二都物語(下)
ディケンズ作/本多顕彰訳
目 次
第三巻 嵐の跡
第一章 秘密に
第二章 回転|砥石《といし》
第三章 影
第四章 嵐の中の静けさ
第五章 木挽き
第六章 勝利
第七章 戸を叩く音
第八章 カルタの手札
第九章 行われた勝負
第十章 影の実体
第十一章 薄暮
第十二章 闇
第十三章 五十二人
第十四章 編物は終る
第十五章 足音は永遠に消えて行く
あとがき
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第三巻 嵐の跡
第一章 秘密に
一七九二年の秋にイギリスからフランスに向かったその旅行者はのろのろと旅をつづけた。たとえ失墜した不幸な国王が位にあって全盛を誇っていた時であっても、この旅人は、いやというほどの悪い路や悪い設備や悪い馬に出くわしておくれたであろうが、今は時代が変わったために別の障害がいっぱいあった。あらゆる町の門や村の徴税所にはそれぞれ一隊の町の愛国者がいつでも弾丸が飛び出す鉄砲をもって頑張っていて、ゆき来する人たちをとめて、きびしい尋問をし、彼らの書類を調べ、彼ら自身の名簿の中に彼らの名をさがし、彼らの気まぐれな判断や思いつきが、始まったばかりの、自由、平等、友愛、さもなければ死の、一にして不可分の共和国のために最善としたところに従って、追い返しもし、先へ行かせもし、止めて監禁もした。
たった数マイル旅をしたばかりなのに、チャールズ・ダーネーは、この国の道を行く彼には、パリで善良な市民であると言明されないかぎり、帰れる見込みはないことがわかった。今は何が起ころうとも、彼は旅の目的地まで行かなくてはならなかった。賤しい村が近づくにつれ、またありふれた木戸が彼の通ったあとでしまるにつれ、それを彼は彼とイギリスとをへだてる一連の鉄の扉の一つと知るのであった。至るところで監視の眼が彼のまわりに光っていたので、彼は、網にかけられたり、籠に入れられて目的地へ運ばれるとしても、これほどまでに完全に自由が失われたことを感じはしなかったであろう。
この至るところにいる監視人たちが、一つの駅路で二十度も彼を止めたばかりでなく、後から馬で追っかけて来て彼を連れ戻したり、前を駆けて行って、先手を打って彼を立ち止まらせたり、彼と一緒に馬を走らせて彼を監督したりして、一日に二十度も彼の進行をおくらせた。彼は数日間フランスをひとりで旅をすると、疲れはてて、まだパリから遠く離れている街道筋の小さな町で床に就いてしまった。
アベイの監獄から、苦しめられているガベルの手紙が来さえしなかったら、彼はこんな遠くまで出かけて来なかったであろう。この小さな町の営舎で彼が経験した困苦がひどかったから、彼は彼の旅が危機に近づいていることをさとった。だから朝までの間移されていた小さな居酒屋で、真夜中に起こされても、大してびっくりはしなかった。
ベッドに腰かけていた臆病そうな地方の役人と、粗末な赤い帽子をかぶり、口にパイプをくわえた三人の武装した愛国者によって起こされたのである。
「おい、亡命者」と役人が言った。「おれは、お前を護衛してパリへ連れて行くことになっている」
「ちがいます、市民ですよ。私は。パリへ行きたいだけなんです。護衛なんかいりません」
「黙れ!」と赤帽子がどなって、銃床で掛蒲団を打った。「静かにしろ、貴族!」
「この愛国者のおっしゃる通りだ」と臆病な役人が言った。「おまえは貴族だから、どうしても護衛がいるのだ――報酬を支払わなくちゃならない」
「やむを得ません」とチャールズ・ダーネーが言った。
「何だと! おい聞いたか!」と例の顔をしかめた赤帽子が叫んだ。「危険から守ってもらうことが恩恵ではないとでもいうのか!」
「この愛国者のおっしゃるとおりだ」と役人が言った。「おい亡命者、起きて、着替えをしろ」
ダーネーはそれに応じ、営舎へ連れ戻されて行くと、そこには赤帽子をかぶった他の愛国者たちが番小屋の炉のそばで煙草をふかしたり、酒を飲んだり、眠ったりしていた。ここで彼は護衛代として多額の金を支払い、朝の三時に、護衛と一緒にそこを出発して、しっとりぬれた道を歩いた。
護衛は、三色の帽章のついた赤帽をかぶり、銃とサーベルを持った二人の騎馬の愛国者で、彼の左右に並んで馬を歩かせた。護衛される者は自分の馬を御したが、たるんだ索が彼のたづなにつけられていて、その端を一人の愛国者が手首のまわりにまきつけて持っていた。こうした状態で彼らは、はげしい雨に顔を打たれながら出発し、重い騎兵の早足で、でこぼこの町の舗道をがたがたいわせて進み、郊外のぬかるみ道に出た。このような状態で、馬と歩調のほかには変わったところもなく、首都までの幾マイルのぬかるみ道を歩いた。
彼らは夜歩いて、夜の明ける一、二時間前に馬をとめて、たそがれ時になるまで休んだ。護衛はみすぼらしい服を着ていて、裸の脚のまわりに藁をまきつけ、雨露をよけるために、ぼろぼろにやぶれた肩を藁でかくしていた。このように付添いがついている不快のことはさておくとしても、また、慢性的に酔っているうえに鉄砲を乱暴に扱う一人の愛国者から起こる手近かな危険の心配のほかに、チャールズ・ダーネーは、彼に加えられている束縛のことからして胸中に大きな恐怖心が目覚まされないようにと気をつかわなくてはならなかった。なぜなら、彼は、そのことは、まだ陳述してない個人的事情や、まだしてないが、アベイの監獄にいるあの囚人が確認できる主張の得失には無関係だと考えたからである。
しかし、彼らがボーヴェーの町に着いたとき――それは夕方で、街は人々で一杯であった――彼は、事態は油断がならないということを自分自身に隠すことはできなかった。不吉な群集が集まって来て、彼が宿駅の中庭で馬から降りるのを見て、その中の大勢の声が「亡命者をやっつけろ!」と大声で叫んだ。
彼は、鞍《くら》から跳びおりようとしていたが、それをやめて、一番安全な場所として、また鞍にもどって、言った。
「亡命者だって、皆さん。私が、このフランスへ自由意志で来たのがわかりませんか」
「お前は呪われた亡命者だ」と蹄鉄工が叫んで、手にはハンマーを握り、狂暴に群集を押しわけて彼に向かって突進して来た。「お前は呪われた貴族だ」
宿駅長がこの男と馬上の人のたづなとの間にわけ入り(明らかに彼はそのたづなをとろうとしてやって来たのだが)なだめるように言った。「この男はほっておけ、ほっておけ。どうせパリに着いたら裁判にかけられるんだから」
「裁判にかけられるって!」と蹄鉄工はおうむ返しに言い、ハンマーを振った。「そうだ、謀反人《むほんにん》として死刑になるんだ」これを聞くと群集はそうだそうだとどなった。
ダーネーは、彼の声が聞こえるようになるやいなや、彼の馬の頭を中庭に向けようとしていた宿駅長をとどめて(酔払いの愛国者は、馬上で、手首に索をまきつけたまま、落ち着きはらってこれを見ていた)言った。
「皆さん、あなたがたは勘違いしている。だまされている。私は謀反人ではない」
「うそつきめ」と鍛冶屋が叫んだ。「あいつは法令が出てから謀反人なんだ。あいつの生命《いのち》は人民に没収されている。あいつの呪われた生命はあいつ自身のものじゃないんだ」
ダーネーが群集の眼の中に突進してくる気配を見てとり、次の瞬間には来るぞと思った瞬間に、宿駅長が馬を中庭の中に連れこみ、護衛たちは彼の馬のすぐそばに並んで馬を進め、そして宿駅長はがたびしする二枚扉の門をしめて、かんぬきをさした。蹄鉄工はハンマーで門に一撃を加え、群集はうなったが、それ以上のことはしなかった。
「あの鍛冶屋が言った法令というのは何ですか」ダーネーは宿駅長にお礼を述べたあとでたずね、彼と並んで中庭の中に立った。
「実は、亡命者の財産を売却するという法令です」
「いつ通過しましたか」
「十四日です」
「私がイギリスを発《た》った日だ」
「この法令は五つか六つある法令のうちの一つにすぎないので、ほかにも――いまはまだないとしても――亡命者を追放し、帰って来たものを全部死刑にするという法令がでるだろうと、誰も彼も言っています。あの男が、あなたの生命はあなた自身のものではないと言ったのは、その意味ですよ」
「でも、まだそんな法令はないでしょう」
「どうですかね」と宿駅長は言って肩をすぼめた。「あるかもしれませんよ、いや、これからあるでしょう。どっちだって同じです。何かご用はありませんか」
彼らは天井裏の藁《わら》の上で真夜中まで休み、それから、町全体が眠ったときに、また馬を進めた。この無謀な騎馬旅行を夢のように思わせる多くのはげしい変化が、見なれたものの上に起こっているのが見られたが、見たところ睡眠がまれだということが少なからず目立っていた。物淋しい道を長時間淋しく駆ったあとで、一群の貧しい小屋へ来ると、そこは暗闇に包まれていないで、明かりがきらきら輝いていて、人々は真夜中の幽霊のように、しぼんだ自由の木のまわりに手をつないでまるくなったり、固まったりして自由の歌をうたっていた。しかし、幸いなことに、ボーヴェーではその夜はみんなが眠っていたおかげで、そこを無事にぬけ出すことができ、もう一度孤独と寂寥の中へはいっていった。そして時ならぬ寒気と雨の中や、その年は大地の実りを産み出さなかった疲弊した畑の中を、ちりんちりんと鈴の音を立てながら通りぬけた。焼けた家々の黒い残骸が目立った。道路上の番所からは、愛国者のパトロールが不意に飛び出して来て、彼らの行手に馬をとめてさえぎった。
夜明けになってようやく彼らはパリの城壁の前まで行った。そこへ馬を乗りつけたときには、関門はとざされ、堅く守られていた。
衛兵に呼び出された、しっかりした顔の係官が、「この囚人の身分証明書はどこにあるか」とたずねた。
当然この不愉快な言葉に気を悪くして、チャールズ・ダーネーは、国が乱れているのでやむを得ず護衛に守られ、それに対して金を支払って来たが、自分は自由な旅行者であり、フランスの市民だということを認めてくれるようにと役人に頼んだ。
その係官は、彼に少しも注意を払わないで、同じ言葉を繰り返した。「どこにこの囚人の身分証明書があるか」
酔っ払った愛国者がそれを帽子の中に入れていたので、それを取り出した。ガベルの手紙を一瞥《いちべつ》して、係官はいくらか動揺し驚きの色を見せ、ダーネーを注意深くじろじろと見た。
しかし彼は、一言もいわないで、護衛するものとされる者とをすてておいて、衛兵室にはいって行った。その間、彼らは馬に乗ったまま、門の外で待っていた。このような不安の状態にある間に、チャールズ・ダーネーは周囲を見まわし、門が兵隊と愛国者たちの混合衛兵によって守られ、そのうち愛国者の数の方がはるかに多いことを知り、また、糧食を持ち込む百姓の荷車や似たような車やその車をひく者たちが入るのはひじょうにらくだが、ごく素朴な人たちでも、出るとなると、ひじょうにむずかしいということを知った。種々雑多な動物や車はいうに及ばず、男女の入り混じった雑多な集団が、外へ出られるのを待っていたが、前もって行われる身分の証明が厳重だったので、彼らは、水がもれるような具合に、ひじょうにのろのろと関門から出て行った。これらの人々の中には、自分が調べられる番がずっと先だということを知っていて、地べたに寝ころがったり煙草をふかしたりしているものもあったし、また、おしゃべりをしたり、そこらあたりをぶらぶらしたりしているものもあった。三色の帽章のついた赤帽子は、どこへ行っても、男の中にも女の中にもいた。
ダーネーがこれらのことを注視しながら小半時馬にまたがったままでいると、そこへまた例の係官がやって来て彼の前に立ち、衛兵に向かって関門をあけるようにと指図した。それから彼は、酔っ払ったものと正気のものとの二人の護衛のものたちに、護衛されて来たものの受取り証を渡し、護衛されて来たものに馬から降りよと要求した。彼がその通りすると、二人の愛国者は、彼の疲れた馬を引っぱって、向きを変え、市内には入らないで馬を走らせて去った。
彼が彼の指揮者と一緒に、ありふれた酒と煙草のにおいのする衛兵室へはいって行くと、そこには、眠っていたり、目をさましていたり、酔っぱらっていたり、正気でいたり、眠るでもなければ、さめているのでもなく、酔っぱらっているのでもなければ、正気でもないといったような中間の状態にいる兵隊や愛国者たちが、立ったり、ねそべったりしていた。半ばは消えようとしている夜の石油ランプから、そして半ばは、曇った日から来ている衛舎内の明かりは、その場にぴったりするような不安定な状態にあった。記録簿のようなものが机の上に開いたままおかれ、下品な、浅黒い顔をした将校がそれを調べていた。
「市民ドファルジュ」と彼は、何か書くために紙片をとりながら、ダーネーの指揮者に言った。「これが亡命者のエヴレモンドか」
「これがその男です」
「おまえの年は、エヴレモンド」
「三十二歳です」
「結婚しているか、エヴレモンド」
「はい」
「どこで結婚したか」
「イギリスです」
「よし。妻はどこにいるか、エヴレモンド」
「イギリスです」
「よし。エヴレモンド、お前はラ・フォルス監獄に引き渡す」
「えっ!」とダーネーは叫んだ。「どういう法律で? どういう罪名で?」
将校は、ちょっとの間紙片から眼をあげた。
「お前がいなくなってから、新しい法律と新しい罪名ができたのだ、エヴレモンド」彼は冷たい微笑を浮かべてそういうと、また書きつづけた。
「私が、あなたの前にある、同国人が書いた哀訴の手紙にこたえて、自発的にここへやって来たということを、どうか認めて下さい。私は遅滞なくそのことをする機会をお願いするだけです。それは私の権利じゃないですか」
「亡命者は何一つ権利を持たないのだ、エヴレモンド」というのが無情な答えであった。将校はおしまいまで書き終ると、いま書いたものを黙読し、その上に砂をまき(こまかな砂をまいて、吸取紙の代りにする)「秘密に」という言葉をそえてドファルジュに渡した。
ドファルジュは、その紙片で、囚人に向かって、彼と一緒に来なければならないという指図をした。囚人は従い、二人の武装愛国者から成る護衛が彼らにつきそった。
衛舎の階段を降り、パリ市内に入ったときにドファルジュは低い声で言った。「今はないバスチーユ監獄に昔囚人として入れられていたマネット医師の娘と結婚したのは、あんたですね」
「そうです」とダーネーはびっくりして彼を見ながら答えた。
「わしの名はドファルジュと言います。サン・タントワヌ地区で酒店をしています。たぶんわしのことを聞いたことがあるでしょう」
「妻があなたの家へ父親を連れ戻しに行ったでしょう。聞いたことがあります」
「妻」という語が、ドファルジュにある陰鬱《いんうつ》なことを思い出させたようであった。彼は不意にいらだたしそうになって言った。「生まれたての、ラ・ギヨティーヌという名の、あの厳《きび》しい女性(断頭台)の名にかけて、なぜあんたはフランスへ来たんですか」
「たった今、あなたは、なぜかということをお聞きになったばかりだ。それが事実だということが信じられませんか」
「あんたにとっては悪い事実だ」とドファルジュは眉をひそめ、まっすぐに前方を見ながら言った。
「まったく、私はここでは絶望です。ここでは一切のことが先例のないことばかりで、すっかり変わってしまっていて、だしぬけで、不公平なので、私は全く絶望です。すこしでも助けてくれませんか」
「だめです」ドファルジュは、始終前方を真っ直に見ながら言った。
「たった一つだけ質問に答えてくれませんか」
「たぶん。その性質次第です。どんな質問か、言ってごらんなさい」
「不当にも私がこれから行くことになっている監獄で、外界との自由な文通はできますか」
「今にわかります」
「私は、偏見をもたれ、訴訟を起こす手段もなしに、ここに生き埋めにされては困ります」
「今にわかるでしょう。でも、それがどうしたというんですか。これまでに、他の人たちが、同じように、もっと悪い監獄に生き埋めにされて来たのですからね」
「しかし、それは私のせいじゃない、市民ドファルジュ」
ドファルジュは、答える代りに陰気に彼を見、黙りこくって歩きつづけた。彼がこの沈黙に深く沈めば沈むだけ、少しでも心がやわらぐ望みが薄くなった――というよりも、そうダーネーは考えた、といった方がいい。そこで彼は急いで言った。
「いまパリにいるイギリスの紳士で、テルソン銀行のローリー氏に、私がラ・フォルス監獄へ投獄されたというだけの事実を、何も説明しないでいいのですが、伝えることができるかどうかということは、私にとってきわめて大切なんだが。(市民、あなたは、それがどんなに大切であるかということを私よりもよく知っているはずです)そうすることができるように、はからってもらえませんか」
ドファルジュは頑《かたく》なに答えた。「わしは何もしてあげない。わしは自分の国と人民に義務をつくすだけだ。わしは、この両方に誓った下僕で、あんたの敵だ。わしはあんたに何もしてあげない」
チャールズ・ダーネーは、これ以上彼に頼んでも望みがないと感じた。それに彼の誇りが傷つけられた。彼らが黙々と歩きつづけている間に、彼は、囚人たちが街を通りすぎる光景に人々が、どんなになれきってしまっているかに気がついた。子供さえもほとんど彼に注目しなかった。数人の通行者がふりかえり、数人のものが貴族としての彼に向かって指を振り動かした。そういうことでもなければ、上等の服を着た男が監獄に行こうとしていることが、労働服を着た労働者が仕事をしに行くのと同様に人目をひかないということになってしまう。彼らが通り過ぎた狭い、暗い、きたない街で、興奮した演説者が、踏み台にあがって、興奮した聴衆に向かって、国王や王族たちの、国民に対する犯罪について話していた。この男の唇から彼がとらえた数語によって、初めてチャールズ・ダーネーは、国王が監獄に入れられていることや、外国の使節が一人残らずパリを去ったことを知った。路上では(ボーヴェーは別として)彼はまったく何も聞かなかった。護衛と至る所にいる見張りとが完全に彼を孤立させた。
彼は、自分がイギリスを出たときに増大しつつあった危険よりもはるかに大きい危険におちいっているということを、今は、もちろん知った。危険が彼の周囲に急速に濃厚になり、さらにますます急速に濃厚になるかもしれないということを、今は、もちろん彼は知っていた。彼は、もしも、ここ数日来の出来事を予想することができたら、この旅には出なかったかも知れないということを、内心認めずにはいられなかった。しかも、彼の不安は、今日の考え方によって考えられるほどには暗くはなかった。未来は混沌としていたけれども、それは未知の未来であり、その曖昧《あいまい》さの中に無知の希望があった。時計の針の数回転以内に、秋の祝福された取入れ時に大きな血の印を押すことになっていた終日終夜の戦慄《せんりつ》すべき虐殺は、十万年前のことであるかのように彼の知らないところであった。「生まれたての、ラ・ギヨティーヌという名の厳《きび》しい女性」については、彼も一般の人々もほとんどその名を知らなかった。間もなくなされることになっていた恐るべき行為は、その当時は、それをするはずの人々の頭の中でもたぶん想像されていなかったであろう。やさしい心の人のぼんやりとした考えの中に、どうしてそれらのことが存在しえようか。
拘禁中の不正な取扱いや辛苦や、妻子との残酷な隔離ということについては、あらかじめ予想もしていたし、また覚悟もしていたが、しかし、それ以上には、何ものをもはっきりとは恐れなかった。物淋しい監獄の中庭に持ち込むとなれば、もう、これだけでたくさんだが、彼はそんな予感をいだいて、ラ・フォルス監獄に到着した。
顔がむくんだ男が丈夫な小門をあけると、ドファルジュは「亡命者エヴレモンド」と紹介した。
「畜生! このうえまだ幾人来やがるんだ!」と顔のむくんだ男が叫んだ。
ドファルジュはその叫び声を気にもとめないで、彼の受取りを取ると、二人の仲間の愛国者と一緒に退いた。
「畜生! もう一ぺん言ってやるぞ!」と看守は妻と二人だけになると叫んだ。「このうえまだ幾人来やがるんだ!」
看守の妻はこの問いに対する答えを持ち合わせていなかったので、ただ「何事もしんぼうしなきゃなりませんよ、あなた」と答えた。彼女が鳴らした呼鈴に応えてはいって来た三人の看守が、同じ感想を繰り返し、そして一人が「自由を愛するために」とつけ加えた。これは、この場所では、不適当な結論のように聞こえた。
ラ・フォルス監獄は、陰気な監獄で、暗く、不潔で、その中のいやな睡眠からくる不快なにおいがしていた。監禁された睡眠の不快なにおいが、管理のわるいこうした場所ではたちまち明白になる。
「こいつも、秘密に、か」と看守は身分証明書を見ながら呟《つぶや》いた。「おれが、すでに、破裂しそうになっていないとでもいうように」
彼は、不機嫌に書類留めにその紙片をさし、一方、チャールズ・ダーネーは、これからどうするか看守の思召しを半時間も待っていた。彼は、丈夫なアーチ型の天井の部屋の中をあちらこちらと歩いたり、また、石の座席の上で休んだりしたが、どちらの場合にも、とめられて、看守長やその手下たちの記憶に書きとめられた。
「来い!」と、やっと鍵を取り上げた看守長が言った。「おれと一緒に来い、亡命者」
物淋しい監獄の薄暗がりの中を、彼は、新しく受け持つことになった男を伴って、廊下を通り、階段をのぼって行くと、彼らが通ったあとで扉ががたんと閉まり、錠がかけられた。そしてついに彼らは、男女が群らがっている大きな、低い、円天井の部屋の中に入って行った。女たちは長いテーブルに坐って、本を読んだり、書きものをしたり、編物をしたり、針仕事をしたり、刺繍をしたりしていた。男たちは、大部分、女たちの椅子のうしろに立つか、部屋の中をあちらこちらぶらぶら歩きまわっていた。
囚人たちを本能的に恥ずべき犯罪や不名誉と結びつけたことから、新参者は、これらの人の仲間入りすることから尻込みした。しかし、彼の長い夢のような騎馬旅行の最後に来た夢のような事実は、彼らすべてが直ちに立ち上がって、その当時知られていたあらゆる洗練された作法と、あらゆる魅力ある愛きょうや礼儀で彼を迎えたことであった。
こうした洗練された上品さは、刑務所の風習や陰気さに妙な具合に曇らされていたし、それが不似合いな不潔さや悲惨さを通して見られるために幽霊のようになってしまっていたので、チャールズ・ダーネーは死人たちの仲間の中に立ったような気がした。みんな幽霊だ! 美の幽霊、威厳の幽霊、優雅の幽霊、自負の幽霊、軽薄の幽霊、機知の幽霊、青春の幽霊、老年の幽霊、みんなが淋しい岸からの解放を待ち、みんなが、ここへ来る時に死んだその死によって変えられた眼を彼に向けていた。
それを見ると彼は身動きもできなくなった。彼の傍に立っていた看守や、動きまわっていた他の看守たちは、見たところ彼らの任務を充分によく遂行しているように見えたであろうが、そこにいた悲しんでいる母たちや花盛りの娘たち――浮気女や若い淑女やよい育ちの成熟した女たちの幽霊――と対照すると非常に下品であったので、幽霊の場面が現出した現実の裏返しの効果が極度に高まった。たしかに、みんなが幽霊であった。たしかに、彼をこのような陰鬱な幽霊たちのところへ連れて来た長い夢のような騎馬の旅は、病気の進行のようなものであった。
「不幸の道連れとして集まった仲間の名において」と上品な様子と話しぶりの紳士が進み出て言った。「あなたをラ・フォルスにお迎えし、あなたを私たちの中に連れて来た不幸に対して、あなたをお悔み申します。これが間もなく幸福に終りますように! あなたのお名前とご身分をお尋ねすることは、他の場所だったらぶしつけでしょうが、ここではそうではありません」
チャールズ・ダーネーは起き上がり、彼としてできる限りふさわしい言語で、求められた知識を与えた。
「しかし」と紳士は、部屋を横切った看守長を眼で追いながら言った。「あなたは、秘密に、ではないでしょうね」
「私にはその言葉の意味がわかりませんが、彼らがそういうのを聞きました」
「ああ、何というお気の毒な! 私たちは非常に残念です。しかし勇気をお出し下さい。私たちの仲間のうち数名のものが、始めは、秘密に、でしたが、それはごく短い期間でした」それから彼は声を大きくして、「私はみなさんに――秘密に――と告げることが悲しい」
チャールズ・ダーネーが部屋を横切って、看守が待っていたギイギイきしる扉のところまで行く時に、憐みの呟《つぶや》きが起こり、多くの声が――その中でも特に女たちのやわらかい同情的な声が目立っていた――彼に好意を寄せ、彼をはげました。彼はきしる扉のところでふり返って、心の感謝を表した。扉は看守の手の下で閉まり、幽霊たちは永遠に彼の視界から消えた。
そのくぐり戸の向うは、上りになっている石の階段であった。彼らが四十段上ったときに(囚人になってから半時間になる男はすでにそこまで数えた)看守が低い黒い扉を開け、二人は独房の中へ入って行った。そこは、寒くて湿っていたが、暗くはなかった。
「お前のだ」と看守が言った。
「なぜ私はひとりで監禁されるのですか」
「おれの知ったことじゃない」
「ペンとインクと紙を買うことができますか」
「そんなことはおれがする命令じゃない。お前は訪問を受けるだろうから、その時尋ねたらいい。現在は、食べ物を買ってもいいが、そのほかはだめだ」
その監房の中には、一脚の椅子と一つのテーブルと一つの藁蒲団があった。出てゆく前に看守が、これらのものと、四方の壁とをざっとしらべているときに、彼と向かい合って壁によりかかっていた囚人の心の中を、この看守は溺れて水でいっぱいになった男のように、顔も体も不健康にふくれているのだという、とりとめのない空想がとりとめもなく通りぬけた。看守がいなくなると、彼は、前と同じようなとりとめのなさで、考えた。「さて、私は、死んだかのように置き去りにされた」立ちどまって蒲団を見おろし、彼は吐き気を感じてそれから顔をそむけ、そして考えた。「そして、ここの、これらのはいまわっている虫の中に、死後の肉体の最初の状態がある」
「四歩半に五歩、四歩半に五歩、四歩半に五歩」囚人は監房の広さを測りながら、ゆきつもどりつした。すると、パリ市のどよめきが、包んだ太鼓の音のように起こり、それがさらにはげしく盛り上がった。「彼は、靴を、作った、彼は、靴を、作った、彼は、靴を、作った」囚人はまた広さを測り、「彼は、靴を、作った」の繰り返しからぬけ出そうと思って、前よりも速く歩いた。「くぐり戸が閉まったときに消えた幽霊たち。あの中に一つ、黒い服を着た女の姿があって、窓のはざ間《ま》にもたれていた。金髪が明るく輝いていた。あの人は……もう一度、みんなが起きていて明かりのついた村の中を馬に乗って通りましょう。……彼は、靴を、作った、彼は、靴を、作った、彼は、靴を、作った。……四歩半に五歩」心の底から、そのような断片がぐるぐるまわりながらわきあがってくるのを感じながら、囚人はいよいよ足早に歩き、執拗に数えつづけた。市《まち》のどよめきがこんな風《ふう》に変わった――それは依然として包まれた太鼓の音に似ていたが、その音が上の方でひろがった中には、彼に聞き覚えのある泣き声が加わっていた。
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第二章 回転|砥石《といし》
パリのサン・ジェルマン地区に設立されたテルソン銀行は、大きな家の翼棟《よくとう》にあって、中庭から行くようになっており、高い塀と頑丈な門とで街路から遮断されていた。その家は、大貴族の所有であったがその人は、雇っていた料理番の服を着て窮境を脱して、国境を越えるまでそこに住んでいたのであった。狩猟家たちから逃げ追われる獣そっくりであった彼は、転身しても依然として昔のままの閣下であって、かつてその人の口に合うチョコレートの調製には、いまいった料理番のほかに三人のたくましい男を必要としたものであった。
閣下は去り、三人のたくましい男は、自由か平等か友愛か死かの、一にして不可分の発足したての共和国の祭壇の上で、いつでも彼の首を切る用意があったということによって、彼から高給を取っていたという罪から免れたあとで、閣下の家はまず仮差押えが行われ、そのあとで没収された。なぜなら、万事が非常に早く動き、法令が次から次へと発布されたものだから、この、秋の九月三日の夜には、愛国者の公式の諜報機関が閣下の家を占領しており、三色旗を掲げ、大広間でブランデーを飲んでいた。
パリのテルソンの商社のような商社がロンドンにあったら、その家は間もなく発狂して新聞に出たであろう。なぜなら、銀行の中庭の、箱に植えたオレンジの木や、勘定台の向うのキューピッドのことでさえも、落ち着いたイギリスの責任ある地位の人や名望家たちは、何と言うであろうか。しかし、そういうものが現にあったのである。テルソンはキューピッドを白く塗ったが、キューピッドは依然として天井に見え、涼しいリンネルの服を着て、朝から夜までお金をねらっていた。ロンドンのロンバード街に、このような若い異教徒(キューピッドのこと)がいたり、また、この不死の少年(同上)のうしろにカーテンをかけた床の間があったり、壁に鏡がはめこまれていたり、ちょっとしたきっかけで公然とダンスをする、少しも年とらない銀行員がいたりしたら、その銀行の破産は必ず起こるであろう。しかし、フランスのテルソン銀行は、そういうものがあっても非常にうまくやってゆくことができたし、時代がおさまっている限りは、誰一人それを見てびっくりして、お金を引き出すものはなかった。
これから先、どんなお金がテルソン銀行から引き出されるか、何が失われ忘れられてそこに残るか、預けた人たちが監獄の中で衰弱する間に、どんな食器や宝石がテルソン銀行の隠し場所の中で変色するか、また、いつ、預けた人が非業の死を遂げるか、この世では決して決算されないことになっている、またどれほどのテルソン銀行の貸借が、来世に持ち越されなければならないか、ということも、その夜は、誰にも分らなかっただろう。その問題を憂慮していたジャーヴィス・ローリー氏とても同様だった。彼は、新たに燃やした薪の火のそばに坐っていた(その収穫の乏しい虫害の年は、早くから寒かった)が、彼の正直な勇気のありそうな顔には、つるしたランプが投げることのできるよりも、また、その部屋の中のどんな物がゆがめられて反射することのできるよりも、もっと深い影――ぞっとするような影――があった。
彼は、彼がもはやその一部分となってしまっている家に対する忠実さから、強いきづたのように銀行の部屋に住みついていた。たまたま、その部屋は、建物の主要部分が愛国者に占領されているので安全であったが、誠実な老紳士は、そんなことを決して勘定に入れてはいなかった。すべてそのような事情は彼にとってはどうでもいいことで、彼はただ義務をはたしているだけであった。中庭の反対側の、アーケードの下に、大きな馬車の置場があった――そこには、実際、閣下の馬車がまだあった。二本の柱に二つの大きな焔がゆらめく大燭台が縛りつけてあり、その光が及ぶ戸外に大きな回転|砥石《といし》がおいてあった――この粗末な台にのせられた道具は、どこか近くの鍛冶屋か、工場から急いで持って来たものらしかった。ローリー氏は立ち上がって、窓からこの無害な物を見て、身震いし、炉辺の席に戻った。彼はガラス窓だけでなく、その外にある格子の日除けまで開けておいたのだが両方とも閉めて、全身に身震いを感じた。
高い塀と頑丈な門の向うの街路から、市のいつもの夜の低い騒音が聞こえて来たが、その中に、何か恐るべき性質の聞きなれない音が天に昇って行くかのように、気味のわるい、地上のものではないような、何ともいえぬ響きがまじっていた。
ローリー氏は両手を握り合わせて言った。「今夜は、私の身近かな、大事の人がこの恐ろしい市《まち》にいないのはありがたいことだ。危険にさらされているすべての人たちに神様がお慈悲をたまわりますように!」
そのすぐ後で、大きな門のベルが鳴り、彼は「あの連中が戻って来た」と考え、坐って耳をそば立てた。しかし、彼の予期に反して、中庭へ騒々しく侵入してくるものはなく、彼は門がまたがちゃんとしまるのを聞き、あとはひっそり閑《かん》となった。
彼を襲って来たおどおどとした気持が、銀行に関するばく然とした不安を呼び起こした。そのような不安は、責任感から当然起こるものであった。銀行はよく守られていた。彼が、見張りをしている信頼のおける人たちの仲間に加わろうとして立ち上がったときに、彼の部屋の扉があいて、二つの姿が突入して来た。それを見ると彼はびっくりして後じさりした。
ルーシーと彼女の父だ! ルーシーは、彼に向かって両腕を差しのべ、昔ながらの、非常に集中した強い熱情のあらわれた眼付きで彼を見た。
「これはどうしたことですか」と息を切らせ、混乱してローリー氏がたずねた。「どうしたのです。ルーシー! マネット! 何が起こったのですか。どうしてここへ来たのですか。どうしたのですか」
蒼《あお》ざめ、物狂おしそうに、彼に向かって眼を据《す》えながら、彼女は彼に抱かれてあえぎながら懇願するように言った。「おお、私の大事なお友だち。夫が!」
「ご主人ですって、ルーシー」
「チャールズが」
「チャールズがどうかしましたか」
「ここにいます」
「このパリに!」
「ここへ来てから数日になります――三、四日――幾日になるか知りません――私は考えをまとめることができません。義侠的な用向きで、私たちに知らせずにここへ来ましたの。そして関門でとめられて、監獄へ送られましたの」
老人は、おさえきれない叫び声をあげた。ほとんどその同じ瞬間に、大きな門のベルがまた鳴り、足音や声の大きな騒音が中庭へなだれ込んで来た。
「あの物音は何ですか」と窓の方をふり向きながらマネット医師が言った。
「見ちゃいけません」とローリー氏が叫んだ。「外を見ちゃいけません。マネット、生命がおしかったら、日除けにさわってはいけません」
医師は、窓のかけ金に手をおいてふり返り、冷静な、大胆な微笑を浮かべて言った。
「友よ、わたしはこの市では不死身なんですよ。私はバスチーユの囚人であったことがあるのです。パリの――パリの? いや、フランスの――愛国者が、私がかつてバスチーユの囚人であったことを知ったら、誰だって私にふれたらめちゃくちゃにわたしを抱擁して、勝ちほこって私を連れて行くでしょう。昔、私が苦しい思いをしたおかげで、私たちは関門を通過して、そこでチャールズの消息を聞き、ここへ来ることができたのです。こうなることは始めから知っていました。あらゆる危険からチャールズを救い出すことができるということを知っていました。私は、そうルーシーに話しました。――あの物音は何ですか」彼の手はまた窓にかけられていた。
「見ちゃいけません」必死になってローリー氏が叫んだ。「いけません、ルーシー、あなたも」彼は彼女を抱きかかえてとめた。「そんなにおどおどしなくたっていいですよ。チャールズには何も禍は起こっていないということをわたしは確信します。それにしても、こんなところに来るなんて信じられませんね。それでいったい、どこの監獄に入れられたんですか」
「ラ・フォルス」
「ラ・フォルスですって! ルーシー、もしもあなたが勇敢で、生涯に何か役に立ちたいなら――あなたはいつでもこの両方なんだが――私がいう通りのことをなさい。あなたには考えられないほどのことが、いや、わたしが言うことができないほどのことが、そのこといかんにかかっているのです。今晩は、あなたの行動を助けるものは何一つありません。たぶん、あなたは出歩くことができないでしょう。こんなことを言うのは、わたしがチャールズのためにしなさいとあなたに言いつけることは、いちばんむずかしいことだからです。あなたは、いますぐ、言うことを聞いて、静かにしていなくてはなりません。あなたは、ここの奥の部屋へわたしが連れて行っても文句を言ってはなりません。あなたは、二分の間、お父さんとわたしとを二人だけにしておかなくてはいけません。この世には生と死があるのですから、あなたは、ぐずぐずしてはいけません」
「私はあなたのお言葉に従います。あなたのお顔つきから、それ以外のことは私には何一つできないことがわかります。あなたのおっしゃる通りだと思います」
老人は彼女に接吻してから、彼女を急がせて自分の部屋に入れ、鍵をかけ、それから急いで医師のところへ引き返して、窓を開け、日除けは一部分だけ開けて、医師の腕に手をおき、彼と一緒に外の中庭をのぞき込んだ。
外の、男と女の群れを見た。その数は中庭に一杯になるほどではなかった。全部で四、五十名以上はいなかった。この家を所有していた人々が門から彼らを入れ、彼らは砥石のところで仕事をしようとして突入してきた。それは、明らかに、便利で、人目に立たない場所としてそこのところに、彼らの目的にそうようにおいてあった。
しかし、あんな恐ろしい働き手と、あんな恐ろしい仕事!
