目次
クリスマス・カロル
第一章 マーレイの亡霊《ぼうれい》
第二章 第一の幽霊《ゆうれい》
第三章 第二の幽霊《ゆうれい》
第四章 最後の幽霊《ゆうれい》
第五章 事の終り
解説(村岡花子)
クリスマス・カロル
第一章 マーレイの亡霊《ぼうれい》
第一にマーレイは生きていない。それについてはいささかの疑いもない。彼《かれ》の埋葬登録《まいそうとうろく》簿《ぼ》には牧師も書記も葬《そう》儀屋《ぎや》も、喪《も》主《しゅ》も署名している。スクルージも署名した。スクルージの名は取引所関係ではいかなる書きつけの上にもききめがあった。
老マーレイはドアの上の釘《くぎ》のように死にきっていた。
よく聞いていただきたい。私は何も自分の知識をひけらかして、ドアの釘を死んだものの見本として出しているのではない。私一個人の考えとしては、商品として店に出ている金物《かなもの》のうちでは棺桶《かんおけ》の釘こそは一番完全に死んでいるものだと言いたいところである。しかし、元来この比喩《ひゆ》は我々の祖先の知恵から生れ出たものである以上、私の不浄《ふじょう》の手でこれを変えるべきではない。そんなことをしたら、この国の秩序《ちつじょ》が乱れてしまう。それゆえに、みなさんも、私が語気を強めて、マーレイは戸の釘のごとくに死にきっていると繰返《くりかえ》すのをお許し願いたい。
スクルージはマーレイが死んだことを知っていたか? むろん、知っていた。知らないでいられるはずがあろうか? スクルージとマーレイとは何年とも思い出せないくらいの長い年月の仕事仲間であった。スクルージはマーレイの唯《ただ》ひとりの遺言執行人《ゆいごんしっこうにん》、遺産管理者、唯ひとりの財産譲受人《ゆずりうけにん》、唯ひとりの相続人、唯ひとりの友人だから、また唯ひとりの会葬者でもあった。そのスクルージでさえも、あまり気を落していなかった証拠《しょうこ》には、葬式の当日も抜《ぬ》け目なく商才をふるって、損の行かない取引をやりとげてその日を記念したのである。
マーレイの葬儀の話は、私を物語の発端《ほったん》へ引戻《ひきもど》して来た。さて、マーレイの死については、一点の疑いもない。このことをはっきりと了解《りょうかい》していてもらわないと、これから話そうとすることが何の不思議でもなくなってしまう。ハムレットの父親があの劇の始まる前に死んでいたということを、我々がじゅうぶんにのみこんでいなかったなら、その死んだ父親が毎晩、東風に吹《ふ》かれて自分の城の城壁《じょうへき》を散歩したことも、どこかの中年紳《しん》士《し》が臆病《おくびょう》息子《むすこ》の度《ど》肝《ぎも》を抜くために日暮《ひぐ》れどきのそよ風に吹かれながら――たとえばセント・ポール寺院の空地へでも――ふらふらと出て行ったのと一向変りはないことになる。
スクルージは老マーレイの名前を塗《ぬ》り消そうとしなかったからその後何年も入口の戸の上にスクルージ・マーレイ合名会社と残っていた。この会社はスクルージ・マーレイ合名会社でとおっていた。新しくこの店へはいって来る人々は折々スクルージをスクルージさんと呼んだりマーレイさんと呼んだりしたが、両方の名に返事をした。どっちだって同じだったのだ。
ああ、しかし、彼はひきうすを掴《つか》んだら放さないようなけち《・・》な男であった、あのスクルージは! 絞《しぼ》り取る、捻《ね》じり取る、ひっかく、かじりつく。貪欲《どんよく》な、がりがり爺《じじい》であった。堅《かた》く、鋭《するど》いことは火打石のごとく、ただし、どんな鋼鉄を持って行っても、唯の一度も火を打ち出したことはないという代物《しろもの》で、秘密を好み、交際を嫌《きら》い、かき《・・》の殻《から》のように孤《こ》独《どく》な老人であった。彼の心の中の冷たさが、年老いたその顔つきを凍《こお》らせ、尖《とが》った鼻を痺《しび》れさせ、頬《ほお》を皺《しわ》くちゃにし、歩きかたをぎごちなくさせ、眼《め》を血走らせ、薄《うす》い唇《くちびる》を蒼《あお》くした。そして耳ざわりな声で、がむしゃらに怒鳴《どな》り立てさせた。凍った白い霜《しも》が頭の上にも、眉《まゆ》毛《げ》にも、また針金のように尖った顎《あご》にもかかっていた。彼の行くところはどこにでもこの冷たさがつきまとった。真夏の暑い盛《さか》りに事務所が冷えきっていたのはいいが、クリスマスの季節になっても温度は一度だってあがらなかった。
外部の暑さも寒さもスクルージには何の影《えい》響《きょう》も及《およ》ぼさなかった。どんな暖かさも彼をあたためることはできず、どんなに寒い冬の日も彼をこごえさせることはできなかった。どんなに吹きすさぶ風も彼ほどにきびしくはなく、どんなに降りつのる雪も彼ほど一徹《いってつ》ではなく、どんなにどしゃ降りの雨も彼ほど頑《がん》固《こ》にいっさいをはじき返すことはしなかった。険悪な天候もかなわなかった。どんなに強い雨でも雪でも霰《あられ》でもみぞれでも、スクルージと比べて、たった一つの点で勝った。すなわち雨や雪や霧《きり》みぞれには気前よく「ふりかかって来る」ということがあったが、スクルージは金輪際、そんな素振《そぶ》りは見せなかった。
どんな人だって未《いま》だかつて往来で彼を呼びとめて、嬉《うれ》しそうな顔つきで、
「やあ、スクルージさん、御機《ごき》嫌《げん》いかがですか? ちとお出かけくださいませんか」
などと言ったことはない。乞《こ》食《じき》でさえも彼にびた一文ねだったことはないし、子供たちだって、今何時です? と時間ひとつ訊《たず》ねたこともなく、男でも女でも、スクルージの今までの生涯《しょうがい》のうちに、彼に向って道をきいた者はない。盲導犬《もうどうけん》でさえ、彼を見知っているらしく、彼の姿を見ると、飼主《かいぬし》を戸の蔭《かげ》や路地の奥《おく》へ引張り込《こ》んで行った。そして、
「いやな眼を持つくらいなら、まるっきり、眼のないほうが、いっそましですよ、眼の見えないご主人様」
とでも言うつもりであろうか、頻《しき》りにしっぽを振るのであった。
しかし、そんなことを何でスクルージが気にかけようか? それこそ願うところであったのだ。人情などはいっさい受けつけず、人を押《お》しのけ、突《つ》き飛ばして進んで行くのがスクルージにとってはいわゆる「会心事」であったのだ。
ある時――折もあろうにクリスマスの前夜――老スクルージは事務所で忙《いそが》しがっていた。霜《しも》枯《が》れた、寒い、噛《か》みつくような寒さの日であった。おまけに霧も深かった。外の小路では人々がぜいぜい息を切らしたり、胸に手をたたきつけたり、敷石《しきいし》に足をどたばた踏《ふ》みつけたりして、全身を温めようとしながら、あっちこっちをうろついているらしかった。市中の時計台からは今しがた三時を打ち出したばかりだのに、もうすっかり暗くなっていた――もっとも、朝から明るくはなかったのだ――隣《とな》り近所の窓にろうそくがはたはたとゆらめいて燃えているのが、手にも触《ふ》れられそうな鳶色《とびいろ》の空気の中に赤いしみ《・・》のように映っていた。
霧はどんな隙《すき》間《ま》からも鍵穴《かぎあな》からも流れ込んで来た。外の小路は実に狭《せま》いのだが、それでも向うがわの家々がぼんやりとまぼろしのようにしか見えないほどに霧は深かった。どんよりした雲が垂れさがって来て万物《ばんぶつ》を蔽《おお》いつくしてしまうのを見ていると、まるで「大自然」という存在がつい近くにいて、大《おお》仕《じ》掛《かけ》に酒をかもしているようだと思われて来るのだった。
スクルージの事務所の扉《とびら》はあけ放しになっていた。それは桶のような陰《いん》気《き》な小部屋で手紙書きをしている書記を見張れるためにあけてあったのだ。スクルージの火はきわめて小さかったが、書記の火はそれよりもなおいっそう小さくて、まるでたった一かけらの石炭の火ぐらいにしか見えなかった。しかし、石《せき》炭箱《たんばこ》はスクルージの部屋に置いてあるので、つぎ足すことができない。書記が十能《じゅうのう》を持ってそっちへはいって行ったが最後、スクルージは、どうも君とは一緒《いっしょ》にやって行けそうもないと言うにきまっている。それが恐《おそ》ろしさに、書記は白い襟巻《えりまき》をぐいと首に巻きつけ、ろうそくの焔《ほのお》で暖まろうともしてみるのだが、元来が想像力のない男に生れついているので、こんな試みは一向に役に立たなかった。
「クリスマスおめでとう、伯父《おじ》さん!」と呼ぶ快活な声がきこえた。これはスクルージの甥《おい》で、大急ぎでスクルージのところへ不意打ちに出かけて来たので、スクルージはその声を聞くまで甥の来たことに気がつかなかった。
「へん、ばかばかしい!」とスクルージは言った。
霧と霜の中を馳《か》け足でやって来たので、スクルージのこの甥は全身をほてらせ、顔は赤く眼は美しく輝《かがや》き、吐《は》く息は白い煙《けむり》を立てていた。
「クリスマスがばかばかしいなんて、伯父さん!」とスクルージの甥は言った。「まさか、本気でおっしゃったんじゃないでしょうね?」
「ああ、本気だともさ。何がクリスマスおめでとうだ! 何の権利があってお前がめでたがるのかってことよ。貧乏人《びんぼうにん》のくせに」
「さあ機嫌を直して」と甥は元気よく言った。「伯父さんが機嫌をわるくしている権利はどこにあるんですか? 機嫌をわるくするわけがどこにあるかっていうんですよ? それだけの金持だったら不足はないでしょうにさ」
スクルージはうまい返事ができなかったので、とりあえず、また、
「ばかばかしい!」と言った。
「伯父さん、そうぷりぷりするんじゃありませんよ」と甥が言った。
「ぷりぷりせずにいられるかい」と伯父がやり返した。
「こんなばかものばかりの世の中にいてさ、クリスマスおめでとうだとよ。クリスマスおめでとうはやめてくれ! お前なんかにとっては、クリスマスはな、金もありもしないのに勘定書《かんじょうがき》が来る季節じゃないか。年こそ一つふえるけれど、その一時間分だって金がふえるわけじゃないじゃないか。帳簿を全部引合わせたところで、十二カ月のどこをどう押しても損ばっかりだということがはっきり分る時じゃないか。俺《おれ》の思う通りになるんだったら」とスクルージはますます憤然《ふんぜん》として、「おれの思う通りになるんだったら、クリスマスおめでとうなんて寝《ね》言《ごと》を並《なら》べるのろまどもは、そいつらの家でこしらえてるプディングの中へ一緒に煮込《にこ》んで、心臓にひいらぎの枝《えだ》をぶっとおして、地面の中へ埋《う》めちまいたいよ。ぜひともそうしてやりたいよ」
「伯父さん!」と甥がさえぎった。
「甥よ!」伯父はつっけんどんに呼び返した。
「お前はお前の流儀でクリスマスを祝いなさい。俺は俺の流儀で祝うから」
「祝うんですって!」
とスクルージの甥は今の言葉を繰返した。
「伯父さんのは祝うってことじゃないじゃないですか?」
「俺にかまわないでくれ」とスクルージは言った。
「お前にゃいいクリスマスだろうよ。今までにだって相当役に立ったことなんだろうからな」
「金儲《かねもう》けにはならなくても役に立つことはたくさんありますよ。クリスマスがいい例ですよ」
と甥はやり返した。
「僕《ぼく》はクリスマスがめぐって来るごとに――その名前といわれのありがたさは別としても、……もっとも、それを別にして考えられるかどうかはわからないけれど――とにかくクリスマスはめでたいと思うんですよ。親切な気持になって人を赦《ゆる》してやり、情ぶかくなる楽しい時節ですよ。男も女もみんな隔《へだ》てなく心を打明け合って、自分らより目下の者たちを見てもお互《たが》いみんなが同じ墓場への旅の道づれだと思って、行先のちがう赤の他人だとは思わないなんて時は、一年の長い暦《こよみ》をめくって行く間にまったくクリスマスの時だけだと思いますよ。ですからね、伯父さん、僕はクリスマスで金貨や銀貨の一枚だって儲けたわけじゃありませんが、やっぱり僕のためにはクリスマスは功《く》徳《どく》があったと思いますし、これから後も功徳はあると思いますね。そこで僕は神様のおめぐみがクリスマスの上に絶えないようにと言いますよ!」
桶のような小部屋にいた書記は思わず拍手《はくしゅ》をしたが、直《す》ぐそのあとではっ《・・》としたらしくあわてて火をつつきまわしたばかりに、最後の火種を消してしまった。
「もう一遍《いっぺん》そんな音を立ててみろ、失業クリスマスを祝わせてやるから」と言っておいて、今度は甥の方へ向き直り、「お前はなかなか口達者だよ、議員にならないのが不思議だな」
「伯父さん、そう腹を立てないでください。どうか明日食事に来てくださいな」
スクルージは対面しようと言った――まったくその通り言った――その通りの言いかたで、そんなところへ行くよりいっそ、地《じ》獄《ごく》で対面しようとまで言った。
「なぜなんです? なぜなんです?」とスクルージの甥は言った。
「お前はどういうわけで結婚《けっこん》したんだい?」とスクルージが訊ねた。
「相手を好きになったからですよ」
「好きになったからだって!」と、スクルージは、この世の中でクリスマスがめでたいということに輪をかけたばかばかしいことは、これ一つだと言わんばかりにいきり立って、
「さよなら」と言った。
「いや、伯父さん、僕の結婚以前だって来てくだすったことはないじゃありませんか。今さら、そのために来られないってことはありますまいがね」
「さよならだよ」とスクルージは言った。
「何でそんなに頑固にするんだか、僕はしんそこから悲しくなりますよ。今までに一度だって喧《けん》嘩《か》をしたわけじゃなし。僕はクリスマスを祝いたい一心でお招きしてるんですよ、だから、最後までクリスマスの気分はなくしません。伯父さん、クリスマスおめでとう!」
「さよならだよ!」とスクルージが言った。
「ついでに新年おめでとう!」
「さよならだよ!」とスクルージは言った。
けれども甥は一言の荒《あら》い言葉も返さずに出て行った。表側の戸口のところで足をとめて書記にクリスマスの挨拶《あいさつ》をした。全身冷えきってはいたが心はスクルージより遥《はる》かに温かだったから、丁寧《ていねい》に挨拶を返した。
「もう一人ばかものがいらあ」
聞きつけたスクルージはこうつぶやいた。
「一週十五シリングで女房《にょうぼう》子供を養ってる俺の書記が何でクリスマスがめでたいんだ。精神病院へでも逃《に》げ込みたくなるよ」
この頭のおかしい書記はスクルージの甥を送り出すと、入れちがいに二人の客を招じ入れた。見るからに気持のいい、肥《ふと》った紳士だった。帽《ぼう》子《し》をぬいでスクルージの事務室に立って一礼した。
「スクルージ・マーレイ商会でございましたね?」と手に持った帳簿と照らし合わせながら一人の紳士が問いかけた。
「失礼ですが、スクルージさんでしょうか、マーレイさんでしょうか? どちら様とお会いしているのでしょう?」
「マーレイが死んでから七年になりますよ。ちょうど七年前の今夜亡《な》くなりました」とスクルージが答えた。
「マーレイさんの御親切なお気持は、あとにお残りのあなたにも伝わっているものと私どもは考えておりますのでな」と言いながら、紳士は寄付金申込書を差出した。
それに間《ま》違《ちが》いはない。彼《かれ》ら二人の精神はまったく一《いっ》致《ち》していた。「親切」という薄気味わるい言葉にスクルージは顔をしかめ、頭を振って申込書を返した。
「一年のうちで、この祝いの季節にですな、スクルージさん」
と言いながら、紳士はペンを取った。
「現在、非常に難渋《なんじゅう》している貧困者や身寄のない者たちの生活を、我々がいくぶんなりとも助けることは、平生よりもいっそう必要だと思います。何十万という人間が、何の慰《い》安《あん》もない生活にあえいでいるのですよ、あなた」
「監獄《かんごく》はないんですかね?」
とスクルージが訊ねた。
「たくさんありますよ」と紳士がペンを下に置きながら答えるのを追いかけるように、
「それから救貧院は? 今でもやっていますか」とスクルージはたたみかけてたずねた。
「やっています、今でも」と紳士は答えた。「もはややっていないと申上げたいところですが」
「じゃあ、救貧院も監獄も立派に活用されているんですね?」とスクルージは言った。
「どちらも盛《さか》んにしています」
「おお! あなたの最初のお話ではそんなものが全部駄目《だめ》になったのかと思いましたが、それで大安心しました」とスクルージが言った。
「それだけでは、大多数の人々にクリスマスの喜びを与《あた》えることはできないと考えますので我々数人の有志の者たちが計りまして、貧しい人々に肉や飲みものや燃料を贈《おく》る資金の募集《ぼしゅう》で目下大わらわです。我々がこのクリスマスの季節を選びましたのは、今が一番生活費のかさむ時で苦しい最中ですのと、一方には裕福《ゆうふく》な人々が特に生活を楽しもうとしている時だからです。で、御寄付はいかほどといたしておきましょうか?」
「私の名は記帳しないでください」
「ははあ、すると、匿名《とくめい》を御希望でいらっしゃいますか?」
「いや、うっちゃっといてください、ほっといてもらいたいのが希望です、私は牢《ろう》屋《や》や救貧院のために税金を出しています――その税金だって相当なものになってますよ。暮《くら》せない奴《やつ》らはそっちへ行けばいいですよ」
「そうおっしゃいますが、はいりたがっている者たち全部を収容しきれませんし、第一、はいりたがらない人が多いのです。そんなところへ行くくらいなら死んだ方がましだと思っている連中も大勢あります」
「死にたい奴らは死なせたらいいさ。そうして余計な人口を減らすんだな。それに――失礼だが――どうも私には分らない」
「分ってくだすってもいいはずですがね」と紳《しん》士《し》は言った。
「私に関係したことじゃありませんよ」とスクルージははねつけた。「自分の仕事さえ承知してりゃ、じゅうぶんですよ。他人のことに干渉《かんしょう》するどころか、自分の仕事で年中手いっぱいです。じゃあ、さよなら、お二人さん」
いつまでかかり合っても無駄だと知ったので紳士たちは退却《たいきゃく》した。スクルージはひどく得意になり、いつにない上機で再び仕事にかかった。
その間にも霧《きり》と闇《やみ》はますます深く立ちこめて来たので、ゆらゆらと燃えあがる松明《たいまつ》をかかげた人々が立ちはだかって、道案内に雇《やと》ってもらいたいとわめいていた。教会の古《こ》塔《とう》にはどら声の古鐘《ふるがね》がさがり、ゴシック式の窓から、ずるそうな表情で、スクルージを見おろしているのだが、やがてその塔も見えなくなり、霧の中で一時間毎《ごと》に、また十五分毎に、時を告げる音だけが余《よ》韻《いん》を残して空気を震《ふる》わせているのが、まるで頭が凍《こま》って歯をがちがちさせているようであった。寒さはいよいよつのった。大通りでは路地のかどで、いくたりかの工夫がガス管の修理をしていて、盛んに火《ひ》鉢《ばち》に火を燃やしていたのでそのまわりには、ぼろをまとった男たちや子供らが寄って来て手をあぶりながら、燃えさかる焔で眼《め》をぱちぱちさせて有頂天《うちょうてん》になっていた。水道栓《すいどうせん》はあけっぱなしになっていたから、溢《あふ》れ出る水は見る見るうちに凍りついてゆくのが味気ないようだった。明るい店さきでは飾《かざ》り窓のランプの熱で、ひいらぎの小枝や実がパチパチ裂《さ》けており、道ゆく人々の青白い顔も真《まっ》赤《か》に照らし出された。
鳥屋と食料品店の商売はおもしろおかしい冗談《じょうだん》ごとのようになり取引だとか売買だとかいう、生真面目《きまじめ》な事務がこんな華《はな》やかなみせものと何のつながりがあろうかと思われるほどだった。
市長閣《かっ》下《か》は宏荘《こうそう》な官邸《かんてい》に立てこもって、五十人の料理方と膳《ぜん》部《ぶ》係《がか》りに、市長邸として恥《は》ずかしくないクリスマスの食卓《しょくたく》を作るようにと命じた。また、前週の月曜日に酔《よ》っぱらって往来で血なまぐさい騒《さわ》ぎを演じた廉《かど》で、罰《ばっ》金《きん》五シリングに処せられた小《こ》柄《がら》の仕立屋でさえ、屋根裏の部屋で明日のプディングをかきまわし、痩《や》せっぽちの女房は赤ん坊《ぼう》を連れて牛肉買いに馳け出して行った。
霧はいよいよ深く、寒気はますますつのる。刺《さ》すような、えぐるような、噛《か》みつくような寒さだ。もしあの善良な聖ダンスタンが例の武器の代りにこのような寒気で悪《あく》魔《ま》の鼻をつまんだとしたら、さすがの悪魔も大声あげてわめくことであったろう。あるかないかの低い鼻の持主が、犬に噛まれた骨のように、飢《う》えと寒さに噛まれ、しゃぶられながら、身をかがめて、スクルージの店の鍵穴をのぞき、クリスマスの歌を耳から饗応《きょうおう》しようとしたが、
神の恵《めぐ》みはゆたかなれ愉《ゆ》快《かい》な紳士よ、
何の不幸もあなたには来ぬように!
