にキスさせていただけますか?」
侍女は手をとると、前よりも一層熱心に私を見つめ、一瞬くちびるを触れただけで、あらゆる血管の動きを感じとったらしいのです。「お嬢さまは、あの雷雨の日に、わたくしにびっくりなさいましたでしょうね?」
私は、自分だけでなく、みながびっくりしたことを打ち明けました。
「マドモアゼル、わたくしはある誓いを立てたのでございます」と侍女は微笑を浮べながらいいました、「それで、誓いを忠実に守れますように、一歩一歩ふみつけて心に刻みつけたのでございます。この誓いを、わたくし、守りますわ! ごきげんよう、マドモアゼル!」
こうして話は終り、私はまったくほっとしました。たぶん、フランス女は村を立ち去ったのでしょう、二度と姿を見かけることはありませんでしたし、この出来事以外に、私たちの夏の静かな楽しみを、かき乱す事件も起らず、六週間がすぎて、さきほど初めに申したとおり、私たちは家へ戻りました。
この頃も、それから何週間あとも、リチャードは絶えず訪ねて参りました。毎週、土曜か日曜に来て、月曜の朝まで滞在したばかりでなく、時には、ふいに馬に乗ってやって来て、一晩いっしょに過したのち、翌朝早く帰ってゆきました。あい変らず元気で、自分では、一所懸命勉強していると申しましたけれども、私は安心しませんでした。リチャードの勉強は、全部、誤った方向に向けられているらしいのでした。私の知ったところでは、こういう勉強の結果、リチャードは、もうすでにあれほど多くの不幸と破滅をひき起し、害毒を流している例の訴訟に、いろいろ|空《むな》しい期待をかけるようになっただけでした。リチャードの話を聞いてみると、自分はもうこの不可解な訴訟の核心をつかんでいるから、もし大法官裁判所に少しでも良識と正義とがあるならば――しかし、ああ、この仮定が、私の耳には、なんという大きな「もし」に聞えたことでしょう――リチャードとエイダが何千ポンドか知れぬ莫大な財産を受けとる遺言の効力が、かならずや最終的な確定を見るに相違ないことは、明々白々で、めでたい大団円を迎えるまでたいして手間どるはずがない、ということでした。それをリチャードは、自分たちの側のうんざりするような弁論を全部研究して確かめ、弁論の一つ一つを読むたびに、ますますのぼせ上ってしまいました。そしてもう大法官裁判所|通《がよ》いまで始めていたのです。リチャードの話によると、裁判所では例のフライトさんと毎日顔を合わせ、いっしょに話し合い、ちょっとした世話をしてあげ、一面では笑い物にしていたものの、また心からあわれんでいました。けれども、その時、自分のみずみずしい青春と、あの人のしぼんだ老年、自分の自由な希望と、あの人のかごの鳥、飢えた屋根裏部屋、狂った心とのあいだに、どんな宿命のきずなが結ばれつつあったかを、一度として思い見たことがなかったのです――かわいそうに、私の親愛な、ほがらかなリチャード、あの時あれほど多くの幸福を手に入れることができ、前途にあれほどたくさんの|幸《しあわ》せが待ちかまえていたのに!
エイダはたいそうリチャードを愛していましたから、すべてリチャードのいうこと、することを、あまり疑ったりしませんでしたし、ジャーンディスおじさまは東風が吹くといって、たびたびこぼし、「怒りの部屋」にこもって読書をすることが、ふだんより多かったのですが、この問題については堅く沈黙を守っていました。そこで私は、ある日、キャディ・ジェリビーにせがまれて、ロンドンへ出かけた日に、乗合馬車の駅へリチャードに来てもらって待合わせ、二人で少し話合いをしようと考えました。駅へ着くとリチャードはもう来ていましたので、私たちは腕を組んで歩き出しました。
「ところでね、リチャード」私は改まった顔をしてリチャードに向うことができるようになると、すぐにいいました。「もう前より落着いて来ましたか?」
「ええ、もちろんです! 大丈夫ですよ」
「でも、落着きましたか?」
「どういう意味です、落着いたかというのは?」リチャードは陽気な笑い声を立てながら、聞き返しました。
「落着いて法律をなさっているのかしらということよ」
「ああ、そう」とリチャードは答えました。「大丈夫ですよ」
「前にもそうおっしゃいましたわね、リチャード」
「これじゃ返事にならないっていうんですね? そうか! たぶん、そうでしょうね。落着いた? つまり、落着いて腰をすえて来たような気がするかっていうんですね?」
「ええ」
「いや、だめですね、落着いて腰をすえて来たとはいえませんね」とリチャードは、そうするのがいかにも困難だといわんばかりに、「腰をすえて」というところに、たいそう力をこめていいました。「だって、この問題がすっかり落着かないかぎり、僕は落着いて腰をすえるわけにいきませんね。この問題っていうのは、むろん、例の、――禁物の話題ですよ」
「その問題が落着くことがあると思っていらっしゃいますの?」
「その点は疑う余地がありませんね」とリチャードは答えました。
私たちはなにもいわずに、少し歩いてゆきましたが、まもなくリチャードはたいそう率直に、しみじみ話しかけて来ました。
「ねえ、エスタ、あなたのいうことは分ります、僕はほんとに、自分がもっと忠実な男だったらいいと思っているんですよ。エイダに対して忠実だったらというんじゃありません、僕はあの人を心から愛しているんですから――毎日ますます強くね――そうじゃなくて、自分に対して忠実だったらと思うんです。(それがどういう意味か、どうも僕にはうまくいえないけれども、あなたには見当がつくでしょう)。もし僕がもっと忠実な男だったら、バジャー先生なり、ケンジ・アンド・カーボイ事務所に、しっかりすがりついて来て、今ごろは安定して、規則正しくやり始め、借金なんか作ってはいないでしょうし――」
「ほんとに[#「ほんとに」に傍点]借金があるんですか、リチャード?」
「ええ、少しばかりね。それに、僕は玉突きやなんかに、ちょっとこりすぎました。さあ、秘密がばれた、僕を軽蔑しているんじゃない、エスタ?」
「そんなこと、ありませんわ」
「あなたは思いやりのある人ですねえ、僕は自分ながら愛想がつきることが多いんですよ」とリチャードは答えました。「ねえ、エスタ、僕はこんなに落着かない、まったく不しあわせなやつですが、しかし、どうしてこれ以上落着くことができる[#「できる」に傍点]んです? あなただって、まだ未完成の家の中に住んでいたら、落着いて腰をすえることはできないでしょう。する事なす事、すべて未完成のうちにやめるように生れついていたら、あなただって、一つの事に没頭するのが困難だと悟るでしょう。しかも、不幸なことに僕がそういう人間なんです。|勝目《かちめ》、|負目《まけめ》、いろんな変化に富んだ、この未完成の紛争の中へ生れて来たので、僕は法律の|訴訟《シユート》と、洋服の|三つ組《シユート》の相違もろくに知らないうちから、落着きをなくし始め、以来ずっとこの訴訟のために落着きを奪われとおしたあげく、今では、僕を信じきっている|従妹《いとこ》のエイダを愛する資格さえない男なのだ、と時々気づくこともある始末なんです」
私たちは人通りのない場所にいましたので、リチャードは両手を目に当て、話しながら涙にむせぶのでした。
「まあ、リチャード、そんなに興奮してはいけないわ。あなたは高潔な気性のかたなんですもの、エイダの愛情で、一日一日とりっぱになってゆきますよ」
「それはね、君」とリチャードは私の腕を握りしめながら答えました。「それはね、僕もよく知っています。心配しちゃいけません、僕は今ちょっと涙もろくなっているんですよ、だって長いあいだずっと、こういうことが全部気にかかっていて、何度も、君に話すつもりになったけれども、ある時は機会がなく、ある時は勇気がなかったんです。エイダのことを思えば、当然しっかりすべきなのに、だめなんです。気持が落着かないために、それができません。僕はほんとに心からエイダを愛しているくせに、自分自身に対して罪をかさねているため、エイダに対しても、毎日毎時間、罪をかさねているんです。しかし、こんなことが永久につづくはずはありません。そのうちに最終審理がおこなわれて、有利な判決が下りますよ、そうしたら、僕がほんとにどんな者になれるのか、あなたとエイダに見せてあげますよ!」
つい今しがた、リチャードがむせび泣くのを聞き、その指のあいだから涙があふれ出るのを見て、私の胸はうずきましたが、今、希望に燃えて元気よく、こういい放ったリチャードのいたましさに較べると、それはもう物の数でなくなりました。
「ずっと僕はいろんな書類を、くわしく調べていたんです、エスタ――何カ月も調査に没頭して来たんです」とリチャードは、たちまち快活さをとり戻して、言葉をつづけました。「大丈夫、僕らの勝訴になりますよ。事件が長年、手間どった点についていえば、ほんとにずいぶん、長らく手間どりました! しかし、それだけに、僕らがこの訴訟を迅速に終結させる公算が多いわけです。最後にはうまくいきますよ、そうしたらどうなるか、まあ見ていらっしゃい!」
さっき、リチャードがケンジ・アンド・カーボイ法律事務所のことを、バジャー先生のところと同じようにいっていたのを思い出しましたので、私はリチャードに、いつリンカン法曹学院の研修弁護士になるつもりなのか尋ねました。
「ああ、またそれをいう! 僕には全然そのつもりはないと思いますよ、エスタ」とリチャードはようやく答えました。「もうたくさんだという気がするんです。僕はジャーンディス対ジャーンディス事件に、まるで奴隷みたいに力を注いだので、もう法律熱を満足させてしまって、法律をやりたくないという確信を得ました。そればかりでなく、そんなにいつも現場にいれば、ますます落着かなくなると悟っているんです。そこで」とリチャードはもう自信をとり戻して、「今度僕が当然志望するのは、なんでしょう?」
「私には想像がつきませんわ」
「そんなに深刻な顔をしないで下さい」とリチャードが答えました。「だって、これが僕には一番いいことなんですから、ねえ、エスタ、ほんとです。僕には、一生涯つづける専門的な職業は不必要のようですね。今にこの訴訟が終れば、僕は自活できるんです。そんな必要はないんです。だから今度の職は、その性質上、多かれ少なかれ不安定で、従って僕の一時的な生活状態に適した――最適だといってもいい――職だと僕は見ています。今度僕が当然志望するのは、なんでしょう?」
私はリチャードを眺めて、かぶりを振りました。
「ねえ」リチャードはたいそう確信ありげな調子でいいました。「陸軍ですよ!」
「陸軍ですって?」
「陸軍です、もちろん。まず僕がしなければならないのは、将校に任官することです、そして――そら、このとおりですよ、ね!」
そういってリチャードが、手帳に書いた、くわしい計算を証拠に説明したところによりますと、これまで陸軍にはいらないあいだは、大体、半年に二百ポンドの借金をつくったけれども、陸軍にはいって同じ期間に全然借金をつくらないとすれば――その点は、堅い決心をしたから大丈夫といいました――一年で四百ポンド、または五年で二千ポンドの貯金ができるはずで、これは相当な金額だということでした。それからまた、当分のあいだエイダから離れるのは、大きな犠牲であるけれども、エイダの愛に報い、その幸福を確保し、自分の欠陥に打ち勝って、|不撓不屈《ふとうふくつ》な気性を身につけたいと熱望しているということを――リチャードがいつも心の中でそう望んでいたのを、私は知りすぎるほど知っているのです――たいそう率直に、誠意を見せて話すので、私は胸が痛んでなりませんでした。というのは、触れるものすべてを亡ぼす、あの命とりの病気のために、リチャードの男らしい美点がみな、やがてすぐにも、まちがいなく|損《そこな》われてしまうのであってみれば、リチャードの今度のことが、どんな結末を告げるのだろうか、一体どんな結末を告げるのかしら、と考えたからでした!
私はあらんかぎりの熱意をこめ、あまり期待は持てませんでしたが、とにかく精一杯の望みをかけて、リチャードに話をし、大法官府などを当てにしないように、エイダのために懇願しました。リチャードは私の申し出全部に、よろこんで応じましたが、例のとおりのんきに、裁判所その他すべてのことは素通りにして、自分がそのうち落着いて、どんな人物になるかを、ひどく楽観的に物語るのでした――それも、ああ、なんということでしょう、あの歎きの種になる訴訟から解放された暁に、というのです! 私たちは長いこと話し合いましたが、大体、話はいつもそこへ戻って来るのでした。
とうとう私たちはソホー広場まで来てしまいましたが、ここは、ニューマン街附近の静かなところだというので、キャディ・ジェリビーが私に約束した、待ち合わせの場所なのでした。キャディは広場の中央の庭園に来ていて、私が姿を見せるや、大急ぎで出て来ました。リチャードは元気よく少し話をしてから、私たちを二人にして立ち去りました。
「プリンスは道路の向うの自宅で、生徒を教えているもんですから、エスタ」とキャディがいいました。「あたしたちのために、この庭の鍵を借りてくれたのよ。ですから、もしあなたがあたしといっしょに、ここをぐるぐる歩いて下さるなら、庭に鍵をかけて、なぜあなたのなつかしい顔を見たかったのか、その用向きを落着いてお話しできるんですけど」
「ええ、けっこうよ。それが一番いいでしょう」と私はいいました。そこでキャディは、今自分でいったその「なつかしい顔」を、やさしく抱きしめてから、門に鍵をかけ、私の腕をとり、二人で心楽しく庭園の中を散歩し始めました。
「ねえ、エスタ」というキャディは、こういうちょっとした打明け話を心から楽しみにしているのでした。「あたしがママに知らせずに結婚したり、いいえ、結婚どころか、婚約したことだって、長いあいだ内証にしておくのはよくないって、あなたにいわれてから――でも、じつをいえば、ママはあたしのことなんか、どっちでもいいんでしょうが――あたし、この意見をプリンスに話すべきだと考えたの。だってあたしは、まず第一に、あなたのいって下さることは、なんでも学びたいし、第二に、プリンスに対しては、どんなことでも隠し立てをしないからなの」
「プリンスは賛成してくれたのでしょうね?」
「あら、あなた! あなたのいうことだったら、きっと、なんでも賛成してくれるわ。あの人がどんなにあなたを尊敬しているのか、ちっとも知らないのね」
「まさか、そんなこと!」
「エスタ、あたしでなかったら、やきもちを焼くところよ」とキャディは笑って、かぶりを振りながらいいました。「でも、あたしはほんとにうれしいの、だってあなたはあたしの初めてのお友だちだし、これ以上いいお友だちはできっこないんですもの。だれがどんなにあなたを尊敬し愛しても、まだ足りないくらい、あたしはよろこんでいるのよ」
「ほんとに、キャディ、あなたたちはみんなで申し合わせて、私をうれしがらせようとしているのね。それで、どうなったの?」
「それでね! 今、お話しするわ」と答えると、キャディは打ち解けて両手を私の腕の上で組み合わせ、「そういうわけで、あたしたちはそのことについて、いろいろ話し合って、あたしがプリンスにいったの。『プリンス、サマソンさんは』」
「『サマソンさん』なんて、いわなかったのでしょうね?」
「ええ。いわなかったわ!」とキャディはいかにも満足らしく、たいそう明るい表情をして、大きな声を出しました。「『エスタ』といったのよ。あたし、プリンスにこういったの。『プリンス、エスタは断然そういう意見で、あたしに向ってそういったことがあるし、手紙の中でも、ほら、あたしが読んであげると、あなたがとてもよろこんで聞いてくれる、ああいうやさしい手紙の中でも、いつもその意見をほのめかしているのよ。それであたしはあなたが適当だと考えたら、いつでもママに事実を打ち明ける覚悟を決めているの。それに、あたしの考えでは、プリンス、エスタはね、あなたが自分のパパにも同じように打ち明けて下さったら、あたしがもっとりっぱな、もっと正しい、もっと恥ずかしくない立場に立つだろうと、考えているのよ』」
「ええ、そうよ」と私はいいました。「エスタはたしかにそう考えているのよ」
「それじゃ、あたしのいったとおりだったのね!」とキャディが叫びました。「ところでね! プリンスはこのことで、かなり悩んだのよ、といっても、それに露ほども疑いを持ったわけじゃなくて、お父さんのターヴィドロップさんの気持を、いろいろ思いやっているからで、そんなことを告げたら、ターヴィドロップさんの胸がはりさけたり、気絶をしたり、激しい衝撃で参ってしまったりするのじゃないかと懸念したの。つまり、このことを親不孝の振舞だと考えて、耐えきれないようなショックを受けはしないかと心配したわけよ。だって、ターヴィドロップさんはね、エスタ、立居振舞がたいそう優雅で、とても感じやすい人なんですもの」
「そうかしら?」
「あら、とても感じやすいのよ。プリンスがそういっているわ。そんなわけで、あたしのかわいい子は――あなたを相手に、こんないいかたをするつもりはなかったんだけど、エスタ」とキャディは顔じゅうを赤くさせて弁解しました。「でも、あたし、たいがいプリンスのことを、あたしのかわいい子って呼んでいるのよ」
私が笑うと、キャディも笑って顔を赤らめ、それから話をつづけました。
「そんなわけで、エスタ、あの人は――」
「だれがなの?」
「まあ、いやな人!」キャディはきれいな顔を真赤にさせて、笑いながらいいました。「どうしてもいえっていうなら、いうわ、あたしのかわいい子がよ! そんなわけで、あの人は何週間も不安に過して、とても心配しながら、一日延ばしに延ばして来たのよ。そして、とうとう、あたしにこういったの、『キャディ、サマソンさんは僕のお父さまの大のお気に入りだから、もしサマソンさんを説き伏せて、同席してもらえたら、僕はお父さまにこの話を打ち明けることができそうに思うんです』それであたしがあなたにお願いするって約束したわけ。そればかりでなく、もう一つ決心したことがあるの」とキャディは期待をかけながらも、気づかわしげに私のほうを眺めて、「もし今の話を承知して下さったら、そのあとでお頼みしようと思ったんですけれど、あたしといっしょに、ママのところへいっていただけないかしら。このあいだの手紙に、ぜひご助力、ご支援を賜わりたいことがございますと書いたのは、そのことでしたの。そうしてあげてもいいとお思いでしたら、エスタ、あたしども二人とも、ほんとに感謝いたしますわ」
「そうね、ちょっと待って下さい、キャディ」その改まった言葉に、私はわざと思案するようなふりをしながら、いいました。「もし火急の必要がございましたら、もっと重大なことでもしてさしあげてよろしいと思いますよ、ほんとに。あなたと、あなたのかわいい子、おふたかたの、いつでもお好きな時に、なんなりとご用命下さいませ」
私のこの返事に、キャディはすっかり有頂天になってしまいました。きっとキャディが、世界中のどんな心やさしい人にもおとらぬほど、ごくささいな親切や励ましにも敏感な子だったからでしょう。そして私たちはまた一、二回庭園をめぐり歩き、そのあいだにキャディは真新しい手袋をはめ、精一杯きらびやかに身支度をととのえ、行儀作法の大家ターヴィドロップさんの面目を、できるだけ傷つけないように注意して二人でまっすぐニューマン街に向いました。
もちろん、プリンスはダンスの教授中でした。相手はあまりかんばしからぬ生徒で――すねた顔に、野太い声をした少女に、活気のない不満げなママが付添っていました――私たちの出現で、先生がろうばいしてしまいましたけれども、生徒の出来ばえは、やはりかんばしくありませんでした。レッスンはひどく調子の合わない進行ぶりでしたが、とうとうそれも終り、少女はくつをはき替え、白モスリンの洋服をショールでくるんでから、母親につれられて帰りました。私たちは少し打ち合わせをしたのち、ターヴィドロップさんを探しにゆきますと、自分の私室の――それが家じゅうで唯一つの居心地のよい部屋なのでした――ソファーの上に、行儀作法のお手本よろしく、帽子や手袋とならんで腰かけていました。軽い食事のあいまに、ゆっくり服装をととのえたと見え、まわりには化粧道具入れ、ブラッシ類その他、どれもこれもたいそう優雅なつくりの品々がちらばっていました。
「お父さま、サマソンさんとジェリビーさんです」
「これはようこそ! ご光来欣快に存じます!」とターヴィドロップさんは立ち上って肩を高く張ったまま、お辞儀をしていいました。それから椅子を出して「失礼ながら!」、自分の左手の指にキスしながら「どうぞおかけ下さい!」、目を閉じたり、ぐるぐる回したりしながら「まことによろこばしい次第で!」、そして「わたくしのささやかな隠宅がパラダイスと変りました」といって、いかにも摂政宮殿下に次ぐヨーロッパ第二の紳士らしく、ふたたびソファーにすわりました。
「またしてもご覧のとおり、サマソンさん、わたくしどもはつたないたしなみによって、磨きに磨くことに努めております! またしても、ご婦人がうるわしいお姿をお見せ下さいまして、わたくしどもも励みがいがあるというものでございます。行儀作法がいまだかならずしも、職工どもにふみにじられていないことを知るのは、当今すばらしいことでございます(あの摂政宮殿下の――こう申しては僭越ながら、わたくしのパトロンの――時代以来、わたくしどもはまったく堕落してしまいました)、行儀作法が今なお佳人のほほえみに浴することができますとは、お嬢さま」
私はなにもいいませんでした、それが、そういう言葉にふさわしい返事だと思ったからです。それでターヴィドロップさんは|嗅《か》ぎ煙草を一服しました。
「せがれや」とターヴィドロップさんがいいました。「おまえ、今日の午後は教習所へ四箇所ゆくのだよ。急いでサンドイッチでも食べるほうがいいだろう」
「ありがとうございます、お父さま」とプリンスは答えました。「かならず時間におくれないようにいたします。ねえ、お父さま、お話をしたいことがありますから、お気を静めて聞いていただけないでしょうか!」
「これはしたり!」と行儀作法の亀鑑は、手をとり合ったプリンスとキャディが、自分の前に来て身をかがめると、びっくり仰天して色を失い、絶叫しました。「どうかしたのか? 気でも狂ったのか? それとも、どうかしたのか?」
「お父さま」とプリンスはたいそう従順に答えました。「僕はこのお嬢さんを愛しているので、二人は婚約したのです」
「婚約をしたと!」ターヴィドロップさんはソファーによりかかり、片手で目を覆って、大声をあげました。「肉親のわが子の手で脳天に矢を射ちこまれるとは!」
「僕たちはしばらく前から婚約していたのですが」とプリンスは口ごもりながらいいました。「サマソンさんがその話を聞かれて、お父さまに事実を正式に告げるよう忠告して、今日付添って下さったのです。ジェリビーさんは、お父さまを心から尊敬しているかたなのですよ、お父さま」
ターヴィドロップさんはうめき声をあげました。
「いけません、どうぞやめて下さい! どうぞやめて下さい、お父さま」と息子さんがせがみました。「ジェリビーさんは、お父さまを心から尊敬しているかたですし、僕たちの第一の願いはお父さまを安楽にしてあげることなのです」
ターヴィドロップさんはむせび泣きました。
「息子よ、天国へいったおまえのお母さまが、この苦しみを受けずにすんでよかった。深く刺しなさい、容赦せずに。ぐさりと刺すがよい、ぐさりと刺すがよい!」
「どうぞ、そんなことをおっしゃらないで下さい、お父さま」とプリンスは涙ながらに哀願しました。「胸にこたえます。ほんとうですよ、お父さま、僕たちの第一の希望と計画は、お父さまを安楽にしてあげることなのです。キャロラインと僕は自分たちの義務を忘れてはいません――二人でたびたび話し合って来たのですが、僕の義務は同時にキャロラインの義務なのです――それで、お父さまから同意と承諾をえれば、僕たちはお父さまの生活を楽しくするために、一身を捧げるつもりですよ」
「ぐさりと刺すがよい」とターヴィドロップさんがつぶやきました。「ぐさりと刺すがよい!」
しかし、ターヴィドロップさんは、耳を傾けて聞いているようにも見えました。
「ねえ、お父さま」とプリンスが答えました。「僕たちは、お父さまがきわめてささやかな安楽に慣れていらっしゃることも、それを受ける権利がおありのことも、充分承知していますから、なによりもまず、お父さまを安楽にしてさしあげることを、いつも僕たちの勤めと誇りにします。もしお父さまから同意と承諾がいただけるなら、お父さまのお好きな時まで、僕たちは結婚しようなどと思いませんし、またじっさいに[#「じっさいに」に傍点]結婚した暁には、いつも、もちろん、お父さま第一主義でやってゆきますよ。この家では、いつでもお父さまが家長でなければいけませんし、そういうことが分らなかったり、お父さまを満足させるために、できるかぎりの努力をすることができないようでしたら、まったく人間の道にはずれていると、僕たちは思っています」
ターヴィドロップさんは内心の激しい苦闘をこらえて、両のほおをかたいネッカチーフの上でふくらませたまま、ふたたびソファーに起き直りましたが、それは人の親たる者の立居振舞のお手本として、非の打ちどころのない姿でした。
「せがれや!」とターヴィドロップさんはいいました。「わたしの子供たち! おまえたちの願いにさからうことはできないよ。しあわせにおなり!」
ターヴィドロップさんが、息子さんの未来の妻を立たせて、片手を息子さんに差し出した時の恵み深さといったら(その手に、息子さんはやさしく尊敬と感謝の念をこめてキスしました)私のいまだかつて見たこともない、気恥ずかしくなるような光景でした。
「わたしの子供たち」とターヴィドロップさんは、自分のわきに腰かけたキャディを、いかにも父親らしく左の腕でかかえ、右手を品よくおしりの上に置いて、いいました。「せがれと娘や、これからは、おまえたちのしあわせがわたしの配慮すべき事柄になるのだ。わたしはおまえたちを守ってあげよう。おまえたちはいつもわたしといっしょに暮すのだ」もちろん、これは、わたしはいつもおまえたちといっしょに暮すのだ、という意味でした。「これからは、この家は、わたしのものであるとともに、おまえたちのものなのだよ、自分のうちだと思っていなさい。願わくは、おまえたちが長寿を保ち、わたしとともにこの家に住まわんことを!」
ターヴィドロップさんの行儀作法の偉力はたいしたもので、まるで二人は、父親を自分のところに置いてあげるのでなくて、むしろ逆に父親から、好意あふれる犠牲を払ってあげようといわれたみたいに、すっかり感謝感激してしまいました。
「子供たちよ、わたしは」とターヴィドロップさんがいいました。「黄色い枯葉(1)になり始めたし、今かすかに最後の名残りをとどめている紳士の行儀作法も、この機織と紡績の時代では、はたしていつまで生きながらえ得るのか分ったものではない。しかし、それがながらえているかぎり、わたしは社会に対する自分の義務をつくし、いつものとおり、町の中を歩いて、この姿を見せてやるつもりだよ。わたしの欲望はいたって少なく簡素なものだ。このちいさな部屋、欠かすことのできない、わずかな化粧道具、質素な朝食、そしてささやかな晩餐、それで足りる。これだけの必要品の心配は、おまえの親孝行に任せて、あとは全部わたしが引き受けてあげるよ」
ターヴィドロップさんのこのなみなみならぬ寛大さに、二人はまたしても感激を新たにしました。
「せがれや」ターヴィドロップさんがいいました。「おまえに欠けている、いくつかのちょっとした点については――つまり、人間に生れつき備わっている、優雅な立居振舞に関する点だが、これは修練によって向上させることはできても、新しくつくり出すことは絶対できないのだから――やはりわたしに任せるがいい。摂政宮殿下の時代以来、わたしは自分の任務を忠実に守って来て、今でもそれを棄てるつもりはない。うそではないよ。もしおまえが父のこの微々たる役目を誇らしく思ったことがあるなら、安心するがよい、父は決してこの役目をけがすようなことはしないから。ところが、おまえは、プリンス、性格がちがうのだから(わたしたちは、みながみな同じようになることはできないし、そうなるのが当をえたことでもない)、おまえは働いて、勤勉に努力し、お金をかせぎ、できるかぎり仕事を広げなさい」
「いっしょうけんめいそういたします、お父さま、かならず」とプリンスは答えました。
「その点は、わたしも大丈夫だと思っているよ。せがれや、おまえの才能は目ざましくないけれども着実で役に立つところがある。愛する子供たちよ、幸いにしてわたしは、今は天国にいるある女の人生行路をいくぶん[#「いくぶん」に傍点]か照らしてやったと信じているので、その女の気持になって、おまえたち二人に次のことだけをいわせてもらおう――わたしたちの家庭に心をくばり、わたしの簡素な欲望に心をくばっておくれ。そしておまえたち二人の上にみ恵みのあらんことを!」
それからターヴィドロップさんはこの日を祝って、たいそういんぎんに私の機嫌をとり始めましたので、私はキャディに向って、もし今日セイヴィ法学予備院へゆくつもりなら、すぐに出かけなければいけないと知らせました。そこで、キャディといいなずけのプリンスとがたいそうむつまじい別れのあいさつをしたのち、私たちはいとまを告げましたが、道々、キャディはすっかりうれしくなって、ターヴィドロップさんを賞めてばかりいましたから、どう考えても私には、この人を非難するような言葉はひとこともいえませんでした。
セイヴィ法学予備院にあるジェリビーさんの家は、窓に貸家札が張られ、以前にも増してきたならしく、陰気っぽく、すさまじい有様でした。つい一日二日前、お気の毒にもジェリビーさんの名前が破産者名簿に載りましたので、ジェリビーさんは、二人の男のかたと弁護士用の青い書類カバンや会計簿や書類の山といっしょに、食堂に閉じこもって、自分の財政状態を理解しようと必死の努力をしていました。けれども、全然分らないように見受けられました。というのは、キャディが誤って私を食堂につれてゆきましたので、私たちは眼鏡をかけたジェリビーさんが、心細げに一人だけ片隅に、大きな食卓と二人の男のかたに囲いこまれているのに気づいた時、もうジェリビーさんは万事をあきらめ、口をきく元気もなく無感覚状態になっているようでした。
二階の奥さんの部屋へゆくと(子供たちはみんな台所で金切声をあげていて、召使は一人も見当りませんでした)、奥さんはおびただしい郵便物に囲まれ、破いた封筒を床に山とためたまま、手紙を開いて、読んで、えり分けていました。仕事にすっかり気をとられているので、奥さんは腰かけたまま、例の奇妙な、はるか遠くを眺めるような、涼しい目で私を見ましたけれども、最初は私がだれか分らないのでした。
「まあ! サマソンさん!」と奥さんはとうとういいました。「わたくし、全然別なことを考えていましたのよ! あなたはお変りないんでしょうね。ようこそいらっしゃいました。ジャーンディスさんとクレアさんはお元気ね?」
私は返事の代りに、ご主人のジェリビーさんはお元気なのでしょうねといいました。
「あら、あまり元気でもありませんわ」とミセス・ジェリビーはまったく落着き払っていいました。「最近、事業に失敗して、少し気を落しておりますの。わたくしは幸いと、たいそう忙しいものですから、そういうことを考えるひまがございませんわ。ただ今のところ、わたくしたちは百七十家族のお世話をして、サマソンさん、一家族が平均五人ですのよ、ナイル河の左岸へ移民させたり、これからさせるところなんです」
私は、私たちのすぐ身近にいて、ナイル河の左岸へ移民したりも、しようともしない、ある家族のことを考え、どうして奥さんがこんなに平然としていられるのかといぶかりました。
「キャディをつれ戻して下さいましたのね」とミセス・ジェリビーは娘のほうへ、ちらりと目をくれながらいいました。「このごろ、家でキャディを見るのは、すっかりめずらしくなってしまいましたわ。あの子が以前の仕事をほとんど捨ててしまいましたから、わたくし、ほんとに、男の子を雇わなければならなくなりましたの」
「まさか、ママは――」とキャディがいいかけました。
「ねえ、キャディ」とお母さんはおだやかに話をさえぎって。「あなたは知っているでしょう、ママがじっさいに[#「じっさいに」に傍点]男の子を雇っていることを。今、その子は食事にいっているけれども。あなたが|反駁《はんばく》したところで、どうなるっていうの?」
「反駁しようとしたんじゃないわ、ママ」とキャディが答えました。「あたしはただこういおうとしただけなの、まさかママは一生あたしに、くだらない|苦役《くえき》をさせるつもりじゃないでしょうねって?」
「ねえ、キャディ、きっとこのママが」とミセス・ジェリビーはあい変らず次々に手紙を開き、微笑を浮べて文面に涼しいひとみを注ぎ、いちいち分類しながら話すのでした。「そういうお仕事の先例になると思うわ。そればかりじゃありません。くだらない苦役ですって? もしあなたが人類の運命に同情していたら、そんなふうには考えないでしょうにね。でも、あなたはちがうわね。これまでたびたび話したとおり、キャディ、あなたには全然そういう同情がないんですものね」
「もしアフリカのことを指しているんだったら、ママ、あたし同情なんかしないわ」
「もちろん、あなたはそうよ。ねえ、サマソンさん、わたくしは幸いこんなに忙しいからいいようなものの、もしそうでなかったら」といってミセス・ジェリビーはちょっとのあいだ、私にやさしく目を注ぎ、今開いたばかりの手紙をどこへ置こうかと思案しながら、「キャディがこんな有様なんですから、わたくし、悲しくてがっかりしてしまうところですわ。でも、ボリオブーラ・ガーのことで、考えなければならないことがたくさんありますし、ぜひとも注意を集中しなければいけませんから、救われているんですの」
キャディがちらりと私に嘆願の目を向けましたし、ミセス・ジェリビーの視線は私の帽子と頭を貫いて、はるか遠いアフリカをのぞいていましたので、私は今こそ訪問の目的を切り出して、ミセス・ジェリビーの注意をひく、いい機会だと思いました。
「たぶん」と私はいい出しました。「奥さまは、なぜ私がお宅へお邪魔したのか、ふしぎに思っていらっしゃいますでしょうね」
「サマソンさんでしたら、いつでも歓迎いたしますわ」とミセス・ジェリビーはおだやかなほほ笑みを浮べていいました。「でも、ボリオブーラ・ガーの移民計画にもっと関心を持っていただきたいものですね」
「私がキャディといっしょに参りましたのは、キャディが、お母さまに隠しだてをすべきでないという立派な考えから、内証の話を打ち明けるのを私に励まし助けてもらおうと思っているからなのです(でも、私にはどうしたらよいのか、とても分りませんけれど)」
「キャディ」といってミセス・ジェリビーはちょっと仕事を中止しましたが、かぶりを振って、また静かに仕事をつづけながら、「あなたはつまらない話をするつもりなのね」
キャディはあごひもを解いて帽子をぬぎ、そのひもを握って帽子を床にぶらさげると、大声をあげて泣きながら、「ママ、あたし婚約したのよ」といいました。
「まあ、おかしな子ねえ!」とミセス・ジェリビーは今しがた開いた速達に目を通しながら、|上《うわ》の空でいいました。「あなたはなんという馬鹿なんでしょう!」
「あたしは、ママ」とキャディは泣きじゃくりながらいいました。「ダンス学院をしているターヴィドロップさんの息子さんと婚約したの。お父さんのターヴィドロップさんは(ほんとに、とても紳士らしいかたよ)承諾して下さったのよ。それで、ママ、心からのお願いだから、ママも承諾してちょうだい。だってそうして下さらなければ、あたし、どうしてもしあわせな気持になれないの。どうしても、どうしてもなれないの!」と、キャディはいろいろな不服やなにかをすべて忘れ、ただひたすら子としての自然の情愛に駆られて泣きじゃくりました。
「ほら、またご覧のとおり、サマソンさん」とミセス・ジェリビーは落着き払って申しました。「わたくしみたいにこんなに忙しくて、自分の仕事に注意を集中しなければならないのは、なんというしあわせなことでしょう。ところが、このキャディはダンス教師の息子と婚約なんかしているんです――人類の運命には、この子同様、なんの同情も持たない人たちとかかわり合って! しかも、当代一流の博愛事業家のクウェイルさんが、ほんとにこの子にお気持があるって、つい最近わたくしにおっしゃったのに!」
「ママ、クウェイルさんなんか、あたしはいつも大きらいだったのよ!」とキャディは泣きじゃくりました。
「キャディ、キャディ!」とミセス・ジェリビーはいかにも満足げにまた手紙を開きながら、答えました。「そりゃ、あなたはきっとそうだったでしょうよ。それよりほかに仕方がなかったでしょう、あのかたのあふれるような人類愛が、あなたには全然ないのだから! ところで、もし社会的な任務がわたくしのお気に入りの子供でなかったならば、もしわたくしがいろいろ大きな計画に、大々的に従事していなかったならば、こういうつまらない|瑣事《さじ》に、ずいぶん心を痛めているかも知れませんわ、サマソンさん。でも、どうしてキャディのおろかな行いなんかに邪魔されて(この子にはそれくらいのことしか、わたくし期待していませんの)、わたくしとアフリカ大陸との仲を裂かれることがございましょう? そうですとも。そうですとも」と、ミセス・ジェリビーはさらに何通も手紙を開いて分類しながら、愛想のよい笑みを浮べ、静かな、さえた声でくり返しました。「ほんとに、そんなことは赦せません」
私はこういう冷静きわまる応対を、あるいは予想できたかも知れませんが、じっさいのところ、まったく予期していなかったので、なんといったらよいのか分りませんでした。キャディも同じように当惑しているらしく見えました。ミセス・ジェリビーはあい変らず、手紙を開いては分類し、ときどき、落着き払ったほほ笑みを浮べ、とても美しい声で、「ほんとに、そんなことは赦せません」とくり返すのでした。
「ねえ、ママは」とキャディがとうとう泣きじゃくりながらいいました。「怒っているんじゃないでしょうね?」
「まあ、キャディ、あなたはほんとにばかげた子ね」とミセス・ジェリビーは答えました。「わたしの頭がどんなことで一杯になっているか今話したのに、そんなことを尋ねるなんて」
「それから、ママ、あたしたちのことを承諾して、しあわせを祈って下さるんでしょうね?」
「こんなことを仕出かして、あなたはばかばかしい子よ、それに、社会的な大事業に身をささげることもできたのに、見さげはてた子よ。でも、できてしまったことだし、わたしは男の子を雇ったんですから、もうこれ以上いうこともないわ。あら、やめて、キャディ」――キャディがミセス・ジェリビーにキスしているのでした――「わたしの仕事をおくらせないで、午後の郵便が来る前に、この重たい手紙の束を片づけさせてちょうだい!」
私はおいとまを告げるよりほかにしようがないと思いましたが、キャディのこういう言葉に、ちょっとのあいだ引き留められました。
「ママに会わせに、あの人をつれて来てもかまわないでしょう、ママ?」
「あらまあ、キャディ」遠い国のことをまた考えこんでいたミセス・ジェリビーが大声でいいました。「また始めたの? だれをつれて来るっていうの?」
「あの人よ、ママ」
「キャディ、キャディ!」そういうささいなことに飽き飽きしてしまったミセス・ジェリビーはいいました。「それなら、父母の会や、支部会や、分会のない夕方につれて来なければだめよ。あなたの訪問を、わたしの時間の都合に合わせなければだめ。ねえ、サマソンさん、このばかな子を助けにおいで下さいまして、ご親切ありがとう存じます。さようなら! じつは今朝わたくしのところへ、アフリカの土民教化とコーヒー栽培の詳細を知りたがっている製造業者たちの家から、新しい手紙が七十五通参ったと申上げれば、わたくしにほとんど暇のないことを、お詫びしなくてもよろしゅうございますわね」
私たちが階下へ降りてゆく時に、キャディが沈んでいたことや、私の首につかまってまたすすり泣いたことや、あんなに無関心にあしらわれるよりも、しかられたほうがずっとましだといったことや、洋服がとても少ないので、一体どうしたら恥ずかしからぬ結婚ができるのか分らないと打ち明けたことを、別に意外に思いませんでした。私はキャディが自分の家庭を持った時に、不幸なお父さんやピーピィのために、いろいろ尽してあげられることをこまかに話して、だんだんにキャディを元気づけ、とうとう階下のしめっぽくて暗い台所へ降りてゆきますと、そこにはピーピィや、ちいさな弟たち妹たちが、石の床の上に腹ばっていましたので、私たちは子供たちとさんざんふざけっこをして、とうとう私は洋服をずたずたに裂かれないため、おとぎ話に助けを求めなければなりませんでした。階上の居間からは、時おり、大きな人声が聞え、時には家具の倒れる激しい音がしました。このあとのほうの音は、お気の毒にも、ご主人のジェリビーさんが、事業の状態を理解し直そうとするたびに、急に食卓を離れて、地下の勝手口に飛び降りようと、窓に向って突進するために起ったらしいのです。
一日のさわぎがすんで、夜、私は馬車で静かに家路へ向いながら、キャディの婚約のことをあれこれ考えたすえ、これであの子は一層楽しく、しあわせになれるだろうという期待を(ターヴィドロップさんのことはありましたが)、ますます強くしました。それに、たといあの行儀作法の大家がじっさいどんな人間であるかに、キャディと夫が気づく見込みはほとんどなさそうだとしても、そう、結局はそれが一番いいのでしたし、二人がこれ以上利口になることを、だれが望んだでしょう? 私は二人がこれ以上利口になることなど望みませんでしたし、あの人を信用しきれない自分を半ば恥ずかしく思いました。それから空の星を仰ぎ見て、遠い国へ出かける人々や、その人たち[#「その人たち」に傍点]の眺める星のことを考えてから、私もつねに幸運に恵まれて、ささやかながらも自分なりに、だれかしらの役に立つことができますようにと願いました。
家に帰ると、いつものとおり、みなは私を見てとてもよろこんでくれましたから、みなに不愉快な感じを与えないなら、すわりこんでうれし泣きをしたいほどでした。家じゅうの人たちは、一番上の者から一番下の者まで、みんなして晴れやかな顔で私を迎え、ほがらかに話しかけ、なんでもよろこんでしてくれましたから、おそらく、世界じゅうにこれほどしあわせな者はいなかったことでしょう。
エイダとおじさまが私をそそのかして、キャディに関することを洗いざらい話させましたので、その晩は三人ともすっかりおしゃべり気分になってしまい、私は長いあいだ、くどくどと語りつづけました。とうとう最後には自分の部屋へ引揚げ、自分がどんなに弁じ立てていたかを考えて、真赤になってしまいましたが、その時、部屋のドアをやさしくノックする音が聞えました。それで「おはいりなさい!」といいますと、喪服をきちんとつけた、かわいい少女がはいって来て、お辞儀をしました。
「ごめん下さい」少女はやさしい声でいいました、「わたしはチャーリーです」
「あら、ほんとうね」と私はおどろいて体をかがめ、少女にキスをしながらいいました。「ほんとによく来てくれたこと、チャーリー!」
「ごめん下さい」とチャーリーはやはりやさしい声で言葉をつづけ、「わたしはお嬢さんの小間使いなんです」
「チャーリーったら?」
「ごめん下さい、わたしはジャーンディスさんからお嬢さんへ心をこめた贈物なんです」
私はチャーリーのうなじに手をかけて椅子に腰かけ、チャーリーを眺めました。
「それから、ああ、お嬢さん」とチャーリーは、えくぼのある両のほおに涙をしたたらせながら拍手をして、こういうのです。「トムは学校の寄宿舎へはいって、とてもよく勉強しています! それから、赤ん坊のエマはブラインダーのおばさんのとこで、とてもよくめんどうを見てくれているんです! それから、もっとずっと早くに――トムは寄宿舎へはいれたし――エマはブラインダーのおばさんのとこにあずけられたし――わたしはこのうちへ来られたんですけど、ただジャーンディスさんが、トムとエマとわたしは、|離《はな》れ|離《ばな》れになるのに、初め少し慣れたほうがいいっていったんです、わたしたちはみんなちいさいもんですから。泣かないで下さい、お願いです、お嬢さん!」
「泣かずにはいられないわ、チャーリー」
「はい、わたしもそうなんです。それからジャーンディスさんからのことづてで、お嬢さんが時々わたしに勉強を教えて下さるだろうといって下さるんです。それから、すみませんが、トムとエマとわたしは一月に一ぺん、会うことになっているんです。それから、わたし、とてもうれしくて、とてもありがたくて」とチャーリーは胸を波打たせながら大声で、「とてもいい小間使いになるつもりです!」
「まあ、チャーリー、だれがそうして下さったのか忘れてはだめよ!」
「はい、決して忘れません。トムも忘れません。それから、エマも忘れません。みんなお嬢さんのおかげです」
「私はなにも知らなかったのよ。ジャーンディスさんのおかげよ、チャーリー」
「はい、でも、みんなお嬢さんのためにして下さったことで、お嬢さんがわたしのご主人になるんです。ごめん下さい、わたしはジャーンディスさんの、心をこめた、ちいさな贈物で、これはみんなお嬢さんのためにして下さったんです。わたしとトムは、それをかならず覚えておくといったんです」
チャーリーは目をふいて、自分の仕事にとりかかり、おさないながらも主婦のように、部屋のあちらこちらを歩き回って、手のとどくかぎりのものを、きちんと折りたたみました。やがてチャーリーは私のわきへ忍び足で戻って来て、こういうのでした。
「あら、泣かないで下さい、お願いです、お嬢さん」
それで私はまたいいました。「泣かずにはいられないわ、チャーリー」
するとチャーリーがまたいうのでした。「はい、わたしもそうなんです」それで結局、私はほんとに、うれし泣きをし、チャーリーもそうでした。
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第二十四章 上訴事実記載書
さきほど述べたような話をリチャードと私がとり交したあと、リチャードはすぐさまジャーンディスさんに自分の気持を告げました。おじさまは説明を受けて、ひじょうな不安と失望を味わわされましたが、かならずしも不意打ちを受けたわけでもなかったと思います。おじさまとリチャードは夜おそくや朝早くに、たびたび密談し、何度かロンドンで一日じゅうを過し、ケンジ弁護士と数知れぬ面会を重ね、たくさんの気に染まない用件を苦労してすませました。二人がこういう用事に忙しいあいだ、おじさまは風の方向が変ったため、かなり不愉快な思いをさせられて、絶えず頭をこするので、髪の毛は一すじ残らず乱れてしまいましたけれども、エイダと私に対しては、ほかの時と少しも変らず、やさしくして下さいました。しかし、こういった事柄については、ずっと沈黙を守っていました。そして私たちがいくら苦心しても、当のリチャードから聞き出せたのは、万事がすごくうまくいっていて、とうとう、ほんとに大丈夫になって来た、といった安請合いばかりでしたから、私たちの心配はリチャードによっては、あまりやわらげられませんでした。
しかし、時がたつにつれて分りましたが、大法官閣下に対して、未成年者であり被後見人であり、それから私には分りませんが、なんとかかんとかであるリチャードのために、新しい申請が出されて、さまざまな協議がおこなわれ、大法官閣下が公けの法廷でリチャードのことを、やっかいで気まぐれな未成年者(1)だといわれ、この非訴訟事件は延会になり、再延会になり、仲裁人の審査に付託され、審査報告書が提出され、救済を求める申立がおこなわれて、とうとうリチャードは(私たちに話しましたが)、たとい自分が陸軍にはいれるにしても、それは七十歳か八十歳の老兵としてではないだろうかと疑い始めました。しかし、ついにリチャードに対して、また大法官閣下の私室で閣下に面会する日時が指定され、閣下はそこでリチャードが時間をもてあそんでいて、いつまでも決心をつけないことを、たいそうまじめに|叱責《しつせき》され――「あの筋からの言葉にしては、かなりおもしろい冗談ですよ!」とリチャードがいいました――そして、ついにリチャードの申請を許可することに決定しました。リチャードの名前は少尉任官志願者として近衛騎兵に登録され、将校職購買代金が代理人事務所に寄託され、そしてリチャードは例のとおり、この人の特徴として、すぐさま陸軍の教科課程の猛烈な勉強を開始し、毎朝五時に起きて剣術を練習するのでした。
こうして、裁判所の開廷期が過ぎて休廷期になり、休廷期が終って開廷期になりました。ときどき、私たちはジャーンディス対ジャーンディス事件について、この事件が新聞に出ているとか出ていないとか、引合いに出されるはずだとか、論じられるはずだとかいううわさを聞き、事件は論議に上っては消えてゆきました。リチャードはもうロンドンの先生の家にいましたから、以前のようにひんぱんに私たちといっしょになることができなくなり、おじさまはあい変らず前と同じような沈黙を守っていましたが、こうして時がたつうちに、やがてリチャードは少尉に任官し、それといっしょにアイルランドのある連隊に入隊せよという指令を受けました。
ある日の夕方、リチャードがこの知らせを持って大急ぎで駆けつけ、おじさまと長いこと相談をしました。一時間以上もたってから、エイダと私とがいる部屋へ、おじさまが顔をのぞかせて、「君たち、こっちへおはいり!」といいました。私たちがはいってゆきますと、この前会った時には元気のよかったリチャードが、くやしさのあまり腹を立てたらしい顔つきで、作りつけの煖炉によりかかっていました。
「リックと私はね、エイダ」とジャーンディスさんがいいました、「どうも意見が合わないのだよ。さあさあ、リック、勇気を出して我慢しなさい!」
「おじさまは僕に対して、ずいぶん苛酷ですね」とリチャードがいいました。「今度のことはとても苛酷です、今までほかのあらゆることに、たいそうやさしくして下さったり、お礼をいうこともできない親切をつくして下さったのに。まったく、おじさまがいらっしゃらなかったら、僕はとうてい自分の過ちを正すことができなかったでしょう」
「おやおや! 私は君をもっと正してあげたいのだよ。君自身をもっと正してあげたいのだ」
「失礼ないいぶんですが」とリチャードは激しい口調ながら丁重に答えました。「僕自身のことなら、僕が一番よく知っていると思います」
「失礼ないいぶんだが、リック」とジャーンディスさんはこの上もなく快活に、上きげんでいいました。「君としてはそう思うのが当然だが、私はそう思わないね。リック、私は自分の義務をはたさなければならないのだ、さもなければ君は私に対して冷静に好意を持つことができないだろう。私は、君が冷静な時も興奮している時も、つねに私に好意を持ってもらいたいのだよ」
エイダがすっかり青ざめてしまいましたので、おじさまは自分の読書用の椅子にエイダを腰かけさせて、自分もわきにすわりました。
「なんでもないのだよ、エイダ、なんでもないのだよ。リックと私は友だち同士のいい争いをしただけだが、それを君に話さなければいけない、というのは君が話題になっているからだ。ところで、どんな話か心配なのだろうね」
「心配なんかしませんわ、ジョンおじさま」エイダはにっこり笑って答えました。「おじさまのおっしゃることでしたら」
「ありがとう、君。一分間だけ、リックのほうを見ないで、気を静めて私のいうことをよく聞いてくれたまえ。それから、ちいさなおばさん、君もそうしておくれ。ねえ、エイダ」と、安楽椅子のふちに置いたエイダの手に、自分の手を重ねて、「君はちいさなおばさんが|可憐《かれん》な恋の物語を私にしてくれた時に、私たちが、この四人が話し合ったことを覚えているね?」
「あの日のおじさまのご好意を、リチャードやあたしが忘れるなんて、まさかそんなことがあるものですか、ジョンおじさま」
「決して忘れることはできませんよ」とリチャードがいいました。
「それなら、ますます私は話をしやすいし、私たちの意見も一致しやすい」とおじさまはやさしさと高潔さを満面にたたえて答えました。「ねえ、エイダ、君に知っておいてもらわなければならないが、今度リックはこれが最後ということで、新しい職業を選んだ。その準備のための支度をすっかりととのえると、確実にリックのものになる財産を全部使ってしまうことになる。リックは現在持っている資産をもう使いはたしてしまって、これからのちは、いわば自分が植えた木につながれているわけだよ」
