二都物語(上)
ディケンズ作/本多顕彰訳
目 次
第一巻 よみがえる
第一章 時代
第二章 郵便馬車
第三章 夜の影
第四章 準備
第五章 酒店
第六章 靴づくり
第二巻 黄金の糸
第一章 五年後
第二章 ある見もの
第三章 失望
第四章 お祝い
第五章 やまいぬ
第六章 何百という人々
第七章 都会での貴族
第八章 田舎での貴族
第九章 ゴルゴンの首
第十章 二つの約束
第十一章 一対の絵
第十二章 感じやすい男
第十三章 無神経な男
第十四章 正直な商売人
第十五章 編物
第十六章 編物はつづく
第十七章 ある夜
第十八章 九日間
第十九章 ある専門家の意見
第二十章 一つの願い
第二十一章 反響する足音
第二十二章 海はなお荒れ狂う
第二十三章 火は燃え上がる
第二十四章 磁石の岩に引かれて
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第一巻 よみがえる
第一章 時代
それはあらゆる時代を通じてもっともよい時代であるとともにもっとも悪い時代であり、賢い時代であるとともに、愚かな時代でもあり、信仰の時期でもあれば、懐疑の時期でもあり、光明の時節であって、また、暗黒の時節であり、希望の春であって、また、絶望の冬でもあり、われわれの前にはあらゆるものがあるが、また、なにひとつなく、われわれはまっすぐに天国へ行きそうでいて、また、まっすぐにもうひとつの道を行きそうでもあり、――要するに、その時代は今の時代と非常によく似ていたので、当時の口うるさい権威筋のある人々は、その時代は、よいにつけ悪いにつけ、最上級の比較を用いなければ理解できないと言ってゆずらなかった。
イギリスの玉座には大きな顎《あご》をした王(ジョージ三世)と器量のわるい女王(シャーロット・ソファイア)がいて、フランスの玉座には大きな顎をした王(ルイ十六世)と美しい女王(マリー・アントワネット)がいた。いずれの国でも、国家の財政をつかさどる貴族たちにとって、なにごとも永遠に安定しているということは水晶よりもあきらかなことであった。
それは一七七五年のことであった。精神的な問題では、全体として、楯《たて》と三叉戟《さんさほこ》の姉妹(イギリスのこと)よりも恵まれていないフランスは、紙のお金を拵《こしら》えては使いながら、しごく滑《なめ》らかに丘をすべり落ちて行った。その上、フランスは、キリスト教の牧師の指導のもとに、五十ヤードか六十ヤードも離れたところを通るきたない僧侶の行列を見ながら、それに敬意を表して、雨の中にひざまずかなかったからといって、若者の両手を切りおとし、釘抜きで舌を抜き、生身を火あぶりにするという情深い仕置きをして楽しんでいた。その被害者が死刑に処せられたとき、フランスとノールウェーの森の中で、「宿命」という名の木こりが印をつけた樹《き》が育っていて、それは、いずれ切りたおされて、板に挽《ひ》かれ、袋と刃物のある史上にも恐るべきある種の道具が作られるはずになっていたのは、ふしぎではない。また、それと日を同じくして、パリに隣接する粘っこい土地の耕作者の荒れた離れ家の中に風雨をさけている粗末な荷車が、畑の泥にまみれ、豚に嗅ぎまわされ、家禽《かきん》のねぐらにされながらも、すでに「死」という名の百姓が、それを革命の時の死刑囚護送車としてとりのけておいたのだということもふしぎではない。しかし、その木こりも、その百姓も、たえまなく仕事をしてはいたが、物音をたてずに働き、足音もさせずに動きまわるので、誰ひとり聞きつける者はなかった。まして、彼らが目をさましていやしないかなどと疑いを抱くのは不信心であり、反逆であるとされていたから、なおさらであった。
イギリスには国民が大いに自慢するほどの秩序も保護もほとんどなかった。首都でさえ、武装した大胆な強盗や公道での追剥《おいはぎ》が毎夜起こった。人々は、家具類の安全を期するために、家具を家具屋の倉庫にあずけずに町から出てはならぬと公然と警告されたし、暗闇の追剥は昼間は町の商人で、彼が「親分」となっておそった仲間の商人にそれと見破られて挑戦されるや、勇敢にも相手の頭を射ち抜いて、馬を駆《か》って逃げ去った。また郵便馬車が七人の盗賊に待伏せされて、車掌が三人を射ち殺したが、弾薬が尽きて、残りの四人に射ち殺されてしまった。そして、そのあと、郵便物は平穏裡に強奪された。かの偉大なる支配者であるロンドン市長もある追剥にターナム・グリーンで立たされて、所持品を渡せとおどかされ、追剥は全随員の目の前でこの高名な人物を略奪した。また、ロンドンの監獄の囚人は獄吏と交戦し、尊厳なる法律の名において何発もの弾丸をこめたラッパ銃が囚人のなかに射ちこまれた。また、泥棒は裁判所の応接間で貴族の頸からダイヤの十字架を切りとったり、銃兵たちが密輸品の捜索に聖ジャイルズに行ったところが、群衆が銃兵に発砲し、銃兵の方も群集に発砲した、しかも、こうした事件が異常なことだとは誰ひとり思わなかったのである。こうした中で、かつてないほど忙しく、無益であるよりもなお悪い首絞め役人にはひっきりなしに仕事があった。長い列になってさまざまな犯罪人を吊し上げたり、火曜日に捕まった強盗を土曜日に首を絞めたり、ニューゲイト監獄で十二人ずつ手に焼印を押したり、ウェストミンスター・ホールの入口でパンフレットを焼いたり、今日は凶悪な殺人犯人の命を奪ったかと思うと、明日は百姓の少年から六ペンス盗んだみじめなこそ泥を処刑したりした。
すべてこうしたことが、また、これに似た数多くのことが、愛すべき一七七五年か、その近辺に起こったのである。木こりと百姓が誰の注意もひかずに仕事をしていた間に、これらの出来事にとりかこまれて、大きな顎をしたあの二人と器量の悪い顔と美しい顔をしたあの二人は騒々しく歩を進め、その神聖なる権利を傲然《ごうぜん》とたずさえて行った。かくて、一七七五年という年は偉大なる人々や無数のとるに足りない人々を――本篇の人物もその中に入るが――彼らの前にひらけている道へとみちびいて行ったのである。
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第二章 郵便馬車
十一月のある金曜日の夜も更けたころ、この物語が用のある人物の中の、第一の人物の前には、ドーヴァ街道が横たわっていた。ドーヴァ街道は、この人物の前にだけでなく、ドーヴァ行の郵便馬車の向うにも横たわっていて、いま郵便馬車はガタガタとシューターズ丘をのぼって行くところであった。彼は他の旅客といっしょに郵便馬車の傍《かたわら》を、ぬかるみのなかを歩いて、丘をのぼって行った。そういうことになったのは、そのとき、彼らがすこしでも歩行運動を楽しみたかったからではなくて、丘も、馬具も、ぬかるみも、郵便馬車も、なにもかもひどく骨が折れたので、馬はブラックヒースへ馬車を引き戻そうという反抗的な意図から、一度は道を横ぎって車を引き戻そうとした上に、もう三度も立ち止まったからであった。
頭を垂れ、尾をふるわせながら、馬はひどいぬかるみの道を進んだ。ときどきつまずき、よろめいて倒れそうになり、まるで足の関節のところでめちゃめちゃにつぶれてしまうかと思われた。御者が用心深く「ホイ、ホイ、それ、ホイ、ホイ」と馬を休ませ、立ち止まらせるたびに、近くの先導馬ははげしく頭と、頭についているあらゆるものを振った――馬車がこの丘をのぼれるものかと言っている並はずれた強い馬のように。こうして先導馬がガタガタやるたびに、神経質になっている乗客たちはびっくりして不安におそわれた。
凹地という凹地には霧がたちこめていた、そして、それは、休憩をもとめて得られない悪霊のようにわびしく丘をたちのぼって行った。湿気のあるひどく冷たい霧がさざ波となってのろのろとたちこめてきたが、それは、荒れた海の波のように、見るまに互に追いついて、空をおおった。深い霧のために、馬車の燈火と数ヤード先の道路のほかは何も見えなかった、そして、喘《あえ》ぎながら坂を上る馬の吐く息は霧の中にとけ込むので、まるでその霧全体が馬が吐きだした息のように思われた。
例の一人のほかに、二人の乗客が郵便馬車の傍《かたわら》をとぼとぼと上って行った。三人とも頬骨から耳まですっぽり包み、膝までの長靴をはいていた。その三人の中の誰にしても、自分の眼で見たところでは、ほかの二人のいずれかがどんな人間なのかわからなかっただろう。そして一人一人が他の二人の肉眼から幾重にもかくされていたように、心の眼からも幾重にもかくされていたのであった。当時、旅行者はちょっとした知り合いには心を許さないようにしていた。というのは、行きずりの人は、誰だろうと、泥棒か、または泥棒の一味かもしれなかったからだ。そのあとの方だが、あらゆる駅舎や酒場には、上は亭主から最下等の廐《うまや》のしがない連中まで、誰かが「お頭《かしら》」から金をもらっていたのだから、そういうことは当然ありそうなことだった。ドーヴァ行の郵便馬車の車掌は、その一七七五年十一月の金曜日の夜シューターズ丘をゴトゴト上りながら、心の中でそんなことを考えていた。彼は郵便物のうしろにある自分だけの特別の席に立って、足をたたきながら、前の武器箱から片方の目と手をはなさなかった。箱の中には、短剣を一番下にして、その上に六丁か八丁の弾丸をこめた大型ピストル、その上に弾丸をこめたラッパ銃がいれてあった。
このドーヴァ行の郵便馬車の雰囲気はいつもどおりで、車掌は乗客を疑い、乗客は仲間の乗客と車掌を疑い、みな自分以外のあらゆる人を疑って、御者は馬のほかはなにも信用しなかった。ところが、その馬だが、御者は、奴らはこの旅行にはむかないと、くもりなき良心をもって、聖書にかけて誓ってもよかっただろう。
「ドウ、ドウ」と御者が言った。「それ、そこだ。もう一ペン引っぱりゃ、頂上だぞ、畜生。まったくてめえをそこまで引っぱり上げるためにゃ、えらく苦労したからなあ。ジョー」
「おーい」と車掌が答えた。
「いま何時だね、ジョー」
「十一時たっぷり十分過ぎだ」
「驚いたな」御者は当惑して叫んだ。「それでまだシューターズ丘のてっぺんじゃないんだからな。チェッ、やい、がんばれ!」
絶対に動くまいとしていた強い馬はその決心を鞭《むち》で中断されて、今度はあくまでよじのぼろうとした。そして他の三頭もあとにつづいた。ふたたびドーヴァ行の郵便馬車は苦闘をつづけ、その傍を乗客たちの長靴がぬかるみをびしゃびしゃとすすんで行った。馬車が止まると彼らも足を止めて、馬車にぴったりと身をよせた。もし、その三人の中の誰かが、だいたんにも仲間の一人に、車よりすこし先へ行って、霧と闇の中へ歩いて行きましょうと誘ったなら、おそらく、その男は追剥《おいはぎ》にちがいないと即座に射殺されただろう。
最後の一駆けで郵便馬車は丘のてっぺんに達した。馬は息をいれるためにまた立ち止まり車掌は下りにそなえて車輪に歯止めをしたり、乗客たちを乗せるために馬車の扉を開いたりするために下におりた。
「チェッ、ジョー」御者は自分の席から下の方を見ながら警戒する声で叫んだ。
「なんだよ、トム」
二人はきき耳をたてた。
「馬が駆け足で上ってくるようだな、ジョー」
「いや、早駆けだ、トム」車掌は扉から手をはなし、すばやく自分の席にとび上りながら、答えた。「お客様。いいかね、みなさん」
いそいでこう叫ぶやいなや、彼はラッパ銃の発射準備をして、攻勢にでた。
この物語の最初に記した例の乗客は車の中に入るところで、馬車の階段の上にいた。そして他の二人はそのあとにつづこうとして、彼のすぐ後ろにいた。彼は、身体を半分は車の中に入れ、半分は車の外に出したまま、階段の上にたたずみ、二人の乗客は彼の下の道に立っていた。彼らはみな御者から車掌へ、車掌から御者へとながめながら、耳をそばだてた。御者は後ろをふり返り、車掌も後ろをふり返った、そして、強い先導馬まで、耳をピンと立てて、さからわずに後ろをふり返った。
車のガラガラいう音や、馬車が難儀しながら上る音が急にやんだあとの静けさに夜の静寂が加わって、あたりはまったくしんとしていた。馬の喘《あえ》ぎが車に伝わって、馬車は、まるで興奮しているように、震えた。乗客たちの心臓もきっとその音が聞えるくらい高く動悸《どうき》を打っていたことだろう。が、いずれにしても、しばしの静寂のために、人々が息を切らせ、息を殺し、期待で脈がはやくなったのが聞きとれた。
早駆けでやってくる馬の響きははげしい勢いで丘を上ってきた。
「ホイ、ホイ」と車掌はあらんかぎりの大声でどなった。「おーい、止まれ、射つぞ」
馬は突然止まった。そして、泥がひどくはねる音やよろめく音がして、霧の中から男の声が呼びかけた。「それはドーヴァ行きの郵便馬車かね」
「どうだっていいじゃねえか」と車掌がやり返した。「お前は何だい」
「それはドーヴァ行の郵便馬車かってきいているんだよ」
「なぜ知りたいんだ」
「そうだったら、お客さんに用があるんだが」
「なんていうお客さんだ」
「ジャーヴィス・ローリーさんだ」
すでに記したくだんの乗客は即座にそれが自分の名であるという様子をした。車掌も、御者も、ほかの二人の乗客も、うさん臭そうに彼を見た。
「そこを動くな」と車掌は霧の中の声に呼びかけた、「万一おれが間違ったら、お前が生きている間にゃ、とり返しがつかないんだぞ。ローリーという名前の旦那、すぐ返事をしてください」
「どうしたんだね」例の乗客は温和な震える声でたずねた。「わたしに用があるのは、誰だね。ジェリーかい」
(「あいつがジェリーという名なら、おれはジェリーの声は好かないね」車掌はぶつぶつひとりごとを言った。「あんな声のしゃがれたやつは、おれはいやだよ、ジェリーってやつは」)
「そうですよ、ローリーさん」
「どうしたんだね」
「至急便です。あっちから旦那の後を追いかけて持ってきたのです。T銀行からです」
「わたしはこの使いの者を知っていますよ。車掌君」そう言いながら、ローリー氏が後ろから二人の乗客にていねいに、というよりも手ばやく助けられて、道に下りると、二人はすぐ車内にかけ上って、扉《とびら》を閉め、窓を引き上げた。「あの男は近くにきても差し支えないのです。なにもまちがいはありません」
「なりゃいいがね、おれにはどうも信じられねえ」と車掌はぶっきらぼうにつぶやいた。「おーい」
「やれやれ、おーい」ジェリーは先刻よりももっとしゃがれた声で言った。
「ゆっくり歩いて来い。わかるか。それでな、もしお前のその鞍《くら》にピストル袋がつけてあるなら、お前の手がそれに近づくのをおれに見せないようにしな。おれはまったくそそっかしいんだからな。しかも、しくじるときにゃ、きっと鉛の鉄砲玉なんだ。だから気をつけろよ」
馬と馬上の男の姿が渦まく霧の中をゆっくり近づいてきて、例の乗客が立っている郵便馬車の傍まで来た。馬に乗った男は身をかがめた。そして車掌を見上げながら、乗客に小さくたたんだ紙をわたした。馬は息を切らしていた。そして、馬も人も、馬の蹄《ひづめ》から男の帽子まで、泥にまみれていた。
「車掌君」例の乗客はおちついた事務的な信頼をこめた声で言った。
油断のない車掌は右手をもち上げたラッパ銃の台じりに、左手を銃身にかけ、片目で馬上の男を見ながら、ぶっきらぼうに答えた。「はい」
「なにも心配することはない。わたしはテルソン銀行の者だよ。お前さんもロンドンのテルソン銀行を知っているはずだ。わたしは銀行の用事でパリへ行くところなんだよ。一クラウン、酒手だよ。これを読んでもかまわないね」
「いそいでくださればね、旦那」
彼はそちら側の馬車の燈火がさすところでそれを開いて読んだ――はじめは声をたてずに、それから声をたてて。「『ドーヴァでお嬢様をお待ち下さい』ね、車掌君、長くはないよ。ジェリー、わたしの返事はこうだったと言っておくれ。『よみがえる』とね」
ジェリーは馬の上でびっくりした。「それもおそろしく変わった返事だね」彼はひどくしゃがれた声で言った。
「その返事をもって帰るんだよ。そうすれば、わたしが返事を書いたと同じように、これを受け取ったということがわかるだろう。急いで行け。さよなら」
こう言って例の乗客は馬車の扉を開《あ》けて中に入った。今度は仲間の乗客も全然手をかしてくれなかった。彼らはすばやく腕時計と財布を長靴の中にかくしおわって、どこから見ても眠ったふりをしていたから。彼らには別にはっきりした目的があったわけではなく、ただ、他の種類の行動をひきおこす危険をさけるためだったのだ。
丘を下りはじめると、馬車は、さらに濃い霧の渦に巻きこまれながら、またゴトゴトと進んで行った。車掌はまもなくラッパ銃を武器箱にもどした。そして、その他の箱のなかみを調べ、ベルトに下げた補充用のピストルを調べた後、座席の下の鍛冶屋の道具が二、三と、たいまつが二本と、ほくち箱がはいっている小さい方の箱を調べた。というのは、この男はなんでもよくする人間で、時々あることだが、馬車の燈火が嵐で吹き消されると、彼はただ車内にとじこもって、藁《わら》を適当にはなしておいて火打石と火打金で火花を打ち出し、かなり安全に、また容易に、(運がよければ)五分間で燈火をつけることができたのである。
「トム」馬車の屋根の上から低い声。
「おう、ジョー」
「返事を聞いたか」
「聞いたとも、ジョー」
「お前はあれをなんだと思う、トム」
「さっぱり分んねえよ、ジョー」
「それも、ぴったり同じだ」と車掌は考えこんだ。「おれも分んねえんだからな」
一方、闇の中に残されたジェリーは馬からおりた。それは、疲れはてた馬を休ませるためばかりでなく、自分の顔からも泥をふきとり、帽子の縁からも水分を振りおとすためだった。その帽子の縁たるや、水を半ガロンもためることができそうだった。ジェリーは郵便馬車の車輪の響きが聞えなくなって、あたりがふたたび静まりかえるまで、ひどく泥がはねかかった腕に手綱をかけたまま立っていたが、やがて向きを変えて、丘を歩いて下って行った。
「テンプル門からあれだけ駆けてきたんだから、平地にでるまでお前の前足をたよりにするわけにゃいかないね、婆さんや」しゃがれ声の使者は牝馬をちらと見て言った。「『よみがえる』か。えらく変わった言伝《ことづ》てがあるものだ。そんなことが、たんとあるようじゃ、お前さんには都合がわるいね、ジェリー。おい、ジェリーよ。よみがえるのが流行《はや》るようになっちゃ、お前さんはえらく具合がわるくなるだろうよ、ジェリー」
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第三章 夜の影
あらゆる人間が他人には深い秘密であり神秘であるように作られているということは、思えばおどろくべき事実である。夜、大都会にはいり、暗の中に密集している家々のひとつひとつが、それぞれの秘密をもち、その家のひとつひとつの部屋がそれぞれの秘密をもち、そこに住む幾十万の胸のひとつひとつの、心にえがくことの幾分かは、それにもっとも近い胸にも秘密であるということを思うとき、それは、厳粛な問題である。おそるべきなにものかが、死といってもいいもののなにかが、これに関係がある。私は、もう、愛するこの本のページを繰ることはできないのだ。ただ、早くそれを読み終えたいとむなしく思うばかりである。私は、もう、この測り知れない水の深みをのぞくことはできないのだ。そこには、光が瞬間さしこんだとき、水の中に宝物やいろいろな物が埋もれているのを、私はちらと見たことがあるのだが。本は、私がまだ一ページしか読まないのに、永久に閉じてしまうさだめになっていたのだ、海は、光がその表面でたわむれているのに、永遠の氷のなかにとじ込められてしまうさだめになっていたのだ。そして私は何も知らずに岸にたっていたのだ。私の友は死んだ。私の隣人も死んだ。わが魂の愛する恋人も死んだ。そして、いつもそれぞれの人の中にあった秘密は冷酷にもそこに永久に固定されて、私は、生涯の終りまで、心の中にその秘密をいだきつづけて行くであろう。私がいつも通り過ぎるこの町の墓地にはその一番奥にある性格が、私にとってこの町に住む多忙な人々よりも、また、彼らにとって私よりも、なお不可解な人が眠っているのではなかろうか。
この、もって生まれた、すてることのできない遺産は、馬上の使者も王様や宰相やロンドン一の富裕な商人とまったく同じに所有していたのである。また、ガタガタ進んで行く古い郵便馬車の狭い車内にとじこめられた三人の乗客も同様であった。彼らは、一群の距離をへだてて、それぞれ六頭立てあるいは六十頭立ての馬車に乗っているかのように、互にまったく不可解であった。
馬に乗った使者はらくな早足でもと来た道を引き返して行った。彼はかなり頻繁《ひんぱん》に道ばたの居酒屋にたち寄って酒を飲んだが、黙りがちで、帽子は眼の上までまぶかにかぶっていた。そのかぶり方は、その男の眼にたいへんよく似合った。というのは、その眼は表面が黒くて、色も形も深みがなく、二つの眼がくっつきすぎていたからである――もし二つがはなれすぎていたら、なにかの事で片方だけ見つかりゃしないかと恐れているかのように。その眼は三角の痰壺《たんつぼ》のような古い縁のそり返った三角帽の下からほとんど膝までたれている顎と喉をつつむ大きな襟巻《えりまき》の上に不吉な表情を投げていた。彼は酒を飲みにたち寄ったとき、右手で酒を注ぐ間だけ左手でこの襟巻をわきによせ、注ぎ終るやいなや、また顔をおおってしまった。
「うまくないぞ、ジェリー、うまくないぞ」使いの男は馬をすすめながら同じことばかり繰り返した。「そうなったら、お前にゃ具合がわるいぞ、ジェリー。ジェリー、お前は正直な商売人だよ。それはお前の稼業にゃ都合が悪い。よみがえる――だと。畜生、きっと旦那は酔っぱらっていたんだろう」
ローリー氏のことづては、この男の頭をひどくなやましたので、彼は何度も帽子をぬいで頭をひっかいた。その頭は、てっぺんだけはむらむらに禿《は》げていたが、あとは一面にこわい黒い毛がギザギザに突っ立っていて、あぐらをかいた鼻のあたりまで生え下っていた。それはまるで鍛冶屋のやった仕事みたいで、毛髪の生えた頭というよりも、頑丈に釘を立てた塀のようだったから、馬跳びの名人も、世界中でもっとも危険な男だといって彼を避けたことだろう。
彼はその伝言をテンプル門のテルソン銀行の入口の番小屋にいる夜警にわたし、夜警はそれを内部のもっとえらい人たちにわたすことになっていたが、早足で馬を駆って帰る道すがら、彼の前には夜の影があの伝言から連想される気味のわるい形となってあらわれ、馬にはまた馬だけの不安の種から連想される形となって、おびやかすのであった。それはいくつもあったとみえて、馬は道で影を見るたびにしりごみした。
そうするうちに、郵便馬車は三人の不可解な乗客を乗せてガタガタ、ゴトン、ゴトン、ガラガラ、ゴトゴトと重くるしく退屈な道を進んで行った。この三人にも、夜の影は、彼らのまどろむ眼とさまよう思いがつくりだす姿となってあらわれた。
馬車の中では、テルソン銀行は取付けにあっていた。銀行員の乗客が――馬車が特別大きく揺れたときに、隣りの乗客にぶつかってその人を隅におしつけないように、吊皮に片腕をとおしたまま――自分の座席で眼を半分とじてこくりこくり舟を漕いでいると、馬車の小窓や、それを通してぼんやり光をはなっている馬車のランプや、反対側の乗客の大きな包みが、いつのまにか銀行になって、銀行はたいへんな繁盛ぶりだった。ガチャガチャいう馬具の音は銭がジャラジャラいう音に変わり、五分間に、テルソン銀行でさえ国内及び外国のすべての関係筋をふくめてその三倍の時間に支払う以上の小切手が支払われた。それから、この乗客が知っている、高価な品物や秘密の品がしまってあるテルソン銀行の地下室にある貴重品室が彼の前に開かれた。そして彼は大きな鍵束とわずかに燃えている蝋燭をもって品物の間へ入って行くと、その前に見たときと同じように、みな安全で、丈夫で、きずがなく、乱れていなかった。
しかし、銀行はほとんどいつも彼とともにあったけれども、また、馬車も(麻酔にかかっているときの痛みのようにこんがらかって)いつも彼とともにあった。けれども、そこにはもう一つの、夜を通して決して中断することのない印象の流れがあった。彼はある人を墓場から掘り出しに行くところだったのだ。
ところで、彼の前にあらわれた数多くの顔の中のどれが墓に埋められた人の本当の顔なのか、夜の影はおしえてはくれなかった。が、それはみな、年は四十五歳の男の顔で、主として顔にあらわれている感情とおそろしいまでにやつれ果てた状態がちがっているだけであった。誇りと軽蔑と挑発と強情と服従と悲嘆があいついであらわれ、種々様々のおちくぼんだ頬や蒼白な顔色や痩せた手や姿があらわれた。けれども、その顔は大体同じ顔で、どの頭も、まだその年でもないのに、白髪であった。
うたたねの中で、彼はこの幽霊に何度も何度もたずねた。
「どれくらい埋められていたのですか」
返事はいつも同じだった。「ざっと十八年」
「掘り出される望みは、すっかりすててしまっていられたのですか」
「ずっと前に」
「よみがえったのだということがあなたにわかりますか」
「人がそう言います」
「生きたいと思われるでしょうね」
「わかりません」
「あのひとを、おつれしましょうか。あなたが会いにいかれますか」
この問いにたいする返事はいろいろで、互に矛盾していた。あるときは、きれぎれにこう答えた。「待ってください。あれに会うのが早すぎると、わたしは死んでしまう」あるときは、やさしい涙をさんさんと流して、「あれのところへ、つれて行ってください」と言った。また、あるときは、ひどく当惑して、それから「そのひとのことは知りません。なんのことか、分りません」と答えた。
想像のなかでそうした会話をやりとりした後、例の乗客は、空想の中で、掘って、掘って、掘って――鋤《すき》で、大きな鍵で、両手で――このみじめな人間を掘りだすために掘りつづけるのであった。そして、やっと泥だらけの顔と頭髪をして出て来たかと思うと、彼は、突然、塵となって消えてしまうのであった。そうすると、乗客はハッとわれに返って、現実の霧と雨を頬に感じるために窓をおろすのであった。
だが、彼の眼が霧や雨や、ランプの燈火がてらしだす動く風景や、ぐいぐいと退いて行く道端の垣根をながめているときでさえ、馬車の外の夜の影は車内の夜の影の列に入りこんできた。テンプル門の傍にある本当の銀行、過去の本当の仕事、本当の貴重品室、彼を追いかけてきた本当の至急便、彼がことづけた本当の返事などがみなそこにあった。そして、そのまんなかから、あの幽霊のような顔がでてきて、彼はまたそれに話しかけるのであった。
「どれくらい埋められていたのですか」
「ざっと十八年」
「生きたいと思われるでしょうね」
「わかりません」
掘って、掘って、掘りつづける――とうとう、二人の乗客の一人がたまりかねて身動きをして、彼に、窓を引き上げ、あぶなくないように皮紐に腕を通して、眠っている二人の人間のことを考えてくれと注意するのだが、また彼の心は二人のことからはなれ、彼らはふたたび銀行と墓の中に没してしまう。
「どれだけ埋められていたのですか」
「ざっと十八年」
「掘り出される望みはすっかり捨ててしまっておられたのですか」
「ずっと前に」
その言葉は、いま聞いたばかりのように、まだ耳の中に残っていた――今までもそうであったように、はっきり耳の中に――このとき、疲れた乗客は朝の光に気がついて、ハッとわれにかえった。そして、夜の影がもう消えてしまったのに気がついた。
彼は窓をおろして、昇る太陽をながめた。外は耕された土地の畝《うね》で、そこには、昨夜馬が軛《くびき》からはなれたときに置き忘れられた鋤《すき》が一丁残っていた。その向うは静かな小樹林で、樹々には燃えるような赤い葉や黄金のような黄色い葉がまだ残っていた。地はまだ冷たく濡れていたが、空は澄んで、太陽がきらきらと、静かに、美しく昇っていた。
「十八年」例の乗客は太陽を見ながら言った。「恵み深き陽の神よ。十八年も生き埋めにされていたとは!」
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第四章 準備
郵便馬車が無事に午前中にドーヴァに到着すると、ロイヤル・ジョージ館の給仕頭がいつものように馬車の扉を開けた。彼はいくぶん儀式ばって大げさな身ぶりをした。というのは、冬、ロンドンから郵便馬車で旅をするのは冒険好きな旅客に祝詞《しゅうし》を述べなければならぬほどたいへんな仕事であったからだ。
この時には、もう、祝詞を受ける冒険好きな客は一人しかいなかった。他の二人はそれぞれ沿道の目的地で下車してしまったから。かびの生えた馬車の内部は湿ったきたない藁《わら》がちらかり、いやな臭いがして、うす暗くて、ちょっと大きな犬小屋のようだった。例の乗客、ローリー氏が、藁をからだにくっつけて、毛がもじゃもじゃある上っぱりと、縁の垂れた帽子と泥だらけの足という恰好《かっこう》でその中から身体を揺すぶりながら出て来た姿は、ちょっと大きな犬のようであった。
「明日、カレーへ定期船がでるだろうね、給仕」
「はい、旦那様。お天気がつづいて、風向きがまず悪くないようでしたらね。午後の二時頃には、潮の具合がかなりよくなるでしょう。おやすみになりますか、旦那様」
「わたしは夜にならなけりゃ寝ないよ。だがね、寝室がほしいね、それから床屋が」
「それからお食事ですね、旦那様。承知いたしました。どうぞ、あちらへ。和合の間《ま》へご案内するんだよ! お客様のカバンとお湯を和合の間へお運びしろよ。和合の間でお客様の長靴をお脱がせしてな(石炭がよく燃えておりますよ、旦那様)和合の間へ床屋をつれて行け。さあさあ、和合の間のご用を早くするんだよ」
和合の間という寝室はいつでも郵便馬車の乗客が入ることになっていた。そして、郵便馬車のお客たちは、いつでも、頭から足までげんじゅうに身体を包んでいたので、ロイヤル・ジョージ館の従業員はその部屋に妙な興味をもっていた。というのは、その部屋に入って行くのはみな同じような男ばかりだが、そこから出て来るのは、ありとあらゆる種々様々の男だったからである。だから、大きな四角いカフスと、ポケットに大きな雨蓋《あまぶた》のついている、かなり着古したものだがたいへん手入れのよい茶の三つ揃《ぞろ》いを正式に着こなした六十恰好の紳士が、朝食をとりに通り過ぎたとき、和合の間と喫茶室の間では、方々で、もう一人の給仕と、荷物運搬人が二人と、いくたりかの女中とおかみさんが、偶然にもうろついていた。
その朝、喫茶室には、その茶色の服を着た紳士の他には誰もいなかった。彼のテーブルは暖炉の前にひき寄せられていた。そして彼は燃える火に照らしだされながら、食事を待つ間、まるで肖像画のモデルのようにじっとすわっていた。両膝に片手ずつ手をおき、雨蓋つきのポケットのあるチョッキの下で重厚な、寿命の長い懐中時計が、元気よく燃えている軽薄なはかない火と張り合っているように、チクタクと高く響く音をたてているところは、彼がいかにもきちょうめんな、きちんとした人間らしく見えた。彼はいい足をしていて、すこしばかりそれが自慢だった。というのは、茶色の長靴下はすべすべとして、ぴったり足に合っていて、しかも目のつんだ上質の布地だったし、締め金のついた靴も、簡素ながらこぎれいであったから。彼はちょっと変わった、小さな、つやのある、縮れた亜麻《あま》色のかつらをぴったりと頭につけていた。それは、おそらく、毛髪でできていたのだろうが、まるで絹かガラスの糸で織ってあるように見えた。リンネルのカラーやカフスは靴下ほど上等ではないが、近くの浜辺に砕ける波頭か、はるか沖合の陽光の中にきらめく点々とした白帆のように真白だった。その顔は習慣的に感情を表わさない落ち着いた顔だが、それでも古風なかつらの下には濡れた輝く眼が光っていた。過ぎ去った年月の間に、この眼を、テルソン銀行の落ち着いたひかえめな表情の眼に訓練するのは、その眼の持ち主にとってかなり骨の折れることであったにちがいない。彼の頬は健康な色をしていた。そして顔には皺《しわ》がよっていたけれども、ほとんど苦労のあとがなかった。とはいうものの、おそらく、テルソン銀行の機密に参与しているひとり者の書記たちは、主として、他人の心配事でいっぱいだったのだろうが、他人の心配事などというものは、古着の着物と同じように、容易に脱いだり着たりできるものなのだろう。
肖像画のモデルのようにじっと坐っていたローリー氏は、完全にモデルになりきったかのように、眠りはじめた。食事がきたので、目をさまし、彼は椅子をテーブルまで動かしながら、給仕に言った。
「若いご婦人が、今日、ここに来られるかもしれないから、部屋の準備をしておいてください。そのひとは、ジャーヴィス・ローリーさんはいるか、とたずねるかもしれないが、ただ、テルソン銀行の方はいるか、とたずねるかもしれない。いずれにしても、わたしに知らせてください」
「承知いたしました、旦那様。ロンドンのテルソン銀行でございますか」
「そうだよ」
「承知いたしました、旦那様。手前どもはたびたび、おたくの旦那様方がロンドンとパリの間を往き来なさるときにお泊りいただいております。テルソン銀行ではずいぶんご旅行が多うございますね」
「うん。うちはロンドンの銀行でもあるし、フランスの銀行でもあるんだよ」
「そうでございますね。しかし、旦那様はそういうご旅行はいつもなさらないようでございますね」
「最近はね。この前われわれが――わたしがフランスから来たのは、もう十五年前だよ」
「へえ、それじゃ私がここへまいる前でございますね。今の経営者の前のことでございます。そのころジョージ館はほかの人がやっておりましたからね」
「そうだろうね」
「ですけれども、私は賭けをしてもよろしゅうございますが、テルソン銀行のような銀行は、十五年前はいうにおよばず、五十年前でも繁盛していたのでございましょうね」
「それを三倍にして百五十年といっても、たいして間違ってはいないね」
「へえ」
給仕は口をあんぐり開け、眼をまるくしてテーブルからさがりながら、ナプキンを右から左の腕にうつし、らくな姿勢になって、まるで天文台か望楼からでも眺めるように、食べたり飲んだりしている客を眺めながら立っていた。あらゆる時代の給仕の昔からの慣習どおりに。
朝食をすませると、ローリー氏は海岸へ散歩にでかけた。小さな、狭い、かぎのように曲ったドーヴァの町は海岸からかくれていて、海の駝鳥のようにのばした頭が白堊《はくあ》の絶壁になっていた。海岸は山のような波と荒々しくころげまわる石の砂漠で、海はその欲するところをなし、その欲するところは破壊であった。波は町にぶつかって轟《とどろ》き、崖にぶつかって轟いて、狂暴に海岸をうちくだいた。家々の間の空気はひどく魚の臭がしたので、病気の人間が海につかりに行くように、病気の魚がそこの空気につかりに海から上って行ったのではないかと思われるほどだった。港では、ちょっとした釣りをしたり、夜、さかんに歩きまわって海の方を眺めたりすることがあった。ことに潮がさして来て満潮が近いときに。また、時々なにも仕事をしない小商人が、ふしぎなことに、大|身代《しんだい》をこしらえたりした。そして、その近所の人がみな、点燈夫にがまんができないということもふしぎだった。
陽が傾いて午後になり、時々フランスの岸が見えるほど澄んでいた空がまた霧と煙霧におおわれると、ローリー氏の思いにも雲がかかるように思われた。あたりが暗くなって、喫茶室の火の前で、今朝、朝の食事を待っていたように晩餐を待っていたとき、彼の心は忙しく赤く燃えている石炭を掘って、掘って、掘りつづけていた。
晩餐のあとで飲む一瓶のクラレットは真っ赤な石炭を掘る人に害をあたえるはずはない。ただ彼に仕事をやめさせる傾きがあるだけである。ローリー氏は長い間なにもしないでいた。そして、ちょうど、一瓶の酒を飲みつくしたこの若々しい顔色の老紳士がいかにも満足な様子で最後の一杯をグラスに注いだとき、ガラガラと車輪が狭い通りを上ってくる音が聞えて、それが旅館の庭に入ってきた。
彼はグラスに口を触れないで下においた。「お嬢さんだ!」と彼は言った。
二、三分たつと給仕が入ってきて、マネット嬢がロンドンからお着きになり、テルソン銀行のお方にお目にかかれれば仕合せですとおっしゃっておいでですと言った。
「そんなに早くかね」
「マネット嬢は途中で軽い食事をすませていらして、いま、なにも欲しくないとおっしゃいます。そして、もしご都合がよければ、すぐテルソン銀行のお方にお目にかかりたいとたいへん熱心におっしゃっていらっしゃいます」
テルソン銀行のお方は、今はただ、どうにもならないやぶれかぶれの様子でグラスをあけて、妙な小さい亜麻《あま》色のかつらを耳のところでおちつかせ、給仕の後についてマネット嬢の部屋へでかけて行った。それは大きな暗い部屋で、黒い馬の毛が葬式のように飾ってあり、重くるしい黒ずんだテーブルがいくつかおいてあった。それは油でよく磨いてあったので、部屋のまん中のテーブルにのせてある長い二本の蝋燭はどの板にもぼんやりとうつっていた。それはまるでその蝋燭が黒いマホガニーの深い墓に埋められていて、それを掘り出すまでは、明かりらしい明かりを期待するのはむりだと思われるくらいだった。
部屋がうす暗くて見通すのが困難だったので、ローリー氏は古びたトルコ絨毯《じゅうたん》の上を気をつけて歩きながら、マネット嬢はそのとき、隣室にいるのだろうと思った。が、二本の蝋燭を通り過ぎたとき、彼は、彼と暖炉の間にあるテーブルの傍に、乗馬用の外套を着て、まだ麦藁の旅行用の帽子のリボンを下げたままの、十七歳を越してはいまいと思われる若い婦人が彼を迎えるために立っているのを見た。細っそりした小さな美しい姿、ゆたかな金髪、もの問いたげに彼を見上げた青い眼、高く上げて眉をひそめ、困惑でもない驚異でも驚愕でもない、またただの油断のない注視でもない、その四つの表情をすべて含んではいるが、それとは別の表情をうかべることができるという奇妙な能力をもっている額――彼の眼がそういうものにとまったとき、かつて雹《ひょう》が降りしきる海の荒れた寒い日に、いま彼の前にある海峡を、腕に抱えて渡った子供のあざやかな似顔が、突然彼の目の前を過ぎた。その似顔は彼女の後ろのひょろ長い窓間鏡《まどまかがみ》の表面に吹きつけられた息のように消えた――その鏡の枠には、数人は頭がなく、全部がびっこの、黒んぼのキューピットの病人の行列が、死海の果実を盛った黒い籠《かご》を黒い女神たちに捧げている図が彫ってあった――そして彼はマネット嬢に正式のお辞儀をした。
「どうぞ、おかけください」と、よく澄んだ明るい声。アクセントにすこし外国のなまりがあるが、ほんのわずかだ。
「お手に接吻させていただきます、お嬢さん」ローリー氏はもう一度正式のお辞儀をしながら、昔の作法でそう言って腰をおろした。
「昨日銀行からお手紙をいただきましたが、なにか情報が――発見が――」
「言葉は重要ではありません、お嬢さん。どちらでもよろしいのです」
「――気の毒な父のわずかな財産のことで――私は会ったこともない――ずっと前に亡くなりました父の――」
ローリー氏は腰かけたまま身体を動かして当惑の眼を黒んぼのキューピットの病人の行列の方に向けた。まるで黒んぼのばかげた籠の中になにか助けになるものが入っているように。
「――で、私がパリへ行って、そこで、ご親切にもそのためにわざわざパリへお出かけくださる銀行のお方とご相談しなければならない、ということでございました」
「私のことでございます」
「私もそう承《うけたまわ》わることと思っておりました」
彼女は、彼を、どんなに自分より年上で賢い人だと思っているか伝えたいと思って、膝を曲げて会釈《えしゃく》した(その当時、若い婦人はそういう会釈をした)。彼も、もう一度お辞儀をした。
「私は銀行にこうご返事をいたしました。事情をご存知で、ご親切にいろいろと忠告してくださる方々が、私がフランスへ行かなければならないとお考えになるのですし、それに、私は孤児で、一緒に行ってくれる友だちもないものですから、もし、旅行の間、その立派なお方のお世話にあずかることができましたら、たいへんありがたいのでございます、と。そのお方はもうロンドンをお発ちになったあとでしたが、ここで私をお待ちくださるようにお願いするお使いを、あとから出してくだすったはずでございますが」
「私はお世話をまかされまして、うれしく存じておりました。これからそれを果たすことができましたら、もっとうれしく思うことでしょう」
「本当にありがとう存じます。心からお礼申し上げます。銀行では、そのお方が事務の細かい点をご説明くださるけれども、それがびっくりするような性質のものだから、覚悟をしていなければいけないとおっしゃいました。私はできるだけの覚悟をしてまいりました。それで、それがどんなことか知りたくてたまらないのでございます」
「むりもありません」とローリー氏が言った。「そうです――私は――」
ちょっと休んでから、もう一度縮れた亜麻色のかつらを耳のところでおさえながら、つけ加えた。
「どこから始めていいか、たいへんむずかしいのでございます」
彼は話を始めなかった。が、まよっていると彼女の視線にぶつかった。その若々しい額には例の奇妙な――だが、奇妙なだけでなく、美しくて、彼女に特有の――表情があらわれていた。そして彼女は、本能的になにか通り過ぎる影をとらえたように、また、それを引きとめようとするように、片手を上に上げた。
「あなた様にお目にかかるのは、これが初めてでしょうか」
「そうではないとおっしゃるのですか」ローリー氏は議論をしたそうな微笑を浮かべて、両手をひらき、それを左右にひろげた。それまでずっと立っていた彼女が考えこみながら傍の椅子に坐ったとき、眉の間の、この上なく優美な美しい筋のとおった、小さな女らしい鼻の真上では、例の表情がますますはっきりしてきた。彼は娘が思いふけっているのを見つめていたが、彼女が眼を上げた瞬間に口をひらいた。
「あなたが籍を移された国では、あなたをイギリスの若いご婦人としてマネットさんと申し上げるのが一番いいと思いますが」
「どうぞ」
「マネットさん、私は事務家でございます。私はまかされた事務を果たさなければならないのでございます。あなたがそのことをお聞きとり下さるときには、私をものを言う機械だと思《おぼ》し召して、それ以上、私にお気をとめられませんように――まったく、私は、それ以外のものではございません。お嬢さん、私は、あなたのお許しを得て、私どものあるお得意様の身の上をお話しいたしましょう」
「身の上ですって!」
彼は彼女が繰り返した言葉を故意に聞き違えたように思われた。そして、急いでつけ加えた。「はい、お得意様でございます。銀行では、私どもと取引のある方々をお得意様と申し上げております。その方はフランス人でした。科学者でした。たいへん学識のある方――医師でした」
「ボーヴェーの人ではございませんか」
「ええと、そうです、ボーヴェーの方でした。あなたのお父様のマネットさんのように、その方はボーヴェーの方でした。あなたのお父様のマネットさんのように、その方はパリで評判の方でした。私はパリでその方とお近づきになったのです。われわれの関係は事務的な関係でございましたが、なんでも打ち明けて話せる間柄でございました。その時、私はフランスの方の銀行におりました。それまでに――ああ、もう二十年もおりました」
「その時――とおっしゃいましたが、いつでございますか、おたずね申し上げたいのですけれど」
「二十年前のことでございます。その方は結婚されました――イギリスの婦人と――そして私は財産管理人の一人でした。その方の財政上の事務は、多くのフランスの紳士や家族の方がそうなすったように、すべてテルソン銀行にまかされておりました。ですから、私は、それと同じわけで、現在も、また今までずっと、何十人という種々さまざまなお得意様の財産管理人なのでございます。それは単なる事務的な関係でございます、お嬢さん。そこには友情も、特別な興味もございません。感情的なものはなにもないのでございます。私は毎日の業務の上で一人のお得意様から他のお得意様へ移って行きますように、今まで事務家として生きてまいりました間に、一人の方から別の方へと移ってまいりました。簡単に申しますと、私は感情というものはもち合わせていないのでございます。私はただの機械なのでございます。先をつづけますと――」
「ですけれど、これは私の父の身の上話でございますね。それで気がついたのですけれど――」奇妙にいら立った額がひどく熱心に彼にそそがれていた――「父に先立たれた母がたった二年後に亡くなって、私が孤児になったとき、私をイギリスへ連れて行ってくださったのは、あなたではないかと思いはじめたのでございます。あれがあなたでいらしたということは、私はほとんど確信しております」
ローリー氏は彼の手をとろうと信頼をこめて差し出されたためらっている小さな手をとって、いくぶんしかつめらしく唇にあてた。それから彼は若い婦人をまたもとの椅子にまっすぐにつれもどし、左の手を椅子の背にかけ、右の手は、かわるがわる、顎をこすったり、かつらを耳のところで引っぱったり、自分の言ったことを強調したりしながら、坐って、じっと彼の顔を見上げている娘の顔をじっと見おろしていた。
「マネットさん、たしかに私でございました。それにしても、それ以来私が一度もあなたにお目にかかっていないということをお考えになれば、私がたった今、私には感情というものがないし、私と人との関係はすべて、事務的な関係にすぎないと申し上げたのは嘘ではないということがおわかりになりますでしょう。いやいや、あなたは、その後ずっと、テルソン銀行の後見を受けて来られたのです。そして私はずっとテルソン銀行のほかの仕事で多忙でした。感情ですって! 私にはそんなもののために割《さ》く時間もございませんし、また、そんな機会もございません。お嬢さん、私は、お札《さつ》の皺《しわ》をのばす大きな機械をまわして一生を送っているのでございます」
ローリー氏は自分の毎日の仕事をこんな変な表現で説明すると、両手でもって亜麻色のかつらを平たくおしつぶし(それは最も不必要なものだった。つやつやしたかつらは、すでに充分平たくなっていたのだから)、もとの姿勢にかえった。
「ここまでは、お嬢さん(あなたがおっしゃいましたように)、これはあなたのお気の毒なお父様の身の上話でございます。これから話がちがってまいります。もし、かりに、あなたのお父様が、お亡くなりになったときにお亡くなりになったのではなかったとしますと――驚いてはいけません。そんなにびっくりなさって!」
彼女は本当にぎょっとした。そして両手で彼の手首をとらえた。
「どうか」ローリー氏は左の手を椅子の肩からはなして、はげしく震えながら哀願するように彼の手首を握っている指の上において、やさしく言った。「どうか、おちついてください――事務の問題でございます。いま申し上げましたように――」
ローリー氏は彼女の顔を見て不安になり、話をやめて、どうしようかと迷っていたが、また語りはじめた。
「いま申し上げましたように、もしもマネットさんが亡くなられたのではなかったとしてですよ、もしもあの方が突然、音もたてずに消えてしまわれたのだとしたら、もしもあの方が神隠しにあわれたのだとしたら、もしも、あの方がつれて行かれた恐ろしい場所がどういう場所か、推測するのはむずかしくないが、どんなことをしても捜しだすことはできないのだとしたら、もしもあの方が同胞の中に敵があって、その人が、海の向うのあの国では、私がいたころ、どんなに大胆な人でも低声《こごえ》で口にすることさえ恐れるような特権――たとえば、書類の空欄に誰かの名前を書き入れて、その人をいつまででも牢獄にぶちこんでおけるというような特権――を行使することができたとしたら、もしもその方の奥さんが、王様や女王様や裁判所や聖職者にご主人の消息をもとめて嘆願されても、それがすべてむなしかったとしたら、ですね――そうすれば、あなたのお父様の身の上はこの不幸なボーヴェーの医者の身の上と同じでしたでしょうね」
「どうぞ、もっとお話ししてくださいませ」
「お話しいたしますとも。これからお話ししようと思っているところです。しかし、ご辛抱できますか」
「どんなことでも辛抱できますけれど、今のこの不安な気持だけがたまらないのでございます」
「あなたはおちついてものをおっしゃる、あなたはおちついていらっしゃる。結構でございます」(彼は口で言うほど満足した様子ではなかったが)「事務でございますよ。事務――やらなければならない事務だと思し召してください。さて、かりにこのお医者様の奥さんがたいへん勇気のある、気丈な方でしたが、赤ちゃんが生まれる前にこの問題でひどく心を悩まされたとしますと――」
「その赤ちゃんは女の子だったのですね」
「女の子でした。事、事務でございますよ――ご心配なさいませんように。お嬢さん、かりに、その気の毒なご婦人が、赤ちゃんが生まれる前にあまりひどく悩んだために、この可哀そうな子には、親の味わった苦しみは知らせないで、父親は死んだのだと信じるように育てようと決心なすったとしますと――いけません。ひざまずいてはいけません。一体どういうわけであなたは私にひざまずいたりなさるのですか」
「本当のことを、おっしゃってください。ご親切な情深いお方、本当のことをおっしゃってください」
「事、事務でございますよ。あなたは私をまごつかせなさる。もし私がまごついていたら、どうして事務を処理できますか。さあ、おたがいに頭をおちつかせましょう。たとえば、九ペンスの九倍はいくらか、二十ギニーは幾シリングか、おっしゃっていただけましたら、たいへん心強いのですが。私はあなたのお心の状態にもっとずっと安心できるのでございますが」
彼がやさしく彼女をおこすと、彼女はこの申し出には直接返事はしなかったが、ぐっとおちついて坐り、彼の手頸を握りつづけていた手は先刻よりずっとしっかりしていたので、ジャーヴィス・ローリー氏はやや安堵《あんど》したのであった。
「それで結構です。それで結構です。勇気をおだしなさい。事務です。あなたはこれから事務を片づけなければならないのですよ、有益な事務を。マネットさん、あなたのお母様はあなたにたいしてこの方法をおとりになりました。そしてお母様はたえずお父様を捜しておられましたが、なにも得るところがなく、とうとうお亡くなりになりましたが――ご傷心のあまりだと、私は信じております――二歳になられたあなたは、お父様が獄中でまもなくお亡くなりになられたかどうか、また、長い年月の間にだんだん衰えて行かれるのではないかと、たえず心にかけながら、不安な日を送られることもなく、花のように美しく、幸福に成長なさったのでございます」
そう言いながら彼は、感嘆に似たあわれみをこめてふさふさとした金髪を見おろした、それはまるで、その髪が、もう、灰色になっていたかもしれないのに、と心の中で想像しているかのようであった。
「ご承知のように、ご両親には大きな財産はございませんでしたし、それは全部お母様とあなたのものになったのでございます。ですから、金銭やその他の財産につきましては、なにも新たに発見されたことはございません、ですけれども――」
彼は手頸がますます強くつかまれるのを感じたので、話をやめた。先刻から特別に彼の注意をひきつけていて、今は何の動きも示さない彼女の額の表情は、ますます深くなって苦痛と恐怖の色をあらわしていた。
「ですけれども、お父様は――発見されたのでございます。お父様は生きておいでになります。おそらくひどく変っていらっしゃるものと思われます。ほとんど廃人になっていらっしゃるかもしれません、私どもはそんなことのないように望んでおりますが。まだ生きておいでになるのです。お父様はパリのもとの召使の家にひきとられていらっしゃいます。そして私たちはこれからそこへ行くのでございます。私は、もしできますれば、それがあの方に間違いないかどうか、見きわめるために、あなたは、生と、愛と、務めと、休息と、慰めをもう一度あの方のものとなさるために」
彼女は身震いをした。そしてそれが彼に伝わった。彼女は、まるで夢の中でものを言っているように、低い、はっきりした、おそれおののく声で言った。
「私は父の幽霊に会いに行くのですわ。それはきっと父の幽霊ですわ――父ではなくて」
ローリー氏は彼の腕につかまっている手をしずかになでた。「さあ、さあ。もう分りましたね、もう分りましたね。いちばんいいことも、いちばん悪いことも、もう、あなたに分ってしまいました。あなたはひどい目にお会いになったお気の毒なお父様の近くまできていらっしゃる。これからよい航海とよい旅行をなすって、まもなくなつかしいお父様のおそばにいらっしゃるのですよ」
彼女は同じ調子だがささやくように繰り返した。「私は自由でしたし、仕合せでした。でも、お父様の幽霊は一度も私のところにきてくださいませんでした」
「もうひとつだけ申し上げます」ローリー氏はおだやかな方法で彼女の注意をひこうとして、言葉を強めて言った。「お父様は、発見されたとき、ほかの名前になっておられました。ご自分の名前は長い間忘れられていたか、長い間隠されていたのでございます。そのどちらだったのか、今たずねるのは、無益というよりも、もっと悪い結果になるでしょう。お父様が幾年もの間忘れられていたのか、それとも、故意に囚人にされていたのかどうか知ろうとなさるのは、無益であるよりもっと悪い結果になるでしょう。今、どんなことでもせんさくなさるのは、無益であるよりもっと悪いことです。なぜかと申しますと、危険だからです。どこででも、どんなかたちででも、その問題を口になさらないで、お父様を――とにかくしばらくの間は――フランスからつれ出しておあげになる方がよろしいと存じます。イギリス人として安全な私でさえ、また、フランスの信用にとって重要なテルソン銀行でさえ、この問題にふれることはすべて避けております。私は、公然とそのことにふれた書きものは、紙切れさえ持っておりません。これはまったく秘密の任務なのでございます。私の資格証明書も、記入条項も、覚え書きも、みな、『よみがえる』という一行の言葉に含まれております。その言葉はどんな意味にもとれるのです。しかし、どうなさったのですか。このひとはなんにも聞いていない! マネットさん!」
不動のまま、無言のまま、椅子の背にたおれかかることさえしないで、彼女は彼の手の下で、目を開き、彼をじっと見つめたまま、まるで額に刻みこむか、焼きつけるかしたようにみえる先刻の表情のまま、まったく意識を失って坐っていた。彼女の手があまり強く彼の腕をつかんでいたので、彼は、自分の身体を離したら彼女を傷つけやしないかと心配した。それで、彼は、動かずに、大声で助けを呼んだ。
荒々しい顔つきの女が――ローリー氏は、興奮してはいたけれど、この女が真っ赤になっていることや、髪が赤くて、ものすごくぴったりからだに合う服を着ていること、頭には近衛歩兵の大きな木製の計りコップ――しかも、たっぷりはいる計りコップ――のような、あるいは、大きなスチルトン・チーズのようなおどろくべき帽子をかぶっているのを見てとったが――旅館の召使たちより先に部屋に駈け込んできて、力の強い手を彼の胸にあて、彼をいちばん近い壁にむかってはねとばして、この気の毒な若い婦人からどうやってはなれたらよかろうかという問題をたちまち片づけてしまった。
(「まったくこれは男にちがいないね」とローリー氏は、壁にぶつかると同時に息をはずませながら考えた)
「まあ、みんな、なんて顔をしてるんだね」この御仁《ごじん》は旅館の召使たちにむかってどなった。「そこにつっ立って、わたしを見ていないで、なぜ、いろいろ取りに行かないのさ。あたしゃ、そんなに見るほどのものじゃないよ。なぜ、いろいろ取りに行かないんだね。気つけ薬と、冷たい水と、酢を早くもって来ないと、思い知らせてやるよ」
召使たちはすぐにそういった気つけに使うものをとりにあちこちへ駆け出して行った。すると女はそっと病人を長椅子に寝かせて、彼女を「わたしのだいじな方」とか「わたしの小鳥」とか呼びながら、彼女の金髪を非常に誇らしげに、また注意深く、肩をおおうようにひろげてやったりして、実に巧みに、やさしく介抱した。
「それから、茶色の服のあんた!」彼女は憤然としてローリー氏の方にむきなおり、「このひとをびっくりさせて気絶させなきゃ、話さなければならないことが話せなかったんですか。このひとをごらんなさい。こんなきれいな蒼い顔をして、冷たい手をして。あんたは、そういうことをするのが銀行家だというんですか」
この問いはたいへんむずかしくて返事ができなかったので、ローリー氏はすっかりまごついてしまい、ただすこし離れたところで、かすかな同情をあらわして小さくなっているばかりであった、が、その強い女は、召使たちを、なにかを「思い知らせてやる」という不可思議な刑罰でおどかして追い払ってしまうと、――彼らが自分をじっと見ながらそこにつっ立っていたらどうするというのか、それは言わなかったが――だんだんにきまった経過をたどって病人を回復させ、うなだれた頭を自分の肩にのせるようにと、なだめすかすように言った。
「もうよくおなりでしょうね」とローリー氏が言った。
「よくおなりになったって、茶色の服のあんたにはお世話にゃなりませんよ。ね、わたしの可愛いい方!」
「あなたはマネットさんのおともをしてフランスまで行ってくださるんでしょうね」ローリー氏はまたもやかすかな同情をあらわし、恐縮して黙っていたが、やがてこう言った。
「誰でも思いそうなことだね」と強い女が答えた。「だけど、もしわたしが海を渡って行くことになっているなら、神様はわたしの運命のさいころを島国にお投げになると、あんたは思ってるのですか」
これも、また、なんと答えていいかむずかしい問いだったので、ジャーヴィス・ローリー氏は引き下って考えることにした。
[#改ページ]
第五章 酒店
大きなワインの樽が通りに落ちて、こわれた。それは、たまたま、荷車から樽をおろすときにおこったのであった。樽はゴロゴロころがって、|たが《ヽヽ》がはずれ、ちょうど酒店の入口の外の石だたみの上でとまって、くるみの殻のようにめちゃめちゃにこわれた。
働いていた者も、怠けていた者も、とんで来られるところにいた者は、みな、それまでやっていたことを一時やめて、ワインを飲みに駆け出してきた。道に敷いたでこぼこでふぞろいの石は、あらゆる方向を向いていて、近づくものはみなびっこにしてやろうというつもりらしいが、酒はそこでせきとめられて小さな溜りがいくつもできた。そして、その溜りは、それぞれその大きさに応じて、大勢小勢の人々が押し合いながらとりかこんだ。男たちの中には膝をついて両手ですくい、酒が指の間から漏れてしまわぬうちに、それをすすったり、自分の肩の上に身をかがめている女たちにすわせてやったりする者もいた。また、把手《とって》のかけた土器の小さな湯呑みをつっこむ男や、頭にかぶったハンケチを酒の溜りに浸して、ハンケチが乾くまで酒を幼児の口にしぼりこむ女もあった。また、酒が流れるのをせきとめようと小さな泥の土手を作る人々や、高い家の窓から見下している見物人に数えられて、新しい方向に流れだした小さな流れをせきとめようとして、あちこち走りまわる人々や、また、いかにもうまそうに、ワインの|おり《ヽヽ》でよごれた、湿った樽の木切れをなめたり、もっと酒のしみこんだ破片を噛《か》んだりするのに夢中になっている人たちもいた。その辺には酒の流れこむ下水がないのに、酒はすっかりすくい上げられたばかりか、泥まですくい上げられてしまったので、まるで道路掃除人がきたと思われるくらいであった。もっとも誰か道路掃除人のことを知っていて、こんな汚い街にもきてくれると信じることができたらだが。
このワインあそびがつづいている間、かん高い笑い声とたのしそうな声が街に響きわたっていた。この遊戯には粗暴なところはほとんどなくて、非常に陽気であった。そこには特別に親しい交わりがあり、一人一人が他の人に結びつこうとする注目すべき傾向が見られた。そしてそれは、比較的幸運な、あるいは気楽な人々の間では浮かれ気分の抱擁となり、健康を祝して乾杯したり、握手したり、十二人がいっしょになって手をつないで踊ったりするのであった。ワインがなくなって、ワインがいちばんたくさんあった場所が指でひっかかれて焼き網模様になったころ、こうした示威運動は始まった時と同じように突然やんだ。薪を切りかけたところで鋸《のこぎり》を放ったらかして駆け出して行った男は、また鋸をひきはじめ、女は、熱い灰の小さな壺で自分が子供の痩せ細った指と足指の痛みをやわらげようとしていたのを、入口の階段に放ったままだったが、いまはまたそこにかえって行き、地下室から冬の光の中にあらわれた、腕をむきだしにした、もつれた巻毛の、死人のように蒼白い顔の男は、また下に下りて行った。あたりには夕闇がせまってきたが、それは太陽の光よりもその場にふさわしく思われた。
そのワインは赤いワインで、こぼれて、パリのサン・タントワヌ(革命運動がもっとも盛んであった地区)の郊外の、せまい街路の土を汚したのであった。それは、また、多くの手と、多くの顔と、多くのはだしの足と、多くの木靴をも汚した。鋸で薪を挽《ひ》いていた男は木片を赤いしみで汚し、赤ん坊に乳を飲ませていた女は古いぼろ布《きれ》をふたたび頭に巻きつけたとき、それについていたしみで額を汚された。欲ばって酒樽の板にがつがつしていた連中は血に飢えた虎のように口のまわりを赤く汚していた。そんな、汚し方をした一人の背の高いおどけた男は、長い垢《あか》じみた袋のような寝帽子をかぶっているというよりも、頭の方がはみ出ていたが、指を泥だらけの酒のおりの中につっこんで、壁に「血」と落書きした。
その赤い酒が街の石の上にこぼれて、そのしみがそこにいる多くの人々を赤く染める時が、やがて来ることになっていたのだ。
ちょっと射《さ》したかすかな光がサン・タントワヌの聖なる面《おもて》から追い払った雲が、いまは街の上におちついたので、闇は深く、寒さと、不潔と、病いと、無知と、欠乏がその聖なる御前にはべる貴族であった。――いずれも偉大な権力をもつ貴族だが、なかでも、いちばんあとのが、最も偉大な権力をもっていた。石臼のなかで幾度も苛酷な挽き方をされた人間の見本が、――それは老人を挽いて若くするというあのお伽話《とぎばなし》の臼ではなかったから――いたるところで震え、どの入口からも出入りし、どこの窓からも顔を出し、形をとどめぬまでにぼろになった上着を着て風に吹きつけられて震えていた。彼らを挽いた石臼は青年を挽いて老人にする石臼であった。子供たちは老人の顔をし、低い声をしていた。そして子供の顔にも、おとなの顔にも、年齢のあらゆる皺のなかに鋤《す》き込まれて、そこからまた新しく芽生えてくるのは、「飢餓」という印であった。飢餓はいたるところにのさばっていた。飢餓は、棹《さお》や紐《ひも》にかかっているみじめな衣類を見ればわかるように、高い家々からおし出されていた。飢餓は藁《わら》とぼろ布《きれ》と木と紙でつぎはぎされて、その家々に入りこんでいた。飢餓は男が鋸で切ったわずかな薪のどの切れっぱしの中でも繰り返し叫ばれていた。飢餓は煙のでない煙突からじっと下を見おろしていたし、ごみの中に食物のくずさえない不潔な街からとび立った。飢餓はパン屋の棚にすこしばかりある小さな悪いパンの塊にひとつひとつ書いてある文字であり、ソーセージを売る店では、店に出ている死んだ犬肉で作った食品のひとつひとつに書いてある文字であった。飢餓は回転する円筒の中の焼栗の間でその乾いた骨をガラガラ音させた。飢餓は、また、ごく小さくちぎられて、惜しみ惜しみわずかな油を使って揚げたひからびた薄切り馬鈴薯の一文粥《いちもんがゆ》の皿のなかにはいり込んでいた。
飢餓のすみかはあらゆる点でそれに適していた。狭い曲りくねった街、そこは犯罪と悪臭に充ちていて、そこからさらに狭い曲りくねった街がいくつも分かれ、どこの街にもぼろと寝帽子の人々が住み、どこの街もぼろと寝帽子の臭いがして、目に入るものはすべて、険悪な様子でなにか考えこんでいるのだ。追いつめられた人々の様子にも、やはり進退きわまってもまだ反抗できるという野獣のような思いがうかがわれた。意気銷沈して、こそこそと逃げるようにしていたけれども、彼らの間には火のような眼が失せてはいなかった。また、彼らが胸におさえつけている気持のために血の気を失ったかたく結んだ唇や、彼らが、自分がかけられるだろうか、または他人にかけるだろうかと考えている絞首台の繩のような形にまゆをひそめた額も失せてはいなかった。商店の看板も(それはほとんど商店と同じ数ほどあった)みな、不気味な「窮乏」の絵ばかりであった。牛肉屋も豚肉屋も、もっとも貧弱な肉の絵ばかり看板に描いたし、パン屋はもっとも粗末な小さいパンの塊を看板にした。また酒店で飲んでいる人々を描いた粗雑な絵では、人々は薄いワインやビールの計りがわるいとこぼしながら、苦い顔をしてひそひそと親しげに話し合っていた。刃物と武器のほかには、なにひとつ景気よく描かれたものはなかった。だが、刃物師の刀や斧はするどく、ぴかぴか光り、鍛冶屋の槌《つち》は重く、銃器製造人の貯えはおそるべきものであった。方々に泥や水がたまっている舗道の、あの、人をびっこにしそうな石だたみには、歩道がなくて、いきなり家の入口になっていた。そのうめあわせに、排水溝が道路のまん中を流れていた――かりに流れるとしたら。しかし、それは大雨が降ったあとだけで、しかもそのときは、溝は奇妙な発作を起こして、家々の中に流れこんだ。街々をよぎって、遠く間をおいて、不恰好《ぶかっこう》な街燈がひとつずつ、繩と滑車で吊されていて、夜、点燈夫がそれを下して、点火し、もう一度上に吊し上げると、弱い光をはなっているたくさんの燈心が、まるで海上にあるように、頭の上で病的な揺れ方をした。まったく、彼らは海上にあったのだ。そして船と乗組員は暴風雨の危険にさらされていたのだ。
というのは、その地区の痩せた案山子《かかし》たちが、なすこともなく飢えながら、長い間点燈夫を見つめているうちに、そのやり方を改善して、その繩と滑車で人間を吊し上げて、彼らの真っ暗な生活をパッと明るくしようと考える時が、やがて来ることになっていたからだ。しかし、その時はまだきていなかった。そして、フランスを吹きまくる風はいたずらに案山子たちの着ているぼろ布《きれ》をゆすぶるのみであった。なぜなら、美しい声と羽をもつ小鳥たちはなにも警戒せずに自由に歌い、羽搏《はばた》いていたからである。
その酒店は街角にある店で、たいていの店よりも外観がよく、店の格も上であった。黄色のチョッキと緑の半ズボンをつけた店の主人は先刻から店の外に立って、こぼれたワインを飲もうと人々がもみ合うのを眺めていた。「おれの知ったことじゃねえ」彼は最後に肩をすくめながら言った。「市場の連中がやったんだ。奴らにもう一樽持って来させりゃいいんだ」
そのとき、彼の眼は背の高い道化男が落書きをしているのを偶然とらえたので、彼は道のこちら側から声をかけた。
「おい、ガスパール。そこで何をしてるんだい」
男は、この連中がよくやるように、意味深長に落書きを指さした。だが、これもこの連中によくあることだが、相手に勘所をうまく伝えることができなくて、完全な失敗だった。
「それがどうだというんだい。お前は気違い病院行きかい」酒店の主人は道をよぎってきて、わざわざ手にいっぱいすくい上げた泥で落書きを消そうと、それの上に塗りたくった。「こんな公の道路で、なぜ書くんだ。そんな文句を書く場所がほかにないと言うのかい」
こう忠告しながら、主人はきれいな方の手を(おそらく偶然に、あるいは偶然でなかったかもしれないが)道化者の心臓の上に差し出した。道化者はその手を自分の手でたたき、すばやく一跳び跳び上ったかと思うと、奇妙な踊りの恰好でとび下りて、汚れた靴を片方、ポンとぬいで手で受けとり、それを差しだした。そうした様子からみると、その男は、貪欲なまでに、とは言えないが、極端にわるふざけをするおどけものらしく思われた。
「靴を履《は》け、靴を履け」と主人が言った。「酒なら酒と言え。それでやめとくんだ」そう忠告すると、彼は汚れた手を道化者の服でゆっくり拭いた。手を汚したのはこの男のせいだから。それからまた道をよぎって酒店に入った。
この酒店の主人は三十ばかりの、猪首《いくび》の、勇ましそうな男であった。彼ははげしい気性の持主にちがいなかった。ひどい寒さなのに、上着も着ないで、肩に投げかけて持って歩いていたからだ。シャツの袖もまくり上げて、茶色の腕はひじまでむきだしになっていた。彼は、また、頭にもなにもかぶらず、縮れた短い黒い髪の毛がむきだしになっていた。彼はまったく色の黒い男で、いい眼をしていて、眼と眼の間には感じのいい大胆なゆとりがあらわれていた。全体として陽気な感じだが、執念深くも見えた。彼はあきらかに強い決意と不動の目的を持った男であり、両側が深い海になっている狭い道を駆け下りてくるのに出会いたくない男であった。というのは、なにものも彼の行く方向を変えさせはしないだろうから。
