クリスマス・カロル
ディケンズ作/安藤一郎訳
目 次
第一節 マーレイの亡霊
第二節 第一の精霊
第三節 第二の精霊
第四節 最後の精霊
第五節 終末
解説
年譜
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著者はしがき
この小さな幽霊物語には、読者のかたがたがご自身にも、おたがい同士にも、クリスマスの時節にも、さては作者の私にもごきげんを損じることのないような、ある観念の幽霊を出現させようと努めました。
どうか、その幽霊本が皆さんの家々にも愉しくあらわれて、だれもそれを追い払おうと思うことがないように。
一八四三年十二月
チャールズ・ディケンズ
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第一節 マーレイの亡霊
まず話のはじめから言うと、マーレイは死んだのである。そのことには、少しの疑いもない。マーレイの埋葬の登記簿には、牧師と教会の書記と葬儀屋と、それから喪主が署名した。スクルージが署名したのである。スクルージの名前は、彼がペンを取って署名するどんなものにも、取引所では有効であった。
マーレイ老人は、扉の鋲釘《びょうくぎ》のように、完全に息の根が止まってしまったのだ。
ところで、ちょっと聞いてください! こう書く私は、鋲釘になにか特別に死んだところがあることを、自分の経験から知っているなどと申すわけではない。私としては、取り引きのうちで一番死んでいる(売れない)金物類として、棺釘をあげたいところである。しかし、私たちイギリス人の祖先の知恵は、こういう喩《たと》えの中にひそんでいるのである。そこで、私は自分のおろかな手で、それをわざわざかきみだしたくないと思う。もしそんなことをしたら、この国が減びてしまうでしょう。それゆえに、もう一度、はっきりと、私にくり返してこう言わせてください……マーレイは、鋲釘のように、まちがいなく死んだのだ、と。
スクルージは、マーレイが死んだことを知っていたろうか? もちろん、知っていた。知らないなどということが、どうしてあろう? スクルージとマーレイは、何年か、私の知らないくらい長いあいだ、一緒に仕事をしてきた。スクルージは、マーレイの唯一の指定遺言執行人であり、唯一の遺産管財人であり、唯一の遺産相続人であり、唯一の残余財産受取人であり、唯一の友人で、また唯一の会葬者であった。そのスクルージにしても、この悲しい出来事にまったくしょげてしまうほどでなく、葬式の当日にも、彼は人なみすぐれた商売人ぶりを発揮して、相当|儲《もう》けのある取り引きで、その葬式を大いに盛んにすることを忘れなかったのである。
ここでマーレイの葬式のことが出たので、私は、話を始めのほうへもどしましょう。マーレイが死んだことには、疑いがない。これは、はっきりと呑みこんでおいてください。そうでないと、私がこれから話そうと思う物語からは、何も驚くようなことが出てこないのである。もしハムレットの芝居が始まる前に、ハムレットの父が死んだことを私たちが十分に知っていなかったならば、ハムレットの父が夜、東風に乗じて、城壁の上をぶらぶら歩くということに何の意味もないわけで、それはだれか中年の紳士が、日が暮れてから、風のよく吹くところ……まあ、たとえば聖ポール寺院付近へ、それもただうすばかの息子をおどかしてやろうと、突然出かけて行くのとそう変わりはないのですから。
スクルージは、マーレイ老人の名前を、ペンキで塗りつぶすようなことをしなかった。だからして、それは、倉庫の戸口の上に、幾年も後まで、そのままに残っていた……「スクルージ|&《アンド》マーレイ」と。
会社は「スクルージ&マーレイ」として知られていたのだ。新しい取引先のひとは、ときとしてはスクルージのことをスクルージさんと言うこともあれば、マーレイさんと呼んだりもした。だが彼は、どっちの名前を言われても、それに答えていた。スクルージにとっては、どっちでも同じことだったからである。
おお、それにしても、スクルージときたら! なんというがりがりのけちん坊だったろう! 絞《しぼ》って、ねじって、握りしめて、ひっかき集めてつかんで離さない、強慾の、とんでもない爺《じじい》だった! 固くて尖《とが》っていることは、まるで火打ち石のようで、それも、いくら打金でたたいても豊かな火を出したことがないような火打ち石だ。人にうちとけず、無口で、ひとりぼっちなことは、まるで牡蛎《かき》みたいだった。彼の心の中の冷たさは、その老いた顔かたちを凍らせ、尖った鼻の先をそぎ、頬をしなびさせ、その歩き方までこわばらせていた。またそのため、彼の目は赤く、唇は青くなっていたし、しゃがれたいやな声で、烈しい物の言い方をした。白い霜《しも》が、スクルージの頭にも、眉毛にも、針金のような顎《あご》にもあった。彼は、その持ち前の冷たい温度をどこへでも持って歩いた。夏の土用というときにも、彼は、その事務所を凍らし、そして、クリスマスといったからとて、一度でもそれをやわらげて融かすことがなかったのである。
外界の暑さも寒さも、スクルージにはほとんど影響がなかった。どんな暖かさも彼を温かくすることはできなかったし、また冬の寒さも彼を凍えさせることはできなかった。彼より意地わるく吹く風はないし、降る雪の霏々《ひひ》としてひたすらな激しさも、彼には及ばないし、どしゃ降りの雨だって、彼ほどに情け知らずではなかった。悪い天候も、スクルージのどこに隙を見つけてよいかわからなかった。もっともひどい雨、雪、霰《あられ》やみぞれでも、彼に優っていると自慢できるところはただ一つしかなかった。こういったものはみんな、豊かに「降りそそぐ」ことがよくあるものだが、スクルージときたら、そんなことはとんとなかったからである。
彼が街を歩いていても、嬉しそうな顔で迎えて、「おや、スクルージさん、今日は! 今度はいつ宅《うち》へ来ていただけますか?」などと言うような者は一人もなかった。どんな乞食もスクルージに恵みを求めることなどなかったし、いま何時かときく子供もなかった。また、これこれの所へ行く道はどう行ったらよいか、とスクルージにたずねる人は、男にしろ女にしろ、これまで一ぺんもなかったのである。盲人をひく犬でさえも、スクルージのことを知っているようで、彼がやってくるのを見ると、主人を家の門口や袋小路の奥へひっぱっていくのだった。そして、尻尾をふって、あたかもこう言うようであった……「目が少しも見えなくたって、悪い目を持っているよりはましですよ、ねえ、眼のわるい旦那さま!」
だが、スクルージは、そんなことを気にかけるどころではない! それこそ、彼が望むところだったのである。人生の賑やかな道をおしわけ進みながら、すべて人情といったものを近づきにくくさせておくことが、スクルージにとっては、通人《つうじん》などの間で言う「面白いこと」に当たるのだった。
さてあるとき……一年じゅうでよい日もまたよい日の、ちょうどクリスマス・イブのこと、スクルージ老人は自分の事務室で、忙しく仕事をしていた。冷えびえと寒さが身にしみる天気で、その上、霧が深かった……外の袋小路では、人々がハァハァー言いながら往き来し、手を胸のところで叩き、体を温かくしようと鋪道に足を踏み鳴らしているのが、彼の耳にも聞こえてきた。町の時計は、いま三時を打ったばかりなのに、もうまっ暗になっていた……もっとも、一日じゅう明るい時はなかったのだが……そして、近くにある幾つかの事務所の窓に揺れながら燃えている蝋燭《ろうそく》が、手でさわれそうに濃い、茶色の大気の中に、赤い汚点のように見えた。霧は、あらゆる隙間や鍵穴にまでおし寄せた。また外では非常に濃くたちこめているので、袋小路はとても狭いものなのに、その向こうにある家なみが、まるで幻のようにぼやけていた。黒ずんだ雲が低くたれ下がってきて、何もかもおぼろにしてしまうのを見ると、どうやら「自然」の神がすぐ近いところにいて、大がかりにもうもうとした雲をまき起こしているのではないかと思われるくらいだった。
スクルージの事務室の戸はあけてあって、むこうの陰気な小さな部屋、ちょっと水槽《タンク》のようなところで手紙を書き写している書記に、始終目をくばることができるようにしてあった。スクルージのところには、ほんの少しばかりの火があった。だが、書記のところにある火ときたら、もっともっと小さなもので、石炭一かけらとも見えるくらいだった。けれども、書記は新しく火をつぐことはできなかった。というのは、石炭入れはスクルージが自分の部屋においていたからである。そして、書記がシャベルを持ってそこへ入っていくといつも、この主人は、「わしと君はどうしても別れなければなるまい」と言うのだった。そこで、書記は、自分の白い毛の襟巻を着け、蝋燭の火で温まろうとした。だが、彼は、たくましい空想力をもった人聞ではないので、そんなことをしても、何の役にもたたなかったのである。
「叔父《おじ》さん、クリスマスおめでとうございます!」とほがらかな声がした。それは、スクルージの甥《おい》だった。彼はふいに叔父のそばへあらわれたので、スクルージはその声で彼が来たことに初めて気がついた。
「何を、くだらんことを!」とスクルージは言った。
このスクルージの甥は、霧と凍る寒さの中を急いで歩いてきて、体がほてっているので、どこからどこまで赤く熱していた……赤みをおびた美しい顔、目がきらきら輝いて、出る息はポッポと湯気になった。
「クリスマスがくだらないって、叔父さん!」とスクルージの甥は言って、「まさか、本気でおっしゃっているんじゃないでしょうね?」
「本気で言っているんだよ」とスクルージ、「クリスマスおめでとうだって! お前におめでたがる権利がどこにあるんだい? おめでたがる理由がどこにあるんだい? お前は貧乏じゃないか」
「それじゃあ、ね」と甥は、陽気に言い返して、「叔父さんに陰気くさくしている権利がどこにあるんです? ぶっちょう面《づら》する理由がどこにあるんです?叔父さんは金持ちじゃありませんか」
スクルージは、とっさによい返事も出てこないので、また「何を」と言い、それから「くだらんことを!」と罵《ののし》った。
「まあ、叔父さん、怒らないでください」と甥が言った。
「こんなばかどもの多い世の中に生きていたら、怒らんわけにはいかんじゃないか! クリスマスおめでとうだって! クリスマスおめでとうも糞《くそ》もあるもんか! クリスマスはお前にどういう時かね? 金もないのに、勘定を払わなければならん時じゃないか。一つ年をとるということを知るだけで、一時間だって別に金持ちになることはない時じゃないか。また、帳簿の清算をして、その中のどの項目もまる損だということが十二か月の総締《そうじめ》でわかる時じゃないか。そうだろう?」
そこでスクルージはぷんぷんおこった調子になって、「もしわしが自分の思うとおりにできるのだったら、|クリスマスおめでとう《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、などとほざいて歩きまわるばか者どもは残らず、ご馳走のプディングといっしょに煮てしまい、そいつの心臓にヒイラギの枝〔クリスマスのプラム・プデイングは、上にヒイラギの葉がのせである〕を突きさして埋めてやるぞ。それでちょうどいいんだ!」
「叔父さん!」と甥はそれをおさえるように言った。
「甥よ!」と叔父が厳しく言い返して、「クリスマスは、お前の好きなように祝うがいい。その代わり、わしにはわしの好きなように祝わしてくれ」
「祝わしてくれって!」と甥は、おうむ返しに言って、「だって、叔父さんはお祝いはしないんでしょう」
「それじゃあ、うっちゃっておいてもらおう。お前はさぞクリスマスでうんと得《とく》をすることだろうよ! これまでも、いろいろと得をしてきたことだろうな」
「世の中には、自分が得をしようと思えばそうもできたのに、じっさいには何の得にもならなかったようなことは、たくさんありますよ」と甥が言った……「クリスマスもその一つです。けれどもぼくは、クリスマスがやってくると……その神聖な名と由来に対する尊敬の念とは別に(クリスマスに属しているものを、それから切り離して考えることができるとすればですね)……いつもこれはよい時節だなと、本当に考えるんですよ。やさしい、寛大な、情にあつい、楽しい時節なのです。男も女もみんな一つになって、閉じきった心をすっかり開いて、自分より身分の低い人々を、おのおの違った旅路を行く別の人種ではなく、墓場まで行を共にする本当の道づれと考えるようにおもわれる。一年の長い暦《こよみ》の中で唯一の時だと思います。それですから、クリスマスだからといって、金や銀のかけらだって自分のふところに入ったことはないんですが、叔父さん、僕はクリスマスで得をしてきたと信じています。これからも得をするでしょう。だから、ぼくは言います……神よ、クリスマスを祝福したまえ!」
水槽《タンク》の中にいる書記は、ここで思わず拍手をした。だが、すぐに自分の不作法に気がついたので、てれかくしに暖炉の火を突っついて最後のかすかな炎を永久に消してしまった。
「もう一度、手をたたいてみろ、|きさま《ヽヽヽ》はクリスマスを祝うかわり、自分の職を棄《す》てなければならんぞ」とスクルージは書記に言い、今度は甥に向かって、「お前さんはなかなかの雄弁家だよ。国会議員にならんのがふしぎだのう」
「まあ、叔父さん、怒らないでください。ねえ、どうか明日うちへ晩ご飯を食べに来てください」
スクルージは、とんでもない、お前など悪魔に食われてしまえ、と言った。たしかに、そういう言葉を口にしたのだ。そういう罵《ののし》りをはばからずに言い放ったのであった。
「でも、どうしてですか?」と甥は、大きな声で、「どうしてですか?」
「お前はなぜ結婚したんだい?」とスクルージが言った。
「どうしたって、恋愛をしたからですよ」
「恋愛をしたからだって!」とスクルージは、世の中におめでたいクリスマスよりもっとばかげたものは、これ一つしかないと思っているかのように怒鳴った……「では、さようなら!」
「あの、叔父さん、あなたは僕が結婚する前にもけっしてお出でになりませんでしたね。だから、いまお出でにならない理由として、そういうことおっしゃらなくてもいいでしょう?」
「さようなら!」
「僕は叔父さんから何ももらおうとは思いません、叔父さんには何も求めませんよ……それで、どうしておたがいが仲よしになれないんでしょう?」
「さようなら!」
「あなたがそんな頑固な態度をおとりになるのは、本当に心から残念に思います。ぼくが直接叔父さんと争いをしたことはこれまで一度もありませんよ。それでもクリスマスに敬意を表して、仲よくしようとしてみたんです。ぼくは自分のクリスマスの気分を最後までもちつづけますよ……それでは叔父さん、クリスマスおめでとう!」
「さようなら!」
「それから、よい新年を迎えますように!」
「さようなら!」
それでも、スクルージの甥は、怒ったこと一つ言うでもなく、部屋を出ていった。彼は、外側の戸のところで足をとめ、書記にクリスマスの時節がら、挨拶をした。書記は、寒さで体は冷えてはいたが、心はスクルージよりも温かった……彼はそれに真心をこめて返礼したのである。
「ここにもまた一人いるな」とスクルージは、それを聞きつけて言った……「わしの書記だ、一週十五シリングで、妻子があって、クリスマスおめでとうなどと言ってやがる。こうなると、わしは気狂い病院へ行きたくなるわい」
甥を外へ出すと、この気狂いのところに、新しい二人の人間が入ってきた。彼らは、見た目に感じのいい、堂々とした紳士で、いま帽子を取って、スクルージの部屋に立っていた。二人は、名簿のようなものと書類を手にして、スクルージにお辞儀をした。
「スクルージ&マーレイ会社ですね」と紳士の一人は、名簿を見ながら言って、「失礼ですが、あなたさまはスクルージさんでしょうか、それともマーレイさんでしょうか?」
「マーレイ君はもう七年前に死んでいますよ。七年前の今晩、死んだのです」
「それでは、マーレイさんの鷹揚《おうよう》なお気前は、共同経営者であとに残っていられる方が代わりにお示しになることでしょうな」紳士はそう言って、自分の委任状をさし出した。
そうに違いなかった、というのは、スクルージとマーレイは、二人よく似た心の持主だったからである。「鷹揚なお気前」などという、気味の悪い言葉を聞くと、スクルージは眉をひそめ、頭をふって、その委任状を返した。
「スクルージさん」と紳士は、ペンを取って言った……「このおめでたい時節には、たいへん困っている貧乏な人々に、わずか少しでも必要なものを贈ってやることが、とりわけ望ましいのでございます。幾千という人々があたりまえの必要物にこと欠いています。また、何十万という人々があたりまえの楽しみに恵まれていないのです」
「監獄はないのかね?」とスクルージがきいた。
「監獄はたくさんあります」と紳士は、ペンをおいて言った。
「それから、救貧院は? まだ活動しているかね?」とスクルージはきいた。
「活動しております、いまでも」と紳士、「ああいうものはないと申し上げられるとけっこうなのですが」
「それでは、踏車〔獄中で罪人を罰するのに用いた〕も貧民救助法も大いに活動しているんだね?」
「両方とも大繁昌でございます」
「ああそうかね。わしは、あんたが初めにおっしゃったことから、何かその二つの有益な活動を妨げるようなことが起こったのかと思ったんだが、それを聞いて安心しましたよ」
「そういうものは、多くの人々にキリスト教徒にふさわしい精神と肉体の糧《かて》を与えるということがほとんどないと考えますところから、私たち二、三の者は、貧民に肉、酒類、燃料を買って贈る基金を集めようと努めている次第でございす」と紳士は答えて、「私たちがこの時節を選びましたのは、いまはこの時節のなかでも、特に持たぬ者のことが強く感じられると共に、持てる者が大いに喜ぶときだからでございます。ご寄付はどのくらいいただくことに記しましょうか?」
「何も書かんでよろしい!」とスクルージ。
「すると、匿名《とくめい》にすることをおのぞみでございますか?」
「わしのことは放っといてもらいたい」とスクルージは言って、「わしが何をのぞむかとお聞きのようだから、それがわしの答えさ。わしはクリスマスに自分でばか騒ぎをせんから、怠け者の連中がばか騒ぎをするのに金を出すわけにはいかない。さっき言った二つの機関の維持には、わしは助力する……その二つでも相当金がかかるわけだね。それで、ひどく困っている連中はそこへ行けばよろしい」
「そこへは多くの人々が行けません。それに、多くの人々はそんなところへ行くよりは死んだほうがましだと思っているでしょう」
「死んだほうがいいと思っているのならば、さっさと死んで、過剰な人口を減らすんだね」とスクルージは言って、「それに……失礼だが……それはわしにはわからんことだよ」
「ですが、おわかりになれることなのです」と紳士。
「そりゃあ、わしの知ったことじゃない」とスクルージは答えた……「自分の仕事を理解するだけで、ひとはもう十分なので、他人のことにくちばしを入れる余裕はない。わしはいつも自分の仕事でいっぱいだよ。お二人とも、さようなら!」
二人の紳士は、自分たちの主旨をこれ以上押しても無駄だということをはっきり知ったので、そのままひき下がった。スクルージは、また事務を続けたが、自分が少しえらくなったような感じがして、ふだんよりは浮き浮きした気分になった。
その間に霧と闇が非常に濃くなってきたので、人々はゆらゆらと燃える松明《たいまつ》を持って走りまわり、馬車の前に立って道を案内させてくれと申し出るのだった。教会の古びた塔(そのしゃがれた音を出す鐘は、いつも壁に開いたゴシック式の窓からスクルージの方をこっそりと見ていた)は、もう見えなくなって、かさなった雲の中で、一時間ごとと十五分ごとの鐘を打ったが、そのあとにはふるえる余韻が響くのであった……まるで、高みにあるあのこごえた顔の歯がガチガチ鳴っているように。
寒さがひどくなってきた。大通りの、路次広場の角で、労働者が幾人かでガス管の修繕をやっていて、火鉢にあかあかと火を燃やしていた。そのまわりにはボロを着た大人や子供が集まって、手を温めながら、うれしくてたまらないというふうに、炎の前で目をパチパチさせていた。水道栓は誰も注意を向けずに放ってあるので、流れあふれた水は、不機嫌そうに凍りかたまって、やがて厭世的《えんせいてき》な氷になってしまった。実のついたヒイラギの小枝が、窓のなかの灯の熱でパリパリはじけているような多くの店の明るさは、通る人々の青白い顔が赤らむくらいだった。鳥屋や食料店の商売は、すばらしい冗談ごとのようになった……まるで華やかな見世物みたいで、そこに売り買いといったことに関係のある退屈な原則が働いているなどとは、とうてい信じられなかった。
城砦のように宏大な官舎にいる市長は、市長の家にふさわしいようにクリスマスのお祝いをやれと、何十人という料理人や膳部係りに命じた。また、前の月曜日に酔っぱらって街で乱暴したというかどで、市長から五シリングの罰金に処せられた、貧弱な裁縫師さえも、彼のやせた女房が赤ん坊を抱いて、牛肉を買いに外へ走り出ていったあと、自分の屋根裏部屋で、明日の用意のプディングをかきまわしていた。
霧はなお濃くなり、いっそう寒くなった。肌をさし、体にとおり、噛《か》みつくような寒さだった。もしもあの聖僧ダンスタン〔十世紀頃のグラストンベリの大修道院長で鍛冶師の守護者。彼は、聖杯をつくっているときに、悪魔が人間に化けてきて誘惑しようとしたので、ふいに赤熱した火ばさみで悪魔の鼻をおさえると、悪魔が大きな悲鳴をあげたという伝説がある〕がいつもの武器の|やっとこ《ヽヽヽヽ》をふるうかわりに、悪魔の鼻をこういう天気の寒さでちょっとつまんでやったならば、悪魔は、きっとどえらい唸《うな》り声をあげたであろう。ところで、犬が骨をかじるように、飢えた寒さがかじりねぶった貧弱な鼻の持主の若者が、スクルージの戸の鍵穴のところに屈み、クリスマスの歌で大いに喜ばせようとした。だが、最初の文句……
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陽気なおかたに恵みあれ!
なんの憂《うれ》いもないように……
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とうたいだすと、スクルージは、えらい勢いで物差しを握ったので、この歌い手は恐れをなして逃げてしまった。あとはその鍵穴には、霧が入りこむか、またもっとスクルージと性の合った氷が張りつめるだけであった。
ついに、事務所をとじる時刻が来た。スクルージは、いやいやながら、丸腰掛けから下りて、「水槽《タンク》」の中で待ちかまえていた書記に、無言で仕事の終ったことを知らせた。書記は、すぐにろうそくを消して、帽子をかぶった。
「君は明日まる一日、休みたいんだろうね?」
とスクルージは言った。
「ハァ、もしよろしければ」
「よろしいこともないし、また公平ではないね」とスクルージは言って、「わしがそのために二シリング半さし引くとしたら、君はきっとひどい待遇を受けていると思うだろうな?」
書記は、かすかに笑った。
「それでも、何もしない者に一日だけの給料をわしが出したとしても、君はまさかこのわしのほうがひどい目にあっているとは思わんだろう」
書記は、一年にたった一度のことですからと言った。
「毎年十二月の二十五日がくるたびに、ひとの懐から金を掠《かす》めるというにしては、まずい言い訳《わけ》だ!」とスクルージは、外套のボタンを顎《あご》まで留めながら、「だが、君はどうしてもまる一日休みたいんだろうね。次の日は、それだけ朝早く来ることにしたまえ」
書記は、そうします、と言った。そして、スクルージは、ぶつぶつ言いながら出ていった。事務所はたちまちのうちに閉められた。そして書記は、彼の白い襟巻の長い端を腰の下までたらし(彼には見せびらかすような外套がなかったから)、クリスマス・イブを祝うために、子供たちの列のはしに何回となくくっついて、コーンヒルの凍った道を歩き、それからできるだけ急いで、キャムデン・タウンの方へ走って行った……うちで目かくし遊びをしようと思って。
スクルージは、いつも行きつけの陰気な料理店で、陰気な晩飯《ばんめし》を食べた。そして、新聞を全部読んでしまうと、あとの時間は、自分の銀行通帳を見て過ごし、それから家に寝に帰った。彼は、前にはあの死んだ共同経営者のものだった、幾つかの部屋に住んでいた。暗い続き間で、空地の突きあたりにある、陰気な建物の中にあった……この建物はといえば、そんなところに一つだけぽつんとあるのがまったくおかしいようなもので、その家がまだ小さかったとき、他の家たちと
かくれん坊をして、そこへ走りこんだのだが、また出ていく道を忘れてしまい、そのままそこにいることになったんだろう、と空想したくなるくらいだった。いまはもうだいぶ古くなっていて、陰気くさかった。というのは、そこには、スクルージのほか、誰も住んではおらず、他の部屋はみな事務所に貸してあったから。空地のところは非常に暗くて、そこの石を一つ残らず知っているスクルージでも、両手でさぐって歩かなければならなかった。家のまっ暗な古い入口のあたりには、霧が濃くたちこめ、寒さが厳しく迫っているので、あたかも「天気の神」がその敷居のところに腰かけて、じっと悲しい物思いに沈んでいるようであった。
さて、その扉の叩き金は、ただそれが非常に大きいというだけで、とくに変わったところがなかったことは、事実である。それからまた、スクルージがそこに住むようになってからずっと、朝夕にその叩き金を見ていたことも、事実である。さらに、スクルージという男は、ロンドン市に住むあらゆる人々……遠慮なく言えば、市政当局、市参事会、同業組合の人々まで含んで……と同じように、いわゆる空想力というものをあまり持っていなかったことも、事実である。また、あなた方は、こういうことも心にとどめておいていただきたいのです……スクルージは、その日の午後、七年前に死んだ共同経営者のことをちょっと口にしたが、そのあと、マーレイのことはちょっぴりとも考えなかったということである。その上で、次のようなことが起こったのはどういうわけか、説明できるひとがあったら、説明してください……というのは、錠《じょう》のなかに鍵を突っこんだスクルージが|叩き金《ノッカー》を見ると、それはいつどう変化した様子もないのに、そこに見たのは叩き金ではなく、マーレイの顔だったからである。
マーレイの顔。それは、空地にある他のいろいろな物のように、奥深いかげの中にあるのではなくて、ちょうど暗い穴ぐらにある腐った蝦《えび》のように、まわりに気味わるい光をおびていた。その顔は、怒ってもいなかったし、恐ろしいものでもなかった。マーレイが昔そうだったように、スクルージを見つめて、幽霊らしい額に幽霊らしい眼鏡をのっけていた。髪は、息か熱気に吹きかけられたように、妙に逆だって、目は、大きくみひらかれてはいるが、少しも動かなかった。そういうことと、その鉛色の青さが顔を恐ろしいものにしていた。だが、その恐ろしさは、その表情にあるというよりは、顔ではない、むしろ顔とまったく関係のないところにあるようにおもわれるのであった。
スクルージがこの不思議なものにじっと目を注いでいると、それはまた|叩き金《ノッカー》になった。
この場合彼がびくっともしなかったとか、あるいは、子供のときからまったく覚えたことのない恐ろしい感じに、彼の血が反応しなかったと言うならば、それは本当でない。けれども、彼は、一度手を放した鍵に、また手をかけて、すばやく回して中へはいり、蝋燭をつけた。
彼は、扉をしめる前に、ちょっと決しかねるように、たたずんでいたことは確かである。また、マーレイの弁髪《べんぱつ》が玄関のなかへ突き出しているのを見て自分がびっくりするのではないかと、なかば覚悟しているように、まず扉のうしろを用心ぶかく見たことも確かである。だが、扉のうしろには、叩き金を留めたネジとネジ止めがあるほか、何もなかった。そこで、彼は、「ヘン! ばかな!」と言って、扉をバタンとしめたのであった。
その音は、雷《かみなり》のように家じゅうに、響きわたった。上のあらゆる部屋、下の葡萄酒商の穴ぐらにある酒樽《さかだる》すべてが、それぞれ別々な反響をするようにおもわれた。スクルージは、反響などで驚くような男ではなかった。彼は、扉に鍵をかけて、玄関の間を横ぎり、階段をのぼって行った……しかも、ゆっくりと、のぼりながら蝋燭の芯《しん》を切っていった。
あなたがたは、古い立派な階段の上へ六頭立ての馬車を駆って登るとか、あるいはまた、議会を通ったばかりの悪い新法案の中を走らす〔法令の穴をくぐる、という意味〕とか、ぼんやりと言うことはできるかもしれない。ところで、いま私は、霊枢車《れいきゅうしゃ》をその階段にのし上げ、それを横ざまにして、車の横木を壁の方に、また霊枢車のうしろの扉を手すりの方にむけても、たやすくのし上げることができたかもしれない、ということを言いたいのである。それだけの広さも十分あり、しかもまだ余地があったから……だから、スクルージが自分の前の暗闇のなかを、霊枢車が上へ昇っていくのを見たように思ったのも、たぶん、そのためであったろう。通りの方から射している、五つ六つのガス燈の光は、玄関をそう明るくしてはいなかったから、スクルージの持っていた蝋燭でも、かなり暗かったということは、あなたにもご想像がつくでしょう。
スクルージは、そんなことを少しも気にかけず、階段を昇っていった。暗闇は安いものだ、だからスクルージは暗闇が好きだった。けれども、入口の重い扉をとざす前に、部屋部屋をまわり歩いて、どこも異常がないかどうか見た。そうしようと思うだけ、マーレイの顔のことが頭の中にあったのである。
居間、寝室、物置部屋。すべて、いつものとおりだった。テーブルの下にも、だれもいない。ソファの下にも、いない。炉の火格子の中の小さな火、おいてあるスプーンと鉢《はち》、炉についた棚の上の薄粥《うすがゆ》を入れた小さな鍋《なべ》。ベッドの下にも、誰もいない。戸棚のなかにも、また、壁にあやしげな格好でかかっている部屋着にも、だれもいない。物置部屋も、いつもと変わらない。古い炉がこい、古い靴、二つの魚かご、三脚のついた洗面台、火かき棒があるばかり。
すっかり確めてから、彼は扉をしめて、鍵をかけた。
ふだんとは違って、二重の錠をおろした。こうして、何かの闖入《ちんにゅう》に用心をかためると、ネクタイをとり、部屋着をつけ、スリッパをはき、寝帽をかぶった。そして、炉の火の前に腰かけて、薄粥を食べようとした。
火はまったく貧弱なもので、こんな寒い晩には、何もならなかった。その間近なところに坐って、こごみかかるようにしなければ、こういう乏しい燃料から、温かい感じを少しでもひき出すことはできなかった。この暖炉は、昔にオランダの商人がつくった古いもので、まわりは風変わりで美しいオランダ・タイルで張ってあり、聖書の物語が絵模様になっていた……カインとアベル、パロの娘、シバの女王、羽根ぶとんのような雲に乗って空からおりてくる天使、アブラハム、ベルシャザル、ソース入れのようなボートに乗って海へ出る使徒たちなど、スクルージの心をひくべき人物の姿は何百となくあった。だが、七年前に死んだマーレイのあの顔が、いにしえの予言者の杖のようにあらわれて、これらすべてを消してしまうのだった。もしもタイルの一つひとつが初めのうちはまっ白で、スクルージの考えのばらばらなきれはしから、その表面に何か絵図を形づくる力をもっていたとしたら、タイルの一つひとつに、マーレイ老人の顔かたちが出ていたことであろう。
「ばかな!」とスクルージは言って、部屋のむこうへ歩いていった。
四、五回ぐるぐる回ってから、彼はまた腰かけた。頭を椅子のうしろへぐっとやると、その目は、部屋につるしてあるベル、いまは使っていないベルにとまった……それは、前に、いまはもう忘れてしまった何かの目的で、建物の一番上にある部屋と通じるようにしてあったのだった。非常に驚いたことには、また、奇妙な、なんとも言いようのない恐怖を感じたことには、彼が見ていると、このベルが揺れだしたのである。はじめは、たいへん静かに揺れているので、ほとんど音をたてなかった。だが、やがてベルは大きな音で鳴りだし、それとともに家じゅうにあるベルがみんな鳴りだした。
これは、ほんの三十秒か一分しかつづかなかったのかも知れないが、一時間ぐらいも長くおもわれた。ベルは、はじめと同じように、いっしょに鳴りやんだ。するとそのあと、ずっと下の方から、ジャランジャランという音がおこった……それはちょうど、だれかが葡萄酒商の穴ぐらいの酒樽の上を重いくさりでもひきずっているようであった。そのとき、スクルージは、化物屋敷の幽霊はくさりをひきずっていると言われていると、前に聞いたことがあるのを思い出した。
穴ぐらの扉が、ドンと音をたててあいた。それから、下の床に、いっそう大きな音がひびくのを聞いた。そして、それが階段をのぼってくる、それから、スクルージの部屋の戸口へ、まっすぐにやってくる……「それにしてもばかげている!」とスクルージ……「わしは本当のことと思わん」
そういうものの、それが止まらずに、重い扉をすうっと抜けて部屋に入り、目の前に来たときには、彼の顔色は変わった。それが入ってくるとたんに暖炉の消えかけた炎は、「あれは知っているよ。マーレイの亡霊だ!」と叫ぶかのように、急に燃え上がるとまた、小さくなった。
同じ顔だ、まったく同じ顔だった。頭を弁髪にし、ふだんのチョッキとタイツを着け、長靴をはいたマーレイ。長靴についている総《ふさ》飾りは、弁髪と同じようにさかだち、また上衣の裾も、頭の毛もさかだっていた。彼がひきずっている鎖は、胴のところに留めてあった。鎖は長く、彼のまわりに、尻尾のようにうねりくねっていて、現金入れ函や、鍵や、南京錠や、台帳や、証書や鉄でつくった重い財布などでできていた(スクルージはこまかに観察したのだ)。マーレイのからだは、すきとおっていた。それで、スクルージの目には、そのチョッキを通して、そのむこうの上衣の二つのボタンが見えるのであった。
マーレイには|はらわた《ヽヽヽヽ》がないとひとが言うのを、スクルージは前にも聞いたことがあったが、彼は、いまに至るまで、それを本当だと思っていなかったのだ。
実際、いまでも本当だとは思っていない。幽霊の奥まで見とおしても、自分の前に立っているのを見ても、その死んだ冷たい目から、ぞっとさせるような感じを受けても、また、その頭から顎《あご》に巻きつけた、たたんだ首まきの地まで(そんなものは前に着けているのを見なかったが)ハッキリと見わけても、それでもなお彼は信じられず、自分の感覚をうたがっていた。
「やあ、どうしたね!」とスクルージは、例の皮肉で、冷たい態度で、「わしに何か用があるのかい?」
「大ありだ」……マーレイの声だ、それに間違いはない。
「あんたはだれだね!」
「わしは|だれだったか《ヽヽヽヽヽヽ》ときいた方がよい」
「それでは、誰|だった《ヽヽヽ》のかね?」とスクルージは、声を大きくして言った……「幽霊にしては気むずかしいね」彼は、ここで「|ちょっと《ヽヽヽヽ》」気むずかしいね、と言いたいところだったが、それよりはもっとぴったりした言い方にしようと、「幽霊にしては」と言いかえてしまったのである。
「この世にいたときは、お前の共同経営者だったジェイコブ・マーレイだよ」
「あんたは……あんたは腰をおろすことができるかね?」とスクルージは不審そうに彼を見ながら言った。
「できるとも」
「では、腰をおろしなさい」
スクルージがそうきいたのは、そのようにすきとおった亡霊が、椅子につくようなことができるかどうか、自分ではわからなかったし、また、亡霊がそうできない場合には、間の悪い言いわけをすることになるだろう、と思ったからである。ところが、亡霊は、暖炉《だんろ》のむこうがわに腰をおろした……それに慣れきっているように。
「おまえはわしのことを本物と思ってないね」と亡霊。
「思っていない」とスクルージが言った。
「わしの実在を証明するものとして、おまえの感覚以外に何を求めようというのかね?」
「わしにはわからない」とスクルージ。
「じゃあ、おまえはなぜ自分の感覚をうたがうのかね?」
「なぜかといえば、感覚にはほんのつまらぬことが影響するものだからさ、胃のちょっとした故障でも、感覚をぺてん師にしてしまう。あんたは、不消化な牛肉の一片かもわからんし、からしの一たれ、チーズの一かけら、なま煮えのジャガイモの一きれかも分からん。あんたは何であるにしろ、墓場《グレイヴ》よりも肉汁《グレイヴィー》に関係が深いんだよ!」
スクルージは、平生は洒落《しゃれ》を飛ばすような男ではないし、またこの場合、心の中にも、おどけるような気持ちはさらになかった。本当のところ、彼は、自分の気の張りをまぎらして、恐怖をおさえる一つの手段として、気のきいたことを言ってやろうと思ったのである……幽霊の声は、彼の骨の髄《ずい》までおののかせていたから。
亡霊のじっと据《すわ》った、ガラス玉のような目にむかって、黙ったまま、いっときでも坐っていたならば、自分はそれですっかり参ってしまうだろう、とスクルージは思った。それに、地獄の風をたえず身のまわりに起こしている亡霊の様子には、なにか非常に恐ろしいものがあった。スクルージは、自分でそれを感じることはできなかったが、それは明らかに事実であった。なぜならば、亡霊はまったく動かないままでいるのに、その髪や上衣の裾や総飾りなどが、竃《かまど》から出る熱い蒸気にでも吹かれているように、依然としてあおられていたからだ。
「この爪揚子《つまようじ》が見えるかね!」とスクルージは、いま言ったような理由から、いそいでまた攻撃のかまえにもどって言った……そして、たとえ一秒でも、その亡霊のじっと動かない視線を、自分からそらそうと思って、そうきいたのである。
「見えるよ」と幽霊が答えた。
「あんたは爪揚子を見てはいないね」
「だが、わしには見えるよ……見ていなくても」
「なるほど!」とスクルージは言って、「わしがこの爪揚子をぐっと呑みさえすればだね……そうすりゃあ、これから一生死ぬまで、わしが自分でつくり出したたくさんの化物どもになやまされるというわけさ。ばからしい、まったくもってばかばかしい話だよ!」
これを聞くと、亡霊は恐ろしい声を出して、その鎖をゆすぶった。その陰惨で凄《すさ》まじい音に、スクルージは、危く気絶しそうになるのをこらえて、椅子にしっかりとしがみついた。それにしても、亡霊が頭にゆわえていた包帯の布を、あたかも室内でそれをつけているのは暑苦しいとでもいった様子で、取りはずしたとたん、下顎《したあご》ががくんと胸までたれ下がったとき、スクルージの恐怖はどんなであったろう!
