骨董屋 (下)
C.ディケンズ/北川悌二 訳
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骨董屋(下)
THE OLD CURIOSITY SHOP
38
キットは――このさいに、彼の運命を追う息ぬきのときがたまたま与えられるばかりでなく、こうした冒険話の必要上、われわれは、好みにまかせて気を楽にし、たどりたいと思っている道をぜひ追うようにと強く求められてもいるので――キットは、いままでの十五章であつかわれてきた事柄が進行しているあいだに、読者がお察しのように、ガーランド夫妻、エイベル氏、小馬、それにバーバラとだんだん親しくなり、彼ら全員を自分の特に親しい友とだんだんと考えるようになって、フィンチリーにあるエイベル荘を自分自身の本来の家と考えはじめていた。
ちょっと待って――以上の言葉が書かれ、そのまま通用してもよいのだが、キットが新しい住居の豊かな食事と快適な生活を与えられて、古い住み家の粗末な食事と家具を軽んじはじめたという観念をその言葉が伝えるものとしたら、それは、その任務をまともに果さず、あやまりを犯したことになる。キットほど家にのこしてきた人たち――それは母親とふたりの赤ん坊にすぎなかったが――を忘れないでいる者がいるだろうか? キットがあきもせずにチビのジェイコブについて、夕方時に、バーバラに語ったほど、どんな鼻高の父親が、心をいっぱいにして、自分の神童の子のすばらしさを語ったことだろう? 息子が示した母親の絵図で、キットの母親のような母親はあっただろうか? 彼自身の光を放っている話から推測して、正しい判断がくだせるものとしたら、キット一族の貧乏ほどに快適さを与えられている貧乏はあっただろうか!
ここでちょっと足をとめて、わたしに一言いわせていただきたいが、家庭の親愛の情がゆかしいものだとすれば、その情は貧乏人にあってこそそうなるものなのだ。金持ちとほこりの高い者を家庭に結びつけるきずなは、この世でつくりだすこともできるだろうが、貧乏人をそのささやかな炉辺に結びつけるきずなは、もっと誠実な地金でつくられ、天の刻印をおびたものである。高貴の血を受けついだ人は、自分の相続した広間と土地を自分の一部、自分の家柄と権力のトロフィとして愛するかもしれない。そうした物にたいするその男の連想は,ほこりと富と勝利の連想である。前には他人のものであり、明日にはまた他人のものとなるかもしれない貧乏人の貸し家は、もっと清らかな大地に根をおろした、もっとしっかりとした根をもっている。彼の家の守護神は骨肉でつくられ、金、銀、宝石のまじりものははいってはいない。自分自身の親愛の情以外になんの財産ももたず、ぼろきれと労苦ととぼしい食事にかかわらず、そうした愛情がむきだしの飾りのない床と壁をしたわしいものにするとき、その人の家にたいする愛情は、神から授けられたもの、粗末な小屋は厳粛な場所になる。
おお! 国の運命を支配している人びとがつぎのことを忘れないでいたら――社会的にきちんと生活するのに必要なものが失われ、いな、むしろ絶対にないところで、極貧の者がゴタゴタときたならしいかたまりになって住んでいるとき、すべての家庭の美徳の源泉になるあの家庭愛を彼らが心にはぐくみ育てるのがどんなに困難かを、そうした支配者が考えさえしたら――大通りと大きな家々から目を転じ、ただ貧乏神だけが歩いている小路のみじめなあばら家をよくしてやろうと努めたとしても――多くの低い屋根は、悪徳や犯罪やおそろしい疫病の|最中《さなか》から|傲然《ごうぜん》といま頭を高くして、その対照で貧乏人をあざけっているいちばん高い尖塔より、もっと誠実な心で空を指さすことだろう。教区の貧民院、病院、牢獄からあげられているうつろな声で、この真実は、日ごとに語られ、いままでも多年にわたって叫ばれてきている。それは、軽々しいこと――野卑な労働者の叫び、水曜日の夜に(水曜日には議会で政府側の仕事は休みになり、多くの議員はくつろいでその夜をすごしていた)口笛を吹いて無視してしまうことができる国民の健康と生活の快適さといった簡単な問題ではない。家庭を愛する気持ちから、国を愛する気持ちが生じる。いざというときになって、どちらが誠実、あるいは、すぐれた愛国者になるのだろうか?――土地を尊び、そこの森や小川や大地、それが生みだすすべてのものを所有している人びとだろうか? それとも、祖国を愛し、祖国のひろびろとした大地で尺土もほこることができない人びとだろうか?
こうした問題について、キットはなにも知らないでいたが、自分の以前の家がとても貧しい場所、自分の新しい家がそれとは似ても似つかぬ場所であるのを知っていながらも、いつも感謝にあふれた満足と愛情こもった心配で、そこをふりかえり、エイベル氏の気前よさでもらっていた一シリングか八ペンス、その他つまらぬ送金をいっしょに入れて、ときどき四角にたたんだ手紙を母親に書きつづっていた。家の近くによくいったので、ときおり母親をおとずれる暇があるときもあり、そのときには、キットの母親のよろこびとほこりは大きくふくれあがり、チビのジェイコブと赤ん坊の満悦ぶりはとてもさわがしく、裏小路の人たち全員の祝いの言葉は心のこもったもので、彼らはエイベル荘の話に聞き惚れ、そこのすばらしさとりっぱさに聞きあきることがなかった。
キットは老紳士夫妻、エイベル氏、バーバラの大のお気に入りになっていたが、この一族で彼に特に目立った|贔屓《ひいき》を示していたのは、あの気まま者の小馬だった。この小馬は、彼の手にかかると、この世でいちばんの頑固でわがままな小馬であるどころか、じつにおとなしい、いうことをよくきくけだものになっていた。たしかに、キットのいうことをよくきくようになればなるほど、ほかの人間には始末のつかぬものになってきたのは事実(それは、どんな危険をおかしても、しゃにむに彼をこの一族にひきとめておこうと決心したかのようだった)、お気に入りのキットの指導のもとにあってさえ、老夫人の神経をひどく苛立たせて、種々さまざまな奇妙な気まぐれと狂態を演じていたのは事実だったが、これは、この小馬のふざけ、自分のやとい主にたいする愛情の表示にすぎない、とキットがいつもいっていたので、ガーランド夫人もだんだんと説得されてそれを信じるようになり、最後には、それが信念といった固いものにまでなっていたので、こうした激情のほとばしりでこの小馬が馬車をひっくりかえしてしまっても、それは最高の善意でやったこと、とこのご夫人はゆるがぬ確信をもっていいきったことだったろう。
ほんの短い期間に、うまやのことでものすごい達人になったばかりでなく、キットは、すぐ庭仕事でもまあかなりな腕達者、家の中でも器用な人物になり、エイベル氏には必要欠くべからざる従者となって、エイベル氏は、毎日、自分の信頼と賞賛の新しい証しを彼に与えていた。公証人のウィザーデン氏もまた、友好的な目で彼をながめ、チャクスター氏でさえ、ときどき、彼に軽いうなずきを与えたり、「手をかざしてつらつらとながめ入る」(親指を鼻にあて、小指以外の指を閉じて、軽蔑・不信を示す仕草)といったあの独得の認識の名誉を授け、その他、ふざけと恩寵を結び合せたほかの挨拶で彼に好意をあらわしていた。
ある朝、キットは、ときどきやっていたことだったが、エイベル氏を公証人の事務所まで車で送りとどけ、彼をそこにおろして、そばの馬あずかり所にゆこうとした。そのとき、前記チャクスター氏が事務所の戸口から姿をあらわし、「オーラー、ア、ア、ア、ア、ア!」と叫び――ながいことこの調子をつづけていたが、これは、小馬の心に恐怖心をいだかせ、下劣なけだもの類にたいする人間の優越を主張するためのものだった。
「とまれ、|紳士気どり君《スノツビイ》」キットに呼びかけて、チャクスター氏は叫んだ。「ここの奥できみに用があるんだ」
「エイベルさんがなにかお忘れだったのかな?」馬車からおりながら、キットはいった。
「なにもたずねたりはするな、紳士気どり君」チャクスター氏は応じた、「はいってみたらいいんだ。オーラー、ア、ア、ア、わかったかね? あの小馬がおれのもんだったら、うんと[#「うんと」に傍点]馴らしてやるとこなんだがな」
「あの馬にはやさしくしてやってください。おねがいしますよ」キットはいった、「さもないと、面倒なことになりますからね。耳をひっぱっておいでですが、それはやめてください。きっと、いやがりますから」
この抗議にたいしてチャクスターの与えた応答は、ただ、傲然とした冷やかな態度でキットを「若い衆」と呼び、大急ぎで来い、とくりかえしただけだった。「若い衆」はそれに応じたので、チャクスター氏は両手をポケットにつっこみ、小馬なんて問題じゃない、自分は、ただたまたま、そこでブラブラしているだけのこと、といったふうをみせつけようとしていた。
キットは靴をとても丁寧にぬぐい(そこにある書類の束とブリキ箱にたいする敬意を、彼はまだもちつづけていた)、事務所のドアをノックしたが、ドアはすぐ、公証人自身によって開かれた。
「さあ、おはいり、クリストファー」ウィザーデン氏はいった。
「あれがその少年ですか?」初老ではあるものの、太ってぶっきらぼうな、部屋にいた紳士がたずねた。
「そうですよ」ウィザーデン氏は答えた。「まさにこの戸口で、彼とわたしの依頼人ガーランド氏がはじめて出会ったんです。彼は善良な少年、彼のいうことは信用してもいいと思いますな。エイベル・ガーランド氏を紹介いたすのをお許しください――あの少年の若い主人公で、わたしの年期契約の弟子でもあり、特別親しくしている友人でもある人物――特別親しくしている友人でもあるんです」絹のハンカチをひっぱりだし、それを顔のあたりにふりまわして、公証人はくりかえした。
「よろしく」見知らぬ紳士はいった。
「こちらこそ」エイベル氏はおだやかに答えた。「クリストファーとお話しになりたいのですか?」
「そうなんです。お許しいただけますか?」
「ええ、よろしいですとも」
「わたしの用件は秘密ではありません。いや、むしろ、ここで[#「ここで」に傍点]秘密にする必要はない、と申すべきでしょう」エイベル氏と公証人がひきさがろうとしているのに気づいて、見知らぬ紳士はいった。「それは、彼がいっしょに暮していた骨董品の商人に関係してることで、この人物にわたしは強い、心からの関心をもっているんです。みなさん、わたしは、とてもながいあいだ、祖国をはなれて暮し、礼儀作法も十分とは申せませんが、その点、どうかお許しください」
「そんな点はどうぞお気兼ねなく――心配はぜんぜんなさらずに」公証人は答えた。エイベル氏の応答も、同様のものだった。
「彼の以前の主人が住んでいたとこのあたりで、いままで、いろいろと調査をしてきました」見知らぬ紳士はいった、「そして、あの少年がそこにつとめていたのを知ったんです。彼の母親の家はみつけたんですが、こちらに参るのが彼と会ういちばんの近道、とそこの母親に教えられ、今朝、こちらにおうかがいしたのも、そうしたためなんです」
「このご訪問の名誉をいただければ」公証人はいった、「どんなご用件であろうとも大よろこびですよ」
「きみ」見知らぬ紳士はやりかえした、「それは世馴れた人間のはくセリフ、きみはもっとましな人間と思ってるんですがね。だから、つまらん挨拶言葉なんぞしゃべって、きみの真の人間をよごさんようにしてください」
「エヘン!」公証人は|咳《せき》払いをした。「あなたはあけすけものをおっしゃる方ですな」
「それに、あけすけことをやる人間でしてな」見知らぬ紳士は応じた。「そういう結論を出したのは,当方の長期にわたる本国不在と経験不足のためかもしれません。だが、世界のこの地区にあけすけものをいう人間が少ないとしたら、あけすけものをやる人間は、もっと少ないことでしょうな。わたしの話しぶりがそちらのご気分をそこねたら、わたしのやり方がその穴埋めをすることでしょう」
この初老の紳士の話の仕方で、ウィザーデン氏はいささかうろたえているようだったが、キットのほうは、ポカンと口を開けてびっくりしながら、この紳士をながめ、公証人にたいしてああして遠慮なくズバズバものをいっている以上、自分にたいしてどんな口をきくだろう? と考えていた。だが、彼がキットのほうに向って、つぎのようにいったとき、生れつきのジリジリし急きこむところは多少あったにせよ、その話しぶりは荒っぽいものでは決してなかった。
「いいかね、こうして探索してるのが、わたしの探してる人たちに役立ち、ためになろうとしている以外の目的のためと考えたら、きみはわしにとてもひどいことをし、その上、見当ちがいをしてるのだよ。たのむから、そんな見当ちがいなことは考えず、わしの言葉を信用してくれたまえ、じっさいのとこ、みなさん」公証人とその弟子のほうに向きなおって、彼はいいそえた、「わたしはとても苦しい、まったく思いもかけぬ立場に立ってるんです。心にとても強くねがってる目的をもってこの町にやってき、それを達成するのに、べつに障害も困難もないことと思ってました。ところが、その意図を実行する段になると、わたしにはどうともわからぬ謎で、それがおさえられ、不可能になってしまったんです。その謎を解こうと、ありとあらゆる努力はしたんですが、その結果はといえば、謎の色がだんだん濃くなり深まるばかり。このことでおおっぴらで動くのが心配になってきたんです、わたしが一生けんめい追ってる者が、もっと遠くまで逃げてしまうことにもなりかねませんからな。わたしがどんな援助でもどんなに必要としてるか、それでどんなにこちらが助かるかがおわかりでしたら、ご援助をしてくださっても、それをつまらぬこととはお思いにならんでしょう」
この打ち明け話には率直さがこもり、その率直さは人のいい公証人の胸にすぐ反応をひきおこし、公証人は、同じ率直な気持ちで、この見知らぬ紳士がそうしたねがいをもつのはもっともなこと、自分がなにか役に立てるのだったら、大よろこびでそれをしたい、と申し述べた。
それからキットが質問を受けることになり、彼のむかしの主人、子供、ふたりのわびしい暮しぶり、人とつき合おうとせぬその習慣、きびしい隠遁生活について、見知らぬ紳士からいろいろと細かにたずねられた。夜ごとに老人が家を空けたこと、そうしたときの子供の孤独な生活、老人の病気と回復、クウィルプによる家の占拠、ふたりの突然の|失踪《しつそう》が、さまざまな質問と応答の題目になった。最後にキットはこの紳士に、家はいま貸し家になっている、戸口にかかった広告の板によると、用のある人はビーヴィス・マークスの事務弁護士サムソン・ブラースに話すようにとあるから、その人物からさらに細かな話が聞けるだろう、と知らせた。
「いや、たずねてもだめだ」首をふりながら、紳士はいった。「わしはそこに住んでるんですからな」
「弁護士のブラースの家にですって!」ちょっと驚いて、ウィザーデン氏は叫んだ。職業がら、問題の紳士のことは知っていたからである。
「そう」がその答えだった。「このあいだ、あの男の下宿を借りることになったんですが、その主な理由は、この広告板をみたからなんです。どこに住もうと、こちらにとっては問題じゃありません。そこにいたら、なにか情報が、ほかの場所だったらとても入手不可能な情報がはいるかもしれんのですからね。そう、わたしはブラースのとこに住んでますよ――この身にとって恥の|上塗《うわぬ》りというとこですかね?」
「それはものの見方しだいでね」肩をピョイとすくめて、公証人はいった。「彼はそうとううろんな人物とみられてるんです」
「うろんな?」相手はおうむ[#「おうむ」に傍点]がえしにいった。「やつの性格に多少なりともうろんな点があるのは、ありがたいことですな。とっくのむかしに、うろんどころか、それはもうしっかりときまったことと思ってたんですからね。だが、きみとふたりだけでちょっと話したいんですが、いいですね?」
ウィザーデン氏は承諾したので、ふたりはウィザーデン氏の私室にはいり、ものの十五分ほど、密談をかわしていたが、それが終ると、外の事務所にもどってきた。見知らぬ紳士は、帽子をウィザーデン氏の部屋におき忘れ、この短い時間のうちに、すっかり打ち解けた仲になったようだった。
「いま、これ以上きみをひきとめはしないよ」キットの手にクラウン貨幣(五シリングの銀貨)をわたして、彼はいい、公証人のほうをみて、言葉をつづけた、「いずれこちらから連絡しますよ。いいかね、きみのご主人と奥さん以外には、このことをひと言でももらしちゃいかんよ」
「母親が知ったらよろこぶでしょうが――」口ごもって、キットはいった。
「よろこぶって、なにをだね?」
「ネル嬢ちゃんについて――それがわるいことでなかったら――どんなことでも」
「うん、そうかい? そんなら、秘密を守れるんだったら、いってもいいよ。だが、いいかね、ほかのだれにも、このことは、ただのひと言だってしゃべっちゃいかん。それを忘れんように。よく注意するんだよ」
「注意します」キットはいった。「ありがとうございます。では、さようなら」
さて、ここで、いままで起きたことをだれにもいってはいけない、とキットにさらに念をおそうとして、この紳士は外までキットにたまたまついてゆき、さらに、その瞬間に、リチャード・スウィヴェラー氏の目がその方向に向けられ、自分の神秘的な友人とキットがいっしょにいる姿をたまたまみるということになった。
これはまったくの偶然で、それがどうして起きたかには、以下のようないきさつがあった。チャクスター氏は教養のある好みと洗練された精神の持ち主だったので、スウィヴェラー氏が終身会長をしていた輝かしいアポロウ会の会員だった。スウィヴェラー氏は、ブラースのある仕事で、この街路をとおり、自分の輝かしい会の会員がむきになって小馬をみつめているのをながめ、道路を横切って、友愛こもる挨拶の言葉を彼にかけようとしたのだったが、この挨拶は、この会の事務所のまさに憲法によって、終身会長たる者が会員に呼びかけ、その士気を鼓舞しなければならぬものになっていた。スウィヴェラー氏がチャクスター氏にこの祝福の言葉を呼びかけ、つづいて、現在の天候やそのみとおしについてのどうということもない話にうつろうとしていた矢先に、ふと目をあげると、ビーヴィス・マークスの例の独身男がむきになってクリストファー・ナッブルズ相手に話をしている姿が目にはいったのだった。
「やあ!」ディックはいった、「あれは[#「あれは」に傍点]だれだい?」
「今朝おれの親分に会いにきた男さ」チャクスター氏は答えた。「それ以上、あいつのことはなんにも知らんよ」
「少なくとも名くらいは知ってるだろう?」ディックはいった。
これにたいして、輝かしいアポロウの会にふさわしい|昴揚《こうよう》した言葉で、知ってるなんて「とんでもない」とチャクスター氏は答えた。
「こっちの知ってることといえばただ」指ぜんぶを使って髪をかきあげながら、チャクスター氏はいった、「あいつのおかげで、おれがここに二十分間立っていなけりゃならなくなっただけのことさ。これにたいして、おれはやつに強烈なる不滅の憎悪の情をもち、そうした時間があればの話だが、未来|永劫《えいごう》、末の世までやつを追いまわしてやるつもりだ」
こうして話しているあいだに、彼らの会話の主題は(こちらでは、リチャード・スウィヴェラー氏のことを気づかなかったらしい)ふたたび家にはいり、キットは入り口の階段をおりて、このふたりといっしょになった。この彼にスウィヴェラー氏はまた質問をくりかえしたが、前の質問の場合と同様、さして効果はおさめられなかった。
「とてもいい方です」キットはいった、「でも、それしか知りませんよ」
この返事を聞いて、チャクスター氏はプリプリしはじめ、特にだれということもなく、一般的な事実として、|紳士気どり《スノツブ》のやつは頭をひっぱたき、鼻をねじってやったほうがいいんだ、といっていた。この意見にたいする賛成の表示はおこなわずに、ちょっとポーッとしていてから、スウィヴェラー氏はキットに、馬車でどっちにゆくんだ? とたずね、その返事を受けると、自分の道もその方向、ひとつ乗せてもらうことにしよう、といった。この名誉ある申し出をキットとしてはなんとか断りたいとこだったが、もうスウィヴェラー氏が自分のわきにどっかと坐りこんでしまっていたので、つきとばして車から放りだす以外に、それをする方法はなく、そこで、勢いよくパッととびだしていった――まったく、それがじつに勢いのいいものだったので、チャクスター氏と終身会長の別れの言葉は途中でちょんぎられ、イライラした小馬がチャクスター氏の足の指のまめをグイッとねじって彼をとびあがらせるということになった。
小馬のホウィスカーはもう立っているのにあきあきし、スウィヴェラー氏は親切にも|甲《かん》高い口笛やさまざまの運動家らしい叫びでこの小馬に刺激を与えたので、馬車はすごいスピードでとんでゆき、話なんぞはしていられず、特に、スウィヴェラー氏の忠言にプリプリして、小馬は街灯柱と横ざまのとんぼがえりが|無性《むしよう》に好きになり、舗道の上をつっ走り、煉瓦の壁にひどく身をこすりつけたがっていたので、話なんぞはおろかといったことになった。ようやく行く先の馬小屋にゆき、小馬が自分のいつもの定めの場所に馬車をつけたままでもはいっていけると思いこんでひきずりこんだとてもせまい戸口から馬車をひきだしてから、ようやくスウィヴェラー氏は話すゆとりをもてるようになった。
「大変な仕事だね」リチャードはいった。「ビールはどうだい?」
キットは最初断ったが、やがて賛成し、ふたりはつれ立って近くの酒場に出かけていった。
「あのなんとかいうわれわれの友人に乾杯することにしよう」泡立つ輝く壺を高くかかげて、ディックはいった。
「いいかい、今朝きみに話してたあの人――ぼくも[#「ぼくも」に傍点]知ってる人――いい男だが、風変り――とてもね――さあ、なんとかいう人に乾杯だ!」
キットはその人物に乾杯した。
「彼はぼくの家に住んでるんだ」ディックはいった。「少なくとも、ぼくがまあ――業務執行社員といったことになってる商社のある家のことだがね――なかなか話をひきだしにくい男だ。だが、ぼくたちは彼を好きでね――好意をもってるんだ」
「よろしかったら、失礼したいんですが」そこから出てゆこうとして、キットはいった。
「急ぐことはないよ、クリストファー」ビールをおごったディックはいった、「きみの母さんにも乾杯することにしよう」
「ありがとうございます」
「りっぱな女性だよ、あのきみの母さんはな、クリストファー」スウィヴェラー氏はいった。「ぼくがころんだときに、とんできて、痛くないようにと、そこにキスをしてくれたのは、だれだろう? ぼくの母さんだ(ぼくがころんだときに、……以下はアン・テイラー(一七五七―一八三〇)のつくった当時人気のあった童謡から)。きみの母さんは魅力的な女性だね。あの男は気前のいい人間だ。きみの母さんのためになにかしてもらうように、ひとつしなけりゃならんな。あの男、きみの母さんを知ってるかい、クリストファー?」
キットは頭をふり、質問者をチラリソッとぬけ目なくながめて、礼をいい、相手がまだそれ以上ひと言もいわないうちに、そこを出ていってしまった。
「フフン!」考えこみながら、スウィヴェラー氏はいった、「これは妙だぞ。ブラースの家に関係したことといえば、狐につままれたようなことばかりだ。だが、これは胸にたたみこんでおくことにしよう。ぼくは自分の秘密をみんなに、だれかれなく打ち明けてきた。だが、いまはもう、自分で商売をはじめることにしよう。妙だ――まったく妙だ!」
しばらく深く考えこみ、知恵をしっかりと身につけているような顔をして、スウィヴェラー氏はもう少しビールを飲み、そのときまで彼のやり口をジッとみていた小さな少年を呼びつけ、のこったわずかの数滴を神にささげるお|神酒《みき》として砂利の上にそそぎ、酒場のほうによろしくいってくれと、|空《から》になった容器の片づけをこの少年に命じ、なににもまして、禁酒の生活を送り、酔いをひきおこして心を興奮させる飲み物はつつしむように、と伝えた。壺の片づけ代としてこの道徳的教訓(賢明にも彼がいったことだが、これは半ペニーよりズッと役立つもの)を授けてから、輝かしきアポロウの終身会長は両手をポケットにつっこみ、ブラリブラリと出ていったが、歩きながら、まだ物思いにふけっていた。
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その日一日じゅう、夕方になるまでエイベル氏を待っていたが、キットは、母親の家には近づかないでいた。
これは、明日の楽しみを先につまんだりはせず、そのよろこびを一度に十分に味おうと心にきめていたからだった。それというのも、明日こそ彼の生涯の待ち望んでいたすばらしい日だったからである――明日は彼の最初のつとめの一季(三カ月のこと)の終りの日――年収六ポンドの四分の一の三十シリングという莫大な金を受けとる日――明日は半日の休暇をもらえて、|渦《うず》巻く楽しみをさまざまに味い、チビのジェイコブは、かき[#「かき」に傍点]がどういうものかを知り、芝居をみにゆくはずだった。
すべてのことが力を合わせてこの祭典を祝うことになった。ガーランド夫妻が、彼の支度料をこの莫大な金額からさしひかず、その偉容をそこねないでまるまる全額を支払ってくれると知らせてくれたばかりではない。見知らぬ紳士がこの貯えを五シリング増してくれたばかりではない。この五シリングはまったくの天からの授かり物、それだけでも、ひと財産だった。こうしたことは、だれも予想できず、どんな途方もない夢でも期待できぬものだったが、そうしたことがじっさい起ったばかりではない。その日は、バーバラの支払い日でもあったのだ――その日こそ、バーバラの支払い日で――キットと同様、バーバラも半日休暇を与えられ、バーバラの母親は、一行の一員になり、キットの母親といっしょにお茶を飲み、友情を温めることになっていた。
たしかにキットは、その朝早く自分の窓から外をながめ、雲ゆきを調べ、たしかにバーバラも、きのうの晩、ああおそくまで起きていなかったら、きっと彼女の窓辺に姿をあらわしたはずだった。じっさい、彼女はモスリンの小ぎれをのりづけし、アイロンをかけ、ひだを寄せてひだとりの飾りべりにし、それをほかのきれに縫いつけて、翌日の晴れ着に仕立てていたのだった。だが、それにもかかわらず、ふたりはとても早く起き、朝食は食べる気がせず、昼食はましてものこと、戸外の天気のよさのすばらしい話をしながらバーバラの母親がやってきて(バーバラの母親は、その話にもかかわらず、とても大きな傘を持参していた。バーバラの母親のような人たちは、傘をもたずに休日に外出をすることは、まずなかった)、彼らが二階にあがって三カ月の俸給を金貨と銀貨で受けとる鐘が鳴りひびいたとき、彼らの興奮は、ますますたかまっていった。
そう、「クリストファー、これがきみの俸給だ。よく働いてくれたね」といったとき、ガーランド氏はまったく親切な人だった!「バーバラ、これがあなたの俸給よ。わたしはとても感謝していますよ」といったとき、ガーランド夫人はまったく親切な人だった! キットは大胆に自分の受領書に署名し、バーバラはからだをブルブルさせて自分の受領書に署名をしなかったろうか! ガーランド夫人がバーバラの母親にぶどう[#「ぶどう」に傍点]酒を一杯ついだとき、その光景はなんと美しいものだったろう! バーバラの母親が「親切なご夫人としてこちらに、親切な旦那さまとしてそちらに、バーバラにはわたしの愛情として、そして、クリストファーさん、あなたにも、わたしはこうしてぶどう[#「ぶどう」に傍点]酒で乾杯しますよ」といったとき、彼女は声をはりあげなかっただろうか! まるでそれが大コップ一杯分のように、彼女はそれをながいこと飲み、手袋をはめて立って、いかにも品よくみえなかっただろうか! 駅伝乗合馬車の屋根の席でこうしたことすべてを思い出して語り合ったとき、なんと笑いとおしゃべりが起きたことだろう! その日休日でない人たちを、彼らはなんとあわれんだことだろう!
だが、キットの母親も同じことだった――彼女が良家の出、生涯貴婦人だったと思わない人が、だれかいただろうか! 彼らをむかえ入れようと、瀬戸物屋の心でも興奮させるほどのりっぱな茶道具をそろえて、彼女は待ち、チビのジェイコブと赤ん坊は非の打ちどころのない姿をし、その服は、たしかに古いものではあったものの、新品のようにみごとなものだった! 席についてからまだ五分もたたないのに、彼女は、バーバラの母親が自分の予想していたとおりのご夫人、といい、バーバラの母親は、キットの母親が自分の[#「自分の」に傍点]思っていたそのままの|生《いき》写しの人、といわなかったろうか? キットの母親はバーバラのことでバーバラの母親を|賛《たた》え、バーバラの母親はキットのことでキットの母親を賛えなかったろうか! バーバラ自身はチビのジェイコブにすっかり心をうばわれ、どんな子供だって、ジェイコブほど、たのまれるといいとこをみせ、人に親しみの情を示したことがあるだろうか!
「それに、わたしたちはそろって後家なんですよ!」バーバラの母親はいった。「おたがいに知り合いになるようにつくられてるにちがいありませんよ」
「もうそれは、まちがいのないこと」ナッブルズ夫人は答えた。「もっと前にお知り合いになれなくって、ほんとうに残念だったことね」
「それにしても、いいこと」バーバラの母親はいった、「それぞれの息子と娘のおかげでお知り合いになれたのは、とってもうれしいこと、十分にその穴埋めはしてくれますよ。そうじゃないこと?」
これにたいして、キットの母親は|満腔《まんこう》の賛意を表示し、結果から原因にともどっていって、ふたりは、当然のことながら、それぞれの夫のことを思い起し、その生前、死、埋葬について意見を述べ、さまざまな事情で驚くほどピタリと符合する点をみつけだした。それは、たとえば、バーバラの父親がキットの父親よりちょうど四年と十カ月年長のこと、一方が水曜日に、他方が木曜日に死亡し、そのいずれもからだつきがとても美しく、すばらしい美男子だったことなどで、そのほかにも驚くほどの相似点があった。こうした追憶は休日の明るさに陰を投げるものだったので、キットは話題をふつうの話に変え、みなはまた元気をとりもどし、前どおり陽気になった。とりわけ、キットは、自分のもとの職場、それにネルのすばらしい美しさ(ネルについて彼はバーバラにもう千回も話をしていた)について語ったが、この最後の話題は、彼が思っていたほどの大きな興味を聞く人たちにひきおこさず、彼の母親さえ(たまたまバーバラのほうに目をやりながら)、ネル嬢ちゃんはたしかにとってもきれいな娘ではあるけれど、なんといったってまだ子供、あのくらい美しい娘はたくさんいる、といい、バーバラはおだやかに、自分もそう思う、クリストファーさんは目がくるっていると思わずにはいられない、と述べたが――この最後の言葉で、キットはひどく驚いていた。自分を疑うどんな理由がバーバラにあるのだろう? と考えていたからである。バーバラの母親も、若い娘が十四か十五で美しさが変ってしまうのは、べつに珍しくはないこと、前にはとてもきれいでも、大きくなると、ひどくきたない女によくなる、といい、この真理を多くの強力な実例で説明し、特にひとりの青年の例をあげたが、この青年は将来有望な建築家、バーバラに特別|執心《しゆうしん》していたが、バーバラはこの男に一切関心がなく、これは(万事文句なしの話だったので)とても残念に思っている、と述べ立てた。キットは、自分も残念に思う、とここでいい、じっさい、たしかにそう思っていたのだが、バーバラがいきなりだまりこんでしまったのはふしぎなこと、それをいうのはまずいことといったふうに、どうして自分の母親がこっちをみているのだろう? と考えこんでいた。
しかし、もう芝居のことを考えなければならない時刻になっていた。この芝居のためには、オレンジをいっぱいつつみこんだハンカチと同様のりんご[#「りんご」に傍点]のハンカチは申すにおよばず、ショールやボンネット帽の面でも大準備が必要だった。果物がハンカチの隅からころげだそうとするので、それをハンカチにつつみこむだけでも、ちょいと時間のかかることだった(当時安い劇場やサーカスに客は食物をもちこんでいた)。とうとう準備万端ととのい、一同はさっさと出かけてゆき、もうパッチリと目をさましている赤ん坊をキットの母親がかかえ、キットは片手でチビのジェイコブをつれ、のこる手でバーバラを護衛していたが――これをながめて、あとにつづくふたりの母親は、まるで夫婦と子供の一家のようだ、といい、バーバラは顔を赤らめて、「まあ、母さん、やめて!」といっていた。だが、母親たちのいうことを気にすることはない、とキットはいっていたが、求婚なんて、キットとしては思いもよらぬことだったのをバーバラが知っていたら、たしかに彼女は気にすることはなかったのだった。気の毒なバーバラ!
とうとう彼らは劇場に着いたが、これはアストリー座(ウエストミンスター橋通りの橋の近くにあった。一七七四年フィリップ・アストリー(一七四二―一八一四)によってつくられ一八六二年には王立劇場になった)だった。まだ開かれていない戸口に到着してからものの二分とたたないうちに、チビのジェイコブは人にねじられて真ったいらになり、赤ん坊は何回か激しくゆさぶり立てられ、バーバラの母親の傘は何ヤードか先までもっていかれ、人の肩越しにそれがかえされてくる始末、キットは、むちゃくちゃに母親を「グイグイおしまくった」ことで男の頭をりんご[#「りんご」に傍点]のハンカチでぶんなぐり、すごいさわぎがまきおこった。だが、切符売り場をとおりすぎ、手に切符をもってしゃにむに中にはいり、なににもまして、劇場の中にすっかりはいって、予約して前から占領していてもとても手にはいらないほどのいい座席を獲得したときに、こうしたことすべては、すばらしく楽しい冗談の種になり、この芝居の楽しみのかけがえのない思い出の一部になっていた。
ほんとうに、まったく、このアストリー座というところは、なんというすばらしい場所にみえたことだろう! ペンキでぬり立て、金メッキが施され、鏡がある。なにかうっすらとただよっている馬のにおいは、これからのすばらしい舞台を思わせる。カーテンはすごい豪華な神秘をかくしている。曲馬場にはきれいな白いおがくずがまかれている。楽隊がはいってきて座席につき、彼らがそれぞれの楽器の調子を合せているとき、バイオリンひきが無造作にその連中をながめているが、それは、まるで芝居がはじまるのを望んではいないようなふう、もう芝居のことは前もって知っているといった|素振《そぶ》りだった! ながい、澄んだ、キラキラと輝くあの一列の灯りがだんだんとひきあげられたとき、その明るい輝きときたら! 小さな鐘の音がひびき、音楽がほんとうにはじまり、太鼓で強い調子、|三角形打楽器《トライアングル》で甘美な効果が打ち出されたとき、なんという熱気のこもった興奮が湧き起ったことだろう! 最上階の|桟敷《さじき》こそ芝居をみる座席、そこが仕切りの特等席よりズッと値の張った場所でないのはふしぎなこと、とバーバラの母親がキットの母親にいっていたが、まったくそのとおりだった。よろこびで胸をときめかして、バーバラは笑ったらいいのか、泣いたらいいのかととまどっていたが、それはまったく、むりのないことだった。
それについで、芝居それ自体はすごいもの! チビのジェイコブは、最初から、馬は本物と信じこみ、登場の紳士淑女がじっさいのものとは、どうしても納得しようとはしなかった。そうしたものは、そのときまで、一度もみてはいなかったからである。バーバラをハッとひるませた発砲――彼女を泣かせた孤独な貴婦人――彼女をふるえあがらせた暴君――侍女といっしょに歌を歌い、コーラスの曲を踊り、彼女を笑わせた男――人殺しの姿をみかけるとうしろ脚で立ち、しっかりととりおさえられるまで、四つ脚では歩こうとしなかった小馬――長靴をはいた軍人に図々しくもなれなれしい態度を示している|道化《どうけ》――二十九のリボンの上をとび越えて、安全無事に馬の背に落ちてくる婦人――すべてが楽しく、すばらしく、驚きずくめだった! チビのジェイコブは、手が痛くなるまで拍手し、キットは、三幕物を入れて、すべての終りで「アンコール」を叫び、バーバラの母親は、夢中になって、傘を床にたたきつけ、それはこわれてギンガムのきれだけのようなものになってしまった。
こうした心を魅するおもしろいものの|最中《さなか》にあって、バーバラの思いはお茶のときにキットがいった言葉の上に走っているようだった。というのも、劇場を出ようとしたとき、ヒステリー気味にニヤニヤッとして、ネル嬢ちゃんがリボンの上をとび越えた女ほど美しいかどうか? と彼にたずねたからである。
「あの女[#「あの女」に傍点]くらい美しいかだって?」キットはいった。「倍も美しいさ」
「ああ、クリストファー! あの女の人は、まちがいなし、いちばん美しい|女《ひと》よ」バーバラはいった。
「バカな!」キットは応じた。「そりゃ、きれいな女さ。そうじゃないとはいわないよ。でも、あの女は衣裳を着こみ、|白粉《おしろい》をぬりつけてるんだぜ。そうなりゃ、ずいぶんちがってくるよ。いやあ、あんな女より、きみのほうがずっときれいだよ、バーバラ」
「まあ、クリストファー!」目を伏せて、バーバラはいった。
「いつだって、きみのほうがきれいさ」キットはいった――「きみの母さんだって、同じことだ」
気の毒なバーバラ!