と歌いかけるや、スクルージは恐ろしいけんまくでものさしを掴《つか》んだので、唄《うた》い手は震えあがり、鍵の穴からは霧や、また、霧よりもさらにスクルージとはよく性分《しょうぶん》の合った霜《しも》の、入り込むままに任せて、逃げ出した。
やっと事務所の戸をしめる時刻が来た。スクルージは不本意ながら腰掛《こしかけ》からおりた。そして待機していた書記に、眼であいずした。書記はたちまちろうそくを消して帽子をかぶった。
「明日は一日休みたいんだろうね?」
とスクルージは言った。
「そちら様の御都《ごつ》合《ごう》がよろしければ」
「都合はよくないよ」
とスクルージは言った。
「それに割のわるい話さ。そのために給料を半クラウンも引こうものなら、君は酷《ひど》い目に遭《あ》ったと言って大騒ぎするだろうからな。きっと」
書記は弱々しくほほえんだ。
「そのくせ、俺の方じゃ君が仕事もしないのに一日分の給料を払《はら》うんだが、俺が酷い目に遭ってるとは、君は考えないだろう」
書記は一年にたった一度のことだと言った。
「毎年十二月二十五日に他人の懐中物《かいちゅうもの》を掏《す》り取ることにきめてる者にしちゃあ、まずい言いわけだよ」とスクルージは外套《がいとう》のボタンを顎《あご》までかけながら言った。
「丸一日休まなけりゃ気が済まんのだろう。じゃあ、その次の朝はそのぶん早く出て来るんだぞ」
書記はそうしましょうと約束《やくそく》した。スクルージはぶつぶつ小言を言いながら出て行った。事務所は瞬《またた》く間に閉ざされた。書記は白い襟《えり》巻《まき》の長い両はしを腰の下までぶらぶら垂らしながら(彼は外套なんか持っていなかった)、クリスマス・イブを祝う意味で、子供たちのあとについて、コンヒルの街路上を二十ぺんも滑《すべ》り、それから、眼《め》隠《かく》し鬼《おに》の遊びをしようと思って、カムデンの我《わ》が家《や》へと宙を飛んで帰った。
スクルージは行きつけの不景気な居酒屋でいつもの通りの不景気な食事を済まし、ありったけの新聞を読みつくしたあとは、銀行の通帳を出して眺《なが》めていたが、やがて我が住居へと寝に帰った。彼は死んだマーレイの部屋に住んでいた。ある中庭に建っている低い建物の中の暗い一組の部屋だったが、その建物がそこにあることがすでに不似合で、たとえて言ったなら、この家がまだ子供だった頃《ころ》、ほかの家々と隠れんぼ遊びをしてここへ走り込んだまま、出口を忘れてしまったのではないかと想像したくなるほど、この辺にこの建物は不似合なものであった。今ではまったく古びてもの凄《すご》いようだった。スクルージよりほかには誰《だれ》も住んでいない。ほかの部屋は全部貸事務所にしてあった。庭の暗いことと言ったら、一つ一つの石の所在まで知っていたスクルージでさえ手さぐりをもしかねないほどだった。霧と霜が、古びた玄関《げんかん》のあたりをすっかり包んでしまっていたので、それはあたかも天候を司《つかさど》る神がしきいの上に腰を据《す》えて、じっと悲しい物思いにふけってでもいるかのようだ。
さて、戸の把手《ノッカー》は図抜《ずぬ》けて大きかった以外には、何一つ変ったところはなかった。またスクルージはそこに住まって以来、夜も昼もそれを見慣れていたということも事実である。その上に、スクルージは空想などというものはまったく持ち合わせていなかった。その点はロンドン市中のいかなる人にも――と言うと、――大胆《だいたん》な言い分ではあるが――法人だろうが、市参事会員だろうが、公《こう》吏《り》であろうが、誰にも引けは取らなかった。また、スクルージはその午後、七年前に死んだ仲間のことに触《ふ》れはしたものの、それぎりでマーレイの記《き》憶《おく》は念頭を去ったことも、心に留《と》めておいていただきたい。しかるに、スクルージがその戸の錠前《じょうまえ》に鍵《かぎ》をねじ込んだとたんに把手《ノッカー》がマーレイの顔に見えたのはいったいどうしたことであろうか、説明のできる人があったら聞かせていただきたい。
マーレイの顔。それは中庭にあるほかの物体のように、ぼんやりとしているのではなくて、暗い穴蔵《あなぐら》の中の腐《くさ》ったえびのように、そのまわりに不気味な光を持っていた。怒《おこ》っているのでもなければ、凶猛《きょうもう》な顔でもない、ありし日のマーレイそっくりの顔付で幽霊《ゆうれい》のような額に幽霊のような眼鏡をのせて、スクルージの方を見つめている。髪《かみ》の毛は微風《そよかぜ》か熱気にでも当っていたかのように奇妙《きみょう》に逆立ち、眼は大きくみひらいたままで、まったく動かなかった。それと、まっさおな顔色とで、もの凄い形相になっていた。けれども、そのもの凄さは顔だけから来るのではなく、顔の表情の一部分だというよりも、むしろ顔とはまったく関係のないところから来ているように思われた。
スクルージはじっとこの変《へん》化《げ》に眼を凝《こ》らした。ところがそれはまた元の把手《ノッカー》になっていた。彼がびくともしなかったとか、幼い時から恐《おそ》れを知らぬ性質だから、今もその通りだったとか言うなら、それは嘘《うそ》であろう。しかしながら、彼はいったん手をはなした鍵を持ち直して、しっかりと回し中へはいってろうそくをつけた。
彼は戸を閉める前に、ちょっと手を休めた。そして最初に戸のうしろをしらべた。けれども、戸のうしろには把手《ノッカー》を留めてあるねじとねじどめよりほかには何にもなかった。それで、
「ふん、ばかばかしい!」
と、言いながら、音を立ててドアを閉めた。
その響《ひびき》が雷《かみなり》のように家中に響き渡《わた》った。階上のどの部屋でも、地下室の酒屋の酒樽《さかだる》も、一つ一つ別々の反響《はんきょう》を立てているように思われた。スクルージは反響に怯《おび》えるような男ではなかった。彼はしっかりと戸を閉め、広い廊《ろう》下《か》を横切り、階段を上って行った。それもろうそくのしん《・・》を切りながら、緩《ゆる》やかな足取りでのぼったのだ。
六頭立ての馬車で古びた階段をあがると言ってもいい、それとも新しく国会を通過した悪法令をくぐり抜けるとでも言おうか、どうも漠然《ばくぜん》とした言いかただが、私の意味は、霊《れい》柩車《きゅうしゃ》を横に倒《たお》して棒を壁《かべ》に向け、棺《ひつぎ》の戸を手すりの方に向けてさえも、容易に通れるということである。それほどじゅうぶんな広さがあった。
機関車をつけた棺が闇の中で自分の前を通るのを見たようにスクルージが思ったのも、あるいはこの場所の広さのためかもしれない。街路につけてあった六個のガス灯の光も、この家の入口をじゅうぶんには照らしはしなかった。こういうわけだから、スクルージのろうそくではかなり暗かったことは誰にも想像できるであろう。
スクルージはそんなことには一向構わずに上って行った。重い扉《とびら》を閉める前に、部屋部屋を歩きまわって何事もなかったのを確めた。そんなことをやりたくなる程度には、さっきのマーレイの顔の記憶が残っていたからであった。
居間、寝部屋《ねべや》、物置。もちろん何の変りもなかった。テーブルの下、長《なが》椅子《いす》の下にも誰もいなかった。暖《だん》炉《ろ》には少しばかりの火があった。スプーンも皿《さら》も用意してあった。そして小さな粥《かゆ》の鍋《なべ》が炉《ろ》棚《だな》に載《の》っていた(スクルージは鼻っかぜを引いていた)。寝台《しんだい》の下にも押入《おしいれ》の中にも誰もいなかった。怪《あや》しげなぐあいに壁にかかっていたねまきの中にも誰もかくれてはいなかった。物置部屋もいつもの通りで、古いストーブの金網《かなあみ》と古靴《ふるぐつ》と二個の魚篭《びく》と三本足の洗面台と、そのほかに火《ひ》掻棒《かきぼう》があった。
スクルージはすっかり安心して中から錠をおろした。
それもいつになく二重錠をおろした。このように用心をしながらネクタイを外し、ねまきに替《か》え、スリッパをはき、ナイトキャップをかぶったところで、火の前に坐《すわ》って粥を啜《すす》ろうとした。
それは実に弱い火であった。のしかかるようにしていなければ、こんな寒い晩にこんな一つまみの火からは、暖かさのまねごとをも引出すことはできなかった。その暖炉は古いもので、ずっと以前に、オランダのある商人が作った品で、まわり一面に聖書の物語を絵模様にした珍《めずら》しいオランダ・タイルが敷《し》きつめてあった。
カインやアベルや、ファラオの娘《むすめ》たちや、シバの女王や、はねぶとんのような雲に乗って空からくだって来る天使たちや、アブラハムやベルシャザルやソース入れのような舟に乗って海へ行くキリストの弟子《でし》たちやそのほか幾《いく》百人もの人物が描《えが》かれていた。それだのに、七年も前に死んだマーレイの顔があらわれて、昔《むかし》の預言者の杖《つえ》のようにそれらいにしえの人々の顔を全部呑《の》んでしまった。もし、一枚一枚のなめらかなタイルに最初何も描かれていず、スクルージの頭の中の脈絡《みゃくらく》のない断片《だんぺん》的な思想で何か描き出す力が与えられていたとしたら、そのタイル全部にはマーレイの顔があらわれたことであろう。
「ばかばかしい!」とスクルージは言った。
そして部屋の中を歩いた。
数回歩きまわってから再び腰をおろした。椅子の背に頭をもたせようとした時、ふと一つの呼鈴《よびりん》、使ってない呼鈴が部屋にぶらさがっているのが眼についた。これはもう今では何のためか忘れられたが、その建物の一番上の部屋との連絡のためだった。ところが、驚《おどろ》いたも驚いた、奇《き》怪《かい》千万《せんばん》にも、見ていると、この呼鈴が動き始めた。最初は音も立てないほど、かすかにゆれたが、やがて、音高く鳴り出したかと思うと家中の呼鈴がいっせいに鳴り出した。
これは三十秒か一分も続いただろうか。しかし、一時間ぐらいの長さに感じられた。呼鈴は鳴り始めがいっせいであったように、止《や》む時にも、いっせいに鳴りやんだ。すると、今度は階下のずっと下の方にカランカランという音、ちょうど誰かが酒屋の穴倉の中にある酒樽の上を、重い鎖《くさり》でも引きずって歩いているような音が、それに続いた。スクルージは化物屋敷の幽霊どもが鎖を引きずって出るとか聞いていたのを思い出した。
穴倉の戸がガアーンと音を立てて開いた。と思うと、それよりもさらにずっと大きな物音が階下できこえた。階段をのぼって来る、そして直《す》ぐまた戸口の方へ進んで来る。
「ばかばかしい! 信じるものか」とスクルージは言った。けれども、それが一直線に重い戸を通り抜けて、部屋へはいって来て、彼《かれ》の眼の前に現われた時には、さすがに顔色が変った。同時に、消えかかっていたろうそくの火がぱっと燃えあがった。あたかも「知ってる。マーレイの幽霊だ!」と言うようだった、そしてまた暗くなった。
同じ顔、まぎれもない同じ顔であった。長い髪をして、チョッキもズボンも長靴もいつものままのマーレイであった。長靴のふさは、長髪《ちょうはつ》や上衣《うわぎ》の裾《すそ》と同じように逆立っていた。長い鎖が腰のまわりにからみついてしっぽのように、ぐるぐる巻きついていた。それは、(スクルージはこまかく観察したが)銭箱《ぜにばこ》や鍵や錠前や台帳や証券や鋼鉄製の重い財《さい》布《ふ》でできていた。幽霊の身体《からだ》は透明《とうめい》だったので、じいっと見ているうちに、チョッキの上のコートの背後の二つのボタンまで見とおした。スクルージはマーレイにははらわた《・・・・》がないとのことをしばしば聞いていたが、今まで信じなかった。今だって信じなかった。幽霊をよくよく見て、それが自分の前に立っているのをもみとめたし、死そのもののような冷たい眼で見詰《みつ》められて水をあびせかけられたようにも感じた。また、それまでは気がつかなかったのだが、頭から顎へかけてかぶっている頬《ほお》かぶりのネッカチーフの織目までも見分けられたけれども、なお彼は信じないで、自分の見そこないだと思おうとした。
「どうしたって言うんだ? 私に何の用があるんだね?」とスクルージは持ちまえの皮肉な調子で言った。
「大《おお》ありだよ」――まさしくマーレイの声である。
「お前は誰だ?」
「誰だった《・・・》かと訊《き》くんだよ」
「じゃ、誰だったんだ?」とスクルージは声を高めて、「いやに几帳面《きちょうめん》だね、化物のくせに」影《かげ》ほどの相《そう》違《い》にと言おうとしたのだが、この方が適切だと思って「化物のくせに」と言った。
「娑《しゃ》婆《ば》にいた時分はお前の仲間だったジェイコブ・マーレイだよ」
「お前さんは――お前さんは腰かけられるかね?」
とスクルージは心配そうに相手を見ながら言った。
「かけられるよ」
「じゃ、おかけなさい」スクルージはこのように透明な幽霊が椅子にかけられるかしらと不安に思い、もしかけられない場合には気まずい弁解をしなければならないだろうと心配したからであるが、幽霊は馴《な》れきった様子で暖炉のむこう側に腰をおろした。
「お前は私を信じないね」と幽霊が言った。
「信じないよ」とスクルージは答えた。
「お前の感覚よりほかに私の正体についての証拠《しょうこ》はないじゃないか」
「分らないね」とスクルージは言った。
「お前さんは何だって自分の感覚を疑うんだ?」
「感覚なんてものは、ちょっとしたことで狂《くる》うからさ。ほんのちょっと胃袋《いぶくろ》のぐあいがわるくても、感覚が狂って来るよ。お前さんはこなれきれなかったひときれの牛肉かもしれないし、一たらしのからしか、一きれのチーズか、なまにえのじゃがいも一個かもしれない。いずれにしてもお前さんはグレーヴ(墓)よりもグレーヴィ(肉汁《にくじゅう》)の方に縁《えん》がありそうだよ」とスクルージは言った。
スクルージはしゃれ《・・・》など言える柄《がら》ではなかった。それにこの際ふざけるどころの気分ではなかったのだが、自分の気をまぎらし、恐《きょう》怖《ふ》の念を抑《おさ》えつけたいばかりに巧《うま》いことを言おうとしたのだ。幽霊の声は骨の髄《ずい》まで浸《し》み込《こ》んで来るように感じられた。
一秒間でも無言でその幽霊のぎょろりと据《す》わった眼とにらみ合っていたら身の破《は》滅《めつ》だとスクルージは感じた。幽霊には幽霊独特の冥《めい》土《ど》の雰《ふん》囲気《いき》がこもっているので非常にものすごいところがあった。スクルージにはそれを的確に感じ取ることはできなかったが、事実はその通りだったのだ。その証拠には、まったく身動きもせずに腰掛けているのに、幽霊氏の髪の毛や裾やふさは釜《かま》からでものぼる熱い蒸気にでも煽《あお》り立てられているように動いていた。
「この爪楊《つまよう》枝《じ》が見えるかね?」スクルージは今述べたような理由からと、たとえ一秒間でもこの幽霊の冷たい視線からのがれたい一心で、こんな問を出した。
「見えるさ」と幽霊は答えた。
「だって、ちっとも見ちゃいないじゃないか」とスクルージが言った。
「それでも見えるんだよ、見ていなくてもね」と幽霊が言った。
「じゃあ、これを呑み込みさえすりゃいいんだ。そしてこれから先の一生を、自分で作り出した数限りもない怪物どもに悩《なや》まされようてんだ。ばかばかしい! 実際、ばかばかしいことだ!」
これを聞くと幽霊はすさまじい叫《さけ》びをあげて気味のわるい、ぞっとするような音を立てて鎖をゆすぶった。
スクルージは気を失っては大変と、自分の椅子にしがみついた。
けれど、幽霊が部屋の中の熱さに我《が》慢《まん》できないといったようなぐあいに、頭に巻いてあるものを取りのけた途《と》端《たん》に、その下顎が胸の辺までぶらさがっているのを見た時の彼の恐怖は、なおいっそうひどいものだった。
スクルージはひざまずいて、幽霊の眼の前に手を合わせた。
「お助けください! 恐ろしい幽霊さま、どういうわけで、私をお苦しめになるのですか」と言った。
「世俗一点張りの男よ!」と幽霊は答えた。
「お前は私を信ずるか、どうか?」
「信じます」とスクルージは言った。
「信じないわけには行きません。けれど、何で幽霊たちが、この世へ出歩いたり、また私の所へなんかやって来たりするのですか?」
「誰しも人間となれば、その中の霊魂《れいこん》が、同《どう》胞《ほう》の間を歩きまわり、あちこちとあまねく旅行しなければならないように定まっているのだ。もし生きているうちに出て歩かなければ、死んでからそうしなければならないのが運命なのだ。世界中をさまよい歩いて――ああ、なさけないことだ――そして今はもうどうすることもできないで、生前に自分が助けてやることもできた人たちを眺めていなければならないとは!」と幽霊は答えた。
幽霊は再び叫び声をあげ、鎖を揺《ゆ》り動かし、影のような手を振《ふ》った。
「鎖につながれておいでなのは、どういうわけか、お話しください」とスクルージはふるえながら言った。
「これは生きている時に自分で作った鎖なんだ。それに今つながれているんだ」と、幽霊が答えた。
「鎖の環《わ》の一つずつ一つずつ、一ヤールまた一ヤールを、我とわが手で作ったのだ。私はその鎖を自分から進んで身に巻きつけたのだ。自分で好んで身にかけたのだ。この鎖の型はお前さんには見覚えのないものかね?」
スクルージはますます震《ふる》えおののいた。
「それともお前さんは自分で巻きつけている頑丈《がんじょう》な鎖の重みと長さを知りたいのかね? 七年前のクリスマス・イブにはお前さんのも私の鎖と同じほどの重さであり、長さも同じだったが、あれから引続きせっせと骨折って太くしているんだから、今では途方もなく大きな鎖になってることだろうな!」
スクルージは自分が五十尋《ひろ》も六十尋《ひろ》もある鉄の鎖で巻きつかれているのではないかという気がして、自分の周囲の床《ゆか》の上を見まわした。
「ジェイコブ」とスクルージは哀願《あいがん》した。「ジェイコブ・マーレイ爺《じい》さんよ、もっと話してくれ。私に慰《なぐさ》めになることを話してくれ」
「私には何にもやるものはない」と幽霊は答えた。「慰めなんてものは、ほかの世界から来るものだ、エブニゼル・スクルージよ、それはな、おれたちなんかよりもっと、たち《・・》の違《ちが》った人間のところへ、ほかの使いが持ってくるんだ。それにな、私は話したいと思うことも話すのを禁じられているんだ。私にはもうほんのわずかの時間しか許されていない。私は休むこともできないし、足をとめてることもできない。ぶらぶらしていることもできない。私の魂《たましい》は我々の勘定場《かんじょうば》から外へは一歩も出たことがなかった――いいかね――在世中には私の魂はあのせまっ苦しい両替口《りょうがえぐち》から外へは出たことはなかったのだ。これから先には長い、つらい旅が待っているのさ」
スクルージは思案に暮《く》れる時にはポケットへ手を入れる癖《くせ》があった。今も幽霊《ゆうれい》の言ったことを心に噛《か》みしめながら、眼《め》もあげず立ち上りもせず、そのようにした。「ずいぶんゆっくりとした旅らしいですね、ジェイコブ」とスクルージは尊敬と謙譲《けんじょう》は失っていなかったが、商売的な様子で言った。
「ゆっくりだ!」と幽霊も繰返《くりかえ》した。
「死んでから七年」とスクルージは思い入った調子で言った。「その七年間、ずっと旅のしつづけとはねえ!」
「ずっとだ」と幽霊が言った。「休みもなく、安心もなく、悔《く》いの心にさいなまれ通しだ」
「足は早いですか?」とスクルージは言った。
「風の翼《つばさ》に乗ってな」と幽霊が答えた。
「七年間にはよほど広く歩いたでしょうな?」
幽霊はこれを聞くとまたもや叫び声をあげ、夜の沈黙《ちんもく》を破る恐《おそ》ろしい響とともに鎖をひとゆすりした。夜警が安眠妨害《ぼうがい》として告発しても差支《さしつか》えなかろうと思われる音だった。
「おお! 二重の鎖をかけられて縛《しば》られた虜《とりこ》よ」と幽霊は叫んだ。「不滅の偉《い》人《じん》たちが長い年代にわたってこの世のためにたゆまぬ努力を続けているにもかかわらず、その効果が完全にあらわれないうちに永遠の中へ去ってしまわねばならないことを知らないのか。いやしくも、それぞれの置かれた小さな範《はん》囲《い》内《ない》で、いかなることのためであろうと、熱心に力をつくしているキリスト教的精神の持主であるならば、さまざまの有益なことをするためには人間の生命は余りにも短かすぎると思うはずだということを知らないのか。また、一人の人間が失った機会はいかほど後悔《こうかい》しても取り返しはつかぬということを知らずにいるのだ。だが、私もそうだったのだ。おお!私もそうだったのだ!」
「だが、ジェイコブ、お前さんは商売上手だったじゃないか」スクルージはどもり気味に言って、言いながらこれを自分に当てはめて考え始めた。
「商売だって!」幽霊はまたもや手をもみしぼりながら叫んだ。「人類の問題が私の商売だったのだ。公益が商売のはずだったんだ。慈《じ》善《ぜん》、あわれみ、寛大《かんだい》、慈悲、これがみんな私の商売だったはずだ。私のやってた取引なんかはこういう仕事の大海の中ではわずか一滴《てき》の水にも足りなかったんだ!」
幽霊はあたかもその鎖が今さら悔いても返らぬすべての嘆《なげ》きの原因ででもあるかのように、それを腕《うで》の伸《の》びるだけ高く差し上げてみたが、また再び下へずしんと投げつけた。
「めぐりゆく一年の中で今のこの季節に私は一番苦しむのだ。なぜ私は気の毒な人たちをかまわずに通り過ぎたのだろう? 東の国の博士たちをみすぼらしいあばらやへ導いて行ったあのありがたい星をなぜ見上げなかったのだろう? その星に導かれて訪ねてやるべき貧しい家もあったろうに!」
スクルージは幽霊がこの調子でとめどもなく話し続けるのを聞いて非常に驚き、がたがた震えだした。
「私の言うことを聞きなさい!」と幽霊が叫んだ。「私はもうじき行かなければならないのだ」
「聞きます」とスクルージは言った。「だが、どうか私をいじめないでくれ。あんまり派手な言葉を使わないでくれ、頼《たの》む、ジェイコブ」
「私がお前さんの眼に見える姿になって、ここへ現われたわけは話せない。だが、私は姿こそ見せなかったが、幾日も幾日もお前さんのそばに坐《すわ》っていたのだ」
このありがたくない話にスクルージは身ぶるいして額の汗《あせ》を拭《ふ》いた。
「こうして坐っているのだって決してなまやさしいことじゃありゃしない。かなりの苦労なんだ」と幽霊は続けた。「私が今夜ここへ来たのは、お前さんには、まだ私のような運命から逃《のが》れるチャンスと希望があるということを知らせるためなのだ。私の力で自由になるチャンスと希望だよ、エブニゼル」
「お前さんはいつでも私には親切な友人だった。ありがとう!」とスクルージは言った。
「お前さんのところへ三人の幽霊が来ることになっている」と幽霊は話を続けた。スクルージの顔は幽霊とほとんど変らぬくらいに蒼《あお》ざめた。
「それが今の話のチャンスと希望なのかね、ジェイコブ?」と彼はおびえた声で訊《たず》ねた。
「そうだ」
「私は――私はご免《めん》をこうむりたいなあ」とスクルージは言った。
「三人に来てもらわなければ、お前さんもまた私と同じ道を行かなければならない。明日午前一時、その鐘《かね》を合図に、第一の幽霊が来るものと思っていなさい」
「みんな一度に出てもらって、それで済ましてしまうわけには行かないものかなあ、ジェイコブ?」とスクルージは気を引いてみた。
「第二の幽霊は第二の夜の同じ時刻だ。その次の晩には第三の幽霊が十二時の鐘の最後が打ちやむと同時にあらわれる。私とお前さんとはこれが最後だ。今まで私たちの間で話したことをよく心に留《と》めておきなさい。みんなお前さんの身のためなのだから」
言いおわると幽霊はテーブルから頬かむりの布を取りあげ、頭にかぶった。上下の顎《あご》をしばった時に歯がカチリと小気味よい音を立てたので、スクルージはこれを知った。思いきって眼をあげて見ると、その不思議な客は鎖を腕のあたりに巻きつけて、彼の正前《まんまえ》に直立していた。
幽霊は後ずさりしてスクルージから離《はな》れた。一歩後退する度《たび》に窓が少しずつ開いて、やがてそこまで行き着いた時には、すっかりあけ放たれた。
幽霊がスクルージを手招きしたので近寄ると、二人の間が二歩ぐらいのへだたりになった時に、マーレイの亡霊は手をあげて、スクルージに止まれと合図したので、それに従った。
合図に従ったと言うよりも、驚《おどろ》きと恐れがそうさせたのだ。幽霊が手をあげた途端に、たちまちにして空中には大変な物音がして来た。悲しみと後悔の入り乱れた声、言いようもなくなさけない声が聞えて来たのである。
一瞬間《いっしゅんかん》、耳を澄《す》ましていた幽霊は、その悲しみの歌に自分も声を合わせながら、寂《さび》しい闇《やみ》の中へ飛び去った。
スクルージは好《こう》奇《き》心《しん》に圧倒《あっとう》されて思わずあとを追って窓ぎわまで行って外を眺《なが》めた。
空中には幽霊が充満《じゅうまん》していて、むやみと忙《いそが》しそうにあちこちとさまよっていた。そうしている間も呻《うめ》きどおしであった。みんなマーレイの幽霊がつけていた鎖《くさり》と同じのをつけていた。一緒《いっしょ》につながれている(罪を犯《おか》した政府の役人かもしれない)者たちもあった。生きていた時にスクルージが個人的に知っていた人々も大勢あった。白いチョッキを着て、踵《かかと》にばかばかしく大きな鉄の金庫をつけた一人の年取った幽霊とは、かなり親密な間柄だった。その幽霊は下の戸口のところで見かけた、幼児連れの哀《あわ》れな婦人を助けてやれないのをひどく嘆き悲しんでいた。彼《かれ》らすべての幽霊たちの不幸は、人間の世の中の事件に関係して助力したいと願いながら、永久にその力を失ってしまったことである。
これらの動物どもが霧《きり》の中へ消え失《う》せたのか、あるいは霧が彼らを包んでしまったのか、何《いず》れともわからなかったが、その姿もそして気味わるい声も共に消え失せて、夜はスクルージが家路に向って歩いた時と同じように静かになった。
スクルージは戸を閉じてから、幽霊がはいって来た扉《とびら》を検査した。それは彼みずからの手で錠《じょう》を下した通りに二重に錠がおろしてあり、閂《かんぬき》も動かされていなかった。スクルージは「ばかばかしい!」と言おうとしたが、最初の一口で呑《のみ》込《こ》んでしまった。そして自分の体験した感動からか、一日の疲《つか》れからか、見えざる世界を垣《かい》間見《まみ》たためか、陰《いん》気《き》な幽霊との対話のためか、それとも夜更《よふ》けのためか、とにかく非常に休息を必要としたので、服も替《か》えずに寝《ね》床《どこ》にもぐってぐっすり眠《ねむ》り込んでしまった。
第二章 第一の幽霊《ゆうれい》
スクルージが眼《め》を醒《さ》ました時は、まっくらで、寝《ね》床《どこ》から見たのでは透明《とうめい》な窓と、不透明な部屋の壁《かべ》とをほとんど区別ができないほどであった。彼《かれ》はいたちのような鋭《するど》い眼で、闇《やみ》を突《つ》きとおして何かを見きわめようとしていると、近くの教会の鐘《かね》が十五分の鐘を四度打った。そこで、彼は何時になるのかを知ろうとして耳を澄《す》ました。
驚《おどろ》いたことには、鐘は六つから七つ、七つから八つと打って正確に十二時まで打ってからとまった。十二とは! 寝床にはいった時がすでに二時過ぎであった。時計が狂《くる》っている。機械の中につららでも立ったのだろうか。十二時とは!