スクルージは、くたくたと膝をついて、自分の顔の前に両手を握りあわせた。
「勘弁してくれ! おそろしい幽霊、なんだってわしを苦しめるのだ!」
「下俗な心を持った者よ!」と亡霊は答えて、「お前はわしを信じるか、それとも信じないか?」
「ほんとうと思います」とスクルージ……「わたしは思わないわけにいかん。それにしても、なぜ幽霊が地上に出て歩くのか、そしてなぜわたしのところへやってくるのか?」
「人間はだれしも、その心のうちに持っている精霊が仲間の人間の間をあちこちと歩き、あまねく旅をしてまわらなければならないことになっているのだ。それで、もしその精霊が生きているときに出て歩かなければ、死後に出て歩くように定められている。それは世界じゅうをさまよい歩き、そして……ああ、悲しいかな……自分もかつては地上であずかることができ、また幸福に変えることができたのに、いまはもうあずかることもできないものをただ眺めるように運命づけられているのだ!」
ここで幽霊は、また大声をはなち、その鎖をゆすり、おぼろな影の両手をしばりあわせた。
「あんたは体をしばられておいでだね」とスクルージはふるえながら言って、「それはどういうわけなのか、きかせてください」
「わしは自分が生きているときにつくった鎖を身につけているのだ」と幽霊は答えた……「わしはこの鎖の環《わ》を一つずつつなぎ、一ヤード一ヤードと伸ばしていった。そして自分の勝手でそれを巻きつけ、また自分の勝手でそれを身につけた。この鎖の型は、|おまえ《ヽヽヽ》には見おぼえがないかね!」
スクルージは、いよいよひどく身をふるわせた。
「それとも」と幽霊は、なおも問いかけて、「おまえ自身が身につけている頑丈な巻環の重さと長さを知りたくないかね? 七年前のクリスマス・イブには、ちょうどこれと同じくらいの重さで、同じくらいの長さだったのだ。おまえはそれからなお、一生懸命にそれを伸ばしてきたから、いまはとても重い鎖になっている!」
スクルージは、床の上に目をやって、自分が五十|尋《ひろ》も六十尋もある鉄のつなで巻かれているのではないか、と思って見まわした。だが、彼の目には、何も見えないのであった。
「ジェイコブ」と彼は哀願するように、「ジェイコブ・マーレイ老人、もっと話してくれ。わしに慰めになることを言ってくれ、ジェイコブ!」
「慰めになることは、わしは持ちあわせていない」と幽霊は答えた……「エビニーザー・スクルージ、それは別の地方からやってくるものだ、別の種類の人々に、そして別の使いが送りとどけるのだ。それにまた、わしはここで自分の言いたいことを試すわけにいかない。あと少ししか話す時間が残っていないからだ。わしは休むことも留まることもできない、どこかをぶらつくこともできない。わしのたましいは、わたしたちの事務所以外のところへ出て歩いたことがなかった……よく聴け! ……生きているとき、わしのたましいは、わたしたちの金銭勘定をする部屋の狭い世界以外のところへ出て歩いたことがなかった。だからして、これからさき、わしは長い旅をつづけなけれはならないのだ」
スクルージは、いつでも物を考えるときに、手をズボンのポケットに入れるのが癖《くせ》だった。亡霊が言ったことを考えてみながら、彼は、いまもそういうしぐさをしていた……だが、目をあげることもなく、また立ちあがることもなかった。
「その旅は、ずいぶんゆっくりとやってきたんでしょうね、ジェイコブ」とスクルージは、へりくだって、ていねいながら、やはり事務的な言い方で言った。
「ゆっくりだとも!」と亡霊。
「死んでから七年もたっているのに、しかもその間じゅう、旅をしているとは!」とスクルージは考えこんだ。
「その間じゅうずっとさ。休むことも、落ちつくこともない。やむことのない後悔の苦しみだ」
「あなたは早く歩くのですか?」とスクルージがきいた。
「風に乗っていくほど早い」
「七年の間には、ずいぶんと長いみちのりを歩いてこられたんでしょうね」
亡霊は、これを開くと、またもや大声をあげて、夜の静けさの中に鎖を鳴らしたが、その大きな音は、安眠妨害として告発されても無理がないと思われるほどだった。
「おお、囚《とら》われて、縛《しば》られ、二重の鎖につながれた者よ!」と亡霊は叫んで、「この世がよくなって、人びとが十分に利益を受けられるようになるまでは、崇高不滅の人びとが幾時代かにわたって、不断につくした努力も永遠のとこやみに消え去ってしまうのだということを知らないとは。どんなところにせよ、その小さな範囲で、自分にふさわしくはたらいているキリスト教徒のたましいも、ひとのために役立つという自分の大きな使命を果たすには、その一生があまりに短いことを嘆くだろうということを知らないとは! 自分の一生の機会をひとたび誤まったならば、どんなに永いあいだ後悔しても、その償《つぐな》いはできないということを知らないとは! だが、このわしがそうだった! ああ、わしがそうだったのだ!」
「だが、ジェイコブ、あんたはいつも立派な事業家だったじゃないか」とスクルージは、いまの言葉を自分にあてはめて考えだしたので、口ごもりながら言った。
「事業!」と幽霊は、両手をしぼるように握りあわせながら、大声で言った……「人類はわしの事業だった。社会の安寧《あんねい》はわしの事業だった。慈善、慈悲、寛容、博愛、すべてがわしの事業だった。わしの商売の取り引きなどは、わしの事業という大海の中の一滴にすぎなかったのだ」
亡霊は、その鎖を、あたかもそれが自分のむだな悲しみのもとであるかのように、ぐんと腕をのばしてもち上げ、それからまた、どさりと床に投げおろした。
「一年のこの時節に、わしは一番悩み苦しむのだ」と亡霊は言って、「なぜ、かつてのわしは自分と同じ仲間のむらがる中を目をふせて歩いたのだろう? またなぜ、東方の博士たちを貧しい家に導いたあのありがたいベツレヘムの星を仰ぎ見ることをしなかったのだろう? あの光が|このわし《ヽヽヽヽ》を導いてくれるような貧しい家は、どこにもなかったのだろうか!」
スクルージは、幽霊がこんな調子で話してゆくのを聞くと、非常に恐ろしくなって、体ががたがたとふるえてきた。
「よく聴け! わしの時間はもうなくなりかけている」と亡霊。
「聞きます。けれど、どうか、わたしに酷《ひど》くあたらないでください。ジェイコブ、大げさな文句で言いたてないでください! お願いです!」
「わしがこういうお前の目に見えるかっこうで、おまえの前にあらわれたのはどういうわけか、それはわしには言えない。わしは姿こそ見えないが、何日も何日もおまえのそばに坐っていたんだよ」
これはどうも気持ちのよいことではなかった。スクルージは、ぶるぶるとふるえて、額の汗をふいた。
「そういうふうに坐っていることは、わしの苦行の中でもけっしてやさしいほうじゃない」と幽霊は、言葉をつづけて、「わしが今晩ここへ来たのは、おまえがわしのような運命におちいることを脱れる機会と望みがまだあることを教えるためなのだ。わしがわざわざこしらえてやる機会と望みなんだよ」
「あんたはいつもわしには良い友だった。どうもありがとう!」
「おまえのところには、これから三人の幽霊がやってくる」
それを聞くと、スクルージの顔は、さっき亡霊の顎《あご》ががくんと下がったと同じくらいに、低く垂れた。
「ジェイコブ、それがいまあんたがいった機会と望みなんですか?」と彼は、口ごもった声できいた。
「そうだよ」
「わたしは……わたしは来てもらいたくありません」
「その三人の幽霊がやってこなければ、おまえはわしの踏んだ道を避けることはとうていのぞめない。第一の幽霊は、明日|一時《ヽヽ》の鐘が鳴るとやってくる」
「全部いっしょに来てもらって、それですましてもらうことはできないもんでしょうか、ジェイコブ?」とスクルージは、ちょっときいてみた。
「第二の幽霊は、次の晩の同じ時刻に来る。第三の幽霊は、その次の晩、十二時《ヽヽヽ》を打つ最後の音が鳴りやんだときにやってくる。もうわしには会えないと思ってくれ。そして、おまえ自身のためにも、われわれ二人の間に起こったことをよくおぼえておくがよい!」
こう言ってしまうと、霊はテーブルにおいてあった頭布を取って、それを前のように頭に巻きつけた。その包帯で両方の顎が合わさったとき、歯がカチリという音をたてたので、スクルージにはそれがわかった。彼は、思いきってまた目をあげてみた。すると、この超自然の訪問者は、鎖を腕にぐるぐると巻きつけて、自分の前に、まっすぐに立っているのであった。
幽霊は、あとずさりをしながら、スクルージから遠ざかっていった。幽霊が一歩一歩退くごとに窓わくが少しずつ上がっていき、幽霊がそこまで行ったときには、窓はすっかり開いていた。幽霊は、スクルージに、こっちへ来いと手まねきした。そこで彼は、近づいていった。二人の間の距離が二歩ぐらいになると、マーレイは、手をあげて、それ以上そばへ来てはいけないと合図した。スクルージは、足をとめた。
それも、幽霊の言うとおりにおとなしく従ったというよりも、むしろ驚いて、恐ろしくなったからである……というのは、幽霊が手をあげると同時に、スクルージには、大気の中に満ちる雑然とした音が聞こえてきたからだった……悲嘆と後悔のごちゃごちゃにまざった驚き、言いようもない悲哀と自責を含んだ泣き声……幽霊は、ちょっとの間耳をすまして聴いていたが、やがてその大きな哀歌に、自分も声を合わせ、そして、荒涼とした、暗い夜の中へ浮かび出ていった。
スクルージは、好奇心にわれを忘れて、あとを追って、窓のところまで行った。彼は、外を眺めやった。
大気は、そわそわと急ぎながらあちこちとうろつきまわり、動きながらうめき声をたてているたくさんの妖怪《ようかい》に満ちていた。そのどれもどれもが、マーレイの亡霊のように、鎖を身につけていた。ある二、三の者(たぶん、罪を犯した仲間であろう)はいっしょにつながれていた。一つとして縛られていないものはなかった。多くは、その生きているときに、スクルージがよく知っていた者だった。とくに、ある年とった幽霊……白いチョッキをつけ、足くびにとてつもなく大きな金庫をひきずっているのは、スクルージがよく知っていた者だった。その者は下の方に見える、戸口の踏段の上で赤ん坊を抱いたみすぼらしい婦人を助けようと思ってもそれができないといって、あわれな声で泣き叫んでいた。それらすべてのものが持っている不幸は、明らかに人間のことにそれぞれ自分も加わってもっと良くしてやりたいと思いながら、しかもそういう
力を永久に失っているというところにあった。
いったいこれらの化物が霧の中にまぎれたのか、それとも霧がそれらをすっぽりと包んでしまったのか、スクルージにはわからなかった。とにかく、そういうものも、また、幽霊の声も、ともどもに消えてしまった。そして、夜は、彼がさっき家へもどって来たときと同じように、静かになった。
スクルージは、窓をしめて、さっき幽霊が入ってきた扉をよく調べてみた。扉は、彼が自分の手で戸締りしたままに、二重の錠がかかっていて、閂《かんぬき》もちゃんとしていた。彼は、「ばかばかしい!」と言おうとしたが、「ば」といったとたんにやめてしまった。そして、いま受けた感情のたかぶりのためか、昼のかさなった疲れのためか、幽界をちょっと見たためか、マーレイの亡霊と陰気な話をしたためか、それとも夜もおそくなったためか、しきりに休みたくなったので、着がえもせず、そのまま床へ入って、すぐに眠りにおちてしまった……
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第二節 第一の精霊
スクルージが目をさましたときには、あたりはとても暗く、ベッドから外を見ても、透明な窓と自分の部屋の不透明な壁を見わけることがほとんどできないほどだった。彼は、その|いたち《ヽヽヽ》のようにきょときょとした目で、くらやみを見すかそうとしきりに努めていると、そのとき、近所の教会の鐘が十五分鐘を四度打った。そこで、時鐘《じしょう》を聞こうと耳をすませた。
彼のひどく驚いたことには、重苦しい鐘の音は六つから七つ、七つから八つ、そして順々に、正しく十二まで打つと、そこでやんだ。十二時! 床へ入ったときには、二時過ぎだったのだ。時計がどうかしているのだ。きっと氷が機械の中に入りこんだのだろう。十二時だなんて!
彼は、このとんでもない時計の時間を確かめようと、自分の時打ち懐中時計のバネに指をふれた。そのせっかちな、小さい音が十二うって、やんだ。
「おや、まる一日じゅう寝どおして、次の晩の夜ふけまで眠ってしまったなんていうはずはない。また、太陽に何か変わったことが起こって、今が正午の十二時だなんていうこともあるまいて!」
こう考えると、じっとしていられなくなって、スクルージは、寝床から這《は》い出して、手さぐりで窓のところまで行った。何か見ようとするにはまず窓に凍りついたうす氷を、部屋着の袖でこすって取らなければだめだった。また、そうやっても、あまりよく見えなかった。彼がやっと見わけられたのは、外はまだ霧が非常に濃くて、ひどく寒いということ、それから、あちこち走りまわって大騒ぎしている人々の物音は、少しも聞こえないということだけであった……もし夜が明るい昼を追いはらって、この世界をすっかり占領してしまったのだとすれば、そういう物音がどうしても起こっているはずだった。だが、これは、大助かりだというものであった。なぜならば、もしかぞえる日がなくなったら、「この第一振出為替手形一覧後三日以内にエビニーザ・スクルージまたはその指図人に支払うべし」云々《うんぬん》といったことは、まるでアメリカ合衆国の担保と同じように信用が薄くなるだろうから。
スクルージは、また寝床へ入った。そして、考えて、また考えて、またまた考えたのだが、どうしてもわけがわからなかった。考えれば考えるほど、いよいよわからなくなった。そして、何も考えまいと思えば思うほど、よけいに考えないわけにいかなくなった。
マーレイの亡霊は、いたく彼の心を悩ませた。とくと頭で考えぬいたあげく、あれはみな夢だったのだと胸のなかで決めるごとに、彼の心は強いバネが放たれたように、また初めの出発点に飛びかえって、「果たして夢だったのか、それとも夢ではなかったのか?」という同じ問題を、もう一度やりなおすのであった。
こういう状態のまま、スクルージは、鐘が十五鐘を三つ鳴らすまでじっと横たわっていた。が、そのとき、一時をうつと第一の幽霊がやってくる、とマーレイの幽霊が言ったことを不意に思いだした。彼は、その時間が週ぎるまで、眠らないでいることにした……彼がもはや眠れないことは、天国へ行けないのと同じであることを思えば、これは、たぶん、いまのスクルージにとっては一番賢い決断であったろう。
それからの十五分は、非常に長くて、スクルージは、自分が知らないうちに|うとうと《ヽヽヽヽ》として、時計の音を聞き逃したのにちがいないと、一度ならず思ったほどであった。ついに、その音がじっとそばだてた耳に、鳴りだした。
カン、カーン!
「十五分過ぎ」とスクルージは数えながら言った。
カン、カーン!
「三十分過ぎ」
カン、カーン!
「十五分前」
カン、カーン!
「れいの時間だ」とスクルージは勝ちほったように、「何も起こらないじゃないか!」
彼はまだ時鐘が鳴りださないうちにこう言ったのである。そのあと、低い、こもった、うつろな、重苦しい一時を打った……そのとたん、部屋にキラリとひらめくものがあって、ベッドのとばりがひき開けられた。
ベッドのとばりを横へ引いたのは、確かに、一つの手であった。足の方にあるとばりでもなく、背の方にあるとばりでもなく、顔のまん前にあるとばりである。彼のベッドのとばりは、横へひかれたのだ。そこで、スクルージは、飛び起きて半ずわりのかっこうになったとたん、いまとばりをひいた、この世のものと思われぬ奇怪な訪問者とぴたりと顔を突きあわせてしまった。それも、いま私があなたがた読者にむかっていると同じくらいに接近していた……私は、精神の上では、まったくあなたがた読者のすぐ間近なところに立っているわけですから。
それは、奇妙な姿であった……子供に似ていた。だが、子供というよりは、むしろ老人に似ていて、それも何か超自然的な媒介物《ばいかいぶつ》を間において見るように、こちらの目からだんだん遠のいていって、ついに子供の大きさにまで縮んでしまったというかっこうであった。その頭と背にたれさがっている髪は、老人のようにまっ白だった。それなのに、顔には皺《しわ》ひとつなく、肌は若い盛りのようにつやつやとしていた。両腕は非常に長く、筋肉が隆々《りゅうりゅう》としていた。手も同じく、並々ならぬ握力《あくりょく》を持つようにみえた。脚は、とてもほっそりとしていて、手と同じように、むき出しであった。この怪物は、純白の外衣を着て、腰につやのある帯《ベルト》をつけていたが、その帯のつやはたいへん美しかった。手には、みずみずしい緑のヒイラギを持っていた。しかも、着物は、ヒイラギという冬のしるしとは奇妙に矛盾して、夏のいろいろな花で飾ってあった。
それにしても、一番ふしぎなことは、その幽霊の頭のてっぺんから煌々《こうこう》とした明るい光が噴き出していることで、そのためにいま言ったようなもののすべてが目に映るのであった。それで、幽霊がもっと活気のないときには、きっといま腋《わき》の下にかかえている大きな消燈蓋《しょうとうぶた》を帽子の代わりにかぶるのだろうと思われたのである。
とはいうものの、スクルージがしだいに落着いてじっと見ていると、それさえも、幽霊の一番ふしぎな特徴ではなかったのである。というのは、その帯《ベルト》は、いまここがピカピカ光って輝やいたかと思うと、今度は他のところが輝やき、ある瞬間に明かるかったところは、次の瞬間には暗くなるのであった。そこで、幽霊の姿そのものは、はっきりしたところが絶えず移り動いていた……いま一本腕の化物になったかと思うと、次には一本脚になり、また二十本脚になり、今度は頭のない二本脚になり、さては胴のない頭だけになったりした。そして、その消えていく部分は、濃い闇《やみ》にすっかり溶けてしまい、輪郭がまったく見えなくなった。そして、こういうありさまに驚いているうちに、姿がまたもとのように鮮やかに、はっきりとあらわれてくるのだった。
「あなたは、わたしが前においでになると聞いていた精霊ですか?」とスクルージはきいた。
「そうだよ!」
その声は、静かでおだやかだった。ただ奇妙に低くて、すぐそばにいるようではなく、少し離れているようであった。
「あなたは、どなたでどういうかたですか?」とスクルージ。
「わたしは|過去のクリスマス《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》の幽霊だよ」
「ずっと昔のですか?」とスクルージは、その小人のようなからだに目をとめながら、きいた。
「いや違う、お前さんの過去だよ」
スクルージは、もしだれかにそのわけをきかれても、たぶん、そのわけは自分でも説明できなかったであろうが、とにかく、その精霊がれいの帽子をかぶっているところを見たいと、そのとき、とくに感じたのであった。そこで、彼はどうか帽子をかぶっていただきたいと言った。
「なんだって!」と幽霊は大声で言って、「おまえさんは、わたしの与える光を俗人の手ですぐにも消したいと思うのかね? この帽子は俗衆の我慾がつくったもので、わたしに強いて永い年月の間、それを額まぶかにかぶるようにさせたのだ……おまえさんもその一人だが、それでもう十分じゃないか!」
スクルージは自分は、けっして悪い気はなかったので、また、これまでどんなときにも、故意に精霊の「帽子をつぶす」ようなことをした覚えはありませんと、恭々《うやうや》しく言った。それから思いきって、どういうご用でここへいらっしゃったのかときいてみた。
「おまえさんの安泰《あんたい》だよ!」と幽霊が言った。
スクルージは、それはたいへんありがたいことです、とお礼を言ったが、内心では、それなら一晩そっと寝かしておいてもらったほうがもっとありがたいのに、と思わずにはいられなかった。精霊は、スクルージの考えていることをちゃんと察しとったものに相違ない、というのは、すぐにこう言ったから……
「じゃあ、おまえさんの教化というところさ。いいかね!」
精霊は、そう言いながら、強い手をさし出して、スクルージの腕をやわらかく握った。
「立ちなさい! そして、わたしといっしょに歩きなさい」
このときスクルージのほうで、外を歩くには天気も時刻も都合が悪いと言ったところで、また、寝床はあたたかいが寒暖計は氷点をぐっと降《くだ》っていると言ったところで、また、自分はスリッパと部屋着と寝帽《ナイトキャップ》といったものしか身につけていないと言ったところで、また、ちょうどいま風邪をひいていると言ったところで、もうなんの役にもたたなかったであろう。幽霊の握り方は、婦人の手のように柔らかであったが、どうしてもそれを拒《こば》むことはできなかった。スクルージは立ち上がった。だが、精霊が窓の方へ向かってゆくのを見ると、哀願をこめて、その上衣をぎゅっとつかんだ。
「わたしはただの人間です。ですから下へ落ちてしまいます」こうスクルージは訴えた。
「わたしの手をちょっと|そこ《ヽヽ》へ当てていなさい」と精霊は、スクルージの胸に手をおきながら、「そうすれば、おまえさんはもっと危ないときでもちゃんと支えられているんだよ」
そう言っているうちに、二人は、部屋の壁をすっと抜けた。そして、両側に畑のひろがる田舎道の上に来ていた。都会はすっかり消えてしまい、その影も形もなかった。それといっしょに、暗闇も霧もなくなっていた……そこは、晴れわたった、寒い冬の日で、地上には雪がつもっていた。
「これはまあ!」とスクルージはあたりを見まわして両手を握りあわせた……「私はここで育ったんです。子供のときはここにいたんです!」
精霊は、スクルージをやさしく見つめていた。その柔らかな手の感じは、軽くてほんの瞬間的なものだったが、スクルージには、まだはっきりと残っているようだった。彼は、さまざまな匂いが大気にただよっているのに気がついた……その匂いの一つひとつに、遠い昔の、もう忘れられてしまった、さまざまな思いや、希望や、歓びや、憂いが結びついているのであった。
「おまえの唇《くちびる》は震えているね」と幽霊は言った……「それから、お前の頬にあるものは何かい?」
スクルージは、ふだんにないほど声をつまらせて、あの、これはニキビです、とつぶやくように言った。そして、これからどこへなりともお好きなところへ連れていってください、と幽霊に頼んだ。
「おまえは道をおぼえているかね?」と精霊がきいた。
「おぼえていますとも!」とスクルージは熱をこめて、「わたしは目かくしされても歩いていけますよ」
「ながい年月の間、それを忘れていたのはおかしいね! さあ、行ってみよう」
二人は、道について歩いていった……スクルージは、どの門も、どの柱も、どの木も、見おぼえがあった。ついに、遠くに小さな町があらわれ、橋や、教会や、うねり流れる河が見えた。幾頭かの毛むくじゃらな小馬が、その背に男の子をのせて、こちらへ駈《か》けてくるのが目にはいった。その子供たちは、百姓が御《ぎょ》していく二輪馬車や荷馬車に乗った他の子供たちに呼びかけた。そういう子供たちはみんな溌剌《はつらつ》として、たがいに叫びあい、そのために、広い野原が陽気な音楽であふれて、きいんと澄みきった冬の空気まで、それを聞いて笑いだすほどだった!
