荒涼館 1
C.ディケンズ/青木雄造・小池 滋訳
目 次
第一章 大法官裁判所
第二章 上流社会
第三章 歩み
第四章 望遠鏡的博愛
第五章 朝の冒険
第六章 家でくつろぐ
第七章 幽霊の小道
第八章 多くの罪を覆って
第九章 印しと兆し
第十章 代書人
第十一章 われらの親しき兄弟
第十二章 警戒
第十三章 エスタの物語
第十四章 行儀作法
第十五章 ベル・ヤード横町
第十六章 トム・オール・アローンズ通り
訳註
解説1 ディケンズの影響とその生涯
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荒涼館 1
BLEAK HOUSE
第一章 大法官裁判所
ロンドン。ミクルマス開廷期もこのほど終り、大法官はリンカン法曹学院内の大法官裁判所にいる。十一月のきびしい天候。通りという通りは、さながら洪水がつい今しがた地球の表面から退いたばかりのように、泥にまみれ、これでは、体長四十フィートほどもある斑竜が、巨大なとかげのようにホウバン岡をよちよち登ってくるのに出会っても、ふしぎはあるまい(1)。|煤煙《ばいえん》が家々の煖炉の煙突から舞いおり、ぼたん雪ほどもある大きな|煤《すす》のかけらをまじえた、黒い、しっとりした霧雨になる――太陽の死を|悼《いた》んで喪服をつけたかのように。犬どもは泥にまみれて見分けがつかない。馬たちもそれにおさおさ劣らぬ有様で、目かくし皮のところまでもはね[#「はね」に傍点]が上っている。道ゆく人たちはみな不機嫌が伝染して、たがいにこうもりがさをぶつけ合い、町かどで足をふみすべらせる。そしてここでは、夜明け(こういう日にも夜明けがあったとしての話だが)以来、そのほか何万という歩行者がつまずいたり、すべったり、地面につぎからつぎへと新しい泥をつみかさねるので、泥は歩道に|執拗《しつよう》にこびりつき、ねずみ算式にふえてしまった。
どこもかしこも霧だ。テムズ川の川上も霧で、緑の小島や牧場のあいだを流れている。川下も霧。ここでは、たくさんに並んだ船のあいだや、この大きな(そして薄汚ない)都会の不潔な河岸のあたりを、霧が汚れた渦をまいて流れてゆく。エセックス州の沼沢の上も霧、ケント州の丘陵の上も霧、そして石炭運送帆船の上甲板の|賄《まかな》い所の中へ忍び入る、大きな船の帆桁の上に寝そべる、索具の中をうろつく、はしけや小さなボートの船べりにしなだれかかる。グリニジ海軍病院の病室の煖炉のそばで、ぜいぜい|咳《せき》こんでいる老廃兵の目やのどの中へもはいりこむ、むかっ腹を立てた船長が甲板下の息苦しい自室の中でふかしている午後のパイプの|柄《え》や火皿にはいりこむ、その上の甲板で身ぶるいしている、おさない見習い水夫の手や足の指をじゃけんにつねる。橋の上を通りかかった人たちがらんかん[#「らんかん」に傍点]越しに、空に見まごう下の霧をのぞいている、そのまわり一面も霧で、さながら人々は軽気球に乗って、雲のもやの中に浮んでいるよう。
霧の中からぼんやりガス灯が町のほうぼうに現れる。それは、農夫や|犂《すき》ひき馬の手綱をとる少年がよく見かける、海綿のような湿地の畑から太陽が現れる時の光景を思わせる。たいがいの店は定刻の二時間も前から明りをつけている――ガス灯はそれに気づいているらしく、やつれた、気のすすまなげな面持ちだ。
底冷えのするこの午後がいちばん底冷えし、濃い霧がいちばん濃く、泥まみれの町なみがいちばん泥まみれになっているところは、|鉛頭《なまりあたま》の古いロンドン市自治体の入口を飾るにいかにもふさわしい、あの鉛頭の古い邪魔物、テンプル・バー(2)の近辺である。そしてそのテンプル・バーのほど近く、霧のまっただ中のリンカン法曹学院内の大法官裁判所には、大法官閣下が鎮座している。
いくら霧が濃くなろうとも、いくら泥とぬかるみが深くなろうとも、この大法官裁判所という有害きわまりない老無頼漢が、衆目の一致して見るとおり、今日おちいっている暗中模索とあがきの状態には及ぶべくもない。
少なくともこのような午後にこそ、大法官は――現にそうしているように――この裁判所に鎮座して、霧のようにもうろうとした後光につつまれ、深紅の布とカーテンにやわらかく囲まれて、大きなほおひげをはやした大男のくせに声だけちいさな弁護士から、はてしなく長い訴訟事件摘要書の説明を受けながら、霧のほかになに一つ見えるものもない屋根の明りとりを、よそ目には、じっとみつめているべきである。このような午後にこそ、数十名に及ぶ大法官裁判所の面々は――現にそうしているように――いつはてるともない訴訟の何千段階目かの仕事に五里霧中で立ち働き、つまずきやすい判例でたがいに揚げ足をとり合い、法律のこまかい専門事項にひざまでうずめて手さぐりをつづけ、山羊の毛や馬の毛でつくった|仮髪《かつら》(3)に身を固め、これで法律の条文の壁を破ろうと無謀にも頭をうちつけ、芝居の役者さながら、くそまじめな顔をして公明正大を気取っているべきである。このような午後にこそ、事件関係のさまざまな事務弁護士は、その中には親の代から引きつづき担当しているものも二、三人あるし、みながもうその事件で産をなしているのであるが、このような午後にこそ、彼らは一列にならんで、記録係りの机と勅選弁護士の絹の法服とにはさまれた、マットじきの長い|弁護士席《ウエル》に控え(しかし、この|井戸《ウエル》の底に「真理(4)」を探してもむだであろう)、それぞれの目の前に訴状、答弁書、再抗弁書、第二答弁書、強制命令書、宣誓口供書、訴訟争点書、裁判所主事への審査報告、裁判所主事の報告、その他あらゆる高価なたわごとの山をつみ上げているべきである――いや、現にそうしているではないか。衰えかけたろうそくがあちらこちらに|点《とも》ったこの法廷がほの暗いのもむりはない。その中に霧が重たく垂れこめて、まるで永久に出てゆかぬぞといいたげに見えるのもむりはない。染めつけガラスをはめた窓々が色彩を失い、昼の光を通さないのもむりはない。町の門外漢たちが入口の窓ガラスから中をのぞきこむが、内部のふくろうのような光景を目にし、しとね張りの上段の座から天井へものうげに反響する、まのびのした弁舌を耳にして、中へはいるのを思いとどまるのもむりはない。その上段の座では、大法官閣下が光を入れない明りとりに眺め入り、そばに|随《したが》う仮髪すがたの裁判官連は一人残らず霧の峰にうずまっている! これが大法官裁判所なのである。この裁判所のために亡びかけた家や荒れはてた地所が、国中いたるところの州にある。そのために心身をすりへらした発狂者がいたるところの精神病院にいるし、そのために死んだ者がいたるところの墓地にうめられている。また、そのために破産して、かかとのつぶれた靴にすりきれた服で、借金をしたり物乞いをしている訴訟者が、どの人の知合いのうちにもいる。この裁判所は金持で力のある者に、正しい者の精根を完全につきはてさせる便宜をはかっている。また財政や忍耐力や勇気や希望をひどく消耗させ、頭を錯乱させ、胸をはりさけさせるので、ここの弁護士たちのあいだでも、高潔の士はみな次のような警告を与えたいと思うことであろう――事実、しばしばそうしているのである。「人からどんな不当な処置を受けても、ここへくるよりはむしろ黙って我慢しておいでなさい!」
この霧の深い午後、大法官裁判所にいるのは、大法官、事件関係の法廷弁護士、どの事件にもいつも関係しない二、三人の法廷弁護士、それにさきほど述べた事務弁護士席の連中を別にすると、どのような人たちであろうか? まず裁判長の下のところに、仮髪と法官服をつけた記録係りがいる。それから大法官仗捧持者というのか、令状発給係りというのか、それとも|内帑《ないど》管掌官というのか、とにかく所定の法廷服をまとった二、三人の役人が控えている。この連中はみなあくびをしている。というのは「ジャーンディス対ジャーンディス事件」[#「「ジャーンディス対ジャーンディス事件」」はゴシック体](目下審理中の訴訟)は何年も何年もむかしにひからびるほど絞られて、もう今では一しずくの面白味もしたたり出ないからである。速記者と、判決記録係りと、新聞記者はジャーンディス対ジャーンディス事件の公判になると、いつもほかの常連たちと一緒に引き上げてしまう。彼らの席は空白になっている。大法官の鎮座している、カーテンに囲まれた聖なる奥の院がよく見えるようにと、法廷になっている大広間の片側の座席の上に立ち上って、じっと中を凝視しているのは、ひしゃげた帽子をかぶった、小柄な老狂女である。この女は開廷から閉廷まで絶えず法廷に来て、なにか不可解な、自分に有利な判決が下されるものと絶えず期待している。人々の中には、この女は、じっさいに、ある訴訟の当事者なのだとか、いや、以前はそうだったとかいう者もいる。しかし、どちらでもよいことなので、たしかなところはだれも知らない。手さげ袋にわずかばかりのがらくたを入れ、書類と称して持ち歩いているが、主なものは紙マッチと枯れたラヴェンダーの花なのである。黄ばんだ顔色をした一人の被告は、これで六度目であるが、身柄拘留のまま出廷して、「身に受けた侮辱をそそぐ」ためにみずから申入れをしようと待ちかまえている。これはある遺産の管理人で、もともと会計の心得など、いっこうになかったと言われているが、収支の勘定をすっかり凝結させてしまったのである。しかし、仲間の遺産管理人たちがみな死んでしまったので、とうてい身に受けた侮辱をそそげそうにもない。そうしているあいだに、この被告の前途の見込みはもうなくなってしまった。もう一人、破産した訴訟者がいる。この男はシュロップシア州から定期的にやって来て、一日の審理が終ると、急に大声をあげて大法官に呼びかけようとするが、いくらさとされてもこの男に理解できないことは、二十数年にわたって自分をみじめな目に会わせて来た大法官が、法律的に自分の存在を全然知らぬということである。いま男はほどよいところに陣取って、大法官にじっと眼をそそぎ、相手が裁判長席を立とうとするやいなや、「閣下!」と満場にひびき渡る恨みの叫びをあげようと身がまえている。この男の顔を知っている、弁護士事務所の事務員らしい連中が二、三人、なにかおもしろいことでもしでかして、陰鬱な天候を少し陽気にしてくれるのではないかと、法廷を立ち去りかねている。
ジャーンディス対ジャーンディス事件はいつまでもだらだら長引いている。時がたつにつれて、このこけおどしの訴訟はすっかりこみいってしまったので、もうだれにもさっぱりわけが分らなくなってしまった。しかも一番分らなくてこまっているのはほかでもない、訴訟の当事者たちである。しかし、これまでにも言われたとおり、だれかれを問わず大法官裁判所の弁護士同士が五分間でもこの事件について話し合えば、訴訟のもとになる事実に関して、ことごとにまっこうから意見が対立せずにはいない。この事件には、かぞえきれぬほどの子供たちが生れて関係し、かぞえきれぬほどの若い人たちが結婚してつながりを持ち、かぞえきれぬほどの老人たちが死んでつながりを絶っていった。何十人という人々は事情も理由も知らず、無我夢中のうちにジャーンディス対ジャーンディス事件の当事者になってしまったし、多くの家々では一族をあげてこの訴訟に対する伝説的な憎悪の念を受けついだ。おさない原告や被告は、ジャーンディス対ジャーンディス事件が解決したら、新しい揺り木馬を買ってあげようと約束されたが、いつか成人して、本物の馬を持つようになり、やがてあの世へだく足[#「だく足」に傍点]で走り去ってしまった。みめうるわしい未成年の被後見人たちは色あせて母親や祖母になり、えんえん長蛇の列をつくった大法官たちが来り去り、数知れぬ訴訟申立状は単なる死亡者統計表に変ってしまった。おそらく、いまではジャーンディス家の人たちはこの地上に三人と残っていないだろう。というのは、トム・ジャーンディス老人が絶望のあまり大法官府横町のカフェーで、頭をピストルで射ち抜いてしまったからである。だが、ジャーンディス対ジャーンディス事件はいぜんとしてわびしい姿を大法官の法廷にさらしつづけ、永遠に解決する見込みがない。
ジャーンディス対ジャーンディス事件はもの笑いの種になってしまった。それがこの事件の唯一の成果なのである。多くの人々にとっては命とりの種になったけれども、その道の人々には笑いの種になっている。大法官裁判所のどの主事もこの事件の審査報告をつくらせた覚えがある。歴代のどの大法官も、まだ弁護士として法廷に立っていたころ、だれかしらのために「これに関係して来た」ものである。球根のようにずんぐりした靴をはき、青い鼻をした法曹学院の老幹部たちは、晩餐後に大広間で開かれる、いわば特別ポートワイン委員会の席上で、この事件についていろいろうまいことを言って来た。事務弁護士の見習生たちはこの事件で法律知識の腕だめしをするのがならわしであった。前大法官がこの事件をあざやかに処理したことがある。それは高名な勅選弁護士のブロウワーズ氏がある事について、そんなことは空からジャガイモでも降らないかぎり起るまい、と言うと、それを訂正して「いや、ジャーンディス対ジャーンディス事件でも終らないかぎり、ですな」と述べた時のことである――この冗談は大法官仗捧持者や令状発給係りや|内帑《ないど》管掌官たちをいたく喜ばせた。
これまでにジャーンディス対ジャーンディス事件がそのむしばまれた手を伸ばして、どれほど多くの訴訟関係者たちをそこない腐敗させて来たかは実に測り知れない問題であろう。|上《かみ》は、書類とじにさし込まれ、とりどり不気味な格好で身もだえしながら|塵《ちり》にまみれている、ジャーンディス対ジャーンディス事件の令状を山なすばかり溜め込んでいる大法官裁判所主事から、|下《しも》は、このいつ果てるともない事件の文書を大法官府規定の語数に従って何千何万ページと筆写して来た、書記局の筆写係り書記にいたるまで、だれ一人として生れ持った性格をきずつけられなかった者はいない。ありとあらゆる口実をもうけておこなう奸策、言い抜け、引伸ばし、奪略、妨害はまことに望ましくない影響を人間に及ぼすものである。事務弁護士のところの少年たちでさえ、チズル氏だのミズル氏だのいう、その弁護士が、特別いそがしくて夕飯までずっと先約がある、と大むかしから言い張って、いつもあわれな訴訟者に門前払いをくわせて来たから、ジャーンディス対ジャーンディス事件のために人一倍道徳上のゆがみと策略をもう身につけてしまったのかも知れぬ。訴訟の収益管理人はこの訴訟でかなりの額の金を得たけれども、同時にまた自分の生みの母親の不信の念と、自分の身内に対する|侮蔑《ぶべつ》感とを得てしまった。チズルだのミズルだのは、ジャーンディス対ジャーンディス事件が片づいたら、その未解決の小事件を検討して、ドリズル――これが粗略に扱われた人物である――のためにどれだけのことをしてやれるか調べてみようと、あやふやな決心をする悪い癖がついてしまった。ありとあらゆる種類の言い抜け、インチキがこの不運な訴訟によってばらまかれた上に、こういう害毒の圏外に近いところで事件の変遷を眺めて来た人人までが、知らず知らずのうちに、悪い事態を放任して悪くなるに任せる投げやりな習慣と、世間がうまくゆかないのは良くゆかないように何となく出来ているのだと信じる投げやりな見解におちいってしまった。
こういう次第で、大法官閣下はぬかるみに囲まれ霧に包まれたまま大法官裁判所に鎮座している。
「タングル君」と呼びかける大法官閣下はこの弁護士殿の雄弁を浴びせられて最近やや落着きがない。
「カカ(閣下)」とタングル氏が言う。タングル氏はジャーンディス対ジャーンディス事件に精通していることでは|斯界《しかい》の第一人者という誉が高い――学校を卒業してからこのかた、その関係のもの以外は一切読んだことがないと見なされている人物である。
「あなたの弁論は大体終りましたか?」
「いいえ、カカ――論点がいっぱいです――それを述べる義務があると考えます――カカ」という答がタングル氏の口からすべり出る。
「弁護士諸君のうちにまだ弁論をすませていない方が何人かおられるはずですな?」と大法官は軽い笑みを浮べて言う。
タングル氏の同僚が十八人、おのおの千八百ページから成る裁定申請概要書を武器にして、十八本のピアノのハンマーよろしくひょいと立ち上り、十八の敬礼をして、人目につかぬ十八の席にどっかり腰をおろす。
「|再《さ》来週の水曜日に審理を続行することにします」と大法官が言う。というのは、今問題になっているのは訴訟費用の件で、いわば|親《おや》訴訟という大樹についた、ほんの一つのつぼみにすぎないので、近く実際に落着する見通しがあるからである。
大法官が起立する、弁護士連中が起立する、刑事被告人があわただしく連れて来られる、シュロップシア州の男が「閣下!」と叫ぶ。儀仗係り、令状発給係り、内帑金係りが腹立たしげに静粛にと告げ、シュロップシア州の男をにらみつける。
「さて、そこで」と大法官はなおもジャーンディス対ジャーンディス事件について言葉をつづける、「話は例の少女――」
「カカ、失礼ながら――少年です」とタングル氏が早まった口をきく。
「さて、そこで話は例の少女と少年、その二人の若者についてですが」と大法官は特別はっきりと言葉をつづける。
(タングル氏はしおれてしまう。)
「二人には今日出頭するように命じて、ただ今私の私室に来ておりますので、これから私が面会して、二人を伯父のもとに居住するように命令するのが適当かどうか確かめてみます」
タングル氏がまた立ち上る。
「カカ、失礼ながら――死にました」
「二人を」と大法官は二枚重ねの片眼鏡で机の上の書類を眺めながら「祖父のもとにですな」
「カカ、失礼ながら――無謀な行為の犠牲者です――脳をやりました」
突然、霧のはずれの方で、非常に小柄な、おそろしく声の低い弁護士がいかにも得意然として起立して言う。「閣下、発言いたしてよろしゅうございますか? 私はその人物の弁護人です。その人は従兄なのです、何親等かへだたってはおりますけれども。正確に何親等の従兄か、法廷の各位にお知らせする準備はただ今ちょっとできておりませんが、確かに[#「確かに」に傍点]従兄です」
この発言(それはさながら墓の中からの伝言のような調子で述べられた)を屋根の|垂木《たるき》の間に反響させながら、非常に小柄な弁護士がどっかり腰をおろすと、もう霧に姿が隠れてしまう。みなが探すけれども、だれの目にも見えない。
「私は両人と話をして」と改めて大法官が言う、「従兄のもとに居住する問題を確かめてみます。この件につきましては、明朝私がこの席についた時にお話しましょう」
大法官が法廷に向ってやおら一礼しようとしたちょうどその時、刑事被告人が大法官の面前に連れ出される。おそらく、この被告の凝結状態から出て来るものと言えば、ただ獄に送り帰されることくらいであろうと思われるが、はたせるかな、間もなくその通りになる。シュロップシア州の男が勇気をふるってもう一度、例の感情をむき出しにした「閣下!」をやってみるが、大法官はこの男に気づいたのでたくみに姿を消してしまった。ほかの者たちもみなすばやく姿を消す。放列を敷いた一組の青い袋に大量の書類が装填され、書記たちによって運び去られる。小柄の老狂女は書類を手にして歩武堂々と退出する。がらんとした法廷にしっかりと錠がおろされる。もしもこの法廷が犯したすべての非行と、それがまき起したすべての不幸にも、法廷もろともに錠をおろして、一切を炎々たる火炎によって|荼毘《だび》に付することができたならば――いや、それこそジャーンディス対ジャーンディス事件の当事者以外の世の人々にとってどれほど幸せなことであろうか!
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第二章 上流社会
同じこのぬかるみの午後、上流社会を一目だけ見ておきたい。この社会と大法官裁判所とはさほどのちがいもないので、一方から他方へ、からすのように一直線に飛んでゆくことができる。上流社会も大法官裁判所も、先例と慣習の世界である。いわば、雷鳴のあいだじゅう奇妙な遊戯をしたあげく寝すごしているリップ・ヴァン・ウィンクル(1)か、それとも、いつの日か騎士が起しにきて、止っていた料理場の肉焼きぐしがいきおいよく廻り始めるまで、眠りこんでいる美女(2)なのだ!
それは大きな世界ではない。われわれの住んでいるこの世界にも限りがあるけれども(これは、殿下、あなたがそこを漫遊され、その向うの|虚空《こくう》の縁までおいでになれば、お分りのとおりですが)、それにくらべてさえ、ほんの一点にすぎない。そこには多くの美点があり、たくさんの善良で誠実な人たちがおり、それ相応の役目を持っている。しかしながら、悪いことには、宝石をつつむ綿とやわらかい毛糸にくるまれすぎているので、もっと大きな、いろいろな世界の突進してゆく音が聞えず、これらの世界が太陽のまわりを廻転している有様をみることができない。つまり、無感覚におちいった世界で、空気の欠乏のため、時には成長を阻害される場合もあるのである。
デッドロック家の奥方はパリへの出発に先立って、数日間ロンドンの邸宅に帰ったが、パリには数週間ほど滞在の予定で、それ以後の行動はまだきまっていない。上流社会の消息通はそういって、パリの人たちをよろこばせているが、この連中たるや上流社会に関することなら、なんでも知っている。それ以外のことを知ったりするのは上流人士にあらずというのだろう。今までデッドロック家の奥方は、彼女が日ごろうちとけたさいにいうところの、リンカンシア州の「うち」にいっていた。リンカンシア州では洪水が出た。敷地内の橋のアーチは水びたしになって押し流された。附近の低地は幅半マイルにわたって淀んだ河となり、陰鬱な木々が島と化し、水面は降る雨にうがたれて一日中、一帯に孔だらけだ。奥方の屋敷はこの上もなくわびしかった。何昼夜となく、ひどい雨天つづきなので、木々は中まで濡れとおったらしく、木こりの|斧《おの》に伐りおとされる柔かい大枝小枝は、地上におちても音一つ立てない。ずぶ濡れ姿の鹿どもは、通りすぎたあとに沼を残してゆく。猟銃の銃声はしめった空中でいきおいを失い、降る雨の背景をなしている、雑木林をいただいた緑の丘の方へ、硝煙がちいさなゆるやかな雲となって流れてゆく。デッドロック家の奥方の部屋の窓の外の眺めは、鉛色の風景に変り、墨色の風景に変る。前景の石のテラスの上の花びんは終日雨を浴びて、おもたい雨だれが、古くから「幽霊の小道」と呼ばれている幅の広い石だたみの上に、夜どおし、びしょびしょしたたり落ちる。日曜日には、敷地の中にあるちいさな教会にかびがはえ、オーク材の説教壇はつめたい汗をふき出し、あたりには、まるで墓の中にいる昔のデッドロック家の人々のような臭いと香りとがただよう。奥方は(奥方には子供がいない)たそがれそめたころ、私室の中から番人小屋をながめ、格子のついた窓ガラスに映っている明るい火と、煙突から立上る煙と、女に追いかけられた子供が一人、雨の中へ走り出て、折りしも雨具にくるまって門をはいってきた男のきらきら光る姿に出くわすのを見て、すっかり不機嫌になってしまった。「死ぬほど退屈」したというのである。
それゆえ、デッドロック家の奥方はリンカンシア州の屋敷を引揚げて、雨と、からすと、兎と、鹿と、うずらと、|雉子《きじ》とに屋敷を任せられたのである。女中頭が古い部屋部屋を廻って、よろい戸をしめると、世を去ったデッドロック家の人々の肖像はただもう意気|銷沈《しようちん》のあまり、しめっぽい壁の中へ姿を消してしまうように思われた。ところで、彼らがこのつぎ、いつまた現れるかというと、それは上流社会の消息通たちにも、たしかなことは分らない――なにしろ、この連中は悪魔と同じように、過去と現在のことはすべて御存知であるけれども、未来のことはなに一つ知らないので。
レスタ・デッドロック卿は一介の准男爵にすぎないけれども、彼ほど強大な准男爵は世にいない。家柄の古いことは山におとらず、しかもその高さたるや山などの遠く及ぶところではない。彼の持論によれば、世の中は山がなくともすむであろうが、デッドロック家なくしては成り立つまいという。自然というものがよいものであることは(ただし、猟園として囲いを施されていないものは、おそらく、やや格が落ちるのである)、彼も大体において認めるのであろうが、自然の効果を発揮させるのは、地方の豪族であると考えている。彼は厳格な良心を持して、一切の卑小卑劣を軽蔑し、いささかでも誠実を疑われるようなことをするくらいなら、むしろ即座に、いかなる死をも、いわれるがままにえらぶといった紳士である。つまり高潔で強情、信義を重んじ気概に富み、きわめて一徹、この上もなく頑迷な人物なのである。
レスタ卿は夫人よりも、たっぷり二十歳は年上である。六十五どころか、おそらく六十六も、いや六十七という年をもふたたび迎えることはまずあるまい。ときおり痛風に悩まされるので、歩きかたがややぎごちない。半白の頭髪にほおひげ、洋服の胸もとと袖口に立派なシャツの飾りべりをのぞかせ、空色の上衣には輝くばかりのボタンをいつもきちんとかけて、堂々たる風采をしている。態度は儀式ばって、威厳があり、いかなる場合にも夫人に対してはいんぎんをきわめ、その容姿の魅力をこの上もなく|崇《あが》めている。夫人に対する彼のやさしさは、初めて求婚したとき以来少しも変ったことがなく、これが彼のうちにあるロマンチックな感情を示す唯一のささやかな特徴なのである。
事実、愛すればこそ彼は夫人と結婚したのであった。世間では今でも、彼女には親類さえいなかったと取り沙汰している。しかしながら、親類などレスタ卿には大ぜいいて、おそらく、それ以上なくとも充分こと足りたのであろう。だが彼女には美貌、自尊心、野心、驕慢な不屈さ、無数の貴婦人に分けても充分なほどの良識があった。それらに加うるに富と身分とをもってしたので、まもなく彼女はのし上ってきた。そして今では、もう長年のあいだ、デッドロック家の奥方は上流社会の消息の中心となり、上流社会という木の頂上に位している。
もはや征服すべき世界がなくなった時にアレキサンダー大王が泣いたことは、だれでも知っている――いや、今ではだれでも知っているはずである、この話はかなりひんぱんに物語られてきたから。デッドロック家の奥方は彼女の[#「彼女の」に傍点]世界を征服しつくしてしまうと、そういう感傷的な気分にならずに、むしろきわめて冷やかな気分におちいった。|困憊《こんぱい》のはての落着き、疲れきった静けさ、疲労のあまり興味や満足感によって乱されることのない平静さ、これが戦勝の記念品であった。彼女はこの上もなく行儀がよいので、たとえ明日にでも生きたまま天国へ昇ることを許されたとしても、格別有頂天になりもせず昇天するにちがいない。
彼女は今もなお美しさを保っていて、盛りをすぎたにしても、まだ|凋落《ちようらく》の秋を迎えるまでに至っていない。彼女の美貌――それはもともと、みめのうるわしさというより、むしろ可憐美といった|質《たち》のものであったが、上流の身分にふさわしい表情を身につけることによって、典雅にみがき上げられたのである。姿が優美なので、背が高いような印象を与える。だが、じっさいに高いのでなくて、よくボブ・ステイブルズ閣下(3)が神明に誓って断言したとおり、「自分のすべてのポイント(4)を最高度に生かしている」からである。この|斯道《しどう》の泰斗は彼女の仕上げは非のうちどころがないと品評し、とくに彼女の髪の毛を推賞して、彼女こそ全群のうちでもっとも毛なみの手入れがよい女だといっている。
あらゆる完璧のしるしを頭上にいただきながらも、デッドロック家の奥方は(上流社会の消息通の猛烈な追跡をうけながら)リンカンシア州の屋敷を引揚げ、パリへの出発に先立って数日間をロンドンの邸宅で過すために帰ったが、パリには数週間ほど滞在の予定で、それ以後の行動はまだきまっていない。するとロンドンの邸宅へ、このぬかるみの|暗澹《あんたん》とした午後、一人の古風な老紳士が伺候する。彼は普通法裁判所専属事務弁護士と、大法官裁判所専属事務弁護士とを兼ね、光栄にもデッドロック家の法律顧問をつとめているが、彼の事務所にデッドロックと外側に書いた鋳鉄製の書類箱がたくさんにならんでいるところは、まるで准男爵家の当主が手品の貨幣になって、箱から箱へとたえずすり抜けているかのようである。老紳士はかつらに髪粉をつけたマーキュリーに案内されて、玄関の間を横切り、階段をのぼり、廊下を歩き、部屋部屋をとおり抜けて(ここは社交シーズンには誠に光りまばゆく、シーズンが終ると誠に陰気っぽい――客にとっては|妖精《ようせい》の国、住む人にとっては沙漠)、奥方の前へまかり出る。
老紳士は見るからに古色蒼然としているけれども、貴族たちの婚姻不動産契約や遺言書で相当の財産をたくわえて、いまではひじょうな金持だといううわさが高い。名家の秘密からさし出る神秘的な円光につつまれたまま、人も知るとおり、そういう秘密を黙々と守っている人物なのである。荘園の奥まった空地に立木や|羊歯《しだ》にかこまれて、何百年も鎮座している高貴な|御霊屋《みたまや》でさえ、このタルキングホーン氏の胸の中におさめられたまま人中を闊歩しているほど多くの機密を、秘めてはいない。彼はいわゆる旧弊家で――この言葉はふつう、かつて一度も若さを味わったことがないらしいすべての人たちをさすのである――半ズボンをはいて細ひもでしめ、ゲートルか長靴下をつけている。その黒い洋服と、絹か毛糸か知らぬが黒い靴下の特徴の一つは、ぜったいに光らないことである。このきっちりして窮屈な、ものもいわず、輝く光にも答えない服装は、着ている人によく似ている。彼は職業上の相談をうけた時でなければ、決して話をしない。ときどき、名家の田舎の本宅で開かれる宴会の食卓の片隅や、社交界雀がもてはやすサロンの入口近くに姿を見せる時には、だまりこんだまま、のんびりくつろいでいるが、座にいる人たちはみな彼を知っており、貴族たちのなかばほどは立止まって「ごきげんはどうかね、タルキングホーン君」と言葉をかける。その挨拶を彼はおごそかに受けとめ、ほかのいろいろな秘密といっしょに胸の奥深くしまいこんでしまう。
奥方と同座していたレスタ・デッドロック卿はタルキングホーン氏をよろこんで迎える。タルキングホーン氏の態度には、長年使われた結果レスタ卿の持ちものになってしまったようなところがあるので、卿にはそれがいつも心地よい。自分に対する敬意のしるしと見ているのである。タルキングホーン氏の服装がまた好ましい、そこにも一種の敬意のしるしがあらわれているので。いかにも品がよくて、その上、大体において家来のような服装である。いわば、デッドロック家の法律上の秘密をつかさどる執事、法律関係の地下のぶどう酒倉を管理する召使頭といったところである。
このことをタルキングホーン氏自身は気づいているのだろうか? 気づいているのかも知れぬし、いないのかも知れぬ、しかし、デッドロック家の奥方を階級の一員――そのちいさな世界の一人の指導者、代表者――として考えた場合、彼女につながりのあるすべてのことに関しては、次のようなおどろくべき事情があることに注意しなければいけない。奥方は自分のことを、平凡な人間たちの目をもってしてはとうてい測りがたい不可思議な存在と考えている――これは鏡にうつった自分の姿を見てのことで、そのかぎりでは事実そう見える。だが、奥方のまわりを運行しているすべてのいやしい星くずどもは、女中からイタリー歌劇の興行主に至るまでみな、奥方の弱点、偏見、おろかしさ、驕慢さ、気まぐれを知っていて、ちょうどかかりつけの洋裁師が体の寸法をとるような具合に、この上もなく正確克明に奥方の徳性を計算測定しては食いものにしているのである。たとえば新しい洋服、新しい習慣、新しい歌手、新しい舞踊家、新しい型の宝石、新しい|小人《こびと》や大男、新しい礼拝堂、そのほかなんでも新しいものをはやらせようとする。奥方のほうで、自分の面前で平身低頭するよりほかに能がないと考えている、いんぎんな連中は、いろいろな商売の領分にわたっているが、彼らは奥方を赤ん坊のように操縦する方法を心得ているし、彼女のお|守《も》りばかりして一生を過している。また至って卑屈な態度でうしろに従っているように、うやうやしく見せかけながら、じつは彼女とその仲間全体を先に立って導いてゆくし、あるいは、ちょうどレミュエル・ガリヴァーがリリパット帝国の大艦隊を引きさらったように、奥方に|鉤《かぎ》をかけることによって、仲間全部をひっかけ、さらっていってしまう。「もしうちの人たちと話をなさりたいのでしたら」と宝石商のブレイズとスパークルはいう――うちの人たちとはデッドロック家の奥方その他の人たちのことである――「世間一般の人間が相手でないということをお忘れなく。うちの人たちは一番弱いところを突かなければいけませんが、一番弱いところというのはそういった点です」「この品を受けさせるには、みなさん」と絹織物商のグロスとシーンが友人の製造業者たちに向っていう、「うちへこなくちゃいけません、なにしろうちは上流の方々の泣きどころを心得ているんで、上流社会にはやらせることができるんですよ」「もしこの版画を私のお得意先のえらい方々のテーブルに飾っていただきたいというのでしたら」と今度は本屋のスラダリ氏がいう、「また、この小人や大男を私のお得意先のえらい方々のお屋敷へ出入りさせたり、この興行を私のお得意先のえらい方々にひいきしていただきたいというのでしたら、ぜひとも私にお任せ下さい。というのは、私は長らくお得意先のえらい方々の頭株の人たちを研究してきましたし、じっさいのところ、自慢じゃありませんが、こういう人たちを思いのままにあやつることができるのです」――正直者のスラダリ氏の言葉だけにこれは決して誇張ではない。
それゆえ、いまデッドロック家の人たちの胸中にどんな考えが浮んでいるのかタルキングホーン氏は知らないのかも知れぬが、知っているということもまた大いにありうる。
「家内の訴訟がまた大法官の法廷で開かれたのだね、タルキングホーン君?」とレスタ卿は手をさし出して握手しながらいう。
「はい、本日また開始されました」とタルキングホーン氏は答え、奥方に向って例のとおり、もの静かに一礼するが、奥方は煖炉のそばの安楽椅子に腰かけたまま、熱さよけのうちわを顔にかざしている。
「むだでございましょう」と奥方はあい変らずリンカンシア州の屋敷のわびしさをその身に漂わせながら、「なにか変ったことがありましたかどうかお尋ねになりましても」「奥方様が[#「奥方様が」に傍点]変ったこととおっしゃいますような動きは、本日のところ、なにもございませんでした」
「これから先も、永久にございませんわ」
レスタ卿はいつはてるとも知れない大法官裁判所の訴訟に対してなんの不服もない。もともと、それは時間と金のかかる、いかにもイギリスらしく、また立憲国らしいことがらなのである。なるほど、彼としてはこの訴訟に大した興味もなく、ただ奥方とこの訴訟との関係がいわば奥方の唯一の持参金というだけであり、そもそも彼の名前が――つまりデッドロック家の名が――訴訟ごとに出て来ながら、訴訟そのものの名称にならないのは、偶然とはいえ、じつにおかしなことだという感じがなんとなくある。しかしながら彼の考えによれば、大法官裁判所というものは、たといときおり法の遅滞を招き少しは混乱をひき起すにしても、あらゆる物事に永遠の決着(といっても人間の目から見ての話だが)をつけるために、人間の知恵の極致が、ほかのさまざまなものといっしょに、考え出したものなのである。それゆえ、大法官裁判所に関する苦情を支持し認めてやるのは、下層階級の人間がどこかで――ウォット・タイラー(5)のように――謀反を起すのを奨励するようなものだというのが、大体彼の持論である。
「新しい宣誓供述書が数通提出されましたが、みな簡単なものでございますし、ご迷惑とは存じますが私の主義としまして、訴訟の新しい進行状態をすべて御依頼人の方々に知っておいていただくことにしておりますので」と用心深いタルキングホーン氏は必要以上の責任を負わずに、「それにまた、近々パリへお出かけとうけたまわっておりますので、書類を持参いたしました」
(ついでながら、レスタ卿もパリへ出かけることになっていたが、社交界雀の楽しみは卿の夫人にあった。)
タルキングホーン氏は書類をとり出し、許可を求めて奥方の手もとの、金のおまもり札のようにちいさなテーブルの上にのせ、眼鏡をかけ、笠をかけたランプの光で読み始める。
「『大法官裁判所。ジョン・ジャーンディス対――』」
奥方はそれをさえぎり、退屈しごくなきまり文句はできるだけ省くようにと頼む。
タルキングホーン氏は眼鏡ごしにちらりとながめ、下のほうからまた読み始める。奥方は気にもかけず、さげすむように、うわの空でいる。大きな椅子に腰をおろしたレスタ卿は煖炉の火をながめ、冗漫でくり返しの多い法律書類独特の文章を、これも国家の防壁の一つと御満悦になっているらしい。ところが夫人の席は火が熱い上に、手にしたうちわは高価な品だがちいさすぎて、美しいほどには役に立たない。それで、いずまいを直したひょうしに奥方はテーブルの上の書類に目をとめる――顔を近寄せて眺める――さらに近寄せて眺める――ふいに尋ねる。
「それはだれが書いたのです?」
タルキングホーン氏は奥方のいきいきとした、つねにない調子におどろいて、急に読むのをやめる。
「それがあなたがたのいう法律書体というものですか?」と夫人は無関心な態度に戻って彼をまともに眺め、うちわをもてあそびながらいう。
「そういうわけでもございません。たぶん」――そういいながらタルキングホーン氏は筆蹟を調べる――「ここに書いてございます法律書体ふうの字は、原本の法律書体をまねたものでございましょう。なぜお尋ねでございますか?」
「ただ退屈でたまらないのをまぎらわすためですわ。さあ、先を読んで下さい、さあ!」
タルキングホーン氏はふたたび読みつづける。煖炉の火が熱さを増してくるので、奥方はうちわで顔をおおう。レスタ卿はうとうとまどろんでいるが、急にはっと身を起して「えっ、なんと申した?」と叫ぶ。
「はい、恐れながら」とタルキングホーン氏はあわてて立ち上り、「奥方様が御不快のようにお見受けいたしますが」
「目まいがしただけでございますわ」と血のけのうせた唇で夫人がつぶやく、「でも、死んでしまいそうな気持がします。お願いです、そっとしておいて。ベルを鳴らして、わたくしの部屋につれてゆかせて下さいませ!」
タルキングホーン氏は次の間へ立ち去る。ベルが鳴り、こきざみの足音、ぱたぱた走る音が入りみだれ、しばらくしてあたりがまた静かになる。やがてマーキュリーがタルキングホーン氏にもとの部屋へ引きとってもらう。
「もう大分よくなった」とレスタ卿は弁護士に椅子を示して、二人だけで書類を読んでくれといいながら、「すっかり心配してしまった。奥方が目をまわすなどついぞなかったことだが。しかし、この天候はまったく体にさわる――それに、じっさい、あれはリンカンシア州の屋敷で、死ぬほど退屈してきたのだからな」
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第三章 歩み
私に割り当てられた物語をどう書き出したらよいのか、ほんとうに困ってしまいます。だって私が利口でないことは自分でも知っているのですから。それは昔からいつも知っていました。今でも覚えていますが、まだほんのちいさな子供の時分、私はお人形と二人きりになると、よくこういって聞かせたものです。「ねえ、ドリーちゃん、あたしは利口じゃないのよ、それはよく知っているわね。いい子だから我慢してちょうだい!」それでお人形を大きなひじかけ椅子にすわらせ、お人形がうつくしい肌とバラ色のくちびるをして私をみつめていると――いいえ、たぶんそうでなく|虚空《こくう》をみつめていたのでしょう――私はせっせと縫いものをしながら、私の秘密をなにからなにまで話して聞かせるのがつねでした。
なつかしいあのお人形! 私はとても内気な子でしたから、お人形以外の者には、めったに口を開く気になれず、ましてや心のうちを開く気には決してなれませんでした。思い出しても泣きたいくらいなのですが、ひるま、学校から帰ってくると、二階の自分の部屋へかけのぼり、「あたしの忠実なドリーちゃん、きっとあんたが待っていてくれると思ったわ!」といってから、床の上にすわってドリーの大きな椅子のひじかけによりかかりながら、ドリーと別れてから私の気づいたことを全部話して聞かせると、ほんとに救われたように感じるのがつねでした。私はいつもよく気のつくたちでした――もちろん、利発だったわけではありません!――黙っているけれども、自分の目の前で起ることがらに気がついて、もっとよく理解したいと思うたちだったのです。私は決して悟りの早いほうではありません。なるほど、だれかある人に心から愛情を感じている場合には、そうなるような気がします。でも、それさえうぬぼれなのかも知れません。
私はものごころついて以来、ちょうどおとぎ話に出てくるお姫さまと同じように――ただそんなに美しくはありませんでしたけれども――名づけ親に育てられました。とにかく、その養母については名づけ親というだけしか知りませんでした。養母はとても、とてもりっぱな人でした! 毎週日曜日には教会へ三度ゆき、水曜と金曜には朝のお祈りに、講話があればそのたびに出かけて、一度もかかしたことがありませんでした。きれいな人で、もし笑ったらまるで天使のように見えたことでしょう(私はよくそう思いました)――でも決して笑顔を見せたことがありませんでした。いつもまじめで、それに厳格でした。自分がとてもりっぱな人でしたから、そのため、他人の至らなさに一生涯|眉《まゆ》をひそめていたのです。私は子供と大人の相違というものを充分|斟酌《しんしやく》した上でも、養母とのちがいを強く感じました。自分があわれな、とるに足らぬ者で、養母の足もとにも及ばないということを強く感じました。そのためどうしても養母に対して打ち解けることができませんでした――いいえ、心で願っているとおりすなおに愛することさえできなかったのです。養母がどんなにりっぱな人で、それにひきかえ自分は不肖の子なのだと考えると、すまない気持で一杯になり、もっとよい子になりたいといつも心から望み、お人形にも、くりかえし、そのことを話しました。けれども養母に対する私の愛し方はやはり至らぬもので、よい子ならば決してあんな愛し方はしなかったにちがいありません。
きっと、こういうことが原因で私は生れつき以上に臆病で引込み思案になり、ドリーだけを気の許せる友達として頼りにするようになったのでしょう。けれども、こういった傾向を大いに強めるような出来事が、まだ私のごくちいさい時分に起りました。
それまで私は自分のほんとうのママの話を聞いたことがありませんでした。パパのことだって聞いたことはありませんでしたが、パパよりもママの方に関心があったのです。私の記憶しているかぎりでは、喪服というものを着た覚えがありませんでした。ママのお墓参りにつれていってもらったこともありません。お墓がどこにあるかも教えてもらえませんでした。それでいて、身内の人のためにお祈りをする時には、いつも養母のためにするようにといわれたものです。こういうことが気になるので、うちにいるただ一人の召使だったミセス・レイチェルに一度ならず話をしましたが、ミセス・レイチェルは私を寝床に入れると部屋の明りをとりあげ(この人もとてもりっぱな婦人でしたが、私に対してはきびしくしていました)、「エスタ、おやすみなさい!」とだけいって、出ていってしまうのでした。
私の通っていた近所の学校は女の生徒が七人いて、私のことをかわいいエスタ・サマソンと呼んでくれましたが、私はだれの家へも遊びにいったことがありませんでした。なるほど、みんな年が上で(学校中で私だけがとびきり幼なかったのです)、ずっと利口で、とても物知りでしたけれども、ただそればかりでなく、私たちのあいだにはなにかもっと別なへだたりがあるように思われました。学校へゆくようになった最初の週に(今でもそれをはっきり覚えています)、七人のうちのある人が自分の家のちょっとしたパーティに招いてくれ、私は大よろこびをしました。けれども養母が私に代って堅苦しいことわり状を出しましたので、ゆくことができませんでした。外出することさえ、できなかったのです。
私のお誕生日のことでした。ほかの人たちのお誕生日には学校の授業がお休みになりました――私の時にはそういうことがありませんでした。友達のお誕生日には、みなが話し合っているのを聞いて知りましたが、それぞれの家でお祝いをするのでした――私の時にはそういうことがありませんでした。私の家ではお誕生日が一年中で一番悲しい日だったのです。
さっき申しましたとおり、もしうぬぼれによる思いちがいでないとしたら(あるいは自分でそれと気づかずに、ひどく思い上っているのかも知れません――でも、実際よく分らないのです)、私は愛情を感じている時には頭のはたらきが敏感になるたちです。気性は大そう情愛深いほうですから、たぶん今こういう心の痛手を受けても、やはりこのお誕生日に感じたと同じように鋭く感じることでしょう。もしああいう痛手を二度も受けることができるものなら。
夕飯がすみ、養母と私とは煖炉のまえの食卓に就いていました。時計がかちかち鳴り、火がぱちぱちはねるほかには、どのくらいのあいだでしたでしょうか、部屋の中、というより家中に物音一つ聞えませんでした。ふと、裁縫をしていた手を止めて、食卓の向い側にいる養母の方をこわごわ見上げますと、陰鬱な目をして私を眺めていた養母の顔の中に、こういう言葉がありありと読みとれました。「エスタや、おまえには誕生日なんかなかったほうが、生れてなんかこなかったほうが、どんなによかったか知れないのに!」
私はわっと泣き出しながらいいました。「まあ、おかあさん、教えてちょうだい、お願いですからぜひ教えて。ママはあたしのお誕生日になくなったの?」
「いいえ」と養母は答えました、「もうなにもきかないでおくれ、おまえ!」
「お願いですから、なにかママのことをぜひ教えて。おかあさん、もう教えてちょうだい、お願いです! あたしはママになにをしたの? どうしてママをなくしたの? なぜこんなにお友達とちがうの、なぜそれがあたしのせいなの、おかあさん? いや、いや、いや、いかないで。ねえ、話してちょうだい!」
私は悲しみを通りこして、なんだかおそろしくなりました。それで養母の洋服にすがりつき足もとにひざまずいていました。その間じゅう養母は「お離しなさい!」といいつづけでしたが、今度はじっと立ちつくしてしまいました。
養母の暗い顔つきにけおされて、私は興奮をおさえました。そしてふるえる小さな手をさしのべて養母の手をにぎりしめようとしました、というより、子供心にも真剣になって赦しを乞おうとしたのですが、養母の視線に会うと手をひっこめ、どきどき鳴っている胸をおさえました。養母は私を起して、自分は椅子に腰かけ、その前に私を立たせると、低い冷い声でゆっくりといいました――そのしかめた眉と私につきつけた指とが目に浮びます。
「おまえのおかあさんはね、エスタ、おまえの顔に泥をぬり、おまえはそのおかあさんの顔に泥をぬったんだよ。いつかそのうちに――もうじきにだよ――おまえにもその意味がもっと分って、身にしみて感じる時がくるだろうけれども、その気持は女でなければ分らないよ。私はもうあれを赦してやりました」しかし養母の表情はやわらぎませんでした、「あれが私に対しておこなった罪をだよ。だから、それについてはもうなにもいいません。でも、どんなに大きな罪だったかは、とてもおまえには分らないだろうよ――だれにだって分りません、そのために苦しんだこの私のほかにはね。かわいそうに、おまえはみなし子になって、あのいまわしい誕生日の最初から恥さらしの身になったのだから、物の本に書いてあるとおり、他人の罪の報いが自分の頭の上に加えられないように(1)、毎日お祈りをしなさい。自分のおかあさんのことなんか忘れておしまい。そしてみんなほかの人がおかあさんのことを忘れるのはそのままにしておおき。忘れてくれるのがあれのふしあわせな子供にとっては一番の親切になるのだから。さあ、もうゆきなさい!」
けれども私が――すっかり凍りついたような気持になって!――立ち去ろうとすると、養母は引きとめて、次のようにいい足すのでした。
「おまえのように暗い影をになって生れてきた者がこの世の中で生きてゆくためには、まずその前に服従と、克己と、勤勉とを身につけなければいけません。おまえはほかの子供たちとはちがうんだよ、エスタ、みんなとちがって、なみなみならぬ罪と天罰とをうけて生れてきたんだからね。おまえは別なんだよ」
私は自分の部屋へ登り、はうようにしてベッドへはいり、涙にぬれたほおにお人形のほおをおしつけました。そしてこのたった一人の友達を胸にだきしめながら、いつしか泣き寝入りをしてしまったのです。まだ自分の悲しみをおぼろげにしか理解できませんでしたけれども、自分がまだ生れてこのかた、一度も、だれにも喜ばれたことがないこと、私がドリーを大事に思っていると同じくらい私のことを思ってくれる人は、広い世間に一人もいないことを悟りました。
ほんとにまあ、それ以後、なんべん私はドリーと二人だけですごし、なん回この誕生日の話をくりかえし聞かせて、自分の決心を打明けたことでしょう。その決心というのは、自分が生れながら担った罪をつぐなうために一所懸命努力して(私は疑う余地もなくその罪に責任を感じていながらも、それは自分の責任ではないという気がしました)、これから大きくなるにつれて、勤勉、満足、親切を身につけ、人のためにつくし、できれば人からも愛されるように努力することでした。それを思いながら今こんなに涙を流していますが、これは決して自分に甘えているのではないと思います。感謝の念にみち、とてもほがらかですのに、涙があふれてくるのをどうしてもおさえきれないのです。
さあ! もう涙をふきましたから、またもとどおり話をつづけます。
その誕生日以来、私は養母とのあいだの距離を一層強く感じ、自分が占めるべきでない地位を家の中で占めていることをしみじみ感じましたので、心の中では以前にも増して養母に深く感謝しながらも、なおさら近寄りにくく思いました。学校のお友達に対しても同じように感じました。ミセス・レイチェル(この人は未亡人でした)に対してもそうでしたし、そう、その娘さんに対しても同じでした。これはミセス・レイチェルの自慢の子で、二週間に一度母親に会いに来ていたのです! 私はとても無口で遠慮勝ちになり、大いに勤勉になろうとつとめました。
あるうららかに晴れた午後のこと、自分の長い影法師をみつめながら、本のはいった折りカバンをかかえて学校から帰り、いつものとおり二階の部屋へそっと上りかけますと、居間のドアから養母が顔を出して私を呼びとめました。そばへいって腰かけましたら――ほんとうにめずらしいことに――見知らぬ人がいるのです。ふとった、りっぱな風采の紳士で、黒ずくめの洋服に白いネクタイ、時計のくさりにさげた大きな金の飾り印鑑、金ぶちの眼鏡、それから小指には印鑑指輪をはめていました。
「これが」と養母は小声でいいました、「その子です」それから持ち前のいかめしい口調にもどって申しました。「これがエスタでございます」
紳士は眼鏡を上にあげて私のほうを眺め、「ここへおいで!」といいました。そして私に握手をして、帽子をとるようにと命じるのでした――たえず私を眺めながら。いわれたようにしますと紳士は「ははあ!」といい、そのあとで「なるほど!」と申しました。それから眼鏡をはずして赤いケースにおさめ、腰かけていた安楽椅子の背によりかかり、両手でケースをぐるぐる廻しながら、養母に向ってうなずきました。すると養母が「二階へいっていいよ、エスタ!」といいましたので、私は紳士に会釈をして出てゆきました。
それからたしか二年後、私が満十四歳近くなった時分のこと、あるおそろしい晩に養母と私は煖炉にあたっていました。私が朗読して養母が聞いていたのです。いつものとおり、私は九時に階下へきて聖書を読んであげ、ちょうどヨハネ伝の中から、人々が姦淫の罪を犯した女を主イエスのところにつれてきた時に、主がそしらぬ顔で身をかがめて地面に指で字をお書きになったお話を読んでいました。
「『かれら問いて止まざれば、イエス身を起して、なんじらの|中《うち》、罪なき者まず石をなげうて(2)』」
すると養母が立ち上り、頭に手をあて、すさまじい声を張り上げて全然別な箇所をいい出しましたので、私は読むのを中断されました。
「『この故に目を覚しおれ! 恐らくは家の|主人《あるじ》にわかに帰りて、汝らの眠れるを見ん。わが汝らに告ぐるは、凡ての人に告ぐるなり。目を覚しおれ!(3)』」
この言葉を私の前に立ってくり返しているうちに、養母は急に|床《ゆか》に倒れました。大声をあげて人を呼ぶまでもありませんでした。養母の声は家中にひびき渡り、往来までも聞えたのです。
養母はベッドに寝かされました。一週間以上も|床《とこ》についていましたが、外見はほとんど平生と変らず、いつも見なれたあの端整なきつい渋面をつくったままでした。私は声をひそめ、よく聞えるようにまくらもとに顔を近寄せ、夜となく昼となく何度も何度も、キスをし、感謝の言葉を述べ、お祈りをあげ、私のために祝福と赦しを求め、私がだれだか分り声が聞えるなら、せめてうなずくなりして下さいと懇願しました。でも、だめ、だめ、だめでした。養母は眉一つ動かしませんでした。最後の最後まで、いえ、そのあとまで、あの渋面はとけなかったのです。
かわいそうな養母が葬られた次の日、例の黒ずくめの服に白ネクタイをした紳士がまた姿をあらわしました。ミセス・レイチェルに呼ばれて私がいってみますと、紳士はまるであの時以来その場を去らなかったかのように、同じところにいました。
「私はケンジと申します」と紳士がいいました。「覚えていらっしゃるでしょう、リンカン法曹学院のケンジ・アンド・カーボイ法律事務所のケンジです」
私は前に一度お会いした記憶がありますと答えました。
「どうぞおすわり下さい――この、私のそばに。お歎きなさいますな、|甲斐《かい》もないことです。ミセス・レイチェル、あなたはなくなられたミス・バーバリの家計をご存知だから、いうまでもないけれど、故人の資産は死亡と同時に消滅し、それからこのお嬢さんはもう伯母さんがなくなったからには――」
「伯母さんですって!」
「これ以上隠し立てをつづけても、実際、なんの甲斐もありません」とケンジさんは能弁にいうのでした。「事実上の伯母さんです、法律的にはちがいますが。お歎きなさいますな! 泣かないで! 震えたりしないで! ミセス・レイチェル、もちろん、お嬢さんはあの――いや――ジャーンディス対ジャーンディス事件のことを聞いておられますね」
「なんにも知りません」とミセス・レイチェルがいいました。
「まさか」とケンジさんは眼鏡を額におしあげながら言葉をつづけ「お嬢さんが――お願いです[#「お願いです」に傍点]、お歎きなさいますな!――ジャーンディス対ジャーンディス事件のことをなにも聞いておられないなんて!」
一体なんの事件なのだろうと思いながら私は|頭《かぶり》をふりました。
「ジャーンディス対ジャーンディス事件をですか?」とケンジさんは眼鏡ごしに私の方を眺め、眼鏡のケースをまるで愛玩するように静かにぐるぐる廻しながら「あの大法官府未曾有の訴訟の一つをですか? あれだけでもあの――いや――大法官府の裁判の記念碑になるジャーンディス対ジャーンディス事件をですか? あの事件には(私の見たところ)、大法官裁判所がこれまでに経験したありとあらゆる難問、不測の問題、巧妙な擬制、訴訟手続がくり返しくり返しあらわれているのにね? この自由で偉大な国でなければ、絶対に起らぬ訴訟ですよ。おそらくジャーンディス対ジャーンディス事件の訴訟費用の総額は、ミセス・レイチェル」と紳士がミセス・レイチェルに呼びかけたのは、私がよく聞いていないように見えたからでしょう、「現在のところ六万[#「六万」はゴシック体]から七万ポンド[#「七万ポンド」はゴシック体]にのぼるのですよ!」とケンジさんは椅子の背によりかかりながら申しました。
私は自分の無知を身にしみて感じましたが、でもしようがないではありませんか? この事件のことはまったく知りませんでしたから、こういわれてもなに一つ分りませんでした。
「それなのにお嬢さんはこの訴訟の話を全然聞いていないのか! いや、おどろいた!」
「ミス・バーバリは」とミセス・レイチェルが答えました、「もう天使たちのところへいっておいでですけれども――」
(「ほんとに、そうあってほしいものだね」とケンジさんはうやうやしくいいました。)
「――エスタには自分のためになることしか知らせない方針でございました。ですから、ここで受けました教育から申しまして、それ以外のことはなにも知らないのでございます」
「よろしい! まあ大体それで結構。さて、要点に移りますと」とケンジさんは私に向って、「あなたのたった一人の血族であるミス・バーバリが(つまり事実上の血族ですな、法律的には、あなたには血族が一人もいないといわざるをえません)死亡されましたので、当然予想されますように、ミセス・レイチェルは――」
「そうでございますとも!」ミセス・レイチェルがすばやくいいました。
「そのとおり」とケンジさんはうなずいて――「ミセス・レイチェルはあなたに対して扶養扶助の責任を負うことができませんから(どうかお歎きにならないで下さい)、二年ほど以前に私がミス・バーバリに対しておこなうように指図された申込みを、あなたは今改めて受けることができるわけです。この申込みはあの当時謝絶されましたけれども、今回こういうご愁傷な事態となりましたので、改めておこなうことができると私どもは了解した次第です。ところで、打ち明けたことを申せば、私はジャーンディス対ジャーンディス事件その他について、あるきわめて人情深い、しかし同時に、変ったお方の代理をつとめているのですが、こういうことをいうと、職業上の思慮に反することになりましょうかな?」といってケンジさんはまた椅子の背によりかかり、私たち二人の方を落着きはらって眺めるのでした。
ケンジさんはなによりもまず自分の声のひびきを楽しんでいるように見えました。それもふしぎはありません、やわらかくて豊かで、口をついて出る一語一語に貫禄をつけるような声でしたから。よそ目にもそれと分るくらい、いかにも満足げに自分の声に耳をかたむけ、ときどき、その調べに合わせて頭で静かに拍子をとったり、あるいは手ぶりで文句にくぎりをつけたりするのでした。私はすっかり感心してしまいました――その時はまだ、ケンジさんが自分の事件依頼人のえらい貴族をお手本にしてそういう話しかたを身につけたことや、みんなに「おしゃべりケンジ」と呼ばれていることも知りませんでしたけれども。
「今申したそのジャーンディスさんは」とケンジさんは話をつづけました、「お嬢さんのこの――いわば、よるべない――立場をご存知なので、お嬢さんを一流の学校にいれたいと申出ておられるのです。そこで教育を完成し、そのあいだ快適な生活を保証し、正当な必要品を用立て、それから――なんと申しましょうか、神さまの思召しで――どのような身分になられるにしても、自分のなすべき務めをはたす資格を充分につけて下さいます」
ケンジさんのその話と、その心を打つ話しぶりとで、私は胸がいっぱいになってしまいましたので、しゃべろうとしても、しゃべることができませんでした。
「ジャーンディスさんの方で条件として期待しておられるのは次のことだけです。お嬢さんがその学校をいつ去られるにしても、かならず知らせて同意をえること。将来お嬢さんが生活の手段にすることになる学業の修得にかげひなたなく努めること。貞潔と淑徳の道を歩むこと、それから――その――いや――そういったようなことです」
私はなおさらしゃべれなくなりました。
「さて、お嬢さんのご意見はどうですかな? 急ぐことはありません、急ぐことは! しばらくご返事をお待ちしますから。でも急ぐことはありませんよ!」
そういう申し出を受けた一文なしの娘がなんと答えようとしたか、それを今さらくりかえす必要はありません。実際になんと答えたか、それなら話しやすいと思います、もしそんなことをお話する価値があるならば。けれどもその娘がなんと感じたか、そして死ぬ日までなんと感じているか、それはとうていお話することができないでしょう。
この会見がおこなわれたところはウィンザーで、それまで私は(自分の知っているかぎりでは)ずっとそこに住んでいたのです。それから一週間目に、私は必要な品々を全部充分に支給されて駅馬車に乗り、そこを立ってレディングに向いました。
ミセス・レイチェルはとても立派な人なので、私との別れに少しも心を動かされませんでしたけれども、私はそれほど立派な人間ではないので、こらえきれずに泣きました。そしてそんなに長い年月いっしょにいながらミセス・レイチェルをもっとよく知らなかったこと、この時ぐらいは悲しんでもらえるように、平生この人に好かれていなかったことを後悔しました。ミセス・レイチェルが私のひたいに、まるで石づくりの車寄せから霜どけのしずくがしたたり落ちるみたいに――大そう霜の深い日でした――つめたいキスを一回だけしてくれた時、私はとても切なく面目なくて、ミセス・レイチェルにすがりつき、あなたがそんなに平気でさよならがいえるのは、ほんとにあたしが悪い子だからよ、といいました!
「いいえ、エスタ!」ミセス・レイチェルは答えました。「あなたのふしあわせな廻りあわせのせいですよ!」
馬車が芝生の端のちいさな門のわきへ来ましたので――私たちは車輪の音が聞えるまで外へ出ませんでした――私はこうして悲しい心をいだきながらミセス・レイチェルのもとを去りました。ミセス・レイチェルはまだ私の荷物が馬車の屋根につまれないうちに、家の中へはいってドアをしめてしまいました。私は家が見えているあいだじゅう涙の下から窓越しに家の方をふり返っていました。養母はとぼしい家財を全部ミセス・レイチェルに残してゆきましたので、近く競売があることになっていて、家の外の霜と雪の中に、バラ模様のついた、ストーヴの前にしく古じゅうたんがかけてありました。このじゅうたんはいつも私が、この世の中に生れて始めて見たものと思っていたものでした。その日より一日二日前、私はあのなつかしいお人形を、人形のショールにくるんで――お話するのも恥ずかしいような気がしますけれども――私の部屋の古ぼけた窓の日よけ代りになっていた木の下の、庭の土の中にうめてしまいました。それで私の友だちといえば小鳥一羽だけになりましたので、それを籠に入れて持ってゆきました。
家が見えなくなりますと、私は鳥籠を麦わらに包んで足もとに置き、低い座席の前の方に腰かけて、高い窓の外をのぞき、霜が降りて美しい柱のように見える木々、昨夜の雪で一面に白く平らになった畑、赤々と輝いているのに少しも温くない太陽、スケートやそりで滑った人たちが雪をはらいのけたところが金属のように黒ずんでいる氷などを眺めました。車内の向かい側の席には、外套やえり巻きで着ぶくれてとても大きく見える紳士がいましたけれども、反対側の窓の外を眺めていて、私には目もくれませんでした。
私はなくなった養母のこと、養母に聖書を読んであげた晩のこと、ベッドに寝たまま眉毛一つ動かさずけわしい渋面をつくっていた養母のおもかげ、これからゆく見知らぬ土地、そこにいる見知らぬ人たち、それはどんな人たちで、どんなことをいうのだろうかなどいうことを考えていました。すると車内でこういう声がして私をひどくおどろかせました。
「一体なんだって、きみは泣いているんだ?」
私はすっかりおびえてしまって、ふだんの声が出ず、ようやく小声で「あたしですか、おじさん?」と答えました。もちろん、私には話しかけたのが着ぶくれたその紳士に相違ないと分りました、紳士はあい変らず窓の外を眺めていたのですが。
「そうさ、きみだよ」と紳士はこちらへ向き直っていいました。
「知りませんでしたわ、泣いていたなんて、おじさん」私は口ごもりながらいいました。
「でも泣いているぞ! いいかね!」紳士は向うの隅から真向いへ来て、毛皮の大きな袖口で私の目をこすり(でも痛くはありませんでした)、袖口がぬれているのを見せるのでした。
「ほら! 泣いているのが分ったろう。分らないのかね?」
「分りました、おじさん」
「それで、どうして泣いているのだ? そこへゆきたくないのかね?」
「そこってどこです?」
「どこ? むろん、きみのゆくさきさ、どこだか知らないが」
「あたし、とてもうれしいんです、そこへゆくのが、おじさん」
「それならよろしい! うれしそうな顔をしなさい!」
ずいぶん変った人だと私は思いました。少なくとも見かけはずいぶん変っていました。あごのところまですっぽり外套にくるまり、顔は毛皮の帽子にほとんどかくれ、その帽子の両側からほおに垂れた幅の広い毛皮のひもをあごの下でむすんでいたのですから。けれども落着きをとり戻すと、もうこわくなくなりました。それで私は養母に死なれて、ミセス・レイチェルと別れたのに、あの人が悲しんでもくれなかったので泣いていたに相違ありません、と話しました。
「ミセス・レイチェルなんか、くそ喰えだ!」と紳士がいいました。「そんなやつは魔女のように|箒《ほうき》の柄にまたがって、大風に吹かれて空へ飛んでゆくがいい!」
今度は本当にこわくなり、びっくり仰天して紳士の方を眺めました。でも、この人は怒ったみたいにぶつぶつひとりごとをいい、ミセス・レイチェルの悪口をいいつづけているけれども、感じのいい目つきをしているわ、と私は思いました。
しばらくすると紳士は馬車全体を包んでしまいそうなほど大きな外套の前を開いて、内側の深いポケットの中に腕を突っこむのでした。
「さあ、いいかね! この紙の中に」その紙はきれいにたたんでありました、「お金ではとても買えない飛び切り上等のプラム・ケーキがある――まるで羊のバラ肉の脂みたいに、厚さ一インチも砂糖が塗ってあるのだ。それからフランス製のちいさなパイがはいっている(こいつは大きさからいっても質からいっても宝石といってもいいくらいだよ)。ところで、それがなんで作ってあると思うね? ふとった|鵞鳥《がちよう》の肝臓でだ。そら、パイだよ! さあ、きみが食べるのを見ようじゃないか」
「ありがとう、おじさん。ほんとにありがとうございます。でも気を悪くなさらないでちょうだいね、あたしにはぜいたくすぎるんです」
「また、一本やられた!」と私にはさっぱり分らないことをいって、紳士はお菓子を二つとも窓からほうり出してしまいました。
それっきり紳士はもう私には話しかけないで、やがてレディングの少し手前で馬車を降りる時に、いい子になって、よく勉強するのだよといい、握手をしてくれました。私たちが別れたのは道しるべのわきでした。その後、たびたびそのわきを通るごとに、いつも紳士のことを思い出し、また出会いはしないかと半ば心待ちしたものです。けれども一度も出会うことがなく、時がたつにつれて、いつしか紳士のことは忘れてしまいました。
馬車がとまると、大そうこざっぱりした服装の婦人が窓を見上げて、こういいました。
「こちらミス・ドニー」
「いいえ、ちがいます、エスタ・サマソンです」
「そうね、こちらミス・ドニー」
そういわれてミス・ドニーというのは婦人の自己紹介の言葉だと悟りましたから、ミス・ドニーに誤解を詫びて、いわれるままに私の荷物を指さしました。荷物は大そうこざっぱりした服装の女中が指図して、大そうちいさな緑色の馬車の外側の席にのせられ、それがすむと、ミス・ドニーと女中と私とは内側の席に乗って出発しました。
「あなたを迎える準備はすっかりできています、エスタ」とミス・ドニーがいいました。「それに勉強の手はずも、あなたの後見人のジャーンディスさんのお望みどおりに整えました」
「あたしの――なんですか、先生?」
「後見人のジャーンディスさんよ」
私があっけにとられていますと、ミス・ドニーはそれを寒さがきびしすぎたせいと思って、気つけ薬のびんをかしてくれました。
「あたしの――後見人のジャーンディスさんをご存知なんですか、先生?」私はずいぶん躊躇してから尋ねました。
「直接には知りません、エスタ。あのかたが頼んだ、ロンドンのケンジ・アンド・カーボイ法律事務所の顧問弁護士を通じてだけよ。大そう立派な紳士ね、ケンジさんは。ほんとに雄弁家。ときどき、すばらしい美文調で話すこと!」
まったくそのとおりだと思いましたけれども、私は頭が混乱していて、そういうことに注意を向ける余裕もありませんでした。そうしてまだ心の落着きをとり戻さないうちに、たちまち目的地へ到着してしまいましたので、その茫然自失の状態がなおさらひどくなりました。その午後、グリーンリーフ(ミス・ドニーの学校の名前)に着いた時、なにからなにまでがぼんやりとしてこの世のものとも思われなかったことを私は生涯忘れないでしょう!
しかし、それにやがてなれて来ました。まもなくグリーンリーフの日課にすっかりなじんでしまいましたので、もうずっと以前からそこにいたような気がして、養母の家で送ったもとの生活は現実というより、ほとんど夢のように思われました。グリーンリーフほど正確で厳格で規則正しいところはありませんでした。四六時中、万事に時間が決められていて、万事が規定の時刻におこなわれていたのです。
生徒は寄宿生が十二人で、先生はミス・ドニーが二人、つまり|双子《ふたご》の姉妹なのでした。私はやがて家庭教師の資格を身につけ、それによって生計を立ててゆかなければいけないということになっていましたので、グリーンリーフで教えている課目を全部教えられたばかりでなく、やがてすぐほかの生徒たちを教える助手にも使われました。それ以外の点では、すべてほかの人たちと同じように扱われましたけれども、この点だけは私の場合初めからちがっていました。そして学力が増すに従って教える方も多くなり、だんだん時がたつにつれて仕事も大そうふえてきましたが、私は大よろこびで仕事にはげみました。というのは、そのために下の生徒たちから好かれるようになったからです。そしていつも、少し元気のない、ふしあわせな新入生がはいってきますと――ほんとに、なぜだか分りませんが――そういう子はきまって私になつくので、しまいには新入生は全部私が引受けて世話することになりました。そして私はやさしい人だといわれましたけれども、そういう新入生の方こそ[#「新入生の方こそ」に傍点]みなやさしい人たちなのでした! 私は以前お誕生日に誓ったあの決心、勤勉、満足、誠実を身につけ、人のためにつくし、できれば人からも愛されるように努力しようという決心を、たびたび思い出しました。そして自分ではほとんどなにもしなかったのに、そんなに多く報いられたことを、ほんとに恥じたいくらいに感じました。
グリーンリーフでは幸福で平穏な六年の月日を送りました。ありがたいことに、そこではだれ一人として私のお誕生日に、おまえなんか生れてなど来なかったほうがよかったのに、というような顔をする者はいませんでした。お誕生日がめぐって来ますと、愛情のこもったたくさんの贈物をいただきましたから、私の部屋はお正月からクリスマスまで美しく飾られておりました。
その六年のあいだ、私は学校がお休みの時に近所の家へ遊びにゆく以外、一度もよそへ出かけたことがありませんでした。最初の半年ほどが過ぎたころ、おかげで幸福に暮していることをケンジさんにお便りをするのが礼儀でしょうとミス・ドニーに注意されましたので、ミス・ドニーに見ていただいてそういう手紙を書きました。すると、貴翰正に拝受、で始まって「お手紙の趣を控えおき、追って当方の御依頼人にお伝え申上げます」という四角ばった返事をいただきました。その後、ときどきミス・ドニー姉妹が私の教育費はかならず期日どおりに送られてくると噂しているのを聞きましたから、差し出がましいような気もしましたが、一年に二回ほど同じような便りを出しました。するといつも折り返し同じ楷書体の、まったく同じ返事がくるのでした。手紙には別の筆蹟でケンジ・アンド・カーボイという署名がしてありましたので、私はそれがケンジさんの筆蹟だろうと思いました。
こういう私自身についてのことばかり書かなければならないなんて、ずいぶん変な気がします! まるでこの手記が私の[#「私の」に傍点]生い立ちの記みたいで! でも、もうじきこのつまらぬ私など背景に姿をかくしてしまうのです。
平穏な六年の月日を(同じ文句をまた書いてしまいました)グリーンリーフで送りながら、まわりの生徒たちの中に、いわば鏡に映すように、ここへ来てからの私自身の成長と変化のすべての跡を見ているうちに、やがてある十一月の朝、次のような手紙を受取りました。日附は省いて置きます。
[#ここから1字下げ]
ジャーンディス対ジャーンディス事件関係
拝啓 当方の御依頼人ジャーンディス氏は大法官裁判所の命令により、今回本訴訟関係の被後見人を御自宅に引取られることと相成り、右被後見人のためしかるべき話相手兼付け人を種々物色しました結果、貴嬢に右の資格にてお出で願いたき旨連絡せよとの御指示がありました。
よって当方にて手配致しましたから、来週月曜日朝レディング発の料金支払いずみ乗合馬車便にて、ロンドン、ピカデリー通り、白馬亭までお越し下さらば、当事務所員お出迎えの上、左記所在の当方事務所まで御案内申上げます。
[#地付き]敬具
ロンドン、オールド・スクウェア通り、
リンカン法曹学院内
ケンジ・アンド・カーボイ法律事務所
エスタ・サマソン殿
[#ここで字下げ終わり]
この手紙が学校中にまき起した衝撃を、私は決して決して忘れません! みながそんなに私のことを思って下さったのは、ほんとうに親切でありがたいことでしたし、私のことをお忘れにならなかった神さまが、よるべないこの身のゆく末をそんなに安らかにして下さり、そんなに大ぜいの年若い人たちから慕われるようにして下さいましたことは、ほんとにみめぐみ深くありがたいことで、私はもうとてもこらえきれなくなりました。といっても、みながそんなに悲しんでくれないほうがよかったのに――というのではありません。でも、よろこばしさと切なさ、ほこらしさとうれしさと、そしてある心残りとがすっかり入りまじって、私の心は歓喜にみちながらも張りさけんばかりでした。
手紙は出立まで五日の猶予しか与えてくれませんでした。その五日間の一分一分が私に与えられる愛情と好意の|証《あか》しを増して、とうとうその朝になり、これが見おさめというので、みなに案内されて部屋部屋を全部見てまわり、生徒たちから「ねえ、エスタ、このあたしのベッドのわきでさよならをいってちょうだい。だって、あなたから始めてやさしい言葉をかけられたのはここなんですもの!」と大きな声でいわれたり、せめて自分たちの名前にそえて「エスタより愛をこめて」と書いて下さいと頼まれたり、それからみなが|餞別《せんべつ》を手にして私をとりかこみ、泣きながらすがりついて「エスタちゃんがいなくなったら、あたしたちどうしましょう!」と叫ぶので、私はみながこれまでどんなに私に対して寛大で親切であったか、私が一同全部のしあわせをどんなに神さまに祈り、感謝しているかを話してみた時に、なんと胸が一杯になったことでしょう!
それから二人のドニー先生までが私と別れるのを、一番おさない生徒と同じように悲しんで下さり、女中たちから「どこへいらっしゃいましても、あなたの上に神さまのみめぐみがありますように!」といわれ、それにこの六年のあいだ私のことなど気にもとめていないと思っていた、年老いたびっこの庭師が息せききって馬車のあとを追いかけて来て、ゼラニュームのちいさな花束をくれて、あんたはわしの一番大事な人でしたと告げてくれた時には――あのおじいさんはほんとうにそういってくれたのです!――なんと胸が一杯になったことでしょう!
でも、むりもないでしょう、そればかりでなく、ちいさな校舎のそばへ来ますと、思いもよらぬことに、おさない子どもたちが女も男も外に出て手に手に帽子をうちふり、また以前お嬢さんの授業のお手つだいをしたりお宅を訪ねたりしたことのある、髪の毛も半ば白いご夫婦(この地方随一の誇り高いという評判の人たちでした)がいて、みんなあたりかまわずただもう「さようなら、エスタ。ほんとにおしあわせでね!」とだけ叫んでいたのですから、思わず私が馬車の中ですっかり感激して、「まあ、ほんとにありがたいこと! ほんとにありがたいこと!」とくり返しくり返しいったのも、むりからぬことでしょう!
けれども、もちろん私はまもなく、ジャーンディスさんたちの心づくしを思えば、これからゆく土地へ泣き顔などしていってはいけないと気づきました。それで、もちろん、私はすすり泣くのをおさえ、「さあ、エスタ、ほんとに落ち着きなさい! そんなことではだめよ[#「だめよ」に傍点]!」と何度も自分に気を静めるようにいい聞かせました。そしてとうとうかなり元気になりました。でも、そうなるまでに恥ずかしいほど手間どりましたので、ラベンダー香水で目を冷した時は、もうそろそろロンドンを待ち望む時刻になっていました。
もうてっきり着いたと思えば十マイルも手前であったり、実際にロンドンにはいっているのに、もう永久に到着しないのかと思いこんだりしましたけれども、馬車が石だたみの道の上を烈しくゆれながら進み始め、ことに、ほかの乗物が全部私たちの車に、そして私たちの車はほかの乗物全部に、衝突してしまうのかと思われた時には、ほんとうに旅路の終りに近づいたのだと考え始めました。それからまもなく馬車がとまりました。
インクまみれの若い男の人が舗道から声をかけて来ました。「お嬢さん、私はリンカン法曹学院のケンジ・アンド・カーボイ法律事務所の者です」
「ご苦労さまです」と私はいいました。
その若い人は大そう親切でした。その人が指図して私の荷物をおろさせてから、手をかして貸馬車に乗せてくれました時、私はどこかで大きな火事があるのですかと尋ねました。というのは、方々の通りに茶色の濃い煙がみちていて、ほとんどなんにも見えなかったのです。
「いや、とんでもない。これはロンドン名物なんです」
それは初耳でした。
「霧ですよ、お嬢さん」
「まあ、そうですの!」
馬車は世界のどこを探してもないほど(と私は思いました)暗くてきたない通りをゆっくりと進んでゆきましたが、頭が変になるくらいごたごたした通りばかりなので、よくも正気でこんなところに住んでいられるものだと思っているうちに、とある古ぼけた門をくぐり抜けると突然あたりが静かになり、物音一つしない広場をなおも進んでゆくうちに、広場の片隅の奇妙な一角に来ますと、そこには教会の入口のように、幅の広い急な階段をのぼってはいる入口がありました。そして事実、その外側の回廊の下には墓地がありました、というのは、階段の窓から墓石が見えましたから。
これがケンジ・アンド・カーボイ法律事務所でした。若い人は表側の事務室を通って、ケンジさんの部屋へ案内し――そこにはだれもいませんでした――火のそばにひじかけ椅子をうやうやしく出してくれました。それから煖炉のわきの釘にかかっているちいさな鏡に私の注意を向けるのでした。
「旅のあとの身づくろいをなさりたいのでしたら、お嬢さん、どうぞ。これから大法官の前へ出頭されるのですからね。もちろん、ご覧になる必要もありますまいけれども」と若い人は丁重に申しました。
「大法官の前へ出頭するのですって?」私は一瞬びっくりしていいました。
「ほんの形式だけですよ」と若い人は答えて「ケンジ先生はただいま法廷に出ております。よろしくと申しておりましたが、なにか召上るのでしたら」――ちいさなテーブルの上にはビスケットとぶどう酒を入れたびんがのせてありました――「それから新聞をお読みになるのでしたら」といいながら私に新聞を渡してくれるのでした。それから火をかき立てると去ってゆきました。
なにもかもがとてもめずらしいことずくめなので――昼間なのに|蝋燭《ろうそく》が白い焔を立ててもえ、ひんやりうすら寒く見え、まるで夜みたいなので、なおさらめずらしく感じました――新聞の字を読んでもなにが書いてあるのか分らず、気がついてみると同じ字をくり返し読んでいる始末でした。こんなことをつづけていてもむだですから、新聞を下に置き、鏡をのぞいて帽子がゆがんでいないかどうかをたしかめ、明りがあっても少しも明るくない部屋や、みすぼらしい|埃《ほこり》だらけのテーブルや、|堆《うずたか》い書類の山や、なんの言いぶんもないみたいにこの上もなく無表情の顔をした書物で一杯の本箱やらを眺めました。それから私は考えて、考えて、考えつづけ、火は燃えて、燃えて、燃えつづけ、蝋燭はゆらいで垂れつづけているのに|芯《しん》切りばさみもなくて――やがてさっきの若い人が持って来てくれましたが――二時間がすぎました。
とうとうケンジさんが参りました。ケンジさんの方は[#「ケンジさんの方は」に傍点]変っていませんでしたが、私の変りようにおどろき、いかにも満足らしげな様子でした。「今度あなたはいま大法官の私室に来ている若いご婦人のお相手役になるわけなので、あなたにも同席してもらうのがよいと私どもは考えたのです、ミス・サマソン。大法官閣下の前へ出てもあがるようなことはありますまいね?」
「はい、そんなことはないと思います」と私はいいました。事実、考えてみても別にあがる理由が思いあたりませんでしたから。
そこでケンジさんが私に腕をかしてくれ、私たちは柱廊の角を曲がって、横手のドアから中へはいりました。それから廊下づたいに歩いて、ある居心地のよさそうな部屋にはいりますと、若い婦人と若い紳士とがごうごう音を立てて燃えさかっている火のそばに立っていました。その二人と火とのあいだについ立てが置いてあるので、二人はつい立てによりかかりながら話をしていました。
私がはいると二人とも顔をあげましたので、火に照らし出されたその若い婦人がすばらしい美少女なのに気づきました! そのすばらしくゆたかな金髪、すばらしくやさしい青い目、すばらしく明るい、無邪気な、信頼にみちた顔!