細君のマダム・ドファルジュは、彼が店に入ってきたとき勘定台のうしろに坐っていた。マダム・ドファルジュは彼と大体同じ年輩の肥った女で、何かを見ているようには見えないのに、そのくせ油断のない眼をして、大きな手にはいくつも指輪をはめ、おちついた顔と、はっきりした目鼻立ちと、たいへんおちつきはらった態度をしていた。このマダム・ドファルジュには、彼女の管轄である勘定のことでは、自分の意志に反して間違いをおこすことはめったにないだろうと予言してもいいような、ある特別な気性がうかがわれた。マダム・ドファルジュは寒さに敏感なので、毛皮にくるまり、大きな耳環がかくれるほどではないが、はでな長い襟巻を首に巻きつけていた。彼女の前には編物があった。だが、それは、彼女がつま楊子で歯をほじるためにおいたのであった。こうして、左手で右の肘《ひじ》をささえながら、歯をほじっていて、ご亭主が入ってきても、おかみさんは何も言わずに、ただ咳をひとつしただけだった。これは、彼女が、つま楊子の上の方でほんのわずか濃いはっきりした眉を上げたことと結びついて、彼女の夫が道の向う側へ行っていた間に新しい客が入ってきたから、店の中を見まわした方がいいという合図であった。
そこで酒店の主人は見まわしているうちに、隅に坐っている年輩の紳士と若い婦人に眼をとめた。そのほかには、トランプをやっている客が二人と、ドミノをやっている客が二人と、勘定台の傍に立って、すこしばかりのワインをちびちび飲んでいる客が三人いた。彼が勘定台のうしろを通り過ぎたとき、その年輩の紳士が若い婦人に「これが私たちが訪ねてきた男ですよ」と目くばせするのに気がついた。
「いったい、お前さんたちこそ、そこで何をしているんだね」ドファルジュは心の中で言った。「わしはお前さんたちを知らないがね」
だが、彼はこの二人のよそ者に気づかぬふりをして、勘定台で飲んでいた三人連れの客と話をはじめた。
「元気でやってるかね、ジャーク」三人の中の一人がドファルジュに言った。「こぼれた酒はすっかり飲んだかね」
「一滴も残さずにな、ジャーク」ドファルジュが答えた。
ジャークという名がこうしてやりとりされているとき、マダム・ドファルジュは楊子で歯をほじくりながら、また咳をして、ほんのわずか眉を上げた。
「ここらのみじめな奴らには、ワインだの、黒パンと死よりほかのものを味わうなんてことは、めったにないからな。そうだろう、ジャーク」三人連れの二番目の男がドファルジュにむかって言った。
「そのとおりだ、ジャーク」とドファルジュが答えた。
こうしてジャークという名がもう一度やりとりされたとき、マダム・ドファルジュは、依然として落ち着きはらって楊子をつかいながら、もうひとつ咳をして眉をほんのすこし上げた。
今度は三人の中の最後の一人が、からのコップを下において舌うちをしながら言った。
「ああ、なおさら悪いよ。哀れな奴らがしょっちゅう味わってるのは苦い味ばかりだからな。奴らの暮らしは苦しいんだよ、ジャーク。おれの言ったとおりかね、ジャーク」
「お前の言ったとおりだよ、ジャーク」とドファルジュが答えた。
マダム・ドファルジュが楊子を下において、眉を上げたまま、ちょっと身動きした瞬間に、ジャークという名の三度目のやりとりが終った。
「それでよし、なるほど」彼女の夫がつぶやいた。「諸君――家内です」
三人の客はマダム・ドファルジュの方を向いて帽子をとり、三度振って挨拶した。彼女は頭を下げ、じっと彼らを見て、その敬意を謝した。それから、偶然のように店内をぐるっと見まわしてから、非常におちついた様子で編物をとりあげて、熱心に編みはじめた。
「諸君」澄んだ眼で彼女を注意深く見まもっていた亭主が言った。「じゃ、これで。君たちが見たいと言って、わたしが出かけていたときに尋ねていた独身者向きの部屋は五階にある。その階段の入口は」と手で示しながら「店の窓に近い、ここの左手のすぐ近くの小さな中庭にあるんだ。しかし、いま思い出したが、君たちの中の一人はあの部屋へ行ったことがあるから、案内してくれ。諸君、さよなら」
彼らは酒の代金を払って出て行った。ドファルジュが編物をしている妻をじっと見ていると、年輩の紳士が隅の席からでてきて、ちょっとお話がしたい、と言った。
「よろこんで承わりましょう」ドファルジュはそう言って、彼といっしょに静かに扉の方へ歩いて行った。
彼らの話し合いは非常に短かかったが、しかし、非常にはっきりしていた。ほとんど最初の一言で、ドファルジュは驚いてひどく注意深くなった。しかし、それは一分間もつづかないで、彼はうなずいて、出て行った。すると、その紳士も若い婦人をさし招き、彼らも、また、出て行った。マダム・ドファルジュはすばやい指で、眉ひとつ動かさずに編物をしていて、なにも見なかった。
ジャーヴィス・ローリー氏とマネット嬢はこうして酒店を出て、ドファルジュがたった今ほかの連中におしえた出入口のところで彼においついた。それは悪臭のただよう小さな黒い中庭に面していて、おおぜいの人々が住んでいるおびただしい数の家へ入る共通の入口であった。薄暗いタイル張りの階段のある薄暗いタイル張りの入口で、ドファルジュは昔の主人の娘の前にひざまずいて、その手に接吻した。それはやさしい行為であったが、そのやり方はすこしもやさしくはなかった。数秒の間に、いちじるしい変化が彼におこっていたのである。彼の顔にはあの機嫌の好さはなく開放的な様子もなくなって、彼はひそやかな、怒りっぽい、危険な男になっていた。
「非常に高い階段です。すこし骨がおれます。はじめはゆっくりお上りになられた方がよろしゅうございます」二人が階段を上りはじめたとき、ドファルジュはきびしい声でローリー氏に言った。
「あの方はひとりでおられるのですか」ローリー氏が小声で訊《き》いた。
「ひとりですって! お気の毒な。誰があの方と一緒にいるものですか」ともう一人も同じ低い声で言った。
「じゃあ、いつもひとりでおられるのですか」
「そうです」
「あの方のご希望で」
「あの方の余儀ないわけがあってです。奴らがわしを見つけだして、わしがあの方を引き取るかどうか、用心しないと危険だがそれでもいいかどうかただした後、わしははじめてあの方にお目にかかったのですが――そのときあの方は、余儀ないわけがあってひとりでおられたように、今もそうなのですよ」
「ひどく変わっておられますか」
「変わっておられますかって!」
酒店の主人は立ち止まって片手で壁を打ち、恐ろしい呪いの言葉をつぶやいた。どんな返事をじかにしたところで、この半分の力もなかったであろう。ローリー氏は二人の連れと階段を上って行くにしたがって、ますます心が重くなって行った。
パリの、昔からのこみ合った地域にあるそんな階段やその付属物は、今でも相当感じが悪いが、その当時は、不慣れな、鍛練されていない神経には実にいやなものであった。大きな不潔な巣のような高い建物の中の小さな住居――すなわち、共通の階段に面している扉の中の部屋は、いずれも、ごみをその窓から投げ捨てるばかりでなく、ごみの山を部屋の前の踊り場にすてておいた。そうしてできたどうにもならない絶望的な大量の腐敗物は、たとい貧困と窮乏がその上に無形の不潔物をつみ重ねなくても、空気を汚染しただろう。ところが、この二つの悪い源がいっしょになって、その辺の空気はほとんど堪えられないまでに汚れていた。そのような雰囲気の中に、汚物と病毒の暗い急勾配の軸に沿って、彼らの道が通じていた。ジャーヴィス・ローリー氏は己れの心の乱れと刻々に高まって行く年若き連れの興奮にたえられず、二度も休むために立ち止まった。彼が立ち止まったのは、二度とも、陰気な格子窓のそばであった。その窓からは、だんだん弱ってはゆくけれどもまだ汚れていないよい空気が逃げだして、すっかり汚れた悪い空気がしのび込んで来るように思われた。錆《さ》びついた鉄棒の隙間からごたついた近所の様子が、眼に見えるというよりも舌で味わわれた。そして、眼のとどく範囲には、健康な生活や健全な向上心を望みうるものは、なにひとつなかった。
ついに彼らは階段を上りきって、三度立ち止まった。しかし、まだその上に、もっと急な、幅の狭い階段があって、その上に屋根裏部屋があるのであった。酒店の主人はいつもすこし先に立ち、若い婦人になにか訊かれるのを恐れているようにいつもローリー氏の歩く側を歩いていたが、ここまで来るとふり返って、肩にかけた上着のポケットを注意深くさぐり、鍵をひとつとり出した。
「では、扉には鍵がかけてあるのですか、君」ローリー氏はおどろいて言った。
「ええ、そうです」ドファルジュは冷たく答えた。
「君はあのお気の毒な方をそんなにまでかくしておかなければならないと思っているのですか」
「わしは鍵をかけておかなければならないと思っていますよ」ドファルジュは彼の耳にもっと口をよせてささやき、ひどく顔をしかめた。
「なぜだね」
「なぜですって。それは、あの方はあんなに長い間鍵をかけて閉じこめられていられたのですから、もし扉が開いていたら、驚いて――わめくか――わが身をずたずたに引き裂いてしまうか――死んでしまうか――どんなことになるか、わしにはわかりません」
「そんなことが、あり得るのですか」とローリー氏が叫んだ。
「あり得るかって」ドファルジュはにがにがしく繰り返した。「あり得ますとも。そういうことが実際にあり得るのですから、われわれは結構な世の中に暮らしていますよ。そればかりじゃありません。ほかにもそれに似たことがたくさんおこるかもしれないのです。おこるかもしれないだけではない。すでにおこっています――おこっているのです――あの空の下で、毎日。悪魔よ、万歳だ。さあ、いきましょう」
この会話はごく低い声でささやくようにやりとりされたので、令嬢の耳には一言も入らなかった。だが、このときまでに彼女は興奮に身を震わせ、顔には、深い懸念の色だけでなく、強い恐怖があらわれていたので、ローリー氏は一言か二言しゃべって、彼女を安心させなければならないと思った。
「勇気ですよ、お嬢さん。勇気を! 事務ですよ。一番悪いことは一瞬間に過ぎてしまいますよ。部屋の入口を入ってしまいさえすれば、一番悪いことはすんでしまうのです。それから、あなたがあの方のところに持って来られたすべての良いこと、あなたがあの方のところに持って来られたすべての救い、すべての幸福がはじまるのですよ。ここにいるわれわれの親切な友人に、そちら側から、あなたに手を貸していただきましょう。それで結構です、ドファルジュ君。さあ、いらっしゃい。事務です、事務です」
彼らはゆっくりと静かに上って行った。階段は短くて、彼らはまもなく上に着いた。階段は急に曲っていたので、そこまで来ると、突然三人の男の姿が目に入った。彼らは扉のそばによりそって頭を下げ、壁にできた隙間か穴からその部屋を熱心にのぞき込んでいた。
三人の男はすぐ近くに足音を聞くと、ふり返って立ち上った。すると、それは先刻店で酒を飲んでいた同じ名の三人だということがわかった。
「あなたがおいでになって、びっくりしたので、あの連中のことは忘れておりました」とドファルジュは説明した。「みんな、あっちへ行っていてくれ。われわれはここに用があるんだ」
三人はすべるように扉からはなれて、音もたてずに階段を下りて行った。
屋根裏にはそのほかに扉はなく、店の主人は、彼らだけになると、まっすぐにこの扉に近づいたので、ローリー氏はすこし腹を立てて、低声で彼に訊ねた。
「君はマネットさんを見世物にしているんですか」
「わしは、いまご覧になったように、選ばれた少数の人たちに見せることにしています」
「そんなことをしてもいいのですかね」
「|わし《ヽヽ》はいいと思っています」
「その少数の人たちというのは、どんな人たちですか。君はどうやって選ぶのですか」
「わしはわしと同じ名前の本当の人間を選ぶのですよ――ジャークというのがわしの名前です。そういう連中には、あれがためになりそうなんですよ。もう結構です。あなたはイギリス人ですから、それには無関係です。どうぞ、ちょっとそこでお待ちください」
二人に後ろで待っているように手まねで警告しながら、彼は屈んで壁の隙間から中をのぞいた。それから、すぐ、また頭を上げて、二、三度扉を叩いた――それは明らかに、そこで音をたてようという目的にほかならなかった。また、同じ意図から、扉の上を左右に三、四度鍵を引きずってから、不器用に錠前に鍵をさしこみ、できるだけ重々しく鍵をまわした。
扉は彼の手の下でゆっくりと内側に開き、彼は部屋の中をのぞいて、なにか言った。かすかな声がなにか答えた。両方とも、一言以上はしゃべらなかったろう。
彼は肩越しにふりかえって、二人にはいって来るようにとうなずいた。ローリー氏は片方の腕をしっかりと娘の腰にまわして娘をささえた。なぜなら娘がたおれかかったのを感じたからである。
「事、事務ですよ、事務ですよ」彼はどこまでもそれで押し通そうとしたが、その頬には事務とは関係のない水滴が光っていた。「お入り下さい、お入り下さい」
「あれがこわいのです」彼女は身ぶるいをしながら答えた。
「あれ? なにがですか」
「あの人がですわ。父のことでございます」
娘がこんな有様なのに、案内人にさしまねかれて、彼はいくぶんやぶれかぶれになり、肩の上でふるえている彼女の腕を自分の頸のうしろにまわして彼女をすこしもち上げ、急いで彼女を部屋の中につれ込んだ。扉を入るとすぐ、彼は娘を下におろして、すがりつく娘をささえた。
ドファルジュは鍵をとり出し、扉を閉めると、なかから錠をおろし、ふたたび鍵をぬきとって、手に持った。彼はこのすべてを、順序だて、できるだけ大きな耳ざわりな音をたてて行なった。最後に彼は正確に計った歩き方で部屋を横切って窓のあるところまで歩いて行った。そしてそこで立ち止まって、くるりと向きなおった。
薪類の置き場のつもりで建てたこの屋根裏の部屋はくすんでいて暗かった。というのは、屋根窓の形をした窓は、実は、屋根に作った扉であって、通りから物資を引き上げるために、その上に小さな起重機がとりつけてあった。扉はガラスがはめてなく、フランス風の構造ならどんな扉でもそうだが、二枚がまん中で閉まるようになっていた。寒気が入らぬように、この扉の半分はぴったり閉じてあり、もう一方だけほんのすこし開いていた。ここから、ほんのわずかの光が射し込むだけであったから、はじめてここに入ってきて、なにかを見るのはむずかしかった。ただ長い習慣だけが、人間の中に、こんな薄暗いなかでこまかい仕事をする能力を徐々につちかうことができたであろう。そのとき、そういう種類の仕事がこの屋根裏でなされていたのであった。というのは、扉の方に背を向け、酒店の主人が彼を見ながら立っている窓の方に顔をむけて、白髪の男が低い腰掛けに坐って、前に屈み、非常に忙しく靴を作っていたからである。
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第六章 靴づくり
「今日は」とドファルジュは白髪の頭を低くかがめて靴を作っている人物を見下しながら言った。
頭はちょっと上を向いて、非常に弱々しい声がその挨拶に答えた。まるで遠くの方から聞えてくる声のようであった。
「今日は」
「いつも精がでますね」
長い沈黙の後に、その頭がまたちょっともち上げられて、先刻の声が答えた。「はい――わたしは仕事をしています」今度は、顔がふたたび下を向く前に、ひどくおちくぼんだ眼が問いかけた人を見た。
その声の弱々しさは哀れで恐ろしかった。それは、もちろん、監禁と粗食のせいもあったが、肉体的に衰弱した弱々しさではなかった。その哀れな特殊性は、それが孤独と使わないための弱々しさであることだった。それはずっとずっと前に発せられた音の最後のかすかなこだまに似ていた。その声には人間の声の生命と響きが全然なかったので、みじめな色に褪《あ》せたかつての美しい色のように神経に作用した。またそれはひどく沈んだ、押しつけられた声だったので、地下の声のようでもあった。またそれは希望を失った救われない人間の気持をよく表わしていた。
数分の間、沈黙のうちに仕事がつづけられた。そしてふたたび落ちくぼんだ眼が上を見上げた。それは興味や好奇心からではなく、先刻見た、たった一人の訪問者が立っていた場所が、まだふさがっていると、前もってぼんやりと機械的に感じとったからであった。
「もうすこし明かりを入れたいのです。もうすこし明るくしても、がまんできますか」ドファルジュは靴づくりから眼をはなさずに言った。
靴づくりは仕事を止めて、ぼんやり聞いているような様子で、自分の坐っている片側の床を眺め、それから同じようにもう一方の側の床を眺めてから、しゃべっている人を見上げた。
「なんと言われたのですか」
「もうすこし明るくしても、がまんできますか」
「あなたがそうなさるなら、わたしはがまんしなければなりません」(彼は「なりません」という語をほんのわずか強めて言った)。
開いていた方の扉がもうすこし広く開かれて、一定の角度で安定した。幅広い光が屋根裏に射し込んで、膝の上に出来かけの靴をのせたまま手を休めている職人の姿があらわれた。ありふれた道具がすこしと、いろいろの皮の切れ端が彼の足もとや腰掛の上にあった。彼の顎髯《あごひげ》は白く、あまりのびてはいなかったが、ふぞろいに刈られ、顔は痩せこけて、非常に光る眼をしていた。その眼はもともと大きな眼だったから、顔が痩せこけて、落ちくぼんでいるために、不自然なまでに大きく見えた。黄色いぼろぼろのシャツは喉のところであいていて、衰えしなびた身体をあらわにした。人も、古い粗《あら》木綿の仕事着も、ゆるい長靴下も、身につけている一切のぼろは、長いあいだ光と空気にじかに触れないために色が褪せて、一様ににぶい羊皮紙色に黄ばんでいるので、どれがどれなのかわからないくらいであった。
彼は眼と光の間に片手をかざしていた。すると、一本一本の骨がすき透って見えるようだった。彼は仕事を中途でやめて、うつろな眼でじっと見つめていた。彼は、自分の前にいる人を見るときには、いつでも、まず自分の左右の床を見てから前を見た。まるで、場所と音を結びつける習慣を失ってしまっているようだった。また、ものを言うときには、かならず、まず、そんなふうにして訝《いぶか》っているうちにしゃべるのを忘れてしまうのであった。
「その靴を今日中に仕上げるのですか」とドファルジュは、ローリー氏にこちらへ来るように身振りで合図しながら尋ねた。
「なんと言われたのですか」
「その靴を今日中に仕上げるつもりなんですか」
「そうするつもりかどうか、わかりません。そうだろうと思います。わたしにはわかりません」
だが、この問いは彼に仕事のことを思い出させたとみえて、彼はまた仕事の上に身を屈めた。
ローリー氏は娘を扉のそばに残して、黙って近づいた。彼がドファルジュの傍にきて、一、二分たったとき、靴づくりが顔を上げた。彼はもう一人の人を見ても別に驚いた様子はなかったが、それを見たとき、片方の手のふるえる指がふらつきながら唇までもちあげられた(彼の唇も爪も同じ蒼白な鉛色をしていた)。それから、その手は下に落ちて仕事にかえり、彼はふたたび仕事の上に身を屈めた。人を見たのと、手を動かしたのは、ほんの瞬間だけであった。
「お客さまですよ」とドファルジュが言った。
「なんと言われたのですか」
「これは、お客さまですよ」
靴づくりは前のように見上げた。が、手は仕事からはなさなかった。
「さあ」とドファルジュが言った。「ここにいる旦那は、靴を見れば、よくできているかどうかお分りになるんですよ。この方にあなたが作っている靴をお目にかけなさい。手にとってごらん下さい、旦那」
ローリー氏は靴を手にとった。
「旦那にその靴がどんな種類の靴か申し上げなさい。それから、作った人の名前も」
靴づくりはいつもより長い間だまっていたが、やっと答えた。
「なにをお尋ねになったのか、忘れてしまいました。なんと言われたのですか」
「旦那のご参考までに、その靴がどんな靴かお話できないかと言ったのですよ」
「これはご婦人の靴です。これは若いご婦人の散歩靴です。今流行の型です。私はその型を見たことはありません。私は自分である型をもっているのです」彼はささやかな、はかない誇りをもって靴をちらと眺めた。
「それで、作った人の名前は」とドファルジュが言った。
今は何も手に持つものがなかったので、彼は右手の指の節を左手のくぼみにあて、つぎに左手の指の節を右手のくぼみにあてて、それから片手で髯の生えた顎を横にこすり、その順序にしたがって、すこしも休まずにその動作を繰り返した。ものを言ったときにいつも陥る放心状態から彼をよび戻すのは、気絶した非常に身体の弱い人を蘇生させたり、死にかかっている人からなにか聞き出そうとして、その魂をひきとめようとつとめるのに似た骨の折れる仕事であった。
「あなたはわたしの名を訊かれたのですか」
「そのとおりです」
「北塔百五番」
「それだけですか」
「北塔百五番」
ため息でも呻《うめ》きでもない、疲れはてた響きを吐いて、ふたたび彼は仕事をするために身を屈めた。が、やがて、その沈黙はまた破られた。
「あなたは靴づくりが商売ではないのでしょう」ローリー氏はじっと彼を見つめながら言った。
彼の落ちくぼんだ眼はドファルジュの方に向いた。できることなら、その問いをそちらにまわしたいと思っているかのように。ところが、そちらからは何も助けが来なかったので、彼は床をあちこち見まわしてから、また問いかけた人に眼を向けた。
「わたしは靴づくりが商売ではない? はい、わたしは靴づくりが商売ではありませんでした。わたしは――わたしは、ここで習ったのです。自分でおぼえたのです。わたしはお願いをして――」
彼はいつのまにか放心状態に陥り、数分の間、たえず手を例のきまった順序で繰り返し動かしつづけていた。とうとうその眼は先刻まで見つめていた顔に徐々に戻ってきた。そして、その顔を見つめたとき、彼ははっと驚いて、また話をはじめた。それは、眠っていた人がその瞬間に目をさまして、また前夜の話をするのにどこか似ていた。
「わたしはお願いをして、自分で勉強しました。そして長いことかかって、非常に骨を折って、おぼえたのです。それからずっと靴をつくっています」
彼がとりあげられた靴をとろうとして手をさし出したとき、ローリー氏は、相変わらず彼の顔をじっと見つめながら、言った。
「マネットさん、私のことはなにも憶えていらっしゃいませんか」
靴は床に落ちた。そして彼は問いかけた人をじっと見ながら坐っていた。
「マネットさん」ローリー氏はドファルジュの腕に手をかけて言った。「あなたはこの男のことをなにもおぼえていらっしゃらないのですか。この男をごらんなさい。私をごらんなさい。マネットさん、あなたの頭の中には昔の銀行員が、昔の事務が、昔の召使が、昔のことが浮かんでこないのですか」
長い年月のあいだ監禁されていた人が、ローリー氏とドファルジュをかわるがわる見つめていたとき、長い間かき消されていた額のまん中の活動的な英知のしるしが、彼をおおっていた黒い霧をおしわけてしだいにあらわれてきた。それはふたたびおおいかくされ、しだいにかすかになり、消えてしまった。だが、たしかに、そこにあらわれていたのだ。しかも、そのとき、娘の若い美しい顔にあらわれた表情がまったく同じだったので――彼女は壁に沿うて彼の姿が見える所まできていて、そこに立って彼を見ていたのだが、最初は、たとい彼を遠ざけて、彼の姿をさえぎるためではないとしても、驚いて憐れみに耐えられず顔を蔽《おお》った手を、今は、彼にむかっていっぱいに拡げながら、幽霊のような顔をあたたかい若い胸に抱いて愛の力でふたたび生と希望につれかえそうと身をふるわせていた――その若い美しい顔にあらわれた表情がまったく同じだったので、まるでそれが、動く光のように、父親から娘に移ったのではないかと思われた。
やがて闇が彼をおおった。二人を見る眼はだんだん散漫になり、彼は暗い放心状態に陥って、先刻のように床を見まわし、自分の身のまわりを見た。そして最後に、深い長いため息を吐いて、靴をとりあげ、また仕事をはじめた。
「あの方だということが、お分りになりましたか、旦那」とドファルジュがささやいた。
「ええ、一瞬間ですがね。最初はまったく絶望だと思いましたが、ほんの瞬間、まさしく昔よく知っていた顔を見ました。静かに。もっと後ろにさがりましょう。静かに」
娘は壁際からはなれて、彼が坐っている腰掛のすぐ近くに来ていた。手をのばせば、屈んで仕事をしている彼に触ることができたろうが、彼がその姿に気がつかないのは、なんとなく不気味であった。
声もなく、音もたてず、彼女は妖精のように彼の傍に立っていた。そして彼は仕事の上に身を屈めていた。
ついに彼は使っていた道具を靴を作る小刀ととりかえることになった。小刀は娘が立っている方の側と反対の側にあった。彼はそれを手にとって、また仕事をしようと屈んだとき、娘の服のスカートが彼の眼に入った。彼は眼を上げて、彼女の顔を見た。見ていた二人はおどろいて前にすすみ出た。が、娘は手で二人をとめた。彼女には、二人のように、彼が小刀をもって自分に打ちかかるだろうなどという心配はなかった。
彼は不安な眼で娘を見つめていたが、しばらくすると、彼の唇がなにか言いたそうに動きはじめた、だがどんな音も出て来なかった。そのうちに、しだいに、早い苦しげな息の合い間に、彼の言うのが聞えた。
「これは、どうしたことだろう」
娘は頬に涙を流しながら両手を唇にあてて彼に接吻を送り、彼の破滅した頭を胸に抱くように、両手をかたく胸に組み合わせた。
「あなたは看守の娘さんではないのですか」
娘はため息をついて「いいえ」と答えた。
「あなたは誰ですか」
しかし娘は、自分がどんな声を出すか自信がもてなかったので、腰掛に彼と並んで坐った。彼は逃げるようにからだをずらそうとしたが、娘は彼の腕に手をかけた。彼女がそうしたとき、奇妙な身震いが彼におこって、それがからだ全体に伝わるのがわかった。そして彼は娘を凝視しながら小刀を下においた。
長い巻毛になった金色の髪はいそいで横におしやられて、彼女の頸の後ろに垂れていた。すると彼は、すこしずつ手をのばし、それをとりあげてながめた。そうしている最中に、彼はまた放心して、また深いため息をもらして靴をつくりはじめた。
しかし、今度は長くはなかった。娘は彼の腕から手をはなして、彼の肩においた。彼はその手が本当にそこにあるかどうか確かめるように、二、三度うたがわしそうにその手を見た後、仕事を下において、手を頸にやり、たたんだぼろ布《きれ》が結わえつけてある黒い紐をはずした。彼は膝の上で注意深くそれを開いた。その中にはごくわずかな髪の毛が入っていた。それは一筋か二筋の長い金色の髪で、いつかむかし、彼が指に巻きつけてぬいたのであろう。
彼はふたたび彼女の髪を手にとって、しげしげとそれを眺めた。「同じだ。どうしてそんなことがあるだろう。あれは、いつだったろうか。どうだったのだろうか」
彼の額に、ふたたびあの注意を集中するような表情が浮かんだとき、彼は、娘の額にもそれと同じ表情があらわれているのに気がついたらしかった。彼は娘を光の方に向けて、眺めた。
「わたしが召喚されたあの夜、彼女《あれ》はわたしの肩に頭をのせたっけ――わたしは平気だったが、彼女《あれ》はわたしが行くのを心配していた――それからわたしが北塔につれて来られたとき、あの連中はこの髪の毛がわたしの袖についているのを見つけたのだ。『これはわたしにおいて行ってください。わたしのからだが逃げる助けにはならないが、心がのがれる助けになるかもしれないからね』わたしはそう言ったっけ。それはよくおぼえている」
これだけのことを言うのに、彼は幾度となく唇を動かしてその言葉の形にしてみた。だが、話しだしてみると、言葉は、手間はかかったけれども、筋を通して思い出された。
「これはどうしたことだろう。|あれはあなただ《ヽヽヽヽヽヽヽ》|ったのですか《ヽヽヽヽヽヽ》」
彼がおそろしく急に彼女の方に向きなおったので、見ていた二人はまた驚いた。けれども、彼女は、彼に手をつかまれてもまったく落ち着いていて、ただ低い声でこう言っただけだった。「お願いでございます。どうか、私たちの近くにおいでにならないでください。なにもおっしゃらないでください。お動きにならないでください」
「お聴き!」と彼が叫んだ。「あれは誰の声だったろう」
彼がこう叫んだとき、彼の手は彼女を放なして頭をかかえ、気違いのように白髪をかきむしった。やがて狂乱の状態は消え去った。靴をつくること以外は、すべてが彼から消え去ったように。そして、彼はぼろ布《きれ》を小さくたたんで、ふところにしまおうとした。が、また彼女を見て、陰気に頭を振った。
「ちがう、ちがう、あなたは若すぎる、美しすぎる。そんなはずはない。囚人というものがどんなものか、ごらんなさい。この手は彼女《あれ》が知っていた手ではない、この顔は彼女《あれ》が知っていた顔ではない。この声は彼女《あれ》が聞いたことのある声ではない。ちがう、ちがう。彼女《あれ》がいたのは――それから彼がいたのは――北塔で過ごしたのろい年月の前のことだ――ずっと昔のことだ。あなたのお名前は何というのですか、やさしいお嬢さん」
娘は、彼の語調も態度もおだやかになったので非常によろこび、彼の胸に手をあてて、哀願するようにひざまずいた。
「ああ、私の名も、私の母が誰かということも、私の父が誰かということも、なぜ私が両親のつらいつらい身の上を知らなかったかということも、またいつかお話しいたしましょう。でも、今はお話しできません。ここではお話しできないのでございます。今、ここでは、ただ、どうか、私にさわって、祝福をして下さいませ、と申し上げるばかりでございます。私に接吻して下さいませ、私に接吻して下さいませ。おお、私の大事な方!」
彼の冷い白い髪は娘の輝く髪と入り混った。そして、金色の髪は、まるで彼の上に輝く自由の光のように、白髪の頭をあたため、それに光をあたえた。
「もしも私の声をお聞きになって――本当に似ているかどうか、私には分りませんが、どうか、似ていますように――もし私の声をお聞きになって、かつてあなたのお耳に楽しい音楽であった声にどこか似ているとお思いでしたら、どうか、泣いて下さいませ、泣いて下さいませ。もしも私の髪におさわりになって、あなたが若く自由でいらしたときにあなたの胸にうずめた愛する頭を思い出して下さるなら、どうか、泣いて下さいませ、泣いて下さいませ。もしも私が、私たちの前にある家庭のことを、私が義務をつくしまごころをささげてお仕えしようとしている私たちの家庭のことをそれとなく申し上げたとき、牢獄であなたのお心がむしばまれて行った間、見すてられていた家庭に似たものを思い浮かべて下さるならば、泣いて下さいませ、泣いて下さいませ」
娘は彼の頸をもっと強く抱き、子供のように胸にあてて揺り動かした。
「大切な大切なお方、もしも私が、あなたのお苦しみはもう過去のものでございます、私はあなたをお苦しみからお救いするためにここにまいったのでございます、私たちは、これから、イギリスへ行って平和に、静かに暮らしましょう、と申し上げたときに、あなたの貴重な生活が、むなしく費されたことや、あなたの故国であるフランスがそれほどまでにあなたに辛くあたったことを思いださせるのでしたら、泣いて下さいませ、泣いて下さいませ。それから、もしも私があなたに私の名と、まだ生きておいでになる父のことや、亡くなられた母のことをお話ししたとき、お気の毒なお母様が私のためを思われて私にお父様のお苦しみを隠しておいでになったために、私はお父様のために終日努力することもなく、夜どおし泣き明かすこともなかったと、立派なお父様の前にひざまずいてお許しを乞わなければならないのを分っていただけますなら、泣いて下さいませ、泣いて下さいませ。お母様のために、私のために、泣いて下さいませ。ご親切なみなさま、神様にお礼を申し上げて下さい。この方のきよい涙が私の顔に流れるのが、この方のむせび泣きが私の胸にあたるのが、わかります。おお、私たちのために、神様にお礼を申し上げて下さい」
彼は娘の腕の中に身を沈め、顔を娘の胸に埋めていた。それは実に人の心を打つ光景であったが、その前に行われたおそるべき悪事と苦しみを思えば、実に恐るべき光景であったから、二人の傍観者は顔をおおったのであった。
長いあいだ屋根裏の静寂はかき乱されなかった。そして彼の波立つ胸もふるえる身体も、やがて、あらゆる暴風雨のあとに来る平穏な状態――人生という名の暴風雨が、かならず最後にはおちつく安らぎと静寂の象徴――におちついてから大分たったころ、二人は父と娘を床からおこすために前にすすみ出た。彼は次第に床にくずおれて、疲れきって、気を失い、そこに横たわっていた。娘は父親の頭が自分の腕にのるように、そこにいっしょにうずくまっていた、そして彼の上に垂れた娘の髪は彼から光をさえぎっていた。
「もし、父をそっとしたままで」娘は、ローリー氏が幾度も鼻をかんでから二人の上に身を屈めたとき、彼の方に手を上げて言った。「その扉から連れ出して、私たちがパリを発《た》てるように計らっていただけましたら――」
「しかし、お考えになって下さい。この方には旅行はむりではないでしょうか」とローリー氏が尋ねた。
「父にとってこんなに恐ろしいこの市《まち》に留まっているよりも、その方がましだと存じます」
「本当です」様子をみるために膝をつこうとしていたドファルジュが言った。「ましどころではございません。マネットさんは、あらゆる理由から、フランスから出られるのが一番いいのです。じゃあ、馬車と早馬を頼みましょうか」
「それは事務ですよ」ローリー氏は即座にいつものきちょうめんな態度になって言った。「事務のことでしたら、わたしが引き受けた方がいいと思います」
「それでは、どうか」とマネット嬢がうながした。「私たちをこのままにしておいて下さいまし。ごらんになりますように、父はこんなに落ち着いてまいりました。もう父を私といっしょにしておいてくだすっても、ご心配くださることはございません。私たちが邪魔されないようにと鍵をかけて下さっても、今度戻っていらしたときに、父は、きっと、おいて行かれたときと同じに落ち着いておりますことでしょう。いずれにいたしましても、あなた方がお戻りになるまでは私が父をみております。それから、ごいっしょにすぐに父を連れだしましょう」
ローリー氏もドファルジュもこの方針にはあまり気乗りがせず、どちらか一人が残る方に賛成だった。だが、手配をしなければならないのは、馬車と馬だけではなく、旅行免状のこともあった。日が暮れかかって、時間が切迫していたので、とうとう二人は、急いで必要な事務を分けて、それを片づけるためにあわてて出て行った。
暗闇がせまってくると、娘は父親の脇のかたい床に頭を横たえて彼を見守った。暗闇はますます深くなって行ったが、二人は静かに横たわっていた。そして、ついに、壁の隙間から燈火がちらつくのが見えた。
ローリー氏とドファルジュは旅行の用意をすっかりととのえて、旅行用の外套や上っぱりのほかに肉をはさんだパンと酒と熱いコーヒーまで持ってきていた。ドファルジュはこの食糧と持ち歩いていたランプを靴づくりの腰掛の上においた(屋根裏部屋には、そのほかには藁蒲団《わらぶとん》があるだけだったから)。そして彼とローリー氏はとらわれている男を起こして、立ち上らせた。
おびえ、驚いてぽかんとしている彼の顔からは、いかなる人知も彼の心中の秘密をよみとることはできなかったであろう。どういうことが起こったのか彼が知っていたかどうか、彼らが彼に言ったことを彼は思い出したのかどうか、自分が自由になったことを知っているのかどうか、それはいかなる英知も解くことのできない謎であった。彼らは彼に話しかけようとした。けれども、彼はひどく混乱していて、返事をするのがあまり遅かったので、彼らはその困惑ぶりに驚き、その場はそれ以上よけいなことは言わないことにきめた。彼はときどき両手で頭を抱えこみ、前には見られなかったようなもの狂おしい、思いにふけっている様子であったが、娘の声がちょっとでも聞こえると、なにかしら嬉しそうで、娘がものを言うと、かならずその方を向くのであった。
長い間、強制されて服従するのに慣れていたので、彼はおとなしく彼らがあたえたものを食べたり飲んだりして、彼らがあたえた外套や上っぱりを身につけた。そして娘が彼と腕を組もうとすると、喜んで応じ、娘の片方の手を両手でとった――そして、はなそうとしなかった。
一同は階段を下りはじめた。ドファルジュがランプを持って先頭にたち、ローリー氏がこの小さな行列のしんがりをつとめた。彼らがまだ長い本階段を幾段も下りないとき、彼は立ち止まって、天井から壁をじっとぐるりと見まわした。
「それを憶えていらっしゃいますか、お父様。ここを上っていらしたことを、憶えていらっしゃいますか」
「なんと言ったのですか」
だが、娘が繰り返して言う前に、彼は、娘がその問いを繰り返したように、呟《つぶや》いた。
「憶えているかって。いや、憶えていない。あれは、ずっと、ずっと、前のことだったからね」
牢獄からその家に連れて来られたことは憶えていない、ということが彼らにわかった。彼らは彼が「北塔百五番」と呟《つぶや》くのを聞いた。それで彼が自分のまわりを見まわしているのは、長いあいだ自分をとり囲んでいた堅固な城壁を探しているのだということがわかった。中庭まで来ると、彼は、はね橋を渡るつもりでいるように、足どりを変えた。だが、はね橋はなく、広々とした街路に馬車が待っているのを見て、彼は娘の手を放して、また頭をかかえた。
出入口の辺には人は群れていなかった。いくつもある窓にも人の姿は見えなかった。街には通りがかりの人さえ一人もいなかった。不自然な静寂と寂寥《せきりょう》が街をおおっていた。ただ一人の人間が、そこにいた、それはマダム・ドファルジュであった――彼女は戸口の柱によりかかって編物をしていて、何も見ていなかった。
囚人が馬車の中に入り、つづいて娘も乗り込んでローリー氏が階段を上りかけたとき、靴づくりの道具と作りかけの靴をくださいと嘆願するいたましい声を聞いて、ローリー氏は足を止めた。マダム・ドファルジュは、すぐに、わたしが持って来ましょうと夫に声をかけて、編物をしながら、中庭を通って、燈火のとどかない方へ歩いて行った。彼女はすぐにそれを持ってきて、馬車の中に手渡した――そして、それからすぐ、戸口の柱によりかかって、編物をしながら、何も見なかった。
ドファルジュは御者台に乗り込み、「砦へ!」と命じた。騎手は鞭を鳴らした、そして彼らは弱い光を放って、頭上にぶら下っている街燈の下を、ガタガタと馬車を走らせた。
ぶら下っている街燈の下を――きれいな街では明るい光をはなち、きたない街では薄暗くともっている街燈の下を――明るい店や、陽気な人の群れや、燈火が煌々《こうこう》としている喫茶店や、劇場の入口を過ぎて、馬車は市の城門へ着いた。角燈を持った兵隊が詰所にいる。
「旅行者、旅行免状を」
「これをごらん下さい、お役目の方」ドファルジュは馬車から下りて、彼をものものしく離れたところにつれて行った。「これはあの中にいる白髪の旦那の書類です。あの方と一緒にわしに託されたものです。――で」彼は声をおとした。すると、兵隊の角燈があちこちに動きまわり、その一つが制服を着た腕で馬車の中に手渡された。そしてその腕につながる眼は異常なまなざしで白髪の人を見た。「行け!」と制服の声。「さよなら」とドファルジュ。そして、ぶら下った街燈がますます弱い光を放つ下を通って、星のかがやく広い大空の下へ。
動くことのない、永遠の光のアーチの下で――そのいくつかの光はこの小さな地球から非常に遠くはなれているので、その放つ光がこの地球をなにかが苦しんだり、行われたりしている宇宙の一点として発見したことがかつてあるかどうか疑問であると、学者はわれわれに語るのだが、――夜の影は広く、黒く見えた。夜が明けるまで、寒い不安な時間を通じて、夜の影は、またもや、ジャーヴィス・ローリー氏の耳に――今度掘り出された埋められていた男と向かい合って坐り、どんな微妙な能力がこの人から永久に失われたのか、また、どうすればこの人を回復させることができるだろうかと思いふけっていたが――いつかと同じ問いをささやくのであった。
「あなたは生きかえりたいと思っておいででしょうね」
すると、また、いつかと同じ返事。
「わたしには分りません」
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第二巻 黄金の糸
第一章 五年後
テンプル門のそばのテルソン銀行は一七八〇年でさえ、旧式なところであった。それは非常に狭くて、非常に暗くて、非常に見苦しくて、非常に不便であった。そればかりか、行員たちが、その狭いことを誇りとし、暗いことを誇りとし、見苦しいことを誇りとし、不便なことを誇りとしているという道義的な性質から言っても、旧式なところであった。彼らは銀行がそういう点で他にぬきんでていることが自慢でさえあった。そして、もし悪いところがもっと少なかったならば、それだけ銀行の格が下るという、はっきりした信念をもって、ますます得意になっていた。これは決して消極的な信念ではなくて、彼らがもっと便利な銀行や会社にたいして閃《ひら》めかしていた積極的な武器であった。テルソン銀行には(と、彼らは言うのであった)お客が両肘を張って自由に歩きまわれるような余分な場所なんか要らない。テルソン銀行には明かりなんかささなくてもいい。テルソン銀行は装飾など必要としない。ノークス商会なら必要かもしれない。スヌークス兄弟商会なら必要かもしれない。だが、ありがたいことに、テルソン銀行にかぎってね。
ここの行員は、誰でも、もし息子が、テルソン銀行を改築した方がいいなどと言おうものなら、息子を勘当《かんどう》してしまうだろう。この点では、テルソン銀行はこの国とまったく同じであった。この国では、長い間、非難をうけてきた法律や習慣が、非難があればあるほどそれだけ格が上とされていて、それを改善しようなどと言いだしたために、息子たちを本当に勘当したことがしょっちゅうあったからである。
こうしてテルソン銀行は完ぺきな不便さを誇るようになったのであった。ばかばかしく強情な扉をガタガタと騒々しい音をたててぐいと開けると、あなたは二段下ったテルソン銀行に落ち込み、気がついてみると、小さな勘定台が二つある、みじめな小さな店の中にいる。その勘定台では、この世で一番の年寄りが、まるで風がさらさらと吹きつけるように、あなたの小切手をぶるぶるふるわせているし、また、この世で最も黒ずんだ窓のそばでは、行員たちがあなたの署名を吟味している。その窓はいつもフリート街の泥をシャワーのように浴びせられていて、窓の鉄格子とテンプル門の陰気な影のためにますます黒ずんでいるのである。もしあなたが必要があって「銀行」をごらんになるなら、あなたは裏側にある死刑囚監房のような部屋に入れられて、そこで、行員が両手をポケットにつっこんで悠々とやって来るまでむなしく過ごした時をふりかえることになる。そして、陰気なうす明かりの中では、入ってきた人の顔をちらと見ることさえむずかしい。あなたのお金は虫の喰った古い引出しから出て来る。あるいは、その中に入って行く。そして、引出しが開いたり、閉まったりするとき、虫の喰った木の粉が舞い上って、鼻から喉《のど》に入る。あなたの銀行紙幣は、まるで急速に分解しつつあるように、かび臭い。あなたの銀の皿は近くにいくつもある汚水溜りの間にしまいこまれるので、悪い空気は一日か二日のうちに、美しい光沢を消してしまう。あなたの証書類は台所と流し場からなる急造の貴重品室に入れられるから、いらだって羊皮紙の脂肪分をすっかり銀行の空気の中に吐き出してしまう。家族の書類の入ったもっと軽い箱は二階へ上げられて、いつも大きな食卓がおいてあるのに、一度も正餐をだしたことがない見かけだおしの部屋にもち込まれる。
しかしながら、当時、死刑にするということは、あらゆる商売と職業を通じて、なかんずくテルソン銀行において非常に流行した処方であった。死はあらゆるものにたいする自然の救済手段である。というわけで、偽造犯人は死刑に処せられた。偽紙幣を行使する者は死刑に処せられた。信書の不法開封者も死刑に処せられた。四十シリング六ペンスを盗んだ泥棒も死刑に処せられた。テルソン銀行の入口で馬の番をしている男が、その馬をさらって逃げて、死刑に処せられた。銀貨を偽造した者も死刑に処せられた。すべての犯罪のうち、その四分の三に該当する罪を犯した者は死刑に処せられた。それは犯罪を防ぐという方面から言えば、すこしも役に立たなかった――事実はまさにその反対であったと言ってもよかったろう――だが、死刑にしてしまえば、ひとつひとつの事件に煩わされることもなく、あとで面倒なこともなかった。このようにして、当時のテルソン銀行は、その時代のもっと大きな銀行や会社のように、多くの人命を奪っていたから、もしその首を、ひそかに処分してしまうかわりに、テンプル門の上に並べる前に銀行の前に並べたら、地階に射し込んでいたわずかな光線もさえぎってしまったことだろう。
テルソン銀行では、あらゆる種類のくすんだ食器棚や穀物箱の間にきゅうくつそうにはさまれて、この世で一番年をとった人がむずかしい顔をして事務をとっていた。テルソン銀行のロンドンの店に若い男が入社すると、銀行では彼が年をとるまでどこかに隠しておいた。彼にテルソンの香りと青かびがいっぱいつくまで、チーズのように、暗い場所にしまっておいた。それから彼が、わざと人目につくように大きな帳簿に見入りながら、彼のズボンとゲートルによって銀行全体の重厚な空気に貢献している姿が見られるだけであった。
テルソン銀行の外に――呼び込まれなければ決して中に入らない――時には荷物を運んだり、時には使いに走ったりする、半端な仕事をする男が一人いた。彼は銀行の生けるしるしであった。この男は、就業時間中は、いつでもそこにいたが、使いに出たときだけ、息子が代りになった。その息子というのが、十二歳のものすごい小僧で、親父に生き写しであった。世間では、テルソン銀行がおうように構えて、半端仕事に人を使っているのだと思っていた。銀行では、いつも、そういう仕事をする人間を誰かおいてやっていた、そして歳月の流れは、この人物をその地位につかせたのであった。彼の姓はクランチャーといい、若いとき、ハウンズディッチの東寄りの教会で洗礼を受けたとき、暗闇の仕事をすてると誓って、ジェリーという名をつけ加えてもらったのである。
この場面はホワイトフライアーズのハンギング・ソード横町にあるクランチャーの私宅であって、時は、|キリスト紀元《アノー・ドミナイ》一七八〇年の風のある三月の朝七時半であった。(クランチャー氏はアノー・ドミナイのことをアンナ・ドミノーズと言った。キリスト紀元は、ある貴婦人が発明して自分の名をつけた人気のあるゲーム〔ドミノのこと〕の発明された日から始まったものと思いこんでいるらしい)
クランチャー氏の部屋は気持のよい環境ではなく、部屋の数も、ガラスが一枚だけはまっている小部屋を勘定に入れても、たった二つしかなかった。けれどもそれは見苦しくないようにしてあった。風の吹く三月の朝、まだ早朝であったが、彼が寝ている部屋はもうすっかりふき掃除がすんで、朝食のためにならんでいるコーヒー茶碗とガタガタする食卓の樅《もみ》の板との間には、清潔な、白いクロスがかかっていた。クランチャー氏はつぎはぎ細工のかけぶとんの下で家庭におちついたハーレクウィン(イタリア喜劇の中にあらわれる道化役者)のような恰好《かっこう》で寝ていた。最初のうちは、彼はぐっすり眠っていた。だが、次第に、寝床の中でねがえりをしたり、波打つようにからだを曲げたりのばしたりして、ついに、敷布をずたずたに引き裂かんばかりの釘のように突き立った髪をして、寝床の上に起き上った。その瞬間に、彼はおそろしく怒った声でどなった。
「畜生、あいつは、またやってやがる!」
部屋の隅でひざまずいていた、きちんとした、働きものらしく見える女が、あわててふるえながら立ち上ったので、彼がどなりつけたのはこの女のことだということがわかった。
「おい」クランチャー氏は寝床から長靴を探しながら、言った。「お前はまたあれをやってやがるんだな」
これが二度目の朝の挨拶だったが、それがすむと、三度目の挨拶として、彼は女に長靴を投げつけた。その長靴にはひどく泥がついていた。ということは、彼はいつも銀行の仕事がすむと、きれいな靴で帰ってきたのに、翌朝起きると、その同じ靴が泥だらけになっていたという、クランチャー氏の家庭経済に関係のある妙な事情を暗示するかもしれない。
「おい」クランチャー氏は的《まと》がはずれたので、今度は呼び方を変えて言った――「なにをしてるんだ、癪《しゃく》にさわるやつめ」
「お祈りをしていただけですよ」
「お祈りをしてたと。お前は気だてのいい女だよ。ひざまずいて、おれに悪いようにお祈りをするってのは、いったい、どういう了見なんだい」
「あんたに悪いようにお祈りしてたんじゃありませんよ。あんたのためになるように、お祈りしてたんですよ」
「そんなことがあるもんか。かりにそうだとしてもだ、勝手なことはしてもらいたくねえ。おい、坊主よ、お前のおふくろは気だてのいい女だぜ。お前の親父の景気が悪くなりますようにとお祈りをするんだからな。お前のおふくろは立派なおふくろだよ、坊主。お前のおふくろは信心深いおふくろだよ。ひざまずいてさ、たった一人の子供の口からバタつきパンを取り上げて下さいとお祈りするんだからな」
クランチャー少年は(シャツ姿の)これをたいへん悪くとった。そして母親の方に向きなおって、自分の食物が取り上げられてしまうようなお祈りはしないでおくれと強く非難した。
「ところで、お前は自分のお祈りにどんなねうちがあると思ってるんだい。お前のお祈りにつける値段を言ってみろ」クランチャー氏は自分の矛盾に気がつかないで言った。
「わたしのお祈りはただ心からわいてきたものですよ。それだけのねうちしかありませんよ」
「それだけのねうちしかねえって」クランチャー氏は繰り返して言った。「それじゃ、大したねうちじゃねえ。どっちにしたって、おれは、悪いようにゃ祈ってもらいたくないね、言っとくがね。おれは我慢がならねえ。お前にこそこそやられて、おれが不仕合わせにされるなんざ、ごめんだね。どうしてもひざまずかねばならんというなら、亭主や子供のためになるようにやりな。亭主や子供に悪いようにやるんじゃねえぞ。もしおれの女房が性悪《しょうわる》な女房でなく、この可哀そうな坊主のおふくろが性悪なおふくろでなかったらな。おれは先週、裏をかかれたり、神信心のために計略にかけられてひどい目にあわないで、いくらか金になったところだ。畜生め!」クランチャー氏はずっとこの間、服を着ながらつづけた。「やれ神信心だとか、なんだかんだとほらを吹きやがって、おれは先週、あわれな正直な商売人がいままで出会ったことのないような悪運に見舞われたじゃねえか。坊主、着物を着るんだよ。それでな、おれが長靴をみがいている間、ときどきおふくろに気をつけるんだよ。もし、まだひざまずきそうな気配があったら、おれを呼びな。そのわけはな、よく聞け」ここで彼はもう一度細君にむかって言った。「おれはな、こんな風じゃ、がまんがならねえ。おれはまるで貸馬車みてえにぐらぐらしてるんだ。阿片チンキを飲んだみてえにねむい。からだの筋がひどく張ってるもんだから、痛みでもなかったら、どっちが自分でどっちが他人か、見当がつかねえくらいなんだ。そのくせ、ポケットの中はからっきしだめときてやがる。どうやらお前が、おれのポケットの中が景気よくならねえようにと、朝から晩までそれをやってるんじゃねえかと、おれはあやしんでいるんだ。おれは、もう我慢しねえぞ。さあ、なにか言うことがあるか」
クランチャー氏は、なおもつづけて、「ああ! そうだ! その上、お前は信心深いときてやがる。まさか、お前は、自分の亭主や子供に損が行くようなことは、しやしまいな。そんなことはさせないぞ!」などとどなったり、腹立ちまぎれに、ぐるぐる回る砥石《といし》からでる火花のような皮肉な言葉を口走ったりしながら、長靴をみがいたり、仕事にでかける用意をしたりしていた。一方、父親よりは柔かい釘が頭に突立っていて、父親と同じように眼がくっついている息子は、言いつけられたように母親の看視を怠らなかった。彼は、ときどき、身仕度をする寝室の小部屋からとび出して行っては、「母ちゃん、またひざまずくんだね。――おーい、父ちゃん」と声を殺して叫び、こうして偽の警報を発しておいて、ニヤリと親不孝な笑いをうかべながら、また寝室にとびこむので、そのたびに哀れな母親はたいへん煩《うる》さい思いをした。
朝食をとりに出てきたときも、クランチャー氏の機嫌はすこしもよくなっていなかった。彼はクランチャー夫人が食前の祈りをするのを、いつにない敵意をもって怒った。
「おい、癪《しゃく》にさわるやつめ、なにをしてるんだ。また、あれか」
細君は、ただ「祝福をお願いした」だけだといいわけした。
「やめろ」クランチャー氏は、まるでおかみさんのお祈りのききめでパンの塊が消えてしまうのじゃないかと思っているようにあたりを見まわしながら、言った。「おれは家から追ん出されるようになんざ、祝福してもらいたかねえ。食いものが食卓からなくなっちまうようになんざ、祝福してもらいたかねえ。静かにしろ」
ジェリー・クランチャーは、ちっとも陽気にならなかった会で夜明かしをしたように眼を赤くし、おそろしい顔をして、動物園の四つ足の動物のように唸《うな》りながら、朝飯を食べるというよりも咬みちらしたのであった。九時近くになると、彼はいらだった顔つきをおちつかせ、本来の自分をかくして、うわべはできるだけ礼儀正しく、事務的によそおって、その日の仕事に出掛けて行った。
彼は好んで自分のことを「正直な商売人」と称していたが、それはまず商売とは言えないものであった。彼の資本は、背のこわれた椅子を切って作った腰掛だけで、息子のジェリーは父親の傍を歩きながら、毎朝それをテンプル門に最も近い銀行の窓の下に運んだ。そこで、半端な仕事をする男の足もとが寒かったりぬれたりしないように、通りかかった車からひとつかみ藁《わら》を引きぬいて腰掛の下におけば、その日の陣営ができあがるのであった。この持ち場に陣どったクランチャー氏は、フリート街とテンプル界隈《かいわい》に門と同じくらいよく知られていた――そして門とほぼ同じくらいみにくい存在であった。
この風の吹く三月の朝、ジェリーは、この世で一番年をとった人がテルソン銀行へ入って行くときに三角帽に手をふれて挨拶するのに間に合うように、九時十五分前に陣を張って、持ち場についたのである。息子のジェリーは、門を通りぬけて略奪にでかけないときには、父親の傍に立っていて、自分の目的にちょうどいい小さな男の子たちが通りかかると、その子供たちに肉体的にも心理的にもひどい害を加えるのであった。左右の眼のように二つの頭をくっつけて、無言でフリート街の朝の往来をながめている、きわめてよく似た父と子は、二匹の猿によく似ていた。たまたま、親のジェリーが藁を噛んでは吐きだし、子供のジェリーがきらきら光る落ち着きのない眼で、油断なくフリート街のあらゆるものと同じく父親を見ていても、二人が猿に似ていることに変わりはなかった。
銀行の内部にいる、テルソン銀行所属の常雇い人夫の一人が出入口から頭を出して、次のように伝えた。
「門衛さん、用があるよ」
「父ちゃん、ばんざい。朝早くから仕事だよ」
息子のジェリーはこうして父親の成功を祈ってから、腰掛に坐り、父親が噛んでいた藁を親ゆずりの興味をもって噛みながら、考え込んだ。
「いつも錆《さび》がついている! 父ちゃんの指はいつも錆がついている!」と息子のジェリーはつぶやくのであった。「父ちゃんはあの鉄錆をどこでつけてくるんだろう。ここじゃ、鉄錆なんかつきゃしないからな」
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第二章 ある見もの
「お前はオールド・ベイリー(ロンドン中央刑事裁判所)をよく知っているね」とこの世で一番年をとった書記の一人が使者のジェリーに言った。
「へえ、旦那、ベイリーなら知っていますとも」ジェリーはどこか頑固な様子で答えた。
「そうか。それから、ローリーさんを知っているね」
「ローリーさんならベイリーよりもっとよく知ってますよ。わしのような正直な商売人がベイリーを知りたいと思うよりはずっとよくね」というジェリーは、いやいやその問題の法廷に出廷した証人に似ていないこともなかった。
「よろしい。証人が入る入口を見つけて、守衛にローリーさんに宛てたこの覚え書を見せなさい。そうすれば、お前を中に入れてくれるだろう」
「法廷へ、ですか、旦那」
「法廷へ、だ」
クランチャー氏の眼は左右からすこしばかり寄ってきて、「これは、いったい、どういうことだろうね」と尋ねあっているように思われた。
「わしは法廷の中で待っているんですか、旦那」その相談の結果、彼はたずねた。
「これから話すところだ。守衛は覚え書をローリーさんに渡すから、お前はローリーさんの注意をひくような身振りをして、お前の立っている場所を知らせなさい。それから、あの人がお前を呼ぶまで、そのまま、そこにいればいいのだよ」
「それだけですか」
「それだけだ。あの人は使いの者に手近《てじ》かにいてほしいと言っている。だから、お前にそこにいろと言っているんだよ」
年老いた書記がゆっくりと紙片をたたんで宛名を書いていると、クランチャー氏は、彼が吸取紙を使うところにくるまで黙って見守っていて、それからこう尋ねた。
「今朝はたしか偽造罪の審理だと思いますが」
「反逆罪だ」
「それじゃ四つ裂きでさあ」とジェリーが言った。「残酷ですなあ」
「それは法律だよ」年老いた書記は驚いて眼鏡を彼の方にむけて言った。「それは法律だよ」
「人のからだにくいを打ち込むなんて、ひどい法律だと思いますよ。人を殺すのだって、相当ひどいことでさ。しかし、人のからだにくいを打ち込むとはまったくむごいことでさ、旦那」
「そんなことはない」と年老いた書記が答えた。「法律のことはよく言うんだよ。胸にあることと、声にだして言うことに気をつけなさい。法律のことは法律にまかせておけばいいのだ。わたしはお前にそのことを忠告しておくよ」
「わしの胸と声につきまとっているのは湿気ですよ」とジェリーが言った。「わしがどんな湿っぽい方法で稼いで暮らしているか、それは旦那のご想像にまかせます」
「なるほど、なるほど」と年老いた書記が言った。「われわれはみんな、種々様々な方法で稼いで暮らしているんだよ。湿っぽい方法でやっている者もあるし、干からびた方法でやっている者もある。これが手紙だよ。行っておいで」
ジェリーは手紙をとり上げて、心の中では表にあらわしたほど敬意をはらわずに、「爺さん、あんたも割に合わない仕事をやっているんだね」と心の中で言いながら、お辞儀をして、通りすがりに、息子に行先を告げて、出かけて行った。
その頃、絞首刑はタイバーンでやっていたので、ここニューゲイト監獄の外側の街は、のちにつきまとった不名誉な悪名にはまだ縁がなかった。だが、その監獄はひどいところで、その中では、たいていの堕落行為や悪事が行われ、恐るべき悪疾が蔓延《まんえん》して、それは囚人について法廷に入ってきて、時には、まっしぐらに被告席から裁判長閣下におそいかかり、彼を裁判官の席から引きずりおろした。黒い法帽の裁判官が、囚人に死刑を宣告するようにはっきりと、自分の死を宣告して、囚人より先に死んだという例も一度ならずあった。そのほか、オールド・ベイリーは、死の宿の中庭として名を馳《は》せていた。というのは、そこからは、顔面蒼白な旅人たちがひっきりなしに荷車や馬車に乗ってあの世へ旅立って行き、二マイル半の公道を横切って行くのであった。しかも、それを恥じる善良な市民は――かりにいたとしても――ほとんどなかったのである。しきたりというものはそれほど強力である。したがって、最初からよいしきたりをもつということは非常にのぞましいのだ。それは、誰もその限界を予見し得なかったほど大きな刑罪を加えるようになったかの賢明な昔からの慣例、さらし台についても、知れ渡っていることだ。また、もうひとつの愛すべき昔からの慣例、見る者の心をあたため、やわらげる、かの笞《むち》打ち刑の柱や、かつてこの天の下で行われた最も恐ろしい報酬金目当ての犯罪に組織的に発展したもうひとつの祖先伝来の知恵のかけらである犯人引渡し報奨金の広範なる取引についても知れ渡ったことだ。まったく、当時のオールド・ベイリーは、「存在するものは、すべて正しい」という格言の絶好な実例であった。この警句は、もしそれが、すべて存在していたものは、いかなるものも不正ではないという厄介な結果を含まないとしても、怠惰であるとともに決定的なものであろう。
ジェリーは人混みを静かに通りぬけるのに慣れているので、このおそろしい現場にあちこち散らばっている不潔な群衆の間を上手に通りぬけて、探している扉を見つけだし、扉の揚蓋《あげぶた》から手紙をさし入れた。というのは、当時、人々は、気違い病院の芝居を見るために金を払うように、オールド・ベイリーの芝居を見るために金を払っていたからだ――ただ、あとの方がずっと高くついただけである。だから、オールド・ベイリーの扉には全部番人がついていた――ただ、罪人を生みだす社会の扉だけは、いつも開け放してあって、罪人たちはその扉から法廷へ入って来るのであった。
しばらく待たされた後、扉の蝶番《ちょうつがい》はいやいやほんの少し開いて、やっとジェリー・クランチャー氏のからだを法廷に入れてくれた。
「なにが始まってるんだね」彼はとなりにいた男に低い声で尋ねた。
「まだなにも始まっていないよ」
「なにがこれから始まるんだね」
「反逆事件だよ」
「例の四つ裂きのやつかね」
「そうだよ」その男はうれしくてたまらないように答えた。「そりに乗せられて刑場へ引っぱられてさ、絞首台で半殺しになってさ、それから下に引きずり下されて、自分のつらの前で薄切りにきざまれてさ、それから、腹わたを引っぱりだされて、自分の見てる前で焼かれてさ、それから首をちょん切られて、ずたずたに切りきざまれてしまうのさ。それが判決だよ」
「もし有罪ときまれば、というつもりなんだろう」ジェリーが但し書きのようにつけ加えた。
「もちろん、有罪にきまってるさ」と相手が答えた。「心配しなさんな」
ここでクランチャー氏の注意は、手紙を持ってローリー氏の方へ近づいて行く扉の番人に向けられた。ローリー氏はかつらをつけた紳士たちの間に、テーブルに向って坐っていた。彼の近くのかつらをつけた紳士は被告の弁護人で、大きな束になった書類が前においてあった。また、ほぼ向い合っているもう一人の、ポケットに両手をつっこんでいるかつらの紳士は、そのときも、その後も、クランチャー氏が見たかぎりでは、あらゆる注意を法廷の天井に集中しているように思われた。ジェリーはしゃがれた声で咳をしたり、顎をこすったり、手で合図をしたりして、やっとローリー氏の注意を引いた。ローリー氏は彼を探すために立ち上がっていたが、静かにうなずいて、また腰をおろした。
「あの人はこの事件とどんな関係があるんだね」彼が話をしていた男が尋ねた。
「まるっきり知らないね」とジェリーが言った。
「それじゃ、お前さんはどんな関係があるんだねと人が訊いたら、どうするね」
「そっちの方もまるっきり知らないね」
裁判長の入場につづいて、法廷では非常なざわめきがおこり、やがてそれが静まったので、二人の話もとぎれた。まもなく、被告席は興味の中心となった。そこに立っていた二人の看守が出て行って、被告を連れて入ってきて、被告席に入れた。
天井を眺めていた、かつらをつけた紳士のほかは、誰も彼も彼を見つめた。その場のすべての人間の息は、海のように、風のように、火のように、彼にむかって押しよせた。熱心な顔が彼を一目見ようと、柱のまわりや隅で懸命になっていた、後ろの列の見物人は、被告の髪の毛一筋も見逃がすまいと立ち上がった。法廷の土間の人々は、いかなる犠牲をはらっても彼を見物しようと、前にいる人の肩に両手をかけた――そして彼のあらゆるところを見逃がすまいとつま先立ちになったり、壁の棚に上ったり、何にもならないものの上に立ったりした。このあとの方の人々のなかに、ニューゲイト監獄の釘を立てた壁のような頭をきわ立たせて、ジェリーが立っていた。彼は、そこへ来る途中飲んできたビールの酒臭い息を被告めがけて吐きだしていたが、それは彼をめがけて流れて行った他のビールや、ジンや、お茶や、コーヒーなどの匂いの波に混じり、彼の後ろの大きな窓にぶつかって、不潔な霧と雨になってくだけていた。
このすべての凝視と怒号の対象は、陽焼けした頬と黒い眼をした、体格のいい、りっぱな顔立ちの、二十五歳ぐらいの青年であった。彼は身分のある青年のように見えた。質素な、黒か非常に濃い灰色の服を着て、長い黒い髪を頸の後ろでリボンで結《ゆわ》えていた。それはおしゃれというよりは、うるさくないためであった。心の中の感情は肉体の被いを通して自然にあらわれるように、彼の現在の立場からかもしだされた蒼白さは茶色に焦げた頬の上にあらわれて、魂が太陽よりも強いということを示した。そのほかは、彼はまったく落ち着いていた。そして裁判長に頭を下げて、静かに立っていた。
この男を見つめ、この男に酒臭い息を吹きかけた興味というのは、人間を向上させる類の興味ではなかった。彼がまさに受けようとしている宣告がこれほど恐ろしいものでなかったならば――その残忍な処刑の細目が一つでも赦される機会があるならば――それだけ彼の魅力は減っただろう。恥知らずなやり方でずたずたに切りさいなまれる運命にある人間の姿こそ、観物《みもの》であったのだ。虐殺されて、ずたずたに引き裂かれ、いつまでも名をとどめる生物が人々の興奮をまきおこしたのであった。種々様々な見物人が、それぞれの技巧や自己欺瞞の能力に応じて、その興味をどんな風に見せかけようと、それは、しん底は、人喰い鬼のような興味であった。
法廷が静粛になった。チャールズ・ダーネーは昨日の告訴にたいして無罪であると抗弁した。その告訴とは(なんだかんだと際限なく申し立てて)彼がフランス王のわが国王殿下にたいする戦争において、いく度か、いくつかの方法によってフランス王ルイを助けた。すなわち、彼は、わが国王殿下の領土と前述のフランス王ルイの領土の間を往復して、悪らつにも、不正にも、不忠にも(その他いろいろと悪い副詞をならべて)、前述のフランス王ルイにわが国王殿下がいかなる軍隊をカナダと北アメリカへ送る準備をしているかということを内通したという理由で、彼はわが国王殿下にたいする反逆者だというのである。ジェリーは法律用語に頭を刺激されて、釘を立てたような頭をますますさかだてながら、これだけ理解して、大いに満足した。そして、遠まわりをしたあげく、今まで何度もその名を繰り返されたチャールズ・ダーネーが彼の前に立って裁判を受けていること、陪審員が宣誓していること、検事総長が弁論の用意をしていることなどがわかった。
そこにいた人々の心の中では、すでに首を絞められ、頭をはねられて、四つ裂きにされている(それを自分でも知っている)被告は、そんな立場に立って萎縮もしなければ、芝居じみた態度もとらなかった。彼は落ち着いて気をくばり、前の板の上に両手をのせて立っていたが、非常におちついていたので、その上に撒《ま》かれた薬草の一葉さえ動かさなかった。法廷には獄中の空気と獄中の熱病の伝染を防ぐために薬草を散らし、酢を撒《ま》いてあった。
囚人の頭の上には鏡があって、囚人に光があたるようになっていた。大勢の悪者や悲惨な罪人たちはその鏡に姿をうつし、鏡の表面からも、この世からも同時に消えて行ったのである。もし鏡が、海がある日その死人をはきだすように、その映像をもとに戻すことができたとしたら、その忌まわしい場所には凄惨な幽霊が出没することだろう。汚名と恥辱の思いが――そのためにこそ鏡がおいてあるのだが――ふと囚人の心をうったのであろうか。いずれにしても、彼は、身体の位置を変えたので、顔を横切って射す一筋の光に気がつき、上を見上げた。そして鏡を見たとき、彼の顔は紅潮して、右手が薬草を押しのけた。
彼のその行動は、偶然、彼の顔を、彼の左手にあたる法廷の側に向けさせた。彼の眼とほぼ同じ高さのところに、裁判長の席のある隅に、二人の人が坐っていて、彼の視線は直ちにその二人の上にとまった。それがあまり急だったばかりでなく彼の表情がひどく変わったので、彼に向けられた眼はすべて彼らに向けられた。
見物人の眼に入ったのは、二十歳をちょっとでたばかりの若い婦人と、明らかにその父親と思われる紳士であった。彼は頭髪が真白であることと、ある名状しがたい激しい顔つきをしている点でいちじるしくきわだって見えた。それは積極的な激しさではなく、ひとりでじっと考えこむ激しさであった。こういう顔をしているとき、彼はまるで老人のように見えた。だが、その表情がくずれて、一時途切れたとき――彼が娘に話しかけている今の瞬間のように――彼はまだ壮年を過ぎない、りっぱな男であった。
娘は彼の傍に坐って、片手を彼の腕に通し、もう一方の手でそれをおさえていた。彼女はその場の空気に恐怖し、また、囚人にたいする憐れみにたえかねて、父親にぴったりと身をよせていた。彼女の額には被告の危難のほかはなにものも目に入らない、思いつめた恐怖と憐れみの情がきわだってあらわれていた。この表情はいちじるしく人目を引き、非常に強く、自然に表われていたので、被告には少しも同情をもっていなかった見物人も彼女に心をうたれた。そして、「あの人たちは誰だろう」というささやきの声が伝わった。
勝手に自己流の観察をしていた使者のジェリーは、夢中で指についた鉄錆を吸いとっていたが、彼らが何者だろうか聞こうと、頸をのばした。彼のまわりの群衆は誰だ誰だと尋ねる声を押しすすめ、それが彼らに一番近い人に伝わると、今度はそれがもっとゆっくりと押し返されてきて、とうとうジェリーのところまで戻ってきた。
「証人だよ」