回転砥石には二重の把手《とって》があり、それを取って、二人の男が気違いのようにまわしていたが、砥石がぐるぐるまわって彼らの顔が仰向けになり、長い髪がうしろの方にひらひらするときに、その顔は、最も野蛮な変装をした、最も野生的な野蛮人の顔よりも、もっと恐ろしく、もっと残忍であった。その顔には、つけ眉毛とつけひげがくっつけてあり、そのぞっとするような顔は、血だらけで、汗だらけであって、わめくためにすっかりゆがみ、動物のように興奮し、睡眠が不足しているために、眼がすわって、ぎらぎらしていた。これらの悪漢が砥石をぐるぐるまわしていると、彼らの乱れた髪が、眼の上にさっとかぶさるかと思えば、今度は、うしろの方の頸の上にさっと飛んだ。数人の女が、彼らの口のところへ酒を持って行って飲ませた。一つには、したたる血のために、また一つには、したたる酒のため、また一つには、砥石から打ち出される火花の流れのために、彼らの邪悪な雰囲気は凝血と火であるように思われた。眼は、この集団の中で血痕によごされていない人間を一人も見つけることができなかった。砥石に近づこうと肩で押し合っていた人たちは、腰まで裸になって、手足や体のいたるところに血が付着していた。あらゆる種類のぼろを着ていた男たちは、そのぼろに血痕がついていた。女のレースや絹やリボンを略奪して来てそれで身を飾っていた男たちは、そうしたつまらぬ物をすっかり血に染ませていた。砥ぎに持って来られた手斧やナイフや銃や剣は、全部血で赤くなっていた。刃のこぼれた剣が、リンネルの布や衣服の断片でもって、持ち主の手首に縛りつけてあり、縛ったひもは種々雑多だが、どれもこれも一様の色に深く染められていた。そして、これらの武器を持つ気違いじみた男たちが、それらを火花の流れから引きはなして、街へかけ出して行くときに、同じ赤い色が、彼らの狂気じみた眼の中で赤かった――獣と化していない傍観者は、よくねらいをつけた銃でもって、このような眼を石と化すことができるなら、生涯のうちの二十年を投げ出してもいいと思うだろう。
ちょうど、溺れかかっている人、または、非常な危機にある人間の幻が、そこにある世界を見ることができるごとくに、これらすべてのことは、一瞬間に見られた。彼らは窓から後じさりし、医者は彼の友人の灰色の顔の中に説明をさがした。
「彼らは」と錠をかけた部屋をおびえながら見まわしてローリー氏がささやいた。「囚人を殺しているのです。あなたのおっしゃることが確かなら、あなたのお考えの通りの力をほんとうに持っていらっしゃるなら、――私は持っていらっしゃると信じますが――あの悪魔どもにあなたのことを知らせて、あなたをラ・フォルスへ連れて行くようにされるといい。もうおそすぎるかもしれませんが、一分でもおくらせてはいけません」
マネット医師は彼の手を握り、帽子もかぶらないで部屋から出て行き、ローリー氏が再び日除けのところへ戻ったときには、中庭にいた。
なびく白髪、目立つ顔、はげしい自信にみちた態度でもって、彼は水をかきわけるように武器をかきわけて、たちまちにして砥石に群がるものたちのまん中へはいってしまった。数分の間、休止と騒ぎと呟きとよくわからない彼の声のひびきがあり、それから、ローリー氏は、彼が、みんなから取り囲まれ、そして肩と肩とをくっつけ合い肩に手をのせて「バスチーユの囚人万歳! ラ・フォルスにいるバスチーユの囚人の親戚《しんせき》を助けろ! バスチーユの囚人を先頭に立たせろ! ラ・フォルスの囚人エヴレモンドを救え!」と叫んだり、それに叫びかえしたりしている一列に並んだ二十人の男の真中に立っているのを見た。
彼は、胸をどきどきさせながら格子を閉め、窓とカーテンを閉め、ルーシーのところへ急いで行って、彼女の父が人々に援けられて、彼女の夫をさがしに行ったということを話した。彼は、彼女の子供とプロス嬢が彼女と一緒にいるのを見たが、ずっと後になって、夜のみが知る静けさの中で彼らを見まもりながら坐っていたときになって始めて、この二人がここに現われたことを、今さらながら驚いたのであった。
ルーシーは、その時までに、彼の手をしっかり握ったまま、彼の足元の床の上に失神して倒れていた。プロス嬢は彼の寝台に子供をねかせたが、彼女の頭は、可愛い預りものの傍の枕の上へ徐々に落ちて行った。おお、可哀そうな妻のうめきを伴う、長い、長い夜! そして、おお、彼女の父が帰らず、消息もない、長い、長い夜!
暗闇の中で、大きな門のベルが、もう二度鳴り、侵入が繰り返され、回転砥石がぐるぐるまわり、しゅうしゅう音を立てた。「あれは何ですか」とルーシーはこわがって叫んだ。「しっ! あそこで兵隊の剣をといでいるのですよ」とローリー氏は言った。「あの場所は今は国家の所有地で、武器庫のようにして使われているのです」
あと、もう二回。しかし仕事の最後の期間は弱々しく、断続的であった。そのすぐあとで夜が明け始め、彼は、握られていた手をそっと放して、用心深く外を見た。殺戮《さつりく》の場で意識を徐々にとりもどす重傷を負った兵隊のように、血まみれになっている一人の男が、回転砥石のそばで舗石から立ち上がり、ぼんやりとあたりを見まわしているところだった。間もなく、この疲れはてた殺人者は、不完全な光の中で、閣下の馬車のうちの一つを見つけると、その豪華な乗物の方へよろめきながら近づいて行って、扉のところからよじのぼり、優美なクッションの上で休息をとるために、とじこもった。
ローリー氏が再び外を見たときには、地球という大回転砥石が回転して、太陽が中庭を赤々と照らしていた。しかし、小さい方の砥石は、太陽が決して与えたことがなく、また決して除きもしないと思われる赤さをつけて、穏かな朝の空気の中に、まだひとり立っていた。
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第三章 影
事務の時間がめぐって来たときに、ローリー氏の事務的な心に起こった最初の考えの一つは、次のことであった――彼は銀行の屋根の下に、亡命者である囚人の妻をかくまうことによって、テルソン銀行を危険におとし入れる権利は一つもない。
最初彼の心はドファルジュのことを思いつき、彼は、もう一度あの酒店を見つけて店の主人と、この市《まち》の乱れた状態の中で一番安全な住家はどこだろうと相談をしてみようと考えた。しかし、そういうことを彼に思いつかせた同じ心が、彼に反対した。なぜなら、その男は、最もはげしい地区に住み、疑いもなくその地方では有力者であって、危険な仕事に深入りしていたからである。
正午になっても、医師が帰って来ないし、一刻の猶予がテルソン銀行を危険にまきこむおそれがあったので、ローリー氏はルーシーと相談した。彼女は、父親が、その地区の銀行の近くで、短期間下宿したいと言っていたと語った。このことには事務的な差し支えがなかったし、たとえチャールズのことがうまくいって釈放されることになっても、彼がこの市《まち》を去ることなどは望めなかったから、ローリー氏は下宿をさがしに出かけ、離れた横丁にある適当なのを見つけた。その横丁では、高い憂鬱な四角な建物の閉めた格子が、人が住んでいない部屋のおもむきを与えていた。
この下宿へ、彼は直ちにルーシーと彼女の子供とプロス嬢を移し、彼としてできるだけの、いや彼自身も持たないほどの便宜を与えた。彼は、入口のところに立ちふさがって頭をひどくなぐられてもそれに耐える人物としてジェリーを彼女たちのところに残しておいて、自分の仕事に帰って来た。そしてかき乱された、悲しい心で仕事に就き、その日はのろのろと、重々しく、暮れていった。
日は疲れはてて去り、それとともに彼を疲れさせ、銀行は店を閉めた。彼が前夜と同じ部屋の中にまたもやひとりで坐り、次には何をなすべきかと考えはじめたときに、階段に足音が聞こえた。数分すると、一人の男が彼の目の前に立った。その男は、鋭い観察の眼で彼を見て、彼の名を呼んで話しかけた。
「はい、さようです」とローリー氏は言った。「私をご存じですか」
彼は黒い巻き毛の頑丈な体格の男で、年ごろは四十五歳から五十歳までであった。彼は答える代りに、同じ調子で「わしを知っていますか」とローリー氏と同じことを言った。
「どこかでお見かけしました」
「たぶん私の酒店でしょう」
非常に興味をもち、かつ動揺して、ローリー氏は言った。「あなたはマネット医師のところから来られたのですか」
「そうです。私はマネット医師のところから来ました」
「で、あの人は何と言っていますか。何を送ってよこしたのですか」
ドファルジュは、彼の心配そうな手に、開いたままの紙片を渡した。それには、医師の手で次のような言葉が書かれていた。
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チャールズは無事ですが、私はまだこの場所を無事に去ることができません。この手紙の持参者がチャールズから妻にあてた短い手紙を届けてくれるでしょう。この持参者を彼の妻に会わせてやって下さい。
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それは、一時間以内に、ラ・フォルスを出た手紙であった。
ローリー氏は、この短い手紙を大声で読んだあとで、安堵《あんど》して大喜びで言った。「彼の妻が住んでいるところへ一緒に行って下さいますか」
「はい」とドファルジュが答えた。
まだ、ドファルジュが妙に言葉少なに、そして機械的に話しているのにほとんど気がつかないで、ローリー氏は帽子をかぶり、彼らは中庭へ降りて行った。するとそこには二人の女がいて、一人が編物をしていた。
「たしかにドファルジュの奥さんだ」とローリー氏が言った。彼が十七年前に彼女と別れたときも、彼女はまったく同じ姿勢でいた。
「そうです、妻です」と彼女の夫が言った。
「奥さんも私たちと一緒においでになるのですか」とローリー氏は、彼女が彼らの動くとおりに動くのを見て、たずねた。
「そうです。彼女が顔や人柄を見て、誰々と言うことができるためです。それは、あの人たちの身の安全のためです」
ドファルジュの素振りに気がつき始めて、ローリー氏は疑わしげに彼を見、先頭に立って歩いた。女は二人ともついて来た。第二の女は『復讐』であった。
彼らは途中にある街をできるだけ早く通りぬけて、新しい家庭の階段を上り、ジェリーに迎え入れられ、ルーシーが独りで泣いているのを発見した。ルーシーは、ローリー氏が彼女の夫のことを知らせると有頂天になり、手紙を渡した手を握った――その手がその晩夫の近くで何をしたか、また、ある偶然がなかったならば彼に対して何をしたであろうか、ということは考えもしないで。
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最愛の妻よ、――勇気をお出しなさい。私は丈夫で、あなたのお父さんはこちらでは敬意を払われています。しかし、この手紙の返事をもらうことはできない。私に代わって子供に接吻してやって下さい。
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それが書いてあったすべてである。しかし、それを受け取った彼女としては大変な喜びであったから、彼女はドファルジュの方から彼の妻の方を向き、編物をしていた手に接吻した。それは熱情的な、愛情にみち、感謝にみちた、女らしい行動であったが、その手は何らの反応も示さず――冷たく、重く、おろされ、それからまた編物を始めた。
その感触には、ルーシーを阻《はば》むようなところがあった。彼女は、手紙をふところに入れようとして中途でやめ、両手をまだ頸のところにおいたまま、おびえた眼でマダム・ドファルジュを見た。マダム・ドファルジュは、あげた眉毛と額を、冷たい無感動な凝視で見返した。
「ねえ、ルーシー」とローリー氏は横から口を出して説明した。「街ではたびたび暴動が起こっています。そのためにあなたに禍がおよぶというようなことはなさそうですけれども、マダム・ドファルジュは、そういう場合に、守ってやることのできる人を知っておいて――本人であることを確めることができるように、あなたに会っておきたいと考えていられるのですよ。たしかに」ローリー氏は、三人の石のような態度がますます強く感じられて来たために、気やすめの言葉がのどにつかえ、「私は実際のことを言っていますね、市民ドファルジュ」と言った。
ドファルジュは陰気に彼の妻を見、無愛想に同意の声を出しただけだった。
ローリー氏は、声の調子や態度で、できるかぎりなだめようとして言った。「ルーシー、あなたは、可愛いお子さんをここへ連れて来た方がいいですよ、それからプロスさんも。ドファルジュさん、プロスさんというのは、イギリスの婦人で、フランス語は知りません」
その話題の婦人は、自分はどの外国人にも負けないというゆるぎない信念を持っており、その信念は不幸や危険のためにゆすぶられてはならないというのであった。その彼女が、腕を組んで現われ、彼女の眼が最初に出会った『復讐』に英語で話しかけた。「おや、|あなた《ヽヽヽ》はお元気のようだね」彼女はまた、マダム・ドファルジュに向かってイギリス式の咳をしてみせた。しかし、二人とも彼女を大して問題にしなかった。
「それが、あの人の子供なの」とマダム・ドファルジュは初めて仕事をやめて、編針で幼いルーシーを指さした。あたかもその針が運命の指であるかのように。
「そうです、マダム」とローリー氏が答えた。「これが、囚人の大事な娘で、一人っ子です」
マダム・ドファルジュとその一行に付き添っている影は脅迫するように、暗く、子供の上におおいかぶさるように見えたので、子供の母は本能的に傍の床の上にひざまずいて、子供を胸に抱いた。すると、マダム・ドファルジュとその一行に付き添っている影は、母と子との両方の上に、脅迫するように、暗く、おおいかぶさるように見えた。
「これでもう充分ですよ」とマダム・ドファルジュは夫に向かって言った。「私は二人に会ったから。帰ってもいいでしょう」
しかし、その感情を抑えた態度には、充分の威嚇《いかく》がふくまれていて――それは眼にも見えず、表面にもあらわれていないで、はっきりせず、おさえられていたけれども――マダム・ドファルジュの衣服の上に訴えるように手をおいていたルーシーをはっとさせて、次のように言わせた。
「どうか気の毒な夫に親切にして下さいまし。あの人に危害を加えないで下さい。できたら、あの人に会わせてくださいませんか」
「あなたのご主人のことは、私の知ったことじゃありません」とマダム・ドファルジュは落ち着きはらって彼女を見おろしながら答えた。「ここで私に用のあるのは、あなたのお父さんの娘さんです」
「じゃ、私のために、夫にお情をかけてやってくださいまし。私の子供のために! この子は両手を合わせて、お情をおかけ下さるようおねがいするでしょう。私たちは、ここにいらっしゃるほかの方よりもあなたがこわいのです」
マダム・ドファルジュはそれをおせじと受け取り、夫を見た。ドファルジュは、不安そうに彼の親指の爪をかみながら彼女を見ていたが、顔をひきしめて、いっそう冷酷な表情になった。
「その手紙の中で、あなたのご主人が言っているのはどういうことですか」とマダム・ドファルジュは不機嫌な笑いを浮かべてたずねた。
ルーシーは、いそいでふところからその手紙をとり出し、おびえた眼を、その手紙にではなく、質問者に向けて、言った。「父は、敬意を払われていると――」
「たしかに、それであの人は釈放されるでしょうよ」とマダム・ドファルジュは言った。「やってみるがいい」
「妻として、また母として」と非常に熱心にルーシーが叫んだ。「お願いいたします、どうか私をお憐み下さって、あなたが持っていらっしゃる力を、無実の夫のためにならないようにお使いにならずに、あの人のためになるようにお使いくださいまし。おお、女同士のよしみで、私のことをお考え下さいまし。妻として、母として」
マダム・ドファルジュは、今までと同じように冷やかに嘆願者を見、そして、友人の『復讐』の方に顔を向けて言った。
「私たちがこの子と同じくらい、そしてもっと幼かったころから、ずっと見て来た妻たちや母親たちは、大していたわってもらえなかったんじゃない? 私たちは、|そういう女たち《ヽヽヽヽヽヽヽ》の夫や父親たちが、投獄されて、家族から引き離されるのをたびたび見て来たね。私たちは一生涯ずっと、同志の女たちが、ひとりで、子供のために、貧乏や裸や飢えや渇きや病気やみじめさや圧迫やあらゆる種類の無視のために悩んでいるのを見て来たね」
「それしか見て来なかったね」と『復讐』が答えた。
「私たちはそういうことを長いこと耐えて来たのですよ」とマダム・ドファルジュが、ふたたびルーシーに眼を向けながら言った。「よく考えてごらんなさい。たった一人の妻であり母である人の苦しみが、いま私たちにとって大問題だなんて、おかしくないかしら」
彼女はまた編物を始めて、出て行った。『復讐』がそのあとにつづいた。ドファルジュが最後に去り、扉を閉めた。
「しっかりするんですよ、ルーシー」とローリー氏は彼女を起こしながら言った。「しっかりするんですよ、しっかり。今までのところでは事がうまく、――最近の、可哀想な人たちの場合よりも、ずっと、ずっと、うまくいっているんですからね。気を引き立てて、感謝の心を持つんですよ」
「私は感謝していないのではないと思いますけれど、あの恐ろしい女が、私と私のすべての希望に暗い影を投げるように思えるんです」
「ちぇっ、ちぇっ!」とローリー氏は言った。「こんな勇敢なひとが、どうしてそんないくじのないことを考えるのですか。まったく影ですよ。実体なんかありませんよ、ルーシー」
にもかかわらず、ドファルジュ夫妻の振る舞いにつきまとう影は、彼にも暗くうつり、心の秘密の奥底で、彼を非常に悩ましていた。
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第四章 嵐の中の静けさ
マネット医師は、三日間留守にして四日目の朝になって初めて帰って来た。その恐ろしい時間に起こったことのうちルーシーに知らせないですむことは、全部うまく隠しておいたので、ずっと後になって、フランスと彼女とが遠く離れてしまった時に初めて彼女は、老若男女の一万一千人の無防備の囚人が人民に殺されたことや、また、四日四晩というものが、この戦慄すべき行為のために暗黒になったことや、彼女の周囲の空気が、殺された人たちによってにごったことなどを知った。その当時、彼女はただ、監獄が攻撃されたことや、すべての政治犯たちが危険に陥ったことや、そのうちのある者が引きずり出されて殺されたことなどを知っただけだった。
マネット医師はローリー氏には、秘密を守るという約束で、群集が彼を虐殺の場面を通りぬけてラ・フォルス監獄まで連れて行ったことや、監獄の中では自分免許の裁判官が法廷を開いていて、その前へ囚人が一人ずつ引き出されて、虐殺されるか、釈放されるか、または(件数は少ないが)元の監房へ戻されるかが手っ取り早く決定されたということや、また、彼が、案内人たちによって法廷につき出されて、自分の名と職業を告げ、バスチーユに、秘密の、告発されない囚人として十八年いたことを告げ、法廷に坐っていた一団のうちの一人が立ち上がって、彼の身分を証明し、そしてそれがドファルジュであったことなどを伝えた。
それからまた彼は、その時に、テーブルの上にあった記録によって、彼の婿《むこ》が生きている囚人の中にいることがわかり、法廷に対して熱心にその生命の保護と自由とを嘆願したこと、また、すでに転覆した政体の下に苦しめられた有名人としてのマネット医師自身にむかってなされた最初の挨拶の中に、チャールズ・ダーネーをこの法廷の前に引き出して再吟味すべきだという彼の主張に賛成する声があったこと、また、チャールズがただちに釈放されようとしたときに、好意の風向きが思いがけない阻止(医師にはその事情がわからなかった)にぶつかり、そのことから二、三回秘密の会議が行われた、ということや、また、裁判長として坐っていた男がマネット医師に向かって、囚人は禁固されたままでいなければならないが、彼のために、法の執行を免れて、保護拘禁の形でとめられるだろうということを告げたことや、また、医師は、彼の婿が、門の外で殺人的なわめきをあげてたびたび裁判の声を聞こえなくしていた群衆の手に、悪意もしくは手違いで、引き渡されることがないように、とどまって確かめる許しを強く乞うて、その許しを得、危険が終るまで「血の広間」にとどまっていたことなどを伝えた。
彼が、すきを見て大急ぎで食事をとったり眠ったりしてそこで見た光景は、そのままにして語るまい。救われた囚人に対する狂喜は、切りさいなまれた囚人に対する気違いじみた獰猛《どうもう》さに劣らず彼を驚かせた。彼が言うには、一人の囚人がいて、その囚人が街に釈放されると、勘違いした野蛮人が、彼が出るところを、ほこでもって突き刺した。その囚人の傷の手当をするようにと求められて、医師が同じ門から出てみると、囚人は親切な人々に抱かれていたが、その人たちは彼らの犠牲者たちの屍の上に坐っていた。この恐ろしい悪夢の中の一切の出来事と同じに奇怪きわまる矛盾だが、彼らは医師に協力して、その傷ついた男を最もやさしい心遣《こころづか》いで看護した――担架を作り、注意深く彼を守ってその場から去った――それから彼らは、武器を取り上げて、また新たに、恐るべき屠殺に向かってとび出して行ったので、医師は両手で眼をおおい、その場に失神した。
ローリー氏がこれらの打明け話を聞き、今は六十二歳の彼の友人の顔を見まもっている間に、そのような恐ろしい経験が、昔の危険をよみがえらせるのではないかという不安が彼の心の中に起こって来た。しかし、彼は、現在のようなすがたの友をかつて見たことがなかったし、また、現在のような性格の彼を全く知らなかった。医師は、この時初めて、彼の苦悩が力であることを感じた。初めて、彼は自分がその鋭い火の中で、娘の夫の監獄の扉を破って彼を救いだすことができる鉄をゆっくりと鍛えているのだと感じた。「あれは、君、みんないい結果に役立つのだ。あれは単なる無駄や破壊ではなかったのだ。愛する娘がわたしが正気に返ることを助けてくれたから、今度は、私が手を貸してあの子の大事なものをあの子に取りもどしてやるつもりだ。神のお助けによって、わたしはそうするのだ」そうマネット医師は言った。そして、ジャーヴィス・ローリーは、多年その生命が、時計のように止まったままでいたように見えたがその有用性が停止していた間眠っていたエネルギーがいま再び働き始めた人の、燃え立って来た眼や、決然とした顔や、静かな、強い眼つきや態度を信じた。
その辛抱強い目的の前にはその時に医師が戦わなければならなかったことよりももっと大きな事でも、屈したであろう。医師の仕事というものは、奴隷も自由民も、金持も貧乏人も、悪人も善人も扱うものであるが、そういう医師として、マネットは、彼の地位をたもちながら、彼の個人的感化力を賢明に働かせたから、間もなく三つの監獄の(そのうちの一つはラ・フォルスであったが)検査医になった。今や彼はルーシーに向かって、彼女の夫がもはや独房にいないで、一般囚人の集団の中にまじっているのだと保証することができた。彼は毎週彼女の夫に会い、彼の口から直接の甘い言伝《ことづ》てを持って来た。時には、彼女の夫自身が彼女のところへ手紙を送って来た(医師の手を通じてではないが)。けれども彼女が手紙を書くことは許されなかった。なぜなら、監獄の中でたくらまれた陰謀について多くの途方もない嫌疑がかけられたが、その最も途方もないものが、外部に友人を作るか、永続的な関係者を作ったことが露見した亡命者に向けられていたからだ。
医師のこの新しい生活は、むろん、心配な生活であった。それでも、賢いローリー氏は、その生活の中に新しい、支えとなるような誇りがあるのを見た。その誇りには、ふさわしからぬ色合いは少しもなかった。それは自然な、立派な誇りであった。しかし、彼はそれをふしぎなことだと思った。医師は、その時まで、彼の入獄が、娘や友人の心の中では、彼の個人的な苦悩や損失や弱さと結びつけられているということを知っていた。だが、それが変わって、彼が昔の試練によって、彼ら二人がチャールズの究極の安全と救出に期待をかけている力を身につけた今は、彼はその変化によって高められて、先導し指揮し、弱者としての彼らが、強者としての彼に信頼するように求めた。彼自身とルーシーとの昔の相対的位置は逆になったが、しかし、最も生々とした感謝と愛情だけがそれを逆にすることができたのである。なぜなら、彼は、彼の世話をあれほどまでにしてくれた娘の世話をするということ以外には誇りを持たなかったからである。「見ているとふしぎだが」とローリー氏はいつものように温和な、しかし鋭い考え方をした。「しかし、すべて自然で、正しい。だから、友よ、先導し、それをつづけよ。君の手にゆだねておくのが一番だから」
しかし、医者は、チャールズ・ダーネーを釈放させるか、少なくとも、裁判まで持ってゆくことに、懸命に努力し、努力することをやめなかったが、公的な時の流れは、彼にとってあまりに強すぎ、あまりに早すぎた。新しい時代が始まった。国王が裁判にかけられ、死刑の宣告を受け、首をはねられた。自由、平等、友愛、さもなければ死の、共和国が、武装した世界に向かって、勝利か死かを宣言した。黒旗(挑戦の信号旗)は日夜ノートル・ダムの塔にひるがえり、地上の暴君に対して立ち上がるために召集された三十万の人がフランスの各地で立ち上がった。それは、竜の歯が広く蒔《ま》かれたのに似ていて(ギリシア神話の、カドモスが竜を殺してその歯を蒔くと、方々から軍が立ち上がったという故事から)丘にも平原にも、砂や沖積土の中の岩の上にも、南の明るい空の下にも、北の雲の下にも、荒地にも森の中にも、葡萄園にもオリーヴ畑にも、刈った草地や穀物の刈り株の間にも、広い川の実りの多い土手や、海岸の砂の中にも、同じように実がみのった。どんな個人的な憂慮が自由の第一年の洪水――上から降ってくるのではなくして下からわき上がって来て、しかも天の窓は開かれないで、閉じられている、そういう洪水――に対抗することができようか。
休止もなく、情け容赦もなく、平和もなく、やさしい休息の時もなく、時の測定もない。昼と夜とは、時がまだ若く、夕方があり、朝があった天地創造の日の時のごとくに、規則正しくめぐっていたが、ほかの時の数え方はなかった。時の把握は、一人の患者の熱病の時のように、国民の荒れ狂う熱病の中に失われてしまっていた。いま、全市の不自然な沈黙を破って、死刑執行吏が国王(ルイ十六世)の首を国民に見せたかと思うと――今度は、八か月という長い幽閉の寡婦生活と悲惨のために白髪と化した彼の美しい妻(マリー・アントワネット)の首を見せ、それがほとんど同じ瞬間のように思われた。
しかし、そのような場合すべてに起こりがちな矛盾の不思議な法則に従って、時は、一方において一瞬にひらめきながら過ぎるように見えながら、他方には長く思われた。首都の革命法廷と、全土の四、五万の革命委員会、自由もしくは生命の安全を全部奪い去り、善良で無実な人を邪悪で罪深い人の手に渡した、嫌疑者の法令、何ら罪を犯さず、無実を訴える機会も得られなかった人々が詰めこまれた監獄、これらのものは、きまった事の確立した秩序や性質となり、何週間もたたないうちに、昔からのしきたりのように思われた。とりわけ、一つの恐ろしい姿が――ラ・ギヨティーヌという名のきびしい女性(断頭台)の姿が――この世の始まりから、一般人の眼の前にあるかのように、なじみ深いものになった。
それは、一般向きの冗談の題目であった。それは頭痛の最上の治療薬であったし、頭髪が白くなることを間違いなく予防したし、顔色に特殊の美を与えたし、短くそり落す国家的かみそりであった。ラ・ギヨティーヌに接吻する人は、小さい窓をのぞき込んで、ふくろの中へくさめをした(ギロチンに首を突込んで、切られた首が下のふくろの中へ落ち込むこと)。それは人類の改造の表象であった。それは十字架に代わった。その模型は、十字架がはぎとられた胸の上に着けられ、十字架が否定されたところで、それは敬礼され、信じられた。
それはあまり多くの首をはねたので、それと、それがひどく汚した地面とは、腐って赤かった。それは、若い悪魔の知恵の輪のようにばらばらにされたが、必要が起こったときにはまた組み立てられた。それは雄弁を封じ、力強い者たちを打ち倒し、美しいものや善良なものたちを除去した。それは、ある朝、高い公《おおやけ》の地位にある二十二人の同志、すなわち二十一人の生きている者と一人の死んだ者との首を、それと同数、すなわち二十二分の間に切り落した。
これらの恐るべき光景や、それに関係のあるものどもの間を、医師は頭を昂然《こうぜん》ともたげて歩いた。彼の力を確信し、彼の目的を用心深く持ちつづけ、ついにはルーシーの夫を救えるだろうということを決して疑わずに。しかし、時の流れが、あまりにも強く深く流れすぎて時をあまりにもはげしく運び去ったので、チャールズは、医師がこうして頭をもたげ確信にみちて歩いていた間に、一年三か月も獄中にいた。その十二月には、革命はさらにいっそう悪化し、狂的になってしまったので、南の河川の流れは、夜乱暴に溺死させられた人たちの死体で止められ、また囚人たちは、南の冬の太陽の下で横隊や方陣に並ばせられて銃殺された。それでも、医師は頭をしっかりもたげて恐るべきものの中を歩いた。その当時のパリにおいて、彼以上に善良な人は一人もいなかった。誰一人、彼ほど不思議な境遇にいたものはなかった。黙々と、情け深く、病院や監獄で欠くことができない大切な人で、刺客やその犠牲者たちの中にあって公平に彼の医術を働かせて、彼は他の人々から離れた存在であった。彼の医術を働かせる際には、バスチーユの囚人だった彼の外貌と経歴とが、彼を他のすべての人から区別した。彼は、十八年前に娑婆へ帰って来た時と同様、または彼が人間たちの間を動きまわる精霊である場合と同様に、あやしまれもしなければ、疑われもしなかった。
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第五章 木挽き
一年と三か月。その間じゅう、ルーシーは、ギロチンが、明日にも夫の首を切るかもしれないという不安のうちにすごした。毎日、舗装された街を、死刑囚で一杯になった死刑囚護送車が重そうにがたがた通りすぎた。可愛らしい少女、とび色の髪や黒い髪や白髪の美人たち、頑丈な男や老人、上流の生まれのものや百姓生まれのもの、みんな、ラ・ギヨティーヌの飲む赤ワインとして、毎日、いまわしい監獄の暗い土牢から明るみに引き出されて、彼女(ギロチン)の貪るような渇《かつ》をいやすために、街を運ばれて行った。自由、平等、友愛、さもなければ死――最も与えやすい死、おお、ギロチン!
かりに、その災厄《さいやく》の急激さと、ぐるぐるまわる時の車輪とが、医師の娘の気を遠くしてしまい、なす所を知らず絶望のうちに結果を待つようにさせたにしても、それは彼女だけのことではなく、ほかの多くの人々の場合も同じだった。しかし彼女が、サン・タントワヌの屋根裏で、生新な若い胸に白髪の頭をいだいた時からずっと彼女は自分の義務に忠実だった。彼女は、慎《つつま》しやかに忠実であり、善良であるすべての人々が常にそうであるように、試練の時期に、彼女の義務に最も忠実であった。
彼らが、新しい住所に落ち着き、彼女の父が弁護の日課を始めるや否や、彼女は、夫が一緒にいる場合と全く同じように小さな所帯を整備した。一切のものがきまった場所ときまった時とを持った。幼いルーシーを彼女は、イギリスの家庭でみんなが一緒にいるときのように規則正しく教えた。彼女が自らを欺いて、家族が間もなく再び一緒になれるという確信の見せかけを持とうとするときのちょっとした仕組み――彼の早い帰宅を待つささやかな準備や、彼の椅子や本を片づけておくことなど――こういうことや、また監獄や死の影の下にある多くの不幸な人々の中でも特に一人の大事な囚人のための夜ごとの厳粛な祈りなど――は彼女の悲痛な心のほとんど唯一の口に出して言える救いであった。
ルーシーは外見上は大して変わらなかった。彼女と娘が着ていた喪服に似た質素な黒服は、幸福な日に着たもっと明るい服と同じようによく手入れが行き届いてさっぱりとしていた。彼女は顔色が悪くなっていたし、昔ながらの熱中したような表情は、時折のものではなく常住《じょうじゅう》のものとなっていた。その他の点では、彼女は非常にきれいであった。時々、夜、父に接吻していて、終日おさえていた悲しみをおさえきれなくなってわっと泣き出すことがあったし、また、この世で頼れるのは彼だけだと言った。彼はいつでもきっぱりと答えた。「私が知らないうちにチャールズに何かが起こることは決してありえない。私は彼を救うことができるということを知っているんだよ、ルーシー」
こうして生活が変わってから幾週間もしないうちに、ある夕方父が帰宅して言った。
「監獄には上の方の窓があって、そこへ、チャールズは時には午後の三時に近づくことができる。彼がそこへ近づいたときに――それはあまりあてにならないし、偶然なのだが――もしもおまえが、私が案内するある場所に立っているならば、彼は街にいるお前を見ることができるかもしれない、と考えている。しかし、可哀そうだけれども、お前は彼に会うことができないかもしれないし、よし会えても、お前がそれと知ったふりをしたら、危険だろう」
「おお! その場所を教えて下さい、お父さま。そしたら私は毎日そこへ行きます」
その時から、どんな天候の日でも、彼女はそこで二時間待った。時計が二時を打つと、彼女はそこに来ていて、四時には、あきらめて帰途についた。あまり雨が強くないか、天候が険悪でなくて、子供が一緒に行ける時には、二人は一緒に行ったし、その他の時には彼女はひとりだった。しかし、ただの一日も欠かしたことがなかった。
それは曲りくねった小さな街路のうす暗い不潔な一隅であった。燃やすための長さに木を切る人の小屋が、その一隅にある唯一の家であった。そのほかは全部塀であった。彼女がそこへ行くようになってから三日目に、彼はルーシーに気がついた。
「いいお天気ですね、女市民」
「いいお天気ですね、市民」
このような呼びかけの形式は、今や、法令によって規定されていた。それは、少し前に、もっと純粋な愛国者たちの間で、自発的にきめられたものであったが、今では、あらゆる人の法律となっていた。
「またここを歩いているのかね、女市民」
「ごらんの通りですわ、市民」
木挽《こび》きは、身ぶり過剰の小男で(彼は昔道路工夫であった)あったが、この時、監獄をちらりと見、監獄を指さし、十本の指を格子代りに顔の前にひろげて、おどけてそこからのぞいた。
「だが、あんなことはおれの知ったことじゃない」と彼は言った。そして鋸《のこぎり》で木をひきつづけた。
その翌日、木挽きはルーシーを待ちうけていて、彼女が姿をあらわした瞬間に話しかけた。
「おや! またここを歩いているんだね、女市民」
「はい、市民」
「ああ! 子供もか。おまえさんのお母さんだろう、可愛い小市民」
「そうよ、と言いましょうか、ママ」と幼いルーシーは彼女に近寄ってささやいた。
「いいわ、可愛い子」
「そうよ、市民」
「ああ! でも、あんなことはおれの知ったことじゃない。仕事の方がおれには大事なんだ。おれの鋸をごらん。おれは、これを、おれの小さいギロチンと呼んでいる。ラ、ラ、ラ。ラ、ラ、ラ! そら、こいつの首が離れた!」
彼がそう言っている時に、木片が落ち、彼はそれを籠の中に投げ込んだ。
「おれは自分のことを薪切りギロチンのサンソンと呼んでいる。また見てごらん。ルー、ルー、ルー! ルー、ルー、ルー! そら、女の首が切れた! 今度は子供だ。ティクル、ティクル! ピックル、ピックル! そら、子供の首が切れた。家族全部だ!」
彼が、もう二本の木片を籠の中へ投げ込んだとき、ルーシーは身震いした。しかし、木挽きが仕事をしている間そこにいて、彼に見られずにいるということは不可能であった。それ以後、彼の好意を確保するために、彼女は、いつも、まず彼に話しかけ、度々酒代をやったが、彼はそれを喜んで受け取った。
彼はせんさく好きな人間で、時々彼女が、監獄の屋根や格子を見つめていたり、夫のことを思いつめたりしていて、すっかり我を忘れてしまった時に、ふと気がつくと、彼は腰掛の上にひざをついて、仕事の中途で鋸をとめて、彼女を見ているのであった。「だが、あれは、おれの知ったことじゃない」そういう時には、彼は大概はそう言って、また敏捷《びんしょう》に仕事にとりかかるのだった。
冬の雪や霜、春のはげしい風、夏の暑い日光、秋の雨、それからまた冬の雪と霜、そうしたあらゆる天候の中で、ルーシーは毎日この場所で二時間ずつ過ごし、そして毎日、そこを去るとき、監獄の塀に接吻した。ルーシーの夫はルーシーを見た(それを父から聞いて知った)それは五、六度に一度だったかもしれないし、二、三回つづけてであったかもしれないし、二、三週間つづけてそのことがなかったかもしれない。運がいい時に彼が彼女を見ることができ、事実見たというだけで充分であって、その可能性を、一週七日、一日じゅう待ってもいいと彼女は思った。
こういうことをしているうちに月日がめぐって十二月になり、その月に入ると、彼女の父は首をまっすぐもたげて恐ろしいものの中を歩いた。淡雪の降る午後、彼女はいつもの街の隅に着いた。その日は何かはげしい喜びの日、祭日であった。歩きながら彼女は、家々が小さな矛《ほこ》と、それにつきさした赤い帽子や、また、三色のリボンや、また、一にして不可分の共和国、自由、平等、友愛、さもなければ死というおきまりの銘(三色の文字がお気に入りだった)で飾られているのを見た。
木挽きのみすぼらしい家は非常に小さかったので、その表面全体を使っても、この銘を書くためのごく普通の面積が得られるにすぎなかった。しかし彼は誰かに頼んでそれを書いてもらった。ところがその男は、その必要がないのにずい分無理して「死」という字をその中に押し込んだものである。家のてっぺんに、彼は、善良な市民がそうしなければならないように、矛と赤帽子を飾り、窓には、「小さい聖ギヨティーヌ」という銘を添えた彼の鋸を置いた――なぜなら、その頃までには、例の大きな鋭い女性は民間では聖者の列に加えられていたからである。彼の店は閉ざされ、彼はそこにいないで、彼女は全くひとりであったので、彼女はほっとした。
しかし彼は遠くにはいなかった。なぜなら、間もなく彼女は騒々しい動きと叫び声がやって来るのを聞いたからである。それを聞くと彼女の胸は恐怖で一杯になった。一瞬後には、人々の群れが監獄の塀のそばの例の一隅に流れ込んで来て、そのまん中に、木挽きが『復讐』と手をつないでいた。五百人よりは少なくない人がいたにちがいない。そして彼らは五百の悪魔のように踊っていた。彼らの歌声のほかには音楽はなかった。彼らは、流行の革命の歌に合わせて踊り、一斉に歯ぎしりするような恐ろしい拍子を取っていた。出たとこ勝負で、男と女が一緒に踊り、女たちが一緒に踊り、男たちが一緒に踊った。最初は、彼らは単に粗末な赤帽子とそれより一層粗末な毛織のぼろの嵐にすぎなかったが、その場所にいっぱいになり、ルーシーのまわりで踊るのをやめた時には、乱心した舞踊姿のものすごい幽霊が彼らの中に立ち上がった。彼らは前進し、後退し、互に手を打ち合い、互の頭につかみかかり、ひとりでぐるぐるまわり、互につかまえ合い、二人ずつぐるぐるまわり、おしまいに多くの者たちが倒れた。それらのものが倒れている間に、ほかのものたちは手と手をつなぎ合わせて、みんなが一緒にぐるぐるまわり、それからその輪がくずれ、二人と四人との別々の輪になって彼らはぐるぐるまわり、やがて一度にみんながやめ、また始め、打ち、つかみかかり、引き裂き、それからまわるのを逆にし、みんなが別の方へぐるぐるまわった。不意に彼らは踊るのをやめ、休み、新しい拍子を案出し、公道の広さいっぱいに横隊に並び、頭を低くさげ、両手を高く上げて、かん高く叫びながら、さっと去って行った。どんな戦闘もこの踊りの半分もこわくはあるまい。それは、ほんとうに堕落した遊戯――かつて無邪気であったが今は悪魔に譲り渡されたあるもの――本来は健康だが、今は血を激昂させ、感覚を混乱させ、心を冷酷にする手段となりはててしまったなぐさみ――であった。その中に見られる優雅なところは、本来善であるすべてのものがひどくゆがめられていることをあらわしているから、それだけに醜く見えた。このためにむき出しにされた処女の胸や、このように狂った美しい、ほとんど幼児のような頭や、血と塵のぬかるみの中を気取って小刻みに歩く美しい足は、乱れた時代の見本であった。
これがカルマニョール(革命当時の共和国で流行した踊りを伴う歌)であった。木挽きの家の入口のところに、おびえて狼狽していたルーシーを残して、それが立ち去ったときに、羽毛のような雪が、これまでになかったほど静かに降り、そして白く、やわらかくつもった。
「おお、お父さま」なぜなら、彼女が、瞬間的に手でおおっていた眼をあげたときに、彼は彼女の前に立っていたから。「あんな残酷な、あんないやな光景」
「わかっている、わかっている。わたしは何度もあれを見た。こわがらなくてもいい、誰一人、おまえに危害を加えはしないだろうから」
「自分のためにこわがっているのじゃありませんわ、お父さま。けれど、夫のことを考えたり、あの人たちが勝手に――」
「わたしたちは、彼をやつらの勝手にはさせないようにしよう。わたしが別れてきたとき、彼は窓によじのぼっていた。それで、お前に告げに来たのだよ。ここには、誰も見ているものがいないから、おまえは、一番高い傾斜した屋根に向かって投げキスを送ってもいいよ」
「そうしましょう、お父さま。それから、それに私の魂も添えて」
「おまえには彼が見えないだろう?」
「ええ、お父さま」キスを投げながら、こがれて泣いてルーシーが言った。「ええ」
雪の中に足音。マダム・ドファルジュ。「やあ、女市民」と医師から。「今日は、市民」これは通り一遍。それ以上のものではない。マダム・ドファルジュは、白い道の上の影のように去る。
「さあ、腕をおかし。彼のために、快活で勇気のある様子をしてここを去ろう。よしよし」彼らはその場を去った。「このことを無駄にはすまい。チャールズは明日喚び出される」
「明日ですって!」
「一刻も猶予がならない。私は充分用意をしているが、彼が実際に法廷へ喚び出されるまでは手をつけることができない予防策を、これから講じておかなくてはならない。彼はまだ通知を受けていないけれど、わたしは、彼が間もなく明日出頭せよという召喚を受け、コンシエルジェリー監獄へ移されることを知っている。私は早耳だったんだ。おまえは心配しないね」
ルーシーは「お父さまを信頼しています」と答えるのがやっとのことだった。
「そうしなさい、絶対に。おまえの不安はもう少しで終ろうとしているんだよ、可愛い子。彼が数時間以内におまえの手に取り戻されるようにしてあげるよ。わたしは彼が四方八方から保護されるように取り計らった。わたしはローリーに会わなくちゃならない」
彼は立ち止まった。聞こえる範囲内のところを車輪が重いごろごろという音を立てて通った。彼らは二人ともそれが何を意味するかあまりにもよく知っていた。一台。二台。三台。三台の死刑囚護送車が、恐ろしい荷物を積んで、静まりかえった雪の上を通りすぎた。
「わたしはローリーに会わなくちゃならない」と医師は繰り返して、ルーシーをほかの方に向けた。
誠実な老紳士は、依然として、まかされている部署にいて、決してそこを離れなかった。彼と彼の帳簿は、没収されて国有にされた財産について、たびたび召し出された。所有者のためにとりのけておけるものを、彼はとりのけておいた。テルソン銀行が保管しているものを、ちゃんと保管し、他言しないという点で、彼以上立派な人はいなかった。
暗紅色と暗黄色の空や、セーヌ川から上ってくる霧が、暗闇の近づいたことを示した。彼らが銀行に着いたときには、ほとんど暗くなっていた。閣下の堂々たる住居は、全くそこなわれ、無人であった。中庭の塵や灰の山の上の方に次のような文字が書いてあった。国有財産。一にして不可分の共和国。自由、平等、友愛、さもなければ死。
ローリー氏のところにいて、見られてはならない人――椅子にかけてある乗馬服の持ち主――は、いったい誰であろうか。たった今来たばかりの客のところから、彼は、興奮し、驚きながら出て来て、彼のお気に入りを抱こうとした。彼は、声を高め、彼が出て来た部屋の扉の方をふり返って、彼女がどもりながら言った言葉を、繰り返した。「コンシエルジェリー監獄に移されて、明日召喚されるんですよ」
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第六章 勝利
五人の裁判官と検事と断固たる陪審員から成る恐ろしい法廷が毎日開かれた。彼らの名簿は毎夕提出され、さまざまの刑務所の看守が彼らの囚人に向かって読み上げた。おきまりの冗談は「おい、中にいるやつ、出て来て、夕刊に耳を傾けろ」であった。
「通称ダーネーこと、シャルル・エヴレモンド!」
そのようにして、ラ・フォルスにおいて夕刊が、ついに始まった。
一つの名が呼ばれると、その名の持ち主が、ひとりだけ別になって、このように発表された者たちのためにとりのけてあった席に着くのであった。通称ダーネーこと、シャルル・エヴレモンドは、その慣例を知っていた。彼は、何百人という人がそのようにして消えて行くのを見たからである。
読む時に眼鏡をかける、彼の係の、むくんだ顔の看守は、眼鏡越しにちらりと見て、彼が席についたことを確かめ、一つ一つの名のところで、同じような短い間をおきながら、名簿を読み終った。二十三の名があったが、二十人だけが応答した。そのように召喚された囚人の一人が獄死して忘れられていたし、二人はすでにギロチンにかけられて、忘れられていたからだ。名簿が読まれたのは、ダーネーが着いた夜に仲間の囚人と会った、あの円天井の部屋であった。それらの囚人は一人残らず虐殺で死んでしまった。その時以来彼が好きになり、そして別れたすべての人間が、断頭台で死んだ。
暇《いとま》をつげる言葉や、親切な言葉が、急いで述べられるのだが、別れはすぐ終った。それは毎日の出来事であった。囚人たちは、無感覚もしくは無感情では決してなかった。彼らの感じ方は、その時々の条件から生じた。なかには、不必要にギロチンに挑戦し、それによって死のうとする者もいた。こうした種類の熱情もしくは陶酔は、単なるえらがりではなくして、物狂おしくゆすぶられた精神の、気違いじみた感染であった。悪疫流行の季節に、われわれの中のあるものたちは、その病気にひそかにひかれる気持――それで死にたいという恐るべき一時的な気持――をいだくであろう。そして、われわれすべては、同じような不思議な気持を胸の中に隠し持っていて、それを呼び起こすには、ただ、周囲の事情が必要なだけである。
コンシエルジェリー監獄への道は短くて暗かった。毒虫の棲処《すみか》である監房の夜は、長くて寒かった。十五人の囚人が、チャールズ・ダーネーの名が呼ばれる前に、裁判を受けた。十五人全部が死刑の宣告を受け、全部の裁判に、一時間半かかった。
「通称ダーネーこと、シャルル・エヴレモンド」と、ついに召喚された。
彼の裁判官たちは、羽根飾りのついた帽子をかぶって席に坐っていた。しかし、三色の帽章のついた赤帽子が、ほかの所では広くゆきわたっているかぶりものだった。陪審員と騒がしい聴衆とを見て、彼は、事物の普通の順序が逆になっていて、極悪人たちが正直な人間を裁こうとしているのだと考えたかもしれない。低級な、残酷な、不良な者たちがたくさんにいなくはない都市の中で、最も低級な、最も残酷な、最も不良な人々が、この場の指導精神となっていて、結果を騒々しく批評し、拍手喝采し、反対し、予想し、促し、誰からも制止されなかった。男たちの大部分は、さまざまに武装し、女たちの中のある者は小刀や短剣を持ち、あるものは見物しながら食べたり飲んだりし、多くのものたちは編物をしていた。この編物をしていたものたちの中に、編みながら、脇の下に余分の一組の編物をかかえている女が一人いた。彼女は前列の、一人の男のそばにいた。その男には彼は関門に到着した時以来会っていなかったが、すぐ、それがドファルジュだと思い出した。彼は、彼女が一、二回彼の耳にささやいたことや、彼女が彼の妻らしいことに気がついたが、彼がこの二人の人物についてもっとも注目したことは、彼らが、できるだけ彼に近い位置に坐っていたのに、一度も彼の方を見なかったということである。彼らは、頑固な決断をもって何ものかを待っているように見え、陪審員を見ていたが、他の何ものをも見ていなかった。裁判長の下のところに、マネット医師がいつもの地味な服装で坐っていた。囚人が見ることができた限り、そこでは、彼とローリー氏だけが、法廷と無関係で、平服をまとい、カルマニョールの粗末な服をわざわざ着ていなかった。
通称ダーネーこと、シャルル・エヴレモンドは、検事によって亡命者として告発され、彼の生命は、そむけば死刑という条件で、すべての亡命者を追放した法令の下に、共和国に没収されることになっていた。法令の日付が、彼がフランスへ帰って来た後になっていたということは、問題ではなかった。とにかく、彼はフランスにいたのだし、フランスにはその法令があったのだ。彼はフランスで逮捕され、彼の首が要求されていた。
「あいつの首を切れ!」と聴衆が叫んだ。「共和国の敵だ!」
裁判長は、その叫び声を黙らせるためにベルを鳴らし、それから、囚人に向かって、彼がイギリスに長年住んでいたということは真実かどうかとたずねた。
たしかに、そうだった。
では、彼は亡命者でなかったのか? 彼は自分を何と呼ぶか?