彼は途《と》方《ほう》もないこの時計の狂いを直そうとして時打ち時計のバネに手をふれた。急速な小さな鼓《こ》動《どう》は十二を打って、とまった。
「おや、おや、丸一日ぶっとおしで次の晩まで眠《ねむ》ってたなんてことがあるはずはない。まさか太陽に異変が起って、今が真昼の十二時というわけでもあるまいがな」とスクルージは言った。
考えて見れば大変なことなので、彼は寝床から這《は》い出し、手《て》探《さぐ》りで窓のところまで行った。ねまきの袖《そで》で霜《しも》を拭《ふ》かなければ何にも見えなかった。それでさえほとんど見えなかった。ただ、分ったことはまだ霧《きり》が深くかかっていて非常に寒いこと、あちこちと走りまわって大騒《おおさわ》ぎする人々の声がないことであった。もし、夜が明るい昼を追い払《はら》い、この世界を我《わ》がものとして占領《せんりょう》してしまったのなら、疑いもなく人々は騒ぎまわっていたにちがいない。これで安心した。なぜなら、「この第一号振出《ふりだし》為替《かわせ》手形一覧後三日以内にエブニゼル・スクルージ氏あるいはその指定人に払渡《はらいわた》すこと」などということは数える日がなくなったら、合衆国の保証と同じく空文になってしまうからである。
スクルージは再び寝床にはいって考えて考えて考えぬいたけれども、がてんが行かなかった。考えれば考えるほど、分らない。そして、考えまいとするほど、余計に気になるのだった。
マーレイの幽霊は彼をひどくあわてさせた。散々に考え抜《ぬ》いたあげくに、あれはみんな夢《ゆめ》だと決めるのだったが、決める度《たび》ごとに、強いバネがはね上るように、また元の迷いへ飛び返ってしまった。そして再び、「夢だったろうか? それとも夢ではなかったのだろうか?」という問題に突き当って、また考え直さなければならなかった。
スクルージはこの状態で、十五分の鐘が三度も鳴るまで寝床の中で眼を醒ましていたが、突然《とつぜん》に一時の鐘が鳴るのと同時にあらわれる訪問者のことを、マーレイの幽霊から予告されていたのを思い出したので、その時刻が過ぎるまでは眠るまいと決心した。どのみち、彼にとって眠りにつくことは、天国へ行くことと同じように、できない相談なのだから、この決心は彼としては一番賢《かしこ》いものであったろう。
十五分間があんまり長かったので、うとうととして聞き落したにちがいないと、一度ならず幾《いく》度《ど》も考えた。
遂《つい》に鐘の音は耳底に響《ひび》いて来た。
「カーン、カーン!」
「十五分過ぎた」とスクルージは数えながら言った。
「カーン、カーン!」
「三十分過ぎ!」とスクルージは言った。
「カーン、カーン!」
「あと十五分」とスクルージは言った。
「カーン、カーン!」
「時間だ」とスクルージは勝ち誇《ほこ》って言った。「何も出やしないじゃないか!」
こう言ったのはまだ時の鐘が鳴り出さないうちであった。今や鐘は深く、鈍《にぶ》い、うつろな、滅入《めい》るような音をたてて、一時を打った。
その瞬間《しゅんかん》、部屋中に光がさしこんだかと思うと、誰《だれ》かの手が自分の寝台《しんだい》のカーテンを引いた。
寝台のカーテンが引き寄せられた。よろしいですか、手で引き寄せられたのだ。足元のカーテンでもなければ背後のカーテンでもない、彼が顔を向けていたカーテンであった。彼の寝台のカーテンが引き寄せられたので、驚いて半身を起したスクルージは、それを引き寄せた当の本人で、この世の者とも見えぬ訪問客に面と向ったのである。あたかも今の私対諸君のようで、精神的には私は諸君の肘《ひじ》のさきのところに立っているのだから、そのくらいこの二人は密接していたのである。
それは子供のような奇妙《きみょう》な姿であった――と言うよりも人に似ているのだが、一種の超《ちょう》自然《しぜん》的の媒体《ばいたい》をとおして見るために距《きょ》離《り》が遠いようになって小児《しょうに》ほどの恰好《かっこう》に映ったのである。くびのあたりから背中までたれさがった髪《かみ》は老人のように白かった。けれども、顔には一筋のしわもなく、みずみずしい血色をしていた。
腕《うで》は非常に長く、筋骨は逞《たくま》しい。両手も同じようにしく、その握力《あくりょく》は並々《なみなみ》ならぬ強さであろうと思わせた。脚部と足の先とはかぼそくできていたが、やはり腕や手と同じくむき出しであった。純白の長い上衣《うわぎ》を着、腰《こし》のまわりには、きらきら光る帯をしめていたが、その光はすばらしいものであった。手にはいきいきとした緑色のひいらぎの枝《えだ》を持っていた。そして、冬の象徴《しょうちょぅ》であるこのひいらぎとはまったく反対の、夏の花で、着物を飾《かざ》っていた。しかしながら、なによりも一番不思議なことは、頭のてっぺんから煌々《こうこう》たる光が射《さ》していたことで、その光に照らされて何もかもが見えたのである。このような光を持っていたればこそ、面白《おもしろ》くない時には帽《ぼう》子《し》代《がわ》りの消灯器を使っていたのであろう。今はそれをわきの下にかかえていた。
けれども、スクルージがいっそう眼を据《す》えて見ているうちに、これでさえ最も不思議なものではなくなった。なぜならば、幽霊の帯がまた不思議で、ある一カ所がぴかりと光ったかと思うと、ほかの所が光り、今、明るかったと思ううちに、たちまち暗くなるというしろものだから、幽霊の姿自体がゆらゆらして、はっきりとは見《み》極《きわ》めがつかなかった。その帯がある一部分からまたほかへと移って光るにつれて明暗ができるのだが、幽霊も一本腕の怪物《かいぶつ》になったかと思えば、一本足になり、二十本足になったかと思えば、たちまちにして首なしの二本足となり、また胴《どう》なしの首になった。消えて行く部分は、闇の中にとけこんでしまって、まったく輪郭《りんかく》は見えなかった。しかも、こんな不思議が起っている最中に、幽霊は再び元のように、はっきりと見分けのつく姿になるのだった。
「お出《い》でになるという前ぶれのあった幽霊様はあなたですか?」とスクルージは訊《たず》ねた。
「さよう!」
静かで優《やさ》しい声だった。傍《そば》近くいるのではなくて、ずっと遠方にいる者のように低く聞えた。
「あなたはどなたで、どういう御身《ごみ》分《ぶん》のお方ですか?」と、スクルージは迫《せま》った。
「私は過去のクリスマスの幽霊だ」
「ずっと大昔《おおむかし》のですか?」スクルージは小人のような幽霊の恰好に眼をやりながら訊ねた。
「いや、お前の過去だ」
誰からそのわけを訊ねられても、たぶん、スクルージは答えはできなかっただろうが、どういうものか、スクルージは幽霊が帽子をかぶっているところを見たくてたまらなくなったので、それをかぶるように頼んだ。
「何だと! お前は私の与《あた》える光を、罪ふかい手で消そうとするのか? お前のような人間の欲望が凝《こ》ってこの帽子ができちまったんだ。そしてこの長い年月、無理やりに私はお前たちの欲のかたまりのこの帽子を深くかぶらせられていたんだ。それでもまだ不足なのか?」と幽霊は叫《さけ》んだ。
スクルージは恐縮《きょうしゅく》して、決してわるぎがあったのではないし、また今までに唯の一度でもわざと幽霊に「帽子をかぶらせた」覚えはないといいわけをした。それから、勇気を出して、幽霊が何の用でここへ来たかを訊ねてみた。
「お前のためよかれと思ってだ!」と幽霊は言った。スクルージはありがた迷惑《めいわく》の気もした。
「お前を改心させるために来たのだ。気をつけなさい」
話しながら、強い手を伸《の》ばして、スクルージの腕を静かに掴《つか》んだ。
「お起《た》ち! そして私と一緒においで!」
出歩く時刻でもないし、天気もわるいといくらスクルージが拒《こば》んだところで、無駄《むだ》であったろう。
寝床の中は温かだが、寒暖計は、ずっと氷点以下にさがっていると言っても、また、スリッパと、ねまきと、ナイトキャップだけしか着ていないと言っても、あるいはあいにくかぜを引いているからと言ってみたところで、役には立たなかったであろう。
女の手のようにやさしい握《にぎ》りかたではあるが、さからうことはできなかった。
彼は起ちあがったものの、幽霊が窓の方へ行くのを見て、その長衣にしがみついて嘆願《たんがん》した。
「私は人間の悲しさに、しくじりばかりいたします」と訴《うった》えた。
「私の手が、そこに、さわっていさえすればいいのだ。まだまだ、どこどこまでもお前の力になってやる」と言って幽霊は、手をスクルージの心臓のあたりへ当てて言った。
こう言い終ると、彼らは壁を通り抜け、広々とした田舎《いなか》道《みち》へ出た。
左右にはたんぼがあった。町はまったく消えてしまって、何の跡《あと》かたもなかった。闇も霧も町といっしょに消え去って、晴れわたった、冷たい冬の日になり、地上には雪がつもっていた。
「これは、これは、驚いた!」スクルージは両手を握りしめながら言った。
「ここは私の育った所だ。子供の時分ここに住んでたんだ」
幽霊はいとしみをこめた眼で彼を見た。
ほんの一瞬間、それもごく軽く幽霊は触《ふ》れたのだが、その感触《かんしょく》はまだスクルージ老人の身内にありありと残っていた。
空中にはさまざまの芳香《ほうこう》が漂《ただよ》っていた。その香気の一つ一つから遠い昔の、忘れていたいろいろの考えや、希望や、喜びや、苦労が記《き》憶《おく》の中に蘇《よみが》って来た。
「お前さんのくちびるはふるえてるね。頬《ほっ》ぺたにできてるのは何だね?」と幽霊は言った。
スクルージはいつになく、どもりぎみで、にきびだと呟《つぶや》いた。そして、どこへでも好きなところへ連れて行ってくださいと、幽霊にたのんだ。
「この道を憶《おぼ》えてるかね?」と幽霊がきいた。
「憶えてますとも」とスクルージは熱情的に叫んだ。「眼《め》隠《かく》しをされたって歩けますよ」
「この長い年月の間、忘れていたのは奇妙だね。さあ、先へ進もう」と幽霊は言った。
彼らは進んで行った。スクルージはどの門にも柱にも、木にも、すべてに見憶えがあった。
やがて、むこうの方に小さな市場町が見えて来た。
橋が見え、教会堂が見え、うねり流れる川が見えた。
毛むくじゃらの小馬たちが男の子らを乗せてこっちへ向って来た。
馬上の子供たちは、百姓《ひゃくしょう》が引いている田舎馬車や荷馬車に乗っているほかの少年たちに呼びかけて、賑《にぎ》やかにふざけ合っていた。子供たちはみんな大はしゃぎにはしゃいで、互《たが》いに大声で呼び合っていたので、広い野原一面に楽しい音楽が満ちわたり、すがすがしい冬の空気までが、笑い出しているように思われた。
「これはみんな昔起ったことの影《かげ》なんだから、あの連中は、私たちには少しも気がついていないのだ」と幽霊は言った。
陽気な連中は近よって来た。見れば、その一人一人を、スクルージは知っていて、みんなの名前を呼ぶことができた。この人々を見るのがなぜこのようにとめどもなく嬉《うれ》しいのだろう? 彼らとすれちがった時に、スクルージの冷たい眼が露《つゆ》を帯び、胸が躍《おど》ったのはなぜだろう。
町かどや横町で別れ別れになる時、人々が口々にクリスマスおめでとうを言い合うのを聞いて、スクルージが喜びで満たされて来たのは、なぜであろうか? めでたいクリスマスがどうしたというんだ? クリスマスおめでとうもあったものじゃない! クリスマスで何のもうけがあったというんだろう?
「学校はまだすっかりからっぽにはなってないよ。友達に仲間外れにされて、一人ぼっちの男の子がまだいるよ」と幽霊は言った。
スクルージはそれを知っていると言ってすすり泣きした。
彼らは大通りから離《はな》れてよく憶えている小《こ》径《みち》へ曲った。間もなく、くすんだ赤煉《あかれん》瓦《が》の邸《やしき》に近づいた。屋根の上にもう一つ丸屋根があって、それに小さな風見が付いており、鐘が吊《つ》ってあった。大家が没落《ぼつらく》したもので、広い台所も今では使われず、壁《かべ》はしめっぽくて苔《こけ》が生えていた。窓はこわれ、門はくさっていた。にわとりが厩《うまや》でコッコッと鳴いていばり返っているし、馬車納屋《なや》や物置小屋には草がぼうぼうと茂《しげ》っていた。家の中も同じように荒《あ》れ果てて、昔の面影《おもかげ》はさらにない。さびれ返った玄関《げんかん》をはいって、あけ放しになっているドアから部屋部屋をのぞいてみても、ろくな装飾《そうしょく》も調度品もなく、いんきで、むやみにだだっぴろい感じがするばかりだった。土臭《つちくさ》い匂《にお》いがそこらいっぱいにこもっており、ひやりとして、がらんどうのような家だった。朝は暗いうちから起きてろうそくの光をたよりに働いていながら、まんぞくな食物も得られないと言ったような暮《くら》し向きが思われるのだった。
幽霊とスクルージは廊《ろう》下《か》を抜けて、裏口へまわると、戸があいていて、殺風景な、長い、暗い部屋が見えた。中には何の飾りもない、松材《まつざい》の腰掛や机が幾列も並《なら》んでいて、それがなおのことあたりを殺風景にした。一つの机にしょんぼりとたった一人で、ほたるのような火にあたって、男の子が本を読んでいた。スクルージは自分も一つの腰掛にすわった。今の今までまったく忘れ果てていた遠い昔の、いじらしい自分の姿を眺《なが》めて泣いた。
家の中にひそんでいる反響《はんきょう》も、天井裏《てんじょううら》ではつか鼠《ねずみ》の鳴きくるう声も、薄暗《うすぐら》い裏庭の筧《かけひ》の水の凍《こお》ったのが溶《と》けてぽたりぽたりと落ちる雫《しずく》も、葉の落ちつくした、淋《さび》しいポプラの枝のためいきも、からっぽの倉庫の扉《とびら》がバタリバタリとあいたりしまったりするのも、また火がぱちぱちはねるのも、何もかも一つ一つがスクルージの胸に迫って来て、頑《がん》固《こ》な心をやわらげた。とめどもなく流れる涙《なみだ》のたねにならないものはなかった。
幽霊はスクルージの腕をつついて、余念もなく本を読みふけっている少年時代の彼の姿を指し示した。その時、突然に、驚《おどろ》くほどはっきりと、一人の男の姿が窓の外へうつった。外国人のような服を着ていた。ほんとうにその人がそこへ来たようにありありと見えた。帯に斧《おの》を挟《はさ》み、ろばの背中に薪《まき》をつみあげて、手《た》づなを引いていた。
「おや、アリ・ババだ」とスクルージは夢中《むちゅう》で叫んだ。「正直者のアリ・ババ爺《じい》さんだ。そうだ、そうだ。知ってる、知ってる! ある年のクリスマスの前の晩、あそこに一人ぼっちでいるあの子が、みんなにほうりっぱなしにされて、ぼんやりしていた時に、初めて、ちょうどあの通りの風《ふう》をして、アリ・ババがやって来たんだっけ。かわいそうだったなあ、あの子は! やあやあ、ヴァレンタインも、それから、乱暴者の弟のオルソンも、あれあれ、あそこへ行くな。それから、ダマスカスの門のところで眠《ねむ》ってる間に、ズボン下のままで、おろされた男の名は何て言ったっけな。その男もいる。あなたには見えませんか? それからサルタンの家来で、悪《あく》魔《ま》のために、まっさかさまにされた男が、あそこでさか立ちをしている。いい気味だ。私は嬉しい。あんな奴《やつ》が姫君《ひめぎみ》のむこになるなんて、もってのほかだ」と、スクルージは言った。
スクルージが、こんなことに夢中になって、泣き笑いをしながらどなり立て、興奮しているところを、市中の仲間が見たら、どんなに驚いたことだろう。
「あそこにおうむがいる」とスクルージは叫んだ。「緑の体に黄色のしっぽで、あたまのてっぺんから、レタスのようなものを生やしてるよ。島を一周りして来たロビンソン・クルーソーに、あのおうむが『かわいそうなロビンソン・クルーソー、今までどこへ行ってたの、ロビンソン・クルーソー?』って、こう言ったんだな。ロビンソン・クルーソーは夢《ゆめ》かと思ったけれど、夢じゃなくて、おうむだったんですね。やあ、フライデーが、小さな入江をめがけて夢中になって走って行くな。おおい! しっかりい! おおい!」
こんなことを言いつづけていたが、そのうちにいつものスクルージとは似ても似つかぬ気の変りかたを見せて、急に昔の自分をあわれみ出し、「かわいそうな子だ」と言って再び泣いた。
「惜《お》しいことをした」とスクルージは袖口《そでぐち》で眼を拭《ふ》き拭き言った。ポケットへ手をつっ込《こ》んでから、あたりを見まわして、「もうおそい」
「どうしたのだ?」と幽霊《ゆうれい》が訊ねると、
「何でもありません。何でもないんですが、昨晩、私の家のかど口へ来て、クリスマスの歌を歌おうとした男の子があったのに、何かやればよかったと思っただけです」
幽霊は意味ありげなわらいを浮《うか》べて手を振《ふ》りながら言った。「さあ、もう一つのクリスマスを見に行こう」
その言葉と共に、昔のスクルージはずっと大きくなり、部屋は前より暗く、汚《きた》ならしくなった。羽目板はゆがみ、窓にはひびが入り天井のしっくいは所どころ落ちて、下地の木《き》摺《ずり》が見えて来た。しかし、どうしてこんなに変り果てたのかは、読者に分らないのと同じくスクルージにも分らなかった。ただ、彼はこれが実際に起ったことで、彼はこの通りひとりぼっちで、ほかの子供たちが休暇《きゅうか》で帰省した時も残っていたということだけは知っていた。
少年は今度は本も読まずがっかりしたような足取りで、あっちこっちと歩きまわっていた。スクルージは幽霊の方を見て悲しげにくびを振り、気づかわしげに戸口の方を眺めていた。
戸があいた。少年よりずっと年下の女の子が飛んで来て、腕を少年のくびに巻いて、幾《いく》度《ど》もキッスしながら「お兄ちゃん」と呼んだ。
「お兄ちゃん、お迎《むか》えに来たのよ」と女の子は言って、手をたたき身をかがめて笑った。「お家《うち》へ行くのよ、お家へ、お家へ!」
「お家へだって、ファン?」少年はたずねた。
「ええ、そうよ」と答える顔に喜びが溢《あふ》れている。「お家へずーっと帰りっきりに帰るのよ。いつまでも、いつまでもお家にいられるのよ。お父さんは先よりも、ずっとやさしくおなりになったの。だからお家は天国のようよ。こないだね、私が寝る時に、とても優しくお話してくださったから、私は怖《こわ》くなくなって、お兄ちゃんをよんで来てもいいかって訊《き》いたの。そうしたらね、連れて来てもいいって言ってね、あたしを使いによこしたのよ。あたし、馬車で来たのよ。そしてね、お兄ちゃんはもう大人なんだって!」と少女は眼をぱっちりみはって言った。「だからもうここへは帰って来ないのよ。それでね、クリスマスの間じゅうずっとみんな一緒《いっしょ》にいて、世界中で一番楽しくするのよ」
「お前はすっかり大人だね、ファン」と少年は叫んだ。
少女は手をたたいて笑った。兄の頭にさわろうとしたが届かないのでまた笑った。そして爪先《つまさき》で立って彼にだきついた。それから子供らしい熱心さで兄を戸口の方へ引張ると兄も並んで妹について行った。
「スクルージの鞄《かばん》をおろして来なさい」と恐《おそ》ろしい声が廊下の方にきこえたかと思うと、そこへ校長があらわれた。校長としては丁寧《ていねい》な態度でスクルージに対しているのだが少年にはもの凄《すご》く思えたらしく、握手《あくしゅ》をされた時には縮みあがってしまった。校長はスクルージ兄妹を世にも寒々しい、古井戸のような、最上の部屋へ案内した。壁には地図、窓ぎわには地球《ちきゅう》儀《ぎ》と天体儀があるのが蝋《ろう》のように冷たかった。ここで先生は奇妙《きみょう》に薄い葡《ぶ》萄酒《どうしゅ》一瓶《びん》とこれもまた奇妙に重い菓子《かし》を一かたまり出して子供たちにすすめた。同時に痩《や》せっぽちの小使に命じて馭者《ぎょしゃ》にも「何か」一杯《いっぱい》すすめさせた。
ところが、馭者は旦《だん》那《な》様《さま》のお志はありがたいが前に飲んだのと同じものならもう結構だとことわった。スクルージのトランクはもうその時には馬車の上にしばりつけてあった。
子供たちは元気よく校長に別れの挨拶《あいさつ》をして馬車に乗り込み、威《い》勢《せい》よく庭を走らせて行った。めまぐるしく回る車輪は、常磐《ときわ》木《ぎ》の黒ずんだ葉から霜《しも》や雪を飛沫《しぶき》のように振り落して進んだ。
「あの娘《こ》はそよかぜにも堪《た》えられないような弱いからだだったが、情ぶかい気立てだった」と幽霊が言った。
「はい、その通りでした。まちがいはありません、幽霊さま」
「結婚《けっこん》してから死んだんだね、子供があっただろう?」
「一人ありました」とスクルージは答えた。
「そうだった。お前さんの甥《おい》だね」
スクルージは心中不安な気持がした。そしてただ「そうです」とだけ答えた。
つい今しがた学校を後にしたばかりだったが幽霊とスクルージは、ある町の賑やかな大通りへ出て来た。影法師のような通行人が往来し、影法師のような荷馬車や馬車が道を争い、まったく本物の町同様であった。店頭の飾《かざ》りつけから見ても、再びクリスマスの季節だということは直《す》ぐにわかった。
幽霊はある商店の前で足をとめて、スクルージにこの家を知っているかと訊《たず》ねた。
「知るも知らないも、私はここに奉公《ほうこう》していたんです」
二人は中へはいった。ウェールズふうのかつらをつけた老紳《ろうしん》士《し》が机の前に腰《こし》かけていたが、この人があと二インチも丈《たけ》が高かったら天井に頭がつかえるだろうと思われるほどに高い机だった。スクルージは烈《はげ》しい興奮のうちに叫んだ。
「フェジウィグの御《ご》老人《ろうじん》だ! こりゃどうしたことだろう、フェジウィグが生き返って来た!」
フェジウィグ老人はペンを措《お》いて、柱時計を見上げた。針はちょうど七時を指していた。老人は両手をさすり、だぶだぶのチョッキを直し、足の爪先から頭のてっぺんにまで拡《ひろ》がるような大笑いをしてから、愉《ゆ》快《かい》な、なめらかな、ゆったりした声で呼び立てた。
「やあやあ! エブニゼルとディックじゃないか!」
今はもういい若者になっているスクルージの昔《むかし》の姿が、小《こ》僧《ぞう》仲間の一人と一緒に足早にはいって来た。
「ディック・ウィルキンズです」とスクルージは幽霊に言った。「あそこにいます。私によくなついていました、ディックは。かわいそうなディックだ。ああ、ああ!」
「やれやれ、子供たち!」とフェジウィグが言った。「もう今夜は仕事はしまいだ。クリスマス・イブだ、ディック。クリスマスだよ、エブニゼル! 戸を閉めてな」とフェジウィグ老人はぽんと手をたたいて、「大急ぎでな」
二人の少年がいかに早く命令をおこなったか、信じられないほどだった。一、二の三で戸を表へ持ち出し、四、五、六ではめ、七、八、九で閂《かんぬき》をさし、かけがねでとめ、そして十二まで数えないうちに、競馬のように息せき切って帰って来た。
「ほうい!」フェジウィグは驚くべき軽快さで高い机から飛びおりた。「さあさあ、お前たちここを片付けて広くするんだ。おい、ディックや、威勢よくな、エブニゼルや」
片付けろ! フェジウィグ老人の監督《かんとく》だったら何一つでも片付けずにおくものはなく、片付けられないものもない。一瞬《いっしゅん》のうちにできあがった。動かせるものは何でもみんな、もう永久に用はないというぐあいに片付けてしまい、床《ゆか》は掃《は》いて水を撒《ま》き、ランプの掃《そう》除《じ》もできあがり、炉《ろ》には薪を重ねた。店は冬の夜には申分のない、暖かく清潔な、明るい舞《ぶ》踏室《とうしつ》になった。
はいって来たのは、楽《がく》譜《ふ》を持ったヴァイオリン弾《ひ》きだった。あの高い机のところへあがって行って、そこをオーケストラにして、五十人の胃《い》痛病《つうやみ》みがうめくような音を出して調子を合わせた。そこへ満身これ笑《え》顔《がお》と言いたいようなフェジウィグ夫人があらわれた。フェジウィグ家の美しく、愛らしい三人の娘《むすめ》たちも出て来た。そこへこの三人の娘たちのために失恋《しつれん》の憂《う》きめを見せられた六人の若者もはいって来た。この店に雇《やと》われている若い男女もみんなやって来た。女中は従兄弟《いとこ》のパン屋同伴《どうはん》で来るかと思うと、料理女《コック》は自分の兄弟の親友の牛乳配達と連れ立って出かけて来た。向側の家の小僧もやって来た。この小僧は食物もろくろくあてがわれないのではないかと思われる様子をしていた。一軒置いて隣《とな》りの家の女中の背後にかくれようとしていた。この女中は女主人に耳を引張られたことがわかった。次から次とみんな寄って来た。恥《は》ずかしそうにしている者、威張っている者、淑《しと》やかな者、無器用者、押《お》すものがあれば引張る者もある。が、とにかく、どうやらしてみんなはいって来た。
みんな揃《そろ》って、二十組がいちどに踊《おど》りだした。半分ほど回って、ほかの道を戻《もど》って来る。部屋のまんなかまで行くかと思うとまた引き返して来る。仲のよい組合せがいくつもいくつもの段階を作って踊っていた。前の先頭組はいつもまちがった所で曲ってしまう。新たな先頭の組はそこまで行くやいなやこれも横へそれてしまう。遂《つい》には、どれもこれも先頭組になってしまって、しんがりをつとめる組は一つもない始末! こんな有様になった時、老フェジウィグは手をたたいてダンスをやめさせ、「上出来!」と叫《さけ》んだ。ヴァイオリン弾きはほてった顔を、用意されてあった黒ビールの大杯《たいはい》の中へ突《つ》っ込んだ。けれども顔を離すと直ぐにまた弾き始めた。休息の必要など無視して、まるで前の弾き手は疲《つか》れきって戸板に載《の》せられて送り返され、自分はまったくの新《あら》手《て》で、さっきのよりもずっと優《すぐ》れた腕《うで》前《まえ》を見せるか、さもなければ倒《たお》れるまでだと意気込んでいるようだった。
舞踏はまだ続いた。それから罰金遊びがありまた舞踏があってから、菓子や混合酒、冷えた焼肉や煮《に》物《もの》の大きな切身やミンス・パイやそれにビールもふんだんにあった。けれどもその夜の圧巻は焼物や煮物の料理のあとで例の弾き手が(抜《ぬけ》目《め》のない奴ですぞ! あなたや私などから言われずともちゃんと自分の仕事を心得ている手合ですがね!)この男が「サー・ロジャー・ド・カヴァリイ」を弾き出した時にフェジウィグ老人が夫人の手を取って踊り出したことだった。二人のために選んであった相当むずかしい曲に合わせて先頭をつとめようと言う意気込みだった。その後から二十三、四組の踊り手が続いた。いずれも馬鹿《ばか》にはできない連中だった。踊ることだけに熱中して、歩くことなんかてんで考えないのである。
けれども、たとえ彼《かれ》らの数が二倍あっても――いな四倍でも――フェジウィグ老人はひるまなかったであろう、フェジウィグ夫人とてもその通りであった。そう言えば夫人はいかなる意味から考えても老フェジウィグの相手たるにふさわしかった。これでも賞《ほ》め足りないのならば、私に何か適当な言葉を教えていただきたい、それを使おう。フェジウィグのふくらはぎのあたりからは、光を発しているように思えた。あらゆるダンスのあいだに月のように光っていた。ある一定の時間に、次の瞬間がどうなるかを予言することは誰《だれ》にもできなかった。フェジウィグ夫妻は進んだり後退《あとずさ》りしたり、両手を取り合ったり、頭を下げたりお辞儀をしたり、螺旋状《らせんじょう》に進んだり針糸通しをしたり、それから再び元の場所へ戻ったりして、あらゆるダンスを踊りつくして元の場所へ戻った時に、フェジウィグは「カット」した。素晴《すば》らしいカットで、まるで足でまばたきをしたとでも喩《たと》えたいように飛びあがって、そしてよろめきもせずに再びしゃんと立った。