「ミス・エイダ」とケンジさんが申しました、「こちらがミス・サマソンですよ」
ミス・エイダは歓迎の微笑を浮べ片手をさしのべながら、挨拶しに来ましたが、すぐに思い直したらしく、私にキスをするのでした。手みじかにいえば、ミス・エイダはしごく飾りけのない、人の心をひきつける、魅惑的な態度の人でしたから、たちまちのうちに私たちは窓下の席に腰かけ、煖炉の火の光を浴びて、この上もなく楽しく打ちとけて語り合っていたのです。
どんなに私は心の重荷をおろしたことでしょう! ミス・エイダが私を信頼し好いてくれることが分って、ほんとにうれしく思いました! それはミス・エイダがほんとにやさしい人だからで、私にとってほんとに張り合いのあることでした!
その若い紳士は、ミス・エイダの話によると、遠縁にあたる人で、名前をリチャード・カーストンといいました。純真な顔をした、とても魅力のある笑い方をする美青年で、ミス・エイダに呼ばれて私たちの腰かけているところへ来てからは、そこに立って煖炉の光を受けながら、気楽な少年のように陽気に話をしていました。年は大そう若くて、その時せいぜい十九歳、ミス・エイダより二つ近く年上でした。二人ともみなし子で、それに(私にとってまったく思いもよらぬふしぎな話でしたが)その日まで一度も会ったことがないのでした。私たち三人がそういう世にもめずらしい場所で始めてめぐり会ったことは、話の種になる出来事でしたし、また話の種にもしました。すると、もうごうごううなるのをやめてしまった煖炉の火が、私たちに向って赤い目をまたたいて見せるのでした、まるで――リチャードがいったとおり――ねむけをもよおした大法官府の老ライオンのように。
私たちは小声で話をかわしていました。というのは礼装をして飾り袋つきのかつらをかぶった一人の紳士がひっきりなしに出たりはいったりしていたからですが、その出はいりのたびごとに遠くの方で大そう間のびのした声が聞えました。それは、この紳士の話によると、私たちの訴訟関係の弁護士が大法官に対して発言しているのだそうで、紳士はケンジさんに向って、五分すれば閣下がお見えになると告げました。ほどなく、ざわめきと人々の足音が聞え、ケンジさんは法廷が閉廷になり、閣下がとなりの部屋に来られたのだといいました。
それとほとんど同時に、かつらの紳士がドアをあけて、ケンジさんに中へはいるようにと申しました。そこで私たち一同はケンジさんが先頭に立って私の大事な人を――今ではエイダのことをそう呼ぶのが私の口ぐせなので、やはりそう書かずにはいられません――わきに従えて隣室にはいりました。そこには大法官閣下が地味な黒の服装のまま、煖炉のそばのテーブルに面したひじかけ椅子にかけておられ、美しい金モールのついた大法官服は別の椅子の上にぬぎすててありました。私たちがはいってゆきますと、閣下は鋭い目つきで一瞥されましたが、その物腰はやさしく、丁重でした。
かつらの紳士が閣下のテーブルの上にいく束もの書類を置きますと、閣下は無言で一つの綴りをえらび出して、ページをめくられました。
「ミス・クレア」と大法官が申されました、「ミス・エイダ・クレアは?」
ケンジさんがエイダを紹介しますと、閣下はエイダに向ってご自分のそばに腰かけるようにとすすめられました。閣下がエイダに見とれ関心を持たれたことは私にさえすぐに分りました。そんなに美しく、うら若い娘に自分の家がなくて、そういうあじきない役所が代理をしているのかと思うと、私は胸があつくなりました。全盛をきわめている大法官閣下ですら、両親の愛情と誇りに取って替りうべくもないように思われたのです。
「問題のジャーンディスというのは」と大法官はあい変らずページをめくられながら、「荒涼館のジャーンディスですね?」
「荒涼館のジャーンディスでございます、閣下」とケンジさんがいいました。
「荒涼館とは陰気な名前ですね」
「けれども、閣下、ただ今では陰気なところではございません」
「それで、荒涼館のある場所は――」
「ハーフォード州でございます」
「荒涼館のジャーンディス氏はまだ結婚していませんね?」
「さようでございます、閣下」
しばらく沈黙がつづきました。
「リチャード・カーストン君は出頭していますね?」と大法官閣下はリチャードのほうへ、ちらりと視線を向けながら申しました。
リチャードは一礼して前へ進み出ました。
「ふん!」大法官閣下はそういって、さらに書類のページをめくられました。
「恐れながら申し上げますが、閣下」とケンジさんが低い声で申しました、「荒涼館のジャーンディス氏は適当な相手を用意いたしまして――」
「リチャード・カーストン君のためにかね?」と閣下が同じように低い声で、微笑を浮べながらいわれたように私の耳には聞えました(でも、はっきり聞いたわけではありません)。
「ミス・エイダ・クレアのためにでございます。これがその相手役の婦人でございます。ミス・サマソンと申します」
閣下は私のほうにやさしい一瞥を投げ、私の敬礼にいかにもおうように答えて下さいました。
「ミス・サマソンは訴訟当事者とはべつに縁つづきというわけではないのだね?」
「はい、閣下、そのとおりでございます」
ケンジさんは返事をしおえないうちから体を前に乗り出して、なにかひそひそ申し立てました。閣下は書類に目をそそいだまま、耳をかたむけ、二、三度うなずき、またページをめくられましたが、私たちが退出する時まで、もうそれ以上私のほうはご覧になりませんでした。
そこでケンジさんは私のいたドアの近くへリチャードともども引きさがり、私のかわいい人(エイダをこう呼ぶのが私の口ぐせになっているので、やはりそういわずにはいられません!)を大法官閣下の近くの席に残して来ました。閣下はやや離れたところからエイダにお言葉をかけて、あとで聞いたところによりますと、裁判所の提案した取り決めを充分に考えてみたか、荒涼館のジャーンディス氏のもとへいってしあわせに暮せると思うかどうか、なぜそう思うのか、とお尋ねになったそうです。まもなく閣下はいんぎんな態度で立ち上って、エイダを自由にしてあげ、それからリチャード・カーストンと一、二分間話をされましたが、自分の席にはつかれず立ったままで、それまでにくらべると、なにかにつけて打ちとけ、かたくるしさを示されませんでした――まるで、大法官閣下という身でありながら[#「ありながら」に傍点]、青年の率直さにまともにぶつかるすべをいまだに忘れていないみたいに。
「よろしい!」と閣下は大きな声で申しました。「では命令を出すことにしましょう。荒涼館のジャーンディス氏は、私の見るかぎりでは」この時に閣下が私のほうをご覧になったのです、「ミス・クレアのためにまことに結構な相手役をえらんでくれましたし、裁判所のとり決めは全体として、こういう事情のもとでは最善のものと思われますね」
閣下はこころよく私たちの退出を許して下さり、私たち一同は閣下のもの柔かで礼儀正しいのに深く感謝しながら外へ出ましたが、閣下のそういう態度は威厳をきずつけるどころか、かえって威厳を加えたように私たちには思われました。
柱廊の下までゆきますと、ケンジさんはちょっと戻って質問しなければならない用事を思い出したからといって、私たちを霧の中に残して帰ってゆきましたが、その霧の中には大法官閣下の馬車と従者とが閣下の退出を待っていました。
「やれ、やれ!」リチャード・カーストンがいいました、「これで[#「これで」に傍点]かたづいた! ところでこれから僕たちはどこへゆくんです、ミス・サマソン?」
「ご存じないのですか?」
「さっぱり知りませんね」
「そしてあなたも[#「あなたも」に傍点]ご存じないの、ねえ?」と私はエイダに尋ねました。
「ええ! あなたも?」
「全然知りませんわ!」
私たちがたがいに顔を見あわせながら、森の子供たち(4)のようになったことを笑いにまぎらせていますと、その時ひしゃげた帽子をかぶり、手さげ袋をさげた、|小柄《こがら》の奇妙な老婦人がひどく儀式ばった態度で、微笑をたたえて|会釈《えしやく》しながら近づいて来ました。
「あら!」と老婦人はいいました、「ジャーンディス事件の被後見人のかたたちね! ほん―とうにうれしく思います、お会いして! あの事件の被後見人がここに来て、どんな結果になるかご存知ないのは、若さと、希望と、美しさのために縁起のよいことです」
「気ちがいだ!」とリチャードは老婦人に聞えるとも思わず、そうささやきました。
「そのとおり! 気ちがいよ、お若いかた」と老婦人がすぐさま答えたので、リチャードはすっかりまごついてしまいました。「私もあの事件の被後見人でした。あのころは気ちがいじゃありませんでした」とその短い文句の合間ごとに、丁寧に会釈して微笑しながら、「若さと希望を持っていました。たぶん、美しさも。そんなこと、今はどうでもよいのです。三つともなんの役にも立たず、救いにもなりませんでした。毎日、私、大法官裁判所に通わせてもらっています。書類を持って。判決を待っているのです。近いうちに。最後の審判の日にです。聖書の黙示録にいっている第六の|封印《シール》というのは、大法官の保管している|国璽《こくじ》(5)でした。大むかしから封印は解かれていたのです! どうぞ私の祝福を受けて下さい」
エイダがややおびえてしまったので、私は老婦人をなだめるために、どうもありがとうございますといいました。
「そう――そうね」と老婦人はもったいぶっていいました。「そうでしょうね。おや、おしゃべりケンジが来ましたよ。あの男も[#「あの男も」に傍点]書類を持って! 弁護士さん、ごきげんはいかが?」
「いいきげんだよ、いいきげんだよ! さあ、邪魔をしないで、いい子だから!」とケンジさんは先に立って帰りながらいいました。
「どういたしまして」とかわいそうな老婦人はエイダと私におくれずついて来て、「邪魔などしませんよ。今に私はこのお二人に地所をあげますよ――それなら邪魔にならないでしょう? 私は判決を待っているのです。近いうちにね。最後の審判の日にですよ。これはあなたがたには縁起のよいことですよ。私の祝福を受けて下さい!」
老婦人は幅の広い急な階段の下で立ちどまりました。しかし私たちが階段を登りながら振り返ると、老婦人はやはりそこにいて、短い文句の合間ごとに、なおも会釈と微笑をつづけながらいうのでした。「若さ。希望。美しさ。大法官府。それから、おしゃべりケンジさん! ああ! どうぞ私の祝福を受けて下さい!」
[#改ページ]
第四章 望遠鏡的博愛
ケンジさんの事務所へ着きますと、今晩私たちはミセス・ジェリビーの家に泊るのだとケンジさんはいい、それから私の方を向いて、むろんミセス・ジェリビーをご存知でしょうな、というのでした。
「じつは、わたし知らないのです。たぶん、カーストンさんか――それともクレアさんが――」
しかし、二人ともミセス・ジェリビーについてはなにも知りませんでした。
「そう―ですか!」とケンジさんは立ったまま火の方に背中を向け、煖炉の前の敷物を、まるでミセス・ジェリビーの伝記でも読むみたいに、じっと見つめながら、「ミセス・ジェリビーは社会のために一身をささげている、ひじょうにしっかりした婦人ですよ。これまでさまざまな時期に、じつにさまざまな種類の社会事業に献身してきましたが、現在では(ただし、なにかほかの事業に興味をひかれるまではですな)アフリカの問題に一身をささげていて、コーヒー――ならびに[#「ならびに」に傍点]土民――の栽培教化全般と、わが国内の過剰人口のアフリカ河川流域への理想的植民とを抱負にしているのです。ジャーンディス氏は有益な事業になりそうに思われることにはすべて援助をおしまれないし、博愛事業家たちから大いに頼りにされていますが、私の見るところでは、ミセス・ジェリビーをきわめて高く買っておられますね」
そういってケンジさんはネクタイをととのえながら、私たちの方を見ました。
「それではミスター・ジェリビーは?」とリチャードがうながした。
「ああ! ミスター・ジェリビーは――ええと――まあミセス・ジェリビーのご主人というのが一番適切でしょうな」
「取るにたらない人というわけですか?」リチャードがひょうきんな顔をしていいました。
「そうはいいません」ケンジさんは|鹿爪《しかつめ》らしく答えました。「いや、そうはいえません、なにしろミスター・ジェリビーのことは[#「のことは」に傍点]なんにも知らないのですからね。私の覚えているかぎりでは、ミスター・ジェリビーにお会いしたことがないのですよ。ひじょうに立派な人物なのかも知れません。しかしあの人は、いわば、奥さんの輝かしい才能の陰に姿を没して――没しているのです」それにつづいてケンジさんは、こういう晩に荒涼館へゆくのは道が遠くて、暗くて、退屈だろうし、それに私たちは旅のあとだしするから、ジャーンディスさんご自身がそういう手はずにしたのだと申しました。翌日の朝早く、馬車をミセス・ジェリビーの家によこしてくれてロンドンを立つ予定なのでした。
それからちいさなベルを鳴らすと、例の若い男の人がはいって来ました。ケンジさんはその人をガッピーと呼び、ミス・サマソンのトランクとほかの荷物を「回送」したかと尋ねました。ガッピーさんは、はい、もう回送しましたし、馬車が待っていて皆さんをいつでもお連れしますといいました。
「それでは、あとはもう」とケンジさんは私たちと握手をしながら、「本日とり決めた予定を(さようなら、ミス・クレア!)心から祝福し、関係各位の上に(あなたもさよう―なら[#「なら」に傍点]、ミス・サマソン! あらゆる見地から見て、幸福と(お近づきになれて光栄でした、カーストンさん!)しあわせと利益とがありますように心から希望するばかりです! ガッピー、皆さんをあそこまでお送りしろ」
「『あそこ』って一体[#「一体」に傍点]どこですか、ガッピーさん?」みなで階段を降りながらリチャードがいいました。
「じき近くです、セイヴィ法学予備院の中ですよ(1)」
「どこなのかよく分りませんねえ、だって僕はウィンチェスターの出身で、ロンドンは初めてですから」
「角をまがればすぐです。大法官府横町に沿っていって、それからホウバン通りをいそげば大体四分でつきますよ。やあ、ロンドン名物が出て来た[#「出て来た」に傍点]じゃないですか、お嬢さん?」ガッピーさんはそれが出て来たのを私のために喜んでいる様子でした。
「ほんとうに、霧が深いこと!」と私はいいました。
「でも、大丈夫、ご心配ないですね」とガッピーさんは馬車のふみ段をたたみながら、「かえってお元気になったようですよ、お顔から見ると」
このお世辞は好意でいってくれたことが分りましたので、私は顔を赤らめたりした自分を笑いましたが、その時もうガッピーさんはドアをしめて御者席にすわっていました。それから三人して笑い、みなの未経験やロンドンのめずらしさにうち興じているうちに、車はアーチになっている道をくぐって目的地へつきました。そこは高い家々が立ちならんだせまい通りで、まるで霧をたたえた長方形の水槽のようでした。車がとまったその家の前には、何人かの人たちが、おもに子供でしたが、ごたごたとむらがっていて、ドアのさびた|真鍮《しんちゆう》の標札には「ジェリビー」と書いてありました。
「びっくりすることはないですよ!」ガッピーさんが馬車の窓からのぞきながらいいました。「ジェリビーさんとこの子供め、通りから地下室の勝手口へ降りてゆくところの手すりに頭をはさんじゃったんですよ!」
「まあ、かわいそうに」私はいいました、「どうぞ私をおろして下さい!」
「気をつけて下さいよ、お嬢さん。ジェリビーさんとこの子と来たら、いつもなんか仕出かすんですから」
かわいそうなその子のところへゆきますと、それは今までに見たこともないほどよごれた、あわれな姿をした子で、見れば二本の鉄の手すりのあいだに首をはさまれたので、すっかりおびえて興奮し、大声で泣いているのですが、それを牛乳配達夫と裁判所の廷吏が、脚をつかまえてひっぱれば頭蓋骨がちぢまるだろうと考えて、この上もない親切な気持から一所懸命ひっぱっているところでした。私は(少年をなだめてから)その子が生れつきの大頭なのに気づきましたから、たぶん頭のゆく方へなら体もついてゆくだろうと考え、この子を救い出すには前へ押してやるのが一番よいでしょうと話しました。この考えに牛乳配達夫と廷吏はすっかり賛成して、すぐにも子供を地下室前の石だたみの上へ突き落しかねないいきおいでしたけれども、私が子供の前かけをつかまえていましたので、そのあいだにリチャードとガッピーさんが台所の中を通ってかけつけ、手すりから抜け落ちた子を受け止めてくれました。そうやってとうとうなんのけがもなく無事に助け出されると、今度はその子は輪まわしの棒でガッピーさんをやっきになってぶち始めるのでした。
そのあいだじゅう家の者は姿をあらわさず、ただ一人、木ぐつをはいた女が勝手口の前に出て来て、少年を|箒《ほうき》で下からつついているだけでした。なんのためにそんなことをしたのか私には分りませんが、当人にしても分らなかったのではないかと思います。そんなわけですからミセス・ジェリビーが家にいないものと思っていましたが、おどろいたことに、木ぐつをぬいだその女が玄関にあらわれて、エイダと私を案内して二階の裏の方の部屋へ上ってゆき、「あのお嬢さんたちですよ、奥さん!」と告げるのでした。そこへのぼってゆく途中、別の子供たち何人かとすれちがいましたが、家の中が暗いので足をふまないわけにはゆきませんでした。私たちがミセス・ジェリビーの面前に出た時に、かわいそうに子供たちの一人が大きな音を立てて階段から落ちました――(その音から考えると)頂上から一番下まで落ちたのです。
かわいい子供の頭が一段ごとにドシンドシンと墜落を告げるので――踊り場の音を別にしても七回音が聞えたとリチャードがあとでいいました――私たちは顔に不安の念をあらわさずにはいられませんでしたが、ミセス・ジェリビーはその気配も示さず、平静そのもののようにして私たちを迎えるのでした。四十歳から五十歳のあいだの、とても小柄で肉づきのよい、きれいな人で、その目は美しいけれども、はるか遠いところを眺めているように見える奇妙な癖のある目でした。まるで――またリチャードの言葉を使いますが――アフリカより近いところにあるものはすべて見えないみたいに!
「おいでいただいて」とミセス・ジェリビーは感じのよい声でいいました、「ほんとうにうれしゅうございます。わたくし、ジャーンディスさんを大そう尊敬しておりますから、あの方が関心を持っていらっしゃる方ならどなたに対しても、無関心ではいられませんわ」
私たちはお礼の挨拶を述べ、ドアのうしろにあるびっこのようなソファーに腰をおろしました。ミセス・ジェリビーはとてもきれいな髪をしていましたけれども、アフリカの仕事にいそがしすぎて、ブラッシをかけているひまなどはないのでした。肩にゆるやかに羽織ったショールは、夫人が私たちのところへ歩いて来た時に、椅子の上に落ちてしまいました。それから席にもどろうとしてうしろ向きになると、洋服の背中がはだけていて、そのすきまを――あずま屋の格子組みのように――コルセットの格子編みのひもが覆っているのが、見まいとしても見えるのでした。
部屋の中は書類がちらばり、同じような紙くずで覆われた大きな書き物机が大半の場所をしめていましたが、この部屋は大そうちらかっていたばかりでなく、大そうよごれてもいたといっておかなければなりません。そういうことを私たちは目に見せつけられないわけにいかなかったのですが、そのあいだも耳の方は、階段から落ちたかわいそうな子が、たぶん裏の台所へころがりこみ、だれかに泣き叫ぶのをおし殺されているらしい様子を、|辿《たど》っていました。
けれども、とくに注意をひいたのはその書き物机に向って腰かけ、|鵞《が》ペンの羽根をかみながら、私たちをにらみつけている少女でした。決して不器量な子ではないのに、疲れきって不健康そうな顔をしていましたし、これほどインキまみれになった人間は、たぶんどこにもいなかったことでしょう。それにくしゃくしゃになった髪の毛から、かかとがつぶれてすりきれた|繻子《しゆす》のスリッパーのため、美しさも台なしのかわいい足の先まで、身につけているものといえば、ピンを始めなに一つ満足な状態、正しい場所にあるものがないのでした。
「ねえ、ごらんのとおり、わたくしは」といいながらミセス・ジェリビーが燭台に立てた二本の大きな事務所用の蝋燭の|芯《しん》を切ったので、部屋の中にあつい獣脂のにおいがこもりました(煖炉の火は消えていて、火床の中には灰とまき束と火かき棒しかありませんでした)。「ねえ、ごらんのとおり、わたくしは例によって大そういそがしいんですの。でも、それはお赦し下さいますわね。ただ今のところ、アフリカの開発計画に時間を全部とられておりますのです。それで全国の同胞の幸福を熱望している個人や団体と通信をしなければなりませんの。さいわい計画は順調に進んでおりますわ。来年の今ごろまでには、百五十から二百までの健全な家族を、ニジェル河の左岸でコーヒーの栽培とボリオブーラ・ガーの土民の教育に当らせていると思いますわ」
エイダがなにもいわずに私の方を見ましたから、私はそれはさぞかしご満足のことでしょうといいました。
「ほんとうに[#「ほんとうに」に傍点]満足ですわ。この計画のためには、少ないながらもわたくしのあらんかぎりのエネルギーを捧げなければなりません。でも成功しさえすれば、そんなことなんでもありませんし、それに一日ごとに成功する確信が強くなってゆきますの。ねえ、ミス・サマソン、わたくし、あなた[#「あなた」に傍点]がアフリカのことをお考えにならないなんてふしぎのように思いますのよ」
アフリカの問題をこういうふうに持ちかけられたことは、私にとってまったく不意打ちでしたから、どう応対したらよいのかすっかり当惑してしまいました。そこでそれとなく気候のことをいいかけますと――
「気候は世界中で一等すばらしいところですのよ!」
「そうですか、奥さま?」
「そうですとも。用心すればですね。用心しなければホウバン通りへいっても、車にひかれます。用心すればホウバン通りへいっても、決して車にひかれません。アフリカだってその通りですわ」
「たしかにそうですね」と私はいいました――それはホウバン通りのことをいったのですが。
「もしもその点や」とミセス・ジェリビーは私たちの方へかなり沢山の書類をさし出しながら、「アフリカの問題一般についてのなにか書いたものをごらんになりたいのでしたら、わたくしそのあいだに今口述しかけて――秘書をしておりますうちの長女に口述しかけている手紙の方をかたづけますから――」
テーブルに向っている少女は鵞ペンをかむのをやめて、私たちの会釈に答えましたが、半ばはにかみ、半ばすねている様子でした。
「そうすれば、さしあたりの用事がかたづきますわ」とミセス・ジェリビーはにっこりほほえみながら言葉をつづけ、「もっともわたくしの仕事は永久に終るということはありませんけれども。キャディ、どこまでいったかしら?」
「『スウォロー様に御自愛専一を祈り上げ、また――』」とキャディがいいました。
「『また』」とミセス・ジェリビーは口述に移って「『アフリカ開発計画に関する御照会状につき申上げたく存じますのは――』いけません、ピーピィ! いけませんたら!」
ピーピィ(これは自分で付けた名前でした)といわれたのは階段から落ちたあのかわいそうな子でしたが、今度は手紙の邪魔をしに、ひたいにバンソウコウをはってあらわれ、けがをしたひざを見せるのでしたが、エイダと私はどちらの方に――きずかそれとも|垢《あか》か――同情したらよいのか迷ってしまいました。ミセス・ジェリビーは、なにをいう場合もそうでしたが、あい変らず落着きはらって、「あっちへいってらっしゃい、ピーピィ、お行儀の悪いこと!」とだけいい足すと、またアフリカにその美しい目をそそいでしまうのでした。
けれども、夫人はすぐにまた口述を始めましたし、別に邪魔になるわけでもないので、私は出てゆこうとするピーピィを思い切ってそっと引きとめ、抱きあげてお|守《も》りを始めました。そうされたり、エイダからキスされたりしたので、ピーピィは大そうびっくりした様子でした。しかし、ときどき泣きじゃくるのがだんだん|間遠《まどお》になったと思うと、まもなく腕に抱かれたままぐっすり寝こみ、とうとう静かになりました。ピーピィのことに心を奪われていたために、ミセス・ジェリビーの手紙のこまかい点は聞き落しましたけれども、全体としてはアフリカがひじょうに重要なこと、それ以外の一切の国や仕事がまったく取るに足らないことを強く感じさせられましたので、これまでアフリカのことなどほとんど考えてもみなかった自分が、とても恥ずかしくなりました。
「もう六時ですわ!」ミセス・ジェリビーがいいました。「夕食時間は一応(なにしろ、うちでは時間にかまわず夕食をとるものですから)五時ですのに! キャディ、ミス・クレアとミス・サマソンにお部屋をご案内なさい。きっと、お二人とも着替えをなさりたいでしょう? わたくし、すっかりいそがしくしていますけれども、お赦し下さいますわね。まあ、ほんとにいけない子ね! どうぞ、ピーピィをおろして下さいませ、ミス・サマソン!」
私は少しも迷惑ではありませんから(うそではありませんでした)抱かせておいて下さいと頼み、ピーピィを階上につれていって私のベッドに寝かせました。エイダと私はドアであいだが通じている三階の二部屋をあてがわれました。ひどくがらんとした乱雑な部屋で、私の方の窓のカーテンはフォークで留めてありました。
「お湯がいるんじゃありません?」と案内して来たミス・ジェリビーはいいながら、部屋の中を見廻して取手のついた水さしを探しましたが、みつかりませんでした。
「もしごめんどうでなかったら、お願いしますわ」と私たちはいいました。
「いいえ、めんどうっていうより、問題はほんとに[#「ほんとに」に傍点]あるかどうかなんです」
大そう寒い夕方で、部屋の中は沼のようなにおいがひどくするので、打ち明けたところ、ややみじめな気持になりましたし、エイダは泣き出しそうでした。けれども私たちはじきに笑って、せっせと荷物を解いていますと、そこへミス・ジェリビーがもどって来て、あいにくお湯がないけれども、やかんがみつからないし、湯わかし器は故障していると告げるのでした。
私たちは気にしないようにといい、大いそぎで下の食堂の煖炉のそばへ降りてゆく支度にかかりました。けれども、ちいさな子供たちが全部、私のベッドにピーピィが寝ている大事件を見ようと思って、もう階段の踊り場のところまでのぼって来てしまいました。それからドアのところへ来て、ちょうつがいのあいだの危険なところへ、ひっきりなしに鼻や指をさしこむので、落着いて着替えをすることもできませんでした。それにどちらの部屋もドアをしめることができなかったのです。私の部屋の錠前は、取手がとれているので、まるで早く取手を付けて廻してもらいたいな、とでもいうような顔をしていました。エイダの方のハンドルはすこぶる調子よくぐるぐる廻るのですが、その効果がいっこうドアの方にあらわれないのです。それで私は子供たちに向って、部屋の中へはいってテーブルのところでじっとおとなしくしていれば、おねえさんが洋服を着替えながら「赤ずきんちゃん」の話をしてあげましょうといいました。みんなはそのとおりにして、二十日ねずみのように静かになり、それにピーピィも狼がまだあらわれないうちに都合よく目を覚まして、仲間にはいりました。
私たちが二階へ降りてゆきますと、階段の窓のところに、「贈呈、タンブリッジ・ウェルズ町」と書いてあるジョッキに浮き灯心を入れて火をともしてありました。そしてふくれた顔にフランネルの包帯を巻いた若い女の人が、応接間(この時はもうミセス・ジェリビーの部屋に通じるドアがあけてありました)の火を吹いて、おそろしくむせているところでした。手短かにお話すれば、煙が大そうひどかったものですから、半時間ものあいだ窓をあけたまま、私たち三人はせきをしたり悲鳴をあげたりでした。そのあいだじゅうミセス・ジェリビーはあい変らず、うるわしいご機嫌でアフリカ関係の手紙のあて名を書いていました。申訳ないことですが、夫人がそうやっていそがしくしているので、私は大いに息抜きができました。というのは、リチャードがエイダと私に、パイのお皿で手を洗って来たことやら、やかんがリチャードの部屋の鏡台の上でみつかったことを話してくれて、エイダをとても笑わせましたので、二人につられて私もほんとにはた目にもおかしいほど笑ってしまいました。
七時少しすぎに私たちは一階へ食事に降りてゆきましたが、ミセス・ジェリビーに、用心するようにといわれました。というのは階段のじゅうたんの押え金がだいぶなくなっている上に、生地がすっかり裂けてまるで|罠《わな》のようになっていたからです。食事には上等の|鱈《たら》、ロースト・ビーフ、カツレツ、プディングが出ました。もしこれがお料理といえるほどのお料理になっていたなら、さぞすばらしい晩餐だったでしょうが、どれも|生《なま》も同然でした。フランネルの包帯をした若い女の人がお給仕をしましたが、どんなものでもみなテーブルの上に落して、どこへころがろうが二度と手をふれず、最後に階段のところへ下げてしまうのでした。さきほど見かけた木ぐつの女はコックだったらしく、しきりにやって来ては食堂の入口で包帯の女となにかやり合っていて、どうやら二人は仲がよくないようでした。
食事はずいぶん時間がかかりましたが、それというのも、じゃがいも料理を盛ったお皿が石炭入れの中に置き忘れてあったり、包帯の女がぶどう酒のびんをあけている時に、せん抜きの柄が抜けて自分のあごを突き上げたり、いろいろの事件が起ったからですが、ミセス・ジェリビーは始めから終りまで落着いたものでした。ボリオブーラ・ガーと土民のことを盛んに話してくれて、そのあいだもたくさんの手紙が来るので、夫人の隣りの席にいたリチャードが見ていると、ソースの中に封筒を一度に四枚も落してしまうのでした。手紙のうちに婦人委員会の議事録や婦人集会の決議があれば読んで聞かせ、またコーヒーの栽培と土民の教化にいろいろ感激した人たちからの申込状があり、返事の必要なのがあれば長女を食卓から立たせて書きにゆかせることが三、四回もありました。山のような仕事をかかえて、自分でもいっていたとおり、たしかに夫人はこの事業に一身を捧げておりました。
テーブルには眼鏡をかけて頭がはげた、おだやかな紳士がいるので、どういう人なのかと私はやや好奇心を起しました。その人は魚料理が下げられてから姿をあらわして、あいた椅子に(食卓には別に上座も下座もありませんでした)どっかり腰をおろし、どうやら仕方なしにボリオブーラ・ガーの話を聞いているらしく、この植民地に積極的な関心はない模様でした。ひとことも口をききませんから、もし顔の色が黒かったならば、土民だと思ったかも知れません。しかし食事がすんで私たちがテーブルをはなれても、リチャードと二人だけであとに残っていましたから、もしかするとミセス・ジェリビーのご主人ではないかと、この時初めて私は考えました。そして事実この人がご主人だったのです。それからもう一人、こめかみ一面にぎらぎら光る大きな吹出物のある、髪をオールバックにした、とてもおしゃべりのクウェイルさんという若い男の人が夜になってから来ましたが、エイダに話したところによるとこの人は博愛事業家だそうで、またジェリビー夫妻の結婚は精神と物質との結合だともいったそうです。
この人はアフリカのことや、土民にピアノの脚の製造法を教え、それによって輸出を確立することをイギリスの移民に教育するという自分の計画について、|滔々《とうとう》と述べ立てたばかりでなく、ミセス・ジェリビーに向って得々として、「ねえ、奥さん、たしかあなたはアフリカに関する手紙を、一日に百五十通から二百通ももらったことがありましたっけねえ?」とか、「奥さん、僕の記憶に誤りがなければ、いつかあなたは一つの郵便局から一度に五千通も|通牒《つうちよう》を出したとおっしゃったでしょう?」とかいう誘い水をさしてはミセス・ジェリビーにおしゃべりをさせ、そのつど通訳みたいに、夫人の返事を私たちにくりかえし聞かせるのでした。その晩ずっとミスター・ジェリビーは隅の方にすわって壁に頭をつけ、まるで意気銷沈したような様子をしていました。食事がすんでリチャードと二人きりになった時、まるでなにか心配事でもあるみたいに、何度か口を開いたようでした。けれどもそのつど、なにもいわずにまた閉じるので、リチャードはひどく当惑してしまいました。
ミセス・ジェリビーは紙くずが鳥の巣そっくりに溜った中に椅子をすえ、コーヒーを飲みどおしで、ときどきご長女に手紙の口述をするのでした。またクウェイルさんを相手に――もし私の聞きちがいでなければ――人類の同胞愛を話題にして論議し、立派な意見を述べました。私は話をよく聞きたいと思いましたけれども、充分に注意を向けることができませんでした。というのはピーピィやほかの子供たちが応接間の隅にいるエイダと私のまわりに群がって来て、また話をしてくれとせがむのでした。それで二人は子供たちにかこまれたまま椅子に腰かけ、「長靴をはいた猫」やらほかの話やらを低い声で話していましたが、そのうちにミセス・ジェリビーはふと子供のことを思い出して、みなにもう寝なさいといいました。ピーピィが私に向って寝床へつれていってくれと大声でわめくので、階上へ抱いてゆきますと、フランネルの包帯をまいた女が子供たちのまん中へ竜のように突進して来て、みなを寝台にほうりこんでしまいました。
それから私は自分たちの部屋を少し片づけ、煖炉に入れてある機嫌の悪い火をだましだまし、ようやくのことでうまく燃え上らせました。階下へ戻りますと、そういうつまらないことに気をとられていた私を、ミセス・ジェリビーがかなり軽蔑していることに気づいて、おろかなことをしたと後悔しました。でも同時に、私は自分がそれ以上の仕事に値する人間でないことを心得ていました。
十二時近くになってから、ようやく私たちは機会をみつけて寝室へ引き揚げることができました。しかし、その時でもまだあとに残ってミセス・ジェリビーは書類の山の中でコーヒーを飲み、ミス・ジェリビーはペンの羽根をかんでいるのでした。
「なんという奇妙な家でしょう!」私たちが三階の部屋へはいるとエイダがいいました。「こんなところへあたしたちを来させるなんて、ジャーンディスさんもずいぶん変っている方ねえ!」
「ねえ、あなた、わたしは頭がすっかり混乱してしまいましたわ。理解しようと思っても、全然理解できないんですもの」
「なにを理解するの?」エイダがかわいらしい微笑を浮べて尋ねました。
「ここのこと全部よ。アフリカの土民を幸福にしてあげるための計画にあんなに骨を折っていらっしゃるのですもの、たしかに[#「たしかに」に傍点]ミセス・ジェリビーはほんとに親切な方に相違ありませんわ――それなのに――ピーピィやあの家政ぶりといったら!」
エイダは声を立てて笑い、煖炉の火を眺めながら立っている私の首に腕をまきつけると、私のことを、おとなしくて、親しみが持てて、いい人なので、心から好きになってしまったというのでした。「エスタ、あなたはとても思いやりがあって、そのくせ、とても明るいのね! 人のためにとてもつくしていながら、それを、とてもつつましやかにやってのけるのね! あなただったらこんな家でも家庭らしくしてあげられるでしょうのに」
無邪気でかわいらしい人! 私のことをそんなにほめるのは、エイダ自身の心がやさしいからで、その賞讃はほかでもないエイダ自身にこそ当てはまるのだということにまったく気づかないのでした!
「一つお尋ねしてもよろしいでしょうか?」二人がしばらく火の前に腰かけてから私は尋ねました。
「五百でも結構よ」
「あなたのお従兄さんのジャーンディスさんのことなんです。わたし、あの方にはとてもご恩を受けています。どんな方なのかお話していただけませんかしら?」
金髪をゆすりながらエイダは私の方に視線をそそぎ、声を立てて笑い、大そうおどろいているので、私もおどろきで一杯になりました――一つにはエイダの美しさに打たれたため、また一つにはエイダがびっくりしたためでした。
「エスタ!」とエイダが大きな声でいいました。
「はい、あなた!」
「従兄のジャーンディスさんのことを話してとおっしゃるのね?」
「はい、わたし、一度もお会いしたことがないものですから」
「あたしだって[#「あたしだって」に傍点]会ったこと、ないのよ!」
まあ、まさかそんなことが!
いいえ、そうなのでした、エイダは一度もジャーンディスさんに会ったことがなかったのです。ママに死に別れたのはまだ幼い時分でしたけれども、エイダはママがジャーンディスさんのこと、その高潔でおおらかな人柄のことを話すたびに、目に涙を浮べていたのを覚えていますし、ジャーンディスという人は地上のなにものにもまして信頼できる方だといわれていましたので、エイダもその人柄を信頼していました。すると数カ月前に、その従兄のジャーンディスさんが便りを――「飾りけのない誠実な手紙」だったそうです――くれて、私たちが今これから始めようとしている新生活の設計図を示し、「やがてこれによって、あの不幸な大法官府の訴訟によって受けた|傷手《いたで》がいくらかでもいやされるのではないでしょうか」と申し出て来たのです。エイダはその申し出をありがたくお受けしますと返事しました。リチャードも同じような手紙を受けとり、同じような返答をしました。リチャードの方は五年前ウィンチェスターのパブリック・スクールに在学していたころ、一度、たった一度でしたけれども、たしかに[#「たしかに」に傍点]ジャーンディスさんに会っていました。私たちが始めて出会った大法官の部屋の煖炉の前で、二人がつい立てによりかかっていた時に、リチャードはエイダに向って、ジャーンディスさんという人は「ほおの赤らんだ気さくな人」だったことを覚えていると話したそうです。エイダはせいぜいそのくらいのことしか話せませんでした。
それを聞いて私はすっかり考えこんでしまいましたので、エイダが眠ってしまっても、あい変らず煖炉の前で、一体荒涼館というのはどんな家かしらとしきりに考え、つい昨日の朝のことがもう遠い昔のように思われるのがふしぎでなりませんでした。どこまでそうして取り留めのないことを考えていたのか知りませんが、ドアをたたく音に私は我にかえりました。
そっとドアを開くと、ミス・ジェリビーが片手に、折れた|蝋燭《ろうそく》を立てた欠けた燭台、もう一方の手に、ゆで卵立てのカップを持って、身ぶるいをしながら立っているのでした。
「今晩は!」ミス・ジェリビーはひどく不機嫌にいいました。
「今晩は!」
「はいってもいい?」同じように不機嫌な物いいで、意外なことをぶっきら棒に尋ねました。
「いいですとも。でもミス・クレアを起してはだめよ」
ミス・ジェリビーは椅子にかけようともせず、火のそばに立ったまま、ゆで卵カップ(中には酢がはいっていました)の中にインキだらけの中指をひたし、顔についているインキのしみになすりましたが、そのあいだもずっと|眉間《みけん》にしわをよせ、ひどく暗い表情でした。
そして突然、「アフリカなんて消えてなくなった方がいいわ!」といいました。
私はいさめようとしました。
「ほんとうにそうよ! 話しかけないでちょうだい、ミス・サマソン。あたし、アフリカなんてきらい、大きらいよ。いやでいやでたまらないわ!」
あなたは疲れているのよと私はいい聞かせましたが、かわいそうでなりませんでした。それで頭をなで、ひたいにさわってみて、今は熱っぽいけれども、明日になれば直るでしょうといいました。ミス・ジェリビーはなおも立ったまま、口をとがらせ、こわい顔で私を見ていましたが、まもなく卵のカップを下に置き、エイダが寝ているベッドの方へ静かに向き直りました。
そして「とてもきれいな人ね!」とあい変らず眉をしかめたまま、あい変らず不作法な口調でいうのでした。
私は微笑しながらうなずきました。
「みなし子ね。そうじゃない?」
「ええ」
「でも、いろんなことを知ってるんでしょう? ダンスもできるし、ピアノもひけるし、歌もうたえるのね? きっとフランス語も話せて、地理も、天文も、裁縫も、なんでもできるのね?」
「きっとそうでしょうね」
「あたし[#「あたし」に傍点]はできないわ。あたしはなに一つできないのよ、ただ字が書けるだけ。いつもママの代筆をしているんだもの。あなたたち二人は今日うちへ来て、あたしがそんな能なしなのを見ても、よく平気でいたわね。意地わるのあなたたちらしいことだわ。それなのに自分たちをえらいと思ってるんでしょう、きっと!」
かわいそうなその子が今にも泣き出しそうにしているのが分りましたので、私はなにもいわずにまた椅子に腰かけ、心の中で感じたと同じように目にも思いやりをこめて(そう信じているのですが)そちらへ視線を向けました。
「ほんとうに恥さらしだわ。知ってるんでしょう、あなたは。この家じゅうが恥さらしよ。子供たちが恥さらし、このあたし[#「このあたし」に傍点]が恥さらし。パパがみじめな思いをしているのも無理ないわ! 女中のプリシラはお酒を飲むし――いつも飲んでるのよ。今日あの匂いに気がつかなかったなんていうなら、あなたはどうかしてるし、大うそつきよ。あんな女がお給仕するなんて居酒屋同然だわ。あなたは知ってたんでしょう!」
「ねえ、そんなこととは知らなかったわ」
「知ってたくせに」と、ひどくつっけんどんに、「知らなかったなんていわせないわ。知ってたくせに!」
「まあ! もしあなたがわたしにしゃべらせてくれないのなら――」
「しゃべってるじゃないの。そうでしょう。うそをつかないでよ、ミス・サマソン」
「いい子ね、もしわたしのいうことをおしまいまで聞かないのなら――」
「おしまいまでなんて聞きたくないわよ」
「いいえ、あなたは聞きたがっているのだと思うわ、だっておしまいまで聞きたくないなんていうのは理不尽きわまることですもの。あなたの話してくれたことをわたしは知りませんでした、というのは夕飯の時女中さんがわたしのそばに来なかったんですもの。でも、わたし、あなたの話を疑ってなんかいませんし、それを聞いてお気の毒に思っているのよ」
「そんなこと、得意になることないわ」
「ええ、そうね、そんなことで得意になるなんて、ほんとに馬鹿のすることね」
ミス・ジェリビーはあい変らずエイダのベッドのそばに立っていましたが、今度は身をかがめて(けれども、やはり機嫌のわるい顔をしたままで)エイダに接吻しました。それがすむと静かに戻って来て、私の椅子のかたわらに立っていました。その胸は見るもあわれなほど困惑したように波打っていましたが、私はなにもいわない方がよいと考えました。
すると突然声を立てて、「あたし、死んじゃいたいわ! 家の者がみんな死ぬといいんだわ。みんな、その方がずっと、ずっといいのよ」
そういったかと思うと、すぐにミス・ジェリビーは私のかたわらの床にひざまずき、私の洋服に顔をうずめ、烈しいいきおいで赦しを求めました。私はそれを慰め、体を抱き起そうとしましたけれども、いや、いや、このままでいたいの、とミス・ジェリビーは叫ぶのでした。
「あなたは学校で女の生徒に教えていたんでしょう。もしあなたに教えてもらえたら、あたしはいろんなことを覚えたと思うわ! あたし、とてもふしあわせだから、あなたが大すき!」
どんなにすすめてもミス・ジェリビーは私とならんで椅子に腰かけようとしませんでしたが、ようやくのことで自分のひざまずいているところに見すぼらしい腰かけを持って来て、腰かける気になり、前と同じ姿勢で私の洋服にすがりついていました。やがて、かわいそうに、疲れているので次第に寝ついて来ました。そこで私はどうにかその頭を私のひざの上にのせて、二人いっしょにショールにくるまりました。火は消えてしまいましたけれども、ミス・ジェリビーはこうして一晩じゅう灰ばかりの煖炉の前でまどろんでいたのです。始め私は痛いほど目が|冴《さ》えていましたので、目をとじて今日見たいろいろな情景を思い出しながら眠ろうとしましたが、だめでした。そのうち次第になにもかもが入りまじってぼんやりして来ました。私にもたれて眠っている子がだれなのか分らなくなり始め、ある時はエイダになり、ある時はつい先頃別れたとも信じられないほど遠くへだたってしまった、レディングのなつかしい友達になりました。それから会釈と微笑とで疲れはてたあの気の狂った小柄の婦人になり、荒涼館のまだ知らない|主《あるじ》になりました。そして最後にはだれとも分らなくなり、いいえ、そういう私がもう正体をなくしていました。
夜明けのうすら明りが力なく霧を押しのけようとしている頃、私は目をあけました。すると私をじっと見つめていた垢だらけのちいさな妖怪と視線が合いました。ピーピィが寝床を抜け出し、寝間着のままこっそりはいりこんでいたのですが、あまり寒いので、まるで歯が全部はえそろったみたいに、がちがちと鳴らせていました。
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第五章 朝の冒険
冷え冷えとした朝で、まだ霧が深いようでしたけれども――ようでしたというのは、窓には一面に|埃《ほこり》がこびりついていて、真夏の日光でもうす暗くなりそうでしたから――昨日の経験で、そんなに早くから起きてこの家の中にいるのはさぞ不愉快なことだろうと警戒していましたし、ロンドンについての好奇心もありましたので、ミス・ジェリビーから散歩に出かけましょうといわれて、それはいい思いつきだと思いました。
「ママはまだなかなか起きてこないわ。それに起きたって、それから一時間して朝ご飯の支度ができるかどうか分りゃしないもの。パパはね、あり合わせのものを食べてお役所へいくのよ。世間の人がいう、ちゃんとした朝ご飯を食べたことなんかありゃしないわ。前の晩にパンと牛乳があれば、プリシラが出しっぱなしにしておくの。牛乳のない時もあるし、猫が飲んじゃう時もあるわ。でも、きっとあなたは疲れてるんじゃないの、ミス・サマソン、たぶん、寝ていたいんでしょう」
「ちっとも疲れてなんかいないことよ」私はいいました、「散歩に出かけた方がずっといいわ」
「ほんとにいきたいのなら、あたし、洋服を着て来るわ」
エイダもゆきたいといって、すぐに起きて来ました。私はピーピィに格別これといってしてあげることもないので、とにかく顔を洗ってあげるから、それがすんだら私のベッドでまた寝ていらっしゃいと申しました。ピーピィは快諾しましたけれども、洗面のあいだじゅう、まるであとにも先にもこんなにびっくりしたことはないといったふうに私をじっと見つめていました――それに、つらそうな顔もしていましたが、なにも文句をいわず、洗面が終るとまた気持よさそうに寝つきました。最初私はそんな勝手なまねをしてもよいかどうか迷いましたけれども、すぐにまた、家の人たちはだれも気づくまいと思い直したのです。
いそいでピーピィの始末をしたり、自分の身支度やエイダのお手つだいをしたりに大忙しでしたから、私はじきに体じゅうがほてって来ました。二人して下へ降りてゆくと、ミセス・ジェリビーの書斎では、ちょうど女中のプリシラが客間用の黒くすすけた燭台で煖炉に火をつけているところで――よくおこそうと思って蝋燭を投げこむのでした――ミス・ジェリビーはその火で体を温めようとしていました。なにもかにもが昨夜のままで、どうやらいつまでもそうして置くつもりのようでした。一階の食堂でもテーブルかけは片づけられず、そのまま朝飯に使われるのでした。パンくず、ほこり、紙くずが家中にちらかっていました。勝手口前の道ばたの手すりには、しろめのなべと牛乳かんがぶら下げてあるし、勝手口はあけ放しのままでした。私たちが家の角をまがった時に、ジェリビー家の料理人が口をふきふき居酒屋から出て来るのに会いました。すれ違いに料理人は、今何時か時計を見にいって来たのだといいました。
けれどもそれより先に私たちはリチャードに会いました。リチャードはセイヴィ法学予備院のあちらこちらをかけまわって足をあたためているところで、私たちと会ったのにおどろき、またよろこんで、一緒にお供したいといいました。そこでリチャードがエイダの世話をして、ミス・ジェリビーと私は先に立ってゆきました。ついでながら、ミス・ジェリビーはまた例の不機嫌な態度に戻ってしまい、昨日私を大好きだといったのを聞いていなかったなら、とうていそうとは考えられないほどでした。
「どこへいきたいんです?」ミス・ジェリビーが尋ねました。
「どこでもいいのよ!」
「どこでもっていうのは、どこへもいかないことだわ」とミス・ジェリビーはつむじをまげて立ちどまってしまいました。
「とにかくどこかへゆきましょうよ」
するとミス・ジェリビーは私をせき立てて足ばやに歩き始めました。
「あたしはどうだっていいわ! さあ、あなたが証人よ、ミス・サマソン、あたし、どうだっていいっていってるのよ――でも、あの男がひたい一杯にぴかぴか光るこぶをつけて、メトセラ(1)みたいな年よりになるまで、毎晩毎晩うちへ来たって、あたしは一言だって口をきいてあげないから。ほんとにばかげた[#「ばかげた」に傍点]まねをあの男とママはしているわ!」
「ねえ、あなた!」私はミス・ジェリビーの口にした形容詞とその強い語気とをたしなめました。「あなたは子としての義務を――」
「まあ! 子としての義務なんていわないでちょうだい、ミス・サマソン。ママは親としての義務をどうしたの? きっと、社会とアフリカとに全部譲り渡しちゃったんでしょう! それだったら社会とアフリカが子としての義務をつくせばいいのよ。あたしの知ったことじゃないわ。あなたはあきれているんでしょう! それで結構、あたしだってあきれているんだもの。両方があきれて、それで話はおしまいよ!」
ミス・ジェリビーは前よりも一層足ばやに私をせき立てました。
「でも、またいうけど、そうはいってもあの男はやっぱり毎晩毎晩やって来るわ。だけどあたしは一言だって口をきいてあげないつもり。あの男にはがまんできないのよ。あたし、世界中でなにがきらいといって、あの男とママが話していることほど大きらいなものはないわ。うちの前の道路のしき石がよくもじっとおとなしく我慢して、あんなつじつまのあわない矛盾だらけの仰々しいたわごとや、ママの家政を見たり聞いたりしていられるものだと思うわ!」
ミス・ジェリビーのいう若い男とは、昨日の夕食後に訪ねて来たクウェイルさんという紳士のほかには考えられませんでした。けれどもこの話題をつづけなければならない不愉快さをあじわわないですみました。というのはリチャードとエイダが活溌な足どりで追いついて来て、あなた方は競走でもするつもりなの? と笑いながら尋ねたのです。こういう邪魔がはいったので、ミス・ジェリビーは私とならんで憂鬱そうに歩きつづけました。一方、私はとりどりに打ちつづく町なみ、早くも右往左往している人々の群、ゆきかう馬車の数々、掃除やショーウィンドーの飾りつけなど店支度にいそがしい商店、掃き出されたくずの中から人目を忍んでこっそりピンやらなにやらをあさっている、ぼろを着た異様な人々に目を見はっていました。
「このとおり、あなた」と、うしろでエイダに向っていうリチャードの明るい声がしました、「僕たちはどうしても大法官府から逃れられないんですねえ! 昨日僕たちが出会った場所へ別な道を通って来たのに――大法官の保管している|国璽《こくじ》にかけて誓ってもいい――またあのおばあさんが来ましたよ!」
なるほど、私たちのすぐ前に例のおばあさんがいて、昨日と同じ恩きせがましい態度で、|会釈《えしやく》しにっこりほほえみ、こういっていました。
「ジャーンディスの被後見人たちね! ほんとうに、うれしいこと!」
「ずいぶん早くからお出かけですこと」私に会釈しているおばあさんに私はいいました。
「そう―ですとも! いつも早くからここへ来るのです。開廷時刻よりも前に。静かなところですから。ここでその日の議事について考えをまとめるのです」と老婦人はもったいぶった言葉づかいでいいました。「ここの議事にはずいぶん考えなければならないことがあります。大法官府のお裁きはほん―とに理解しにくいのですよ」
「この人だれなの、ミス・サマソン?」ミス・ジェリビーはかかえていた私の腕を一層強く引っぱりながらささやきました。
小柄の老婦人はおどろくほど耳が早く、すぐさま自分で答えました。
「訴訟の原告です、お嬢さん。わたしは毎日この裁判所へ日参しているのです。書類を持参して。あなたもジャーンディス事件のお若い関係者でいらっしゃいますか?」老婦人はうやうやしいおじぎの姿勢をもとに戻しながら頭をかしげていいました。
リチャードは一所懸命に昨日の失言の埋め合わせをしようと思って、ミス・ジェリビーが訴訟の関係者でないことを愛想よく説明しました。
「まあ! 判決を待ってはいないのね? このお嬢さんもそのうちにもっと年よりになるでしょう。でも、こんな年よりにはなりません。ええ、そうですとも! これがリンカン法曹学院の庭園です。私はこれを自分の庭といっています。夏になるとすっかり葉かげになりますよ。鳥が美しい声でさえずってね。私は長期休廷期(2)の大部分をここで過すのです。あなた方は長期休廷期をたいそう長くお感じでしょう?」
おばあさんがイエスという返事を期待しているらしいので、私たちはそう答えました。
「木から葉が落ち、咲いている花もなくなって大法官裁判所のために花束をつくってあげることができなくなると、長期休廷期が終ります。すると、黙示録に出ている第六の封印が幅をきかせて来るのです。どうぞ私の下宿を見においで下さい。私にとっては縁起のよい|辻占《つじうら》になりますから。若さと、希望と、美しさはめったに私のうちへは来ないのですよ。もう長いこと、どれ一つとして訪ねてくれたことがありません」
おばあさんはもう私の手をとり、先に立って私とミス・ジェリビーとを引っぱって案内しながら、リチャードとエイダにも来るようにと、あごをしゃくって合図しました。私はどうことわってよいのか分らず、リチャードの助けを期待していました。ところがリチャードはおもしろ半分、好奇心半分の上に、おばあさんの感情を害さずに追い払う自信が全然ないので、おばあさんは私たちを引っぱりつづけ、リチャードとエイダはどこまでもあとに従って来ました。そのあいだじゅう、この奇妙な案内者は、自分の住いはすぐ近所だと、しきりににこにこ微笑しながらも、きわめて恩きせがましい態度で告げるのでした。
事実、そのとおりらしいことがすぐに分りました。あまり近くに住んでいたので、おばあさんのご機嫌をろくろくとり結ぶひまもないうちに、もうその家に来てしまいました。というのは、おばあさんは私たちをつれて、リンカン法曹学院のちいさな横の門から塀の外へ抜けると、すぐそこにある露地や小路の中の、せまい裏町でふいに立ちどまり、「ここが私の下宿です。どうぞお上り下さい!」というのでした。
立ちどまったところは一軒の店の前で、上のほうに古着および古びん問屋[#「古着および古びん問屋」はゴシック体]、クルック[#「クルック」はゴシック体]と書いてありました。それから細長い字で、古船具商[#「古船具商」はゴシック体]、クルック[#「クルック」はゴシック体]ともありました。窓の一箇所には、製紙工場で古着のはいった沢山の袋を荷車からおろしているところを、赤い色でかいた絵がかけてあり、別のところに、各種骨類買います[#「各種骨類買います」はゴシック体]、それから、台所くず買います[#「台所くず買います」はゴシック体]、古鉄買います[#「古鉄買います」はゴシック体]、紙くず買います[#「紙くず買います」はゴシック体]、婦人服[#「婦人服」はゴシック体]、紳士服買います[#「紳士服買います」はゴシック体]、と書いた札がかけてありました。ここでは買い入れるばかりで、売るものはなにもないようでした。また窓のいたるところに、靴ずみのびん、薬びん、ジンジャーエールやソーダ水のびん、つけものびん、ぶどう酒びん、インクびんなど、たくさんのよごれたびん類のならんでいるのが見えました。インクびんで思い出しましたが、この店にはいかにも裁判所の近所らしく、いわば法律のうすぎたない居候、勘当息子といったところがいくつか見られました。まずインクびんが山のようにありました。それからドアの外側の、ぐらぐらしたちいさなベンチの上にならべたうすぎたない古本には、「法律書、九ペンス均一」と張り紙がしてありました。それにさっき挙げたかけ札の中には、私がケンジ・アンド・カーボイ法律事務所で見た書類や、以前長年の間ケンジさんからもらっていた手紙と同じような、法律書体で書かれたのもいくつかありました。その中の一つは、同じ法律書体で書いてありましたが、店の商売とはなんの関係もなくて、当方四十五歳の紳士、法律書類の浄写および複写を迅速かつ美麗に致します、当店クルック氏方ネーモーにお申込み下さい、という広告でした。それから古物の青い袋と赤い袋がいくつかつるしてありました。店の入口を少しはいったところには、ひび割れた古い羊皮紙の巻物と、角を折り色もあせた法律書類が山と積まれていました。たしか何百というほどあったでしょう、古鉄としてよせ集めた、さびついた鍵はどれもみな、かつては法律事務所の部屋や金庫の鍵だったようです。分銅もつけない|秤竿《はかりざお》にさげた一本脚の木製の秤皿にまぎれこんだり、はみ出したりしている古着のくずは、ずたずたに裂けた法廷弁護士のバンドや法服だったのでしょう。こういう情景のしめくくりとして考えれば、向う側の隅に積み上げてある、すっかり肉をむしりとった骨は、私たちが店の中をのぞいていた時にリチャードがエイダと私にささやいたように、訴訟依頼人たちの骨だったのかも知れません。
あい変らず霧が立ちこめて、あたりはうす暗く、その上、リンカン法曹学院の塀が二ヤード以内のところまで光をさえぎって店の目かくしになっているので、家の中をそんなにはっきり見ることはできなかったはずですが、さいわい眼鏡をかけ毛のはえた帽子をかぶった老人が、火をともした角灯を持って店の中を歩き廻っていたのです。ちょうどこの時、老人はドアの方を向いて、私たちに目をとめました。背が低くて、死体のように青ざめた顔色をし、すっかりしなびている老人でした。頭は横向きに肩の中へ落ちこみ、まるで体の中に火でもついているように、口から吐く息が見るからに白い湯気を立てていました。|咽喉《のど》、あご、|眉《まゆ》は、すっかり白髪でおおわれ、浮き上った静脈と深いしわの刻まれた皮膚とで、すっかりでこぼこになっているため、胸から上は降りつんだ雪の上に突き出ている枯木の根のようでした。
「ねえ、ねえ」と老人はドアのところへ来ていいました、「なにか売るものでもあるのかね?」
当然、私たちはたじろいで案内者の方をちらりと見ましたが、老婦人はポケットからとり出した鍵で、住居の方のドアをあけようとしていたところなので、今度はリチャードがそれに向って、もうお住居も拝見しましたので失礼します、時間を急ぎますから、といいました。けれども老婦人はそうたやすく失礼させてはくれませんでした。異様に思われるほど真剣になって、どうぞ中へはいって自分の部屋をちょっと見て下さいとしきりにせがみ、例の悪気のない態度で一所懸命に、縁起のよい|辻占《つじうら》がつづくように、私を中へ案内しようとするのでした。それで私は(ほかの二人はどう思ったか分りませんが)承諾するより仕様がないと考えました。きっと私たちは三人とも多かれ少なかれ好奇心を起していたのでしょう――とにかく、老婦人の説得に店の老人のそれが加わって、「そうですとも、そうですとも! この人をよろこばせておやんなさい! 一分もかかりませんや! おはいんなさい、おはいんなさい! 店の方からおはいんなさい、もしあっちのドアが故障しているなら!」といわれると、エイダと私はリチャードの笑いながらのはげましに元気づけられ、そのうしろだてを頼みにして中へはいりました。
「こちらは私の宿の主人のクルックです」と老婦人はまるで高貴の人がいうような態度で紹介の労をとってくれました。「近所の人たちは大法官閣下と呼んでいます。そして店のことを大法官府というのです。ずいぶん変った人ですよ。ずいぶん変っています。ええ、ほんとうに変っていますよ!」
老婦人は何度も何度もかぶりを振り、ひたいを指先でたたいて、この男を大目に見てあげなさいという意味を示しました。「というのはね、この人は少々――よござんすか!――気が――!」とたいそうな威厳を見せていいました。老主人はそれをもれ聞いて、大声で笑いました。
「いかにもそのとおり」と角灯を持って案内しながら、「近所の連中はわしのことを大法官閣下といい、わしの店を大法官府といっているんだ。だが、なぜみんながわしを大法官閣下といい、わしの店を大法官府というと思うね?」
「分りませんねえ、まったく!」リチャードは気にもしないでいいました。
「それはだね」と老主人は立ちどまって、こちらへ向き直り、「みんなは――ねえ、こいつはすばらしい髪の毛だ! わしのところの地下室には女の髪の毛が大袋に三つもあるが、こんなに美しくてみごとなやつはない。なんていう色だ、なんていう手ざわりだ!」
「もうよしたまえ、君!」リチャードは老主人がエイダのふさふさした髪の毛を黄色い手でしごいたのを強くとがめながら、「そんな失礼なまねをしなくても、僕たちと同じようにおとなしく感心していればいいじゃないか」
すると急に老主人が射るような目でリチャードをにらみつけましたので、私までがエイダからそちらへ注意を向けてしまいましたが、びっくりして顔をあからめたエイダがあまりにも美しいので、いつもそわそわしている老婦人までその姿に見入っているようでした。けれどもエイダがとりなして、笑いながら、そんなに心からのお|賞《ほ》めにあずかって、ただもうほんとにうれしく思いますといいますと、クルックさんは急に今までと打って変って、またもとのようになりました。
「ごらんのとおり、ここにはずいぶんいろいろなものが、いろいろとあるが」とクルックさんは角灯をかざしながら話をつづけ、「みんな腐ってこわれて、だめになってしまうと近所の者は思っているんで(だがあんな連中[#「あんな連中」に傍点]はなにも分っちゃいないんだ)、わしと店とに、ああいう名前をつけたのさ。それに、うちには羊皮紙や紙の古書類がずいぶんたくさんある。それに、わしは|錆《さび》と、かびと、くもの巣が好きだ。それに網にかかった魚はなんでもござれ、ただじゃ帰さんという主義さ。それに、一度つかまえたものはなんでも手放すのはいやだ(いや、近所の者がそう思っているんだ、だがあの連中[#「あの連中」に傍点]になにが分る)。それに、うちの中のものをなんでも変えたり、掃除したり、みがいたり、片づけたり、直したりするのもいやだ。そういうわけで大法官府という悪名がついた次第さね。わしは[#「わしは」に傍点]そんなことは平気だ。兄弟分のあの閣下が法曹学院に来ている時にゃ、一日になんべんも見にいくね。向うじゃ気がつかんが、わしは気をつけてよく見ている。閣下もわしもたいしたちがいはないな。両方ともごった返しの中であくせくやっているのさ。おい、ジェイン奥方!」
大きな灰色の猫がどこか近くの|棚《たな》の上から主人の肩へとび降りましたので、私たちはみなびっくりしてしまいました。
「ねえ、おまえのひっかきぶりをみなさんにお見せしな。おい、引き裂け、奥方!」と主人がいいました。
猫は下へとび降りて、虎のような爪で古着の束を引き裂きましたので、その音を聞いて私は歯が浮いてしまいました。
「こいつはわしがけしかければ、だれにだってこのとおりやりますぜ。わしはいろんな品物を扱ってますが、猫の皮もやってるんで、こいつの皮を買い入れたってわけです。ごらんのとおり、すごく上等の皮だが、わしははぎとらずにおきました! でもそんなことは[#「そんなことは」に傍点]大法官府らしくもないやり口だってあなたがたはいうでしょうな!」
その時、先に立った主人はもう店の中を通り抜けて、その奥の、住居の方に通じるドアをあけてくれました。主人が立ったまま錠前に手をかけていると、老婦人はもったいぶっていうのでした。
「もう結構よ、クルック。あなたは悪気はないけれど、うるさいのね。この若い方たちは時間を急いでるのですよ。私だってそうですよ、もうじき法廷へ出なければなりませんもの。この方たちはジャーンディスの後見を受けているのですよ」
「ジャーンディスだって!」老主人はびっくりしていいました。
「ジャーンディス対ジャーンディス事件のです。あの大訴訟です、クルック」
「ねえ」老主人はおどろいて考えこんだような声になり、一層大きく目を見はって叫びました、「そいつは知らなかった!」
主人は急になにか考えにふけっているらしく、たいそう妙な表情をして私たちの方を眺めるので、リチャードがいいました。
「おや、あなたは兄弟分の大法官閣下の訴訟がずいぶん心配のようですねえ!」
「ええ」と老人は上の空で、「そうですとも! ところであんた[#「あんた」に傍点]の名前は――」
「リチャード・カーストンさ」
「カーストンか」とくり返してから主人はゆっくり人指し指を折り、それから一本一本指を折りながら名前を挙げてゆきました。「そうだ。バーバリという名があった、クレアという名も、それからたしかデッドロックという名もあった」
「俸給をもらっている本物の閣下に負けないくらい、この訴訟のことを知っているんですねえ!」とリチャードはすっかりおどろいてエイダと私にいいました。
「そうさね!」老主人は徐々に放心状態から戻りながらいいました。「そうとも! トム・ジャーンディスは――親類のあんたたちの前で、こう気安く呼んじゃなんだが、かんべんして下さい、だってあの人はこの裁判所の|界隈《かいわい》じゃもっぱらそう呼ばれていて、その有名だったことといったら――今そこにいる人に負けないほどで」と主人は自分の家の下宿人の方へ軽くうなずいて見せました。「トム・ジャーンディスはよくうちへ来ました。自分の裁判のある日や、その期日がまぢかになると、いつも落着きをなくしてあちこちと歩き廻って、界隈のちいさな店の主人たちに話をしかけ、どんなことをしてもいいが、大法官府の訴訟だけはするなっていってました。そうしていうには『だってね、そんなことをすれば、とろ火でむし焼きにされるようなものだ、|石臼《いしうす》にかけられてのろのろすりつぶされるようなものだ、一匹一匹と蜂に刺されて死ぬようなものだ、一しずく一しずくの水で溺れ死にさせられるようなものだ、じりじりと気が狂ってゆくようなものだ』とね。あの人は、ちょうどそのお嬢さんが立ってるところで、すんでのことに自殺をやらかすところでしたよ」
私たちはぞっと身ぶるいしながらも耳を傾けました。
「あの人はそのドアからはいって来た」と老人は店の床の上にありもしない、トム・ジャーンディスが通った跡を、ゆっくり指でさし示して、「自殺をやらかした日のことだった――おそかれ早かれ、きっとやらかすだろうって、何カ月も前から近所中でいってたんでさあ――あの日、そのドアからはいって、そこまで歩いて来て、そこにあったベンチに腰をおろすと、わしに向って(ご承知のとおり、その頃はわしもまだうんと若かったんでね)、ぶどう酒を一本買って来いっていうんです。そうして『だってね、クルック、ぼくはひどく気がめいっているんだよ。裁判がまた始まったが、今度こそ判決がくだりそうだ』といいました。わしはあの人を独りにして出かけるのが気になったんで、道の向うの、つまりわしの横町の(というのは大法官府横町のことで)向う側の居酒屋へおいでなさいって説きつけました。それから送っていって窓の外からのぞいたら、あの人は煖炉のそばのひじかけ椅子にくつろいでいる様子で、飲み仲間も一緒にいました。ところがここへ戻ったか戻らないうちに、ズドーンと一発、銃声が法曹学院の中までも鳴りひびきました。わしがとび出す――近所の人たちがとび出す――そして総勢二十人ですぐさま『トム・ジャーンディス!』ってどなったんでさあ」
老主人はしゃべるのをやめて、私たちをじっと見つめ、角灯の中をのぞき、明りを吹き消すと、それを閉じました。
「わしたちが考えたとおりでした、ここにいるみなさんにはお話するまでもないが。ねえ! まったく、あの日の午後は裁判をやってる法廷へどれだけ近所の人たちが押しよせたことか! ところが、わしの兄弟分の閣下や部下たちと来たら、みんな例のとおり、一所懸命ごたごたをかさねて、まるで訴訟に関係のあるこの一番新しい事件をひとことも聞いてないみたいな顔を、いや聞いたにしても、そんなことには全然関係ないみたいな顔を、しようとしてるんだからおどろいた!」
エイダの顔はすっかり血の気を失ってしまい、リチャードもそれにおとらず青ざめていました。また私は訴訟の当事者ではありませんでしたが、私の受けた興奮から推しても、二人のまだ世なれない若々しい胸には、そんなにおそろしい思い出を大勢の人たちの心に残している長年の不幸を相続したことが、どんなに大きなショックであるかが分りました。それに私は今聞いたいたましい物語を、私たちをそこへつれていった少し頭のおかしいあわれな老婦人の身の上に当てはめてみて、新しい不安を感じました。けれども、おどろいたことに、このおばあさんは全然そういうことに気づかないらしく、また階上へ案内し始めるだけで、その途中ここの主人のことを、「少々――気が――よござんすか!」と、高級な人間が凡夫の欠点を大目に見てやるというような態度で告げるのでした。
老婦人は屋根裏のかなり広い部屋に住んでいて、そこの窓から大法官裁判所になっているリンカン法曹学院の大広間がちらりと見えました。もともと、それがここに住居をかまえた主な理由のようでした。夜になると、ことに月が出ていると、大広間がよく見えるのだそうです。部屋はきれいにしてありましたけれども、それはそれは、がらんとしていました。目についたものといっては、必要最小限度の家具、本から切り抜いて|封緘紙《ふうかんし》で壁にはりつけた、大法官や弁護士の古い石版画が数枚、「記録をおさめてある」と老婦人がいった手さげ袋と|裁縫《さいほう》道具入れが五つばかりあるだけでした。煖炉の火床には石炭も燃えがらもなく、どこにも衣類一つ、食料品一つ見あたりません。開いたままの食器だんすの棚の上に皿、コップなどが一つ二つずつありましたが、どれもみな乾いて|空《から》でした。老婦人のいかにも手元不如意らしい姿には、それまで私が考えていたよりも、もっとあわれな意味が秘められていたのだ、とあたりを見廻しながら私は思いました。
「ジャーンディスの後見を受けている方たちに、こうして訪ねていただいて」とこの部屋の貧しい女主人はこの上もなく愛想よく、「ほんとに光栄です。それから縁起のよい辻占をどうもありがとう。ここはひっそりしたところです。わりあいに。私は住む場所を制限されていましてね。大法官のもとに出頭しなければならないので。ここに住んでからもう何年にもなりますよ。昼は法廷で過し、夕方と夜はここで過しています。私には夜が長く感じられてね、だってほんの少ししか眠らずに、いろいろと考えているのですもの。もちろん、それは止むを得ません、訴訟中ですから。ココアもお出しできなくてすみません。近く判決が下るはずですから、その時はもっと立派な世帯を持つつもりです。今のところは、ジャーンディスの後見を受けている方たちですから打ち明けてもかまいませんが(ごく内々でね)、見苦しからぬ体面を保ってゆくのが困難なことも、ときどきありますよ。ここではずいぶん寒い思いをして来ました。寒さよりもっとせつない思いもしました。そんなことはどうでもいいのです。そういうつまらない話を持ち出したりしてごめんなさい」
老婦人はその屋根裏部屋の長くて低い窓のカーテンを少ししぼり、そこにかけてあるたくさんの小鳥のかごを私たちに見せてくれましたが、中には一つのかごに数羽も入っているのがありました。ひばり、べにひわ、あとり――少なくとも二十羽はいたでしょう。
「私が小鳥を飼い始めた目的は、大法官府の被後見人にならすぐに分ってもらえるでしょう。自由の身に戻してやるためでした。私に判決が下った時にね。その―ため―ですよ! でも、とらわれの身のまま死んでしまいます。かわいそうに、小鳥たちの命は大法官府の訴訟にくらべると、とても短いので、一羽一羽と全部がもう何度も死んでしまいました。ねえ、ここにいるのはみんな若い鳥ですけど、一羽だけでも自由の身になるまで生きているかしら! ほん―とに、腹が立ちます、そうでしょう?」
こういうふうに老婦人はときどき質問をするのでしたが、いっこうに返事を期待しているらしい様子はなく、とりとめもなくしゃべりつづけ、まるでそれが自分独りでいる時のくせみたいでした。
「じっさい、私はときどきほんとうに心配になるのですけど、事件がまだ解決しないで、黙示録の第六の封印、つまり大法官の保管している|国璽《こくじ》がまだ勢力を占めているあいだに、私が[#「私が」に傍点]いつかそのうち、ここで硬く冷くなっているのじゃないかしら、今までに見て来たたくさんの小鳥たちと同じように!」
リチャードはエイダの同情にみちた目の中を読みとったので、機会をみつけて煖炉の棚の上に、いくらかのお金を気づかれないようにそっと置きました。それから私たち三人は小鳥をよく見るようなふりをしながら、鳥かごの方へ近よりました。
「小鳥たちにあまり歌をうたわせてやるわけにゆかないのです、だって、(みなさんはおかしいと思うでしょうけれども)、法廷の弁論を考えている時に、鳥たちが歌をうたっていると思うと、頭が混乱してしまいますもの。私は頭を大いにはっきりさせておかなければいけないのですよ! 鳥たちの名前はこの次に教えてあげましょう。今日はだめ。こんなに縁起のよい日ですから、鳥たちには好きなだけ歌をうたわせてあげましょう。若さと」といって微笑とおじぎをし、「希望と」それから微笑とおじぎ、「美しさをお祝いして」また微笑とおじぎ、「そら! 光をいっぱい入れてあげますよ」
小鳥たちはざわめき、さえずり始めました。
「空気をぞんぶんに入れてやることが出来ないのです」と老婦人がいいました。部屋は息苦しくて、そうすれば気持がよいだろうにと思われました。「下でごらんになった猫が――ジェイン奥方という名前のね――小鳥の命をねらっていますもの。窓の外側の手すりの上に何時間でも何時間でもしゃがみこんでいるのですよ。私には分りましたけれども」と老婦人はうす気味わるくささやきました、「私に近々判決が下ると、鳥たちがまた自由の身になるので、それをやっかんで、あの猫の生れつきの残忍さがますますひどくなったのです。わる賢くて、まったく意地のわるい猫ですわ。ときどき、あれは猫ではなくて、古いことわざにいう狼(3)ではないかと思うこともありますよ。あれをドアによせつけないようにするのは、ほんとうに骨がおれますよ」
その時、近所のあちこちで鳴り出した鐘が、九時半になったことを、かわいそうな老婦人に告げましたので、私たちから申し出るまでもなく、この訪問は打ち切りになりました。老婦人は、さっき部屋にはいった時テーブルの上に置いた、記録のはいったちいさなバッグをあわててとりあげ、私たちも法廷へゆくのかと尋ねました。行くつもりはないし、決してお引きとめもしませんと答えますと、老婦人はドアをあけて、私たちと一緒に階下へおり始めました。
「こんなに縁起のよい日ですもの、なおさらのこと、大法官が来ないうちに法廷へいっていなければいけません。だって、私の事件がまっさきに取りあげられるかも知れませんもの。きっと[#「きっと」に傍点]今朝はまっさきに取りあげられそうな予感がします」
みなでおりてゆく途中、老婦人は足をとめて、この家には主人がつぎつぎに買い入れた奇妙ながらくた家財がいっぱいにあるのだけれども、「少々――気が――」な人なので、全然売りたがらないのだ、とささやきました。そういったのは二階に来てからでしたが、その前に三階でも立ちどまり、だまってうす暗いドアを指さしました。
「あそこにもう一人だけ下宿人がいるのです」と小声で教えてくれました。「代書屋なのですけれど、この界隈の子供たちは、悪魔に魂を売り渡した人だなんてうわさしていますよ。でも、そのお金を一体どうしてしまったのかしら。しーっ!」