「これらは、ただ昔あったものの影にすぎないのだ。だから、われわれ二人のことはわからないんだよ」と幽霊が言った。
その陽気な乗り手たちは近づいて来た。彼らがそばへくると、スクルージは、その一人ひとりを知っていて、名前を挙げた。彼らを見て、スクルージがむしょうに喜んだのはなぜだろう! 彼らか通りすぎるとき、スクルージの冷たい目が輝やき、その心臓がおどり上がったのはなぜだろう! 彼らがそれぞれの家をさして、十字路や間道で別れるとき、たがいに「クリスマスおめでとう」と言い交わすのを聞いて、スクルージが嬉しさで胸がいっぱいになったのはなぜだろう! スクルージにとってクリスマスは何か! クリスマスおめでとうもくそもあるもんか、これまでクリスマスでなんの得をしたか、ということではなかったか!
「学校はまだすっかり生徒が帰っていない。友だちにおいてきぼりされた、ひとりぼっちの子が残っているよ」と幽霊が言った。
スクルージは、その子を知っていると言った。そして、すすり泣きをはじめた。
二人は、よく知っている路へと、本道からそれた。そして、まもなく黒ずんだ赤煉瓦《あかれんが》の邸に近づいた……それは、屋根に風見鶏《かざみどり》のついた円蓋《キューポラ》があり、そこに鐘がつってあった。大きな家だが、おちぶれた家だった。広い台所はほとんど使われていなかったし、壁はしめって苔《こけ》がむしていて、窓はこわれ、門も朽ちていた。鶏はクックッと啼いて、厩《うまや》のなかを歩いていた。また馬車小屋や物置小屋には、草がいっぱい生えていた。家のなかも、やはり同じように、昔の面影がなかった。なぜならば、荒れた玄関の間に入って、たくさんある部屋の窓からなかをうかがうと、どの部屋にもろくろく家具がなく、さむざむとがらんとしていた。空気は、土くさい匂いがし、全体がうそ寒く、殺風景で、たとえば、朝まだ暗いうちに起き、しかも食べるものがあまりないという感じと、どうやら似かようところがあった。
幽霊とスクルージの二人は、玄関の間を通って、奥の戸口まで行った。彼らの前で、その扉があくと、長い、何もない、陰気な部屋があったが、そこに並んでいる幾列かの樅《もみ》材の机と腰掛があるために、なおさら殺風景に見えていた。そのうちの一つの机にむかって、一人の寂しそうな少年が、炉のかすかな火のそばで本を読んでいた。そこでスクルージは、一つの腰掛に坐って、もう長く忘れていた、昔のあわれな自分の姿を見て泣くのであった。
家のなかにひそんでいるこだま、羽目板の蔭でチュウチュウ啼いて騒ぎまわる鼠《ねずみ》の音、裏手のおぐらい庭の氷が、なかば解けかかった樋口《といぐち》から落ちる滴り、一本の勢いがないポプラの裸の枝にそよぐ風、がらあきの倉庫の扉が思い出したようにバタンバタンいう響き、炉のなかでパチッとはねる火……そのどれ一つとして、スクルージの胸にふれて、やさしい感情を起こさないものはなく、また、彼の涙をいっそう|しとど《ヽヽヽ》に流させないものはなかった……
精霊は、スクルージの腕をたたいて、いま熱心に本を読んでいる、若いときの彼の姿を指さした。突然、異国の服装をつけて、見る目に驚くほどいきいきとハッキリした男が、窓の外に立った……帯革に斧《おの》をさし込んで、薪をつんだ驢馬《ろば》の手綱をひいていた。
「やあ、アリ・ババだ!」とスクルージはわれを忘れて叫んだ……「正直なアリ・ババのお爺さんだ! そうだ、そうだ、知っている! ある年のクリスマスに、あそこにいたひとりぼっちの子が、ここで一人おいてきぼりにされたとき、あのお爺さんが初めて来たのだ、ちょうどあんなふうのかっこうで。かわいそうな子! それから、ヴァレンティン〔フランス古譚の主人公。オルソンと双児の兄弟である〕も、その乱暴な弟のオルメンも、あれ、みんなあそこに行く……それから、眠っているうちに、ズボンをはいたまま、ダマスクスの門の前に捨ておかれたのは、なんという名前の男〔『千夜一夜物語』の中の「ヌルアルディン・アリとその息子」という話に出てくるペドレッディン・ハサン〕だったかな。あなたにはその男が見えませんか! それから、魔神のために逆だちにされたサルタンの馬丁《ばてい》、ほれ、あそこに彼が頭を下にして立っている! 当然のこと、いい気味だ。きゃつに王女と結婚しようなんていう理由がどこにあるんだ!」
スクルージが笑うとも泣くともつかないとっぴな声で、こんな事がらに、大まじめで物を言っているのを聞いたり、また、その緊張興奮した顔を見たりしたならば、ロンドン市の彼の商売人仲間は、まったくびっくりしてしまうであろう。
「あそこに、オウムがいる!」とスクルージは、大きな声で言った……「緑色のからだ、黄色い尾、頭のてっぺんからレタスのようなものを出して。あそこにオウムがいる! このオウムは、ロビンソン・クルーソーが島のまわりを小船で一巡りして帰ってくると、『かわいそうなロビンソン・クルーソー』と呼びかけたのだ。『かわいそうなロビンソン・クルーソー、どこへ行ってきたの、ロビンソン・クルーソー?』クルーソーは、夢を見ているんだと思ったが、そうじゃなかった。それはオウムだったのだ。あそこに、フライデーが駆けてゆく、命からがら小さな入江の方ヘ! おうい、しっかり、しっかり!」
それから、スクルージは、彼の平生の性格にはとても見られないような早い気の変わり方で、昔の自分をあわれんで、「かわいそうな子!」と言って、また泣きだした。
「ああ、残念だ」とスクルージは、袖口で涙をぬぐってから、ポケットに手を入れて、まわりを見まわしながらつぶやいた……「だが、もうおそい」
「どうしたのかね?」と精霊がきいた。
「なんでもありません」とスクルージ……「なんでもありません。昨夜わたしの家の戸口へ来て、クリスマスの歌をうたってくれた少年があったんだが……何か少し心づけをやればよかったと思うんです。それだけです」
幽霊は、何か思いあたるようにほほえんだ。そして、片手をふりながら言った。
「もう一つ別なクリスマスを見よう」
その言葉とともに、スクルージの昔の姿は、ずっと大きくなり、部屋は少し暗く、いっそう汚なくなった。羽目板はちぢみ、窓はひび割れた。天井から漆喰《しっくい》の破片がはがれ落ちて、その代わりに、あらわな木摺《きずり》が見えた。だが、いったいどうしてこういうことになったのか、スクルージだって、あなたがたと同じようにわからないのだ。ただ、それはまったくそのとおりで、すべてのことはそのような事情だったということ、また、ほかの子供たちがみんな楽しい休みに家へ帰ったときに、またもや自分がひとりぼっちに残されていたということだけはわかっていた。
今度は、彼は本を読んでいないで、もうやけになったような様子で、行ったり来たりしていた。スクルージは幽霊の方を見て、頭を悲しげに振ると、心配そうに戸口の方へ目をやった。
その扉が開いた。その少年よりもずっと年下の少女が、さっと飛ぶように走りこんでくると、彼の首に両手をかけ、幾度も接吻をしながら、「お兄さま、お兄さま」と呼んだ。
「お兄さま、あたし、お兄さまをおうちへ連れに来たのよ!」そう言って、少女は小さな手をたたき、からだを折って笑った。「……おうちへ連れに来たのよ、おうちへ、おうちへよ!」
「うちへかい、ファン?」と少年がきき返した。
「そうよ!」と少女は、すっかりはしゃいで、「これからずっと、おうちよ。永久に、おうちよ。お父さまは前よりずっとやさしくおなりになったので、おうちは天国のようだわ。この間の晩、あたしが寝ようとしていると、お父さまはそれはそれはやさしく物を言われるので、あたしは思いきって、もう一度お兄さまがおうちへ帰られてもよろしいですかってきいてみたの。そうしたら、いいともとおっしゃったのよ。そこで、馬車でお迎えにあたしをよこされたのよ。お兄さまはいよいよ大人になるんだわ」と、ここで少女は目を大きくあいて、「そして、もうここへは二度と帰らなくていいのよ。それよりもまず、あたしたちはクリスマスじゅういっしょにいられるのよ。そして、世界じゅうで一番楽しいクリスマスができるわ」
「ファン、おまえはもう立派な大人だよ!」と少年は大きな声で言った。
少女は、手をたたいて、笑いだし、彼の頭にさわろうとした。だが、丈が小さくて届かないので、また笑い、爪《つま》さきで背のびしながら、彼をだいた。それから、少女らしい性急さで、兄を戸口の方へひっぱっていった。彼は、いそいそと彼女について行った。
玄関のところで、「ほれ、スクルージ君のトランクを下ろしてこい!」という恐ろしい声がした。そして、玄関に、校長その人が姿をあらわして、生徒のスクルージを、ていねいながら恐ろしい目つきで見つめたので、握手をしたとき、彼はすっかりふるえ上がってしまった。それから校長は、彼と妹を、古井戸のように冷えきった一番上等な客間につれて行った。そこでは、壁にかけてある地図も、窓においてある天球儀《てんきゅうぎ》と地球儀も、寒さで蝋《ろう》のようになっていた。ここで、校長は、妙にうすい葡萄酒の瓶《びん》と、妙にごそごそしたケーキの一かたまりを取り出して、若い二人に、そのご馳走を分けてくれた。それといっしょに、御者《ぎょしゃ》のところへも、一杯の「何か」を、痩《や》せた小使いに持たせてやった。ところが、御者は、ご好意はありがとうございますが、この前いただいたと同じ口のお酒でしたら、ご辞退申し上げます、と言ってきた。このときまでに、少年スクルージのトランクは、馬車の屋根にくくりつけられたので、兄妹は、やれ嬉しとばかり、校長にさよならを言った。そして、二人は馬車に乗ると、庭の曲がり道を笑いさざめきながら走り去った……くるくると早くまわる車輪は、常盤樹《ときわぎ》の黒ずんだ葉から、霜と雪をしぶきのように散らして。
「ほんの風の一吹きでもしぼんでしまうような、かよわい子だったな。だが、あれは大きな心をもっていたね!」と幽霊は言った。
「そうです、妹はあなたのおっしゃるとおりでした。そのことは否定しません、断じて!」
「一人まえの婦人になって死んだんだね。それから、子供もあったと思うが……」
「一人ありました」
「そうだ、おまえの甥だね!」
スクルージは、心が落ちつかないような様子だった。そして、ただ簡単に「そうです」と答えた。
二人は、学校をいま後にして出て来たばかりなのに、もうある都会の賑やかな通りに来ていた……そこでは、影のような人々が往ったり来たりし、また影のような荷馬車や馬車が道を争いあって、都会というものの混雑と喧《かまび》すしさのすべてがあった。店々の飾りつけでもはっきりわかるとおり、ここもまた、折からクリスマスの時節だった。ちょうど夕方で、通りには燈《ひ》がともっていた。
幽霊は、ある商店の戸口に立ちどまって、スクルージに、ここを知っているかときいた。
「知っていますとも!」とスクルージ……「わたしはここで奉公づとめをしてたんですからね」
二人は、そこへ入っていった。そこにウェイルズ仮髪をかぶり、もう二インチも丈が高かったら天井に頭をぶつけそうなくらい高い机のうしろに坐っている老人を目にすると、スクルージはひどく興奮して叫んだ……
「やあ、これはフェジウィッグさんだ! これはまあ、フェジウィッグがまた生きかえったのだ!」
フェジウィッグ老人は、ペンをおいて、時計を見あげた。時計は七時をさしていた。彼は、両手をこすり、自分のゆるゆるなチョッキをなおした。靴の先から頭のてっぺんまで、体じゅうをゆすって笑いだし、気持ちよげな、なめらかな、豊かな、おうような、陽気な声で呼びかけた。
「おい、これ! エビニーザー! ディック!」
スクルージの全身は、いまや青年になって、仲間の店員といっしょに、活発な足どりで入って来た。
「ディック・ウィルキンズだ、確かに!」とスクルージは幽霊に言った……「まったく、そうだ! あそこにいる。この私をとても好いていたっけ、あのディックは。かわいそうなディック! ほんとにかわいそうに!」
「おい、おまえたち!」とフェジウィッグは言って、「今晩はもう仕事はやめだよ。クリスマス・イブだものな、ディック。クリスマスだよ、エビニーザー! 戸をしめよう」
そう叫ぶと、フェジウィッグは手をポンと鳴らして、「さあ、早いところ、しまいなさい」
この二人がそれをどんなに早くやったか、あなたがたはちょっと想像がつかないでしょう。彼らは、嵌《は》め戸をもって、おもてへ出ると……一、二、三で戸をはめこみ……四、五、六、でかんぬきをさし……七、八、九……そして、十二とかぞえないうちに、まるで競馬の馬みたいに息をきらしながら、もどってきた。
「ほれ、きた!」とフェジウィッグは叫ぶと、驚くほど身軽に高い机から跳びおりて、「お前たち、片づけなさい、そして、ここをうんと広くするんだよ。ほれ、きた、ディック! 元気を出せ、エビニーザー!」
片づけろだって! フェジウィッグ老人がちゃんと見ているのだから、彼らが片づけようとしないようなものもなければ、片づけることができないようなものもなかった。またたく間にやってしまった。動かすことのできるものは、まるで永久に社会から追放してしまうように、どこかへやってしまった。床は掃《は》いて、水をうち、ランプの芯をきり、炉に薪《まき》を積みあげた。こうして、店は、冬の夜にまことに好ましくみえるような、心持ちよい、暖かい、からっとした、明るい舞踏室になった。
そこへ、ヴァイオリン弾きが楽譜を手にして、入ってきた。そして、高い机のところへ近づき、そこを奏楽席にして、まるで腹痛患者が幾十人も集まってうなりだしたように、ゲーゲーギーギーとかなでだした。フェジウィッグ夫人が肥った顔いっぱいに笑いをたたえながら入ってきた。三人の、にこやかな、かわいらしいフェジウィッグの娘たちが入ってきた。この三人に胸をなやましている、六人の青年が入ってきた。この店で働いている、若い男や女が入って来た。女中が従弟《いとこ》のパン焼きをつれて、入ってきた。料理女が兄さんの親友だという牛乳屋といっしょに、入ってきた。道のむこう側にいる、主人からろくろく食物をもらえないらしいという少年が、一軒おいた隣の、女主人に耳を引っぱられたという評判の娘のうしろに隠れるようにして、入ってきた。一人また一人と、いろいろな連中が入ってきた……ある者は恥かしそうにして、ある者は堂々と、ある者はしとやかに、ある者はぎごちなく、ある者は押して、ある者はひっぱって、みんなそれぞれ、なんとかして、また千差万別に入ってきた。それからみんな、二十組が一度に踊りだした。踊り手は次から次へと左右の手をかわしながら半分までまわって、他の方向をもどってくる。部屋のまん中まで行くかと思えば、また帰ってくる。仲のよい男女の組み合わせがいろいろ変わって、ぐるりぐるりと回っていく。前の先頭の組はいつも間違ったところでぐるっと曲がり、新しい先頭はそこにくるとすぐ、また新しく始めなければならない。終いには先頭の組ばかりになって、それを助けるしんがりの組が一つもつづかぬという始末! こういう結果になってしまったとき、フェジウィッグ老人は、手をたたいて踊りをやめさせ、「よくできた!」と大きな声で言った。すると、ヴァイオリン弾きは、とくにそのために用意された黒ビールの大コップのなかに熱した顔を突っこんだ。だが、また顔あげると、休んでなんかいられるもんかとばかり、まだ踊り手が一人も出ていないのに、再びかなでだした……その様子は、もう一人のヴァイオリン弾きがへとへとに疲れて戸板にのせられて家へ運ばれたあと、自分がそれに代わった新手《あらて》のヴァイオリン弾きで、前のヴァイオリン弾きをうち負かすか、でなければ倒れるまでやると覚悟したかのようであった。
それから、なおダンスがあり、また罰金あそびをし、さらにまたダンスがあった。ケーキが出て、ニーガス酒〔葡萄酒に湯と香料と砂糖を加えたもの〕が出て、冷たい焼肉の大きなきれが出て、冷たい煮肉の大きなきれが出て、また挽肉入りのパイやたくさんのビールが出た。しかし、この晩の最高潮は、焼肉と煮肉が出たあと、れいのヴァイオリン弾きが(いやまったく、術《すべ》を心得た奴ですよ! あなたがたや私がわざわざ言いつけるまでもなく、自分のことはちゃんとわきまえているといった人間なのです!)「サー・ロージャー・ド・カヴァレイ」の曲を弾きだしたときであった。すると、フェジウィッグ老人はフェジウィッグ夫人と手をたずさえて、踊りに出ていった。しかも、先頭の組を勤めるというのだ……二人にとっては骨が折れる、むつかしい曲だったのだ。二十三、四の組があとにつづいた。いずれも、なかなかばかにできない踊り手で、|踊りたい《ヽヽヽヽ》一心で、歩くことなどてんで考えもしない連中であった。
それにしても、そういう連中がその二倍、いや、四倍いたとしても、フェジウィッグ老人は、彼らにひけを取ることはなかったであろう……フェジウィッグ夫人にしたってそうだった。夫人はといえば、ほんとう
の意味で、その相手《パートナー》たるにふさわしかった。それでもまだ賞め足りなかったら、もっといい言葉を教えていただきたい。私はそれを使いましょう。フェジウィッグのふくらはぎからは、パッと光がひらめくようにみえた。ふくらはぎは、踊りのあらゆる部分で、いくつもの月のように輝やいた。あなたがたがそこにいたとしても、ある瞬間に、次にはそのふくらはぎがどうなるかということを、予言することはできなかったでしょう。そして、フェジウィッグ夫妻が踊りを全部やり通したとき……進んだり退いたり、両方の手を相手にかけたり、お辞儀をしたり、丁寧《ていねい》に身をかがめたり、うねうねと縫っていったり、つないだ手の下をくぐったり、またもとの位置にもどったりして、すっかり終ったとき、フェジウィッグは「飛び跳ねた」……その跳ね方ときたら、実にうまいもので、脚でウィンクしたようにみえた。そして、よろめきもせず、また立ちなおった。
時計が十一時を打つと、この家庭の舞踏会は終った。フェジウィッグ夫妻は、おのおの戸口の両側に立って、帰っていく男のひとにも女のひとにも、いちいち握手をして、クリスマスおめでとうと言った。全部の人々が出ていって、若い店員の二人だけが残ると、夫妻は彼らにも同じようにクリスマスおめでとうを言った。こうして賑やかなさざめきがやんだ。あとに二人の若者が店の奥の帳場の下にある、自分たちのベッドにとり残されたのであった。
この間じゅうずっと、スクルージは、正気を失った人間のようだった。彼は、身も心も、その光景にとけこみ、自分の前身と一体《いったい》になっていた。何もかもそのとおりだと思い、何もかも思いだし、何もかも大いに楽しんだのであった。そして、言うに言われぬ心の動揺を感じた。彼の前身とディックの嬉しそうな顔が見えなくなると、スクルージは、はじめて幽霊のことを思い出して、幽霊がその頭の光を煌々《こうこう》と燃やして、ずっと自分を見つめていたことに気がついた。
「こういう愚かな連中を、あのようにありがたがらせるのは、小さなことだね」と幽霊は言った。
「小さなことですって!」とスクルージは、ききかえした。
精霊は、二人の店員たちが言っていることを聴け、と合図した……二人は、心の底からフェジウィックを賞めちぎっていた。
「そうだろう! 小さなことじゃないかね? あの男は、このために、ほんの数ポンド、たぶん三ポンドか四ポンドを使っただけだよ。それがこのように賞められるほど、大したことなのかい?」
「そんなことじゃありません」とスクルージは、いま言われたことに激して、現在の自分でなく、昔の自分になって、思わず知らず言った……
「そんなことじゃないのです。あの人たちを幸福にも不幸にもする力があるんです。私たちの勤めを楽《らく》にもつらくもし、楽しみにも労苦にもする力をもっています。その力は、言葉のなかにも表情のなかにもあり、また、すべてを勘定することもできないほど、ごく小さなつまらないことのなかにあるのだと言ったって、それがなんでしょう? あの人の与える幸福は、ひと身代《しんだい》を使ったほどに大きいのです」
スクルージは、精霊がこっちをチラッと見たように思って、口をつぐんだ。
「どうしたんだい?」と幽霊がきいた。
「何もべつに」
「何かあるんじゃないかね?」と幽霊は、なおもきいた。
「いえ、何も……いま私のところの書記に一言二言《ひとことふたこと》、言ってやることができればよいのにと思ったんです。それだけです」
スクルージがこの望みを口に出して言ったとき、彼の前身は、ランプの芯をひっこませてあかりをほそめた。スクルージと幽霊は、また並んで、戸外に立っていた。
「わたしの時間は少なくなった。さあ、いそごう!」と精霊は言った。
この言葉は、スクルージにむかって言ったのでもなければ、また彼の目に見えるだれかに言ったわけでもなかった、だが、その効き目がすぐにあらわれた。というのは、スクルージは、また自分の姿を目にしたからである。今度は、前よりも年をとっていた。ちょうど壮年のさかりにある男であった。その顔には、老年のきびしい、かたい輪郭がまだ出ていなかった。だが、もう気苦労と貪欲《どんよく》のきざしをおびはじめていた。目には、烈しい、慾ふかの、落ちつきのない動きがあって、それは、すでに根を下ろした欲望のありかと、また、そのやがて大きく伸びた樹の影のさすところを示しているのだった。
その彼は一人ではなく、喪服をつけた、美しい若い婦人のそばに腰をかけていた。婦人の目には涙が宿り、その涙は、「過去のクリスマス」の幽霊から輝き出す光のなかに、きらめいていた。
「それは大したことではありません」と彼女は、おだやかに言って、「あなたにとっては、まったくなんでもないことですわ。もう一つの偶像があたしに代わってできたんですもの。それで、もしこれから先におそばにいたら、あたしが自分でやろうと思っているように、そのものがあなたを励まし慰めることができるとすれば、あたしは何も悲しみ嘆く理由などありませんのよ」
「あなたに代わって、どういう偶像ができたんですか?」と彼がきいた。
「黄金の偶像」
「世のなかというものは、まったく公平な扱い方をするものですよ!」と彼は言って、「貧乏ほど、世のなかが辛《つら》くあたるものはありません。ところがまた、富をつくることほど、世のなかがきびしく非難するものもないのですよ」
「あなたは世間というものをあまりに恐れすぎるのです」と彼女はやさしく答えて、「あなたの持っている他の望みはすべて、ただ世間の卑しい非難のとどかない身分になろうという望みのうちに呑みこまれてしまったんですわ。あなたのもっと高い抱負がだんだんに衰え、消えていって、最後に『利得』という一番大きな欲望があなたの心を捉《とら》えてしまうのを、あたしは見てきました。そうじゃなくて?」
「それがどうしたというんです?」と彼は言いかえした……「僕がそれだけ賢くなったとしても、それが何なのです? 僕のあなたに対する心は変わってはいませんよ」
彼女は頭をふった。
「ぼくは変わったでしょうか?」
「あたしたちの約束はもう古いものです。それは、あたしたち二人が貧乏で、そして、いつか時が来て、あたしたちの辛抱強い努力で運をひらくようになるまで、それで満足しようと思っていた頃にできたものです。あなたはもう変わってしまいました。その約束をしたときは、あなたはいまとまったく別な人でしたわ」
「ぼくは子供だったんですよ」と彼は、じれったそうに言った。
「あなた自身の気持ちからいっても、前のあなたは現在のあなたでないということがよくわかるでしょうよ」と彼女は言いかえして、「あたしはもとのままよ。あたしたち二人の心が一つだったときに将来の幸福を約束してくれたものも、あたしたちの心が別々になってしまったいまは、不幸をいっぱいはらんでいるのです。このことを、あたしはこれまで幾度考えたか、またどんなに深く考えたか、それはここで申しません。ただ、あたしがそれについていろいろ考えぬいて、そのあげくあなたと難れることができるというところに来たとだけ申し上げれば十分でしょう」
「ぼくのほうで破約したいと言ったことがあるかしら?」
「言葉ではね、ありませんわ……一度も」
「それでは、なんで?」
「もう変わった性格で。一変した気持ちで。まったく違った生活の雰囲気で、また大きな目的である、新しい欲望《ヽヽ》で。あなたの目で、あたしの愛を何か値ぶみをしたいっさいのもので。もしこういう約束があたしたちの間になかったとしたら……」と婦人は、和やかながら、だがじっと彼を見すえて、「あなたはいま、あたしを求めて、あたしの愛を得ようとするでしょうか? ああ、そんなことはけっしてありません!」
彼は、この仮定の正しさに、自分はいやでも従わないわけにいかぬようにみえた。だが、それをおさえながら、「そんなふうに考えないでください」と言った。
「あたしだって、できればそう思いたくないのです。それは神さまに誓って、本当なのです。ただ、あたし自身がこういった真実を一度知ってしまうと、それがどんなに強くまた抵抗しがたいものであるか、あたしにはわかっているのです。今日、明日、いや、昨日だって、あなたが自由な身になるとすれば、あなたが持参金のない娘をわざわざお選びになると、あたしに思えるでしょうか……そういう者とうちとけて話しているときだって、何もかも利得《ヽヽ》で測って考えているあなたがね……あるいは、もしちょっとした気まぐれからあなたの唯一至上の主義に背いてそのひとを妻に選んだとしても、あとできっと後悔したり残念がったりするようになるということを、あたしが知らないでしょうか? 知っていますよ、だからあたしはあなたと縁《えん》を切るのです。ほんとうに心から喜んで……昔のあなたに対する愛のためにも」
彼は何か言おうとした。だが、彼女は顔をむこうへそむけて、なおも言いつづけた……
「あなたはたぶん、このことを苦痛に思うかもしれません……これまでのことを思うと、そうなればいいとあたしは思いますけれど。でも、それはほんのごく短かい間だけですわ。すぐにその思い出を喜んで頭から追いはらってしまうでしょう……ああいうなんの得にもならない夢から醒《さ》めて、まあよかった、とね。あなたのお選びになった生活に、どうか幸いがありますように!」
彼女は、ここで立ち去って、二人は別れた。
「精霊さま! わたしにもう何も見せないでください! うちへ連れていってください。どうして私を苦しめるのが面白いんですか?」とスクルージは言った。
「もう一つ、幻影を見るのだ」と幽霊は強く言った。
「もうたくさんです……もうけっこうです。もう見たくありません。もう見せないでください!」
しかし、無情な幽霊は、両腕でスクルージをはがいじめにして、むりやりに次に起こる事を観させたのであった。
二人は、別の光景、別の場所にいた……あまり大きくもなく、またきれいでもないが、いかにも心地よくできた部屋であった。冬の暖炉のそばに、一人の美しい若い婦人が腰かけていた。その婦人は、いま清楚な主婦となって自分の娘のむこう側に坐っているところを見るまでは、スクルージもてっきり前と同じだと思いこんでいたくらい、さっきの婦人とよく似ていた。その部屋の物音は、このうえなく騒々しかった。というのは、そこには心の乱れているスクルージにはとてもかぞえきれないほどたくさんの子供がいたからだ。ワーズワスの名高い詩にある羊の群とは違って、四十人の子供が一人のようにふるまうのではなくて、一人の子供が四十人のようにふるまうといったありさまであった。そこで、その騒ぎときたら、とても信じられぬほどすさまじいものであった。だが、だれもそれを気にかける者はなかった。かえって母親と娘は、あはあはと笑いこけて、それをたいへん面白がっていた。そして娘は、まもなくその遊戯に加わりだしたが、たちまち小さな山賊どもに情容赦《なさけようしゃ》もなく身をはがれて