「どっちの」
「反対側だ」
「どっちに」
「被告側に」
漠然と前の方を見ていた裁判長は彼らのことを思いだして、坐ったままからだを後ろにそらせて、自分が生命を握っている男をじっと見た。このとき、検事総長は、繩をない、斧を研《と》ぎ、絞首台に釘をうち込もうとして立ち上った。
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第三章 失望
検事総長は陪審員にたいして次のような論告をしなければならなかった。すなわち、彼らの前にいる被告は、年齢の点では若いが、反逆行為の点では老巧で、死罪に値する。敵国に送ったこの通信は、今日《きょう》や昨日《きのう》のものではなく、昨年や一昨年のものでもない。被告は、それよりずっと以前から、自らは正当な説明をなすことができない秘密の用件で、フランスとイギリスの間を往復する慣わしであったことは、たしかな事実である。もし、反逆的行為が、本来、栄えるものであるならば(幸いにして、そういう先例はかつてなかったが)被告の悪らつきわまる仕業と非行は発見されなかったであろう。しかしながら、神は、恐れを知らず非難をもかえりみないある人物をして、被告の計画を探知せしめ、驚愕せしめて、その計画を国務大臣閣下並びに栄《はえ》ある枢密院に暴露せんと思わしめたのである。この愛国者はやがて諸君の前に姿を現わすであろう。彼の立場と態度は、概して言って崇高である。彼は被告の友人であったが、ある時、彼の非行を探知するや、もはやその胸中にいつくしむことができなくなった反逆者を、愛する国の聖なる祭壇に捧げようと意を決したのである。もし、いにしえのギリシア、ローマにおける如く、英国においても公衆の恩人にたいして彫像を贈る法律が制定されているならば、この輝ける市民は確実にそれを贈られるであろう。しかし、そのような法律がないから、彼はおそらく彫像を贈られることはないだろう。美徳というものは、詩人たちによってうたわれてきたように(その多くの詩句を陪審員諸氏は一語一語暗誦していられることを自分はよく知っている。と検事総長が言うと、陪審員たちは、そういう詩句のことはなにも知らないという間の悪そうな顔をした)、いわば伝播《でんば》しやすいものであって、とくに愛国心、あるいは国家にたいする愛として知られている輝かしい徳はいっそう伝播しやすい。この汚れなき、非難の余地なき気高い国王の証人は――陛下のことを申し上げるのは、いかに些細《ささい》なことであろうとも、光栄であるが――被告の召使と通じて、召使の心中に、主人の机の引出しやポケットを調べて、主人の書類を隠そうという崇高な決意をかためさせた。彼(検事総長)は今、この賞賛すべき召使にたいする非難の声を聞く用意がある。しかし、だいたいにおいて、彼はこの召使を彼の(検事総長の)兄弟姉妹より好ましく思っているし、彼の(検事総長の)父母よりも尊敬している。彼は陪審員たちに、この召使と同じように行動されるように信念をもって訴えたい。ここにいる二人の証人の証言は、あとで提出される彼らの発見した書類とともに、この被告が海陸における陛下の軍隊及びその配置と装備のリストを所持していたことを証明し、また、彼が常習的に敵国にそのような情報を提供していたことはそれによって疑う余地がなくなるであろう。それらのリストは被告の筆蹟であると証明することができなかった。だが、いずれにしても同じことである。まったく、それは被告の狡猾《こうかつ》なる用心深さを示すものとして、告発する場合にそれだけ有利である。その証拠によれば、被告は、五年前、英国の軍隊とアメリカ人との間に最初の戦闘が行われた日の二、三週間前に、すでに、この悪質な使命にたずさわっていたことを証明している。こうしたいくつかの理由によって、陪審員諸氏は(彼が知っているように)忠誠なる陪審員であり、また、(彼ら自らが知っているように)責任感の強い陪審員であるからして、彼らが好むと否とに拘らず、断固として被告を有罪となし、被告の命を絶たねばならない。さもなければ、彼らは安んじて眠ることはできないであろう。彼らは彼らの妻が安んじて眠ることができるなどとは考えられないであろう。また彼らの子供達が安んじて眠ることができるなどとは考えられないであろう。要するに、もしこの被告の首をはねてしまわなければ、彼らも、彼らの妻も子供も、もはや安んじて眠るなどということは不可能であろう。検事総長は、その論告を結ぶのに用いた思いつくかぎりのあらゆるものの名において、また、彼が、被告を既に死んだも同然と見なしているという厳粛なる誓言にかけて、陪審員に被告の首を要求する言葉をもって論告を終ったのである。
検事総長が演説をやめると、法廷にざわめきが起こった。それはまるで、青蠅《あおばえ》の大群が、被告がまもなく化そうとしているものを予知して、そのまわりに群がっているかのようであった。法廷がふたたびしずまったとき、かの非難の余地なき愛国者が証人席にあらわれた。
すると、検事次長は、指揮者の指揮に従って、その愛国者、ジョン・バーサッドという名の紳士を調べた。この高潔なる人物の物語は、まさに検事総長閣下が述べたとおりであった――かりに、欠点があるとすれば、いささか、くい違いがなさ過ぎることであったろう。彼はその崇高なる胸の荷をおろして、つつましく引き下がろうとしたが、このとき、ローリー氏からさほど遠くないところに、書類を前にして坐っていたかつらの紳士が、彼に二、三質問したいと求めた。彼と向い合って坐っているかつらの紳士は依然として法廷の天井を眺めていた。
証人はかつてスパイであったことがあるか。否。なにをして生活しているか。財産がある。その財産はどこにあるのか。どこにあるか、はっきり記憶していない。どんな財産か。よけいなおせっかいだその財産を相続したのか。そうだ。誰から。遠い親戚からだ。非常に遠い親戚か。まあね。監獄に入ったことがあるか。絶対なし。負債者の監獄に入ったことはないか。それがこの事件とどんな関係があるのか分らない。負債者の監獄に入ったことはないのか。――ええと、もう一度。ないのか。ある。何度。二、三度。五、六度ではないのか。そうかもしれない。職業は。紳士だ。蹴とばされたことがあるか。あるかもしれない。たびたびか。否。階段から蹴落されたことがあるか。絶対なし。一度だけ階段の上で蹴られ、自分から下に落ちたことがある。その時は、ばくちでインチキをやったために蹴とばされたのか。攻撃をしかけた酔っぱらいの嘘吐《うそつ》きが、そんなことを言ってたようだが、それは本当ではない。本当でないと誓うか。絶対に。勝負事でインチキをして生活したことがあるか。なし。勝負事で生活したことがあるか。他の紳士連中がやる程度だ。被告から金を借りたことがあるか。ある。被告に返済したことがあるか。否。被告とのこの親交は――実は非常に浅いものだが――馬車や、旅館や、定期船の中で被告にむりに押しつけたものではないか。否。被告が例のリストを所持しているのを見たというのは、たしかか。たしかだ。そのリストについて、それ以上知っていることはないか。なし。たとえば、自分がそのリストを手に入れたのだ、というような。ちがう。この証拠によって、なにか手に入れようと期待しているか。否。政府から金をもらって雇われていて、常習的に他人をおとしいれようとしているのではないか。いや、とんでもない。それともなにか企らんでいるのか。いや、とんでもない。誓うか。何度でも。純然たる愛国心だけで、ほかになにも動機はないのか。ほかにいかなる動機もなし。
かの高潔なる従僕、ロジャー・クライは非常な速度でこの事件の全般にわたって証言した。彼は四年前に被告の誠実な実直な従僕となった。彼はカレー定期船の船上において、被告に雑用をする男は要らないかときいてみた。そして被告は彼を雇ったのである。彼は被告にお情で召使を雇ってくれなどとは言わなかった――そのようなことは考えたこともなかった。その後まもなく、彼は被告に疑惑をもつようになり、被告を看視するようになった。旅行中被告の衣類を整頓するとき、彼は被告のポケットの中にこれと同じリストを幾度となく見たのである。彼は被告の机の引出しからこのリストを手に入れたのである。被告は最初それを机の引出しに入れたのではなかった。彼は被告がこれと同じリストをカレーでフランス人の紳士に見せ、また、カレーとブーローニュでフランス人の紳士に見せているのを見たことがある。彼は祖国を愛しているから、それを見て黙っていられずに情報を提供したのである。彼は銀製のきゅうすを盗んだ嫌疑など、かつて一度もかけられたことはない。ただ、胡椒《こしょう》入れのことでは中傷されたことがあるが、その壺は鍍金《めっき》でしかなかったことがあとで分かった。彼は前の証人とは七、八年の知り合いである。それは偶然のことにすぎない。彼はそのことを、とくに奇妙な偶然だとは言わない。偶然というものは、たいてい奇妙だからである。
青蠅がまたざわめきたてた。そして検事総長はジャーヴィス・ローリー氏を呼んだ。
「ジャーヴィス・ローリーさん、あなたはテルソン銀行の書記ですか」
「はい」
「一七七五年十一月のある金曜日の夜、あなたは商用のためにロンドンとドーヴァの間を郵便馬車で旅行しましたか」
「はい」
「その馬車の中に、ほかに誰か乗客がありましたか」
「二人」
「その乗客は夜のうちに途中で下車しましたか」
「しました」
「ローリーさん、被告をごらんなさい。被告はその二人の中の一人でしたか」
「その人がそうであったとは断言できません」
「被告はその二人の乗客のいずれかに似ていますか」
「二人ともからだをすっかり包んでいましたし、たいへん暗い夜でしたし、それに、われわれはみなひどくよそよそしかったものですから、その点も断言できません」
「ローリーさん、もう一度被告をごらんなさい。もし被告がその二人の乗客のようにからだをすっかり包んだとしてですね、その大きさと背丈から彼がその二人の中の一人であったとはとても思われないという点がなにかありますか」
「ありません」
「ローリーさん、あなたは、被告がその中の一人ではなかったとは証言なさいますまいね」
「しません」
「では、少なくともあなたは、彼がその中の一人であったかもしれないとおっしゃるのですね」
「そうです。ただ私の記憶では、二人とも――私自身のように――追剥《おいはぎ》におびえていましたが、被告にはおびえている様子がありません」
「ローリーさん、あなたはおびえたふりというのを見たことがありますか」
「たしかに見たことがあります」
「ローリーさん、もう一度、被告をごらん下さい。あなたは以前にたしかに彼を見たことがありますか」
「あります」
「いつですか」
「それから二、三日後、私はフランスから帰る途中でした。カレーでその被告が私の乗っている定期船に乗船して、私と一緒に航海をしました」
「彼が乗船したのは何時でしたか」
「夜半をすこし過ぎたころでした」
「真夜中ですね。被告はその時ならぬ時間に乗船したただ一人の客だったのですな」
「そうです」
「ローリーさん、あなたはひとりで旅行していたのですか、それとも誰か連れがありましたか」
「連れが二人ありました。紳士と淑女です。その方たちはここに見えています」
「ここに見えている。あなたは被告となにか話をしましたか」
「ほとんど話をしませんでした。天気は荒れていましたし、長い、つらい航海でしたので、私は港から港までほとんど長椅子に寝ておりました」
「マネットさん」
さきに注目の的であった若い婦人は、今また皆の注視をあびながら、先刻から坐っていた席に立ち上った。彼女の父親も、一緒に立ち上って、腕にかけた娘の手をそのまま放そうとしなかった。
「マネットさん、被告をごらんなさい」
被告にとって、そのような憐れみと真剣な若さと美に対決することは、群衆の全部と対決させられるより、はるかにつらいことであった。いわば自分の墓穴の縁に彼女と一緒に、皆からはなれて立っているようなもので、彼を見つめているすべての心の好奇心も、その瞬間彼をじっと落ち着かせることはむりであった。彼は右手を忙しく動かして、前にある薬草を彼の空想する庭の花壇の形に分けた。そして呼吸の乱れをおさえようとする努力は、にわかに色を失った唇をふるわせた。大きな蠅のざわめきはふたたび高くなった。
「マネットさん、あなたは被告に会ったことがありますか」
「はい」
「どこで」
「たったいまお話にでました定期船で、いまのお話と同じ時でございました」
「たったいま話にでた若い淑女というのは、あなたのことですか」
「はい、たいへん残念に存じますが、私でございます」
憐れみのこもった悲しげな声が消えると、裁判長のそれよりも非音楽的な声が、どこか激しい調子で言った。
「訊かれた質問に答えなさい。それについて、よけいなことは言わなくてよろしい」
「マネットさん、海を横断する航海の間に、あなたは被告となにか話をしましたか」
「はい」
「それを思い出してごらんなさい」
しんと静まりかえった中で、彼女は弱々しい声で陳述をはじめた。
「あの方は、乗船なさいましたとき――」
「被告のことを言っているのかね」裁判長は眉をひそめて言った。
「はい、裁判長さま」
「それでは、被告と言いなさい」
「被告は、乗船なさいましたとき、私の父が(と傍に立っている父親をいとおしそうに見ながら)ひどく疲れて、たいへん身体が弱っているのに気がおつきになりました。父はひどく衰弱しておりましたので、外へつれ出すのが心配でございました。それで、私は、船室の階段に近い甲板に寝床を作り、父のそばに坐って父を看《み》とっておりました。その夜は、私たち四人のほかには、乗客はおりませんでした。被告はご親切に、どうすれば父を風や雨から、私が工夫したよりもうまくまもれるか、忠告してもいいかとおっしゃって下さいました。私は、船が港を出たとき風の方向がどうなるか、知りませんでしたので、どうすればうまく行くか分らなかったのでございます。あの方は私のためにそれをして下さいました。あの方は父の状態を案じてたいへんやさしく親切にして下さいました。それはあの方が心に思っていらしたことだと、私は信じております。私たちがお話をするようになったのは、そういうことからでした」
「お話の途中ですが、ちょっと訊きたいのです。被告は乗船したとき一人でしたか」
「いいえ」
「一緒にいたのは何人でしたか」
「フランス人の紳士が二人でした」
「三人で相談していたんですか」
「フランス人の紳士がボートに乗らなければならない最後の瞬間まで相談しておりました」
「彼らの間で、このリストと同じような書類を渡していましたか」
「なにかの書類を渡していましたけれど、どんな書類か、私は存じません」
「形や大きさがこれに似ていましたか」
「たぶん。ですけれど、本当に私は存じません。あの方たちは私のすぐ近くで低声《こごえ》で話しながら立っていらしたのですけれど。と申しますのは、あの方たちは、そこに吊り下げてあるランプの明かりを利用するために、船室の階段の一番上に立っていらしたからです。それはうす暗いランプでしたし、あの方たちはごく低い声で話していらっしゃいましたので、何を話していらっしゃるのか、私には聞えませんでした。私は、ただ、あの方たちが書類を見ていらっしゃるのを見ただけでございます」
「では、被告とかわした話を、マネットさん」
「被告は私の父に対して親切で、また、役に立ってくださったように、私に対して、なにひとつ隠し立てをなさいませんでした。もし望めますことでしたら、(わっと泣き出して)あのときのお返しに、今日、あの方に害を加えるようなことがございませんように」
青蠅のぶんぶんうなる声。
「マネットさん、もし被告に、あなたが、非常に不本意ではあるが、あなたがなす義務のある――なさねばならない――のがれることはできない――証言をしていることが了解できないならば、ここにいる中で、そういう人間は被告ただ一人なのです。どうぞ話をつづけて下さい」
「あの方は、ある微妙な、むずかしい用件のために旅行していらして、そのために人に迷惑をかけるかもしれないから、仮の名を使って旅行しているのだとおっしゃいました。そして、その用件のために、二、三日中にフランスへ帰らなければならないし、また、それからずっと、時々、フランスとイギリスの間を往ったり来たりしなければならないでしょう、とおっしゃいました」
「彼はアメリカについてなにか言いましたか、マネットさん。詳細に述べて下さい」
「あの方は、どうしてあの争いが起こったか、私に説明しようとなさいました。そして、あの方の判断できる限りでは、イギリス側の間違いと愚かさから起こったものだとおっしゃいました。そして、冗談のように、おそらくジョージ・ワシントンはジョージ三世と同じくらい偉大な名を史上にのこすだろうとつけ加えておっしゃいました。ですけれども、それをおっしゃったご様子には、すこしも悪意はございませんでした。あの方は笑いながら、退屈しのぎにそうおっしゃったのでございます」
非常な興味をよぶ場面の、多くの人の注目の的である主役の顔にあらわれたいちじるしい表情は、見物人たちによって意識せずして模倣された。彼女がこの証言をしたとき、彼女の額には痛ましい懸念《けねん》と緊張があらわれた。そして、裁判官がそれを書きとめるために彼女は話をやめて、弁護士にあたえたその効果が有利か不利か、じっと見つめた。法廷をうずめた見物人の間にも同じ表情があった。それはそこにいた大多数の人の額がその証人をうつす鏡であるかのようであった。このとき、裁判長はジョージ・ワシントンについての、かの恐るべき邪論に対して怒りを発するために、覚え書から眼を上げた。
検事総長は裁判長閣下に、念のために、また形式として、令嬢の父であるマネット医師を呼ぶのが必要であると表明した。それでマネット医師が呼ばれることになった。
「マネット医師、被告をごらんなさい。あなたは被告に会ったことがありますか」
「一度あります。ロンドンの私の住居を訪ねた時です。三年か三年半ばかり前です」
「あなたは彼が定期船に乗っていた乗客にまちがいないと認めることができますか。また、彼とあなたの娘が何を話し合っていたか、述べることができますか」
「どちらも、できません」
「どちらもできないということには、なにか特別な理由があるのですか」
彼は低い声で答えた。「あります」
「それは、あなたが、生まれた国で裁判もうけず、起訴さえされずに長い間投獄されていた不幸な事実のことですか、マネット医師」
彼はあらゆる人の心にしみるような声で、「長い間の投獄でした」と答えた。
「あなたは、問題の時に、はじめて放免されたのですか」
「人がそう言っています」
「あなたにはそのときの記憶がないのですか」
「まったくありません。私の頭の中は、いつからか――いつなのか、それさえ知りませんが――監禁中に靴づくりをはじめたときから、このロンドンで愛する娘と一緒に暮らしているのに気がついた時まで、空白なのです。情深い神様が私の能力を元に戻して下さったときには、娘は私にとって身近かなものになっていました。どうして娘が身近かなものになったのか、それさえ、まったく不可解なのです。そのことについては、なにひとつ記憶がありません」
検事総長は坐った。そして父と娘も一緒に坐った。
そのとき、この事件に奇妙な状況が発生したのである。当面の目的は、被告が、誰にも追われることなく、五年前の十一月の金曜日の夜、共犯者とともにドーヴァ行の郵便馬車に乗り、途中、他人の目をくらますために馬車を降りたが、そこには留まらずに、要塞と造船所まで十二マイルか、もうすこし引き返して、そこで情報を集めたという事実を示すことにあったので、求められた正確な時間に、要塞と造船所のある町のホテルの喫茶室で、人を待っていたのは、被告にまちがいないかどうかと証人が呼ばれた。被告の弁護人はこの証人を反対訊問したが、彼が、その他の機会には被告を見たことがない、というだけで、なんの成果も得られなかった。すると、このとき、終始、法廷の天井をながめていたかつらの紳士が、小さな紙片に一語か二語書き、それをひねって、弁護人に投げた。彼は話のくぎりでこの紙片を開き、非常な注意と好奇心をもって被告を見た。
「あなたは、それが被告|であった《ヽヽヽヽ》と、絶対に確信があると、重ねて言うんですね」
証人は絶対に確信があった。
「あなたは被告に非常によく似た人に会ったことがありますか」
見ちがえるほど、よく似た人に会ったことはない、と証人が言った。
「あそこにいる紳士をよくごらんなさい、博学な僕の友人です」と、紙片を投げてよこした男を指示しながら、「それから、被告をよくごらんなさい。どうですか。たいへんよく似ているでしょう」
その博学なる友人の風貌が充分よく似ていたので、こうして彼らを比較したとき、証人ばかりでなく、そこにいた人はみな驚いた。裁判官は、その博学なる友人にかつらを脱ぐように命じてくださいと嘆願されて、たいして愛想のよくない承諾をあたえたが、二人の相似はますますいちじるしくなった。裁判官はストライヴァー氏(被告の弁護人)に、今度はカートン氏(その博学なる友人の名前)を反逆罪で審理するのか、と尋ねた。だが、ストライヴァー氏は裁判官に否と答えた。しかし、一度あったことは二度あるかもしれないかどうか、また、もし証人が自分の早合点であった実例にもっと早く出合っていたら、それほど確信があったかどうか、また、現にそれに出会った今、はたしてさっきのような確信があるかどうか、等々、証人に尋ねたいと答えた。その結果は、この証人を陶器の鉢のように粉砕して、この事件における彼の役割をこっぱみじんにしてしまったのである。
クランチャー氏はずっと証言に耳を傾けながら、このときまでに昼飯分の錆を指から食べてしまった。今度は、彼は、ストライヴァー氏が、愛国者バーサッドは雇われたスパイであり、反逆者であり、血を売る破廉恥な商人であって、かの呪われたユダ以来の――たしかにその男はどこかユダに似ていた――地上最大の悪漢のひとりであると説明しながら、被告の言い分を、きっちりからだに合った衣装のように陪審員に合わせていくのに注意しなければならなかった。また、かの高潔なる従僕クライは、彼の友人にして共犯者であり、まさにそれにふさわしい人間であること、被告がフランス人で、フランスにおけるある家庭の事情から海峡を往き来しなければならなかったために、この二人の嘘つきの偽証者が、抜け目なく被告を餌食としてとらえたこと――被告にどんな家庭の事情があるかは、愛する近親者へのおもいやりから、彼は生命に代えても口外できないこと。また、あの若い婦人に強いた証言は――彼女が証言したときの苦悶を、諸君は目撃したはずだが――そういう場合に遭遇した若い男女の間にかわされがちの、ささやかな、罪のない好意と礼儀をも含めて、結局、むだであったこと。ただ、ジョージ・ワシントンに言及した部分は、まったく無茶であって、不埒《ふらち》な駄じゃれというよりほかにみなしようがないこと。最も低級な国民の嫌悪と懸念にたいしてこのように人気とりを企てて失敗するのは、政府の弱点であろうからして、検事総長は極力、力をつくされたのだが、それにもかかわらず、結果は何の収穫もなかったこと。ただ、ああした悪質な恥ずべき証言が、このような事件をゆがめる場合が多すぎて、この国の裁判所にはそれがあふれているということ。だが、このとき、裁判長閣下がさえぎって(本当とは思われぬほど厳かな顔をして)、自分はこの席に坐ってそのようなあてつけを聞いていることはできない、と言った。
それからストライヴァー氏は彼の側の少数の証人を呼んだ。そしてクランチャー氏は、検事総長が、バーサッドとクライは自分が考えていたよりも百倍も善人で、被告は百倍も悪人だと説明しながら、先刻ストライヴァー氏が陪審員に合わせた衣装を全部裏返しにして行くのを傾聴しなければならなかった。最後に、わが裁判長閣下がでてきて、衣装を裏返しにしたり、表返しにしたりしたが、概して、それに飾りをつけて被告の死衣に仕立てた。
さて、陪審員は審議をするために向うを向いた。そして、大きな蠅どもがまた群がった。
ずっと法廷の天井を眺めながら坐っていたカートン氏は、この興奮の中でも、位置も姿勢も変えなかった。学識ある友人ストライヴァー氏が前にある書類を集めて、近くに坐っている人々とささやき、時々心配そうに陪審員をちらと見ているというのに、全観衆が多少は動きまわって、新たにかたまったりしているというのに、わが裁判長閣下さえ席から立ち上って、段の上をゆっくりとあちこち歩きまわり、聴衆から裁判長はのぼせているのではないかと疑われているのに、この人間だけは破れた上着を半分ひっかけ、先刻脱いだかつらが偶然頭にのっかったという風に、かつらをだらしなくかぶり、両手をポケットにつっ込んで、一日じゅうやっていたように天井を見ていた。彼の態度にはどこか特別に投げやりなところがあって、彼を不まじめな人間に見せた上に、あれほど被告とよく似ていたのを、それほどでもなく思わせたので(二人を比較したとき、彼がその瞬間だけ真剣になったので二人がいっそうよく似て見えたのである)見物人の多くは、あらためて彼を見ながら、あの二人がそれほど似ているとは思わなかったのにと話し合った。クランチャー氏も隣の人にそう言って、こうつけ加えた。「|あの男《ヽヽヽ》には、弁護士の仕事なんざありっこないぜ。ありそうに見えるかってんだ」
しかし、このカートン氏は見かけよりもその場の細かいことによく気をつけていたのであった。というのは、マネット嬢の頭ががっくりと父親の胸に落ちたとき、最初に気がついて、「役人、あの若いご婦人を介抱しろ。あの紳士があのひとを外につれ出すのを手伝え。あのひとが倒れるのが見えないのか」と聞えるように言ったのは彼であったからだ。
彼女がつれ出されたとき、彼女に非常な同情があつまった。また、彼女の父親にも非常な同情があつまった。自分が投獄されていた時のことを思い起こさせられたのは、彼としては、明白に非常な苦痛であったのだ。審問されたとき、彼は内心のはげしい興奮をあらわしていた。そして、それからずっと、彼を老人に見せたあのじっと考えこむまなざしが、重い雲のように彼につきまとっていた。彼が出て行ったとき、振りかえってちょっと待っていた陪審員たちは、陪審員長を通じて言った。
彼らは意見が一致しないので、退いて協議したい、と。裁判長閣下は(おそらくジョージ・ワシントンのことを考えていたのだろうが)彼らの意見が一致しないことにいささか驚いた様子だったが、彼らが監視つきで退去するなら満足だと言って、自分も出て行った。裁判は一日じゅうかかって、今、法廷のランプがともされていた。陪審員はなかなか入って来ないだろうという噂がひろがりはじめた。見物人たちは軽食をとりに出て行き、被告は被告席の後ろに退いて、坐った。
若い婦人と父親が出て行ったとき、そこにいなかったローリー氏は、今また姿をあらわして、ジェリーをまねいた。そのときは、興味が下火になっていたので、ジェリーはらくに近づくことができた。
「ジェリー、なにか食べたいなら、食べていいよ。だが、近くにいるんだぞ。陪審員が入ってくれば、判決があるにきまっているから。ちょっとでも陪審員におくれないようにな、お前に銀行へ判決をとり次いでもらいたいのだから。わたしの知ってる中で、お前ほど早い使いはない。だから、わたしよりずっと前にテンプル門に着くだろう」
ジェリーの額はせまくて、げんこつでつくだけの広さしかなかったが、一シリングのお礼と、承知したしるしに、額をこつんとついた。このときカートン氏が近づいてきて、ローリー氏の腕に手を触れた。
「あの若いご婦人はいかがですか」
「非常に悲しんでおられますが、お父さんが慰めていますし、法廷の外に出たので、気分もよくなってきたようです」
「僕から被告にそう言っておきましょう。あなたのようなりっぱな銀行の方が、人前であの男に話しかけるところを見られては、おもしろくないですからね」
ローリー氏はそのことを先刻から心の中で考えていたところなので、それが彼に知れたように顔を赤らめた。するとカートン氏は被告席の外側へと歩いて行った。法廷の出口もその方角にあったので、ジェリーはからだじゅうを眼と耳と釘にして彼を見送った。
「ダーネー君」
被告はすぐさま出て来た。
「君は、もちろん、証人のマネット嬢《さん》のことが知りたいでしょうな。あのひとはじきに回復しますよ。君が見たのは、あのひとが最悪の興奮状態にあったときだ」
「僕が原因なのですから、非常に残念に思っています。そのことと、私の心からの感謝を、あのひとに伝えていただくことができるでしょうか」
「ええ、できますよ。君が頼むなら、そう言ってあげますよ」
カートン氏の態度は傲慢と思われるほどなげやりであった。彼は被告席にひじをもたせかけながら、被告から半分こちらを向いて立っていた。
「お願いします。僕の心からの感謝をお受け下さい」
「なんだって」と、カートンは、やはり彼に半分からだを向けたまま言った。「ダーネー君、君が予想しているのは――」
「最悪の事態です」
「それは最も賢明だし、最もありそうなことだな。しかし、僕は、陪審員が退廷したのは、君に有利だと思うね」
ジェリーは、法廷の出口でうろうろしていることは許されなかったので、それ以上聞くわけにはいかず、そこをはなれた、そして、容貌はそれほどよく似ているのに、態度はまるきり異なる二人の男は、並んでたたずみながら、その姿を上の鏡にうつしていた。
下の、泥棒や悪漢の群れている廊下では、羊肉パイとビールの助けを借りても、一時間半はなかなかたたなかった。しゃがれ声の使者は軽い食事のあと居心地わるそうにベンチにすわっていたが、いつのまにか居眠りをはじめていた。そのとき、がやがやいう声がおこって、法廷へ通じる階段を人々が急潮のように上って行くのに起こされて、ジェリーも彼らといっしょに上って行った。
「ジェリー、ジェリー」彼が入口に着いたとき、ローリー氏は、もう、彼を呼んでいた。
「はい、旦那。戻ってくるのは、たいへんなこってさあ。ここですよ、旦那」
ローリー氏は人混みのなかで彼に紙片を渡した。「早く。持ったかい」
「はい、旦那」
紙片に走り書きしてあったのは、「無罪放免」という語であった。
「もしあんたの言伝《ことづ》てが、また、『よみがえる』だったら、今度はそのわけが分ったのになあ」とジェリーはこちらを向いて呟《つぶや》いた。
彼はオールド・ベイリーをすっかり出てしまうまで、その他のことは口に出す機会もなければ、考える機会さえもなかった。というのは、群衆が彼の足をさらってしまいそうな猛烈な勢いでどっと出てきて、まるで裏をかかれた青蠅が他の腐肉を求めて散って行くように、さわがしい声が街へ流れて行ったからであった。
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第四章 お祝い
ほの暗い燈火がともっている法廷の廊下から、終日そこで煮えたぎっていた人間のシチューの最後のかすが流れ出て行ったとき、マネット医師とその娘のルーシー・マネットと弁護依頼人ローリー氏と弁護士ストライヴァー氏の四人は、チャールズ・ダーネー氏――釈放されたばかりの――をとりかこんで、死を逃がれたよろこびを述べていた。
燈火がもっとずっと明るくても、マネット医師の知的な顔や高潔なものごしの中に、あのパリの屋根裏部屋の靴づくりをみとめることはむずかしかったであろう。だが、たとい、彼の低いおちついた声の悲しげな抑揚や、これという理由もなく発作的に彼をおそうあの放心状態にまで気がつかなかったとしても、彼を見た人は、誰しも、もう一度彼を見ずにはいられなかった。ある外的な原因、それは彼の長い、苦悩にみちた生活にふれることだが――裁判のときのように――それが彼の魂の奥底からこの状態を呼びさます一方、また、その状態がひとりでにおこって、彼を暗闇の中に包んでしまうのであった。それで、彼の身の上を知らない人には、まるで、実体が三百マイルも離れたところにあるのに、夏の太陽が彼に投げかけた本当のバスチーユの影を見たかのように不可解であった。
ただ彼の娘にだけこの暗い物思いをはらい除ける魔法の力があった。彼女は彼の苦難の彼方《かなた》にある過去と、彼の苦難の此方《こなた》にある現在とを結ぶ黄金の糸であった。そして彼女の声の響きや、顔の明るさや、手の感触は、ほとんどいつでも彼に非常によい影響をおよぼした。だが、必ずいつでもというわけにはいかなかった。というのは、彼女の記憶では、自分の力が及ばなかった場合があったからである。しかし、そういう場合は、ごくわずかで、また、たいした場合ではなかったから、彼女は、もうすぎたことと思い込んでいた。
ダーネー氏は彼女の手をとって、感謝をこめて熱烈に接吻し、それからストライヴァー氏の方に向いて、心から感謝した。ストライヴァー氏は三十を少し過ぎた男だが、実際より二十も老《ふ》けて見え、肥って、声が大きくて、顔が赤くて、ぶっきらぼうで、優雅などという欠点はさらになく、(道徳的にも肉体的にも)人々や話の中へ肩で押しわけて入って行く押しの強い人間であった。そしてそのことは、彼が人生においても人を肩で押しわけて出世して行く証拠でもあった。
彼はまだかつらと法服を着けたままであった。そして、罪のないローリー氏を仲間からすっかり押し出してしまうほど弁護依頼人にたいして肩をいからせながら、言った。「僕は君の名誉を傷つけずに救って上げてうれしいですね。あれは卑劣な告発ですよ。卑劣きわまる。しかし、だからといって、成功する見込みがそれだけ少なかったわけではなかった」
「あなたのご恩は一生忘れません――二つの意味で」と彼の依頼人は彼の手をとって言った。
「僕は最善をつくしたのですよ、ダーネー君。僕の最善は誰とくらべても遜色はないと思ってますがね」
「いや、断然まさっていますよ」と、誰かが言わねばならないことが明白だったので、ローリー氏が言った。おそらくローリー氏はまったく無関心で言ったのではなく、もう一度押し返してもとの場所に戻ろうという魂胆だったのだろう。
「そう思いますか」とストライヴァー氏が言った。「なるほど。あなたは一日じゅうあそこにおられたのだから、ご存じのはずですね。それに、あなたは事務家ですからね」
「その事務家として申し上げたいのですが」ローリー氏がこう言ったとき、法律に明るいかの弁護人は、先に彼を仲間から押し出したように、今度はもう一度彼を仲間の中に押し返していた。――「事務家としてマネットさんにお願いしたいのですが、このお話はこれまでにして、われわれが皆、家へ帰るようにおっしゃっていただきたいですね。ルーシーさんは気分がすぐれないようですし、ダーネー君にはおそろしい一日でしたからね。われわれもへとへとですよ」
「ご自分のことを言いなさいよ、ローリーさん」とストライヴァーが言った。「僕にはまだ夜の仕事がありますからね。ご自分のことを言いなさいよ」
「わたしは自分のために言ってるんですよ」とローリー氏が答えた。「それから、ダーネー君と、ルーシーさんに代って――ルーシーさん、わたしがわれわれ皆のために口をきいてもいいとお考えになりませんか」彼は彼女の父親をちらと見て、ルーシーに向って尋ねた。
マネット医師はダーネーをひどく不思議そうに見ながら、凍りついたような顔をしていた。それはじっと見つめる眼で、恐怖さえ混じえた嫌悪と不信をあらわす不機嫌な表情が濃くなっていった。そして、この奇妙な表情を浮かべたまま、彼の思いはあらぬ方《かた》へ漂って行くのであった。
「お父さま」ルーシーは手をそっと彼の手にのせながら言った。
彼はゆっくりと影をはらいのけながら、娘の方を向いた。
「お家《うち》へ帰りましょうか、お父さま」
彼は長い息をして、「うん」と答えた。
無罪になった被告の友人たちは、彼はその夜は釈放されないだろうという印象をうけて――被告は自分でもそう思いこんでいたのだが――方々に散ってしまっていた。廊下の燈火はほとんど消され、いくつもある鉄の門はギイ、ガタガタと音をたてて閉められていた。そして陰気な法廷は、明日の朝、絞首台や、さらし台や、笞刑柱や、焼きごてにたいする興味から人々が集まって来るまでは人気《ひとけ》がなくなった。ルーシー・マネットは父親とダーネーにはさまれて、外に出て行った。貸馬車が呼ばれて、父と娘はそれに乗って立ち去った。
ストライヴァー氏は彼らを廊下に残して、肩をいからせて控え室へ戻って行った。仲間にも入らず、誰とも一言もかわさずに、壁の一番暗いところによりかかっていたもう一人が、みなの後から無言で出て来て、馬車が行ってしまうまで眺めていた。それから、ローリー氏とダーネーが立っている舗道まで歩みよってきた。
「やあ、ローリーさん、今なら事務家がダーネー君に話しかけてもいいんですか」
その日の弁論におけるカートン氏の役割については、誰ひとり感謝の意を表したものはなかった。誰ひとり、それに気づいたものがなかったのだ。彼は法服を脱いでいた。といっても、別に風采が上がったわけでもなかった。
「ダーネー君、事務家の心が人のいい衝動と事務的な外観とに分裂したときその人の心の中でどんな戦いがおこるか、君が知っていたら、とても面白いんだがなあ」
ローリー氏は顔を赤らめて、本気になって言った。「あなたは前にもそう言いましたね。銀行に職を奉じているわれわれ事務家は、自分の思い通りにはできないのですよ。われわれは自分のことよりもまず銀行のことを考えなければならないのです」
「分ってます、分ってます」とカートン氏は無頓着に答えた。「気を悪くしないでくださいよ、ローリーさん。あなたが人より不親切だということは絶対にありません。おそらく、人より親切でしょう」
「本当のところ」ローリー氏は彼にかまわずにつづけた。「あなたがそのこととどんな関係があるのか、わたしにはまったく分りませんね。あなたよりずっと年長者として失礼な言い分を許していただけますなら、それがあなたのお仕事だとは、わたしはまったく分りませんねえ」
「仕事ですと! いやはや、僕には仕事なんかありませんよ」とカートン氏が言った。
「仕事がないとは、お気の毒です」
「僕もそう思います」
「もしおありだったら、きっと、精を出してなさるでしょう」
「いや、とんでもない、僕はやりませんよ」とカートン氏が言った。
「なるほど」ローリー氏は彼が無関心なのにすっかり腹を立てて叫んだ。「仕事というものはたいへんいいものですよ。また、たいへん尊敬に価するものです。ですから、もし仕事のために束縛されたり、沈黙を強いられたり、不都合があったりしても、ダーネーさんは寛容な方ですから、その事情を酌量してくださることと思います。ダーネーさん、さよなら、神様があなたを祝福してくださるように。今日救われたあなたに、仕合せな人生が待っていますように。――椅子かごが来ました」
ローリー氏は弁護士に少々腹を立てていたが、きっと自分にも腹を立てていたのだろう。そそくさと椅子かごに乗ると、テルソン銀行へ運ばれて行った。ポートワインのにおいをただよわせて、全然しらふとは思われなかったカートンは、そのとき笑ってダーネーの方を向いた。
「君と僕とがいっしょになるとは、ふしぎなめぐり合わせですな。こうして街の石だたみの上に、君にそっくりの男と二人だけで立っているとは、君としてもふしぎな気持がするだろうね」
「僕は、まだ、またこの世に戻ってきたような気がしませんよ」とチャールズ・ダーネーが答えた。
「むりもないさ。君があの世のだいぶ近くにいたのは、それほど前のことじゃないからね。君は弱々しい口のきき方をするね」
「僕は自分が弱っているのに気がついたところです」
「じゃあ、なぜ食事をしないのだね。僕の方は、あのとんまな連中が君をどっちの世界のものにすべきか――この世界か、あるいは、どこかよその世界か――と頭をひねっている間にすませてしまった。ここから一番近い居酒屋で食事がゆっくりできるところに君を案内しよう」
カートンは彼と腕を組んで、ラジット・ヒルからフリート街に下り、それから覆道《ふくどう》を上って、とある居酒屋へ連れて行った。ここで彼らは小部屋に通されて、チャールズ・ダーネーは、まもなく、簡素なうまい食事と上等なワインをとって体力を回復し、また、カートンは同じテーブルに向い合って、ポートワインのびんを別に自分の前において、いつものように誰はばかるところなく、人を小馬鹿にしたような様子をしていた。
「君はまたこの世に舞い戻ったような気がするかい、ダーネー君」
「僕はおそろしく時と場所がこんがらかってしまったのです。しかし、やっとそう感じられるようになりました」
「それはたいへん結構なことですな」
彼はにがにがしくそう言って、またグラスにいっぱい酒を注いだ。それは大きなグラスであった。
「自分のことを言えば、僕の最大の願いは、自分がこの世のものであるということを忘れたいんだ。この世は僕にとっちゃ、なにもいいことはない――こんな酒のほかにはね――また、僕の方もこの世にとっちゃ、なんの役にも立たないんだ。つまり、僕たちは、その点ではあまり似ていない。本当のところ、われわれはどんな点でもあまり似てはいないんだ、君と僕は」
チャールズ・ダーネーはその日の心の激動にかき乱され、また、こうして自分によく似た、この粗野な男と一緒にいることが夢のような気がしていたので、なんと返事をしていいか当惑した。そして、ついに何も言わなかった。
「夕飯がすんだところで、なぜ君は健康を祝さないのだね、ダーネー君。なぜ乾杯しないのだね」とほどなくカートンが言った。
「健康って? 乾杯って?」
「なんだい、口に出かかっているくせに。きまってるじゃないか、そんなことは」
「じゃあ、マネット嬢《さん》」
「じゃあ、マネット嬢《さん》」
カートンは乾杯する間じっと相手の顔を見つめていたが、グラスを肩越しに壁に投げつけた。そしてそれはみじんに砕けた。彼はそれからベルを鳴らして、もう一つグラスを持って来いと命じた。
「あれは暗いところで馬車に乗せるにはもってこいの美人だねえ、ダーネー君」彼は新しいグラスに酒をみたしながら言った。
ちょっと眉をひそめて、ただ、「そうですね」と言っただけ。
「あれは同情してもらったり泣いてもらったりするにはもってこいの美人だねえ。どんな気がするかい。あんなふうに同情されるなら、生命をまとにして裁かれる価値があるかねえ」
ダーネーはまた一言も答えなかった。
「僕が君の言伝てをあのひとに伝えたら、非常に喜んでいたよ。喜んでいる顔をしたわけじゃないんだ。ただ、僕がそう想像するのさ」
このあてつけを聞いたとき、ちょうどダーネーは、その日この不愉快な仲間に自分の窮境を救ってもらったことを思い出した。そこで彼は話をそのことに向けて、彼に感謝した。
「僕は礼なんか言ってもらいたくないし、また、礼を言われるすじでもないよ」と彼は無頓着に答えた。
「第一に、あれはなんでもないことだし、第二に、僕はなぜあんなことをしたのか分らないんだ。ダーネー君、君に訊《き》きたいことがあるんだがね」
「どうぞ、あなたのご親切にたいするささやかなお返しですよ」
「君は、僕がとくに君が好きだと思うかね」
「本当のところ、カートン君、僕は自分で自分に訊いてみたことがないんですよ」ダーネーは妙にあわてて答えた。
「じゃあ、今、自分に訊いてみたまえ」
「あなたはまるでそんなふうにふるまったが、僕はそうだと思いませんね」
「僕もそうだとは思わない」とカートンが言った。「僕は君の理解力は相当なものだと思いはじめたよ」
「だからと言って」ダーネーはベルを鳴らそうと立ち上がりながらつづけた。「僕が勘定を命じて、われわれが悪意なく別れてはいけないという理由は何もありませんよ」
カートンは「まったく何もない」と答えたので、ダーネーはベルを鳴らした。「君は全部払うのかね」とカートンが言った。彼がそうだと答えると、「では、これと同じワインを、も一杯持ってきてくれ、給仕。それから、十時になったら起こしに来てくれ」
チャールズ・ダーネーは勘定を払って、立ち上がり、彼にいとまを告げた。カートンは挨拶も返さないで、挑戦するような恰好で自分も立ち上がり、「最後に一言、ダーネー君、君は僕が酔っていると思うかね」と言った。
「僕はあなたが先刻から飲んでいたのだと思っていますよ、カートン君」
「思うって。君は僕が飲んでいたのを知っているじゃないか」
「どうしてもそう言わなきゃならないんでしたら、僕は知っていますよ」
「それでは、ついでにそのわけも教えてやろう。僕は希望を失った奴隷なんだ。僕はこの世の人間には誰にも関心をもっていないし、この世の人間は誰も僕に関心をもっていない」
「非常に残念です。あなたは才能をもっと有効に使われたらよかったでしょうに」
「そうかもしれないね、ダーネー君。しかし、そうでないかもしれない。だが、君がしらふだからって、いい気にならないでもらいたいね。それがどういうことになるか、君にだって分らないさ。さよなら」
この奇妙な男は、ひとりになると、蝋燭《ろうそく》をとって壁にかかっている鏡のところへ行き、鏡の中の自分の姿を詳細にしらべた。
「お前はとくにあの男が好きなのか」彼は自分の映像にむかって呟いた。「なぜ、お前に似た男をとくに好かなければならないのか。お前には人に好かれるところなど、何もない。お前はそれを知っている。畜生、お前はなんて変わってしまったんだろう。あの男が、お前が堕落する前の姿、お前がそうなったかもしれない姿をしているからって、好きになるわけはないじゃないか。もしあの男と入れ代っていたら、お前は、あの男のように、あの青い眼で見られ、あの男のように、あの興奮した顔に憐れまれただろうか。さあ、どうだ、はっきり言ってしまえ。お前はあいつを憎んでいるんだ」
彼は慰めを酒に求めて、一パイントの酒を二、三分で飲み、腕枕をして仰向けになって眠ってしまった。彼の髪はテーブルの上に散らかり、蝋燭から垂れた長い蝋《ろう》のかたまりが彼のからだに滴り落ちていた。
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第五章 やまいぬ
それは酒を飲む時代であって、たいていの男は大いに酒を飲んだ。そうした習慣に「時」が非常に大きな進歩をもたらしたから、今日では、一人の男が非のうちどころのない紳士としての評判をそこなうことなく一夜のうちに飲む酒やパンチの量を控え目に言っても、途方もない誇張だと思われるだろう。法律という知的職業は、その酒宴好きな傾向ではたしかに他の知的職業にひけをとらなかった。また、ストライヴァー氏は、いち早く人を肩で押し分けながら、有利な大きな仕事を手がけていたが、この点でも、酒に関係ない法律上の競争と同様に、仲間にひけはとらなかった。
オールド・ベイリーの寵児《ちょうじ》であり、また、普通刑事裁判所の寵児でもあるストライヴァー氏は、上って来た梯子《はしご》の下の段を用心深く切りおとし始めていた。今や普通刑事裁判所もオールド・ベイリーも彼らの寵児に対しては特別な待遇をもって招かなければならなかった。そして肩で人を押し分けながら高等法院の民事部長を目指してまい進するストライヴァー氏の血色のよい顔が、庭いっぱいに茂った豪華な仲間の中から太陽にむかってぐんぐん伸びて行く大きなひまわりのように、かつらの花壇からすっくと現われるのが日ごとに見られるのであった。
法廷では、以前、ストライヴァー氏についてこういうことが知れ渡っていた。つまり、彼は弁舌がさわやかで、遠慮がなくて、敏捷で、大胆だが、たくさんの供述書の中から要点を抜き出す能力を持っていない。しかも、それは弁護士の才能としては最も目立つ、必要なものなのだ。ところが、この点について注目すべき進歩が彼にあらわれた。仕事がふえればふえるほど、その要点をまとめる力が増してきたように思われたし、夜、シドニー・カートンと、どんなに遅くまで飲んでいても、朝には、いつも要点をちゃんと頭に入れていたからであった。
これほどの怠け者、これほど見込みのない奴はないと思われるシドニー・カートンは、ストライヴァーの大の盟友《めいゆう》であった。二人がヒラリー期からミケルマス期までに飲んだ酒量は王様の汽船を浮かべられるくらいであった。ストライヴァーが事件を受け持つときには、いつでも、ポケットに両手をつっこんで法廷の天井を見つめているカートンがそこにいた。彼らは巡回裁判で地方を回るときにも一緒に行き、そこでも、いつもの馬鹿騒ぎを夜おそくまでつづけるのであった。そしてカートンは、白昼、放蕩猫のようにおぼつかない足どりでこそこそと住居へ帰って行く姿が見られるという噂《うわさ》であった。ついに、その問題に興味のある連中の間に、シドニー・カートンは決してライオンにはなれないが、すばらしいやまいぬであって、そのつつましい資格でストライヴァーに奉仕しているのだという噂がひろまるようになった。
「十時ですよ、旦那」カートンが起こしてくれと命じておいた居酒屋の男が言った。――「十時ですよ、旦那」
「どうしたというんだい」
「十時ですよ、旦那」
「なんのことだね、夜の十時というわけかね」
「そうですよ。あなた様が私に、あなた様をお起こしするようにとおっしゃったのですよ」
「ああ、思いだした。よろしい、よろしい」
彼は二、三度ものうげにまた眠ろうとしたが、給仕は五分間も休みなく火をかきたてて、巧みにその邪魔をしたので、彼はやっと起き上がり、帽子をひょいとかぶって、出て行った。彼はテンプル門の方に曲がり、高等法院通りと紙業ビルの舗道を二度行ったり来たりして目をさましてから、ストライヴァーの住居に入って行った。
こうした協議には、かつて助力をしたことのないストライヴァーの書記はもう帰宅したあとで、ストライヴァーが自ら扉を開けた。彼はスリッパをはき、ゆったりした寝室着を着て、喉は、もっとらくなように、むきだしであった。彼の眼のまわりには、どこかだらしのない、不自然な深い皺《しわ》が寄っていた。それはジェフリーズ(十七世紀の冷酷な裁判官)の肖像画以来、法律家階級のすべての放蕩者に見られ、また、絵によってさまざまに表現されていても、酒を飲むあらゆる時代の肖像画に見出されるものである。
「すこし遅かったな、記憶屋さん」とストライヴァーが言った。
「だいたい、いつもと同じだよ。十五分遅れたかもしれない」
二人は書籍がずらりと並び、書類が散らかっているうすぎたない部屋に入って行った。そこには暖炉が燃えていた。暖炉棚ではやかんが湯気をたて、ごちゃごちゃになった書類のまん中には、ワインがたくさんとブランデーとラム酒と砂糖とレモンがのっているテーブルが燃える火に輝いていた。
「君はもう、一本飲んできたね、シドニー」
「今夜は二本だったような気がするね。僕は今日の依頼人と食事をしてたんだ、あの男が食事をするのを見ていたのかな――どっちだって同じさ」
「君が被告の確認に問題を向けたのは、大出来だったよ。どうして君はそこに目をつけたのかね。いつそのことに気がついたのかね」
「あの男はちょっといい男だと思ったんだ。それで、もし僕に運が向いていたら、あれとそっくりの人間になったろうと思ったのさ」
ストライヴァー氏は、早くも出張ってきた腹をゆすって笑った。
「君と、君の運だって、シドニー。仕事を始め給え。仕事を始め給え」
やまいぬはむっつりして服をゆるめ、隣の部屋へ行って、冷たい水の入った大きな水差しと洗面器と、タオルを一、二本もって戻ってきた。そしてタオルを水に浸して、ゆるくしぼり、見るもおそろしい恰好に、それをたたんで頭にのせ、テーブルに坐って、言った。「さあ、用意ができたよ」
「今夜は、要約する仕事は少ないんだ、記憶屋さん」ストライヴァー氏は書類を見ながら快活に言った。
「どれだけあるんだ」
「二組だけだ」
「面倒な方を先にくれ」
「そこにあるよ、シドニー。どしどしやってくれ」
ライオンは酒のテーブルの一方の側で長椅子に仰向けに寝ころび、やまいぬは反対側の、酒のびんやグラスにすぐ手がとどくところにある、書類の散らかった自分のテーブルに坐った。二人とも惜しまずに酒のテーブルに手をだしたが、そのだし方はそれぞれ違っていた。ライオンの方は、たいてい帯革に両手をつっこんで横になり、火をながめたり、時にはちょっとした書類をいじったりしていたが、やまいぬは眉をよせ、真剣な顔で仕事に没頭していたので、グラスをとろうとしてのばした手を見るひまもなかった――その手は彼が唇にもって行くグラスを見つけだすまで、一分あまりも探しまわることがよくあった。二、三度、手がけている問題がひどくもつれてしまったので、やまいぬは立ち上がって、またタオルを水に浸けなければならなかった。そして、こうして水差しと洗面器にかようたびに、なんとも言いようのない濡れた奇妙な頭飾りをつけて戻って来たが、彼が真剣な顔をしているだけに、それはますます滑稽に見えた。
ついに、やまいぬは、ライオンの充実した食事をまとめ上げて、それをライオンに差し出した。ライオンは注意深くそれを受けとり、その中から選び出したり、批評をしたりした。そしてやまいぬはその場合にも助力した。食事を充分に議論しつくしてしまうと、ライオンはまた両手を帯革につっこんで、熟考するために横になった。するとやまいぬは、グラスになみなみとみたした酒をぐっと飲んだり、頭のタオルを取り換えたりして元気をつけて、つぎの食事の仕度にとりかかった。これも、同じようにして、ライオンに供《きょう》されて、時計が朝の三時を打つまで片づかなかった。
「さあ、仕事がすんだよ、シドニー。パンチをいっぱい、注ぎ給え」とストライヴァー氏が言った。
やまいぬは、また湯気をたてていたタオルを頭からとって、からだをゆすぶり、あくびをして、身ぶるいをしてから、ストライヴァーの言う通りにした。
「今日の検事側の証人の問題では、君はたしかだったね、シドニー。どの質問も効果を上げたよ」
「僕はいつだってたしかさ、そうだろ」
「それは否定しないよ。なにが気に障《さわ》ったんだい、パンチでも飲んで、機嫌をなおし給え」
やまいぬは不服らしくブツブツ言いながらも、またライオンの言う通りにした。
「むかしのシュルーズベリー学校のシドニー・カートンと同じだ」ストライヴァーは現在のカートンをながめ、昔のカートンを回想して、うなずきながら言った。「むかしと同じ、シーソーのようなシドニー。いま上がったかと思えば、次の瞬間には下っている。いま元気かと思えば、もうしょげている」
「ああ」相手は溜息をついて答えた。「そうだ、むかしと同じ運命の、むかしと同じシドニーさ。あのころでさえ、僕は他人の勉強はしてやったが、自分のはめったにしなかった」
「なぜ、やらなかったのだい」
「知らんね。たぶん僕の流儀だったんだろうね」
彼は両手をポケットにつっこみ、足を前にのばして、火をながめながら坐っていた。
「カートン」彼の友人は、その暖炉の火床こそ不断の努力を鍛え上げる熔鉱炉であって、その中に彼を押しこんでやることこそ、むかしのシュルーズベリー学校時代と同じシドニー・カートンにたいする唯一の思いやりある行為であるかのように、彼にむかってえらそうに肩をいからせながら言うのであった。「君の流儀は、今も昔も、かたわだよ。君は精力も意欲もふるいたたせることがない。僕を見給え」
「ああ、うるさいな」シドニーは先刻より軽くきげんよく笑って言いかえした。「君に説教されるのはごめんだな」
「いままで僕がやってきたことを、僕はいかにしてやってきたか、また、現在やっていることを、いかにしてやっているか」とストライヴァーが言った。
「いくぶんかは、僕に金を払って手伝わせてだろうね。しかし、そういうことを僕や空気にむかって言っても、なんにもならないぜ。君はしたいことをしている。君はいつも一流だったし、僕はいつも置きざりにされていたっけ」
「僕は一流にのし上がらなきゃならなかったんだ。生まれたときから、一流だったわけじゃない、そうだろう」
「君が生まれたとき、僕はそこにいなかったよ。だが、僕は、君は生まれたときからそうだったと思うね」とカートンが言った。これを聞いて彼はまた笑った、そして、二人はいっしょに笑った。
「シュルーズベリーに入る前も、シュルーズベリーでも、シュルーズベリーを出てからもずっと」とカートンはつづけた。「君は君の地位にいたし、僕は僕の地位にいたんだ。われわれがパリの学生街で、フランス語や、フランスの法律や、あまり役に立たなかったフランスのあれこれを少しずつかじりながら、一緒に勉強していたころでさえ、君は、いつも、なにかで認められていたが、僕はいつも――無視されていた」
「それじゃ、それは誰のせいなんだい」
「誓って言うが、君のせいじゃなかったという確信は、僕にはないね。君は、いつでもせかせかと、まっしぐらに、しゃにむに突進し、肩で人を押しわけ、押しのけてきたから、僕は何もせずに安閑と暮らすより仕方がなかったのだ。しかし、夜が明けようというのに、過去の話をするのは憂うつだね。帰る前に、僕をほかの方面に向けてくれないか」
「では、僕のためにあのきれいな証人に乾杯してくれ給え」ストライヴァーはグラスをさし上げて言った。「これでたのしい方面に向いたかね」
そうではなさそうに見えた。というのは、彼はまた暗い顔をしたから。
「きれいな証人だって」彼は下にあるグラスをのぞきこみながら呟いた。「今日は昼も夜も証人がおおぜいだった。君のきれいな証人というのは、誰だね」
「あの、絵のように美しい医者の娘、マネットさんさ」
「|あれが《ヽヽヽ》きれいだって」
「きれいじゃないのかい」
「ないさ」
「なんだって! あの人は全法廷の賛美の的だったよ」
「全法廷の賛美の的とはあきれたね。誰がオールド・ベイリーを美の審査員にしたんだね。あの人は金髪の人形だよ」
「君は知っているかい、シドニー」ストライヴァー氏はするどい眼で彼を見て、片手で血色のよい顔を横にゆっくりなでながら言った。「君は知っているかい。僕は、あのとき、君があの金髪の人形に同情していたから、あの金髪の人形に何がおこったか、すぐに気がついたんだと思っていたんだよ」
「何がおこったか、すぐに気がついたって。娘が、人形であろうと、なかろうと、鼻の先一ヤードが二ヤードのところで気絶すりゃ、望遠鏡がなくても見えるじゃないか。僕は君に乾杯するよ。だが、あの人が美しいということはみとめない。さあ、僕はもう飲まないよ。これから寝るとしよう」
主人が彼のあとから蝋燭をもって階段を照らすために出て来たとき、朝の光がよごれた窓から、冷たく射しこんでいた。外に出ると、空気は冷たく、わびしく、どんよりした空は低くたれ、川は暗くかすんで、あたり全体は生命のない砂漠に似ていた。朝の突風の前に塵埃《じんあい》がぐるぐる渦を巻いていて、ちょうど遠くの方で舞い上がった砂漠の砂のさきがけのしぶきが、都会を席捲《せっけん》しはじめたかのように見えた。
もてる力を空費し、身の周りは砂漠にとりかこまれて、この男は静まりかえった台地を横切る途中、じっと立ち止まって、瞬時、目前に横たわる荒野の中に、りっぱな野心と克己心と忍耐の蜃気楼《しんきろう》を見た。この幻の美しい町には、愛の像や恵みの像が彼を見おろしている空中の桟敷や、生命の果実が熟して垂れ下っている庭や、きらきら光っている希望の流れがあった。一瞬間にしてそれは消え去った。家々にかこまれた高い階上の部屋にたどりついて、彼は、着たまま、放っておかれた寝台に身を投げだして、むなしく涙で枕を濡らすのであった。
悲しげに、悲しげに、太陽は昇った。これほどすぐれた才能と感情をもちながら、それを適当に行使する道を知らず、自分を助けることも仕合わせにすることもできないで、わが身におそいかかる害虫に気づきながらも、わが身をむしばむにまかせている男――かつて、昇る太陽は、これよりわびしい存在を照らしたことはなかった。
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第六章 何百という人々
マネット医師の静かな住居はソホー広場に遠くない静かな街の一隅にあった。ある晴れた日曜日の昼さがり、四か月の月日の波はもうあの反逆罪をのり越えて、人々の興味と記憶からは、遠く海へとさらって行ってしまったころ、ジャーヴィス・ローリー氏は医師と食事をともにするために、自分の家のあるクラークンウェルから陽のあたる街を歩いて行った。ローリー氏はいく度か退いて事務に没頭したが、今では医師の友人になってしまい、その静かな街の一隅は彼の生活の陽のあたる場所であった。
このある晴れた日曜日に、ローリー氏は習慣になっている三つの理由で、昼さがりの早い時間にソホーへと歩いて行ったのである。まず第一に、晴れた日曜日には、彼はよく、晩餐の前に医師とルーシーといっしょに散歩をしたからで、第二は、天気のよくない日は家族の友人として、話をしたり、本を読んだり、窓から外を眺めたり、なんとなく時間を過ごしたりして家族といっしょに過ごす習慣であったから、また、第三の理由は、彼にも、時には小さな面倒な疑問があって、医師の家族の暮らし方が、その時を、彼が疑問を解くのにあつらえ向きの時間にしているのを知っていたからであった。
医師が住んでいたこの一隅ほど奇妙な場所はロンドンじゅうを探してもどこにもなかった。ここには通りぬける道がなく、医師の住居の正面の窓からは、世間をはなれた、しっくりした気分の街の、ちょっとしたたのしい風景が見渡された。当時オクスフォード街道の北には、大きな建物はめずらしくて、今は消え去った野原に、喬木が生い茂り、野の花が生え、さんざしの花が咲いていた。だから、田舎の空気は、落ちつく先のない貧乏人のように、痩せ衰えて教区に入って来るようなことはなく、はつらつと自由にソホーを流れた。また、さほど遠くないところに、りっぱな南向きの塀がたくさんあって、季節にはその上で桃が熟すのであった。
朝のうちは夏の光がきらきらとその一隅にさしこんだ。けれども、街が暑くなるころには、そこは日蔭になった。といっても、その向うにあるギラギラ陽の照る街が見られないほど離れた日蔭ではなかった。そこは涼しくて、おちついてはいるが、楽しくて、音がすばらしく反響する、荒れ狂う街からの避難所であった。
そんな碇泊地にはのどかな帆船が錨《いかり》をおろしているはずだが、まさにその通りであった。医師は大きな静かな家の二つの階を借りていた。その家では、いく通りかの稼業が昼間いとなまれているということだったが、昼間でもなにか音がすることはほとんどなく、夜は誰も物音ひとつたてなかった。すずかけの樹《き》が緑の葉をかさかさいわせている中庭から入る裏の建物では、教会のオルガンが製造されているということであったし、銀の彫ものが彫られているということであったし、また黄金が、あるふしぎな巨人によって打ち延ばされているということであった。その巨人は、玄関のホールの壁から金の腕をつきだしていて、まるで、自分を貴重なものに打ち延ばしたのは、自分であって、訪ねて来る客という客は、みな自分と同じように変えてしまうぞとおどかしているようであった。こうした稼業のことも、階上に住んでいるという噂のひとり住いの人のことも、たしかに階下に勘定場があるというあいまいな馬車装備職人のことも、ほとんど誰も見たり聞いたりしたことがなかった。時々、上着をひっかけた流れ職人がホールを横切ったり、見たこともない人がそこらをじっと見ていたり、中庭の向うの遠くの方からカチンカチンという音が聞えたり、黄金の巨人からドンドンと打つ音が聞えたりした。しかし、それは、家の裏のすずかけの樹の雀や家の前の隅のこだまが日曜日の朝から土曜日の夜まで勝手なことをしているという法則を証明するのに必要な除外例に過ぎなかった。
マネット医師は、ここで、昔の名声を慕ってくる患者や、彼の経歴がひそかに語り伝えられて昔の名声が復活したのに惹《ひ》かれて来る患者を迎えた。彼は深い科学的知識をもっていたし、また、独創的な実験を行なうときには慎重で、巧みであったから、そうでなくても、相当、世間に迎えられたのだ。そして彼は望むだけの収入を得ていた。
ジャーヴィス・ローリー氏が晴れた日曜日の午後、街の一隅にあるこの静かな家のベルを鳴らしたとき、彼はそういうことを知っていたし、また、考えてもいたし、また、みとめてもいたのであった。
「マネットさんは|ご在宅《アト・ホーム》ですか」
じきにお帰りになります。
「ルーシーさんは|ご在宅《アト・ホーム》ですか」
じきにお帰りになります。
「プロスさんは|ご在宅《アト・ホーム》ですか」
たぶん在宅でしょう。でも、その事実をプロス嬢がみとめるか否かは、女中には絶対に予想できないのでございます。
「わたしの方じや、気楽《アト・ホーム》なんだから、二階へ行きますよ」とローリー氏が言った。
医師の娘は生まれた国のことは何も知らなかったが、その国の最も役に立つ、最も好ましい特質の一つである、わずかな富を豊かに使うというあの才能を国からうけついで生まれながらにして持っているように思われた。部屋の家具は簡素なものであったが、よい趣味と思いつきで生かされているささやかな装飾がたくさんあったので、快い効果を生んだ。一番大きなものから一番小さいものにいたるまでの、部屋にあるあらゆるものの配置や、さまざまの色の配合、また、ちょっとしたものを節約したり、優雅な手と澄んだ眼と良識によって得られた品のよい変化や対照は、それだけでも非常にたのしいばかりでなく、それを創案した人をよく表現していたので、ローリー氏が身のまわりを見まわしながらたたずんでいると、そこにある椅子やテーブルが、いまでは彼がよく知っている一風変わった表情をして、彼に、それでいいと思うかどうかと尋ねるように思われた。
一階には部屋が三つあって、部屋に通じる扉は、空気がどの部屋にもよく流通するように開け放してあったから、ローリー氏は、自分の周囲のどこにも見出される似た思いつきをほほえましげに眺めながら、部屋から部屋へと歩いて行った。最初の部屋は一番よい部屋で、そこにはルーシーの小鳥や、花や、本や、机や、仕事台や、水彩絵具の箱などがあった。二番目の部屋は医師の診察室で、食堂にも使われていた。三番目の、庭のすずかけの樹が風にそよぐたびに点々とした影の位置が変わる部屋は医師の寝室で、部屋の隅には使っていない靴づくりの腰掛と道具箱が、かつてパリのサン・タントワヌ郊外の酒店の傍の、あの陰うつな家の五階にあったとおりに、そこにおいてあった。
「わたしには分らないね」とローリー氏は見まわすのをやめて言った。「あの人が自分の災難を思いださせるものを身近かにおいておくとはね」
「どうしてお分りにならないのですか」と急にきかれて、彼はびっくりした。
そうきいたのはプロス嬢で、最初ドーヴァのローヤル・ジョージ館で近づきになってから、その後親密の度を加えた、あの腕っぷしの強い荒々しい赤い顔の女であった。
「わたしが考えるところでは――」とローリー氏がはじめた。
「へえ、あなたがお考えになるのにはね」とプロス嬢が言った。それでローリー氏はやめてしまった。
「ごきげんいかがですか」今度はくだんの淑女が尋ねた――するどい口調だが、彼には悪意はもっていないということを表わすように。
「おかげさまで、しごく元気ですよ」ローリー氏はおだやかに答えた。「あんたはどうですか」
「べつに自慢するほどのことはありませんね」とプロス嬢が言った。
「まったくね」
「ええ、まったくですよ」とプロス嬢が言った。「わたしはお嬢さまのことで腹が立ってたまらないのですよ」
「まったくね」
「どうか、『まったくね』だけでなくて、ほかになんとかおっしゃってくださいよ。そうでないと、あたしは、いらいらして死んでしまいますよ」とプロス嬢が言った。この人の性分は(背丈とはちがって)短かかった。
「では、ほんとうに」ローリー氏はうめあわせに言った。
「ほんとうに、でもよかありませんよ」とプロス嬢が言い返した。「でも、その方がましですよ。そうですとも、あたしゃ腹が立ってたまりませんよ」
「どういうわけなんだね」
「わたしゃ、お嬢さまに全然つり合わない人たちが、何十人となくここへやって来て、お嬢さまに世話をやいてもらいたくないんですよ」とプロス嬢が言った。
「その目的で何十人もやって来るのかね」
「何百人もですよ」とプロス嬢が言った。
はじめに言ったことをききかえされると、いつでもそれを誇張して言うのがこの婦人の特徴であった(この婦人の前にも後にも、それと同じ特徴をもった人がいくたりもいるが)。
「それはそれは」ローリー氏は、思いついた限りでは、それが一番安全だと思って、そう言った。
「わたしはお嬢さまが十《とう》のときからごいっしょに暮らしてきたのですよ――いえ、お嬢さまは十のときからわたしといっしょに暮らしていらして、わたしにお給金をくださったのですよ。でも、もしわたしとあの方が、ただでやって来られるのでしたら、本当に、お給料をおだしになるようなことは、決しておさせしなかったでしょうに。ですから、それが本当にとてもつらいのですよ」とプロス嬢が言った。
なにがとてもつらいのか、はっきり分らなかったので、ローリー氏は頭を振った。彼は自分のからだのその大切な部分を、どんなものにもぴったり合う妖精の外套のように用いたのであった。
「あのかわいい方にちっともふさわしくない、いろんな種類の人たちがいつもやって来るんですよ」とプロス嬢が言った。「あなたがその始まりで――」
「|わたし《ヽヽヽ》がその始まりだって、プロスさん」
「そうじゃありませんか。誰があの方のお父さまを生き返らせたのですか」
「ああ、|そのこと《ヽヽヽヽ》がその始まりだっていうなら――」とローリー氏が言った。