「僕が、現在持っている資産を使いはたしたことは、たしかに事実で、それを知ってもなんの不平もありません。しかし、確実に僕のものになる財産は、現在持っている資産だけじゃありませんよ」
「リック、リック!」と、おじさまは急にぎょっとした様子になり、声まで変え、まるで耳をふさごうとでもするみたいに両手をあげて、大声でいいました。「|後生《ごしよう》だから、私たち一族に取り付いたあの|呪《のろ》いに、希望や期待をかけないでおくれ! 墓場のこちら側で君がなにをしようとも、長年私たちにつきまとって来たあの幽霊に、未練がましい目を向けることだけは、絶対にやめておくれ。借金をするほうが、|物乞《ものご》いをするほうが、死ぬほうが、まだしもましだ!」
この警告の激しさに、私たちはみなびっくりしてしまいました。リチャードはくちびるを|噛《か》んで息をとめ、私のほうをちらりと眺めました。まるで、そういう警告が自分にはどうしても必要なのだと感じ、私も同感なのに気づいたかのように。
「ねえ、エイダ」とジャーンディスさんはふだんの明るさをとり戻していいました。「今のはきつい忠告だけれども、私は荒涼館に住んでいるので、いろんなことを見て来た。ああいうことは、もうたくさんだ。リチャードは、人生の競走のスタートを切るために、持っていたすべてのものを|賭《か》けている。そこでリチャードのため、君自身のために、二人にすすめるのだが、君たちのあいだにはなんらの取り決めも結ばれていないという了解で、リチャードを出発させるのがいいね。いや、もっとはっきりいわなければいけない。君たち二人には率直に話そう。君たちは私になんでも腹蔵なく打ち明けることになっていたから、私も腹蔵なく君たちに打ち明けよう。当分のあいだ、君たちに|従兄妹《いとこ》同士という以外のつながりを、いっさい捨ててもらいたいのだよ」
「おじさまは僕に対する信頼を全部捨てて」とリチャードが答えました。「エイダにも同じようにしろとすすめているのだと、今すぐおっしゃったほうがいいですよ」
「そんなふうにいわないほうがいいね、リック、私はそんなつもりでいっているのじゃないから」
「おじさまは僕が出発を誤ったと考えていらっしゃるんです」とリチャードはいい返しました。「たしかに[#「たしかに」に傍点]そうでした、それは知っています」
「私が君に、どんなふうに出発して、どんなふうに前進してもらいたかったかは、この前、こういうことについて語り合った時に話したね」とジャーンディスさんは真心をこめて、励ますように申しました。「君はまだその出発をしていないが、物事にはすべて時機というものがあり、君の時機はまだ去っていない――むしろ、今こそ機が満ちたのだ。まったく新しい出発をしたまえ。君たち二人は(しかも、たいそう若いのだよ)従兄妹だ。今のところは、ただそれだけだ。それ以上のあいだがらになるとしたら、それは努力した暁に達成されるのだ、その時に初めて」
「おじさまは僕に対して、ずいぶん苛酷ですね。まさか、これほど苛酷だとは思いもよりませんでした」
「ねえ、君、私はなんにせよ君に苦痛を与えるようなことをする時には、君に対してより自分自身に対してもっと苛酷にしているのだよ。君を救う道は、君の掌中に握られているのだ。エイダ、リックにとっては、自由になって、君たちの若い身空での婚約などなくなるほうがいい。リック、そのほうがエイダのためにいいよ、ずっといいよ。君はエイダのために、そうしなければいけない。さあ! 君たちはそれぞれ相手のために一番いいことをしてあげるのだ、たといそれが自分たちにとって一番いいことでなくても」
「なぜそれが一番いいことなんですか?」とリチャードがすばやく問い返しました。「僕たちがおじさまに胸のうちを打ち明けた時には、そうじゃありませんでしたね。あの時、おじさまはそうおっしゃいませんでしたよ」
「あれ以来、経験をつんだからね。君を非難しているわけじゃないよ、リック――しかし、あれ以来、経験をつんだからね」
「僕のことをおっしゃっているんですね」
「そうだねえ! そう、君たち両方についてだよ」とジャーンディスさんはやさしくいいました。「君たちがおたがいに心を誓い合っていい時期はまだ来ていないのだ。だから、そうすべきではないし、私としては認めるわけにいかない。さあさあ、若い君たち、新しく始めるのだ! 過去を過去として水に流したまえ、そうすれば君たちの人生を書きこむべき新しいページが開かれるよ」
リチャードは不安そうにちらりとエイダに目を向けましたが、なにもいいませんでした。
「今までは、できるだけ隠し立てをしないで、みんなが対等に話し合えるように、君たち双方にも、それからエスタにも、一つだけいわないようにして来たことがある。つまり、君たち二人に愛情をこめて忠告し、きわめて真剣にお願いするが、ここへ来た時のままの君たちとして別れてくれたまえ。そのほかのことはすべて、時と誠実と変らぬ心とに任せるのだ。そうしなければ、君たちは罪を犯すことになるし、そもそも君たちを引き合わせたのが、私の罪だったことになるよ」
そのあと長い沈黙がつづきました。
それからエイダはリチャードのほうへ、青い目をやさしく上げながらいいました。「ねえ、リチャード、ジョンおじさまがあの通りおっしゃったんですから、あたしたちとしては、ほかに選ぶ道はないと思いますわ。でも、あたしについては、あなたもすっかり安心していらっしゃるでしょう、だって、おじさまの手元に預かっていただくのですし、あたしに申し分のあるはずがないと――たしかにそうですわ、おじさまの忠言に従って暮すのでしたら――信じて下さるでしょうから。あたしは――あたしは、ねえ、リチャード」とエイダはややきまりわるげに、「あなたがとてもあたしを好いていて下さることは疑いませんし、あなたが――あなたがほかの人を愛するようになるだろうなんて思いません。ですけど、このことも、あなたによく考えていただきたいんです、あたし、万事についてあなたにしあわせになっていただきたいんですもの。あたしのことは、信じて下さって大丈夫よ、リチャード。あたしは決して変りやすいたちじゃありませんけど、無理なことはいいませんから、なにかあっても、あなたを責めはしませんわ。従兄妹同士でも別れるのは悲しいでしょうし、じっさい、あたしはとても、とても悲しいの。リチャード、これがあなたの幸福のためだと分っていても。あたしはいつもあなたのことを、なつかしく思い出して、たびたびエスタとあなたのお話をしますから――ですから、たぶん、あなたもときどきあたしのことを少し思い出して下さるでしょうね、リチャード。それじゃ、もう」とエイダはリチャードのところへ近寄り、震える手を差し出して、「あたしたちはまた、ただの従兄妹同士になりましたのね、リチャード――たぶん、しばらくのあいだでしょうけれど――あたしの親しい従兄がどこへいっても、この従兄の上にみ恵みがありますように、あたし、祈っていますわ!」
ふしぎなことに、リチャードは前に私に向って、ひじょうに激しい言葉で自分のことを批評したくせに、それとまったく同じ意見を抱いたジャーンディスさんを赦すことができないのでした。しかし、とにかくこれはたしかな事実でした。この時以来リチャードが、以前ほどジャーンディスさんに対して率直に打ち解けることがなくなったのに気づいて、私はたいそう残念に思いました。率直に打ち解けてしかるべき筋合いが充分にありながら、リチャードはそうしないのでした。そこで、もっぱらリチャードの側から、二人のあいだによそよそしさが生れて来ました。
まもなく、リチャードは入隊の準備やら支度やらの用事に夢中になり、エイダと別れる悲しみさえ忘れてしまいましたが、エイダは、リチャードとジャーンディスさんと私とが一週間ロンドンへ出かけたあいだ、荒涼館に残っていました。リチャードは時々思い出したようにエイダのことを考えて、急にわっと泣き出すことさえあり、そういう時には、よく私に向って、ひどくきびしい自責の言葉をもらすのでした。しかし、数分もすると、|漠然《ばくぜん》とした計画を無分別に思いつき、それによってエイダと自分が末長くお金持になって幸福に暮せるつもりで、この上もなく晴れやかになるのがつねでした。
この一週間はたいそう忙しく、私はリチャードといっしょに終日かけずり回って、いろいろ必要な品物を買いました。もしリチャードを思い通りにさせておいたら、さぞかしたくさんの品々を買ったことでしょうが、それについてはなにも申しません。リチャードはすっかり私に打ち解けて、たびたび、自分の欠点と強い決心とについて、すこぶる分別のある態度で、しみじみと物語り、こういう話し合いによって、どんなに力づけられているかを、くわしく述べましたから、私は疲れようと思っても、疲れることができないほどでした。
この週のあいだ、私たちの宿へ、もと騎兵だった人がリチャードと剣術をしに、よく出向いて参りましたが、この人は飾りけのない、おうような態度をした、|朴訥《ぼくとつ》な|風貌《ふうぼう》の、りっぱな人で、この数カ月、リチャードに剣術を教えているのでした。この人のことは、リチャードからばかりでなく、おじさまからもずいぶん聞いていましたので、ある朝、食事のあとでこの人が来る時、私は編み物を持って、わざとその部屋にいました。
「おはよう、ジョージさん」たまたま、私と二人だけそこにいたおじさまがいいました。「カーストン君はじきに来ます。それで、サマソンさんがよろこんでお相手をしますよ。おかけ下さい」
その人は椅子に腰かけましたが、私が居合わせていましたので、ややまごついたと見え、日焼けのした重たそうな手で上くちびるを、しきりにこすっていました。
「あなたは太陽のように、時間が正確ですね」とジャーンディスさんがいいました。
「軍隊式の時間です」と相手は答えました。「習慣の力です。自分の場合は単なる習慣です。自分は決して事務的な人間ではありません」
「でも、あなたは大きな店もお持ちだと聞いていますが?」
「たいしたものではありません。射撃練習場をやっておりますが、たいしたもんではありません」
「それで、カーストン君の射撃の腕前はどうですか、それから剣術のほうは?」
「良好ですな」とジョージさんが答えて、幅の広い胸のところに腕を組むと、とても大きな体に見えました。「カーストンさんは練習に専念すれば、優秀な腕前になるのですが」
「しかし、専念しないというわけですね?」
「最初はしましたが、あとになるとだめでした。専念しないのです。たぶん、なにかほかのことを気にかけているのでしょう――若いご婦人でしょうな、たぶん」ジョージさんのぱっちりした黒い目が、ちらりと初めて私のほうに向けられました。
「あのかたは、私のことを気にかけているのじゃありませんわ、ほんとうです、ジョージさん」と私は笑いながらいいました。「あなたは私のことを疑っていらっしゃるようですけれど」
ジョージさんは茶色の顔色をやや赤らめ、私に向って騎兵式の敬礼をしました。「ご立腹なさらないで下さい、お嬢さん。自分はがさつ者でありまして」
「どういたしまして。光栄に存じますわ」
ジョージさんはそれより前には私のほうを見なかったとしても、今度はつづけざまに三、四回すばやく視線を向けました。「失礼ですが、ご主人」とジョージさんは男性的なはにかみを見せて、おじさまにいいました。「さきほど、ご主人はこちらのお嬢さんのお名前をいわれましたが――」
「サマソンさんです」
「サマソンさん」とジョージさんはおうむ返しにいって、また私のほうを眺めました。
「この|苗字《みようじ》をご存知なのですか?」と私が尋ねました。
「いいえ。自分の知っているかぎり、聞いたことはありませんな。どこかでお会いしたことがあるように思ったのです」
「そんなことはないと思いますわ」と答えながら、私は編み物から顔を上げて、ジョージさんを眺めましたが、そうする機会に恵まれたのがうれしく思われるほど、この人の話しかたと態度には、誠実なところがありました。「私は人の顔をとてもよく覚えているんです」
「自分もそうですな!」とジョージさんは浅黒くて広い、ふくよかな額で私の視線を受け止めながら答えました。「ふん! 一体、だれのことを思い出して、そんなふうに思ったのかな!」
ジョージさんがもう一度、顔の茶色を赤くさせて、だれを連想したのか思い起そうと、まごつきながら苦心していますので、おじさまが助け舟を出しました。
「あなたのところには、お弟子さんが大勢いますか、ジョージさん?」
「人数は一定しておりません。ふつう、暮しを立てるのが精一杯というところですな」
「それで、ふりのお客さんは、どんな種類の人たちが練習に来るのですか?」
「全部ですな。イギリス人に外国人。紳士から徒弟奉公人まで。以前、フランスの女たちがやって来て、ピストルの妙技を見せたことがありました。それに、もちろん、気ちがいは数知れません――しかし、この連中[#「この連中」に傍点]はドアのあいてるところなら、どこへでもはいって来ますが」
「恨みをいだいた人や|稽古《けいこ》を積んで生きた|的《まと》を射とうとたくらんでいる人は来ないでしょうね?」とおじさまは、にこにこ笑いながらいいました。
「あまりおりません、もっとも、いることは[#「いることは」に傍点]いましたが。たいがいの人は腕を磨きに来るのです――それとも、ひまつぶしに。前のほうの人が六人、あとのほうが半ダースですな。失礼ですが」といってジョージさんは椅子にかけた体を堅苦しく直立させ、ひざの上に両ひじを張って、「もし自分の聞いた話にまちがいなければ、たしか、あなたは大法官裁判所で訴訟をしておられるのですね?」
「遺憾ながら、そうですよ」
「以前、自分のところへあなたのお仲間[#「お仲間」に傍点]が一人、来たことがあります」
「大法官府の訴訟人ですね?」とおじさまが答えました。「どんな事情で?」
「いや、その男はこっちからあっちへ、あっちからこっちへ、こづき回されて、ひどくいじめられ、心配し、苦しんだために、かんしゃくを起したのですな。人を|狙《ねら》ったりするつもりはなかったと思いますが、猛烈に憤慨しておりましたので、よく自分のところへ来て、弾丸を五十発買って射ちまくり、あげくにはすっかり興奮してしまいました。ある日、そばにだれもおりませんので、その男は今までに受けた不当な扱いを、腹立たしげに話してくれましたが、その時、自分はこういってやりました。『もしこの射撃が、ねえ戦友、|鬱憤《うつぷん》を晴らすはけ口になっているなら、それも仕方ありませんが、そういう気持で射撃に熱中するのは、あまり好ましくないですな。むしろ、なにかほかのことをしたほうがいいですよ』自分は一撃くらうかと警戒していました、その男がひどく怒りやすいので。しかし、自分の言葉を機嫌よく受け入れて、すぐさま止めてくれました。自分たちは握手をして、まあ一種の友情を結びました」
「それはどんな人でした?」とおじさまは興味を起したらしく、語気を改めて尋ねました。
「そうですな、裁判のなぶりものにされる前は、シュロップシア州でちいさな農場をやっていた人です」
「グリドリーという人でしたか?」
「そうでした」
おじさまと私がこの偶然の一致にびっくりして、一こと二こと言葉を交していると、またジョージさんが晴れやかな目を、矢つぎばやに私のほうに向けましたので、その人の名前を知った事情を私が説明してあげました。ジョージさんは私の丁重な言葉(とこの人はいうのでした)に対する返礼として、またも軍人式な敬礼をしてくれました。
「だれのことを思い出したのか、自分でも分りませんが」ジョージさんは私を眺めながら、「自分はまた――しかし――ばかな! おれの頭はどうしたんだ!」そういうと、まるでとぎれとぎれの記憶を頭の中から一掃するみたいに、重たそうな手で堅くちぢれた黒い髪の毛をこすり、それから片手を腰に当ててひじを張り、もう一方の手をひざに載せて、体をやや前に乗り出すと、ぼんやり物思いにふけったまま、床を眺めていました。
「気の毒なことに、そのグリドリーは同じ気持から、またごたごたを起して、姿を隠しているということです」とおじさまが申しました。
「そう聞いております」とジョージさんはなおも考えこんで、床を眺めながら答えました。「そう聞いております」
「どこに隠れているのか、ご存知ないのですね?」
「はい」騎兵は目を上げ黙想から覚めると、答えました。「あの人につきましては、なにも分りません。もうじき、身も心もすり切れてしまうことでしょう。強い人間の心をすりつぶすには、相当長い年月がかかりますが、最後には、急に参ってしまうものです」
リチャードがはいって来ましたので、話は中止になりました。ジョージさんは立ち上り、私にもう一度軍人式の敬礼をし、おじさまに別れのあいさつを告げて、大またにのっしのっしと部屋を出てゆきました。
これはリチャードの出発予定日の朝のことでした。もう買い物は終り、リチャードの荷作りは、私が午後早くに済ませましたので、リチャードが夜リヴァプール経由でホリヘッド(2)へ出発するまで、時間があきました。その日、またジャーンディス対ジャーンディス事件の公判が開かれることになっていましたので、リチャードは裁判所へいって傍聴しようといい出しました。リチャードはそれが最後の日でもあって、ゆきたがっていましたし、私はまだいったことがありませんでしたので同意して、その時大法官裁判所が開廷されていたウェストミンスターまで歩いて出かけました。私たちは、これから先、リチャードが私に出す手紙と、私がリチャードに出す手紙についての打ち合わせや、希望に満ちたさまざまな計画の話で、途中の退屈をまぎらしました。ジャーンディスおじさまは、私たちがどこへゆくのかを知って、いっしょに参りませんでした。
裁判所にゆくと、大法官閣下は――以前、リンカン法曹学院の大法官私室でお目にかかったのと同じかたでした――裁判長席に威儀を正して荘重に腰をおろし、その一段下の赤いテーブルの上に大法官の|職杖《しよくじよう》と|印形《いんぎよう》とを載せ、まるでちいさな庭園のような、すばらしく大きい、平べったい花束を飾って、その香りが法廷全部に漂っていました。赤いテーブルのさらに一段下には、事務弁護士たちが、それぞれ足もとの敷物の上に書類の束を置いて、一列に長くならび、それから、かつらと法服をつけた法廷弁護士たちがいました――目を覚ましている者もあれば、眠っている者もあり、一人が発言していましたが、その言葉に熱心な注意を払っている者は一人もいませんでした。大法官閣下はたいそうかけ心地のよい、ひじかけ椅子によりかかり、クッションを置いた椅子の腕に、ひじをついて、その手にひたいをもたせかけており、列席している人たちの中には、居眠りをしている者、新聞を読んでいる者、歩き回っている者、かたまってひそひそ話をしている者がいましたが、見たところ、だれもかれもまったくのんびりして、決して急がず、大そう落着いて、きわめて心地よさそうにしているらしく思われました。
万事がこの通りいたってのどかに進められているのを見て、訴訟者たちの生活と死のきびしさを思い、大法官閣下以下のあの通り完全な礼装と儀礼とを見て、こういう人たちが代理している訴訟者たちの零落と困窮と無一物の窮状とを思い、一方では、じつに多くの人たちの心の中に、希望の延引による病患が荒れ狂っていたのに、ここでは、こうした礼儀正しい|見世物《みせもの》が、毎日毎年、じつに整然と平穏におこなわれていたことを考え、また、大法官閣下とその下にいる全弁護士連中は、たがいに顔を見合わせたり、傍聴人を見たりしているけれども、自分たちがここへ集った|所以《ゆえん》である法律自体が、イギリスじゅうで嘲笑の種にされ、世間の人たちの恐怖、軽蔑、憤激の|的《まと》になり、奇蹟に近いことでも起らなければ、だれの役にも立たないような、札つきの害毒として有名になっていることなど、まるで、だれ一人聞いたこともないような顔をしている様子を眺めると、今までこういったことに経験のない私には、じつに奇妙な自己矛盾に思われて、最初はまったく信じられず、理解できないのでした。私はリチャードがつれていってくれた席に腰かけて、裁判に耳を傾けようとし、それからあたりを見まわしましたが、あのかわいそうな、気の狂った小柄のフライトさんがベンチの上に立ち、場内全体に向って、うなずいている姿を除けば、全法廷が現実のものという気がしませんでした。
まもなくフライトさんは私たちを見つけて、そばへやって参りました。自分の領地に私が来たのを愛想よく歓迎してくれ、たいそう満足して誇らしげに、場内の重だった名物を指し示すのでした。ケンジさんも言葉をかけに来て、ここの持ち主のように、ものやわらかに謙遜しながら、フライトさんとほぼ同じような接待をしてくれました。ケンジさんの話によると、この日は参観にはあまり適当な日でなく、自分なら開廷期の一日目のほうがいいと思うとのことでしたが、しかし、堂々たるものですよ、堂々たるものですよ、というのでした。
私たちがいってから半時間ほどすると、進行中の訴訟は――こんなこっけいな文句を、こういう場合に使ってよいものなら――なんの成果を収めることも、また、だれが見ても収め得る見込もなく、その訴訟自体のつまらなさのために死滅してしまったようでした。すると、大法官閣下が自分の机の上から一束の書類を、下の段にいる事務弁護士たちのところへ投げおろし、だれかが「ジャーンディス対ジャーンディス事件」[#「「ジャーンディス対ジャーンディス事件」」はゴシック体]といいました。これを聞くと、がやがやいうささやきと笑い声が起り、傍聴人は全部引き上げ、大小幾山にも積み上げた書類、幾袋にも一杯につめた書類が持ち込まれて来ました。
この審理が開かれたのは、「さらに指示を与えるため」だったと思います――私の理解したかぎりでは、といってもその理解はあやふやでしたが、その指示はなにかの訴訟費用書に関するものでした。しかし、私が数えたところでは二十三人のかつらをつけた法廷弁護士が、自分は「それに関係している」といいましたものの、だれ一人として私よりもよく理解しているとは見受けられませんでした。その人たちは大法官閣下と、議題についてくつろいだ話をし、自分たちだけで|反駁《はんばく》したり、弁明したり、こうだという者、ああだという者、中には何冊かのひどく分厚い宣誓供述書を読もうと、ふざけて提議する者もあり、関係者全員がのらくらと楽しんでいましたが、だれにもさっぱり分らないのでした。こういうことを一時間ほどつづけ、かなりたくさんの弁論を始めては急に中止したのち、ケンジさんの言葉によると、議題は「当分、仲裁人に付託し直されて」事務員たちがまだ関係書類の持込みを終らないうちに、書類はふたたび束ねられてしまいました。
こういう望みのない議事が終った時、私がリチャードのほうをちらりと眺めますと、その若い端整な顔に、疲れた表情が浮んでいるのを見て、ぎょっとしました。「こんなことが永久につづくはずはありませんよ、ダードンおばさん。この次には、もっとうまくゆきますように!」リチャードはそれだけしか言葉が出ませんでした。
その前に、私はガッピーさんが書類を持込んで来て、ケンジさんのために整理しているのを見ましたが、ガッピーさんも私を見て、わびしげなお辞儀をしましたので、裁判所から出ていってしまいたくなりました。リチャードが私に腕を貸して、つれ帰ろうとしていますと、その時ガッピーさんがそばへ寄って来ました。
「失礼ですが、カーストンさん」とガッピーさんは小声でささやきました、「それからサマソンさんも。ここに、ある女のかたが来ているんです、私の友だちで、サマソンさんを知っているから、ごあいさつさせていただきたいといっているんです」ガッピーさんがそうしゃべっている時、目の前を見ますと、まるで私の記憶の中から本物の人間が飛び出したように、あの養母の家にいたミセス・レイチェルが立っていました。
「こんにちは、エスタ」とミセス・レイチェルはいいました、「私を覚えていますか?」
私は握手をして、ええ、あまり変っていらっしゃいませんね、といいました。
「あの時分のことを忘れないとは、おどろきましたね、エスタ」とミセス・レイチェルは昔のとおり無愛想に答えました。「もう時世が変りましたよ。さあ! お会いしてうれしく思いますよ、それに、あなたが高慢になって、私のことなぞ知らないなんていわないので」しかし、じっさいは失望したらしい様子でした。
「高慢にですって、ミセス・レイチェル!」と私は抗議しました。
「私は結婚しましてね、エスタ」と答えてミセス・レイチェルは私のまちがいをひややかに訂正しました、「今はミセス・チャドバンドなんです。さあ! さようなら、お元気でね」
この短いやりとりをじっと見守っていたガッピーさんは、私の耳もとでそっとため息をもらしましたが、ちょうど私たちは、さきほど裁判の日程が次へ進んで法廷へはいる人、出る人が群がっているまん中にいましたので、ガッピーさんはミセス・レイチェルをつれて、そのちょっとした人ごみの中を押し分けて出てゆきました。リチャードとつれ立って私が、今しがたの思いがけない対面のあじけなさから抜け切れぬまま、同じ人ごみの中を歩いてゆきますと、ほかでもない、あのジョージさんが、私たちに気づかずに、こちらへ向って来るのが目にとまりました。まわりの人たちにはお構いなく、みなの頭越しに裁判所の中心部をにらみつけながら、のっしのっしと進んで来るのでした。
「ジョージ!」私が注意するとリチャードがいいました。
「いいところで会いました、あなた」とジョージさんはいいました、「それからお嬢さんも。会いたい人があるのですが、教えていただけないですか? こういうところは、さっぱり分らないですから」
そういいながらジョージさんはこちらへ向きを変え、楽に歩けるように道をあけてくれて、私たちが雑踏から抜け出ると、赤い大きなカーテンのうしろの片隅で立ち止りました。
「小柄の気ちがいばあさんなのですが」とジョージさんはいい出しました、「その人は――」
私は指を上げてさえぎりました、というのは、フライトさんは私のそばにいたからです。それまでフライトさんはずっとわきに付き切りで、訴訟関係の知り合い一人一人に、「しっ! 私の左にいるのがフィツ=ジャーンディス!」と耳もとでささやいて(それをもれ聞いて私はろうばいしましたが)、私のことを注意していたのです!
「えへん!」ジョージさんはいい、「お嬢さん、今朝、ある男のことを少し話したのを覚えておられるでしょうね?――グリドリーのことです」と口に手を当てて声を低めました。
「はい」
「あの男は私のところに隠れておりますよ。さっきは話せませんでした。許可を得なかったので。今、あの男は最後の進軍中なので、そのおばあさんに会って見る気を起したわけです。二人はたがいに同情し合えるような仲で、おばあさんは、これまでこの裁判所で、ほとんど友だち同様にあの男に親切にしてくれたそうですな。ここへおばあさんを探しに来たわけは、今日の午後、あの男のそばにすわっていたところが、黒い布をかけた太鼓(3)の音を聞いたような気がしたからです」
「フライトさんに知らせましょうか?」と私はいいました。
「そうしていただけますか?」とジョージさんは多少不安そうな目をして、フライトさんをちらりと見ながら答えました。「お嬢さんにお会いしたのは|天佑《てんゆう》ですな、私はそのご婦人を相手に、うまくやれたかどうか、あやしいものです」そして私がジョージさんの親切な用向きを、小柄なフライトさんにこっそりささやいているあいだ、ジョージさんは片手を胸もとに入れて、軍人式に直立不動の姿勢をとっていました。
「シュロップシア州生れのあの怒りっぽいお友だち! 私に負けないくらい有名な!」とフライトさんは大声でいいました。「ほんとですか! ねえ、あなた、私はそれこそ大よろこびで参ります」
「あのかたはジョージさんのところに隠れて暮しているんです。しっ! こちらがジョージさんです」
「そう――ですか! 光栄に存じます! ねえ、陸軍のかたね。申し分のない将軍よ!」とフライトさんは私に小声でいいました。
かわいそうに、フライトさんは陸軍に対して敬意を表するため、大いにいんぎん丁重に振舞って、何度も何度もお辞儀をしなければいけないと考えましたので、裁判所の外へつれ出すのは、まったく容易なことではありませんでした。とうとう表へつれ出すと、今度はジョージさんのことを「将軍」と呼び、腕をさし出して、つかまりなさいというものですから、見物していた|閑人《ひまじん》たちはたいそうおもしろがりましたが、ジョージさんはすっかりあわてて、私に向ってうやうやしく「私を見捨てないで下さい」と懇願する始末なので、見捨ててゆくこともでき兼ねました。ことに、フライトさんはいつも私に対してはおとなしく、それにまた「ねえ、フィツ=ジャーンディス、もちろん、いっしょにいってくれるのね」というので、なおさらそうでした。どうやらリチャードは、二人を目的の場所まで無事に送りとどけるのが、いやではないらしく、いいえ、それどころか、送りとどけたくてたまらないらしく見受けられましたから、私たちも同意しました。それからジョージさんが知らせてくれたところによりますと、その日の午後グリドリーは、ジョージさんとジャーンディスさんが朝のうちに対面したという話を聞いてからというものは、ずっとジャーンディスさんのことを考えていたそうですから、私は急いでおじさま宛てに、私たちの行く先と理由を告げる手紙を鉛筆で書きました。中身を見られないように、ジョージさんがコーヒー店で封をして、通運会社の人夫に配達させました。
それから貸馬車に乗って、レスタ広場の近所まで出かけました。私たちは狭い裏通りをいくつか歩き、ジョージさんはそれを弁解していましたが、まもなく射撃練習場に着くと、入口が閉めてありました。ジョージさんが、入口の側柱のところに鎖で下げてある呼び|鈴《りん》の取っ手を引いた時、眼鏡をかけた白髪の、たいそう立派な老紳士が、短い外套、ゲートル、つば広帽子という服装で、金の握りの付いたステッキを突きながら、話しかけました。
「失礼ですが、あなた、これがジョージ射撃練習場ですか?」
「そうです」とジョージさんは、|漆喰《しつくい》の壁に店の名を書いてある大きな文字を、ちらりと見上げて答えました。
「やあ! なるほど!」と老紳士は相手の視線を追いながらいいました。「どうもありがとう。今、呼び鈴を鳴らしたんですか?」
「自分がジョージです、鳴らしましたよ」
「へえ、そうですか? あなたがジョージさんなんですね? すると、私はあなたに負けぬくらい早く着いたわけですよ。むろん、さっきはあなたが迎えに来て下さったんでしょう?」
「いいえ。お見それしましたが、どなたさまでありますか?」
「へえ、そうですか? すると私を迎えに来たのは、お宅の若い人だったんです。私は医者で、ジョージ射撃練習場へ往診に来てくれと頼まれたんです――五分前に」
「黒い布をかけた太鼓です」とジョージさんはリチャードと私のほうを向き、重々しくかぶりを振っていいました。「まったく、その通りです、先生。おはいり下さいませんか?」
ちょうどその時、緑色のラシャの縁なし帽子とエプロンをつけ、顔も手も服も一面に黒く汚れた、ひどく異様な姿の小男が入口をあけましたので、私たちは殺風景な廊下を通って、はだかの煉瓦塀のついた大きな建物の中へはいりましたが、そこには標的や鉄砲や剣や、そのほか同じような種類のものが置いてありました。私たち一同がここへ着くと、お医者さんは立ち止り、それから帽子を脱ぐや、今までの人物は魔法で姿を消して、まったく別の人が同じところに立っているのかと思われました。
「おい、こら、ジョージ」とその人物は急にジョージさんのほうを向いて食ってかかり、大きな人さし指で相手の胸をたたきました。「君は私を知っているし、私も君を知っている。君は世なれた人間だし、私も世なれた人間だ。君も分っているとおり、私はバケットで、グリドリーに対する逮捕令状を持っている。君は長いあいだ、あの男をかくまって、巧妙にやって来た、その点はみごとなものだ」
ジョージさんはその人をじっと見つめたまま、くちびるを噛んで、かぶりを振りました。
「おい、ジョージ」と相手はジョージさんのそばを離れずに、いいました。「君は分別もあり、品行も方正だ、たしかに君[#「君」に傍点]はそういう人物だ。それに、いいか、私は君に普通の人間として話しているんじゃない。だって君はお国のために尽して来て、義務が要求する時は、服従しなければならぬことを知っているんだ。だから、君は世話を焼かせようなんて、決して望んじゃいない。もし私が助けを求めるようなことがあれば、君は助けてくれるはずだ、君[#「君」に傍点]ならそうするだろう。フィル・スクウォッド、そんなふうに射撃場の中を横歩きするな」さっきの、きたならしい小男がおだやかならぬ態度をして、壁に肩をくっつけ、この侵入者から目を離さずに、すり足で歩き回っていたのです。「私はおまえを知っているから、そいつはご免だ」
「フィル!」とジョージさんがいいました。
「はい、親分」
「静かにしていろ」
小男は低い声でうなりながら、じっと立っていました。
「みなさん」とバケットさんがいいました。「この件で不愉快に思われるようなことがありましたら、すべてお赦し下さい、というのは、私は刑事部のバケット警部で、職務をはたさなければならないのです。ジョージ、私はあの男がどこにいるか知っているぞ、昨晩、屋根へ登って天窓からあの男を見て、君もいっしょにいたのを見たから。あの中にいるんだよ」と、指でさしながら、「あの男[#「あの男」に傍点]はあそこにいるんだ――ソファーに寝て。さあ、あの男に会って、もう観念しろといわなければいけないが、君は私という人間を知っているから、不愉快な手段をとりたがっていないことも知っているはずだ。おたがいに男として(しかも一方は古参軍人としてだ、いいか!)信義を守ると約束してくれ、そうすればこの私にできるかぎり、君のために尽力しよう」
「約束します」というのが返事でした。「しかし、あなたのやりかたは、きれいじゃなかったですな、バケットさん」
「ばかな、ジョージ! きれいじゃなかったと?」そういってバケットさんは相手の幅の広い胸をまたもたたいて、握手をしながら、「あの男をこれほどまでにかくまっていた君のやりかたが、きれいじゃなかったなんて、私はいわないじゃないか。君だって機嫌を直してくれたまえ、ねえ、君! ウィリアム・テル君、近衛騎兵のショー君(4)! いや、この人は全イギリス陸軍の|亀鑑《きかん》ですよ、みなさん。こんな堂々たる|風采《ふうさい》の人物になれるなら、五十ポンド札をやってもいいですね」
事件がこの通り最後の段階になりましたので、ジョージさんはしばらく思案したのち、まず自分がフライトさんをつれて、戦友(とグリドリーさんのことをいうのでした)のところへゆこうと申し出ました。バケットさんが承諾しましたので、鉄砲がいっぱい載せてあるテーブルのそばに、立ったり腰かけたりでいた私たちを残して、二人は射撃場の向うの端へ立ち去りました。バケットさんはこの機会を利用して軽い雑談を始め、私には、たいていの婦人は銃をこわがるものだが、私もそうかとか、リチャードには、射撃がじょうずかとか、フィル・スクウォッドには、ここにあるライフル銃のうちでどれが一番上等だと思うか、新品ならどのくらいするのかとか尋ね、今度は相手に向って、自分はまるで若い娘みたいに気立てがやさしいので、残念ながらいつもそういう気質に負けてしまうのだと話したりして、みんなに愛想よく振舞うのでした。
しばらくしてから、バケットさんは私たちに付き添って射撃場の向うの端まで来てくれましたので、リチャードと私が静かに帰りかけますと、ジョージさんが追いかけて来ました。もし戦友に会っていただけるなら、戦友はよろこんでお見舞いを受けるでしょう、ということでした。その言葉がジョージさんの口から出るか出ないうちに、呼び鈴が鳴って、おじさまが姿を見せ、「自分と同じ不幸に巻きこまれた不幸な男のために、なにか少しでも尽してあげられるかと思って来ました」と言葉少なに申しました。私たち四人はみんないっしょにあとへ引き返して、グリドリーのいるところへはいってゆきました。
そこは射撃場と白木の板で仕切られた、がらんとした部屋でした。仕切りは高さがせいぜい七、八フィートで、まわりだけ囲って天井がないので、射撃場の高い屋根の|垂木《たるき》と、バケットさんが下をのぞいた天窓が、頭の上に見えました。太陽は傾いていて――日没まぢかでした――日の光が赤々と上のほうに射しこんでいましたが、床まで届かないのでした。カンバス張りの質素なソファーの上に、あのシュロップシア生れの人が横になっていました――この前会った時とほぼ同じ服装でしたけれども、血の|気《け》のない顔をして、最初は別人かと思うほどの変りようでした。
この隠れ家にいても、あい変らず書きものをつづけて、何時間もかけて苦情のかずかずを、こまかに|認《したた》めていたのでした。テーブルと、いくつかの棚の上には、原稿のままの書類や、ちびたペンや、そういったような品々がいっぱい載っていました。グリドリーと気の狂ったおばあさんとは、おそろしくもまたいじらしいほど、たがいに引き寄せられて、いっしょに並び、まるで二人だけになったみたいでした。フライトさんは腰かけたままグリドリーの手を握り、私たちはだれ一人として二人のそばへ寄りませんでした。
グリドリーの以前の表情、体力、怒り、とうとうこの人を打ち負かしてしまったかずかずの虐待に対する抵抗力とともに、声も衰えてしまいました。形と色に満ち満ちたものが見る影もなく衰えた姿とは、前に私たちと言葉を交したシュロップシア州生れの男の、この時の姿をいうのです。
グリドリーはリチャードと私に向って頭を下げ、おじさまに話しかけました。
「ジャーンディスさん、会いに来て下すって、ご親切ありがとう。お会いするのも長いことはないと思います。あなたと握手するのは、とてもうれしいですね。あなたは不正に屈しない、いい人です、神さまに誓っていうが、ほんとにわしはあなたを尊敬してますよ」
二人は心から握手を交し、おじさまは相手に慰めの言葉をかけました。
「あなたは妙に思うかも知れませんが」とグリドリーが答えました。「もしわしたちが今初めて面会するんだったら、わしはあなたに会いたくなかったことでしょう。しかし、あなたは知ってるんです。わしがあのために戦ったことを。あの連中全部を相手に、この腕一本で抵抗したことを。あの連中に最後まで真実を知らせ、あの連中の正体を、あの連中がわしに加えた所業を知らせてやったことを。だからわしはあなたに会ってもかまわないんです、この|残骸《ざんがい》を見せても」
「あなたは何度も何度もあの連中に、勇敢に振舞われましたよ」とおじさまは答えました。
「これまでわしはそうして来ました」とグリドリーはかすかな笑みを浮べました。「そうするのを止めた時どんなことになるかを、わしはこの前話しましたが、こっちをご覧なさい! わしたち二人を見て下さい――わしたち二人を!」グリドリーはフライトさんの腕にかかえられていた手を引っ張って、フライトさんをもう少し身ぢかに引き寄せました。
「これがその結末ですよ。わしの昔からのあらゆる交際のうちで、昔からのあらゆる仕事と希望のうちで、あらゆる生きた世界、死んだ世界のうちで、ただこのかわいそうな人だけがわしに似合い、この人だけにわしはふさわしいんです。わしたち二人は長年にわたる苦難の|縁《えにし》で結ばれていて、この縁こそ、わしがこの世で結んだいろんな縁のうち、大法官裁判所のために断ち切られなかった、ただ一つの縁なんです」
「私の祝福の祈りを受けてちょうだい、グリドリー」とフライトさんが涙を流しながらいいました。「私の祝福の祈りを受けてちょうだい!」
「わしはうぬぼれて、あの連中にわしの胸を引き裂けるもんかと思ってましたよ、ジャーンディスさん。そんなことをさせるもんかと決心してました。わしは自分がなにか体の病気で死ぬまでは、あの連中を、ああいう物笑いの種になってる罪で訴えることができるし、訴えてやろうと、ほんとに信じてました。しかし、わしは疲れ切ってしまった。いつからこんなふうになっちまったのか分りません、今にも参っちまいそうな気がしたんです。あの連中にこんなことを絶対知らせたくないですよ。わしがこれまで長年やって来たように、終始一貫あくまで、あの連中のことなんか|屁《へ》とも思わず死んでいったと、ここにいるみなさんから、連中に信じさせてもらいたいもんです」
バケットさんはドアのそばの片隅に腰かけていましたが、この時、自分にできる範囲で気さくに慰めてあげるのでした。
「さあ。さあ!」とバケットさんは隅のほうから口を出しました。「そんなふうにいうもんじゃありませんよ、グリドリーさん。あなたはちょっと元気がないだけです。人間だれしも、時にはちょっと元気がないこともありますよ。私[#「私」に傍点]がそうです。やめなさい、やめなさい! そのうち、あなたはまた何度も何度も、あの連中全員にかんしゃくを起すでしょうし、私はまだまだ二十回も令状を持って、あなたをつかまえますよ、運がよければね」
グリドリーはただ頭を振るばかりでした。
「頭を横に振りなさんな。縦に振りなさい、あなたがそうするのを見せてもらいたいものですよ。いやはや、まったく私たちはいっしょに、ずいぶんいろんな経験をしましたなあ! あなたが侮辱罪でフリート監獄にはいっている時に、何度も何度も会ったじゃないですか? あなたがブルドッグみたいに大法官をとっちめるのを見たいばかりに、私は|二十日《はつか》も午後の法廷へいったじゃないですか? 覚えていますか、あなたが初めて弁護士たちを脅迫し出したために、保護願いを出した者が一週に二、三人もいた時分のことを? そこにいるおばあさんに聞いてご覧なさい、この人はこれまでいつも同席していたんですから。やめなさい、グリドリーさん、やめなさい!」
「この人をどうするつもりです?」とジョージが低い声で尋ねました。
「まだ分らないね」とバケットも同じような調子でいいました。それから大きな声になって、また激励をつづけました。
「疲れきったって、グリドリーさん? この何週間も私に肩すかしを食わせ、ここの屋根へ牡猫みたいに登らせ、医者になって会いに来させて置いてですか? そいつはちょっと疲れきってるとは見えませんな。それどころ[#「どころ」に傍点]じゃない! さあ、どうすればいいか教えてあげましょう。あなた[#「あなた」に傍点]を元気にしておくには、興奮が必要なんです。それがあなた[#「あなた」に傍点]に必要なもんです。興奮になれているんで、なしでは済ませられんのです。私だってそうでしょうな。じゃあ、よろしい、これはリンカン法曹学院広場のタルキングホーン弁護士がもらった逮捕令状で、それ以来、六つの州で執行できる裏書をもらってあるんです。この令状に従って私といっしょに来て、治安判事諸賢の前で大いに激論をやったらどうです? |効目《ききめ》がありますよ。元気がついて、大法官とまた一番やる練習になりますよ。降参するんですか? おや、あなたのような精力家の口から、降参だなんていうのを聞くとはおどろいた。そんなことをしちゃいけません。大法官裁判所のおもしろみの半分はあなたにあるんですよ。ジョージ、グリドリーさんに手を貸してあげて、寝ているより起きたほうがよかないかどうか見てくれたまえ」
「とても弱っております」と騎兵が低い声でいいました。
「そうかね?」とバケットは心配して申しました。「私はこの男を励ましたいだけなんだ。古いなじみがこんなふうに参っているのを見たくないからね。私のことを少し怒るように仕向けられたら、それこそ元気が出るんだろうがね。もしなぐりたくなったら、いくらでも私をなぐればいい、右でも左でも。それにつけこむようなことは決してしないよ」
フライトさんの金切声で屋根が鳴りひびきました。あの声は今でも私の耳の中で鳴りひびいています。
「あら、だめよ、グリドリー!」フライトさんはグリドリーが自分の前から、声もなくどさりとうしろへ倒れると、そう叫びました。「私の祈りも受けずに。あんなに長い年月、おなじみだったのに!」
日は沈み、日光はいつしか次第に屋根から退いて、もう影がはい上って来ていました。けれども、私にとっては、あの二人の、一人は生きていて、もう一人は死んでしまった、あの二人の影が、もっとも暗い夜の|闇《やみ》よりも重たく、リチャードの出発の上に落ちたのでした。そしてリチャードの別れの言葉の中に、その反響が聞えました――
「わしの昔からのあらゆる交際のうちで、昔からのあらゆる仕事と希望のうちで、あらゆる生きた世界、死んだ世界のうちで、ただこのかわいそうな人だけがわしに似合い、この人だけにわしはふさわしいんです。わしたち二人は長年にわたる苦難の|縁《えにし》で結ばれていて、この縁こそ、わしがこの世で結んだいろんな縁のうち、大法官裁判所のために断ち切られなかった、ただ一つの縁なんです!」
[#改ページ]
第二十五章 スナグズビー氏の細君すべてを見抜く
カーシター通りのクック小路に不安が漂っている。あの平和な地域に暗い疑惑がひそんでいる。小路の住民は大部分いつもと同じ気分で、よくも悪くもならないが、スナグズビー氏は変ってしまい、彼のちびの細君がそれに気づく。
というのは、トム・オール・アローンズ通りとリンカン法曹学院広場が、二頭の|悍馬《かんば》よろしく、スナグズビー氏の想像力の馬車を引くといってきかず、バケット氏が御者、ジョーとタルキングホーン氏が乗客になり、装備万端ととのったこの馬車が、四六時ちゅう、すさまじい速力で、スナグズビー法律文房具商店内をかけまわっているからである。家の者たちが食事をとる、表側の狭い台所の中にいてさえ、スナグズビー氏が、じゃがいもといっしょに蒸し焼きにした羊の脚肉を切り分け始めた手をやめて、壁をじっと見つめると、馬車はがらがら音を立て、馬が汗をかくほどの早足で食卓から走り去る。
あの夜、自分が一体どういうことにかかわり合いを持ったのか、スナグズビー氏には見当がつかない。なにか|啻《ただ》ならぬことが、どこかで起っているのだ、しかし、どういう啻ならぬことなのか、その結果としてなにが、だれに、いつ、どんな意外な聞いたこともない方面から、生じて来るのか、これが彼を悩ませている難問中の難問なのである。タルキングホーン氏の事務所一面に積っている塵の中からきらめいた礼服官服と|宝冠《コロネツト》(1)、星章とガーターについてのおぼろな印象、全法曹学院、全大法官府横町、全法曹地区に等しく畏敬されている、彼のもっとも|昵懇《じつこん》なあの最上の客が支配している数々の秘密に対する崇敬の念、人さし指を振り上げたり、いかにも打ち解けた態度を見せて、避けることも拒むこともできぬバケット警部についての記憶、こういったことからスナグズビー氏は考えて、自分はなにも知らずに危険な秘密に関係してしまった、と確信する。しかも、こういう事態が特におそろしいのは、ふだん暮している時でも、店のドアがあいた時でも、呼び鈴が鳴った時でも、使いの者がはいって来た時でも、手紙が配達された時でも、いつなんどきその秘密がもれて、発火し、破裂し、爆破してしまう――だれを爆破するのか、それはバケット警部しか知らない――かも知れないからである。
そういうわけなので、知らない人が店の中へはいって来て(知らない人は大勢やって来るので)、「スナグズビーさんはいますか?」といったような罪のないことを聞くたびに、スナグズビー氏のやましい胸の中で心臓が激しく打ち出す。そういった質問をされると、ひどく不安になるので、男の子たちが尋ねると、その仕返しに、勘定台越しに相手の耳を指ではじき、それはどういう意味だ、なぜすぐはっきり話をしないんだ、とそいつらに尋ねる。もっと始末の悪い男や少年は、眠っているスナグズビー氏の中へしつっこくはいりこみ、わけの分らぬ質問をしておびやかすので、明けがた近く、カーシター通りのちいさな牛乳屋のおんどりが、例のとてつもない声を張りあげるころ、スナグズビー氏はちびの細君にたびたびゆり起され、「この人ったら、どうしたんだろう!」といわれると、自分が悪夢にうなされて危機一髪の状態にあったことに気づく。
このちびの細君自体が、彼にとっては少なからぬ悩みの種である。自分が絶えず細君に対して秘密を持ち、どんな場合でも、いわば、この痛む|八重歯《やえば》を隠して、しっかりおさえていなければならないのに、敏感な細君はいつでも夫の頭の中からそれを抜きとろうとしていることを知ると、スナグズビー氏はこの歯科医の前では、ちょうど、主人に隠しごとをしているため、主人を見返さないで、もっぱらそっぽを向く犬のような態度をとる。
ちびの細君が注意を向けたこういうさまざまな|印《しる》しと|兆《きざ》しは、彼女にまったく影響を与えなかったわけではない。それが彼女に「スナグズビーはなにか心配してることがあるんだわ!」という言葉をいわせる。こうしてカーシター通りのクック小路に疑惑がはいりこむ。疑惑から|嫉妬《しつと》へゆくのは、クック小路から大法官府横町へゆく道に劣らず、自然であり近いことをスナグズビー氏の細君は知る。こうしてカーシター通りのクック小路に嫉妬がはいりこむ。ひとたびはいりこむと(その上、こいつはいつもその近所に隠れていたのである)、細君の胸の中ですこぶる敏速な活動を始め、彼女に夫のポケットを毎晩検査させ、手紙をひそかに通読させ、当座帳や元帳から、ついには銭箱や鉄の金庫まで内証で調べさせ、窓辺で見張りをさせ、ドアのうしろで立聞きをさせ、あれやこれやをすべて誤解させるようになる。
スナグズビー氏の細君がいつもひっきりなしに警戒しているため、|床板《ゆかいた》がきいきい鳴ったり、かさかさ|衣《きぬ》ずれがしたりして、家の中は幽霊屋敷のようになる。店の小僧たちは、昔この家で人殺しがあったのだと考える。ガスタは、地下室の下にお金が埋められていて、白いあごひげの老人が番をしているけれども、この老人は主のお祈りを逆に唱えたため、七千年のあいだそこから出られないのだという、きわめてずさんな考えかたをする(これはトゥーティングの託児所で孤児たちのあいだに広まっていた考えを聞き覚えたのである)。
「ニムロッドはだれだったんだろう?」とスナグズビーの細君はくり返し自問する。「あの貴婦人は――あの女はだれだったんだろう? それから、あの男の子はだれなんだろう?」ところで、ニムロッド(2)はこの細君に名前を盗用された偉大な狩人と同じように死んでしまったし、貴婦人のほうはつれて来ることができないので、警戒心を二倍にしながら、さしあたり少年に注意を向ける。「それで、あの男の子は」と細君はこれが千一度目の文句をいう。「だれなんだろう? あの男の子は――!」するとその時、彼女は霊感にとりつかれる。
あの子はチャドバンド先生を全然尊敬していないわ。ええ、たしかにそうだわ、むろん、そうでしょうよ。ああいう悪に染まりやすい境遇にいれば、もちろん、そうでしょうよ。あの子は、またここへ戻って来て、先生が訓話をなさる場所を教えてもらって、聞きにいくようにって、先生にすすめられ命じられたのに――そうよ、それはこのあたしがこの耳で聞いたわ――来なかった! なぜ来なかったんだろう? 来るなっていわれたからよ。だれが来るなっていったんだろう? だれが? はっはっ! あたしにはすっかり分ったわ。
でも、さいわいなことに(そこでスナグズビー氏の細君はかぶりをきつく振り、きつい微笑を浮べる)、チャドバンド先生は昨日あの子に町の中でお会いになって、ご自分がある|選《え》り抜きの会衆に霊的なよろこびを与えて下さるために話したいと思っていらっしゃるお説教の話題には、あの子がちょうどいいので、あの子をつかまえて、警察へ渡すぞっておどかしたんだわ、もしもおまえが住んでいるところを教えて、明日の晩クック小路へ来るって約束して、約束をはたさなければといってね、「あした―の―ばん―よ」とスナグズビー氏の細君はただ単にいきおいをつけるためにそうくり返しながら、もう一度かぶりをきつく振り、きつい微笑を浮べる。それで明日の晩にはあの子がここへ来るわ、明日の晩あたしはあの子と、ほかのある人から目を離さないでいよう、ああ、あなたは長いあいだ秘密をつくって隠しているのかも知れないけれど(と細君はおうへいな軽蔑をこめていう)、あたし[#「あたし」はゴシック体]の目をくらますことはできないわよ!