時計が十一時を打つのをきっかけにこの家庭舞踏会は解散した。フェジウィグ夫妻は入口の両側に立って、出て行く男女に誰彼の差別なく一々握手し、クリスマスの祝を述べた。
みんなが去ってしまって、あとが二人の小僧だけになると、同じように握手をし同じようにクリスマスの祝儀《しゅうぎ》を述べた。こうして喜ばしい声々も静まり、二人の小僧たちは店の奥《おく》の勘定台《かんじょうだい》の下の寝《ね》床《どこ》にもぐり込んだ。
スクルージはこの間じゅうずっと分別を失い果した人のように振《ふる》舞《ま》っていた。彼は心も魂《たましい》もこの場面に吸い込まれて、昔の自分と一緒になった。すべての事柄《ことがら》を確認し、すべてのことを記《き》憶《おく》し、そして言いようもない不思議な感激《かんげき》をおぼえた。やがて、昔の自分とディックの晴れやかな顔が消え去った時、初めてスクルージは幽霊が自分の上にじいっと眼《め》をすえているのに気がついた。幽霊の頭上には光が煌々《こうこう》と燃えていた。
「こんなばかな奴らをこんなにありがたがらせるなんて、くだらないことだ」と幽霊が言った。
「くだらないって!」とスクルージはおうむ返しに言った。
幽霊は二人の小僧がフェジウィグを心の底から褒《ほ》めそやしているのを、スクルージに聞けと合図した。スクルージがそれに従った時に、
「ねえ! そうじゃないか? 精々三ポンドか四ポンドがものを使っただけじゃないか。それをこんなにありがたがられるってことがあるのかい?」
「そのためじゃありませんよ」スクルージは躍《やっ》起《き》になって言った、しかも無意識のうちに現在の自分ではなく昔の自分に返って言った。
「そのためじゃありませんよ、幽霊さま。あの人は私たちを幸福にも不幸にもする力を持っておいでなんです。それから私たちの仕事を軽くも重くもまた楽しくも苦しくもすることのできる力を持っていたんです。あの人の力は言葉や顔付だけのものだったにしてもですよ、それが勘定にもはいらないような、小さな事柄の中にあった力だとしてもですね、あの人が私たちをしあわせにしようとしてくだすった苦労は、一財産投げ出してやってくだすったのと同じですよ」
幽霊の眼がじっと自分の上にそそがれているのに気がついて口をとじた。
「どうしたんだ?」と幽霊が訊ねた。
「べつだん、どうもありません」とスクルージが答えた。「何かあるだろう?」と幽霊は追及《ついきゅう》した。
「いいえ」とスクルージは断言した、「どうもしませんですが、私は今、自分のところの書記にほんの一言、言いたいことがあるんです」
でスクルージがこう言った時に、昔のスクルージはランプのしん《・・》を細めた。そしてスクルージと幽霊は再び肩《かた》を並《なら》べて戸外に立っていた。
「私の時間は短くなった。急げ!」と幽霊は言った。
これはスクルージに語ったことでもなく、またスクルージの眼には見えぬ何者かに向って言ったことでもないが、たちまちにしてその効果はあらわれて、再びスクルージの昔の姿が出て来た。今度は前よりも年をとって、血《けっ》気《き》盛《さか》んな男であった。その顔には後になってできたようなきびしい、こわばった表情は見えなかったが、気苦労と貪欲《どんよく》の色をそろそろ帯び始めていた。眼付には落ちつきがなく、あくせくとして利益を求めているのが映った。すでに貪欲が根を張り、成長していく木の影《かげ》がどこへ落ちるかを示していた。
昔のスクルージは一人ではなかった。喪《も》服《ふく》を着た若い娘のかたわらに坐《すわ》っていた。娘は眼に涙《なみだ》をたたえ、その涙は「過去のクリスマスの幽霊」から射《さ》す光でキラキラ輝《かがや》いていた。
「何でもないことなんですわ」とやさしく囁《ささや》いた。「あなたにとってはほんとに取るに足らないことなんですの。私のほかに偶像《ぐうぞう》ができたというだけなんですもの。だから、これからさき、それが私の願っていた通りにあなたを慰《なぐさ》め力づけることができるのでしたら、私には何も悲しむわけはないんですの」
「どんな偶像がお前の代りになったって言うんだね?」とスクルージは問い返した。
「金色のものよ」
「これが世間の公平なやりくちなんだね」とスクルージは言った。「世の中は貧乏《びんぼう》には実につらく当るんだ。それでありながら、一方には富を求めることを世間は非常にきびしく攻撃《こうげき》するんだ」
「あなたはあんまり世間を恐《おそ》れすぎるんですわ」と娘は答えた。
「世間から侮《あなど》られまいとする望みの前にはほかの希望はすっかり捨てておしまいになりました。私はあなたの気高い向上心が一つずつ一つずつ枯《か》れ落ちて、とうとう、お金儲《かねもう》けという、一番大きな欲がすっかりあなたを占領《せんりょう》してしまうのを見て来ましたのよ。そうじゃありませんか?」
「それがどうしたんだ?」と彼はいきり立って、「よしんば私がそんなに利口者になったとしたところで、お前に対しては変りはしないよ」
娘は頭を振った。
「変ったと言うのか?」
「私たちの約束《やくそく》は古いものです。その時分、私たちはふたりとも貧乏でそれに満足していました。辛抱《しんぼう》して働きさえすれば、世《せ》間並《けんなみ》の運はきっと向いて来ると思っていたじゃありませんか。あなたは変ってしまったんです。約束をした時分のあなたとはまるで別の人のようです」
「子供だったんだよ」とスクルージは面倒臭《めんどうくさ》そうに言った。
「あなたにも御自分の気持が変ったことはお分りでしょう。私は変りません。私たちの心持が一《いっ》致《ち》していた時分には将来の幸福への希望であったものも、今こうして二つの心が離《はな》ればなれになっては、かえって不幸の元になります。どんなに私が今まで、このことについて考え抜いたかは申しますまい。考えに考えたあげく約束を取り消しに来たというだけでじゅうぶんでございます」
「私が取り消しを求めたことがあるか?」
「言葉に出しては、一度もありません」
「じゃ、何でだ?」
「変って来た性質と変ってしまった心持、暮《くら》し方が変り、目的とするものが変ったんです。私の愛なんかあなたには何の値打もなくなってしまったのです。もし私たちの間に約束がなかったとしたら」と娘はやさしく、しかし、しっかりとスクルージを見つめて、「あなたは今の私を探し出して愛を求めなさいますか? そうはなさいますまい、決して!」
さすがに彼もこれをみとめないわけには行かぬらしかった。それでも痩《や》せがまんをして、
「それは君の思い過ぎだ」
「そんなふうに考えたくはありません、できるならば」と娘は答えた。「それは神様が御存じです! これが私にわかった以上、私にはどうすることもできないと悟《さと》りました。もし、あなたが、きょうでも明日でも昨日でも、自由であったとして、持参金無しの娘をお選びになろうなどとはいくら私でも信じられません。――その相手の人を信じれば信じるほど、何でもかでも儲けずくで割り出しなさるでしょうし、それともまた、その人を選ぶ時に、ほんのちょっとの間、御自分のその主義を捨ててみたにしても、直ぐそのあとで後悔《こうかい》したり、残念がったりするのは分りきっているじゃありませんか? 私にはわかってます。さあ、こういうわけで私は約束を取り消してあげます。以前のあなたへの愛のために、心から喜んで」
スクルージは何か言おうとしたが、娘は顔をそむけて言葉だけ続けた。
「あなたも苦しいでしょう――私たちの今までのことを思い返せば、あなただって苦しいはずだと、せめては考えたくなります――。ほんのちょっとの間で、私のことはあなたのおもいでの中から消えて行くことでしょう。役にも立たない夢《ゆめ》として、そんな夢からは醒《さ》めて幸だったとお思いになるでしょう。あなたの選んだ生活がどうぞおしあわせであるようにと、お祈《いの》りします!」
娘は男から離れて行った。これで二人は別れ果てたのだ。
「幽霊《ゆうれい》さま!」スクルージは言った。「もうこれ以上見せないでください。家へ連れて行ってください。私をこんなに苦しめて何が面《おも》白《しろ》いのですか?」
「もう一つの幻影《げんえい》があるんだ」と幽霊は説明した。「もうじゅうぶんです! これ以上見たくありません。見せないでください」とスクルージは拒《こば》んだ。
けれども幽霊は容赦《ようしゃ》なくスクルージを両腕の中に羽がいじめにして、無理に次に展開することを見せた。
それは別な場所での別の光景であった。たいして広くもなく立派でもないが、居心地よくできている部屋であった。美しい娘が暖炉の前に腰《こし》かけていた。その娘と相対している、みぎれいな主婦を見るまでは、前の場面のあの娘と同一人だとばかりスクルージは思い込《こ》んでいたが、昔の彼女《かのじょ》は今では立派な母親になっていたのだ。部屋の中の騒々《そうぞう》しさは相当なものだった。心が動揺《どうよう》しているスクルージには数えきれないほどの大勢の子供がいた。あの有名な詩の中の動物の群とは異なり、四十人の子供らが一人のように行動するのではなくて、四十人が銘々《めいめい》勝手に四十人ぶりの活動をするのであった。その結果は信じられないほどの大騒動であった。が、誰もそれを気にとめる者はないらしかった。それどころか、母と娘はそれを楽しんでいるらしく、笑いころげていた。娘の方はやがてそれに仲間入りしたが、たちまちのうちに若い山賊《さんぞく》どもに無《む》惨《ざん》に剥《は》ぎとられてしまった。
あの仲間の一人になれるんだったら、どんなものでも出すがな! だが、あんな乱暴はできない、絶対にできない! 全世界の富を出されてもあの編みあげた髪《かみ》の毛をめちゃめちゃにしたり押しつぶしたりはしないな。それにあの、貴重な小さい靴《くつ》だが、神も照覧あれ! 私は自分の命を守るためでも、無理にあれを引張り取ったりしないね、いくら冗談《じょうだん》にだって、あの若いひよっこ《・・・・》がやってるように、あの娘の腰囲《こしまわ》りをはかると言って飛びついたりはしないね。そんなことをしたら罰《ばつ》はてきめんで腰のまわりに私の腕が根をつけてしまって二度とまっすぐには伸《の》びないものと覚《かく》悟《ご》しなければならない。しかも、本心を白状すれば、私はたまらなくあの唇《くちびる》に触《ふ》れたかったのだ。その唇をひらかせるために話しかけてみたかったのだ。あの伏《ふし》眼《め》がちの眼のまつげを見つめながら、顔をあからめさせずにおきたいのだ。あの髪の毛をほどいて波打たせるところを見たいのだ。あの髪の毛はたとえ一インチでも、評価の方法のない貴重な記念品になるのだ。一口に言えば、私の実の気持は、子供のように気軽に自由にふるまいながら、しかもそれを特権と感じてじゅうぶん喜べるだけの大人でありたかったのだ。
入口の戸をたたく音が聞えた。すると子供たちが突進《とっしん》し、彼女はにこやかにほほえみながら服は剥がれたままで、真《まっ》赤《か》な顔をして騒《さわ》いでいる連中のまんなかへ連れ込まれ、父親の帰りを迎《むか》えるのに間に合うようにと、入口の方へ引きずられて行った。父親はクリスマスのおもちゃや贈物《おくりもの》を背負った男を従えていた。何の防御《ぼうぎょ》準備もしていなかった担《かつ》ぎ男は、叫び声と押し合いと殺到《さっとう》で、不意打ちを喰《くら》った! 椅子《いす》を梯《はし》子《ご》にしてその男の体に這《は》いあがってポケットへ手を突込んだり、桃色《ももいろ》の紙包をひったくったり、襟飾《えりかざり》にしがみついたり、首にかじりつくやら、背中をたたくやら、嬉《うれ》しさ余って脚《あし》を蹴《け》ったりする! 紙包がひらかれる度《たび》に驚《おどろ》きと歓《よろこ》びの喚声《かんせい》があがった。
赤ん坊が人形のフライ鍋《なべ》を口へ入れようとしたところを抑《おさ》えられたとか、木《き》皿《ざら》にのりづけになっていたおもちゃの七面鳥を呑《の》みこんだらしい、それにちがいないと言う恐ろしい報告! 続いてそれが誤報だと知れて大安心! 喜ぶやら、礼を言うやら、夢中《むちゅう》にのぼせあがるやら! みんな同じでとても説明はしきれない。やがて、喜びわめく子供たちもだんだんに客間から去って行き、階段を一段上っては足を止め、また一段あがってはとまり、一段あがってはとまりして、やっとのことで一番上の部屋へはいり、そこで寝床に収まったところで、そのまま静かになった、と言えばそれでじゅうぶんである。
さて、ここでスクルージがいっそうの注意をもって見ていると、この家の主人が娘《むすめ》をやさしく自分の方へもたれかけさせながら、その娘の母親と一緒《いっしょ》に自分の炉《ろ》辺《へん》に腰をおろした。そしてスクルージが自分にもあのように心優《こころやさ》しく、たのもしい娘があって、自分を父と呼んでくれ、霜《しも》枯《が》れ果てた自分の生涯《しょうがい》の冬に春の光をもたらすのだったらと思っているうちに、眼がぼうっとうるんで来た。
「ベルや」と妻の方を見やって夫はほほえんだ。
「お前の昔の友人にきょう会ったよ」
「だれですの?」
「当ててごらん!」
「分りませんわ。ああ、もう分りました」と一息に言って、夫の笑《え》顔《がお》に答えながら、「スクルージさんでしょう」
「いかにもスクルージさんだよ。あの人の事務所の窓の前を通るとね、窓が閉まってないで、中にろうそくがついてるので、はいってみないわけにはいかなかったのさ。あの人の仲間は病気で死にかかってるとかいうことを聞いたがね。ところで、スクルージさんはたった一人で部屋にすわりこんでるのさ。まったくの一人ぼっちだね」
「幽霊さま!」スクルージは絶え絶えの声で言った。「私をほかのところへ連れてってください」
「これはみんな今まで起ったことの影法師だと、私はお前に言っておいた」と幽霊は言った。「あれがあの通りだからと言って私を責めないでくれ」
「どこかへ連れてってください」とスクルージは叫んだ。「とても見ていられません」
スクルージは幽霊の方を向いたが幽霊の顔が、それまでに見せたさまざまの人物の顔の面影を奇妙《きみょう》に映し出して自分をじっと見つめているのに気がついたので、スクルージはいっそう強く喰《く》いさがって言った。
「私から離れてください! 私を連れて戻《もど》ってください。二度と私につきまとわないでください!」
この争闘《そうとう》の間に――幽霊が何も眼に見える抵抗力《ていこうりょく》なしで、相手の攻撃に一向ひるまないのを争闘と呼び得るならば――スクルージはその争闘の間に幽霊の頭上の光が、高く、煌《こう》々《こう》と燃えているのに気がついた。そして幽霊が自分の上に及《およ》ぼしている力とその光との関連をおぼろげながらも感じ取って、消灯用の帽《ぼう》子《し》を掴《つか》みとっていきなり幽霊の頭上にかぶせた。
幽霊はへたへたとつぶれたので消灯器がその全身を覆《おお》った。しかし、いくらスクルージが力いっぱいに帽子を圧《お》しつけても光をかくすことはできなかった。それは消灯帽の下から洪水《こうずい》のように流れ出してそこら一面を照らした。
スクルージはまったく疲《つか》れきっていることを意識した。そしてどうにも抵抗のできない睡《すい》魔《ま》におそわれて来た。その上に自分の寝室《しんしつ》の中にいることに気がついた。彼は消灯帽に別れの一ねじりを与《あた》えたがそのとたんに手がゆるみ、ようやくのことで寝床の中へすべり込むが早いか、深い眠《ねむ》りに落ちこんだ。
第三章 第二の幽霊《ゆうれい》
スクルージはひどい鼾《いびき》をかいて眠《ねむ》っていたがふと眼《め》が醒《さ》めたので、頭をはっきりさせようと寝《ね》床《どこ》の上に起き上った。人に言われるまでもなく今まさに鐘《かね》が再び一時を報じるところであることを知った。ジェイコブ・マーレイの手引で第二の使者がよこされ、これから会議を開くという特別の用事をひかえているのに、なんとまあ、きわどい時に眼をさましたものだろうと思った。
けれども今度の幽霊がカーテンのどこのあたりを引き寄せて入って来るのかなと思うと、ぞっと寒気をおぼえ、スクルージは自分で片っぱしからカーテンをのこらず寄せてしまい、さてまた横になって、あたりに鋭《するど》く眼をくばっていた。幽霊があらわれた時、しゃんとした態度で応対したいと願い、不意を打たれて、ふるえ上るのはいやだったからである。
機《き》敏《びん》でいつもすき《・・》がないのを自《じ》慢《まん》にしている磊落《らいらく》な紳《しん》士《し》たちは自分らは投銭遊びから殺人にいたるまでなんでもござれだと言って、冒険《ぼうけん》的な能力が広範囲に及んでいることを吹《ふい》聴《ちょう》する。確かにこのような両極端《りょうきょくたん》の間にはかなり広い領域にわたる種々の問題が含《ふく》まれている。スクルージについてはこれほど思いきったことは言わないが、しかし彼《かれ》とても不思議な出現物にそなえてかなり広い範《はん》囲《い》の心構えをしていたこと、赤ん坊《ぼう》から犀《さい》にいたるまでの間に介在《かいざい》するぐらいの種類なら、何が出てもたいして驚《おどろ》かなかっただろうということは信じていただきたい。
さて、スクルージはほとんど、いかなるものに対する心構えもできていたが、無形のものへの準備までもできていたわけではなかった。それで鐘が一時を打ってもなにも形のあるものがあらわれて来ないとなると、にわかに激《はげ》しくふるえ出した。
五分すぎ、十分すぎ、十五分すぎたがまだ何ものも現われなかった。その間じゅうスクルージは燃えるように赤い光のただなかに横たわっていた。この光は鐘が一時を報じると同時にさし込《こ》んで来たものである。
そしてそれがただの光であるだけに彼にとっては幽霊十二人分よりもっと気味がわるかった。それが何のためのものか、何をしようとしているのかがわからないからである。
自分がなにか興味ある実験の材料になっていて、なんの前ぶれもなく、自然にボウと燃え上ってしまう燃料にされているんじゃないかという心配も湧《わ》いて来た。しかし、ついに彼は考え始めた――みなさんや私なら初めから考えついていたことであるのに。なぜならいつの場合でも当事者でない者にはどうしたらいいかという案が浮《うか》んでくるし、それを実験してもみるものである――そういうわけでようやく彼もこの不気味な光の源と秘密は隣《とな》りの部屋にあるのではないかと考えついた。光をたどっていくとそちらからさして来るらしいのである。こう考えつくとスクルージはそっと起き上ってスリッパを引きずりながらドアのところへ行った。
スクルージの手が鍵《かぎ》にかかったとたん、聞きなれない声が彼の名を呼び、お入りと言った。彼はそれにしたがった。
それは彼の部屋だった。疑う余地はなかった。しかしびっくりするような変り方をしていた。壁《かべ》や天井《てんじょう》には青々とした緑の葉がかけつらねてあり、さながら森のようだった。そのあらゆる部分にはつやつやした木の実《み》が輝《かがや》いている。ひいらぎ《・・・・》や寄生樹《やどりぎ》やつた《・・》などのパリパリした葉が光を反射して無数の細かい鏡をちりばめたようだった。
そして勢よく燃えている火が煙突《えんとつ》をごうごうと言わせていた。このようなことは、化石したような陰《いん》気《き》な炉《ろ》にとって、スクルージの時代、いや、マーレイや、そのずっと以前に過ぎさった幾冬《いくふゆ》この方、絶えて久しいことであった。
床《ゆか》に堆《うずたか》く積み上げられ、玉座のような形をなしているのは七面鳥や鵞鳥《がちょう》、猟禽《りょうきん》、家禽、野《や》猪《ちょ》の肉、輪切り肉、仔《こ》豚《ぶた》、長くつないだソーセージの環《わ》、ミンス・パイ、プラムのプディング、牡蛎《かき》の樽詰《たるづめ》、赤く焼けた栗《くり》、桜色《さくらいろ》の頬《ほお》をした林《りん》檎《ご》、汁《しる》気《け》の多いみかん、頬の落ちそうに美味《おい》しい梨《なし》、すてきに大きな公現祭の祝菓《いわいが》子《し》、煮《に》え立っているパンチなどであって、パンチから立ちのぼる良い匂《にお》いの湯気で部屋はかすんでいた。
この長《なが》椅子《いす》の上に見るも気持のよい陽気な巨人《きょじん》がゆったりと坐《すわ》っていた。手には形が豊《ほう》饒《じょう》の角に似た燃えさかる松明《たいまつ》を持ち、スクルージが戸の向うから覗《のぞ》きこみながら入って来ると、それを高くかざして彼にその光を注いでくれた。
「お入り!」と幽霊は叫《さけ》んだ。「お入り! そして私をもっとよく見るがいい」
スクルージはおずおずと入って行き、この幽霊の前に頭をたれた。彼は今までの頑迷《がんめい》なスクルージではなかった。それで幽霊の眼はさえざえとして親切ではあったが、眼を合わせる気にはなれなかった。
「わしは現在のクリスマスの幽霊なのだ。わしをごらん!」
スクルージはうやうやしくその通りにした。幽霊がまとっているのは白い毛皮でふち取りのしてある濃《こ》い緑色の長衣、あるいはマントというか、ただ一枚きりだった。この服がごくゆるやかに全身にかかっていて、広い胸があらわに見えてまるで人工的に守られたりかくされたりする必要はないと威張《いば》っているかのように思われた。着物のたっぷりした襞《ひだ》の下から見えている足もはだしだった。
頭にかぶっているものと言えばひいらぎ《・・・・》の花《か》冠《かん》だけで、それにはつらら《・・・》がキラキラとあちこちに下がっていた。長い鳶色《とびいろ》の捲《まき》毛《げ》はゆったりと垂れていたが、やさしそうな顔も、輝く眼も、開いた手も、元気のよい声も、くつろいだ態度も朗《ほがら》かな様子もすべてがゆったりとしていた。腰《こし》のあたりに古風な刀の鞘《さや》を帯びていたが、刀身はなく鞘も古いので錆《さ》びてぼろぼろになっていた。
「これまでわしのような者は見たことがないのだね!」
幽霊は大きな声で言った。
「はい、ございません」
と、スクルージはそれに答えた。
「わしの家族の若い連中と一緒《いっしょ》に歩いたことはないのかね? つまり(わしはずっと若いんで)わしに近い年代の兄貴たちとだよ」
「どうもそのような記《き》憶《おく》がございませんが。御兄弟は大勢おありなのですか、幽霊さま?」
「千八百人の上いるね」
と、幽霊は言った。
「そんなに大勢さんではかかり《・・・》がさぞ大変なことだろう」
と、スクルージは呟《つぶや》いた。
現在のクリスマスの幽霊は立上った。
「幽霊さま」とスクルージはおとなしく言った。「どこへなりとつれていってくださいまし。昨夜はしかたがなくまいりましたが、教えていただいたことが今、わかってきました。今夜も、なにか教えてくださることがございましたら、どうかそれによって私のためになるようにしていただきとうございます」
「わしの着物に手をふれなさい!」
スクルージは言われたとおりにし、着物にしっかりつかまった。
たちまち、ひいらぎ、寄生樹《やどりぎ》、赤い実、つ《・》た《・》、七面鳥、鵞鳥、猟禽、家禽、野猪の肉、獣肉《じゅうにく》、ソーセージ、牡蛎、パイ、プディング、果物、パンチなどが全部、消えてしまった。同様に部屋も火も赤々とした光も、夜の時間もみな消えて、二人はクリスマスの朝の街頭に立っていた。街頭では(きびしい寒さなので)人々はあらあらしくはあるが活溌《かっぱつ》な快い音をさせながら住宅の前の舗《ほ》道《どう》や、家の屋根から雪をかきおとしていた。上から下の道にバッサリ落ちて来る雪が小さな吹雪《ふぶき》のようにくだけるのを見て少年たちは大喜びだった。
なめらかで白い敷《しき》布《ふ》のような屋根の雪や、それよりいくぶんうすよごれている地面の雪と対照して、家々の正面が黒く見え、窓はいっそう黒く思えた。
地上の雪は荷車や荷馬車の重いわだち《・・・》で掘《ほ》り返されて深い溝《みぞ》ができており、大通りの辻《つじ》などでは何度もわだち《・・・》の上をほかのわだち《・・・》が横切って行くので、乱れ、いりくんだ水路が黄色い泥《どろ》と氷のような水をたたえていた。
空は重くたれこめ、行きどまりの町々にさえも半ば溶《と》け、半ば凍《こお》っているよごれた霧《きり》がたちこめていた。霧の中の重い方の分子はすすけた原子の雨となって降って来たが、まるで英国中の煙突が申し合わせて火事を起し、心ゆくまで煙《けむり》を吐《は》き出しているかのようだった。今頃《いまごろ》の町のこの気候にはこれと言って気持を明るくするようなものは何一つないのだが、それでいながら、この上なく晴れ渡《わた》った夏の空気や輝く太陽では及《およ》びもつかない楽しい気分があたりにみなぎっていた。
というのは、屋根の上で雪を払《はら》い落している人々は陽気に浮《う》かれきっており、てすり《・・・》から互《たが》いに呼び交《か》わしたり、時々、冗談《じょうだん》に雪球をぶつけ合ったり――この方が冗談を口でたたかわすより遥《はる》かにたち《・・》のよい飛道具である――それがうまく当ったからといって大笑いをし、当らなかったからと言って大笑いをしていた。
鳥屋の店はまだ半分あいていたし、果物屋は得意の絶頂で景気よく輝いていた。陽気な老紳士のチョッキのような形をした、大きな丸い太《たい》鼓《こ》腹《ばら》の栗を盛《も》った籠《かご》が戸口にもたせかけてあり、溢《あふ》れこぼれて卒中をおこしたように街頭へころがり出ている栗もあった。日に焼けた赤ら顔のスペイン種の玉ねぎも幅広《はばひろ》の帯をしめ、スペインの坊さんのように肥《ふと》った体をぴかぴかさせながら通りすがりの娘《むすめ》たちに棚《たな》の上から浮《うわ》気《き》っぽい、ずるそうな眼配せをおくるかと思えば、つるしてある寄生樹《やどりぎ》をとぼけ顔して見やったりしていた。また梨やリンゴはつややかなピラミッド型に高く積み上げられているし、葡《ぶ》萄《どう》の房《ふさ》は店の主人の心ある計らいで、無料で人々の口に露《つゆ》をもよおさせるように人目につく鉤《かぎ》からぶら下がっていた。
また、苔《こけ》のついている褐色《かっしょく》のはしばみ《・・・・》の実の山もあり、そのかぐわしい香《かおり》をかぐと森の中の古い道や、枯《かれ》葉《は》が踵《かかと》までうずまる、たのしいそぞろ歩きなどを思いおこすのだった。
それからずんぐり肥えて黒ずんだ色をしたノーフォーク産のリンゴはみかんやレモンの黄色を引立たせ、汁の多いしまった体で、どうか紙袋《かみぶくろ》に入れて家へお持ち帰りの上、食後に召上《めしあが》ってくださいと熱心に頼《たの》んでいた。
このような選《え》り抜《ぬ》きの果物の間に金魚銀魚の入った鉢《はち》がおいてあったが、血のめぐりのわるい、鈍感《どんかん》な生物でさえ何事かおこっているということを知っているらしく、自分たちの小さな世界の中をゆっくり、情熱のない興奮ぶりで、口をぱくぱくさせながら泳ぎまわっていた。
食料品店! おお、食料品店! 鎧戸《よろいど》が一、二枚あけてあるだけで、ほとんど閉まっていたが、そのすきま《・・・》からでもこのような光景が見えるのだ!
