TITLE : 炉ばたのこおろぎ
炉ばたのこおろぎ ディケンズ
村岡 花子 訳
目 次
第一のさえずり
第二のさえずり
第三のさえずり
あとがき
炉ばたのこおろぎ
第一のさえずり
鉄瓶がそれを始めたのだ。ピアリビングルの細君がなんと言おうと、私のほうがよく知っている。ピアリビングルの細君は、どっちが先きに始めたか分らないと言い張って世の終りまでもそのように記録に残すかも知れないが、私は鉄瓶のほうだと断言する。私こそよくわきまえているはずではなかろうか? 蝋のような文字面をした隅っこの小さなオランダ時計ではかって、こおろぎが鳴声をたてるよりたっぷり五分は早く、鉄瓶がそれを始めたのだ。
それだのに、こおろぎが加わる前には、時計は打ち終っておらず、その時計のてっぺんのムーア式宮殿の正面で大鎌をかまえ発作的にひょいひょい右左に身をねじっている小さな草刈り男が、仮想の乾草をまだ半エーカーも刈り終えていないかのように言うのは、いったいどういうわけだろうか?
いや、もともと私は独断的な人間ではない。それはだれもが知っていることで、よくよく確かめたうえでなければ決してピアリビングルの細君の意見に反対などしないのだ。どんなことがあろうとそんな気にはならなかったであろう。だが、これは事実の問題である。そしてその事実というのは、こおろぎがその存在の形跡をあらわすより、ものの五分は早く鉄瓶が始めたということである。これに反対するならしてみなさい。私は十分だと言い出しますぞ。
ことの次第をくわしく語らせていただこう。開口一番そうするはずだったが、この自明の考慮――すなわち、いやしくも話をする以上、最初のことから始めなくてはならないということを考えたがためにわざと控えたのである。最初から始めるとなれば、鉄瓶で始めなくてどうしよう?
どうも、鉄瓶とこおろぎの間に試合というか、技術の競《せ》り合いのようなものがあったらしいことをご承知おき願いたい。そしてこれこそ、ことのおこりであり、こうした事態になったゆえんでもある。
ピアリビングルの細君はうすら寒いたそがれの中へと出て行き、濡れた敷石に木靴をカタカタ音たてながら、裏庭いちめんに三角形の幾何模様の足跡をめったやたらにつけながら――用水桶のところで鉄瓶に水をみたした。まもなくもどった細君は木靴を脱いだ分だけ背丈が低くなった。しかも非常に低くなっていた。木靴は高く、細君のほうはしごく背丈が低かったからである。彼女は鉄瓶を火にかけた。その一瞬、心の平衡を失ったか置き違えるかした。というのは水が――不快なほど冷たく、木靴の環は勿論あらゆる物質に浸み入るかと思われるあのつるつるした、雪解けのような、霙《みぞれ》のような状態の水が――細君の爪先にかかり、脚にまではねかえったのである。しかも自分の脚にやや自信を持ち(それだけの理由もあってのことで)、靴下の点ではことさらこざっぱりと気を付けている者にとっては、とてもやりきれないものである。
そのうえ鉄瓶は実に小癪で頑固だった。炉格子のいちばん上の横木にのせられることを承知せず、石炭のかたまりの上におとなしくおさまれと言われても聞き入れず、酔っぱらったようにがっくり前へ身を乗り出し、馬鹿な鉄瓶めが、だらだらと炉の上に水をこぼしたのである。しかも喧嘩好きときていた。火にむかってシューシュー言ったり、不機嫌にブツクサ文句を言ったりした。つまるところ、蓋は細君の指さきにさからい、まずまっさかさまにひっくり返り、ついで横ざまにもぐりこみ――鉄瓶のどん底へと沈んでしまったのである。ローヤル・ジョージ号の船体でさえ、水から出て来るのに、この鉄瓶の蓋が引上げられる時ピアリビングルの細君に試みたほどの恐ろしい抵抗は示さなかったほどだ。
そうとなっても鉄瓶はむっつり意固地な態度をつづけていた。把手を挑戦的に構え、細君を馬鹿にしたようにつんと口を上向けているところは「煮立ってやらんぞ。だれがなんと言っても煮立ってやるもんか!」と言わんばかりであった。
しかし、ピアリビングルの細君のほうはもとの上機嫌をとりもどし、ぽっちゃり肥えた小さな手を打ち合わせて塵を払い、鉄瓶の前に坐って笑った。一方、陽気な焔は燃えさかったり衰えたり、オランダ時計の上の小さな草刈り男をパッと照らし出したり、あるいはにぶい光を投げかけたり、しまいに乾草刈りはムーア式宮殿の前で微動だにせず立ちつくし、焔のほかなにひとつ動いているものはないように思われた。
しかし、草刈り男は動いていた。一秒間に二回の例の発作も支障なく規則正しくおこなわれていた。だが、時計がまさに打とうとする時の彼の苦しみようは見るも恐ろしいほどで、カッコー鳥が宮殿の引窓から覗いて六度鳴いた時には、ひと鳴きごとに幽霊の声か――あるいはなにか針金のようなものに脚をひっぱられるかのように、乾草刈りの体は揺すぶられた。
草刈り男の下にある錘や索の猛烈な動きやすさまじい音がすっかりしずまると、このおびえきった草刈り男はようよう我に返った。彼が肝をつぶすのも理由がないわけでなく、このガラガラいう骨ばった時計の骸骨は人をとまどいさせるような動き方をするのである。そして不審でならないことは、なんで一部の人が、とりわけオランダ人が、このようなものを発明する気になったかということだ。なぜなら一般にオランダ人はゆったりした衣類を好み、下半身にたくさんまといたがるものと信じられているからである。だから、オランダ人なら自分たちの作った時計をこんなやせっぽちな、保護するものとてない状態にしておくはずがないのだが。
この時である。楽しい音楽的気分になった鉄瓶がこらえきれなくなって喉をゴロゴロ言わせ始め、短い鼻歌をもらし出したのは。だが、人好きよくしようという決心がまだつきかねるかのように、歌い出してはやめていた。こうして陽気な気分をおし殺そうと無理な努力を二三度かさねてみた後、いきなり鉄瓶はいっさいの不機嫌や遠慮をかなぐり捨て、涙もろい夜鶯《ナイチンゲール》などには想像もつかないほどうちとけた喜こばしい歌を流れるように歌い出した。
それがまたたいそう分りやすい歌なのだ。まったく本のように分りやすい――おそらく、諸君や私が名ざせる一部の本よりももっと分りやすいかもしれない。ふき出した熱い湯気はふんわりした雲となり、楽しげに優美に二三フィートたちのぼると、煙突のすみをこの家の天とみなしてそのあたりにたなびいた。鉄瓶は愉快なあまり大した勢いで歌うので、鉄の胴体がブンブン火の上で揺れるほどだった。蓋はといえば、ついさきほどあんなに反抗的だったあの蓋は――これこそ立派な手本に影響されてではあるが――ジッグのたぐいのものを踊ってみせ、また自分の双生児《ふ た ご》の片われの扱いかたをおぼえたことのない、おしでつんぼの新参のシンバルのように、カタカタ音をたてた。
この鉄瓶の歌が、戸外にいるある人への招きと歓迎の歌であることは疑う余地がなかった。その人は今この瞬間にも、居心地のよい小さなわが家とパチパチ燃える火をさして近づいて来ているのである。じっともの思いにふけりながら炉の前に坐っているピアリビングルの細君はこのことをよく承知していた。暗い夜だと、鉄瓶は歌った、そして道のほとりには朽葉がつもっている。上を見れば霧と暗闇がたちこめ、下を見ればぬかるみと粘土ばかりである。この悲しげな陰気な空中にもただ一つの救いがあった。だが、救いと言えるかどうか私には分らない。というのはそれは真紅の怒りの閃光にすぎず、こんなわるい天候は雲に罪ありと、太陽と風がともに雲に焼印を押したその場所なのである。広い広い田舎も細長いどんよりした暗黒の縞となっている。道標には白い霜がのっており、道は霜どけである。氷は水になりきっておらず、水は自由な水になっていない。だからなにひとつ本来の姿になっているとは言えないのだ。しかし、あの人はやって来る。やって来る。やって来る!
そして、この時なのだ。こおろぎが加わったのは! 合唱のつもりでチロチロチロと歌うその声の大きなこと、鉄瓶とをくらべてみて、びっくりするほど体に不釣合いな声なので、(その体といったら! ああ、諸君には見えないのだ!)弾薬を詰めすぎた銃のようにたちどころに破裂したとしても、その場で犠牲となり、鳴いて鳴いてその小さな体をこなごなに砕いてしまったところで、それはこおろぎが自らめざした、当然の、避けがたい結果と思われたであろう。
鉄瓶は独唱の最後の部分を歌い終ったが、なおも衰えぬ熱情をもって歌いつづけた。しかし、こおろぎのほうがリードし、ゆずらなかった。まったくなんとよく鳴いたことか! かん高い、鋭い、よく通るその声は家じゅうに鳴り響き、外の暗闇では星のように光るかと思われた。最も強く声をはりあげる時にはえも言われぬこまかな顫えをおび、それを聞けばこおろぎが自らの情熱の烈しさに足が宙にうき、再び跳ね上がるところが想像された。それでいながら、この二者、こおろぎと鉄瓶はしごく仲よく進めていった。歌の折りかえしはやはり同じで、二者はますます高く高く高く声をはりあっていった。
美しい小柄な聞き手は――彼女は美しく若かったのである。もっともいわゆる団子型と言えないこともなかったが。しかし、私自身としてはそれを不服とは思わない――ローソクをともし、時計のてっぺんにいる草刈り男をちらっと見やり、窓のそとを見たが、まっ暗なため、ガラスにうつる自分の顔のほかはなにも見えなかった。そして私の意見では(諸君のご意見も同様と思うが)たとえ彼女が遠くまで見ることができたとしても、自分の顔ほどに気持のよいものは見当らなかったことと思うのだ。彼女がもとの席にもどってみると、こおろぎと鉄瓶はまだ無我夢中で歌合戦をつづけていた。鉄瓶の弱点は明らかに、いつ自分が負けたかを知らないところにあった。
まるで競馬さながらの熱狂ぶりだった。チロ チロ チロ! こおろぎが一マイル抜いていた。ブン ブン ブン! 鉄瓶は大ごまのように遠方で大活躍である。チロ チロ チロ! こおろぎが角をまがった。ブン ブン ブーン! 負けるものかと、鉄瓶が彼独特のやり方で頑張る。チロ チロ チロ! こおろぎは前にもまして威勢がよい。ブン ブン ブーンンン! 鉄瓶はのろいが堅忍不抜だ。チロ チロ チロ! こおろぎは相手を完全にうち負かそうとかかる。ブン ブン ブーンンン! 負かされてなるものかと鉄瓶。しまいに両方とも試合のあわただしさに気が顛倒してしまい、鉄瓶がチロチロ鳴いてこおろぎがブンブン言ったのか、それともこおろぎがチロチロ鳴いて鉄瓶がブンブン言ったのか、または両方いっしょにチロチロ鳴いて両方いっしょにブンブン言ったのか、いくらかでもはっきり決定するには諸君や私よりもっと明晰な頭脳を必要としたであろう。しかし、これだけは確かである。すなわち、鉄瓶とこおろぎが同時に、当事者のみの知るある融和力に左右されて、めいめい楽しい炉辺の歌を窓からはるか小径にまで輝き出ているローソクの光の中にそそぎこんだのである。すると光はその瞬間、暗闇の中から現われたある人にぱっと射し、文字通りまたたく間にいっさいのことをその人に告げ、
「お帰んなさい、とっつあん! お帰んなさい、大将!」
と、叫んだ。
この目的が達せられると、鉄瓶は見事に敗れ、ふきこぼれて火からおろされた。それからピアリビングルの細君は戸口へ駆けて行った。戸口では荷馬車の車輪の音、馬のひづめの音、男の声、興奮した犬が勢いよく出たりはいったり、不思議なことに忽然とあかんぼが現われたりで、まもなく大混乱におちた。
そのあかんぼがどこから来たのか、またピアリビングルの細君があっという間にどのようにしてそのあかんぼを腕にしたのか、私には分らない。しかし、細君の手にはまぎれもない生きたあかんぼが抱かれていた。しかもかなりそのあかんぼがご自慢の様子で、細君は自分よりずっと背が高く、ずっと年上のがっしりした体の男にやさしく炉ばたへ導かれて行った。男は細君に接吻するためにずいぶん下まで身をかがめなくてはならなかった。だが細君にはそれだけの骨を折る価値があった。背丈六フィート半のしかも腰部神経痛のある大男でさえそうしたにちがいない。
「あらまあ、ジョン! お天気のおかげでなんてかっこうをしているの!」
と、細君は言った。
たしかにジョンは、天候のためいくらかかっこうがわるかった。濃い霧が、結晶した融け雪のように、かたまってまつげにぶらさがっており、霧と火の間で口髯には虹ができていた。
「そりゃあ、ちびさん、そのう――そのう、まったく夏の陽気というわけにゃいかないからな。だから無理もないわな」
と、ジョンはゆっくり答えながら、首に巻いた襟巻をはずし、手を暖めた。
「わたしゃちびさんなんて呼んでもらいたくないのよ、ジョン。好かないわ」
と、細君はすねて見せたが、その様子にはそう呼ばれるのが実は大好きなことがはっきりあらわれていた。
「それじゃあ、ほかになんて言ったらいいのかい?」
ジョンは微笑をたたえて見おろし、その大きな手と腕で精いっぱいお手柔らかに細君の腰を抱きしめた。
「ちびさんで――」ここでジョンはあかんぼに目をやり――「ちびさんとあか――言わんことにしよう。おれが言うと台無しだからな。だが、もう少しでしゃれになるところだったんだよ。こんなにぎりぎりというところに来たのははじめてだな」
ジョンは自分ではちょいちょいなにかしら気のきいたことを言いそうになっているつもりだった。この動作の重い、のろい、正直者のジョンは。このジョンはたいそう鈍重だが、気持は軽く、表面はいかにも荒っぽいが、しんはまことに優しく、外側は鈍く見えるが内側は敏捷で、ひどくのっそりはしていても、しごく善良なのである! おお、母なる大自然よ、この貧しい運送屋の――ついでながら彼は運送屋にすぎないのだ――胸に宿るがごときまごころの詩を御身の子らに与え給え。さらばその子らがたとえ散文を語り、散文的生活を営もうともわれわれはそれに耐えることができ、そのような仲間と共に生きていられるがゆえに、とにもかくにも御身を祝福することができるのですわい!
小柄の「ちび」さんが人形さながらのあかんぼを抱き、もの思わしげな風情で火に見入っているのはなまめかしかった。きゃしゃな小さい頭を大きな無骨な運送屋のからだにもたせかけられる程度に、ややおどけ気味の美しい様子にかしげていた。男が不器用なやさしさで自分の無骨な支えを女のささやかな必要に合わせ、たくましい中年男の自分を、花盛りの妻の若さに不釣合いでない支えの杖にしようと心をくだいているさまは見るも快よかった。またあかんぼを受け取ろうとうしろに控えているティリ・スロボーイが(十三か十四になったばかりだのに)この団欒にとくべつの注意を払い、口と目を大きく開き、頭を突き出してその光景を空気のように吸い込んでいるのも愉快だったし、前に述べたあかんぼのことで「ちび」さんがなにか言ったため、運送屋は幼児にまさに触れようとした手を、こわしたら大変と思ったものかさし控え、とまどいしたように、しかし、誇らしげに身をかがめ、安全な距離をおいてあかんぼを眺めているところは、おとなしいマスチフ種の犬がある日、いつのまにか自分がカナリヤの雛の父親になっているのに気がついた時の様子を思わせ、これも劣らぬ愉快な姿であった。
「この子、美しいじゃありませんか、ジョン? 眠っているところは素敵じゃないこと?」
「実に素敵だよ。まったく素敵だ。この子はたいていいつも眠ってるのじゃないかね?」
「あら、ジョン! まあ、とんでもない」
「ああ、おれはこの子の目がたいていの時つむっているものと思ってたよ」と、ジョンは反省しながら言った。「おおい!」
「まあ、ジョン、びっくりするじゃありませんか!」
「この子がそんなふうに目を上向けるのはよくないんだろう! ええ?」運送屋は仰天した。「見てごらん、一時に両方の目をパチパチさせてるじゃないか! それにあの口を見なさい! そら、金魚か銀魚のようにぱくぱくしているよ!」
「あんたには父親になる資格はないわ。ありませんとも」と、ちびはいかにも経験のある主婦のようにもったいぶって言った。「子供がどういう小さな病気になやむものか、とてもお分りになるはずがないわ、ジョン! そんな病気の名前さえ知らないでしょうからね。おばかさん」
こう言うと、彼女はあかんぼを左腕に抱きかえ、気付けにその背をポンと叩いてから、笑いながら夫の耳をつねった。
「知らないな」と、ジョンは外套をぬぎながら、「実際その通りだよ、ちびさん。おれにはあかんぼのことはあまり分らないよ、分っていることは、今夜おれがかなり手ごわな風と闘ってきたことぐらいのものだ。帰り道ずっと北東の風が馬車のまっこうから吹きつけてね」
「かわいそうに、そうでしたか!」と叫ぶや、細君はすぐさま、てきぱきと動き出した。「ほら! この大事な子をうけとっておくれ、ティリ。わたしがご用をしている間ね。あらまあ、わたしゃこの子をキスして窒息させるところだったわ、もう少しで! これ、ワンちゃん! こら、ボクサー! まずあんたにお茶をいれさせてね、ジョン。それから働き蜂のように小包のお手伝いをしますわ。『小さな蜜蜂は』――そのあとぜんぶ知っているでしょう、ジョン。学校に行ってたころ『小さな蜜蜂は』の歌をならいましたか、ジョン?」
「おぼえるところまではいってないな。いつかもう少しのとこまでいったのだが。しかし、おれが歌えば歌を台無しにするだけにきまっているよ」
「アハハハ!」と、ちびは笑ったが、たぐい稀な朗らかなかわいい笑い声だった。「まったく、なんてあなたはかわいいおばかさんでしょうね、ジョン!」
この見解に少しもさからわないでジョンはそとに出て、戸口や窓の前を行ったり来たりして鬼火のように提灯を振り回していた少年が、ちゃんと馬の世話をしているかどうか調べに行った。その馬は私が寸法を言っても諸君には信じられないくらい肥えており、あまり年とっているのでその誕生日は太古の霧の中に消えてしまっていた。ボクサーは家族一人一人に注意を払うべきであり、しかもその注意を公平に配分しなければならぬと感じ、目まぐるしいほどそわそわして家の中へ駆け込んだりそとへ飛び出したり、舎の入口で体をこすってもらっている馬のまわりをワンワン吠えたてながらひと回りしたかと思うと、女主人にあらあらしく飛びつくふりをして、急におどけた様子でぴたっと立ち止まったりした。そうかと思うと、火のそばの低い子守椅子に腰かけているティリ・スロボーイの顔に不意にその濡れた鼻をおしつけて、ティリに金切声を上げさせたり、あかんぼにさしでがましい興味を示したり、かと思うと、炉をぐるぐる回ったあげく、今夜はここでと言うようにごろっと横になった。するとまたもや起き上がり、たった今、約束を思い出したとばかりに、縄のないのこしのような尻尾をひっさげて外気の中へといそぎ足で出て行ってしまった。
「さあ! 炉格子の上の棚に急須が用意してありますよ!」と言うちびはままごとをしている子供のようにいそいそと忙しそうだった。「それに豚の腿の冷肉に、バターに、カリカリしたパンに、みんなあるわ! 小さな包みならみんなこの洗濯物入れに入れたらいいわ、ジョン――どこにいるの、ジョン? その子をどんなことがあっても炉格子の下なんかに、おっことしては駄目よ、ティリ!」
スロボーイ嬢は、この注意を威勢よくしりぞけてはいるが、実のところ、彼女があかんぼを危地におとしこむのについては驚くべき才能を持っており、これまでにもたびたび彼女独特のもの静かなやり方で、このあかんぼのいとけない生命を危険にさらしたことがあるのは心にとめておくべき事実であろう。この若いご婦人はやせこけたまっすぐな姿勢をしているので、とがった木釘のような肩にひっかけられた衣服は今にもずり落ちそうだった。その装束といったら奇妙奇手れつな仕立てのフランネルの衣類が出っぱって来るやら、背中のあたりには鈍い緑色のコルセットがはみだしているやらで、人目をひいた。つねにぽかんと口をあけてあらゆる事物に感心し、そのうえ、たえず女主人とあかんぼの非の打ちどころのない完全さに気を奪われていた。そして少しばかり判断力が誤っていたとみえてスロボーイ嬢は自分の頭と心をも同様にあがめたとも受けとられる。
その結果、あかんぼの頭への待遇は悪くなり、ときどき、樅板の戸や、調理台や、階段の手摺や、寝台の柱や、その他の異物にあかんぼの頭を打ちつけることになったが、それもティリ・スロボーイがこんなに親切にあつかわれ、こんなに居心地のよい家に置いてもらっていることに対し、たえず驚いている正直な結果なのである。なぜならティリの父母は共に名もしれない人たちで、ティリは孤児院で捨て児として育てられたのであった。捨て児といとし児では言葉と音ではほんのわずかな相違なのだが、意味においての違いは非常なものであり、全然べつのことを言い表わしているのである。
夫と共にもどって来たピアリビングルの細君が洗濯物入れをひっぱり、渾身の力を振いながら、その実なんの役にもたっていないのを見れば、(というのは夫が運んでいるのだから)夫と同様、諸君にもそれはおかしかったことであろう。それはこおろぎにとっても愉快だったことと私は思う。とにかく、たしかなところ、こおろぎは今やまたもや熱烈に鳴き出したのである。
「やあ! 今夜はいつもより陽気に鳴いてるようじゃないか」
と、ジョンは例ののろのろした言い方をした。
「そして必ずあたしたちに幸運を持って来てくれることよ、ジョン! 今までいつもそうだったんですもの。炉ばたにこおろぎがいるなんて世の中でいちばん運がいいのよ!」
ジョンは細君こそ彼にとってのこおろぎ隊長であると、もう少しで考えつくところだったと言いたそうに、細君をじっと見た。そして全面的に細君に賛成した。しかし、それも例の今少しで、というきわどいところであったらしく、ジョンはなんとも言わなかった。
「はじめてわたしがあの楽しいかわいい声を聞いたのはね、ジョン、あなたから家へつれて来られた晩――小さな主婦として、わたしのあたらしい家へつれて来てくださった晩でした。もう一年近くもたつわ。おぼえているでしょう、ジョン?」
そうとも。ジョンはおぼえていた。私はそう思いたい!