「まさか、その終りじゃないでしょう。ねえ、あなたがその始まりで、わたしは本当につらかったのですよ。マネット先生がわるいっていうんじゃありませんよ。先生があのお嬢さまにふさわしくないということでしたら、先生をけなすことにはなりませんもの。どんな場合だって、誰かがあの方にふさわしいなんてことは望めませんからね。でも、先生の後から(先生なら許せたでしょうが)、お嬢さまの愛情をわたしから奪いとろうとして、大勢の人にぞくぞくとやって来られるのは、二重にも、三重にもつらいことですよ」
ローリー氏はプロス嬢が非常に嫉妬深いことを知っていたが、一方において、表面は変わりものだが、自分のことは忘れて他人のためにつくす――女性にのみ見出される――あのタイプの人間だということも分っていた。そういう人々は、自分が失った若さと自分がもったことのない美しさと、不幸にして彼らが身につけることのできなかった才芸と、彼らのくすんだ人生には輝いたことのない輝かしい希望とにたいする純粋な愛と賛美から、よろこんで奴隷になるものなのである。彼は世間のことをよく知っていたから、心からの忠実な奉仕にまさるものはないということを知っていた。そして、そうした金銭ずくでない奉仕にたいして非常な尊敬をはらっていたから、彼の心の中の因果応報の配列では――われわれはみな、多少は、そういう配列をしているが――プロス嬢を、テルソン銀行に預金をもち、天性と人工によって彼女より測り知れぬほど美しく装っている多くの淑女よりも、身分の低い天使にずっと近く置いたのであった。
「お嬢さまにふさわしい男は、今までにたった一人しかいませんでしたし、これからだってないでしょうよ」とプロス嬢が言った。「それは弟のソロモンだったのですよ。もしあの子が世渡りに失敗しませんでしたらねえ」
ここでまた、ローリー氏はプロス嬢の身の上話をきいて、彼女の弟のソロモンは冷酷な悪者で、賭け事をやるために姉の持ち物をなにもかも剥ぎとって、後悔の色もなく困窮している姉を捨ててしまったということが判明したのであった。プロス嬢のソロモンにたいするあつい信用は(この小さな過失のためにほんのわずか差し引いても)ローリー氏としては全く重大な問題であって、彼女を高く評価する上に大きな影響があった。
「こうして偶然われわれだけになったのだし、それに二人とも事務家なんだから」二人が応接間に戻って、仲よく腰をおろしたところで、ローリー氏が言った。「あんたにききたいことがあるのだが――マネットさんはルーシーと話をしているときに靴づくりをしていた頃のことには決して触れないのかね」
「決して」
「それでいて、あの腰掛と道具をそばにおいておくのかね」
「ああ」とプロス嬢は頭を振って答えた。「でも、わたしは、あの方が心の中でそのことに触れないと申しませんよ」
「あんたはあの人がそのことを相当考えていると思いますか」
「思いますとも」とプロス嬢が言った。
「あんたの想像では――」ローリー氏が言いかけたとき、プロス嬢は中途でさえぎった。
「わたしは何も想像したことなんかありませんよ。想像力がまるっきりないのですからね」
「わかりました。あんたの推察では――時には、推察ぐらいすることもあるんだろうね」
「時々はね」とプロス嬢が言った。
「あんたの推察では」ローリー氏はおかしそうに眼をきらきらさせながらやさしく彼女を見て、つづけた。「マネットさんはあんなひどい目に遇われた原因について、また、おそらく自分をひどい目に遇わせた人間の名前についても、独特の意見をおもちで、それをあれ以来ずっと胸につつんでおられるのではないだろうか」
「わたしは、そのことについては、お嬢さまがわたしにおっしゃる以外のことは、なにも推察してはおりません」
「というと――」
「お嬢さまはそれと同じことを考えていらっしゃいます」
「こういうことをいろいろきいて、怒らないでくださいよ。わたしはのろまな事務家だし、あんたは女の事務家なんだからね」
「のろまですって」プロス嬢はおちつきはらって尋ねた。
謙遜してそんな形容詞を使わなければよかったと思いながら、ローリー氏は答えた。「いや、いや。そんなことはない。さて、事務に戻って――マネットさんに罪がないということは、われわれが皆確信しているように疑う余地のないことなんだが、そのマネットさんが、その問題に決して触れないというのは、ふしぎではないだろうか。わたしのことは言いますまい。わたしとは長年の間事務的な関係があったし、今は親しい友人ですがね。あの人があれほど献身的に愛し、あの人をあれほど献身的に愛している美しいお嬢さんのことを言いたいのですよ。信じてください、プロスさん。わたしは好奇心からそれを話題にするのではないのですよ、真剣な興味なんですよ」
「そうね、わたしが一番よく分ってるところを申しますと、一番よくっていうのは、ちっともよくないことだっておっしゃるでしょうがね」プロス嬢はローリー氏の熱心な弁解ぶりに心をやわらげて言った。「先生はその問題全体をおそれていらっしゃるのですよ」
「おそれている?」
「そのわけは、分りきっていると思いますがね。恐ろしい記憶だからです。その上、あの方が正気を失ったのもそれから起こったのですもの。どうして正気を失ったか、また、どうして正気に返ったかお分りにならないのですから、もう正気を失わないという確信がもてないのだと思います。そのことだけでも、その問題がたのしいはずがないじゃありませんか」
それはローリー氏がもとめていたよりも、もっと突っ込んだ意見であった。「なるほど」と彼が言った。「それで考えるのがおそろしいのだね。しかし、プロスさん、わたしの心の中に一つの疑いがひそんでいるんだがね。それをいつも心の中にとじこめて、抑制しているということは、マネットさんにとっていいことかどうかということなんだ。まったく、こうしてあんたと打ち明けて話をするようになったのも、この疑いと、ときどきそこから湧いてくる不安のためなんだよ」
「仕方がありません」とプロス嬢は頭を振りながら言った。「そこに触れたら、とたんにもっと悪くなるばかりなんですからね。そのままにしておいた方がいいですよ。つまり、いやでも応でも、そのままにしておかなければいけないのですよ。ときどき、先生は真夜中にお起きなすって、お部屋の中をあちらこちら歩きまわっていらっしゃるのが、階下のわたしたちのところまで聞こえるのですよ。お嬢さまは、そのときには、先生のお心がむかしの監獄の中をあちらこちら歩きまわっていらっしゃるのだということがお分りになるようになりました。それで、急いで先生のところへおいでになって、先生がおちつかれるまで、ごいっしょにあちらこちらお部屋の中を歩きまわっていらっしゃいます。でも、先生はお嬢さまにも落ちついていられない本当の理由を一言もおっしゃいませんから、お嬢さまはそのことを先生にはなにもほのめかさないのが一番いいと思っておいでです。お嬢さまの愛情とおつきあいが先生を正気におかえしするまで、お二人は黙ってごいっしょにいつまでもあちらこちら歩きまわっていらっしゃるのです」
プロス嬢は想像力など持ち合わせていないと言ったけれども、あちらこちら歩きまわっているという語句を繰り返す口調には、いつもある一つの悲しい考えにつきまとわれている苦痛がみとめられて、プロス嬢が想像力を持ち合わせていることを証拠だてていた。
その一隅は音がよく反響すると述べたが、いま、また、こちらへやって来る足音がすばらしくよく反響しはじめたので、まるであちらこちら歩き回るあの退屈な足音が反響したのかと思われるほどだった。
「お帰りです」プロス嬢は話をうち切って立ち上がりながら言った。「じきに何百という人たちがやって来ますよ」
そこは音響上の性質からいってめずらしい一隅であり、特殊な耳のような場所であったから、ローリー氏が窓辺に立って足音が聞こえて来る父親と娘をさがしていると、彼らはちっとも近づいて来ないような気がした。というのは、その反響は、まるで足音が消えてしまったように消えて、そのかわりに、こちらへは来ない他の足音の反響が聞こえ、それがすぐ近くまで来たかと思うと、それきり消えてしまうのであった。しかし、ついに父親と娘があらわれて、プロス嬢は二人を迎えようと表の扉のところで待ちうけていた。
プロス嬢は荒っぽくて、赤い、こわい顔をしていたが、ルーシーが二階に上がると、帽子をぬがせて、自分のハンケチの端でなおしたり、帽子の埃《ほこり》を吹き払ったり、外套をすぐしまえるようにたたんだり、もし彼女が世界じゅうで一番虚栄心の強い、美しい女だったらそうもしたろうと思われるように誇らしげにルーシーのふさふさとした髪をなでつけたりする光景は見るもたのしかった。プロス嬢のお嬢さまの方も、彼女を抱きしめてお礼を言ったり、そんなに自分にかまってくれるなと抗議したりしているのはたのしい光景であった――だが、このあとの方は冗談に言っただけだった。さもなかったら、プロス嬢はひどく気を悪くして、自分の部屋に引っ込んで泣き出してしまったろうから。医師もまた、二人を見ながら、プロス嬢がルーシーをすっかり甘やかしてしまったと言いながらも、その口調と眼にはプロス嬢におとらぬくらいの、いや、もしそう言えるならば、プロス嬢にも増して甘やかしたい気持がうかがわれるのは、たのしい光景であった。ローリー氏もまた、この様子を眺めて、小さなかつらをかぶった顔をかがやかせながら、晩年になって自分を「家庭」に導いてくれた独身者の星に感謝しているのは見るもたのしい光景であった。だが、何百という人々はそういう光景を見にやって来なかったので、ローリー氏はプロス嬢の予言が実現されるのをいたずらに待ちうけていた。
晩餐の時間になったが、やはり何百という人々はあらわれなかった。この小さな家庭のきまりでは、プロス嬢が下の方の仕事を受け持っていて、いつも、信じられぬほど上手にやっていた。彼女のこしらえる晩餐は、ごくつつましいものだが、料理がたいへん上手で、親切に供され、英国式とフランス式を半々にとりまぜて非常に気がきいていたから、それ以上のものがあるとは思われなかった。プロス嬢の友情はまったく現実的であって、おちぶれたフランス人を探しにソホーや隣接する管区を歩きまわり、何シリングか半クラウンでそういう人々を誘惑して、料理の秘訣をききだすのであった。こうしたゴール人のおちぶれた子孫からプロス嬢はすばらしい技術を獲得したので、召使の女や少女は彼女のことを、家禽や兎や野菜をすこしばかり庭にとりにやって、それをなんでも自分の好きなものに変えてしまう魔法使いかシンデレラの名づけ親のようだと思っていた。
日曜日には、プロス嬢は医師と同じ食卓で晩餐を食べたが、その他の日は台所か二階の自分の部屋で、人が知らないときに食事をすると言ってきかなかった。彼女の部屋は陰気な部屋で、お嬢さまのほかには誰も入れてもらったことはなかった。そういうときには、プロス嬢はお嬢さまが楽しそうな顔をして彼女を喜ばせようと、楽しそうにつとめるのに調子を合わせて、いつになくうちとけた。だから、晩餐もたいへん楽しかったのである。
それはうっとうしい日だったので、晩餐のあとで、ルーシーは、すずかけの樹の下にワインをもちだして、みんな外に出て坐りましょうと提案した。何もかもルーシー次第であり、ルーシーを中心にしてまわっていたから、みんなすずかけの樹の下に出て行った。そして彼女はとくにローリー氏のためにワインを運んだ。しばらく前から、ルーシーはローリー氏のお酌掛りを引き受けていて、彼らがすずかけの樹の下で話をしている間、いつも彼のグラスにワインがいっぱいであるように気をつけていた。なにを考えているのか、周囲の家々の裏や端が、話をしている彼らを覗《のぞ》いて、すずかけの樹が一同の頭の上で、独特なささやき方で彼らにささやきかけていた。
だが、依然として、何百という人々は現われなかった。ダーネー氏が、彼らがすずかけの下に坐っているときに現われたが、彼はただの一人であった。
マネット医師は彼をこころよく迎えた。ルーシーも同様であった。しかしプロス嬢は頭とからだにけいれんが起こって、家の中に引っ込んだ。彼女はしょっちゅうこの病気になった。そして親しい人には「けいれんの発作」だと言っていた。
医師は最上の健康状態で、かくべつ若く見えた。そういう時には、ルーシーと非常によく似ていたので、二人がならんで坐り、ルーシーが彼の肩にもたれて彼が彼女の椅子の背に片腕をまわしているとき、二人の似ているところをくらべるのは非常にたのしかった。
その日は一日じゅう、医師はいろいろの問題について、いつになく快活に語っていた。「あの、マネット先生」ダーネー氏は彼らがすずかけの樹の下に坐っていたときに言った――ちょうどそのとき、ロンドンの古い建物が話題になっていたので、彼がこういう話をしたのは話題からそれていたわけではなかった――「ロンドン塔をよくごらんになったことがおありですか」
「ルーシーといっしょに行ったことがありますが、わざわざ行ったのじゃありません。興味深いことがたくさんあるということが分るくらいは見物してきましたが、それくらいですよ」
「僕も、ご記憶のように、あそこにいたことがございます」ダーネーはちょっと腹立たしそうに顔をあからめながらも、微笑して言った。「別の資格でね、塔をよく見物できるような便宜を与えられる資格ではありませんが。そのときに、奇妙な話を聞きました」
「なんのお話ですの」とルーシーが尋ねた。
「職人が方々を改造していると、偶然、古い土牢を見つけたのだそうです。それはずっと以前に作られたもので、忘れられていたものでした。その内部の壁の、石という石は、囚人が刻みつけた文字でいっぱいだったということです――日付や、名前や、不平や、祈りで。壁のすみの石には、処刑されたと思われる一人の囚人が、最後の仕事に三文字を刻んで行きました。それはごく粗末な道具で、ふたしかな手で急いで刻んだものでした。最初、それはD・I・Cと読めたのですが、もっとよく調べてみると、最後の文字はGだということがわかりました。そういう頭文字の名の囚人は記録にものっていませんでしたし、話にも聞いたことがなかったので、その名前は、いったい、何だろうといろいろと推測してみましたが、何も得るところがありませんでした。ついに、その文字は頭文字ではなくて、DIG(掘るという意味)という完全な語ではないかと言い出しました。それで、その文字の書いてある下の床を念入りに調べたところが、石だか、タイルだか、舗道用の石のかけらだかの下になった土の中に、小さな革の小箱か袋を燃した灰と混じって紙の灰があったのです。誰とも分らない囚人が書いたものは絶対に人に読まれることはないでしょうが、とにかくその囚人は何かを書いて、看守にとりあげられないように隠しておいたのです」
「お父さま」とルーシーが叫んだ。「ご気分がおわるいのですね」
彼は突然片手で頭をおさえて立ち上がった。その様子と彼の表情を見て、一同はぎょっとした。
「いや、気分がわるいんじゃないよ。大粒な雨が降ってきたから、びっくりしたのだよ。みんな家の中に入った方がいいね」
彼はほとんど即座にもとの通りになった。本当に大粒な雨が降っていて、彼は手の甲に落ちた雨の滴を皆に見せた。だが、彼は、ダーネーが語った発見のことは一言も言わなかった。そして一同が家の中に入ったとき、ローリー氏の事務家の眼は、彼の顔がチャールズ・ダーネーの方を向いたとき、いつか裁判所の廊下で彼の方を向いたときにその顔にあらわれていた表情と同じ表情をみとめた。いや、みとめたような気がした。
しかし、マネット医師があまり早く回復したので、ローリー氏は自分の事務家の眼をうたぐった。マネット医師がホールの黄金の巨人の腕の下で立ち止まって、自分はまだささいなことにも驚かずにはいられないので(そのうちには平気になるだろうが)、雨にびっくりしたのだと言ったとき、彼はその巨人の腕にもおとらぬくらいしっかりしていた。
お茶の時間、プロス嬢はお茶の用意をしているときに、また例のけいれんの発作をおこしたが、依然として何百という人々はあらわれなかった。カートン氏がぶらりと入って来た。しかしそれで二人になっただけだった。
その夜はひどくむし暑い晩で、扉や窓を開けはなして坐っていたけれども、彼らは暑くてやりきれなかった。お茶がすむと、みな窓のところまで移って、外の重くるしいたそがれを眺めた。ルーシーは父親のそばに坐った。ダーネーは彼女のとなりに坐った。カートンは窓に寄りかかっていた。カーテンは長い白いカーテンで、雷を予告する突風がこの一隅にも渦を巻いて吹き込んできて、それを天井まで吹き上げて幽霊の翼のように振りまわした。
「雨がまだ降っていますね。大粒な、重い雨がわずかばかり」とマネット医師が言った。「ゆっくりやってきますね」
「確実にやってきますよ」とカートンが言った。
彼らは低い声で話した。なにかを待ちかまえている人々が多くの場合そうであるように、また、暗い部屋で稲妻を待ちかまえている人々がいつでもそうであるように。
街は暴風雨がくる前に避難しようと急ぐ人々でごったがえしていた。そしてこだまがすばらしく反響するその一隅は往き来する人々の足音が反響して鳴り響いた。だが、ひとつとして、そこへやって来る足音はなかった。
「あんなにおおぜいの人がいながら、こんなにひっそりとしている」彼らがしばらく耳をかたむけていると、ダーネーが言った。
「ダーネーさん、こういうことは印象的ではないでしょうか」とルーシーが尋ねた。「私は、ときどき、夕方ここに坐っていて、空想するのでございます――でも、今晩はこんなにまっ暗で厳粛なのですもの、つまらない空想をちょっとしただけでも、身ぶるいいたします――」
「僕らも身ぶるいしようじゃありませんか。なんのことか、おしえてください」
「あなたはなんでもないとお思いになるでしょう。そんな気まぐれな空想は、自分で考えだすからこそ印象的なんだと思いますの。人にお話しすることではないのですわ。私は、ときどき、夕方ひとりでここに坐っていて、耳を傾けておりますと、あのこだまは、やがて私たちの生活の中に入ってくる人々の足音だと思ってしまうのでございます」
「もしそうだとすれば、いつかわれわれの生活には非常におおぜいの人々が入ってくることになりますね」とシドニー・カートンがいつもの気まぐれな調子で口を出した。
足音はとぎれる間もなく、ますます早くなるばかりであった。その一隅には人の足音がこだまし、そのこだまがまた反響するのであった。ときにはその足音が窓の下まできたかと思うと、ときには部屋の中まで入ってきたように思われ、行ったり、来たり、途中でとぎれたり、まったく消えてしまったりしたが、どれもこれも遠方の街のことで、ここからはなにも見えなかった。
「この足音が全部われわれのところにやってくるだろうとおっしゃるのですか、それとも、あれをわれわれがすこしずつ分けることになるとおっしゃるのですか、マネットさん」
「存じませんわ、ダーネーさん。私は、つまらない空想だと申し上げましたのに、お尋ねになるのですもの。そんな空想にふけっておりましたとき、私はひとりでしたの、それで、あの足音はいずれ私と父の生活に入りこんでくる人たちの足音じゃないかと想像しておりましたの」
「僕はなにもお尋ねしませんし、なにもお約束しませんけど、マネットさん。われわれのところにはたいへんな人々が押しよせて来ますよ。僕にはそれが見えるんです――稲光で」とカートンは言った。強烈な閃光がひらめいて窓にもたれている彼の姿を照らしだした。「僕には彼らがやって来るのが聞えます」彼は雷鳴が轟いた後つけ加えた。「彼らは激しい勢で、たけり狂って、どんどんやって来ますよ」
彼が象徴したのはごうごうと降りそそぐ奔流のような雨であった。そして、その雨の中ではどんな声もききとれなかったので、彼は話を止めなければならなかった。雷鳴と稲妻をともなった記憶すべき暴風雨はその奔流のような豪雨で始まった。そして間断なく轟音と閃光と雨がつづき、ようやく真夜中になって月が昇った。
セントポール寺院の大きな鐘が澄みわたった大空で一時を打っていたとき、ローリー氏は長靴をはいて角燈をさげたジェリーに護られてクラークンウェルへと帰途についた。ソホーとクラークンウェルの間には人通りのない道があったので、ローリー氏は追剥を用心していつもジェリーをとめておいた。そして、ふだんはこれよりたっぷり二時間は早くその用事がすむことになっていた。
「なんていう夜だったんだろうね。まるで死人を墓場からおびきだすような夜じゃないか。ジェリー」とローリー氏が言った。
「わしはそんな夜なんざ、見たことがありませんよ、旦那――また見たいとも思いませんよ――そんな夜にはどんなことがおこるか」とジェリーが答えた。
「おやすみなさい、カートン君」と事務家が言った。「おやすみなさい、ダーネー君。こんな夜をまたごいっしょに見ることがありましょうかね」
おそらくあるだろう。おそらく、奔流のような大群衆がごうごうと彼らに押し寄せてくるのも見ることがあるであろう。
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第七章 都会での貴族
宮廷で権力のある偉い貴族の一人であるモンセニュールが、パリの豪壮な邸宅で二週間に一度の接見を行なった。モンセニュールは、外のつづいた幾部屋かにいる多くの崇拝者にとっては数多き聖所の中の聖所であり最も神聖なる場所の中でも最も神聖である奥の間にいた。モンセニュールはチョコレートを飲むところであった。モンセニュールは非常にたくさんのものをらくらくとのみこむことができた。そして少数の気むずかしい人々からは、たちまちのうちにフランスをのみ込んでしまうだろうと思われていた。しかし、彼の朝のチョコレートは料理人のほかに四人の屈強な男の手を借りなくては喉に入ることさえ不可能であった。
そうだ。果報者のチョコレートをモンセニュールの唇にもって行くためには、四人の男が必要であった。そしてその四人は、豪勢な飾りをきらびやかに身につけ、その中の頭《かしら》はモンセニュールが定めた高尚な高雅な様式と競い合って、ポケットの中に金時計が二個以上入っていないと生きていられないのであった。家来の一人がチョコレート沸しを神聖な御前《ごぜん》に運んで行き、二番目の家来が、そのために携えている小さな道具でチョコレートをかきまわして泡立て、三番目がご愛用のナプキンを差しだし、四番目が(金時計を二つもっている例の男が)チョコレートを注いだ。モンセニュールにとって、チョコレートを飲むときに四人の家来を一人減らせば、自分を賛美している天の下で高い地位を維持することは不可能であった。もし彼のチョコレートの給仕をするのがたった三人だったら彼の定紋《じょうもん》ははなはだしく汚されたことであろう。もし二人だったら、彼は死んだにちがいない。
モンセニュールは、昨夜、喜劇とグランド・オペラが楽しく上演されている場所でちょっとした夜食をとった。モンセニュールは毎晩のように外で魅惑的な女たちといっしょにちょっとした夜食をとるのであった。モンセニュールはしごく上品で多感であったから、喜劇やグランド・オペラは、国の政治や機密に属する退屈な問題にとりまかれている彼には全フランスの窮乏よりもずっと大きな影響があった。それはフランスのためには幸福な状態であった。それと似たことが、同じように恵まれているあらゆる国々にとっても常に幸福であるように。――英国の場合も(例を挙げれば)国を売ったあの陽気なスチュアートの悲しむべき時代には、いつもその通りであったのだ。
モンセニュールは総体的な公務について真に崇高なる一つの考えを持っていた。それは何事も各自の道を進むがよいというのであった。また特別の公務については、モンセニュールはもう一つの真に崇高なる考えを持っていて、それはすべて彼の道を進まねばならぬ――彼自身の権力と収益に貢献しなければならぬ、というのであった。彼の総体的な、また特殊な享楽については、モンセニュールはもう一つの真に崇高な意見を持っていた。それは、世界は自分のために作られたのだという考えであった。彼の秩序の本文は(原文から代名詞が変わっているだけで、それはたいしたことではないが)「モンセニュール言いけるは、地とそれに満てるものはわがものなり」となっていた。
しかしながら、モンセニュールは、公私の両面において卑俗な窮迫が彼の財政に迫ってくるのが徐々に分って来た。それで、両方の問題について徴税請負人と提携しなければならなくなった。公の財政問題については、モンセニュールはまったく何も分らなかったから、誰か分る人に頼まなければならなかったし、私の財政問題については、徴税請負人は金持だが、モンセニュールは代々の贅沢《ぜいたく》と浪費で貧乏になってきたからであった。そこでモンセニュールは考えて、妹が、彼女としては一番安価な衣装であるヴェールをかぶる日がさし迫ってはいたが、まだそれをのがれるひまがあるときに修道院からひきとって、家柄はよくないが非常に金持の徴税請負人に褒美《ほうび》に与えたのである。その徴税請負人は金のりんごが先についている身分相応な杖をたずさえて、外側の部屋の人々の中におり、人々は彼の前に平身低頭していた――だが、モンセニュールの血統の偉い人々は別であって、そういう人々は、彼の妻もその一人だが、彼をきわめて傲慢《ごうまん》な軽蔑をもって見下《みくだ》していた。
その徴税請負人は贅沢な男であった。彼の廐《うまや》には三十頭の馬がいたし、広間には二十四人の従僕が坐っていたし、彼の妻には六人の侍女が仕えていた。彼はできるところでは、略奪と徴発以外の事は何もやらないと自任していたが、この徴税請負人こそ――彼の婚姻関係がどれほど社会の道徳に貢献するところがあったとしても――その日モンセニュールの邸宅に伺候した人物の中では、少なくとも最大の現実的な人物であった。
というのは、その部屋部屋は見た目には美しく、その時代の趣味と腕のかぎりをつくした装飾をほどこしてあったが、本当は健全なしろものではなかった。もし、それとどこかの(その両極端からほぼ同じ距離にあるノートル・ダムの望楼から見えるくらいのところで)ぼろ布《きれ》と寝帽子をまとった案山子《かかし》とを思い合わせると、そうした部屋はきわめて不愉快なしろものであったろう――かりに、モンセニュールの邸で誰かがそんなことを考えてみたとすれば。軍事的知識のない軍人たち、船舶のことは何も知らない海軍将校たち、政治の何であるかも知らない文官たち、淫らな眼をして、軽口で、自堕落な生活をしている俗悪きわまる厚顔な僧侶たち、彼らはみな各自の職業にはまったく不適格でありながら、そうした職に適していると嘘を吐《つ》き、図々しくも公言してはばからぬが、しかし、いずれも遠い近いの差はあっても、モンセニュールの勢力範囲のものであり、その故をもって、なにかが得られるすべての公職にはめ込まれているのだ。こんな例は何十となく数え上げられた。モンセニュール、換言すれば国家とは直接つながりのない人々、それかといって、なにか真実なもの、あるいは、この世の真実な目的に向ってまっすぐな道を歩みつづけて一生を送るという生活にも同様につながりのない人々も、やはり大勢いた。ありもしない病気に美味な薬を投薬して大身代をこしらえた医者たちはモンセニュールの応接間でみやびやかな患者連中に微笑《ほほえ》みかけていた。たった一つの罪悪を根こそぎとり除こうと真剣にとり組む治療法は除外して、国家に関係のあるささいな害悪にたいしてあらゆる種類の治療法を発見した山師たちは、モンセニュールの接見の会で、つかまえた誰彼の耳に心を迷わすたわごとを注ぎ込んだ。言葉で世界を作りなおし、わけの分らぬことをほざいている不信心な哲学者が、モンセニュールが集めたこのすばらしき会で、金属の変化に目をつけている不信心な化学者と話をしていた。その注目すべき時代には――またそれ以後も――最も育ちのよい、申し分のない紳士とは、人が自然に興味をもつあらゆる問題に無関心であるということになっていたが、彼らは、モンセニュールの邸では、ぐったりと疲れはてた様子をして最上の模範を示していた。こうしたさまざまな名士貴顕が彼らの後ろに、パリという美しい世界に残してきた家庭というのは、そこに集まったモンセニュールの崇拝者たちの中の密偵でも(それは礼儀正しい客のたっぷり半分を占めていたが)その世界の天使たちの中に、態度と外観から、自分は母親であると自認しているたった一人の妻さえみつけるのはむずかしいと思っただろう。まったく、厄介な生きものをこの世につれ出すという行為を別にすれば――それだけでは、母という名を実現するところまで行っていないが――そんなものは上流社会の風習には知られていなかったのである。そういうやぼな赤ん坊は百姓女が手もとにおいて養育し、六十歳のきれいなおばあちゃまは二十歳の娘のように装って晩餐会に出ていた。
あまりにも非現実的な腐敗ぶりはモンセニュールに仕えるあらゆる人々を醜悪に見せた。一番外の部屋には六人の例外な人々がいて、その人たちは、ここ二、三年の間、一般の事態は方向を誤っているのではないかという漠然たる危惧をいだいていた。そして、それを正す有望な方策として、その六人の半数は痙攣《けいれん》教徒という異様な宗派の信者になって、その時でさえも、泡を吹き、猛り狂い、怒号して、その場で強直症となり、そうすることによってモンセニュールのために将来へのはっきりした道標を建てるべきであろうかと、心の中で考えていたのである。この修道僧のほかに、他の宗派に走った三人は「真理の中心」についてたわごとを言って事態を改善しようというのであって、彼らの主張するところは、人類は真理の中心からはなれてしまっている――それはたいして論証を要しない――が、その円周からはまだはなれてはいない。そこで、人類がその円周から飛び立ってしまわぬように引きとめておくばかりでなく、断食をしたり精霊を見たりすることによって中心まで押し返さなければならない、というのである。したがって、こういう人々の間には、精霊と話をすることが非常に多く行われた――そしてそのことは、はっきりあらわれたことはなかったが、世の中のためになった。
だが、モンセニュールの豪壮な邸宅に集まった人々が、みな寸分の隙もなく盛装していたということは、せめてもの慰めであった。もし最後の裁きの日が盛装をする日だということが確かめられさえしたなら、そこにいる人々は誰も彼も永遠に正しいとされたであろう。ちぢらせて、粉をふりかけて、まっすぐにおったてた髪や、わざとらしく手入れをしてつくろった優美な顔色や、見るもきらびやかな剣や、えも言われぬ芳香は永遠に何ものをも変えさせはしないだろう。最も育ちのよい、申し分のない紳士は、ものうげに動くたびにチンチンと音をたてる小さな飾りものをさげていた。こうした黄金のかせは貴重な小さな鐘のように鳴り、その鳴り響く音や、絹やブロケードや上等なリンネルの衣《きぬ》ずれの音で、空気がはためき、それはサン・タントワヌとそこに巣喰う貪欲な飢餓を遠くに吹きとばした。
衣装はすべてのものをそのままにしておくために使われるただ一つの護符であり呪文であった。誰も彼も決して終ることのない仮装舞踏会のために衣装をつけていた。チュイルリーの宮殿からモンセニュールと全宮廷を経て、議会と法廷と社会全体(案山子は別として)を経て、仮装舞踏会は一死刑執行人にまで及んだのである。そして彼はその呪文に従って「髪をちぢらせて粉をふりかけ、金モールのついた上着をつけ、舞踏靴と白い絹の長靴下をはいて」勤務せよと命令された。絞首台でも車裂きの場合でも――斧による処刑はまれであったから――ムッシュー・パリ(地方の信者やムッシュー・オルレアンや、その他の人々はパリの死刑執行人の頭《かしら》をそう呼ぶのが監督派教会の流儀であったのだが)はこの優美な衣装をつけて采配をふるったのであった。であるから、このキリスト紀元一七八〇年のモンセニュールの接見の会に集まった人々の中で、髪を縮らせ、粉をふりかけ、金モールをつけ、舞踏靴と白い絹の長靴下をはいた首絞め役人にまで根を下した制度が、ほかならぬその星が消えるのを見ようとは、誰が懸念し得たであろうか。
モンセニュールは四人の男の肩の荷を下してチョコレートを飲み終ると、最も神聖なるものの中でも最も神聖な部屋の扉をパッと開かせて、出御になった。それからは、なんたる服従、なんたるこびへつらい、なんたる卑屈さ、なんたるみじめな卑下! 肉体も魂もあますところなくモンセニュールの前にかがめてしまったから、天なる神の前にかがめるべきものはなにも残されていなかった――モンセニュールの信者たちがそのことを思い煩《わずら》わなかった理由の一つは、そこにあったのかもしれない。
ここでは一言約束をし、そこではちょっと微笑《ほほえ》み、仕合せな一人の奴隷にささやいたり、別の仕合せな奴隷に手を振ったりしながら、モンセニュールは奥の部屋を通って真理の円周にあたる遠くの方まで歩いて行った。そこでモンセニュールは向きを変えて、きたところを戻り、やがてチョコレートの妖精どもが彼を聖堂に閉じ込めると、それきり見えなくなった。
見ものが終って、空気のはためきが高まって小さな嵐となり、階下では貴重な小さな鐘が鳴りひびいていた。まもなく大勢の人々は立ち去り、一人だけが残った。そしてこの男は帽子を脇にかかえ、かぎ煙草《たばこ》入れを手に持って出て行く途中、ゆっくりと鏡の間を通り過ぎた。
「おれはお前を悪魔に奉納するぞ」この男は最後の扉のところで立ち止まって聖堂の方を振り返りながら言った。
そう言い終ると、彼は足から埃《ほこり》をはらうように指からかぎ煙草をはらい落して、しずかに階下へ下りて行った。
彼は、年は六十ばかり、りっぱな身なりの、態度の傲慢な、美しい仮面のような顔をした男であった。透きとおるように蒼白な顔、はっきりした目鼻だち、そこに浮かんでいる一つの動かぬ表情。鼻は両方の鼻孔の上のところで、ほんのわずかつまんだようになっているほかは美しい形であった。その二か所の圧縮したところ、あるいは、くぼみだけが、ほんのわずかな変化を表わした。それは、時には、色を変えようとした。また時々、なにかあると、かすかな脈搏のようにふくらんだり縮んだりした。そうすると、顔全体が背信的な残酷な表情になるのであった。注意してよく見ると、なぜそういう表情になるかといえば、口の線と眼窩《めくぼ》の線が水平で細すぎるからだということが分るのであった。とはいうものの、顔全体の印象としては、それはりっぱな顔であり、注目に値する顔であった。
その顔の持ち主は階下から前庭へ出て行き、馬車に乗って立ち去った。接見の会では、あまり多くの人は彼と話をしなかった。彼は皆からはなれたせまい場所に立っていたので、モンセニュールはもっとあたたかい態度をしてもよかったのだ。そんな状態であったから、彼にとっては、庶民たちが彼の馬の前に四散したり、また、しばしば馬車にひかれそうになってあやうくのがれたりするのを見るのは、気持がよさそうに見えた。彼の御者はまるで敵に襲いかかって行くように馬車を駆《か》った。そして、御者がどんなに向うみずに猛り狂っても、主人の顔にはそれを止める色は浮かばず、主人の唇からはそれを阻止する言葉も発せられなかった。ときには、その唖《おし》の時代に、つんぼの街の中でさえ、歩道のないせまい通りでは、貴族がおそろしい勢いで馬車を走らせる習慣のために、民衆は残忍なやり方で大怪我をさせられる危険にさらされているのだと苦情が聞こえるようになっていたけれども、そのことを二度考えるほど関心をもった人はほとんどなかった。そして、この問題もほかのすべての問題と同じに、みじめな民衆は自分の力でその苦しみから脱け出さなければならなかった。
ガタガタ、カタカタと気違いじみた音をたて、今日では理解するのも容易でないような残酷な無鉄砲さで馬車はまっしぐらに街々を駆けぬけ、ものすごい勢いで角を曲がって行ったので、女はその前で悲鳴をあげ、男は互にしっかりとつかまえ合ったり、子供をつかまえたりして馬車の通る道をよけた。ついに、馬車が泉水のそばの街角をとびかからんばかりの勢いで曲がろうとしたとき、車輪の一つがいやな気持にぐいと小さく揺れたかと思うと、たくさんの声が大きな叫び声をあげ、馬が棒立ちになって跳び上がった。
そのあとの方の不便さえなかったら、馬車はおそらく止まらなかったろう。馬車が、轢《ひ》いた怪我人を後に残して駆けて行ってしまうことはよくあることだし、それに、そうしたからとて、なぜいけないのか。だが、驚いた従者が急いで降りた。すると馬の手綱に二十本の手がかかっていた。
「どうしたのか」かの紳士はおちついて外を見ながら言った。
寝帽子をかぶった男が馬の足下から包みのようなものをつかみとって泉水の下におき、泥んこの中に坐って、それにむかって野獣のように泣き叫んだ。
「お許しください、侯爵さま」とぼろを着たおとなしい男が言った。「あれは子供なのでございます」
「なぜあの男は、あんないやな声をたてるのか。あれはあの男の子供なのか」
「ごめんください、侯爵さま――可哀そうに――そうなのでございます」
泉水はすこし離れたところにあった。というのは、通りは泉水のあるところで広くなって、十ヤードか十二ヤード平方の空地を作っていたからであった。背の高い男が突然地面から起き上がって、馬車を目がけて走ってきたとき、侯爵閣下は、一瞬間、剣の柄にはっしと手をかけた。
「殺された!」男は絶望のあまり気も狂わんばかりになって両腕をいっぱいに頭上にのばし、彼を睨《にら》みつけて叫んだ。「死んだ!」
人々は彼の周囲をとりかこんで、侯爵閣下を見た。彼を見つめているたくさんの眼には油断のなさと真剣さがあらわれているばかりであった。そこには目に見える威嚇も怒りもなかった。また彼らは何も言わなかったし、最初叫び声をあげただけで、あとは無言であった。さっき口をきいたおとなしい男の声も極度に服従的で、平板で従順であった。侯爵閣下は彼らが自分の穴から出て来た鼠にすぎないかのように、ぐるりと彼らを見まわした。
彼は財布をとりだした。
「まったく驚いたことだ」と彼が言った。「お前たちは自分や自分の子供でさえ気をつけられないのだからな。いつでも誰か彼かが道をふさいでいるんだ。お前たちはわたしの馬にどんな怪我をさせたか知れないのだ。そら、あの男にやれ」
彼は従者が拾うようにと金貨を投げた。すると、全部の眼がその落ちるところを見おろせるように皆は前の方に首をのばした。背の高い男はおそろしく無気味な声でまた叫んだ。「死んだ!」
別の男がすばやく近づいて彼を引きとめた。他の連中はその男に道をゆずった。彼を見ると、哀れな男はすすり泣いたり声をあげて泣いたりしながら泉水を指さして彼の肩にたおれかかった。泉水のところではいくたりかの女が動かなくなった包みの上に屈みこんだり、そのあたりをしずかに動きまわったりしていた。けれども、彼らは男たちのように無言であった。
「おれにはなにもかも分ってる。おれにはなにもかも分ってる」と一番あとで来た男が言った。「勇気をだしな、ガスパール。可哀そうな小さい子のためにゃ、生きてるより死んだ方がましなんだ。あの子は苦しまずに、あっという間に死んだよ。それくらい仕合わせに、一時間でも生きられたと思うか」
「お前は哲学者だな、そこにいるの」と侯爵が微笑しながら言った。「みんなはお前を何と呼んでいるか」
「ドファルジュと呼んでおります」
「商売は」
「侯爵閣下、酒屋でございます」
「それを拾え、哲学者の酒屋」侯爵は別の金貨を彼に投げ与えて言った。「お前のつかいたいようにつかうがいい。それ、馬だ、馬は大丈夫か」
侯爵閣下は二度と群衆を見ようともしないで彼の座席によりかかって、あやまって何かありふれたものをこわしたが、その弁償はしてしまったし、また、その弁償をするだけの資力のある紳士らしい態度で、馬車を駆ってまさに立ち去ろうとしたとき、馬車の中に一個の金貨がとび込んできて、チンと音をたてて床に落ちたので、彼の安らかな気分は突然乱された。
「とめろ」と侯爵閣下が言った。「馬をとめろ。誰が投げたのだ」
彼はたったいま酒屋のドファルジュが立っていた場所を見た。けれども、みじめな父親がそこの敷石の上にうつ伏せになっているばかりで、その傍に立っていたのは、編物をしている色の黒いたくましい女の姿であった。
「犬めが」と侯爵が言った。しかし、鼻の上の例の箇所を除けば、顔色も変えず、口調もおだやかであった。「わしは貴様たちならどいつでも喜んで馬に踏みにじらせて、貴様たちを地上から根絶やしにしてやるぞ。もし、これを馬車に投げつけた悪い奴が分っていたら、もしその盗人が馬車の近くにいるなら、そ奴を車輪の下に押しつぶしてやるぞ」
彼らはひどくおびえていたし、彼のような男が、法律の枠《わく》の中で、また法律の枠の外で、貴族に対してどんなことができるかということを長い間のつらい経験で知っていたから、一声も、一本の手も、一つの眼さえ上げるものはなかった、そこにいた男の中ではただの一人も。だが、編物をしながら立っていたあの女はじっと眼を上げて侯爵の顔を見た。しかしそれに目をとめるのは彼の威厳にかかわることだから、軽蔑をこめた彼の眼はその女を見すごし、他の鼠どももすべて見すごした。そして彼はふたたび座席によりかかって、「行け」と命じた。
彼の馬車は走りつづけた。そして別の幾台かの馬車もたちまちそれにつづいて疾駆して来た。大臣、国家的山師、徴税請負人、医者、法律家、聖職者、グランド・オペラ、喜劇など仮装舞踏会全体がきらびやかに流れるように続いて疾駆して来た。鼠どもは見物しに穴からはいだしてきていて、何時間もそれを眺めていた。兵隊や警官がしきりに彼らとその美しい見ものとの間を通り過ぎて障壁を作ったが、その後を彼らはそっと歩きまわって、障壁の隙間からのぞき見た。あの父親はずっと前に自分の包みをとりあげて、それを持って身をかくしてしまい、包みが泉水の下にある間つきそっていた女たちはそこに坐って水の流れと仮装舞踏会が通るのを見つめていた――そして、編物をしながら人目を引いて立っていた一人の女は依然として宿命のように頑固に編みつづけていた。泉水の水は流れつづけていた。川の急流も流れつづけていた。昼は流れて夜となり、都会の多くの生命は、法則に従って、流れて死となり、歳月は人を待たずして流れ、鼠どもはふたたび暗い穴の中で身を寄せ合って眠っていた。そして仮装舞踏会では夜食の席に明るく火がともされて、すべてはそれぞれの道を進んで行ったのである。
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第八章 田舎での貴族
豊かではないが、あざやかな色をした小麦が見える美しい風景。麦が生えているはずのところにある貧弱なライ麦の畑、貧弱なえんどうやらそら豆の畑、小麦の代用に、ごく粗末な野菜を作っている畑。生命のない自然にも、それを耕作している男や女のように、いやいや成長しているらしい傾向が――あきらめて、しなびてしまおうとする弱気が――みなぎっていた。
侯爵閣下は四頭の駅馬と二人の騎手に導かれる旅行用の馬車に乗って(それはいつもの馬車より軽かったろうが)急な丘を難儀しながら上って行った。侯爵閣下の顔が赤いからといってそのことは彼の高貴な育ちを非難される理由とはならなかった。それは内部からきたものではなくて、彼の力のおよばぬ外部の事情――沈んで行く太陽――のせいであった。
馬車が丘の頂上に達したとき、落日があかあかと旅行用馬車の中に射し込んだので、乗っていた人は深紅色に染まった。「陽はすぐ沈むだろう」侯爵閣下は両手をちらっと見て言った。
事実、太陽はごく低かったから、その瞬間に沈んでしまった。重い歯止めが車輪につけられて馬車が埃の雲の中を燃えがらのような臭いをただよわせて丘をすべるように下って行ったとき、真赤な光は見るまに消えて行った。そして、太陽が沈むとともに侯爵も丘を下って、歯止めがはずされたときには陽の光も残っていなかった。
だが、そこには、広々としてけわしい起伏のある地方や、丘の麓《ふもと》の小さな村や、広々とした土地とその向うの山地や、教会の塔や、風車や、猟をする森や、監獄になっている要塞が上にある岩山があった。夜が迫ってくるにつれて黒ずんで行くこれらの姿を、侯爵は、いかにも家の近くに来たという様子で見渡していた。
村にはみすぼらしい通りが一本あって、そこにはみすぼらしい醸造所と、みすぼらしい製革所と、みすぼらしい居酒屋と、駅馬のつぎ換えをするみすぼらしい廐《うまや》と、みすぼらしい泉があり、いずれもありふれたみすぼらしい施設であった。そこにはみすぼらしい人々も住んでいた。彼らはみな貧しく、大勢の人々は門口に坐って夕食のためにわずかな玉ねぎなどをきざんでいたり、また大勢の人々は泉で、葉っぱや、草や、その他土から生まれたもので食べられるものは、どんなささやかなものでも洗っているのであった。なにが彼らを貧しくしたか、その外に表われているしるしにもこと欠かなかった。国家への税、教会への税、領主への税、地方税と一般税が、この小さな村のおごそかな銘文に従って、ここでも支払わねばならなかったし、かしこでも支払わねばならなかったので、まだのみ込まれてしまわない村が残っているということがふしぎなくらいであった。
子供の姿はまれに見られるだけだったし、犬はまったく見られなかった。男や女は、この世で彼らが選択できることといえば、水車場の下の小さな村で生きるというだけの最低の生活か、岩山の上に高くそびえ立っている監獄に入れられて死ぬか――その二つの予想に限られていた。
先に立った家来と、まるで復讐の女神を従えて来たように、夕方の空に頭のあたりで蛇のようにからみ合っている御者の鞭の鳴る音を先ぶれとして、侯爵閣下は旅行用の馬車で宿駅の門に近づいた。それは泉のすぐそばにあって、百姓たちは仕事を中止して彼を眺めた。侯爵は彼らを眺めて、それとは気づかなかったが、徐々に確実に、やすりをかけたように肉がけずり落された彼らの困窮にやつれ果てた顔と姿を見てとった。それがもとになって、フランス人が痩せこけているということがイギリス人の迷信となり、それが真実でなくなった後も百年近くの間信じられていたのであった。
侯爵閣下は彼の前にうなだれた従順な顔を見渡した。それは宮廷のモンセニュールの前にうなだれた彼自身の顔に似ていた――ただ、その相違は、ここの顔は苦しむためにのみうなだれたのであって、人におもねるためではなかったのだ――このとき、白髪まじりの道路工夫が人々の群れに加わった。
「あの男をここに連れて来い」と侯爵が家来に言った。
その男は帽子を手にして連れて来られた。そしてその他の人々はパリの泉水のところにいた人々のように彼をとり囲んで、注視し、耳を傾けた。
「わしは道でお前の前を通り過ぎたな」
「殿様、その通りでございます。手前のおりました道を殿様がご通過になりました」
「丘を上る途中と、丘のてっぺんと、両方だったな」
「殿様、その通りでございます」
「お前は何をあんなに一生懸命に見ていたのだ」
「殿様、手前は人間を見ていたのでございます」
彼はすこしかがんで、ぼろぼろの青い帽子で馬車の下を指した。
「どんな人間か、豚め。また、なぜそこを見るのか」
「お許しください、殿様。奴は輪止めの鎖にぶらさがっておりました」
「誰が」とその旅の人が訊いた。
「殿様、その男がでございます」
「このたわけものめが! その男はなんという名前か。お前はこの辺の男ならみんな知ってるだろう。そ奴は誰か」
「お情深い殿様、その男はこの辺の者ではございません。手前は生まれてから一度もその男を見たことがありませんでした」
「鎖にぶらさがっていたというのか。窒息して死ぬためにか」
「殿様、そこがふしぎなのでございます。その男の頭が仰向けにぶらさがっていたのでございます――こんな風に」
彼はからだを馬車の横側に向け、後ろにそり返って、顔を空に仰向けにむけ、頭をぶらさげるようにした。それからもとの姿勢にかえって、帽子をいじりながら、お辞儀をした。
「そ奴はどんな風であったか」
「殿様、その男は粉屋よりももっとまっ白でした。埃《ほこり》だらけで、幽霊のように白くて、幽霊のように背が高い男でございました」
道路工夫が描いた男の姿は人々の間に非常な動揺を巻き起こした。しかしすべての眼は互に目くばせをしてその印象を比較し合ったりしないで、侯爵を見た。きっと、彼の良心が幽霊に悩まされているかどうか見るためだったのだろう。
「まったく、お前はうまくやった」侯爵はそんなならずものどもに腹を立てるべきでないと幸いに気がついて言った。「盗人がわしの馬車について来るのを見ながら、その大口を開けもしないでな。あほう! そいつをあっちへ連れて行け、ガベル君」
ガベル氏は宿駅長で、その他に収税吏のような役も兼ねていた。彼はこの訊問の手伝いをするためにひどく卑屈な恰好で出てきて調べられている男の腕から垂れているぼろ布《きれ》をいかにも役人らしくつかまえていた。
「あほう! あっちへ行け!」とガベル氏が言った。
「もしこのよそ者がこの村に泊るつもりなら、そいつを捕えて、きっと悪いことをしないようにするのだぞ、ガベル」
「殿様、はばかりながら手前は、ご命令のためにはわが身を捧げる所存でございます」
「そいつは逃げてしまったのか――あのいやな奴はどこにいるのだ」
そのいやな奴は、もう、六人ばかりの特別の友だちといっしょに車の下に入って、青い帽子で鎖を指し示していた。他の六人ばかりの特別の友達はいち早く彼を引っ張り出して、はあはあ言っている彼を侯爵のところへ連れて行った。
「われわれが輪止めをはずすために止まったとき、そいつは逃げてしまったのか、まぬけめ」
「殿様、その男はまるで川にとび込むように頭を先にして、丘をまっさかさまにころげ落ちて行きました」
「それを調べろ、ガベル。行け!」
じっと鎖を見ていた六人は臆病者のようにまだ車輪の間にいた。それで車輪が急に回ったので、彼らの皮膚と骨が助かったのはもっけの幸いであった。彼らには皮膚と骨の他には助かるものといってはほとんどなかったのだ。さもなかったら、彼らはそれほど幸運ではなかったかもしれなかった。
馬車はものすごい勢いで村を出て、向うの山道を上りかけたが、まもなく急な坂にさしかかって気勢をそがれた。次第に馬車は速力をおとして並足となり、夏の夜のさまざまな甘い香りがただよう中をゴトゴト揺れながら上って行った。蛇の髪をした復讐《ふくしゅう》の女神のかわりに小ぐもの巣のような無数の蚊にとりかこまれた騎手たちはおちついて鞭の皮の先をつくろっていたし、お付きの者は馬のそばを歩いていた。そして、お供の者が遙か先の方を早足で駆けて行くのが聞こえていた。
坂が最も急になっている地点に、小さな墓地があって、キリストの新しい大きな像をつけた十字架があった。それは経験のない田舎の彫り師が彫った木のみすぼらしい像であったが、彼はその像を研究するのに実物を――おそらく彼自身の生活を――手本としたのであろう。なぜといえば、それはおそろしく貧弱で痩せていたから。
久しい間、ただ悪くなるばかりで、しかもまだ最悪の状態には達していないこの大きな苦悩の悲惨な象徴にむかって、一人の女がひざまずいていた。馬車が近づくと、女は頭をその方にむけ、すばやく立ち上がって、馬車の扉のところにあらわれた。
「殿様でいらっしゃいますね。殿様、お願いがございます」
いら立った声をあげたが、顔色は変えずに侯爵は外を見た。
「なんだ、どうしたのか。年がら年じゅうお願いだ」
「殿様、お願いでございます。夫のことでございます。森の番人でございます」
「森番のお前の亭主がどうしたのか。お前たち平民どもは、いつでも同じことばかりだ。お前の亭主がなにか払えないのか」
「あの人は何もかも払ったのでございます。あの人は死んだのでございます」
「なるほど、お前の亭主は安らかに眠っているんだな。わしがお前に亭主をとり戻してやれるのか」
「ああ、それはできないことでございます殿様。ですけれども、あの人は向うのみすぼらしい草の小さな山の下に横たわっております」
「なるほど」
「殿様、この辺にはみすぼらしい草の小さな山がいくつもございましょう」
「なるほど」
女は老婆のように見えたが、まだ若かった。彼女ははげしく悲しんでいる様子であった。彼女は、かわるがわる、血管のあらわれている、節くれだった手をもの狂わしくかたく握りしめたり、その片方を馬車の扉にかけたり――まるで馬車が人間の胸で、自分の訴えを感じとってくれるとでも思っているかのようにやさしく、いとしそうに――するのであった。
「殿様、お聞きくださいまし。殿様、私のお願いをお聞きくださいまし。夫は食べるものがなくて死んだのでございます。たくさんの人が食べるものがなくて死ぬのでございます。まだまだたくさんの人が、食べるものがなくて死ぬことでございましょう」
「なるほどな。わしがそいつらを食わせてやれるというのか」
「殿様、それは誰にも分らないことでございます。私はそのことをお願いするのではございません。私のお願いは、夫の名を記した小さな石か木の切れを、あの人が横たわっている場所の目印に置かせていただきたいのでございます。さもないと、その場所がすぐ忘れられてしまい、私が夫と同じ病で死んだときには分らなくなっていて、私は別のみすぼらしい草の山の下に埋められるでしょう。殿様、草の山はたくさんあるのでございます。それがどんどん増《ふ》えるのでございます。みな食べるものがないのでございますから、殿様! 殿様!」
お付きの者は彼女を扉から突きのけ、馬車はいきなり快速度で走りだし、騎手も速力を早めたので、彼女はずっと後ろの方にとり残された。そして侯爵はふたたび蛇の髪をした復讐の女神たちにまもられて、彼と彼の館との間にまだ残っている一リーグか二リーグの距離を急速に縮めていた。
夏の夜の甘い香りは彼のまわりにいっぱい立ちこめていた。そして、降る雨のように差別なく、ほど遠からぬあの泉のところの、埃をかぶり、ぼろを着て、働き疲れた人々の上にも立ちこめた。そこでは、まだ、道路工夫が自分の目印である青い帽子の助けを借りて、みんなが我慢できるまで、あの幽霊のような男のことを話しつづけていた。だんだん彼らも我慢ができなくなったので、一人ずつそこをはなれて行き、小さな窓に明かりが輝いた。その明かりは、窓が暗くなって星の数が増えると、消されるかわりに空へ射ち上げられたように思われた。
そのころ高い屋根の大きな家とその上に蔽《おお》いかぶさる多くの樹の影が侯爵をつつんでいた。そして馬車が止まったとき、その影がたいまつの明かりといれ代った。そして館の大扉が彼に開かれた。
「チャールズを待っているのだが、イギリスから着いたか」
「閣下、まだでございます」
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第九章 ゴルゴンの首
侯爵の館はがっしりした大きな建物で、家の前に大きな石だたみの庭があり、二つの石造りの階段が大玄関の前にある石造りの露台でいっしょになっていた。堂々たる石の欄干、石の壺、石の花、石の人間の顔、石のライオンの頭、どちらを向いても石で造ったものばかり。それはまるで、二千年前にこの館ができたとき、ゴルゴン(ギリシア神話にでてくる魔神の姉妹の一人で、頭髪は蛇で見る人は恐怖のあまり石に化したという)の首がそれを見渡したかと思われるようであった。
馬車を降りた侯爵はたいまつに先導されて浅い段々の幅広い階段を上って行ったが、それはよほど暗闇をかき乱したとみえて、遠くの森の中にある大きな廐《うまや》の屋根にいた梟《ふくろう》が、大きな声で不満そうに鳴いた。そのほかは何もかも静かであったから、階段を運ばれたたいまつも大扉のところにかかげられたたいまつも、外の空気にさらされているのではなくて、まるで閉め切った豪華な部屋の中にあるように、しずかに燃えていた。梟の声のほかには石造りの池に落ちる泉水の水音のほかには、何のもの音もしなかった。それは、その夜が、一時間もつづけて息を殺していて、それから長い沈んだ溜息をホッと吐き、また息を殺しているような真っ暗な夜だったからである。
大扉は金属性の音をたてて彼の後ろで閉まった。そして侯爵は、由緒ある古い猪槍(猪狩に使用する槍)や、刀剣や狩猟用の小刀などが見るも恐ろしく飾ってあり、いまは「死」という恩人のもとに行っている多くの百姓たちが、領主の怒りにふれたときに、その重みを身に感じたあの重い乗馬用の鞭がますます不気味に飾ってある広間を横切って行った。
夜の戸締まりをした暗い大きな部屋は避けて、侯爵は、たいまつ持ちを先に立てて、階段を上り、廊下の、ある一つの扉に近づいた。これがパッと開かれて、彼は三つの部屋すなわち寝室と他の二部屋からなる私室に入った。天井の高い、床にはじゅうたんが敷いてなくて涼しい部屋、冬には薪をたくためにおいてある炉辺の大きな薪台、それから、贅沢《ぜいたく》な国の贅沢な時代の侯爵という地位にふさわしいあらゆる贅沢なもの。決して断絶するはずのない血統の先々代のルイ――ルイ十四世――の様式がその部屋の豪華な家具にはっきりとあらわれていた。だが、それはフランスの歴史の古いページの插絵となった多くの物によって変化を与えられていた。
三番目の部屋には二人分の夕食の支度がしてあった。それは円い部屋で、館の、上部が消火器の形をした四つの塔の中の一つにあった。それは小さい天井の高い部屋で、窓を開け放して木製の鎧戸《よろいど》が閉めてあったので、闇夜は鎧戸の幅の広い石色の線と交互になっている黒の狭い水平の線として見えるだけだった。
「甥《おい》だが」と侯爵は晩餐の用意がしてあるのをちらと見て言った。「まだ着いていないそうだが」
侯爵の甥はまだ到着していなかった。だが、侯爵といっしょに着くはずだったのだ。
「ああ、今夜は着きそうもないな。だが、テーブルはそのままにしておけ、わしは十五分たてば支度ができるから」
十五分たつと、侯爵は支度をして、ひとりで贅をつくした晩餐のテーブルについた。彼の椅子は窓に向い合っていた。そして彼はスープをすませてボルドー酒のグラスを唇につけようとしていた、が、そのとき彼はグラスを下においた。
「あれは何だ」彼は黒と石色の水平の線をじっと見て、静かに尋ねた。
「閣下、あれとおっしゃいますと」
「鎧戸の外だ。鎧戸を開けろ」
鎧戸は開かれた。
「どうか」
「閣下、なにごともございません。樹も夜もいつものままでございます」
そう言った召使は鎧戸をいっぱいに開いて空虚な闇を見ていたが、指示を仰ぐためにくるりと向きなおって、その空白を背にして立っていた。
「よろしい」と少しも動じないで主人が言った。「閉めておけ」
それも命令どおりになされて、侯爵は食事をつづけた。食事の半ばがすんだころ、彼は車輪の音を耳にして、またグラスを手にしたまま食事をやめた。それは勢いよくやってきて、館の表玄関に着いた。
「誰が着いたのかきいてこい」
それは侯爵の甥であった。彼は昼過ぎには閣下より二、三リーグばかりおくれていたのだった。それから彼は急速にその距離を短縮したが、道で侯爵に追いつくまでにはいかなかった。彼は宿場で、侯爵が自分より先だということを聞いていた。彼に、ここで晩餐の用意ができているから、どうぞおいでくださるようにと言ってこい、と閣下が言った。まもなく彼が来た。彼はイギリスではチャールズ・ダーネーとして知られていた。
侯爵は彼を上品な態度で迎えた。だが彼らは握手をしなかった。
「昨日パリをお発ちになったのですか」彼はテーブルに坐ると侯爵に言った。
「昨日だ。で、お前は」
「私はまっすぐにまいりました」
「ロンドンからか」
「そうです」
「来るのにだいぶ長くかかったじゃないか」侯爵は微笑して言った。
「その反対です。僕はまっすぐにまいりました」
「悪かったな。わしは、旅行に長くかかったというつもりでなくて、旅行をする気になるまで長くかかったというつもりなんだよ」
「私が来られなかったのは」――甥はちょっと返事をためらった――「いろいろ用事があったからです」
「それはそうだろう」と洗練された叔父が言った。
召使がいる間は、その他の話は二人の間に交わされなかった。コーヒーが出て、二人だけになったとき、甥は叔父を見て、彼の眼が美しい仮面のような顔の眼と会ったとき、話が始まった。
「私が戻ってきたのは、お察しかと思いますが、私がこの国をはなれた目的を達するためでございます。この目的のために、私は思いがけない非常な危険に遭遇しました。しかし、それは崇高な目的でございます。かりに、そのために死ぬようなことになっても、私はそれをなし遂げたいと思っております」
「死ぬということはない」と叔父が言った。「死ぬなどと言う必要はない」
「かりに私が死ぬ瀬戸ぎわまで追いつめられたとしても、あなたがそこで私をひきとめてくださるかどうか、わかりませんね」と甥が言い返した。
侯爵の鼻の凹みが深くなって残忍な顔の美しいまっすぐなしわが長くなったところを見ると、それは望みがないように思われた。叔父はそれに抗議する優雅な身ぶりをした。だが、それは、明らかに、そのことが当てにならないという育ちのよい人のちょっとした形式にすぎなかった。
「実際のところ」と甥がつづけた。「とにかくあなたは私をとり囲んでいる怪しげな事態をいっそう怪しげに見せかけるためにはっきり運動されてもかまわなかったのですよ」
「いや、いや」と叔父は楽しそうに言った。
「しかし、それはともかくとして」甥は深い不信をこめて彼をちらと見ながら言った。「あなたの外交的手腕が是が非でも私をおひきとめになり、そのためには決して手段を選ばれないということも、充分承知しております」
「そのことはお前に言っておいたよ」叔父は鼻の上の二つの凹みを上品にヒクヒクさせて言った。「ずっと前にわしが言ったことを、どうか思いだしてもらいたいね」
「思いだしております」
「ありがとう」侯爵が言った――それはそれはやさしく。彼の声はまるで楽器の音のように空中にただよった。
「要するに、私がこのフランスで牢獄に入れられなかったのは、あなたには不運であり、私には幸運であったと信じております」と甥がつづけた。
「わしにはよく分らないね」と叔父はコーヒーをすすりながら答えた。「説明してもらいたいのだが」
「もし、あなたが宮廷で不遇でなく、ここ何年かのようにその雲に覆われていらっしゃらなかったならば、封印した手紙(国王や政府の高官が署名し、封印して刑務所長に手紙を送り、はっきりした理由なしに何びとでも投獄できた)のために私ははっきりした理由もなくどこかの要塞に送られてしまっただろうと信じております」
「そうかもしれない」と叔父は落ち着きはらって言った。「家門の名誉のために、わしもお前にその程度の不便をかけてやろうと決心することもできたのだ。どうか悪く思わんでくれ」
「私にとっては幸いなことに、一昨日の接見の会は、いつものように、冷たい会だったのですね」と甥が言った。
「わしなら幸いなことになどとは言わないよ」と叔父は洗練されたいんぎんな調子で答えた。「幸いかどうかはっきりしないからな。わしは孤独という有利な条件にとり囲まれて考える機会をめぐまれているのだから、お前の運命に影響するところは、お前が独力でやるよりもずっと有利かもしれないのだ。だが、その問題をここで議論するのは無益だよ。わしは、お前の言うように、不遇だ。国を改善するささやかな手段も、一族の権力と名誉を維持する穏当な助力も、お前に不便をかけるかもしれない恩寵も、今は利権をたてにして、執拗《しつよう》に要求しなければならない。おおくの人がそれを求めているが、与えられるのは(求める人にくらべて)ごく少数なのだ。もとはそうではなかったが、フランスは、そういうことでは、すっかり悪い方に変わってしまった。われわれのそれほど遠くない先祖たちは周囲にいる平民どもの生死の権利を握っていた。この部屋からそうした犬どもがいくらでも引っぱられて行って首吊り台にかけられた。となりの部屋(わしの寝室)では、どこかの奴がその娘(|そいつ《ヽヽヽ》の娘だぞ!)のことをいい気になって自慢しおって、その場で刺し殺されたそうだ。われわれは多くの特権を失った。新しい思想がはやってきたのだ。だから、この節では、われわれが自分の地位を擁護すると、本当に不便を招くかもしれないのだ(わしは、招くだろう、とまでは言わん。招くかもしれないと言うのだよ)。なにもかもすっかり駄目になってしまった」
侯爵は上品にちょっとかぎ煙草をつまんで、まだ国家を再生させる偉大な手段である彼という人物を擁している国家にふさわしい、できる限り優雅な元気のない様子で首を振った。
「むかしも現在も、われわれはあまりにもわれわれの身分を擁護してきたものですから」と甥は暗い顔をしてつづけた。「われわれの名はフランスで一番憎まれていると私は信じております」
「それこそ望むところだよ」と叔父が言った。「高貴なものに対する憎悪は卑しいものの本能的な尊敬なんだ」
「どこを見ても」と甥は前と同じ調子でつづけた。「この国で私が見るのは、恐怖と屈従だけの、暗い尊敬をうかべて私を見る顔だけで、その他の顔には一つとして出会ったことがありません」
「一門の偉大さにたいする祝辞だな。一門がその偉大さを保ってきたそのやり方を見れば、当然それだけのことはあるよ。は、は」そして彼はまた上品にかぎ煙草をちょっとつまんで、軽く足を組んだ。
けれども、甥が思いに沈んで力なく片手で眼を蔽い、テーブルに片ひじをついてもたれていると、侯爵の美しい仮面は、表面の無関心さにふさわしくない鋭さと注意深さと嫌悪をこめて、横目で彼を眺めていた。
「抑圧こそ唯一の永続する哲学だ。恐怖と屈従だけの尊敬があればこそ、この屋根が」と天井を見上げて、「空をさえぎっている限りは、犬どもは鞭のいうことをおとなしくきいているだろう」
それは侯爵が想像したほど長くなかったかもしれなかった。もしそれから二、三年後のその館の絵と、それから二、三年後の、それに似た五十の館の絵をその夜彼に見せることができたら、彼は真っ黒に焼け落ちて、略奪された、見るも無残な廃墟の中から自分の館を見つけ出すのに当惑したことだろう。彼が自慢した屋根はどうなったかといえば、|それが《ヽヽヽ》別な意味で空をさえぎっているのを――すなわち、幾十万という小銃の銃身から弾丸が射ち込まれたからだの眼から永久に空をさえぎっているのを、彼は見るところだったのだ。
「それはそれとして」と侯爵が言った。「お前にその気がないならば、一門の名誉と安泰はわしがまもることにしよう。だが、お前も疲れているにちがいない。今夜はこれで話をやめておこうか」
「もうちょっとだけ」
「よかったら、一時間でもいいよ」
「われわれは誤りをおかしてきました。それでいまその誤りの成果を刈りとっているところです」
「|われわれ《ヽヽヽヽ》が誤りをおかしたと」侯爵はふに落ちない微笑をうかべ、優雅な身ぶりではじめに甥を、次に自分自身を指さしながら繰り返した。
「われわれ一族がです。一族の名誉はわれわれ両人にとって異った意味で大切でございますが、その栄《はえ》あるわれわれ一族がです。父の代でさえ、われわれは、自分たちの快楽の――それがどんな快楽であろうと――邪魔をする人間には誰でも危害を加えて、数知れぬ誤りをおかしました。父の代のことは申し上げる必要はございますまい。それは同様にあなたの代でもありますから。私として、父の双生児であり、共同相続人であり、次の後継者であるあなたを父から引き離すことができるでしょうか」
「死が引き離してしまったよ」と侯爵が言った。
「そして私はとり残されて、私にとってはぞっとするような組織に縛りつけられ、その責任を負わされながら、その組織の中では無力でした。私は愛する母の最後の願いを果たそうとしました。私に慈悲をもって苦しむ人々を救ってくれと嘆願した愛する母の最後のまなざしに従おうとしました。そして、むなしく助けと力を求めて苦しんでいたのです」
「わしに求めていたのかね、お前は」と侯爵は人さし指を彼の胸に当てて言った――彼らは暖炉のそばに立っていた――「お前はいつまでもむなしく求めているだけだよ、保証するよ」
彼がかぎ煙草の箱を持って静かに甥を眺めながら立っていたとき、すき透るように白い彼の顔の美しいまっすぐな線は残らず冷酷に狡猾にぴったりとひきしまった。
彼は、まるで、自分の指が小さい剣のきっ先であって、それでもって優雅な手練で甥のからだを引き裂こうとするかのようにふたたび指を甥の胸に当てて言った。
「なあ、お前、わしは自分が今まで生きてきた国の制度がいつまでも続くようにしておいて死ぬつもりだ」
そう言い終ると、彼はかぎ煙草を最後の一つまみつまんで、箱をポケットに入れた。
「わけのわかる人間になって」彼は卓上の小さなベルを鳴らしてからつけ加えた。「生まれながらの運命に従った方がいいよ。だが、チャールズ君、お前はもうおしまいだな」
「この財産も、フランスも、もう私のものではありません」と甥は悲しげに言った。「私は両方とも放棄いたします」
「放棄すると言っても、両方ともお前のものかね。フランスはそうかもしれないが、財産の方はね」
「私は財産が自分のものだというつもりでそう申し上げたのではありません。もし明日にでもあなたから譲られたとしますと――」
「ところが、そうは行きそうもないとわしは思っているがね」
「――でなければ、二十年後に――」
「それはまたわしに敬意を表しすぎるが」と侯爵が言った。「それでも、その仮定の方がましだね」
「――私はその財産を放棄して、どこかよその国で、別な方法で生活をいたします。放棄すると言っても大したものではありません。悲惨と崩壊のぼう大な集積にすぎないではありませんか」
「は、は」侯爵は贅沢な部屋をちらと見まわして笑った。
「見たところは、この部屋はなかなかりっぱです。しかしその本来の姿を大空の下で、白日の光にさらして見れば、それは浪費と失敗と搾取と負債と抵当と迫害と飢餓と不毛と苦痛からなる崩れかかった塔です」