だが、こうしたことすべては――こうしたことすべてさえも――つぎに起ったすごい金使いにくらべたら、物の数ではなかった! キットは、そこの住人のように、かき[#「かき」に傍点]の店にズイッとはいりこみ、勘定台とそのうしろにいる男をみもせずに、一同をボックス席――赤いカーテンを垂らし、白いテーブルかけをつけ、完璧な薬味入れの台のある特別席――に案内し、給仕役を演じ、彼クリストファー・ナッブルズを「|旦那さま《サー》」と呼んだ|頬鬚《ほおひげ》を生やしたおそろしい紳士にいちばん大きなかき[#「かき」に傍点]を三十六注文し、ぬかりのないように、と注意を与えたのだった! そう、キットはこの紳士に、ぬかりのないように、と注意し、紳士は、ぬかりなく注意します、といったばかりでなく、たしかにそれを実行し、やがて、いちばん新しいパンといちばん新鮮なバターとこの上なく大きなかき[#「かき」に傍点]をもって、とんできた。ついでキットはこの紳士に「ビール一本」――ただそれだけ――といい、紳士は「その言葉はこのわたしにいったのですか?」なんぞとはいわずに、「ビール一本ですか? わかりました」とだけいい、去ってゆき、それを運び、盲人の犬が施し物の半ペンスを受けるために街路で口にくわえて運んでいる枝編み細工のバスケットに似たものに入れたビールのびんをテーブルの上においた。そして、彼が向うにいったとき、キットの母親もバーバラの母親も声をそろえて、彼のことを、いままでみたこともないほどのほっそりとした気品のある青年だ、といっていた。
それから一同は、真剣になって夕食にとりかかった。バーバラは愚かにも、ふたつ以上は食べられない、といい、四つ食べるまでに、とても信じられないくらいやいのやいのとすすめなければならなかった。彼女の母親とキットの母親が、バーバラの食べられない分の穴埋めは十分にし、食べ、笑い、大いに楽しんでいたので、それをみていたキットまで気分がよくなり、キットも母親たちと調子を合せて笑い、食べていた。だが、その日の最大の奇跡はチビのジェイコブで、その仕事に生れ育ったのだといった|塩梅《あんばい》にかき[#「かき」に傍点]を食べ――齢に似合ぬ配慮を示して|胡椒《こしよう》と|酢《す》をそれにふりかけ、|貝殻《かいがら》でテーブルの上に小|洞窟《どうくつ》をつくりあげた。また赤ん坊は赤ん坊で、夜じゅうズッと目を開きっ放し、お行儀よく坐り、しゃにむに大きなオレンジを口につっこもうとし、シャンデリアの灯りをジッとにらみ――母親の膝の上に坐って、目をパチリともさせずにガスをみつめ、かき[#「かき」に傍点]の殻でやわらかい顔にギザギザのひどい刻みをつけ、鉄の心をもった人間でも彼を愛さずにはいられなくなるほどだった! 一言にしていえば、こんなに成功をおさめた夕食会はなかった。食事の最後にと、キットがなにか熱い飲み物を注文し、それをみなにまわす前に、ガーランド夫妻への乾杯を提案したとき、この世にこの六人ほど幸福な人たちはいなかった。
だが、すべての幸福には終りがあるもの――つぎにはじまる幸福の主なよろこびは、そこから生ずるのだ――夜はもうふけてきたので、一同は家路につくことになり、バーバラとバーバラの母親をその一夜を泊めてもらうことになっていた友だちの家に少し遠まわりして見送ってから、翌朝早くフィンチリーにもどる約束をし、三月後の楽しみへのいろいろの計画を立てて、キットと母親は、戸口の彼らと別れた。それから、キットはチビのジェイコブを背に負い、片腕を母親のほうに出し、赤ん坊にはキスをして、一同はつれ立って陽気に家に向けてテクテクと歩いていった。
40
休日がその翌朝に呼びさますあの漠然とした残念に思う気持ちで胸をいっぱいにして、キットは、日の出とともに家を出、ひんやりとする陽の光と日常の仕事と任務のまいもどりで昨夜の楽しみにたいする信念を少しゆさぶり立てられて、約束の場所でバーバラとその母親に会いにいった。そして、ふだんにない疲労でまだぐっすりと寝んでいる小さな自分の一家のだれの目もさますまいと注意して、キットは自分の金を炉棚の上におき、白墨で書いてこの事情を母に気づかせ、それは従順な息子よりの贈り物であることを知らせてから、歩き出した。その心は、ポケットよりだいぶ重くなってはいたが、重大な心の負担といったものは、ぜんぜん感じていなかった。
ああ、こうした休日! どうして休日はわれわれになにか心残りを感じさせるのだろう? 記憶の中で、そうした休日を一、二週間おしもどし、その結果、休日を冷静な無関心か快い追想の努力でふりかえることができるようになるあの都合のいい距離までそれをすぐに遠ざけてしまうことが、なぜできないのだろう? どうして休日は、きのう飲んだぶどう[#「ぶどう」に傍点]酒のかおりのように、われわれにつきまとい、頭痛と倦怠とこれから立ちなおろうとするりっぱな気持ちを思わせるのだろう? そうしたりっぱな気持ちは、地下の地獄の大邸宅で永遠につづく敷きつめられた床になり(地獄の道は善意で敷かれている、はイギリスのことわざ。改心しようと思いながらも地獄落ちする人が多いことをいう)、地上では夕食時までに姿を消してしまうものになっているのだ。
バーバラが頭痛を訴え、バーバラの母親が不機嫌になりがち、アストリー座を昨夜ほど高くは評価せず、道化が昨夜思っていたより老人と考えたとしても、どこにふしぎがあろう? バーバラの母親がそういうのを聞いても、キットは驚かなかった――そう、驚かなかった。あの目をくらます幻想の中にあらわれた心変りする役者たちが、きのうの前の晩にも同じことをやり、その夜もつぎの夜も、それをくりかえし、将来何週間、何カ月にわたって、それをするのではないか、とキットは考えていた、自分はその場にはいないのだけど……。きのうときょうの相違は、すごいものだった。われわれはみんな、芝居に出かけてゆくか、そこからもどってきている立場にあるのだ。
しかし、太陽は、最初彼が起きたときには弱く、昼間の時刻が進むにつれて、強さと勇気を増大させていった。だんだんと彼らは快適なことを思い出しはじめ、とうとう、語り、歩き、笑いながら、すっかり気分がよくなってフィンチリーに到着、バーバラの母親は、こんなにつかれを知らずに元気なことはない、といっていた。キットも同じことをいった。バーバラは道中ズッとだまっていたのだが、彼女も同じことをいっていた。気の毒なバーバラ! 彼女は、とても静かだった。
彼らはとても早く主人の家にもどり、ガーランド氏が朝食におりてくるまでに、キットは小馬をみがきあげ、それを競馬用の馬のように小ぎれいにし、時間をきちんと守り仕事に精を出すこの行為を、老夫人、老紳士、それにエイベル氏はとてもほめそやした。エイベル氏はいつもの時間に(いや、むしろいつもの分と秒にといったほうがいいだろう。彼は時間厳守の|権化《ごんげ》のような人物だったのだから)つとめに出てゆき、ロンドンゆきの駅馬車に追いぬかれることになった。そして、キットと老紳士は庭の仕事にとりかかった。
この庭仕事は、キットの仕事のうちで、とても楽しいものになっていた。天気のいい日には、彼らは一家の会合をしているようで、老夫人は小さなテーブルに編み物用の籠をもちだしてそばに坐り、老紳士は掘ったり、大ばさみで|剪定《せんてい》や|刈《か》りこみをしたりして、一生けんめいにあれやこれやとキットの手助けをやり、ホウィスカーは囲い地からこうした一同を静かにジッと見守っていた。きょう、彼らはぶどう[#「ぶどう」に傍点]の剪定をすることになり、キットは小さな|梯子《はしご》に中途までのぼり、枝をチョキチョキと切りとったり釘を打ちつけたりし,老紳士はそれに強い関心を寄せて、必要な釘や布きれをキットにわたしていた。老夫人とホウィスカーは、いつものとおり、それをながめていた。
「うん、クリストファー」ガーランド氏はいった、「きみには新しい友人ができたわけだね、えっ?」
「とは、どういうことでしょう?」梯子からみおろして、キットは応じた。
「きみには新しい友人ができたんだ。息子から聞いているよ」老紳士はいった、「事務所でね!」
「ああ! そうです、そうです。とても気前のいい方ですよ」
「それを聞いてうれしいね」ニッコリして老紳士は答えた。「だが、もっと気前のいいところをみせようとしているんだよ、クリストファー!」
「へえっ、そうですか! それはご親切さまなことですが、こちらでは、たしかに、そんなことをしていただきたいとは思ってませんよ」|頑固《がんこ》な釘をしたたか打ちすえて、キットはいった。
「あの人はね」老紳士はつづけた、「きみを自分のところでやといたいと、そうとう強くご所望だよ――ほーらっ、やっていることに注意して。落ちて傷することになるからね」
「自分のとこでやといたいですって?」仕事の手を中途で休め、たくみな曲芸師のように梯子の上でサッと向きを変えて、キットは叫んだ。「いやあ、そんなことをいってたって、本気のはずはありませんよ」
「ああ! だが、たしかに本気だよ」ガーランド氏はいった。「息子にそういっているんだからね」
「そんなことは聞いたこともありません!」キットはつぶやき、ガックリして自分の主人夫妻をみおろした。「あの人はふしぎな人ですねえ、まったく」
「いいかね、クリストファー」ガーランド氏はいった、「これはきみにとって重大なことなんだよ。そうした点からこの問題を理解し、考えなければならんのだ。あの紳士は、わしよりもっといい給料をきみにあげられる――やとい主と召使いのいろいろな関係、親切と信頼の点ではどうかわからんが、たしかに、クリストファー、お金はもっと出してくれるのだよ」
「ええ」キットはいった、「そのあとで――」
「ちょっと待った」ガーランド氏は口を入れた。「それだけじゃない。わしにはわかっているが、きみは以前の主人にたいしてとても誠実な召使いだった。この紳士の意図は、できるかぎり手をつくして、その主人一家をとりもどすことにあり、それが達成されたら、この紳士にやとわれて、きみも報いられることになるだろう。その上」前よりもっと力をこめて老紳士はいいそえた、「その上、きみがとても強く、私心はぬきにして、好意を寄せているらしい人たちともまた親しくなれるという楽しみがあるわけだ。こうしたことすべてを考えなければならんのだよ、クリストファー、そして、この選択で早まったり、あわてたりしてはいかんのだ」
この最後の議論がサッと頭をとおりぬけ、自分の希望と空想すべてが実現したらと考えたとき、キットは刺すような痛み、瞬間的な苦痛を感じた。だが、それはすぐに消え、あの紳士は、最初の予定どおり、だれかほかの者をさがすべきだ、とキットは頑強にいいはった。
「わたしが心をひかれてあの人のとこにいくなんて、考えてもらっては困ります」ちょっと釘をたたいたあとで、またグルリ向きなおって、キットはいった。「わたしをバカと思ってるんでしょうか?」
「たぶん、そう思うだろうよ、クリストファー、この話を断ったりしたらね」真剣になって、ガーランド氏はいった。
「じゃ、そう考えさせておくんです」キットは応じた。「どう考えられようと、こっちでは一向気にもしませんよ。いまも将来もこんな親切な人はない旦那さまと奥さま、まったくとても貧乏で飢え――そう、ご想像以上に貧乏で腹を|空《す》かせていた子供のわたしを街路からひろいあげてくださった旦那さまと奥さまをすてて、あの人なりどんな人のところになりでもいったりしたら、このわたしはバカ、いいえ、バカ以上にひどい者になるのがわかってるんですから、あの人がどう考えるかなんて、一向気にもしませんよ。ネル嬢ちゃんが帰ってきたら、奥さま」女主人のほうに突然向いて、キットはいった、「そりゃあ、話がちがってきます。そして、たぶん、嬢ちゃんがわたしに用があることになったら、ここでの仕事をぜんぶすませたとき、あの嬢ちゃんのために仕事をするのを、ときどきおねがいすることになるでしょう。でも、考えてみれば、帰ってきたら、あの老人のご主人がいつもいってたように、嬢ちゃんはお金持ちになっていて、お金持ちのお嬢ちゃんになったら、こんなわたしにどんな用があることでしょう? いや、いや」悲しそうに頭をふって、キットはいいそえた、「もうわたしには用はないでしょう。それに、まったく、そんなことはないほうがいいんです、こちらでは嬢ちゃんに会いたいもん[#「会いたいもん」に傍点]とは思ってるんですがね!」
ここでキットは釘を壁にとても強く――そう、必要以上にズッと強く――打ちこみ、それが終ると、またサッと向きなおった。
「あの小馬がいますよ、旦那さま」キットはいった――「ホウィスカーがいますよ、奥さま(あの馬の話をしはじめたのをもうちゃんと知ってて、いなないてます)――わたし以外の者をあの馬がそばに寄せつけるでしょうか、奥さま? 庭もあり、若旦那さまもいるんですよ、奥さま。若旦那さまはわたしと別れるのを承知なさるでしょうか? わたし以上にこの庭を好きになる者がいるでしょうか、奥さま? わたしの母親はがっかりし、チビのジェイコブでさえ、目がつぶれるほど泣くくらいの分別はもうもってると思いますよ、奥さま、ついこないだ、いつまでもいつまでもいっしょに暮したいといっておいでだったのに、こんなにすぐ若旦那さまが別れようとおっしゃっておいでだ、とあのチビが考えたりしたら――」
自分の主人夫妻にかわるがわる呼びかけ、しかも、たいていは見当ちがいに話しかけて、キットがどれほどながく梯子の上に立ちつづけていたかはわからない。だが、ちょうどそのとき、バーバラが走りよってきて、事務所からの使者が手紙をもってきた、と伝え、キットのこの雄弁風景にちょっと驚いたふうをみせながら、彼女はその手紙を主人の手にわたした。
「おお!」その手紙を読み終えて、老紳士はいった、「その使いの方にこちらに来るように伝えなさい」バーバラは命じられたとおりにしようと急ぎ足で去り、老紳士はキットのほうに向いて、この話はひとまずこれだけにしておこう、キットは自分たちと別れたくないといっているが、自分たちだって、それ以上に、別れたくはないのだ、といったが、同じ考えを、老夫人も親切にくりかえして述べた。
「それと同時に、クリストファー」手にもった手紙にチラリと目をやって、ガーランド氏はいいそえた、「もしあの紳士が、ときどき、一時間かそこいら、いや、一日ぶっつづけのこともあるだろう、きみを借りたいといってきたら、われわれはそれを承諾しなければならんし、きみも同様だよ――ああ! あの若い紳士がやってきた。ご機嫌いかがですかね?」
この挨拶はチャクスター氏に向けられたものだったが、この男は帽子をひどく斜めにかぶり、髪の毛をそこからズーンとながく出し、すごくふんぞりかえって、庭の道を進んできた。
「お元気でしょうな?」この紳士は挨拶をかえした。「あなたも[#「あなたも」に傍点]お元気でしょうな、奥さん? このつげ[#「つげ」に傍点]は美しいもんですな。たしかにとても気持ちのいいいなかですね」
「きみはキットをいっしょにつれてゆきたいのでしょうね?」ガーランド氏はいった。
「そのためわざわざ待ってる四輪軽装馬車がありますよ」書記は答えた。「そちらが馬の目ききだったら、その馬車にはすごくすばらしい|葦毛《あしげ》の馬がつけられてるんです」
そうしたことには目がなく、その美しさを十分に評価できなくては失礼という口実で、そのすばらしい葦毛の馬はみないことにして、昼食がわりに軽い食事はいかが? とガーランド氏はチャクスター氏をさそった。この紳士はすぐにそれに応じたので、ビールとぶどう[#「ぶどう」に傍点]酒を横にならべ立てた即席の冷えた食べ物が、彼のために早速用意された。
この食事のときに、チャクスター氏は招待してくれた夫妻の心を全知全能を傾けて魅了し、町に住む者の心理的優越性の確信を彼らに印象づけようとし、この目的のために、彼は話を当時のちょっとした醜聞のほうにもっていったが、このことで、彼は友人たちから、当然のことながら、ピカ一的存在と考えられていたのだった。こうして、彼はミズラー侯爵とボビー卿の相違の適確な状況を語ることになったが、その相違は、どうやら、新聞であやまり報じられている鳩のパイにあるのではなく、論議の的になったシャンペンのびんに源を発していたものらしく、また同じ新聞でまちがって伝えられているように、ボビー卿がミズラー侯爵に「ミズラー、われわれふたりのうちどちらかが嘘をついているのだ。そして、わしは嘘をついとる男じゃないぞ」といったのではなく、「ミズラー、きみはわしがどこにいるかは知っているな。畜生、わしに用があるんだったら、わしをさがしてみろ」といったのが真相――こうなると、もちろん、この興味のある問題の様相はすっかり変ることになり、それをとてもちがった光の中におくことになる。彼はまた夫妻に、イタリアのオペラのヴィオレッタ・ステッタにシグズベリ公爵が保証した収入の正確な額を知らせ、この金は大衆に知らされているように半年ごと払いのものではなく、四季払いのものらしく、この金額は、宝石類、香料、従僕たちの髪粉(髪にふりまく芳香のある白い粉、十八世紀ころ多くかつらにふりかけた)、それに小姓用のキッド革の手袋の毎日二回のとりかえを含めてではなく(これは世間で途方もないふうに伝えられていることだが)、それをとりのぞいての金額であることを教えた。自分の話が正確なものと信頼してよいのだから、こうした心をひく問題点については心配しないように、と老夫妻にたのみこんで、チャクスター氏は演劇界のうわさ話や新聞に毎日発表されている宮廷録事の話で老夫妻の心を楽しませ、四十五分以上ものあいだ、なんの援助もなく、自分だけで語りついできた才気|煥発《かんぱつ》の魅力的な話の幕を閉じることになった。
「さて、馬は十分息つぎをしたのだから」気品あるふうに立ちあがりながら、チャクスター氏はいった、「失礼させていただくことにしますかな」
惜しい|袂《たもと》を別つことに、ガーランド夫妻はなんの異議も申し立てず(こうした人物はその本来の活動領域で必要欠くべからざる人物、と疑いもなく感じていたのだろう)、そこで、チャクスター氏とキットは、その後間もなくロンドンへの道を進んでいった。キットは御者のわきの馬車の台に坐り、チャクスター氏はひとりで馬車の中に座を占め、前の窓のそれぞれに靴をつきだしていた。
公証人の事務所に着くと、キットはあとについて事務所にはいり、エイベル氏から、坐って待っているように、と告げられた。キットに用のある紳士は出かけ、しばらくのあいだ、もどってはこないだろうから、ということだった。そして、まさに予想どおりのことになった。キットは夕食と茶をすませ、法律名簿のわかりやすいところぜんぶ、郵便局氏名録を読み、何回か眠ってからようやく、前に会った紳士が部屋にはいってきたからである。彼は、とうとう、ひどくあわてふためいて姿をあらわした。
ちょっとしばらくのあいだ、彼はウィザーデン氏といっしょに部屋にはいり、この会議の援助をするようにとエイベル氏が呼びこまれ、最後に、なんの用事なんだろう? とひどくいぶかしがっているキットが、中にはいるようにと呼ばれることになった。
「クリストファー」彼が部屋にはいるとすぐ彼のほうに向いて、例の紳士はいった、「きみの以前の主人と嬢ちゃんをとうとうみつけだしたよ」
「まさか! だけど、みつけたんですか?」よろこびで目を輝かしながら、キットは答えた。「どこにおいでです? 具合いはどうです? この近くに――この辺近くにいるのですか?」
「ここからは遠くはなれたとこだよ」頭をふりながら、紳士は答えた。「だが、わしは今晩出発して、彼らをつれもどすつもりだ。きみにもいっしょにいってもらいたいんだ」
「わたしがですって?」よろこびと驚きで胸をいっぱいにさせて、キットは叫んだ。
「犬の曲芸をやるあの男が教えてくれた場所は」考えこみながら公証人のほうにふりむいて、見知らぬ紳士はいった、「ここからどのくらいでしたかな――六十マイルくらいですかね?」
「六十から七十マイルといったとこです」
「フフン! 夜っぴて急行でとんでいったら、明日の朝早く着くだろう。さて、ここでのこるただひとつの問題は、彼らにはわしがわからず、子供は、いやまったく、自分たちを追いかけてる見知らぬ男は自分のおじいさんの自由を拘束しようとしている人間と考えるだろうから――この少年をつれていったらいちばんいいと思うんですがね? わたしが好意をもってる保証として、彼らはふたりともこの少年を認め、すぐに思い出すでしょうからね」
「たしかにそうですな」公証人は答えた。「ぜひともクリストファーをつれておいでなさい」
「失礼ですが」この話を聞きながらだんだんと浮ぬ顔になってきたキットはいった、「もしそれでわたしがゆかなければならないのでしたら、それはためになるより、まずいことになるでしょう――ネル嬢ちゃんは、たしかに[#「たしかに」に傍点]、わたしを認め、信用してくださるでしょう。でも、老人の旦那さまは――どうしてなのか、わたしにもだれにもわからないのですが――病気になってからというもの、わたしの姿をみるのもいやということになり、もうそばに寄ってはいけない、姿をみせてはいけない、とネル嬢ちゃんの口からいわれてるんです。わたしがいったりなどしたら、そちらのなさってることを台なしにしてしまうでしょう。わたしとしては、ぜがひでもいきたいとこなんですが、わたしをつれていかないほうがいいと思います」
「また困ったことになったぞ!」せっかちな紳士は叫んだ。「わしのように苦労の連続してる男はいるもんだろうか? 彼らを知ってる者はほかにいないんだろうか? 彼らが信頼しているべつの人間は? 彼らは孤独な生活を送っていたけど、わしの役に立つ者はだれもいないんだろうか?」
「いるかい、クリストファー?」公証人はたずねた。
「だれもいません」キットは答えた。「だけど、いますよ――わたしの母親がいます」
「ふたりともきみの母さんを知ってるんかい?」独身男はたずねた。
「母さんを知ってるかですって! いやあ、いつも出入りしてたんです。母さんには、わたしと同じように、親切にしてくださいました。まったく、母さんは、自分の家にあの人たちが来るもんと思ってるんですよ」
「じゃ、どこに、いったい、その女はいるんだ?」サッと帽子をとりあげ、ジリジリしながら紳士はいった。「どうしてその女はここにいないんだ? いちばん必要なとき、どうしてその女はいつも姿をみせないんだ?」
一言にしていえば、独身男は事務所からとびだし、キットの母親を荒っぽくとっつかまえ、彼女を駅馬車におしこみ、彼女をつれ去ろうとしたが、この珍しい|誘拐《ゆうかい》はエイベル氏と公証人の努力でようやく阻止されることになった。彼らは抗議して彼をおさえ、こうしていきなり同行をたのまれて、彼女がこの旅行をすることができるだろうか? それをしようという気になるだろうか? キットにたずねるのが先決だ、と彼に説きつけた。
これは、キットには多少の疑念を、独身男には何度か激しい抗議を、公証人とエイベル氏には何回となく相手の心を静める言葉を、ひきおこすことになった。こうしたことの結末は、このことを心であれこれと注意深く考えぬいたあげく、キットが、母親にかわって、その時刻から二時間以内に、この遠征の準備を完了することを約束し、定められた時刻が経過しないうちに、準備をすべてととのえ、すぐにも旅に出られるようになって、母親の身柄をその場所にさしだすことになった。
これはそうとう思い切って大胆な約束、その履行はそう生やさしいものではなかったが、こう約束して、キットは時をうつさず外にとびだし、即刻、その実行にとりかかることになった。
41
雑踏している街路を、キットは人の流れをかきわけ、あわただしい車道をつっきり、小道や裏小路にもぐりこみ、意味なく足をとめたりわきにとんだりして、進んでゆき、とうとう例の骨董屋の前に来たとき、足がピタリととまったが、これは、ひとつには習慣のため、またひとつには息が切れたためだった。
時は秋の陰気な日暮れ、このわびしい薄暗闇につつまれているときほどこの場所が陰鬱にみえたことはない、と彼は考えていた。窓は破れ、|錆《さび》だらけの窓わくは、わく組みの中でガタガタと鳴り、打ちすてられたこの家は、ギラギラと輝く灯りと街路の雑踏をふたつのながい線にわけているわびしい|柵《さく》になり、その真ん中に冷たく、暗く、うつろに立って――気のめいるような光景を呈し、それは、この少年がここに最近まで住んでいた人のためにつくりあげていた明るいみとおしと不気味に入りまじって、失望や不幸といった感じで、少年の心にせまってきた。キットは、燃えあがる火がうつろな煙突に勢いよくゴウゴウとうなり、灯りが窓をとおしてキラキラと輝き、人びとが元気よく動きまわり、人声が楽しい話をしている情景を望んでいたのだ。だが、それは、湧き起ってきた新しい希望に結びつけてのものだった。この家が前とはちがった様相をおびているものとは思わず――じっさい、そんなことはあり得ぬことと知ってはいたが――むきになって考え期待にあふれていたそのとき、こうした姿のこの家をながめると、心の中の思いの流れは、おしとどめられ、物悲しい陰のために暗くなっていった。
しかし、彼自身にとっては幸運なことだったが、キットは、学問も思考力ももち合さず、遠い将来の不幸の予感でなやまされたりはしないで、この点での彼の目の力を助ける心の眼鏡ももっていなかったので、ただ陰気な家の姿しか目にはいらず、その姿が自分のそのときまでの考えといかにも感じのわるいふうに一致していないと感じただけだった。そこで、なぜとはわからないながらも、そこをとおらなければよかったと思いながら、彼はふたたび足を早め、急ぎ足でこのわずかなおくれをとりもどそうとした。
「そう、母さんが家にいなかったら」母親のわびしい家の近くに来たとき、キットは考えた、「そして、母さんをみつけることができなかったら、あのイライラしている紳士はすごく気をもむだろうな。うん、たしかに灯りはついてない、ドアはしっかり閉められているぞ。こういっては神さまに申しわけないことだが、もしこれが非国教会派の礼拝堂の|仕業《しわざ》だったら、あんな礼拝堂なんて――ズッともっと遠くにあったらいいんだがな」怒り立つ心をおさえ、ノックをしながら、キットはいった。
二度ノックをしても、家の中から返事はなかったが、道の向うの女が顔を出し、ナッブルズのおかみさんに用事のある人はだれ? とたずねた。
「ぼくです」キットはいった。「母親は――ええ――礼拝堂にいってるんでしょうね?」――これは、あのいまわしい集会所の名前をしぶしぶと口にし、それをいまいましそうに力をこめて語った言葉だった。
女はそうだとうなずいた。
「じゃ、それがどこにあるか教えてください」キットはいった、「さしせまった用事があり、たとえ説教壇に立っても、母親をつれださなければならないのですからね」
この|教会《フオールド》(キリストをよき羊飼いとみ立てての教会、フォールドは羊のおりの意)の方向を知るのは、容易ならぬことだった。近所の人はだれもそこにいっている羊の群れではなく、たいていの者はその名しか知らなかったからである。とうとう、祈祷の前に楽しいお茶が出るときに一度か二度、母親といっしょにこの礼拝堂にいったことがある母親の仲間が必要な知識を与えてくれ、それを知るやいなや、キットはとびだしていった。
この礼拝堂はもっと近く、まっすぐな道にあってもいいはずだったが、そうなった場合には、会衆を司会していた敬虔な紳士は、そこにゆきつくまがりくねった道にたいするお得意の比喩(「狭き門より入れ、滅にいたる門は大きく、その路は広く、之より入る者おほし。生命にいたる門は狭く、その路は細く、之を見出す者すくなし」――マタイ伝、七、一三―四)ができなくなってしまったことだろう。教区の教会とそこに通じる大通りとはことちがって、彼はその礼拝堂を、このために、天国そのものにたとえることができたのだった。キットは、とうとう、ちょっと苦労したあとで、この礼拝堂をみつけ、戸口のとこで立ちどまり、きちんとして中にはいれるようにと息をととのえてから、中にはいっていった。
|非国教会派の礼拝堂《リトル・ベセル》は、ひとつの点で、名のつけ方をまちがえてはいなかった――事実、特に小さな礼拝堂で――じつにせまい礼拝堂――小さな座席はわずか、説教壇は小さく、そこで小さな紳士(商売は靴屋、天職は牧師)が、聴衆の状態からその大きさを考えてみて、絶対に小さいとはいえない説教を絶対に小さいとはいえない声でしゃべり立てていた。そこの聴衆は、その総数が小さなものにせよ、たいていの者は眠っていたので、その数はもっと小さなものだった。
こうした連中の中にキットの母親がいたが、彼女は、昨夜の疲労のあとで目を開いているのがとても困難になり、説教者の議論から力強い応援を受けて、目が閉じようとしているのを感じ、彼女を圧倒した眠気に屈服して、眠りこんでいたが、それは文字どおりぐっすりといったものではなく、説教者のいっていることを認めているかのように、ときおり、かすかなほとんど聞きとれないうめきを発していた。彼女の腕にかかえられている赤ん坊は、彼女と同様、ぐっすりと眠り、チビのジェイコブは、このながながとした精神の滋養物の中にかき[#「かき」に傍点]の半分ほどだけでもおもしろいものをみつける年配にはまだなっていなかったので、眠ろうとする気分と、この説話の中で自分が当てつけをいわれてしかられはしないかという恐怖が、それぞれ心を支配するのにしたがって、交互にぐっすりと眠りこんだり、パッチリと目を開いたりしていた。
「いよいよここにやってきたが」母親の反対側の、小さな通路の向い側にある空いた座席にすべりこんで、キットは考えた、「どうして母さんのとこにいき、出てくるように話したもんだろう? これじゃ、二十マイルもはなれてるようなもんだ。話がすっかり終るまで、母さんは絶対に目をさまさないだろう。それに、時間はどんどんとたっていく! 一分でも説教がとまるか、歌だけでも歌ってくれたらいいんだが!」――
だが、そのどちらも、これから二時間のあいだ、起りそうな気配はなかった。説教師は、この説教が終るまでに、会衆に納得させたいと思っていることを語りつづけ、予定の半分だけを守り、のこりの分を忘れてしまっても、少なくとも二時間はたっぷりとかかりそうだった。
やけになり、ジッとしていられない気分にかられて、キットは礼拝堂のあちらこちらに目を投げ、書記の机の前の小さな座席にたまたま目をうつし、そこにあの男――クウィルプの姿をみたとき、われとわが目を疑った!
彼は、二度、三度と目をこすったが、たしかにそこにクウィルプがいた。両手を膝に乗せ、膝のあいだで帽子を小さな木の腕木の上にかけ、きたない顔にはいつものニヤリとした笑いを浮べ、目を天井に釘づけにして、彼はたしかに目の前にいた。これはまちがいのないことだったが、彼は、キットも母親もチラリともながめず、ふたりの存在にはぜんぜん気づいていないようだった。それにしても、この陰険な小悪魔の注意がしっかりと自分の上に向けられ、ほかのことは一向気にしていないことを、キットは感じずにはいられなかった。
だが、この非国教会派の会衆の中にこの小人が出現したことでびっくり|仰天《ぎようてん》し、それがなにか苦難か心配の前兆ではないか、と思う気持ちをもたないわけではなかったが、彼は、この驚きの情をおさえ、母親をつれだすことに積極的にとりかからなければならなかった。夕暮れがしだいに忍び寄り、事態は重大になってきたからだった。そこで、チビのジェイコブがつぎに目をさましたとき、キットはジェイコブのフラフラした注意をひくことにとりかかり、これはそうむずかしいことではなかったので(くしゃみをひとつすれば十分だった)、彼はジェイコブに母親を起すようにと合図した。
だが、ここで間のわるいことに、説教師は自分の話のある項目の説明ですっかり力んでしまい、説教机の上にグッとかがみこんで、彼の脚以外には机の内側にはなにもないといった状態になり、左手でからだをささえ、右手を激しくふりながら、チビのジェイコブの目をまともににらみ、さもなければ、まともににらんでいるようにみえ、その張りつめた顔と身ぶりで子供にはそう思えたのだが――自分が筋肉ひとつでも動かしたら、説教師が、比喩ではなく文字どおり、その瞬間に「自分に襲いかからんばかりの」勢いを示しているように思われた。こうしたおそろしい事態にあって、キットの突然の出現でびっくりし、説教師の目には魅せられて、みじめなジェイコブは矢でも飲んだようにまっすぐに坐り、泣きだそうという気持ちにはなりながらも、おそろしさでそれができず、牧師の凝視をにらみかえして、この子供の目はとびださんばかりになっていた。
「開けっぴろげにやらなければならないとしたら、それをやるだけのことだ」キットは考えた。こう考えて、彼はソッと自分の座席から母親の座席のほうにうつり、スウィヴェラー氏がいたらいったことだろうが、なにもいわずに、赤ん坊の「|襟首《えりくび》をとっつかまえた」。
「シッ、母さん!」キットはささやいた。「ぼくといっしょに来てください。話さなけりゃならないことがあるんです」
「あたし、どこにいるのかしら?」ナッブルズ夫人はいった。
「このいまいましい礼拝堂にいるんですよ」むくれたように、息子は答えた。
「まあ、ほんとうに!」その言葉をつかもうとして、ナッブルズ夫人は叫んだ。「ああ、クリストファー、今晩はいろいろとおみちびきをいただいたのよ!」
「ええ、ええ、わかってますよ」急きこんでキットはいった。「でも、母さん、いっしょに来てください。みんながジロジロみてますよ。音を立てないで――ジェイコブをつれて――そう、そう!」
「とまれ、|悪魔《サタン》よ、とまれ!」キットが出ていこうとすると、説教師は叫んだ。
「あの紳士の方がお前にとまれといってることよ、クリストファー」母親はささやいた。
「とまれ、悪魔よ、とまれ!」説教師はふたたびわめき立てた。「お前に耳を傾けてる女を誘惑してはならん。呼びかけてる者の声をよく聞くがよい。あの男は羊のおりから羊を盗みだそうとしてる!」もっと声をはりあげ、赤ん坊をさして、説教師はどなった。「あの男は羊を、羊、大切な羊をうばい去ろうとしてる! 夜の狼のように、うろつきまわり、子羊たちを誘惑してるのだ!」
キットはこの世で他に類のないほどおとなしい少年だったが、こうした激しい言葉を考え、自分がおかれている事情でそうとう気を立てていたので、腕に赤ん坊をかかえたまんま、グルリと説教壇に向きなおって、大声で答えた、
「いいや、そんなことはしていませんよ。この赤ん坊はぼくの弟です」
「赤ん坊はわしの[#「わしの」に傍点]弟だぞ!」説教師は叫んだ。
「ちがいますよ」プリプリしてキットはいった。「どうしてそんなことがいえるんです? ほくの悪口はいわないでください、おねがいしますよ。どんな危害を加えたというんです? これはまちがいなしのことなんですがね、やむを得ずでなかったら、母親たちをつれだしに、わざわざここにやってきたりはしませんよ。それをソーッとやろうとしたんですが、それをさせようとはしなかったのは、そちらなんです。さあ、どうぞ好きなだけサタンなりなんなり、勝手に悪口をいってください。そして、できたら、ぼくを放っておいてもらいたいもんですね」
こういいながら、キットは礼拝堂からズイッと出てゆき、そのあとに母親とチビのジェイコブがつづき、フッと気づくともう外に出ていて、人びとがハッと目をさましてびっくりしているようすをしているのが目にはいったこと、クウィルプが、こうしたさわぎのあいだ、目を天井に釘づけにしたまま、もとの姿勢をつづけ、起ったどんなことにも少しも気づいているふうを示さなかったことが、漠然と思い出されてきた。
「ああ、キット!」目にハンカチを当てて、母親はいった、「お前はなんということをしたんだい? あたし、もう二度とあそこにはいけないよ――絶対にね!」
「それを聞いてうれしいですよ、母さん。きのうの晩に楽しみをちょっと味ったからといって、どうして、きょうの晩には、母さんが気落ちして悲しまなければならないんです? それが母さんのやり方ですよ。幸福か陽気な気分を味うと、母さんはここに来て、あの男といっしょになって、それがいけなかったといってるんです。そんなこと、母さんにとってなお恥ずかしいことだ、とぼくはいおうとしてたんですよ」
「シッ!」ナッブルズ夫人はいった。「そんなことは、まさか本気でいってるんじゃないだろうね? それにしても、お前は罪深いことを口にしてるんだよ」
「本気でいってるんじゃないですって? だけど、ぼくは本気でいってるんですよ!」キットはやりかえした。「ねえ、母さん、害のない陽気さと上機嫌が、天国では、シャツのカラー以上の大きな罪と考えられてるなんて、ぼくは絶対に思いませんよ。ああした牧師の連中が陽気さと上機嫌をおしつぶしてるのは、シャツのカラーを使わないでるのと同じように、いけないことだし、分別のないことだと、ぼくは固く信じてますよ――それがぼくの信念なんです。でも、母さんが泣かないと約束してくれたら、ぼくは、そのことで、これ以上なにもいうつもりはありませんよ、それだけのことです。母さんは軽いほうの赤ん坊を抱き、チビのジェイコブは、ぼくにわたしてください。そして、歩いていきながら(それもそうとう急いで歩かねばならないんですが)、もってきた知らせを母さんに伝えることにしましょう。それは、きっと、母さんをちょっとびっくりさせるでしょうけどね。ほーら――それでいいんですよ。母さんのいまのようすは、生れてこの方、あんな礼拝堂なんかはみたこともないといったようですよ、これからも絶対にあそこをみたりはすることがないようにと祈ってるんですがね。さあ、赤ん坊をわたしますよ。それから、チビのジェイコブ、きみはぼくの背中におぶさり、首のまわりにしっかりしがみついて、あの礼拝堂の牧師がきみのことを大切な羊と呼んだり、兄貴の羊といったりしたら、その言葉は、この一年間で、あの男のいったいちばん嘘いつわりのない言葉、あいつ自身がもう少し羊らしくなり、ミントソース(砂糖・酢にはっかの葉を刻んで入れたもので、小羊の焼肉料理に用いる)の気味を少なくし――羊にそうきびしく気むずかしく当らなかったら――こちらは、それだけなお、あの男が好きになるんだが、っていってやるんだ、それが、お前があの男[#「あの男」に傍点]にいわなければならない言葉なんだよ、ジェイコブ」
こんなふうに、なかば冗談、なかば本気といった調子で話しつづけ、上機嫌になろうとしているという簡単な方法で、自分の母親、子供たち、それに自分自身の気をひき立たせて、キットはさっさと彼らを先に立ってつれだし、家に帰る道中で、公証人の事務所で起きたこと、礼拝堂の儀式に自分が|闖入《ちんにゆう》した目的について語った。
自分にどんな仕事が要求されているかを知ったとき、母親は少なからずびっくりし、やがて、あれこれと入り乱れた物思いに落ちこむことになったが、そうした思いのうちでいちばんはっきりとあらわれていたのは、四頭立ての馬車に乗るのは大きな名誉で威信を高めるということ、それに、子供たちをそのままにして出ていくのは母親としてできないということだった。だが、この反対と、いくつかの衣装は洗濯に出し、ほかのいくつかのものはナッブルズ夫人の衣装|箪笥《だんす》にはないという理由で出されたじつに多くの反対は、キットによって打ち破られてしまった。彼はそうした反対論のそれぞれすべてに対抗して、ネルをとりもどすよろこび、彼女を堂々とつれもどす歓喜をならべ立てたからである。
「母さん、もう十分しかありませんよ」――一同が家に着くと、キットはいった「さあ、ここに紙箱があります。なんでも必要なもんをなげこんだら、それで出発ですよ」
ついで、どう考えても必要になりそうにもないものすべてをキットがこの箱にグイグイとおしこみ、少しでも役立ちそうなすべてのものを入れないでおいたこと、近所の人にたのんで、この家に来て子供たちといっしょに泊ってもらうことになり、子供たちが最初陰気に泣きはじめ、しばらくすると、聞いたこともないとてもすばらしいいろいろなおもちゃを約束してもらって、明るく笑いだしたこと、キットの母親が子供とのキスをやめようとせず、キットのほうではそれを怒る気にもなれないでいたこと、こうしたいろいろなことをいちいち述べ立てていたら、読者も作者のわたしも、とても|割《さ》けないほどの時間と場所を必要とすることになるだろう。だから、こうしたことすべては省略して、二時間がすぎて数分してから、キットと母親は公証人の事務所の戸口に到着し、そこでは四頭立ての馬車が準備をととのえて待ち構えていたとお伝えすることだけで、このところはけりにすることにしよう。
「四頭立ての馬車ですよ!」この準備にすっかり|度肝《どぎも》をぬかれて、キットはいった。「さあ、これからこの馬車に[#「この馬車に」に傍点]乗るんですよ、母さん! ここに彼女、わたしの母親がいます、旦那さま。もうすっかり準備はできてますよ」
「それはありがたい」紳士は答えた。「さあ、奥さん、あわてることはありませんぜ。きちんとお世話はしますからな。ネルたちの新しい服と必要品を入れた箱は、どこにある?」
「ここにありますよ」公証人はいった。「これを馬車に入れてくれ、クリストファー」
「わかりました」キットは答えた。「もうこれですっかり用意はできました」
「じゃ、乗りましょう」独身男はいった。そこで彼は片腕をキットの母親にあずけ、じつに|慇懃《いんぎん》な態度で彼女を馬車に乗せ、彼女のわきに座席をとった。
車の階段はあげられ、ドアはドンと閉じられ、車輪がまわり、馬車はガラガラと走り去り、キットの母親は、窓からからだを乗りだし、ぬれたハンカチをふって、チビのジェイコブと赤ん坊へのすごくたくさんの伝言を金切り声で叫んだが、その一語でも聞いた者はだれもいなかった。
キットは道路の真ん中に立ち、涙を浮べてその姿を見送っていたが、この涙は、いまながめていた別れでひきおこされたものではなく、彼らの帰りを彼が待ち望んでいるために流した涙だった。「あの人たちは」彼は考えていた、「語りかけ、やさしい別れの言葉を話しかけてくれる人もなく、歩いていってしまった。そして、あのお金持ちの紳士を友だちにし、すべての苦しみが終って、あの人たちは四頭立ての馬車でもどってくるだろう! ネル嬢ちゃんは、ぼくに書き方を教えてくれたのを忘れてしまうことだろうな――」
キットがこのあとで考えたことはどのようなものにせよ、それは、考えるのにちょっと時間がかかるものだった。というのも、馬車の姿が消えてしまってからもズッと、輝くランプの列をジッとみつめながら、キットは立ちつくし、車輪の音が消えてしまうまで外にいた公証人とエイベル氏が、どうしてキットは外に出たままでいるのだろう? と何回もいぶかしがるまで、部屋にはもどって来なかったからである。
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ここで、しばらくのあいだ、物思いに沈んで帰りを待ち望んでいるキットをそのままにしておいて、子供のネルの運命のあとを追い、何章か前に打ちすてておいたところで、話の糸をまたとりあげなければならない。
遠慮しながら距離をおいてあのふたりの姉妹のあとを追い、彼らに同情し、彼らの味っている苦しみに自分自身の心のわびしさに似たなにかをみつけだして、うれしい気分となぐさめを感じ、それが生みだすものやわらかなよろこびは、涙の中で生れて消えてゆくものだったが、とにかく、そうした瞬間が深いよろこびのときになっていたあの夕暮れ時の散歩のあるとき――空、大地、空気、チョロチョロと流れる川の水、それに遠くの鐘の音が、このひとりでいる子供の感情と同じになっているのを語り、心を静める思い、だが、子供の世界やその屈託のないよろこびとはおよそ縁のない心を静める思いを呼びさましていた、こうしたたそがれ時の静かな時刻の散歩のあるとき――いま彼女のただひとつのよろこびで、心配からの救いになっていたあのブラブラ歩きのあるとき、光は色を失って暗闇になり、暮色は深まって夜になっていったが、この幼い子供は、まだ暗がりのなかにとどまり、人声やギラギラと輝く灯りの光がかえって孤独とも思えてくるあのさわやかで静かな自然にたいして強い共感を感じていた。
姉妹はもう家に帰り、彼女はひとりぽっちだった。彼女は目をあげて、ひろい大空の世界からとてもおだやかにみおろしているキラキラと輝く星をあおぎ、それをジッとみつめながら、新しい星が視界に、向うにもっと、さらに向うにもっと、はいってくるのに気づき、とうとう満天は輝く星でちりばめられ、それは、計り知れぬひろい空間の中をだんだんと高いところにのぼり、変化のない、|朽《く》ちることを知らない存在の点ばかりではなく、その数の点でも、永遠を思わせていた。彼女は静かな川の上にかがみこみ、そこに星が堂々とした姿で輝いているのをみたが、それは、死んだ人間が百万|尋《ひろ》の深みに沈んでいるとき、山の上で、鳩が湧き起る水をとおしてズッと下に星が輝くのをみたときと同じものだった(この鳩はノアの洪水のときの鳩。創世記八・八―一二参照)。
子供は、だまって木の下に坐り、夜の静けさとそれにともなうすばらしさで、息までおし殺していた。その時刻と場所は、追憶の目をさまさせ、彼女は物静かな希望――たぶん、希望というよりあきらめの気持ち――で、過去、現在、これから先のことを考えていた。老人と彼女自身のあいだには、だんだんと心のへだたりが起き、これは、前のどんな悲しみより堪えがたいものだった。毎晩、ときには昼間にも、老人はひとりで家をはなれていた。どこに彼がいっているか、それがどうしてかは――彼女のわずかな財布がいつも|空《から》になり、彼がやつれた顔をしていることから――彼女が知りすぎるほどよく知っていたが、老人はすべての質問をのがれ、きびしく沈黙を守り、彼女のいるところまでさけようとしていた。