「あのチロチロという鳴き声はわたしにとってそりゃあうれしい歓迎の言葉でしたの! いかにも行末の望みと励ましでいっぱいのようだったわ、あれはね、こう言っているようでした――あなたがわたしに親切にやさしくしてくださって、あなたの小さな、行き届かない妻の肩に年に似合わず賢い頭がのっているようになどと注文はなさらないって。(あのころわたしそれが心配だったのよ、ジョン)」
ジョンは考え込みながら、そうとも、そうとも、そんなことなど注文していなかったとも。お前の肩も頭もそのままで結構。おれは心から満足していたと言わんばかりに、細君の肩を撫で、次ぎに頭を撫でた。それも道理だった。肩も頭も実によいかっこうだったのである。
「あれがそう言ったように思えたというのは、ジョン、あれはほんとうのことを話していたからなのね。だってあなたはわたしにとってあれからずっと、どこの夫よりもいちばんよい、いちばん思いやりのある、いちばん愛情深い夫なのですもの。この家はしあわせな家だし、ジョン。それだからわたし、こおろぎが大好きなの!」
「実はおれもそうなんだよ。おれもそうだよ、ちびさん」
「このこおろぎの歌は何度も聞いてきたし、その無邪気な声がわたしにいろいろのことを考えさせてくれたので、それで大好きなんです。夕暮なんか少し淋しいめいった気分でいる時など、あのね、ジョン――もしわたしが死にでもしたらあなたがどんなに淋しがるだろうと思ったりした時、あの炉ばたでチロチロと鳴く声がいかにもやさしく、いかにもなつかしく響いて、次の声が聞こえて来ないうちにもうわたしの苦労は夢のように消えてしまったものよ。また、わたしがしょっちゅう心配ごとが絶えなかったころ――わたしにももとは心配というものがあったのよ、ジョン。わたしはとても若かったもので――だから、わたしたちの結婚は不釣合いな縁ということになりはしないかと思ってね。わたしはまだほんのねんねえだったのにあなたのほうはわたしの夫というよりは、わたしの後見《こうけん》といっていいくらいなんですもの。それで、あなたがいくら一生懸命心をくだいても、あなたが思っていたほどにわたしを愛する気にはなれないんじゃないかと、そんなことを心配していると、あのチロチロという声がわたしに元気をつけてくれ、安心させてくれたのです。今夜もあなたを待ちながらこんなことを考えていたのよ。それだからわたしはこおろぎが大好きなの!」
「おれもそうだよ」と、ジョンも相槌を打った。「だがな、ちびさん、このおれがお前をいとしく思うようになりたいと願ったり祈ったりするとな? なんていうことを言うのだ! お前をここへつれて来て、あのこおろぎの小さなご主人様にする、ずっと前からお前をいとしく思ってたのだよ、ちびさん!」
彼女は一瞬、夫の腕に手をかけ、なにか言いたげにあせった表情で見上げたが、次の瞬間には洗濯物籠の前に膝をつき、快活な声でしゃべりながら、小包の仕事をせっせとしらべていた。
「今夜はあんまりたくさんはないのね、ジョン。でも、つい今しがた馬車のうしろになにか品物があるのを見たわ。手数はかかるでしょうが、それでもお金になりますものね。だから苦情を言うにはあたらないわね? それに途中で配達してきなすったんでしょう?」
「そうだよ! かなりたくさんな」
「おや、この丸い箱はなあに? あらまあ、ジョン、婚礼菓子じゃありませんか!」
「女っていうのはほっといたってこういうものは見つけるものなんだな」ジョンは感心した。「男なら考えつきもしなかろうにな! それにひきかえ、茶箱の中であれ、折りだたみ寝台であれ、塩漬けの鮭の樽の中であれなんであれ、思いもよらないものの中に婚礼菓子をしまい込んだところで、女はたちまち見つけちまうに違いないよ。そうだよ、これを菓子屋に寄って取って来たんだ」
「それになんという重さなの。わたしには分らないけど――百ポンドはたっぷりあるわ!」と、ちびは叫び、大げさな身振りをしてそれを持ち上げようとした。「これはだれの、ジョン? 届け先はどこなの?」
「反対側に書いてあるのを読んでごらん」
「あら、ジョン! まあ―ジョン!」
「ああ、思いもよらなかっただろう?」
「まさか、玩具屋のグラフ・アンド・タクルトンじゃないでしょう!」
ちびは床の上に坐りなおし、首をふりながらジョンに念をおした。
ジョンはうなずいた。
細君もうなずいた。少なくとも五十ぺんはうなずいた。賛成してではなく――口もきけない有様で憐みと驚きをこめて。その間じゅうわずかの力をありったけ唇にこめてゆがめた。(その唇は決してゆがめるためにつくられたのでないことを、私ははっきり知っている)呆然として善良な運送屋の顔を穴のあくほど見つめていた。一方、今聞いたばかりのこの会話のきれはしから意味はすっかり抜き取り、その中の名詞を全部複数に置きかえて、あかんぼのあやし文句に再製する機械的な力を持っているスロボーイ嬢は、大声でその幼い者のために歌っていた。――それならそれは玩具屋たちのグラフ・アンド・タクルトンたちだったのかね? そしてそれは婚礼菓子をとりに菓子屋さんたちのところへ行ったの? そのお父さんたちが箱を家々に持って帰った時、お母さんたちはなんの箱だか分ったかね、とこんな工合だった。
「じゃ、本当にそういうことになるのね。だって、あの人とわたしは娘のころいっしょに学校へ行ったのよ、ジョン」
ジョンはその学校時代のちびのことを考えていたかもしれなかったし、あるいはもう少しで考えるところだったのかもしれない。思いにふけりながら喜こばしげに細君を眺めていたが、口に出してはなにも答えなかった。
「それだのに先方はひどいとしよりじゃありませんか! あの人には不似合いなほど!――ええと、あなたより幾つ年上だったかしら、グラフ・アンド・タクルトンは、ねえ、ジョン?」
「グラフ・アンド・タクルトンが飲む四度分の茶より今夜おれがいっときに、何杯多く飲むことだろうなあ!」と、ジョンは上機嫌で答えながら丸テーブルのほうへと椅子を引き寄せ、冷肉を食べ始めた。「食べることにかけては、おれは少食だが、そのぽっちりに舌鼓を打って食うな、ちびさん」
これは、食事どきにきまってもらす感想である、夫の無邪気な思い違いを聞いても、(なぜなら、ジョンの食欲はいつも頑強で、彼の言葉にまっこうから反対を示しているのである)、小さな妻は微笑すらうかべず、散らばった包のまんなかに立ったまま、足でゆっくりと菓子箱をおしやり、下に向けていた目は、いつもたいそう大切にしているきゃしゃな靴には一度も向けなかった。思いに沈んで、お茶にも、ジョンにも注意を向けずにそこに立っているので(ジョンが声をかけ、ナイフでテーブルをコツコツ叩いて彼女をびっくりさせようとしたにもかかわらず)、ついにジョンは立ち上がり、細君の腕にさわった。すると彼女はちょっとジョンを見てから、いそいで茶卓のうしろの席につき、自分のぼんやりしていたことを自分で笑った。しかし、さっき笑った時のようではなく、笑い方も声もすっかり変っていた。
こおろぎも鳴きやんでいた。なんとなく部屋は今までのように愉快でなかった。似ても似つかぬものになっていた。
「それでは小包はこれで全部なのね、ジョン?」と、細君は長い沈黙を破って言った。その沈黙の間、正直な運送屋は平生から、彼の考えていることをまたしても考えていた――すなわち、あまり少食だとは言えないまでも、食べただけのものはたしかに味がよかったとしきりに考えていた。「じゃ、小包はこれで全部なのね、ジョン?」
「それで全部だ」と、ジョンは言ったが、「ええと――いや――そうじゃない――」ナイフとフォークを置いてほおーっと溜息をついた。「おれはあの年とったお方を――そのう――すっかり忘れてたんだよ!」
「年とったお方ですって?」
「荷馬車の中にだ。いちばんしまいに見た時には藁の中にもぐって眠っていなすったっけ。家ん中にはいってから二度ばかし、もう少しで思い出しかけたにな。だが、あの方がおれの頭からまた抜けてしまったんだよ。おーい! もしもし! 起きなせえまし、良いお人だから!」
このあとのほうは家のそとで言った文句で、ジョンはローソクを手にあわてて出て行ったのだった。『年とったお方』などという、悪魔を思わせる気味のわるい話に、スロボーイ嬢はひどく不安をおぼえ、炉辺の低い椅子からいそいで立ち上がって、女主人のスカートの近くに庇護を求めて戸口をまたいだ拍子に見知らぬ老人とぶつかったので、本能的に、手の届く範囲内にあった唯一つの攻撃用武器を使って老人に攻撃というか、衝撃を加えた。この武器というのがたまたまあかんぼだったので、大騒ぎと驚愕がつづいて起こり、それがさかしげなボクサーのためにいっそうひどくなった。というのはこの善良な犬は主人よりも分別が足りなかったので、荷馬車のうしろにくくりつけてあるポプラの苗木二三本を持ち逃げされたら大変と、眠っている老紳士を見はっていたらしく、今なおその紳士のすぐそばにつきまとい、実際そのゲートルに噛みついたり、ボタンめがけて猛攻撃を試みたりしていた。
「まったく旦那はよく眠んなさる方だね」騒ぎがしずまると、ジョンが言った。その間、老紳士は帽子もかぶらず、部屋の中央に身動きもせずに立っていた。「よっぽど、あとの六人はどこにいるかとおききするところでしたよ。ただそれは冗談ですし、私が言ったのじゃ台無しですからね。だが、もう少しで言うところでしたよ!」と、運送屋はクックッ笑いながら呟いた。「もう少しのところでしたよ!」
客は白い髪を長く垂らし、老人としては珍らしく線の太い輪郭のはっきりした立派な顔立で、黒い、輝く、射通すような目をしていたが、微笑をたたえながら周囲を見回し、運送屋の細君におもおもしく頭を下げてあいさつした。
その衣服はひどく古風な変ったもので――おそろしく時代おくれだった。色は全体にわたってようかん色だった。手には大きな褐色の棍棒というかステッキというか持っており、これを床に打ちつけると、ステッキはバラバラに分解して椅子になった。この上に老人は悠然と腰を下ろした。
「そうら!」と、運送屋は細君をふり返って言った。「こんなふうにして道ばたに坐っているところを見付けたんだよ! 里標(道案内の木)のようにしゃんと真直ぐにな。それに里標とほとんどかわらないくらいつんぼなのだよ」
「道ばたに坐ってたんですって、ジョン!」
「野天にさ。ちょうど日暮れ方にな。『運賃です』と言っておれに十八ペンスくれたよ。それから乗り込んで、ここにこうしているというわけさ」
「この人、行ってしまおうとしてるんでしょうね、ジョン!」
大違いで、同じくいってしまうのでも、老人は言いたいことをいってしまおうとしているだけだった。
「すみませんが、私は連れに来られるまで留め置きということになっているのです」客は柔和な態度で言った。「私にお構いなく」
そう言うと、大きなポケットから眼鏡をとり出し、もう一つのポケットから本をひっぱり出すと、のんびり読みはじめた。ボクサーなどには家に飼ってある子羊ほどにも気にとめずに!
運送屋夫婦は困ったように目を見かわした。客は頭を上げ、細君から運送屋へと目を走らせてから言った。
「あんたの娘さんですかね?」
「女房です」
と、ジョンが返事をした。
「姪御さんとな?」
「女房です」
ジョンはどなった。
「細君とな? ほんとうですか? たいそう若くていなさるな!」
客はしずかにページをはぐると読書をつづけた。しかし、二行といかないうちにまたもや中途でやめて、こうきいた。
「赤さんはあんたので?」
ジョンはメガホンで伝える答にも匹敵する大振りなうなずき方をしてみせた。
「女の子さんですかな?」
「おと――この――子!」
ジョンはどなった。
「これまたたいそうお若いんだね?」
ピアリビングルの細君はすぐさま口を出した。
「二ヵ月と三日なんで―す! 六週間前に種痘したばか―り―! よくつきました―! お医者様がめずらしい見事なお子さんだと、おっしゃいました―! 五ヵ月め―の子供のは―つ―い―く―と、おなじですって―! まったくびっくりするくらい注意力があるのよ―! ほんとうとは思えないかもしれないけど、もう立とうとしてるんですよ――!」
きれいな顔をまっかにしてこの切れ切れの言葉を老人の耳もとで金切声で叫んでいた小さな母親は、息をすっかり切らしてしまい、不変の、誇らしい勝利の事実としてあかんぼを老人の前に差上げてみせた。ティリ・スロボーイといえば「ケチャ、ケチャ」と調子のよい叫びをあげながら――それは普通くしゃみをする時の、あの言いあらわしようのない言葉にそっくりだった――なにも知らぬ無心の幼児のまわりを牝牛のように跳ね踊っていた。
「ほら! 迎えが来たらしいよ。戸口にだれか来たぞ。ティリ、あけとくれ」
しかし、ティリが戸口に行くより早く、戸は外から開いた。その戸というのが原始的なつくりで、付いている掛金ははずしたければだれでもはずせるものだった――しかもはずしたい人は非常に大勢いた。運送屋自身は口数の多い人間でないにもかかわらず、あらゆる層にわたる隣人たちは一言二言、彼と心あたたまる言葉をかわしたがるからである。戸が開くと、はいって来たのは小柄な、貧相な、もの思いに沈んだ、うすよごれた顔をした男であり、着込んでいるだぶだぶの外套はなにか古箱の覆いのズックの手製のものらしく、戸を閉じて外気を閉め出そうと向うをむいた時、外套の背にG&T(グラフ・アンド・タクルトン商会)と大きな黒い頭文字で書いてあるのがあらわれ、そのうえ、ガラスと肉太の文字で書いてあった。
「ジョン、今晩は!」と、小柄の男はあいさつした。「おかみさん、今晩は。ティリ、今晩は。見馴れないお方、今晩は! ぼうやはどうだね、おかみさん? ボクサーもなかなか元気のようだね?」
「みんな達者よ、ケイレブ。それを知りたけりゃ、まず第一番に坊やを見さえすりゃいいのよ」
「それから第二の証拠としてあんたをね」
と、ケイレブが言った。
だが、ケイレブは細君のほうは見はしなかった。彼は口にする言葉とは関係なく、いつもなにか別の時や場所のほうに向いているかのようなあてどのない、考え込んだ目つきをしていたが、それは声についても同様だった。
「それとも、もう一つとしてジョンをね」ケイレブは言葉をつづけた。「それとも、その点、ティリかな。それとも、たしかにボクサーをね」
「今せわしいかね、ケイレブ?」
運送屋はたずねた。
「そう、かなりね、ジョン」と、答えるケイレブの様子は少なくとも、ものみな黄金にかえるという、あの霊石を探し求めて半狂乱の男の姿を思わせた。「なかなか忙しいんだ。今のところ、ノアの方舟《はこぶね》(旧約聖書の記事に、善人ノアが四十夜の大雨をのがれるため方舟を作ったことが出ている)の注文がちょっとたてこんでるもんでね。ノアの家族をもっとちゃんとしたものに作れたらなあと思うのだが、あの値段じゃとてもできないよ。どれがシェムで、どれがハムで、どれがその女房たちかもっとはっきり分るようにできたら満足がいくのだがな。蠅の寸法だって象に較べてあれじゃいけないんだ。おお、そうだ! 私に宛てた小包をなにか持って来てくれたかね、ジョン?」
運送屋はぬぎ捨てた外套のポケットに手をつっこみ、苔と紙で注意深くくるんだ小さな花の鉢を取り出した。
「ほれ、これだよ!」と、ジョンはいかにもたいせつそうにそれを整えながら、「葉っぱ一枚だっていたんでいないよ。蕾でいっぱいだ!」
ケイレブの元気のない目がパッと輝いた。それを受け取り、運送屋に礼を言った。
「高いんだよ、ケイレブ。この季節にはひどく値がはってるんだ」
と、運送屋が言った。
「かまわないよ。いくらしようと私にとっちゃ安いものさ。ほかになにかあるかね、ジョン?」
「小さな箱が一つあるよ。ほら、これだ!」
『ケイレブ・プラマー行き』と、小柄な男は表書きを読んだ。「『現金入り』――現金入りだとさ、ジョン。こりゃ、私あてのものじゃないらしいよ」
「取り扱い注意だよ」と、運送屋はケイレブの肩ごしに覗きながら言った。「なんで現金などと読んだものかな?」
「ああ! そうだ。それでいいんだ。取り扱い注意! そうだ、そうだ、これは私のだ。だが、これも現金だったか知れないよ、あの黄金の国、南アメリカへ行ったかわいい息子が生きてさえいたらばなあ、ジョン。あんたはあの子を自分の伜のように可愛がってくれたじゃないか。口で言わなくてもむろん私には分っているよ。『ケイレブ・プラマー行き。取り扱い注意』――そうとも、そうとも。これでいいんだ。この箱の中にゃ娘の手細工でつかう人形の目がはいっているんでね。この中にはいってるのが娘の目だったらなあと思うよ、ジョン」
「そうだといいが、でなけりゃ、そうなれるものならいいのだがなあ!」
と、運送屋は力をこめて言った。
「有難うよ」小男は感謝した。「あんたは心からそう言ってくれる。あの娘にゃ人形が見えないのに――それだのに、人形のほうじゃ一日じゅうじろじろ娘を眺めてると思うとなあ! それがたまらなく切ないんだ。代金はいくらかね、ジョン?」
「そんなことを言うと、おまえを勘定しちゃうぞ。なあ、ちびさん! もう少しのとこだったろう?」
「うん、あんたの言いそうなことだよ。いつもながらの親切だ、えーと、これで全部だったな」
「そうじゃないらしいよ。もう一ぺん考えてみな」
運送屋が注意した。
ケイレブはしばし沈思黙考してから、
「親方のとこへなにか来てたっけな、ええ? そうだ。それで私はやって来たんだっけ。だが、私の頭があの方舟やなんかでいっぱいだったもんでね! まだここに来たんじゃなかろう、親方は?」
「うん、まだだよ。女を追い回すんで忙しくてそれどころじゃない」
「だけど、やって来るよ。帰りにゃ道の左側を来い、十中八九分までは私を車に乗せてってくれると言ったもの。ところで、そろそろ出かけたほうがよさそうだ。――ねえ、おかみさん、ちょっとボクサーの尻尾をつねらせちゃくださるまいね?」
「まあ、ケイレブ! なんてことをききなさるんでしょう!」
「いや、いいんですよ、おかみさん。ボクサーにしてもいやだろうしね。なに、吠えてる犬の注文がぽっちりあるもんで、出来るだけ本物通りにこさえたいと思ったのさね。六ペンスもらえるんでね。それだけのことさ。結構でさ、おかみさん」
折よくボクサーは計画的な刺激を加えられなくても烈しく吠えはじめた。しかし、これはだれか新来者を意味しているので、ケイレブは実物研究をもっとよい機会に延ばすことにし、丸箱を肩にいそいでいとまを告げた。だが、そんな手数はいらなかったのである。というのは入り口でぱったり訪問者と顔を合わせたからだった。
「ああ! 来ていたのか? ちょっと待て。わしがつれて帰ってやるからな。ジョン・ピアリビングル、達者で結構だ。器量のいい細君も達者でなおさら結構だ。日増しにきれいになるね! なろうものなら日増しに健康にとも言いたいね! しかも、ますます若くなる」と、話し手は考え込みながら、ひくい声で、「そいつが厄介だて!」
「あなたからお世辞を言っていただくなんて、びっくり仰天するところでしたわ。あなたが今、結構なご身分じゃないんでしたらね」
と、ちびさんはあまり愛想のよくない返事をした。
「それでは、すっかり知ってなさるんだな?」
「どうにか、呑み込めたところですわ」
「ひどくもがき、苦しんだあげくね?」
「おっそろしく」
グラフ・アンド・タクルトンとしてかなり広く名を知られている玩具商のタクルトンは――グラフ・アンド・タクルトンというのは商会の名前なのである。もっとも、グラフのほうはずっと以前に権利を売ってしまい、この商会に残してあるのはその名前と、それから辞書にある通りに解すれば、一部の者の言うように、その名グラフが示す『無愛想』という性質だけであった――その玩具商タクルトンは彼の両親および保護者たちからその才能をまったく見誤られた男だった。もしも両親たちから、金貸しとか、ぬけめない弁護士とか、執達吏とか、あるいはブローカーとかにされていたなら、タクルトンは若いうちに放蕩のかぎりをつくしてしまい、たちの悪い取引を思う存分に重ねたあとで、気分転換のため、しまいに人好きのする人間になっていたかもしれないのだ。しかし、おもちゃ製造というおだやかな仕事にとじ込められ、いらいらする結果、彼は家庭の鬼と化し、これまで子供たちを餌食にし、子供たちの執念深い敵となって暮らして来たのである。彼は玩具という玩具をすべて軽蔑し、絶対に一つとして買おうとせず、豚を市場に追って行く茶色の紙で作った農夫や、法律家の良心紛失広告を出す広告屋や、手足が動いて靴下のつくろいやケーキ切りの出来る老婦人や、その他これに似たさまざまの品物の顔に意地悪くも、ものすごい表情をしのび込ませては喜んでいた。ぞっとするようなお面。恐ろしい、毛むくじゃらの、赤目のびっくり箱人形。吸血鬼の絵の凧。横には決して倒れようとせず、絶えず前に飛び出しては幼児たちを睨めつけて色を失わせる悪魔のようなおきあがりこぼし。こういうものにタクルトンは心からの喜びを味わった。これらがタクルトンにとって唯一の救いであり安全弁であった。彼はそのような品の発明に秀でていたのである。なんであれ、小悪魔を想起させるものは彼にとって快よかった。妖魔の絵の幻灯用スライドの製作では金を損しもした(その玩具に彼はたいそうの打込みようだったのである)。そのスライドには魔物どもが人間の顔をした超自然的な貝の一種として画かれていた。巨人の描写を強烈にするため、僅かながら資本を投じたこともあり、自身は画家ではなかったが、使っている画家たちに指図するのにそれら怪物の顔の略図を白墨で描いてみせることぐらいは出来た。それはクリスマスの季節中、または夏休みの全期間にわたって、六歳から十二歳までの若紳士方の平和を乱すこと請け合いだった。
(たいていの人がそうであるが)他のすべての方面においても玩具の場合と同様であった。それだから、すねまでとどく緑色のマントの中には稀にみる愉快な人物? が顎までボタンをかけてとじ込められているところが、容易に想像できよう。また、上部がマホガニー色の牡牛の頭のような長靴をはいて立っている彼が、このうえない上等の人柄であり、気持のよい? 相手であることも推して知るべしである。
それだのに、この玩具商のタクルトンが結婚しようというのだ。以上述べたことにもかかわらず、結婚しようとしているのだ。しかも若い妻と。美しく若い妻と。
タクルトンが運送屋の台所に立っているところを見れば、あまり花婿らしくは思えなかった。干からびた顔をゆがめ、体をねじり、帽子は鼻柱の上におおいかぶさり、両手はポケットの底にぐいとつっこみ、何羽かの大烏から集めたエセンスとも言うべき、皮肉な邪悪な彼の本心をあますところなく小さな一方の目の小さな目尻から覗かせているのだから。だがしかし、彼は花婿になるつもりなのだ。
「三日後。次の木曜日。正月の晦。それがわしの婚礼の日だ」
と、タクルトンが言った。
彼が常に片方の目を大きくあけ、もう片方のはほとんどつぶらんばかりにしていること、また、そのつぶらんばかりのほうのが常に表情ゆたかなことを、私は先に述べたであろうか? 述べたおぼえはないと思う。
「それがわしの婚礼の日だ」
と、タクルトンは金をじゃらじゃらさせながら言った。
「おや、それはわしらの結婚した日と同じだわい」
と、運送屋が叫んだ。
「アハハハ!」タクルトンは笑った。「おかしなこともあるもんだな! 君たちもやっぱりそうした夫婦なのかね。なるほどね!」
この横柄な文句を聞いたちびの憤慨の様は言語を絶するものであった。次にはなんと言い出すだろう? 多分、やっぱり同じようなあかんぼが生れるなどと想像しかねまい。この男は気違いだわ。
「おい、ちょっと話がある」と、タクルトンは肘で運送屋をつっつき、少し離れたところにつれて行った。「婚礼には来てくれるだろうね? わしらは同じ舟に乗ってるんだものな」
「同じ舟とはなんでね?」
と、運送屋がきいた。
「そら、ちょっと不釣合のところがさ」と、言ってタクルトンはまた肘でつっついた。「ひと晩わしらとゆっくりしに来てくれな。その前にさ」
「どうしてだね?」
この否応を言わせぬ招待にジョンは驚いてしまった。
「どうしてとな? これはまた、招待を受けるに新式な方法だね。どうしてって、楽しむためさ。まあ、付き合いとかそういった類のためさ!」
「おれはあんたが人付き合いなんかしない人かと思ってたね」
と、ジョンは持前の飾り気なさで言った。
「チェッ! 君にあっちゃ、隠しだてをしたって無駄だわい」タクルトンは言った。「それじゃあね、ほんとうのところを言うと、君がたは――つまり、君とおかみさんはだね、茶飲み仲間で言う、なんというか、こう、二人いっしょにいるところは見るも気持がよい、といったところがあるんだよ。われわれにしてみればそんなもんじゃないんだがねえ、だが――」
「いや、そんなもんじゃなくはないよ」と、ジョンは遮った。「あんたはなんのことを言ってなさるのかね?」
「よろしい! それじゃあ、そういうことにしておこう。それで意見が一致というわけだ、君のいいようにな。どうだってかまわないことだもの。わしが言おうとしていたことはだね、君たちが今言ったような外観を持っているから、来てくれれば未来のタクルトン夫人に好影響を及ぼすだろうということなんだよ。この件では君の細君はあまりわしをよく思っていないが、それでもわしの意見に賛成せずにはいられまいよ。なぜなら、無関心にしていても、君のおかみさんのきりっと引き締った、屈託のない様子が目立つものね。来ると言ってくれるだろう?」
「わしらは自分たちの結婚記念日にゃ(出来るかぎり)家にいることにしたんでさ。この半年も前からお互いにそういう約束をしたんでね。わしらの考えでは、家庭というものはだね――」
「ヘッ! 家庭とはなんだね?」タクルトンは叫んだ。「壁が四つに天井が一つじゃないか! (なぜあのこおろぎを殺さんのかね。わしなら殺すよ! いつもそうだ。あいつらの声が大きらいなんだ)。壁四つと天井一つならわしの家にだってあるよ。わしんとこへ来てくれよ!」
「あんたはあんたのとこのこおろぎを殺しなさるのかね、ええ?」
と、ジョンがきいた。
「踏み殺すね」と、相手はどさっと踵で床を踏んだ。「来てくれるだろう? これはわしにとって都合よくなると同様、君のためにもなることなんだよ。そら、女どもが自分たちは落ち着いた満足のいく暮らしをしていてこれ以上の仕合わせは望めないくらいだと、お互いにそう考えるようになるからな。わしにゃ女どもの行き方がよく分っている。なんであれ、一人がなにか言えば、他の女は『その通り』と言わなくちゃと思うものなんだ、必ずね。女同士の間には競争心があるから、かりに君の細君がわしの家内に向かって『わたしは世界じゅうでいちばん幸福な女だわ。うちの人は世界じゅうでいちばん良い夫なの。だからわたし、夫に夢中になっているのよ』と言ったとしてみなさい、わしの家内も君の細君に向かって同じようなことか、あるいはそれ以上のことを言って、それが本当のような気持になって来るんだよ」
「それじゃ、あんたの奥さんはそうじゃないと言いなさるのかね?」
と、運送屋がたずねた。
「そうじゃないとな?」と、叫ぶと、タクルトンは短く鋭い笑い声をあげた。「なにがそうじゃないと言うのかね?」
運送屋は「あんたに夢中になってるんじゃない」と付け加えようと思ったのだが、マントの、立てた襟ごしに今にも飛び出さんばかりにこちらをまたたいている例の半眼の目とぶつかったので、運送屋はあの目じゃとても夢中になどなれはしないと感じ、
「奥さんがそんな気になってないとでも」
と、言いかえた。
「この古狸! 冗談もいい加減にしろ」
と、タクルトンは言った。
しかし、運送屋が相手の言葉の意味をよくは呑み込めないながらも、いかにも真面目な様子でこちらを見ているので、タクルトンも、もう少し説明を加えないわけにはいかなくなった。
「わしはこんな気持になったのだ」タクルトンは左手を示して、「これがわし、つまりタクルトンだ」というふうに人差し指を叩いてみせた。「わしはなあ、君、若い妻しかも美しい妻をもらう気持になったのだよ」ここでタクルトンは花嫁を意味するに自分の小指を叩いた。ひかえめにではなく、力を意識したきつい打ち方だった。「わしにはその気持を満足させることが出来るのだからね。そうするつもりだ。これはわしの気まぐれさ。だが――ちょっとあれを見なさい」
タクルトンはちびが思いに沈みながら火の前に坐っているのを指差した。彼女はえくぼの寄った顎に頬杖をつきながら、あかあかと燃える焔を眺めていた。運送屋はちびを見た。それからタクルトンを見た。それからちびを、それから再びタクルトンに目をやった。
「たしかに、おかみさんは尊敬の気持は持っているし、従順なことだろうな。わしは感情の人間じゃないんだから、わしにはそれで十分なのだ。だが君は、それだけのもんじゃないと思うかね?」
「それだけのもんだなどと言う奴があったら、どいつだろうと窓からほうり出してやろうと思うよ」
と、運送屋が返事した。
「そうだとも」と、相手はいつに似合わずたちどころに同意した。「まったくだ! たしかに君のことだもの。勿論さ。まちがいないところだ。お休み。よい夢をな!」
善良な運送屋は当惑し、われにもなく不快な不安な気持にさせられた。それを彼は態度にあらわさずにはいられなかった。
「お休み、友よ!」と、タクルトンは同情するように言った。「お暇するよ。実際のところ、わしらはまったくそっくりだよ、ね。明日の晩は来てもらえんだろうな? そうだ、次の日君がたは訪問に出かけるんだったね。じゃあ、あちらで会うことにしよう。未来の家内をつれて行くよ。あれのためになることだからな。同意してくれるかね? 有難う。ありゃなんだ!」
運送屋の妻が大声をあげたのだった。突然鋭い大きな叫び声をあげたので、部屋はガラス器のように鳴り響いた。席から立ち上った細君は恐れと驚きで化石したかのようにつっ立っていた。暖まりに火の方へ歩みよろうとした見知らぬ客は、細君の椅子から一歩たらずのところに立っていた。しかし、身じろぎもしなかった。
「ちびや! メアリー! お前! どうしたのかい?」
と、運送屋は叫んだ。
たちまち一同は彼女のまわりに集まった。かの菓子箱によりかかって居眠りをしていたケイレブは途切らしていた落ち着きをとっさにとりもどした瞬間、それは不完全だったので、スロボーイ嬢の髪を掴んでしまった。だが、すぐに詫びた。
「メアリー!」運送屋は妻を腕にかかえながら叫んだ。「気分でもわるいのか! どうしたのかい? 話しておくれ!」
彼女は答としてただ手を打ち合わせ、狂気のように笑うばかりだった。そうかと思うと、彼の手をぬけて床にくずれ込み、エプロンで顔をおおって激しく泣いた。それからまた笑い出し、また泣き出し、それから、なんて寒いんでしょうと言って、夫に火のそばへつれて行ってもらい、以前のように坐った。かの老人は前と同様じっと立っていた。
「ずっとらくになったわ、ジョン」細君は言った。「もう、すっかりなおったわ――あたし――」
「ジョン!」しかし、ジョンは彼女の向かい側にいるのである。どうして彼女は、まるでそちらに話しかけているように、かの不思議な老紳士のほうに顔をむけているのだろう! 気でも狂ったのか?