スナグズビー氏の細君はこのことをだれにも|吹聴《ふいちよう》せず、静かに決意を抑えて沈黙を守る。明日が来る、風味のよい製油材料を準備する時刻が来る、夕方が来る。黒の上衣に身を固めたスナグズビー氏が来る、チャドバンド夫妻が来る、(その|貪食《どんしよく》な器が満腹すると)ためになる教えを受けに店の小僧たちとガスタが来る、最後に、頭を前のめりにして、足をうしろで引きずり、前で引きずり、右で引きずり、左で引きずり、泥にまみれた手にちいさな毛皮の帽子を持ち、まるでひぜんにかかった小鳥をつかまえて、羽を抜いて|生《なま》で食べようとでもしているみたいに、帽子のけばをむしりながら、これからあのチャドバンド氏の説教の|話題《サブジエクト》にされる、まったく|手に負えぬ難物《タフ・サブジエクト》のジョーが来る。
ガスタにつれられてジョーがちいさな応接間にはいって来ると、スナグズビー氏の細君は目を細めて、ちらりと警戒の視線をジョーに向ける。部屋にはいるやいなやジョーはスナグズビー氏のほうを見る。ははあ! なぜジョーはスナグズビー氏のほうを見るのだろう? スナグズビー氏もジョーのほうを見る。なぜそんなことをするのだろう、もし細君にすべてを悟られていないとしたら? もしそうでないとしたら、なぜ二人はあんなふうに顔を見合わせるのだろう、なぜスナグズビー氏はろうばいして、口に手を当て合図の|咳《せき》をするのだろう? スナグズビー氏があの子の父親であることは、水晶のように明らかだ。
「みなさん、平和が」とチャドバンドは立ち上って、|尊《とうと》い顔ににじみ出た|脂《あぶら》をふきながらいう。「平和がわたくしどもとともにありますように! みなさん、なぜわたくしどもとともにというのでしょうか? なぜなら」と脂ぎった微笑を浮べて、「平和がわたくしどもにさからうはずがないからであります、それはわたくしどもに味方するに相違ないからであります、それは人の心をかたくなにしないからであります、柔和にするからであります、それは鷹のように戦いを仕掛けず、鳩のようにわたくしどものもとへ帰って来るからであります。それゆえ、みなさん、平和がわたくしどもとともにありますように! わが人間の少年よ、前へお出なさい!」
チャドバンド氏はたるんだ手をさし出して、ジョーの腕に掛け、この少年をどこにすわらせたものかと思案する。ジョーはこの尊い紳士の意図にひどく疑いをいだき、なにか実際に痛い処置を加えられるのかも知れないと思いこんで、こうつぶやく、「おいらを放っといておくれよ。おいらはあんたに、なんにもいやあしなかったじゃねえか。おいらを放っといておくれよ」
「いいえ、若き友よ」チャドバンドは|淀《よど》みなくしゃべる、「わたくしはあなたを放っては置きません。それはなぜでしょう? それはわたくしが取入れに精を出す農夫だからです、刻苦精励する者だからです、あなたがわたくしに引き渡され、わたくしの掌中の貴重な道具になったからです。みなさん、この道具をみなさんの利益のために、利得のために、便宜のために、福祉のために、福利増進のために、わたくしが使うことができますように! わが若き友よ、この腰かけにおすわりなさい!」
明らかにジョーは、この尊い紳士がジョーの髪の毛を刈りたがっているのだと思いこんだらしく、両腕で頭をかばい、あくまでいやがって、さんざんてこずらせたあげく、ようやくいわれた通りの席に就かされる。
とうとうモデル人形のようにジョーの姿勢をととのえると、チャドバンド氏はテーブルのうしろへ退き、熊のような手をあげて、「みなさん!」という。これは聴衆一同を落着かせるための合図である。小僧たちは腹の中でくすくす笑って、たがいに相手をつつき合う。ガスタは、チャドバンド氏から受けた気も遠くなるような感嘆の念と、よるべない浮浪児に深く心を打たれたあわれみの念とが入りまじって、茫然と目をみはる。スナグズビー氏の細君は黙りこんだまま火薬の導火線を敷設する。チャドバンド夫人は煖炉のそばに厳然とかまえて、ひざを暖める、雄弁を聞かされるには暖いほうが好ましいと考えて。
偶然のことながら、チャドバンド氏は説教壇上に登った時の習慣で、会衆のうちのだれか一人をじっと見つめ、その人物に向って論点を、脂の出るほど弁じ立てるのであるが、当然相手は感激して時々心の動きをうなり声、うめき声、あえぎなど、耳に聞える形で表現するので、それが隣席の中年の婦人によっておうむ返しにくり返され、こうして列席者中の感動しやすい|罪人《つみびと》仲間全体に、罰金遊び(3)のように伝わって、議会式の上品な激励の目的にかない、チャドバンド氏を元気づけるのである。チャドバンド氏は「みなさん」といった時に、ただ習慣でスナグズビー氏に視線を向けて、それだけでもうすっかりろうばいしている、この星まわりの悪い文房具商を訓話の直接の聞き手にし始める。
「今わたくしどものあいだには、みなさん」とチャドバンドはいう、「異邦人にして異教徒、トム・オール・アローンズ通りの天幕に住む者にして、この地の面に立ち止まってはならぬ者がおります。今わたくしどものあいだには、みなさん」それからチャドバンド氏はこの論点を、親指のよごれた|爪《つめ》で解きながら、スナグズビー氏に脂ぎった微笑を浴びせるが、それはこれでもまだおまえが倒れないなら、もうじき論争術のバック・フォール(4)をお見舞してやるぞという意味である、「兄弟にして少年なる者がおります。両親を欠き、親類を欠き、羊の群れと牛の群れを欠き、金と銀と、そして宝石を欠きたる者であります。さて、みなさん、なぜ彼がこれらの持ち物を欠いているとわたくしは申すのでしょう? なぜでしょう? なぜ彼は欠いているのでしょう?」チャドバンド氏はまるで、スナグズビー氏に向って、ひじょうに独創的で価値のある|謎《なぞ》を持ち出して、あきらめずに解いてくれと懇願でもしているような態度で、この質問をする。
スナグズビー氏はつい今しがた――チャドバンド氏が両親という言葉を挙げたころに――ちびの細君から不可解な視線を向けられたばかりで、大いにまごついているため、「存じません、どうもわたくしは」と遠慮勝ちに答える気になる。この差し出口を聞くと、チャドバンド夫人はぐっとにらみつけ、スナグズビー氏の細君は「恥をお知りなさいっ!」という。
「わたくしには声が聞えます」とチャドバンドがいう、「あれは静かなる細き声(5)でしょうか、みなさん? そうではないようです、そうであらんことをわたくしは切に望みたいのですが――」
(「ああ―あ!」とスナグズビー氏の細君)
「その声は申します、存じませんと。それでは、わたくしがあなたがたに、なぜであるかをお話ししましょう。今わたくしどものあいだにいるこの兄弟は、両親を欠き、親類を欠き、羊の群れと牛の群れを欠き、金と銀と、そして宝石を欠きたる者であると、わたくしは申します、なぜならこの兄弟はわたくしどもの何人かの上に射し入る光を欠いているからです。その光はなんでしょうか? それはなんでしょうか? わたくしはあなたがたに、その光はなんでしょうかとお尋ねいたします?」
チャドバンド氏は頭をうしろに引き、話をやめて待っているが、スナグズビー氏は二度と破滅に誘いこまれようとはしない。チャドバンド氏はテーブルの上に体を乗り出して、もうさきほど述べた親指の爪で、話のつづきをまっすぐスナグズビー氏に突き刺す。
「それは」とチャドバンドがいう、「光明の中の光明、太陽の中の太陽、月の中の月、星の中の星です。それは真理の光です」
チャドバンド氏はまたまっすぐに立ち、今の言葉を聞いてスナグズビー氏がどんな気持になるのか聞かせてもらいたいものだとでもいいたげに、意気揚々としてスナグズビー氏のほうを眺める。
「真理の光なのです」とチャドバンド氏はスナグズビー氏に追い討ちをかける、「それが灯明の中の灯明ではない[#「ではない」に傍点]などと、わたくしにおっしゃらないで下さい。あなたがたに申します、たしかにそうなのです。百万べんくり返して、あなたがたに申します、たしかにそうなのです。そうなのです! そのことをわたくしははっきり宣言します、あなたがたが好むと好まないとにかかわらず。いいえ、あなたがたが好まなければ好まないほど、ますますわたくしはそのことを宣言します。拡声器をもってです! あなたがたに申します、もしあなたがたがそのことに反抗するならば、あなたがたは倒れるでしょう、傷を負うでしょう、打ちのめされるでしょう、体がひびだらけになるでしょう、こなごなに砕かれるでしょう」
こういう高揚した雄弁――その全体としての力をチャドバンド氏の信奉者たちは大いに賞賛しているのだが――の今回の効果は、単にチャドバンド氏を不愉快なほど興奮させるばかりでなく、なんの罪もないスナグズビー氏を鉄面皮で無情な、美徳の決定的な敵らしく述べる点にあるので、この不運な商人がますます当惑して、極度に意気銷沈するとともに、はなはだ迷惑な立場に陥っていると、その時、偶然チャドバンド氏は彼の息の根を止めてしまう。
「みなさん」と彼はしばらくのあいだ脂ぎった頭を軽くたたいていたのち、また始める――その頭から盛んに湯気が立って、彼のハンケチに火がつくかと思われるほどの煙になり、頭をたたくたびにハンケチからも煙が出る――「わたくしどもがみすぼらしい才能をもって、お話ししようと努めております話題をつづけるために、わたくしがただいま触れましたその真理がどのようなものであるかを、愛の精神において調べようではありませんか。と申しますのは、わが若き友人たちよ」と突然、小僧たちとガスタに呼びかけるので、彼らはびっくり仰天する、「もしわたくしが医者から|甘汞《かんこう》とひまし油がわたくしの体によいといわれましたら、当然わたくしは甘汞とはなにか、ひまし油とはなにかと医者に尋ねることでしょう。わたくしはそのどちらかなり、両方なりを服用する前に、それらのものについて知っておきたいと望むことでしょう。さあ、それでは、わが若き友人たちよ、その真理はどのようなものでしょうか? まず第一に(愛の精神において)、普通の種類の真理――仕事着――ふだん着――とは、どのようなものでしょうか? それは偽りでしょうか?」
(「ああ―あ!」というスナグズビー氏の細君の声)
「それは|隠蔽《いんぺい》でしょうか?」
(スナグズビー氏の細君の否定の身ぶるい)
「それは隠し立てでしょうか?」
(スナグズビー氏の細君がかぶりを振る――大そうきつく、大そう長いあいだ)
「いいえ、わが友人たち、真理は今申したどのものでもありません。今申した事柄はどれも真理のうちにはいりません。今わたくしどものあいだにいる、この若い異教徒が――彼は、わが友人たち、無関心と|劫罰《ごうばつ》の印をまぶたに押されましたので、眠っています、しかし起さないでやって下さい、なぜなら彼のためにわたくしが苦闘し、闘争し、奮闘し、征服しなければならないのは正しいことなのですから――この若いがんこな異教徒が|雄鶏《おんどり》と牡牛の話(6)や、貴婦人と金貨の話をした時、あれ[#「あれ」に傍点]は真理だったでしょうか? ちがいます。あるいは、たとい部分的に真理だったとしても、全体的に、全面的にそうだったでしょうか? ちがいます、わが友人たちよ、ちがいます!」
もしスナグズビー氏が、その時、彼の魂の窓である目からはいりこんで、家じゅうを探しまわっている細君の視線に耐えられるとしたら、それは彼の人柄に合わぬというものだろう。彼はちぢこまって、うなだれる。
「あるいは、わが年若き友人たちよ」チャドバンド氏はそういって、彼らに理解できる水準まで降り、わざわざはるか下まで来てやったことを、脂がにじみ出るほど柔和な微笑を浮べて、押しつけがましく誇示する。「もしもこの家のご主人が旧市内へお出かけになって、そこでうなぎをご覧になり、戻ってからこの家の奥さんを呼び寄せられて、『セアラ、私といっしょによろこんでおくれ、私は象を見て来たのだよ!』とおっしゃったとしますと、それ[#「それ」に傍点]が真理でしょうか?」
スナグズビーの細君が涙を流す。
「あるいは、象をご覧になり、戻ってから、『ねえ、旧市内はつまらないよ、うなぎを見ただけだった』とおっしゃったとしますと、それ[#「それ」に傍点]が真理でしょうか?」
スナグズビー氏の細君が声をあげてすすり泣く。
「あるいは、年若き友人たちよ」チャドバンド氏はその声に刺激されていう。「この居眠りをしている異教徒の不人情な両親が――年若き友人たちよ、もちろん、この子には両親があったのです――この子を|狼《おおかみ》とはげ鷹と、山犬とかもしかの子と、|蛇《へび》に投げ出して、住いに帰り、煙草をふかしたり、料理を食べたり、横笛を吹いたり、ダンスをしたり、ビールを飲んだり、鳥やけものの肉を食べるとすれば、それ[#「それ」に傍点]が真理でしょうか?」
スナグズビー氏の細君は返事の代りに発作を起すが、おとなしくしていず、わめきあばれるので、クック小路に金切り声がひびき渡る。あげくのはてには硬直症を起すので、せまい階段をグランド・ピアノのように運び上げねばならぬ。いいようもないほど苦しみ、みなの肝をつぶしたのち、寝室からの急報によると、疲労|困憊《こんぱい》しているけれども痛みはないと確定し、そこでスナグズビー氏は、今しがたのピアノ運搬のさいにふみつぶされ押しつぶされ、ひどく恐れをなし弱っているが、勇気を出して応接間のドアのうしろから出て来る。
そのあいだじゅうずっと、ジョーは目をさました場所に立ったまま、絶えず帽子の毛をむしっては口に入れていた。今、彼は悔恨に耐えぬ様子で、毛のかたまりを吐き出す、なぜなら彼は自分が生れつき神様に見放された、改善の見こみのない人間で、おいら[#「おいら」に傍点]が目をさましていようなんて努めたってむだだ、だっておいら[#「おいら」に傍点]にゃなんにも分らねえだろうから、と感じているのである。そうかも知れないが、ジョーよ、ある歴史の本には、この地上において普通の人々のためになされたいろいろな行いが書き残されていて、この本はおまえみたいに畜生に近い人たちに対してさえ、ひじょうな興味と感動を与えるから、もしもチャドバンド夫妻がその光をさえぎらないで、すなおに敬虔に、その光をおまえに見せてくれさえすれば、それを改善しようなどと考えさえしなければ、彼らの慎しみ深い応援などなくとも、それだけで充分人を動かす力があると悟ってくれさえすれば――その光がおまえを目覚めさせてくれるだろうに、おまえはまだそれから学ぶことができるだろうに。
ジョーはそんな本の話など一度も聞いたことがなかった。その本を編んだ人たちもチャドバンド牧師も、彼にとってはみな同じである――ちがう点といえば、チャドバンド牧師なら知っているし、彼の話を五分間聞くくらいなら、むしろ一時間そばから逃げているほうがましだと思っていることである。「これ以上ここで待っていてもむだだ」とジョーは考える。「スナグズビーの旦那は、今夜おいらになんにもいってくれねえんだろう」それで彼はすり足をしながら階下へ降りる。
しかし、階下には慈悲深いガスタがいて、台所の階段の手すりにつかまり、スナグズビー氏の細君の悲鳴によって誘発された持病の発作を静めようとしているが、今のところおぼつかなそうである。ジョーにやろうと思って、自分の夜食のパンとチーズを持って来たのであるが、この時初めて彼女は勇気を出してジョーとひとこと、ふたこと言葉をかわす。
「これをあげるから、お食べ、かわいそうに」とガスタがいう。
「ありがとう、おばさん」
「おまえ、おなかがすいてんの?」
「ぺこぺこだよ!」
「おまえのとうちゃんや、かあちゃんはどうしたの?」
ジョーは盛んに食べていたのを止め、化石になったように身動きしない。というのは、トゥーティングに聖堂を構えているキリスト教の聖人のもとで育てられた、このみなし子の女が彼の肩をなでたからで、彼は普通の人からそんなふうに手をかけられたのは、生れて初めてなのである。
「とうちゃんや、かあちゃんのことは、おいら、なんにも知らねえんだよ」
「わたしもおんなじなんだよ」とガスタが大声で叫ぶ。そして発作が起りそうな徴候を抑えているうちに、なにかにおどろいたと見えて、階段を降りて姿を消す。
「ジョー」ジョーが階段を立ち去りかねていると、店の主人が静かにそうささやく。
「ここにいるよ、スナグズビーの旦那!」
「おまえが出ていったのを知らなかったのだよ――そら、また半クラウン銀貨をあげよう、ジョー。このあいだの晩おまえと二人で出かけた時、あの女の人のことを、おまえがなんにもいわなかったのは、ほんとにいいことだった。あれはめんどうなことになるかも知れない。いくら内密にしても、しすぎることはないのだぞ、ジョー」
「おいらに抜け目はねえよ、旦那!」
それでは、おやすみ。
ひだ飾りをつけナイト・キャップをかぶった幽霊のような影が、店の主人のあとをつけて、さっき彼が出て来た部屋までゆき、さらに階上へ音もなく登ってゆく。そしてこれ以後、スナグズビー氏がどこへゆこうが、彼の影とちがうもう一つの影が、彼の影に劣らぬほど忠実に、静かに、彼に付き従うようになる。スナグズビー氏自身の影がどのような秘密の環境へはいりこむにしても、秘密の関係者はみな用心するがよい! そこには彼の油断のない細君もいるのだから――彼の骨の骨、彼の肉の肉、彼の影の影として(7)。
[#改ページ]
第二十六章 狙撃兵たち
冬の朝が鈍い目をして黄ばんだ顔で、レスタ広場の近辺を見下してみると、住民たちはまだ寝床から出たがらない。彼らの多くは、太陽が高くのぼったころねぐらにつき、星が輝くころ大きく目を開いて獲物を求める夜の鳥なので、もっとも晴れやかな季節の時分でも、早起きはしない。家々の上のほうの階と屋根裏部屋の、黒ずんだブラインドとカーテンのうしろでは、にせの名前、にせの髪の毛、にせの肩書き、にせの宝石、にせの経歴で多かれ少なかれ正体を隠した略奪者たちの群れが寝ついたところだが、彼らは外国のガレー船(1)や国内の踏み車(2)の体験談を話せそうなトランプぺてん師、気が弱くてあわれな恐怖に絶えず震えている強国のスパイ、敗残の裏切り者、臆病者、弱い者いじめのごろつき、|賭博《とばく》師、いかさま師、|詐欺《さぎ》師などで、中には、編んだきたない髪の下に、罪科を物語る焼印のあとが残っている者もあり、だれもかれもみな、ネロ皇帝以上に残忍で、ニューゲイト監獄(3)じゅうにあるよりも多くの犯罪を犯している。なぜなら、悪魔というやつは、コールテンの洋服や|野良着《のらぎ》を着た時に、どれほど悪くなれるにしても(たしかに、どちらの場合でも、ひじょうに悪くなれるが)、ワイシャツの胸に飾りピンをさし、紳士と称して、トランプやルーレットの|賭《か》けをし、玉突きをひとゲームふたゲームやり、証券と約束手形のことを少しばかり知った時こそ、どんな姿をしている時よりも腹黒くて、冷酷で、我慢のならぬものである。バケット警部が悪魔を見つけようと思えば、今なおレスタ広場に通じる方々の道路に、こういう姿をした悪魔が充満していることに気づくだろう。
しかし、冬の朝はこういう者に用はないので目をさましてやらず、射撃場主のジョージ氏と彼の親友の目をさましてやる。二人は起き上り、マットレスを丸めて仕舞いこむ。ジョージ氏は恐ろしくちいさな鏡の前でひげをそり終えると、帽子をかぶらず胸をむき出しにしたまま、狭い中庭にあるポンプのところまで歩調をとって出かけ、やがて黄色い石けんと、皮膚摩擦と、吹きつける雨と、ひどく冷い水とで体を光らせながら戻って来る。水面に浮び上ったばかりの、いわば潜水兵とでもいったように大きな息をしながら、回転式長タオルで体をふき、日焼けのした両のこめかみの上にたれ下った、かたい髪の毛をこすると、こするにつれて髪の毛はますます固くちぢれてしまい、鉄の熊手か馬のくしほど強制力のある道具でも使わなければ、とうていほぐれそうにもない――ジョージ氏が|咽喉《のど》の皮膚をすりむくのに便利なように頭を左右に回し、いかにも軍人らしい両脚に水がたれないように、上体を充分前にかがめながら、こすっては、はあはああえぎ、磨き立てては、大きく息をしていると、フィルはひざをついて火を起しながら、そちらを振り向き、そうしているのを全部見るだけで、もう自分が体を洗った代りになるし、主人の投げ捨てたあり余る活力を吸いこむだけで、もう今日一日分の元気を回復するのに充分だ、といいたげな顔をする。
ジョージ氏は体が乾くと、二つのブラシを同時に使って、情け容赦もなく髪をとかしにかかるので、フィルは射撃場の|塀《へい》に肩を当てて歩き回りながら掃除をしているが、目くばせをして同情の意を示す。髪の毛をこするのがすむと、ほどなくジョージ氏のお化粧は終る。彼はパイプに煙草をつめて火をつけ、いつもの習慣どおり、それを吹かしながら歩調をとってゆきつ戻りつするが、他方フィルは熱いロールパンとコーヒーの強い香りを漂わせながら朝食の準備をする。彼は荘重な顔をして煙草を吹かし、ゆるやかな速度で行進する。おそらく、今朝のパイプは墓の中にいるグリドリーの霊に捧げられているのだろう。
「それじゃ、フィル」と射撃場の主人ジョージは黙りこんだまま数回往復したのちにいう。「おまえ、昨日の夜は|田舎《いなか》の夢を見ていたんだな?」
ついでながらいえば、フィルは寝床からはい出た時に、そういうことをいったのである。
「はい、親分」
「田舎はどんなふうだった?」
「どんなふうだったか、どうもよく分らねえんですよ、親分」とフィルは思案しながらいう。
「田舎だということが、どうして分った?」
「草がはえてたせいだと思うんですがね。それから、草の上にスワンがいたしね」フィルはさらに思案してから、そういう。
「スワンは草の上でなにをしていた?」
「たしか、草を食ってたはずですがね」
主人はまた行進をつづけ、召使はまた朝食の準備をつづける。準備といっても、二人分のごく簡単な朝食用品をならべ、煖炉の|錆《さ》びた|火格子《ひごうし》の火でベーコンの薄切りをあぶるだけなので、かならずしも手間のとれる準備ではないが、フィルはなんでも入り用な物を手に入れる時には、射撃場の塀に沿って相当な距離を横に歩いてゆかねばならず、従って一度に二つの物を持って来るということがないから、そのために時間がかかる。とうとう朝食の用意ができる。フィルがそれを知らせると、ジョージ氏は火格子のわきの台でパイプをたたいて灰を出し、パイプは煖炉のすみの座席の上に立てて、食事の席につく。ジョージ氏がまず食べ始めると、フィルもそれにならって、ちいさな長方形のテーブルの一番端にすわって、自分の皿をひざの上に載せる。けんそんしているからか、あるいは黒くよごれた手を隠すためか、それともそれが彼の自然の食べかたなのか、どちらかである。
「田舎というが」とジョージ氏はしきりにナイフとフォークを動かしながら、「おい、おまえはまだ田舎を見たことがないんだろう、フィル?」
「沼を一度見てますよ」とフィルは自分の分を満足げに食べながらいう。
「どんな沼だい?」
「その[#「その」に傍点]沼でさあ、隊長どの」とフィルは答える。
「それはどこにある?」
「どこにあるか知らねえが、おれは見てるんでさあ、親分。ひらべったかったね。そいから、もやがかかってました」
親分と隊長どのとはフィルにとって、相互に交換できる言葉で、同じ尊敬と服従の念をあらわし、ジョージ氏以外の人には絶対使えないのである。
「おれは田舎で生れたんだ、フィル」
「ほんとですかい、隊長どの?」
「うん。それから田舎で育った」
フィルは一つしかないまゆ毛をあげ、それから興味を抱いていることを示すために、うやうやしく主人の顔を見つめてから、がぶりとコーヒーを飲みこむが、目はあい変らず主人を見つめている。
「どんな鳥の鳴き声だって、おれの知らないものは一つもないんだ。いろんなイギリスの木の葉や木の実で、おれに名前が分らんようなのはめったにない。どんな木だって、もし登れといわれれば、今でもおれに登れんようなのはめったにない。おれはほんとうに田舎の子供だった、むかしは。おれのおふくろは田舎に住んでいたんだ」
「さぞかし、りっぱなおばあさんだったろうねえ、親分」
「そうとも! それに三十五年前はそれほどおばあさんじゃなかった。しかし、きっと、九十になっても、おれと同じように腰が曲らず、おれと同じように胸を張っていることだろうよ」
「九十で死んだんですかい、親分?」とフィルが尋ねる。
「ちがう。ばかな! おふくろを安らかに|憩《いこ》わせたまえ、神のみ恵みがあらんことを!」と騎兵はいう。「なんだっておれは田舎の少年や、|家出者《いえでもの》や、ろくでなしの話を始めたんだ? なるほどおまえか? で、おまえはまだ田舎を見たことがないんだな――沼と夢のほかには。ええ?」
フィルは頭を振ってうなずく。
「田舎を見たいか?」
「い、いんえ、特別見たいかどうか分らねえんで」
「おまえにはロンドンで充分なんだな、ええ?」
「ええと、ねえ、隊長どの、おれはほかのとこは全然知らねえし、初めてのとこへいくにゃ、年をとり過ぎて来たんじゃねえかと思うんですがね」
「おまえはほんとに[#「ほんとに」に傍点]いくつなんだい、フィル?」と騎兵は、コーヒーの湯気が立っている受け|皿《ざら》を口へ運ぶあいだ、ちょっと話をやめてから尋ねる。
「おれは八つがはいってる年なんでさあ」とフィルがいう。「八十ってはずはねえ。十八ってはずもねえ。そのあいだのどっかだね」
ジョージ氏は中身を飲まずに、受け皿をゆっくり下に置いて、笑いながら、「なんだ、フィル、一体全体――」といい始めているが、フィルがきたない指を折って数えているのを見て途中でやめる。
「教区の計算によると、ちょうど八つの時におれは|鋳掛《いか》け屋といっしょにいっちまったんです。使いに出されて、その鋳掛け屋が古い建物の下で、火を全部ひとりじめして、とても気持よさそうにすわってるのを見たところが、『おれといっしょにいきたいかね、おい?』っていわれて、おれは『うん』といって、それで鋳掛け屋とおれと火とが全部いっしょにクラークンウェル(4)の家へいったわけでさ。それが四月馬鹿の日だった。おれは十まで数をかぞえることができたんで、また四月馬鹿の日がめぐって来た時に、おれは『いいか、おい、おまえの年は一つと八つだぞ』と考えた。その次の四月馬鹿の日には『いいか、おい、おまえの年は二つと八つだぞ』って。時がたつうちに、おれは十と八つになり、十が二つとそれから八つになったんでさあ。年がうんと多くなると、おれの手におえなくなっちまったけど、こういうわけでおれの年には八つがはいってるってことを、いつも知ってるんですよ」
「ほう!」とジョージ氏はまた朝食を食べ始めながら、「それで、鋳掛け屋は今どこにいる?」
「酒のために病院に入れられちまってね、親分、病院じゃ――ガラスのケースに入れられたって聞いたこと[#「こと」に傍点]があるねえ」とフィルは不可解な返事をする(5)。
「それでおまえは進級したんだな? 店を継いだんだな、フィル?」
「はい、隊長どの、おれが店を継いだんで。あんな店だったけど。たいした地盤もなくってね――サフロン・ヒルと、ハットン・ガーデンと、クラークンウェルと、スミスフィールドのあたり一帯に、それからあの――修繕がきかなくなるまで湯わかしを使ってる貧乏な区域とね。渡りの鋳掛け屋はたいがい、うちへ泊りに来たもんで、それがうちの親方の主なもうけだった。でも、おれのとこへは来なくなっちまった。おれは親方とちがってましたからね。親方は連中にじょうずな歌を聞かしてやれたんでさ。おれ[#「おれ」に傍点]にはそれができなかった。親方はなべでも、びんでも、鉄かすずのものでせえありゃ、それをたたいて歌の曲をひくことができたねえ。おれ[#「おれ」に傍点]はなべとか、びんとかいやあ、修繕するか取っ手をつけるよりほかに能のない男だった――音楽のオの字も知らなかったもんでね。そればかりじゃねえ、おれがあんまりすごいかっこうをしてるもんで、連中のおかみさんたちに、いやがられたんでさあ」
「いやにやかましいんだな。おまえはまず普通に検閲を通る程度だろう、フィル!」と騎兵は明るい|笑《え》みを浮べていう。
「だめだね、親分」フィルはかぶりを振りながら答える。「だめだね、おれは通らないだろうね。鋳掛け屋の親方といっしょにいっちまったころは、まずまず及第だった、もっともあの時分だって自慢にゃならなかったけど、ところが、若い時に口で火を吹いて、顔の色を台なしにするわ、頭の毛をこがしてなくしちまうわ、煙を吸いこむわだし、それに生れつき運が悪いんで、熱い鉄やなんかにぶつかって、やけどの跡をつくるし、年をとって来ると、親方が飲みすぎた時にゃ――ほとんどいつもそうでしたがね――たいがい、二人でなぐり合いをするし、そんなわけでおれの男前は、あのころだって妙なもんだった、ずいぶん妙なもんだった。それからあとは、職人たちがふざけてばかしいる、暗い|鍛冶場《かじば》で十二年働いたり、ガス工場で事故に会って焼きこがされたり、花火屋で火薬を詰めてる時に窓から吹き飛ばされたりで、見世物になるような見っともねえざまになっちまった!」
そういう自分の姿に満足しきっている様子で、フィルはコーヒーをもう一杯所望する。それを飲みながら彼はいう、
「おれが初めて隊長どのに会ったのは、その花火の爆発のあとだった、隊長どの。覚えてるかね?」
「覚えているよ、フィル。おまえは|日向《ひなた》を歩いていた」
「|這《は》ってたんでさ、親分、塀に――」
「そうだ、フィル――肩でよりかかって――」
「ナイトキャップをかぶって!」とフィルは興奮して大声をあげる。
「ナイトキャップをかぶって――」
「びっこを引き引き、|杖《つえ》を二本ついてた!」フィルは一層興奮して叫ぶ。
「杖を二本ついていた。その時――」
「その時、隊長どのが立ち止ったんでさあ、ねえ」と叫んでフィルは茶碗と受け皿を下に置き、料理の皿を急いでひざからどけ、「そしておれにこういった、『どうした、戦友! 戦争にいって来たんだな!』あの時、隊長どの、おれは隊長どのにあんまり物をいわなかった。だってびっくり仰天しちまったんでさ、隊長どのみてえに強くて、丈夫で、肝っ玉の太い人が、おれみてえな骨と皮ばかしのびっこに、立ち止って話しかけてくれたんで。でも、隊長どのは心の底からほんとに暖くおれにいってくれた、まるで熱い酒みてえに、『どんな事故に会ったんだ? ひどく負傷しているな。どうしたんだ、おまえ? 元気を出せよ、そしてわけを話してくれ!』元気を出せ! おれはもう元気がついちまっていましたよ。おれが隊長どのにそう話す、隊長どのがおれにもっと話す、おれがもっと話す、隊長どのがもっと話す。そうしておれはここへ来たんでさ、隊長どの! おれはここへ来たんでさ、隊長どの!」と叫ぶフィルはもう椅子から離れて、どういうわけか分らぬが例の横歩きを始めていた。「もし|的《まと》が入り用なら、もしそれで店が繁昌するなら、お客さんたちはおれを的にするといい。おれ[#「おれ」に傍点]の男前をだめにできっこねえや。おれ[#「おれ」に傍点]は大丈夫だ。さあ来い! もしボクシングのなぐられ役が入り用なら、おれをなぐるがいい。おれの頭の辺をうんとたたくがいい。おれ[#「おれ」に傍点]は平気だ! もしコーンウォル型でも、デヴォンシア型でも、ランカシア型(6)でも、練習用に投げ倒す軽量級の選手が入り用なら、おれ[#「おれ」に傍点]を投げるがいい。おれ[#「おれ」に傍点]はけがをしないぞ。生れてこのかた、どんな投げられかたでもやられているんだ!」
この思いがけない言葉を力一杯述べるとともに、今自分が挙げたいろいろな競技の身ぶりを演じて見せながら、フィル・スクウォッドは射撃場の塀に肩を当てて|三側《みかわ》だけ回ると、突然ジョージ隊長のほうへ向きを変えて、隊長を頭で突くが、これで彼に献身的に仕えていることを示したつもりなのである。それからフィルは朝食の片づけを始める。
ジョージ氏は元気よく笑ってフィルの肩をたたいてから、片づけに手を貸し、射撃場の店開きの準備を手つだう。それがすむとダンベルでひとしきり体操をし、あとで体重を測って「肉がつきすぎた」と考え、広刃の剣を振ってひどくまじめな顔で剣術のひとり練習に励む。そうしているあいだに、もうフィルはいつものテーブルで仕事にとりかかり、銃をとり出して、ねじを締めたり、ねじをはずしたり、掃除をしたり、やすりをかけたり、ちいさな孔にぴゅっと息を吹きこんだり、次第に自分の体を黒くよごしたり、要するに銃に関して、したり、仕直したりできる仕事をすべて、したり、仕直したりしているらしい。
そのうちに、つねにない客の一行がやって来たと見え、つねにない足音が入口の廊下に聞えるので、主人と召使はとうとうその音で仕事を妨げられる。足音はだんだん射撃場に近づいて、一団の人々が中へはいって来るが、一見したところ、十一月の五日(7)ででもなければ、まずふさわしくない人たちである。
一行は、椅子にすわったまま二人の男に運ばれて来た、足のなえたみにくい|人物《フイガー》(8)と、その付添いの、ひきつった仮面のような顔をした、やせぎすの女性で、彼女は椅子が下されると、けんかを売るように固くくちびるを閉じているが、もしそうしていなければ、あのわがイギリスをじっさい生きながら爆破しようとした日を記念する民謡を、すぐにでも朗唱しそうな|風情《ふぜい》に見受けられる。その時、椅子にすわっている人物が「ああ、神様! ああ、大変だ! 体が倒れる!」とあえぎあえぎいってから、「元気ですかい、ねえ、あんた、元気ですかい?」とつけ加える。それでジョージ氏はその行列の中に、スモールウィード老人が孫娘のジューディを護衛につれて、屋外運動に来ていることを知る。
「ジョージさん、ねえ、あんた」といって祖父のスモールウィードは、椅子を運んで来た片方の男のくびにかけていた右腕をはずすが、男はもうここへ来るまでに窒息しそうになっていた。「元気ですかい? あんたはわたしが来たのでびっくりしているんですね、ねえ、あんた」
「あなたの財界の友だちが来てくれたとしても、たぶん、これほどおどろきはしなかったでしょうな」とジョージ氏は答える。
「わたしはまったくめったに外出しないんですわい」とスモールウィード氏はあえぎながらいう。「もう何カ月も出たことがなかった。わたしゃ外へ出ると不便でね――それに高いものにつく。しかし、あんたに会いたくてたまらなかったんですわい、ジョージさん。元気でいますかい?」
「自分はまずまず元気です。あなたもご同様でしょうな」
「ねえ、あなた、いくら元気でも元気すぎるということはないですよ」とスモールウィード氏は彼の両手を握る。「今日は孫娘のジューディをつれて来ました。これを置いて来るわけにいかなくってね。これはあんたに会いたくてたまらなかったんですわい」
「ふうん! それにしては、よく平気で我慢しているな!」とジョージ氏はつぶやく。
「それで貸馬車を呼んで、椅子を載せ、すぐそこの町かどをまがったところで、わたしゃ馬車からかつぎ出してもらって椅子に腰かけ、ここまで運んでもらったというわけですわ、親友のあんたに自宅で会いたいと思ってね! これは」とスモールウィード老人は、今しがた危く締め殺されそうになり、のど笛をさすりながら引き下がってゆく男のことを指して、「馬車の御者ですがね。割増し金は一文も出しませんよ。馬車代に含めるっていう約束なんでね。こっちの男は」すなわち、もう一人の人足は、「表の通りで、ビール一杯ってことで雇ったんで。つまり二ペンスだね。ジューディ、この男に二ペンスおやり。あんたのところに職人がいるかどうか、はっきりしなかったせいですわい、さもなきゃ、こんな男を使うことはなかったんだが」
スモールウィード老人はそんなふうにフィルのことを持ち出しながら、彼のほうに相当おびえた一べつと、半ば押し殺した「ああ、神様! ああ、大変!」という叫びを向ける。外面的に見れば、老人の不安にもいくぶん理由がないわけでもない。というのは、フィルはまだ一度も、この黒いビロードのずきんをかぶった異様な人物を見たことがなかったので、小銃を手にしたまま急に立ち止ったが、その姿はちょうど射撃の名手が、からす属の醜悪なおいぼれ鳥とでも思って、スモールウィード氏を一心に射ち止めようとしているふうに見えた。
「おい、ジューディ」と祖父のスモールウィードはいう。「この男に二ペンスおやり。それだって、あれだけの手間賃にしちゃ大金だぞ」
その男はロンドンの西のほうの町々に自然にはえる、めずらしい種類の人間のかびで、古びた赤い上衣を着て待ちかまえ、馬をとりおさえ、馬車を呼ぶことを「使命」にしているのであるが、二ペンスを受けとって、有頂天になるどころか、空中にほうり上げ、手を高く上げて受けとめ、それから立ち去る。
「ねえ、ジョージさん」スモールウィード老人がいう。「火のそばへつれていってくれませんかい? わたしゃいつも火に当っている上に、年寄りなんで、すぐ体が冷えちまってね。ああ、大変!」
この終りの叫び声を急に老紳士があげるのは、スクウォッド君がいきなり椅子もろとも彼を持ち上げて、炉床の灰受け石の上に置くからである。
「ああ、神様!」スモールウィード氏はあえぎながらいう。「ああ、大変! ああ、おどろいた! ねえ、あんた、あんたのところの職人はとても力があるねえ――それにとてもすばしっこい。ああ、神様、この男はとてもすばしっこい! ジューディ、ちょっとうしろへやってくれ。脚がこげてる」事実そうであることが彼の毛糸のくつ下のにおいで、同席者一同の鼻に証明される。
やさしいジューディがお|祖父《じい》さんを火のそばから少しあとに下げ、いつもの通り彼の体をゆすぶって起し、目の上に覆いかぶさっていた黒いビロード製の火消し器(9)を持ち上げてやると、スモールウィード氏はまた、「ああ、大変! ああ、神様!」をくり返し、あたりを見回してジョージ氏が自分を見ているのに気づくと、両手をさし伸ばす。
「ねえ、あんた! こうして会えてうれしいことだ! それで、これがあんたのお宅ですかい? 気持のいいうちだ。ほんとに絵のようだ! まさかここでなんかが偶然爆発するようなことはあるまいねえ、あんた?」とスモールウィード老人はひどく心配していいそえる。
「ええ、ええ。その心配はありませんな」
「それにあの職人だ。あの男は――ああ、大変!――そんなつもりもなく発砲するようなことはあるまいね、あんた?」
「あの男は自分以外の者にけがをさせたことはありませんな」ジョージ氏はにこにこ笑いながらいう。
「しかし、あるかも知れない、ねえ。自分に大けがをさせたようだから、ほかの人にだってけがをさせるかも知れない」と老紳士が答える。「自分じゃそんなつもりはないのかも知れないがね――いや、そんなつもりだってあるのかも知れない。ジョージさん、その男に気味の悪い鉄砲なんかほっといて、向うへいっちまうようにいいつけてくれませんか?」
騎兵の合図に従って、フィルは手ぶらで射撃場の向うの端へ引っこむ。スモールウィード氏は安心して両脚をもみ始める。
「で、あんたはうまくやっていなさるんだね、ジョージさん?」と彼は、広刃の剣を手に直立したまま自分のほうへ向き直っている騎兵にいう。「|繁昌《はんじよう》していなさるんだね、たぶん、うまい具合に?」
ジョージ氏はそっけなくうなずいてそれに答えると、「先をつづけて下さい。そんなことをいいに来たわけではないでしょう」とつけ加える。
「あんたはじつに元気のいい人だ、ジョージさん」と老祖父が答える。「じつに付き合っておもしろいかただ」
「はっは! 先をつづけて下さい!」
「ねえ、あんた!――しかし、その刀はおそろしく光って切れそうだねえ。うっかりすると、だれかけがをするかも知れませんわい。見ていると身ぶるいがして来るね、ジョージさん――くそ野郎め!」とこの善良な老紳士は、騎兵が剣を置きに一、二歩向うへゆくと、そばのジューディに向っていう。「こいつはおれに借金があるんだから、この人殺しの練習場で古い借りを返そうなんて気を起すかも知れんぞ。おまえのちきしょう|祖母《ばあ》さんがここにいて、あいつに頭を切り落されればいいのに」
ジョージ氏は戻って来ると腕組みをして、椅子にすわった老人の体が絶えず横に傾き倒れてゆくのを見おろしながら、「さあ始めますか!」と静かにいう。
「ほう!」とスモールウィード氏は大声をあげると、ずる賢いほくそ|笑《え》みを浮べて満足げに両手をもむ。「ええ、さあ始めますか。さあ、なにを始めるんですね、あんた?」
「一服やるのですよ」というと、ジョージ氏は落着き払って煖炉のすみの座席に自分の椅子をすえ、煖炉のところからパイプをとり、のどかに煙草をくゆらし始める。
そのためにスモールウィード氏は大いに当惑する。というのは、自分の目的(どんな目的か分らぬが)の話にとりかかることがたいそうむずかしくなったからで、彼はすっかり腹を立て、老残の執念をこめて、ひそかに|空《くう》を|爪《つめ》でかきむしり、ジョージ氏の顔をずたずたに引き裂いてやりたいという激しい気持をあらわす。この善良な老紳士は爪が長くて|鉛《なまり》色で、手はやせて静脈が浮き出し、目は緑色で涙をたたえているし、その上、空をかきむしっているあいだも、椅子にすわった体は絶えず傾斜しつづけて、ぶざまなかっこうに倒れる始末で、日ごろ見なれているジューディの目にさえ、ひどくすさまじい姿に映るので、うら若いこの乙女は熱烈な肉親愛以上の気持から老人に飛びつき、激しくゆすぶり起して、体のあちらこちらを、特に護身術(10)でいう|みぞおち《ウインド》を、しきりにたたいたり、こづいたりするから、老人は苦痛のあまり思わず道路工夫の使う地突き棒のような|音《ね》をあげる。
こうやってジューディは、血の気のない顔に、霜の降りたように白い鼻をした(そしてなおも空をかきむしっている)スモールウィード氏を、ふたたび椅子に起してやると、しなびた人さし指をさし伸べて、ジョージ氏の背中を一つこづく。騎兵が頭を上げると、彼女は老祖父をひとこづきし、こうして二人をいっしょにさせてから、ひややかに煖炉の火をじっと見つめている。
「ああ、ああ! ほう、ほう! うーうーうーうふ!」と祖父のスモールウィードは激しい怒りをぐっと|呑《の》みこんで|片言《かたこと》をしゃべり出す。「ねえ、あんた!」(なおも空をかきむしりながら)
「いいですか、一ついっておきますが」とジョージ氏がいう。「もし自分と話をしたいのでしたら、はっきり話して下さらなくてはいけませんな。自分はがさつ者で、持って回ったいいかたはできません。そんな手くだは持ち合わせていないのです。それほど利口じゃありませんからな。そういうことは自分には合わないのです。ぐるぐる遠回しにやられると」といって騎兵はパイプをまた口にくわえると、「えい、まるで首を締められているような気がする!」
そして彼は幅広な胸をいっぱいにふくらませる、まるで、まだ首を締められていないのを確かめるかのように。
「もし友人として訪ねて下さったのでしたら」ジョージ氏がつづける。「ありがたく思います、ごきげんいかがですか? もしこの家になにか財産があるかどうか見に来られたのでしたら、どうかご覧下さい、ようこそおいで下さいました。もしなにかいいたいことがあるのでしたら、はっきりいって下さい!」
若い盛りのジューディはじっと火を凝視している目を離さずに、こつんとひと突き、精霊のように祖父をこづく。
「ねえ、どうです! この人も同じ意見ですな。ところで、一体どうしてこの娘さんは普通の人なみに椅子にかけないのか」とジョージ氏はジューディをつくづく見つめながら、「自分[#「自分」に傍点]には理解できませんな」
「この子はわたしの世話をするために、そばを離れないんですわい。わたしは年寄りですよ、ジョージさん、だからいくらか世話がいりますわい。わたしは年をとっても元気だ、おうむのちきしょうとはちがいます」(うなりながらそういって、無意識にクッションを探す)「しかし、世話がいりますわい、ねえ、あんた」
「なるほど!」と騎兵は答え、椅子を回して老人と向い合う。「さてそれで?」
「わたしの財界の友だちがね、ジョージさん、あんたのお弟子さんとちょっと取引をしましてね」
「そうですか? それはかわいそうに」
「そうですよ」スモールウィード老人は脚をもむ。「お弟子さんはもうりっぱな若い軍人でね、ジョージさん、カーストンっていう名前の。その人の友だちがやって来て、全部勘定をすませてくれました、ちゃんと」
「そうですか?」とジョージ氏が答える。「あなたの財界の友だちが意見を聞かしてもらいたいというのですか、あなたの考えでは?」
「そうだと思いますね。あんたの意見をね」
「それでは、あなたの財界の友だちに忠告しますが、もうその若い人とは取引をしないことですな。もうだめです。私の知っているかぎりでは、その若い人はすっかりゆきづまっておりますからね」
「いいえ、いいえ、あんた。いいえ、いいえ、ジョージさん。いいえ、いいえ、いいえ、旦那」とスモールウィード老人はやせた脚をずるそうにもみながら反対する。「まだすっかりゆきづまっちゃいないと思いますね。いろいろいい友だちを持ってるし、俸給があるし、将校の株の金があるし、訴訟で勝つ見込みがあるし、奥さんをもらう見込みがあるし、それから――ああ、ジョージさん、ねえ、わたしの友だちはあの若い人にはまだなにかあると考えてると思うがねえ?」といってスモールウィード老人はビロードの帽子を上にあげ、猿のように耳をかく。
ジョージ氏はもうパイプをわきに置いて、椅子の背に片腕をかけたまますわっているが、話の変りかたがあまり気に入らないみたいに、右足で床をこつこつたたく。
「しかし、その話から別な話題に移るとね」スモールウィード氏がまたいい出す。「しゃれの好きな人がいうように、話を進級させるとね。ジョージさん、少尉から大尉に移るとね」
「おや、あなたはなにをたくらんでいるのです?」とジョージ氏は顔をしかめながら、思い出のほおひげをなでる手を止めて尋ねる。「なんという大尉です?」
「わたしたちの大尉でさ。わたしたちの知ってるあの大尉でさ。ホードン大尉でさ」
「ああ! その話なんだな?」ジョージ氏は、祖父と孫娘とが二人とも自分のほうをじっと見ているのに気がつくと、低く口笛を吹いて(11)から、「それなのか! なるほど、それがどうしたっていうのです? さあ、もう首を締められてなんかいませんぞ。話しなさい!」
「ねえ、あんた」と老人が答える。「わたしゃ昨日――ジューディ、ちょっと体をゆすぶり起しておくれ――わたしゃ昨日、大尉のことを尋ねられたんだが、今でもわたしは大尉が死んじゃいないという意見でね」
「ばかな!」ジョージ氏がいう。
「なんかいいましたかい、ねえ、あんた?」と老人は耳に手をやって聞く。
「ばかな!」
「ほう! ジョージさん、わたしの意見がまちがっているかどうかは、わたしが尋ねられた質問と、そういう質問を受けた理由に照らして、あんたが自分で判断なさるがいい。ところで、この調査をしている弁護士さんが、なにを望んでいると思いますね?」
「仕事ですな」
「そんなもんじゃありませんわい!」
「それじゃ弁護士のはずがないですな」とジョージ氏は決心を固めた様子で腕組みをする。
「ねえ、あんた、その人は弁護士さんで、しかも有名な人ですぜ。ホードン大尉の書いた物の切れっぱしを見たがっていなさるんですわい。自分の物にしたいというんじゃない。ただ、それを見て自分の持ってる書類と較べたいというだけでさ」
「それで?」