「は、は」侯爵は満足しきった様子でまた笑った。
「もしいつかそれが私のものになりましたら、私はそれを引きずりおろそうとする重圧からそれを徐々に解放する(そういうことができるとすればですが)資格を、私よりも多くそなえている人にその財産をまかせて、その土地からはなれることができないで、長い間、忍耐の限りまで搾取されてきた惨めな人々が、次の代には今までのように苦しまなくてすむようにしたいと思います。しかし、それは私がすることではありません。われわれの財産には呪いがかかっております。それから、この土地のすべてにも」
「それでお前は?」と叔父が言った。「せんさくして失礼だが、お前はその新しい哲学を奉じて仕合わせに暮らしていくつもりかな」
「私は、生きるためには、この国の他の人々が、たとい高貴な背景をもっていても、いつかはなさねばならないことをしなければなりません――つまり、働くことです」
「たとえば、イギリスでか」
「そうです。イギリスでは、一族の名誉は安泰ですよ。よその国では、われわれの家名は私にきずつけられることはありませんよ。私は本名を使っていないのですから」
ベルが鳴ったのは、隣の寝室に明かりをともさせるためだったのだ。いま寝室の明かりは、この部屋に通じている扉から煌々《こうこう》と輝いた。侯爵はその方を眺め、引き下って行くお付きの者の足音に耳を傾けた。
「お前がイギリスでどうにかうまくやってきたところを見ると、イギリスはだいぶ気に入ったらしいね」彼は微笑しながら静かな顔を甥に向けて言った。
「さっき申し上げたように、私がイギリスでうまくやってきたのは、あなたのおかげかもしれないと思っているのです。その他の意味では、イギリスは私の避難所です」
「奴ら、あの高慢ちきなイギリス人めは、イギリスが大勢の人間の避難所だと言いおる。お前はあそこへ亡命して行ったあるフランス人を知っているか。医者だが」
「はい」
「娘が一人あるが」
「はい」
「そうか」と侯爵が言った。「お前は疲れているね。お休み」
彼はしごくいんぎんに頭を下げたが、彼の笑顔にはなにかが隠されていた。そしてそう言った彼の様子には不可解なものが感じられたので、甥の眼と耳は強い衝撃を受けた。また、それと同時に、彼の眼の周りの細いまっすぐな皺と、薄いまっすぐな唇と、鼻の凹みは美しく悪魔的な表情をうかべて皮肉に歪《ゆが》んだのであった。
「そうか」と侯爵は繰り返して言った。「娘が一人ある医者だ。そうか。それが新しい哲学の始まりだな。お前は疲れているね。お休み」
彼のその顔になにか尋ねても、館の外の石の顔になにか尋ねるのと同様、むだであっただろう。甥は扉の方へ歩いて行きながら、空しく彼を眺めていた。
「お休み」と叔父が言った。「朝またお前に会うのを楽しみにしているよ。よくお休み。明かりをつけて甥をそちらの寝室へ案内してくれ。――もしそうしたけりゃ、甥を寝床で焼き殺してもいいぞ」彼はそう独り言を言ってから、また小さなベルを鳴らして、お付きの者を自分の寝室に呼んだ。
お付きの者は来て、行ってしまい、侯爵はこの暑い静かな夜によく眠れるようにと、ゆったりした寝室着の姿であちこちと歩きまわっていた。部屋の中を衣《きぬ》ずれの音をさせて歩いていても、柔らかなスリッパは床には少しも音をたてず、彼は上品な虎のように動いた――そして、また、お伽話にあるように、ある時期になると虎の姿になるというその時期が、ちょうどいま過ぎるところか、ちょうどいまやって来たところの、あの魔法にかかった、悔いを知らぬ悪者の侯爵のように見えた。
彼は淫らな寝室の端から端まで歩きながら、自然に心に浮かんでくるその日の旅行のきれぎれの場面をふたたび思いだしていた。日暮れ時に苦労してのろのろと丘を上ったこと、沈んで行く夕陽のこと、丘を下ったこと、水車小屋、岩山の上の監獄、凹地にある小さい村、泉のほとりの百姓たち、青い帽子で馬車の下の鎖を指している道路工夫のこと。その泉はパリの泉水と、その段々の上に横たわる小さい包みと、その上に屈んでいる女たちと両手を高く上げて「死んだ!」と叫んでいる背の高い男を連想させた。
「わしももう落ち着いたから、寝てもいいだろう」と侯爵が言った。
それで、大きな暖炉の上の明かりを一つだけ消さずに残し周囲に薄い紗《しゃ》のカーテンをおろして、気をしずめて眠ろうとしたとき、夜が長い溜息を吐いて静寂を破る音が耳に入った。
重苦しい三時間のあいだ、外壁の上の石の顔はただじっと真っ暗な夜を見つめていた。重苦しい三時間のあいだ、廐《うまや》の馬はまぐさ棚をガタガタいわせ、犬は吠え、梟は人間の詩人たちが梟の鳴き声ときめている音とほとんど似ていない声で鳴いていた。けれども、いつでも人間がきめた通りのことを言わないのは、そういう生きものの頑固な習性なのである。
重苦しい三時間のあいだ、ライオンと人間の石の顔はただじっと夜を見つめていた。真の闇はすべての風景を被い、真の闇はすべての道の上にしずまっている埃をさらに静まらせた。墓地はみすぼらしい草の小さな山が互に見分けがつかないまでになっていた。そして、十字架上の人影は、眼には見えなかったが、下に下りてきていたかもしれなかった。村では租税を取る者も取られる者もぐっすり眠っていた。おそらく、飢えた者の常として、酒宴の夢をみながら、また、酷使されている奴隷やくびきにつながれた牛のようにくつろぎと憩いの夢をみながら、村の痩せ細った住民たちはぐっすり眠っていて、食物も与えられ、自由の身となっていたのであろう。
この暗い三時間のあいだ、村の泉は誰にも見られず誰にも聞かれずに流れ、館の泉水は誰にも見られず誰にも聞かれずに落ちていた――そして両方とも「時」の泉から落ちてくる分《ふん》(時間)のように溶けて消えて行くのであった。やがて両方の泉の灰色の水がぼんやり見えてきて、館の石の顔の眼が開いた。
あたりがだんだん明るくなって、ついに太陽はしずかな樹の頂に触れてその光を丘全体にそそいだ。その燃えるような輝きの中で館の泉水の水は血に変わったかと思われ、石の顔は真っ赤になった。小鳥たちの歌は大きく、高く、そして、侯爵の寝室の風雨にさらされた大窓のしきいの上で、一羽の小鳥が可愛いい声をかぎりに歌をうたっていた。これを見て、一番近い石の顔は驚いて眼を見はり、口をあき、下顎を落して、おそれおののいているように見えた。
今や陽は高く昇り、村では人々が動き始めた。窓は開かれて、がたがたの扉はかんぬきがはずされ、人々は身ぶるいしながら出て来た――新しい甘い空気はまだ冷たかったのだ。それから村人たちはめったに減ることがない毎日の労働にかかるのであった。泉へ行く者もあり、畑へ行く者もあった。田畑を掘りかえす男女もあれば、痩せた家畜の番をしたり、骨ばかりの牝牛を道端にあるような牧草地へ連れて行ったりするものもあった。教会や、十字架のあるところでは、一人か二人がひざまずいていた。そしてその人に引かれた牛は、十字架の前の祈祷をききながら、足もとの雑草の中から朝食を探しだそうとしていた。
館が目をさましたのは、その性質にふさわしく、それより後だった。しかし、次第に、確実に目をさました。まず、ぽつんと置いてある猪槍と狩猟用の小刀がいつものように赤くなり、朝の陽を浴びて鋭い光をはなっていた。それから、扉や窓が開け放たれて、廐の馬は出入口から流れ込んで来る光とすがすがしさを肩越しに見回し、樹々の葉は鉄格子のはまった窓のところできらきら輝き、さらさらと風になびき、犬どもはしきりに鎖を引っぱって、早く自由になりたがって後足で立った。
こうした平凡な出来事は毎日の生活の一部であり、朝が来ればいつもそれに付随して起こることであった。だが、館の大きな鐘が鳴り響くことも、階段を走って上り下りすることも、露台を人々が慌《あわただ》しく駆けまわることも、長靴をはいてどこもかしこもくまなく踏査することも、いち早く馬に鞍《くら》をつけて、どこかへ駆けて行くことも、たしかにいつもとは異なっていた。
烏もつつくねうちのないような弁当の包みを(持ち運ぶほどのものでもないが)石の山の上において、早くも村の向うの丘の頂上で仕事にかかっていた白髪まじりの道路工夫がこの騒ぎを知ったのは、どうした風の吹きまわしだったのだろうか。小鳥たちがその種を遠くに運ぶとき、うっかり蒔いた種を一粒、彼のところに落したのだろうか。いずれにしても、かの道路工夫は、そのむし暑い朝、まるで命がけのように膝まで埃にまみれて丘を駆け下りて行き、村の泉に着くまで立ち止まりもしなかった。
村じゅうの人々は泉のところに集まっていた。そしていつものように元気のない様子であちこちにたたずみ、低い声でささやき合っていたが、彼らの顔にあらわれたものは不気味な好奇心と驚愕だけであった。連れ出された牝牛どもはあわてて小屋に連れ戻されて何にでもかまわずにつながれて、ぼんやりと前を見たり、横になって先刻うろついていたときに食べた、苦労しがいのないようなつまらぬものを反芻《はんすう》していた。館や宿場の人々の幾人かと、収税吏の全部は多少とも武装して、ただなんということもなく狭い街路の反対側にかたまっていた。道路工夫は、もう、五十人の特別な友だちのまん中に入り込んで、青い帽子で胸をたたいていた。このすべては何を意味していたのか、ガベル氏がヒラリと馬上の召使の後ろにとび乗ったことや、そのガベルを(馬は二人も乗せていたのに)ドイツ民謡レオノーラの新しい翻案のように駆け足で運び去ったことは何を意味したのか。
それは上の館で石の顔が一つ多くなったことを意味したのであった。
ゴルゴンは夜の間にもう一度建物を調べて、たりない石の顔を一つつけ加えたのであった。およそ二百年の間待ち望んでいた石の顔を。
それは侯爵の枕の上に仰向けに横たわっていた。それは突然驚愕し、怒り、石になった美しい仮面のようだった。その顔についている石の胴体の心臓には小刀がぐさりと突き刺してあった。柄の周りには紙片が巻きつけてあって、それには次の文字が走り書きしてあった。
「早く彼奴を墓穴へ送り届けろ。これは、ジャークより」
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第十章 二つの約束
十二よりも多い数の月が、来ては去って行った。そしてチャールズ・ダーネーはイギリスでフランス文学に通じている高級なフランス語教師として暮らしていた。今の時代なら、彼は教授であったろう。だが、その時代では、彼は個人指導教師であった。彼は世界じゅうで話される現代語(フランス語のこと)の研究に暇と興味のある青年の勉強を指導し、その国語の豊富な知識と空想にたいする趣味を養った。そればかりでなく、彼はそれについて完全な英語で書くこともできたし、それを完全な英語に翻訳することもできた。そういう教師はその当時容易に見つけることはできなかった。それまで皇族であった人々や王となるべき人々はまだ教師にまで落ちていなかったし、破産した貴族もまだテルソン銀行のお得意名簿から脱落して料理人や大工にはなっていなかった。若いダーネーは学生の勉強を非常に楽しくかつ有益に指導する才能のある教師として、また、単に辞書にある知識ばかりでなく、なにものかをその労作に加える気品ある翻訳者としてたちまちその名を知られるようになり、また自らも自信をもつようになった。それに加えて、彼は自分の国の状況をよく知っていた。そしてそれは人々のますます増大する興味のまとであったのだ。そのようにして、彼は非常な忍耐とたゆまぬ努力によって栄えていたのであった。
ロンドンで、彼は黄金の舗道を歩こうとも思っていなかったし、ばらの床に横たわろうとも思っていなかった。もしそんな思い上がった期待を抱いていたのだったら、彼は成功しなかっただろう。彼は勤労が彼を待ちうけていると思っていた。そしてそれを見出し、それをなし、それを最大に生かした。ここに成功の原因があったのである。
彼は仕事の時間の幾分かをケンブリッジで過ごした。そこでは、税関を経てギリシア語やラテン語を輸入する代りに、ヨーロッパ語の密輸を行う一種の密輸業者として学生の勉強を指導した。その他の時間は彼はロンドンで過ごした。
ところで、一年じゅうが夏であったエデンの時代から、緯度の低いところでは一年の大部分が冬である現在にいたるまで、男の世界は相も変わらず一筋の道――チャールズ・ダーネーの道――女への愛の道――を歩んできたのである。
彼はあの危機に遭遇したときからルーシー・マネットを愛していた。彼はあの憐れみをたたえたルーシーの声のようにやさしい慕わしい声をかつて聞いたことがなかった。彼は自分のために掘られた墓穴の縁で自分の顔と見会ったときのルーシーの顔のようにやさしく美しい顔をかつて見たことがなかった。けれども、彼はまだそのことを彼女にうちあけてはいなかった。波高き海の彼方《かなた》の、長い長い埃の道の向うの荒れ果てた館で起こった暗殺――すでに夢の中の霧と化したあの堅固な石造りの館――も一年前の出来事となった、が、彼は自分の心の中は、一言も口に出して彼女にうちあけたことはなかった。
それには自分としての理由があることを、彼は充分承知していた。それはこの前と同じようにある夏の日のことであったが、彼は大学の仕事をすませて遅くロンドンに着き、ソホーの静かな一隅に足を向けながら、マネット医師に心中をうちあけようと思いふけっていた。それは夏の日の夕暮れであって、彼はルーシーがプロス嬢と外出していることを知っていた。
医師は窓ぎわの安楽椅子で読書しているところだった。かつての苦難の時代に彼を支え、また同時にその苦しみに苛烈さを加えることになった彼の精力は次第に彼に戻ってきていた。彼は今、確固たる意志と、決断力と実行力をもつ非常に精力的な人物であった。精力を回復したといっても、他の回復した能力を用いた場合にも最初のうちはそうだったように、時には少々気まぐれで唐突なこともあった。だが、それはあまり目につかなかったし、今ではますますまれになっていた。
彼はよく勉強し、少ししか眠らないで、非常な疲れに平気で耐え、いつも快活であった。いま彼のところにチャールズ・ダーネーが入って来た。それを見て彼は本をわきに置いて手を差し出した。
「チャールズ・ダーネー、よくおいで下さった。この三、四日、あなたのお帰りを待っていましたよ。ストライヴァー君とシドニー・カートン君が昨日来ましてね、今度はいつもより長いと言っていましたよ」
「学生がその問題に深い興味を示すものですから、帰れなかったのです」彼は、学生のことは少し冷淡に、しかし医師にあたたかく、そう答えた。「マネット嬢は――」
「元気ですよ」と医師は彼が中途でやめたとき言った。「あなたがお帰りになったので、みんなが喜ぶでしょう。あれはなにか家庭《うち》の用事で出かけましたが、まもなく帰るでしょう」
「マネット先生、私はあの方がお留守なのを知っておりました。あなたにお話し申し上げようと、あの方のお留守をねらって伺ったのです」
完全な沈黙がつづいた。
「とおっしゃると」医師は目に見えてかたくなって言った。「椅子をこちらに近づけて、その先をつづけてください」
彼は椅子のことは医師の言った通りにしたが、話をつづける方は容易ではなさそうに見えた。
「マネット先生、私はこちらで本当に親しくしていただいてきたのでございますから」と彼はとうとう話しだした。「一年半ほども――ですから、これから申し上げようとしております問題は、もしかすると――」
彼は医師が彼を止めようと手を差し出したのでやめた。医師はしばらく手をそのままにしていたが、やがて引っ込めながら言った。
「ルーシーのことなのですか」
「あの方のことです」
「どんな場合でも、あれの話をするのはわたしにはつらいことなのです。あれのことを、あなたのおっしゃるような調子で言われるのを聞くのは、わたしにはたいへんつらいことなのですよ。チャールズ・ダーネー」
「私は熱烈な賛美と心からの敬意と深い愛をこめて申し上げるのです」彼は尊敬をこめて言った。
ふたたび完全な沈黙がつづいた後、父親が答えた。
「わたしはそれを信じています。あなたを誤解してはおりません。わたしはそれを信じています」
彼はひどくぎごちなく見えたし、彼がぎごちないのはその問題に近づくのがいやだからだということが明らかだったから、チャールズ・ダーネーはためらった。
「つづけてお話ししてもいいでしょうか」
ふたたび空白。
「どうぞ、おつづけ下さい」
「あなたは私が何を言い出すかお察しでいらっしゃいます。しかし私が誰にもかくしていた心と長い間その心を占めていた希望と恐怖と不安をご存じないのですから、私がどんなに真剣に申し上げているか、どんなに真剣に心に思っているかは分ってはいただけません。マネット先生、私はお嬢さんを、ただ夢中で、心から、利害を超越して、献身的に愛しております。もしこの世に愛というものがあるのでしたら、私こそあの方を愛しているのです。あなたご自身も恋をなさったことがおありになりますね。あなたの昔の恋が私のために弁じてくれますように!」
医師は顔をそむけたまま坐っていた。そして彼の眼は床を見つめていた。彼の最後の言葉を聞くと、医師はまた急いで手をのばして叫んだ。
「いけません。それには触れないでいただきたい! どうか、それを呼びさまさないで下さい!」
その叫びは本当に痛い叫びとあまりよく似ていたので、彼が沈黙した後も長い間チャールズ・ダーネーの耳の中で鳴り響いていた。彼はのばしたままの手を動かした。それはダーネーにやめてくれと頼むように思われた。ダーネーはそう受け取って、黙っていた。
「許してください」すこしたってから、医師は落ち着いた声で言った。「わたしはあなたがルーシーを愛していらっしゃるのを疑いはしません。その点はご安心ください」
彼は坐ったままダーネーの方にからだを向けたが、彼を見もしなければ、眼も上げなかった。彼は手の上にがっくりと顎を落し、白い髪は彼の顔に影を投げていた。
「ルーシーにはもう話したのですか」
「いいえ」
「手紙も出しませんか」
「けっして」
「あなたの克己《こっき》が娘の父親にたいする思いやりからでたものだということを知らないふりをするのは卑怯《ひきょう》だと思います。父はあなたにお礼を言います」
彼は手を差し出した。だが、彼の眼はダーネーを見なかった。
「私には分っております」とダーネーは敬意をこめて言った。「マネット先生、毎日あなた方がいっしょにいらっしゃるのを見てきた私が、あなたとマネット嬢は世間の父と子の間の慈愛にもほとんど比を見ないほどの、まれに見る、いじらしい、それがはぐくまれた環境と切っても切れない愛情につながれていらっしゃるということを、どうして見逃すことができましょうか。マネット先生、私には分っております――私がどうして見逃がすことができましょうか――あの方が一人前の女になった娘の愛情と義務を感じていられるばかりでなく、まるで幼な子のようにあなたを愛し、あなたを頼りにしていられるということを。私には、あの方が子供の時にお父様がなかったので、今、あなたにあの方の現在の年齢と性格にふさわしい、いつも変わらない強い愛情をささげていらっしゃること、あなたが亡くなったものと信じていた子供のころのように信頼しきってなついていらっしゃるということも知っております。もしあなたがこの世の彼方の世界からあの方のところに戻ってこられたのだと仮定しても、あの方から見れば、今ご一緒にいらっしゃるお父様よりも尊い方は考えられないでしょうということも、私にはよく分っております。あの方があなたにすがりついていらっしゃるとき、あなたの頸には赤ん坊と少女と大人になった女の手とがいっしょになって巻きついているのだということも知っております。あの方は、あなたを愛するということで、今のあの方と同じ年であったころのお母様を見たり愛したりしていらっしゃるということや、今の私と同じ年であったころのあなたを見たり愛したりしていらっしゃるということや、また、悲しみにうちひしがれておられたお母様を愛し、あの恐ろしい試練をくぐり抜けて幸いに復活されたあなたを愛していらっしゃるということも知っております。ご家庭のあなたを存じ上げて以来、いつでも私にはこのことが分っていたのでございます」
彼女の父親は顔をうつむけたまま、黙って坐っていた。彼の呼吸は少し速くなった。だが、彼は、そのほかには興奮した様子をあらわさなかった。
「マネット先生、いつもこのことが分っていながら、いつもあの方とこの聖《きよ》い光にとりかこまれていらっしゃるあなたを見ていながら、私は人間の力で耐えられる限りは耐えてまいりました。しかし、あなた方お二人の間に私の愛を――私の愛でさえも――もち込むのはあなたのご経歴にそれほどよくないよけいなものをつけ加えるような気がしておりましたし、今でさえ、そう思っているのでございます。けれども、私はあの方を愛しております。天に誓って私はあの方を愛しております」
「わたしは信じていますよ」と父親は悲しそうに言った。「わたしは前からそう思っていました。わたしは信じていますよ」
「しかし、それを信じてくださるといっても」ダーネーの耳には父親の悲しそうな声は自分を責めているように聞こえたので、言った。「もし私がいつか仕合せにあの方を妻とすることができたとしても、どんな場合でも私があなたとあの方を引きはなさなければならないのでしたら、いま申し上げたことを、私が一言でも口にするだろうとか、口にすることが出来るだろうなどとは、信じていただきたくないのです。それどころではございません。そういうことは望めないことだと私は納得しなければなりません。そういうことは卑劣なことだと私は納得しなければならないのでございます。もし遠い先のことであっても、私がそんなことを考えたり、胸の中にしまっておいたりするようでしたら――かりにもそんなことが胸にあるとしましたら――いま私はこの尊いお手に触れることはできません」
彼はそう言いながらその手を彼の手の上にのせた。
「そうなのでございます、マネット先生。私はあなたのように自分でフランスから亡命し、あなたのように動乱と圧政と窮乏の故にフランスを追われて、あなたのように国をはなれて自分の力で生きて行こうと努めながら、もっと幸福な未来を信じているのです。私は、ただ、あなたの運命を分けていただき、あなたの生活と家庭を分けていただいて、死ぬまであなたに誠実に仕えたいと考えているだけでございます。あなたの子供として、あなたの仲間として、あなたの友人としての特権をルーシーと分けていただきたいのではありません。それに加勢してルーシーをもっと強くあなたに結びつけたいのでございます――もしそういうことができるのでしたらですが」
彼の手はまだルーシーの父親の手に触れたままだった。父親はそれにほんのちょっと、しかし冷淡にではなく、こたえてから、両手を椅子のひじ掛けにおいて、この話が始まってから初めて目を上げた。彼の顔には心の戦いがはっきりあらわれていた。時々暗い疑惑と恐怖の色が浮かびそうになるのを隠そうとする心の戦いが。
「チャールズ・ダーネー、あなたは実に思いやりのある男らしいことをおっしゃってくださる。わたしは心からお礼を言います。そして、腹蔵なくなんでも――たいていのことは――お話ししましょう。あなたはルーシーがあなたを愛していると信じられるなにか根拠がおありですか」
「なにもありません。まだ、なにもありません」
「わたしに知らせておいて、すぐにそれをたしかめたいというのが、いまのお話の直接の目的なのですか」
「そういうわけでもありません。何週間でもそれをたしかめる見込みがたたないかもしれません。また、(私の間違いであっても、なくても)明日にでもその見込みがたつかもしれないのです」
「なにかわたしの指図を求めておられるのですか」
「なにもお願いはいたしません。ですが、万一あなたがなにか指図をしてくだすった方がいいとお考えになった場合には、あなたにはそれがおできになるかもしれないと考えておりました」
「あなたはわたしになにか約束してほしいことがおありですか」
「ぜひ約束していただきたいことがございます」
「なんですか」
「私には、あなたがいらっしゃらなかったならば、まったく希望が持てないということがよくわかっております。かりに、今、マネットさんがきよらかな心の中で私のことを考えていてくださるとしても――そんなことを仮定するほど私があつかましい男だとお考えにならないでください――あの方のお父様にたいする愛と矛盾すれば、私はあの方の心の中にとどまっていることはできないということがよく分っております」
「かりにそうだとすると、別の方面から考えると、そのことの中にはどういうことが含まれているかお分りですか」
「お父様がある求婚者に好意的におっしゃる一言は、あの方ご自身よりも、また全世界よりも重大であるということも、私にはよく分っております。その理由から、マネット先生」ダーネーは遠慮がちに、しかしきっぱりと言った。「命にかけても、そのお言葉をおっしゃっていただきたくないのでございます」
「よく分ります。チャールズ・ダーネー、不可解なことははなはだしい不和の状態からもおこってくるものですが、親密な愛情からもおこってくるものです。その場合には、微妙で、捕えにくく、見抜くのがむずかしいものです。娘のルーシーはこの一つの点でわたしには謎なのです。あの子がなにを思っているか、わたしには想像がつきません」
「では、お尋ねしてもよろしいでしょうか。もしかしてあの方に――」彼がためらったので、父親があとをつづけた。
「ほかに求婚者があるか」
「そう申し上げるつもりでいたのです」
ルーシーの父は答える前にちょっと考えた。
「あなたはカートン君とここで会いますね。ストライヴァー君もときどきここへ来ます。もしかりに求婚者がいるとすれば、この二人の中の一人よりほかには考えられませんね」
「両方かもしれませんよ」とダーネーが言った。
「両方だとは考えたことがありません。おそらく、どちらもそうではないかもしれません。あなたはわたしに約束してほしいとおっしゃいましたね。どんな約束ですか、おっしゃってください」
「それは、万一いつかマネットさんの方からあなたに私が今思いきって申し上げたような打ちあけ話をなさることがありましたら、どうか、私が申しましたことを、あなたも信用しているからといって、保証していただきたいのでございます。どうか私に好意をもって下すって、私に不利なことをおっしゃらないでいただきたいのでございます。これ以上自分の利害関係のことは申しません。お願いすることはこれだけです。このことをお願いいたしますについての条件、もちろん、それはあなたが要求なさる権利がおありですが、それには私は即座に従います」
「それは約束しますよ」と医師が言った。「なにも条件をつけないで。わたしはあなたの目的が純粋に、本当にいま言われたとおりだと信じています。わたしはあなたの意図がわたしともうひとつの、わたしよりもずっと大切な自分との間のきずなを弱めるのではなく、いつまでも結びつけておくことにあると信じています。もしあの子が、あなたがなくては、自分はほんとうに幸福ではないと言うことがあったら、わたしはあの子をあなたに差し上げましょう。たとい、かりに――チャールズ・ダーネー、たとい、かりに――」
ダーネーは感謝をこめて彼の手をとっていた。そして医師が言葉をつづけるときも、二人の手は握られたままであった。
「――昔のことでも、今のことでも、あの子が心から愛している男にたいしてなにか不利な想像とか、理由とか、懸念とかがあるとしても――その直接の責任はその人にはないのです――そういうものはみなあの子のために消してしまわなければいけない。あの子はわたしにとっては何物にも代え難いのです。わたしにとっては、苦しみにもまさるものです。わたしにとっては、不正にもまさるものです。わたしにとっては――いや、つまらぬことを言いました」
彼が黙り込んでしまった様子があまり変だったので、彼が話をやめたときの凍りついた表情があまり変だったので、ダーネーは自分の手が彼の手の中で冷たくなっていくのがわかった。だが、彼は握った手を徐々にゆるめて、ついに手は下に落ちた。
「あなたはさっきなにかおっしゃいましたね」マネット医師は急に微笑して言った。「あなたがおっしゃったのは、なんのことでしたっけ」
彼はなんと返事していいのか当惑したが、やっと条件のことを話していたのを思い出した。
「あなたが私を信用してくださるので、私の方でも、なにもかも打ちあけて申し上げたいと存じます。現在の私の名は、私の母方の名をすこし変えたものですが、ご記憶のように、私の本名ではございません。私は自分の本名とイギリスにいるわけをお話ししたいのです」
「やめてください」とボーヴェーの医師が言った。
「ぜひお話ししたいのです。あなたの信頼に今よりもなお値する人間になりたいのです。またあなたにはどんなことでも秘密にしておきたくないからです」
「やめてください」
一瞬間、医師は両方の手で耳をふさぎさえした。次の瞬間、その両方の手でダーネーの唇をふさいだ。
「わたしがお願いしたら話してください。今はいけません。もしあなたの求愛が成功したら、もしルーシーがあなたを愛するようになったら、あなたの結婚式の朝に話してください。約束しますか」
「よろこんで」
「手をください。あれも間もなく帰るでしょう。今夜われわれが一緒にいるところをあれに見せない方がいいでしょう。さあ、お帰りなさい」
チャールズ・ダーネーがいとまを告げたときはもう暗くなっていた。それから一時間たって、もっと暗くなったころ、ルーシーが帰宅した。彼女はひとりでいそいで部屋に入ってきた――プロス嬢はまっすぐに二階へ行ってしまったので――すると、父親がいつも本を読む椅子が空いているのを見てびっくりした。
「お父さま」と彼女は父を呼んだ、「お父さまってば」
何も返事はなかった、が、父の寝室から低い槌の音が聞えてきた。ルーシーは途中の部屋をそっと通り過ぎて彼の部屋の扉から中をのぞいたが、驚いて血の気を失って、「どうしましょう! どうしましょう!」と心の中で叫びながら駆け戻ってきた。
ルーシーはほんの一瞬間まごついただけだった。彼女はすぐまた駆け戻って、彼の部屋の扉を叩きやさしく声をかけた。その声がすると槌の音はやんで、やがて彼は娘のところに出て来た。そして二人は長い間いっしょにあちこち歩きまわっていた。
その夜ルーシーは眠っている父親を見に寝床を出た。彼はよく眠っていて、靴づくりの道具をいれた箱と古い出来かけの仕事はみないつものとおりであった。
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第十一章 一対の絵
「シドニー」ストライヴァー氏はその同じ夜、それとも朝というべきか、やまいぬに言った。「もう一杯、パンチをこしらえろよ、君に話があるんだ」
長い休暇が始まる前にストライヴァー氏の書類を一掃しなければならないので、シドニーはその夜も、その前夜も、その前々夜も、幾夜も続けていつもの二倍も仕事をしていた。ようやく片がついたところだった。ストライヴァーの仕事の遅れは見事にとり戻された。いまは十一月が大気の霧と法律上の霧とともにやってきて、また水車場に穀物を持ちこむまで、なにもかも片がついた。
シドニーはそんなに働いても特別元気なわけでもなく、酒の量が減ったわけでもなかった。夜通し彼を働かせるためには、いつもよりたくさん濡れタオルが必要だったし、それにともなって、タオルに先立つ余分な酒が必要であった。それで、今、頭からタオルをとって、この六時間の間ときどきひたしていた洗面器の中に投げこんだときには、彼はくたくたになっていた。
「君、もう一杯パンチをこしらえてるのか」でっぷりしたストライヴァーは両手を腰のバンドにつっこんで仰向けに寝ころんだ長椅子からあたりをちらちら見ながら言った。
「こしらえてるよ」
「なあ、おい、僕がこれから話すことはだな、君にはちょっと意外で、僕がいつも君が考えているほど抜け目のない男ではないと思わせるかもしれないんだ。僕は結婚するつもりだよ」
「君が結婚するって」
「そうなんだ。しかも金のためじゃないんだ。どうだ、君は何と言うね」
「何もあまり言いたくないね。相手は誰だね」
「当ててみろ」
「朝の五時に、頭の中じゃ脳みそがパチパチ、プスプス煮えたぎっているのに、僕は当てものなんかしたくないね。僕に当ててもらいたかったら、晩餐に招待しなくちゃだめだよ」
「それじゃ、話そう」ストライヴァーはゆっくり坐る姿勢になって言った。「シドニー、君に僕の気持を分らせるのはむずかしいよ、君はまったく鈍感な奴だからな」
「それで君は」シドニーはせわしくパンチを混ぜながらやりかえした。「まったく感じやすい詩的な人間だよ」
「さてさて」ストライヴァーは高慢ちきに笑いながら答えた。「僕も恋の化身だなどと言いたいとは思わないがね(僕はそれほど馬鹿ではないつもりだから)、それにしても君《ヽ》よりは多感な人間だよ」
「君は僕より幸運な人間だというつもりなんだろう」
「そんなつもりじゃない。僕が言いたいのは、僕は君よりも――君よりも――」
「女性に親切だと言え、君がそのとおりやっているついでに」とカートンが言ってみた。
「なるほど! 女性に親切だと言おう。僕はこういうつもりだったのさ」ストライヴァーはパンチをこしらえている友だちに得意になって言った。「僕は、女性の前では君よりも愛想よくしようと気をつかうし、つとめて愛想よくするし、どうすれば愛想よくできるか、君よりもよく心得ている男だとね」
「先をつづけろ」とシドニー・カートンが言った。
「いや、先をつづける前に」ストライヴァーは横柄に首を振って言った。「君に言っておこう。君はマネット先生の家に僕と同じくらい頻繁に、いや、僕よりももっと頻繁に行くだろう。それでさ、僕は君があそこでむっつりしているのがはずかしいのさ。君の様子ときたら、何もしゃべらず、気むずかしい顔をして、実に下卑《げび》ているものだから、僕は実際はずかしくてたまらないんだよ、シドニー」
「法廷で君のような仕事をやっている男には、はずかしい思いをすることは大へんためになるだろう」とシドニーが答えた。「君は僕に大いに感謝してもいいね」
「僕は君をそのままにはさせておかないよ」ストライヴァーは彼にその返事を肩で押しつけるように言った。「おかないとも、シドニー、僕は君に言う義務があるんだ――それで、君のためになるように、君の前で言うがね――君はそういう方面のつきあいではおそろしくつむじ曲りだよ。君は不愉快なやつだよ」
シドニーは自分がこしらえたパンチをグラスにいっぱい飲んだ。そして笑った。
「僕を見給え」ストライヴァーは肩をいからして言った。「僕は君より独立した境遇なんだから、君ほど愛想よくする必要はないのだ。では、なぜ僕は愛想よくするのか」
「僕はまだ愛想のいい君を見たことがないね」とカートンが呟《つぶや》いた。
「僕は便宜上愛想よくするのだ。それは僕の主義なんだよ。だから僕を見給え。僕はりっぱにやって行くよ」
「君は結婚の話をしないじゃないか」カートンはむとんちゃくな態度で言った。「その話をつづけてもらいたいね。僕のことなら――僕はなおる見込みがないんだ。それが君には分らないのかい」
彼はすこし軽蔑するように問いかけた。
「なおる見込みがない権利など君にあるものか」と彼の友だちは答えたが、あまりなぐさめる口調でもなかった。
「そんな権利はどうもないらしいね」とシドニー・カートンが言った。「相手の婦人は誰だい」
「それじゃ、僕がそのひとの名を言っても気を悪くするなよ、シドニー」ストライヴァー氏はこれから打ちあけようとすることにたいして、見せかけの友情をふりまわして予告した。「というわけはね、僕は君が口に出して言う半分も心では思っていないことを知っているからだ。よしんば、君がそのとおり思っていたところで、たいしたことじゃないさ。君はいつか僕にその令嬢のことを軽蔑した言葉で言ったことがあるから、ちょっと前置きしておくよ」
「そうだったかな」
「そうだとも。しかもこの部屋でだ」
シドニー・カートンは自分のパンチを眺め、それから悦に入っている友だちを見た。それからパンチを飲んで、また悦に入っている友だちを見た。
「君はそのひとのことを金髪の人形だと言ったよ。そのひとというのは、マネットさんだよ。もし君が感じやすい男だったり、繊細な感情をもってる男だったら、そんなことを言われれば僕も少しは憤慨したかもしれないさ。しかし、君はそうじゃないんだ。君はそんな感覚は全然もち合わせていない。だから僕は、絵の分らない奴に自分の絵のことをかれこれ言われたり、音楽の分らない奴に自分の音楽のことをかれこれ言われたりしても平気なように、君にそんな言い方をされても平気なんだ」
シドニー・カートンは非常な速さでパンチを飲んだ。友達を眺めながら、なみなみとグラスにみたしては何杯も飲んだ。
「さあ、すっかり分ったろう、シド」とストライヴァー氏が言った。「僕は財産のことはかまわないよ。あのひとはきれいだし、僕は自分の好きなようにしようと決心したんだ。概して言って、僕は自分の好きなようになれると思っている。あのひとも僕という、いまでも相当いい暮らしをしているのに、これからもどんどん出世する、ちょっと名の通った男といっしょになれるわけだ。あのひとにはちょっとした幸運だよ。だが、あのひとは幸運にあたいするね。おどろいたか」
カートンはやはりパンチを飲みながら答えた。「なぜ僕がおどろくわけがあるのかね」
「じゃあ、賛成するかい」
カートンはやはりパンチを飲みながら答えた。「なぜ僕が賛成してはいけないわけがあるのかね」
「なるほど」と友達のストライヴァーが言った。「君は僕が想像していたよりも簡単にこの話を聞いてくれたし、僕が想像していたよりももっと金銭をはなれて僕のためを思ってくれた。もっとも、君は今までに君の昔の仲間が相当強い意志をもっている男だということをよく知っているはずだが。そうなんだ、シドニー。僕はいままでこういう生き方をしてきたんだし、それを変えようとも思っていないよ。男が家庭に入ろうという気になったら、家庭をもつのが男として愉快なことだと思っている(そんな気にならないなら、遠ざかっていればいい)。それで僕はマネットさんならどこにおいてもうまくやって行くし、いつでも僕に面目をほどこすだろうと思うんだ。ところで、シドニー。今度は君《ヽ》に|君の《ヽヽ》将来について一言したいのだよ。君はひどい生活をしているよ。まったく君はひどい生活をしている。君は金《かね》の値打ちを知らないし、生活も苦しい。そのうちにまいってしまうよ。そして病気になって貧乏するだろう。君は本気になって面倒をみてくれる人のことを考えなければいけないよ」
ストライヴァーはいい気になっていかにも恩着せがましくそう言ったので、いつもの倍も大きく見えたし、いつもの四倍も無礼に見えた。
「それでだ、僕が君にすすめるのは」とストライヴァーはつづけた。「そのことをまともに考えてみるということなんだ。僕は僕なりにまともに考えていたんだ。君は君なりにまともに考えてみ給え。結婚し給え。君の世話をしてくれるひとを誰か用意しておけ。君が女とつきあって楽しくなくても、女とのつきあい方が分らなくても、また上手につき合えなくても、そんなことは気にしなくてもいいのだよ。誰か見つけるんだ。財産が少しある、ちゃんとした女を見つけ給え――下宿屋のおかみさんとか貸間をしているような女をね――そして困ったときの用意に結婚し給え。君《ヽ》に必要なのはそういうことなんだ。よく考えてごらんよ、シドニー」
「考えてみよう」とシドニーが言った。
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第十二章 感じやすい男
医者の娘に気前よく幸運を与えようと心にきめたストライヴァー氏は長い休暇で町をはなれる前にその幸福を彼女に知らせてやろうと決心した。彼は心の中であれこれとしばらく考えたすえ、下ごしらえはすっかりしておいた方がよかろう、そうすれば、ミケルマス期の一、二週間前に結婚するか、それともミケルマス期とヒラリー期の間のクリスマス休暇に結婚するかは二人でゆっくりとりきめることができる、という結論に達した。
この事件が勝つだろうということには、彼は少しも疑いを抱いていず、陪審員の評決まではっきり見通しがついていた。実質的な利害問題――考慮に価するのはその問題だけなのだが――について陪審員と論議するとしても、これは明白な事件であって、弱点はひとつもなかった。彼は自分を原告に見たてて召喚した。彼の証言に勝つことは不可能であった。弁護士は書類を投げだし、陪審員は向うを向いて考えてみようともしなかった。裁判をやってみて、ストライヴァー裁判長はこれほど明白な事件はないと満足したのであった。
そういう次第で、ストライヴァー氏は長い休暇が始まるとすぐ、マネット嬢にいっしょにヴォクスホール遊園地へ行こうと正式に申し出た。それがうまくいかなかったので、今度はラニラ遊覧地に誘ってみた。それもどうしたわけかうまくいかなかったので、彼はソホーに伺候して、その気高い心中を披瀝しなければならぬことになった。
というわけで、ストライヴァー氏は長い休暇に入ってからまもなく、テンプルからソホーにむかって肩で人を押しのけながら歩いて行った。彼が、まだテンプル門の聖ダンスタン教会の側にいるのに、ソホーまでからだを突きだして、弱い者をつきのけながら舗道を行く姿を見た人は誰でも彼がどんなにあぶなげのない、強い男かということが分ったであろう。
彼はテルソン銀行の前を通りかかった。彼はテルソン銀行と取引があったし、ローリー氏がマネット家の親しい友人だということを知っていたので、銀行に立ち寄ってソホーの空が輝いていることをローリー氏に知らせてやろうと思いついた。そこで彼はガタガタと強い音をたてて扉を押しあけ、つまずきながら二段降りて、二人の出納係の老人の前を通り過ぎ、かび臭い裏の小部屋に肩をいからせて入って行った。そこにはローリー氏が大きな帳簿を見ながら坐っていたが、帳簿には数字を書き込むために線が引いてあり、部屋の窓にも、まるで数字を書き込むために線を引いたように垂直な鉄格子がはまっていて、まるで雲の下のありとあらゆるものが、金《かね》の高であるかのようであった。
「やあ」とストライヴァーがいった。「いかがですか。お元気でしょうね」
どんな場所にいても、どんな広さのところにいても、いつでも大きすぎるように思われるのがストライヴァー氏の大いなる特色であった。それが、このテルソン銀行では、彼はあまりにも大きすぎたので、向うの隅にいる年輩の書記たちは、まるで彼が自分たちを壁に押しつけでもしたように抗議の眼で見上げた。ずっと遠くの方で堂々たる態度で新聞を読んでいた銀行の主《ぬし》は、ストライヴァーの頭が責任の重い自分のチョッキにぶつかりでもしたように眉をひそめた。
思慮深いローリー氏は、そんな場合にふさわしく思われる調子でこう言った。
「いかがですか、ストライヴァーさん。ご機嫌はいかがですか」そして握手をした。銀行の主の威力があまねく浸透しているとき、テルソン銀行のどの書記も、顧客と握手をする場合には一種特別な握手の仕方をするのがいつも見うけられた。それはテルソン銀行のために握手するのであって、自分のことはまったくかえりみない握手であった。
「なにかご用でございますか、ストライヴァーさん」ローリー氏はいつもの事務的な口調で尋ねた。
「いや、ありがとう。僕は私用でお訪ねしたのですよ、ローリーさん。個人的なお話をしようと思ってやって来たのですよ」
「そうですか」ローリー氏はずっと向うの銀行の主の方へ眼をやりながら、耳を傾けて言った。
「僕はね、これから」ストライヴァー氏は心置きなく腕を机にもたせかけたので、それは大きな、普通の二倍もある机だったが、彼には普通の半分もないように見えた。「ローリーさん、僕はあなたの可愛いいお友だちのマネットさんに結婚の申込みをしようと思っているんですよ」
「それはまあ」ローリー氏は顎《あご》をこすりながら不審な顔をして客を見て叫んだ。
「それはまあですって」ストライヴァーは退きながら繰り返した。「それはまあですって、それはどういう意味なんですか、ローリーさん」
「わたしの意味は、もちろん、好意的であなたのおっしゃることを充分みとめておりますし、また、大いにあなたの名誉となるものでございます。また――簡単に申しますと、私がそう申しました意味はあなたが望まれるあらゆるものを含んでいるのでございます。ですけれども――まったくのところ、ね、ストライヴァーさん――」
ローリー氏はここでやめて、心ならずも心の中で「お分りでしょうが、あなたはあまり勝手すぎますよ」と仕方なくつけ加えたかのように、彼にむかって実に変な恰好で首を振った。
「これは驚きましたな」ストライヴァーは喧嘩好きな手で机をたたき、眼を大きく見ひらき、息を深く吸い込んで言った。「ローリーさん、あなたのおっしゃることは、なにがなんだか分りませんよ」
ローリー氏は彼に分らせる手段として、まず小さなかつらを両耳のところでなおし、それからペンの耳を噛んだ。
「ばかばかしい」ストライヴァーは彼を見据えて言った。「僕にその資格がないとおっしゃるのですか」
「いやいや、あります、ありますよ。あなたにはその資格がありますよ」とローリー氏が言った。「あなたがその資格があるとおっしゃるならば、あなたにはその資格がおありです」
「僕は栄えていませんかね」とストライヴァーが尋ねた。
「いや、栄えているということになれば、あなたは栄えていらっしゃいますよ」とローリー氏が言った。
「それから、どんどん昇進して行きませんかね」
「昇進していらっしゃるということになればですね」ローリー氏はまたひとつ認めてやれることができたので喜んで言った。「誰もそれを疑うことはできませんよ」
「では、いったいあなたが言われた意味はどういうことなのですか、ローリーさん」ストライヴァーはかなり気落ちした様子で尋ねた。
「そうですね。私は――あなたは今あそこへいらっしゃるところなのですか」とローリー氏が尋ねた。
「まっすぐに」ストライヴァーは拳固で机をドシンと打って言った。
「では、私があなたでしたら、まいりますまいね」
「なぜですか。僕はどこまでも追究しますよ」ストライヴァーは人さし指をピクピク動かしながら彼を指さして言った。「あなたは事務家なんだから、きっと理由があるはずです。その理由を言って下さい。あなたなら、なぜ行かないのですか」
「それはですね」とローリー氏が言った。「私なら、自分が成功するだろうと信ずべき理由がなかったら、そうした目的では行きますまい」
「ちえっ」とストライヴァーが大きな声で言った。「だが、これ以上の理由はない」
ローリー氏は遠くの銀行の主をちらりとながめ、それから憤然たるストライヴァーをちらりと見た。
「銀行に|おられる《ヽヽヽヽ》事務家が――相当の年輩の人間が――経験を重ねた人間が、成功疑いなしの有力な理由を三つもかぞえ上げたうえで、ひとつもその理由がないと言われるとは! しかも首がつながったままでそう言われるとは!」ストライヴァー氏は、もしローリー氏が首をはねられた上でそう言ったのなら、それほど驚くにあたらないかのように、そんな妙なことを言った。
「私が成功ということを申します場合には、若いご婦人にたいする成功のことを申し上げているのでございます。私が成功しそうな原因とか理由とか申します場合には、若いご婦人にたいして効果のある原因とか理由のことを申し上げているのでございます。若いご婦人でございますよ、あなた」ローリー氏はストライヴァーの腕をやさしく叩きながら言った。「若いご婦人です。若いご婦人ということがなによりも大切なのでございます」
「では、あなたは」ストライヴァーは肘《ひじ》を張って言った。「あなたの慎重なご意見では、いま問題にしている若い婦人が気取り屋のばかものだとおっしゃるのですか」
「必ずしもそうではございません。私が申し上げたいのはですね、ストライヴァーさん」ローリー氏は顔を紅潮させながら言った。「私は誰の口からもその若いご婦人に失礼な言葉を聞きたくないということでございます。また、私の知人に非常に趣味が下品で性質が横暴な男があって――そんな知人はない方がいいと思いますが――その方が、この机で、そのご婦人に失礼なことをおっしゃらずにはいられなかったとしますと、そんな場合には、テルソン銀行といえども私がその方に自分の考えの一端を申し上げる邪魔はさせないつもりだということでございます」
今度はストライヴァー氏が怒る番であったが、この場合怒りをおさえなければならなかったので、彼の血管は危険な状態に陥った。そして次にローリー氏の番になったとき、いつもはきわめて規則正しかった彼の血管もストライヴァー氏よりよい状態にあるとは言えなかった。
「私が申し上げたいのはそのことなのでございます」とローリー氏が言った。「どうか、その点誤解のないように」
ストライヴァー氏はしばらくの間ものさしの先をしゃぶっていたが、そのうちにそれで歯をたたいて調子をとりだした。そのために彼はきっと歯が痛くなったことだろう。やがて彼はぎごちない沈黙を破って言った。
「これはちょっと思いがけないお話ですね、ローリーさん。あなたはよくお考えの上で僕にソホーへ出向いて結婚の申込みをするなとご忠告になるのですか――この僕に、高等法院法廷のストライヴァーに」
「あなたは私に忠告してほしいとおっしゃるのですか」
「そうです」
「結構です。それならご忠告いたしましょう。あなたはいま、私の忠告をちゃんと繰り返しておっしゃいましたよ」
「では、僕としてはこう申し上げるより仕方がありませんね」とストライヴァーはむかっ腹を立てて笑った。「つまり――ハ、ハ、――過去、現在、未来にわたって、こんな呆《あき》れたことはない、とね」
「それからご了承願いたいのでございますが」とローリー氏がつづけた。「事務家といたしまして、私がこの問題についてとやかく申しますのはよくないことだと存じます。と申しますのは、事務家として申しますと、私はそれについて何も知らないからでございます。ただ、私は、昔マネットさんを抱いて旅をしたことがある、そして今はマネットさんと父上に信頼されている友人であって、また、お二人を心から愛している一人の老人として、お話をしたのでございます。今のお話は私の方からお尋ねしたのではございませんよ、お忘れなく。さて、そこで、あなたは私が正しくないとお考えですか」
「いや」ストライヴァーは口笛を吹きながら言った。「僕はあたりまえのことに第三者を探して来ようなどとはしませんよ。僕は自分でその立場をとるだけです。僕は良識はある方面にあるのだと思っていますが、あなたはきざな、ありふれた、くだらないことばかりしかないと想像していられる。あなたのご意見は僕には思いがけないものですが、しかし、おそらく、あなたの方が正しいでしょう」
「ストライヴァーさん、私は自分がどんなことを想像するかは自分できめたいと思います。それから、申し上げておきますがね」ローリー氏はふたたび顔をさっと紅潮させて言った。「私は決して――テルソン銀行におりますときでも――どんな方にも勝手にそれをきめていただきたくないのでございますよ」
「それはどうも。失礼しました」とストライヴァーが言った。
「どういたしまして。恐縮です。ところで、ストライヴァーさん。私はこう申し上げようと思っていたところなのですよ――あなたもご自分が思いちがいをしていたとお気がつかれるのは苦痛でしょうし、マネット先生としてもあなたにはっきり申し上げなければならないのは苦痛でしょう。またマネットさんもあなたにはっきり申し上げなければならないのは非常な苦痛でしょうと存じます。あなたは私があのご一家にたいして名誉とも仕合わせとも思っております間柄をご存じでいらっしゃる。もしご異存がないようでしたら、どこから見てもあなたにご迷惑をかけずに、またあなたの代理というわけでなしに、わざと話をそちらにむけて、ちょっとした新しい観察と判断をしてまいりまして、それで私の忠告を訂正したいと思っておりますが。それであなたがご不満のようでしたら、それにちがいがないかどうかご自分でためしてごらんになりさえすればよろしいのです。また、もし、それでご満足なさいますなら、そしてそれが現在のとおりでございますならば、言わないですませる方がいいことは誰も言わなくてすむかもしれません。あなたはどうお考えですか」
「そうすると、僕はいつまでロンドンに足止めされるのですか」
「いや、たった二、三時間のことですよ。夜分にソホーへ行って、そのあとお宅へ伺えると思います」
「じゃあ、賛成しますよ」とストライヴァーが言った。「今僕が出かけるのはやめましょう。それほど熱心なわけでもないのですからね。とにかく僕は賛成ですよ。今晩寄ってくださるのを待っています。では、ごめんなさい」
それからストライヴァー氏はくるりと向きを変えて銀行からとび出して行った。彼が通り過ぎたところにはおびただしい空気の震動が起こったので、勘定台の後ろで頭を下げながらそれに耐えて立っているためには、二人の老書記は残っている力を極度に消耗しなければならなかった。こうした尊敬すべきかよわき人々はお辞儀をしているところをいつも人々に見られていたから、彼らは一人のお客を送り出してしまっても、次のお客が入って来るまで誰もいない事務所で頭を下げつづけているのだろうと一般に信じられていた。
この弁護士は頭のするどい男であったから、銀行家が、相当確実な根拠がなくてはあれほどまでに意見をのべることはしなかっただろうと察したのであった。彼はその大きな丸薬を飲む覚悟はしていなかったのだが、飲み込んだのであった。「こうなれば」薬が腹におさまってしまうと、ストライヴァー氏は法廷慣れのした人さし指をテンプルの方に振り動かしながら言った。「これから抜け出すには、君たちがみんなまちがっていることにしなくちゃならん」
そこに大きな救いを見出したのはオールド・ベイリーの戦術家のちょっとした腕であった。「僕がまちがっているとは言わせませんよ、お嬢さん」とストライヴァー氏が言った。「あなたの方がまちがっていることにしてあげますよ」
そんなわけで、その夜十時になってローリー氏が訪れたとき、ストライヴァー氏はわざとちらかしておいたたくさんの本や書類の中で、朝の問題のことなど何も考えていないように見えた。彼はローリー氏を見てびっくりした様子さえした。そしてまったく気をとられて夢中になっている様子であった。
「ときに」その気立てのよい使いの老人は、彼に朝の問題を思い出させようとしてまる半時間もつぶしてから言った。「私はソホーへ行って来ましたよ」
「ソホーへ」とストライヴァー氏は冷淡に繰り返した。「ああ、そうですか。僕はなにを考えているんだろう」
「それで確信をもって申し上げますが」とローリー氏が言った。「今朝のお話では、私の方があたっておりました。私の考えておりましたとおりでした。で、私は今朝の忠告をもう一度申し上げます」
「僕はまったく」ストライヴァー氏はきわめて親しげに答えた。「あなたのために遺憾に思っています。またあの気の毒な父親のためにも遺憾に思っています。きっとあの家族はいつもこの問題を思いだしてつらい思いをするでしょうよ。このことはもうこれきりにして、何も言わないようにしようじゃありませんか」
「あなたのおっしゃることが分りかねますが」とローリー氏が言った。
「おそらくお分りにならないでしょう」ストライヴァーはおだやかに、決定的にうなずきながら言った。「なんでもないですよ、なんでもないですよ」
「しかし、なんでもなくはありませんよ」とローリー氏が言い張った。
「いや、なんでもないですよ、本当になんでもないのです。僕は良識がないのに、あると思ったり、殊勝な抱負がないのに、あると思ったりしていましたが、もうすっかり自分の思いちがいに気がつきましたよ。それに、なにも被害がありませんでしたしね。若い女というものは、これまでにもずいぶん、同じような馬鹿げたことをしでかしてきて、あとで落ちぶれて貧乏になってから悔《く》やんできたものですよ。利己的でない面から言えば、僕はこのことが成らなかったのを残念に思っています。世間的な見方をすればこれは僕にとって悪いことですからね。利己的な面から言えば、僕はこのことが成らなかったのを喜んでいます。世間的な見方をすれば僕にとっていい事ではありませんからね――申し上げるまでもありませんが、僕はこの結婚によって何も得るところはないからです。しかし、なにも被害はありませんでした。僕はあの令嬢に求婚したわけでもありませんし、それに、ここだけの話ですが、僕も、よく考えてみれば、そこまで覚悟していたかどうか、あまり確信がないのです。ローリーさん、まったく頭の空っぽな女子《おなご》の気どった虚栄心や軽率さときた日にゃ、抑えつけられるものじゃありませんよ。それを抑えつけようなどと思っちゃいけませんよ。当てがはずれるにきまってるんですからね。では、どうか、この問題についてはこれ以上何もおっしゃらないでいただきたい。言っておきますがね、僕は他人のためには残念に思っていますが、自分のためには満足しています。そして、あなたのご意向を伺わせていただいたり、私に忠告していただいたりしたことはたいへん感謝しております。あなたは僕よりもあの令嬢をよくご存じでいらっしゃる。あなたは正しかった。これがうまくいくはずはなかった」
ローリー氏はすっかり驚いてしまったので、ストライヴァー氏が過ちをおかした自分の頭の上に寛容と忍耐と好意を雨のように注ぐような恰好で扉の方へ自分を押し出すのを、ただ茫然として眺めていた。「がまんするんですね」とストライヴァーが言った。「このことについては、もう何もおっしゃらぬように。あなたのご意向を伺わせていただいて、もう一度お礼を言いますよ。おやすみなさい」
ローリー氏は自分がどこにいるのか気がつかないうちに、いつのまにか外の夜の中にいた。ストライヴァー氏は長椅子に仰向けにねころんで、天井にむかって目ばたきをしていた。
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第十三章 無神経な男
シドニー・カートンは、たといどこかで光彩を放つことがあったとしても、マネット医師の家では決して光彩を放つことはなかった。彼はまる一年の間に幾度となくやって来たが、いつでもこの家では気まぐれな、気むずかしい怠けものであった。話をしようという気になれば、彼は話がうまかった。だが、彼の心の中の光は彼に不吉な黒い影を投げている無関心という雲を通して外にあらわれることはなかった。
そうはいうものの、彼はその家をとりまく街やその街の舗道に敷いてある無感覚な石になんとなく関心をもっていた。酒が彼に与えた喜びがはかなく消えてしまわぬとき、彼は幾夜も幾夜も、ぼんやりと、みじめな気持でそこをさまよった。また幾度となく、わびしい夜明け方にもそこをぶらついている彼の孤独な姿が見られた。そして、ちょうど静かな時がいつもは忘れられていて到達しがたいよりよきもののことを考えさせるように、太陽の最初の光線が教会の尖塔《せんとう》や高くそびえている建物にみられる遠くはなれた建築の美しさをくっきりと浮彫りにするころになっても、まだぶらついているのが見られた。最近は、テンプル・コートにある彼の見すてられた寝床は、今までよりもっとまれにしか、彼を知らなかった。そして、彼は、二、三分もからだを寝床に投げだしていたかと思うと、また起き上がって、その近辺をさまよい歩くことがしばしばであった。
八月のある日、ストライヴァー氏はすでに(例の結婚問題は考えなおしたとやまいぬに申し送っておいて)デヴォンシャーへかの感じやすい神経をもって出かけてしまい、ロンドンの街の景色や花の香りが、極悪人には善の名残りを、重病人には健康の名残りを、老人には青春の名残りをいくらかとどめているころ、シドニーはいつものようにその舗道を歩いていた。あてもなく、ぐずぐず歩いていた彼の足は、ある意図から活気づきその意図にはげまされて、彼を医師の家の玄関へとみちびいた。
二階に通されると、ルーシーがひとりで仕事をしていた。彼女はいつも彼にたいして気楽な気持になれなかった。それで彼が自分の机の近くに坐ったので、いささか当惑して彼を迎えた。けれども、きまりきった挨拶をかわしながら彼の顔を見上げたとき、彼女はそこにある変化をみとめた。
「お加減がよくないのじゃございませんか、カートンさん」
「いや。しかしマネットさん、僕の生活は健康にいいはずがありませんよ。こういう道楽ものから何が期待できるでしょうか」
「ですけれど――お許しくださいませ、私の方からお尋ねしたりしまして――もっとよい生活をなさらないのは惜しいとはお思いになりませんの」
「たしかにはずかしいことです」
「では、なぜそんな生活を変えようとなさらないのですか」
ルーシーがもう一度やさしく彼を見ると、彼は眼に涙を浮かべていたので、びっくりして悲しくなった。彼が返事をしたとき、彼の声も涙ぐんでいた。
「それには遅すぎます。僕は今よりもよくなることはないでしょう。ますます堕落して、ますます悪くなるばかりですよ」
彼は彼女の机に片肘をついて、手で眼を蔽った。そのあとの静まりかえった中で、机がふるえた。
ルーシーはこんなおだやかなカートンを見たことがなかったので、ひどく心を痛めた。彼は彼女を見なくても、それが分った。それでこう言った。
「どうか、許してください、マネットさん。僕はあなたにお話ししたいと思っていることを考えただけで、くじけてしまうのです。僕の話を聞いてくださいますか」
「もしそれが、あなたのお役にたつことでしたら、カートンさん。もしそのためにあなたがもっとお仕合わせになれるのでしたら、よろこんで伺いましょう」
「あなたのやさしい心に神の祝福がありますように」
しばらくして彼は顔から手をとって、しっかりした口調で話した。
「どうか、こわがらないで僕の話を聞いてください。僕が何を申し上げても、しりごみなさらないでください。僕は若いときに死んでしまったようなものなのです。僕の生涯はもう終ってしまったのかもしれません」
「いいえ、カートンさん、あなたの生涯のいちばんよい時期は、これからだと私は信じております。あなたは、もっともっとあなたご自身にふさわしくおなりになれると私は信じております」
「あなたにふさわしく、とおっしゃってください。マネットさん。僕にはもっとよく分っているのですが、――自分のみじめな心の奥底で、僕にはもっとよく分っているのですけれども――そのお言葉は決して忘れません」
彼女は蒼い顔をして震えていた。彼は自分に絶望しきっているのだと言って彼女を安堵《あんど》させたので、この会談は他にその類を見ないようなものになった。
「マネットさん、かりにあなたが、いまあなたの前にいる男の――ご存じのように、自暴自棄の、消耗した、のんだくれの、酷使された哀れな男の――愛にむくいてくださることがあると仮定すればですね、その男は、たとい今の今は幸福になれたとしても、自分はあなたをみじめにし、あなたを悲しませて後悔させ、あなたを不仕合わせにし、あなたをはずかしめ、あなたを自分と一緒に引きずりおろすことになるだろうと気がついているはずです。僕はあなたが僕に愛情をおもちになるはずがないのをよく知っております。僕は決してそれを求めてはおりません。そういうことがあるはずがないのを、僕は感謝しているくらいです」
「そのほかのことで、あなたをお助けすることはできないでしょうか、カートンさん。あなたに――また失礼なことを申しますが――もっとよい生活に戻っていただくことはできないのでしょうか。あなたがうちあけてくだすったことにたいして、私は何もしてさしあげることができないのでしょうか。私はこれは打ちあけ話だと存じます」彼女はすこしためらった後、真剣に涙を流しながら遠慮がちに言った。「あなたはこのお話をどなたにもなさらないでしょうと存じます。このことがあなたご自身のためになるように、私がしてさしあげることはできないのでしょうか。カートンさん」
彼は頭を振った。
「どうにもなりませんよ。いや、どうにもなりませんよ、マネットさん。もうほんの少し僕の話を聞いてくだされば、あなたが僕のためにしてくだされることはすっかりしてくだすったことになるのです。僕はあなたが僕の魂の最後の夢であったことを知っていただきたいのです。僕は、堕落したといっても、お父様といっしょにいらっしゃるあなたと、あなたの力でこうした家庭になったこの家庭を見て、もう消えてしまったと思っていた自分の昔の夢の面影がかきたてられないほどには堕落してはいませんでした。あなたを知ってから、僕は、もう二度と自分をとがめることはあるまいと思っていた自責に苦しみ、もう永久に何も言うまいと思っていた私に、向上せよと促がす昔の声のささやきを耳にしておりました。僕は新たに奮発して、また出発しなおし、怠惰と淫欲をなげうって、あきらめた戦いを最後まで続けようと、ぼんやり考えていたのです。すべては夢でした。結局何にもならないで、眠っていた者は自分が寝たところにそのまま寝ていたという夢だったのです。しかし僕はあなたがその夢をみさせてくだすったのだということを、知っていただきたいのです」
「それは、もう、少しも残っていないのでしょうか。おお、カートンさん、もう一度お考えになってください。もう一度やってごらんなさい」
「いや、マネットさん、僕はその夢をみている間ずっと、自分がまったくそれに値しないことが分っていたのです。それなのに、あなたは、あなたの心のままの、灰の塊のような僕に突然火をつけて燃えたたせてくだすったということを知っていただかずにはいられませんでしたし、今もそうせずにはいられないのです――火といっても、本質的には僕自身から離しては考えられないもので、何ものにも生命を与えず、何ものにも光をあたえず、何の役にもたたないで、むなしく燃えつきてしまうばかりの火なのですが」
「カートンさん、悲しいことに、私は、あなたが私と知りあいになる前よりももっとあなたを不仕合わせにしてしまったのですから――」
「それをおっしゃらないでください、マネットさん。もしそういうことができるのでしたら、あなたこそ僕を改心させてくだすったのでしょうから。僕がますます悪くなっても、あなたのせいではありませんよ」
「とにかく、あなたがおっしゃるようなご心境は私の影響にいくらか責任があるのでございますから――はっきり申しますと、私が思っておりますのはこのことなのでございます――私の影響をあなたのお役に立たせることはできないものでしょうか。あなたのお役に立つような力は、私にはすこしもないのでしょうか」
「マネットさん、僕はここに来たのは、今の僕になしうる最高の善を実現するためなのです。僕が全世界の最後のものとしてあなたに自分の心をうちあけたことと、僕の心の中には今でもあなたに悲しんでいただける、憐れんでいただけるものが何か残っている、という記憶を抱いて方向を誤った僕の生涯の残りを送らせていただきたいのです」
「あなたのお心に残っている何かこそ、もっとよいことがおできになる力だと信じてくださるように、私は何度も何度も心から一生懸命にお願いいたしましたのに」
「もうそのことを信じろとはおっしゃらないでください、マネットさん。僕は自分でためしてみました。僕にはもっとよく分っています。僕はあなたを悲しませますね。早くおしまいにします。僕がこの日を思い出すとき、僕の生涯の最後の告白があなたのきよらかな汚《けが》れない胸の中におさめられていて、そこにおさめられているのはそれだけで、誰にも知られることはないのだということを信じさせてくださいませんか」
「もしそれがあなたの慰めになるのでしたら、どうぞ」
「あなたが誰よりも愛するようになられる方にも、ですね」
「カートンさん」ルーシーは興奮してちょっと沈黙してから言った。「その秘密はあなたのものでございます。私のものではございません。私はそれを守りますとお約束いたします」
「ありがとう。どうか、あなたの上に神の祝福がありますように」
彼は彼女の手を自分の唇にふれた。そして扉の方へ歩いて行った。
「マネットさん、僕がこの話を、ふと口に出したりすることでもないだろうかと、ご心配なさらないでください。僕は二度とこのことには触れません。僕が今死んでしまったとしても、それより確かとは言えないくらいです。死ぬときに僕は、あなたに最後の告白をしたこと、そして僕の名も過失も、不仕合わせもみなやさしくあなたの心に移されたというたったひとつのよい記憶を大切に胸にしまっていることでしょう――そしてあなたに感謝し、あなたを祝福するでしょう。僕のことに煩《わずら》わされないときには、あなたのお心が軽く、仕合わせでありますように!」
彼はそれまで見せかけていた彼とまるで似ていなかったし、また、いままで彼がどんなに多くのものを投げ捨ててきたか、どんなに多くのものを毎日おさえつけたり濫用したりしてきたかと思うとあまりに痛ましかったので、ルーシー・マネットは、ふりかえってたたずんでいる彼のために悲しげにすすり泣いた。
「おちついてください」と彼が言った。「僕はあなたに泣いていただくような人間ではありません、マネットさん。一時間か二時間もたてば、僕は卑しい仲間や卑しい習慣に軽蔑しながらも負けてしまって、街をうろついているどんなみじめな奴よりももっとあなたの涙に値しなくなるでしょう。おちついてください。しかし、表面はあなたが今までごらんになったような男ですが、心の中では、僕は、あなたにたいしては、いつでもいまのままの僕です。最後にひとつだけお願いしたいことは、どうかこのことを信じていただきたいのです」
「信じましょう、カートンさん」