彼女は悲しみに打たれてこの変化を考え、いわば、自分の身辺のすべてのことを、それといっしょにつきまぜていたが、そのとき、遠くの教会の鐘の音が九時を報じた。この鐘の音を聞いて、彼女は立ちあがり、もと来た道をもどり、物思いに沈んで町のほうに歩きだした。
彼女は小さな木の橋のところにやってきた。それは小川にかかり、彼女の進む道で牧場につながっていたが、そのとき、突然、赤々と燃えている火が目にはいり、目を凝らして前方をながめてみると、ジプシーの天幕と思われるものからそれが出ているのがわかった。ジプシーは、小道からそう遠くはなれていないところで片隅に火を燃やし、そのまわりに坐るか、横になっていた。貧乏で金目のものはなにももたず、ジプシーをおそれる必要はなにもなかったので、彼女は進路を変えようとはせず(これは、じっさい、ズッと遠まわりをしなかったら、できないことだったろう)、少し歩調を早め、そのまままっすぐズンズンと歩いていった。
その場所に近づいたとき、彼女はおそろしいながらも好奇心につき動かされて、火のほうをチラリとながめずにはいられなかった。火と彼女のあいだに男の姿があり、その|輪郭《りんかく》は光を背景にしてくっきり強く浮びあがっていたが、これが、彼女の足をいきなりとめることになった。ついで、自分に説得し、そんなことはあるはずはないと確信するか、それは自分の思っていた人物の姿ではないと納得して、彼女はふたたびズンズンと歩きだした。
だが、ちょうどそのとき、どんなことにせよ、火のそばでおこなわれていた話が再開され、それを語る声の調子――言葉はわからなかった――が、自分自身の声と同じように、彼女になじみのあるものとしてひびいてきた。
彼女はふり向き、うしろをみた。その人物は前に坐っていたが、いまは立っている姿勢になり、両手を乗せたステッキの上に身をかがませていた。この姿勢は、声の調子と同じように、彼女にはなじみ深いものだった。それは、彼女の祖父だった[#「だった」に傍点]のである。
彼女の最初の衝動は、彼に声をかけること、第二の衝動は、仲間の男たちがだれか、なんのためにこうしていっしょになっているのかといぶかしく思う気持ちだった。そのあとに、なにか漠然とした不安がつづき、それで目ざめた強い気分に屈して、彼女はその場所に近づいていった。だが、その進み方は、開けた原をつっきっていくのではなく、生垣のそばをそちらに向けてはらばいになって進んでいくものだった。
こうして彼女は、火から数フィートのところに進んでゆき、数本の若木のあいだに立って、みられる危険はたいしてなく、こちらからは、みることも聞くこともできるようになった。
いままでの旅でわきをとおったほかのジプシーの天幕で見受けられた女や子供の姿はなく、そこにいるのはただひとりのジプシーの男だけ――背の高い筋骨のたくましい男だけで、この男は腕組みをして立ち、少しはなれた木によりかかり、いま火をみているかと思うと、つぎには、黒いまつげの下から、そこにいるべつの三人の男たちのほうに目を投げ、この連中の会話に関心を示していたが、それはぬかりのないものながらも、ほかの連中にはほとんど気づかれてはいなかった。彼女の祖父は、この三人のうちのひとりだった。ほかのふたりは、あのいろいろと出来事があったあらしの夜に、あの居酒屋で最初にトランプをやっていた男たちであるのが、彼女にはわかった――アイザック・リストと呼ばれている男と、つっけんどんなその相棒だった。ジプシーによく見受けられる低いアーチ型のテントがそばにはられていたが、それは|空《から》か、|空《から》のようにみえた。
「うん、お前さんはいくのかね?」ゆったりと横になっている地面から老人の顔をみあげて、太った男はいった。「一分前にはえらく急いでいたな。いきたいんなら、いくがいいさ。お前さんは自分の好きなとおりにすることができるんだろう?」
「あの男を怒らせたりはするなよ」とアイザック・リストは答えたが、彼は|焚《た》き火の反対側にかえる[#「かえる」に傍点]のようになってうずくまり、ひどくからだをねじまげていたので、からだごとすっかりやぶにらみになった感じだった。「べつに悪意があるわけじゃないんだからな」
「きみたちはわしを貧乏にし、掠奪し、その上、わしをなぶりものにし、冗談の種にしているんだ」一方の男からべつの男のほうに向いて、老人はいった。「ふたりのあいだで、このわしの気をくるわせてるんだ」
子供にかえった|白髪《しらが》の老人のまったくの優柔不断ぶりと気力のとぼしさは、彼をしっかりととらえているふたりの男の鋭いぬけ目のないようすと対照をなし、それは、こうした話を聞いているネルの心を強く打った。だが、彼女は自分の気持ちをおさえて、起るすべてのことに注意を集中し、それぞれの顔つきと言葉をしっかりとらえようとしていた。
「畜生、それはどういうことなんだ?」ちょっとからだをもちあげ、肘をついて、太った男はいった。「お前さんを[#「お前さんを」に傍点]貧乏にしてるだって! お前さんだって、そいつができたら、おれたちを貧乏にしただろう、どうだい? それが、お前さんたち、泣き言をヒンヒンいう、つまらん、あわれな賭けごと師のやり口というもんさ。負けりゃ、殉教者になるというやつだ。だが、勝ったとなりゃ、ほかの負けた連中をその光でなんかみやしないことは、わかってるよ。掠奪だなんて!」声を高くして、この男は叫んだ――「畜生、掠奪なんて紳士らしからぬ言葉を使ってるが、そいつはどういうことなんだい、えっ?」
この話し手は、ふたたび、グッとからだをのばして横になり、おさえられぬ怒りをさらにみせようといったふうに、一度か二度、怒ったようにポンポンと足を蹴りあげた。なにか目的があって、この彼がごろつき役を、その友人が調停者の役を演じているのは、はっきりとよくわかることだった。いや、むしろ、この弱い老人以外の者にはよくわかることだったろう、というべきかもしれない。このふたりの男はまったくおおっぴらに、たがいに、そしてジプシーの男と、視線をかわし合っていたからで、このジプシーは、この冗談を楽しんでニヤリニヤリと笑い、白い歯はキラリキラリと輝いていた。
老人は、しばらくのあいだ、こうした男たちの中で困ったように力なく立ち、ついで、自分を非難している男のほうに向いていった、
「いいかね、きみ自身が、たったいま、掠奪のことを口にしてたじゃないか。わしにそんな荒っぽい態度はとらんでくれ。そう話していただろう、どうだい?」
「いまここにいる連中のあいだでの掠奪のことなんぞ話したりはするもんか! 公明正大なもんさ、うん――紳士のあいだではな」相手は答えたが、この男は、その文句の最後のところでもっとひどい言葉を使おうとしていたようだった。
「あの老人にそうひどく当るなよ、ジャウル」アイザック・リストはいった。「わるいことをいったと|悔《くや》んでるんだからな。さあ――いいかけてた話をつづけるんだ――さあ、つづけろ」
「おれはまったく心のやさしい羊というもんさ、そうだとも」ジャウル氏は叫んだ、「こんな齢になってるのにここにこうしてぶっ坐り、受け入れられたりはしない、骨折りにたいしてののしられるだけとは知っていながらも、忠告をしたりしてるんだからな。だが、そいつは、おれのいままでの世わたりの方法。どんないやな目にあっても、おれの温かい心は絶対に冷やされることはないんだからね」
「いいかね、老人は悔んでるんだよ、わかったかね?」アイザック・リストは抗弁した、「それに、お前さんが話をつづけるように、とねがってるんだよ」
「それをねがって[#「ねがって」に傍点]るんだって?」相手はいった。
「そうだ」腰をおろし、からだを前後にゆさぶりながら、老人はうなった。「さあ、さあ、つづけてくれ、つづけてくれ。それに抵抗したって、むだなこった。そんなことはできない。さあ、つづけてくれ」
「じゃ、話をつづけよう」ジャウルはいった、「お前さんがサッと立ちあがって、話が切れたとこからな。運がめぐるときがきたとお前さんが信じこみ、そいつはたしかにそのとおりなんだが、そして、それをやってみる金がないとわかったら(そして、そこが問題のとこなんだ。それというのも、勝負をながくやりつづける資金をもってないのは、お前さん自身がよーく知ってることなんだからな)、わざわざとってくださいとばかりおかれたようにみえるもんは、いただきにするこったな。いや、おれはいうよ、そいつを借りるんだ。そして、かえせるときたがきたら、かえしたらいいじゃないか」
「まったくな」アイザック・リストは口をはさんだ、「もしろう人形をもってるこのご婦人が金をもち、寝るときにはブリキの箱にそれをしまいこみ、火事おそろしさにドアに鍵をおろさないでいたら、それは楽なことに思えるんだがね。まったくの|天祐《てんゆう》神助っていうもんさ――だが、そうなると、おれは信心深く育てられてきたことになるわけだな」
「いいかな、アイザック」だんだんと熱をおび、ジプシーには割りこんできたりはするなと合図を送って、老人のほうににじりよりながら、彼の友人はいった、「いいかな、アイザック、よそ者が、一日じゅう、時をわかたずそこに出入りしてるんだ。こうした連中のうちのひとりがこのご婦人の寝台の下にもぐりこむか、戸棚の中に身を閉じこめたりするのは、十分に考えられることなんだ。疑いをかける範囲はひろく、たしかにそいつは、的から遠くはずれたもんになるだろう。その金額はどんなもんにせよ、もってきた最後の一文まで、負けた勝負の仕返しをするチャンスを、おれなら、あの老人に与えてやるとこだね」
「だが、そんなこと、できるかい?」アイザック・リストは強くたずねた。「お前さんの銀行でそいつができるかね?」
「できるかだって!」いかにも軽蔑したような仕草をしてみせて、相手は答えた。「おい、お前、|藁《わら》ん中からあの箱を出してくれ!」
これはジプシーに語りかけた言葉で、ジプシーはすぐ四つんばいになって低いテントの中にもぐりこみ、ちょっとガサゴソとかきまわしたあとで、金入れの箱をもってもどり、それを命じた男は、からだにつけていた鍵でそれを開いた。
「これがみえるかね?」片手に金をにぎり、水のように指のあいだからそれをチリンチリンと箱に落して、彼はいった。「これが聞えるかね? 黄金の音を知ってるかね? さあ、こいつをしまってくれ――これで、アイザック、銀行の話はもう口にしないこったな、自分自身の銀行を手に入れたときにゃ話はまたべつだがね」
アイザック・リストはひどくへいこらした態度をみせ、ジャウル氏のように表裏のない行動で有名な人物を疑ったりはしていなかった。自分は疑ってなんぞいないんだから、疑いを晴らす必要はなく、あの箱を出したらといったのは、そうした大きな財産をひと目なりともながめて目を楽しませたかったため、こうした金をながめることはつまらない幻想的なよろこびにすぎないと考えてる人もあるだろうが、それは、自分のような立場にある人間にとっては、大きなよろこびの泉、もっとも、それが自分のふところにある場合はべつだがね、と抗議の言葉を申し立てた。リスト氏とジャウル氏はたがいに話し合ってはいたものの、ここで注目すべきことは、ふたりともジッと老人に目をそそいでいる事実だった。老人は目を火の上に釘づけにして物思いにふけって坐ってはいたが、ふたりの男の話にジッと聞き入っていることは、頭のフッとした動きやときおりあらわす顔のひきつりからも明らかだった。
「おれの忠告は」無造作にまた横になって、ジャウルはいった、「はっきりしたもん。事実、おれは忠告したんだ。それは友人としての行動。あの老人を友人と考えてなかったら、ひょいとすりゃおれの財産すべてまでめくりとられちまうことにもなりかねない方法なんぞ、教えるもんかね。他人の幸福のことをこんなにまで考えてやるなんて、バカみたいなことだろうよ。だが、そいつがおれの|性分《しようぶん》というやつ、どうにもならんのだ。だから、おれを責めないでくれよ、アイザック・リスト」
「おれが[#「おれが」に傍点]お前さんを責めるだって!」相手は応じた。「とんでもないこった、ジャウルさん。まったく、お前さんみたいに気前がよくなりたいもんだね。たしかにお前さんのいうとおり、勝ったら、その金をかえせばいいわけだ――もし負けたら――」
「そんなことは考える必要なしさ」ジャウルはいった。「だが、たとえそうなったとしても(運についておれが知ってるとこからみれば、その可能性はまったくないといってもいいこったが)、まったく、自分の金を失くすより他人の金を失くしたほうが、まだましなんじゃないかね?」
「ああ!」|有頂天《うちようてん》になってアイザック・リストは叫んだ「勝つ楽しみときたら! 金をひろいあげ――キラキラと輝く黄いろいやつをひろいあげ――それをポケットにさらいこむ楽しみときたら! とうとう勝ちをおさめ、途中でやめてもどったりはせず、こっちから出かけてって勝ちと出逢うあのうれしさときたら!――だが、そちらは出かけていったりはせんでしょうな、ご老人?」
「それをしますぞ」と老人はいった。彼はもう立ちあがり、二、三歩あわただしく歩いていったが、また同じようにあわただしくもどってきた。「あれを手に入れますぞ、一文のこさずね」
「いやっ、それは勇ましいこと」とびあがり、老人の肩をピシャリとたたいて、アイザックは叫んだ。「まだこうまで若々しい血がのこってるなんて、まったく尊敬に値するこってすな。ハッ、ハッ、ハッ! あんな忠告をして、ジョウ・ジャウルは、いま、なかば悔んでるんですよ。やつのことを、ひとつ笑ってやりましょう。ハッ、ハッ、ハッ!」
「いいかな、あの男はわしに仕返しの機会を与えてくれてるんだ」しなびあがった手でむきになってジャウルを指さして、老人はいった。「いいかな――あの金箱にある金が多かろうと少なかろうと、最後の一文まで、あの男は一対一の賭けをするんだ。それを忘れるな!」
「おれが証人だ」アイザックは答えた。「|依怙《えこ》|贔屓《ひいき》はせんよ」
「たしかに約束しちまったな」気が進まぬふうをよそおって、ジャウルはいった、「約束は守るさ。この勝負はいつやるんだね? これがもう終えてたらと思うよ――今晩かね?」
「まず第一に、金を手に入れなければならん」老人はいった。「それは、明日手にはいるんだから――」
「どうして今晩はだめなんだい?」ジャウルはたずねた。
「今晩はもうおそい。わしは興奮してへまをやらかしてしまうだろう」老人はいった。「そっとやらねばならん仕事なんだ。そう、明日の晩にしよう」
「じゃ、明日の晩だ」ジャウルはいった。「さあ、気晴らしの一杯をやって、いちばん腕のある男の幸運を祈ることにしよう! さあ、酒をいっぱいついでくれ!」
ジプシーはブリキの杯を三つとりだし、ブランデーをそれにいっぱい、へりまでそそいだ。老人はわきに向き、酒を飲む前に、ブツブツとひとり言をつぶやいた。ネル自身の名が聞き手の耳を打ったが、それはなにか熱烈なねがいごとと結びつけられているもので、懇願の苦悶につつまれて、彼はそれをいっているようだった。
「神さまのご慈悲が授かりますように!」子供は心の中で叫んだ、「そして、この苦しいときに、わたしたちを助けてくださいますように! おじいちゃんを救うのに、どうしたらいいのかしら?」
男たちののこりの会話は、低い声でおこなわれ、短いものだった。それがただ、計画の実行と疑惑をそらすいちばん有効な方法についての言葉だけだったからである。それから老人は、自分を誘惑した男たちと握手をし、そこから立ち去っていった。
彼の姿がゆっくりと去っていったとき、彼らは、そのうつ向いてまがった姿をジッと見送り、老人がよくやっていたことだが、頭をグルリとまわしてふりかえったとき、手をふったり、なにか簡単な元気づけの言葉を叫んだりしていた。彼らがたがいに向き合い、大声で笑い出したのは、老人の姿がだんだんと小さくなり、遠くの路上のただ小さな影になってからのことだった。
「これでと」両手を火にかざしながら、ジャウルはいった、「とうとう仕事は終えたわけだ。説得には思ったより手間暇がかかったな。これをあいつの頭に植えつけてから、もう三週間になる。あのじいさん、なにをもってくると思うかね?」
「なにをもってこようと、山わけだぜ」アイザック・リストは答えた。
相手の男はうなずいた。「早いとこやっちまわなけりゃいかん」彼はいった、「それがすんだら、ご交際はねがいさげというわけさ。疑いがこっちまでかけられちゃ、たまらんからな。ぬかりなくやるこった」
リストとジプシーは承知した。犠牲者の逆上をしばらく笑いの種にしてから、彼らはもう十分に論じつくしたものとしてこの話題はすて、ネルにはわからない|隠語《いんご》でほかのことをしゃべりはじめた。この話は彼らがひどく興味をもっていることに関係したものらしかったが、彼女はいまが気づかれずに逃げ出す潮時と考え、生垣の陰からはなれず、そこと水の乾あがった溝をしゃにむに突破して、ゆっくりこっそりとはってゆき、とうとう彼らにはもうみえない地点で道路に出た。それから、いばら[#「いばら」に傍点]や野|薔薇《ばら》で傷ついて血を流しながら、心ではそれよりもっとひどい傷を受けて、彼女は大急ぎで家路につき、心を乱して寝台に身を投げた。
彼女の心にひらめいた最初の考えは、逃亡、即座の逃亡で、その場所から老人をつれだし、こうしたおそろしい誘惑に彼をふたたびさらすくらいなら、路傍で野たれ死したほうがまだましということだった。ついで彼女は、この盗みの犯罪行為がつぎの晩までおこなわれないことを思い出した。そうなれば、まだ時間はあり、考えてどうすべきかをきめることができるわけだった。つづいて、老人がいまそれをやっているのでないかというおそろしい恐怖、夜の|静寂《しじま》を破ってひびく金切り声と悲鳴を聞くのではないかという心配、現行犯でみつかり、相手が女だけの場合、老人がどんなことをやりだすことになるだろうかというおそろしい思いで、彼女は心を乱すことになった。こうした拷問の苦しみは、我慢できないものだった。彼女は金がしまってある部屋にゆき、ドアを開け、中をのぞいてみた。ありがたいことだった! 老人はそこにいず、女主人はぐっすりと眠っていた。
彼女は自分の部屋にもどり、眠りにつこうとした。だが、どうして眠れよう――眠るなんて! こうした恐怖に心を乱されているのに、どうして静かに横になっていられよう? その恐怖は、だんだんとつのっていった。しっかりと服を身に着けず、髪をふり乱したままで、彼女は老人の寝台のわきにとんでゆき、その手首をにぎり、彼をゆり起した。
「どうしたんだ?」床からとびあがり、彼女の幽霊のような顔に目をすえて、彼は叫んだ。
「おそろしい夢をみたの」こうした恐怖以外のどんなものもひきおこせないひたむきさで、子供はいった。「おそろしい、こわい夢だったの。前にも一度その夢をみたことがあるわ。夜、暗い部屋で、眠っている人たちからお金を盗んでいるおじいちゃんのような|白髪《しらが》の男の人たちの夢なの。起きて、起きて!」老人は関節という関節をガタガタさせ、祈っている人のように手を組み合せた。
「わたしに祈ることはないわ」子供はいった、「わたしにじゃなくて――天にお祈りをするのよ、そうしたことから救ってくださいとね! この夢は、もうとてもマザマザとしたものなの。わたしは眠ったりはしていられず、ここにはいられず、こんな夢が起きたこの屋根の下におじいちゃんをひとりでおいておくわけにはいかないの。起きてちょうだい! 逃げなければならないのよ」
老人は彼女をまるで精霊でもながめているように――彼女はそのもっていたこの世の姿にもかかわらず、精霊だったのかもしれない――彼女をながめ、そのからだのふるえは、だんだんと激しくなっていった。
「一刻もグズグズはしていられないの。一分もグズグズはしていたくないの」子供はいった。「起きて! そして、わたしといっしょにいってちょうだい!」
「今晩かい?」老人はつぶやいた。
「そう、今晩よ」子供は答えた。「明日の晩ではおそすぎるの。その夢がまた来るでしょうからね。逃げる以外に救われる方法はないのよ。さあ、起きて!」
老人は寝台から起き、その額は恐怖の冷汗でびっしょりになっていた。そして、この子供がその好むところに自分をつれだしてくれる天使の使者であるかのように、彼女の前で膝をかがめ、彼女のあとについてゆく準備をした。彼女は彼の腕をとり、彼をつれだした。彼が盗みをするといっていた部屋のドアの前をとおったとき、彼女はゾクリと身ぶるいし、老人の顔をみあげた。それは、なんと青ざめた顔だっただろう! なんという顔つきで、彼は彼女の顔をながめたことだろう!
彼女は老人を自分の部屋につれてゆき、彼を一刻でも手放すのをおそれているように、彼の手をつかんだままで、もっているわずかなものを集め、籠を腕にさげた。老人は物入れ袋を彼女の手から受けとり、それを肩にしばりつけた――彼の杖は彼女がもうもってきてあった――こうして彼女は彼をつれだした。
せまい街路とまがった細い郊外の道を、ふたりのふるえる足はさっさととおりすぎていった。灰色の古城が頂上にあるけわしい丘を、彼らは足を急がせてせっせとのぼってゆき、一度もふりかえったりはしなかった。
だが、廃墟の城壁に近づいたとき、月はやさしい光につつまれてのぼり、そのいかめしい古い城壁はつた[#「つた」に傍点]、|苔《こけ》、波のようにゆれる雑草で飾られていたが、そこから子供は谷の暗がりの深くで眠っている町、光のまがりくねった道をもった遠くの川、遠くのつらなる丘をふりかえってながめた。彼女がこうしてながめていたとき、彼女は自分がにぎっていた手を前よりゆるめ、ワッと泣きながら、老人の首にすがりついた。
43
瞬間的な弱さはすぐに消えて、子供はそのときまで自分をささえてきた決意をとりもどし、自分たちが屈辱と犯罪から逃げだそうとしている、祖父の保護は、一言の助言も手助けの手も借りずに、自分がただしっかりとしてやりとげなければならないという考えを忘れまいとして、彼をズンズンと前にひっぱって進み、それ以上、あとをふりかえろうとはしなかった。
老人のほうは、威圧され恥じ入って、彼女の前にうずくまり、なにか卓越した存在を前にして、子供自身が自分の中に新しい感情を感じとり、それが彼女の性格をたかめ、そのときまでに味ったことのない力強さと自信を彼女に吹きこんでいるといったように、彼はひるみ、おびえているようだった、もういまは、責任の分担はなかった。ふたりの生活の重荷すべては彼女の肩にかかり、これからは、彼女はふたりのために考え行動しなければならなくなった。「わたしはおじいちゃんを救ったのだわ」彼女は考えた。「すべての危険と苦しみの中で、このことを忘れないようにしなければいけないのだわ」
この場合以外のときだったら、いままでとても多くの家庭的な親切を示してくれた友人をすてて、自分の立場をひと言も説明しなかったという思い出――一見したところ、不実と忘恩の罪を犯したという思い――あのふたりの姉妹から別れてきたこと――は、彼女の胸を悲しみと後悔で満したことだったろう。だが、いまは、すべてのほかの考えは、彼らの荒々しいさすらいの生活のもつ新しい不安定と心配の中にすっかり影をひそめ、ふたりの状態のひどさそのものが、彼女をふるい立たせ、彼女に刺激を与えることになった。
青白い月の光は、思いに沈む心配がもう若さのもつ魅力的な|愛嬌《あいきよう》と美しさにまじりこんできている繊細な顔に、月独自の青さを与えていたが、そうした青白い月の光の中で、キラキラと美しく輝きすぎるほどの目、気高い感じのする頭、しっかりとした気持ちと勇気でひきむすばれた唇、態度はじつにキリッとしている、じつにほっそりとした可憐な姿は、その語らぬ話を物語っていたが、その語りかける相手は、サラサラと吹きぬける風だけ、その風は、その荷をとりあげて、おそらくだれか母親の枕辺に、花の盛りに色あせおとろえ、目ざめを知らぬ眠りで休んでいる子供のかすかな夢を運んでいったことだったろう。
夜は足早に進み、月は落ち、星は青ざめて影がうすくなり、ふたりと同じようにひえびえとした朝がゆっくりと近づいてきた。それから、遠くの丘の背後から、気高い太陽がのぼり、その前に立つ幻影のような霧を追い払い、暗闇がふたたびやってくるまで、地上から亡霊のような霧の姿を消してしまった。太陽がもっと高い空にのぼり、その明るい陽ざしに熱をおびてくると、ふたりはどこか川(グランド・ユニオン運河のこと)の水辺近くの土堤の上で横になって眠ろうとした。
だが、ネルはまだ老人の腕をしっかりとおさえ、彼がぐっすりと眠りこんでからもズーッと、つかれを知らぬ目で彼をジッと見守っていた。つかれが、とうとう、彼女に忍び寄ってきた。彼女のにぎりはゆるみ、グッとしめられ、またゆるんで、ふたりはならんで眠りこんだ。
ワイワイという人声が彼女の夢に入りまじり、彼女を起すことになった。じつに奇妙なぞんざいなふうをしたひとりの男が彼らの頭上に立ち、その仲間のふたりが、ネルたちが眠っているあいだに、土堤の近くにやってきたながい、どっしりとしたボートから、ふたりをながめていた。このボートにはオールも帆もなく、二頭の馬にひかれているもので、馬は自分たちに結びつけられているなわをたるませて水につけ、小道で休んでいた。
「おーい!」男は荒っぽくいった。「これはどういうことだ?」
「ただ眠っていただけです」ネルはいった。「夜じゅうズッと歩いてきたのですから」
「夜じゅうズッと歩いてきたにしては、奇妙な組み合せの旅人だなあ」最初に声をかけた男がいった。「一方は、そうしたことをやるには齢をとりすぎてるし、のこりのひとりは、ちょっと齢がいかなすぎるんだからね。どこにいくんだい?」
ネルは口ごもり、出まかせに西のほうをさしたが、男は、それは彼が名をいったある町のことか? とたずねた。それ以上の質問をさけようと、ネルは「そうです。その町です」と答えた。
「どこから来たんだい?」がつぎの質問だった。これは答えるのには前の質問より簡単だったので、ふたりの友人の学校の先生が住んでいる村の名を、ネルは知らせた。それは、この男たちに知られている可能性はまずなく、質問をかさねてひきおこす心配がなかったからだった。
「だれかがお前さんたちに盗みを働いたか、虐待を加えたか、と思ってたんだ」男はいった。「それだけのこったよ。じゃ、さようなら」
挨拶をかえし、男が向うにいったのでホッとして、男が馬に乗ったとき、ネルはそれを見送り、ボートは進んでいった。まだボートがそう遠くまでいかないうちに、ボートはまたとまり、男たちが彼女を招いている姿が目にはいった。
「わたしを呼んだのですか?」かけよって、ネルはいった。
「よかったら、おれたちといっしょにいってもいいよ」ボートの中のひとりの男がいった。「おれたちは同じ場所にいくんだからな」
子供はちょっとモジモジしていた。前に何度となくひどく身をふるわせて考えていたことだが、祖父といっしょにいるのをみたあの男たちが、ひたむきに獲物を求め、たぶん自分たちのあとを追い、祖父にたいする力をとりもどして、自分の力をだめにしてしまうだろう、ボートにいる男たちといっしょにゆけば、自分たちのとおったあとはきっとこの場所で消えてしまうだろう、と考えて、彼女はこの申し出を受けようと決心した。ボートはふたたび土堤に近づき、それ以上なにも考える暇もなく、彼女と老人はボートに乗りこみ、ゆっくりと静かに運河をすべっていった。
太陽はキラキラと輝く|川面《かわも》に気持ちよく光を投げ、水はときに木陰になり、ときにひろびろとした野の中を流れていったが、そうした野原には小川が走り、こんもりと木が生い茂った丘、耕された畠、木にかこまれた農家の姿が豊かに示されていた。ときおり、つつましやかな尖塔、|藁《わら》ぶき屋根、切妻壁のある村が木のあいだから顔をのぞかせ、何回となく、煙をとおしてぼんやりとみえる大きな教会の塔、家のかたまりの上にそびえ立つ高い工場や作業場のある遠くの町が目に映り、その町が遠くへだたったままになっている時間のながさからみて、どんなにゆっくりとこのボートが進んでいるかをあらわしていた。彼らの船道は、大部分、低い土地と開けた平野の中をとおり、こうした遠くの場所、ときどき畠で働いている人たち、彼らがとおりぬけた橋の上でブラブラして、彼らのとおっていく姿をながめている人たちを除いては、彼らの単調さと人気はなれた通路に侵入してくるものはなにもなかった。
彼らが、午後おそく、まあ舟つき場といったところにとまったとき、男たちのうちのひとりから、目的地に着くのは翌日になるという話を聞き、もし食べ物がなかったら、ここでそれを買いこんだほうがいいだろう、といわれたとき、ネルはそうとうがっくりしてしまった。彼女の持ち金は、もう彼らからパンを買ったので、数ペニーしかなく、なんのやりくりの方法もなくて、まったくの見ず知らずの土地にゆくので、そのわずかな金の使い方にも十分に気を使わなければならなかった。そこで、彼女が買えたのは、小さなパンのかたまりとひと口のチーズだけ、これをもって、彼女はふたたびボートにもどり、居酒屋で男たちが酒を飲んでいたために三十分おくれて、ボートは動きだした。
男たちはビールと酒をボートにもちこみ、酒場でたっぷり飲み、ここでもまた飲んだので、すぐに喧嘩をはじめ、グデングデンに酔っ払いそうになっていた。そこで、男たちが彼女と老人をよく招いてくれたとても暗いきたない小さい部屋にはゆかずに、ネルは老人といっしょに外に坐り、胸をドキドキさせながらさわがしい男たちの声に耳を澄ませ、夜じゅう歩かなければならなくなっても、陸で心配なくいられたら、とねがっていた。
彼らは、事実、とても荒っぽい、さわがしい連中で、仲間のあいだではまったく粗暴だったが、このボートに乗りこんだネルと老人にたいしては、親切にふるまってくれた。こうして、礼儀正しくビールをネルにさしだそうという提案をどっちが先にいいだしたかの問題について、|舵《かじ》をとっていた男と船室にいた彼の友人のあいだで喧嘩が起き、それがとっくみ合いにまで発展し、彼女が口にはあらわせないほどにふるえあがったことに、すごい勢いでなぐり合いまでやりだしたとき、どちらの男もそれで彼女に当ったりはせず、それぞれは怒りを自分の敵にそそぐだけで満足し、打撃ばかりか、さまざまの|悪態《あくたい》を相手に浴びせていたが、それが彼女にはぜんぜん通じない言葉でおこなわれたのは、子供にとって幸いなことだった。この喧嘩は船室から出てきた男によって最後には決着をつけられ、彼は相手をなぐり倒してまっさかさまに船室の中にとびこませ、自身はいささかも狼狽を示さず、友人にもそうした気分をひきおこしたりはせずに、舵を自身の手ににぎり、友人のほうはそうとうたくましいからだつきをし、こうしたつまらぬさわぎにもう馴れっこになっていたので、かかとを上にしたそのままの姿勢で眠りこみ、二分かそこいらすると、気持ちよさそうにいびきを立てはじめた。
このときまでに、もう夜になり、薄着をしていたのでネルは寒かったが、彼女の心配は自分自身の苦しみや不安を考えたりしようとはせず、老人といっしょになんとかしのぐ方法を工夫しようと、一生けんめいになっていた。前の晩に彼女をささえていたのと同じ精神が、いま、彼女をしっかりとがんばらせていた。彼女の祖父は彼女のわきに眠っていてもう安全、狂気が彼をつき動かしてさせようとした犯罪は、とうとう、おこなわれずにすんだ。これは、彼女にはうれしいことだった。
ふたりで旅をつづけていたとき、事件の多かった短い生涯のすべてのことが、なんと群れをなして彼女の心に湧き起ったことだろう! いままで、考えも思い出したこともないつまらない出来事、一度みただけでその後ズッと忘れていた顔、そのときには気にもとめていなかった言葉、一年前の情景とついきのうの情景が入りまじって結びついたものになった。なつかしい場所が暗闇の中で、いろいろなものからつくりだされたが、それは、近づいてみると、そうした場所とはおよそかけはなれた似ても似つかぬものになった。ときどき、彼女がいまここにいることになったきっかけ、ゆこうとしている場所、いっしょにいる人たちについて、彼女の心の中に奇妙な混乱が起きた。想像が生みだす言葉や質問は、じつにはっきりと彼女の耳にひびき、その結果、彼女はギクリとし、向きなおり、返事をしようとする気持ちにまでなっていた――夜眠らずにいること、興奮、落ち着かぬ移動につきもののすべての空想と矛盾が彼女をとりかこんでいた。
こうした状態にあった彼女は、デッキの上の男とたまたま顔を合せることになったが、いま、この男の心は、酔いのさわがしさから感傷的な気分にうつり、こわれないようにとひもをグルグルとまきつけた短いパイプを口からはなし、彼女に歌をひとつ聞かせてくれとたのみこんだ。
「きみはとても美しい声、とても物やわらかな目、それに、とてもしっかりとした記憶力の持ち主だね」この紳士はいった。「声と目にはしっかりとした証拠があり、記憶力のほうは、わたしがそうと考えてることなんだ。絶対にまちがいはない。さあすぐ、歌を聞かせてくれ」
「歌は知っていないのですが……」ネルは答えた。
「きみは歌を四十七も知ってるよ」この点では議論の余地なしといった重々しさで、この男はいった。「四十七がきみの数だ。そのうちのひとつ――最高のやつを聞かせてくれ。さあすぐ、歌を歌ってくれ」
この友人をイライラさせたらどんなことになるか見当もつかず、イライラさせはしないかという心配でからだをふるわせながら、ネルは、かわいそうにも、もっと幸福なころに憶えたあるちょっとした歌を歌い、この歌はこの男の耳にとても快くひびいたので、それが終ると、彼は前と同じような高飛車な態度で、もうひとつ歌を所望し、この二番目の歌にたいして、じつに親切なことに、特別どの節にということもない、しかも言葉がぜんぜんはいっていないコーラスを大声でわめいたが、その驚くべき勢いのよさは、他のすべての欠点の十分な穴埋めになっていた。この歌声はべつの男の目をさまし、この男はヨロヨロッとデッキの上に出てきて、つい先ごろの敵と握手をし、歌は自分のほこり、よろこび、大きな楽しみ、それ以上心をよろこばせるものはない、と断言した。三度目の要求は前の二度の要求よりもっと高飛車なもので、ネルはこれに応じなければならないと感じ、こんどのコーラスは、ふたりの男が声を合せたばかりでなく、馬に乗った第三の男までそれに加わり、この男は、自分のいる場所でこの夜の楽しみに近づけなかったので、自分の仲間の男たちがわめき立てると、自分もわめき立て、その歌声で夜空をひきさいていた。こうして、ほとんど休む暇もなく、同じ歌をくりかえしくりかえし歌って、つかれてヘトヘトになったネルは、夜じゅうズッと、彼らの機嫌をとりつづけ、この調子はずれのコーラスが風に乗ってただよい流れていったとき、多くの百姓の人たちはぐっすりとした眠りから目をさまされ、布団をすっぽりと頭にかぶって、その物音にからだをふるわせていた。
とうとう夜明けになった。あたりが明るくなるとすぐ、雨が激しく降りはじめた。子供は船室の我慢できぬ蒸気には|辟易《へきえき》していたので、彼女のいままでの尽力のお礼にと、男たちは帆布や防水帆布のきれで彼女をおおってくれ、それで彼女は雨にぬれるのをかなりさけることができ、その上、老人もおおってやれることになった。時がたつにつれ、雨の勢いはなおつのってきた。正午にはどうにもしようのないほどの強い雨脚となり、それが少しでも小やみになるみとおしは、ぜんぜんなかった。
ボートは、しばらくのあいだ、目的地にだんだんと近づいていた。水のにごりとよごれはひどくなり、ほかの逆行してくる荷船は、ときどき、彼らの船のわきをとおりぬけていった。石灰の燃えがらの小道とけばけばしい色をした煉瓦の小屋は、大工業都市に近づいた事実を物語っていた。一方、まばらな街路と家、遠くの溶鉱炉から吹きでている煙は、彼らがもうその郊外に来ているのを知らせた。もう、群らがり集った屋根、エンジンの動きでふるえ、エンジンの立てる悲鳴と脈打ちでかすかに鳴りひびいている多くの建物、家の屋根の上に濃いきたない雲になって垂れさがり、大気を陰気なものにしている黒い蒸気をはきだしている高い煙突、鉄を打つハンマーのひびき、さまざまな物音がまじり合ってひとつになり、どれもそれと区別ができなくなり、だんだんとたかまっていくあわただしい街路と物さわがしい群集の立てる|咆哮《ほうこう》――こうしたものは、この旅の終りを告げていた。
この船は、それが所属している舟つき場にただよい流れていった。男たちは、すぐに仕事にとりかかった。子供と老人は、男たちに礼をいい、どちらにいったらよいかたずねようと待っていたが、どうにもならず、きたない小道をとおりぬけて雑踏する街路に出てゆき、|喧騒《けんそう》の|最中《さなか》で、たたきつけるようにして降ってくる雨の中に立ち、勝手がわからず、とまどい、|狼狽《ろうばい》していたが、それは、彼らが千年も前の時代の人間で、奇跡によっていきなり死者のあいだから呼びだされ、そこに立っているといった感じだった。
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人の群れが、ふたつの反対の流れになって、あわただしく動き、停止や疲労のようすはいささかもみせず、それぞれの仕事に夢中になり、ぶつかり合う荷物を積んだ二輪荷馬車や四輪大型荷馬車の立てる|轟音《ごうおん》、ぬれて油だらけの舗道での|馬蹄《ばてい》のすべる音、窓や傘に打ちつける雨の音、ジリジリと|急《せ》いている通行人のおし合いへし合い、盛り時の雑踏する街路の騒音など、気にもしていなかった。一方、まったくのよそ者のあわれなネルと老人は、自分たちが合流せずにただながめてだけいるこのあわただしさに|呆然《ぼうぜん》としてとまどい、物悲しげにそれをながめていた。群集の中のこうした孤独感は、大海原のさかまく大波に|翻弄《ほんろう》され、赤らんだ目は自分をすっかりとりかこむ水を凝視することで盲になり、乾きで燃えあがっている舌を冷やす水一滴すらない難破船の水夫の味う喉の乾き以外には、類例のないものといえよう。
ふたりは雨をさけるために、低いアーチの道にひっこみ、とおりすがりの人の顔をながめていたが、これは、元気づけなり希望の光なりをそこにみつけたい気持ちからだった。群集は、しかめ|面《つら》をし、微笑し、ブツブツとつぶやき、これからする話を頭で考えているようにちょっとした身ぶりをみせ、取り引きや陰謀の|狡猾《こうかつ》な表情をおび、ひたむきに心配しているようすの者、緩慢でにぶい者、利益と損失を|面《おもて》にはっきり書きつけている者等、さまざまだった。この片隅に静かに立ち、さっさととおりすぎてゆく人の顔をみているのは、そうした人たちの秘密に立ち入るようなものだった。それぞれの人が自分の目的をもち、ほかの人間も自分と同じだと感じているあわただしい場所では、その人の性格と目的が顔に露骨に描きだされている。町の大通りや社交室に人がゆくのは、人をながめ、人にながめられるため、そこでは、ほとんど変りのない同じ表情が、何回となく、たえずくりかえされているのだ。就業日の顔は、もっと真実に近く、もっとはっきりと自分をあらわしている。
こうした孤独が呼びさますあの|茫然《ぼうぜん》とした気分に落ちこんで、興味のこもった驚きの情で、ネルはとおっていく人びとをながめつづけ、一時的ではあるが、自分のみじめさを忘れそうにまでなっていた。だが、寒さ、からだの湿気、飢え、休息の不足、痛む頭を横たえる場所のないことが、間もなく、彼女の思いをもとにひきもどした。自分たちに気づいたり、彼女が思いきって同情を求められそうな人は、だれもとおらなかった。しばらくしてから、彼らは雨からのしのぎ場所を出て、人の流れにはいっていった。
夕方になった。ふたりはまだブラブラと歩きつづけ、まわりの通行人は少なくなったが、彼らの胸には同じ孤独感が宿りつづけ、周囲からは同じ無関心な態度を受けつづけていた。街路と商店の灯りはわびしさの感じをさらにつのらせた。灯りの助けで、夜と闇の足がさらに早くなったように思えたからだった。寒さと湿気でからだをふるわし、からだの調子がわるく、胸をムカムカさせて、ただはうようにして進むのにも、子供は心をしっかりとひきしめ、勇気をふるい立たせなければならなかった。
静かないなかがあり、そこで飢渇を味うにしても、町のきたない闘争の苦痛からはまぬかれることができたのに、どうして彼らはこのさわがしい町に来たのだろう? 彼らは山のようにうずたかくつもったみじめさの中のけし[#「けし」に傍点]つぶにすぎず、それをながめただけでも、彼らの絶望的な状態と苦痛は増していった。
子供は、貧しい状態の積みかさなる苦しみに堪えるばかりでなく、自分の祖父の叱責さえ我慢しなければならなかった。祖父は、自分たちの以前の住み家からつれだされた不平をブーブーとつぶやき、そこにもどろうといいだしていた。いまは文なしになり、救いはなく、救いを得られるみとおしもなく、もう人気のなくなった街路で彼らは歩みをもどし、波止場に帰っていったが、これは、彼らが乗せてもらった船をみつけ、ひと晩なりともそこで泊らせてもらおうとしたためだった。だが、ここでもまた、彼らは失望を味うことになった。門は閉じられ、近づいていくと、何匹かの|獰猛《どうもう》な犬が吠え立て、彼らはそこから追い立てられてしまった。
「きょうの晩は、外で眠らなければならないことよ」こうして追い払われて、子供は弱々しい声でいった。「そして明日は、物|乞《ご》いをしながらどこか静かないなかにゆき、どんな仕事でもして、パンを買えるお金をかせぐことにしましょう」
「どうしてわしをここにつれてきたんだ?」老人は激しい勢いでいった。「こうして息苦しい街路がどこまでもつづく場所なんて、我慢ならん。わしたちは、静かな場所から来たんだ。どうしてお前はそこからわしをひっぱりだしたんだ?」
「話をしたあのいやな夢からのがれなければならなかったからよ」瞬間的にキリッとした態度をみせて子供はいったが、その態度は涙の中にかきくれていった。「それに、わたしたちは貧乏な人の中で暮さなければならないの。さもないと、あの夢がまたあらわれてくるわ。おじいちゃん、わかっていることよ、おじいちゃんは齢をとり、からだが弱いの。でも、わたしをみてちょうだい。おじいちゃんさえ不平をこぼさなかったら、わたしも不平をこぼさないことよ。それにしても、じっさい、わたしにも苦しみはあるの」
「ああ! かわいそうな、家のない、さすらいの身の、母を失った子供!」老人は叫び、両手を組み、まるでこれがはじめてといったように、気苦労のあらわれた子供の顔、旅でよごれた衣裳、傷つきはれあがっている足をジッとながめた。「わしの心配の苦悶のあげくの果てが、この子供をとうとうこんなことにしてしまったのか? 以前には幸福な男だったのに、幸福とすべての持ち物を失い、こんなになりさがってしまったのか?」
「もしいなかにいるのだったら」雨からのしのぎ場所をさがしてあたりをみまわしながら進んでいったとき、陽気をよそおって子供はいった、「きっと親切な古い木がみつかり、まるで愛してくれているように、その木は緑の両腕をひろげ、その木の見守りを受け、そのことを考えながら眠りなさいといっているように、木はうなずき、サラサラと枝を鳴らしてくれるでしょう。どうか、すぐ、そうしたところにゆけますように――明日か、どんなにおそくともあさってには、そこにゆけることよ――そして、そのあいだ、ここに来たのはいいことだったと考えましょう。わたしたち、この場所の群集とあわただしさの中に、ゆくえも知れずにまぎれこんだのよ。だれかむごい人たちがわたしたちのあとを追ってきても、ここから先のわたしたちの足どりは、つかめなくなるでしょうからね。その点はうれしいことよ。まあ、ここに深い古びた戸口があるわ――とても暗いけど、湿気はぜんぜんなく、風が吹きこまないので、温かくもあるわ――あれはなにかしら?」
ふたりがはいりこもうとした暗い奥まった場所から突然出てきて、ふたりをみながらジッと立ちつくしている黒い姿をみて、彼女はなかば悲鳴といった叫びをあげ、サッととびさがった。
「もう一度話してくれ」それはいった。「その声は聞きおぼえのあるものかな?」
「いいえ」オズオズして子供は答えた。「わたしたちはよそ者、一夜の宿のお金がなく、ここで休もうとしているのです」
そうはなれていないところに、弱々しげな光を発しているランプがあった。このランプは四角な内庭といった場所にあるただひとつの光だったが、そこがどんなに貧しくひどい場所かを十分にあらわしていた。ここにその人影はふたりを招き、それと同時に、光の中に姿をあらわしたが、それは、自分の姿をかくすつもりがなく、いきなり襲いかかろうとするつもりもないのを示そうとしたためのようだった。
それは男の姿、きたない服を着こみ、煙でよごれていたが、生れながらの肌の色との対照によるものだろうが、じっさいよりもっと青白くみえていた。しかし、彼が生れつき青ざめて顔色がさえない男であることは、辛抱強さをあらわすある顔つきばかりでなく、彼のこけた頬、とがった目鼻立ち、くぼんだ目が十分にそれを証明していた。この男の声は、生来耳ざわりなものだったが、残忍さをもってはいなかった。顔は、もう前に述べた特徴をもっているばかりでなく、ながい、浅黒い豊かな髪がそこにかぶさり、表情は兇悪なものではなかった。