秤皿《はかりざら》は帳場台の上におりて来て陽気な音をたてるし、撚糸《よりいと》は糸巻からぐるぐるほどけるし、缶《かん》は手品のようにカランカラン上下に踊《おど》っている。茶とコーヒーの入り交じった良い香が鼻をよろこばせる。極上品の乾《ほし》葡《ぶ》萄《どう》は多量にあり、アーモンドは真白だし、肉桂《にっけい》の棒はじつに長くて真《まっ》直《す》ぐである。その他の香料《こうりょう》も何とも言えないすてきな匂いであるし、砂《さ》糖漬《とうづけ》の果物が溶かした砂糖で固めてあるのを見たら、どんなに冷静な人でも興奮してしまうくらいだった。いちじく《・・・・》は汁が多くてやわらかく、フランス・プラムは華《はな》やかに飾《かざ》ってある箱《はこ》におさまって、つつましやかな酸味をたたえながら顔を赤らめていた。なにもかも味覚をそそるものばかりで、それぞれクリスマスの装《よそお》いをこらしていた。
だが、それだけではない、お客の方でもみんなこの日の楽しい期待に心が焦《あせ》り夢中《むちゅう》になっているので、戸口のところで鉢合わせをしたり、柳《やなぎ》の枝《えだ》で編んだ買物籠を乱暴に押《お》しつぶしたり、買物を帳場台におきわすれたり、またそれを取りに馳《か》け戻《もど》ったりして、このような失敗は数えきれないほどだのに、しかもみんなこの上なしの上機嫌《じょうきげん》だった。
食料品店の主人や店員たちもいかにも気さ《・》く《・》で威勢がよく、エプロンの留《と》めがねを背中でしめつけているのは、みがきあげたそのハート型が、彼ら自身のハート(心臓)であり、一般の人々に本心を見てもらうため、また、望みとあれば、クリスマスの烏《からす》どもにつつかせてもいいという心意気でわざわざ背中まで持出したのだと言わんばかりだった。
しかし間もなく教会の尖塔《せんとう》が善男善女をのこらず教会や礼拝堂に呼びよせたので、群衆は最上の晴着を着飾り、晴れやかな顔で往来へ出かけて来た、それと同時に無数の横町や路地や名もない町かどから生のままの食料品をかかえて出て来る人々が大勢あった。パン屋の店へ行って料理してもらうのだ。
この貧しい人々を見て幽霊はたいへん興味をおぼえたらしく、スクルージをそばにつれたまま、とあるパン屋の入口にたたずんでいたが、人々が通りすぎる時、その手にしている食物の覆《おお》いをとり、松明から香料を御馳《ごち》走《そう》の上に振《ふ》りまいてやった。
それは不思議な松明で、一度か二度だったが、食物を運んで来た人同士が押し合いへし合いして荒《あら》い言葉のやりとりが始まった時、幽霊が松明からほんの二、三滴《てき》の水をそそいでやっただけでたちまち元の上機嫌にかえり、クリスマスに喧《けん》嘩《か》をするなんて恥《は》ずかしいことだねと話し合っていた。その通りだ! まったく、その通りである!
やがて鐘は鳴りやみ、パン屋は店をしまった。だが、どこのパン屋でもかまどの上の雪どけの濡《ぬ》れたところにこれらの御馳走やその調理の進行ぐあいが、ほんのりと影《かげ》をうつしていた。そこだけは舗道まで湯気を出し、まるで舗道の石まで何かを料理しているかのようだった。
「その松明から振りかけなさるものには何か特別の香味が入っておりますんですか?」
と、スクルージはきいてみた。
「そうだよ。私自身の香味だ」
「それは今日のどんな御馳走にも合うのですか?」
「親切に出された御馳走なら何にでも合うのだ。ことに貧弱《ひんじゃく》な食卓《しょくたく》には利《き》くのだよ」
「どうして貧弱な食卓にはことに利くのでございますか?」
「そういう食卓にはことさらに必要だからなのだよ」
スクルージはちょっと考えてから、
「幽霊さま、私共をめぐるあらゆる存在の中でも、選り抜きのあなたのようなお方がどうして、この人たちの無《む》邪《じゃ》気《き》な楽しみの機会を制限なさりたいのか、私にはわかりかねますが」
「私がかね?」
と、幽霊は叫んだ。
「あなたは七日目ごとにこの人々からおいしいものを食べる便《べん》宜《ぎ》をうばってしまおうとなさるんですからね。御馳走らしいものを食べられるのはこの七日目たった一日ぐらいですのにね。そうではありませんか?」
「私がかね?」
幽霊《ゆうれい》は大声をあげた。
「あなたはこういう店を七日目ごとに安息日だからと言って閉めさせようとなすっていらっしゃるじゃありませんか。それが同じことになるわけですよ」
「この私がかね?」
幽霊は驚いて叫んだ。
「もしちがっていたらおゆるしくださいまし。それはあなたのお名前かまたはあなたの御家族の名のもとに命ぜられているのでございますよ」
「お前たちのこの世の中には、私らを知っていると称して、私らの名をかたって自分の情欲、傲慢《ごうまん》、悪意、憎《にく》しみ、ねたみ、頑迷《がんめい》、利己主義の行《こう》為《い》をやっている者たちがあるのだ。その者たちは私や我々の一族には見も知らぬ連中なのだよ。このことはよくおぼえていて、その者たちのしたことについては、その者たちを責めるようにしてもらいたい。我々ではなくね」
スクルージはそうすることを約束《やくそく》した。それから二人は今までどおり姿を現わさずに町外れへ出かけていった。幽霊の著《いちじる》しい特徴《とくちょう》は(そのことはパン屋の店でスクルージは気がついたのだが)巨大な体《たい》躯《く》にもかかわらずどんな場所にでも容易に入り込《こ》めることだった。また低い屋根の下でも、見上げるような大広間にいる時と同様優《ゆう》雅《が》に、変化自在の存在として立っているのだった。
この不思議な力を見せびらかしたいためかあるいは親切な寛大《かんだい》な温かい気持からか、またはすべて貧しい者への同情からか、幽霊はスクルージの書記の家にスクルージを連れて行った。彼を着物につかまらせたまま。そして入口の敷居のところで幽霊はにっこり笑い、立止まると松明を振ってボブ・クラチットの住居を祝福した。
まあ、考えてもごらんなさい! ボブは一週間にたった十五ボブの収入しかないのですよ。土曜日ごとに自分と同じ名前の金額《ボブ》を十五枚かせぐだけなのに、現在のクリスマスの幽霊はたった四部屋しかないボブの家を祝福したのである。
その時ボブの奥《おく》さんがもう二度ぐらい縫《ぬ》いなおしたと思われる服を着てあらわれたが、飾りのリボンだけは新しく、六ペンスという安い値段のわりには見栄《みば》えがした。二番目の娘のベリンダ・クラチットも新しいリボンをつけて二人でしきりに食事の用意をしていた。一方ピーター・クラチットは馬《ば》鈴薯《れいしょ》の鍋《なべ》をフォークを使ってこげつかないようにしていた。ひどく大きなシャツの襟《えり》の両端《りょうたん》を口にくわえていたが、(このシャツはこの日の記念としてボブが自分のお古を後《あと》継《つ》ぎ息子《むすこ》に与《あた》えたのである)ピーターはこんな立派な身なりをしたのがうれしくて、社交界の人々が集まる公園にこの姿を見せびらかしに行きたくてたまらなかった。
そこへ二人の小さいクラチットたち、つまり小さな男の子と女の子が外から馳け込んで来て、パン屋のところで鵞鳥《がちょう》の煮《に》えている匂いがしたと思ったら、うちのだよ、と注進した。そしてセージだの玉ねぎだのと贅沢《ぜいたく》なことを考えながらこの二人はテーブルのまわりを踊りまわった。ピーターも有頂天《うちょうてん》になり(カラーが喉《のど》をしめつけて息がとまりそうだったが、気取りもせず)火を吹《ふ》きたてたので、煮えのおそかった馬鈴薯もゴトゴト煮え立ち、早くとり出して皮をむいてくださいと言わんばかりに鍋の蓋《ふた》にぶつかり合った。
「いったい父さんはどうなすったんだろうね? ティム坊《ぼう》もさ。それに、マーサも去年よりは三十分もおそいようだよ」
と、クラチット夫人が言っているところへ、
「母さん、マーサが来ましたよ」
と、マーサみずから自分の名を触《ふ》れこんで来た。
「母さん、マーサが来ましたよ。ばんざーい、マーサ! すてきな鵞鳥があるんだよ」
と、二人の小クラチットどもがどなった。
「おやまあ、なんてまあ、おそかったじゃないか!」
クラチット夫人は何回も娘に接吻《せっぷん》し、ショールや帽《ぼう》子《し》をぬがせて、世話をやきたがった。
「昨夜どうしても仕上げなくちゃならない仕事が山ほどあったの。それにけさはお掃《そう》除《じ》をしなけりゃならなかったもんでね、母さん」
「いいよ、いいよ、来たからにはもうそんなことはどうでもいい。火のところに坐って、暖まるんだよ」
「だめだ、だめだ。父さんが帰って来たよ。かくれるんだよ、マーサ、かくれるんだよ」
どんなところにもたちまちあらわれる小クラチット二人が叫んだ。
そこでマーサがかくれると、父親のボブが入って来た。ふさ《・・》をべつにしても少くとも三フィートはあろうかと思われる襟巻をだらっとぶらさげ、着ている服は擦《す》り切れてはいるがよくつぎ《・・》をあてて、ブラシがかかっており、季節にかなうようにしてあった。ボブは小さなティム坊を肩車《かたぐるま》にのせていた。かわいそうなティム坊は小さな松《まつ》葉《ば》杖《づえ》を脇《わき》にかかえ、足には鉄の輪がはまっている。
「マーサはどうした?」
と、ボブ・クラチットは見まわした。
「まだですよ」
と、クラチット夫人。
「まだだって?」
たいした勢だったのにボブは急にがっかりした声になった。教会からの道すがらティム坊の愛馬になってピョンピョン跳《は》ねながら帰って来たのだった。
「クリスマスだというのにまだ帰って来ないのかい!」
マーサはたとえ冗談にしろ父を失望させるのを見ていられなかったので、早すぎたけれども押入の戸の蔭《かげ》から馳け出して来て彼の腕《うで》にとび込んだ。一方小クラチットどもはティムを台所へ引っぱって行き、蒸釜《むしがま》のなかでプディングが音を立てているのを聞かせてやろうとした。
「ティム坊はどうでした?」
クラチット夫人は「あなたはすぐにだまされるのですね」と言ってボブをからかい、ボブは心ゆくまで娘を抱《だ》きしめてしまうと、クラチット夫人がこうたずねた。
「まるで純金のように申分なかったよ。いや、それ以上だ。とにかくあの子は一人ぼっちで坐《すわ》っていることが多いもんで、考え深くなっているんだろうね。それはもう聞いたこともないような不思議なことを考えているんだよ。帰り道でね――父さん、教会でみんなが坊やを見てくれたかしら。そうだったら嬉《うれ》しいけれど。だって聖書には足なえの乞《こ》食《じき》が歩けるようになったり、眼の見えない人が見えるようになったことが書いてあるから、坊やの足を見れば、ちょうどクリスマスの日にみんながそのことを思い出して嬉しいだろうと思うよ――とこう言うんだ」
この話をした時ボブの声はふるえたが、ティム坊はだんだん丈夫《じょうぶ》に強くなって来たと言ったときにはいっそう、涙声《なみだごえ》になった。
小さな松葉杖がせわしく床《ゆか》をこちらへ来るかと思うと、次の言葉がまだ言い出されないうちにティムは戻り、兄さんと姉さんにつきそわれて炉《ろ》のそばの自分の台に腰《こし》かけた。
ボブは袖口《そでぐち》をまくり上げて――かわいそうに、その袖がそれ以上にみすぼらしくなるとでも思っているのだろうか――ジン酒とレモンを一緒《いっしょ》にした熱い飲物を調合し、よくかきまわしてから炉《ろ》格《ごう》子《し》の脇棚《ホブ》に入れ物をのせて静かに煮立たせた。
ピーターと、どこにでも顔をつき出す二人の小クラチットは鵞鳥を迎《むか》えに出て行ったが、まもなく意気《いき》揚々《ようよう》と行列を組んで帰って来た。
さあ、それからのバタバタ忙《いそが》しそうな騒《さわ》ぎを見れば、鵞鳥こそ鳥の中でもめったにない珍《めずら》しい種類のものなのだなと思われるくらいだった。羽根の生えている珍品《ちんぴん》、これにくらべれば黒い白鳥でさえ物の数に入らないほどだった。――実際この家ではその通りだった。
母さんがかけ汁《じる》を(前もって小さな手つき鍋につくっておいた)熱くしている間にピーターが非常な力をふるって馬鈴薯をつぶす。ベリンダ嬢《じょう》はりんごソースに砂糖を入れる役。マーサは温まったお皿を拭《ふ》く。ボブはティム坊を食卓の自分の隣《とな》りの小さな角に坐らせた。
二人の小クラチットは一同の椅子《いす》をならべた。もちろん自分たちのも忘れず、席について見張りの役を始めた。口にはスプーンを押込んでいる。自分の分を盛《も》ってもらうのが待ちきれず、早く鵞鳥が欲《ほ》しい! と大声でさいそくなどしないようにというためなのだ。ついに皿がならび、食前の祈《いの》りがとなえられ、そのあと一同は息を殺して静まりかえった。クラチット夫人がゆるゆると肉切り庖丁《ぼうちょう》をひとわたり眺《なが》めてから、いざ、鵞鳥の胸に突《つ》きさそうとしたのである。だが、いよいよ突き刺《さ》して待ちに待った詰物《つめもの》がどっと溢《あふ》れ出た時、食卓をかこんだ一同からいっせいに感嘆《かんたん》の声がおこった。ティム坊でさえ小クラチットたちにつられて、ナイフの柄《え》でテーブルを叩《たた》きながら弱々しい声で「ばんざーい」と叫《さけ》んだ。
このような鵞鳥がまたとあろうとは思われなかった。このような鵞鳥の料理されたのがこれまであったとは信じられないとボブは言った。やわらかなことと言い、風味と言い、大きさと言い、値段の安いことと言い、一同の感嘆尽《つ》きざる話題だった。
それをりんごソースとつぶし馬鈴薯でおぎないさえすればまったく家族全体にじゅうぶんな御馳走だった。まったくクラチット夫人が(皿の上にのっている小さな小さな一片《ぺん》の骨を見て)うれしそうに言ったとおり、とうとう食べきれなかったのだ! それでも一同は満腹したし、とくに小さい子供たちは眼《め》までセージや玉ねぎに埋《う》まってしまったほどだった。しかし今やベリンダが新しい皿をくばったのでクラチット夫人はプディングをとりに一人で部屋を出て行った。――あまり不安でたまらないので、だれにもそばにいてもらいたくなかったのである。
もしも火がじゅうぶんに通っていなかったら! もしも取り出す時にこわれたら! 鵞鳥で夢中になっている間に、だれかが裏の塀《へい》をのりこえて来て盗《ぬす》んででもしまったら!――など、いろいろともしも二人の小クラチットたちが知ったら真青《まっさお》になってしまうような、あらゆるおそろしい想像をめぐらした。
大丈夫! パッと立ちのぼる湯気! プディングは蒸釜からとり出された。洗濯《せんたく》屋のような匂《にお》いがする! それはふきんだ。料理屋とお菓子《かし》屋がならんでいる隣りに洗濯屋がひかえているような匂い! それがプディングだった。一分とたたないうちにクラチット夫人はプディングをささげ、――上気した顔を誇《ほこ》らしげににこにこさせながら入って来た。かたくしっかりしていて、点々のある弾丸《だんがん》のようなプディング、四分の一パイントの半分のそのまた半分のブランデイはぽっぽと燃えている。そしててっぺんにはクリスマスのひ《・》いらぎ《・・・》がさしてあった。
おお、すばらしいプディングだ! 結婚《けっこん》以来の最大の成功だと思うと、ボブ・クラチットは静かに言った。クラチット夫人はこれで重荷がおりた気がする。今だから白状するが実は粉の分量がどうかなと不安に思っていたのだ、と打明けた。だれもかれもプディングについて何かしら述べた。だがだれ一人として、このプディングはこんな大家族に小さすぎるなどと言いもしないし、考えもしなかった。そんなことをすればまったくの異端者である。クラチット家のだれでもがそのようなことをほのめかしただけで、顔を赤くしたことであろう。
ついに食事がすっかり済み、皿《さら》は下げられ、炉も掃《は》き清められて火がたきつけられた。一同はつぼの飲物を毒見し、舌鼓《したつづみ》を打った。りんごとみかんがテーブルにおかれ、十能《じゅうのう》にいっぱいの栗《くり》は火にのせられた。そこでクラチット一家は揃《そろ》って炉のまわりに集まり、ボブのいわゆるだんらん《・・・・》(円形)をなした。実は半円なのだが。ボブの肘《ひじ》のところには家中のガラスの器《うつわ》がならべてあった。タンブラーが二つに把《とっ》手《て》のないカスタード用のコップが一つ。
しかしこの三つのコップは黄金の盃《さかづき》で飲むのと同様、熱い飲物をみたし、ボブは顔を輝《かがや》かしながらそれを一同に注いでやった。一方、火の上では栗がシュウシュウ、パチパチ音をたてていた。やがてボブが言い出した――
「みんな、クリスマスおめでとう! 神様、わたくしたち一同をおめぐみください」
家族全体がそれを繰返《くりかえ》した。
「神様、僕《ぼく》たちみんなをおめぐみください」
と、ティムが一番あとから言った。
ティムは父親にしっかりと寄り添《そ》って自分の小さな台に坐っていた。ボブは萎《な》えた小さな手を自分の大きな掌《てのひら》の中ににぎりしめ、小さなティムを誰《だれ》にも奪《うば》われまいとするかのようにしっかりと小さな肩をかかえていた。
かつておぼえたこともないような興味をもって眺めていたスクルージは、
「幽霊さま、ティム坊は長生きするでしょうか? どうでしょう?」
と、たずねた。
「わしには炉辺に空っぽの席と、それに使い手のいない松葉杖が大事に保存されてあるところが見える。もしこの幻影《げんえい》が将来も変らないなら、あの子は死ぬだろう」
「いえ、いえ、ああ、御親切な幽霊さま! どうかあの子を助けてくださいまし」
と、スクルージはたのんだ。
「もしこの幻影が将来になっても変らないなら、わしの一族のだれが来てもあの子の姿をここに見出《みい》だすことはないだろうよ。それがどうしたというのだ? もしあの子が死にそうならその方が結構ではないか。余計な人口が減るわけだからね」
スクルージは自分の言った言葉をこのように幽霊が引合いに出すのを聞いてうなだれ、後悔《こうかい》と悲しみでいっぱいになった。
「人間よ、もしお前の心が石でなく人間なら、余計とは何であるか、どこに余計なるものがあるのかをはっきりわきまえるまでは、この悪い文句をさしひかえるがよい。どんな人間を生かし、どんな人間を死なせるかお前に決められると言うのか。神の眼には、この貧しい男の子供何百万人よりお前のような人間こそ生きていく値打もなければ、生かしておくのにふさわしくもないのだぞ。おお、神様!草の葉の上の虫けらが、塵《ちり》の中で空腹にうごめく同胞《どうほう》たちの間に生命が多すぎるなどとよくも言えたものだ!」
幽霊の非難にあってスクルージはうなだれるばかり、ふるえながら地面に眼を落していた。しかしたちまち、眼をあげた。自分の名前が聞えたからである。
「スクルージさん! 今日の御馳《ごち》走《そう》を寄付してくださったスクルージさんの御健康を祝します」
と、ボブが言った。
「御馳走を寄付してくださったんですって?」
と、クラチット夫人は真《まっ》赤《か》になって怒《おこ》った。
「まったくあの人がここにいればいいと思いますわ。そうしたら思うぞんぶん、私の不服を並《なら》べ立ててやりますからね。そんな御馳走でもあの人なら喜んで食べるでしょうよ」
「これ、お前、子供たちの前だよ、クリスマスじゃないか」
「スクルージさんのようなあんないやな、けちな、冷酷《れいこく》な、薄情《はくじょう》な人の健康を祝ってやるんですから、たしかにクリスマスにはちがいありませんわね。あなたはあの人がどんな人間か知ってなさるのですもの、ロバート。あなたこそ、だれよりもよくあの人を知っているわけですわね、かわいそうに!」
「お前、今日はクリスマスだよ」
ボブはやさしくたしなめた。
「あなたとクリスマスに免《めん》じてあの人の健康を祝しましょうよ。あの人のためではありませんよ。どうか長生きをなさるように! クリスマスおめでとう! 新年おめでとう! あの人もそれでさぞ楽しく幸福になるでしょうよ」
子供たちも母親のあとから乾杯《かんぱい》した。この一家が真心のこもらないことをしたのはこれが初めてであった。小さなティムは一番あとから飲み干したが、一向に気がはいらないようだ。スクルージは一家にとって鬼《おに》だった。彼《かれ》の名を口にしただけで一同の上に暗い影《かげ》がさし、たっぷり五分間というものその影は消えなかった。
影が消え去ったあとは前の十倍も楽しそうになった。スクルージという毒々しいものを片付けてしまったのでほっと一と安心したからである。ボブ・クラチットはピーターに一つ働き口の心当りがあるが、もしそれがうまくきまれば毎週五シリング半の収入になるのだがと話した。二人の小クラチットたちはピーターが実業家になるのだと言って笑いころげた。ピーター自身も炉辺でぴんとそばだったカラーにはさまれながら思いにふけっている様子だった。そのような莫大《ばくだい》な収入を手にすることになったら、どのような事業に投資したものかと考えているらしかった。こんどは帽子屋にわずかの給料で雇《やと》われているマーサが自分のやっている仕事はどんなものなのか、また、ぶっつづけに何時間働いているかということ、そして明日の朝はゆっくり寝《ね》坊《ぼう》をするつもりだなどと話した。明日というのはマーサが家で過せるたった一度の休日なのだ。
また、何日か前に伯爵《はくしゃく》夫人と貴公子を見たけれど、その貴公子がちょうどピーターぐらいの背かっこうでいなすったと言うのを聞いて、ピーターはぐいっとカラーを引っぱり上げたので頭まですっぽり見えなくなってしまった。こうしている間も栗と飲物のつぼはたえず手から手へと回っていた。やがてティムが雪の中をさまよって行く子供の歌をうたってきかせた。細い悲しげな声でたいそう上手に歌った。
ここには特にとりたてて言うことはなかった。たいして器量のよい一家ではなし、身なりもよくなく、靴《くつ》には水がしみ込むし、着る物にも乏《とぼ》しく、しかもピーターは質《しち》屋《や》へのつかいをしたこともあるらしかった。
しかし、彼らは幸福で感謝しており、互《たが》いに愛し合い、今日の暮《くら》しに満足していた。やがて一同の影がうすれて行った。別れぎわに幽霊《ゆうれい》が松明《たいまつ》からきらめくしずくを振《ふ》りかけたため、いっそうみんなが幸福そうになった時、スクルージは彼らから、ことに小さなティムから、最後まで眼をはなさなかった。
この頃《ころ》にはそろそろ暗くなり、雪がかなりひどく降って来た。スクルージと幽霊が往来を進んで行くと、台所や居間やあらゆる部屋部屋で赤々と燃えさかる火の美しさはひとしおだった。
ここにゆらめく焔《ほのお》を見ればうち寛《くつ》ろいだ夕食の支《し》度《たく》をしているらしく、炉辺では皿類を暖めては返し、返しては暖めているのであろう。深《しん》紅《く》のカーテンはいつでもさっと下りて寒さと暗黒を閉め出すばかりになっていた。また、ある家では子供全部が雪の中に馳《か》け出し、嫁《とつ》いだ姉や兄弟やいとこや伯父《おじ》や伯母《おば》などを、だれよりも先に歓迎《かんげい》しようとしていた。
こちらでは集まった客の影が窓の日除《ひよ》けにうつっているかと思うと、あちらでは美しい娘《むすめ》たちの群がみな頭《ず》巾《きん》をかぶり、毛皮の長靴をはいておしゃべりをしながら、軽《かろ》やかな足どりで近所の家へ出かけて行った。この娘たちが頬《ほお》を上気させて入って来るところを見た独身者こそ災難である――彼女《かのじょ》たちは手練手管を心得た魔《ま》女《じょ》たちなのだ。自分でもそれをちゃんと承知しているのである。
けれどもこんなに大勢の者が知合の集《つど》いに出かけて行くのを見れば、目ざす家へ着いた時にはだれも出迎える者がないのではないかと心配になるくらいである。だがそうではない、どの家も客を待ちうけており、炉には煙《えん》突《とつ》の半ばに達するくらいどんどん石炭を燃やしていた。どの家にも祝福をあたえるうれしさで、幽霊は躍《おど》り上らんばかりだった。広い胸をむき出しにし、大きな掌をひろげ、手のとどくかぎりすべてのものにその朗《ほがら》かな、無《む》邪《じゃ》気《き》な、楽しい気分を気前よく振りまきながら、ふわりふわりとただよって行った。
さきの方を走りながら、うす暗い町に点々と灯《あか》りをつけていく点灯夫も今夜はどこかへ招《よ》ばれて行くと見えて良い着物を着ていたが、その点灯夫でさえ幽霊とすれちがった時、大きな声で笑い出した。その実、まさか「クリスマス」の喜び以外にだれかそばにいようなどとは夢《ゆめ》にも知らなかったのであるが!