「僕の最後のお願いはこれです。これさえ申し上げましたら、あなたとはなにも一致するところのない、また、あなたとの間には越すことのできない距離があるのを僕がよく知っている客をひきとらせてあげましょう。それを申し上げても無駄なことは、よく分っているのですが、それは僕の魂からわき上がって来るのです。あなたのためならば、また、あなたが愛する人のためならば、僕はどんなことでもいたしましょう。もしこれからの僕の生涯がこれまでよりもよい生涯であって、僕が犠牲になれる機会とか、僕が犠牲になれる可能性があるとすれば、僕はあなたのために、またあなたの愛する人々のためにどんな犠牲でも受けいれましょう。いつか静かなときに、僕が熱烈に、ま心をこめてこの一つのことを申し上げたのを思い出してください。やがてあなたの周りに新しいきずなが結ばれる時が来るでしょう。その時は、まもなくやって来るでしょう――あなたゆえに美しいこの家庭にあなたをもっとやさしく、強く結びつけるきずなが――あなたの名誉となり、あなたの喜びとなるもっともいとしいきずなが。おお、マネットさん、幸福な父親の顔にそっくりな小さな顔があなたの顔を見上げるとき、あなたご自身の明るい美貌があなたの足もとから新たに生まれてくるのをごらんになるとき、あなたの愛する生命をあなたの傍にとどめておくためにはよろこんでその生命を投げ出す男がいるのだということを、時々、思い出してください」
彼は「さよなら」と言い、最後に「あなたの上に神の祝福があるように」と言って、彼女のもとを去った。
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第十四章 正直な商売人
フリート街で、ものすごい小僧と並んで腰掛にかけているジェレミア・クランチャー氏の眼には、おびただしい種々雑多な移動して行くものが毎日映っていた。一日のせわしない時間をずっとフリート街に坐っていて、一つは太陽とともに西へ向かって行き、もう一つは太陽から東へ向かって行って、両方とも太陽が沈む赤紫の空の彼方《かなた》にある平原へと向かってゆく限りない行列を見ていれば、誰でも眼がくらみ耳が遠くなってしまうだろう。
クランチャー氏は藁《わら》を噛みながら、数世紀の間一つの流れを見つめるのをつとめとしているという異教徒の田舎者(ローマの詩人、ホラティウスの詩にでてくる)のように、二つの流れを見つめながら坐っていた――ただそれとちがうところは、ジェリーは二つの流れがいつかは尽きることがあろうとは期待していなかった。それはまた望ましい期待でもなかっただろう。というのは、彼の収入のいく分かは臆病な婦人(たいていでっぷりした中年過ぎの)をテルソンの側から向う岸へ案内してやって得たものであったからである。それぞれの場合でのそうしたつきあいはほんのつかの間のことであったが、クランチャー氏はいつの場合にもその淑女にたいしてひどく関心を示して、彼女の健康を祝して乾杯させていただきたいと強い望みを表明した。彼がふところを肥やしたのは、いま述べたように、この情深い目的を遂行するために彼にさずけられた贈物のためであった。
詩人が人のいる場所で腰掛にかけて人々の見ているところで冥想した時代もあった。クランチャー氏は人のいる場所で腰掛にかけていたが、詩人ではなかったから、なるべく考えごとをしないようにして、あたりを見まわしていた。
さて、こうして彼は部署についていたが、ここのところ、通行人はめったになく、うろうろしている女もほとんどなくて、彼の仕事も概してひどくしけていたので、彼は女房がなにかに当てつけてまたお祈りをしているにちがいないという疑惑を濃厚にしていたとき、フリート街を西の方へ下ってくる見慣れない群衆が彼の注意をひいた。クランチャー氏はその方を眺めているうちに、やって来るのはなにかの葬式であって、この葬式に皆が不服で、それが騒ぎをまきおこしたのだということが分った。
「ジェリー坊主」クランチャー氏は息子の方を向いて言った。「葬式だよ」
「ばんざーい、父ちゃん」とジェリー坊主が叫んだ。
若旦那が挙げたこの歓喜の声には不可解な意味がふくまれていた。大旦那はそれを非常に悪く解釈したので、機会を狙って、若旦那の耳をぶんなぐった。
「どういうわけなんだい。なにがばんざいなんだい。お前は自分の父ちゃんに何が言いてえのだ、このちんぴらめが。こいつは|おれ《ヽヽ》の手にゃ負えなくなってきたよ」クランチャー氏は子供をじろじろ見ながら言った。「こいつとこいつのばんざーいがよ。もうなにも言うんじゃねえぞ。さもないと、もっとぶんなぐってやるから。聞いてるか」
「おれはなんにも悪いことなんかしたんじゃねえよ」とジェリー坊主は頬をこすりながら抗議した。
「じゃあ、やめろ」とクランチャー氏が言った。「おれはお前に悪いことなんかしねえなんて言ってもらいたかねえよ。あそこへ上って坐ってろ、そしてあの人混みを見ていろ」
息子は言われたとおりにした。そして群衆が近づいてきた。彼らはうすぎたない柩《ひつぎ》とうすぎたない送葬馬車のまわりでわめきたて、しっしっと非難の声をあげていた。その送葬馬車の中には会葬者はたった一人いるだけで、その人は会葬者としての威厳をたもつためにはどうしても必要だと思われているうすぎたない礼服を着ていた。しかしその立場はその人にとって決してたのしいものではなさそうだった。車をとりまく弥次馬はますます増える一方で、彼をあざけったり、彼にむかって顔をしかめたり、また、「やーい! スパイだ! ちぇっ! やーい!スパイだ!」などとひっきりなしに怒号したり、大声で叫んだり、その他繰り返しきれぬほどいろいろとものすごい挨拶をあびせかけたからであった。
葬式はいつでもクランチャー氏には特別の吸引力をもっていた。彼は葬式がテルソン銀行の前を通ると、いつでも神経を緊張させて興奮するのであった。であるから、当然、この異常な参列者にかこまれた葬式は大いに彼を興奮させた。それで彼は自分にぶつかった最初の男にきいてみた。
「これはなんだね、兄弟。これはどうしたのだね」
「|おれ《ヽヽ》は知らないね」とその男が言った。「スパイだ! やーい! ちぇっ! スパイだ」
彼は別の男にきいてみた。「誰の葬式だね」
「|おれ《ヽヽ》は知らないね」とその男は答えたが、それにも拘らず両手をさっと口にあてて、おどろくべき熱心さで、また最大の熱情をこめて、「スパイだ! やーい! ちぇっ! ちぇっ!スパイだ!」とどなり立てた。
ついに、その事件の真相をもっとよく知っている人が彼にぶつかってころんだ。それで彼はこの人にその葬式がロジャー・クライという男の葬式だということをおそわった。
「その男がスパイだったのかね」とクランチャー氏が尋ねた。
「オールド・ベイリーのスパイでさあ」とその人が答えた。「やーい! ちぇっ! やーい!オールド・ベイリーのスパイめ!」
「あれ、なるほど!」ジェリーは自分が列席した裁判のことを思い出して叫んだ。「おれはやつを見たことがあるんだ。やつは死んだのかね」
「羊肉みてえに死んでらあ」と相手が答えた。「あれ以上死にっこねえよ。さあ、やつらを外に出せ! スパイめ! それ、やつらを引っぱりだせ! スパイめ!」
人々に何の考えもないところでは、その思いつきはもってこいで、群衆はみな熱心にそれにとびついた。そして大声で彼らを外に出せ、彼らを引っぱり出せと繰り返しながら二台の馬車のすぐそばまで押し寄せたので、車は止まってしまった。群衆が馬車の扉を開くと、一人だけの会葬者は自分から足を引きずって出て来て、たちまち彼らに捕えられた。しかし彼は非常に機敏で、自分の時間をうまく利用したので、次の瞬間には、外套も、帽子も、帽子に巻いた黒いリボンも、白いハンカチーフも、その他の悲しみの象徴もみな脱ぎすてて、裏通りを駆け上って行ってしまった。
群衆は脱ぎすてられたものをずたずたにひき裂いてところかまわず大よろこびでまきちらし、商人はいそいで店を閉めた。当時の群衆はどんなことでも平気でやったので、世間ではひどく恐れていたからである。その時には、もう、彼らは霊柩車を開いて棺をとりだそうとしていた。すると、皆より頭のよさそうな男が、そうするよりも、皆で歓呼の叫びをあげながら目的地までそれを護衛して行こうじゃないかと言いだした。実際的な提案がきわめて必要な場合だったから、この提案も皆の喝采をもって受け入れられた。そして馬車は中に八人入り、外に十二人ぶら下って、その上霊柩車の屋根には巧みな運動によってしがみつけるだけの人間がのっていた。そうした有志の中の最初の人々の中にジェリー・クランチャーがまじっていた。彼はテルソン銀行の人に見られないように霊柩車の隅で釘を立てたような頭をつつましく隠していた。
商売の葬儀屋たちは勝手な儀式の変更にたいしていくらか抗議をしたが、おそろしく近くに川があって、手に負えない葬儀屋にものの道理を分らせるには、冷たい水に投げ込むのがいちばんだなどと言っている声が方々から聞こえたので、抗議の声も弱くなり、まもなく消えてしまった。形を変えた行列は、煙突掃除人が霊柩車を御し――彼の傍に坐らされた本職の御者が油断なく注意をあたえていたが――パイ行商人が同じく自分の閣僚につきそわれて葬送馬車を御していた。当時街の人気者であった熊使いが景気をつけるために引っぱり込まれて、行列はストランド街をずっと下って行った。そして黒くてきたない彼の熊は、自分が歩いている行列の部分にいかにも葬式らしい雰囲気をただよわせていた。
こうして、ビールを飲みながら、パイプをふかしながら、歌をがなりたてながら、悲しみを極度にふざけて表現しながら、一足ごとに新たに人をひき入れ、店という店に戸を閉めさせながら、この乱雑な行列はすすんで行った。その行く先は野原をずっと行ったところにあるセントパンクラスの古い教会であった。やがて行列はそこに着いた。そしてどうしても墓地になだれ込むのだと言ってきかず、ついに故ロジャー・クライの埋葬を自分たちの流儀に従って完遂して、大いに満足したのであった。
死人を始末してしまうと、群衆はまた他の楽しみが必要になったので、別の頭のいい男が(もしかすると先刻と同じだったかもしれないが)、通りがかりの人をオールド・ベイリーのスパイだと非難して、恨みをはらしてやろうじゃないかと気まぐれなことを思いついた。そこで、この気まぐれを実現するために、生まれてから一度もオールド・ベイリーの近くに行ったこともない何十人という罪のない人々を追いかけて、乱暴に押さえつけていじめた。それにつづいて、窓をこわすという悪ふざけになり、それから居酒屋の略奪に移って行くのは容易であって、また自然でもあった。ついに、数時間たって、さらに好戦的な精神を武装させるために、種々さまざまなあずまやが引きたおされ、空地の柵が根こぎにされてしまったころ、親衛兵がやってくるぞという噂が流布された。この噂の前に、群衆は次第に少なくなった。親衛兵は来たかもしれなかったが、来なかったかもしれなかった。そしてこれがやじ馬のいつものなりゆきであった。
クランチャー氏はおしまいの悪ふざけには参加せずに、墓地に残っていて、葬儀屋と相談したり、悔みを言ったりしていた。そこにいると彼は心が静まった。彼は隣の居酒屋からパイプを手に入れてきて、柵を吟味したり、その地点を慎重に考察したりしながら、パイプをふかしていた。
「ジェリー」クランチャー氏はいつものように自分自身に向かって呼びかけて言った。「お前はあの日そこに埋まってるクライを見たな。お前は自分の眼で奴が若くて、まっすぐなからだをしているのを見たな」
パイプを吸い終わって、もうしばらく黙考してから、彼は銀行が閉まる時間の前に自分の部署についているようにと、帰途についた。
人間の死ぬべき運命について冥想したことが肝臓にさわったのか、それとも、前からからだの具合がすこし悪かったのか、それとも、彼がえらい人にちょっと敬意を表したいと思ったのかどうかははっきりしないが、彼が帰る途中、かかりつけの医者――有名な外科医――をちょっと訪ねたことはたしかである。
息子のジェリーはちゃんと職務を果たして父親を安心させ、留守中は何も仕事がなかったと報告した。銀行が閉まって、年寄りの書記たちが出て来た。そしていつもの番人がおかれたので、クランチャー氏と息子はお茶を飲みに家に帰った。
「おい、よく聞け」クランチャー氏は家に入るやいなやおかみさんに言った。「おれのような正直な商売人がだな、もし今夜、おれの思惑がうまくいかなかったら、お前が、おれがしくじるようにと祈ったものときめて、おれがそれをこの眼で見たようにお前をこらしめてやるぞ」
元気のないおかみさんは首を振った。
「なんだと、お前はおれの眼の前でやってるじゃねえか」クランチャー氏は癪にさわるけれども気がかりな様子で言った。
「何も言ってやしませんよ」
「なるほど、それじゃ、何も考えこむんじゃねえぞ。考えこむくらいなら、ひざまずいた方がましだよ。どっちだって、おれのためにゃなりゃしねえよ。すっかりやめちまえ」
「そうしますよ、ジェリー」
「そうしますよ、ジェリー、か」クランチャー氏はお茶に坐りながら繰り返した。「ああ、そうしますよ、ジェリー、ときたよ。そのことなんだよ。お前が『そうしますよ、ジェリー』ぐらい言ったっていいさ」
クランチャー氏がこんな風に気むずかしく幾度もたしかめたのは別に特別な意味があったからではなく、ただ、誰でもそうするものだが、それにかこつけて、漠然とした皮肉な不満を表明したまでであった。
「お前が、そうしますよ、ジェリー、だってね」クランチャー氏はバタつきパンを一口かじって、それをまるで、受け皿のうえの目に見えない大きな牡蠣《かき》の力をかりてぐっと呑みこむような様子をしながら言った。「ああ、おれはその通りだと思うよ。お前を信用するよ」
「今晩出かけるんですか」彼がまた一口かじったとき、品のいいおかみさんが尋ねた。
「ああ、出かけるよ」
「いっしょに行ってもいいかい、父ちゃん」と息子が元気よく尋ねた。
「いや、いけねえ。おれはな――母ちゃんが知ってるが――釣りに行くんだよ。おれが出かけるってのは、そのためなんだよ。釣りに行くんだよ」
「父ちゃんの釣棹は錆びてるじゃないか」
「心配するな」
「父ちゃんは魚をもって帰ってくるのかい」
「もしもって帰らなかったら、お前はあした、ろくなおまんまが食えねえぞ」かの旦那は首を振りながら答えた。「お前にはまだ分らねえことさ。お前が寝てからうんとたたなきゃ、おれは出かけないよ」
その晩、彼は、女房が自分のためにならないお祈りをしようなどと考えないように、げんじゅうに監視しながら、不きげんな顔をして、彼女と話がとぎれないようにつとめていた。また息子にも、この目的で、母親と話を絶やさぬようにしろと言いきかせ、一瞬間も彼女に黙想の時を与えようとせずに、彼女を責める愚痴の種を思いつく限り思い出してくどくどと述べたてて、この不幸な女につらい思いをさせた。どんなに信心深い人間でも、自分の妻を信じられない彼ほどには、まっとうな祈りの効き目を本気に考えはしなかったであろう。それはちょうど、幽霊を信じないと公言する人が幽霊の話に驚くようなものであった。
「なあ、よくきけよ」とクランチャー氏が言った。「明日はふざけるんじゃねえぞ。もしおれが、正直な商売人がよ、肉の大切れを一切れか二切れうまく手に入れてきたら、お前たちはそれにさわりもしねえでパンばかりにへばりついてるんじゃねえぞ。もしおれが、正直な商売人がよ、ビールをすこしばかり手に入れてきたら、お前たちは水を飲むなんてぬかすんじゃねえぞ。ローマへ行ったら、ローマがするようにしろ。そうしなけりゃ、ローマはお前たちにとっちゃ手に負えないやつになるぞ。|おれ《ヽヽ》こそお前たちのローマだよ、なあ」
それからまた彼はぶつぶつ言いはじめた。
「てめえの食いものや飲みもののためにならねえようなまねをしやがってよ、お前がひざまずいてふざけたまねをしたり、薄情なことをしたりするために、どんなにうちの食いものや飲みものが減っちまうか分りゃしねえ。お前の息子を見ろ。その子はお前の子じゃねえのかい。まるで木っぱみてえに痩せてらあ。それでお前は母親だというのかい。お前は、母親の第一のつとめは自分の息子をふとらせることだってことを、知らねえのかい」
この言葉は息子のジェリーの感じやすい場所に触れた。そこで息子は母親にむかって、彼女の第一のつとめを果たしてくれるように、そして、その他のことは、何をしようとも、また何を怠ろうとも、父親がかくも感動的に微妙に指示した母のつとめを果たすことを何よりも重んじてくれと嘆願した。
こうしてクランチャー家の夜は過ぎて行った。やがて、息子のジェリーは就寝を命ぜられ、母親も同じことを命ぜられて、それに従った。クランチャー氏はひとりでパイプをふかしながら、宵の時間をまぎらして、一時近くになるまで遠足に出かけなかった。丑《うし》みつ時の一時に近づくと、彼は椅子から立ち上がって、ポケットから鍵をひとつ取り出し、鍵がかけてある食器戸棚をあけて、袋と、手ごろな大きさのかなてこと、繩と、鎖と、ほかのそんな類の釣道具をとり出した。彼はこうした品物を器用に身につけると、細君に捨てぜりふを残して、明かりを消して出て行った。
寝床に入ったとき、服を脱ぐふりをしただけだった息子のジェリーは、まもなく父親のあとにつづいた。暗闇にまぎれて、父親のあとから部屋を出て、階段を下り、路地を下って通りに出た。彼はもう一度家に入りこむことなどちっとも心配していなかった。というのは、そこは間借人がいっぱいだったから、夜じゅう扉が開けてあったからである。
息子のジェリーは父の正直な職業の技術と秘密を研究してみたいという感心な野望に駆られて、家の玄関や、塀や、出入口に、自分のくっついている眼のようにできるだけぴったりと身をよせながら、父親から眼をはなさぬようにしていた。尊敬すべき父親は北の方へと進んで行ったが、さほど遠くまで行かないうちに、もう一人の、アイザック・ウォールトン(イギリスの随筆家で魚釣り道楽について書いた)の弟子が加わって、二人はてくてくと歩きつづけて行った。
最初の出発から半時間もたたないころ、彼らはまばたいている街燈を通り過ぎ、ねむくてまばたくどころではなくなっていた夜番を通り過ぎて、さびしい街道に出た。ここでもう一人の釣師が拾われた――それがまったく無言のうちに行われたので、もし息子のジェリーが迷信を信じていたら、二番目の釣師が、突然、二つに割れたのではないかと思ったかもしれなかった。
三人は先へ進んで行った。そして息子のジェリーも先へ進んで行き、ついに三人は街道に突き出ている土手の下で止まった。土手の上には低い煉瓦の塀があって、その上は鉄の柵になっていた。三人は街道からそれて、その土手と塀の影の中に入り、片側が塀――八フィートか十フィートぐらいの――になっている行き止まりの狭い道を上って行った。隅にしゃがんで狭い道をのぞき見ていた息子のジェリーが次に見たのは、雲がかかった雨模様の月を背景にしてかなりはっきり見える尊敬すべき父親が敏捷《びんしょう》に鉄の門をよじ登って行く姿であった。彼はたちまちのうちに門を越えた。それから二番目の釣師が門をのり越え、三番目がそれにつづいた。彼らはみな門の中の地面にそっととび下りて、しばらくそこに横たわっていた――おそらく耳をすましていたのだろう。それから彼らは手と膝で四つん這いになって動いて行った。
今度は息子のジェリーが門に近づく番であった。それで彼は息をこらして門に近づいた。そして、またそこの隅にしゃがみ込んで中をのぞいてみると、三人の釣師が生い茂った雑草の間をはって行き、教会の墓地の墓石が――彼らが入りこんだのは教会の墓地なのであった――白い衣を着た幽霊のようにそれをながめ、また教会の塔も巨大な幽霊のようにそれをながめているのが見えた。三人は遠くまで這って行かないうちに止まって、まっすぐに立った。そしていよいよ彼らは釣りをはじめた。
最初彼らは鋤《すき》で釣りをした。やがて尊敬すべき父親は大きな栓抜きのような道具を調節している様子だった。どんな道具を使っても、彼らは懸命に仕事をしていたが、やがて教会の時計の打つ音が息子のジェリーをひどくおびえさせたので、ジェリーは父親と同じように硬い髪を突き立てて逃げだした。
だが、彼はこういうことを知りたいという願いを長い間胸に抱いていたので、逃げだすのを中止したばかりか、またもとのところに引き返した。彼が二度目に門からのぞきこんだとき、彼らはまだ辛抱づよく釣りをしていた。が、いま、手ごたえがあったように思われた。下の方からねじがまわるような、泣きごとを言うような音が聞えてきて、彼らのかがんだからだが重いものにでも引っぱられるように引っぱられた。徐々にその重いものはその上の土を押しのけて地表に出てきた。息子のジェリーはそれが何であるかよく知っていた、だが、それを見たとき、そして、尊敬すべき父親がそれをこじ開けようとしたとき、それを見るのははじめてだったので、すっかり驚いてしまい、また逃げ出して、一マイル以上も走ってしまうまで、決して止まらなかった。
息をつくためなら仕方がないが、その他のことなら彼は止まろうとは思わなかっただろう。彼は幽霊と競争しているのであって、早く決勝点に着きたくてたまらなかったのだから。彼は自分が見た棺桶があとから追いかけてくるのだと強く思い込んでいたのであった。そして、それが狭い方を下にして、棒立ちになって、いつも今にも彼に追いつきそうになったり、彼の傍をピョンピョン跳んだり――おそらく彼の腕をつかんで――しながら、彼の後ろからピョンピョン跳びながら追いかけて来るのだと想像すると、それはどうしても避けたい追跡者であった。それはまた矛盾していて、いたる所に姿をあらわす悪魔であった。というのは、そのために彼は自分の後ろの暗闇が怖くてたまらなかったのだが、横町からも、尻尾も翼もない水腫にかかった凧のようなお化けが片足でピョンピョン跳びながら出て来るような気がして、暗い横町を避けて街道へとび出したのであった。そのお化けは家々の入口にもかくれていて、その恐ろしい肩を扉にこすりつけて、まるで笑っているようにそれを耳までひき上げた。それはまた道の暗い所にもひそんでいて、彼をつまずかせてやろうと、悪がしこく仰向けになってねころんでいた。そのあいだに、お化けは絶えず彼の後ろでピョンピョン跳びながら追いついて来たので、子供が自分の家の入口に着いたときには、半死半生の体《てい》であったのはむりもない。しかも、そこまできても彼からはなれようとしないで、階段の上まで一段一段ばたばた足音をさせながら上って、彼といっしょに寝床にもぐりこみ、寝入ってしまっても彼の胸の上にどんと落ちてずっしりとのっかった。
翌朝、陽の出る前に、息子のジェリーは父親が居間にいる気配で寝苦しい仮睡《うたたね》から目をさました。父親は何事かがうまくいかなかったらしい。少なくとも、息子のジェリーは、彼が細君の耳をつかんで彼女の後頭部を寝台の頭板に打ちつけているところからそう察したのであった。
「おれはこうしてやると言ったろう」とクランチャー氏が言った。「だから、こうしてやったんだ」
「ジェリー、ジェリー、ジェリー」と妻が嘆願した。
「お前は商売繁盛に反対しているんだな」とジェリーが言った。「だから、おれも相棒も苦労するんだぞ。お前はおれを尊敬して、おとなしくしてりゃいいんだ。なんだってお前にゃそれができねえんだ」
「わたしはいいおかみさんになるつもりでいるんですよ、ジェリー」と哀れな女は涙ながらに抗議した。
「亭主の仕事にたてつくのがいいかみさんのすることかよ。亭主の仕事をはずかしめるのが、亭主を尊敬することかよ。亭主が一番大事な仕事をするときに亭主にさからうのが、亭主に従うことかよ」
「じゃあ、あんたは恐ろしい仕事をやってたんじゃないんですか、ジェリー」
「お前はただ」とクランチャー氏が言いかえした。「正直な商売人のかみさんで、亭主が商売に身を入れようと入れまいと、なんだかんだと考えないでいりゃ、それでいいのさ。亭主を尊敬して亭主に従うかみさんはな、亭主の商売には口を出さねえものだよ。てめえが信心深いって言うのかよ。もしお前が信心深い女なら、信心深くねえ女をおれに見せてもらいたいね。お前が生まれながらに義務の観念がねえのは、このテームズ川の川床に杙《くい》がねえのと同じこった。だから、お前にもそいつを打ち込まなけりゃならん」
それから低い声で口論がかわされ、正直な商売人が泥だらけの長靴を脱ぎすてて、大の字なりに床に寝てしまうことで、けりがついた。息子は錆だらけの手を枕代りに頭にあてて仰向けに寝ている父親をこわごわのぞき見してから、自分も横になって、また眠った。
朝飯には魚もなく、その他にも、ろくなものはなかった。クランチャー氏は元気がなく、きげんも悪かった。そして、もしおかみさんがお祈りをしそうな気配でもみせたら、その根性をたたき直すために投げつけてやろうと、傍から鉄の鍋蓋《なべぶた》をはなさなかった。彼はいつもの時間にブラッシをかけ、顔を洗って、息子といっしょに表向きの職業に従事するために出かけた。
腰掛をわきに抱えて、父親とならんで陽のよくあたる混雑したフリート街を歩いて行く息子のジェリーは、前夜、おそろしいお化けに追いかけられて暗闇のなかをひとりで家に逃げ帰ったあのジェリーとはまるでちがっていた。彼の悪知恵は夜が明けるとともに活発になり、昨夜の不安は夜とともに消えてしまっていた――その点では、その天気のよい朝、フリート街にもロンドン市にも彼に匹敵する者がいなくはなさそうに思われた。
「父ちゃん」歩きながら息子のジェリーが言った。彼は腕の長さだけ父親からはなれて、二人の間にうまく腰掛がはさまるように気をくばっていた。「死体発掘人てなんだい」
クランチャー氏は返事をする前に舗道で立ち止まった。「そんなことを、おれが知るもんか」
「おれは父ちゃんはなんでも知ってると思ったんだよ」と無邪気な子が言った。
「えへん、そうだな」クランチャー氏は帽子を脱いで釘のような頭髪を自由につっ立たせながら、つづけた。「それはな、商売人だ」
「その人は何を売るの、父ちゃん」と元気のいい息子のジェリーが尋ねた。
「それはな」クランチャー氏はそれを心の中で引っくりかえしてみてから言った。「科学的な品物の類さ」
「人間のからだじゃないの、父ちゃん」と活発な少年が尋ねた。
「おれもそんなふうなものだと思うな」とクランチャー氏が言った。
「ねえ、父ちゃん。大きくなったら、おれは死体発掘人にとってもなりたいんだ」
クランチャー氏はいい気持になった。だが、どういう意味か分らないもっともらしい首のふり方をした。「そりゃお前の才能ののび方によるな。気をつけてお前の才能をのばすんだぞ。それで、できるだけ人にゃ何も言うんじゃねえぞ。今のところじゃ、お前が何に向くようになるんだか、分らねえのだからな」息子のジェリーがこんな風にはげまされて、テンプル門の影に腰掛をすえようと二、三ヤード先を歩いて行ったとき、クランチャー氏は自分にむかってこうつけ加えた。「ジェリーよ、正直な商売人よ、お前にゃあの子が祝福となっておふくろのうめあわせをしてくれるだろうっていう望みがあるんだぜ」
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第十五章 編物
ドファルジュの酒店では、いつもより早くから酒を飲んでいた。朝の六時だというのに格子のはまった窓から蒼白い顔が覗《のぞ》いてみると、店の中では人々がワインのコップの上にかがみこんでいるのが見えた。ドファルジュは一番いいときでも非常に薄いワインを売っていたが、このときはいつになく薄いワインであったように思われた。その上、そのワインはすっぱかったか、すっぱくなりかかっていたように思われた。なぜなら、それを飲んだ人は気分が陰うつになったからである。ドファルジュのしぼった葡萄からは陽気な酒宴の炎は燃え上がらず、闇の中で燃えているいぶる火がワインのおりの中にひそんでいるばかりであった。
ドファルジュの店で毎日朝早くから酒を飲むようになったのは、これで三日目であった。それが始まったのは月曜日で、今日は水曜日であった。みんなは朝早くから飲むというよりも朝早くから考えこんでいた。というのは、店の戸が開く時間から、自分の魂を救うためでも一枚の金さえ勘定台におくことができそうもない多くの男たちが、耳を傾けたり、ささやいたり、こそこそと歩きまわったりしていたからである。とはいうものの、彼らはワインを樽ごと自由にしてもいいのだと思われるほどこの場所に深い興味をもっていた。そして席から席へ、隅から隅へとすべるように移って行き、貪《むさぼ》るようなまなざしで酒の代りに話をのみこんで行った。
いつになく客が混んでいるのに、店の主人は見当らなかった。またそれをもの足りなく思う客もなかった。というのは、入ってきた客は誰も彼を探さなかったし、誰も彼のことをきかなかったし、マダム・ドファルジュがひとりでいつもの席に坐って、もとの刻印がそのボロボロのポケットから出てきた人間という小銭のようにすりへらされた使い古した小銭の鉢を前においてワインの配給を監督しているのを見ても、誰もふしぎに思わなかったからである。
上から下まで、王様の宮殿から罪人の監獄までありとあらゆるところを覗《のぞ》きこむスパイがこの酒店を覗いてみたら、おそらく、興味が一時途切れて、みんながぼんやりしているのを見たことだろう。カルタ遊びはだれてしまい、ドミノをやっていた連中はなにか考えこみながらドミノで塔を作っているし、酒を飲んでいる連中はこぼれたワインの雫《しずく》でテーブルに絵を描いているし、マダム・ドファルジュはつま楊子で袖の模様をつつき出して、ずっと遠いところにある、見えも聞えもしない何かを見たり聞いたりしていた。
こうしてサン・タントワヌは真昼までワインに酔った顔をしていた。ちょうど昼ごろ、二人の埃だらけの男が通りの揺れている街燈の下を通り過ぎた。その一人はドファルジュで、もう一人は青い帽子をかぶった道路工夫であった。すっかり日にやけて喉が渇ききって、二人は酒店に入った。彼らの到着はサン・タントワヌの胸に一種の火をともしたのだが、それは彼らがやって来るにつれて急速にひろがり、たいていの戸口や窓のところで顔という炎となって動いたり明滅したりした。だが、誰一人彼らのあとをついて行くものはなく、彼らが酒店に入ったときも、そこにいた皆の眼が彼らに向けられたのに、誰も口をきかなかった。
「皆さん、今日は」とドファルジュが言った。それは皆の舌をゆるめる合図だったのかもしれない。それに誘い出されて、皆はいっせいに「今日は」と答えた。
「皆さん、いやな天気ですね」とドファルジュは首を振りながら言った。
それを聞くと一人一人は隣の人を見た。そしてみな眼を伏せて、黙りこんだ。ただ、一人の男は立ち上がって出て行った。
「お前」ドファルジュは皆に聞えるようにおかみさんに話しかけた。「おれはこのジャークという名の気のいい道路工夫と何リーグも旅をしてきたのだよ。この人には――偶然――パリから一日半の旅ほどのところで出会ったのだ。こいつはいい奴だよ、このジャークという名の道路工夫はな。この人に飲みものをやっておくれ、お前」
二番目の男が立ち上がって出て行った。ドファルジュのおかみさんはジャークという名の道路工夫の前にワインをおくと、その男は客に向かって青い帽子を脱いで、ワインを飲んだ。彼は仕事着のふところに粗末な黒パンをすこし入れてもってきたので、ときどきそれを食べた。そしてマダム・ドファルジュの勘定台の近くに坐ってムシャムシャ食べたり飲んだりした。三番目の男が立ち上がって、出て行った。
ドファルジュもワインをぐっと飲んで元気をつけた――だが、彼にはワインが珍しいわけではなかったから、客に出したよりも少ししか飲まなかった――そして田舎者が朝飯をすませてしまうまで立って待っていた。彼は店にいる人を誰も見なかったし、誰も彼を見る者はなかった。マダム・ドファルジュさえも彼を見もしないで、編物をとりあげて、せっせと編んでいた。
「食事はすんだかね、あんた」彼は適当なころあいを見はからって尋ねた。
「ああ、ごちそうさま」
「じゃあ、おいで。あんたに貸してもいいと言った部屋を見せてあげよう。あんたにぴったりだよ」
酒店から通りに出て、通りから中庭へ入り、中庭から急な階段を上って、階段から屋根裏部屋へ――以前、白髪の男が低い腰掛に坐って、前に屈んで忙しく靴を作っていたあの屋根裏部屋へ。
白髪の男は今はもうそこにはいなかった。が、先刻酒店から一人ずつ出て行った三人の男がそこにいた。そして、その三人と遠くはなれたところにいるあの白髪の男とは、彼らがかつて壁の隙間から彼を覗いたことがあるという、わずかなつながりがあったのである。
ドファルジュは注意深く扉を閉めて低い声で言った。
「ジャーク一、ジャーク二、ジャーク三、これはわしが申し合わせて会ってきた目撃者のジャーク四だ。この人がお前たちになにもかも話してくれるだろう。お話し、ジャーク四」
道路工夫は手にもった青い帽子で浅黒い額を拭いて言った。「どこから始めたらいいかね、旦那」
「はじめから始めな」というのがドファルジュのもっともな返事であった。
「わしがその男を見たのは」と道路工夫が語りはじめた。「今年の夏から一年前に、侯爵の馬車の下の鎖にぶら下っていたときでさあ。そのぶら下り方を見ておくんなさい。わしは道路工事をほっぽりだし、陽は沈みかかっていて、侯爵の馬車はのろのろと丘を上って行くところでね、その男は鎖にぶら下っていたんですよ――こんなふうに」
道路工夫はまたすっかりそのまねをしてみせた。それはまる一年の間、彼の村では絶対にうけた余興であり、なくてはならないもてなしの芸であったのだから、今では非のうちどころがないほどうまくなっていたはずであった。
ジャーク一が口を出して、彼がその男を前に見たことがあるかと尋ねた。
「ぜんぜんないね」と道路工夫はまっすぐに立って答えた。
ジャーク三は、ではそれから後で、どうしてその男だということが分ったのか、と尋ねた。
「背が高かったからね」道路工夫は鼻に指をあててしずかに言った。「その夕暮れ時に侯爵閣下が『それはどんな男か、言え』と言ったときに、わしは『幽霊みてえに背の高い奴でさあ』と答えたもんでしたよ」
「小人《こびと》みてえに小さいと言やよかったんだ」とジャーク二が言いかえした。
「だが、わしは何も知らなかったんですよ。その時はあの事も仕遂げてなかったし、あの男もおれに何もうちあけたわけじゃないんだからね。よく聞いてくれ、そんな場合でさえ、わしは何も証拠になることは言ってやらなかったんですよ。侯爵閣下はおれたちの小さな泉の近くに立っておれを指さして言いましたよ、『わしのところへ。その悪者を連れてこい』ってね。みなさん、誓って言うがね、わしは何も言ってやらなかったんですよ」
「そこはこの人の言う通りだよ、ジャーク」ドファルジュは話の邪魔をした男にそう呟《つぶや》いた。「先を話しな」
「ああ、いいよ」道路工夫は謎のようなそぶりをして言った。「背の高い男はどこへ行ったのか分らなくなってしまった、それで捜したんですが――幾月だったかな。九、十、十一」
「月の数はどうでもいいよ」とドファルジュが言った。「その男はうまくかくされていたが、ついに、不幸なことに見つかってしまったんだ。先を話しな」
「わしはまた丘の中腹で仕事をしていたんでさあ。陽がまた沈みかかっていてね。わしはもう暗くなっている下の村の自分の小屋に帰ろうと思って道具をしまっていたんだがね、ふと眼を上げると、六人の兵隊が丘を越えて来るのが見えたんでさあ。兵隊のまん中に、背の高い男がいて、腕を縛られて――脇にしばりつけられてね――こんなふうに」
彼は、なくてはならない例の帽子の助けを借りて、うしろで結わえた綱で両|肘《ひじ》をきつく腰に縛りつけられた男を演じてみせた。
「わしは道端の、自分の掘った石ころの山のそばに立って兵隊と囚人が通るのを見ていたんですよ(人里はなれたさびしい道だから、どんなものでも珍しいんでね)。最初奴らがやって来たときには、ただ六人の兵隊が縛られた背の高い男をつれているということと、みんながまるで真っ黒に見えるということしか分らなかった――ただ陽が沈んで行く側はみんなの身体の線が赤く見えたがね。また、わしには奴らの長い影が道と向かい合ってる凹んだ尾根にうつり、それがまた、尾根の上の方の丘にうつって、まるで大男の影のように見えていただけでしたよ。また、奴らが埃だらけで、ドシン、ドシンやってくると埃もいっしょに動いてくるのが見えただけでしたよ。ところが、奴らがすぐ近くまで来たとき、わしはあの背の高い男だったと気がついたのです。その男もわしだと気がつきました。ああ、だがあの男は、わしとその場所のすぐ近くで初めて出会った夕方のように、もう一度丘をまっさかさまに転がり落ちて行けたら満足だっただろうに」
彼は自分が今その場にいるようにその様子を話した。それで彼がまざまざとその光景を見たのはたしかだった。おそらく彼は生まれてからあまりいろいろなことを見たことがなかったのだろう。
「わしはあの背の高い男だと分っても、兵隊にはそんなそぶりを見せなかったし、向こうでもわしだと気がついても、兵隊にはそんなそぶりを見せなかったですよ。わしらはそれを眼にあらわしただけですよ。『来い』とその中の頭《かしら》が村を指さして言いました。『こいつを早くこいつの墓へ連れて行け』そこで兵隊は今までよりもっと急いでその男を歩かせて行きました。わしはそのあとからついていきました。男の腕はあまりきつく縛られていたので腫れ上がっていて、木の靴はだぶだぶで、不恰好でした。その男はびっこだったんでさあ。びっこで、だからのろのろしていたので、奴らは鉄砲で追い立てるんですよ――こんなふうにね」
彼は小銃の台尻でひっぱたかれて無理に歩かせられる男の動作をまねた。
「みんなが駆けっこをしている気違いみてえに丘を下ったとき、その男が倒れてしまったんですよ。兵隊どもは笑って、またその男を引き起こす。男の顔は血が流れて、埃だらけなんですが、男は顔にさわることもできない。それで、また、奴らが笑うんです。奴らはその男を村に連れて行ったんです。村じゅうの者がそれを見に駆け出してきました。奴らは水車小屋を通り過ぎて、山の上の監獄へ引っぱって行きました。夜の闇の中で監獄の門が開いて男をのみこむのが村じゅうの者に見えましたよ――こんなふうにね」
彼はできるだけ大きく口を開いて、歯をカチッと音させて口を閉じた。その口をまた開けば効果がそこなわれるので、彼がそれをいやがっているのを見て、ドファルジュが言った。「先をつづけな、ジャーク」
「村じゅうの者は」道路工夫はつま立ちになって、低い声でつづけた。「引っこみました。村じゅうの者は泉のそばでささやきました。村じゅうの者は眠って、あの岩山の上の監獄の鍵とかんぬきの中に閉じ込められて、そこからは死ななきゃ出られない不仕合わせな男の夢をみました。朝になって、出がけに黒パンをすこし食って、道具を肩にかついで仕事に行くときに、わしはまわり道をして監獄のそばを通りました。そびえ立った鉄の獄舎の中に、前夜のとおり血だらけで埃だらけの男が外を見ているのが見えました。わしに手を振りたくても、手が自由になりません。わしもあの人に声をかける勇気がなかったです。あの人は死人のようにわしを見ていましたよ」
ドファルジュと三人の男は暗然として互にちらりちらりと眼を見かわした。彼らはみな田舎者の話にきき入りながら、暗い、怒りをおさえた、復讐に燃える表情を浮かべた。また彼らの様子は、ひそやかではあったが、威厳があった。彼らは冷酷な法廷のような態度であった。ジャーク一と二は古い藁ぶとんに腰を下して、頬杖をつき、ぐっと道路工夫を見つめていたし、ジャーク三は同じように熱心に、彼らのうしろで片膝を立て、興奮した手でたえず口と鼻のまわりの細かい神経組織をなでまわしていた。また、ドファルジュは三人と話し手の間に立っていたが、彼は話し手を窓から光が入る明るいところに坐らせておいて、話し手から彼らへ、また彼らから話し手へと、順ぐりにながめていた。
「先をつづけな、ジャーク」とドファルジュが言った。
「あの人はあの高いところの鉄の監獄に幾日かいました。村の人はこっそりとあの人を眺めたのです。なにしろ、みんなこわがっていましたからね。それでも村の人はいつも遠くから岩山の上の監獄を見上げていました。それで、一日の仕事が終ってみんなが泉のところでおしゃべりをしに集まると、皆の顔が監獄の方に向くのです。以前はみんなの顔は宿場の方へ向いたものだが、今じゃ監獄の方を向くんですよ。村の者たちは泉のところで、あの人は死刑の宣告は受けたが、処刑されることはあるまいとひそひそ話しています。なんでもパリで請願書が出ていて、それにゃ、あの人は子供が死んだために怒って気がふれたのだと書いてあるそうです。請願書は王様にまで出ているっていう噂《うわさ》ですよ。わしの知らねえことですよ。そのとおりかもしれないですよ。そうかもしれないが、そうでないかもしれないね」
「それならよく聞け、ジャーク」その名前の一号がきっとなって口を出した。「請願書は王と女王に提出されたんだぞ。ここにいる者はみんな、お前さんは別だが、街で馬車の中に女王と並んで坐っている王がその請願書を受け取るのを見たんだ。命を的にして請願書を手にして馬どもの前に駆け出して行ったのは、ここにいるドファルジュなんだ」
「もう一ぺんよく聞けよ、ジャーク」と膝をついていた三号が言った。彼の指はまるでなにかに飢えているように――それは食べものでも飲みものでもないが――おそろしくものほしそうにその細かい神経の上をうろうろしていた。「騎馬と徒歩の護衛兵が請願人をとりかこんで、なぐりつけたんだ。聞いてるかい」
「聞いてますよ、みなさん」
「じゃあ、先をつづけな」とドファルジュが言った。
「そんな噂がある一方じゃまた、村の人が泉のところでひそひそ話してるだ」と田舎者がまた話しはじめた。「あの男は、現場で死刑になるためにわしらの村に連れて来られたんだ。だから、きっと処刑されるだろうって。みんなは、あの人が侯爵を刺し殺したから、侯爵は小作人の――農奴の――なんとでも言いたいように言ってくれ――父だから、主人殺しということで死刑になるだろうとまでささやいているんですよ。一人の老人は泉のところでこう言いました。あの人の右手は、小刀を持たせられて、あの人の目の前で焼き落されるだろうって。あの人の腕と、胸と足に傷口を作って、その中に煮立てた油や、溶かした鉛や、熱い松脂《まつやに》や、蝋《ろう》や、硫黄が流し込まれるだろうって。そうして、しまいには、あの人は四頭のたくましい馬に手足を引き裂かれるだろうって。その老人の言うには、いま言ったことはみな、先王ルイ十五世の命をねらった囚人に、本当に加えられた刑罰だそうです。もしその老人が嘘を吐《つ》いてるのだとしても、わしには分りっこないですよ。わしは学者じゃないんだからね」
「それじゃ、もう一ぺん聞きな、ジャーク」
そわそわと手を動かしてなにかを求めているような様子の男が言った。「その囚人の名前はダミアンというんだ。いまお前さんが言ったことはみんなこのパリの大道で、白昼あったことなんだ。しかも、それを見ていた大群衆の中で、一番人目をひいたのは、名門の社交界の貴婦人連で、しまいまで夢中になって見物していたんだ――しまいまでだよ、ジャーク。夜までかかって、囚人が足を二本と腕を一本もぎとられて、それでもまだ息をしていたんだ! そういうことがあったんだよ――おい、お前さんはいくつだね」
「三十五」と道路工夫が答えた。だが彼は六十に見えた。
「そういうことがあったのは、お前さんが十より上のときだったんだよ。見ておけばよかったんだ」
「もういい」ドファルジュは気短かにきっぱりと言った。「悪魔万歳、先をつづけろよ」
「ええと、こう言う人もあったし、ああいう人もあった。だが、みんな他の話は何もしないのですよ、泉までそれに合わせて流れるように見えたくらいでしたよ。とうとう、日曜の夜、村じゅうが眠っているとき、兵隊どもが監獄から曲りくねった道を下りてきて、小さな街の敷石の上で奴らの鉄砲の音がしたのです。職人が土を掘り、杙《くい》を打ち込み、兵隊は笑ったり歌ったりしています。朝のうちに、泉のそばに四十フィートの高さの絞首台が出来て、泉の水を毒しているのです」
道路工夫は、低い天井を見上げるというよりも、その天井を通してその上を見た。そして空のどこかに絞首台が見えるように指さした。
「みんなは仕事をやめてそこに集まりました。誰も牝牛をつれ出す者がないから、牝牛は他の牝牛といっしょにそこにいました。昼ごろ、太鼓が鳴り響く。兵隊は夜の間に監獄にきていたので、あの人は大勢の兵隊のまん中にいましたっけ。あの人は前みてえに縛られていて、口には猿ぐつわがはまっていました。――きつい紐《ひも》で堅くしばってあるので、あの人はまるで笑っているように見えました」彼は二本の親指で口の両隅から耳まで皺《しわ》をつけて、そのまねをしてみせた。「絞首台のてっぺんにはあの小刀が、刃を上向きにして、先を宙に吊して、とりつけてありました。あの人はその四十フィートの高さのところで首を絞められてそこにぶら下ったまま、泉の水を毒していたのです」
彼がその光景を思いだして、今さらのように汗をかいた顔を青い帽子で拭いたとき、彼らは互に顔を見交わした。「まったく恐ろしいことですよ、みなさん。どうして女や子供が水を汲めるものですか。あの影の下で、誰が夕方おしゃべりしていられるものですか。わしは、あれの下で、と言いましたね。わしが村を発《た》ったのは月曜の夕方太陽が沈みかかった頃で、丘から振り返ってみると、あの影が教会の上を越え、水車小屋の上を越え、監獄の上を越えて落ちていました――まるであの影が地球の上を越えて、空が地球につながるところまで落ちているように見えましたよ」
あの飢えている男は三人の仲間を見ながら一本の指を噛んでいた。そしてその指は何ものかを求めてふるえていた。
「これでおしまいですよ、みなさん。わしは日没時に発って(そうしろと注意されていたもんで)その夜と次の日の昼まで歩きつづけて、この同志に会ったのでさあ(そうしなければいけないと注意されていたもんで)。この人といっしょに馬車に乗ったり歩いたりして、昨日の残りと昨夜じゅう、旅して来たんですよ。それでこのとおりここにいるってわけでさあ」
暗い沈黙の後に、一番目のジャークが言った。「よろしい、お前さんは忠実に行動したし、忠実に話もしてくれた。ちょっと扉の外で待っていてくれないかね」
「よござんすとも」と道路工夫が言った。ドファルジュは彼を階段の上まで連れて行って、そこに坐らせておいて戻ってきた。
彼が屋根裏部屋に戻ってきたとき、三人は立ち上がっていて、額をあつめていた。
「どう思う、ジャーク」と一号が尋ねた。「登録すべきだろうか」
「死刑囚として登録すべきだ」とドファルジュが答えた。
「すてきだ」と何かに飢えている男がしゃがれ声で言った。
「館も一族全部もかね」と最初の男が尋ねた。
「館も一族全部もだ」とドファルジュが答えた。「根絶やしだ」
飢えた男は有頂天になってしゃがれ声で、「すてきだ」と繰り返した。そしてほかの指を噛み始めた。
「だが、大丈夫かね」とジャーク二がドファルジュに尋ねた。「われわれの登録の仕方で困ったことが起こらないだろうか。もちろん、今のやり方で安全だよ。われわれのほかには、誰も判読できないのだから。だが、われわれがいつでもそれを判読できるだろうか――いや、あのひとが、といった方がいいが」
「ジャーク」ドファルジュは姿勢を正して答えた。「かりにわしの妻が記録を記憶だけに留めておいたとしても、彼女《あれ》は一語だって忘れやしないよ――半語だって忘れるものか。自分の編み方と自分の符号で編んであるのだから、彼女《あれ》にとっちゃおてんと様と同じようによく分るんだよ。マダム・ドファルジュを信用しろよ。世界一の臆病者でも、マダム・ドファルジュの編んだ記録から自分の名前か罪悪の一文字を抹殺するよりも、自分自身をこの世から抹殺してしまう方がらくだろうよ」
三人の間に信頼と是認の呟《つぶや》きがおこった。それからなにかに飢えていた男が尋ねた「この田舎者はすぐ送り返すことにするかね。おれはそうした方がいいと思うがね。あれはとても単純だ。ちょっと危険じゃないだろうか」
「あれは何も知らないのさ」とドファルジュが言った。「少なくとも先刻の話と同じ高さの絞首台にらくらくと自分を上がらせるようなことしか知らないのさ。わしがあれを引き受けるよ。おれのところに置いといてくれ。わしが面倒をみて、あれが進むべき方向にむけてやるよ。あれはお上品な世界を見たがっている――王だの、女王だの、宮廷の連中だの。日曜にそういうものを見物させてやれ」
「なんだって」なにかに飢えている男が目をまるくして叫んだ。「あの男が王族や貴族を見たがっているというのは、いい徴候かね」
「ジャーク」とドファルジュが言った。「猫に牛乳を欲しがらせたいと思ったら、猫に牛乳を見せておくのがりこうなやり方なんだ。犬にいつかその生来の餌食を倒させたいと思ったら、犬にそれを見せておくのが賢いやり方なんだ」
ドファルジュはそれきりなにも言わなかった。そして道路工夫は一番上の階段のところでもう居眠りをしていたので、藁ぶとんに横になってしばらく休むようにとすすめた。彼はくどくすすめられるまでもなく、まもなく眠ってしまった。
その程度の田舎奴隷には、ドファルジュの酒店よりも悪い宿は、パリにはいくらもあった。おかみさんに対する不可解な恐怖に絶えずおびやかされることさえのぞけば、彼の生活は珍しいことばかりで、たのしかった。けれども、細君は一日じゅう勘定台に坐っていて、わざと彼に気がつかないふりをし、彼がそこにいることが、表面にあらわれない何かと関係があるということを、絶対にみとめまいとしている様子なので、彼は細君を見るたびに木靴の中でふるえた。というのは、彼は心の中で、あの婦人はこの次にはどんなそ振りをするか、分ったものではない、と思い迷っていたからであった。そして、もし彼女があのきらびやかに飾り立てた頭で、彼が人殺しをして、被害者を強奪したのを見たそ振りをしてやろうと思いついたならば、しまいまで間違いなくその芝居をやりとおすだろうと確信した。
だから、日曜日になって、細君が旦那と自分と一緒にヴェルサイユに行くことが分ったので、道路工夫は(口ではそう言ったけれども)有頂天にはならなかった。それに細君はそこまで行く途中、乗物の中でずっと編物をしているので、なおのこととまどった。また、その日の午後、人混みの中で、人々が王と女王の馬車を見ようと待ちうけているときも、細君は編物の手を休めないので、よけいにとまどったのである。
「よく仕事をしますね、奥さん」と近くにいた男が言った。
「ええ」マダム・ドファルジュが答えた。「わたしにはたくさん仕事があるんですよ」
「なにを作るんですか、奥さん」
「いろんなものですよ」
「たとえば――」
「たとえば」とマダム・ドファルジュは落ち着いて答えた。「経帷子《きょうかたびら》」
その男はできるだけ早く少しはなれた所まで遠ざかった。そして道路工夫は青い帽子でからだを煽《あお》った。ひどく蒸し暑くてうっとうしかったからであった。もしこの男の気分を回復するのに王と女王が必要であったとすれば、幸運にもその薬は手近かにあったのである。なぜなら、まもなく、大きな顔の王と美しい顔の女王が、かがやく牛眼燈(ガラスの代りに凸レンズをはめたカンテラ)のような宮廷人や、目をうばうばかりの笑いさざめく貴婦人や美しい貴族を大勢引き連れて、金色の馬車に乗ってやって来たからであった。道路工夫は宝石と、絹と、髪粉と、けんらんたる華麗さと、優美に人を鼻であしらい、人を人とも思わぬ美しくとりすました顔をしている男女のすがたに目をうばわれ、一時の陶酔に溺れて、まるでその時代にいたるところにいるジャークたちのことを聞いたこともないように、王様万歳、女王様万歳、誰も彼も、何もかも万歳! と大声で叫んだ。また、そこには庭園や、中庭や、露台や、泉水や、緑の土手があり、王や女王もまだいる。きら星のような宮廷人もまだいる。貴族も貴婦人もまだいる。誰でもみんな万歳、がまだつづく。ついに彼は感激して泣きだした。三時間つづいたこの行列の間、彼は感激した仲間といっしょにさんざん叫んだり泣いたりした。そしてその間じゅうドファルジュは、彼が一時の傾倒の対象にとびかかって、それをずたずたに引き裂いてしまうのを押えてでもいるように、彼の頸をつかんでいた。
「でかしたぞ」行列が通り過ぎてしまったとき、ドファルジュは保護者のように彼の背中を叩いて言った。「お前はいいやつだ」
道路工夫はようやく我にかえって、自分がいま熱狂したのは失敗ではなかったかと思った。だが、そうではなかった。
「お前さんはわれわれがほしがっている人だ」とドファルジュは彼の耳に口をよせて言った。「お前さんはあの馬鹿者どもにあんなことがいつまでもつづくと信じさせるよ。それで奴らはますます思い上がって、あんなことはそれだけ早く終るんだ」
「へえ」道路工夫は考えこむように叫んだ。「その通りだ」
「あの馬鹿者どもは何も知らないのさ。奴らはお前さんの息を蔑《さげ》すんで、自分たちの馬一頭や犬一匹の息を止めるくらいなら、お前さんやお前さんのような百人もの人間の息を永久に止めてやろうと思ってるだろうが、奴らはお前さんの息が奴らに言ってやることを思い知るだけなんだ。だから、もうしばらく、お前さんの息に奴らをだまさせておけ。いくらだましたって、だまし過ぎるということはないんだから」
マダム・ドファルジュは馬鹿にしたように客を見て、亭主の言ったことを確認してうなずいた。
「お前さんなら」と彼女が言った。「派手に騒ぎたてることなら、いくらでも怒鳴ったり涙を流したりするんだろうね。ねえ、そうじゃないの」
「その通りだと思いますよ、奥さん。今のところはね」
「もしお前さんが人形をどっさり見せられて、お前さんの得になるようにずたずたに引きちぎったり、奪いとったりしろとけしかけられたら、お前さんは一番立派な、一番楽しそうなのを選び出すでしょ。ねえ、そうじゃないの」
「その通りですよ、奥さん」
「そうよ。また、もし飛べない鳥をどっさり見せられて、自分の得になるようにその羽をむしりとれとけしかけられたら、お前さんは羽が一番きれいな鳥をつかまえるでしょ、そうじゃないの」
「その通りですよ、奥さん」
「お前さんは、今日、人形も鳥も両方見たんだから」マダム・ドルファジュはそれが先刻見えた方に向かって手を振りながら言った。「さあ、家へお帰り」
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第十六章 編物はつづく
マダム・ドファルジュとその夫はむつまじくサン・タントワヌのふところへと帰り、青い帽子の一つの点は暗闇の中を埃《ほこり》を浴びて蜿蜒《えんえん》と幾マイルもつづく大通りの道端をとぼとぼと下って行き、今は亡き侯爵の館が樹々のささやきに耳を傾けている地点をさして、ゆっくりと歩いて行った。今はあの石の顔にも樹々や泉水に耳を傾ける余裕が充分できたので、食べる草や燃やす枯枝の切れっぱしを探しに、石を敷きつめた大きな中庭や露台の階段の見えるところまで入り込んだ村の案山子《かかし》たちは、あの顔が変わったのではないかと飢えた頭の中で空想した。ちょうどそのとき、村にもひとつの噂がたっていた――それは村の住民のように弱々しく、かろうじて存在していたのだが――というのは、あの小刀がぐさりと刺さったとき、あの石の誇り高き顔が怒りと苦痛をたたえた顔に変わったというのだ。また、あのぶら下がったからだが泉の上に四十フィートも引き上げられたとき、石の顔はもう一度変化して、恨みをはらした残酷な表情を浮かべ、それ以後永久にその表情を浮かべているだろうというのである。殺人が遂行された寝室の大きな窓の上のところにある石の顔には、刻んだ鼻に美しいくぼみが二つ表われていて、誰でもそれに気がついたが、以前には誰も見たことがなかった。そしてたまに二、三人のぼろを着た百姓が石になった侯爵閣下をほんの一目|覗《のぞ》いてみたいと大勢の中から出て来ても、骨と皮ばかりの指がそれを一分も指さないうちに、みんなあわてて苔と落葉の中に逃げ込んでしまった。それはちょうどその中で生きて行ける彼らよりも仕合わせな兎のようであった。
館と小屋、石の顔とぶら下がった人間のからだ。石の床についた赤い汚点、村の泉の清い水――数千エーカーの土地――フランス全土――全フランスそれ自体――は夜の空の下でもろい髪の毛一筋の線に集まっていた。それと同じく、偉大なものや卑小なものを包含する一つの世界がきらきら光る一つの星の中にあるのだ。そして人間の知識でさえ光線を分けてその構造を分析できるのだから、それよりも崇高な知能ならば、このわれわれの地球の弱い光の中から地球上のあらゆる責任ある生物のあらゆる思想と行ない、あらゆる悪徳と美徳を、読みとるかもしれないのだ。
ドファルジュ夫妻は星明かりの下をガタゴトと街の乗物に乗って彼らの旅が当然目指していたパリの城門に着いた。車は関門の詰所でいつものように止められ、いつもの検査と訊問を行なうために、いつもの手提げランプがちらちら見まわしながら出て来た。ドファルジュはそこの兵卒を一人か二人と警官を一人知っていたので、乗物から降りた。彼はその警官と親しかったのでしっかりと抱き合った。
サン・タントワヌがドファルジュ夫妻をふたたびその黒ずんだ翼の中に包み、彼らが街の境でやっと車を降りて、黒い泥やごみの中を気をつけながら歩いていたとき、マダム・ドファルジュが夫に話しかけた。
「ねえ、あんた。お巡りのジャークはあんたに何て言ったんですか」
「今夜はほんの少しだ。だが、あいつはみんな知ってるよ。われわれの地区にまた一人スパイがついたんだ。はっきり分らないが、もっとおおぜいかもしれないんだ。だが、あいつの知ってるのは一人なんだ」
「そうかねえ」マダム・ドファルジュは冷静な事務的な態度で眉を上げながら言った。「その男を登録しなければならないね。何という名なんですか」
「そいつはイギリス人なんだ」
「なお結構じゃありませんか。名前は」
「バルサド」ドファルジュはフランス風の発音で言った。だが彼は注意して正確におぼえていたので、少しも間違わずにそれを綴ってみせた。
「バルサド」と細君が繰り返した。「いいわ。名は」
「ジョン」
「ジョン・バルサド」細君は一度自分だけで呟《つぶや》いてから、繰り返した。「いいわ。そいつの人相だけど、分りますか」
「年は四十がらみ。背丈はおよそ五フィート九インチ。髪は黒くて、膚《はだ》は浅黒く、全体として、まずいい男だ。眼は黒い。顔は痩せて長くて青白い。鼻はわし鼻だが、鼻筋がとおっていず、左の頬の方に妙に傾いている。したがって、人相が悪い顔つきだ」
「まったくね。それじゃ肖像画が描けるよ」細君は笑いながら言った。「明日登録しますよ」
二人は酒店に入った。店は閉まっていた(もう真夜中だったから)。そしてマダム・ドファルジュはさっそく自分の机の前に坐って、留守の間に入った小銭を勘定し、在庫品を調べて、帳簿の記入条項に目を通し、自分の記入もして、使用人をあらゆる方面から調べてから、やっと、寝てもいいと出て行かせた。それから銭入れの中身をまた引っくりかえして、夜の用心にハンケチにいくつかの結び目を鎖のように作ってしまいこんだ。その間ドファルジュは口にパイプをくわえて、満足しきって、感嘆しつつ、だがけっして手を出そうとはせずに、あちこち歩きまわっていた。まったく、仕事のことでも、家事のことでも、彼は一生その状態であちこち歩きまわっていたのだ。
暑い夜なのに、店が閉めきってある上に、不潔な家々にとり囲まれていたので、いやな臭いがただよっていた。ドファルジュの嗅覚神経はけっして鋭敏ではなかったが、店にある酒はいつになく強くにおったし、ラム酒やブランデーやアニス酒も同じであった。彼は吸い終ったパイプを下においていろいろと混じっている香をぷっと吹きとばした。
「あんたはだいぶ疲れたね」細君は金を括《くく》りながらちらと眼を上げて言った。「いつもの臭いがするだけじゃありませんか」
「おれは少し疲れたよ」と夫がみとめた。
「それに、あんたは少し元気がありませんね」細君のすばしこい眼はいつになく金勘定に熱中していたが、それでも彼をちらりちらりと見ていたのだ。「ああ、男っていうものはねえ」
「だがね、お前」とドファルジュが始めた。
「だけどね、お前さん」細君はしっかりうなずきながら繰り返した。「だけどね、お前さん。あんたは今夜気が弱くなっているようだね」
「だが、なあ」ドファルジュはまるである考えが胸の中からむりに引き出されたように言った。「今のところじゃ、まだまだ長くかかるなあ」
「まだまだ長くかかりますよ」と細君が繰り返した。「だけど、いつだって長くかかるじゃありませんか。復讐や仕返しには長い時間が必要なんですよ。きまりきったことですよ」
「稲妻を人にぶつけるならそれほど時間はかからないよ」とドファルジュが言った。
「稲妻をこしらえて、貯えるのに、どれだけかかりますか。言ってごらんなさい」
ドファルジュはそこにも何か真理があるように考えこみながら頭を上げた。
「地震が一つの町をのみ込んでしまうのに、長い時間はかかりませんよ。だけど、ねえ、その地震の下ごしらえをするのに、どれだけかかるか、言ってごらんなさい」
「長くかかるだろうなあ」とドファルジュが言った。
「でも、用意ができれば、地震が起こって、前にあるものはなんでもかんでも木《こ》っ端《ぱ》みじんにしてしまうんですよ。それはそうとして、あれは、見えも聞こえもしないけれど、いつだって準備がすすんでいるんですよ。そう思えば、お前さんも気が安まるでしょ。それを忘れないようにね」
細君は眼をぎらぎらさせて、まるで敵の喉を絞めるように結び目を括《くく》った。
「ねえ、お前さん」細君はそれをさらに強調するために右手をのばして言った。「あれは途中が手間どるけれど、いまやって来る途中なんですよ。ねえ、あれは決して引き返しませんよ。決して立ち止まりませんよ。いつでも前に進んでいるんですよ。見まわして、わたしたちの知っているかぎりの世間の生活を考えてごらんなさいよ。わたしたちの知っているかぎりの世間の人の顔を思い出してごらんなさいよ。百姓たちが一時間毎にますます確実に近づいて行く怒りや不満のことを考えてごらんなさいよ。そうしたものが、いつまでも続くはずがありますか。ふん、お前さんは馬鹿だよ」
「お前は勇気があるね」ドファルジュは伝道師の前に出たおとなしい注意深い生徒のように、細君の前に立って首をすこしうなだれ、両手を後ろでかたく握り合わせて答えた。「おれもそれは疑わないよ。だが、それは長いことつづいて来たんだ。だから、おそらく――ねえ、お前、お前もよく知ってるだろうがね。おそらくだよ――あれはわれわれが生きている間には来ないかも知れないね」
「だけど、それがどうしたの」細君はまた別の敵を絞め殺さなければならないように、もうひとつ結び目を括りながらきき返した。
「それでだ」ドファルジュは半ば不満そうに、半ば弁解するように肩をすくめて言った。
「われわれは勝利を見ることはできないだろうな」
「わたしたちがその手伝いをしたことになるんですよ」細君は力強く手をのばして答えた。「わたしたちがしていることはけっして無駄じゃありません。わたしは、わたしたちの目で勝利を見ることができるだろうと心から信じていますよ。だけど、たといそうでなくても、たとい確かにそうでないと分っていても、わたしに暴君の貴族の首を見せてごらんなさい。やっぱりわたしは――」
そう言いながら細君は歯をくいしばって、実に恐ろしい結び目を括った。
「待て」ドファルジュはまるで自分が臆病者と非難されたように少し赤くなって叫んだ。「おれだって、どんなことがあってもやめるものか」
「そうですとも。だけどあんたは気が弱いから、くじけないようにするために、ときどき餌や好機を見なければだめなんですよ。そんなものがなくても、くじけないようになさい。その時がきたら、虎でも悪魔でも放しなさい。だけど、その時が来るまで、虎や悪魔を鎖でつないで――人目にふれないようにして――でも、いつでも間に合うようにしておきなさい」
細君はこのちょっとした忠告の結末を強めるために、自分の勘定台をまるでその脳味噌を叩き出さんばかりに銭の鎖で叩いた。そして落ち着きはらって重いハンケチを抱えこむと、もう寝る時間ですよ、と言った。
翌日の昼ごろにはこのあっぱれな女は店のいつもの場所に坐ってたゆみなく編物をしていた。ばらの花がひとつ彼女のそばにおいてあったが、彼女がときどきその花をちらと見ていたとしても、それは別にいつもの仕事に余念のない様子に変わりはなかった。客は二、三人で、酒を飲んでいるのや飲まないのがあちらこちらで立ったり坐ったりしていた。その日はひどく暑く、蠅が群れをなして、詮索《せんさく》好きな大胆な捜索の手を細君の近くにある、いくつかのねばねばした小さなグラスにまでひろげて、その底に落ちて死んだ。彼らの死は外を歩きまわっているほかの蠅には何の印象も与えず、外の連中は同じ運命に陥るまで(まるで自分たちが象か、それと同じくらいかけはなれた何かであるかのように)冷淡きわまる態度で彼らを眺めていた。蠅というものはなんと不注意なものか、考えてみれば不思議である――おそらくその日射しの強い夏の日に、宮廷の人々は蠅と同じくらいしかものを考えていなかっただろう。
一人の人間が入口から入って来て、マダム・ドファルジュに影を投げかけた。細君はそれが自分の知らない影だと感じた。彼女は編物を下において、その人を見る前にばらの花を頭飾りにさしはじめた。
それは奇妙なことであった。マダム・ドファルジュがばらの花をとり上げた瞬間に客たちは話をやめてしだいに酒店から出て行きだした。
「今日は、おかみさん」と新来の客が言った。
「今日は、旦那」
彼女は聞こえるようにそう言ったが、ふたたび編物をとりあげながら心の中でつけ加えた。「おや、今日は、四十がらみのお年さん。およそ五フィート九インチの背丈さん。黒い髪さん。全体として、まずいい男さん。浅黒い膚さん。黒い眼さん。痩せて長くて青白い顔さん。わし鼻だけど鼻筋が通っていないで、左の頬のほうに妙に傾いていて人相が悪い鼻さん。みなさん、今日は」
「どうか古いコニャックを小さいグラスに一杯と冷たい水を一口くれませんか、おかみさん」
細君はいんぎんな態度で承諾した。
「すてきなコニャックですなあ、おかみさん」
そのコニャックがこんなに褒《ほ》められたのは初めてだった。しかしマダム・ドファルジュはそのコニャックの素性をよく知っていたから、そんなお世辞は信用しなかった。けれども彼女はコニャックが喜んでいるでしょうと言って編物をとりあげた。客は数秒の間彼女の指を見つめていたが、その機会に乗じて店内をぐるりと見た。
「編物がたいへん上手ですね、おかみさん」
「慣れておりますのよ」
「それにきれいな模様ですね」
「あなたのようなお方が、そうお思いになりますの」細君は微笑して彼を見た。
「まったくですよ。それはなにになさるんですか」
「気晴らしにやってますの」細君は微笑してやはり彼を見ながら言った。その間も彼女の指はすばやく動いていた。
「使うためではないんですか」
「事情次第ですわ。いつか使いみちが見つかるかもしれません。もし見つかりましたら――そうですね」細君は息を吸い込み、隙のない媚《こび》をたたえてうなずきながら言った。「使おうと思いますわ」
それは驚くべきことだった。だが、サン・タントワヌの好みはマダム・ドファルジュの頭飾りのばらの花とまったく相反しているように思われた。二人の男が別々に店に入ってきて、酒を注文しようとした。そのとき、彼らは見慣れないものに目をとめて、口ごもり、そこにいない誰かを探しているふりをして、出て行った。この客が入って来たときそこにいた連中も、今は一人も残っていなかった。みんな出て行ってしまったのだ。スパイは油断なく気を配っていたが、どんな形跡も見つけだすことはできなかった。彼らは貧にやつれた、あてのない、気まぐれな様子でぶらぶら出て行った。それはしごく自然で、とがめ立てはできなかった。
「ジョン」細君は指を動かしながら編んだところを調べて心の中で考えた。そして彼女の眼は見たことのない客を眺めた。「ごゆっくりなさってください。そうすればあんたが帰るまでに『バルサド』と編んでしまいますからね」
「ご亭主があるんですか、おかみさん」
「ありますよ」
「お子さんは」
「子供はありませんよ」
「商売は悪いようですか」
「商売は全然だめですよ。みんなが貧乏なんですものね」
「ああ、不仕合わせな、みじめな人たち。その上、ひどい目に会わされてね――あんたが言うように」
「|あなたが《ヽヽヽヽ》おっしゃるように、でしょ」細君は彼の言ったことを訂正して言いかえして、器用に彼の名前の中に何か余分に編み込んだが、それは彼にとってろくなことではなかった。
「失礼、そう言ったのはたしかに自分でしたね。しかしあんたも当然そう考えるでしょう。もちろん」
「|わたしが《ヽヽヽヽ》そう考えるのですって」細君は高い声で答えた。「わたしも夫も考えごとなどしなくても、この酒店をやってゆくのに仕事がたくさんあるんですよ。ここでわたしたちが考えることは、どうやって暮らして行くかということだけですわ。それがわたしたちが考えていることなんですのよ。わたしたちは他人のことに頭を悩まさなくても、朝から晩までそのことを考えるだけでいっぱいですわ。|わたしが《ヽヽヽヽ》他人のことを考えるんですって。いえ、とんでもない」