老婦人はそこにいてさえ、その下宿人に聞かれはすまいかと疑っているらしく、「しーっ!」とくり返しながら、ぬき足さし足で私たちの先を歩いてゆくのでした。まるで自分の足音までが、今いったことを相手にもらしはしないかと心配しているみたいに。
来た時と同じように、帰りも店の中を通りぬけてゆくと、老主人がたくさんの紙くずの|束《たば》を、床下の井戸みたいな穴にしまっているところでした。一所懸命になっているらしく、ひたいに汗をにじませ、そばにチョークを一本置いて、紙の束や包みを一つおろすたびに、壁の羽目板にかぎ形の|符牒《ふちよう》をつけていました。
リチャードとエイダ、それからミス・ジェリビー、それから老婦人という順にそのわきを通りぬけ、そのつぎに私が通りかかると、主人は私の腕をおさえ、チョークでJの字を壁に書いて見せるのでした――字の終りから始めて逆に書く、とても奇妙な書き方でした。大文字でしたけれども、活字体でなくて、ちょうどケンジ・アンド・カーボイ法律事務所の事務員でも書きそうな法律書体でした。
「これが読めるかね?」主人は鋭い目で私をながめながら尋ねました。
「ええ、読めますとも」
「なんていう字だね?」
「Jよ」
すると、主人はもう一度私をながめ、それからドアの方をながめてから、その字を消して、同じところにaの字を書き(今度は大文字ではありませんでした)、「これはなんだね?」といいました。
私が答えると、主人はそれを消して、rの字を書き、同じ質問をくり返しました。それがすむと、またすばしこく書きつづけて、上下かまわず字の終りから始めて、同じ字を同時に二つ壁の上に残すことは一度もなく、Jarndyce という言葉を書き上げました。
「これでなんと読むんだね?」と主人が尋ねました。
私が「ジャーンディス」ですと答えると、主人は声を立てて笑いました。それからまた前と同じ変ったやり方で、しかも同じようにすばやく、一字書いては一字消ししながら、Bleak House(荒涼館)という言葉を書きました。私はややびっくりしましたが、それも読んで聞かせると、主人はまた笑うのでした。
「ねえ!」と主人はチョークをわきに置きながら、「どうだね、わしは字をよく覚えているたちだろう、お嬢さん、もっとも読み書きは出来ないがね」
主人が大そう気味のわるい顔をしていますし、猫はまるで私を、屋根裏部屋の小鳥たちの血つづきとでも思ったみたいに、たいそう意地のわるい目つきで見ているので、リチャードが戸口に姿をあらわして声をかけてくれた時には、まったくほっとしました。
「ミス・サマソン、あなたは髪の毛を売る商談をしているわけじゃないでしょうね。そそのかされてはいけませんよ。地下室に三袋もあれば、クルックさんはもう充分です!」
私は早速クルックさんにさよならをいって、外にいる連れと一緒になり、そこでみんなして老婦人に別れを告げました。すると老婦人はひどく|鹿爪《しかつめ》らしく私たちのしあわせを祈ってくれ、エイダと私に財産を分けてあげるといった昨日の約束をくり返すのでした。いよいよその露地を出る時に、私たちがうしろを振り返ると、クルックさんが店の戸口に立ち、眼鏡をかけて、こちらを見守っているのが見えましたが、その肩にはあの猫がのり、主人の毛の生えた帽子の片側から、飾り羽根のようにしっぽを突き出していました。
「ロンドン初めての朝にしては相当な冒険だったなあ!」とリチャードがため息をつきながらいいました。「ああ、ねえ、あなた、いやな言葉ですねえ、この大法官府というのは!」
「あたしにとってもそうですわ、それももの心ついて以来ずっとなんですの」とエイダが答えました。「かなしいことですわ、あたしが大勢の親戚や他人の敵に――たぶんそうなのでしょう――なったり、そういう人たちがあたしの敵に――たぶんそうなのでしょう――なったり、みんながどういうふうにか、なぜなのかも知らず、おたがいにほろぼし合って、生涯たえず疑惑と不和の中にいるなんて。きっとどこかに正義があるはずですのに、誠実な裁判長が真剣に努力しても、この長い年月、それがどこにあるのか見つけることができなかったなんて、ほんとに不思議な気がしますわ」
「ああ、あなた、まったく、不思議ですよ! この無駄な、でたらめの将棋の試合はほんとにふしぎです。昨日のあの落着きはらった法廷がのんびりやっているのを見て、盤の上の一つ一つの駒がどんなにみじめなのかを考えたら、僕は頭も心もいたくなってしまいました。頭がいたくなったのは、もし人間が馬鹿でも悪漢でもないなら、どうしてこんなことが起ったんだろうと思ってだし、心がいたんだのは、たぶん人間なんて馬鹿で悪漢なんだろうと考えたからですよ。でも、とにかく、エイダ――あなたのことをエイダと呼んでもかまわないでしょう?」
「もちろんですとも、リチャードさん」
「とにかく、僕たち[#「僕たち」に傍点]には大法官府だってぜったい悪い影響を及ぼすことはありませんよ。僕らは親戚のあの親切な人のおかげで、さいわいめぐり会ったんですから、もうそんなものに仲をさかれるはずがない!」
「あたしもそう願っていますわ、リチャードさん!」とエイダがやさしくいいました。
ミス・ジェリビーは私の腕をぎゅっと握り、いかにも意味深長な表情をしました。私も微笑を返して、それからあとはみなとても楽しく帰り道につきました。
ジェリビー家へ帰りついてから半時間ほどたって、ミセス・ジェリビーが姿をあらわしました。それから一時間かかって朝飯の品々がぽつりぽつりと食堂に運ばれて来ました。ミセス・ジェリビーは昨夜たしかに寝床にはいり、平生どおり起床したはずなのに、洋服を着替えたらしい様子はいっこうにありませんでした。朝飯のあいだも、大そういそがしく、朝の郵便でボリオブーラ・ガー関係の手紙がおびただしく着いたので(自分でそういっていましたが)、せわしい一日を送らなければならない様子でした。子供たちはあちらでころび、こちらでころげ落ち、その怪我の記録を脚に刻みつけているので、みなの脚はさながらちいさな災難日誌でした。それからピーピィが一時間半ばかりゆくえ不明になり、ニューゲイト市場から巡査につれられて帰って来ました。ピーピィがいなくなっても家へ戻って来ても、ミセス・ジェリビーが平然と我慢しているのには、私たち一同びっくりしてしまいました。
その時にはもう夫人はキャディ相手に手紙の口述を始めていて、たちまちのうちにキャディは私たちが始めて会った時と同じインクだらけの姿に戻ってゆきました。一時に私たちの乗るほろ型の馬車と、荷物を積む車が来ました。ミセス・ジェリビーは親友のジャーンディスさんによろしくと、いろいろなことづてを私たちに託しました。キャディは机をはなれて見送りに来て、廊下で私にキスをし、それから玄関の石段の上で鵞ペンをかみながらすすり泣いていました。ほかの子供たちはみな馬車のうしろによじのぼって放り出されましたので、馬車がセイヴィ法学予備学院の構内から出てゆく時、私たちは地面のあちこちにころがっているその姿を、とても心配しながら見ていました。
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第六章 家でくつろぐ
その日はたいそううららかな日和でしたが、西へ向うにつれてますますうららかになりました。日光とさわやかな空気の中を進んでゆくに従って、はてしなくつづく町並み、店々のきらびやかさ、激しい車馬の往来、天気のよさに誘われて色とりどりの花のように外へ出て来た人々の群に、いよいよおどろかされました。やがてこのすばらしい都をはなれて郊外を走り始めましたが、私の目にはその郊外だけでも、かなり大きな町ができそうに思われました。そしてとうとう、ほんとうの田舎道にまたはいり、両側に風車、干し草積み場、道しるべ、農家の荷馬車、古い干し草の香り、風にゆれる看板、かいばおけ、それから樹木、畑、生垣が見えました。ゆくてに緑の風景、うしろに巨大な首都をながめてゆくのは、たのしいことでした。それで赤い馬飾りに|冴《さ》えた音を立てる鈴をつけた美しい馬たちにひかれた一台の荷馬車とすれちがった時には、ほんとに私たち三人はその鈴の調べに合わせて歌い出したいほどでした。それほどあたりの雰囲気がほがらかだったのです。
「この道にはいってからずっと、僕は僕と同名のウィティングトン(1)のことを思い出していたのだけれども」とリチャードがいいました、「あの荷馬車が画竜点睛というところですね。おや! どうしたんだろう?」
私たちの馬車がとまり、その荷馬車もとまったのでした。馬が歩みをとめるにつれて、鈴の調べも静まり、ちりんちりんというやさしい音に変りましたが、ただときおり馬がぐいと頭をもたげたり、身ぶるいをした時だけ、鈴の音が夕立のように飛び散るのでした。
「こっちの左前馬の御者が向うの御者の方を見ていますよ」とリチャードがいいました、「そして向うの御者はこっちへ戻って来ますよ。今日は、君!」荷馬車の御者が私たちの馬車のドアのところへ来たのです。「やあ! こいつはおどろいた!」リチャードは御者をじっと見ながら、「エイダ、あの男はあなたの名前を帽子につけていますよ!」
御者の帽子には私たち全部の名前が書いてありました。帽子のリボンに三通の短い手紙がさしはさんであったのです。一通はエイダ、一通はリチャード、一通は私に宛てたものでした。御者はまず名前を読みあげてから、めいめいに一通ずつ渡しました。だれから来たのかというリチャードの問いに対して、御者は、「うちの旦那からでございます」と言葉少なに答えると、帽子(やわらかい鉢のような帽子でした)をかぶり直し、むちをぴしりと鳴らして、鈴の調べを呼び戻し、美しいメロディを奏でながら立去りました。
「あれはジャーンディスさんの荷馬車かい?」とリチャードが私たちの左馬の御者に声をかけました。
「はい、ロンドンへいくんです」
私たちは手紙を開きました。どれもみな同じ文面で、次のような言葉ががっしりした、分りやすい筆蹟で書いてありました。
前略 おいでを楽しみに待っておりますが、おたがいに気がねなく楽な気持でお会いしたいものです。それで、これまでのことは一切忘れ旧友同士としてお目にかかることにしましょう。その方がおそらくあなたにとって、また、たしかに小生にとって、助かるというものです。まずは御挨拶まで。
[#地付き]草々
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それを読んだ時、私が連れの二人ほどおどろかなかったのは、たぶんむりもないことでした。というのは、それまでの長い年月この世でただ一人頼みにして来たこの恩人に、私はまだ一度もお礼をいう機会がなかったのです。なぜなら私の感謝の気持は余りにも強くてお礼をいうことができようなどとは思ってもいなかったのでした。ところが今度は、ジャーンディスさんに会ってお礼をいわずにいられるだろうかと考え始め、それはとてもむずかしいと思いました。
リチャードとエイダは手紙を読んで、それまでにジャーンディスさんの人柄から受けた印象を思い出して話してくれました。二人とも、どうしてそう思うようになったのかよく分らないけれども、大体ジャーンディスさんという人は自分のした親切にお礼をいわれるのが我慢できないたちで、お礼などいわれるよりも、むしろ奇妙きわまる方便やいい抜けを使ったり、場合によると逃げ出したりするのだそうでした。エイダがごく幼いころお母さんから聞いた、おぼろげな記憶によれば、ある時なみなみならぬ好意にあずかったので、お母さんがお礼に家へ訪ねてゆくと、戸口に近づいたその姿をジャーンディスさんはふと窓から見かけ、すぐさま裏門から逃げてしまい、三カ月も消息をくらましたとのことです。それからこの話に花が咲いて、私たちはずっと語りつづけましたが、話題はもっぱらジャーンディスさんのことでした。たまたま話がそれることがあっても、じきもとに戻り、どんな家に住んでいらっしゃるのかしら、いつ着くのかしら、到着したらすぐ会って下さるのだろうか、それとも待たされるだろうか、ジャーンディスさんはなんといわれるかしら、私たちはなんと挨拶したものかしらなどと、何度も何度もくり返し話し合いました。
街道は道がわるくて馬たちがたいそう難儀しましたけれども、野原へ出ると大体よい道でした。それで私たちは岡にさしかかるたびに、車を降りて徒歩で登りましたが、それがすっかり気に入ったので、いただきに着いても、平らな地面に出るまで歩きつづけました。バーネットに着くと代りの馬が待っていました。けれども、つい今しがた餌を食べたばかりなので、私たちもおつき合いに待ってやらなければならず、馬をつけかえて馬車が来るまでの長いあいだ、私たちは公有地の原っぱや|薔薇《ばら》戦争の古戦場を元気いっぱいに散歩しました。こういうことに手間どって旅の予定がすっかりおくれてしまい、短い日が暮れて長い夜のとばりがおりてから、ようやくスントールバンズへ到着しました。この町の近くに荒涼館があるのでした。
その時にはもう私たちはたいそう心配でいらいらしていましたから、馬車が町の古い通りのじゃり道をがらがら音を立てて通りすぎてゆく時には、リチャードまでが、わけもなく|無性《むしよう》にあとへ引き返したい気がするといい出すのでした。一方、エイダと私は、リチャードが毛布でたいそう念入りにくるんでくれましたけれども、夜気が刺すようにつめたい上に、|霜《しも》がおりるので、頭から足の先までふるえていました。馬車が通りの角をまがって町を出はずれてからしばらくして、リチャードが、左前馬の御者が――この人は私たちが到着を待ちわびているのに大分前から同情してくれていたのです――こちらを振り向いて、到着の合図をしていると申しましたので、私たちは車の中に立ち上り(エイダがころばないようにリチャードがおさえてやりました)、目をさえぎるものもないあたり一帯と星月夜とを見渡して、目的の家をさがし求めました。ゆく手の岡のいただきに、明りが一つきらめいていました。すると御者がむちでそれを指し示しながら、「あれが荒涼館でさあ!」とどなり、馬をゆるい駈け足に移らせ、登り道でしたけれども、たいそうな勢いで馬車を前進させましたので、車輪にあおられて道の土ぼこりが水車の水しぶきのように私たちの頭上に飛び散りました。やがて明りが見失われたかと思うとまた見え、また見失われてはまた見えしたすえ、馬車は並木道へ折れ、明りがあかあかと輝いているところ目指して、ゆるい駈け足で登ってゆきました。その明りが窓に光っている家は、正面の屋根に峰が三つ附いていて、玄関の車よせへゆく道が半円を描いている、いかにも古風に見える家でした。馬車が車よせに近づくと鐘が鳴り出して、あたりの静けさのうちにひびくその太く低い音、犬の遠ぼえ、開かれたドアからさっと流れ出る光、汗をかいた馬たちがもうもうと立てる白い湯気、私たち自身の高鳴り始めた胸の動悸といった中で、私たちは少なからずまごつきながら馬車からおりました。
「やあ、エイダ、よう、エスタ、よく来てくれたね! 会えてうれしいよ! リック(2)、このとおり手がふさがっていなかったら、君と握手したいんだがね!」
澄んだ、明るい、歓待の気持にみちた声でそういった紳士は、その時もう片手でエイダを、片手で私をだいて、二人に父親みたいに接吻をし、そのまま私たちをかかえて玄関の間を横切り、燃えさかった煖炉の火で暖められ赤く輝いているちいさな部屋へ案内してくれました。ここでもう一度私たちに接吻すると、両手を放して、煖炉のそばにわざわざ出しておいてくれたソファーに、私たちをならべて腰かけさせるのでした。もし私たちがその時の気持を少しでも口に出したなら、この方はすぐに逃げ出してしまうのでしょうと私は思いました。
「さあ、リック! 手があいたよ! まごころのこもったひとことは長広舌にまさるから、ひとことだけいおう。君に会えて心からうれしく思うよ! 君は自分の家へ来たのだよ。よく暖まってくれたまえ!」
リチャードは無意識のうちに敬意と率直さをこめて、紳士の両手をにぎって握手し、「ほんとうにご親切にありがとうございます! 僕たちはとても感謝しています」とだけいって(もっとも、私がややおどろいたほど真剣にそういったので、ジャーンディスさんがいきなり姿を消しはしないかと私は心配になりました)、帽子とコートを脇に置き、暖炉の傍に寄りました。
「それで道中はどうだったかね? それからミセス・ジェリビーはどうだったね?」ジャーンディスさんはエイダにいいました。
エイダがそれに答えているあいだに、私はジャーンディスさんの顔をそっとながめました(どんなに興味をもっていたかはいうまでもありません)。いきいきとして、動きの多い、端整な顔で、髪は鉄色が銀白になっていました。年は五十というより六十に近いと見ましたが、体もまっすぐで元気でかくしゃくとした人でした。最初に言葉をかけられた瞬間から声に聞きおぼえがあるのに、だれなのかはっきりと思い出せません。ところが、どことなく唐突なその物腰と、目の人好きのする表情とを見て、六年前にレディングへ出かけたあの忘れられない日に乗合馬車で会った紳士のことを思い浮べました。あの人にちがいありません。それを知った時ほど私の生涯でびっくりしたことはありませんでした。というのは、私がジャーンディスさんに視線をひきつけられていると、そちらは私の心のうちを読みとったらしく、ドアの方をじっと見つめ始めましたので、私はジャーンディスさんに逃げ出されてしまうものと覚悟しました。
けれども、さいわいジャーンディスさんはその場を動かず、ミセス・ジェリビーをどう思うかと尋ねました。
「アフリカのために一所懸命御尽力になっていらっしゃいます」
「見上げたものだ! しかし君の返事はエイダと同じだね」私はエイダの返事を聞きもらしました。「どうやら君たちはみんな私と考えかたがちがうね」
「私たちの考えでは」といいながら私がちらりとリチャードとエイダに視線を向けると、二人はぜひ話してあげるようにと、しきりに目くばせをするのでした。「あの方はご自分の家のことを少しかまわなすぎるように思います」
「こいつは一本やられた!」ジャーンディスさんは大声でいいました。
私はまた少し心配になりました。
「そうか! 君たちの率直な意見を聞かしてもらいたいね。そのために、私はわざわざ君たちをあそこへやったのかも知れないね」
「私たちの考えではたぶん」と私は躊躇しながら「まず第一にご自分のお宅の務めをなさるべきだと思います。それを忘れ、おろそかにしているかぎり、たぶん、ほかのどんなお仕事をなさってもだめなのではないでしょうか」
「ジェリビーさんのところの子供たちは」とリチャードが私の応援に乗り出して、「まったく――僕はそれをはっきりいわずにはいられないんです――ひどい有様でしたよ」
「あの人に悪気はないんだ」ジャーンディスさんはあわてて申しました。「東風が吹いているな(3)」
「僕たちが来た時は北風でしたけれど」とリチャードがいいました。
「いや、リック」とジャーンディスさんは火をかき起しながら、「たしかに東風だ、でなければすぐそうなるよ。東風が吹いていると、私はいつも気持が悪くなるのだよ」
「リューマチですか?」
「たぶん、そうだろう、リック。きっとそうだね。それでジェリビーさんのところの子――私も心配していたのだよ――とてもひどい有様じゃないかと――これはいかん、まちがいない、東風だ!」
ジャーンディスさんはとぎれとぎれにそういいながら、片手で髪の毛をなで、片手で火かき棒をにぎったまま、好人物らしい困惑の色を浮べて、心を決めかねたように二、三回ゆきつ戻りつしていましたが、その表情がいかにも粋狂で好ましいので、ほんとうに、私たちはとうてい言葉でいいあらわせないほど、この人が気に入ってしまいました。それからジャーンディスさんは片腕をエイダに、片腕を私にあずけると、リチャードに蝋燭を持って来るようにいいつけ、先に立って部屋の外へ案内しかけましたが、急にまたみなを引き戻しました。
「そのジェリビーさんのところの子供たちだが、どうだったろうね――君たちが――そう、もしキャンデーか、木いちご入りの三角パイかなにかを雨と降らしてやったとしたら!」
「あら、おじさま――!」エイダがいそいでいい出しました。
「それはいいね、君。おじさまとは気に入ったよ。ジョンおじさまという方がもっとよさそうだ」
「では、申しますわ、ジョンおじさま!――」エイダが笑いながら、またいい始めました。
「はっはっは! 結構、結構!」ジャーンディスさんはすっかりよろこんで「固苦しいところが少しもなくてじつにいい。それで?」
「それよりも、もっといい雨を降らしてあげたのです。エスタの雨をです」
「なに? エスタがどうしたというのだね?」
「あのね、ジョンおじさま」といいながらエイダは両手でジャーンディスさんの腕をにぎりしめ、私に向って、だめ、だめと頭を横にふりました――というのは、私がエイダにしゃべらないようにと合図をしたからです――「エスタがすぐにあの子たちと仲良しになったのです。お守りをしてあげたり、なだめて寝かしつけたり、顔をふいて洋服を着せてあげたり、おとぎ話をしておとなしくさせたり、おみやげを買ってあげたり」――なんといういい人! 私はただ、迷い子になったピーピィが見つかったあとで、一緒に外出してやり、おもちゃのちいさな馬をあげただけなのに!――「それからね、ジョンおじさま、エスタは一番年上のキャロラインのかたくなな気持を静めてあげ、あたしの面倒をとてもよく見てくれ、とてもやさしくしてくれたのです! いいえ、いいえ、うそだなんていってもだめ、エスタ! ほんとうにそうよ、あなたは自分でも知っているのよ!」
心の暖いエイダはジョンおじさまによりそったまま、私にキスをしてくれました。それからおじさまの顔を見上げると、大胆にもこういうのでした。「とにかく、ジョンおじさま、エスタのような人をあたしのお友だちに選んで下さったことを、ほんとうに[#「ほんとうに」に傍点]感謝していますわ」私はまるでエスタが、ジャーンディスさんに、さあ逃げていって下さいと挑戦しているかのように感じました。けれどもジャーンディスさんは逃げてゆきませんでした。
「リック、君はさっき風の方角はどうだといったっけね?」
「こちらへ来る時は北風でした」
「そのとおり。とにかく東風じゃない。私の思いちがいだった。さあ、お嬢さんたち、こちらへ来て君たちの家を見ておくれ!」
この屋敷はよく見かける、建て方がふぞろいでいながら好ましい感じのする家で、隣りの部屋へゆくのに階段を昇りおりしたり、もうすっかり見つくしたと思っていると、まだまだ新しい部屋があり、ちいさなロビーや廊下がふんだんにあったり、思いがけない場所に、ほかの部分より古い田舎家風の部屋がいくつかあって、その格子窓から木の枝が室内に侵入しているのでした。一番始めにはいった私の寝室もそういった部屋で、屋根が幾重にも起伏しているので数えきれないほど沢山の|角《かど》があり、部屋の中の作りつけの煖炉(その中には|薪《まき》が燃えていました)の煙突は一面に真白いタイルで張られ、一枚一枚のタイルに、あかあかとしたちいさな火影が燃えていました。この部屋を出て、ふみ段で三歩おりると、花壇を見おろす、小ぢんまりとした好ましい部屋に通じていて、そこがこの日からエイダと私の居間になったのです。ここからふみ段で三歩昇るとエイダの寝室で、美しい眺めを見晴らしている、幅の広い立派な窓があり(広漠とした暗闇が星空の下に広がっているのが見えました)、バネ錠のついたその窓の下には、エイダが一度に三人腰かけても、かくれてしまいそうなほど深い長椅子が作りつけてありました。この部屋を出ると、田舎家風でない別の立派な部屋(二つだけでしたが)に通じる、ちょっとした廊下があり、それから、長さのわりに曲り角の多い、ひくい段々のついた、ちいさな階段をおりて、玄関へゆくことができました。けれども、エイダの部屋のドアから出ないで、私の部屋へ戻り、さっきここへはいった方のドアから出て、階段から不意にわかれている、数段の彎曲した段々を昇ると、何本もある廊下に迷いこみ、そこには洗濯物のしわ伸ばし機やら三角のテーブルやらにまじって、インドで出来た椅子が置いてありました。この椅子はソファーにも、箱にも、ベッドのわくにも使われるのですが、どう見ても、竹製のわく組とも大きな鳥かごともつかない格好をしていました。そこを通ってゆくとリチャードの部屋があり、これは書斎と居間と寝室とを兼ねていて、事実たくさんの部屋が、住み心地よく一つになったような感じの部屋でした。そこから廊下を少しゆくと、まっすぐジャーンディスさんの飾りけのない部屋に出ました。ここでジャーンディスさんは一年じゅう、窓をあけ放したまま寝ているわけで、風通しのいいように部屋の中央に、なに一つ附属品もついていない寝台をすえつけ、となりのややちいさい部屋には冷水浴の設備が主人を待ちもうけていました。そこを出るとまた廊下で、そこには裏手の階段があり、|厩舎《きゆうしや》の外で馬たちにブラシをかける音や、ひどくでこぼこの多い敷石の上を動き廻る馬がつまずくと、「立て」とか「しっかりしろ」とか叫ぶ声が聞えました。しかし、もう一つのドア(どの部屋にも少なくとも二つドアがありました)から出れば、五段ばかりの階段と、アーチ状のひくい廊下を通って、まっすぐにまた玄関へおりてゆくことができ、一体どんなふうにしてここへ戻って来たのか、いや、そもそもどうやってここから出ていったのか、ふしぎに思えるのでした。
家具も屋敷同様、古ぼけているというよりむしろ古風で、屋敷におとらずふぞろいでした。エイダの寝室は花で一杯でした――上掛けのさらさや壁紙も、覆いのビロードも、刺しゅうも、金らん張りの壮麗な二脚のかたい椅子も。そして煖炉の両側に置かれたこの椅子は、ちいさな腰掛けを一つずつ、小姓よろしくわきに従えて、いやが上にも威厳を保っていました。エイダと私の共同の居間は緑色でしたが、まわりの壁にかけたガラス張りの額ぶちの中から、たくさんの世にもめずらしい鳥たちが、世にも驚いた目つきをして、ケースに入れた本物の|鱒《ます》や(まるでお料理してグレーヴィー・ソースをかけたみたいに茶色く光った鱒でした)、クック船長(4)の最後や、シナの画家が描いたシナの茶の湯の作法の絵やらを見つめていました。私の部屋には、一年の月々を描いた――六月は、胴の短い服を着て大きな帽子のひもをあごの下でむすび、干し草づくりをしている婦人たち、十月は、三角帽で村の教会の尖塔を指し示している、脚のすらりとした貴族たち――楕円形の版画がありました。家中いたるところにクレヨン画の半身像がありましたけれども、方々に散らばっていて、私の部屋の青年将校の兄弟が陶器陳列室にあるかと思うと、私のところにあるうら若い、きれいな花嫁の白髪時代の絵は朝食の間にあるのでした。そのかわり私の部屋には、アン女王(5)時代の服装をした四人の天使が、満悦げな一人の紳士を、骨を折りながら花綱で天国へつれてゆく画や、果物と湯わかしとアルファベットとを縫いとりした、刺しゅう画がありました。家具もまた同じように、洋服だんすを始めとして、椅子やテーブル、カーテン、ガラス器具、さては鏡台の上の針さしや香水びんの類にいたるまで、どれもこれも一風変った多彩さを示していて、全体としての共通点といっては、ただみな一様に、この上もなくこざっぱりしていること、真白いリンネルが見られること、それに大小を問わず、引出しという引出しには、バラの花弁と、かぐわしいラヴェンダーの花が、香料と虫よけのために、ふんだんに入れてあることぐらいのものでした。そういった事柄に加えて、あちらこちらカーテンの影によって和げられた室内の光を星月夜に放っている明るい窓々、明るさと暖かさと居心地のよさ、遠くの方から鳴りひびいてくる、晩餐を用意する款待の物音、私たちの目にはいるすべてのものを晴れやかにしている、この家の大様な|主《あるじ》の顔、それに家の外では、私たちの耳に聞えるすべてのものにふさわしい伴奏を静かにかなでているそよ風、以上が荒涼館の第一印象でした。
「ここが君たちの気に入ってうれしいよ」とジャーンディスさんは私たちをエイダの居間につれ帰った時にいいました。「自慢できるような家ではないが、ちいさいながらも住み心地はいいと思うし、君たちのようにたいそうほがらかな若々しい人たちが来てくれたのだから、なおさらよくなるだろう。あと三十分もすれば夕飯になるよ。君たちのほかにここに滞在している客は一人だけだが、この世の中でもっともすばらしい人だ――つまり子供だよ」
「また子供よ、エスタ!」とエイダがいいました。
「文字通りの子供というわけじゃない」とジャーンディスさんは言葉をつづけて、「年からいえば子供じゃないよ。もう大人だよ――少なくとも私と同じ年にはなっている――しかし純真、溌溂、熱烈で、世事一切に対して、みごとなほど正真正銘無能なところは、完全に子供だよ」
そういう人なら、さぞかし興味深い人物にちがいないと私たちは思いました。
「その男はミセス・ジェリビーと知合いなのだよ。音楽の才能があってね、素人だけれども、専門家にだってなれたはずだ。絵の才能もあって、素人だけれども、専門家にだってなれたはずだ。いろいろな方面に|造詣《ぞうけい》が深くて、人を惹きつける礼儀作法を心得ている男だよ。これまでずっと仕事にも、職業にも、家庭的にも恵まれなかったけれども、そんなことはいっこう気にかけちゃいない――なにしろ子供なのだからね!」
「とおっしゃると、その人には子供さんがあるわけですか?」リチャードが質問しました。
「そうだよ、リック! 半ダースほどね。もっと大勢だ! むしろ一ダースに近いね、おそらく。だが、この男は子供の面倒なんか見たことがない。できるはずがあるものか? 自分[#「自分」に傍点]の面倒を人に見てもらわなければならないのだからね。子供なのだよ」
「それでは、一体子供さんたちは自分で自分の面倒を見て来たのですか?」
「もちろん、君の想像どおりさ」とジャーンディスさんはいいましたが、急に沈んだ|面持《おももち》になりました。「世間では俗に、貧乏人の子供は育て上げられるのじゃなくて、引きずり上げられるのだ(6)というけれども、このハロルド・スキムポールの子供たちは、どうにかこうにか、はい上って来たのだ――また風向きが変って来たようだ。かなり感じるよ」
リチャードは、この家の位置が身を切るような夜の冷気にさらされているからでしょう、と申しました。
「たしかに[#「たしかに」に傍点]ここは吹きさらしだ。きっとそのせいだろう。荒涼館という名前からして吹きさらしの感じがするね。それはとにかく、君たちは私と同じ方へゆくのだよ。さあ、ゆこう!」
荷物がもう着いて、全部手もとにありましたから、私はすぐに着がえをすませ、持ち物の整理をしていますと、女中が(エイダ附きの女中ではなく、私のまだ見たことのない人でした)ひとつひとつに札のついた鍵を二束入れたかごを部屋に持って来ました。
「これを持って参りました」
「私に?」
私はおどろきの色を見せました。というのは、先方もややおどろいて、こうつけ加えたからです。「お嬢さんがおひとりになったらすぐに、これを持って参るようにいわれましたんです。サマソンさんでございますね?」
「ええ、私がそうですわ」
「大きな束が家の方の鍵で、小さな束は地下の食料庫のなんです。明日の朝、何時でも時間をきめて下さいますなら、 どれがどこの鍵か、 たんすやそのほかのものをお教えいたしますわ」
私は六時半に待っていますといい、女中が立ち去ってから、かごを眺めているうちに、自分に任せられた責任の重大さに胸が一杯になって立ちつくしてしまいました。そうしているところへエイダが来て、私が鍵を見せ委細を物語ると、あなたなら大丈夫よ、とありがたいことをいってくれるので、勇気を出さなくては冷淡な恩知らずになってしまうと感じました。そういってくれたのが、このかわいい人の好意からだと分っていましたけれども、そんなに楽しくだまされるのが私にはうれしかったのです。
私たちが階下の食堂にゆくと、スキムポールさんに紹介されましたが、ちょうどスキムポールさんは煖炉の火の前に立ったまま、リチャードを相手に学校時代にフットボールが大好きだったという話をしているところでした。小柄の快活な人で、頭は大きい方でしたが、きゃしゃな顔立ちと、きれいな声をしていて、全身にこの上もない魅力がこもっていました。そして少しも話に苦心している様子がなく、いかにも自然な上に、人を惹きつける陽気な話しぶりなので、聞いていると思わず魅惑されてしまうのでした。ジャーンディスさんにくらべると、ほっそりした体つきで、血色がよく、濃い茶色の髪の毛をしているので、年若に見えました。それどころか、あらゆる点で、若さを失わない中年者というよりも、むしろ衰えを見せた若者のような風采をしていました。その態度には、いいえ、服装にさえ、一種独特の|凋落《ちようらく》を経たロマンチックな青年につきものの、のんきなだらしなさがありました(画家の描いた自画像で見たことがあるように、髪はむぞうさに乱れ、ネッカチーフはとけて垂れ下っていました)。私はそれを見て、歳月、苦労、経験というふつうの道を通って人生を進んで来た人の態度や風采とは、まったくちがうように感じました。
話の模様から察しますと、スキムポールさんは医者としての教育を受け、かつてはあるドイツの公爵家に侍医として住みこんでいたのです。けれども、昔から目方や分量については子供同然、なに一つ知らなかったので(胸が悪くなるほどいやなものだということ以外には)、薬のこまかい分量を規定どおり正確に処方することができなかったそうです。まったく、僕の頭はこまかいことに向いていないのです、とこの時もいいました。それに、とスキムポールさんはたいそうこっけいに物語ってくれましたが、公爵の放血をしたり家族のだれかに下剤をかけるために呼ばれた時には、たいがい、ベッドに仰向けに寝ころんで新聞を読んでいたり、鉛筆で空想のスケッチを描いていたりして、ゆくことができませんでした。とうとう公爵が、これはけしからん、といい出しましたので(「これはまったく公爵のいうとおりでしたよ」とスキムポールさんはしごく率直に申しました)、この職はだめになり、スキムポールさんは(ほがらかに自分でこういいそえるのでした)「恋よりほかに生計の道がないので、恋をして、結婚して、ばら色のほおに取りかこまれる身になったんです」すると親友のジャーンディスさんやらほかの親友たちが尽力して、あるいは矢つぎばやに、あるいは|間遠《まどお》に、つぎつぎといくつかの勤め口をみつけてくれましたが、それもまったくむだでした。というのは、打ち明けたところ、スキムポールさんにはこの世の中でもっとも古い弱点が二つあったからです、つまり一つは時間の観念がないこと、もう一つはお金の観念がないことでした。その結果かつて一度も約束の時間を守ったことがなく、商売の取引をすることができず、物の値打ちというものが分らなかったのです! ままよ、仕方がない! そこでどうにか世を渡り、ここへ来たというわけです! 大好きなのは新聞を読むこと、鉛筆で空想のスケッチを描くこと、自然、芸術。社会に対して求めているのは、ただ自分を生かせてもらいたいということだけ。だがそれ[#「それ」に傍点]は大それた望みじゃないんです。欲望といってもわずかなものです。新聞、談話、音楽、羊の肉、コーヒー、風景、季節の果物、数枚の上質の画用紙、少しばかりボルドー産の赤ぶどう酒をもらえば、もうなにも求めません。世間的にはまったくの子供ですが、月をとってくれなどと、できないことを望んだりはしません。世間に対してはこういっているんです。「諸君それぞれの道を安らかに歩みたまえ! 赤い陸軍の軍服、紺の海軍の軍服、ローンの主教服を着たまえ、ペンを耳にはさみたまえ、前掛けをつけたまえ。栄誉、聖性、商業、手職を求めたまえ、ただ――ハロルド・スキムポールは生かせてくれたまえ!」
こういったことを全部、それからもっとたくさんのことを、スキムポールさんはこの上もなくあざやかに、楽しげに、そればかりでなく一種快活な率直さで物語りました――けれども、自分自身のことを話しているのに、まるで自分と関係のないことのように、まるでスキムポールという人を第三者のように、なるほどこの男にはいろいろ風変りな点があるけれども、社会の全体に関係する、無視してならない権利も持っているのだ、とでもいうように話すのでした。スキムポールさんはまったく魅惑的でした。始めて近づきになったその時に、この人のいうことと、私がそれまで人生の義務と責任(もちろん、今でも確信を持っているわけではありませんが)とについて考えていたこととを両立させようとして、いくぶんか当惑しましたけれども、それはなぜこの人がそういうものにとらわれないのかを、かならずしも理解できなかったからです。しかし、この人がほんとに[#「ほんとに」に傍点]そういう義務と責任にとらわれていないことは、ほとんど疑いませんでした、その点についてはご自身でもきわめてはっきりさせていました。
「僕はどんなものでも、自分のものにしたいとは思いませんね」とスキムポールさんは同じように屈託のない調子で、「ものを持つなんて僕にとって無意味ですよ。これはわが友人ジャーンディス君のすばらしい家ですが、彼がこの家の持主であることに僕は感謝しています。僕はこれをスケッチに描いて、変えることができる。作曲して音楽にすることができる。ここに来れば、充分わがものにして、しかも面倒も経費も責任もないんです。つまり、僕の執事がジャーンディス君で、この執事は僕をだますはずがない。いま僕らはミセス・ジェリビーの話をしていたんですが、あの目もとの涼しい女は強い意志と事務の細部に対する絶大な能力の持主で、おどろくべき熱意をもって、いろいろな事業に邁進しています! この僕[#「この僕」に傍点]は強い意志と事務の細部に対する絶大な能力の持主じゃないので、いろいろな事業に邁進することはできないけれども、それを残念に思っちゃいませんよ。別にうらやましいとも思わず、彼女に感心することができます。彼女の事業に共鳴することができます。それを思い描くことができます。草の上に――天気のよい時にですが――寝ころんで、アフリカの河沿いをさまよい、さながら現地へいったかのように、深い静けさを感じながら、出会った土民という土民を抱擁したり、頭上に突き出た濃密な熱帯の樹木を、これまた現地へいったかのように正確にスケッチすることができます。僕がそうしたって直接なんの役に立つのか分りませんが、僕にはそれくらいのことしかできないし、それなら完全にやれます。ですから、後生です、人を信用しやすい子供、ハロルド・スキムポールがあなたがた世間の人たちに、実務を事とする実際家の集りに、彼を生かせて人類一家を讃えさせて下さいとお願いしているんだから、善良な人間らしく、なんとか彼の願いをかなえてやって、彼を揺り木馬に乗らせておいて下さい!」
ジャーンディスさんがこの心からの願いを、これまで放っておかなかったことは明かでした。
それは、まもなくスキムポールさんが次のようにいったことを書き加えなくても、スキムポールさんのこの家での立場全体を知れば、おのずと分ったことでしょう。
「僕がうらやましいと思うのは、あなたがた寛大な連中だけですよ」とスキムポールさんは私たち新しい友人に向って他人事のようにいいました。「現になさっているようなことを実行できるあなたがたの能力がうらやましいですね。もしそういうことができるなら、僕自身が熱中してやるでしょうよ。僕はあなたがたに通俗的な感謝の念を持っちゃいません。あなたがた[#「あなたがた」に傍点]こそ、寛大というぜいたくを楽しむ機会を授けられることを、この僕[#「この僕」に傍点]に感謝すべきだと考えているくらいです。僕には分っています、あなたがたは好きでなさっているんですよ。おそらく僕はあなたがたの幸福の貯蓄をふやすために、わざわざこの世へ生をうけて来たのかも知れません。ときどきあなたがたに、僕のささやかな難儀を助ける機会を授ける恩人として生れて来たのかも知れません。こまかいことや俗世間の用事を処理する才能がないからといって、どうして僕が後悔しましょう、こんなにうれしい結果を生み出すんですから? だから僕は後悔しませんよ」
スキムポールさんのすべての冗談のうちで(冗談ではありましたが、いつも本気で言葉どおりの意味をこめていたのです)、この話ほどジャーンディスさんの好みにかなったものはないように見受けられました。どんなささいなことに対しても、たぶん世界中のだれよりも深く感謝するジャーンディスさんが、他人から感謝されるのをあれほど避けたがるのは、ほんとうに変なのだろうか、それとも私にとってだけ変なのだろうかと、この話のあとで私は改めて何回となく疑ってみたくなりました。
私たちはみな魅惑されてしまいました。エイダとリチャードに始めて会ったスキムポールさんが、こんなにうちとけて、こんなに申し分のない愛嬌を見せてくれたのは、二人の魅力にふさわしい敬意を払ったものと私には感じられました。それと同じ理由で二人も(ことにリチャードは)当然大よろこびをして、こんなに人好きのする人物にこんなに腹蔵のない打明け話を聞かされるのは、なみなみならぬ名誉だと考えました。私たちが耳を傾ければ傾けるほど、スキムポールさんはますます陽気に語るのでした。そしてそのすばらしい晴れやかな様子やら、人を惹きつける率直さやら、まるで「ねえ、僕は子供なんですよ! 僕にくらべれば、あなたがたは腹黒い人間だ」(事実、この人を見ていると、自分がそういう人間のように思われました)「だが僕は陽気で無邪気です。あなたがたの俗っぽい手くだを忘れて、僕と遊んで下さい!」とでもいっているみたいに、自分の弱点を屈託なくさらけ出す、あたたかい態度やらで、話の印象は目ざましいかぎりでした。
スキムポールさんはまたたいそう思いやりが深くて、美しいもの、やさしいものに対してたいそう|繊細《せんさい》な感情を持っていましたから、それだけでも人の心をとらえることができたことでしょう。夕方、私がお茶をいれる用意をしていて、エイダは隣りの部屋でピアノをひき、従兄のリチャードと偶然話題にした曲を、リチャードに小声で口ずさんであげていると、スキムポールさんがはいって来て、私の近くのソファーに腰をおろし、こんなふうにエイダのことを話すので、私はスキムポールさんが大好きになってしまいそうでした。
「あの人は朝のようですね。あの金髪、青い目、それからほおのみずみずしい輝き、まるで夏の朝のようだ。ここの小鳥たちだってまちがえてしまうでしょう。あんなにかわいらしい娘さんは全人類のよろこびなんだから、みなし子だなんていうのはやめましょう。あの人は宇宙の子だ」
気がついてみると、ジャーンディスさんが両手をうしろに組み、顔に注意深いほほえみを浮べながら、私たちの近くに立っていました。
「宇宙なんてあまりいい親じゃないと思うがね」とジャーンディスさんが意見を述べました。
「ああ! 僕には分らないよ!」とスキムポールさんは大声で浮き浮きといいました。
「私はよく分っているつもりだ」
「そうか!」とスキムポールさんは大声で、「君は世間を知っているし(その世間が君のいう宇宙なんだよ)、僕はぜんぜん知らない、だから君の好きなようにさせてあげるよ。だが、もし僕の好きなようにするなら」と二人の従兄妹の方をちらりと眺めながら、「ああいう人たちの歩む道には、現実のみにくいいばらがあってはいけない。ばらの花を敷いた道でなければいけない。 その道は、 春も秋も冬もない、 |常夏《とこなつ》の木蔭になければいけない。 歳月も変化もそれを枯らしてはいけない。その近くで金なんていう卑しい言葉を口にしてはいけない!」
ジャーンディスさんは微笑しながら、まるでほんとうの子供にするように、スキムポールさんの頭をなでました。それから一、二歩あるいていって、一瞬立ち止り、若い従兄妹たちの方をちらりと眺めました。顔は思いにふけっていましたが、その後何度も見かけたことのある(何べん見たことでしょう!)やさしい表情が浮んでいました。この表情はそれ以来ずっと私の胸にきざみこまれています。二人のいる部屋はジャーンディスさんの立っている部屋と通じていましたので、明りは煖炉の火だけしかありませんでした。エイダはピアノに向って腰かけ、リチャードはそばに立ってかがみこんでいました。壁の上には二人の影がまじり合い、それをとりかこんでいるさまざまな奇怪な姿は、室内の動かないものの影なのに、ゆらぐ火のためにときどき幽霊のように動きました。エイダがたいそう静かに曲をかなで、たいそう低い声で歌うので、遠くの岡の方へため息のように吹きそよぐ風が音楽に負けぬほどよく聞えました。未来の秘密と、それについて現在の声が教える手がかりとが、この一幅の絵全体のうちに示されているように思われました。
こういう空想をしたことを私ははっきり覚えていますが、それを思い浮べるためにこの光景を思い出しているのではありません。まず第一に、そちらの方へ向けられた物いわぬ顔と、それより前に|流暢《りゆうちよう》に語られた言葉との、意味と目的の相違を私はまったく意識しなかったわけではなかったのです。第二に、ジャーンディスさんは視線をもとに戻した時に、ほんの一瞬私を眺めただけでしたけれども、私はその瞬間にまるでジャーンディスさんから、エイダとリチャードに今よりもっと親しい間柄になってもらいたいのだ、と打ち明けられたように感じました――そしてジャーンディスさん自身も私にそう打ち明けたことと、私がそれに気づいたことを、意識しているように感じました。
スキムポールさんはピアノとセロをひくことができました。それから作曲もやり――一度は歌劇を半分まで作って、いやになってしまったことがあるのです――自分の作った曲を優雅にひきました。それでお茶がすむと、けっこうちょっとした演奏会になり、リチャードと(彼はエイダの歌に魅せられてしまい、あの人はどんな歌でも知っているようですね、と私に告げるのでした)ジャーンディスさんと私とが聞き手になりました。しばらくして私はまずスキムポールさんが、それからあとでリチャードがいないことに気づきましたので、どうしてリチャードはこんなに長く座をはずして、すばらしい音楽を聞きのがすのだろうと考えていますと、私に鍵を渡したあの女中がドアから顔をのぞかせて、こういいました、「すみませんが、お嬢さん、ちょっと失礼してもよろしいですか?」
私がいっしょに廊下へ出て二人だけになると、女中は両手をさし上げていうのでした、「カーストンさんが、お嬢さんに二階のスキムポールさんの部屋まで来ていただけませんかっておっしゃってます。あの人がやられたんです、お嬢さん!」
「やられたんですって?」
「やられたんです、お嬢さん。急に」
私はあの人が重病になったのかも知れないと不安になりましたが、もちろん、女中には、このことを内証にしてみなをさわがせないようにと頼み、女中のあとについて二階へいそぎながら、気持を落着け、万一発作を起したのだったら、どんな薬を使えば一番よいのだろうと、あれこれ考えました。女中がさっとドアを開き、私は部屋の中へはいりました。すると、なんともいえぬほどびっくりしたことには、スキムポールさんはベッドの上に大の字にたおれていたり、床にうつぶせになっていたりしないで、煖炉の火の前に立ってリチャードに向ってにこにこ笑っており、一方リチャードは困り切った|面持《おももち》で、ソファーに腰かけた人物を見ていました。その人は白い大外套を着て、あまりたくさんない髪の毛をぺったりなでつけていましたが、ハンケチでさらになでつけるので、髪がますます少なくなってゆくのでした。
「サマソンさん」とリチャードがあわてていいました、「よく来てくれました。あなたならいい知恵をかしてくれますね。スキムポールさんは――おどろいてはいけませんよ!――借りたお金が払えないので逮捕されたんです」
「やあ、サマソンさん」とスキムポールさんは例の人好きのする率直さで、「あなたのすぐれた分別と、きちょうめんで有用な、慎しみ深い性質は、十五分間あなたと同席する幸運にめぐまれたものなら、だれしもきっと気づくに相違ありませんが、それを今ほど必要とする事態に立ち至ったことはありませんねえ、まったく」
ソファーに腰かけた人物は鼻かぜをひいているらしく、びっくりするほど大きな音を立てて鼻を鳴らしました。
「ずいぶんたくさんの金額ですの?」私はスキムポールさんに質問しました。
「いや、サマソンさん」と相手は愉快そうに頭を横にふって、「分らないんですよ。何ポンド何シリングと半ペニーとかいっていたようですね」
「二十四ポンド十六シリング七ペンス半でさあ」とその見知らぬ客が教えてくれました、「まちがいなしでさあ」
「すると、どうも――どうやら――わずかの金額のようだねえ」
見知らぬ客はなにも答えずに、もう一度鼻を鳴らしました。自分の体がソファーから飛び上るかと思われるほど烈しい鳴らし方でした。
「スキムポールさんは」とリチャードが私にいいました、「ジャーンディスおじさんにお頼みするのを気がねされているんですよ、なぜって最近――いや、スキムポールさん、さっきのお話から推して、僕はあなたが最近――」
「ええ、そのとおり!」スキムポールさんはにこにこ笑いながら答えました。「もっとも、いつだったか、いくらだったか忘れてしまいましたがね。ジャーンディス君はよろこんでまた出してくれるでしょう。しかし、僕は享楽主義者らしい気持から、どちらかといえば、救援にも新味があってほしいんですよ」といってリチャードと私を眺めながら、「新しい土と新しい種類の花に寛大さを育てたいんです」
「どうしたら一番いいと思います、サマソンさん?」リチャードはわきを向いて私に尋ねました。
私は返事をする前に、もしお金を工面しなければ、ふつう、どうなるのですかと思いきって尋ねました。
「監獄だね」といって見知らぬ人は床の上においた帽子の中に、平然とハンケチをしまいこみました。「それともコウヴィンセズでさあ」
「うかがいますけれども、一体その――」
「コウヴィンセズですかね?」見知らぬ人はいいました、「拘留所でさあ」
リチャードと私はまた顔を見合わせました。この逮捕に困惑しているのが私たちで、スキムポールさんでないのは、まことにふしぎな話でした。スキムポールさんはやさしい関心をこめた目で私たちを見守っていました。しかし、この人のそういう態度のうちには、ひどく矛盾したことをいわせていただきますが、少しも利己主義的なところがないようでした。スキムポールさんはもうすっかりこの難題と手を切ってしまい、それは私たちの問題になっていたのです。
「僕の考えでは」とスキムポールさんが、まるで親切心から私たちに助け舟を出してくれるみたいに、一つの提案をしました、「リチャード君も従妹の美しいお嬢さんも、(世間でうわさしているとおり)莫大な財産に関係した、大法官裁判所の訴訟の当事者なんだから、そのどちらかが、それともお二人が、なにかに署名するとか、なにかを譲り渡すとか、なにかの保証か抵当か証文を入れるということはできないのかね? その方面の法律用語がどうなっているのか僕は知らないけれども、この事件を解決できるなんかの手段がお二人にはあると思うんだが?」
「ぜんぜんないね」と見知らぬ人がいいました。
「そうかね?」とスキムポールさんが答えました。「そういう事柄を判定することができない者から見ると、それはおかしいと思うね、君!」
「おかしくても、おもしろくても」と見知らぬ人はつっけんどんにいいました、「たしかに、ぜんぜんないね!」
「落着きたまえ、ねえ君、落着きたまえ!」とスキムポールさんは本の見返しに相手の頭をちいさく写生しながら、おだやかに論じ立てました。「仕事のことで腹を立てちゃだめだね。僕らは君と君の職務を区別できるのだ。つまり個人と職業とを区別できるのさ。個人としての君が、自分では意識しないかも知れないけれども詩的情緒を多分にそなえた、尊敬すべき人物でないなどと考えるほど、僕らは偏見を持っちゃいないよ」
見知らぬ客の返事はもう一度烈しく鼻を鳴らすことだけでした。詩的情緒をそなえているという讃辞を認めたのか、それとも無視してしまったのか私には分りませんでした。
「ねえ、サマソンさんとリチャード君」スキムポールさんは小首をかしげて自分の絵を眺めながら、陽気に、無邪気に、信頼しきっているようにいいました。「ごらんのとおり、僕は自分の力ではどうすることもできず、万事あなたがたのなすままです! 僕の求めているのは自由だけなんです。|蝶《ちよう》たちは自由です。まさか人類は蝶に与えているものをハロルド・スキムポールにこばみはしないでしょう!」
「サマソンさん」とリチャードが声をひそめていいました。「僕にはケンジさんからもらったお金が十ポンドありますよ。とにかく、これでできるだけのことをやってみます」
私はこの数年来、年四回の手当てのうちから貯金して来た、十五ポンド数シリングのお金を持っていました。いつも、なにか事故が起きて、親類も財産もないまま突然世の中にほうり出されるかも知れないと考えていましたので、まったくの一文なしにならないように、いつもいくらかのお金を手もとに残しておくように努めて来たのです。それでこういうささやかな貯えがあるけれども、今のところ別に必要でないことをリチャードに告げて、スキムポールさんには私たちで負債を払わせていただくということを、私がお金をとりにいっている間に、リチャードからうまく話してくれるようにと頼みました。
私が戻って来ると、スキムポールさんは手に接吻してくれ、すっかり感激しているようでした。それも自分のためにでなく(私たちを当惑させた、さっきの矛盾を私はまた思い出しました)、私たちのためになのでした、まるでこの人は自分の一身上の事柄など考えることができなくて、ただ私たちが幸福にしているのを見た時にだけ心を打たれるみたいに。リチャードは、事件の始末を一層体裁よくするためだといって、私からコウヴィンセズ氏に(スキムポールさんはもうその執達吏にこういうあだ名をつけてしまいました)話をつけてもらいたいと、しきりに頼みますので、私がお金を数えて渡し、必要な受取りをもらいました。これもスキムポールさんを大よろこびさせました。
スキムポールさんはたいそう遠まわしにほめてくれましたから、私はそれほど赤面しないでもすみ、別にまちがいもなく白い大外套の客と話をつけました。客はポケットにお金を入れ、そっけなく、「それじゃあ、お嬢さん、おやすみなさい」といいました。
「君」とスキムポールさんは写生を半分描きかけてやめたあと、煖炉を背にして立っていましたが、「失礼ながら、ちょっとお尋ねしたいんですがね」
「そんなら、さっさとやってくれ」というのが相手の答えだったように思います。
「今朝、君は知っていたのかね、え、この用事で来ることを?」
「昨日の夕方のお茶の時から知っていたね」とコウヴィンセズ氏がいいました。
「それで食欲に変りはなかったのかい? 少しも心配しなかったの?」
「そんなこたあ、ぜんぜんなかったね。今日あんたをとらえそこなったって、明日とらえそこなうこたあないって分っていたもの。|一日《いちんち》くらいちがったって、どうってこたあないよ」
「しかし、君がここへ来る時は」とスキムポールさんは言葉をつづけ、「いい天気だった。太陽が輝き、風はそよぎ、光と影が野を横切り、小鳥は歌っていた」
「そうじゃなかったなんてだれもいわなかったね、わしの聞いたかぎりじゃあ」コウヴィンセズ氏がいい返しました。
「そうとも。だが君は途中でどう考えたかね?」
「あんたはよくそんなことがいえるもんだね?」コウヴィンセズ氏はひどく腹を立てたらしい顔をしてどなりました。「わしはうんと仕事はあるし、報酬は少ないし、考えるひまなんてありゃしない」
「それじゃあ、とにかく君はこういうことは考えなかったんだね。『ハロルド・スキムポールは太陽が輝くのを見、風がそよぐのを聞くことが好きだ、移りゆく光と影を見守り、自然という大聖堂の少年聖歌隊たる小鳥の歌を聞くのが好きだ。それなのに私は、ハロルド・スキムポールが生れながらに持っている唯一の権利たるそのような資産の分け前を、今まさに彼から奪おうとしているらしいではないか!』君はこういうことを少しも考えなかったんだね?」
「わしは――たしかに――考え――なかった[#「なかった」に傍点]」といったコウヴィンセズ氏の、そういう考えを全面的に否定しようとする頑固さは、猛烈きわまるものでしたから、その気持を充分あらわそうとしても、一つ一つの文句のあいだに長い間合いを置いて、最後の文句といっしょに、首もはずれんばかりのいきおいで頭を横にふるよりほかにないのでした。
「まったく奇妙きてれつなものだなあ、君たち実務家の心理状態というものは!」とスキムポールさんは考えこみながらいいました。「ありがとう、君。さよなら」
もう私たちは階下の人たちにあやしまれるほど長いあいだ中座してしまいましたから、私がすぐさま下へ戻りますと、エイダは煖炉のそばで編物をしながら、ジャーンディスおじさまに向って話をしていました。やがてスキムポールさんが姿を見せ、それからしばらくしてリチャードが来ました。この晩はそのあと、私はジャーンディスさんからすごろくの手ほどきを受けるのに、かなりいそがしい思いをしました。ジャーンディスさんはこのゲームが大好物でしたから、むろん、私はできるだけ早く覚えこんで、適当な人がいない時にはお相手をつとめ、せめていくぶんなりとお役に立ちたいと願っていたのです。けれども、ときどき、スキムポールさんが自分でつくった曲を一くさりひいたり、ピアノとセロの両方に向ったまま、あるいは私たちのテーブルへ来て、ごく自然に、あい変らずほがらかな態度で流暢な弁舌をふるったりすると、リチャードと私は夕飯以来身代りに逮捕されていた気分からいまだにぬけられないらしいと感じました。
私たちが部屋へ引きとったのは夜もふけてからでした。というのはエイダが十一時に席を立とうとしますと、スキムポールさんがピアノのそばへいって、浮き浮きした調子で、ぼくらの毎日を長くするいともよい道は、しばしの時を夜から盗むことだ、いとしい人よ(7)! とかき鳴らしたからです。スキムポールさんが燭台を持ち晴れやかな顔をして部屋から出ていった時は、十二時を廻っていました。エイダとリチャードは少しのあいだ火のそばに残って、ミセス・ジェリビーはもう今日の手紙の口述を終ったかしらと、うわさしていましたが、その時、先に部屋を引上げていったジャーンディスさんが戻って来ました。
「やあ、おどろいたぞ、あれはどういうことなのだ、あれは!」とジャーンディスさんは頭をこすりこすり、きげんよく腹を立てて歩きまわりながらいいました。「話を聞いたが、あれはどういうことなのだ? おいおい、リック、ねえ、エスタ、君たちはなにをしていたのだ? なぜしたのだ? どうやってできたのだ? めいめいいくらずつ出したのだ?――風向きがまた変って来た。全身に感じるよ!」
私たちは二人ともなんと答えたらよいのかよく分りませんでした。
「さあ、リック、さあ! 私は寝る前にこれを片づけなければならないのだ。いくら損をしたのだ? 君たち二人でお金を工面したのだろう! なぜしたのだ? どうやってできたのだ?――おや、そうだ、風は|真東《まひがし》だ――まちがいない!」
「じつは、それをお話すると、僕は信義にそむくことになると思うんです。スキムポールさんは僕らを信頼して――」
「これはおどろいたね、君! あの男はだれでも信頼するのだよ!」ジャーンディスさんは頭をぐいと一回こすると、急に立ちどまっていいました。
「そうですか?」
「だれでもだよ! それに来週はまた同じ窮地におちいるのさ!」火の消えた燭台を手に持ったまま、ジャーンディスさんはまた早い足どりで歩きながらいいました。「あの男はいつも同じ窮地におちいっているのだよ。生れた時からそうだった。たしか、あの男のお母さんがお産をした時、新聞に出した出産の公告はこうだったね、『先週火曜日、厄介ビルディング内の住宅において、スキムポール夫人は難産のすえ男子を出生せり』」
リチャードは大笑いしましたが、それにこうつけ加えました。「でも、やはり僕はあの人の信頼を動揺させたり裏切ったりしたくないんです。それで僕より事情をご存知のおじさまにもう一度申上げたりして失礼ですけれども、僕はあの人の秘密を守るべきじゃないかと思いますから、また話せとおっしゃるのでしたら、一度お考えになっていただきたいんです。でもむろん、ぜひとおっしゃるのでしたら、 僕がまちがっていると覚って、 お話いたします」
「よし!」ジャーンディスさんは大声でいいましたが、また立ちどまり、うわの空で何度も燭台をポケットに入れようとしていました。「私は――こりゃなんだ? 片づけてくれたまえ、君。一体これをどうしようと思っていたのだろう、みんな東風のせいだ――かならずこういうことが起るのだよ――私はむりに話せとはいわないよ、リック、君のいうとおりだろうよ。しかし、じっさい、君とエスタをつかまえて――やわらかい未熟な薄皮オレンジみたいに、しぼりあげるとは!――夜のあいだに大風になるぞ!」
今度はジャーンディスさんは両手をポケットに突っこんで、そのままにしているかと思うと、その手を出して頭を烈しくなで廻したり、また突っこんだりしていました。
私は思いきってこの機会をとらえて、それとなくいいました。「スキムポールさんはそういう事柄にかけては、まったく子供でして――」
「えっ、なんだと?」子供と聞いてジャーンディスさんがいいました。
「――まったく子供でして、ほかの人とはぜんぜんちがいますから――」
「君のいうとおりだ!」とジャーンディスさんは明るい顔つきになって申しました。「君の女性の知恵が|的《まと》を射たね。あの男は子供なのだよ――ほんとうに子供だ。私が始めて話した時にも、そういっただろう、ねえ」
おっしゃいましたとも! おっしゃいましたとも! と私たちはいいました。
「たしかに[#「たしかに」に傍点]子供なのだ。ねえ、そうだろう?」とジャーンディスさんはますます明るい顔になって申しました。
ほんとうにそうです、と私たちは答えました。
「考えてみれば、あの男をかりにも大人だなどと思うのが、君たちの――いや、私のだ――子供らしさのきわみというものさ。あの男[#「あの男」に傍点]に責任をはたさせることはできないよ。ハロルド・スキムポールが目的や計画をきめ結果を予知するなんて! はっはっはっ!」
ジャーンディスさんの明るい顔から雲が晴れ、大よろこびしている有様を眺め、そのよろこびの源が、他人を責め、疑い、ひそかに非難したために悩んでいたこの方の善良さにあると知ったのは(知らずにはいられませんでした)、いかにもこころよいことなので、エイダはジャーンディスさんといっしょに笑いながらも、目に涙を浮べ、私の目にも涙が浮んで来るのでした。
「いや、私はなんというまぬけだろう、そんなことを今さら思い出さなければならぬとは! この事件の始めから終りまで、どこをとって見ても子供だということが分るよ。君たち[#「君たち」に傍点]二人を事件の当事者にえらぼうなどとは、子供よりほかに考える者はおるまい! 君たち[#「君たち」に傍点]が金を持っていようなどとは、子供よりほかに考える者はおるまい! かりに千ポンドの金額だったとしても、まったく同じだったろうね!」とジャーンディスさんは顔じゅうを紅潮させながらいいました。
私たちはみなその晩の経験からジャーンディスさんの言葉を確認しました。
「たしかにそうだ、たしかに! しかし、リックとエスタ、それから君もだ、エイダ、というのは君のかわいらしい財布だって、あの世間知らずにかかっては安心できないからね――もうこういうことは決してしないと、君たちみんなに約束してもらわなければならないね。お金の立替えは一切だめだよ! 六ペンスだって!」
私たち一同は忠実に約束しました。しかしリチャードは私の方をうれしそうにちらりと眺めながら、自分のポケットをたたいて見せました、まるで私たち二人[#「私たち二人」に傍点]はもうこの約束を破る危険がないと知らせるように。
「スキムポールの方は、子供なのだからほんとうに住める人形の家にうまい食事と、金を貸したり立替えたりしてくれるおもちゃの人間が五、六人あれば、なんとかやっていけるだろう。たぶん、今ごろはもうあの男、子供のように寝こんでいるのだろう。私もこの悪賢い頭を俗っぽい枕にのせる時刻だ。おやすみ、みんな。君たちの上に神さまのみ恵みがあらんことを!」
私たちがまだ蝋燭に火をつけないうちに、ジャーンディスさんはもう一度姿をあらわして、こう申しました。「ああ! 今、|風見《かざみ》を見て来たところだよ。さっき、東風だと注意したのはまちがいだった。南風だよ!」そして歌を口ずさみながら立ち去りました。
エイダと私は二階の部屋でしばらくいっしょに話をしましたが、二人の一致した意見として、ジャーンディスさんの東風についての気まぐれはわざとしていることで、あの方はなにか心の中にかくしておくことのできない失望をあじわった場合に、じっさいにその原因となった事柄を非難したり、あるいは人をけなしたり、そしったりするよりも、むしろ東風にことよせて自分の失望を知らせているのだということになりました。このことはジャーンディスさんの風変りなやさしさや、それからこの方と、自分のふきげんや憂鬱のかくれ|蓑《みの》に天候や風を(ことに、ジャーンディスさんがまったく別な目的で使っているあの縁起の悪い風を)利用している、世間の短気な人たちとのちがいを、いかにもよく示していると私たちは思いました。
いいえ、それどころか、この一晩で、ジャーンディスさんに対する今までの感謝の気持に加えて、深い親愛の念がわいて来ましたから、そのこもごもの気持を通じて、私はもうジャーンディスさんという人が分り始めたように感じました。スキムポールさんやミセス・ジェリビーの矛盾したように思われる点は、私のように経験も世間についての知識もない者が、理解しようなどと望むのはむりでした。私もまた理解しようなどとは、してみませんでした。というのは、寝室にいって私一人きりになると、エイダとリチャードのこと、二人についてジャーンディスさんから打ち明けられたように思われたことを考えるのにいそがしかったのです。それに私の空想も、たぶん風のために少し興奮したのでしょう、私のことなど一切忘れるようにといっても承知しませんでした。できれば、そう説得したかったのですが。私の思いはいつしか養母の家までさまよい戻り、そこから今日までの小道を引き返しながら、これまでときどき、この道のくらやみでふるえていた、はかない臆測をよみがえらせるのでした、ジャーンディスさんは私の出生のことをどのくらいご存知なのかしら――いいえ、ひょっとすると、あの方は私のお父さんなのかも知れないわ――もっとも、この頃にはもう、そんなつまらない夢はすっかり消え去っていましたが。
もうそんなつまらない夢は全部消え去ったのだ、と私はそれを思い出して、火のそばから立ち上りました、過ぎ去ったことをあれこれ考えずに、明るい気持と感謝の心をいだいて働かなければいけないのでした。それで自分に向って、「エスタ、エスタ、エスタ! 義務をはたすのよ、ねえ!」といい聞かせて、屋敷の鍵のはいったあのちいさなかごを力いっぱいゆすりますと、鍵はちいさな鐘のように鳴りひびき、希望の音高らかに私をベッドへ送ってくれました。
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第七章 幽霊の小道
エスタが眠っているあいだも、エスタが目をさましているあいだも、遠いリンカンシア州の屋敷はあい変らずの雨つづきで、テラスのわきの、広い石だたみになった「幽霊の小道」の上に、雨は夜となく昼となく、たえずびしょびしょ、びしょびしょ落ちている。リンカンシア州の天気があまりひどいので、どんなに活溌な想像力の持主でも、二度と晴れた日が来ようなどと、とうてい考えることもできまい。といっても、この屋敷の内部で想像力のあふれるような生活がおこなわれているわけではない。というのはレスタ卿は今ここにはいず、夫人といっしょにパリにいるのだから(それに、じっさいのところ、たとい彼がいたにしても想像力のあふれる生活について彼は大して役に立つまい)。それでチェスニー・ウォールドの上には黒っぽい翼をした寂寥がおり立っている。
空想力の活動をいくぶんでも示しているらしいのは、チェスニー・ウォールドのもっと卑しい動物たちである。|厩舎《きゆうしや》の中の馬たちは――その長い厩舎は草も木もない赤煉瓦だたみの中庭にあり、中庭には屋敷に附属した小塔に巨大な鐘と、大きな文字盤のついた時計とがあって、この近くに住み、好んでその肩にとまる|鳩《はと》たちはいつもこの時計で時間をたしかめているようだ――その馬たちはときおり晴れた日々を心に描いているから、馬丁どもよりはましな芸術家らしい。かつて断郊競走で鳴らした栗毛の老馬はかいば格子のそばの鉄格子窓に大きな目玉を向けて、晴れ渡った日に窓べで光る若葉や、流れこむさまざまな物の香りを思い起して、猟犬たちといっしょに心楽しく走り廻っているらしいが、となりの仕切りを掃除している手伝いの人間は熊手と白かばの枝ぼうきのかなたまで思いをはせることがない。厩舎の入口に向い合った仕切りの中にいる|葦毛《あしげ》の馬は、入口があくと、こらえきれないように|端綱《はづな》をかたかた鳴らせながら、いかにも待ちこがれていたように耳をそばだて頭をふり向けるので、入口をあけた人から、「どう、どう、|葦《あし》よ、ほら、あわてんな! 今日はだれもおめえなんかに用はねえよ!」といわれるが、そんなことは人間同様、先刻承知しているらしい。この厩舎に同居している、一見退屈で附合いのわるそうな五頭ほどの馬たちはみな、入口がしめられると、屋敷の召使部屋や村の居酒屋デッドロック亭などにおけるよりも、もっと活溌な交際をして、長い雨の日をすごしているらしい――それどころか、うまやの片隅の仕切りに放し飼いにしてある小馬を訓育して(いや、おそらく堕落させて)うさを晴らすことさえあるらしい。
同じように、中庭の犬舎で、大きな頭を前足にのせたまま、いねむりをしているマスチフ犬も、太陽のあつい日射しを思い浮べているらしい。そういう晴れた日には、厩舎の建物の影が我慢しきれないほど刻々とちぢまり、ついには自分のせまい住居の影以外に身をかくすところがないので、犬舎の中へはいって、上体を起したまま坐りこみ、あえいだり短いうなり声をあげたり、なにか噛みつくものが無性にほしいと思うけれども、自分の体と鎖のほかにはなにもない。だが今は半ば目覚め、たえず目をしばたたきながら、彼は人々で一杯の屋敷、乗物で一杯の馬車置場、馬で一杯の厩舎、馬丁で一杯の離れのことをしきりに思い出しているらしいが、そのうちに現在のことが分らなくなってしまうので、外へ出て来て様子を眺める。すると、例のいら立たしげな身ぶるいをしながら、心の中で「雨、雨、雨だ! 雨ばかりだ――お屋敷の人はだれも来ていない!」とうなっているらしく、また犬舎の中へ戻り、憂鬱なあくびをしながら、ごろりと寝ころぶ。
同様に、猟園の向うにある犬舎の犬たちも落着きを失って、かんしゃくを起し、風が執拗に吹いたあとなどは、彼らの悲しげな声でそれが家の中にいても――階下でも、階上でも、奥方の部屋の中でも――分るほどであった。無為の時を過している彼らのまわりに雨のしずくがぱたぱた降りしきっているあいだも、彼らはこの地方一帯をくまなく狩りまわっているらしい。うさぎどもは自分たちのありかを暴露する尾をはやして、とびはねながら木々の根もとの穴を出はいりしているが、彼らも同じように、耳をそよがす微風の日や、甘い若草のもえ出る季節に切なる思いをはせているのだろう。鳥小屋の中の七面鳥はいつも階級的不満(つまり、それはクリスマスのことだろう)に悩まされているから、不当にも奪われてしまったあの夏の朝のたのしさを思い出しているのかも知れない、あの時は伐り倒された木々に囲まれた小道にはいりこみ、大麦をいれた納屋をみつけたのに。不平家の|鵞鳥《がちよう》は高さ二十フィートの古い通用口を、身をかがめて通ってゆくが、もしわれわれにその言葉が分るものなら、通用口が地上に影を投げる天候の時によちよち歩くほうがはるかに好ましいと、があがあ声でしゃべり立てることだろう。
とにかくチェスニー・ウォールドの館には、これよりほかに空想力をはたらかせているものはあまりない。時おり少しあったとしても、この|木魂《こだま》のする古い屋敷の中のちいさな物音と同じように、はるか遠くへ飛び去って、たいがい幽霊と神秘の仲間入りをしてしまう。
遠いリンカンシア州では雨があまり長く烈しく降りつづいたので、チェスニー・ウォールドの館の家事をとりしきっている年老いたミセス・ラウンスウェルは、何度も眼鏡をはずしてはぬぐい、レンズにしずくがたまってはいないかとたしかめてみた。雨の音を聞けば納得がいっただろうが、ミセス・ラウンスウェルはかなり耳が遠いくせに、人がなんといっても信じないのである。彼女は品のよい老婦人で、目鼻だちがととのい、姿は堂々として、すこぶる身だしなみがよい上に、背中と胸衣がいかにもしゃんとしているので、コルセットがわりに家庭用煖炉の幅広い古風な火格子を身につけていたと、亡くなってから分ったにしても、彼女を知っている者ならだれ一人おどろきはしないだろう。天候はミセス・ラウンスウェルにほとんどなんの影響も与えない。どんな天候の時もチェスニー・ウォールドの屋敷はそこにあるし、彼女の表現によると、お屋敷こそ「私が気を配っているもの」なのである。彼女は自分の部屋にすわり(部屋は一階の脇廊下にあって、アーチ形の窓が四角いなめらかな中庭を見おろし、中庭には一定の間隔を置いて、丸いなめらかな立木と、切り出したままの、なめらかな丸石とがならべられて美しさをそえ、まるで木々が丸石で球ころがしをしようとしているかのような印象を与えている)、屋敷全体がミセス・ラウンスウェルの胸の上で静かに休んでいる。ときたま、彼女は屋敷を開いて、いそがしくはたらき、あわてふためくこともあるが、今は屋敷はとざされ、鉄の火格子につつまれたミセス・ラウンスウェルのふところに抱かれたまま、おごそかに眠っている。
ミセス・ラウンスウェルのいないチェスニー・ウォールドを想像するのは、不可能に次ぐ難事であるが、彼女がここに来てからわずか五十年にしかならぬ。この雨の降る今日、どのくらいになるのか尋ねてみれば、「もしも火曜日まで生きられるとしますと、神様のみ恵みにより五十年三カ月と二週間になります」と答えることだろう。彼女の夫はあの弁髪のかれんな流行(1)が消滅する少し前になくなり、チェスニー・ウォールドの猟園の墓地の、かび臭い車寄せに近い一隅に、自分の弁髪をつつましやかにかくしてしまった(もしそれを自分のなきがらもろともあの世へ持っていったとするならば)。彼は市場のある町の出身で、若い未亡人になった彼の妻も同様であった。デッドロック家における彼女の履歴は先代のレスタ卿の時に始まり、ふり出しは酒類貯蔵室係りの女中であった。
デッドロック家の当主はじつにすぐれた主人である。自分に依存して生きている人々はみな個人としての人格や、目的や、意見を一切失っているものと考え、そういったものを持たずにすませてやるために自分がこの世に生れて来たのだと信じこんでいる。もしそれがあやまりだと覚ったならば、それこそ気絶してしまうだろう――きっと、意識を回復しても、おどろきのあまり息をきらせて死んでしまうにちがいない。しかし、それでもやはり彼はすぐれた主人であり、すぐれた主人であることが彼の身分にとって不可欠の要件だと思っている。彼はミセス・ラウンスウェルが大好きで、彼女のことをりっぱな尊敬すべき女だといっている。チェスニー・ウォールドへ来た時と帰る時には、いつも彼女と握手をするし、万一重い病気にかかったり、不慮の事故で倒れたり、馬車にひかれたり、あるいはデッドロック家の人間らしからぬ見苦しい事態におちいったりした際に、もし口がきけるなら、おそらく彼は「わしにかまわず、ミセス・ラウンスウェルをここへ呼んでくれ!」ということだろう。というのは、そういう危機に当って彼女ならほかのだれよりも、彼の威厳をきずつけないでくれると思うので。