今度は幽霊からはなんの前ぶれもないうちに、荒涼《こうりょう》としたものさびしい沼《ぬま》地《ち》に二人は立っていた、巨大《きょだい》な荒々《あらあら》しい岩が巨人の墓場を思わせるようにそちこちにころがっていた。水は行きたい方へと流れひろがっていた。いや、流れひろがると言っても凍《こお》ってしまって自由な動きがとれないでいた。生えているものと言えば苔《こけ》やはりえにしだ《・・・・・・》にボサボサした毒草だけだった。西の空低く、夕日が火のように赤い一条の光をのこしていたが、不機《ふき》嫌《げん》な人の眼のように一瞬《いっしゅん》ぎらっとあたりの荒《あ》れた光景を照らし出したと思うと、顔をしかめながら低く低く低くしずんで行き、とうとうまっくろな夜の闇《やみ》の中へと消えてしまった。
「ここはどこですかね?」
と、スクルージはたずねた。
「坑《こう》夫《ふ》の住んでいるところだよ。坑夫は地の底で働いているのだ。だがこの連中も私を知っているのだよ。ごらん!」
一軒《けん》の小屋の窓から灯《ひ》が輝いていた。二人は急ぎ足で近づいて行った。泥《どろ》と石でかためた壁《かべ》をつき抜《ぬ》けて入って行くと、愉《ゆ》快《かい》そうな人々が燃えさかる火をかこんで坐《すわ》っているのが眼に入った。それはひどく年をとったおじいさんとおばあさんにその子供たち、孫たち、曾《ひ》孫《まご》たちで、みんな祭日の晴着で心楽しくよそおっていた。
おじいさんは荒野を吹《ふ》きすさむ風に打ち消されがちな声で、みんなにクリスマスの歌をうたってきかせていた。それはおじいさんが子供の頃に歌ったたいへん古い歌だった。ときどき、ほかの者もみな一緒《いっしょ》になって折返しを歌った。一同が声を合わせると、おじいさんは急に元気よく大きな声になるし、ほかの者が歌いやめるとまた、元気のない声になってしまうのだった。
幽霊はここにいつまでもおらず、スクルージにしっかり自分の着物につかまっているようにと命じ、沼地の上を飛び越《こ》えて行った。どこへ行くのだろう? まさか海では? 海へ行くのだ。スクルージが振り返ってみると、ぞっとしたことには陸地の最後である恐《おそ》ろしげな岩のつらなりが二人のうしろにそびえ、耳は万雷《ばんらい》のような波の音につんぼになりそうだった。波は自分でうがったもの凄《すご》い洞穴《ほらあな》の間をうねり、吠《ほ》え、たけり狂《くる》い、おそろしい勢で大地を掘《ほ》り下げようとしていた。
岸から数海里はなれたところにもの淋《さび》しい暗礁《あんしょう》があって荒天つづきの一年中波は激《はげ》しく打ちつけている。その暗礁にぽっつり灯台がたっていた。その土台のところには海草が大きな束《たば》になってからみつき、海鳥は――海草が水から生れるように、海鳥は風から生れると言ってもいいかもしれない――彼らがかすめ飛ぶ波が起《き》伏《ふく》するように、彼らも灯台のまわりから飛びたったり、舞《ま》いおりたりしていた。
しかしこんなところでさえ、灯台を守る男が二人、火をたいていた。火は厚い石の壁に付いている風窓から明るい光をひとすじ、荒れ狂う海上に投げていた。
二人は向い合って坐っている荒けずりのテーブル越しにごつごつした手を握《にぎ》り合わせ、火酒の祝盃《しゅくはい》をあげながらクリスマスおめでとうを交《か》わし合った。そして、二人のうち、年かさの方の、まるで古い船の船首像のように、波風で傷だらけになった顔をした男が、疾風《しっぷう》のようなたくましい歌をうたい出した。
再び幽霊はうねりの高い黒い海の上を――どこまでもどこまでも――飛んで行き、どこの岸からもあまりにはなれたからとスクルージに言って、ある船の上におりて行った。
二人は舵《だ》輪《りん》を前にしている舵手や船首に立っている見張り人、当直の船員たちの傍《そば》に立った。この人々がそれぞれの部署についているところを見ると黒い幽霊のようだった。だがだれもみなクリスマスの歌をうなったり、クリスマスのことを考えたり、過ぎ去った昔《むかし》のクリスマスのことを低い声で仲間に話したりしていた。それにはもちろん家を恋《こい》しく思う気持が含《ふく》まれていた。そして船にいる人は眼がさめていようが眠《ねむ》っていようが、善い人であれ悪い人であれ、一年中のどの日よりもこの日には互いに親切な言葉をかけ合った。みんないくらかずつ今日の祝の気分を味わい、遠く離《はな》れたところで自分のことを思ってくれている人々のことを思い、その人々も自分のことを思い出して喜んでいてくれることを知っていた。
スクルージは嘆《なげ》くような風に耳をかたむけながら淋しい闇夜に死の深淵《しんえん》と同様、はかり知れぬ底をひそませた奈《な》落《らく》の上を飛んで行くのはなんと厳《おごそ》かなものだろうと考えていると、朗かな笑い声が聞えて来たので、ひどく驚《おどろ》いた。もっと驚いたことにはそれは彼自身の甥《おい》の声であり、自分はせいせいした、かわいた明るい部屋にいるのだった。そばには幽霊がにこにこしながら立っており、甥の方をいかにも気に入ったというように上機嫌で眺《なが》めていた。
「は、は、は、は、は、は!」
と、スクルージの甥は笑った。
とてもありそうもないことだが、みなさんが、このスクルージの甥以上に心からの笑いにめぐまれた人を御存じなら、私もその人と知合いになりたいと思う。私に紹介《しょうかい》していただきたい。お近付きになりますから。
物事は公平に公明正大に立派に調整されている。病気や悲しみが伝染《でんせん》する一方、笑いと上機嫌もまた世の中でこの上なしの伝染力を振るうものである。
スクルージの甥がこのように腹をかかえて頭を揺《ゆ》すりながら途《と》方《ほう》もなく顔をくしゃくしゃにゆがめて笑うと、スクルージの姪《めい》、つまり甥の妻もこれまた負けずに笑い出した。集まっている友人たちもおくれをとらない連中なのでどっと笑い出した。
「は、は! は、は、は、は!」
「あの人はね、クリスマスなんて下らないって言うんですよ。自分でもそう思い込《こ》んでいるんですね」
と、甥が叫《さけ》んだ。
「なら、なおさらよくないことよ、フレッド」
と、スクルージの姪が憤然《ふんぜん》として言った。こういう婦人たちは愛すべきかな! けっして物事を中途半《ちゅうとはん》端《ぱ》にしておかないのである。いつも真剣《しんけん》なのである。
彼女はたいそう愛らしかった。実に愛らしかった。えくぼのある、びっくりしたようなすてきな顔をして、豊かな小さな口は接吻《せっぷん》されるためにつくられたかのようだった――たしかにそのとおりである。顎《あご》のあたりにはあらゆる種類のかわいい小さなえくぼ《・・・》があり、笑うとつぎつぎに消えて行くのだった。それにどんな少女も持っていないような冴《さ》え冴えした眼《め》を持っていた。とにかく人を焦《じ》らすような女であった。だが申分はなかった。まったく申分なかった。
「あの人はおかしな老人ですよ、まったくのところ。ほんとうはもっと愉快な人のはずなんだけれどね。しかし、あの人の欠点に対しては自然とまたその罰《ばつ》がめぐってくることだし、僕《ぼく》がなにもあの人のことをとやかく言う筋はないよ」
「あの人はとてもお金持なのね、フレッド。だってあなたはいつもあたしにそうおっしゃっているじゃないの」
と、スクルージの姪が言い出した。
「それがどうしたというのだい、お前? あの人の財産はあの人にとって何の役にも立っちゃいないんだ。なにもいいことをするわけでなし、それで自分の身を安楽にしようともしない。あの人はこの先、自分の財産で――は、は、は!――僕たちをしあわせにしてやろうなどと考える満足さえ持っていないんだからね」
「あんな人にはあたし、とても我《が》慢《まん》がならないわ」
と姪が言うと、姪の姉妹たちをはじめ、ほかの婦人たちもみな、同感だと言った。
「いや、僕はそんなことはないな。僕はあの人が気の毒なんだよ。たとえ怒ろうとしても僕は怒る気にはなれないね。あの人の感じの悪いむら気でだれが迷惑《めいわく》するというのだい?あの人自身じゃないか、いつでも。いいかい、あの人は僕たちをどうしても嫌《きら》いだときめこんでしまって、ここへ来て僕らと食事をしようとしない。その結果はどうだい? たいした御馳《ごち》走《そう》を食べそこなったわけでもないじゃないか?」
「あら、あの人はとてもすばらしい御馳走を食べそこなったと思いますわ」
と、スクルージの姪がさえぎった。ほかの者もみなそうだそうだと賛成した。ちょうど食事をおえたばかりで、デザートを食卓《しょくたく》にのせたまま、ランプをかたわらに炉《ろ》辺《へん》に集まっていたのであるから、じゅうぶん、審判《しんぱん》の資格をそなえているわけだった。
「そうか! それなら僕はうれしいね。なぜって僕は今時の若い主婦連にはたいして信用をおいてないんでね。トッパー君、君はどう思うかね?」
トッパーはあきらかにスクルージの姪の姉妹の一人に眼をつけていた。なぜなら、独身者はみじめな門外漢でそういう問題については意見を述べる権利がない、と答えたからだった。これを聞くとスクルージの姪の妹は――ばらの花の飾《かざ》りをつけた方のではなく、レースの襟《えり》をかけた方のが――ぱっと赤くなった。
「そのさきをおっしゃいよ、フレッド」
と、姪は手をたたきながらうながした。
「この人は何か言い始めてもけっして終りまで言ったためしがないのよ。おかしな人だわ」
スクルージの甥はまたもや夢中《むちゅう》になって笑ったので、それがまたほかの者たちにうつっていった。肥《ふと》った姉妹は気付け用の芳香《ほうこう》酢《ず》でそれを防ごうとしたがどうしてもだめだった。けっきょく一人残らず甥に釣《つ》り込まれてしまった。
「僕はね、こう言おうとしていただけなのだよ。あの人が僕らを嫌って、僕らと一緒に楽しくすごそうとしない結果はだね、なんの害にもならない愉快な時間を少しばかり損をしただけだと思うということさ。あのかび《・・》くさい古ぼけた事務所や、あのごみだらけの部屋で一人ぼっちで考え込んでいたんじゃとても見つからないような愉快な仲間を失っているんですよ。あの人が好むと好まざるにかかわらず、僕は毎年あの人に同じチャンスを与《あた》えるつもりだね、気の毒でならないんだもの。あの人は死ぬまでクリスマスのことを罵《ののし》るかもしれないが、しかし少しは良い方に考えなおさずにはいられまいよ――僕はあの人に挑《ちょう》戦《せん》するんだ――僕が来る年も来る年も上機嫌であの人の事務所へ行き、『スクルージ伯父さん、御機嫌いかがですか?』と言うんだよ。もし、そのおかげであの人があの哀《あわ》れな書記に五十ポンドものこしてやろうという気持にでもなればそれで有意義なことだ。それにきのう、僕はあの人の気持をゆすぶってやったと思うんだ」
彼がスクルージの気持をゆすぶったなどと言うのを聞いて今度は一同の方が笑い出した。だが甥はまったく好人物であり、一同がなにを笑っているのか一向、気にもせず、ただなんであれ、笑いさえすればいいと、自分からいっそう笑いに拍車《はくしゃ》をかけ、たのしそうに酒をまわした。
お茶がすむと彼らは音楽を始めた。彼らは音楽好きの一家で、合唱や輪唱歌曲を歌う時にはうまいものだった。ことにトッパーは本職の歌手のようにバスをうなってのけた。しかも額に太い筋を立てもしないし、りきんで顔を真《まっ》赤《か》にすることもなかった。
スクルージの姪は竪琴《たてごと》がうまく、いろいろかなでた中に簡単な小曲(ごくつまらない、二分もすれば口笛《くちぶえ》で吹けるくらいのもの)があったが、これは「過去のクリスマスの幽霊」に言われて思い出したのだったがスクルージを寄宿学校からつれ戻《もど》しに来たあの女の子になじみの深い曲だった。この曲が響《ひび》くと幽霊によって示されたものが全部スクルージの胸によみがえって来た。スクルージの気持はますます和《やわ》らぐ一方で、この曲を何年も以前にたびたび聞くことができたなら、ジェイコブ・マーレイを埋葬《まいそう》した寺男の鍬《くわ》に頼《たよ》らなくても、自分の手で、自分の幸福のために人生の親切をつちかうことができたにちがいないと考えた。
しかし一同は一晩中、音楽だけで過そうとしたわけでなく、しばらくすると罰金遊びをはじめた。時には子供に返るのは良いことであるし、それにはその偉《い》大《だい》な創始者が子供であるところの、クリスマスが一番よい季節である。ちょっと待ってください! 最初にしたのは眼《め》隠《かく》し遊びだった。もちろん眼隠し遊びだった。そして私はトッパーの靴《くつ》に眼がついていたなどとは信じないのと同様に彼《かれ》がほんとうに眼が見えなかったとは思わない。
私の考えではトッパーとスクルージの甥の間で話の取交わしがすんでおり、クリスマスの幽霊もそのことを知っていたらしかった。トッパーがレースの襟をつけた小肥りの妹のあとを追っていくやり方は周囲の人々を見くびった態度だった。火《ひ》箸《ばし》につまずいたり、椅《い》子《す》にぶつかったり、ピアノにゴツンと衝突《しょうとつ》したり、カーテンにからまってしまったりしながらトッパーは彼女《かのじょ》の行く所いたる所について行った。
トッパーにはいつでも小肥りの妹の居場所がわかっていた、彼は他の者をだれもつかまえようとしなかった。少くともだれかわざと彼にぶつかって行くと(彼らの中には実際そうやってみた者がいた)、彼もその者をつかまえようとするふりをするのだが、それは相手の理性を侮辱《ぶじょく》するものである。そうしておいてたちまちのうちに、ぽっちゃりした妹の方へこっそりと行ってしまうのであった。
妹は何べんもそれじゃ公平でないと言って叫んだがまったくその通りだった。だがついに彼は彼女を捉《つか》まえた。彼女は絹の着物をさらさら言わせたり、すばやくすりぬけようとしたのだがトッパーは逃《に》げ道のない隅《すみ》に彼女を追いつめてしまったのだ。それからの彼の振舞《ふるまい》は実にけしからぬものだった。彼女であるかどうかわからないふり《・・》をし、彼女の頭飾りにさわる必要があると言い、さらにほんとうに彼女にちがいないことをたしかめるために指にはまっている指輪や彼女の首にまいてあるくさり《・・・》だのを押《お》してみなければならないなどと、まったく、言語道断のふるまいをした。
あきらかに彼女はそうトッパーに話したものと見える。べつの人が眼隠し鬼《おに》になった時、二人はカーテンの蔭《かげ》でたいそう親しげに話し合っていたからである。
スクルージの姪は眼隠し遊びの仲間には入らず、居心地のよい一隅《いちぐう》に大きな椅子と足台でいい気持におさまっていた。そのすぐうしろにスクルージと幽霊《ゆうれい》が立っていた。
しかし姪は罰金遊びには加わったし、アルファベットの文字を全部つかって愛の文章を見事に組み立てた。同様に「いつ、どこで、どうして」という遊びでも姪は非常にうまく、スクルージの甥がひそかに喜んだことには、姉妹たちをすっかり負かしてしまったのである。トッパーに言わせればその姉妹たちもなかなかどうして機《き》敏《びん》な少女たちなのだ。そこには老若《ろうにゃく》あわせて二十人ぐらいの人がいたが年とった者も若い者にまけずに一所けんめいに遊んだ。スクルージも一所けんめいに遊んだ。
スクルージもそうだった。眼の前で起っていることに夢中になって、自分の姿が人には見えないことを忘れ、ときどき大きな声で当てようとしたし、しかも何度もうまく言い当てた。というのはホワイトチャペル特製の、めど《・・》が決してとれないというこの上なしの鋭《するど》い針でさえ、スクルージより鋭くはなかったからである。スクルージは自分ではたいそうにぶい人間だと思いこんでいた。
彼がそのような気分でいるのを見て、幽霊はたいそうよろこんだらしく、いかにもやさしく彼を眺めているので、スクルージはお客がみんな帰るまでいさせてくださいと、子供のように熱心にたのんだ。しかしそれはできないよと幽霊は言った。
「いま新しいゲームがはじまります、もう三十分、もう一つだけお願いでございます。幽霊さまあ!」
と、スクルージはたのんだ。
それはイエス・ノー遊びというゲームで、スクルージの甥が何か考え出さねばならず、それをほかの者が索《さぐ》り出すわけで、彼らの問に対し、甥はただイエスとかノーとしか答えないのである。活溌《かっぱつ》に向けられた質問の銃火《じゅうか》にさらされた彼からつぎのようなことを引き出せた。つまり、彼が考えているのは動物、生きている動物である。どちらかといえば不愉快な、野《や》蛮《ばん》な動物で、時には吠えたり唸《うな》ったりする。時には話もする。ロンドンに住んでいて、街頭を歩きまわる。見世物にはされないし、だれにもひきまわされたりしない。動物園には住んでいないし、市場でとさつ《・・・》されたこともない。馬でもろばでも牝《め》牛《うし》でも牡《お》牛《うし》でもないし、虎《とら》、犬、豚《ぶた》、猫《ねこ》、熊《くま》ではない。新しい質問が向けられるたびに甥は大声で笑い出し、おかしくてたまらなくなって、椅子から立上り、足を踏《ふ》みならさずにはいられなかった。
ついに肥った姉妹が甥と同じく笑い出して叫んだ――
「あたし、わかったわ! なんだか知っててよ、フレッド! なんだか知っててよ!」
「何だね?」
と、フレッドは叫んだ。
「あなたの伯父《おじ》さんの、ス…ク…ルー…ジ…さんよ!」
そのとおりだった。一同はひどく感心した。もっとも中には「それは熊ですか?」という質問を出した時、イエスと答えるべきだった。スクルージじゃないかと思っていたにしても「ノー」と言われたので、ちがった方向へ考えが行ってしまった、と苦情を唱える者もあった。
「あの人は僕たちに大変、面白《おもしろ》い時をすごさせてくれましたから、あの人の健康を祝さないことには恩知らずになりますよ。ちょうど手近に薬味入りのぶどう酒がありますから、さあ、いいですか、『スクルージ伯父さん!』」
「では、スクルージ伯父さん!」
と、一同も叫んだ。
「あの老人がどんな人であれ、クリスマスおめでとう、新年おめでとう。あの人は僕からこれを受け取ろうとはすまいが、それでも、受け取りますように。スクルージ伯父さん!」
スクルージ伯父さんは一同の眼には見えなくても、たいそう、陽気に快活になったので、もし幽霊が時間をあたえてくれたら今の返礼に彼らのために乾杯《かんぱい》し一同の耳には聞えない演説を一席したことだろう。しかし全場面は彼の甥の言葉が終るか終らないうちに消えてしまい、彼と幽霊はまたもや旅をつづけていた。
二人は多くのものを見、遠くまで行きたくさんの家を訪れたが、いつでも幸福な結果に終った。幽霊が病人の寝《ね》床《どこ》の傍《かたわら》に立つと病人は元気になった。外国へ行けば人々は故郷の近くに帰って来た。もだえている人々はより大きな希望をいだいて辛抱《しんぼう》づよくなった。貧しい者の傍に立てばその者は富んだ。束《つか》の間《ま》の権力におごって戸をとざし、幽霊にしめ出しを喰《く》わせるような人間のいない救貧院《きゅうひんいん》や病院や牢《ろう》屋《や》など、あらゆるみじめな者の巣窟《そうくつ》に幽霊は祝福を残し、スクルージに教訓をたれた。
それがただの一夜であるならたいへん長い晩だった。だがスクルージはこれについて疑いをいだいていた。クリスマスの祭日何回分かを、二人ですごした時間だけに圧縮したのではないかと思われたからである。
また不思議なことは、スクルージの方は一見したところ少しも外観に変化がなかったが幽霊の方は明らかに年をとって来たのである。スクルージはこの変化に気がついてはいたが口に出しては言わなかった。しかし子供たちの公現祭の前夜祭から外へ出て来た時に幽霊の髪《かみ》が白くなっているのを見たのでスクルージはたずねた。
「幽霊さんの命はこんなに短いものでございますか?」
「この地球上における私の命はごく短い。今夜で終るのだ」
と、幽霊が答えた。
「今夜ですって?」
と、スクルージは叫んだ。
「今夜の真夜中だ。聞け! 時が近づいて来た」
その時、鐘《かね》が十一時四十五分を報じた。
「このようなことを伺《うかが》って失礼でございましたらどうかお許しください」
と、スクルージは幽霊の着物をじっと見つめながら、
「実はあなたの裾《すそ》からなにかあなたのお体の一部ではないと思われる妙《みょう》なものがとび出しているようですが、それは足ですか、それとも爪《つめ》でしょうか?」
「爪かもしれないね。上に肉がついているもの」
と、幽霊は悲しそうに返事をしてから、
「ここをごらん」
と、言った。
幽霊は着物の襞《ひだ》から二人の子供をとり出した。みじめな、浅ましい、恐《おそ》ろしい、ぞっとするような、悲《ひ》惨《さん》な子供たちだった。二人とも幽霊の足元にひざまずき、着物の外側にしがみついた。
「おお、人間よ! ここを見るがよい。この下をよくよく見るがよい!」
と、幽霊は叫んだ。
その者たちは男の子と女の子だった。黄色くしなびて、ぼろをまとい、しかめ顔をして貪欲《どんよく》そうなくせに、へりくだって平伏《へいふく》している。優《ゆう》雅《が》な若さがその顔にあふれ、生き生きとした血色で色どるべきだのに、腐《くさ》りかかった皺《しわ》だらけの老人のような手が二人をつねり、ひねって、ずたずたに引き裂《さ》いたかのようだった。天使たちが玉座をしめているべきところに悪《あく》魔《ま》がひそみ、悪意のこもった眼でにらみつけていた。
素晴《すば》らしい創造のあらゆる神秘を通じ、人類のどんな変化も堕《だ》落《らく》も、曲解もいかなる程度にせよ、この半分もおそろしい怪物《かいぶつ》を持っていない。
スクルージはぞっとしてあとずさりした。こうして見せられた子供らを、立派なお子さん方だと言おうとしたが、そんなひどい嘘《うそ》つきの仲間入りをするのはいやだと言葉の方で出るのを拒《きょ》否《ひ》した。
「幽霊さま! これはあなたの子供さんですか?」
スクルージにはこれだけしか言えなかった。
「これは人間の子だ」
と、幽霊は子供たちを見おろしながら、
「二人とも自分たちの父親を訴《うった》えてこうして私にしがみついているのだ。この男の子は『無知』で、この女の子は『欠乏《けつぼう》』だ。この二人とこういう仲間たちに用心しなさい。ことにこの男の子に用心するのだ。もし書いたままで消えていないなら額に『滅亡《めつぼう》』と出ているはずだ。書いてないとは言わせないぞ!」
と、幽霊は片手を町の方にさしのべながら叫《さけ》んだ。
「書いてあると告げる者をそしるならそしれ! お前の勝手な目的のためにみとめるならみとめて、さらに酷《むご》くしたらいい。その上で報《むく》いを待つがいい!」
「この子供たちには逃《のが》れ場所も資力もないのですか?」
スクルージは叫んだ。
「監獄《かんごく》はないのかね?」
と、幽霊はスクルージ自身が使った言葉を持ち出しながら、これを最後として彼の方に向いた。
「授産場はないのかな?」
鐘が十二時を打った。
スクルージはまわりを見まわしたがもはや幽霊の姿はなかった。最後の鐘が打ちやんだ時、彼は老ジェイコブ・マーレイの予言を思い出したので、眼を上げてみると、ゆるやかな衣《ころも》をはおり、頭《ず》巾《きん》をかぶったおごそかな幻《げん》影《えい》が霧《きり》のようにこちらへ近づいて来るのに気がついた。
第四章 最後の幽霊《ゆうれい》
幽霊はゆっくりとおごそかに、黙《だま》りこくって近づいて来た。それが自分のそばまで来た時、スクルージはひざまずいた。幽霊は動いているその空気中にまで陰鬱《いんうつ》な、神秘なものを振《ふ》りまいているかのように感じられたからだった。
そのものは真黒な衣《ころも》に包まれていた。頭も顔も全身すっぽりかくれ、眼《め》に見えるのはさしのべている手だけだった。この手がなかったらその姿を夜と区別し、周囲をかこんでいる暗闇《くらやみ》とわけることはむずかしかったにちがいない。
この幽霊が自分のそばに来た時、スクルージはそれが背が高く威《い》厳《げん》に満ちていることを感じ、その神秘な存在を前にして自分が厳粛《げんしゅく》な怖《おそ》れに満たされて来たのを感じた。
彼《かれ》にわかったことはそれだけだった。幽霊は口もきかなければ身動きもしないからである。
「私はあの、『未来のクリスマスの幽霊さま』の御《ご》前《ぜん》におりますんで?」
と、スクルージはたずねた。
幽霊は返事をしないで、手で前の方をさした。
「あなたはすでに起ってしまったことでなく、これから未来に起ろうとしているものの影《かげ》を見せてくださるんでございましょうな、幽霊さま?」
と、スクルージはつづけてきいた。
一瞬《いっしゅん》、幽霊が頭をうなずかせたかのように、着物の上の方が襞《ひだ》の中に縮まった。それだけが答えだった。
この頃《ごろ》ではすっかり幽霊の相手を務めるのになれたスクルージではあったが、このおし黙った姿のものにはひどく恐《おそ》ろしさを感じ、足がぶるぶるふるえて、いよいよあとに従って行こうとしても立っていられないくらいであった。スクルージの有様を見てとった幽霊は落ち着かせようとして立止まった。