法律の意味および精神においては、亡命者ではない、と彼は考えた。
なぜそうでないか? 裁判長はそれを知ることを望んだ。
なぜなら、彼は、彼の趣味に合わない称号や、彼の趣味に合わない地位を自発的に捨てて、彼の国を去り――現在法廷が受けいれている意味における亡命者なる語がまだ使われていなかった頃にそうしたのである――そして、フランスで、重荷を背負った人民の勤労に寄食するよりは、むしろ、イギリスで、自分自身の勤労によって生活した。
このことについての、どんな証拠を彼は持っていたか?
彼は二人の証人、テオフィール・ガベルおよびアレクサンドル・マネットの名において、それを提出した。
しかし、彼はイギリスで結婚したではないか? 裁判長は彼に思い出させた。
その通りだが、イギリス婦人とではなかった。
フランスの女市民か。
そうだ。生まれは。
彼女の名と家族は?
「ここに坐っている善良なマネット医師の一人娘、ルーシー・マネット」
この答えは聴衆に非常にいい効果を与えた。有名な善良な医師を賞揚する叫びで、広間は割れんばかりであった。人民はそのように気まぐれに動かされるものだから、一瞬間前には、囚人を街に引っぱり出して、殺してやりたくてうずうずしながら、彼をにらみつけていた獰猛《どうもう》な顔からたちまち涙がころげおちたほどだった。
チャールズ・ダーネーはこの危険な道を数歩マネット医師の繰り返し与えた指図に従って歩いた。同じ用心深い忠告が、彼の前にある一歩一歩を導き、彼の道の一インチ一インチの準備をした。
裁判長は、なぜ彼が、あの時にフランスへ帰り、もっと早く帰らなかったかとたずねた。
彼は答えた――彼がもっと早く帰らなかったのは、単に、彼が捨てた生活の手段以外には、フランスでは生活の手段がなかったからだ。だのに、イギリスでは、フランス語やフランス文学を教えて生計をたてていた。彼があの時に帰ったのは、あるフランスの市民が差し迫った願いを書いてよこしたからであって、その人は彼がいないために生命が危険にさらされていると書いてきた。彼は、一人の市民の生命を救い、わが身がどのような危険におちいろうと、真実を証言するために帰って来た。これが、共和国の見るところでは、犯罪になるか?
人々は熱心に「否」と呼び、裁判長はそれをしずめるためにベルを鳴らした。ところが、それでは人々はしずまらなかった。彼らは、自発的にやめるまで叫びつづけた。
裁判長は、その市民の名をたずねた。被告は、その市民は彼の第一の証人であると説明した。彼はまた、確信をもってその市民の手紙に言及した。その手紙は関門で彼から取り上げられたが、彼は、それが裁判長の前にある書類の中に見出されるであろうことを疑っていなかった。
医者はそれがそこにあるように配慮しておいた――それがそこにあるであろうということを彼に請け合っておいた――そして、裁判のこの段階で、それが取り出され、読まれた。市民ガベルはそれを確認するようにと呼ばれ、確認した。
マネット医師が、次に訊問された。彼の高い個人的人気と、彼の答弁の明快さとは、大きな印象を与えた。しかし、彼がさらに陳述をつづけ、被告は、彼が長い監禁から釈放されたときの最初の友であったということや、被告がイギリスにとどまっていて、亡命中の彼の娘や彼自身に常に忠実で、好意を示してくれたことや、彼が、イギリスの貴族政府に好意を決して持たれず、イギリスの敵であり、アメリカ合衆国の味方として、実際に死罪に問われたということなどを明らかにしたとき――彼がこれらの事情を、最大の思慮と、真実と熱意とをこめた直線的な力で明らかにしたときに、陪審員と人民とが一体になった。おしまいに、彼が、彼と同じく、イギリスの法廷で証人となり、そのことを彼が説明するのに協力した、現在その場にいたイギリス紳士ローリー氏の名をあげて訴えたときに、陪審員は、もうこれだけ聞けば充分だ、もしも裁判長が投票を受けいれることに賛成なら、いつでも投票すると宣言した。
一票入るごとに(陪審員たちは、大きな声を出し、一人一人投票した)人々は称賛の叫び声をあげた。すべての声が囚人に好意的であったので、裁判長は彼を無罪と宣告した。
それから、一つの異常な場面が始まった。民衆は、そういう場面によって時々彼らの気まぐれ、もしくは寛大や慈悲を志すいっそう善良な衝動を満足させ、もしくは、それをふくれ上がった残酷な怒りの相殺《そうさい》と見なしたのである。この三つの動機のうちいずれに、その異常な場面を結びつけたらいいか、今は誰も決定することができない。たぶん、三つが混合したものに結びつけるべきで、そのうち第二の動機が最も有力のようである。釈放のことが宣告されるや否や、別の時における血のように、涙がとめどもなく流され、また、彼に向かって突進しうるかぎりの多くの男女両性によって友愛の抱擁が彼に与えられたので、長い、不健康な監禁を受けて来た彼は、疲労のために失神する危険があった。彼は、同じ民衆が、もしも別の流れに流されたら、同じ激しさで彼に向かって突進して、彼を八つ裂きにし、街路にまきちらすであろうとよく知っていたから、なおさらのことであった。
これから裁判にかけられることになっている他の被告たちに席を譲るために彼がほかへ移されたので、しばらくの間、彼は愛撫から免れた。次に五人のものが、共和国を言葉もしくは行為によって支援しなかったという理由で共和国の敵として裁かれることになっていた。法廷は機会(死刑にする機会)を一つ失ったので、それを手早く埋め合わせようとしたために、これら五人のものたちは、二十四時間以内に死刑にされるという宣告を受けて、彼がその場を去らないうちに、もう彼のところへ降りて来た。彼らの先頭にいたものが、死刑を示す、監獄内の習慣になっている合図――一本の指を高くあげること――によって、そう彼に告げ、それから、彼ら一同が、今度は言葉で、「共和国万歳」をつけ加えた。
五人のものたちには、裁判の手続きを長引かせる聴衆がいなかった。というのは、彼とマネット医師が門から出た時に、彼らの周囲に大群集がいたからである。その群集の中には、法廷で彼が見たあらゆる顔――二つの顔を除いて。その二つを彼はさがしたが無駄だった――があるように思われた。彼が外に出ると、また群集は彼をめがけて進んでゆき、みんながかわるがわる、また、みんなが一緒に、泣きながら、抱擁したり、叫んだりした。
群衆は、彼らの中にあった大椅子に彼を坐らせた。その椅子は彼らが法廷そのものか、またはその部屋か廊下から持ち出したものであった。その椅子に彼らは赤旗をかぶせ、その椅子の背に矛《ほこ》を結びつけ、そのてっぺんに赤帽子をのっけた。彼がこの凱旋車にのせられ、人々の肩にかつがれて彼の家へ運ばれることを、医師といえども阻《はば》むことができなかった。彼の周囲には赤帽子の荒海が起伏し、その嵐の底から、難破船のように顔が投げ上げられてちらりと見えるというありさまで、彼は、自分の心が混乱していはすまいか、自分は死刑囚護送車にのせられてギロチンへ運ばれて行く途中ではないかという不安を一度ならず感じた。
会う人すべてを抱擁し、彼を指さしながら行進する人々の気違いじみた、夢のような行列によって、彼はどんどん運ばれて行った。彼らは、雪の下にある街路を、かつて、もっと濃い赤色に染めたように、雪の街路をはやりの共和国色で赤く染めながら、曲りくねったり足音高く踏みならしながら、彼を例の建物の中庭へ連れ込んだ。ルーシーの父は、ルーシーに心構えをさせるために、先に帰っていた。そして夫が立ち上がったときに、ルーシーは気を失って彼の腕の中に倒れた。
彼が妻を胸に抱いて、その美しい頭を彼の顔とわめく群集との間に向け、そのため、彼の涙と彼女の唇が誰にも見られないで合わさったときに、人々の中の数名のものたちが踊り始めた。直ちに、他のものたちも一斉に踊り始め、中庭はカルマニョールであふれるばかりだった。それから彼らは、群集の中から、自由の女神として運ばるべき若い女を、空席になった椅子にのせた。そしてカルマニョールは、次第に脹《ふく》れながら近くの街々にあふれ出て、川の岸を進み、橋を渡り、あらゆる人々を吸収し、ぐるぐる回りながら去って行った。
チャールズは得意になって立っていた医師の手を握り、カルマニョールの水口にぶつかってさんざんもがいて息を切らしてあえぎながらはいって来たローリー氏の手を握り、小さいルーシーに接吻し、彼女を抱き上げていた忠実なプロスを抱擁したあとで、彼は妻を両腕に抱いて、二人の部屋へと導いた。
「ルーシー! 私のいとしい妻! 私はもう大丈夫だよ」
「おお、一番大事なチャールズ、これまでお祈りして来たように、ひざまずいて、このお礼を神様にいたしましょう」
彼ら一同はうやうやしく頭と胸をさげた。彼女が再び彼に抱かれたとき、彼は彼女に言った。
「さあ、今度はお父さまとお話し。あの方が私にして下さったようなことができる人は、このフランスじゅうには一人もいない」
ルーシーは、ずっと前に、自分の胸の上に、父の可哀そうな頭をもたせかけたように、父の胸の上に頭をもたせかけた。父は、娘にお返しができて幸福だった。彼の苦難はつぐなわれた。彼は自分の力が得意であった。「お前は弱くなってはいけないよ、可愛い子」と彼は忠告した。「そんなに震えちゃいけない。わたしは彼を救ったのだ」
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第七章 戸を叩く音
「私は彼を救ったのだ」彼は時々夢の中で帰って来たが、今度は夢ではなかった。彼は現実にここにいた。だのに彼の妻は震えた。ばく然とした、しかし重苦しい恐怖が彼女にのしかかっていた。
周囲の空気全体がひどく濁って暗かったし、人々の胸は激しい復讐心にみちており、また発作的であったし、無実の人々が、ばく然とした嫌疑や陰険な悪意から、即決で死刑に処せられたし、また、彼女の夫のように罪のない、そして、よその妻たちにとっても彼が彼女にとって大切な人であるように大切なたくさんの人たちが、毎日、彼がそこから救い出されて来たところの恐ろしい運命におちいるということを忘れることはできなかったから、彼女の胸は、当然重荷をおろしていいと自分でも感じていたのに、それができなかった。冬の午後の影が落ち始めたが、その時になっても、あの恐ろしい車が街中をごろごろと音をさせて通っていた。彼女の心はその後を追い、死刑囚たちの中に彼をさがした。そして、それから、彼の現実の姿にいっそう強くしがみつき、いっそうひどく震えるのだった。
彼女の父は、彼女をはげまして、この女の弱さを憐れみ、超然とした様子をしていたが、それは見るからに立派であった。今は、屋根裏もなければ、靴屋も、百五号監房も、北塔もなかった。彼は自らに課した仕事を成しとげ、約束を果たし、チャールズを救ったのだ。みんなが彼を頼りにするがいい。
彼らの家政はひじょうにつましかった。それは、人々を怒らせることがないという点で最も安全な生き方であったからというばかりではなく、彼らは金持ちではなく、チャールズも監禁中にひどい食事や護衛や、彼よりも貧しい囚人たちの生活費のために多額の金を支払わなければならなかったからである。一つにはこのため、もう一つには家庭内のスパイを避けるために、彼らは召使を雇わなかった。中庭の門の門番の役をしていた市民や女市民が彼らのために時折用をたした。そしてジェリー(ローリー氏はジェリーをほとんど全部彼らに譲り渡していた)が彼らの日々の家来となっており、毎夜そこで寝た。
各戸の扉または扉の柱に、各居住者の名を、ある大きさの文字で、地上からある便利な高さのところに、よく読めるように書かなければならないというのが、自由、平等、友愛、さもなければ死の、一にして不可分の共和国の布告であった。それだから、ジェリー・クランチャー氏の名も、当然扉の柱の下の方を飾ることになった。そして、午後の影が濃くなったころ、その名の持ち主が現われた。彼は、その時まで、マネット医師が、通称ダーネーことシャルル・エヴレモンドの名を家人の名簿に加えるために雇ったペンキ屋の監督をしていたのである。
その時代を暗くしていた一般的な恐怖と疑惑のために、すべての無害な日常生活の様式が変わってしまっていた。医師の小さな家庭でも、他の家庭同様、日々消費する必需品は、毎晩、少量ずつ、別々の小さな店で買うことになっていた。注意をひくことを避け、話題になったり、嫉妬されたりする種はできるだけまかないようにすることは、皆の願いであった。
過去数か月の間、プロス嬢とクランチャー氏とが、食糧品仕入れの仕事をやってきた。前者が金を持ってゆき、後者が買物籠をもってゆくというふうに。午後になって街燈がつく頃になると、彼らは使いに出かけ、必要な買物をし、そしてそれを持ち帰った。プロス嬢は、長いことフランス人の家庭と関係があったのだから、その気になれば、英語同様にフランス語が話せるようになっていたかもしれないが、その方面には全然その気がなかった。その結果、彼女は、ジェリー・クランチャー氏同様「あのたわごと」(それを彼女はそう呼ぶのが好きだった)をちっとも知らなかった。それで、彼女の買い方は、品物の性質をいわないで、いきなり実名詞を店の主人に向かって言い、そして、もしもそれがたまたま彼女に必要な物の名でなかった場合には、見まわしてその品を見つけて、それをつかみ、売買が終るまで、つかんでいるというやり方であった。いつも彼女は、正しい値段をあらわすために、商人が何本指を出そうと、それよりは一本少なく出して売買をすますのであった。
「さあ、クランチャーさん」とプロス嬢は幸福で眼を赤くして言った。「あなたの用意ができていたら、わたしも大丈夫ですよ」
ジェリーは、プロス嬢のご用は何でもすると、しゃがれ声で言った。彼は彼の錆をずっと前にすり落してしまっていたが、どんなやすりも彼の釘を立てたような頭をすり落すことはなかったであろう。
「いろいろの種類のものが要るんですよ」とプロス嬢が言った。「だから、とても楽しみよ。ワインもいるのよ。私たちがどこで買物をするにしても、あの赤帽子たちがいまいましい乾杯をしているでしょうよ」
するとジェリーがやり返した。「あんたのために乾杯しようと、悪魔《オールド・アン》(アンは、フランス語で、英語のワンに当たる)のためにしようと、あんたにとっちゃ、同じでしょう」
「オールド・アンて、誰のこと?」
クランチャー氏は、いくらかてれて、「悪魔《オールド・ニック》」のつもりで言ったのだと説明した。
「まあ!」とプロス嬢が言った。「あんなやつどものしようとすることを説明するのに、通訳なんかいらないわよ。やつらがしようとしていることは、ただ一つよ。それは真夜中の人殺し、それから、危害」
「しっ! どうか、どうか、用心して下さいよ」とルーシーが言った。
「はい、はい、気をつけます」とプロス嬢が言った。「けれど、内緒話でなら、そこらじゅうの街中でやっている、玉ねぎくさくて煙草くさい抱き合いごっこがなくなればいいと言ってもいいでしょう。では、奥さま、わたしが帰って来るまで炉端から決して離れないでいて下さい。とりもどしたばかりの大事な旦那様のお世話をなすって、わたしが帰りますまで、今の通りに、旦那様の肩からそのきれいなおつむを離さないでいて下さいまし。マネット先生、出かける前に、ひとことおたずねしていいでしょうか」
「それは自由にしたらいいよ」と医者は微笑しながら答えた。
「後生ですから、自由のことはおっしゃらないで。もうそれはたくさんですわ」とプロス嬢が言った。
「しっ! また言うの?」とルーシーがとがめた。
「でも、奥様」と強くうなずきながらプロス嬢が言った。「要するに、私は、お慈悲深いジョージ三世陛下の臣民なんですよ」その名をいうときプロス嬢はおじぎをした。「臣民として、私の主義は、やつらの政策をくじけ、やつらの奸計を挫折させよ、あの方に私たちの希望をかけよう、国王万歳、ですわ」
クランチャー氏は、忠誠心を激発されて、教会で誰かがやるように、プロス嬢の言った言葉をうなるような声で繰り返した。
「あんたが風邪声でなければいいと思うけれど、でも、それだけイギリス人らしいところがあるのは、うれしいわね」とプロス嬢は褒《ほ》めて言った。「それはそうと、マネット先生。おたずねしたいことは、いったい」――非常に心配なことを何でもないようによそおって、このように、ふと思いついたというように言うのは、この人のくせであった――「ここから私たちが逃れ出る見込みは少しでもありますか」
「まだないだろうね。チャールズには、まだ危険だろうね」
「あら、まあ!」と炉の火のあかりにてらされている彼女の大事な人の金髪をちらりと眺めながら、快活に溜息をおさえてプロス嬢が言った。「じゃ、わたしたちは我慢して待たなくちゃなりませんわね。でも、それだけのことですわ。弟のソロモンがいつも言ってたように、わたしたちはしゃんと頭をもたげ、腰をおちつけて戦わなくちゃなりませんわね。では、クランチャーさん。――動いちゃいけませんよ、奥さま」
彼らは、ルーシーと彼女の夫と、彼女の父と、子を、明るい炉辺に残しておいて、出かけた。ローリー氏は間もなく銀行から帰るはずであった。プロス嬢はランプをともしたが、彼らがさまたげられないで炉の火を楽しむことができるだろうと思って、隅っこによけておいた。幼いルーシーは両手で祖父の腕をかかえて彼の傍に坐っており、彼は、ささやくような声で、えらい、力の強い妖精の話をして彼女に聞かせ始めた。その妖精というのは、牢屋の壁を開いて、昔妖精のためにつくしたことのある囚人を逃がしてやったのだった。あたりは、ひっそりと静まり返り、ルーシーは今までよりはくつろいでいた。
「あれは何?」と彼女は不意に叫んだ。
「どうしたんだ」彼女の父は話を中止し、彼女の手の上に自分の手をおいて言った。「落ち着くんだよ。何という取り乱し方だ! ちょっとしたことに――何でもないことに――お前はびっくりするのだね。この父の娘である|お前《ヽヽ》が」
「でも、お父さま」とルーシーは、真っ蒼な顔で、どもりながら、弁解して言った。「階段のところに、聞きなれない足音がしたと思ったからですわ」
「階段は、死んだようにひっそりしてるよ」
彼がそう言っているときに、扉をどんと叩く音がした。
「ああ、お父さま、お父さま! あれはどうしたというんでしょう。チャールズを隠して下さい。あの人を助けて下さい」
「娘や」と医者は立ち上がって、彼女の肩に手をかけて言った。「私は彼を|すっかり《ヽヽヽヽ》助けたじゃないか。どうしてそんなに弱気なのかね。扉のところへ行ってみよう」
彼はランプをとると、中間にある二つの表の部屋を横切って、扉をあけた。床を乱暴にどたばた踏む音がして、赤い帽子をかぶり、剣とピストルで武装した四人の不作法な男が、部屋の中へはいって来た。
「通称ダーネーこと、市民エヴレモンド」と第一の者が言った。
「誰が彼をさがしているというのですか」とダーネーが答えた。
「おれが彼をさがしているのだ。おれたちが彼をさがしているのだ。おれはお前を知っているぞ、エヴレモンド。おれは、今日、裁判の前にお前に会った。お前はふたたび共和国の囚人になるんだ」
妻と子にしがみつかれて立っている彼を、四人のものがとりまいた。
「どうして、なぜ、私がまた囚人になるのか話していただきたい」
「お前はコンシエルジェリー監獄へ真っ直ぐに戻って、あすになってから知ればいいじゃないか」
マネット医師は、この厄病神《やくびょうがみ》の来訪のために石のようになり、まるでランプを持たされている銅像ででもあるかのように、片手にランプをもって立っていたが、こうしたやりとりが終ると、ようやく身動きして、ランプを下において、話し手に面と向かって、彼の赤い毛織のシャツのゆるやかな胸のところを手荒にではなくつかんで、言った。
「君は彼を知っている、と言ったね。君はわたしを知ってるかね」
「ええ、知ってますよ、市民お医者さん」
「おれたちはみんなあなたを知ってるよ、市民お医者さん」と他の三人も言った。
彼は、ぼんやりと彼らを見くらべ、ちょっと間をおいてから、今までよりも低い声で言った。
「では、彼の質問を私に答えてくれないかね。どうしてこんなことになったのかね」
「市民お医者さん」と第一のものがしぶしぶ言った。「彼はサン・タントワヌ地区に告発されているんだ。この市民は」はいって来ていた第二の者を指さしながら「サン・タントワヌのものです」
指さされた市民はうなずいて、つけ加えた。
「その人は、サン・タントワヌから告発されたのです」
「何の罪で?」と医師がたずねた。
「市民お医者さん」と第一のものが、前と同じように、しぶしぶ言った。「それ以上はたずねないでもらいたい。もしも共和国があなたから犠牲を要求するとしたら、きっと、あなたも、立派な愛国者として、喜んで、その犠牲を払うことでしょう。共和国はすべてに優先する。人民は最高なのだ。エヴレモンド、おれたちは急いでいるんだ」
「ひと言だけ」と医師が頼んだ。「誰が告発したか話してくれませんか」
「それは規則違反だが」と第一のものが答えた。「なんなら、ここにいるサン・タントワヌの旦那にたずねてもいいよ」
医師はその男に眼を向けた。その男は、立ったままいづらそうに身動きし、ちょっとあごひげをなで、ようやくにして言った。
「そうだね。実際のところ、そいつは規則違反だ。だがね、その人は告発されたんだよ――しかも重罪として――告発者は市民ドファルジュ夫婦さ。それから、もう一人いる」
「もう一人というと?」
「|あなた《ヽヽヽ》がそれをたずねるのかね、市民お医者さん」
「そうだ」
「じゃ」とサン・タントワヌの男が、奇妙な目つきで言った。「あすになったら、その返事をしてもらえますよ。今は、おれたちは何も言えない」
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第八章 カルタの手札
プロス嬢は、幸いにして、家で起こった新しい災難のことを知らずに、買わなければならない数々の必要な品物を心の中でかぞえながら、狭い街の中を縫うようにして歩いて、ポン・ヌーフ街を渡った。クランチャー氏は買物籠を持って彼女のわきを歩いた。彼らは二人とも左右を見、通りすぎる大部分の店をのぞき込み、群がる人々の集まりに警戒の眼を向け、興奮してしゃべっている集団があると、それを避けてわき道へはいった。それはうすら寒い晩であって、燃えている明かりのために眼にははっきり見えず、また、耳ざわりな騒音のために耳に聞こえなかった霧深い河が見えるところには、はしけがとまっていて、その中で鍛冶屋が共和国の軍隊の鉄砲を作っていた。
二、三の小さい雑貨と、ランプ用の石油を一ガロン買うと、プロス嬢は彼らに必要なワインのことを思いついた。数軒のワイン店をのぞいたあとで、彼女は、かつての(そして、もう一度そうなるのだが)テュイルリー宮殿、今の国民宮殿からほど遠くないところにあった「古代の共和主義者ブルータス」(ブルータスは、シーザーを殺したローマの政治家)という店の看板のところで立ち止まった。そこの様子が、やや彼女の気に入ったからだ。そこは、彼らが通り過ぎた同種の店よりも静かなように見えたし、愛国的な帽子で赤くはあったがほかの店ほど赤くはなかった。クランチャー氏にさぐりを入れてみると、彼も同じ意見であることがわかったので、プロス嬢は、騎士を従えて「古代の共和主義者ブルータス」店へはいって行った。
煙の出ている明かりや、口にパイプをくわえて、ぐにゃぐにゃのカルタや黄色くなったドミノをやって遊んでいる人々や、胸をはだけて、腕まくりをし、新聞を声をたてて読んでいるすすでよごれた労働者と彼に耳を傾けているほかの労働者たちや、身につけたり、またすぐとり上げられるように傍においた武器や、はやりの、肩の張った、毛むくじゃらの、黒いスペンサー(短外套)を着て、まるで眠っている熊か犬のように見える、うつぶせになって眠っている二、三人の客たちをちらりと観察して、二人の外国人の客は勘定台に近づき、ほしいものを言った。
ワインが量り出される間に、一人の男がもう一人の男と別れて、立ち上がって去ろうとした。去るときに彼はプロス嬢と顔を合わせなければならなかった。彼が彼女と顔を合わせるや否や、プロス嬢は金切り声をあげて、両手を打ち合わせた。
たちまち、一同の者が立ち上がった。誰かが、意見の相違から、誰かに殺されるということが、いちばんありそうな出来事であった。みんなが、誰かが倒れているだろうと思って見まわしたが、男と女が互に見かわしながら立っているのが見えただけであった。男の方は、どう見てもフランス人で、また正真正銘の共和主義者の外観をしていたが、女の方は明白にイギリス人であった。
「古代の共和主義者ブルータス」の弟子たちが、拍子抜けして、何を言ったかは、プロス嬢と彼女の護衛者が全身を耳にして聞いたところで、彼らにとってはヘブライ語かカルデア語のようにちんぷんかんぷんであったであろう。しかし二人とも驚きのあまり、何ごとを聞く耳も持ち合わせていなかった。なぜなら、プロス嬢が驚きと動揺のために我を忘れていたばかりではなく、クランチャー氏も――彼自身の別個の、個人的理由のためであったようだったが――驚異の念でいっぱいであった。
「どうしたんだ」と、プロス嬢に金切り声をあげさせた男が言った。彼は、当惑して、ぶっきらぼうな声(低い声であったが)で、英語で言った。
「まあ、ソロモン、なつかしいソロモン」とプロス嬢はまたもや両手を打ち合わせて叫んだ。「こんなに長い間会ったことも便りを聞いたこともなかったお前が、こんなところにいようなんて!」
「おれをソロモンと呼んじゃいけない。おれを死なせたいと思っているのかい」とその男は、こそこそと、おびえたようにたずねた。
「弟、弟!」とプロス嬢はわっと泣き出して言った。「そんな残酷なことをたずねるなんて、一度だってあたしがお前にそんなひどい仕打ちをしたことがあったかい?」
「じゃ、おせっかいなことは言わないでもらいたいね」とソロモンは言った。「おれと話したかったら、ここを出よう。ワインの代金を払って、外へ出ておいで。この人は誰だい」
プロス嬢は、ちっとも愛情のない弟に向かって、彼女の愛情のこもった、がっかりした頭を振って、涙ながらに言った。「クランチャーさんよ」
「この人にも外へ出てもらおう」とソロモンが言った。「この人はおれのことを幽霊だと考えているのかな」
明らかに、彼の様子から判断すると、そうだった。しかし彼は一言も言わなかった。そしてプロス嬢は、涙ながらに、ようやく手さげ袋の底をさぐって、ワインの代金を支払った。彼女がそうしている間に、ソロモンは「古代の共和主義者ブルータス」の追従者たちの方を向いて、フランス語で二言三言説明をした。すると、一同のものは以前の席に戻って、また前からの話をつづけた。
「おい」とソロモンは、暗い街角で立ちどまって言った。「何の用だい」
「わたしにそんな挨拶をして、ちっとも愛情を見せないなんて!」とプロス嬢は言った。「わたしが一度だって愛情をそむけたことのない弟が、どうしてこんなに恐ろしく薄情なんでしょう」
「そら。いまいましい! そら」とソロモンは、彼の唇を彼女の唇に押しつけながら言った。「これで満足だろう」
プロス嬢は頭を振っただけで、黙って泣いていた。
「おれがびっくりするだろうと思っていたろうが」と彼女の弟のソロモンが言った。「びっくりなんかしないよ。姉さんがこっちへ来ていることは知っていたんだからね。おれは、ここへ来ているたいていの人は知っているよ。もしも、ほんとうにおれのいのちを危険におとしいれたくないなら――おれは半分くらいそう信じているが――できるだけ早く自分のいきたい方へ行って、おれにも好きな方へ行かせてくれ。おれは忙しいんだ。役人だからな」
プロス嬢は、涙を一杯ためた眼をあげて、なげいた。「生まれた国でいちばん良い、いちばんえらい人になる素質を持ったイギリス人の弟が、外国人の中で、あんな外国人の中で、役人になろうなんて! こんなことになるのだったら、いっそ、可愛い坊やでいるころに――」
「だから、さっき、そういったんだ!」と弟がさえぎって言った。「おれは知ってたんだ! 姉さんはおれが死ねばいいと思ってるんだ。おれは、自分の姉のために嫌疑をかけられることにきっとなる。まさに出世しようとしている時にだ!」
「まあ、とんでもない!」とプロス嬢は叫んだ。「大事なソロモン、わたしはいつもお前をほんとうに愛して来たし、これからもそうなんだけれど、それだったら、いっそ二度と会わない方がいい。ひとこと愛情のこもったことを言ってくれて、わたしたちの間には怒ることや疎遠になることは何一つないと言ってくれたら、これ以上引きとめやしないよ」
善良なプロス嬢! まるで、二人の間の疎隔が、彼女のふらちから起こったかのように! まるで、この大事な弟が、彼女のお金を使ってしまって、逃げたことを、何年も前にソホーの静かな片隅で、ローリー氏が事実として知っていなかったかのように!