ミセス・ラウンスウェルは苦労をなめて来た。二人の息子がいたけれども、下のほうの子はしたい放題をしたあげく、兵隊になるといって家を出たまま帰って来なかった。今でも、その子のことを口にすると、彼女のもの静かな手は落着きを失って胸もとに組んだのがほどけ、興奮にうちふるえながら、なんと頼もしい、なんという男まえの、なんと陽気で、気さくで、利口な青年だったろう! という。もう一人の息子はお屋敷でめんどうを見てもらったならば、やがては執事にしてもらえたのに、小学校時代からシチューなべで蒸気機関をつくり始め、小鳥たちが自分の飲む水をほんのわずかな労力でくみ上げられるようにしてやった。これは水圧をたくみに利用した仕掛けで、のどのかわいた一羽のカナリヤが、文字どおり、車輪に肩をかしてやりさえすればすむのであった。息子のこうした傾向はミセス・ラウンスウェルにひじょうな不安を与えた。ウォット・タイラーの方向へ進む第一歩だと感じて、母親らしい悩みを覚えたのだった。というのは、煙と高い煙突がつきものと見なされるような技術に適した性質を、レスタ卿が大体そんなふうに考えていることを彼女はよく知っていたのである。しかし、この呪われた若い反逆者は(ほかの点ではおだやかな若者で、たいそう我慢づよかったけれども)、大きくなっても、いっこうに神の恵みに浴する気配もなく、かえって逆に、動力織機の模型をつくったので、彼女はやむなく准男爵に息子の堕落を涙ながらに打ち明けた。「ミセス・ラウンスウェル」とレスタ卿はいった、「お前も知ってのとおり、私はだれかれを問わず人と議論するのはいっさい御免だ。その子は追いはらったほうがいい、どこかの『工場』へ入れたほうがいい。そういう傾向の子には、もっと北の鉄工業地方が向いているだろう」息子はもっと北へゆき、そこで成長した。それで、母親を訪ねてチェスニー・ウォールド荘園に来たこの子を、たといレスタ・デッドロック卿が見かけたり、あとで思い出したりするようなことがあったとしても、きっと卿は彼を、不法な目的のために週に二晩か三晩、|松明《たいまつ》を持って横行する、色の黒い不気味な陰謀者たち(2)の一味くらいにしか考えなかったことだろう。
しかしながらミセス・ラウンスウェルのこの息子はやがておのずから、またみずから成長して一本立ちになり、結婚して、彼女の孫にあたる自分の息子を手もとに呼びよせた。というのは孫は徒弟奉公を終え、知識を広め人生の冒険に必要な修業をするために遠い国々へやられていたのであるが、その旅から帰国して、今この雨の日、チェスニー・ウォールド荘園のミセス・ラウンスウェルの部屋へ来て、煖炉によりかかっている。
「それで、何度もいうけれど、お前に会えてうれしいよ、ウォット! それで、もう一度いうけれど、お前に会えてうれしいよ、ウォット!」とミセス・ラウンスウェルがいう、「りっぱになったねえ。お前はあのかわいそうなジョージ叔父さんに似ているよ。ああ!」家出をした下のほうの息子の名前を口に出したので、いつものとおりミセス・ラウンスウェルの両手が落着かなくなる。
「僕はお父さん似だって、みんなにいわれてるよ、お祖母さん」
「お父さんにも似ています――でも、かわいそうなジョージ叔父さんそっくりだよ! それでお父さんは」ミセス・ラウンスウェルはまた手を組み合わせ、「丈夫なんだろうね?」
「申し分のない元気だよ、お祖母さん」
「ありがたいこと!」ミセス・ラウンスウェルは長男を好いているけれども、彼に対してはぐちっぽい感情をいだいている――まるで敵方に投じたあっぱれな軍人に対するように。
「それから、しあわせに暮しているんだろうね?」
「とてもね」
「ありがたいこと! で、お父さんはお前をあとつぎに育てて、外国やらなにやらにやったというわけだね? まあ、万事あれが一番よく心得ているさ。チェスニー・ウォールドの外にも、私の知らない世界があるのだろうね。もっとも、私だって若い者とはちがいます。それにご身分のかたがたをずいぶんと見て来たしね!」
「お祖母さん」と青年は話題を変えて、「ついさっきお祖母さんといっしょにいた人は、とてもきれいな娘だったねえ。ローザって呼んでいたね?」
「ええ、そうだよ。あれは村の後家さんの子でね。近ごろの女中たちはとてもしつけにくいので、若いうちから手もとに置いたのだよ。なかなか利発な子だから、今によくなりますよ。もうお屋敷の参観者の案内をりっぱにやっていてね。この部屋のテーブルで私といっしょに暮しているのさ」
「僕が追い出したわけじゃないんだろうね?」
「たぶん、私たちが内輪の話をすると思ったのだよ。とてもつつしみ深い子だからね。つつしみ深いということは若い女の美点ですよ。でも以前から見ると」とミセス・ラウンスウェルは胸衣に包まれた上体を精一杯まっすぐのばしながら、「めずらしくなってしまったねえ!」
若い孫は年の功がいわせるこの教訓に答えて頭を下げる。ミセス・ラウンスウェルは耳をそばだてている。
「車だよ!」と彼女がいう。その音は話相手の若い耳にはずっと前から聞えていた。「一体全体、こんな日にどこの車だろうね?」
しばらくするとドアをたたく音。「おはいり!」瞳が黒く、髪が黒い、はにかんだ、ひなにはまれな美人がはいって来る――ほのかなばら色のほおの輝きがいかにもみずみずしいので、髪の毛に打ちつけた雨のしずくが、摘み立ての花に置いた露かと見える。
「お客さまはどちらからだい、ローザ?」
「馬車でいらっしゃった二人の若い男のかたで、お屋敷を拝見したいとおっしゃっています――はい、私もそう申しました!」と、女中頭のいけないという身ぶりにいそいで答えて、「お玄関のドアのところへ参って、今日は参観日ではございませんし、時間も過ぎておりますからと申しましたけれども、馬車を操縦なさって来たほうの若いかたが、外の雨の降る中で帽子をぬいで、この名刺をぜひ取次いでいただきたいとおっしゃったものですから」
「ウォットや、読んでおくれ」
ローザがひどくはにかみながら渡すので、二人は名刺をあいだに落してしまい、拾い上げようとしたひょうしに、危うく鉢合わせをしそうになる。ローザはますますはにかむ。
名刺には「ミスター・ガッピー」とだけしか印刷してない。
「ガッピーだって!」とミセス・ラウンスウェルがくり返しいう、「ミスター[#「ミスター」に傍点]・ガッピーだって! ばからしい、こんな人は聞いたこともないよ!」
「そのかた、私にも[#「私にも」に傍点]そうおっしゃいました! でも、お話をうかがいますと、そのかたともう一人の若い紳士とは、ここから十マイル離れたところで、今朝開かれた治安判事会議に用事があって、つい昨晩ロンドンからおいでになりましたけれども、用事はすぐに終り、チェスニー・ウォールド荘園のうわさをいろいろお聞きになり、ほんとうに所在なくてしかたがなかったので、雨をついて見物においでになったのだそうです。お二人とも弁護士さんです。そのかたはタルキングホーン先生の事務所の者ではないけれども、必要ならばタルキングホーン先生が名前を使わせてくれるはずだとおっしゃっています」そこで言葉を切ると、彼女はすっかり長話をしていたことに気づいて、いよいよはにかむ。
ところでタルキングホーン弁護士は、いわば、この屋敷の必要欠くべからざる一部分であり、その上ミセス・ラウンスウェルの遺言書を作った人だということになっている。年とった女中頭は態度をやわらげて、特別の好意で客たちの参観を許し、ローザを案内にゆかせる。しかし孫は急に自分も邸内を見物したくなり、一行に加わるといい出す。祖母は孫が屋敷に興味を持ったのをよろこび、いっしょについてゆく――もっとも、孫の気持を|忌憚《きたん》なくいえば、彼は祖母の労をわずらわすのが心苦しくてたまらないのである。
「どうもありがとう、奥さん!」とガッピー君は玄関にはいって、ぬれた厚いラシャ地の雨外套をぬぎながらいう。「僕たちロンドンの弁護士はあまり遠出をすることがないんで、遠出をした時には、せいぜい機会を活用したいんですよ」
年とった女中頭は気品のあるきびしい態度で手を振って、大階段のほうへゆくようにと合図する。ローザのあとについてガッピー君と友人がゆき、そのうしろにミセス・ラウンスウェルと孫とがつづき、若い庭番が先頭を歩いてよろい戸をあける。
家屋敷を参観する人たちによくあることながら、ガッピー君とその友人はまだいくらも見ないうちから、もう疲れきってしまった。ゆかなくともよいところへはぐれてゆき、見なくともよいものを見物し、見るべきものに注意を払わず、開かれる部屋また部屋を茫然と見つめ、すっかり意気銷沈し、疲労こんぱいしていることがひと目で分る。つぎつぎに新しい部屋にはいるたびごとに、ミセス・ラウンスウェルは屋敷に負けぬほどまっすぐな姿勢をしたまま、皆から離れて、窓下の腰かけや隅のほうの椅子などに腰をおろし、堂々とした態度で案内役のローザの説明に好もしげに耳を傾ける。その説明を孫のウォットがあまり熱心に聞いているので、ローザはますますはにかむ――するとますますかわいらしくなる。こうして一同は、部屋から部屋へと進みながら、若い庭番が光を入れると、その数分間だけ、肖像画にかかれたデッドロック家代々の人々をよみがえらせ、また光をしめ出すと、ふたたび彼らを墓にうずめてゆく。弱りきったガッピー君とめいりこんだ友人にとって、デッドロック家の人たちはいつはてるとも分らぬほど大勢いるように思われるのに、この一族の偉大さたるや、過去七百年のあいだ、なに一つ抜きんでた功績を立てたことがない点にあるらしい。
チェスニー・ウォールド屋敷のあの長い大応接間さえもガッピー君の元気を回復させることができない。彼はすっかり気落ちがしてしまって、敷居のところにうなだれ、中へはいる気力もほとんどない。しかし、マントルピースの上のほうにかけられた、当代の上流人士にもてはやされている画家の手になった肖像が、呪文のような効果を彼に与える。たちまち彼は我に返る。異常な興味にかられて凝視する。まるで釘づけにされ、魅入られたかのようである。
「おや! あれはだれです?」ガッピー君はいう。
「煖炉の上の絵は」とローザがいう、「現在のデッドロック家の奥方さまの肖像でございます。奥方さまに生き写しで、巨匠の最高の作といわれております」
「僕はぜったいに」とガッピー君はなにかあわてふためいた様子で友人のほうを見つめながら、「デッドロック家の准男爵夫人を見たはずがない。だが、僕はあの人を知っている! お嬢さん、この絵は版画に複製されたことがありますか?」
「版画になったことは一度もございません。レスタ卿がいつもお許しにならないのです」
「へええ!」とガッピー君は低い声になって、「まったくの話、僕があの絵をこんなによく知っているとは、実に奇妙きてれつだ! そうか、あれがデッドロック家の准男爵夫人なのか!」
「あの右側の絵が現在のレスタ・デッドロック卿でございます。左側の絵は父上にあたる、おなくなりになった先代のレスタ卿でございます」
ガッピー君はこの二人の大人物には目もくれない。「僕があの絵をこんなによく知っているとは」と彼はなおも夫人の肖像画を見つめながら、「不可解だ。ちくしょう」とつけ加えて、あたりを見廻し、「僕はきっとあの絵を夢で見たにちがいない!」
同席の人たちはだれ一人としてガッピー君の夢に格別の興味も示さないので、はたして夢で見たのかどうかはそのまま打ち切りになる。しかし彼はあい変らず肖像画にすっかり心を奪われて、みじろぎもせずその前に立ちつくしているが、やがて若い庭番がよろい戸を閉めにやって来ると、奇妙にも今までの熱心さとは打って変って、しかしその熱心さに劣らぬほどの、茫然自失の|体《てい》で部屋を出て、みなのあとについてきょろきょろ目を丸く見張りながら次の部屋、次の部屋へとはいってゆく、まるでどこへいってもデッドロック家の奥方をもう一度さがし求めているかのように。
奥方はもう見あたらない。奥方の部屋はたいそう優雅なので一番最後に案内される。彼は部屋を見て、窓から外を眺めるが、その窓はさきごろ奥方が死ぬほど退屈させられた天候を眺めた窓である。すべて物事には終りがある――見せてもらうためにこの上もない骨を折り、見ないうちからいやになってしまう屋敷でさえその|例《ためし》にもれぬ。ガッピー君の参観も終るし、みずみずしい村の小町娘の説明も終る。その最後の説明はいつもこうである。
「下のテラスはたいそうほめそやされております。このテラスは当家の古い言い伝えにちなみまして、『幽霊の小道』と呼ばれております」
「まさか?」とガッピー君は|貪婪《どんらん》な好奇心にかられていう。「どんな言い伝えです、お嬢さん? なにか絵に関した話ですか?」
「どうかその話を聞かせて下さい」とウォットが半ばささやくようにいう。
「私は知らないんです」ローザはますますはにかむ。
「お客様がたとはかかわりのない話なのです、ほとんど覚えている人もない話です」と女中頭が前に出て来ていう。「もともと、ご一族のほんの内輪の逸話だったのです」
「くり返し尋ねて恐縮なんですが、なにか絵と関係のある話ですか、奥さん? だって僕はあの絵のことを考えれば考えるほど、たしかにあの絵を知っているんです、どうして知っているのか僕には分らないけれど!」
その言い伝えは絵とはなんの関係もない、それは私が請け合うと女中頭はいう。ガッピー君は彼女のその知らせに感謝し、なお今日の参観について感謝の言葉を述べる。彼は友だちといっしょに若い庭師の案内で別の階段を降りて引き下り、まもなく馬車で立ち去る音が聞える。時刻はもう夕暮れである。ミセス・ラウンスウェルはあとに残された二人の若い聞き手の思慮深さを信用できるので、二人にならば[#「二人にならば」に傍点]、そういう神聖な名前がテラスにつけられた由来を話してもよいと思う。見る見るうちに暗くなってゆく窓ぎわの大きな椅子に腰をおろして彼女は語り出す。
「チャールズ一世陛下(3)のいまわしい時代に――もちろん、あのりっぱな王様に刃向う反逆者たちが陰謀を起した、いまわしい時代という意味だよ――チェスニー・ウォールドのご領主はモーベリ・レスタ卿でした。それ以前からデッドロック家に幽霊にまつわる話があったかどうか分りません。私はきっとあったと思うけれどもね」
ミセス・ラウンスウェルがそういう意見をいだいているのは、これほど|由緒《ゆいしよ》ある|大家《たいけ》には当然幽霊がいてしかるべきだと考えているからである。彼女は幽霊を上流階級の特権の一つ、つまり平民連中には望む資格のない高貴な特徴と見ている。
「モーベリ・デッドロック卿は、いうまでもなく、聖なる殉教者チャールズ王のお味方でした。けれども卿の奥方はたしかに[#「たしかに」に傍点]、邪悪な人たちに荷担していられたといわれています、なにしろお家の血筋をぜんぜんひいていらっしゃらなかったのだからね。話によると、奥方は王様の敵がたに親戚がいろいろいて、そういう人たちと文通しては情報をもらしていなさったそうです。陛下のお味方のかたがたがこのお屋敷で会合をなさるたびごとに、奥方はいつもこっそり会議室のドアのそばに来ていらっしゃったといわれています。ウォット、お前は人がテラスを歩いていくような音が聞えるかい?」
ローザは女中頭の近くへすり寄る。
「石だたみに雨の落ちる音が聞えるよ」と青年が答える、「それから妙なこだまが聞える――たぶんこだまだろう――びっこをひきながら歩いてる音にそっくりだ」
女中頭はおもおもしい顔をしてうなずき、話をつづける。
「ご夫婦のあいだのこういう不一致のためもあり、またいろいろ別な理由もあって、モーベリ卿と奥方とは波風の多い毎日を送られました。奥方は誇り高い気性の貴婦人でした。お二人は年も性格もあまり合わず、その仲をやわらげるお子さまもありませんでした。奥方のお好きだった若い弟さんが王党と議会派との内乱で戦死されてからというものは(モーベリ卿の近親のかたのために殺されたのです)、奥方はたいそう恨みに思われて、ご自分の嫁いで来られた先の一族を憎むようになりました。デッドロック家のかたがたが王様のために出陣しようとする際に、奥方は一度ならず真夜中に|厩《うまや》へしのびこみ、馬の脚に傷をおつけになったらしいのです。話によると、一度そういう深夜、殿様は奥方が階段をすべり降りてゆくのをご覧になり、あとをつけてゆくとご自分の愛馬のいる|厩《うまや》に奥方がはいられました。殿様は奥方の手首をおさえました。そしてもがいている拍子に、それとも倒れた時に、あるいは馬がおどろいてあばれたためか、奥方は腰をくじかれ、その時いらい次第にやつれてゆかれました」
女中頭はまるでささやくような低い声になった。
「奥方はもともと容姿端麗な、ものごしの上品なかたでした。けれども、今は変りはてた身を一度も歎かれませんでした。ご自分が不具の身になられたことや、痛みにたえていることを、だれにもひとことも話されずに、毎日毎日、一所懸命テラスを歩こうとされ、石の手すりにすがって日なたや日陰をゆきつ戻りつ、ゆきつ戻りつなさいましたが、それも日増しにむずかしくなってゆきました。とうとう、ある日の午後、殿様が(あの晩以来、奥方はどんなに説得されても、殿様に向って口を開かれることがぜったいにありませんでした)、南側の大窓のところに立っていらっしゃると、奥方がテラスの石だたみにくずおれるのが目にうつりました。急いで部屋をかけ降りて奥方を抱き起そうとなさると、奥方は自分の胸の上に身をかがめた殿様をはねのけ、冷い目でじっと凝視しながら、こう申しました。『私は自分の歩いていたこの場所で死にます。そしてお墓の中へはいってもここを歩きます。この家の誇りが打ちくだかれる日までここを歩きます。そしてわざわいと屈辱がこの家に来る時に、デッドロック家の人たちは耳を澄ませて私の足音をお聞きなさい!』」
ウォットはローザを眺める。ローザは濃くなってゆく夕闇の中で、半ばおびえ半ばはにかみながら目を伏せる。
「そのままその場で奥方は亡くなりました。そしてその時代からあの名前が伝わっているのです――『幽霊の小道』という名前が。たといあの足音がこだまだとしても、聞えるのはいつも日が暮れてからで、それに長いあいだずっと聞えないことがよくあります。けれども、時おり、また戻って来るし、ご一家に病気や不幸が起ると、その時はかならず聞えるのだよ」
「――それから屈辱が起った時もね、お祖母さん――」とウォットがいう。
「チェスニー・ウォールドに屈辱が起ることはありませんよ」と女中頭が答える。
「そうだね。そうだね」といって孫は詫びる。
「これが言い伝えですよ。あの音がなんの音にしろ、とにかく気にかかる音だし」とミセス・ラウンスウェルは椅子から立ち上りながら、「それにあの音の特徴は、かならず聞える[#「かならず聞える」に傍点]ということです。今の奥方さまはどんなものでもこわがらないかたなので、あの音が戻って来た時にはかならず聞えるとおっしゃっていますよ。あの音をしめ出すことはできません。ウォットや、お前のうしろに丈の高いフランス時計があるけれど(わざとそこに置いてあるのだよ)、それは、動かすとカチカチ大きな音を立てるし、オルゴールもついている時計です。お前はそういうものの扱いかたを知っているだろう?」
「知っているつもりだよ、お祖母さん」
「動かしてごらん」
ウォットは時計を動かす――時を打たせ、オルゴールを鳴らす。
「さあ、こちらへおいで。こっちの、奥方さまの枕のほうへ。まだ充分に暗くなっているかどうか分らないけれども、耳を澄ませてごらん! テラスの上から音が聞えるかい、音楽やカチカチいう音やそのほかの音の中から?」
「聞えるとも!」
「奥方さまもそうおっしゃるのだよ」
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第八章 多くの罪を覆って(1)
夜明け前に身支度をととのえて、黒いガラスに蝋燭が二本のかがり火のように映っている窓から外をのぞいてみると、向うの方一帯はまだ昨夜のうす暗がりに包まれているので、夜が明けた時にどんなふうになるのかしら、と見守っているのは興味深いことでした。次第に見晴らしがきくようになり、ちょうど私の記憶が過去をさまよっていたと同じように、風が夜の闇の中をさまよっていた場所があらわれてくるにつれて、まだ知らないさまざまなものが眠っていた私のまわりにあったことを知って楽しくなりました。それも始めのうちは、もやの中にかすかに見分けられるだけで、空にはおそい星がまだ淡く光っていました。その薄明の時期がすぎると、景色がたちまち大きくなり、はっきりし始めたので、窓からのぞくたびに、いろいろなものが目にはいり、一時間眺めてもつきないほどでした。いつか知らぬまに、朝にそぐわないのは蝋燭の火だけになってしまい、部屋の中の暗がりは消えうせ、新しい日がほがらかな風景を明るく照らし、その中に一きわ目立つ古いアビー教会がどっしりした塔をいただいて、けわしい姿に似合わぬほどやわらかな影を長く投げていました。でも、これと同じように、いかつい|表面《うわべ》から(私にもこういうことが分ったような気がします)やさしい、おだやかな力がしばしば出て来るものです。
屋敷はどこもかしこもたいそうよく整頓されていて、だれもかれもがたいそう親切にしてくれましたから、二束もある鍵に少しも苦労しないですみました。もっとも、食料貯蔵室のちいさな引出し全部と、戸棚全部の、中身を覚えようとするやら、ジャムや、つけ物や、果物の砂糖づけや、びんや、ガラス器や、陶器や、そのほかずいぶんたくさんのものの控えを石板にとるやら、それに私が大体オールドミスみたいな、きちょうめんなおばかさんだったりで、まったく大いそがしでしたから、鐘の音が聞えた時もまさか朝飯の時刻になっていようとは信じられませんでした。けれども、大いそぎでかけつけ、もうお茶の係りは私ということになっていましたので、お茶を入れました。ところが、みながかなりおそく起きて、まだ食堂へはだれも降りて来ませんから、私は庭内を一のぞきして、こちらの方も少し知っておこうと思い立ちました。いってみると、ほんとうに気持のよい庭でした。家の前面には昨日馬車で乗りつけたきれいな並木道と|車回《くるままわ》し(ついでにいえば、昨日ここを馬車の車輪でひどく荒らしてしまいましたから、私は庭番にならすように頼みました)とがあり、裏手には花園があって、二階の窓辺にいたエイダがさっと窓を開き、外にいる私に向ってにっこりほほえみました、まるでそんな遠くからキスをしたがっているみたいに。花園の向うには菜園、それから馬の|囲《かこ》い地、それからこぎれいな干し草積み場、それからかわいらしい空地がありました。屋敷そのものはどうかといえば、峰の三つある屋根、大きいの、ちいさいの、形はさまざまながらどれもみなきれいな窓、南側に立てかけた、ばらとすいかずらの格子垣のあるそのたたずまいは、屋敷の|主《あるじ》と腕を組んで私を迎えに出て来たエイダがいうには、さすがにジョンおじさまにふさわしい家でした――これは大胆ないい草でしたが、ジャーンディスさんはただエイダのかわいらしいほおをつねっただけでした。
スキムポールさんは朝飯の席でも前の晩におとらず愉快でした。ちょうどテーブルに蜂蜜が出ていましたので、スキムポールさんは蜜蜂について一席談じるのでした。その話によりますと、僕は蜂蜜に対してなんの異存を持つものではない(たぶん、ほんとうに異存はなかったのでしょう、というのはスキムポールさんは蜜が好きのように見受けられましたから)、しかし蜜蜂の傲慢な臆断に対しては抗議をとなえる、ということでした。なぜ僕に向ってはたらき者の蜜蜂を手本にせよというのか、僕にはぜんぜん分らない。僕が考えるに、おそらく蜜蜂は好きで蜜をつくっているのだ、さもなければそんなことはしないだろう――だれも頼んだ者などいないのだから。蜜蜂は自分の趣味でしていることを|手柄顔《てがらがお》する必要はない。もしもあらゆる菓子屋がぶんぶん世の中を飛びまわって、ゆく手をさえぎるあらゆるものにぶつかり、身勝手にもあらゆる人に向って、おれは仕事をしにゆくんだから邪魔をしないように気をつけろと要求したら、世の中というものはまったく維持できなくなるだろう。それに、一財産つくりあげるやいなや、硫黄でいぶし殺されて財産をうばわれるなんて、どう考えてもばかばかしい身の上だ。もしマンチェスターの人が綿糸紡績をしているのはただそのためだけで、ほかになんの目的もないとしたら、諸君はそんな人をくだらない人間だと思うだろう。僕はなんの仕事もしない雄蜂こそ、もっと楽しい、もっと賢明な思想の権化だと考えざるをえない。雄蜂はつくり飾らずにこういっている、「失礼ですが僕は仕事に精を出すことができないのですよ! 僕の住んでいる世界には、見るものがひじょうに多く、見る時間はひじょうに少ないので、まことに勝手ながら僕は方々を見物することにして、見物したくない人に養っていただきますよ」これがスキムポールさんにとっては「雄蜂の哲学」らしく、じつにりっぱな哲学だと考えていました――ただし、それには、雄蜂が進んではたらき者の蜜蜂と仲よくすることがぜったいに必要なのでしたが、スキムポールさんの知っているかぎりでは、もったいぶった蜜蜂さえその気になり、自分が蜜をつくっていることをあまり自慢しなければ、のんきな雄蜂はかならず仲よくしたがるはずだ! といいました。
スキムポールさんはこういう空想めいた考えを、さまざまな方面にわたって、この上もなく軽快な足どりで追い求め、私たち一同を笑わせてくれました。もっとも、この時もまた、ご自身としては自分の話に精一杯まじめな意味をこめているらしく見うけられました。まだスキムポールさんの話に耳をかたむけているみなを残して、私は新しい職務をはたすために部屋をさがりました。しばらくのあいだいそがしくはたらいてから、帰りがけに鍵のはいったかごを腕にかけて廊下を通りかかりますと、ジャーンディスさんが寝室のとなりのちいさな部屋へ私を呼び入れましたので、見るとそこは一部は本と書類のかわいらしい書庫、一部は長ぐつと短ぐつと帽子入れのかわいらしい陳列室になっていました。
「かけたまえ、君」とジャーンディスさんが申しました。「ここは、知っておいてもらいたいのだが、『怒りの間』なのだ。私はきげんの悪い時にはここへ来てどなるのだよ」
「きっと、ここへなどめったにおいでにならないのでしょうね」と私はいいました。
「ああ、君は私を知らないのだ!」ジャーンディスさんが答えました。「私はだまされたり失望すると――風にだよ、そして東風になると、ここへ避難するのだ。怒りの間が家中で一番使われている部屋なのさ。君はまだ私のきげんを半分も知らないよ。おや、ずいぶん震えているじゃないか!」
震えずにはいられませんでした。一所懸命こらえようとしました。でも、あのいつくしみ深い方と二人きりになり、そのやさしい目に見られているのに気づき、その部屋に入れていただいて、すっかりしあわせに、すっかり光栄に思い、胸がすっかり一杯になりましたので――
私はジャーンディスさんの手に接吻しました。自分がなんといったのか、いいえ、しゃべったのかどうかさえ知りません。ジャーンディスさんはろうばいして窓のところへ歩いてゆきました。てっきりそこからとび出すつもりなのだと私は信じかけましたが、やがてこちらへ向き直りましたので、その目に浮んでいるものを見て、なにをかくすためにそこへいったのかを覚って安心しました。ジャーンディスさんが私の頭をやさしくなでて下さいましたので、私は椅子に腰をおろしました。
「よし、よし! もうすんだね。えへん! ばかなことはおやめ」
「もう二度としません。でも、始めのうちは、そうせずにいるのがとてもむずかしくて――」
「ばかな! やさしいよ、やさしいよ。むずかしいものか! 私は保護者のいない、みなし児の、よい女の子がいると聞いて、その保護者になろうと思い立つ。その子は成長して、私の鑑定が正しかったことを十二分に証明してくれる。そこで今度は後見人兼友人になるというわけだ。それだけのことがどうだというのだ? それでいい、それで! さあ、もう私たちは古い借りを精算した、これでまた君の明るい、人を信じ、人に信じられる顔に戻ってくれたね」
私は心の中で「ねえ、エスタ、おまえにはおどろいたわ! ほんとに、まさかおまえがこんなだとは思っていなかったのに!」といいました。するとたいそうききめがあって、私は鍵のかごの上に両手を組み合わせて、すっかり平生の自分をとり戻すことができました。ジャーンディスさんはそれでよろしいという表情を顔に浮べながら、心おきなく私に向って話し始めました、まるでずっとむかしからいつも毎朝私と話をかわして来たみたいに。私も同じような気持になりました。
「エスタ、もちろん君にはあの大法官府の事件は分らないだろうね?」
もちろん私は頭を横にふりました。
「いったい、分る者がいるのかね。あの事件は弁護士たちがひねくりまわして、すっかり混乱させてしまったので、とうのむかしに事件の最初の本案は地球上から消えうせてしまった。あれは遺言書とそれにもとづく信託財産に関する訴訟なのだ――いや、かつてはそうだった。だが今ではただ訴訟費用に関する事件にすぎないのだよ。私たち関係者はいつも訴訟費用のことで出頭し、退出し、宣誓し、質問し、訴状を提出し、反対訴状を提出し、弁論し、印を押し、申立てをし、審査に附託し、報告書を出し、大法官閣下と輩下一同のまわりをぐるぐる回り、衡平法に従ってワルツをおどりながら、あじけない死に就くのだ。重要な問題は訴訟費用なのさ。ほかのことはすべて、奇怪|千万《せんばん》にも消え去ってしまった」
「でも、もともとは」ジャーンディスさんが頭をこすり始めましたので、私は話をもとへ戻そうとしていいました、「遺言書に関した事件だったのでございましょう?」
「ああ、そうさ、まだいくぶんでも訴訟らしかった時分にはね。あるジャーンディスという男が不幸にも、たいそうな身代を作り、たいそうな遺言書を作った。ところがその遺産は、遺言にもとづく信託財産をどう処分するかという問題で使いはたされ、遺産受取人たちはすっかり零落してしまったから、遺産を残されるなどという大罪を犯した人たちだとはいっても、もう充分罰せられたといえるくらいだし、その遺言書自体が空文と化してしまった。この悲惨な訴訟の間じゅう、ほかの関係者全部が知っている全部のことを、一人だけ知らない者がいれば、その全部のことをこのたった一人の関係者のもとに提出しなければならないのだが、そうして明らかにされたことといえば――この悲惨な訴訟の間じゅう、関係者全部が、荷馬車に何台と溜った関係書類に書いてある事項全部の写しを、くり返しくり返し作って(または、金は払っても写しは作らずに――これがまあ普通のやりかただ、そんなものだれもほしくないのだから)、訴訟の坂の中腹を下ってはまた登りながら、訴訟費用、弁護料、たわごと、腐敗といった地獄踊りをおどってゆかねばならぬ有様は、どんなとてつもない幻想家も夢みたことのない悪魔の酒宴の図だ。大法官裁判所が普通法裁判所に質問を出せば、普通法裁判所は大法官裁判所に質問を出し返す。普通法裁判所がこれはできないといえば、大法官裁判所はあれができないという。そしてどちらも、なになにができないと、たったそれだけいうには、Aのためにこの事務弁護士が指図してこの法廷弁護士が出頭し、Bのためにあの事務弁護士が指図してあの法廷弁護士が出頭しという具合に、ちょうどアップルパイの物語(2)にあるとおり、アルファベットを一めぐりしなければならないのだ。それで何年も何年も、何代も何代も、万事こういうふうに、たえず始めから何度も何度もくり返されて、決して終ることがない。それに私たちはどんな条件があっても、この訴訟から逃れることができないのさ。というのは、訴訟の当事者にされていて、いやが応でも当事者でなければならないのだ[#「なければならないのだ」に傍点]。だが、この訴訟について考えてもむだだ! かわいそうに、私の大伯父のトム・ジャーンディスがこの訴訟について考え始めたということが、そもそも大伯父の最後の運命を知らせる前兆だったのだ!」
「おうわさに伺っているあのジャーンディスさんでございますね?」
ジャーンディスさんは厳粛な顔をしてうなずきました。「私はトム・ジャーンディスの跡とりで、これが大伯父の家だった。私がここへ来た時には、ほんとうに荒涼としていたよ。あの人が自分の不幸の印しを残していったのだ」
「今はその時分とは、さぞかし変ったのでございましょうねえ!」
「大伯父の代より以前には、この家は『峰の屋敷』と呼ばれていた。大伯父が現在の名前をつけて、ここに閉じこもって暮らし、昼も夜もあの訴訟関係の書類のいまわしい山を読みふけり、もつれた訴訟をときほぐして解決しようと、見こみもない希望を捨てなかった。そうしているうちに家は荒れはて、割れた壁のすきまから風がひゅうひゅう吹きこみ、こわれた屋根から雨がもり、くさりかけたドアのところまで雑草が道をふさいでしまった。私が大伯父のなきがらをここへ運んで来た時には、この家までが頭を射ちぬかれているように思えた、ばらばらにくだけて、こわれていたもの」
ジャーンディスさんは身震いしながら、こうひとりごとをいうと、少しゆきつ戻りつしていましたが、それから私の方へ視線を向けて晴れやかな顔になり、こちらへ来て、両手をポケットに入れて椅子に腰をおろしました。
「ここが『怒りの間』だということは君にいったね。どこまで話したかな?」
ジャーンディスさんが荒涼館に明るい変化をもたらしたというところまででしたと私は告げました。
「荒涼館、そうだ。あのロンドンの旧市内には現在でも、あのころの荒涼館によく似た私たちの家が何軒かあるのだよ――私たちの家といったけれども、つまりあの訴訟関係の家という意味さ。だが、これは訴訟費用の家というべきだ。というのはね、今この事件をいくぶんでも金づるにしたり、この事件は決して嫌悪の|的《まと》、なげきの種どころじゃないと見抜いたりする力を持っているのは、世界広しといえども訴訟費用だけなのだから。この訴訟は目をくりぬかれて、くちはててゆく、めくら長屋だ。窓ガラス一枚、いや、窓わくさえなくて、はだかの、のっぺりしたよろい戸がちょうつがいからたれ下り、きれぎれにちぎれている。鉄の手すりはさびのかけらになって、はげ落ちている。煙突はめりこみ、どの家の戸口の石段も(そしてその戸口は死への戸口なのかも知れない)よどんだ水で緑色になっている。そしてこういうあばら家を支えている突っかい棒自体もくされている。荒涼館は大法官府の管轄外だったけれども、|主《あるじ》はその管轄を受けていて、今話した家と同じ刻印をおされてしまったのだよ。これが、君、大法官の保管している|国璽《こくじ》の刻印で、それはイギリスじゅうにある――子供だって知っているよ!」
「ずいぶん変りましたこと、この家は!」と私はもう一度いいました。
「もちろん、そうとも」とジャーンディスさんはずっと快活な口調になって答えました。「そして私をいつまでも明るくしてくれるのは、賢い君なのだよ」(私が賢いなんて!)「こういうことは、この怒りの間でなければ、私は決して話しはしない、いや、考えもしないのだ。もし君がこの話をリックとエイダにも知らせるべきだと思うなら」と私の方を真剣な目で眺めながら、「知らせてもいいよ。それは君の思慮に任せるよ、エスタ」
「私としましては、旦那さま――」
「おじさまと呼んだ方がいいと思うね、君」
ジャーンディスさんがさりげないふうを装って、まるでやさしい思いやりからではなく、気まぐれのように、そういった時、私はまた熱いものがこみあげて来るのを感じました――それでそういう自分を「まあ、エスタ、そんなことでどうするの!」と責めましたが。しかし私はほんのわずかだけ屋敷の鍵をゆすぶって自分に注意を与えてから、両手をいっそうきっぱりと鍵のかごの上に組み、静かにジャーンディスさんの方へ目を向けました。
「私としましては、おじさま、あまり私の思慮を信用なさらないでいただきたいのです。私を買いかぶらないでいただきたいのです。私が利口でないことにお気づきになりましたら、失望なさるのではないかと心配なのです――ほんとうに私は利口ではありませんし、たとい自分で隠していても、じきにお分りになると思いますもの」
ジャーンディスさんは少しも失望したらしい様子はなく、むしろ正反対でした。そして満面に笑みを浮べながら、君のことはよく知っている、君ぐらい利口なら充分だと申しました。
「そうなりたいと思っていますけれども、自信がないのです、おじさま」
「君ぐらい利口なら、私たちのこの家の『ちいさなおばあさん』に充分なれるよ、君」とジャーンディスさんはふざけて答えました、「あの子供の(スキムポールのことじゃないよ)歌に出て来る『ちいさなおばあさん』さ。
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『ちいさなおばあさん、そんなに高く、どこへゆく?』
『わたしゃ、空のくもの巣はらいに出かけます』
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エスタ、君は家政をあずかっているあいだに、この家の[#「この家の」に傍点]空のくもの巣をきれいにはらってくれるだろうから、そのうちに私たちは『怒りの間』をかえりみなくなって、ドアを釘づけにしなければならないだろうね」
これが始まりで私はおばあさんとか、ちいさなおばあさんとか、くもの巣とか、ミセス・シップトン(3)とか、ハバードばあさん(4)とか、ダードンおばさん(5)とか、そのほかそういったたぐいのいろいろな名前で呼ばれるようになりましたので、やがて私の本名はすっかり忘れられてしまいました。
「しかし」とジャーンディスさんがいいました、「さっきの話のつづきに戻るとしよう。あのリックは前途有望な、りっぱな若者だ。リックをどうしたものだろうかね?」
なんということでしょう、こんな問題について私の助言をお求めになるなんて!
「あのリックは」とジャーンディスさんは気持よさそうに両手をポケットに入れて、両足をぐっと伸しながら、「専門の職業につかなければいけないな。なにか自分で選ばなければいけないね。これについては、たぶん、もっとうんざりするほどたくさんの仰々しいさわぎが持ち上るのだろうがね、とにかくそうしなければいけない」
「たくさんの、なんでございますって、おじさま?」
「仰々しいさわぎさ。そうとでもいうよりほかに、いいようがないね。リックは大法官裁判所の被後見人だ。だから、この問題についてはケンジ・アンド・カーボイ法律事務所の方でなにかいい分があるだろう、なんとか主事にも――これは大法官府横町、上流小路のはずれの裏部屋で、訴訟の本案の墓を掘っている、たわけた教会番さ――いい分があるだろう、法廷弁護士にもあるだろうし、大法官にも、その輩下の面々にもあるだろう。そしてこの連中全部にそれぞれたっぷりお礼をしなければなるまい。ところが連中のいい分たるや、すこぶるもったいぶって、くだくだしくて、食い足りなくて、金がかかるのだから、全体として見れば、仰々しいさわぎというのさ。どうして人間がこういったさわぎに悩まされるようになったのか、だれの罪でこういう若い人たちがそんな落し穴におとされたのか、私には分らないが、とにかくそうなのだよ」
ジャーンディスさんはまた頭をこすって、東風が吹いて来たぞとほのめかし始めました。けれども、ジャーンディスさんの私に対する好意ぶりを示すうれしい証拠は、頭をこすっていようが歩きまわっていようが、あるいはその両方を同時にしていようが、私の方を眺める時には、かならずその顔をいつくしみ深い表情に戻し、そのあとでまたかならず気持よさそうな態度になり、両手をポケットに入れて両足をぐっと伸すことでした。
「たぶん、まず第一に、リチャードさん自身のご希望をお尋ねになるのが一番よろしいかと思いますが」
「その通りだ。私もそのつもりだよ! ねえ、君の手ぎわとおだやかな話しぶりで、この件をリックとエイダとなんべんも話し合ってみて、君たち三人がどう思うのか確かめてくれたまえ。君のやりかたですれば、きっと問題の核心をつかむことができるよ、ちいさなおばさん」
私はこんなに重要な立場に立たされ、いろいろなことを任せられようとしていることを思うと、ほんとうにおそろしくなりました。自分ではそんなつもりは少しもなかったのです。ジャーンディスさんからリチャードに話していただくつもりでした。けれども、もちろん、返事にはそんなことはなにもいわず、できるだけのことをいたします、ただ、おじさまが私を実物以上に賢いと思っていらっしゃるので心配です(じっさい、私はこの点をもう一度いわなければいけないと感じたのでした)と、それだけ答えました。するとジャーンディスおじさまはそれまでに聞いたことのないほど愉快そうな笑い声を立てただけでした。
「さあ!」ジャーンディスさんは立ち上って、椅子をうしろにおしやりながら申しました。「どうやら、もうこれで今日は『怒りの間』には用ずみらしいな! ただ、おしまいに一言だけ。エスタ、ねえ、君は私になにか聞きたいことがあるかね?」
ジャーンディスさんがじっと私を見つめましたので、私もじっとジャーンディスさんを見つめていますと、その質問の意味がたしかに分ったように感じられました。
「私自身のことについてでございますか?」と私はいいました。
「そうだよ」
「おじさま」といいながら、私は思いきって手をさし出して(その手は急にわれにもあらず冷たくなりました)、ジャーンディスさんの手をにぎり「なんにもございません! たとい私に知るべきこと、知らなければならないことがありましても、教えて下さいとお願いする必要はございません。もしも私がおじさまを全面的に信用し信頼していないとしましたら、私はさぞかし無情な女に相違ありません。おじさまにお尋ねすることはございません、全然ございませんわ」
ジャーンディスさんは私の手を引きよせて小わきにかかえ、私たちは部屋を出てエイダを探しにゆきました。その時以来、私はジャーンディスさんにまったく気がおけなくなり、まったく遠慮を捨て、それ以上なにも知らないことにまったく満足して、まったく幸福になりました。
私たちは、始めのうち、荒涼館でかなりいそがしい生活を送りました、というのは、近所や遠方に住んでいてジャーンディスさんを知っている大勢の人たちと近づきにならなければなりませんでしたから。エイダと私には、他人のお金でなにかしたがっている人たちはみな、ジャーンディスさんを知っているらしく思われました。午前中などに「怒りの間」で、ジャーンディスさんの手紙を整理して、何通かの返事を代筆し始めた時に、私たちがびっくりしたことには、手紙をくれる人たちのほとんど全部が、お金を集めて使うために自分たちの委員会をつくり上げることを人生の大目的にしているらしいのを知りました。女の人たちも男に負けずに必死の努力をしていました。いえ、それどころか、男以上だったと思います。この上もなく熱烈に委員会の事業にうちこみ、まったくおどろくばかり猛烈に寄附をつのるのです。中には、郵便局の住所氏名録にのっている人たち全部に寄附募集状――シリング口のもの、半クラウン口のもの、半ポンド口のもの、ペニー口のもの――をくばるために一生を送っているのかと思われる人たちもありました。そしてなんでもほしがるのです。衣類をほしがり、リンネルのぼろをほしがり、お金をほしがり、石炭をほしがり、スープをほしがり、尽力をほしがり、サインをほしがり、フランネルをほしがり、ジャーンディスさんの持っているもの――あるいは持っていないもの――を全部ほしがりました。その目的がまた要求におとらずさまざまでした。新しい建物をたてる、古い建物の借入金を皆済する、絵のように美しい建物(計画したその建物の西面図をそえて)の中に中世マリヤ会を創設する、ミセス・ジェリビーに功労表彰品をおくる、会の幹事の肖像画をかかせて、その人に対する献身的愛情の深さで聞えた母堂に贈呈するといったように、じっさい、五十万部のパンフレットから年金にいたるまで、大理石の記念碑から銀の茶器にいたるまで、あらゆるものを作ろうとするらしいのです。それからそういう会に、じつにたくさんの名前をつけていました。たとえばイギリス婦人会、ブリテン処女会、基本徳目の一つ一つを名にした姉妹会、アメリカ女性会、それから何百という名前の淑女会です。こういう女の人たちはたえず遊説と選挙に躍起になっているようでした。そして何万人という人をいつも投票場へゆかせているのに、自分たちの候補者をどうしてもまだ当選させることができないらしいように、私たちの貧弱な頭では、それにまたこの婦人たち自身の文面によれば、見受けられました。全体として見れば、この人たちはきっと熱病につかれたような生活を送っているにちがいない、と思って私たちは頭がいたくなりました。
こういう|強欲《ごうよく》な慈善(もしこういういい方が許されるならば)で有名な婦人たちの中に、ミセス・パーディグルという人がいて、手紙の数から判断しますと、ミセス・ジェリビーその人にもおとらぬほど、ものすごく筆まめな人のように思われました。私たちは気づきましたが、ミセス・パーディグルのことが話題にのぼると、いつも風向きが変り、ジャーンディスさんは話を途中でやめて、慈善事業家には二種類ある、一つは少ししか事業をしないで大さわぎをする人、もう一つは大いに事業をして少しもさわぎ立てない人だ、といいすてると、もうそれ以上話をつづけないのでした。それで私たちはミセス・パーディグルを第一の種類の代表的な人だと考え、会ってみたいものだと思っていましたので、ある日、ミセス・パーディグルが五人のおさない息子さんたちをつれて訪ねて来た時には、よろこんで迎えました。
ミセス・パーディグルは眼鏡をかけた、ひどく鼻の高い、声の大きな、いかつい態度の婦人で、ひどく場所をとりそうな人らしいという印象を受けました。するとはたせるかな、ずっとはなれているのにスカートでちいさな椅子を何脚も倒してしまいました。ちょうど家にはエイダと私しかいませんでしたから、二人はこわごわ夫人を迎え入れました。というのは夫人がはいって来ると、まるで寒気が侵入したみたいで、うしろにつき従っている子供さんたちまで色青ざめてしまうようでしたから。
「お嬢さんがた、これが」とミセス・パーディグルは初対面の挨拶がすみますと、すこぶる能弁にしゃべり出しました、「わたくしの五人の息子たちです。名前はもう、わたくしどもの尊敬申上げている友人ジャーンディスさんがもっていらっしゃる、活版ずりの寄附者芳名簿で(たぶん、何部かございますわ)ごらんになったかも知れませんけれど。長男のエグバートは(十二ですが)自分のお小遣いを総計で五シリング三ペンスも、トカフーポのインド人に出した子です。次男のオズワルドは(十歳半ですが)全国鍛冶職功労大表彰記念品のために二シリング九ペンス寄附した子です。三男のフランシスは(九つですが)一シリング六ペンス半を、四男のフィーリクスは(七つですが)八ペンスを、未亡人養老協会に寄附しました。末っ子のアルフレッドは(五つですが)最近自発的に『よろこびのちぎり』幼年団に入団して、それに一生涯煙草類はぜったい手にしないという誓いを立てました」
私たちはこれほど不満そうな子供たちを見たことがありませんでした。単にみんながしなびて、ひからびたようになっていたというばかりでなく――たしかにそれに相違ありませんでしたが――不満が昴じてまったく狂暴な顔つきになっていたからです。トカフーポのインド人の話が出た時、私はほんとうにエグバートがその種族の中でも一番意地の悪い土民ではないかと思ったほどでした。それほど野蛮人のようなすさまじい、しかめ顔をしたのです。自分の寄附した金額をいわれるたびに、それぞれの子供の顔がいかにも恨みを晴らしたげな暗い表情になりましたが、特にエグバートのが一番きわ立っていました。でも、『よろこびのちぎり』団のちいさな新入団員だけは例外で、この子はあい変らずぼんやり悲しそうにしていました。
「あなたがたはミセス・ジェリビーのお宅にゆかれたんですね」とミセス・パーディグルがいいました。
私たちは、はい、一晩泊めていただきましたといいました。
「ミセス・ジェリビーは」と夫人がつづけていいましたが、この人はいつも同じように、感情をむき出しにした、声高な、きつい口調でしゃべるので、まるで声までが眼鏡でもかけているのではないかと、ふと、私はそんなことを空想しました――ついでにこの機会にいいますと、夫人の目はエイダのいわゆる「人を窒息させる目」、つまり、ひじょうな出目なので、眼鏡の方もそれだけ魅力がなくなるのでした。「ミセス・ジェリビーは社会の恩人ですし、助力に値する人です。わたくしの子供たちはあのかたのアフリカ開発計画に寄附いたしました――エグバートは一シリング六ペンスで、これは九週間分のお小遣い全部です。オズワルドは一シリング一ペニー半で、これも同じです。ほかの子供たちも、分相応にいたしました。けれども、わたくしはあらゆることについてミセス・ジェリビーと行動を共にするのではございません。ミセス・ジェリビーの、お子さんに対する取扱いには同意いたしません。世間では気づいております。口に出していっております。ミセス・ジェリビーの子供さんたちはお母さんが一身を捧げている事業に参加していない、と。あのかたが正しいのかも知れません、まちがっているのかもしれません。しかし、正しいにせよ、まちがっているにせよ、あれはわたくしの、自分の[#「自分の」に傍点]子供たちに対する方針ではございません。わたくしはどこへゆくにも子供たちをいっしょにつれて参ります」
私はあとで、たしかにそうだったと思ったのですが(エイダも同じでした)、この母親の言葉を聞くと、|性悪者《しようわるもの》の長男はこらえきれなくなって、かん高いわめき声をあげました。途中からあくびにまぎらしましたけれども、始めはわめき声だったのです。
「子供たちは一年じゅう朝の六時半に、もちろん、真冬もですわ、わたくしといっしょに教会へ朝のお祈りにまいります(大そうりっぱにいたします)」とミセス・パーディグルは早口にいいました。「そして、つぎつぎとある一日の仕事のあいだじゅう、いっしょです。わたくしは教区の学校係り婦人委員ですし、家庭訪問係り婦人委員ですし、読書係り婦人委員ですし、配分係り婦人委員です。それからリンネル箱委員会の地方委員と、たくさんの委員会の全国委員をしております。それにわたくしの場合、遊説だけでもたいそう広い区域にわたっております――おそらく、わたくし以上の人はございますまい。しかし、どこへまいるにも子供たちが道づれです。こういう方法によって子供たちは貧しい人たちに関する知識や、慈善事業一般をおこなう能力や――要するに、こういった仕事に対する愛好心です――それらを身につけて、のちのち隣人のお役に立ち、自分たちも満足がえられるようになるのです。宅の子供たちは軽薄ではございません。自分たちのお小遣いは全部、わたくしの監督下に、寄附事業に使っておりますし、大人でもふつうにはなかなかできないほど、たくさんの公開の集会に出席したり、たくさんの講演や演説や討論を聞いて来ております。アルフレッドは(五つですが)さきほど申したとおり、自分から進んで『よろこびのちぎり』幼年団にはいりましたのですが、その入団の際、当夜の司会者のかたが二時間にわたる熱烈な挨拶をしたあとでも、意識を保っていた数少ない子供の一人なのです」
アルフレッドは、まるでその晩ひどい目に会わされたことを、ぜったい|赦《ゆる》せないし、赦すつもりもないとでもいうように、不機嫌な顔をしました。
「サマソンさん、もうお気づきになったかも知れませんが」とミセス・パーディグルがいいました、「さきほどわたくしが申しました、わたくしどもの尊敬申上げている友人ジャーンディスさんが持っていらっしゃる寄附者芳名簿のうちには、宅の子供たちの名前の終りに、O・A・パーディグル、イギリス学士院特別会員、一ポンドと書いてあるのがございます。それがこの子たちの父親なのです。わたくしどもでは、ふつう、いつも同じしきたりを守っております。まずわたくしが貧者の一灯を記入します。それから子供たちが年齢とそれ相応の小遣いの順で、寄附額を記載します。それから次に主人がしんがりをつとめるのです。主人はわたくしの監督下に、乏しいながらも文字通り喜捨いたします。こういうふうにして、わたくしども自身が満足しているばかりでなく、きっと、ほかのかたがたのお手本にもなっていることと考えます」
もしパーディグル家のご主人がジェリビー家のご主人と晩餐をともにして、食後ジェリビーさんが心のうさをもらしたとしたら、パーディグルさんもこれに答えて心の秘密をジェリビーさんに打ち明けるかしら? こんなことを考えている自分に気づいて私はろうばいしましたけれども、事実そんな考えが頭に浮んだのでした。
「ここのお宅はたいそう気持のいいところにございますねえ!」とミセス・パーディグルが申しました。
私たちはよろこんで話題を変え、窓辺へ近寄って、美しい眺めをあれこれさし示しましたけれども、ミセス・パーディグルの眼鏡はふしぎにも景色には無関心のようでした。
「あなたがたはガッシャーさんをご存知でしょう?」とこのお客さんがいいました。
私たちは、存じ上げておりません、というより仕方ありませんでした。
「損をなさるのはたしかにあなたがたの方ですね」とミセス・パーディグルは堂々とした態度でいいました。「そのかたはまったく火のように熱烈な雄弁家なのです――情熱にみちていて! ここの芝生は地形から見ますと、公開の集会をするのにおあつらえ向きですから、今あのかたがこの芝生で荷馬車の上から演説をなさったら、あなたがたが口にされるほとんどどんな話題でも利用して、何時間も何時間もお話なさるでしょうに! もう今では、お嬢さんがた」といいながらミセス・パーディグルは自分の椅子へ戻りかけましたが、まるでなにか目に見えない力でも持っているみたいに、私の裁縫道具入れのバスケットをのせた、かなり離れたところにあるちいさな丸テーブルをひっくり返して、「もう、あなたがたはわたくしという人間がお分りになったでしょう。おそらく?」
これはほんとうに人を当惑させる質問でしたから、エイダはろうばいしきって私の方を眺めました。私はというと、ついさっき、ああいうことを考えていたあとですから、そのうしろめたい気持は、ほおの色にあらわれていたに相違ありません。
「つまり、わたくしの人柄の特徴がお分りになったでしょう、ということですよ。すぐに発見できるほどきわ立った特徴だということは自分でも知っているのです。わたくしって、自分の人柄を見抜かれやすいのですねえ。それでは、申しましょう! わたくしは無条件で認めます、わたくしは実務家です。わたくしは骨の折れる仕事が好きです、骨の折れる仕事が楽しみです。そういう仕事の刺戟がわたくしのためにいいのです。わたくしは骨の折れる仕事にすっかりなれて、なんとも思いませんから、疲労というものを知りません」
私たちは、それはまことにおどろくべきことで、まことに結構なことでございます、とかなにかそういう意味のことをつぶやきました。夫人のいったことがどういうことなのかも分っていなかったと思いますが、私たちの礼儀がそういわせたのです。
「わたくしは疲れるということを存じません。たといわたくしを疲れさせようとなさっても、それはできません! わたくしの重ねている努力の量と(わたくしにとっては努力でもなんでもないのですが)、はたしている仕事の数とを(仕事ともなんとも思っていませんが)考えると、ときどき自分でもおどろいてしまうことがあります。宅の子供たちと主人がそれを見ただけで疲れきってしまったのを知っていますが、ところが当のわたくしは、うそじゃありません、ひばりのように元気だったのですよ!」
陰気な顔をした夫人の長男は、ついさっき、これほど敵意にみちた表情を見せることはできまいとまで思われましたが、母親のこの言葉を聞いた時、前にもまさるすさまじい表情になりました。見れば右のこぶしを握りしめ、左のわきにかかえた帽子のてっぺんを、こっそりなぐりつけているのです。
「仕事にまわって歩く時には、これがひじょうに役に立つのです。わたくしのいうことを聞きたがらない人にぶつかると、すぐさまいってやるのです、『わたくしは疲労するということがないのですよ、あなた、ぜったいに疲れないのです、ですからおしまいまで話をつづけますよ』と。すばらしくききめがありますよ! サマソンさん、あなたには今からすぐ、わたくしの家庭訪問のお手つだいをしていただけましょうね、それからクレアさんには近いうちに?」
最初、私は自分には身を入れなければならない務めがあって、なおざりにすることができないからということを、大体の理由にして辞退しようとしました。けれども、この申立ては効果がありませんので、次には、もっと個人的な事情として、自分にそういう資格があるかどうか自信がないことをいいました。私は自分と境遇の大そうちがう人たちと同じ気持になって、それにふさわしい見地からその人たちに呼びかけるなどという技術には経験がありませんでした。そしてこういう仕事にかならず必要に相違ない、人の心についての微妙な知識を持ち合わせていませんでした。他人に教えることができるようになるまでには、まだまだ私自身が学ばなければならないことがたくさんにありましたし、自分の善意だけを信頼することはできないのでした。こういう理由で、私は自分のすぐ身近の人たちのために、できるだけお役に立ち、及ばずながらもできるかぎりの尽力をして、この義務の領域が徐々に、自然に広がるように努めるのが一番よいと考えました。こういうことを全部私はいいましたが、決して自信をもって話したのではありません。なぜかといえば、ミセス・パーディグルは私よりもずっと年上ですし、たいそう経験をつんでいて、それにまるで軍人のような態度をしていたからです。
「あなたのおっしゃることはちがいます、サマソンさん」とミセス・パーディグルはいいました。「しかし、たぶん、あなたは骨の折れる仕事や、その刺戟にたえられないのですね。それなら、話はずいぶんちがって来ます。わたくしがどんなふうに仕事をするのかを、もしごらんになりたいという気持がおありでしたら、わたくしは今これから――宅の子供たちといっしょに――近所の|煉瓦《れんが》職人のところへ(ひじょうにたちのよくない男です)家庭訪問にゆきますから、よろこんであなたをおつれしますよ。それからクレアさんも、もしおいでいただけるならば」
エイダと私は顔を見合わせて、いずれにしろ私たちも外出しようとしていたところなので、この申し出を受けました。帽子をかぶりにいって、いそいで戻って来ますと、ちいさい人たちは隅の方でしおれていましたが、ミセス・パーディグルは部屋の中を闊歩しながら、あたりの軽い家具類をほとんどみな、なぎ倒しているところでした。それから夫人はエイダを一人占めにしてしまいましたので、私が子供さんたちとつれ立ってあとにつづきました。
エイダがあとで話してくれましたが、ミセス・パーディグルは煉瓦職人の家へゆくあいだじゅう、あい変らずの大声で(それをたしかに私ももれ聞きました)、この二、三年間、ある婦人を相手に、おたがいの推薦する対立候補者をめぐってつづけて来た、ある年金獲得戦の胸のおどるような模様を話していたそうです。ずいぶんいろいろと印刷物の配布や、約束や、代理投票の委任や、投票やらがおこなわれて、関係者一同は大いに活気づいたらしいのですが、候補者二人だけは別のようでした――今もって選出がきまらないので。
私は子供に信頼されるのが大好きで、さいわい、その点ではいつも恵まれているのですが、この時はそのために大そう心配になりました。私たちが外へ出るやいなや、エグバートは私に向って、ちいさな追いはぎ然として、お小遣いを「ぱくられた」から一シリングよこせというのでした。そんな言葉を、とくに親に対して使うのは(というのは、不機嫌そうに「お母さんにだよ!」とつけ加えましたので)、ほんとに失礼ですよといってやりますと、私をつねって、こういいました、「ああ、それじゃあ、おい! あんたはだれなんだい! あんた[#「あんた」に傍点]だってあんなことをされたらいやだろう? どうしてお母さんはお金をくれたようなふりをして、またとりあげるなんてインチキをするんだ? なぜあれをぼくの[#「ぼくの」に傍点]お小遣いだなんていうんだい、使わせもしないくせに?」この腹の立つ質問をしているうちに、エグバートは、それにオズワルドとフランシスも、すっかりかんしゃくを起してしまい、三人がいちどきに、ひどくなれた手つきで私をつねって、両腕の方々をひねりあげましたから、私はほとんど悲鳴をこらえていられないほどでした。同時にフィーリクスが私の足の指をふみつけました。それから『よろこびのちぎり』幼年団員はささやかな収入を全部、いつも先取りされるため、じっさいには煙草ばかりかお菓子まで断つ誓いを立てたわけなので、お菓子屋の前を通るたびごとに悲しみと怒りで胸が一杯になり、顔を真赤にさせるので、エイダと私はおそろしくなってしまいました。私はおさない人たちとつれ立って歩いたことはたびたびありますが、この不自然な束縛を加えられた五人の子供たちが、私を信用して自然に振舞ってくれた時ほど、身心ともに悩まされたことはありませんでした。
それで煉瓦瓦職人の家へ着いた時にはうれしくなってしまいました。もっとも、そこは煉瓦製造場の中にかたまっている、みじめなあばら屋の一軒で、どの家もこわれた窓の間近に豚小屋が、戸口の前にはちいさな、みすぼらしい庭がありましたが、庭にはただ淀んだ水たまりができているばかりでした。あちこちに、雨水のしずくを受けるために古い桶を置いたり、泥でせきとめて、大きな|土《ど》まんじゅうほどの小さな池にためてありました。家々の戸口と窓辺にはいくたりかの男の人や女の人がよりかかったり、うろついたりしていて、私たちにはほとんど目をくれず、ただおたがい同士で笑い合ったり、私たちが通りかかると、いい家の人たちはいらぬ世話はしないものだし、わざわざ人の面倒を見に来て頭痛をやんだり靴をよごしたりしないものだ、というようなことをいうだけでした。
ミセス・パーディグルは先頭に立って貧民教化の崇高な決心をさかんにひけらかし、ここの人たちのだらしなさを能弁にしゃべりながら(こんなところにいれば、どんなにりっぱな人でもきちんとしてはいられないのではないかと私には疑問に思われましたが)、一番遠い隅のぼろ家の中へ私たちを案内しましたが、一同がはいると一階の部屋がほとんど一杯になりました。私たちのほかにそのしめっぽい、いやな部屋にいたのは――苦しそうな息をしている、あわれな、ちいさい赤ん坊を煖炉のそばであやしている、目のまわりを紫色にはらした女の人、全身泥と粘土にまみれたまま、大の字なりに|床《ゆか》に寝ころんでパイプをふかしている、ひどくすさんだ顔つきの男の人、犬に首環をはめている頑丈な若者、たいそうきたない水でなにか洗濯をしている、きかぬ気の少女でした。私たちがはいってゆくと、この人たちはみな顔をあげてこちらを見、赤ん坊をあやしていた女の人は、まるで打ち傷のついた目をかくすみたいに、顔を火の方へ向けたようですが、だれ一人として歓迎の言葉をかけてくれませんでした。
「まあ、みなさん」とミセス・パーディグルがいいました。けれども、その声には親しみがこもっていないように感じられました。あまりにも事務的で、わざとらしすぎるのでした。「いかがですか、どなたも? わたくし、またまいりましたよ。この前、わたくしを疲れさせることはできないと申したでしょう、ねえ。わたくしは骨の折れる仕事が好きですし、自分のいった言葉にそむきませんよ」
「もうあんたたちのほかに」と床に寝ころんだ男がほお杖をついたまま私たちをにらんで、どなりました。「ここへはいって来るもなあ、いねえんだろ?」
「ええ、あなた」とミセス・パーディグルは腰かけに腰をおろしながら、もう一つの腰かけをなぎ倒して、「これで全部ですよ」
「どうもまだ、あんたたちの人数がすくねえと思ったんで、聞いたんだ」と男はパイプをくわえたまま、私たちを見まわしていいました。
若者と少女が二人とも笑いました。若者の友達が二人、私たちに好奇心を起して戸口まで来て、ポケットに両手を入れて立っていましたが、それに合わせて騒々しい笑い声を立てました。
「わたくしにいや気を起させることはできませんよ、あなたがた」ミセス・パーディグルはその二人に向っていいました。「わたくしは骨の折れる仕事が楽しみなのです。ですから、あなたがたがわたくしの仕事をつらくして下されば下さるほど、仕事が好きになるのですよ」
「そんなら骨の折れねえようにしてあげなよ!」床に寝ころんだ男がどなりました。「おれはそんな仕事はもう終ってもらいたいね。おれんちに、こんなになれなれしくはいって来るのはやめにしてもらいたいね。おれを穴熊みてえにひっぱり出すのはやめにしてもらいたいね。あんたはこれから、いつものとおり、あれこれほじくり立てて質問しようてんだろう――なにをやらかすつもりか、おれは知ってるぜ。なあ、おい! あんたがそんなことをする必要はねえよ。おれがその手間をはぶいてやらあ、あなたの娘さんは洗濯をしているのですか、ってきくんだろう! そうとも、あのとおり[#「あのとおり」に傍点]やってらあ。その水を見てくれ。においをかいでみな! それがおれたちの飲んでる水だ。どうだい、気に入ったかい、それともかわりにジンはどうだい? あなたの家はずいぶん不潔じゃありませんか、だって? そうとも、不潔だよ――むろん不潔で、むろん不健康だ、それでおれたちにゃ不潔で不健康な子供が五人できて、みんなちいせえうちに死んじゃったが、かえってあいつらのためにも、おれたちのためにもしあわせだったんだ。わたくしが置いていったパンフレットを読みましたか? いいや、あんたの置いていったパンフレットなんか読まねえよ。ここにゃあんな本を読める者なんてだれもいねえや。それに、いたって、あれはおれにゃ向かねえよ。ありゃ赤ん坊の本だ、おれは赤ん坊じゃねえ。あんたが人形を置いていってくれたって、おれはあやしたりなんかしねえぜ。このごろはどうしていたのですか? そうさ、この三日、酔っぱらってたよ、もし|銭《ぜに》がありゃ四日だったんだがね。あなたは教会へいらっしゃるつもりはないのですか? そうとも、そんなつもりは全然ないね。こっちにそのつもりがあったって、向うはその気になっちゃくれめえ、教会係りの役人なんてひどく紳士づらしやがって、おれにゃ我慢できねえや。それで、どうしておかみさんはあんなに紫色のあざをつくったのですか? もちろん、おれがしたんだ。かかあのやつ、おれじゃねえなんていったら、やつはうそをついてるんだ!」
煉瓦職人はさっきからパイプを口からとっていましたが、これだけいい終ると、ごろりと向う側へ寝返りをうって、また煙草をふかし始めました。ミセス・パーディグルはびくともせず落着きはらって眼鏡越しに職人を見つめていましたので、そういう態度が相手の反感をつのらせそうに思われてならなかったのですが、今度はお説教用の本を、巡査が警棒でもとり出すように、ひっぱり出して、家の人たち全部を拘留してしまいました。もちろん、宗教でとらえたという意味ですけれども、じっさい夫人のやり方といったら、まるで道徳係りの、なさけ容赦もない警官が犯人を警察へ引立ててゆくような感じでした。
エイダと私はとてもいたたまれなくなりました。二人とも場ちがいのところへ侵入したような気持がしたのです。そして二人とも、もしミセス・パーディグルに、自分では少しもそれと気づかず、他人をわが物あつかいにする癖がなかったなら、はるかによい結果がえられたでしょうのに、と思いました。ミセス・パーディグルの子供さんたちは仏頂面をして、じろじろ眺めていましたが、この家の人たちは私たちにまったく目もくれず、ただ若い息子だけがミセス・パーディグルが力をこめてしゃべるたびに犬を吠えさせるのでした。私たち二人は、この人たちと私たちとのあいだには、ミセス・パーディグルをもってしても取り除くことのできない鉄の柵があることを痛いほど感じました。それをだれが、どうすれば取り除くことができるのか、私たちには分りませんでしたけれども、とにかくそういうものがあることは分りました。第一、ミセス・パーディグルが読みあげたり話したりしている事柄からして、たといどれほど謙虚に、どれほど相手の気持を考えて伝えたにしても、こういう聞き手に対しては不向きのように私たちには思われました。床に寝ころんでいた煉瓦職人がいったパンフレットについては、あとからどんな本だか分りましたが、ジャーンディスさんの言葉によりますと、もしロビンソン・クルーソーがあの無人島で、ほかに一冊も本を持っていなかったとしても、読めたかどうか怪しいしろものだということでした。
こういうわけでしたから、ミセス・パーディグルが話をやめた時には私たちはまったくほっとしました。すると床に寝ころんでいた亭主がまたこちらへ顔を向けて、ふきげんそうにいうのでした。
「やあ! 終ったんだな?」
「今日のところはね、あなた。しかし、わたくしは絶対に疲れませんよ。あなたがしらふの時にまた参りましょう」とミセス・パーディグルは露骨なほど上きげんで答えました。
「いま帰ってさえくれりゃあ」と男は腕組みをして目を閉じたまま、ちきしょう、とののしりながら、「なんでもあんたの好きなとおりするがいいさ!」
それでミセス・パーディグルは立ち上り、窮屈な室内にちょっとした渦巻を起しましたので、男がくわえていたパイプまで危うく口から落ちるところでした。それから両方の手に一人ずつ子供をつれ、残りの三人にはすぐあとをついて来るようにといいつけ、煉瓦職人と家族に向って、今度会う時にはみんなもっと立派になっていてほしいと述べ、また次のあばら屋へと出かけてゆきました。これは私の意地わるな見方ではないと思いますけれども、たしかにミセス・パーディグルはこの場合でもどの場合でも、これ見よがしに慈善のおろし売りをして大規模に売りさばくので、人心を|収攬《しゆうらん》することができないのでした。
ミセス・パーディグルは私たちがあとについてゆくものと思っていました。けれども、その一行が立ち去って部屋の中に身動きする余地ができるやいなや、私とエイダとは火のそばに腰かけているおかみさんの近くへいって、赤ちゃんが病気なのではないですかと尋ねました。
おかみさんはただ、ひざの上に横たえている赤ん坊を眺めるだけでした。前から気づいていましたけれども、いつも赤ん坊を眺める時、おかみさんは自分のあざになった目もとを手でおおいかくすのでした、まるでそのあわれなみどり子を|喧騒《けんそう》と暴力と虐待の記憶から切り離そうと願ってでもいるかのように。
エイダは赤ん坊の姿を見ると、やさしい気持に胸をかき立てられ、身をかがめてその顔をなでようとしました。そのとき私はただならぬ気配に気づいてエイダを引きとめました。子供が死んだのでした。
「ああ、エスタ!」エイダは倒れるように子供のかたわらにひざまずいて叫びました。「ねえ、あなた! ああ、エスタ、この赤ちゃん! 苦しんだ、おとなしい、かわいい赤ちゃん! かわいそうな赤ちゃん。かわいそうなお母さん。こんなに気の毒なことって見たことがないわ! ああ、赤ちゃん、赤ちゃん!」
泣きながら身をかがめて母親の手を握ったエイダのなさけ深さ、やさしさはどんな母親の心をもやわらげたことでしょう。おかみさんは初めあっけにとられてエイダを見つめていましたが、そのうちに涙にむせんでしまいました。
しばらくして私はおかみさんのひざから軽いなきがらを抱きあげて、赤ん坊の永い眠りをできるかぎり快く、やすらかにしてあげてから、棚の上にのせ、私のハンケチでおおいました。私たちは母親を元気づけてあげようとつとめ、われらの救い主キリストがおさな子についていわれた言葉(6)をささやいてあげました。母親はなにも答えず、腰かけたまま泣いて――烈しく泣いて――いました。
私がふり返ってみますと、息子はもう犬を外へつれ出して、戸口に立ったまま私たちのほうをのぞいていました。べつに目に涙は浮べていませんでしたけれども、静かにしていました。娘も静かになり、隅のほうに腰かけて床を眺めていました。亭主は立ち上っていました。あい変らず、挑戦するような態度でパイプをふかしていましたけれども、なにもいいませんでした。
私が三人を眺めているあいだに、ひどく粗末ななりをした、みにくい女がかけこんで来て、まっすぐ母親のところへゆき、「ジェニー! ジェニー!」といいました。そう呼ばれると母親は立ち上って、女の首に抱きつきました。
その女も顔と腕に虐待の痕をつけられていました。上品なところなど少しもない女でしたけれども、友だちに対する同情が一種の品をそえていて、ことにおかみさんをなぐさめて自分も涙をこぼした時には美しくさえ見えました。なぐさめたといいましたけれども、口に出していったのは「ジェニー! ジェニー!」という言葉だけでした。あとはすべてそういった時の|声音《こわね》にこめられていたのです。
私はこのぼろをまとった、粗野な、うちひしがれた二人の女がこんなに一つに結ばれて、たがいにできるかぎり力になり、たがいにあわれみ合い、たがいの心が人の世の試練によってやわらげられるのを見て、ほんとに胸を打たれる思いがしました。こういう人たちのもっともすぐれた面はほとんど知られていないと思います。貧しい人たち同士のあいだがらは、貧しい人たち自身と神様とを除けば、ほとんどだれにも知られていないのです。
私たちはもういとまを告げて二人の邪魔をしないほうがよいと感じました。それでこっそりと、亭主のほかにはだれにも気づかれずに抜け出しました。そのとき亭主は戸口のそばの壁によりかかっていたのですが、私たち二人がそのわきを通り抜けるだけのすきまがないことを覚ると、自分が先に外へ出ました。そして私たちのためにそうしたことを隠したがっていたらしいのですが、私たちには分りましたから、お礼をいいました。亭主はなにも答えませんでした。
エイダは家へ帰るあいだじゅう悲しみに暮れていましたし、家にいたリチャードもエイダが涙を流しているのを見てすっかり心配してしまいましたので(もっとも、エイダがそばにいない時私に向って、あの人はああいうところもなんて美しいのだろう、といいましたけれど)、夜になったらなにかちょっとした慰問の品を持ってまた引き返し、煉瓦職人の家をもう一度訪ねてみることにきめました。ジャーンディスさんにはできるかぎり簡単に話しましたが、すぐさま風向きが変りました。
夜にはリチャードが今朝私たちの遠出した場所へついて来てくれました。途中、騒々しい居酒屋の前を通らなければなりませんでしたが、その入口の辺には大ぜいの男の人たちが群がっていました。その中で一きわ大きな声でいい争いをしていたのは、なくなった赤ん坊の父親でした。少しゆくと息子と犬とが仲よくつれ立っているのにすれちがいました。妹のほうは煉瓦工場の中に立ちならんだあばら屋の角で、ほかの娘たちと笑いながら立ち話をしていましたが、恥ずかしく思ったらしく、私たちが通りすがると顔をそむけました。
私たちは護衛のリチャードを煉瓦職人の住居が見えるところに残して、二人だけで出かけました。戸口のところまで来てみると、今朝ほどあんなに母親をなぐさめてくれた女の人がそこに立って、心配げに外を見ていました。
「あんたたちだね、お嬢さんがた?」女の人は声をひそめていいました。「わたしゃ、うちの旦那を見張っているところだよ。肝をつぶしちゃったね。わたしがうちを空けているのを旦那にみつかりでもしたら、半殺しにされちゃうんだから?」
「旦那って、ご亭主のことですの?」私がいいました。
「そうですよ、うちの旦那だよ。ジェニーは疲れきって眠ってるよ。かわいそうに、この七日七晩ほとんど子供をひざに抱きとおしだったからね、わたしが一、二分代ってやれた時のほかは」
私たちを中へ通してくれながら、女の人は自分もそっと部屋の中へはいり、あの母親の眠っているみすぼらしいベッドのそばに、私たちの持って来た品々を置きました。部屋の中を片づけようとしたらしい様子は全然ありませんでした――もともとそんなことのできそうにもない部屋でした。けれども、あたりにたいそうおごそかな気分をただよわせている、蝋人形のようにちいさな遺骸は、改めて形をととのえられ、白いリンネルの切れできちんとくるんでありましたし、かわいそうな赤ん坊の顔にまだかけてある私のハンケチの上には、香りのよい草が一たば、遺骸の世話をしてくれたと同じ人の荒れた、傷あとのある手で、いかにも軽やかに、いかにもやさしくのせてありました!