しかしスクルージはこのためいっそう、ぐあいがわるくなった。黒い衣の奥《おく》から自分をじっと見据《みす》えている気味のわるい眼があるのだ、と思うとつかみどころのない恐怖《きょうふ》ですくみあがった。自分の方ではいくら眼を見張っても、幽霊の手と大きな黒衣のかたまりのほかは何も見えないのではどうにもやりきれなかった。
「未来の幽霊さま!」
と、スクルージは叫《さけ》んだ。
「これまでお眼にかかった幽霊の中で私はあなたが一番恐ろしゅうございます。けれどもあなたの目的は私のためによかれと思うことをしてくださるのですし、私も今までとは生れかわった人間として暮《くら》しとうございますので、いつなりとあなたのお供をさせていただきますのをありがたいと存じております。私に何かおっしゃってくださいませんか?」
幽霊は返事をせず、手は二人の前方をさしていた。
「御案内くださいまし。御案内くださいまし。夜がどんどん明けてまいりますし、私にとっては貴重な時間でございます。御案内ください、幽霊さま!」
と、スクルージはたのんだ。
幽霊は来た時と同じように動き出した。スクルージはその黒衣の影の中をついて行ったが、その影が自分を運んでいってくれるように思えた。
二人は市内へ入ったような気がしなかった。町の方が二人の周囲に浮《うか》び上って来て、二人をとり囲んだように感じられた。しかし今、彼らがいるところは市の中心地で、商人たちといっしょで取引所の中だった。商人たちは忙《いそが》しそうに動きまわり、ポケットの中で金をチャラチャラ言わせたり、かたまり合って話をしたり、懐中時計《かいちゅうどけい》を眺《なが》めたり、思案顔で大きな金の印鑑《いんかん》をもてあそんだり、そのほか、今までにスクルージが見なれて来た動作をしていた。
幽霊は実業家たちの小さな一群のそばで立止まった。その手が実業家たちをさしているのを見てスクルージは彼らの話を聞こうと進み出た。
「いや、私もくわしく知っているわけではないんでね。ただ、あの男が死んだというだけしか知らないんですよ」
こう言ったのは頑丈《がんじょう》な顎《あご》をした、大きな肥《ふと》った男だった。
「いつ死んだのですか?」
べつの男がたずねた。
「昨夜らしいですね」
「ええ? あの男がどうしたというのでしょうな。あの男ばかりは不死身だと思ってましたがね」
と、三番目の男はおそろしく大きな嗅《か》ぎ煙《たば》草《こ》入れから煙草をどっさりとり出した。
「それはだれにもわかりませんな」
と、最初の男があくびまじりに言った。
「で、金はどういうことになったんでしょうな?」
と、赤ら顔の紳《しん》士《し》がきいたが、この紳士は鼻のさきへ雄《おす》の七面鳥の肉髯《にくぜん》のようにぶらぶらゆれる瘤《こぶ》をつけていた。
「聞いてませんがね」
と、大きな顎の男がまたもやあくびをしながら、
「たぶん、組合にでものこしていったんでしょうよ。私にはのこして行きませんでしたがね。それだけはたしかですよ」
この冗談《じょうだん》に一同はどっと笑った。
「ごく費用のかからない葬式《そうしき》になりそうですな」
これも今の男だった。
「私の知ってるところでは参列するような人はだれもいませんからな。どうです、一つ我々で一団体をつくって義勇兵としゃれこんでは?」
「弁当が出るなら行ってもいいですがね。とにかく行くには行っても食べさせてもらわないことにはね」
こう、鼻に瘤のある紳士が言ったのでまた一同は大笑いした。
「そうすると、みなさんの中で結局、私が一番、さっぱりした人間ということになりそうですな」
と、最初に口をきいた男が、
「というのは、私は黒い手袋《てぶくろ》もはめないし、弁当も食べない。だが、だれかほかに行く人があるなら私もまいりますよ。よくよく考えてみると、私なんかあの男とは昵懇《じっこん》にした方じゃなかったかとも思えるんでね。会えばいつでも足をとめて、言葉を交《か》わしましたからな。じゃ、さよなら」
話し手も聴《き》き手もぶらぶら歩いて、ほかの群にまざってしまった。スクルージは今の男たちを知っていたので、説明を求めるように幽霊の方を眺めた。
幽霊はすべるようにしてある町へ進んで行った。その指は立ち話をしている二人の男をさしていた。今の説明はここにあるのかもしれないと思い、スクルージは再び耳をすました。
彼はこの二人をもよく知っていた。彼らは実業家であり、大金持で重要な人物だった。彼はこの二人によく思われるよう、日頃から心がけていた。つまり商売上の立場からである。厳密に商売上の立場からである。
「やあ、今日は」
「おお、今日は」
「とうとうあの悪《あく》魔《ま》め、くたばったじゃありませんか、ねえ?」
「ええ、私もそんなことを聞きましたが。どうも寒いですな」
「クリスマスですから、まあ普《ふ》通《つう》でしょう。あなたはスケートの方はいかがで?」
「だめ、だめ、もっとほかに考えることがありますんでな。ではごめんください」
それだけだった。これが二人の会見で、会話で、別れだった。
スクルージは最初、幽霊が一見こんなくだらない話に重きをおくのはどうしたわけかと、驚《おどろ》いたが、何か隠《かく》れた目的でもひそんでいるにちがいないと思い、それならどんな目的だろうと考え出した。元の共同経営者で、死んだジェイコブ・マーレイには何ら関係がありそうもなかった。あれは過去のことであるし、この幽霊の領分は未来だからである。そうかといって、自分に直接つながりのある人物で、当てはまるような者は見あたらなかった。しかしだれをこの話が指しているにしろ、スクルージはそれが自分の改心に何か隠れた教訓を含《ふく》んでいるにちがいないことを疑わなかったので、聞いたり見たりしたことは一つのこらず大事におぼえておこうと決心した。ことに自分の幻《まぼろし》が出て来たらよく見ておこうと思った。何となれば、スクルージは自分の将来の行動が、現在自分に必要なものが何であるかの手がかりをあたえ、これらの謎《なぞ》をわけなく解いてくれるだろうと期待していたのであった。
彼は自分の姿がここに見えないかと見まわしたが、いつもの角には別の男が立っており、柱時計はすでに自分がそこへ来ている時刻を指しているにもかかわらず玄関《げんかん》から無数に流れ込《こ》む人のむれの中に自分の幻を見《み》出《いだ》すことはできなかった。しかし、このことは余り彼を驚かせなかった。もはや心の中で生活一新ということを考えめぐらしていたのだから、すでにここでも彼の新生の決意が実現されたのを見たものと思い、またそれを希望していたからであった。
静かに黒く幽霊は彼のそばに立ったまま、手をさしのべていた。スクルージが思《し》索《さく》の状態から醒《さ》めて見ると、幽霊の手の向きと、彼に対してのその位置から推《お》して例の「見えない眼」が鋭《するど》く自分を見つめているように思えた。すると、ぞくっと寒気がして来た。
二人は繁《はん》華《か》な場所をはなれて、町の場末へ来た。そこはスクルージにはどの方向か見当はついていたし、いかがわしい評判も耳にしていたが、ついぞ足を踏《ふ》み入れたことのない方面だった。道路は不潔でせまく、店も家もみすぼらしく、人々は半《はん》裸《ら》体《たい》で酔《よ》いしれた、だらしない姿をさらしていた。
路地やアーチ道からは下肥溜《しもごえだめ》のような悪臭《あくしゅう》と塵埃《じんあい》と、人間とを、家もまばらな街路へ吐《は》き出していた。そしてその一廓《いっかく》全体が犯罪と汚《お》穢《わい》と不幸とでけがされていた。
このいまわしい巣窟《そうくつ》の奥の方に、差《さし》掛《か》け屋根の、軒《のき》の低い突《つ》き出た店があった。ここは鉄、ぼろ布、あきびん、骨類、脂《あぶら》のべとべとした綿屑《わたくず》などを買入れる家だった。中の床《ゆか》の上には錆《さ》びついた鍵《かぎ》だの古釘《ふるくぎ》、くさり、蝶番《ちょうつがい》、やすり、秤皿《はかりざら》、分銅《ふんどう》だの、その他あらゆる種類の屑鉄が積み上げてあった。
探りの眼を入れるのも不気味なような秘密が醜《みにく》いぼろ布の山や、腐《くさ》った脂身の塊《かたまり》や、骨の墓場の中に培《つちか》われ、かくされていた。
古煉《ふるれん》瓦《が》でつくった木炭ストーブの傍《そば》で、商品の中に坐《すわ》りこんでいるのは七十歳《さい》にもなろうという白髪《はくはつ》の悪漢だった。外の寒さをふせぐために種々雑多のぼろ布を一列にかけわたして、むさくるしいカーテンを作り、その中でのんびりと煙草をふかしていた。
スクルージと幽霊がこの男の前に来たとき、大きな包をかかえた女が一人、こそこそと入って来た。しかし、この女が入るか入らないうちにこれまた、荷物を持った女がやって来て、そのすぐあとから羊かん色に褪《あ》せた黒い服を着た男がつづいて入った。女同士で顔を合わせた時も互《たが》いにひどく驚いたが、この男が女たちを見た時の驚きもそれに劣《おと》らなかった。しばらくは、きせる《・・・》をくわえた老人まで一緒《いっしょ》にポカンとしていたが、やがて三人はどっと笑い出した。
「うっちゃっといても日《ひ》傭《やと》い女は一番先に来るもんだよ」
と、最初にはいって来た女が言った。
「ほっといても二番目には洗濯婆《せんたくばばあ》が来るしね。それから三番目は葬《そう》儀《ぎ》屋というのが通り相場だね。どうだい、おやじさん、これがもののはずみというものだよ! まるで申し合わせたように三人が三人ここで顔を合わせるとはね」
「まったくいいところで一緒になったもんだて」
とジョー爺《じい》はきせる《・・・》を口からはなしながら、
「さあ、居間へ通らっしゃれ。お前さんはもう昔《むかし》っから勝手に出たり入ったりしてるんだし、あとの二人も知らねえ仲じゃねえからな。まあ、待て、店の戸を閉めるからな。何といやにきしることか。この店じゅうで戸じまりの蝶番ほどに錆びついた鉄っきれはありゃしない。わしみてえな古骨もまた、めったにねえしな。ははは! わしらはみんな、この商売とは似合の連中さ。さあ、居間へはいらっしゃれ、はいらっしゃれ」
居間というのはぼろ布の衝立《ついたて》のうしろの場所のことだった。老人は階段の敷物《しきもの》おさえで火をかき集め、きせる《・・・》の羅宇《らお》でくすぶっているランプの芯《しん》をなおし(もう夜になっていたので)再びそのきせる《・・・》を口へ持って行った。
老人がこうしている間に、先刻口をきいた女が包を床に投げ出し、得々として台に腰《こし》をおろすと、両腕《りょううで》を膝《ひざ》のところで組み合わせ、あとの二人の方をあなどるような眼付きで見やった。
「で、どうしたというんだね、え、どうしたというんだね、ディルバーのおかみさん。だれだってみんな、自分のためをはかる権利はあるんだよ。あの人なんか、しょっちゅうそうだったんさ」
と、女は言った。
「まったくさ。ほんに。あの人以上にはできなかろうよ」
と、洗濯女が。
「そんなら、なにをそんなに、おっかなそうにきょときょとして突立ってんのさ、おかみさん。だれが知ってるもんかね? お互いにあら《・・》をひろってみても仕方がないじゃないかね?」
「むろんだよ。とんでもない」
と、ディルバーのおかみさんと男が口をそろえて言った。
「なら結構だよ。もうそれでいいよ。こんな物一つ二つなくしたからってだれが困るものかね? 死んだ人間が困るわけでもあるまいに」
と、女はどなった。
「まったくそうだよ」
と、ディルバーのおかみさんは笑った。
「あの因業《いんごう》なかがしおやじめ、死んだあとまで品物をとっておきたかったら、なぜ、生きてる時、人なみの暮し方をしなかったんだい。そうすりゃ、死神に見舞《みま》われた時だってだれか世話してくれる者もあったろうから、たった一人でくたばらずに済んだろうにね」
「まったくその通りだよ。罰《ばち》があたったのさ」
ディルバーのおかみさんも合槌《あいづち》を打った。
「罰を当てるならもうちっときつく当ててもらいたかったね、私が当てるんだったらこんなことじゃ済まさないね。その包をあけておくれな、ジョー爺さん。いくらになるか、はっきり言っとくれ。一番先だってかまやしないし、この人たちが見てたってかまやしない。ここで顔を合わさなくたって、お互いに他人さまの物を失敬しているこた、わかってるからね。別に悪いことじゃなし。包をあけておくれよ、おやじさん」
しかしあとの二人は仁義としてこれを許さなかった。羊かん色の服を着た男が先鞭《せんべん》をつけて彼の分捕品《ぶんどりひん》を披《ひ》露《ろう》におよんだ。それはたいしてかさのある物でなく、印鑑が一つ二つに筆入れ、カフスボタンが一組、値打のなさそうなブローチが一つ、それだけだった。
ジョーは品物を一つ一つしらべて値をつけると、それぞれ壁《かべ》にその値を書きつけて行き、もうこれだけだとわかると合計を出した。
「これがお前さんの分だよ。たとえ、釜《かま》ゆでにされたって、これ以上びた一文出さないよ。次はだれかね?」
ディルバーのおかみさんだった。敷布に、タオル、わずかの衣類、旧式な銀の茶さじが二本、角《かく》砂《ざ》糖挟《とうばさ》み、二、三足の靴《くつ》。この分もまた同様、壁に書きつけられた。
「どうもわしは女衆には、いつも余計に払《はら》ってしまうでな。それがわしの欠点だて。だから貧乏《びんぼう》してるわけさ。これがお前さんの分だよ。もう一ペニーくれなんて言って値がまだ決まらねえつもりにでもなってみなせえ、わしはこんなに気前よくしてやったのを引込めて、半クラウンぐらい差引くからね」
「さあ、今度は私の荷をあけておくれ」
と、最初の女が言った。
ジョーは開きやすい姿勢をとるため、床に膝をつき、いくつも結びこぶをつくってある包をひらいて引っぱり出したのは何かくるくる大きな重そうな巻きものにした黒い布だった。
「これは何だね? 寝台《しんだい》のカーテンじゃないか!」
「ああ、寝台のカーテンだよ」
と、女は腕を組んだまま、身をのり出して笑った。
「まさかお前さんはあの男が寝《ね》かしてあるまんまのところから、環《かん》ぐるみそっくりはずして来たんじゃあるまいね」
と、ジョーはきいた。
「そうだよ。そうしたのさ。それがわるいかい?」
「お前さんは生れつき身代つくりにできてるんだよ。きっと一と財産つくるだろうよ」
と、ジョーは言った。
「ちょっと手の届くところにさえあるんなら、何もあんな男のためだからといって、わたしゃ、手を引込めたりはしないよ。それだけは言っておくけどね、ジョーさん。それ、その油を毛布の上にこぼさないでおくれよ」
女は落ちつき払ったものだった。
「あの人の毛布なのかい?」
と、ジョーがたずねた。
「ほかのだれのだと言うんだい? あの男は毛布なんかなくたって、べつに風邪《かぜ》をひく気づかいはなさそうだからね」
「なにか伝染病《でんせんびょう》で死んだんじゃあるまいな、ええ?」
と、ジョーは手をとめて顔を上げた。
「そんな心配はいらないよ。そうだったら、なんで私がそんな物のために、あの男のそばをうろつきたがるものかね。ああ、そのシャツなら、あんたの眼《め》がいたくなるくらいようく見てかまわないよ。だが穴一つだって、すり切れたところ一カ所だって見つかりっこないからね。それがあの男の持ってる中じゃ極《ごく》上《じょう》のやつで、品も良いんだよ。私がいなかったら無駄《むだ》にしちまうところだったのさ」
「無駄にしちまうとな?」
と、ジョー爺は問い返した。
「それを着せて埋葬《まいそう》しちまうからさ」
と、女は笑った。
「だれか馬鹿《ばか》な人間がいて、そんなものを着せたんだよ。だけど私がまたぬがしてしまったのさ。そんな役にはキャラコでたくさん、こんな時にでもつかわなくちゃ、キャラコなんてものの使い途《みち》はないよ。死《し》骸《がい》に着せるにゃそれだって同じくらい似合うよ。そこにあるのを着たってこの上なしにみっともないんだからね、それ以上みっともなくはなれないよ」
スクルージはぞっとしながらこの話のやりとりを聞いていた。老人のランプからさす乏《とぼ》しい光をたよりに自分たちの分捕品のまわりに坐っている彼《かれ》らを見て、たとえ彼らが死体を売買するいまわしい鬼《おに》であったとしてもこれ以上の憎《にく》しみと嫌《けん》悪《お》は感じられまいと思った。
ジョー老人がフランネルの袋から金を取り出し、それぞれの分を数えて床の上におくと、カーテンを持って来た女は笑った。
「は、は、は! とどのつまりはこうなるんだねえ。あの男が生きてる時にだれもかれもあの男を恐《こわ》がって寄りつかないようにしたがそれは死んでからこうして私たちに儲《もう》けさせてくれるためだったんだよ。は、は、は、は!」
スクルージは頭のてっぺんから足の爪《つめ》さきまでふるえながら、
「幽霊さま、わかりました。わかりました。私もこの不幸な男のようになるかもしれなかったのですね。私も今の行き方ではそういう傾向《けいこう》がありますからね。おやおや、これは何だろう!」
彼はぎょっとして後ずさりした。場面がかわり、彼は一つの寝台にすれすれに立っているのだった。むきだしのままのカーテンもない寝台。その上にぼろぼろの敷布の下になにか覆《おお》いのしてあるものが横たわっていた。それは口をきかなかったがそれ自体、恐《おそ》ろしい事実を語っていた。
スクルージは内心の衝動《しょうどう》にかられてここはどんな部屋かと見まわしたが非常に暗くて何もはっきり見えなかった。外からさし込んで来たよわい光が真《まっ》直《す》ぐ寝台にあたった。その上には何もかも剥《は》ぎ取られ、奪《うば》われたこの男の死体がだれも番をしてくれる者もなく、泣いてくれる者も世話をしてくれる者もいないままに横たわっていた。
スクルージはちらっと幽霊の方を見た。幽霊のゆるぎない手は死体の頭を指していた。顔覆いはいかにもぞんざいにかけてあるのでスクルージが指一本動かせばわけなく顔があらわれるのだった。彼はそう思うといかにもたやすいことに感じ、そうしたくてたまらなかった。それでいながらその覆いをとりのける力は傍にいる幽霊を追いやる力がないのと同様、彼にはなかった。
おお、冷たい冷たい硬《かた》い、恐ろしい死よ。お前の祭壇《さいだん》をここにきずけ。そしてお前の自由にあやつる恐怖《きょうふ》でかざれ。これはお前の領土なのだから! だが、愛され尊敬され名《めい》誉《よ》をさずけられた頭に対しては、お前の恐ろしい目的のために髪《かみ》の毛一本でさえさわることはならないし、顔形のどの一つとして醜くはさせないぞ。その手が重く、放せばぐったり落ちるからでもなし、その心臓や脈搏《みゃくはく》がとまってしまったからでもない。いや、その手はかつては開き、寛大《かんだい》で、誠実であったし、心臓は勇敢《ゆうかん》で、暖かく、やさしく、脈搏には人情がかよっていたからである。
打てよ、死よ、打てよ! そしてその傷口から彼の良い行動が噴《ふ》き出し、不《ふ》滅《めつ》の生命を世界に植えつけるを見るがよい!
こういう言葉が声となってスクルージの耳に入ったわけではないが、しかし彼は寝台を眺《なが》めているうちに聞いたのである。彼はこの男がもし今、生き返ったら、真先に考えることは何だろうと思った。
貪欲《どんよく》か、冷酷《れいこく》な取引か、苦しい気苦労か?いかにも、それらのものは彼をたいした最後にまで連れて来たものだ!
この男は暗い空虚《くうきょ》な家に横たわっているのだ。彼が私にこうしてくれた、ああしてくれたと言う者も、また、たった一言やさしい言葉をかけてもらったから私もこの人に親切にするのだという者は男も女も子供も一人もないのだ。
一匹《ぴき》の猫《ねこ》が戸口を引っ掻《か》いていた。炉《ろ》石《いし》の下ではねずみがガリガリかじる音がした。猫もねずみも、こんな死人の部屋でなにをのぞんでいるのか? どうしてこんなに落ちつかず騒《さわ》がしいのか? スクルージには考えてみる勇気がなかった。
「幽霊《ゆうれい》さま、ここは恐ろしい場所でございますね。ここを立去っても、私が学んだ教えは決して忘れません。さあ、まいりましょう」
と、スクルージは言ったが幽霊の指はじっと動かずに男の頭をさしていた。
「わかっております。できることならいたしますが、私にはその力がございませんのです、幽霊さま。私にはその力がございません」
再び幽霊はスクルージを見ているようだった。
スクルージは身もだえしながら頼《たの》んだ。
「もしこの町でこの男の死によって少しでも心を動かされる人があるなら、どうか、その人を私に見せてください、幽霊さま、お願いでございます」
幽霊はその黒衣をさっと一瞬《いっしゅん》、翼《つばさ》のように眼の前にひろげたかと思うと、また引きおろした。するとそこは昼間の部屋になっており、母親と子供たちがいた。
母親はだれかを待っているらしく、しかも待ちきれないほどだった。部屋を行きつ戻《もど》りつしたり、ちょっと物音がする度《たび》にとび上ったり、窓の外を見たり、時計に眼をやったりして、針仕事をしようとしても、だめだった。遊んでいる子供たちの声にさえ、たまらなくいらいらした。
ついに待ちに待ったノックがした。彼女《かのじょ》は戸口へとんで行って夫を迎《むか》えた。夫というのは年はまだ若いが苦労にやつれた元気のない顔をしていた。ところがその顔に奇妙《きみょう》な表情がうかんでいた。内心、喜びを感じているのを恥《は》ずかしく思い、一所懸命《いっしょけんめい》外にあらわすまいと押《おさ》えているような表情だった。
食事が冷えないように炉辺に暖めてあった、彼はそれを味わい始めた。妻が何かニュースでも、と怖《こ》わ怖《ご》わたずねると(それも長いこと押《お》し黙《だま》っていたあげくのことだった)夫は何と答えたらいいものかと困った様子だった。
「よい知らせ? それとも悪いのですか?」
と、妻は答えやすいようにしてやった。
「わるいのだよ」
「じゃ、私たち、破産ですの?」
「いや、まだ望みはあるんだよ、カロライン」
彼女は意外に思ったようだった。
「もし、あの人の気が折れてさえくれればね。ええ、望みはありますわ! もしもそんな奇《き》蹟《せき》のようなことが起るのだったなら、どんな望みだって捨てられませんわ」
「気が折れるどころではない、あの人は死んだのだよ」
顔から判断すると彼女はおとなしい辛抱《しんぼう》づよい女だった。だが彼女はそれを聞いて心の中でありがたいと思い、両手を握《にぎ》りしめたまま、ありがたいと口に出した。次の瞬間、彼女は神に許しを乞《こ》い、わるかったと思った。だが最初のが彼女の心からの気持だった。
「お前にも話したが昨夜、あの生《なま》酔《よ》いの女が僕《ぼく》に言ったことだね、それ、僕が一週間の猶《ゆう》予《よ》を頼みにあの人に会いに行った時僕に話したことは、ただ僕を避《さ》けるための口実にすぎないと思ったんだが、ほんとうだったんだよ。あの人は病気だというばかりでなく、あの時もう死にかかっていたんだね」
「私たちの借金はだれの手にうつるのかしら?」
「それはわからないよ。だがその前に僕たちは金の用意ができるからね。だが、たとえ間に合わないとしても、僕たちがよくよく運が悪いなら別のこと、あれほど無情な債権者《さいけんしゃ》がまたとあらわれるとは考えられないよ。とにかく今夜はらくらくとねむれるよ、カロライン!」
できるだけ気持をしずめるようにしていても二人の心はだんだん軽くなっていった。何のことかわからないまま、鳴りをしずめて二人のまわりに集まっていた子供たちも、いっそう晴れやかな顔になった。これこそこの男の死によって幸福になった家庭だった。
「もう少しやさしい気持が死んだ人にそそがれているのを見せてくださいな。幽霊さま、そうでないとたった今、出て来たあの暗い部屋がいつまでも私の眼にちらついてしかたがありません」
幽霊はスクルージの歩きなれた街々をいくつか通りぬけて行った。途中《とちゅう》スクルージは自分の姿が見えないかとあちこちを眺めたがどこにも見あたらなかった。二人は貧しいボブ・クラチットの家へ入って行った。ここは前に訪ねたところである。母親と子供たちは炉辺に坐《すわ》っていた。
静かだった。実に静かだった。騒々《そうぞう》しい小クラチットたちまで炉辺の片隅《かたすみ》に置物のようにじっと坐り、ピーターを見上げていた。ピーターの前には本が一冊おいてあった。
母親と娘《むすめ》たちはせっせと針を運んでいた。だが確かに彼らは非常に静かだった!
「おさなごをとりて、彼らの中に置く」
スクルージはどこでこの言葉を聞いたのだろうか? 夢《ゆめ》に見たわけではなし、彼と幽霊がこの家の戸口をくぐった時ピーターが読み上げたものにちがいない。それならどうしてその先を読みつづけないのだろう?
母親は縫物《ぬいもの》をテーブルに置くと、手を顔にあてて、
「どうもこの色が眼にさわるんでねえ」
と、言った。
色だって? ああ、かわいそうなティム坊《ぼう》!