彼が、二人の相対的な長所や立場が逆転した場合に示すよりも、はるかにしぶしぶと、はるかに恩に着せるような態度で(これは世界じゅうで、いつも起こる事実なのだが)やさしい言葉をかけようとした時に、クランチャー氏が彼の肩に手をかけて、しゃがれ声で、だしぬけに割って入って、次のような妙な質問をした。
「もしもし! ちょっとおたずねしたいことがあるんですが。お前さんの名がジョン・ソロモンか、ソロモン・ジョンか、どちらかということについてですが」
役人は急に疑惑を感じて彼の方を向いた。彼はその時まで一言もいわなかったのである。
「さあさあ!」とクランチャー氏は言った。「はっきり言いなよ」(ついでながら、そのことは彼にもできなかった)「ジョン・ソロモンか、それともソロモン・ジョンかね。彼女はお前さんのことをソロモンと呼んでいる。彼女は君の姉さんだから知っているにちがいない。しかし、|おれ《ヽヽ》はお前さんがジョンだということを知っているよ。二つのうちどちらが先かね? また、プロスという名だって、そうだ。海の向うじゃ、おまえさんの名はそうじゃなかったぜ」
「何をいってるんだ」
「うん、おれにも、自分の言っていることがよくわからない。というのは、海の向うでお前さんの名は何というのだったか思い出せないからさ」
「そうか」
「そうだ。でも、たしか、それは二音節の名だった」
「ほんとに」
「そうだ。もう一つの名は一音節だった。おれはお前さんを知っている。おまえさんは、ベイリーで、スパイ証人だった。君の肉親の父親の、うその神(悪魔)の名において、いったいあの頃お前さんはどういう名だったんだ」
「バーサッドさ」と別の声が横から口を出して言った。
「そいつは千ポンドの値打ちのある名だ!」とジェリー・クランチャーが叫んだ。
横から口を出したのはシドニー・カートンだった。彼は、両手をうしろにまわして、乗馬服のすその下に入れて、むかしベイリー法廷に立った時にそうであったかもしれないように、無頓着にクランチャー氏のわきに立っていた。
「驚かなくてもいいよ、プロスさん。僕は昨日の晩にローリーさんのところに着いて、あの人をびっくりさせた。われわれは、万事うまくゆくまで、または僕が役に立つ場合のほかは僕がよそへ出かけないようにするということで意見が一致した。僕は、あなたの弟さんとちょっとお話をしたいと思ってここへ来たのですよ。バーサッド君よりましな職についている弟さんがあなたにあるといいのにね。あなたのために、バーサッド君が監獄の羊でないことを望みますよ」
羊というのは、看守の部下のスパイのことをいう隠語であった。蒼白《あおじろ》かったそのスパイは、一層蒼白くなり、どうして大胆にもそんなことをたずねるのかと言った。
「じゃ、話そう」とシドニーは言った。「一時間か、一時間以上前に、僕はね、バーサッド君、コンシエルジェリー監獄の塀を見ていると、君がそこから出てくるのがふと目にとまったのだよ。君は、おぼえやすい顔だし、僕はひとの顔をよくおぼえる。そんなところで君を見て好奇心を感じ、そのうえ、君にもわからなくはないはずだが、現在非常に不幸な友人の災難と君を結びつける理由もあって、君のあとをつけて歩いたのだ。僕は、君のすぐあとからこの酒店へはいって、君の近くに坐った。君のあけっぱなしの会話や、君の賛美者たちの間に公然とゆき渡っている噂《うわさ》から、君の職業の性質を推測することは少しも困難ではなかった。そして、僕が何のあてもなしにやったことが、徐々に、具体化して、ある目的になったのさ、バーサッド君」
「どんな目的かね」とスパイがたずねた。
「街中で説明すると面倒なことになるだろうし、危険なことになるだろう。内緒で、数分間つき合ってくれないかね――たとえば、テルソン銀行の事務室などで」
「脅迫されてかね?」
「おお! そんなことをいうもんか!」
「じゃ、なぜ、僕はそこへ行かなくちゃならないんです」
「まったく、バーサッド君、君が言えないなら、僕も言えない」
「言いたくないというのですか」とスパイはためらいながら言った。
「実にはっきりと僕の意中を察したね、バーサッド君。僕は言いたくない」
カートンの無頓着で向う見ずな態度は、彼が、ひそかに心にいだいているような仕事をするときや、彼が扱わねばならない人間を扱う場合には、彼の敏捷《びんしょう》さと技術を強力に助けた。彼の熟練した眼は、それを見てとり、それを極度に利用した。
「そら、さっき、言った通りだろう」とスパイは、非難をこめた眼を姉に投げながら言った。「このことから面倒が起こったら、姉さんのせいだぜ」
「まあ、まあ、バーサッド君」とシドニーが叫んだ。「恩知らずのことは言わない方がいい。君の姉さんを大いに尊敬していなかったら、僕はわれわれ相互の満足のために持ち出したい小さな提案を、こんなに楽しくする気にならなかっただろう。銀行まで一緒に来てくれないか」
「あなたの言い分を聞きましょう。よろしい、一緒に行きましょう」
「まず、君の姉さんを無事に彼女の家の街角まで送って行きましょう。あなたの腕をとりましょう、プロスさん。この市《まち》はこんな時刻に、護衛なしで出歩けるようないい市じゃありませんよ。あなたの護衛はバーサッド君を知っていますから、僕は彼をローリーさんのところへ招くことにしましょう。いいですかね。じゃ、行こう」
プロス嬢は、シドニーの腕に両手をかけて、彼の顔を見上げながら、ソロモンに危害を加えないようにと嘆願しているときに、その腕には緊張した決意が感じられ、その眼には一種の霊感があって、それが彼の軽快な様子と矛盾したばかりでなく、彼の人格を変え、高めていたということを、その後間もなく思い起こし、そして生涯の終りまで憶えていた。彼女は、その時彼女の愛情を受ける値打ちのない弟についての心配や、シドニーの友情のこもった保証にあまり気を取られすぎていたので、自分が観察したことに充分に注意することができなかった。
彼らは街角のところで彼女に別れ、カートンが先導してローリー氏の宅へ行った。その家はそこから歩いて数分以内のところにあった。ジョン・バーサッド、別名ソロモン・プロスは彼と並んで歩いた。
ローリー氏はちょうど晩餐を終ったばかりのところで、気持よく燃えている一、二本の薪の前に坐っていた――たぶん、その火の中をのぞき込んで、ずっと昔ドーヴァのロイヤル・ジョージ館で赤くなった石炭をのぞき込んでいた、テルソン銀行の、今よりはもっと若い中年の紳士の肖像をさがし求めていたのであろう。彼らがはいってゆくと、彼はふり向いて、驚きの色を浮かべて、見知らぬ人をながめた。
「プロスさんの弟さんです」とシドニーが言った。「バーサッド君です」
「バーサッド君?」と老紳士は繰り返した。「バーサッド君? その名前――それからその顔――と結びつけて思い出すことがあります」
「さっき、僕は、君は目立つ顔をしていると言っただろう」とカートンは冷やかにいった。「どうぞおかけください」
彼は、自分も腰掛けながら、顔をしかめて「あの法廷の証人ですよ」と言って、ローリー氏に必要な手がかりを与えた。ローリー氏は直ちに思い出して、この新しい訪問者を嫌悪をあらわに見せながら、じっと見つめた。
「プロスさんが、バーサッド君は、あなたのお耳にはいっている彼女の情愛の深い弟さんだということに気がついたものだから、姉弟関係を認めたのです。それはさておき、もっと悪いニュースをお伝えします。ダーネーがまた逮捕されました」
びっくり仰天して、老紳士は叫んだ。「何ということをおっしゃるんです。ここ二時間以内にあの人と別れたばかりで、あの人は安全で自由でしたよ。今も、あの人のところへ行こうと思っていたところです」
「でも逮捕されたんです。いつやられたのかね、バーサッド君」
「やられたとすれば、たった今でしょう」
「バーサッド君のいうことがいちばん信用できる」とシドニーが言った。「僕は、バーサッド君が、酒を飲みながら、友人でスパイ仲間の人に、逮捕が行われたということを話していたのを聞いたのです。この人は、逮捕に行った連中と門のところで別れたが、その連中を門番が中へ通すのを見たのです。彼が再逮捕されたことには疑いの余地はありません」
ローリー氏の事務家の眼は、その問題についてくどくど話すことは時間の損失だということを、話し手の顔から読み取った。狼狽はしたけれども、彼の心の落ち着き次第でどうにかなるかもしれないと感じて、心を落ち着けて、黙って耳を傾けた。
「そこで、僕は」とシドニーは彼に向かって言った。「マネット先生の名と力とが明日も彼のために役立つかもしれないと思います――君は、あの人が明日もまた法廷に立つだろうと言いましたね、バーサッド君――」
「はい、そう思います」
「――今日と同じように明日も役に立つかもしれません。しかし、そうでないかもしれません。白状しますが、ローリーさん、僕は、マネット先生がこの逮捕を阻止する力を持たなかったということで確信がぐらついて来ました」
「彼はそのことを前もって知らなかったかもしれません」とローリー氏が言った。
「でも、あの人とあの人のお婿さんとが同じ穴のむじなと思われているとすると、まさにその事情そのものが心配ですね」
「早い話が」とシドニーが言った。「今は、一《いち》か八《ばち》かの勝負が、一か八かの賭《かけ》で行われている、一か八かの時代です。先生には勝ち勝負をやってもらって、僕は負け勝負をやりましょう。ここでは、誰の生命も三文の値打ちもありません。今日人民に胴上げされて家に帰った人も、明日は死刑の宣告を受けるかもしれません。そこで、最悪の場合に僕がやろうと決心した賭《かけ》は、コンシエルジェリー監獄にいる友人です。そして、私が勝って味方にしようと思っている友人は、バーサッド君です」
「それには、あなたがいい持ち札を持っていることが必要だ」とスパイが言った。
「ざっと目を通してみよう。僕がどんな札を持っているか見てみよう。――ローリーさん、あなたは僕がどんなに不作法な男かご存じです。少しブランデーをいただきたいんですが」
ブランデーが彼の前におかれると、彼はコップ一杯飲みほし――もう一杯飲みほし――考え込みながら、瓶を押しやった。
「バーサッド君」と彼は、ほんとうにカルタの手札をしらべている人のような調子でつづけた。「監獄のスパイ、共和委員会の密使、看守になるかと思えば囚人にもなり、いつもスパイで密告者、そういう役割だと、節を曲げても、イギリス人はフランス人よりも疑われることが少ないという点で、ここではイギリス人であることが遙かに価値がある。しかもそういう人物が偽名で彼の雇主たちの前に現われる。こいつは非常にいい札だ。バーサッド君は、今はフランス共和政府に雇われているが、もとは、フランスと自由の敵であるイギリス貴族政府に雇われていた。こいつはすばらしい札だ。バーサッド君が、今もイギリス貴族政府から俸給をもらって、ピット(当時のイギリスの大宰相)のスパイであり、そのふところに隠れて共和国を裏切る敵であり、大評判になっていながら、なかなか見つからないイギリス生まれの謀叛人《むほんにん》であり、すべての禍の張本人ではなかろうかという推測は、昼のように明らかだ。こいつは負かされることのない札だ。私の手のうちがおわかりですかね、バーサッド君」
「まだ、どういう札をお出しになるのかわかりません」と幾分不安そうにスパイが答えた。
「私はエース(トランプの一のこと)を出しますよ、一番近くの地区委員会にバーサッド君を告発するんだ。バーサッド君、君の手札を調べて、何があるか見てごらん」
彼は瓶を引きよせて、もう一杯ブランデーを注ぎ、それを飲みほした。彼は、自分がブランデーを飲んで即座に告発するのに適した精神状態になるのをスパイが恐れているのを見てとった。それを見とって、彼はもう一杯注いで、それを飲んだ。
「君の手札をよく注意して調べてごらん、バーサッド君、ゆっくりやり給え」
それは、彼が考えたよりも貧弱な手札だった。バーサッド氏は、自分の手札の中に、シドニー・カートンがちっとも知らない負け札があるのを見た。イギリス海峡を渡り、フランスで、最初はそこに来ているイギリス人の中での誘惑者、立ち聞き者として、そして、だんだんに、フランス人の中での誘惑者、立ち聞き者として雇われたのだということを自ら承知していた。転覆した政府の下で彼は、サン・タントワヌやドファルジュ酒店のスパイであり、用心深い警察から、ドファルジュ一家と親しく話をする手引きとなるような種々の情報を受け取り、それをマダム・ドファルジュに試してみて、大失敗したことがあった、ということを承知していた。その女が彼と話をしている時に編物をしていて、指を動かしながら彼を不吉な眼で眺めたことを彼は思い出して、恐怖のあまり震えるのが常だった。彼は、その後も、サン・タントワヌ地区で、彼女が何度も何度も、編物で書いた記録を提出して、確実に生命をギロチンにのまれる人たちを告発するのを見て来た。彼は、彼のような雇われ方をしたすべての人間と同じく、自分が決して安全でないことや、高飛びは不可能であることや、彼が斧(ギロチン)の陰の下にしっかり縛られていることを知っていた。ひとたび告発されたら、しかも、たった今彼の心に浮かんで来たような重大な根拠で告発されたら、彼がその仮借することのない性格の数々の証拠を見せつけられて来たあの恐るべき女が、彼をやっつけるために、あの致命的な記録を提出して、彼の生命の最後の望みをも押しつぶすであろうということを彼は予知した。すべて秘密を持つ人間がびくびくしがちであるということのほかに、ここには、確かに、不吉な組札がたくさんあって、そのため、それを持っている人が、それをめくるにつれて、いよいよ、顔が鉛色になってゆくのも当然であった。
「どうやら君の手札がお気に召さないようだね」とシドニーは落ち着きはらって言った。「一勝負やってみるか」
スパイはローリー氏の方を向いて、極端に卑屈な態度で言った。「あなた様のようなご年齢でご慈悲の深いお方にお願いして、このあなた様よりずっとお若いお方に、今おっしゃったエースをお使いなさいますことは、はたしてご身分にふさわしいかどうか、ということをおっしゃっていただいたら、と思います。私は自分《ヽヽ》がスパイであることや、それが不名誉な身分と考えられていることも認めます――もっとも、それは、誰かがやらなければならないのですが――しかし、このお方は決してスパイではありませんのに、なぜ、ご自分の身を落してスパイにおなりなさるのでしょうか」
「僕はエースを出すよ、バーサッド君」とカートンはみずから答えを引き受け、時計を見ながら言った。「躊躇《ちゅうちょ》することなく、あと数分したら」
「僕はこう考えたいのですよ、ご両人様」とスパイは、常にローリー氏を議論の中へ釣り込もうとつとめながら言った。「僕の姉へのご好意から――」
「君の姉さんに対する僕の好意は最後に彼女を弟から救ってあげることによって、いちばんよく証明することができるんだ」とシドニー・カートンが言った。
「そう思いますか」
「そのことなら僕はすっかり決心している」
これ見よがしの粗末な服や、またたぶんいつもの振舞とは奇妙に不調和なスパイのものやわらかな態度は、カートンの量り知れない態度――彼はもっと賢く正直な人にとっても謎であった――のために阻まれてしまって、まごつき、消え去った。彼が途方にくれている間に、カートンは、以前の、カルタを眺めるような様子を再びしながら言った。「まったく、僕は、まだ数え上げていないが、もう一枚いい札をここに持っているということを強く感じるね。自分のことを、田舎の監獄で草を食っていると評した、あの友だちで、羊《スパイ》仲間の人、あれは誰だね」
「フランス人です。あなたの知らない人ですよ」とスパイはいそいで言った。
「フランス人だって?」とカートンは考え込みながら言ったが、そのようにおうむ返しに言いながら、相手に全く注意していないように見えた。「うん、そうかもしれない」
「そうですよ、たしかに」とスパイが言った。「大したことじゃないのですけれど」
「大したことじゃないのですけれど」とカートンは同じく機械的に繰り返した――「大したことじゃないのですけれど――そうだ、大したことじゃない。そうだ。だが、僕はあの顔に見覚えがある」
「そうは思いません。そんなはずはない」とスパイが言った。
「そんな――はずが――ない」とシドニー・カートンは回顧するように呟《つぶや》き、またコップを満たした。「はずは――ない。正しいフランス語を話した。しかし、外国人のような話しかただった、と思ったが」
「田舎なまりで」とスパイが言った。
「いや。外国人だ!」ふいに光がはっきりと彼の心にひらめくと、カートンは、ひらいた手でテーブルを叩いて叫んだ。「クライだ! 変装しているが、同人だ。あの男は、オールド・ベイリー法廷で僕たちの前に立ったことがある」
「まあまあ、それは早合点ですよ」わし鼻を余分に一方にかしげるような微笑を浮かべてバーサッドが言った。「それじゃ、まったくのところ、わたしに勝たせてくださるようなものです。クライは(この人は、こんな長い年月がたってしまった今は、何も隠さず申しますと、わたしの相棒でしたが)数年前に死んでしまいました。わたしは最後の病気のとき看護してやりました。ロンドンのセントパンクラス・イン・ザ・フィールド教会に埋葬されていますよ。彼は、その時悪党仲間に不人気だったので、わたしは遺骸のおともはしませんでしたが、棺桶の中へ入れるときには手伝いました」
この時、ローリー氏は、坐っていた場所から、壁にうつった非常に不思議な化け物の影に眼をとめた。その源までたどってゆくと、それが、クランチャー氏の頭のすっかりおっ立った強張《こわば》った髪が、急に異常におっ立ち、強張ったことによって起こったのであることがわかった。
「無茶いわないで、おだやかに話し合いましょうよ」とスパイが言った。「公明正大にやりましょうよ。あなたがどんなに勘違いしているか、また、あなたの臆測がどんなに根拠がないかということを証明するために、あなたの前にクライの埋葬証明書を出しましょう。これはたまたま紙入れの中に入れて持って来たものです」――大急ぎで彼はそれを取り出して、開いた。――「あの時以来ずっとですよ。そらこれです。よく見て下さい、よく見て下さい。手にとってもいいですよ。決して、にせ物じゃありませんよ」
ここで、ローリー氏は壁にうつった影が細長く伸びるのを見た。クランチャー氏が立ち上がって、前へ歩み出したのであった。彼の髪の毛は、ジャックが建てた家(童謡「マザーグーズ」に出てくる話)の中で、角がねじれた牛がその瞬間にとかしたとしても、これほどに激しく逆立つことはなかったであろう。
スパイには見られないようにして、クランチャー氏は彼の傍に立ち、幽霊の執行吏のように彼の肩に手をふれた。
「そのロジャー・クライのことだがね」とクランチャー氏は、むっつりした頑固な顔つきで言った。「では、|お前さん《ヽヽヽヽ》が彼を棺におさめたんだね」
「そうです」
「誰があいつを棺から出したのかね」
バーサッドは椅子にかけたまま後ろにもたれかかり、どもりながら言った。「何のことを言ってるんだね」
「おれの言っているのはね」とクランチャー氏が言った。「やつがその中にいやしなかったということなんだ。そうだよ。やつはね。もしやつがその中にいたとしたら、おれは首を切られてもいい」
スパイは見まわして二人の紳士を見た。彼らは、二人とも、あっけにとられてジェリーを見ていた。
「言っておくがね」とジェリーは言った。「お前さんは、棺の中に舗石と土をつめこんだのだ。|このおれ《ヽヽヽヽ》に向かって、クライを埋葬しましたなどというのはよした方がいいぜ。あれはぺてんだった。おれのほかに、もう二人が、知っているんだ」
「どうして知っているんだね」
「それがお前にとって、どうだというんだ。くそっ!」クランチャー氏がどなった。「おれは、お前に対して、昔の恨みを思い出した。お前は恥知らずにも商売人たちを瞞《だま》したのだ。半ギニーももらったら、お前の喉につかみかかって、しめ殺すところだ」
ローリー氏とともに、この事態の変化を見て驚きのあまり我を忘れていたシドニー・カートンは、このとき、クランチャー氏に向かって、気をしずめて、わけを説明してくれと頼んだ。
「それは、別の時にしましょう」と彼は避けるように答えた。「いま説明するのは具合がわるいですから。いまわしがあくまで主張したいのは、こいつは、クライがあの棺桶の中には決していなかったということをよく知っているということなんです。その中にやつがはいっていたなどと、こいつが一言半句でも言おうものなら、わしは、半ギニーもらえば、こいつの喉をつかんで、しめ殺してしまいますよ」――クランチャー氏は、この金額を気前のいい値段としてのべたてた――「そうでなければ、外へ出て、こいつのことをふれまわってやりますよ」
「ふうん。一つのことがわかった」とカートンが言った。「僕はもう一枚カードを持っているよ、バーサッド君。君が、君自身と同じ前歴を持った貴族政府のスパイと連絡をとっていて、しかもその男が死んだふりをよそおって、また生き返るというような秘密を持っているときては、嫌疑が空気にみちあふれている、この荒れ狂うパリで、君が告発を免れて生き残るなどということは不可能だ。共和国に対する外人の、監獄内の陰謀というやつだよ。有力なカードだ――確実なギロチン・カードだ。一勝負やってみるかね」
「いや」とスパイは答えた。「わたしは投げます。白状しますと、わたしたちは乱暴な野次馬に人気がすっかりなくなったものだから、水中にもぐって死にそうになるような危険を冒して、やっとイギリスから逃げ出すし、また、クライはあちらこちら狩り立てられたから、ああいう見せかけをしなかったら決して逃げ出せなかったのです。それが見せかけだったということを、どうしてここの人が知っているのか、わたしには、不思議中の不思議です」
「この人のことに頭を悩ます必要はない」と喧嘩腰のクランチャー氏がやり返した。「このお方に気を配るだけで充分苦労することになるだろうからね。さて、どうだい。もう一度言おうか」――クランチャー氏は自分の大まかさを大いに見せびらかさずにはいられなかった――「半ギニーもらったら、お前さんの首をつかんで、しめ殺すがなあ」
監獄のスパイは、彼からシドニーの方に向き直って、前よりもきっぱりと言った。「そこで要点ですが。わたしは間もなく出勤しますし、勤務時間におくれるわけにはいきません。あなたは、提案があるとおっしゃいましたが、それは何ですか。だが、わたしからあんまり多くのことを要求しても無駄ですよ。わたしの役目で何かをするようにとか、余分の大きな危険に頭を突っ込ませようと要求なさるんでしたら、それを承知したことから来る運に生命をまかせるよりは、断ったことから来る運に生命をまかせた方がましです。つまり、わたしは、自分でその選択をしますよ。あなたは一《いち》か八《ばち》かということをおっしゃる。ここでは、わたしたちはみんな一か八かですよ。いいですか。わたしも、もし適当と思えば、あなたを告発するかもしれないし、思い切った誓いをすることだってできますよ、またほかの連中だって同じですよ、ところで、わたしにどういうご用がおありですか」
「大した用事じゃない。君はコンシエルジェリーの看守だね」
「一度だけ言っておきますがね、脱獄なんてことはできない相談ですよ」とスパイはきっぱり言った。
「僕がたずねもしないことを、なぜ言う必要があるかね。君はコンシエルジェリーの看守だね」
「時々そうです」
「好きな時に、なれるんだね」
「好きな時に、なったり、やめたりできます」
シドニー・カートンはまたコップにブランデーを注いで、それをゆっくりと炉の上にこぼし、したたり落ちるのをじっと見まもっていた。それがすっかり空《から》になると、彼は立ち上がりながら言った。
「今まで、僕たちが、この二人の前で話しをしたのは、カルタの価値が君と僕の間だけの内緒事でなくてもよかったからだ。今度は、そこの暗い部屋へ行って、二人だけで最後の一言を話し合おう」
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第九章 行われた勝負
シドニー・カートンと監獄の羊《スパイ》とが、隣の暗い部屋で、一声も聞こえないほど低い声で話している間、ローリー氏は非常に大きな疑問と不安をいだいてジェリーを見ていた。その眼つきを迎える例の正直な商売人も態度も、信頼の念を与えなかった。彼は、脚を五十本も持っていて、それを一本一本ためしてみるかのように、何度も何度も、立っている脚をかえた。彼は、非常に疑わしげに、綿密な注意を払いながら自分の指の爪をしらべた。そしてローリー氏の眼が彼の眼とぶつかるたびに、彼は手のひらでおさえなければならぬ特殊な短い咳をしたが、それは、完全に率直な性格に伴う病気とは考えられないものであった。
「ジェリー」とローリー氏は言った。「こちらへおいで」
クランチャー氏は、一方の肩を前へ突き出しながら、横歩きをして進み出た。
「お前は使いのほかに何をしていたのかね」
クランチャー氏は保護者をじっと見つめながら考えたあとで、「農業のような種類のことで」と答えた。
ローリー氏は腹立たしそうに彼に向かって人さし指を振り動かしながら言った。「わたしは、お前が、立派なテルソン銀行をだしに使って、いまわしい不正な仕事をして来たのではないかという懸念を非常に持っている。もしそうなら、イギリスへ帰った時に、わたしがお前の味方をするなどと期待しちゃいけないよ。もしそうなら、わたしがお前の秘密を守るなどと期待しちゃいけないよ。テルソン銀行をだますことはさせないからね」
赤面したクランチャー氏は弁解して言った。「たとえそんなことがあっても――いや、そんなことがあったとは言いませんが――白髪になるまで、わしが雑用をおつとめしているあなた様のようなお方が、わしに害を加えるなんてことを考え直して下さるようにお願いします。ということは、たとえそうであっても、それは、全部が一方だけの責任じゃないということを勘定に入れていただきたいんでさあ。それには、二つの面の当事者がいるのです。正直な商売人がファードン(ファージングのなまり、一ペニーの四分の一)――いや、ファードンどころか、半ファードンも――半ファードンどころか、四分の一ファードン――さえも手に入れないのに、ギニー(二十一シル)を手に入れて、す早くテルソン銀行に預け入れ――ああ! それよりす早くではないにしろ、同じようにす早く――自分の馬車に乗り降りするお医者さんが現にいるかもしれませんよ。ところで、それもまた、テルソン銀行をだますことになるでしょう。どっちもどっちですよ。また、クランチャーの家内がいて、いや、少なくとも古代イギリス時代にはいましたがね、そいつが、理由さえあれば、明日にでも、めちゃめちゃに――全くめちゃめちゃに――なるほどひざまずいてお祈りをするでしょう。ところが、あのお医者さんたちの女房はお祈りなんかしませんよ――現場を捕まえてごらんなさい! たといやるとしても、もっと患者がふえるようにと祈りますよ。だのに、一方をほったらかしておいて、もう一方をつかまえるのは正しくないでしょうが。それから、葬儀屋もいるし、教区の書記もいるし、墓掘りもいるし、非公式の番人もいるしするので(みんな貪欲で、みんなそれに関係しているのですがね)たといそれがそうであっても、あんまりもうかりませんよ。また、少しくらいもうかっても、もうけたやつが、その金で栄えるということはないでしょう。その男は、それで利益を得ることは少しもないでしょう。たとえそれがそうであっても――その男は、一度その商売を始めたあとで、それから抜け出す道を見つけることができたら、始終、抜け出したいと思いつづけるでしょう」
「へえ!」とローリー氏は叫んだが、幾分心がやわらいだ様子だった。「わたしは、お前を見るとぞっとするよ」
「ところで、あなたにお願いしたいことは」とクランチャー氏はつづけた。「たとえそれがそうであっても――わしはそうじゃないと思いますがね――」
「言いぬけをしちゃいけないよ」とローリー氏が言った。
「いいえ、そんなことはしませんよ」とクランチャー氏が答えた――それ以上に彼の考えや行いから遠いものはないとでもいわんばかりに――「わしはそうじゃないと思いますが――あなたに申し上げたいことは、こうなんです。あの関門のところにある、あの腰掛に、一人前の男に育て上げてやったわしの息子が坐っていますが、その息子は、もしもあなたがご希望なら、あなたの腰が曲がってしまうまで、どんなご用でも、お使いでも、ありふれた軽い仕事でもいたしますよ。もしもそれがそうなら――やっぱりわしはそうじゃないと思いますが(あなたに向かって言いぬけをするつもりはありませんからね)――あの息子を父親の跡つぎにしてやって、おふくろの世話をさせてやって下さい。あの息子の父親の信用を失わせるようなことをなさらないで――そんなことをなさらないで――その父親に本職の墓掘りをさせて――もしもそれがそうなら――その父親がこれまで掘り出したものの埋め合わせに、今後それが無事に保存されるという確信をもって、一生懸命にそれを埋めるようにさせてやって下さい。ローリーさん」とクランチャー氏は、彼が談話の結論に到達したことを告げるしるしとして、腕で額をぬぐいながら言った。「それがあなたへのお願いのすじなんです。ここじゃ、首のない人たちが、あまり多すぎて、運び賃ほどに値段がさがってしまうというような恐ろしいことが周囲に起こっているので、それを見ると、まじめに物事を考えずにゃいられませんよ。もしもその通りでしたら、ただいまわしが言ったことをおぼえていて下さるようお願いするというのが、わしの考えなんです。わしは隠しておいてもいいのに、よかれと思って、思いきって言っちまったんですよ」
「それは、少なくとも、ほんとうだ」とローリー氏が言った。「それ以上言わなくてもいい。もしも君が今言ったとおりの人間で――言葉だけでなく――行いの点でも改悛するなら、これからも味方になってやるかもしれないよ。もうこれ以上何も聞きたくない」
シドニー・カートンとスパイが暗い部屋から出て来たときに、クランチャー氏は指の関節で額を打った。「さよなら、バーサッド君」とカートンが言った。「このように取りきめができた以上、君は僕を恐れることはない」
彼は、炉辺の椅子に、ローリー氏と向かい合って坐った。二人だけになると、ローリー氏は彼に何をしたのかとたずねた。
「大したことじゃありません。もしも、あの囚人に不利なことが生じたら、一度だけ彼に近づく権利を確保しておきました」
ローリー氏の顔色が変わった。
「それがせいいっぱいのところです」とカートンが言った。「あんまり注文をつけすぎると、あの男の首を斧の下に入れることになるでしょうし、また、彼が言っているとおり、彼が告発されるとなると、それ以上悪い事は彼には起こるはずがありません。これは明らかに境遇の弱みでした。どうしようもありません」
「しかし」とローリー氏が言った。「法廷がうまくいかなかったら、あの人に面接したって、あの人は救えないでしょう」
「救えるとは決して言いませんでしたよ」
ローリー氏の眼は徐々に炉の火を求めた。再度の逮捕にひどく落胆して、その眼はしだいに弱くなった。このごろ、彼は、最近の心配に押しつぶされてふけ込んでしまっていた。涙がこぼれた。
「あなたはいい人だし、ほんとうの友だちだ」とカートンが、声の調子を改めて言った。「あなたが深く感動なさったことに僕が気がついたにしても、おゆるし下さい。僕は、父が泣くのを見て、無頓着でそばに坐ってはいられませんでした。そして、もしもあなたが僕の父であったとしても、あなたのお悲しみにこれ以上敬意を表することはできないでしょう。しかし、さいわいに、あなたは、僕の父ではありません」
彼は、いつもの態度に戻ってこの最後の言葉を言ったのだが、彼の調子にも話しぶりにも、真情と尊敬があらわれていたので、ローリー氏は、これまで彼の良い面を見たことがなかっただけに、まったく思いがけなかった。彼はカートンに手を差し出し、カートンはそれをやさしく握った。
「可哀そうなダーネーの話に戻りますが」とカートンが言った。「さっきの会見のことや、あの取りきめのことは、ルーシーにおっしゃらないでください。あんなくらいのことで、あのひとが彼に会いに行けるようにはなりませんから。あのひとは、最悪の場合に、彼のところへ、死刑の宣告に先手を打つ手段(自殺用具)を運び込む相談をしたのだろうと考えるかもしれません」
ローリー氏はそこまでは考えていなかったので、この男が心の中でそんなことを考えているかどうかを確かめようとして、す早く彼の顔を見た。どうもそうらしかった。彼はその眼に応え、明らかにその意味を理解した。
「あのひとはいろいろのことを考えたかもしれませんが」とカートンが言った。「何を考えても、苦労が増《ふ》えるばかりだったでしょう。あのひとには僕のことをいわないでおいて下さい。はじめてここへ来た時にも申しましたように、僕はあのひとに会わない方がいいでしょう。会わなくたって、手を差し出して、その手でできる限りつくしてあげることができるのですから。あのひとのところへいらっしゃるのでしょう?今夜あたりは、非常にさみしがっているにちがいありませんからね」
「今すぐ行こうと思っています」
「それはうれしい。あのひとはあなたに強い親しみと信頼をよせていますからね。どんな様子ですか、あのひとは」
「心配ばかりして、不幸ですが、非常にきれいですよ」
「ああ!」
それは、吐息に似た――ほとんどすすり泣きに似た――長い悲しそうな声だった。それはローリー氏の眼をカートンの顔にひきつけたが、その顔は炉の火の方へ向けられた。風の激しい日に、光の変化が丘の中腹をさっと通りすぎるように、光か影かが(老紳士はどちらとも言えなかったが)、その顔から去ると、彼は片足をあげて、前へころがり出ようとしていた小さな、焔をあげて燃えている一本の薪を押し戻した。彼はその当時流行の白い乗馬服を着、長靴《ちょうか》をはいていたが、それらの表面に炉の火の光が当たって、全然手入れをしない長い褐色の髪が顔のまわりにばらばらになってさがっている彼を非常に蒼白く見せていた。彼が火に対してあまりに無頓着なのを見て、ローリー氏は一言注意する気になった。彼の長靴は、足の重みのためにくだけ、焔をたてて燃えている薪の熱いもえさしの上にまだのっていた。
「うっかりしていました」と彼は言った。
ローリー氏の眼は再び彼の顔にひきつけられた。生まれつき美しい顔が曇り、憔悴《しょうすい》しているのに気づき、また囚人たちの顔の表情をあざやかに記憶していたものだから、彼は囚人の表情をはっきりと思い出した。
「で、ここのご用はだいたい終りましたか」とカートンは彼の方を向いて言った。
「はい。昨晩ルーシーが思いがけなくはいってきたときにお話ししかかっていたように、ここでできることは、ようやく片をつけました。あの人たちを完全に大丈夫にしておいてから、パリを去りたいと思いました。通行の許可も得てあります。出発の用意もできていました」
二人とも沈黙した。
「あなたの生涯はふり返ると長い生涯でしたでしょうね」とカートンは考え込んで言った。
「七十八歳ですからね」
「一生涯有益な方でしたね。常に変わらず仕事に忙しく、信頼され、尊敬され、重んじられて」
「一人前の人間になってからずっと事務家でしたよ。まったく、子供の時にもう事務家だったと言ってもいいのです」
「七十八歳で、どういう地位を占めておられるかをごらんなさい。その地位をおあけになったら、どんなに多くの人がさみしがることでしょう」
「孤独の老独身者ですよ」とローリー氏は答えて首をふった。「わたしのために泣いてくれる人は一人もありません」
「どうしてそんなことが言えますか。あのひとはあなたのために泣かないでしょうか。あのひとの子はどうですか」
「そうです、そうです、ありがたいことです。口に出したとおりのことを考えていたわけじゃありません」
「それはありがたいこと|ですよ《ヽヽヽ》、そうでしょう?」
「たしかに、たしかに」
「もしもあなたが、今晩、本心から、あなたの孤独な心に向かって『わたしは、誰の愛情も愛着も、感謝も尊敬もひきつけたことがなかった。わたしは、どういうことでも、他人にやさしくする地位に立ったことはなかった。わたしは、記憶されるようないいことや役にたつことを何一つしたことがない』とおっしゃることができたとしたら、あなたの七十八年は、七十八のはげしい呪いでしょう。そうじゃありませんか」
「あなたのおっしゃる通りです、カートンさん。そうだろうと思いますよ」
シドニーは、再び眼を火に向け、しばらく黙っていたあとで言った。
「あなたにおたずねしたいのですが――あなたの幼年時代はずっと昔に思えますか。お母さんの膝に坐っておられた日々は、ずっと昔のように思えますか」
彼のやわらいだ態度に応じて、ローリー氏は答えた。
「二十年前だったら、そうだったのですが、この年になっては、そうじゃありません。人生の終りに近づくにつれて、わたしは、円をえがいて、出発点にますます近づいて行くからです。これからの道がなめらかになり、静かに開かれてゆくような気がします。このごろは、美しい、若い母(自分はこんな年寄りだのに)の長い間眠っていたさまざまの記憶がよみがえったり、また、いわゆる『世間』なるものがわたしには現実的ではなく、わたしの種々の欠点がまだ不治のものではなかったころのいろいろの連想が起こって来たりすると、わたしは感動するのですよ」
「その気持は僕にもよくわかります」とカートンは顔をかがやかしながら叫んだ。「それがかえってあなたの幸いになるでしょう」
「そう思います」
彼は、ここで会話を終りにして、彼が外套を着るのを手伝った。「しかし」とローリー氏は話題を戻して言った。「あなたは若い」
「そうです」とカートンは言った。「僕は年寄りではありません。しかし僕の若い道は決して老齢への道ではありません。僕のことはもうたくさん」
「そして、わたしのことも、たしかに」とローリー氏は言った。「出かけますか」
「あのひとの家の門まで一緒にまいりましょう。僕の放浪癖と、じっとしていられない癖はご存じの通りです。僕が長時間街をうろつきまわっても、ご心配下さいますな。朝になったら、またやって来ますから。明日は法廷へいらっしゃいますね」
「はい、不幸にして」
「僕も行きますが、ただ群集の一人としてね。あのスパイが席を見つけてくれます。僕の腕におつかまりください」
ローリー氏がそうして、二人は階段を下り、街に出た。二、三分で二人は、ローリー氏の目的地に着いた。カートンはそこで彼に別れたが、少し離れたところにぐずぐずしていて、門が閉まったとき再びそこへ戻り、それに手をふれた。彼は、彼女が毎日監獄へ行く足音を聞いた。「あのひとは、ここへ出て来て」と彼はあたりを見まわしながら言った。「それからこちらの方にまがり、これらの石をたびたび踏んだにちがいない。あのひとの足跡をたどってみよう」
彼女が何百度も立ったことのあるラ・フォルス監獄の前に彼が立ったのは、夜の十時であった。小男の木挽《こび》きは、店を閉めて、店の入口のところでパイプをふかしていた。
「今晩は、市民」とカートンは行きすぎるときに立ち止まって言った。その男がせんさくするようにじっと見たからだ。
「今晩は、市民」
「共和国はうまくいっているかね」
「ギロチンのことをいっているんだね。悪くはないよ。今日は六十三人だった。間もなく百人になるだろう。サンソンやその子分たちは疲れるといってこぼしているよ。は、は、は! あいつはまったく滑稽だよ、サンソンというやつは! めずらしい床屋だ!」
「たびたび見たかね、その男が――」
「そるところを? いつでも。毎日。なんてうまい床屋だろう! やつが仕事をしているところを見たかい」
「一度も見ない」
「たくさんお客がきたとき、やつのところへ行って見てごらん。そこを自分で想像してごらん、市民。今日、やつは、二服とすわないうちに六十三人の頭を刈ったよ。二服とすわないうちにだよ。うそは言わないよ」
にやにやしている小男が、ふかしていたパイプを突き出して、死刑執行吏の時間をどうして計ってやったか説明しているときに、カートンは、その男から生命を叩き出してやりたいという欲望がむらむらとわいてきたので、その場を去った。
「でも、あんたはイギリス人じゃないね」と木挽きがいった。「イギリスの服を着ているけれど」
「イギリス人だよ」とカートンは再び立ち止まって、肩越しに答えた。
「あなたはフランス人のようにしゃべるね」
「私はずっとここに留学しているから」
「ははん、フランス人そっくりだ。おやすみ、イギリス人」
「おやすみ、市民」
「でも、あの滑稽なやつを見に行ってごらん」と小男が後ろから呼びかけて、しつこく言った。「パイプを持って行くんだよ」
シドニーは、彼が見えなくなってからあまり遠くまで行かないうちに、街のまん中のちらちらしていた街灯の下で立ち止まり、鉛筆で紙切れに書いた。それから、その通りをよく憶えている人のようなしっかりとした歩調で、暗い、きたない街――いつもよりもきたなかった。この恐怖時代にあっては、最上の公道でさえも、掃除もしないでほったらかしてあったから――を横切って、薬屋の前に立ち止まったが、その店の持ち主は自分の手で店を閉めているところだった。曲りくねった、上り坂の通りにあって、小さな、ぼんやりした、曲った男が経営している、小さな、ぼんやりした、曲った店。
勘定台で彼と向かい合うと、この市民にも、今晩は、を言い、彼は前に紙切れをおいた。「ヒュウ!」と薬屋はそれを読みながら静かに口笛を吹いた。「ヒ、ヒ、ヒ!」
シドニー・カートンは少しも気にとめなかった。すると薬屋が言った。
「あなたが使うのですか、市民」
「僕が使う」
「これを別々にしておくよう注意して下さいますね、市民。これをまぜたらどんなことになるかご存じですね」
「よく知っているよ」
幾つかの小さな包みが作られ、彼に渡された。彼はそれを一包みずつ、上衣の内かくしに入れ、代金を勘定して払い、ゆうゆうと店から立ち去った。「明日までは、もうこれ以上することはない」と彼は月を見上げながら言った。「おれは眠ることができない」
速く走る雲の下で彼が口に出してこう言ったときの態度は、なげやりではなく、また、挑戦や無頓着を表わしているのでもなかった。それは、さまよい、もがき、道に迷い、ついにおのれの行くべき道に出て、その終るところを見た、疲れきった人のような落ち着いた態度であった。
ずっと昔、彼が前途有望の青年として、最初の競争者の間で有名であったころに、彼は父の遺骸のおともをして墓場へ行ったことがあった。母は何年も前に死んでいた。彼が父の墓石で読んだこの厳かな言葉が、頭上高く月と雲が走っていて、重い影が地上にある暗い街路を歩いているときに、記憶の中によみがえってきた。「主言いけるは、我はよみがえりなり生命《いのち》なり。我を信ずる者は死ぬるとも生くべし。すべて生きて我を信ずる者は永遠に死ぬることなし」
斧の支配する都市で、夜ただひとりでいて、その日に死刑になった六十三人について、また、その時監獄の中で死を待つ明日の犠牲者たちや、その翌日の、またその翌日の犠牲者たちについて、おのずからな同情がわき上がってくるとき、この言葉を思い出させた連想の鎖が、海底から引き上げられる船の古いさびた錨のように、容易に見出されるかもしれなかった。彼はそれをさがさなかったけれども、言葉は何度も繰り返し、そして歩きつづけた。
人々が、静かな数時間の間、彼らをとりまく恐るべきものを忘れて眠ろうとしている部屋の明かりのついた窓や、あまり長い年月にわたって僧侶の身で詐欺をしたり、略奪したり、浪費したりするものがいたために、人々の嫌悪も自然に消えてしまうというありさまで、そのため、お祈りもささげられなくなった教会の塔や、門に書いてあるとおりに、永遠の眠りのためにとりのけてある遠くの埋葬地や、近くの牢獄や、死刑がありふれた、物質的なことになってしまったために、あれほどの断頭台の仕事からさえも、地上を訪れる幽霊の悲しい話が、人々の中に起こらなくなってしまったのだが、そういう死刑に向かって六十人の囚人が車で連れて行かれた街々に対する厳粛な興味を感じながら、狂乱の中で短い夜の休息についているこの都市の生と死のすべてに対する厳粛な興味を感じながら、シドニー・カートンはセーヌ川を渡って、再びいっそう明るい街へ向かった。