「神様のよきお報いがあなたの上にありますように!」私たちは女の人に向っていいました。「あなたはよい方ね」
「わたしがかい、お嬢さん?」女の人はびっくりしてそう答えました。「しっ! ジェニー、ジェニー!」
母親が眠ったままうめき声をあげ、体を動かしたのでした。耳なれたその声を聞いて母親はまた落着いたようでした。ふたたび静かになりました。
私があのハンケチを持ちあげて、その下で永い眠りについている子供を眺めていると、この子の体から後光が射して、あわれみの念に打たれてうつむいているエイダの垂れ下った髪の毛を射しつらぬいたような気がしました――しかしその時私は、この身動き一つしない、やすらかな胸をおおっているハンケチが、その後どういう人の不安な胸の上に置かれることになるのだろうかなどとは露ほども考えませんでした! その時私はただこう考えただけでした。この子の守護の天使は、なさけ深い手でこのハンケチをもと通りかけ直してくれたあの貧しい女の人のことを覚らぬはずはあるまい、また、私たちがいとまを告げて立ち去り、自分だけ戸口にとり残されると、今度はわが身が心配になって外をのぞいたり、耳をかたむけたり、例の心温まる声で「ジェニー、ジェニー!」と呼んだりしている貧しい女の人のことを、やがて天使が覚らぬはずはあるまい、と。
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第九章 印しと兆し
どうしてか分りませんが、私はいつも自分のことを書いているようです。始終、ほかの人たちのことを書くつもりでいますし、自分のことはできるだけ考えないようにしていて、事実、話の中にまた自分が出て来たことに気がつくと、ほんとうにいらいらして、「おや、おや、うるさい子ね、おまえなんか出て来なければいいのに!」というのですけれど、みんなむだなのです。私の書いている話をあるいはお読みになるかも知れない方々にお分りになっていただきたいと思いますが、この手記の中に私に関することがずいぶんたくさんにあるのは、ほんとうに私がこの手記となにかしらつながりを持っていて、取り除くことができないからに相違ないとしか考えられないのです。
エイダと私はいっしょに本を読んだり、編み物をしたり、音楽のおけいこをしましたし、それに仕事がとてもたくさんにありましたから、冬の毎日が輝かしい翼を持った鳥のように飛び去ってゆきました。午後は大概、夜はいつも、リチャードが私たちのお付合いをしてくれました。リチャードはこの上もなく落着かない人でしたけれども、たしかに、私たちと付合うのが大好きでした。
リチャードはエイダがとても、とても、とても好きでした。これは本気でいっているのですし、今すぐいった方がいいのです。私はそれまで若い人が恋をするのを見たことがありませんでしたけれども、二人のことはすぐに分りました。もちろん、それを話したり、二人の仲を知っていると教えたりすることはできませんでした。それどころか、私はたいそうまじめくさっていて、なにも気づかないような顔をするのがつねでしたから、ときどき、裁縫をしながら、ひとり心の中で、自分は二人をあざむいているのではないかしら、と考えるのでした。
しかし、どうにもしようがありませんでした。私としてはただ静かにしているよりほかになく、二十日ねずみのように静かにしていました。二人もまた口に出して話すかぎりでは、二十日ねずみのように静かにしていましたけれども、おたがいの好意が深まってゆくにつれて、ますます私を頼りにする無邪気な態度がいかにも好ましいので、二人の仲に私がどんなに関心を持っているかを外にあらわさずにいるのはたいそう骨が折れました。
「うちのちいさなおばあさんはとてもすばらしいおばあさんだから」とリチャードは朝早く私に会いに庭へやって来て、例の気持のよい笑い声を立て、それにたぶん、ほんのかすかに気まりの悪そうな色を浮べながら、よくいったものです、「僕はおばあさんなしでは暮せないんです。僕の無鉄砲な一日を始める前に――ああいう本や器械をせっせと勉強して、それから追いはぎみたいに、馬を飛ばして|界隈《かいわい》一帯の岡を登ったり谷を下る前に――僕らのうれしい友だちといっしょに落着いた散歩をすると、とても僕は具合がいいんですよ!」
「ねえ、ダードンおばさん」と、夜エイダは私の肩に顔をつけ、思慮深い目を煖炉の火の明りで輝かせながら、よくいったものです、「あなたといっしょにこの二階へ来ると、あたし、話なんかしたくないの。その代りただ、あなたのかわいい顔をお相手に少し考えごとをしたり、風の音を聞いて、海に出ているかわいそうな水兵さんを思い出したり――」
ああ! たぶん、リチャードが海軍へはいるといったのでしょう。それについてはもう私たちはずいぶん何度も相談して、リチャードが幼年時代にいだいた海へのあこがれを実現するという話もある程度出ました。ジャーンディスさんは親戚のレスタ・デッドロック卿というえらい方に手紙を出して、リチャードのためになにかとご尽力をお願いしました。するとレスタ卿からいんぎんなご返事が来て、「お申越しの青年紳士のご将来に関する件、小生の力に及ぶことにてあれば喜んでお力添致す所存に候も、そのようなる事柄ありとは万々考えられず候――なお家内よりご当人に(家内儀、その方の遠縁に当ることは充分記憶致し居り候)よろしくとのことにて、またいかなるご職業に献身なされ候ても、常にご本分を尽されんことを期待致し居る旨申し居候」といってまいりました。
「これで大分はっきりしたと思うけれど」とリチャードが私にいいました、「僕は自分の力で自分の道を進まなければなりませんね。でも、なんでもありませんよ! 今までにだって、大勢の人がそうしなければならなかったんだし、そうして来たんです。ただ、僕はまず最初、快速力の私掠船(1)の船長になって、それから大法官を捕虜にして、僕らの裁判に判決を下すまでは食事もろくに食べさせないでやりたいな。大法官め、気をつけないと、やせてしまうぞ!」
明朗で楽天的な性質と、ほとんどいつも消えることのない陽気さと同時に、リチャードの性格には一種軽率なところがあって、私をすっかり当惑させました――それは主として、リチャードがまことに奇妙にもその軽率さを思慮深さと誤解していたからです。それはお金の計算をする場合にいつも妙な形であらわれたのですが、それを説明するには、私たちがスキムポールさんに用立てたお金の話にしばらく戻るのが一番よいと思います。
ジャーンディスさんはその金額を、スキムポールさん自身からかそれともコウヴィンセズ氏からか、たしかめて、私にお金を手渡し、私の出した分を手もとにとっておいて、残りはリチャードに渡すようにと申しました。自分の十ポンドが戻って来たというので、どれほどリチャードが当然のことのように軽率な使い方をしたか、それからまた何度私に向ってまるでそのお金をためるか、もうけでもしたような口ぶりで話したか、それをお話すればリチャードの単純なお金の計算の仕方が大体お分りになるでしょう。
「|分別屋《ふんべつや》のハバードばあさん、なぜいけないんです?」リチャードは少しも考えなしに煉瓦職人にお金を五ポンド恵んでやりたがって、私にいうのでした。「僕はコウヴィンセズの事件でまるまる十ポンドもうけたんですよ」
「どうしてですの?」
「いや、僕はもともと投げ出してもかまわないお金を投げ出して、返って来ようなんて当てにしていなかったんですよ。それはあなただって認めるでしょう?」
「ええ」
「よろしい! それからまた十ポンド手に入れて――」
「同じ十ポンドですわね」と私はちょっと注意しました。
「そんなこと、このお金に関係ありませんよ!」リチャードは答えました。「当てにしていなかったのに、十ポンド余分にお金がはいったんですから、これはやかましいことなんかいわずに使っても、かまわないじゃありませんか」
リチャードは、その五ポンドを犠牲にしても少しも煉瓦職人のためにならないと説き伏せられて、それを思いとどまりますと、今度は前とそっくり同じ論法で、そのお金を自分のもうけに勘定して、当てにし始めるのでした。
「ちょっと待って下さい! 僕は煉瓦職人の件で五ポンドためた。だから、もし駅伝馬車でロンドンまで急行で往復して、それを四ポンドとすると、一ポンドたまることになる。一ポンドためるのはじつにすばらしいことですよ、一銭たまれば一銭のもうけ、っていいますからね!」
たしかに、リチャードは率直でおうような性格でした。情熱的で勇気がありましたし、また途方もなく落着きのないたちなのにもかかわらず、とても気立てがやさしいので、数週間もすると私は弟みたいに親しくなりました。リチャードのやさしさは生れつきのもので、エイダの影響がなくても十分に発揮されたことでしょうが、それがあったために、この上もなく人好きのする話相手になって、いつもすぐこちらに関心を寄せ、いつも幸福で、楽天的で、快活にしていました。ほんとうに、私は二人といっしょにすわったり、いっしょに歩いたり、いっしょに話したりして、二人が次第に深く愛し合うようになり、しかもそれについては一言もいわず、それぞれ、この愛はおそらくまだ相手にすら気づかれない一番大きな秘密なのだと、はにかみながら考えている有様を、日ごとに目にしていると――ほんとうに、私は二人におとらぬほどうれしくなり、二人におとらぬほどこの美しい夢を楽しく思うのでした。
こんなふうにして過しているうちに、ある朝、朝食の時にジャーンディスさんは一通の手紙を受けとり、表書きを眺めながら、「ボイソーン差出し? そうか、そうか」といい、封を開いて、はた目にもうれしそうに読んでいましたが、半分ほど見おわると、その合間に私たちに向って、ボイソーンが遊びに「はるばるやって来る」のだと告げました。さあ、ボイソーンさんてどなたかしら? と私たちはみな考えました。それと同時に、ボイソーンさんという方はこの愛のなりゆきになにかさしさわりを与えるのかしら? と、たぶん私たちはみな考えました――少なくとも私はたしかにそう考えました。
「このロレンス・ボイソーンという奴は」とジャーンディスさんがいいました、「四十五年以上も前に私と学校でいっしょだったのだよ。そのころは世界じゅうで一番気みじかな少年だったが、今では一番気みじかな大人だよ。そのころは世界じゅうで一番声の大きな少年だったが、今では一番声の大きな大人だ。そのころは世界じゅうで一番丈夫でたくましい少年だったが、今では一番丈夫でたくましい大人だ。ものすごい奴だよ」
「背がですか?」とリチャードが尋ねました。
「背だって相当なものだよ、リック、私より年は十ばかり上で、背は二インチ高くて、古参軍人のように頭をぐっとそらし、がんじょうな胸をはり、手はきれい好きな鍛冶屋の手のようだし、肺と来ては!――あの男の肺を形容する言葉がないな。しゃべっても、笑っても、いびきをかいても、あの肺は家の|梁《はり》を震動させるのだからね」
ジャーンディスさんが友だちのボイソーンさんの面影を楽しんでいるあいだ、私たちが見ていると、いい塩梅と、風向きの変るらしい気配は少しもありませんでした。
「しかし私がいっているのはね、リック――それからエイダと、くもの巣さん、だって君たちはみんなうちの客に興味があるのだろう!――あの男の内面のことだよ、あの男の温い心、情熱、溌溂とした活気だ」とジャーンディスさんは話をつづけ、「言葉使いも声におとらず堂々としているよ。いつも極端なもののいいかたをする。つまり、つねに最上級の言葉を使うのだ。人をののしる時はすさまじいかぎりだ。話しぶりからすると、人食い鬼かと思われるほどだよ。いや、たしか一部の人にはそんなうわさを立てられているようだ。まあ、こういった男さ! もうこれ以上、本人が来ないうちから話すのはやめるよ。ところで、ボイソーンが私の保護者のように振舞うのを見ても、おどろいてはいけないよ。というのは、学校のころは私が下級生で、そもそも私たちの友情の始まりというのが、あの男が私の方の|餓鬼《がき》大将の歯を二本(あの男は六本だといっているがね)朝飯前に打ちくだいてくれたことにあるのを、いまだにあの男、忘れていないのだ。ボイソーンと召使は」と、これは私に向って、「今日の午後に着くよ、君」
私はボイソーンさんを迎えるため必要な準備をさせるように気をくばり、私たちはみなやや好奇心をもってその到着を心待ちしました。しかし、午後がだんだん過ぎ去ってもあらわれません。夕食を一時間おくらせ、石炭のほのおのほかには明りもともさず煖炉をかこんでいますと、突然玄関のドアがぱっとあいて、人なみはずれた大声をはりあげ、すさまじいいきおいでこう叫ぶ声が玄関の間に鳴りひびきました。
「わしたちはまちがった道を教えられたんだ、ジャーンディス、まったく破廉恥な無頼漢で、左じゃなくて右へ曲れというんだ。あんなにけしからんならず者は地球上に一人もいないぞ。あいつの親父はまったく途方もない悪党にちがいない、ああいう息子を生むなんて。あんな奴はなさけ容赦なく射ち殺してやるんだった!」
「その男はわざとやったのかね?」とジャーンディスさんが質問しました。
「あのならず者が生れてこのかた、旅の者にまちがった道を教えつづけて来たことは、まったく疑う余地なしだ。わしの魂にかけて誓うが、わしに右へ曲れといった時のあいつと来たら、こんなに人相の悪いやくざ者は見たことがないと思ったよ。それなのに、わしはあいつと顔をつき合わせていながら、奴の脳天を打ちくだいてやらなかったんだ!」
「歯をだろう、君?」
「わっ、はっ、はっ!」とロレンス・ボイソーンさんは笑って、ほんとうに家中を震動させました。「なんだ、まだあのことを忘れていないんだな! わっ、はっ、はっ!――だが、あいつも途方もないごろつきだったなあ! わしの魂にかけて誓うが、あいつの子供の時の顔つきといったら、ならず者の国の畠に立てたかかしにだって、あれほど背信、臆病、残酷を絵にかいたような陰険きわまる顔はなかったぞ。もし明日にでも町の中であの古今未曾有の暴君に出会ったら、くさった木みたいに切り倒してやる!」
「君ならきっとそうだろうね。ところで二階の部屋へゆくかね?」
「わしの魂にかけて誓うが、ジャーンディス」とこの賓客は答えて、時計を見ているようでしたが、「もし君が結婚しているんだったら、わしはこんな時ならぬ時刻にあらわれるより、むしろ庭の入口で引っ返して、ヒマラヤ山脈の一番遠い頂上へ逃げていってしまうんだが」
「そんなに遠くまでいってもらいたくないね」とジャーンディスさんがいいました。
「いや、ゆくとも、わしの命と名誉にかけて!」お客さんは大声で叫びました。「わしはどんな理由があったにしろ、こんなに長いあいだ一家の主婦を待たせておくなんていう厚顔無恥な無礼をはたらいたりはしないよ。それくらいならむしろ自害した方がはるかにましだ――はるかにましだ!」
こんなふうに語り合いながら二人は二階へ登ってゆきました。そしてまもなくボイソーンさんが寝室で雷のような声をして、「わっ、はっ、はっ!」と笑ってはまた、「わっ、はっ、はっ!」とくりかえす声が聞えていましたが、とうとうそのうちに附近のどんな単調なこだまにもそれがのりうつったらしく、ボイソーンさんと同じように、またボイソーンさんの笑い声を聞いた時の私たちと同じように、楽しげに笑っているように思われました。
私たちはみなボイソーンさんに好感を持ってしまいました。というのは、そういう笑いや、活気にあふれた健康な声や、自分の口に出す一言一言をしゃべる時の朗々として豊かなひびきの中には、それから|空《から》の大砲を射つようにだれをも傷つけることがないように思われる例の最上級の言葉の烈しさそのものの中にも、純粋なものがあったからです。けれどもジャーンディスさんが紹介して下さった時に、そういうことをボイソーンさんの外見からはっきり知ることができようとは、私たちも予期していませんでした。ボイソーンさんはとてもりっぱな風采の老紳士で――前から聞いていたとおり姿勢がまっすぐで、がっしりしていました――髪が半白の大きな頭、口をつぐんでいる時にはいかにも落着いた顔、休む間もなく絶えずむきになるので肥っているひまもない|恰幅《かつぷく》のよい体つき、烈しく語気を強調する時いつも応援にかり出されなければ二重にくびれてしまうだろうと思われるようなあごの持主でした。けれども、そればかりでなくボイソーンさんはその態度がほんとうの紳士で、むかしの騎士のようにたいそう礼儀正しく、とてもやさしくて気持のよい微笑で顔を輝かせ、ひと目で明らかなように、なに一つつつみかくすことなく、あるがままの自分をさらけ出すので――(リチャードのいったとおり)なんでも規模のちいさいことができない人で、小銃などはいっさい持ち合わせていないので、例の|空《から》の大砲を射ちまくるのでした――ボイソーンさんが晩餐の席について、笑みを浮べながらエイダを相手に話をかわしたり、ジャーンディスさんにそそのかされて最上級の言葉を猛烈に連発したり、ブラッドハウンド犬のように頭をふり立てて、あのものすごい「わっ、はっ、はっ!」を浴びせたりしている姿を、私は眺めずにはいられませんでした。
「君はあの鳥をつれて来たのだろうね?」とジャーンディスさんがいいました。
「神様に誓ってもいい、ヨーロッパじゅうを探してもあれほどおどろくべき鳥はいないぞ! あれこそもっともすばらしい動物だ! 一万ギニーもらっても、わしはあの鳥を売るつもりはないな。わしにさき立たれても困らんように、あれには特に年金がつけてあるんだ。世にもめずらしいほど利口で、よくなついているからなあ。それにあれの父親というのがまた、なんともすばらしい鳥だった!」
こういう絶讃のまとになったのはたいそうちいさなカナリヤで、ボイソーンさんの召使が人さし指にのせたまま道中つれて来るほどよくなれていましたから、部屋の中をゆるやかに一まわり飛ぶとご主人の頭の上にとまりました。
ボイソーンさんがこのかよわいちび助をひたいの上に静かにとまらせたまま、やがてこの上もなくきびしく、はげしい意見を述べているのを聞くと、この方の人柄がいかにもよく分ると私は思いました。
「わしの魂にかけて誓うが、ジャーンディス」とボイソーンさんはたいそうやさしい手つきでパンのかけらをさし上げてカナリヤにつつかせながら、「もしわしが君の立場にいたら、大法官府の主事という主事ののど首をつかんでふり廻し、ポケットから金をはき出させ、体じゅうの骨という骨をがたがたいわせてやるぞ。正当だろうが不当だろうが手段をえらばず相手方と決着をつけてみせるぞ。もし君がまかせてくれるなら、わしは欣々然としてそうしてやるんだがなあ!」(そのあいだじゅう、ちびのカナリヤはボイソーンさんの手からパンを食べていました。)
「ありがとう、ロレンス、だがあの訴訟は今のところ」とジャーンディスさんは笑いながら答えました、「合法的手段で裁判官と弁護士を全部ふり廻したところで、たいした進展を見せる段階までいっていないのだよ」
「むかしから今まで、地球広しといえどもあの大法官府というやつほど、くそいまいましい地獄の大釜はないなあ! あれをちょっとでも改革しようと思ったら、開廷期のいそがしい日にあの下に地雷をしかけて、あそこに集めてあるありとあらゆる記録と規則と先決例と、それに下っぱの司法会計官から親玉の悪魔まで、上も下もピンもキリも全部の役人を、一万トンの火薬でこっぱみじんに爆破するよりほかに手はあるまい!」
この強硬な改革法をすすめた時のボイソーンさんのいきおいこんだ鹿爪らしさといったら、どうしても笑わずにはいられませんでした。私たちが笑うと、ボイソーンさんは頭をふり立て、広い胸をゆすって高笑いするので、またもあたり一帯がその「わっ、はっ、はっ!」をくり返しました。けれどもカナリヤはいっこうに動じる気配もなく安心しきって、食卓の上をぴょんぴょん跳びはねながら、頭をすばしこくこちらへ向けたりあちらへ向けたりしては、明るい目をふいに主人の方へ向けるのでした、まるで主人も同じ鳥仲間でもあるかのように。
「しかし、君ととなりの家との、例の土地の通行権の問題はどうなっているのだね?」とジャーンディスさんがいいました。「君自身だって法律上の争いに縁がないわけじゃないよ!」
「あいつがわし[#「わし」に傍点]を不法侵害で訴えて来たから、わしもあいつ[#「あいつ」に傍点]を不法侵害で訴えてやったところだ。神様に誓ってもいい、人間多しといえどもあいつほど傲岸不遜な男はいないぞ。あいつの名前がレスタ卿だなんて、徳義上からいってありえないことだ。きっとルシファ卿(2)にちがいない」
「私たちの遠い親類に敬意を表してくれたよ!」とおじさまは笑いながらエイダとリチャードに向っていいました。
「それじゃあエイダさんとカーストン君にお|赦《ゆる》し願いたいというべきところだが、お嬢さんの美しいお顔とこちらの方の笑い顔を拝見しても分るとおり、そんな心配をするまでもなく、ご両人ともああいった親類は敬遠しておられるのですな」
「あるいは先方が敬遠しているのかも知れません」とリチャードがほのめかしました。
「わしの魂にかけて誓ってもいい!」とボイソーンさんは大声をはりあげて、いきなりまた最上級の言葉を連発し始めました、「あの男もそうだが、あの男の親父もそのまた親父も、人間どころか、自然のふしぎなまちがいで木の杖から生れたやつにもいないほど強情で、高慢で、低能で、意固地なたわけだった。あの一家はまったくそろいもそろって、しかつめらしくうぬぼれくさった途方もないでくのぼうばかりだ!――しかし、そんなことはどうでもいいが、たといあいつが五十人の准男爵を一束にしたような准男爵で、チェスニー・ウォールドの百倍の屋敷(といってもシナの象牙の球の彫刻のように、家の中に家を建て、その中にまた建てるといったふうにしてだが)に住んでいたとしても、わしの道を封鎖するとは不届き千万だ。あいつは差配だか秘書だかなにかに持たせて、こういう手紙をよこしたんだ。『謹啓 准男爵レスタ・デッドロック卿よりロレンス・ボイソーン殿に 御注意を喚起致度儀有之一筆に及候。現在貴殿の御所有に係る旧牧師館わきの草道はレスタ卿が通行権を有する道路に候上、現にチェスニー・ウォールドの猟園の一部に候間、レスタ卿の都合により右道路を閉鎖致すものに候 敬具』そこでわしはやつにこう書いてやった。『拝復 ロレンス・ボイソーンより卿の[#「卿の」に傍点]御注意を喚起致度儀有之一筆に及び候。即小生は御申越の件一切に関する卿の御見解すべてを全面的に拒否申す者に候。なお道路閉鎖の件に関しては、右閉鎖方に従事する作業員に面接する折りを小生楽しみに致居旨附言申上候 敬具』やつは片目の破廉恥きわまる悪党をよこして、道路に木戸を建てさせようとする。そこでわしは消防ポンプでそのいまいましい無頼漢に息の根のとまるほど水を浴びせかける。やつが夜のあいだに木戸をつくれば、わしは朝になって切り倒して燃してしまう。やつは荒らくれ者の手下たちをよこして、柵を越えて道路をさかんに往復させる。そこでわしは人道的なわなでやつらをつかまえ、干しえんどう豆をすねに射ちこみ、ポンプを浴びせかける――こういうこそこそしたならず者たちの存在が人類のたえがたい重荷になっているのを除去しようと決意する。やつが不法侵害で訴え出れば、わしも不法侵害で訴え出る。やつが暴行殴打で訴え出れば、わしはそれに抗弁して、暴行殴打をつづける。わっ、はっ、はっ!」
ボイソーンさんがこういうことすべてを、想像もつかないほど猛烈ないきおいでしゃべっているのを聞いたならば、世の中にこんなにおこりっぽい人はないと思ったかも知れません。けれどもそれと同時に、自分の親指に乗り移った鳥を眺め、その羽を人さし指でそっとなでている姿を見たならば、これほどおだやかな人はないと思ったかも知れません。その笑い声を聞き、それから人のよさ丸出しの顔を見たならば、この人には世の中のわずらい一つなく、口論一つせず、きらいなもの一つなくて、人生全体が楽しい冗談なのだと考えたかも知れません。
「だめだ、だめだ」ボイソーンさんがいいました、「だれであろうとデッドロック家のやつになど、わしの道を閉鎖させるものか! もっともわしはよろこんで白状するが」と、ここでたちまちなごやかな口調になり、「デッドロック卿の奥方は世界随一のたしなみ深いりっぱな女性だから、わしは七百年も頭のぼけた准男爵としてじゃなく、一介の紳士として能うかぎりの敬意をささげるよ。だが、|二十《はたち》で連隊附になって一週間したら、軍服を着た人間数多しといえどもこれほどの奴はかつてない、傲慢無礼な|伊達《だて》|者《しや》気どりの――そのために破産してしまった――連隊長に決闘を申しこんだ男が、相手はどんなルシファ卿だろうと、死んでいようが生きていようが、牢屋にぶちこまれていようが、いなかろうが、そうやすやすと負けてたまるものか! わっ、はっ、はっ!」
「それに、後輩をだってそうやすやすと負けさせたりはしないのだろう?」とおじさまがいいました。
「断じて負けさせやしない!」とボイソーンさんはいって、まるでジャーンディスさんをかばうような態度でその肩をたたきながら笑いましたが、その態度には真剣なものがありました。「いつだって下級生の応援をしてやるぞ。ジャーンディス、任せるがいい! だが、この不法侵害の事件といえば――こんな面白くもない話を長々とつづけて、クレアさんとサマソンさんには申しわけないが――君の弁護士のケンジ・アンド・カーボイ事務所から、わしになんともいって来ないかな?」
「なんにも来ていないだろう、エスタ?」とジャーンディスさんがいいました。
「なにもまいっておりません、おじさま」
「どうもありがとう!」ボイソーンさんがいいました。「聞くまでもなかったんだ、サマソンさんがまわりの者全部によく気をつけていてくれることは、わしのわずかな経験だけでも分っていたよ」(どなたもみな私をはげまして下さるのでした。そうしてあげようとどなたもきめこんでいたのです)「それを尋ねたのは、わしはリンカンシア州からやって来て、むろんまだロンドンへはいっていない、それでここへなにか手紙が来ているかも知れないと考えたからだ。たぶん、明日の朝になったら状況を報告して来るだろう」
その晩はたいそう楽しくすごしましたが、私が見ていますと、ボイソーンさんはピアノから少しはなれたところに腰かけて音楽に聞き入ったまま――そして自分から大の音楽好きだなどと私たちに説明するまでもなく、はっきりそれが顔にあらわれていました――何回となくエイダとリチャードの方を、あのりっぱな顔が一きわ好ましく見えるほど満足と関心の色を浮べながら、じっと見つめていましたので、私はおじさまとすごろくの盤をかこんだ時に、ボイソーンさんは結婚されたことがあるのですか、とおじさまに尋ねました。
「いいや、ないね」とおじさまはいいました。
「でも、そうなさるつもりでしたのでしょう!」
「どうしてそれが分ったのだね?」ジャーンディスさんは笑みを浮べながらいいました。
「あら、おじさま」と私は自分の考えを思いきって口に出すのがはずかしくて、少し顔が赤くならないでもありませんでしたが、理由を話しました。「なんといってもやはり、あの方の態度にはとても温いところがありますし、私たちにとても|丁重《ていちよう》でやさしくて、それに――」
ジャーンディスさんは私が今書いたとおりの姿をして腰かけているボイソーンさんの方へ目を向けました。
私はもうそれ以上言葉をつづけませんでした。
「君のいったとおりだよ、ちいさなおばさん。あの男は一度ほとんど結婚しそうになったことがあるのだ。ずっとむかしだ。それも一度だけね」
「その女のかたがなくなったのですか?」
「いいや――しかし、あの男にとっては死んでしまった。その時のことがあとの生活にずっと影響を及ぼしているのだ。君はあの男がいまだにロマンスにみちた頭と心を持っていると考えるのかね?」
「たぶんそう考えたのだと思います、おじさま。でも、おじさまがそうおっしゃってから、こういうのはやさしいことですわ」
「それ以来あの男の生活はすっかり変ってしまった。そして今ではあのとおり、老境にはいっても身のまわりにいるのは召使が一人と黄色い小鳥だけだ――さあ、今度は君がさいころをふる番だよ!」
おじさまの態度から見て、この話をそれ以上つづければ、かならず風向きが変るに相違ないと感じましたので、その上立ち入って質問するのは控えました。興味はひかれましたけれども、もの好きなせんさくをする気にはなりませんでした。夜中になってからしばらくこの古い恋物語のことを考えましたが、ボイソーンさんの高いびきで目が覚めてしまいましたので、私はあのむずかしいことをやってみました。つまり、年とった人たちが若返って青春の魅力をふたたびそなえた姿を想像してみることです。けれども、それがうまくできないうちに眠りに落ちて、むかし養母の家で暮していた時分のことを夢に見ました。私が夢で見るのはほとんどきまってあのころのことなのですが、それがめずらしいことなのかどうか、そういう事柄をよく知らない私には分りません。
朝といっしょにケンジ・アンド・カーボイ法律事務所からボイソーンさんあてに手紙がとどいて、事務員が一人、正午におうかがいすると知らせて来ました。その日は週の勘定日で、私は会計簿の総計を出したり、家事をできるだけきちんと片づけたりしなければならないので家に残りましたが、ジャーンディスさんとエイダとリチャードはおりからの上天気をさいわい、ちょっとした|遊山《ゆさん》に出かけました。ボイソーンさんは事務員の来るのを待って、そのあと三人の帰るころ徒歩で出迎えにゆくことになりました。
それからが大変! 出入りの商人の勘定を調べたり、それぞれの集計をしたり、お金を支払ったり、受取りを整理したり、それやこれやでたぶん大さわぎをしたりで、山のような仕事に追われていますと、ガッピーさんが着いたという知らせがあって、ご当人が案内されて来ました。その前から私は出張して来る法律事務所の人は、ひょっとするとロンドンで私を乗合馬車の出札所まで出迎えに来てくれた若いかたかも知れないと思ったりしていましたから、よろこんで迎えました。この人は私の現在の幸福に思い出のある人でしたから。
ガッピーさんは見ちがえるばかり、ひどくハイカラになっていました。つやつやした、真新しい洋服、ぴかぴか光る帽子、ふじ色をした小山羊革の手袋、まだら色のネッカチーフ、それに胸のボタン穴には温室づくりの大きな花、小指には太い金の指環という服装でした。そのうえ熊の脂のポマードやほかの香料の香りを食堂じゅうに漂わせていました。そしてこちらがろうばいするほど、じっと私を見つめますので、私はボイソーンさんのところへいった召使が戻るまで椅子におかけ下さいといいました。すると部屋の隅の椅子に腰かけて、脚を組んだりほどいたりしていますので、道中はいかがでしたかと尋ね、ケンジさんはお元気でしょうねといいますと、私が眺めるまでもなく、さっきと同じようにものめずらしげにじろじろこちらを見つめているのが分りました。
ボイソーンさんからガッピーさんに二階の部屋まで来てもらいたいと伝言が来た時に、私はお戻りになりましたら昼食を用意して置きます、ジャーンディスさんが召し上っていただきたいと申しましたから、とガッピーさんにいいました。ガッピーさんはドアの取手を握りながら、ややきまり悪そうに「その時はお嬢さんもここにいて下さるのでしょうか?」といいました。はい、おりますと私が答えますと、ガッピーさんはお辞儀をして、もう一度私のほうを見ながら出てゆきました。
そうしたガッピーさんを、私はただぎごちなくはにかんでいるのだと思いました。というのは、ひどくきまり悪がっているらしい様子がはっきり見えたからです。それで私としてはガッピーさんのお望みのものをなんなりと出してあげてから、あとは一人にしてあげるのが一番よいと考えました。まもなく昼食がはこばれて来ましたが、しばらくは食卓に置かれたままでした。ボイソーンさんとの面談は長いことかかりました――それも荒れ模様のようでした。というのは、部屋はかなり遠くにあるのに、ときおり烈風のようなボイソーンさんの大声が聞え、明らかに罵倒の一斉射撃を浴びせている模様でした。
ようやくのことでガッピーさんが帰って来ましたが、この会見でいくぶん参ったらしく見受けられました。「やあ、おどろきましたなあ、お嬢さん」とガッピーさんは低い声でいいました。「あの人にはまったく手を焼きました!」
「どうぞなにか召し上って下さいませ」
ガッピーさんは食卓につくと、そわそわしながら切盛り用の肉ナイフをフォークでとぎ始めましたが、あい変らず前と同じ妙な目つきで私を見ていました(そちらを見なくても、たしかにそれが分りました)。ナイフとぎがあまり長くつづくので、なんだかガッピーさんがおまじないにでもかけられて止められずにいるように思われ、おまじないをといてあげるためには、こちらも目をあげなければいけないような気持にとうとうなってしまいました。
ガッピーさんはすぐにお皿に目をやって、肉を切り始めました。
「あなたはなにをお上りになります、お嬢さん? なにか一口お上りになるでしょう?」
「いいえ、けっこうです」と私はいいました。
「せめてなにか一切れさし上げちゃいけませんか?」とガッピーさんはあわててぶどう酒の杯を一気に飲みほしながらいいました。
「なんにもけっこうですわ。私はただあなたになんなりとお望みのものを召し上っていただくために、ここに控えているのですから。なにか申しつけるものがございますか?」
「いいえ、ほんとに感謝にたえません。もうくつろぐのに必要なものは全部あります――私はとにかく――くつろいじゃいませんが――私はいつもくつろげないんです」ガッピーさんはまたぶどう酒を二杯立てつづけに飲みほしました。
私はもう引き下ったほうがよいと思いました。
「失礼ですが、お嬢さん!」私が立ち上るのを見ると、ガッピーさんも立ち上っていいました。「一分間だけ内々でお話し願えませんでしょうか?」
なんといってよいのか分りませんので、私はまた腰をおろしました。
「これからお話することは、私の権利を毀損しないということにしていただけますね?」といってガッピーさんは心配そうに私のテーブルのほうへ椅子を持って来ました。
「おっしゃることが分りかねますが」と私はいぶかりながらいいました。
「これは私どもの法律用語なんですよ、お嬢さん。この話をケンジ・アンド・カーボイ事務所やほかのところで、私の不利益になるような使いかたをなさらないようにお願いいたします。私たちの話が万一むだに終ったとしましても、私は今までどおりで、地位や出世を毀損されることがないということです。つまり、この話は極秘事項なんです」
「これまでたった一度しかお目にかかったことのないこの私に対して、一体どんな極秘事項のお話がおありなのか、とても私には想像がつきませんわ。でも、あなたに少しでも損害を与えるようなことを私がするとしましたら、ほんとうに申し訳ないと思いますわ」
「ありがとうございます。そのお言葉を信じます――それだけで充分です」そのあいだじゅう、ガッピーさんはハンケチでひたいをしごいたり、右の手のひらで左の手のひらを強くこすったりしていました。「恐縮ですが、もしぶどう酒をもう一杯いただけますと、始終息をつまらせずにお話ができて、おたがいに不愉快にならずにすむと思うんですが」
ガッピーさんはいったとおりにぶどう酒を飲むと、また戻って来ました。私はその機会を利用して自分のテーブルのずっとうしろへ移動しました。
「あなたにおつぎしてはいけないんですね?」とガッピーさんは元気をとり戻したらしい様子でいいました。
「全然だめですわ」
「半杯でもですか? 四分の一杯でも? だめですか! では話にとりかかりましょう。ケンジ・アンド・カーボイ法律事務所における私の現在の俸給は、サマソンさん、一週に二ポンドです。あなたに始めて拝顔する幸福をえた時には一ポンド十五シリングで、それまで長らく同じ金額でした。その後五シリング昇給し、現在より十二カ月を超えざる期間が満了したあかつきには、さらに五シリングの昇給が保証されています。私の母にはささやかな財産があって、これは僅少な年金という形をとっていますが、母はそれによってつつましいながらも独立した生計をオールド・ストリート通りでいとなんでいます。しゅうとめとしてはまことに好適な人物です。ぜったい干渉はしませんし、もっぱら平和を旨として、気立ては従順、欠点はありますが――人たれか欠点なからんやというとおり――客のいる前で見せたためしはありませんから、そういう際にぶどう酒、火酒類、あるいはビール類をいくらでも|委《まか》せて大丈夫です。私自身の住居はペントンヴィル町、ペントン・プレースの下宿です。この辺はむさくるしいところですが、裏のほうが広々していて風通しがよく、じつに健康的な郊外です。サマソンさん! ごくごく控え目な言葉でいっても、私はあなたを敬慕しているんです。まことに恐縮ながら、あなたに対して(いって見れば)訴答を提出しても――つまり、結婚を申込んでも――よろしいでしょうか!」
ガッピーさんはひざまずきました。私はテーブルのずっとうしろにいましたから、あまりおどろきませんでした。そしていいました、「そんなおかしなかっこうはやめて、すぐお立ちになって下さい、さもないとさきほどのご了解にそむいて、ベルを鳴らさなければなりませんよ!」
「おしまいまで聞いて下さい!」ガッピーさんは両手を組み合せていいました。
「今すぐじゅうたんからお立ちになって、向うの食卓について下さらなければ、ひとことだって伺うわけには参りませんわ、少しでも分別がおありならそうなさるはずですけれど」
ガッピーさんは見るもあわれな顔をしましたが、のろのろと立ち上って私のいったとおりにしました。
「ですが、なんたる皮肉でしょう」とガッピーさんは片手で胸をおさえ、食卓のお盆の上へ突き出した頭を、私に向って憂鬱そうに振りながら、「こんな際にご馳走の前にすえられるとは。こんな際には魂がご馳走におじけをふるってしまうんです」
「どうぞお話のきりをつけて下さい。おしまいまで聞いて下さいとおっしゃったのですから、どうぞお話のきりをつけて下さい」
「そうします。われは愛し敬している如くに服従せん(3)。この誓いを祭壇の御前でそなたのために立てることができたら!」
「そんなこと、とうていできませんわ、ぜんぜん問題になりません」
「自分でも承知しているんですが」とガッピーさんはお盆の上へ体を乗り出して、さっきと同じようにわき目もふらずに私を見つめながら(私は目を向けていませんでしたけれども、今度もまたふしぎにもそれが感じで分りました)、「自分でも承知しているんですが、私の結婚の申込みは世間的な目で表面から見れば、お話になりません。しかし、サマソンさん! 私の天使!――いや、ベルを鳴らさないで下さい――私はきびしい境遇の試煉を受けて育って来て、いろんな職業にひととおり通じています。年こそ若いのですが、訴訟の証拠をさぐり出したり、事実記載書をつくったことがありますし、世の中を充分に見て来ました。もしさいわいにしてあなたから結婚のご承諾が得られたら、あなたのご利益を増進し、おしあわせを築き上げるどんな方法でも私には見つけ出せるでしょう! あなたの身の上に深い関係のあるどんな事実でも調べ出せるでしょう。なるほど、今はなんにも知りませんが、もしあなたから信頼され、はげまされたならば、どんなことでもできるでしょう」
私はガッピーさんに向って、あなたはいま私の利益、いえ、むしろあなたが私の利益と考えていること、に訴えて来ましたが、さきほど私の気持に訴えた時と同じように、まったく不成功に終りましたから、もうお分りになっていただけると思いますが、どうぞ今すぐにお帰り下さい、といいました。
「つれないお嬢さん!」ガッピーさんがいいました。「せめてもうひとこと聞いて下さい! きっと、もうお分りになったと思うんですが、私は白馬亭へお迎えにいった日、あなたの魅力に打たれてしまったんです。きっとお気づきになったと思うんですが、私はあの貸馬車のふみ段をたたんだ時に、あなたの魅力にあの讃辞をささげずにはいられなかったんです。そなたにささげる讃辞としては貧弱ながら、あれは私の好意から出た言葉です。あれ以来そなたの面影はわが胸にきざみこまれてしまいました。夕方になるとよくジェリビーさんの家の向い側をゆきつ戻りつ、かつてそなたが一度とまったあの家の煉瓦をただ空しく眺めては暮して来ました。今日のこの旅は用談などまったく必要のない旅で、用談というのはただ私が、ただそなたのためにたくんだ口実だったんです。たとい私が利益のことを口に出したとしても、それはただこの私と私の卑小な身分を引き立てるためだったんです。利益よりも愛が先立っていたんです、いや、先立っているんです」
「ガッピーさん、私はあなたにせよ、どなたにせよ、それが誠意のある方でしたら」と私は立ち上って、ベルのひもに手をかけながら、「たといどんな不愉快なものいいをなさった場合でも、その方のまごころを軽んじるような不当なことをしては、申し訳ないと思うでしょう。もしも先程からのあなたのお言葉が私に対するご好意から出たのでしたら、あれは時機と相手をあやまったお言葉でしたけれども、私としては感謝しなければならないと思います。私には高慢な態度をとる理由もございませんし、私自身高慢な女でもございません。どうぞ――」と私は自分でなにをいっているのかもよく分らずに、こうつけ加えたらしいのです、「あんなばかげたことをおっしゃったことは忘れて、もうお帰りになり、事務所のお仕事に精を出して下さいませ」
「三十秒だけ、お嬢さん!」ベルを鳴らそうとする私をさえぎって、ガッピーさんは大声でいいました。「今日の話は私の権利を毀損しないんでしょうね?」
「決して口外いたしません、あなたさえ今後そういう事態をひき起さないのでしたら」
「十五秒だけ、お嬢さん! もしこの話を、とくに私がどんなことでもできるという点を、思い直して下さるようなことがありましたら――いつでもかまいません、どんなに遠い将来でも、そんなことは[#「そんなことは」に傍点]問題じゃありません、私の気持は変るはずがないんですから――ペントン・プレースの八十七番、ウィリアム・ガッピー宛か、もし引越したり、死亡した場合には(希望をくじかれるかなにかして)オールド・ストリート通りの三百二番、ミセス・ガッピー方に知らせて下さりさえすれば結構です」
私がベルを鳴らすと、女中が来ましたので、ガッピーさんは宛名を書きつけた名刺をテーブルの上に置き、気落ちのしたおじぎをして立ち去りました。その出がけに私が目を上げますと、ガッピーさんはドアを出てからも、また私の方をながめているのでした。そのあと私はそこに一時間ばかりいて、会計と支払いをすませ、たくさんの用事を片づけました。それから机を整理して、全部のものをしまい、たいそう落着いた明るい気分になりましたので、この思いがけない事件のことは自分でもすっかり忘れてしまったものと思っていました。ところが二階の自分の部屋に戻りますと、おどろいたことに、この出来事のことを思い出して笑い出し、それから、なおおどろいたことに、泣き出してしまいました。つまり、私はしばらくのあいだ心がたかぶり、まるで、ずっと昔、庭にうずめたあのなつかしいお人形を友だちにしていた時分以来かつてないほど、手荒く心の古い琴線をかき鳴らされたような気持になったのです。
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第十章 代書人
大法官府横町の東端、さらにくわしくいえばカーシター通りのクック小路で、法律用文房具商のスナグズビー氏は正業をいとなんでいる。
クック小路の陰に引きこもって(もともとここはほとんどいつも日陰の町であるが)スナグズビー氏が年来|商《あきな》って来た品々は、訴訟関係の各種書式用紙、羊皮紙および羊皮巻物、紙類(大判用紙、事件摘要用紙、書類草案紙、白い紙、茶色の紙、薄茶色の紙、吸いとり紙)、印紙類、事務用鵞ペン、ペン、インク、消しゴム、インクのにじみ止め粉、ピン、鉛筆、封蝋、封緘紙のたぐい、書類をたばねる赤ひも、緑色の平打ちひも、手帳、こよみ、日記、法律年鑑、ひも入れ箱、定規、ガラス製および鉛製インクスタンド、ペンナイフ、はさみ、千枚通し、それから種々の事務用小刃物類、要するに枚挙にいとまのないほど多数の品々で、この商いはスナグズビー氏が小僧奉公の年季を終えて、主人ペファーの共同経営者になった日以来のことである。その時クック小路には、色あざやかなペンキで「ペファー・スナグズビー商店」と|記《しる》された新しい看板があらわれ、ちょっとした革命がおこなわれたわけであるが、それまでの「ペファー商店」とだけ書いた由緒ある看板は、もう判読しがたいほどになっていた。というのは、ロンドンの|蔦《つた》の木ともいうべき煤煙がペファーという名前にまつわりつき、彼の住居にすがりつき、この|情《じよう》の深い宿り木はすっかり親木を圧倒してしまったのである。
今はもうペファーは二度とクック小路では見られない。ここにあらわれるはずもない。というのは、この二十五年来ホウバン区の聖アンドルー教会の墓地の中に横たわっていて、しかも墓地のわきを荷馬車や貸馬車が朝から夜中まで、巨大な竜さながら、ごうごうたるうなりをあげて通っているからである。たとい、この竜が休息しているあいだに、こっそり墓を抜け出して、もう一度クック小路を散策し、カーシター通りのちいさな牛乳屋の地下室に飼われている|雄鶏《おんどり》の、ときをつくる声にたしなめられて、すごすご帰ってゆくようなことがあったとしても(ところで、この雄鶏が夜明けというものを、一体どう思っているか知りたいものである、なにしろ自分の目で夜明けを見たことがほとんどないのだから)――たといペファーがじっさいにクック小路の薄明の世界をふたたび訪れることがあったとしても(これはどこの法律用文房具商もあながち否定できまい)、彼は姿を見せずに来るのだから、だれ一人気づいたり気絶したりする者はない。
彼の生前、スナグズビーが七年という長い年月「年季奉公」をしていた時分、この店にペファーのめいが一人同居していた――背が低くて口やかましく、腰のほそいのはよいが、ちょっと余りにもほそすぎて、その上、冷気身を刺す秋の夜のように鋭い鼻の先端に白い霜がおりはじめた女であった。クック小路の住人たちのあいだに広まっていたうわさによれば、このめいのおさないころ、母親が娘の容姿を非のうちどころのないようにしてやろうと、いちずに気をもんだあまり、毎朝、娘の腰をベッドの柱にしっかりおしつけたまま、母性愛にみちた足でしめあげ、その上さらに何パイントもの酢とレモン汁を内服薬として飲ませたため、その酸がこの患者の鼻と気性にのぼってしまったのだという。うわさ好きの連中のだれがこういうつまらぬ話をいい出したのか分らぬが、とにかく若いスナグズビーの耳にはいらなかったのか、影響しなかったのか、彼は成年に達すると、このうわさの主の麗人に求婚してくどきおとし、一挙に店と家庭双方の共同経営者になった。それで今カーシター通りのクック小路でスナグズビー氏とめいとが一体になっているわけであるが、めいはあい変らず自分の容姿を後生大事に守っている――いくら人それぞれに好みがちがうとはいっても、たしかにその容姿はじつに貴重なものなので、この世の中に、いたって少ないのである。
スナグズビー夫婦は|二人《ふたり》一体であるばかりか、隣人たちの考えによると、|二人《ふたり》同声でもある。どうやらその声はもっぱら細君が出しているらしく、クック小路に絶えず聞えて来る。スナグズビー氏の声は、妻のたえなる声を通じて意見を述べる時以外めったに聞えることがない。彼ははげ頭の、温厚気弱な人物で、ぴかぴか光った頭のうしろのほうに黒い髪が一かたまり、みすぼらしく突き出ていて、性質は柔和、体質は肥満の傾向がある。黒いキャラコの袖をつけた、ねずみ色の事務服姿で、彼がクック小路の店の戸口に立って、雲をうち仰いだり、あるいは暗い店の中の机に向って、重い平らな定規を使って二人の小僧相手に羊皮紙をちいさく切っているところは、いかにも内気でつつましやかな男に見える。そういう時に、よく彼の足の下から、まるで墓の中で|成仏《じようぶつ》しきれぬ幽霊が悲鳴をあげるみたいに、彼の細君が例の声で小言や泣きごとをいうのが聞えて来る。そういうおりに、たまたま細君の声が常になくかん高くなると、スナグズビー氏は小僧たちに向って、「家内がガスタをしかりつけているらしいな!」という。
スナグズビー氏が今使ったガスタという名前を、以前クック小路の人たちが聞いて、これは細君の名前に相違ないと、いかにも|洒落《しやれ》たことをいった。なぜなら細君の激しい気性に敬意を表して「|破壊者《ガスタ》」と呼ぶのはじつに適切で、よく感じが出ているように思われる。しかし、この名前は養育院出身のあるやせぎすな若い女の名前で(彼女はもともとオーガスタという名前なのだという人もいる)、彼女としては、その名前が一年五十シリングの給料と、衣類をむぞうさにつめたひどく小さな箱とを除けば、唯一無二の財産なのである。彼女を発育盛りの時期に育ててくれた、つまり養育院から請負って育ててくれたのは、トゥーティング(1)に住んでいる篤志家で、こういう仲間のうちでは思いやりのあるほうに属する人であったから、この上もなく恵まれた環境の下で成長したはずなのに、彼女には「持病の発作」があって、これは教区の養育院係りの役人もふしぎなことだといっている。
ガスタはじっさいは二十三、四歳だが、たっぷり十は|老《ふ》けて見え、発作というふしぎな欠点があるため相場が安いし、そのうえ恩人である篤志家のもとに帰されるのを、ひどくこわがっているため、持病の発作を起してバケツや、流しや、鍋や、料理や、そのほかなんでもその時身近にあり合わせたものに頭を突っこんでいる時以外は、いつも働いている。店の小僧たちの両親や保護者は、彼女が若者の胸に恋心をかき立てる危険はあるまいと思うので、またスナグズビー氏の細君はいつも彼女をいびることができるので、スナグズビー氏は彼女を雇っておくのは慈善事業だと考えているので、みなそれぞれ彼女に満足している。ガスタにとっては文房具商の家が「目もあやなる豊けき神殿」に見える。二階のせまい応接間はいつも、いわば、髪をカール・ペーパーで巻いてエプロンをかけたような有様であるが、彼女は文明世界で一番優雅な部屋だと信じている。その窓から外を見渡すと一方の端にクック小路が(むろんカーシター通りもちらりと見える)、もう一方の端にコウヴィンセズすなわち例の債務者拘留所の裏庭が眺められて、彼女はたとえるかたもない絶景だと思う。応接間にはスナグズビー氏が細君を眺めているところや、細君がスナグズビー氏を眺めているところを描いた油絵の肖像がかけてあって――しかもそれがたくさんにある――ガスタの目にはラファエルかチシアンの作品のように見える。ガスタのいろいろな苦しみを慰めてくれるものが少しはあるわけである。
スナグズビー氏は商売の秘訣に属すること以外はすべて細君に任せている。細君が金を管理し、税金取りの役人を非難し、日曜日のお祈りの時間と場所をきめ、スナグズビー氏の娯楽を許可するが、しかし食事の献立についてはいっさい責任を負わない。それで近所の女房連中は大法官府横町のはずれまで軒なみ、いや、その先のホウバン通りでさえ、彼女を引合いに出してわが身とくらべ、家庭争議があるたびに亭主に向って、自分たちとスナグズビー氏の細君との地位の相違、自分たちの亭主とスナグズビー氏との行状の相違を見よという。だが、いつもクック小路をこうもりのように飛びまわって、どの家へも窓から自由に出入りしている「うわさ」というやつの語るところによると、スナグズビー氏の細君はやきもち焼きで、せんさく好きで、スナグズビー氏はときどき家にいたたまれなくなって外へ逃げ出してしまうことがあり、もしも氏にはつかねずみほどの気概があれば、とうてい我慢してはおるまいという。それどころか、身勝手な亭主たちに向ってスナグズビー氏を世の手本にせよといっている女房連中がじつは氏を軽蔑しており、しかも傲然その先頭に立っている某夫人の背の君は、つねづね妻のあやまちを正すため妻の体にこうもりがさを当てているらしい疑いが濃厚な人であるといわれる。しかし、こういう根拠もない蔭口がささやかれるのは、おそらくスナグズビー氏がスナグズビー氏なりに、かなり瞑想的な詩人肌の人物だからで、夏になると彼は好んでステイプル法学予備院の中を散歩して、すずめや木の葉の野趣に富んだ風情を観察し、また日曜日の午後などに記録保管所の中庭を歩きまわって、(もし機嫌がよいと)、かつては古い時代があった、あの礼拝堂の下を掘ってみなさい、きっと今でも石の棺おけの一つや二つはみつかるから、という。それからまた故人になった大勢の大法官や副大法官や記録長官のことを思い浮べて想像力をなぐさめたり、店の二人の小僧相手に話を始め、むかしターンスタイルがまだ本当に|回り《ターン》|木戸《スタイル》だった時分には、「水晶のごとくすきとおれる(2)」小川がホウバン通りのまん中を横切り、まっすぐ草原に向って流れていたという話をたしかに[#「たしかに」に傍点]聞いたことがあると物語っただけで、もうすっかり野趣を満喫する――それで彼は田舎へゆきたいなどとは一度も思わない。
日が暮れかけてガス灯に火がともされるが、あたりが暗くなりきらないので、まだあかあかと輝かない。スナグズビー氏が店の戸口に立って雲を打ち仰いでいると、ねぐらをおそく出たからすが一羽、クック小路の家なみの上のせまい空をかすめて西のほうへ飛んでゆくのが見える。からすは大法官府横町とリンカン法曹学院庭園を一直線に飛び越えて、リンカン法曹学院広場へゆく。
この広場の片側の、以前は壮麗な邸宅であった大きな家にタルキングホーン弁護士が住んでいる。現在この家はいくつかに区切った貸間になっていて、大邸宅のそのちいさなかけらの中に、弁護士たちが木の実に巣くう虫のように住んでいる。しかし、広々とした階段や廊下や控えの間は昔と変らない。いや、寓意画の描いてある天井さえ昔どおりで、古代ローマのかぶとをつけ神々しい布をまとった画中の人物が、|欄干《らんかん》や柱、花や雲や脚の太い少年たちのあいだに大の字にねそべって、見る者に頭痛を起させる――これが大体いつも寓意画というものの目的らしい。タルキングホーン氏は、高貴な人々が死ぬほど退屈に思う彼らの田舎の本宅にいって黙ってくつろいでいる時を除けば、いつもここで名家の苗字をはりつけた箱にかこまれて暮している。今日はここで静かにテーブルに向っているのである。だれにも殻をあけることができないほど口の堅い旧弊家の|牡蠣《かき》。
このたそがれ時のタルキングホーン氏の住居は、見たところ、いかにも彼そっくりである。古色蒼然として、時世におくれ、人目をさけ、しかもそうしていられる身分である。重くて容易に持ち上げられない、|馬巣織《ばすおり》を張った、背の広い、マホガニーの旧式な椅子や、ほこりだらけの青ラシャの覆いをかけた、脚の細長い、時代おくれのテーブルや、先代か先々代の高位貴顕の人々から寄贈された版画が彼をとりまいている。うすよごれた厚いトルコじゅうたんが椅子に腰かけた彼の足もとの床の音を消し、そばにある銀の旧式の燭台に立てた二本のろうそくの投げる光は、広い室内には暗すぎる。書物の背文字はもう装丁の中に姿を消してしまい、およそ錠前のつけられるかぎりのものにはみな錠前がついているが、鍵は一つとして見あたらぬ。綴じないまま出ている書類はほとんどない。彼の身近になにやら手書きの書類が置いてあるけれども、べつにそれを調べているわけではない。さきほどから心に決めかねている問題を、インクスタンドの丸いふたと二つの封蝋のかけらを使って、黙ってゆっくり解決しようとしているところである。インクスタンドのふたをまん中に置いたかと思うと、今度は赤い封蝋に代え、次は黒い封蝋に代える。これではだめだ。全部を集めてやり直さなければいけない。
この部屋の天井から、遠近法によって描かれた寓意画の人物が侵入者タルキングホーン氏をにらみつけ、今にも襲いかからんばかりにしているが、タルキングホーン氏は素知らぬ顔で絵天井の下に住宅兼事務所をかまえている。彼は所員をいっさい置かず、ただ、いつもひじの少し破れた洋服を着た中年の男が一人いるだけで、この男は玄関の高い腰かけに控えていて、事務所の用事に追い使われることはめったにない。タルキングホーン氏の流儀はふつうの弁護士とちがう。事務員をいっさい必要としない。名門の秘密の大貯水池なので、そんなことから水がもれては大変である。訴訟依頼人にとって必要なのは彼[#「彼」に傍点]であり、彼だけである。それで、訴訟書類の草案を作らねばならぬ場合には、テンプル(3)の訴答作成弁護士にそれと分らぬ指示を与えて作らせるし、書類の清書をせねばならぬ場合は、費用にかまわず法律用文房具商店にやらせる。事務所の玄関の腰かけに控えている中年の召使は、貴族社会の事件のことなど、ホウバンの道路掃除夫ほどにも知らないのである。
赤い封蝋、黒い封蝋、インクスタンドのふた、別のインクスタンドのふた、インク吸いとり砂の小箱。よし! おまえはまん中、おまえは右、おまえは左だ。今度こそぜひとも問題を決着せねばならぬ。決まった! タルキングホーン氏は立ち上り、眼鏡をかけ直し、帽子をかぶり、手書きの書類をポケットに入れ、部屋から出て、洋服のひじが破れた中年の召使に「じきに戻って来る」と告げる。召使にはこれ以上はっきりしたことはめったにいわない。
タルキングホーン氏は先程のからすのように一直線に――からすほどではないが大体そのくらい――カーシター通りのクック小路へ向う。ゆく先は「証書の筆写および謄本作成承ります。各種代書承ります。その他、その他」のスナグズビー法律用文房具商店。
時刻は午後の五時か六時ごろで、クック小路には温いお茶のかんばしい香りが漂っている。スナグズビー商店の入口のあたりにも漂っている。この店では昼食が一時半、夜食が九時半なので、まだ時間は早い。スナグズビー氏が、つい今しがたドアの外を眺め、ねぐらをおそく出たからすを見たのは、お茶を飲みに地下室の台所へ降りようとしていた時であった。
「ご主人はいるかな?」
店の小僧たちはいつもスナグズビー夫妻といっしょに台所でお茶を飲むので、店番をしているのはガスタである。それで、向いの法服仕立屋の二階では二人の娘が二つの窓によりそい、二枚の窓ガラスを鏡にしてカールの髪をすきながら、こちらの小僧二人を悩殺したものと思っているが、そこが娘ごころのあさはかさ、その甲斐もなく、ただガスタのあこがれを目覚ませるばかりである。それもそのはず、ガスタの髪はなかなかはえないたちで、はえる見込みもなさそうであるし、はえることはあるまいと堅く信じている向きもある。
「ご主人はいるかな?」とタルキングホーン氏がいう。
主人はいます、つれて来ますとガスタがいう。ガスタは店から出てゆくのをよろこびながら姿を消す。なぜなら彼女はこの店を法律のものすごい責め道具を収めた倉庫、つまりガス灯を消してからは、はいることのできない場所と心得て、畏怖の念をいだいている。
スナグズビー氏があらわれる。あぶらだらけになり、温かそうな顔をし、かんばしい香りを漂わせ、口をもぐもぐさせている。そしてバターつきパンを一口うのみにする。「これは、これは! タルキングホーン先生!」
「ちょっと君と話をしたいのだ、スナグズビー」
「よろしゅうございますとも! いや、先生、お宅の若いかたをお使いに下されば、手前が参りましたものを。どうぞ店の奥のほうへお通り下さいませ」スナグズビーはたちまち晴れ晴れとした顔になる。
羊皮紙あぶらが強く匂う、そのせま苦しい部屋は倉庫兼会計室兼写字室である。タルキングホーン氏はこちらへ向き直って、事務机の前の椅子に腰をおろす。
「ジャーンディス対ジャーンディス事件についてだ、スナグズビー」
「はい」スナグズビー氏はガス灯の火を明るくし、|儲《もう》けを期待しながら口に手をあてて|咳《せき》をする。スナグズビー氏は気弱な男なので、咳によってさまざまな気持を表現し、言葉を節約するのが常である。
「最近あの事件の宣誓供述書をいくつか君のところで作ってもらったね」
「はい、いたしました」
「その中に一つ」とタルキングホーン氏は先程の書類がはいっていないほうの上衣のポケットをなにげなくまさぐりながら――堅い口をぜったい開かない旧派の牡蠣!――「独特の筆蹟のがあって、少々気に入ったのだ。ちょうど通りがかりだし、それを持って来たと思ったので、尋ねに寄ったわけだが――持っていない。なに、いつでもよい――ああ! これだ!――これをだれが書いたか尋ねに寄ったのだ」
「これをだれが書いたかとおっしゃいますので?」といいながらスナグズビー氏は書類を受取り、机の上に平らにのばして置き、すぐさま全部のページを、法律文具商独特の手つきで左手をくるくるひねりながらめくった。「これは下請けに出したものでございます。あの時分、手前どもではかなりたくさん下請けに出しておりました。帳簿を調べますれば、すぐにだれが書いたか分ります」
スナグズビー氏は帳簿を金庫から取りおろし、|咽喉《のど》につかえたらしいバターつきパンをもう一度大きく呑みこみ、口供書を横目でにらみ、右の人さし指で帳簿の紙面を上から追ってゆく。「ジュービ――パッカー――ジャーンディス」
「ジャーンディス! ございました、先生。なるほど! これならたしかに覚えがございます。これはついこの先の、大法官府横町の向う側に下宿している代書人に出したものです」
タルキングホーン氏は帳簿の記載事項を見て、スナグズビー氏より先に見つけ、彼の人さし指が坂道を降りて来るあいだにもう読んでしまった。
「なんという[#「なんという」に傍点]名前だね、その男は? ネーモーか?」
「ネーモーと申します。これでございます。四十二枚。注文、水曜日夜八時。持参、木曜日朝九時半」
「ネーモーか!」とタルキングホーン氏はくり返しいう。「ネーモーとはラテン語で、だれでもないという意味だ」
「英語では、だれかの名前に相違ないと思いますが」とスナグズビー氏はうやうやしい咳をしながら、「それが苗字でございます。ほら、これでございます! 四十二枚。注文、水曜日夜八時。持参、木曜日朝九時半」
スナグズビー氏の目じりがドアをあけて中をのぞいている細君の頭に気づく。お茶を置きざりにして出てゆくとはどういうつもりか調べに来たのである。スナグズビー氏はまるで「ねえ、お客さまだよ!」とでもいうように、細君に向って釈明の咳をする。
「九時半でございます」とスナグズビー氏はもう一度くり返してから、「手前どもの代書人は下請け仕事で暮しておりますが、変った連中でございまして、これはあの男の本名でないのかも知れませんが、とにかくそういう名前で通っております。今思い出しましたが、あの男が規則局や、王座事務局や、判事室などに出しております広告にも、その名前を使っております――ご存知でいらっしゃいましょう、『仕事を求む』という文書のことで」
タルキングホーン氏がちいさな窓越しにコウヴィンセズ事務所すなわち債務者拘留所の裏側をちらりと眺めると、窓々に明りが輝いている。裏側には拘留所の喫茶室があるので、うしろ暗い罪を犯してつれて来られた数人の紳士たちの影が窓の日よけに暗くうつっている。スナグズビー氏は機を失せず振り向いて肩越しに細君のほうをちらりと眺め、口だけ動かしながらこういう意味の弁解をする。「タル―キング―ホーン――金―持―で――勢―力―家―だ」
「前にもその男に仕事を出したことがあるのかね?」タルキングホーン氏が尋ねる。
「は、はい、出しました! 先生のところのお仕事を」
「もっと大事なことを考えていたので忘れてしまったが、その男はどこに住んでいるといったかな?」
「大法官府横町の向う側でございます。じつは、その下宿は――」とスナグズビー氏は、まるで先程からのバターつきパンのかけらが手に負えないみたいに、もう一ぺんぐっと呑みこみ、「――ぼろと古びんを商っている店でございまして」
「私の帰りがけにそこを案内してもらえるかね?」
「よろしゅうございますとも、よろこんで!」
スナグズビー氏はキャラコの袖とねずみ色の上衣をぬぎ、黒い上衣を着て、帽子かけから帽子をとる。「ああ! 宅のちびが参りました!」と彼は大きな声を出していう。「ねえ、おまえ、私がタルキングホーン先生のおともをして大法官府横町の向う側までいっているあいだ、若い者に店番をするようにいいつけてくれないかね、すまないけれども? これが家内でございます、先生――ねえ、私は二分もすれば帰って来るよ!」
スナグズビー氏の細君は弁護士に一礼して店の帳場へ引き下り、窓の日よけのすきまから二人が出かけてゆくのをのぞき見してから、店の裏へそっとはいりこみ、開いたままにしてある帳簿の記載を調べる。明らかに好奇心を起したらしい様子である。
「いらっしゃればお分りになりますが、家もむさくるしいですし」といいながらスナグズビー氏はうやうやしく車道を歩き、せまい歩道を弁護士にゆずって、「人間もむさくるしい男でございますよ。でも、あの仲間は大体みんな荒っぽい連中ばかりでございまして。この男のよいところといえば、眠らないことでございますな。こちらで注文すれば、それこそいくらでもぶっつづけに仕事をいたします」
あたりはもうすっかり暗くなり、ガス灯があかあかと輝いて来た。弁護士と法律文具商は、その日の手紙を出しにゆく事務員たちに突きあたり、夕飯に帰宅する法廷弁護士や事務弁護士に突きあたり、原告や被告や、ありとあらゆる種類の訴訟者に突きあたり、何代にもわたって磨かれた法廷の知恵のために日常茶飯の事件を処理することさえ百万べんも|阻《はば》まれて来た民衆の群に突きあたり、普通法と衡平法の中を突きぬけ、それらと同じ仲間の、あのふしぎな往来の泥の中を突きぬけて(同じ仲間である証拠には、なにからつくられ、どこから、どのようにしてわれわれのまわりに集って来るのか、だれにも分らない――ただ一般論として、あまりたくさんになりすぎた場合には、シャベルでかきとらなければならぬということだけは分っている)、二人はぼろと古びん、それにくず、がらくた類をよろず|商《あきな》っている一軒の店へやって来るが、この店はリンカン法曹学院の塀に寄りそっていて、主人は、看板にペンキで関係各位に向って書いてあるとおり、クルックという人物である。
「ここに住んでいるのでございます」と法律文具商がいう。
「ここに住んでいるのだね?」と弁護士は無関心に答える。「ご苦労だった」
「中へおはいりになりませんので?」
「うん、ご苦労だった、いいのだ、今日はこのまま家へゆく。おやすみ。ご苦労だった!」スナグズビー氏は帽子を少し持ち上げて会釈し、彼の「ちび」とお茶のもとへ帰ってゆく。
しかしタルキングホーン氏は今日はこのまま家へゆかない。少しゆくと、あと戻りして、もう一度クルック氏の店のところへ来て、まっすぐ中へはいる。中は窓のところに頭のよごれた蝋燭が一本ほどつけてあるだけなので、かなりうす暗く、奥の煖炉のそばに老人と猫がすわっている。老人は立ち上り、同じように頭の汚れた蝋燭を一本手にして前へ出てくる。
「お宅の下宿人は在宅かな?」
「男のほうですかい、女のほうですかい、旦那?」とクルック氏がいう。
「男だよ。代書をしている男だ」
クルック氏は相手をこまかに観察していた。顔に見覚えがある。おえらがただという評判を聞いたような気がする。
「会いに来なさったんですね?」
「そうだよ」
「わしはめったにそんな気を起さないねえ」といってクルック氏はにやりと笑う。「呼んで来ましょうかね? だけど、来るかどうか怪しいもんだね、旦那!」
「それならこちらからゆこう」
「三階ですぜ。蝋燭を持っておいでなさい。上の、あすこでさあ!」クルック氏は猫をそばに従え、階段の下に立ったままタルキングホーン氏を見守っている。タルキングホーン氏が姿を消しかけた時に、「ねえ――ねえ!」とクルック氏がいう。弁護士は手すり越しに下を見る。猫が悪意にみちた口を大きく開き、彼に向ってうなり声をあげる。
「静かに、ジェイン奥方! お客さんには行儀よくしろ、奥方! 三階のその人のことを世間ではなんてうわさしてるか知ってますかい、旦那は?」とクルック氏は階段を一、二歩登ってささやく。
「なんとうわさしているのだ?」
「悪魔に魂を売り渡したってね。だけど、旦那もわしもそんなことを|真《ま》に受けるほど馬鹿じゃねえ――悪魔だって買いませんや。もっとも、じつをいうと、あの人はひどくおこりっぽくて陰気だから、きっとよろこんで取引に応じるだろうと思いますがね。とにかく、あの人をおこらせちゃいけないね。よく注意して下さいよ!」
タルキングホーン氏はうなずきながら登ってゆく。三階の部屋の暗いドアのところへ来る。ノックをすると、返事がない、ドアをあける、そのはずみに誤って蝋燭を消してしまう。
消さなくとも消えたろうと思われるほど部屋の空気は|濁《にご》っている。せまい部屋で、|煤《すす》とあぶらとほこりとでほとんどまっ黒である。さびた骸骨のような煖炉の火格子は、まるで貧乏神にしめつけられたように|金気《かなけ》が失せて、まん中がひしゃげ、中でかすかに赤いコークスの火が燃えている。煖炉に近い片隅にも板の食卓とこわれた机があり、机はインクの雨を浴びた荒野のよう。別の隅には用だんすか衣裳だんす代りに、やぶけた古カバンが二つの椅子の上にのせてあるが、飢えた人のほおのように|凹《へこ》んでいるところを見ると、これ以上大きな入れものは必要ないらしい。床はむき出しのままで、ただ、ずたずたに踏みやぶられた古マットが一枚、炉ばたで朽ちかけている。夜の闇をかくすカーテンは一枚もなく、色あせたよろい戸がしめてあって、わびしげな穴が二つあいたところから、飢えがじっと室内を見守っているのかも知れない――まるでベッドの上にいる男の死を予告する|妖精《バンシー》のように。
というのは煖炉の反対側に、きたないつぎはぎの掛けぶとん、うすっぺらな長まくら、あらいズック地のしきぶとんを乱雑にのせた低いベッドがあり、その上に一人の男がいるのを、入口のすぐ内側でためらっている弁護士が見つける。男は|素足《すあし》にシャツとズボンというかっこうで横になっている。まくらもとの蝋燭から、蝋が流れ落ちてしまい、灯芯が二つに折りかさなったまま、|蝋涙《ろうるい》の山の中でまだ燃えている。その幽霊のようにほの暗い光に照らされて、男の顔は黄色く見える。髪の毛はぼうぼうに乱れて、ほおひげや、あごひげと入りまじっている――このひげもぼうぼうに乱れ、彼を取り巻くがらくたや、かすんだ空気と同様に打ち捨てられたままになっている。部屋がよごれて臭く、空気もよごれて臭いけれども、その中にいる者の感覚をもっとも重苦しく圧迫するこの|瘴気《しようき》は一体なんだろうか。だが、はき気と目まいを起させるような部屋じゅうの空気、すえた煙草のにおいの中から、阿片の苦い、気の抜けた味が弁護士の口の中へはいって来る。
「もし、君」と彼は大声で呼び、手に持った鉄の燭台でドアをたたく。
彼はベッドの上の男の目を覚めさせたと思う。男はやや顔をそむけたまま寝ているが、たしかに目を開いている。
「もし、君」と弁護士はまた大声で呼ぶ。「もし、もし!」
彼がドアを打ち鳴らしているうちに、長い間うなだれていた蝋燭の火が消え、彼は暗闇の中に置き去りにされるが、よろい戸の二つのわびしい目はベッドの上をじっと見下ろしている。
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第十一章 われらの親しき兄弟(1)
暗い部屋の中に立ったまま躊躇しているタルキングホーン弁護士のしわばんだ手に、なにかさわるものがあるので、彼はぎょっとして、「なんだ、これは?」という。
「わしでさあ」と店の老主人の息が弁護士の耳をかすめて答える。「起きて来ないんですかい?」
「うむ」
「蝋燭はどうしましたね?」
「消えてしまった。ここにある」
クルックは蝋燭を受けとり、煖炉のそばへ近寄り、赤い燃え残りの上にかがみこんで火をつけようとする。消えかけている燃えがらには蝋燭に分けてやるほどの火力もなく、むだ骨折りに終る。下宿人に声をかけても、いっこうききめがないので、老主人は下へ降りて火のついた蝋燭を店から持ってこようと、口の中でぶつぶついいながら立ち去る。タルキングホーン氏はなにかわけができたと見えて、今までのように部屋の中へはいらずに、外の階段のところで主人の帰りを待っている。
やがて待ちわびていた明りが壁を照したかと思うと、クルックが緑色の目をした猫を足もとに従えて、ゆっくりと上って来る。「あの男はいつもこんなによく眠っているのかね?」と弁護士は声をひそめて尋ねる。「ねえ! わしは知らんねえ」とクルックは頭をふり、眉をあげながら、「あの人のふだんのことは、ひどく無口だってことぐらいしか知らんねえ」
このようなことをささやきながら二人はつれ立って部屋の中へはいる。明りがはいって来ると、よろい戸の二つの大きな目は暗くなり、まぶたを閉じるらしい。ベッドの上の目は開いたままである。
「大変だ!」タルキングホーン氏が大声をあげる。「死んでいるぞ!」
クルックは持ちあげた重い手を放すが、あまりあわてたので代書人の腕はベッドからぶらさがる。
二人は一瞬たがいに顔を見合わせる。
「医者を呼びにやるんだ! 旦那、上の部屋にいるミス・フライトを呼んでおくんなさい。ベッドのそばにいると毒だ! 大きな声でフライトばあさんを呼んでくれませんか?」とクルックは死体の上にやせた両手を|吸血鬼《ヴアンパイア》の翼のようにひろげながらいう。
タルキングホーン氏は階段のおどり場にかけつけて叫ぶ、「ミス・フライト! フライトばあさん! いそいで、ここだ、とにかく来てくれ! フライトばあさん!」クルックはそれを見守りながら、タルキングホーン氏が大声をあげているあいだに、すきを見て古カバンのそばへ忍び寄り、忍びやかに戻る。
「走っていくんだ、フライトばあさん、走って! 一番近い医者のところへ! 走って!」亭主のクルックが自分の家に下宿している気の狂った小柄の女にそう呼びかけると、彼女は姿をあらわし、たちまち姿を消し、やがて夕食の最中に呼び出された短気な医者といっしょに帰って来る――かぎ煙草でよごれた大きな上くちびるをむき出し、スコットランドなまりをむき出しにした男である。
「やあ! これゃあかん」と医者は一分ほど診察すると二人のほうへ顔をあげて、「すっかり|成仏《じようぶつ》しとる、まるでパロ(2)みたいだ!」
タルキングホーン氏が(古カバンのそばに立ったまま)今しがた死んだのかと尋ねる。
「今しがたですと? たぶん、まあ三時間はたっとるでしょう」
「おそらく、そのくらいでしょうね」とベッドの反対側に来た色の浅黒い若い男がいう。
「あんたも同業のかたですかいな?」短気な医者が尋ねる。
色の浅黒い若い男はうなずく。
「そんなら、わたしゃ、もういかせてもらいますわ、ここにいてもむだですもんなあ!」そういうと短気な医者は短い往診をすませて、自分の夕食をすませに帰る。色の浅黒い若い外科医は代書人の顔の上に蝋燭を何度も往復させて入念に調べるが、相手はもう文字どおり「だれでもない人」になっていて、ネーモーという名にふさわしいことを実証した。
「この人ならよく顔を知っていましたよ」と外科医がいう。「この一年半のあいだ、私のところへ阿片を買いに来ていたんです。みなさんの中に身内のかたがおいでですか?」と、そばで見ている三人の顔を見まわす。
「わしはここの家主だが」とクルックは外科医のさし出した手から蝋燭を受けとりながら、にこりともせずに答える、「この人はいつか、わしが一番近い身内だっていってましたぜ」
「この人は阿片を飲みすぎて死んだんです、疑問の余地はありません。部屋の中にひどく阿片のにおいがしますし、それにこの中には」と古ぼけた茶びんを亭主のクルックから受けとって、「まだ十人の人を充分殺せるだけの阿片がはいっています」
「わざとやったんですかねえ?」とクルックがきく。
「過量に飲んだことですか?」
「むろん、そうでさあ!」クルックはうす気味の悪い興味にかられて舌なめずりせんばかりになる。
「それは分りませんが、ふだん、ずいぶん多量に飲んでいたんですから、そういうことはないと思います。しかし、なんともいえませんね。この人はずいぶん貧乏だったんでしょう?」
「そうらしいねえ。この部屋は――裕福にゃ見えませんや」といって、あたりに鋭い|一瞥《いちべつ》を投げるクルックは、まるで飼い猫と目をとりかえたかのようである。「でも、部屋を貸してからわしは一度も中にはいったことはなし、ひどく無口な人で、暮し向きのことなんか話しゃしなかったですからねえ」
「部屋代がたまっていましたか?」
「六週間分ね」
「もう永久に払ってもらえませんよ!」と若い医者はまた死体を調べながらいう。「たしかに、もうパロみたいにすっかり成仏しています、それに、この様子や状態から判断すると、死んだほうが苦しみから解放されて幸福だったでしょうよ。しかし若いころはきっと体もりっぱで、たぶん好男子だったに相違ありませんね」医者は寝台のはしに腰をおろして、顔を死人の顔のほうに向け、手をその心臓の辺にあてたまま、かなり心を動かされたらしい様子でいう。「そういえば、この人は粗野な態度をしているけれども、どこかむかしはいい身分だったらしいところがあると思ったことがありますよ。じっさいにそうだったんですか?」と言葉をつづけながら三人を見まわす。
クルックがそれに答えて、「わしにそんなことを聞くのは、下の店の大袋に入れてある髪の毛の持主がどんな貴婦人だったか教えてくれっていわれるよりむずかしい質問でさあ。この人についてわしが知っていたことは、一年半わしのうちに下宿していたことと、代書で暮していたこと――それとも代書で暮しちゃいなかったこと、それだけだね」
こういう話がかわされているあいだ、タルキングホーン氏はうしろに手を組んだまま、古カバンのそばに超然と立って、ベッドのかたわらで展開された三人三様の関心――若い外科医が、個人として死んだ男についていった言葉とはまったく別に、死因について示した職業的な関心、老家主のうす気味の悪い興味、そして小柄の気ちがい女の畏怖の念――に対しては、見たところ、すべて一様に目をくれなかった。落着きはらった顔は古色蒼然とした洋服におとらず無表情であった。そのあいだじゅうなにか考えていたのかどうかさえ分らぬほどである。彼はあせりも辛抱も、注意も放心も見せなかった。自分の|殻《から》しか見せなかった。精巧な楽器の音色をそのケースから推測するのがむずかしいと同じように、タルキングホーン氏の音色を彼の[#「彼の」に傍点]ケースから推測するのはまことに容易ならぬことであろう。
さて今度は彼が話の中へ割りこみ、外科医に向って冷静な職業的口調で言葉をかける。
「私はこのなくなった人に代書の仕事をさせるつもりで、あなたが来られるすぐ前にちょっとここへ立ち寄った次第ですが、故人とは生前一度も会ったことがありません。故人のことは私のゆきつけの文房具屋から――クック小路のスナグズビーですが――聞きました。ここにおられるかたがたは、みなさん故人についてなにもご存知ないのですから、スナグズビーを呼びにいったほうがいいでしょう。ああ!」と彼は小柄の気ちがい女に向っていうが、彼女はタルキングホーン氏を裁判所でたびたび見たことがあり、彼のほうでも彼女をたびたび見たことがあるので、老婆はおびえ切って言葉も出ないまま身ぶりで、文房具屋を迎えにゆきましょうと申し出る。「あんたにいってもらおうか!」
彼女が出かけているあいだに、外科医は望みのない調べを断念して、死体につぎはぎのふとんをかける。クルック氏と彼は一こと二こと言葉をかわす。タルキングホーン氏はなにもいわず、あい変らず古カバンのわきに立っている。
スナグズビー氏はねずみ色の上衣に黒キャラコの袖といういで立ちで、あわただしくやって来る。「いやはや、これはこれは、こういうことになりましたか! おどろき入りました!」
「スナグズビー、このあわれな男についてなにかこの家の主人に知らせてやることはないかな?」とタルキングホーン氏が尋ねる。「この男は部屋代をとどこおらしていたらしい。それに埋葬しなければならぬしな」
「さあ、先生」とスナグズビー氏は口に手をあてて弁解の咳をしながら、「わたくしはどんな意見を申してよいやら、ほんとうに存じませんのですが、ただ教区の役人をお呼びになってはいかがでございましょうか」
「意見などを尋ねているのではない」とタルキングホーン氏が答える。「意見ならこの私[#「この私」に傍点]がいう――」
(「むろん、先生にまさる者はございませんとも」スナグズビー氏はうやうやしい咳をしながらいう。)
「私が尋ねているのは身寄りの者とか、どこの出身であるとか、そういうなんでもこの男に関する事柄について、手がかりになることを話してもらいたいのだ」
スナグズビー氏は返事の前置きに、まず相手をなだめる咳をしてからいい出す、「まったくの話、先生、わたくしはこの人がどこから来たのか存じませんのです、それはちょうど――」
「どこへいってしまったのか分らないと同じようにね」と医者が助け舟を出す。
返事がとぎれる。タルキングホーン氏は代書人のほうを眺め、クルック氏は口をあけたまま次にだれがしゃべるかとみなを見渡す。
「身寄りの者につきましても、たといだれかがわたくしに向って、『おい、スナグズビー、お前のために二万ポンドの金をイングランド銀行に用意してあるから即金でやろう、もしこの男の身寄りの者の名前を一人でも教えてくれさえしたら』と申しましても、それができませんのです! 一年半ばかり前――わたくしの知っておりますかぎりでは、その時初めてこの人はここの古着屋さんに下宿するようになったのでございます――」
「その時だった!」とクルックがうなずく。
「一年半ばかり前」スナグズビー氏は力を得ていう、「ある朝、食事がすんでからこの人が手前どもへやって参り、うちのちびが(わたくしは家内のことをこう呼んでいるのでございます)店にいるのを見まして、自分の筆蹟の見本をとり出し、いろいろ話をしているうちに分りましたが、この人は筆耕の仕事をほしがっていて、それに、ありていに申せば」――これは露骨な物言いを弁解するさいにスナグズビー氏が好んで用いる文句で、これを使う時彼はいつも一種論争めいた率直さをおびて来る――「すかんぴんなのでした! 大体うちのちびはよその人をあまり好まず、特に――ありていに申せば――なんでもほしがるような連中に対してそうなのでございます。けれども、ちびはどことなくこの人が気に入ってしまいました。ひげをそらないでいるからか、それとも髪の手入れをしないからなのか、それとも女らしいほかの理由によるのか、それはご判断にお任せいたします。それで筆蹟の見本をもらい、所番地ももらいました。うちのちびは人の名前をはっきり聞きとれないのでございます」とスナグズビー氏は口に手をあて、思案をする時の咳をしたのち、また話をつづけ、「ですからネーモーをニムロッド(3)と同じだと思っていました。そのために、ちびは食事の時わたくしに向って、『あなた、ニムロッドにまだ仕事を見つけてやらないのね!』とか、『あなた、なぜジャーンディス事件のあの三十八枚の書類をニムロッドにまわしてやらなかったの?』とかいうのが癖になって参りました。こういう訳で、だんだんネーモーが手前どもの賃仕事をするようになったのでございまして、ネーモーのことはもうそれ以上なにも存じませんが、ただ仕事が早くて夜業をいやがらず、たとえば四十五枚分の仕事を水曜の晩に出しますと、木曜の朝には届けて参りました。以上のことはすべて――」スナグズビー氏はベッドのほうを帽子で丁重に指し示し、まるで「もしわたくしの尊敬すべきあの友だちがちゃんとした状態でございましたら、きっと確認してくれることでしょう」とでもいいそえるようにして話を終える。
「あの男がなにか身元を明らかにするような証明書を持っているかどうか確かめたほうがよくはないかな?」とタルキングホーン氏がクルックに向っていう。「検死がおこなわれるし、あんたは質問をされるだろうね。字は読めるのだね?」
「いや、読めませんや」老主人は急ににやりと笑って、そう答える。
「スナグズビー」とタルキングホーン氏がいう、「君がかわりに部屋を調べてあげなさい。さもないと、ご主人は逮捕されたり、めんどうなことになったりする恐れがある。もし君がいそいでやってくれるなら、私はここへ来たついでだ、待っていよう、そうすれば万一必要が起きた場合、万事公明正大であったと私が証言してあげられる。ご主人、スナグズビー君のほうへ蝋燭をさし出してやりなさい、そうすればあんたに有利な材料があるかどうか、じきに調べてもらえるから」
「まず第一に、ここに古いカバンがございます」とスナグズビーがいう。
ああ、なるほど、たしかにある! タルキングホーン氏はカバンのすぐそばに立っている上に、部屋の中には、じっさい、それよりほかにほとんどなにもないのだが、彼はそれまでカバンに気づかなかったらしい様子である。
くず屋兼船具店の主人は明りをかかげ、文房具商は捜索にとりかかる。外科医は煖炉の棚の角によりかかり、ミス・フライトはドアを少しはいったところからこっそりのぞいて身ぶるいをしている。旧弊家の敏腕な老弁護士は裾ひもをひざのあたりで結んだ、色のさえぬ黒の半ズボン、大きな黒チョッキ、長袖の黒い上衣、それに貴族仲間にはなじみの深い、ちょう形に結んだ形もくずれた白ネッカチーフという姿で、どこまでも同じ場所に同じ姿勢で立っている。
古カバンの中には一文の値打ちもない衣類が少し、貧乏街道の通行切符ともいうべき質札が一束、阿片のにおいのするくしゃくしゃに丸めた紙が一枚はいっていて、この紙には簡単な心覚えがなぐり書きしてあり――たとえば、某日、何グレン飲む、某々日、何々グレン飲む――しばらく前から書き始めて、そのつど書きつづけるつもりだったらしいが、まもなくとぎれている。それからよごれた新聞の切抜きが数枚(全部検死に関する記事である)はいっているが、ほかにはなにもない。二人は戸棚とインクにまみれた食卓の引出しの中を探す。どちらにも古手紙や書類の切れはし一枚見あたらない。若い医者は代書人の着ている洋服を調べる。ナイフ一丁と半ペニー銅貨を数枚見つけるだけである。結局、スナグズビー氏の意見が実際に即していたわけで、教区の役人を呼ばなければならない。
そこで小柄な気ちがい女が役人を迎えに出かけ、ほかの人たちは部屋を出る。「猫を置いていっちゃいけません!」と医者がいう、「それじゃあぶない!」それでクルック氏が追い立てて部屋から出すと、ジェイン奥方はしなやかな尾を巻き、舌なめずりをしながら、ひそやかに下へ降りる。
「おやすみ!」とタルキングホーン氏はいって、寓意画と瞑想の家へ帰ってゆく。
その時までに、もうこのニュースはクック小路へつたわっていた。住民たちがいく群も集って事件の談義を始め、偵察部隊(主に少年たちである)の前哨がクルック氏の店の窓辺へつめ寄せて、ひしひしと包囲する。それよりさき早くも警官が一人、問題の部屋へ上っていったと思うと、また降りて来て店の入口に塔のように突っ立っているが、時おりその基地から少年たちに目をくれるだけである。だが、それでも警官が目を向けると、少年たちはおじけづいて退却する。ミセス・パーキンズは息子が数週間前にミセス・パイパーの息子に「一発くらわした」のがもとで不仲になり、それ以来ミセス・パイパーとは口もきかない間柄になっていたが、このめでたい機会にまた親しい交際を始める。角の居酒屋の少年給仕は職務上世の中のことを知っているし、時には酔っぱらいを処理しなければならないこともあるので、その筋の者ではないが特別あつかいにされて、警官と内密の情報をとりかわし、まるで自分だけは警棒を見舞われたり警察に監禁されたりする恐れが絶対にないような顔をしている。小路の人たちは窓越しに道をへだてて話し合い、大法官府横町からは帽子もかぶらぬ 斥候が何事が起きたのかとはせつける。彼ら一般の感情は、クルックさんがまっさきに|殺《や》られねえでよかったと思いながらも、そこに当然若干の失望をまじえている模様である。こういう興奮のただなかに教区の役人が到着する。
大体、教区の役人はこの界隈では、こっけいな存在と見なされているけれども、この時ばかりはいくぶんか人気がなかったわけでもない、もっともそれは、これから死体を見にゆく人だからというにすぎないのかも知れぬが。警官は彼をうすのろ吏員、野蛮な夜警時代(4)の遺物と考えているが、政府が廃止するまでは我慢しなければならない存在と思って容認している。役人が現場へ来て家の中へはいったという知らせが口から口へ広まるにつれて、興奮が高まる。
やがて役人が店から出て来ると、彼のいないあいだにやや冷めた興奮がまたしても燃え上る。人々は、役人が明日の検死に備えて、死んだ男のことをなんでも検死官と陪審員に話してくれる証人を探しているものと決めこみ、すぐさま、なに一つ話せない人たちばかり、むやみやたらに教える。だれもかれもが、ミセス・グリーンの息子は「あれもおんなじ代書人仲間で、あの人を一等知ってた」と告げたために、役人は一層うすのろぶりをさらけ出す――調べてみると、目下この息子は出航後三カ月になるシナ行の船に乗り組んでいるが、海軍本部の幹部に申込めば電信で連絡がつくらしいのである。役人はさまざまな店や居間にはいりこみ、いつもまず第一にドアを閉めてから家の人たちを調べるが、その独りよがり、緩慢さ、愚鈍さ加減に群衆が憤慨する。警官は居酒屋の少年給仕に向ってにやにや笑っている。群衆は興味を失い、その反動がはじまる。若々しい甲高い声が役人に向って、お前は男の子を煮こみにしたじゃないかとあざけり、そういう流行歌のいく節かを合唱して、教区の養育院で男の子を煮てスープにしたとほのめかす。ついに警官が法律を支持しないわけにはいかぬと考えて、合唱している歌手の一人をつかまえるが、ほかの連中が逃げ去ってしまうと、それじゃあ、おい、こんなとこから立ち去るんだ! いってしまえ、という条件で――歌手はただちにこの条件を実行する――釈放してやる。こうして人々の興奮が一まず治まると、落着き払った警官は(量が多いの少ないのといっても、わずかばかりの阿片など彼にとって物の数ではない)、ぴかぴか光った帽子、かたい襟飾り、ぴんと張った大外套、がんじょうなベルトに腕環、すべて一分のすきもない姿で、どっしり足を踏みしめ踏みしめ、白手袋をはめた手をたたきながらゆっくりパトロールをつづけ、ときどき町角に立ち止っては迷子から殺人に至るまでなんでもござれと、のんびりあたりを見廻す。
頭の弱い役人は陪審員の呼出し状を持って来て、夜にまぎれて大法官府横町を飛びまわる。しかし陪審員の名前がどれも誤字だらけで、正しく書けているのは当の役人の名前だけなので、これはだれにも読めぬし読みたいと思う者もない。呼出し状を送達し、証人たちに前もって通告を与えると、役人は教区の生活困窮者数名と約束したつまらぬ仕事をはたすために、クルック氏の家へ出かけ、ほどなく彼らが到着すると三階の部屋へつれてゆくが、一同があとに残して立ち去っためずらしい物を、よろい戸の大きな目がじっと凝視する――それは「だれでもない人」の、そしてまた「あらゆる人」の、地上における最後の宿なのである。
そして一晩じゅう、この|棺《ひつぎ》は古カバンのかたわらで待っているが、ベッドの上のよるべない遺体は、四十五年の人生行路をへて来たにもかかわらず、おさない捨て子も同然、自分の過ぎて来た道をだれに辿られるすべもなくそこに横たわっている。
あくる日になるとクック小路はすっかり活気づく――まるで|市《いち》が立ったみたいだよ、とはミセス・パーキンズの言葉で、彼女はミセス・パイパーと仲直りしたどころではない、すっかり仲むつまじくこのすばらしい婦人と話をかわしながら、そういったのである。検死官の主宰する法廷には居酒屋「日輪亭」の三階の部屋が予定されているが、ふだんこの部屋では週に二回、「音楽の|集《つど》い」が開かれ、司会者の席にはその道で聞えたある紳士がすわり、その向いに控えた道化歌手のリトル・スウィルズが、(窓にはったビラの文句によると)どうぞ、ごひいきの皆さま、私のまわりに集り、一流の芸に御支援あらんことをと願う。「日輪亭」では午前中ずっと商売大繁昌である。町じゅうの興奮に影響されて子供たちまでひどく元気をつけたがり、小路の角に臨時開業したパイ売りの男が、ブランデー・ボンボンが煙のように消えてゆくというほどである。教区の役人はクルック氏の店先と「日輪亭」の店先のあいだをうろつきながら、取って置きのめずらしい情報を思慮深い何人かの人たちに披露して、ビール一、二杯のお返しを受けているが、こういうことがほかのどんな時に見られようか。
定刻に検死官が到着すると、もう陪審員一同待ちもうけており、「日輪亭」附属のよく乾燥した、みごとな九柱戯場からどっと歓迎の挨拶が起る。検死官ほどいろいろな居酒屋に出入りする者はない。職掌がら、おが屑や、ビールや、煙草の煙や、火酒などのにおいは、この上もなく恐ろしい、さまざまな変死と切っても切れない関係にある。検死官は教区の役人とこの店の主人に案内されて音楽会用の部屋へゆくと、帽子をピアノの上に置いて、長いテーブルの上座にすえられたウィンザー型の椅子に腰をおろす。ところでこのテーブルは短いテーブルをいくつかならべたもので、その上には、びんやコップの跡が、無数にからみ合った環をべっとり描いて、装飾がわりになっている。陪審員はテーブルにあふれんばかりすわるが、残りの人たちはたんつぼやパイプのあいだに立ったり、ピアノによりかかる。検死官の頭上には鉄のちいさな花輪、つまりベルの釣り手があるので、尊厳な法廷がまもなく絞首刑にでもされそうな感じである。
陪審員の点呼ならびに宣誓! この儀式がとりおこなわれている最中に、大きな襟のシャツを着て、目に涙をため、鼻を真赤に充血させた、小柄の丸々ふとった男がはいって来るので場内が興奮でざわめくが、彼は一般の傍聴者なみにドアの附近に陣取る。しかし、この部屋の常連でもあるらしい。あれがリトル・スウィルズだというささやきが流れる。たぶん、彼は検死官の物まねを工夫して、晩の音楽会の呼び物にするのだろう、と人々は考える。
「さて、みなさん――」検死官が口を切る。
「おい、静粛にしないか!」と教区の役人がいう。検死官に向っていったように思われるかも知れないが、そうではない。
「さて、みなさん」と検死官はまた始める。「みなさんはある男の死因を調べるために、この陪審員名簿に記載されました。その死に附随する情況については、やがてみなさんの前で証拠が提出されますが、みなさんが評決を下すに当って拠りどころにするのは――九柱戯、あれは止めさせなければいけないね、君、教区のお役人!――証拠であって、ほかのいかなるものでもありません。それでまずやっていただくことは死体の検証です」
「あちらへおいで下さい!」教区の役人がどなる。
そこで一同はだらだらとつづく葬列かなにかのように、まばらな行列をつくって出かけ、クルック氏の三階の裏部屋で検査をおこなうが、数人の陪審員は真青な顔をして、あわただしく引き上げて来る。役人は、袖口やボタンの辺があまりきれいでない二人の紳士のために特に配慮して(二人の便宜を考えて検死官のそば近くに特別の小テーブルが設けられた)およそ見られるかぎりのものはすべて見られるように取りはからってやる。というのは、この二人の商売はこういう調査の公けの記録者、つまり新聞記者だからで、役人といえども人間共通の弱点を超越しているわけでなく、「当区の敏活聡明な役人ムーニー」の言行を活字で読めたらという希望を抱いているし、それどころか、ムーニーという名前が、最近の例にあったとおり、絞首刑執行人の場合と同じように親愛の念をこめて書かれるのを見たいとまで願っている。
検死官と陪審員が帰って来るとリトル・スウィルズが待っている。タルキングホーン氏も同様である。タルキングホーン氏は特別待遇で迎えられ、検死官のそばに、つまり、この高位の司法官と小型玉つき台と、石炭入れとのあいだに席を占める。ふたたび調べが始まる。陪審員は調査の対象である人物がどのようにして死んだかを聞かされるけれども、この人物についてそれ以上のことはなにも聞かされない。「みなさん、ここにひじょうに著名な事務弁護士のかたが出席しておられまして」と検死官がいう、「私の聞いているところによりますと、このかたはこの死亡事実が発見された時、偶然その場に居合わせておられましたが、すでにみなさんが外科医、下宿の主人、下宿人および法律文房具商から聞かれた証言をくり返すことしかできませんでした。それでこのかたの労をわずらわす必要はありません。だれか出席のかたで、それ以上のことをなにか知っておられるかたがありますか?」
ミセス・パーキンズにおし出されてミセス・パイパーが前へ出る。彼女は宣誓をする。
みなさん、アナステージャ・パイパーです。既婚の婦人です。さあ、ミセス・パイパー――なにかこの事件についてしゃべることがおありですか?
もちろん、ミセス・パイパーは大いにしゃべることがあるけれども、主として関係のないことを立てつづけにしゃべるのであって、事件について話すことはあまりない。わたしゃこの小路に住んでまして(うちの人はここで家具師をしてます)ご近所の人たちのあいだじゃずっと前から知れ渡ってる話なんですけど(あれはうちのアレキサンダー・ジェームズ・パイパーが十八カ月と四日で仮洗礼を受けた二日前から数えてなんですよそういうことをしたのもあの子の命がないだろうと思いましたんでねなにしろみなさん歯ぐきが痛んでとてもひどい苦しみようでした)原作(5)は――ミセス・パイパーは死んだ男をそう呼んできかない――悪魔に魂を売り渡したっていう評判でしたよ。そういう評判が出生したのは原作の顔つきのせいだと思いますね。わたしゃよく原作を見かけて考えましたよおそろしい顔つきだなあこんな顔つきをうろつかせちゃいけない子供たちの中にゃ気の弱いものがいるんだからとね(嘘だと思うならミセス・パーキンズを前へ呼び出して下さいなだってあの人はここへ来ているんだしご亭主にも自分にも子供たちにも名誉になることですものね)。原作が子供たちをうるさがって腹を立てているのを見たことがありますよ(だって子供はどうしても子供なんですからねメトセラみたいになれといったって無理ですよことにいたずらっ子はねわたしたちだってそうだったんですから)。そういうことやら原作の陰気な顔やらでわたしゃよく夢を見て原作がポケットの中からつるはしを出してうちの亭主のジョニーの頭の鉢を割るのを見ましたよ(そういうおそろしいことを子供は知らないもんだからいつも原作のすぐうしろにくっついて大きな声でからかっていましたね)。ですけどほんとに原作がつるはしやらほかの武器をとり出すとこなんて見たことはないんですよとんでもない。あとを追っかけられてからかわれるとまるで子供がきらいみたように急いで逃げていきましたしいつも子供にだって大人にだって口をきくのを見たことなんて一度もありませんでしたよ(ただこの小路の角を曲って道の向うへいった大法官府横町の四つ辻を掃除してるあの男の子だけは別でしたよもしあの子がここにいれば原作とよく話をしてるとこを見られたことがあるって話すんでしょうがね)。
検死官曰く、その少年はここにいるかね? 教区の役人曰く、いいえ、ここにはおりません。検死官曰く、それではその少年をつれて来なさい。敏活聡明な人物が座をはずしているあいだ、検死官はタルキングホーン氏と話をかわす。
ああ! 少年が来ました、みなさん!