しまった……もし私があの山賊の一人になることができたら、何を捨てたってかまやしない! もっともあんなに乱暴なことは、とてもできっこない。断じて! 世界じゅうの富をくれると言ったって、あの編《あ》んだ髪をくしゃくしゃにして、ばらばらにひきほどくなんていうことはできないでしょう。それから、あのかわいい小さな靴ときては……神さまに誓って、まったくどんなことがあっても……あれをもぎ取ることなんかできやしない。それから、あの大胆なチビ連中がやったように、戯《たわむ》れにも彼女の腰のまわりに抱きつくなんていうことは、まったくできそうにもありません。そんなことをしようものなら、自分の手が天罰のためにそこにくっついてしまって、もう前のようにまっすぐにならないことを覚悟しなければならない。それなのに、私は、正直に言うと、彼女の唇にふれてみたくてしようがない。彼女が唇を開くようにと、何かきいてみたくてたまらない。その伏し目がちの彼女の睫毛《まつげ》を、顔を赤らめさせることがないままに、じっと見つめたいと思う。その一インチだって代えがたい貴重な記念となるような髪を、うねうねと波うつように解き放ってみたい……つまり、私のほんとうの気持ちを言うと、子供の最も容易な特権を持った上で、しかもその特権の価値がよくわかる大人でありたいという気持ちでしょう。
ところで、いま入口の扉をたたく音が聞こえた。すると、たちまちそれに突貫が起こって、彼女は笑いこけ、着物をひきはがれたまま、顔を輝やかして叫びわめく一団のまん中になって扉の方へ押されていって、父親を迎えるのにようやく間に合ったのであった……帰って来た父親には、クリスマスのおもちゃと贈物をいっぱいかついだ男がついていた。それから、叫喚《きょうかん》ともみあいと、この無防備の担《かつ》ぎ手にむかって行なわれた突撃ときたら! 椅子を梯子《はしご》の代わりにしてその男のからだによじ登ると、ポケットに手を突っこむやら、茶色の紙包みをふんだくるやら、ネクタイにぎゅっとしがみつくやら、首のところをだきしめるやら、その背中をこぶしでたたくやら、おさえきれない親愛の気持ちから脚をけっとばすやら! ひとつひとつの包みがひろげられるごとに、わっと湧きたつ驚きと歓びの声! それから、赤ん坊がお人形のフライパンを口に入れているところを見つかって、もしかすると、木皿にのりづけにしてあったおもちゃの七面鳥を呑みこんじゃったのかもしれない、という恐ろしい知らせ! ところが、それは思い違いだとわかったときの、やれ
よかったという安心! 歓喜と感謝と有頂天! どれもこれもなんとも言い表わしようがない。それはただこう言うだけで十分であろう……子供たちとその興奮した騒ぎは、だんだんと客間を出ていったが、一度に一段ずつゆっくりと階段を上がって、やっと家の一番上まで行き、そこで寝床に入ると、ようやく静かにおさまったのであった。
さていま、この家の主人が、娘を自分に甘えかかるようにもたれさせ、娘と母親とともに、炉ばたに腰かけると、スクルージは、前よりいっそう熱心に見るのであった。このように美しくて、明るい行く末をもつ者が、自分を「お父さま」と呼んで、自分の生涯のうらぶれた冬に明るい春をもたらしくれたかもしれないのだと思うと、彼の目はほんとうにうるんでくるのであった……
「ベル」と夫は笑《え》みをふくんで妻の方へむいて、「今日の午後、お前の昔のお友だちに会ったよ」
「だれですの?」
「当ててごらん」
「だって、むりですわ。あ、わかりますとも」と彼女は、夫といっしょに笑いながら、すぐに言った……「スクルージさん」
「そう、スクルージだよ。その事務所の窓のところを通ったんだが、窓がしまっていないし、なかに蝋燭がともっていたのでね。どうしてもあの人の姿を見ないわけにいかなかったのさ。共同経営者はもう死にそうだという話だが、あの人はひとりぽつんと腰かけていたよ。ぼくの思うところでは、この世にまったくひとりぼっちといったふうで」
「精霊!」とスクルージは、とぎれとぎれの声で、「ここから去らしてください」
「さっき言ったとおり、これらは過去にあったものの影なのだよ。あれがあんなふうだからといって、わたしを責めるでない!」
「ここから行かしてください。とても見ていられません」
スクルージは、幽霊の方にむいた。そして、幽霊が自分のことを見ているのがわかった……その幽霊の顔には、いままで彼が見せてくれたさまざまな人間の顔が妙な工合にチラチラと混ってあらわれているので、彼は幽霊につかみかかった。
「どこかへ行ってくれ! わたしをうちへ帰らしてくれ! もう二度と出てこないでくれ!」
この争いの間に……幽霊のほうでは目に見えるような抵抗を少しもやらないのだから、相手がいくら力を出しても平然としているのだが、それを争いと言うことができるとすれば……スクルージは、幽霊の光が高く煌々《こうこう》と燃えあがるのを見た。そこで、その光を幽霊が自分に及ぼす力とおぼろげながら結びつけて考えると、彼はれいの消燈用の帽子をひっつかんで、やにわに幽霊の頭の上に押しつけた。
精霊は、その下でへなへなとなった。そこで消燈蓋《しょうとうぶた》は、精霊のからだ全体を蔽《おお》ってしまった。だが、スクルージが満身の力をこめてぐいぐいそれをおさえつけても、その下から地面にあふれひろがって流れる光を、すっかり隠してしまうことはできなかった。
彼は、自分が疲れはてて、どうしても払いきれない眠気に襲われているのに気がついた。それからさらに、自分の寝室にいることも知った。そこで、その帽子に最後の一ひねりを加えると、手がゆるんだ。それから、ベッドへよろめくようにして近づくと、すぐさま深い眠りに落ちてしまった……
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第三節 第二の精霊
とほうもなく大きないびきをかいている真最中に、目をさまし頭のなかでよく考えてみようと寝床に起きなおったスクルージは、だれからも知らせてもらう必要もなく、鐘がまた一時を打つところだということを知った。彼は、自分があのジェイコブ・マーレイの仲介でよこされる第二の使者と会談をするという特別な目的に、ちょうどよい頃合に正気にもどらされたのだと思った。だが、今度あらわれる幽霊は、どっちのほうのとばりをひくのだろうと考えだすと、気持ちの悪い寒気をもよおしてきたので、自分の手で全部のとばりをひきあけて、それからまた横になり、ベッドの四方に目をくばって警戒していた。なぜならば、彼は、精霊が出てくるそのとたんに、こちらから先手をうってむかってやろうと思い、不意をくらっておどおどするようなことはしたくないと考えたからであった。
世なれてぬけめがないということと、たいていの物事に動じないということを自慢にしている、磊落《らいらく》でこせつかない型の紳士は、|投銭遊び《ピッチ・アンド・トス》のことから殺人に至るまで、どんなことにも平気だと言って、冒険に対する自分の能力の幅が大きいことを公言します。そして、これらの両極端の中間には、たしかに、相当ひろい範囲にわたるいろいろなものが含まれているのです。スクルージの場合は、それほど思いきったことをわざわざ持ち出さなくとも、かなり多岐にわたるいろいろの怪物に心がまえをしており、赤ん坊から犀《さい》に至るまでの間に属する何が出たって大して驚かなかったろう、ということをあなたがたに信じていただきたいと言いたいくらいであった。
ところで、スクルージは、まあたいていのものに対して覚悟はしていたものの、何も出てこないことにはすこしも心がまえがなかった。そこで、鐘が一時を打っても、何も出ないとなると、彼は体がひどくふるえだした、五分、十分、十五分と時がたった……だが、何も出てこない。その間じゅうずっと、スクルージは寝床に横たわっていたが、時計が一時を知らせたときに、そこへさっと流れこんだ、赤い燃えたつような光のまん中にいたのである。そして、これはただ光にすぎないとはいえ、いったい何を意味するのか、何を目的としているのか、スクルージには見当をつけることもできないので、一度に十もの幽霊が出たよりも不安を感じたのであった。ときには彼は、その瞬間に、自分が知る間もなく、「自然燃焼」といったおもしろい病気になっているのではないかと思うこともあった。しかし、彼はついに、考えはじめたのである……あなたがたや私ならばもう最初に考えていたように。なぜかというと、難局に対してどうすべきかを知り、またきっとそれを実行したろうと言うのは、いつもその難局の外にある人であるからです。そこで、ついに、考えはじめたのである……この怪しい光の源と秘密は隣室にあるのではないか、そしてなおたどってみると、どうもそこからさし出てくるらしい、と。この考えが頭のなかをすっかり占めると、彼はそっと起き出て、スリッパをはいて、足をひきずりながら戸のところまで歩いていった。
スクルージの手が鍵にかかったとたん、聞きなれぬ声が彼の名を呼んで、なかへはいれ、と言った。彼はそれに従った。
そこは彼の部屋であった。それにはうたがいがない。だが、部屋は驚くべき変化をしていた。壁と天井にはいきいきとした緑葉がたれ下がっていて、さながら小さな森のようであった。そして、あらゆるところから、つやつやして赤い実がきらめいていた。ヒイラギや寄《やど》生木《りぎ》や蔦《つた》のパリパリした葉が、たくさんの小さな鏡が散らされたように、光を照りかえしていた。そして、この部屋にスクルージが住むようになっても、またマーレイが生きていたときにも、また過去の何十年という冬の季節にも、あの重苦しい化石のような暖炉がこれまで知らなかったような、盛んな火がごうごうと音をたてて、煙突のなかへ燃え上がっていた。床の上には、王座のようなかたちに盛り上げられて、七面鳥、鵞鳥《がちょう》、猟鳥、家禽、塩づけの豚肉、大きな肉片、仔豚、ソーセージの長い輪、挽肉入りのパイ、プラム・プディング、牡蛎《かき》の樽、赤く焼けた栗、桜色の頬をしたリンゴ、汁の多いオレンジ、甘くておいしそうな梨、とても大きなお祝い用のケーキ、泡だっているポンス酒の大杯などがおかれて、それぞれのかんばしい湯気で部屋じゅうがくもるほどであった。この長椅子の上に、見るも愉快な、陽気そうな巨人がゆったりしたかまえで坐っていた……彼は「豊饒《ほうじょう》の角」〔穀物の女神セレスが左手に持つ牡羊の角、それには花、果実、穀物がいっぱい満たされている。平和と豊穣の象徴。「コーヌコーピア」とも言う〕とよく似たかっこうの、燃えたつ松明《たいまつ》をもっていて、スクルージが戸口のところからなかをうかがうようにして入ってきたとき、そっちへ光を向けようとして、それを高々とさし上げた。
「おはいり!」と幽霊は大きな声で呼んだ。「おはいり! そして、このわたしをよくごらん!」
スクルージは、おずおずと入ってきて、この精霊の前に頭をたれた。彼は、もう前のような頑固なスクルージではなかった。それで、精霊の目は明るくやさしかったが、彼はその目にぶつかるのがいやであった。
「わたしは|現在のクリスマス《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》の幽霊だよ。わたしを見てごらん!」と、精霊が言った。
スクルージは、うやうやしい態度で見た。精霊は、白い毛皮でふちどった、緑いろの簡単な長衣、あるいはマントといったものをつけていた。この着物を体にむぞうさにかけているだけなので、その広い胸がむき出しになっていた……まるで、そこをわざわざ工夫して隠したり覆《おお》ったりするのはばかげているといったふうに。着物のゆったした襞《ひだ》の下から見える足も、むき出しであった。そして頭には、ところどころキラキラ光る氷柱《つらら》がついているヒイラギの花冠のほか、何もかぶっていない。その暗褐色の髪は長く、のびやかだった……ちょうど、そのにこやかな顔、輝く目、ひろげた手、元気のよい声、ゆったりした態度、明るい様子などがすべてのびやかなように。その腰帯には、古風な刀の鞘《さや》をつっていた。だが、そのなかには刀身はなく、しかもその古びた鞘は、錆《さ》びてぼろぼろになっていた。
「おまえさんは、わたしのような人間を前に見たことはないだろうな!」と精霊は、大きな声で言った。
「見たことありません」スクルージはそう答えた。
「わたしの一族の若い連中といっしょに歩いたことはないかね? その連中というのは(わたしは一番若いのだから)この近年に生まれたわたしの兄貴たちのことだがね」と幽霊はなおきいた。
「そういうことはありませんね。どうも残念ながら、なかったようです。精霊さま、あなたにはご兄弟がたくさんあるんですか?」
「千八百人できかないよ」と幽霊。
「養ってゆくにもたいへんな家族ですね」とスクルージはつぶやいた。
「現在のクリスマス」の幽霊は立ち上がった。
「精霊さま」とスクルージは、おとなしい言い方で、「あなたのお好きなところへつれていって下さい。昨晩私はむりやりに引っぱられて行ったのですが、そのとき受けた教訓は、いまも胸のなかに生きています。今晩も何かお教えいただくことがありますれば、どうか私がそれで得るところがあるようにしてください」
「わたしの着物にさわりなさい」
スクルージは、言われたとおりにして、精霊の着物をしっかりとつかんだ。
ヒイラギも、寄生木《やどりぎ》も、赤い実も、蔦《つた》も、七面鳥も、猟鳥も、家禽も、塩づけの豚肉も、肉片も、仔豚も、ソーセージも、牡蛎《かき》も、パイも、プディングも、果実も、ポンス酒も、一瞬にみな消えてしまった。部屋も、暖炉も、あかあかとした火の輝やきも、夜の時間も、同じように消えて、二人はクリスマスの朝の街に立っていた。そこでは、(非常に厳しい寒さなので)人々がめいめいの家の前の鋪道や屋根の上から、雪をかきながら、あらあらしい、だが活気のある、なかなか愉快な音楽を奏《そう》していた。そして、雪が屋根から下の道路にどんどん落ちて、にわかにできた小さい吹雪となって飛び散るのを見て、男の子たちは狂喜してうれしがった。
屋根の上の平らにのびた白い雪と、地面の上のすこし汚れた雪に対照して、家々の正面はかなり黒く、また窓はいっそう黒く見えた。地上に降りつもった雪の表面は、荷馬車や荷車の重い車輪が喰いこんで、深い轍《わだち》になっていた……それらの轍は、大きな通りがわかれている辻のところでは、たがいに何百回となく交叉|錯綜《さくそう》して、厚い黄色の泥濘《でいねい》や氷のはった水のなかで、跡を見わけがたいような、入りこんだ溝《みぞ》になっていた。空はどんよりと曇って、一番短かい通りでも、なかば溶けて、なかば凍った、黒ずんだ霧にすっかりふさがれて、霧の分子のうちで重いものは、煤《すす》をおびた、微粒の雨になって降ってきた……それは、まるで大英国じゅうの煙突がいっしょに申し合わせて火をもやし、思うぞんぶんに煙を吐いているようであった。ここの天気にも、ここの町にも、非常に陽気なところは何もなかった。それなのに、あたり一帯には、夏のもっとも明るい空気ともっとも輝かしい太陽がどんなに力んで撤《ま》きちらしたとしても、とうてい及ばないほどの、陽気な雰囲気が拡がっていた。
それは、屋根の上から雪をどんどん掻《か》きおろしている人々が愉快げで、まったく上機嫌だったからである……彼らは、手すりのところからたがいに呼びあい、ときどき戯れの雪玉(これは多くの冗談口よりずっと性《たち》のよい飛道具というものだ)を投げあって、それが当たったといってはからからと笑い、また当たらなければ当たらないで、またおなじように笑うのであった。鳥屋の店はまだ半分ほどひらいており、果物屋の店は目もさめるばかりに輝いていた。そこには、栗《くり》を盛った、大きな、丸い、腹のふくれた篭《かご》がいくつもあって、陽気な老紳士のチョッキのようなかっこうで、戸口のところにぐったりとよりかかっているのもあれば、あまりに肥りすぎて通りへころがり倒れているのもあった。それからまた、赤みがかった茶色の顔で、幅ひろい帯をしたスペイン玉葱《たまねぎ》が、スペインの修道僧みたいに、でっぷり肥えてつやつや光り、そばを通っていく娘たちに、棚の上から淫《みだ》らでいたずらっぽい流し目をくれたり、上につるした寄生木《やどりぎ》をまじめくさった顔でチラッと見たりしていた〔クリスマスには寄生木の下を通る婦人に接吻してもよいことになっている〕。華やかなピラミッド形に高く盛りあげた、梨や林檎《りんご》があった。通りかかる人々に、無料で口から涎《よだれ》をたらさせてやろうという店主の仁慈で、わざと目につくところの鉤《かぎ》にぶら下げた葡萄《ぶどう》があった。また、苔《こけ》のついた、茶いろのハシバミの実が山と積んでおり、そのかんばしい匂いは、森のなかの古い径や、落葉のなかに踵《かかと》まで埋めつつゆるゆると歩いた楽しい散歩をひとに思い起こさせた。それから、ずんぐりした黒っぽいノーフォーク林檎が、レモンやオレンジの黄色をいちだんと映えさせ、またその汁気の多い肉のきりっと締ったところで、ひとに、紙袋に入れてうちへお持ちになって、食後召し上がってくださいとしきりに乞い求めていた。これらの粒よりのくだものの間に、鉢に入った金いろと銀いろの魚がおかれてあったが、こういう鈍感で血のめぐりの悪い生きものでさえも、何かいま起こっているのだと察しているらしく、一つ残らず、ゆるゆるとした、熱情のない興奮で、彼らの小さな世界をあえぎながらぐるぐると回っているのであった。
食料品店! おお、食料品店! そこは表戸を一、二枚をはずして、ほとんど閉まっていた。だが、そういう隙間から見える光景といったら! ただ、帳場のところに降ってくる秤皿《はかりざら》が明るい音をたてるからばかりではない。物をくくる紐《ひも》が、その巻軸から勢いよくぶっ切られるばかりではない。たくさんの缶がまるで手品をつかうように、あっちこっちへころがるからではない。茶やコーヒーの混りあった香りが鼻に快く匂うからでもなく、また、ほし葡萄がとてもたくさんあって、とびきり上等で、|はたんきょう《ヽヽヽヽヽヽ》がこの上なくまっ白で、肉桂《にくけい》の棒が長くてまっすぐで、その他の薬味がとてもかんばしく、砂糖づけのくだものが、どんな冷やかな人でもそれを見ると気が遠くなって、次には憂鬱《ゆううつ》になってくるほどに、溶かした砂糖でかためたり、まぶしたりしであるからばかりではない。また無花果《いちじく》が湿り気があって柔かいからでもなく、フランスすももがその美しく飾った箱のなかからほどよい酸っぱさをもって赤らめた顔を見せているからでもなく、すべてのものがおいしそうで、クリスマスの装いをこらしているからでもない。それだけではなくて、客たちがみなこの日の明るい期待にいそいそとして夢中になっているからであり、彼らが入口のところでたがいにぶつかりあい、その柳篭《やなぎかご》を乱暴に押しつぶしたり、買ったものを帳場の台に忘れて、あわてて取りにもどったりして、このような間違いを何百とやらかしながら、この上なく上機嫌でいるからでもあった……一方、店の主人も店員も、きわめて気さくでいきいきしていて、彼らがつけているエプロンをうしろで留めている、ピカピカ磨《みが》きあげたハート型の金具は、わざわざ人々に見てもらうため、そして、クリスマスの鴉《からす》がもしのぞむならばそれをつついてもいいように、外側に出して付けた、彼ら自身の心臓《ハート》とも見えるのであった。
しかし、やがて方々の教会の尖塔の鐘が善男善女たちを呼びはじめ、人々は、晴着を着かざり、ほんとうに楽しげな顔をして、ぞろぞろと町じゅうにむらがりながらやってきた。それと同時に、幾十という横町、小路、名もない角から、無数の人々があらわれ出て、彼らのご馳走の材料をパン屋の店へ運んでいた。 こういう貧しい饗宴者たちの光景は、精霊の心をいたくひきつけたようであった。精霊は、スクルージを自分のそばにおき、パン屋の入口に立って、ご馳走を運ぶ者がそこを通ると、その蔽《おお》いを取って、ご馳走の上に松明《たいまつ》から香料をふりかけてやった。それに、この松明はすこぶる変わった種類の松明だった。というのは、ご馳走を運んで来た人びとがたがいに押しあって、一、二度口あらそいを始めたときに、精霊は松明から二、三滴の水を彼らの上にふりこぼしたところ、彼らは、たちまちもとのように上機嫌となってしまったのである。そして彼らは、クリスマスの日に喧嘩をするなんてまったく恥かしいことだと言った。そのとおりだ! 本当にそのとおりなのだ! そして、そのあたりでは、鋪道さえも湯気をたてていて、まるで石までが料理されているようだった。
「あなたが松明からふりかけたものには、特別な香りがついていたんですか?」とスクルージがきいた。
「ああ、わたしの香りさ」
「その香りは、今日のご馳走のどれにも合うのでしょうか?」
「やさしい心で出されるものにならば、だよ。ことに、貧しいご馳走に一番よく合う」
「どうして貧しいご馳走に一番よく合うのですか?」とスクルージ。
「そういうご馳走に一番必要だからさ」
「精霊さま」とスクルージは、ちょっと考えた後に、「このまわりに、あらゆるものの中で、あなたがとりわけ、こういった人々の無邪気に楽しむ機会を妨げおさえようと思っていらっしゃるのが、どうも不審にたえません」
「わたしがかい!」
「あなたはああいう人々が七日目ごとにご馳走を食べるという特典、しかもご馳走が食べられるというのはせいぜいその日しかないというのに、それを奪おうとしているんです……ええ、そうじゃないんですか?」
「わたしがだって!」と精霊が叫んだ。
「こういうパン屋を七日目ごとにしめさせようと思っているんでしょう。だから同じことになるんですよ」
「|このわたしが《ヽヽヽヽヽヽ》そう思っているって」と精霊は大きな声を出した。
「私の言うことが間違っていたら、ご勘弁ください。あなたの名前で、少なくともあなたのご家族の名前で、そういうことをやっているからです」
「おまえさんたちのこの世のなかにはね」と精霊は答えて、「わたしたちを当然知っているようなことを言って、俗情、傲慢《ごうまん》、悪意、僧悪、嫉妬、頑迷《がんめい》、我慾などの悪徳を、わたしたちの名で行なう者がいる……だが、そういう連中は、まあいわば、生きていたことなんかないように、わたしたちの一家一族とはなんの関係もないのさ。そのことをよくおぼえていてくれ、そして、奴らを責めるべきで、わたしたちを咎《とが》めないようにしてほしい」
スクルージは、そのようにすると約束した。それから、二人は、前と同じように姿をあらわさないで、先へ進み、町の郊外へ入っていった。精霊は、じつに巨大な体をしているのに、どんなところにもやすやすと身を入れることができ(それはさっきパン屋の店で、スクルージがちゃんと見たところだが)また、低い屋根の下でも、高荘な広間にいる場合にするのとおなじように、品よく、また超自然のものらしく立っているというのが、その著《いちじる》しい特徴であった。
そして、精霊は、おそらく、こういう自分の力を見せるのが愉快だったのでもあろうか、あるいはまた、持ち前のやさしい、寛大な、あたたかい性質と、貧しい人々すべてに寄せる同情のためか、まっすぐにスクルージの書記の家へむかった……彼はそこへ、スクルージを自分の着物につかまらせて、いっしょに連れていった。そして、精霊は戸口のしきいのところで、にっこりと笑って足をとめると、その松明から雫《しずく》をふりかけて、書記ボッブ・クラチット〔ボッブはロバートの愛称〕の住居を祝福した。まあ、考えてみて下さい! ボッブは一週間わずか十五ボッブ〔ボッブはシリングの俗称〕しか得られないのです。つまり、土曜日ごとに、自分の名前をたった十五個、手にするだけであった……それなのに、「現在のクリスマス」の精霊は、ボッブの四間しかない家に祝福を与えてやったのだ!
このとき、クラチットの細君のクラチット夫人は、盛装していたとはいうものの、二度も裏かえしをした粗末なガウンをまとい、ただリボンだけは派手にして(リボンは安いもので、六ペンスでおしゃれができるから)、そこへあらわれた。そして二番目の娘のベリング・クラチット……これまた、派手なリボンをつけて……に手つだわしてテーブル・クロスをひろげた。一方、息子のピーター・クラチットは、ジャガイモの鍋の中にフォークを突っこんだ。彼は、彼のおそろしく大きなワイシャツ(これは今日のお祝いにボッブが息子で後嗣《あとつぎ》であるピーターに与えた私有財産であった)の襟《えり》はしを口にくわえて、自分がこんなに立派な装いをしたことが嬉しくてたまらず、流行の中心地である公園へ行って、自分のシャツを早く見せたいと思っていた。するとそこへ、もっと小さいクラチットの子供、男の子と女の子がパタパタと入ってきて、いまパン屋の外で、鵞鳥《がちょう》の焼ける匂いを嗅いできたけれど、あれはうちのだとわかったと、きゃあきゃあ叫びたてた。これら二人の子供たちは、サルビアの香りをつけた玉葱〔焼いた鵞鳥の詰め物にする〕のご馳走のことをしきりに頭のなかで考えながら、テーブルのまわりを踊りさわぎ、兄さんのピーター・クラチットをいろいろとほめそやした……ピーターの方は、(得意がる様子もなく……もっともワイシャツの襟が彼の息をつまらせそうになっていたからでもあるが)盛んに火を吹きおこしていたが、やがて煮えのおそいジャガイモはごとごとと言いだして、どうか取り出して皮をむいてくださいと大きな音をたてて、鍋《なべ》のふたを叩いた。
「それはそうと、おまえたちの大事なお父さまはどうしたんだろうね?」と、クラチット夫人が言った。……「それから、おまえたちの弟のチビのティムは?それからマーサも、去年のクリスマスには三十分もおそくなかったのにね!」
「ただいま、マーサですよ、お母さま!」そう言いながら、娘があらわれた。
「ああマーサだ、お母さん!」と二人の小さい子供たちは叫んで、「万歳! マーサ、|すごい《ヽヽヽ》鵞鳥のご馳走よ!」
「おやまあ、おまえ、なんておそいの!」とクラチット夫人は、娘に何度も接吻し、いろいろ世話をやいて肩かけや帽子をとってやった。
「ゆうべは仕事がたくさんあってね、それを終えなければならなかったし、またけさは、お掃除をしてこなければならなかったのよ、お母さま!」
「そう! もう帰ってきたんだからなんでもいいのよ」とクラチット夫人、「暖炉《だんろ》の前に来て、さあ、あったまんなさい、ほんとうに寒かったろうに!」
「だめ、だめ! お父さんがいらっしゃるから、隠れなさい、マーサ、隠れなさい!」と、れいのどこにでも出しゃばる二人の小さい子供たちが言った。
そこで、マーサは隠れた。そこへ、父親の、小男ボッブが入ってきた……ふさを除いて三フィートはある襟巻を前にぶらぶらさせながら。彼のすり切れた服は、せめてクリスマスらしく見えるように、ちゃんと繕《つくろ》って、ブラッシがかけてあった。そしてチビのティムがその肩に乗っていた……かわいそうに、チビのティムは小さい松葉杖をもち、両脚は鉄枠で支えてあった!