「それでね、ジョージさん。その弁護士さんが、ホードン大尉と、大尉の情報を知らせてくれる人に|宛《あ》てた広告のことを、ふと思い出したんで、広告を調べてわたしのところへ見えたんでさ――あんたとちょうど同じようにねえ、あんた。握手をしてくれますかい[#「くれますかい」に傍点]、あんた?あの日あんたが来てくれて、ほんとによかった! もし来てくれなかったら、こういう親しい交りを結ぶ機会をとり逃すところだった!」
「それで、スモールウィードさん?」ジョージ氏はややよそよそしく握手の儀礼をすませてから、またそういう。
「わたしゃそういう物を持っていなかった。持っていたのは、あの男の署名だけでね。疫病、悪疫と飢饉、戦いと殺害と急死があの男の上にあらんことを」と老人は自分の覚えている数少ない祈祷の一つ(12)を、|呪《のろ》いの言葉に作り替え、怒り狂う両手でビロードずきんを押し上げて、「署名なら、わたしゃ五十万も持っていると思うね! しかし、あんたは」と、ジューディにずきんをボーリングのボールのような頭にまたかぶせ直してもらうと、老人はあえぎながらおとなしい言葉使いに戻り、「ねえ、ジョージさん、あんたは役に立ちそうな手紙か書類を持っていそうだねえ。あの人の手で書いたものなら、なんでも役に立つんですがね」
「あの人の手で書いたものなら」と騎兵はしきりに考えこみながら、「たぶん、持っているかも知れませんな」
「ねえ、ねえ、あんた!」
「たぶん、持っていないかも知れませんな」
「ほう!」とスモールウィード老人は落胆していう。
「しかし、山ほど持っていたところで、理由が分らなければ、弾薬筒一発分だって見せるわけにいきません」
「旦那、理由はもういいましたよ。ねえ、ジョージさん、理由はもういいましたよ」
「まだ足りませんな。もっと聞いて賛成できるようでなければね」
「それじゃ、弁護士さんのところへいってくれますか? ねえ、あんた、その人に会いにいってくれますか?」とスモールウィード老人はせき立てながら、骸骨の脚のような針のついた、やせた古い銀時計をポケットから引っぱり出す。「今日の午前十時から十一時のあいだに、たぶん訪ねていくって話しておいたけれど、今は十時半だ。会いにいってくれますか、ジョージさん」
「ふん!」と彼はまじめな顔をしていう。「それはかまいません。もっとも、なぜこれがあなたにそれほど関係があるのか、自分には分りませんが」
「大尉のことを少しでもはっきりさせる望みのあることなら、なんでもわたしに関係がありますさ。大尉はわたしたち全部をだましたじゃないですかい? みんなに莫大な借金を作ったじゃないですかい? わたしに関係があるのかって? このわたしほど大尉のことに関係のある者がいますかってんだ? といったって」とスモールウィード老人は声を低めて、「なにもあんた[#「あんた」に傍点]に裏切りをしろっていうんじゃない。そりゃとんでもない話ですわい。出かける用意ができましたかい、ねえ、あんた?」
「よし! すぐにゆこう。別になんにも約束はしませんぞ」
「ええ、ジョージさん、ええ」
「それで、どこか知らないが、そこまで無料で馬車に乗せていってくれるというのですな?」ジョージさんは帽子と鹿皮の手袋をとり出しながら尋ねる。この冗談をスモールウィード氏はひどくおもしろがって、煖炉の前で低く長く笑う。しかし、笑っているあいだも、|麻痺《まひ》した肩越しに絶えずジョージ氏のほうへちらりちらりと視線を向け、彼の姿を熱心に見守っていると、ジョージ氏は射撃場の遠い端にある質素な戸棚の|南京錠《なんきんじよう》をあけ、高いところの棚をあちらこちら眺め、最後に、がさがさ紙の音をさせながら、なにかを取り出して折りたたみ、胸のポケットに入れる。すると、ジューディがスモールウィード氏をひとこづきし、スモールウィード氏もジューディをひとこづきする。
「用意ができました」と騎兵が戻って来ていう。「フィル、おまえはこのご老人を馬車まで運んであげても、平気だろう」
「ああ、大変! ああ、神様! ちょっと待たんかい!」スモールウィード老人がいう。「この男はとてもすばしっこい! ほんとに、君、注意してやれるかな?」
フィルはなにも答えず、椅子をその上にすわった荷物もろとも引っつかみ、もう口もきけないスモールウィード氏にしがみつかれたまま、まるでこの老紳士を|最寄《もよ》りの火山まで運搬する結構な職務でも引受けたように、横歩きをしながら廊下づたいにかけ出す。しかし、フィルの短い任務は貸馬車のところで終り、彼は老紳士を馬車の上に乗せ、それから美人のジューディがそのわきの席にすわり、椅子は屋根の飾りとなり、ジョージ氏は御者台の空席にすわる。
ジョージ氏は時折りすぐうしろの窓越しに客席をのぞくたびに、目に映る光景を見てどぎもを抜かれる、というのは、うす気味の悪いジューディはいつも身動き一つしないし、片方の目の上にずきんがかぶさった老紳士は、いつも、座席からわらの中へすべり落ち、背中をがたがた揺られてどうしようもないといった表情を浮べたまま、もう一方の目でジョージ氏を見上げているからである。
[#改ページ]
第二十七章 老兵は一人にあらず
ジョージ氏は御者台に腕を組んだまま遠方までゆくに及ばない、行く先はリンカン法曹学院広場なので。御者が馬を止めると、ジョージ氏は車を降り、窓の中をのぞいていう。
「なんだ、タルキングホーンさんがあなたのいう人ですな?」
「そうですよ、あんた。このかたを知っていなさるのかい、ジョージさん?」
「なに、うわさに聞いているのです――見たこともあるように思います。しかし、知っているというのじゃないし、向うでも知りませんな」
つづいてスモールウィード氏を二階に|担《かつ》ぎ上げるわけであるが、これは騎兵が手を貸して申し分なくおこなわれる。彼はタルキングホーン氏の大きな部屋へ運ばれ、煖炉の前のトルコじゅうたんの上に置かれる。タルキングホーン氏は今うちにいないが、まもなく帰って来るはずである。玄関の腰掛けに控えている男はそれだけいうと、火をかき立て、三人組の客を火にあたらせて引きさがる。
ジョージ氏はその部屋にひどく好奇心をそそられる。絵の描いてある天井を見上げ、古びた法律書を見まわし、高貴な依頼人たちの肖像画に見入り、いろいろな書類箱の名前を大きな声で読む。
「『准男爵レスタ・デッドロック卿』」とジョージ氏は考えにふけりながら読む。「ははあ! 『チェスニー・ウォールド荘』ふん!」ジョージ氏はこういった書類箱を――まるで絵でも見るように――長いあいだ立ったまま眺め、火のそばに戻って来てくり返す。「准男爵レスタ・デッドロック卿と、チェスニー・ウォールド荘か、へえ?」
「すばらしい財産家ですわい、ジョージさん!」と祖父のスモールウィードが両脚をもみながらささやく。「すごい金持だ!」
「だれのことです! ここのご老人ですか、准男爵ですか?」
「ここのご老人ですわい、ここのご老人ですわい」
「そういう話は聞いているし、たしかに自分も一つ二つ知っていることがありますな。それにまた、悪くない住いだ」とジョージ氏はまたあたりを見まわし、「あそこの金庫をご覧なさい!」
この返事はタルキングホーン氏の到着によって急に中断される。もちろん、彼は少しも変っていない。古色蒼然とした服装をして、片手に眼鏡を持ち、そのケースまでがすり切れている。態度は口が固くてそっけない。声はしゃがれて低い。顔は、いわば、すだれの|陰《かげ》で見張りを怠らず、いつも、非難がましくないでもなく、たぶん軽蔑を浮べているのだろう。もし事実がすべて明らかにされたなら、結局、タルキングホーン氏によりもおそらく貴族たちのほうに熱烈な崇拝者、忠実な信者ができることだろう。
「おはよう、スモールウィード君、おはよう!」と彼は部屋にはいりながらいう。「あの軍曹をつれて来てくれたのだね。腰かけたまえ、軍曹」
タルキングホーン氏は手袋をぬいで帽子の中に入れながら、部屋の向う側に騎兵が立っているあたりを半眼で見やり、おそらく心の中でこういう。「おまえで間に合うだろう、おい!」
「腰かけたまえ、軍曹」彼は煖炉の片側にすえてある自分のテーブルのところへ来て、安楽椅子にすわると、もう一度いう。「今朝は冷え冷えするね、まったく冷え冷えするね!」タルキングホーン氏は炉の|火格子《ひごうし》の前で、手のひらと手の甲とを交互に暖め、自分の前にちいさな半円をつくってすわっている三人組を眺める(いつも下してあるすだれの陰から)。
「さあ、これで|人心地《ひとごこち》がついて頭がはっきりした!」(たぶん、二つの意味でそうなのだろう)「スモールウィード君!」老人は話に加わるために、改めてジューディにゆすぶり起してもらう。「この軍曹殿をつれて来てくれたのだね」
「はい、先生」とスモールウィード氏は弁護士の富と勢力に大いにこびへつらって答える。
「それで、今度の件について軍曹の意見はどうなのだ?」
「ジョージさん」とスモールウィード老人はしなびた手をぶるぶる振り動かしていう。「こちらがそのかたですよ」
ジョージ氏はそのかたに敬礼するが、それっきりあとは、上体をまっすぐにしたまま黙りこくって――まるで野外演習日に付ける、規定の全付属品を体にぶら下げてでもいるように、椅子の先端に――腰かけている。
タルキングホーン氏がつづけていう。「それで、ジョージ?――たしか君の名前はジョージだね?」
「そうであります」
「君の意見はどうかね、ジョージ?」
「失礼でありますが」と騎兵が答える。「あなた[#「あなた」に傍点]のご意見はどうなのか伺いたいのですが?」
「つまり、報酬についてかね?」
「あらゆる点についてであります」
これがスモールウィード氏のかんしゃくに大いにさわるので、彼は突然大声をあげて、「おまえはちきしょう野郎だ!」と叫んだかと思うと、また突然タルキングホーン氏に詫びを述べ、この失言の弁解をジューディに向っていう。「わたしゃ、おまえのお祖母さんのことを考えていたんだよ」
「軍曹、私は」タルキングホーン氏は椅子の片側によりかかって脚を組み、またつづける。「たぶん、スモールウィードが事情を充分説明したものと思っていた。しかし、事情といっても至って簡単なものだ。君はかつてホードン大尉に部下として仕え、大尉の病気の時には看護をしたり、なにかと尽してやったりして、かなり大尉の信任をえていたという話だ。そうじゃないのかね?」
「はい、そうであります」とジョージ氏は軍人らしく簡潔にいう。
「だから、もしかすると君はなにか――なんでも、どんなものでもいい――勘定書、訓令、命令、手紙などなんでも――ホードン大尉が書いた物を所持しているかも知れない。それを私の持っているものと較べたいのだ。もしそういう機会を与えてくれるなら、君の労に報いよう。三ギニーか、四ギニーか、五ギニーなら、おそらく充分な額ではないかな(1)」
「すばらしいもんですわい、ねえ、あんた!」とスモールウィード老人が目を細くして叫ぶ。
「もし充分でなければ、軍人としての君の良心にかけて、あとどれだけ要求しうるものかいってみたまえ。その書いた物を手放したくなければ、その必要はない――もっとも私はもらい受けたいがね」
ジョージ氏は前とまったく同じ姿勢でまっすぐにすわり、絵の描いてある天井を眺め、一言もしゃべらない。かんしゃく持ちのスモールウィード氏は|空《くう》を引っかく。
「問題は」とタルキングホーン氏がきちょうめんな、低い、無関心な口調でいう。「まず、君がホードン大尉の書いた物を持っているかどうかだ」
「まず、自分がホードン大尉殿の書いた物を持っているかどうかであります」とジョージ氏は復唱する。
「第二に、労を惜しまずそれを提供してくれる君をどうやって満足させるかだ」
「第二に、労を惜しまずそれを提供してさしあげる自分をどうやって満足させるかであります」
「第三に、これは君が自分で判定できることだが、一体、その書いた物はこれに似ているかどうかだ」とタルキングホーン氏はいって、突然、字の書いてある数枚の紙束をジョージ氏に渡す。
「一体、その書いた物はこれに似ているかどうかであります。なるほど」
ジョージ氏はまっすぐタルキングホーン氏を見ながら、その三つの文句を全部機械のように復唱し、調べるようにと渡されたジャーンディス対ジャーンディス事件の宣誓供述書には(まだ手に握ってはいるが)目もくれず、当惑しながら考えこんでいると見え、じっと弁護士の顔を見つづける。
「それで」とタルキングホーン氏がいう。「君の意見はどうかね?」
「それでです」とジョージ氏はすっくと立って、大入道のような姿をしながら答える。「失礼でありますが、どちらかといえば、自分はこの件に関係したくないのであります」
タルキングホーン氏は、見たところ、なんの動揺も示さずに尋ねる。「なぜいやかね?」
「それは」と騎兵が答える。「自分は軍人として止むをえない場合のほか、実務には手を出さないのであります。一般の人たちのあいだにはいると、自分はスコットランドの人がいう、|能なし《ネアドウーウイール》であります。自分には書類を見る頭がありません。どんな十字砲火でも我慢できますが、反対尋問の一斉射撃だけは閉口です。つい一時間ほど前スモールウィードさんにいいましたが、自分はこういった事柄に巻きこまれると、まるで息の根を止められるような気がするのであります。そしてそれが」とジョージ氏は一同を見まわして、「現在の自分の気持であります」
そういうと同時に、彼は大またに三歩前進して、弁護士のテーブルの上に書類を戻し、また大またに三歩後退して元の場所に帰り、そこに直立して、まるで、また別な書類を渡されるのは、いっさいご免だといわんばかりに、両手をうしろで組んだまま、床を眺めたり、絵の描いてある天井を眺めたりしている。
こういう|挑発《ちようはつ》を受けると、スモールウィード氏愛用の|悪罵《あくば》が彼の口もと近くまで出て来るので、彼は「ねえ、あんた」という言葉を「ちき」で始めてしまい、そのため最初の呼びかけが「ちきねえ」に変り、言語障害でも起したように見える。しかし、一度この難関を通過すると、彼は親友ジョージ氏に向ってこの上もなくやさしい態度で、無茶なことをいわずに、こういうえらいかたの求めをかなえてあげなさい、同じことなら気持よくかなえてあげなさい、むろん、いかがわしいことでないばかりか、もうけにもなることなのだから、としきりにすすめる。タルキングホーン氏はただ時々、「君自身の利害は君が一番よく判断できるさ、軍曹」とか、「これによって君が被害を受けないように注意したまえ」とか、「君の好きなようにしたまえ、好きなようにしたまえ」とか、「君がなにをいっているのか自分で承知しているなら、それでけっこうだよ」とだけいう。こういった言葉を、タルキングホーン氏はテーブルの上の書類に目を通して、手紙を書く用意をしながら、述べるのである。
ジョージ氏は疑わしげな顔をして絵の描いてある天井から床へ、床からスモールウィード氏へ、スモールウィード氏からタルキングホーン氏へ、タルキングホーン氏からまた絵の描いてある天井へと視線を移し、たびたび、当惑のあまり、立っている軸足を変える。
「まったくほんとうの話」とジョージ氏がいう。「無礼なことを申すつもりはありませんが、じっさい自分は、あなたと、このスモールウィードさんの二人に、くり返し五十回も息の根を止められているのです。じっさい、そうなのであります。あなたがた紳士にはとてもかないません。失礼ですが、お尋ねしてもいいですか、もし自分になにか大尉殿の筆蹟の見本を見つけられるとしてですが、どうしてそれをご覧になりたいのですか?」
タルキングホーン氏は静かにかぶりを振る。「だめだね。君が実務家なら教わるまでもないが、軍曹、私のような職業をしていると、それ自体別にどうということはないけれども、秘密にしなければならないような理由が、そういったいろいろの依頼にはあるのだ。しかし、もし君がホードン大尉に害を及ぼすことを心配しているのだったら、その点は安心するがいい」
「はい! 大尉殿はもうなくなっております」
「ほんとに[#「ほんとに」に傍点]そうかね?」タルキングホーン氏は手紙を書くため、静かに腰を降ろす。
「どうも」騎兵はまごついて、また少し黙っていたのち、帽子の中をのぞきこみながら、「あまりご満足していただけなくて申しわけありません。この件に関係したくないという自分の意見を、もしある友だちに確かめてもらったら、みなさんがいくぶんでも納得して下さるというのでしたら、自分はよろこんで相談するつもりであります、その友だちは私よりも事務の分る頭を持った古い軍人であります。自分は――自分はじっさい、今のところ、すっかり息の根を止められているので」といってジョージ氏は絶望したように、ひたいを片手でなで、「それで自分が納得できるかどうか分らないのであります」
スモールウィード老人は彼の相談役が古い軍人だと聞くと、その軍人の意見を聞いて、特にこれは五ギニーかそれ以上の金にかかわる問題だと教えてやるがよいと、しきりに説いて聞かせるので、ジョージ氏は会いにゆくことを約束する。タルキングホーン氏はどちらについてもなに一ついわない。
「それでは、ご免こうむって友だちと相談しましょう」と騎兵がいう。「そして勝手ながら、今日じゅうに最後的な返事を持って、またお寄りします。スモールウィードさん、もし下へ運んでもらいたいのでしたら――」
「もうちょっと、ねえ、あんた、もうちょっと。その前にご主人とほんのひとこと、内証の話をさせてくれませんかい?」
「いいですとも。自分のために急がないで下さい」騎兵は部屋の遠くの端へ引き下って、金庫やその他の箱類を、また好奇の|眼《まなこ》で点検し始める。
「もしわたしがうちの赤ん坊のちきしょうみたいに弱っていなかったら、先生」とスモールウィード老人は弁護士の上衣の|襟《えり》の折り返しをつかんで、相手を自分の高さまで引き降ろし、憤慨した両眼に、半ば消えた緑色の光をきらめかせながら、ささやく。「あいつから書類をもぎ取ってやるのに。胸の内ポケットに入れてるんでさ。あいつが入れるのを見ましたぜ。ジューディも見ましたわい。ジューディ、なんだ、ステッキ屋の看板みたいな、むずかしい顔をしやがって、おい、大きな声を出して、あいつが内ポケットに入れるのを見たっていえ!」
この猛烈な|呪文《じゆもん》とともに、老人は孫娘をぐっと押すが、力及ばず、タルキングホーン氏をつかんだまま椅子から落ち、ようやくジューディにつかまえてもらって、したたかゆすぶられる。
するとタルキングホーン氏は冷静にいう。「暴力は私には向かないよ、君」
「はい、はい、知っております、知っております。しかし、いまいましくって、じれったくてしようがないんですわい――おまえのべらべら、ぺちゃくちゃしゃべるかささぎみたいなお祖母さんより悪いぞ」と平然としているジューディに向っていうが、彼女はただ火を眺めてばかりいる。「あいつがこっちの欲しいものを持っていながら、渡そうとしないのを知ってると。あいつがあれを渡さないなんて! あいつが[#「あいつが」に傍点]! 浮浪者め! しかし、かまいません、かまいません。あいつが気ままなことをするのも、よくって、ほんのちょっとのあいだでさ。わたしゃ、あいつを定期的に締め上げているんですわい。あいつをひねり上げてやりますよ。絞り上げてやりますよ。あいつが快く渡さないなら、しぶしぶ渡させて見せますよ!――さあ、ねえ、ジョージさん」といってスモールウィード老人は弁護士をつかまえている手を放してやりながら、彼に目くばせをする。「さあ、あんたの親切な手を貸してもらいますぜ、ねえ、親友!」
タルキングホーン氏は冷静さの中に、かすかに興味ありげな様子を浮べながら、背中を火に向けて煖炉の前の敷物の上に立ったまま、スモールウィード氏が姿を消してゆくのを見守り、騎兵の別れのあいさつにこっくり軽くうなずく。
スモールウィード老人を階下まで運ぶ手つだいをするよりも、老人から|逃《のが》れるほうがむずかしいことに、ジョージ氏は気づく、というのは、老人は車の中に戻されると、謝礼のギニーのことを盛んにまくし立て、いかにもいとおしげに彼のボタンを握りしめるので――じつは、上衣を引き裂いて書類をぜひとも盗みとろうと、心ひそかに願っているので――老人と別れるため騎兵はある程度力を使わなければならない。とうとう、それが終り、騎兵はただ一人で相談相手を探しに出かける。
修道院のような|趣《おもむき》のあるテムプルを通り、ホワイトフライアーズ街を通り(そこで|剣つり横町《ハンギング・ソード・アリー》をちょっとのぞくが、ここは彼の商売にいくらか関係があるらしい)、それからブラックフライアーズ橋とブラックフライアーズ街道を通って、ジョージ氏は、ケント州とサリー州から来る街道や、ロンドンのいくつかの橋から来る街路が、有名な「|象《エレフアント》(2)」のところに集中しているあの交通の中枢(3)に近い、ちいさな店が立ちならんだある通りへ向って、|悠々《ゆうゆう》と進んでゆくのであるが、最近この象は四頭立ての馬車千台から成る自分の|城《カースル》(4)を、いつ|何時《なんどき》でも象をひき肉にしてやろうと待ちかまえている、さらに強大な鉄の怪物(5)のために失ってしまった。今いった通りに立ちならんだちいさな店の一つで、ウィンドーにバイオリンが数|梃《ちよう》、牧神の笛(6)がいくつか、タンバリンが一つ、トライアングルが一つ、細長い楽譜が少し置いてある楽士の店へ、ジョージ氏はどっしりした足どりで向ってゆく。そして店まで数歩というところで、まるで軍人のような様子をした女が、スカートのすそをからげたまま、ちいさな木のおけを持って中から出て来て、舖道のふちでおけをかき回したり、水をはね飛ばしたりし始めるのを見ると、ジョージ氏は心の中で思う。「あい変らず、あの人は野菜を洗っているな。おれが会う時は、荷物車に乗っている時以外、いつも野菜を洗っている!」
こういう感想の対象になった人物は、今のところ、とにかく野菜洗いに心を奪われているので、ジョージ氏が近づいたことを知らずにいるが、やがて水を|溝《みぞ》にあけ、おけを持って立ち上ると、ようやく彼がそばに立っていることに気づく。彼女は気休めのお世辞で彼を迎えない。
「ジョージ、わたしはあんたに会うたびに、いつも、あんたが百マイルも遠く離れていてくれたらいいのにと思うわ!」
騎兵がこの歓迎ぶりについてはなにもいわず、あとについて楽器店の中へはいると、婦人は勘定台の上に野菜のおけをのせ、彼と握手をすませてから、台の上に腕をつく。
「わたしはね、ジョージ、あんたがマシュー・バグネットの近くにいると、一分だって安心できないんですよ。あんたっていう人は、ほんとに落着かなくて、始終放浪してばかりいるんだから――」
「ええ! それは自分も知っています、奥さん。それは知っています」
「それを知っているんですって!」バグネットの細君がいう。「知っていたところで、なんの役に立つの? なぜ[#「なぜ」に傍点]あんたはそうなの?」
「たぶん、人間の持っている動物性のためでしょうな」と騎兵は上機嫌で答える。
「まあ!」とバグネット氏の細君はいくぶん|甲高《かんだか》い声になって叫ぶ。「でも、その動物性がわたしにどんな満足を与えてくれるっていうの、動物性のために、わたしのマット(7)が音楽の仕事を止めて、ニュージーランドかオーストラリアへでも出かけようなんて気を起したら?」
バグネット氏の細君は少しも不器量な女ではない。かなり骨格が大きく、|肌《はだ》のきめがややあらく、ひたいの髪を日焼けさせた太陽と風のために、そばかすができているけれども、健康で、健全で、目もとが涼しい。年は四十五から五十見当の女で、丈夫で、せっせと働き、活発な上に、正直そうな顔をしている。清潔で、苦労を気にしないし、たいそう質素ななりをしているので(充分に着ているけれども)、持っている装飾品といえば結婚指環だけしかないように見受けられるし、それをはめて以来、まわりの指がすっかり太くなってしまったので、彼女の遺骨といっしょになるまで、この指環は二度と抜け落ちることはあるまい。
「奥さん」と騎兵がいう。「自分はあなたに宣誓をしていますよ。マットがこの自分から被害を受けるようなことはないですよ。そこまでは信用してもらって大丈夫です」
「なるほど、そうね。だけど、あんたのその顔を見るだけで、もうこっちが落着かなくなるのよ。ああ、ジョージ、ジョージ! もしも、ジョー・パウチが北アメリカでなくなった時に、あんたが身を落着けて、ジョーの未亡人と結婚してさえいたら、あの人[#「あの人」に傍点]があんたを戒めてくれたでしょうにね」
「たしかに、あれは自分にとって、いい機会だった」騎兵は半ば笑いながら、半ばまじめに答える。「だが、今ではもう自分は身を落着けて|堅気《かたぎ》の人間になることはないでしょうな。ジョー・パウチの未亡人は自分のために役立ったかも知れない――あの人にはなかなかいいところがあった――それに、あの人はある程度――しかし、自分には決心がつかなかった。もしも自分が、マットが見つけたような妻に運よくめぐり会っていたなら!」
バグネット氏の細君はりっぱな男性に対しては、貞淑な人妻ながら、気がねなく振舞うらしいが、気がねをしないという点については、彼女自身もりっぱな男性並みと見えて、ジョージ氏のこのお世辞を聞くと、野菜の先端で彼の頭をぴしりと軽くたたき、おけを持って店のうしろのちいさな部屋へはいってしまう。
「やあ、ケベック、いい子だね」とジョージ氏は誘われるままに、あとについてその部屋へはいっていう。「それからマルタちゃんも! ここへ来て、君たちの『無骨おじさん』にキスしておくれ!」
この娘たちは――今呼ばれた名前をじっさいに付けられたのではないらしいが、その二つの土地の兵営で生れたので、生れた時以来ずっと家族のあいだではそういわれている――それぞれ三本足の腰かけにすわり、妹は(年がほぼ五、六歳)安物の初歩読本で字を習い、姉は(たぶん八つか九つ)妹に字を教えながら、裁縫に精を出している。二人ともジョージ氏を旧友として大よろこびで迎え、しばらくキスをしたり、はね回ったりしたのち、彼のそばに自分たちの腰かけをすえる。
「それからウーリッジ君は元気ですか?」とジョージ氏は尋ねる。
「ああ! どうです!」といいながらバグネット氏の細君は顔を真赤に上気させて、シチューなべのところから(昼食をつくっているので)振り返る。「あんたは本気にしないでしょう? あの子は父さんといっしょに劇場に雇われて、軍楽の|横笛《フアイフ》を吹いているのよ」
「でかしたぞ、おれの名づけ子!」ジョージ氏はももをぴしゃりとたたいていう。
「ほんとにそうよ! あの子はイギリス人ね。ウーリッジはそうなのよ。イギリス人よ!(8)」
「そしてマットはバスーン(9)をせっせと吹いているし、あなたがたはみんな、りっぱな市民だ。家庭的な人たちだ。子供たちは成長する。スコットランドにいるマットの年とったおやじさんや、どこかよそにいるあなたの年とったおふくろさんとも文通し、少しは仕送りもしている、それから――いやはや! たしかに自分に百マイルも遠く離れてもらいたいと思うのもむりはない、そういうことはみんな! 自分とあまり関係ないんだから!」
ジョージ氏は水しっくいを白く塗った部屋の煖炉の前に腰かけて、思案にふけり始めるが、部屋は床に砂がきれいにまいてあり(10)、兵営のにおいがし、むだなものはなに一つなく、ケベックとマルタの顔を初め、食器戸棚の上のぴかぴか光ったなべ、|鉢《はち》、|小皿《こざら》のたぐいに至るまで、ちりやほこりの見えるものは一つもない――ジョージ氏はそこに腰かけて思案にふけり始め、一方バグネット氏の細君は忙しく立ち働いていると、ちょうど都合よくバグネット氏と息子ウーリッジが家に帰って来る。バグネット氏はもと砲兵で、まっすぐな姿勢をして、せいが高く、毛むくじゃらの|眉《まゆ》、しゅろの毛のようなほおひげをはやし、頭には毛が一本もなく、日に焼けこげた顔色をしている。声は短く、太く、低くひびき渡り、自分が熱愛している楽器の音によく|似《に》ている。事実、彼には全体として、なにごとにつけても屈せず譲らぬ一徹なところが見受けられ、まるで彼自体が人間という交響楽団のバスーンのようである。息子のウーリッジは典型的、模範的な少年鼓手のように見える。
父親も息子も騎兵にねんごろなあいさつをする。ちょうどよいころ合いを見て、騎兵が、相談ごとがあって来たのだというと、バグネット氏は、飯がすむまでは用事なんかご免だ、まず豚肉と野菜のごった|煮《に》のお|相伴《しようばん》をしなければ、相談ごとのお相伴はお断りだ、と手厚いもてなしの言葉をいい放つ。騎兵がこのすすめに従うので、彼とバグネット氏は食事の支度の邪魔にならぬように、ちいさな通りへひと歩きしに出かけ、まるで城壁の上でも歩くように、腕組みをして歩調をそろえながら散歩する。
「ジョージ」とバグネット氏がいう。「おれは君の知ってる通りだ。意見をいうのはうちの女房だ。あれは頭がいい。だが、あれの前では絶対そういわんのだ。規律を維持しなければいかんからな。女房が野菜のことを忘れるまで待てよ。そうしたら相談をしよう。女房がなんといっても、それを実行――実行しろよ!」
「そのつもりだ、マット」と相手は答える。「おれは大学の意見より、むしろあの人の意見に従うよ」
「大学か」バグネット氏はバスーンのように、言葉を短く区切って答える。「どんな大学を出られるっていうんだ――外国にいて――ねずみ色のマントとこうもりがさしかなくて――ヨーロッパへ帰るっていうのに? うちの女房なら明日にでもやって見せるだろうがね。いや、むかし、やったことがあるんだ!」
「君のいうとおりだ」
「どんな大学が」バグネット氏がつづける、「暮しを立てさせてくれるっていうんだ――持っているものは、石灰が二ペンスと――酸性白土が一ペニーと――砂が半ペニーと――金は六ペンスのうちの残った分だけで? それだけで、うちの女房は始めたんだ。今の仕事を」
「その仕事が繁昌しているそうで、うれしいよ、マット」
「うちの女房は」とバグネット氏はその言葉を黙って認めながら、「貯金をしているんだ。どこかに長くつ下をしまってある。中に金を入れてね。おれは見たことはない。だが、女房がそうしてることを知っているんだ。あれが野菜のことを忘れるまで待てよ。そうしたら、あれが君の暮しが立つようにしてくれるぞ」
「あの人はまたとない宝物だ!」ジョージ氏が大声をあげる。
「それ以上だよ。だが、あれの前では絶対そういわんのだ。規律を維持しなければいかんからな。おれの音楽の才能を引き出してくれたのは、うちの女房なんだ。もしも女房がいなかったら、おれは今でも砲兵でいただろう。おれは六年バイオリンをせっせとやった。フルートを十年。女房がだめだっていったよ、意図はいいが柔軟性に欠けている、バスーンをやってみろって。女房がライフル連隊の楽長からバスーンを借りてくれた。おれは|塹壕《ざんごう》の中で練習したよ。うまくいって、別なのを手に入れて、それで暮しを立てているんだ!」
ジョージ氏が、彼女はばらのようにみずみずしく、りんごのように健康そうだという。
「うちの女房はまったくきれいな女だ。だから、まったくりっぱな貴婦人みたいに見える。年をとるにつれて、よけいりっぱになって来る。おれは、うちの女房にかなう女を見たことがないよ。だが、あれの前では絶対そういわんのだ。規律を維持しなければいかんからな!」
二人はあまり重要でない話題に移り、歩調と歩度を合わせながら、ちいさな通りをゆきつ戻りつしているうちに、やがてケベックとマルタが呼びに来るので、豚肉と野菜のごった煮を食べにゆくと、バグネット氏の細君が従軍牧師みたいに、料理に向って短い食前の祈りを唱える。こういう食べものを分配する時にも、ほかのあらゆる家事の場合と同じように、バグネット氏の細君は精密な方式を編み出していて、全部の皿を自分のすわっている前に置き、めいめいの豚肉に、それぞれ一人前の|煮汁《にじる》、野菜、じゃがいも、それにからしまで! を割り当て、すっかり完全にして配る。同じやりかたで、ビールかんからビールを配り、こうして必要な品々全部を会食者に配給し終ると、彼女は自分の食欲を満たしにとりかかるが、食欲はきわめて健康である。|食事用装具《キツト・オブ・ザ・メス》(11)は(もし食卓の備品をこう呼ぶことが許されるなら)、世界の数箇所で務めをはたして来た、|錫《すず》と|角《つの》製の道具が主である。特に、ウーリッジ少年のナイフは|牡蠣《かき》の|殻割《からわ》りナイフで、たたむときつく締まってしまう特徴まで、おまけになっていて、若い楽士の食欲をひどく妨害することが多いが、このナイフは外地勤務をひとわたり全部すませたといわれている。
食事が終ると、細君はまず煖炉のところを掃除して、バグネット氏と客がパイプを吹かすのをおくらせないようにしてから、若い人たちに手つだってもらって(彼らは自分のコップと大皿、ナイフとフォークを|磨《みが》く)、食事用の調度を全部、前と同じようにぴかぴか光らせて、全部しまう、こういった家事をおこなうために、裏庭を木ぐつがしきりに往復し、手おけがかなりひんぱんに使われ、最後に、この手おけは光栄にもバグネット氏の細君が身を清めるのを手つだう。やがて、この女房がすっかりみずみずしくなってまた姿をあらわし、腰を降ろして針仕事を始めると、その時初めて――野菜のことをその時始めて完全に忘れたと考えてよいので――バグネット氏は騎兵に向って、君の言い分を聞かせてくれという。
ジョージ氏はきわめて慎重にそれを述べ、バグネット氏に話しかけているように見えるが、バグネット氏と同じように、終始彼の目は、もっぱら女房のほうに注がれている。彼女も同じように慎重になって、針仕事に精を出す。ジョージ氏が言い分をすっかり述べると、バグネット氏は、規律を維持するための模範的な策略を使う。
「それで全部かね、ジョージ?」
「それで全部だよ」
「おれの意見どおりにするんだね?」
「全面的に従うよ」
「ねえ、おまえ、おれの意見をジョージにいってくれ。おまえは知っているはずだ。どんな意見か話してやってくれ」
その意見はこうである、自分の手におえないほど腹黒い人たちと、いくら関係を持たなくても、持たなすぎることはないし、自分が理解しない事柄に口出しをしないように、いくら注意しても、注意しすぎることはない。なにごとにせよ、知らないことはやらず、うしろ暗いこと、秘密のことに関係せず、動機の分らないことに手を出さないという、簡単明瞭な主義を守るべきである。要するに、これが女房を通じて告げられたバグネット氏の意見で、ジョージ氏はそれを聞くと、自分の意見が固まり疑惑が一掃され、大いに安心するので、心を落着けて、このめずらしい機会にパイプをもう一服やり、バグネット家の人たち全部を相手に、それぞれの人生経験に応じたむかし話をする。
そのために、ジョージ氏がふたたび巨体をのばして居間に立ち上るのは、イギリスの観客が劇場でバスーンと横笛を待ちもうけている時刻が迫ったころになるが、その時になっても、ジョージ氏は「無骨おじさん」というあだ名の家庭的な人間として、ケベックとマルタに別れをつげ、名づけ子の出世に祝詞を述べながら、ウーリッジのポケットに、|名づけ親《スポンサー》として一シリング銀貨をこっそり入れてやるので、時間がかかり、ジョージ氏がふたたびリンカン法曹学院広場へ向う時には、あたりが暗くなっている。
「どんなに小人数にしろ、家族のいる家庭を見ると」と彼はどっしりした歩調で歩きながら考えこむ。「おれのような人間がさびしく思えて来る。しかし、あんなふうに結婚して子供をつくらないでよかった。おれには向いていなかっただろうからな。この年になっても、まだおれはすごく放浪性があるから、いわばジプシーみたいに家庭にキャンプするならともかく、毎日いっきりということになれば、おれはつづけて一カ月とうちの射撃場を|後生《ごしよう》大事に守っていることはできまい。いいか! おれは人を辱しめたり、人の足手まといになったりしちゃいない、ありがたいことだ。そんなことは、この長い年月、したことがないんだ!」
それで、彼は口笛を吹いてそのことは忘れ、どっしりした足どりで歩みつづける。
リンカン法曹学院広場へ着いて、タルキングホーン氏の住いの階段を登ると、騎兵は表のドアが閉じてあり、事務所がしまっているのに気づくが、彼はそのドアのことをよく知らぬし、その上、階段が暗いので、ベルの引きづなを見つけるなり、ドアを自分であけようと思って、手さぐりで探しまわっていると、タルキングホーン氏が二階へ上って来て(もちろん、静かに)、腹立たしげに尋ねる。
「だれだ? そこでなにをしているのだ?」
「失礼いたします。ジョージであります。軍曹の」
「軍曹のジョージは、私のところのドアに錠をおろしてあるのが分らないのか?」
「ああ、はい、分りませんでした。とにかく見えませんでした」騎兵は少しいらいらしながらいう。
「君は考えを変えたのか? それとも、さっきと同じ考えか?」とタルキングホーン氏が聞きただす。しかし、ひと目見ただけで彼にはよく分っている。
「同じ考えであります」
「そうだと思った。それでけっこうだ。帰るがいい。それでは、おまえが」とタルキングホーン氏は|鍵《かぎ》でドアをあけていう。「グリドリー氏をかくまっていた男だな?」
「はい、たしかに[#「たしかに」に傍点]そうであります」と騎兵は二、三段降りたところに立ち止って、「それがどういたしましたか?」
「それがどうだと? 私はおまえの仲間を好かんのだ。もしおまえがその男だと気づいていたら、今朝、このうちの中へ入れるのじゃなかったのに。グリドリーか? |脅迫《きようはく》常習の、殺人もしかねない危険人物だ」
この弁護士としては常になく高い声でそういうとともに、彼は部屋の中へはいってしまい、|雷《かみなり》のような音を立ててドアを締める。
ジョージ氏はこの追い払いかたに大いに憤慨する。特に、ちょうどその時、階段を上って来た事務員が最後の言葉を聞いて、ジョージ氏のことを指したものと明らかに考えているらしいので、なおさらである。「我慢のならん男だ」と騎兵は大またに階段を降りながら、すぐさまののしる。「脅迫常習の、殺人もしかねない危険人物だ!」といって上を見あげると、事務員がこちらを見おろし、ランプのそばを通り過ぎてゆく彼を見守っているのに気づく。これが彼の憤慨をさらに強めるので、彼は五分のあいだ不機嫌でいる。しかし、それもほかのことといっしょに、口笛を吹いて忘れ、射撃練習場指してどっしりした足どりで帰ってゆく。
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第二十八章 鉄工場主
レスタ・デッドロック卿はこのところしばらく一家伝来の痛風がおさまって、文字通りにいっても|比喩《ひゆ》的にいっても、しっかり立っている。彼はリンカンシア州の屋敷にいるが、またも低地に大水が出て、寒さと湿気が、充分防備を施してあるチェスニー・ウォールド荘の中ばかりか、レスタ卿の骨の|髄《ずい》にまで忍びこむ。まきと石炭――デッドロック家の、木材と太古以来の森――の炎々たる火が、幅の広い大きな煖炉に燃え、たそがれになると森たちに向ってまたたきをして、自分たちの木々がいけにえにされるのを怒って|陰鬱《いんうつ》に顔をしかめる彼らに合図をしているが、その火をもってしてもこの敵、寒さと湿気、を追い払うことができない。家じゅうに延びている熱湯の管、すきまに詰め物をしたドアと窓、つい立てとカーテンも、火の欠陥を補ってレスタ卿の要求を満足させることができない。それで、ある朝、社交界|雀《すずめ》は耳をそばだてている世界じゅうに向って、デッドロック家の奥方は近く数週間ロンドンに帰られる予定と公表する。
高貴な人たちにさえ貧しい親類がいるということは憂鬱な事実である。それどころか、高貴な人たちには、貧しい親類が不当なほどたくさんにいる場合が多い、なぜなら、名門の真赤な血は、不法に殺された卑しい人々の血と同じように、あくまで[#「あくまで」に傍点]大声をあげて、聞いてもらわずにはいない[#「もらわずにはいない」に傍点]のである。「知られずにはいない」という点において、レスタ卿のもっとも遠縁のいとこたちは、殺人によく似ている(1)。そういういとこたちのあいだには、あまりにも貧しい人々がいるから、デッドロック一族の連綿たる金の鎖の中の|鍍金《めつき》した環にならずに、最初から普通の鉄に生れて、卑しい勤めをしたほうが幸せだったろうに、とまで考えたくなる。
しかし、デッドロック一族の威信にかかわるので、彼らは勤めをしない(上品だがもうけにならぬ少数の例外を除けば)。そこで自分たちより裕福な親類を訪れ、借りられる時には金を借り、それができない時にはほんのみすぼらしい暮しをして、女は夫を、男は妻をみつけることができず、借り物の馬車に乗り、自分たちが催したのでもない宴席につらなり、こうやって上流生活を送る。いわば彼らは、裕福な一族という金額が何度も割られた末に残った、始末に困る|端《はした》なのである。
レスタ・デッドロック卿の立場と考え方に味方しているあらゆる人々は、多かれ少なかれ彼のいとこと見てよかろう。ブードル卿に初まり、フードル侯爵を経て、末はヌードルに至るまで、レスタ卿はさながら光栄ある|蜘蛛《くも》のように、親類のあみの目を張っている。しかし、レスタ卿は、そういうあらゆるいとこたちとのあいだでは威厳を見せるが、名もないいとこたちとのあいだでは、例のいかめしさを失わぬけれども、親切寛大で、しめっぽい陽気にもかかわらず、今彼は、チェスニー・ウォールド荘を訪れた、そういう数人のいとこたちが帰るまで、殉教者のように忠実に付き合っている。
このいとこたちの中で第一級の首位を占めているのは、ヴォラムニア・デッドロックという令嬢(六十歳の)で、母方からいうとやんごとなくもこの人は、別な名家の貧しい親類にも当るので二重に高貴な身の上である。ヴォラムニア嬢は若い時分から色紙細工を作ったり、ギターに合わせてスペイン語で歌をうたったり、田舎の豪族の屋敷でフランス語の|謎《なぞ》々かけを披露したりすることにかれんな才能を発揮して、二十歳から四十歳まで二十年の生活を、充分愉快に過した。そのあと、時代おくれになり、スペイン語の声楽で人類を退屈させる女と見なされるようになったので、バース(2)へ引退して、レスタ卿からの毎年の贈り物によってほそぼそと暮し、ときどき、いとこたちの田舎の屋敷へ復活して来る。バースでは、細い脚に|南京《なんきん》木綿のズボンをはいた、すさまじい老紳士たちと広く交際し、あのあじけない町では高い地位にある。しかし、はしたないほどふんだんにほお|紅《べに》をつけ、ちいさな鳥の卵で作ったロザリオみたいな、旧式の真珠の首飾りをいつも掛けているため、ほかのところでは少々こわがられている。
健全な状態にある国にいれば、明らかにヴォラムニアは恩給受領者の仲間に加えられることだろう。そうするために、これまでいろいろな努力がおこなわれ、ウィリアム・バフィが入閣した時には、一年二百ポンドの恩給をもらうことは確実と期待された。しかし、どうしたものか、ウィリアム・バフィはあらゆる人々の期待にそむいて、今はそういうことのできる時世でないことを知り、これは、レスタ・デッドロック卿が彼に伝えたとおり、この国がめちゃめちゃになりつつあることを、明らかに示す最初の徴候であった。
同様な例としてボブ・ステイブルズ閣下の場合が挙げられるが、彼は馬の暖いえさを獣医のようにたくみに作ることができ、たいがいの猟場番人に|勝《まさ》る射撃じょうずな人物である。しばらく前から、彼は報酬がよくて、もめごとや責任の伴わない地位に就いて、お国のためにご奉公したいと熱望していた。上流社会ときわめて縁故の深い、血気盛んな若い紳士の、この当然な願いを、統制のよくとれた国家ならばただちに認めることであろうが、ウィリアム・バフィは自分が入閣した時に、どうしたものか、そのささいな問題についても、今はそういう世話をしてやれる時世でないと悟り、これは、レスタ・デッドロック卿が彼に伝えたとおり、この国がめちゃめちゃになりつつあることを示す第二の徴候であった。
そのほかのいとこたちは、年齢も能力もさまざまな紳士淑女で、大部分は温厚な上に分別があり、もしも名家との親類関係に打ち勝つことができたなら、まずまず立派な人生を送ったろうと思われるが、しかし実際には、ほとんどみながこの親類関係にやや負けて、あてどのない、気乗り薄な道をぶらつき、他人がすべて彼らを持て余しているとまったく同じくらい、自分で自分を持て余しているらしい。
この席上でも、ほかの席でも、レスタ卿の奥方が最高の支配者である。美貌で、優雅で、たしなみが深く、自分のちいさな世界(上流社会は北極から南極まで全部に広がっているわけではない)に|羽振《はぶ》りをきかせているから、いくら彼女が高慢で無関心な態度をしていても、レスタ卿の屋敷における彼女の威光が、この屋敷を大いに向上させ洗練させることになる。いとこたちは、いや、レスタ卿が彼女と結婚した時に|茫然《ぼうぜん》としてしまった年長のいとこたちですら、彼女に対して封建時代の臣下の礼を尽しているし、ボブ・ステイブルズ閣下は毎日、朝食と昼食のあいだに、何人かの|神に選ばれた人々《チヨウズン・ピープル》(3)に向って、奥方こそ全群のうちでもっとも毛なみの手入れがよい女だ、と閣下独自の得意の文句をくり返す(4)。
「幽霊の小道」を歩いている足音が(ここでは聞えないけれども)、寒い戸外へ締め出された、今は世にないいとこの足音のように思われる、この陰気な夜、チェスニー・ウォールド荘の長い大応接間にいる客は、こういった人たちである。時刻は就寝時間に近い。家じゅうに、寝室の煖炉の火が|明々《あかあか》と燃え上り、いかつい家具の亡霊どもを壁と天井に呼び出す。寝室用の蝋燭立てが、遠いドアのそばのテーブルの上に林立しており、いとこたちは長椅子であくびをする。ピアノのところにいるいとこたち、ソーダ水の盆のところにいるいとこたち、トランプのテーブルから立ち上るいとこたち、火のまわりに集ったいとこたち。自分専用の煖炉(煖炉は二つある)の片側に立っているのはレスタ卿。幅の広い煖炉の反対側で、テーブルに向っている奥方。特典を与えられたいとこの一人として、二人のあいだで豪華な椅子に腰かけているヴォラムニア。荘重な態度で不興げに、彼女のほお紅と真珠の首飾りにちらりと目をくれるレスタ卿。
「あたくしの部屋のところの階段で、ときどき会うのですけれど」とヴォラムニアは気どって|間延《まの》びのした口調でいうが、長い夜をとりとめのない話で過したあとなので、たぶん、心はもうその階段を飛び上ってベッドへ向っているのだろう、「あたくしが生れましてからまだ見たこともないような、きれいな女の子がおりますこと」
「家内が目をかけている子です」とレスタ卿がいう。
「そうでしょうと思いましたわ。きっと、なみなみならぬお目をしたかたが、あの子を見つけ出されたに相違ないと、あたくし、感じました。ほんとうに、すばらしゅうございますわ。たぶん、人形みたいな美しさでしょうけれど」とヴォラムニア嬢は自分の同類に但し書をつけて、「でも、それとしては申し分ございませんわ、あんなにすばらしい|肌《はだ》の色を、あたくし、見たことがございません!」
レスタ卿は不興げに荘重な|一瞥《いちべつ》を彼女のほお紅に向けながら、同じことをいっているらしい。