「ここで休もうなんぞと、どうして考えたんだい?」彼はいった。「また、どうして」子供のほうを注意してみながら、彼はいいそえた、「こんな夜ふけになって、休息の場所をさがすようなことになったんだい?」
「われわれの不幸が」祖父は答えた、「その原因です」
「あんたにはわかってるんですかね」前にもます真剣なまなざしをネルに投げて、男はいった、「あの|娘《こ》のからだがどんなにぬれてるか、ぬれた街路はあの娘にはいい場所じゃないことが?」
「いやあ、よーく知ってますよ」老人は答えた。「わたしにどうすることができましょう?」
男はネルにふたたび目を投げ、やさしくその服にふれたが、そこからは雨の|滴《しずく》が小川のように流れ落ちていた。「きみを温かにはしてあげられるよ」少し間をおいて、彼はいった。「ほかにはなにもできないけどね。わたしのもっている住まいは、あの家の中にあるんだ」ここで彼は、自分の出てきた戸口を指さした、「だが、そこのほうがここより安全で気分もいいだろう。火は荒っぽい場所にあるもんだが、わたしのいうとおりにしてくれたら、そのそばで、今晩は、安全にすごすことができるよ。向うに赤い光がみえるだろう?」
ふたりは目をあげ、暗い空につりさがったギラギラと輝いている光をみたが、それは、ある遠くの光の鈍い反映だった。
「そう遠くはないよ」男はいった。「そこにつれてってやろうかね? きみたちは冷たい煉瓦の上で眠るつもりだったんだ。わたしがあげられるものといえば、温かい灰の床だけ――それ以上ましなものは、なにもないよ」
ふたりの表情で読みとったこと以上の応答は求めずに、彼は腕にネルを抱きあげ、老人には、あとについてくるように、といいつけた。
まるで赤ん坊のようにやさしく、軽々と彼女を運び、早くてしっかりとした足どりをみせて、彼は町でいちばん粗末で貧乏な地区と思われる場所を案内してゆき、あふれるどぶや流れる|竪樋《たてどい》の水をさけて進みながらも、こうした邪魔で進路を変えたりはせずに、まっすぐ道を歩いていった。彼らは、だまったまま、ものの十五分くらい、こうして進み、さっきみせられたギラギラとした輝きは、彼らの進む暗いせまい道で、すっかりみえなくなっていたが、それは、ふたたび突然、姿をあらわした。これは、彼らの目の前の建物の高い煙突から噴きだしている炎だった。
「ここがその場所だよ」戸口で立ちどまり、ネルをおろし、その腕をとって、この男はいった。「心配することはない。危害を加える者はだれもいないんだからね」
彼らをそこにひき入れるのには、この保証に寄せる強い信頼感が必要だったが、建物の中で彼らの目に映ったものは、彼らの不安と狼狽を減少させはしなかった。大きな高い建物は鉄の柱でささえられ、上の壁には大きな黒々とした孔があき、外の大気と通じていた。水の中に投げこまれる|灼熱《しやくねつ》した金属の立てるシューシューいう音と、ほかの場所では聞いたこともないさまざまなこの世のものならぬ奇妙な物音にまじって、ハンマーの打つ音と溶鉱炉のうなりが屋根に|木魂《こだま》していた。この陰気な場所で、炎と煙の中の悪魔のように動き、ときどき発作的に漠然とした姿をあらわし、燃え立つ火で赤らんで苦しめられ、大きな武器をふるって――まちがってそれをふったら、その打撃はだれか作業員の頭蓋骨をおしつぶしてしまったことだろう――たくさんの男が巨人のように立ち働いていた。ほかの連中は、石炭か灰の山の上で身を休め、顔を上の黒いアーチ形の天井に向けて、眠るか、仕事からの息ぬきをしていた。さらにほかの連中は、白熱した溶鉱炉の戸口を開け、炎の食料補給をおこなっていたが、炎はそれを捕えようとうなってそこからとびだし、まるで油のようにそれをひとなめにしていた。ほかの一団は、ガンガンという音を立てて、地面の上に我慢ならぬほどの熱を発散させている白熱した鋼鉄の大きな板をひきだし、その発する鈍い深い光は、野獣の目の中で赤らんでいる光に似ていた。
こうしたとまどいを起す光景と耳を|聾《ろう》せんばかりの轟音の中をつっきって、案内人は彼らを、この建物の暗いところで、ひとつの溶鉱炉が日夜燃えつづけている場所につれていった――彼らは、彼の唇の動きから、少なくともそう推測した。というのも、まだ彼らは、彼の話しているのをみることができるだけ、声は耳にはいらなかったからだった。そのときまでここの火を監視し、さし当ってしばらくのあいだ仕事が終った男は、よろこんでひきあげてゆき、ふたりをその友人といっしょにしておいた。彼はネルの小さな外套を灰の山の上にひろげ、外衣を乾すのにどこにかけたらいいかを教えて、彼女と老人に横になってやすむようにと合図で知らせた。彼自身はといえば、溶鉱炉の戸口の前のボロボロのむしろの上に坐り、両手で顎をささえ、鉄の隙間から輝きでる炎と、下であかあかと熱している墓の中に白い灰が落ちていくのを、ジッと見守っていた。
彼女の寝床は固くて粗末なものだったが、その温かさは彼女の我慢してきた大きな疲労とかさなり合って、すぐにその場所の轟音をこの子供の耳にはもっとやさしいものにし、間もなく、それが子守歌になって彼女を眠らせてしまった。老人は、彼女のわきにからだをのばし、彼女は、老人の首に片手を乗せて、夢をみていた。
彼女が目をさましたとき、まだ夜で、どれだけながく、いや、どれだけ短く眠ったのか、見当もつかないでいた。だが、彼女は、この建物にはいりこんでくるかもしれない冷たい風から作業員の服で守られ、焼けつく熱からも守られているのを知った。目をあげて彼らの友人のほうをチラリとながめると、前と少しも変らない姿勢で彼が坐り、しっかりと注意力を集中させて火をながめ、とても静かにしているので、息さえしているようにはみえないのがわかった。彼女は半分眠り半分起きている状態で横になり、彼の動きのない姿をながいことながめていたので、とうとう、彼がそこに坐ったままで死んでしまったのではないかとさえ思えてきた。そこで、ソッと起きだし、彼に近づいて、彼の耳もとでささやいた。
彼は、からだを動かし、彼女から彼女がいままで寝ていたところに目をうつしたが、まるで自分の近くにいる子供が前の子供かとたしかめているようなようす、そして、どうした? といったふうに、彼女の顔をのぞきこんだ。
「病気じゃないかと心配だったの」彼女はいった。「ほかの人たちはみんなすごく動いているのに、あなたはとても静かにしているんですもの」
「みんなはわたしを放りだしにしておいてくれるんだ」彼は答えた。「こっちの気分を知ってるんでね。あざ笑ってはいるが、それでこちらはどうということもない。あそこをみてごらん――あれがわたしの友だちなんだ」
「火が?」子供はたずねた。
「こちらが生れて以来、あの火は生きつづけてる」男は答えた。「夜じゅうズッと、ともに語り、ともに考えてるんだよ」
子供はびっくりして、サッと彼をながめたが、彼は、もう目を前の方向に向け、前どおりジッと考えこんでいた。
「火はわたしにとって本のようなもんさ」彼はいった――「読むのを習ったただひとつの本で、いろいろとむかしの話を聞かせてくれるよ。それは音楽でね、どんなにたくさんの音があろうと、その声はちゃんと聞きわけられるだろう。あのうなり声の中にはほかの声もある。絵もちゃんとついてるんだ。|灼熱《しやくねつ》の石炭の中に、どんなに多くの奇妙な顔とちがった景色をこのわたしがみわけてるか、きみにはわからんのだ。あの火は、わたしの記憶、自分のいままでを示してくれてるよ」
子供は彼の言葉を聞きとろうとかがみこんで、彼がどんなに目を輝かせて語り、物思いにふけりつづけているかを気づかずにはいられなかった。
「そう」かすかな微笑を浮べて、彼はいった、「こちらがまったくの赤ん坊で、そのあたりをはいまわり、眠りこんでしまったときも、まったく同じだった。そのときには、わたしのおやじが火をみてたんだがね」
「お母さんはいなかったの?」子供はたずねた。
「そう、死んじまってね。この辺じゃ女がせっせと働くんだ。話によると、働きすぎて死んじまい、そんときの話のとおりに、火はその後ズーッと同じことを語りつづけてるよ。それは真実だったと思うな。いままでいつも、それを信じてきたんだ」
「じゃ、ここで育てられたの?」子供はいった。
「夏も冬もね」彼は答えた。「最初人目を忍んでたが、それが|暴《ば》れると、わたしをここにおくのを許してくれたよ。だから、火が――同じ火がわたしを育てたんだ。消えたことは絶対にないよ」
「火を好きなの?」子供はたずねた。
「もちろん、好きさ。おやじは火の前で死んだ。おやじが倒れるのをみたよ――そう、そこでだ、あの灰がいま燃えてるとこで――そして、どうして火がおやじを助けてくれないんだろう? とふしぎに思ってたのを憶えてるよ」
「その後ズーッとここにいるの?」子供はたずねた。
「火をみに来て以来ズーッとね。だが、そのあいだにひと時期があり、そのあいだはとてもわびしく、寒いものだった。だが、火はズーッと燃えつづけ、ここにもどってきたときには、うなって踊り、子供の時代とそっくり同じだった。このわたしをみて、わたしがどんな子供だったかが見当つくだろうが、きみとわたしのちがいはあるにせよ、わたしは子供だった[#「だった」に傍点]し、今晩街路できみの姿をみたとき、おやじが死んだときの自分のことをその姿で思い出し、きみを火のとこにつれてきたいという気持ちになったのだ。火のそばで眠ってるきみの姿をみて、あの当時のことをまた思い出したよ。きみは、いま、眠らなけりゃいけない。かわいそうに、さあ、横になるんだ、横になるんだ!」
こういって、彼は彼女を粗末な寝椅子のところにつれてゆき、目をさましたとき彼女が自分がつつまれているのに気づいた服を彼女にかけて、自分の座席にもどり、溶鉱炉に石炭を入れるとき以外には、そこから動かず、像のようにジッと身じろぎもせずにいた。子供は、しばらく、この彼をみつめていたが、間もなく襲ってきた|眠気《ねむけ》に負け、この暗い奇妙な場所で、灰の山の上で、その部屋が宮殿の部屋、寝台が羽根毛の寝台といったように、安らかに眠りこんでしまった。
目をさましたとき、壁の高い隙間をとおして真昼間の光がさしこみ、ななめの光になって中途まで忍びこんで、夜のあいだより、その建物をもっと暗くしているようだった。カンカンという音とさわぎはまだつづいていて、情け容赦のない火は前と変らずに猛烈に燃えあがっていた。夜と昼の変化は、ここに休息も静けさももたらしたりしなかったからだった。
この友人はその朝食――コーヒーと粗末なパンというとぼしい食事――を子供と老人にもわけ、どこにゆこうとしているのだ? とたずねた。彼女は、自分たちは町からもほかの村からも遠くはなれたあるいなかにゆこうとしている、と告げ、どもりながら、どの道をとったらいちばんいいのだろう? とたずねた。
「いなかのことは、ほとんどなにも知らないな」頭をふりふり、彼はいった、「わたしのような者は、溶鉱炉の戸口の前で生涯を送り、息をつきに外に出ることなんて、まずないんだからね。だが、たしかに[#「たしかに」に傍点]そうした場所は向うにあるよ」
「ここから遠いのですか?」ネルはたずねた。
「うん、たしかにね。われわれの近くにあって、その場所が緑で新鮮になんかはなれるもんかね。その道もまた、ここの火と同じような火をすっかりともされ、何マイルも何マイルものびてるんだ――黒い奇妙な道路で、夜には、きみをふるえあがらせるような道だよ」
「わたしたちは、いま、ここにいるのですが、どんどんと進んでゆかなければなりません」勇ましく子供はいいきった。というのも、老人がこの話を心配そうに聞き入っていたからである。
「荒っぽい連中――きみのような足のためにつくられたものでは絶対にない小道――害毒を受けたおそろしい道――ここからもどるわけにはいかないんかね?」
「もどれません」前に身をのりだして、ネルは叫んだ。「道を教えていただけるのでしたら、教えてください。もしだめなら、どうか、目的からわたしたちをそらせようなどとはしないでください。じっさい、わたしたちがのがれた危険と、そこから逃げてどんなにわたしたちが正しく誠実だったかを、あなたはご存じではないのです。ご存じだったら、わたしたちをとめようなどとはなさらないでしょう。きっととめたりはしませんよ」
「もしそうなら、絶対にとめたりはしないよ!」むきになっている子供からその祖父のほうに目をチラリとうつして、この奇妙な保護者はいった。祖父は頭をたれ、地面に目を伏せていた。「戸口のところから、できるだけのことは教えてあげよう。もっとしてあげられたらいいんだがね」
それから彼は、どの道で町を出たらどのコースをとるべきか、を彼らに教えた。この話はじつにグズグズとしたながいものだったので、子供は、イライラした言葉をもらしてそこから身をひきはなし、それ以上話を聞こうとはしなかった。
だが、小道のまがり角にまだ着かないうちに、男は走って彼らのあとを追い、彼女の手にむりやりなにかをおしつけていったが、それは古い、つぶれた、煙をかぶった一ペニーの貨幣ふたつだった。だが、それは、墓に書きしるされている金の贈り物のように、天使の目にはキラキラと輝く美しい贈り物だった。
こうして彼らは別れ、子供は、自分に託された老人という預かり者を罪と恥辱からさらに遠くにひきはなし、この労働者は、客人たちが眠っていた場所にいままでにない関心を寄せ、溶鉱炉の火の中に、新しい物語を読みとることになった。
45
ふたりの旅すべてをとおして、このときほど清らかな空気と開けたいなかを熱烈に望んだことはなく、それをあこがれ求めたことはなかった。そう、あの記念すべき朝、彼らのなつかしい家をすてて、見知らぬ世界の慈悲に身を託し、彼らが知り愛していたものいわぬ感覚をもたないすべてのものを放棄したあの朝――あのときでも、このいまほどに、森、小高い丘、野の新鮮な孤独をこうまで強く求めてはいなかった。いまは、大きな工業都市の騒音、よごれと蒸気が、痩せ細ったみじめさと飢えた物悲しさの臭気を放って、彼らを四方八方とりかこみ、希望を閉めだし、逃亡を不可能にしているような感じだった。
「ふつかとふた晩!」子供は考えた。「こうした景色の中でわたしたちがふつかとふた晩すごさなければならない、とあの人はいっていたわ。ああ、生きつづけて、もう一度いなかにいけたら、こうしたおそろしい場所からのがれられたら、たとえいった先で倒れて死んでしまっても、どんなに感謝にあふれた心で、そうした大きな慈悲にたいして、神さまに感謝することでしょう!」
こうした考えをいだき、とても貧乏で素朴な人びとが住み、ふたりがのがれてきた恐怖からはすっかり解放され、農場でのなにかつまらぬ手助け仕事で暮していけるような遠くの小川と山のある地方に旅をしてゆこうと漠然と考えながら、子供は、あの貧乏な男からの贈り物以外になにももたず、自分の心から湧き起ってくるもの以外にはなんの鼓舞も与えられずに、自分のしていることの真実と正しさを信じ、勇気をふるいおこして、この最後の旅に出、勇敢にその任務の遂行にとりかかった。
「きょうの旅は、とてもゆっくりゆっくりよ、おじいちゃん」道を苦労しながら進んでいって、彼女はいった。「足は痛いし、きのうの湿気のために腕や脚まで痛んでいるの。あの男の人、旅行の道中はどのくらいだ? とたずねていたけど、わたしたちの姿をながめ、そのことを考えていたからなのよ」
「あの人が教えてくれた道はわびしい道だ」悲しげに老人は答えた。「ほかの道はないもんかね? なにかほかの道をとったらどうだろう?」
「この道の向うに」子供はしっかりといった、「わたしたちが安らかに暮し、人を苦しめたりする気がぜんぜん起きない場所があるのよ。そうした楽しいみとおしのある道を進み、その道が、たとえわたしたちが心配して考えているのより百倍もひどい道でも、その道をさけたりはしないことよ。そうでしょう、おじいちゃん、どう?」
「そうだよ」態度ばかりでなく声にも気迷いをあらわしながら、老人は答えた。「そうだ。どんどんと進んでいこう。わしはいいよ。大丈夫だよ、ネル」
子供は、老人が予想した以上の苦しみを味いながら歩いていた。彼女の関節を苦しめていた痛みはふつうの痛み以上のもの、動けば動くほど、それはつのってきた。だが、そうした状態にありながらも、彼女はそれをこぼしたりはせず、苦痛のようすもあらわさなかった。このふたりの旅人の歩みはとてものろいものながらも、とにかく、前進していった。やがて町からはなれて、ふたりは、道をかなり進んだと感じはじめた。
赤煉瓦の家の立つながい郊外――一部の家にはわずかの庭がついていたが、そこでは、|炭塵《たんじん》と工場の煙がチリチリになった木の葉とはびこる雑草の花を黒く染め、もがいている草木は、煉瓦を焼く|窯《かま》と溶鉱炉のはきだす熱風でしぼんで弱り、そうしたものがあるために、家は、町そのものの家より、もっとそこなわれ不健康にみえていた――こうしたながい、平らな、ダラダラとつづく郊外をとおりぬけて、彼らは、ゆっくりながらも、だんだんとじつにわびしい地域にはいっていった。そこでは、草の葉一枚の成長もみられず、春を思わせる芽ひとつなく、緑の色がみられるのはよどんだ水たまりの表面だけ、そうした水たまりは、黒々とした路傍で、暑さでぐったりしたように、そこここで姿をあらわしていた。
この痛ましい場所の暗い影の中にだんだんと深く進んでいって、その暗い、心をおしつぶす力は、ふたりの心にも影響を与え、おそろしい陰気な気分が心を満すことになった。四方八方、どんよりとした遠く目のとどくところまで、群らがり集り、悪夢のおそろしい特徴になっているあの醜悪さで、動きのない形の果てしないくりかえしをおこなっている高い煙突が疫病の煙をはきだし、光をさえぎり、ものわびしい大気をきたなくよごしていた。路傍の灰の山の上で、わずかの荒板か、くさり果てた差掛け小屋の屋根のおおいをつけて、奇妙なエンジンが、苦しみもがいている生物のように、クルクルとまわり、身をよじらせ、その鉄の鎖をカンカンと鳴らし、我慢できぬ拷問を受けているように、ときどき、急速な回転で悲鳴をあげ、その苦悶で大地をゆるがしていた。すっかりはぎとられた家がそこここにあり、ヨロヨロと倒れそうになり、もう倒れてしまったほかの家の材でささえられ、屋根も窓もなく、黒ずみ、わびしいものになっていたが、人がそこにはまだ住みついていた。青ざめた顔をし、ぼろをまとった男、女、子供たちがこのエンジンの世話をし、その燃料を補給し、路上で物乞いをしたり、ドアのない家から半裸体の姿で、顔をしかめながら外をながめていた。ついで、その荒々しさと野性的なようすで怒りくるった怪物ともいえるものが、さらにあらわれ、悲鳴をあげ、またグルグルと回転していたが、それでもまだ、前後左右には、いつ果てるかわからない同じ煉瓦の塔の列がならび、片時も休まずに黒い煙をはきだし、生命のあるもの、ないものすべてをそこね、昼間の顔を閉めだし、濃い黒味をおびた雲で、こうしたおそろしいものすべてをおおいつくしていた。
だが、このおそろしい場所の夜景ときたら!――煙は火となり、すべての煙突は炎を吹きあげ、昼間は暗い穴蔵だったところは熱で赤く輝き、その燃え立つ顎の中で人影が右往左往し、しゃがれ声でたがいに呼び合っていた――夜になると、すべての奇妙な機械の立てる物音は暗闇でなおひどいものになり、その近くの人たちの様相はもっと荒々しく野性的になり、失業した労働者の群れが道路で示威行進をし、指導者のまわりにかがり火をもって|蝟集《いしゆう》し、指導者は、そうした群集に激しい言葉で自分たちの受けた不当な仕打ちを知らせ、彼らに怒号とおどし文句を叫ばせていた。逆上した男たちは剣や|松明《たいまつ》で武装し、自分たちをとめようとする女の涙と懇願をはねつけ、恐怖と破壊の行動にとびだしていったが、その破壊といっても、自分たちの受けた破壊にくらべたら、物の数にもならぬものだった――夜になると、粗末な棺をいっぱい積んだ荷車がゴロゴロと音を立ててとおり(それというのも、伝染病と死がせっせと生きた人間を|餌食《えじき》にしていたからである)、孤児が泣き叫び、狂乱の女は悲鳴をあげてそのあとを追っていた――夜になると、ある者はパンを叫び求め、ある者は心の|憂《う》さを晴らそうと酒を求め、涙を流し、足をヨタヨタさせ、あるいは血走った目をした人たちが、物思いに沈みながら、家に帰っていった――ここの夜は、天が地上に送る夜とはちがって、安らかさ、静けさ、祝福された眠りのきざしをもっているものではなかった――この夜の恐怖を、さまよい歩いていくこの齢ゆかぬ子供に知らせるのはだれなのだろう!
だが、子供は、自分のからだと天のあいだになんのさえぎるものもなく、横になり、わが身を心配しての恐怖はもう超越していたので、そうした恐怖は感じたりはせずに、あわれな老人のために祈りをささげた。とてもからだが弱ってつかれていたので、じつに冷静に、なんの抵抗もせずに、自分にはなんの不足もないと考えていると感じ、ただ老人[#「老人」に傍点]のためにだれか友を与えてくださるようにと神に祈っていた。彼女は、進んできた道を思い出そうと努力し、自分たちが前の夜に、そばで眠った火が燃えている方向に、|面《おもて》を向けようとした。彼らの世話をしてくれた友人のあのあわれな男の名をたずねるのを忘れていたが、祈りの中でこの男のことを思い出したとき、彼がジッと目をすえてみつめているあの場所のほうにひと目も向けないでいるのは恩知らずの行為に思えてきた。
一ペニーのパンが、その日ふたりが手に入れたすべてだった。それはほんのわずかなものだったが、彼女の感覚に忍び寄ってきた奇妙な心の静けさの中で、飢えさえ忘れられていた。彼女は、静かに横になり、顔におだやかな微笑を浮べて、眠りこんだ。それは眠りと思われぬものだった――だが、それは眠りだったにちがいない。そうでなかったら、夜じゅうズッとつづいてみていたあの子供の生徒(第二十五章に出てくるハリーという死んだ生徒のこと)の快い夢をみたはずがなかったからである。
朝になった。視力も聴力も前よりズッとおとろえ、すっかり弱って、子供は、なにも訴えたりはしなかった――たとえ、自分のわきで旅をして彼女をだまらせているあの老人がいなくても、彼女は、たぶん、訴えたりはしなかったろう。このわびしい場所からつれだってのがれでるのは望みのないことと彼女は感じ、自分の病気はとても重い、もしかすると死ぬかもしれない、となんとなく確信してはいたが、恐怖も心配も感じてはいなかった。
最後の一ペニーを使ってもうひとつパンを買うまで彼女が気づかずにいた食事を嫌悪する気分のために、彼女はこのとぼしいパンも食べないでいた。彼女の祖父はガツガツして食べていたが、その光景は、彼女をよろこばせた。
彼らの進んでいった道は、きのうと同じ景色のもの、なんの変化も、よくなった点もなかった。呼吸も困難になるほどの同じどんよりとした大気、同じそこねられた大地、同じ絶望的なみとおし、同じみじめさと苦難があった。前よりもっとぼんやりとものは映り、音は低くなり、道はもっとでこぼこが多くなった。ときどき彼女はつまずき、倒れまいとする努力で、まあいわば、心をひき立てていた。かわいそうな子供! その原因は、彼女のよろめく足にあった。
午後近くになると、老人はひどく空腹を訴えはじめた。彼女は路傍のあるみじめな小屋に近づき、そこのドアをノックした。
「ここでなにをもらいたいんだ?」ドアを開きながら、やつれ果てた男がいった。
「ご慈悲を。ひと口のパンをおねがいします」
「あれがみえるかい?」地面の上にある包みのようなものをさして、男はしわがれ声で応じた。「あれは死んだ子供だよ。わたしと五百人のほかの男たちは、三カ月前に、仕事から放りだされちまったんだ。これがおれの三番目で最後の子供だ。このおれが[#「このおれが」に傍点]授けられる施し物、余分のひと口のパンでももってると思ってるのかね?」
子供はドアからとび退り、ドアは閉じられた。強い必要にせまられて、彼女はべつのドア、その近くのドアをノックしたが、そこのドアは、彼女の手の軽いひとおしで、パッと開かれた。
この小屋には、貧乏なふた家族が住んでいるようだった。ふたりの女が、それぞれの子供にかこまれて、その家のちがった場所にいたからである。中央に黒服を着たむずかしい顔をした紳士が立っていたが、この男は、たったいま、はいってきたらしく、少年の腕をとらえていた。
「さあ、おい」彼はいった、「お前の耳が聞こえずしゃべれない息子だ。この息子をかえしてもらって、感謝してもいいんだぞ。今朝、|窃盗《せつとう》の罪でわしの前につれてこられたんだが、ほかの子供だったら、たしかに、もっとつらい目にあうとこだったんだ。だが、わしは、子供の欠陥を気の毒に思い、仕込んでもだめと考えたんで、なんとかあいつをお前んとこにもどしてきたんだ。将来もあること、子供にはもっと注意しなけりゃいかんぞ」
「あたしの[#「あたしの」に傍点]息子はかえしてくれないのかい?」急いで立ちあがり、この男の正面に立って、べつの女がいった。「同じ罪で流刑地に送られたあたしの[#「あたしの」に傍点]息子は、かえしてくれないんかい?」
「その子供[#「その子供」に傍点]は耳も目もだめだったかね?」きびしく紳士はたずねた。
「そうじゃなかったんかい?」
「そうじゃなかったことを、お前は知ってるんだ」
「そうだったんだよ」女は叫んだ。「あの子は、ゆり籠のときから、よくて正しいどんなことにも、聞こえずで、しゃべれず見えずだったんだよ。あの|女《ひと》の坊やは仕込んでもだめだって! あたしの息子はどこでもっといい仕込みを受けたというんだい? それがどこでできたんだい? もっといい仕込みを、だれがしてくれたんだい? どこで習ったらよかったんだい?」
「だまれ、こいつめ」紳士はいった、「お前の息子の五感はみんなそろってたんだぞ」
「そうだよ」母親は叫んだ。「五感をそろえてもってたからこそ、それだけなおすぐに道を踏みはずすことになったのさ。善悪の区別がつかないからって、この坊やを助けてくれるんなら、そのちがいを一度も教わったことのないあたしの坊やを、どうして助けてくれなかったんだい? あんたたち紳士は、神さまが音も言葉も通じないようにしたあの|女《ひと》の坊やを罰する権利がないと同じように、あんたたち自身が無知にしといたあたしの坊やも罰する権利はないんだよ。たくさんの娘と坊やは――ああ、男も女も――あんたの前にひきだされ、あわれみをかけられないでいるけど、頭の点では聞こえずしゃべれず、それでまちがったことをやり、それですっかり罰を受けてるのに、あんたたち紳士は、子供たちがこれを学ぶべきか、あれを学ぶべきかなんて仲間割れして争ってる(当時教育の必要は認めながらも教育体系や国費分配に関して宗教的な争いが起き、学校建設がないがしろにされていたのを諷刺したもの)んじゃないかい? 正しい人間になって、息子をあたしにかえしておくれ」
「お前はやけになってるんだな」かぎタバコ入れを出しながら、紳士はいった、「あわれなやつだ」
「あたしゃやけに[#「やけに」に傍点]なってるよ」女は応じた、「あたしをそうしたのは、あんただよ。こうして困ってる子供たちのために働いてくれるように、あたしの息子をかえしておくれ。正しい人間になって、この坊やに慈悲をかけたように、あたしの息子をかえしておくれ!」
これだけながめ、これだけ聞けば、ここが施し物を乞うべき場所でないことが、ネルにはよくわかった。彼女は老人を戸口からソッとつれだし、旅をつづけた。
歩いてゆくにつれて前途の希望の影は薄れていったが、動けるかぎり、どんな言葉やようすでも自分の弱っている状態を示したりはすまいという決心は依然としてくずさずに、そのつらい日ののこりのあいだ、子供は、むりやり足をひきずり、ふだんどおりにときどき休息をとったりはせずに、彼女がどうしてもそうなってしまうおそい足どりを幾分なりともとりもどそうと努力していた。夕暮れは近づいたが、まだとっぷりと暮れはせず、そのとき――まだ感じのよくないいろいろのものがある場所で旅をつづけて――ふたりはあわただしい町に到着した。
ふたりは弱り、すっかりがっくりしていたので、この町の街路はどうにも我慢ならぬものになった。わずか何軒かの家の戸口で|控《ひか》え目に救いを求め、断られてから、できるだけ急いでこの町からぬけだし、町の向うにあるどこかの一軒家の人たちが、ふたりのつかれ果てた状態にあわれみをかけてくれるかどうかやってみよう、ということになった。
彼らは、最後の街路を身をひきずりながら歩いていったが、子供は、自分の弱った体力がもう堪えられなくなるときがせまってきたのを感じた。この危機に臨んで、彼らの前で同じ方向に歩いてゆく旅人の姿があった。この男は、旅行カバンを革ひもで背中にしばりつけ、歩きながら太いステッキをつき、べつの手にもった本を読みながら歩いていた。
この人物に追いついて援助を求めるのは、容易なことではなかった。この男は、早く歩き、少し前を歩いていたからだった。とうとう、本のどこかの個所をもっと念入りに読もうとして、彼は足をとめた。|一抹《いちまつ》の希望をいだいて、子供は老人の前にとびだし、自分の足音でこの見知らぬ男をハッとさせたりはせずに、そばに近づき、弱々しいわずかな言葉で、助けを求めはじめた。
彼はふり向いた。子供は手を打ち合せ、激しくひと声悲鳴をあげ、気を失って彼の足もとに倒れた。
46
それは、あのあわれな学校の先生だった。まさにあのあわれな学校の先生だった。ネルが彼の顔をみてびっくりしたように、彼のほうでもこの子供をみて感動し、びっくりしていた。彼は、しばらく口もきけず、この思いもかけぬ出現に狼狽して立ちつくし、彼女を地面から抱きあげる冷静ささえ失っていた。
だが、すぐ落ち着きをとりもどして、彼は、ステッキと本を投げだし、彼女のそばで片膝をつき、とっさに思いついた方法で、彼女を蘇生させようと努力していたが、彼女の祖父はなにもせずにかたわらに立ち、手をしぼりながら、愛情をあらわすいろいろな言葉を使って、ただひと言なりとも自分に話しかけてくれ、と彼女に懇願していた。
「すっかりつかれきっている」老人の顔をチラリとみあげて、先生はいった。「この|娘《こ》にあまりたよりすぎたんですよ」
「|乏《とぼ》しさで死のうとしてるんです」老人は答えた。「いままでこの娘がどんなに弱り|病《や》んでるかを、わたしは考えたこともなかった」
なかばなじり、なかば気の毒といった|一瞥《いちべつ》を老人に投げて、先生は、ネルを腕に抱きあげ、彼女の籠をひろい、自分についてくるようにと老人に命じて、大急ぎで彼女を運んでいった。
みえるところに宿屋があり、思いがけずもネルに追いつかれたとき、彼はこの宿屋に足を向けていたようだった。意識を失った荷物を抱いて、彼はこの場所に急ぎ、台所にとびこんで、そこに集っていた人たちに、おねがいだ、とおしてくれ、と呼びかけ、炉の前の椅子に彼女をおいた。
先生がはいってきたときびっくりして立ちあがった連中の行動は、こうした事情のもとで人びとがふつうする行動どおりのものだった。それぞれの男女がそれぞれの好みの薬を叫び求め、だれもそれをもってくる者はいなかった。それぞれが場所を開けろと叫んだが、それと同時に、同情の対象をグルリとりまいて、念入りにも開けるべき場所をふさぎ、全員が、自分だけではできると思ってもいないことを、どうしてほかのだれかがしないのだろう? とふしぎがっていた。
だが、宿屋の女主人はそうした連中のだれよりも頭の回転が早く、行動力があり、ことの軽重をだれより早くさとった女で、熱くしたわずかの水割りブランデーをもってすぐに走りこんでき、彼女のあとに下女がつづき、|酢《す》、|鹿角精《ろつかくせい》(もと雄鹿の角からとった炭酸アンモニウム、気つけ薬)、かぎ薬(炭酸アンモニウム剤の気つけ薬)、その他そうした気つけ薬を運びこんできた。こうした薬が使われて、子供はある程度回復し、弱々しい声が彼らに礼を述べ、心配そうな顔をしてそばに立っていたあわれな先生のほうに手をさしだせるようになった。それ以上の言葉を話させようとはせず、それ以上指一本でも動かすのを許さずに、女たちは、すぐに彼女を寝台に運び、彼女を温かに寝具でくるみ、冷えた足を洗い、それをフランネルでつつんで、使いを出して医者を呼んだ。
うね織りの黒|繻子《しゆす》のチョッキの下に鎖の飾りの印形の大きな束をぶらさげた赤っ鼻の紳士の医者は、大急ぎでかけつけ、あわれなネルの寝台のわきに坐って、懐中時計をとりだし、彼女の脈搏を計った。それから彼女の舌を調べ、また脈搏を計り、そうしながら、ボーッと心をうばわれたように、ほとんど|空《から》になったぶどう[#「ぶどう」に傍点]酒のコップをジーッとみつめていた。
「与えるものといえば――」医者はとうとう口を開いた、「ときどき、茶さじ一杯の熱くした水割りブランデー」(ここのあたりから女主人と医者のやりとりは、H・フィールディング(一七〇七―五四)の『トム・ジョウンズ』(一七四九)、七巻、十三章からとったもの)
「まあ、それをいま、したとこなんですよ!」満悦の女主人はいった。
「それに」階段においてあった足湯用の小だらいのわきをとおりぬけてきた医者はいった、「それにまた」託宣をくだすような声で、医者はいった、「この|娘《こ》の足を湯につけ、それをフランネルでつつんでやるね。その上」さらに厳粛な態度で医者はいった、「夕食にはなにか軽いもの――焼き鳥の|翼肉《つばさ》でもね――」
「おやまあ、いま台所でそれをお料理しているとこなんですよ!」女主人は叫んだ。たしかにそのとおりだった。先生はそれを料理するように注文し、それが、いま、上々の進行ぶりを示していたので、医者はそのにおいをかごうとすれば、かげたはずのものだった。たぶん、彼はそれをかいでいたのだろう。
「それから」重々しく立ちあがりながら、医者はいった、「ぶどう[#「ぶどう」に傍点]酒が好きだったら、温めて香料を入れた甘い赤ぶどう[#「ぶどう」に傍点]酒を飲ませたらいいね――」
「それにトーストですか?」女主人はいってみた。
「そう」威風堂々とした態度で譲歩する男の口調で、医者はいった「トースト――パンのね。だが、おねがいしますぞ、特にうるさくそれはパンのトースト(トーストには、ほかに「乾杯」「祝杯」の意がある)にしてくださいよ、奥さん」
この別れぎわの命令をゆっくりとものものしく伝えて、医者は帰っていったが、一家の者は、自分たちの知識とこうもピタリ一致している医者のすごい知識に驚嘆していた。医者はとても賢い人、人の|からだ《コンステイテユシヨン》のことを完全に心得てる、と全員声をそろえていっていたが、たしかに人間の|気質《コンステイテユシヨン》を知っていると考えてもよい理由はあったわけだった。
食事の準備をしているあいだ、子供は元気をつけてくれる眠りに落ちこみ、食事の用意ができたとき、宿の者は、この眠りから彼女を起さなければならなかった。彼女の祖父が下にいると知ったとき、彼女はひどく不安そうなようすをあらわし、ふたりがべつべつになっていると考えて、とても心配していたので、老人は彼女といっしょに食事をすることになった。この点で彼女がまだひどく心配していたので、奥の部屋に彼の床がつくられ、彼は間もなくそこにひきあげていった。この部屋の鍵は、幸運にも、たまたまネルの部屋のドアの向う側にかかるものだったので、宿の女主人がひきさがったとき、ネルは、老人の部屋の鍵をかけ、感謝にあふれた気持ちで自分の寝台にはいもどっていった。
先生は、もう人気のなくなった台所の炉のそばでパイプをくゆらしながら、ながいこと坐り、とてもうれしそうな顔をして、じつに好都合にも子供の援助にめぐりあうことになった幸運を考え、彼なりの素朴なやり方でできるだけ、女主人の細かな質問を受け流そうとしていた。女主人としては、ネルの生涯と来歴の細かな点をなんとか知ろうと、好奇心を燃え立たせていたからだった。このあわれな先生はじつに率直で、いつわりのきわめてふつうな術策もほとんど心得ていなかったので、彼がたまたま女主人の知りたがっている点を知らないのでなかったら、彼女は、最初の五分間は、絶対に成功をおさめるところだった。先生は、じっさい、なにも知らない、と彼女にいっていた。女主人はこうした保証の言葉では絶対に納得せず、それを質問にたいするたくみないいのがれと考え、もちろん、その理由はあるのでしょう、と応じた。宿の客のことをほじくり立てるなんて|滅相《めつそう》もないこと、お客さんはお客さん、あたしはあたし、係わりはないんですからね。自分はただ儀礼的にたずねただけのこと、それが儀礼的な返事を受けるものと、たしかに知ってましたよ。よーくわかってます、まったくね。自分としては、むしろ、そのことは話したくない、とズバリいってほしかった、それのほうがはっきりとし、よくわかることだから。だが、もちろん、こちらで気をわるくする筋はないわけ。これをいちばんよく判断できるのはあなた、好きなことをいう権利は、そっくりそちらにあるんですからね。その点は絶対に議論の余地のないとこですよ。まあ、ほんと、そうですとも! といったわけだった。
「ほんとうです、おかみさん」おだやかな先生はいった、「たしかにありていの事実をお伝えしたんです。絶対まちがいなし、事実をお伝えしたんですよ」
「じゃ、そんなら、あんたが本気でいってると信じることよ」すぐに上機嫌になって、女主人は答えた。「あんたにうるさくいって、わるかったことね。でも、好奇心というものは、あたしたち女のもってるたたりなの。これはたしかに事実よ」
宿屋の主人は困ったといったふうに頭をかいたが、それは、そのたたりがときには男にもあるといわんばかりのふうだった。が、それをいおうと考えていたにしても、それは、先生の応答でおさえられてしまった。
「もちろん、ぶっつづけに何時間でも質問して結構ですよ。よろこんでそれに応じ、返事ができるものなら、今晩のご親切にたいしてだけでも、わたしは辛抱強く答えるところなんですがね」彼はいった。「ところがその返事は、わたしにはできないこと、どうか明日の朝、あの|娘《こ》によく注意し、彼女の具合いを早くわたしに知らせてください。それに、三人の支払いはわたしがしますよ」
こうしてすっかり仲よしになって(この最後の言葉で親しみはなお増大したのだろうが)、先生と宿屋の主人夫婦は、それぞれ寝所にひきあげていった。
翌朝の報告は、子供の調子はよくなっているが、ひどく弱っている、旅に出る前に、少なくとももう一日の休養とゆきとどいた看護が必要だろう、ということだった。先生はこの知らせをとてもよろこんで受けとり、まだ一日――そう、たしかに二日――は余裕があるので、十分に待っていられる、と伝えた。患者が夕方に床で起きあがることになっていたので、ある時刻に彼女の部屋にゆくことを約束して、先生は本をもって散歩に出かけ、その時間になるまでは、もどって来なかった。
ふたりだけになったとき、ネルは泣かずにはいられなくなった。その姿をみ、彼女の青ざめた顔とやつれたからだつきをながめて、誠実な心の持ち主の先生もちょっと涙を流したが、それと同時に、涙を流したりするのはじつにバカげたこと、その気になれば、苦もなく泣かずにいられるものだ、と力強くいった。
「わたしたちが先生の負担になると思うと」子供はいった、「こうしたご親切を受けながらも、心が暗くなります。どうお礼をしたらいいのでしょう? 家から遠くはなれたところで先生にお会いできなかったら、わたしは死んでしまい、おじいさんはひとりぼっちになったことでしょう」
「死ぬ話はやめにしよう」先生はいった。「そして、負担といえば、わたしの小屋にきみが泊ったあとで、わたしはお金持ちになったのだよ」
「まあ!」子供はうれしそうに叫んだ。
「うん、そうだよ」彼女の友は答えた。「ここから遠くはなれた村――わかるだろうが、以前の村から遠くはなれた村――で教会書記(教区教会の応答歌の指揮をし、その他の任務を担当する役員)と先生に任命され、年収は三十五ポンドにもなるのだよ。三十五ポンドなんだよ!」
「とてもうれしいわ」子供はいった――とっても、とってもうれしいわ」
「いまその村にゆこうとしているのだ」先生は話をつづけた。「駅馬車の代金――道中ズッと駅馬車の屋根席の代金をもらっているのだよ。まったく、よく金を出してくれる村の人たちだ。だが、着任の日までたっぷり時間があったので、歩いていこうと決心したわけ。歩いてほんとうによかったと思っているよ!」
「ほんとうにうれしいことだわ!」
「そう、そう」椅子で落ち着かずにからだを動かしながら、先生はいった、「たしかに、そのとおり。だけど、きみは――どこにゆこうとしているのだね? どこから来たのかね? 別れてからなにをしていたのだね? その以前にはなにをしていたのだね? さあ、いっておくれ――ぜひいっておくれ。こちらは世間のことにうとい身、きみに忠告する資格をわたしがもっているというより、世間のことでは、きみのほうこそわたしに忠告する能力があるというとこだろう。が、わたしはとても誠実な気持ちはもっているし、きみを愛する理由(それはきみも忘れていないはず)があるのだ。あのとき以後感じているのだが、死んだあの子にたいする愛情が、その臨終の床に立っていたきみに乗りうつったような気持ちになっている。もしこの子供が」目をあげて、彼はいいそえた、「灰から生れでた美しいもの(アラビアの砂漠にいる不死鳥フェニックスは五百年ごとに身を焼き、その灰から甦生すると伝えられている)だとしたら、この齢ゆかぬ子供を愛情こめてやさしく育てるとき、子供の安らぎがわたしといっしょに大きくなりますように!」
正直者の先生のはっきりとした率直な親切、その言葉と態度にみえる愛情こもった真剣さ、その言葉とようすにきざみつけられている誠実さは、彼にたいする信頼感を子供にもたせることになったが、こうした信頼の気持ちは、どんなに|手練《てれん》|手管《てくだ》を弄してみせかけだけのいかさまをしても、この子供の胸に絶対に生じないものだったろう。彼女は彼にすべてを打ち明けた――友も親戚もないこと――精神病院と老人がおそれているすべてのみじめさから救いだすために、老人といっしょに逃げだしたこと――老人を彼自身から救いだすために、いまも逃げていること――遠くはなれた素朴などこかいなかの収容所にはいるつもり、そこだったら、老人の抵抗できない誘惑は絶対にあらわれず、いままでの彼女の悲しみと苦しみも味わずにすむことだろう、がその内容だった。
先生は彼女の話をひどくびっくりして聞いていた。「この子供が!」――彼は考えていた――「この子供が強い愛情と正しさの意識だけにささえられて、すべての疑惑と危険のもとで雄々しくがんばり、貧困や苦しみと闘ってきたのだろうか! だが、それにしても、こうした英雄的な行為は、この世にあふれているのだ。この上なくつらい、しかも、この上なくりっぱに堪えてゆく苦難は、地上のどの記録にも書きしるされず、しかも、毎日味われている苦難だということを、わたしはまだ知らないでいたのだろうか! そして、この子供の話を聞いて、わたしは驚かなければならないのだろうか!」
それ以上どんなことを彼が考えたり語ったりしたかは、問題ではない。彼がゆく村にネルと彼女の祖父が同行し、そこで、なにかささやかな仕事を彼らにみつけ、暮しが立つようにするために彼が努力することに、話はきまった。「話はきっとうまくいくよ」先生は勢いよくいった。「こんなりっぱな行動は、失敗するはずがないのだからね」
彼らがゆくのと同じ道をある距離進んでゆく駅伝大型荷馬車が、馬を換えるためにこの宿屋でとまり、わずかの礼金で御者がネルを車の中に乗せてくれるみこみがついたので、翌日の晩に出発することになった。荷馬車が到着したとき、この話はすぐにつき、子供は気持ちよくやわらかな荷物のあいだに乗せられ、先生と老人は、御者のわきを歩いて、馬車は、やがてゴロゴロと音を立てて動きだした。この宿屋の女主人やその他の人びとは「ご機嫌よう」、「さようなら」の挨拶を金切り声で叫んでいた。
馬につけた鈴のチリンチリンという音、ときおりの御者の立てる|鞭《むち》の音、大きな車輪のなめらかな回転、馬具の立てる音、歩幅の短い小さな馬に乗ってノロノロと進んでゆく旅行者の、陽気な夜の挨拶の声に耳を傾けながら、ゆっくりと進んでいく山のような荷馬車の中で横になっているのは、なんという安らかで、|贅沢《ぜいたく》な、|眠気《ねむけ》をさそう旅行法だろう! そうした外の物音は、厚いおおいのために、気持ちのいいぼんやりとした音になり、そうしたおおいは、眠りこむまでその下でなにもせずに音に聞き入っている者のためにつくられたような感じだった。枕の上で頭をユラユラとさせ、なんの苦しみも疲労もなく進んでゆき、こうしたすべての物音を、感覚を安らかにしてくれる夢のような子守り歌として聞いていると漠然と考えながら眠りに沈み――ゆっくりと目をさまし、前方で半分開いている風とおしのいいカーテン越しに、はるか頭上に無数の星がきらめいている寒々とした虚空をジッとみつめたり、下のほうでは、沼沢地帯の同じ名の|きつね火《ジヤツク・オ・ランターン》のように踊っている御者の|カンテラ《ランターン》を、横のほうでは、黒々としたおそろしい木々を、前方では、グングングングンとのぼってゆき、あげくの果ては、先にはもう道はない、向うはすべて空といったように、鋭い高い尾根でいきなりとまっているながいむきだしの道をながめている自分自身に気づくこと――それに、馬にまぐさを与えるために宿屋で車をとめ、助けられて車の外に出て、炉の火とろうそくが燃え立っている部屋につれこまれ、そこの明るさでひどく目をパチパチとさせ、寒い夜だと気持ちよく知らされ、心の楽しみのために、外がじっさいより寒いと思いこもうとする楽しさ――荷馬車での旅は、なんと楽しい旅だろう!