「おや、マーサはどこにいるのかね?」とボッブ・クラチットは、あたりを見まわして言った。
「来ていませんよ」とクラチット夫人。
「来ていない!」とボッブは、それまで元気だったのが、急に気をおとして言った。彼は、教会から帰ってくる途中ずっと、ティムの名馬(サラブレッド)になって、ハイドウハイドウと跳《と》んできたのであった。
「クリスマスなのに、まだ来ていないとは!」
マーサは、たとえ冗談にしても、父ががっかりするところを見たくなかった。そこで、まだ早いのに戸棚のかげから出てきて、父の腕のなかへ飛びこんだ。それから、二人の小さい子供たちは、チビのティムをひっぱって、釜のなかで煮えているプディングの歌を聞かせてやろうと、洗濯場のところまで連れていった。
「それで、ティムはどんなふうでしたの?」クラチット夫人は、ボッブがひとの言うことをすぐ本気にするのをからかい、またボッブがマーサを思うぞんぶんに抱きしめたあとで、そうきいた。
「とてもお行儀がよかったよ」とボッブ……「上出来《じょうでき》さ。ひとりで長いこと腰かけていたものだから、いやに考えこんじゃってね、これまで聞いたこともないような妙なことを考えているんだよ。帰る道で、こんなことを言うのさ……教会でみんながぼくのことを見てくれればいいなあと思ったよ、なぜってぼくはびっこだからね、クリスマスの日に、だれがびっこの乞食を歩くようにし、めくらの人を見えるようになさったのはだれであるか、それを思い出したら、あの人たちもいい気持ちがするだろうからね、とさ」
みんなにこの話をしながら、ボッブの声は少しふるえていた。また、チビのティムがだんだん強く元気になっていると言ったときには、いっそう慄《ふる》えているのであった。
カタカタという小さい松葉杖の音が、床に聞こえた。次の言葉を言い出す間もないうちに、チビのティムがもどって来て、兄さんや姉さんに守られ、暖炉の前の自分の丸腰かけのところへ行った。
一方、ボッブは、袖口をまくり上げて、かわいそうに、その袖口がそれ以上よごれるとでも思っているかのように……ジン酒とレモンで、ジョッキのなかに何か熱い混ぜものをこしらえ、ぐるぐるとかき回して、それが沸きたつように炉側の棚にのせた。ピーター少年とれいのどこにも出しゃばる二人の子供たちが、頼んであった鵞鳥を取りに行って、やがてそれをもって、物々しい行列をつくって帰ってきた。
それから、大きな騒ぎが始まった……まるで鵞鳥は鳥のなかで最もめずらしいものとひとが思いそうなくらいだった。羽根の生えた怪物、これにくらべたら黒い白鳥などは至って平凡なものにすぎない。じっさい、この家では、鵞鳥はそれに近いものだったのである。クラチット夫人は、肉汁(あらかじめ小さな鍋に用意してあった)を、ジュウジュウと煮たたせた。ピーター少年は、柄にもないような力で、ジャガイモをおしつぶした。ベリンダ嬢は、アップル・ソースに甘味をつけた。マーサは、温めた皿をきれいに拭いた。ボッブはチビのティムをテーブルの小さい隅に連れていって、自分のそばに坐らした。二人の小さい子供たちは、みんなのために……もちろん、自分のことは忘れることなく……椅子をおき、自分の位置について見張りをしながら、自分たちによそってもらう順番がこないうちに早く鵞鳥をくださいなどとどなったりするといけないと思って、めいめい口の中にスプーンをおしこんでいた。ついに皿がならべられ、食前のお祈りもすんだ。それから、クラチット夫人は、大きな肉切り庖丁をゆっくりと眺めわたしながら、それを鵞鳥の胸に入れようとかまえたとき、一座は息を殺して、少しの間しいんとなった。が、ぐいと突き入れて、そして長いこと待ちこがれていた詰めものがどっと出てくると、食卓のまわりから、歓びのつぶやきがいっせいに起こった。チビのティムでさえも、二人の小供たちにつられて、ナイフの柄でテーブルをたたき、弱々しい声ながら、「ばんざあい!」と言ったのであった。
こんなよい鵞鳥は、これまでなかった。こんなよい鵞鳥が料理されたことはこれまでにないとぼくは思うよ、とボッブが言った。そのやわらかで、香りのよいこと、大きくて、また安いこと、それらが一同の賛嘆の話題になった。アップル・ソースとおしつぶしたジャガイモをそれに添えれば、一家で食べるのに十分なご馳走であった。じっさい、クラチット夫人は、とても嬉しそうに(皿にのこった、ほんの小さな骨の一片を見やりながら)、結局みんなでそれを全部は食べられなかったのよ、と言った。それにしても、だれもかれも腹いっぱい食べた。とくに二人の小さい子供たちときたら、サルビア入りの玉葱《たまねぎ》で目の上までひたってしまった! ところでいま、ベリンダ嬢が皿をとりかえると、クラチット夫人は、ひとり部屋を出ていった……プディングを釜から取り出して、運んでこようというのだが、自分でとても神経質になっていて、だれかにそうするところを見られるのは、とうてい我慢ができない気持ちだったのである。
もしもプディングがよく煮えていなかったら! もしもそれを取り出すときに、こわれでもしたら! もしも自分たちが鵞鳥のご馳走で大騒ぎしている間に、だれかが裏庭の塀を乗りこえて、それを盗んでいったようなことがあったら! こう想像しただけでも、二人の小さい子供たちはまっ青になってしまうだろう。ありとあらゆる恐ろしいことが想像されるのであった。
おやまあ! たいへんな湯気だこと! プディングは釜のなかから出された。まるで洗濯日のような匂い! それは、包んだ布なのだ。それから、料理店と菓子屋が隣りあわせて、そのまた隣りに洗濯屋があるといった匂い! それが、プディングだった。すぐに、クラチット夫人は部屋に入ってきた……顔をほてらせ、得意そうに笑いながら……斑《まだら》模様のついた砲弾のように、かたくがっちりしたプディッグをもって。それは、四分の一パイントの半分の半分のブランディーに火をつけた炎で燃えあがり、その一番上には、ヒイラギの葉が突きさしてあった。
おお、すばらしいプディング! ボッブは落ちついた調子で、自分が見るところ、これは結婚以来、細君の最大の成功だと言った。そこでクラチット夫人は、心の重荷も下りたいま、ほんとうのことを言いますと、粉の分量にどうも不安なところがあります、と言った。それについて、みんなそれぞれ何か言ったのであるが、それが大家族にとっては、小さなプディングだということを少しでも言ったりあるいは思ったりするような者は一人もなかった。この場合、そんなことを言ったりしたら、それこそとんでもない異端者である。クラチット家の者は、そんなことはおくびに出しただけでも、顔を赤らめたであろう。
とうとう、晩餐《ばんさん》がおわり、テーブル・クロスがのぞかれて、壁炉のところをきれいに掃いて、新しく火を焚いた。ジョッキにこしらえた混ぜものの味をみて、申し分ないということで、林檎やオレンジはテーブルに出し、シャベル一杯の栗を火の上においた。それから、クラチットの家族はぜんぶ、炉のまわりに、ボッブ・クラチットが言う一円(実は半円であるが)のかたちに、寄りあつまった。そして、ボッブのひじのところには、家にありったけのガラス器が飾りたてられてあった。すなわち、大コップ二つと、柄のないカスタード用コップ一つである。
それでもこれらのコップは、黄金の盃にもひとしく、ジョッキから注ぐ熱いものを湛《たた》えたのであった。ボッブはにこやかな顔をして、それをすっかり注ぎわけた。その間火の上にかけた栗はブスブス言って、パンパンと音高くはじけた。すると、ボッブが言いだした……
「さあみんな、クリスマスおめでとう。神さま、わたしたちに祝福をお与えくださいますように!」
それに、一家がぜんぶ和した。
「神さま、わたしたちのすべてに祝福をお与えくださいますよう!」と最後にチビのティムが言った。
ティムは、父のそばにくっついて、彼の小さい丸腰かけに坐っていた。ボッブはティムのやせた細い手を自分の手で握っていた……それは、あたかも彼がこの子をいつくしみ、いつも自分のそばにおいておきたくてたまらず、しかも自分からひき難されるのではないかと恐れているようであった。
「精霊さま」とスクルージは、前に覚えたことのない興味にそそられて、「あのチビのティムはこれから生きていくでしょうか、聞かせてください」
「わたしには、あの貧しい炉の隅に一つの席があいていて、また、所有主のない松葉杖が大切に保存されているのが見える」と幽霊は答えて、「もしこれらの影がそのまま未来《ヽヽ》の手で変えられることがなければ、あの子は死ぬことになっているよ」
「いえ、いえ、いけません」とスクルージ、「いけません、親切な精霊さま、どうかあの子は助かると言ってください」
「もしこれらの影がそのまま未来の手に変えられることがなければ、わたしら一族のだれもここにあの子を見いだすことがないだろうよ。それがどうしたというんだい? あの子が死ぬことになっているのだったら、死んだほうがいい、そしてあまっている人口を減らしたらいいではないか」
スクルージは、自分の言った言葉を精霊が引用して言うのを聞いて、頭をたれ、後悔と悲しみにうたれた。
「人間のおまえ……おまえの心が石ではなく、人間らしい情けをもっているのならば、いったいありあまるとは何か、またいったいどこにありあまるということがあるかをちゃんと見いだすまで、あんな意地の悪い口をきいてはならない。どういう人間が生きるべきで、どういう人間が死ぬべきかということを、おまえは決めるつもりかい? 天帝の目から見れば、この貧しい男の子供みたいなのが幾百万とあったって、おまえなどはそういう者よりはずっとくだらなく、生きる値打ちがないのかも知れないのだ。ああ神さま! 草の葉の上にいる虫が、地上に飢えてうごめく兄弟たちの間に生命が多すぎると大口をたたくとは!」
精霊の非難の前に、スクルージは、うなだれてふるえながら、地面に目をおとした。だが、自分の名前が言われるのを聞いて、急いで目を上げた。
「スクルージさん! この|ご馳走の寄与者《ヽヽヽヽヽヽヽ》であるスクルージさん、あなたのために乾盃します!」とボッブが言ったのだ。
「|ご馳走の寄与者《ヽヽヽヽヽヽヽ》はよかったわね!」とクラチット夫人は、顔をまっ赤にしながら、強く言って、「あのひとがここにいればいいのにと思うわ。あたし、思いきって毒舌のご馳走をならべたててやるわ……そしたら、さぞかしおいしいと言って食べるでしょうね」
「これ、おまえ、子供たちがいるじゃないか! それにクリスマスだよ」とボッブ。
「たしかにクリスマスにちがいありませんわ、スクルージさんのように、にくらしい、ケチン坊の、残酷な、情け知らずの人間の健康を祈って乾盃するんですからね。そういうひとだということ、ロバート、あなただって知っているでしょう。いえ、あなたほどそれをよく知っている者はありませんよ、かわいそうに!」
「ねえ、おまえ、クリスマスだよ」とボッブは、おだやかに答えた。
「あたしはあなたのために、またこのよい日のために乾盃しましょう」とクラチット夫人……「あのひとのためにじゃないのよ。でもあのひとが長生きするように! クリスマスおめでとうございます……新年おめでとうございます! あのひとは、さぞかし愉快で幸福になるでしょうよ」
子供たちも、母親にならって乾盃した。彼らのやったことで、真情がこもっていないのはこれがはじめてのものであった。チビのティムも、一番あとから乾盃した。だが、彼はそんなことを少しも気にかけていなかった。スクルージは、一家の「食人鬼」だったのである。彼の名前がだれかの口にのぼると、それは一座に暗い影を投げた。そして、たっぷり五分間というもの、それは消えないのであった。
その影が消えてしまうと、スクルージという「害虫」の片をつけたという安心だけで、彼らは、前の十倍も陽気になった。ポッブ・クラチットは、少年ピーターのために働き口の目当てがあり、もしそれがうまく得られたら、一週五シリング六ペンスの収入になると言った。ピーターが一人前の商売人になるといって、二人の小さい子供たちがわあっと笑いこけた。そしてピーター自身は、いずれびっくりして目をまわすほどの大金が手に入るようになったら、どういうような投資をしようかと思いめぐらしてでもいるかのように、大きな襟の間から暖炉の火を考えぶかそうに見つめていた。すると婦人帽子屋で下っぱの見習奉公をしているマーサは、店で自分がどういう仕事をしなければならないか、ぶっとおしに何時間働かなければならないかを話し、そして明日は休みでうちにいるのだから、明日の朝は寝坊してゆっくり休みたいわと言った。また、二、三日前には、伯爵夫人と貴族のおかたを見たが、その貴族のおかたは、ちょうど「ピーターくらいの背かっこうよ」と言った。それを聞いて、ピーターは、襟をうんとひっぱって高くしたので、もしあなたがたがそこに居合わせても、ピーターの顔を見ることができなかったでしょう。その間ずっと、栗とジョッキの飲みものが、みんなの間にまわされていた。さて、やがてのこと、一同は、チビのティムがうたう歌を聞いた……それは、迷い児になった子供がとぼとぼ雪のなかを歩いていくという歌だったが、ティムは、哀《かな》しげな、かわいい声をしていて、その歌を実にうまくうたったのであった。
ここには、べつだん非常に目立つことは何もない。彼らは立派な家族ではなかった。よいものを身につけているわけでもなかった。その靴は、水が入らないどころではなかったし、着物は乏しかった。そしてピーターだって、質屋というものを知っていたかもしれない、いや、そういうことはありそうだった。とはいうものの、彼らはみんな幸福で、感謝に満ち、たがいに愛しあい、クリスマスの今日に満足していたのである。
やがて彼らの姿がうすれ、そこを去るときに精霊が松明からふりこぼすキラキラした滴《したた》りのなかで、いっそう幸福そうに見えたとき、スクルージは、なお彼らに目をとめていた……ことに、チビのティムを、最後まで見ていた。
このときまでに、あたりはだんだんと暗くなり、雪がかなりひどく降ってきた。スクルージと精霊が街を通っていくとき、台所や、居間や、あらゆる種類の部屋にぼうぼうと音をたてて燃えている火の輝かしさは、すばらしいものだった。こちらの方には、炎のチラチラする光で、楽しげな晩餐の用意がしであるところが見えた……火の前で十分に熱くしてある皿や、寒気と暗闇をしめ出すために、いまひかれようとしている深紅色のカーテンが見えた。またむこうの方には、家じゅうの子供たちがそろって、雪の中へ走り出て、結婚した姉や兄や、いとこや、叔父叔母たちを迎え、自分がまっ先に挨拶しようとしていた。また、こっちでは、ブラインドに、集まった客たちの影がさしていた。それから、向こうでは美しい娘たちの一団が、いずれも頭巾《フード》をかぶり、毛皮の長靴をはいて、みな一度にしゃべりたてながら、軽い足どりで近くの家へ出かけていった……その家で、彼女たちが入ってくるのを見る独身の男こそ禍《わざわ》いなるかな! てくだを心得ている妖女たち……彼女たちは炉の火の光で、それをはっきりと見てとってしまうのだ!
しかしながら、友だちのところの集まりに出かけていくこういう人々の数の多さから判断するとしたら、あなたがたは、どこの家でも、薪を煙突の半分くらいの高さまでつんでお客を待ちもうけているといったこともなく、みな出かけてしまって、そこの家に行っても誰も迎えに出てくる者などいないのではないかと思うかもしれないでしょう。
それにしても、精霊はどんなに大よろこびしたことであろう! その広い胸をむき出しにして、大きな掌をひろげて、その惜しみなく与える手から、手のとどくあらゆるものに、晴れやかで害のない陽気さをふりまきながら、ふわふわと浮かび動いていった精霊の様子といったら! うす暗い街にあかりの点々を一つずつふやして明るくしていく点燈夫でさえ……彼はクリスマスの今晩をどこかで過ごそうと、よい服を着ていた……精霊がそばを通りかかったとき、大きな声をたてて笑ったのであった……もっとも、彼は、自分のそばにクリスマス以外のだれかがくっついて歩いているとは、夢にも知らなかったのだ!
さて、今度は、精霊の方からひと言の前ぶれもなく、二人は、荒涼とした寂しい沢地に立っていた。そこは、まるで巨人の墓場ででもあるように、ごつごつとした、とてつもなく大きな石塊があっちこっちにころがっていた。また、水はどこへでも、自分の好むところへ流れた……いや、もしそれを閉じこめる結氷がなかったならば、きっとそのように流れたであろう。そこにはまた、苔やハリエニシダや、あらく生えた、ぼうぼうとした雑草のほか、何も生えていなかった。西の空低く、落日がひとすじ、火のような線をのこし、それがひととき、まるで怒った目のように、荒漠とした四辺にぎらりとした光を投じた。そして、低く、低く、さらに低く、その目をひそめながら下り、やがてまっ暗な夜のなかに没してしまった。
「ここはどういうところですか?」とスクルージはきいた。
「坑夫たちの住むところさ……あれたちは大地の底で働いているのだ」と精霊は答えて、「だが坑夫たちはわたしのことを知っているよ。あそこをごらん!」
一軒の小屋の窓から、光がさし出ていた。二人は、いそいでその方へ進んだ。泥と石の壁をすっと通りぬけると、赤々とした火のまわりに陽気な一団が集まっているのを見いだした。一人の非常に年とったお爺《じい》さんとお婆《ばあ》さんが、彼らの子供、彼らの孫、またその次の代のひまごたちといっしょにいて、みんな晴着で美しく身を飾っていた。お爺さんは、この荒地を吹きわたる風のうなりに、ややもすると消されがちな声で、彼らにクリスマスの歌……それは、彼がまだ少年の頃も非常に古い歌だったが……をうたって聞かせていた。そして、時々みんながいっしょに声を合わせた。彼らが声を高くするたびに、お爺さんは、陽気に、高らかな声になった。また、彼らがだまると、きっとお爺さんの元気がもとのように衰えるのであった。
精霊は、ここには長くはとどまらず、スクルージに、彼の着物につかまるように命じて、沢地の上を過ぎて、先へ急いだ……どこへ? 海へ行くのではないか? そうだ、海へだ。ふりかえったスクルージが肝《きも》を冷やしたことには、二人のうしろに、陸地の最後であるおそろしい岩々のつながりを見た。そして、海の波がうねり寄せ、咆哮《ほうこう》し、自分が削りあけたものすごい巌窟《がんくつ》の間で荒れ狂って、地の下を掘りうがとうと烈しく試みながら、雷《かみなり》のようにとどろく音は、彼の耳を聞こえなくしてしまった。
岸から三マイルばかり難れて、一年じゅう荒波にうたれたたかれている、水にかくれたものすごい暗礁《あんしょう》の間に、一つぽつんと燈台が立っていた。その台石には、海草が幾重にもかたまりついて、海燕《うみつばめ》の群……海草が水から生まれたように、風から生まれたのだろうと思わせるような……がそのあたりに、彼らがすれすれにかすめ飛ぶ波とおなじように、舞い上がったり舞い下りたりしていた。
しかし、こんなところでも、燈台のあかりの番をしている二人の男が、火を焚いていた。そして、その火は、厚い石の壁にあけた風窓から、ひとすじの明るい光を凄《すさ》まじい海に投じていた。彼らが向かいあって腰かけた荒けずりのテーブルごしに、その角ばった手を握りあわせながら、二人は金属製のコップのラム酒を飲んで、たがいにクリスマスおめでとうを言いかわした。そしてその一人、年上で、まるで古びた船の船首像みたいに、風雨のためにすっかり荒れて傷だらけになった顔の男が、突然たくましい歌……それ自身|疾風《はやて》のような……をうたいはじめた。
幽霊は、再びまっ黒な、高まりあがる海の上を走っていった……先へ、先へと進み、ついに、どの岸からも遠くへだたったところに来て(精霊はスクルージにそう言った)、二人は、一隻の船の上におりた。二人は、舵輪《だりん》をにぎる舵手や、舳《へさき》に立つ見張人や、当直をしている高級船員のそばにたたずんだ……それぞれの位置についている彼らは、黒い、幽霊のような姿に見えた。だが、そのなかのだれもかれも、クリスマスの歌を口ずさんだり、クリスマスらしいもの想いにふけったり、また、声をひそめながら、自分の仲間に、かつてのクリスマスの日のことを話したりしていた……それにはふるさとへ帰りたいという希望もふくまれていた。そして、船に乗っているだれもかれも、起きている者も寝ている者も、悪人も善人も、この日には、一年じゅうのどんな日にもない、親切な言葉を他人に寄せ、そしてある程度、今日の祝いをいっしょに楽しんでいた。そして、自分の心にかけている遠方の人々のことを思い出し、また、そういう人々も自分のことを思い出して喜んでいることを、よく知っているのだった。
風のうめきに耳を傾け、その深さは「死」と同じように測り知られぬ秘密である未知の海原の上にひろがっている、寂しい暗闇のなかを進んでいくのは、なんという厳粛《げんしゅく》なことであろう、と考えこんでいたスクルージにとって……こうして気をとられていたスクルージにとって、そのときほがらかな笑い声を耳にしたことは、大きな驚きであった。さらに、それが彼の甥の笑い声だとわかるとともに、自分が明るい、からっとした、光に輝く部屋にいることに気がついたことは、スクルージにとって、いよいよ大きな驚きであった。自分のわきには、精霊が笑いながら立っており、その甥を、いかにも自分の心にかなったというような親しさで、じっと眺めているではないか……
「ハッ、ハッ!」と、スクルージの甥は笑っていた……「ハッ、ハ、ハァ!」
もしあなたがたが、スクルージの甥よりも笑いにめぐまれた男を万一知るような機会がありましたら……そういうことはめったにないでしょうが……私はただこう申し上げることができるだけである、私もまたそのひとを知りたいものです、と。どうかそのひとを紹介してください、私はそのひとに近づきを得たいものです。
病気や悲哀に感染性がある一方、この世に笑いや上機嫌ほどおさえがたい伝染力をもっているものはないということは、物事がまったく公平に立派に調節されているゆえんである。
さて、スクルージの甥《おい》がこのように、腹をかかえたり、頭をぐるぐる回したり、顔をとほうもなくくしゃくしゃにゆがめて大笑いすると、スクルージの義理の姪……甥の妻……も、夫とおなじように心から笑った。そして、そこに集まった友だちも、それにおくれをとることなく、どっと笑いくずれるのであった。
「ハッ、ハァ! ハッ、ハ、ハ、ハァ!」
「あのひとはね、クリスマスなんてばかな、と言ったんだよ、ほんとうに!」とスクルージの甥は大きな声で言った。「あのひとはまたそう信じているんだね」
「ますます悪いじゃないの」とスクルージの義姪は、憤然《ふんぜん》とした。こういう婦人たちこそたのもしい……彼女たちは、何事も中途はんぱにしておくことがない、いつでも大まじめなのである。彼女は、非常に美しかった、なみはずれて美しかった。えくぼのある、びっくりしたような、すばらしい顔。接吻されるためにつくられたと思われる……たしかにそうだ……ぷっくりとした紅い小さな口、顎《あご》のまわりには、あらゆる種類の小さな愛らしい斑らがあって、笑うときには、それらが一つに溶けあってしまう。それから、どんなかわいらしい少女の顔にも見られないような、明るく輝やいた二つの目、総括して言えば、彼女は、たしかに、こちらの気をやきもきさせるとも言いたいような、魅力のある女であった。だがまた、申し分ない妻でもあった。おお、まったく申し分なかったのだ。
「あのひとは変な爺さんだよ」とスクルージの甥は言って、「あれが本当のところさ。もっと面白く愉快になれるのに、そうはいかないんだね。それにしても、あのひとの欠点は、いまにそれ相応のむくいがあるだろうから、ぼくはあのひとのことを悪く言わないよ」
「あのひとはとてもお金持ちなんでしょう、フレッド」とスクルージの義姪は、ちょっと言いかけて、「少なくともあなたはいつもあたしにそうおっしゃってますわ」
「それがどうしたのかい!」とスクルージの甥……「あのひとの財産はあのひとにはなんの役にも立たないのさ。何も善いことはしないんだからね。また、自分の暮らしを気持ちよくすることもしないのさ。それで、これからぼくたちをよくしてやろうとね……ハッ、ハ、ハァ!……そう考えるような悦びももっていないんだよ」
「あのひとには我慢できないわ」とスクルージの義姪は言った。彼女の姉妹や、他の婦人たちはみな同じ意見だと言った。
「いや、ぼくは我慢できるよ」とスクルージの甥は言った……「ぼくはあのひとを気の毒に思うからね。あのひとには怒ろうと思っても怒れないんだ。あのひとの意地の悪いむらっ気で悩むのはだれかね? いつでも、あのひと自身じゃないか。今度だって、あのひとは僕たちを好かないと思いこんでしまうと、もうここへ来てぼくたちと一緒にご飯を食べようとはしないのさ。その結果はどういうことかね? そう大したご馳走を食べそこなったわけでもないじゃないか」
「実のところ、あのひとは非常に結構なご馳走を食べそこなったんだと思いますわ」とスクルージの義姪が話をさえぎった。他の一同がその通りだと言った。こう言う彼らは、判定者として十分資格があることは当然みとめなければなるまい……というのは、彼らはいまご馳走を食べおわったところで、テーブルに食後の茶菓をおいて、ランプの光で、暖炉の火のまわりに集まっているところだから。
「そう、ぼくはそう聞くとうれしいよ。ぼくはこういう若い主婦たちにはあまり信用をおいていないからね。トッパー、君はどう思うかね?」とスクルージの甥は言った。
トッパーは、明らかに、スクルージの姪の妹たちの一人に目をつけているらしかった。なぜというに、彼は、独身者というものはみじめな仲間はずれで、こうした事柄に意見を述べる権利はない、と答えたからである。それを聞いて、スクルージの姪の妹の一人……バラをつけたほうでなく、レースの襟布《タッカー》をした、肥ったほうが顔を赤らめた。
「いいから、先をおっしゃってください、フレッド」とスクルージの義姪は手をたたいて、「このひとは、言いかけたことを終りまで言うことがないんですよ!とてもおかしいひとなの」
スクルージの甥は、また大きな笑いにくずれた。そして、その感染を妨ぐことができなかったので……肥ったほうの妹などは、携《たずさ》えている匂い酷酸《さくさん》でそれを妨ごうともっぱらやって見たほどだったが……一座は、どっと彼にならって笑いこけた。
「ぼくはただ、こう言おうと思ったんだよ」とスクルージの甥……「スクルージの叔父さんがぼくたちを嫌っていっしょに楽しく遊ばないというその結果はね、ぼくが思うところでは、あのひとは自分にはけっして悪いことにならない、愉快な時を失うことになるんだよ。あのひとが自分の黴《かび》くさい事務所や埃《ほこり》だらけな住居で、ひとり考えこんでいたりしてはとても見つかりそうもない、面白い相手をたしかに失っているわけだ。ぼくは毎年、あのひとが好んでも好まなくても、こういう機会をあのひとに与えるつもりだよ、あのひとを気の毒だと思うからね。あのひとは死ぬまでクリスマスのことを罵《ののし》るかも知れない。だが、やがてはクリスマスのことをよく考えなおさなければならなくなるよ……そうならないということがあるもんか! もしぼくが毎年毎年出かけて行って、機嫌のよい顔をして、やあ、スクルージ叔父さん、いかがですか、と言うならばね。それで、あの哀れな書記に五十ポンドでも遺《のこ》すような気持ちになったら、|それだけでも《ヽヽヽヽヽヽ》効果があるというわけさ。きのうはぼくはあのひとの心をゆすぶったと思うよ」
彼がスクルージの心をゆすぶったということがおかしいといって、今度は一同がわっと笑う番になった。だが、彼は心の真底から善良なので、一同がとにかく笑っていさえすれば何を笑おうとあんまり気にかけないので、みんなが笑い興じるのをいっそう励ますようにして、愉快そうに酒の瓶をまわした。
お茶のあと、一同は音楽をやった。彼らは音楽好きな一家で、重唱や輪唱をうたったとき、その歌い方は、たしかに、よく心得たものだった。ことに、トッパーは上手で、太いバスの声で歌いとおし、しかも額に大きな筋を立てたり、力《りき》んで顔を赤くしたりすることがなかった。スクルージの義姪は竪琴《ハープ》をたいへん上手にひいたが、いろいろな曲をひいたうちで、一つ簡単な小曲(ごくつまらない、二分間習ったらすぐ口笛で吹けそうなもの)があった……それは、さっき「過去のクリスマス」の精霊が見せてくれたように、あの寄宿学校からスクルージをうちへ連れて行ってくれた小さな妹がよくうたっていたものであった。この小曲の音《ね》がひびくと、これまで精霊が見せてくれたものがすべて、スクルージの心によみがえってきた……彼は、だんだんと心がやわらいできた。そして、もし幾年か前に、ときどき自分がこの曲を聴くことができたならば、あのジェイコブ・マーレイを埋葬した墓掘り人の鋤《すき》によることなく、(すなわち、わざわざマーレイの幽霊をわずらわすことなく)、自分自身の手で、みずからの幸福を実らせる、世の人情をつちかうことができたかもしれない、とスクルージは思うのであった。
しかし、彼らは、一晩じゅう音楽ばかりして過ごしはしなかった。少したってから、一同は罰金あそびをした……ときどき子供になるのはよいことで、またそれには、クリスマスを始められた神さまご自身が子供であったこの時節ほどふさわしいものはないのです。ちょっとお待ちなさい! 最初は目隠しあそびをやったのです。もちろんやったのです。ところで私は、トッパーが本当に目が見えなかったとは思えないのは、彼の靴に目がついていたとは思えないのとおなじなのです。私の考えでは、それは彼とスクルージの甥の間でちゃんとしめしあわせてあったことで、「現在のクリスマス」の幽霊も、それを知っていたのでしょう。トッパーがレースの襟《えり》飾りをつけた肥った妹を追いかけまわしたやり方ときたら、あまりにも見えすいていて、まったく人をばかにしたものであった。炉ばたの火|挟《ばさ》みや火かき棒をひっくりかえしたり、椅子につまずき倒れたり、ピアノに衝突したり、カーテンのなかに首を突っこんで窒息しそうになったりして、彼女の行くところへはどこへでも追っていったのだ! 肥った妹のいるところを、彼はいつもちゃんと知っていた。彼は、他のだれもつかまえようとしなかった。もしあなたがたがわざと彼に突きあたったならば(じっさい、彼らのなかのある者はそうやったのだ)、彼は、一生懸命にそのひとを捉えようとする振りをするだろうが(これはあなたがたの推察力をひどくなめたものです)、
すぐにまた肥った妹のいる方へ、それて進んでいったであろう。
肥った妹は、大声で、これは公平じゃないことよ、と幾度も言った。けれども、とうとう彼が彼女をつかまえてしまったとき……彼女が絹の着物をさやさや音たてたり、彼のそばを素早く身をひるがえして走りぬけようとしたのに、彼女をもう逃げ場のない片すみに追いこめてしまったとき、それから後の彼のふるまいは、まことにけしからぬものであった。なぜというに、彼女がだれだかわからないといったような振り、それでその頭飾りに手をふれてみて、さらにその指にはめた指輪や頭にかけた鎖をおさえてみて、彼女だということを確かめなければならないといった振り、それは、まったくとんでもない振るまいであった!