「じつは」と奥方がけだるそうにいう。「これについて、なみなみならぬ目をした人がいるとしますと、それはミセス・ラウンスウェルで、わたくしではございません。ローザはあの人が見つけましたのです」
「あれは奥方さまの侍女でございましょう?」
「いいえ。わたくしのあらゆるものですわ、ペット――秘書――伝令――そのほかなんでも」
「奥方さまがあの子を、おそばにお置きになりたいのは、花や、鳥や、絵や、プードルや――いいえ、プードルじゃございません――そのほかなんでも、同じようにきれいなものでしたら、お置きになりたいのと同じでございましょう?」とヴォラムニアは同感しながらいう。「ええ、まあ、なんとチャーミングなこと! それに、あの人好きのするおばあさんの、ミセス・ラウンスウェルは、なんと丈夫そうなこと。たいそうな年に相違ございませんのに、あの子に負けないくらい元気で、美しくて!――あの人、あたくしの一番の親友でございますの、ほんとうに!」
レスタ卿は、チェスニー・ウォールド荘の女中頭がすばらしい人物であるのは、家柄にふさわしい、よろしきを|得《え》たことだと思う。それは別にしても、彼はミセス・ラウンスウェルにほんとうに好意を持っていて、彼女がほめられるのを聞くのが好きである。そこで、「あなたのいうとおりですな、ヴォラムニア」というと、それを聞いてヴォラムニアはひじょうによろこぶ。
「あの人には自分の娘がございませんのでしょう?」
「ミセス・ラウンスウェルですか? そうです、ヴォラムニア。息子が一人おります。いや、じつは二人いたのです」
奥方は持病の|倦怠《けんたい》病を、今晩ヴォラムニアのためにひどく悪化させられたので、蝋燭立てのほうを、ものうげにちらりと見やって、音のないため息をもらす。
「それにつけても、これは今の時世がおちいっている混乱、つまり境界線の|抹殺《まつさつ》、水門の開放、差別の根絶を示す一つの著しい例だが」とレスタ卿は威厳のある憂鬱さを見せながらいう。「最近タルキングホーン君から知ったところによると、ミセス・ラウンスウェルの息子は、代議士に出るようにすすめられているそうです」
ヴォラムニア嬢はちいさな金切り声をあげる。
「ええ、ほんとうです」レスタ卿はくり返す。「代議士に」
「そんなことって、聞いたことございませんわ! まあ、その息子はなにをしているんでございますか?」とヴォラムニアが叫ぶ。
「あれは――たしか――鉄工場主とかいうことです」レスタ卿はその息子があるいは鉛工場主というのか、それとも、正しいいいかたはなにか別の金属と別の関係を持っている別の言葉なのか、はっきりしないみたいに迷いながら、ゆっくりした口調で、おごそかに、そういう。
ヴォラムニアはまたちいさな悲鳴をあげる。
「もしタルキングホーン君からの知らせが正しいとするとです、正しいことは疑う余地がありません、タルキングホーン君はいつも正しく精確ですからな、息子はその申し出を断ったそうですが、だからといって、だからといって、やはりそういう出来事の異常さが減ずるわけではなく、そこには、私が見ると奇怪な考え方が――おどろくべき考え方が、満ち満ちておりますな」
ヴォラムニア嬢が蝋燭立てのほうを眺めながら立ち上るので、レスタ卿は丁重にもはるばる応接間をひとめぐりして、蝋燭立てを持って来て、奥方のところの、|笠《かさ》をつけたランプで火をともしてやる。
「すまないけれども、奥や」彼はそうしながらいう。「ちょっとのあいだ残っていてもらいたいのだ、今の話の男が今日の夕方、晩餐の少し前にやって来て、頼みたいことがあるということで――たいそう礼儀正しい手紙をよこして」レスタ卿はいつもの真実尊重の習慣から、その手紙のことを強調する。「たしかに、たいそう礼儀正しい、ゆきとどいた文面の手紙だったといわざるをえない――あなたと私[#「私」に傍点]に、その娘のことで少しお会いしたいと申し込んでいるのだ。ミセス・ラウンスウェルの息子は今晩帰りたいらしかったから、私たちは寝る前に会おうと返事をして置いたよ」
ヴォラムニア嬢は三度目のちいさな悲鳴をあげると、主人夫妻に――おやまあ――なんと申しましたかしら――鉄工場主を――うまくお片づけなさいますように! といって飛び去る。
その場にいるほかのいとこたちも、まもなく一人残らず散らばってゆく。レスタ卿はベルを鳴らす。「女中頭の部屋にいるラウンスウェル君に私からよろしくといって、今会うと伝えてくれ」
奥方はこの一部始終を、外から見たところ、ほとんど注意を払わずに聞いていたが、ラウンスウェル氏がはいって来ると彼に目を向ける。彼は恐らく五十を少し越えているらしく、母親に似て押し出しがよく、澄んだ声、黒い髪の毛が抜けあがった広いひたい、率直ではあるが抜け目のない顔をしている。黒い服を着た、信頼のできそうな紳士で、かなり太っているけれども、活動的で、たくましい。態度はまったく飾りけや堅苦しいところがなく、この高貴な人たちの面前へ出ても、少しもまごつかない。
「レスタ様に奥方様、おふたかたのお邪魔を致しました点はもうお詫び申上げましたので、ごく手短かにお話し申上げるのが一番よろしいと存じます。ありがとうございます、レスタ様」
デッドロック家の家長が、自分と奥方とのあいだにあるソファーを手で示したのである。ラウンスウェル氏は静かにそこへすわる。
「非常に多くの大事業が進行しております、こういう忙しいご時世には、私たちの仲間は非常に多くの職工を、非常に多くの場所に持っておりますので、いつも私たちは飛び回っております」
鉄工場主がここでは少しも急ぐ必要がないと感じているので、レスタ卿はすっかり満足する。なぜなら、こことは、つまり、この古い家のことであるが、この屋敷はあの静かな猟園に根をおろし、猟園では|蔦《つた》と|苔《こけ》がゆっくりと成熟を遂げて、ふしくれ立った、いぼだらけのにれの木と陰の多いオークの木が、百年を経た|羊歯《しだ》と落葉の厚く積った中にそびえ、テラスの上の日時計は何世紀ものあいだ、黙々として「時」を記録しつづけて来て、この「時」自体が屋敷や土地とまったく同じように、代々のデッドロック家の主人の――生きているかぎり――持ち物なのである。レスタ卿は安楽椅子に腰をおろして、鉄工場主たちの休みない飛行に対して、自分の静止とチェスニー・ウォールド荘のそれとをもって立ち向う。
「奥方様はご親切にも」とラウンスウェル氏はそちらのほうへうやうやしい視線を向け、一礼してから話にとりかかる。「ローザという若い美人を|側仕《そばづか》えにして下さいました。ところで、私の息子はローザが好きになってしまい、私に向って、ローザに結婚を申し込んで、もし承知してくれれば――私はたぶん承知してくれることと思いますが――婚約したいから、同意してもらいたいと申しました。私は今日まで一度もローザに会ったことがございませんが、息子の分別心を――恋をした場合でさえ――かなり信頼しております。会って見ますと、私の判断しましたかぎりでは、息子の申すとおりの娘でございますし、私の母はローザのことをほめちぎっております」
「あの子は、あらゆる点で、それに値する娘です」と奥方がいう。
「そうおっしゃって下さいまして、奥方様、うれしく思いますし、奥方様のそのようなご推賞が、私にとってどんなに貴重なことか、それは申すまでもございません」
「たしかに」レスタ卿は鉄工場主が少し|口軽《くちがる》すぎると思うので、なんともいえぬ威厳を示しながらいう。「その必要はまったくないな」
「その必要はまったくございません、レスタ様。ところで、私の息子はたいそう若く、ローザもたいそう若うございます。私が自分で自分の道を切り開いて参りましたと同じように、息子も自分で自分の道を切り開いて参らねばなりませんので、息子がただ今結婚するなどいうことは、まったく問題になりません。しかし、もしこの娘さんに息子と婚約する気持があって、私が二人の婚約に同意したとしますと、これは今すぐ申上げるのが率直なやりかただと存じますが――レスタ様と奥方様、私の申すことをご了解下さって、お赦しいただきたいのです――私はローザがチェスニー・ウォールド荘にとどまらないことを、条件にいたします。従いまして、息子となお連絡いたします前に、失礼を顧みず申上げますが、もしローザをつれて参ることに、なにかご異論やご迷惑になる点がございましたら、この件はしかるべき期間延期して、そっくり現状のままにしておくつもりでございます」
チェスニー・ウォールド荘にとどまらない! それを条件にする! ウォット・タイラーと、|松明《たいまつ》を持って横行してばかりいる鉄工業地方の人々とに関する、レスタ卿の|昔《むかし》のあらゆる不安(5)が、にわか雨のように彼の頭の中に降り注ぎ、みごとな半白の髪もほおひげも、事実、怒りに震える。
「私に向って」とレスタ卿がいう。「それから家内に向って」と特に奥方を引き合いに出すのは、まず第一に妻に対するいんぎんな気持から、第二に、奥方の良識を信頼しての思慮深いおもんぱかりからである。「私に向って、それから家内に向って、ラウンスウェル君、君の考えでは、あの娘はチェスニー・ウォールド荘には過ぎた人間だとか、ここにとどまっていると害毒をこうむる恐れがある、というのかね?」
「もちろん、そんなことはございません、レスタ様」
「それを聞いて安心したよ」レスタ卿はじつに尊大に答える。
「どうぞ、ラウンスウェルさん」と奥方はきれいな手をほんの軽くあげて、まるではえでも追い払うように、レスタ卿の発言を止めさせてから、いう。「あなたのおっしゃる意味を、わたくしに説明して下さい」
「よろしゅうございますとも、奥方様。それこそ私の望むところでございます」
奥方は落着き払った顔を(しかし、そこには、つね日ごろいくら無感覚のようによそおっても隠しきれない、敏感で活発な知力がおのずからあらわれている)、決断力と忍耐の|権化《ごんげ》のようなこの客の、アングロサクソン人らしい、たくましい顔に向けたまま、熱心に耳を傾け、ときおり軽く頭を下げる。
「私はこちらの女中頭の息子でございまして、奥方様、このお屋敷のあたりで子供のころを過しました。母はこの五十年間ここで暮して参りまして、きっと、ここでなくなることでしょう。そして、そういう身分の者に見られる愛情と、愛着心と、忠誠心とを示す一つの例――たぶん、最上の模範で、これはイギリスが誇りとするに足りるものでございますが、その誇り、その功績の全部を、一つの階級が専有することはできません。なぜなら、そのような人が出るということは、両方の側に、つまり、高貴なかたがたの側はもちろんでございますけれども、卑しい人々の側もそれに劣らず、ひじょうにりっぱであることを証明しておりますから」
レスタ卿はこういう一方的な言い渡しを聞いて、ふん、と少し鼻を鳴らすが、真実を重んじ愛しているので、口には出さぬが、鉄工場主の主張の正しさをこころよく認める。
「こんな分り切ったことを申して誠に失礼ながら、早まってお考え下さるといけませんので申上げますが」とレスタ卿のほうへほんのわずかばかり目を向け、「私は母のお宅における身分を恥じてはおりませんし、チェスニー・ウォールド領とご当家に払うべき敬意を欠くようなことは、いささかもいたしておりません。なるほど、以前には――なるほど、以前には、奥方様――長年のご奉公のあと母に隠居してもらって、余生を私のもとで送ってもらいたいと、考えたことがあるかも知れません。しかし、ご当家とのこの深いご縁を切ることは、母の心を引き裂くことだと悟りましたので、もうずっと以前から、そんな考えは捨ててしまいました」
ミセス・ラウンスウェルを本来の家からさらっていって、鉄工場主のもとで余生を送らせるという意見を聞くと、またもレスタ卿はひどくいかめしくなる。
「これまで私は」と客はつつましく、はっきりと話をつづける。「徒弟と職工をして参りました。長年のあいだ職工の賃銀で暮して参りましたので、ある程度から先は、独学をしなければなりませんでした。妻は職工長の娘で、質素に育てられました。ただ今お話しいたしました息子のほかに、娘が三人ございますが、さいわい、私たち夫婦の場合とちがいまして、もっとずっと便宜をはかってやることができましたので、かなりの、いえ、充分な、教育を身につけさせました。私たちの大きな苦労と楽しみの一つは、子供たちを、どんな身分にもふさわしいようにすることでございました」
ここで、彼の父親らしい声に、まるで「チェスニー・ウォールド荘のような身分にさえふさわしいように」とでも心の中でつけ加えたような誇らしさが少しはいる。それゆえ、レスタ卿はさらに一層いかめしくなる。
「こういうことはみな、奥方様、私の住んでおります地方や、私の属しております階級のあいだでは、よくあることでございますから、いわゆる身分ちがいの結婚とでも申すようなことは、よその場所とちがって私たちのところでは、それほどめずらしい出来事ではございません。ときどき、息子が父親に向って、自分は工場にいっている娘が好きになった、と打ち明けるようなことがございます。父親はかつて自分も工場で働いておりましたから、おそらく最初は少し失望することでございましょう。ことによると、息子に対してもっとちがった期待をかけていたのかも知れません。しかしながら、その娘がけがれのない人物であることを確かめますと、十中八九は息子に向ってこう申します。『私としては、おまえがこの話に対して本気なのかどうか、見届けなければならぬ。これはおまえたち二人にとって重大な事柄なのだ。だから、私はこの娘を二年間教育させよう』、あるいは場合によりますと、『この娘をおまえの姉妹たちと同じ学校に、これこれの期間入れさせるから、そのあいだ、おまえはこれだけの回数しか娘に会わないと、おまえの名誉にかけて私に約束するのだ。もしその期間が終って、その時に娘がその教育を受けたおかげで、大体おまえと対等になっていて、しかも二人とも気持が変らないなら、私はおまえたちを幸せにするために、私のなすべきことをしてあげよう』私は今申しましたような例をいくつか知っておりますから、奥方様、それが今私自身の取るべき方針を示してくれるものと考えております」
レスタ卿のいかめしさが爆発する。静かに、しかしおそろしいほど。
「ラウンスウェル君」レスタ卿は青い上衣の胸に右手を入れて――廊下にある彼の肖像画の堂々たる姿勢である――こういう。「君はチェスニー・ウォールド荘と――」ここで彼は窒息しそうになるのを抑える。「工場との類似点を比べようというのかね?」
「この二つの場所がひじょうにちがっておりますことは、レスタ様、申すまでもございませんが、この場合の目的のためには、両方の類似点を比べましても差支えないかと存じます」
レスタ卿は威厳のある目で、長い応接間の片側をちらりと眺め、それから反対側を眺め、ようやく自分が夢を見ているのでないことをはっきりと知る。
「君は、私の家内が――私の家内がだ――側仕えにしているその娘が、この屋敷の門の外にある村の学校で育ったことを知っているのかね?」
「レスタ様、よく存じております。あれはたいそうよい学校で、ご当家の手厚いご援助にあずかっております」
「それなら、なぜ君の今の話をこの娘に当てはめるのか、私にはその理由がさっぱり分らんよ」
「私には、村のあの学校で、レスタ様」と鉄工場主はやや顔を赤くしていう。「私の息子の妻に知ってほしいと思われますこと全部を教えているとは考えられません、と申しましたら、その理由がもっとお分りいただけましょうか?」
目下のところはなんら損われずにいる、チェスニー・ウォールド領の村の学校から社会の機構全体へ、社会の機構全体から、鉄工場主、鉛工場主、その他の人々が|教義問答《カテキズム》などおかまいなしに(6)、自分たちに命じられた――レスタ卿の敏速な論理によると、必然的に、また永久に命じられた――身分、つまり、彼らが偶然最初に生れついた身分を捨て去るため巨大な割れ目を生じた上述の社会の機構へ、そしてまた、こういう人たちのことから、彼らがほかの人たちにそれぞれ[#「それぞれ」に傍点]の身分を捨て去るような教育を施し、こうして境界線を抹殺し、水門を開放することへと、デッドロック家的な頭脳がすばやく回転する。
「奥や、失敬するよ。ちょっとだけ、しゃべらせておくれ!」奥方がしゃべろうとしているらしい気配をかすかに示したのである。「ラウンスウェル君、私たちの義務観、私たちの身分観、私たちの教育観、私たちの――つまり、私たちのあらゆる[#「あらゆる」に傍点]見解は――まったく正反対だから、この話合いをこれ以上つづけることは、君にとって不愉快に相違ないし、私自身にとってもそうだ。今、その娘は家内の愛顧、|寵愛《ちようあい》をこうむっている。もしその愛顧、寵愛を捨てたいというのなら、ないしは、家内の愛顧、寵愛を捨てさせるような、一風変った見解の持ち主――失礼ながら、一風変った見解といわせてもらいたい、もっとも、そういう見解を持っていたところで、別に私に対して責任を感ずる必要のないことは、快く認めるが――そういう一風変った見解の持ち主の感化を、その娘が受けようという気なら、いつなんどきでも、そうするがよい。君が率直に話してくれた点については、私たちも感謝しているよ。率直に話したからといって、その娘のこの家における地位には、今後どうという影響はない。それ以上は、私たちとして、話をつけることができないから、どうか、これで――もしよかったら――この問題は止めにしてもらいたい」
客は奥方に発言の機会を与えるために、少し待っているが、彼女はなにもいわない。それで彼は立ち上って答える。
「レスタ様に奥方様、どうもごていねいにありがとう存じます、ひとことだけ申上げますと、息子には、今持っております望みをあきらめるよう、一所懸命忠告するようにいたします。お休みなさいませ!」
「ラウンスウェル君」レスタ卿はあらん限りの紳士らしさを発揮していう。「時刻はおそいし、道は暗い。家内と私は、せめて今宵一晩、君をチェスニー・ウォールド荘で歓待したいと思うのだが、それを断るほど君の時間は貴重じゃあるまいね」
「そうでございましょう」と奥方がいいそえる。
「まことにありがたい幸せでございますが、私は夜どおし旅をして、明朝の約束の時間かっきりに、遠方の土地へ着かねばならないのでございます」
そういって鉄工場主が出発すると、レスタ卿はベルを鳴らし、彼が部屋を出かかると、奥方が立ち上る。
奥方は自分の私室へゆくと、じっと考えこみながら煖炉の火のそばにすわり、「幽霊の小道」には耳も傾けず、奥の部屋で書き物をしているローザを眺める。しばらくしてから彼女に声をかける。
「ねえ、わたしのところへおいで。ほんとうのことを話してごらん。おまえは恋をしているのかえ?」
「まあ! 奥方さま!」
奥方は、うつむきになってはじらっている顔を眺めながら、にっこり笑っていう。
「それはだれなの? ミセス・ラウンスウェルの孫息子かえ?」
「はい、そうでございます、奥方さま。でも、わたしはあの人を愛しているのかどうか分りません――まだ」
「まだだって、ばかな子だねえ、おまえは! あの人がおまえを愛していることは知っているの、もう?」
「あの人はわたしが少し好きなのでございます」そういってローザは急に泣き出す。
村の小町娘のそばに立ち、その黒い髪を母親のような手つきでなで、深い関心をこめた物思いにふける目で彼女を見守っているこの人が、デッドロック家の奥方なのだろうか? そう、たしかにそうである。
「よくお聞き、ねえ。おまえは若くて、まじめだし、ほんとうにわたしを慕っているのだね」
「そうでございますとも、ほんとに、奥方さま。それをお目にかけるためなら、どんなことでもいたしたいと思っております」
「そして、まだ今のところ、わたしのもとを離れたくないのね、ローザ、恋人のところへゆくことになっても?」
「はい、奥方さま! はい、参りません!」ローザはそのことを考え、びっくりして初めて顔をあげる。
「わたしを信頼しなさい、おまえ。こわがることはないのよ。わたしはおまえに幸せになってもらいたいし、そうしてあげるつもりよ――もしもわたしに、この世の中のだれか一人でも幸せにする力があるなら」
ローザはまた新しく涙をこぼしながら、奥方の足もとにひざまずいて、その手にキスをする。奥方は自分の手をつかまえたその手をとり、両方の手にはさんでしきりにゆり動かすが、いつしか離してしまう。
奥方がぼんやり|上《うわ》の空になっているのを見て、ローザは静かに引き下るが、奥方の目はなおも火に注がれている。
なにを探しているのだろう? 今はもうない手をか、この世に生れ出たこともない手をか、彼女の生活を魔法のように一変させたかも知れない|肌《はだ》ざわりをか? それとも、「幽霊の小道」に耳を傾け、どんな足音に一番似ていることかと考えているのだろうか? 男の足音にか? 女の足音にか? ちいさな子供の足がぴたぴたと絶えず近くへ――近くへ迫って来る音にか? なにかしら陰鬱な思いに彼女はとりつかれている、そうでないとしたら、どうしてあれほど誇り高い貴婦人がドアを閉ざして、ただ一人煖炉のわきに、こんなにさびしげにすわっていることがあろうか?
ヴォラムニアは翌日立ち去り、いとこたちはみな晩餐の前にちらばってしまう。いとこたちの群れのうちだれ一人として、朝食の時レスタ卿から、ミセス・ラウンスウェルの息子によって示された境界線の抹殺、水門の開放、社会の機構の地割れの話を聞いて、おどろきあわてぬ者はない。いとこたちの群れのうち、だれ一人として、心から憤慨し、このことをウィリアム・バフィが大臣をしていた時の意気地なさに結びつけ、国の境の|杭《くい》が一本――あるいは恩給支給者名簿が――|詐欺《さぎ》と権利侵害によって奪われてしまったと、心から痛感しない者はない。ヴォラムニアはというと、レスタ卿に手を引かれて大階段を降りながら、まるでイングランドの北部一帯に、彼女のほお紅入れと真珠の首飾りをとろうとする大反乱でも起ったように、この話題について雄弁をふるう。こうして、侍女と従者の立てるさわがしい声とともに――レスタ卿のいとこたる者はその身分の附録として、自分の身を養うのがいくら困難であっても、侍女と従者は養っておかねばならぬ[#「ねばならぬ」に傍点]――いとこたちは風のまにまに四方へ散ってゆき、今日吹く一陣の冬の風は、|人気《ひとけ》のない屋敷の近くの木々をゆすってにわか雨を降らす。さながら、いとこたちがみな木の葉にでも変ったかのように。
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第二十九章 若い男
チェスニー・ウォールドの屋敷は閉ざされ、じゅうたんはわびしげな部屋部屋の隅に、大きな巻き物のように丸められ、色あざやかなダマスク織りは茶色の麻布を着てざんげをおこない、彫刻と|鍍金《めつき》は苦行を勤め、デッドロック家の先祖たちは日の目を見なくなる。屋敷のまわりを|幾重《いくえ》にもとり巻いて、木の葉が厚く散りしく――しかし、くるくるまわりながら、ひどく軽く、いかにも死んだもののように、陰気に、ゆっくり降りて来るので、なかなか地上へ落ちない。いくら園丁が芝生を掃除して、一杯になった手おし車につめこみ、運び去っても、落葉はやはりくるぶしを埋めるほどつもっている。|甲高《かんだか》い声をした風がチェスニー・ウォールド荘のまわりでほえると、刺すような雨がたたきつけ、窓ががたがた鳴り、煙突がうなる。もやが並木道に隠れて視点をおおい、葬式の行列のように高台を横切ってゆく。屋敷全体に、ちいさな教会のにおいに似た(しかし、もう少し乾いた)、冷たい空虚なにおいがして、それをかぐと、死んでほうむられたデッドロック家の人々が、長い夜のあいだにそこを歩き、墓のにおいをあとに残してゆくことが分る。
しかし、デッドロック家の人がなくなった時は別として、ロンドンの邸宅が、チェスニー・ウォールド荘と同じ時に同じ気持になることはめったにないし、一方がよろこんでいる時に他方がよろこんだり、一方が悲しんでいる時に他方が悲しむことは、まずないので、ロンドンの邸宅は眠りから覚めて、光り輝いている。|豪奢《ごうしや》の及ぶかぎり暖かくまばゆく、温室づくりの花の|贅《ぜい》をつくしたかと思われるばかり、冬の|気配《けはい》をつゆ見せぬ、かぐわしい香りを放ち、ひっそりと静まり返って、部屋の静けさを破るものといっては、時計のかちかちいう音と煖炉のぱちぱち燃える音よりほかにない、この邸宅は、あの骨の髄まで冷えきったレスタ卿の体を、にじ色の毛糸で包んでくれるように思われる。それでレスタ卿は書斎の大きな煖炉の前で、いかめしい顔をしながらも満悦して休息し、もったいぶった様子で、本の背文字を読んだり、美術品に目をくれてうなずいたりする。なぜなら彼は古今の絵画を所蔵しているのである。それは美術界にも時々出てくる仮装舞踏会派の絵で、目録を作るなら、競売の時の雑品のように書くのがもっともよかろう。たとえば、「|背高《せだか》椅子三、テーブル一、クロースとも、|長首《ながくび》びん(中にぶどう酒あり)一、筒形びん一、スペインの婦人服一、四分の三面像、モデルはジョッグ嬢、よろい一式、ドン・キホーテとも」とか、あるいは、「石のテラス(割れ目あり)一、遠景のゴンドラ一、ヴェニス上院議員服のそろい一、モデルのジョッグ嬢の半面像とも豪華縫いとりつき白しゅす衣裳、美麗金づくり三日月刀一ふり、宝石入りの|柄《つか》つき、精巧なムーア人服(最珍品)、ならびにオセロー(1)」
タルキングホーン氏は財産関係の事務、借地賃貸契約の更新その他のことがあるので、たびたび出入りしている。また奥方にもたびたび会っているが、彼と奥方とはあい変らず、落着いて、無関心で、ほとんどたがいに気をとめていない。だが、ことによると奥方はこのタルキングホーン氏を恐れていて、彼もそれを知っているのかも知れない。あるいは、彼はなんら気のとがめも、悔恨も、あわれみも感ぜず、強情に、着々と奥方を追跡しているのかも知れない。あるいは、奥方の美貌、彼女をとりまくすべての威光と光彩が、彼の目ざしている目的に、一層烈しい興味を与え、一層決意を堅くさせているのかも知れない。彼が残忍酷薄であろうがなかろうが、自分の任務と決めたことをあくまでやり通そうが止めようが、権勢欲に夢中になっていようがいまいが、一生涯ずっと、さまざまな秘密を調べて来た自分の地盤に、なに一つ隠されたことを残しておくまいと決心しようがしまいが、栄誉|赫々《かくかく》たる人々の末座でその遠い光に浴しながらも、心の中で彼らを軽蔑していようがいまいが、豪奢な依頼人たちの愛想のいい態度の中にある侮辱と無礼を、いつも胸に留めていようがいまいが――彼がこれらのうちのどれか、またはすべてであろうがなかろうが、とにかく奥方としては、この、ちいさなネクタイ、ひざのところを細ひもで結んだ半ズボンという姿の、古色蒼然たる弁護士から二つの目を注がれるよりも、むしろ上流人士から一万の疑い深い警戒の目を向けられるほうが、まだしもよいかも知れぬ。
レスタ卿は奥方の部屋――以前タルキングホーン氏がジャーンディス対ジャーンディス事件の宣誓供述書を読んだあの部屋――にすわって大満悦である。奥方は――あの日と同じように――火気よけうちわを手にして煖炉の前にすわっている。レスタ卿が大満悦でいるのは、水門の開放と社会の機構に直接関係した、自分と同じ考えの意見を、新聞で見つけたからである。この意見はつい最近の事例にきわめて適切に当てはまるので、レスタ卿は書斎から奥方の部屋へ、わざわざ読んで聞かせに来たところである。「この記事を書いた男は」と彼は、まるでその男に向って山の上からうなずいてやるように、火を見おろしてうなずきながら、まず前置きをいう。「常識のある人物だよ」
その男はたしかに大そう常識のある人物と見えて、奥方はすっかり退屈してしまい、最初は耳を傾けようとものうげに努力していたが、いや、むしろ、ものうげにあきらめて耳を傾けるふりをしていたが、頭が錯乱して、まるでそこに燃えているのがチェスニー・ウォールドの自分の部屋の火で、まだそのそばを離れずにいたように、じっと火を見始める。レスタ卿はいっこうに気づかず、鼻眼鏡越しに読みつづけ、ときどき止めては眼鏡をはずし、「まったくそのとおりだ」、「まったく当をえた言い分だ」、「私自身も、しばしば、同じ意見を述べているのだ」といったような賛成の意を表するが、そういう感想を述べるたびに、あとはきまって読んでいた場所が分らなくなり、記事の上や下を見ながらまた探す。
レスタ卿がひどく重々しく威厳を見せて読んでいると、ドアがあいて、髪粉をつけたマーキュリーが奇妙な来客の来たことを告げる。
「奥方様、ガッピーという名前の若い男が参りました」
レスタ卿は読むのを止め、じろじろ眺め、すさまじい声で相手の言葉をくり返す。
「ガッピーという名前の若い男?」
彼がふり向くと、ひどく当惑している、ものごしも|風采《ふうさい》も別にきわ立った印象を与えない初対面のガッピーという名前の男が目にはいる。
「おい」レスタ卿はマーキュリーに向っていう、「こんなに不意にガッピーという名前の若い男を案内して来て、どういうつもりなのだ?」
「申しわけございませんが、レスタ様、奥方様から、この若い男が訪ねて参りましたら、いつでもお会いするというお話でございました。ご前様がこちらにおいでとは存じませんでした、レスタ様」
こう弁解しながら、マーキュリーは軽蔑と憤慨の目を、ガッピーという名前の若い男に向けるが、その目は明らかに「なんだってこちらを訪ねて、おれ[#「おれ」に傍点]をさわぎに巻きこむんだ?」といっている。
「そのとおりでございます。わたくしがマーキュリーにそう|指図《さしず》いたしたのでございます」と奥方がいう。「この若い男を待たせておきなさい」
「それには及ばないよ、奥や。この男はあなたから来るように命ぜられたのだから、私は邪魔をすまい」レスタ卿は例のいんぎんさから引きさがるが、出てゆく時に若い男のお辞儀に答えるのをやや拒み、彼のことを出過ぎ者らしい、どこかの靴屋だろうと、いかめしい顔をして考える。
従僕が部屋を去ると、レスタ卿の奥方は尊大な態度で客のほうへ目を向け、頭の先から足の先までちらりと眺める。そして客をドアのそばに立たせたまま、どういう用があるのかと尋ねる。
「奥方様と少しお話をさせていただきたいのです」とガッピー君はうろたえながら答える。
「もちろん、あなたがあの何度も手紙をよこした人ですね?」
「五、六回です、奥方様。五、六回です、ご返事をいただくまでに」
「話などでなくて、手紙ですませるわけにゆかなかったのですか? 手紙ではやはりだめなのですか?」
ガッピー君は黙って「はい!」という時の口つきをして、うなずく。
「あなたは妙にしつっこくいって来ましたね。でも、もしその話というのが、結局わたくしに関係がないようでしたら――一体どうして関係があるのか分りませんし、そんなこと、あるはずがありません――遠慮なく、途中で止めてもらいますよ。さあ、その話をして下さい」
奥方は火気よけのうちわをむぞうさに立てたり寝かせたりしながら、また火のほうへ向き直って、ガッピーという名前の若い男にほとんど背中を向ける。
「それでは、ご免こうむりまして、これから私の用件にとりかかります。えへん! 私は最初にさしあげた手紙で申上げましたとおり、法律を仕事にしております。法律を仕事にしているものでございますから、文書ではっきりしたことをいわない習慣がつきまして、そのため私の関係している事務所の名前を奥方様に申上げませんでしたが、そこでは相当にいい地位を――それからまた収入を――与えられています。もう内密に申上げても差しつかえございませんが、事務所の名前は、リンカン法曹学院の中にあるケンジ・アンド・カーボイ法律事務所で、この事務所は、大法官府のジャーンディス対ジャーンディス事件に関連して、奥方様もまんざらご存知ない名前ではないかと存じます」
奥方の様子がやや注意を示し始める。もう火気よけのうちわをもてあそぶのを止めて、耳を傾けているかのようにうちわを握りしめる。
「ところで、さっそく申上げても差しつかえございませんが」とガッピー君は少し大胆になっていう。「私が奥方様にあんなにお話ししたがっておりましたのは、ジャーンディス対ジャーンディス事件に関係した事柄ではございませんのでして、ああいう振舞いをしましたことは、きっと、さぞかし押しつけがましく――いいえ、ならず者のやることみたいに――思われましたでしょうし、思われますことでしょう」決してそんなことはないとか何とかいってくれるのを、ガッピー君は少し待っているが、なにもいってくれないので、またつづける。「もしこれがジャーンディス対ジャーンディス事件のことでございましたら、リンカン法曹学院広場にいる奥方様の弁護士の、タルキングホーンさんのところへ、すぐに参ったことでしょう。私はタルキングホーンさんを存じ上げております――少なくとも、おたがいに出会った時にはお辞儀をしています――それで、もしそういった種類の用件でしたら、あの人のところへ参ったことでしょう」
奥方は少しこちらを向いて、「あなた、腰かけたほうがよろしいわ」という。
「ありがとうございます」ガッピー君はそうする。「ところで、奥方様」といって、ガッピー君は自分の弁論方針を、簡潔な覚え書にしたちいさな紙きれを参照するが、それを見るたびに、方針がまったく|曖昧模糊《あいまいもこ》とした状態になってしまうらしい。「私の――ああ、そうだ!――私の一身は、完全に奥方様の掌中に握られることになります。もし奥方様がケンジ・アンド・カーボイ事務所やタルキングホーンさんに、私が訪問した件について、苦情を申し立てられましたら、私はひじょうに好ましからぬ立場に立つことになりましょう。それは私も率直に認めます。従いまして、私は奥方様のご信義に信頼いたす次第でございます」
奥方は火気よけうちわを握っている手を、いかにも軽蔑するように振って、ガッピー君がそういう苦情に値しないことを保証する。
「ありがとうございます、満足しごくに存じます。ところで――私は――ちくしょう!――じつは私は、論及しようと考えました項目の順序を、ここに一つ二つ記入しておきましたが、簡単に書いてあるものですから、どういう意味なのか、はっきりいたしません。もしこれを、ほんのちょっとのあいだ、窓のところまで持っていってよろしゅうございましたら、私は――」
ガッピー君は窓のところへゆくが、あわてふためいて出かけるので、|番《つが》いのぼたんいんこにぶつかり、ろうばいのあまり鳥どもに向って「失礼いたしました、ほんとに」という。そのため、窓のところまでいっても覚え書は読みやすくならない。彼は興奮して赤くなり、紙きれを目のまぢかに寄せたり、遠く離したりしながら、「C・S・ってなんの意味だ? ああ! 『E・S・』か! ああ、分った! うん、まちがいない!」とつぶやく。それから、はっきり分って戻って来る。
「私は存じませんが」ガッピー君は奥方と自分の椅子の中ほどに立ったまま、「もしや、奥方様はエスタ・サマソンという名前の若いご婦人のことを聞かれたり、お会いになられたことはございませんか?」
奥方の目が彼をまともに見る。「あまり遠くない以前に、そういう名前の若い婦人に会ったことがあります。今年の秋でした」
「ところで、その人がだれかに似ているとお感じになりましたか?」とガッピー君は腕を組み、頭をかしげ、口もとを覚え書でかきながら尋ねる。
奥方はもう彼から目を離さない。
「いいえ」
「奥方様のご家族のかたに似ておりませんでしたか?」
「ええ」
「奥方様はサマソンさんの顔を、ほとんど覚えていらっしゃらないのだと思いますが?」
「はっきり覚えています。それがわたくしとどんな関係があるのです?」
「奥方様、嘘いつわりのない話でございますが、私の胸にはサマソンさんの面影が刻みこまれているものですから――これは内密で申しますが――友だちといっしょにリンカンシア州へちょっとした|遊山《ゆさん》の旅に出ましたおりに、チェスニー・ウォールドのご邸宅を参観させていただきました時、エスタ・サマソンさんと奥方様ご自身の肖像とが、ひじょうによく似ていますことを知って、すっかりたまげてしまいました、あまりのことに、自分がたまげましたのはじつは[#「じつは」に傍点]なんのせいか、当座はそれすら分らないほどでした。それが今こうして身近で奥方様を拝顔いたしますと(それ以来私は失礼も顧みず、奥方様が馬車で猟園をお通りになりますのを、たぶん、奥方様はお気づきになりませんでしたでしょうが、たびたび拝見して参りました、しかし、こんなに身近でお目にかかったことは一度もありませんでした)、私が思っていました以上に、ほんとにびっくりするほど似ておいでです」
ガッピーという名前の若い男よ! むかしは、貴婦人たちが|砦《とりで》の中に住み、呼べば答えるところに無法者の従者たちを控えさせていた時代、おまえのあわれな命など、今そうしておまえを眺めている美しい|瞳《ひとみ》に出会えば、一分間も無事でいないような時代があったのだ。
奥方は火気よけのうちわを扇子がわりにゆっくり使いながら、彼の似顔趣味が奥方とどんな関係があると思うのかと尋ねる。
「奥方様」とガッピー君はまた紙切れを参照しながら答える。「今その点に触れます。ちきしょう、この覚え書め! ああ! 『チャドバンド夫人』、そうだ」ガッピー君は椅子を少し前に引き出して、ふたたび腰をおろす。奥方はふだんに比べると、しとやかなくつろぎをやや欠いているけれども、落着いて椅子にもたれ、その凝視を少しもゆるめない。「あ――しかし、ちょっとお待ち下さい!」ガッピー君はまた参照する。「E・S・が二度か? ああ、そうだ! そうです、先まですっかり、見通しがつきました」
その紙きれを丸く巻いて、自分の演説を引き立てる道具にしながら、ガッピー君はつづける。
「奥方様、エスタ・サマソンさんの生れと育ちには|謎《なぞ》がからんでおります。私がその真実を知りましたのは――これは内密で申しますが――ケンジ・アンド・カーボイ事務所における職業柄であります。ところで、もう奥方様に申上げましたように、私の胸にはサマソンさんの面影が刻みこまれているのでございます。もし私がこの謎をあの人のために明らかにしたり、あの人が名門の縁つづきであることを証明したり、光栄にも奥方様御一家の遠縁に当るため、ジャーンディス対ジャーンディス事件の訴訟当事者となる権利を持っていたということを発見したりできましたならば、そうです、私はサマソンさんに対して、これまであの人が|正《まさ》にとって来た態度とちがって、もっと断然好意的な目で、私の申込みを見てくれるように要求する、一種の権利を持ちうるかも知れません。じっさいのところは、これまで、あの人は私の申込みに全然好意を示してくれませんでした」
怒りを含んだ微笑のようなものが、かすかに奥方の顔にあらわれ始める。
「ところで、奥方様、世にもふしぎな因縁によりまして」とガッピー君がいう。「もっとも、こういった因縁は私ども法律の専門家には、事実起るものでございます、――私は法律の専門家と申しても差しつかえないと思います、と申しますのは、まだ資格はとっておりませんけれども、ケンジ・アンド・カーボイ事務所から事務修習生の年期契約書をもらったところでございます、それは母が自分の少ない収入の資本の中から、印紙代を立て替えてくれましたからで、この印紙代は痛い負担でございます――そういう世にもふしぎな因縁で、最近、私は、ジャーンディスさんがサマソンさんを引きとる以前に、あの人を育てました婦人の家で召使をしていました人に、偶然出会いました。その人はミス・バーバリという人でございました、奥方様」
奥方の死人のような顔色は、彼女が上にあげた手の中に、まるで忘れられたもののように握られている、緑の絹地のうちわの反射だろうか、それとも急におそろしいほど血の気を失ってしまったのだろうか?
「もしや奥方様はミス・バーバリのことを聞かれたことがございますか?」
「分りません。あったように思います。ええ」
「ミス・バーバリは奥方様の御一族となにかつながりがございますか?」
奥方のくちびるが動くが、なにもいわない。彼女はかぶりを振る。
「つながりはございません[#「ございません」に傍点]? おや! たぶん、奥方様の知っておられるかぎりでは、ございませんのですね? ああ! しかし、あるかも知れませんのですね? はい」この質問のたびごとに彼女はうなずいた。「けっこうでございます! ところで、このミス・バーバリはきわめて口の堅い人でございました――女性にしては、おどろくばかり口が堅かったように思われます、女性というものは一般に(少なくともふつうの生活におきましては)相当に話ずきなものでございますが――それで私の証人には、この人に親類が一人でもいましたかどうかも分りませんでした。ある時、しかもこの時一回だけ、私の証人にたった一つだけ打ち明けたことがあるようでございまして、その時に、その女の子の本名はエスタ・サマソンでなくて、エスタ・ホードンだと、私の証人に話しました」
「ああ、神様!」
ガッピー君が目を見はる。レスタ卿夫人は彼の前にすわったまま、その目は彼を見通しながら、前と同じ暗い色を顔に浮べ、うちわの握りかたまで前と同じ姿勢を保ち、くちびるを少し開き、ひたいを少ししかめているが、しばらく死んでいる。彼は夫人の意識が戻って来るのを見る、さざ波が水の上を渡るように、身ぶるいが全身を走るのを見る、くちびるがふるえるのを見る、力をふりしぼってくちびるを整えるのを見る、彼がそこにいること、彼が今いったことをむりやり思い出しているのを見る。それらすべてがきわめて迅速におこなわれるので、夫人の叫び声と死んだ状態は、墓穴の中に長らく保存されていたのち外に出された死体の目鼻立ちが、稲妻のように空気に打たれて、ひと息に消えうせるのと同じように、過ぎ去ったらしい。
「奥方様はホードンという|苗字《みようじ》をご存知でございますか?」
「前に聞いたことがあります」
「奥方様のご一家の分家か遠い親類のご苗字で?」
「いいえ」
「ところで、奥方様、今度は私がただ今までに準備しましたかぎりでは、問題の最後の項目に参ります。問題はまだつづいておりまして、先へ進むにつれて、私がだんだんこまかにまとめて参ります。奥方様にご承知おき願わねばなりませんが――もしやまだご存知ないのでしたら――しばらく前に、大法官府横町近くのクルックという男の家で、ひじょうに窮迫した代書人が死んでいました。この代書人の死因審問がおこなわれましたところ、代書人は|匿名《とくめい》の人物で、本名が分りませんでした。しかし、奥方様、私はごく最近この代書人の名前がホードンだということを発見いたしました」
「それ[#「それ」に傍点]がわたくしにとってどうだというのです?」
「ええ、奥方様、それが問題でございます! ところで、奥方様、その男が死にましたあとで奇妙なことが起りました。ある貴婦人が突然あらわれたのでございます、奥方様、ある変装した貴婦人がその現場を見にゆき、その男のお墓を見にゆきました。貴婦人は道路掃除をしています少年を雇いまして、案内をさせたのでございます。もし私の説を確証するためにその少年を出せと、奥方様がお望みになるのでございましたら、私はいつでも少年をつかまえて来ることができます」
奥方にとってそういうみじめな少年はどうでもよいので、少年を出してくれとは望まない[#「ない」に傍点]。
「いや、ほんとに、奥方様、じつに奇妙な出来事でございますよ、まったく。その貴婦人が手袋をぬいだ時、指に光っていた指環の話を少年からお聞きになりましたら、じつにロマンチックだとお思いになられましょう」
うちわを握っている手に、ダイヤモンドがいくつかぎらぎら光っている。奥方はうちわをもてあそんで、ダイヤをますます光らせ、もしこれがむかしであったなら、ガッピーという名前の若い男としては、大いに危険であったかも知れぬ表情を浮べる。
「奥方様、その代書人は自分の身元が分るようなぼろや紙きれをひとかけらも残していかなかったという話でございました。しかし、残したのでございます。手紙を一束残していきました」
火気よけうちわはあい変らず動いている。こういったあいだずっと、奥方の目は一度も彼から離れない。
「その手紙は持っていかれて、隠されました。そして明日の晩、私の手にはいります」
「もう一度尋ねますけれど、それがわたくしにとってどうだというのです?」
「奥方様、その点を述べまして私の話を終ります」ガッピー君は立ち上る。「今までに挙げましたいろいろな事柄――あの若い婦人が疑う余地もなく奥方様にひじょうに似ていること、これは陪審員にとって明白な事実でございます――その若い婦人がミス・バーバリに育てられたこと――ミス・バーバリがサマソンさんの本名はホードンだと申しました点――奥方様がこの二つの苗字を両方ともひじょうによく[#「ひじょうによく」に傍点]知っていらっしゃること――ホードンがあのような死にかたをしたこと――こういったいろいろな事柄をつなぎ合わせました場合に、奥方様が、そういう親類の人たちのために、この問題をさらに深くお調べになりたいとお考えになるのでございましたら、私がその書類をお宅へ持参いたしましょう。それが古い手紙であるということ以外、どんな内容のものか私は存じません、まだ手に入れたことがありませんので。入手次第すぐにお宅へ持参いたしまして、奥方様とごいっしょに、初めてくわしく調べてみるつもりでおります。これで私の訪問の目的をお話しいたしました。さきほど申上げましたとおり、もしそれについて苦情を申し立てられますと、私はひじょうに好ましからぬ立場に立つことになりましょうから、これは万事、極秘でございます」
これでガッピーという名前の若い男の目的は全部なのか、それともほかになにかあるのか? 彼の言葉は、自分がここへ訪ねて来た目的と疑惑のいっさい、すべて、全部を打ち明けているのか、もしそうでないとしたら、なにを隠しているのか? その点については、彼も奥方にひけをとらない。いくら奥方が彼に目を向けても、彼はテーブルに目を向け、その証人台のような顔はなにも語らない。
「持って来てもかまいませんよ」奥方がいう。「もしそうしたいのでしたら」
「あまり気乗りのしないお言葉でございますね、まったく」ガッピー君はやや気を悪くしていう。
「持って来てもかまいませんよ」奥方は同じ調子でくり返す、「もし――そうしていただけるのでしたら」
「そういたしましょう。奥方様、おやすみなさいませ」
奥方のそばのテーブルの上に、豪華な飾り物と見ちがえるような小箱があって、古い金庫のように|桟《さん》と締め金がついている。彼女はなおも彼に目を向けたまま、小箱を引き寄せて錠をあける。
「ああ! 奥方様、私はそういったことが目当てで参ったのではございません」とガッピー君がいう。「そういうものは、いっさいいただくわけに参りません。これで失礼いたしますが、どうもありがとうございました」
そして若い男はお辞儀をして、階段を降りるが、おうへいなマーキュリーは、玄関の煖炉のそばにある自分のオリンポスの山(2)を離れて、見送りに出てやるに及ばないと考える。
レスタ卿が書斎で気持よく暖まり、新聞を見ながらうたた寝をしている時、この屋敷の中に、彼を|驚愕《きようがく》させる力を持った、目に見えぬものが――チェスニー・ウォールド荘の木々までにふしくれ立った腕をふり上げさせ、先祖たちの肖像画までにまゆをひそめさせ、よろいまでを動かせる力はないにしても――いるのではないだろうか?