スパイがそこへ来たのは、自分が見つけるかこしらえるかしたわずかな情報を拾うためだったのだが、こうして裏をかかれてみると、そのていたらくを彼の不吉な顔には表わさないでマダム・ドファルジュの小さな勘定台に片肘《かたひじ》をついて時々コニャックをなめながら、女のきげんをとるためにおしゃべりをしているような恰好をして立っていた。
「ひどいことですね、おかみさん、ガスパールの処刑は。ああ、気の毒なガスパール」と深い憐れみの溜め息。
「本当に」と細君は冷やかに蔑《さげす》むように答えた。「そういう目的でナイフを使うんでしたら、誰だってその償《つぐな》いはしなくちゃなりませんわ。あの人は、前もって、自分の贅沢がどれくらいの値段か知っていたんですわ。あの人はそれを支払ったまでですよ」
「きっと」とスパイはやさしい声を人が心の中を打ち明けたくなるような調子に落とし、その陰険な顔のあらゆる筋肉に傷つけられた革命にたいする情熱を表わして言った。「きっとこの近所では、あの気の毒な男に非常な同情と怒りがよせられているでしょうね。ここだけの話ですがね」
「そんなことがありますの」と細君はぽかんとして尋ねた。
「そうじゃないんですか」
「――夫ですわ」とマダム・ドファルジュが言った。
酒店の主人が扉から入って来たとき、スパイは帽子にさわって愛想よく「今日は、ジャーク」と言って挨拶した。ドファルジュは途中で立ち止って彼をじっと見つめた。
「今日は、ジャーク」とスパイが繰り返した。だがドファルジュにじっと見つめられて、初めの時ほど自信はなく、微笑もまえほど自然ではなかった。
「お間違えじゃありませんか、旦那」と酒店の主人が答えた。「わしを誰かと間違えていらっしゃいますよ。それはわしの名前じゃありませんよ。わしはエルネスト・ドファルジュです」
「どっちだって同じさ」スパイは軽くそう言ったものの、まごついてもいた。「今日は」
「今日は」ドファルジュはそっけなく言った。
「あんたが入って来たとき、おかみさんとおしゃべりをしてたんだがね。サン・タントワヌでは気の毒なガスパールの哀れな運命に――あたりまえのことだが――非常な同情と怒りがよせられているという噂をきいた、と話していたところなんですよ」
「誰もわしにはそんな話はしませんがね」とドファルジュは首を振りながら言った。「わしは何も知りませんよ」
そう言い終ると、彼は小さな勘定台の後ろに行き、妻の椅子の背に手をかけて、そのとりで越しに、二人と向かい合っていて、二人ともがもし射ち殺してやれたらそれ以上の満足はないと思っている人間を見ていた。
この仕事にはよく慣れているスパイはなにげない態度を変えずに、コニャックの小さなグラスを飲みほして水を一口飲み、コニャックをもう一杯くれと言った。マダム・ドファルジュはコニャックを注いでやると、また編物に夢中になり、編みながら子供っぽい歌を鼻でうたった。
「旦那はこの辺のことをよくご存じのようですね、少なくともわしよりはね」とドファルジュが言った。
「いや、まるで知らないね。それで、もっとよく知りたいと思っているんだよ。このへんのみじめな住民にひどく興味があるんでね」
「ほう」とドファルジュが呟《つぶや》いた。
「君と話をしているとね、ドファルジュ君、僕は思いだすことがあるんだ」とスパイがつづけた。「僕は君の名と関係して、ある面白い連想をもっているんですよ」
「そうですか」ドファルジュはしごく冷淡に言った。
「そうなんだ。マネット医師が釈放されたとき、もとの使用人だった君が彼を引きとったんだっけね。あの人は君に引き渡された。ね、僕はその事情を知っているだろう」
「たしかにその通りです」とドファルジュが言った。彼の妻は編物をしたり鼻歌をうたったりしていたときに、偶然のように彼を肘でついて、返事をする方がいいが、いつでも短い返事をしておくようにと、前もって彼に通じておいたのである。
「あなたのところへあの人の娘がやって来たのでしたね」とスパイが言った。「それから、あなたの手からあの娘はあの人をイギリスへ連れて行ったのでしたね。品のいい、茶色の服を着た紳士につきそわれて。あの人は何て名前でしたっけ――小さいかつらをつけた――ローリー――テルソン銀行の」
「その通りです」とドファルジュが繰り返した。
「実におもしろい記憶ですよ」とスパイが言った。「僕はイギリスでマネット医師とあの娘さんを知ってましてね」
「そうですか」とドファルジュが言った。
「今じゃ、あの人たちの噂をあまり聞きませんか」とスパイが言った。
「いや」とドファルジュが言った。
「本当にね」と細君は編物と子供じみた歌をやめて見上げながら口を出した。「あの方たちの噂は全然ききませんのよ。無事に着いたという知らせと、一ぺんか二へん、お手紙をいただきましたが、それからは、だんだんあの方たちにはご自分の生活が忙しくなるし――こちらも自分の生活があるものですから――ずっと文通もしておりませんのよ」
「まったくそうですね、おかみさん」とスパイが答えた。「あの娘さんは今度結婚するんですよ」
「今度ですか」と細君が繰り返した。「あんなきれいな方ですから、ずっと前に結婚なすったことと思ってましたわ。あなた方イギリスの方は冷たいような気がしますわ」
「え、僕がイギリス人だと知ってるんですね」
「お話しぶりで分りますわ」と細君が答えた。「お話しぶりがそうでしたら、その方はその国の方だと思ってますの」
彼はその身元証明をあまりありがたいとは思わなかったが、なるべくうまくごまかして、笑ってその話をそらしてしまった。彼はコニャックを一滴も余さずにすすってしまうと、話をつづけた。
「ええ、マネットさんは今度結婚するんですよ。しかし、イギリス人とじゃありません。自分のように、生まれはフランス人である男とです。そこでガスパールの話になるんですがね(ああ、気の毒なガスパール、あれは残酷だ、残酷だ!)ふしぎなことに、あのひとはガスパールをあんな高い所に引っぱり上げた侯爵の甥、つまり現在の侯爵ですね。その人と結婚するんですよ。しかし、その男はイギリスでは何も知られずに暮らしているんです。あそこでは侯爵ではないんです。チャールズ・ダーネー氏です。ドルネーというのが母方の名前なんですよ」
マダム・ドファルジュは動揺もせずに編物をしていたが、その情報が彼女の夫に与えた影響は明白であった。小さな勘定台の後ろで、火を打ち出してパイプに火をつけようとして、どうやってみても、うまくいかず、彼の手はしっかりしなかった。もしそれを見落したり、頭の中に記憶しそこなったりするようなら、このスパイはスパイの資格がなかったろう。
それにどれほどの価値があるか分らないが、少なくともこのひとつはうまく当ったし、彼に味方してもっとうまくやらせてくれる客も入って来なかったので、バルサド氏は飲んだ分を支払って、立ち去る前に、またドファルジュ夫妻にお目にかかるのを楽しみにしていますと気取った言い方をして、そこを出て行った。彼がサン・タントワヌの外側の方に出てしまってからも、彼がまた戻って来やしないかと、夫と妻は何分かの間、彼が出て行ったときのままでいた。
「いったい本当のことだろうか」ドファルジュは細君の椅子の背に手をかけて煙草《たばこ》を吸いながら妻を見おろして低い声で言った。「あいつが言ったマネット嬢のことさ」
「あいつが言ったことだから」と細君はすこし眉を上げて答えた。「たぶん間違いだろうよ。でも、本当かもしれないね」
「もし本当なら――」ドファルジュは言いかけたが、やめた。
「もし本当なら」と彼の妻が繰り返した。
「――そしてわれわれが生きていてその勝利が見られる間にあれがやって来たら――おれはあのひとのために運命の神があのひとの夫をフランスの国外にひきとめておいてくれるように願うよ」
「あのひとの夫の運命は」とマダム・ドファルジュはいつものように落ち着いて言った。「その人が行くはずになっているところへその人を連れて行きますよ。そしてあの人のけりをつける行き止まりまで引っぱって行きますよ。わたしに分ることはそれだけですよ」
「しかし、これは非常にふしぎなことだね――なあ、少なくとも、非常にふしぎなことじゃないだろうか」――ドファルジュは細君にそれをみとめてもらおうと、頼むように言った。「われわれがあんなにあの父娘に同情した揚句に、今の今、娘の夫の名がたったいま出て行ったあのイヌの名前のとなりにお前の手で記録されるとはね」
「あれが来れば、それよりもっとふしぎなことが起こりますよ」と細君が答えた。「わたしは確かに二人ともここに入れましたよ。二人とも、それ相当の報いでここに入っているんです。それでたくさんですよ」
こう言い終ると、細君は編物を巻いて、やがて、頭に巻きつけたハンケチからばらの花をぬきとった。サン・タントワヌは好ましからぬ飾りものが消えたのを本能的に感じたのか、それとも、それがいつ消えるかと見張っていたのか分らないが、いずれにしても、その直後に、かの聖区の人々がぶらりと勇気を出して入って来た。そして酒店はいつもの様相を回復したのであった。
一年のうちでもその季節には、夕方になると、サン・タントワヌは裏返しになったように、人々が大気を呼吸するために入口の階段や出窓に坐ったり、不潔な通りやあき地の隅々に出て来るのだが、仕事を手に持ったマダム・ドファルジュはあちこちを群れから群れへとまわって歩く習慣であった。それは一種の伝道師であって――彼女のようなのはいくらでもいたが――そういうものはこの世界が二度と生み出さない方がいいのだ。どの女もみな編物をしていた。彼らはくだらないものばかり編んでいた。だが、機械的な仕事は食べたり飲んだりすることを機械的に代用したものであって、手は顎と消化器官の代りに動いていた。もし骨ばった指がじっとしていたら、胃袋はもっと飢えに苦しんだことだろう。
けれども、指が動くにつれて眼も動き、心も動いたのである。それで、マダム・ドファルジュが群れから群れへとまわって行くにつれて、その三つのものは、彼女が話をして別れてきた女たちの小さなかたまりの間で、ますます敏捷《びんしょう》に、ますますけわしく動くのであった。
夫は店の門口で煙草を吸いながら、感嘆して彼女を見送っていた。「偉い女だ」と彼が言った。「強い女だ、偉大な女だ、おそろしく偉大な女だ」
女たちが編物に夢中になって坐っているうちに、暗闇があたりをとざして、教会の鐘の鳴る音と宮殿の庭で打ち鳴らす軍隊の太鼓の遠い響きが聞こえて来た。暗闇は女たちをとりかこんだ。それと同じように着々と、別の闇も迫って来つつあったのだ。その時こそ、いまは空高くそびえた方々の尖塔《せんとう》で楽しげにフランスじゅうに鳴り響いている教会の鐘が溶かされて轟く大砲に鋳直される時であり、その時こそ、今宵は権力と富の声であり、自由と生命の声のように力強いあの軍隊の太鼓が、一人のみじめな声をかき消すために鳴り響くであろう。坐って夢中で編物をしている女たちのまわりにはそういういろいろなものが迫っていた。そして女たちもまた、まだ組み立てられていないある建物のまわりにしだいに近づいていたのであって、彼らはそこに坐って、落ちる首の勘定をしながら編物をつづけるはずになっていたのだ。
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第十七章 ある夜
その記憶すべき宵に、医師と娘はすずかけの樹の下にいっしょに坐っていたが、このときほど太陽がソホーの一隅に輝かしい栄光を投げて沈んで行ったことはかつてなかった。その夜、月がまだ樹の下に坐っている二人を見つけて、葉の間から彼らの顔を照らしていたが、月がこの夜ほどやさしい光を大ロンドンの上に投げながら昇ったことはかつてなかった。
ルーシーは明日結婚するはずであった。彼女はこの最後の夜を父のためにとっておいたのだ。それで彼らは二人だけですずかけの樹の下に坐っていたのである。
「お父さまはお仕合わせですの」
「ああ、とてもね」
二人はそこに長い間坐っていたが、話はあまりしなかった。まだ明るくて仕事をしたり本を読んだりできたときでも、ルーシーはいつもの仕事もしなければ、父親に本を読んで聞かせることもしなかった。この樹の下で、彼の傍で、彼女は幾度となくそういうことをしたものだったが、今日はいつもと少しちがっていて、どうしてもいつものようにはできなかったのだ。
「私も今夜はとても幸福ですの、お父さま。神様がこんなに祝福してくだすった愛――チャールズへの私の愛と、私へのチャールズの愛――に浸って、私は本当に仕合わせですわ。でも、もし私の生活を今までのようにお父さまに捧げることができないのでしたら、また、私の結婚がこの街の二、三本分の幅だけでも私たちを引き離してしまうような結婚でしたら、私はいま、お父さまに申し上げられる以上に不仕合わせで、後悔していることでしょう。今でさえ――」
それでさえ、彼女は自分の声を制することができなかった。
悲しみをそそる月光の中で、ルーシーは父親の頸に抱きついて顔を彼の胸にうずめた。いつでも悲しみをそそる月光の中で――昇るときと沈むときの太陽の光のような――人生という名の光のような。
「だいじなお父さま。最後に、私の新しい愛情と新しい義務が私たちの間のさしさわりとなることは絶対にないと確信しているとおっしゃっていただきたいのですけれど、|私には《ヽヽヽ》よく分っておりますけれど、お父さまにはお分りでしょうか。お心の中で、本当に大丈夫だと思っていらっしゃいますか」
父親はめったに見せたことのない楽しそうなかたい確信をもって答えた。「大丈夫だと思っているとも、お前。それだけではない」彼はやさしく娘に接吻してつづけた。「お前の結婚で、わたしの将来は、お前が結婚しないときよりもずっと――過去のいつよりも――明るく見えて来るのだよ」
「もし|そういうこと《ヽヽヽヽヽヽ》が望めるのでしたらね、お父さま――」
「それを信じるんだよ、ね。本当にそうなんだよ。それが当然のことなんだ。これほど自然で分りきっていることはないと思わないかい。お前のような若い、情の深い子には、お前の人生がむだに過ごされてしまうことがないようにとどれほどわたしが気にかけていたか、本当にはわからないのだよ」
ルーシーは彼の唇の方に手を動かした。だが、彼はその手を自分の手にとって、いまの言葉を繰り返した。
「むだにね、お前――むだに過ごしてしまわぬように、自然の秩序からはずれてしまわぬように――わたしのためにね。お前のように自分のことを考えない子にはどんなにわたしがこのことを思いなやんでいたか、本当には分るまい。だが、ちょっと自分にきいてごらん。お前がほんとうに幸福ではないのに、どうしてわたしがほんとうに幸福になれるか」
「でも、お父さま、もしチャールズに会わなかったら、私はお父さまとご一緒でほんとうに仕合わせだったのですわ」
チャールズに出会ったのだから、彼といっしょでなければ不幸になるだろうと、ルーシーが気がつかずに認めたので、彼は微笑した。そして答えた。
「お前はあの人に会ったのだよ。それがチャールズなんだよ。もしチャールズに出会わなかったら、ほかの人に出会っただろう。もし誰にも出会わなかったとしたら、わたしのせいだったろう。そんなことになったら、わたしの人生の暗い部分がわたしの外にまで影を投げて、お前の上にまで落ちてしまったことになるんだよ」
彼が自分の苦しかった時期のことにふれたのは、あの裁判のときを除けば、これが初めてであった。ルーシーはその言葉が耳に残っているあいだ、奇妙な、おぼえのない感情の波におそわれた。そしてそのことをずっと後までおぼえていた。
「ごらん」ボーヴェーの医師は手を月に向かって上げながら言った。「わたしはあの月を牢獄の窓からよく眺めたものだが、そのころわたしはあの光が耐えられなかったのだよ。あの月を眺めていて、あれがわたしが失ったものの上にも光を投げているのだと思うと、わたしはたまらなくなって、頭を牢の壁に打ちつけたものだよ。気力がにぶって頭がぼんやりしている時にあの月を眺めていて、なにも考えずに、ただあの月に水平線が何本引けるか、また、その線と交叉する垂直線を何本引けるかと考えたこともあったよ」彼は月を眺めながら心の中で考え込むような調子で言った。
「両方とも二十本だったと覚えている。二十本目は書き込むのがむずかしかった」
彼がその時期にたちかえって語るのを聞いたとき、ルーシーは奇妙な興奮を感じたが、それは彼が語りつづけるにつれて、ますます強くなった。けれども、彼の話の様子には何も彼女をおびやかすものはなかった。彼はただ、現在の楽しさと仕合わせを過ぎ去った恐ろしい苦しみと対照しているだけのように思われた。
「あの月を眺めながら、何千度となく、引き裂かれるように別れてきたまだ生まれない子供のことを思ったものだ。あれは生きているだろうか。生きて生まれただろうか。それとも、哀れな母親の衝撃で死んでしまっただろうか。いつか父の仇を打ってくれる息子だろうか。(牢獄では復讐の念に耐え難い時もあったのだよ)それとも父の身の上は何も知らない息子だろうか。そうとすれば、自分の父親が自分の意志で勝手に消えてしまったのかもしれないと考えるようになるまで生きているだろうか。それとも、それが娘であって、一人前の女になるまで成長するだろうか」
ルーシーは父親にぴったりと身を寄せて頬と手に接吻した。
「わたしは心の中で娘はわたしのことなど全然忘れてしまっている――というよりも、わたしのことは全然知らずにいて、考えてみたこともない、と想像していたんだよ。わたしは毎年娘の年をかぞえていた。わたしは娘がわたしの不幸な運命のことを何も知らない男と結婚するだろうと想像していた。わたしは生きている者の記憶からは完全に消えてしまっていて、次の代にはわたしのいた場所はからになるのだと思っていた」
「お父さま。あなたがまだ生まれてもいなかった娘のことをそんなふうに考えていらしったことを伺うだけでも、まるで自分がその子供であったように胸を刺されるような気がいたします」
「お前が、ルーシー。こんな記憶がわいてきて、この最後の夜にわたしたちと月の間を通うのも、お前のおかげで慰められて、もとのように回復することができたからなんだよ。――たった今、わたしは何と言ったっけね」
「娘はあなたのことを何も知らなかった。娘はあなたのことを少しも気にかけなかった」
「そんなことを言ったかね。だがね、またほかの月夜の晩には、あのもの悲しさと沈黙はわたしの心に別の気持を起こしたのだよ――どんな感情でもその底に苦痛がひそんでいる場合にそういうことができるのだが、なにか、平和な、悲しい気持というようなものがわたしを動かしたのだ。――わたしは娘がわたしの独房に入って来て、城壁の向こうの自由の世界に連れ出してくれるのだと想像してみた。わたしはよく月光の中に今お前を見ているようにその娘の姿を見たものだった。ただその娘を抱いたことはなかったがね。それは小さな格子窓と扉の間に立っていた。だが、分るかね。それはわたしが話している子供とはちがうんだよ」
「その人影がそうではないのですね、その姿が、その幻想が」
「そうなんだ、それは別のものなんだよ。それはわたしの乱れた視覚の前に立っていたが、決して動かなかった。わたしの心が追いかけていた幻は別の、もっと現実に近い子供なんだ。外から見たところは、その娘が母親に似ているということしかわたしは知らない。もう一方の方は、やはりそこは似ていたが――お前のようにね――しかしまったく同じではなかったのだ。わたしについて来られるかい、ルーシー。むりだと思うが。独房の囚人ででもなければ、こんな面倒な区別はできるはずがないと思うがね」
こうして昔の状態を細かく分析しようとしたとき、彼の態度は落ち着いていて静かであったけれども、それでも彼女は血の気を失わずにいることはできなかった。
「そんなふうに割合に平和な状態のときには、その娘が月光の中をわたしのところへやって来て、わたしを連れだして、自分が結婚生活を営んでいる家庭が、いなくなった父親のなつかしい思い出でいっぱいだということを見せてくれるのだと想像したものだった。わたしの肖像画が娘の部屋にあったし、娘の祈りの中にもわたしが入っていた。娘の生活は活気があって楽しそうで、充実していた。だが、わたしの哀れな身の上がすべてのものにしみこんでいた」
「私がその子供だったのですわ、お父さま。私はそれほど良い子ではありませんでしたけれど、お父さまにたいする愛情の点では、それは私でしたわ」
「それから、娘はわたしに自分の子供たちを見せてくれたのだよ」とボーヴェーの医師は言った。「子供たちはわたしのことを聞いていて、わたしを憐れむように教えこまれていたのだ。子供たちは監獄のそばを通るときには、そのおそろしい塀から遠ざかって、鉄の格子を見上げて、ひそひそと話をしたのだ。娘はわたしを救い出すことはどうしてもできなかったのだよ。娘はわたしにそういうものを見せてしまうと、いつでもわたしをもとの所につれ戻すのだとわたしは想像していたのだ。だがそれでも、涙を流したために気がらくになって、わたしはひざまずいて娘を祝福したのだよ」
「私はその子供になりたいと思いますわ、お父さま。ああ、お父さま、明日はそれと同じくらい心をこめて私を祝福してくださいますか」
「ルーシー、こうした昔の苦しみを思い出すのは、わたしが、口で言えないくらいお前を愛していて、わたしの大きな幸福を神様に感謝する理由が、今夜わたしにあるからなんだよ。わたしの思いがもっとも激しく興奮していたときでも、お前といっしょに暮らして知ったような、また、わたしたちの前にあるような幸福に近づいたことは一度だってなかったのだよ」
彼は娘を抱きしめて、おごそかに神にゆだね、この娘が自分に与えられたことをつつましく神に感謝した。やがて、彼らは家に入った。
結婚式にはローリー氏のほかには誰も招く予定はなかった。花嫁の付添いも痩せたプロス嬢だけと決まった。結婚によって住居が変わるわけでもなかった。以前、姿の見えないあやしげな間借人が借りていた上の部屋を借りれば、住居をひろげることもできたので、彼らはそれ以上なにも望まなかった。
マネット医師は結婚式前のささやかな夕食に招かれて非常に楽しそうだった。食卓についたのはたった三人で、三番目はプロス嬢だった。マネット医師はチャールズがそこにいないのを残念がり、彼を遠ざけた可愛いい小さな企《たくら》みに異議を申し立てたい気持に半分なっていた。そして、愛情をこめて彼のために乾杯した。
そうするうちにルーシーにお休みを言う時間が来たので、彼らは別れた。しかし、しんとした朝の三時に、ルーシーはまた下に降りて来て、漠然とした不安を感じながら父親の部屋にしのび込んだ。
けれども、何もかも変わりはなかった。どこも静かで、父の白髪は乱れていない枕の上で絵のように美しく、両手を掛蒲団の上にしずかにおいて眠っていた。ルーシーは要らなかった蝋燭を少しはなれたかげにおき、父の寝床にそっと近寄って、唇を父の唇にあてた。それから父の上に屈んでじっと眺めた。
その美しい顔には囚《とら》われの苦い涙がしみ込んでいたが、父は強い意志の力でその跡をかくしていたので、眠っていても、それは表にあらわれなかった。それよりも印象的な、見えない敵と静かに、決然と、慎重に戦っている表情は、その夜眠っている父のどこにも見られなかった。
ルーシーは愛する父の胸におずおずと手をおいて、彼女がいつも、その愛がこい願うほどに、また、父の悲しみが当然それにあたいするほどに誠実であるようにと祈った。それから手を引いて、もう一度父の唇に接吻して、出て行った。やがて、太陽が昇り、すずかけの葉の影が彼の顔の上で揺れた。それはルーシーの唇が父のために祈ったときのようにやさしく揺れていた。
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第十八章 九日間
結婚式の日は太陽がきらきらと輝いていた。医師がチャールズ・ダーネーと話をしている間、閉じた扉の外では、美しい花嫁と、ローリー氏と、プロス嬢が教会へ行く用意をして待っていた。プロス嬢としては、徐々にあきらめの過程を経て、この必然的な運命を受け入れた次第なのだが、もし、弟のソロモンが花婿になるはずだったのにという心残りさえなかったならば、この事件はこの上もない大きな喜びだったのだ。
「それだから」いくら花嫁をほめ称えてもほめ称えきれず、花嫁のおちついた美しい衣装のあらゆる点を見落すまいと彼女のまわりをまわっていたローリー氏が言った。「それだから、ね、かわいいルーシーさん。わたしがあんな小さな赤ちゃんのあなたを海峡の向こうからお連れしたのは、このためだったのですね。本当にまあ! わたしは自分のしていることをまるで考えていなかったのですよ。わたしは友人のチャールズ君にほどこした恩義をなんと軽く見積っていたんでしょうね」
「あなたはそんなつもりじゃなかったのですよ」と実際的なプロス嬢が言った。「ですから、そんなことが分るはずがないじゃありませんか。ばかばかしい」
「おや、そうかね。なるほど。だが、泣かないでくださいよ」とやさしいローリー氏が言った。
「わたしは泣いてなんかいませんよ」とプロス嬢が言った。「|あなた《ヽヽヽ》こそ」
「わたしが、プロスさん」(このときまで、ローリー氏は時折プロス嬢とむりにはしゃいでいたのであった)
「たった今、泣いていらしたじゃありませんか。わたしはちゃんと見てましたよ。それでふしぎだとは思いませんよ。あなたが贈物になすったあんな立派なお皿を見たら、誰だって眼に涙を浮かべずにはいられないじゃありませんか。昨夜あの箱が着いてからわたしが見て泣かなかったフォークやスプーンは一本だってありませんよ。とうとうわたしはそれが見えなくなっちまいましたよ」
「深く感謝しますよ」とローリー氏が言った。「ただ、誓ってわたしはあのつまらない記念品を誰にでも見えなくするつもりはなかったのだよ。いやはや! こんな場合には誰でも自分が失ったすべてのもののことを考えさせられるね。いや、まったく! この五十年ばかりの間、いつなんどきでもローリー夫人が存在したかも知れないのだと思うとね」
「そんなことはありませんよ」とプロス嬢。
「では、ローリー夫人は絶対に存在しなかったろうと考えるのかね」とその名前の紳士が尋ねた。
「ふん」とプロス嬢が答えた。「あなたは揺籃《ゆりかご》の中にいらしたときからひとり者だったのですよ」
「なるほど」ローリー氏は小さいかつらをなおしながら機嫌よく言った。「それもそうだな」
「それで、あなたは揺籃に入れられる前からひとり者に生まれついていたんですよ」とプロス嬢がつづけた。
「いや、その話しはもういい。そこで、ルーシーさん」彼はルーシーの腰をやさしく抱えて言った。「隣の部屋でお父さまたちが動いていられる音が聞こえますが、プロスさんとわたしは、形式を重んじる事務家として、あなたがお聞きになりたいと思っていらっしゃることを、あなたのお耳に入れる最後の機会をのがしたくないと思っているのですよ。あなたはお父さまをあなたと同じくらい誠実な、愛情のこもった手に残して行かれるのです。私たちはあらゆる手をつくしてお世話しましょう。あなた方がウォーウィックシャー付近においでになる次の二週間のあいだは、テルソン銀行だって困ってもかまいませんよ(たとえて言えばですね)。そして二週間たって、ウェールズへもう二週間旅行なさるために、お父さまがあなたとあなたの愛するご主人とごいっしょになられるとき、私たちは、最上のご健康状態の最高にお仕合わせなお父さまをお連れしたとおっしゃっていただくつもりですよ。さあ、どなたかが扉の方に歩いていらっしゃるようだ。どなたかがあなたをご自分のものだとおっしゃる前に、わたしのだいじな娘に昔流のひとり者の祝福の接吻をさせてください」
一瞬間、彼はその美しい顔を引きはなして、よく覚えている額の例の表情を眺め、それから、輝く金髪を自分の小さな茶色のかつらにおしつけた。それは実にやさしくまた、こまやかな気持があふれていたので、もしそういうものが昔風であるなら、それはアダムと同じくらい昔風であったろう。
医師の部屋の扉が開いて、医師とチャールズ・ダーネーの二人が姿をあらわした。チャールズは死人のように蒼い顔で――二人がいっしょに部屋に入ったときには、彼はそんな顔色ではなかった――血の気は全然見られなかった。だが、彼の落ち着いた態度はいつもと変わりがなかった。ただ、ローリー氏の鋭い目は、たった今、あの以前の、人を忌避《きひ》し恐怖する表情が冷たい風のように彼の上を通り過ぎたかすかな徴候をみとめたのであった。
チャールズはルーシーに腕をとらせて、階下へ降りて行きローリー氏がこの日を祝って雇った軽装馬車へ導いた。その他の人々も別の馬車でそれにつづき、まもなく、知らない人は誰も見ていない近くの教会で、チャールズ・ダーネーとルーシー・マネットはめでたく結婚した。
式が終ったとき、そこに集まったわずかな人々の微笑《ほほえみ》の間から涙がきらきらと光っていたが、花嫁の手にもいくつかのダイヤモンドが、目もまばゆいばかりにきらきらと輝いていた。それはローリー氏のうす暗いポケットから今度解放されたのであった。彼らは家に帰って朝食をとった。そして万事が都合よく進行して、やがて、パリのあの屋根裏部屋で哀れな靴づくりの白い巻き毛と入り混じったあの金色の髪が、別れるときに門口の朝の陽光の中で、ふたたび白い巻き毛と入り混じったのであった。
長い別れではなかったが、それはつらい別れであった。だが、父は娘をはげまして、娘が抱きしめる腕からやさしく身を引いて、ついに言った。「このひとを連れていらっしゃい、チャールズ。このひとは君のものですよ」
それから彼女の興奮にかられた手が二輪馬車の窓から彼らにむかって振られて、彼女は行ってしまった。
その一隅は暇な物見高い人々が通らない場所だったし、結婚式の準備も簡単でごくわずかだったから、あとに残ったのは医師とローリー氏とプロス嬢だけであった。彼らが涼しい古い広間のありがたい蔭に入ったとき、ローリー氏は医師に非常な変化が起こったのをみとめた。それはまるで、そこでふり上げている黄金の腕が彼に毒の一撃を加えたかのようであった。
彼は、もちろん、いろいろと抑えていたのであった。それで、抑制する必要がなくなったときには、彼になにか急激な反動が起こる可能性はあったかもしれないのだ。けれども、ローリー氏を苦しめたのは、あの昔のままの、おびえた、ぼんやりした顔つきだった。それで、皆が階上に上ったとき、彼が茫然として頭をしっかりかかえてわびしくふらふらと自分の部屋に入って行くのを見て、ローリー氏はあの酒店の主人のドファルジュと星明かりの下を馬車で旅したことを想起したのであった。
「わたしはね」と彼は、気をもんだ末、プロス嬢にささやいた。「わたしはね、今のところは、あの人に話しかけたり、邪魔をしたりしないのが一番いいと思うがね。わたしはテルソンをちょっとのぞいて来なくちゃならないのだよ。それで、これからすぐ行って、じきに戻って来ますよ。それから、二人であの人を車で田舎へ連れだして、そこでご飯を食べることにしよう。そうすれば万事がうまくおさまるだろうよ」
ローリー氏にとってはテルソンの中をちょっとのぞく方がテルソンから外を見るより造作のないことであった。彼は二時間ひきとめられた。医師の家に戻ってきたとき、彼は召使いに何もきかないで、ひとりで古い階段を上った。そして医師の部屋に入って行ったとき、彼はコツコツと叩く低い音を聞いて立ちどまった。
「おや」彼は驚いて言った。「あれはなんだろう」
プロス嬢のおびえた顔が彼の耳もとにあった。「ああ、ああ、何もかもだめになってしまいました」と彼女は手をしぼりながら叫んだ。「お嬢さまになんて申し上げたらいいでしょう。旦那さまはあたしがお分りにならないのです。それで靴を作っていらっしゃるのです」
ローリー氏はプロス嬢を落ち着かせるために思いつくかぎりのことを言った。それから自分で医師の部屋に入って行った。腰掛は、前に彼が靴をつくっていたときに見たように、明るい方に向けられ、彼はうつむいて、忙しく仕事をしていた。
「マネット先生。ねえ、マネット先生」
医師はちょっと彼を見た――半ばは怪訝《けげん》そうに、半ばは話しかけられたのに腹を立てているように――それからまた仕事の上にうつむいた。彼は上着とチョッキを傍におき、シャツは、以前その仕事をしていたときのように喉のところがあけてあった。そればかりでなく、昔のやつれた衰えた皮膚までもと通りになっていた。彼は一生懸命に仕事をしていた――気がせくように――仕事の邪魔をされたと思ってでもいるかのように。
ローリー氏は彼の手にある仕事をちらと見て、それが昔と同じ大きさと型の靴だということを見てとったので、それは何ですかと尋ねた。
「若いご婦人の散歩靴でございます」と彼は見上げもせずに呟《つぶや》いた。「ずっと前に出来上がっていなければならなかったのです。かまわないでください」
「しかし、マネット先生。わたしをごらんなさい」
彼は仕事の手を休めないで、昔のような機械的な服従の仕方で彼の言うとおりにした。
「あなたはわたしを知っておられるでしょう。もう一度考えてみてください。これはあなたにふさわしい仕事ではありませんよ。考えてみてください、あなた」
なんとしても、それ以上彼に口を開かせることはできなかった。彼は、そうしろと言われたとき、一度はちょっと目を上げた。だが、いくら説得しても一語も彼から引き出すことはできなかった。彼は無言でただ仕事をつづけるばかりであった。そして彼の上に落ちた言葉は反響しない壁か空中にむかって放たれたようなものであった。ローリー氏がようやく発見したひとすじの希望は、彼が何もきかれなくても時々上を見ることであった。そうするときに、そこには好奇心とも当惑ともつかないかすかな表情があらわれるように思われた――ちょうど彼が心の中のなにかの疑いを解こうとしているような。
ローリー氏が、すぐに肝《きも》に銘《めい》じたことは二つのことが何よりも大切だということであった。まず第一に、これはルーシーに秘密にしておかなければならないということ、第二に、これは彼を知るすべての人に秘密にしておかなければならないということであった。ローリー氏はプロス嬢と協力してさっそく二番目の方の予防策をとることにして、医師は健康を害して、二、三日間は完全に休養しなければならないと発表した。また親切な心から娘をだますために、プロス嬢が手紙を書くことになり、彼が職務上の用事で遠くに招かれたことにして、彼が急いで二、三行自分で書いたという架空の手紙にふれ、それも同じ便で彼女に出したはずだと書くことになった。
どんな場合にも当を得ているこうした処置をローリー氏は彼が正気に返るものとしてとったのであった。もし彼がすぐ正気に返ったならば、彼にはもうひとつ別の方針がとってあった。それは、医師の病状について最も善い診断を下せると彼が考えたある人の意見を求めることであった。
彼が回復して、この三つ目の方針通りに実行したいものだと考えて、ローリー氏は、それをできるだけ表面にあらわさずに彼を注意深く看視しようと決心した。そこで、生まれて初めてテルソン銀行を欠勤する手筈をととのえ、医師と同じ部屋の窓ぎわに陣取った。
まもなく彼は医師に話しかけるのは無駄であるよりももっと悪いことだと気がついた。というのは、彼はむりに強いられると、迷惑そうな顔をしたからである。彼は最初の日にその企てを捨てて、ただ、彼が陥ったか陥りかかっている気の迷いにたいする無言の抗議としていつでも彼の前からはなれないようにしようと決心した。そこで彼は窓に近いところに席をかまえて、本を読んだり、書きものをしたり、また思いつく限りいろいろな楽しい自然な方法でそこは自由な場所だということがわかるようにつとめた。
マネット医師は自分に与えられる食べものや飲みものはなんでもとり、その最初の日は、暗くなってものが見えなくなるまで働きつづけた――ローリー氏がどんなことをしても読んだり書いたりできなくなってから半時間後まで働きつづけた。道具が役に立たなくなって朝まで片づけたとき、ローリー氏は立ち上がって言った。
「外へ出かけませんか」
彼は昔のように自分の左右の床を見おろし、昔のように上を見て、昔のような低い声で繰り返した。
「外へ」
「そうです。わたしといっしょに散歩に。なぜいけませんか」
彼はなぜいけないのか、つとめて答えようともせず、そのほかには一言も言わなかった。けれどもローリー氏は、彼が膝にひじをつき、頭を両手で抱えながら、薄暗がりの中の腰掛に坐って前に屈んだとき、彼がぼんやりと自分に向かって「なぜいけないのか」と尋ねているのを見たような気がした。事務家の機敏な眼はここに自分に有利な点を見てとり、そこをはなすまいと決心したのであった。
プロス嬢と彼は夜の寝ずの番を二分して、隣の部屋からときどき彼を観察した。医師は寝る前に長い間あちこち歩きまわっていたが、ついにからだを寝床に横たえると、眠ってしまった。朝になると、彼は早く起きて、まっすぐに腰掛に近づき、仕事にとりかかった。
この二日目の日に、ローリー氏は快活に彼の名を呼んで挨拶し、最近彼らの話題となっていたことについて話しかけた。彼は何も返事をしなかったが、たしかにローリー氏の言ったことを聞いたこと、また、どんなに分らなくても、自分で聞いたことを考えてみたことは明らかであった。これに力を得て、ローリー氏は日に何度もプロス嬢に仕事をもって来させた。そんなときに二人はいつもとまったく同じ調子で、何も変わったことがなかったように静かにルーシーとそこにいる父親の話をした。それにはわざとらしい尾ひれをつけず、彼を苦しめるほど長い時間でもなく、それほど頻繁でもなかった。ローリー氏は彼が上を見るのが次第に頻繁になって、彼が自分の周囲の矛盾にいくらか気がついて動揺しているように見えてきたと信じて、その友情に厚い心は明るくなったのであった。
その日がまた暗くなったとき、ローリー氏は前のように彼に尋ねた。
「マネット先生、外へ出かけませんか」
前のように彼は繰り返した。「外へ」
「そうですよ。わたしといっしょに散歩に。なぜいけませんか」
今度は、彼から何の返事も引きだすことができなかったとき、ローリー氏は出かけるふりをした。そして一時間ばかり留守にした後戻って来た。その間に、医師は窓の席に移っていて、すずかけの樹を見下しながらそこに坐っていた。だが、ローリー氏が戻ってくると、彼はすうっと腰掛へ行ってしまった。
時はきわめて緩慢に過ぎてゆき、ローリー氏の希望はだんだん暗くなった。そして彼の心もさらに重くなり、日毎にますます重くなるばかりであった。三日目の日が来て、往った。そして四日目の日が、五日目の日が。六日、七日、八日、九日。
日毎に暗さを増す希望を抱きながら、いつも重苦しさを加えるばかりの心をおさえて、ローリー氏はこの気がかりな時を過ごした。秘密はうまく保たれて、ルーシーは何も知らずに幸福であった。けれども、彼がみとめざるをえなかったのは、靴づくりの仕事が最初は少し調子が悪かったが、だんだんおそろしく熟練してきて、彼がこれほど仕事に熱を入れたことはかつてなく、九日目の夕暮れには、彼の手がかつてないほど敏捷《びんしょう》に巧妙に動いていた、ということであった。
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第十九章 ある専門家の意見
気がかりな看視に疲れ果てて、ローリー氏は自分の持ち場で眠ってしまった。不安な十日目の朝、彼は暗い夜にぐっすり寝込んでしまった部屋に明るい太陽の光が射し込むのに驚いた。
彼は眼をこすって、からだをおこした。けれども、そのとき、自分はまだ眠っているのではないかと疑った。というのは、医師の部屋の入口に行って中をのぞいたとき、靴づくりの腰掛と道具が片づけられて、医師が窓ぎわに坐って本を読んでいるのを見たからである。彼はいつもの朝の服を着ていた。そして彼の顔は(ローリー氏ははっきり見ることができたのだが)まだひどく蒼白ではあったが、落ち着いた熱心な、注意深い顔であった。
ローリー氏は、自分がたしかに目をさましているのだと安心しても、まだ数秒間は、あの昨日までの靴づくりは自分の悪夢ではなかったかと、目まいがして心もとなかった。彼の眼は彼の前に、いつもと同じ服を着ていつもと同じ様子の、いつものように仕事をしている友人を毎日見せてくれたではないか。それに、彼の目がとどく範囲に、彼がそれほど強い印象を受けた変化が本当に起こったという形跡がなにかあるのか。
だがそれは最初の混乱と驚愕から起こった問いにすぎず、その答えは明白であった。もしもその印象が、本当にそれに対応する充分な原因によって与えられたものでないならば、どうして彼ジャーヴィス・ローリーはそこへ来たのか。どうして彼はマネット医師の診察室の長椅子で着たまま寝込んでしまい、朝早くから医師の寝室の扉の外でこんな議論をしているのか。
二、三分もたたないうちに、プロス嬢が彼の傍でささやきかけた。もし、彼にまだ疑いが少しでも残っていたとすれば、プロス嬢の話で当然晴れてしまっただろう。だが彼は、そのときまでにすっきりしていて、何の疑いももっていなかったのである。彼は、いつもの朝食の時間までそのままにしておいて、その時間になったら、何も変わったことがなかったように医師に会った方がいいと忠告した。もし彼がいつものような精神状態なら、そのときこそローリー氏は、心配していた最中にあんなに望んでいたとおり、専門家から指図と指導を、用心深く求めるところまでいってみようと思っていた。
プロス嬢は彼の判断に従ったので、その計画は慎重にすすめられた。ローリー氏はいつものようにきちんと身支度をする時間がたっぷりあったので、朝食の時間には、いつもの白いリンネルのシャツを着て、いつもの小ざっぱりとした足をしてあらわれた。医師はいつものように呼ばれて朝食をとりにきた。
かねてローリー氏は、気づかいながらしだいに近づいて行くのが唯一の安全な進み方だと思っていたが、そこをふみ越えずに理解し得たかぎりでは、最初彼は娘の結婚式は昨日だったと思っている様子であった。それでローリー氏が、なにかのついでにわざと、今日は何曜日で何日だと言うと、彼は考え込んで勘定をし、不安な様子を見せた。しかし、その他の点では、彼はすっかり落ち着いてもとのままだったので、ローリー氏はかねてから求めていた助言を得ようと決心した。しかも、その助言というのは、マネット医師自身の助言であった。
そこで、朝食がすんで、片づけられ、彼と医師だけになったとき、ローリー氏はしみじみと言った。
「マネットさん、わたしが深い関心をもっているある非常に珍しい病気のことで、内々でご意見を承《うけたまわ》りたいのですがね。つまり、わたしには非常に珍しく思われるのですが、おそらく、あなたはわたしよりもよく知っておられるから、それほど珍しくないかもしれませんが」
医師は最近の仕事で色が変わった手をちらと見て、心配そうな顔をした。そして注意深く耳を傾けた。彼はすでに一度ならず自分の手を見ていたのであった。
「マネット先生」ローリー氏は彼の腕にやさしく触れて言った。「その病気というのは、私にとって特に大切な友人の病気なんですよ。どうかそれを心にかけてくだすって、友人のために――なによりも彼の娘のために――彼の娘のためにね、マネットさん――私によく注意していただきたいのです」
「とおっしゃるのは」と医師が低い声で言った。「なにか精神的な衝撃ででも」
「そうなんですよ」
「はっきり言ってください」と医師が言った。「細かいこともかくさずに言ってください」
ローリー氏は二人が互に了解し合っていることが分った。それで話をつづけた。
「マネットさん、それは愛情に、感情に、――あなたがおっしゃるように――精神に、非常に激烈な衝撃を、むかし長期にわたってうけたために起こった病気なのです。精神にです。それは患者を長い間苦しめた衝撃からきた病気なのです。それがどれくらい長い期間であったか、誰にも分りません。患者自身はその時をはかることはできないにきまっていますし、それかといって、そのほかには知る方法がないのですから。患者は自分でもたどることができない経過を経て――それについて私は、かつて彼が公《おおやけ》の場所で印象的にその話をするのを聞きましたが――その衝撃がもとになって病気から回復したのです。彼はその病気から完全に立ち直って、今ではきわめて知的な人物で、綿密な頭脳労働もできれば、肉体的な力も大いに発揮できるし、すでに非常に膨大である知識の貯えにたえず新しいものをつけ加えて行くこともできるのです。しかし、不幸にして、ここのところ」――彼は話すのをやめて深い息を吸い込んだ――「軽い再発があったのです」
医師は低い声で尋ねた。「どれくらいつづきましたか」
「九昼夜でした」
「どんな徴候がありましたか。わたしの想像では」と、また手をちらと見て、「その衝撃と関係のあるなにか昔の仕事をまたやり始めたのですか」
「その通りなのです」
「それでは、あなたは彼がもとその仕事をしていたときに彼を見たことがありますか」医師は同じ低い声であったが、はっきりと、落ち着いて尋ねた。
「一度あります」
「では、彼が再発したとき、彼はほとんどの点で――それとも、すべての点で――そのときと同じでしたか」
「わたしはすべての点で同じだったと思います」
「あなたはその人の娘の話をしましたね。その人の娘は再発のことを知っていますか」
「いや、娘には知らせてなかったのです。私は、いつでも娘には知らせたくないと思っております。それは私ともう一人信用してもよい人が知っているだけです」
医師は彼の手を握って呟《つぶや》いた。「それはたいへん親切でした。それはたいへん思いやりある処置でした」ローリー氏は手を握りかえした。そしてしばらくはどちらも、ものを言わなかった。
「ところで、マネットさん」とうとう、ローリー氏はいつものきわめて思慮深い、愛情のこもった調子で言った。「わたしはただの事務家ですから、そういうこみ入ったむずかしい問題をうまく処理するのにむきません。わたしはそれに必要な知識を持ち合わせていません。わたしはその方面の知恵を持ち合わせていないのです。わたしは指導をしていただきたいのです。その正しい指導を得るために、わたしはこの世であなたほど頼りにできる人は、ほかにはないのです。この再発がどうして起こるのか、どうか教えてください。またそういうことが起こるおそれがありますか。そういうことが繰り返されないようにすることができますか。もし繰り返された場合に、どんな処置をとればいいのでしょうか。どうして繰り返して起こるのでしょうか。私は友人のためにどうしたらいいのでしょうか。それが分っていたら、私は誰にもひけをとらぬほど、友人のためにつくしたいと考えているのです。ですが、私はそういう場合に、どこから始めていいか分らないのです。もしあなたの叡知《えいち》と知識と経験が私を正しい軌道に乗せてくださったら、私はいろいろのことができるのですが。啓発もされず、指導もされずにいましたら、私にできることはほとんどなにもありません。どうか、相談にのっていただきたいのです。どうか、私がもう少しはっきりとその問題が分るようにしていただきたいのです。そして、どうすれば、もう少し友人の役に立てるか、教えていただきたいのです」
マネット医師はこの熱心な言葉が語られた後、じっと考え込んでいた。そしてローリー氏も彼に無理に返事を強いようとはしなかった。
「わたしの想像では」と、医師は努めて沈黙を破って言った。「あなたがおっしゃった再発は、その患者にまったく予知されなかったことではないようですね」
「患者はそれを恐れていたのですか」ローリー氏は思いきって尋ねた。
「非常に」彼は思わず身ぶるいをして言った。「そういった不安が患者の精神をどれほど苦しめるものか、また、患者にとって、自分を圧迫している問題に一言でも触れなければならないということが、どれほどむずかしいか――ほとんど不可能なのですが――それはあなたにはお分りにならないのです」
「もし患者がひそかに考えていることを思いきって誰かに話せたら、かなり気がらくになるのではないでしょうか」
「わたしもそう思います。しかし、いまお話ししたように、それは不可能に近いのです。まったく不可能だと――ある場合には――信じているくらいです」
「ところで」二人はしばらく黙っていたが、やがてローリー氏は医師の腕にやさしく手をかけて言った。「今度の発病は、なんのためだとお考えになりますか」
「わたしはその病気の最初の原因であった一連の思いと記憶が強い激しい勢いでよみがえったからだと信じます。きわめて悲惨な、強烈な連想がまざまざとよび起こされたからだと、わたしは思います。おそらく、長い間、その連想がよび起こされるだろう――たとえばある事情で――たとえば、ある特殊な場合に――という恐怖が彼の心にひそんでいたのだろうと思います。彼はそれにそなえようと、いたずらにつとめたのです。おそらく、それにそなえようとした努力が、かえってそれに耐える力を弱めたのでしょう」
「病気が再発したときにどんなことがあったか、患者は記憶しているでしょうか」ローリー氏は当然ためらいながら尋ねた。
医師は悄然《しょうぜん》と部屋を見まわして、首を振って低い声で答えた。「何も記憶していません」
「では、これから先のことですが」ローリー氏がそれとなく言った。
「これから先のことでしたら」と医師はふたたび力強い態度になって言った。「わたしは大いに希望がもてると思います。その患者は神の情によってそんなに早く回復したのですから、大いに希望がもてると思います。患者は、長い間恐れ、長い間ばくぜんと予知しながら戦いつづけてきたある複雑な何物かの重圧に屈しましたが、その雲が破れて、通り過ぎて、彼は回復したのですから、最悪の事態は過ぎたのだと思います」
「なるほど、なるほど。それで安心しました。感謝しますよ」とローリー氏が言った。
「わたしも感謝しますよ」医師はうやうやしく頭を下げて繰り返した。
「まだ教えていただきたいことが二つあるのですがね」とローリー氏が言った。「申し上げていいでしょうか」
「よろこんで承りましょう」と医師は手を差し出した。
「では、まず第一に。その人は研究が好きで、人並み以上に熱心なのです。非常な熱心さで専門の知識を吸収し、実験を行ない、いろいろなことをやっているのです。そこでですが、彼は働きすぎるでしょうか」
「そうは思いませんね。いつも異常に仕事をしたがるのは、彼の精神の特徴だろうと思います。部分的には、彼の性質で、部分的には、苦悩の結果なのです。健康なものが心を占める率が少なければ少ないほど、心はますます不健康な方向へそれる危険が多いわけです。彼は自分自身を観察して、そのことを発見したのだと思います」
「本当に彼は緊張しすぎてはいないでしょうか」
「その点は大丈夫だと思います」
「マネットさん、もし彼がいま働き過ぎているのだとしますと――」
「ローリーさん、そういうことが簡単にあり得るかどうか、疑問ですね。一方には激しい圧迫があるのですから、釣り合いが必要になりますよ」
「お許し願います、強情な事務家なものですから。ほんのしばらく、彼が働きすぎると仮定しますと、その結果、この病気が再発しないでしょうか」
「そうは考えません」マネット医師は自信のほどを見せて、きっぱりと言った。「その一連の連想以外のものが、再発の原因になるだろうとは考えません。これからも、なにかがその弦を猛烈に震動させることがなかったら、病気が再発することはありませんよ。そういうことが起こって、彼が回復したのですから、またその弦が激しくゆすぶられるとは、ちょっと考えられません。わたしはそれが繰り返されそうな事情はもうなくなってしまったのだと思っていますし、信じてもいるくらいです」
彼は、きわめてささいなことが微妙な精神の組織を混乱させるものであるかを知っている人の自信のなさと、自分ひとりの忍耐と困苦を通して徐々に確信を得た人の信念をもって語った。その信念に水を差すことは友人のすべきことではなかった。ローリー氏は、実際以上に、安心したし、はげまされもした、と言った。そして二つめの最後の点に近づいた。彼はそのことがすべての中でもっともむずかしいと感じていた。けれども、いつか日曜日の朝、プロス嬢と話し合ったことを思いだし、最近九日間に見たことを思いだして、どうしてもそのことに直面しなければならないということが分っていたのだ。
「幸いに回復しましたけれども、この一時的な病気のせいで彼がまたやりだした仕事というのは」ローリー氏は咳払いをして言った。「鍛冶屋の仕事、鍛冶屋の仕事ということにしておきましょう。一例を挙げて、例えて言うために、彼が不幸な時期に小さなふいごで仕事をしていた、ということにしておきましょう。彼がまたふいごで仕事をしているのが不意に発見された、ということにしましょう。彼がふいごをそばにおいておくということは、遺憾なことではないでしょうか」
医師は額に手をかざして、神経質に足で床を打った。
「彼はいつもそれをそばにおいておくのです」とローリー氏は心配そうな眼で友を見ながら言った。「でも、あれはやめた方がよくはないでしょうか」
まだ医師は額に手をかざしたままで、神経質に足で床を打っていた。
「忠告してくださるのは容易ではないとお考えのようですね」とローリー氏が言った。「むずかしい問題だということはよく分ります。しかし、わたしの考えでは――」彼はそこで首を振って話をやめた。
「お分りでしょうが」マネット医師は落ち着かない様子でためらっていたが、彼の方を向いて言った。「この気の毒な男の精神の一番奥底の作用を、筋を通して説明するのは非常にむずかしいのです。彼は以前にその仕事をおそろしく求めて、それがあたえられたときには非常に喜んだのでした。それは、もちろん、指にたいする困惑を頭脳の困惑に替え、彼がもっと熟練したときには、手の巧みさを精神的に苦しむ巧みさに替えることによって彼の苦痛を非常にやわらげたのですから、彼はそれを自分の手のとどかないところにやってしまおうなどとは、とうてい考えることができなかったのです。いま彼は、かつてないほど自分に希望をもっているとわたしは信じていますし、また彼自身も自分のことをある種の信念をもって語ることさえしているようですが、今でさえ、彼がその昔の仕事が必要となったときに、それを発見できないのだと考えると、彼は、たとえば、迷子の子供の心を刺すような不意の恐怖におそわれるのです」
彼が眼を上げてローリー氏の顔を見たとき、彼は自分のたとえのように見えた。
「しかし――お忘れになりませんように。私は金貨や銀貨の銀行券のようなものばかり扱っております根気のいい事務家で、参考になることをうかがっているのですから――そういう品物を保存しておくということは、そういう考えも保存しておくことにならないでしょうか。もしその品物がなくなってしまえばですね、マネットさん、その恐怖もいっしょに消えてしまわないでしょうか。つまり、そのふいごをおいておくということはその不安に譲歩することではないのですか」
またしばらく沈黙がつづいた。
「これもお分りでしょうが」医師はふるえながら言った。「それは昔の仲間ですからねえ」
「私でしたら、とっておきませんね」ローリー氏は首をふりながら言った。彼は医師が動揺しているのを見て、ますます心がきまったからであった。「私でしたら、彼にそれを犠牲にしろとすすめるでしょう。私はただあなたの許可がほしいのですよ。たしかにそんなものは何の役にも立ちませんよ。さあ、あなたはりっぱな方なのですから、どうか、許可をあたえてください。彼の娘のためですよ、マネットさん」
彼の心の中にどんな戦いがあったか、それが分ったら、さぞふしぎなものだったであろう。
「それでは、娘の名において、そうしてください、わたしはそれを認めます。ですが、わたしなら、本人がいるところでは、それを持ち出しますまい。本人がそこにいないときに、それをとり除けていただきたいのです。そのあとで、本人に昔の仲間がいなくて寂しい思いをするようにとりはからっていただきたいのです」
ローリー氏はよろこんでそうすると約束した。そして話し合いが終ったのである。彼らはその日を田舎で過ごし、医師はすっかり元気をとり戻した。それから三日の間は、彼はまったく調子がよかった。そして十四日目にマネット医師はルーシーと彼女の夫に会うために出かけた。なぜ彼が手紙を書かなかったかということを説明するためにとった予防策は、ローリー氏が前もって彼に説明してあったし、彼もその通りにルーシーへ手紙を出しておいたので、彼女は何も疑わなかった。
彼が出発した日の夜、ローリー氏は斧と鋸《のこぎり》とのみと槌《つち》をもち、燈火をもったプロス嬢につきそわれて彼の部屋に入って行った。そこで、扉をしめきって、不可解な、なんとなくやましい恰好《かっこう》で、ローリー氏は靴づくりの腰掛をめちゃめちゃにたたき切った。そしてその間、プロス嬢はまるで人殺しの手伝いでもしているように蝋燭を持っていた――まったく、彼女の恐ろしい形相では、それに不似合いでは決してなかったのである。その物体の焼却はさっそく台所の炉の中で始まった。そして道具と靴と皮は庭に埋められた。この正直な人々にはこの破壊と秘密が非常に悪いことに思われたので、ローリー氏とプロス嬢はその行為の遂行とそのこん跡の除去にあたっている間、まるで凶悪な犯罪の共犯者のような気持だったし、またそれらしく見えたのであった。
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第二十章 一つの願い
新婚の夫婦が帰宅したとき、最初に祝詞《しゅくし》を述べにあらわれたのはシドニー・カートンであった。彼らが家に帰って幾時間もたたないうちに、彼が姿をあらわしたのであった。彼はいつもの習癖にも風貌にも行儀作法にもべつに改まったところはなかったが、彼の身辺にはどことなく誠実なきびしい様子がただよっていて、それがチャールズ・ダーネーの目には珍しくうつった。
彼は誰にももれ聞かれないときに、機に乗じてダーネーを窓の席につれだして話しかけた。
「ダーネー君」とカートンが言った。「僕は君と友だちになりたいんだがね」
「われわれはもう友だちじゃないか」
「君はそう言ってくれるが、辞令としてね。しかし、僕は辞令のことを言ってるんじゃないんだ。本当のところ、僕が友だちになりたいというのは、そういうことじゃないんだ」
チャールズ・ダーネーは――当然のことだが――きげんよく、また腹蔵なく、それじゃどういうことなのかと尋ねた。
「誓って言うがね」とカートンは微笑しながら言った。「僕としては、それを君に伝えるよりも自分の心の中で理解する方がたやすいのだ。だが、ためしに言ってみよう。君は、僕が酔っていた――いつもよりもっと――あのすばらしい時のことを覚えているね」
「君が僕に、君が飲んでいたのだとむりに言わせたあのすばらしい時のことなら覚えているよ」
「僕もおぼえている。ああした場合の呪いが僕に重くのしかかっているんだ。というのは、僕はいつでもそういう時のことを覚えているからなんだ。僕はいつか僕の生涯の終りの日に、それが勘定に入れてもらえるといいと思っている。おどろかないでくれ給え。僕は説教するつもりじゃないのだからね」
「ちっともおどろいちゃいませんよ。君がまじめになったからって、僕がおどろくことはぜったいにないもの」
「ああ」カートンはまるでその言葉を追い払うようにむとんちゃくに手を振って言った。「いま言った僕が酔っぱらってた時に(君も知ってるように、そんなことはしょっちゅうなんだが)僕は君を好くなんてことは我慢がならなくて、君が好きではなかったんだ。あのときのことは君に忘れてもらいたいのだよ」
「僕はずっと前に忘れてしまいましたよ」
「また辞令か。だがね、ダーネー君。忘れるということは君が言うほど僕にはたやすいことじゃないんだ。僕は決してあの時のことを忘れてはいないし、軽い返事を聞いても忘れる手助けにはならないね」
「もしそれが軽い返事だとしたら」とダーネーが答えた。「どうか許してくれ給え。僕はただ、思いがけなく君をひどく苦しめているらしいささいな事をそらしてしまいたいと思っただけなんだ。僕は誓って言うが、そのことはむかしに忘れてしまった。それになによりも、あの日ほど大きな助けを君からもらったことはない。こちらのほうがはるかに大事な記憶すべきことじゃないだろうか」
「その大きな助けというやつなら」とカートンが言った。「君がそんなふうに言うなら白状しなければならないが、あれはただの職務上の人気取りだったんだ。僕がああいうことをしたとき、君がどうなるか考えていたかどうか、分らないね。――よく聞き給え、僕がああいうことをしたときにはね」
「君はあの恩義を軽く見ていますよ」とダーネーは答えた。「しかし僕は君の軽い返事と争うことはよそう」
「本当のことだよ、ダーネー君、僕を信じてくれ給え。目的からそれてしまった。僕はわれわれが友だちになることについて話をしていたんだよ。そこでだ、君は僕を知っている。君は僕がもっとすぐれた人間になることも、もっと高く飛躍することもできないということを知っている。もし疑うなら、ストライヴァーにきき給え。あいつがそう言うだろう」
「僕はあの人の助けを借りずに自分の考えをまとめた方がいいですね」
「なるほど、とにかく君は、僕が何ひとついい事はしたことがないし、これからもする見込みのない自堕落な奴だということを知っている」
「僕は君が『見込みがない』ということは知りませんよ」
「だが僕は知っている。だから君はその代りに僕の言うことを信じなくちゃいけない。さて、もし、こんなつまらない男が、こんな評判の芳《かんば》しくない男が折にふれて出入りするのをがまんしていただけるなら、ここで特権をあたえられている人間として出入りを許していただきたい。また、むかし役に立ったから置いてあるが、今は少しもかえり見られない、むだな、(もし僕が発見したように、君と僕が似ていなかったら、こうつけ加えたいのだが)見ぐるしい、一個の家具と見なしていただきたい。僕がその許可を濫用することがあろうとは思われない。一年に四度それを利用することは、まずないと思う。おそらく、その許しを得ているということが満足なのだろうと思う」
「じゃあ、ためしにそうやってみますか」
「それは僕がいま言った立場におかれるということを言い替えたのだね。ありがとう、ダーネー。君の名前で、その自由を行使してもいいのだね」
「今のところは、そう思ってますよ、カートン」
彼らはそのことで握手をして、シドニーはくるりと向きなおって出て行った。一分の後には、彼は、どこから見ても、いつもの通りのたよりない人間であった。
彼が帰ってしまい、夕方、プロス嬢と医師とローリー氏といっしょにいたとき、チャールズ・ダーネーは漠然とこの話し合いのことにふれて、シドニー・カートンのことを軽率な、無謀な、不可解な男だと言って話した。つまり、彼のことを悪く言ったり、非難したりしたわけではなく、彼の外見を見た人なら誰でもそう言うだろうと思われることを言っただけだった。
彼はこのことが美しい若い妻の心に残っていようとは夢にも考えなかった。だが、後で、彼らの部屋で妻といっしょになったとき、妻がいちじるしい特徴のある額を前と同じに可愛らしく上げて自分を待っているのを見た。
「今夜は考えこんでいるんだね」ダーネーは彼女を抱えながら言った。
「ええ、だいじなチャールズ」両手を彼の胸にあて、じっともの問いたげに彼を見ながら「今夜はなんだか考えていたいのですわ。心に思っていることがあるのですもの」
「どうしたの、ルーシー」
「私がおききにならないでとお願いしたら、一つだけ、けっしてむりにきかないと約束してくださる」
「僕が約束するって。僕がお前に約束しないことって、あるかい」
片手で金髪を頬からとりのけ、片手を自分のために鼓動している心臓にあてている彼が、約束しないことなど、あるはずがないのだ。
「ねえ、チャールズ、カートンさんはあなたが今夜おっしゃったよりも、もっと思いやりと尊敬に価する方だと思いますわ」
「そうかねえ。なぜそうなんだね」
「おききになってはいけないのは、そのことなんですの。でも、私が思いますのに――私には分っているのですけれど――あの方はそういう方なのですわ」
「お前に分っているなら、それでいいよ。それで僕にどうしてほしいのだね」
「あの方にはいつでも寛大にしてあげていただきたいの。あの方がそばにいらっしゃらない時でも、あの方の欠点を大目に見ていただきたいの。あの方は、ごくごくまれにしか人に見せないお心をもっていらして、それには深いきずがあるということを信じていただきたいの。ねえ、あなた、私はそれが血を流しているのを、見たことがありますのよ」
「僕があの人になにか悪いことをしたのだと思うと、つらくなるね」チャールズ・ダーネーはすっかり驚いて言った。「僕はそんなことを考えたこともなかったんだよ」
「あなた、そういうわけなんですのよ。あの方はもうとりかえしがつかないのではないかしら。あの方の性格でも、ご運でも、今となっては、ほとんど償える望みがないのですわ。ですけれど私は、あの方はなにかよい事が、やさしい事が、いえ偉大なことだっておできになると確信しておりますの」
この見込みのない男に対して清らかな信頼を寄せているルーシーは実に美しく見えたので、夫はそのままの妻を何時間でも見ていられたらと思ったくらいであった。
「それに、ねえ、だいじなあなた」彼女はもっとぴったりと彼に身を寄せて、彼の胸に頭を当て、彼の眼を見上げながら、強く言った。「私たちが幸福でいてどんなに強いか、それなのに、あの方は不幸でいてどんなに弱いか、おぼえていらしてください」
この願いは彼を深く感動させた。「僕はいつでもおぼえているよ。僕は生きている限りはおぼえているよ」
彼は金髪の上に屈んでばら色の唇を彼の唇にあてて彼女を抱きしめた。もし、このとき、暗い街から街へと歩いていたひとりのわびしい放浪者が彼女の無邪気な内緒話を聞き、夫への愛をたたえたやさしい青い眼から夫の接吻によって払いのけられた憐れみの涙を見ることができたならば、彼は夜に向かってこう叫んだかもしれない――そしてその言葉はこのとき初めて彼の唇からでたものではなかったであろう――
「あのひとのやさしい憐れみにたいし、神の祝福があのひとの上にあらんことを!」
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第二十一章 反響する足音
すでに述べたように、医師が住んでいたその一隅は、ふしぎなほどよく反響する場所であった。ルーシーは静かな幸福な生活のなかで、夫と、父親と、自分自身と、それと昔から自分の世話役であり友だちであった女を結びつける黄金の糸をいつも忙しく巻きながら、よく反響する落ち着いた一隅の静かな家の中に坐って、反響する足音にきき入っていた。いつのまにか何年かが過ぎ去っていた。
初めのころ、彼女はどこからみても仕合わせな若妻であったけれども、仕事がいつのまにか手から落ちて眼がくもるときが時々あった。それは、なにか軽い、遠くはなれているけれども、やっと聞こえるなにものかが近づいて来る音が反響して、彼女の心をひどくかき乱したからであった。胸がふるえるような希望と疑い――彼女がまだ知らない愛にたいする希望とその新しい歓びを得るまでこの世にとどまっていられるだろうかという疑い――が彼女の胸を二つに分けていた。そのときの反響のなかには、若くして葬られた彼女の墓に詣でる足音が入り混じり、ひとりさびしくとり残されて、妻をはげしくいたむ夫への思いが波のように眼の前にもり上がってきて、くだけるのであった。
その時期が過ぎて、彼女の胸には小さなルーシーが抱かれていた。そうすると、近づいて来る反響のなかに、子供の小さな足音と片言をしゃべる声が入るようになった。それより大きな響きがいくら反響して来ようとも、揺籃《ゆりかご》のそばの若い母には、その響きの近づいて来るのがいつでも聞こえた。とうとうそれがやって来て、樹蔭の家は子供の笑い声で明るくなった。そして、彼女が苦しいときにその苦しみを打ち明けた子供たちの聖なる友(キリストのこと)は、むかしかの幼な子を抱き給うたように彼女の子供をその手に抱き給うて、その子を彼女の聖《きよ》きよろこびとなし給うたのであった。
彼らを結び合わせる黄金の糸をいつも忙しく巻き、皆を幸福にするという奉仕を彼らの生活の薄絹のなかに織り込みながらもそれを目立たせないようにして、ルーシーは幾年にもわたる反響の中に親しいいたわりの響きのみを聞いていたのであった。夫の足音は力強く、明るく、父親の足音は堅実で、むらがなかった。見よ、かわいいルーシーのために、ひもでからだを縛られたプロス嬢が、あばれ馬のように笞で打たれ、鼻を鳴らし、庭のすずかけの樹の下で土を蹴って反響させているではないか。
時にはそのほかに悲しみの響きが混じることもあったが、そんなときでも、それは耳ざわりな響きでもなければ冷酷な音でもなかった。彼女にそっくりの金髪が枕の上の小さな男の子のやつれた顔を光の輪のようにとりまいていて、子供が輝くような微笑をうかべて「お父さま、お母さま、ぼくはお父さまもお母さまもおいて行かなくちゃならないの。きれいなお姉さまもおいて行かなくちゃならないの。でも、ぼくは呼ばれたから、行かなくちゃならないの」彼女の手にゆだねられていた霊がそこから去って行ったとき、この若い母の頬を濡らしたのは、必ずしも苦痛の涙ばかりではなかった。幼な子らをそのままになさしめよ。彼らがわれに来《きた》るのをとどむるなかれ。彼らはわが父のみ顔を仰ぐことを得ればなり。おお、父なる神よ、ありがたきみ言葉よ!