次に、また別なひとが目隠しの鬼になった際、二人はカーテンの蔭で、ひそひそと忍び話をしていたが、そのとき彼女はきっと、あんなことはしてはいやよと男にうらみ言を言ったのであろう。
スクルージの義姪は、この目隠しあそびの仲間には入らないで、気持ちのよい炉の片すみで、大きな椅子と足台に身をもたせ、ゆっくりと休んでいた……そのすぐうしろに、幽霊とスクルージは立っていたのである。だが、彼女は、罰金あそびには加わって、アルファベットの文字全部を一つずつ使って「私は恋人を愛します……」という愛の文句をみごとに作った。「いつ、どこで、どうした」という遊びでも、彼女はやはり素晴しい才能を示した。スクルージの甥が内心ひそかに喜んだことには、彼女の姉妹たちを完全にまかしたのであった……もっとも彼女たちとても、トッパーに言わせれば、みんな頭のよい女なのであった。そこに居合わせた者は若い者や年とった者、あわせて二十人ばかりの数であったろうが、だれもかれもそれをやった。そして、スクルージまでもやったのである。というのは、スクルージは、いまそこで行なわれている遊戯の面白さにひきこまれて、自分の声が彼らの耳に少しもひびかないことも忘れてしまい、ときどき大きな声で、自分の推定を口に出して言った。そして、それがよく当たったのである。というのは、メドがなめらかにできているのでけっして糸を切ることがないという保証つきの、極上ホワイトチャペル針の一番|尖《とが》ったものでも、自分でぼんやり者だと思いこんでいるスクルージほど鋭くはないからである。
精霊は、スクルージがこういう気分にあるのを見て、非常に喜んで、たいへん気に入った様子で彼を眺めていたので、そこの客たちが帰ってしまうまでいたいと、スクルージは子供のようにせがんだ。だが、そうはできない、と精霊は言った。
「また新しい遊びがはじまります。精霊さま、三十分、ほんとうに三十分だけ!」とスクルージは言った。
それは、「イエス、ノー」という遊びであった。スクルージの甥が何かを頭で思って、それが何だか、他の人々が当てるというのであった。みんなが質問すると、その場に応じて、スクルージの甥は、ただ「イエス」とか「ノー」とか答えるだけであった。一同は、まず活発な質問の集中砲火をあびせて、彼が動物のことを考えているということをひき出した……それは、生きている動物、むしろいやらしい動物、ときにうなったりぶうぶう言ったりする、ときに話もする、ロンドンに住んでいる、街を歩く、だが見世物にされることはない、だれかにひっぱりまわされるわけではない、サーカスの檻《おり》に入っているのではない、市場で屠《ほふ》られることはない、馬でも、驢馬《ろば》でも、牝牛でも、牡牛でも、虎でも、犬でも、豚でも、猫でも、熊でもない。新しい質問が発せられるごとに、この甥は、どっと笑いくずれた。そして、なんとも言いようないほど笑いがこみ上げてくるので、彼は、ソファから立ち上がって、足ぶみをしなければならなかった。とうとう、れいの肥った妹が、おなじように笑いこけながら、大きな声で言った……
「あたし、わかりましたわ! なんだか知っていますよ、フレッド! 知っていますよ!」
「なんですか?」とフレッドは言った。
「あなたの叔父さんの、ス、ク、ル、ウー、ジ、さんよ!」
たしかに、そのとおりだった。なるほどと、一座はひとしく感嘆した。もっとも、ある者は抗議して、「熊ですか?」と聞いたときには「イエス」と答えるべきだったのに、「ノー」という答では、せっかくみんなの考えがスクルージの方へむかっていたとしても、それを別の方へそらしてしまったようなものだ、と言った。
「スクルージは、たしかに、たくさんの面白いことをぼくたちに与えてくれたことになるね」とフレッド、「そこで、あのひとのために乾盃しなければ、悪いことになるよ。いまちょうどここに、香料を入れて熱くした葡萄酒が一杯あるから、さあ、いいかい……『スクルージ叔父さんに!』」
「よろしい、スクルージ叔父さん!」と一同は、大きな声で言った。「あの老人がどういうひとにしろ、あのひともよいクリスマスと新年を迎えますよう!」とスクルージの甥は言って、「あのひとは、これをぼくから受けようとはしないだろうが、それにしても、あのひとが受けますように……スクルージ叔父さん!」
スクルージ叔父は、他から見られなくとも、心がうきうきと軽くなってきたので、もし精霊が時間の余裕を与えてくれたら、自分のいることに気がつかない一座のために、お返しの乾盃をして、彼らには聞こえない言葉で感謝したところであろう。ところが、彼の甥が放った最後の言葉が終るか終わらないうちに、この場面はたちまち消えてしまった。そして、スクルージと精霊は、再び旅をつづけていった。
二人は、多くのものを見、また遠いところへ行った。多くの人々をおとずれたが、いつも幸福な結果をもたらした。精霊は、病んでいる者の寝床のそばに立った。すると病人たちは元気になった。異国の地に行くと、人々は故郷に近くなった。もがき苦しんでいる人々のそばに行くと、彼らはもっと大きな希望をもって辛抱づよくなった。貧窮のそばに行くと、それは富裕になった。養老院や、病院や、牢獄や、また、あらゆる不幸の隠れ家では、虚栄心の強い者が自分の小さな、はかない権力をたのしんで、扉を固くとざして精霊を締め出すといったようなことがないので、精霊は、そこに祝福を与えて、スクルージにいろいろの教訓を示したのであった。
それは長い一夜であった……もしもただの一夜であったとすれば。けれども、このことに、スクルージはうたがいをもっていた。というのは、クリスマスの休日全部は、二人がいまいっしょに過ごしてきた時間のうちに圧縮されているようにおもわれたからである。それからまた、ふしぎなことには、スクルージのほうは外見が少しも変わらないままでいるのに、精霊は、だんだんと、目に見えて年をとってきたのだ。この変化を、スクルージはすでにみとめていたのだが、口には出さなかった。だが、ついに、子供たちの十二日節前夜の会を出て、二人がいっしょに野外に立ったとき、精霊を見ると、その髪が灰いろになっているのに気がついた。
「精霊さまの寿命は、そんなに短かいんですか?」とスクルージはきいた。
「この地上におけるわたしの命は、非常に短かいのだ。今晩で終るよ」
「今晩ですって!」スクルージは叫んだ。
「今晩の真夜中だよ。お聴き、その時が近づいてきている」
ちょうどそのとき、鐘の音が鳴って十一時四十五分を知らせていた。
「こんなことおききして、もし悪うございましたらご勘弁ください」とスクルージは、精霊の着物を一生懸命に見ながら、「そこに何か妙なものが見えます……あなたさまの体の一部ではなくて、裾《すそ》から飛び出しているものがありますが、それは足でしょうか、それとも爪でしょうか?」
「爪というところだろうな、それには肉がついていないからね」と精霊は、悲しげに答えて、「ここをごらん!」
精霊は、着物のひだの間から、二人の子供をとり出した……みすぼらしい、賎《いや》しげな、恐ろしい、見るからにぞっとする、みじめきわまる子供であった。二人は、精霊の足もとにひざまずいて、その着物の外側にしがみついた。
「人間のおまえ、ここを見てごらん! この、下を見てごらん!」と精霊は、大きな声で言った。彼らは、男の子と女の子であった。黄色く、やせこけて、ぼろぼろの着物をまとい、しかめ面《づら》をして、いかにも貪欲《どんよく》そうだった。だがまた、へりくだって、平つくばっていた……本来ならば、美しい若さが満ちあふれて顔を丸くふとらせ、水々しい色で染めるべきところを、老人のような、古ぼけた、皺《しわ》だらけの手がつねったりひねったりして、そこをズタズタにひきさいていた。天使が座を占めてもよいようなところに、悪魔がひそんで、おどかすような目つきで睨《にら》んでいるのだ。人間のいかなる変化も、いかなる堕落も、いかなる倒錯《とうさく》も、ふしぎな創造によるあらゆる奇怪なもので、この半分も恐ろしくものすごい怪物を生んだことはあるまい。
スクルージは、慄然《りつぜん》として、うしろへ飛びさがった。だが、こんなふうにして子供を見せられたので、かわいいお子さんですね、と言おうとしたが、その言葉自身が、そんな大それた嘘の仲間入りするよりはと、おのれをおさえてしまって出てこなかった。
「精霊さま、これはあなたのお子さんたちですか?」とスクルージは、それ以上何も言えなかった。
「それは人間の子供だ」と精霊は、彼らを見おろしながら、「二人は父親のもとから訴え出て、わたしにすがりついているのだ。この男の子は『無知』、この女の子は『欠乏』だ。この二人に用心せよ、また、この種の者のすべてに用心せよ。だがとくに、この男の子に用心するがよい……その子の額には、もしまだ消されていないとすれば、『滅亡』と書いた文字がはっきり見えるからだ。それを否定してみよ!」と、ここで精霊は、その手を町の方へのばして、叫んだ……「それを汝に訓《おし》える者を誹謗《ひぼう》するがいい……さもなければ、自分勝手な目的に使って、なお悪用するがいい。そして、当然のむくいを待つがいい!」
「この子供たちは家もないのでしょうか?」とスクルージは、大きな声できいた。
「監獄はないのかね? 救貧院はないのかね?」と精霊は最後に、前にスクルージの言った言葉を使って、彼に反問した。
鐘が十二時を打った。
スクルージは、あたりを見まわして幽霊の姿を求めたが、見えなかった。最後の鐘の余韻が鳴りやんだとき、彼は、ジェイコブ・マーレイ老人が先に言ったことを思い出した。そして、目をあげると、一つの、おごそかな幻を見た……それは、衣を頭からすっぽりと被《かつ》ぎまとい、霧のように地面にそって、自分の方へむかってくるのであった。
[#改ページ]
第四節 最後の精霊
その幽霊は、おもむろに、おごそかに、黙々と、近づいてきた。それが間近なところまでくると、スクルージは、腰を折ってひざまずいた……この精霊は、その動いてくる空気のなかに、陰鬱《いんうつ》と神秘をふりまいているようにもおもわれたからである。
精霊は、まっ黒な衣に包まれていて、その頭も、顔も、体も蔽《おお》いかくし、ただひとつのさしのばした手のほかは、何も見えるものがなかった。そして、もしこの手がなかったら、その姿を夜陰と見わけることもできず、そのまわりをとりまいている暗闇と区別することもできなかったであろう。スクルージは、精霊が自分のわきに立ったとき、それは高く堂々としていることを知り、また、そのふしぎな存在が自分の心をおごそかな畏怖《いふ》で充たすのを感じた。彼は、それ以上何もわからなかった。というのは、精霊は、口もきかなかったし、身うごきもしなかったからである。
「わたしは、|来るべきクリスマス《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》の精霊のおんまえにいるのでしょうか?」とスクルージは言った。
精霊は、それに答えないで、その手で前の方を指さした。
「あなたさまは、これまではまだ起こっていないが、これから先の将来に起こるべき事柄の幻影をお見せくださるというのでしょうか?」とスクルージはなおも問いかけて、「精霊さま、そうなのでしょうか?」
その衣のてっぺんのところが、あたかも精霊が頭をうなずいたかのように、ちょっとひだのなかでひきしまった。スクルージの受けた返事はただそれだけであった。このときまでに幽霊の相手をすることにはだいぶん慣れていたとはいうものの、スクルージは、その無言の姿が恐ろしくてたまらず、両脚がガタガタとふるえて、精霊のあとについていこうとすると、ほとんどまっすぐに立っていられないほどであった。精霊は、スクルージの様子を見てとり、落ちつくのを待ってやろうというように、ちょっと足を止めた。
ところが、スクルージは、このためにますます具合が悪くなった。自分の目をいくら見はっても、幻影の一つの手と大きな黒いかたまりのほか何も見ることができないのに、彼は、その黒っぽい衣の奥に、自分にじっと注がれている霊の目があることを知ると、漠然とした、なんとも言いようのない恐怖が身内を走るのを覚えるのであった。
「未来《ヽヽ》の精霊さま!」と彼は大きな声で呼んで、「わたしは、これまでお会いしたどの幽霊よりもあなたさまがこわいのです。けれども、あなたさまの目的はわたしのためになるようにしてくださるのだということを存じていますし、またわたし自身、これまでのわたしとはまったく違った人間に生まれ変わりたいものと思いますので、わたしはあなたさまのお伴をするつもりでございます。それも心からありがたいことと思って、そういたすのでございます……わたしにおことばをかけていただけませんでしょうか?」
精霊は、なんとも答えなかった。ただその手が二人の前に、まっすぐにむけられていた。
「お導きください!」とスクルージ……「さあ、お導きください! 夜はどんどん過ぎています、夜はわたしに大切な時間だということ、よく存じています。精霊さま、お導きください!」
精霊は、前にスクルージの方へ近づいてきたときとおなじように、むこうへ動いて行った。スクルージは、精霊の衣の影のなかに入って、あとに従った……その影が彼をもち上げて(スクルージはそう思った)、運んでいった。
二人のほうから、市の中に入ったのだとは、ほとんどおもわれなかった。というのは、むしろ市が二人のまわりに忽然《こつぜん》とあらわれて、みずから進んで、彼らをとりまいたようにおもわれたから。
とにかく、二人はいま市の中心にいた……取引所で、商人たちのまん中にいたのだ。商人たちは、あちこちと忙しく往来し、ポケットのなかでジャラジャラ銭《かね》の音をさせ、かたまり合って話をし、時計を見たり、自分の大きな金の印鑑を考えぶかそうにいじったり、また、これまでにスクルージがよく見たような、さまざまなことをやっていた。精霊は、実業家たちの、ある小さな一群のそばに足をとめた。その手が彼らにむけられているのを見て、スクルージは、実業家たちの話をよく聴こうと前へ出た。
「いや、いずれにしてもわたしはよく知らないんですがね。ただあの男が死んだということを知っているだけです」とおそろしく大きな顎《あご》をした、大きな肥った男が言った。
「いつ死んだんですか?」ともう一人の男がきいた。
「昨晩だと思います」
「それはまた、どうしたわけなんですか?」と、また別な男が、とても大きな嗅《か》ぎ煙草入れから煙草の大きなかたまりを取りだしながら、「あの男は死ぬことなんかないと思っていましたがね」
「そりゃあ、だれにもわかりませんよ」と最初の男は、あくびをもらしながら言った。
「それで、自分のもっている金はどうしたろうね?」と赤ら顔で鼻の先にたれ下った瘤《こぶ》のある男が、それを七面鳥の肉垂《にくだれ》のようにゆすぶって言った。
「なんとも聞いていませんがね……」とれいの大きな顎をした男が、またあくびをしながら、「たぶん、自分の同業組合に残したのでしょうな。このわたしには残さなかったのですよ。それだけはわかっています」
この冗談で、みんながどっと笑った。
「ずいふん安あがりのお葬式でしょうな」とやはり同じ男が言った……「会葬に行くという人は、まったく聞きもしないからね。ひとつ、われわれで組を作って、有志となって行こうか?」
「弁当が出れば行ってもいいがね」と鼻に瘤のある紳士は言って、「有志になるのなら、食べさしてもらわなきゃあね」
またどっという笑い。
「なんにでも、あなたがたのうちでは、結局わたしがいちばん清廉潔白だということになりますな」と最初の男……「わたしは黒い手袋をもらってはめたこともないし、お葬式の弁当も食べたことがないからね。だれか行くのなら、わたしも行きますよ。よく考えてみると、わたしはあれのいちばん親しい友人ではなかったということもできないわけさ……会えばきっと立ちどまって話をしたものだったからね。じゃ、さよなら!」
話し呼も聴き手も、そこからぶらぶらと去って、別な群に入ってしまった。スクルージは、この人々を知っていたので、精霊の方を見て、その説明を求めた。
幽霊は、滑《すべ》るように進んで、ある街へ入っていった。その指は、立ち話をしている二人の人間をさしていた。スクルージは、そこに説明がひそんでいるのかもしれないと思って、また耳を傾けた。
スクルージは、この二人もよく知っていた。彼らは、実業家で、大金持ちで、また非常に有力な人たちであった。スクルージは、いつも彼らによく思われるように努めていた……商売上の見地から、厳密な意味における商売上の見地からである。
「やあ、これは!」と一人が言った。
「やあ、いかがですか?」と相手は答えた。
「ところで、あの悪魔めもとうとうくたばりましたよ、ねえ?」
「そうだそうですね……寒いですね?」
「クリスマスの時節ではこれが順当でしょう。ところであなたはスケートをなさいますか?」
「いえ、しませんよ。ほかに考えなければならないこともありますので。では、さようなら!」
そのほかに何も言わなかった。それが二人の会見で、会話で、また別れであった。
スクルージははじめ、精霊が一見そんなつまらないようにみえる会話に重大性をおいているのに、ちょっと驚きかけたが、会話のなかに何か隠れた意味があるにちがいないと思い、それはいったい何であろうと、一生懸命に考えてみた。彼の前の共同経営者のジェイコブに何かの関係があるものとは、どうしても思えなかった。というのは、あれは過去《ヽヽ》のことだが、この幽霊の領域は未来《ヽヽ》だからである。それにまた、自分に直接関係のある者で、その会話をあてはめて考えられるような人間も思いつかなかった。しかしながら、それがだれにあてはまろうと、自分自身の向上のために何か隠れた教訓が含まれていることは少しもうたがわなかったので、スクルージは、自分の聞いたり見たりすることをひとつひとつ、大事に心にとどめておこう、とくに自分自身の影があらわれたら、それをよく見ておこう、と決心したのであった。なぜならば、そういう自分の未来の姿のふるまいが彼の得そこなった手がかりを示してくれ、いまのこういうさまざまな謎を解くことを容易にしてくれるだろうと、期待したからである。
彼は、その同じ場所に、自分自身の姿はないかと、あたりを見まわした。だが、彼のいつもいる隅の席には、別な男が立っていて、時計は自分がそこに出かけるいつもの時間を示しているのに、表玄関からなだれこんで入ってくる人々の群のなかに、彼自身とおもわれる姿はなかった。それでも、彼はあまり驚かなかった。彼は、心のなかで、生活を一変させることを思いめぐらしていたし、また、自分に新しく生まれた決心が、そういう変化のうちに実現されるだろうと考えてもいたし、また望んでもいたからであった。
彼のそばには、静かで黒い、そして片手を前へさしのばした幽霊が立っていた。スクルージがこの探究の物思いからさめると、精霊の手の向きと自分に対する位置からして、彼は「見えない目」が鋭く自分を見つめているらしいことに気がついた。それで彼は、からだがぞっとふるえて、ひどく寒気を感じたのであった。
二人は、この賑やかな場面を去った。そして、市の、あまり人に知られないところへ入っていった……その場所の見当はわかっていたし、また評判の悪いところだと知ってはいたものの、スクルージはまだそこに足を踏み入れたことはなかった。路は汚なく狭かった。店や家はみすぼらしいものだった。人々は、半裸体で、酔っぱらって、だらしなく、醜《みに》くかった。路地やアーチの下は、まるで汚水だめのように、胸の悪くなるような臭いと汚物と生きものを、まばらにつらなる街にむかって吐き出していた。その一画全体が、罪悪と汚物と悲惨さで、ふんぷんと悪臭に満ちていた。
このいまわしい暗黒の巣窟の奥、差掛屋根の下に、軒の低い、突き出した店があった。そこでは、鉄物、古ボロ、瓶、骨、脂《あぶら》のぬるぬるした臓物などを買い入れるのであった。内部の床の上には、さびた鍵や、釘や、鎖や、蝶番《ちょうつがい》や、鑢《やすり》や、秤り皿や、分銅や、またあらゆる種類の屑鉄がいくつもの山に積まれてあった。醜いボロの山や、腐った脂肉のかたまりや、骨の墓場には、だれもあまり詳しく調べたがらないような秘密がはぐくまれ、隠されていた。こういった商売の品物に取りかこまれて、古|煉瓦《れんが》で造った炭暖炉のそばに、ほとんど七十歳に近い、白髪《しらが》頭の悪党が坐っていた。彼は、一本の糸にかけ吊したさまざまなボロのむさくるしい仕切り幕で、外の冷たい風が入りこまないようにして、そのひっそりとした隠れ場所に、のうのうとみち足りたふうで、パイプをくゆらしていた。
スクルージと幽霊がこの男の前に入ってくると、ちょうどそのとき、重そうな包みをもった女がこっそりと店へ入ってきた。ところが、この女が入るとほとんど同時に、おなじように荷物をかかえた、もう一人の女が入ってきた。するとそのあとにすぐつづいて、色あせた黒い服を着た男が、また入ってきた。二人の女は、顔を見あわせて驚いたが、それとおなじく男もびっくりした。ちょっとの間、パイプをくわえた老人までもいっしょになって、ぽかんとして物も言わなかったが、やがて三人はどっと笑い出してしまった。
「うっちゃっておいても、一番目に来るのは、いつもこの日|傭《やと》い女なのだよ」と最初に入ってきた女が言った……「二番目に来るのは、洗濯婆さんにきまっているよ。それから三番目は葬儀屋さんというわけさ。いいかね、ジョウ爺《じい》さん、これがめぐり合わせというものだよ! 驚いたね、三人が言いあわせたように、ここででっくわすなんて!」
「でっくわすとしたら、おまえさんたちにゃ、こんないい場合はねえよ」とジョウ爺は口からパイプを離しながら言って、「さあ、茶の間に来なせえ。昔はおまえさん、そこへよく出入りしたもんだ。他の二人だって知らぬ顔じゃねえ。ちょっとお待ち、店の戸をしめてくるから。ああ、この戸はいやにきしみやがる!この戸の蝶つがいほど錆びきったものは、店の金物にもねえぜ、まったくよ、おっと、おれの骨ほど古こびた骨も、ここにはねえってわけか。ハッ、ハ、ハァ!……おれたちはみんなこの商売に似合っているよ、みんな似合いの相手さ。茶の間へ来なせえ、さあ、茶の間に」
茶の間というのは、ボロの仕切り幕のむこうの場所のことだった。老人は、古い絨毯《じゅうたん》おさえの棒で、火をかき集めて、もっていたパイプの柄《え》で、くすぶっているランプの芯を直すと(もう夜になっていたので)、そのパイプをまた口にさしこんだ。
老人がそうしている間に、さっき口をきいた女は、包みを床の上に投げおろし、これ見よがしの態度で丸|腰掛《こしかけ》に腰をおろした。そして、膝の上に両腕を組んで、他の二人をふてぶてしい態度で見て、こう言った……
「それで、どうしたというのかい? どうだっていうんだい、ディルバーのおかみさん? だれだって自分のためを思ってやるのは当たりまえというものさ。あいつだっていつもそうだったんだよ」
「そりゃあ、そうだとも。あれほどそうした者はないよ」と洗濯婆さん。
「そんならば、何もそうこわがるように、きょろきょろして立っていなくてもいいじゃないか。ここに来たこと、だれが知るもんかい? ここにいる者はまさか、ひとのアラなど拾うことはしまいからね、ええ?」
「いや、そんなこと……もちろん、そんなことはないよ」とディルバーのおかみと男がいっしょに言った。
「それならよしと!」とれいの女が大きな声で、「それでたくさんじゃないか。たったこればかしのものを失ったって、だれがそれで困るものかねえ。死んだ者が困ることはないだろう?」
「まったくねえ」とディルバーのおかみは言って笑った。
「もし死んでからも持っていたいと思うならばだね、あの強つくばり爺め、なぜ生きているときに人並みのことをしなかったんだい?」とれいの女、「人並みのことさえしていたら、死神に取りつかれたあとでも、だれか世話する者ぐらいはあるだろうに。たった一人で、あそこで寝たまま、最後の息をひきとるなんていうことになりはしないよ」
「それはまったくほんとうのことだよ。あれこそ、あいつに罰があたったというものさ」とディルバーのおかみ。
「罰だったらもう少しひどいほうがいいや」と例の女、「あたしがもっと別の品に手をつけられたのなら、罰をもっとひどくしてやるところだったのにね。ジョウ爺さん、その包みをあけてごらん。そして値ぶみをして見ておくれ。はっきり言うがいい。あたしは最初にそれを見たってこわくはないし、またここにいる人に見られたってこわくはないんだよ。あたしたちはここで出会わす前から、ひとの物をくすねているということはおたがいによくわかっていたんだからね。何も罪というものじゃないさ。さあ、開けてみておくれ、ジョウ爺さん」
だが、他の二人の仲間はその侠気《おとこぎ》というところから、そのままにさせておかなかった。色あせた黒い服を着た男が、まずさきがけをして、自分の分捕《ぶんどり》品を取り出した。それは大きなものではなかった。一つ二つの印鑑、筆入れ、一組のカフスボタン、大して値打もないブローチ、それが全部だった。ジョウ爺は、いちいち調べて値ぶみをし、それから壁に白墨で、それぞれの物に自分が出してもいいと思う金の高を書いた。そして、これ以上もうないとわかると、総計を出した。
「これはおまえさんのほうの勘定だ」とジョウ爺、「おれはこれ以上六ペンス出すのもいやだぜ……たとえそのため釜で煮しめられたって、もう出やしねえよ。お次はだれだい?」
ディルバーのおかみが次だった。シーツとタオル、少しばかりの衣服、古風な銀のスプーンが二個、砂糖|挟《ばさ》み、二、三足の靴。彼女の分の総計も、おなじように壁に記した。
「おれはいつもご婦人に気張りすぎてな。それがおれの悪いところよ。それで損ばかりしていらあね」とジョウ爺は言って、「これがおまえさんの勘定だ。このうえ一ペニーでもふやせと言って、またごたごたした話にするのだったら、おれはせっかく奮発したのをやめて、半クラウンがとこ引いちまうよ」
「さあ、今度はあたしの包みをといておくれ、ジョウ」と最初の女は言った。
ジョウは、包みを解くのにやりやすいように、膝をついて、いくつもある結び目をほどくと、何か黒っぽい布地を大きく巻いた、重いものをひっぱり出した。
「これはなんだい?」とジョウ……「ベッドのとばりじゃねえか!」
「ああ!」と女は笑い出し、組んだ腕の上に身をかがめながら、「ベッドのとばりだよ!」
「まさか、死人をそこへ寝かしたまま、金環《かなわ》ごとすっかりひっぱずしてきたというんじゃあるめえな!」
「なに、そうなのさ。それでいけないかい?」
「おまえさんは身代つくりに生まれついているな。きっといまに、ひと身代つくるだろうよ」
「あたしはね、ちょっと手をのばせば何かつかめるときに、その手をひっこめるようなことはしないよ。あんな男のためにさ……ジョウ、それだけは約束してもいい」と女は冷然として答え、「それ、毛布にそのランプの油をたらさないようにしておくれ」
「あれの毛布かい?」とジョウ。
「あれのでなけりゃあ、だれのだと思うのかね? 毛布がなくたって、もう風邪もひくまいさ」
「伝染病で死んだんじゃないだろうな、ええ?」と
ジョウ爺は、手をちょっととめて見上げた。「そんなこと、こわがらなくてもいいよ。もしそうだったら、こんな物のために、いつまでもあいつのまわりをうろついているほど、あたしはあいつのお相手が好きじゃないんだからね。ああ、そのシャツは、いくらでも目の痛くなるほど見ておくれ。穴一つ、すり切れ穴一つありゃしないよ、あいつの持っていた一番上等なもので、良い品なんだよ。あたしがいなかったら無駄にうっちゃってしまうところさ」
「無駄にうっちゃるというのはどういうことかね?」
「きっと、あれに着せたまま埋めてしまうよ」と女は笑って「そういうばかなことをする者もあるんだが、あたしはそれを剥《は》がしたんだよ。埋めるのには、キャラコでたくさんさ、キャラコなんて使いようがないじゃないか。死体にはおなじようにしっくり似合うのさ。あいつはそのシャツを着ているときよりもみっともなく見えることはないんだからね」
スクルージは、このことばのやりとりを、慄然《りつぜん》として聴いていた。老人の部屋のランプが放つ薄暗い光のなかで、彼らがおのおのの掠奪《りゃくだつ》品のまわりに集まっている情景は、彼に深い嫌悪の情をもよおさせた……おそらく、これらの者が死体そのものを取り引きする醜怪な悪鬼どもであったとしても、それ以上の嫌悪を抱くことはないだろうとおもわれた。
ジョウ爺が金の入っているフランネルの袋を取り出して、それぞれが受け取るものを床の上に並べて出すと、れいの女は笑った。
「ハッ、ハ、ハァー! さあ、これが終りというわけさ! あいつは生きているときは、だれもかれも嚇《おど》してそばへ寄せつけなかったが、その代わり死んだらあたしたちに儲《もう》けさせてくれたというわけよ! ハッ、ハ、ハァ!」
「精霊さま」そういうスクルージは頭から足の先までふるわしながら、「わかりました、わかりました。この不幸な男と同じことに、わたしはなるかもしれないのです。私の運命も、いまその方へむいているのです……おや、これはどうしたんだろう!」
スクルージは、ぎょっとして身をうしろへ退いた。というのは、場面はたちまち変わって、いま彼はほとんど体がふれるばかりに、一つのベッドの間近に立っていたからだ……むき出しの、とばりもないベッド。その上のぼろぼろなシーツに蔽《おお》われて、何かが横たわっていた。そのものは、無言ではあったが、それ自身なんであるかを恐ろしい言葉で語っているのであった。
その部屋は非常に暗かった。あまりに暗いので、スクルージがここはどんなふうな部屋か知りたいと思う秘かな衝動のままに、いくら見まわしても細密に見わけられなかった。外の空に昇りかけている朝日の淡い光が、まっすぐにベッドのところに落ちた。ベッドの上には、身は剥《は》ぎとられつくし、付き添う者も、嘆き悲しむ者も面倒をみる人もないままに、この男の死骸が横たわっていたのだ。
スクルージは、幽霊の方をチラッと見た。その断乎とした手は、死骸の頭を指さしていた。蔽いは、きわめてむぞうさに掛けであるので、それをちょっと持ち上げるだけ、スクルージの方で指一本動かしただけで、その顔をあらわに外へ出すことができたであろう。彼は、それを考え、そうするのがいかにもたやすいことを思い、また、そうしてみたい気がしきりにした。だが、彼には、そばにいる幽霊を退散させる力がないのとおなじように、死体の覆いを引きはぐ力もなかったのである。
おお、冷たい、冷たい、厳しい、恐ろしい「死」よ。ここに汝《なんじ》の祭壇を設けて、汝の意のままになる、数々の恐怖をもって、その祭壇を飾れ……こは汝の領土なれば! しかしながら、ひとに愛され、崇《あが》められ、尊《とうと》ばれたる者の頭からは、汝はその髪一本すらも汝の恐るべき目的のために動かすことはできない。また、顔容の一部をも醜く変えることはできない。それは、手が重く解き放せばだらりと垂れてしまうからではない。心臓も脈拍も、静止しているからではない。さにあらず、その手は、|生きていたとき《ヽヽヽヽヽヽヽ》、気前よく、鷹揚《おうよう》で、誠実だったからである。心臓は雄々《おお》しく、温かで、やさしかったからであり、脈拍は人間の脈拍だったからである。刺してみよ、死の神よ、突いてみよ! さらば、その傷口よりは、その者の善行がほとばしり出《い》で、この世に不滅の生命をまきちらすのを見るであろう!
何かの声があって、これらのことばを発し、スクルージの耳にささやいたわけではない。しかし彼は、そのベッドを見ているとき、そういうことばを聞いたのであった。もしこの男がいま生きかえることができたならば、まず第一に思うことはなんであろうか、とスクルージは考えた……貪欲《どんよく》か、冷酷な取り引きか、身に食い入るような煩悩《ぼんのう》か? そういうものが、彼にまことにおめでたい結末をもたらしたのではないか!