そんなものはいない。言葉、すすり泣き、叫び声は空気にすぎぬし、このロンドンの屋敷では至るところ、空気は閉じこめられ締め出されているので、レスタ卿の耳に、せめてかすかなひびきでも届かせるためには、自分の部屋にいる奥方はラッパのような声をあげなければならぬ。だが、屋敷の中では、ひざまずいて狂乱の姿をした人がこう叫んでいる。
「ああ、わたしの子供、わたしの子供! 無慈悲な姉さんがおっしゃったように、生れ落ちた時に死んだのでなくて、姉さんはわたしとわたしの苗字を捨ててしまってから、あの子をきびしく育てたのだったわ! ああ、わたしの子供、ああ、わたしの子供!」
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第三十章 エスタの物語
リチャードがいなくなってからしばらくすると、私たちのうちへ一人のお客さまが数日間の予定でまいりました。お客さまは中年の婦人でした。アラン・ウッドコートさんのお母さんで、ベイアム・バジャーさんの奥さんのところへ滞在しに、ウェールズから出て来たのですが、ジャーンディスおじさまのところへ「せがれアランの願いにより」手紙を下さって、息子のウッドコートさんから便りがあり、元気にしていて、「みなさまご一同によろしくお伝え下さい」といって来たと知らせて下さったので、おじさまが荒涼館へ遊びに来てくれるようにとお招きしたのでした。ウッドコートさんはうちに三週間近く泊りました。私にたいそう親切にして、とても打ち解けた話をして下さいましたが、あまり打ち明けたことをいうので、時々、私は不愉快に近い気持にさせられました。ウッドコートさんが私を信頼したわけですから、不愉快に思うべきではないと、自分でも充分承知していましたし、そんなふうに思うのは理不尽なことだと考えましたが、いくら我慢しても、やはりそうならずにはいられませんでした。
ウッドコートさんはとても敏感なかたで、よく両手を組み合わせて椅子に腰をかけ、私に話しかけるあいだも、じっと油断なく見守っているのがつねでしたから、ことによると私はそれがいやになったのかも知れません。あるいは、ひどくまっすぐな姿勢をして、身ぎれいにしていたせいかも知れませんが、私はそれを風変りで感じがいいと思いましたから、そのためではないと思います。それからまた顔全体の表情のせいでもないと思います、お年寄りのわりには、とてもいきいきとしてきれいな顔をしていましたから。一体どうしたわけだったのか私には[#「私には」に傍点]分りません。あるいは、少なくとも今では分っていても、その時分は分らないと思っていたのです。あるいは、少なくとも――しかし、こんなことはどうでもかまいません。
夜など、私が二階へいって寝ようとしていると、よくウッドコートさんは私を部屋に招き入れて、煖炉の前の大きな椅子に腰をかけ、おどろくではありませんか、モーガン・アプ・ケリグの話を長々と聞かせるので、おしまいには私はすっかり気がめいってしまったものです。時によると、クラムリンウォリンワーと「ミューリンウィリンウォド」(これが正しい名前だとすれば。しかし、たぶん、ちがっているでしょう)の何節かを朗誦して聞かせ、そこにあらわれている情緒にすっかり感激してしまうのでした。といっても、モーガン・アプ・ケリグの血筋をたいそうほめたたえているということよりほかに、どんな情緒があらわれているのか、私にはさっぱり分りませんでした(なにしろウェールズ語の詩でしたから)。
「サマソンさん」とウッドコートさんはもったいぶって得意げにいったものでした。「あなたにもお分りのように、これがうちの息子の受けついだ財産なんですよ。あの子はどこへいっても、自分がアプ・ケリグの一族だということを主張できるんです。お金は持っていないかも知れませんが、もっとずっといいものを持っているんです――家柄ですよ、ねえ」
インドやシナでモーガン・アプ・ケリグをそんなに重んじてくれるかどうか、私は疑問に思いましたが、むろん、そんなことは口に出しませんでした。それで、そういう名家の血筋を引いているのはすばらしいことですね、と答えるのがつねでした。
「ほんとに[#「ほんとに」に傍点]すばらしいことですよ、あなた」とウッドコートさんは答えるのでした。「それには不便な点もありますがね、たとえば、息子の嫁を選ぶ範囲が限られていることです、でも、王室で配偶者を選ぶ場合だって、大体同じような制限がありますものね」
そういってから、ウッドコートさんは私の腕をたたいて洋服のしわをのばし、まるで、私たちのあいだにはへだたりがあるけれども、おまえは見上げたものだ、といわんばかりでした。
「なくなった宅の主人は」とウッドコートさんはいって、いつも少し涙もろくなったものです、高貴な家系のかたなのにやさしい心をしておりましたから。「ハイランド(1)の名門、マク・コートのマク・コート家の出でした。イギリスのハイランド連隊の将校として、国王さまとお国のために仕えて、戦場でなくなったんです。うちの息子は二つの旧家の最後の後継者の一人というわけです。神さまのご加護によって、息子は両家を復興させ、また別な旧家と縁を結ぶことでしょう」
私は例によって、話題を変えようとしましたが、むだでした――そうしたのはただ目新しい話がしたいからだったのです――いいえ、もしかするとその理由は――しかし、そんな小やかましい|詮議《せんぎ》をする必要はありません。ウッドコートさんはいつも話題を変えさせようとはしませんでした。
「ねえ、あなた」と、ある晩ウッドコートさんがいいました。「あなたはたいそう分別がおありだし、お若いのに世の中のことを、よく落着いて考えておいでだから、私のうちの家柄のことを、こうやってお話しするのは楽しみですよ。ねえ、あなたはうちの息子をあまりご存知ないけれども、どんな子かくらいは覚えておいででしょう、たぶん?」
「はい、奥さま、覚えております」
「そうでしょうね。ところで、ねえ、私はあなたを、人物のめききができる人だと思っているんですよ、だから、あの子についてあなたの意見を聞きたいんですけれどね?」
「あら、ウッドコートさん! それはとてもむずかしいことですわ」
「なぜそんなにむずかしいんです、ねえ?」と奥さんがいい返しました。「私にはなぜだか分りませんね」
「意見をいえとおっしゃられましても――」
「ほんのわずかしか知らないあいだがらではね。それはたしかに[#「たしかに」に傍点]そうね」
私はそんなつもりでいったのではありませんでした。なぜならウッドコートさんの息子さんは、合計して見れば、ずいぶんうちへ来たことがあって、ジャーンディスおじさまとたいそう親しくなっていたからでした。私はそのことを話し、それにつけ加えて、ご子息はお仕事のほうはおじょうずのように見受けられますし――私たちうちの者がそう考えていたのです――フライトおばあさんをやさしく親切にお世話なさったことは、ほんとにりっぱで、おほめする言葉もないくらいですと申しました。
「あなたの意見は当っていますよ!」とウッドコートさんはいって、私の手を握りしめました。「まったく、あなたのいうとおりですよ。アランはいい子ですし、仕事のほうは非の打ちどころがありません。母親の私がそういうのは、なんですけれどね。でも、打ち明けていわなければなりませんが、あの子にだって欠点がないわけじゃないんですよ、あなた」
「私たちはだれでもそうですわ」と私はいいました。
「ああ! でも、じつはあの子のは、直そうと思えば直せるし、直さなければいけない欠点なんですよ」とこの|敏感《シヤープ》な老夫人は|激しく《シヤープリー》頭を振りながら答えました。「私はとてもあなたが好きなので、まったく公平な第三者と思って、こんな内証の話をあなたに打ち明けるんですけれど、あの子はほんとに移り気なんですよ」
私は、あのかたの評判から察すると、お仕事に忠実で、ただ一筋にお仕事にはげんで来たとしか考えられません、と申しました。
「その点もあなたのいうとおりですけれど」とウッドコートさんはいい返しました。「ねえ、あなた、私は仕事のことをいっているんじゃありません」
「あら、そうですか!」
「ええ、私がいっているのはね、あの子の人づきあいのことですよ。あの子はいつも若い女の人たちにつまらないお愛想ばかりしていて、それが十八の時からずっとそうなんですよ。ところが、ねえ、あなた、そういう人たちにほんとに気があるのじゃありませんし、そういう振舞いに|悪気《わるぎ》があったわけじゃなくて、ただ礼儀正しくて、気立てがやさしいからだったんです。でも、やはり、いいことじゃありませんでしょう?」
「はい」相手が返事を待っているらしいので私はそういいました。
「それに、ひょっとすると誤解されるかも知れませんものねえ」
そうかも知れません、と私はいいました。
「ですから、私はあの子に何度もいったんです、自分もよそのお嬢さんたちも疑いを受けないように、ほんとにもっと気をつけなくてはいけませんって。すると、いつもこう答えるんです。『お母さん、気をつけますよ、しかし、お母さんは僕のことを、だれよりもよくご存知ですし、僕に悪気のないことは――つまり、なんの気もないことは――ご存知でしょう』それはたしかにそのとおりなんですけど、だからといって、そういうことをするのが正しいということにはなりませんよ。けれども、もうあの子はずっと遠くへいってしまって、いつ帰るということもありませんし、いい機会にも恵まれ、いい人たちにも紹介されることでしょうから、こういうことは過ぎ去った話と思っていいでしょうね。ところで、ねえ、あなた」といって、今度は老夫人はしきりにうなずき、にこにこ笑いながら、「あなたご自身はいかが?」
「私が、奥さま?」
「いつも私のことばかり考えて、息子が幸せを求め、お嫁さんを探しにいった話をするのは、もうやめにして――あなたはいつご自分の[#「ご自分の」に傍点]幸せを求めたり、おむこさんを探すつもりなんです、サマソンさん? ねえ、あなたったら! あら、顔を赤くしているのね!」
私は顔を赤くなどしなかったと思います――とにかく、顔を赤くしたところで、別にたいしたことではありませんでした――それで、現在の幸せに満足し切っていますから、この幸せを変えたいとは願いません、といいました。
「私がいつもどんなふうに、あなたのことや、これから先あなたに訪れて来る幸せのことを考えているのか、いって見ましょうか?」
「もしほんとに予言がおじょうずなのでしたら」
「それじゃいいますよ、あなたはね、とてもお金持で、とてもりっぱで、ずっと年上の――たぶん、二十五歳くらいは――人と結婚すると思うんですよ。それから、すばらしい奥さんになって、とてもかわいがられて、とても幸福になるんです」
「それはほんとに幸せなこと。でも、なぜ私はそうなるのでしょう?」
「ねえ、あなた、それがあなたに似つかわしいんですよ――あなたはずいぶんよく働くし、ずいぶん身ぎれいにしておいでだし、全体としてずいぶん特別な境遇の人なんですから、それが似つかわしいし、今にそうなりますよ。そして、ねえ、そういう結婚をなさるのを、私ほど心からおめでたく思っている人はないでしょうよ」
こんなことが私を不愉快にするとは奇妙な話でしたが、私は不愉快になったように思います。そうなったことを知っています。こういう話を聞かされたので、その晩しばらくのあいだ私は不愉快でいました。そういう自分のおろかしさがとても恥ずかしくて、エイダに対してさえそれを打ち明ける気になれず、そのためになおさら不愉快になりました。もしなんとかしてこの快活な老夫人から信頼を受けずにいることができたなら、どんなことをしてもよいと思うほどでした。その結果、奥さんについてまったく矛盾するようなことを、あれこれと考えました。時には嘘つきだと思ったり、時には誠実そのものの人だと思ったりしました。あるいは、わるがしこい人だと疑えば、次の瞬間にはこの正直なウェールズの婦人はじつに純真素朴だと信じるのでした。結局のところ、私にとってなにがそんなに気になったのでしょう、またそれはなぜでしょう? なぜ私は、|鍵《かぎ》を入れたかごを持って寝室へゆく途中、奥さんのところへ立ち寄って煖炉の前にすわり、ちょっとのあいだ奥さんに少なくとも、ほかの人を相手にする場合と同じように、調子を合わせ、その罪のない話を気に|病《や》まずにいることができなかったのでしょう? たしかに私は奥さんのほうへ、いわば自分で自分を駆り立てていたのに(なぜなら、私は奥さんに気に入られたいと一所懸命でしたし、気に入られて大よろこびでしたから)、なぜ、あとになってから、奥さんのいったひとことひとことを、じっさい心を痛め悩みながら、くどくどくり返し、二十ぺんも考えたのでしょう? 奥さんがよその家にいるよりも、私たちのうちにいるほうがいいし、また安全だと、私はどういうわけか考えていましたのに、さてじっさい奥さんにうちへ来られて、毎晩打ち解けた話を聞かされると、なぜあんなに気にかけたのでしょう? こういったいろいろな当惑と矛盾を私は説明することができませんでした。少なくとも、もし私にできたとすれば――しかし、このことはやがて全部お話ししますから、今こんな話をつづけたところで、なんの役にも立ちません。
そういうわけで、奥さんが帰った時には、私はいなくなるのを残念に思うと同時に、ほっとひと安心しました。すると、そのあとにキャディ・ジェリビーがロンドンからやって来て、家庭のニュースをたくさんに持って来ましたので、私たちは用事がいっぱいできてしまいました。
まず第一に、キャディは、私がこの世の中で一番いい相談相手だというのでした(そして最初はそのほかのことはなに一つ告げようとしませんでした)。しかし、エイダはそんなことは少しもめずらしい話ではないといい、私は[#「私は」に傍点]そんなことはもちろんばからしい話だと申しました。それからキャディは、自分は一カ月すると結婚することになったから、もしエイダと私が新婦の付添人になってくれるなら、世界一の幸福者なのだが、と告げました。これはたしかに初耳のニュースで、みなの話がつきないだろうと思いました。私たちはキャディにたくさん聞くことがあり、キャディは私たちにたくさん話すことがあったのですから。
キャディの不幸なパパは、債権者一同の寛大さと同情のおかげで、破産から立直ったらしく――キャディは「破産を通り抜けました」と、まるで地下道でもくぐり抜けたような言いかたをしました――自分では万事分らずじまいのまま、事務を片づけ、持っていた物いっさいを引き渡して(といっても、家具の状態から見ると、たぶん、たいしたものではなかったのでしょう)、かわいそうに、もうそれ以上のことはできないと、関係者全部を納得させたようでした。それで円満に「事務所」へ戻り、新規まき直しの生活を始めました。その事務所でどんなことをしているのか、私にはまったく分りませんでしたが、キャディの言葉によるとパパは「税関その他一般代理人」だそうで、その仕事について私の知っていることといえば、ふだんよりもお金が入り用な時には、ドックへお金を見つけにゆくのですが、ほとんど手に入れたためしがないということだけでした。
キャディのパパがこういう毛を刈りとられた小羊(2)のようになって気持も落着き、一家がハットン・ガーデンの家具付下宿へ引っ越すやいなや(あとでその下宿へいって見ると、子供たちは椅子のシートを切り裂いて、中につめた馬の毛を飲みこんで窒息しそうになっていました)、キャディはパパとお父さんのほうのターヴィドロップさんとを引き合わせましたが、かわいそうにジェリビーさんはたいそう謙遜で、おとなしい人なので、ターヴィドロップさんの行儀作法にすっかり恐れ入ってしまい、二人は大の仲よしになりました。こうしてターヴィドロップさんは息子さんの結婚を考えることにもなれて来たため、次第に父性愛が高まって、とうとうその出来事が間近いと予期するようになり、若い二人が望む時に、ニューマン街のダンス学院に新世帯を持ってもよいという|優渥《ゆうあく》なお許しを与えたのでした。
「そしてあなたのパパは、キャディ? パパはなんておっしゃったの?」
「ああ! かわいそうに、パパは」とキャディがいいました。「ただ泣いて、自分とママが暮して来たよりも、もっと仲よく暮してもらいたいといったわ。プリンスの前ではそういわないで、あたしにだけいったの。それからまた、こういったわ。『かわいそうに、おまえは夫のために、どうやって家政をやっていけばよいのか、あまりよく教わって来なかったが、もし心をこめて家政に務めるつもりがないなら、結婚するよりも夫を殺したほうがいい――もしほんとうに夫を愛しているならばだ』」
「それで、あなたはどんなふうにパパを安心させたの、キャディ?」
「ええと、パパがそんなに沈んでいるのを見たり、そんなにおそろしいことをいうのを聞いて、ねえ、あたし、とてもせつなくなっちゃって、泣かずにいられなかったの。でも、こういったの、あたしはほんとに[#「ほんとに」に傍点]心をこめてそうするつもりだし、あたしたちのうちを、パパが夕方なんかに慰めを求めに来る場所にしたいし、今までのうちにいるよりも向うへいったほうが、パパに対していい娘になれると思うし、なれるだろうと願っているって。それから、ピーピィをあたしのところへ泊りに来させるっていったら、パパはまた泣き始めて、うちの子供たちはインディアンだっていったわ」
「インディアン、キャディ?」
「ええ、アメリカのインディアンよ。そしてパパがこういうの」――ここでキャディは、かわいそうに、まったく世界一の幸福者らしくもなく、すすり泣きを始めました――「ほんとに、ああいう子供たちはインディアンのまさかりで、全部いっしょに殺されてしまうのが一番いいんだって」
エイダが、ジェリビーさんのそういう破壊的なご意見は、本気でないと分っているから、安心しても大丈夫でしょうといいました。
「ええ、パパだって、自分の子供が血まみれになってのたうつのを願っていないことは、もちろん、あたし知っているわ、でも、パパのいう意味は、子供たちがママの子に生れたことがふしあわせで、自分がママの夫になったことがふしあわせだっていうのよ、それはたしかにほんとうだと思うわ、そんなことをいうのは親子の情にそむいているようだけども」
私はキャディに、ジェリビーさんの奥さんはキャディの婚礼の日がきまったことを知っているのか尋ねました。
「まあ! あなたはママがどんな人か知っているわね、エスタ」とキャディが答えました。「ママがそのことを知っているのかどうか分らないわ。もうママには何度も話してあるけど、じっさいに[#「じっさいに」に傍点]話すと、ママは落着き払った目であたしを眺めるだけよ、まるであたしがなんだか分らない物みたいに――遠くのほうにある|尖塔《せんとう》でも見るみたいに」と急に思いついてキャディはいいました。「それから『ああ、キャディ、キャディ、なんてあなたはうるさい子でしょう!』といって、ボリオブーラ・ガーの手紙の仕事をつづけるのよ」
「それで、あなたの|衣裳《いしよう》のほうは、キャディ?」と私はいいました。というのは、キャディは私たちに対してなんの隠し立てもしなかったからです。
「ねえ、エスタ、しようがないわ」とキャディは目の涙をふきながら答えました。「あたしとしてはできるかぎりのことをして、みすぼらしいなりをしてお嫁に来たなんて、プリンスにいやな思い出を持たれないようにしなければならないわ。ボリオブーラ・ガーへゆく支度なら、ママはなんでも知っていて、夢中になってしてくれるでしょうよ。でも、こういうことなので、ママは知りもしないし、心配もしてくれないわ」
キャディは決して母親に対する子としての愛情に欠けていたわけではありませんが、こういうことを否定できない事実として、涙ながらに話しました。私たちはこのかわいそうな、いい娘を気の毒に思い、そういった不利な事情にもかかわらず生き延びて来た善良な気質の中に、感心させられるところがずいぶんあることを知りましたので、私たちが二人して(エイダと私のことです)すぐさま、ちょっとした計画をいい出しますと、キャディはすっかりよろこんでしまいました。その計画というのは、キャディが私たちのところへ三週間泊り、私がキャディのところに一週間泊り、私たち三人全部でデザインを考え、裁断し、つくろい、縫い、節約し、考えられる限りの最善をつくして、キャディの持ち合わせの品をできるだけ利用することでした。ジャーンディスおじさまがこの考えをキャディに負けないくらいよろこびましたので、私たちは計画の手はずをきめるために、翌日キャディを家につれ帰り、それからキャディの洋服を入れた箱と、ジェリビーさんのご主人がたぶんドックで手に入れたらしいのですが、とにかくキャディに下さった十ポンド札で、買えるかぎり買った品々とを持って、意気揚々としてキャディをまたつれ出して来ました。もしおじさまにお願いしたら、どんなことでもして下さったかも知れませんが、私たちはウェディング・ドレスと帽子の代金以外は、出していただかないほうがよいと考えました。おじさまもこの折衷案に賛成いたしましたが、もしキャディが生れてこのかた幸福に思ったことがあったとすれば、それは私たちが腰をおろして裁縫にとりかかった時でした。
かわいそうに、キャディは針の使いかたが不器用で、以前よく指をインクでよごしたのと同じくらい、針で突きさしました。一つにはその痛みのため、また一つにはそれ以上じょうずに縫えなくてじれったいため、ときどきキャディは顔を赤くせずにはいられませんでしたが、まもなくそれも乗り越えて、たちまち上達し始めました。それで、毎日毎日、キャディと、エイダと、私のかわいい女中のチャーリーと、ロンドンから来た婦人帽子屋と、私はこの上もなく楽しく裁縫に精を出しました。
そればかりでなく、キャディはしきりに、この子のいわゆる、「家政の勉強」をしたがりました。さあ、これにはおどろきました! 私みたいな経験豊かな者から家政を勉強しようなどいう思いつきは、ひどくおかしなことなので、キャディがそう申し出た時、私は笑って赤くなり、こっけいなほどうろたえてしまいました。けれども、「キャディ、この私[#「この私」に傍点]からでもなにか勉強できることがあるなら、ほんとに、なんでも勉強してちょうだい」といって、私の帳簿とその付けかた、私のおぼつかないやりかたを全部見せてあげました。それをキャディが勉強しているところを眺めた人があったら、すばらしい発明品を見せてもらっているのだと思ったでしょうし、毎朝、私が家政に使う鍵をがちゃがちゃ鳴らすたびに、キャディが寝床から起きて、私のお|供《とも》をしているのを見たら、きっと、キャディ・ジェリビーのように盲信的な手下をつれた、私のようにひどいぺてん師はいないと考えたことでしょう。
こうして、裁縫と家政や、チャーリーの勉強の世話や、夕方おじさまとするバックガモンや、エイダとの二重唱で、三週間はたちまち過ぎてしまいました。それから私はキャディといっしょに家へ帰り、どんなお手つだいができるかを調べ、エイダとチャーリーはあとに残って、おじさまの面倒を見ました。
キャディといっしょに帰った家というのは、ハットン・ガーデンの家具付きの貸間のことです。二人でニューマン街の家へも二、三度いってみますと、ここでもいろいろな準備が進んでいて、よく見れば、多くはお父さんのターヴィドロップさんの住み心地をいっそうよくするためで、新婚の夫婦のためには、お金がかからぬように、二人を家の頂上へ追い上げる準備が少しばかりおこなわれていましたが、しかし私たちの重要な目的は、ハットン・ガーデンの貸間を、結婚披露の宴会ができるようにきれいにすることと、ジェリビーさんの奥さんに今度の婚礼のことを、前もっていくぶんでも分ってもらうことでした。
その中でもむずかしいのは、あとのほうでした、というのは奥さんと不健康そうな少年とが、表の居間を占領していて(裏の居間はほんの小部屋でした)、部屋の中には、まるできたならしい|厩《うまや》にわらがとりちらかしてあるように、紙くずとボリオブーラ・ガーの書類がとりちらかしてあったからです。奥さんは一日じゅうそこに腰かけて、濃いコーヒーを飲み、手紙を口述筆記させ、日時を決めてボリオブーラ・ガー関係の面会をしているのでした。その不健康そうな少年は、肺病になりかけているように見受けられましたが、食事は外で食べていました。ご主人のジェリビーさんが帰って来ると、少年はいつも不満そうにうなり声をあげて台所へ降りてゆきました。そこへいって女中がなんでも食べる物をくれれば、それを食べてから、自分がいると邪魔になるのを知って、外へ出て、雨の降っているハットン・ガーデンを、あちらこちら歩き回るのでした。かわいそうに、家の子供たちは、これまでいつもしていたとおり、家の中をはい登ったり、ころがり落ちたりしていました。
こういう不幸なちいさい犠牲者たちを、今から一週間で、人前へ出せるような姿にさせるのはまったく不可能でしたから、私はキャディに話して、婚礼の日の朝、子供たちは自分たちの寝室にしている屋根裏部屋に置いて、できるかぎり楽しくさせてやることにし、私たちはもっぱらキャディのママと、ママの部屋と、披露宴の清潔な食事とに全力をつくそうということにしました。じっさい、ジェリビー夫人は大いに面倒を見てあげる必要がありました、なにしろ、私が初めてお会いした時に比べると、背中のコルセットの締めひもがかなり広くすけて見えましたし、髪はごみ掃除人夫の馬のたてがみのようになっていましたから。
この話を切り出すには、キャディの衣裳を見てもらうのが一番いい方法だろうと思いましたので、夕方、不健康そうな少年が帰ってしまってから、私は奥さんに、キャディのベッドの上に広げた衣裳を見に来てくれるようにすすめました。
「ねえ、サマソンさん」と奥さんは机から立ち上ると、いつものとおりやさしくいいました。「こういう支度をするなんて、ほんとうにこっけいですわ。もっともあなたがお手つだいをして下さったことは、なによりもあなたのご親切な証拠ですけれども。キャディが結婚するなんて考えますと、わたくし、なんともいえないほどおかしくなってしまいますわ! ああ、キャディ、あなたはほんとにばかな、ばかな小娘ね!」
それでも奥さんは私たちといっしょに二階へ来て、例のはるか遠くを眺めるような目つきで洋服を見ました。すると一つだけ、はっきり或ることを連想したので、落着き払った微笑を浮べ、かぶりを振りながら、こういうのでした。「ねえ、サマソンさん、この半分の費用で、このおろかしい子のアフリカへゆく身支度ができたかも知れませんのに!」
私たちがまた階下へ降りますと、奥さんは私に向って、このやっかいなことがほんとうに来週の水曜日にあるのかと尋ねました。それで私がそうですと答えますと、こういうのでした、「その時、わたくしの部屋が必要になるのですか、ねえ、サマソンさん? わたくしには、とうてい書類を片づけることができませんけど」
私は失礼でしたが、奥さんの部屋が入り用になるから、書類をどこかへ片づけなければならないと思いますといいました。「仕方がありませんわ、サマソンさん」と奥さんが答えました。「たぶん、あなたが一番よくご存知ですものね。でも、わたくしが公けの仕事で苦しんでおりますのに、キャディは男の子を雇わなければならないようなことをして、わたくしをすっかり閉口させてしまうんですから、もうどうしていいやら分りませんわ。それに水曜日の午後には分会の集りもありますし、ほんとうに不便なこと」
「こういうことは二度と起りませんでしょう」と私は少し笑いながらいいました。「きっと、キャディは一度しか結婚しませんわ」
「なるほどそうですわ」と奥さんが答えました。「なるほどそうですわ、あなた。我慢しなければいけませんわねえ!」
次の問題は、婚礼の時にジェリビー夫人にどんな服装をさせるかでした。キャディと私がその問題について相談しているあいだ、奥さんが書き物机のところから静かにこちらを眺め、まるで私たちがつまらないことを話しているのを、かろうじてこらえている高級な人間みたいに、半ば非難するような笑みを浮べながら、ときおり、私たちに向ってかぶりを振っているのを見ると、じつに妙な気がしました。
奥さんの持っている洋服のひどいありさまやら、おどろくばかり乱雑なしまいかたやらで、ずいぶん余計な手間がかかりましたけれども、どうやら普通の母親が婚礼の場合に着るような洋服のデザインを、キャディと二人がかりで工夫しました。裁縫師のいうなりになって、その衣裳の仮り縫いをする奥さんの|上《うわ》の空の様子も、それがすむと私に向って、あなたがアフリカのことを考えないのは残念だと、しきりにいう、やさしい口ぶりも、奥さんのそのほかのふるまいに、いかにもふさわしいものでした。
ここの貸間はかなりせま苦しいところでしたが、たといセント・ポール大聖堂やサン・ピエトロ大聖堂(3)に、ジェリビー夫人の一家だけが間借りしたとしても、住いが大きければ、それだけよごす場所が広くなってよいというだけのことだったでしょう。こういったキャディの結婚準備のさいに、この一家の物で、こわせる物はいっさいこわされ、少しでもいためることのできる物は全部いためられ、子供のひざから入口の標札にいたるまで、よごしうるものはすべて、よごせるかぎりよごされてしまったと思います。
お気の毒なご主人のジェリビーさんは、ふだんめったに口をきかず、家にいる時は、ほとんどいつも頭を壁につけてすわっているのでしたが、こういう荒れはてた家の中を、キャディと私が少し整頓しようとしているのを見ると興味を起して、上着をぬいで手つだいに来ました。けれども、ほうぼうの押し入れをあけると、おどろくばかりの品々がころがり出ました――かびのはえたパイのかけら、すえたにおいのするびん、奥さんの帽子、手紙、お茶、フォーク、子供たちの片ちんばの長ぐつに短ぐつ、まき、ウェーファー、シチューなべのふた、いろいろな紙袋の切れはしに入れた、しめった砂糖、足台、毛染め用のブラシ、パン、奥さんのボンネット、装丁のところにバターがこびりついている本、こわれたろうそく台に立てたために、ひっくり返って垂れ流れたろうそくのかけら、くるみの殻、小えびの頭としっぽ、食卓の敷物、手袋、コーヒーかす、こうもりがさ――これには肝をつぶしたと見えて、ご主人はまた止めてしまいました。けれども、毎日夕方には、いつもやって来て、上着をぬいですわり、壁に頭をよりかからせたまま、もしもどう手つだったらよいのか分りさえすれば、手つだいたいのだがといった様子をしていました。
「かわいそうなパパ!」とキャディは婚礼の前の晩、どうやら私たちで少し片づけを終えた時にいいました。「パパを捨てていくのは不人情のような気がするわ。でも、あたしが残っていたって、なにができるというの! あなたと初めて知り合いになってから今までに、あたしはもう何度も何度も整頓をしつづけて来たけど、むだなのよ。ママとアフリカとがいっしょになって、すぐにうちじゅうをめちゃめちゃにしてしまうの。うちへ来る召使は、お酒を飲まない者なんて一人もいないのよ。ママがなにもかもだめにしてしまうんだわ」
キャディの話はジェリビーさんには聞えませんでしたけれども、じっさい、ジェリビーさんはたいそうふさぎこんでいるらしく、涙をこぼしたようでした。
「パパのことを考えると胸が痛むのよ、ほんとに!」とキャディがすすり泣きました。「エスタ、あたし今晩こう思わずにはいられないわ。あたしはプリンスと幸せに暮したいと心から願っているし、たぶん、パパはママと幸せに暮したいと心から願っていたんだと。なんて期待はずれの人生なんでしょう!」
「ねえ、おまえ、キャディ!」とジェリビーさんが壁のところから、ゆっくりこちらへ向き直っていいました。ジェリビーさんがつづけて|三言《みこと》しゃべるのを聞いたのは、これが初めてでした。
「ええ、パパ!」とキャディは大声をあげて父親のところへゆき、やさしくだきしめました。
「ねえ、おまえ、キャディ。絶対に、してはいけない――」
「結婚してはいけないの、パパ?」とキャディがためらいながらいいました。「プリンスと結婚してはいけないの?」
「それはかまわないよ。いいとも、プリンスと結婚しなさい。しかし、絶対に、してはいけない――」
私たちがセイヴィ法学予備院にあるジェリビーさんの家へ始めていった時の話を書いた中で、リチャードが、ジェリビーさんは夕食のあとでたびたび口をあけたけれども、なにもしゃべらなかったといったと私は申しました。それがジェリビーさんのくせなのでした。今ジェリビーさんは何度も口をあけて、悲しそうにかぶりを振りました。
「パパはあたしにどうしろというの? なにをしてはいけないの、ねえ、パパ?」とキャディは父親の首を両腕でだいて、なだめながら尋ねました。
「絶対にしてはいけない、伝道事業はね、おまえ」
ジェリビーさんはうめくようにそういうと、また壁に頭をもたせかけてしまいましたが、ジェリビーさんがボリオブーラ・ガーの問題について、意見らしいことを述べるのを聞いたのは、これが初めてでした。この人もかつてはもっと口数が多くて元気もよかったのでしょうが、私が知り合いになるよりずっと前に、疲れはててしまったようでした。
その晩、ジェリビーさんの奥さんは平然と書類に目を通しては濃いコーヒーを飲むのを、いつまで経っても止めないのではないかと思われました。奥さんの部屋を使えるようになった時には、もう十二時になっていて、それから部屋の片づけをしなければならないのかと思うと、もう気がくじけてしまい、キャディはほとんどくたびれ切っていたので、部屋のまん中に腰かけて泣き出しました。けれども、まもなく元気を出し、寝るまでに二人しておどろくばかりきれいにしました。
朝になると、少しの花と、たくさんの石けん水と、ちょっとした模様替えとで、部屋はすっかり晴れやかに見えました。質素な披露宴の朝食は楽しげな様子をしていましたし、キャディはこの上もなくチャーミングでした。けれども、私のいとしいエイダが来た時には、この美しい私の大切な人ほどかわいい顔をした者は見たことがないと思いました――今でもそう思っています。
私たちは子供たちのために階上でささやかな宴会を開き、ピーピィを主人席につけて、花嫁衣裳姿のキャディをみなに見せ、みなから拍手かっさいを受けましたが、キャディはこれからこの子たちのもとを去ってゆくのだと思って泣き、みなをくり返しくり返しだきしめているので、とうとう私たちはプリンスを呼んで、キャディをつれてゆかせました――すると、気の毒なことに、プリンスはピーピィにかまれてしまいました。それから階下へゆくと、ターヴィドロップさんが、なんともいいようもないほど礼儀作法に身をこらして、キャディをいつくしみ深く祝福し、ジャーンディスおじさまに向って、息子を幸福にするのが自分の親としての務めであるから、自分一身の考慮を犠牲にしても、息子の幸福を確保するつもりだと話しました。「ねえ、あなたさま」とターヴィドロップさんはいうのでした。「この若い者たちはわたくしといっしょに暮すことになります。わたくしの家は二人の便宜を計るに充分な広さがございますので、二人をわが家に住まわせないようなことはいたしません。わたくしとしましては――こう申しても、あなたさまにはお分りいただけることと存じます、ジャーンディスさん、あなたさまは、わたくしの高名な保護者であらせられたあの摂政宮をご記憶のことと存じますので――わたくしとしましては、もっと礼儀作法に通じました家へ、せがれを縁組みさせるように望むこともできましたでしょうが、しかし神のみ心のごとくなし給わんことを!」
パーディグルさんご夫妻が披露宴のお客さんに加わっていました――パーディグルさんは大きなチョッキを着て髪の毛をさか立てた、かたくなそうな人で、絶えず大きな低い声で自分や奥さんや五人の子供さんたちの貧者の一灯の話をしていました。クウェイルさんも例のとおり、髪をオールバックにかき上げ、こぶのようにふくれた両のこめかみをひどく光らせながら、出席していましたが、失恋した恋人としてではなくて、ある若い――少なくとも未婚の――婦人の未来の夫としてで、そのウィスクさんという婦人も来ていました。おじさまの話によりますと、ウィスクさんの伝道事業は、世間の人たちに次のこと、つまり、女性の使命も男性の使命と同じであって、男女双方の唯一の正しい使命は、公開の会合に出て、いろいろな物事一般について熱弁あふれる決議案を絶えず提議することである、と教えることなのだそうでした。来賓はすこししか参りませんでしたが、ジェリビー夫人の家の宴会なら、だれでも予期するように、みな社会的な目的にだけ一身を献げている人たちばかりでした。今述べた人たちのほかに一人、すっかりゆがんだ帽子をかぶり、正札がついたままの洋服を着た、たいそうきたならしい婦人がいて、キャディが話してくれたところでは、この人のなげやりな家庭は不潔な荒れ地のようになっているのに、この人の教会はまるで小間物の慈善市みたいだということでした。来賓はもう一人だけで、そのたいそうけんか好きな紳士は、自分の使命はあらゆる人の兄弟になることだと申しましたが、自分の大勢の家族全部とはよそよそしい間柄のように見受けられました。
こういうお祝いにこれほど縁の薄い人たちを、いくら工夫しても、まず集めることはできなかったことでしょう。この人たちのあいだでは、家庭的な使命などいう卑しい使命は、それこそもっとも我慢のできない使命なのでした。いいえ、それどころか、私たちが宴会の席につく前に、ウィスクさんがたいそう憤慨しながら告げたように、婦人の使命が主として家庭の狭い領域にあるという考えは、女性の暴君である男性のふらちな中傷だったのです。もう一つ奇妙なことに、使命を持っている人たちはみな――クウェイルさんだけは例外で、この人の使命は前に私がいったと思いますが、あらゆる人の使命に夢中になることでした――他人の使命にはいっさい関心を持たないのでした。それで、パーディグル夫人が、絶対に誤りのない唯一無二のやりかたは、貧しい人たちに襲いかかって、気ちがいに拘束服を着せるように、博愛を押しつけるやりかただと確信していると同じように、ウィスクさんは、世間の人たちにとってただ一つ実際に役立つことは、女性の暴君である男性の束縛から女性を解放することだと信じていました。そしてジェリビー夫人は、ボリオブーラ・ガーを少しも見ることのできない狭い見かたを、終始一笑に付しながらすわっているのでした。
しかし、私はキャディの結婚式の前に、私たちが荒涼館へ帰る途中、馬車の中で交した話を先にしてしまいました。私たちはみな教会へゆき、ジェリビーさんがキャディを新郎に引き渡しました。ターヴィドロップさんがどんなに気どった態度で、左のわきの下に帽子をかかえ(その内側を大砲のように牧師さんのほうへ向けて)、|仮髪《かつら》の中へかくれるほど目をしかめたまま、式のあいだじゅう、体をこわばらせ、肩を高くして、私たち新婦の付添人のうしろに立ち、そのあとで私たちにお辞儀をしたかについては、いくらくわしく述べようと思っても述べ切れないほどです。ウィスクさんは見たところ感じがよかったとは決していえませんし、物腰もいかめしい人でしたが、顔に軽蔑の色を見せながら、式の進行を、女性の受けている不当な待遇の一つとして、じっと聞いていました。ジェリビーさんの奥さんは落着いた微笑を浮べ、涼しい目をして、一同の中で一番無関心らしく見えました。
私たちは時間どおりに披露宴の朝食に帰り、奥さんが主人席に、ジェリビーさんは末席につきました。キャディはその前にこっそり屋根裏部屋へ上って、もう一度子供たちをだきしめ、自分の苗字がターヴィドロップと変ったことを告げました。けれども、この知らせにピーピィはびっくりしてよろこぶどころか、仰向けにひっくり返り、悲しみのあまりに夢中になってキャディをけるので、私は迎えにやらされましたが、ピーピィを宴会の食卓にすわらせてもらいたいという、キャディの申し出に応じるよりほかにしようがありませんでした。そこでピーヒィが下へおりて来て私のひざにすわると、ジェリビーさんの奥さんはピーピィのエプロンの様子を見て、「まあ、いけない子ねえ、ピーピィ、なんというあきれた、きたない子なんでしょう!」といっただけで、あとはまったく平然としていました。ピーピィはたいそうおとなしくしていて、ただ(みなが教会へ出かける前に、私があげた箱舟の中から)ノアを持って来て、しきりに[#「しきりに」に傍点]それを頭から先にお客さんのぶどう酒のグラスに浸しては自分の口の中へ入れるのでした。
ジャーンディスおじさまはあのやさしい気性と、敏感な理解力と、人好きのする顔とで、こういう気の合わない人たちの集りさえも、いくぶんか楽しくして下さいました。お客さんたちはだれもかれも、自分の持ち合わせているただ一つの話題についてしか話をすることができないようでしたし、しかもそういう話題についてさえ、だれもかれも、この世の中のいろいろな話題の一部分として話をすることができないようでしたが、おじさまはそういう話題を全部、キャディに元気とよろこびを与え、この婚礼を晴れがましくするような話題に変えて下さり、おかげで私たちは披露宴をりっぱに終えることができました。もしもおじさまがいらっしゃらなかったら、私たちは一体どうしただろうという気がします、というのは、お客さんがたはみな新郎新婦とターヴィドロップさんを軽蔑していましたから――それにターヴィドロップさんは、礼儀作法の大家だというので、お客さん一同よりも自分のほうがはるかにえらいと思っていましたから――披露宴の成功はまったく望みうすでした。
とうとう、かわいそうなキャディの出発時刻、全財産を二頭立ての貸馬車につんで、夫といっしょにグレイヴズエンドへ新婚旅行に出かける時刻、が来ました。その時キャディが自分のみじめな家に愛着を感じ、母親の首にこの上もなくやさしくすがりつくのを見て、私たちは心を打たれました。
「ママ、手紙の口述筆記をつづけることができなくなって、すみませんでした」とキャディはすすり泣きながらいいました。「もう今はあたしを|赦《ゆる》して下さるわね?」
「まあ、キャディ、キャディ! 何度も何度もいったじゃないの、わたしはもう男の子を雇ったから、その話は済んだって」
「ほんとにママはあたしのことを、ちっともおこっていないのね、ママ? ほんとにそうだって、あたしが出かける前にいって下さる、ママ?」
「ばかね、キャディ、あなたは」と奥さんが答えました。「わたしがおこっているように見えて。それとも、わたしにおこりたいなんていう気持や、怒っている時間があるの? よくも[#「よくも」に傍点]そんなことが聞けるわね?」
「あたしがいないあいだ、パパのめんどうを少し見てあげてちょうだい、ママ!」
奥さんはこの思いつきを聞くと、まったく笑ってしまいました。「あなたはロマンチックな子ね」といってキャディの背中を軽くたたきました。「おゆきなさい。あなたとはすっかり仲よしになったわね。さあ、さよなら、キャディ、ほんとに幸せに暮しなさい!」
それから、キャデイはお父さんにすがりつき、まるで苦しんでいる、あわれな、頭の鈍い子供にでもするように、お父さんのほおを自分のほおにおしつけました。これは全部、玄関で起ったことでした。お父さんはキャディを放して、ハンケチをとり出し、階段に腰をおろして頭を壁にもたせかけました、その壁になにか慰めを見つけることができたらよかったのにと私は願います。いえ、きっと見つけたのだと思います。
それからプリンスがキャディの腕をかかえ、ひじょうな感動と敬意とをこめて、自分の父親のほうを向きましたが、その瞬間の父親の礼儀作法にかなった身ごなしは、人を圧倒するほどでした。
「くり返しお礼申します、お父さま!」とプリンスは父親の手にキスをして、いいました。「僕たちの結婚にお父さまから親切なご配慮をいただいて、僕はとても感謝していますし、キャディもそうです、ほんとうに」
「とても」キャディが泣きじゃくりながらいいました。「とっても感謝していますわ!」
「かわいいせがれや」とターヴィドロップさんがいいました、「それから、かわいい娘や、わたくしは自分の義務をはたしたのだ。もし今は天国にいる一人のおんなの霊がわたくしたちの上を舞って、今日の式を見おろしてくれるなら、それで、またおまえたちの忠実な情愛で、わたくしは報いられるというものだ。せがれと娘や、おまえたちはおまえたち[#「おまえたち」に傍点]の義務をおこたるようなことはあるまいね、きっと?」
「お父さま、そんなことは決してありません!」とプリンスは大声をあげました。
「決して、決してありませんわ、ターヴィドロップさん!」とキャディがいいました。
「それはさもあるべきだな。子供たちよ、わたくしの家庭はおまえたちのものだ、わたくしの心はおまえたちのものだ、わたくしのすべてはおまえたちのものだ。わたくしは決しておまえたちを捨てたりはしない。わたくしたちを引きはなすのは、ただ死あるのみだ。せがれや、おまえは一週間不在にする予定だったな?」
「一週間です、お父さま。僕たちは来週の今日帰って参ります」
「ねえ、おまえ、こういう特別な際でも時日を厳守するようにしてもらいたいね。生徒をなくさぬようにすることが、きわめて大切だ、それに教習所は、少しでもおろそかにされると、気を悪くしがちなものだからな」
「来週の今日、お父さま、夕食までにかならず帰って参ります」
「よろしい! その時は、キャロラインや、おまえたちの部屋には火が起してあるし、夕食はわたくしの住いのほうに準備してあるよ。かまわん、かまわん、プリンス!」とターヴィドロップさんはもったいぶった態度で、息子さんが献身的な申し出をしようとする機先を制して、「おまえと、うちのキャロラインはあの屋敷の上の部屋はまだなれていないだろうから、その日はわたくしの住いのほうで夕食をするがいい。さあ、なんじらの上に神のみ恵みがあらんこと!」
二人は馬車に乗って出発しましたが、私はジェリビーさんの奥さんとターヴィドロップさんのどちらに一番おどろいたのか、自分でも分りませんでした。けれども、私たちが同じように馬車に乗って出発する前に、私はまったく思いがけない、雄弁なお世辞を、ご主人のジェリビーさんからいわれました。ジェリビーさんは玄関でそばまで来て、私の両手をつかまえ、まじめになって握りしめると、口を二度開きました。私にはその意味がたしかに分りましたから(4)、すっかりあわてていいました、「どういたしまして。どうぞ、そんなにおっしゃらないで下さい!」
「あの二人が結婚するのが一番いいのでしょうね、おじさま?」私たち三人が家路に向った時に私はそういいました。
「そうだと思うね、ちいさなおばさん。気長に待つことだ。今に分るよ」
「今日は東風ですか?」と私は思い切っておじさまに尋ねました。
おじさまは心から笑って、「ちがうよ」と答えました。
「でも、今朝はきっと東風だったと思いますわ」
おじさまがまた「ちがうよ」と答えますと、今度はエイダも「ちがうわ」と自信たっぷりの返事をして、かわいらしいかぶりを振りましたが、咲いた花を金髪にさしたその頭は、さながら春の|化身《けしん》のようでした。「ずいぶんあなた[#「あなた」に傍点]は東風のことをご存知なのね、私の|みにくい、いとしい子《アグリー・ダーリング》と(5)」私はいい、その美しさに打たれてエイダにキスしました――そうせずにはいられませんでした。
ところで、それはまったく、二人が私を愛していてくれたからでした、私にもそれはよく分っていますし、もう遠いむかしの話です。たといまた消すにしても、私は書かずにはいられません、書くのがとてもうれしいのです。二人は、だれかさんのいるところに東風が吹くはずがない、どこでもダードンおばさんのゆくところには、日が照り夏のそよ風が吹くといってくれました。
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第三十一章 看護人と病人
家へ帰ってからまだあまりたたないころ、ある夕方、私は二階の自分の部屋へゆき、チャーリーの肩越しに、お習字の上達ぶりをのぞいてみました。チャーリーにとってお習字はつらい仕事でした。というのは、この子は生れつきペンを使いこなす力を、いっこうに持っていないと見えて、チャーリーの手にかかると、どのペンもみな片意地な動物になり、乗用のろばのように、道をまちがえ、まっすぐ歩かず、立ちどまり、はねをあげ、隅のほうへ斜めに進んでしまうらしいのでした。チャーリーの若々しい手が、どんなに年寄りじみた字を書いたかを見ると、じつに変な気がしました。なにしろ字のほうはたいそうしわが寄り、しなびて、よろめいているのに、手はたいそう肉づきがよく、まるまる太っていたのですから。けれども、ほかのことをさせるとチャーリーは人なみはずれて器用で、そのちいさな指は、だれにも負けないくらい|敏捷《びんしよう》なのでした。
「まあ、チャーリー」私がOの字の練習に目を通してみますと、四角、三角、|西洋《ベアー》なしの形、そのほかありとあらゆるひしゃげた形に書いてあるので、こういいました、「じょうずになったわね。あとはもう丸く書けさえすれば、申し分ないわ、チャーリー」
それから私が一つ書いて見せ、チャーリーも一つ書きましたが、ペンはどうしてもチャーリーのOをきれいに丸くつなげないで、ひもの結び目のようにもつれさせてしまうのでした。
「気にしなくてもいいのよ、チャーリー。今に書けるようになるわ」
チャーリーはお習字が終ると、ペンを置き、ひきつったちいさな手を開いたり握ったりし、半ば誇らしげに半ば自信なさそうに、習字帳を真剣な顔で眺め、それから立ち上って私にお辞儀をしました。
「ありがとうございます。すみませんが、お嬢さんはジェニーっていう名前の、かわいそうな人を知っていますか?」
「|煉瓦《れんが》職人のおかみさんね、チャーリー? 知っているわ」
「少し前にわたしが外へ出た時に、その人が話しかけに来て、お嬢さんを知っているっていったんです。わたしに、あんたがあの御令嬢の小間使いかって聞かれました――御令嬢って、お嬢さんのことです――それで私はそうだっていいました」
「あの人はもうこの附近を引き払ったものと思っていたわ、チャーリー」
「そうなんです、でもまた、もと住んでいたところに帰って来たんです――あの人とリズが。お嬢さんはリズっていう名前の、もう一人のかわいそうな人を知っていますか?」
「名前は知らないけれども、チャーリー、その人も知っていると思うわ」
「あの人もそういってました!」とチャーリーが答えました。「二人とも帰って来て、あっちこっちほうぼうを渡り歩いていたんです」
「あっちこっちほうぽうを渡り歩いていたっていうの、チャーリー?」
「はい、お嬢さん」もしチャーリーが、そういって私の顔をのぞきこんだ時の目のように丸く、習字帳の字を書くことができさえしたら、それこそみごとなOの字になったでしょうのに。「そしてあの人はお嬢さんにひと目会いたくて――それだけが望みだったっていいました――このうちの近くへ三、四日来たんですけど、お嬢さんはお留守だったんです。それはあの人がわたしに会った時でした。わたしが歩いているのを見て」とチャーリーはこの上もなくうれしく、誇らしげに、ちょっと笑っていいました。「お嬢さんの小間使いらしいと思ったんです!」
「でも、ほんとうにそう思ったの、チャーリー?」と私はいいました。
「はい、お嬢さん! まったくほんとうなんです」そういってチャーリーはもう一度、心からよろこばしそうに短い笑い声をあげると、またも目をまん丸くさせて、私の小間使いにふさわしいきまじめな表情になりました。チャーリーがその高い地位に満足し切ったまま、若々しい顔と姿、落着いた物腰をして、ときおり、子供らしい歓喜を、いかにも感じよくのぞかせながら、私の目の前に立っていると、いつまで見ても見あきない気がしました。
「それで、どこであの人に会ったの、チャーリー?」
「お医者さんの店のそばでした」と答える私のかわいい小間使いの顔色が沈みました。なぜなら、チャーリーはまだ喪服を着ていたのです。
私は煉瓦職人のおかみさんが病気なのかと尋ねましたが、チャーリーはちがうといいました。病人はほかの人でした。おかみさんのうちにいる、スントールバンズへ渡り歩いて来た人で、これからまた、どこということもなく渡り歩いてゆくのだそうでした。かわいそうな男の子だとチャーリーはいいました。お父さんも、お母さんも、だれもいないということでした。「お父さんの死んだあとで、エマとわたしが死んだら、トムもああなったでしょう」とチャーリーは丸い両方の目を涙でいっぱいにしながらいいました。
「それで、おかみさんはその子のためにお薬をもらっていたのね、チャーリー?」
「おかみさんは、前にその子もおかみさんのために、そうしてくれたっていいました」
私のかわいい小間使いはたいそう熱心な顔をしていましたし、私のほうを見ながら、両手を堅く組み合わせていましたから、チャーリーの考えを読みとるのは、ぞうさもないことでした。「そうね、チャーリー」と私はいいました、「あなたと私がジェニーのうちへ出かけて、どうしたのか見てみるのが、一番よさそうね」