馬車に乗っているものたちは嫌疑をかけられるおそれがあったから、馬車はあまり出ていなかったし、上流社会のものは、赤い帽子をかぶり、重い靴をはいて、とぼとぼと歩いていた。しかし、劇場はどこも一杯で、彼が通りすぎるときに、そこから人々が快活にどっと流れ出して来て、しゃべりながら家路についていた。劇場の一つの扉の前で、幼い少女が母親と一緒に、ぬかるみの街を横切ろうとしていた。彼はその子を抱いて渡し、そのおずおずとした腕が彼の頸のまわりにゆるむ前に、彼女に接吻を求めた。
「主言いけるは、我はよみがえりなり生命《いのち》なり。我を信ずる者は死ぬるとも生くべし。すべて生きて我を信ずる者は永遠に死ぬることなし」
街がひっそりし、夜がふけた今は、それらの言葉が彼の足音のこだまの中にも、空中にも聞こえた。彼は、すっかり落ち着きはらって歩きながら時々心の中でその言葉を繰り返したが、それは常に彼の耳に聞こえた。
夜がすっかりふけ、彼が橋の上に立って、家々や大寺院が絵のようにごっちゃにあるところが月の光に明るく輝いているパリ島(セーヌ川の中の島)の岩壁に飛び散っている水の音に耳を傾けているとき、夜明けが冷えびえとやってきて、死人の顔のように空からのぞき出した。すると、月と星のある夜空が蒼白くなって消え、しばらくの間は、天地万物が死の支配にゆだねられたかのように見えた。
しかし、さん然とした太陽が昇り、夜中じゅうの折り返し句であった例の言葉を、長い、明るい光線にくるんで、真っ直に、暖く、彼の心にぶつけるように思われた。うやうやしく手をかざした眼で、その光線をたどって見ると、光の橋が彼と太陽との間の空中にかかっているように見え、その下を川がきらきら光って流れていた。
非常に速く、確実な、強い流れは、朝の静けさの中で、気の合った友人のようであった。彼は、家々から遠くはなれたところで、流れにそうて歩き、太陽の光と暖かさに包まれて、土手で眠った。目をさまして、ふたたび立ったときに、彼はまだしばらくそこにぐずぐずしていて、渦が目的もなしにぐるぐるまわり、ついに流れがそれを吸い込んで、海へと運んで行くのを見まもっていた。――「おれみたいだ!」
枯葉のようなやわらかな色の帆のある貨物船が、その時すべるようにして彼の視野の中に現われ、通りすぎ、消え去った。水上の航跡が消えるときに、彼のあらゆる哀れな盲目さや過ちに対して慈悲深い思いやりを願う祈りが胸の中からどっとわき上がって来て、それが次の言葉で終った。「我はよみがえりなり生命《いのち》なり」
彼が帰ったときには、ローリー氏はすでに出かけたあとだった。シドニー・カートンはただちょっとばかりコーヒーを飲み、パンを食べただけで、気分をさわやかにするために顔を洗い、着がえをすると、裁判の場へ出かけて行った。
黒い羊《スパイ》――多くの人たちが恐れてこの男を避けた――が彼を群集の中の目立たない片隅へ押し込んだ時には、法廷はざわめき立っていた。ローリー氏もきていたし、マネット医師もきていた。彼女もきていて、父の傍に坐っていた。
夫が連れ込まれたときに、彼女はそちらに眼を向けたが、その眼は、はげまし、勇気づけ、賞賛と愛情、憐れみとやさしさにあふれ、それでいて、彼のために勇気にあふれていたので、それを見ると、彼の顔には健康な血色があらわれ、その眼は輝き、その胸は活気づけられた。もしも誰かの眼が、彼女の眼がシドニー・カートンに与えた影響に気づいたとすれば、それは、全く同じであったということを見てとったであろう。
その不公正な裁判には、被告に対して合理的な尋問をすることを保証するような裁判手続きはほとんどないか、全然なかった。もしもすべての法律や形式や儀式が、最初から奇怪にも濫用されないで、革命の自殺的復讐がそれらのものを吹っ飛ばすことにならなかったならば、あのような革命は起こり得なかったであろう。
あらゆる眼が陪審員たちに向けられた。昨日も、一昨日も、明日も、明後日も、同じように断固とした愛国者たちや善良な共和主義者たちだ。その中で特に熱心で目立っていたのは、何かを渇望するような顔をした一人の男で、その男の指は絶えず唇のあたりにうろうろしており、その男の出現は見物人たちに大きな満足を与えた。生命に飢えた、食人種のような顔をした、残忍な陪審員である、サン・タントワヌ地区のジャーク三であった。全陪審員が、選ばれて鹿を裁く犬の陪審員のようだ。
あらゆる眼が、その時、五人の裁判官と検事に向けられた。今日は、その方面には少しも好意的な傾向がない。恐ろしい、非妥協的な、殺人的な仕事がここでなされようとしている。どの眼も群集の中にどれか別の眼をさがし求め、それに向かって満足げに輝き、頭が互にうなずき合ってから、うつむきかげんになって緊張した注目をそそいだ。
通称ダーネーこと、シャルル・エヴレモンド。昨日釈放、昨日再告発、再逮捕。起訴状は昨夜彼に交付。共和国の敵、貴族、暴君一家の一員、国民に対する恥ずべき圧迫のために廃止された特権を行使したかどにより人権を剥脱《はくだつ》された家門の一人、としての嫌疑により告発。そのような人権剥脱により、通称ダーネーこと、シャルル・エヴレモンドは法律にてらして絶対的に死刑。
こういう意味のことを、これくらいか、もっと少ない言葉で、検事が述べる。
裁判長が、被告は公然と告発されたのか、それとも秘密にか、とたずねた。
「公然とです。裁判長」
「誰によってか」
「三つの声によって、サン・タントワヌの酒店エルネスト・ドファルジュ」
「よろしい」
「彼の妻、テレーズ・ドファルジュ」
「よろしい」
「医師、アレクサンドル・マネット」
法廷に大騒ぎが起こり、そのまん中にマネット医師が、蒼ざめ、震えながら、今まで坐っていた場所に立ち上がっているのが見えた。
「裁判長、私は、これが偽造であり偽瞞であることを憤然として抗議します。あなたは、被告が私の娘の夫であることをご存じです。娘と、娘にとって大切な人たちは、私にとっては生命よりも大切です。私が自分の子の夫を告発するなどというのは誰で、そのうそつきの陰謀家はどこにいますか」
「市民マネット、静かに。法廷の権威に服しないならば、あなたは法律の保護の外におかれますぞ。あなたにとって生命よりも大切なものと言われるが、善良な市民にとっては、共和国ほど大切なものはあるはずがない」
この叱責は大喝采で迎えられた。裁判長はベルを鳴らし、熱心にまた言い始めた。
「もしも共和国が、あなたから、あなたの子を犠牲にすることを要求したら、あなたの義務は、娘を犠牲にする以外にはない。これから始まることをよく聞きなさい。その間は黙っていなさい」
狂気じみた喝采がまた起こった。マネット医師は、周囲を見まわし、唇をふるわせながら坐った。彼の娘は彼にいっそう寄りそった。陪審員席にいる、何かを渇望しているような男が、両手をこすり合わせて、いつもの手を口のところへ戻した。
ドファルジュは、法廷がしずまって、彼の声が聞こえるようになると、紹介され、医師の投獄のことや、彼が医師に仕えていたころはまったくの少年であったということや、釈放のことや、その囚人が釈放されて彼に引き渡された時の状態のことなどについて、早口で説明した。次の短い尋問がつづいた。法廷は急いで仕事を片付けていたからだ。
「あなたは、バスチーユの占領の時には、立派な手柄をたてたのだね、市民」
「そう信じます」
この時群集の中から興奮した女が甲高い声で叫んだ。「あの時、あなたはいちばん立派な愛国者の一人でした。なぜそう言わないのですか。あなたは、あの日に、あそこで、砲手でした。あなたは、あのいまいましい城が落ちた時に、真先にのり込んだ一人でした。愛国者たち、私はほんとうのことを言っているのですよ」
聴衆の熱心な賞賛のただ中にあって、このように裁判の進行を助けたのは『復讐』であった。裁判長はベルを鳴らした。しかし『復讐』は、激励を受けて興奮して、金切り声で叫んだ。「そのベルに抗議します!」すると彼女は前と同じように大喝采された。
「あの日バスチーユの中で何をしたか、この法廷に報告しなさい、市民」
「私は知っています」とドファルジュは、自分が上った階段の一番下のところに立って、じっと見上げている妻を見おろしながら言った。「いま私が話題にしているこの囚人は、北塔百五番として知られていた監房に監禁されていたのです。私はそのことを彼自身から聞いて知っています。彼は、私の世話で靴をつくっていたときには、ただ北塔百五番という名前のほかに自分の名前を知りませんでした。その日大砲をうっていて、ここが陥落したら、あの監房を調べてやろうと決心しました。それは陥落しました。私は、今ここに陪審員として来ている仲間の市民と一緒に、看守に導かれて監房へ上って行きました。私はそこを綿密に調べました。煙出しの、石が一つ外され、それからまた元のようにはめこんであった穴の中に、書類を見つけました。これがその書類です。私はマネット医師の筆跡の標本を調べることを私の仕事としました。これがマネット医師の筆跡です。マネット医師直筆のこの書類を裁判長の手にお渡ししましょう」
「それを読み上げて下さい」
死んだような沈黙と静寂の中で――裁かれている囚人は愛情をこめて妻を見、妻は心配そうに父親を見るときだけ夫から目をはなし、マネット医師は書類を読む人にじっと目をすえ、ドファルジュの妻は囚人から少しも目を離さず、ドファルジュは楽しそうにしている妻から決して目を離さず、またそこにいるすべてのものたちは、マネット医師を余念なく見つめ、医師は誰をも見ないでいた――その書類は次のように読まれた。
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第十章 影の実体
「ボーヴェー生まれで、後にパリの住民となった不幸な医師である私、アレクサンドル・マネットは、一七六七年の最後の月に、バスチーユ監獄の陰気な監房の中でこの憂鬱な文章を書く。私は、暇をぬすみ、あらゆる困難の下に書く。私は、これを煙出しの壁の中に隠すつもりだ。私は、その壁に、ゆっくり、骨を折って隠し場所を作っておいたのだ。私と私の悲しみが土になってしまったときに、誰か憐れと思う人の手がこれをそこに見つけるかもしれない。
「私は、さびた鉄の尖端でこれを書いているが、とらわれの身になってから十年目の最後の月に、煙出しからかき取ったすすと炭に血をまぜて、それでもって辛うじて書いているのである。希望は私の胸からすっかり去ってしまった。心の中に感じた恐るべき予感からして、私は、理性が損われないでいるのはもう長くはないことを知るが、しかし、今はまだ正気を失わないでいるし――記憶も正確だし詳細だし――したがって、永遠の法廷において、人がそれを読むと読まないとにかかわらず、この最後に書き記した言葉に対して責任がもてるように、真実を書いておくことを厳かに宣言する。
「一七五七年の十二月の第三週(その月の二十二日だったと思うが)のある曇った月の夜に、私が、医学校街の私の住居から一時間の距離のところにあったセーヌ川の波止場を、霜の夜の爽快さを求めて散歩していると、うしろから一台の馬車が非常に速く走ってきた。ひかれやしないかと心配して、馬車をやりすごすために、わきに寄ると、窓から頭が突き出て、声が御者に向かって止まれと叫んだ。
「御者が馬のたづなを引いてとめると、すぐ馬車がとまり、前と同じ声が、私の名を呼んだ。私は答えた。馬車は私からずっと前の方にとまっていたから、二人の紳士は、私が追いつくまでに、扉をあけて降りるだけの余裕があった。私は、二人ともが外套にくるまって、身を隠している様子だということを見てとった。二人が馬車の扉の近くに並んで立ったときに、私は、二人ともが私とほぼおない年であるか、少し年下のようであり、また、二人が身長も態度も声も、それから(私に見えたかぎりでは)顔もまた非常によく似ていることを見てとった。
「『あなたはマネット先生ですね』と一人が言った。
「『そうです』
「『以前ボーヴェーにいられたマネット先生ですね』とほかの男が言った。『もとから外科の専門で、過去一、二年のあいだに、パリでめきめき名声をあげてこられた若いお医者さんですね』
「『お二方』と私は答えて言った。『私は、いまご丁重におっしゃってくださった医者のマネットです』
「『われわれはあなたのお住居へ行ってきたのですが』と最初の男が言った。『不幸にしてご不在でしたし、たぶんこちらの方へ散歩に出かけられたと聞いたので、追いつけるだろうと思って、あとを追ってきました。この馬車にのってくださいませんか』
「二人の態度はごうまんで、このように言いながら、二人とも、彼らと馬車との間に私を挾むような具合に動いた。彼らは武装していた。私はしていなかった。
「『お二方』と私は言った。『失礼ですが、いつでも私は、私の助力を求めてくださる方はどなたかということと、私が招かれて診《み》る病気は何かということをおたずねすることになっています』
「これに対する答えは、二番目に口をきいた男がした。『先生、あなたに診察を求めているのは、身分のある者です。病気の性質については、われわれは、あなたの腕に信頼しているので、われわれがお話しする以上に、あなたがご自身で確かめられるものと信じます。それくらいでいいでしょう。馬車に乗ってくださいませんか』
「私は応ずるより仕方がないので、黙って乗った。彼ら二人も私のあとから乗った――最後に乗った男は、踏台を上げたあとで跳び乗った。馬車はぐるりとまわって、前の速力で走りつづけた。
「私は、この会話を実際にあった通りにここに繰り返している。私は、一語一語が、全く同じであることを疑わない。私は、気が散らないように努力しながら、一切のことを、起こった通りに記述している。次にあるような断絶符号を使う場合には、私は、しばらく休んで、この書類を隠し場所に入れるのである。…………
馬車は街々を後にし、北城門を通って、田舎道へ出た。その城門から三分の二リーグのところで――私は、その時には距離を見積らなかったが、後になってそこを歩いたときに見積った――馬車は本通りから離れ、間もなく一軒家の前でとまった。私たちは三人とも降りて、手入れの行き届かない噴水があふれていた庭の中の、湿ってやわらかい歩道を歩いて、その家の戸口まで行った。戸は、ベルの音に応えてすぐには開かなかったので、私を連れて行った二人のうちの一人が、重い乗馬手袋で戸を開けた男の顔をなぐった。
「私は平民たちが犬よりももっとあたりまえになぐられるのを見てきたから、この行動には私の特別の注意をひくものは何もなかった。二人のうちのもう一人の男も、同じように腹を立てて、腕でもって、同じようにその男をなぐった。この兄弟の顔つきも振舞も、その時は全く同じであったので、私は、初めて二人が双生児だと気がついた。
「私たちが外の門(それは私たちがそこまできたときには錠がおろしてあったが、兄弟のうちの一人がそれを開けて、私たちを入れてから、また錠をおろした)の前で降りた時から、ずっと、二階の部屋から叫び声が聞こえていた。私はまっすぐにその部屋へ導かれたが、階段をあがってゆくにつれ叫び声はますます大きくなり、部屋へ行ってみると、一人の病人が脳を高熱におかされて、床についていた。
「その病人は女で、非常な美人であって、年も若く、確かに二十歳をあまり出ていなかった。頭髪はかきむしられてもじゃもじゃになり、腕は飾り帯やハンケチで両脇に縛りつけられていた。縛るのに使ったこうしたものは、全部男の衣類の一部分だということに私は気がついた。そのうちの一つは、礼服のときにつける縁飾りのあるスカーフであって、それには貴族の紋章とEという字が縫いつけてあった。
「私は、病人の診察にとりかかってから一分もたたぬうちに、これに気がついた。女が、落ち着きなくもがいて、ころがってベッドの端にうつぶせになり、そのスカーフの端を口の中へ吸い込んで、窒息の危険におちいったからである。私が第一にしたことは、手を差し出して、女の呼吸を助けるということであった。スカーフをとり除くときに、隅の刺繍が私の眼にとまった。
「私は静かにその女をころがして仰向けにし、静まらせるために女の胸に両手をおいて、おさえたまま顔をのぞき込んだ。女の眼は大きく見はり、気違いじみて、女は絶えず突き刺すような金切り声をあげて、『私の夫、私の父、私の弟!』という言葉を繰り返し、それから十二まで数えて『しいっ!』と言った。しばらく、何も言わないで、聞き耳を立て、それからまた、突き刺すような金切り声が始まり、女は『私の夫、私の父、私の弟!』という叫びを繰り返し、十二まで数えて、『しいっ!』と言うのであった。順序にも、言い方にも、何ら変化がなかった。女は、ほんの一瞬間休むだけで、絶えまなくこういう声を発していた。
「『これはどれくらい続いていますか』と私がたずねた。
「『この兄弟を区別するために、これからは、彼らを兄、および弟と呼ぶことにする。兄というのは、最も多く権力を行使する方のことである。答えたのは兄だった。『だいたい、昨夜の今ごろからです』
「『この方には、ご主人や、お父さんや、ご兄弟がおありですか』
「『弟はいます』
「『いま私が話しかけているのは、この女のかたのご兄弟じゃありますまいね』
「彼は非常に軽蔑をこめて答えた。『違いますよ』
「『この方は最近十二という数に関係がおありでしたか』
「弟の方が、じれったそうに答えた。『十二時と関係があります』
「『お二方』と私は、まだ彼女の胸に手をあてたまま言った。『あんな風にして私をお連れになったんでは、お役に立たないことがおわかりになりましたでしょう。もしも私が、何を見に行くのかということを知っていたら、用意をしてくるのでした。これじゃ、手おくれになるにきまっています。こんな淋しいところでは薬は手に入りますまい』
「兄が弟の方を見ると、弟は横柄に言った。『ここに薬箱がある』そして、押入れからそれを運び出し、テーブルの上においた。……
「私は、数ある壜《びん》の中のあるものの栓《せん》をとって、中の薬のにおいを嗅ぎ、栓を唇にあてた。もしも私が、本来毒薬である麻酔剤以外のものを使いたいと思ったら、それらのうちのいずれをも服用させはしなかったであろう。
「『あなたはその薬を疑うのか』と弟がたずねた。
「『ごらんの通り、これから使うところですよ』と私は答え、それ以上何も言わなかった。
「私は、非常に骨折って、やっとのことで、のませたいと思った分量の薬を患者にのませた。私は、しばらくしたら同じことを繰り返すつもりだったし、その効き目を見まもっていることが必要だったので、ベッドの傍に坐った。内気で無口な付添いの女(階下の男の妻)がいたが、その時は部屋の隅に退いていた。家はじめじめしていて、腐蝕しており、可もなく不可もない家具がとりつけてあり――最近人が住んでいて、臨時に使用されていたらしい。金切り声を消すために、厚い古い掛布が窓の内側に釘で打ちつけられてかかっていた。金切り声は『私の夫、私の父、私の弟!』という叫びと、十二まで数えて『しいっ!』と言う順序で規則正しくつづいていた。狂乱があまり激しかったので、私は腕を縛ったものをゆるめないで、それが痛くないように心を配った。この場合にわれわれをはげました唯一のことは、病人の胸の上においた私の手が、一時的に数分の間病人をしずまらせるほどの慰める力を持ったということであった。それは金切り声には効果がなかった。どんな時計の振子も、あの叫び声ほどに規則正しくはなかった。
「私の手がこのような効き目を持った(と私はひとり合点する)という理由から、私は、じっと見ている二人の兄弟と一緒に半時間ベッドのそばに坐っていたが、やがて兄の方が言った。
「『もう一人病人がいるのだが』
「私はびっくりして、たずねた。『急病ですか』
「『診て下さった方がいい』と彼は無造作に答え、明かりを手にとった。……
「もう一人の患者は、二つ目の階段の向うにある奥の部屋にねていたが、その部屋は、うまやの二階のようなところであった。部屋の一部には、低い、しっくい塗りの天井があった。他の部分は天井がなく、瓦屋根の棟裏になっており、梁《はり》が渡してあった。その部分には、乾草やわらがたくわえられ、また、薪や、砂の中にうずめた林檎《りんご》の山があった。他の部分へ行くには、そこを通りぬけなくてはならなかった。私の記憶は詳細にわたり、ゆるがない。私は、こまごまとしたことを思い出してみたが、逮捕されてからも十年目の終り近くになっているのに、あの夜見たことを全部、このバスチーユ監獄の監房の中で、まのあたりに浮かべることができる。
「床の上の乾草の上に、頭の下に無造作にクッションを押し込まれて――百姓の美少年――せいぜい十七歳くらいの少年――がねていた。彼は、歯を食いしばり、右手を胸の上で握り、ぎらぎらした眼でまっすぐに天井を見上げて、仰向けにねていた。私は、片方の膝をついて見た。どこを怪我しているかわからなかったが、彼が鋭い突き傷のために死にかかっていることはわかった。
「『お気の毒な方、私は医者だから』と私は言った。『しらべさせて下さい』
「『しらべてもらいたくないんです』と彼は答えた。『ほっておいてください』
「傷は手の下にあったので、私は彼をなだめて手をはなさせた。傷は二十時間から二十四時間前に受けた剣の突き傷で、どんな腕のある医者が遅滞なく手当したところで、彼を助けることはできなかったであろう。彼はそのとき急速に死にかかっていた。私は、兄の方に眼を向けたときに、彼が、いま息を引きとろうとしている美少年を、まるで、同胞ではないかのように、まるで傷ついた小鳥、もしくは野兎、もしくは家兎ででもあるかのように平然と見おろしているのに気がついた。
「『どうしてこんなことになったのですか』と私が言った。
「『気違いの若い平民の犬め! 農奴め! 弟に剣を抜かせおって、弟の剣に倒れたんだ――紳士のように』
「この答えには、一片の憐れみも、悲しみも、同胞としての情愛もなかった。そう答えた男は、そうした別階級のやつがそこで死ぬのは迷惑であるということや、社会の害虫らしく、いつものように目だたない死に方で死んだ方がいいということを認めているように思われた。彼は、少年や、少年の運命に対して、憐れみの情をいだくことが全くできなかった。
「少年の視線は、彼がしゃべっている間に、彼の方へ徐々に動いていたが、今度は徐々に私の方へ動いた。
「『先生、この人たちは非常に高慢ですよ、この貴族たちは。しかしわれわれ平民の犬どももまた、時には高慢です。貴族たちは私たちを略奪し、暴行し、なぐり、殺します。しかし私たちは、時には、それでもまだ誇りを持っています。彼女に――先生、彼女に会いましたか』
「遠く離れているためにやわらげられてはいたが、金切り声や泣き声がそこまで聞こえて来たのであった。あの女がわれわれの前にねているかのように、彼はあの女のことを言った。
「私は言った。『会いましたよ』
「『あれは私の姉ですよ、先生。彼ら貴族は、多年にわたって、われわれの姉妹たちの慎しみと貞操に対して勝手な振舞をしてきました。しかし、われわれの中には立派な少女たちがいたのです。私はそのことを知っていますし、父がそういうのを聞いたことがあります。姉は立派な女でした。姉は立派な若者と婚約していました。彼の小作人です。私たちは、みんな彼の小作人でした――そこに立っているその男の。もう一人は彼の弟で、悪い一家の中で一番の悪者です』
「その少年は、全身の力をふりしぼって、やっと、それだけのことを言った。しかし、彼の精神は、恐ろしく力をこめてしゃべった。
「『私たちは、平民の犬どもが上流の者たちによって奪われると同じように、そこに立っているその男に奪われました――無慈悲に課税され、給料ももらわないで彼のために働かされ、彼の粉ひき場で穀物をひかされ、私たちのみじめな収穫で彼の何十羽という小鳥を飼えと強要され、自分の小鳥は生涯一羽も飼うことを禁じられ、たまたま一片の肉が手に入っても、彼の家族たちが見つけて、取り上げないようにと、扉にはかんぬきをさし、よろい戸をおろして、おっかなびっくりで食べたほどに、徹底的に略奪されました――それほどまでに奪われ、追いつめられたので、父が、子供を生むことは恐ろしいことだ、おれたちがいちばん祈らなきゃならないことは、女たちが生まずめであり、おれたちの階級が死に絶えることだと語ったほどでした』
「私は圧迫感が火のように爆発するのを、それまでに見たことがなかった。私は、それが人民のどこかに潜んでいるにちがいないとは想像していたが、この瀕死の少年にそれを見るまでは、それが爆発するのを見たことがなかった。
「『だのに、先生、姉は結婚しました。男はその頃、可哀そうに病気をしていました。それで、姉は私たちの小屋で――その男はいつも犬小屋と呼んでいましたが――看護したり慰めたりできるようにと彼と結婚しました。姉が結婚してから何週間にもならない時に、そこにいる男の弟が姉を見そめて、その男に彼女を貸せと要求しました――われわれの間では、夫なんて、そんなものですから。彼はその気になったのですが、姉は立派で貞節だったので、私におとらない強い憎しみをもって彼の弟を憎みました。二人の男が、姉の夫を説得して、彼の力で姉をその気にならせるために、どんなことをしたと思いますか』
「私の眼をじっと見ていた少年の眼は、のろのろと傍観者たちの方に向けられたが、その時私は、彼が言ったことは全部ほんとうだということが彼らの顔で分った。このバスチーユ監獄の中でさえ、互に対立する二種の自負心がぶつかり合うのを私は見ることができる。全く無頓着で、冷淡な紳士の自負心と、すっかり踏みにじられた感情と激しい復讐心をいだいた百姓たちの自負心。
「『いいですか、先生、われわれ平民の犬どもを荷車につけて、走らせるということが、貴族の権利の一つなのですよ。事実、彼らは彼を荷車につけて走らせました。いいですか、蛙が彼らの貴い眠りを妨げないようにと、それを黙らせるために一晩じゅう私たちを彼らの屋敷の中にとめておくということは、彼らの権利の一つでした。彼らは、夜になると、外の不健康な霧の中に彼を出しておいて、夜が明けると彼を呼び戻して荷車につけました。しかし彼は承諾しませんでした。そうです。ある日、正午に食事をとるために――彼に食事があったとすれば――荷車から外された時に、鐘が一つ鳴るごとに一度ずつ、十二回すすりなきをして、姉の胸に抱かれて死にました』
「彼の受けた不当な仕打ちを全部話そうという決意以外の、どのような人間的なものも、この少年の生命を持ちこたえさせることはできなかったであろう。彼は、握った右手を握ったままにし、それでもって傷口をおさえているときに、しだいに濃くなってきた死の影をむりやり押しもどしていたのであった。
「『それから、彼の弟は姉を連れ去りました。姉が言ったにちがいないこと――それがどんなことであったかは、今はわからなくても、遠からずあなたにわかるでしょうが――それに耳をかさないで、彼の弟は姉を連れ去りました――しばらくの間の快楽となぐさみのために。私は姉が道を通り過ぎるのを見ました。そのしらせを家へ持ち帰りますと、父は悲嘆にくれました。彼は、悲しみを述べる言葉をひとことも言いませんでした。私には下にもう一人妹があったのですがその妹をこの男の手のとどかないところへ連れて行きました。そこでは、少なくとも妹は彼《ヽ》の奴隷ではありませんでした。それから私は、ここにいる弟のあとをつけて、昨夜忍び込みました――平民の犬だけれども手に剣をもって。――うまやの二階の部屋の窓はどこにありますか。それは、ここらあたりにありました』
「彼の眼には部屋はしだいに暗くなっていった。彼の周囲の世界はしだいに狭くなっていった。私はあたりをちらりと見まわした。乾草とわらが、そこで格闘があったかのように、ふみにじられていた。
「『私の声を聞くと、姉がかけ込んで来ました。私は、彼が死ぬまで、私たちに近寄るな、と姉に言いました。彼がはいって来て、最初、私にいくらかの銭を投げました。そして、むちでなぐりかかりました。しかし、私は、平民の犬であったけれども、彼をひどく打ったので、彼は剣を抜きました。私の平民の血でよごした剣はこなごなに折ってしまうがいい。彼は身を守るために剣をぬき――ありったけの腕をふるって必死に私を突き刺しました』
「そのちょっと前に、私はふと、床の上の乾草の中にある折れた剣の断片を見た。その武器は紳士のものであった。別の場所に、兵隊のものと思われる古い剣があった。
「『さあ、私を起こして下さい、先生。私を起こして下さい。あいつはどこにいますか』
「『ここにはいませんよ』と私は、その少年を支え、彼が弟の方の男のことを考えているのだなと推測しながら言った。
「『あいつ! ああした貴族は高慢だけれど、私に会うのがこわいのだ。今ここにいた男は、どこへ行きましたか。私の顔をあいつの方に向けて下さい』
「私は少年の頭を起こして自分の膝にもたせかけた。しかし、彼は、その瞬間に、異常な力を授けられて、完全に起き上がり、私もまたやむなく立ち上がった。さもなければ、彼を支えることができなかったであろう。
「『侯爵』と少年は言って、両眼を大きく見開き、右手を上げて、彼の方に向き直った。『こうしたことの責任が問われる日が来たら、私は、この責任を問うために、あなたと、あなたの家族を、その悪い家柄の最後の子孫に至るまで、喚問する。きっとそうするしるしに、この血の十字架をあなたにつける。すべてこれらのことの責任が問われる日が来たら、その責任をそれぞれ別々に問うために、悪い家柄の中でも最も悪いあなたの弟を召喚する。きっとそうするしるしに、この血の十字架を彼につける』
「二度、彼は胸の傷に手をふれて、人さし指でもって、空中に十字架を描いた。彼は、まだ指をあげたまま、しばらく立っていたが、指がおりると、それと一緒に彼は倒れ、私がねかせると死んだ。……
「若い女の寝床のそばに戻ってみると、彼女は全く同じ順序で、同じように続けさまに、狂いたけっていた。これは何時間もつづき、たぶん、墓場に入って沈黙するまでつづくであろうと思われた。
「私は前に飲ませた薬を繰り返し飲ませて、夜がずっとふけるまでベッドの傍に坐っていた。彼女は、突きさすような金切り声の音量を減じなかったし、言葉の明瞭さを欠いたり、順序を間違えたりしなかった。それは、いつも『私の夫、私の父、私の弟! 一、二、三、四、五、六、七、八、九、十、十一、十二。しいっ!』であった。
「これが、私が初めてこの女に会った時から二十六時間つづいた。私は二度出入りし、彼女がどもり始めた時に、またそこへ行ってその傍に坐った。私は、そういう場合に助けるためには、どんな小さなことでもやったが、間もなく彼女は昏睡状態におちいり、死人のように横たわっていた。
「長い怖ろしい嵐のあとで、ようやく風雨がこやみになったかのようであった。私は彼女の腕をはなし、女を呼んで、彼女のからだや、彼女が引き裂いた衣服を整える手助けをさせた。彼女の状態が、母となる最初の徴候を示していることを私が知ったのはその時であった。また、私が彼女にいだいていたわずかな希望を失ったのもその時であった。
「『この女は死んだのかね』と侯爵(この人を私はやはり兄と言おう)が馬から降りて長靴をはいたままはいってきて言った。
「『まだ死んでいません』と私は言った。『が、死にそうです』
「『こうした平民のからだには、えらい力がひそんでいるものだなあ』と彼は、幾分好奇心をもって彼女を見おろしながら言った。
「『えらい力がでるものですよ』と私は答えた。『悲哀と絶望におちいったときには』
「彼は最初は私の言葉に笑ったが、次には顔をしかめた。彼は片足でもって私の椅子の近くに椅子を動かし、女に向かってあちらへ行けと命じ、声をやわらげて言った。
「『先生、私は、弟がああした奴隷に手をやいているのを見て、あなたの助けをかりるようにとすすめました。あなたは評判も高いし、これから財産を作ろうとする青年として、たぶん利害関係を念頭においておられるでしょう。ここであなたが見られたことは、見るだけにしておいて、他言してはならないことですぞ』
「私は患者の息づかいに耳を傾け、返答を避けた。
「『私の言うことを聞いてて下さらないのかね、先生』
「『閣下』と私は言った。『医者という職業では、患者の言うことは、いつでも内緒に聞くことになっています』私は用心して答えた。見たり聞いたりしたことで、心中悩んでいたからだ。
「彼女の呼吸はたどるのが非常に困難になってきたので、私は脈搏や心臓を注意深くしらべた。まだ生命があるというだけのことであった。席にもどって、あたりを見まわしてみると、二人の兄弟がじっと私を見入っていた。……
「私は非常に難渋してこれを書いているし、寒さは非常にきびしいし、見つかって地下監房のまったくの闇の中に移されることを非常に恐れるから、この物語を短縮しなければならない。私の記憶には、少しの混乱も間違いもない。私は、私とこの兄弟との間で話されたあらゆる言葉を思い出すことができるし、詳細に述べることができる。
「その女は一週間もちこたえた。その終りのころに、私は、その唇に耳をあてて、彼女が言った数音節を聞きとることができた。彼女は、自分がどこにいるかとたずね、それを話してやると、私が誰かとたずねたので、それを話した。この女に苗字をたずねても無駄だった。女は枕の上で頭をかすかに振り、少年と同様に、秘密を守った。
「この女に物をたずねる機会がなく、そのうちに急に衰弱しはじめて、もう一日は生きていられないということを兄弟に告げる時が来た。その時まで、彼女は、女と私だけしか意識していなかったけれども、私がそこにいる時には、兄弟のうちのどちらかが常にベッドの頭の方のカーテンのかげに油断なく坐っていた。しかし、事態がそこまで来たときに、彼らは、私が彼女とどんな会話をしようと無頓着になったようであった。まるで――私はふと思ったのだが――私もまた死にかかっていたかのように。
「自惚《うぬぼれ》の強い彼らが、弟の方が百姓と、しかも百姓の少年と、剣を交えたということをひどく怒っていたということを、私は常に観察した。彼らいずれの心をも真に傷つけたように見えた唯一の考えは、このことが家門の格をひどく下げるし、また滑稽である、という考え方であった。弟の眼を見るたびに、私は、その眼の表情から、私が少年から聞いて知っているから、彼が私を深く憎んでいるのではないかと思いついた。彼は、私に対して、兄よりも物やわらかで、いっそう丁寧だったが、私はこのことを見ぬいていた。私はまた、自分が兄の心にも邪魔者としてうつっていたことを見ぬいていた。
「患者は真夜中の二時間前に死んだ――私の時計によると、彼女に初めて会った時刻にほとんど符合した時間に。わびしい若い頭がしずかに片端にうなだれてこの女のすべての地上の不幸や悲哀が終ったときに、私は彼女と二人だけでいた。
「兄弟は、馬で去ろうと待ちかねて、階下の部屋に待っていた。ベッドの傍にひとりでいて、彼らが乗馬用の鞭で長靴を打ち、あちらこちらとぶらついている物音が聞こえていたからである。
「『やっと死んだのかね』私がはいってゆくと兄の方が言った。
「『死にました』と私が言った。
「『おめでとう、弟』というのがふり返りざま兄の言った言葉であった。
「彼は前に私に金《かね》を与えようといったが、私はそれを受け取るのをのばしていた。この時彼は私に巻封した金貨を与えた。私はそれを受けとったが、テーブルの上においた。私はその問題を考えて、何も受けとらないことにきめた。
「『失礼ですが』と私は言った。『こんな事情のもとでは、いただけません』
「彼らは互に目くばせしたが、私が頭を下げると、向うも頭をさげ、どちらの側もそれ以上一言も言わないで別れた。……
「私は、疲れ、疲れ、疲れて――苦悩のために衰弱してしまった。私は、このやつれた手で書いたものを読むことができない。
「翌朝早く、巻封の金貨が、小箱に入れ、外側に私の名を書いて、私の戸口においてあった。最初から私は、何をしたらいいかと心配しながら考えた。その日、私は、大臣に手紙を出して、私が診察を求められた二人の患者の病状や、私が行った家のことを書く決心をした。要するに、あらゆる事情を書く決心をしたのである。私は、法廷の力がどれくらいのものか、また貴族の特典がどれほどのものか、ということを知っていたから、その事件が不問に付されることを知っていたが、しかし、自分の気持を救いたいと思った。私は、その事件を、妻からさえも、完全に秘密にしていた。そして、そのことをも、私は手紙の中で述べようと決心した。私は、自分の身がほんとうに危険だなぞという心配は少しもしなかった。しかし、もしも他の人たちが、私の持っていた知識を持ったりしたら、その人には危険が訪れるかもしれないということに気がついた。
「その日私は多忙であったので、その晩は手紙を書き終ることができなかった。それはその年の大みそかであった。たった今書き終ったばかりの手紙が私の前にあった、その時、私は、私に会いたいという貴婦人が待っていると告げられた。……
「私は、自分に課した仕事にますます耐えられなくなってきている。寒いし、暗いし、感覚が麻痺していたし、また、私にのしかかっている陰気な空気がおそろしかった。
「その婦人は若くて、魅惑的で、美しかったが、長生きはしないように見えた。彼女は非常に動揺していた。彼女は、エヴレモンド侯爵夫人として自己紹介した。私は、少年が兄の方の男に呼びかける時に言った爵位と、スカーフに刺繍してあった頭文字とを結びつけ、ごく最近その貴族に会ったという結論に達するのに何の困難も感じなかった。
「私の記憶は今なお正確であるが、私はその時の会話の言葉を書くことができない。私は、前よりももっと厳しく看視されているのではないかと思うし、また、いつ看視されているかわからない。彼女は、残酷な話や、彼女の夫がそれに関係したということや、私が呼ばれて行ったということを、半ば、うすうす感づき、半ば、発見していた。彼女はあの女が死んだことを知らなかった。自分の希望は、ひそかに、あの女に女としての同情を示すことだ、と彼女は非常に心痛して言った。彼女の希望は、多数の者にとって長い間憎くてたまらなかった家から、神の怒りをそらすことであった。
「彼女には、あの女には妹が生きていると信ずべき理由があったし、彼女の最大の願いはその妹を助けることであった。私は、そのような妹があったということ以外に何も彼女に語ることができなかった。それ以外には、私は何も知らなかったから。私の打明け話を期待して、彼女が私のところへ来た動機は、私が彼女にその妹の名と住居とを告げることができるだろうという希望であった。しかし、このみじめな現在まで、私は両方とも知らない。……
「これらの紙片は残り少なくなってきた。それに、一枚は、昨日、警告づきで取り上げられた。私はこの記録を今日じゅうに書き上げなくてはならない。
「彼女は善良な、思いやりのある婦人で、結婚生活は幸福ではなかった。どうして幸福でありえようか。弟は彼女を疑い、そして嫌っており、彼の力はすべて彼女に対立し、彼女は彼を恐れ、また夫をも恐れていた。私が彼女を戸口まで送って行ったときに、彼女の馬車の中には、二歳か三歳の可愛い坊やがいた。
「『先生、この子のために』と彼女は涙ながらにわが子をさしていった。『私は、どんなささやかなつぐないでもするために、できるかぎりのことをしたいと思います。そうでもしなかったら、この子は、遺産を受け継いだとしても、決して栄えはしないでしょう。このために、ほかの潔白なつぐないがされなかったら、いつの日にか、それがこの子から要求されるだろうという予感がいたします。妹さんの居所がわかったら、手許に残っていて私のものと呼べるものは何でも――それは二、三個の宝石の値打ち以上のものではないのですけれど――この子の死んだ母親の同情と嘆きと一緒に、被害者の家族に贈ることを、この子の生涯の最初の義務としたいと思います』
「彼女は子供に接吻し、彼を愛撫しながら言った。『それはあなたのためなのよ。シャルルや、あなたはほんとうにそうするわね』子供はけなげに『はい』と答えた。私は彼女の手に接吻し、彼女は彼を抱きとって、愛撫しながら去った。私は彼女にそれっきり会わなかった。
「彼女は、私が彼女の夫の名を知っているものと信じて、それを言ったのだから、私は手紙ではそれをあげなかった。私は手紙の封をして、手ずから渡さなければ信用ができないから、その日に自分で大臣に渡した。
「その夜、つまりその年の大みそかの夜の九時ごろに、黒い服を着た男が門のベルを鳴らし、私に面会を要求し、私の召使の青年エルネスト・ドファルジュに案内されて、静かに階段をあがってきた。その召使が、私と妻――おお、最愛の妻! 美しくて若いイギリス女の妻!――が一緒に坐っている部屋にはいってきたときに、門にいたと思われた男が、黙って彼のうしろに立っているのが見えた。
「『サン・トノレ街に急患が』彼が言った。私はぐずぐずしていられなかった。彼は馬車を待たせていたから。
「その馬車が私をここへ連れてきたのだ。それが私を私の墓場へ連れてきたのだ。家から離れてしまうと、うしろから黒いマフラーで私の口がしっかりしばられ、腕は羽がいじめにされた。例の二人の兄弟が暗い隅から道を横切ってやってきて、ちょっとした身振りで、私が本人であることを確かめた。侯爵はポケットから私が書いた手紙をとり出して、それを私に見せ、手に持っていた手提げランプの明かりで焼き、足でその灰を消した。彼は一言もものを言わなかった。私はここへ連れて来られた。私は生きながらこの墓へ連れて来られたのだ。
「この恐ろしい年月の間に、私の最愛の妻の消息を私に知らせる――生きているか死んでいるかだけでも知らせる――ことを、兄弟のうちのどちらかの冷酷な心に思いつかせる気に神様がなられたのなら、神様がすっかり彼らをお見捨てになったのではないと考えてもよかったであろう。けれども、私は、あの血の赤い十字架のしるしが彼らにとって宿命的であり、彼らは神様のお慈悲には少しもあずかっていないと信ずる。彼らならびに彼らの子孫を、彼らの家系の最後の者に至るまで、私、不幸な囚人アレクサンドル・マネットは、一七六七年のこの大みそかの夜に、耐えがたい苦悩の中にあって、これらすべての責任が問われる時代に向かって告発する。私は彼らを天と地に向かって告発する」
この書類の朗読が終ると、恐ろしい声が起こった。血以外には何一つはっきりしたものをふくまない熱望の声。手紙の内容は、その時代の最も復讐心にみちた激情を呼び起こし、その激情の前に落ちなくてすむ首は、国じゅうに一つもなかった。
そのような法廷や、そのような聴衆の前では、バスチーユ監獄から分捕って、行列によって運ばれたその他の記録とともにこの書類を、どうしてドファルジュ夫妻が公表しなかったか、その事情を明らかにする必要はほとんどなかった。この憎まれていた苗字が、サン・タントワヌ地区によって長い間呪われて来て、恐ろしい記録の中に書き込まれた事情を明らかにする必要もなかった。このような告発を受けても、なおその徳や功績がその日その場所で彼を支持することができるような人は、かつてこの地上にはいなかったであろう。
その告発をした人が、有名な市民であり、彼の親しい味方であり、彼の妻の父親であったのだから、それだけこの死刑囚にとっては不利であった。たけり狂った民衆の熱望したことは、いかがわしい古代の公共の美徳を模倣して、人民の祭壇に、自らの手でいけにえを捧げることであった。それだから、裁判長が、共和国の立派な医者は、忌むべき貴族の家族を根絶することによっていっそう共和国に尽すだろうし、また、疑いもなく、彼の娘を寡婦にし、その子を孤児にすることにひそかな喜びを感ずるだろうと言ったときに(そう言わなかったら、彼自身の首が肩の上でがたがた震えることになったであろう)、もの狂おしい興奮と、愛国的熱情があらわれたが、人間らしい同情は一かけらも示されなかった。
「あの医者は周囲に対して大きな影響力を、持っているかしら」とドファルジュの妻が『復讐』に向かってほほえみかけて言った。「さあ、あの男を助けてごらん。先生、あの男を助けてごらん」
陪審員が投票する度ごとにどよめきが起こった。一票、さらに一票。どよめきにつぐ、どよめき。
満場一致。心情においても血統においても貴族、共和国の敵、名うての人民の圧迫者、コンシエルジェリー監獄に帰れ、二十四時間以内に死刑だ!