少年が来ました、ひどく泥にまみれ、ひどくしゃがれた声をして、ひどく破れたぼろを着て。さて、君!――だが少し待って下さい。慎重に。証言の前にこの少年に少し能力検査をしなければいけません。
名前はジョーだよ。ほかの名前なんて知らねえよ。だれでもみんな名前を二つ持ってるなんて知らねえよ。そんなこと聞いたこともねえ。ジョーっていうのが長い名前をちぢめただなんて知らねえよ。おいら[#「おいら」に傍点]にゃこれでもけっこう長いと思うよ。おいら[#「おいら」に傍点]はこれで文句はねえ。名前を書けるかって? いいや。おいら[#「おいら」に傍点]にゃ書けないよ。おやじはない、おふくろはない、友だちはない。学校へいったことはないよ。家庭ってなんだい? |箒《ほうき》が箒だってことを知ってるし、嘘をつくのは悪いっていうことを知ってるよ。箒や嘘のことをだれに聞いたか覚えてないけど、両方とも知ってるよ。もしおいらがここにいる旦那たちに嘘をついたら死んでからどんな目に会うのかはっきり分らねえけど、きっと、とてもおそろしいばちが当ってこらしめられるんだ――だから、おいらはほんとのことをいうよ。
「これではだめです、みなさん」と検死官が憂鬱そうに頭をふりながらいう。
「この子の証言は認められないとお考えなのですか?」と熱心に注目していた陪審員が尋ねる。
「問題になりません。今聞かれたでしょう。『はっきり分らねえ』ではだめですね。みなさん、そういうこと[#「そういうこと」に傍点]を法廷で採用することはできません。そんなことをするのは、おそるべき堕落です。この少年を片づけなさい」
少年は片づけられ、傍聴者一同は――ことに道化歌手のリトル・スウィルズは――大いに啓発される。
さて。ほかにだれか証人がいますか? だれもいません。
よろしい、みなさん! 今ここに一人の身元不明の男が阿片を飲みすぎて死亡していますが、この男は過去一年半にわたって阿片を多量に服用する習慣があったと証明されました。もし彼が自殺したという結論に達すべき証拠をみなさんがお持ちなら、みなさんはその結論を下すことになります。もし事故死だとお考えなら、その前提に応じた評決を出すことになります。
それでは評決。事故死。疑問の余地はありません。みなさん、みなさんの任務は終了しました。さようなら。
検死官が大外套にボタンをかけているあいだ、タルキングホーン氏と彼は先ほど拒否された証人に部屋の片隅で非公式な謁見を賜わる。
この野育ちの子供がわずかに知っているところによれば、死んだ男は(黄色い顔と黒い髪をつい今しがた見て少年はこの男を確認した)ときどき往来で弥次られて追いまわされるようなことがあった。冬のある寒い晩、少年がいつも掃除している四つ辻近くのある家の戸口で震えていると、男はふり向いて少年を眺め、あと戻りして来て、いろいろ質問したすえ、少年にただ一人の友だちもないのを知ると、「おれにもないのだ。一人も!」といって、夜食代と一夜の宿賃をくれた。それ以来男はたびたび少年に話しかけ、夜よく眠れるかとか、餓えと寒さをどうしのいでいるのかとか、死にたいと思うことがあるかとか、そういう妙なことをいろいろ尋ねた。男は金を持っていない時には、通りすがりに、「今日はお前と同じ文なしだよ、ジョー」というのが常であったが、いくらかでも持ち合わせていれば、いつも(と少年は心から信じている)よろこんで恵んでくれた。
「あの人はおいらにとてもよくしてくれた」と少年は、ぼろぼろの袖口で目をふいて、「ついさっき、あの人がすっかりのびちまっているのを見たら、おいらがそういうのを、あの人に聞いてもらえたらなあと思ったよ。あの人はとてもおいらによくしてくれた、ほんとになあ!」
少年が足をひきずりひきずり階下へ降りて来ると、スナグズビー氏が待ちかまえていて、半クラウン銀貨を少年の手に握らせる。「私がうちのちびと――うちのおばさんだよ――いっしょに、お前が四つ辻を掃除しているところを通りかかっても」といいながらスナグズビー氏は指で鼻をおさえ「この話をするんじゃないよ!」
陪審員たちはしばらくのあいだ話をしながら「日輪亭」にねばっている。そのあとで結局、六人(6)は「日輪亭」の奥の間にもうもうと立ちこめている煙草の煙にさらわれ、二人はハムステド(7)へ散歩に出かけ、四人は晩に半額で芝居を見物して帰りに|牡蠣《かき》料理をやろうと約束する。リトル・スウィルズは数人の客からふるまいを受け、今日の審問をどう思うかときかれて(彼の得意は俗語なので)「へんちくりんな|事件《やま》ですなあ」と答える。「日輪亭」の主人はリトル・スウィルズがたいそう人気があるのを知って、陪審員と傍聴者に向ってリトル・スウィルズを激賞し、この男は|声色《こわいろ》歌謡にかけては並ぶ者のない名人で、声色用の衣裳を荷車一杯になるほど持っていると告げる。
こうして、「日輪亭」は次第に夜の影の中に消えてゆき、やがてガス灯がともると、闇の中から急にあかあかと浮び出る。音楽会の時刻が近づいたので、その道で聞えた例の紳士が司会者席につき、それに顔を(赤い顔を)つき合わせてリトル・スウィルズが座を占め、ごひいき連中が二人のまわりに集り、一流の芸を支援する。会がたけなわになるとリトル・スウィルズが、諸君、もしお許しいただけますならば、本日ここでおこなわれました実生活の一場面を手短かに演じてお目にかけましょう、という。|大喝采《だいかつさい》と激励を受けた彼はスウィルズの姿で部屋を出てゆき、検死官の姿ではいって来て(それがまた、じつによく似ている)、検死審問の場を演じ、そのあいだになんべんも、検死官殿、ティピー・トル・リ・ドル、ティピー・トル・ロ・ドル、ティピー・トル・リ・ドル、ディー! というリフレーンを歌いながら、ピアノを伴奏してみなをよろこばす。
じゃんじゃん鳴っていたピアノもついに静まり、音楽会のごひいき連中は家に帰って枕のまわりに集る。すると、今はもう地上における最後の|住処《すみか》に寝かされた、よるべない遺骸のまわりに安息が訪れ、夜の静かな数刻のあいだ、遺骸はよろい戸のさびしい二つの目に見守られている。この孤独な男がおさない子供のころ、母の慈愛にみちた顔を見あげながら、まだろくろく握ることも知らない柔い手を母のうなじに置いたまま、その胸にいだかれていた時に、今ここに横たわっている姿を、もし予言によって母が見ることができたなら、どんなに信じがたく思ったことであろうか! ああ、もしこの男が、もっと幸福であった時分に、今はもう消えはてた情熱を、自分を愛してくれた一人の女性のために燃やしたことがあったとしたら、このなきがらがまだ地上にあるというのに、その人は今どこにいるのだろうか!
この晩、クック小路のスナグズビー氏の家は安息どころではない。というのはガスタが、スナグズビー氏自身も認めているとおり――ありていに申せば――持病の発作を次から次へと二十回も起して、安眠を完全に妨害するのである。この発作の原因はといえば、彼女が感じやすい心の持主だからであり、またトゥーティングの託児所と彼女の守り神ともいうべきその所長のもとで育った経験がなければ、おそらく妄想と思われるような、ある敏感な感情の持主だからである。その感情がなんであるかはさておき、とにかく、午後のお茶の時にスナグズビー氏が今日出席した検死審問の話をしたため、おそろしく感情を刺激されて、夜食の時にガスタはまずオランダ・チーズを、まるでさまよえるオランダ人(8)のように、台所へすっ飛ばすと、つづいて自分も飛びこみ、ひどく長い発作を起し、治まったかと思うと、また次から次へ連続何回もくり返したが、いじらしくも発作の短い合間合間を利用して、スナグズビー氏の細君に「すっかり正気に戻っても」首にしないでくれと歎願し、それから家じゅうの者に向って、自分を石の上に寝かせて、みんなもう寝床へいってくれと頼むのであった。それでスナグズビー氏は、カーシター通りのちいさな牛乳屋の雄鶏の、私心を捨てて夜明けをよろこんでいる声がとうとう聞えて来ると、この忍耐強い男としてはめずらしく、長いため息をつきながら、「お前が死んだのかと思ったよ、まったく!」という。
この感激性の強い鶏は、こんなに一所懸命にとき[#「とき」に傍点]を作って一体どんな問題を解決するつもりなのかとか、自分にとってなんの意味もないことに、なぜこんなに得々と鳴き立てるのか(もっとも、人間にしても、いろいろ公けの盛儀のさいに、同じように得々と鳴き立てるものである)というようなことはわれわれの関する問題ではない。夜明けが来て、朝が来て、昼が来るだけで充分である。
新しい日が明けると、朝の新聞に敏活聡明な人物と出ていた例の役人が、生活困窮者の一行をつれてクルック氏の家へ来て、ここに逝きしわれらの親しき兄弟を、塀をめぐらした教区の墓地へ運んでゆくが、ここはじつにいまわしい不健康なところで、ここから悪性の病気がいまだ逝かざるわれらの親しき兄弟と姉妹の体に伝染するのに、事務所の裏手階段の近くをうろついているわれらの親しき兄弟や姉妹は――こういう連中こそほんとうに[#「ほんとうに」に傍点]逝ってもらいたいものだ!――満足しきって楽しそうにしている。われらの親しき兄弟は、トルコ人でも|言語道断《ごんごどうだん》の未開地として拒絶し、カフィル人(9)でもおぞけをふるいそうな、けがらわしい一片の土地の中へうめられて、キリスト教徒としての埋葬式を受けるのである。
いやなにおいのする、ちいさなトンネルのような露地が墓地の鉄門に通じているところを除けば、この墓地は四方に家が立ちならんでいるが――死のすぐ隣りで生のあらゆる悪が活動し、生のすぐ隣りで死のあらゆる毒素が活動している――ここでわれらの親しき兄弟は地下一、二フィートのところにおろされ、ここで腐敗した土の中に|蒔《ま》かれたのち、腐敗の中でよみ返り、多くの病める人々の枕もとに復讐の幽霊となってあらわれ、この高慢な国においては文明と野蛮とが手をつないで歩いていたことを未来の時代に証言する恥ずべき証人となる。
夜よ来い、闇よ来い、このような場所の近くへお前たちはいくら早く来ても早すぎることはないし、いくらおそくまでいてもおそすぎることはない! まばらな光よ、みにくい家々の窓の中へはいれ、そしてその中で不義をおこなうお前たちはせめてこの場所の恐るべき光景を目に見えぬようにしておこなえ!
来い、鉄門の上で不機嫌に燃えているガスの焔よ、その門の上には有毒な空気の中からぬらぬらした魔女の軟膏が降りつんで来る! お前は人が通るたびごとに「ここに注意!」と叫ぶがよい。
夜になるとともに、前かがみにのろのろ歩いて来る人影がひとつ、トンネルのような露地をぬけて、墓地の鉄門の外側に来る。それから両手で門につかまり、鉄棒のあいだから中をのぞき、しばらくのあいだ立ったままのぞきこんでいる。
それからこの人影は持って来た古い|箒《ほうき》で静かに石段を掃除し、門のアーチの下の通路を清める。たいそう忙しげに、こぎれいに仕事を終え、またしばらく中をのぞき、それから立ち去る。
ジョー、お前か? そうなのか! お前は拒否された証人で、人間よりも大いなるかたの手によって自分がどんな目に会わされるのか「はっきり分らねえ」けれども、外の闇にすっかり呑みこまれてはいない。次の言葉をつぶやいたお前の理性の中には一すじの遠い光に似たものがある。
「あの人はおいらにとってもよくしてくれたよ、ほんとに!」
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第十二章 警戒
とうとう遠いリンカンシア州で雨がやみ、チェスニー・ウォールド荘園は活気づいた。レスタ卿と奥方とが近くパリから帰国されるので、女中頭のミセス・ラウンスウェルは歓迎の支度にいそがしい。社交界雀がいち早くこれを嗅ぎつけ、なにも知らないイギリスに吉報をつたえる。それのみか、レスタ卿夫妻が、|上流社会《ボー・モンド》の中でも|選りぬき《エリート》の名流人士たちを(社交界雀は英語に弱いけれども、フランス語にはすこぶる強い)、リンカンシア州にある、家重代の由緒ある、客あしらいのよい領主館に招いて歓待するつもりでいることまでも嗅ぎつけた。
名流人士たちと、ついでにチェスニー・ウォールド荘園に、一層の敬意を表するため、猟園の橋のくずれたせりもちは修理されるし、川は、もうふだんの水位に戻ってふたたび優雅なせりもちを掛けられたので、屋敷から眺める人たちの目を惹きつける。澄みきった冷たい日光は移り気な森の中をちらりとのぞきこみ、身を切るような風が木の葉をちらし|苔《こけ》を乾かしている有様を満足げに眺める。そして猟園の上空を滑走しながら、うつろう雲の影を追いかけるけれども、一日じゅうつかまえることができない。日光はまた屋敷の窓をのぞいて、デッドロック家の先祖たちの肖像に、作者が思っても見なかった明るい|縞《しま》や斑点を描く。それから大煖炉の上のほうにかけてあるレスタ卿夫人の絵に向って、まるで|盾形《たてがた》紋章の|左帯《ベンド・シニスタ》(1)のように、幅の広い光線を投げると、光は屈折してぱっと炉ばたに射しこみ、煖炉をひき裂くかとばかりに見える。
同じ冷たい日光と同じ身を切るような風の中を、奥方とレスタ卿とは旅行用の四輪馬車に乗って(うしろの従者席に奥方の侍女とレスタ卿のやさしい従僕を乗せ)家路に向う。鈴とむちをしきりに鳴らし、鞍をつけぬ二頭の馬と、ぴかぴか光らせた帽子に乗馬長ぐつといういでたちの|手練《てだ》れの御者二人とが、何度も示威運動よろしく、わざと大げさに体を前にのめらせ、馬のたてがみと尾をなびかせているうちに、馬車はわだちの音も高らかにヴァンドーム広場にあるブリストル・ホテルの中庭を出て、ゆるい駆け足で、光と影とが市松模様をつくっているリヴォリ街の並木道と、首をはねられた国王(2)と皇后の住んでいた不幸な宮殿の庭園のあいだを抜け、コンコルド広場、シャンゼリゼー大通り、それから|凱旋門《がいせんもん》を通ってパリを出る。
じつをいえば、レスタ卿夫妻はどんなにいそいで立ち去ったとしても、いそぎ過ぎることはないのである。というのは、パリにいてさえ奥方は死ぬほど退屈していた。音楽会、会合、歌劇、芝居、馬車の遠乗り、なに一つ奥方にとってこの疲れ切った空の下に新しいものはない(3)。つい先週の日曜日、あわれな|下々《しもじも》の連中は陽気に浮かれていた――市内では、テュイルリー宮殿の庭園へ行って刈りととのえた木々や銅像のあいだで子供たちと遊んだり、犬の芸当や木馬でいやが上にも|至福境《シヤン・ゼリゼー》(4)らしくなったシャンゼリゼー通りを二十人も並んで歩いたり、その合間には(数人が)陰鬱なノートルダム大聖堂の中へはいりこみ、柱の台のところで、錆びたちいさな鉄格子窓一面にゆらぐ細ろうそくの火に照らされながら、一こと二ことしゃべるのだった――郊外では、パリのまわりじゅうで、ダンスをしたり、恋をしたり、酒を飲んだり、煙草をふかしたり、墓参りをしたり、玉突き、トランプ、ドミノをしたり、いかさまをしたり、もっとおそろしい屑やごみ(物や人間の)をまきちらかしたりしていた――しかし、つい先週の日曜日、レスタ卿の奥方は退屈のあまり心はあじけなく、ディスペアという名の巨人(5)につかまえられてしまったので、自分の侍女が元気よくしているのを憎らしいほどに思った。
それゆえ、奥方がいくら急いでパリを去っても急ぎすぎることはない。|倦怠《けんたい》は背後ばかりか前途にもある――彼女のエアリアル(6)が世界じゅうに倦怠の帯をむすんでしまったので、解くことができない――しかし、せめてもの対策は、倦怠を感じたならその土地から逃げ出すことである。それゆえ、パリをはるかうしろにふり捨て、冬木立の立ちならぶ、はてしない大路小路をゆくがよい! そして今度パリを眺めるのは、何マイルも遠ざかってからにするがよい、その時凱旋門は日向できらめく一白点、町は平野の中の一小丘となり、黒ずんだ四角い塔が二つそびえ立ち、光と影が町の上へ、さながらヤコブの夢みた天使のように(7)、斜めに降りそそいでいるだろう!
レスタ卿はつねに満足しきっていて、めったに退屈することがない。ほかになにもすることがなければ、いつも自分の偉大さを考えることができるのである。こういう無尽蔵の題目を持っているのは、人間としてかなりの強みである。馬車の中で手紙を読んでしまうと、彼は隅のほうでそり返って、社会に対する自分の重要さをあれこれ吟味し直す。
「今朝はいつになく沢山お手紙が参りましたのね?」と長いことたってから奥方がいう。彼女は本を読んだので疲れている。二十マイルかかって一ページ近く読んだのである。
「しかし、別に大した手紙はなかった。なにもなかったよ」
「タルキングホーン弁護士から例の長手紙が参っていたようでございますが?」
「あなたはなんでも気がつくのだねえ」レスタ卿が感服していう。
「まあ!」と奥方はため息をついて、「あの人はほんとうに退屈な人でございますわ」
「あの男から――どうもあなたにすまないことをしたが――あの男から」とレスタ卿は手紙をより出してひろげながら、「あなたに伝言があるのだ。その追伸を読んでいた時に、馬車がとまって馬を替えたものだから忘れてしまった。|赦《ゆる》しておくれ。あれがいうには――」レスタ卿が片眼鏡をとり出して掛けるのにたいそう手間どっているので、奥方はややいらいらした表情になる。「あれがいうには『私道の通行権に関して――』いや、御免、ここではない。あれがいうには――うむ! 見つかった! あれがいうには『おそれながら奥方様にはこのたびの御保養にて、ますます御機嫌うるわしくあらせられむことと念じ居候。なお過日、奥方様におかれいたく御関心を示され候大法官府訴訟関係供述書の代書人につき、奥方様御帰国の上いささか御報告申上げたき儀これあり候あいだ(御興味もおありかと愚考仕り候まま)、誠に恐縮に存じ候らえども右の旨御鶴声のほど願上候。老生、右代書人を見かけ申候』」
奥方は体を前に乗り出して窓の外を眺める。
「これがあの男の伝言だ」
「わたくしは少し歩いて参りたいと存じますが」と奥方はなおも窓の外を眺めながらいう。
「歩いてゆく!」レスタ卿はおどろきを声に出して、おうむ返しにいう。
「少し歩いて参りたいと存じますが」と奥方は聞きちがえようもないほど、はっきりという、「おそれ入りますが、車を止めて下さいませ」
馬車は止められ、やさしい従僕が従者席から降りてドアをあけ、奥方の手がもどかしげに合図するままに、ふみ段をおろす。奥方があまりにも、すばやく降り、すばやく歩いてゆくので、レスタ卿は例のいんぎんな心づかいにもかかわらず、手をかしてやることができず、あとにとり残される。一、二分たってから彼はようやく追いつく。彼女はにっこりほほえんで彼の腕をとり、いっしょに四分の一マイルほどぶらぶら歩いてゆくが、すっかり退屈して、ふたたび馬車の座席に戻る。
三日のあいだほとんど終日、馬車の車輪のがらがら、からから鳴る音、それに負けずに鈴とむちの音と、そして|手練《てだ》れの御者と鞍を置かぬ馬たちの示威運動とがつづく。泊り先の宿宿における准男爵夫妻のたがいにいんぎんな奥ゆかしい態度は、あらゆる人々の賞讃の|的《まと》になる。たしかに[#「たしかに」に傍点]殿様はあの奥方にはちょっと年をとり過ぎていなさるけれど、と金猿楼の|女将《おかみ》がいう、それにまるでやさしいお父さんみたいだけれど、お二人が愛し合っていなさることはひと目で分るよ。お|髪《ぐし》の白い殿様は帽子を手に持って、奥方が馬車に乗り降りなさるのを助けておあげになる。奥方は殿様のいんぎんな振舞いに感謝して、おつむを下げて、とっても上品な指をお出しになる! ほんとにうっとりしてしまうこと!
海は高貴の人々の値打を知らず、|雑魚《ざこ》同様にこづきまわす。その上いつもレスタ卿には手きびしく当たるので、彼の顔面はセージ入りのチーズさながら緑色のまだらを生じ、その貴族的な|体《システム》の中に陰鬱な革命が起る。彼にとって海は「自然の過激派」なのである。しかし、しばらく休養して力を回復すると、彼の威厳がこれを鎮圧する。そこで彼はロンドンに一晩だけ泊ったのち、奥方といっしょにリンカンシア州のチェスニー・ウォールド目指して旅をつづける。
同じ冷たい日光がますます冷たくなって日が傾き、同じ身を切るような風がますます身を切るようになって、森の裸か木のはなればなれの影が黒々と寄り集り、「幽霊の小道」がその西の隅を空の火の山に染められ、迫り来る夜に身を任せる中を、馬車はチェスニー・ウォールド荘園へはいってゆく。にれの並木道の高い|梢《こずえ》の住み家にとまっている|深山《みやま》がらすたちは、下を通り過ぎてゆく馬車にだれが乗っているのか論議しているらしく、レスタ卿と奥方とが来られたのだという説に賛成のものもあれば、この説を認めようとしない不平分子と議論しているものもある。この問題は解決したと一同の意見が一致したかと思うと、ねぼけ|眼《まなこ》のがんこ者が一羽、最後に反対の声をがなり立ててきかないのにあおられて、また急に激論が始まる。彼らが梢でかあかあ騒ぐのをそのままにして、旅行用の馬車が屋敷に乗りつけると、いくつかの窓には煖炉の火が温かそうにきらめいているが、残りの窓には火の気がないので、屋敷の黒ずんでゆく広い正面は、まだ今のところ人の住んでいるらしい表情を見せない。そうなるのはやがて名流人士たちが来た時のことである。
女中頭のミセス・ラウンスウェルが迎えに出ていて、うやうやしく会釈しながらレスタ卿からいつも通りの握手を受ける。
「どうだな、ミセス・ラウンスウェル。おまえに会えてうれしいよ」
「御前様、お変りもなくお帰りあそばされたことと存じます」
「しごく達者だよ、ミセス・ラウンスウェル」
「奥方様にはご機嫌おうるわしいようにお見受けいたしますが」とミセス・ラウンスウェルはまた会釈しながらいう。
奥方は言葉数少なく、この上もなく退屈で丈夫であると知らせる。
しかし召使頭のはるかうしろにローザが控えている。そこで奥方は、もう世の中のあらゆるものを征服してしまったけれども、まだ自分のすばやい観察力だけは意のままにできなかったので、こう尋ねる。
「あの娘はだれです?」
「私の下で行儀見習い中の者でございます、奥方様。ローザと申します」
「ここへおいで、ローザ!」レスタ卿の夫人は興味を起したらしい様子さえ見せて、彼女をさし招く。「まあ、おまえは自分がどんなにきれいか知っているの、ねえ?」といいながら彼女は両手の人さし指をローザの肩にふれる。
ローザはたいそううろたえて、「いいえ、ちがいます、奥方様!」といい、ちらりと視線を上げたり下げたり、どこを見てよいのか分らずにいるが、そのためいっそうきれいになる。
「おまえ、年はいくつなの?」
「十九でございます」
「十九ですって」と奥方はしみじみと相手の言葉をくり返す。「みなにちやほやされて、いい気になってはだめですよ」
「はい、奥方様」
奥方はさきほどと同じきゃしゃな、手袋をはめた指先でローザのえくぼの浮んでいるほおを軽くつつき、それからオーク材の階段のもとまでゆくと、そこにレスタ卿が足をとめて護衛の騎士よろしく待っている。実物大の、実物同様鈍感そうな、年老いたデッドロック家の祖先の一人が額ぶちの中から目を見はって、この光景をどう理解したものかといいたげな顔で眺めている――おそらくエリザベス朝当時における彼の心境も大体そうだったのであろう。
その晩、ミセス・ラウンスウェルの部屋に引き下ると、ローザはレスタ卿夫人を讃える言葉ばかりつぶやいている。奥方様はとても人づきがよろしくて、とてもお上品で、とてもお美しくて、とても優雅でいらっしゃるし、それにほんとうにおきれいな声、お手がさわった時の、ほんとうに身体じゅうがぞくぞくするような感じといったら、今でもローザははっきり覚えていますわ! ミセス・ラウンスウェルは自分でも誇らしく思いながら、ローザのいうことをいちいち認めるけれども、人づきがよろしいという点だけは差し控える。その点についてはあまり自信がない。むろん、彼女はこの名家の全員を、とりわけ、世間全体に讃美されている奥方を、一言半句でも非難するようなことは断じてしないが、しかしもし奥方様があれほど冷淡でよそよそしくなくて、「もう少し打ち解けて」下さったなら、もっと人づきがよろしくおなりになるだろうに、と考えている。
「奥方様にお子様がいらっしゃらないのはお気の毒といえるだろうね」とミセス・ラウンスウェルはつけ加える――しかし、これとても「いえるだろうね」といった程度のことにすぎない、なぜなら、デッドロック家は万事につけ天の特別の恵みにあずかっているから、現状にまさるものがありえようなどと考えるのは不信心に近い――「まあお嬢様でもおありになって、りっぱに御成人なさっていなさったら、なにかとお楽しみで、奥方様のたった一つの玉にきずもなくなっていなさったことだろうがねえ」
「もしそうだったら奥方様は今よりもっと高慢になっていたのじゃないかな、お祖母さん?」と孫のウォットがいう。彼は大変なお祖母さん子なので、いったん家に帰ってからまた出かけて来たのである。
「もっととか、もっともとかいう言葉はね、おまえ」とミセス・ラウンスウェルは威厳を見せていう、「私ふぜいが奥方様のご短所について使うべき言葉じゃありません――いいえ、それどころか――耳で聞くのさえもったいないことだよ」
「ごめん、ごめん、お祖母さん。でも奥方様はたしかに高慢だよ、ねえ?」
「たとい高慢にせよ、奥方様としては当然のことです。いつもデッドロック御一家のかたがたはそれで当然なのです」
「へええ! それじゃあデッドロック家の人たちには祈祷書にある、一般庶民に高慢とうぬぼれを戒めた箇所に線をひいてもらいたいものだね。いや、ごめんね、お祖母さん! ほんの冗談だよ!」
「レスタ卿御夫妻はね、お前、お笑い草にしていいかたがたじゃありません」
「レスタ卿は決して笑いごとではすまされぬかただ、だからつつしんでおわびするよ。お祖母さん、お屋敷の人たちやお客さんたちがここへ来ても、僕はほかの旅の者と同じように、村のデッドロック亭で一日二日滞在をのばしてもかまわないだろうね?」
「もちろんさ、ちっともかまわないよ」
「それはうれしいね、だって僕はこの美しい近辺をもっと知りたくてたまらないんだ」
彼がふとローザに視線を向けると、彼女は伏目になり、すっかりはにかんでしまう。だが古い迷信によると、ほてっているのはその色あざやかな、みずみずしいほおではなく、彼女の耳のはずである(8)。というのは、ちょうどこの時、奥方附きの侍女がひどくいきおいこんでローザのことを述べ立てているので。
奥方附きの侍女は三十二歳のフランス女で、南部のアヴィニョンとマルセイユの近くの出身である――目が大きく、肌はとび色で、髪の毛は黒く、器量はよいほうだが、猫のような口つきの上に、顔全体が不愉快なほどきつく引きしまっているため、あごが張りすぎ、頭蓋骨が突き出しすぎて、美人とはいえない。身体にはどことなく、なんともいえぬほど鋭くしかも弱々しいところがあるし、また頭を――なくてくれればありがたいその頭を――動かさずに横目を使ってじっと盗み見をする癖があり、ことにこれは不機嫌で険悪な気分の時に多い。こういった欠点が趣味のよい衣服や装飾品すべてのあいだからはっきりとあらわれるので、彼女はまるでまだよく飼いならされていない、たいそうこぎれいな牝狼のようである。そして自分の勤めに関係した知識をすべて身につけているばかりか、英語の心得にかけてはほとんど本国人に劣らない――それで、奥方のお目にとまったローザに浴びせる言葉に少しも不自由せず、夕飯のテーブルに向うと、ものすごいあざ笑いを浮べながら、いろいろな言葉を雨と降りそそぐので、相手役のやさしい従僕は彼女の演技が終りに近づいた時にはほっとする。
ほ、ほ、ほ! このオルタンスはね、奥方様に御奉公して五年になるけど、いつも遠慮していたのに、この人形ったら、このあやつり人形ったら、奥方様がお屋敷にお着きになるやいなや、もうかわいがられている――文字どおりかわいがられているんですよ! ほ、ほ、ほ! 「そしてお前は自分がどんなにきれいか知っているの、ねえ?」「いいえ、ちがいます、奥方様」そう、お前のいうとおりさ! 「そして年はいくつなの? そしてみなにちやほやされて、いい気になってはだめですよ!」まあ、なんてこっけいなんでしょう! こんなにおもしろい[#「おもしろい」に傍点]ことったら、ほんとにありゃしない!
つまり、まったくすばらしいことなので、マドモアゼル・オルタンスはそれを忘れることができず、その後何日間も、食卓に向うと、大勢の滞在客に奉公している、彼女と同じ身分の同国人やほかの者たちが同席している時でさえ、だまりこんだまま、このお笑い草をくり返し楽しんでいる――その楽しさは彼女独特の陽気な表情になってあらわれ、かたく張った顔がますます引きしまり、唇はきっとむすばれてうすく横にのび、目が横を向くのであるが、奥方が鏡のそばにいない時には、この熱烈なユーモア鑑賞がたびたび奥方の鏡の上にうつし出される。
邸内の鏡は大部分が長らく空白期間を送って来たが、今や全部が活動を開始する。端麗な顔、つくり笑いをしている顔、若々しい顔、年をとることに我慢できない七十歳の顔、正月の一、二週間をチェスニー・ウォールドで過すためにやって来た顔という顔、つまり、セント・ジェームズ宮廷で隠れ場から飛び立って以来(9)死ぬまで、|主《ロード》の偉大な狩人(10)である社交界の消息通の鋭い嗅覚によって追いつめられるすべての顔が鏡にうつる。リンカンシア州のデッドロック家の領地はすっかり活気づいた。昼間は、鉄砲や人声が森に鳴りひびくのが聞え、騎馬の人や馬車で領内の道路はにぎわい、滞在客の召使や取り巻き連中が村とデッドロック亭にあふれる。夜、遠い|木《こ》の|間《ま》をすかして見ると、屋敷の長い大応接間(この部屋の大煖炉の上に奥方の肖像がかけてある)の一列にならんだ窓は、さながら黒いわくにはめられた宝石の列のようだ。日曜日になると、猟園内の肌寒いちいさな教会は大勢のきらびやかなよそおいの人々で暖いほどになり、あたりに漂うデッドロック家の|埃《ほこり》のにおいはかぐわしい香水によって消される。
名流人士のうちには教養、思慮、勇気、廉恥心、美貌、美徳の持主が少なからずいる。だが、絶大な長所がいろいろあるにもかかわらず、名流人士にはどこか少しまちがったところがある。それは一体なにか?
|伊達《だて》好みだろうか? 今ではもう伊達男の流行の模範を示してくれるジョージ四世(11)はいないし(それだけにかえって残念である!)、のりで固めた、ジャック・タオル(12)のようなネクタイも、胴が胸の辺までしかない上衣も、付けふくらはぎも、男性用コルセットもない。今ではもう、そういう服装をして、オペラの特等席で歓喜のあまり気を失い、仲間の優雅な連中に首の長い香水びんで鼻をこづいてもらって息をふき返す、にやけた|洒落《しやれ》男のまがいものもいない。鹿皮の細い半ズボンを四人がかりでようやくはかせてもらったり、死刑の執行があるたびに見物に出かけたり、かつて一度えんどう豆を食べたのを気に病んだりする伊達者はいない。だがそれにもかかわらず、名流人士のあいだには伊達好みがあるのだろうか。むかしのそれよりたちが悪く、表面よりもっと中へはいりこんでしまって、ジャック・タオルを身体に巻きつけて胃の消化力を停止させるといった程度のことよりも(その程度のことなら理性のある人は格別異論を唱える必要はない)さらに有害な影響を及ぼす伊達好みが?
そう、そのとおり。それを隠しおおせるものではない。現に[#「現に」に傍点]、正月のこの週、チェスニー・ウォールドには、そういう伊達好みを――たとえば宗教について――始めた最新の上流紳士淑女が何人かいる。生気がなくて感情にとぼしいばかりに、彼らはみな、民衆はあらゆる物事について信仰に欠けるところがあるという伊達好みの発言に賛成したが、彼らのいうあらゆる物事とは試験の結果欠陥があると決定された物事のことで、まるで|下々《しもじも》の者は粗悪な貨幣が見つかると不可解|千万《せんばん》にもこれに対する信仰を失うといわんばかりである! 彼らは時代という時計の針を逆にまわし、数百年の歴史を抹殺することによって、民衆をきわめて美しい、信仰にあつい存在たらしめようと願うのだ。
また、彼らほど新しくはないけれどもきわめて優雅な別の上流紳士淑女たちは、この世の中をうわべだけつややかに飾って、その現実をすべておさえつけることに同意した。この人たちにとってすべてのものは力なく、かつきれいでなければならない。彼らは一切が永遠に停止していることを発見した。いかなるものに対しても、よろこびもしなければ悲しみもしない。また思想によって心をかき乱されることもない。彼らにとっては、芸術でさえ髪粉をつけてそば近くに侍り、宮内長官のようにあとじさりに歩き、帽子屋や洋服屋がつくった前代の|柄《がら》で身をよそおい、特に、真剣になったり、進展する時代の影響を受けたりすることがないように注意しなければならぬのである。
それから次に、ブードル卿は自分の党にかなり信望があり、大臣の職がどのようなものであるかを身をもって知って来た人であるが、晩餐後たいそうむずかしい顔をしてレスタ・デッドロック卿に、私は今の時世がどういうほうに進んでいるのかじっさい分りませんと告げる。議会の討論は以前とちがって来ました、議会も以前とちがって来ました、内閣ですら昔とちがって来ました。気がついておどろいた次第ですが、もしかりに現政府が倒れるとしたら、新内閣の組織にあたって国王によって首相にえらばれるのはクードル Coodle 卿かトマス・ドゥードル卿でしょう――それはフードル Foodle 公爵がグードルと協力することはありえないと仮定しての話ですが、二人はフードル Hoodle との例の事件で不和になっていますから、まあそう考えてよいでしょう。そこでジュードルを内務大臣兼下院指導者にして、クードル Koodle を大蔵大臣に、ルードルを植民地相に、ムードルを外相にすると、ヌードルをどう処遇したものでしょう? 枢密院議長にするわけにはゆきません、これはプードルのために取ってあるのです。森林大臣に向けるわけにはゆきません、これはクードル Quoodle にはちょっとひどすぎるポストですから。そうすると、どういうことになるのでしょう? つまり、わが国は破滅し、滅亡し、瓦解してしまいます(愛国心に富んだレスタ・デッドロック卿にはもうはっきりお分りのとおり)、なにしろ、ヌードルにポストを与えることができないのですから!
また他方では代議士ウィリアム・バフィ閣下がテーブル越しにだれやらほかの者を相手に、わが国の破滅は――破滅することは一点の疑いもない、問題はただ破滅の仕方だけだ――カフィ Cuffy のせいだ、と主張している。もしカフィが始めて代議士になった時、あなたが彼に対して当然とるべき処置をとって、ダフィの味方になるのを防いでおいたなら、彼をファフィと協調させることができたでしょうし、ガフィの俊敏な討論家たる能力をあなたの陣営に確保できただろうし、ハフィの財力を選挙に集中させることができたでしょうし、ジャフィとカフィ Kuffy とラフィを三つの州選挙区で当選させることができたでしょうし、あなたの内閣をマフィの官職に関する知識と実務的な習慣とによって強化することができたでしょう。ところがこれが全部、今のあなたのやりかたとちがうあのパフィの単なる気まぐれによって左右されてしまった!
この問題についても、ほかのいくつかのちいさな話題についても、いろいろ意見の相違はあるが、満座の名流人士たちにとって明々白々なことは、ブードルと彼の家の子郎党、バフィと彼の[#「彼の」に傍点]家の子郎党以外の者はすべて問題にならぬということである。これらの人々だけが舞台を独占する名優たちなのである。なるほど、国民というものがいるが――これはその他大勢の大部屋役者で、芝居の舞台におけると同様、ときたま言葉をかけられたり、叫び声をあげたり、合唱したりするのが役目で――ブードルとバフィ、彼らの家来と一族、相続人、遺言執行者、遺産管理人、財産の譲受人が生れながらの一流役者、|座元《ざもと》、指導者で、それ以外の者は永久に舞台に登場することができない。
チェスニー・ウォールドに集った人たちのこういう考えかたの中にもまた、長い目で見れば結局名流人士のためにならぬような伊達好みがおそらく含まれていよう。なぜなら、もっともおだやかな最上流の人々ですら、死者を呼び出してうらないをするといわれる魔術師の周囲に寄り集まる人々と同じである――彼らは自分たちの外部で奇怪きわまるまぼろしがさかんに動いているのを見ることだろう。ただ名流人士の場合ちがうのは、動いているのが亡霊でなくて現実であるだけに、それらが侵入して来る危険がいっそう大きい。
チェスニー・ウォールドの屋敷はすっかり人でいっぱいになり、あまりいっぱいなので悪い部屋をあてがわれた侍女たちの胸の中には、誇りを傷つけられたうらみが燃え上り、なかなか消えない。空いている部屋は一つしかない。それは屋敷の部屋の序列からいえば三番目の、塔の中の部屋で、簡素ではあるが居心地よく設備され、古風な事務室ふうの見つきである。これはタルキングホーン弁護士の部屋で、ほかの者には決して使わせない、彼がいつなんどき来るかも知れないので。彼はまだ屋敷へ来ていない。彼のいつものもの静かな習慣によると、天気のよい時には、村から歩いて来て猟園を横切り、まるでこの前に来た時以来一度も室外へ出たことがなかったかのように、むぞうさにこの部屋へはいり、召使に向ってレスタ卿が御用でお呼びになるかも知れないから、私が参っているとお伝えしてくれと命じ、夕食の十分前に書斎のドアの陰に姿をあらわす。夜は頭上で旗ざおが風にさびしくきしっているこの塔で眠り、翌朝になると少し外を出歩いて、滞在ちゅう晴れた日にはいつも、大型の|深山《みやま》がらすのような彼の黒い姿が朝飯前の散歩をしているのが見受けられる。
毎日、晩餐の前に奥方は書斎の夕闇の中に彼の姿を求めるけれども、彼はそこにいない。毎日、晩餐の時に奥方はちらりとテーブルを眺め渡し、もし今しがた着いたばかりなら彼を迎える席がとってあるはずと、あいた席を求めるけれども、あいた席は一つもない。毎晩、奥方はさりげなく侍女に尋ねる。
「タルキングホーンさんは来ましたか?」
毎晩、返事は、「いいえ、まだでございます」
ある晩、奥方は髪をとかせている時に、この答えを聞いてから深いもの思いにふけってしまったが、やがて気づくと前の鏡に自分の思いに沈んだ顔と、ふしぎそうに自分を見つめている二つの黒い目がうつっている。
「自分の仕事をお忘れでないよ」と、そこで奥方は鏡の中のオルタンスの顔に向っていう。「おまえが自分の美しさに見とれるのはほかの時でもできます」
「ごめんあそばせ! 奥方様のお美しさに見とれていたのでございます」
「そんなこと、いらないお世話です」
とうとう、ある日の午後、日の沈む少し前、それまでの一、二時間「幽霊の小道」をにぎわしていた、いく群れかのきらびやかな人影が散り、レスタ卿と奥方だけがテラスに残っていると、タルキングホーン氏が姿をあらわす。例の早めもしなければゆるめもしない、きちょうめんな歩調で二人のほうへ歩いて来る。顔には例の無表情な仮面――もしそれが仮面だとすれば――をつけ、すべての手足と洋服のすべての折目には、名家の秘密をひそめている。この男は魂のすべてを高貴な人々にささげているのか、それとも金で売り渡す奉仕以上のものはなに一つ譲り渡さないのか、それは彼だけが知っている秘密である。彼はこの秘密を、訴訟依頼人の秘密を守ると同じように守っていて、この事件については自分が自分の依頼人であり、決して自分自身を裏切りはしないだろう。
「タルキングホーン君、機嫌はどうかね?」とレスタ卿は手をさし出しながらいう。タルキングホーン氏はしごく元気である。レスタ卿もしごく元気である。奥方もしごく元気である。みんなまったく申しぶんがない。弁護士は両手をうしろに組み、レスタ卿のわきについてテラスを歩いてゆく。奥方は反対側をついてゆく。
「君がもっと前に来るものと思っていたよ」とレスタ卿はいう。|優渥《ゆうあく》な言葉である。まるで、「わざわざここまで出かけて来て、君がこの世に存在していることを知らせなくとも、私たちは忘れてはいないのだ。遠慮なしにいっておくがな、君!」といわんばかりである。
タルキングホーン氏にはそれが分るので、頭をさげて、まことにありがたいしあわせで、という。
「もっと早く参るはずでございましたが」と彼は弁明する、「ご当家とボイソーンとのあいだにいくつかございます訴訟の用事にすっかり追われておりました」
「あれはまったく無茶苦茶な男だ」とレスタ卿は手きびしい批評を加える。「どこの社会へいっても危険きわまる人物だ。じつに人格|陋劣《ろうれつ》な男だ」
「あの人は頑固でございまして」
「ああいう男としてはそれが当然だ」とレスタ卿は自分もこの上なく頑固らしい顔つきになって、「そういわれても少しもおどろかぬよ」
「ただ問題は」と弁護士は話を進めて、「|御前《ごぜん》様が多少なりとご譲歩なさいますかどうかでございます」
「だめだ」とレスタ卿が答える、「そんなつもりは|毛頭《もうとう》ない。この私[#「この私」に傍点]が譲歩する?」
「重要な事柄についてと申すのではございません。むろん、そのような事柄を放棄あそばされないことは心得ております。私の申すのはささいな条項についてでございます」
「タルキングホーン君、私とボイソーン氏とのあいだでは、ささいな条項などあるはずがない。いや、さらに進んでいえばだ、私の権利が一つでも[#「一つでも」に傍点]ささいな条項だなどと、私にはなかなか考えられない。だが、この発言は個人としての私に関してというより、むしろ私が維持すべき責任を負うているわが家の地位に関してなのだ」
タルキングホーン氏はまた頭をさげる。「御指図、たしかにうけたまわりました。ボイソーン氏はさぞかし世話を焼かせることでございましょう――」
「世話を焼かせるのが、タルキングホーン君」とレスタ卿は彼の言葉をさえぎって、「ああいう性質の人間の特徴だよ。ひどくつむじ曲りの平等主義者なのだ。ああいう男は五十年前だったら、煽動行為の罪で中央刑事裁判所の裁判にかけられ厳罰を受けただろうのに――たとい」レスタ卿は一瞬言葉につまるが、すぐにつけ加える、「たとい縛り首にされ、はらわたを抜かれ、四つ裂きにされ(13)ないまでも」
レスタ卿はこの死刑の宣告を下すと、いかめしい胸の中の悩みが晴れるらしい、まるで宣告を執行してもらった場合に近いほどの満足がえられたかのように。
「しかし、夜がだんだん迫って来るし」と彼はいう、「家内が風邪をひいてしまう。ねえ、おまえ、家の中へはいろうじゃないか」
一同が玄関のドアのほうへ足を向けると、その時始めてレスタ卿夫人がタルキングホーン氏に言葉をかける。
「いつでしたか、ちょっと書類の筆蹟のことをあなたに尋ねましたけれど、その代書人についてことづてを下さいましたね。あんなことを覚えていたなんて、いかにもあなたらしいこと、わたくしはすっかり忘れていましたのに。あなたのことづてで、また思い出しました。あんな筆蹟を見て、わたくし、一体なにを思い起したのか見当がつきませんけれど、たしかになにか思い起したのです」
「なにか思い起されたのでございますね?」とタルキングホーン氏はおうむ返しに尋ねる。
「ええ、そうなの!」奥方はむぞうさに答える、「そうにちがいないと思います。それで、ほんとうにあなたはあの現物――なんといったかしら?――宣誓供述書を書いた人をわざわざ探し出してくれましたの?」
「はい」
「まあ、ずいぶんおかしなこと!」
一同は一階のうす暗い朝食室へ通るが、ここは昼間は奥行の深い二つの窓から光をとり入れている。今はもうたそがれ時である。煖炉の火がパネル張りの壁にあかあかと輝き、窓ガラスに青白く光って、ガラスに映った冷い焔を通して、外ではさらに冷い風景が風の中でふるえ、灰色のもやがのろのろと|這《は》い、もやのほかに動いているものといえば、見渡すかぎりの雲の荒海ばかり。
奥方は煖炉の壁すみの大椅子にもたれ、レスタ卿はそれに向い合った別の大椅子に腰かける。弁護士は火の前に立ち、手をいっぱいにのばして火影が顔に当たるのをさえぎる。そして腕ごしに奥方を眺める。
「はい、私はその男を尋ねて見つけました。そして、じつに奇妙なことに、見つけましたところが、その男は――」
「別に、途方もない人などではなかったのでしょう!」デッドロック夫人が先手をとって、ものうげにいう。
「見つけましたところが、その男は死んでおりました」
「ああ、それはいかん!」とレスタ卿が抗議する。死んでいたという事実に衝撃を受けたというよりも、むしろそういう事実を述べたという事実に衝撃を受けたのである。
「その男の下宿を――あわれな、みすぼらしい家でした――教えられて訪ねてみますと死んでいたのでございます」
「失礼ながら、タルキングホーン君、私の考えでは、なるべく話さないほうが――」
「どうぞ、御前様、おしまいまでお話を聞かせて下さいませ」(奥方が口を出したのである)「たそがれには|恰好《かつこう》のお話でございますわ。まあ、ずいぶんおそろしいこと! 死んでおりましたの?」
タルキングホーン氏はまた頭をさげて、その事実を主張する。「その男が自分自身の手によって――」
「断じていかん!」レスタ卿が大声をあげる、「まったく!」
「ぜひ聞かせて下さいませ!」と奥方はいう。
「おまえの好きなようにするがいいよ。しかし、私としてはいわねばならぬが――」
「いいえ、あなたはおっしゃってはいけません! タルキングホーンさん、つづけて下さい」
妻に対するレスタ卿のいんぎんさがこの条項を譲歩するが、それでもなお彼が考えているところによると、この種のむさくるしい話を上流階級のあいだに持ちこむことは、まったく――まったく――
「今お話しかけておりましたが」と弁護士は落着きはらって話をつづけ、「その男が自分自身の手によって死んだのかどうかは、私としては分りかねます。けれども、その言葉を修正して、自分自身の行為によって死んだことは疑問の余地がないと申すべきなのでございます。もっとも、自分自身意識して故意にしたのか、それとも誤ってしたのかは、たしかめることができません。検死官の陪審員は誤って毒薬を飲んだという評決を下しました」
「それで、そのみじめな男はどんな人でした?」と奥方が尋ねる。
「曰くいいがたし、でございます」と弁護士は頭をふりながら答える。「ひどくみじめな暮しをして、まったくなりふりかまわず、ジプシーのような黒い色をして、黒い髪の毛とあごひげはのび放題でございましたから、私は、まあ下層の中でも最下層の人間でしょうと思いました。しかし、医者は、むかしは容貌も身分ももっとましな人間だったという意見でございました」
「なんという名前でしたの?」
「みんなその男の自称していた名前で呼んでおりましたが、だれ一人として本名を知っている者はございませんでした」
「看護をした人もですか?」
「看護をした者は一人もありません。死んでから発見されたのでした。じつは私が発見したのでございます」
「それ以上なに一つ手がかりもなく?」
「なにもございませんでした。ありましたものは」と弁護士は黙想にふけっているような口調で、「古カバンが一つ、けれども――はい、身元を明らかにするような書類はまったくございませんでした」
この短い対話の一語一語をしゃべっているあいだ、デッドロック夫人とタルキングホーン氏は、ふだんの態度を少しも変えなかったけれども、ただ、たがいに相手をじっと見つめていた――そういう異常な話題について話し合っているさいのことゆえ、おそらく、これは当然のことだったろう。レスタ卿は階段の上にかかっている、デッドロック家一族に共通の表情を浮べたまま、煖炉の火を眺めていた。話が終ると、先ほどのあのいかめしい抗議をまた始めて、奥方の思い起したことというのが、このあわれな男であるはずがないことはまったく明瞭であるから(もし彼が無心状の代書人であるなら別として)、奥方の身分と雲泥の差のあるこういう話をもう聞かされることはあるまいと信ずる、と述べる。
「たしかに、おそろしいことずくめでしたけれども」と奥方は外套と毛皮のえり巻きを体にしめつけながら、「さしあたりの退屈しのぎにはなりますわ! すみませんが、タルキングホーンさん、ドアをあけて下さい」
タルキングホーン氏はうやうやしくドアをあけ、奥方が出てゆくまでおさえている。奥方はいつもながらの疲れたものごしと傲慢優雅な態度で彼のそばを通り過ぎる。二人は晩餐の時――その翌日――つづいて何日も――また顔をあわせる。そのつど、デッドロック家の奥方は例のとおり、疲れきった女神で、崇拝者にとり巻かれてはいるものの、自分の神殿に君臨している時でさえ、やたらと死ぬほど退屈する傾向がある。そのつど、タルキングホーン氏は例のとおり、高貴な秘密をかたく保管する、ものいわぬ倉庫で、ひどく場ちがいながら、自宅にいるようにすっかりくつろいでいる。ひとつ家に暮していながら、この二人ほどおたがいに注意を払わない人間はいないように見受けられる。しかし、めいめい絶えず相手を警戒し疑って、なにか大きな秘密をかくしていると絶えず思っているのかどうか、めいめい絶えず相手に対する万全の用意をして、不意打ちを受けないよう覚悟をきめているのかどうか、めいめい相手がどれだけ知っているのかを知るために、どれだけ手段をつくすつもりなのか――こういうことはすべて、当分のあいだ、彼ら自身の胸のうちに秘められている。
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第十三章 エスタの物語
私たちはリチャードが将来なにになるかについてなんべんも相談を開きました。最初はご自身の希望でジャーンディスさんを抜きにし、あとでは加わっていただきました。しかし、話がはかどりそうになるまでには、ずいぶん長いことかかりました。リチャードはどんな職にでも、よろこんで就く覚悟だといいました。ジャーンディスさんが、君は海軍にはいるには、もう年をとりすぎていやしないだろうかと申しますと、リチャードは、その点を考えてみましたが、たぶん、おっしゃるとおりでしょうといいました。ジャーンディスさんが、陸軍へはいるのはどうかねと尋ねますと、リチャードは、その点も考えてみましたが、悪くないように思いますといいました。ジャーンディスさんが、君のむかしからの海軍好きは少年によくあるあこがれなのか、それとも強い志望なのか、よく考えて確かめてみたまえとすすめますと、リチャードは、いや、じつはもう何度も確かめようとしたことはした[#「したことはした」に傍点]のですが、見当がつかないのですといいました。
「こういう優柔不断な性格が」とジャーンディスさんは私に向って申しました、「はたしてどの程度まで、リチャードが生れた時以来経験して来た、あの測り知れないほどさまざまな不安定と遷延とにみちた生活によってつくられたのか、私にはいえない。だが、いろいろな罪悪を犯して来た大法官府に、こういう性格をつくった責任の一端があることは、私にもはっきりと分る。大法官府こそリチャードのあの習慣、つまり、どんな物事をも、未決定の、不確かな、混乱したものとして、あとへ引延ばし――手あたり次第の成りゆきに任せて(どういう成りゆきかも知らないのに)――中途はんぱで止めてしまうあの習慣を植えつけた、あるいは強めたのだ。リチャードよりずっと年上で、ずっと堅実な人たちでさえ、周囲の環境によって変えられることがある。これから一人前になろうという年ごろの少年が、環境の影響にさらされながら、そのままでいるなどと期待するのは、酷というものだろう」
たしかにそのとおりだと私は感じました。もっとも、それと同時に考えたことを述べさせていただけますなら、リチャードの受けた教育がそういう環境の影響をとり除いたり、性格を正しく導いたりしなかったことをたいそう残念に思いました。リチャードは八年間パブリック・スクールにゆき、私の聞いているところでは、ラテン語の詩を何種類もみごとに書くことができました。けれども、だれ一人として、リチャードの生れつきの才能がなにに適しているのか、どこに欠点があるのかを見つけてくれたり、リチャードに向いた[#「リチャードに向いた」に傍点]学問を教育してくれたりする人はいなかったようです。むしろ逆に、リチャードのほう[#「リチャードのほう」に傍点]が詩に向くように教育されて、作詩法を完全に習得してしまいましたので、もしかりに成年に達するまで学校にいたとしたら、(詩の作りかたなどは忘れて、もっと知識を広めないかぎり)おそらく、ただくり返し詩を書きつづけるよりほかには、なに一つできないようになってしまったことでしょう。たしかに、詩というものはたいそう美しく、人間を大いに向上させ、人生のさまざまな目的を満足させ、一生涯忘れられないものですけれども、リチャードがそれほどまでに詩に関心を向けるかわりに、だれかが少しリチャードに関心を向けてくれたなら、リチャードのためになったのに、と私は思いました。
もっとも、私は詩のことはなに一つ知りませんでしたし、むかしのローマやギリシャの若い男の人たちがリチャードと同じくらい詩を作ったのか――あるいは、ほかの国の若い男の人たちもそうしたのか――それさえ知りません。
「僕はなにになったほうがいいのか全然分りません」とリチャードは考えこみながら申しました。「牧師になりたくないことだけはたしかですが、そのほかの職業はみんな五分五分です」
「君はケンジ弁護士と同じ商売をやる気はないのだろう?」とジャーンディスさんがいい出しました。
「それは分りません!」リチャードが答えました。「僕はボートをこぐのが好きなんです。弁護士の実習生たちはずいぶん舟遊びにゆきますね。すてきな職業だなあ!」
「外科医は――」とジャーンディスさんがまたいい出しました。
「それこそ僕の望むところです!」とリチャードは大声でいいました。
外科医のことなどリチャードが考えたことがあったのかどうか、あやしいものです。
「それこそ僕の望むところです!」とリチャードは熱烈この上もない口調でくり返しました。「とうとう決まりましたね。英国外科医師会会員だ!」
そういってリチャードは心から笑いましたが、みんな笑ってその考えをやめさせようとしても、聞き入れないのでした。そして、もうこの職業に決めたといい、考えれば考えるほど、自分の運命がはっきり分って来た気がする、医術こそ自分に打ってつけの技術だ、と申しました。私はリチャードがそういう結論に達したのは、自分に適した職を自分の力で発見する見込みも余りないし、また他人に考えてもらってもだめだったので、ただもういちずに一番新しい思いつきに飛びついて、思案する手間をはぶこうとしたからだと推量しましたので、ラテン語の詩を勉強した人がこういう結末になるのは世間によくあることかしら、それともリチャードの場合は例外なのかしらと考えました。
ジャーンディスさんは全力をつくして、リチャードとまじめな話合いをし、こういった重大な事柄について考えをあやまらないようにとリチャードの良識に訴えました。こういう面談のあとではリチャードもやや真剣になりましたが、いつもエイダと私に「大丈夫だ」といったかと思うと、今度は別な話を始めるのでした。
「いや、これはこれは!」と大声でいったのはボイソーンさんで、この問題に強い関心をいだいたのです――これはいうまでもないでしょう、この人はどんな物事でも中途はんぱですますことのできない人でしたから――「あの崇高な医術に一身をささげようとする、熱誠果敢な少壮の士がいるとは欣快の至りだ! 医術に熱誠が注がれれば注がれるほど、人類にとっては幸いだし、この栄誉ある職業を社会的に不利な状態におとしいれてよろこんでいる、あの強欲な搾取者や|下司《げす》なペテン師たちにとってはわざわいだ。いっさいの卑劣下等なものにかけて誓うが」と大声を張りあげ、「軍艦の軍医の待遇といったら、じつにひどいもので、わしは海軍本部委員会の全員の脚を――両脚をだ――複雑骨折させてやって、その骨をついだりする開業医がいたら、流刑にしてやりたい、もしもこの委員会を四十八時間以内に全面的に改正しないならばだ!」
「一週間に負けてやれないのかね?」とジャーンディスさんが尋ねました。
「だめだ!」ボイソーンさんは断固とした声で叫びました。「断じてだめだ! 四十八時間以内だ! それに市や町とか、教区とか、教区委員会とか、それらに類した集会はどうかといえば、あれは石頭のうすのろたちの寄り集りで、やつらのとりかわす演説と来たら、いやはや! わしたちがお日さまの面前で話す国語が、やつらのいやらしい英語にけがされるのを防ぐ、ただそれだけのためにも、ああいうやつらは水銀鉱山で働かせて、やつらの|束《つか》の間のみじめな余生を送らすべきだ――ああいうやつらは、知識を探求している人たちの熱意を卑劣にも利用して、あの人たちの生涯の最良の時期をささげたこの上もなく貴重な奉仕、永年にわたる研究、金のかかった教育に報いるに、事務員連中の給料にも及ばぬ薄給をもってしているのだから、わしはあいつら一人一人の首をしめて、その頭蓋骨を外科医師会館に陳列して、全部の外科医に見学させてやりたい――頭蓋骨というものがどれほど[#「どれほど」に傍点]固くなるかということを、若い医者たちに実地に調べて知ってもらいたいのだ!」
ボイソーンさんはこの猛烈な宣言を下すと、結びの言葉のかわりに、いかにも愉快そうな微笑を浮べて私たち一同を見まわしたかと思うと、いきなり、わっはっは! と雷のような高笑いを始め、ほかの人ならもう完全に力つきてしまうかと思われるほど、なんべんもくり返すのでした。
それからあともジャーンディスさんはリチャードにすすめて、再三再四、時日をかけてよく考えさせましたが、リチャードはやはり、もう決心をきめたといいつづけ、エイダと私に対してもやはり、「大丈夫だ」と、あい変らずきっぱり断言しつづけましたので、もうケンジ弁護士を相談に加えるのがよかろうということになりました。そこでケンジさんは、ある日、晩餐に招かれ、椅子にそり返り、鼻眼鏡を手にもってぐるぐる回し、よく|透《とお》る声でしゃべって、私がおさないころ見た記憶そのままの振舞いをしました。
「ああ!」とケンジさんはいうのでした、「そうですか、なるほど! じつによい職業です、ジャーンディスさん、じつによい職業です」
「この職に就くには勉学と修行を勤勉につづけなければなりません」とジャーンディスさんはリチャードのほうをちらりと眺めながら申しました。
「そう、もちろんですとも。勤勉にです」とケンジさんがいいました。
「しかし、勤勉でなければならぬのは、立派な職業の場合、多少の相違はあってもみな同じですから、ほかの職業を選べばその必要がないというわけではありませんよ」
「そのとおりです。それで、リチャード・カーストンさんはこれまで青春を過された――なんといいましょうか、ギリシャ・ローマの古典の森で――みごとな成績をあげられましたが、今度は、詩人は(私の思いまちがえでなければ)生れるものにして作られるものにあらずということわざを持っているあのラテン語の詩作の法則と実際を応用するのは無理だとしても、あの詩作にいそしんだ習慣を、これから乗り出してゆくもっと実際的な活動領域に必ず応用されることでしょう」
「大丈夫信用して下さい」とリチャードは例のとおり無ぞうさにいいました、「うんとやってみて、最善をつくしますよ」
「承知しました、ジャーンディスさん」とケンジさんは静かにうなずきながらいいました。「じっさいのところ、リチャードさんがうんとやってみて、最善をつくすつもりだと|請《う》け合ったのですから」とリチャードの文句をくり返しながら、感激してしきりにうなずいて、「私たちはこの人の目指す大望を実行すべき最善の方法を調べさえすればよいのではないかと思いますが。ところで、リチャードさんをだれかしかるべき名医のところにあずかってもらう問題ですが、現在、お心当りの人がおりますか?」
「だれもいないのだろう、リック?」とジャーンディスおじさまが申しました。
「だれもいません」
「そうですか!」とケンジさんはいいました。「今度は、身分の件です。その点についてなにか特別のお気持がありますか?」
「い――いいえ」
「そうですか!」とケンジさんはまたいいました。
「僕は少し変化に富んでいるといいと思うんですが」とリチャードがいいました、「――つまり、いろいろな経験をしてみたいんです」
「たしかに、それは大いに必要ですね」とケンジさんはいいました。「ジャーンディスさん、これなら話は楽にまとまると思いますが? まず第一に、本当に適当な開業医を見つけさえすればよいのです。そしてこちらの希望を――それにもう一つ加えて、教授料を支払う資力のあることを――知らせれば、もう問題は大勢の候補者の中から適任者を一人選ぶという点だけですね。第二には、私どもが年齢のため、それに大法官裁判所の後見を受けているために必要とされる、ちょっとした形式的な手続きをふみさえすればよいのです。もうじき私どもは――なんといいましょうか、リチャードさん流に屈託なく、『うんとやってみる』ことになりましょう――心ゆくまでね。ところで、これは偶然の一致なのですが」とケンジさんはちょっと憂鬱気味な微笑を浮べながら、「そしてこういう暗合は、私どもの現在の限られた能力を超えた説明を必要とするかも知れませんし、必要としないかも知れませんが、私には医者商売の|従弟《いとこ》がおりましてね。あるいは、みなさんがこの従弟を適任者とお考えになるかも知れませんし、従弟もこちらの申し出に応じる気になるかも知れません。皆さんのお考えも従弟の気持も、私にはなんとも請け合えませんが、ひょっとすると[#「ひょっとすると」に傍点]、従弟はその気になるかも知れませんね!」
これはこの際、有望な話なので、その従弟の人にケンジさんから会ってもらうことにしました。それに、ジャーンディスさんは前から、私たちを数週間ロンドンにつれていって下さるとおっしゃっていましたので、私たちはすぐに出かけて、上京とリチャードの用事とを兼ねることに、翌日決めました。
一週間たたないうちにボイソーンさんがお宅へ帰りましたので、私たちは上京して、オックスフォード街近くの、家具屋の階上の明るい感じの下宿を住居に定めました。私たちにはロンドンが大きな驚異で、一度に何時間も何時間もいろいろの名所を見物しましたが、そんなに見物されても名所のほうは私たちとはちがって、あまりひどく疲れない様子でした。それにまた、大よろこびで主な劇場めぐりもして、見る値打ちのある芝居は全部見物しました。こんなことを書くのは、私がまたしてもガッピーさんに悩まされるようになったそもそもの始まりが劇場だったからです。
ある晩、私はエイダといっしょに仕切り席の一番前にいて、リチャードは自分の一等好きな席、つまりエイダの椅子のうしろにいましたが、その時ふと平土間を見おろしますと、ガッピーさんが、髮の毛をぴったり頭にはりつけたように寝かせ、悲痛の色をありありと顔に浮べながら、私のほうを眺めているのが目にはいりました。この人は役者のほうを全然見ずに、始終私のほうを眺め、しかもたえずこの上もなく深い悲しみと失意の表情を入念につくっているのだ、と私は芝居のあいだじゅう感じました。
それがひどく迷惑でもあり、ひどくこっけいでもありましたから、その晩の楽しさが台なしにされてしまいました。けれどもその時以後、みんなして芝居にゆくたびに、かならず、平土間にガッピーさんの、いつも髮の毛をまっすぐ寝かせて、シャツの襟を折り返し、しおれ切っている姿を見かけないことはありませんでした。入場した時にいないので、来ないのだろうと思って、しばらく舞台の面白さに夢中になっていても、きまって、思いがけない時にガッピーさんの物思わしげな目に出会い、それからあとは、きっとあの目が今晩じゅう私を見つめているに相違ない、と観念することになるのでした。
これがどんなに私を不安にしたかは、とても言葉ではいいあらわせません。もしガッピーさんが髪にブラッシをかけたり、シャツの襟を立てたりなどのおめかしをしてくれただけでも、私は不愉快だったでしょうのに、あんな途方もないかっこうをして、たえずじっと見つめられ、たえずこれ見よがしに悲観していることを知ると、私はすっかり圧迫されたような気持になって、芝居を見て笑ったり、泣いたり、あるいは体を動かしたり、しゃべったりする気が起りませんでした。なに一つ自然に振舞うことができなくなったらしいのです。ガッピーさんの目をのがれるために仕切り席の奥のほうへゆくということは、とても私にはできないことでした。なぜなら、私は知っていたのです、リチャードとエイダは私がかならず二人のとなりにいてくれるものと信じていて、もし私の席にほかの人がすわったなら、二人はとてもあんなに楽しそうに語り合うことはできなかったでしょう。それで私は自分の席にすわったまま、どこを見てよいのやら分らずに――というのは、たといどこを見ていようとも、きっとガッピーさんの目が私をつけ回していることを知っていましたから――この男は私のためにどんな大散財をさせられていることやらと考えていました。
時には私はジャーンディスさんに事情を話そうかと思いました。でも、そうすればこの男は職を失うことになって、私のために破滅させられるかも知れないと心配になりました。ある時はリチャードに打明けようかと思いましたが、リチャードがガッピーさんに喧嘩をしかけて、目のまわりに黒いあざをつける恐れがあるので思い止まりました。また、ある時は、この男に向ってこわい顔をして見せ、いけません、と頭を振ってみようかしら、と考えました。でも、それは私にはできないことだと思いました。次には、この男のお母さんに手紙を出すべきかどうかと思案しましたけれども、結局、文通を始めたりすると、問題をいっそう悪化させることになると覚りました。そしていつも最後には、どうすることもできないという結論にゆきつくのでした。こうしていろいろ考えていたあいだじゅうずっと、忍耐強いガッピーさんは私たちの出かけるどの劇場にも、休まず姿を見せたばかりでなく、劇場から私たちが出て来る時に人ごみの中にあらわれ、私たちの馬車のうしろへ近寄ることさえありました――そして馬車のとがった恐ろしい金具にかこまれてもがいているのを、たしかに二、三回見ました。私たちが下宿へ帰ると、ガッピーさんは家の向い側に立っている柱のところへたびたび来ました。下宿している家具店は二つの通りの角にあって、私の寝室の窓がその柱に向い合っていましたから、私はガッピーさんが、見たところ風邪をひいてしまったらしい様子をして柱によりかかっているのを見るのがいやで(事実、ある月夜に一度見たことがありました)、二階へ上っても寝室の窓ぎわへ近寄らないようにしました。もしガッピーさんが昼間仕事をしていなかったならば(仕事をしていたのは私にとって幸いでした)、私はこの人のために少しも心の休まるひまがなかったことでしょう。
ガッピーさんを奇妙な形で仲間に入れて、私たちがこうやって遊び歩いている間も、上京を早めてくれたあの用事を放っておいたわけではありません。ケンジさんの従弟はベイアム・バジャーというかたで、ロンドンのチェルシー区で開業してかなり繁昌しており、そのほかにも、ある大きな公立病院に出ていました。バジャーさんは快くリチャードをご自分のところに受け入れて、勉強の指導をして下さると申しました。そして勉強をするにはバジャーさんのお宅に住みこむほうが都合がよいらしく、またバジャーさんはリチャードが気に入ったようですし、リチャードもバジャーさんが「すこぶる」気に入ったと申しましたので、双方合意して、大法官閣下の許可もおり、万事落着しました。
リチャードとバジャーさんとの話がまとまった日に、私たち一同はバジャーさんのお宅へ晩餐に招かれることになりました。バジャーさんの手紙によると、「ほんの内輪の集り」ということで、お宅へ伺うと奥さんご自身のほかに女のかたは一人も見えませんでした。応接間には奥さんを取り巻いてさまざまなものが列べてあり、それを見ると奥さんが絵を少し、ピアノを少し、ギターを少し、竪琴を少し、歌を少し、刺しゅうを少し、読書を少し、作詩を少し、植物採集を少しなさることが分りました。年は五十くらいでしょうか、若作りで、たいそう顔の色つやのよいかたでした。今ちょっと挙げた奥さんのたしなみに、もう一つ付け加えていえば、奥さんはほお|紅《べに》のお化粧も少しされるのでした。といってもそれが悪いというわけではありませんが。
ベイアム・バジャーさんはというと、ピンク色のみずみずしい顔、きびきびした様子の紳士で、かぼそい声、白い歯、淡い色の髪、びっくりしたような目つきをしていて、たぶん何歳か奥さんよりも年下だったでしょう。奥さんのことをこの上もなく崇拝していましたが、それも主として、また第一に、奥さんが三人の夫を持ったという奇妙な理由からでした(私たちにはそう思われました)。まだ私たちが席につくかつかないうちに、バジャーさんはジャーンディスさんに向って意気揚々としていうのでした。
「私が家内の三番目の夫だとは、ちょっとお思いになりませんでしょう!」
「本当ですか?」とジャーンディスさんが申しました。
「三番目ですよ! サマソンさん、家内はこれまでに夫を二人持った婦人のようには見えないでしょう?」
私はいいました。「全然そんなふうにお見えになりませんわ!」
「それに、まったく非凡な人たちでしたよ!」とバジャーさんは秘密を打明けるような調子でいいました。「イギリス海軍のスウォサー大佐が家内の最初の夫でしたが、この人はじつに著名な軍人でした。私のすぐ前の夫であるディンゴー教授の名はヨーロッパじゅうに鳴り響いています」
奥さんはバジャーさんの話をもれ聞いて、にっこりほほえみました。
「そうなのだよ、ねえ、君!」とバジャーさんは奥さんの微笑に答えて、「今、ジャーンディスさんとサマソンさんに、君にはこれまで二人のご主人がいて――二人ともじつに著名な人たちだったとお話していたところなのだ。ところが、このかたたちは、世間の人たちと大体同じように、本気にされなかった」
「イギリス海軍のスウォサー大佐と結婚しました時」とバジャーさんの奥さんがいいました、「わたしはやっと|二十《はたち》でした。それから大佐といっしょに地中海へまいりましたの。ですから、海軍軍人に負けないくらいですわ。十二回目の結婚記念日にわたしはディンゴー教授の妻になりました」
(「その名がヨーロッパじゅうに鳴り響いているあの教授のね」とバジャーさんが小声でつけ加えました。)
「そしてバジャーとわたしが結婚しました時も、同じ日だったんです。わたし、その日に愛着をいだくようになりましたの」
「それで、家内は三人の夫と結婚したというわけです――そのうちの二人はきわめて著名な人物でして」とバジャーさんは要点だけをかいつまみ、「しかも、その|都度《つど》、三月二十一日の午前十一時でした!」
私たちはみな感嘆の声をあげました。
「もしバジャーさんがこういう|謙遜《けんそん》なかたでなかったなら」とジャーンディスさんが申しました、「そのお言葉を訂正して、三人の著名な人物といわせていただきたいものですね」
「ありがとう存じます、ジャーンディスさん! それこそわたし[#「わたし」に傍点]がいつも主人に話していることでございますわ!」
「だが、ねえ、君、この私[#「この私」に傍点]がいつも君に話していることはなんだっけねえ? それはこうだよ、つまり、私は自分が専門の領域でいささか揚げた名声を(その点については、そのうちこのカーストン君に価値評価してもらう機会がたびたびあるだろう)、ことさら軽く見るような|衒《てら》いはないけれども、それほどおろかな、いいえ、本当に」とバジャーさんは私たち全部に向って、「それほど無分別な人間ではありませんから、自分の名声をスウォサー大佐とディンゴー教授のような一流の人物と対等の高さに置くようなことはいたしません。たぶん、ジャーンディスさん、あなたは」と話をつづけながらバジャーさんは先に立って隣りの応接間へ案内し、「スウォサー大佐のこの肖像に興味を持たれるでしょう。これは大佐がアフリカの海軍補給地で風土病の黄熱にかかって帰国した時に描かれたのです。家内の意見では黄色く描かれ過ぎているそうです。しかし、じつに立派な頭です。じつに立派な頭です!」
私たちはみな、おうむ返しにくり返しました。「じつに立派な頭です!」
「これを眺めるたびに私は、『こういう人にこそ会いたかった!』と思いますね。これを見ますと、スウォサー大佐こそだれにも増して第一級の人物であったことが分ります。その反対側にあるのがディンゴー教授です。私はこの人をよく知っていました――最後のご病気の時にお世話をしたのです――これは生き写しですね! ピアノの上のほうにあるのは、スウォサー夫人だった時分のベイアム・バジャー夫人です。ソファーの上のほうにあるのは、ディンゴー夫人だった時分のベイアム・バジャー夫人です。現実のベイアム・バジャー夫人のは、原物を持っておりますから写しは持っておりません」
その時、食事の用意のできたことが告げられましたので、私たちは階下へ降りました。晩餐にはたいそう上品なご馳走がたいそう気前よく出されました。けれどもバジャーさんの頭の中には、まだ大佐と教授が駈け回っていた上に、エイダと私は光栄にも、いわば、バジャーさんの特別患者として待遇されましたので、心ゆくまでこのお二人の恩恵にあずかりました。
「水ですか、サマソンさん? 失礼! そのコップではいけません。ディンゴー教授のコップを持って来なさい、ジェイムズ!」
エイダがガラスのケースに入れてある造花をたいそうほめました。
「ずいぶん長く持つのでおどろいてしまいます! それは家内が地中海にいた時プレゼントにもらったものですよ!」
バジャーさんはジャーンディスさんに赤ぶどう酒をすすめました。
「その赤ぶどう酒はいけません! 失礼します! 今日はお祝いです、私はお祝いの時には[#「時には」に傍点]持ち合わせている特別の赤ぶどう酒を出すのです。(ジェイムズ、スウォサー大佐のぶどう酒を!)ジャーンディスさん、これは大佐が外国から取り寄せたものなのです、何年前にか、それは申しますまい。ずいぶん奇妙にお思いでしょうから。ねえ、君、私も君といっしょに少しいただこう、(ジェイムズ、奥さんにスウォサー大佐のぶどう酒を!)いとしい人よ、君の健康を祝して!」
食事がすんで婦人たちが応接間に引き揚げる時に、私たちはバジャー夫人の最初のご主人と二番目のご主人をそちらへ持ってゆきました。応接間へいってから、奥さんはスウォサー大佐の結婚前の生活と軍歴のあらましと、クリプラー号がプリマス軍港に停泊していた時、乗り組んでいた士官たちのために開かれた艦上舞踏会の席で、大佐が奥さんを|見初《みそ》めてから後の物語を、もっとくわしくお話して下さいました。
「なつかしいクリプラー号!」と奥さんはかぶりを振りながら申しました。「立派な船でしたわ。スウォサー大佐がよく申したものですけれども、整備完全、装備良好、総帆展張で。ご免あそばせ、わたし、ときどき海軍言葉を使ってしまいますの、昔はひとかどの船乗りでしたから。スウォサー大佐はわたしのためにあの船を愛していました。あの船がとうとう退役した時には、たびたび申しておりました、もし自分にあの古い船体を買うだけの資力があったら、わたしたちがパートナーになって踊った後甲板の船材に記念の銘文をはめこんで、自分が倒れた場所を――わたしのトップから発射される砲火に前尾、後尾を貫通されてです――よく分るようにしておくのだが、と。トップというのは、海軍言葉で目のことですの」
バジャー夫人はかぶりを振り、ため息をついて、ぶどう酒のグラスの中を眺めました。
「スウォサー大佐からディンゴー教授に変ったのは大きな変化でした」と奥さんはもの悲しげな微笑を浮べながら話をつづけ「最初のうちは、つくづくそれを感じました。わたしの生活様式に、それこそ完全な革命が起ったのですわ! でも、習慣と、それに加えて学問が――特に学問が――わたしをこの革命に慣れさせてくれました。教授が植物学の研究旅行に出かける時はわたしがただ一人の道づれでしたから、それまで船に乗っていたことなどほとんど忘れて、すっかり学問好きになってしまいました。ふしぎなことに、教授はスウォサー大佐とは正反対の人でしたし、それにバジャーもこの二人とは少しも似たところがありませんの!」
それから話はスウォサー大佐とディンゴー教授がなくなった時のことに移りましたが、お二人とも大そう悪性の病気にかかったようでした。この話の中でバジャー夫人が告げたところによりますと、奥さんはこれまで夢中になって恋をしたのはたった一度だけで、今はもう思い起す|術《すべ》もないみずみずしい情熱にみちた、その烈しい愛情の対象はスウォサー大佐なのでした。ディンゴー教授の大そう痛ましい臨終が刻々と迫り、ようよう力をふりしぼって、「ローラはどこにいる? トースト湯(1)をローラに持って来させてくれ!」といった教授の模様をバジャー夫人が話していた時に、男のかたたちが応接間にはいって来ましたので、まだ臨終なのに教授はお墓に葬られてしまいました。
ところで、私はその晩、これはもう数日前から気づいていたことなのですが、エイダとリチャードがこれまでにも増しておたがいにむつまじくしているのに気づきました。しかし、二人はもうじき引き離されようとしているのですから、これは当然しごくのことでした。ですから、私たちが家に帰り、エイダと私とが二階の寝室へ引きさがった時に、エイダがふだんより口数が少ないのを見ても、あまり意外に思いませんでした。でもエイダが私に抱きついて来て、顔をかくしたまま話を始めようなどとは、まったく予期していませんでした。
「あたしの大好きなエスタ!」とエイダは小声でいうのでした。「あたし、あなたに大事な秘密をお話しなければならないの!」
もちろん、大切な秘密でしょう、私のかわいい子!
「それはなに、エイダ?」
「ああ、エスタ、とてもあなたには当てられないわ!」
「当ててみましょうか?」
「あら、だめ! やめて! やめてちょうだい!」エイダは私が当てようとするのかと思い、びっくりして大声をあげました。
「さあ、それは一体だれのことかしら?」私は考えるふりをしながらいいました。
「それはね」とエイダがささやきました。「それはね――従兄のリチャードのことなの」
「まあ、あなた!」といって私はエイダのきらきら光る金髪にキスしました、髮の毛しか見えないので。
「それで、リチャードのどんなこと?」
「ああ、エスタ、とてもあなたには当てられないわ!」
顔をかくしたままのエイダにそんなふうにすがりつかれ、しかもエイダが泣いているのは悲しいからではなくて、よろこびと誇らしさと期待の余りなのだと分っているのは、とてもうれしいことなので、私はまだしばらくエイダに知らせようとはしませんでした。
「リチャードはね――あたし、こんなこと、ほんとに馬鹿な話だとは知っているの、あたしたちは二人とも、とても若いんですもの――リチャードはね、あたしを心から愛しているっていうのよ、エスタ」
「ほんとう? 私、そんなこと、まだ一度も聞いていませんわ! でも、私の大事な大事な人、そんなことなら、私がずっとずっと前に教えてあげられたでしょうに!」
エイダがよろこぶと同時にびっくりしながら、上気した顔をあげ、私の首を両手で抱きしめ、笑い、泣き、はじらい、笑うのを見ているのは、とても楽しいことでした!