それにつづく前進――最初はじつに新鮮な気持ちになっているが、あとではとても眠くなる旅。郵便馬車がランプをキラキラと輝かせ、|蹄《ひづめ》の音を高くひびかせ、足を冷すまいとしてうしろで立ったままでいる車掌の姿や、目をパッと見開き、狂乱状態で|呆然《ぼうぜん》としたようになっている毛皮帽子をかぶった乗客の紳士の姿をチラリとみせて、大通りを流星のようにふっとんでゆくとき、ぐっすりとした眠りからハッと目をさまされること――監視人が寝こんでしまい、かすかな灯りが燃えている上の小さな小部屋で寝具の下からつまったような声で返事が聞えるまでドアをたたきつづけたあげく、ようやくナイトキャップ姿でからだをふるわせながらそこの監視人がおりてきて、門をひろく開き、昼間以外に荷馬車の通行はぜんぶ禁止したらいいのに、なんぞとつぶやいている道銭取立門での車の停止。夜と朝のあいだの冷えきったピリッとする合い間――遠くみえる光の|条《すじ》がひろがってのび、灰色から白に、白から黄色に、黄色から燃え立つ赤に変っていくようす――明るさと生命をともなった昼間の到来――|鋤《すき》を動かしている人馬――木や生垣の中にいる鳥、人気のない畠でガラガラと音を立てて鳥を追い立てようとしている少年。町への到着――市場でせわしく動いている人たち、居酒屋の中庭のまわりにある軽荷馬車とふたり乗り二輪軽装馬車、戸口に立っている商人、街路で馬を走らせている馬商人、遠くのきたない場所ではねあがってブーブーと鳴き、脚にながいひもをつけて逃げだし、きれいな薬屋の店にとびこみ、店員の|箒《ほうき》で追い立てられる豚、馬を換えている夜行駅伝乗合馬車――ひと晩で三カ月分もの髪の毛がのびてしまった、陰気な、冷えきった、醜悪な、不満の色を浮べている乗客――箱からとりだしたばかりの品物のようにスマートで、乗客にひきくらべてじつに美しくみえる御者――すごい雑踏、動いているじつに多くのもの、いろさまざまな事件――荷馬車でのあの旅ほど多くの楽しみが味えた旅は、かつてあっただろうか?
ときどき、老人が馬車に乗りこんだとき、一マイルか二マイル歩き、ときには説きつけて、先生を自分にかわって車の中で横になって休ませたりして、ネルは幸福感を味いながら旅をつづけ、とうとう大きな町にやってきたが、そこで荷馬車はとまり、そこで彼らは一夜をすごすことになった。彼らは大きな教会のわきをとおり、通りにはたくさんの古い家が立ちならんでいたが、それは、土か|漆喰《しつくい》といったものでつくられ、そこには、黒い|梁《はり》が縦横に入れられていて、特徴のある、とても古びた外観を示していた。ドアもまたアーチ型で低いもの、|樫《かし》づくりの入り口や奇妙なベンチがついているものもあったが、このベンチはそこの以前の住人が夏の宵に腰をおろしたベンチだった。窓は小さなダイヤモンド型のガラスで格子づくりにしたもの、そのガラスは、目がよくみえないといったように、通行人に目をパチパチさせていた。一、二の孤立した場合はべつにして、一同は、もうとっくに、煙と溶鉱炉の場所からぬけだしていたが、そうした例外的な場所では、野原の中に建てられた工場が、燃え立つ山のように、周囲の地区を枯れしぼませていた。この町をとおりぬけたとき、あたりはふたたびいなかの風景になり、もう、目的地に近くなっていた。
しかし、近いといってもそう近いわけではなく、道中でもうひと晩をすごすことになった。こうして泊ったのは、どうしても必要だったわけではなく、目的の村へもう数マイルになったとき、先生が新しい教会書記としての威厳を気にしだし、きたない靴をはき、旅でよごれた服装をして村にはいるのをいやがったためだった。晴れて澄んだ秋のある朝、一同は、先生の昇進の場所に近づいてゆき、足をとめて、そこの美しさにみとれていた。
「ごらん――ここに教会があるよ!」先生はよろこんで低い声で叫んだ。「そのすぐそばにある古い建物は、きっと、学校だよ。こんな美しい場所で年に三十五ポンドももらえるなんて!」
すべてのものが、驚嘆の的になった――古い灰色の教会の玄関、縦仕切りのついた窓、緑の墓地に点在している古い墓石、古い塔、鶏の形をした|風見《かざみ》、木のあいだから姿をのぞかせている小屋の褐色の|萱《かや》ぶき屋根、納屋、農場、遠くの水車小屋のわきをせせらぎの音を立てて流れている小川、はるかかなたのウェイルズの青い山々。密集した、暗い、みじめな労働の巣窟ともいうべき場所で彼女があこがれ求めていたのは、こうした場所だった。灰の床の上で、ふたりが強行突破してきたきたならしいゾッとする物につつまれて、こうした景色の幻影――美しくはあっても、ここの美しい現実よりはもっと美しいとはいえない景色の幻影――が彼女の心にいつも浮んでいた。そうした美しい景色をふたたび目にするみとおしが影の薄いものになったとき、そうした幻影は、ぼんやりとしたはかない遠くに|融《と》けていってしまったようだった。だが、遠くかなたのものになればなるほど、そうしたものにたいする彼女のあこがれの情は、ますますつのっていったのだった。
「何分間か、きみにどこかにいてもらわなければならないね」よろこびにつつまれてひたっていた沈黙をとうとう破って、先生はいった。「提出しなければならない手紙があるし、いろいろとたずねてみなければならないことがあるのでね。きみをどこにつれていったらいいだろう? 向うの小さな宿屋にするかね?」
「ここで待っています」ネルは答えた。「門は開いていますから、おもどりになるまで、わたしたちは教会の玄関で坐っていましょう」
「その上、いい場所でもある」先に立ってそちらのほうにゆき、旅行カバンを背からはずし、それを石の座席の上において、先生はいった。「きっといい知らせをもってもどってくるよ。それに、ながく時間がかかりはしないよ!」
こういって、うきうきした先生は、道中ズッとポケットの小さな包みに入れてもってきた真新しい手袋をはめ、意気ごみ興奮して、とびだしていった。
子供は、途中の木の葉が彼の姿をかくしてしまうまで、玄関から彼をジッと見送り、それから、静かに古い墓地にはいっていった――そこはとても厳粛で静かな場所、小道をうずめて彼女の足音を消してしまった落ち葉にふれて彼女の服が立てるサラサラという音さえ、そこの静けさへの闖入と思われるほどだった。そこはとても古びた、幽霊の出そうな場所で、教会は何百年も前に建てられ、かつては、そこに付属の尼僧修道院か男子修道院があったのだった。廃墟になったアーチ、張出し窓の残骸、黒くよごれた壁のなごりがまだ立ち、くずれ倒れてしまったこの古い建物ののこりの部分は、墓地の土といっしょになり、草ですっかりおおわれて、そうしたものも埋葬地を求め、その遺骸を人間の遺骸のあいだに埋めたがっているようだった。古いむかし時代のこうした墓石のすぐそばに、近代になって骨を折って住めるようにした廃墟の一部として、ふたつの小さな住み家があり、落ちくぼんだ窓と|樫《かし》のドアがつき、うつろでガランとした姿で、衰滅への道を急いでいた。
こうした建物に、子供の注意はすいつけられた。その理由は、彼女にはわかっていなかった。教会、廃墟、古びた墓石は、少なくともここにはじめて来たよそ者の注意を同じようにひきよせるものだったが、目がこのふたつの住み家に向けられた瞬間から、彼女は、ほかのどんなものにも目を向けることができなくなった。この構内をひとまわりし、教会の玄関のところにもどって、先生のもどってくるのを待って、物思いに沈みながら坐っていたときでさえ、彼女は、その住み家が目にはいる場所をえらび、その場所に魅せられたような気分になっていた。
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キットの母親と独身男――ここで足を急がせてそのあとを追わなければ、この物語は不統一の責めをまぬがれなくなるし、登場する人物を不安と疑惑の情勢のまま放りだしにしたというそしりも受けることにもなるだろう――キットの母親と独身男は、公証人の家の戸口からの出発をもうお伝えした四頭立ての駅伝馬車でグングンととばし、間もなくロンドンをあとにし、ひろびろとした本街道を、車輪の火花を散らしながら、突っ走っていった。
この善良な女性は、自分の新しい立場に少なからずとまどい、また、チビのジェイコブか赤ん坊、さもなければその両方が火に落ちこんだのではないか? 階段をすべり落ちたのでないか? 喉が渇いたためにやかんの口から水を飲もうとして喉笛に|火傷《やけど》をするのではないか? などと気をもんで、不安な沈黙をつづけていた。道銭取立門の監視人、乗合馬車の御者、その他の人たちと車の窓から目をかわして、新しい重大な立場を意識していたこの夫人の感情は、葬式の会葬者の気持ちといったものになっていた。そうした会葬者は、故人の死はどうと気になるものではなく、葬式用の馬車の窓からふだんつき合っている人の顔を認めはするものの、しかるべき厳粛な態度を破るわけにはいかず、外のすべてのものにたいして無関心な態度をよそおわなければならないからである。
独身男を相手にして無関心な態度をとれたら、鋼鉄の神経をもっているともいえたことだったろう。この男のように落ち着きのない紳士を、どんな馬車も馬も相手にしたことはなかった。二分間と同じ姿勢でいることはなく、たえず腕や脚をふりまわし、窓わくをひきあげたかと思うとドシンとおろし、ひとつの窓から頭をつきだしたかと思うとすぐにそれをひっこめ、べつの窓からまた頭をつきだしていた。また、彼はポケットになにかわけのわからぬ神秘的なふうに組み立てられた発火箱(三十章で燐箱として出てくるもの)を持参し、たしかにキットの母親は目を閉じていたが、その事実とおとらずたしかに、――サッ、ガタガタ、シュッ――独身男は炎で懐中時計をしきりにながめ、御者がまだ馬をとめないうちに、自分もキットの母親も生きながらの丸焼けになる可能性なんかあるもんかといったふうに、|藁《わら》のあいだに火花をまき散らしていた。馬を換えるためにとまったときには、いつも、彼はそこにいた――馬車の階段をおろすこともせずに車からとびだし、火をつけた爆竹のように宿屋の中庭をとび歩き、ランプの灯りで懐中時計をひっぱりだし、それをみるのも忘れてまたポケットにしまいこみ、一言で申せば、じつに途方もないことをあれこれとやらかしていたので、キットの母親は、最後には、この彼がこわくなったほどだった。ついで馬が馬車につけられると、彼は道化役のハーレクウィン(古代イタリア喜劇や現代の無言劇での道化役)よろしくの態度で馬車に乗りこみ、一マイルもまだ進まぬうちに、懐中時計と火箱がいっしょにとびだし、キットの母親はパッチリと目をさまし、つぎの宿場に着くまで一睡もできぬということになった。
「気分はいいですかね?」こうした放れ業をしたあとでサッとふり向いて、独身男はいつもたずねていた。
「ええ、とっても、ありがとうございます」
「ほんとにそうですかね? 寒くはありませんかね?」
「ちょっと寒いですわね」キットの母親は答えていた。
「それはわかってたんだ!」前のガラス窓のひとつをおろしながら、独身男は叫んだ。「水割りブランデーがいくらか必要なんだ! もちろん必要さ。どうして忘れたんだろう? おい! つぎの宿屋でとまり、熱い水割りブランデーを注文してくれ」
そうしたものはぜんぜん必要としていない、とキットの母親がいくらいっても、むだだった。独身男は情け容赦のない人物、落ち着きなさのあらゆる形態と方法を使いつくすと、いつもかならず、キットの母親に水割りブランデーが必要ということが、彼の心に思い浮んできた。
こんなふうに彼らは真夜中近くまで旅をつづけ、車をとめて夕食をとることになった。この食事のために、独身男は宿にある食べられるかぎりのものすべてを注文し、キットの母親がすべての食物を一度に、しかもぜんぶ食べないからといって、彼女は病気にちがいない、と思いこんだ。
「気が遠くなりそうになってるんだ」部屋をただ歩きまわってばかりいる独身男はいった。「奥さん、どう具合いがわるいのか、こっちにはちゃんとわかってますぞ。あんたは気が遠くなりそうになってるんだ」
「ありがとうございます。でも、たしかに、そうではないんですよ」
「そうだと、こっちにはちゃんとわかってるんです。それはもう、まちがいのないこと。あわれにもこの女性をいきなり家族の中からひきだし、わたしの目の前で、だんだんと気が遠くなりそうになってるんだ! この自分はひどい男だ! お子さんは何人いるんですかね、奥さん?」
「キット以外にふたりいます」
「坊やですかね?」
「ええ」
「洗礼は受けましたかね?」
「まだ半分しか受けてないんです(十分に儀式をつくさず、あるいは個人的にあわただしくおこなう洗礼をいう)」
「そのふたりの坊やには、わたしが名付親になってあげますぞ。どうか、それをしっかり憶えててくださいよ。温かくした香料入りのぶどう[#「ぶどう」に傍点]酒をちょっと飲んだらいいでしょう」
「じっさい、一滴も飲めないんです」
「飲まにゃいかんのです」独身男はいった。「そちらにそれが必要なのは、わかってるんです。前に気づきゃよかったんだが……」
すぐに呼びりんのあるところにとんでゆき、溺死しかけた人間を蘇生させるのにすぐ必要といったふうに、すごい勢いで香料を入れたぶどう[#「ぶどう」に傍点]酒を注文し、とても熱くしてあるぶどう[#「ぶどう」に傍点]酒を大さかずきにいっぱいグイッとキットの母親に飲ませたので、彼女の顔には涙が流れ落ちてきた。それがすむと、彼は急いで彼女を馬車の中におしこみ、そこで――まちがいなくこの気持ちのよい鎮静剤の効果によるものなのだろうが――彼女はすぐに、独身男の落ち着きなさには|無頓着《むとんちやく》になり、ぐっすりと眠りこんでしまった。また、この処方のありがたい効果は、一時的のものではなかった。独身男が考えていたより距離は大きく、旅はながいものとなったが、もう真っ昼間になるまで彼女は目をさまさず、目をさますと、馬車はある町の舗道をガラガラと走っていた。
「ここが目的地だ!」ガラス窓をぜんぶおろして、独身男は叫んだ。「ろう人形のとこにいってくれ!」
うしろの馬に乗った御者は、帽子に手をやり、華やかな乗りこみをおこなおうと、自分の馬に鞭を当て、四頭がそろって|粋《いき》な駈け足歩調になり、すごい音を立てて街路を突っ走り、市民はその物音に驚いて戸口や窓のところまでとびだし、町の時計が八時半を報じたとき、その地味な鐘の音をすっかり聞えなくしていた。馬車は、人が群れ集っているある家の戸口までいったとき、そこでとまった。
「これはなにごと?」頭をつきだして、独身男はいった。「ここでなにかが起きたんですかね?」
「結婚ですよ、結婚ですよ」幾人かの声が叫んだ。「万歳!」
独身男は、このさわがしい人の群れの中心に自分がなっているのに気づいて、ちょっととまどい、第一列左馬騎手の助けで車からおり、キットの母親を助けて車からおろし、それをながめて、人びとは「さあ、もうひとつ結婚式だぞ!」と叫び、よろこびの喊声をあげて踊りあがった。
「どうやら、世間は頭がいかれたようだぞ」花嫁と思いこまれた女性をともなって、人の群れをおしわけて進んでゆきながら、独身男はいった。「ちょっとさがってください、ノックをしますからな」
物音を立てるものならなんでも、群集に満足のいくものになっていた。たくさんのきたない手がすぐふりかざされ、彼にかわってノックし、このときのこのノッカーほど耳を|聾《ろう》せんばかりの大きな音を立てたノッカーはまだないと思われるほどだった。こうして自発的な奉仕をしてから、群集はちょっと遠慮して退き、その責任は独身男だけにしょってもらおうということになった。
「さて、どんなご用事ですかね?」ドアを開き、平然として彼の真向かいに立って、ボタン穴に大きな白い弓をつけた男がいった。
「ここで結婚したのは、だれなんです?」独身男はたずねた。
「わたしですよ」
「あんたが! いったい、だれとです?」
「そんなことをたずねたりするどんな権利が、そちらにあるんですかね?」ジロジロと相手をながめまわして、|花婿《はなむこ》は応じた。
「どんな権利ですって?」キットの母親の片腕を前よりもっとしっかり自分の腕にとおして、独身男は叫んだ。この善良なる夫人は、明らかにそこから逃げだそうと考えていたからだった。「きみが夢にも思ってない権利があるんですぞ。いいですかな、みなさん、もしこの男が未成年者と結婚しようとしているんだったら――チェッ、チェッ、そんなことはあるもんか。ねえ、きみ、ここにいる子供はどこにいるんです? その名はネルというんですがね……。どこにいます?」
彼がこう質問し、キットの母親もそれと同じ質問をすると、近くの部屋にいただれかがすごい金切り声をあげ、白い服を着た太った女性がドアのところに走りだし、花婿の腕に身を寄せかけた。
「あの|娘《こ》はどこにいるんです?」この婦人は叫んだ。「どんな知らせをもってきてくれたんです? あの娘はどうなりました?」
独身男はギクリとし、以前のジャーリー夫人(詩人のスラム氏が永遠に怒り絶望したことだったが、この朝、彼女はあのさとりすましたジョージと結婚したのだった)の顔を、不安、失望、不信の矛盾した表情を浮べて、ジッと穴のあくほどみつめていた。とうとう、彼はどもりどもりいった、
「あの娘がどこにいるかをあんたに[#「あんたに」に傍点]たずねてるんですぞ。これはどういうことです?」
「まあ」花嫁は叫んだ。「あの娘のためになにかしてやろうとおいでだったら、どうして一週間前にここに来てくださらなかったんです?」
「あの娘が、まさか――死んだんじゃないんでしょうな?」真っ青になって、相手はたずねた。
「いいえ、それほどのことではありません」
「ありがたい!」がっくりして独身男は叫んだ。「中に入れてください」
彼を入れるために、花嫁花婿は道を開き、彼が中にはいると、戸は閉められた。
「ごらんのこのわたしは」新婚夫婦のほうに向いて、彼はいった、「さがしているあのふたりのためなら命を投げだしてもいいと思ってる男なんです。あのふたりには、このわたしがわからんでしょう。この顔は彼らの知らん顔なんです。だが、ふたりが、それとも、どちらかがここにいるんでしたら、この女性をつれていき、最初に彼らにこの女性を会わせてください。ふたりとも、この女性のことなら知ってるんですからな。あなた方がなにか勘ちがいし、彼らのことを考え心配して、彼らに関係はないといわれるのでしたら、この女性を彼らの古なじみとして認めることで、わたしの意図がどんなものかを判定してください」
「あたしがいつもいってたことよ!」花嫁は叫んだ、「あの子がなみの|娘《こ》じゃないのは、わかってたんです! ああ! お助けする力はこっちにありませんよ。できるだけのことはやってみたんですが、なんの効果もなかったんですからね」
こういって、はじめて会ったときから彼らの突然の|失踪《しつそう》のときにいたるまで、ネルとその祖父に関することを、彼らは洗いざらい彼に伝え、さらに、(これは嘘いつわりのないことだったが)なんとかふたりのあとを追おうとできるだけのことをしたが、どうにもならなかった、とつけ加えた。これは、彼らのいきなりの失踪で将来いつか自分たちにかけられるかもしれない疑惑にたいする心配ばかりでなく、ふたりの身の安全が、最初、ひどく不安になったためにとった処置だった。彼らは、老人の頭がおかしくなっていたこと、彼がいなくなったとき、子供がいつも示していた不安、老人がつき合っていたらしい仲間、しだいに彼女に忍び寄り、彼女の健康と気分を変えていった気落ちのたかまりについて、くわしく話をした。夜彼女が老人の不在に気がつき、彼がどこにいったかを知っていたか、推測して、そのあとを追っていったのかどうか、それとも、ふたりがつれ立って家を出ていったかどうか、彼らとしてはきめかねていた。ふたりの便りを耳にするみとおしはまずないこと、その失踪の原因が老人なり子供なりにあるにせよ、ふたりがもどってくるみこみはぜんぜんないことは、もうたしかなこと、と彼らは考えていた。
こうした話すべてを、独身男は、悲しみと失望におしひしがれたように、ジッと聞き入っていた。老人の話が出たとき、彼は涙を流し、ひどく苦しんでいるようだった。
物語のこの部分をダラダラとつづけたりはせず、ながい話をきりつめるために、この会談が終わるまでに、独身男は真実をすっかり聞いたものと確信し、だれにもかえりみられなかった子供にしてくれた親切にたいする感謝の心を新婚夫妻にむりやりにもおしつけようとしたが、夫妻はそれを固く辞退した、ということだけをお伝えするにとどめよう。最後に、幸福なこの夫妻は、大馬車でユラユラとゆられながら、いなかでの蜜月旅行に出かけ、独身男とキットの母親は、物悲しげに馬車の戸口の前に立つことになった。
「どこに参りましょうか?」御者はたずねた。
「そう、いってもらいたいんだがね」独身男はいった、「ええと――」「宿屋へ」という気はなかったが、キットの母親のことを考えて、彼はそういい、こうしてふたりは、宿屋に車を走らせた。
ろう人形の説明をしていた小娘が貴族の娘で、赤ん坊のころに親のもとから|誘拐《ゆうかい》され、ようやくさがしだされた、といううわさがもうひろく流れていた。彼女が皇族、公爵、伯爵、子爵、男爵のいずれの娘かという点で意見はわかれていたが、根底となる話、独身男が彼女の父親である点では意見が一致し、彼ががっくりとして四頭立ての馬車で走り去ったとき、たとえその貴族的な鼻の端なりともひと目みようと、人びとはからだを乗りだしていた。
ちょうどこの瞬間に、子供と老人が古い教会の玄関で腰をおろし、先生のもどってくるのをジッと待っていたのを知るためだったら、彼は惜しみなくどんなものでも投げだしたことだろう。また、この事実を知ってさえいたら、どんなに大きな悲しみが彼の心からとりのぞかれたことだろう!