この男は、暗いがらんとした部屋に横たわって、一人の男、一人の女、一人の子供とて、「このひとはこれこれのことで私に親切をしてくれた、だからあの優しい一言を忘れないためにも、このひとに親切にしてあげよう」と言う者はないのだ。猫が戸口のところをひっ掻《か》いていた。また、炉石の下に、鼠がガリガリものを噛じる音がしていた。これらのものは、死の部屋で、いったい何を欲しているのか、なぜにそう立ち騒いでいるのか、スクルージは、それを考えてみる勇気もなかった。
「精霊さま、これは恐ろしいところです」とスクルージは言った……「ここを去っても、わたしはここで得た教訓を忘れることはありません。ほんとうでございます。さあ、まいりましょう!」
だが、それでも精霊は、依然として動かぬ指を死人の頭にむけていた。
「あなたさまのお心はよくわかります。わたしもできれば、そうしたいところです。しかし、精霊さま、わたしにはじっと見ている力がありません。わたしには力がないのです」
精霊は、また彼の方を見ているようだった。
「もしこの町に、だれかこの男の死のために少しでも心を動かされている者がありましたら、精霊さま、どうかその者をわたしに見せてください、お願いいたします!」とスクルージは、もう苦しさにたえなくなって言った。
精霊は、その黒い衣を、ちょっとのあいだ翼のようにして、スクルージの前にひろげた。そして、それをまたすぼめると、今度は母親と子供たちのいる、昼の部屋があらわれた。
母親は、だれかを待っていた、しかも案じ顔で、しきりに待ちこがれて。彼女は部屋を行ったり来たりしていた。そして、何かの音がするたびに、びくっとし、窓から外を見た。時計に目をやり、縫物の針を取るが手につかず、そばで遊んでいる子供の声にも、いらいらして我慢ができないようであった。
とうとう、長いこと待っていたノックの音が聞こえた。彼女は戸口のところへ急いでいき、夫を迎えた。夫は若かったが、その顔は、苦労にやつれ、うち沈んだ色があった。だが、そこにはいま、はっきりときわだった表情があらわれていた。真からの喜びといったもので、それをみずから恥かしく思い、懸命におさえ隠そうとしているのだった。
彼は、暖炉のそばに、自分のにと取ってあった食物の前に坐った。それから、妻がどんな工合でしたかと弱々しい声できいたとき(それも長い沈黙があった後だったが)、彼はなんと返事をしてよいか、当惑しているようであった。
「良いの、それとも悪いの?」と彼女は、相手の返事をひき出すように言った。
「悪い」と彼は答えた。
「あたしたちはもう破産ですの?」
「いや、まだ望みはあるよ、キャロライン」
「もし|あのひと《ヽヽヽヽ》の気がやわらぐならば、望みはあるわ!」と彼女は、驚いたように言って、「けっして望みがないというわけではないのよ、万一にもそういう奇跡が起こったとすれば!」
「気がやわらぐどころじゃないよ」と夫……「あれは死んだんだ」
もし彼女の顔つきが真実を語っているとすれば、彼女は、おとなしい、我慢強い女であった。それにしても、彼女は心の底でありがたいと思い、また両手を握りあわせて、口に出してそう言ったのだった。次の瞬間、彼女は神のおゆるしを乞い、また死んだひとを気の毒に思った。だが、彼女のほんとうの気持ちは、最初のほうだったのである。
「昨夜、お前に話したほろ酔いの女が、おれがあのひとに会って一週間のばしてくれと頼もうとしたときに言ったこと……おれはそのとき、ただあのひとが会うまいとする口実かと思ったんだが……それはまったくほんとうのことだったんだよ。あのひとは病気が重いばかりじゃない、そのときはもう死にかかっていたんだ」
「あたしたちの借金は、だれの手にうつされるんでしょうね?」
「そりゃあ、わからんよ。けれどもそのときまでには、こっちには金ができているだろう。たとえ金ができていなくたって、あれのあとをひき受ける者がまたあんな酷《ひど》い責任者だったら、よほど運がわるいので、まあ、そんなことはあるまい。なにしろ今晩はね、キャロライン、軽い心で眠られるよ!」
そのとおりだ。二人は、なるべく隠そうとするのだが、だんだん心が軽くなっていった。子供たちは、よくはわからないながらも、話を聞こうとまわりに集まってしいんとしていたが、彼らの顔が明るくなった。たしかに、これは、れいの男が死んだために、ずっと幸福になった家庭なのだ! この死という出来事が他の人の心に起こした影響で、幽霊がスクルージに見せることのできた唯一のものは、喜びの感情だったのである。
「人の死に関係したことで、何かやさしさのあるものを見せてください。そうでないと、精霊さま、いま私たちが出てきた、あの暗い部屋が永久にわたしにつきまとうでしょうから……」
幽霊は、スクルージがよく歩いて知っているいくつかの街を通って、彼を導いて行った。そして行きながら、スクルージは自分の姿を見つけようと、あちらこちら見まわすのだったが、どこにもそれは見えなかった。二人は、貧しいボッブ・クラチットの家の中に入っていった。そこは、前にスクルージがおとずれた住居で、母親と子供たちが暖炉のまわりに集まっていた。静かであった。非常に静かだった。二人のやかましい子供たちは、片すみに彫像のようにじっとして坐っていて、本を前にひろげているピーターを見上げていた。母親と娘たちは、針仕事に余念がなかった。それにしても彼らは、たしかに、とても静かなのであった!
「……かくてイエス、幼児をとりて彼らの中におき……」
スクルージは、こういうことばをどこかで聞いたことがあったろうか? 彼はそれを夢にも見たことがなかった。彼が精霊とともに戸口のしきいをまたいで入ったとき、ピーター少年が読みあげたのに相違なかった。ピーターは、どうしてその先をつづけないのであろう?
母親は、縫物をテーブルの上において、片手を顔にあてた。
「黒い色が目にさわるのでね」と彼女は言った。
黒い色? ああ、かわいそうなチビのティム!
「目はもうよくなったよ」とクラチットの妻……「蝋燭の光ではこの色は目を弱らすんだね。お父さまが帰られたときには、どんなことをしても、弱くなった目をお見せしたくないと思うの。もうきっとお帰りになる頃だね」
「過ぎているくらいですよ」とピーターは、本を閉じながら言って、「お父さんはこの四、五日、いつもよりは少しゆっくりと歩いて帰られるようですね、お母さん」
一同はまた静かになった。やがて母親が言った……その声はたった一度だけふるえたが、しっかりした、明るい口調だった。
「あたしは知っていますよ、お父さまが……お父さまがチビのティムを肩にのせて、とても早く歩かれたのをね」
「ぼくも知っていますよ、よくそういうことがありましたね」とピーターが大きな声で言った。
「あたしも知っているわ」とまた一人が叫んだ。みんな知っているのだ。
「でもティムはとても軽かったし、お父さまはあの子をかわいがっていたからね」と母親は、仕事に身を入れながら、またことばをつづけた、「ちっとも苦にならなかったのよ、ほんとうになんでもなかったのよ。そら、お父さまのお帰りよ!」
彼女は、いそいで迎えに出た。すると小男のボッブは、毛襟巻《コムフォター》……かわいそうに、彼はじっさい|慰め手《コムフォター》が必要だったのだ……にくるまって、入ってきた。彼のためにお茶が炉傍の棚に用意してあって、みんなは、だれが一番多くお茶を給仕するか争いあうのであった。それから二人の子供たちは、彼の膝の上に乗って、それぞれ小さな額を父の顔におしつけた……「お父さん、気にかけるのおよしなさいね。どうか悲しまないでね」と言うかのように。
ボッブは、彼らといっしょにたいへん愉快そうで、家族のだれにも楽しく話した。彼は、テーブルの上を見て、細君と娘たちの根気と仕事の速いことを賞めた。「もう日曜日にならぬ前にでき上がってしまうね」と彼は言った。
「日曜日ですって! それではあなた、今日行ってこられたんですね、ロバート?」と彼の妻は言った。
「ああそうだよ。おまえも行けたらよかったんだがね。あそこのとても青々としたところを見たら、気分がはればれしたろうと思うよ。でも、これからは何度も見られるだろう。わたしはあの子に、日曜日にはいつもそこへ歩いていこうと約束したのだ。わたしの小さい、小さい子! わたしの小さい子!」
ここで彼は、急にわっと泣きだした。どうしても泣かずにいられなかったのだ。もし彼が泣かないですますことができるのだったら、彼と子供たちは、おそらく、いまよりもずっと遠く離れてしまっていただろう。
彼は、部屋を出た。そして、階段をあがって、二階の部屋へ入っていった。そこは明るく灯がともっていて、クリスマスの飾りがかけてあった。死んだ子供のそばに、ぴったりくっつけて椅子がおいてあった。そこには、ついさっきまでだれかがいたらしい様子であった。あわれなボッブは、その椅子に腰をおろした。そして、少し考えて、気が落ちつくと、子供の小さな顔に接吻した。彼は、こうなったことはもう仕方がないと諦めて、また明るい気持ちになって、階下へおりてきた。
一同は、暖炉のまわりに寄って、話しあった。娘たちと母親はまだ針仕事をしていた。ボッブは彼らに、スクルージ氏の甥《おい》が非常に親切だったことを話した。その甥には、たった一度しか会ったことがないのだが、今日街で行き会ったところ、彼が少し沈んでいるのを見て(「ほんの少し沈んでいたんだがね」とここでボッブは言った)、何か心配なことが起こったのですか、ときいてくれたのだという。
「あのひとはまったくめったに見ないくらい、愉快な話し方をするのでね、それを聞いて、わたしはわけを話したんだよ。『それはたいへんお気の毒なことですね、クラチットさん。あなたのやさしい奥さんにも、心からお気の毒に思いますよ』と言ったよ。それにしても、あのひとはどうしてそれを知っているんだろうね、わたしにはわからないが……」
「何を知っているんですって、あなた?」
「いや、おまえがやさしいということをさ」とボッブ。
「それはだれだって知っていますよ!」とピーターが言った。
「よく言ってくれた、ピーター!」とボッブは叫んで、「それは誰でも知ってくれるといいね。そこで、あのひとは、『あなたのやさしい奥さんに心からお気の毒に思います。何か私でもお役に立つことがあれば……』と名刺を出して、『私の住んでいるところはここです。どうか来てください』と言ったんだよ。それがとてもうれしかったのは、何もあのひとがわたしたちに何かしてくれるだろうということからじゃない、その親切なところがね。ほんとうに、うちのチビのティムを知っていて、わたしたちといっしょに悲しむといった態度なんだよ」
「きっと、善《よ》いかたなんでしょう!」とクラチット夫人。
「もしおまえが会って話したら、よけいそう思うだろうな。たぶん、こちらで頼んだら……いいかい、よくお聴き……ピーターにもっとよい口を見つけてくださるかもしれないよ」
「ピーター、聴いていなさいよ」とクラチット夫人が言った。
「そうしたら、ピーター兄さんはだれか好きなひとといっしょになって、別な家に住むのねえ」と、娘の一人が大きな声で言った。
「ばかなことを言うんじゃない!」とピーターは、にやにやしながら、どなりかえした。
「たぶん、そういうことにもなるだろうよ、そのうちにはね」とボッブ……「もっともそれまでにはまだ間《ま》があるだろう、それにしても、いつどこでおたがいが離ればなれになっても、うちの者はだれ一人として、死んだチビのティムのことは忘れないと思うよ……うちで起こったこの最初の別れ……これを忘れるだろうか?」
「けっして忘れませんよ、お父さん!」とみんなが叫んだ。
「そしてね、あれはほんとうに小さい、小さい子だったが、どんなに辛抱づよく、どんなにおとなしかったかをみんなが思い出せば、うちの者は喧嘩《けんか》などすぐにすることはないだろうね、また喧嘩してあのチビのティムを忘れることなんかないだろうね」
「そんなこと、けっしてありません」とみんなは、またいっしょに叫んだ。
「わたしは、ほんとに嬉しいよ、ほんとに嬉しいよ」とボッブは言った。
クラチット夫人は彼にキスし、娘たちもキスし、二人の小さい子供たちもキスし、ピーターは握手した。チビのティムのたましいよ、おまえの子供らしい純粋さは、神から出たものなのだ!
「精霊さま」とスクルージは言った……「わたしどもが別れるときが来たような気が、わたしにいたします。わたしにはそれがわかります、ただどうしてかはわかりません。そこで、さっき死んでいるところを見たあの男はどういう人間か、わたしに教えてください」
「来るべきクリスマス」の精霊は、前と同じように彼を運んで、実業家の集まるところへ連れていって……時間は前と違っているとスクルージは思った……じっさい、さっきから見ている幻影はただ未来に属するということだけで、そこには秩序は少しもなかったのだ。だが、そこでもスクルージ自身の姿は見せてくれなかった。じっさいのところ、精霊は、どんなものにも足をとめることはなく、いま求められた目的にでも急ぐようにぐんぐんまっすぐに進んでいった。そこで、とうとうスクルージはちょっと待ってくださいと頼みこんだ。
「いま、わたしどもがいそいで通るこの路次は、わたしの事務所があるところで、それもながい間やっているのです。やがての未来には、このわたしがどうなっているか、ちょっと見せてください!」
精霊は立ちどまったが、その手は別なところを指していた。
「家はむこうなのでございます。どうして他所《よそ》をおさしになるのですか?」とスクルージはきいた。
冷厳な手は、依然として変わることがなかった。
スクルージは、自分の事務所の窓のところへ急いでいって、なかをのぞいて見た。そこはやはり事務所ではあったが、自分のではなかった。家具もちがっていたし、なかで椅子に腰かけている人は、スクルージの姿ではなかった。幽霊は、やはり前のように指さしていた。
スクルージは、また精霊のところへもどって、いったい自分はどうして、またどこへ行ってしまったのかしらと思いながら、精霊についていくと、とある鉄の門のところに来た。彼は、入る前に、ちょっと足をとめて、あたりを見まわした。
教会の墓地だ。ここの地面の下にいま、その名を教えられるところの不幸な男が横たわっているのだ。それにふさわしい場所である。四辺は家々にかこまれて、いちめん雑草が生い茂っていた……植物の生ではなくて、死のひろがり。あまりに人を埋めすぎるために、息がつまり、飽食して肥えふとっているのだ。まことに、けっこうな場所というものだ!
精霊は、墓石の間に立って、そのなかの一つを指した。スクルージはふるえながら、その方へ進んでいった。幽霊は、前と少しも変わるところがなかったが、スクルージは、そのおごそかな姿に新しい意味を見いだして、恐ろしくなってきた。そこで彼は言った……
「あなたさまが指すあの石のところへ行く前に、ひとつ、わたしの質問に答えてください。これらの影は、将来きっとあらわれるものの影なのでしょうか、それとも、ただもしかすると、そうなるものの影なのでしょうか?」
それでもなお、幽霊は、自分の立っているそばの墓石をさして、指を下にむけていた。
「人々のたどる路は、辛抱して従っていけば必ず到達する目的地をあらかじめ示すものでしょう」とスクルージは言って、「ところが、いったんその道から離れてしまえば、その目的地も変わるのでしょうか……どうか、あなたさまがわたしに見せてくださったことについても、そのとおりだとおっしゃってください!」
精霊は、やはり動かなかった。
スクルージは、墓の方へ這《は》いよっていった……ぶるぶるとふるえながら。そして、精霊の指さす方に目をやって、放りっぱなしになっている墓石の上に、自分の名前が刻まれてあるのを読んだ……
エビニーザ・スクルージ
「ベッドに横たわっていた、あの男は|このわたし《ヽヽヽヽヽ》なのでしょうか?」
スクルージは、膝をついたまま、大声できいた。指は、墓石から彼の方へむき、それからまた、もとにもどった。
「いえ、精霊さま! おお、ちがいます、ちがいます!」
指はまだそこにあった。
「精霊さま!」とスクルージは、その衣をしっかりと握りながら叫んだ……「お聞きください! わたしはもう以前のような人間ではありません。わたしは、もしこうして精霊さまとお会いすることがなかったら、きっとそのままになってしまったような人間には、将来はけっしてなりません。もしわたしが、まったく望みのない人間なのでしたら、何ゆえにこういうものをわたしに見せるのですか?」
初めて、精霊の手はふるえるようにみえた。
「善い精霊さま」とスクルージは、その前の地面に、がばとひれ伏して、なおも言って、「あなたさまのやさしいお心は、わたしをとりなし、あわれんでくださるでしょう。あなたさまがわたしに見せてくださった数々の影を、これまでとはまったく異なった生活で、わたしにはまだ変える力があるということをどうか保証してくださいまし!」
やさしい手はふるえた。
「わたしは心のなかにクリスマスを尊び、そして一年じゅうそれを守りましょう。過去、現在、未来のなかに生きましょう。三人の精霊がたはわたしの裡《うち》で力を入れてくださるでしょう。わたしは精霊がたがお与えくださった教訓を閉め出すようなことはいたしません。おお、どうか、わたしがこの墓石に書いてある文字を消してしまうことができるとおっしゃってください!」
スクルージは、苦しさのあまり、精霊の手をつかんだ。精霊は、それを振りきろうとしたが、スクルージの懇願する力は強く、精霊をひきとめた。それでも、精霊の力がまだ強くスクルージをはねのけた。
自分の運命を逆転させてもらおうと、最後の祈りに両手をさし上げながら、スクルージは、幽霊の頭巾と衣に、一つの変化が起こるのを見た………精霊は、ちぢこまり、ぺしゃりとして、それからだんだん小さくなって、一本の寝台柱になってしまった。
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第五節 終末
そうだ! しかも、その寝台柱は、彼のものだった。寝台も自分のだったし、部屋も自分のだった。とりわけ嬉しく、よいことには、彼の前にある時間は、そのなかで埋めあわせのできる、自分のものだったのだ。
「わたしは過去《ヽヽ》、現在《ヽヽ》、未来《ヽヽ》の中に生きよう!」とスクルージは、床から這い出しながら、さっき言ったことをくり返した。「三人の精霊がたは、わしのうちで力を入れてくださるだろう。おお、ジェイコブ・マーレイ! このためにも、神のクリスマスは讃《たた》えられよ! わたしはひざまずいて、こう言う、ジェイコブ老人、ひざまずいて言うよ!」
彼は、自分の善意に燃えたかぶっていたので、その声はとぎれて、あまり思うように出てこないのであった。彼は、「未来」の精霊にすがりついて争ったときに激しくすすり泣いていたので、いまもその顔は涙にぬれていた。
「これはひきちぎられていない」とスクルージは、ベッドのとばりの一つを手にかかえこみながら、「これは、金環《かなわ》ごとひきちぎられてはいないぞ。ベッドのとばりもここにある……わし自身もここにいる……こうなると、さっき見せられたいろいろなものの影だって、消すことができるのだ。消されるとも、きっと消されるとも!」
その間じゅう、彼の手は、自分の着物をしきりにいじっていた。それを裏かえしてみたり、さかさまにひっくりかえしたり、ひき裂いたり、置きかえたり、いろいろでたらめな仕草《しぐさ》をしていた。
「わしはどうしてよいかわからぬわい!」とスクルージは、笑ったり、また同時に泣いたりしながら言った。そして長靴下を握って、まるでラオコーン〔トロイアのアポロ神殿の司祭。トロイア戦争に、ギリシア軍の木馬の詭計を察知して、これを市民に警告した罰として、海から出て来た二匹の大蛇が彼と二人の子供を巻いて殺したといわれる〕そっくりの身ぶりを演じるのであった……「わしは鳥の羽毛《はね》のように軽いぞ。天使のように楽しいぞ。小学生のように愉快だぞ。わしは酔っぱらいのように目がまわるぞ。やあ、みんなクリスマスおめでとう! 世界じゅうの人々、新年おめでとう! やあ、ここだ!ほうい! おうい!」
彼は居間に跳びこんだ。いまやそこに立っているのだ……すっかり息をきらして。
「薄粥《うすがゆ》を入れた鍋があるぞ!」スクルージはまた飛びあがって、暖炉のまわりをめぐって、「あそこの戸口から、ジェイコブ・マーレイの幽霊が入ってきたのだ! あの隅に、|現在のクリスマス《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》の精霊が腰かけていたのだ! あの窓から、さまよい歩く幽霊たちを見たのだ! みんなそっくり、そのままだ! みんなほんとうなのだ! みんなほんとうに起こったことなのだ! ハッ、ハ、ハァ!」
じっさいのところ、長い年月のあいだ笑ったことのまったくなかった人にしては、それはすばらしい笑いであった、すこぶる派手な笑いであった。これから永く、永くつづくところの華やかな笑いの先祖となるものであった!
「今日は何日になるかわからんわい! わしは精霊たちと幾日ぐらい一緒にいたのか、それもわからん。何にもわからん。わしは赤ん坊みたいなもんだ。いや、それでいい。かまうことない。おうい! ほうい! やあ、ここだ!」
うちょうてんになっていた彼は、ここで、これまで聞いたこともないような、さわやかな鐘の音が教会から鳴りだしたので、われにかえった。キン、コン、カーン……カン、キン、コーン。コーン、キン、カン……カーン、コン、キーン!……おお、すばらしい、すばらしい!
彼は、窓のところへ走っていくと、そこをあけて、顔を出した。霧《きり》も靄《もや》もない、澄んだ、輝やかしい、陽気な、さわやかな、冷たい朝。血もいっしょに踊れとさそうように、風のピューピュー吹く、冷たい朝……金いろの日光、荘厳な空、かんばしい、新鮮な空気、明るい鐘の音。おお、すばらしい、すばらしい!
「今日はなんだい?」
スクルージは、中にいる晴着をつけた少年に大声で呼びかけた。少年は、たぶん、あたりを見ようと、そこへなんとなく入って来たのであろう。
「ええ?」と少年は、こんな意外なことはないといった調子できき返した。
「今日はなんだい、坊ちゃん?」とスクルージ。
「今日? だって、クリスマスじゃないか!」
「クリスマスか?」と、スクルージは自分に言った……「わしはそれをのがさないですんだ。精霊たちは一晩であれを全部やってくれたのだ。あのかたがたは、なんでも自分の好きなようにできるのだからな。もちろん、できるのだ、できるのだとも。おうい、坊ちゃん!」
「おうい!」と少年。
「一つおいた通りの、角にある鳥屋を知っているかい?」とスクルージはきいた。
「知っているとも」
「賢《かしこ》い子だな! えらい子だな! あの店に下がっていた、賞をもらった七面鳥は売れたかどうか、知っているかい? 小さい方じゃない、大きい方だよ?」
「なに、ぼくぐらい大きいのかい?」
「なんて面白い子だろう! この子と話すのは愉快だな。そうだよ、坊や!」
「あれはまだぶら下がっているよ」
「そうかい? じゃあ、行って買ってきておくれ」
「うそ言ってらあ!」
「いや、いや、本気で言っているんだよ」とスクルージは言って、「行って買ってきておくれ。ここへ持ってくるように言ってくれ、そうすれば、その届け先を知らせるから。店の男をつれてくるんだよ。そしたら一シリングあげるよ……その男と五分のうちに帰ってきたら半クラウンあげるよ」
少年は、弾丸のように飛んでいった。その半分の速さに弾丸を打ち出すことのできる人があったら、鉄砲にかけては確かな腕前を持つ者にちがいないでしょう。
「わしはそれを、ボッブ・クラチットのところへ贈ろう」とスクルージは、両手をこすり、腹をかかえて笑いながら、「クラチットはだれが贈ったのかわかるまい。チビのティムの二倍も大きい七面鳥だ。ボッブに七面鳥を贈るなんて、こんな冗談はジョウ・ミラーだってやったことはあるまい」
ボッブの宛名を書く彼の筆跡は、しっかりしたものではなかった。だが、とにかく、それを書いて、それから、鳥屋の男が来てもいいように、表の戸をあけに、階下へおりていった。鳥屋を待ちながら、戸口に立っていると、彼はふと叩き金に目をとめた。
「わしは、生きているかぎり、この叩き金をかわいがってやるぞ!」とスクルージは、それを手でたたきながら言って、「前にはこれをほとんど見ようとしなかった。が、これはなんという実直そうな顔つきをしているのだろう! すばらしい叩き金だ……あ、七面鳥だ。おうい! ほう! よう、クリスマスおめでとう!」
それは、|確かに《ヽヽヽ》、七面鳥であった! こいつは自分の脚で立とうと思っても、ふとっていて立てなかったであろう、この鳥は……もし立ったところで、一分もたたないうちに、封蝋《ふうろう》の棒のようにポキッと折れてしまうに相違ない。
「やあ、この大きい鳥をキャムデン・タウンまでかついでいくことなんかできないよ。馬車に乗っていかなくちゃ駄目だ」
スクルージは、クックッと笑いながら、こう言った、クックッと笑いながら、七面鳥の代を払った、クックッと笑いながら、馬車の金を出した、クックッと笑いながら、少年にお駄賃《だちん》をやった……ところが、彼が息をきらしてまた椅子に腰かけたときのクックッという笑いときては、さらにそれを上まわり、あまりクックッと笑ったので、しまいに泣きだしてしまった。髯《ひげ》を剃《そ》るのも、容易な仕事でなかった。というのは、いつまでも体がぶるぶるふるえていたから、それに、髯そりというものは注意を要するもので、たとえ剃りながら踊っているのでなくとも、気をつけなければならないからである。けれども、万一彼が鼻のあたまをそぎ落したとしても、そこに膏薬《こうやく》の一片でも貼って、それでスクルージは満足していたであろう。
彼は、「上から下まで晴着ずくめ」で着かざった。そしていよいよ街へ出ていった。このときまでに人々は、彼が「現在のクリスマス」の幽霊といっしょに見たように、どんどん街上にあふれ出ていた。スクルージは、手をうしろへやって歩きながら、とてもうれしそうな微笑をうかべて、通る人を一々ながめた。一口に言えば、彼は、なんともおさえることのできないほど愉快そうな顔をしているので、三、四人の上機嫌な者たちが声をかけた。
「おはようございます! クリスマスおめでとう!」
そのあとで、スクルージはしばしばこう言うのであった……これまで聞いた、陽気な響きの中でも、これほどわしの耳に陽気に響いたものはない、と。
彼があまり行かないうちに、かっぷくのいい紳士がこちらへやってくるのを見た。昨日、彼の事務所へ入ってきて、「スクルージ|&《アンド》マーレイさんのところですね?」と言った人である。二人がぶつかったら、この老紳士は自分のことをどんな顔をして見るだろうかと思うと、スクルージは、胸がぐっといたくなってきた。しかし彼は、自分の前に厳然と横たわっている道を知っていた。そして、それに従った。
「あの、もしもし」とスクルージは、足を早めて、老紳士の両手をとって言った……「今日《こんにち》は! 昨日はうまく行きましたかね? とてもご親切なことでありがとうございました。クリスマスおめでとうございます!」
「スクルージさんですか?」
「そうですよ。それがわたしの名前ですが、あなたには面白くない感じを与えるのではないでしょうか……どうかおゆるしください。そこで一つお願いがあるのですが……」とここで、スクルージは何か紳士の耳に囁《ささ》やいた。
「いやあ、これは驚いた!」と紳士は、息が絶えでもしたかのように、「スクルージさん、あなたは本気なんですか?」
「どうか、よろしければ、一文も欠けずにそれだけ全部です。そのなかには、正直なところ、これまでわたしが何度も出さなかった分もふくまれているんですよ。ひとつ、よろしくお願いします」
「これは、あなた」と紳士はスクルージの手を握って、「なんと申し上げてよいかわかりません、このようにまったく鷹揚《おうよう》な……」
「何もおっしゃらないで結構です」とスクルージはさえぎって、「どうかお遊びに来てください。ほんとうに一度いらっしゃいませんか?」
「参りますとも!」と紳士は、大きな声で言った。明らかに、彼は本気でそう言っているのであった。
「ありがとうございます」とスクルージ、「ほんとうにありがとうございます。幾重にもお礼を申します。それでは、お大事に!」
スクルージは教会へ行った。それから、街を歩きまわって、人々があちこちと忙しげに歩く様子を眺めたり、子供たちの頭をなでたり、乞食に何か問いかけたり、家々の台所をのぞいて見たり、窓を見上げたりして、あらゆるものが自分に喜びをもたらすものだということを知った。散歩といったことが……いや、どんなことだって……こんなに大きな幸福を感じさせてくれようとは、これまで夢にも思わなかったのだ。
午後になって、スクルージは、甥《おい》の家の方へ足をむけた。彼は、そこまで行ってノックする勇気を出すまでに、戸口を何回となく通りすぎた。だが、思いきって、そうした。
「ご主人はいらっしゃるかね?」とスクルージは、出て来た召使いに言った。いい娘だ、ほんとうに!
「いらっしゃいます」
「どこにいるのかね?」とスクルージ。
「食堂にいらっしゃいます、奥さまとごいっしょに。二階へご案内いたしましょう」
「ありがとう。ご主人はわたしのことを知っていますよ」とスクルージは、もうその手を食堂のドアの把手《とって》にかけて、「わたしひとりで入ってききます」
彼は、把手を静かにまわして、ドアの横から、そっと顔を入れた。甥夫婦は、いま食卓を眺めているところだった(食卓はたいへん立派に飾られてあった)……こういう若い夫婦というものは、いつもこのようなところに気をつかって、すべてがきちんとしたところを見るのが好きなものである。
「フレッド!」とスクルージが言った。
あれ、と甥の妻の驚きようといったら! スクルージは、そのときちょっと隅のところで足台に脚をのせて坐っていた彼女のことを忘れていたのだ。そうでなかったら、けっしてそんなことはしなかったであろう。
「ああ、びっくりした! そこにいるのはだれですか?」とフレッドは呼びかけた。
「わしだよ。叔父のスクルージ。ご馳走になりに来たんだよ。入れてくれるかね、フレッド?」
入れてくれるかって! スクルージはそのひっぱられた腕がちぎられなかったのが、幸いというものだった。五分とたたないうちに、彼の気持ちはくつろいでしまった。これほど真心のこもった歓迎はありえまい。彼の義姪は、幻影に見たのとまったく同じだった。トッパーがやってくると、彼も同じだった。肥ったほうの妹も入ってくると、同じだった。だれもかれもやってくると、みな同じだった。すばらしい団欒《だんらん》、すばらしい遊戯、すばらしい親密、す、ば、ら、し、い、幸福!