「ほんの幻にすぎないのよ、ジョン――こうショックというか――なにか急に目の前にあらわれたの――なんだったか分らないけれど。もうすっかり消えちまったわ。すっかり行っちまったの」
「行ってしまって幸いだったな」と、タクルトンは表情ゆたかなほうの目で部屋じゅうをぐるっと見回しながら言った。「どこに行ってしまったというんだろう? して、いったいなんだったのかな。フーン! ケイレブ、ここへ来い! あの白髪の者はだれだ?」
「知りませんな、旦那」と、ケイレブは小声で答えた。「これまで一度も見たことがありませんね。クルミ割りにゃ、もってこいの立派な形でさ。まったく新型のね。あのチョッキの下のほうへとねじ顎をつけたら素晴らしいでしょうなあ」
「あまりみっともなくもないな」
と、タクルトンも賛成した。
「でなけりゃマッチ箱にも向きますな」と、ケイレブは深い冥想にふけりながら言った。
「実にいい型だ! 頭をねじりぬいて、中にマッチを入れる。踵を上にして火をつければ、そのままで、紳士の炉棚に置くのにおあつらえ向きだ!」
「少なくもみっともないところがないね。全然そんなところはない。来い! その箱を持ってな! もう、すっかりよろしいかね?」
「おお、もうすっかり消えちまいましたの! すっかり行っちまいました!」と、小さな妻はいそいでタクルトンを追い払うかのように手をふった。「お休みなさい!」
「お休みなさい」と、タクルトンも言った。
「ジョン、お休み! ケイレブ、その箱を気を付けて運ぶんだぞ。落としでもしてみろ、貴様を殺してやるから! 真暗なうえ、空模様はさっきより一層わるいようだね? お休み」
そう言うと、またもやじろっと部屋を見回してから、外へ出て行った。ケイレブは婚礼菓子を頭にのせてそのあとに従った。
運送屋は小さな妻の振舞いにひどく驚いてしまい、彼女をなだめたり介抱したりにかかりきりになっていたので、かの客の存在などほとんど忘れていたが、今再び客がただ一人そこに立っているのを見てはじめて気が付いた。
「この人はさっきの衆の知り合いじゃないことが分ったし、おれはそれとなしに出ていくように言わなくてはならん」
と、ジョンが言った。
「申しかねますがね」と、かの老紳士はジョンのほうへ進み寄り、「奥さんの工合がよろしくない様子で、なおさら申訳けありませんが、ここが不自由なため」と、耳に手をやり、頭をふって見せ、「どうしてもいなくては困る付添人がまだまいらぬところを見ますと、なにか間違いがおこったのではないかと思うのです。今夜のような悪い天候のおかげで、あなたの荷馬車も気持のよいしのぎ場所としてお借りしましたが、(願わくは、あれ以上ひどいしのぎ場にめぐり会いませんように!)天気は相変らず悪い。ご親切ついでにここで寝台を一つ拝借できませんかな?」
「ええ、ええ、よろしいですとも!」
と、ちびさんが叫んだ。
「おおっ!」運送屋はこの承諾の速さに驚いてしまった。「そうか! おれは反対じゃないが、だがまだどうも納得が――」
「シッ!」と、細君が遮った。「ジョンたら!」
「だって、この人はかなつんぼじゃないか」
と、ジョンは言いはった。
「そりゃそうだけど、でも――はい、あなた、ようございますとも。ようございますとも! あたし、今すぐこの方に寝床の用意をしてあげますわ、ジョン」
いそいで出て行った妻の様子が興奮と動揺であまり異様なので、運送屋はすっかりめんくらってその後姿を見送った。
「そこでそのお母さんたちはそれに寝床たちを作ってやったのでした!」と、スロボーイ嬢はあかんぼに大声で言った。「そうして、帽子をぬいでみると、それの髪は鳶《とび》色でくるくる巻毛になってたもんで、炉辺に坐っている大事ないい子たちを恐がらせたのです!」
心が疑惑と混乱状態にある時、どういうものか、しばしばそれに付随してつまらぬ事柄に注意がひかれるものだが、運送屋は足どりも重くゆきつもどりつしながら頭の中でそういうばかげた言葉を幾度となくくりかえしている自分に気が付いた。あまり何度もくりかえしたため、暗記してしまったほどだが、それでもなお学課のようにくりかえしくりかえし暗誦しているうちに、ティリは健康上よいと考えたので(子守の風習にしたがい)、小さな無帽の頭を手でせっせと擦ってから、再びあかんぼの帽子をかぶせて結んでやった。
「そして炉辺に坐っている大事ないい子たちを恐がらせたのです。いったい、なにがちびを恐がらせたんだろう!」
ゆきつもどりつしながら運送屋は考えた。
玩具商の遠回しな言葉を胸からはねのけようとしたが、それにもかかわらず心は漠然とした、捉えようのない不安でいっぱいになるのだった。タクルトンがすばしこくて狡猾なのにひきかえ、運送屋は自分がさとりが遅いこと、断片的なほのめかしはいつも苦手なことを思って心を痛めた。自分ではタクルトンが言ったことと、妻の異常な行動を結びつけるつもりはさらになかったが、しかし、この二つの考えの対象は頭の中で一つになり、それを切り離すことは出来なかった。
まもなく寝床の用意が出来、客は一杯のお茶のほか、食物も飲み物もいっさい辞退して引き退がった。そこで、ちびはもうすっかりなおったと言って、夫のため炉のすみに大きな椅子を置き、パイプに煙草をつめて渡し、自分のいつもの小さな床几を炉の夫のそばに持って来た。
彼女はいつもその小さな床几に坐るのだった。それがすかしたり機嫌をとったりしてくれる小さな床几とでも思っていたに相違ない。
彼女はパイプに煙草をつめるにかけては世界一と言ってよいほど巧みなものだった。その肥えた小指を火皿に入れて、それから羅宇を掃除するためにパイプをフッと吹いてみる。そうしてからさもほんとうに羅宇の中になにか詰まっているかのように、何度も吹き、望遠鏡のように目にあてがってみる。それを覗く時のその小さなきれいな顔をおそろしくゆがめるさまは、まったく愉快だった。煙草に関しては彼女は完全な名人であり、運送屋がパイプを口にくわえると、紙のきれはしでそれに火をつける――鼻のすぐそばに近付けながら、それでいて火傷《やけど》をさせない――わざにいたっては芸術だった。高級な芸術だったのである。
そして再び頭をもたげて来たこおろぎと鉄瓶もそれを認めた! 再び燃え立った明るい焔もそれを認めた。時計の上でかえりみられぬ仕事をしている小さな乾草刈りもそれを認めた! 額のしわをのばし、顔をのびのびさせた運送屋はいのいちばんにそれを認めた。
そして彼が真面目な考え込んだ様子で、使いなれたパイプをふかし、オランダ時計がチクタク時を刻み、赤い焔が輝き、こおろぎがチロチロ鳴いていると、その時、彼の炉辺と家庭の守護神が(こおろぎがまさにそうだったのである)妖精の姿となって部屋にあらわれ、家庭のさまざまな物影をまわりに呼び集めた。あらゆる年齢の、あらゆる大きさのちびたちで部屋はいっぱいになった。野で花をつみながら彼の前を走って行く、陽気な子供のちびたち。武骨な彼自身の影像の懇願にたいし、半ばしりごみし、半ば従う内気なちびたち。戸口におり立ち、家の鍵束を与えられて、夢かと胸をとどろかせる新婚のちびさんたち。架空のスロボーイたちを従えて、あかんぼを抱き洗礼につれて行く小さな母親のちびたち。娘のちびたちが田舎踊に興じているのを見守っている、今なお若く女盛りの主婦らしいちびたち。ばら色のほおをした孫たちの群にとりかこまれた肥満したちび。杖にすがりながら、よぼよぼよろめき歩く、しわだらけのちびたち。年とった運送屋たちもあらわれ、その足もとには盲の老犬のボクサーたちが寝ころんでおり、以前のよりも新らしい荷馬車に彼よりも年の若い馭者たちが乗っており(車蓋には『ピアリビングル兄弟』と書いてある)、新らしい荷馬車。このうえなくやさしい手にみとられる病める年とった運送屋たち。墓地には死せる運送屋たちの苔むした墓。そしてこういうものをこおろぎが見せてくれているうちに――目はじっと火を眺めていたにもかかわらず、彼はそれらのものをはっきりと見たのである――運送屋の心は軽く幸福になって行き、家の神々にありったけの感謝を捧げ、もはやグラフ・アンド・タクルトンのことなど諸君と同様、気にかからなくなった。
しかし、かの妖精のこおろぎが細君の床几にちかぢかと置き、ただ一人ぽっつり立っているあの若い男の姿はなんであろうか? なぜ、あのように細君のそばをなおも去りやらず、片腕を炉棚にのせて、
「結婚するとは! しかも僕とではなく!」
と、くりかえし言っているのだろう。
おお、ちびよ! おお、薄れ行くちびよ! お前の夫が見たすべての幻の中にあの者を入れる場所はないのに、どうしてあの影がお前の夫の炉に落ちたのだろう!
第二のさえずり
ケイレブ・プラマーと彼のめくらの娘は、物語本の言い方にしたがえば、たった二人きりで暮らしていた――このせちがらい世の中でなんであれ口をきいてくれる物語本を私は祝福するものであるが、諸君も私の気持を支持して祝福をおくっていただけたらと思う!――ケイレブ・プラマーとめくらの娘は小さな割ったくるみの殻のような木造の家に、二人きりで住んでいた。その家というのは正直のところ、グラフ・アンド・タクルトンの突き出た赤煉瓦の鼻にできた吹出物のような存在にすぎなかった。グラフ・アンド・タクルトンの屋敷といえば街の大建築であったが、ケイレブ・プラマーの住まいのほうは槌で一打ちか二打ちもすれば叩きこわれて、車一台で破片の取り片付けがすんでしまうほどのものだった。
そのような乱暴がおこなわれたあとで、もしもたれかがケイレブ・プラマーの住まいのないことに気付いたとしても、取りこわされてなんとせいせいしたことかと讃めるぐらいのことにちがいなかった。それがグラフ・アンド・タクルトンの屋敷にくっついている有様は、船の竜骨についているえぼしがいを、または戸にしがみついているかたつむりを、あるいは木の幹にむらがって生えている小さなきのこを思わせた。しかし、この掘立小屋こそはグラフ・アンド・タクルトンの立派に成長した幹の萌芽であった。そしてそのガタガタの屋根の下で、グラフ家の先々代が当時の少年少女のためにほそぼそとおもちゃを作ったのであり、少年少女たちはそのおもちゃで遊び、そのからくりを発見し、それをこわし、やがて眠りについたものだった。
私はケイレブと彼のあわれなめくらの娘がここに住んでいると言ったが、そうでなく、ケイレブはここに住み、あわれなめくらの娘のほうは別のところに、ケイレブの飾り付けで出来た、乏しさもみすぼらしさもなく、苦労などのはいりこまないような魔法のかかった家で暮らしていると言うべきだった。ケイレブは妖術師ではなく、今なお私たちに残されている唯一の魔法、即ち、献身的な不滅の愛という魔力を、自然という教師によって学んだ。この教師なる自然の教えからすべての奇跡が生じたのである。
めくらの少女は天井が変色をしていること、壁にしみが出来ていること、そちらこちら漆喰《しつくい》がはげおちていること、高いところの割れ目が際限なく日ごとにひろがっていくこと、梁が朽ちて下がりかけていることなどを知らなかった。めくらの少女は、鉄はさび、木はくさり、壁紙がはげており、家の大きさ、形、真の広さそのものが縮まる一方なのも知らなかった。めくらの少女は食卓の上にはみにくいデルフト焼や土器がおいてあり、悲哀と気弱さが家じゅうにみなぎっていること、少女の見えぬ目の前で、ケイレブの僅かばかりの頭髪がますます白くなる一方なことも知らなかった。めくらの少女は自分たちの主人が苛酷で、横暴で、薄情な人間であることを知らず、自分たちに冗談を言うのが大好きな一風変った諧謔家であり、父と自分の命の守護神ともいうべき立場にありながら、一言なりと感謝の言葉を耳に入れたがらない人なのだと思いこんで暮らしていた。
しかも、それはみなケイレブのデッチあげたことであった。みな少女の父親の単純な心から出た仕業であったのだ! だが、ケイレブの炉ばたにもこおろぎがおり、母親のないめくらの少女がまだ幼いころ、ケイレブが悲しげにその音楽に聞き入っていると、あの「精」が、めくらというこの大きな損失さえも、少女にとってはほとんど祝福に近いものになり得るし、このような小さな手段で少女を幸福に出来るという考えを吹き込んだ。それというのも、人々はこおろぎたちと交わっておりながらそのことを知らずにいるが(大抵の場合そうである)、こおろぎ族はどれもみな有力な「精」であり、目の見えない世界ではこれほどやさしい、誠のこもった声はまたとないほどなのである。炉ばたの精たちが人類に話しかける声として絶対に信頼してよく、また、必ずこの上なく愛情のこもった忠告のみを与えてくれるのである。
ケイレブと娘はいつもの通り仕事部屋で仕事をしていたが、その部屋は普通の居間の役目もつとめており、奇妙な場所であった。あらゆる身分の人形のために、仕上がったのや、まだ仕上がらない家々があった。中流階級の人形たちには郊外の借家、下層階級の者たちのためには台所と一間だけのアパート、上流階級の人形たちには首都の邸宅といった工合だった。ままごとの家々のうちには限られた収入しか持たぬ人形の便宜をはかる意味で、一定の見積りだけの家具が取り付けてあるのもあったし、また幾棚もある椅子や、テーブルやソフアや、寝台や、室内装飾品などを選んで即時、最上の豪華な設備が出来るようになっているのもあった。
こういう家に住むことになっている貴族も、紳士たちも、一般民衆もみなそちこちに横たわりまっすぐ天井をみつめている。しかし、それぞれの社会における地位を示し、めいめいの所属する階級におちつかせておく点にかけては(このことが実生活では嘆かわしいほど困難なことは経験が教えている)、この人形のむれを作った人々は、しばしば頑固で片意地な行為をする大自然よりはるかに上手《うわて》だった。なぜなら人形つくりたちは繻子とか更紗とかはしぎれなどのような勝手なマークに頼らず、間違いの余地をのこさぬはっきりした肉体上の区別を加えたのである。こうして、高貴な淑女人形は蝋の手足を持っていたが、それは彼女とその仲間に限られていた。社会的地位がその次に位するものはなめし革で出来ており、その次の階級は粗いリンネルで作ってあった。平民は火口箱《ほぐちばこ》からマッチの腕や脚を突き出したものにすぎず、ただちに彼らの場所におかれ――そこから逃がれる見込みはさらにないのである。
人形のほかに、ケイレブ・プラマーの部屋には彼の手になるさまざまの細工ものがあった。ノアの方舟《はこぶね》があった。方舟には鳥や獣どもがぎっしり詰め込まれていたが、それはどうにかこうにか屋根から押し入れ、ガタガタ揺すぶって、たいそう狭い場所に押し込めることが出来るのだった。大胆な詩的自由解釈により、これらノアの方舟には大部分、戸に戸叩きがつけてあった。それは朝の訪問者や郵便配達などを思いおこさせる辻褄の合わない付属品ではあったが、建物を眺めた感じからいえば愉快な仕上げとなっていた。車輪が回るとひどく陰気な音楽をかなでるもの悲しげな小さな荷車も何十台とあった。たくさんの小さなバイオリン、太鼓、その他の騒々しい楽器。無数の大砲や、楯や、剣や、槍や、鉄砲。赤ズボンの小さなおきゃがりこぼしたちは絶えず赤いテープの高障害物にむらがりあがっては、向う側にまっさかさまに転がり落ちていた。上品な、とは言えないが、体裁をとりつくろった老紳士が大勢、彼等の表戸口にわざわざそのためにさしてある水平棒を、狂気のように飛び越えていた。動物もあらゆる種類のものがいたが、とりわけ馬は、たてがみの代りに小さな襟巻をして、四本の木釘で支えた斑点のある「樽」という代物《しろもの》から、勇み返った純血種《サラブレツド》の揺木馬《ロツカー》にいたるまでいた。ハンドル一つ回せばすぐにもありとあらゆる途方もないことをやり出す不気味な人形の数を、何ダースも何ダースも数えていくのは困難なことに相違なかったが、それと同様、およそ人間の愚行、悪徳、弱点などで、直接間接このケイレブ・プラマーの部屋で見当らないタイプのものを挙げることも容易ではなかったと思う。それも誇張された形でではない。というのはごく小さなハンドルで男も女もおもちゃにおとらぬ奇抜な振舞をするものだからである。
こういう品物のまんなかに坐ってケイレブと娘は仕事をしていた。めくらの少女はせっせと人形の衣裳を縫い、ケイレブのほうは素晴らしい館《やかた》の五階の正面にペンキを塗ったりガラスをはめたりしていた。
ケイレブの顔に刻まれた苦労のしわと放心した夢みるような態度は、錬金術師か深遠な研究に従事する人にこそふさわしいもので、一見して、彼の職業やその周囲のくだらないものとは奇妙な対照をなしていた。しかし、くだらぬものでもパンのために作り出し、追求するとなれば、ごく真剣な現実の問題となって来るのであり、私自身も、かりにケイレブが内大臣か国会議員か弁護士か大相場師だったら、こうも気まぐれなおもちゃを扱わなかっただろう、などと言う気はみじんもなく、それどころか、扱うおもちゃが現在ほど罪のないものかどうかに強い疑惑をいだくほどである。
「それじゃあ、お父さんはゆうべあの美しい、新らしい、外套を着て雨の中を歩いたのね?」
と、ケイレブの娘が言った。
「わしの美しい、新調の外套を着てね」
とケイレブは、部屋にわたしてある物干し索《なわ》にちらっと目をやりながら答えた。なわには先に述べた例のズックの外衣がかかっているのである。
「あれを買いなすってあたし、どんなに嬉しいか知れないわ、お父さん!」
「しかも、ああいう大した服屋からな。今を時めく服屋だ。わしにはよすぎるよ」
少女は手を休め、うれしそうに笑った。
「よすぎるですって、お父さん! お父さんによすぎるなんてものがあるんですか?」
「そうだけど、あれを着るのはちょっとはずかしいよ」と言ってケイレブは、自分の言葉を聞いて顔をはればれとさせる娘の様子をうかがった。「わしのうしろで男の子や大人たちが、『やあ! めかしやが来たぞ』と、言うのを聞くと、目のやりばに困っちまうんだよ。それから、ゆうべのことだ、乞食がどうしても行っちまわないもんで、わしはごくつまらぬ人間なのだよと言ったら、こう言うじゃないか、『どういたしまして、閣下! とんでもない、閣下、そんなことはおっしゃらないで下さい』とね。わしはまったくきまりが悪かったよ。実際、わしにはあれを着る権利はないと感じたね」
幸福なめくらの少女よ! うちょうてんになって、なんとはしゃいだことか!
「お父さんが目に見えるようだわ、お父さん」と、少女は両手を握りしめ、「そばにお父さんがいる時には欲しいと思ったことのない目をあたしが持ってでもいるように、はっきりとね。青い外套――」
「水色だよ」
と、ケイレブ。
「そうよ、そうよ! 水色ね!」
と、少女は輝く顔を上に向けながら叫んだ。「その色なら、あの空のおかげで思い出せるわ! さっきお父さんは青だと言いなすったわよ! 水色の外套――」
「体に合わせてゆったりした!」
「そうだわ! 体に合ってゆったりしてるのね!」と、めくらの少女は心から笑った。「それを着るとお父さんは楽しそうな目をして、にこにこ笑って、すっすっと歩いて、髪は黒いし、とても若くて好男子に見えるわ!」
「よう! よう! この分じゃじきにわしもしゃれ者になるかな」
と、ケイレブは言った。
「もう今だってそうじゃないの」と、めくらの少女は喜んで、ケイレブを指さしながら叫んだ。
「お父さんのことなら知ってるわよ、お父さん! ハ、ハ、ハ! 見やぶってるんですもの!」
少女が頭に描く姿と、坐って娘を見まもっているケイレブとでは、なんという相違であろう! 娘は父がすっすっと足取りも軽く歩くと言ったが、その点は正しかった。何年もの間、ケイレブは一度も持前ののろのろした歩きつきで敷居をくぐったことがなく、娘の耳を欺く歩調をとり、どんなに気分の重い時でも、娘を快活にし、励ますために軽やかな足つきを忘れなかったのである!
神のみぞ知る! ケイレブのどことなくとまどったような挙動は、自分のめくらの娘かわいさに、自分と周囲の事物を混乱させていることに半ば起因しているのではないかと思う。長年の間、自分と、自分にいくらかでも関係のあるものすべての本来の姿をうちこわそうと骨折って来たのだから、とまどうのも無理ないではないか!
「そら、出来た」と、ケイレブは自分の細工をもっとよく批判するために、一二歩ひきさがった。「それ出来たぞ。六ペンスの値打ちの半ペニーの銀貨が六ペンス銀貨に似ているように、本物そっくりだ。家の正面が全部いちどきに開いてしまうとは、いかにも残念だな! 中に階段が一つと、部屋々々に戸がつけられたらなあ! だが、それが商売のつらさで、いつもわしは自分をだまかし、ペテンにかけているのだ!」
「お父さんの声、とても弱々しいわ。疲れてなさるんじゃない、お父さん?」
「疲れてるだって?」ケイレブは急に張り切り出した。「わしがなんで疲れるはずがあるかね、バーサ? 疲れたためしなんてわしには一度もないよ。それはどんなことかね?」
自分の言葉にさらに迫力を加えるため、ケイレブは炉棚にのせてある、のびをしてあくびをしている二つの半身像をわれにもなく真似ようとしたのを、中途でやめたが、その二つの像は上半身が永久に疲労状態にあるところを示しているのだった。そして鼻唄まじりにうたいだしたのが酒盛り歌で、『泡立つ大盃』とかいうのだった。それをのんき千万をよそおって歌ったので、いっそう彼の顔は平生の千倍も貧弱に、考えこんだふうに見えた。
「なんだ! 歌をうたってるのか?」と、タクルトンが戸口から顔をつっこんだ。
「やれやれ! わしにゃうたえんからな」
その言葉に疑いをはさむ者はだれもなかったことと思う。どう見てもタクルトンの顔は、いわゆる歌をたのしむなどというものではなかった。
「わしはとても歌ってなどおれんわい。お前が歌えるんでわしはうれしいよ。仕事のほうもそうはいかんものかな。その両方にゃ時間が足らんというわけだろう?」
「あの人をお前に見せたいよ、バーサ、わしに目くばせをしていなさるところをね!」と、ケイレブはささやいた。「あんな人が冗談を言うんだからね! あの人のことを知らなかったら、本気で言ってなさると思うだろうよ――そうじゃないかい?」
めくらの少女はにっこり笑ってうなずいた。
「うたえるくせしてうたわない小鳥は、否応は言わせずうたわせなくちゃならんということだ」タクルトンはがみがみ言った。「うたえんくせして、しかもうたっちゃならん梟がうたいたがると来た日にゃ、どんな目にあわせたらよいものかな?」
「今のあの人のまばたきようといったら、どうだ!」ケイレブは娘にささやいた。「なんとまあ!」
「いつも、あたしたちには陽気に気軽にして下さるのね!」
バーサはにこにこして叫んだ。
「ああ! そこにいたのか、お前は?」と、タクルトンが答えた。「かわいそうな白痴め!」
タクルトンはバーサをほんとうに白痴と思いこんでいた。彼女が自分を好いていることを意識してかしないでかはさだかでないが。
「そうか! そこにいたというなら、工合はどうかね?」
と、タクルトンは言い惜しみをする口ぶりで言った。
「おお、元気ですわ。とても元気ですの。そしてあなたがどんなに願ってくださっても、これ以上はなれないほど幸福なんです。あなたが、出来るものなら、全世界を幸福にしたいと思っていらっしゃる、その幸福と同じくらい幸福なんです!」
「かわいそうに白痴め!」と、タクルトンはつぶやいた。「理性のひらめきは一つもないんだな。一つもないんだ!」
めくらの少女はタクルトンの手を取り接吻し、しばし自分の両の手で挟んで、それにやさしく頬を押し当ててから放した。その行為には言うに言われぬ愛情と熱烈な感謝がこもっていたので、さすがのタクルトンも心を動かされ、うなるような物言いもいつもよりは和らげて言った。
「いったい、どうしたのだね?」
「昨夜、眠る時、あれを枕のすぐ傍に置いといて、夢の中でも忘れませんでした。夜が明けて、神々しく赤いお日様が――赤いお日様だったわね、お父さん?」
「朝晩は赤いんだよ、バーサや」
と、言いながらあわれなケイレブは悲しげなまなざしを雇主に投げた。
「お日様が上り、歩いているとつき当りそうなほど明るい光が部屋にさしこんだので、あたしはあのかわいい木を光のほうに向けて、こんな貴重なものをお作りになった神様を祝福し、そういうものをあたしに送って元気づけてくださるあなたを祝福したんですよ!」
「きちがい横行というわけだな」と、タクルトンは小声でつぶやいた。「この分じゃ、わしたちもじきに緊衣と覆衣と覆面布のお世話にならずばなるまいて。もう、そうなりかけているわい!」
娘が話している間、ケイレブは手をぐたっと組み合わせ、うつろな目つきで前方を見詰めていたが、その様子では、タクルトンがなんであれ、娘の感謝に価いする行ないをしたことがあるかどうか、疑問に思っているかのようだった。(事実、そう思ったに違いない)もしもケイレブが自由な立場にあり、この玩具商をその功罪によって蹴飛ばすなり、その前にひざまずくなりしなければ、お前を死刑にするぞと言われた場合、いずれの道をとるか、私はどちらとも言われないと思う。けれども、ケイレブにしてみれば、あの小さなばらの木を我とわが手で大切に娘のところへ運んで来たこと、また、娘を少しでも仕合わせにしたいばかりに、日ごとどんなに、どんなにわが身を切り詰めているかを気付かせないよう、罪のない嘘を自ら口にしたことを承知しているのだった。
「バーサ!」と、タクルトンはその当座だけ、ぽっちり親切らしい態度になって、「ここへおいで」
「おお! あたし、まっすぐあなたのところへ行けますわ! 手を引いてくださる必要はなくてよ!」
と、バーサは答えた。
「お前に秘密を話して聞かせようか、バーサ?」
「ええ、どうぞ!」
と、バーサは熱心に言った。
曇った顔がなんと晴れやかになったことか! 耳をすました頭に光輪がさしたようではないか!