かくして、天使の翼のひそやかな音が他の反響に混じって聞こえてきた。それは完全にこの世の音ではなく、その中に天の息吹きが聞きとれた。小さな、花でおおわれた墓の上を吹き通る風の音にもその反響が混じっていた。そして小さなルーシーが、朝の仕事や、母の足もとで人形に着物をきせるのにおかしいほど夢中になりながら、その生命に混じっている二つの都の言葉でおしゃべりをしているとき、ルーシーの耳にはその両方がしずかな呟《つぶや》く声のように――砂浜に眠る夏の海の息使いのように――聞こえて来るのであった。
この反響がシドニー・カートンの本当の足音にこたえることは、めったになかった。彼は、多くても一年に六回ほど、招かれなくても訪ねて来てもいい特権を主張して、昔よくやったように、彼らの間に坐っていっしょに宵を過ごすのであった。彼は酒に酔ってそこへ来ることは決してなかった。また、彼女についてもうひとつのことが反響の中でささやかれていた。それは長い長いあいだ、すべての真実な反響によってささやかれてきたものであった。
一人の男が一人の女を愛して、その女を失い、その女が妻となり母となっても、やましくない変わらぬ心でその女とつきあっていると、きっとその女の子供はその男に奇妙な憐れみを抱くものである――本能的ないたわりとでもいおうか。そんな場合に、どんな微妙な隠れた感情が感じとられるのか。反響は何も教えてくれない、しかしそれはその通りなのであって、この場合も、その通りであったのだ。小さなルーシーがまるまるとふとった手をさしだしたのは、よその人ではカートンが初めてであった。そして子供が成長しても、子供にたいする彼の立場は変わらなかった。あの小さな男の子はほとんど息を引き取るまぎわにカートンのことを言った。
「かわいそうなカートン。僕のためにあの人に接吻してあげてね!」
ストライヴァー氏は濁流をかきわけて前進して行く大きな汽船か何かのように法律の世界を肩で人を押し分けながら突き進んでいた。そして船尾につけた引き舟のように有益な友人を自分の後から引っぱって行った。そんなありがたい扱いをうけた舟は、たいていひどい目にあって、大方、水につかっているものだが、シドニーの生活も、舟と同じように水浸しになっていた。しかし、不幸にして、彼としては安易な強い習慣の方が功績とか恥辱とかの刺激的な意識よりもずっと容易で強かったから、彼はその生活を自分の生活としていた。そして本当のやまいぬがライオンになり上がろうとは思っていないと想像されているように、彼もライオンのやまいぬの状態から脱け出そうとは考えなかった。ストライヴァーは金持ちであった。そして財産と息子が三人ある派手な寡婦と結婚した。その息子たちは、蒸し団子のような形をした頭にまっすぐな髪の毛が生えているほかは、特別目立つことは何もなかった。
ストライヴァー氏は無礼きわまる恩人意識をあらゆる毛孔から発散させながら、この三人の若い紳士を三匹の羊のようにソホーの静かな一隅に歩かせて行って、例のごとく上品に「やあ、君たち夫婦のピクニック用にチーズつきパンを三つ持って来ましたよ、ダーネー君」と言いながら、ルーシーの夫に生徒にしてくれと言って差し出した。彼がこの三個のチーズつきパンを丁重にことわると、ストライヴァー氏はすっかり憤慨した。そして、のちに、この若い紳士たちを仕込むときにそのことを利用して、あの家庭教師の奴のように乞食の自尊心をもたぬように気をつけろと教えた。彼はまた、こくのあるワインを飲みながら、ストライヴァー夫人にむかって、かつてダーネー夫人が彼を「ものにしよう」として手練手管《てれんてくだ》を用いたこと、それにたいして、彼もそれに劣らぬ手管を弄《ろう》して、「ものにされずに」すんだことを一席弁じるのがならわしであった。時折、こくのあるワインと嘘の相手をした高等法院の親しい仲間は、彼はしょっちゅうその話をするものだから、自分でも本当だと思い込んでしまったのだと言って、彼の弁解をした。
いままで述べたような反響は、幼い娘が六歳になるまでに、ルーシーが、時には憂いに沈み、時には楽しく笑いながら、このよく響く一隅で耳を傾けていた反響にまじって聞こえてきたのであった。子供の足音の反響がどんなに身近かに感じられたか、また、いつも活動的で沈着な愛する父親の足音や愛する夫の足音の反響がどんなに身近かに感じられたかは言うまでもない。また、ルーシーが賢明に、気品をもって節約するので、彼女の支配する家庭はどんな浪費よりも豊かであったが、そのみんなの家庭のもっとも軽やかな反響は彼女にとっては音楽であったことも、言うまでもないことだ。また、そのほかにも彼女の周囲にはこころよい反響がいくつもあったことは、言うまでもない。父親は幾度となく、ルーシーはひとりだった時よりも結婚してからの方がもっと自分につくしてくれる(もしそういうことがありうるとすれば)と言い、夫は、ルーシーがどれほど父の世話をしようが、孝行をつくそうが、自分にたいする愛や自分への助力を分けているようには思われないと言い、「われわれは皆、まるでこの家に自分一人しかいないように、お前をひとり占めにしている。しかもお前は決してせわしそうにも、仕事が多すぎるようにも見えない。その魔法の秘密はなんだね」と尋ねるのであった。
だが、その間もずっと、この一隅におびやかすように轟いていた遠方からの反響があった。小さなルーシーの六度目の誕生日のころ、いまやその反響は、フランスにおける怒濤《どとう》の荒れ狂う一大暴風雨のような恐ろしい響きをたててとどろきはじめたのである。
一七八九年七月中旬のある夜、遅くになってローリー氏がテルソン銀行からやって来て、暗い窓のところにルーシーと夫と並んで腰をおろした。それは暑い、あらしの夜で、三人はみな、その同じ場所から稲妻を眺めたいつかの日曜日の夜を思い出していた。
「わたしも今夜はテルソンに泊りこまなければなるまいと考えだしたのですよ」ローリー氏は茶色のかつらを後ろに押しながら言った。「まったく一日じゅう仕事がいっぱいでしてね、何からやっていいやら、どちらを向いていいやら、分らないくらいですよ。パリで不安があるので、われわれのところにものすごく信託が殺到しましてね。あちらのお得意様はいくら急いで財産をわれわれに預けても急ぎ足りない様子なのですよ。なかには、イギリスへ財産を送ることに血道をあげている人たちがたしかにいるのですよ」
「それは険悪な事態ですね」とダーネーが言った。
「険悪な事態だとおっしゃるのですか、ダーネー君。その通りです。しかしどうしてそういうことになるのか、われわれには分りません。まったくわけの分らない人たちですよ。テルソンにはだんだん年をとる人もいますからね、しかるべき理由がなくていつものやり方の邪魔をされるのは、まったくやりきれませんよ」
「そうおっしゃっても」とダーネーが言った。「空がどんなに暗く、険悪か、ご存じですね」
「たしかにそれは知っていますよ」ローリー氏はやさしい気性が気むずかしくなって、愚痴をこぼしたのだと自分に思いこませようとしながら承認した。「ですがね、今日は一日じゅう煩わしい思いをしたのですから、気むずかしくなることにきめましたよ。マネットさんはどこにいますか」
「ここにいますよ」ちょうどそのとき医師が暗い部屋に入ってきて言った。
「あなたがご在宅で本当にうれしいですよ。一日じゅうこんな騒ぎや予報にとりまかれていたものですから、わたしはわけもなく気が立ってしまいましたよ。お出かけではないでしょうな」
「いや、よろしかったら、一番バックギャモンをしたいと思っているんですよ」と医師が言った。
「本当のところあまり気がむきませんね。今夜はあなたと戦いを交える気分にはなれませんよ。ルーシー、あのお盆はまだそこにありますか。見えませんがね」
「もちろん、あなたのためにおいてありますわ」
「ありがとう。だいじなお子さんは無事に寝ていますか」
「ぐっすり眠っていますわ」
「それは結構、なにもかも無事で健康で。ここでは、ありがたいことに、なんでも無事で健康にきまっていますよ。ですがね、わたしは一日じゅうひどく機嫌がわるかったのですよ。それにわたしも昔ほど若くないのですからね。お茶をください、ルーシー。ありがとう。さあ、ここに来て、まるくお坐りなさい。みんなで静かに坐って、あなたが独特の意見を持っておられるあの反響を聞きましょう」
「意見ではありません。空想でしたのよ」
「では、空想をね、おりこうさん」ローリー氏は彼女の手を軽くたたきながら言った。
「しかし、あれはずいぶんいろいろで、それに非常に大きく響くじゃありませんか。ちょっと聞いてごらんなさい」
彼らがロンドンの窓辺で小さな円形に坐っていたとき、遠く離れたサン・タントワヌでは、何びとの生活の中にでも踏み込んでくる、ただ一途に血迷った危険な足音が、一度血に汚されたら容易にはもとのようにきれいにならない足音が、荒れ狂っていたのであった。
その朝、サン・タントワヌはあちこちにうねる案山子《かかし》たちの薄黒い巨大な塊と化していて、太陽に輝く鋼鉄の刃と銃剣が大波のような頭の上で頻繁にきらきら光っていた。すさまじい怒号がサン・タントワヌの喉から湧きおこって、むきだしの腕の林が寒風の中のしなびた樹の枝のようにもがき、指という指は下の深みからほうり上げられたあらゆる武器に、武器の形をしたものに、どれほど遠くても発作的につかみかかるのであった。
その武器は、誰がくばったのか、どこから最後に来たのか、どこから始まったのか、どんな媒介を経て一時に何十というものが群衆の頭の上を、まるで稲妻のように曲線をえがいてふるえたり、ひょいと飛んだりするのか、群衆の中の者も誰ひとり知らなかった。だが、小銃は分配された――そして弾薬筒も、弾薬も、弾丸も、鉄や木の棒も、小刀も、斧《おの》も、矛《ほこ》も、血迷った創意が発見したり工夫したりしたありとあらゆる武器が分配された。何もつかめなかった人々は手から血を流しながら壁の石をむりやりに引き抜きにかかった。サン・タントワヌのあらゆる脈搏と心臓は高熱に緊張し、高熱にうかされていた。そこに住むあらゆる生きものは生命をとるに足らぬものとして、熱狂してよろこんでそれを犠牲にしようと血迷っていた。
煮えたぎる湯の渦には中心点があるように、この荒れ狂う群衆はドファルジュの酒店をとり巻いていた。そしてその大釜の中のあらゆる人間の滴《しずく》は、すでに弾薬と汗にまみれたドファルジュその人が、命令を出し、武器を出し、部下を後ろに引っこめたり、前に押し出したり、一人を武装させるために一人の武器をとり上げたり、労働したり、叫喚のまっただ中で奮闘したりしている渦巻きに吸い寄せられて行くのであった。
「おれのそばを離れるな、ジャーク三」とドファルジュが叫んだ。「それからジャーク一と二、お前たちは別々になって、ここにいるような愛国者をできるだけ多勢集めて、その先頭に立て。女房はどこだ」
「あれ、まあ、ここにいますよ」と細君が言った。いつものように落ち着いているが、今日は編物はしていない。細君の決然たる右手はいつものやさしい道具の代りに斧を持ち、帯にはピストルとむごい小刀が下がっていた。
「どこへ出かけるのだね、お前」
「今のところはあなたと一緒に行きます。そのうちに女たちの先頭にいるところを見せてあげますよ」
「では、行こう」ドファルジュはよく響く声で叫んだ。「愛国者の同志よ、用意はできたぞ!バスチーユへ!」
その叫びはあたかもフランスじゅうの息がその憎悪されている言葉となったかのように響き渡って、生ける海は底の底から波を重ねて湧き立ち、街に溢《あふ》れながらその地点へと向かって行った。警鐘は鳴り響き、太鼓がドンドン鳴り、海は荒れ狂いながら新しい岸にぶつかって轟き、攻撃はいよいよ開始された。
深いいくつかの濠《ほり》、二重のはね橋、がっしりした石の壁、八つの大きな塔、大砲、小銃、砲火と砲煙。その砲火をくぐり、その砲煙をくぐって――その砲火の中で、その砲煙の中で、というのは、海は彼を大砲にむかってほうり上げ、その途端に彼は砲手となったからだ――酒屋のドファルジュはすさまじい二時間もの間、勇敢な兵士のごとく働いたのであった。
深い濠が一つ、はね橋が一つ、がっしりした石の壁、八つの大きな塔、大砲、小銃、砲火と砲煙。はね橋が一つ落ちた!「頑張れ、同志たちよ、頑張れ! 頑張れ、ジャーク一、ジャーク二、ジャーク千、ジャーク二千、ジャーク二万五千、あらゆる天使か、あらゆる悪魔――どっちでも好きな方をとれ――の名において、頑張れ!」
酒屋のドファルジュはずっと前から熱くなっている大砲にまだかじりついている。
「わたしのところに集まってください。女のみなさん!」と彼の細君が叫んだ。「さあ、あそこが取れれば、わたしたちだって男と同じように殺せるんだよ!」そして、種々様々な武器をたずさえてはいるが皆同じように飢餓と復讐で武装した女たちが、するどい渇望の叫びを挙げて彼女のところに群がってきた。
大砲、小銃、砲火と砲煙。しかし、まだ、深い濠が一つ、はね橋が一本、がっしりした石の壁と八つの大きな塔。負傷者が倒れるので荒れ狂う海はすこし移動した。閃《ひら》めく武器、燃えるたいまつ、いぶる荷車いっぱいの濡れた藁、近辺一帯の防柵での困難な作業、金切り声、一斉射撃、呪い、惜しみなき勇敢さ、ぶーん、ぴしゃっ、がたん、生ける海の怒り狂う響き。しかし、依然として深い濠と、はね橋が一本と、がっしりした石の壁と、八つの大きな塔があり、酒屋のドファルジュは依然としてすさまじい四時間もの勤めに二倍に過熱した大砲にかじりついていた。
要塞の中から白い旗がかかげられて、敵との交渉に入る――これが荒れ狂う海を通してかすかに見えたが、その中では何も聞こえるはずがない――突然海は、はてしなく広く、高く高まって、酒屋のドファルジュは、下げられたはね橋を渡って、がっしりした石の外壁を過ぎ、降伏した八つの大きな塔の間へと駆け込んで行った。
彼を推し進めた大洋の力はきわめて強く、逆らうことができなかったので、彼はバスチーユの外側の中庭に着くまでは、まるで南海の大波の中でもがいているように呼吸することも頭を向けることもできなかった。そこに着いて、壁の角によりかかり、彼は身辺を見まわそうとつとめた。ジャーク三は彼のすぐそばにいたし、依然として女たちの先頭に立っているマダム・ドファルジュは内部の離れたところにいるのが見え、小刀を手に持っていた。どこもかしこも、騒ぎと、歓喜と、耳をろうするばかりの狂気沙汰と、おそるべき騒音であったが、しかし言葉は聞えないおそろしいだんまり芝居であった。
「囚人だ!」
「記録だ!」
「秘密監房だ!」
「拷問の道具だ!」
「囚人だ!」
こうしたすべての叫び声や、数限りない支離滅裂な叫び声の中でも、「囚人だ!」という声が、まるで時間や空間と同じく、人間にも無限に続くということがあり得るかのように奔流のごとく流れ込んで来る人の海から最も多くわき上がった。一番先の大波が牢屋役人をさらって、もし、まだ秘密の隠れ場所がかくしてあったら即座に殺してしまうぞとおどしつけて、引いて行ってしまうと、ドファルジュはたくましい手を一人の役人――白髪まじりの頭をした、火をつけたたいまつを手に持った男――の胸において、一人だけ引きはなし、壁と自分の間にはさんだ。
「おれを北塔に案内しろ」とドファルジュが言った。「早く!」
「忠実にご案内いたします」とその男が答えた。「私といっしょにおいでになれば。ですが、そこには誰もおりません」
「北塔百五番というのはどんな意味なんだ」とドファルジュが尋ねた。「早く答えろ」
「その意味でございますか、旦那」
「囚人のことか、それとも監房のことか、それとも、お前を打ち殺せという意味か」
「そいつを殺してしまえ」すぐそばに来ていたジャーク三がしゃがれ声で言った。
「旦那、それは独房でございます」
「それをおれに見せろ」
「では、こちらへおいでください」
いつものように何かに飢えているジャーク三は、話がそれて流血沙汰になりそうな見込みがなくなったので失望の色を見せてドファルジュの腕をとり、ドファルジュは牢番の腕をとった。このやりとりの間、三人は頭をごく近くに寄せあっていたが、それでさえ、お互にやっと聞きとれるくらいだった。要塞の中に突入して、庭や通路や階段にあふれている生ける大海の騒音はそれほどすさまじかったのである。それは要塞の外側でも、いたるところで低いしゃがれた音を轟かせて壁に打ち寄せていたが、そこから、時折、騒々しい叫び声が部分的に起こって、飛沫のように空中に飛び散った。
昼間の光が一度も射したことがない陰気な丸天井の地下室を通りぬけ、真っ暗な穴ぐらや檻のおそろしい扉を過ぎ、洞穴状の階段を下り、階段というよりも水のない滝に似ている石と煉瓦の急なでこぼこの通路をまた上って、ドファルジュと牢番とジャーク三は手と腕を組んで、できるかぎりの速さで進んで行った。所々で、ことに最初のうちは、彼らの行先で人波の氾濫が起こったり、人波が彼らのそばを通り過ぎたりした。だが、彼らが下に降りきって、曲りくねって塔を上りはじめたころになると、彼らだけになった。ここにどっしりした厚い壁とアーチ形の天井に閉じ込められると、要塞の内と外の嵐は、まるで彼らが脱け出して来た騒音が彼らの聴覚をほとんど破壊してしまったかのように、にぶい、しずかな音となって聞こえるだけだった。
牢番は低い扉のところで立ち止まり、がちゃがちゃいう錠前に鍵をさし込み、自在扉をぎいと開けて、彼らが頭を屈めて入ったときに言った、
「北塔百五番」
壁の上の方に、小さい、厳重に鉄格子をはめた、ガラスのない窓があって、その前には石の目かくしがあったので、低くかがんで見上げなければ空は見えなかった。そこには小さな煙突があって、二、三フィート奥のところに、横に厳重に鉄棒がはまっていた。炉には羽のような軽い古い木灰が一山あった。また、そこには腰掛が一つとテーブルと藁の寝床があった。そして四方が壁で、一方の壁には錆びた鉄の環がとりつけてあった。
「そのたいまつをこの壁にそってゆっくり動かすんだ。おれがこの壁をよく見えるようにな」とドファルジュが牢番に言った。
番人は従った。そしてドファルジュの眼は注意深くその明かりの後を追った。
「止まれ!――ここを見ろ、ジャーク!」
「A・M!」ジャーク三はむさぼるように読んで、しゃがれ声で言った。
「アレクサンドル・マネット」ドファルジュは弾薬が深くしみこんだ黒い人さし指でその文字を追いながら彼の耳にささやいた。「ここであの人は『哀れな医者』を書いたんだ。この石に爪で日付を刻みこんだのは、もちろん、あの人だ。お前の持ってるのは何だい。かなてこか。おれにくれ」
彼は自分の手にまだ大砲の火繩ざおを持っていた。彼はすぐにその二つの道具を交換して、虫の喰った腰掛と机の方に向くと、かなてこを二、三度撃ち下して両方ともめちゃめちゃにこわしてしまった。
「明かりをもっと高く上げろ」彼は腹立たしげに牢番に言った。「この木片のなかをよく見ろ、ジャーク。ほら、ここにおれの小刀がある」それを彼に投げながら、「その寝床を引き裂いて、藁の中を探せ。明かりをもっと高く上げろ、お前!」
おそろしい眼で牢番をにらみつけておいて、彼は炉の上に腹這いになり、煙突を見上げて、その側面をかなてこで叩いたり、こじあけたり、また横にはめた鉄格子を動かそうとしてみたりした。二、三分すると、漆喰《しっくい》や埃が落ちて来たので、彼は顔をそむけた。それからまた、その中や、古い木灰の中や、彼の武器がすべり込んだか、喰い込んだかした煙突の割れ目の中を、彼は注意深い手つきでさぐった。
「木の中に何もないぞ、藁の中にも何もないぞ、ジャーク」
「何もない」
「みんな監房のまん中に集めよう。そうだ。そいつに火をつけろ、おい」
牢番はごみの小さな山に火をつけると、それは高くパッと燃え上がった。低い、弓形の扉から出ようと身を屈めながら、彼らはそれを燃えるままにしておいて、庭へ引き返して行った。すると、階段を降りるにつれて聴覚が回復するように思われ、ついに彼らはふたたび荒れ狂う洪水の中に出た。
群衆の洪水はドファルジュを探しもとめて波立ち、のたうちまわっていた。サン・タントワヌの人々は、バスチーユを防衛して民衆を射殺した長官を護衛するのに酒店の主人を先頭に立てようと要求していた。さもなければ、長官を裁判にかけるために市庁舎まで歩かせて行くことはできそうもなかった。さもなければ、長官は逃亡して、民衆の血は(幾年もの間、無価値であったのが、突如として、いくばくかの価値を得た)復讐されないままになるだろう。
灰色の上着と赤い飾りが目立つこのいかめしい老役人をとり巻いているような狂熱と争闘の吠え猛る世界にあって、たった一つ、落ち着きはらった姿があった。しかもそれは一人の女の姿であった。「ごらん、あそこに主人がいる!」彼女は彼を指さして叫んだ。「ドファルジュをごらん!」彼女は身動きもせずにいかめしい老役人にぴったり身を寄せて立っていた。そしてずっと彼の身近かから離れなかった。そしてドファルジュたちが街々を過ぎて彼を連れて行く間、彼にぴったり身を寄せたままだった。彼が目的地の近くまで行って、後ろから人々に打たれるようになっても、彼にぴったり身を寄せたままだった。長い間貯めた雨のように、短刀や棍棒が激しく降って来ても、彼にぴったり身を寄せたままだった。彼がついに倒れて死んだとき、突然奮いたって、彼の頸を足で踏みつけ、その残忍な短刀で――待ちに待った――彼の首をはねたほど、彼の身近かにいたのであった。
サン・タントワヌが、おのれがいかなるものであって、いかなることをなし得るかということを示すために、街燈の代りに人間を吊し上げようという恐るべき構想を実現する時がやってきたのであった。サン・タントワヌの血は湧き立ち、暴政と冷酷な統治の血は下に流れた――長官の屍《しかばね》が横たわっている市庁舎の階段に流れ――ドファルジュの細君が首を切ろうと屍を踏みつけたとき、それがずれないようにふんまえた靴のうらに流れた。「あっちの街燈をおろせ!」サン・タントワヌは人殺しの新しい道具はないものかとあたりを睨《にら》みまわしながら叫んだ。「あいつの兵隊を一人、番人に残しておけ」ぶら下がる歩哨が配置されて、群衆の海はさらに先へ突進して行った。
黒い無気味な水をたたえ、破壊的な波浪の荒れ狂う海、その深さは未だ測られたことがなく、その力は未だに知られない。騒々しく揺れる形と、復讐の声と、いささかの憐れみの色さえとどめぬまでに苦しみのるつぼの中で鍛錬された無数の顔の残忍な海。
だが、猛り狂ったすさまじい顔がみな生き生きとしている顔の大海の中に、二かたまりの顔――それぞれ七つずつの――があった。それは他の顔といちじるしく対照的であったから、これほど記憶に残る残骸を流して行く海はかつてないと思われるほどであった。突然彼らの墓を破った嵐のために解放された囚人たちの七つの顔は頭上に高く押し上げられていたが、まるで最後の審判の日が来て、彼らの周囲で歓喜しているのは死んだ精霊であるかのように驚き、おびえ、まったく茫然たる有様であった。もう一組の、それよりも高く押し上げられた七つの顔は死んだ七つの顔で、垂れ下がったまぶたと半開きの眼は最後の審判の日を待っていた。それは無感動な顔だが、一時抑えた――全然捨て去ったのではない――表情を浮かべていて、今は休んでいるが、いつかは閉じたまぶたを上げて、その血の気のない唇で「|お前がこうしたのだぞ《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》!」と証言しなければならないと威嚇しているようであった。
解放された七人の囚人、矛先《ほこさき》につき刺した七つの血まみれの首、八つの頑丈な塔からなる呪われた要塞の鍵、ずっと以前に傷心から死んだ昔の囚人たちの発見された手紙や他の記録――そういうものや、それに類似したものを、サン・タントワヌの高らかに反響する足音は一七八九年の七月の中旬のパリの街々を護衛しながら進んで行ったのである。そこで神よ、願わくば、ルーシー・ダーネーの空想を破り給うて、この足音を彼女の生活より遠ざけ給え! なぜなら、それは向うみずで、狂気で、危険であり、ドファルジュの酒店の入口であの樽がこわれてからずっと後までも、一度赤く汚れた足音は容易に清められないからである。
[#改ページ]
第二十二章 海はなお荒れ狂う
やせ衰えたサン・タントワヌが、皆が兄弟のように抱擁したり、祝詞《しゅくし》を述べ合ったりする喜びで、わずかなかたい苦いパンをできるだけ柔らかくした歓喜の週をたった一週間過ごしたころ、マダム・ドファルジュはいつものように客たちに采配を振るいながら勘定台に坐っていた。マダム・ドファルジュは頭にばらの花をつけてはいなかった。なぜならば、大勢のスパイたちは、たった一週間のあいだに、かの聖者(サン・タントワヌ)の慈悲に頼ることを極度に警戒するようになっていたからである。この地区の街々をよぎって吊してある街燈も不吉な弾力のある揺れ方をしていた。
マダム・ドファルジュは朝の暑い光の中で酒店と通りをじっと眺めながら腕組みをして坐っていた。酒店にも、通りにも、ぶらついている人々が幾組かいて、いずれもむさくるしいみじめな連中であったが、今や、彼らの困窮の上にあきらかな権力感が幅をきかせていた。これほどみじめな頭はないと思われる頭の上に曲ってのっている、これほどのぼろはないと思われる寝帽子はこのひねくれた意味をもっていたのである。「これをかぶっている自分にとって自分の生命を保ってゆくことがどんなにむずかしくなったか、自分はよく知っている。しかし、これをかぶっている自分にとって、お前の生命を奪うことがどんなに容易になったか、お前は知っているか」前には仕事がなかった痩せた、むきだしの腕にも、今は、その腕で打つことができるというので、いつでも仕事があった。編物をする女たちの指も、それで引き裂くことができるということを経験したために性《たち》が悪くなった。サン・タントワヌの外観には変化が生じた。かの像は数百年も槌《つち》で打ってこれまでに仕上げたのだが、最後の仕上げの槌がその風貌に偉大な効果を与えたのであった。
マダム・ドファルジュはサン・タントワヌの女たちの指導者にふさわしく心の中でうなずきながらそれを観察しながら坐っていた。彼女のそばで同志の一人が編物をしていた。飢えた食料品屋の妻で、子供が二人ある、背の低い、肉付きのいい女で、この副官はすでに称賛の意味で『復讐』という名で通っていた。
「ほら」と『復讐』が言った。「ねえ、お聴きよ。誰が来るのだろう」
まるでサン・タントワヌのはずれの境界から酒店の入口まで敷設された導火線が突然点火されたかのように、急激に拡まって行くざわめきが勢いよく近づいて来た。
「ドファルジュだよ」と細君が言った。「静かに、同志のみなさん」
ドファルジュは息せき切って入って来て、かぶっていた赤い帽子を脱ぎ、あたりを見まわした。「みんな、お聴き!」と細君がまた言った。「この人の言うことをお聴き!」ドファルジュは扉の外側に集まった熱心な眼と開いた口を背景にして喘《あえ》ぎながら立っていた。そして、酒店の中にいた人々は皆、とび立つように立ち上がっていた。
「では、話しておくれ、お前さん。どうしたの」
「あの世から便りがあったんだ」
「なんですって」と細君はさげすむように叫んだ。「あの世ですって」
「ここにいる者はみんなフーロンの爺《じじい》を覚えているだろう。ひもじい奴は草を食えと言った奴だ、死んで地獄へ行った奴だ」
「みんな覚えているとも!」と皆の喉《のど》から。
「便りってえのは、あいつのことだ。あいつはおれたちのあいだにいるんだ!」
「おれたちのあいだにだって!」ふたたび皆の喉から。「それで、死んでか」
「死んじゃいないんだ! あいつはおれたちをひどく怖がって――あたりまえだが――自分を死んだということにして、立派な偽の葬式を出したんだ。だが、あいつが生きていて、田舎に隠れていたことが分って、こっちへ連れて来たんだ。おれは、たった今、あいつがつかまって市庁舎へ連れて行かれるところを見て来たんだ。おれは今、あいつがおれたちを怖がる理由があると言ったな。どうだ、あいつにその理由があるか」
七十を越えた、みじめな老罪人がまだそれを知らなかったならば、このとき彼らが叫んだ返事を聞いて、心の底から思い知ったことだろう。
ほんのしばらくの深い沈黙がそのあとにつづいた。ドファルジュと細君はじっと互に目を見交した。『復讐』が身を屈めて、勘定台の後ろの彼女の足もとで太鼓を動かしたので、いやな音がした。
「愛国者諸君!」とドファルジュが断固たる声で言った。「用意はいいか」
たちまちマダム・ドファルジュの小刀は帯に下げられて、太鼓は、まるで鼓手といっしょに魔法の力で飛んで行ったように、街々で鳴り響いていた。そして『復讐』は恐ろしい叫び声を挙げながら、同時に四十人の復讐の女神と化したかのように頭の周りで腕をふり回わして、女たちを鼓舞しながら家から家へと駆けまわっていた。
窓から見ていた男たちも兇暴な怒りに形相も恐ろしく、手もとにあった武器を、手当り次第につかみとって、街々に走り出て来た。だが、女たちこそ最も大胆な者さえ胆を冷やすような観物であった。女たちは赤貧なるがゆえに必要な家庭の仕事をほうり出し、子供たちをほうり出し、敷物もない床にうずくまっている老人や病人をほうりだして、長い髪をふり乱し、もの狂おしい叫び声と行動によって互に、また、自分自身を、気違いじみた行為にかりたてながら駆けだしてきた。「フーロンの悪党がつかまったんだよ、妹! フーロンの爺《じじい》がつかまったんだよ、母さん! 極悪者のフーロンがつかまったんだよ、娘!」それから、二十人ばかりのほかの女たちが胸を叩きながら、髪の毛をむしりながら、「フーロンが生きている!」「飢えた者に草を食えと言ったフーロンが! わたしが年とったお父さんにパンを食べさせてやれなかったときに草を食えと言ったフーロンが! 食物がなくてお乳があがってしまったときに、わたしの赤ん坊に草を吸えと言ったフーロンが!おお、聖母マリアよ、このフーロンめが! おお、神よ、われわれの苦しみをご覧ください!死んだ赤ん坊も痩せ衰えたお父さんもお聞き、わたしはこの石の上にひざまずいて、きっとフーロンに復讐してやる! 夫たちよ、兄弟たちよ、青年たちよ、わたしたちにフーロンの血をおくれ、わたしたちにフーロンの首をおくれ、わたしたちにフーロンの心臓をおくれ、わたしたちにフーロンのからだも魂もおくれ、あいつのからだから草が生えるようにフーロンをきれぎれに引き裂いて土の中に埋めておくれ!」こうした叫び声とともに大勢の女たちはただめちゃくちゃに逆上して、ぐるぐるかけ回り、はては友だちをなぐったり、かきむしったりした揚句、ついに興奮のあまり気絶して、踏みつぶされるところを自分の家の男にやっと助けてもらったりするありさまであった。
そういうことがあったとしても、一瞬といえども失われはしなかった。一瞬といえども! このフーロンは市庁舎にいて、放免されるかもしれなかった。いや、サン・タントワヌが自分の受けた苦しみと、辱かしめと、悪事を知っていたら、決してそんなことはさせないのだ。
武装した男や女が群れをなして非常な速さでその地区から出て来て、非常な吸引力で最後まで残っている者まで引っぱり出したので、十五分のうちにサン・タントワヌのふところには二、三の老婆と泣き叫ぶ子供たちのほかには一人も人間がいなくなった。
いや、そうではなかった。彼らはみな、その時までに、この醜悪な悪党の老人がいる市庁舎に詰めかけていて、隣の広場や街にまで溢れ出ていた。ドファルジュ夫妻と『復讐』とジャーク三は最初の群衆の中にいて、庁舎の中の彼からあまり遠くないところにいた。
「ごらん」細君は小刀で指し示しながら叫んだ。「あの悪党爺が繩で縛られているのをごらん。あいつの背中に草を一束|括《くく》りつけたのはよかったね。ハ、ハ! うまくやったよ。あいつに今あれを食わせるがいい!」細君は小刀を脇の下にはさんで、芝居を見ているように拍手した。
マダム・ドファルジュのすぐ後ろにいた人たちはその後ろの人たちに彼女がなぜ満悦しているのかわけを話し、聞いた人はまたほかの人に、その人はまたほかの人にわけを話したので、その辺の街々には拍手が鳴り響いた。それと同じように、喧嘩腰の口論と、二斗枡に幾杯ものおびただしい言い分を吹き分けるのに要した二、三時間のあいだ、マダム・ドファルジュがいらだって叫ぶ言葉がかなり離れたところまでふしぎな速さで伝わった。それがいっそうたやすく伝わったのは、驚くべき敏捷さで外側の建物によじのぼって窓から中をのぞいたある人々がマダム・ドファルジュをよく知っていて、彼女と群衆との間の電信機の役目をつとめたからであった。
ついに太陽は高く昇って年老いた囚人の頭上に、じかに、希望の光か、擁護の光か、とにかく思いやりのある光を投げかけた。その恵みはあまりに大き過ぎて耐え難いものであった。そして、一瞬間のうちに、驚異的に長くもちこたえていた塵埃と籾殻《もみがら》の防壁はふっ飛んでしまい、サン・タントワヌは彼を自分のものにしたのであった。
それはたちまち一番遠くの果てにいた群衆にまで知れわたった。ドファルジュが手すりとテーブルをとび越えて、みじめな奴に死の抱擁をしたばかりのときに――マダム・ドファルジュが彼につづいて、彼が縛られている繩に手をのばしたばかりのときに――『復讐』とジャーク三がまだ二人のところまで行かないうちに、また、窓からのぞいていた男たちが高い所からおそいかかる猛禽のようにまだ庁舎の中にとびこんで来ないうちに――町じゅうに「あいつを外に出せ! あいつを街燈までつれて行け!」という叫び声が湧き起こるように思われた。
倒れたり、起きたり、市役所の階段をまっさかさまにころがり落ちたり、膝をついたり、立ち上がったり、仰向けになったり、引っぱられたり、なぐられたり、幾百という手に草や藁の束をいくつも顔につきつけられて息が詰まったり、引っかかれ、なぐられて傷つき、喘ぎ、血を流しながら、たえずお慈悲をと嘆願しつづける。人々が彼を見ようとして互に後ろにひき戻すと彼の周囲に小さな空所ができて、はげしくもだえたり、足の林のなかを枯木の丸太棒のように引きずられたりして、ついに彼は不吉な街燈が揺れている一番近い街の隅まで引きずられて行った。そしてそこでマダム・ドファルジュは彼を放し――猫が鼠をながめるように――彼らが用意をしている間、また彼が彼女に命乞いをしている間、黙って落ち着きはらって彼を見ていた。その間女たちはひっきりなしに彼にむかって興奮して金切り声で叫び、男たちは彼の口に草を押しこんで殺してしまえとおそろしい顔で怒鳴っていた。一度目は、彼は高く引き上げられたが、綱が切れた。そして彼らはきゃあと叫びながら彼をつかまえた。二度目も彼は高く引き上げられたが、綱が切れた。そして彼らはきゃあと叫びながら彼をつかまえた。その次のときは、綱は情け深くて彼を支えていた。そして彼の首はまもなく矛に刺され、サン・タントワヌじゅうの人々はその口に草がどっさり詰まっているのを見て踊り狂った。
しかし、これがその日の悪業の終りではなかった。というのは、サン・タントワヌは怒鳴ったり踊ったりして怒った血が逆上していたので、その日の夕方、殺された男の養子であるもう一人の人民の敵、人民を侮辱した奴が、騎兵だけで五百人を超える護衛兵にまもられてパリへやって来るところだと聞いて、ふたたび湧き立ったのである。サン・タントワヌは彼の罪状を豪勢な紙に何枚も書きつらねて、彼を捕え――フーロンの道連れにするためには一国の軍隊の胸からでももぎとったであろう――彼の首と心臓を矛の先に刺して、その日の三つの戦利品を狼の行列を作って街々を運んで行った。
暗い夜になるまで男も女も食物もない泣き叫ぶ子供たちのところに戻って来なかった。それからみすぼらしいパン屋の店はまずいパンを買うために辛抱強く待っている彼らの長い列にとり巻かれた。彼らはへとへとになって空腹をかかえて待っている間、その日の勝利を祝って互に抱き合ったり、雑談の中でもう一度勝利を味わったりしながら時間を紛らせていた。しだいに、ぼろを着た人々の列は短くなって、ついには消え去った。そして高い窓にみすぼらしい燈火が輝きはじめて、通りではわずかな火がおこされ、近所の人々は皆いっしょにその火で料理をして、それから門口で夕飯を食べた。
彼らの夕飯はとぼしく、不充分で、肉もなければ、その他みじめなパンに添えるたいていの添えものもなかった。それでも、仲間同士のあたたかい心は火打石のように堅い食物にいくばくかの栄養を注ぎ込んで、そこからたのしい火花を打ち出したのであった。その日の最悪な仕事に全面的に協力した父も母も、彼らの痩せ衰えた子供たちとやさしく遊んだ。そしてその周囲にも前にも、そのような世界を控えている恋人たちは、愛し合い、希望をもった。
ドファルジュの店から最後の客の群れが出て行ったのは、もう朝であった。ドファルジュは戸締りをしながらしゃがれた声で細君に言った、
「とうとうあれがやって来たね」
「そう」と細君が答えた。「まあね」
サン・タントワヌは眠っていた。ドファルジュ夫妻も眠っていた。『復讐』でさえも飢えた食料品屋といっしょに眠っていて、太鼓は休んでいた。その太鼓はサン・タントワヌで流血の中でも騒ぎの中でも変わらないただひとつの声であった。太鼓の管理をしている『復讐』は、その太鼓を眠りからさまして、バスチーユが落ちる前と同じ、あるいは、フーロンが逮捕される前と同じ音を出させることもできただろうが、サン・タントワヌのふところに眠っている男や女のしゃがれた声には前と同じ言葉を語らせることは不可能であった。
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第二十三章 火は燃え上がる
泉が流れ、あの道路工夫が毎日出かけて公道の石を槌で叩いて、みじめな無知な魂とみじめな痩せ衰えた肉体を養ってゆくわずかなパンの屑を稼ぎ出しているあの村にも、ひとつ変わったことがあった。岩山の上の監獄はむかしほど威圧的ではなかった。それを守る兵隊はいたが、多くはなかったし、その兵隊を守る将校もいたが、一人として部下が何をしでかすか知っている者はなかった。――ただ知っているのは、それは彼が命令されたことではないだろう、ということだけであった。
遠くまで広々と、ただ荒涼たる景色のみがつづいている荒れはてた国が横たわっていた。樹木の緑の葉も、草の葉も穀物の葉も、みな、みじめな人々のようにしなびて、みすぼらしかった。あらゆるものは頭を垂れ、生気がなく、しいたげられ、破壊されていた。住居も、垣根も、家畜も、男も、女も、子供も、彼らをささえている土地も――みな疲れ切っていた。
貴族は(個人的には非常に立派な紳士である場合がしばしばあるが)国民にあたえられた祝福であり、もの事に騎士道的な格調を与えるものであり、豪華な、輝かしい生活の洗練された典型であり、同様な意味でその他さまざまなものであった。ところが、階級としての貴族は、どういうことか、事態をこういうことにしてしまったのである。明白にわざわざ貴族のために作られた創造物がこんなに早くからからにしぼりとられ、しぼりつくされてしまうとは、ふしぎなことだ。たしかに、その永遠なるとりきめにはなにか近視眼的なものがあるにちがいない。とはいえ、それはこの通りであったのだ。そして、火打石からでも血をしぼりとるように、最後の一滴まで強引にしぼりつくし、拷問台の最後のねじがあまり頻繁に回されるので、ねじ山がつぶれて、ねじはなにもはさまずに回りつづけるようになってしまうと、貴族はそのような卑俗な、わけの分らぬ現象から逃げ出しはじめたのであった。
だが、これは、その村や、それに似た多くの村におこった変化ではなかった。過去数十年のあいだ、貴族は村から絞りとれるものはすべて絞りとった。そして人民を狩り立てたり、未開の不毛の荒地という人のためになる空地を作って狩りをたのしむほかは、めったに尊い姿をあらわすことはなかった。否。村におこった変化というのは、身分の高い、目鼻立ちの整った、いつもなら化粧をほどこされたり、ほどこしたりする貴族の顔が消えたというよりも、卑しい身分の見慣れない顔が現われたということなのであった。
なぜなら、この頃、埃の中でひとりぽっちで仕事をしていた道路工夫は、夕食に食べるものがほんのわずかしかないことや、もしたくさんあったら、どんなに食べるだろうなどと考えるのにたいていいっぱいで、自分がもとは埃であって、いずれはまた埃に返らなければならぬということなどに頭をわずらわす暇がめったになかったのだが――このころ、彼がわびしい労働から眼を上げて遠くの方を見ると、以前はその辺では珍しかったが今ではちょいちょい見られる、とある粗野な人影がこちらへ歩いて来るのが見えるのであった。それが近づくにつれて、道路工夫は、別に驚きもせず、あれは野蛮人のような恰好をした、背の高い、道路工夫の眼にさえ不恰好な木靴をはいた、おそろしい、粗野な、日焼けした顔をして、歩いて来たいくつもの街道の泥と埃にまみれ、いくつもの沼地の湿気を吸い、森の中の細道のとげや葉や苔を身体じゅうにつけた、くしゃくしゃの髪の毛の男だということが分った。
そういう男が、七月の時候の昼頃、幽霊のように彼のところにやって来た。ちょうど彼はにわかに降ってきた雹《ひょう》を除《よ》けようとして、土手の下の石の山に腰をおろしたところであった。
男は彼を見、凹地の村と、水車場と、岩山の上の監獄を見た。彼はその無知な頭でしかとそれらをたしかめてから、やっと分るような方言で言った。
「どうだね、情勢は、ジャーク」
「うまくいってるよ、ジャーク」
「じゃあ、握手だ」
二人は握手して、男は石の山に腰をおろした。
「昼飯は持ってないのか」
「今じゃ夕飯だけだ」と道路工夫はひもじい顔をして言った。
「それが流行《はやり》なんだな」と男は怒った声で言った。「どこへ行っても昼飯に出会ったことはない」
彼は黒くなったパイプをとり出して煙草を詰め、火打道具でそれに火をつけ、まっ赤になるまで吸った。それから突然それをひきはなして、人さし指と親指の間からなにかその中に落すと、それはパッと燃え上がって、煙となって消えた。
「じゃあ、握手だ」以上の操作を見終って、こう言ったのは、今度は道路工夫であった。
「今夜か」と道路工夫が言った。
「今夜だ」男はパイプを口にくわえながら言った。
「どこで」
「ここだ」
男と道路工夫は石の山に坐ったまま、互に無言で顔を見合っていた。雹は二人の間に銃剣が小突撃を敢行しているように降りしきっていたが、やがて村の方の空が晴れてきた。
「教えてくれ」旅の人は土手の上の方へ行きかけて言った。
「見ろ」道路工夫は人さし指をのばして答えた。「ここから下におりて、まっすぐに街を通り抜けて、泉を通り過ぎて――」
「そんなものはみんなおれの知ったこっちゃねえ」と相手はあたりの景色を見まわしながらさえぎった。「|おれは《ヽヽヽ》街なんか通りぬけやしねえよ、泉なんか通り過ぎやしねえよ。分ったか」
「なるほど。村の向うの丘の頂上を越えて約二リーグだ」
「よし。お前はいつ仕事をやめるんだ」
「日暮れだ」
「帰る前におれを起こしてくれないか。おれは休みなしに二晩歩き通しなんだ。このパイプを吸い終ったら、おれは子供みてえに眠るぜ。起こしてくれるか」
「いいとも」
旅人はパイプを吸い終ると、ふところに入れて、大きな木靴をするりと脱ぎ、石の山の上に仰向けになって寝た。彼はたちまちぐっすり眠っていた。
道路工夫は埃だらけの仕事に精を出し、雹を降らした雲は通り過ぎてきらきら光る縦横の筋が空に射して、それに答えてあたりの景色が銀色の光に輝きはじめたとき、この小男は(今は例の青い帽子の代りに赤い帽子をかぶっていた)石の山の上の姿に魅せられているように思われた。彼の眼はしきりにその方に向いていたので、道具は機械的に動くだけで、ほとんど何の役にも立たなかったと言ってもいいくらいだった。陽に焼けた顔、くしゃくしゃの黒い髪と髯、粗末な毛織の赤い帽子、毛織りの布《きれ》と獣の毛のある皮を寄せ集めてこしらえた服、乏しい生活で弱っているたくましい体躯、眠りながらきっとむすんだ唇の陰うつな、すてばちな表情、そういうものは道路工夫の心の中に畏敬の念をひきおこした。この旅人は遠くから旅をして来たのであって、足は痛み、足首はすりむけて血を流していた。葉っぱや草が入った大きな靴は長い幾リーグもの道を引きずるには重く、衣服は、彼のからだがすりむけて傷となったように、すり切れて穴があいていた。道路工夫は彼のそばで身を屈めて、彼のふところにあるか、どこにあるか知らないが、秘密の武器をちょっとのぞいてみようと思った。しかし、それは徒労であった。彼は胸の上で腕を組み、しかも彼の唇と同じくらいかたく組んで眠っていたからである。敵を防ぐ柵や、番兵の詰所や、門や、濠や、はね橋に護られた要塞都市もこの人にとっては空気みたいなものだと道路工夫には思われた。そして、その姿から目を上げて地平線を眺め、それからぐるりと見まわしたとき、これと同じような人々の姿が何物にもさえぎられずにフランスじゅうの各中心地に向かって行くのが見えるように空想したのであった。
男は、雹にも、時々射す光にも、顔の上の日光にも影にも、ぱらぱらとからだに降りかかるにぶい氷の塊にも、それが陽に当って変化したダイヤモンドにも無関心のまま眠りつづけた。そして、ついに、太陽は西に低くなり、空は赤く燃えた。すると、道路工夫は道具を片づけて、村へ下りる支度がすっかりできると、彼を起こした。
「よし」眠っていた男はひじをついて起き上がりながら言った。「あの丘のてっぺんから向うへ二リーグだな」
「およそだ」
「およそ。分った」
道路工夫は風向きによってちがった方向に舞い上がる埃を浴びながら我家へと急ぎ、まもなく泉のところまで来て、水を飲むために連れて来られた痩せた牝牛どもの間に入り込んで、村じゅうの人々にささやいていることを牛にもささやいているように見えた。村人たちはまずしい夕飯を食べてしまっても、いつものように寝床にもぐり込まずに、また外に出て来て、そのままじっとそこにいた。ひそひそ話をするという奇妙な伝染病が彼らの間にひろまっていた。また彼らが暗闇の中で泉のところに集まったときにも、一方だけの空を何か待ち受けながら眺めるという別の奇妙な伝染病がひろまった。村の首席官吏であるガベル氏は不安になり、ひとりで屋根に上って、自分もその方角を眺め、煙突の蔭から下の泉のそばのだんだん暗くなってゆく顔をちらりと見おろして、教会の鍵を預かっている教会の番人に、そのうちに警鐘を鳴らさねばならないかもしれないと連絡した。
夜は深まっていった。古い館をとりかこみ、その孤独な状態が侵されないように護っていた樹々は、暗がりの中に黒々とどっしりとそびえている建物をおびやかすように、激しくなってゆく風の中で揺れていた。二つの露台の階段に雨がもの狂おしく降り込んできて、家の中の人々を起こす急使のように大扉を打った。気味の悪い突風が広間を抜けて古い槍や短刀の間を吹き通り、もの悲しい音をたてて階段を吹き上り、死んだ侯爵が眠っていた寝台のカーテンをゆすぶった。東と西と北と南から、森を抜けて、重々しい足どりの粗野な四つの人影が、背の高い草を押したおし、樹の枝をぴしぴし折りながら、中庭でおち会うために用心深く大股に歩いてきた。そこで四つの火が発して違った方向に動いて行き、どこもかしこも、ふたたび真の闇となった。
だが、それは長い間ではなかった。まもなく、館は、まるでそれ自体が光を発しているように、自分の光でふしぎにはっきりと見えはじめた。それから正面の建物の後ろで一条の光がすきとおる場所をえらんで、どこに欄干《らんかん》や、弓形門や、窓があるかを示しながらたわむれているように明滅した。それからその光はもっと高く上って行き、ますます幅広くなって、ますます輝きを増した。まもなく二十もある大きな窓から炎がふき出してきて、石の顔は目を覚まして火の中から目を見張った。
家のまわりで、そこに残されていた二、三人の人がつぶやくかすかな声がおこり、誰かが馬に鞍をつけて、馬に乗って駆けて行く音がした。暗闇をとおして、拍車をかける音や泥をはね飛ばす音が聞こえて、村の泉のそばの空地で手綱が引かれて、泡を吹いた馬はガベル氏の家の扉のところに立った。「助けてくれ、ガベル! 助けてくれ、みんな!」警鐘はせっかちに鳴り響いた。しかしその他の助けは(どんな助けだろうと)なにもなかった。道路工夫と二百五十人の特別な友だちは泉のところで腕を組み、空に燃え上がる火の柱を眺めながらたたずんでいた。「あれは四十フィートもあるだろうな」と彼は恐ろしい顔をして言った。そして身動きもしなかった。
館から来た馬上の男と泡を吹いている馬はかっかっと騒々しい音をたてて村を通り抜けて、岩山の上の監獄へと石ころだらけの急な坂をいっさんに駆け上って行った。門のところで、ひとかたまりの将校が火事を見ていた。そして彼らからはなれたところでは、ひとかたまりの兵隊が、「助けてください、将校殿! お城が火事です。早く手を貸してくださりゃ、貴重品が焼けずに助かるかもしれません。助けてください、助けてください!」将校たちは火事を眺めている兵隊たちの方を見た。そして何も命令しないで、肩をすくめ、唇を噛んで答えた。「どうしたって焼けなきゃならないのだ」
馬上の男がふたたびかたかたと丘を下って街を通り抜けて行ったとき、村には明かりがともされていた。道路工夫と二百五十人の特別な友だちは、まるで一体になった男女のように火を燃え上がらせたいという考えにとりつかれ、皆が家に駆け込んで、ひとつひとつの曇った窓ガラスの中に蝋燭をおいたのだった。何もかも乏しい時であったから、蝋燭はガベル氏から強制的に貸してもらわなければならなかった。そしてその役人がちょっといやな顔をして躊躇していると、前には権威にたいしてはあれほど服従的であった道路工夫は、馬車は焚火をするのにもってこいだし、駅馬は焼肉になるだろう、と言ったものである。
館は燃えるままに放っておかれた。火が唸り声をあげて猛り狂っているとき、地獄からまっすぐに吹いて来た灼熱した風が建物を吹きとばそうとしているように思われた。焔が燃え上がったり衰えたりすると、石の顔はまるで責苦に会っているような表情を浮かべるのであった。おびただしい石や材木が落ちて来たとき、鼻に二箇所凹みがある顔が見えなくなった。だが、まもなく、まるでその顔が火あぶりになって火と戦っているあの残忍な侯爵の顔であるかのように、煙の中からまたもがき出て来た。
館は燃えつづけた。一番近い樹々は火をうけて皮が焦げてしなびてしまい、遠くの樹々は四人の獰猛《どうもう》な人間に火をつけられて盛んに燃えている建物を新たに煙の林でとり囲んだ。熔けた鉛や鉄は泉水の大理石の水盤のなかで煮え立ち、泉の水は涸れ、消火器のような形をした塔のてっぺんは熱に遇った氷のように消え失せて、滴《したた》り落ちて四つの、でこぼこの、焔の井戸となった。大きな裂け目や割れ目が、結晶したように固い壁の中に枝を広げ、茫然とした小鳥たちはぐるぐる飛びまわって、熔鉱炉の中に落ちた。そして四つの獰猛《どうもう》な人影は、東へ、西へ、北へ、南へと、夜に包まれた街道を彼らがともしたかがり火をたよりに次の目的地へとてくてくと歩いて行った。燈火で明るくなった村の人々は警鐘を手に入れていて、正式の番人を罷免して、みんなで喜びの鐘を鳴らした。
そればかりではない。村人たちは飢えと火事と鐘を鳴らしたことで頭が変になり、ガベル氏が地代や租税の徴収に関係があるにちがいないと考えて――実は、その末期には、ガベルが取り立てたのは租税のわずかな分割払いの金だけで地代は全然扱っていなかったのだが――彼と面会せずにはいられなくなった。それで彼の家をとり巻いて、直接談判をするのだから出て来いと呼んだ。そこで、ガベル氏は厳重に扉にかんぬきをかけ、引っこんで自分と相談してみた。その談判の結果、ガベルはもう一度屋根に上って、一群の煙突の後ろにかくれた。このとき、彼は、もし彼らが扉から押し込んで来たら(彼は復讐好きな小さな南国人であった)欄干からまっさかさまに身を投げて、下にいる奴らを一人か二人押しつぶしてやろうと決心したのであった。
おそらくガベル氏は、火と蝋燭の代わりにはるかに館が焼けるのを眺めながら、音楽の代りに扉を叩く音と喜びの鐘の音を聞きながら、長い一夜をそこで過ごしたことだろう。彼の宿駅の門の前にある道路を横切って不吉な街燈が吊してあったことは言うまでもない。村人たちはそれを彼に都合のいいように入れ代えようとする活発な意向を示していたのだ。夏の一夜を、ガベル氏が決心したように、まっさかさまにとび込もうとしている黒い大海の縁で過ごすのは苦しい不安であったろう。だが、ついに友情に厚い夜明けがやって来て、村の蝋燭は燃え尽き、幸いに人々は散って行き、ガベル氏は当座は命を失わずに下に降りたのであった。
百マイル以内のところに、それとは別の火事の明るみの中に、その夜も、その他の夜も、それより不運な役人たちがいた。彼らは生まれて育った、もとは平和であった街の街燈のあったところに吊されているのが、夜明けに発見されたのであった。また、道路工夫やその仲間よりもっと不運な村や町の人々もいた。役人や兵隊がその人々に首尾よく仕返しをして、自分たちの代りに彼らを吊し上げたのであった。だが、獰猛《どうもう》な人影は東へ、西へ、北へ、南へと、どの方角であろうとも着実に向かって行くのであった。そして誰が首を絞められようと、火は燃え上がった。それに水を注いで消しとめる絞首台の高さは、役人がいかなる数学の力をもってしてもうまく計算することはできなかった。
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第二十四章 磁石の岩に引かれて
そんなふうに火や海が荒れ狂っている中に――さしも堅固な地球も、今は潮の引く間もなく、たえず高く高く満ちてくるばかりで、浜辺の見物人を驚かせ、おびえさせている怒濤の襲撃にゆすぶられているうちに、――三年の嵐の年月が過ぎた。小さいルーシーの誕生日もさらに三度、黄金の糸によって平和な家庭生活という織物の中に織りこまれた。
幾夜となく、幾日となく、平和な家庭の人々はその一隅に響いてくる反響に耳を傾けていたが、殺到する足音が聞こえてくると元気がくじけた。なぜなら、その足音は、赤旗の下に騒然と集まり、祖国が危機に瀕していると宣言したものの、長い間ききめのある恐ろしい魔法によって野獣と化した人々の足音のように聞こえるようになってしまったからであった。
階級としての貴族は、彼らがもはや称賛されていず、フランスでは用がなくなって、からだも生命もともどもフランスから追い出される危険が多分にあるという現象に気がついていなかった。非常な苦心をして悪魔を呼びだしたものの、悪魔を見たら怖くてたまらなくなり、敵に何も尋ねることができなくてたちまち逃げだしてしまったという田舎者の話があるが、それと同様に、貴族は、勇敢にも多年にわたって主の祈りを逆に読んだり、悪魔をむりに呼び出すために効験あらたかなお呪《まじな》いをさんざんした後、彼を見るやいなや怖くなって一目散に逃げだしたのであった。
さん然と輝いていた宮廷の牛眼燈は姿を消していた。さもなければ、彼らは暴風のような民衆の弾丸の的となっただろう。それはものを見るのに決してよい眼だとはいえなかった――その眼のなかには長い間悪魔の誇りとサルダナパル(アッシリアの最後の王)の奢《おご》りともぐらの無知があった――しかしそれは見えなくなって、消えてしまった。宮廷は、あの排他的な内部の環から、一番外の陰謀と堕落と偽りの腐った環にいたるまですっかり消えてしまった。王という身分もなくなった。最後通牒が来たとき、それは宮殿の中に包囲されて、「一時停止」させられていたのであった。
一七九二年の夏が来た。そして貴族はこのときまでに広く遠くへ四散してしまっていた。
当然のことだが、ロンドンにおける貴族の本拠並びに大集合所はテルソン銀行であった。亡霊は肉体がいちばんよく出入りした場所にあらわれるものだと思われているが、一個の金貨も持たない貴族は自分の金貨がいつもあった場所にあらわれたのであった。そればかりでなく、テルソン銀行は最も信用できるフランスの情報が一番早く来る場所であった。また、テルソンは寛大な銀行であって、高い身分からおちぶれた者の顧客にたいして非常な気前のよさを発揮した。また、嵐が近づいて来るのを早く見てとり、略奪や没収を予期して、あらかじめテルソンへ送金しておいた貴族たちの消息は、そこへ行けばいつでも貧しい兄弟たちの耳に入るのであった。それにつけ加えておかなければならないのは、フランスから新たにやって来た者は誰でも、ほとんど当然のこととして、テルソンに自分自身のことと、もって来た便りを報告したのである。そうしたさまざまの理由で、当時テルソン銀行はフランスの情報にかけては、一種の高級取引所であった。そしてそれは皆に知れ渡っていて、問い合わせが非常に多かったので、テルソンでは時々最近のニュースを一行ばかりに書き出して銀行の窓に貼ったので、人々はそれを読もうとしてテンプル門を駆け抜けて行った。
蒸気が立ち上る霧の深い午後、ローリー氏は机に坐り、チャールズ・ダーネーはそれによりかかって低い声で彼と話をしていた。以前は銀行の主との面会用にとりのけてあったざんげ室は、今はニュース交換所となり、人が溢れるほどつめかけていた。それは閉店時刻の三十分ほど前であった。
「しかし、あなたほど若々しい方はありませんが」チャールズ・ダーネーはちょっとためらいながら言った。「それでも僕としては申し上げずにはいられません――」
「分りますよ。わたしが年をとりすぎているということでしょう」とローリー氏が言った。
「陽気もはっきりしませんし、長い旅ですし、交通機関もあてになりませんし、秩序の破壊された国ですし、あなたが安全だとは言えないような都会ですからね」
「チャールズ君」ローリー氏は快活に自信をもって言った。「あなたはわたしが出かけて行く理由をいくつかおっしゃいましたね、わたしが行かずにいる理由ではなくね。わたしならば大丈夫ですよ。わたしよりもずっと邪魔のしがいのある人が大勢いるのに、誰が八十になろうという老人の邪魔をしようなどと思うものですか。秩序の破壊された都会とおっしゃいますが、もし秩序の破壊された都会でなかったら、誰かむかしのパリと事務のことを知っていて、テルソン銀行が信用している人をここのうちの店からあちらのうちの店へ、派遣する必要がないじゃありませんか。あてにならない旅とか、長い旅行とか、冬の時候とかいうことでしたら、もしわたしに、こうして長年つとめて来た後に、テルソンのためなら少しばかりの不便は忍ぼうという覚悟ができていないとしたら、いったい誰がその覚悟をすべきでしょうか」
「僕が自分で出かけて行けたらなあ」チャールズ・ダーネーは少し落ち着かぬ様子で、まるで声を出して考えているように言った。
「まったく、あなたが反対したり忠告したりするとは、ひどい人ですね」とローリー氏が叫んだ。「あなたはご自分が行けたら、と思っていらっしゃるんですか。しかも、生まれながらのフランス人であるあなたがねえ。あなたは賢明な相談相手ですよ」
「ローリーさん、自分で出かけたいという考えが(ここでそれを口に出すつもりではなかったのですが)しょっちゅう心に浮かぶのは僕が生まれながらのフランス人だからなのです。みじめな人民に同情して、彼らのためになにかを捨ててきた者として」ここで彼は以前のような思いに沈む様子で言った。「自分の言葉に耳を傾けてもらえるかもしれない、また、ある程度彼らが抑制するように説得する力があるかもしれない、と思わずにはいられないのです。つい昨夜も、あなたがお帰りになった後、僕はルーシーと話をしていたとき――」
「あなたがルーシーと話をしていたとき」とローリー氏が繰り返した。「なるほど。あなたはルーシーという名前をおっしゃって、よくはずかしくありませんね。こんな時にフランスへ行けたらいいなどとおっしゃって!」
「しかし、僕は行こうとは思いません」とチャールズ・ダーネーは微笑して言った。「あなたが行こうとおっしゃるのが問題なんですよ」
「それでも、まったく本当のところ、わたしは行くつもりですよ。実際、チャールズ君」ローリー氏は遠くの銀行の主をチラと見て声を低くして言った。「あなたにはわれわれがどんな困難を冒して業務を処理しているか、あちらにあるわれわれの帳簿や書類がどんな危険に巻き込まれているか、お分りにならないのですよ。もしうちの文書類が押さえられたり、破棄されたりしたら、多数の人々がどんな危い結果になるか、神様だけがご存じです。しかし、ご承知のように、いつなんどき、そういう結果になるかもしれないのですよ。今日にでもパリに火がつけられるかもしれませんし、明日にでも略奪が始まるかもしれないのですからね。こうなっては、少しでも早くこの文書の中から賢明に選択して、それを埋めるか、さもなければ、被害をうけないようにしなければならないのですが、そういうことが(貴重な時間をむだにせずに)もし誰かにできるとすれば、このわたしをおいては、まずないのですよ。テルソンがそれを知っていて、そう言いますのに、――わたしがこの六十年の間、禄を喰《は》んできたテルソンが――少しばかり関節のあたりがひきつるからと言って、わたしがためらっていられますか。なあに、ここにいる六人の年寄りにくらべたら、わたしなんぞ子供みたいなものですよ」
「ローリーさん、あなたの若々しい勇敢な気概にはまったく感心しますよ」
「ちょっ! ばかなことを!――それからね、チャールズ君」ローリー氏は銀行の主をまたちらと見て言った。「ご記憶願いたいことはですね、現在パリからものを持ち出すことは、どんなものだろうと、不可能に近いのですよ。今日のことですが、書類や貴重品がここへ持って来られたのですがね(これは絶対秘密ですよ、あなたとでも内緒話をするのは事務的じゃありませんが)それが、ちょっと想像できないような奇妙な人たちが運んで来たのですよ、誰も彼も国境の関所を通るときには髪の毛一本で首が吊るされているような気持だったそうですよ。ほかの時でしたら、われわれの小包みは事務的な昔のイギリスのようにらくらくと行ったり来たりしたものですがねえ。しかし今は、何もかも止められているのです」
「それであなたは本当に今夜行かれるのですか」
「本当に今夜行きますよ。事態が急を要しますので、ぐずぐずしてはいられません」
「で、誰もお連れにならないのですか」
「いろいろな人から申し込みがきておりますが、そういう人にはわたしは用がないのですよ。わたしはジェリーを連れて行くつもりです。ジェリーは、長い間、わたしの日曜日の夜の護衛でしたから、あの男には慣れていますからね。ジェリーなら、誰だって英国産のブルドッグとしか思わないでしょうし、自分の主人に手をだす者には誰でもとびかかるだけで、そのほかに頭の中になにかたくらみがあるなどとは誰も思いませんからね」
「まったく、僕はあなたの勇気と若々しさには心から感嘆していますと、繰り返さずにはいられませんよ」
「わたしも、ばかなことを、ばかなことを、と繰り返さずにはいられませんね。このつまらぬ仕事をすませたら、たぶん、わたしは、引退して気楽に暮らすようにというテルソンの申し出を受け入れるでしょうよ。そうなったならば、年をとるということについて考える暇がたくさんできますよ」
この会話はローリー氏のいつもの机でかわされていたのだが、一ヤードか二ヤードはなれたところでは貴族たちがむらがって、近いうちに悪党の平民どもにどんな仕返しをしてやるかみろ、などと大きなことを言っていた。この恐るべき革命が、この空の下で聞いたこともないような、種を蒔いたこともないのに穫れた収穫だなどと――革命にみちびくようなことは何ひとつなされなかったし、あるいは、どんな手もうたれずにおかれたことはなかったかのように――フランスの何百万という悲惨な人民と彼らを豊かになすこともできたろうのに、悪用され、誤用された資源をよく観察していた人たちが、何年も前に革命が不可避だとは気づかなかったし、また自分の見たことを平明な言葉で書きとめておかなかったかのように――放言するのが、亡命者の逆境にある貴族の勝手なやり方であったし、また、あまりにも勝手な英国の正統派的な考え方でもあった。そうした空威張りが、極度に疲弊してそれ自体ばかりでなく天も地もすり減らしてしまった事態を元に戻そうとする貴族の途方もない陰謀とからんでいるのだから、本当のことを知っている正気な人間なら多少の抵抗を感じないでそれを聞いていることはむずかしかった。先刻からチャールズ・ダーネーが落ち着かず、今でもいらいらしているわけは、彼の心の中にある不安がひそんでいたばかりでなく、彼自身の頭の中でうるさく血が騒いでるような、そうした大言壮語が耳のまわりじゅうで喧ましかったからである。
しゃべっている人たちの中に高等法院のストライヴァー氏がいた。彼は国家の昇進への道をずっと上の方まで進んでいたので、この問題にも大きな声で意見を述べていた。彼は貴族にむかって平民共を爆薬で爆破して地球の表面から根絶やしにしてしまい、そんな奴らなしにやってゆく計画だの、鷲《わし》の尻尾に塩をまいて鷲を根絶させるという話と同じような種類の多くの目的を果たす計画だのを持ち出していた。ダーネーは彼の話を特別の反感をもって聞いていた。そして、それ以上聞かないで帰ってしまおうか、それともそこにいて口を出そうかと迷っていたが、そのとき、当然おこるはずであったことが形をとってあらわれたのであった。
銀行の主がローリー氏に近づいて、まだ開封されない汚れた手紙を彼の前において、その手紙の宛名の人の行方はまだ分らないかと尋ねた。銀行の主はその手紙をダーネーのすぐそばにおいたので、彼にその宛名が見えた――それが自分の本名だったので、それだけ早く目についたのであった。英語に翻訳された宛名は次のようになっていた。
「イギリス、ロンドン、テルソン銀行気付、フランスのエヴレモンド前侯爵閣下、大至急」
結婚式の朝、マネット医師はチャールズ・ダーネーにたいして彼の名前の秘密は――もし彼、医師の方でその義務を解かない場合には――彼らの間で破ってはならないということを、しつこく、はっきりと要求した。二人の他には誰一人、それが彼の名前だということを知らなかった。彼の妻でさえそういう事があろうとは疑っていなかったし、ローリー氏もそんな疑いを抱くはずがなかった。
「いや」とローリー氏は銀行の主に答えた。「いまここにおられる方には、どなたにもおたずねしてみましたが、どなたもこの方がどこにおいでになるのかご存じないのです」
掛け時計の針はまさに銀行の閉店の時刻をさそうとしていたので、しゃべっていた連中はみな流れるようにローリー氏の机のそばを通り過ぎて行った。彼は尋ねるように手紙をさし出した。すると陰謀を企てて、腹を立てている一人の亡命者がそれを見、また、陰謀を企てて腹を立てている他の亡命者がそれを見た。そして、どれも、これも、一人残らず、行方の分らぬこの侯爵のことを、フランス語か英語で、なにか悪口を言った。
「甥だろう――しかしいずれにしても堕落した後継ぎだ――あの洗練された殺された侯爵のさ」と一人が言った。「幸いに、僕はそいつと知り合いじゃなかったよ」
「自分の地位を捨てた臆病者だよ」と別の貴族が言った――この人は枯草を積んだ荷車にもぐり込み、足を上にして窒息しかかってパリを脱出してきたのであった――「数年前のことだがね」
「新しい主義にかぶれてね」と三番目は通りすがりに眼鏡越しに宛名を見て言った。「死んだ侯爵に反抗して、相続した領地を捨てて、あの悪党どもにやってしまったんだ。今となれば、奴らはあの男に相当な返礼をするだろうさ」
「へえ」と騒々しいストライヴァーが叫んだ。「そういうことをしたのかね。そいつはそういう男なのかね。そいつのふらちな名前を見てやろうじゃありませんか。この野郎!」
ダーネーはもう我慢できなくなってストライヴァー氏の肩にさわって、言った。
「僕はその男を知ってますよ」
「え、君が」とストライヴァーが言った。「それはお気の毒ですなあ」
「なぜですか」
「なぜかってきくのかね、ダーネー君。その男がどんなことをしたか、聞いたかね。こんな時世に、なぜかなどときくもんじゃないよ」
「しかし僕はなぜなのか伺いたいものですね」
「じゃあ、もう一度言ってあげよう、ダーネー君、それはお気の毒なことだとね。僕はそんな途方もないことをきかれると、君が気の毒になるね。ここに、かつてないほど有害な冒涜的な悪魔の法典にかぶれた男がいて、自分の財産を捨てて未曾有の大量殺人をやった人間の屑のような下劣きわまる奴らにやってしまったんだ。それを君は、若い者を教えている人間がそんな奴と知合いだと、なぜ僕が気の毒がるんだときくのかね。そうだね、だが返事をしてあげよう。そういう悪い奴には染まり易いものだと僕は信じているから、気の毒がるのさ。そういうわけなんだ」
ダーネーは秘密を洩らすまいと用心して、非常に苦心して自分を抑えた。「あなたにはその紳士が分らないのかもしれませんね」
「僕には君をどうして追い詰めたらいいか、分っているんだよ、ダーネー君」とあばれもののストライヴァーが言った。「だから、ぎゅうぎゅう言わせてやるよ。もしこの野郎が紳士なら、僕にはそいつが分らないね。君はそいつにそう言ってくれてもいいよ、僕からよろしくと言ってね。それから、これも僕がそう言ったと伝えてくれ給え。奴が世間的な財産と地位を人殺しの弥次馬どもにくれてやったのに、なぜ奴らの先頭に立たないのかとね。しかし、そういうものじゃないんですよ、みなさん」ストライヴァーは周りを見まわして指を鳴らしながら、「僕は人間の性質というものをいくらか知っていますがね。そいつのような男がそういう大事な子分の情にすがるなんてことは決してしないものですよ。そうですとも、みなさん。そういう奴はいつだって喧嘩が始まるとさっさと逃げだして、こそこそとかくれてしまうんですよ」
こう言って、最後に指をパチッと鳴らすと、ストライヴァー氏は聞き手たちがみなうなずいている中を、肩をいからしてフリート街へ出て行った。皆が銀行から立ち去った後、ローリー氏とチャールズ・ダーネーは二人だけ机のところに残っていた。
「この手紙をあずかってくださいますか」とローリー氏が言った。「これをどこへ渡したらいいか、ご存じですか」
「ええ、知っています」
「それでは、この手紙はわれわれが届け先を知っているだろうと期待してここ宛てに来たのですが、しばらくここにおいてあったと、説明してくださいませんか」
「そうしましょう。あなたはここからパリへお発ちになるんですか」
「ここからですよ、八時に」
「お見送りにまた戻って来ますよ」
自分自身にたいして、またストライヴァーやその他のほとんどの人々にたいしてひどく落ち着かない気持で、ダーネーは静かなテンプルへできるだけ急いで行き、手紙を開いて読んだ。それには次のように書いてあった。
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パリ、アベイ監獄にて、
一七九二年六月二十一日。
前侯爵閣下
私は長い間村民のために生命の危険にさらされておりましたが、おそるべき暴行と侮辱を加えられて逮捕され、パリまで徒歩で長い旅をして連れて来られたのでございます。途中で非常に苦しい思いをいたしました。それだけではございません。私の家は壊されました――すっかりぶち壊されてしまいました。
私が投獄されましたのも、法廷へ召喚されて(もしあなた様の寛大なるご援助がなかったならば)生命を失うことになりましょうが、それもみな、前侯爵閣下よ、私がある亡命者の代理として彼らに不利な行動をしたという、人民の主権にたいする反逆の罪のためなのだということでございます。私が、あなたのご命令によって、彼らに不利ではない、彼らのためになるようにはからってきたのだと申しましても、無駄なのでございます。亡命者の財産が没収される前に、彼らが滞納していた税を免除したのだと申しましても、私は地代を徴収したことはなく、彼らを法律に訴えたことは一度もないと申しましても、何の役にもたたないのでございます。彼らの唯一の返事は、私が亡命者のために働いたのであって、その亡命者はどこにいるか、と申すのでございます。
ああ、仁慈に富ませられる前侯爵閣下よ、かの亡命者はどこにおられるのでしょうか。私は眠っていてもあの方はどこにおられるかと叫んでおります。私は天に向かって、あの方は私を救い出しに来てはくださらないのでしょうかと尋ねます。返事は何もございません。ああ、前侯爵閣下よ、パリで知られているティルソン(テルソンの誤記)なる大銀行を通じて私のみじめな叫び声があなたのお耳にとどきますように願いながら、この叫びを海の彼方へお送りいたします。
天と、正義と、寛容と、あなたの気高き御名の名誉のために、前侯爵閣下よ、どうか私を助けて解放してくださいまし。私の咎《とが》は私があなたに誠実であったということでございます。おお、前侯爵閣下よ、どうかあなたも私に誠実であってくださいますように! 刻々と破滅に近づきつつあるこの恐怖の牢獄から、前侯爵閣下よ、私が苦しい不幸なご用を勤めた証拠をお送りいたします。
みじめなガベルより
[#ここで字下げ終わり]
ダーネーの心にひそんでいた不安はこの手紙によってたくましい生気を吹き返した。もとの使用人の危急、しかもその使用人の唯一の罪は自分と自分の一族に忠誠をつくしたことだという善良な男の危急が非難するように彼の顔をじっと見つめたので、彼はどうすればいいかと考えながらテンプルをあちこち歩きまわりながら、通行人に見られないように顔をかくすようにした。
彼には、自分があの古い一族の数々の非行と悪評の絶頂をなした行為を憎悪していたために、また叔父にたいして腹立たしい疑惑を抱いていたために、また、自分がもちこたえると思われていたあのくずれかかった建物に良心が嫌悪を感じていたために、自分が充分に始末しておかなかったということが、よく分っていた。彼には、自分がルーシーを愛していたために、自分の社会的な地位を捨てることを急ぎ――それは決して新たに思いついたことではなかったが――それが不完全であったということもよく分っていた。彼には自分がその問題を組織的に解決してゆくべきであって、ずっと指図をすべきであったということが分っていた。そして、そうするつもりでいたのだが、それができなかったのだ、ということも分っていた。
イギリスの自ら選んだ家庭で幸福であったこと、いつも忙しく働かなければならなかったこと、時勢の急変や厄介《やっかい》な問題が次々におこってきて、今週の事件は前の週の未熟な計画をめちゃめちゃにしてしまうし、次の週になるとまた別の事件がおこって何もかもまた新しくなってしまうという有様で、彼は自分がそうした環境の力に負けてしまった――不安を感じないわけではなかったが、それでもますますそれに抵抗する力が強くなるということもなく――ということをよく知っていた。また、彼が時勢を見守りながら行動すべき時をうかがっているうちに、時勢は移り変わり、あがきながら押し進んで行き、ついにその時は過ぎ去ってしまったこと、また、貴族たちは公道や間道を通ってフランスからぞろぞろやって来るし、彼らの財産は没収されたり破壊されたりして、彼らの名前さえ消滅しつつある、ということは、そのために彼を非難するかもしれないフランスの新しい権力者によく分っていると同じように、彼自身もよく知っていたのであった。
しかし、彼はかつて人を虐待したこともなければ投獄したこともなく、租税の支払をむごく取り立てるなどということからほど遠く、自発的にそれを放棄して、自分に好意を持っていない世界に身を投げだして、自分の個人的な地位を獲得し、自分の力で生計をたてていたのである。ガベル氏は疲弊混乱した領地を管理するのに、人民を寛大に扱って、そこにあるものはどんなわずかなものでも――燃料でも作物でも――彼らにあたえるようにと書かれた指令に従った。そして、もちろん、彼はその事実を自分の安全のために、弁解としてまた証拠として述べたのであるから、今それが明らかになっていないはずはないのだ。
そのことはチャールズ・ダーネーが考えはじめていた、自分がパリへ行こうという必死な決意に有利に作用した。
そうだ。昔話にある水夫のように、風と流れが彼を磁石の岩の力が及ぶところまで追い込んだのであって、岩は彼を引きつけていたので、彼はどうしても行かなければならないのであった。すべて彼の心の前に現われるものは、ますます遠く、ますます着実に、この恐ろしい吸引物の方へと彼を押し流して行った。彼がひそかに心配していたことは、不幸な祖国で、悪い手段によって悪い企《たくら》みが遂行されていて、彼らよりもすぐれていると思っている自分が、流血を阻止し慈悲と慈愛を持てと主張しようとしても、その場にいないということであった。半ばは抑えられ、半ばは彼を責めているこの不安を感じながら、彼は、あれほど義務を強く感じている勇敢な老紳士と自分とをするどく比較せずにはいられなかった。(彼には損な)その比較のすぐあとに、彼の感情をひどく害した貴族たちの冷笑が浮かび、つづいて、古い種々の理由から、何よりも下劣で癪《しゃく》に障《さわ》るストライヴァーの冷笑が浮かんだ。その次がガベルの手紙で、死の危険にさらされている罪のない囚人が彼の正義と名誉と名声にうったえた哀願であった。
彼の心はきまった。彼はパリへ行かなければならなかった。
そうだ。磁石の岩は彼を引きつけていて、彼は岩にぶつかるまで船を進めて行かねばならないのであった。しかし、彼は岩のことは何も知らなかったし、どんな危険も、ほとんど予期していなかった。彼は、たとい不完全であろうと、自分がやったことや、やった意図を考えてみれば、彼が現われてその意図を主張した場合、フランスでは深く感謝されるだろうという見方をしていた。そうすると、多くの善良な心がしばしば見る楽観的な蜃気楼なのだが、善い事をしようという輝かしい幻が彼の前にあらわれた。そして彼は、だんだん恐ろしく、狂暴になって行くこの荒れ狂う革命を指導する力が、いくらか自分にあるような幻想まで抱くようになった。
彼は決心をしてあちこちと歩きまわりながら、ルーシーも彼女の父親も自分が行ってしまうまでそれを知ってはならないと考えた。ルーシーには別離の苦しみを味わわせてはならないし、昔の危険な土地のことを考えるのをいつもいやがっている父親には、このことを既に起こったこととして知らせるべきで、いずれともきまらない不安と疑惑の中で知らせてはならないのであった。
彼は忙しくいろいろと考えながら歩きまわっていたが、やがてテルソンへ戻ってローリー氏にいとま乞いをする時間になった。彼は、パリに着いたらすぐ、この年老いた友人の前にあらわれるつもりでいたが、今は自分の意図のことは何も話してはならないのであった。
駅馬つきの馬車が銀行の入口で待っていて、ジェリーは長靴をはき、身仕度をしていた。
「あの手紙は渡しましたよ」とチャールズ・ダーネーがローリー氏に言った。「返事の手紙をあなたにお預り願うことは賛成できませんが、伝言でしたらお引き受けくださるでしょうね」
「引き受けますよ、喜んで」とローリー氏が言った。「危険な返事でないのでしたらね」
「少しも。もっともアベイの囚人なんですが」
「名前は何というのですか」ローリー氏は開いた手帖を手に持って言った。
「ガベル」
「ガベル。獄中の不仕合わせなガベルになんて言伝《ことづ》てするのですか」
「ただ、『彼は手紙を受け取ったから、来るだろう』とだけですが」
「いつ、ということは言わないのですか」
「その人は明日の晩発つことになっています」
「誰ということは言わないのですね」
「ええ」
彼はローリー氏が何枚も上着や外套を着こむ手伝いをして、いっしょに古い銀行の温い空気の中からフリート街の霧の深い空気の中へ出て行った。「ルーシーと小さいルーシーによろしく」ローリー氏は別れぎわに言った。「わたしが帰るまで、みなさんによく気をつけてくださいよ」馬車ががらがらと走り去ったとき、チャールズ・ダーネーは首を振ってあやぶむように微笑した。
その夜――それは八月十四日であった――彼は遅くまで起きていてはげしい思いをこめた手紙を二通書いた。一通はルーシーへの手紙で、自分がパリへ行かねばならない重大な義務があることを説き、やむを得ず彼女に、パリでは自分の身が危険に巻きこまれるようなことはあるはずがないと確信している理由を明かした。もう一通は医師に宛てたもので、ルーシーと愛する子供を彼の手に託し、同じ問題について最も強い自信をもって詳しく説明した。そして、二人に、パリに着いたらすぐ、彼が無事である証拠に手紙を出すつもりだと書いた。
その日、彼は、彼らと一緒に生活するようになってから初めて、彼らの間にいながら隠し事を心に抱いてつらい一日を過ごした。皆がまったく怪しみもしないのに、罪のない嘘をつづけるのは、つらいことであった。だが、いかにも幸福な、多忙な妻を愛情をこめてちらと見ただけでも、彼は自分に差し迫っていることを話してはならないと心を強くするのであった(妻の静かな助力を受けずに何かをするのはひどく変な気持だったので、彼は半分までうちあける気持になっていたのである)。そしてその日はまたたく間に過ぎた。夕方早く彼は、じきに帰るといつわって(約束があって出かけなければならないと嘘をついた。だが彼は衣類を入れた旅行カバンを用意して隠しておいたのだ)、ルーシーと、それにおとらず大切な同じ名前の子供を抱きしめた。そして、重苦しい街の重い霧の中へそれよりも重い心を抱いて出て行った。
今や、見えざる力はぐんぐん彼を引き寄せていた。そして、潮流も風もみなその力の方へ強く、真っ直ぐに向かっていた。彼は二通の手紙を信用のできる門番に託し、夜半の三十分前に渡してくれ、それより早くなくと頼んでおいて、ドーヴァ行の馬に乗り、旅を始めた。「天と、正義と、寛容と、あなたの気高き御名の名誉のために!」この哀れな囚人の叫びこそ、彼がこの世で愛するものをみな後に残して磁石の岩に向かって漂って行ったとき、くじけようとする彼の心をはげましたのであった。