しかしながら、次の朝、彼は早く事務所に出た。じっさい、早くそこへ行ったのだ。自分が先にそこへ行って、あとから遅れてくるボッブ・クラチットをつかまえることさえできれば! それが彼の目的としていたことだった。
そして、彼はそうした。そうだ、じっさいにそうしたのだ! 時計が九時を打った。ボッブは見えない。ボッブは、かっきり十八分三十秒おくれてやってきた。スクルージは、ボッブがれいの「水槽《タンク》」に入るのが見えるように、扉を開け放しておいた。
ボッブは、扉を開ける前に、もう帽子をぬいでいた。毛襟巻も取っていた。彼は、瞬《またた》く間に、丸腰掛に坐って、ペンを走らせた……あたかも定刻の九時……追いつこうとでもするかのように。
「よう!」とスクルージは、できるだけいつもの口調に似せるようにして、「いま時分出てくるのは、どういうつもりなのかね?」
「どうも相すみません、遅刻してしまいましたので」とボッブ。
「遅刻か?」とスクルージはその言葉をくり返して、「そうだ。遅刻したものと思うね。ちょっとこっちへ来たまえ」
「一年に一度のことですから」とボッブは、水槽から出てきながら弁解した……「もう二度といたしません。昨日、とても面白く騒いでしまったものですから……」
「ところで、君に言いたいことがあるんだよ、ねえ、君」とスクルージは言って、「わしはもうこういうことは我慢できない。そこでだ」とスクルージは言いながら、彼の丸腰掛から跳び上がって、ボッブのチョッキのところをぐいと小突《こづ》いたので、ボッブは、ふらふらとよろめいて、また「水槽」のなかへもどってしまった……「そこでだ、わしは君の俸給を上げてやろうと思っている」
ボッブはふるえおののいていた、そして、簿記棒の方へ近よった……彼は、とっさに、簿記棒でスクルージをなぐり倒し、おさえつけて、路次にいる人々に助けを求めて、狂人にかぶせる窄衣《さくい》をもってこさせようと思ったのである。
「ボッブ、クリスマスおめでとう!」とスクルージは、ボッブの背中をたたいて、今度はけっして考え違いされることのない真面目さで言った。……「これまで幾年ものあいだ、わしが君にしてやったクリスマスよりはね、君、もっとおめでたいクリスマスだよ! 君の俸給を上げて、君の困っている家族を助けてあげたい。そのことを今日の午後、二人で相談しようじゃないか……熱くした葡萄酒の盃をあげながらね。ボッブ! 火をもやしてくれたまえ。そして、すぐに行って、石炭入れをもう一つ買ってきてくれたまえ、ボッブ・クラチット!」
スクルージは、自分の言ったこと以上に、じっさいはよくやった。約束の通りに行なったばかりでなく、それ以上のことを測り知られないくらいやったのである。まだ死んでいないチビのティムには、第二の父親となった。彼は、このよい古い都のロンドンにも、また、このよい古い世界の、どんなよい古い都にも町にも、村にもこれまでなかったようなよい友人、よい主人、よい人間となった。ある人々は、彼がこのように一変したのを笑った。だが、スクルージは、人々が笑うにまかせて、少しも気にかけることがなかった……この世のなかでは、善い目的をもつどんなことも、その始まりにだれかが笑いはやすようなことがなかったものは一つもない、ということを彼は承知していたからである。また、こういう連中はいずれにしろ盲目だということを彼は知っているので、彼らがひとをあざわらって目にしわをよせるのは、そのめくらの目をますます醜く見せることになるだろうと思うのであった。彼自身の心は、朗らかに笑うことができた。スクルージにとっては、それで十分けっこうだったのである。
彼は、それ以上もう精霊たちと交渉がなかった。そして、その後ずっと、禁酒主義《スピリットレス》〔精霊《スピリット》に会わない、という意味にかける〕の生活をつづけた。もしだれかクリスマスの祝い方を知っている者があるとすれば、あのひとほどよく知っている者はないと、彼はいつも言われていた。どうか、私たち……私たちのすべてにも、そういうことが本当に言われますように! そして、チビのティムも言ったように、神よ、私たちのすべての者に祝福をお与えくださいますように!(完)
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解説
チャールズ・ディケンズ………人と作品
逆境と才能
チャールズ・ディケンズ(Charles Dickens)は、一八一二年二月七日(金曜日)、英国南岸サセックス州の軍港ポーツマスの郊外ポートシーで生れた。
父ジョン・ディケンズは、海軍主計局の書記で、一八一五年頃には年収約二百ポンドを得ており、その後間もなく三百ポンドになったのだが、家計はいつも窮迫の状態であった。ジョンは陽気な楽天家で、話がうまく、友人たちをもてなすことが好きな性《たち》だった。そういう点ではけっして悪い人物ではなかったが、肝腎《かんじん》なところに締りがないので、一家は常に貧乏のどん底に苦しみつづけていた……つまり、彼はいつも収入を上回る生活をして、方々に借金を重ねていくという、無頓着と軽佻浮薄《けいちょうふはく》をみずから反省することがなかったのである。ことに、子供は八人もあり、ジョンの妻も平凡で、思慮の浅い女であった。
ディケンズは、あの自伝的な小説『デイヴィッド・コパーフィールド』の中で、この父親をモデルにして、ミコーバー氏という人物を登場させている。ミコーバー氏と同じく、じっさいに、ジョン・ディケンズは、負債のために逮捕されてマーシャルシー監獄に入れられたのである。十歳だったチャールズにとって、父の入獄ということは大きな衝撃であり、ひどい屈辱を感じた。長男で家長格にあった彼は、弟妹の世話をし、無能力の母を助け、また監獄の中の父に会いに行かなければならなかった。それから、遠縁の者が営んでいた靴墨《くつずみ》工場に徒弟奉公に出た。このときの苦い経験は、どんなに深く彼の心を傷つけたことであろう……ディケンズは、晩年に至るまで、だれにもそれを語ろうとしなかったという。(ただ『デイヴィッド・コパーフィールド』においては、主人公の少年が輸出用の瓶詰の葡萄酒をつくる商会で働くことに、少し変えられている)
そのうちに、父ジョンに遺産がころがり込んできたので、監獄を出ることができた。そこで、幼いときから本が好きで、向学心に燃えていたチャールズは、靴墨工場をやめて、学校に入れてもらうことを父にせがんで、ウェリントン・ハウス・アカデミーという私立の学寮に預けられた。ここの校長は無知で残忍な人間で、一日じゅう何かといっては、長い鞭《むち》で生徒をひっぱたいた。こういう悪質な学校のことをディケンズは、『ニコラス・ニクルビー』や『デイヴィッド・コパフィールド』の中で書いたので、社会の注目するところとなって、この種の私立学校が従来のやり方を改めはじめたそうである。
父ジョンが遺産をすっかり食いつぶしてしまうと、一家は再び貧苦に陥った。チャールズは学校を退いて、ある弁護士の事務所に雇われた。いろいろな用事や打合せのため、事務所の走り使いをしなければならなかったので、二年ぐらいの間に、彼はロンドンの街の表裏と、そのふしぎな雰囲気まで知り尽くすようになった。彼の小説には、そういうロンドンの諸所が、鮮やかに、またときには怪異に描写されており、ディケンズの筆致がいかにもいきいきとしているのは、このような経験に基づくものである。
聡明で自尊心の強いディケンズは、自分で一本立ちになることを考えて、速記術の古い独習書を買って、ひとりでこつこつと習得していった。おそらく、これに抜群の才能を持っていたのであろう、たちまちに上達して、彼の腕が優れていることは、仲間のうちでも評判になった。初めは法廷の速記者になったが、次いで『トルー・サン』紙の専属になり、議会の通信記者となった。これによって、大臣や有名な政治家の演説も聞くことができたし、各方面の人物に接するし、その他いろいろな行事、選挙運動、または暴動などをじかに見る機会に恵まれた。こういった豊富な体験が、他日小説を書くようになったとき、彼に無限の材料を与えてくれたのである。
小品文から小説へ
このようにしてディケンズは、二十代に入ったばかりで、一週五ポンドの収入を得て、りっぱにひとり立ちができるようになった。これより二年ほど前に、芝居好きで一度は俳優になろうと思ったことのあった彼は、あるとき素人劇《しろうとげき》をやった際に、マライア・ビードネルという少女と知り合った。これが彼の初恋の対象であったが、彼女は銀行家の娘で、ディケンズ家よりも遥かによい家柄だったので、結婚へ進むことはできなかった。ディケンズが受けた心の傷手はひじょうに深く、あとでやはり『デイヴィッド・コパーフィールド』の中で、彼女からドラという女性を創り出すことになった。
二十二歳のディケンズは、さらに野心を燃やして、一つの短篇物語をものして、ある雑誌社に送ったところ、それが採用されて初めて活字になった。そこで勇気を得て、もう一篇書いて送ると、それも掲載されたのである。これが機縁で、『モーニング・クロニクル』紙に、ボズ(Boz)という筆名で、随筆めいた小品文を連載するようになった。それらの文章では、田舎とロンドンの生活とか、ロンドンの街上の情景とかが、たいへん親しみ深い筆致で描かれているので、好評を博した。そして、『ボズのスケッチ』(Sketches by Boz)という題名で出版して、成功をおさめた。
ここでディケンズは、著作に従うことにして、速記者はやめた。その頃、大いに人気のあった戯画家シーモーが、出版社のチャップマン&ホールを訪れて、ボズのことをしきりに賞め、ディケンズが本文を書いてくれるならば、自分が絵を描きたいと申し出た。しかし、ディケンズは、出来合いの絵に、自分が文章をあてはめていくことを好まず、彼のほうが先に本文を書いて、それに挿絵をつけることにした。こうして、ピクウィックという人物が創造されたのである。シーモーの提案によって、あるクラブの進行過程を記すかたちにして、ピクウィックがウィンクルやタップマンと会合してロンドン近郊に出かけ、その見聞をクラブに報告するという仕組みである。そこにシングルという滑稽な人物もあらわれるし、ドン・キホーテ的なピクウィックに、サンチョ・パンザ的なサム・ウェラーを添えることになった。
当時こういう読物は、分冊月刊という方式によっていたのだが、この『ピクウィック・クラブの記録』(The Posthumous Papers of the Pickwick Club)は、第一号はわずかに四百部を刷ったにすぎなかったのに、号を加えるごとに人気が出て、分冊が出るごとに町の話題を賑わすほどで、ついに第十五号に至ると、前払いの注文だけで四万部を越えたのであった。
一代の寵児《ちょうじ》
この間に、ディケンズは、『モーニング・クロニクル』紙の共同経営者の一人であるホウガースの長女キャサリンと婚約していたが、一八三六年の四月二日に二人は結婚式を挙げた。しかし、キャサリンは気まぐれで、家政をつかさどる能力にも欠けており、神経質なディケンズとは合わないところもあって、夫婦の間は次第に疎隔の道をたどり、後年になって別居という不幸な結果に至るのである。
二人の家庭に、ホウガースの次女のメアリーがしばしば訪れて滞在するようになった。ディケンズは、この義妹に、たいへん優しい気持を抱いていた……彼がほんとうに愛していたのはメアリーだった、とすぐに気がついたと伝えられている。しかし、結婚後一年たつかたたないうちに、彼女はわけの分からない病気に襲われて、急死してしまった。これは、ディケンズの心に、終世忘れがたい悲しみを残すことになった。彼の小説には、純情でかよわい可憐な少女が取り扱われるが、たとえば『骨董《こっとう》店』のネルとか、『デイヴィッド・コパーフィールド』のアグネスとか、『少女ドリット』のヒロインとかは、みなメアリーがその原型になっているのである。
メアリーが死んだあと、ホウガースの三女ジョージナがディケンズの家庭に入ってきて、妻キャサリンの及ばないところを補い、子供たちの面倒などを見るようになるので、これについても、ディケンズはあとでいろいろと噂の種にされた。とにかく、ディケンズはメアリーの死で大きなショックを受けて、数週間ペンも取ることができず、『ピクウィック・ペイパーズ』の執筆も中断されたくらいだった。しかし、『ピクウィック・ペイパーズ』が終ると、一八三七年から一八三九年にかけて、『オリヴァ・トゥィスト』(Oliver Twist)を書きつづける一方、一八三八年から一八三九年にわたって、『ニコラス・ニクルビー』(The Life and Adventures of Nicholas Nickleby)を、また、一八四〇年から『骨董店』(The Old Curiosity Shop )に着手、それが終る一八四一年には、さらに『バーナビー・ラッジ』(Barnaby Rudge)を成すといった風で、あたかも堰《せき》を切ったように、ほとんど時を重ねて続々と大作があらわれていった。この中で、『オリヴァ・トゥィスト』と『骨董店』が初期の傑作であろう。ことに『オリヴァ・トゥィスト』では、救貧院に収容されたオリヴァが、一碗の粥《かゆ》をすすってから、「もう一杯」と言うと、悪辣《あくらつ》な教区吏員を初め、保母たち、また孤児の全部が愕然とする場面がある。これは救貧院の忌わしい内情を暴露したもので、やがて多くの救貧院に改革をもたらしたのであった。
アメリカ旅行
一八四二年、ディケンズは三十歳になったが、既に当時のもっとも有名な人物の一人であって、彼の小説はアメリカにおいても、大いに読まれていた。アメリカの読者たちは、ディケンズの訪問をしきりに望んだ。また、その頃、イギリスとアメリカの間には、まだ著作権保護に関する協定が結ばれていなかった。彼は、著作権のことについて、何らかのきっかけを掴《つか》みたいという意図を持っていた。ところが、これはディケンズの考えが甘すぎたようだった。彼は、到るところで大歓迎を受けたが、出版社との交渉は具体的に進めることができなかった。その上、アメリカの風習と慣例には、少なからず幻滅を感じた。社会改革的な観察眼を持つ彼には、種々の欠陥や悪弊が見出された。とくに、奴隷制度には嫌悪を催おした。そして、そういう諸点にたいして彼が善意から忠告を試みると、かえって非難を受けるのであった。これは自分が想像していた共和国ではない、しかも、古い国として多くの欠点を持っているイギリスさえも、アメリカと比較したら優越している、といった意味のことを彼は書いている。
彼は帰国してから、『アメリカ覚書』(American Notes)を出版した。これは相当皮肉を含んだものだったので、彼の地ではたいへん不評であった。やがて一八四三年から『マーティン・チャズルウィット』(The Life and Adventures of Martin Chuzzlewit)の分冊月刊を始めた。これでは、ペクスニフという名の「建築家兼土地測量技師」なる人物によって、偽善をかなり鋭く風刺したものだった。そういう主題のためか、もしくは筋が複雑なためか、初めの売行きが悪いので、ディケンズは主人公を遠くアメリカへ送って、新世界の描写によって読者の興味をひきつけることにした。この小説には、ディケンズの創造した人物の中でよく知られている一人、看護婦のギャンプが登場する……大きいぶかっこうなこうもり傘を持ち、だらしなく、おしゃべりで、とんでもないことば使いをする婦人である。
『マーティン・チャズルウィット』が終りかけると、彼は『クリスマス・カロル』(A Christmas Carol in Prose)に手をつけて、これは刊行されるや大きな成功をおさめた。(『クリスマス・カロル』については別項で詳しく述べることにする)
なおディケンズは、晩年になってもう一度アメリカを再び訪れたが、今度は自作朗読を求められたのであった。ボストン、ニューヨーク、フィラデルフィア等の各地で、『オリヴァ・トゥィスト』や『骨董店』の一部を朗読したのだが、どこでも多くの聴衆が押しよせた。しかし、ディケンズの疲労はひどく、はなはだしく体力を消耗した。
偉大な作家
一八四四年から翌年にかけて、ディケンズはヨーロッパ旅行に出て、初めはイタリアに、次にフランスに長期滞在した。それは、わずらわしく、また彼には莫大な費用のかかるロンドンの生活を、しばらく離れるためであった。フランスにおけるディケンズのもっとも楽しい思い出は、ロワイヤルの広壮な邸宅で、ヴィクトル・ユゴーに会ったことであった……『レ・ミゼラブル』の作者と『オリヴァ・トゥィスト』の作者は互いによく理解し合っただろうし、英仏二文豪の出会いは想像しても、何か興味をそそられる。
パリにいる間に、彼は『ドンビー父子』(Dealing with the Firm of Dombey and Son)に取りかかっていたが、一八四六年から一八四八年にかけて出版されると、かなりの成功を得て、彼の財政を旧に戻すことができた。これでは、高慢なうぬぼれを攻撃したのだが、多くの大衆、ことに下層社会にまで、彼の小説を読む者がひろがっていくようになった。
この頃のディケンズは、単なる作家としてばかりでなく、他の方面に寸暇もない忙しさで活動することになった。まず、子供時代から好きだった芝居に、すっかり力を入れた。そして彼のつくった劇団の興行は大好評で、地方巡業もしなければならなかった。そのため、ディケンズは健康を害し、激しい頭痛に襲われるくらいだった。
それにもかかわらず、彼は社会改革の意図をもって、日刊の『デイリー・ニューズ』紙を創刊した。しかしながら、間もなく自分は新聞の発行者として適さないことを悟り、単なる寄稿家として関係を保つにとどめた。その代りに、『ハウスホールド・ワーズ』という週刊ものを出して、それに自分が作品を書くことになるのである。
この間に、ディケンズは新しい小説の構想を練っていたが、一人称で書くことに思いつくと、自分の生涯を物語にしたいという誘惑を感じた。ことに、だれにも洩らしたことのない幼少時代のことを、記憶の中からひき出すことにしたのである。かくして『ディヴィッド・コパーフィールド』(The Personal History of David Copperfield the Younger)が出来上って、一八四九年から一八五〇年にわたって刊行された。この小説は、後半と結末にある甘さがあるけれども、ディケンズの哀愁と諧謔《かいぎゃく》と人間愛が存分に発揮されて、それまでの作品が到底及ばない成功をおさめた。じっさいに、彼の最大傑作ということに、だれも異論を唱える余地はない。これ以後の彼は、単なる小説家ではなく、イギリス、アメリカはいうまでもなく、ヨーロッパにおいても翻訳で読まれ、真に独自の地位を占める偉大な作家になったのである。
このあと、数年のうちに、『寂しい家』(Bleak House)、『困難な時世』(Hard Times)、『少女ドリット』(Little Dorrit)の三つの小説が書かれた。しかし、これらの作品には、それまでにはなかったような暗い影が射しはじめていた。
一八五六年に、シェイクスピアの『ヘンリー四世』に出てくるフォルスタフが仲間と共に追剥《おいは》ぎをやった場所という、ケント州ギャッズ・ヒルの屋敷を求めて、そこに住んだ。これは、彼が少年の折、父に連れられていったときから、胸の奥に抱いていた夢を実現したものである。ギャッズ・ヒルの邸宅はディケンズの「終《つい》の栖《すみか》」となった。
この前後、ディケンズは、また芝居に凝ったり、それから、自作朗読を始めたり、『オール・ザ・イヤ・ラウンド』という雑誌を創刊したり、まるでわざと自分を酷使しているかのように動きまわっていた。それのみならず、一八五八年に、結婚してから二十二年、二人の間に十人もの子供が生れている妻ケイト(キャサリン)と別居……離婚ではない……することになったので、彼の周囲にはさまざまな臆測がうずまき、ゴシップも飛んだのであった。彼が素人芝居のために雇ったエレン・ターナンという女優に近づいたことが、その原因ともいわれている。また、同居していた妻の妹ジョージナのことも、疑惑の目をもって見られたりした。それでなくてさえ、長年の執筆による疲労から損われていた健康は、とみに衰えていった。何よりも大きく影響したのは、連続的な公開自作朗読であった。前述のアメリカ再訪などは、まさに自殺行為にひとしく、これが決定的に彼の体力を弱らすことになった。
晩年
そういう間にも唯一の歴史小説『二都物語』(A Tale of Two Cities)、晩年の傑作『大いなる遺産』(Great Expectations)、また『互いの友』(Our Mutual Friends)のような長篇を書いたということは、驚嘆すべきである。
ある朗読会で軽い卒中の発作があったにもかかわらず、数週間の休養後に、ディケンズは『エドウィン・ドルード』(The Mystery of Edwin Drood )という新しい小説の執筆を始めていた。一八七〇年のその日、彼はギャッズ・ヒルの自邸で一日じゅう仕事をしてから、夕食の席につこうとしたときに、発作が起こって床の上に倒れた。そして、翌朝逝去した。五十八歳であった。
大人の童話
ディケンズは、イギリス文学の中では、シェイクスピアに次ぐ大文豪である。ディケンズ研究で名高いイギリスの評論家G・K・チェスタートンは、ディケンズを良い作家でないという気むずかしい批評家も、彼が偉大な作家であることはみとめざるを得まい、と言っている。
なるほどディケンズの小説は、けっして気品の高い芸術的なものではない。これを一口に批評しようとすることは、なかなか困難である。ディケンズについては、あまりにも取り上げるべき特質が多すぎる……ディケンズの話し上手、ディケンズの諧謔と風刺、ディケンズの哀愁、ディケンズの性格描写、ディケンズのヒューマニズムあるいは社会正義感、ディケンズのデモクラティックな思想等々……そして、これらを越えた全体としての人間味という魅力! たしかに、ディケンズの優れた部分は、とうてい批評の及ばぬところにひろがり、また、くだらない部分になると、ほとんど批評に価しないくらいだ。しかも結局は、だれもディケンズが好きになり、彼の作品を心からなつかしむようになってしまう。
私は、ディケンズの小説を、ひそかに「大人の童話」と称している。
ディケンズのもっとも良いところは、彼の豊かなヒューマニズム、あらゆる人々に通じる人間性への理解……社会のもっとも明るく美しい面と、もっとも暗い同情すべき面の、二つながらに触れることのできる偉大さにある、と言わなければならない。彼はけっして技巧の勝った作家ではない。細かく検討すれば、プロットにしてもたいていは不自然さを伴っている。小説の組立ても、一、二を除くほかは、まとまりがよいというのはほとんど見出しがたい。また、ディケンズ自身にしても、高級な文学を創ろうという意図があったわけでもない。できるだけ多くの人々に読まれ、できるだけ多くの部数が売れることを、彼は願っていたのである。
ディケンズは、一生書いて書いて、倒れるまでペンを休めることのなかった、旺盛な想像力を持った天才であることに間違いない。そうかといって、ひじょうに異常な作家だということにもならない。彼は、ごくありふれたことに終始した……だが、ありふれたことにたいするディケンズの感受性は、まれに見る幅と広さがあって、驚くほど多様なのである。ディケンズは、その意味で、徹底的にデモクラティックな作家である。そして彼の限りない普遍性も、そこに在るわけである。
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『クリスマス・カロル』について
そういうディケンズの美質は、この『クリスマス・カロル』にも十分|窺《うかが》うことができるであろう。ディケンズは、一八四三年から、クリスマスの物語を毎年一篇ずつ書くことにしたが、その第一が『クリスマス・カロル』となった。これによってディケンズは二つの目的を頭においていたという……その一つは、彼自身の楽しみで、人々が彼らの愛するロンドンの街頭を、鼻の頭を少し赤くしながら、手に重そうな包みをさげているのだが、それは他の者に贈りものを持っていくためで、めいめい胸を躍らせながら忙しく動きまわっている様子を描き出す歓びなのであった。もう一つは、降誕祭というのは、ただ七面鳥の丸焼きや乾ぶどう入りのプディングを食べるばかりでなく、人々の間に和解と思いやりをもたらす日で、貧しい人々とも仲直りをするのでなければ、この日にふさわしい祝いとはなり得ないということを、はっきりと意識させたいというところにあった。
『クリスマス・カロル』という題名の意味は、「散文で書かれたクリスマスの祝歌」ということで、スクルージという名の強欲で守銭奴の年老いたみじめな商人を主人公にして、彼がこの時節に改心することになっている。その改心を図るのにあらわれるのが、過去のクリスマスの精霊、現在のクリスマスの精霊、未来のクリスマスの精霊という三人の「幽霊」を配している。イギリス人は昔から「幽霊」を信じやすい、いや、「幽霊」を好むという性向があることをディケンズはよく知っていたのである。この物語は、かなり感傷的である。しかし、作者のディケンズは大真面目で、彼はこれを書くために、雪のつもったロンドンの街を、夜ふけに方々歩きまわったと、自分で言っているくらいである。ここには、善意のモラルを持つ人生批評が一筋通っているし、彼特有の誇張とおかしみを加えた真面目な喜劇が企まれている。風俗や習慣に、われわれから遠くて、いささか理解しにくい点もないではないが、すべての人間に共通の、心の問題は余すところなく示されていると思う。
『クリスマス・カロル』は当時大いに迎えられたばかりでなく、長い間人々に読みつがれて、ディケンズの名を世界的にした。これ以後、年を追って『鏡の音』(The Chimes)、『炉ばたのこおろぎ(The Cricket on the Hearth)、『人生の戦い』(The Battle of Life)、『幽霊に悩まされる男』(The Haunted Man)が書かれ、これら五篇を一巻にまとめて、『クリスマスの本』(Christmas Books)として出版された。しかし、このうちでは、なんといっても『クリスマス・カロル』が一番親しまれている。
一八七〇年にディケンズが死去したとき、その報道は、イギリス、アメリカ、カナダ、オーストラリアなどの子供たちにまで伝わっていった。アンドレ・モロアの評伝によると、ある少年は、こう言ったという……「ディケンズのおじさん、死んだの、クリスマスのおじさんもやっぱり死ぬんだろうか?」
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年譜
一八一二年 二月七日、南英の軍港ポーツマスに近いポートシーの郊外ランドポート、マイル・エンド・テラスに生れる。チャールズ・ジョン・ハッファム・ディケンズと命名される。父ジョン、母エリザベス。
一八一四年(二歳) 父の転勤で一家ロンドンに移る。
一八一七年(五歳) チャタム(ケント州)に移る。
一八二二年(十歳) 再び転勤でロンドンに住む。
一八二四年(十二歳) 靴墨工場で働く。父が借財のためマーシャルシー監獄へ収容される。父に少しの遺産が入ったので、靴墨工場をやめて、ロンドンのウェリントン・ハウス・アカデミーという学校に託される。
一八二七年(十五歳) 再び一家が窮迫したので、ある弁護士の事務員となる。(やがて速記術の独習を始める)
一八二八年(十六歳) 民法博士会《ドクターズ・コモン》の速記者となる。
一八二九年(十七歳) 初恋の女性マライア・ビードネルに会う。
一八三二年(二十歳) 『トルー・サン』紙の通信員となる。(次いで『ミラー・オブ・パーラメント』紙、『モーニング・クロニクル』紙の通信員、議会通信記者として生計を立てる)
一八三三年(二十一歳) 小品文が『オールド・マンスリー・マガジン』誌に掲載される。初めて「ボズ」という筆名を用いる。
一八三六年(二十四歳) 『ボズのスケッチ』出版。四月二日、キャサリン・ホウガースと結婚。『ピクウィック・ペイパーズ』分冊月刊。
一八三七年(二十五歳) 『ピクウィック・ペイパーズ』完結。『オリヴァ・トゥィスト』を『ベントリーズ・ミセラニー』誌に連載。
一八三八年(二十六歳) 『ニコラス・ニクルビー』分冊月刊。
一八三九年(二十七歳) 『ニコラス・ニクルビー』完結。
一八四〇年(二十八歳) 『骨董店』分冊週刊。
一八四一年(二十九歳) 『骨董店』完結。『バーナビー・ラッジ』分冊週刊、完結。
一八四二年(三十歳) 妻と共にアメリカ旅行。『アメリカ覚書』出版。
一八四三年(三十一歳) 『クリスマス・カロル』出版。『マーティン・チャズルウィット』分冊月刊。
一八四四年(三十二歳) 『マーティン・チャズルウィット』完結。家族と共にヨーロッパ旅行に出て、フランス、イタリアを訪れる。『鐘の音』出版。
一八四五年(三十三歳) ヨーロッパ旅行より帰国。『炉ばたのこおろぎ』出版。
一八四六年(三十四歳) 『デイリー・ニューズ』紙を創刊。『イタリアのおもかげ』『人生の戦い』出版。『ドンビー父子』分冊月刊。『キリスト伝』に着手。
一八四八年(三十六歳) 『ドンビー父子』完結。『幽霊に悩まされる男」出版。
一八四九年(三十七歳) 『デイヴィッド・コパーフィールド』分冊月刊。『キリスト伝』完了。
一八五〇年(三十八歳) 『デイヴィッド・コパーフィールド』完結。週刊誌『ハウスホールド・ワーズ』創刊。翌年にかけてパリに遊ぶ。
一八五一年(三十九歳) 父ジョン死去。『子供のためのイギリス史』を『ハウスホールド・ワーズ』誌に連載。
一八五二年(四十歳) 『寂しい家』分冊月刊。
一八五三年(四十一歳) 『子供のためのイギリス史』『寂しい家』完結。
一八五四年(四十二歳) 『困難な時世』を『ハウスホールド・ワーズ』誌に連載。
一八五五年(四十三歳) 『少女ドリット』分冊月刊。
一八五六年(四十四歳) ギャッズ・ヒル(ケント州)の邸宅を買う。
一八五七年(四十五歳) 女優エレン・ローレス・ターナンを知る。『少女ドリット』完結。
一八五八年(四十六歳) 自作公開朗読を始める。(これが彼の死期を早める大きな原因となる)。ターナンとのこともあって、妻と別居する。
一八五九年(四十七歳) 週刊誌『オール・ザ・イヤ・ラウンド』創刊。同誌に『二都物語』を掲載。
一八六〇年(四十八歳) 『大いなる遺産』を『オール・ザ・イヤ・ラウンド』誌に掲載。
一八六一年(四十九歳) 『大いなる遺産』完結。『非商用の旅人』を『オール・ザ・イヤ・ラウンド』誌に掲載。パリに遊ぶ。
一八六三年(五十一歳) 母エリザベス死去。
一八六四年(五十二歳) 『互いの友』分冊月刊。
一八六五年(五十三歳) ステイプルハーストで列車事故に遭う。『互いの友』完結。
一八六七年(五十五歳) 再度のアメリカ旅行、自作朗読を行なう。
一八六八年(五十六歳) アメリカより帰国。
一八七〇年(五十八歳) 『エドウィン・ドルード』分冊月刊、未完。六月九日ギャッズ・ヒルの自邸で急死。同十四日ウェストミンスター寺院に葬られる。