「きょうはあの小さななんとか言ったな、あの甘ったれ屋は? あのピアリビングルの女房がいつもの通り、お前のところへ来る日じゃないかね――ふうがわりなピクニックとかにな?」
と、タクルトンはそのこと全体に強い嫌悪をこめて言った。
「ええ、きょうなんです」
「たしか、そうと思ったのだ! わしも仲間入りしたいんでね」
「お父さん、聞きなすって?」
めくらの少女はうちょうてんになって叫んだ。
「うん、うん、聞いたとも」と、ケイレブは夢遊病者のように目を据えてつぶやいた。「だが、わしにゃ信じられない。例のわしの嘘の一つに相違ないからな」
「実はな、わしは――わしはピアリビングルの夫婦とメイ・フィールディングをもう少し近しい仲にしたいと思ってな。わしはメイと結婚するつもりなのだよ」
「結婚ですって?」
と、めくらの少女は叫ぶと、タクルトンから跳びのいた。
「この娘はまったくひどい白痴だ」と、タクルトンはつぶやいた。「これじゃあ、わしの言ったことも分らなかったかも知れない。ああ、そうだよ、バーサ! 結婚するのだよ! やれ教会だ、牧師だ、書記だ、教区役員だ、ガラス窓のついた馬車だ、鐘だ、朝の食事だ、婚礼の祝い菓子だ、贈物だ、肉つきの骨だ、肉切り庖丁だあ、その他いろいろな馬鹿げた真似。結婚式だよ、お前。結婚式だよ。結婚式とはどんなものか、知ってるかね?」
「知っていますわ」と、めくらの少女はやさしい声で答えた。「分りました!」
「分ったとね?」タクルトンはつぶやいた。「そうとは思わなかったよ。そうなんだ! そのために、わしも仲間入りして、メイとメイのおふくろさんを連れて来たいんだ。午後にならんうちになにかちょっとしたものを届けよう。羊の脚の冷肉か、なにかそういった類のうまいものをな。わしを待っててくれるかね?」
「ええ」
と、バーサは答えた。
彼女はうなだれ、向こうを向いてしまい、その姿勢のまま、両手を組んで考えこんだ。
「お前に分ったとは思われんな」タクルトンはバーサのほうを見ながらつぶやいた。「もうすっかり忘れてしまった様子だもの。ケイレブ!」
「ここにいるじゃありませんかね、と言ってやろうかな」と、ケイレブは思いながら「ヘエー?」
「わしが今言って聞かせたことを、この娘が忘れんように気をつけてくれ」
「この娘に限って決して忘れやしませんよ。忘れるなんぞ、この娘の数少ない不得手のことの一つですからね」
「だれでも自分の鵞鳥をば白鳥と思うもんだ」と、玩具商は肩をすくめてみせた。「かわいそうな奴さ!」
無限の侮蔑をこめてこう言い放つと、グラフ・アンド・タクルトン老人は退却した。
バーサはタクルトンが立ち去った時のまま、思いに沈んで立っていた。陽気さはうつむいた顔から消え去っていた。なにかの記憶が、なにかの損失を嘆くかのように、三四度、頭を振ったが、しかし、その悲しいおもいは言葉になってあらわれなかった。
ケイレブが一対の馬を荷車につけるのに、馬の胴の急所に馬具を釘で打ちつけるという、手っ取り早い方法にかかってしばらくしてから、バーサは父の仕事椅子のそばへ来て、そこに坐った。
「お父さん、あたし、暗くて淋しいわ。あたし、目が欲しいの。辛抱づよい、いつでもいうことをきく自分の目が」
「ここにあるよ」ケイレブが言った。「いつでもつかえるよ。これは一日二十四時間なんどきでも用をたすよ。わしのじゃない、お前の目なんだからね。お前の目になにをさせようかね、娘や?」
「部屋を見回してよ、お父さん」
「よしきた。言うより行なうが早しだよ、バーサ」
「部屋のことを話してちょうだいな」
「いつもとだいたいおなじだ。質素だが、たいそう居心地がよい。壁は華やかに色どられているし、深皿や平皿にはあでやかな花が描いてあるし、梁や羽目板などの木造の部分はぴかぴか光っているし、建物全体が気持よく小ざっぱりしているので、この部屋はたいへん美しい」
たしかに、バーサの手が小まめに働くところはいたるところ気持よく、小ざっぱりしていた。しかし、ケイレブの空想でこうも変形した、古いガタピシした小屋の他の部分で、気持のよい、小ざっぱりしたところは一つとしてなかった。
「お父さんは仕事着をきているのね。だからあの美しい外套をきている時のようには立派じゃないんでしょう?」
と、バーサは父にさわりながら言った。
「あれほど立派じゃないさ。だが、なかなか働きいいことはいいよ」
「お父さん」と、めくらの少女は父のすぐそばに近寄り、そっと片手を父の首にまきつけた。「メイのことを少し話してよ。とてもきれいだこと?」
「実際きれいだよ」と、ケイレブは言ったが、事実その通りだった。自分のつくりごとにたよらなくてすむということは、ケイレブにはめったにないことだった。
「あの人の髪は黒いのね」と、バーサは物思わしげに言った。「あたしより黒いのね。あの人の声はあたし知っているけど、やさしくて音楽のようだわ。あの声をたびたび聞いて大好きなの。あの人の姿は――」
「姿といやあ、この部屋じゅうの人形であの人にかなうのはないよ」と、ケイレブは言った。
「しかも、目といったら!――」
ケイレブは言いかけてやめた。なぜなら、バーサが彼の首にさらに身をすりよせ、しがみついているほうの腕から、ケイレブがよく知っている警戒を要する圧力を伝えて来たからである。
ケイレブはちょっと咳払いをし、ちょっと槌を振るい、それからまたもや『泡立つ大盃』の歌にもどった。このような窮地におちいった時必ずすがる頼みの綱だったのである。
「あたしたちの友、お父さん。あたしたちの恩人。あたし、あの方のことをいくら伺っても倦きるということがないの――倦きたことなんてあって?」
と、バーサはせき込んでたずねた。
「無論ないともさ。しかも理由あってのことだ」
と、ケイレブは答えた。
「ああ! その理由がなんとたくさんあることでしょう!」
と、めくらの少女は叫んだが、言い方がいかにも熱烈だったので、ケイレブはその動機が純粋なものだったにもかかわらず、娘の顔を正視するにたえず、娘が今までの彼の罪のないいつわりを彼の目から読み取りでもしたかのように、目を伏せてしまった。
「それじゃあ、またあの方のことを話してちょうだいな、お父さん」バーサは頼んだ。「なんどでもね! あの方の顔はなさけぶかく、親切で、やさしいのね。きっと正直で親切なんだわ。すべてあらあらしい、いやいやながらというふりをして、やさしい気持を隠してしまおうとする男らしい気だてが、顔や目の動きひとつひとつに出ているのね」
「そのため気高い顔となっている」
と、ケイレブは静かな自棄的な口調で付け加えた。
「そのため気高い顔になっているのね」めくらの少女は叫んだ。「あの方はメイより年が上ね、お父さん」
「そ、そう――さね」と、ケイレブはしぶしぶ答えた。「メイよりもぽっちり年上だな。だが、そんなことはたいして問題じゃない」
「ああ、お父さん、そうですとも! 体が衰えたり、年をおとりになった時の、あの方の辛抱づよい道づれになり、あの方が病気の時にはやさしい看護婦になり、苦しみや悲しみがある時には忠実な友となり、あの方のために倦きることを知らず働き、あの方を見まもり世話をし、あの方が目をさましていなさる時にはベッドのそばに坐って話をしてあげ、眠っていなさる時にはあの方のためにお祈りをしてあげる。こういうことはなんという結構なことでしょう! 自分の誠と深い愛情を残らずあらわすのに、なんという素晴らしい機会でしょう! あの人はこういうことをすっかりするかしら、お父さん?」
「きっとするだろうよ」
と、ケイレブ。
「あたし、あの人が好きだわ、お父さん。心から好きになれてよ!」
と、めくらの少女は叫び、そう言うと、あわれにも、父の肩に目の見えぬ顔をおし当てて、とめどもなく泣き出したので、ケイレブは娘にこんな涙を流させるような幸福をもたらしたことを後悔したほどだった。
一方、ジョン・ピアリビングルの家ではかなり大騒動がもちあがっていた。というのは、ピアリビングルの小柄な細君にとって、どこへ行くにもあかんぼを連れずに、ということは到底考えられないことであり、あかんぼを連れて行くとなれば時間がかかるからだった。目方と寸法という点から考えれば、あかんぼはたいしたものではないが、その身の回りのことでしなければならないことが山ほどあり、しかもそれはすべて、ゆっくりすすめて行かねばならなかった。たとえばこうだ。どうにかあかんぼにある程度着つけが出来、あと一手か二手加えて仕上げをすれば、世界じゅうわれにかなうものなしという、飛切り上等のあかんぼが出来あがることと、当然、諸君がお考えになる段に及び、突如、あかんぼはフランネルの帽子の中に雲隠れして、寝床へ押し込まれたのである。そこで小一時間も彼は二枚の毛布の間で(いわば)ぶつぶつ煮えていた。この無活動状態から呼びもどされた彼はぴかぴか照り輝き、猛烈に吠えたてながら――つまり! 大ざっぱな言い方をおゆるし下さるなら――軽い食事にあずかったのである。それがすむと、彼は再び眠りについた。この間を利用してピアリビングルの細君は諸君がついぞ他に例を見ないほど、器用に美しくみじまいをした。そしてその短い休戦の間に、スロボーイ嬢は短外套にうまく身をすべり込ませたが、それは驚くべき奇抜な型のもので、スロボーイ嬢とも、あるいは宇宙の何人とも関係を持たず、縮み、隅の折れた独立した存在として、いかなる人間にもいささかの注意も払わず、おのが道をただ一人進む短外套だった。このころには再びすっかり元気になったあかんぼは、細君とスロボーイ嬢の共同の努力によって、体にはクリーム色のマントを、頭にはふくれ上がった南京木綿のパイのようなものをまとわされ、やがて三人そろって戸口へ下りて行った。戸口ではすでにかの老馬がいらいらして道路を引掻き肉筆を振ったために、彼が納める一日分の通行税を上回る額を、通行税取立組合から引き出していた。――またそこからは、はるか彼方でボクサーがこちらをふりかえり、老馬に、命令なんかなくても来いと、誘惑しているのがかすかに見えた。
細君が荷馬車に乗り込むのに、椅子とかそういった類のものが必要だなどと、お考えになるなら、それは諸君がジョンという人間を全くご存じないということになるのだ。ジョンが彼女を地面から持ち上げたかどうかと思っているうちに、もう彼女はちゃんと席についており、いきいきと、頬をばら色にしてこう言っているのである。
「ジョン! よくもまあ、あなたは! ティリのことを考えてちょうだい!」
若いご婦人の脚について述べさせていただけるものなら、スロボーイ嬢のそれには不思議と擦り傷をこしらえやすい宿命がまつわっており、ごくわずかな上り降りにも、かのロビンソン・クルーソーが木製のカレンダーに日を刻んだように、彼女の脚にその場の状況を刻みつけずにはおかないということを申し上げたい。しかし、このような事柄は上品でないかもしれないから、考慮しておくことにしよう。
「ジョン、犢肉やハム・パイやいろいろのものがはいった籠を持って来て? それからビールも?」と、ちびさんがたずねた。「まだだったら、今すぐ引っ返さなくちゃいけないわ」
「お前はやかましやだね」と、運送屋は言った。「たっぷり十五分もおれを待たせて遅れさせといて、引き返せと言うとは」
「すまなかったわ、ジョン」と、ちびさんはせかせかして「でもあたし、ほんとうに、バーサのとこへ行く気になれないわ――ジョン、どんなことがあっても――犢肉と、ハム・パイと、いろいろなものや、ビールを持たずに行くなんて、いやだわ。どう!」
この最後の言葉は馬にむかって言ったのだが、馬は少しも気にとめなかった。
「おお、どう、と言ってよ、ジョン! お願いだから!」
と、細君は頼んだ。
「おれが忘れ物なんどするようになってから、そう言っても十分まにあうよ。籠はちゃんとここにあるよ」
と、ジョンが返事をした。
「なんてあなたは無情なひどい人なんでしょうね、ジョン。すぐそう言ってくれればあたし、こんないやな思いをしなくてすんだのに! どんなにお金をくれると言われたって、あたしは犢肉と、ハム・パイと、いろいろなものや、ビールを持たずには、バーサのところへ行く気はなかったのですからね。あたしたちが結婚してからずっと、ジョン、必ず二週間に一度はあそこでささやかなピクニックをしてきたでしょう。なにか手違いでもあろうものなら、あたしたち、二度と幸運になれないと思うくらいだわ」
「それはもともと親切な気持から出たことだ。だから、お前をえらいと思うんだよ、ちびさん」
と、運送屋が言った。
「あらまあ、ジョン!」ちびさんはまっ赤になった。「あたしをえらいなんて言わないでちょうだい。とんでもないわ!」
「それはそうと――」と、運送屋が言い出した。「あの年とった人は――」
またもや、さっと目に見えて当惑の様子。
「あの人は変った人だね」と、運送屋は前方の道路をまっすぐ見詰めながら言った。「あの人はえたいが知れないよ。悪気のある人とは思えないがね」
「ありませんとも。あの――あの、そんなことはないと思うわ」
「そう思うかい?」妻の様子があまり真剣なので、運送屋は思わずその顔に目をやった。「お前がそんなに確かだと思ってくれるなら、うれしいよ。おれの考えが確かだということになるからな。なんであの人は、わしらのところに、ずっと宿をとらせてもらえまいかという気に、なったものかね? 不思議なことになったものだ」
「ほんとうに不思議ね」
と、細君はほとんど聞きとれないほど低い声で言った。
「だが、あの人は気質のいい老紳士だよ。支払いも紳士らしくしなさるし、言いなさることも紳士として信用していいと思うのだ。けさも長いことあの人と話をしたが、あの人はおれの声に慣れてきたせいか、ずっとよく聞こえると言ってなさるよ。自分のことをいろいろ話しなすったから、おれも自分のことをいろいろ話したよ。それにまあ、ずいぶんたんとおれにききなすったこと。おれはね、仕事の上で巡回区域を二つ持っていて、きょうは家から右のほうへ行ってまたもどってくると、翌日はうちから左の方へ出かけ、またもどってくるとおしえるとね(そら、あの人はこのへんにゃ不案内でところの名前を知らないからね)、そうしたらあの人はたいそう、愉快に思ったらしいんだ。『おや、それなら、今晩はあなたの道筋を通って帰ることになるな。私は反対の方向かと思ってましたよ。そいつは素敵だ。ご厄介でも、また乗せていただくことになるかもしれないが、だが、二度と再びあんなに眠りこけはしないと約束しておきますよ』と、こう言いなさるんだ。たしかに、よく眠んなすったものなあ!――ちびさん! なにを考えているのかね?」
「考えているって、ジョン? あたし――あたし、あなたのお話を聞いてましたのよ」
「ああ、それならいいんだよ」と、正直な運送屋は言った。「お前の顔つきから見て、おれがあんまりながながとしゃべったもんで、お前がなにか他の考えごとでも始めたんじゃないかと思ったんだよ。それに近かったに違いないね」
ちびは返事をせず、二人はややしばらく無言のまま揺られて行った。だが、ジョン・ピアリビングルの荷馬車に乗って長い間、黙っているのは容易なことでなかった。道ゆく者がみな、なにかしら言葉をかけるからである。もっとも、ただ「よいあんばいで!」と、言うだけのこともあるし、しかもそれだけのことが多かったのであるが、それでも誠の心をもってあいさつを返すには、うなずいて微笑んでみせるだけでなく、それと共に、息の長い議会演説に要すると同じ健康な肺の活動までも必要としたのだった。時には徒歩かまたは馬上の通行人が、とくにおしゃべりをするため、しばらく荷馬車とならんで歩いて行った。そんな場合には双方で話すことがずいぶんとあった。
それにボクサーのおかげで、クリスチャン六人分の働きもかなわないほど上機嫌なあいさつが運送屋と人々の間にかわされたのである! 街道ぞいの者はみなボクサーを知っていた――ことに家禽と豚たちが。彼らはボクサーが体を一方にかしげ、聞きたがりやらしく耳をぴんと立て、瘤のような尻尾をせいぜい振りながら近付いて来るのを見ると、さらに親しいお近付きの名誉をも待たずに、すぐさま、裏手の住居にひきさがった。ボクサーは至るところに用事があった。曲り角には全部行くし、井戸という井戸は覗き込み、家々には飛び込んだり飛び出たりするし、(婦人経営の)小学校には一軒残らずその真中に突入するし、すべての鳩をバタバタ飛び立たせ、すべての猫の尾をふくらませ、定連のような顔をしてとことこ居酒屋へはいって行った。ボクサーの行くところ至るところで、「よう! ボクサーが来たよ!」と叫ぶ声がして、だれかが少なくとも他に二三人のだれかといっしょに出て来て、ジョン・ピアリビングルとその美しい家内に『こんにちは』を言うのだった。
この便利屋の荷馬車を利用する荷物や小包は無数にあり、それを積み込んだり配達したりするため何度も車を停めたが、そのことは決してこの旅の不都合な部分ではなかった。自分の小包にさかんな期待を寄せている人々もあるかと思えば、驚きでいっぱいの人もあり、あるいは自分の小包についてはてしない注文をつける人たちもあるし、ジョンはあらゆる小包にいきいきとした興味を持っていたので、遊びのように面白かった。同様に運送を頼まれる品もあり、運送屋と送り主により会議が開催されねばならなかったが、その折にはボクサーは集まっている賢人たちのまわりをぐるぐる駆け回り、声が枯れるほど吠えることで会議の手助けをするのが常だった。このような小さな出来事を、荷馬車内の椅子からちびは面白そうに、目を大きくみひらいて眺めていた。車蓋を額縁として、見事な美しい肖像画のようにちびが坐っていると、さかんに若者たちはお互いに肘で突いたり、ちらっと見たり、ささやきあったり、羨ましがったりするのである。それが運送屋を無性にうれしがらせた。自分の小さな家内が憧れの的になっているのが得意だったからである。当の家内がそれを気にかけず、どちらかといえばむしろそんなことが好きなのを知っているので。
一月の陽気のこととて、この旅はいくらか霧に閉ざされ、湿っぽく、寒かった。しかし、だれがこんな些細なことを気にしようか? 断じてちびは気になどしない。ティリ・スロボーイとて同様である。どんな工合にしろ、荷馬車に乗ることこそ、人生の最高の喜び、浮世で望める最高の環境とみなしていた。あかんぼもそうである。誓ってもよい。なぜならこの仕合わせな小ピアリビングルの道中におけるより、もっと暖かく、もっとぐっすり眠るということは、いくらあかんぼというものがこの二つの点で大した能力を持っていても、本来の性質としては出来ないことだからである。
もちろん、霧につつまれてはごく遠方まで見通すわけにはいかないが、しかし、非常に多くの、おお、非常に多くのものが見られるのである! ちょっと探す気にさえなれば、これよりもっと濃い霧の中でも、驚くほどあまたのものが見えるのだ。坐ったまま、野原の妖精の車座や、生垣とか木々の付近の陰になったところにそちらこちら、まだ残っている白霜を探すことさえも愉快な仕事である。思いがけなく霧の中から木々がさっと現われ、再び霧の中へすべり込んで行く姿は言うまでもない。生垣はもつれ合い、枝をむき出しにし、無数の枯れた花輪を風になびかせていたが、これは別にわびしい気持にさせなかった。見るも快よい光景なのである。それはわが家の現在の炉辺をいっそう暖かなものに感じ、待ちわびる夏の緑をひときわ鮮やかに描かせるからだった。河は見るから寒そうだった。だが、動いていた。しかもかなりの速さで流れていた。これは重大な点である。運河のほうはややのろくて沈滞していた。それは認めねばならぬ。だが、構うものか。霜が降りるようになれば、それだけ早く凍るであろうから、そうなればスケートや氷滑りが出来よう。また、波止場の近くのどこかで氷に閉じこめられた重い古い荷揚船が、終日その錆びた鉄の煙突から煙を吐いて、のらくら怠けて暇をつぶすことだろう。
あるところでは草か、木の切株を山のように積み上げたのが燃えていた。昼間のことなので、しろじろと燃えており、ただところどころに赤をわずかまじえたその火を一同が眺めているうちに、スロボーイ嬢が、彼女自身の言葉を借りるなら、煙が「あたしの鼻をのぼって来た」結果として、むせてしまい――彼女はちょっとした刺激で、どんなことでもこの類のことはやってのけるのである――あかんぼの目をさましてしまった。もうあかんぼは二度と眠ろうとはしなかった。だが、四分の一マイルかそこら先回りしていたボクサーはすでに町の前哨地点を通過し、ケイレブと娘が住んでいる街の角に達していた。それで一行が戸口に着くずっと前に、ボクサーとめくらの少女は舗道に立って待ちうけていた。
ついでながら、バーサに接する時にはボクサーは彼独特の微妙な区別をしており、それを見れば、ボクサーもバーサがめくらなことを承知しているのだとしか思われないのである。他の人々にしばしばするように、顔を見てその注意を引こうとはせず、必ずバーサの身に触れた。ボクサーがめくらの人やめくらの犬についていかなる経験を持ち合わせていたのか、私には分らない。めくらの主人のもとにいたことはないし、その父母なるボクサー夫妻も、あるいは父方、母方どちらの立派な身内にも盲目に見舞われたものは、私の知る限りではいなかった。多分ボクサーは自分でそれを発見したのであろうが、とにかく彼はそれを把握していた。それゆえ、バーサのスカートをも把握し、ピアリビングルの細君とあかんぼや、スロボーイ嬢や、籠やらがみな家の中へ無事に入れられるまで、しっかり掴まえていた。
メイ・フィールディングはすでに来ていたし、メイの母親も来ていた――意地の悪そうな顔をした怒りっぽい小さな老婦人で、もとはよい暮らしをした結果として、あるいは実現の運びに至らなかった、そして実現しそうなけぶりも見えなかったある事が実現していたなら――どちらにしても同じだが――よい暮らしをしたに違いないとの思いに駆られた結果として、たいそう上品でもったいぶっていた。グラフ・アンド、タクルトンもそこにおり、すっかりうちくつろぎ、大ピラミッドのてっぺんに跳ね上った元気な若鮭のように、疑問の余地なく自分の得意の境涯にあることを明らかに意識しながら、愛想よくふるまっていた。
「メイ! まあ、なつかしいわ!」と、叫びながらちびは友に駆けよった。「あんたに会えてなんて嬉しいんでしょう!」
友のほうでもちびと同様せいいっぱい、心から喜び、二人が抱き合うさまはまったく見るも気持よい光景だった。タクルトンが趣味の人であることは確かで、メイは非常にきれいだった。
諸君も時にこういう経験がおありのことと思うが、見なれた美しい顔がべつの美しい顔に接し比較された時、その当座、ありふれた色香の失せたものに見え、それまで抱いていた賞賛に価しないように思えるものである。だがこれは今の場合、ちびにもメイにも全然あてはまらなかった。というのは、メイの顔はちびの顔を引き立てるし、ちびの顔はメイの顔を引き立てているからで、しかもそれがいかにも自然で気持よいので、部屋へはいって来たジョンが、この二人は姉妹として生まれて来るべきだったと、もう少しで言うところだったが――それだけが考えつくかぎりの唯一の注文だった。
タクルトンは羊の脚肉と、それに語るも不思議、タートまで持って来ていた――だが、自分の花嫁が関係している時には人は少しばかりの散財はいとわぬものである。毎日結婚するのではないから――このようなご馳走に加えて犢肉やハム・パイ、それにピアリビングルの細君のいわゆる「いろいろなもの」があった。「いろいろなもの」とは主にくるみ、みかん、お菓子、それに類したこまごましたものだった。ケイレブの寄贈になる大きな木鉢に盛った湯気たちのぼる馬鈴薯を側面にひかえ、(厳かなる契約により、ケイレブは他のいかなる食品の提出をも禁止されていたのである)、食物が卓上にならべられると、タクルトンは未来の姑を主賓席に導いた。この大祝典におけるその席をよりいっそう飾るためこの厳めしきご老体は、心なき輩に畏敬の念を起させるにふさわしい帽子で身を飾っていた。また手袋も着用に及んでいた。だが、気取り屋など犬にくわれろだ!