「まあ、あなたったら! きっと、あなたは私のことを、ずいぶんなぼんやり屋さんだと思っていらっしゃるのね! リチャードがあなたを愛していたことは、もうずっと以前からありありと見えていたんですよ!」
「それなのに、ひとこともいって下さらなかったのね!」とエイダは私にキスしながら叫びました。
「ええ、そうですわ、あなたのほうから話して下さるのを待っていたんです」
「でも、もうお話したんですもの、あたしのことを悪く思ったりしないでしょう?」とエイダが答えました。もし私がこの上もなく無情な中年のしつけ係りでしたら、エイダは私をいいくるめて、「ええ」といわせるために、苦労しなければならなかったことでしょう。けれども私はまだそうまでなっていませんでしたから、気前よく「ええ、ええ」といいました。
「さあ、これでもう一番話しにくいことを伺いましたわね」
「あら、一番話しにくいことはまだなのよ、エスタ!」とエイダは叫んで、いっそう強く私を抱きしめ、また私の胸に顔をうずめました。
「まだですって? もっとあるんですか?」
「ええ、もっとあるのよ!」といってエイダはうなずきました。
「まあ、まさかあなたもあの人を――!」と私はからかい気味にいいかけました。
けれどもエイダは顔をあげて、涙の中からにっこりほほえみながら叫びました。「ええ、そうなの! あなたは、あなたは知っているくせに!」それから泣きじゃくりながら、「あたし、|心《しん》から! |心底《しんそこ》からよ、エスタ!」
私はさっきのことばかりでなく、そのこともよく知っていたと、そのわけを笑いながら告げました! それから二人して煖炉の前に腰かけ、しばらくのあいだ私が話を一人占めにしますと(もっとも話すことは余りありませんでしたが)、エイダはまもなく落着いて、幸福そうになりました。
「ジョンおじさまはご存知かしら、ねえ、ダードンおばさん?」とエイダが尋ねました。
「ジョンおじさまがめくらでないなら、たぶん、私たちと同じようによくご存知でしょうよ」
「あたしたち、リチャードが出発する前におじさまにお話したいと思うの」とエイダはおずおずといいました。「それであなたに助言していただいて、その上であなたからおじさまにお話していただきたいと思ったの。リチャードがここへはいって来てもかまわないでしょう、ダードンおばさん?」
「あら! リチャードは外に来ているのね?」
「はっきり分らないけれども、ドアのところにいると思うわ」と答えたエイダのはにかみ勝ちなあどけなさ。もし私がずっと前からエイダを愛していなかったとしても、それを見たらきっと愛してしまったことでしょう。
もちろん、リチャードはいました。二人はそれぞれ私の両側に椅子を持って来て、私をあいだにはさみ、まるで、おたがい同士が恋し合っているのでなくて、私を恋してしまったように見えました、すっかり心を打ち明け、信頼し、私が大好きになってしまいましたから。しばらくのあいだ、二人はそれぞれ夢中になってしゃべりつづけていました――それが余り楽しいので、私も[#「私も」に傍点]とめませんでした――それから私たちは、二人が若いこと、この早い恋が実を結ぶまでには、まだ数年たたなければならないこと、もしもこの恋が本物で、長つづきして、いつもおたがいに相手のために、忠実、不撓不屈、忍耐を忘れずに義務をつくし合おうという変らぬ決心を、この恋が湧き立たせてくれさえしたら、幸福を手に入れるのも不可能でないことを、だんだんに考え始めました。さて、その結果! リチャードはエイダのために骨身を惜しまず働こうといい、エイダはリチャードのために骨身を惜しまず働きましょうといって、二人して私に親しみと分別のこもった言葉を、あらんかぎりかけてくれ、私たちは助言したり話をしたりして夜中までそこにいました。最後に、みなが別れる前、私は明日ジョンおじさまに話をしましょうと二人に約束しました。
それで明日になると、朝食のあとで、私は上京中「怒りの部屋」の代りをしている部屋にいたおじさまのところへゆき、おじさまにお話するように頼まれたことがあってまいりましたと告げました。
「なるほど、ちいさなおばさん」とおじさまは本を閉じて申しました。「君が引受けたのなら、絶対に悪い頼みじゃないね」
「そう思いますわ、おじさま。別に秘密なことではありません、それは保証いたします。つい昨日起きたことですから」
「そうかね? それで、なんだい、エスタ?」
「おじさま、私たちが始めて荒涼館へまいりました幸福な晩のことを覚えていらっしゃいますでしょう? エイダが暗い部屋で歌をうたっていたあの晩のことを?」
私はあの時ジャーンディスさんが私に向けたまなざしを思い起していただきたかったのです。そしてもし私のひどい思いちがいでなければ、私の見たところ、ジャーンディスさんは思い起して下さいました。
「と申しますのは」と私はややためらいながらいいました。
「うん、エスタ! あわてずにお話し」
「と申しますのは、エイダとリチャードが愛し合うようになったからです。そしておたがいに愛を打ち明けたのです」
「もうなのか!」とジャーンディスさんはすっかりびっくりして大声をあげました。
「はい! それに実を申せば、おじさま、私はきっとそうなるものと予期しておりましたわ」
「こいつはおどろいた!」
ジャーンディスさんは椅子に腰かけたまま、一、二分のあいだ思案しながら、つぎつぎに表情の変ってゆく顔に美しくもやさしい微笑を浮べておりましたが、それがすむと私に向って、二人に自分が会いたがっていることを知らせてくれるようにと申しました。二人が来ますと、父親みたいにエイダを片方の腕でかかえ、快活でしかも真剣な口調でリチャードに話しかけました。
「リック、君から信頼されて私はうれしいよ。この信頼をいつまでも失わないようにしたいものだ。私は、自分の人生をこんなに明るくしてくれ、こんなに興味とよろこびの多いものにしてくれた、私たち四人のこの関係をいろいろ考えた時に、君とこの君のかわいい従妹が(恥ずかしがることはない、エイダ、恥ずかしがることはないよ、ねえ!)、ともに手をたずさえて人生を送りたいという気持になることが、いつか遠い先に起るかも知れないと、たしかに考えたことがあるよ。そしてそうなるのが望ましいと考えるべき理由が充分にあると私は見た、現に今でもそう見ている。しかし、それは遠い先のこととしてだった、リック、遠い先のこととしてだ!」
「僕たちは遠い先を見ているんです」とリチャードが答えました。
「そうか! それは分別のあることだ。ところで、聞いておくれ、二人とも! 私は君たちに向ってこうもいえるかも知れない。つまり、君たちにはまだ自分の本当の気持が分っていない、君たちをおたがいから引き離すようなさまざまなことが起るかも知れない、君たちが今手にしたこの花環がちぎれやすいのはよいことだ、さもないと今に君たちを縛る鉛の環になってしまうだろうから、などとね。しかし私はそうはいうまい。そういう思慮は、おそらく、すぐにつくだろう、いやしくも思慮がつくものならば。私は、これから数年たっても、君たちのおたがいの心は今日のままだ、と考えよう。この仮定に従って君たちに話をする前に、ただこれだけのことをいって置くよ、もし君たちが本当に[#「本当に」に傍点]変っても――もし一人前の男と女になった時に、少年少女の今とはちがって(リック、君は大人だが勘弁してもらうよ!)、おたがいにただの従兄妹同士になってしまったと本当に[#「本当に」に傍点]気がついても。――恥ずかしがらずに、やはり私に打ち明けてくれたまえ。そんなふうに変るのは決してふらちなことでも、異常なことでもないのだから。私はただ君たちの友人であり遠い親類であるというにすぎない。君たちに対してなんの権利も力も持っていない。しかし、君たちの信頼を保ってゆきたいと心から願っているのだよ、もし私が信頼を失うようなことをなにもしなかったなら」
「これは僕の意見というだけでなくて、きっとエイダの意見も代弁しているのだと信じますが、おじさまは僕たち二人に対して絶大な力を持っていらっしゃいますよ、その力は――尊敬、感謝、愛情に根づいていて――日ごとに強くなってゆくんです」
「ジョンおじさま」とエイダがジャーンディスさんの肩口でいいました。「あたしの父の座はもう二度と空席になることがありませんわ。これまで父のためにあたしが捧げることのできた愛と義務は、みんなおじさまに移されたんですもの」
「さあ!」とジャーンディスさんが申しました、「今度はさっきいった仮定についてだよ。今度は私たちは目をあげて、はるか遠くを希望にみちて眺めるのだ! リック、世の中は君の前にある。ところで、おそらく世の中は、そこへ乗り出してゆく君の態度に応じた迎えかたをするものだ。神様の摂理と君自身の努力のほかは一切信じちゃいけない。異教徒の荷馬車引き(2)のように、決してこの二つを切り離しちゃいけない。つねに変らぬ忠実な愛はよいものだ、しかし、あらゆる種類の、つねに変らぬ忠実な努力がなければ、忠実な愛になんの意味もなくなり、なんの役にも立たなくなる。たとい君が過去、現在のあらゆる偉人の才能を持ち合わせていたとしても、真心をこめて物事にとりかからなければ、なにごとも立派になし遂げることはできないだろう。過去、現在、未来を通じて、大きなことについても、ちいさなことについても、真の成功を気まぐれなやりかたで運命の女神の手からかちえたり、かちえることができたりする|例《ため》しがあろうなどと、もし君が考えているとしたら、そんな誤った考えはここで棄てたまえ、それとも従妹のエイダをここで棄てたまえ」
「もしかりに僕がそういう考えを今ここへ持って来たとしたら(でも、僕は持って来なかったと思っているんです)、それは[#「それは」に傍点]ここで棄てて」とリチャードはにっこり笑いながら答えました、「希望にみちた遥かかなたにいる従妹のエイダのほうへ、一歩一歩努力して進んでゆくつもりです」
「その通りだ! もし君がエイダを幸福にしないとしたら、どうしてエイダを求めることがあろうか?」
「僕はエイダを不幸にはしませんよ――ええ、たといそれがエイダのためだとしても」とリチャードは誇らしげにいい返しました。
「よくいった!」とジャーンディスさんは大声でいいました。「よくいった! エイダはこのエイダの家に私といっしょに残るのだ。リック、君はまたこの家を訪ねて来てここでエイダを愛するのと同じように、君の活動的な生活の中でもエイダを愛するんだよ、そうすれば万事うまくゆくだろう。さもなければ、万事は悪くなるだろう。これで私の説教はおしまいだ。君とエイダはいっしょに散歩をしたほうがいいと思うね」
エイダはジャーンディスさんをやさしくかきいだき、リチャードはジャーンディスさんと心から握手をし、それから二人は部屋から出てゆきました――もっとも、すぐにまたうしろを振り向いて、私の来るのを待っているといいました。
部屋のドアが開いたままになっていましたので、私たち二人は従兄妹たちが太陽の射しこんでいる隣りの部屋を通って、向う側の端までゆく姿を見送っていました。リチャードはうつむいてエイダの手を小わきにかかえたまま、熱心にエイダに話しかけていました。エイダは耳を傾けながらリチャードの顔を見上げ、ほかのものは一切目にはいらない様子でした。とても若く、とても美しく、希望と将来の見込みにみちみちた二人は日射しの中を軽やかに歩きつづけてゆきました、おそらく、その時二人自身の幸福な思いが未来の年月の上をたどって、それらのすべてを明るい年月にしていたのと同じように。そんなふうにして二人は物影の中へ去り、姿を消してしまいました。今まであれほどまばゆく輝いていたのは、ほんのしばらくぱっと射し出た光にすぎませんでした。二人が出てゆくと部屋は暗くなり、太陽はかき曇りました。
「私のいったことは正しいだろうか、エスタ?」とおじさまは二人が姿を消してしまうと、こう申しました。
あれほど親切で思慮深いかたが、私[#「私」に傍点]に向って、ご自分が正しかっただろうかなどとお尋ねになるとは!
「リックは今度のことで自分に欠けている性質を身につけるかも知れない。長所があんなに沢山あるのに、中心に欠けたところがあるのだ!」とジャーンディスさんはかぶりを振りながらいいました。「エイダにはなにもいわなかったよ、エスタ。あれにはいつも身ぢかに友だち兼相談相手がいるからね」そういってジャーンディスさんは慈愛をこめて私の頭の上に手を置かれるのでした。
私は少し感激したのを一所懸命かくそうとしましたけれども、外に出さずにおくことができませんでした。
「ちょっ、ちょっ!」とジャーンディスさんは当惑の舌打ちをされました。「だが、私たちはうちのちいさなおばさんが自分の一生を、他人の心配ごとのためにむなしく使ってしまわないように心配してやらなければいけないな」
「心配ごとですって? おじさま、私は自分が世界じゅうで一番の幸福者だと信じておりますわ!」
「私もそう信じているよ。しかし、だれかが分ってくれるだろう、エスタには分らないけれどもね――このちいさなおばさんこそほかのだれよりも記憶さるべき人だということを!」
私はバジャーさんのところの内輪の晩餐会にもう一人あるかたがいらっしゃったことを、前のところで書き落しました。そのかたはご婦人ではありませんでした。男のかたでした。顔の色の浅黒い紳士――外科医のかたでした。やや遠慮勝ちなかたでしたけれども、私はとても思慮深くて感じのよいかただと思いました。少なくとも、エイダにそう思わないかと聞かれましたので、私はそう思うといいました。
[#改ページ]
第十四章 行儀作法
そのすぐ次の日の夕方、リチャードは新しい生活を始めるために私たちのもとを去り、エイダに対する深い愛情と、私に対する深い信頼とをこめて、エイダのことを私に頼んでゆきました。二人が自分たちのことで頭が一杯になっていたそういう時にさえ、私のことをいろいろと心にかけてくれたことを思って(これからお話するようなことがありましたから)、その当時私は心を打たれたものですし、今思い出すと一層強く心を打たれます。というのは、その当座もそれから将来も、私は二人のすべての計画に加えられたのです。エイダは一日置きにリチャードに便りをすることになりましたが、私は週に一度便りをして、エイダについてありのままの報告をすることになりました。それからリチャードの努力と向上ぶりを全部、本人の署名入りで知らせてもらい、リチャードの意志と忍耐力が強くなってゆくのを観察し、二人が結婚する時にはエイダの付添人になり、そのあと二人といっしょに暮し、二人の家の鍵を全部|預《あず》かり、そして末永く幸福にしてもらうことになりました。
「それから、もし万一[#「万一」に傍点]あの訴訟の結果、僕たちがお金持ちになったら、エスタ――たぶん、そうなりますね、そうでしょう!」と最後にリチャードがいいました。
エイダの顔に影がさしました。
「ねえ、エイダ」とリチャードは尋ねました、「なぜそうならないの?」
「今すぐにも結果が分って、あたしたちの手にお金なんかはいらないって宣告されたほうがましですわ」
「いや! お金が手にはいらないかどうか僕には分らないけれど、しかし、とにかく今すぐにも判決が下されるということはありませんよ。一体もう何年になるか知らないけれど、なに一つ判決が下されていないんですからね」
「そのとおりよ」
「ええ、しかし」とリチャードはエイダの言葉にというよりむしろ表情に答えながら主張しました。「訴訟が長引けば長引くほど、解決は近いに相違ありませんよ、どういう結果になるにせよ。どうです、それが道理でしょう?」
「あなたが一番よくご存知よ、リチャード。でも、あの訴訟を当てになどしていたら、あたしたちは不幸な目に会うことよ、あたし、それが心配なの」
「しかし、エイダ、当てにしようというんじゃありません!」リチャードは大きな声でいいました。「僕たちはあの訴訟のことをよく知っているから、当てになんかしませんよ。ただ、もし万一[#「万一」に傍点]訴訟の結果僕たちがお金持ちになったとしたら、お金持ちになること自体に対して本質的な異議はないといっているだけです。法律の正式な決定によって、大法官裁判所が僕らのこわい後見のおじいさんになっているんですから、裁判所が与えてくれるものは(もしなにか与えてくれる時は)僕たちの権利です。自分たちの権利に苦情をつける必要はありませんよ」
「ええ、でもそんなことは全部忘れたほうがよさそうですわ」
「なるほど、なるほど!」とリチャードは大声になって、「それじゃあ、僕たちみんなでそんなことは全部忘れましょう。すべてを忘却の淵に沈めます。ダードンおばさんが賛成らしい顔をしているから、これでもう訴訟のことはおしまいだ!」
「ダードンおばさんの賛成らしい顔は」と私はリチャードの本をつめていたトランクの中から顔を出して、「あなたがそうおっしゃった時には、余りよく見えなかったはずですよ。でもたしかに賛成してますし、おばさんの考えでは、あなたの今の決心にまさるものはありませんね」
そこでリチャードはこれで訴訟のことは終りだといいました――そしてたちまち、ほかでもない、今終りにした訴訟を土台にして、万里の長城に配備できるほど沢山の空中楼閣を築き始めました。そして元気よく出発してゆきました。エイダと私とは、リチャードがいなくなってたいそう淋しくなることを覚悟しながら、前よりも静かな生活を始めました。
私たちはロンドンに着いた時に、ジャーンディスさんといっしょにミセス・ジェリビーのお宅を訪ねたのですが、あいにくとお留守でした。どこかのお茶の会に、長女のキャディをつれて出かけられたようでした。そしてお茶を飲むばかりでなく、ボリオブーラ・ガー植民地でのコーヒー栽培ならびに土民の価値全般について、かなり演説もし手紙も書かれるとのことでした。そういうことなら、きっとペンとインクを大いに使わなければなりませんから、キャディはお供をしても休養をとるどころではありませんでした。
もうミセス・ジェリビーがお帰りになる予定の期日が過ぎましたので、私たちはまた訪ねてみました。夫人はロンドンに帰っていましたが、朝飯をすませるとすぐ、東ロンドン地区慈善分会という団体のボリオブーラ・ガー関係の用事で、マイル・エンドへ出かけてお留守でした。その前の訪問の時にピーピィに会いませんでしたから(その時ピーピィはどこを探しても見つからず、料理番の女中は、きっと、ごみ屋の車についていったのでしょうといいました)、そこでもう一度私はピーピィに会いたいと申しました。ピーピィが家を建てて遊んでいた牡蠣の貝がらがまだ廊下にありましたけれども、ピーピィの姿はどこにも見当らず、料理番の女中は、たぶん、羊のあとをついていったのでしょうといいました。私たちがややおどろいて、「羊のですか?」とかさねて尋ねますと、ええ、そうですとも、市場の立つ日にはときどき、羊のあとをついて市外までいって、とてもひどいかっこうで帰って来るんですよ、という返事でした!
翌朝、私がおじさまとならんで窓辺の椅子に腰かけ、エイダは一所懸命手紙を――もちろん、リチャードに――書いていますと、ジェリビーさんのお嬢さんがまいりましたという知らせがあり、キャディが、ほかでもない、そのピーピィをつれてはいって来ましたが、弟を見苦しくないようにしようと思っていろいろ骨を折ったのに、姉がふいてあげたために、ピーピィの顔と手はすみずみにまで汚れが広がってしまい、水でうんとぬらしてキャディの指でカールをつけた髮の毛は、物すごくちりちりにちぢれていました。ピーピィが身につけているものは、どれもこれも大きすぎるか小さすぎるかでした。そういう体に合わないおしゃれの中でとりわけ目立ったのは、教会の主教がかぶるような大きな帽子と、赤ん坊がはめるようなちいさな手袋でした。靴は小型ながら農夫用の深靴でしたが、全然模様のちがう二つの飾りべりをつけた格子じまのパンツはひじょうに短いので、その下から、まるで地図のように縦横にかき傷のついている両のすねがむき出していました。格子じまの子供服の、数の足りないボタンは、見たところ明らかにお父さんの上衣からとったものらしく、真鍮の色がぴかぴか光り、ひどく大きすぎました。あちらこちら、洋服をあわててつくろったところは、ずいぶん妙なぬいかたがしてありましたし、キャディの洋服にも同じようなつくろいかたがしてあるのに気づきました。けれどもキャディはふしぎなほど器量よしになり、とてもかわいらしく見えました。そして自分がさんざん苦心したのに、かわいそうなピーピィ坊やを人前に出られるような姿にしてやれなかったことを気にしていて、部屋にはいって来た時に、まずピーピィをちらり眺め、それから私たちを眺めたそぶりでそれが分りました。
「おやおや! 真東の風だ!」とおじさまが申しました。
エイダと私が心からキャディを歓迎して、ジャーンディスさんに紹介しますと、キャディは椅子に腰かけながらおじさまにこういいました。
「ママがよろしく申していましたけれど、今ママは事業の計画書を校正中ですから、失礼させていただきますということです。これから新しい回状を五千通出すところで、おじさまがそれをお聞きになったら、きっと興味を持って下さるはずだと申しています。私が回状を一通持って来ました。ママがよろしく申しました」そういってキャディはかなりふきげんそうに回状をさし出しました。
「ありがとう、ミセス・ジェリビーには大いに感謝していますよ。おやおや! これはたいそうひどい風だ!」
私たちはピーピィの主教帽をぬがせたり、私たちのことを覚えているかと尋ねたりなどして、ピーピィの面倒を見てあげました。始めピーピィはひじを張って寄せつけませんでしたけれども、スポンジケーキが来たのを見るとおとなしくなり、私が抱きあげるままに、私のひざの上で静かに口を動かしていました。するとジャーンディスさんは臨時の「怒りの部屋」へ引きあげ、キャディは例のぶっきらぼうな調子で話を始めました。
「セイヴィ法学予備院のあたしたちの家では、あい変らずのひどい毎日がつづいているわ。あたしには安らかな生活なんて全然ないの。アフリカなんてなによ! たといあたしが、あれはなんといったかしら――同胞兄弟(1)になったにしても、これ以上みじめな暮しをするはずがないわ!」
私はなにか慰めの言葉をいおうとしました。
「ああ、そんなこと、むだよ、サマソンさん」とキャディが叫びました、「でもその親切なお気持はありがたいけど。あたし、自分がどんなあつかいを受けているか知っているんですもの、お説教されても、いうこと聞かないわよ。あなただって[#「あなただって」に傍点]そんなあつかいを受けたら、いうことを聞かないでしょうよ。ピーピィ、ピアノの下へいって猛獣ごっこをなさい!」
「いやだあ!」
「いいわよ、この恩知らずの、薄情な、いけない子!」とキャディは目に涙を浮べて答えました。「もう二度とあんたのために洋服を着せてなんかあげないから」
「いいよ、いくよ、キャディ!」と大声でいったピーピィは本当はよい子なので、姉が悩んでいるのを見てすっかり心を打たれ、すぐにピアノのほうへゆきました。
「こんなつまらないことで泣くことはないと思うでしょうけれども」とかわいそうなキャディは弁解するように、「あたしは疲れ切っているの。今日は午前二時まで新しい回状の宛名を書いていたんです。あたし、あんな仕事はなにもかも大きらいなので、ただそれだけで、もう目が見えなくなるほど頭が痛くなってしまうのよ。それに、かわいそうに、あのふしあわせな子を見てちょうだい! あの子ほど二目と見られないようなかっこうをした子が、この世の中にいたかしら!」
ピーピィは幸い自分のなりふりの欠点に少しも気づかず、ピアノの片方の脚のうしろへいって、じゅうたんの上にすわり、その|洞穴《ほらあな》の中から私たちのほうを眺めながらケーキを食べていました。
「あの子を部屋のすみのほうへやったのは」といってキャディは私たちの椅子のほうへ自分の椅子を近寄せながら、「話を聞かせたくないからなんです。ああいう子供たちって、とても敏感なのよ! さっき、いおうとしていたんですけれどね、あたしたちの家はほんとに前よりひどくなっているの。パパはまもなく破産するわ、そうすればママは満足してくれると思うの。パパの破産をありがたく思うのはママだけでしょうよ」
私たちはジェリビー家のご主人の仕事がそれほど悪くならないことを期待していると申しました。
「ご親切にそういって下さるけれども、期待したってむだなのよ」とキャディは頭をふりながら答えました。「この嵐を乗り切ることはできないって、つい昨日の朝パパが話してくれたわ(それでひどくみじめな気持になっているの)。乗り切ることができたら、それこそあたしはおどろくわ。出入りの商人たちはなんでも好きなものをうちへ持ちこんで来るし、うちの召使たちはそれをしたい放題にするし、あたしはどうしたら今の状態を改めることができるのか、かりにそれが分っていても、そんな時間はないし、ママはそんなこと全然かまわないんだから、一体パパはどうしたらこの嵐を乗り切ることができる[#「できる」に傍点]か知りたいものだわ。もしあたしがパパだったら、断然家出してしまうわ」
「ねえ、あなた!」私は微笑しながらいいました、「きっとパパはご家族のことを考えていらっしゃるのよ」
「そうですとも、パパのご家族はみんなご立派よ、サマソンさん」キャディが答えました。「でも、パパにとって家族がなんの慰めになるというの? パパの家族はただ勘定書、ごみ、くず、やかましい物音、階段からころげ落ちるさわぎ、混乱、みじめさだけ。パパの乱脈な家庭は、週の始めから終りまでまるで大洗濯日みたいよ――でも、なに一つ洗い清められはしないわ!」
キャディは床を足でとんとんふみつけ、目をふきました。
「ほんとに、あたしはパパをこんなにかわいそうだと思っているし、ママのことは言葉でいい表せないほど怒っているのよ! けれども、もう我慢していないわ、決心したの。一生涯、奴隷でいるつもりはないし、クウェイルさんからプロポーズされるまで、おとなしくしてなんかいないわ。まったく、慈善事業家と結婚するなんていやなことだわ! そんな人[#「そんな人」に傍点]はもうあきあきしたんですもの!」と、かわいそうに、キャディはいいました。
正直のところをいわなければなりませんが、この打ち捨てられた若い娘を目で見て話を聞き、その言葉に耳の痛いくらい皮肉な真実がどれほど含まれているかを悟った時には、私自身もミセス・ジェリビーに対して怒りを感じないわけにはゆきませんでした。
「もしあなたたちが前にうちへお泊りになった時からの仲よしでなかったら」とキャディは話をつづけて、「あたし、恥ずかしくて今日ここへ来なかったと思うわ、だってあなたたちの目には、あたしがさぞみすぼらしく見えるにちがいないって知っているんですもの。でも、そういう仲よしなんですから、お訪ねしようと決心したんです、ことに、このつぎ上京なさる時には、もう二度とお会いできそうもありませんから」
キャディがたいそう意味ありげにそういいましたので、エイダと私とはまだなにか事情があると見抜いて、おたがいに顔を見あわせました。
「だめだわ!」とキャディはかぶりをふりながら、「とてもお会いできそうもないの! あなたたちお二人なら、たしかに信用できるわ。まさかあたしを裏切ったりなさらないでしょう。あたし、婚約したのよ」
「おうちのかたに知らせずに?」と私がいいました。
「まあ、おどろいたわ、サマソンさん」と答えたキャディは、怒ったりしませんでしたが、じれったそうに、自分のとった行動の正しさを説明して、「それよりほかにしようがないじゃありませんか? ママの人柄はあなたもご存知ね――それに、パパに[#「パパに」に傍点]話してこれ以上みじめな思いをさせることはないんです」
「でも、パパにお知らせしたり同意していただいたりせずに結婚すれば、パパをなおさらふしあわせにするのじゃないかしら、ねえ?」
「いいえ」といってキャディはやさしい態度になり、「そんなことはないと思うわ。パパはあたしに会いに来た時に、慰めて楽しくさせてあげるつもりだし、ピーピィとほかの子供たちは交代であたしのところに泊りに来させれば、その時いくらかは面倒を見てあげられるでしょう」
かわいそうに、キャディはずいぶん愛情深いたちなのでした。そう話しているあいだに、ますますやさしくなり、つねにない、ささやかな家庭だんらんの情景を思い浮べたため烈しく泣き出しましたので、ピーピィはピアノの下の洞穴の中で心を打たれ、大声をあげて歎き悲しみながら、あお向けにひっくり返ってしまいました。そこで私がピーピィをつれていって姉にキスをさせ、それからまた前のように私のひざの上にすわらせ、キャディの笑っている顔を見せたすえに(キャディはそのためにわざわざ笑ったのです)、ようやくもとの安らかな気分に戻してやることができましたが、その時でもまだしばらくは、順番に私たちみなのあごをつかまえて、顔じゅうを手でなでさせてあげると約束しなければ治まりませんでした。もうピーピィはピアノの下へゆく元気がなくなりましたので、とうとう椅子の上にのせて窓の外を見させることにし、それからキャディは弟の片脚をおさえながら、また秘密の話を始めました。
「そもそもの始まりはあなたたちがうちへいらしたためなのよ」
当然私たちはどうして? と尋ねました。
「あたしは自分が粗野なことに気づいたもんですから、とにかくその点を直そうとして、ダンスを習おうと決心したんです。それでママに、自分が恥ずかしいから、ぜひともダンスをおそわらなければならないって話したの。ママは例のとおり、まるであたしが目にはいらないみたいな、あのしゃくにさわる目つきであたしを見たんですけど、あたしはもうダンスをおそわろうって決心を固めていて、それでニューマン街にあるターヴィドロップさんのダンス学院へいったのよ」
「では、そこだったの――」と私がいいかけました。
「ええ、そこでだったの、そしてあたしはターヴィドロップさんと婚約したの。ターヴィドロップさんは二人いるのよ、お父さんと息子さんと。あたしのターヴィドロップさんは息子さんよ、もちろん。あたし、もっとしつけよく育っていて、あの人のためにもっといい奥さんになれたらいいんだけどって、もうそればかり願っているの、だってあの人が大好きなんですもの」
「それはお気の毒にねえ」と私はいいました、「正直のところをいえば」
「なぜ気の毒なんておっしゃるのかあたしには分らないけれど」とキャディはやや心配そうにいい返しました。「でも、どっちみち、あたしはターヴィドロップさんと婚約しているんだし、それにあの人はあたしが大好きなのよ。この話はまだあの人のほうでも秘密にしているの、なぜかっていうと、これはターヴィドロップさんのお父さんに関係のあることなので、もしふいに話したりすると、お父さんがとても悲しんだりショックを受けたりするかも知れないんです。ターヴィドロップさんのお父さんはとても立派な紳士らしい人よ――とても立派な」
「奥さんはこの話をご存知なの?」とエイダが尋ねました。
「お父さんの奥さんですか、クレアさん?」とキャディは目を見はって答えました。「奥さんなんていませんわ。男やもめなんです」
ここで話はピーピィのために中断されました。というのは、キャディは話に力を入れるたびごとに、思わず知らず弟の脚をまるでベルの引きひもみたいにぐいぐい引っぱっていましたから、ピーピィはもう痛くてたまらなくなり、元気のない声で悲鳴をあげたのです。ピーピィは私に同情を求めたわけですし、私はただ話を聞いていさえすればよいので、キャディに代ってピーピィの脚をおさえる役目を引受けました。キャディはピーピィにキスをしながら、ごめんなさい、ほんとに、そんなつもりじゃなかったのよ、といってから話をつづけました。
「実情は今いったとおりなの。あたし、自分が悪いと考える時もあるけど、でもやはりママの責任だと思うわ、あたしたちは事情が許せば、いつでも結婚するつもりよ、そうしたらあたし、パパを事務所へ訪ねていって、ママに便りをするわ。ママは大して心配しないでしょう、ママにとって[#「ママにとって」に傍点]あたしはペンとインクにすぎないんですもの。一つだけとても慰めになることをいえば」とキャディはすすり泣きながら、「結婚すればもう二度とアフリカの話を聞かされることはないでしょう。ターヴィドロップさんはあたしのためにアフリカぎらいになったのよ。でも、お父さんのほうは、まあ、せいぜいそんな国があるのを知っているくらいのところね」
「そのかたはとても立派な紳士らしいかただっていったでしょう!」と私がいいました。
「ほんとに、とても立派な紳士らしい人よ。ほとんどどこへいっても、行儀作法に通じていることで有名なの」
「そのかたはダンスを教えていらっしゃるの?」エイダが尋ねました。
「いいえ、別になにも教えていないんです。けれども、あの人のお作法にかなった身ごなしはすばらしいわ」
キャディはかなり躊躇して気が進まない様子でしたが、なおも言葉をつづけて、もう一つだけ、私たちに知っておいてもらいたいし、話しておくべきだと思っていることがあるけれども、それは聞いても気を悪くしないでもらいたいと申しました。その話というのは、キャディはあの気のくるった小柄のおばあさん、フライトさんと親しくなり、たびたびおばあさんのところへ朝早く出かけて、そこで朝飯前に数分間――ほんの数分間だけ――恋人と会っているというのです。「あたし[#「あたし」に傍点]はほかの時にもあそこへいくけれども、プリンスはその時には来ないんです。ターヴィドロップさんはプリンスっていう名前なの。そんな名前でなければいいのに、だって、まるで犬みたい。でも、もちろん、自分でつけたわけじゃないけど。お父さんが|摂政宮《せつしようのみや》殿下(2)の記念にプリンスっていう名前をつけたのよ。お父さんは摂政宮殿下が行儀作法に通じたかただったので、殿下を崇拝していたんです。あたし、あなたたちと初めていったフライトさんのうちであの人と会っていたんですけど、悪く思わないでちょうだいね。もしあの人に会って下さったら、あなたたちもきっと好意を持って下さると思うの――少なくとも、きっとあの人のことを悪く思ったりはしないでしょうよ。あたし、これからあそこへダンスのおけいこにいくの。サマソンさん、いっしょにいって下さいなんて、とてもお願いできませんけど、もしかいって下さるなら」とキャディはおそるおそる真剣にこれだけいってから、「あたし、とてもうれしいわ――とても」
偶然にも、私たちはその日ジャーンディスおじさまといっしょに、フライトさんの家へゆく手はずになっていました。私たちが前に初めてそこを訪ねた時のことを話しましたら、おじさまは興味を持たれたのですが、いつもなにかしら都合の悪いことが起って、その日まで私たちは二度目の訪問をはたせないでいたのです。今かわいそうなキャディが自分から進んで私に寄せた信頼の気持に充分答えておいたならば、キャディがなにか向う見ずな手段をとろうとした場合に、きっと私から説得してとめることができるだろうと思いましたので、私が提案して、キャディと私とピーピィはダンス学院へゆき、そのあとフライトさんのところで――この人の名前はこの時始めて知ったのですが――ジャーンディスおじさまとエイダに落ち合うことにしましょうといいました。この申し出は、キャディとピーピィがまたここへ夕食をしに戻ってくるという約束つきでした。この最後の条件に二人が大よろこびで同意しましたから、私たちはピンと石けんと水とヘアブラッシの助けをかりて、ピーピィをやや小ぎれいに身づくろいし、表へ出て、ニューマン街へと足を向けましたが、そこはすぐ近くなのでした。
行ってみますと、そのダンス学院は、あるアーチ道の角の、階段の窓という窓に胸像が飾ってある、まったくうすぎたない家の中にあるのでした。ドアにかけてある表札から推測しますと、同じ家の中で図画教師と、石炭屋(どう見ても石炭を置く余地はありませんでしたが)と、石版屋も営業している模様でした。そういう表札にくらべて、大きさも位置も一段ときわ立った一枚の表札に、「ミスター・ターヴィドロップ」と書いてありました。家のドアはあいていて、玄関の間をグランド・ピアノ、竪琴、そのほかケースに入れたいくつかの楽器がふさいでいましたが、どれもみなこれから外へ運び出すところで、昼の光を受けてどれもみなスマートに見えました。昨日の晩、音楽会の会場にダンス学院を貸したのだ、とキャディが知らせてくれました。
私たちは階上へ登り――この家は、むかし、清潔に掃除して真新しいままにしておくことを仕事にしていた人がいて、一日じゅう家の中で煙でいぶすことを仕事にするような人がいなかった時分には、まったく立派な家だったのです――ミスター・ターヴィドロップの大きな部屋にはいりましたが、ここは裏手の厩の中まで建て増してあって、天井に明り取りがついていました。がらんとした、ひどく反響のする部屋で、厩のにおいがし、壁に沿ってとう[#「とう」に傍点]製のベンチをならべ、壁には規則正しい間隔をおいて、彩色した七絃琴とカットグラスのちいさな枝状燭台とを飾りつけてあり、この燭台が、木々の枝が秋の木の葉を降らすように、古風な|蝋涙《ろうるい》を降らしているようでした。年は十三、四から二十二、三までの若い女生徒が数人集っていましたので、私はそちらへ目を向けて先生の姿を見つけようとしていますと、キャディが私の腕をつねって、儀式ばった紹介の言葉をくり返すのでした。
「サマソンさん、こちらはプリンス・ターヴィドロップさんです!」
私がおじぎをした相手は、小柄で色白な、青い目をした、若々しい風采の男の人で、亜麻色の髪をまん中で分けて、先のほうを頭のまわり一面にカールさせていました。左のわきの下には、以前私の学校の生徒たちがキットと呼んでいた、ちいさなバイオリンをかかえ、同じ左の手にバイオリンのちいさな弓を持っていました。足にはいている、ダンス用のちいさな靴はとりわけ小型で、また、ものごしが無邪気で女のようにかわいらしいので、愛らしい魅力を持っていたばかりでなく、妙な話ですが私の印象では、この人はお母さん|似《に》で、お母さんはあまり大事にされたり、やさしく扱われたりしたことがなかったらしいという感じを受けました。
「ジェリビーさんのお友だちにお目にかかれて、とてもうれしゅうございます」といいながら、プリンス・ターヴィドロップは腰を低くかがめて私におじきをしました。「いつもの時刻が過ぎたものですから」と内気らしくおずおずと、「ジェリビーさんはいらっしゃらないのかしらと、心配しかけていたんです」
「申しわけございませんでしたけれども、私がお引きとめしたせいでございます、どうぞお赦し下さいませ」
「まあ、それはそれは!」
「お願いですから」と私は頼みました、「もうこれ以上私のために手間どらないで下さいませ」
そう詫びると、私はピーピィと口やかましそうな顔つきをした老婦人とのあいだの席に引きさがりましたが(ピーピィはこういうことになれ切っているので、もう隅のほうの座席にはいあがっていました)、その婦人は二人の|姪《めい》にダンスを習わせに来ていて、ピーピィの長靴にたいそう憤慨していました。それからプリンス・ターヴィドロップがバイオリンを|爪《つま》びきし、生徒たちは立ち上ってダンスを始めようとしました。するとちょうどその時、横手のドアがあいて、父親のターヴィドロップ氏が、はなばなしく行儀作法をこらしてあらわれ出ました。
ターヴィドロップ氏はふとった老紳士で、おしろいと、入れ歯と、つけひげと、かつらをつけていました。えりには毛皮のカラーをつけ、上衣は、胸につめ物を入れてみごとにふくらませてありましたから、星形の記章か幅の広い青リボン(3)をかけていないのが玉にきずでした。その上、体は、こらえられるかぎり、締めつけ、ふくらませ、伸ばし、しばりつけてありました。首には、すばらしく大きなネクタイを(目玉が丸くなるほど)きつく締めていて、その中にあごが、いいえ、耳までがすっかりうずまっていましたから、もしネクタイをほどきでもしたら、それこそ体が二つに折れてしまったことでしょう。わきの下にかかえた、ひどく大きく重たい帽子には、山から|縁《ふち》のほうへなだらかな傾斜がついていましたが、ターヴィドロップ氏は肩をまっすぐ伸ばして、ひじを丸く張った、なんともいえない優雅なかっこうをして、片脚で立ったまま、手にした白手袋で帽子をぴしゃりとたたくのでした。ターヴィドロップ氏はステッキを持ち、鼻眼鏡をかけ、嗅ぎ煙草入れを持ち、指環をはめ、カフスをつけ、人間に生れながらそなわったもの以外ならなんでも身につけていましたし、また、若者らしくもなく、老人らしくもなく、ただ行儀作法のお手本そのままの人でした。
「お父さん! お客様です。こちらはジェリビーさんのお友だちのサマソンさんです」
「ようこそ御光来下さいました、サマソンさん」と、そういう窮屈なかっこうで私におじぎをした時、ほんとうに、ターヴィドロップ氏は自分のズボンの折り目で自分の白目を刺したのではないかと思いました。
「僕の父は」と息子さんは、父親に対してまったくいじらしいほどの信頼をこめて、小声で私にいうのでした、「名士なんです。父はとても敬服されているんです」
「つづけなさい、プリンス! つづけなさい!」とターヴィドロップ氏は煖炉の火に背中を向けて立ったまま、恩に着せるような態度で手袋を振りました。「つづけなさい、せがれや!」
この命令といいましょうか、寛大な許可といいましょうか、それが出ると授業がつづけられました。プリンス・ターヴィドロップはダンスをしながらバイオリンをひいたり、立ったままピアノをひいたり、細い声をふりしぼって曲を口ずさんだりしながら、生徒のまちがいを直してやるのでしたが、そのあいだも絶えず|律義《りちぎ》に、いちいち初心者のステップやフィギュアに合わせておどってやり、一瞬も休みませんでした。一方、有名な父親のほうは全然なにもしないで、行儀作法のお手本よろしく火の前に立っているのでした。
「あの人はただああしているだけなんですよ」と私のとなりの口やかましそうな顔つきをした老婦人がいいました。「それなのに、あきれるじゃございませんか、表札には自分の[#「自分の」に傍点]名前を出しているんですから」
「息子さんも同じ名前でございましたわねえ」
「あの人は、もしとれるものなら、名前だって息子さんからとり上げてしまいますよ」と老婦人は答えました。「息子さんの洋服をごらんなさいましよ!」なるほど、質素な洋服でした――すり切れていて――みすぼらしいといっていいほどでした。「それなのに、あの人はおしゃれをして、飾り立てなくちゃ承知しないんですよ、|行儀作法《デイボートメント》を守るためにね。あんな男、|島流しの刑《デイボート》にしたいものですわ! |追放《トランスポート》したほうがいいんですよ!」
この男のことをもっと知りたいという物好きな気持が私の胸にわきました。それで尋ねました。「今、あの人は行儀作法を教えていらっしゃるのですか?」
「今ですって!」老婦人はつっけんどんに答えました。「そんなこと、一度もしたことがありませんよ」
私はちょっと考えてから、たぶん、あの人はフェンシングでも修行して来たのではないでしょうか、といいました。
「フェンシングなど、まるっきりできないと思いますね」
私はおどろきと好奇心を顔にあらわしました。老婦人は話題がこまかくなるにつれて、ますますこの行儀作法の大家に腹を立ててしまいましたので、これは控え目の話ですけれど、と何度も力をこめてことわりながら、ターヴィドロップ氏の経歴をややくわしく話してくれました。
ターヴィドロップ氏は(生れてこのかた、行儀作法にかなった|立居振舞《たちいふるまい》をするよりほかに、なに一つしたことがなかったので)、相当な親戚を持った、小柄の、従順なダンス教師と結婚し、自分の地位を保つのに絶対必要な費用を確保するために、妻を酷使して死なせてしまいました、あるいは、せいぜいよくいえば、妻が体を酷使して死ぬのを黙って見ていたのです。夫は、自分の立居振舞のよさを、行儀作法の最上のお手本とすべき人たちに見せ、自分の面前にも絶えずそういうお手本を置いておくためには、上流の有閑人士が集る盛り場という盛り場にひんぱんに出入りし、上流人士の集る季節にブライトン(4)その他の遊覧地に姿を見せ、とびきり上等の服装をして遊び暮さなければいけないと考えていたのです。夫にそういう生活を送らせてやるために、愛情深いこの小柄のダンス教師は骨を折ってはたらき、もし体力がつづいたなら、死ぬまでそうやってはたらいたことでしょう。こういうことになった主な理由はといえば、夫が身勝手で妻をかえりみなかったのにもかかわらず、妻は(この男の行儀作法に心を奪われてしまったので)、最後まで夫を信じて、いまはのきわに、この上もなくいじらしい言葉で、自分たちの息子に夫のことを頼み、お父さんはお前に対して消滅することのない権利を持っている人で、いくらお父さんを誇りに思い尊敬しても、しすぎることはないといいました。息子は父に対する信用を母から受けつぎ、その行儀作法をまのあたりに見て来たので、母と同じ信頼をいだきながら成長し、三十歳になった現在では、一日に十二時間父のためにはたらき、この年老いた架空の巨峰をあがめているのでした。
「あの男の気どっていること!」と、私にこの話をしてくれた老婦人はいいながら、言葉にあらわせない怒りをこめて、ターヴィドロップ氏に向って、かぶりをふりましたが、きっちり手に合った手袋をはめようとしていたターヴィドロップ氏は、もちろん、この讃辞には気づきませんでした。「自分がほんとに貴族だと思いこんでいるんですよ! 息子さんをすっかりたぶらかしているくせに、とても恩きせがましい扱いようをするんでございますから、人さまは非の打ちどころのない、立派な親御さんのように思ってしまいますわ。ああ!」と急に老婦人はひどく感情が激したらしい口調でターヴィドロップ氏に向っていうのでした、「あんたにかみついてやりたいわ!」
私は老婦人のいうことを|親身《しんみ》になって最後まで聞いていましたものの、どうしてもおかしく思わずにはいられませんでした。この親子をまのあたりに見ているのですから、婦人の言葉を疑うことはできませんでした。婦人の話を聞かなければ、はたして二人のことをどう思ったか、また、二人を見ていなければ婦人の話をどう思ったか、それはなんともいえません。けれども、全体として見れば、どうしても本当だと考えずにはいられないのでした。
まだ私が、じつに熱心に働いている息子さんから、じつにみごとな行儀作法ぶりを示している父親のほうへ、ゆっくりと視線を移しかけていた時、父親は気どった足どりで私のところへやって来て、話を始めました。
まず最初、ターヴィドロップ氏は、あなたさまはロンドンにおすまいになって、当地に御光彩をおそえ下さっているのですか、と尋ねました。私は、どこに住んでいるにせよ、そんな光彩をそえられるような者でないことは、自分でもよく心得ている、などと答える必要はないと思いましたが、実際の住所だけは告げました。
「あなたさまにように、おしとやかで、たしなみ深いかたは」といいながらターヴィドロップ氏は右の手袋にキスしてから、生徒たちのほうへさし出して「当地の種々至らぬ点を御寛恕下さいますでしょう。わたくしどもは全力をつくして、|磨《みが》きに――磨きに――磨いております!」
ターヴィドロップ氏は、自分のお手本にしている、ソファーの上の高貴なかたの絵姿をまねながら(と私は思いました)、私たちのベンチに腰かけようと、やや苦心してから私のわきにすわりました。そのかっこうは、たしかにお手本そっくりでした。
「磨きに――磨きに――磨いております!」と、くり返しながら、ターヴィドロップ氏は嗅ぎ煙草をひとつまみ吸うと、いかにも品よく指を軽くはたきました。「しかしながら、わたくしどもは――あなたさまのようにお生れつきも、おたしなみも、しとやかなかたにこう申すのは、気がひけますけれども」と、肩を高くのばしたままおじぎをすると、眉をつりあげ、目を閉じずにはいられないようでしたが、「――わたくしどもは行儀作法に関しましては、かつてとちがっております」
「そうでございますか?」
「わたくしどもは堕落してしまいました」と答えてターヴィドロップ氏はかぶりを振りましたが、ネクタイのために思うに任せませんでした。「平等主義の時代は行儀作法にとって好ましいものではありません。すべてが下品になってしまうからでございます。おそらく、わたくしの申すことには、いくぶんか|身《み》びいきがございましょう。自分の口から申すのはなんですが、もう数年以前から、わたくしは『紳士ターヴィドロップ』と呼ばれておりますし、また、摂政宮殿下がブライトンの御用邸(5)から(あのすばらしい建物からです)、馬車でお出ましになりましたおりに、わたくしが脱帽いたしましたところ、かたじけなくも殿下は『あれはだれか、一体なにものか? なぜ私はあのものを知らないのか? なぜあのものは年に三万ポンドとっていないのか?』と御下問になられました。しかし、こういうちょっとした逸話は――|上《うえ》つ|方《がた》のあいだでは、いまだに、ときおり語り草になっておりまして――いわば、上つ方の完全な財産なのでございます」
「そうですか?」
ターヴィドロップ氏は返事の代りに、肩をまっすぐ張ったまま頭を下げました。それからつけ加えて、「廃れたとは申せ、わが国の行儀作法はいまだに上つ方のあいだに|名残《なご》りをとどめております。イギリスは――悲しいかな、わが祖国よ!――まったく堕落いたしてしまい、日ごとに堕落しつつあります。もう国の中に紳士はあまり残っておりません。わたくしどもは数少ないのでございます。わたくしどもの跡継ぎと申せば、ただ織物職工どもの仲間がいるばかりでございます」
「この国の紳士がたのお仲間に末永くつづいていただきたいものですわ」
「御好意、まことにかたじけのう存じます」とターヴィドロップ氏はまた肩をまっすぐ張ったまま頭を下げて、にっこりほほ笑みました。「過分のお言葉をいただいて恐縮いたします。しかし、いけません――いけません! わたくしはうちのせがれめに、そういったたしなみを植えつけることができませんでした。いいえ、決してかわいいせがれを悪く申しているのではございません、めっそうもない、しかし、あれは――行儀作法が成っておりません」
「すばらしい先生のようにお見受けしますけれども」と私がいいました。
「まあ、よくお聞き下さい、お嬢さま、たしかに[#「たしかに」に傍点]せがれはすばらしい教師でございます。習いうるかぎりのことを、あれは習い覚えました。教えうるかぎりのことを、あれは教えることができます。しかし、世の中には、実際[#「実際」に傍点]、いろいろな物事がございまして――」ターヴィドロップ氏はまた嗅ぎ煙草をひとつまみ吸い、もう一度おじぎをしました、まるで「例えば、こういったようなことで」とでもつけ加えるみたいに。
部屋のまん中のほうをちらりと眺めますと、もうキャディの恋人は、個人教授をしているところで、前にもまさる骨折りをつづけていました。
「かわいい息子よ」とターヴィドロップ氏はネクタイを直しながら、つぶやきました。
「ご子息さまはよくお疲れにもならずに、ご精を出されますこと」と私がいいました。
「そうおっしゃって下さいますと、わたくしも張り合いがございます。せがれはいろいろな点で、亡き母親の志をついでいるのです。母は献身的な女でございました。しかし、おんなよ、うるわしきおんなよ」とターヴィドロップ氏はたいそう感じの悪い|伊達《だて》|者《しや》らしい口ぶりでいいました、「御身はなんとすばらしきかな!」
私は立ち上って、その時もう帽子をかぶりかけていたキャディのそばへゆきました。規定の授業時間をすっかり過ぎていましたから、みなが帰ろうとして帽子をかぶっているところでした。キャディとかわいそうなプリンスとが、いつ機会をみつけて婚約するようになったのか知りませんが、たしかにこの時は短い話をとりかわす機会さえ、まったくありませんでした。
「ねえ、おまえ」とターヴィドロップ氏は息子さんに向って、やさしくいいました。「時間を知っているかね?」
「いいえ、お父さま」息子さんは時計を持っていないのでした。父親はりっぱな金の懐中時計を持っていて、世界中の人の模範になるような身ごなしで、とり出しました。
「せがれや、二時だよ。ケンジントンの教習所が三時に始まるのをお忘れでないよ」
「そんなら僕にはたっぷり時間がありますよ、お父さま。立ったまま、ひと口食事をしていけます」
「ねえ、おまえ、大いそぎでしなければいけないな。テーブルの上にマトンの冷製が出してあるよ」
「ありがとうございます。お父さまも[#「お父さまも」に傍点]今お出かけですか?」
「うん、出かけるよ。たぶん、わたしは」といってターヴィドロップ氏は、控え目ながらも意識して、両眼を閉じ両肩を高く張り、「いつものとおり、ロンドンの人たちにわたしの姿を見せてあげなければいけないだろうからな」
「どこか外で気持よく食事をなさったほうがいいですね」
「せがれや、わたしもそのつもりだ。オペラ座の柱廊のところにあるフランス料理店で、ちょっと食事をしようと思っているよ」
「それは結構ですね。さよなら、お父さま!」とプリンスは握手をしながらいいました。
「さよなら、せがれや。神様のみ恵みがおまえの上にありますように!」
ターヴィドロップ氏がいとも|敬虔《けいけん》な態度でそういいますと、息子さんにはそれがうれしかったらしく、別れぎわに、父にすっかり満足して従順にしたがい、父を誇らしく思っていましたから、私はこの父親を盲目的に信じてあげなければ、息子さんに対して悪いような気がするほどでした。プリンスが私たち二人に(特に、私の見たところ、秘密を知っているそのうちの一人に)別れを告げた数秒のあいだに、プリンスの子供らしいほどの人柄に対する私の好感が強められました。プリンスが小型のバイオリンをポケットに入れ――それといっしょに、しばらくキャディとともにいたいという望みもしまい――マトンの冷製とケンジントンの教習所のほうへ機嫌よく去っていった時、私はプリンスに好意とあわれみとを感じましたので、さきほどの口やかましい老婦人におとらぬほど、この父親に怒りを覚えました。
父親は私たちのために部屋のドアをあけて、さすがあのやんごとない宮殿下をお手本にしている人にふさわしい物腰で(と認めないわけにはゆきません)、おじぎをしながら送り出してくれました。それからまもなく、同じような身ごなしで通りの反対側を歩きながら、私たちを追い越して、上流階級の人たちの集る方面へと向い、名残りをとどめている数少ない紳士たちの中へ、自分の姿を見せに出かけるのでした。しばらくのあいだ、私は今しがたニューマン街のダンス学院で見たり聞いたりしたことを、考え直すのに夢中になっていましたから、キャディに話しかけたり、いいえ、それどころか、キャディが私にいった言葉に注意をそそぐことさえ、まったくできませんでしたが、ことにそれがひどかったのは、一体ダンスを職業にしていないほかの紳士で、ただ自分の身ごなしひとつで暮しを立て、名声を築いている人がいるのだろうか、それとも今までにいたのだろうかと考え始めた時でした。そのために頭がすっかり混乱してしまい、ターヴィドロップ氏のような人が大勢いるのかも知れない、とまで思いましたから、自分に向って「エスタ、そんな思案はきれいさっぱり止めて、キャディに注意してあげるようにしなければだめ」といいました。そこで私はそのとおりにして、それからあとずっとリンカン法曹学院まで、二人しておしゃべりをつづけました。
キャディが話してくれたところによると、これまで教育をおろそかにされて来たため、キャディの恋人の手紙は、いつも読みやすいとは限らないということでした。もしあんなに綴りを気にして、はっきり書こうと骨折ったりしなければ、もっとよく書けるのに、短い言葉に、いらない字をたくさんつけるので、まるっきり英語らしくなくなってしまうのよ、とキャディはいいました。「それが、誠心誠意でしていることなんですけど」と自分の意見をさしはさんで、「その|甲斐《かい》がないのよ、かわいそうな人!」それから結論に移って、どうしてあの人に読み書きできるはずがあるの、ずっとダンス教習所で暮して来て、朝昼晩、ただもう、せっせと働いては教え、教えてはせっせと働くばかりだったんですもの! でも、そんなこと、どうだっていいじゃないの? あたしは、つらい思いをして覚えたことですけど、充分二人分の手紙だって書けるし、あたしとしては、あの人に学問があるより、気立てのやさしいほうがずっといいわ、といいました。「それに、あたしだって、いばる資格のある、たしなみ深い娘というわけじゃなし、ママのおかげで、ほんとにあたし、なんにも知らないも同然だわ!」
「あたしたちだけになったんですから、もう一つお話したいことがあるんだけど」とキャディは言葉をつづけて、「これは、もしあなたがプリンスに会わなかったら、いいたくなかったことなの、サマソンさん。あなたは、あたしのうちがどんなうちかご存知ね。プリンスの奥さんになった時に知っていると役に立つようなことを、あたし[#「あたし」に傍点]のうちで習おうとしても全然だめなの。うちはとてもめちゃくちゃな暮しをしているから、そんなことできない相談だし、今までだって、そうしようとするたびに、ますます失望するばかりだったのよ。それであたし、ちょっとおけいこをしているの――だれのところでだと思うかしら? あのかわいそうなフライトさんのところよ! 朝早く、あの人を手つだって、部屋の掃除をし、飼っている小鳥をきれいにして、それからコーヒーを入れてあげるんですけど(もちろん、あの人に教えてもらったのよ)、もうあたし、とてもじょうずに入れられるようになったので、プリンスがいっているわ、こんなにおいしいコーヒーを飲んだことがない、お父さまに飲ませたら、さぞよろこぶことだろうですって。だって、あの人のお父さんはコーヒーにとてもやかましい人なのよ。それから、あたし、ちいさなプディングも作れるし、マトンのくび肉や、お茶や、お砂糖や、バターや、いろんな日用品の買い方も知っているわ。裁縫はまだじょうずじゃないけど」といいながらキャディはピーピィの洋服のつくろいをちらりと眺め、「でも、きっと今に上達するでしょうし、またプリンスと婚約して、こういうことを始めてから、自分の気持がおだやかになったし(そうだと思うの)、ママにも寛大になって来たの。今朝、あなたとクレアさんがとても品がよくて、きれいなのを見て、ピーピィを、それからあたしを恥ずかしく思った時は、初めのうち、かなりしゃくにさわったわ、でも大体において、以前より気持がおだやかになったし、ママにも寛大になったと思うの」
かわいそうなこの娘が懸命に努力して、心からそういいましたので、私は胸を打たれました。「キャディ、私、あなたが大好きになって来たわ、私たち、お友だちになりたいものね」と私は答えました。「まあ、ほんと?」とキャディは大声をあげました、「そうなれたら、どんなにうれしいか知れないわ!」「ねえ、キャディ、私たち、今からお友だちになりましょうよ、そしてこういう問題について、たびたび話し合って、一番効果のある解決法を見つけるように努めましょうよ」キャディは大よろこびでした。私は自分なりの旧式なやりかたで、できるかぎりキャディの慰めになり、はげましになることをしゃべりましたから、もしこの日でしたら、ターヴィドロップ氏に対しても、キャディがお嫁にいった時に分けてもらう財産の問題よりちいさな事柄についてなら、なんの苦情もいわなかったことでしょう。
この時までにもうクルックさんの古着屋へ着きましたが、住居のほうのドアはあいていました。ドアの柱に、三階に貸間ありと書いたビラが|貼《は》ってありました。それを見て思い出したキャディは、階段を登りながら、その部屋で急死した人があって、死体審問がおこなわれたこと、これから訪ねてゆく私たちのお友だちは、恐怖のあまり病気になったことを話してくれました。その空部屋のドアと窓が開いていましたから、私たちは中をのぞいてみました。それは、この前私がここへ来た時、フライトさんからこっそり注意された、あの黒いドアのついた部屋でした。荒れはてた、わびしいところで、いかにもうら悲しく、陰鬱なので、私はいたましさと、恐ろしさすら入りまじった異様な感じにおそわれました。「あなた、顔色が真青よ」私たちが外へ出るとキャディがいいました、「それに寒そうね!」私はまるでこの部屋のために冷えきってしまったような気がしました。
私たちは話をしながら、ゆっくり歩いて来ましたので、ジャーンディスおじさまとエイダのほうが先に着いていました。フライトさんの屋根裏部屋へゆきますと、そこにいました。二人は小鳥たちを眺めていましたが、煖炉のそばでは、フライトさんのことをたいそう|親身《しんみ》になって案じ、親身にも診察して下さったお医者さんが、フライトさんと快活に話をしていました。
「今、往診を終えたところなんです」とお医者さんは前へ出て来て、いいました。「フライトさんはずっとよくなりましたから、明日は裁判所へ出頭できるでしょう(あそこのことばかり考えていられますからね)。フライトさんが見えないので、あそこでは大分さびしがっていると聞いています」
フライトさんは満足げにこのお愛想を受け、私たち一同におじぎをしました。
「ジャーンディス事件の被後見人のかたがたに、また訪ねていただいて、ほんとに光栄なこと! このむさくるしい屋根の下に、荒涼館のジャーンディスをお迎えするなんて、たい―へんうれしいこと!」といって特別のおじぎをし、「まあ、フィツ=ジャーンディス(6)」キャディにそういう名前をつけてしまったらしく、いつもそう呼ぶのでした、「ようこそ、ようこそ!」
「この人はずいぶん悪かったのですか?」とジャーンディスさんが、フライトさんに附きそっていたお医者さんに尋ねました。小声で質問したのですが、すぐさまフライトさんが自分で答えました。
「ええ、まったくひどいものでした! ええ、ほんとにひどいものでした!」とフライトさんは打ちとけて秘密を告げるようにいいました。「痛みじゃないのですよ――苦しみです。体のというより神経の、神経のね! じつをいうと」声を低め、身ぶるいしながら、「ここで死人が出たのです。この家に毒薬があったのです。そういうものに大変敏感でしてね。おびえてしまいました。どれほどおびえたかはウッドコート先生しかご存知ないけれども。こちら、私のお医者さんのウッドコート先生!」とたいそう威厳を見せて紹介しました。「こちら、ジャーンディス事件の被後見人さんたち――荒涼館のジャーンディス――フィツ=ジャーンディスです!」
「フライトさんは」とウッドコートさんは、まるで私たちに話しかけながらもフライトさんに呼びかけるみたいに、まじめな声をして、自分の手をフライトさんの腕の上に置き、「フライトさんはいつもどおり正確に、自分の病状を述べていますよ。この家で、もっと丈夫な人でもびっくりするような出来事が起ったために、びっくりして、その心労と興奮から病気になったのです。事件が発見されて、初め大さわぎをしていた時に、フライトさんが私をここへつれて来ました、もっとも、もう手おくれで、私はふしあわせな犠牲者になんの役にも立ちませんでしたが。その失望をつぐなうために、私はそれ以来ここへ来て、いくぶんかフライトさんのお役に立っているのです」
「国じゅうのお医者さん仲間で、一番親切な先生よ」とフライトさんが私にささやきました。「もうじき判決が下るはずです。|審《さば》きの日に。そうしたら財産をさしあげるつもり」
「一日、二日すれば、フライトさんは」ウッドコートさんは注意深い微笑を浮べて老婦人のほうを眺めながら、「これ以上よくならないというところまで回復します。つまり、全快というわけです、もちろん。みなさんはこの人が幸運にめぐまれた話をお聞きになりましたか?」
「ほんとにふしぎ!」フライトさんは晴れやかなほほ笑みを浮べながらいいました。「ねえ、こんなこと、聞いたことがあるでしょうか! 日曜ごとに、おしゃべりケンジかガッピーが(おしゃべりKの事務所員です)、私にシリング銀貨入りの紙袋を渡すのです。シリング銀貨を。ほんとうですよ! いつも袋の中には同じ数だけ。毎週いつも一日あたり一枚。ねえ、みなさん、うそじゃありません! 一日一枚で、ちょうど具合がいいじゃありませんか? そ―ですよ! その袋はどこから出ているのかって、おっしゃるのでしょう? それが大問題。もちろんね。私[#「私」に傍点]の考えをいいましょうか? 私[#「私」に傍点]の考えではね」というと、とても抜け目のない顔つきになって、うしろへさがり、たいそう意味ありげに人さし指をふりながら、「大法官閣下が、|大封印《グレート・シール》を解いて以来どれだけ年月がたったかに気づいて(もうずっとむかしに解かれたのですからね!)、この銀貨を送達して下さるのです。私の当てにしている審判が下されるまでのあいだ。ねえ、これはたいそうりっぱな、なさりかたですよ。そうやって、自分の仕事ぶりが生きている人間たちにとって、たしかに[#「たしかに」に傍点]ちょっとおそすぎると自白するなんて。とても思いやりがあること! せんだって、裁判所へ出席した時に――私は規則正しく出席しています――書類を持ってね――大法官閣下をこのことで責めたら、ほとんど自白しました。つまり、私が自分の席から閣下に向って、にやりと笑うと、閣下は[#「閣下は」に傍点]自分の席から私に向って、にやりと笑ったのです。でも、これはたいそうな幸運じゃありませんか? それに、このお金をフィツ=ジャーンディスが私のためにとてもじょうずに使ってくれるのです。ええ、ほんとに、とてもじょうずにね!」
私はフライトさんに向って(今の言葉を、フライトさんは私に向って話しかけたのです)、そんなふうに運よく収入がふえたことを祝ってあげ、それが長つづきしますようにといいました。私はそのお金がどこから出ているのかを推測したり、だれがそんなに人情味のある心づかいをしているのかしら、と考えたりしませんでした。ジャーンディスおじさまが私の目の前に立って、じっと小鳥をみつめていましたから、おじさま以外の人に目を向ける必要がなかったのです。
「ところで、このちいさな連中をなんと呼んでいらっしゃるのです?」おじさまが快活な声で尋ねました。「名前がついているのですか?」
「私、フライトさんの代りにご返事できますわ、名前がついているんです」と私はいいました、「だって、フライトさんがどんな名前か教えて下さるって、約束なさったんですもの。エイダは覚えているでしょう?」
エイダは、はっきりと覚えていました。
「そうだったかしら?」フライトさんがいいました――「だれ、ドアのところにいるのは? なんのためにドアのところで立ち聞きしているの、クルック?」
この店の老主人がドアを押しあけて、そこに姿をあらわしましたが、片手に毛皮の帽子を持ち、すぐうしろに猫を従えていました。
「わしは立ち聞きしていたんじゃねえですよ、フライトさん。ドアを手でたたこうとしていたんだけど、あんたはとても耳がいい!」
「猫を下へゆかせなさい。追いはらいなさい!」と老婦人は腹立たしげに叫びました。
「ふん、ふん!――なにも、あぶないことはありませんや、みなさん」クルックさんはそういって、鋭い目でゆっくり私たち一同を一人一人眺めてしまうと、「わしがここにいりゃ、こいつは鳥をねらったりしませんや、ねらえっていわないかぎりね」
「ここの主人をかんべんしてあげて下さい」と老婦人はいかめしい態度でいいました。「キじるしなのです、まったくの! 私のお客さまがいらっしゃるのに、なんの用なの、クルック?」
「ねえ! あんたも承知してるとおり、わしは大法官でさあ」
「それで? それがどうしたの?」
「大法官がさあ」と老主人はくすくす含み笑いをしながら、「ジャーンディス一族の人と近づきでないってのは、おかしくないかね、フライトさん? ご免こうむらしてもらいますぜ?――初めまして、旦那。わしはジャーンディス対ジャーンディス事件のことなら、旦那に負けねえくらい知ってまさあ。地主のトムご隠居を知ってましたよ、旦那。わしの知ってるかぎりじゃ、これまで旦那を見たことは一度もないね、裁判所でだっても。だけど、わしはあそこへは、平均してみりゃ、一年のうちになんべんとないくらい、いくんだけどねえ」
「私は決してゆきません」とジャーンディスさんはいいました(おじさまはどんなことがあっても、決してゆきませんでした)。「あそこへゆくくらいなら、むしろ――どこかほかのところへゆきますよ」
「でも、そうですかい?」クルックはにやりと笑って答えました。「旦那はわしのいとも博学高貴な兄弟(7)を、ひどくこきおろしてるわけだね、でも、ジャーンディス一族の者とすりゃ、たぶん、あたりまえだろうね。やけどをした子供だもんね(8)、旦那! なんだ、旦那はこのばあさんの鳥を見ているんですかい、ジャーンディスさん?」店の老主人は少しずつ部屋の中へはいりこんでいたのですが、その時はもうひじがおじさまにさわるところまで来て、眼鏡をかけた両眼をあげて、おじさまの顔をじっとのぞきこみました。「このばあさんは自分の鳥にみんな名前をつけてるけど、やむをえねえ時でなけりゃ、ぜったい名前を教えねえっていう、妙な|癖《くせ》があるんでさ」これは小声でいいました。「おれが名前を、さっといってやろうか、フライト?」と大きな声でいって、私たちに目くばせし、フライトさんが煖炉の鉄格子を掃除するふりをして、向うをむくと、そのうしろ姿を指さしました。
「もしいいたいならね」とフライトさんはあわてて答えました。
老主人はもう一度私たちのほうを見てから、鳥かごを見あげながら、鳥の名前を全部呼びあげました。
「希望、よろこび、青春、平和、安息、命、ちり、もえがら、ごみ、欠乏、破滅、絶望、狂気、死、|狡猾《こうかつ》、愚劣、言葉、かつら、くず、羊皮紙、強奪、先例、隠語、|たわごと《ギヤモン》、|ほうれん草《スピネジ》(9)。これで全部でさあ、わしのいとも博学高貴な兄弟のために、みんないっしょくたに、かごに閉じこめられた連中は」
「こいつはひどい風だ!」おじさまがつぶやきました。
「わしのいとも博学高貴な兄弟が審判を下す時に、この連中は放されることになってますがね」といってクルックはまた私たちに目くばせをし「もしそんなことが起るとすりゃ――起ることはありゃしないが――その時には、かごに入れられたことのねえ鳥どもが、この連中を殺しちまいまさあ」と、にやりと笑って低い声でつけ加えました。
「もし東風というものがあるとすれば」と、おじさまは窓の外をのぞいて、|風見《かざみ》を探すようなふりをしながらいいました、「今日こそ東風だと思うね!」
私たちはなかなかその家を立ち去ることができませんでした。私たちを引きとめたのはフライトさんではありません。フライトさんは、他人の都合を考えるという点では、この上もなく分別のある人でした。クルックさんが引きとめたのです。この人はジャーンディスおじさまから離れることができないみたいでした。おじさまにつながれていたとしても、あれ以上ぴったりと附きそっていることは、とてもできなかったでしょう。そのクルックさんが自分の大法官裁判所と、その中に寄せ集めてある奇妙な品々を全部見せるといい出したのですが、私たちが見学しているあいだじゅう(この人のために長い見学になりました)、ジャーンディスさんの|間近《まぢか》に控えていて、ときどき、私たちのほうが先へいってしまうまで、あれこれ口実をつけて引きとめ、まるで、なにか秘密の話を始めたくてたまらないのに、切り出す決心がつかないでいるみたいでした。この日のクルックさんほど、表情と態度に、用心深さと、煮えきらなさと、思いきってやる気になれないことをやってみようとする、絶えまない衝動とが、異常なほどあらわれていた人を、私は思い浮べることができません。クルックさんは絶えずおじさまを監視していました。めったに、おじさまの顔から目を離しませんでした。ならんで歩いてゆけば、年とった白ぎつねのようにずるがしこく観察していました。前を歩けば、うしろを振り返りました。みなが立ちどまると、おじさまに向いあい、妙にえらそうな顔をしながら、ぽかんとあけた口を何度も手で横ざまにこすり、目を上に向け、その目が閉じるかと思われるほど、白毛まじりの|眉毛《まゆげ》を下げて、おじさまの顔をすみずみまで調べているようでした。
とうとう、家中を歩いて(いつも猫がついて来ました)、いろいろ仕入れた、がらくたを(たしかにめずらしい品々でした)全部見たすえに、店の奥へ来ました。ここには、逆さに立てた|空樽《あきだる》の底板の上に、インクびん、使い古した数本のペン、数枚のよごれた芝居のビラがあり、壁には、それぞれ分りやすい字体で印刷した、大きなアルファベット表が数枚|貼《は》ってありました。
「ここでなにをしているのですか?」とおじさまが尋ねました。
「自分で読み書きを習おうとしているんで」とクルックさんはいいました。
「それで、具合はどうです?」
「はかどらねえ。だめだ」と老主人はじれったそうにいいました。「わしの年じゃ、骨の折れる仕事でさあ」
「だれかに教えてもらったほうが、楽なのじゃないかねえ」
「ええ、だけど嘘を教えるかも知れねえからねえ!」と老主人は、ひどく疑わしげに目を光らせながら答えました。「もっと前におそわらなんだために、どれほど損したか知れませんや。もう今となっちゃ、嘘をおそわって損するなんぞ、まっぴらごめんだねえ」
「嘘を?」おじさまは例の機嫌のよい笑みを浮べていいました。「だれが嘘を教えると思うんです?」
「そりゃ分りませんや、荒涼館のジャーンディスさん!」老主人は眼鏡をひたいにあげ、満足げに両手をもみながら答えました。「まあ、だれも嘘を教えねえと思いますがね――でも、わしは人より自分のほうを信用してるんで!」
こういう返事と老主人の態度が、いかにも奇妙でしたから、私たちがつれ立ってリンカン法曹学院を横切って帰る途中、おじさまはウッドコートさんに向って、クルックさんは、下宿人のフライトさんがいったように、ほんとうに精神に異常があるのかと聞きました。この若いお医者さんは、そう考えられるような|節《ふし》は見あたりませんでした、無知な人によくあるとおり、きわめて疑い深くて、それにいつもいくぶんか酒の|気《け》があります、というのは水を割らないジン酒を多量に飲む男で、みなさんもお気づきになったかも知れませんが、自分自身も店の奥もひじょうに酒臭いのです、しかし、今のところ、気が狂っているとは思いません、と答えました。
家へ帰る途中、私はピーピィに風車と麦粉袋を二つ買ってあげて、すっかり気に入られてしまいましたので、ピーピィはどうしてもほかの者に帽子と手袋をとらせませんし、夕食の時には私のそば以外の席にすわろうとしませんでした。キャディは私の向い側に、エイダとならんですわりましたが、エイダには私たちが家に戻るやいなや、キャディの婚約のてんまつを全部告げました。私たちはキャディを、それからピーピィも、大事にしてあげましたので、キャディはたいそう快活になり、ジャーンディスおじさまも、私たちに負けないほど陽気になり、私たちはみんなすっかり楽しく過しましたが、とうとうキャディは、夜になって貸馬車で家へ帰りました。ピーピィはもうぐっすり寝こんでいるくせに、風車をかたく握って離しませんでした。
書き忘れましたが――とにかく書きませんでしたが――ウッドコートさんは、バジャーさんのお宅でお会いした、色の浅黒い、若い外科医さんと同一人物だったのです。それから、その日ジャーンディスさんはウッドコートさんを夕食におさそいしたのです。それから、ウッドコートさんはうちへいらっしゃったのです。それから、みなが全部帰り、私がエイダに、「さあ、あなた、少しリチャードのお話をしましょうよ!」といいますと、エイダは笑って、こういったのです――
けれども、エイダのいったことにはたいして意味はないと思います。エイダはいつも朗らかにしていましたから。
[#改ページ]
第十五章 ベル・ヤード横町
私たちがロンドンにいるあいだ、ジャーンディスさんは、前にひどく私たちをおどろかせるようなふるまいをした、あの興奮しやすい紳士淑女の群に、絶えずとりかこまれていました。クウェイルさんは私たちの到着後まもなく姿をあらわしましたが、この人はそういう興奮をかき立てる、すべての事柄に関係していたのです。例のてかてか光ったこぶのような両方のこめかみを、あらゆる事業に突っこんでいるらしく、また髮の毛は、ますますうしろへかき上げられるので、博愛精神に燃えあがり、今にも根こそぎ頭から飛び立とうとしているようでした。クウェイルさんにとっては、どんな物事でもみな同じようなもので、なんでもござれといった人でしたが、ことに、推薦状というと、だれにでも、どんな種類のものでも、いつもよろこんで書いてあげるのでした。この人のすぐれた才能は、むやみやたらに人を賞賛できる才能でした。だれかれの差別なく、世を照らすような人たちの光を例のこめかみに浴びながら、何時間でも、いとも楽しげにすわりこんでいたものです。前に初めて会った時、私は、クウェイルさんが夢中になってジェリビー夫人を賞賛するのを見たものですから、夫人こそ、この人が一身を忘れて傾倒している相手かと思っていました。まもなく、それは思いちがいで、クウェイルさんはずいぶん大勢の人たちの、いわば、|裳裾《もすそ》持ちの従者、パイプ・オルガンの送風機操縦者であることを知りました。
ミセス・パーディグルが、ある日、なにかの寄附を頼みにまいりました――夫人といっしょにクウェイルさんも。夫人がなにを話しても、それをいちいち、クウェイルさんは私たちにくり返し、ちょうど、前にジェリビー夫人にしゃべらせるように仕向けたのとそっくり同じようにして、パーディグル夫人にしゃべらせるのでした。夫人は自分の能弁な友だち、ガッシャーさんのために、ジャーンディスおじさま宛ての紹介状を書きました。ガッシャーさんといっしょに、またもクウェイルさんが姿を見せました。ガッシャーさんは体がぶよぶよたるんでいて、表面がしめっぽく、月のような顔のわりに目がひどくちいさすぎるので、もとは他人の目だったのではないかと思われましたし、一見したところ、感じのよくないかたでしたが、ガッシャーさんが席につくかつかないうちに、クウェイルさんは、あまり声を低めもせず、エイダと私に質問して、この人は大物じゃないですか――たるんでいる点からいえば、たしかにそうでしたが、クウェイルさんは知的な美しさのことをいったのです――この人の大きなひたいに感心しませんか、というのでした。要するに、私たちはこういう人たちの仲間うちでおこなわれている、いろいろな種類の、実にたくさんの伝道活動について聞かされたのですが、一体それがどういう活動なのか、まったく分らず、ただ、クウェイルさん自身の伝道活動というのは、自分以外のすべての人たちの活動に陶酔することで、それが一番人気のある活動なのだということだけがはっきり分りました。
ジャーンディスさんは|心根《こころね》がやさしくて、自分の力の及ぶかぎり、よいことをしたいと心から願っていましたので、こういう人たちと交際するようになったのですが、私たちに率直に話して下さったとおり、この人たちには、好ましからぬ点がひじょうに多いと感じていて、それというのも、この仲間のあいだでは、博愛が発作的におこなわれ、|声高《こわだか》に大義名分を唱える連中や、安っぽい評判をねらう投機師たちが、慈善を制服に着て、口で熱烈に説くくせに、あせって実行がともなわず、おえらがたに対しては奴隷さながら極度に卑屈で、おたがい同士はお|追従《ついしよう》をいい合うので、弱い人たちが倒れてしまってから、仰々しくさわぎ立てて自慢たらたら少しばかり持ち上げてあげるよりも、むしろ、倒れないように、黙って手をかしてあげようと骨折っている人々にとって、こういう仲間は我慢できない存在なのでした。ガッシャーさんがクウェイルさんのために推薦状を書いてあげた時と(ガッシャーさんはもうすでに、クウェイルさんに書いてもらっていました)、ガッシャーさんが、二つの慈善学校のおさない男女生徒の出席している会で、そのことについて一時間半講演をして、特に、やもめのおさい銭(1)のことを注意したのち、みなさん、半ペニー銅貨を寄附して、主の御心にかなう犠牲になりなさい、といった時には、東風がまる三週間も吹いたことだろうと思います。
こういうことを書くのは、またスキムポールさんの話になるからです。今述べたような人たちにくらべると、スキムポールさんは、自分が子供っぽくて軽率だと認めていましたから、ジャーンディスおじさまはまったく救われる思いがしたことでしょうし、また、たくらみや、かくし立てをする人たちの中に、それと正反対の人を見つければ、うれしいにきまっていますから、なおさら信用する気になったらしいのです。けれども、それを見抜いてスキムポールさんが策略を使ったのだ、というふうに取られては困ります、じっさい、私にはスキムポールさんという人が本当によく分りませんでしたから、なんともいえないのです。とにかく、おじさまに対しても、世間のほかの人たちに対しても、この人の態度はまったく変りませんでした。
スキムポールさんは、最近あまり体の具合がすぐれなかったため、ロンドンにいましたものの、それまで私たちはさっぱり姿を見かけませんでした。ところが、ある朝、例のとおり愉快そうにして、あい変らずの上機嫌で、あらわれました。
そして、さあ、来ましたよ! といって、話を始めました。このところ、胆汁症にかかっていたのですが、お金持がよく胆汁症にかかるので、自分に向って、おまえは資産家なんだぞ、といいきかせていたそうです。ある意味ではそのとおりでした――この人の、あふれるばかりの意志についていえば。というのは、いとも気前よく主治医をお金持にしてあげていたのです。いつも料金を二倍にし、時々は四倍にしてあげました。そしてお医者さんに向ってこう説明したのでした。「ところで、ねえ、先生、あなたが僕をただで見てやっているとお考えになるのは、まったく先生の思いちがいですよ。僕は先生が困るほど、お金を払ってあげているんです――僕のあふれるばかりの意志においてはね――とてもお分りにならないでしょうが!」事実、この人は(自分でいったのですが)大いに払うつもりがありましたから、もうそれで払ったも同然だと考えました。もし、人類がたいそう重んじている、あの金属のかけらや、薄い紙きれを、医者の手に渡すだけ持っていたら、渡したことでしょう。ところが持っていなかったので、行為と意志とをとり替えたのです。それで結構じゃありませんか! もし実際、支払うつもりになったのなら――もしその意志が本物で、実際にあったのなら(事実、そのとおりでした)――それは貨幣と同じで、支払いの義務を解除してくれる、というのでした。
「僕がお金の価値を全然知らないせいもあるでしょうが」とスキムポールさんはいいました。「しかし、僕はよくそう考えるんです。ひじょうに理屈に合っていると思いますよ! うちの肉屋は僕に、ちょっとお勘定を払って下さい、というんです。いつも『ちょっと』お勘定を、というあたりには――僕ら双方に支払いやすく思わせるためなんですが――この男の好もしい詩的な性質が少しあらわれていますね。僕はこう答えるんです、ねえ、君は知らないだろうが、払いはすんでいるんだ。わざわざ、ちょっとお勘定を払って下さい、なんていいに来なくてもよかったんだ。支払いは済んでいるんだ。僕はそのつもりになっているんだ」
「しかし、もしも」おじさまは笑いながら、いいました。「肉屋が勘定書にある肉をくれないで、くれたつもりになったとしたら、どうだろう?」