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独身男とその任務についての人びとのうわさは口から口へと伝えられ、いいふらされるにつれて、この物珍しい話はどんどんとふくらみあがっていった――ことわざに出てくるころがりまわる石(そうした石には苔がつかない――しばしば商売(住所)を変える人には金がたまらない、の意で用いられる)とはことちがって、人のあいだに流れるうわさは、あちらこちらといいふらされるにつれて、どんどん|苔《こけ》をつけるものだ。この結果、彼が宿屋の戸口で馬車からおりる姿は、心をワクワクさせる魅力的な光景としてながめられることになり、人びとはあきることなくそれに見入り、たくさんののらくらしている連中がそこに集ってきた。彼らは、最近、ろう人形の展覧会の閉鎖と結婚式が終ったことで、まあ、失業といった状態にあり、独身男の到来をこれぞ|天祐《てんゆう》|神助《しんじよ》といったふうに考え、すごいよろこびの表示でそれをむかえたのだった。
人びとのそうした気分の影響は少しも受けず、沈黙をまもり、ひとりだけになって自分の失望を噛みしめたいと思っている人がみせる気落ちしやつれ果てた顔をして、独身男は車からおり、|慇懃《いんぎん》な暗い態度で手をかしてキットの母親を馬車からおろしたが、この態度は、みていた人たちに深い感銘を与えた。それがすむと、彼は彼女に腕を貸し、家の中につれていったが、何人かの機敏な給仕たちは、道を開け、客を泊める部屋をみせようと、前衛隊のように前を突っ走っていった。
「どの部屋でもいい」独身男はいった。「この近くの部屋であればいいんだ」
「ここはお閉めになって、よろしかったら、こちらにお出でください」
「紳士はこの部屋がお気に召しますかな?」まがりくねった階段の下のところでちょっと奥まったところにあるドアがパッと開き、頭があらわれて、声が叫んだ。「よろこんでおむかえしますよ。五月の花のように、クリスマスの石炭のように、よろこんでおむかえしますよ。この部屋がお気に入り[#「お気に入り」に傍点]でしょうかね? どうぞおはいりください。おはいりいただけたら幸いです、どうぞ」
「まあ、驚いた!」ひどくびっくりし、のけぞりかえりながら、キットの母親は叫んだ、「こんなことがあるなんて!」
彼女がびっくり仰天するのもむりからぬことだった。この愛想のいい招待を申し出た人物は、ほかならぬダニエル・クウィルプだったからである。彼が頭をつきだしていた小さなドアは、宿屋の肉部屋の近くにあり、彼は、そこに立って、グロテスクな|慇懃《いんぎん》さでお辞儀をし、そこの戸が自分の家の戸のようにすっかりくつろぎ、彼がそばにいることで、羊の脚の肉と冷えた焼き鳥をだめにし、地下の食料貯蔵室の悪霊が、なにか危害を加えようと、地下から舞いあがってきたような感じだった。
「おはいりいただけるでしょうか?」クウィルプはいった。
「ひとりでいたいんだ」独身男は答えた。
「おお!」クウィルプはいった。そして、この言葉とともに、彼はスッと姿をかくし、小さなドアをピシャリと閉めてしまったが、それはオランダ時計の時を報じたときの人形の姿のようだった。
「まあ、ほんのきのうの夜のことでしたよ」キットの母親はささやいた、「礼拝堂にあの男を放りだしにしてきたのはね」
「いやあ!」彼女の同乗者はいった。「あの男はいつここに来たんだね、給仕君?」
「夜の駅馬車で、今朝来ました」
「フーン! それで、いつ出かけるんだね?」
「まったく、わかりません。たったいま、寝台が必要かどうかと下女がたずねたら、まず第一に彼女にしかめっ|面《つら》をしてみせ、それからキスをしようとしたんです」
「あの男にこちらに来るように伝えてくれ」独身男はいった。「ちょっとお話をしたいといってくれ。いいかな、すぐ来てくれと伝えるのだ、いいかね?」
給仕は、この命令を受けて、目をむいていた。独身男は、小人をみて、キットの母親におとらずびっくりしたようすをみせたばかりでなく、この小人を少しもおそれていなかったので、遠慮|会釈《えしやく》なく反感と嫌悪の情を露骨に示していたからである。しかし、給仕は、この任務を受けて退き、すぐに目的の人物を案内してもどってきた。
「おそれ入ります」小人はいった。「途中でそちらのお使いと出会ったんです。ご挨拶を申しあげるのをお許しねがえるものと思ってましたんでな。ご機嫌はおうるわしいことでしょうな? とてもおうるわしいことを祈ってますよ」
ちょっと間があり、小人は半分目を閉じ、顔をしかめて、相手の返事を待っていた。返事はかえされなかったので、彼はもっとなじみのある知人のほうにふり向いた。
「クリストファーのお母さんですな!」彼は叫んだ。「まことによいご主人、まことにりっぱな女性、正直者の息子さんに恵まれた方ですな! クリストファーのお母さんのご機嫌はいかがです? 転地でご機嫌うるわしくなりましたかな? お子供さんたちと、それにクリストファーは、元気ですか? 盛んにやってますかな? りっぱな市民になろうとしてますかね?」
質問をかさねるごとに音階をだんだんと高めていって、クウィルプ氏は最後にキーキー声になり、彼にいつも示されているあえぐような顔つきになっていたが、これは、いつわりのものにせよ本物にせよ、彼の顔のすべての表情を消してしまう効果をもち、それは、彼の気分なり意図なりを示す鍵としては、まったく完全な白紙になっていた。
「クウィルプ君」独身男はいった。
小人はたれさがった大きな耳に手を当て、注意を払ってそれを聞いているふりをした。
「われわれふたりは前に会い――」
「たしかにね」うなずいて、クウィルプは叫んだ。「そう、たしかにね。そうしたすごい名誉とよろこび――その両方ですぞ、クリストファーのお母さん、その両方ですぞ――は、そうやすやすと忘れられるもんじゃありませんよ。絶対に忘れられませんな!」
「わしがロンドンに到着し、車でかけつけた家が|空《から》で人気がないのを知ったあの日に、近所の人たちに教えられて、息もつかずに、きみのとこにいったのを知ってるだろうね?」
「あれはまったく火急のこと、それにしても、じつにむきになって、グングンとおやりでしたな!」友人のサムソン・ブラース氏の真似をし、ひとり|合点《がつてん》をして、クウィルプはいった。
「わしにわかったことだが」独身男はいった、「きみはじつになにか不可解なふうについ最近までべつの男のものだったすべての財産をわがものにし、その財産にきみが踏みこんでくるまでは富裕と考えられていたそのべつの男は、いきなり乞食の状態に落ちこみ、家庭から追い払われてしまったんだ」
「わたしたちがしたことにたいしては、支払い命令書が出てるんですよ」クウィルプは答えた、「支払い命令書が出てるんです。追い払ったという言葉も、心外ですな。自分で出ていき――夜に姿を消しちまったんですからね」
「どっちでもいい」腹立たしげに独身男はいった。「ともかく、いってしまったんだ」
「そう、いっちまいましたな」前と変らずムカムカしてくるあの平然たる態度で、クウィルプはいった。「たしかに、いっちまいましたな。ここでのこるただひとつの問題は、どこへ? という問題です。それは、依然として、謎のまま」
「さて、ここで、きみをどう考えたらいいのかな?」きびしく相手に目をすえて、独身男はいった、「そのとききみは、たしかに、こちらにはなにも知らせようとせず――たしかに、あらゆる|狡猾《こうかつ》、いかさま、いいのがれを弄して、自分をかくし、身を守り、しかも、いま、われわれのあとをつけてるんだからな」
「わたしがあとをつけるですって?」クウィルプは叫んだ。
「いやあ、そうじゃないのかね?」ひどくジリジリして、独身男は応じた。「きみは、いまから数時間前、六十マイルはなれたとこで、この善良なご婦人がお祈りをしにいってる礼拝堂にいたんじゃないかね?」
「あの女の人もそこにいたようですな!」まだケロリとした態度をくずさずに、クウィルプはいった。「失礼なことをいわせてもらえば、そちらがこちらの[#「こちらの」に傍点]あとをつけてるのかもしれない、ともいえるわけでしょうが? そう、たしかに礼拝堂にはいましたよ。だからどうだというんです? 巡礼は、旅に出る前に、安全無事な帰還をねがって、礼拝堂にいくことになってた、と本で読んだことがありますよ。まったく賢明な人たちですな! 旅はとても危険なもん――特に駅伝乗合馬車の屋根席ではね。車輪ははずれる、馬はおびえる、御者は突っ走りすぎる、馬車はひっくりかえるでね。こちらは、旅に出る前には、いつも礼拝堂にいってるんです。それは、こうした場合、最後にすることになってるんですよ、まったくね」
顔や声や態度にあらわれているところだけでは、十分|隙《すき》なく、殉教者の心静かな誠実さで事実にすがりついているふうにみえはしたものの、この言葉でクウィルプがじつに調子よく真っ赤な嘘をついてることは、そうたいして洞察力がなくともわかることだった。
「まったく、こっちはジリジリして気がくるいそうになってるんだが」気の毒な独身男はいった、「なにかきみなりの理由で、きみはわしと同じ用件をもってるんじゃないのか、おい? どんな目的でわしがここに来たかを、きみは知らんのか? それを知ってたら、その問題になにか光を投ずることはできんのかね?」
「わたしが魔法使いとでもお思いのようですな」肩をすくめて、クウィルプは答えた。「そうだったら、自分自身の|運勢《フオーチユン》もわかるでしょうし――|身代《フオーチユン》もつくれるでしょうがね」
「ああ! 必要なことはぜんぶしゃべり合ったようだな」イライラしながらソファーに身を投げて、相手は答えた。「どうかひきとってくれたまえ」
「よろこんで」クウィルプは応じた。「大よろこびでね。クリストファーの善良なるお母さん、さようなら。楽しいご旅行――帰り[#「帰り」に傍点]のご旅行を祈りますよ。エヘン!」
こうした別れの言葉を述べ、まったく得もいわれぬ、人間か猿が表現できるすべてのすごいしかめっ|面《つら》をつきまぜたような顔にニッと笑いを浮べて、小人はゆっくりと退却し、ドアをパタリと閉じた。
「オホー!」自分の部屋にもどり、腰に手を当て肘を張って椅子に坐りこんで、彼はいった。「オホー! きみ、きみはそこにいるんかね? まったくな!」
ひどく満悦しているようにクスクスと笑い、顔をねじりあげてありとあらゆる醜悪な人相をし、ついさっきまで顔におしつけた抑制の穴埋めにと、クウィルプ氏は椅子でからだをユラユラとゆすり、それと同時に左脚をかかえこんで、なにか物思いにふけっていたが、その内容をここでお知らせしなければならないだろう。
まず第一に、彼はここまでやってきた事情を思い出していたのだが、それは、簡単にいって、以下のようなことだった。前の晩にサムソン・ブラース氏の事務所に立ち寄り、その紳士と彼の学識ある妹に会えず、彼はたまたまスウィヴェラー氏と会った。彼スウィヴェラー氏は、ちょうどそのとき、熱くした水割りジンを法律の|塵《ちり》の上にふりまき、そうとうたっぷりと、土くれの肉体に酒のうるおしをかけていた。だが、抽象的な土くれが度をすごしてしめってくると、堅実さが弱って不安定なものになり、思いもかけぬところでくずれだし、印象を受ける度合いは弱まり、力強くがっちりとした人柄が消えてしまうように、スウィヴェラー氏の土くれもそうとうの湿気をすいこんで、とてもゆるんだすべっこい状態になり、そこにきざみこまれた印象はそれぞれのはっきりした特徴を|喪失《そうしつ》し、たがいに入りまじったゴッタゴッタのものになっていた。こうした状態にある人間の土くれは、なににもまして、すばらしい慎重さと賢明ぶりを鼻にかけることになるのは、べつに珍しいことではなく、特にスウィヴェラー氏はこうした美質の点では自信満々、二階に下宿している独身男についての奇妙な発見を、このときにもらしてしまった。この発見は、彼が自分の胸にたたみこんでおき、どんなにひどい拷問にかけられ、どんなにうまいことをいわれようとも、絶対にもらすまいと考えていたことだった。この決意をクウィルプ氏はとてもほめ立て、同じ息の下で、スウィヴェラー氏をつき動かして、さらにいろいろと考えを述べさせ、間もなく、独身男がキットの話をしている姿が見受けられ、これが、絶対に暴露することのない秘密であるのを、クウィルプはつかんでしまったのだった。
こうした情報を手に入れて、クウィルプ氏はすぐに、二階の独身男が自分のところにやってきた男と同じ人物にちがいないと見当をつけ、さらに調べあげてこの推測にまちがいのないのをたしかめ、独身男がキットと連絡をとった意図と目的が、自分の以前の客の老人と子供をとりもどすことにあるものと、なんの苦もなく割りだしてしまった。どんな処置がとられようとしているか知ろうとする好奇心に燃え立って、彼は自分の術策にすぐひっかかる人物としてキットの母親に襲いかかろうと決心し、その結果、自分の求めている情報を、たぶん、この彼女から手に入れられるだろうと考えたのだった。そこで、いきなりスウィヴェラー氏と別れ、大急ぎでキットの母親の家にいった。キットの母親は家にいなかったので、その後すぐキット自身がしたように、近所の人にたずね、礼拝堂のことを教わって、そこにおもむき、おつとめが終ったときに、彼女をつかまえようとしていた。
彼が礼拝堂で信心深そうに天井をにらみながら、自分がそこにいることのおもしろさを心中ほくそえんで坐っていたが、ものの十五分もしないうちに、キット自身がそこに姿をあらわした。大山猫のように監視の目をゆるめずにいたので、ひと目みて、小人は、彼が用事でそこにやってきたのをさとった。われわれの知っているとおり、外見では|呆然《ぼうぜん》とし、深い物思いにふけっているふうをしながら、彼はキットのふるまいの|逐一《ちくいち》を観察し、キットが母親たちともどっていったとき、彼のあとを追ってとびだしていった。結局、クウィルプは公証人の家まで彼らのあとをつけてゆき、御者のひとりから馬車のゆく先を知り、いま鐘が鳴りだそうとしているその時刻に、近くの通りから急行の夜行の駅馬車が出発しようとしているのを知り、サッとばかりとんでいって駅馬車の事務所にゆき、屋根の席を確保した。宿場での停止時間の長短、旅行のスピードの変化で、夜のあいだに何回か四頭立ての馬車と追いつ追われつの状態をくりかえして、クウィルプと独身男はほとんど同時に町に到着した。クウィルプは群集にまじって馬車から目を放さず、独身男の任務とその失敗を知り、知らなければならないことはすっかり手に入れて、大急ぎでそこをはなれ、独身男より先に宿屋におもむき、いま述べたばかりの会見をし、この小部屋に閉じこもり、あわただしくこうしたすべての事件を心で検討していたのだった。
「きみ、きみはそこにいるんかね、えっ?」ガツガツと爪を噛みながら、彼はくりかえしていった。「おれが疑われて放りだしになり、キットが腹心の代理人というわけかね、えっ? どうやらやつを処分しなけりゃならんようだぞ。今朝あの老人と子供に追いつくことができたら」考えこんで間をおいてから、彼はつづけた、「そうとうりっぱな要求権を証明でき、利益をあげることもできたんだがな。あのもったいぶった言葉をはいてる偽善者ども、あの少年とその母親がいなかったら、あの老人のお客さんと同じように、あの気性の激しい紳士だって楽々おれの|罠《わな》におびきこめるとこなんだがな。あの老人といえば、おれたち共通の友人というわけだ、ハッ、ハッ!――それに、ぽっちゃりとした、|薔薇《ばら》の肌のネルもな。どんなに低くみつもったって、これはのがすわけにはいかん絶好の機会だ。まず第一に老人とネルをみつけだし、それから、きみからきみの余計な金をまきあげる方法を考えだすことにしよう。きみの友人なり親類なりを安全にとりおさえとく監獄の|桟《さん》なり、さし錠なり、錠前なりがちゃんとあるんだからね。しかつめらしいごもっともなことをいってる連中は、大きらいなんだ!」大さかずきにいっぱいにしたブランデーを投げだし、舌打ちをしながら、小人はいった、「ああ! そんなやつはどれもこれも、大きらいなんだ!」
これは、単に内容のない自慢ではなく、自分のほんとうの考えをちゃんと思いめぐらして語った言葉だった。というのも、愛している者はだれもいないクウィルプ氏は、彼が没落させた客の老人に多少なりとも関係のあるすべての人間を、しだいしだいに憎悪するようになっていた――老人自身は、自分の目をかすめて監視をのがれたため、ネルは、クウィルプ夫人の同情と絶えざる自責の対象となっているため――独身男は、自分にたいしてあからさまな嫌悪の情を示しているため――キットとその母親を中でもいちばん憎悪していたのは、もうすでに述べたさまざまな理由のためだった。こうした人たちにたいする反感は、以上の事情の変化でわが身を肥そうとする貪欲と切りはなせなかったものと思われるが、そうした反感よりさらにぬきんでてもっとも強かった感情は、そうした人たちそれぞれにたいするダニエル・クウィルプの憎悪の念だった。
こうしたいとも物やわらかな気分につつまれて、クウィルプ氏はさらにブランデーをあおって自分の憎悪の念を燃え立たせ、ついで、場所を変えて、名も知れぬ酒場にしけこみ、こうした人知れぬ場所にまぎれて、老人とその孫の発見の手がかりになるかもしれないありとあらゆる調査をおこなった。だが、すべてのこころみは、むだに終った。ほんのわずかの|痕跡《こんせき》も手がかりも得られなかった。老人とネルは夜に町をぬけだし、彼らが歩いているのをみた者はなく、道であった者もなく、馬車、二輪荷馬車、四輪大型荷馬車の御者で、その人相書きに合う旅人をみた者はなく、だれも彼らと出逢ったり、その話を聞いた者はなかった。さし当ってこうした探索は絶望的ととうとう確信して、彼は二、三人の密偵をやとい、なにか情報を伝えてきたら報酬は大いに出すと約束して、つぎの日の駅伝馬車でロンドンに帰っていった。
屋根の上の席をとったとき、キットの母親がただひとりで車の中にいるのをみつけたのは、クウィルプ氏にとって多少心のなぐさみになることだった。こうした事情から、彼は、旅行ちゅう、大きな楽しみの種をみつけることができた。彼女がひとりでいるだけに、さまざまなとてつもない人困らせなことをして、彼女をおびやかすことができたからである。たとえば、それは、命を的にして馬車の側面からからだをつりさげ、大きなギョロギョロした目で中をにらみ、彼女の目からみれば、彼の顔がさかさまになっていたので、それだけなおおそろしいものに映り、こうして彼女を一方の窓から他の窓に追いやり、馬を換えるときには、いつでもサッと車からおりて、おそろしいやぶにらみの面相をして窓から頭をつっこみ、このたくみな拷問はナッブルズ夫人にたいしてすばらしい効果をあげ、しばらくのあいだ、彼女はクウィルプ氏があの悪霊、礼拝堂で強く非難され、アストリーの演芸やかき[#「かき」に傍点]の点で堕落の罪を犯したために、いま陽気にはねまわっているあの悪霊を具現しているのではないかと信じずにはいられぬ気持ちになっていた。
キットは、手紙で母親の帰りを知らされていたので、駅馬車の事務所で彼女を待っていた。なにか使い魔の悪魔のように、彼の目以外の目には気づかれずに、よく知っているクウィルプの顔が御者の肩越しにこちらをにらんでいるのをみたとき、キットはひどくびっくりした。
「どうだね、クリストファー?」駅馬車の屋根から小人は不吉な声でいった。「大丈夫だよ、クリストファー。母さんは中にいるよ」
「いやあ、あいつはどうしてここに来たんです、母さん?」キットはささやいた。
「どうして来たのか、なぜかなんて、あたしにはわからないよ」息子に助けられて馬車からおりながら、ナッブルズ夫人はいった、「いまいましいったら、きょう一日じゅう、あの男はこちらがくるっちまうほど、あたしをおびやかしつづけてたんだよ」
「あの男が?」キットは叫んだ。
「信じてはくれないだろうね、そうともさ」彼の母親は答えた、「でも、あの男にひと言でも口をきいちゃいけないよ。あたしゃ、あの男を人間とは思ってないんだからね。シッ! ふり向いて、あいつの話をしてるような|素振《そぶ》りをみせちゃいけないよ。馬車のランプがカッカと燃えてるとこで、やぶにらみの目をして、いま、あたしをにらみつけてるんだからね、まったくおそろしいことさ!」
母親の命令にもかかわらず、キットはサッとふり向いてみた。クウィルプ氏はいとも落ち着き払って星をみあげ、天体の観測にすっかり没頭していた。
「ああ、まったく陰険な男だよ!」ナッブルズ夫人は叫んだ。「だけど、さっさといきましょう。絶対にあの男に話をしかけてはいけないよ」
「いいや、話してみますよ、母さん。まったくバカげたこと。もしもし――」
クウィルプ氏はギクリとしたふうをよそおい、ニヤニヤしてあたりをみまわした。
「ぼくの母さんに手を出さないでくれ、どうだね?」キットはいった。「あんたがいなくったってわびしさの種は十分あるのに、どうしてあわれなひとりぼっちの女をいじめて、みじめな、わびしい思いを味わせたりするんだ? このチビの怪物め、自分を恥ずかしく思わないのか?」
「怪物だって」ニヤリとしてクウィルプは心中考えていた。「一ペニー出せばどこでもみられる醜悪きわまりなき小人――怪物か――ああ!」
「母さんにそんな厚かましいことをもう一度したら」紙箱をかつぎながら、キットはつづけていった、「いいですかね、クウィルプさん、これ以上我慢したりはしませんぞ。そんなことをする権利は、そちらにはないんですからね。こっちだって、そっちのことには、たしかに、干渉はしていないんです。これが、はじめてのことじゃないでしょう。母さんをこれ以上苦しめたりおびやかしたりしたら、万やむを得ない(こんな小男を相手にするのはいやなんだけどね)、あんたをぶんなぐってやりますぞ」
クウィルプは、返事の言葉をひと言もいわず、キットの顔から目が二、三インチもはなれぬくらいまで近づいてきて、彼をジッとにらみつけ、その凝視をつづけたまま少しはなれ、また近づき、またはなれ、魔術幻灯(幻灯の仕掛けの一種で、影像が近づいたり遠ざかったり、その他さまざまの変化をした。この幻灯会は一八〇二年ロンドンで開催された)の頭のように、それは何回かくりかえされた。キットは、すぐに襲撃がかけられてくるのを待ち構えているように、一歩もひかずにがんばっていたが、こうしたジェスチャーだけで、どうということもないとさとると、指をパチンと鳴らし、さっさとそこから去っていった。母親は、大急ぎで彼をそこからひっぱりだし、チビのジェイコブと赤ん坊の話をキットがしている最中でも、心配そうに肩越しにふりかえり、クウィルプがあとをつけて来ないかと気を配っていた。
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キットの母親は何回となくうしろをふりかえっていたが、それは無用の心配というものだった。彼女とその息子を追ったり、別れぎわの喧嘩を|蒸《む》しかえそうなんぞとは、クウィルプは夢にも思っていなかった。彼は自分の道を進んでゆき、ときどき歌の断片を口笛で吹き、落ち着き払った顔をして、いともほがらかにからだをゆすりながら、家のほうに歩いていった。こうして歩いてゆきながら、彼はクウィルプ夫人の心配と恐怖の姿を心に思い描いて、大いに楽しんでいた。彼女は、まるまる三日二晩のあいだ、彼についての便りはなにも耳にせず、前もって彼の外出についてはなにも知らされず、このときまでに、もうまちがいなく心配で狂乱状態におちいり、不安と悲しみで絶え間なく気を失っているにちがいなかったからである。
この|滑稽《こつけい》なみこみは、小人の気質にじつに打ってつけのもの、彼にはじつにおもしろいものだったので、彼は歩きながら笑いだし、とうとう涙まで流す始末になった。そして、何回となく、小道にはいったとき、|甲《かん》高い悲鳴をあげてよろこびの情を表示し、うしろにこんな小さな人物がついてきているとは夢にも思っていなかったたまたま前をひとりで歩いている人を、それがひどくおびやかしたので、彼の楽しみはますます増大し、彼は、すごく陽気にウキウキしていた。
こうした幸福な気分につつまれて、クウィルプ氏はタウア・ヒルに到着したが、自分の居間の窓をみあげると、葬儀がおこなわれている家にしては異常と思われるくらいの光がそこにあるのに気づいた。もっと近づき、耳を澄ますと、むきになって話し合っている幾人かの声が聞え、そこには、彼の妻と義母の声ばかりでなく、男の声がまじっているのがわかった。
「あれっ!」嫉妬深い小人は叫んだ。「これはどういうこった? おれの留守ちゅうに客を呼んだりしてるのだろうか?」
上からのおし殺した|咳《せき》が、それにたいする返事になった。彼はポケットに掛け金の鍵をさぐってみたが、それは家におき忘れていた。ドアをノックするより方法はなかった。
「廊下に灯りがついてるぞ」鍵穴をのぞきこみながら、クウィルプはいった。「とても静かにノックをしたら、奥さん、失礼ながら、こっちじゃ気づかれずに、きみんとこに忍び寄れるんだからね。そーら!」
とても低く、ソーッとドアをたたいたが、奥から返事はなかった。だが、前と同じように低くもう一度たたくと、ドアは波止場から来た少年の手で静かに開かれ、クウィルプはすぐ一方の手でこの少年の口をグッとおさえ、のこる手で彼を道路にひっぱりだした。
「しめ殺されちまいますよ」少年はささやいた。「放してください、えっ?」
「だれが二階にいるんだ、この犬め?」同じ調子でクウィルプはやりかえした。「返事をしろ。息を殺して話すんだ。さもないと、こんどは本気になってしめ殺してやるぞ」
少年は窓をさすことができるだけ、そして、息をひそめていかにもおもしろそうにクスクスと笑っていたので、クウィルプは少年の喉っ首をつかみ、その脅迫をあやうく実行にうつすか、少なくともある程度はそれをやってしまうところだったが、少年は素早くクウィルプの手からのがれ去り、手近の柱のうしろに逃げこみ、その髪をつかもうとして、それに失敗したので、主人は談判を開始するよりほかに方法がなくなった。
「返事をしろ」クウィルプはいった。「上じゃなにをやってるんだ?」
「そちらじゃ、人に話をさせようともしないんですからね」少年はいった。「みんなは――ハッ、ハッ、ハッ!――みんなは考えてますよ――あんたが死んだとね――ハッ、ハッ、ハッ!」
「死んだ!」自身も顔をゆるめておそろしい笑い顔になって、クウィルプは叫んだ。「まさか! やつらは考えてるのか? ほんとうか、この犬め?」
「みんなは考えてますよ、あんたが――あんたが|溺《おぼ》れ死んだとね」少年は答えたが、この少年の悪意は主人の影響を強く受けたものだった。「見受けられたあんたの最後の姿は、波止場のへりんとこ、だから、あんたはそこからころげ落ちたもんと、みんなは考えてるんですよ。ハッ、ハッ!」
こうした楽しい事情のもとで密偵役をつとめ、生きた姿で部屋にはいりこんでみなをがっかりさせることのうれしさは、クウィルプにとって、この上ない幸運に出逢ってよろこび勇むのよりもっと大きな楽しみだった。彼は、将来有望な助手におとらず、大いに悦に入り、ふたりは、柱の両側にそれぞれ数秒間立ちつくし、一対の無類のシナの偶像(バネで頭と胴がつながれ、頭がグラグラゆれるシナ人形があった)のように、ニヤニヤし、あえぎ、たがいに頭をふり合っていた。
「ひと言もしゃべるな」ぬき足さし足ドアのほうに進んでいって、クウィルプはいった。「コトリとも音を立てず、板一枚にもキーキーいわせたりせず、|蜘蛛《くも》の巣にもぶつかっちゃいかんぞ。溺死だって、えっ、クウィルプの奥さん! 溺死だって!」
こういいながら、 彼はろうそくを消し、 蹴っとばして靴をぬぎ、 手さぐりで階段をあがってゆき、 あとにのこった彼の齢の若い友人は、 有頂天になって、 舗道の上で逆立ちをしていた。
二階の寝室のドアの鍵は開けられ、クウィルプ氏はスルリと中にはいりこみ、その部屋と居間のあいだのドアの背後に身をひそめたが、このドアは両方の部屋の風とおしをよくするために開かれ、じつに好都合なさけ目(彼は監視のためによくこれを利用し、小さなナイフでその穴を拡大してあった)をもっていたので、彼はいま起きていることを聞くばかりか、はっきりとそれをみてとることもできた。
この好都合な場所に目をおしつけて彼がみたのは、ペン、インク、紙、手近においたラム酒の角びん――クウィルプ自身の角びんと彼用の特別のジャマイカのラム酒、それにお湯、いいにおいのするレモン、白い角砂糖、好ましい物すべてをならべ立ててテーブルに向って坐っているブラース氏の姿で、こうしたえりぬきの物から、サムソンは、それに十分の注意を払って、プンプンと湯気のにおいを発しているすばらしい一杯のポンス(ぶどう酒や火酒に牛乳・水などをまぜ、砂糖・レモン・香料で味つけをした飲料)をつくりあげ、ちょうどその瞬間に、茶さじでそれをかきまわし、それをジッとながめていたが、それをみている顔つきたるや、かすかな外見用の感傷的な悲しみのようすが快い楽しいよろこびと弱々しく戦っているといったものになっていた。同じテーブルに、両肘をついて、ジニウィン夫人が坐っていたが、もういまは他人のポンスを兇悪にも茶さじで盗み飲みをしたりはせず、自分用の大型コップから遠慮なくグイッグイッとあおり、一方彼女の娘は――頭に灰をかぶり、荒布を肌につける(マタイ伝一一、二一にあり、悲哀に打ち沈んでいる姿を示す)といったことはないにしても、悲しみのきちんとしたふさわしいようすを失わずに――安楽椅子に寄りかかり、同じ口当りのいい酒をチビリチビリと飲んで、悲しみを静めていた。さらにそこには、テムズ川ぞいのふたりの船頭がいて、ふたりのあいだにはひっかけいかりと呼ばれているある機械がおかれ、こうした連中にさえ、強い酒がそれぞれふるまわれていた。この連中はいかにもおいしそうに酒を飲み、当然のことながら赤っ鼻、吹出物だらけの顔をし、宴会用のようすをしていたので、彼らがここにいるのは、ここの人たちのもっている、はっきりとした快適なようすを消すどころか、むしろそれをたかめていた。
「あの|婆《ばばあ》の水割りラム酒に毒を盛れたら」クウィルプはつぶやいた、「死んでも不満はないんだがな」
「ああ!」沈黙を破り、ため息をもらしながら、目を天井にあげて、ブラース氏はいった、「いま彼がわれわれをみおろしていないと、だれがいえましょう! 彼が――どこからか――われわれをながめ、ぬかりのない視線で監視してないと、だれがいえましょう! いや、まったく!」
ここでブラース氏は言葉を切り、ポンスを半分飲み乾し、話しながらのこりの半分をながめ、がっくりとしたような微笑を浮べて、語りつづけた。
「空想もできるくらいですよ」頭をふりながら、弁護士はいった、「わたしの酒の底のとこで、あの人の目がギラリと輝いてる姿をね。あんな男に似たものに二度とお目にかかることがあるでしょうかね? ありませんとも、ありませんとも!(『ハムレット』T・ii一八九にある言葉のもじり)ある瞬間にわれわれの姿はここにあるんですが」――自分のコップを目の前におきながら――「つぎの瞬間に、もうあそこにいってるんです」――コップの中身をガブリと飲みこみ、胸のちょっと下を強くたたいて――「静かな墓の中にね。彼自身のラム酒をこのわたしがいま飲んでるなんて! まるで夢のようですな」
たしかに、自分の立場の真実さをためすつもりで、こういいながら、ブラース氏は自分のコップをジニウィン夫人のほうにおしやり、酒をふたたびつがせようとし、そこにいる船頭たちのほうに向いた。
「そうなると、捜索は、完全に不成功に終ったんですな?」
「完全にね、旦那。だが、その死体がどこかに浮びあがってくるとしたら、明日の引き潮のとき、グリニッジのあたりのどこかに打ちあげられるこってしょうよ。どうだい、相棒?」
のこりのひとりもそうだといい、死体は病院(傷ついた船乗りや老兵の収容所がチェルシーとグリニッジにその当時あった。ここはグリニッジの海軍のもの)のあたりに浮び、それが出たらいつでも、そこの老兵がそいつを収容してくれますよ、といった。
「そうなると、このことについては、あきらめるしかありませんな」ブラース氏はいった。「あきらめると遺産相続のみこみしかありませんな。死体を収容できたら、うれしいんですがね。わびしいながらも、うれしいこってしょう」
「ええ、もうまちがいないことよ」急いでジニウィン夫人は賛意を表した。「それさえ手に入れたら、もうまったくたしかなことになるんですからね」
「広告に出す人相書きについてですが」ペンをとりあげながら、サムソン・ブラースはいった。「あの人の特徴を思い起すなんて、楽しいにしても、わびしいこってすな。さて、彼の脚についてですが――?」
「たしかにひんまがってましたよ」ジニウィン夫人はいった。
「それがひんまがってたとお思いですかね?」とり入るような調子で、ブラースはいった。「ちょいとちぢみあがり、革ひも(靴の下に革ひもをつけ、ズボンが膝のところでダブダブにならぬようにするのが当時の流行だった)のついてないナンキン木綿(もとナンキン産の淡黄色の強い綿布)のズボンをはき、通りを大股に歩いてきたあの脚が目に浮んできますよ。ああ、なんという涙の谷(R・ブラウニング(一八一二―八九)の『告白』にある言葉)にわれわれは住んでることでしょう! ひんまがったとしましょうか?」
「ちょっとそうだったと思いますわ」ひと息すすり泣きをして、クウィルプ夫人はいった。
「ひんまがった脚と」書きながら、ブラースはいった。「大きな頭、短いからだ、ひんまがった脚――」
「とってもひんまがったね」ジニウィン夫人は口を入れた。
「とってもひんまがったは、やめときましょう、奥さん」敬虔な態度を示して、ブラースはいった。「故人の欠点をあしざまにののしり立てるのはやめにしときましょう。あの人は、脚なんか絶対に問題にならんとこにいっちまったんですからね――まがっただけで、まあ満足することにしましょう、ジニウィンの奥さん」
「事実が必要と思ったからですよ」老夫人はいった。「それだけのこと」
「おや、おや、まったくお前さんには惚れの字だね」クウィルプはつぶやいた。「また、あの女、飲んでやがるぞ。ポンスばかしだ!」
「これが職業でしてね」ペンを下におき、自分のコップを飲み乾して、弁護士はいった、「職業がら、生前の彼が、ハムレットの父親の亡霊のように(『ハムレット』V・iv、三五の言葉から)日常の服装で目の前にあらわれてくるように思われるんです。彼の上衣、チョッキ、靴と靴下、ズボン、帽子、機知と|諧謔《かいぎやく》、あわれをさそう調子と傘、すべてが、わたしの若いころの幻のように、マザマザと目に浮んでくるんです。彼のリンネルのシャツ!」壁にやさしく微笑を投げて、ブラース氏はいった、「彼のリンネルのシャツは、いつも、独特の色をしたもんでしたな。あの気まぐれと好みは、すごいもんでしたよ――いま、彼のリンネルのシャツがマザマザと目に浮んできますな!」
「仕事をどんどんと進めたらどう?」イライラしてジニウィン夫人はいった。
「いかにも、奥さん、いかにも」ブラース氏は叫んだ。「悲しみでわれわれの能力を凍りつかせてはならんのですからね。その点でもう少しお骨折りいただくことになりますよ、奥さん。彼の鼻に関して、いま、問題があるんです」
「ぺちゃんこよ」ジニウィン夫人はいった。
「鷲鼻だ!」頭をつっこみ、拳で鼻をたたいて、クウィルプは叫んだ。「この|糞婆《くそばばあ》め、鷲鼻だぞ。鼻がみえるのか? これをぺしゃんこというんか? どうだ? えっ?」
「おお、すばらしい、すばらしい!」ただ習慣の惰性だけで、ブラースは叫んだ。「すごい! なんて彼はりっぱなことでしょう! じつに注目すべき人物です――ひどく気まぐれなんです! 人の不意をつくじつに驚くべき能力を備えた人物です!」
クウィルプは、こうした賛辞を一向気にするふうは示さず、また、この弁護士がだんだん示すことになったどうしてよいかわからぬ、おびえたようす、妻と義母のあげた悲鳴、義母が部屋から逃げだしたこと、妻が気を失ってしまったことには、一切無関心だった。サムソン・ブラースに目をすえたままで、彼はテーブルに近づき、ブラースのコップを皮切りにして、その中身の酒を飲み乾し、キチンとぬかりなくまわっていって、ほかのふたつのコップも|空《から》にし、それから角びんをつかみ、それを小脇にかかえ、じつにとてつもない意地のわるい流し目で、ブラースをにらみすえた。
「まだだぞ、サムソン」クウィルプはいった。「まだだぞ!」
「おお、まったく、じつにりっぱなこってすな!」ちょっと元気をとりもどして、ブラースは叫んだ。「ハッ、ハッ、ハッ! いや、すごくりっぱなこと! それをあんなふうに平然とやってのけられる人間なんて、ほかにはだれもいませんよ。やってのけるのにじつに困難な立場。でも、彼には上機嫌の|滔々《とうとう》たるすごい流れ、じつに驚くべき流れがあるんです!」
「おやすみ、あばよ」意味深にうなずいて、小人はいった。
「おやすみなさい、おやすみなさい」戸口のほうにジリジリと退却しながら、弁護士は叫んだ。「これはうれしいこと、とってもうれしいことです。ハッ、ハッ、ハッ! おお、とてもおもしろい、じっさい、とってもおもしろい、すごくおもしろいもんですよ!」
ブラース氏の叫びが遠くに消えてしまうまで待っていて(彼は、階段をおりる道中ズッと、叫びつづけていた)、クウィルプはふたりの男のいるところに進んでいったが、彼らはびっくりし、|呆然《ぼうぜん》として、そこにまだグズグズとのこっていた。
「きみたちは、一日じゅう、テムズ川をさらってたのかね?」じつに慇懃な態度でドアをおし開けたままおさえて、小人はたずねた。
「きのうもやりましたよ、旦那」
「いや、これは、これは、お骨折りをかけましたな。ううん、そう、死体についてるものはぜんぶ、きみたちのもの、とひとつお心得ねがいますかな。じゃ、おやすみ!」
ふたりの男はたがいに目をかわしていたが、さし当ってその点を議論する気はたしかになく、足をひきずって部屋から出ていった。こうして手早くみなを追い払ってしまって、クウィルプはドアに錠をおろし、肩をすくめ、腕組みをして、まだ角びんを抱きしめながら、馬からおりた夢魔のように、気を失った妻をながめていた。
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夫婦喧嘩は、ふつう問答の形をとって、それぞれの側が論じ立て、女性はそこで、少なくとも半分はたっぷりしゃべるものである。だが、クウィルプ夫妻の喧嘩は一般的慣習からみれば例外的なもの、そこで起きる言葉は、夫の側の長広舌に限定され、夫人から出るのはわずかの嘆願的なものだけ、ながい間をおき、とても柔順なおとなしい調子で語るふるえ声の短い言葉にすぎなかった。現在の場合、クウィルプ夫人は、ながいあいだ、このおだやかな防衛手段に訴えることもせず、失神の発作から回復したとき、涙に暮れておしだまったまま坐りこみ、関白亭主の叱責をおとなしく聞いていた。
クウィルプ氏は、こうした叱責の言葉をすごい勢いで口早にしゃべりまくり、それと同時に、からだと顔をひどくあれこれとひきねじっていたので、こうした点の亭主のすご腕は百も承知の妻でさえ、おそろしさで気がくるいそうになっていた。だが、ジャマイカのラム酒、それに、ひどい失望をひきおこしたという満足のよろこびが、しだいにクウィルプ氏の怒りをしずめ、荒々しい怒気は、ひやかしやクスクス笑いの温度にまでさがり、その状態がながくつづくことになった。
「すると、おれが死んだもんと考えてたわけだな、えっ?」クウィルプはいった。「後家さんになったと思いこんでたんだな? ハッ、ハッ、ハッ、このあばずれ女め!」
「まあ、クウィルプ!」妻は答えた。「とても悲しいわ――」
「そいつは、もう、まちがいなしのことさ」小人は叫んだ。「お前がとても悲しいだって? たしかに、そのとおりだよ。お前がとっても[#「とっても」に傍点]悲しんでるのを、だれが疑ったりはするもんかね?」
「あんたが元気で生きてもどってきたのを、悲しいといってるのじゃないの」妻はいった、「そうじゃなくって、そんなことを信じてしまって悲しいということなのよ。もどってきて、うれしいわ、クウィルプ。ほんとうよ」
じっさい、クウィルプ夫人は、予想をはるかに上まわって、自分の|背君《せきみ》の帰還をよろこんでいるようで、事情すべてを考えてみても、ちょっと説明のつかない彼の無事帰還に、ある程度の興味を示していた。しかし、こうした事情はクウィルプにはなんの印象も与えず、ただそれで、妻のほんの目の前でパチンと指を鳴らし、それといっしょに勝ちほこって嘲笑のさまざまなニヤニヤ笑いをみせるだけにとどまっていた。
「わたしにひと言もいわず、なんの便りもせず、なんにも知らさないで、どうしてあんなにながく外出していられたの?」あわれな小女は、シクシク泣きながら、たずねた。「どうしてそんなむごい仕打ちができるのかしら?」
「どうしてそんなむごい仕打ちができるかだって? むごいね!」小人は叫んだ。「そうした気分になってたからさ。いまだって、その気分になってるんだ。好きなときには、むごくなってやるぞ。また外に出かけるんだからな」
「まさか!」
「いや、そうなんだ。また外に出かけるぞ。すぐに出るんだ。気に入ったとこのどこでも――波止場――会計事務所に住みこみ、そこで陽気な独身男の生活をやるんだ。お前は後家さんになったもんと思いこんでたんじゃないか? 畜生!」小人はキーキー声をあげて叫んだ、「おれは、まったく、独身男になるつもりだぞ」
「そんなこと、本気のはずがないわ、クウィルプ」彼の妻はメソメソ声でいった。
「いいかな」自分の計画に有頂天になって、小人はいった、「おれは独身男、向うみずの独身男になり、会計事務所をひとり住まいの場所にするつもりだ。そこに来れるもんなら、来てみるがいい。だが、思いもかけないときにおれに襲いかかられないように用心するこったな。こっちではお前の動静をさぐり、もぐら[#「もぐら」に傍点]かいたち[#「いたち」に傍点]のように出没するつもりなんだからな。トム・スコット――トム・スコットはどこにいる?」