ケイレブは娘の隣りに坐り、ちびとその旧友はならんで坐り、人のよい運送屋は食卓の末席を引き受けた。スロボーイ嬢は自分が坐っている椅子のほか、他のあらゆる家具から当分の間隔離されていた。あかんぼの頭を打ちつけないためである。
ティリが周囲の人形や玩具をじろじろ眺めていると、人形や玩具のほうでもティリや一座の者をじろじろ眺めていた。ことに表の戸口にいる老紳士たちは(みな、せいいっぱい活躍していた)、この集まりに特別の興味を示し、跳躍を試みる前にときおり休んでは一同の会話に耳をすましている様子だった。その後何度も何度も、息つくために立ち止まりもせずに、くり返しくり返し気が違ったように飛び跳ねつづけた――このなり行きぜんたいに狂喜しているかのように。
たしかに、もしもこの老紳士たちがタクルトンの敗北のさまを見て、残忍な喜びを味わいたい気になったとすれば、十分、満足出来るだけの理由があった。タクルトンはちっとも、うまい工合にいかないのである。彼の未来の花嫁がちびといっしょにいて朗らかになればなるほど、そのためにこそ、自分で二人を近づけたにもかかわらず、タクルトンはいやな気持になった。彼、タクルトンこそ、正真正銘のあまのじゃくだったのである。かの二人が笑う時、自分も笑うということが出来なかった。すぐに、二人は自分のことを笑っているに違いないと思ってしまうからだった。
「ああ、メイ! まあ、なんて変ったことでしょう! あの楽しい学校時代の話をしてると、若がえるわ」
と、ちびが言った。
「いや、あんたはいつだって、とくにふけてやしないじゃないかね?」
と、タクルトンが言った。
「あそこにいるあたしのきまじめな、のそっとした夫を見てちょうだい。あの人のおかげで少なくとも二十はあたし、ふけていることよ。そうでしょう、ジョン?」
「四十だね」
と、ジョンが返事した。
「あなたのおかげで、メイがどのくらいふけるか、あたしには分らないけれど」と、ちびは笑いながら、「でも、今度のお誕生日にはメイは百歳に手が届きそうになっていることよ」
「ハ、ハ!」と、タクルトンは笑ったが、しかし、その笑いは太鼓のようにうつろであった。そして、ちびの首をねじってやったら、らくらくするのにと言わんばかりの顔つきだった。
「ああ、あたしたちが学校でいつも話していたことを思い出すだけでもねえ!」ちびが言った。「ああ、なんてあたしたちは馬鹿げた少女だったかと思うと、笑っていいのか泣いていいのか分らなくなるわ」
メイはどちらにしたらよいか分っていたらしく、顔がさっと赤くなり、目には涙がうかんで来た。
「時には現に生きている若い人たちさえ選んだわね」ちびはつづけた。「ものごとがどんなふうになるか、あたしたち、ろくに考えもしなかったわ。あたしがジョンを選ばなかったことだけは確かよ。ジョンのことは考えてもみなかったわ。あんただってもしあたしが、あんたはタクルトンさんと結婚するでしょうよなんて言ったとしたら、あんたはあたしをぴしゃっと打ったでしょうよ。ねえ、メイ?」
メイはその通りとは言わなかったが、そうかと言ってそれを否定もせず、表情にもあらわさなかった。
タクルトンは笑った――ほとんど叫ぶような高笑いをした。ジョンも笑ったが、彼のはいつもの人の好い満足げな笑い方で、タクルトンにくらべると、ささやきのような笑いにすぎなかった。
「それにもかかわらず、あんたがたはどうしようもなかったんだ。ほら、わしらをしりぞけることは出来なかったじゃないかね」と、タクルトンが言った。「わしらはこの通り! わしらはこの通り! あんた方の若いお婿さんたちはどこへ行ったんだね!」
「死んだ人も、忘れ去られた人もありますわ」と、ちびが答えた。「なかには、たった今来て、あたしたちの間に立ったとしたら、あたしたちがもとと同じ人間だとは信じられない、自分たちの見たり聞いたりすることが事実だということ、あたしたちがその人たちのことを忘れてしまえるなんて信じられない人たちもいますわ。そうですわ! その人たちはこんなことはひとことだって信じないでしょうよ!」
「これ! ちびさん!」と、運送屋が叫んだ。
「ちびや!」
彼女があまり真剣に熱心に話していたのでたしかにもとにもどしてもらう必要にせまられていた。夫はごくやさしくたしなめたにすぎず、それも彼の考えでは、タクルトン老人をかばおうとして口出ししたにすぎなかった。しかし、それは効を奏し、ちびは口をつぐむと、それ以上なにも言わなくなった。黙っていても異常な興奮がうかがえるのを、用心深いタクルトンは例の半ば閉じたほうの目をちびにさしむけて細かく見てとり、いまに諸君もお分りになるような、ある目的のために頭へしまっておいた。
メイはよかれあしかれ、ひとことも言わずに下を向いたまま、じっと坐っており、今の出来事にもなんら関心を示さなかった。そこへメイの母なるかのご婦人が口をはさみ、まず第一、少女は少女であり、過去のことは過去のこと、若い者たちが若くて考えなしの限り、若くて考えなしの者らしいふるまいをするかもしれないと言ってから、娘のメイがいつも親孝行な従順な子供であることを神に感謝しています。それは一つにかかってわたしのおかげと信じる理由ばかりであるが、それでも自分の手柄だと思ってはおりませんと、いともつつましやかに述べた。タクルトン氏については彼女は、選ぶ身になってみればタクルトン様が望ましき婿であることは、正気の者ならだれしも疑うことは出来ませんと言った。(ここで彼女はたいへん語気を強めた)
タクルトン様がしばらく懇願なさって後、近いうちに出入りをゆるされる家についてはタクルトン様もご存じのことと思いますが、財産こそ減っておりますけれど、この家はいくらか上流社会に属する権利を持っておりまして、ある事態が、それはインド藍貿易に全然無関係でないとまでは申し上げますが、それ以上くわしくはお話しいたしたくございません。その事態があのようなことにならなかったら、恐らくこの家は富をなしていたかもしれないのでございます。彼女はこう弁じてから今度は、過去にはふれたくないこと、娘がしばらくの間タクルトン氏の求婚をしりぞけていたことは言いたくないこと、その他多くのことを言いたくないと言いながら、ながながと述べたてた。
最後に彼女は自分の見聞と経験の総括として、いわゆるロマンチックに愚かしくも恋愛と呼ばれているものが最も少ないような結婚こそ、常にいちばん幸福であり、したがってわたくしは目前に迫っているこの結婚にも最大限の幸福を――うちょうてんの幸福ではなく、堅実な、落ちついたものを予期しているのでございます、と言い、結びの言葉として並みいる人々に、明日こそわたくしが特にそのために生きて来た日であり、それがすめば、わたくしを詰めてどこでもいい、上品な埋葬地に片づけていただけば、それがなによりの望みでございます、と言った。
この言葉にはなんとも返事のしようがなかったので――それはあらゆる見当はずれの言葉の持つおめでたい性質なのだが――人々は話の方向を変え、一同の注意を犢肉とハム・パイ、羊の冷肉、馬鈴薯、タートなどにそらした。ジョンはビールも無視されないようにと、明日が結婚式の日なことを持ち出し、これから自分が出かける前に、一つ乾盃しようと呼びかけた。
というのは、諸君に知っていただきたいことだが、ジョンはここでただひと休みして馬に餌をあたえただけであって、さらにその先、四五マイルも行かねばならず、晩方、もどる時にちびを迎えに寄り、家へ帰る途中でもう一服するのだった。これがいつでもピクニック日のきまりであり、ピクニック開設以来こうだった。
式をひかえた花嫁花婿のほかに二人、この乾盃に無関心な敬意しか表さない人がいた。その一人はちびで、あまりに興奮し、混乱していたので、目下の小さな出来事に調子を合わせることが出来なかったのである。もう一人はバーサで、他の者たちより先にいそいで食卓を離れた。
「失礼しますよ!」と、たくましいジョンは厚羅紗の外套をひっかけながら言った。「みなさん、失礼!」
「行っておいで、ジョン」
と、ケイレブが返事をした。
ケイレブはこの言葉を機械的に言い、手も同様、無意識な振り方をした。彼は決して表情を変えない顔で心配そうに怪しむようにバーサを眺めて立っていたのである。
「行って来るよ、小僧奴!」と、陽気な運送屋は身を屈めて子供に接吻した。子供は今やナイフとフォークに一心不乱のティリ・スロボーイが、バーサの用意してくれた小さな寝台に、(言うも不思議なことだが、破損せずに)寝かしつけておいたものだった。「行って来るよ! 小僧さん。やがてはお前が寒い外へ出掛けて行き、年とった父ちゃんを炉辺でパイプとリューマチを楽しませてくれるようになるんだね、ええ? ちびさんはどこだ?」
「ここにいますわ、ジョン!」
ちびはびくっとして答えた。
「さあ、さあ! パイプはどこだね?」
と、運送屋はよく鳴る手をたたいた。
「あたし、パイプのことをすっかり忘れてたわ、ジョン」
パイプを忘れるとは! こんな不思議なことを聞いたことがあるだろうか! パイプを忘れるとは!
「あたし――あたし、すぐ詰めますわ。すぐ出来ます」
だが、そうすぐには出来なかった。パイプはいつもの場所、つまり運送屋の厚羅紗のポケットにはいっていた。パイプといっしょにしまってある小さな煙草入はちびの手細工になるもので、いつもこれから煙草を詰めるのだったが、しかし、彼女の手があまりひどく震えるので、それにからまってしまい、(そうは言ってもその手はらくらく引き出せる小さなものだったのである)、ひどいへまをしてしまった。諸君が記憶しておられるなら、私が先刻その慎重なことを称賛したパイプの詰め方と火の点じ方が、初めから終りまで不器用な手ぎわでおこなわれたのである。この一部始終をタクルトンは例の半ば閉じた目に悪意をこめて眺めながら立っていた。その目がちびの目と会うたびに――いや、捉えると言ったほうがよい。タクルトンの目はほかの目に会うなどという代物ではなく、むしろひっさらって行く一種のわなであった――ちびの狼狽はきわだって増した。
「今日のちびさんはなんて不器用なんだろう。おれのほうがよっぽどうまくやれたに相違ないよ!」
こう人のよい言葉を残して、運送屋は大股に出て行き、やがてボクサーや、老馬や、荷車といっしょに威勢のよい音を立てながら、街道を遠ざかって行くのが聞こえた。そのあいだじゅうケイレブは夢見るように、前と同じ表情でめくらの娘を見守りながらじっと立ちつくしていた。
「バーサ!」ケイレブはやさしく声をかけた。
「いったいどうしたのかい? けさから――ほんの二三時間のうちにお前はすっかり変ってしまったじゃないか、娘や。お前が一日じゅうだまり込んでぼんやりしているとはなあ! どうしたのかい? 話しておくれ!」
「ああ、お父さん、お父さん!」めくらの少女はわっと泣き出した。「あたしはなんて辛い運命なんでしょう!」
ケイレブは手で目を拭ってから返事をした。
「だが、今までお前はずいぶん朗らかで楽しそうだったじゃないか、バーサ! とても良い子なもんで大勢の衆からとても可愛がられてさ」
「それは身にしみてるんです、お父さん! いつもあんなにあたしのことを気にかけてくださり、いつもあんなに親切にしてくださるんですもの!」
ケイレブは娘の言う意味を理解するのに、途方に暮れた。
「めくらで――めくらだってことはバーサ、かわいそうに」ケイレブは口ごもった。
「たいそう辛いことだよ。だが――」
「そんなこと一度も感じたことはなかったわ」めくらの少女は叫んだ。「その辛さを十分味わったことは一度もなかったのよ。一度もなかったわ! 時にはお父さんが見られたら、またはあの方が見られたらと思うことはあったわ。たった一度でいいから、お父さん、ほんのちょっとでいいから、あたしが大事に」バーサは胸に両手をおいて、「ここにしまってあるものがどんなものか知ることが出来るように! それを正しい持ち方をしているか確かめられるように! そして時々(でも、その時はあたしは子供だったけれど)、夜お祈りをする時、お父さんの姿があたしの胸から天にのぼって行ってしまうと、それがお父さんのほんとうの似姿ではないかもしれないと考えて泣いたものでしたわ。でも、そういう気持を長くは持っていませんでした。それはどこかへ行ってしまって、そのあとあたしは気持がしずかになって落ち着くようになりました」
「それじゃ、またそうなるよ」
「でも、お父さん! ああ、親切なやさしいお父さん、あたしが悪い子でも我慢してちょうだいね! あたしをこんなに苦しめるのは悲しいからではないんです!」
父は涙にうるむ目を溢れるがままにするほかなかった。バーサはいかにも思いつめたあわれな様子だったが、ケイレブにはまだ、その言わんとするところが分らなかった。
「あの人をあたしのところへ連れて来てちょうだいな」バーサが頼んだ。「自分の胸にしまい込んだままではいられませんもの。あの人を連れて来てくださいな、お父さん!」
ケイレブがためらっているのを知ると、
「メイよ。メイを連れて来てちょうだい!」
と、バーサは言った。
メイは自分の名前を聞いて、しずかにやって来て、バーサの腕にさわった。めくらの少女はすぐにそちらを向き、メイの両手を握った。
「あたしの顔をよく見てちょうだい、いとしいメイ、やさしいメイ! あんたの美しい目で読んでみて、ほんとうのことがあたしの顔に書いてあるかどうか、おっしゃってちょうだい」
「いとしいバーサ、書いてあってよ!」
めくらの少女は涙がとめどもなく流れる、そのうつろな、目の見えぬ顔をうわむけながら、なおも次のようなことを言った。
「あたしの心にはあなたのためにならないような願いや思いは一つもないのよ、美しいメイ! 目が見え、美しいさかりのあなたがこれまでめくらのバーサにつくしてくださった数々の思いやりの思い出、あたしたち二人が子供のころでさえ、バーサもめくらはめくらなりに子供だったころでさえ、いつもいつも親切にしてくださった思い出ほど、あたしの心に深く有難くしまってあるものはないのよ? あなたの上にあらゆる恵みがありますように! あなたの幸福な行く手に光がありますように! きょう、あなたがあの方の奥さんになると知って、あたし、心が張り裂けそうに切なかったけれど」と、バーサはメイのほうに身を寄せ、その手をさらにしっかりと握りしめて、「あたしの気持にちっとも変りはないのよ、いとしいメイ。ちっとも変りはないのよ! お父さん、メイ、メアリー! おお、ゆるしてくださいな! こんなに胸が裂けそうな思いをするのは、あの方が倦き倦きするあたしの暗い生活をやわらげようと、あらゆる親切をつくしてくださったためであり、神様もご存じですが、あたしが自分などよりもっとふさわしい奥さんを立派なあの方がおもらいなさるようにと、願う気になれなかったあたしを、あなた方がよい人間だと信じていてくださるからなのです!」
こう言いながらバーサはメイ・フィールディングの手を放し、哀願と愛情の入りまじった姿でメイの着物をしかと握った。この不思議な告白をつづけながら、バーサは次第に低くくずおれて行き、ついに友の足もとに倒れて、その襞の中にめくらの顔をかくした。
「おお神様!」一撃のもとに真実に打ちぬかれた父は叫んだ。「あかんぼの時からこの子をだまして来たのが、こんな胸も裂ける思いをさせる結果になろうとは!」
彼ら一同にとって、ちびが、あの晴れやかな、役に立つ、かいがいしいちびが――どんな欠点を持っていようと、また、やがて諸君がどんなに彼女を憎むようになろうと、ちびはやはりそうした人間なのである――そこに居合わせたことは幸いだった。さもないと、この場がどんな結末になるか分らなかった。しかし、落ち着きをとりもどしたちびはメイが返事をするより早く、また、ケイレブが口を開くより早く、中に割ってはいった。
「さあ、さあ、いとしいバーサ! あたしといっしょにいらっしゃいな! あんたの腕をかしてよ、メイ。そう! この人もうすっかり落ち着いたわね。それにあたしたちの言うことを聞いて、なんて良い子でしょう」こう言ってこの快活な小さな女はバーサの額に接吻した。「あっちへ行きましょう、いとしいバーサ! いらっしゃい! お父さんもいっしょに行きなさるからね、そうでしょう、おじさん? きっとね!」
そうだ、そうだ! こういうことにかけては立派なちびだった。彼女の感化をしりぞけるような人間はよほど強情な性質に違いない。この父娘のみしかお互いに、いたわり合い、慰め合うことが出来ないのを知っているので、ちびはあわれなケイレブと娘を連れ去り、ほどなく――諺にある通り、雛菊のようにいきいきとして、いや、雛菊よりもっといきいきとして、と私は言おう――跳んで帰って来て、あの帽子をかぶり手袋を着用し、そっくり返った高貴なお方の警備にあたり、この愛すべき老婦人が事情をかぎ出すのを防いだ。
「じゃ、大事な赤ちゃんをここへ連れて来てちょうだい、ティリ」と、椅子を火のほうへ引き寄せながら、「あたしがこの子を抱っこしている間、ここにいらっしゃるフィールディングの奥様にね、ティリ、あかんぼの取り扱い方をすっかり教えていただいて、あたしのひどい間違いをたくさんなおしていただきましょうよ。いかがでしょうか、奥様?」
俗に言うまぬけのウェールス人の大男、朝飯の時、敵の親玉が仕組んだ手品競争に、まんまとのせられて自分で自分に命とりの外科手術をしてしまったという大男だって、この老婦人がひっかかったほど、やすやすとは、わなにかからなかったのである。タクルトンが出て行ってしまったうえに、二三人の者たちが二分間も、離れたところでお互いどうしで話をしていて、この老婦人をほったらかしておいたという事実は、彼女を厳然とさせ、二十四時間がとこ、かのインド藍貿易の不思議な変動を嘆かせるには十分であった。しかし、彼女の経験にふさわしいこの若い母親の敬意には抗しがたく、ちょっと謙遜してみせた後、老婦人はこのうえなく愛想よく、ちびを啓発し始めた。いたずらっ子のちびを前にして棒のようにまっすぐ坐り、えんえん三十分にわたって家庭の秘訣と教訓を伝授したが、それはもしも実行にうつしたならば、サムソンのごとき幼児であるとはいえ、小ピアリビングルを完全に破壊し去ってもあまりある、確実な方法であった。
話題を変えるため、ちびは少しばかり針仕事をした――針箱の中身を全部ポケットの中に入れて来たのである。どのように入れたものか、私には分らないが――それからちょっとあかんぼに乳を飲ませ、それからまた少しばかり針仕事をし、それから老婦人が居眠りをしている間、ちょっとばかりメイとひそひそ話をするといった、いつものやり方で、こまこま動いているうちに、午後は非常に早くたってしまった。そこで暗くなってきたし、また、彼女がバーサの台所の仕事をしてやるということが、このピクニックの規定の厳かな部分をなしていたので、ちびは火をなおし、炉辺を掃き、お茶のテーブルを用意し、カーテンを下ろし、ローソクをともした。そこでちびは、ケイレブがバーサに作ってやった粗末な竪琴で一二曲かなでたが、たいそう上手に弾いた。なぜなら、自然はちびの美しい小さな耳を宝石で飾るにふさわしいものにすると同時に、もっとも、飾るような宝石をちびが持ち合わせていたら、ということであるが、それと同時に音楽にたいしても極上の耳にしていたのである。このころにはいつものお茶の時刻になっており、タクルトンも食事と夕をともにするためにもどって来た。
ケイレブとバーサもしばらく前にもどっており、ケイレブは坐って午後の仕事にかかっていた。しかし、かわいそうに彼は娘への心配と後悔で、落ち着いて仕事にうち込めなかった。仕事椅子にぼんやり坐ったまま、もの悲しそうに娘を見詰め、「この子をあかんぼの時からだまして来たのが、こんな胸も裂ける思いをさせる結果になるだけとは!」という表情をうかべているのを見ると、あわれを催すのであった。
夜になり、お茶がすんで、ちびは茶碗や皿類を洗ってしまえばもうなにもすることはなくなった時、ひとくちに言えば――私はもうそれを言わなくてはならない。延ばしても無駄であるしするから――遠くで車輪の音がひびくたびに運送屋の帰りが待たれる時が近づくにつれて、ちびの顔は赤くなったり青くなったりして、ひどく落ち着きを失ってきた。夫ではないかと耳をすます善良な妻のようではない。いや、いや、いや、それとは異なった落ち着かなさであった。
車輪の音が聞こえた。馬のひづめの音、犬の吠える声。だんだん近づいてくるいろいろな物音。ボクサーが前足で戸をひっかく音!
「あれはだれの足音かしら!」
バーサはびっくりした様子で跳び上った。
「だれの足音だって?」と、運送屋は刺すような夜の外気のため、日焼けした顔を柊の実のように赤くして、玄関に立ちながら言った。「なあに、おれのだよ」
「もう一つの足音よ。あなたのうしろの人の足音よ」
と、バーサが言った。
「この子はだませないね」運送屋は笑いながら言った。「旦那、いらして下さい。みんな歓迎しますよ。心配は無用でさ!」
運送屋は大声で言った。声に応じて例のつんぼの老紳士がはいって来た。
「この方とは全然知らぬ仲じゃないな、ケイレブ。前に一度会ってるものね。わしらが出かけるまで、この方を置いてあげてくれるかね?」
「ああ、いいとも、ジョン。光栄に思うよ」
「秘密を明かすにゃ、この方みたいにいい相手はまたとないぜ」と、ジョンが説明した。
「おれはかなり丈夫な肺を持っているんだが、その肺が悲鳴をあげたよ、まったく。お掛けなさいよ、旦那。ここにいるな、みな内わの者ばかしで、あんたに会って喜んでるんですよ!」
今しがた自分の肺について述べたことを十二分に実証する声でこう伝えてから、今度はふだんの調子にかえってつけ加えた。「炉辺に椅子を一つあてがって、黙って坐ったまま、うれしそうにまわりを見回しとくままにしとけば、それがこの人にゃなによりうれしいんだよ。この人を喜ばすな、わけはねえ」
バーサは一心に耳をすましていたが、ケイレブが椅子の用意をしてしまうと、自分のそばに呼び、客の様子を聞かせてくれと頼んだ。ケイレブが説明し終えると、(この時ばかりは小心翼々、事実にのっとって)、バーサは客がはいって来て以来、はじめて身動きをし、溜息をついた。そしてもはや、客への興味を失ったかのように見えた。
運送屋はたいした元気だった。実に彼は良い男だった。そしてこれまでにもまして小さな妻をいつくしんだ。
「無器用なちびさんだったね、きょうの午後は!」と、彼は他から離れて立っている妻を武骨な腕で抱いた。「それでも、どういうもんかおれは好きだよ。あそこをごらん、ちびさん!」
運送屋は老人を指差した。ちびは下を向いた。震えていたと私は思う。
「あの人はね、アハハハ! あの人はお前をさかんに賞めちぎっていなさるんだよ! ここまでの道中ずっと他の話は一つもせずにさ。まったく、あの人は勇敢なおやじさんだ。だからおれはあの人が好きなんだよ!」
「あの人、もっとなにかましな話をすればいいのにね、ジョン」
と、ちびさんはちらっと部屋じゅうを、ことにタクルトンに不安気な一瞥をあたえた。
「もっとましな話だって?」
ジョンは上機嫌で叫んだ。「そんなものはないさ。さあ! 外套をぬいで、厚ぼったい襟巻もとって、重い上っ張《ぱ》りもぬいで! 火のそばでらくらくと三十分ばかり過ごすとするか! ご機嫌いかがです、奥さん。カードを一と勝負いかがですかね、奥さんと私で? これは良いあんばいだ。ちびさん、カルタと台を持って来ておくれ。それからビールも一杯、残ってたらな、ちびさん!」
ジョンの挑戦にかの老婦人はすぐさま愛想よく応じ、二人はまもなく勝負にとりかかった。はじめのうち、運送屋は微笑をたたえながらあたりを見回したり、ときどきちびを呼んで自分の肩ごしに自分の手を見てむずかしいところを助言してもらったりしていた。しかし、彼の敵は厳しい規律励行家なうえ、時折、自分の得点より以上に点をつけるという弱点におちいりがちなので、ジョンとしても警戒が必要で、目も耳も遊ばせておくわけにいかなくなった。こうして次第にジョンの全注意はカードに吸いつけられた。そして余念なく専心しているうちに、肩に手をかけた者があるのでわれにかえると、タクルトンがいた。
「お邪魔してすまんが――ちょっと話があるんだ、今すぐ」
「今カードを配るところでね、だいじなとこなんだ」
「その通り。来なさい!」
その青ざめた顔には相手をただちに起ち上がらせずにはおかないものがあり、ジョンはいそいで、どうしたのかとたずねた。
「シッ! ジョン・ピアリビングル」タクルトンは言った。「わしは残念に思うよ。実際残念だ。そんなこんじゃないかと心配してたんだよ。最初からわしは怪しいとにらんでいたのだ」
「なんのことですかね?」
と、運送屋はおじけづいた。
「シッ! いっしょに来るなら、見せてあげよう」
運送屋はひとことも言わずについて行った。二人は星の輝く裏庭をつっきり、くぐり戸からタクルトンの事務室へはいって行った。そこにはガラス窓があり、商品をしまっておく物置を見下ろしていたが、夜なので物置は閉まっていた。事務室には灯はなかったが、長細い物置にはランプがともしてあるので、したがって窓が明るかった。
「ちょっと待て」と、タクルトンが言った。
「乱暴はやらかしちゃいかんよ。無駄だからな。それに危険でもあるしな。君は屈強な体をしているから、思わず人殺しをしちまうこともあり得るからね」
じっとその顔を見た運送屋は、まるで打たれたかのように一歩しりぞいた。彼は一と跨ぎで窓のところに行き、そして見た――
おお、炉辺の影! おお、正直なこおろぎよ! おお、不実の妻!
彼は妻がかの老人といっしょにいるのを見た。もはや老人ではなく、背のまっすぐのびた偉丈夫であった。手には白髪のかつらを持っていたが、それにより彼らのわびしいみじめな家庭へ入りこむことが出来たのである。はいって来た時の戸口の方へと二人はゆっくり薄暗い木造の廊下を歩きながら、男が頭をかがめて耳もとでつぶやくのを妻がじっと聞いているのが見えた。運送屋は二人が立ち止まり、妻が振り向くのを見た――あの顔、彼があのように愛したあの顔をこんなふうに見せつけられるとは!――そして妻が自身の手で男の頭の上のかつらをなおしてやり、そうしながら夫のうかつさを笑っているのを見た!