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第十一章 薄暮
このようにして死刑を宣告された無実の男の哀れな妻は、宣告を聞くと、致命傷を受けたかのように倒れた。しかし彼女は声をあげなかった。みじめな状態にある彼を支え、そのみじめさをさらに大きくしないようにするのは、この世に彼女だけだと告げる内心の声が強く、それが、あのショックからさえ、彼女を立ち上がらせた。
裁判官たちが、戸外の民衆デモに参加しなければならなかったので、法廷は休会した。法廷の人たちが幾つもの通路から急いで外へ出る騒ぎや動きがつづいている間に、ルーシーは、顔に、ただ愛情と慰めだけをたたえて夫の方に向かって腕をひろげて立っていた。
「あの人にさわることができたら! 一度だけあの人を抱擁することができたら! おお、市民の皆さん、それだけの憐れみをかけていただけましたら!」
一人の看守と、昨夜彼を逮捕した四人の者と、バーサッドだけが残っていた。人々は、街上の光景を見に全部流れ出してしまっていた。バーサッドが、ほかの者たちに提案した。「じゃ、このひとにあの男を抱擁させてやろうじゃないか、一瞬間ですむことだ」その提案は黙認され、彼らは彼女を法廷の座席の向うの一段高くなっているところへ連れて行くと、そこにいた彼は被告席からのり出して、彼女を腕に抱くことができた。
「さよなら、お前。これが、愛するものへの別れの祝福だ。疲れた人が休むところで、また会おうね!」
これが、彼女の夫が彼女を胸に抱きしめて言った言葉だった。
「私は辛抱できますわ、いとしいチャールズ。私は天上から支えられているんですもの。私のことで苦しまないで。私たちの子にもお別れの祝福を」
「僕は、お前を通じてあの子を祝福するよ。また、お前を通じてあの子に接吻するよ。また、お前を通じて、あの子にさよならを言うよ」
「あなた。いけません! ちょっと待って!」彼が彼女を引き放そうとしたのである。「私たちは、長くは引き離されていないでしょう。私は、しばらくは胸のはり裂ける思いをするだろうと思いますが、義務を果たすことができる間は、義務を果たそうと思います。あの子を残して死ぬときにも、神様は、ちょうど私にして下さったと同じように、あの子のためにお友だちをこしらえてくださるでしょう」
父親は娘に付き添って来ていたが、もしもダーネーが手を差し出して、彼をつかまえて、次のように叫ばなかったら、二人の前にひざまずいたであろう。
「いけません、いけません! 何をなさったというので、何をなさったというので、私たちに向かってひざまずいたりなさるのですか。私たちは、あなたが、昔、どんなご苦労をなさったかいま知りました。あなたが、私の家柄に疑いをいだき、そしてそれをお知りになったとき、どんなに悩まれたか、いまわかりました。あなたが、可愛いあのひとのために戦って征服なさった生まれつきの反感を、いま知りました。私たちは心の底から、ありったけの愛情と孝心で、あなたに感謝します。神様があなたとともにおいでになりますように!」
彼女の父の唯一の答えは、白髪の中から両手をぬき、苦悩の叫びとともにそれをねじり合わせることであった。
「そうするより仕方がなかったのです」と囚人が言った。「すべてのことが互に作用しあって、ああいうことになったのです。私という宿命的な存在を、最初にあなたのところへ連れて行った可哀そうな母の頼みを果そうと努力しても無駄だったのです。あのような悪から、善は決して生まれるはずがないし、いっそう幸福な結末が、あのような不幸な発端の結果として来るものではありません」
彼が引きはなされたので、妻は彼をはなし、両手を祈るように合わせて、彼を見送ったが、その顔は晴れやかに見え、慰めるような微笑が浮かんでいた。彼が囚人の扉から出て行くときに、彼女はふり返って、父親の胸にやさしく頭をもたせかけて、彼に話しかけようとしたが、彼の足もとに倒れてしまった。
そのとき、これまでじっと立っていた目立たない隅から、シドニー・カートンが現われてきて、彼女を助け起こした。彼女の父とローリー氏だけが彼女のところにいた。彼女を起こして頭を支えたときに彼の腕はふるえていた。しかし、彼には、憐れみばかりではない様子があった――その様子には、自信のひらめきがあった。
「馬車までお連れしましょうか。ちっとも重くはないと思いますから」
彼は軽々と彼女をドアまで運び、やさしく馬車の中にねかせた。父親も彼らの旧友も馬車に乗り、彼は御者のとなりの席に着いた。
まだ何時間にもならない前に暗がりの中で彼が立ち止まって、街のどのでこぼこの石の上を彼女の足が踏んだであろうかと想像に描いた門に一同が到着したときに、彼は彼女をもう一度抱き上げて、階段を上って部屋まで運んだ。彼がそこへ行って、彼女を寝床にねかせると、子供とプロス嬢はその上にかがんで泣いた。
「奥さんを正気に返らせてはいけません」と静かにプロス嬢に言った。「失神していらっしゃるだけなら、意識をとり戻さないようにしましょう」
「おお、カートンさん、カートンさん、カートンさん!」と幼いルーシーがはねおき、わっと泣き出しながら、はげしく彼に抱きついた。「来て下さった以上は、ママを助けるために何かを、パパを救うために何かを、してくださるわね。おお、ママを見てちょうだいカートンさん。ママを愛しているすべての人々の中で、特にあなたは、ママがあんなになっているのを見ていられて?」
彼は子供の上にかがんで、花のような頬を自分の頬につけた。彼はやさしく子供を押しのけて、意識のない母を見た。
「おいとまする前に」と彼は言い、そして躊躇した。――「ママに接吻してもいいでしょう」
彼がかがんで、唇をルーシーの顔にふれたときに、彼がある言葉を呟《つぶや》いたことが、後になって思い出された。彼の一番近くにいた少女は、後になって彼らに向かって、そしていいおばあさんになってから、孫たちに向かって、彼が「あなたの愛する生命」というのを聞いたと語った。
隣室へ出て行くと、彼は、あとからついて来たローリー氏と彼女の父に急に向き直り、父親に向かって言った。
「あなたは、つい昨日まで、大きな影響力を持っておられたでしょう、マネット先生。少なくとも、それをもう一ぺんためしてごらんなさい。あの裁判官も、すべての権力者も、あなたには非常に深い友情を持っているし、あなたの功績を充分認めています。そうじゃありませんか」
「私は彼を救えるだろうという最も強い確信を持っていたし、事実救いました」彼は非常に苦しげに、そして非常にのろのろと答えた。
「もう一度やってごらんになったら。今から明日の午後までの時間は短いけれども、とにかく、やってごらんになったら」
「やってみるつもりです。一秒だって休みはしません」
「それは結構です。これまでに、あなたのようなエネルギーがえらいことをするのを見て知っています――もっとも」と彼は微笑を浮かべるとともに吐息をつきながらつけ加えた。「それは、こんなえらい仕事じゃなかったのですが。でも、やってごらんになったら! 生命というものは濫用すれば無価値なものですが、そのようなことをやってみるだけの値打ちはあります。それだけの値打ちもないなら、生命を捨てたって、何の犠牲にもなりませんよ」
「私はすぐ行きましょう」とマネット医師が言った。「検事や裁判長のところへ。それから、ここに名をあげない方がいい他の人たちのところへも、また、手紙も書きましょう、そして――ちょっと待てよ! 今は、街々で祝賀会が開かれていて、暗くなるまでは、誰にも近寄れないだろう」
「その通りです。仕方がない。これは、どうせ見込みのない希望なんですから、暗くなるまで延ばしたって、それだけ見込みが少なくなるわけでもないでしょう。あなたがどうなさるおつもりか承りたいものです。しかし、いいですか、私はなんにも期待していませんよ。その恐ろしい権力者たちとの会見は、いつおわりそうですか、マネット先生」
「暗くなってからすぐだろうと思います。今から一、二時間のうちです」
「四時を過ぎればすぐ暗くなりますよ。私たちはその一、二時間をのばすことにしましょう。九時にローリーさんのところへ行ったら、私の友だちからか、あなたからか、どちらでもいいから、あなたがなさったことをうかがえますか」
「ええ」
「ご成功を祈ります」
ローリー氏はシドニーのあとから外の扉までついて行って、彼が立ち去ろうとするとき肩に手をふれて、彼をふり返らせた。
「私は一つも希望を持っていません」とローリー氏は、低い、悲しみのあふれたささやき声で言った。
「僕もです」
「もしも、あの連中の中の誰か、または全部が、彼の生命を助ける気になったとしても――これはとんでもない仮定ですよ。なぜなら、彼らにとって、彼の生命、いや誰の生命も、とるに足りないのですからね――彼らが法廷でのデモのあとで、あえて彼を救うかどうか疑問だと思いますよ」
「僕もそう思います。あの声の中に、僕は斧が落下する音を聞きました」
ローリー氏はドアの柱に一方の腕をもたせかけ、その上に顔を伏せた。
「がっかりなさいますな」とカートンが非常にやさしく言った。「なげかないで下さい。僕が、マネット先生のこの思いつきをはげましたのは、それが、いつか、あの人のなぐさめになるかもしれないと感じたからです。でなかったら、あの人は、『彼の生命が気まぐれに捨てられ、むだにされた』と感じ、そのことで悩むかもしれません」
「そう、そう、そう」とローリー氏は涙をかわかしながら答えた。「あなたのおっしゃるとおり。しかし、彼は死ぬでしょうな。実際的な望みは一つもないのですからね」
「そうです。彼は死ぬでしょう。実際的な望みは一つもないのですから」とカートンは、おうむ返しに言った。そして、落ち着いた足どりで階段を降りて行った。
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第十二章 闇
シドニー・カートンはどこへ行こうかと迷いながら街で立ちどまった。「九時にテルソン銀行で、と」彼はなにか考えている顔で言った。「それまでの間に、このおれを見せてやったら、どうかな。それがいい。やつらにおれのような男がここにいるということを知らせてやるのがいちばんだ。それは周到な用意でもあるし必要な準備かもしれない。しかし、用心、用心、用心! よく考えてみよう」
目的にむかってふみ出した足を止めて、彼はもう暗くなりかかっている街を一、二度曲り、心の中でその想像できる結果をたどってみた。彼の最初の印象がますます強くなった。「やつらにおれのような男がここにいるということを知らせてやるのがいちばんだ」彼は最後に心を決めて言った。そしてサン・タントワヌの方に顔を向けた。
そのころドファルジュは、サン・タントワヌの郊外では自分のことを酒店の主人だと言っていた。この市《まち》をよく知っている人には、誰にもきかないでも彼の家を見つけるのはむずかしいことではなかった。カートンは店のありかをたしかめておいて、またそのうっとうしい街々からぬけだし、飲食店で食事をして、食事のあと、ぐっすり眠った。長年の間にはじめて、彼は強い酒を飲まなかった。昨夜から彼は薄いワインをすこし飲んだきりで、そのほかには何も食べていなかった。しかも昨夜は、酒と縁を切った人間のようにローリー氏の暖炉にゆっくりとブランデーをあけてしまったではないか。
彼が元気を回復して目をさまし、また街へ出て行ったのは、もう七時であった。サン・タントワヌに向かって歩いて行く途中、彼は鏡のあるショーウィンドウの前で足を止めて、ゆるんだネクタイと上着の襟とみだれた髪をちょっとなおした。それがすむと、まっすぐにドファルジュの店へ行って、なかにはいって行った。
ちょうど店には、あのそわそわと指を動かしている、しゃがれ声のジャーク三のほかには客は誰もいなかった。カートンはこの男を陪審員の一人として見たことがあるが、彼はドファルジュ夫妻と話をしながら小さな勘定台のところで飲みながら立っていた。『復讐』はこの店の常連のように話の仲間入りをしていた。
カートンが入ってきて、席に坐り、(非常に下手なフランス語で)ワインを少しくれと言うと、マダム・ドファルジュは最初むとんちゃくにちらと彼を見たが、それからもっと鋭く、それからますます鋭く彼を見て、それから自分でわざわざやってきて、なにを注文したのかと尋ねた。
彼は先刻言ったことを繰り返した。
「イギリスの方ですか」マダム・ドファルジュは詮索《せんさく》するように黒い眉を上げて尋ねた。
彼はそのたったひとつのフランス語でも自分には急には分らないのだというように、まず彼女を見てから、前と同じ強い外国なまりで答えた。「ええ、奥さん、そうですよ。僕はイギリス人です」
マダム・ドファルジュはワインをとりに勘定台に戻った。そして彼がジャコバン党(当時の過激な政党)機関紙をとり上げて、その意味を解きながら読みふけるふりをしていると、彼女が「ほんとに、エヴレモンドに似ているよ」と言うのが聞こえた。
ドファルジュはワインをもってきて「今晩は」と挨拶した。
「なんですか」
「今晩は」
「おお、今晩は、市民」とグラスをみたしながら。「ああ、いいワインだね。共和国のために乾杯するよ」
ドファルジュは勘定台に戻って行って言った。「たしかに、ちょっと似ている」マダムはきっぱりと言い返した。「とても似ていますよ」ジャーク三がおだやかに言った。「あなたがあの男のことばかり考えているからよ、ね、奥さん」気立てのやさしい『復讐』も笑って言い足した。「ほんとに、そのとおりよ。あなたは明日もう一度あいつを見るのを、そんなに楽しみに待っているのね」
カートンは人さし指をゆっくり動かしながら、懸命な、夢中な顔で、新聞の行や言葉を追っていた。数秒の間、彼らはジャコバン党紙の社説に読みふけっている彼のじゃまをせずに彼の方を見ていたが、やがて、また話をはじめた。
「奥さんが言われることは本当だ」とジャーク三が言った。「なぜやめるんだ。みんなたいへんないき込みなんだ。なぜやめるんだ」
「そうか」とドファルジュが言った。「だが、どこかでやめなきゃならないんだ。つまり、問題は、やっぱり、どこでやめるか、ということだな」
「根絶やしにしてしまった後ですよ」と細君が言った。
「えらい!」とジャーク三がしゃがれ声で言った。『復讐』も大いに賛成した。
「根絶やしということはいい原則だよ」とドファルジュはいささか困った様子で言った。「一般的には、わしはなにも反対しない。だが、この医者はたいへん苦しんだのだ。お前は今日あの人を見たろう。あの書類を読んだときにあの人の顔をよく見たろう」
「わたしはあの人の顔をよく見ましたよ」細君はさげすむように、また腹立たしそうに繰り返した。「ええ、わたしはあの人の顔をよく見ましたとも。わたしはあの人の顔が共和国の本当の友の顔でないのをよく見ましたよ。あの人に自分の顔に気をつけるようにさせるといいわ」
「それから、あの人の娘の苦しみもよく見たろう。娘の苦しみはあの人としては恐ろしい苦しみにちがいないんだ」
「わたしはあの娘をよく見ましたよ」と細君が繰り返した。「ええ、あの娘なら一度だけでなく、何度もよく見ましたよ。今日も見ましたし、こないだも見ましたよ。法廷でも見ましたし、監獄のそばの通りでも見ましたよ。わたしがこの指を上げさえすればね――!」彼女は指を上げて(聴いている男の眼はいつも新聞を見ていた)、まるで斧をうち下すように自分の前の棚にどんと打ち下ろした。
「実にすばらしい女市民だ」と陪審員がしゃがれ声で言った。
「このひとは天使だわ」そう言って『復讐』は細君を抱擁した。
「お前さんてば」と細君は執念深く夫にむかってつづけた。「もしこのことがお前さん次第なら――幸いに、そうではないけれど――お前さんは、今となっても、あの男を助けるでしょうね」
「いや、ちがう」とドファルジュが抗議した。「このグラスを上げさえすりゃ助けられるとしたって、そんなことはしない。しかし、この問題はそこでやめとくだろうよ。なあ、そこでやめておけ」
「ねえ、ジャーク」とマダム・ドファルジュがかんかんになって言った。「それから『復讐さん』もだよ。二人とも、よくお聴き! 暴君で圧制者だという、これとは別の罪で、わたしはずっと前にこの一族を死刑にして根絶やしにしてやろうと記録しておいたんですよ。夫にきいておくれ、その通りかどうか」
「その通りだよ」とドファルジュはきかれないうちに同意した。
「この偉大な日の初めに、バスチーユが落ちたとき、夫は今日のこの書類を発見した。家に持ち帰って、真夜中に、ここに誰もいなくなって戸締まりをしてしまったとき、二人でそれを読んだのですよ、ここで、このランプの明かりで。夫にきいておくれ、その通りかどうか」
「その通りだよ」とドファルジュが同意した。
「その夜、書類を読み終り、ランプも燃えつきて、朝の光があのよろい戸の上やあの鉄格子の間から射し込んできたときに、わたしにはお話ししなければならない秘密がありますと夫に言ったのですよ。夫にきいておくれ、その通りかどうか」
「その通りだよ」とドファルジュがまた言った。
「わたしはこの人にその秘密を話したんですよ。今やったみたいに、この胸をこの手で叩いて、この人に言ったのですよ。『ドファルジュ、わたしは海辺の漁師のなかで育ったんだよ。このバスチーユにあった紙に書いてあるように、エヴレモンドの兄弟二人にひどい目にあった百姓の一家というのは、わたしの家族なんだよ。ドファルジュ、致命傷を受けて床にたおれていた少年の姉というのは、わたしの姉さんで、その夫というのはわたしの姉さんの夫で、そのお腹《なか》の中の子供というのはその二人の子供で、その弟はわたしの兄、その父親はわたしの父なんだよ。それらの死んだ人たちというのはわたしの身内で、こうした仕業に復讐せよという命令はわたしに伝わっているんだよ』ってね。この人にきいてごらん、その通りかどうか」
「その通りだよ」とまたドファルジュが同意した。
「じゃあ、どこでやめるかなんてことは風と火に言ってちょうだい」と細君が答えた。「だけど、わたしには言わないでもらいたいね」
聞き手は二人とも細君の怒りが執念深いのを知って――二人は見なくても彼女が真蒼になっているのを感じた――恐ろしい喜びを感じた。そして二人は大いにそれを称賛した。力のない少数派であるドファルジュはあの情け深い侯爵夫人を思い出すようにと二言《ふたこと》、三言《みこと》、言ってみたが、細君は最後の返答を繰り返すばかりであった。「どこでやめるかなんてことは風と火に言ってちょうだい、わたしじゃなくね」
客がいく人も入って来たので、彼らははなれた。イギリス人の客は飲んだ代金を支払い、まごつきながらおつりを勘定して、外国人なものだから、国民宮殿へ行く道を教えてくれ、とたずねた。マダム・ドファルジュは彼を扉まで連れて行き、道を教えるために自分の腕を彼の腕にかけた。そのときイギリスの客は、その腕をつかんで、上にあげ、腕の下をするどく深くなぐってやったら人のためになるだろうとひそかに思わずにはいられなかった。
だが、彼は彼の道をすすんだ。そしてまもなく監獄の壁の蔭のなかに没してしまった。約束の時間になると、彼はそのなかから出てきて、ローリー氏の部屋にあらわれた。老紳士は心配で落ち着いていられず、部屋の中を歩きまわっていた。彼は、たった今までルーシーといっしょにいて、約束を守るために二、三分前に彼女を残して来たのだと言った。ルーシーの父親は四時近くに銀行から出て行ったきり見えないのであった。彼女は父の斡旋《あっせん》でチャールズが助かるかもしれないとかすかな希望を抱いていたが、それはごくわずかな希望にすぎなかった。彼が出かけてからもう五時間以上もたっていた。いったい、彼はどこにいるのだろう。
ローリー氏は十時まで待った。だが、医師は帰って来ないし、彼もこれ以上ルーシーを放っておきたくなかったので、ルーシーのところに戻り、夜半にもう一度銀行へ来てみようと手筈をきめた。その間、カートンがひとりで炉辺で医師の帰るのを待っているだろう。
彼は待ちに待った。そして時計は十二時を打った。だが、マネット医師は戻ってこなかった。ローリー氏が戻ってきたが、マネット医師の消息はそこにはなかったし、彼も新たな消息は何ももってこなかった。いったい彼はどこにいるのだろう。
彼らがこの問題を話し合って、彼の長引いた不在からかすかな希望をもちはじめたとき、階段の上に彼の足音を聞いた。彼が部屋に入って来た瞬間に、すべてが失われたことは明白であった。
本当に彼が誰かのところに行っていたのか、あるいはずっとその間街を歩きまわっていたのか、それはまったく不明であった。彼は二人を見つめながら立っていたが、彼らは何も尋ねなかった。彼の顔がすべてをもの語っていたからであった。
「あれが見つからないのです」と彼が言った。「わたしはどうしてもあれが要るんです。どこにあるんですか」
彼の頭も喉もむきだしになっていた。そして、彼はそこらじゅうを頼りなげに見まわしながらものを言っていたが、上着を脱いで床におとした。
「わたしの腰掛はどこにありますか。どこもかしこも探したのですが、見つからないのです。あの人たちはわたしの仕事をどうしてしまったのだろう。時間が迫っているのです。あの靴を仕上げなければならないのです」
二人は顔を見合わせた。そして心が消え入るばかりに意気銷沈した。
「さあ、さあ」彼はあわれな泣き声で言った。「わたしに仕事をさせてください。わたしの仕事をください」
返事がないので、彼は髪をかきむしり、とり乱した子供のように地団太ふんだ。
「哀れな孤独なやつを苦しめないでください」彼は恐ろしい叫び声をあげて彼らに嘆願した。「どうか、わたしに仕事をください。あの靴が今夜仕上がらなかったら、われわれはどうなりますか」
おしまいだ、すっかりおしまいだ!