「ねえ、ジャーンディス君、君にはおどろいた。君は肉屋と同じ意見なんだね。前に僕の買いつけだった肉屋そっくりの意見だ。その肉屋は、『旦那、なぜ旦那は一ポンドで十八ペンスの|春仔《はるご》のひつじ肉を食べたんです?』というんだよ。『なぜ僕が一ポンドで十八ペンスの春仔のひつじ肉を食べたって、君?』と僕は当然のことながら、その質問にびっくりして答えた。『春仔のひつじ肉が好きだからさ!』これでは、とうてい納得しない。『へええ、旦那、あっしも旦那が|銭《ぜに》を払ったつもりになるみたいに、肉を売ったつもりになりゃ、よかったのにねえ!』僕はこういってやった、『おい、君、われわれは理知的な動物らしく論じようじゃないか。どうして君のいうようなことができるっていうんだ? そんなことは不可能な相談だった。君には仔ひつじの肉があったし[#「あったし」に傍点]、僕にはお金がなかった[#「かった」に傍点]。君は肉を出さなければ、ほんとうに出したつもりになることはできなかったわけだ。ところが僕はお金を払わなくても、ほんとうに払ったつもりになれるし、現になっているんだ!』肉屋は一言もなかったよ。それでこの問題はおしまいさ」
「肉屋は訴訟を起さなかったのかね?」おじさまが尋ねました。
「いや、起したよ。しかし、それは激情にかられたからで、理性に従ったわけじゃない。激情といえば、ボイソーンのことを思い出したよ。あの男の手紙によると、君とお嬢さんたちは、リンカンシア州のあの独身者の家へ、しばらく遊びにゆくそうだね」
「ボイソーンはうちの娘さんたちにたいそう人気があってね」ジャーンディスさんがいいました、「それで、この人たちのために、ゆく約束をしたのだよ」
「自然の女神はあの男に変化をつけることを忘れたようですね?」とスキムポールさんはエイダと私に向っていいました。「少し荒れ狂いすぎるでしょう――海みたいに? 少し激しすぎるでしょう――どの色もみんな赤だときめこんでいる牡牛みたいに? しかし、あの男には、いわば、|大鉄槌《だいてつつい》を下すのと同じような価値がある、と僕は認めているんです!」
もしこの二人の人がおたがいに心から尊敬し合うことができたとしたら、私はおどろいたことでしょう、ボイソーンさんはいろいろな物事をたいそう重んじていましたし、スキムポールさんはどんな事柄でも、ひどく軽く見るたちでしたから。そればかりでなく、以前、スキムポールさんのことが話に出た時に、ボイソーンさんが一度ならず毒舌を吐きそうになったのを、私は目にしていました。それで、もちろん、私はただエイダといっしょに、私たち二人はボイソーンさんが気に入りましたとだけいいました。
「僕もあの男に招待されたんですが」スキムポールさんがいいました。「もしああいう男の手に、子供が身をまかせても大丈夫なら――この子供は、二人のやさしい天使が心をあわせて守ってくれるから、そうしろとすすめられているんです――僕はゆきますよ。往復の旅費のめんどうは見てくれるというんです。そんなことをすれば、きっと、お金がかかるんでしょうね? たぶん、何シリングかでしょう? それとも、何ポンドかでしょう? それとも、大体そういったところでしょうかね? ところでね。コウヴィンセズのことなんです。僕らの友人コウヴィンセズを覚えていらっしゃるでしょう、サマソンさん?」
話題が頭に浮ぶままに、スキムポールさんは少しも|間《ま》の悪そうな顔もせず、品のいい態度で、元気よく尋ねました。
「ええ、覚えていますとも!」
「コウヴィンセズは執達吏の親玉(2)につかまりましたよ。もう二度と太陽の光を奪いとったりしないでしょう」
それを聞いて私はほんとにびっくりしてしまいました。というのは、そんなこととはつゆ知らず、あの晩、ソファーに腰かけて頭をなでていた、債務者拘留所の使用人の姿を思い浮べていたのです。
「後任の役人から昨日聞いたんです。今、その役人が僕のうちにいますよ――いわゆる、差押えというんでしょうね。昨日、僕の青い目をした娘の誕生日にやって来たんです。僕は役人に意見を求めました。『こんな理不尽なことをされちゃ、迷惑千万だ。もし君に青い目の娘がいたら、その子の[#「その子の」に傍点]誕生日に、招かれもしないのに僕が[#「僕が」に傍点]来たら、いやだろう?』って。しかし、役人は帰りませんでしたよ」
スキムポールさんはこの愉快で不合理な事件を面白がって笑い、自分の席のそば近くにあったピアノを軽快にひくのでした。
「そして僕にこういう話をしてくれました」と、私が次に句切って書くように、ピアノを短くかき鳴らしながら話しました。「コウヴィンセズは三人の子供を。残して死にました。母親がいないんです。コウヴィンセズの職業は。人にきらわれるので。若いコウヴィンセズたちは。相当困っていますよ」
ジャーンディスさんは頭をこすりながら立ち上って、歩きまわり始めました。スキムポールさんはエイダの好きな歌のメロディーをひき出しました。エイダと私は二人ともジャーンディスさんを眺めて、今なにを考えていらっしゃるのか私たちには分ると思いました。
おじさまは歩いたり立ちどまったり、ときどき、頭をこするのをやめてはまた始めたりしたのち、ピアノの鍵盤の上に片手を置いて、スキムポールさんの演奏をやめさせました。「これは気に入らないね、スキムポール君」とおじさまはしみじみと申しました。
スキムポールさんはもう今の話をすっかり忘れていましたから、おどろいて顔を上げました。
「あの男は必要な人間だったのだ」と言葉をつづけて、おじさまはピアノと部屋の端とのあいだの、たいそうせまい場所をいったり来たりして、後頭部の髮の毛を、まるで激しい東風にあおられた時みたいに、こすり上げました。「私たちのあやまちや、おろかな行為のために、あるいは世なれないためや、不運のために、どうしてもああいう人たちを必要としているならば、あの人たちに仕返しをしてはいけないよ。あの男の商売に罪はなかった。子供を養っていたのだ。その点をもっと知りたいものだね」
「ああ! コウヴィンセズかい?」スキムポールさんは、おじさまがなにをいおうとしているのか、ようやく分ったので、大声でいいました。「お安いご用さ。コウヴィンセズの本部までゆけば、君のお望みのことが分るよ」
ジャーンディスさんは私たちに向ってうなずきましたが、その合図を私たちは待ちかまえていたのです。「さあ! そこへゆこう、君たち。もちろん、そこへゆくのが一番だ!」私たちはいそいで支度をして家を出ました。スキムポールさんもついて来て、この探険を大いに楽しんでいました。債務者拘留所が僕に用があるんじゃなくて、僕が拘留所に用があるなんて、まったく初めてのことで、まったく気持がいい! というのでした。
最初、スキムポールさんが大法官府横町のカーシター通りにつれていってくれましたが、ここには、窓に鉄の|桟《さん》を打ちつけた家があり、これが「コウヴィンセズの城」だとスキムポールさんがいいました。門口をはいってベルを鳴らすと、事務所らしいところから、大そういやらしい感じの少年が出て来て、忍び返しの|大釘《おおくぎ》が打ってあるくぐり門越しに私たちのほうを見ました。
「だれに用だい?」少年は二本の大釘にあごをあてがって、いいました。
「ここの使用人か職員かなにかで、なくなった人がいるのだが」とジャーンディスさんがいいました。
「そう? それで?」
「その人の名前を教えてもらいたいのだがね?」
「名前はネキットだよ」
「それから住所は?」
「ベル・ヤードだよ。左側の、ブラインダーっていう荒物屋だ」
「その人は――どんなふうに質問したらよいのか分らないな――」とおじさまはつぶやきました、「勤勉だったのかね?」
「ネキットかい? そうとも、たいしたもんだった。見張りをしても、あきるってことがなかったね。やるとなりゃ、町の角の柱の上に、八時間か十時間、ぶっつづけにすわりこんでいたもんだよ」
「もっと悪かったかも知れないな」と、おじさまがひとりごとをいうのが私の耳にはいりました。「やりかけてて、やり通さなかったかも知れないな。ありがとう。用事はそれだけだよ」
少年が頭をかしげ、門の上に両腕をのせて大釘をさすったり、しゃぶったりしているのをあとに残して、私たちはリンカン法曹学院に戻りましたが、それはスキムポールさんがそれ以上債務者拘留所に近寄るのをいやがって、ここで待っていたからです。それからみなでベル・ヤードへ出かけますと、これはすぐ近くの、狭い横町なのでした。荒物屋の店はじきにみつかりました。店には|水腫症《すいしゆしよう》か|喘息《ぜんそく》に、あるいは、たぶん両方にかかっている人のよさそうなおばあさんがいました。
「ネキットの子供たち?」おばあさんは私の問いに答えていいました。「ええ、いますとも、お嬢さん。四階ですよ。階段のすぐ正面の部屋」そういって、おばあさんは売台越しに私に|鍵《かぎ》を渡してくれました。
私は鍵をちらりと見て、それからおばあさんに目を向けましたが、おばあさんは、当然私がその鍵の使い道を心得ているものと決めこんでいました。けれども、子供たちの部屋の鍵とよりほかに考えられませんでしたから、もうなにもたずねずにそこを出て、みなの先頭に立って暗い階段をのぼってゆきました。できるだけ静かに歩いたのですが、|同勢《どうぜい》四人なので、年代のたった階段板は、多少さわがしい音を立てました。それがうるさかったと見えて、三階へ来ると、男の人が部屋の中から外をのぞいていました。
「グリドリーに用事があるんですか?」とその人は腹立たしげに、じっと私をにらみつけながらいいました。
「いいえ、私はまだ上へまいります」と私はいいました。
その人はエイダ、ジャーンディスさん、スキムポールさんという順に三人が私のあとについて通りすぎるのを、一人一人つぎつぎに、私の場合同様、腹立たしげにじっとにらみつけるのでした。ジャーンディスさんが、こんにちは、とあいさつしました。その人はぶっきらぼうに、荒々しく「こんにちは!」といいました。丈が高くて、血色が悪く、ほとんど髮の毛の残っていない、悩みに疲れた頭、深いしわの寄った顔をして、それに出目でした。けんか好きらしい表情、いら立ちやすい、かんしゃく持ちらしい態度、おまけにその体――あきらかに衰えかけてはいるものの、それでもまだまだ大きくて、つよそうでした――を見て、私はかなり心配になりました。手にはペンを持っていて、私が通りすがりに部屋の中をちらりと見ると、書類が一面にとり散らかしてありました。
その人をそこに残して、私たちは一番上の部屋へ登りました。私がドアをたたくと、中からかわいらしい、|甲高《かんだか》い声がしました、「ぼくたち、とじこめられているんだ。ブラインダーのおばさんが、かぎをもっているよっ!」
これを聞いて、私はさっきの鍵を使ってドアをあけました。天井が傾斜して、家具らしいものはほとんどない、みすぼらしい部屋の中に、五、六歳くらいのちっちゃな男の子がいて、十八カ月の重たい赤ん坊のおもりをして、寝かしつけようとしているところでした。寒い陽気なのに火の気が全然なく、そのかわり子供たちは二人とも、みすぼらしいショールやケープにくるまっていました。けれども、着ているものがあまり暖くないので、二人の鼻が赤くかじかみ、ちいさな体がちぢみあがり、そういった姿で、男の子は肩に赤ん坊の頭をのせて、ゆきつ戻りつしながら、お守りをして寝かしつけようとしていたのです。
「だれがあなたたち二人だけを、ここに閉じこめたの?」と私たちは、もちろん尋ねました。
「チャーリーだよ」男の子は立ちどまって、私たちをじろじろ見ながらいいました。
「チャーリーって、あなたの兄さん?」
「ううん。姉さんのシャーロットのことなの。お父さんがチャーリーって呼んでいたんだよ」
「チャーリーのほかに、まだきょうだいがいるの?」
「ぼくと」男の子がいいました、「エマと」とお守りをしている赤ん坊にかぶせた、だぶだぶの婦人帽をなでて、「それからチャーリーだよ」
「チャーリーは今どこにいるの?」
「せんたくに出かけたの」といって、また男の子はゆきつ戻りつし始め、同時に私たちをじろじろ見ようとしたために、作りつけの寝台の近くまでゆきすぎて、赤ん坊の|南京《ナンキン》木綿の婦人帽をぶつけそうになりました。
私たちがおたがいに顔を見合わせたり、二人の子供たちを見たりしていますと、その時部屋の中へ、かっこうは子供っぽいのに、顔はいかにも賢こそうで、年よりふけて見える――それにまたきれいな顔でした――大そうちいさな少女が、大人のらしい大そう大きな婦人帽をかぶり、大人のらしいエプロンで、むき出しの両腕をふきながら、はいって来ました。手の指は洗濯をしたために白ちゃけてしわが寄り、腕からふきとった石けんのあわはまだ湯気を立てていました。こういったところさえなかったなら、まるで洗濯ごっこをしている子供がするどい観察力で実際の様子を見てとって、貧しい女労働者のまねをしているように見えたことでしょう。
少女はどこか近所の家からかけ足で一所懸命に急いで来たのでした。そのため、軽い子でしたが、息を切らしていて、最初立ったまま、はあはあ息をつき、腕をふき、静かに私たちを見ているあいだは、口をきくことができませんでした。
「ああ、チャーリーがきた!」と男の子がいいました。
男の子がお守りをしていた赤ん坊は両腕をさし出して、チャーリーに抱いてくれといって泣き出しました。少女は、エプロンと婦人帽と同じように、大人のらしいものごしで赤ん坊を抱き、やさしく自分にすがりついたその重い荷物越しに私たちのほうを見ていました。
「こんなことがありうるのだろうか」私たちがこのちいさな子のために椅子を持って来て、その重荷をかかえたまますわらせ、男の子が間近に来てエプロンにつかまると、おじさまがこういいました。「この子がほかの子供たちのために働いているなんて? これを見てごらん! 後生だから、これを見てごらん!」
じっさい、見る値打ちがありました。三人の子供が寄りそい、そのうちの二人は三人目の子供だけを頼りにし、三人目の子はたいそう若いのに、ふしぎにも、子供っぽい姿にたいそう似合う、大人びた落着いた態度を身につけていたのです。
「チャーリー、チャーリー!」おじさまがいいました、「君はいくつなんだい?」
「十三と少しです」
「ああ! ずいぶん年をとっているねえ! ずいぶん年をとっているねえ、チャーリー!」
おじさまがチャーリーに向って、半ばおどけながら、しかも、それだけに一層あわれみ深く、いたましげに話しかけた時のやさしさを私はいいあらわすことができません。
「それで、君はここで、この赤ちゃんたちと三人だけで暮しているのかね、チャーリー?」
「はい」少女はおじさまの顔を見上げながら、大そう自信をもって答えました、「おとうさんが死んでからずっとです」
「それで、どうやって暮しているのだね、チャーリー? ああ! チャーリー」おじさまは一瞬、顔をそむけながらいいました、「どうやって暮しているのだね?」
「おとうさんが死んでからずっと、わたし、働きに出ているんです。今日は洗濯に出かけました」
「かわいそうに、チャーリー! 君の背の高さじゃ、洗濯おけに手がとどかないじゃないか!」
「木ぐつをはけば、とどきます」とチャーリーはすぐさま答えました。「お母さんのものだった、底の高いのを持っているんです」
「それで、お母さんはいつなくなったのだね? かわいそうなお母さんだ」
「お母さんはエマが生れてから、すぐ死にました」チャーリーは胸に抱いた子の顔を、ちらっと見ながらいいました。「そうすると、お父さんがわたしに、エマのためにできるだけいいお母さんになってやってくれといったんです。だから、わたし、そうなろうと努力しました。だから、外へ働きにいくまえに長いこと、うちで働いて、掃除と、子供のおもりと、洗濯をしたんです。それで、わたし、どうやって働くか知ってるんです、分ったでしょう?」
「それで、よく外へ働きにゆくのかね?」
「できるだけいきます」とチャーリーは目をみはって、にっこり笑いながらいいました。「六ペンス銅貨や一シリング銀貨をかせぐために!」
「それで、外へ働きにゆく時は、いつも赤ちゃんたちを閉じこめておくのかね?」
「あれは危険がないようにするためなんです、分るでしょう? ブラインダーおばさんがときどき下から来てくれるし、グリドリーさんが来てくれることもあるし、たぶん、わたしも時々はかけつけられるし、二人は遊ぶことだってできるんです。それにトムは閉じこめられても、こわがったりしないんです、そうでしょう、トム?」
「う、うん!」とトムはけなげに答えました。
「夕方になると、下の小路にガス灯がついて、明りがとどくから、ここはとても明るいんです――明るいくらいです。そうじゃない、トム?」
「うん、チャーリー、明るいくらいだよ」
「それに、この子はとてもおとなしいんです」と少女はいいました――ああ! ほんとに母親みたいに、大人みたいに!「それから、エマがつかれると、この子が寝かせてやります。それからこの子は自分がつかれると、ひとりで寝るんです。それから、わたしがうちに帰って、ろうそくをつけて、夜食を食べると、この子はまた起きて、わたしといっしょに食べるんです。そうじゃない、トム?」
「うん、そうだよ、チャーリー! ぼく、そうしてるよ!」とトムはいいました。そして、今の話で自分の生活のすばらしい楽しさをちらりと見せられたからか、それとも自分にとってなにものにもかえがたいチャーリーに対する感謝と愛情からか、トムはチャーリーのワンピースの乏しいひだに顔をうずめると、笑いから涙に変りました。
私たちが来てから、子供たちが涙を流したのは、それが初めてでした。このみなし子の少女は父親と母親のことを口にしましたが、ぜひとも勇気を出さなければならないため、自分が一家の働き手として子供ながらも大切な身であるため、毎日せわしく立ち働いているため、まるで父母を失った悲しみは一切抑えているかのようでした。しかし、今トムが泣き出した時、椅子にかけたチャーリーはたいそう落着いたまま、私たちのほうを静かに眺めていて、身動き一つせず、幼い子供たちの髮の毛|一筋《ひとすじ》みだしませんでしたけれども、声のない涙が二粒、ほおをつたって落ちるのを私は見ました。
私はエイダといっしょに窓辺に立って、家々の屋根や、まっ黒くなったストーブの煙突や、みすぼらしい草木や、近所の人たちが飼っているかごの中の小鳥などを見ているようなふりをしていましたが、ふと気がつくと、下の店からブラインダーのおかみさんがやって来て(たぶん、おかみさんは四階まで登るのに、それだけの時間がかかったのでしょう)、おじさまに向って話をしていました。
「この子たちに部屋代をかんべんしてやるなぞ、たいしたことじゃありませんよ。だれがそんなもの、とれますか!」
「なるほどね!」とおじさまは私たち二人に向っていいました。「それがじつは[#「じつは」に傍点]大したことだったと、この善良なおかみさんがさとる時が来れば、それでいいのさ、ことに、そうしてあげた相手というのが、あのいとちいさき者(3)だったのだから――! この子は」とおじさまは数秒たってから、つけ加えました、「こういうことを、どうにかつづけられるのでしょうかね?」
「きっと、できるだろうと思いますね」ブラインダーのおかみさんは骨を折って、少しずつ苦しそうに息をしながら、いいました。「このくらい役に立つ子はいませんよ。いやもう、お母さんが死んでからの、弟や妹のめんどうの見ようといったら、この横町の評判でしたよ! それに、お父さんが病気になってから、この子が看病してるとこを見たら、感心しちまいました、まったく! お父さんがわたしにいった最後の言葉は――そこに寝てたんですがね――こうでした。『おかみさん、おかみさん、おれの職がなんだったにしろ、おれは、昨日の晩この部屋で、天使が娘とならんですわっているのを見たよ、おれはあの子を、天にましますわれらの父にお任せする!』」
「お父さんはほかに職はなかったのですね?」
「はい、ただ債務者拘留所の使用人をしてただけです。はじめ、あの人がここへ来て間借りした時は、なんの商売をしてるか知らなかったんですけど、じつをいうと、商売が分った時には、立ちのいてくれっていったんです。あの商売はこの横町じゃ、きらわれてましたからね。ほかの間借りの人たちにもよく思われちゃいませんでした。品のいい商売じゃない[#「ない」に傍点]ですし、たいがいの人は、じっさい、反感を持ってますよ。グリドリーさんはとても強い反感を持ってましたが、グリドリーさんはりっぱな間借り人なんです、もっとも、ひどくむかっ腹の立つような目にずっと会ってますがね」
「それで、あの人に立ちのいてくれといったのですね?」おじさまがいいました。
「それで、あの人に立ちのいてくれっていったんです」とブラインダーのおかみさんがいいました。「でも、じっさいに立ちのきの期限が来て、ほかになに一つあの人に悪いとこがないのが分った時にゃ、迷っちまいました。時間は守るし、まじめに働くし、自分のしなきゃならないことは、ちゃんとやりましたし」とおかみさんは無意識のうちに、スキムポールさんをじっと見つめながら、いいました。「それだけやるんでも、この世の中じゃ大したことですよ」
「それで、結局あの人を置いてあげたのですね?」
「そりゃそうですよ、わたしゃこういったんです、もしグリドリーさんと話をつけてくれるなら、ほかの間借りの人たちには、わたしが話をつけてあげるし、近所の人たちが好こうが、きらおうが、わたしゃあまり気にしませんって。グリドリーさんはつっけんどんな調子で承知してくれました――でも、承知したんです。あの人に対しちゃ、いつもつっけんどんでしたけど、それからっていうものは、子供たちに親切にしてくれてます。人間っていうものは、試してみなけりゃ分らないもんですよ」
「どのくらいの人たちが子供たちに親切にしてくれていますか?」ジャーンディスさんが尋ねました。
「大体、そんなにわるかないですけど、でも、もしお父さんが別の商売をしてたら、もっと大勢いるでしょうがね。所長のコウヴィンスさんが一ギニーくれて、もとの仲間の使用人たちが少し見舞金を集めてくれました。この近所の人のうちで、あの人が通るといつもからかって、肩をたたき合ってた人たちが、少し寄附金を持って来てくれましたし、それで――大体のところ――そんなにわるかないですね。シャーロットも似たようなもんです。この子が拘留所の使用人の子供だっていうんで、雇おうとしない人たちがいますし、雇っておいて、親の悪口をこの子に浴びせる人たちがいますし、そういう親のひけめや、ほかのいろんな欠点のある娘を使ってやることを手柄顔にしながら、たぶん、お給金は少なく払って、仕事はよけいにやらせる者もいます。でも、この子はほかの者より辛抱強いし、それに利口ですし、いつも進んで力いっぱい、またそれ以上に、働いてます。それで、まあ、大体のところ、それほどわるかないですけど、もっとよくなってもよさそうなもんですのに」
ブラインダーのおかみさんは、さっき、まだ息切れが回復しきらないうちに、こんな長話をしたため、またも息たえだえになってしまいましたから、早く直そうとして、椅子に腰をおろしました。ジャーンディスさんは私たちに話しかけるため、こちらへ向き直ろうとしましたが、その時、いきなり部屋の中へ、今の話に出て来ましたし、私たちがここへ登って来る途中でも出会ったグリドリーさんがはいって来ましたので、ジャーンディスさんはそちらに注意をひきつけられました。
「紳士淑女のみなさん、わしはみなさんがここで一体なにをしておられるか知らないが」と、まるで私たちがそこにいるのを怒っているみたいに、その人はいいました、「ご免こうむってはいりましたよ。わしは部屋の中をじろじろ見るために、はいって来たのじゃない。やあ、チャーリー! やあ、トム! やあ、嬢や! 今日はみんなどうだね?」
その人はひとかたまりになっている子供たちの上に、愛撫するみたいに身をかがめましたが、明らかに、みなから友だちのように見られていました、もっとも、その顔からはあい変らずけわしさが消えず、私たちに対する態度は失礼をきわめていましたけれども。おじさまはそれに気づいたので、とがめたりしませんでした。
「まさか、部屋の中をじろじろ見るために、ここへ来る人はいないでしょう」おじさまはおだやかにいいました。
「そうでしょう、そうでしょう」と相手は答えると、トムをひざの上にのせ、じれったそうに手を振って、おじさまをはねつけました。「わしは紳士や淑女と議論したくないんです。議論はもう死ぬまでの分を、たっぷりやっちまった」
「おそらく、あなたには充分な理由があって」ジャーンディスさんがいいました、「いら立ったり、かんしゃくを起したり――」
「ほら、またいう!」相手は猛烈に怒って、どなりました。「わしはけんかっ|早《ぱや》い気性だ。おこりっぽい、礼儀知らずだ!」
「あまりそうでもないようですね」
「もし、あなた」とグリドリーはいって、子供をおろし、まるでおじさまをぶとうと思っているみたいに、そばへつめ寄りました。「あなたは衡平法裁判所というものを、少しはご存知かな?」
「たぶん、知っているつもりです、悲しいことに」
「悲しいことに?」といって相手はしばらく怒るのをやめました。「もしそうだったら、勘弁して下さい。わしは礼儀知らずです、自分でも承知しているんだが。勘弁して下さい! もし、あなた」と、またも激しい口調になって、「わしはこの二十五カ年間、焼けた鉄の上を引きずられて来て、もう柔かいビロードの上を歩く習慣をなくしてしまったんです。あそこの大法官裁判所へいって、あの連中の仕事を時々慰めてくれる、おきまりの冗談にどんなのがあるか聞いてごらんなさい、一番の傑作は、シュロップシア州生れの男だと、連中が教えてくれるでしょう。わしが」と、激情にかられて片方の手をもう一方の手でたたきながら、「そのシュロップシア州生れの男だ」
「私と私の一族も、その厳粛なお役所の余興をつとめさせてもらって来たのです」とおじさまは落着きはらって申しました。「あなたもお聞きになったかも知れませんが、私の名前は――ジャーンディスといいます」
「ジャーンディスさん」といってグリドリーは無骨なあいさつをしながら、「あなたは不当な処置を受けても、おとなしく我慢していなさるが、わしにはそんなことはできません。そればかりじゃない、まったくの話、あなたにいっておきたいんですが――それから、そっちの紳士とお嬢さんがたにもね、もしその人たちがあなたの友だちなら――もしわしが自分の受けた不当な処置に対して、今とちがった態度をとったら、わしは気が狂っちまいますよ! 不当な処置に憤慨して、心の中で|復讐《ふくしゆう》して、ぜったいに受けることのない正当な処置を、腹を立てながら要求していればこそ、始めて正気でいられるんです。そうすればこそです!」とグリドリーは田舎の人らしい、|質朴《しつぼく》な話しかたで、たいそう熱烈にいいました。「あなたはわしが興奮しすぎるといわれるかも知れません。わしの返事をいえば、不当な処置を受けたら、興奮しすぎるのがわしの生れつきの性質で、そうならなきゃいけないんです。そうなるか、それとも、いつも裁判所通いをしている、あのみじめな小柄の気ちがいばあさんみたいなざまになって、にたにた笑っているか、道は二つに一つしかないんです。いったん不当な処置に降参したら最後、わしは低能になっちまいますよ」
この人の見せた激怒と興奮、顔面のひきつりよう、話に添えた激しい身ぶりは、見るもいたましいかぎりでした。
「ジャーンディスさん、わしのいいぶんをよく考えてみて下さい。神さまに誓って嘘いつわりのないところ、わしのいいぶんはこうです。わしは二人兄弟なんです。おやじは(農業をやっていましたが)遺言書をつくって、農場や家畜その他を、おふくろの生きているあいだだけという条件で、おふくろに譲りました。おふくろが死んだら、全部がわしのものになって、ただし三百ポンドだけ弟に遺産として、その時支払うということになってたんです。おふくろが死にました。それからしばらくたって弟は自分の遺産を請求しました。わしは、それから何人かの親類も、弟は食事と住まいとそのほかの面倒を見てもらってるから、もう遺産の一部をもらってるわけだといいました。ねえ、よく聞いて下さい! 問題はそれだけのことだったんです。だれ一人、遺言に疑問を持ったわけじゃない、ただ、遺産の一部がすでに支払われたかどうかに疑問を持っただけなんです。その問題に決着をつけるため弟がお上に訴えて出たんで、わしはこのいまいましい大法官裁判所に来ないわけにいかなくなりました。わしがそうなったのは、法律にしばられて、ほかのどこへいこうにも、いく道がなかったからです。その簡単な訴訟のために、十七人の人間が被告にされました! 始めて公判があったのは二年後でした。それからまた二年間中止になって、そのあいだに裁判所の主事が(あいつの頭なんか腐れ落ちるがいい!)、わしはうちのおやじの息子かどうかって尋ねましたよ――そんなことはどんな人間にだって、全然疑問の余地はなかったのに。それから主事は、まだ被告が足りないことに気づいて――いいですか、まだ、たった十七人しかいなかったんですよ!――忘れていたもう一人をぜひ加えて、全部始めからやり直さなけりゃいけないっていいました。訴訟費用はその時――まだ裁判が始まらないうちから――弟の遺産の三倍になってました。弟はそれ以上費用がかかるのを避けるために、できれば訴訟をやめたことでしょう、しかもよろこんで。おやじの遺言でわしに譲られた全財産は、もう今は訴訟費用のために消えちまいました。訴訟は、まだ未解決のまま、ほかの全部のものといっしょに、めちゃめちゃになり、絶望状態におちいっちまいました――それでわしは今日ここにいるんです! ところで、ジャーンディスさん、あなたの訴訟には何千人という人が関係してますが、わしのには数百人です。わしの訴訟のほうが辛抱しやすいでしょうか、しにくいでしょうか、わしの生活のすべてがそれにかかってたのに、それを、このとおり、あさましくもすっかり吸いとられちまいましたが?」
ジャーンディスさんは、心からお悔み申上げます、私は自分だけがこのふらちな制度のために、不当な扱いを受けていると主張しているのではありません、といいました。
「ほら、またいう!」といったグリドリーさんの激しい怒りは少しも静まりませんでした。「制度か! どこへいってもいわれてるんです、問題は制度だって。個人に重きを置いてはいかん。問題は制度だ。裁判所へいって、『大法官閣下、閣下の口から承りたいんです――これが正しいんですか、まちがっているんですか? 閣下は涼しい顔をして、おまえは正当な処置を受けたのだから、引き下るがよい、なんてわしにおっしゃるんですか?』などといってはいかん。閣下はそんなことはご存知ない。あそこにすわって制度を監督しておられるのだ。リンカン法曹学院広場のタルキングホーン弁護士のところへいって、相手がいかにも満足げに冷然とかまえて、こちらを憤激させても――あの連中はみんなそうなんですよ、だって連中はそれでもうけるんだが、わしは損をするんですからね、そうでしょう?――弁護士に向って、おれを破滅させたやつに、是が非でもなにか仕返しをしてやるぞ! などといってはいかん。あの男には[#「あの男には」に傍点]責任がないのだ。問題は制度だ、とね。しかし、わしはここでは、そういった人たちに乱暴をしないにしても――するかも知れない! いよいよわしが自分の手に負えぬほど逆上したら、どんなことになるか分ったもんじゃない!――神さまの大法廷へ出た時には、そういう制度を動かしてわしを苦しめた個人を、面と向って告発してやるぞ!」
グリドリーさんの激怒はおそろしいばかりでした。じっさいにこの目で見なかったなら、そんなにすさまじい怒りがこの世にあろうとは、信じられないほどでした。
「わしはもうやったんです!」グリドリーさんは椅子に腰をおろし、顔をふきながらいいました。「ジャーンディスさん、わしはもうやったんです! わしは乱暴者ですよ、自分でも心得ていますが。心得ているべきですね。法廷侮辱のかどで拘留されたことがあります。弁護士脅迫のかどで拘留されたことがあります。そのほか、あれやこれやのさわぎを起したこともあるし、これからもまた起しますよ。わしは有名なシュロップシア州生れの男です、時には、あの連中の余興以上のことをすることもある――もっとも、わしが拘禁されたり、拘禁のまま裁判に出たりなどすると、連中はそれも余興だと思ってましたが。そして、おまえは自制するほうがいいっていうんです。わしにいわせりゃ、自制なんかした日にゃ、低能になっちまいますよ。むかしはわしだって、たしか、ずいぶんおとなしい人間だったと思います。わしの国の人たちはそれを覚えているっていってます。しかし今じゃ、このとおり、権利を侵害されたっていう気持がぬけないんで、そういうはけ口をみつけなくちゃいられないんです、さもなければ、とても正気じゃいられないでしょう。『グリドリーさん、こういうところでむだな時間をすごさずに』と先週、大法官閣下がわしにいいました、『シュロップシア州の田舎で有益な仕事をしていたほうが、はるかに身のためになるでしょうに』わしはいいました、『閣下、閣下、わしもそれは知ってますし、閣下のおえらい職名なんか聞いたこともなかったほうが、はるかに身のためになったでしょう。しかし、ふしあわせなことに、わしは過去をもとに返すことができません、過去がわしをここへ駆り立てて来るんです』そればかりじゃなく」とグリドリーさんは急にすさまじい声をあげて、つけ加えました。「わしはやつらに恥をかかしてやる。最後まであそこに姿をあらわして、あの裁判所の面目をつぶしてやる。わしの死ぬ時期が迫ったことが分って、あそこへ運んでもらうことができて、口をきく力が残っていたら、こういいながらあそこで死んでやる。『これまで、あんたたちはわしをここへつれて来て、何度も何度もここから送り出した。今度は、さかさにして送り出してくれ!』」
グリドリーさんの顔は、たぶんもう何年も、すっかり闘争的な表情になりきっていましたから、今気持が静まった時でさえ、顔色はやわらぎませんでした。
「わしがここへ来たのは、この赤ん坊たちを一時間ばかり下のわしの部屋へつれていって」グリドリーさんはそういって、また赤ん坊たちのところへゆき、「遊ばせようと思ったからなんです。今のような話を長々とするつもりじゃなかったんですが、たいした話じゃありません。おまえ、わしがこわくないだろう、なあトム?」
「うん! おじさんはぼくには[#「ぼくには」に傍点]おこらないもん」
「そのとおりだよ、坊や。おまえはこれからまた行くんだね、チャーリー? そうだろう? じゃあ、おいで、嬢や!」グリドリーさんが末の子を腕にのせると、その子は自分から進んで抱かれました。「下の部屋には、きっと、しょうが入りケーキの兵隊があるぞ。探しにいこうじゃないか!」
グリドリーさんはジャーンディスさんに向って、さっきと同じ荒っぽいあいさつをしましたが、その態度には、なにかしら、おじさまに対する敬意がこもっていないでもありませんでした。それから私たちに軽く頭を下げて、下の自分の部屋へ降りてゆきました。
すると、私たちがここへやって来てから初めて、スキムポールさんがふだんの陽気な調子でしゃべり出しました。それはこんな具合でした。いやあ、世の中の物事が、緩慢ながらも、それぞれ目的にかなってゆくのを知って、まったく、じつに愉快だ。たとえば、ここにこのグリドリー氏がいる。頑強な意志とおどろくべき精力の持ち主だ――知性についていえば、調子のはずれた|鍛冶《かじ》屋(4)の如き存在だが――それで、僕には容易に想像できるが、何年も前、グリドリーは自分のあり余る闘争心を注ぐべきものを――一種の、いばらのあいだの若き恋を――求めて、人生放浪をしていた。するとその時、大法官裁判所がゆく手をさえぎって、彼のまさに望んでいるものを提供してくれた。|爾来《じらい》、両者は調和を保って来た。そうでなかったら、彼は大将軍になって、あらゆる都会を爆破したかも知れないし、あるいは大政治家になって、あらゆる議会雄弁術を|商《あきな》っていたかも知れないが、しかし、こういう次第なので、彼と大法官裁判所とは、たがいにこの上もなく楽しげに攻撃し合って来て、だれもたいして迷惑を受ける者はなく、その時以来、グリドリーは、いわば、なに一つ不自由ないというわけだ。それから、コウヴィンセズを見たまえ! あわれなコウヴィンセズは(この魅力的な子供たちの父親だ)同じこの目的適合の原理を、なんとうれしくも例証していることだろう! 僕自身は時々コウヴィンセズの存在をうらんだ。彼がじゃまになったからだ。僕には、コウヴィンセズなんかいなくても、すんだろう。こういう時もあった、もし僕がトルコ皇帝で、総理大臣が、ある朝、僕に「大教主たるわが君にはこの奴隷めに、いかなるものを持ち来れとおおせられますや?」といったら、「コウヴィンセズの首を持て!」とさえ答えたかも知れない。ところが、実情が分ってみるとどうだったろう? 僕は、ずっと、そのきわめてりっぱな男に職を与えていた、彼の恩人だった。彼がこの魅力的な子供たちを、こんなふうに気持よく育てて、こういった社会的美徳を|陶冶《とうや》できるように、じつは、僕がしてやっていたのだ! だから、今、胸がいっぱいになり、目に涙が出て来たのは、部屋を見まわして、こう考えたからだ、「僕はコウヴィンセズの大パトロンで、彼のささやかな慰めは僕が[#「僕が」に傍点]与えてやったのだ!」
こういう空想的な調べをかなでる、スキムポールさんの演奏には、とても心をとらえる魅力がありましたし、つい今しがたみなが見た、まじめな子供にくらべると、スキムポールさんはとても愉快な子供でしたから、その時ブラインダーのおかみさんととりかわしていた内証話をやめて、私たちのほうへ顔を向けたおじさままでが、にこにこ笑ってしまいました。私たちはチャーリーにキスし、つれ立って下へ降り、表に立ちどまってチャーリーがかけ足で仕事にゆくのを見ていました。どこへ出かけるのか分りませんが、大人のらしい婦人帽とエプロンをつけ、ちいさな、ちいさな姿のチャーリーが走ってゆくのを見ていますと、露地の一番奥にある、屋根つきの通路をとおって、都会の争いとざわめきの中へ、|大海原《おおうなばら》へ落ちた一粒の露のように消えてゆきました。
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第十六章 トム・オール・アローンズ通り
デッドロック家の奥方は落着かない、ひどく落着かない。おどろいた社交界雀は、どこへいったら夫人に会えるのかほとんど分らない。今日はチェスニー・ウォールドの屋敷、昨日はロンドンの邸宅、おそらく明日は外国にいるのだろうが、社交界雀の情報によっても、たしかな予測はつかない。奥方にやさしいレスタ・デッドロック卿ですら、奥方と歩調を合わせるのに、かなり苦労している。じつは、もっと苦労するところだが、あいにく、よきにつけ|悪《あ》しきにつけ末永く卿と運命をともにする、もう一人の|伴侶《はんりよ》――痛風――がチェスニー・ウォールドの屋敷の、オーク材作りの古い寝室へ飛びこみ、卿の両脚をしっかりおさえているのである。
レスタ卿は、痛風はやっかいな悪魔だが、とにかく貴族的な悪魔だと認めている。デッドロック家の直系の男子はみな、人間の記憶のさかのぼりうるかぎりの年月にわたって、痛風にかかって来た。これは証明できるのですよ。ほかの人々の先祖はリューマチで死んだり、病身の平民のけがれた血統から、卑しい病毒を受けたりしているかも知れないが、デッドロック家の人たちは先祖伝来の痛風で死んで、すべての人間を平等にする死に対してさえ、特権的な色あいをつけて来た。この名家では、リンカンシア州の屋敷や肖像画や銀の食器と同じように、痛風が代々伝えられて来た。デッドロック家に威厳をそえるものの一つなのである。レスタ卿はこれまで言葉にあらわしたことはないけれども、自分が死んで、死の天使の手で魂を肉体から引きはなされた時には、たぶん、天使は|黄泉《よみ》の国に住んでいる貴族たちの霊に向って、「殿様がた、また一人デッドロック家の御当主が、たしかに御先祖伝来の痛風によってここへまいりましたので、謹んで御紹介申し上げます」ということだろうと、まったく考えていないわけでもあるまい。
それゆえ、レスタ卿は先祖伝来の両脚を先祖伝来の病気にまかせている。まるで自分が家名と財産を保っているのは、封建時代からのそういう条件にもとづいているかのように。彼はデッドロック家の一員たる者にとって、あお向けに寝て、苦しさのあまりぴくぴく体を動かして痛がるなど、ほかの家の者にだけ許されているわがまま勝手だと思い、こう考える。「私たちはみなこの病気に身をまかせて来た、これは私たちの病気だ。もちろん、数百年来わが家では、これ以外の恥ずべき病気で死んで、あの猟園の中の納骨堂を好奇心のまとにしてはならぬとされている。私はこの妥協に甘んじる」
そこでレスタ卿は、幅広い日光の|縞《しま》が、一列に長くならんだ窓をとおって、やわらかい浮きぼりのような影とたがいちがいになりながら、長々と射しこんでいる大応接間のまん中に、例のお気に入りの、奥方の肖像を前にして、深紅と金の色に顔を染めてベッドに横たわり、いかにもりっぱな姿を見せている。窓の外には、まだ一度も、すきの刃がはいったことのない緑の土地に、堂々たるオークの木々が何百年ものあいだ根を張っていて、ここはむかし国王たちが剣と|楯《たて》とを持って戦いに馬を|馳《は》せ、弓矢を持って猟に出かけたころにも、今と同じく猟場だったのであり、レスタ卿の偉大さを証明している。部屋の中では、先祖たちが壁の上から彼を見おろして、「私たちはみな、ここではつかのまの命を受けて、それぞれ、このいろどられた影を残したまま、今おまえを寝かしつけている|深山《みやま》がらすの遠い声さながらの、夢のような思い出の中に消えてしまったのだ」といい、これも彼の偉大さを証言している。事実、今日の彼はまったく偉大である。彼と一インチの土地を争おうとするボイソーンその他の向う見ずなやからにわざわいあれ!
目下のところ、奥方はレスタ卿のそば近くにある、自分の肖像に代理をつとめさせている。別に滞在するつもりはないが、ロンドンへ舞い去り、やがてまたここへ舞い戻って、社交界雀たちをあわてさせるのだろう。ロンドンの邸宅は奥方を迎える準備ができていない。家具類に覆いをかけて、いかにもものさびしい。髪粉をつけた従僕のマーキュリーがただ一人、玄関の間の窓辺であくびをしているが、彼は昨夜、よその家の、これもまた上流人士の家の奉公になれたマーキュリーにこう語った。もしこういうことがつづいたら――だが、そんなはずはない、だっておれみたいな元気のいい男には我慢できないし、おれみたいなかっこうのいい男に我慢しろといったってむりだ――まったく、のど笛をかっ切るよりほかに、手はない!
リンカンシア州の屋敷、ロンドンの邸宅、髪粉をつけたマーキュリーと、墓地の階段を掃除した時に、あのおぼろげな理性の光がさした浮浪児ジョーの住いとのあいだに、一体どんな関係があるのだろうか? 深い海の反対側にいながら、まことに|奇《く》しくもめぐり会うようになった、世界の歴史上の多くの人たちのあいだに、一体どんな関係があったのだろうか!
そこになんらかのつながりがあったにせよ、ジョーはいっこう気づかず、一日じゅう横断歩道を掃除している。彼の知能状態をかいつまんで示しているのは、なにか尋ねられた時に答える、「おいら、なんにも知らねえもん」という言葉である。彼は、荒れ模様の天気の時に道路の泥をとるのは骨が折れ、泥をとって暮しを立てるのはなおさら骨が折れるということを知っている。それだけのことでさえ、だれも教えてくれた者はなく、自分で覚ったのである。
ジョーは仲間うちではトム・オール・アローンズという名で知られている、廃墟のようなところに|住《リヴ》んでいる――つまり、そんなところにいても、まだ死なずに|生《リヴ》きているということである。そこはちゃんとした|堅気《かたぎ》の人はみな敬遠して避ける、まっ黒い、荒れはてた通りで、がたぴしの家々の老朽ぶりがひどくなった時分に、何人かの大胆な浮浪者がそういう家々をぶんどり、そこにいすわってしまうと、今度は間貸しを始めるようになった。今では、夜になると、こういう倒れかけた貸間に、みじめな人たちがうじゃうじゃむらがっている。おちぶれはてた、あわれな人間に害虫がたかると同じように、この|朽《く》ちはてた、仮りの宿には不潔な人々の群が繁殖して、壁や板の割れ目からはい出たり、はいこんだりして、雨もりのするところに、うじのように大勢集って、体を丸めて眠り、宿を出はいりしては、熱病を持ちこんだり持ち出したり、足あとを残したすべてのところに、さまざまなわざわいの種をまくので、それをまたもとどおりに直すには、クードル卿、トマス・ドードル卿、フードル侯爵を始め、台閣につらなるすべての名士からズードルに至るまでの人をもってしても、五百年はかかることだろう――たとい、彼らがそのためにわざわざこの世の中に生れて来たとしても。
最近二度、トム・オール・アローンズ通りでは、鉱山が爆発した時のような、すさまじい音がして、ほこりが一面に立ちこめたことがあり、そのたびに家が一軒倒れた。この事故は新聞のちいさな記事になり、もよりの病院のベッドが一つ二つふさがった。倒れた家の跡はあいたままになっていて、そのがらくたのある近くには評判の悪くない貸間がある。なおあと数軒の家がほとんど今にもつぶれそうになっているから、このつぎトム・オール・アローンズ通りで倒壊があれば、かならず、相当なものになるだろう。
この好もしい不動産は、もちろん、大法官府で訴訟中なのである。そういうことを、少しでも目のきく人に向っていうのは、その人の洞察力を侮辱することになろう。「トム」というのはジャーンディス対ジャーンディス事件の最初の原告または被告の、あの評判の高い代理人なのか、また、トムは、訴訟のためにこの通りが荒れはててしまった時、ほかの移住者たちが来て仲間に加わるまで、|ただ一人で《オール・アローン》ここに住んでいたのか、また、この伝説的な町名は、まともな人たちの仲間から切り離され、希望の圏外へ追い出された隠れ家を指す、意味の広い名前なのか、おそらくそれはだれも知るまい。むろん、ジョーは知らない。
「だって、おいら[#「おいら」に傍点]」とジョーはいう、「おいら[#「おいら」に傍点]、なんにも知らねえもん」
きっと奇妙なことに相違ない、ジョーのような状態で生きているのは! すり足で街頭を歩いていっても、店の上や、町の角や、家のドアの上や、窓のところに、じつにおびただしくある、あの不可思議な記号の形をよく知らず、その意味をかいもく理解できないのは! 人々が読むのを見たり、書くのを見たり、郵便集配人が手紙を配達するのを見ても、そのすべての言葉がぜんぜん分らないのは――その言葉のひとかけらひとかけらに対して、まったくめくら、まったくおしであるのは! きっと途方に暮れるに相違ない、りっぱな人たちが日曜日に、手に本を持って教会へゆくのを見て、これはどういう意味なのだろう、もしこれがだれかに、なにかの意味を持っているなら、おいらになんの意味も持っていないのは、どうしたわけだろうと考えた時には(たぶん、ジョーでも時にはきっと[#「きっと」に傍点]考えることがあるだろう)! 押されたり、突かれたり、立ち止まっちゃいかんといわれて、おいらがここにも、あそこにも、どこにも、なんの用事もないのは、どうも本当らしいとしみじみ感じながらも、だが、とにかくおいらも現に[#「現に」に傍点]ここにいるのに、これまでみんなはおいらがこんな子になるまで、目もくれなかったと思って当惑した時には! きっと奇妙な状態に相違ない、おいらはほとんど人間ではない(たとえば、おいらが証人に立った場合のように)と、人にいわれるだけでなく、生れて以来おいらが自分でも覚って、そう感じているのは! 馬や犬や牛がおいらのわきを通りすぎるのを見て、無知の点では、おいらはあいつらの仲間で、おいらと同じ形をした高級な動物の仲間ではない、あの連中の上品さがおいらのかん[#「かん」に傍点]にさわる、と意識するのは! 刑事裁判とか、裁判官とか、教会の主教とか、政府とか、ジョーにとって計り知れないほど貴重な宝である(彼にはとても分るまいが)あの憲法などに関する彼の考えは、きっと奇妙なものだろう! 彼の物質的および非物質的な生活はすべておどろくばかり奇妙であり、彼の死はそれこそ奇妙きわまるものである。
ジョーはトム・オール・アローンズ通りから出て来て、ここではいつもおそく射し出る、怠慢な朝の光を迎え、歩きながら、よごれたパンのかけらをむしゃむしゃ食べる。いくつも通りをとおってゆかねばならず、家々はまだあいていないので、福音海外普及協会の入口の上り段に腰をおろして朝食にとりかかり、それが終ると、場所を貸してもらったお礼のしるしに、上り段をほうきでひと|掃《は》きする。その建物の大きいのに感心して、一体なにをするところだろうと思う。かわいそうに、ジョーは太平洋のさんご|礁《しよう》の霊的な貧困さや、やしの木とパンの木(1)の実のあいだで人間の貴重な魂を探すのが、どれほど金のかかる事業であるかなど、夢にも知らない。
彼は自分の持ち場の横断歩道へゆき、その日掃除する分の区画をきめ始める。ロンドンの町は目をさまし、この巨大な|独楽《こま》は準備がなり、日ごとの回転を始め、数時間のあいだ中止されていた、あの不可解な読み書きがすべてまた始まる。ジョーやほかの下等動物はわけの分らぬへまをやりながら、精一杯努力をつづける。今日は市場の立つ日だ。目かくしをされた牡牛どもは、|手綱《たづな》を引いてもらえずに、あまり突き棒で追い立てられるので、見当ちがいのところへとびこんでたたき出され、血走った目をして|泡《あわ》を吹きながら、石の塀に向って突進し、たびたび罪のない人たちに大けがを負わせ、自分もたびたび大けがを負う。ジョーとその同類によく似ている、じつによく似ている!
楽隊が来て演奏を始める。ジョーは耳をかたむける。犬も同じように耳をかたむける――市場へ羊を売りに来た主人を、肉屋の店先で待っている犬で、見たところ明らかに、今まで何時間も気をくばって来て、さいわい、やっかい払いできた羊たちのことを考えているらしい。その中の三、四匹のことで当惑しているように見えるが、どこへ置きざりにしてしまったのか思い出せず、その辺に迷っている姿が見えはしないかと、半ば心頼みにしているように、通りをあちこちと眺めるが、ふいに耳を立てて、委細を思い出す。下等な仲間のところや居酒屋に出入りしていた、ひどく浮浪性に富んだ犬で、口笛を一吹きすれば、羊の背中へとび乗り毛にかぶりついて引きぬく、羊にとってはおそるべき犬だが、訓練、教化を受けて向上し、自分の職務を教えられ、職務をはたすことを心得ている犬だ。この犬とジョーは、たぶん、大体同程度の動物的満足をおぼえながら、音楽に耳をかたむけているのだろうし、呼び覚まされた連想、欲望、未練や、あるいは感覚以上の物事に関連する憂鬱、よろこびについても、たぶん、二人は似たり寄ったりだろう。しかし、そのほかの点では、耳をかたむけている人間より畜生のほうが、どれほどまさっていることだろうか!
この犬の子孫をジョーと同じように野放しにしてみたまえ、数年のうちにすっかり退化して、ほえることさえ忘れてしまうだろう――しかし、かむことは忘れまい。
時間がたつにつれて天候が変り、あたりがうす暗くなり、|霧雨《きりさめ》模様になる。ジョーは自分の持ち場の道路の泥と車輪、馬、むち、こうもりがさのあいだで、最後まで奮闘をつづけ、トム・オール・アローンズ通りのあの気持のわるい宿の支払いに当てる、ほんのわずかな金を手に入れる。たそがれが近づき、店々で急にガス灯がともり始め、街灯に火を入れる人夫たちが、はしごをかついで歩道のふちを走ってゆく。いやな天気の夕方が迫り始めた。
タルキングホーン弁護士は自分の部屋にすわって、明日の朝、もよりの治安判事に拘引状を申請しようともくろんでいる。訴訟に不満を持っているグリドリーという男が、今日ここへ来て、不安になるようなことをいっていった。われわれは身体を気づかうような目に会わされてはならぬ、もう一度、あのたちの悪い男を、保証金を出さなければ拘禁されるようにしてやろう。遠近法を使って天井に描いた寓意画の、本物とは思えないような、さかさまのローマ人がサムソン(2)のような腕で(関節がはずれた、奇妙な腕である)、上から差し出がましく窓のほうを指している。だが、特別の理由もないのに、どうしてタルキングホーン氏が窓の外などを眺めよう? ローマ人の手はいつも窓を指しているではないか? それゆえ、タルキングホーン氏は窓の外を眺めない。
たとい眺めたにしても、女が一人通りすぎるのを見たところで、どうということはあるまい? 世間に女はたくさんいる、とタルキングホーン氏は考えている――多すぎるくらいだ、世間のまちがいの|主因《もと》にはすべて女がひそんでいる、もっとも、その点では女が弁護士の仕事をつくってくれるわけだが。女が一人通りすぎるのを見たところで、どうということはあるまい、たとい秘密ありげに歩いていたとしても? 女にはみんな秘密がある。そんなことはタルキングホーン氏は充分に心得ている。
しかし、世間一般の女は今タルキングホーン氏と彼の家とをあとにして去ってゆく女と、かならずしも同じではなく、この女の質素な洋服と優雅なものごしとのあいだには、なにかひどく調和しないものがある。服装からいえば当然女中頭というところだが、態度と歩きかたを見ると、いかにもあわてていて――なれない足つきで泥道をあゆみながらも精一杯――女中頭らしく見せかけようとしてはいたものの、まさしく貴婦人である。ベールで顔をかくしているが、おのずから正体があらわれるので、通りすがりの者が一人ならずふり返って目を向ける。
女は一度もわき見をしない。貴婦人にせよ女中にせよ、とにかく、なにか目的をいだいていて、あくまで目的をとげることのできる女だ。一度もわき見をしないまま、女はやがてジョーがほうきを使って、一心に働いている横断歩道のところへ来る。ジョーは女といっしょに道を横切りながら、チップを求める。だが、女はわき見をせずに、向う側へ渡ってしまう。それから、彼に軽く合図をして、「こちらへおいで!」という。
ジョーは女のあとについて一、二歩ゆき、静かな小路にはいる。
「おまえが新聞に出ていた子かえ!」女はベールの中から尋ねる。
「おいらは」ジョーはベールを見つめながら、ふきげんにいう。「新聞のことなんか知らねえよ。おいら、なんのこともなんにも知らねえよ」
「おまえが死体審問に出て調べられたのかえ?」
「おいらは知らねえよ、その――おいらがお役人につれられていったところのことかい? その死体ひんもんに出た子は、ジョーって名前だったのかい?」
「ええ」
「そいつはおいらだ!」
「もっとこちらへおいで」
「あの人のことなんだね?」ジョーはあとについてゆきながら、こう尋ねると、「死んだあの人の?」
「しっ! 低い声でお話し! そうよ。その人は、生きていた時分、たいそう病気で貧乏のようだったのかえ?」
「ああ、そうとも!」
「その人は――おまえ[#「おまえ」に傍点]みたいではなかったのでしょうね?」女はいまわしそうに尋ねる。
「うん、おいらほどひどかねえよ。おいらは本物の宿なしだもん、おいらは[#「おいらは」に傍点]! あんたはあの人の知り合いじゃなかったんだろう?」
「知り合いだったなんて、よくもそんな失礼なことを」
「ごめんね、奥さま」とジョーはかしこまっていう、ジョーですら女が貴婦人だと感づいたのである。
「私は奥さまではありません。女中です」
「すてきな女中さんだなあ!」ジョーは無礼なことをいう考えはさらになく、ただ賛辞をささげるつもりで、こういう。
「黙ってよくお聞き。私に話しかけないで、もっとはなれていなさい。おまえは新聞の記事にのっていたところを全部案内できるかえ? あの人が代書を頼まれたところ、なくなったところ、おまえがつれてゆかれたところ、あの人が葬られたところを? おまえ、あの人が葬られたところを知っているのかえ?」
ジョーはそれぞれの場所がいわれるたびに、こっくりうなずいて答えていたが、この最後の問いにもうなずく。
「私の先に立っていって、そのおそろしいところを全部案内しておくれ。一つ一つの場所の向い側に立ちどまって、私が話しかけなかったら、私に話しかけてはいけません。うしろをふり向いてはだめですよ。私の望みどおりにしてくれたら、たっぷりお金をあげます」
ジョーはそういわれているあいだ、一心に注意しているが、言葉がかなりむずかしいので、ほうきの柄の上で言葉をえり分け、ゆっくり意味を考え、満足に思ったので、ぼうぼうの髪をした頭をさげてうなずく。
「おいらあ、食えねえやつだぜ」とジョーがいう、「でも、インチキはごめんだぜ! トンズラはいけねえよ、ねえ!」
「このいやらしい子は、なにをいっているの?」と、その女中はジョーに恐れをなして、あとずさりをしながら、大声で叫ぶ。
「ずらかっちゃいけねえよ、ねえ!」
「おまえのいうことは分りません。先に立ってゆきなさい! 今までに手に入れたこともないほど、たくさんお金をあげるから」
ジョーは口もとをすぼめてピューと口笛を吹き、ぼうぼうの頭をこすり、ほうきをわきの下にかかえ、先頭に立って、はだしのまま堅い石の上や泥とぬかるみの中をたくみに通り抜けてゆく。
クック小路。ジョーが立ちどまる。しばらく|合間《あいま》がある。
「ここにはだれが住んでいるの?」
「あの人に代書をやらせた人だ、おいらに五シリング銀貨をくれた人さ」とジョーはうしろをふり返らずにささやく。
「次のところへいっておくれ」
クルックの店。ジョーがまた立ちどまる。さっきより長い合間。
「ここにはだれが住んでいるの?」
「あの人が[#「あの人が」に傍点]ここに住んでいたんだよ」ジョーは前と同じように答える。
しばらく沈黙がつづいたのち、ジョーは聞かれる、「どの部屋に?」
「あの|階上《うえ》の裏部屋だよ。この角から窓が見えるよ。上のほうの、あそこだ! あそこであの人がのびているのを、おいらは見たんだ。こっちのが、おいらのつれられていった居酒屋だよ」
「次のところへいっておくれ!」
次のところへゆくには、今までより長い道のりを歩かなければならないが、最初の疑惑が晴れたので、ジョーは命ぜられた約束をよく守って、うしろをふり向かない。二人はいろいろな悪臭を放っている、曲りくねった道をたくさん通って、ちいさなトンネルのような露地と、ガス灯(今は火がともっている)と、鉄の門のところへ来る。
「あの人はあそこにうめられたんだよ」とジョーは門の鉄の|桟《さん》につかまり、中をのぞきながらいう。
「どこに? まあ、なんというおそろしいところでしょう!」
「あそこだよ!」とジョーは指をさしながらいう。「むこうんとこだ。あそこの台所の窓のすぐ近くの、あの骨の山の中さ! あのてっぺんに近いとこにうめられたんだ。死体が外へ出ねえように、足でふみつけなきゃならなかったんだぜ。もし門があいてたら、おいらのほうきで掘り出してやれるんだがなあ。そんなことをされちゃいけねえもんだから、錠をかっとくんだろう」といって門をゆすり、「いつも錠がかってあるんだよ。あのねずみを見な!」ジョーは興奮して叫び声をあげる、「おい! 見なよ! ほら、あそこへいく! ほう! 地面へはいっちゃった!」
女中はおじけづいて隅へ――そのおぞましい、アーチのついた露地の隅へ――毒気をふくんだ|煤《すす》で洋服がよごれるのもかまわず退き、両手をさし出して、ジョーに近寄るなと(ジョーがいやでたまらないので)夢中になっていうと、しばらくそのままにしている。ジョーは目を丸くして女中を見つめ、彼女がわれに返った時もまだ見つめている。
「このいまわしいところが霊園なのかえ?」
「おいらは零点なんて知らねえよ」ジョーはなおも目を丸くしながらいう。
「これが神聖なところなのかえ?」
「どこが[#「どこが」に傍点]?」とジョーは極度におどろいていう。
「これが神聖なところなのかえ?」
「そんなこと、おいらにわかるもんかい」とジョーはますます目を丸くしながらいう、「でも、たぶん、そうじゃねえだろう。神聖なところ?」と、やや心配になってくり返しいいながら、「もしそうでもたいしたききめはなかったね。神聖なところ? おいらは、たぶん、その反対だろうと思うがね。でも、おいらはなんにも知らねえよ!」
女中はジョーのいう言葉にも、また、どうやら、自分のいった言葉にも、ほとんど|上《うわ》の空のまま、手袋をぬいで財布から金をとり出そうとする。ジョーはそのちいさな白い手に気づき、こんなにきらきら光る指環をしているなんて、きっとすてきな女中さんにちがいない、と黙ってよく見ている。
二人の手が接近すると、女中は身ぶるいして、ジョーの手にはさわらず、手のひらの上に貨幣を一枚落してやる。そして言葉をつけ加える、「さあ、その場所をもう一度教えておくれ!」
ジョーはほうきの柄を門の鉄の棒|桟《さん》のあいだにさしこみ、できるかぎり念を入れてその場所を指し示す。最後に、分ってくれたかと、わきをふり返ってみると、自分のほかにはだれもいない。
そこで、まず彼はもらった金をガス灯にかざし、黄色――金色であることを知って、ぼう然とする。つぎに本物かどうかを調べるために、片方の端を歯でかんでみる。そのつぎには、落とさないように口の中へ入れてから、石段と入口を丹念に掃除する。この仕事が終ると、トム・オール・アローンズ通りへ向って出発し、ガス灯のともっているところへ来ると、何回となく立ちどまっては金貨をとり出し、また端をかんで本物にちがいないことを確かめる。
今晩は、髪粉をつけたマーキュリーも友だちにこと欠かない、奥方が盛大な宴会と三、四カ所の舞踏会へ出かけたので。レスタ卿は遠いチェスニー・ウォールドの屋敷で、痛風よりほかによい相手がいないので、気が落着かず、女中頭のミセス・ラウンスウェルに向って、雨がテラスの上にぱたぱたとひどく単調な音を立てるので、居心地のよい自分の化粧室の炉端にいてさえ、新聞を読むことができぬと、こぼす。
「殿さまは反対側のお部屋へいらっしたほうが、およろしかったのに」とミセス・ラウンスウェルはローザに向っていう。「殿さまの化粧室は奥方さまのほうの側にあるのだよ。この長い年月のあいだ、わたしゃ今晩ほどはっきり、幽霊の小道であの足音がするのを聞いたことがないよ!」
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訳註
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第一章 大法官裁判所
(1)旧約聖書「創世記」八章のノアの大洪水を念頭においている。
(2)旧ロンドン市域の西端にあった石門。むかし、門の上に鉄の忍び返しをつけ、重罪犯人や叛逆犯の首をさらした。
(3)弁護士が法廷の服装をして頭につける。
(4)「真理は井戸の底にある」という、しばしば使われる英語の引用句は古代ギリシャの哲学者デモクリトスの『断片』一一七の「われわれはなにも知らない、真理は深いところにあるのだから」に基づいている。
第二章 上流社会
(1)十九世紀のアメリカ作家ワシントン・アーヴィングの著書『スケッチ・ブック』中の物語「リップ・ヴァン・ウィンクル」の主人公。山中で二十年間眠って目覚めてみると、世間が一変していた。
(2)十七世紀のフランス作家シャルル・ペローの童話「眠れる森の美女」の女主人公。魔法にかけられ城にとじこめられ、百年間眠っているうちに、まわりに森ができたが、若い騎士が来てキスをすると目を覚ます。
(3)「ステイブルズ」という語には「競馬馬飼育場」の意味がある。以下の彼の言葉は夫人を馬になぞらえている。
(4)家畜などの体型その他を規定の標準に照して審査する場合の審査項目。
(5)イギリスにおける一三八一年の大農民一揆の首領。
第三章 歩み
(1)「エホバは怒ること遅く、めぐみ深く悪と|過《とが》とを赦す者、また|罰《つみ》すべき者をば必ず赦すことをせず父の罪を子に報いて三四代に及ぼす者」(旧約聖書「民数紀略」十四章十八節)。
(2)「ヨハネ伝」八章七節。
(3)「マルコ伝」十三章三十五―三十七節。
(4)「森の子供たち」はイギリスの有名な民謡。妹の夫から幼い男の子と女の子の世話を頼まれた男が、子供たちの財産を横領するために、二人の悪漢に子供たちを殺させようとするが、悪漢の一人が子供たちを哀れに思い、仲間を殺して、子供たちを森の中に捨て去る。子供たちは餓死するが、伯父も天罰を受ける。
(5)原語は「ダレート・シール」。
第四章 望遠鏡的博愛
(1)法学予備院は昔、法曹学院附属の教習所だったが、十六世紀頃から事務弁護士のための住居となった。
第五章 朝の冒険
(1)旧約聖書「創世記」五章二十七節に出ているユダヤの族長で、九百六十九歳の長寿を保ったという。
(2)イギリス裁判所の夏季休暇で、八月十日から十月二十八日までであった。
(3)「狼をドアに寄せつけない」という英語の慣用句は「飢餓をまぬがれる」という意味。
第六章 家でくつろぐ
(1)三度ロンドン市長になったリチャード・ウィティングトン(一四二三年歿)のこと。始め孤児で、ロンドンの奉公先を家出したが、教会の鐘が「帰れ、三度市長になるぞ」と鳴っているように聞えて引返してから、幸運に恵まれたといわれる。「鈴」と「鐘」は英語で同じく「ベル」。
(2)リチャードの愛称。
(3)東風が吹くと人にも獣にもいいことがない、というイギリスの諺がある。
(4)ジェームズ・クック(一七二八―七九年)。イギリスの有名な航海家。暴風雨に会って、ハワイに寄港し原住民に殺された。
(5)イギリスの女王。在位一七〇二―一四年。
(6)乱暴に育てられるという意味。
(7)トマス・ムアの詩「五月の新月」中の句。
第七章 幽霊の小道
(1)イギリスで弁髪は十八世紀後半から十九世紀始めまで、主として兵隊や船乗りのあいだで流行した。
(2)イギリスの労働運動史で、十九世紀前半のチャーティストが行なった、いわゆる「松明集会」のこと。
(3)イギリス国王。在位は一六二五―四九年。クロムウェルらによる内乱により断頭台で処刑された。
第八章 多くの罪を覆って
(1)「何事よりも先に互に厚き愛を有せよ、愛は多くの罪を覆えばなり」(新約聖書「ペテロ前書」四章八節)。
(2)Aから始めて順次各行の冒頭にアルファベットの字母を主語に使ったアップルパイの物語になっている童謡。
(3)有名な女予言者。十七世紀の文献にその名が出ている。
(4)童謡の女主人公。
(5)五人の下男と五人の女中を使って家事をさせたという、有名な唄の主人公。
(6)「まことに汝らに告ぐ、もし汝らひるがえりておさな子の如くならずば、天国に入るを得じ」(新約聖書「マタイ伝」十八章三節)。
第九章 印しと兆し
(1)戦時に敵船を攻撃捕獲する免許をえた武装民有船。
(2)ルシファはサタン(神に反逆して地獄に落された傲慢な大天使。悪魔ともいわれる)の別称。「ルシファのように傲慢な」という英語の熟語がある。
(3)イギリス国教会の祈祷書中の、結婚式における「新婦」の誓いの言葉を少し変えた句。
第十章 代書人
(1)ロンドンの西南の郊外地区。ここに幼児を里子として預かる施設があり、一八四九年コレラで百五十人の幼児が死に、所長ドルーエが管理不行き届きの罪で告発され、世間の指弾を浴びた事件がある。
(2)新約聖書「黙示録」二十二章一節参照。
(3)リンカン法曹学院広場のやや南、テームズ河畔の一廓。ここにイナー・テムプル法曹学院とミドル・テムプル法曹学院がある。
第十一章 われらの親しき兄弟
(1)イギリス国教会の祈祷書の埋葬式文にある句。死んで葬られる人を指す。
(2)古代エジプトの王。とくに旧約聖書に出て来る王をいう。
(3)旧約聖書「創世記」十章八―九節に出てくる狩の名人で、ノアの孫。
(4)夜警は一八三九年に新警察制度が布かれる以前に、夜間町をパトロールして治安の維持に当った巡査。
(5)「原告」のつもりでいう。
(6)検死審問の陪審員は十二名からなる。
(7)ロンドンの西北郊外。有名な遊園地がある。
(8)神の罰を受けて最後の審判の日まで海上をさまよっているといわれる幽霊船の船長。
(9)アフリカに住むパンツー族の一種族。
第十二章 警戒
(1)盾の形をした紋地の向って右上端(つまり紋章着用者からすると左側のわけ)から左下へひく帯線で、庶子のしるしと一般に考えられている。
(2)フランス大革命の時、国王ルイ十六世夫妻は革命軍の監視下にパリのテュイルリー宮殿に住まわされたのちギロチンで死刑にされた。
(3)旧約聖書「伝道之書」一章九節「日の下に新しきものあらざるなり」参照。
(4)シャン・ゼリゼーという語のもとの意味は、ギリシャ神話で、神々の意にかなった人間が死後に至福の生活を送るところ。
(5)イギリスのピューリタン作家ジョン・バニヤン(一六二八―八八)の『天路歴程』第一部(一六七八年)に出て来る寓意的人物で、「ディスペア」の普通名詞としての意味「絶望」をあらわす。
(6)シェイクスピアの劇『あらし』に出る空気の精で、自分を救ってくれたプロスペロに忠実に仕える。ただし作者はここで同じシェイクスピアの『夏の夜の夢』に出てくる妖精パックと混同している。四十分で世界じゅうを帯でむすぶのはパックで、エアリアルではない。
(7)旧約聖書で、ヤコブは別名イスラエルといい、ヘブライ族の太祖。次を参照。「時に彼〔ヤコブ〕夢みて、|梯《はしだて》の地に立ちいでそのいただきの天に到れるを見、また神の|使者《つかい》のそれにのぼりくだりするを見たり」創世記、二十八章十二節。
(8)他人がうわさ話をしているとうわさの主の耳がほてるといわれる。
(9)名門の子女が一定の年齢に達し、イギリス王家の宮廷に伺候して初めて正式に社交界へ出ることを、狩りの獲物が隠れ場から狩り出されるのにたとえた。
(10)旧約聖書「創世記」十章八―九節にある狩りの名人ニムロッド(本書十一章、注(3)参照)のことだが、ここでは、「|天主《ロード》」を「|貴族《ロード》」にかけている。
(11)一八二〇―三〇年の間イギリス王。それより前一八一一―二〇年の間、父ジョージ三世の摂政。
(12)両端をぬい合わせ、巻軸に掛けて回転させて使う長いタオル。
(13)叛逆罪に対する刑罰。
第十三章 エスタの物語
(1)トーストを湯にひたしたもので、病人用の飲み物。
(2)古代ギリシャの伝説によると、車輪が泥にはまり込んで動けなくなった馬車の御者が、神に助けを祈った時、ヘラクレスが「神の助けを祈る前に、まず自分の力で車輪を押す努力をせよ」と忠告した。
第十四章 行儀作法
(1)アフリカ黒人奴隷のこと。一七八七年にイギリス及び外国奴隷廃止協会が承認した同協会の標語「われも同胞兄弟にあらずや」にちなむ言葉で、その後広く博愛事業家に使われた。
(2)イギリス王ジョージ三世(在位一七六〇―一八二〇年)の皇太子で後にジョージ四世となった。有名なダンディ。第十二章、注(11)参照。
(3)イギリス最高のガーター勲章になぞらえた皮肉。ガーター勲章は青リボン(ただしこれは脚につける)のほか、特別のマント、上着、星形記章、カラー等の附属品がある。
(4)イングランド東南海岸にある英国最大の海水浴場地。
(5)十八世紀に建てられ、一八一七年に有名な建築家ジョン・ナッシュが当時の皇太子(後のジョージ四世)のため、東洋風に改築した豪華な御用邸。
(6)「フィツ」は本来「息子」の意。父や祖先の姓の前につけて、その人の子、または子孫であることを示した。特に王族の庶子の姓に使われた。
(7)大法官に呼びかける時使われる敬称。
(8)「やけどをした子供は火を恐れる」というイギリスのことわざは、日本でいう「あつものにこりて、なますを吹く」に相当する。
(9)この語のすぐ上の「たわごと」の原語「ギャモン」と同綴・同音の別語に「ベーコン」という意味があるので、ベーコンに|ほうれん草《スピネジ》をとり合わせた料理を意味する「ギャモン・アンド・スピネジ」という句を、卑俗な口語で単なる「たわごと」の意味に使う。
第十五章 ベル・ヤード横町
(1)新約聖書「マルコ伝」十二章四十二―四十三節にちなみ、「貧者の一灯」の意。
(2)ここでは死神のこと。
(3)「まことに汝らに告ぐ、わが兄弟なるこれらのいとちいさき者の一人になしたるは、すなわち我れになしたるなり」(新約聖書「マタイ伝」第二十五章四十節)
(4)ヘンデル作曲として当時有名だった(実は他人の作曲であるが)ハープシコードのための小曲「調子のよい鍛冶屋」をもじったもの。
第十六章 トム・オール・アローンズ通り
(1)南洋諸島に生育する植物で、その果実の味がパンに似ているので、この名がつけられた。
(2)旧約聖書に出て来る、イスラエルの大力無双の英雄――「士師記」第十三―十六章参照。
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解説1 ディケンズの影響とその生涯
[#地付き]青木雄造
チャールズ・ディケンズは一八一二年に生れて一八七〇年に死んだが、長篇小説として最初の『ピクウィック・ペーパーズ』を書いて以来、最後の『エドウィン・ドルードの秘密』を未完成のまま病没するまで、自他ともに許すイギリス小説界の第一人者であったし、現在でも、眼識ある人たちに、「イギリスの小説家のうちでもっとも偉大な天才」、「わが国の大作家の一人」と認められている。
日本でも古くからディケンズは紹介され、明治十五年(一八八二年)に出た加勢鶴太郎訳『西洋夫婦事情』は彼の最初の短篇集『ボズのスケッチ集』から五篇を抜萃したものといわれ、同じ短篇集から明治二十二年に無腸道人(磯野徳三郎)訳「舟遊」が『有益雑誌』に載った。長篇では『オリヴァ・トゥイスト』が明治十八年『池の|萍《うきぐさ》』(訳者未詳)として『絵入朝野』で紹介され、中篇の『クリスマス・キャロル』は明治二十一年、竹の舎主人すなわち|饗庭篁村《あえばこうそん》による「翻案的翻訳」が読売新聞に出た(以上は柳田泉『明治初期翻訳文学の研究』による)。それ以後今日まで、ディケンズの翻訳は相当多数にのぼっていると思うが、その中には部分訳や、翻案ないし、それに近い自由訳がかなりあるものと推測され、原作に忠実な完訳または抄訳が出ているのは、長篇で『ピクウィック・ペーパーズ』(抄訳)、『オリヴァ・トゥイスト』、『ニコラス・ニクルビー』(邦訳名『善神と魔神と』)、『デイヴィド・コパフィールド』、『苦の世』、『二都物語』、『大いなる遺産』、中篇で『クリスマス・キャロル』、『炉辺のこおろぎ』といったところであろう。これらの多くは作者の代表的な、あるいは有名な作品であり、彼の全部の長篇のほぼ半数が訳され、また長篇、中篇を通じて二種類以上の訳が出ているものが大部分であるし、また昭和の初年以来、いろいろな世界文学全集や文庫本に収録されている。従って、ディケンズは長年にわたってわが国のかなり多くの人々に読まれているはずである。しかし、そういう人たちが、一九世紀のフランスやロシヤの作家に対して抱いたと同じ種類の関心や、同じ程度の熱意をもって、ディケンズを読んだかというと、そうはいえない。
それでは、明治以来の日本文学にディケンズはどのような影響を与えて来ただろうかといえば、徳富蘆花の『思出の記』(明治三十三―四年)が挙げられている。蘆花はこの自伝的小説の中で自作の主人公を、ディケンズの『デイヴィド・コパフィールド』の主人公と較べているばかりでなく、彼と妻との共著の、これも自伝的小説『富士』(大正十四年―昭和三年)の中で、『思出の記』を書くに当たり、『コパフィールド』を「|粉本《ふんぽん》」にして、「端的に自己を書くとすれば、書くに忍びぬ事だらけ」なので、自分のこと、兄蘇峰のことを取捨選択して、「人物事物さま/″\]の思出の|上澄《うはず》みを軽くすくひ上げて気軽に面白い読物を作つた」と打明けている。(海老池俊治氏『明治文学と英文学』〈昭和四十三年〉中の「『思出の記』」による)
『思出の記』はディケンズから構成や描写の上で影響を受けた顕著な例であるが、それ以後、そういった影響は珍しいのではないだろうか。戦争前に林房雄氏がディケンズに学びたいという意味のことを書いたように私は思っているが、これはあるいは思い違いかもしれない。しかし、林氏がディケンズに強い関心を持っていたことを示す証拠はある。「君は又近く一年間の沈黙〔下獄のこと〕を強ひられてゐる。君は丁度ディケンズの全集があるからみんな読んで来ると言つてゐたが、是非読んで来い。今時ディケンズなどはいかがなものかなどいふ反省は君には無用と僕は信ずる」(小林秀雄氏「『青年』について」、昭和十年)
こういった関心が『青年』の続篇や同じ作者の後の諧謔小説にどのように現れているか、あるいは他の作家にディケンズの影響がどのような形ではいっているかなどは、比較文学者の研究に|俟《ま》たなければならない。しかし、大体において「今時ディケンズなどはいかがなものか」という考え方がわが国において強かったし、現在でも強いことは否定できない。というのは、これまで日本における小説の基礎をなして来たのは、ヨーロッパのリアリズム文学の手法であり、ディケンズの文学はそれと異質の、あるいはそれより古い要素を多分に含んでいるからである。従って、今日彼がイギリス最大の小説家の一人と認められているにしても、それは彼が生前に保っていた地位と声価をそのまま持続して来たわけでなく、批判と否定の時代を経て、二十世紀の三十年代から急速に再評価されて来たのである。それに触れる前に彼の作家として歩んだ道を|辿《たど》ってみよう。
ディケンズは海軍経理部の下級官吏の家に生れたから、いわゆる中流階級下層に属し(もっとも父の両親は大家の召使いであったから、下流階級の出である)、ディケンズは生涯この立場で考え、書いている。父に浪費癖があり、母も同じような傾向があったので、家計は苦しく、時には食事にこと欠くことさえあった。そのため学校教育(私塾)を受けたのは、父の転任による転校もあったが、六歳から十五歳までのあいだに三つ学校を変り、合計で四年間ほどに過ぎなかった。特に十二歳の時に退学して靴ずみ工場へ働きに出なければならなかった。のみならず、父が借金を支払うことができず、当時の法律により支払不能債務者のはいる監獄に投獄された。これも当時の法律で、家族は獄内に同居することが許されていたが、母や弟妹は父といっしょに暮したが、ディケンズは独り外に下宿して、靴ずみ工場へ通って自活したばかりでなく、一家の責任者のような形で家族の面倒をも見なければならなかった。しかも両親はこれを当然のように考えて彼を顧みなかった。快活で、よく笑う、しかし肉体的にも精神的にも傷つきやすい、多感な少年ディケンズは、いやしい境遇に落ちぶれ、そのうえ、両親から捨てられたと思って屈辱感と絶望感に沈んでしまった。後述するように彼の生涯においてもっとも重大な経験はこの約五カ月間であった。
十五歳の時は彼は弁護士事務所に勤めるが、むしろジャーナリストを志望して速記を習い、十六歳で民法博士会法廷の速記者、これを約三年半勤め、二十歳の時待望のジャーナリストになった。そして二十一歳の十二月に新聞に投稿した短篇小説が採用され、これが作家としての処女作となった。その後一八三九年(二十七歳)でジャーナリスト勤めを止めて作家生活にはいるが、また後には個人編集の週刊誌を多年にわたって発行し、誌上に自分の創作等も発表し、生涯ほとんどジャーナリズム活動と深い関係を持った。ことに「ハウスホールド・ワーズ」(一八五〇―五九年)、「|一年中《オール・ザ・イヤア・ラウンド》」(一八五九―七〇年まで編集)の両週刊誌は、文学を軸にして、娯楽と啓蒙・教化を目的にし、社会改革から自然科学等にわたる記事を、人道主義的な進歩主義の見地からディケンズが統轄して、ブルワー・リットン、チャールズ・リーヴァ、チャールズ・リード等の寄稿を載せ、ギャスケル夫人、ウィルキー・コリンズ等の新人を育てた。ディケンズも長篇『苦の世』、『二都物語』、『大いなる遺産』や、「クリスマスの物語」に属する短篇を発表して呼び物になったのはもちろんで、最盛時の発行部数は一週に前誌が四万部、後誌が三十万部にも達した。
こういう週刊誌を彼は二十年間つづけて主宰し、掲載原稿の総てに目を通したり、手を入れたり、みずから小説以外の記事を執筆した。そればかりでなく慈善事業、社会事業、各地での講演(これも一巻の書物になっている)、数次にわたる欧米大陸への旅、彼の生命を縮めるに至った、晩年における自作の公開朗読会のひんぱんな開催、さては友人たちとの素人芝居の脚本書きから上演、社交的な集いなど、彼の一生は激しい活動の連続であった。その間に書いた彼の手紙は一巻が七〇〇ページを越える十二巻物(うち一冊は索引)の全集として刊行されている。しかし、これら以外に、彼のエネルギーの大部分は彼の本領を示す通巻一万ページを越える作品の執筆に費された。そして彼の創造した小説の世界を特徴づけているのは、やはりその圧倒的なエネルギー、ヴァイタリティである。
この翻訳のテキストには、原作者が改訂の筆を加えて、今日、普通に行われている、「チャールズ・ディケンズ版全集」(一八六八―七〇年)に基いた「ニュー・オクスフォード・イラストレイティド・ディケンズ」版を主として用い、句読点の読み方については「シグネット・クラシック」版を参照した。
本文中の法律関係の用語については有斐閣の『英米法辞典』のおかげを蒙ることが多かった。
この訳書は第三十四章までを青木が担当し、第三十五章以下を小池滋氏が分担して下さった。深く感謝する次第である。
[#地付き](一九六九年七月)
[#改ページ]
C.ディケンズ(Charles Dickens)
(一八一二――一八七〇)イギリスの小説家。女王から貧しい庶民の子供までが愛読したヴィクトリア期最大の国民的文豪。下級官吏の長男として生まれ、貧苦の末に小学校程度の教育を身につけた後は、法律事務所の使い走りを振り出しに、速記者、新聞記者と、わずかな余暇を図書館での勉強と芝居見物に費やすほかは、全て独力で生活の資を稼ぎながら創作生活に入り、一躍人気作家となる。著作活動のほかに慈善事業、雑誌編集、素人芝居、自作公開朗読会等、多方面で活躍。『ピクウィック・クラブ』『オリヴァー・トゥイスト』『骨董屋』『マーティン・チャズルウィット』『クリスマス・キャロル』『デイヴィッド・コパフィールド』『リトル・ドリット』『二都物語』『大いなる遺産』『我らが共通の友』など数多くの名作を残した。
青木雄造(あおき・ゆうぞう)
一九一七年、東京に生まれる。東京大学英文学科卒。元東京大学教授、後に名誉教授。日本英文学会会長をつとめた。一九八二年歿。訳書にギッシング『ライクロフトの手記』『くもの巣の家』、ワイルド『幸福な王子』、コンラッド『秘密の同居人、文明の前哨地点』、ロレンス『死んだ男』、グリーン『密使』、カー『九つの答』など多数。
小池滋(こいけ・しげる)
一九三一年、東京に生まれる。東京大学大学院人文科学研究科博士課程修了。東京都立大学教授、東京女子大学教授を歴任。著書に『ロンドン』『ディケンズとともに』『英国鉄道物語』『もうひとつのイギリス史』など多数。
本作品は一九七五年一月、筑摩書房より「筑摩世界文学大系34」として刊行され、一九八九年二月、ちくま文庫に収録された。