最初、運送屋は獅子をも打ち倒さんばかりに、強く右手を握りしめた。しかし、すぐに開き、タクルトンの目の前で拡げた。(この場にのぞんでも、彼は妻をそこのうまいと気遣っていたのである)。こうして二人が出て行ってしまうと、彼はぐったり幼児のようによわよわしく机にうち倒れてしまった。
ちびが帰り支度をして部屋にはいって来た時、ジョンは顎までくるまって、馬や小包のことで忙しそうにしていた。
「さあ、ジョン! メイ、お休みなさい! バーサ、お休みなさい!」
ちびはその人たちに接吻できるだろうか? 別れぎわに朗らかにうれしげにふるまえるだろうか? 赤面もせずに一同にその顔を見せることが出来たろうか? 出来た。タクルトンが目を離さずに見ていると、ちびはこれを残らずやってのけたのである。
ティリはあかんぼを寝かしつけながら、タクルトンの前を何度も何度も行ったり来たりしながら、ねむそうな声でくりかえしていた――
「それがそれの奥さんたちになるってことを知って、それじゃあ、それは胸が裂けそうになったんですね。それでそのお父さんたちはそれをあかんぼの時からだまして来て、そのあげく、それに胸も裂けるばかりの思いをさせただけだったのね!」
「さあ、ティリ、あかんぼをおくれ、タクルトンさん、お休みなさい。いったい、ジョンはどこにいるの?」
「馬の頭のわきを歩いて行くそうだ」
と、タクルトンは言って、ちびを荷馬車に助け乗せた。
「まあ、ジョン。歩いてくのですって? 今晩?」
すっぽりくるまった夫の姿がそそくさと肯定の合図をしめした。いつわりの見知らぬ客と子守はめいめいの席におさまっていたので、老いた馬は歩き出した。ボクサーは、なにも気づかぬボクサーは前方へと駆けて行ったり、駆けもどって来たり、荷馬車のまわりをぐるぐる走り回ったりして、前とかわらず、得意そうに嬉しそうに吠え立てた。
同様にタクルトンも、メイとその母親を送り届けるため立ち去ったあと、あわれなケイレブは炉辺に娘とならんで腰掛け、心の底から心配し後悔して、物悲しげに娘を眺めながらなおもつぶやいていた。
「あかんぼの時からこの子をだまして来たのが、こんな胸も裂ける思いをさせる結果になろうとは!」
あかんぼのために動くようにしてあった玩具はとうの昔にみなねじがもどって止まっていた。かすかな光と沈黙の中で、泰然と落ち着き払った人形たちや、目をみひらき、鼻孔を拡げた興奮している揺木馬、身を半ば二つに折って、よわよわしい膝や踵で立っている表の戸口の老紳士たち、歪んだ顔のくるみ割り、寄宿学校の遠足のように、二列にならんでノアの方舟に乗る途中の獣たちまで、いかなる事情の結びつきにせよ、ちびが不実で、タクルトンが愛されるとはと、驚きのあまり身動きも出来ないでいるとも想像できないこともなかった。
第三のさえずり
隅のオランダ時計が十時を打った。運送屋はわが家の炉ばたに坐っていたが、あまりに苦しみ悩む彼の様子にカッコーはおびえたらしく、例の音楽的な時の刻みを十だけ精いっぱいいそいで切り上げると、このいつもにない光景が自分の感情には耐えられないかのように、再びムーア式宮殿の中に跳び込んで、小さな戸をピシャッと閉めきってしまった。
たとえあの小さな草刈男がこのうえなしの刃の鋭い大鎌をかまえて、一振り一振りに運送屋の心臓に切りつけたとしても、ちびが負わせた深傷《ふかで》には及ばなかったであろう。
その心臓はちびへの愛情に溢れており、ちびの愛すべきあまたの性質が日ごと紡ぎ出す、無数の魅力ある思い出の糸がそれにからまり、とじ合わされていた。その心臓にはちびの姿がやさしくしっかりと秘められていた。その心臓は真実さにかけては生真面目であって、正には強く、悪には弱かった。それであるから最初は憤怒をも復讐心をも宿すことは出来ず、ただ、破れた偶像の影をいれる余地しかなかった。
しかし、今では冷えて暗くなった炉辺に坐って思いに沈んでいるうちに、夜の間の怒れる風のごとく、しだいしだいに運送屋の胸の中に、他のもっと激しい考えが起って来た。かの見知らぬ客は辱しめられたおれの屋根の下にいるのだ。わずか三歩でその部屋の戸口へ行ける。一撃のもとに戸を破って中にはいれるのだ。「君は思わず人殺しをしちまうこともあり得るからね」とタクルトンは言ったが、あの悪者に手と手で掴み合いをする時を与えれば、なんで人殺しと言えよう! あの男のほうが若いのだもの。
それは運送屋の暗い気持にためにならない、時を得ぬ考えであった。その怒れる思いは彼を復讐行為に駆り立て、その結果、この陽気な家は化物屋敷と化し、一人歩きの旅人は夜そばを通ることを恐れ、臆病な者はおぼろ月夜にこわれた窓辺にもつれ合う影を見たり、また嵐の時には物凄い声を聞きつけたりすることになろう。
あの男のほうが若いのだ! そうだ、そうだ、このおれが一度も触れたことのない妻の心をかちえていた恋人なのだ。妻が娘時代に選んだ恋人なのだ。この男のことを妻は思い、夢に見ていたのだ。この男を恋いこがれていたのだ。おれのそばでたいそう幸福でいるものとばかり思っていたのに。ああ、そう思うことの切なさ!
ちびは二階であかんぼを寝かしつけていた。運送屋が炉辺でうつうつと考え込んでいると、知らぬ間に――わが身の非常な不幸という拷問台のきしりにまぎれて他の物音はいっさい、耳にはいらなかったので――ちびはちかぢかとそばに来て、いつもの小さな床几を彼の足もとに置いた。運送屋はちびがその手を彼の手にかけたので、はじめて気がつき、ちびが自分の顔を見上げているのを見た。
不思議そうに? いや、それは彼の最初の印象にすぎない。だから見なおさずにはいられなかった。いや、不思議そうではない。熱心なさぐるような目つきだった。だが、不思議そうではない。はじめはハッとした真剣な表情をうかべたのが、やがて夫の考えていることを悟ったらしく、奇妙な、狂気じみた、恐ろしい微笑に変ったかと思うと、両手を握りしめて額におしあて、うなだれ、髪がほうり落ちるがままにまかせた。
その瞬間、万能の神にも比すべき力を運送屋は振るったのだが、その胸に慈悲という、よりまさった神性を多分に持ち合わせているため、彼は妻に対し羽根一枚の重みの力をも加えることは出来なかった。しかし、あのように無邪気で陽気な彼女を愛と誇りをもって眺めて来た小さな床几に、ちびがうずくまっている姿は見るに耐えなかった。それで、ちびがすすり泣きながら出て行ってしまうと、彼は長い間いつくしんだちびにそばにいられるよりも、むしろ空の床几にほっとした気持をおぼえた。そのこと自体がなににもまして鋭い苦痛であり、いかにも自分が孤独になったこと、また人生の大きな絆がずたずたに裂かれたことを思い知らされた。
こう感じれば感じるほど、また、いっそちびが子供を胸に抱いて自分の目の前で若死するのを見たほうがまだ我慢が出来るのにと思うにつけ、敵への憤怒は高まり深くなる一方だった。彼は武器を求めて見回した。
壁に銃がかかっていた。彼はそれを取り下ろすと、かの不実な客の戸口へ二三歩あゆみよった。銃に弾がこめてあることは分っていた。この男を野獣のように射殺すのは正しいことだという、暗い考えが彼をとらえ、心の中で拡がり、ついには物凄い怪物となって完全に彼を把握してしまい、温和な考えをすっかり追い出して専政帝国をうちたてた。
この言い方はよろしくない。温和な考えを追い出したのではなく、巧みに変形したのである。彼を追い立てる笞に変えたのである。水を血に、愛を憎しみに、やさしさを盲目的な獰猛な気持に変えたのである。悲しげに、打ちひしがれながらもなお、拒むことの出来ない力で彼の愛情となさけにすがるちびの姿が心を去りやらず、とどまったままで、彼をかの戸口へとうながし、銃を彼の肩に上げさせ、ねらいを定めさせ、引金を引くよう彼の指を励まし、
「あいつを殺せ! 眠っているところを!」と叫んだ。
彼は台尻で戸を打つべく銃をさかさにし、すでに宙に振り上げていた。かの男に、後生だ、窓から逃げてくれ、と叫び出したいある名状しがたい意図が湧いた。――
その時、もがいていた火が突然パッと燃え上り、炉辺全体を明るく照らした。すると、炉辺のこおろぎがチロチロと鳴き出した。人間の声にしろ、ちびの声でさえも、これほど彼の胸をゆすぶり、やわらげた声はついぞ聞いたことがなかった。ちびがこのこおろぎへの愛情を彼に語って聞かせた時の飾りけない言葉が、再びいきいきとよみがえって来た。その時のあの震えをおびた真剣な様子が再び目の前にあらわれて来た。ちびの快よい声――誠実な男の炉辺で家庭の音楽を奏でるに、おお、なんと素晴らしい声であろう――その快よい声は彼の良心にしみわたり、それを目覚まし、活動させ出した。
運送屋は恐ろしい夢から覚めた夢遊病者のように戸口からしりごみし、銃をわきへ置いた。手で顔をおおい、再び炉辺に坐り、涙に慰めを見出だした。
炉辺のこおろぎは部屋に出て来て妖精の姿となり、そばに立った。
「あたし、あれが大好きなんです」と、妖精の声が、彼のよくおぼえている言葉をくりかえした。「このこおろぎの歌は何度も聞いてきたし、その無邪気な声があたしにいろいろのことを考えさせてくれたのですもの」
「あれはそう言った! その通りだ!」
と、運送屋が叫んだ。
「この家は幸福な家だし、ジョン。それだからあたし、こおろぎが大好きなの!」
「幸福な家だったな。神様もご存じだ」と、運送屋は答えた。「あれがいつもこの家を幸福にしてくれたのだ――今まで」
「あのようにゆかしく美しい気質で、あのように家庭的で、楽しげで、まめで、朗らかで!」
と、声が言った。
「そうでなけりゃ、おれが愛したほどにはあれを愛さなかったろうよ」
と、運送屋が答えると、かの声は、
「愛しているほどには」
と、それを訂正した。
「愛したほどには」
と、運送屋はくりかえしたが、先のように確かではなかった。ためらう舌が彼の支配をはねつけて勝手に自分で彼のためにしゃべりたがった。
妖精は祈願の姿勢をとり、片手をさしあげた。
「お前自身の炉にかけて――」
「あれが損ねた炉だ」
と、運送屋が口を挟んだ。
「あの人がこれまで――おお、幾たびぞ――祝福し、明るくした炉だ」こおろぎが言った。
「あの人なくしては数個の石と煉瓦と錆びた格子にすぎない炉が、あの人のおかげでお前の家の祭壇となり、その祭壇に夜ごとお前はなにかしらくだらぬ怒りやわがままや、あるいは心配をいけにえとし、心の平静、人を信じる気持、溢れる心情という捧物を供えて来たのだ。だからこそ、この貧しい家の煙突から立ちのぼる煙は、この世のあらゆる豪華な寺院の贅をつくしたずしの前でくゆらす、どんな高価な香にもまさる香を含んでいるのであった!――お前自身の炉にかけて、そのやさしい感化と連想にとりかこまれたその静かな聖堂の中で、あの人の言うことを聞け! あの人の言うことを聞け! 私の言うことを聞け! お前の炉と家庭との言葉を語るすべてのものの言うことを聞け!」
「そして、あれのために申し開きをするものの言うことを聞けと言うんだろう?」
「お前の炉と家庭との言葉を語るものはすべて、あの人のために申し開きをしなければならぬ! そは真実なるがゆえに」
と、こおろぎは答えた。
そして、運送屋が頭を抱え込み、思い沈みながら坐っているあいだ、妖精はそのそばに立ちつくしていた。だが、妖精は一人でなかった。炉石から、煙突から、時計から、パイプから、鉄瓶から、揺籠から、床から、壁から、天井から、階段から、家の外の荷馬車から、家の内の食器棚や台所道具から、ちびがなれしたしんできたあらゆるものや場所など、不幸な夫の心に彼女の思い出一つ一つをみつけているものすべてから、妖精たちが隊をなして出て来た。こおろぎの精のように彼のそばに立っているのではなく、忙しく動き回った。ちびの影像に敬意のかぎりをあらわすために出て来たのであって、彼女の影像があらわれると、彼の裾をひっぱり、そちらを指差してみせた。ちびのまわりに群がり集まって抱きしめ、ちびが踏むようにと花をまきちらした。その美しい頭に自分たちの小さな手で冠をいただかせた。ちびが大好きだということを示し、また、ちびをよく知っていると主張する者で、醜いのや、意地悪なのや、非難の態度に出る者は一人もなく――ただ自分たち、ふざけ好きな、ちびを賞めたたえる者ばかりだということを示した。
運送屋の思いはちびの影像から離れなかった。その影像は終始そこにあった。
ちびは炉を前にして一人、歌をうたいながら針を動かしていた。なんと快活な充実した落ち着いた小さなちびだろう! いきなり妖精たちはいっせいにこちらに向きなおり、異様な凝視を彼に集中した。それは、
「これがお前が嘆き悲しんでいる、浮気な妻なのか!」
と、言っているかのようだった。
家の外で賑やかな騒ぎが――楽器や、そうぞうしい話し声や、笑いさざめく声などが聞こえたかと思うと、浮かれ騒ぐ若い人々の群がどやどやとはいって来た。その中にはメイ・フィールディングや美しい少女たちが二十人ほどいた。その中でちびが一番美しく、少女たちのだれにも劣らず若くもあった。彼らはちびを自分たちの仲間にはいるよう誘いに来たのだった。ダンスをするのである。ダンスのために作られた小さな足があるとすれば、ちびの足こそそれに違いなかった。けれども、ちびは笑いながら首を振り、火にかけてある煮物と、食べるばかりに用意の出来た食卓とを意気揚々として指差したが、その様子がいっそうちびの魅力を増してみせた。こうしてちびは陽気に友人たちを追いやってしまった。我こそは彼女の踊り相手と思っていた連中が出て行くとき、その一人一人に向かってうなずいたが、その態度がまた滑稽なほど冷淡なので、もし彼らが彼女の賛美者だったら――そして彼らは実際多少ともそうであったに違いない、彼らはそうならずにはいられなかったのだ――ただちに水に投じて自殺をとげるだろうと思われた。しかし、冷淡は彼女の性格ではなかった。おお、決して! なぜなら、まもなく戸口にある運送屋があらわれた時、ああ、なんという歓迎を与えたことだろう!
再び妖精たちはさっとこちらを向き、じっと彼を見詰めて、
「これがお前を見捨てた妻か!」
と、言っているかのようだった。
一つの影がこの鏡というか絵というか――好きなように呼んでよろしい――の上に落ちた。それは、初めて彼ら夫婦の屋根の下に立ったときのあの見知らぬ客の大きな影であり、鏡の表面をおおいかくし、他のものをすべて見えなくしてしまった。しかし、敏捷な妖精たちが蜜蜂のようにせっせと働いて、それを拭き取ってしまい、再びちびが現われた。先と変らず晴れやかに、美しく。
揺籠のあかんぼを揺りながらやさしい声で歌をうたってやり、こおろぎの精のそばで思いに沈む人間のに生写しの肩に彼女の頭をもたせていた。
夜は――私が言うのは妖精の時計ですすめられるのではない、ほんとうの夜のことである――ふけて来た。そして運送屋の思いがここまで来た時、にわかに月が輝き出て、空を皓皓と照らした。多分、彼の心の中にもあるおだやかな静かな光が射しはじめたのかもしれない。これまでの出来事をもっと落ち着いて考えられるようになった。
見知らぬ客の影はときおり鏡の上に落ちたが――いつもはっきりと、大きく、輪郭も鮮かに――しかし、決して最初の時のようには威圧的ではなかった。これが現われるたびに妖精一同は驚きの叫びを上げ、目にもとまらぬ早業で小さな手足を働かせて拭き消してしまうのだった。そしてちびをとりもどし、晴ればれとした美しいちびを再び彼に示すたびに、心も浮き立つ歓声を上げた。
妖精たちは美しい晴れやかな姿のちびしか見せなかった。彼らは虚偽をもって破滅と心得る家の精だったからである。それゆえ、ちびは運送屋の家庭のほかならぬ光であり太陽であるところの活発な、にこやかな、愉快な、かわいらしい人間としてそこに現われたのであった!
妖精たちは非常な張り切り方で、あかんぼを抱いたちびがさかしげな老主婦連にまじって世間話に花を咲かせ、自分でも素晴らしく老練な主婦を気取り、いつもの落ち着きすました様子で夫の腕にもたれながら――ちびが! 女の蕾にすぎないちびが――さも世間一般の虚栄には見切りをつけており、自分は母親たることに少しももの珍しさなど感じる種類の人間ではないという、観念をつたえるのに努力しているところを見せた。だが同時に、ちびが運送屋の無器用さ加減を笑ったり、彼を姿よく見せようと、ワイシャツのカラーをひっぱり上げたり、運送屋にダンスを教えるのだと言って、今、彼が現にこうしているこの部屋じゅうをはしゃぎながら気取り返った足つきで歩いてみせたりする光景も、妖精たちは示した。
ちびがめくらの少女といっしょにいるところを見せた時、妖精たちはぐるっとこちらを向き、じっと運送屋を凝視した。なぜなら、ちびの行くところは至るところ、楽しい気分と活気がつきまとっているが、ケイレブ・プラマーの家にはその雰囲気を山もりに溢れんばかりにたずさえていったからである。ちびに対するめくらの少女の愛と信頼と感謝。バーサの感謝の言葉をせかせかとわきへそらすちびのやさしい仕草。訪問ちゅう、一刻もゆるがせにせず、なにかしらこの家に役立つことをし、遊んでいるように見せかけながら、その実、一生懸命に働くという巧みな気の利いたやり方。彼女が豊富に用意した犢肉やハム・パイやビール。戸口に着いた時、また、暇を告げる時のちびの輝く小さな顔。その小ぎれいな足の先から頭のてっぺんまで、ちびがこの世帯の一部であるという――この世帯にとってなくてはならない必要なものであるという、彼女の全身に溢れている素晴らしい表情。これらすべてに妖精たちは夢中にうち込み、これらすべてのため、ちびを愛した。そしてまたもやいっせいに訴えるがごとくに運送屋を眺め、なかの数人がちびの衣服にすりより、彼女をいとしんでいるあいだ、
「これがお前の信頼を裏切った妻なのか!」
と、言っているかのようだった。
物思いに明かしたその長い夜の間に一度ならず、二度ならず、三度ならず、妖精たちはちびがうなだれ、握りしめた両手を額に押し当て、髪がほうりおちるがままにして、例の気に入りの腰掛けに坐っている姿を見せた。彼が最後に見たちびの姿である。ちびがこうした様子の時には妖精たちは彼のほうを見向きもせず、ちびのまわりをひしと取りかこんで、彼女を慰さめたり接吻したりした。そしてお互いに押し合いながらちびに同情と親切を示そうとし、彼のことなど全然忘れ去っていた。
こうして夜は過ぎていった。月は沈み、星の光はうすれ、寒い夜明けがおとずれて、日がのぼった。運送屋は考え込みながらなおも炉隅に坐っていた。一と晩じゅう、彼はそこに頭を抱え込んで過ごし、一と晩じゅう、忠実なこおろぎは炉辺でコロコロ鳴き通し、一と晩じゅう、運送屋はその声に耳をすまし、一と晩じゅう、家の妖精たちは彼に忙しく働きかけ、一と晩じゅう、ちびは、あのただ一つの影が鏡におちた時のほかは、やさしく潔白であった。
夜が明けきると、運送屋は立ち上がり、顔を洗い、身仕度をととのえた。彼はいつもの愉快な仕事に出掛けることが出来なかった。それだけの元気が欲しいと思ったが、しかし、それはたいした問題ではなかった。今日はタクルトンの婚礼の日なので、代理の者に巡回区域をまわってもらうよう手はずがしてあったからである。彼はちびと揃って楽しく教会へ行くつもりだった。しかし、そんな計画も終りを告げた。その日は彼ら自身の結婚した日にも当っていた。ああ、このような一年にこのような結末が来ようとは思いもよらないことだった!
運送屋はタクルトンが朝はやばやと訪れることを予期していたが、彼の期待は当った。わが家の前をゆきつもどりつしはじめてから何分もたたないうちに、玩具商が馬車で街道をやって来るのが目にはいった。馬車が近づくにつれて、タクルトンが婚礼のためしゃれた服装をし、馬の頭を花やリボンで飾ってあるのが見えた。
馬のほうがタクルトンよりもよほど、花婿らしかった。タクルトンの半ば閉じた目がこれまで以上に気味の悪い表情をうかべていたからである。しかし、運送屋はこんなことには注意を払わなかった。彼の思いは他の事柄で占められていた。
「ジョン・ピアリビングル!」と、タクルトンは慰さめ口調で言葉をかけた。「おいおい、けさはどんな工合かい?」
「昨夜はろくに眠れなくてさ、タクルトンの親方」運送屋は首を振った。「頭がひどく乱れたもんだからね。だが、もうなおったのだ! ちょっと二人きりで話したいことがあるんだが、三十分かそこらもらえるかね?」
「そのためにわざわざ来たのだよ」、と言ってタクルトンは馬車から下りた。「馬の心配はいらん。乾草を一と口あてがってもらえれば、手綱をこの柱にかけただけで静かに立っているよ」
運送屋は舎から乾草を取って来て馬の前に置き、二人は家の中にはいった。
「あんたは昼前に式をあげなさるんじゃあるまい?」
「そうだよ。時間は十分だ。時間は十分だ」
二人が台所にはいってみると、ティリ・スロボーイがそこからほんの二三歩か離れていない、かの客の部屋の戸を叩いていた。ティリは真赤な目の一方を、(ティリは一と晩じゅう、泣き明かしたのである。女主人が泣いたので)、鍵穴にあてがい、烈しく叩いていたが、仰天した様子だった。
「あの、すみませんが、だれにも聞こえないんです」ティリは周囲を見回しながら、「どうか、だれも行っちまって死んじまっていませんように!」
この博愛的な願いをスロボーイ嬢はさらに戸を何度か叩いたり蹴ったりで強調したが、なんの効果もあがらなかった。
「わし、行ってみようか? おかしいぞ」
と、タクルトンが申し出た。
戸口から顔をそむけていた運送屋は、よかったら行け、と合図した。
そこでティリ・スロボーイの応援におもむいたタクルトンも蹴ったり叩いたりしたが、彼もやはりなんら答を得ることが出来なかった。しかし、タクルトンは戸の把手を回してみようと思いつき、わけなく開いたので中をうかがい、覗き込み、はいって行き、間もなく走り出て来た。
「ジョン」と、タクルトンは運送屋の耳にささやいた。「まさか――、まさか夜のうちになにか早まったことをしたんじゃなかろうな?」
運送屋は素早くタクルトンに向きなおった。
「なぜって、あの男がいなくなっているからさ!」タクルトンが説明した。「それに窓が開いてるし。なんの痕跡も見えんが――きっと庭と同じ高さに相違ない。だが、わしが心配したのはなにか――なにか掴み合いのようなものがあったんじゃないかと思ってな、ええ?」
「安心しておくんなさい」と、運送屋が返事をした。「あの人は昨夜、わしから言葉のうえにしろ行いにしろ、なに一つ害を受けずにあの部屋にはいり、以来だれ一人、はいっちゃいない。あの人は自分の自由意志で行っちまったんだ。過去を取りかえるなんてことが出来て、あの人が来なかったことに出来るものなら、おれは喜んであの戸口から出て行き、家から家へと一生パンをくれと乞うて歩いたっていいくらいだ。だが、あの、人は来て行っちまったんだ。だから、これであの人とは縁切りというわけさ!」
「ほう!――そうか、あいつはずいぶんとらくに逃がれたわけだな」
と、言いながら、タクルトンは椅子に掛けた。
この皮肉は運送屋には効果がなかった。運送屋もまた腰を下ろし、しばらく手を顔にかざしていたが、ついに言った。
「昨夜、あんたはおれの家内を見せてくれた。おれの愛している家内を、ひそかに――」
「そして情も濃まやかに」
と、タクルトンが仄めかした。
「あの男の変装を見て見ぬふりをし、家内と二人だけで会う機会を与えてやってさ。あれほどおれが見たくなかった光景はまたとないと思うよ。余人はさておき、あんたにだけはあの光景を見せてもらいたくなかったのだ」
「実を言うと、わしは最初っから疑ってたんだよ。だから、わしはここの家じゃ邪魔者だったんさ」
「だが、あれを見せてくれた以上は」運送屋はそれにはかまわず言葉をつづけた。「そして、あんたがあの女を、おれの家内を、おれの愛する家内を見た以上は」こうくりかえしているうちに彼の声も目も手もだんだん落ち着いて、しっかりして来た。「あんな不利な立場にいる家内を見た以上、あんたとしてはこの問題をおれの目で見、おれの胸の中を覗き、おれの気持を知るのが本当だし、正当なことだ。心はもう決まっているのだからね」運送屋は相手をじっと見た。「もう、どんなことがあってもぐらつかないぞ」
タクルトンは、その通り、なんらかの弁明が必要だという意味の、あたりさわりのない文句を二三つぶやいたが、相手の態度にちぢみ上ってしまった。素朴で粗野ではあるが、運送屋にはその胸に宿る立派な自尊心のみが与え得る一種の威厳と気高さがあった。
「おれは愚直ながさつな男で、取柄ときたらてんでない」運送屋はつづけた。
「あんたもよく知ってなさる通り、おれは利口な人間じゃない。若くもない。おれがちびを愛したのは、あれが、小さな子供が、だんだんと大きくなるのを、あれのおやじの家で見て来たし、あれがどんなにかわいいかを知っていたし、何年も何年もの長い間、あれがおれの生き甲斐だったからだ。おれなんかその足もとにも追いつけない男がたくさんいるにはいるが、おれほど、ちびのことを思って愛している者はあるまいと思うよ!」
運送屋は口をつぐみ、しばらく足でかるく床を打っていたが、やがて語をついだ。
「おれはあれに似合うだけの人間ではないが、親切な亭主にならなってやれるし、多分、ほかのだれよりもあれの値打をよく知っているのではないかと、しょっちゅう考えた。こう自分を納得させて、おれたちは結婚できるんじゃないかと考えるようになったのだ。それで結局それがほんとうになっておれたちはいっしょになったのだよ」
「へえ!」
タクルトンは意味ありげに首を振った。
「おれは自分の胸のほうはとくと調べがついていた。自分のことはよく分っていた。どんなにあれを愛しているか、どんなにおれがしあわせになるか。だが――今になって思えば――あれのことを十分考えていなかったのだ」
「まったくだ」と、タクルトンは相槌を打った。「軽薄で、気まぐれで、移り気で、ちやほやされるのが大好きときてる! 考えていなかったとな! みんな目につかなかったというわけさね! へ!」
「おれの話の腰を折らんがいいぞ」と、運送屋はいくらか厳しくたしなめた。「おれの話がすっかり分るまではな。あんたはひどく見当違いをしている。おれはあれに不為の文句をひとことでも吐いた奴を、きのうは一撃のもとにうち倒したかしれないが、今日はそれがたとえ実の兄弟であろうと、そいつの顔を踏んづけてやりたいところだ!」
玩具商はびっくり仰天してまじまじと運送屋を見詰めた。運送屋は声をやわらげて話をつづけた。
「あんなに若く、あんなに美しいあれを、若い仲間やあれが飾りとなり、もっとも輝かしい小さな星として輝いていた多くの場面から、あれを連れて来て、来る日も来る日も、おもしろくもないおれの家に閉じ込めて、退屈なおれの相手をさせるのだということを、おれは考えただろうか? あれの陽気な性質におれがいかに適当でないか、そんな気質はおれに持合わせがないことを考えただろうか? 決して考えなかった。あれの頼もしい性質と明るい気性につけ込んで、あれと結婚したのだ。結婚などしなければよかったになあ! あれのためには。おれのためではない!」
玩具商はまばたきもせずに運送屋を見詰めた。例の半開きの目でさえ、今は開いていた。
「神よ、あれを祝福したまえ!」と、運送屋は言った。「このことをおれに知らすまいとして、絶えず朗らかにふるまってくれたあれを! また、頭が鈍いため、もっと前にこのことに気がつかなかったおれを、神よ、あわれみたまえ! かわいそうに! かわいそうなちび! わしらみたいな縁組の話が出るとは、あれが目に涙をいっぱいためているのを見ていたくせに、それが分らなかったとは! あれがひそかに唇を震わせているのを何度見たかしれないのに、昨夜までそれに気がつかないとは! よくもあれに好いてもらえるなどと思えたものだ。あれが好いていてくれるなどとよくも信じられたものだ!」
「あの女がそんな見せかけをしたからさ。あまり見せかけが過ぎたもんで、実を言うと、それがわしの疑いのもとになったのだよ」
タクルトンはこう言うと、さて、彼タクルトンを好きだという見せかけを全然しないメイ・フィールディングの優れていることを主張した。
「あれがおれの忠実な熱心な妻になろうと、どんなに一生懸命に努めたのか、今おれはようやく、分りはじめたのだ」あわれな運送屋は常にない激しい感動をこめて言った。「あれがどんなに善良だったか、どんなにつくしてくれたか、どんなに雄々しく強い心を持っていたかは、この屋根の下でおれが味わった幸福が証明してくれる! そのことはおれがここに一人きりになった時、いくらか助けになり、慰めとなってくれるだろう!」
「ここに一人きりだって?」と、タクルトンがききかえした。「ああ、それじゃ君はこのことになんらかの処置を取ると言うのかね?」
「おれはあれに対して、自分の力がかなうかぎり最大の親切と、最大の償いをするつもりなのだよ。不釣合な結婚からこうむる日々の苦痛と、それをかくそうとするもがきからあれを解放してやることが、おれに出来るのだ。あれをできるかぎり自由の身にしてやろうと思うのだ」
「あの女に償いだって?」と、タクルトンは大声をあげ、大きな耳を両手でねじり回した。
「わしの耳がどうかしているに違いない。勿論、君はそんなことは言わなかったね」
運送屋は玩具商の襟をぐっと掴み、葦のように揺すぶった。
「おれの言うことをよく聞きなさい! そして聞き違えのないように注意するんだ。おれの言うことをよく聞け。おれの話ははっきりしているかね?」
「とても、はっきりしているよ」
タクルトンは答えた。
「おれが本気で言っているようにかね?」
「まったく、本気で言っているようにだよ」
「昨夜は一晩じゅう、おれは炉辺に坐っていたのだ」と、運送屋は言った。「あれが何度かおれのそばに坐り、やさしい顔でおれの顔を覗きこんだその場所なのだ。おれはあれの半生を全部、日を追って思い返し、その間の出来事一つ一つの場合のかわいいあれの姿を目にうかべたのだ。無罪と有罪を裁く神があるとすれば、あれは絶対に潔白だ!」
頼もしい炉辺のこおろぎよ! 忠実なる家の妖精たちよ!