彼に言ってきかせたり彼を正気にかえそうとしても望みがないことは明白だったから――まるで申し合わせたように――二人は手を彼の肩において、じきに仕事をやるからと約束して、彼をなだめて火の前に坐らせた。彼は沈むように椅子に腰掛け、燃えさしの上に屈んでじっと考えこみ、涙を流した。あの屋根裏の部屋にいた時から後に起こったことはすべて一瞬の幻か夢であったかのように、ドファルジュが預かっていたときとまったく同じ姿に彼が萎縮してゆくのをローリー氏は見た。
この破滅した哀れなものを見て、二人とも恐怖におそわれたが、そんな感情に負けている時ではなかった。最後の希望とよりどころを失った彼のひとりぼっちの娘のことが、二人の心に強く訴えた。ふたたび、まるで言い合わせたように、二人は一つの意図を顔にあらわして互に顔を見かわした。カートンが先に口をひらいた。
「最後の望みが消えてしまいました。たいして望みはなかったのですが。そうです。この人はお嬢さんのところへ連れて行った方がいいですね。しかし、おいでになる前に、ほんのしばらく、僕の言うことを落ち着いて聞いてくださいませんか。僕がこれからあなたと打ち合わせようとしていることと、あなたにどうしても約束していただこうと思っていることを、なぜかとおききにならないでください。僕には理由があるのですから――よい理由がね」
「わたしはそれを疑いませんよ」ローリー氏が答えた。「つづけてください」
彼らの間の椅子に坐っている姿はたえず単調にからだを揺り動かしながらうめいていた。彼らは、もし夜通し病床のそばで看護していたら、そんな声でものを言っただろうと思われるような調子で話をした。
カートンは、ほとんど彼の足にからまっている上着を拾い上げようと身を屈めた。そのとき、医師がいつも日程表を入れて持って歩いていた小箱がかるく床に落ちた。カートンがとり上げると、その中にたたんだ一枚の紙がはいっていた。「これを見なければなりませんね」と彼が言った。ローリー氏はうなずいて承認した。彼はそれを開いた。そして「ありがたい!」と叫んだ。
「なんですか」とローリー氏が熱心に尋ねた。
「ちょっとお待ちください。その代りに、いまの話をさせてください。まず第一に――」彼は上着に手を入れて別の紙をとりだした。「これを持っていれば僕がこの市《まち》から出られるという証明書です。見てください。分りますか――シドニー・カートン、イギリス人」
ローリー氏はそれをひらいたまま手に持って、熱心に見つめた。
「明日まで預かってくださいませんか。ご記憶のように、僕は明日彼に会います。それで、監獄へはそれを持って行かない方がいいのですよ」
「なぜいけないのですか」
「分りませんが、僕はそうしない方がいいと思うのです。それから、マネット先生が持ってこられたこの書類をあずかってください。これも同じ証明書で、これがあれば、この方も、お嬢さんも、お嬢さんのお子さんも、いつでも関門と国境を通過できるのです。お分りですか」
「分りますとも」
「おそらく先生は、昨日、この上わざわいを被《こうむ》らぬように最後の最大の予防策としてこれを手に入れられたのでしょう。日付はどうなっていますか。しかし、どうだってかまいません。見るひまなどとらないでください。それを僕のとあなたのといっしょに大切にしまってください。さて、よくお聞きください。僕はこの一、二時間前までは、先生がこういう書類をお持ちだということを、こういう書類を手に入れることがおできになるということを疑っていませんでした。これが取り戻されなければ、いいものですがね。しかし、じきに取り戻されるかもしれません。そう考えられる理由があるのです」
「あのひとたちが危険だというわけではないのでしょうね」
「いや、非常に危険ですよ、マダム・ドファルジュに告発される危険にさらされているんですよ。僕はあの細君が自分でそう言うのを聞きました。僕は今夜あの女が言っていることを漏れ聞いたのです。それで僕はあのひとたちが非常に危険だということを知りました。僕はぐずぐずしてはいませんでした。それで、そのあとあのスパイに会いました。あのスパイの話で僕の考えはますます強くなりました。彼は監獄の壁のそばに住んでいる木挽《こび》きがドファルジュ夫妻の手下で、彼女《ヽヽ》が――彼はルーシーの名前は言いませんでしたが――囚人たちに暗号や信号を送っているのを見たということをマダム・ドファルジュに何度も言わせられたのを知っているのです。その口実は、いつもの通り、獄中の陰謀というやつで、あのひとの生命を――おそらくあのひとのお子さんの生命も――おそらくあのひとのお父さんの生命も――巻き込むでしょう――お子さんもお父さんもその場所にあのひとと一緒にいるところを見られているのですからね。そんなにおびえた顔をしないでください。あなたはあのひとたちをみんな救いだすでしょうから」
「神様が救いださせてくださるようにしたいものだね、カートン君。しかし、どうして救いだすのですかね」
「それをこれからお話ししますよ。それはあなたによってきまるのです。そしてまた、あなたほど頼りになる方はありません。今度の告発は明日より先になることは確実です。おそらく、二、三日先のことでしょう、一週間後になる見込みの方が多いようです。ご存じのようにギロチンの犠牲者を悼《いた》んだり、同情したりすることは死に値する罪ですからね。あのひとも、あのひとのお父さんも、もちろんこの罪に該当するでしょう。だから、この女は(その執念深い追求の仕方ときたら、まったくなんと言っていいかわかりません)そのときまで待って、自分の問題にそれもつけ加えて、二倍の確信をもってやるでしょう。僕の話についてこられますか」
「あなたのおっしゃることを、あまり一生懸命に、心から信頼して伺っているものですから、(医師の椅子の背に手をふれて)このわざわいのことさえちょっと忘れてしまいそうです」
「あなたはお金がおありですから、できるだけ早く海岸まで行ける輸送機関を手に入れられるでしょう。あなたがイギリスへお帰りになる準備は数日前からできているのですね。明日早く、馬の用意をしてください。そうすれば馬は午後二時には出発できるでしょう」
「そうしますよ」
カートンの態度は非常に熱烈で生気があふれていたので、ローリー氏はその炎をとらえて、若者のように敏捷になった。
「あなたはりっぱな人だ。あなたほど頼りになる方はないと僕は言ったでしょう。今晩、あのひとに、あのひとも、お子さんも、お父さんも巻き込んでいる危険のことを、ご存じのとおり話してあげてください。そのことを詳しく話してあげてください。あのひとは、きっと、あの美しい頭を楽しくご主人の頭のそばに横たえるようになるでしょうからね」彼は一瞬間口ごもった。それから今までと同じようにつづけた。「あのひとのお子さんと、お父さんのために、あのひとがご家族とあなたといっしょに、その時間にパリを引き上げなければならないということを、むりにでも承知させてください。それはご主人の最後のとりきめだとおっしゃってください。それには、あのひとが信じたり望んだりしていらっしゃる以上のことが、かかっているのだとおっしゃってください。あのお父さんは、こんな悲しい有様でも、お嬢さんのいうことをおききになるとお考えになりますか」
「もちろんそう思います」
「僕もそう思っていました。あなたが馬車の中の席につかれるまでこの手筈はすべてここの中庭で、しずかに、確実に、ととのえていただきたいのです。そして僕が来たらすぐ、僕を乗せて、出発してください」
「わたしはどんな場合にもあなたをお待ちするということなのですね」
「あなたはほかのといっしょに僕の証明書を持っていらっしゃるでしょう。それで、僕の席がとってあるでしょう。僕の席がふさがったら、何も待たずに、イギリスに向かって出発してください」
「えっ、それなら」とローリー氏は彼の熱心な、力強い、しっかりした手を握って言った。「それは一人の老人の肩にだけかかっているのではなくて、わたしのそばには若い血気盛りの青年がいるわけですね」
「天のお助けで、そうなるでしょう。どんなことがあっても、いまお互に誓約した手順を変えないと、かたく約束してください」
「どんなことがあってもね、カートンさん」
「この言葉を明日思い出してください。もしこの手順を変えたり、ためらったりすれば――どんな理由があろうとも――おそらくただひとつの生命も救われないで、多くの生命が必ず犠牲にならなければならない」
「わたしはそれをおぼえていますよ。わたしは自分の役割を忠実に果たしたいと思っていますよ」
「僕も自分でそう思っています。では、おやすみなさい」
カートンはまじめな厳粛な微笑をうかべてそう言ったけれども、また、老人の手を自分の唇にあてさえしたけれども、それきり彼と別れたのではなかった。彼は老人を助けて消えかかった燃えさしの前でからだをゆすっている人間を立たせて、外套と帽子を身につけさせ、彼がまだうめくような声でほしがっている腰掛と仕事が隠してあるところへ見つけに行くのだと言って彼を誘い出した。カートンはそれの一方の側を歩いて、あの苦しめられた心が――彼が自分のわびしい心をうちあけたあの記憶すべきときにはあんなに幸福であった心が――恐ろしい夜を見守っている家の中庭までそれを護衛して行った。彼は中庭に入り、彼女の部屋の窓の明かりを見上げながら、二、三秒の間ただひとりでそこにたたずんでいた。そしてそこを立ち去る前にその明かりにむかって祝福を祈り、別れを告げたのであった。
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第十三章 五十二人
コンシエルジェリーの暗い監獄では、その日死刑の宣告を受けた人々が宿命を待ちうけていた。彼らの数は一年の週の数と同じであった。五十二人の人は、その日の午後、この都市の生ける潮にのってかぎりなくつづく果てしない海へと車を走らせることになっていたのだ。彼らが監房を出る前に、新しい入牢者がきまっていた。また、彼らの血が昨日流された血の中に流れ込まぬうちに、明日彼らの血と混じるはずの血が、すでにとりのけられていた。
五十二の数が数えられた。いくら金を積んでも生命をあがなうことができなかった七十の徴税請負人から、貧しい卑しい身分も救いとはならなかった二十のお針子まで。人々の悪習と怠慢から生じた肉体の病はあらゆる階級の犠牲者をとらえるものだが、言語に絶した苦悩と耐え難い虐待と冷酷な無関心から生まれたおそろしい心の病は誰も彼も同じにうちのめした。
監房にただひとりのチャールズ・ダーネーは、法廷から戻って来てからは、決して虫のいい妄想をして気力を支えようとはしていなかった。あの供述の一行一行に彼は死刑の宣告を聞いたのであった。彼には、どんな個人的な影響力も彼を救うことはできないし、彼は事実上数百万の人に宣告を下されたのであって、一人の人間がどんなことをしても彼を助けることはできないということがよく分っていた。
とはいうものの、愛する妻の顔を生き生きと思い浮かべると、耐えねばならぬことを耐え忍ぼうとあきらめるのは容易なことではなかった。彼の手は生を強くつかんでいて、その手を弛めるのは非常にむずかしかった。しだいに努力して、こちらで少しゆるめたかと思うと、そちらではいっそう強くつかんでいた。懸命になってそちらの手に力をこめて、それがついにゆるむと、こちらではまた、しっかりとしがみついていた。そればかりでなく、彼の心の中にはあきらめさせまいとするいらだちが、乱れた興奮した心の動きが、あった。もし、一瞬間でも彼があきらめたら、彼の死後まで生きなければならない妻と子が、彼のことを勝手な人だと抗議するような気がした。
だが、こういうことはすべて最初のうちだけであった。まもなく彼は、自分が遭遇しなければならない宿命には何も恥じることはないし、ほかの仲間たちも不当にも同じ道をすすんで行き、日々それをしっかりと踏みしめて行ったのだと気がついて、はげまされたのであった。その次には、愛する者たちの将来の心の平和は彼の落ち着いた不屈の精神にかかっているのだと考えるようになった。そこで、彼はしだいに落ち着いてきて、思いをずっと高く上げ、そこから慰めを引きだすことができるようになった。
宣告を受けた夜、まだ暗くならないうちに、こうして彼は最後の道を遠くまで旅をしたのであった。書く道具と燈火を買うことは許されていたので、彼は坐って監房の燈火を消さなければならない時間まで手紙を書いた。
彼はルーシーに長い手紙を書いて、ルーシーからその話を聞くまで彼女の父親が監禁されていたことはなにも知らずにいたし、またあの書類が読まれるまで彼の父と叔父にその災難の責任があったことはルーシーと同様、なにも知らなかったと説明した。彼がすでに捨て去った名前を彼女に隠していたことは――今はすっかり分っているが――彼女の父が二人の婚約に付した一つの条件であって、また彼らの結婚式の朝、むりに約束させられたことだということは、もう彼女に説明がしてあった。彼は、いつか日曜日にあのなつかしい庭のすずかけの樹の下で彼がロンドン塔の話をしたときに彼女の父親があの書類のことを忘れていたのか、それとも、思い出していたかどうか、決して知ろうとしないようにと、彼女の父親のためにこい願った。もし彼があの書類のことをはっきり記憶していたとしても、民衆が発見した囚人の遺物の中にそれがあったというのを聞いたことがなかったのだから、当然それはバスチーユとともに滅びたことと想像していたのだろう。彼はまた――そんな必要はないということを承知しているが、とつけ加えたのだが――父親が自分自身を責めるのはむりもないと思われるようなことは何ひとつしていないばかりか、彼らみんなのために自分のことはすっかり忘れてくださったのだという事実を、彼女が思いつく限りのやさしい方法で彼の心にきざみつけてくれるようにと嘆願した。そして彼の最後の感謝をこめた愛と祝福を忘れずに悲しみにうち勝って愛児のために献身してくれと書いた後、二人は天国で会うのだから、お父さまを慰めてあげてくれるようにと懇願した。
ルーシーの父へも彼は同じ調子で手紙を書いた。だが父親には妻と子供の世話を特におねがいすると書いた。彼が特別このことを強調したのは、父親ががっかりしないように、また彼にその傾向が予知されたあの危険な追憶から彼を呼びさましたいと望んだからであった。
ローリー氏には家族全部を託し、自分の財産のことを説明した。そして、感謝をこめた友情とあたたかい愛情の言葉を書きつらねて、その手紙を書き終えると、なにもかも、すんだ。彼はカートンのことは思ってもみなかった。彼の心はほかの人たちのことでいっぱいだったから、カートンのことなど一度も考えなかった。
燈火が消されるまでに彼はこの手紙を書き終えた。そして藁の寝床に横たわったとき、この世とも縁が切れたと思った。
だが、この世は、眠りの中で、彼を招いて呼び戻し、輝くばかりの形をとってあらわれた。かつてのソホーの家に帰って、自由に、幸福に(その家は本当の家には少しも似ていなかったが)、ふしぎなほどのびのびして、心が軽く、彼はまたルーシーといっしょにいて、ルーシーが彼に、あれはみんな夢で、彼はどこへも行ったことはないのだと言うのであった。それから忘却の合間があり、そのつぎは、彼は苦しんだ果てに、死んで静かに彼女のところに帰ってきた。しかし、彼は前と少しも変わっていなかった。また忘却の合間があり、彼はどこにいたのか、どんなことがあったのかも忘れて、うす暗い朝に目をさましたが、やがて、「今日は自分が死ぬ日なのだ」ということが心にひらめいた。
こうして彼は五十二の首が切り落される日まで何時間かを過ごしたのであった。そしていま、心が落ち着いて、静かな英雄的な気持で最後を迎えることができるようにと望む一方、目覚めた彼の頭の中で新しい一つの動きが始まって、それを抑えるのが非常にむずかしかった。
彼は自分の生命を終らせる道具を見たことがなかった。それは地面からどれほど高いところにあるのか、彼が立たされるところまで階段を何段上らなければならないか、どんな風に触わられるのか、彼に触わる手は赤く染まっているだろうか、彼の顔はどちらへ向けられるのだろうか、彼が最初だろうか、それとも最後だろうか。彼の意志の支配を受けないこうした疑問や同じような多くの疑問が、繰り返し繰り返し、かぞえきれないほどたびたびでしゃばって来た。それは恐怖とは関係がなかった。それは、むしろ、その時が来たときどうすればいいか知りたいという、たえずつきまとっている奇妙な願いから出たものであり、それと関係のあるほんのわずかな瞬間におそろしくふつりあいな願いであり、彼自身のものというよりも彼の心の中にあるほかの心の訝《いぶか》りに似た訝りであった。
彼が往きつ戻りつしている間に時は過ぎて行った。そして時計は彼が二度と聞くことがない数を打った。九時が永久に去り、十時が永久に去り、十一時が永久に去って、十二時が去って行くために近づいて来た。彼は最後に彼を悩ませたあの奇妙な心の動きと一生懸命に戦った後、それに打ち勝ったのであった。彼は彼らの名をやさしく繰り返しながら、あちらこちら歩きまわっていた。最悪の戦いは終った。彼は気が狂いそうな空想から自由になって、自分と彼らのために祈りながら歩きまわることができた。
十二時は永久に去った。
彼は最後の時間が三時だと知らされていた。そして、死刑囚護送車ががたがた揺れながら重苦しくのろのろと街を行くので、少し早目に呼び出されるだろうと承知していた。それで、彼は二時をその時とおぼえておいて、それ以後はほかの人たちをはげますことができるように、その間に自分をはげまそうと決心した。
彼はラ・フォルスで往きつ戻りつしていたあの囚人とはまるでちがって腕を胸の上に組んで規則的に往きつ戻りつしながら、一時が打って彼から去って行くのを驚きもせずに聞いた。その一時間もたいていのほかの時間と同じ長さであった。彼は落ち着きをとり戻せたことを真心こめて天に感謝し、「もうあと一時間しかない」と思い、向きを変えてまた歩きはじめた。
扉の外の石の通路に足音。彼は立ち止まった。
鍵が錠前にさし込まれて、まわされた。扉が開く前か、開いたときに、一人の男が低い声で英語で言った。「あの人はここでわたしに会ったことがないのですよ。わたしはあの人を避けていたのです。あなたひとりでお入りなさい。わたしは近くで待っています。急いでくださいよ」
扉はすばやく開いて閉まった。そして彼と向き合って、しずかに、じっと彼を見つめ、明るく微笑《ほほえ》みながら、用心しろと唇に指をあてて、シドニー・カートンが立っていた。
カートンの顔には非常に目をひく輝かしいなにかがあらわれていたので、最初みた瞬間、囚人は彼を自分の想像の幻影ではないかと疑った。しかし、彼はものを言った。そしてそれは彼の声であった。彼は囚人の手をとった。そして彼は本当に彼の手を握ったのであった。
「地上のあらゆる人間の中で、僕ほど意外な人間はないだろうね」と彼が言った。
「これが君だとは信じられなかった。今でも、信じられないくらいだ。まさか君は」――その懸念が突然彼の心に浮かんだ――「囚人ではないだろうね」
「ちがう。僕は偶然ここの看守の一人を自由にできるようになってね、それで君の前に立っているんだ。僕はあのひとのところから――君の奥さんのところから来たのだよ、ダーネー君」
囚人は手を絞って悲しんだ。
「僕はあのひとから君のところへひとつの要望をとりつぎに来たのだ」
「なんだね」
「君がよく記憶している、君の愛するあの声が、最も悲痛な調子で君に頼んだ、じつに真剣な、差し迫った、強い願いなのだ」
囚人はすこし顔をそむけた。
「君には、なぜ僕がその願いをたのまれてきたか、それがどういう意味なのか、僕に尋ねるひまはない。僕も君に話すひまがない。君はその通りにしなければならないのだ――君のはいている長靴を脱いで、僕のこれをはき給え」
囚人のうしろには、監房の壁にもたせかけた椅子が一脚あった。カートンは詰め寄り、既に稲妻のような早さで彼をその椅子に腰掛けさせ、はだしになって彼を見下して立っていた。
「僕のこの長靴をはき給え。これをとり給え、しっかりとり給え。早く!」
「カートン、ここから逃げ出すことなどできっこないんだ。それは不可能なんだ。君が僕といっしょに死ぬだけだよ。気違い沙汰だよ」
「僕が君に逃げ出してくれと頼んだら、気違い沙汰だろうよ、だが、そんなことを言ったかい。僕が君にあの扉から出てくれと頼むなら、それは気違い沙汰だと言って、このままここにいるがいい。そのネクタイを僕のととり替えて、その上着を僕のこれととり替えるんだ。君がそうしている間に、君の髪からこのリボンをとって、君の髪を僕の髪のようにひろげさせてくれ」
おどろくべきすばやさで、また、自然とは思われない意志と行動の力で、カートンは彼にむりにそういうものをとり替えさせた。囚人は彼の手にかかってまるで幼な子のようであった。
「カートン。ねえ、カートン。これは気違い沙汰だよ。やりおおせる事じゃないよ、やりおおせたことはないんだよ。やってみた人はあるが、いつも失敗したんだよ。僕の死の苦汁に君の死をつけ加えないように、お願いする」
「ダーネー君、僕は君にあの扉から出てくれと頼んだかね。僕がそういうことを頼んだら断ってくれ給え。このテーブルの上にペンとインクと紙がある。君の手はふるえないで書けるかね」
「君が入ってきたときは、しっかりしていたが」
「もう一度しっかりし給え、そして僕が言うことを書き給え。早く、早く」
ダーネーは手をこんがらかった頭に押しつけながらテーブルに坐った。カートンは右手を胸に入れて彼のすぐそばに立った。
「僕の言うとおりに書くんだよ」
「宛名は誰だね」
「誰でもないんだ」カートンは手を胸に入れたままだった。
「日付を書くのかね」
「いいよ」
囚人は尋ねるたびに上を見た。カートンは手を胸に入れて彼の上から見おろしていた。
「『もしあなたがずっと前に私たちの間でかわされた言葉を、おぼえておいでになるなら、これをごらんになれば、すぐお分りになるでしょう。あなたはきっとおぼえておいでになります。あなたはあれを忘れるような方ではありません』」
彼は胸から手を引き出していた。囚人は書いているうちに、いそぎながらも訝《いぶか》ってふと見上げると、その手はなにかをつかんで動かなくなった。
「『あれを忘れる』と書いたかね」とカートンが尋ねた。
「書いたよ。君のもっているのは武器かね」
「いや、僕は武器なんかもっていないよ」
「君がもっているのはなんだね」
「じきに教えてやるよ。そのつづきを書いてくれ、あとすこしだ」彼はまた口述した。「『僕はあれを証明できる時がきたのを感謝しています。僕がそうすることはけっして悔やんだり悲しんだりすべきことではありません』」書いている男をじっと見つめてこう言いながら、手をそっとゆっくりと書いている男の顔に近づけた。
ペンはダーネーの指からテーブルに落ちて、彼はぼんやりとあたりを見まわした。
「なんの煙だろう」と彼が尋ねた。
「煙?」
「僕の前を何かが通り過ぎたが」
「僕は何にも気がつかないね。ここに何かがあるはずがないじゃないか。ペンをとって、しまいまで書き給え。早く、早く」
囚人はまるで記憶力が減じたか乱れたかしたようにふたたび注意を集中しようと努めた。息づかいの変わった彼が曇った眼でカートンを見たとき、カートンは――ふたたび手を胸に入れて――彼をじっと見ていた。
「早く、早く」
囚人はまた紙の上に屈みこんだ。
「『もしこういうことにならなかったならば』」――カートンの手はふたたび用心深くそっと下におりて行った。――「『僕はもはや機会を得ることができなかったでしょう。もしこういうことにならなかったならば』」――その手は囚人の顔にとどいていた。――「『僕はそれだけ責任が多くなるだけだったでしょう。もしこういうことにならなかったならば――』」カートンはペンを見て、それがわけのわからぬ符号を書きちらしているのを見た。
カートンの手はもう胸には戻らなかった。囚人は彼を責める顔をしてとび上がった。だが、カートンの手は彼の鼻孔をぴったりとしっかりふさぎ、カートンの左腕は彼の腰のまわりをつかんでいた。二、三秒の間彼は自分のために生命を投げ出しに来てくれた男と弱々しく争った。が、一分もたたないうちに意識を失って床にたおされてしまった。
すばやく、だが彼の心のごとく目的に誠実な手で、カートンは囚人が脱いだ服を着、髪を後ろにかき上げて、囚人が使っていたリボンでそれを結わえた。それからそっと「入って来い、入れ」と呼ぶと、スパイがあらわれた。
「どうだ」カートンは意識を失った姿の傍に片膝をついてひざまずき、先刻の紙をそのふところに入れながら、見上げて言った。「君は非常な危険をおかさなきゃならないかね」
「カートンさん」スパイは小心な指の鳴らし方をして答えた。「ここじゃとり込んでいる最中ですから、あなたがちゃんととりきめ通りにやってくださりゃ、それほど危険なことはありませんよ」
「おれのことは心配するな。おれは死ぬまでちゃんとやるよ」
「五十二という数がまちがいないようにするにはね、カートンさん。あなたにちゃんとやっていただかなきゃ、その服を着たあなたがまちがいのないようにしてくださりゃ、わたしはちっとも心配しませんよ」
「心配するな。おれはじきにお前に危害を加えるようなところからいなくなるだろうし、あとの人たちも、神の御心にかなったらじきにここから遠いところに行ってしまうだろう。さあ、手伝ってもらって、おれを馬車まで連れていけ」
「あなたを?」とスパイが神経をとがらせて言った。
「この人さ、おれが入れ替わった男をだよ。お前はおれを中に入れた門から出るのだろうね」
「もちろんです」
「おれはお前が中に入れたとき弱ってふらふらしていた。だからお前が連れだす今はますます弱っている。最後の面会で耐えられなかったのだ。そういうことは、ここでは、しょっちゅうあることだ。お前の生命はお前の手の中にあるんだぞ。早く! 手伝いを呼べ!」
「あなたはわたしを裏切らないと誓ってくれますね」とスパイは、最後の瞬間に立ち止って震えながら言った。
「おい、おい」カートンは地団太踏みながら答えた。「この貴重な瞬間をむだにするなんて、おれはこのことをやり通すと厳粛に誓わなかったかい。お前の知っている中庭へ自分でこの男を連れて行って、自分でこの男を馬車に乗せて、自分でこの男をローリーさんに見せて、自分でローリーさんに、この男には空気以外の気付薬はやらないでくれ、それから昨夜僕が言ったことと、昨夜のあの人が約束したことを忘れないでくれ、と言って、馬車を発《た》たせろ」
スパイは出て行き、カートンはテーブルに坐って手の上に額を伏せた。スパイはすぐ二人の男といっしょに戻ってきた。
「どうしたんだ」その一人が倒れている姿をじっと見て言った。「友だちが聖なるギロチンのくじ引で賞品を当てたのを見てたまらなくなったんだな」
「りっぱな愛国者だって」ともう一人が言った。「もし貴族の奴が空くじを引いてもこれほど苦しみゃしなかったろうよ」
彼らは意識のない男をおこし、扉まで持ってきてあった担架にのせて、運び去ろうと屈んだ。
「もうじきだぞ、エヴレモンド」とスパイが警告的な声で言った。
「よく分っています」とカートンが答えた。「どうか、友だちに気をつけてください。そして僕のことは放っておいてください」
「では、行こう、若い衆」とバーサッドが言った。「そいつをかついで行ってくれ」
扉が閉められて、カートンはひとり残された。極度に耳をするどくして、嫌疑や驚きを示す音が聞こえやしないかと耳をすませた。だが、何も聞こえなかった。鍵がいくつもかかる音と、扉がいくつもガタンと閉まる音がして、遠くの方の廊下を歩いて行く足音が聞こえるばかりで、いつもとちがった叫び声もあがらず、大騒ぎも起こらなかった。しばらくしてカートンはもっとのびのびと息をしながら、テーブルに坐って、二時が打つまでまた耳をすませていた。
するともの音が聞こえてきた。彼はその意味を前もって承知していたから恐れはしなかった。いくつかの扉がつづけさまに開かれ、最後に彼の監房の扉が開かれた。手に名簿をもった看守がのぞき込んで、ただ、「おれについてこい、エヴレモンド」とだけ言った。そして彼はすこし離れたところにある大きな暗い部屋までついて行った。暗い冬の日で、中の影やら外の影やらで、彼はそこに手を縛られて連れて来られた他の人々をぼんやり見分けることができただけだった。立っている人たちもあり、坐っている人たちもあった。嘆き悲しみながら、そわそわと動きまわっている人たちもあったが、それはごくわずかであった。大部分は地面をじっと見ながら無言でじっとしていた。
五十二人の中の幾人かが彼のあとから連れこまれている間、彼がうす暗い隅の壁ぎわに立っていると、一人の男が、彼のことを知っていて、通りすがりに立ち止まって彼を抱擁した。彼は発見されやしないかと思い、非常な恐怖を感じてひやりとした。だが、その男はそのまま行ってしまった。そのわずか二、三秒後に、痩せて少女のようなからだつきをし、可愛い、蒼白な痩せ細った顔をした若い女が、先刻から坐っていた席から立ち上がって、彼に話しかけようとしてやってきた。
「市民エヴレモンド」女は冷たい手で彼に触って言った。「私はラ・フォルスでご一緒でした貧しい小さなお針子でございます」
彼は呟《つぶや》くように口の中で返事をした。「そうでしたね。僕はあなたの罪がなんだったか忘れました」
「陰謀でございます。正しい神様は私が無実だということをご存じですけれど。誰が私みたいな貧しい、小さな弱いものといっしょに陰謀を企てようなんて考えるでしょうか」
彼は彼女がそう言ったときの頼りない微笑につよくうたれて、涙が彼の眼に浮かんだ。
「私は死ぬのをこわがってはいませんわ、市民エヴレモンド。でも、私は何もしていないのです。もし私の死が、私たち貧しいものによいことをたくさんしてくれるという共和国のためになるのでしたら、私は死ぬのをいやがったりいたしません。でも、市民エヴレモンド、そんなことがあるはずがないのです。こんな貧しい弱い小さいものなのに!」
これが彼の心があたためなぐさめる最後のものであったのだろうか、この哀れな少女は彼の心にあたためられ、なぐさめられた。
「あなたが釈放されたと聞きましたが、市民エヴレモンド。それが本当だといいと思っておりましたのに」
「本当に釈放されたのです。ですが、また逮捕されて宣告を受けたのです」
「もし私がご一緒の車で行くようでしたら、市民エヴレモンド、あなたの手につかまらせてくださいませんか。私はこわくはありません。でも、小さくて、弱いのです。そうさせていただければ、もっと勇気がでますわ」
その辛抱強い眼が彼の顔に上げられたとき、彼はそこに突然疑惑が浮かび、つづいて驚愕が浮かんだのを見た。彼は仕事にやつれ飢えにやつれ果てた若い指をかたくにぎって、彼の唇にあてた。
「あなたはあの方の代りに死ぬのですか」と彼女がささやいた。
「それからあの人の奥さんと子供のね。しっ、そうですよ」
「ああ、あなたの勇敢な手を握らせてください、知らないお方」
「しっ! どうぞ、かわいそうな妹よ、最後まで」
午後の、まだ早い同じ時間に、牢獄の上に落ちていた同じ影が、人々の群がるこの都市の関門の上にも落ちていたとき、パリから出て行く一台の乗合馬車が検査を受けるために関門に乗りつけた。
「ここを通るのは誰か、中にいるのは誰か。書類だ」
書類が手渡されて読まれた。
「アレクサンドル・マネット。医師。フランス人。これはどれか」
これなのだ。この無力の、とりとめのないことをぶつぶつ呟いているさし示された老人なのだ。
「どうやら市民お医者さんは正気ではないようだ。この人には革命熱がききすぎたのかね」
あまりにもききすぎたのだ。
「そうか、それで苦しんでいる人がたくさんいるよ。ルーシー。彼の娘。フランス人。どれだね、この人は」
これだ。
「それにちがいないようだ。ルーシー、エヴレモンドの妻。そうじゃないかね」
そうだ。
「はは、エヴレモンドはよそで約束があるんだな。ルーシー、彼女の子。イギリス人。これかね」
その通りまちがいなし。
「接吻しておくれ、エヴレモンドの娘さん。さあ、あんたはりっぱな共和主義者に接吻したんだよ。あんたの家族の中じゃ、ちょっと珍しいことだ。それをおぼえておいで。シドニー・カートン。弁護士。イギリス人。どの人だね」
ここに寝ている、馬車のこの隅に。彼もさし示される。
「どうやらイギリスの弁護士さんは気を失っているようだね」
もっと空気のいいところに出れば回復するだろうと思う。彼はからだが弱っていて、共和国の不興をこうむった友人と悲しい思いで別れてきたところだと説明された。
「それだけのことでか。たいしたことじゃないぞ、そんなことは。共和国の不興をこうむって、あの小さい窓から外を見なきゃならないやつはうんといるからな。ジャーヴィス・ローリー。銀行員。イギリス人。どれだね」
「わたしです、もちろん。わたしが最後ですから」
前の質問にすべて答えたのはジャーヴィス・ローリーであった。馬車から降りて、かたまっている役人たちに返事をしながら馬車の扉に手をかけて立っているのはジャーヴィス・ローリーであった。彼らは屋根にのせてあるわずかな荷物を見ようとしてゆっくりと馬車の周囲を歩いたり、ゆっくりと御者台に上ったりしていた。また、そのあたりをうろついていた田舎者が馬車の扉の近くまで寄ってきて、むさぼるようにじっとのぞき込み、母親に抱かれた小さい子供は、ギロチンにかけられた貴族の妻に触わるようにと、その短い手をさしださせてもらった。
「ジャーヴィス・ローリー、副署したから、その書類を見よ」
「出発していいですか、市民」
「出発してよし。行け、騎手君! 気をつけてな」
「ごきげんよう、市民諸君。――これで第一の危険が過ぎた」
これもまた、手をしっかり握り合わせて天を見上げたジャーヴィス・ローリーの言葉である。馬車の中では、おびえ、すすり泣き、意識のない旅行者は重苦しい呼吸をしている。
「私たちはゆっくりし過ぎていないでしょうか。もっと早く進むようにしてもらえないでしょうか」ルーシーは老人にしがみついて尋ねた。
「そんなことをすれば逃げるように見えますよ。あまり急がせてはいけません、疑われますからね」
「後ろを見てください、後ろを見てください。私たちが追いかけられているかどうか見てください」
「道には何も見えませんよ。これまでのところでは、私たちは追いかけられてはいませんよ」
ちらほら見える家々が、人気《ひとけ》のない農場が、荒廃した建物が、染物工場や、製革所や、それに似た建物が、広々とした田舎が、落葉した並木のある大通りが、私たちの傍を過ぎて行く。かたいでこぼこの舗道が私たちの下にあり、柔かい深い泥が両側にある。ときには、私たちをガタガタゆすぶる石をよけようとしてへりの泥の中に入り、ときにはそこの車の跡やぬかるみにはまりこむ。そのときのいらだたしさときたら非常なもので、私たちは驚いてとりみだし、あわてふためいて、馬車を降りて駆けだすことでも――隠れることでも――じっと止まっているのでさえなければなんでもしたいと思うくらいだ。ひろびろとした田舎から、また荒廃した建物や、人気のない農場や、染色工場や、製革所や、それに似たものや、二、三軒ずつかたまっている百姓家や、落葉した並木のある大通りなどの間に入る。この男たちは私たちをだまして、別の道を通って私たちを連れ戻すのではないか。これは先刻と同じ場所ではないのか。ありがたいことに、そうではない。村だ。後ろを見てください、後ろを見てください。私たちが追いかけられているかどうか、見てください。静かに! 宿駅だ。
ゆっくりと私たちの四頭の馬ははずされる。ゆっくりと馬からはなれた馬車は小さな街に立っていてふたたび動き出しそうな気配はさらに見えない。ゆっくりと新手《あらて》の馬が、一頭ずつ、あらわれる。ゆっくりと新手の騎手が鞭のひもをしゃぶったり編んだりしながら、そのあとから来る。ゆっくりともとの騎手たちはお金の勘定をし、足し算をまちがえて、どうしても満足できない。その間ずっと、私たちの過労に陥った心臓はかつてこの世に生まれた一番足の早い馬の一番早い駆け足もはるかにしのぐような早さで鼓動をうっている。
とうとう新手の騎手が馬に乗り、前のはあとに残される。私たちは村を通りぬけて、丘を上り、丘を下り、低い湿地に出る。突然騎手たちが生き生きした身ぶりで話をかわし、馬は臀《しり》をつかんばかりに手綱をしめられる。「私たちは追いかけられているのか」
「ほーい、車のなかの方。話してください」
「なんだね」とローリー氏は窓から外を見て尋ねる。
「何人だと言ってましたか」
「なんのことか分らないが」
「――さっきの宿駅でさ。今日はギロチンへ何人行きましたかね」
「五十二人」
「おれの言ったとおりだ。すばらしい数だ。ここにいるおれの仲間の市民は四十二人だと頑張ったんだが、十も首が多けりゃ、頑張りがいがあらあね。ギロチンは見事にやってるよ。おれはあれがたまらなく好きだ。おい、やれ。わーい」
暗い夜が近づいて来る。彼はますます動く、彼は回復しかけて、わかるように話をするようになりはじめた。彼はまだカートンといっしょにいると思っている。彼はカートンの名を呼んで、手に何をもっているのかと尋ねる。おお、情け深き天なる神よ、私たちを憐れみ、私たちを助けてください! 外を見てください、外を見てください、私たちが追いかけられているかどうか見てください。
風は私たちのあとから吹き寄せてくるし、雲は私たちのあとから飛んでくる。また月も私たちのあとから追いかけてきて、荒れ模様の夜全体が私たちを追いかけて来る。だが、これまでのところでは私たちを追跡して来るものは、そのほかにはなにもない。
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第十四章 編物は終る
五十二人の者が宿命を待ちうけていたその同じときに、マダム・ドファルジュは革命陪審員の『復讐』とジャーク三とともに陰気な不吉な評議をしていた。マダム・ドファルジュがこの閣僚たちと評議をしていたのは、酒店ではなく、かつての道路工夫でいまは木挽きをしている男の小屋の中であった。木挽きは協議には参加せず、求められるまでは発言できないし、また、請《こ》われるまでは意見を述べてはいけない外部の家来のように、すこしはなれたところで待っていた。
「しかし、われわれのドファルジュはたしかにりっぱな共和主義者じゃありませんか」とジャーク三が言った。
「あれほどりっぱな人はフランスにはいないわ」と口の達者な『復讐』がかん高い声で言った。
「静かにおしよ、『復讐』さん」マダム・ドファルジュはちょっと眉をひそめて副官の唇に手をあてて言った。「市民、夫はたしかにりっぱな共和主義者で大胆な人だよ。共和国から報いを受けるだけの功労があるし、共和国から信頼もされているよ。だけどね、あの人には弱点があるんだよ。あの医者に情けをかけようなんて思うほど気が弱いんだからねえ」
「まったく惜しいことだね」ジャーク三は無情な指を飢えた口にあてていぶかしげに首を振りながら、しゃがれ声で言った。「それはりっぱな市民らしくないね、残念なことだ」
「ねえ」と細君が言った。「わたしはね、あんな医者なんかどうだってかまわないんだよ。首がつながろうが、なくなろうが、わたしにゃ関係がない。わたしにとっちゃ、どっちだって同じだ。だけどね、エヴレモンドの一族は根絶やしにするんだよ。女房も子供も亭主と父親のあとにつづかなきゃならないんだよ」
「あの女の首は、それにゃもってこいだ」とジャーク三がしゃがれ声をだした。「おれはあそこで青い眼や金髪を見たことがあるがね。それをサンソンがさし上げたときにゃ、なかなか魅力があったよ」彼は人喰い鬼のような男だったが、このときは享楽主義者のような口のきき方をした。
マダム・ドファルジュは眼を伏せて、ちょっと考えた。
「あの子供も」ジャーク三は自分の言葉を味わって楽しみながら言った。「金髪と青い眼をしている。それに、あそこじゃ子供はめったに見られないからね。きっと、きれいな見ものだよ!」
「つまり」と、ちょっとぼんやりしていたマダム・ドファルジュはわれにかえって言った。「夫にはわたしのようにこの一族を断絶させなきゃならない理由がないし、わたしにはあの人のようにこの医者をいたわらなきゃならない理由がないんだよ。だから、わたしはひとりでやらなきゃならない。こっちへおいでよ、市民」
彼女を尊敬していて、自分は服従すべきものと思っていた木挽きは赤帽子に手をやってすすみでた。
「あの女が囚人におくった信号のことなら」とマダム・ドファルジュは厳然として言った。「今日にでもあんたが証言できるわね」
「はい、はい、もちろんですとも」と木挽きが叫んだ。「毎日毎日、どんな天気の日でも、二時から四時まで、子供といっしょだったり、いっしょでなかったりだが、いつも信号をおくっていましたよ。わしはわしが知ってることは知っていますよ。わしはこの眼で見たのですよ」
彼はしゃべりながら、まるで自分が見たこともない多種多様の信号の中のいくつかを偶然まねてみせるかのように、いろいろと身ぶりをしてみせた。
「明白に陰謀だ」とジャーク三が言った。「きわめて明白だ」
「陪審員は大丈夫だろうね」マダム・ドファルジュは暗い微笑を浮かべて彼に眼をむけながら尋ねた。
「愛国者の陪審員を信用してくださいよ、親愛なる女市民。仲間の陪審員のことは、自分が責任をもちますよ」
「では、ちょっと考えさせて」マダム・ドファルジュはまた考えこんで言った。「もう一度だけ。わたしはこの医者を助けてやって夫にまかせた方がいいかしら。どっちにしても、わたしは何とも思わない。助けてやった方がいいかしら」
「あいつも一つの首に勘定できる」とジャーク三が低い声で言った。「まったく首が充分ないんだ。わしは残念だと思うね」
「わたしが見たとき、あいつは娘といっしょに合図していたんだよ」とマダム・ドファルジュが主張した。「だから、一方だけきりはなして証言することはできないよ。それにわたしも黙ってないで、この事件はすっかりこの人に、ここにいるこの小さい市民に任せなきゃならない。わたしだって、わるい証人じゃないからね」
『復讐』とジャーク三は、彼女こそはあらゆる証人の中で最もりっぱな、すばらしい証人だと、競って熱烈に賛美した。かの小さい市民も負けていず、彼女は神様のような証人だと断言した。
「あいつは自分の運命を受け入れなきゃならない」とマダム・ドファルジュが言った。「いいえ、わたしはあいつを助けてやることはできない。あんたは三時に用があるんだね、今日の分が処刑されるのを見に行くんだろう。――お前さん」
それは木挽きに問いかけられた。そして彼はいそいで、そうだと答え、ついでに、自分こそ誰にも劣らぬ熱烈な共和主義者であるが、もしなにかにあのひょうきんな国家的理髪師を眺めながら午後のパイプをふかすたのしみを奪われたら、自分はまったく誰よりもさびしい共和主義者になるだろう、とつけ加えた。そう言ったときの彼はあまりにも熱狂ぶりをあらわし過ぎていたので、さてはこの男は、たえず自分の身の安全にたいしていくらかひそかな恐怖をいだいているのではないかと疑惑をもたれたかもしれなかった(さげすむように彼を見たマダム・ドファルジュの黒い眼から判断すると、おそらくそうした疑惑をもたれたにちがいない)