「ここにいますよ」クウィルプが窓をサッとあげたとき、少年の声が叫んだ。
「そこに待っとれ、この犬め」小人は応じた、「独身男の旅行カバンを運んでもらうからな。さあ、荷づくりをはじめろ。老人のご婦人もたたきおこして手伝いをさせるんだ。たたきおこしちまえ。おい、こらっ! おい!」
こうした叫びをあげて、クウィルプ氏は火かき棒をとりあげ、ジニウィン夫人の寝室になっている小部屋のドアのところにとんでいき、それで激しくドアをたたいたので、彼女はふるえあがって目をさまし、自分が悪口をいったあの脚のことでこのやさしい義理の息子がたしかに自分を殺そうとしている、と思いこんでいた。こう思いこんで、頭がかなりはっきりしてくると、彼女はものすごい悲鳴をあげ、彼女の娘が急いでとびこんできて事実を伝え、彼女に援助をたのまなかったら、窓からサッと身を投げ、隣人の家の天窓をぶちぬいてしまったことだったろう。要求されている仕事の話を娘から聞いて、ジニウィン夫人は多少ホッとし、フランネルの化粧着をつけた姿をあらわし、母親と娘ともども、恐怖と寒さでガタガタとふるえながら――もうすっかり夜はふけていた――だまってクウィルプのいうとおりに動いていた。準備をひきのばせばそれだけなお楽しみを味えたので、この準備をできるだけひきのばして、この風変りな紳士は自分の衣裳の荷づくりを監督し、自分自身の手で、それに皿、ナイフ、フォーク、スプーン、茶碗、受け皿、その他そういった小さな家具類をそえて、この旅行カバンをひもでしばり、肩にかつぎ、それ以上ひと言もいわずに、角びん(彼はそれを一度だって下においたりはしなかった)をまだしっかりと小脇にかかえこんで、堂々とそこから出ていった。街路に出ると重いほうの荷物はトム・スコットにもたせ、元気づけにとびんからひと口飲み、お前にもそれをちょっぴり味わせてやろうとばかり、そのびんで少年の頭をコツンとたたいて、クウィルプは、いともゆっくりと波止場への道を先に立って歩み、朝方、二時から三時ごろに、そこに到着した。
「いごこちがいいぞ!」木造の会計事務所まで手さぐりで進み、持参の鍵でドアを開けたとき、クウィルプはいった。「すごくいごこちがいいぞ。おれを八時に起せ、この犬め」
これ以上おやすみの挨拶も説明の言葉も語らずに、彼は旅行カバンをひっつかみ、召使いにピシャリと戸を閉め、机の上にのぼり、はりねずみ[#「はりねずみ」に傍点]のようにからだをまるくして古い船員用の大外套の中にくるまり、ぐっすりと眠りこんでしまった。
朝約束の時間に起され、しかも、最近の疲労でようやくのことで起されて、いろいろな古材を使って中庭でたき火をし、朝食の準備にコーヒーをわかすようにと、クウィルプはトム・スコットに命じ、この食事をもっと豊かにしようと、小銭を少年にわたし、まだポカポカしている巻きパン、バター、砂糖、ヤーマス(イングランド東岸の漁業中心地)の|燻製《くんせい》にしん[#「にしん」に傍点]、そのほかの食べ物を買って来させたので、数分たつと、いいにおいのプンプンとする食事が食卓の上で湯気を立てていた。こうした内容のある食事で小人は心ゆくまで食事を楽しみ、この自由なジプシー的生活法(これは、その気になれば、結婚生活からの快適な解放感をもたらし、クウィルプ夫人とその母親をたえずワクワクさせ気をもませておく絶好の手段にもなるものだった)に大満悦で、この隠退場所を改良し、そこをもっとひろげて快適にする仕事にとりかかった。
こうした目的で、彼は近くの船具を売っている店にとびだし、セコハンのハンモックを買いこみ、それを船員ふうに天井からつりさげた。彼はまた、同じかびくさい|船室《ケビン》に、船用の古いストーヴをすえつけさせ、それには|錆《さび》ついた煙突がついていて、屋根をつきぬけて煙を外に出すようになっていた。こうした装置が完成すると、彼は至極ご満悦でそれをながめまわしていた。
「これで、ロビンソン・クルーソウのように、いなかの邸宅(貴族や大地主がいなかにもっている大邸宅)ができたぞ」施設をよろこんでみわたしながら、小人はいった。「孤独な、人里はなれた、わびしい島ともいえる場所、仕事があるときは、ここにひとりでいられるし、密偵にさぐられたり盗み聞きされる心配もない。おれの近くにいるのはねずみ[#「ねずみ」に傍点]だけ、こいつらは、コソコソと身をひそめてるいいやつら、こうした紳士の中で、こおろぎ[#「こおろぎ」に傍点](陽気なものとされている)のように大はしゃぎもできるわけだ。クリストファーのようなやつをみつけだし、そいつにひとつ毒でも盛ってやるか――ハッ、ハッ、ハッ! だが、仕事――仕事だ――楽しみの最中でも、仕事のことは忘れちゃいかん、まったく、今朝はあっという間に時がたっちまったんだからな」
自分の帰りを待て、そのあいだ、逆立ち、とんぼがえり、いや、手ではいまわることも一切禁止、それを犯せばジリジリ責めの拷問を味わせるぞ、とトム・スコットに申しわたしてから、小人はボートにとびのり、川を横切って向う側に着き、とっとと足を急がせて、ビーヴィス・マークスのスウィヴェラー氏の通いつけの楽しみの場所に到着したが、ちょうどそのとき、当のスウィヴェラー氏は、薄暗い客間でただひとり、夕食をとろうと腰をおろしていた。
「ディック」――戸口に頭をつっこんで、小人はいった、「おれのかわいいやつ、おれの弟子、おれの目に入れてもいたくないやつ、やあ、やあ!」
「おお、そこにいたんかね、えっ?」スウィヴェラー氏は答えた。「具合いはどう[#「どう」に傍点]だね?」
「ディックの具合いは?」クウィルプは応じた。「書記の精華ともいうべき人物のご機嫌はどうですかな、えっ?」
「いやあ、だいぶ|気むずかしく《サウア》なってるよ」スウィヴェラー氏は答えた。「事実、チーズに紙一重というとこでね(牛乳が酸気をおび(サウア)、チーズに近いかたまりになるのをしゃれたもの)」
「どうしたんだい?」前に出ていって、小人はたずねた。「サリーが不親切なんかい? 『スマートな娘っ子のなかで、ありはするもんか、あの――』(作曲家・劇作家・詩人でもあったヘンリー・ケアリー(一六九三? ―一七四三)の歌『われわれの小路のサリー』の第一行の言葉)というわけかね、ディック?」
「いやあ、ちがうさ」いとも重々しく食事をしながら、スウィヴェラー氏は答えた、「あんな女はいないよ。あの女は個人の生活でスフィンクス(ギリシャ神話で、胸から上は女で、ライオンの胴に翼を備えた怪物。「なぞの人物」の意で用いる)的存在だよ、サリー・B(ブラースのこと)はね」
「意気消沈というやつだな」椅子を近くにひきよせて、クウィルプはいった。「どうしたんだい?」
「法律というやつは、どうも、こちらの|性《しよう》に合なくってね」ディックは答えた。「湿気が足りないし、部屋に閉じこもりっぱなしなんだからな。逃げだそうかと考えてたんだ」
「バカな!」小人はいった。「どこに逃げていくんだい、ディック?」
「わからん」スウィヴェラー氏は答えた。「ハイゲイトにでもゆくか。たぶん鐘が鳴って、『もどれ、スウィヴェラー、ロンドンの市長よ』か。ウィッティングトン(サー・リチャード(ディック)・ウィッティングトン(一三五八? ―一四二三)家柄はよいが長男に生れ合さず、ロンドンに出て大商人になり、ロンドン市長に三回就任、猫のおかげで産をなしたという伝説がある)の名はディックだった。だが、猫はもっと少ないほうがいいな」
クウィルプは、目をねじまげて好奇心に燃えた|滑稽《こつけい》な表情をし、ジッと辛抱強く相手の説明を待っていたが、スウィヴェラー氏は、べつにあわててそれをはじめるようすをみせてはいなかった。深い沈黙につつまれ、とてもながい時間をかけて夕食を食べていたからだった。だが、とうとう皿を向うにおしやり、椅子に背を寄せかけ、腕組みをし、物悲しげに火をみつめていたが、そこでは、いくつか葉巻きのすいさしが自然にくすぶり、よいかおりをあたりにただよわせていた。
「たぶん、ケーキは食べるだろうね」――とうとう小人のほうに向いて、ディックはいった。「よろこんでご招待するよ。それは、当然好きなはずのもんなんだ。きみがつくったもんなんだからな」
「というのは、どういうことだい?」クウィルプはたずねた。
スウィヴェラー氏のそれにたいする答えは、ポケットから小さい、ひどく油じみたつつみをとりだし、それをゆっくりと開き、みたところひどく消化にわるく、一インチ半も厚みのある白砂糖の練り粉でふちどりをしたひときれの小さな干しぶどう[#「ぶどう」に傍点]ケーキを示すことだった。
「これをきみはなんだと思うね?」スウィヴェラー氏はたずねた。
「婚礼用の菓子らしいな」ニヤニヤして小人は答えた。
「それがだれのもんだと思う?」おそろしく落ち着き払った態度で練り粉菓子を鼻にすりつけて、スウィヴェラー氏はたずねた。「だれのもんだろう?」
「まさか――」
「そうさ」ディックはいった、「まさにそうなんだ。彼女の名前をいう必要はないよ。もういまは、そんな名はないんだからね。彼女の名は、いま、チェッグズ、ソフィ・チェッグズなんだ。だが、木の脚をもってなかった男のだれにもおとらず、ぼくは愛情を傾け、ぼくの心はソフィ・チェッグズにたいする愛情で破裂しそうになってるんだ(第七章に出た十九世紀初頭のウィリアム・ミー作詩のバラッド『アリス・グレイ』からとった言葉)」
こうして流行の民謡を即席的に自身の苦しい立場を語る言葉につくり変えて、スウィヴェラー氏は菓子をふたたびくるみ、両方の手のひらのあいだでそれをぺしゃんこにおしつぶし、胸におしこみ、上衣のボタンをかけてそれをしっかりとしまいこみ、その上にがっちりと腕を組んだ。
「さあ、これできみもご満悦だろうな」ディックはいった。「それに、フレッドもご満悦だろう。このいたずらできみたちは仲間になったんだから、きみもそれを好んでるんだろう。これがぼくの味わなけりゃならん|勝利のよろこび《トライアンフ》なのかね? こいつは、同じトライアンフというむかしからのいなかの踊りと同じもんだね。その踊りでは、ご婦人ひとりにたいして男はふたり、一方が女を手に入れ、のこりの男はふられながらも、形をつけるために、びっこをひきひきそのあとについてくんだ。だが、これは運命というもん、ぼくの運命はギャフンと一発というやつさ!」
スウィヴェラー氏の敗北にたいする心中のよろこびをおしかくして、ダニエル・クウィルプは相手の気持ちを静めるもっとも確実な方法をとり、ベルを鳴らして|薔薇《ばら》色のぶどう[#「ぶどう」に傍点]酒(というのは、そのいつもの代表的な強いやつ)を注文し、それを大急ぎでテーブルの上にならべ、チェッグズをののしり、独身者の幸福を賛えるさまざまな乾杯にスウィヴェラー氏をさそいこんでいった。どんな人間も自分の運命にはさからえぬものという反省とともに、こうして飲んだ酒のスウィヴェラー氏におよぼした影響は、じつに顕著なもの、じきに驚くほど意気|軒昂《けんこう》になり、問題のケーキを受けとったいきさつを小人に伝えることができるようになったが、この菓子は、どうやら、まだ残存しているふたりのワックルズ嬢によってみずからビーヴィス・マークスまで運ばれ、えらくクスクスと笑い、大いに楽しんで、事務所の戸口で彼にわたされたもののようだった。
「いや!」クウィルプはいった。「間もなくクスクス笑うのは、こちらの番になるぞ。それで思い出したが――きみはあの青年のトレントのことをいってたね――彼はどこにいるんだい?」
スウィヴェラー氏は、この尊敬すべき友人が移動賭博場で、ある責任ある地位をひき受けることになり、目下のところ、大英帝国の冒険心にあふれる人たちのあいだを職業上の旅行に出ていて不在、と説明した。
「そいつは残念なこと」小人はいった、「ここにやってきたのは、じっさいんとこ、この彼のことをきくためだったんだからね。うん、いい考えが浮んだぞ、ディック。道の向うのきみの友人が――」
「どの友人かな?」
「二階のさ」
「それで?」
「二階のきみの友人が、ディック、彼のことを知ってるかもしれんぞ」
「いいや、知らんよ」頭をふって、スウィヴェラー氏はいった。
「知らんだって! そうだな、一度も会ってはいないんだからな」クウィルプは答えた。「だが、ふたりを会わせるようにしたら、ディック、フレッドだって、きちんと紹介されれば、あの娘のネルやそのじいさんと同じくらい、あの男の役に立つかもしれんぞ――それでフレッドは身代をつくり、そのおかげで、きみの身代もできることになるかもしれんのだ、えっ?」
「いやあ、事実は、いいかね」スウィヴェラー氏はいった、「ふたりはもう[#「もう」に傍点]会わせたんだ」
「もうだって!」相手をうろんげにながめながら、小人は叫んだ。「だれの手びきで?」
「ぼくの手びきさ」ちょっとドギマギして、ディックは答えた。「この前あそこにきみがやってきたとき、その話はしたんじゃないかな?」
「わかってるだろう、話しはしなかったさ」小人は応じた。
「たしかにそのとおりだな」ディックはいった。「そう、思い出した、話さなかったね。うん、そう、ちょうどあの日に、ぼくはふたりを会わせたんだ。フレッドの話でね」
「それでどういうことになったんだ?」
「フレッドの|素性《すじよう》を知ったとき、彼をかき抱き、自分は彼の祖父だとか仮装した祖母(こいつは十分あり得ることと思ってたんだが)だとかいって、ワッと泣きくずれるなんては愚かなこと、あの友人はいきなりすごい|癇癪《かんしやく》を起し、さんざんに悪態をつき、ネルと老人が貧乏に落ちこんだのは、大方のところ、お前がわるいからだ、といい、なにか酒でも飲んだらなんぞとはおくびにも出さないで、そう――簡単にいえば、結局んとこ、われわれを部屋から追いだしちまったよ」
「そいつは妙なこったな」考えこんで小人はいった。
「そんとき、ぼくたちも、こもごも、そういってたんだ」冷静にディックはいった、「だが、たしかにそうだったよ」
これを知らされて、クウィルプはたしかにびっくり|仰天《ぎようてん》し、しばらくのあいだ、ムッとだまりこんだまま、物思いにふけり、ときどき目をスウィヴェラー氏の顔のほうにあげ、その表情を鋭く調べていた。だが、そこにこれ以上の情報はなにも読みとれず、彼が嘘をついていると信ずべき筋はなにもなく、スウィヴェラー氏はひとり瞑想に沈みこんで深いため息をつき、チェッグズ嬢の問題で明らかに涙もろい状態になりかけていたので、小人は、すぐにこの会談を打ち切り、さっさと出ていって、恋人をうばわれた人物をその憂鬱な瞑想にふけらせておいた。
「会わせたんだって、えっ?」街路をひとりで歩いてゆきながら、小人はいった。「友人がおれを出しぬいてというわけか。それはどうということもなく、したがって、重大なことじゃない、出しぬこうという意図はべつにしてな。|情婦《いろ》を手に入れそこなって、ざまあみろというとこだ。ハッ、ハッ! あの男は、さし当って、ブラースの事務所づとめはさせておかねばならん。こっちの都合でやつに用のあるときはいつでも、やつがどこにいるかをはっきりとつかんでいられるんだからな。その上、当人は気づいてないが、あれで結構役立つブラースの監視にもなってるわけ、酒を飲めば、みたこと、聞いたことをぜんぶ話してくれるんだからな。ディック、きみはおれに役立つ男、ときどき酒をちょっとおごってやりさえすりゃいいんだ。ディック、あの|娘《こ》にたいするお前の意図をばらしてあの見知らぬ男にとりいるのも、間もなく、まんざらでもないことになるかもしれんぞ。だが、さし当って、ひとつごめんこうむって、お前とおれは無二の親友になってるとしよう」
こうしたことを考え、歩いてゆきながら彼独得のふうにあえいで、クウィルプ氏はふたたびテムズ川をわたり、彼の独身者の住まいに閉じこもった。そこは、新設の煙突が煙を外には送りださず、それを部屋にこもらせるといったものだったので、そう快適ではなく、もっとうるさい人間だったら、とても中にはいれないとこだったろう。ところが、こうした不便は、この住み家にたいする小人の嫌悪感をひきおこすどころか、むしろ彼の好みに合い、その結果、居酒屋からの豪華な夕食をすませたあとで、彼はパイプに火をつけ、煙突に対抗してタバコの煙をパッパッと吹き散らしたので、とうとう、この霧をとおして彼の姿でみえるものは、赤く|爛々《らんらん》と燃えあがった彼のふたつの目だけ、ただときどき、激しい|咳《せき》の発作で煙が少しかきまぜられ、モウモウとしている煙の|渦《うず》が散らされたときだけ、頭と顔がぼんやりと浮んでみえるといった状態になっていた。この雰囲気は、ほかの人間だったら、まちがいなし、窒息してしまうところだったが、この中でクウィルプ氏はいとも陽気にその宵を送り、パイプと角びんでズッと心の|憂《う》さを晴らしつづけ、歌のつもりの調子のいいわめき声でときに楽しんでいたが、そのわめきときたら、声や楽器のつくりだすどんな音楽とも、およそ似ても似つかぬものだった。こうして彼は真夜中ごろまで大いに楽しみ、至極ご満悦の状態でハンモックの中にもぐりこんだ。
翌朝、彼の耳にはいってきた最初の物音は――彼がなかば目を開き、ふだんにないほど天井に近いところにいるのに気づいて、夜のあいだに、自分がはえ[#「はえ」に傍点]かあおばえ[#「あおばえ」に傍点]に変えられたのにちがいない、とウトウトしながら考えていたときだったのだが――部屋の中で声をおし殺して泣いているすすり泣きの声だった。用心深くハンモックのへり越しにのぞいてみると、彼の目にはいったのは、クウィルプ夫人の姿だった。しばらくこの彼女をだまったままみつめていたあげく、いきなり彼はひとわめきして、彼女をひどくギクリとさせた――
「おいっ!」
「まあ、クウィルプ!」目をあげて、彼のあわれな小女の妻は叫んだ。「ほんとにびっくりしたわ!」
「そのつもりでしたんだ、このあばずれ女め」小人は答えた。「ここになんの用事があるんだ? おれはもう死んじまった男なんだろうが?」
「ああ、家に帰ってちょうだい、どうか帰ってちょうだい」泣きながら、クウィルプ夫人はいった。「もうあんなことはしないことよ、クウィルプ。それに、結局のところ、あれはわたしたちの|心配《アングザイエテイ》から出たまちがいだったのよ」
「そう、心配からな」小人はニヤリとした。「そう、そいつはわかってるさ――おれの死を|ねがう気持ち《アングザイエテイ》からなんだ。いいか、おれは気が向いたときに家に帰るんだ。好きなときに家に帰り、好きなときにとびだしていくんだ。おれは|狐火《きつねび》になり、ここかと思えばまたあちら、いつもお前のまわりを踊りまわり、思いもかけないときにパッとあらわれ、お前をいつもジリジリと落ち着けないようにしてやるぞ。さあ、帰れ」
これにたいしてクウィルプ夫人のできることは、ただ懇願の身ぶりをするだけだった。
「帰らんといってるんだ」小人は叫んだ。「帰らんぞ。こっちで呼ばないのにまたあらわれたりしたら、うなって噛みつく番犬を飼うことにするぞ――うまくつくり変えて女をつかまえられる人捕り|罠《わな》(むかし領内侵入者をとらえるために使ったもので、ふたつの鉄の輪がばねじかけで閉じるようになっている)をしかけてやる――鉄条網を踏みつけたら爆発し、お前を粉々に吹っとばしてしまうばね銃(なわばりに侵入する人や動物がそのなわにふれると、ひき金が落ちて、自動的に発射されるようにしかけた鉄砲)をすえつけておくぞ。さあ、帰れ」
「どうか許して。どうか帰ってきてちょうだい」むきになって、妻はいった。
「だめ、だめ、だめだっ!」クウィルプはわめいた。「こちらでいいと思うときまで、だめだ。そのときになったら、好きなときにもどり、出たりはいったりは、こっちの意のまんまにするんだ。出口はあそこだ。さあ、帰れ」
クウィルプ氏は、この最後の命令をすごく声をはりあげてわめき立て、その上、ハンモックからとびだし、ナイトキャップをかぶったまんまの姿でも大通りをつっきって妻をひっつれていきかねない、いきなりの身ぶりまで示したので、彼女は矢のような勢いでとんで逃げていった。彼女のりっぱな|背君《せきみ》は、彼女が中庭をつっきって姿を消すまで、首をつきだし、目をカッと見開き、ついで、自分のいい分をおしとおし、自分の|砦《とりで》の神聖を主張する機会を得たことですっかりいい気持ちになって、すごい爆笑の発作におちいり、横になって、また眠りだした。
51
独身者の住まいの温和で親切な主人は、昼間ズッとおそくなるまで、雨、泥、よごれ、湿気、霧、ねずみ[#「ねずみ」に傍点]といった|性《しよう》の合う同伴者につつまれて眠りつづけ、目がさめると、家来のトム・スコットを呼んで起きあがる手助けをさせ、朝食の準備を命じて、寝椅子から出てゆき、身じたくをした。この仕事が終り、食事がすむと、彼はふたたびビーヴィス・マークスに出かけていった。
この訪問の目的は、スウィヴェラー氏ではなく、彼の友人であり、やとい主でもあるサムソン・ブラース氏だった。ところが、このふたりの紳士は不在、それに法律の生命と光ともいうべきサリー嬢も、その持ち場についてはいなかった。兄妹そろって事務所にいない事実は、スウィヴェラー氏が書いた紙きれですべての来訪者に知らされ、その紙はベルのとっ手のところにつけられ、それは、その紙きれがそこにつけられた時間を知る手がかりを読んだ人にはぜんぜん与えずに、ブラース氏が「一時間たったら帰る」ことを漠然と伝えているお粗末なものだった。
「女中がいるはずだ」ドアをノックしながら、小人はいった。「あれで用は足りる」
そうとう間をおいてから、ドアが開かれ、細い声がすぐに「どうか名刺か伝言をおねがいします」と呼びかけてきた。
「えっ?」チビの召使いをみおろして(これは、彼にとってはまったく経験のないことだった)、小人はいった。
これにたいして、子供は、スウィヴェラー氏とはじめ会ったときと同じように話を運んで、「どうか名刺か伝言をおねがいします」とふたたび答えた。
「手紙を書くことにしよう」彼女のわきをとおりぬけて事務所の中にはいりこんで、小人はいった。「そして、主人が帰ったらすぐ、それを読むようにするんだぞ」こういって、クウィルプ氏は高い背なしの椅子によじのぼって手紙を書き、こうした場合の仕込みは十分に受けているチビの召使いは、カッと目を見開いて、相手をジッと見守り、封緘紙一枚でもくすねたら、通りにとびだして警察に通報しよう、と身構えていた。
手紙をたたんでいるとき(手紙はとても短かかったので、すぐに書きあげられた)、クウィルプ氏の視線は、チビの召使いの視線と出会った。彼は、ながいことジッと、彼女をみつめていた。
「ご機嫌いかがだね?」おそろしいニヤリとした笑いを浮べて封緘紙をなめながら、小人はいった。
チビの召使いは、たぶん彼の顔つきにおびえたのだろう、なんの聞える返事もしなかったが、その口の動きからみて、手紙か伝言についての同じ言葉を心の中でくりかえして述べているらしかった。
「ここで虐待されてるのかね? きみの女主人は|韃靼《だつたん》人(狂暴な人間の意)かね?」クスクス笑いながらクウィルプはたずねた。
この最後の質問にたいして、チビの召使いは、恐怖まじりの|狡猾《こうかつ》きわまりない顔つきをして、口をとても固くまるくねじあげ、ものすごい勢いでコクンとうなずいた。
彼女の行動のこの特別な狡猾さの中にクウィルプ氏の心を魅了したなにかあるもの、あるいは、そのときの彼女の顔つきの表情に、べつのなにかの理由で、彼の注意をひくなにかあるものがあったかどうか、あるいは、このチビの召使いをにらみつけてあわてふためかせようとする心が、楽しい気まぐれとして、彼に思い浮んだかどうかはともかくとして、彼が机の上に肘をしっかりとはって、彼女をジッとながめていたことは、たしかに事実だった。
「どこから来たんだい?」ながい間をおいたあとで、|顎《あご》をなでながら、彼はたずねた。
「知りません」
「名前は?」
「ありません」
「バカな!」クウィルプは答えた。「用があるとき、きみの女主人はきみをなんと呼んでるんだね?」
「チビの悪魔って呼んでます」子供は答えた。
彼女はつづけて一気に、まるでこれ以上の質問をおそれているように、「どうか名刺か伝言をおねがいします」といいそえた。
こうした異常な返事は、当然、さらにもっと質問をうながすところだったが、クウィルプは、その後一語も発さず、チビの召使いから目をはなし、前より考えこんで顎をなで、細密克明に宛て名を書こうといったふうに手紙の上にかがみこみ、毛深い眉の下からソッと、しかも子細に、この召使いの小娘をながめていた。この人知れぬ観察の結果は、彼が両手で顔をおおい、狡猾に声を立てずに笑いこけ、顔のすべての血管がはりさけんばかりにふくれあがったということだった。このおかしさとその結果をかくそうとして、彼は、帽子を額にかぶるほど深くかぶり、手紙を子供に投げわたして、あわただしく立ち去っていった。
街路に出てしまうと、なにか人知れぬ衝動につき動かされて、彼は大声で笑い、脇腹をかかえ、また笑いだし、もう一度子供の姿をながめようと、よごれた地下勝手口の柵越しに中をのぞきこもうとし、とうとうヘトヘトにつかれてしまった。ついに彼は、独身者の隠退所からほど遠からぬ荒野館にもどり、木造のあずまやで、この午後用の三人分の茶を注文した。このもてなしをこの場所で受けるようにというサリー・ブラース嬢とその兄への招待が、クウィルプの外出と手紙の目的だった。
そのときの天候は、人がふつうあずまやで、いわんや、そうとうひどくいたみ、ひき潮時の大きな川のドロドロした土堤をみおろしているあずまやで、お茶を飲む天候ではなかった。それにもかかわらず、クウィルプ氏が冷えた手軽な食事を注文したのは、このすばらしい隠遁所においてであり、そこの穴があいて雨のもれてくる屋根の下で、やがて彼は、サムソン氏とその妹のサリーをむかえることになった。
「きみは自然の美の愛好者だな」ニヤリとしてクウィルプはいった。「ここは魅力的かね、ブラース? ここはふつうのものとはちがい、素朴で、原始的だろう?」
「まったく楽しいもんですな」弁護士は答えた。
「涼しいかね?」クウィルプはたずねた。
「い、いーや、特別そうともいえないようですな」歯をガタガタいわせて、ブラースは答えた。
「たぶん、ちょっと湿気が強すぎ、|悪感《おかん》を起しそうなんじゃないか?」クウィルプはいった。
「湿気といっても、陽気になれる程度のもんですよ」ブラースは答えた。「それだけのこと、それだけのこってす」
「そして、サリーは?」よろこんで、小人はたずねた。「ここは彼女の[#「彼女の」に傍点]お気に召すかな?」
「お茶をいただいたら」男まさりの婦人は応じた、「もっと気に入るんですがね。だから、グズグズしたりはせず、それにとりかかることにしましょう」
「かわいいサリー!」彼女を腕に抱きこもうといったように両腕をひろげて、クウィルプは叫んだ。「やさしい、魅力的な、グッときちまうサリーだ!」
「彼はじつにすばらしい男だ!」ブラース氏はひとり言をいった。「まったくの|叙情詩人《トルーバドール》(十一―三世紀ごろフランス南部・スペイン東部・イタリア北部で活躍した詩人で、武士道的恋愛をみずから歌った)だよ。まったくの叙情詩人だ!」
こうした賞賛の言葉は、ちょっと呆然として心をとり乱したふうに語られた。この不幸な弁護士は、鼻|風邪《かぜ》をひいているばかりでなく、ここに来る道中ですっかりぬれ、現在の粗末な場所を温かい部屋に変え、火にあたってからだを乾すことができたら、多少なり金は出しても構わないといった気持ちになっていたからだった。しかし、クウィルプは――自分の悪魔的な気まぐれを満すばかりでなく、彼がかくれた証人になっていた朝のあの情景でサムソンが演じた役にたいして、多少のおかえしをしなければならなかったのだが――こうした不安の兆候を得もいわれぬよろこびで打ちながめ、そうしたことから、どんなに高価な晩餐会からも得られぬほどの人知れぬ楽しみを味っていた。
その上、サリー・ブラース嬢のちょっとした特徴を伝えるものとして、つぎのことをお知らせしても、むだではあるまい。すなわち、自分自身のためだけだったら、この荒地館の不快さを機嫌よく我慢するなんていうことはとてもなく、たぶん、じっさい、まだお茶があらわれぬうちに、そこをさっさと彼女は退場におよんだことだったろうが、自分の兄の心の底にひそんでいる不安とみじめさをみてとるやいなや、彼女はおそろしい満足感を感じ、彼女なりのふうに楽しみはじめたのである。雨は屋根をとおして忍びこみ、頭の上に|滴《したた》り落ちていたが、ブラース嬢は不平をこぼしたりはせず、とり乱さぬ落ち着きぶりを示して、茶の世話をしていた。クウィルプ氏はワイワイとさわがしく客を歓待して、|空樽《あきだる》の上にぶっ坐り、この場所を三つの王国(イギリスのイングランド、スコットランド、アイルランドをいう)切っての美しく快適なとこと自慢し、自分のコップを高くかかげて、この楽しい場所でまた出逢って歓をつくそうと乾杯し、ブラース氏は、雨が茶碗に滴り落ちてきながらも、元気を出して、すっかりくつろいでいるふうをみせようと、陰にこもった努力をかさね、戸口のところで古傘をさして待っていたトム・スコットは、ブラース氏の苦悶に大満悦、笑いで腹がいまにもさけそうになっていた。こうしたことが進行ちゅう、サリー・ブラース嬢は、自身の女性のからだと美しい服に滴る雨も気にせず、茶盆の向うにきちんとねずみ[#「ねずみ」に傍点]色がかった姿で落ち着き払って坐り、心くつろいで兄の不幸をジッとながめ、やさしくも自分の身には一切お構いなしで、満足してそこにひと晩じゅうでも坐りこみ、兄の貪欲で下品な性格が否応なく我慢を強制し、怒るのを禁止している拷問をながめていようという勢いを示していた。ここで申さなければならないのは、仕事の上からみれば、彼女は兄のサムソン氏とじつに強い共感をもち、たとえどんなひとつの点ででも、彼が客のクウィルプ氏の計画の邪魔などをしたら、彼女はとてつもなく怒り立ったことだろうが、彼女はこうした態度をとりつづけていたのである。このことを申しあげなかったら、ここの説明は不完全なものになってしまうだろう。
さわがしく陽気になっている絶頂のところで、クウィルプ氏はなにか口実をつけて従者の小妖精をしばらく外に追いだし、いきなりふだんの態度にもどり、樽からおり、手を弁護士の袖に乗せた。
「これ以上やる前に」小人はいった、「ひと言だけ。サリー、ちょっと聞いてくれ」
サリー嬢はスーッと近づいていったが、それは、大声で話さないほうがいいといったクウィルプ氏の仕事上の打ち合せにはもう馴れっこといった態度だった。
「仕事だ」兄から妹のほうにチラリと目をやって、小人はいった。「とても内々の仕事なんだ。ふたりだけになったとき、| 額《ヘツド》を集めてよく相談してみてくれ」
「はい、はい」手帳と鉛筆をとりだして、ブラースは答えた。「よかったら、その|項目《ヘツド》を書きつけときますよ。すばらしい文書だ」目を天井にあげて、弁護士はいいそえた、「じつにすばらしい文書だ。あの人は要点をじつにはっきりと陳述し、それを聞くのは楽しみといってもいいくらいなんだ! 明瞭さの点で、彼に匹敵できる議会のどんな法令もないくらいだぞ」
「その楽しみは、ひとつごめんこうむることにしよう」クウィルプはいった。「帳面は、しまってくれたまえ。どんな文書にも用はないんだからな。よし。キットという小僧がいるが――」
サリー嬢はうなずき、彼を知っていることを知らせた。
「キット!」サムソン氏はいった――「キット! ハッ! その名を聞いたことはあるけど、はっきりとは思い出せませんな――はっきりとは――」
「きみはかめ[#「かめ」に傍点]のように緩慢、さい[#「さい」に傍点]よりもっと愚鈍な男だな」イライラした態度をみせて、親切な彼の依頼人は答えた。
「あの人はじつに愉快な方だ!」へいこらしたサムソンは叫んだ。「博物学の|造詣《ぞうけい》もたいしたもんだ。まったく|道化《バフーン》だ、まったく!」
ブラース氏がなにかお世辞をいおうとしていたのは、たしかだった。彼はバフォン(ジョルジュ・ルウィ・レクレール・ビュフォン(一七〇七―八八)はフランスの有名な博物学者)といおうとしていたのだが、そこに余計な母音を入れてしまったのだ、とこれは、もっともらしく世間では論じられている。それはどうであろうとも、クウィルプは彼に訂正の余裕をぜんぜん与えなかった。自分の傘の|柄《え》でブラース氏の頭をコツンは愚かといった調子でなぐりつけて、訂正の任務を遂行していたからである。
「喧嘩はやめにしましょう」彼の手をおさえて、サリー嬢はいった。「その少年のことはあたしが知ってるとお知らせしたんですから、それで十分でしょう」
「彼女がいつも先頭だ!」彼女の背を軽くたたき、軽蔑したようにサムソンをみやって、小人はいった。「キットは虫が好かないんだ、サリー」
「あたしもそうですよ」ブラース嬢は応じた。
「わたしだってそうですよ」サムソンはいった。
「いやあ、それなら結構!」クウィルプは叫んだ。「それで、仕事の半分はもうすんだわけだ。このキットというやつは、例の正直者というやつ、りっぱな人格者、コソコソうろつきまわる|穿鑿《せんさく》好きな猟犬、偽善者、表裏二面の、臆病な、卑劣な密偵、餌をやり、うまいことをいってくれる連中にはへっつくばるのら犬、それ以外の人間にはワンワンと吠え立てる犬なんだ」
「おっそろしい雄弁だ!」くしゃみをして、ブラースは叫んだ。「まったくすごい!」
「要点をおねがいしますよ」サリー嬢はいった、「ベラベラしゃべり立てないでください」
「また、そのとおり!」また軽蔑的な一瞥をサムソンに投げて、クウィルプは叫んだ、「いつも先頭だ! いいかね、サリー、そいつは、ほかの者にはだれでも、中でもこのおれには、吠え立てる厚かましい犬なんだ。一言でいえば、おれはやつをうらみに思ってるんだ」
「それでもう十分ですよ」サムソンはいった。
「いいや、十分じゃない」クウィルプはせせら笑った。「すっかり話を聞いてくれるかね? そうしたことでおれはやつをうらみに思ってるばかりじゃない。やつは、いま、おれの邪魔をし、おれとある目的のあいだに立ちはだかってるんだ。この目的は、この邪魔さえなかったら、おれたち全員に黄金の目的(『ヘンリー六世、第三部』V・ii、一二七の言葉より)ともいえるものになるんだがな。そいつはべつにしても、くりかえしていうが、やつはおれの気にさわり、大きらいなやつなんだ。さあ、きみたちはその若僧を知ってる。のこりは想像つくだろう。やつを邪魔にならんように追っ払う方法を考えだし、それを実行してほしいんだ。それができるかね?」
「できますとも」サムソンはいった。
「じゃ、握手をしよう」クウィルプは答えた。「サリー、きみもだ。あの男と同じくらい、いや、もっと、きみをたよりにしてるんだぞ。トム・スコットが帰ってきた。カンテラ、パイプ、もっと酒、そして楽しくひと晩をすごすことにしよう!」
この会合の真のきっかけになったこのことと少しでも関係のあるほかの言葉はもう語られず、どんな顔つきもかわされたりはしなかった。この三人は、共同作業にはもうよく馴れていて、相互の利益のきずなでたがいに結びつけられ、これ以上のことは必要でなかったからである。さわがしい態度を、それをすててしまったときと同じように、またケロリととりもどして、クウィルプは、あっという間に、数秒前にそうだったあのさわがしい、向うみずな小野蛮人にもどっていった。荒野館から気立てのやさしいサリーが愛するかわいい兄をささえてつれだすまでに、時刻はもう夜の十時になり、そのときまでに、サムソンは、彼女のか弱いからだでできるだけの援助を必要とするていたらくになっていた。彼の歩きっぷりは、なにかわけのわからぬ理由のために、しっかりとは絶対にいえない状態になり、彼の脚は思いもかけないところで、いつも、ぐったりとふたつ折りになっていた。
ついさっき、ながいこと眠っていたにもかかわらず、ここ数日間の疲労ですっかり参ってしまって、小人は時をうつさず自分の優雅な家にはいもどり、間もなく、ハンモックの中で夢をみていた。この夢の幻想の中で、古い教会の玄関にそのままにしておいた静かな人たちもそれなりの動きを示しているのだろうが、クウィルプはそうした幻想にゆだねておいて、坐ったままジッと目を凝らしている彼らのところに、ここでもどることにしよう。
52
ながい時間たってから、先生は墓地の小門のところに姿をあらわし、|錆《さび》ついた鍵の束をジャラジャラ鳴らしながら、急いで彼らに近づいてきた。玄関のところにやってきたとき、彼は、よろこびと急ぎですっかり息を切らし、最初彼ができたことといえば、ただ子供がそのときまで一生けんめいにながめつづけていた古い建物を指さすことだけだった。
「あの二軒の古い家がみえるだろうね」彼はとうとういった。
「ええ、たしかに」ネルは答えた。「先生が向うにいっておいでのあいだじゅう、ほとんどズッとそこをみていました」
「きみにこれから伝えることを推測することが前にできていたら、もっと細かにそれをみていたことだろうね」彼女の友人はいった。「あの家のひとつは、わたしの家だよ」
それ以上なにもいわず、子供に答える暇を与えずに、先生は、彼女の手をとり、歓喜でその正直な顔を輝かしながら、彼が話した家のほうに彼女をつれていった。
ふたりは、そこの低いアーチのドアの前で足をとめた。いくつか鍵をためしてみてから、先生は大きな錠に合う鍵をみつけ、ドアはギーッといって奥に開き、ふたりは中にはいっていった。
彼らがはいっていった部屋は、かつては腕のある建築家によって気高い装飾をほどこされた丸天井の部屋で、美しい筒型天井の|穹窿《きゆうりゆう》と豪華なトレーサリー(ゴシック式建築の窓・つい立て・羽目しきりなどの上部を飾る曲線模様のはざま飾り)で、そのむかしのすばらしさのなごりをとどめていた。石に彫りこまれて、造化の神の手のたくみさと競い合っている葉は、それが変らずに生きつづけていたあいだに、外の自然界の葉が何回去来したかを物語っていた。炉づくりの重みをささえているくずれた人間の形は、傷つけられながらも――外のほこりとはまったくちがって――かつてのその姿ではっきりと見分けがつき、うつろな炉のそばで、物悲しく、自分の種族よりなが生きし、あまりにもゆったりとおそい自分の衰滅を嘆いている生物のようだった。
いつか古い時代に――この古い場所では、造作変えでさえ古いものだった――木の仕切りが部屋の一部につくられて、睡眠用の小部屋になり、それと同じ時期に、がっしりとした壁に切りこまれた粗末な窓、いや、むしろ|壁《へき》|龕《がん》(像・花びんなどをおく壁のくぼみ)によって、そこに光が入れられていた。この仕切りは、ひろい煙突に入れられたふたつの座席とともに、忘れ去られたむかしのある時代に、教会か修道院の一部になっていたものだった。それというのも、あわただしく現在の目的に使われることになった樫の材は、以前の姿をほとんど変えずに、古い僧侶の聖職者席からとった豪華な彫刻の多くの断片を目に示していたからである。
小さな部屋ともいおりともいえるものは、つた[#「つた」に傍点]の葉越しにもれてくる光で暗くなっていたが、それとそこに通じる開いたドアが、廃墟のこの部分の内部を構成していた。そこには、家具がぜんぜんないというわけではなかった。腕と脚が老齢ですっかり小さくなってしまったようなわずかな奇妙な椅子、テーブルの亡霊ともいえるテーブル、かつては教会の記録をおさめておいた大きな古い箱、その他、奇妙なつくりの家庭の必要品、冬に備えてのたくさんのたき木があたりにまき散らされ、そう遠くない以前、そこが住み家として使われていたことをはっきりと物語っていた。
永遠の歳月の大海の中で水のひと滴といったものになってしまった古い時代のつくりだしたものをながめるときのあの厳粛な感じ、そうした感じを心におぼえながら、子供はあたりをみまわした。老人が彼らのあとについてきたが、彼らは、しばらくのあいだ、口をつぐんで静まりかえり、息の音ででもその沈黙を破るまいとしているように、息を殺していた。
「とてもきれいな場所だこと!」低い声で子供はいった。
「ちがったふうに考えはしないかと、心配していたのだよ」先生は答えた。「まるで寒いか陰気だといったように、ここにはじめてはいったとき、きみはからだをふるわしていたのだからね」
「そうじゃなかったの」ちょっと身ぶるいをし、チラリとあたりをみまわしながら、ネルはいった。「それがどんなものだったかは、たしかに、お伝えできません。でも、教会の玄関口から外をながめたとき、同じ気持ちに襲われたのです。たぶん、それがとても古く灰色だったということでしょう」
「住むのにとても安らかな場所、そうは思わないかね?」彼女の友人はいった。
「ええ、そうよ」真剣になって両手を結び合せながら、子供は答えた。「静かな、幸福な場所――そこで生活を送り、死ぬのを学ぶのにいい場所だわ!」彼女はもっと話すところだったが、思いがたかぶってきて、声がどもり、ふるえて、ささやき声しか出なくなってしまった。
「生活を送り、生きるのを学び、心とからだの健康をたかめるのにいい場所だよ」先生はいった。「この古い家はきみたちの家なんだからね」
「わたしたちの家ですって!」子供は叫んだ。
「そう」陽気に先生は答えた。「たぶん、将来ながい年月のあいだね。わたしは近い隣人になるわけ――ほんのとなりなんだからね――だが、ここはきみの家だよ」