「怒りと疑惑はおれの胸から消え去ってしまった。今は悲しみしか残っていない。あれの好みや年から言えば、おれよりよく釣合いながら、おそらくおれのために、あれが心ならずも見捨てたに相違ないだれか昔の恋人がまのわるい時に帰って来たのだ。まがわるかったのだ。不意打ちをくってあれはどうしたらいいか考える余裕もなく、そのことを隠そうとしたため、あの男の裏切りに加担せざるを得なかったのだ。昨夜、あれはおれたちが目撃したように、あの男と会った。あれはよくない。だが、あのことさえなければ、この世に真実というものがあるなら、あれは潔白だ!」
「それが君の意見だというなら――」
と、タクルトンは言いかけた。
「だから、あれを放してやろう!」運送屋はつづけた。「長い間、幸福に過ごさせてもらったおれの祝福と、あれがおれにこうむらせた苦痛に対するおれの赦しをもって解放し、あれのために祈っている心の平和を持たせるのだ! あれは決しておれを憎みはしまい。おれがあれにとって重荷でなくなり、おれが縛りつけた鎖がもっと軽くなった時、あれはもっとおれのことをよく思ってくれるようになるだろう。きょうが、あれの喜びなどろくに考えてもやらずに、あれの家から連れて来た日なのだ。きょう、おれは連れもどしてやるつもりだ。そしてもう二度とおれのことであれをわずらわすまい。あれの親父さんとおっ母さんが今日ここに来ることになっているから――わしらは内輪の祝をする計画だったのだ――あれを連れて帰ってもらうよ。両親の家であろうと、どんな場所であろうと、おれは安心して置いておける。あれは罪なくしておれのもとを去り、罪なくして生きていくに違いないと思う。もしも、おれが死んだなら――あれがまだ年若いうちにおれは多分死ぬかもしれない。わずか数時間のうちになんだか力が抜けてしまったからね――あれはおれがあれのことを忘れないことや、最後まで愛していたことを分ってくれるだろう! これがあんたの見せてくれたことの結末だ。さあ、これでおしまいだ!」
「おお、ちがうわ、ジョン。おしまいじゃないわ。おしまいだなんて言わないで下さい! まだ、おしまいじゃないわ。あなたの立派なお言葉をあたしは聞いてしまいました。あたしがこんなに有難いと思ったあなたの話を知らないふりして、そっと行ってしまうことが出来なかったんです。時計がもう一度打つまで、おしまいだなどとは言わないで下さい!」
ちびはタクルトンのすぐ後からはいって来てそのままいたのだった。タクルトンには目もくれず、じっと夫の顔を見詰めていた。だが、夫との間を出来るだけ広くあけて離れた場所に立っており、非常に熱した真剣な口調で話しているにもかかわらず、それ以上、夫に近寄ろうとはしなかった。これはいつもの彼女となんという違いであろう!
「どんな腕利きだっておれのために、過ぎ去った時を再び打つような時計を作ってくれることは出来ないよ」と、運送屋はよわよわしく微笑んだ。「だが、お前の望みなら、そうしよう。まもなく打つだろうから。わしらがなんと言おうと問題じゃない。今度のことよりもっと辛い場合にだって、お前を喜ばせようとするだろうよ」
「それじゃ、わしはもう行かなくちゃならん」タクルトンはつぶやいた。「時計が今度鳴る時にゃ、わしは教会へ向ってなきゃならんでな。ジョン、さよなら。いっしょに行ってもらえなくなって残念だよ。行ってもらえないこともそうだが、その原因もまことに残念に思うよ!」
「おれははっきり分るように話したね?」
と、運送屋は戸口までついて来てきいた。
「ああ、はっきり分ったよ!」
「では、おれの言ったことは忘れないだろうね?」
「そうさね、なにがなんでも意見を述べろと言うなら」タクルトンは用心して、前もって馬車に乗り込んでしまい、「そんなら言うがね、まったく思いがけないこんで、とうてい忘れられそうもないとね」
「そのほうがおれたち双方にとってよけい結構だ」と、運送屋は言った。「さよなら。おめでとう!」
「君にもおめでとうと言いたいんだがね。そうも言えないからな。ありがとうよ。ここだけの話だけれどね、(さっきも言っただろう、ええ?)、メアリーがわしのことをうるさく世話をやいたり、あまり見せかけをしないからといって、それだけわしの結婚生活の楽しみが減るとは、あまり思えんよ。さよなら! 体に気をつけるんだな」
運送屋は、タクルトンが、近くにいた時の馬の花や飾りリボンよりもっと小さく遠のくまで、立って見送っていたが、やがて深いためいきをつくと、時計が打つまぎわまでもどりたくなかったので、落ち着かない打ちひしがれた男のように、付近のにれの木の間をぶらぶら歩きまわった。
一人とりのこされた小さな妻はいたいたしくすすり泣いた。しかし、たびたび涙を拭っては泣くのをやめて、あの人はなんて良い人なんでしょう、なんて立派なんでしょうと言い、一二度、声をたてて笑った。さも愉快そうに、勝ち誇るかのように、とほうもない様子で(しかもずっと泣きながら)笑うので、ティリはすっかりどぎもを抜かれてしまった。
「おう、お願いですから、やめて下さい。赤ちゃんが死んでお葬いになりますから、ですからお願いです」
「あんた、ときどきこの子をこの子のお父さんに見せに連れて来てくれる、ティリ」と、女主人は涙を拭きながらきいた。「あたしがここにいられなくなって、里へ帰ってしまったらね?」
「おう、どうかそんなことはしないで下さい!」と叫んで、ティリは頭を振りやり、急に吠えるように泣き出した。その瞬間の彼女はボクサーそっくりに見えた。「おう、どうかそんなことはしないで下さい! おう、人はなんでみんな行っちまって、ほかの人をみんなみじめにしちゃうんだろう! おうーうーう!」
心やさしいスロボーイはここでいとも悲しげに尾を引いて吠えたが、長くこらえていたため、いっそうすさまじく、もしもその眼が、娘の手を引いてはいって来たケイレブ・プラマーに出会わなかったなら、きっとあかんぼの目を覚まし、あかんぼをびっくりさせた結果、なにか重大なこと(おそらく、ひきつけ)になったに違いなかった。この光景にティリは行儀作法に気がつき、二三分というもの口をぽかんと開けてつっ立っていたが、いきなり、あかんぼが眠っている寝台へ駆け寄り、怪奇な舞踏病のような踊り方をしながら、それと同時に顔と頭で布団の中を掻き回した。こうした異常なふるまいで大いに慰めを得たらしかった。
「メアリー! 結婚式に行かなかったの!」
と、バーサが言った。
「この娘にね、おかみさん、あんたが多分行きなさんなかろうと言ったんですよ」と、ケイレブがささやいた。「昨夜すっかり話を聞いたんだよ。だが、いいかね、」ケイレブはやさしくメアリーの両手を取り、「あの衆らがなんて言おうと、私だけはなんとも気にしないよ。そんなことは信じるものかね。私はとるにたらない人間だが、もしもひとことでもあんたを悪くいう者の言葉を信じでもしてみなさい、ちっぽけな人間がこなごなになっちまうよ!」
ケイレブはまるで子供が自分の人形を抱きしめるように、メアリーの首に両腕をまわして抱きしめた。
「バーサはね、けさ家にじっとしていられなかったんですよ」と、ケイレブが言った。「教会の鐘を聞くのが恐いらしくてね。それにあの人たちの婚礼の日に、とてもあんな近いところにいられそうもなかったんですよ。それで折を見て出かけ、ここへ来たわけさ」ケイレブはちょっと黙ってから、「私はね、自分のしたことを考えていたのだ。私は自分を責めて責めて責めぬいているうちに、この娘に負わした心のいたでのために、なにをしたらいいのか、どちらを向いたらいいのか分らなくなったもんで、結局、おかみさん、あんたがいっしょにいて下さるなら、その間にこの娘に本当のことを話して聞かせたほうがいいと考えを決めたわけなんですよ。その間いっしょにいて下さるかね?」と、ケイレブは頭の先から爪先まで震えながら頼んだ。
「それがこの娘にどんな影響を及ぼすか、分らないし、この娘が私のことをどう思うかも分らない。これからはもう、このあわれな父親のことを大事に思ってくれるかどうかも分らない。だが、本当のことを知らせてやったほうがこの娘のためにはいちばんいいのだ。そして当然、私はその報いを受けなくちゃならないのだ!」
「メアリー」と、バーサが呼んだ。「あんたの手はどこなの? ああ、あったわ、あったわ!」にっこり微笑んでそれに唇をおしあて、自分の腕に通した。「昨夜みんながなにかひそひそあんたのことを悪く言ってるのを聞いたのよ。あの人たちは間違ってるんだわ」
運送屋の妻は無言だった。そこでケイレブが代りに返事をした。
「間違ってるんだとも」
「あたしにはそれが分ってたわ!」と、バーサは得意そうに叫んだ。「あの人たちにあたし、そう言ってやったのよ。そんなことをひとことだって聞く耳を持ってないわ! あんたを非難するのが正当ですとさ!」バーサはメアリーの手を両手で握りしめ、メアリーの柔らかい頬を自分の顔におしつけた。「とんでもない! あたしだってそれほどめくらじゃないわ」
ケイレブはバーサの一方の側へ歩み寄り、ちびはバーサの手を取ったまま、もう一方の側にそのまま立っていた。
「あたしはね、みんなが考えているよりもずっとよく、みんなのことを知っているのよ。でも、だれよりもメアリーを一番よく知っているの。お父さん、お父さんよりもっとと言っていいほどよ。メアリーの半分もあたしには真実とか誠実といったものがないわ。もしも今この瞬間、目が見えるようになったとしたら、ひとことも聞かなくても、大勢の中からメアリーを選び出してみせるわ! あたしのお姉さん!」
「バーサや!」と、ケイレブが口を切った。
「こうして私ら三人だけでいる間に、お前に話したいことがあるのだよ。どうか、聞いておくれ! お前に懺悔しなければならないことがあるのだよ、娘や」
「懺悔ですって、お父さん?」
「私は真実からさまよい出てしまい、自分を見失ってしまったのだよ」と、ケイレブは途方にくれた顔にあわれな表情をうかべて言った。「私が真実からさまよい出てしまったのは、お前によかれと思ってしたことなのだが、つまりは残酷だったことになるのだ」
バーサは茫然とした顔を父のほうに向け、
「残酷ですって?」
と、聞き返した。
「お父さんはあんまりひどく自分を責めすぎてなさるのよ、バーサ」と、ちびが言った。
「あんただってやがてそう言うわよ。あんたこそ、いのいちばんにそう言うでしょうよ」
「お父さんがあたしに残酷ですって?」
と、バーサは信じられない様子で微笑した。
「そのつもりじゃなかったのだよ、バーサや」
ケイレブは言った。「だが、そういうことになってしまったのだ。そうとはきのうまで私も気がつかなかったがな。かわいいめくらの娘や、私の話を聞いて、私を許しておくれ! お前が住んでいる世界は私が話して聞かせたようなあり方はしていないのだよ。お前が信用していた目はお前に嘘をついていたのだ」
バーサは茫然とした顔を父のほうに向けたままだったが、後しざりして、いっそうかたくなにしがみついた。
「お前の歩む人生の道は難儀なのだよ。それをお前にらくにしてやるつもりだったのだ。お前を少しでも幸福にしようと思って、物を変え、人の性格を変え、ありもしないものをたくさん作り出したのだ。お前に隠しごとをし、神よ、赦したまえ、お前をだまかし、お前を空想のものでとりまいたのだよ」
「でも、生きている人たちは空想じゃないでしょ?」バーサはまっさおになり、せきこんでたずね、なおも父から退って行った。「生きている人は変えられないわ」
「ところが、そうしたのだよ、バーサや」ケイレブは哀願するように言った。「お前の知っている人が一人いるね、バーサや――」
「ああ、お父さん! なぜ、あたしが知っているなんて言いなさるの?」その口調には鋭い非難がこもっていた。「なにを、だれをあたしが知っているというんでしょう! 導き手もないあたしが! こんなみじめなめくらのあたしが!」
苦痛のあまり、バーサは行く手をてさぐるがごとく、両手をさしのべたが、やがて言うに言われぬ淋しく悲しげに顔をおおった。
「きょう、結婚式をあげるのは、苛酷な、浅ましい、暴虐な男なのだ。長年の間、お前と私にとっての無慈悲な主人なのだ。姿も性質も醜い人だよ。いつも無情で冷淡でな。お前に描いて見せた人間とはなにからなにまで似ていないのだよ、バーサや。なにからなにまで」
「ああ、なぜ、なぜ、こんなことをしなすったの?」めくらの少女は苦しさにたえかねる様子で叫んだ。「なぜ、あたしの心をあのように豊かにしておきながら、死のようにやって来て、あたしの大切なものを裂き取ろうとなさるの? おお、神様、なんというあたしはめくらでしょう! なんて、頼りない、一人ぼっちの身でしょう!」
苦悶の父はうなだれたまま、なにも答えず、ただ後悔と悲しみにかきくれるばかりだった。
バーサがこの激しい失望の嵐に身をゆだねてから間もなく、かの炉辺のこおろぎが他の者には聞こえず、彼女の耳にだけコロコロ鳴き出した。楽しげにではなく、低いかすかな、悲しそうな声だった。いかにも悲しげなので、バーサの眼から涙が溢れはじめ、一晩じゅう、運送屋のそばにいたあの妖精が彼女の背後に立ち、父を指差した時には、涙は滝のように流れた。
まもなくバーサにこおろぎの声がもっとはっきり聞こえるようになり、父の周囲に徘徊している妖精の姿をめくらの目を通して気がついた。
「メアリー、あたしの家がどんなか話してちょうだい。ほんとうはどんな家なのか」
と、めくらの少女は頼んだ。
「みすぼらしいところなのよ、バーサ。とてもみすぼらしくてがらんとしているの。家はあと一年と雨風がしのげないでしょうよ。どうやら雨露をしのいでいるのは」と、ちびは低いが澄んだ声で言葉をつづけた。「あんたのお気の毒なお父さんがズックの外套でしのいでなさるのと同じなのよ」
めくらの少女はひどく興奮して立ち上がり、運送屋の妻をこわきに連れて行った。
「あたしが大切にしているあの贈物は、あたしが欲しいと言えば大抵とどけられ、あたしをそりゃあ喜ばせたあの贈物は」と、バーサは震えながら、「どこから来たのかしら? あんたが送って下さったの?」
「いいえ」
「では、だれなの?」
ちびはすでにバーサが知っている様子を見てとったので黙っていた。めくらの少女は再び両手で顔をおおったが、今度はさっきとは全然異なる態度だった。
「メアリー、もうちょっと、もうちょっとね! もう少しこちらへ来てちょうだい。小さな声で話してね。あんたは正直だってこと知ってるわ。あたしをもうだましたりしないでしょう?」
「しないわ、バーサ。絶対に!」
「そうよ、きっとそんなことはしなさらないわ。あんたはとてもあたしをあわれんでいて下さるのですもの。メアリー、部屋の向うの、つい今まであたしたちがいたところ、お父さんが――あたしをあんなに思いやり深く、あんなに可愛がって下さるお父さんが――いるところを見て、あんたの見た通りを話してちょうだい」
「椅子に年とった方が坐ってなさるわ」バーサの気持がよく分ったちびは説明した。「手で顔を支えて悲しそうに背にもたれていなさるわ。あの人の子供に慰めさせたいくらいよ、バーサ」
「慰めますとも、慰めますとも。先をおっしゃってちょうだい」
「あの人は苦労と過労で疲れ切ったおとしよりよ。やせた、元気のない、考え込んだ、白髪の人よ。今はしょんぼり、うなだれて、なにする気力もない様子だけれど、でもね、バーサ、あたしは今までに何度もお父さんが、ただ一つの立派な神聖な目的のために、さまざまに骨折って来なすったのを見たのよ。だからあの白髪の頭を尊敬し、お父さんを祝福するわ!」
めくらの少女はさっとメアリーのそばを離れ、父の前に身を投げ出すようにしてひざまずき、白髪の頭を胸に抱きしめた。
「あたしの目が見えるようになったの。あたしの目が!」と、バーサは叫んだ。「今までめくらだったのが、今、目が開いたのよ。あたしはお父さんを知らなかったのだわ! こんなにあたしを可愛がって下さるお父さんの、ほんとうの姿を見ないで死んでしまったかもしれないと思うと、ぞっとするわ!」
ケイレブの感動は言語を絶していた。
「この世でこれほどあたしが愛し、これほど心からたいせつに思うスマートな人はいないわ!」
と、めくらの少女は父を抱きしめながら叫んだ。「白髪であればあるほど、疲れていれば疲れているだけ、よけい大事だわ、お父さん! もう二度と人にめくらだなんて言わせないわ。お父さんの顔のしわ一と筋だって、お父さんの頭の髪一本だって、あたし、お祈りを捧げ、神様にお礼を申し上げる時に、決して忘れないわ!」
ケイレブはようやく、
「バーサや!」
と、言った。
「それだのに、目が見えないためにあたしはお父さんをまるっきり異った人に思っていたのね!」と、少女はつよい愛情の涙をうかべながら、父を撫でた。「毎日毎日、いつもこんなにあたしのことを思って下さるお父さんのそばにいながら、こうとは夢にも思わなかったのですものね!」
「青い外套を着た元気なスマートなお父さんは、バーサ、もう、ないのだよ!」
あわれなケイレブは言った。
「なんにもなくなりはしないわ。お父さん、なくなりませんとも! なにもかもここに――お父さんの中にあってよ。あたしが深く愛していたお父さん、いくら愛してもたりない、しかもあたしの知らなかったお父さん、あたしにあんなに同情して下さり、はじめてあたしが尊敬し、愛するようになった恩人、みんなお父さんの中にいるのですもの。あたしにとって、死んだものなんかなんにもないわ。あたしにとって最もいとしいもの全部の魂がここに――この疲れた顔と、白髪の頭にあるのですもの!」
この話のやりとりの間、ちびの注意は全部この父娘に集中していたが、今、ムーア人式の牧場の小さな乾草刈りのほうを見て、時計があと二三分で打つところなのを知ると、にわかに不安そうな興奮した様子になった。
「お父さん」と、言ってバーサはためらいながら、「メアリー」
「なんだね、バーサや。メアリーはここにいるよ」
と、ケイレブが返事をした。
「メアリーにはなんの変りもないでしょうね。メアリーのことで本当でないことは、お父さんなにもあたしに言いなさんなかったわね?」
「実際よりもっとメアリーをよく出来るものなら、そうしたかもしれないと思うが、変えたところで、かえって悪くしてしまうのが関の山だったろうよ。これ以上よくはとても出来ないよ、バーサ」
めくらの少女はきく時すでにそう信じはしていたものの、これを聞いた時の喜びようと誇らしさ、あらためてちびを抱きしめる有様は見るも愛らしかった。
「でもね、あんたが考えているよりもっと変化がおきるかもしれないのよ、バーサ」と、ちびが言った。「良いほうへの変化よ。あたしたちの中のだれかにとって、とても嬉しい変化なの。万が一そんな変化がおきたとしても、あんまりびっくりしたり、体をわるくしてはだめよ? あの街道のほうから聞こえて来るのは車輪の音かしら? バーサ、あんたは耳が速いわね。あれ、車輪の音?」
「そうよ。とても早く来るわ」
「あたし――あたし――あたし、あんたの耳がとても速いことを知ってるのよ」と、ちびは心臓の上に手をおき、せいいっぱい、早口にしゃべりつづけたが、それは動悸をかくすためなのは明瞭だった。「だって今まで何度も気がついていたし、昨夜だってあの聞きなれない足音をあんなに早く知ったのですものね。今でもはっきり憶えているけれど、バーサ、あんたがなぜ、『あれはだれの足音かしら!』と言ったのか、また、なぜあんたが他のどの足音よりもあの足音に特別注意したのか、あたしには分らないけれどね。今も言ったけれど、世の中には大きな変化があるものなのよ。大きな変化がね。だからどんなことが持ち上がろうと驚かないだけの心構えをしておくにこしたことはないわ」
ケイレブはこれはいったいどういうことだろうかと怪しんだ。ちびが彼の娘だけでなく彼に向っても話しているのに気がついたからである。ケイレブはちびが息もつけないほど動揺し、心配そうで、倒れないよう椅子につかまるのを見て、驚きの目をみはった。
「やっぱり車輪だわ!」ちびはあえいだ。「近づいて来るわ! 近づいて来るわ! すぐそばに来たわ! そら、庭の木戸のところでとまった! そら戸の外に足音が聞こえる――同じ足音よ、バーサ、そうでしょう?――そら、来た!――」
ちびは喜びをおさえきれず、狂気のような叫び声を上げた。そして一人の青年が部屋に飛び込んで来て、帽子を空中にほうり上げ、三人めがけて突進して来た瞬間、ちびはケイレブのそばに走り寄って、両手で彼の目をふさいだ。
「もうすんで?」
と、ちびが叫んだ。
「すみました!」
「うまくいって?」
「いきました!」
「この声に聞きおぼえがありませんか、おじさん? こんな声を以前、聞いたことがなくて?」
と、ちびが叫んだ。
「もしも、黄金の南アメリカへ行った私の息子が生きているとしたら――」
と、ケイレブは震えながら言った。
「生きてるのですよ!」と、叫ぶとちびはケイレブの目から手をはずし、歓喜のあまり、その手を打ち合わせた。「この人を見てごらんなさい! 丈夫でぴんぴんしておじさんの前に立ってるじゃありませんか! おじさんの大事な息子ですよ! あんたの大事な、生きている、いとしい兄さんよ、バーサ!」
この小さな女のうちょうてんの喜びに光栄あれ! 三人がかたく一つに抱き合った時の、彼女の涙と笑いに光栄あれ! 黒い髪をなびかせ、陽焼けした水夫を中途まで進み出て迎え、小さなばら色の口をわきへそらさずに彼が思うさま接吻し、彼女を高鳴る胸におしつけるがままにした時の、彼女の真心あふれる態度に光栄あれ!
それからカッコーにも光栄あれ――なぜって!――夜盗のようにムーア式宮殿の引き戸から飛び出し、まるで喜びに酔いしれているかのように、集まっている人々に十二回しゃっくりをして見せたのであるから!