たちまちのうちに、チャーリーは私の帽子とヴェールを持って来て、身支度をととのえてくれると、自分は暖いショールにくるまって、おかしなかっこうにピンで留め、ちいさなおばあさんみたいになりましたが、その動作のすばやさがチャーリーの熱意を充分に物語っていました。そこでチャーリーと私は、だれにもなにも告げずに外へ出ました。
寒い荒れ模様の晩で、木々が風にふるえていました。その日は一日じゅう、それにもう何日もほとんど絶え間なく、雨が激しく降りしきっていました。けれども、ちょうどその時は降っていませんでした。空は一部分晴れていましたが、たいそう暗く――星がいくつか輝いていた、私たちの真上までが暗いのでした。三時間前に日が沈んだ西北と北には、おそろしくも美しい、青ざめた、鈍い光が見え、その中へ長く|陰鬱《いんうつ》につらなった雲が、まるで盛り上ったまま急に動かなくなった海のように、波立っていました。ロンドンの方角には、広々とした暗い空の荒野一面に、ぶきみな、まばゆい輝きがかかっていて、その二つの光を見くらべ、赤いほうの光を見て、この世のものならぬ火が、あの都会の目に見えぬ建物と、おどろいている住民たちすべての何千という顔の上に、ちらついているのかと空想すると、じつにおごそかなかぎりでした。
その晩、私はまもなく自分の身の上にどんなことが起るのかなど、思っても――ほんとうに全然――みませんでした。けれども、それ以来いつも忘れずに覚えて来ましたが、私たちが庭の門のところで立ち止って空を見上げ、それから出かけた時に、私は一瞬、自分がその時分の私となにかちがったものになったような、なんともいえない感じを覚えたのでした。そう感じたのは、たしかに、その時そこででした。それ以来ずっと、私はその感じを、その場所とその時と、この二つに関係のあるすべてのもの(スントールバンズの町の遠い人声、どこかで犬がほえる声、ぬかるみの丘をおりる車輪の音にいたるまで)に結びつけて考えて来ました。
それは土曜日の晩で、私たちが出かけてゆく先の人たちは、たいがい外へいってお酒を飲んでいました。いってみると、以前に見た時に劣らぬほどみじめなありさまでしたけれども、前よりも静かでした。煉瓦がまが燃えていて、息のつまるような蒸気が、ぎらぎらする青白い光とともに、私たちのほうへ流れて来ました。
そのあばら家へゆくと、間に合わせの修理をした窓の中に、かすかなろうそくがともっていました。私たちはドアをたたいて、中へはいりました。前におさない子供をなくしたあの母親が、ベッドのそばの乏しい火の片側にある椅子に腰かけ、それに向い合って、むさくるしい一人の少年が、作りつけの煖炉によりかかったまま、床の上にちぢこまっていました。わきの下に、まるでちいさな包みみたいに、ちぎれた毛皮帽子をかかえており、体を暖めようとして、がたぴしのドアと窓がゆれるまで、体をゆすぶるのでした。部屋は前の時よりも息苦しく、不健康な、たいそう奇妙なにおいがしました。
私は最初おかみさんに話しかけた時、まだヴェールをぬぎませんでした。それは中へはいった時でしたが、たちまち少年はよろけながら立ち上り、おどろきと恐れのまじった異様な表情をして、私を見つめました。
少年の動作があまりにも早く、私がその原因であることがあまりにも明瞭なので、私は近寄らずに、じっと立っていました。
「おいらはもうお墓へいかねえよ」と少年がつぶやきました、「おいらはいかねえよ、ほんとだぜ!」
私はヴェールをぬいで、おかみさんに言葉をかけました。おかみさんは低い声でいいました。「この子のことは気にかけないで下さいな。じきに正気づきますから」それから少年に向って、「ジョー、ジョー、どうしたんだよ?」
「あの人がなにしに来たか知ってるぞ!」と少年は大声をあげました。
「だれがさ?」
「あそこにいる奥さんだよ。あの人はおいらを墓場へつれていきに来たんだ。そんなとこへいかねえよ。墓場っていう名前が気にくわねえや。おいら[#「おいら」に傍点]をお墓へうめにいくのかも知れねえもん」少年の身ぶるいがまた始まり、体を壁にもたせかけると、あばら家がゆらぎました。
「この子は、一日じゅう、そんなようなことを話したり、やめたりしていたんですよ」とジェニーがやさしくいいました。「あれまあ、なんてあんたはそんなふうにじろじろ見るの! これはわたし[#「わたし」に傍点]のお嬢さまだよ、ジョー」
「そうかい?」と少年は燃えるような目の上に片方の腕をぐっとのばして私を眺め、怪しむように答えました。「おいらにゃこの人はもう一人の奥さんみてえに見えるな。帽子のせいでも、ガウンのせいでもねえけど、おいらにゃこの人はもう一人の奥さんみてえに見えるな」
かわいいチャーリーは年に似合わず病気と心配事には経験をつんでいましたから、帽子とショールをぬいで、もう椅子を持って静かに少年のところへゆき、老練な看護婦みたいに、少年をそこに腰かけさせました。ただ、もちろん、そういう看護人とはちがってチャーリーは若々しい顔をしていましたので、少年に信頼されたようでした。
「あのねえ!」少年がいいました。「あんた[#「あんた」に傍点]は教えてくれるね。この人はもう一人の奥さんじゃねえのかい?」
チャーリーは少年のぼろ洋服をきちんと直して、できるだけ暖くしてやりながら、かぶりを振りました。
「へえ!」と少年はつぶやきました。「それじゃ、たぶん、もう一人の奥さんじゃねえんだな」
「私はあなたの役に立ってあげられるかどうか見に来たのよ」と私はいいました。「どこが悪いの?」
「おいらは一時間に何度も何度も」と少年はくるおしげな目を見張って、私をぼんやり見ながら、しゃがれ声で答えました。「体が氷りついたり燃え上ったり、氷りついたり燃え上ったりしてるんだよ。それから頭がひどく眠くて、気がくるいそうなんだ――それから、とてものどがかわくし――それから骨が、まるで骨じゃなくて、痛みのかたまりみてえなんだよ」
「この子はいつここへ来たのですか?」と私はおかみさんに尋ねました。
「今朝、わたしが町の角で見つけたんですよ。ロンドンで知り合いになりましてね。そうだね、ジョー?」
「トム・オール・アローンズ通りでだよ」と少年が答えました。
「この子はいつロンドンから来たのですか?」
「昨日、来たんだよ」と少年はいかにもあつそうに顔をほてらせながら、自分で答えました。「これからどっかへいくんだ」
「どこへこの子はいくのですか?」
「どっかだよ」と少年は前より大きな声でくり返しました。「おいらはもう一人の奥さんに金貨をもらってからは、その前よりももっと、立ち止っちゃいかん、立ち止っちゃいかんていわれて、とっとと歩きどおしだった。スナグビズーさんの奥さんは、いつもおいらを見張ってて追い立てるんだよ――おいらが奥さんになにをしたっていうんだ?――そして、みんながおいらを見張って追い立てるんだ。おいらがまだ起きねえうちから、まだ寝ねえ時まで、みんなが一人残らずそうするんだ。だから、おいらはどっかへいくのさ。それがおいらのいくさきだよ。ここのおかみさんが、トム・オール・アローンズ通りで、スントールバンズの生れだっていったんで、おいらはスントールバンズ街道を歩いて来たんだ。どこだって、おんなじだもんね」
少年はいつも最後には、きまってチャーリーに向って言葉をかけるのでした。
「この子をどうしたものかしら?」私はおかみさんをわきへつれていっていいました。「こんな具合では、たといこの子にちゃんと目的があって、どこへゆくのか自分で知っていても、旅に出すわけにゆきませんものね!」
「わたしにも分りませんね、死人とおんなじように」とおかみさんは、いかにもふびんそうに、ちらりと少年を見やりながら答えました。「いいえ、死人のほうが知ってるかも知れませんよ、もし死人に口があるなら。わたしゃこの子がかわいそうなんで、一日じゅうここへ置いて、スープと薬をやって、今リズが、この子を泊めてくれる人がいるかどうか見にいったとこだけど(ほら、このベッドにわたしの赤ん坊が――リズの子なんだけど、わたしの子って呼んでるんです――寝てますよ)、でも長いこと置いとくわけにゃいきません、うちの亭主が帰って来て、この子がいるのを見つけたら、じゃけんに追い出して、けがをさせるかも知れませんからね。ちょっと静かに! リズが戻って来た!」
おかみさんが話しているうちに、もう一人の女の人があわただしくはいって来ると、少年は半ばもうろうとした頭で、自分が出てゆかなければいけないのだと覚って、立ち上りました。いつ赤ん坊が目を覚ましたのか、いつ、どうやってチャーリーがそばへゆき、ベッドから抱きあげ、歩きまわって、あやし始めたのか分りませんが、気づいてみるとチャーリーはそうしているのでした。まるでまたブラインダーさんのおかみさんの屋根裏部屋で、トムとエマといっしょに暮しているみたいに。
ジェニーの友だちはあちらこちらへいって、次から次へと引っぱりまわされ、出かけた時と同じ有様のまま帰って来ました。最初は、この少年をしかるべき保護所に入れるのは早すぎるといわれ、最後にはおそすぎるといわれたのでした。ある役人はリズを別の役人のところへ送りつけ、この役人は最初の役人のところへ送り戻し、こうやっていったり来たりして、しまいには、まるで両方とも職務をおこなうというより回避する能力があるために、役目につけられたのかと思われるほどでした。それで結局、リズは息を切らせながら(走って帰って来た上に、おびえていましたから)こういうのでした。「ジェニー、あんたのとこの旦那が帰って来るし、うちのもそのあとから、じきに来るんだよ。神様、この子をお助け下さいまし、もうわたしたちにゃなんにもしてやれませんから!」二人が半ペンス銅貨を何枚か集めて、少年の手に握らせると、少年は半ば感謝し半ば無感覚の、ぼんやりした様子で、すり足をしながら家を出てゆきました。
「赤ん坊をちょうだい、あんた!」と母親がチャーリーにいいました。「どうもありがとうよ! ジェニーや、おやすみ! お嬢さん、あの子はたいがい煉瓦がまのとこにいるだろうから、わたしゃうちの旦那とけんかしなんだら、今にあそこ見にいってやりますよ、それからまた朝にも!」リズはあわてて立ち去り、まもなく私たちは、リズが自分のうちの戸口で、赤ん坊をあやして歌をうたい、酔っぱらった亭主が帰って来るかと、不安そうに道の向うを眺めているわきを通りました。
それで、長居をしておかみさんたちと話をしていては、二人に迷惑をかけるのではないかと心配しました。しかし、私はチャーリーに、少年を放って置いて死なせてはいけないといいました。チャーリーは、どうしたらよいのか私よりも知っていましたし、落着いていると同時に機敏な子でしたから、先に立ってさっさと歩き、まもなく煉瓦がまのすぐ手前でジョーに追いつきました。
きっと、ジョーはちいさな包みをわきにかかえて旅を始め、途中で盗まれるか、なくしたのだと思います。というのは、その時はもうしきりに降っていた雨の中を、むき出しの頭で歩いているくせに、あい変らず、ちぎれたみすぼらしい毛皮帽子を、包みのようにわきにかかえていましたから。私たちが声をかけるとジョーは立ち止り、私がそばへ寄ると、また私に対する恐怖を見せながら、ぎらぎら光る目で凝視し、身ぶるいの発作さえやめてしまいました。
私は少年に向って、もし私たちといっしょに来るなら、今夜泊る場所を見つけてあげましょう、といいました。
「泊る場所なんていらねえよ、あったかい煉瓦の中に寝られるもん」
「でも、知っているの? そこで寝たりすると死ぬのよ」とチャーリーが答えました。
「どこにいたって死ぬさ」と少年はいいました。「自分の下宿にいたって死ぬよ――この女の人はどこの下宿だか知ってるよ、おいらが案内してやったもん――それから、トム・オール・アローンズ通りじゃ、山ほど死んでるよ。おいら[#「おいら」に傍点]の見たところじゃ、生きている人より、死ぬ人のほうが多いんだ」それから少年はしゃがれ声でチャーリーにささやきました。「この女の人はもう一人の奥さんじゃねえっていうけど、あの外人でもねえ。そんなら、女の人が三人[#「三人」に傍点]いるのかい?」
チャーリーは少しおびえて私のほうを眺めました。少年がじっと私をにらみつけた時、私は自分自身に対して半ばおびえたような気持になりました。
けれども、手でさし招くと、少年は向きを変えて、あとについて来ましたし、私が少年に対してそういう力を持っていることが分りましたので、私は先に立って、まっすぐ家へ向いました。家までは遠くなく、丘のいただきまでゆきさえすればよいのでした。途中、男の人に一人すれちがっただけでした。少年の足どりがたいそうおぼつかなく、震えていましたから、手を貸してやらずに家まで帰れるかどうかあやぶまれました。けれども、少年は少しもぐちをこぼさず、たいそう奇妙な話ですが、自分自身に対しては奇妙なほど|無頓着《むとんちやく》でした。
玄関にはいると、少年が窓下の作りつけの腰かけの隅にしりごみして、驚歎のまなざしとはまずいえない無関心な目で、あたりの心地よさと明るさを、じろじろ見ているのを、私はしばらくあとに残して、ジャーンディスおじさまと話をしに応接間へはいってゆきました。すると、そこにスキムポールさんがいましたが、この人はたびたび、予告もなく、着替え一枚持たずに乗合馬車でやって来て、入用なものはいつも全部借りるのがつねでした。
二人は私といっしょにすぐさま少年を見に出て来ました。玄関にはもう召使たちも集っていて、少年は、どぶの中から探し出して来た傷ついたけだもののように、体をぶるぶる震わせ、そのそばにはチャーリーが立っていました。
「これは悲惨な事件だ」とおじさまは、少年に一つ二つ質問をし、手でさわり、目を調べてから、いいました。「君の意見はどうかね、ハロルド?」
「追い出したほうがいいね」とスキムポールさんはいいました。
「よくもそんなことがいえるね?」とおじさまは、ほとんどきびしいくらいにいいました。
「ねえ、ジャーンディス君、僕がどんな人間か知っているね、僕は子供だ。君としては、僕に対して機嫌を悪くするのが当然なら、そうしてくれたまえ。しかし、僕は生来こういうことに反対なのさ。医者をしていた時分にも、反対したよ。ねえ、この子供を置いておくのは危険なのだよ。きわめて悪性の熱を出しているんだ」
スキムポールさんは玄関からまた応接間へ引き揚げてしまい、私たちの立っているそばのピアノ用の腰かけにすわって、例のとおり気軽にその話をするのでした。
「君は子供らしい言いぶんだというだろうね」とスキムポールさんは私たちを快活に眺めながら申しました。「まあ、たぶん、そうかも知れないが、しかし、僕は実際に[#「実際に」に傍点]子供で、決してそれ以外のものだとはいわない。もし君があの子を道へ追い出しても、もといたところへやるだけさ。前より悪くなることはないだろう。いや、君にその気があるなら、もっとよくしてやったっていい。六ペンスなり、五シリングなり、五ポンド十シリングなり、金をやって――君たちは算数にたけているが、僕には分らない――あの子を片づけたまえ!」
「そうしたら、あの子はどうするかね?」とおじさまが尋ねました。
「まったくの話」とスキムポールさんは肩をそびやかしながら、いいました。「そうしたらあの子がどうするか、僕にはさっぱり分らない。しかし、きっと、なにかするだろうね」
「ねえ、考えてみるとひどい話じゃないか」とおじさまは、私が二人のおかみさんたちのむだ骨折りに終った尽力を急いで説明しておきましたので、こういうのでした。「考えてみるとひどい話じゃないか」と、ゆきつ戻りつして髪の毛をかき乱しながら、「もしこのあわれな子が有罪と決まった囚人だったら、病院へ堂々とはいれて、国じゅうのどの病気の子にも劣らぬほど、世話をしてもらえるのに?」
「ねえ、ジャーンディス君、こういう無知な質問を赦してくれるだろうね、なにしろ世の中の事柄にはまったく無知な人間の口から出ることだから――しかし、それじゃあ、なぜあの子は囚人にならないんだね[#「ならないんだね」に傍点]?」
おじさまは立ち止って、おかしさと憤慨の入りまじった奇妙な表情を浮べながら、スキムポールさんを眺めました。
「僕の想像するところ、おそらく、あのわれわれの年若い友人にデリケートなことが分るとは思われない」とスキムポールさんはいっこう恥じる様子もなく、気さくにいうのでした。「もしあの友人が、監獄に入れられるような、向けどころを誤ったエネルギーを発揮してくれたら、そのほうがより賢明であるばかりか、ある意味では、より立派なように僕には思われる。そのほうがもっと冒険心に富んでいて、従って、一層ある種の詩的精神に富んでいるだろうね」
「たしかに」おじさまは落着かない歩みをまたつづけながら答えました。「君以上の子供は、地球上に二人といないだろうね」
「ほんとうにそう思うかい? たぶんそうだろう! しかし、打ち明けていうと、なぜわれわれのあの友人が、自分の自由になるそういった詩的精神を、その分際に応じて身につけようとしないのか、僕には理解できないね。きっと、あの友人は生れつき食欲を持っているはずだ――もっと心配のない健康状態の時には、十中八九、すばらしい食欲を持っているんだろう。自分の普通の食事時間に、おそらく正午ごろだろうが、あの友人は社会に向って、要するにこういうことをいう。『僕は腹がすきました、どうかあなたのさじを出して、僕に食べるものを食べさせていただけませんか?』と。社会はあらゆるさじの手配全般を引受けて、われわれの友人の分のさじを持っていると称しているが、そのさじを出さない[#「ない」に傍点]から、そこで友人は『ほんとうにすみませんが、僕はさじを強奪しますよ』という。ところで、これが僕には向けどころを誤ったエネルギーの一例のように思えるんだが、そこにある程度もっともな理由と、ある程度のロマンス味とがあって、僕はわれわれのあの友人が単にあわれな浮浪者じゃなくて――そんな者にはだれでもなれるから――そういうエネルギーを示す実例であったほうが興味深いような気がするね」
「そうしているあいだに」と私は思い切って口を出しました。「あの子はますます悪くなりますわ」
「常識に富んだサマソンさんがいうとおり」とスキムポールさんは元気よくいいました。「そうしているあいだに、あの子はますます悪くなる。だから僕は、あの子がもっと悪くならないうちに追い出せと、君にすすめているんだ」
そういった時のスキムポールさんの愛きょうのある顔を、私は決して忘れないでしょう。
「ちいさなおばさん、むろんのこと」おじさまは私のほうを向いていいました。「私はしかるべきところへいって、あの子を収容してくれるように強く主張して、かならず引受けさせるよ。ただ、あの子がああした病状なのに、そんなことをしなければならないとは、まったく困った世の中だ。しかし、時刻はおそくなり、たいそうひどい晩だし、もうあの子は疲れ切っている。厩舎のそばの、体のためによい干し草置場にベッドが一つあるから、あの子を朝まであそこに置いたほうがいい、そうすれば着る物を充分に着せて、つれてゆくことができるよ。そうしよう」
「ああ!」とスキムポールさんは、私たちが去りかけると申しました。「君たちはあの若い友人のところへ出かけるのかね?」
「そうだ」とおじさまがいいました。
「まったく君の気性がうらやましいよ、ジャーンディス!」とスキムポールさんはふざけて感心しながら答えました。「君はこういうことをいやがらないし、サマソンさんもそうだ。いつも君はどこへでもゆき、なんでもしようと待ちかまえている。意志とはこういうものだ! 僕には、なにかをしようという意志が全然ない――『しないつもり』もない――ただ『できない』があるばかりだ」
「あの子のためになにか勧告してくれるわけにはいかないんだろうね、たぶん?」おじさまは肩越しに振り向いて、半ば怒って申しましたが、半ば怒っているだけでした。というのは、いつもスキムポールさんを責任のある人間とは考えていないようでしたから。
「ねえ、ジャーンディス君、あの子のポケットに解熱剤のびんを見かけたが、あの子としては、あれを飲むのが一番いい。あの子の寝るところに少し酢をまいて、部屋を適度に涼しくし、体を適度に暖くしてやるように、召使たちにいいつけたまえ。しかし、僕が勧告をするなんて、まったく差し出がましいね。サマソンさんがこまかい点はよく知っているし、それに監督する能力もあるのだから、万事サマソンさんが心得ているわけだ」
私たちは玄関へ帰って、今計画したことをジョーに説明してやり、それをチャーリーがまたジョーに説明してやりますと、ジョーはみなのすることをまるで|他人《ひと》|事《ごと》のように、疲れた様子で眺めながら、私がもう前にも気づいたように、なんの関心も見せずものうげに、私たちの計画に応じました。召使たちがジョーのあわれな有様に同情して、一所懸命に手つだってくれましたので、まもなく干し草置場の準備ができ上り、家の中や外にいた数人の男の人たちが、充分体を包んだジョーを、雨にぬれた中庭を通って運びました。みながジョーに親切にしてやるのを見たり、「おい、坊や」とたびたび声をかけると、ジョーが元気を回復するらしいと、一同が思っている様子を見たりするのはうれしいことでした。チャーリーはこの仕事の|指図《さしず》をし、干し草置場と家のあいだを往復して、ジョーにやっても差しつかえないと私たちが考えた、わずかな気つけの飲み物と、食べ物とを持っていってやりました。みながジョーを床につけて立ち去る前に、おじさまもご自身で見にゆき、この子の世話を頼む手紙を書くために「怒りの間」へ戻った時(手紙は、翌朝の夜明けに届けにゆくようにと、使いの者にあずけました)、ジョーはさっきより具合がよくて、眠けが出て来たようだと、知らせて下さいました。熱にうかされた場合を心配して、ドアには外から錠を下してあるけれども、ジョーが物音を立てれば必ず聞えるようにしてあるとのことでした。
エイダは風邪を引いて私たちの部屋にいましたから、こうしているあいだじゅうスキムポールさんは一人ぼっちにされて、慰みにもの悲しい曲をひとくさりずつ演奏し、時々、それに合わせてたいそう表情と感情豊かに歌っていました(遠くにいる私たちの耳に聞えて来ました)。私たちが応接間へいって、また仲間入りをしますと、「われわれの若い友人に関して」思い浮べた短い民謡を紹介しようといって、百姓の男の子の歌を、すばらしくじょうずにうたってくれました。
[#ここから1字下げ]
ふた親をうばわれ、家をうばわれ、
広い世界に投げ出され、
さすらいさまよう
この身のさだめ。
[#ここで字下げ終わり]
そして、この歌にはいつも泣かせられると申しました。
そのあとは最後まで、スキムポールさんはたいそう陽気にしていました、「なぜかといえば、なんと実務にうってつけの人たちに取り巻かれていることかと思ったら、僕はひどく浮かれて、ちゅうちゅうさえずってしまったのさ」これがスキムポールさんのうれしそうな言葉でした。それからニーガス(1)の|杯《さかずき》をあげて、「われわれの年若い友人の健康が回復するように!」と乾杯し、自分はウィティングトン(2)と同じように、やがてロンドンの市長になる身の上だと思うといって、その話題を陽気につづけました。もし市長になれば、むろん、ジャーンディス会館と、サマソン養老院と、それから毎年ちょっとしたスントールバンズ巡礼団を設けるつもりだ、というのでした。そして、なるほど、われわれの若い友人はあの子なりに、じつにすばらしい少年だが、あの子のゆきかたとハロルド・スキムポールのゆきかたとはちがう、ハロルド・スキムポールがどんな人物であるかは、このハロルド・スキムポールが発見して、かなりおどろいたものだが、それは自分が初めて自分と知り合いになった時のことで、結局、欠点だらけの自分をそのまま受入れることにして、この不幸に失望しないで善処するのが健全な人生観だと考えたわけだ、だから君たちも自分と同じようにしてもらいたい、と話すのでした。
チャーリーの最後の報告によると、ジョーは静かにしているということでした。私の部屋の窓から見ますと、ジョーのために置いてある角灯が静かに光っていましたので、この少年に泊るところが見つかったのだと思うと、私はとてもうれしくなって寝床にはいりました。
夜明け少し前に、常になくさわがしい人の気配と話し声がしたので、私は目をさましました。洋服を着ながら、窓から顔を出して、昨夜ジョーに同情して熱心に働いてくれた下男の一人に、家でなにか起ったのかと尋ねました。干し草置場の窓には、あい変らず角灯が光っていました。
「あの男の子ですよ」下男がいいました。
「加減が悪くなったのですか?」と私は尋ねました。
「いってしまったんです」
「死んでしまったのですか!」
「死んでしまった? いいえ。どっかへいってしまったんです」
夜のあいだに、いつ、どうやって、なぜいなくなったのか、かいもく見当がつかないらしいのでした。ドアはそのままになっていましたし、角灯は窓辺に置いてありましたから、外へ出たとすれば、|空《から》になっている階下の荷馬車小屋に通じる、干し草置場の床の落し戸から出たとしか考えられませんでした。しかし、そこから出たにしても、少年はまた落し戸を締めてしまったので、戸をあけたらしい形跡は見られませんでした。なに一つなくなった物はありませんでした。こういう事実がはっきり確かめられますと、結局、少年は夜のあいだに熱にうかされて、なにかの幻影におびき寄せられるか、それともなにか恐ろしい幻覚に追われるかして、まったく手の施しようもないあの容態のまま、外へさまよい出てしまったのだ、と私たちはみな、いたましいことながら信じないわけにゆかなくなりました――私たちはみなといっても、スキムポールさんだけは別で、この人は例の気軽な屈託のない調子で、われわれの若い友人は悪性の熱を出しているので、自分が泊っているとこの家の人たちが危険だと考え、生来の礼儀正しさから立ち去ったのだ、とくり返し申しました。
できるかぎりの調査をし、あらゆる場所を探してみました。ほうぼうの煉瓦がまを調べ、煉瓦職人たちの小屋を訪ね、特にあの二人のおかみさんにいろいろ尋ねましたけれども、二人はなにも知らず、この人たちのおどろきにいつわりのないことは、だれの目にも疑えませんでした。このところしばらく天候はひどい雨つづきでしたし、あの晩もひどい雨でしたから、足跡を追って探し出すことは到底できませんでした。|垣根《かきね》、どぶ、|塀《へい》、わらや干し草の積み場に、あの子が気を失ったり死んだりしていないかと、あたり一帯遠くまでそういう場所を、うちの下男たちが調べましたが、ジョーが近寄ったらしい気配はいっこうに見られませんでした。うちの干し草置場に入れた時から、ジョーは姿を消してしまったのです。
捜索は五日間つづきました。そのあとでも探すのを止めたという意味ではありませんが、その時から私の注意は、忘れようとしても忘れることのできない方向へそれていったのです。
夕方にチャーリーがまた私の部屋で習字をし、それに向き合って私は裁縫をしていました時、テーブルがゆれるのに気づきました。顔をあげて見ると、かわいい小間使いは頭のてっぺんから足の先まで震えているのでした。
「チャーリー、そんなに寒いの?」
「そうらしいんです。どうしたんだか分りません。体をじっとしていられないんです。昨日もそうだったんです、大体、今ごろに。ご心配にならないで下さい、わたし、病気なんだと思います」
外でエイダの声が聞えましたから、私はいそいで、私の部屋から私たち二人のかわいい居間に通じているドアのところへゆき、錠をおろしました。ちょうど間に合いました、私の手がまだ鍵にかかっている時に、エイダがドアをノックしたのですから。
エイダが中へ入れてちょうだいと声をかけましたが、私はこういいました。「今はだめよ、あなた。向うへいっていてちょうだい。なんでもないの、すぐにそちらへいきますわ」ああ! このいとしい人と私とがまたいっしょになれるまでには、長い長い月日がかかりました。
チャーリーは病気になりました。半日すると容態がたいそう悪化しました。私はチャーリーを私の部屋に移し、自分のベッドに寝かせ、静かにすわって看病しました。おじさまにはこのことを全部と、私がほかの人から隔離しなければいけないと考えたわけと、とりわけ、いとしいエイダに会わない理由を話しました。初めのうち、エイダはずいぶん何度もドアのところへ来て、私に声をかけ、すすり泣きながら私をうらみさえしましたが、私は長い手紙を書いて、あなたがそんなことをすると、私は心配で悲しくなると告げ、あなたは私を愛し、私が安心することを願っているのですから、庭より近くへは来ないようにして下さい、と心から頼みました。それ以後エイダは、私の部屋のドアのところへ来た時よりも、なお一層ひんぱんに窓の下へ来ましたので、私は二人がほとんどいつも離れたことのなかった時分から、エイダのかわいい、美しい声が好きになっていましたが、こうして、窓のカーテンのうしろに立ったまま、耳を傾け返事をするものの、外をのぞいて見ることすらしなくなった時、どんなにあの声が好きになったことでしょう! それからのちに、もっとつらい時期が来た時に、どんなにあの声が好きになったことでしょう!
私は二人の居間にベッドを入れてもらい、もうエイダが自分の部屋を引き払いましたので、境のドアをあけ放して二つの部屋を一つに、いつもすがすがしく陽気にしておきました。家の中や外の召使はみんなとても親切な人たちでしたから、少しもこわがったり、いやがったりせずに、夜昼の別なくいつでも大よろこびで私のところへ来てくれたことでしょうが、その中から一人、実直な女の人を選んで、エイダと絶対に会わせず、できるかぎり用心深く行き来してもらうのが一番よいと私は考えました。この人のおかげで、私はエイダと出会う心配のない時に外へ出て、おじさまといっしょに散歩をしましたし、看病についてもその他の点についても、なに一つ不自由しませんでした。
こんなふうにして、かわいそうなチャーリーは病気にかかり、容態が悪化して、危篤におちいり、長いあいだ来る日も来る日も重態でいました。けれども、とても我慢強くて、少しも不平をいわず、とてもすなおな勇気を出しましたから、私はたびたびそばにすわって、チャーリーの頭を腕にかかえながら――ほかの姿勢をしているとなかなか落着かないのに、そうしてあげると安らかになるのでした――このちいさな妹が教えてくれたお手本を忘れないようにと、天にましますわれらの父に、黙ってお祈りを捧げました。
たといチャーリーが全快しても、そのきれいな目鼻立ちがすっかり変って、みにくくなるのかと思うと――顔にえくぼのある、とてもかわいい子でした――私はたいそう悲しくなりましたが、しかしそういうことは、もっと重大な危険にとりまぎれて、大部分忘れてしまいました。チャーリーは、最悪の容態におちいって、なくなった父親を看病したこと、おさない弟妹のことを、とりとめもなく口走っていた時でも、そこにいるのが私だということが分り、静かに私に抱かれて(私が抱かないかぎり静かにならないのでした)、前より落着いてうわごとをつぶやいたものでした。そういう時に私は、もしこのおさない姉が、誠実な気持から、二人のおさない弟妹の危機に際して母親の役をつとめるようになった、このおさない姉が死んだなら、あとに残っている弟妹に、なんと話したらよいのかしらと考えるのが常でした。
それからまた、チャーリーは相手が私だとはっきり分って話しかけて来る時が何度もあり、自分はトムとエマにあいさつの言葉を述べているけれども、トムは今にきっとりっぱな人になるといいました。そしてそういう時には、自分が前に父親を慰めるために一所懸命読んであげた話だといって、お墓に葬られるためにかつぎ出された、一人息子で母がやもめだった若い男の話(3)と、慈悲深いかたの御手によって死の床からよみがえった、|司《つかさ》の娘の話(4)を、私に物語ったものでした。それからチャーリーはこういうのでした。お父さんがなくなった時、新しい悲しみのあまりわたしは、ひざまずいて、この人たちと同じように、お父さんをよみがえらせ、あわれな子供たちに返して下さいますようにと、お祈りをしましたが、もし万一わたしも全快しないで死んでしまったら、たぶん、トムはわたしのために同じお祈りをしようと考えることでしょう。そうしたら、お嬢さんからトムに教えてあげて下さいませんか、むかしのこういう人たちが地上で生き返らせていただいたのは、ただ、わたしたちが天国へ戻させていただける望みがあるということを悟るためだったのです、と!
けれども、チャーリーの病気にはさまざまな時期がありましたが、どの時期においてもこの子は、私がさきほどから話して来ましたやさしい特徴を失うようなことは、一度もありませんでした。それで私は、人々から軽蔑されていたチャーリーのあわれな父親が、娘のそばに守護の天使がすわっているのを見たといった、いまわのきわの気高い確信と、娘を神様にお任せするといった、いまわのきわの、さらに気高い信頼とを、夜のあいだに考えることが何度も何度もありました。
そしてチャーリーは死にませんでした。長いあいだ生死の境をさまよっていたのち、うろうろしながら徐々に引き返して、それからよくなり始めました。チャーリーの顔がそれ以上チャーリーらしくなる望みは、もう最初からなかったのですが、まもなく望みが持てるようになり、いいえ、それどころか、確実になり、目に見えてまたもとの子供らしい顔に似て来ました。
庭へ出て来たエイダにこのことを全部知らせることができた朝は、ほんとにすばらしい朝でしたし、とうとうチャーリーと私が隣りの部屋でいっしょにお茶を飲んだ夕方は、ほんとにすばらしい夕方でした。けれども、同じその夕方、私は急に年をとったような感じを覚えました。
チャーリーの病気がうつったのだと私が考え始めましたのは、私たち二人にとって幸いなことに、チャーリーが気づく心配もなくまた寝床にはいって安らかに寝ついてからでした。お茶の時に覚えた感じを私は難なく隠して来ましたが、もうそれができなくなり、自分がチャーリーと同じ道を急速に進んでいることを悟りました。
けれども、朝早く起き、私のいとしいエイダが庭から祝福の言葉をかけてくれるのに答えて、ふだんと同じくらいのあいだ話をするだけの元気はありました。しかし、前の晩、自分がどこにいたか知っているのに、なんだか、あの二間つづきの部屋を、少し逆上して歩きまわっていたような気がしないわけではありませんでしたし、それに時々ろうばいしてしまいました――まるで体全体が大きくなりすぎてゆくみたいに、奇妙な、ふとった感じがしましたので。
夕方になると、なおいっそう具合が悪くなりましたので、私はチャーリーに覚悟を決めさせようと決心して、こういいました。「チャーリー、あなたはもうすっかりよくなって来たんでしょう?」
「はい、そのとおりです!」
「秘密のお話をしても大丈夫なのね、チャーリー?」
「はい、大丈夫です、お嬢さん!」とチャーリーは大声をあげました。けれども、私の[#「私の」に傍点]顔にその秘密を見てとるとチャーリーの顔色は沈み、大きな椅子から立って来て、私の胸に倒れ伏して、「ああ、お嬢さん、わたしのせいです! わたしのせいです!」といったばかりでなく、もっとたくさんのことを、感謝にあふれる真情をこめていいました。
「さあ、チャーリー」私はしばらくチャーリーをいうままにさせておいてから、話しました。「もし私が病気になるとしたら、神様は別として、あなたを大事な頼りにすることになるのよ。だから、今まであなたが自分のために落着いて冷静にふるまったと同じように、私のためにもそうしてくれなければ、その責任をはたせませんよ、チャーリー」
「もうちょっとのあいだ泣かせて下さったら、そうします! ああ、お嬢さん、お嬢さん! もう少しのあいだ泣かせて下さったら、お嬢さん!」――私の首にすがりつきながら、チャーリーがこの言葉をどんなに愛情をこめて献身的にいったかを思い出すと、私は涙をこぼさずにはいられません――「わたし、おとなしくします」
それでもうちょっとのあいだチャーリーを泣かせてあげますと、私たち双方にとって望ましい効果がありました。
「さあ、どうぞわたしを頼りにして下さい」とチャーリーは落着いていいました。「お嬢さんのおっしゃることを、なんでもよく聞いています」
「今のところは、ほとんど用事はないわ、チャーリー。今晩、あなたのお医者さんに、私は加減がよくないようだから、これからはあなたに看病してもらうって、お話をするのよ」
そういうと、かわいそうにチャーリーは心から私に感謝するのでした。
「それから、朝になって庭でエイダさんの声が聞えた時に、もし私がふだんどおり窓のカーテンのところまでゆくのがむずかしいようだったら、チャーリー、あなたがいって、私は眠っているっていってちょうだい――少し疲れて眠っているって。いつもこの部屋の模様は、私がして来たとおりにしておいて、チャーリー、だれも入れてはだめよ」
チャーリーが約束しましたので、私は横になりました、たいそう体がだるかったのです。その夜、お医者さんに会い、お願いしたいと考えていたとおり、私の病気についてはまだ家の人たちになにもいわないようにお願いしました。その夜がいつしか昼に変り、昼がまたいつしか夜に変ったことについては、きわめてぼんやりした記憶しかありませんが、最初の朝は、ようやくのことで窓辺へゆき、いとしいエイダに話しかけることができました。
二日目の朝、外でエイダのなつかしい声が――ああ、なんと今はなつかしいことでしょう!――聞えましたので、私はやや骨を折りながら(しゃべるのが苦痛でしたから)、チャーリーに、私が眠っているといいにゆくように頼みました。エイダがやさしく、「お願いよ、チャーリー、そのままにしてあげておいてちょうだい!」という声が聞えました。
「私の自慢のお嬢さんはどんな顔をしているの、チャーリー?」と私は尋ねました。
「がっかりしていらっしゃいます」チャーリーはカーテン越しにのぞきながらいいました。
「でも、あの人が今朝とても美しいことが私には分るわ」
「ほんとにそうです」とチャーリーがのぞきながら答えました。「まだ窓を見上げていらっしゃいます」
澄んだ青い目なので(あの目に神様のみ恵みがありますように)そんなふうに上に向けている時が一番魅力的なのでした!
私はチャーリーを手もとに呼び寄せて、最後の指示を与えました。
「いいこと、チャーリー、私が病気だということが分ったら、あの人はこの部屋へはいって来ようとするわ。もしあなたがほんとうに私に好意を持っているなら、チャーリー、最後まであの人を入れてはだめよ! もし一度でも中へ入れて、ここに寝ている私を一瞬間でも見せたら、私は死んでしまうことよ!」
「そんなことは決してしません! そんなことは決してしません!」とチャーリーは私に約束しました。
「それを信じるわ、かわいいチャーリー。それでは、もう私のそばへ来てしばらくすわって、あなたの手で私にさわってちょうだい。だって私はあなたが見えないのよ、チャーリー、私は目が見えなくなったのよ」
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第三十二章 約束の時間
リンカン法曹学院――あの、訴訟人がほとんど日の目を見ることのない、法律の影の不安と苦難の谷(1)――は夜のとばりに包まれ、院内の諸事務所では太いろうそくのしんを切って火を消し、事務員たちは割れ目のはいった木の階段をがたぴし降りて、ほうぼうへ散っていった。九時に鳴る鐘ががあんがあんと悲しげなから|騒《さわ》ぎを終え、門は締められ、おそろしくよく眠る、もったいぶった夜勤の門番が、門衛所で見張りをしている。いく段にもかさなった、階段の窓から、ほこりのたまったランプが、星に向っておぼろげにまたたいているところは、いわば、一つ一つの目がそれぞれ底知れない|眼窩《がんか》の上についている、かすみ目のアーガス(2)ともいうべき|衡平法《こうへいほう》の目にそっくりである。上のほうの、あちこちのよごれた開き窓に、点々とかすかなろうそくの明りがともっているので、まだ部屋の中では、抜け目のない法律書類の起草人や不動産譲渡取扱い人が、地所を羊皮紙のわなにかけようと思って(土地一エーカーに対して平均約羊十二頭分を使って)骨を折っていることが分る。この同業者仲間の|篤志家《とくしか》たちは、毎日最後にはいくらか|獲物《えもの》を仕止めようというので、勤務時間が過ぎても、なお蜜蜂のようにいつまでも勤勉に働いている。
くず屋の大法官閣下が住んでいる、近くの小路では、みながビールと夜食を始めようとしている。パイパーのおかみさんとパーキンズのおかみさんのそれぞれの息子は仲間の友だちと隠れん坊をして、今まで数時間大法官府横町のほうぼうの抜け道に身をひそめたり、その広々とした往来をかけ回って、通行人をあわてさせたりしていたが、つい今しがた、二人のかみさんは子供たちが寝床にはいったのをよろこび合い、しばらく別れの言葉をかわすために、家の戸口の石段の上を去りかねている。くず屋の主人クルック氏と彼の家の下宿人のこと、クルック氏が「しょっちゅう酔っぱらって」いること、その若い下宿人の遺産相続の見込み、これが二人のおかみさんの主な話題である。しかし、居酒屋|日輪《にちりん》亭の「音楽の|集《つど》い」についても、二人はいいたいことがある。おりしも、日輪亭のやや開いた窓から、ピアノの音がこの小路へじゃんじゃん流れこみ、リトル・スウィルズが、本物のヨリック(3)みたいに音楽愛好者たちを大笑いさせつづけたのち、今度は合唱曲のしゃがれ声の部分を歌って、「聞けよかし、聞けよかし、滝の|音《ね》を!」と、ごひいきの皆々様に歎願するような、哀れっぽい声を出しているのが聞える。パーキンズのおかみさんとパイパーのおかみさんは、その道で聞えた、ある妙齢の婦人が「音楽の集い」に加わって、窓に張った手書きの広告の一つの欄を独占しているので、この婦人についてたがいに意見を比べ合うが、パーキンズのおかみさんの情報によると、この婦人は広告に、かの有名な美声の女性歌手M・メルヴィルソン嬢と書いてあるけれども、もう結婚してから一年半になり、毎晩、日輪亭に赤ん坊を内証でつれて来て、演芸中に天然の飲み物をやっているそうである。そして「あんなことするくらいなら、わたしゃね、マッチ売りをして暮しを立てたほうがましだよ」という。パイパーのおかみさんは義理を立てるように、これに同意し、世間からもてはやされるより、人目につかない身でいるほうがいいと思うといって、自分の(また、暗にパーキンズのおかみさんの)りっぱな身分を神様に感謝する。その時にはもう日輪亭の給仕が、彼女の註文した、みごとに|泡立《あわだ》った夜食用のビールを持ってあらわれるので、パイパーのおかみさんはそのジョッキを受けとり、まずパーキンズのおかみさんに、お休みのあいさつをして、家の中へ引っこむが、パーキンズのおかみさんも、息子が寝る前に同じ店から持って来てくれた、自分のビールを手にしていたのである。もう小路では店のよろい戸を締める音が聞え、パイプをふかしているようなにおいが漂い、その上、流れ星が家々の階上の窓に見えるので、人々が寝床にはいる時刻になったことが一層よく分る。それからまた巡査も、家々の戸口を押して、戸締りを確かめ、包みがあれば調べ、だれもが盗んだり盗まれたりしているものと考えながら、受持ち区域の巡視を始める。
しめっぽい冷気が身にしみるけれども、うっとうしい夜で、空中に低くもやがたなびいている。今夜は|屠殺場《とさつじよう》や、不衛生な商売や、下水や、腐った水や、墓地が大いに利用され、死亡登録官に余分の仕事ができそうな、湿気の多い、すばらしい陽気の夜だ。天候のせいか――空中にはいろいろなものが漂っている――自分の体のせいか、よく分らぬが、ウィーヴル君こと本名ジョブリングはひどく気分が落着かない。自分の部屋と、あけ放した表のドアとのあいだを、一時間に二十回も、いったり来たりしている。あたりが暗くなってから、ずっとそうしているのである。くず屋の大法官は今夜たいそう早く店を締めたが、その時からますますひんぱんに、ウィーヴル君は(頭にぴったり合った安物のビロードずきんをかぶり、ほおひげとまったく釣合わない顔をして)ゆきつ戻りつをくり返して来た。
スナグズビー氏も同じように落着かないでいるが、これは別にめずらしい現象ではない、例の秘密に悩まされているので、いつも多かれ少なかれ落着かないのである。自分が関係していながらも全然あずかり知らない、あの|謎《なぞ》に駆り立てられて、スナグズビー氏は事件の源と思われるところ――あの小路のくず屋――へ足しげく出かける。このくず屋が抵抗しがたい吸引力を持っているのである。スナグズビー氏は、その小路を通ってみようと日輪亭のわきを回って、大法官府横町のはずれに出て、そこで自宅から往復十分間の、予定のない夜食後の散歩を終え、ちょうど今くず屋に近づいて来る。
「おや、ウィーヴルさんで?」と文具商はいいながら、立ち止って話しかける。「そこにいるのはあなた[#「あなた」に傍点]ですか?」
「ええ! 僕ですよ、スナグズビーさん」
「わたくしと同じように、寝る前に外の風に当っていらっしゃるところですか?」
「なに、ここはあまり風はありませんし、涼しい風も吹きませんよ」とウィーヴルは通りの上手下手に目をくれながら答える。
「いかにも、そうですね。お気づきになりませんか、あなた」といってスナグズビー氏はしゃべるのを止めて、鼻をくんくんいわせながら少し空気をかいでみて、「お気づきになりませんか、ウィーヴルさん、ここの家は――ありていに申せば――少々あぶらくさいようですが?」
「いや、僕も今夜この家は妙なにおいがするな、と気づいたんですよ。たぶん、これは日輪亭の焼き肉のせいでしょう」
「焼き肉だとお思いですか? ああ! 焼き肉ねえ?」スナグズビー氏はまた、くんくんかいでみる。「なるほど、たぶん、そうでしょう。しかし、どうも日輪亭の料理人は少し監督してやる必要がございましたね。あの女は肉をこがしてしまいましたよ! それに、どうやら」スナグズビー氏はまた、くんくんかいでみてから、つばを吐いて口をふき、「どうやら――ありていに申せば、焼きあみにのせた時に、その肉はあまり新しくなかったようでございますなあ」
「きっとそうでしょう。物の腐りそうな陽気ですからね」
「ほんとうに、物の腐りそうな陽気でございますよ、その上、気がめいりそうな感じがいたしますね」
「まったくですよ! 僕は[#「僕は」に傍点]ぞっとするような感じがしますね」とウィーヴル君が答える。
「それはですね、あなたが暗いいわくのある家に、ひとりぽっちで、さびしい部屋に暮しておいでだからでございますよ」といって、スナグズビー氏は相手の肩越しにくず屋の暗い廊下をのぞき、それから一歩うしろにさがって家を見上げる。「わたくし[#「わたくし」に傍点]でしたら、とてもあなたのようにあの部屋に一人で暮していることはできませんね。時によると、夕方など心配でじっとしていられなくなりましょうから、あそこにすわっているくらいなら、戸口へ出て来て、ここに立っているほうがましでございますよ。でも、わたくし[#「わたくし」に傍点]があの部屋で見たものを、あなたはご覧になりませんでしたからね。そこがちがいますよ」
「あなたがなにを見たか、僕だってよく知っていますよ」とトニーは答える。
「気持のよいものではございませんでしょう?」とスナグズビー氏は話をつづけながら、口に手を当てて、おだやかに説きつける時の|咳《せき》をする。「部屋代にしても、クルックさんはその点を考慮すべきでございますね。きっと、そうしていることと思いますが」
「そうしてもらいたいもんですね。しかし、怪しいもんですな」
「部屋代が高すぎましょう? この辺は、じっさい[#「じっさい」に傍点]部屋代が高うございますよ。たしかなことは分りませんが、どうも法律に関係の深い土地柄なので、物価が高くなるようでございます。と申しましても」とスナグズビー氏は弁解の咳をしながらいいそえる。「わたくしが暮しを立てさせていただいております職業を非難するつもりはございませんが」
ウィーヴル君はまたもや小路の上手下手に目をくれ、それから文具商のほうを見る。スナグズビー氏は相手に注目されてもうわの空の|体《てい》のまま、空を見上げて星を探し、どうやってこの対談から逃れたものだろうかといった意味の咳を一つする。
「ふしぎなことでございますよ」とスナグズビー氏はゆっくり両手をもみながら、「あの人が――」
「あの人って、だれです?」ウィーヴル君が話をさえぎる。
「あの亡くなった人でございますよ」といいながら、スナグズビー氏はくず屋の家の階段のほうへ、頭と右のまゆ毛をぐいと向け、相手の洋服のボタンを軽くたたく。
「ああ、なるほど!」ウィーヴル君はその話をあまり好まないらしい様子で答える。「あの人のことはもう済んだのかと思っていましたよ」
「格別たいしたお話ではございませんが、ふしぎなことでございますよ、あの人がここへ参って住みつき、わたくしの代書人になり、それからあなたもここへ参って住みつき、わたくしの代書人におなりになったとは。そう申しても、決して軽蔑しているわけではございません、とんでもないことでございます」スナグズビー氏は、失礼にもウィーヴル君を自分の所有物扱いにしたのではないかと気づかって、急に話を中止してから、「なにしろ、わたくしの知っております代書人の中には、醸造家の店へはいって、たいそう立派にやっている者が何人かございますもの。すばらしく立派にやっておりますよ、あなた」スナグズビー氏は、どうもうまくいいつくろえなかったかな、と心配しながら、そうつけ加える。
「いかにもおっしゃるとおり、あの人と僕のことはふしぎな暗合ですね」とウィーヴル君はもう一度往来の上手下手に目をくれながら答える。
「これが運命のめぐり合わせというものでございましょうね?」とスナグズビー氏がいい出す。
「そうらしいですな」
「そうでございますとも」と文具商はいって、確認の咳をする。「まったく運命でございますよ。まったく運命というもので。それでは、ウィーヴルさん、残念ながらわたくしは失礼いたさねばならないようでございます」スナグズビー氏は立ち止って話を始めた時から、逃げ出す方法を思案していたくせに、いかにも立ち去るのが悲しそうな口ぶりで、「さもないと、うちのちびが探しに参りますでしょうから。お休みなさいませ!」
もしスナグズビー氏が家路を急ぐのは、ちびの細君に捜索の労をはぶいてやるためだとしたら、その点は安心してもよかろう。ちびの細君は日輪亭の近くで、そのあいだずっと彼を監視していたが、今度は、ハンケチで顔を包んで、音も立てずに彼のあとをつけ、通りすがりにウィーヴル君と下宿屋の戸口に鋭い一瞥をくれる。
「おかみさん、いずれまたそのうちにおれがだれだか分るよ」とウィーヴル君は心の中でいう。「あんたがだれだか知らないけど、ほおかぶりなんかして、いいかっこうじゃないね。しかし、あいつはもう来ない[#「ない」に傍点]つもりなのか!」
彼がそう考えているあいだに、あいつは近づいている。ウィーヴル君は静かに指をあげて、相手を廊下に引っぱりこみ、表のドアを締める。それから二人して階上へゆくが、ウィーヴル君は重い足どり、ガッピー君は(あいつといったのは彼なのである)いかにも軽やかな足どりである。二人は裏の部屋に閉じこもると、低い声で話を始める。
「君はここへ来ないで、地獄へでもいってしまったのかと思っていたぞ」とウィーヴルことトニーがいう。
「なんだ、僕は十時ごろ来るっていったよ」
「君は十時ごろ来るっていったよ」トニーは相手の言葉をくり返す。「うん、たしかに君は十時ごろ来るっていった。だけど、おれの時計だと、もう十時の十倍だ――百時だよ。こんなにいやな晩は、生れてこのかたなかったぞ!」
「なにかあったのかい?」
「おかしいのはそこだよ」とトニーがいう。「なんにもなかったのさ。だけど、おれはこのおんぼろ部屋でやきもき気をもんでるうちに、薄気味悪くなって、ぞっとしつづけだったよ。ほら、見ろよ、あそこ[#「あそこ」に傍点]の気持の悪いかっこうをしたろうそくを!」とトニーはいって、テーブルの上の細ろうそくが、上端をキャベツのようにふくらませ、ろう|涙《るい》を長く垂らして、重苦しげに燃えているのを指さす。
「あれは簡単に直せるよ」といってガッピー君はろうそくのしん切りばさみを手にとる。
「ほんと[#「ほんと」に傍点]かい? 君が思っているほど簡単じゃないぞ。火をつけてからずっと、あんなふうにくすぶっているんだ」
「なんだ、君はどうしたんだ、トニー?」しん切りばさみを手にしたガッピー君は、友だちがテーブルにひじを突いたまま、椅子に腰かけている姿を眺めながら尋ねる。
「ウィリアム・ガッピー、おれは気がめいっているんだ。この、我慢できないほど退屈な、自殺する気を起させるような部屋――それから、下にいる|化《ば》け|物《もの》じじいのせいだろう、たぶん」ウィーヴル君はしん切りばさみの箱を憂鬱そうにひじで押しやり、頭を手にもたせかけ、両足を煖炉の囲い格子の上にのせ、それから火を眺める。ガッピー君は友だちの様子を観察しながら、軽くぐっと頭をそらせると(4)、屈託のない態度でテーブルの反対側の椅子に腰を下ろす。