「わたしも」と細君が言った。「同じ場所に用があるのよ。あれが済んだら――今夜八時ごろに――サン・タントワヌのわたしのところにおいで。そうすれば、わたしの地区のこの連中に不利な情報を提供するよ」
木挽きはこの女市民に仕えるのは自分の誇りとするところであり、またよろこびとするところであると言った。そして女市民が彼を見ると、まごついて、小犬のようにその視線を避け、木材のなかに退いて、鋸の柄の上に屈んで狼狽をかくした。
マダム・ドファルジュは陪審員と『復讐』をもう少し扉の近くまでまねいて、そこでさらにその先の計画をこんなふうに話した。
「いまごろあの女はあいつの死ぬ時間を待ちうけながら家にいるだろう。きっと嘆いたり悲しんだりしているだろう。あの女は共和国の正義を非難する気持になっているだろう。あの女は共和国の敵にたいして同情でいっぱいだろう。わたしはあの女のところへ行ってくるよ」
「なんというあっぱれなひとだろう。なんという尊敬すべきひとだろう」ジャーク三は有頂天になって叫んだ。「ああ、わたしの大事なひと!」と『復讐』が叫んだ。そして彼女を抱擁した。
「わたしの編物をもって行っておくれ」マダム・ドファルジュは編物を副官の手に渡して言った。「そして、わたしのいつもの席に用意しておいておくれ。わたしにいつもの椅子をとっておいておくれ。さあ、まっすぐにあそこへお行き、今日はいつもよりおおぜい人があつまるだろうからね」
「わたしはよろこんでお頭《かしら》の命令に従いますよ」と『復讐』はてきぱきと答えて彼女の頬に接吻した。「あなたも遅れることはないでしょうね」
「始まる前に行きますよ」
「それから死刑囚護送車が着く前にね。きっといらっしゃいね」彼女はもう通りへ曲ってしまったので、『復讐』は彼女の後ろから叫んだ。「護送車が着く前にね!」
マダム・ドファルジュは聞こえたから、大丈夫まに合うように行くということを知らせるためにちょっと手を振り、ぬかるみの中を監獄の壁の角をまわって行った。『復讐』と陪審員は彼女が歩いて行くのを見送りながら、その美しい姿とみごとな道徳的資質を大いに褒《ほ》めたたえた。
当時は、時勢の影響で、おそろしく容貌をきずつけられた女がたくさんいた。しかし、その中でも、いま街を歩いて行くこの情け知らずの女ほど恐れられているものは一人もなかった。強い、恐れを知らぬ性格をもち、するどい思慮とすばやさがあり、非常な決断力をもち、人にも本能的にそうした性質をみとめさせる種類の女。多難な時代には、どんな場合でも、こういう女が世に出たであろう。だが、この女は、子供のときから根深い罪の観念と階級にたいする執念深い憎悪が浸み込んでいたので、時勢は彼女を雌虎と化したのであった。この女には情けというものは少しもなかった。もしこの女が情けという美徳をもっていたことがあったとしても、それはすっかり消え失《う》せていたのだ。
罪のない男が先祖の犯した罪のために死ぬなどということは、この女にとっては何でもないことであった。この女は彼を見ずに、彼らを見ていたのだ。この女にとって、彼の妻が寡婦となり彼の娘が孤児となることなど、何でもないことであった。それだけでは刑罰が不充分であった。なぜなら、彼らはこの女の生来の敵であり、この女の餌食であって、生きる権利がないからだ。この女に訴えても望みはなかった、なぜなら、この女は自分自身にたいしてさえ憐れむ心を持たなかったからである。もし彼女が、参加していたいずれかの合戦で街で死んだとしても、自分を憐れみはしなかっただろうし、明日にでも断頭台へ行けと命ぜられたら、きっと自分をそこに送った人間と入れ代わってやりたいというおそろしい願いをいだいて断頭台へ上って行っただろう。
そういう心をマダム・ドファルジュは目のあらい長い服の下にもっていたのだ。無造作に着ていたけれども、うす気味わるくよく似合う服であった。そして彼女の黒い髪はその粗末な赤帽子の下からゆたかに見えた。彼女のふところには装填《そうてん》したピストルがかくされていた。彼女の腰には鋭い短刀がかくされていた。こうした身支度をして、そうした性格にふさわしい自信のある足どりで、少女時代には始終はだしで、すねまでむきだしにして茶色の砂浜を歩いていた女にふさわしい軽快な身のこなしで、マダム・ドファルジュは街を歩いて行ったのである。
ところで、ちょうどそのとき旅行馬車は最後の荷物を載せるために待っていたのだが、その前夜、この旅行の計画をたてたときに、ローリー氏がひどく思いなやんでいたのは、プロス嬢をいっしょに乗せて行くのがむずかしいということであった。馬車に荷をのせ過ぎないようにすることが望ましいばかりでなく、荷物や乗客の検査に要する時間を最小限まで減らすことが最も大切であった。彼らが逃げおおせるか否かは、そこやここでわずか数秒ずつ時間を短縮することにかかっていたかもしれなかったからだ。とうとう、彼は、頭をなやましたすえ、自由にこの都を出られるプロス嬢とジェリーは、三時に、その当時の一番軽い車輪の車で発ってもらいたいが、と提案したのであった。荷物を積んでいないから、二人はじきに馬車に追いついて、途中でそれを追い越し、それより先になって、前もって馬車の馬を注文し、遅滞がもっとも恐れられる夜の大切な時間に、馬車の進行をはなはだしく助けるだろう。
この計画をきいてプロス嬢は、このさし迫った危急の場合に本当の奉仕ができるという希望を感じて、大喜びでうけ入れた。彼女とジェリーは馬車の出発を見送った。そして、ソロモンが連れてきたのは誰かということを知っていて、十分ほどは心配でたまらなかったが、いまあの馬車のあとを追う手筈を終ろうとしているところだった。このとき、マダム・ドファルジュは街をやって来るところで、いまや彼らが相談している、彼らのほかには誰もいない住居に刻一刻と近づいてくるのであった。
「それで、あんたはどう思って、クランチャーさん」とプロス嬢が言った。このひとはあまり興奮しすぎて、ものを言うのも、立っているのも、動くのも、生きているのも、やっとだった。「わたしたちがここの庭から発たないということを、あんたはどう思って。今日もう一台ここから出て行ったんだから、わたしたちもここから発つと疑われるかもしれない」
「わしの意見はね」とクランチャー氏が答えた。「あんたの言う通りだってことさ。それから、わしは、あんたの言う通りだろうと、なかろうと、あんたの味方をするってことさ」
「わたしゃわたしたちの大事な方のことで心配したり、望みをもったりして気が狂いそうなんだよ」プロス嬢は興奮して泣きながら言った。「だってわたしゃ、なんにも計画をたてられないのだもの。|あんた《ヽヽヽ》はなにか計画がたてられるかね、ご親切なクランチャーさん」
「これから先の暮らし方のことだったら」とクランチャー氏が答えた。「そうできればいいと思ってるがね。いまこの罰あたりの古あたまを使うことじゃ、そんなこたあ、できっこねえと思うね。あんたにお願いがあるんだが、わしがこの危急な場合に言っておきたいと思っている二つの約束と誓いを聞いてくれないかね」
「まあ、ごしょうだから」とプロス嬢は騒々しく泣きながら言った。「すぐそれを話してごらん。そしてりっぱな男らしく邪魔にならないように始末しておしまいよ」
「第一に」クランチャー氏はからだじゅう震えながら、灰色のおごそかな顔をして言った。「あのお気の毒な方たちがここから無事に脱け出せたら、わしはもうけっしてあれをやらないつもりだ!」
「よく分ったよ、クランチャーさん」とプロス嬢が答えた。「なんだか知らないが、あんたは二度とあれをやらないつもりなんだね。それから、お願いだから、あれっていうのは何のことだか、もっと詳しく言わなきゃ、なんて思わないでおくれ」
「あいよ」とジェリーが答えた。「あんたにゃそのことは言わないよ。第二は、あのお気の毒な方たちがここから無事に脱け出せたら、わしはもうけっしてかみさんがひざまずく邪魔はしねえつもりだ!」
「どんな家庭の事情かしらないけれど」プロス嬢は涙を拭いて気を落ち着けようと努めながら言った。「わたしゃ、それはすっかり奥さんにまかしとくのがいちばんいいと思うわね。――ああ、お気の毒な大事なお方たち!」
「まだなんだよ、あんた、わしはここまで言わないと気がすまないんだが」クランチャー氏はまるで説教壇から弁舌をふるうような実におどろくべき口調でつづけた――「どうか、わしの言ったことをおぼえていて、かみさんに伝えておくんなさい――ひざまずくということについてわしの考えが変わった、とね。それから、わしが、いまかみさんがひざまずいてお祈りしてくれりゃいいのにと、心から望んでいるだけだ、とね」
「さあ、さあ、さあ、奥さんはきっとお祈りしていますよ、あんた」と気も狂いそうなプロス嬢が叫んだ。「そしてそのお祈りが奥さんの期待に答えてくれるのが奥さんに分ればいいと思いますよ」
「断じて」とクランチャー氏はますます厳かに、ますますゆっくりと、ますます弁舌をふるう傾向を示してつづけた。「これまでわしがやったり言ったりしたことの報いが、今になって、あのお気の毒な方々にたいするわしの真剣な願いに及ぶことがないように! あの方々をこのおそろしい危険からお逃しするために、われわれがみんなでひざまずいてお祈りしないようなことが(もしお祈りするってことがどうしても都合がいいなら)断じてないように! そんなことが断じてないように、ね。あんた! わしの言うのは、そんなことが断じて――|ないように《ヽヽヽヽヽ》ってことさ!」これが、もっとよい結論を見つけようとしてさんざんむだに苦労したあげくのクランチャー氏の結論であった。
そうして、依然として街を行くマダム・ドファルジュはだんだん近づいて来た。
「いつかわたしたちが生まれ故郷に帰ることがあったら」とプロス嬢が言った。「わたしはきっと、あんたがそんなにきもに銘じるように言ったことを、憶えていられるだけは、また分っているだけは、奥さんに話してあげますよ。いずれにしても、この恐ろしいときにあんたが本当にまじめだったことはわたしが保証するから大丈夫ですよ。さあ、わたしたちも考えましょう、ねえ、クランチャーさん、わたしたちも考えましょう!」
依然として街を行くマダム・ドファルジュはだんだん近づいて来た。
「もしあんたが先に行って」とプロス嬢が言った。「車と馬がここまでこないように止めておいて、どこかでわたしを待つことにしたら、いちばんよくないかしら」
クランチャー氏はそれがいちばんいいかもしれないと思った。
「じゃ、あんたはどこでわたしを待っててくれる」とプロス嬢が尋ねた。
クランチャー氏はすっかり気がてんとうしていたので、テンプル門よりほかの場所を思い浮かべることができなかった。悲しいことに、テンプル門は数百マイルもはなれていて、しかもマダム・ドファルジュは本当にすぐ近くまで近づいているのだ。
「教会の扉のそばで」とプロス嬢が言った。「二つの塔の間の教会の大扉の近くで、あたしを乗せてもらうのは、たいへんめんどうかしら」
「そんなことはないよ」とクランチャー氏が答えた。
「じゃあ、りっぱな男らしく宿駅へまっすぐに行って、そんなふうに変更しておくれ」とプロス嬢が言った。
「あんたをおいて行って、いいかな」クランチャー氏はためらって首を振りながら言った。「なにが起こるか分らないからね」
「まったく分りゃしないよ」とプロス嬢が答えた。「でも、わたしのことは心配しないでね。三時か、できるだけそれに近い時間に、教会のところでわたしを乗せておくれ。そうすれば、ここから発つよりきっといいからね。わたしはたしかにその方がいいと思うよ。さあ! あきれた人だね、クランチャーさん、考えてごらんよ――あたしのことじゃなくって、わたしたち二人の肩にかかっているあの方たちの生命《いのち》のことをさ!」
この前置きがあって、プロス嬢の両手が必死になって嘆願するようにかたく彼の手を握ったので、クランチャー氏はついに心を決めた。彼は一、二度はげますようにうなずいて、契約を変更するために出かけ、彼女をひとりだけ残して、彼女が言いだしたとおりにさせることにした。
すでに実行に移されている予防手段を思いついたということはプロス嬢にとって非常な救いであった。街で特別な注意をひくことがないように、身なりをととのえなければならぬということも、もう一つの救いであった。時計を見ると二時二十分過ぎであった。時間をむだにしてはいられない、すぐ用意をしなければならないのだ。
プロス嬢は極度におびえていたので、誰もいなくなった部屋にひとりぽっちなのが怖い上に、その部屋部屋の開いている扉のかげから顔がいくつものぞいているような気がして怖くてたまらず、冷い水の入った洗面器をもってきて、まっかにはれ上がった眼を洗いはじめた。激しい不安につきまとわれていたので、滴《したた》る水のために一分間でも眼がくもるのが我慢できなくて、たえず休んでは、誰も自分を見つめているものはないかと見まわすのであった。そうしているとき、彼女は後じさりして大声で叫んだ。なぜなら、部屋の中に一人の人間が立っているのを見たからであった。
洗面器は床に落ちてこわれ、水はマダム・ドファルジュの足もとに流れて行った。
マダム・ドファルジュはひややかに彼女を見て、言った。「エヴレモンドの女房は、どこにいるんだね」
そのとき、プロス嬢の頭にひらめいたのは、扉が全部開けはなしてあって、逃亡を示唆するだろうということだった。彼女はまっ先にそれを閉めた。その部屋には扉が四つあって、それを全部閉めた。それから彼女はルーシーが使っていた寝室の扉の前に立ちはだかった。
マダム・ドファルジュの黒い眼はこのすばやい動作の間じゅう彼女を追っていたが、それがすむと彼女をじっと見つめた。プロス嬢にはどこも美しいところはなかった。長い年月も彼女の容貌の荒々しさを抑えたり、恐ろしさをやわらげたりはしなかった。だが、この女もまたそれなりに断固たる女であって、彼女はその眼でマダム・ドファルジュのすみからすみまで測ったのであった。
「その様子じゃ、お前さんは悪魔の女房になれそうだね」プロス嬢は息をつきながら言った。「だがね、お前さんに負けるわけにゃいかないよ。わたしゃイギリス女だからね」
マダム・ドファルジュはさげすむように彼女を見た。が、やはりプロス嬢と同様、二人が絶体絶命だということはいくぶん感じていた。ローリー氏は過去幾年もの間、プロス嬢のことを力の強い手をもっている女だと思っていたが、マダム・ドファルジュは目の前にすきのない、激しい強靱《きょうじん》な女を見た。彼女はプロス嬢がこの家族の献身的な味方だということをよく知っていたし、プロス嬢は、マダム・ドファルジュがこの家族に悪意を抱く敵だということをよく知っていた。
「あそこへ行く途中なんだけどね」マダム・ドファルジュは例の宿命の場所の方に向かってちょっと手を動かしながら言った。「あそこでわたしの椅子と編物が用意してあるんだけどね、通りすがりにあのひとにあいさつしようと思ってきたんだよ。あのひとに会いたいんだがね」
「お前さんが悪い目的でやってきたということは、わたしゃ、知っているよ」とプロス嬢が言った。「わたしゃその邪魔をしてやるから、そのつもりでおいで」
どちらも自分の国の言葉でしゃべっていた。どちらも相手の言うことは分らなかった。二人とも少しも油断なく、相手の顔つきと態度から、分らない言葉の意味を察しようと懸命になっていた。
「今になって隠れていたって、なんの役にもたたないよ」とマダム・ドファルジュが言った。「りっぱな愛国者には、それがどういう意味なのか、ちゃんと分るんだからね。あの女に会わせてもらいたいね。わたしが会いたいと言っているって、言っておいで。聞こえるかい」
「かりにお前さんの眼が寝台のウィンチ(寝台のナットやボルトを締めたり、弛めたりする道具)で」とプロス嬢がやりかえした。「わたしが英国製の四本柱つきの寝台だとしても、わたしゃそんなものにほんのちょっぴりだって弛めさせやしないよ。そうとも、この悪者の外国女め。わたしゃ、お前さんのいい相手だよ」
マダム・ドファルジュはこうした慣用語の多い言葉について行けそうもなかったが、自分がないがしろにされたことぐらいは理解できた。
「豚みたいなばか女め!」とマダム・ドファルジュは眉をひそめて言った。「お前に返事をしろとは言ってないよ。わたしはあの女に会いたいんだよ。あの女にわたしが会いたいと言っていると言ってくるか、さもなけりゃ、じゃまにならないようにその扉からどいて、わたしをあの女のところへ行かせるかおし!」言ってきかせるように腹立たしそうに右手を振りながらこう言った。
「わたしゃ、いままで、お前さんの国のばかげた言葉なんぞわかりたいと思ったことはなかったけど、いまお前さんが本当のことを感づいているかどうか、すこしでも感づいているかどうか分るんなら、着ている服のほかなら、持ってるものをみんなやってもいいよ」
どちらも、一瞬といえども相手から眼をはなさなかった。マダム・ドファルジュはプロス嬢が最初に気づいたときに立っていた場所から動いていなかったが、いま一歩すすみ出た。
「わたしゃブリトン人(イギリス人)だよ」とプロス嬢が言った。「わたしゃ必死なんだよ。自分のことなんかイギリスの二ペンス銅貨ほどにも思っちゃいないよ。お前さんをここに長く引きとめておけばおくほど、お嬢さまのためになるってことを知っているんだよ。もしお前さんが指一本でもわたしにさわったら、その黒い髪の毛を一つかみも残しちゃおかないつもりだよ!」
プロス嬢は早口でしゃべる一くぎりごとに首を振り、眼をきらりと光らせ、一くぎりを一息でまくしたてた。生まれてから、かつてただの一度も人をなぐったことのないプロス嬢が。
だが、彼女の勇気は情にもろい性質をもっていたから、おさえきれぬ涙が眼に浮かんだ。これはマダム・ドファルジュにはほとんど理解できない勇気であって、彼女はそれを気の弱さととりちがえた。「は、は」とマダムは笑った。「哀れなやつだね。お前なんかになんのねうちがあるんだね。わたしはあの医者に話をするよ」それから彼女は声をあげて呼びかけた。「市民お医者さん! エヴレモンドの女房! エヴレモンドの子供! このみじめなばかでないなら誰でもいい、女市民ドファルジュに返事をしなさい!」
それにつづいた沈黙のせいか、それともプロス嬢の顔になにかが発覚したという表情がひそんでいるのがうかがわれたためだろうか、それともそのいずれとも関係のない疑惑が突然うかんだのだろうか、マダム・ドファルジュは彼らが立ち去ったあとだということに気がついた。彼女はすばやく三つの扉を開いて、のぞき込んだ。
「どの部屋も乱れている。急いで荷造りをしたのだ。床に残りものがちらかっている。お前のうしろの部屋には誰もいないのだね。わたしに見せてごらん」
「だめだよ」とプロス嬢が言った。彼女はマダム・ドファルジュにその返答がよくわかったように、その要求がわかった。
「もしその部屋にいなけりゃ、逃げたんだから、追いかけてつれ戻さなきゃ」とマダム・ドファルジュはひとりごとを言った。
「この部屋においでになるかどうか分らないあいだは、お前さんはどうしていいか分らないね」とプロス嬢もひとりごとを言った。「ところが、わたしにその邪魔ができるなら、お前さんにはおしえてやらないよ。もっともお前さんにそれが分っても分らなくても、わたしがひきとめられる間は、ここから出て行かせるものかね」
「わたしははじめから野育ちなんだよ。何だってわたしを引き止めたことはないんだよ。お前なんかずたずたに引き裂いてやる。だがね、お前をその扉からどけてやろう」とマダム・ドファルジュが言った。
「わたしたちは人気《ひとけ》のない中庭にある高い建物のてっぺんに二人きりなんだよ。わたしたちのことは誰にも聞かれそうもないんだよ。わたしゃお前さんをここに引き止めておけるような力を与えてくださいと祈るよ。お前さんがここにいる一分一分は、わたしの大事な方には十万ギニーのねうちがあるんだからね」とプロス嬢が言った。
マダム・ドファルジュは扉にぶつかって行った。プロス嬢はその瞬間の本能で両手で彼女の腰のまわりをつかまえて、しっかりと抱きついた。マダム・ドファルジュはもがこうとしても、打とうとしてもむだだった。プロス嬢は、常に憎しみよりも強い愛のねばり強さで彼女にしっかりと抱きつき、格闘の間に彼女を床からもち上げさえした。マダム・ドファルジュの二本の手はプロス嬢の顔をなぐったり引っかいたりした。だが、プロス嬢は頭を下げたまま、その腰に抱きつき、溺れる女の手よりもっと強く彼女にしがみついた。
まもなくマダム・ドファルジュの手は打つのをやめて、つかまえられている腰をさぐった。「それならわたしの腕の下にあるよ」とプロス嬢は息がつまりそうな声で言った。「そんなものを抜かせるものか。ありがたいことに、わたしゃお前さんより強い。どっちかが気絶するか、死ぬかするまで、わたしゃお前さんをつかまえているよ!」
マダム・ドファルジュの両手がふところにあった。プロス嬢は見上げて、それがなんだか見てとり、それに打ちかかった。すると、パッと閃光がひらめき、轟音《こうおん》が発して、プロス嬢はただひとりで立っていた――煙でなにも見えなくなって。
これはすべて、瞬間に起こったことだった。煙は恐ろしい静寂をあとに残したまま散って行き、死体となって床に横たわっているすさまじい女の魂のように空中に消えた。
最初彼女は自分の立場に驚きおびえて、死体からできるだけはなれたところを通って階段を駆け降り、むなしく助けを求めようとした。が、幸いにも、自分を抑えて引き返す間のあるうちに、自分がやったことの重大さに気がついた。ふたたびその扉から入って行くのは恐ろしかった。だが、彼女は、帽子やその他身に着けて行かなければならないものをとりに入って行き、その近くまでも行ったのであった。まず扉を閉めて鍵をかけてから、階段の上で、それを身につけた。それから息をついて泣くためにちょっと階段の上に腰をおろし、それから立ち上がって、急いで出て行った。
運のいいことに、彼女の帽子にはヴェールがあった。さもなかったら、呼び止められずに街を歩くのはむずかしかったろう。これもまた運のいいことに、彼女は生まれつき一風変わった顔をしていたから、ほかの女のように醜いきずが目立たなかった。彼女にはこの二つの便宜が必要だったのだ。なぜなら、ひっかかれた指の跡が深く顔につき、髪の毛はひきちぎられ、服は(おぼつかない手であわててととのえたが)めちゃくちゃにひっかかれたり、引っ張られたりしていたからである。
橋を渡るとき、彼女は扉の鍵を川に捨てた。教会へ着いたのは護衛が来る何分か前で、彼女はそこで待ちながら、もしあの鍵がもう網にかかっていたらどうなるだろうとか、もしそれがあの鍵だと分ったらどうなるだろうとか、もしあの扉が開かれて、あの遺物が発見されたらどうなるだろうとか、もし自分が関門で引き止められて監獄へ送られ、殺人罪で訴えられたらどうなるだろうとか考えていた。こうした落ち着かない考えごとの最中に護衛があらわれて、彼女を馬車に乗せて連れ去った。
「街で何か物音がしているかしら」とプロス嬢が彼に尋ねた。
「いつもの物音だよ」とクランチャー氏が答えた。そしてその質問と彼女の様子にびっくりしたように見えた。
「あんたの言うことが聞こえないんだよ」とプロス嬢が言った。「なんて言ったの」
クランチャー氏がいま言ったことを繰り返してもむだだった。プロス嬢には彼の言うことが聞こえなかったのだ。「それじゃ、おれは頭をこっくりやってうなずくことにしよう」とクランチャー氏は驚いて考えた。「どうしたって、それなら見えるだろう」なるほどそれなら彼女に見えた。
「いま街でなにか物音がしているかしら」とまもなく、またプロス嬢が尋ねた。
クランチャー氏はまたうなずいた。
「あたしには聞こえない」
「一時間のあいだにつんぼになったのかな」クランチャー氏はこんがらかった頭でいろいろと思いめぐらしながら言った。「いったい、どんなことがこの人に起こったんだろう」
「わたしはね」とプロス嬢が言った。「まるでパッと何かが閃《ひら》めいて、ドンと轟く音がしたような気がするんだよ。そしてそのドンという音がわたしがこの世で聞く最後の音だったような気がするんだよ」
「たしかにこのひとはすこし気がへんになったにちがいない」クランチャー氏はますますこんがらかって言った。「いったい、このひとは、元気をだすために何をしてたんだろう。聴きな! あの恐ろしい荷馬車がごろごろ音をたててるよ。あれが聞こえるかね、あんた」
「なんにも聞こえないよ」プロス嬢は彼が自分に話しかけたのを見て言った。「ねえ、あんた、はじめにドンという大きな音がして、それからしーんと静かになったんだよ。そしてその静かなのがそのままずっとつづいていて、わたしの生命《いのち》がつづくかぎりは破られないような気がするんだよ」
「もしこのひとに、目的地のすぐ近くまで来たあの恐ろしい荷馬車のごろごろいう音が聞こえねえようなら」とクランチャー氏は肩越しにちらと見て言った。「まったくこの世じゃそのほかのものはなんにも聞くことはねえだろうよ」
なるほど、彼女はそれから後、本当に何も聞かなかったのである。
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第十五章 足音は永遠に消えて行く
パリの街を死の荷馬車はうつろな耳ざわりな音をごろごろと響かせて行く。六台の死刑囚護送車はその日のワインをラ・ギヨティーヌへ運んで行くのだ。想像というものが記録にのこるようになってからこの方、想像し得る限りのあらゆる貧欲な飽くことを知らぬ怪物が溶かされて、ギロチンというこのひとつの実体となったのである。しかしながら、豊かな変化に富む土壌と気侯をもつフランスでは、この恐怖を生みだした状態よりももっと確かな状態にあっても、成熟するまで成長するような一枚の穀物の葉さえ、一枚の木の葉さえ、一本の根さえ、一本の小枝さえ、一粒の胡椒《こしょう》の実さえないのだ。それと同じようなハンマーで人間をもう一度形がなくなるまで砕いてみよ。すると、それは自然によじれて、元と同じ責めさいなまれた形をとるであろう。強欲な放縦と圧迫の同じ種を繰り返して蒔《ま》いてみよ。それはその種類に従って、必ず同じ実をむすぶであろう。
六台の死刑囚護送車は街をごろごろと音たてて行く。これらをふたたびもとの姿に変えてみよ。偉大な魔術師「時」よ、そうすれば、これは専制君主の専用馬車、封建貴族の装備された馬車、はなやかなイゼベル(聖書にでてくるイスラエルの王アハブの妻、放縦な女として有名)の衣装、わが父の家ではなくして盗賊の棲家《すみか》である教会、数百万の飢えた百姓の小屋となって目の前にあらわれるだろう。否、神によって定められた命令を威厳をもって遂行する偉大なる魔術師は、変形したものを決してもとに戻しはしない。「もし汝が神の御心《みこころ》によってこの姿に変えられたのであるならば」と賢いアラビアの物語の中で、魔法にかけられた者にむかって予言者が言う。「そのままの姿でいよ。だが、ほんの一時の魔法によってこの姿になったのであるならば、もとの姿にかえれ!」もとの姿にかえることもなく、希望もなく、死刑囚護送車はごろごろと音たてて行く。
六台の荷馬車の陰うつな車は回るにつれて、街の民衆の間にまがりくねった畦溝《うねみぞ》をすき起こして行くように見える。人の顔のうねがこちらに向いたり、あちらに向いたりして、鋤《すき》は着実に前進して行く。家々のきまった居住者たちはそんな光景には慣れているので、多くの窓には人の姿はなく、いくつかの窓でも、眼は護送車の中の顔を眺めていても、仕事の手は休めることさえしなかった。ここかしこで、見物のお客がいて、家人は世話役か権威ある説明者のように満足そうにあれこれと荷馬車を指さして、昨日はここに誰が乗っていたとか、一昨日はそこに誰が乗っていたとか話しているように見えた。
護送車に乗っている人々の中には、こういうものや、また、彼らが最後に通る道端のいろいろなものを平気で見つめている人々があるかと思えば、また、人生や人間にまだ未練を断ち切れずに見つめている人々もある。また、頭をうなだれて、無言で絶望に沈んでいる人々もある。また、自分の表情を気にして、前に芝居や絵で見たことのあるまなざしでちらりちらりと群衆を眺めている人々もある。眼をとじて、考えたり、散漫な考えをまとめようとしている人も幾たりかいる。ひとりだけ、それは気がふれたように見える哀れな男だが、恐怖のために錯乱して、歌をうたったり、踊りだそうとしたりしている。だが、その中には、顔や身ぶりで人々の憐憫《れんびん》に訴えている者は一人もいないのだ。
種々雑多な騎馬兵の警備隊が護送車と並んで進んで行く。そして人々の顔が頻繁に彼らの方を向いてなにか尋ねる。それはいつでも同じことを訊《き》くらしい。なぜならば、いつでもそのあとで、人々が三台目の荷馬車に向かって押しよせるからだ。その荷馬車と並んでいる騎馬兵たちは頻繁に剣でその中の一人の男をさし示している。いちばんの好奇心はどれがその男か知りたいということである。その男は護送車の後ろの方で下を向いて、荷馬車の横の席に坐って彼の手につかまっている少女と話をしながら立っている。彼は周囲の光景にはさらに好奇心も関心もなく、たえずその少女に話しかけている。サン・トノレの長い通りではそこここで、彼を弾劾《だんがい》する叫び声があがる。もしその叫び声がかりにも彼を動かすとすれば、彼はただ静かに微笑《ほほえ》んで、顔がかくれるように髪をもうすこしばらばらに振るだけだ。腕を縛られているので、容易に顔に触《さ》わることはできないのだ。
教会の階段の上で、護送車がやって来るのを待ち受けながら、あのスパイの看守がたたずんでいる。彼は一番先の荷馬車をのぞき込む。そこにはいない。彼は二台目をのぞき込む。そこにもいない。彼はもう自分に尋ねてみる。「あいつはおれを生けにえにしたのだろうか」このとき彼は三台目をのぞきこんで、顔が明るくなる。
「どれがエヴレモンドだね」と後ろから一人の男が尋ねる。
「あれだよ。あそこの後ろにいるやつさ」
「手を女の子につかまらせているやつかね」
「そうだよ」
その男が叫ぶ。「エヴレモンドをたおせ! 貴族のやつらはみんなギロチンにかけろ! エヴレモンドをたおせ!」
「しっ、静かにしてくれ!」スパイはびくびくしてその男に嘆願する。
「なぜいけないのかね、市民」
「あいつは罰金を払いに行くところなんだ。もう五分もたてば、払っちまうだろう。静かにさせてやれ」
だが、男は「エヴレモンドをたおせ!」と叫びつづけるので、エヴレモンドの顔は一瞬間その方に向けられる。するとエヴレモンドはスパイを見て、じっと彼を眺めるが、そのまま行き過ぎる。
時計はまさに三時を打とうとしている。そして群衆の間に鋤《す》かれた畦溝《うねみぞ》はぐるぐる回って処刑場までつづき、そこで終っている。こちらの側へ、あちらの側へと鋤き上げられるうねは、鋤が最後に鋤いたすぐあとでくずれ落ちる。みんながギロチンへ押し寄せて行くからだ。ギロチンの前には、まるで遊園地のように、大勢の女たちが椅子にかけて、忙しく編物をしている。最前列の椅子で『復讐』が立ち上がって、あたりを見まわしながら友だちをさがしている。
「テレーズ」『復讐』はかん高い声で叫ぶ。「誰かあのひとを見た人はいないかい。テレーズ・ドファルジュ」
「あのひとは今まで見のがしたことは一度もないのに」と仲間の編物をしている女が言う。
「そうよ、今度だって見のがしゃしないよ」と『復讐』はいらいらして叫ぶ。「テレーズ」
「もっと大きな声で」とさっきの女がすすめる。
そうだ、もっと大きな声で、『復讐』よ、もっとずっと大きな声で、それでも彼女にはお前の声は聞こえないだろう。『復讐』よ、ちょっとした呪いでもつけ加えて、もっと大きな声で呼んでみるがいい。だが、その声も彼女を連れて来はしないだろう。女たちをあちこちにやって、どこかにうろついている彼女を探させるがいい。だが、その使者たちも、いままでおそろしいことをいろいろやってきただろうが、彼らが自分の意志で、彼女が見つかるところまで行くかどうかは疑問である。
「幸先《さいさき》が悪い!」と『復讐』は椅子にかけたまま地団太を踏みながら叫ぶ。「だのに、護送車が着いた。まばたきする間にエヴレモンドはあの世へやられてしまうというのに、あのひとがここにいないなんて! あのひとの編物をわたしがもっていて、あのひとの椅子が空いたまま、あのひとを待っているのをごらん。わたしは当てがはずれて、どうしていいか分らなくなって、泣きだすよ!」
『復讐』が泣くために高い所から降りたとき、護送車は積荷をおろし始めた。聖ギロチンの閣僚たちは礼服を着けて、待ち受けている。ガチャン!――首がひとつさし上げられる。そして一瞬間前にその首が考えたりしゃべったりできたときには、それを見るために眼を上げようともしなかった編物の女たちは、|一つ《ヽヽ》と数える。
二台目の護送車が空になって動いて行く。三台目が着いた。ガチャン!――そして編物の女たちはけっして仕事をためらったり、休んだりせずに|二つ《ヽヽ》と数える。
エヴレモンドだと思われていた男が馬車から降りて、その次にお針子が抱き上げられて降ろされる。彼は彼女を馬車からおろすときにもその辛抱強い手をひきはなさず、約束通り、やはりその手をおさえている。彼は、たえず回転しながら上に上がっては落ちて来るすさまじい音を立てている機械に背を向けるように彼女をやさしくおろし、彼女は彼の顔をのぞきこんで、彼に礼を言う。
「見知らぬ方、あなたがおいでにならなかったら、私はこんなに落ち着けなかったと思いますわ。だって私は生まれつきいくじのない、哀れな小さい女なのですもの。また、死刑になられたあの方《キリスト》に、私たちが今日ここで希望と慰めをもつことができますようにとお祈りすることもできなかったでしょう。天の神様が私のところにあなたをおつかわしになったのだと思います」
「それとも、あなたを僕のところにね」とシドニー・カートンが言った。「じっと僕を見ていらっしゃい。ほかのものは、なにも気にしてはいけませんよ」
「あなたの手をもっている間は何も気にしません。あなたの手をはなしても、もし早くすんでしまえば、何も気にしないですむでしょう」
「早くすみますよ、こわがってはいけませんよ」
二人はどんどん減っていく犠牲者の群れの中に立っていたのだが、まるで二人だけでいるように話をしていた。眼と眼を見合わせ、声と声を合わせ、手と手をとり合い、心と心を合わせて、さもなければ遠くはなれて違っていた万物の母のこの二人の子供は、ともに家路について、母の胸にねむるために、この暗い公道で出会ったのである。
「心のひろい勇敢な方、最後にひとつだけお尋ねさせてくださいませんか。私は本当に無知なのでございます。それで困っておりますの――ほんの少し」
「なんのことか話してください」
「私には女のいとこが一人ありますの。一人きりの親戚で、私のようなみなし子で、私はとても愛しております。その子は私より五つ年下で、南の国のお百姓の家で暮らしています。私たちは貧乏のために別れ別れになって、あの子は私の不幸のことは何も知りません――私は手紙が書けませんから――もし書けたとしても、どんなふうに知らせたらいいでしょう! このままの方がいいのですわ」
「そうです、そうです。このままの方がいいですよ」
「ここに来るまでずっと考えつづけていて、今も、私をこんなに力づけてくださるあなたのやさしい強いお顔を見つめながら考えておりますのは、このことなのでございます――もし共和国が本当に貧しい人のためになることをしてくれて、貧しい人が今までよりもひもじくなく、どんなことでも今までのように苦しまなくてすむようになるのでしたら、あの子は長生きをするかもしれませんわ。年をとるまで生きられるかもしれませんわ」
「それからどうしたのですか、やさしい妹よ」
「あなたのお考えでは」辛抱強い、不平を言わぬ眼には涙があふれ、唇はもうすこし開いてふるえている。「私が、あなたも私も情け深くかくまっていただけると信じております天国で、あの子を待っている間が長く思われるでしょうか」
「そんなことはありませんよ。天国には時もなければ、苦しみもありません」
「あなたは私を本当に慰めてくださいますのね。私はこんなに無知なのでございます。あなたに接吻してもいいでしょうか。もう時間ですか」
「そうです」
彼女は彼の唇に接吻し、彼は彼女の唇に接吻した。そして二人はおごそかに互に祝福し合った。彼がはなしても、その痩せた手はふるえず、やさしい、輝かしい、いつも変わらぬ信念よりわるいものはその辛抱強い顔には見られなかった。彼女は彼のすぐ前を行く――そして消えた。編物の女たちは二十二《ヽヽヽ》と数える。
「主言いけるは、我はよみがえりなり生命なり。我を信ずるものは死ぬるとも生くべし。すべて生きて我を信ずるものは永遠に死ぬることなし」
多くの声のざわめきがおこり、多くの顔が上に向けられ、群衆の外側の多くの歩みが大波のように大きくもり上がって前に押し寄せたかと思うと、なにもかもパッと消えてしまう。二十三《ヽヽヽ》。
その夜、この都では、あんなおだやかな顔ははじめて見たという噂がひろまった。多くの人々は、彼は崇高で予言しているように見えたとつけ加えた。
同じ斧による最も著名な受難者の一人――婦人――は、さほど前のことではないが、同じ断頭台の下で、そのとき霊感をうけて心に浮かんだ思いを書きとめさせてもらいたいと頼んだ。もし彼が彼の思いに声をあたえ、そしてそれが予言的であったとすれば、それはこういう言葉であったろう。
「わたしには、バーサッドや、クライや、ドファルジュや、『復讐』や、陪審員や、裁判官など、過去の圧迫者をたおした後に立ち上がった新しい圧迫者の長い列が、この機械の現在のような使い方をやめる前に、この報復的な機械にかかって滅びるのが見える。わたしには、この深淵から美しい都がおこり、輝かしい人々が立ち上がるのが見える。そして来たるべき長期にわたる真に自由たらんとする彼らの戦いを通じ、彼らの勝利と敗北を通じて、この事態が当然の結果である現代の悪と前時代の悪が、しだいにその罪をあがなって、消えて行くのが見える。
「わたしには、わたしの命を犠牲にした人々が、もう自分は見ることがないあのイギリスで、平和に、人のためになって、幸福に栄えて行くのが見える。わたしには、|あのひと《ヽヽヽヽ》が、わたしと同じ名の子供を胸に抱いているのが見える。わたしには、あのひとの父親が、年をとり、腰は曲っても、その他の点ではもと通りになって、医者としてすべての人に誠実であり、心静かに暮らしているのが見える。わたしには、長い間彼らの友であったあの善良な老人が、十年もたって全財産を彼らに残し、静かにこの世を去って、よい報いを受けるのが見える。
「わたしには、自分が彼らの心の中に、また彼らの子孫の心の中に代々、聖い思い出としてとどまるだろうということがわかる。わたしには、年老いたあのひとが、今日の記念日にわたしのために泣いているのが見える。わたしには、あのひととあのひとの夫が、この世の旅を終って、この世の最後の床にならんで横たわっているのが見える。そして、どちらも、相手の心のなかで、二人の魂のなかにいる自分ほどには、あがめられ、尊ばれてはいないことが、わたしには分る。
「わたしには、あのひとの胸に抱かれているわたしと同じ名前の子供が、おとなになって、かつてはわたしのものであったあの人生行路を着々と進んで行くのが見える。わたしには、彼が成功して、わたしの名が彼の光彩によって輝いているのが見える。わたしには、自分がその名に投じた汚点が消えるのが見える。わたしには、正しい裁判官やりっぱな人々の先頭に立つ彼が、わたしと同じ名の、あのよく知っている額と金髪をもつ少年をこの場所に――そのころは、今日の醜い傷跡はぬぐわれて見るも美しいこの場所――連れて来るのが見える。そして彼が子供に、やさしい、ためらいがちな声でわたしの話をするのが、聞こえる。
「わたしのすることは、かつてわたしがなしたことがあるどんなことよりもずっと、ずっといいことなのだ。自分の行手にある安らぎは、自分がかつて経験したどんな安らぎよりも、ずっと、ずっと、いい安らぎなのだ」(完)
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あとがき
二都というのはパリとロンドンである。この小説は、ディケンズにはめずらしい歴史小説であり、また、ディケンズにはめずらしい、ユーモアのほとんどない小説である。人物や事件と、まともに真面目に取っ組んだ作品である。
これは、ディケンズが、十人も子があるのに、長い間連れそってきた妻と別居した直後の、一八五九年四月からその年の十一月まで、彼自身が編集していた「一年じゅう」という雑誌に連載した作品である。
人間関係が複雑で、とっつきにくいから、簡単に筋をここにしるしておこう――小説の背景はフランス革命である。フランスの医者マネットは、バスチーユ監獄に十八年監禁されて正気を失い、釈放されてロンドンへ送られ、娘のルーシーと生活している間に理性を恢復する。その間にダーネーという青年が、ルーシーに恋して彼女と結婚したが、彼は、本名はエブレモンドで、フランスの貴族の甥であった。彼は、フランスの社会組織に批判的で、財産や地位を捨ててイギリスへ来ていたのである。フランス革命が起こり、パリの彼の家を管理していた召使が逮捕されたと聞き、彼は、それを救おうと思ってフランスへ帰り、貴族であった故をもって逮捕されて獄に投ぜられ、死刑の宣告を受ける。ところが、マネット家の友人に、カートンという弁護士がいて、ひそかにルーシーに恋していたが、ダーネーの危急を聞くと、自分がダーネーそっくりであるのを利用し、コンシエルジェリー監獄に忍び込んでダーネーと入れ替わり、みずからダーネーと名乗って刑を受け、ダーネーを救う。
一体、ディケンズは、これまで、あまり構成に気をくばらないで書いてきて、散漫という批評を受けてきたが、この作品は、親友の推理作家ウィルキー・コリンズの忠告を容れて、構成に大いに工夫をこらした。
この作品はカーライルの『フランス革命』の影響を大いに受けているが、ディケンズ独自の解釈もむろんある。彼の家庭は中産階級の最下層に属していたが、のちに下層階級に落ち、父親は借金が払えないために、負債者の監獄へ入れられ、その時十一歳のディケンズは、徒弟奉公に出されるというみじめな少年時代を持った。それだけに彼は、下層階級に対して深い同情を持って書いた。この同情は、『二都物語』にも持ち込まれ、彼は被圧迫階級の味方として書いている。
いうまでもなくチャールズ・ディケンズ(一八一二〜七〇)は、イギリス最大の小説家であり、トルストイを始め世界の大作家たちに大きな影響を与えた。彼の多くの作品に見られるたくましい創作力、多くの性格を生き生きと躍動させる生気にみちた筆力は、この『二都物語』にも十分に発揮されている。(訳者)