部屋へはいって来た運送屋はびっくりして後じさりした。無理はない、こんな晴れやかな仲間の中へはいって来たのだから。
「ジョン、見ておくれ!」、ケイレブは躍り上がらないばかりだった。「ここを見ておくれ! 黄金の南アメリカから帰って来た私の息子だよ! 私の息子だよ! あんたが身仕度をして、自分で送って行ってくれたあの子だよ。あんたといつも大の仲良しだったあの子だよ!」
運送屋は息子の手を取ろうと進み出たが、その顔形にどこかあの荷馬車の中のつんぼの男を思い出させるものがあり、思わずしりごみした。
「エドワード! お前だったのか?」
「さあ、ジョンにすっかり話してちょうだい!」
と、ちびが叫んだ。「すっかり話してちょうだい、エドワード。あたしのことは容赦しなくていいわよ。二度と再び、この人の眼の前で、容赦してもらうようなことはいたしませんからね」
「あれは僕でしたよ」
と、エドワードが言った。
「それでよくもお前は変装して、昔友達の家へ忍び込むなんて出来たね?」
運送屋が答えた。「もとは明けっぱなしの子供だったになあ――この子が死んだと聞き、それが事実らしいと思ってから、ケイレブ、何年になるだろう?――あの子ならあんなまねはしなかったろうに」
「もと、僕には気持のひろい友達があって、友達というよりも僕にとっちゃ父親のようでしたよ」と、エドワードが言った。「あの人なら僕であれ、また他の者であれ、相手の言い分も聞かずに判断したりしなかったでしょうにね。昔のあんたはそうでしたよ。だから今だって僕の言うことを聞いて下さるに違いないと思うんです」
運送屋は依然彼から遠ざかっているちびを不安そうに見やってから、
「そうだ! それでこそ公平だ。聞こう!」
「僕が少年としてここを出て行った時、僕が恋におちいっていたこと、そしてその恋が報いられていたということを承知していただきたい。その人はごく幼い少女で、多分自分の気持が分らなかったのだ、(と、あんたは言いなさるか知れない)。だが、僕は自分の心を知っていました。そしてその人を熱烈に愛したのです」
「熱烈に! お前が!」
と、運送屋が叫んだ。
「実際そうでした。そしてその人もそれに報いてくれました。報いてくれたとそれ以来ずっと信じて来ましたが、今、それが確かになったのです」
「神よ、お助け下さい! こんなひどいことはないわい」
と、運送屋が言った。
「その人へ変らぬ気持を持ちつづけ、多くの困難と危険をくぐった後、僕たちの昔の契約の僕の役目をはたすために、希望にあふれて帰郷したところが、二十マイル先のところで、その人が僕を裏切り、僕のことなんか忘れてしまい、別のもっと金持の男のところへいったと聞いたんです。僕にはその娘を責めるつもりはありませんでしたが、会って、それが明らかに事実だということを確かめたいと思いました。その人が自分の気持と思い出にそむいて強制されたのかもしれないという、そんな望みがあったのです。そんなことはろくに慰めともならないでしょうが、しかし、いくらかたしにはなると思い、僕はやって来ました。真実を、ありのままの真実を知るために、一方では邪魔がはいらないように、また他方、その人の前でその人を左右する力を(僕にいくらかでも持合わせがあるとして)振るうことなしに、自分の目で自由に観察し、判断を下せるようにと思い、僕とは似つかぬ身なりをし――どんな身なりかあんたがご承知の通りです、街道で待っていました――どの辺かそれもあんたはご存じですね。あんたは僕を少しも怪しまず、その人も」と、ちびを指差しながら、「気がつきませんでしたが、あの炉辺でその人の耳にそっとささやいた時には、その人はもう少しで僕をばらすところでした」
「けれどもその人はエドワードが生きていて、帰って来たことを知ると」と、ちびはすすり泣きながら、今度は自分で話し出した。以上の話のあいだじゅうずっと、ちびは自分で話したくて我慢がならなかったのだ。「また、エドワードの目的を知ると、なんとしても秘密をかたく守らなくてはいけないと、エドワードに忠告しました。なぜなら、エドワードの古い友達のジョン・ピアリビングルは性質があんまり開けっぱなしで、たくらみ事いっさい自分の胸にしまっておけないくらいぶ器用なのですから――なんにかけてもぶ器用なんですものね」と、ちびは半ば笑い、半ば泣きながら言った。「そしてその人が――それはあたしのことよ、ジョン」、ちびは泣いた。「エドワードにすっかり、エドワードの恋人がエドワードのことを死んでしまったものと信じており、とうとう、お母さんに説き伏せられて、お馬鹿なお母さんが有利だというその結婚を承知してしまったことを話し、そして、その人が――これもあたしよ、ジョン――結婚は(まぢかに迫ってはいるけれど)まだ行われておらず、そのまますすめられれば、その人の側に愛情は全然ないのだから、犠牲にほかならないと言いますと、それを聞いてエドワードは気違いのようになって喜びました。そこで、その人は――これもあたしよ――二人の仲をとりもって上げましょう、昔なんどもしたようにね、ジョン、そして恋人の気持を探り、その人が――これもあたしよ、ジョン――言ったり考えたりしていたことが本当かどうか確かめて上げましょうと言ったんです。ところが本当だったのよ、ジョン! それで二人はいっしょになったんです、ジョン! そしてね、ジョン、一時間前に二人は結婚したのよ! そら、花嫁さんが来た! だから、グラフ・アンド・タクルトンは独身者のまま死んでしまうかも知れないわ! だから、あたしはとても幸福なの。メイ、おめでとう!」
ちびは、言うなれば、魅力ある小さな女であるが、今このうちょうてんになっている瞬間の姿ほど素晴らしい魅惑にあふれたものはなかった。また、彼女が花嫁にふりそそいだ祝いの言葉ほど愛情のこもった快よいものはなかった。
胸の中で乱れる激情のただなかで、正直な運送屋は茫然として立ちすくんでいたが、今や、妻のほうへ飛んで行こうとするのを、ちびは手をさしのべておしとどめ、以前のように後にひきさがった。
「いいえ、ジョン、いいえ! 全部聞いて下さい! 言わなくちゃならないことをひとこともあまさず聞いてしまうまでは、あたしを愛してはいけません。ジョン、あなたに秘密をかくしていたことは悪かったわ。本当にすみませんでした。別に悪いとは考えなかったんだけれど、昨夜、あなたのそばのあの小さな床几に坐った時、あなたの顔にあたしがエドワードと廊下を歩いているところを見なすったこと、どう思っていなさるかっていうことが、ありありとあらわれているのを見て、はじめてあたしはなんて軽はずみな、いけないことをしたんだろうって分ったんです。でも、おお、ジョン、よくもそんなふうにあたしのことを考えなすったもんね!」
小さな女は再びなんと激しく泣いたことだろう! ジョンは彼女を抱こうとした。しかし、だめだ。ちびがゆるさなかった。
「お願いだから、ジョン、まだ愛してはいけません! まだ、なかなかだめ! 今度、予定されていた結婚のことであたしが悲しんだのはね、いかにも年若い恋人同士だったメイとエドワードのことを思い出し、メイの心がタクルトンさんから遠く離れていることを知っていたからなの。今ならそれが信じられるでしょう、ジョン?」
この訴えにジョンはまたもや突進しようとしたが、再び、ちびはそれをとめた。
「いいえ、そこにいてちょうだい、ジョン! あたしがよく、あなたのことを笑ったり、ぶ器用だなどと言ったり、お馬鹿さんとかなんとか言うのは、ジョン、あたしがとてもあなたを好きだからだし、あなたのすることがおもしろかったもので、たとえ明日にでもあなたを王様にしてあげるからといったって、あなたが少しでも変るのを見たくないほどだったからなのよ」
「万歳!」と、ケイレブが常にない勢いで叫んだ。「賛成だ!」
「それから、あたしが人のことを中年で、がっちりしているなんて言ったり、あたしたちは石橋をたたいて渡る式の平凡な夫婦だというふりをしてみせたのはね、ジョン、あたしはしようのないお馬鹿さんで、ときどきあかんぼとお芝居のようなことをしたりして、もっともらしいふりをするのが好きだからなのよ」
ちびはジョンが近寄るのを見て、またもやとめたが、あやうく間に合わないところだった。
「いけません、あと、もう一分か二分、あたしを愛さないで下さい、ジョン! いちばんあなたに言いたいことを、あとまわしにしといたのですから。あたしの大事な、善な、心のひろいジョン。このあいだの晩、あたしたちがこおろぎのことを話していた時、あたしはもう少しで言うところだったのよ、最初は今ほどあなたを愛していなかったって。はじめてここの家へ来た時、それまであたしが願ったり祈ったりしていたようにはあなたを愛せないんじゃないかと、いくらか不安に思っていたんです――あんまり年が若いんですものね、ジョン。ところがジョン、一日一日、一時間一時間、ますますあなたが好きでたまらなくなって来たのです。ですから、今よりもっとあなたを好きになれるものなら、けさのあなたの立派な言葉を聞いてそうなったでしょうが、でも、それは出来ません。あたしはありったけの愛情を(それはとてもたくさんあったのよ、ジョン)とうの昔に、当然それだけの資格のあるあなたにあげてしまって、もう、あげる分がなにも残っていないからです。さあ、あたしの大事な旦那さま、あなたの胸にもう一度あたしを受け取って下さい! これはあたしの家なのよ、ジョン。ですから、あたしをよそにやるなんて、決して決して思わないで下さい!」
諸君が喜びに輝くべつの小さな婦人がべつの男に抱かれるのを見たとしても、運送屋の腕の中に飛び込むちびを見た時ほどの喜びは、とても味わえないことと思う。それは諸君がこれまで見たこともない完全な、純な、心のこもった、胸迫る場面であった。
たしかに運送屋はうちょうてんの状態にあった。ちびも同様、なみいる一同も同様だった。一同の中にはスロボーイ嬢もはいっていた。彼女は嬉しさのあまり、ふんだんに泣き、自分の幼い預かり物も人々の祝詞のやりとりに加えたいと願い、飲物かなにかのように、次ぎから次ぎへとあかんぼをまわしていった。
だが、今や再び外で車輪の響がきこえ、だれかが、グラフ・アンド・タクルトンがひきかえして来た、と叫んだ。たちまちその立派な紳士は興奮し、取り乱した様子であらわれた。
「おや、これは一体どうしたというのだね、ジョン! なにかの間違いだ。わしはタクルトン夫人に教会で会おうと言っておいたんだに、たしかに、ここへ来る途中のタクルトン夫人とすれちがったんだ。ああ、ここにいた! 失礼いたします貴方、まだお名前は存じあげておりませんが、この若いご婦人をお手放し願いたいんで。このご婦人はけさ、ちょっと特別の約束がありましてな」
「しかし、僕はこの人を手放すわけにいきませんよ」と、エドワードが答えた。「そんなことは思いもよりませんね」
「なにを言う、このごろつきめ!」
と、タクルトンが言った。
「僕が言うのはね、あなたが腹を立てるのを斟酌することが出来るから」と、相手は微笑をうかべながら、「昨夜の話いっさいと同様、けさの耳ざわりな話も聞かないことにする、ということなんですよ」
タクルトンがエドワードに向けた目つきと驚愕!
「お気の毒ですが」エドワードはメイの左手を差し出し、ことにその中指を示した。「このお若い婦人はあなたのお伴をして教会へまいるわけにいきません。しかし、けさ一度もう行って来ましたから、多分あなたもこの人をご容赦くださることと思います」
タクルトンはその中指をじっと見詰めていたが、チョッキのポケットから明らかに指輪がはいっているらしい小さな銀紙を取り出した。
「スロボーイさん」と、タクルトンが言った。
「すまんが、それを火の中に放り込んでくれんかな? 有難う」
「これは先約でしてね。まったく古い約束なんですよ。そのため、僕の妻はあなたとの約束を守るわけにいかなかった次第です」
と、エドワードが説明した。
「タクルトンさんはあたしがこのことを正直に打ち明けたことや、この約束を決して忘れられませんと、何度も申上げたことは、当然、認めて下さいましょう」
と、メイは頬を染めながら言った。
「ああ、認めますとも!」と、タクルトンが言った。「たしかに。ああ、それは結構。それが本当だ。エドワード・プラマーさんのご家内、でしたな?」
「その通りです」
と、花婿が答えた。
「ああ! わしはあんたを存じあげないはずでしたな」と、タクルトンは相手の顔をじろじろと調べ、低くお辞儀をした。「おめでとう!」
「ありがとう」
タクルトンは突然、ちびが夫と共に立っているほうへ向いた。
「おかみさん、わるかったね。あんたはこれまで大してわしに親切にはしてくれなかったが、まったくすまないと思うよ。あんたはわしが考えたよりもっと良い人間だ。ジョン、すまなかったね。わしの気持が分ってくれるだろう。それで十分だ。これが本当なんです、淑女ならびに紳士諸君、申し分なしだ。さよなら!」
こう言っておし切ってしまい、自分を押し出し、戸口でちょっと立止まって馬の頭から花とリボンをはずし、自分のてはずにゆるんだねじが一つあったことを知らせる手段として、馬のあばら骨に一と蹴りくれた。
もちろんこうなると、これらの出来事を永久にピアリビングル家の暦に大宴会、大祝祭として記録するにたる一日とするのが、重大な義務となった。したがって、ちびはこの家および関係者一同に不滅の名誉をもたらすようなご馳走の用意にかかり、まもなく、えくぼのある肘まで小麦粉の中につっ込み、運送屋がそばへ来るたびにひきとめて接吻するので、運送屋の上衣は真白になってしまった。この善良な男は野菜を洗ったり、蕪の皮むきをしたり、皿を割ったり、水のいっぱいはいった鉄鍋を火の上でひっくり返したり、さまざまな手伝いぶりをした。一方、どこか近所から大急ぎで呼んで来た専門の手伝い二人は生死の瀬戸際にでもあるかのように、戸口という戸口、曲り角という曲り角で鉢合わせばかりしていたし、だれもかれも至るところでティリとあかんぼにつまずいてばかりいた。ティリが示した力は今までにないほどで、その姿あらざるところなき出没ぶりは一同の驚嘆の的であった。二時二十五分には廊下における障害物であったし、きっかり二時半には台所で罠の役をつとめ、二時三十五分には屋根部屋で陥穽になるという工合だった。あかんぼの頭はあらゆる種類の物質、動物、植物、鉱物のいわば試金石であり、その日、使用されたもので、一度はこの頭と密接な知り合いにならないものは一つもなかった。
それから、フィールディング夫人をみつけに大遠征隊が出発した。かの立派な淑女に陰気な顔で懺悔をし、必要とあらば力ずくでも連れもどり、喜んでもらい、赦してもらわんがためだった。遠征隊が最初、夫人を発見した時には、夫人はいかなる言葉にも耳を傾けようとせず、生きながらえてこの日を見ようとはと、数えきれないほどくりかえし、「さあ、わたしを墓場に運んで行ってください」と、言うほか、なにも言わせることが出来なかった。この文句は彼女が死んでいるのでも、あるいは死にそうな様子もぜんぜんないのだから馬鹿げて聞こえた。しばらくすると、おそろしく沈痛な様子になり、あのインド藍貿易に不運がひきつづいて起きた時から、わたしは一生ありとあらゆる侮辱と無礼にさらされるだろうということを見通していた、これがそれにあてはまるのが嬉しい、と言い、どうか、わたしにはおかまいなく――なぜなら、わたしが何者だというのです? おお、つまらぬ人間ですからね――こんな者が生きていることなど忘れて、わたしなど抜きにして、この世をお渡り下さいと懇願した。この刺すような皮肉な気分から、今度は腹立ちにかわり、虫けらだって踏みつけにされれば、はむかいますよ、という素晴らしい言を吐いた。その後、今度はおだやかな悔恨にかきくれて、わたしを信頼してさえくれたなら、及ぶかぎりのどんな知恵をもかさずにおかないものを! と言った。夫人のこの気分の転機を利用して、遠征隊の一行は夫人を取りかこみ、まもなく彼女は手袋をはめ、申し分ない上品な様子でジョン・ピアリビングルの家に向った。小脇には高さもこわばり加減も僧帽におとらぬ堂々たる帽子のはいった紙包をかかえていた。
それから、またべつの馬車で、ちびの父母が来ることになっていたが、たいへん遅いので、一同は心配になり、しきりに街道を眺めやった。フィールディング夫人はいつもまちがった方角の実際、来そうもないほうばかり見るので、そう注意されると、どちらを見ようと好きにさせておいて欲しいと言った。ついに二人はやって来た。肥った小柄な夫婦がちびの一家独特のこぢんまり気持よさそうにゆるゆると歩いて来た。ちびとその母親をならべたところは素敵な観物だった。二人はそっくりだったのである。
そこで、ちびの母親はメイの母親と旧交をあたためねばならなかった。メイの母親はいつも自分の上品さを頼みとしたが、ちびの母親は彼女のまめに動く小さな足しか頼みとするほかなかった。老ちびのほうは――ちびの父親をこう呼ぶのである。本当の名前は忘れてしまったが、かまうものか――勝手にふるまい、ひと目見ただけで握手をし、帽子を糊とモスリンの塊りぐらいにしか思わないらしく、インド藍貿易の意見にも少しも服さず、今となっては仕方がないと言った。そのためフィールディング夫人の概評によれば、人は好いけれど――下品ですわね、とのことだった。
私はなんとしても、婚礼衣裳をまとって歓待しているちびを見のがしたくなかった――ちびの輝く顔に祝福あれ! また、テーブルの末席に坐っている上機嫌な、顔色のよい善良な運送屋も、日に焼けた元気な水夫と美しい妻も、あるいは一同の中のだれ一人として見のがしたくなかった。この宴会をのがすことは人間がとる必要のある最も愉快な、また最も健全な食事をのがすことであり、一同が結婚式を祝して乾杯したあふれる盃をのがそうものなら、なによりの損失となったことであろう。
食後にケイレブはかの「泡立つ大杯」の歌をうたったものだ!――生きてるからには、生きたいものよ。せめて一年、二年なり――というふうに、ケイレブは終いまで歌い通した。
ついでながら、ケイレブが最後の節を歌い終った時、思いもよらないことが起きたのである。
戸を叩く音がして、一人の男が失礼致しますとも、ご免こうむってとも言わずに、なにか重そうなものを頭にのせてよろめき入って来たのである。この荷物をテーブルの中央に、くるみやリンゴのまんなかに釣合いよく置いてから、男は言った。
「タクルトン様からよろしく申しました。このお菓子は自分には用がなくなったから、皆さんで召しあがっていただけるだろうとのことでございます」
こう言うと、使いはいってしまった。
ご想像の通り、一座の人々の間に驚きがおこった。フィールディング夫人は非常に慎重な婦人なので、このお菓子には毒がはいっているのだと言い出し、わたしが知っている範囲でも、ある学校全体の若い婦人たちをまっさおにしたお菓子があると、その話を語って聞かせた。しかし、夫人も歓呼の声に圧倒されてしまい、菓子はおもおもしい作法と喜びをもってメイが切り分けた。
まだ、だれもそれを味わわないうちに、また戸を叩く音がして、同じ男が大きい茶色の紙包をかかえて再びあらわれた。
「タクルトン様からよろしく申しました。少しばかりお子さんへ玩具をよこされました。見苦しいものではありません」
この口上を伝えてしまうと、使いは再び立ち去った。
一座の者はなんと言ってその驚きを表わしてよいか、たとえ、たっぷり時間があったとしても、言葉をみつけ出すのに非常な困難を経験したことであろうが、そんな暇はなかった。使いの者が戸を閉めるか閉めないうちに、またもや叩く音がして、タクルトン自身がはいって来たのである。
「ピアリビングルのおかみさん!」と、玩具商は帽子を手にして言った。「すまなかった。けさよりも、もっとすまないと思ってますよ。ゆっくり考えてみたものでな。ジョン! わしの気性はひねくれているが、君のような男と顔をつき合わせていると、多少ともなごやかにならずにいられないよ。ケイレブ! この子守がなにも知らずに昨夜、わしにきれぎれの暗示を与えてくれたおかげで、わしは緒をみつけたのだ。わしはお前とお前の娘をわけなくわしに縛りつけるところだったと思い、お前の娘を白痴だと考えていたわし自身のほうが、なんてみじめな白痴だったろうと思うと恥かしくて顔が赤くなるよ! 皆の衆、わしの家は今夜はえらく淋しいのです。炉辺にはこおろぎ一匹いないのです。わしがみんなおどかして追っ払ってしまったからね。わしになさけをかけて下さい。この賑やかな仲間にわしも入れて下さい!」
五分後にはタクルトンはもうくつろいでいた。諸君はこんな男を見たことがあるまい。愉快になれる大きな能力がありながら、これまでそれに気づかなかったとは、いったいなにしていたのだろう! また、タクルトンにこんな変化を起させるとは、かの妖精たちがタクルトンをどうしたというのだろう!
「ジョン! あなたは今夜、あたしを里には帰さないわね?」
と、ちびがささやいた。
だが、ジョンはもう少しでそうするところだったのだ!
一座を完全にするのに一つだけ生き物が欠けていた。だが、またたく間にやって来た。一生懸命に走ったのでひどく喉をかわかし、口の狭い水差しに頭をねじ込もうとあせっていた。彼は主人がいないのでたいそう不快に思い、代理人に猛烈に反抗しながらも、旅路の果てまで荷馬車と共に行ったのだった。しばらく舎をうろうろして例の老馬に謀叛行為をおこさせ、勝手に家へ帰らせようとしたが、うまくいかなかったので、酒場へはいって行き、炉の前にねそべった。しかし、不意に、あの代理人はぺてん師だから見捨てなければならないという信念に屈し、再び起き上がると、尾を巻いて帰って来たのであった。
その晩、ダンスがおこなわれた。それがまったく独創的なダンスであり、非常に珍しい形式のものと、思われる節がなかったなら、この娯楽についてこう大ざっぱに述べるにとどめておいたのだが。それは奇妙なやり方でおこなわれた。こんな工合である。
水夫のエドワードは――善良な、無遠慮な、威勢のよい男だった――人々におうむや、鉱山や、メキシコ人や、砂金などについて、さまざまの不思議な話を語っていたが、不意に思いついた様子で席から勢いよく立ち上がり、ダンスをしようと言った。バーサの竪琴が置いてあったし、彼女は滅多に耳にすることが出来ないほどのすぐれた弾き手だからである。ちびは(勝手な時に気取り屋になるずるい小さなちび)、あたしにはもうダンスなどをする時代は過ぎたと言ったが、それというのも、運送屋が煙草をふかしており、ちびは夫のそばに坐っているのがいちばん好きだからだと、私は思うのだ。その後ではもちろんフィールディング夫人も、わたしもダンスなどする時代は過ぎたと、言うよりほかはなく、他の者もみな同じように言ったが、メイだけはべつで、ちゃんと用意が出来ていた。
そこで、拍手喝采の中をメイとエドワードは立ち上がって、二人だけで踊り出し、バーサは最も陽気な曲を弾いた。
さて! よろしいですか、二人が踊り出して五分とたたないうちに、いきなり運送屋がパイプを投げ出し、ちびの腰を抱えて部屋の中へ飛び出し、片方の足の爪先と他の足の踵を交互に床につけながら、見事に踊り出す。これを見るが早いか、タクルトンはおおいそぎでフィールディング夫人のところへ飛んで行き、その腰を抱えて先例にならう。これを見るが早いか、老ちびはぱっと立ち上がり、ちび夫人をひっさらって踊りのただなかへ飛び込み、先頭に立つ。これを見るが早いか、ケイレブはティリ・スロボーイの両手を掴んで威勢よくはじめる。スロボーイ嬢は躍起となって他の踊り手の組の間にもぐり込み、その人々と数を定めずぶつかるのこそ、ダンスの原則であると、かたく信じている。
聞け! こおろぎがなんとまあコロコロ鳴いて音楽に和していることか! また、鉄瓶がなんとブンブン歌うことか!
だが、これはどうしたことだろう! 私が楽しくそれらに耳を傾け、私の目をたいそう喜ばせてくれる小さな姿をもうひとめ見ようとちびのほうへ向いた時、ちびも他の者たちもみな空中に消えていってしまい、私はただ一人のこされているのだ。こおろぎが一匹、炉ばたで鳴いており、子供のおもちゃのこわれたのが床にころがっているばかり、ほかにはなに一つ残っていない。
あとがき
「炉ばたのこおろぎ」(The Cricket on the Hearth)の著者チャールズ・ディケンズは一八一二年、英国ポートシーに生れた。いわゆる「ヴィクトリアン・エイジ」(Victorian Age)として知られている十九世紀のイギリス繁栄の黄金時代を飾る詩人、評論家、作家のむれの中でもディケンズは代表的の巨星である。
ヴィクトリア時代は詩人ではテニソン、評論家ではマコーレイを生んだが、その最も完成された表情はディケンズと彼の小説である。一般的に見ればディケンズはヴィクトリアン・エイジの声であり、個人的に見れば、彼はあの時代のロンドンの生活と性格の産物である。
もし或る時代が或る特殊の色彩と性格を身に帯びた作家を生むとしたならば、ディケンズこそはまさにその典型的の一人と言うことが出来よう。
一八三二年にスコットが死んでから数年間はテニソン(一八〇九―一八九二)とブラウニング(一八一二―一八八九)の詩集が最も重要な書物として扱われていた。然し、やがて小説の全盛期がめぐって来た。大衆は小説を娯楽として歓迎した。作家群は大衆の関心をとらえる手段として小説を最も便利な媒体として創作に立ち向い、作品をとおして当時の社会の悪風に攻撃の矢を放った。恵まれない大衆の貧困と少数の富裕階級の贅沢と傲慢がヴィクトリアン・エイジの小説のテーマであった。目的を持つ小説――目的文学――この系列にディケンズの小説の大部分は属している。
ディケンズは驚くべき精力家であった。父親が浮き沈みの多い生活をしたので、貧苦の中で子供時代を過ごした。工場の少年職工になったり、でっち小僧をしたり、また父の経済状態が好転した時には寄宿舎に入れられたり、実にさまざまの境界を経た。それらの経験が彼の多くの作品の中に生かされている。モーニング・クロニクルという新聞の記者をしていた頃あちこちを駆けまわり、いろいろの宿屋に泊ったりしたのも後のさまざまの物語の中に出ている。
ここに訳出した「炉ばたのこおろぎ」は、「オリバー・ツイスト」や「二都物語」や「ディビッド・コパフィールド」その他数々の大作のあいだを縫ういくつかの小品の中の一篇で、「クリスマス・カロル」と共に欧米の国々で最も愛読されて来た物語である。
「クリスマス・カロル」のほかにもクリスマス・テールスと題された一連の物語集がある。これはディケンズが週刊誌「ハウスホールド・ワーヅス」(Household Words)の編集長として活躍したあいだに書いたものである。この週刊誌には当時の著名作家たちが執筆した。有名な女流作家ギャスケル夫人もこの週刊誌のために書いていた。
「炉ばたのこおろぎ」は「クリスマス・カロル」のようなクリスマス物語ではないけれども、なんとなくクリスマス的な温かさと愉しい情緒に充ちた物語として、短篇ではありながら、ディケンズの代表作の一つのようになっている。貧しい人々のあいだの助け合いの心と富の権力に屈伏しない若い恋人二人の愛情の強さ、そして遂には善意がすべての異分子に勝って人々が融和するあたり、そうした事件の動きの中で、チロチロと炉ばたで鳴いているこおろぎ、素朴で美しい人情が躍動している珠玉の名篇である。この境地を映し出すのに力の足りない自分の筆を訳者は悲しむだけである。
ディケンズ文学の二つの特長はユウモアと人物描写の巧みさにある。彼の創り出す人物には脚色過剰がしばしば見受けられるという批評をおりおり聞くことがある。そのために人物が道化師的になると言うのだが、とにかく、ロンドンを背景としたそれらの人物は、不思議なほど生き生きと読者に迫って来る。
ディケンズは笑いを愛した。彼は人々を見て彼等を笑うのでなく、人々と共に笑い興じた。彼の笑いの中にはしばしば涙の霧がまじっていた。彼の作品は涙と笑いの交流で成り立っている。光と影がそのページの上で追いつ追われつしている。彼の創り出す場面は或る時にはあまりにも劇的でありすぎる。然しながら、ディケンズはいつの時にも演技者であった。彼の俳優的素質は自分の作品のドラマティック・リーディングのためにアメリカにまで旅行させた。精力に任せて縦横に活動しすぎた彼は過労のため一八五〇年、「エドウイン・ドルード」と題する作品を未完成のまま永眠した。
さきに「クリスマス・カロル」を新潮文庫の一冊として出版したのは一九五二年秋、立太子式の時であった。今春、皇太子の御成婚を祝し、この秋再びディケンズの小品「炉ばたのこおろぎ」の翻訳を送り出すことが出来るのは、私にとってなんとなく心愉しいものがある。
一九五九年初秋 東京大森にて
村岡 花子
この作品は昭和三十四年十月新潮文庫版が刊行された。
Shincho Online Books for T-Time
炉ばたのこおろぎ
発行 2001年9月7日
著者 ディケンズ(村岡 花子 訳)
発行者 佐藤隆信
発行所 株式会社新潮社
〒162-8711 東京都新宿区矢来町71
e-mail: old-info@shinchosha.co.jp
URL: http://www.webshincho.com
ISBN4-10-861126-8 C0897
(C)Mie Muraoka 1959, Coded in Japan