「君に話をしていたのはスナグズビーじゃなかったのかい、トニー?」
「うん、ところがあの男ったら――うん、あれはスナグズビーだ」ウィーヴル君は途中で言いかたを変えながら答える。
「仕事の話かい?」
「ちがう。仕事なんかじゃない。散歩の通りがかりに、おしゃべりしていっただけさ」
「スナグズビーだと思ったから、僕は見られないほうがいいと思って、いなくなるまで待っていたんだ」
「ほら、またそれだ、ウィリアム・G!」と、一瞬トニーは顔を上げて、大声をあげる。「ひどくこそこそ隠し立てをするんだなあ! まったく、おれたちが人殺しをたくらんでいたとしても、これ以上秘密にすることはできないね!」
ガッピー君はごまかし笑いをしてから、話題を変えるために、部屋の中を見まわして、飾りつけてある『イギリス美女名花集』を、本気でかそらとぼけてか、感心したように眺め、最後に煖炉棚の上のほうに掛けてあるデッドロック家の奥方の肖像に目を止めるが、画面の奥方はテラスにいて、テラスの上に台石があり、台石の上に花びん、花びんの上に奥方のショール、ショールの上にすばらしく大きな毛皮、そのすばらしく大きな毛皮の上に奥方の腕、奥方の腕の上に腕環がある。
「これはデッドロック家の奥方様にそっくりだね」ガッピー君がいう。「今にも口をききそうな肖像だよ」
「そうだといいがね」トニーは姿勢を変えずに、怒った声でいう。「もしそうだったら、おれは奥方と社交界式の会話をするんだがなあ」
その時にはもうガッピー君はお世辞を使っても、とうてい相手をなごやかな気分にさせることができないと悟ったので、戦術を変えて、世間で濫用している手を使い、ウィーヴル君に説教をする。
「トニー、僕は人がふさぎこんでいる時には大目に見てやるよ、だって、そういう時にどんな気持になるものかを、僕ほど知っている者はいないし、その気持を理解する資格が一番あるのは、たぶん、僕のように片恋の人の面影を胸に刻みこまれている人間だろうからね。しかし、八つ当りをされては、大目に見るにも限度があるよ、はっきりいうとね、トニー、君の今の態度は客をもてなす態度じゃないし、あまり紳士的でもないと思うね」
「そいつは手きびしいごあいさつだな、ウィリアム・ガッピー」とウィーヴル君が答える。
「そうかも知れない」とウィリアム・ガッピー君はいい返す。「しかし、僕が手きびしいあいさつをする時は、手きびしい気持になっているんだ」
ウィーヴル君は自分の非を認めて、その話はもう忘れてくれとウィリアム・ガッピー君に頼む。しかし、ウィリアム・ガッピー君は有利な立場に立ったので、もう少々憤然たる抗議をせずには、この優位を捨て去ることができない。
「だめだ! くそっ、トニー、ほんとに君は人の感情を害しないように注意すべきだよ。だって僕は片恋の人の面影を胸に刻みこまれているのに、このいともやさしい愛にかならずしも答えてもらえない[#「ない」に傍点]んだからね。トニー、君は、女性の目を魅惑し好みを惹きつけるようなものを、すべて身にそなえている。一つの花のまわりだけを飛んでいる性格の人じゃない――これは、たぶん、君にとって仕合わせなことだ、僕もそうだといいんだが。花園全体が君の来るのを待っていて、君は軽やかな翼で、そこをくまなく飛び回るのだ。だが、トニー、僕はそういう君に対してさえ、いわれなく君の感情を害するようなことは、絶対にしないぞ!」
トニーは力をこめて「ウィリアム・ガッピー、よせったら!」といって、その話題をもうつづけないように、またしても歎願する。ガッピー君はおとなしく従い、「僕が自分からいい出したわけでもないのに」と答える。
「ところで、今度は」とトニーは火をかき立てながら、「例の手紙の件だがね。クルックがあの手紙をおれに譲り渡す時間を、今夜の十二時ってことに決めたのは、変じゃないか?」
「まっく変だ。なんの目的があってそうしたんだろう?」
「なんの目的があってそうするかって? あの男[#「あの男」に傍点]はそんなことは知らないんだ。今日は自分の誕生日だから、今夜の十二時に渡すっていったよ。それまでには、もう酔っぱらって目が見えなくなってるだろう。朝からずっと飲んでるんだからね」
「約束を忘れていやしないだろうね?」
「忘れて? その点は大丈夫だ。あの男は絶対ものを忘れるってことがないよ。今夜の八時ごろ、あの男に会ったが――店を締めるのを手つだってやったんだ――その時は、あの毛のはえた|頭巾《ずきん》の中に手紙は入れてあったよ、頭巾をぬいで、おれに見せてくれたんだ。店を閉じてしまうと、頭巾からとり出して、頭巾を椅子の背にかけ、火の前に立って手紙をめくっていた。その少しあとで、あの男がまるで風のような声を出して、あいつの知ってるたった一つの歌をうなってるのが、ここの床板越しに聞えた――ビボーとカロンじいさん(5)のことをうたった歌で、ビボーは死んだ時に酔っぱらっていたとか、なんとかいうんだった。それからあとはずっと、巣にはいって寝ついたおいぼれねずみみたいに静かにしているよ」
「それで、君は十二時に下へ降りていくんだね?」
「十二時にね。だからさ、君が来た時には、まったく、百時かと思ったぞ」
「トニー」ガッピー君は両脚を組んだまま、しばらく考えてから、「あの男はまだ字が読めないんだろう?」
「字が読める! 絶対読めるようにならないな。アルファベットの文字全部を一つ一つ別々に書くことはできるし、目で見ても大概は見分けられるよ、おれの指導でそこまで上達したんだが、一つ一つの文字をつなぎ合わせることができないのさ。その要領を|会得《えとく》するには年を取りすぎている――それにアル中だからね」
「トニー」ガッピー君は組んだ脚を解いたり、組み直したりしながら、「君は、あの男がホードン (Hawdon) という|苗字《みようじ》をどうやって読み分けたと思うんだい?」
「読み分けたんじゃないよ。あの男がじつに奇妙な視力を持っていて、いつも、ただ目で見るだけで充分いろんなものを写しとることができたことは、君の知ってるとおりだ。それで、あの苗字をまねて書いて――もちろん、手紙の宛名を見てだ――これはどういう意味だとおれに聞いたんだよ」
「トニー」ガッピー君はまたも脚を解いたり組み直したりしながら、「手紙の原物の筆蹟は男のだと思うかい、それとも女のかい?」
「女だ。五十対一で貴婦人だ――かなりかしいだ字で『ン』(n) のおしまいが長く、あわてて書いてある」
この問答のあいだ、ガッピー君は親指の|爪《つめ》をかみつづけ、組んだ脚を換えるたびに親指のほうも換えていた。今しも、またそうしようとして、偶然、上着の袖に目をやる。袖が彼の注意をひく。彼は胆をつぶして袖を見つめる。
「おや、トニー、一体全体この家は今夜どうしたんだい? 煙突に火をたいているのか?」
「煙突に火をたいている!」
「ああ! 見たまえ、ひどく|煤《すす》が落ちて来るぞ。この、僕の腕を見たまえ! それから、このテーブルの上を見たまえ! ちくしょう、いくら吹いても飛ばない――黒い油みたいにねばつきやがる!」
二人は互いに顔を見合せ、トニーは耳をそばだてながらドアのところへゆき、階段を少し登り、それから少し降りてみる。戻って来ると、万事異常ないと告げ、さきほどスナグズビー氏に向って、日輪亭で焼き肉を料理しているのだといった自分の言葉を、また述べる。
「それじゃ、その時に」と、ガッピー君はなおも上着の袖にいかにも不愉快そうな一瞥をくれながら、ふたたび口を切り、二人は火の前で、向い合ってテーブルによりかかり、互いに頭を間近に寄せて話をつづける。「クルックは君に、その手紙の束を死んだ下宿人のトランクから取ったって、話したんだね?」
「まさにその時でしたよ」トニーはほおひげの乱れをちょっと直しながら答える。「それで、私はわが親愛なるウィリアム・ガッピー弁護士殿に一筆啓上して、今夜の会見の約束を知らせ、それより前に訪ねないようにと忠告に及んだ次第です、あのお化けじいさんは食えないやつですからな」
ウィーヴル君は、平素自分の使っているこの軽妙活発な社交界口調が、どうも今夜の気分にそぐわないので、それも、ほおひげいじりも止めにして、肩越しにうしろを振り返ったのち、またも恐怖にとりつかれているらしい。
「君は手紙の包みを自分の部屋へ持って来て、内容を全部クルックに話してやれるように、手紙を読み較べることになっているんだね。そういう約束をしたんじゃないのかい、トニー?」とガッピー君は気づかわしげに親指の爪をかみながら尋ねる。
「できるかぎり低い声でしゃべるんだ。そうだ。それがクルックとおれの取り決めだよ」
「うまいことがある、トニー」
「できるかぎり低い声でしゃべるんだ」とトニーはもう一度いう。ガッピー君は悟りのいい頭をこっくり振ってうなずき、なおも間近に頭を突き出し、声をひそめてささやく。
「うまいことがある。まず第一に、本物の包みと同じような別の包みを作るんだ、そうすれば、僕が本物を預っているあいだにクルックがそれを見たいといっても、君は替え玉の包みを見せればいい」
「それで、もしあの男が包みを見るやいなや替え玉だと見破ったら、どうする――あいつはねじ|丸環《まるかん》みたいに鋭い目をしてるんだから、そうなる見込みのほうが五百倍も多いぞ」とトニーがいい出す。
「そうなったら強引に押し通すさ。あれはクルックの物じゃないし、もともとそうじゃなかった。君はそのことを知って、手紙の安全をはかるために、僕の手に――つまり、君の友人である法律家の手に――預けた。もしあの男が是が非でも出せというなら、手紙は出してやれるじゃないか?」
「その――その通りだ」とウィーヴル君はしぶしぶと認める。
「おや、トニー」と相手が抗議する。「なんて目つきで見るんだ! 君はウィリアム・ガッピーを疑っているんじゃないだろうね? 僕が悪だくみをしていると考えてるんじゃないだろうね?」
「おれが考えてるのは、はっきり分ってることだけだよ、ウィリアム」と相手は真面目な顔で答える。
「で、はっきり分ってることって、なんだい?」とガッピー君はやや声を高めて返事をうながすが、友だちがまたも「おい、できるかぎり低い声でしゃべるんだ」と注意するので、ガッピー君は全然声を立てずに、|唇《くちびる》のかっこうだけで「はっきり分ってることって、なんだい?」と質問をくり返す。
「三つあるよ。まず、おれたちはここでひそひそ内証話をしながら、二人してなにか陰謀をたくらんでいるんだ」
「なるほど! だが、もしそうしなかったら、僕たちは馬鹿な目を見るんだから、二人して馬鹿者になるより、そうするほうがましだよ、だってこれが僕たちの望みをかなえる唯一の道なんだもの。二番目は?」
「第二に、こんなことをして結局なんの利益があるのか、おれは話してもらっちゃいない」
ガッピー君は煖炉棚の上方のレスタ・デッドロック卿夫人の肖像に視線を向け、それから答える。「トニー、それは君のこの友だちの徳義心に任せてくれよ。君の友だちの胸の思いを安らげてくれることになるんだ――今、そのわけを話してこの胸を苦しめる必要はないがね――そればかりじゃない、君のこの友だちは決して馬鹿じゃないんだ。おや、あれはなんだ?」
「セント・ポール大聖堂の鐘が十一時を打っているのさ。耳を澄してみろよ、ロンドンじゅうの鐘が鳴っているのが聞えるだろう」
二人は口をつぐんで、さまざまな高い塔、低い塔から、その高低さまざまな位置にもいや|勝《まさ》る多彩な音色を立てて鳴りひびく、|遠近《おちこち》の金属的な声に耳をそば立てる。それがようやく鳴りやむと、あらゆるものが前にもまして気味の悪い静けさを帯びたように思われる。声をひそめて内証話をしたあとは気持のよくないものだが、それは、一つには、あたり一面静まり返った中に、幽霊のようないろいろな物音――ぱちぱち、かちかちという奇妙な音、着ている人もいない|衣《きぬ》ずれの音、砂浜や冬の雪の上にさえ跡を残しそうもないような恐ろしい足音――を呼び出すような気がするからである。二人はひどく神経過敏になっているので、こういった亡霊があたりに満ち満ちて来る。そこで申し合せたようにうしろを振り向いて、ドアが締っているかどうかを確かめる。
「それで、トニー?」とガッピー君はいいながら、火のそばへ近寄り、震える親指の爪をかむ。「さっき、君がいいかけていた三番目のことっていうのは?」
「死んだ人間を種にして、その当人が死んだ部屋で、たくらみごとをしてるなんて、決して気持のいいもんじゃないってことさ、ことにその部屋に住んでる者の身になってみろよ」
「でも、僕たちは別にその人に対して悪いたくらみをしているわけじゃないよ、トニー」
「そりゃそうかも知れないが、おれは気が進まないな。ここに君一人で住んでみろ、そうすりゃ君[#「君」に傍点]がどれだけ気が進むか分るから」
「死んだ人間っていうけど、トニー」とガッピー君はこの申し出をはぐらかして話をつづける、「たいがいの部屋で人が死んでいるもんだよ」
「そんなことは知ってるさ、だが、たいがいの部屋じゃ、住んでる者はそこで死んだ人間のことなんか放って置くし、それに――それに向うだって、こっちを放って置いてくれるよ」とトニーは答える。
またしても二人はたがいに顔を見合せる。ガッピー君は、自分たちのしていることは、たぶん故人の利益になるだろう、自分はそう思っている、と急いで述べる。重苦しい沈黙がつづいているうちに、ウィーヴル君が急に火をかき立てるので、ガッピー君はまるで自分の心臓でもかき立てられたように、ぎょっとおどろく。
「ああ! また、あのいやな煤が降って来る」と彼がいう。「ちょっと窓をあけて、外の空気を一口吸おうじゃないか。ひどく息苦しい」
彼は窓わくを揚げ、二人とも半身外へ乗り出して窓の敷居によりかかる。隣り近所の家々があまり近いので、首を伸ばして上を仰がなければ空は見えないが、あちこちの薄汚い窓に映っている明り、遠方を走る馬車のとどろき、人々がまだ起きていることを改めて示す、こういった印しによって、彼らは明るい気持になる。ガッピー君は音を立てずに窓敷居を軽くたたきながら、すっかり軽喜劇調になってひそひそ話をまたつづける。
「時に、トニー、スモールウィード老人のことを忘れるなよ」これは孫のスモールウィードのことである。「僕はまだあいつにこの話を知らせていないんだよ。あいつのじいさんと来たら、まったく勘が鋭いからね。それがあの一族の特徴なんだ」
「覚えてるさ。大丈夫だよ」
「それからクルックだ。ねえ、君たちはすっかり深い仲になったんで、あの男が君に自慢話をして、まだほかに重要書類を持ってるっていったそうだが、君はほんとにそうだと思うかい?」
トニーは|頭《かぶり》を振る。「おれには分らん。見当がつかないな。もしおれたちがあの男に疑われずに、今度の仕事をやってのければ、きっと、もっとはっきりしたことが分るだろう。その重要書類っていうのを見ずに、どうしておれに分るかってんだ、どだい、あの男にさえ分らないんだもの。あいつはいつもその書類の字を一字一字拾い出して、テーブルや店の壁にチョークで書いて、これはなんだ、あれはなんだって聞いてるんだけど、たぶん、あの書類は初めから終りまで全部、あいつが買い込んだとおりの紙くずってのが、いいところじゃないのかな。あの男は自分が重要書類を手に入れたって、気ちがいみたいに、いちずに思い込んでるんだ。あいつの話によると、どうやら、この二十五カ年間それを読む勉強をしているらしいな」
「しかし、そもそも、どうしてそんな考えを起したんだろう? それが問題だ」とガッピー君は法廷弁論をおこなうように、しばらく沈思黙考してから、いい出す。「あの男は、書類など混じっているまいと思われていた買入れ品の中から、書類を発見したのかも知れない。そしてその隠し場所と隠し具合から見て相当重要なものだと、あの抜け目のない頭で思い込んだのかも知れない」
「それとも、インチキな取引をして一杯食わされたのかも知れない。それとも、自分が手に入れた[#「手に入れた」に傍点]物をなんでも長年、じっと見つめて、酒を飲んで大法官裁判所のまわりをうろついて、いつも書類の話を聞いていたために、頭がすっかり混乱してしまったのかも知れない」とウィーヴル君がいい返す。
ガッピー君は窓の敷居の上に腰をかけ、ひとりでうなずき、こういったさまざまな可能性を比較検討しながら、考え込んだまま、敷居を軽くたたいたり、つかんだり、手で寸法を計っているが、やがてあわてて手を引き離す。
「ちくしょう、一体これはなんだ!」と彼はいう。「僕の指を見ろよ!」
黄色い濃厚な液体が彼の指をよごしており、触っても見ても気持が悪いが、においを嗅ぐと更に気持が悪い。よどんだ、吐き気を催させる油で、胸を悪くするような成分を含んでいるので、二人ともぞっとして身震いをする。
「君はここでなにをしていたんだ? 窓からなにを捨てたんだ?」
「おれが窓から捨てた? 絶対、そんなことはない。この部屋へ住んでから一度もないぞ!」と部屋の住人が叫ぶ。
だが、ここを見よ――それからこちらを見よ! 彼がろうそくを持って来ると、ここの、窓敷居の隅から、油はゆっくり滴り落ちて、煉瓦づたいにはい降りているし、こちらでは悪臭を放つ濃い淀みを作って溜っている。
「ここは気味の悪い家だなあ」とガッピー君は窓を閉めながらいう。「水をくれよ、さもないと、僕はこの手を切り捨ててしまうぞ」
彼は一所懸命に洗い、もみ、こすり、においを嗅いではまた洗っているので、ようやくブランデーを一杯飲んで元気をとり戻し、物もいわずに煖炉の前に立ったかと思うと、ほどなくセント・ポール大聖堂の鐘が十二時を打ち、そのほかのロンドンじゅうの鐘も、暗い空中にそびえている、さまざまな高い塔、低い塔から、いろいろな音色で十二時を打つ。あらゆるものがふたたび静かになると、この部屋の下宿人がいう。
「とうとう、約束の時間になった。おれは出かけようか?」
ガッピー君はうなずき、「うまくいくように」と縁起をかついで彼の背中に手をかけるが、習慣どおりに右手を使おうとはしない、洗ったほうの手が右手なので。
彼が階下へ降りてゆくと、ガッピー君は長いこと待たされるつもりで、煖炉の前に落着こうとする。しかし、一分か二分しか経たないうちに、階段がきいきいという音を立て、トニーが足早に戻って来る。
「手紙を手に入れたのかい?」
「手に入れた! いいや。おやじさんはあそこにいないんだ」
トニーはその短い時間のあいだにすっかりおびえ切ってしまったので、彼の恐怖がガッピー君にも乗り移り、ガッピー君は彼に向って突進してゆき、「どうしたんだ?」と大声で尋ねる。
「いくら呼んでも返事がないんで、おれはそっとドアをあけて、中をのぞいたんだ。すると部屋には火の燃えるにおいがする――そして煤だらけだし、油が流れている――そしておやじはいないんだ!」トニーはそういい終って、うめき声をあげる。
ガッピー君は明りを手に持つ。二人は生きた心地もなく下へ降りてゆき、たがいに手を握り合ったまま、奥の店のドアを押しあける。例の猫はそのすぐ近くまで退いていたが、立ってうなり声をあげる――二人に向ってではなく、煖炉の前の、なにか床の上にあるものに向ってである。炉の|火床《ひどこ》にはほんのわずかの火しか残っていないが、室内には息がつまりそうなほどくすぶった煙が立ちこめ、四方の壁と天井には黒い脂が一面にこびりついている。テーブルと椅子、それにほとんどいつもテーブルの上にある酒のびんは、みな平生どおりの位置に立っている。一つの椅子の背には、老主人の毛のついた頭巾と上衣がかけてある。
「見ろ!」とトニーは声をひそめながら、震える指でガッピー君の注意をそういった品々に向けながらいう。「おれが君に話したまんまだ。夕方、おれが会った時に、おやじさんは頭巾をぬいで、古い手紙のちいさな束をとり出して、椅子の背にかけたんだ――上衣はもうあそこにあった、店のよろい戸を締めにいく前からぬいでいたんだからな――それで、おれはおやじさんが、ちょうどあの黒い、ぼろぼろにくずれかけたものが床の上にあるところに立って、手に持った手紙をめくっている時に出ていったんだ」
老主人は首をつってどこかにぶらさがっているのだろうか? 二人は上を見上げる。しかし、そうではない。
「見ろ!」とトニーがささやく。「あの椅子の脚もとに、ペンを束ねる時に使う赤い細ひもの汚れた切れっぱしがある。あれで例の手紙をしばってあったんだ。おやじさんは手紙をめくる前に、意地悪そうに横目でおれを見て笑いながら、細ひもをほどいて、あそこへ投げた。ひもが落ちるのを、おれは見たぞ」
「あの猫はどうしたっていうんだ?」ガッピー君がいう。「猫を見てみろよ!」
「気が狂ったんだろう。こんな不吉なところにいりゃ、それも無理はないさ」
二人はこういうものすべてを眺めながら、そろそろ前へ進んでゆく。猫は二人が先程見た時にいた場所を離れずに、二つの椅子にはさまれた、煖炉の前の床の上にある、なにか分らぬものに向って、あい変らずうなりつづけている。あれはなんだ? 明りをかざして見よ。
ここは床板の一部分が燃えてしまっているし、ここには燃えたちいさな紙束の|火口《ほくち》があるが、なにかに|濡《ぬ》れたと見えて、ふつうの火口ほど軽くない、それにまた、ここには――あれは黒こげになって折れた、ちいさな丸太の燃えがらが、灰をかぶっているのか、それとも、あれは石炭なのか? ああ、おぞましい、彼がここにいるのだ! しかも、この、われわれが火口で火をつけ、たがいに押し合い、へし合いしながら、恐れおののいて表通りへ逃げ、避けてゆく、たったこれだけのものが、今や彼の一切なのだ。
助けてくれ、助けてくれ、助けてくれ! 後生だから、この家の中へはいって来てくれ!
大勢の人々がはいって来るだろうが、しかし、だれ一人として助けてやることはできない。あの|小路《コート》の大法官閣下は、いまわの際に自分の肩書にそむかず、あらゆる|裁判所《コート》の大法官閣下、ならびにその名称|如何《いかん》を問わず、詐欺をなし不公正をおこなう、あらゆる地位の官憲と同じ死を遂げたのだ。その死を、閣下たちがなんと呼び、だれのせいにし、どのようにすれば防ぎ得ただろうといったところで、それは永遠に同じ死である――邪悪な肉体それ自身の腐敗した体液によって生じた、持って生れた、生得の死であり、それ以外の何物でもない――すなわち、ありとあらゆる死のうちで、それは「自然発火(6)」 以外のいかなるものでもない。
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訳註
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第十七章 エスタの物語
(1)団体遊戯の一種。二音節以上の語で、各音節がそれぞれ独立した語としての意味を持っている言葉をえらび、その言葉と各音節の意味を、それぞれ謎の形で(またはジェスチャーで)示して、当て合う遊び。
(2)サー・ウィリアム・ブラックストン(一七二三―八〇年)、イギリスの裁判官。オックスフォード大学教授。その著『イギリス法注解』はイギリス法の体系的著作として英米のみならず大陸でも読まれた。
(3)ローマ神話で、学術、工芸、戦術、知恵の女神。
(4)イギリスのことわざで「跳ぶ前に見よ」は、実行する前に熟慮せよ、の意。
(5)イングランドの西部の半島。ウェールズ人はケルト系の独自の言語と文化を持っている。
第十八章 デッドロック家の奥方
(1)中世の伝説で、運命の女神から、永久にからにならない財布を授かり、そのため身をほろぼした老乞食。
(2)ギリシャの伝説で、トロイ戦争の時のギリシャ方の傲慢不遜な英雄。ギリシャ名はアイアス。サラミス王のアジャックスと区別して、小アジャックスといわれる。アテネ女神に憎まれ、海に沈められ、海神ポセイドンに救われたが、自分の力によるとうぬぼれ、稲妻に、自分を倒せるものなら倒して見よと挑んだため、たちまち海中に沈められて死んだ。
(3)旧約聖書「詩篇」第百四十三篇第二節参照。「エホバよ」(欽定英訳聖書にこの語はない)以下は次のとおり。「そは生けるもの一人だに聖前に義とせらるるはなし」。
(4)イギリスの詩人ジョン・ミルトン(一六〇八―七八年)の仮面劇『コウマス』(一六三四年)の二二一―二二二行に「黒雲が銀色の裏地を闇夜にひらめかせた」とある。
第十九章 立ちどまってはいかん
(1)この句には「鉄面皮の」という意味がある。
(2)もとウェストミンスター宮殿の一部だった、国会附属の会館で、普通法および衡平法上の主要裁判所がここで開廷された。ただし大法官裁判所は、のちにリンカン法曹学院に移った。
(3)「シューター」という語にはもうひとつの「求婚者、恋人」という意味がかけてある。
(4)テムプルのすぐ東北端にある。もと上級法廷弁護士養成のための法曹学院だった。
(5)満潮の時にだけ船が出入できる港。
(6)裁判官が地方を巡回して裁判する時の正式な服飾品の一つ。以下の四つもその時の服装、供まわり、附属品。
(7)弁護士のこと。「博学な」は法律に通じたという意味で、一般に弁護士資格のある者に対する敬称として使われる語。
(8)イングランドのケント州北岸にあり、イギリス有数の海水浴場。
(9)同じくケント州にあり、マーゲトからまっすぐ南岸の海水浴場。
(10)これもケント州のテームズ川の河口にあり、むかしからロンドン市の賓客の公式接待場になっている。
(11)むかし、一種のヒーターとして使った鉄片。これを熱して、旧式のアイロンや湯わかしにつけた窪みに差しこむ。
(12)この語の原語「ヴェスル」は、聖書における慣用にちなんで、比喩的に、なんらかの精神的特質を入れる容器としての「人」の意味がある。
(13)「ヴェスル」には、船、特に海を航行したり、大きな河などを往復する船、という意味もある。
(14)一ポンド金貨。すなわち二十シリング。
(15)国じゅうでもっともよい物を食べる、ぜいたくな暮しをする、の意。旧約聖書「創世記」第四十五章十八節および第二十七章二十八節参照。
(16)旧約聖書「創世記」第二十七章二十八節参照。
第二十章 新しい下宿人
(1)「チック」は「ひよこ」「子供」の意味。また同音同形の別の語に「人ずれのした」「ハイカラな」という形容詞がある。また「チックウィード」はちいさな雑草の「はこべ」のこと。
(2)ロンドンの東南部、テームズ川南岸に沿った自治区。
(3)半官的な年次刊行物で、イギリス全国の朝野法曹を登載している。
(4)妖精が赤ん坊を盗んで、その代りに置いていった、みにくい、おろかな子。
(5)比喩的な意味で、賢そうに見えるおろか者をいう。
(6)むかし、不動産回復訴訟で、訴訟の煩雑さを省くため、裁判所が認めて原告が利用した架空の人物。一般に原告の意。
(7)前注と同じ場合に、被告が利用した架空の人物をリチャード・ロウといった。一般に被告の意。
(8)ハーフ・アンド・ハーフは、ふつうのビールとスタウトを半々にまぜたもの。
(9)英語の「かいばおけ」(メインジァ)と、フランス語のマンジェとは同じつづり。
(10)イギリスの代議士が議場で他の代議士をいう時の呼びかた。
(11)原語「フラット」に、境遇などが「おもしろくない」「好ましくない」という意味があるのにかけている。
(12)イギリスの貨幣単位で、一ポンドは二十シリング、一シリングは十二ペンス。
(13)アルビヨンはグレート・ブリテン島の古い名称で、後にはイングランドを指す詩的用語。
第二十一章 スモールウィード家の人々
(1)イスラエル人が来住する前にカナンに住んでいた古代の民族で、イスラエル人の敵。
(2)ジューディスの愛称。
(3)イギリスの有名な童話の主人公ジャック。隠れみの、飛行ぐつ、魔法の剣を手に入れて巨人を退治した少年。
(4)野球にやや似た屋外球技で、イギリスの国技といわれる。
(5)神の知恵と正義を表わす天使。ふつう、愛らしい子供の姿に描かれる。
(6)比喩的に、無味乾燥な、という意味の句。
(7)イギリス等にいた古代ケルト族の宗教ドゥルイディズムの僧。巨石を円形にならべた、いわゆる「ストーンヘンジ」などが彼らの遺跡と考えられていた。
(8)Devil(悪魔)の意。
(9)「一度悪党になれば、つねに悪党」ということわざを、もじったもの。
(10)ドイツ出身のイギリス作曲家ヘンデル(一六八五―一七五九年)のオラトリオ。サウルは紀元前十一世紀のイスラエル初代の王。旧約聖書「サムエル前書」九―三十一章参照。
第二十二章 バケット警部
(1)手錠を意味するスラング。そこから、ここでは警官に対するあだ名として使われている。
(2)マリヤに抱かれた幼いキリストを指す。
第二十三章 エスタの物語
(1)老齢の意。シェイクスピア『マクベス』五幕、三場、二十三行参照。
第二十四章 上訴事実記載書
(1)原語「インファント」の普通の意味は、七歳以下の「幼児」。
(2)英国、ウェールズの港。ここからアイルランドのダブリンへの航路がある。
(3)軍楽隊は葬儀の時、太鼓を黒布で包み、音を低くする。
(4)ジョン・ショー(一七八九―一八一五年)。イギリスの近衛騎兵連隊の伍長。剣術にすぐれ、拳闘家としても有名だった。ワーテルローの会戦で武勲を立てて戦死した。
第二十五章 スナグズビー氏の細君すべてを見抜く
(1)貴族の身分を示す小形の冠。
(2)第十一章注(3)および本文参照。
(3)種々のパーティ・ゲーム、たとえば語呂合わせ、しりとりなど、負けた者が遊戯中に罰として、歌をうたわせられたり、その他隠し芸などをさせられる遊戯。
(4)レスリングで、相手を倒して両肩をマットにつけて勝つ決め手。
(5)神または良心の声。旧約聖書「列王紀略」上、第十九章十二節参照。
(6)でたらめの話の意。
(7)「彼の骨の……影の影」は妻の意味。アダムがエバを「わが骨の骨わが肉の肉」といった句にちなむ。旧約聖書「創世記」第二章二十三節参照。
第二十六章 狙撃兵たち
(1)むかし、地中海で使われた、オールを備えた大型帆船で、たいがい奴隷と犯罪人に刑罰としてオールをこがせた。
(2)むかし、監獄内で囚人に対する懲罰の苦役に使ったもの。
(3)十五世紀以前から今世紀初めまでロンドンの旧市内にあったイギリスで一番大きい監獄として有名。
(4)リンカン法曹学院の北、半マイルくらい。
(5)ここで言う「病院」とは、金や身よりのない人を収容する慈善病院のこと。全然身よりのない病人が死ぬと、その遺体を医学生の解剖実習用にまわし、最後には骸骨をガラスのケースに入れて教材として展示したことがある。
(6)三つともレスリングのスタイル。
(7)一六〇五年のこの日、国王以下の出席する開会式のイギリス国会を爆破しようとする陰謀が何人かのカトリック教徒によって企てられたが、露見して未然に終った。爆破を担当した軍人の名にちなみ、十一月五日を「ガイ・フォークスの日」といい、彼に似せた奇怪な人形を子供が行列を作ってかつぎ回り、最後に焼き捨てる行事がおこなわれる。
(8)原語は人形をも意味する。
(9)むかし、火のともったろうそく等の上にかぶせて火を消すのに用いられた円筒形の金属または陶製の火消し器を、この老人のずきんにたとえたもの。
(10)拳闘のこと。
(11)おどろきを示す。
(12)英国国教会の「祈祷書」中の連祷にある句は「稲妻とあらしより、疫病、悪疫、飢饉より、戦いと殺害より、急死より、よき主よ、われらを救わせ給え」。
第二十七章 老兵は一人にあらず
(1)一ギニーは二十一シリング相当の古い金貨。
(2)古くからあった「エレファント・アンド・カースル」(やぐらをつけた象)という居酒屋のこと。シェイクスピアの『十二夜』にも出てくる。注(4)参照。
(3)ロンドンのテムズ川南岸地域のサザク自治区にある六つの街道の接合地点。駅馬車時代から交通がはげしく、前注の居酒屋がここにあったので、その名がここの地名になっている。
(4)むかし、戦争に使った象の背に、兵士を乗せるためにつけたやぐらを「カースル」といった。
(5)汽車のこと。
(6)ギリシャ神話の牧神パンが使ったといわれる楽器。長短の管を長さの順に、いかだ状につらねた形をし、口で吹く。
(7)マシューの愛称。
(8)ウーリッジも出生地にちなんだ呼び名。ウーリッジはテムズ川南岸にある自治区。ここには工・砲兵の旧陸軍士官学校その他軍の施設が多い。
(9)木管楽器の一種、低音の大笛。
(10)むかしは台所など、家の中のれんがの床の上に砂をまいておく習慣だった。
(11)原語は軍隊用語で飯ごうのような携帯用食器。
第二十八章 鉄工場主
(1)英語のことわざ「殺人は知られずにはいない」は、わが国の「悪事千里を走る」に当る。
(2)イングランド西南の温泉地。古くから開け、十八世紀以来歓楽地として有名。
(3)原語はキリスト教で、神によって選ばれ救いと永遠の生命をえる人々を指す語だが、それを上流社会のエリートに使っている。
(4)第二章注(3)を参照。
(5)第七章注(2)を参照。
(6)英国国教会制定の祈祷書中に、キリスト教の教義を問答式に説いた「教義問答」があり、その中で「隣人に対する私の義務は……神様が私に命じ給うた身分における私の義務をはたすことです」と教えている。
第二十九章 若い男
(1)シェイクスピアの四大悲劇の一つ『オセロー』の主人公はムーア人。
(2)いつもすわっている腰かけのこと。本来はギリシャ神話の神々が住んでいたところ。マーキュリーという名は、ギリシャ神話の神ヘルメスに相当する。
第三十章 エスタの物語
(1)スコットランド北西部の高地地方で、ここ出身の陸軍部隊はイギリス最強といわれた。
(2)英国の諺「毛を刈り立ての小羊には神も風を加減する」。
(3)ローマにあるカトリック教の教会で、キリスト教国最大の教会。
(4)「サン・キュー」といおうとしたのである。
(5)アンデルセンの童話の「みにくいあひるの子」(英語で「アグリー・ダクリング」)にかけた言葉か。
第三十一章 看護人と病人
(1)ぶどう酒に砂糖、香料、レモンを加え湯で割った飲物。
(2)第六章の注(1)参照。
(3)新約聖書「ルカ伝」第七章十一―十八節にある、キリストによるやもめの子の復活の話。
(4)同じく「ルカ伝」第八章四十一―四十二節、四十九―五十節にある、キリストによる会堂の司ヤイロの娘の復活の話。この話は「マタイ伝」第九章十八―二十六節および「マルコ伝」第五章二十二―四十三節にもある。
第三十二章 約束の時間
(1)旧約聖書「詩篇」第二十三篇中の「死の影の谷」にちなんだ句。
(2)ギリシャ神話の、百の目をもった巨人。
(3)シェイクスピアの『ハムレット』五幕一場にその名が出て来る道化師。
(4)軽蔑、またはじれったい気持を示す時の身振り。
(5)ギリシャ神話で、死者の霊が死者の国へはいる時に渡る河の渡し守り。
(6)人間が強い酒を長期間多量に飲み続けていると、血液中のアルコール度が極度に高まり、遂には自然に発火することがあるという「自然発火」説が当時広く信じられていた。ディケンズ自身も信じていたらしいことが、「単行本初版への序文」(第四巻所載)により推察される。
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解説2 ディケンズの前期作品について
[#地付き]青木雄造
ディケンズの親友で彼のすぐれた伝記を書いたジョン・フォースターは、ディケンズの「自伝の断片」の中に少年時代の読書について次のように書いたといっている(この文章は『デイヴィド・コパフィールド』第四章にそのままの形で出ている)。
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私の父は、二階の小さな部屋に、ちょっとした蔵書を残してくれていた。そしてここには、(ちょうど私の部屋の隣だったので)自由に出入りすることができ、しかも家内のほかのものは、完全に関心がなかった。そしてこの有難い部屋からは、ロデリック・ランドム、ペリグリン・ピクル、ハンフリ・クリンカー、トム・ジョーンズ、ウェイクフィールドの牧師、ドン・キホーテ、ジル・ブラス、ロビンソン・クルーソーなどといったすばらしい面々が、続々として現れてきて、私の友だちになってくれた。どんなに彼らが――そしてまたほかには、「アラビヤ夜話」があった、「妖精物語」があった――私の空想を生きいきと刺戟し、その場所や時間をこえての希望に、私の心をそそり立ててくれたことか! (中野好夫氏訳)
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ここに挙げられている『アラビヤ夜話』とペルシャの物語集といわれる『妖精物語』の二冊の書物を除けば、あとの名前はすべて小説の主人公であると同時に作品名であるし、これらのすべてがディケンズの文学上の教養と技法の基礎を形成したといってよい。はじめの三つはイギリス十八世紀のトバイアス・スモレットのいわゆる悪漢小説(ピカレスク・ノヴェル)であり、『トム・ジョーンズ』も同じくイギリス十八世紀のヘンリ・フィールディングの悪漢小説形式の作品である。『ウェイクフィールドの牧師』は同じくイギリス十八世紀のオリヴァ・ゴールドスミス作で、これは感傷小説(センチメンタル・ノヴェル)であるが、セルバンテスの『ドン・キホーテ』とイギリス十八世紀のダニエル・デフォーの『ロビンソン・クルーソー』は悪漢小説的な構成であるし(デフォーは悪漢小説をいくつか書いている)、フランス十八世紀のル・サージの『ジル・ブラス』は悪漢小説の代表的な作品である。それから『アラビヤ夜話』と『妖精物語』の怪奇と幻想はそのままの形ではないけれども、ディケンズの中に多く見られる。特にスモレットの作品が三つ、まず最初に挙げられているのは興味深い。ディケンズは小説の構成において悪漢小説形式であるばかりでなく、人物造型においてもスモレット的である。
先に述べたディケンズの処女作の短篇「ポプラ街での晩餐」(現行版における題名は「ミンズ氏と従弟」)は、民法博士会の書記をしている裕福な中年の独身者ミンズ氏に従弟の穀物商バドンが取入って、やがて遺産の分配にあずかろうという思惑から、まず手初めに自宅の晩餐に招待するが、結果的に隠遁的なミンズ氏をがさつ者のバドンがさんざんな目に会わし、彼の計画が失敗に終るという、「当世気質」を諷した物語である。これに続いて同様の短篇と、ロンドンの風物を写生した小品文を書いて、ディケンズは好評を博し、それらを作品集『ボズのスケッチ集』(一八三六年)にまとめ、彼は一躍新進作家として認められた(ボズとは彼のペンネームである)。この短篇集にはいろいろな欠点はあるけれども、当時のロンドンの庶民の生活と風俗を精確な目によって余すところなく捉え、こういう人々の日常の悲喜哀歓を諧謔とペーソスをもって眺め、その中に新しいドラマとロマンスを発見したのである。一八二〇年代からそれまでのイギリス小説界におこなわれていた非現実的な社交界小説や、スコットの摸倣者たちの粗雑な時代小説や、思想・学説を解説したプロパガンダ小説、あるいはきわめて低俗な滑稽小説などのあいだに置かれると、『ボズのスケッチ集』はきわめて清新であった。
この短篇集には、すでにディケンズの本質的な特徴がいくつか現れているが、その最も顕著なのは人物造型の方法である。彼は作中人物を創造する場合に、精確精密な観察によって、外部から人物の諸特徴を、つまり容貌、姿勢、服装、身ぶり、特に動作の癖や、しゃべる時の口癖の文句を巧みに捉え、それを実物以上に拡大し、デフォルメして見せる。これはいわゆる「戯画」(カリカチュア)といわれる方法であって、スモレットから学んだものである。ディケンズのヒューモアはこの方法によって生れる。すなわちアンドレ・モーロワのいうとおり、あくまでリアリスティックな態度を保ちながら、読者の注意を向けようと願っている点だけを、想像力によって、意識的に拡大したり、縮小すると、その均衡の破綻が笑いを呼ぶのである。
ヒューモアはディケンズの最も大きな特徴で、多かれ少かれ彼のすべての作品に重要な役割を演じている。それが最も天衣無縫な形で現れているのは、『ボズのスケッチ集』の次に出た、彼の最初の長篇『ピクウィック・ペーパーズ』(一八三六―三七年)である。これは登場人物が三百名以上に上る長い物語で、全部が多数のエピソードをつなぎ合わせた形式を取っていて、統一的なプロットがない。それを一口でいうなら、ピクウィック・クラブの会長ピクウィック氏が三人の会員と方々の土地を旅行して、道中の見聞や遭遇した事件をクラブに報告した記録という形をとっている。こういう構成の小説が「悪漢小説」である。ピクウィック氏は悪漢どころか、この上もない善意の人であるのに、なぜこの形の構成を持った小説をそう呼ぶかといえば、元来この種の物語形式はルネサンスの頃から流行して、社会からはみ出して定住の場所を失った悪者やごろつきが各地を遍歴して、自分の体験した異常な事件をつぎつぎに綴った物語を指したからである。その後は主人公の悪漢であるなしにかかわらず、構成の面からこの種の小説を「悪漢小説」と称する。この構成形式は先に触れたように、ディケンズが幼少から親しんで来た、十八世紀のフィールディング、スモレット以来のイギリス小説の伝統的な形式であったし、ディケンズがこの初めての長篇の途中から、ピクウィック氏の相手役に従僕サム・ウェラーを登場させたのも、この種の小説構成における常套手段の一つで、ドン・キホーテとサンチョ・パンサや、スモレットの『ハンフリ・クリンカー』における主人ブラムブルと馬丁クリンカーといった手本に従ったのである。『ピクウィック・ペーパーズ』以後もディケンズの長篇『オリヴァ・トゥイスト』(一八三七―三九年)、『ニコラス・ニクルビー』(一八三八―三九年)、『骨董屋』(一八四〇―四一年)、『マーティン・チャズルウィット』(一八四三―四四年)なども悪漢小説的な面が少くない。
そしてサム・ウェラーは小説構成上の主人公ピクウィック氏に代って作品を実質的に支配し、この作品の本質を成している笑いはサムをめぐって示されている。誠実、有能で、機智縦横なサムは、どんな場合にも主人に忠実で、どんな状況にも対処することのできる忠僕というだけでなく、庶民の知恵と善良さを具現している、ディケンズの理想的人間像にほかならない。サムは本質的には円満な現実家であり、その健全な常識とヒューマニティは、一方では底抜けの善人ピクウィック氏の夢みがちな理想主義の破綻を救い、他方では笑いを通して山師、偽善者たちの人間性喪失を批判している。そこに諷刺的意図がこめられていることは明らかであるが、彼らの悪徳が、まじめくさったサムの機智とヒューモアのレンズを通して顕微鏡的精密さで拡大されると、われわれはとげとげしい|弾劾《だんがい》よりも笑いをあげる。なぜなら、人間の本然の姿からはずれた|畸形《きけい》的存在は、健康な民衆にとってなによりもまず滑稽なものに見えるからである。『ピクウィック・ペーパーズ』が月刊の分冊として出た当初は三千部ほどの売れ行きであったが、サム・ウェラーの登場が人気を呼び、終りには四万部に達し、その発行部数以上に、およそ一つの文学作品でこれほど広くまた烈しく国民から熱狂的な歓迎を受けた例は、世界の文学史上にないといわれる。そしてディケンズは作家としても社会人としても、ゆるぎのない地歩を占めるようになった。
『ピクウィック・ペーパーズ』がまだ完結しない一八三七年一月に月刊雑誌「ベントリーズ・ミセラニー」の編集長になったディケンズは翌月から同誌に長篇『オリヴァ・トゥイスト』を連載しなければならなくなった。この作品は、一貫したプロットと統一的なテーマを持った、彼の最初の「ノヴェル」であり、またはじめて、社会改革を主張した作品であった。救貧院で生れかつ育った主人公のオリヴァ少年は苛酷な院内の生活に耐えられず、逃亡してロンドンへゆき、スリや強盗の仲間に引き込まれ、暗黒街の生活を経験するが、死んだ父親の旧友である慈善家に救われて幸福な生活にはいるという筋である。ここではディケンズの明るい笑いはもう影をひそめ、一八三四年に改正された貧民救済法の非人道的な欠点と、この苛酷な法律がむしろ社会悪を生み出すことを指摘して、その直接間接の責任者に激しい怒りと嘲笑を投げつけている。作品自体はというと、筋の発展が偶然に頼っているのと、オリヴァを救う善意の人々があまりにも善良にセンチメンタルに描かれているため、印象が弱いのに比べて、スリの親分フェイギンとその手下の少年たちと強盗サイクスや、彼らの巣くっている暗黒街や、貧民窟の描写のほうが生彩に富んでいる。
一八五〇年に完成された『デイヴィド・コパーフィールド』までをディケンズの作家生活の前半期と考えれば、前記以外の長篇のうち『ニコラス・ニクルビー』では私塾の営利主義的経営を批判した社会改革の主張が述べられており、『骨董屋』はロンドンで孫娘ネルと暮して骨董屋を営んでいる老人が賭博に熱中し、高利貸クウィルプに店をとられて放浪の旅に出て、苦難のため可憐なネルが病死するまでを感傷的に描いて、多くの読者を泣かせた。
『マーティン・チャズルウィット』は利己主義の批判、貧困者に対する衛生施設の改善が主題になっているが、またアメリカ批判も書かれている(作者はこの小説を出す前の年にアメリカへいって来たので、作品の売行きがかんばしくないと見ると、さっそく新趣向として取入れたのである)。この作はそういった主題とか目的を超越するほど奔放な喜劇的精神に満ちあふれている小説なのである。利己主義批判はまず第一に主人公マーティンに向けられていて、この善良な若者はたしかに改心するが、作中人物としては生彩がない。偽善者のペックスニフと、非衛生的で残酷で無知な酒飲みの看護婦ミセス・ギャムプのほうが、それ自体としてはいまわしい、またグロテスクな人物たちではあるが、その途方もない滑稽さによってこの小説をイギリスの喜劇文学の傑作にしている。
今までに挙げたディケンズの作品を見ると、ほとんどどの作品の主人公あるいは重要人物も、みなし子が出て来るのでおどろく。両親のない子、片親の子ばかりではない。親がいても打ち捨てられて顧みられない子、親とのあいだにまったく気持の通い合いのない子――これらも比喩的な意味で孤児といえる。例えばオリヴァ・トゥイスト、ニコラス・ニクルビー、マーティン・チャズルウィット、『骨董屋』の少女ネルはみなし子である。まだ言及してない作品では『ドムビー父子』のドムビー家のポールとフロレンス、『デイヴィド・コパフィールド』のデイヴィド、『荒涼館』のエスタ・サマソン、エイダ・クレア、リチャード・カーストン、浮浪児のジョー、『ドリットちゃん』の娘ドリット、『苦の世』のルイザとトム、『大いなる遺産』のピップがそうである。そのほかまだ何人もいる。こういう特異な現象は作者ディケンズが、先に述べたように十二歳の時に工場へ働きに出され、父母弟妹と同居させてもらえず、父が出獄して家計が好転した後も母の意見で(と彼は信じた)しばらく学校へやってもらえなかった経験によるものと考えられる。その当時彼が感じた、両親に見捨てられ、いやしい身分に落ちたという孤独感、絶望感、屈辱感は彼の一生を決定する重大な体験であった。この体験は彼に立派な人間になろうという向上心と出世心を植えつけ、結果的には幸いしたが、彼の心に一生消えない傷を与えた。彼は当時のことを自分の子供たちにさえ生涯話さなかったが、一八四七年に親友ジョン・フォースターから、工場で働いていた時分の知人のことを偶然質問されたのち、自叙伝を書き始めた。自分を苦しめる過去と対決し、これを克服しようと考えたものと思われる。しかし、自叙伝は断片だけに終った。その中に次のような言葉がある。
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そういう思い〔少年ディケンズの感じた〕がもたらす悲歎と屈辱感とが、私の性格全体にしみこんでしまったので、世に名を成し、もてはやされ、幸福になった現在でさえ、しばしば私は夢を見て、その中では、愛する妻や子供のできたこと、いや私が大人になったことさえ忘れ、ひとり寂しくあの当時へとさまよい戻ってゆくのである。
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こういうディケンズはどうしても過去を清算しなければならなかった。同じ一八四八年の『|憑《つ》かれた男』は、悲しい過去の記憶に悩んでいる化学者が悪魔と契約して記憶を売る話である。これは一八四三年以来クリスマスに出して来た家庭向けの中篇読物、いわゆる「クリスマスの本」の一つである。「クリスマスの本」としては有名な『クリスマス・キャロル』(一八四三年)、『炉辺のこおろぎ』(一八四五年)がすぐれており、そのほか『鐘の音』(一八四四年)、『人生の戦い』(一八四六年)がある。
ディケンズの過去との総決算は長篇『デイヴィド・コパーフィールド』においておこなわれた。これは主人公デイヴィドが一人称で物語る自叙伝の形式をとっており、作者自身の経験と感情とを、事実そのまま、あるいは虚構をまじえて表現してあることは、彼の中絶した自叙伝の断片が大体そのままの形で取入れられたことからも、うかがわれる。誕生前に父を失ったデイヴィドが母の再婚と死によって、冷酷な継父のため暗い少年時代を送ったのち、親切な大伯母の保護を受けて学業を終え、ついで法律修業を始め、速記者、議会報道記者を経て作家となり、初恋人との結婚、その死、再婚、そして作家として名を成すに至るまでが書かれている。このメイン・プロットの周囲にサブプロットとして、主人公をめぐるさまざまな人物のさまざまな事件がからみ合わされている。デイヴィドの愛する母を継父マードストンとその姉はピューリタン的なきびしい「しつけ」で、いわばいじめ殺したような形になり、それからデイヴィドは彼の関係している会社へ少年工として出される。この部分はもちろん事実を変えているが、ディケンズが両親に対して抱いた悲痛な感情が投影している。しかし、作者にとって最も苦渋に満ちた材料を扱いながら、公正な節度のある態度で諸人物を扱っている。初恋人ドーラのモデルは、大体、作者自身の初恋の対象だったマライア・ビードネルだといわれる。マライアとの恋のいたましい結末は人間ディケンズの生涯における第二の重要な事件であり、この小説におけるデイヴィドとドーラとの結婚は実現できなかった願望を作品で満たしている感があるけれども、デイヴィドはむしろ自分の恋が「未熟な心の最初の誤った衝動」だったと認めている。とにかく、この作品を書くことによってディケンズはひとまず過去の亡霊を克服した。彼はこの小説を「私の愛児」と呼んでいるが、特に幼いデイヴィドの目を通して描かれた部分は圧巻である。また作中人物としては幸運を空頼みする楽天家のミコーバーがすぐれており、デイヴィドの学校友達のスティアフォースは自我主義のシニックな知識人の一タイプで、ディケンズとしては珍しい型の人物である。
『デイヴィド・コパフィールド』はデイヴィドの人間的成長の記録であるが、作者がもっとも切実な関心を抱いていた少年時代と初恋の時代に関する部分を除けば、精神の内面的発展よりも外部的事件の継起それ自体に、より多く関心とスペースが向けられている。その意味では悪漢小説の一変種といえる。本来の悪漢小説における空間的な遍歴が時間の中における遍歴に変っているからである。だが、ディケンズはもう悪漢小説と訣別する時期に来ていた。
[#地付き](一九六九年七月)
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C.ディケンズ(Charles Dickens)
(一八一二――一八七〇)イギリスの小説家。女王から貧しい庶民の子供までが愛読したヴィクトリア期最大の国民的文豪。下級官吏の長男として生まれ、貧苦の末に小学校程度の教育を身につけた後は、法律事務所の使い走りを振り出しに、速記者、新聞記者と、わずかな余暇を図書館での勉強と芝居見物に費やすほかは、全て独力で生活の資を稼ぎながら創作生活に入り、一躍人気作家となる。著作活動のほかに慈善事業、雑誌編集、素人芝居、自作公開朗読会等、多方面で活躍。『ピクウィック・クラブ』『オリヴァー・トゥイスト』『骨董屋』『マーティン・チャズルウィット』『クリスマス・キャロル』『デイヴィッド・コパフィールド』『リトル・ドリット』『二都物語』『大いなる遺産』『我らが共通の友』など数多くの名作を残した。
青木雄造(あおき・ゆうぞう)
一九一七年、東京に生まれる。東京大学英文学科卒。元東京大学教授、後に名誉教授。日本英文学会会長をつとめた。一九八二年歿。訳書にギッシング『ライクロフトの手記』『くもの巣の家』、ワイルド『幸福な王子』、コンラッド『秘密の同居人、文明の前哨地点』、ロレンス『死んだ男』、グリーン『密使』、カー『九つの答』など多数。
小池滋(こいけ・しげる)
一九三一年、東京に生まれる。東京大学大学院人文科学研究科博士課程修了。東京都立大学教授、東京女子大学教授を歴任。著書に『ロンドン』『ディケンズとともに』『英国鉄道物語』『もうひとつのイギリス史』など多数。
本作品は一九七五年一月、筑摩書房より「筑摩世界文学大系34」として刊行され、一九八九年三月、ちくま文庫に収録された。