「もうよくなったよ」と、クラチット夫人は言った。
「ろうそくの光だと眼がわるくなるからね。それにどんなことがあっても父さんがお帰りの時にぼんやりした眼をお見せしてはなりませんからね。もうじきに帰ってみえる時刻だよ」
「少しおそいくらいですよ」
と、ピーターは本を閉じながら答えた。
「だけど、この二、三日というもの、父さんは前より少し、ゆっくり歩いて帰っていらっしゃるような気がするんですよ、母さん」
彼らはまた静かになった。クラチット夫人は一度、涙声《なみだごえ》になっただけで、しっかりした元気のいい声に返ってこう言った。
「父さんはティム坊を――ティム坊を肩車《かたぐるま》にのせてとても早く歩きなすったものだがねえ」
「そうでしたね。そういうところを何べん見たかしれないな」
と、ピーターが言った。
「そうだったわ」
と、ほかの者も叫び、みんな、それを思い出した。
クラチット夫人は一心に仕事をつづけながら、また言った。
「けれど、あの子はとても軽かったからね。それに父さんはあの子をそれはそれはかわいがっていらしったから、ちっとも苦になさらなかったのだよ。そら、父さんのお帰りだ!」
彼女はいそいで出迎えに立って行った。小《こ》柄《がら》なボブはコンフォター(襟巻《えりまき》)にくるまって入って来た――かわいそうに、今ほどボブにとってコンフォター(慰《なぐさ》め手)の必要な時はなかった。
彼のためにお茶が炉《ろ》格《ごう》子《し》の脇棚《ホブ》で待っており一同は先を争って彼にお茶の給仕をした。それから二人の小クラチットは父の膝《ひざ》に上り「気を落してはいけませんよ、父さん。悲しがってはだめですよ」と言うように、小さな頬《ほお》を彼の頬にすりよせた。
ボブは元気よく家族の者たちに話しかけた。テーブルにのっている縫物を見て、「よく精を出して縫うね、えらい、えらい、これでは日曜日のずっと前にできてしまうだろうよ」と言って妻と娘たちをほめた。
「日曜日ですって? では、ロバート、きょう、行ってらしったのですか?」
と、妻がたずねた。
「そうだよ。お前も一緒《いっしょ》だったらよかったのになあと思ったよ。あの青々としたところを見ればお前もきっといい気持になったろうよ。もっとも、これから何度も見るだろうけれどね。日曜日には歩いて来るよと、あの子に約《やく》束《そく》したよ。ティム坊、かわいいティム坊!」
突然《とつぜん》ボブは泣き出した。泣き出さずにいられなかったのだ。泣き出さずにいられるくらいなら、彼とティムの間はもっと距《へだ》てがあったことになるのだ。
彼はそこを出て二階の部屋へ上っていった。部屋には灯《ひ》が明るくともり、クリスマスの飾《かざ》りがしてあった。
子供のすぐそばに一脚《きゃく》の椅子《いす》が引きつけてあり、今しがたまでだれかが坐っていた跡《あと》があった。哀《あわ》れなボブはそれに腰《こし》かけ、しばらく考え込《こ》んだりして気が落ちついてくると小さな顔に接吻《せっぷん》した。あきらめがつくと、すっかりまた晴れやかさをとりもどして、階下へおりていった。
一同は火のまわりに集まり話し合った。娘たちと母親は針仕事をつづけていた。ボブはスクルージさんの甥《おい》御《ご》さんは前に一度ぐらいしか会ったことがないのになんていう親切な方だろうと、みんなに話してきかせた。
今日、街で会ったら、自分が少し弱っているのを見て――「ほら、ちょっとばかり弱っているもんでね」――と、ボブは言った――なにか心配なことでもおできになったのかとたずねてくれた。
「そう聞くと」
と、ボブは言った。
「あの方があまり愉《ゆ》快《かい》に話しをなさるもんで、私が事情を話すとね、『それは実にお気の毒ですね、クラチットさん。あなたのやさしい奥《おく》さんのために心から御同情いたします』ってこうおっしゃったんだよ。ところで、どうしてあの方は御存じなのだろうね?」
「何をですの?」
「お前がやさしい家内だということをさ」
「それならだれも皆、知っていますよ」
と、ピーターが言った。
「よく言った、ピーター!」
ボブは叫んだ。
「どうかみんなに知っておいてもらいたいね。『心から御同情いたします。あなたのやさしい奥様のためにね』と、こう、おっしゃってね。『もし私でなにかお役に立つことでもありましたら、これが私の住所ですから、どうか、いらしってください』と言って名《めい》刺《し》をくださったのだよ。
なにもあの方が私らに何かしてくださるかもしれないということばかりが嬉《うれ》しいんじゃない、あの方の御親切な態度がなんとも言えなくありがたかったのだよ。まるでうちのティム坊を御存じでいなすって、それで私たちに同情してくださっているような気持にさえなったくらいだよ」
「きっと良い方ですのね」
と、クラチット夫人が言った。
「あの方に会って話してごらん、きっとそう思うから。私はね――いいかい、よくお聞き、――あの方がピーターに何かいい働き口を見つけてくださりそうな気がするんだよ」
「まあ、お聞きかい、ピーター?」
と、クラチット夫人は言った。
「そうすればピーターはだれかと一緒になって、べつに世帯を持てるようになるのね」
と、娘の一人が叫んだ。
「馬鹿《ばか》言え!」
ピーターはにやにや笑いながらやり返した。
「まあ、そういうことにもなるだろうよ、いずれはね、もっともそれにはまだ間があるがね。だがたとえ、私たちがいつ、はなればなれになるにしても、だれも、ティム坊のことは忘れないだろうね。そうだろう?――うちで起ったこの最初の別れのことをね」
「忘れませんとも、父さん」
みんなはいっせいに叫んだ。
「それから、いいかい、あんな小さいティム坊でもあれほどに辛抱して、苦しくなっても不自由でも不平を言わなかったんだからみんなもティム坊のことをよく考えて仲よく暮《くら》すんだぞ。ティム坊の一番嫌《きら》いなことは喧《けん》嘩《か》だったんだから、家では喧嘩をする奴《やつ》はティム坊を忘れたのと同じだよ」
「父さん、わかりました!」
みんなはまた一人のこらず叫んだ。
「私はしあわせだ。私はしあわせだよ!」
と、ボブは言った。
クラチット夫人と娘たちと二人の小クラチットどもは彼《かれ》に接吻するし、ピーターと彼は握手《あくしゅ》した。幼いティムの魂《たましい》よ、お前の子供としての本質は神から来たものである。
「幽霊さま、私どものお別れする時刻がせまって来たようでございます。何となくそんな気がするのでございます。さっき見て来ましたあの死んだ人はどんな人間なのか、どうか聞かせてくださいませんか?」
と、スクルージは頼んだ。
「未来のクリスマスの幽霊」は前と同じく――もっとも時はちがっているようであった。まったく最近に見た幻影《げんえい》はすべて未来のものであるというほか、なんの順序もないように思われた。――実業家たちの集まる場所へとスクルージを運んで行った。だがスクルージ自身の幻影は見せなかった。
実際、幽霊はどこにも立止まらずに、今、頼まれた目的を達するためにどんどん進んで行った。そのうちにスクルージはちょっと待ってくださいと頼んだ。
「私たちが今、急いでとおっておりますこの路地は私が商売をしているところでしかも長いこといたしております。その家が見えます。このさき、私がどんな姿になるのか見せてくださいまし」
幽霊は立ちどまったが、その手はほかの方をさしていた。
「その家は向うにあります。なぜ、そんな方をお指しになるのですか?」
けれども指は頑《がん》として動かなかった。
スクルージはいそいで自分の事務所の窓へ行き、中を覗《のぞ》き込《こ》んでみた。それはやはり事務所だったが彼のではなかった。家具も同じでなかったし、椅子に坐っている人も彼ではなかった。幽霊《ゆうれい》は前と同じところを指さしていた。
スクルージは再び幽霊のところへ戻《もど》り、いったい自分がいないのはどういうわけだろうと考え込みながら、ついて行くうちに鉄門のところへ来た。彼は入る前にあたりを見まわした。
墓地だった。ではここにこれから名前を知ろうとするあの哀れな男が埋葬《まいそう》されているのだな。結構な場所である。周囲を家にかこまれ、草や雑草がはびこっていた。こういう草は植物の生命の産物ではなく、死の産物であった。あまり埋葬が多すぎるために息がつまりそうで、満腹のために肥え茂《しげ》っていた。結構な場所である。
幽霊は墓の間に立って、一つの墓を指さした。スクルージはぶるぶるふるえながら進み出た。幽霊はこれまでと少しも変らぬ姿をしていたが、その厳《おごそ》かな姿の中に何かまた、新しく意味を見たかのようにおそろしくなった。
「私があなたが今、指さしていらっしゃる墓に近づきます前に、一つだけ教えてくださいませんか。これは将来かならず、そうなるという幻《まぼろし》なのでございますか、それともこうなるかもしれないというだけのものなのでしょうか」
しかし幽霊は相変らず傍《かたわら》の墓を指さしているだけだった。
「人の進む道はそれを固守していればどうしてもある定まった結果にたどりつかなくてはならないのでしょう。それは前もってわかることでございましょう。けれども、もしその進路を離《はな》れてしまえば結果もかわるのじゃありますまいか。あなたが私にお示しくださったものの場合でもその通りだとおっしゃってくださいませんか?」
幽霊は依《い》然《ぜん》立ちつくしているだけだった。
スクルージはふるえながら幽霊の方へにじりより、指の方向をたどっていきながら、なおざりにされた墓石の上に「エブニゼル・スクルージ」という自分の名前を読んだ。
「ではあの寝台《しんだい》によこたわっていたあの男は私なのですか?」
と、彼は膝をついて叫《さけ》んだ。
指は墓から彼の方に向けられ、それからまた元に返った。
「いいえ、幽霊さま! ああ、いやだ! いやだ!」
指はなおもそのままだった。
「幽霊さま!」
と、彼は幽霊の衣《ころも》にかたく、しがみつきながら叫んだ。
「私の言うことをお聞きください。私は今までの私とはちがいます。このようにお近付きにしていただかなかったら、ああなったにちがいないでしょう。けれどもあんな人間にはもう決してなりません。私に少しも望みがないのなら、どうしてこんなものを私にお見せになるのですか?」
この時はじめて幽霊の手がふるえているようだった。
スクルージは幽霊の前の地面にひれふして言葉をつづけた。
「善良な幽霊さま、あなたの本心は私のためにとりなし、憐《あわれ》んでくださいます。私が心を入れかえた生活に入れば、こうしてお見せくださいました影《かげ》を変えられるとおっしゃってくださいませんか?」
親切な手はぶるぶるふるえた。
「私は心からクリスマスを尊び、一年中その気持ですごすようにいたすつもりです。私は過去、現在、未来の教えの中に生きます。この三人の幽霊さま方は私の心の中で私をはげましてくださいます。お三方からお教えいただきましたことに閉め出しなど喰《く》わせません。おお、この墓石に書いてある名前を拭《ふ》き消してよいとおっしゃってくださいまし」
彼は必死になって幽霊の手をつかんだ。手はそれを振《ふ》り放そうとしたが、彼は何としても願いを叶《かな》えてもらおうと力をふるって握《にぎ》りつづけた。
だが幽霊の方がいっそう力が強かったので、彼をふり放してしまった。
自分の運命を入れ換《か》えてもらいたいあまり、彼が最後の祈《いの》りに両手を差し上げた時、彼は幽霊の頭《ず》巾《きん》と着物が変化して来たのを見た。それはちぢみ、へたへたと小さくなり寝台柱の一本となってしまった。
第五章 事の終り
そうだ! この寝台《しんだい》柱は彼《かれ》のものだ。寝台も彼のものだし、部屋も彼のものだ。しかも何より嬉《うれ》しいことに、行く手に横たわる「時」が自分のものであり、埋《うめ》合《あ》わせをつけられることである!
「私は過去と現在と未来の中に生きよう。三人の幽霊《ゆうれい》方に私の心の中ではげましていただくのだ。おお、ジェイコブ・マーレイよ! このことのために神もクリスマスの季節も讃《たた》えられんことを。私はひざまずいて言ってるんだ、ジェイコブ爺《じい》さんよ、ひざまずいて言ってるんだ!」
彼はあまりにも我とわが崇高《すうこう》な決心に興奮してしまい、声はとぎれとぎれで、なかなか思うように出なかった。
彼は幽霊とはげしく揉《も》み合っている時、泣いたと見えて、顔が涙《なみだ》でぬれていた。
「これも引きはずされなかったんだな」
と、スクルージは寝台のカーテンの一方を両腕《りょううで》に抱《だ》きしめながら叫《さけ》んだ。
「環《かん》ぐるみ引きはずされなくてすんだのだ。ちゃんとこうしてあるわい――わしもここにいるわい――そうだ、こうなるぞという影《かげ》も消して消せないことはないのだ。消せるとも。きっと消せるとも!」
こうしている間も彼の手は忙《いそが》しく着物を扱《あつか》っていた。裏返しにしたり、逆さに着てみたり、引き裂《さ》いたり、置き違《ちが》えたりして、あらゆる途《と》方《ほう》もないことをやってみた。
「どうしたらいいかわからないな」
と、スクルージは笑ったり泣いたり一時にした。そして靴下《くつした》でラオコーンのような恰好《かっこう》をしてみた。
「わしは羽根のように軽くて、天使のように楽しくて、小学生のように愉《ゆ》快《かい》なんだよ。酔《よ》っぱらいのように眼《め》がまわったわい。見なさい! クリスマスおめでとう! 世界中の皆さん、新年おめでとう! いよう! ほう!いよう!」
彼はピョンピョン跳《は》ねながら居間へ行き、すっかり息を切らして立ちどまった。
「粥《かゆ》が入れてあった鍋《なべ》があるぞ!」
と、叫ぶと、スクルージはまたもや、跳《と》び上って暖《だん》炉《ろ》のまわりを歩き出した。
「ほら、ジェイコブ・マーレイの亡霊《ぼうれい》が入ってきたのはあの戸口だ。現在のクリスマスの幽霊はあの隅《すみ》に坐《すわ》っていたんだよ。さまよえる亡霊たちを見たのはあの窓だし。何もかもちゃんとしている。何もかも真実なのだ。ほんとうにあったんだ。は、は、は!」
長い年月、笑ったことのない彼にしては実際すばらしい笑いであった。この上なく華《はな》やかな笑いであった。これからさき続く晴れやかな笑いの開祖となるべき笑いだった。
「今日は月の何日かな。いったい、どのくらいの間わしは幽霊方といっしょにいたものだろう。なにもかもわからないわい。赤ん坊《ぼう》のようなものだ。気にすることはない。かまうものか。いっそ赤ん坊になりたいくらいだ。いよう、ほう、いよう!」
彼はその時、教会で打ち出した、これまで聞いたこともないような美しい鐘《かね》の音に、その恍惚《こうこつ》状態をやぶられた。カラーン、カラーンと鐘を打つ音。ディン、ドンとベル。ドン、ディン。カラン、カラーン。
おお、なんとすてきだろう。なんとすてきだろう!
窓にかけよって彼はそれを開き、頭を突《つ》き出した。霧《きり》ももや《・・》もない、澄《す》んだ、晴れわたった、陽気な、浮《う》き浮きするような、冷たい朝。血が踊《おど》り出さずにいられないような冷たさ。黄金の日光、神々《こうごう》しい空、甘《あま》い爽《さわや》かな空気、たのしい鐘の音、おお、すてきだ! すてきだ!
「きょうは何の日だね?」
と、スクルージは日曜日の晴着を着た少年を見おろしながら声をかけた、少年はあたりを眺《なが》めながらぶらぶら来たらしかった。
「きょうは何の日だね、素《す》敵《てき》な坊や?」
「きょうだって? クリスマスじゃありませんか」
「クリスマスだ! してみるとわしはのがさずにすんだのだな。幽霊方はみんな一晩ですませてくださったものとみえる。あの方たちはなんでも自分の思うとおりにできなさるんだからな。それも当然だね。当然だとも」
と、ひとり言を言ってから、
「おーい、坊や!」
「おーい!」
と、少年も返事をした。
「一つおいて先の通りに鳥屋があるのを知ってるかね?」
「知ってるとも」
と、男の子は答えた。
「りこうな子だよ、えらい子だ。あそこに賞品をもらった七面鳥がぶらさがってたのが売れちゃったかどうか知ってるかい?――賞品をもらったのでも小さい方の七面鳥じゃなくて、大きい方のさ?」
「なんだって! 僕《ぼく》くらいの大きさの奴《やつ》でしょう?」
と、少年は問い返した。
「なんて愉快な子だろうね。この子と話をするのはまったく嬉しいよ。そうだよ、坊や」
「今でもぶらさがってるよ」
「そうかい。それを買って来ておくれ」
「まさか!」
と、少年は叫んだ。
「いや、いや、わしは本気なのだよ。買いに行っておくれ。ここへ持って来るように言ってな。そうすればわしが使いの者に届け先を指図してやれるからね。その男と一緒《いっしょ》に帰っておいで。そうしたら一シリング上げよう。使いの者をつれて五分たたないうちに帰って来たら半クラウン上げるよ」
少年は鉄砲玉《てっぽうだま》のように馳《か》け出した。この少年の半分の速力でもいい、それだけの早さの弾丸《だんがん》を打ち出せる人が、引金を握《にぎ》ったとしたらたいした腕前にちがいない。
「ボブ・クラチットに送ってやろう」
スクルージは両手をこすり合わせ、お腹《なか》の皮をよじらせて笑った。
「だれから送って来たかは知らせちゃいけない。ティム坊の二倍がとこあるだろうよ。ジョー・ミラーだって、あれをボブのところに送るような冗談《じょうだん》はしたことがなかろうな」
宛《あて》名《な》を書く手はぶるぶるふるえてうまく書けなかった! だが、とにかく書くことは書いて、階下におりて行き、街に面した戸をあけて、使いが来るのを待っていた。その時ふと把手《ノッカー》が眼についた。
「私が生きているかぎりこれを大事にしよう!」
と、スクルージはそれをなでた。
「これまでろくに見たこともなかったなあ。なんて正直そうな顔付きなんだろう。すばらしい把手《ノッカー》だ!――それ、七面鳥が来たぞ。いよう、ほう! 御苦《ごく》労《ろう》さん! クリスマスおめでとう!」
それはたしかに七面鳥だった。これじゃあとても自分の足では立てそうもなかったろうよ、この鳥は。たちまち、ポキンと封蝋《ふうろう》の棒のように折れてしまったことだろう。
「これじゃあ、とてもカムデン・タウンまでかついじゃいかれないね。馬車でなくちゃだめだよ」
彼はくすくす笑いながら、こう言うと、くすくす笑いながら七面鳥の代を払《はら》い、くすくす笑いながら少年に駄《だ》賃《ちん》をあたえ、とうとうくすくす笑いに圧倒《あっとう》されてしまった彼は息も絶え絶えに自分の椅子《いす》にくずれこみ、なおも笑っているうちに泣き出してしまった。
手がいつまでもひどくふるえているので、ひげを剃《そ》るのも容易ではなかった。ひげ剃りということは踊っていない時でもなかなかの注意が必要なのだ。しかし彼はたとえ鼻の先を切り落したとしても、絆創膏《ばんそうこう》をペタッとはりつけただけですっかり満足していたことだろう。
彼は最上の晴着を着てついに街頭へ出かけて行った。この頃《ころ》には、彼が「現在のクリスマスの幽霊」と一緒に見たとおり、人々はどっと街に溢《あふ》れ出ていた。スクルージは手を背後にまわして歩きながらだれかれとなく、にこやかな微笑《びしょう》をたたえながら眺めた、彼があまり愉快そうなので、気の好《い》い連中が三、四人、
「旦《だん》那《な》、お早うございます! クリスマスおめでとう!」
と、声をかけた。
スクルージは今までにこんなに耳に快い音楽を聞いたことがなかった、とその後もたびたび話した。
いくらも行かないうちに向うから恰幅《かっぷく》のいい紳《しん》士《し》が歩いて来た。昨日彼の事務所に入って来て「スクルージ・マーレイ商会でございますな?」と言った紳士である。二人が顔を合わせたらこの老紳士が自分のことをどんな風に見るだろうと思うと、スクルージは胸がずきずき痛むのをおぼえた。
しかし彼は自分の前に真《まっ》直《す》ぐによこたわっている道を知っていた。自分のとるべき道を知っていた。そしてそれに向って進んだ。
「もし、あなた」
と、スクルージは足を早めて老紳士に歩みより、その両手をとった。
「こんにちは。昨日はうまくいきましたか?御親切さまにほんとうにありがとうございました。まずはクリスマスおめでとう!」
「スクルージさんでいらっしゃるんで?」
「そうです。ですが、これはどうもあなたにはあんまり感じのいい名前ではないと存じますが。幾《いく》重《え》にもお許しください。それからまことに恐《おそ》れ入りますが――」
スクルージは紳士の耳に何事かささやいた。
「これはまあいったい!」
紳士は息がとまったかのような声を出した。
「まあ、スクルージさん、あなた、本気ですかね?」
「どうぞそれより一銭も欠けないようにお願いしたいのです。今までの不払いの分がずっと入れてありますんでね。そうしていただけましょうか?」
紳士は彼の手を握りしめながら、
「あなた、このような御《ご》厚《こう》志《し》に対しまして何とお礼を申上げてよいか――」
「もう何もおっしゃってくださいますな。一度お出かけください。お出《い》でいただけましょうか?」
「寄せていただきますとも」
と、老紳士は叫んだ。行くつもりであることは明らかだった。
「ありがとうございます。厚くお礼を申上げます。幾重にもお礼を申上げます。お大事に」
彼は教会へ出かけ、それから街を歩きまわりながら、人々が急ぎ足で行き交《か》うのを眺めたり、子供たちの頭を撫《な》でてやったり、乞《こ》食《じき》にものをたずねたり、家々の台所を覗《のぞ》いたり、窓を見上げたりした。そして何もかもが彼を愉快にしてくれるのに気がついた。
彼は散歩というものが――散歩にかぎらず何事でもが――こんなに気分を楽しくするとは夢《ゆめ》にも考えたことがなかった、午後には甥《おい》の家の方に歩みを向けた。
はいって行って戸を叩《たた》く勇気がどうしても出て来ないので、何べん、戸口を通り越《こ》したかしれなかった。しかし思いきってやってみた。
「御主人はおいでかな?」
と、スクルージは出て来た娘《むすめ》に言った。いい娘だ。まったくいい娘だ。
「はい、いらっしゃいます」
「どこにおいでかね?」
「食堂にいらっしゃいます。奥様《おくさま》と御一緒に。では、お二階にお通しいたしましょう」
「ありがとうよ。御主人はわしを知っておいでだから」
と、もう食堂の錠《じょう》に手をかけながらスクルージは言った。
「ここへはいって行くよ、ねえ」
彼はそっと錠をまわし、戸のうしろから、斜《なな》めに顔をさし入れた。
彼らは食卓《しょくたく》を眺めているところだった(食卓はたいそう立派に飾《かざ》り立ててあった)。若い主婦というものはこういう点についてはいつも神経質で、なにもかもがきちんとなっていなければ承知できないからだ。
「フレッド!」
と、スクルージは言った。
おお甥の妻が何と驚《おどろ》いたことか! スクルージはちょっとの間、彼女《かのじょ》が足台に足をおいたまま片隅に坐っているのを忘れていたのだった。そうでなかったら、どんなことがあっても、そんなまねはしなかったであろう。
「ああ、おどろいた。どなたです?」
と、フレッドは叫んだ。
「私だよ。お前の伯父《おじ》のスクルージだ。御馳《ごち》走《そう》になりに来たんだよ。入れてくれるかい?フレッド?」
入れてくれるかだって! 彼の腕が振《ふ》りちぎれなかったのがめっけものだった。五分もすると彼はすっかりくつろいでしまった。これほど真心こもった歓迎《かんげい》ぶりはまたとないくらいだった。姪《めい》は(夢で見たのと)同じだった。トッパーが来たところを見るとこれまた同じだった。肥《ふと》った姉妹もそうだし、だれもみな(夢で見たのと)同じだった。
すばらしい宴会《えんかい》、すばらしい遊び、すばらしい和気あいあいの空気、すばらしい、すばらしい幸福!
しかし翌朝、彼は早々と事務所に出かけて行った。早くに出かけて行ったのである。なんとしてでも先に着いて、ボブ・クラチットがおそく来たところをつかまえなくてはならない。ぜひともそうしようと彼《かれ》は決心したのだ。
そして彼はそれを実行した。時計が九時を打った。ボブはまだ来ない。十五分過ぎた。まだ来ない。ボブはたっぷり十八分と半おくれて来た。彼が大桶《おおおけ》の部屋に入って来るところが見えるようにと、スクルージは自分の部屋の戸をあけ放ったままで坐っていた。
ボブは戸をあける前に帽《ぼう》子《し》をぬぎ、襟巻《えりまき》もとっていた。またたくまに椅子に坐ると、九時に追いつこうとするかのようにせっせとペンを走らせ始めた。
「おい!」
と、スクルージはできるだけいつもの声に似せようとつとめながら唸《うな》った。
「今頃ここへやって来るとはどういう料見なんだね?」
「まことにすみません。すっかりおそくなりまして、どうも」
「おそいね! そうだ、たしかにおそいぞ。ここへ来たまえ」
「一年にたった一度のことでございますから」
と、ボブは大桶からあらわれながら、
「二度とこんなことはいたしませんから。昨日は少し騒《さわ》ぎすぎましたもんで、どうも」
「では君、いいかね、実のところわしはもうこんなことにはこれ以上、我《が》慢《まん》がならないんだ。それだから」
スクルージは椅子から飛び上ると、ボブのチョッキのあたりをぐいっと小突《こづ》いたので、ボブはよろよろとして再び桶の中へよろめき込《こ》んだ。
「それだからわしは君の給料を上げてやろうかと思うんだよ」
ボブはふるえ上り、ものさしの方に近付いた。それでもってスクルージをなぐりつけ、おさえつけて、路地にいる人々に助けを求めて何か縛《しば》るものでも持って来てもらってと、とっさに考えたのだった。
「クリスマスおめでとう、ボブ君!」
ボブの背中を叩きながら、こう言ったスクルージの声には紛《まご》うかたなき誠意がこもっていた。
「この何年もの間、わしが祝ってあげたどのクリスマスよりもめでたいクリスマスだよ、ボブ君! 君の給料を引上げるし、君の困っている家族をも援助《えんじょ》しようと思っているから、ま、今日の午後にでも、薬味入りの葡《ぶ》萄酒《どうしゅ》でクリスマスを祝いながらゆっくりと相談しようじゃないか。火をおこしなさい。そして仕事にかかる前にもう一つ炭取りを買って来るんだ、ボブ・クラチット!」
スクルージは口に出したより以上のことを実行した。彼は自分の言ったことは全部、それよりもっともっと多くのことをした。そして実際は死んでいなかったティムには第二の父となった。
彼はこの善い、古い都にも、または他のいかなる善い、古い都にも、町にも村にも、この善い古い世界にもかつてなかったくらいの善い友となり、善い主人となり、善い人間となった。人によっては彼が別人のようになったのを見て笑ったが、彼はそういう人たちを笑うがままにしておき、少しも気にかけなかった。彼はこの世では何事でも善い事なら必ず最初にはだれかしらに笑われるものだということをちゃんと知っていたし、またそういう人々は盲目《もうもく》だということを知っていたので、おかしそうに眼《め》元《もと》にしわ《・・》をよせて笑えば盲目という病気がいくぶんなりと目立たなくなるだけ結構だと考えていたからである。彼自身の心は晴れやかに笑っていた。それで彼にはじゅうぶんだった。
それ以来、幽霊《ゆうれい》との交渉《こうしょう》はなかったが、彼はその後は絶対禁酒主義を奉《ほう》じて暮《くら》していった。そしてもし生きている人間でクリスマスの祝い方を知っている者があるとすれば、彼こそその人だといつも言われていた。私たちについても同じことが言われますように、私たちのすべての者がそうなりますように。それからティム坊《ぼう》が言った通り、「神よ、私たちをおめぐみください、みんな一人一人を!」
解説
村岡花子
毎年クリスマスがめぐって来るごとに私はディケンズのクリスマス・カロルを読む。今年はこの訳稿《やくこう》出版のため季節よりも早目に、通読したが何度読んでも、変らぬ感激《かんげき》を受けるのは、著者ディケンズの愛情と善意がこの作品の中に躍動《やくどう》しているからであろう。
一八一二年に生れ一八七〇年に死ぬまでの一生をチャールズ・ディケンズは新聞記者、作家、編集者として非常に精力的な活動をした。ロンドンに過した少年時代には職工、丁《でっ》稚《ち》小《こ》僧《ぞう》、法律事務所の事務員と、さまざまの生活を遍歴《へんれき》して、人情の機微《きび》に触《ふ》れた。この体験が彼《かれ》の作品の根底をなしている。知られざる片隅《かたすみ》に日々夜々湧《わ》き起りつつある笑いと涙《なみだ》と怒《いか》りと喜びと希望をディケンズはしっかりと受けとめて、それら複雑な人生の動きを私たちの前に展開する。彼の作品を特徴《とくちょう》づける二つの点をあげるならば、人物描写《びょうしゃ》の巧《たく》みさとユーモアとである。人物の描写があまりに上手なために、時々辛辣《しんらつ》になりすぎたり、漫《まん》画《が》的風格を与《あた》えてしまったりすると批評をする人々もある。しかし、ロンドンを背景として彼が創《つく》り出す人物には不思議なほど真に迫《せま》ったものがある。ディケンズの作品の持つユーモアは、確かに彼の性格の一部なのである。
彼は笑いの中に涙の露《つゆ》を光らせる。彼の作品を構成するものは涙と笑いである。光と影《かげ》が交錯《こうさく》している。ディケンズの人物の持つ哀《あい》感《かん》(ペーソス)は時としては余りにも芝《しば》居《い》がかって来ることもある。が、つまるところ、彼は役者であり、彼の演劇の終局の目的はヒューマニズムであったのだ。
この翻訳《ほんやく》は以前新潮社の求めで仕上げてあったのだが、今その旧稿に手を入れてやはり新潮文庫の一冊として公《おおや》けにすることができるのは嬉《うれ》しいことである。
(一九五二年秋)