もうこの大きな驚きを打ち明けてしまったので、先生は腰をおろし、ネルをそばにひきよせ、その古い家には、ながいあいだ、百歳にもなろうという老婆が住み、その老婆は教会の鍵を管理し、教会のおつとめのためにそこを開いたり閉じたりし、よその人をそこに案内していたが、ほんの何週間か前に死亡し、その仕事を担当する人はまだみつからず、リューマチのために床についたままになっている墓掘り男からこの話を聞いて、彼は思い切って自分といっしょにやってきたネルたちの話をし、教会の有力者であるこの墓掘り男はこれをとても好意的に受けとり、そのすすめにしたがって、勇気をふるいおこして、このことをこの教会の牧師に申し出た、といったいきさつを彼女に話した。一言にしていえば、彼の努力の結果は、ネルと彼女の祖父が、翌日、前に述べた牧師のところにつれてゆかれ、ふたりの行状と外見の承認は形式上のこととして保留されてはいるものの、ふたりは、もう事実上、その空席の職に任命されたといってもいい、ということだった。
「わずかのお金だが、手当も出るのだよ」先生はいった。「それはたいしたものとはいえないけれど、このいなかでは暮すのに十分なお金だ。われわれの資金をいっしょにしたら、りっぱに生活していけるね。その点、心配する必要はないよ」
「神さまが先生に祝福とおみちびきを与えてくださいますように!」子供はすすり泣きながらいった。
「|そうでありますように《アーメン》」彼女の友人は明るく答えた。「そして、悲しみとなやみをとおしてこの静かな生活にみちびきたもう点で、未来も過去も同じように、われわれ全員に神さまのみ恵みが与えられますように! だが、さあこんどは、わたしの家をみなければならない。さあ!」
彼らはべつの家にゆき、前と同じようにさまざまな錆ついた鍵をこころみ、とうとう合う鍵をみつけ、虫に食われたドアを開けた。そのドアは、いま出てきたばかりの部屋と同じようにアーチ型天井づくりの古い部屋に通じていたが、前の部屋ほどひろくはなく、べつの小さな部屋がただひとつそれについているだけだった。べつの家が当然先生の家で、ネルたちのことを考えて、小さな家のほうを先生が自分の家にしたのは、容易に推測できることだった。となりの住まいと同じように、絶対に必要な古い家具が備わり、たき木がうずたかく積みあげられてあった。
この二軒の家をできるだけ住み心地のいいものにするのが、いま、彼らの楽しい仕事になった。間もなく、それぞれの家の炉で明るい火がカッカと燃え立ち、パチパチと音を立て、健康で元気な赤らんだ色が青白い古い壁を赤く染めた。ネルはせっせと針仕事に精を出し、ボロボロになった窓のカーテンをつくろい、時がすり切れたじゅうたんにあけた穴をかがって、それを|見栄《みば》えのいいしっかりしたものに仕立てた。先生はドアの前を|箒《ほうき》ではいてきれいにし、ながい草を刈りこみ、手入れをされずに|物憂《ものう》げに頭をたらしていたつた[#「つた」に傍点]やはいひろがる植物の手入れをして、外の壁に家庭の明るい|風采《ふうさい》を与えた。老人は、ときには先生のかたわらで、ときには子供といっしょになって、ふたりの手助けをし、忍耐のいる小仕事でとびまわり、幸福感を味っていた。仕事帰りの隣人たちも援助をしたり、この外来者たちがいちばん必要としている品物を、子供にもたせて贈り物にしてくれたり、貸してくれたりした。いそがしい一日だった。夜になったが、彼らは、する仕事がまだたくさんあるのに、こんなに早く暗くなったのをびっくりしていた。
三人は、今後子供の家と呼ばれることになる家でいっしょに夕食をし、食事がすむと、火のまわりに集り、ささやき声ともいえる小声で――彼らの心は静かでよろこびにあふれていたので、大声は出せなかった――将来の計画を語り合った。別れる前に、先生は大きな声でお祈りをいくつか読みあげ、それから、感謝と幸福感で胸をいっぱいにして、床についた。
おじいさんが安らかに床で眠り、すべてのものが静まりかえったときに、子供は消えかけたのこり火の前に坐り、自分の過去の運命を考え、それがまるで夢のよう、いま目をさましたといったふうに感じていた。|天辺《てつぺん》の彫刻が暗い天井にぼんやりとみえる|樫《かし》のパネル(壁・天井・窓などの一仕切り、区画)に映しだされている勢いのおとろえかけた炎のギラギラする輝き――チラチラする火の明滅で奇妙な影がゆききしている古めかしい壁――室内では、どんな耐久力のある無生物にも落ちかかってくる衰滅の厳粛な存在、外では、四方八方にある死の厳粛な存在――こうしたものは、恐怖やおびえではなく、深い、物思いにあふれる感情で、彼女の胸をいっぱいにした。わびしさと悲しみを味っているときに、ある変化が人知れず彼女に起っていた。力がおとろえ決意がたかまるとともに、清められたべつの心が彼女に湧き起ったのだった。彼女の胸に祝福を受けた思いと希望が成長していたが、これは、弱い沈んでゆくわずかな者にしか与えられないものである。このもろくはかない死滅する姿が炉辺から音もなくはなれ、物思いに沈んで開かれた窓によりかかっている姿をみていた人は、だれもいなかった。ただ星だけが、上を向いた顔をのぞきこみ、その経歴を読みとっていただけだった。古い教会の鐘は、物悲しげに音を立てて時を報じ、死者とのまじわりがとても多く、生者への忠告を無視されているために、悲しみに沈んでいるようだった。散った葉はカサカサと音を立て、草は墓の上でゆらぎ、ほかのすべての物は、静まりかえって眠っていた。
夢をもたぬ眠り手の一部は、教会の影の中でひそかに横になり――まるで心の安らぎと保護を求めてしがみついているように、壁に触れていた。ほかのものは、木のうつりゆく影の下に横たわり、またほかのものは、足音が近づくようにと、小道のそばに、さらにほかのものは、小さな子供の墓のまんなかに横たわるのを希望していた。毎日の散歩で踏みしめていた土地の下にいこいを求めるもの、沈みゆく太陽が光を投げるところを望むもの、太陽がのぼるときその光が落ちかかるところを望むもの、さまざまだった。おそらく土に閉じこめられた魂はだれも、その生きている思いの中で、むかしの仲間からすっかり縁を切ることができないのだろう。たとえそれができる魂があろうとも、それは、まだ古い仲間にたいして、捕虜がながく閉じこめられてきた独房にたいしていだくものとして知られ、別れのときにあってすら、愛情こめてそのせまい場所を立ち去りかねる気持になるあの愛情に似た愛情を感じているのだ。
ながい時がたってようやく、子供は窓を閉め、自分の寝台に近づいていった。ふたたび、前に感じた感情と多少似た感じ――われ知らずゾクッとした|悪感《おかん》――恐怖と同じな瞬間的な感情――だが、すぐに消え、恐怖心をあとにのこさぬ感情が、彼女を襲った。さらにまた、ふたたび、あの小さな生徒の夢、屋根が開き、かつて古い聖書の絵でみたことがある、はるか空高くに姿をあらわし、眠っている自分をみおろしている一列にならんだ明るい顔々の夢を、彼女はみた。それは楽しい幸福な夢だった。外の静かな場所は、依然として前のままのようだったが、ただ空中には、音楽と天使の翼の音があった。しばらくすると、例の姉妹が手に手をとってそこにあらわれ、墓のあいだに立っていた。ついで、夢はぼんやりとしたものになり、消えていった。
朝の明るさとよろこびとともに、きのうの仕事が再開され、楽しい思いがよみがえり、そのたくましさ、陽気さ、希望が復活した。昼まで彼らは片づけやならべ立てやらで陽気に働き、ついで牧師を訪問するために出かけた。
牧師は、純真な心の、隠退生活になじんで、ひっこみ思案の静かな心をもった老紳士で、世の中のことはほとんどなにも知らなかった。ずいぶん前に世をすて、この土地にやってきて、ここに住みついたのだった。彼の妻は、いま住んでいる家で死亡し、彼は、家の外のこの世の心配や希望とは、とっくのむかしに、無縁の者になっていた。
彼は、彼らをとてもやさしくむかえ、すぐにネルに関心を示し、彼女の名、年齢、生地、ここにやってくることになった事情等々をたずねた。彼女の話を、先生はもう伝えてあった。ネルと老人はほかに友も家もなく、自分と運命をともにすることになった。自分は彼女を娘のように愛している、と彼は話した。
「よろしい、よろしい」牧師はいった。「きみの希望どおりになさい。彼女はまだとても幼いのですな」
「逆境と苦しみでは老いています」先生は答えた。
「神さまのお助けが彼女に授かりますように。彼女に休息を与え、そうした苦しみを忘れるようにしてやりなさい」老紳士はいった。「だが、古い教会は、きみのように幼い者には、つまらなくて陰気な場所ですぞ」
「いいえ、ちがいます」ネルは答えた。「そんなことは、ほんとうに、考えていません」
「わたしの気持ちとしては」手を彼女の頭に乗せ、悲しげに微笑して、老紳士はいった、「彼女をくずれかけているアーチの陰で坐らせておくより、草原で夜踊る姿をみたいのだけれどね。この点は注意し、こうしたいかめしい廃墟の中で彼女の心が陰気にならないようにしてください。友よ、きみの要求は承認ですよ」
親切な言葉をさらに受けて、彼らはひきさがり、子供の家にゆき、そこで自分たちの幸運を語り合っているとき、そこに、さらにまた、もうひとりの友人が姿をあらわした。
これは、牧師館に住んでいる小柄の老紳士で、(これは、その後間もなく、彼らが知ったことだったが)十五年前に起きた牧師の妻の死亡後、ズッとそこに住みついているのだった。彼は、牧師の大学時代の友人で、いつも親しい友、牧師が妻を失った悲しみに沈んでいるとき、彼は、なぐさめと元気づけのためにここにやってきて、そのとき以来、ここに住みついてしまったのだった。小柄の老紳士は、この場所の積極的な精神の権化、紛争の調停者、陽気な遊びの推進者、友人の慈善と、その上、自分自身の少なからざる慈善の配分者、村のどこでもの仲介人、心のなぐさめ手、友人になっていた。村人のだれも、彼の名前をたずねようとはせず、それを知っても、憶えようとはしなかった。たぶん、彼がはじめてやってきたとき、村でひろくささやかれていた彼が大学時代に優等生だったという漠然としたうわさのためだったのだろう、またたぶん、彼が未婚で拘束を受けない紳士であったためでもあったのだろうが、彼は|ひとり者《バチエラー》(大学またはカレッジで与える学位の称号もバチェラー)と呼ばれていた。この名前は、彼をよろこばし、ほかのどんな名前にもおとらず彼にピタリのものだったので、それ以来バチェラーが彼の呼び名になっていた。またここで申しそえておいてもいいだろうが、放浪者のネルたちがその新しい住み家にみつけた燃料の貯えを自分の手で運びこんだのは、このバチェラーだった。
そのとき、バチェラーは――彼のふだんの称号で彼を呼ぶことにしよう――掛け金をあげ、戸口で一瞬小さな、まるい、おだやかな顔をみせ、そこにはもう馴れっこといったように、部屋の中にはいってきた。
「そちらは新しい先生、マートンさんですね?」ネルの親切な友人に挨拶をして、彼はいった。
「そうです」
「あなたはりっぱな推薦づきの人物、お会いできて、うれしいことです。きのうあなたをお待ちして道でおむかえしたかったのですが、病気になった母親からつとめをしている娘への伝言をもって外出し、たったいまもどってきたばかりなんです。これが齢若い教会の管理人ですか? この彼女とご老人がついてきたからといって、あなたにたいする歓迎の心は、べつに減るものではありませんよ。慈愛の心をもっておられるだけに、なおりっぱな先生です」
「つい最近、この娘は病人でした」訪問者がネルの頬にキスをしたとき、彼女をながめながら浮べた表情に答えて、先生はいった。
「うん、うん、それはわかってましたよ」彼は答えた。「ここに苦しみと頭の痛みの|痕《あと》がのこっています」
「ほんとうに、そうです」
小柄な老紳士は、老人をチラリとながめ、目をもどして、ふたたび子供をながめたが、彼はやさしく彼女の手をとり、そのままその手をにぎっていた。
「きみはここで、前よりもっと幸福になりますよ」彼はいった。「少なくとも、そうなるように、われわれは努力するつもり。ここを、もう、ずいぶん片づけたんですね。これはきみのしたこと?」
「はい」
「もう少しほかの手入れをしましょう。それ自体ましなものともいえないが、材料は、まあ、ましといえるでしょうからな」バチェラーはいった。「さあ、やってみましょう、やってみましょう」
ネルは、この彼について、ほかの小部屋と両方の家にいってみたが、彼は、そこにさまざまなちょっとした不便なところをみつけだし、家にもっている|半端《はんぱ》物を集めたものからその補給をすることを約束してくれたが、それは思いもつかぬほどのさまざまなちがったものをふくんでいたので、ずいぶんと雑多な範囲のひろい|蒐集物《しゆうしゆうぶつ》のようだった。だが、そうしたものは送りとどけられた。時をうつさず送りとどけられた。ものの五分か十分姿を消したかと思うと、小柄な老紳士は古い棚、ぼろきれ、ブランケット、ほかの家具類をもってすぐにもどり、同様の荷物をもった少年がひとり、そのあとにつづいて姿をあらわした。こうした品物は、床の上にごったまぜになってうずたかく投げだされ、それを整頓し、立て、片づけるのは大仕事だったが、この仕事の管理は、たしかに、この老紳士にとても大きなよろこびを与え、しばらくのあいだ、彼はとてもキビキビとその仕事にとりかかっていた。仕事がもうすっかり終ったとき、彼はこの少年に命じて、かけてゆき、仲間の生徒をつれてくるように、新しい先生の前に整列し、その閲兵を受けるのだから、と伝えた。
「マートン、きみのご希望どおりのりっぱな連中だと思いますよ」少年がいってしまったとき、先生のほうに向きなおって、彼はいった。「でも、わしがそう考えてるのは、彼らには知らせてないんです。そんなことをしても、役に立ちはしませんからな」
伝令は、大小さまざまのながい一列のわんぱく小僧どもの先頭に立って、すぐにもどってきたが、家の正面でバチェラーの姿にまともにぶつかると、彼らは挨拶の種々さまざまな|痙攣《けいれん》状態におちいり、帽子をひっつかみ、それをねじってできるだけ小さなものにし、お辞儀をしたり、頭をひっかいたり、いろいろの仕草をしてみせたが、これをながめて、小柄な老紳士は何度もうなずき、微笑を示して、至極満悦げにそれをながめ、よしよしといった気分をあらわしていた。じっさい、少年たちを礼賛する彼の気分は、先生が彼の言葉で考えていたほど慎重にかくされているものでは絶対になかった。その気分は、子供たち全員に完全に聞える大声のささやきと秘密の言葉でさまざまに語られていたからである。
「この最初の少年は、先生」バチェラーはいった、「ジョン・オウウェン、りっぱな才能があり、率直、正直なやつですが、思慮がなさすぎ、遊び好きすぎ、ずばぬけて気が変りやすい坊主です。あの少年は、先生、よろこんで自分の首をぶち折って、親たちからそのささえになっている楽しみをうばってしまうことでしょう――ここだけの話ですが、あの子が紙まき鬼ごっこ(うさぎになって紙片(臭跡)をまき散らしながら逃げるふたりの子供を、他の子供たちが猟犬になって追いかける遊戯)をし、指導標のそばの生垣やみぞをとび越え、小さな獲物の正面のところにスルリと出ていく姿は、一生忘れられないものになるでしょう。美しいもんですからな!」
ジョン・オウウェンがこうしてしかられ、バチェラーの密語をすっかり聞いてしまったあとで、バチェラーはべつの少年をえらびだした。
「さて、あの少年をみてください」バチェラーはいった。「あの少年、わかりますか? リチャード・エヴァンズという名の少年です。よい記憶力、素早い理解力をもってて、勉強ではすばらしい少年、その上、賛美歌を歌うのによい声と耳をもっていて、最高の少年なんです。だが、あの少年は非業の死をとげ、たたみの上では死ねないでしょう。説教ちゅう、いつも眠りこけているんですからな――ところで、ありていのことを申せば、マートンさん、わたしも、あの齢のころには、いつもそれと同じことをやり、それが自分のからだには合ったこと、どうにもならん、と確信してたもんです」
このおそろしい叱責で有望な少年へのお説教が終ると、バチェラーはべつの少年のほうに向いた。
「だが、さけなければならない手本ということになると」彼はいった、「仲間全員への忠告と指針になるべき少年ということになると、ここにそれがいます。どうか彼を容赦したりはせず、ビシビシやってください。これがその少年、青い目をし薄青い髪をした少年がそれです。これ――この少年は泳ぎが達者で、驚いたことに、とびこみの名人なんです! 服を着けたまんま、十八フィートもある水のなかにとびこみ、めくらの人の犬を助けあげてやりたくなったのは、この少年なんです。その犬は鎖と首環の重みで溺れかけ、主人のめくらの男は、岸でもみ手をしながら、自分の案内人と友を失ったことで、悲嘆に暮れていたんです。それを聞くとすぐ」彼特有のささやき声で彼はいいそえた、「わたしは匿名で二ギニー彼に送ってやりましたよ。だが、そのことは絶対にいわんでおいてください。少年は、それがわたしからのものとは、ぜんぜん知らんのですからな」
この犯罪人の処理をすませてから、バチェラーはべつの少年のほうに向き、その少年からさらにべつの少年、こうして順々に全員に顔を向け、彼らの逸脱ぶりをおさえる健全なお説教として、生徒たちの性癖を辛辣に力をこめて説明していったが、そうした生徒たちの性癖は、じつは彼がとてもよろこんでいたもの、彼自身の教訓とお手本からたしかに起きていたものだった。最後に、自分のきびしさによって少年たちを徹底的にやっつけたと確信して、彼はちょっとした贈り物をやり、とびあがったり、格闘したり、道草を食ったりはせずに静かに家に帰れと注意して、彼ら少年たちを解放してやったが、例のまわりに聞える打ち明け話で、彼は先生に、たとえ生命がかかっていようとも、少年のころの自分だったら、そんな命令にはしたがったはずはない、と話していた。
バチェラーの性格のこうした小さな特質を、これから先の楽しい自分の生活を保証するものとしてうれしく考えて、先生は明るい気持ちになり、よろこびながら、彼と別れ、自分のことを地上でいちばん幸福な人間と思っていた。その夜、二軒の古い家の窓は、中で燃えている陽気な炎の反射で、ふたたび赤く染められ、バチェラーとその友人の牧師は、夕方の散歩からのもどり道で、それをながめようと足をとめ、美しい子供のことをともどもソッと語り合い、ため息をもらしながら、墓地をみまわしていた。
53
翌朝早く、ネルは床から起き出し、家事をすっかりすませ、親切な先生のためにすべてを片づけて(先生はその骨折りを彼女にさせまいとしていたが、彼女はその意志にさからってそれをしてしまった)、炉のそばの釘から鍵の小さな束をおろしたが、これは、前の日に、バチェラーから彼女に正式に授与されたものだった。それをもって、彼女はただひとりで古い教会の訪問に出かけていった。
空は晴れあがって明るく、空気は澄み、新しく散った葉の新鮮なかおりでかぐわしく、爽快だった。近くの小川はキラキラと輝き、調子のいいひびきを立てて流れ、露は緑の小山の上でキラリと光を発して、善霊が死者のために流した涙のようだった。
何人か幼い子供たちが、墓のあいだでたわむれ、笑いながらかくれん坊をしていた。彼らは赤ん坊をひとりつれてきていたが、その赤ん坊は、子供の墓の上で、落ち葉の小さな床の上におかれて、眠りこんでいた。それはある小さな子供の新しい墓――いこいの場所ともいえるところで、その子は、病気になっておとなしく忍耐強く、ときどきは坐って子供たちをジッと見守っていたのだが、いま、子供たちの心では、ほとんどその姿を変えていないように思われていた。
彼女は近づき、その墓はだれの墓か? と子供のひとりにたずねた。その子は、それは墓ではない、庭、兄の庭なのだ、と答えた。そこはほかの庭よりもっと緑の色が濃く、兄がいつも小鳥に餌を与えていたので、小鳥はそこをほかの場所より好んでいる、とその子供は話した。話を終えると、彼はニッコリして彼女をながめ、ひざまずき、芝生にしばらく頬を寄せてそこに寄りそい、陽気にそこから走り去っていった。
彼女は、教会のわきをとおり、その古い塔をみあげ、小門をとおりぬけて、村にはいっていった。老人の墓掘り男は、松葉杖に寄りかかり、小屋の戸口のところで気晴らしをしていて、お早う、と彼女に声をかけた。
「具合いがよくなったこと?」彼と話をしようと足をとめて、子供はいった。
「うん、たしかにね」老人は答えた。「ありがたいことに、ズッといいよ」
「すぐにすっかりよくなることよ」
「神さまのお許しをいただいて、少し我慢すればね。だが、中におはいり、中におはいり!」
老人は、びっこをひいて前を進み、彼自身も少なからず骨を折っておりていったくだりの階段のとこで彼女に注意を与え、先に立って自分の小さな小屋にはいっていった。
「たったひと部屋しかないんだよ。もうひと部屋二階にあるんだが、近ごろ、階段をのぼるのが苦しくなってね、そこを絶対に使わんことになったんだ。だけど、つぎの夏には、またそこにのぼっていこうと思ってるよ」
白髪まじりになった彼のような老人が――しかも、そういった職業がらの人が――どうしてそう気楽に時のことを口にできるのだろう? と子供は驚きに打たれていた。彼は彼女の目が壁にかかっている道具にうつっていくのをながめて、ニッコリとした。
「きっと」彼はいった、「墓掘りにこうした道具ぜんぶが必要と思ってるんだろうね」
「ほんと、そんなにたくさん必要だなんて、どうしてなんだろう? と思っていたのよ」
「そう考えてもむりもないことだ。わしは庭つくりなんだよ。地面を掘り、生きてて成長するものを植えてるのさ。わしの仕事ぜんぶがだめになり、土の中でくさってしまうわけじゃないんだ。真ん中の|鍬《くわ》がみえるだろう?」
「とても古い鍬――とてもギザギザした、すりへった鍬のこと? ええ、みえることよ」
「あれが墓掘りの鍬さ。わかるとおり、よく使いこんだものさ。ここでわしたちは健康に暮してる。だが、あの鍬はうんと仕事をしてきたんだよ。あれ、あの鍬がいま話せるもんなら、あれとわしがいっしょにやってきた思いがけないたくさんの仕事の話をしてくれることだろうな。だが、わしは物憶えがわるくてね、そんな話は忘れちまったよ――物憶えのわるいのは、べつに目新しいことじゃないんだ」彼は急いでいいそえた。「いつもそうだったんだからね」
「おじいさんのほかの仕事を証明してくれる花や|小藪《こやぶ》があることね」子供はいった。
「うん、そうなんだ。それに高い木もな。だが、そうしたものは、きみが考えてるほど、墓掘り男の仕事に縁のないもんじゃないんだよ」
「まあ!」
「わしの心と、思い出ではね――それはお粗末なもんだけどね」老人はいった。「まったく、それは、ときどき、助けになってくれるよ。というのも、ある人のためにある木を植えたとしてごらん。木はそこに立ってて、彼が死んだのをわしに思い出させてくれるんだ。そのひろがった影をながめ、その男のときにそれがどんな木だったかを思い出せば、わしのほかの仕事の年月を思い出させるよすがになり、彼の墓をつくったときがいつか、だいたいきちんと見当がつくんだからな」
「でも、それは、まだ生きている人のことも思い出させてくれるでしょう」子供はいった。
「そうなると、生きてるひとりにたいして、死んだ二十人てことになるな」老人は答えた。「妻、夫、両親、兄弟、姉妹、子供たち、友人たち――少なくとも二十人にはなるね。だからこそ、墓掘り男の鍬はすりへり、傷だらけになるのさ。新しい鍬が必要になることだろうよ――つぎの夏にはね」
この老人が自分の齢と病気のことで冗談をいっているものと考えて、子供はサッと彼のほうをみた。だが、なにも意識しない墓掘り男は、それを|生《き》まじめにいっていた。
「ああ!」ちょっと間をおいてから、彼はいった。「世間の人は絶対に学びとらないんだ。そうなんだ。こうしたことを考えるのは――そうしたことを正しく考えるということなんだが――わしたちだけ、どんなもんも成長はせず、すべてがくさっていく地面をひっくりかえしてるわしたちだけなんだ。教会にいったのかい?」
「いま、いこうとしているの」子供は答えた。
「そこには古井戸があってね」墓掘り男はいった、「鐘楼の真下にあるんだ、深い、暗い、木魂のはねかえってくる井戸だよ。四十年前だったら、巻きあげ機からなわの最初の結び目まで桶をおろしさえしたら、冷たい動かない水の中でそれがパシャパシャいうのが聞えてきたもんさ。だが、水が少しずつ落ちはじめ、その後十年して、第二の結び目がつくられ、なわをうんとおろさなければならなくなった。そうしないと、桶が端のとこで軽く|空《から》っぽで宙ぶらりんになってたんだからね。つぎの十年間に、水はまた落ち、第三の結び目がつくられた。さらに十年すると、井戸は|乾《ひ》あがっちまったよ。そしていまは、腕がつかれるまで桶をさげ、なわをほとんどぜんぶ出しつくしてしまうと、いきなり下の地面でそれがガランガランと鳴るのが聞えてくるのさ。その音は、とても深くてズーッとさがった音、思わず人はドキリとし、まるでそこに落ちこもうとしてるように、とびさがってしまうんだ」
「暗闇でそこにゆき当ると、こわい場所ね!」子供は叫んだが、彼女は老人の顔つきと言葉を追い、まるでその井戸のへりに立っているように感じていた。
「そこは、まさに墓さ!」墓掘り男はいった。「まさにそうさ! こうしたことすべてを知ってるわしたち老人のうちのだれが、泉がひいちまったとき、自分自身のからだのおとろえや、短くなっていく命のことを考えただろう? だれも考えはしなかったよ!」
「あなた自身、とても齢をとっているの?」われ知らず、子供はたずねてしまった。
「七十九になるよ――つぎの夏にはね」
「元気なら、まだ働くつもり?」
「働くだって! もちろん。このあたりのわしの庭をみせてあげよう。あそこの窓からみてごらん。あそこの地所はすっかりこの自分の手でつくり、それを維持してきたんだよ。来年のいまごろまでには、枝が茂って、空もほとんどみえなくなることだろう。その上、わしには、夜に、冬の仕事があるんだ」
こういいながら、彼は坐っていたところの近くにある戸棚を開き、素朴な彫刻がほどこされてある古い材でつくった小箱をいくつかひっぱりだした。
「古い時代と古い時代のものをお好きな紳士の方々が」彼はいった、「ここの教会と廃墟からのこうした記念品を買いたがっておいでなんだ。ときどき、そこここに出てくる|樫《かし》の切れ端で、わしはこうした箱をつくっている。ときには、地下納骨堂の棺の木の端でつくることもあるよ。これをみてごらん――これは棺の材でつくったもん、なにか書き物のある|真鍮《しんちゆう》のきれで端をしっかりしめつけたもんだが、その字を読むのは、もうむずかしいことだろう。一年のこの季節には手もとにある箱の数は少なくなっちまうが、いずれ棚はいっぱいになるさ――つぎの夏にはね」
子供は、彼のつくったものをすばらしいと思い、それをほめたが、間もなくそこを立ち去っていった。そして、歩きながら、この老人が自分の職業とまわりのすべてのものからひとつのきびしい教えをひきだしていながら、それをわれとわが身に当てはめようとは絶対にしないでいること、人生の不安定を細々と語りながらも、言葉でも行為でも、自分のことを不死と考えているらしいのを、なんと奇妙なことだろう、と思っていた。だが、彼女の物思いはここでとどまってはいなかった。賢明にも、善良で慈悲深い神さまの摂理によって、これが人間性格でなければならず、墓掘りの老人は、つぎに来る夏の計画で、すべての人間のひとつの型をあらわしているのをさとっていた。
こうした物思いで胸をいっぱいにして、彼女は教会に到着した。外のドアの鍵をみつけるのはたやすいことだった。それぞれの鍵には黄色の羊皮紙の切れ端がつけられていたからである。錠の中で鍵をまわしただけで、うつろな音がひびき、よろめく足どりで中にはいっていったとき、閉めるときにドアが立てた木魂は、彼女をギクリとさせた。
とても弱々しい足で歩いてきたあの向うにある暗い荒れた道のことを考えて、素朴なこの村の静けさで子供の心がなお強くつき動かされたとすれば、あの厳粛な建物の中で自分がひとりでいるのに気づいたときの深い印象は、どのようなものだったろう! そこでは、光そのものまで、くぼんだ窓をとおしてさしこんできて、古くて灰色にみえ、空気は、大地とかびのにおいをもち、時によって汚物から清められ、すぎ去ったむかしの時代の吐息のように、アーチや側廊や群らがる柱のあいだをとおしてため息をついている衰滅の荷を負っているようにみえたのだった! ここには、ただ割れた石だけをのこしているこわれた石だたみがあった。それは、とっくのむかしに敬虔な人たちの足によってすりへらされ、時が巡礼の歩みの上に忍び寄ってきて、その跡を踏みつぶしたものだった。ここには、くさり果てた|梁《はり》、沈みこんでゆくアーチ、だんだんといたんでくずれかかっている壁、低い大地のみぞ、どんな墓碑銘ものこっていない堂々たる墓があり――すべてのものが――大理石、石、鉄、木材、ほこりが、廃墟のひとつの共通な記念碑になっていた。最高の作品と最低の作品、いちばん素朴なものといちばん豪華なもの、いちばん堂々としたものといちばんみすぼらしいもの――天がつくり人間がつくった双方のもの――すべてが、ここで、ひとつの共通な水準をみつけ、ひとつの共通な物語を物語っていた。
この建物の一部は男爵の礼拝堂で、手を組み――脚を組み、石の床の上でからだをのばした戦士の肖像がいくつかあったが、それは、十字軍で戦った人たち(中世の像で脚を組んでいるものは、伝統的に十字軍戦士と考えられていた)のもの、その剣に守られ、生前のとおり|甲冑《かつちゆう》を着せられていた。こうした騎士の中には、自分の武器、ヘルメット、甲冑を近くの壁にかけさせ、錆ついた|鉤《かぎ》からそれがダラリとさがっている者もあった。それはくずれ荒廃してはいたものの、まだそのむかしの形とその以前の面影を多少はとどめていた。こうして、荒々しい行為は、人間のあとに地上に生きのこり、戦争と流血の|痕跡《こんせき》は、その荒廃をひきおこした当の本人がひとにぎりの土となったあとでもながく、痛ましい形となって残存するものなのだ。
子供は、この古い静かな場所で、墓の上の硬直した姿――それは、彼女の空想では、そこをほかの場所よりもっと物静かにしていた――につつまれて坐り、静かなよろこびでやわらげられた畏怖の念に打たれて、まわりをみわたし、いまこそ自分は幸福で安らいでいる、と感じていた。彼女は棚から聖書をとって読み、それから、それを下において、将来来る夏の日と明るい春の季節――眠っている姿にななめにそそいでくる太陽の光線――窓辺でハタハタと鳴り、ギラリと輝く影になって敷き石の上でたわむれる木の葉――戸外の鳥の歌と芽と花の生長――忍びこんできて頭上の旗をやさしくゆさぶり動かすかぐわしい空気のことを考えていた。この場所が死の思いをめざめさせたら、どうだろう! だれが死のうとも、その場所は依然として変らないだろう。こうした光景と物音は、前と変らず幸福に、依然として進行してゆくことだろう。こうしたものにつつまれて眠るのは、苦痛ではないだろう。
彼女は礼拝堂を――ゆっくりと、ときどきふりかえってまた目を凝らしながら――出てゆき、明らかに塔に通じる低いドアに近づき、そこを開け、せまい|狭間《はざま》をとおしていまのぼってきた場所をみおろすか、ほこりだらけの鏡のチラチラする影をとらえたときはべつにして、いまはもう暗闇につつまれているうねった階段をズンズンとのぼってゆき、とうとうそこをのぼりつめて、小塔の|天辺《てつぺん》に立った。
おお! 光の噴出の突然の輝き、四方八方遠くにひろがり、輝く青い空と合流している野と森の新鮮さ、牧場で草を|食《は》んでいる家畜、木のあいだから出てきて、緑の大地から立ちのぼっているようにみえる煙、下でまだとびはねている子供たち――すべて、あらゆるものは、とても美しく、幸福そうだった!――それは死から生へとおりぬけたよう、天に近づいた感じだった。
彼女が教会の玄関口に姿をあらわし、ドアに鍵をかけたとき、子供たちの姿はもうなかった。学校のわきをとおったとき、せわしい低い人声が聞えてきた。その日になってはじめて、彼女の友人が仕事をはじめていたのだった。物音はだんだんと高くなり、ふりかえってみると、少年たちが群れをなして出てきて、陽気に叫びたわむれながら、散っていくのがみえた。「それは、いいことだわ」子供は考えた、「彼らが教会のわきをとおるのは、とてもうれしいことだわ」ついで、彼女は足をとめ、その物音が教会の中でどんなにひびくことだろう、どんなにおだやかに、死滅していくように耳にひびくことだろう、と空想を走らせていた。
その日また、そう、またふたたび、彼女はソーッと礼拝堂にもどってゆき、前の座席で同じ聖書を読み、同じ一連の静かな物思いにふけった。あたりが薄暗くなり、これからやってくる夜の陰がそこをもっと厳粛なものにしたときでも、子供はそこに根が生えたようにとどまり、恐怖感もいだかず、動こうともしなかった。
先生や老人がとうとう彼女をそこにみつけ、家につれ帰った。彼女の顔は青ざめてはいたものの、とても幸福そうだった。ついにみなは、別れて床につくことになった。あわれな先生がかがみこんで彼女の頬にキスをすると、彼は涙がひと|滴《しずく》自分の顔に流れていくのを感じた。
54
バチェラーがしている仕事はさまざまあったが、古い教会をいつも興味と楽しみの|源《みなもと》と考えていた。人は自分の住む小さな世界のもつすばらしいものにたいしてほこりをもつものだが、そうしたほこりをいだいて、彼は教会の歴史を研究し、多くの夏の昼間には教会の壁の中で、多くの冬の夜には牧師館の炉辺で、バチェラーはかなり集めた物語や伝説を読みふけり、それに新しいものを加えていた。
時と豊かな空想は、影のような衣裳で真実を飾り立て――そうした衣裳の一部は、真実にいかにも似合いのものになって、真実の泉から流れだす水のように、時と空想がなかばかくし、なかば暗示する魅力に新しい美しさをそえ、|倦怠《けんたい》と無関心より、むしろ興味と追求の心をよびさます。しかし、美しい真実からそうした影の多い衣裳すべてをはぎとってしまおうとする荒っぽい人がいるが、バチェラーはそうした人ではなかった――こうしたきびしい、頑固な連中とはことちがい、彼は、伝統がやさしいよそおいのためにつくり、いちばん地味な形でときにいちばんみずみずしいたたずまいを発揮する、あの野生の花の環の王冠で真実の女神が飾り立てられる姿をながめるのを好んでいた。彼は、何世紀にもわたる|塵《ちり》をソッと踏みしめ、ソッとそれにふれていた。人間の心のもつ好感なり愛情なりがそのあたりにかくされていれば、塵の上に建てられた淡い|社《やしろ》を打ちこわしたくはなかったからである。たとえば、荒い石づくりの古い棺があり、それが、幾世代にもわたって、外国で刃傷ざたと掠奪で破壊をおこなったあとで、悔悛の情と悲しみの心に責め立てられて本国に帰還したある男爵の骨をおさめたものと考えられていたが、最近になって、問題の男爵は戦闘でおそろしい死をとげ、歯ぎしりをして最後の息でのろいの言葉をはきながら死亡したということが、学識ある古物研究家の人たちによって証明されることになった。こうした場合、バチェラーは、古い話が真実のものという強固な態度をくずさず、この男爵は自分の悪事を悔い、慈善を多くおこない、おだやかな死をとげ、男爵で天国にのぼっている者があったら、この男爵こそいま安らかにいこいをとっているだろう、と主張した。同じように、ある人知れぬ地下納骨堂は、家の戸口で|飢餓《きが》のために気を失って倒れたあるみじめなカトリックの僧侶を助けてやったために、あの輝かしいエリザベス女王の手で絞首刑になり、はらわたをひきぬかれ、四つ裂きの刑にあったある白髪まじりの婦人(エリザベス女王の代に英国国教会のカトリック教徒への激しい迫害がおこなわれた)の墓ではない、と前記古物研究家たちが反論したとき、バチェラーは厳粛にそうしたすべての人たちに対抗して、教会はこのあわれなご婦人の遺骸によって清められ、その遺骸は、夜、町の四方の門から運び去られ、ひそかにこの教会に埋葬された、と主張した。バチェラーは、さらに(こうしたときに彼はひどく興奮していた)、エリザベス女王の栄光を否定し、この女王治下で慈悲深いやさしい心をもっていたこの身分のいやしい婦人のほうが女王よりはるかに大きな栄光に値するものと主張した。戸口の近くにある平らな石は、自分のただひとりの子供を|勘当《かんどう》し、教会が鐘を買い求めるようにと金をのこしたある|吝嗇《りんしよく》漢の墓ではないという主張については、彼はよろこんでその事実を認め、この場所ではそうした人は生れていない、といっていた。簡単にいえば、すべての石と真鍮の板を、その思い出が生きのこるべき行為の記念碑にしたい、と彼は念願していた。それ以外のことすべてを、彼はよろこんで忘れたいと思っていた。そうしたほかのものが神にささげられたこの場所に埋葬されるのは構わないが、それが地下深くに埋葬され、二度と光にふれないようにと、彼は希望していたのである。
子供が自分の骨の折れぬ仕事を教わったのは、こうした先生の口からだった。もうすでに口では語れぬほどこの静かな建物とそれが立っている場所の安らかな美しさ――永遠の若々しさにつつまれた堂々とした古い時代――に打たれていたので、こうしたことを耳にしたとき、この建物はすべての善良さと徳にささげられたもののように、彼女には思われた。それは、罪と悲しみが絶対におとずれることのないべつの世界、兇悪なものはなにもはいって来ないいこいの場所だった。
ほとんどすべての墓と平らな墓石について、それぞれの来歴を彼女に伝えてから、バチェラーはいまはつまらないただの地下納骨堂になっている地下室に彼女を案内し、それがカトリックの僧侶の時代に灯りをつけられ、天井からつりさげられたランプとよいかおりを発しているゆらぐつり|香炉《こうろ》、黄金と銀で輝いている衣裳と絵、貴重品、低いアーチをとおして一面にギラリギラリと光を発している宝石につつまれて、そのむかし、真夜中に、年老いた声の詠唱が何度かそこで聞かれ、ずきんをかぶった人たちの姿がそのまわりでひざまずき、|数珠《じゆず》をつまぐっての祈りをささげているのがひびいてきた話を、彼女に伝えた。そこから彼は、また地上に彼女をつれだし、古い壁の高いところにある小さな回廊を示したが、そこでは尼僧が――とても遠くの黒みがかった衣裳だったので、ぼんやりとしかみえなかったが――音もなくすべるようにして動き、あるいは、陰気な影のように、お祈りを聞きながらいつも足をとめたりしていたのだった。また、その姿が墓の上で休んでいる戦士が、かつては上にかかっているあのくさりかかった甲冑で身を固め――これがヘルメット、あれが盾、これが|籠手《こて》であること――そうした戦士が両手でふるう大きな剣をふりかざし、向うにある鉄の|矛《ほこ》で人を打ち倒したことを、彼女に語って聞かせた。彼が話したことすべてを、子供は大切に胸の中にしまいこみ、ときどき、夜、こうした古い時代の夢から目をさまし、床から起きあがってあの黒々とした教会をみあげたとき、そこの窓が灯りで輝くのをながめ、吹きぬけてゆく風に乗って運ばれてくるオルガンの音の高まりや人声を耳にしたいものと考えていた。
老人の墓掘りは、間もなく元気になり、また外を歩きまわりはじめていた。彼女は、この老人から、質はちがったものにせよ、いろいろのほかの話を聞いた。彼は墓掘りの仕事はできなかったが、ある日、墓をひとつつくらねばならなくなり、墓をじっさいに掘る男の監視をすることになった。彼はおしゃべり気分になっていて、子供は最初彼のかたわらに立ち、ついでは彼の足もとの草の上に坐って、考えこんだその顔を老人の顔のほうにあげ、彼と語りはじめた。
さて、墓掘りの男の仕事をやっていた男は、彼よりズッと元気だったが、彼より少し年輩の男だった。だが、彼はつんぼで、この墓掘りの男(せっぱつまったときには、一マイルの距離をひどく骨を折って六時間がかりで歩いたことだろう)が、仕事についてこのつんぼの男と話をしているとき、この男のつんぼの欠陥をイライラした憐憫の情で語り、まるで自分がこの世でいちばんたくましく元気なような口ぶりをしていたことに、子供は気づかずにはいられなかった。
「お墓掘りをしなければならないなんて、お気の毒なことね」そこに近づいていって、子供はいった。「だれか人が死んだ話は聞いていないけど……」
「べつの村の女だよ」墓掘り男はいった。「三マイルはなれた村のね」
「若い|女《ひと》だったの?」
「う、うーん」墓掘り男はいった。「六十四以上じゃないと思うな。デイヴィッド、あの女は六十四以上だったかな?」
一生けんめい掘っていたデイヴィッドの耳には、この質問は聞えなかった。墓掘り男は、松葉杖では相手にとどかず、からだが弱っていたのでひとりでは立ちあがれなかったので、相手の男の赤いナイトキャップにわずかの土を投げつけて、その注意をひくことになった。
「どうしたんだい?」顔をあげて、デイヴィッドはいった。
「ベッキー・モーガンの齢はいくつだったっけな?」墓掘り男はたずねた。
「ベッキー・モーガンだって?」デイヴィッドはくりかえした。
「うん」墓掘り男はいい、なかばあわれむような、なかばイライラしたような調子でつぎの言葉をつけ加えたが、それは、相手の老人には通じていなかった。「ひどくつんぼになってるんだな、デイヴィ、たしかにひどくつんぼにな!」
老人は仕事をやめ、土かき用にとわきにおいてあった石板のきれでシャベルをこすり――そうして何代かとてもわからぬベッキー・モーガンの本体(土のこと。人は土から出て土にかえるという)をそこからけずり落して――その問題を語りはじめた。
「はーてと」彼はいった。「棺につけたものを、きのうの晩、みたんだが――七十九だったかな?」
「いや、ちがう、ちがう」墓掘り男はいった。
「ああ、だけど、そうだったよ」ため息まじりに老人は答えた。「そういえば、あの女もおれたちの齢にとても近いんだなと思ってたんだからな。うん、七十九だったよ」
「数字を読みちがえたんじゃないのだろうな、デイヴィ?」ちょっと興奮したようすで、墓掘り男はたずねた。
「なんだって?」老人はいった。「も一度いってくれ」
「ひどいつんぼだ。まったくひどいつんぼだ」ジリジリして墓掘り男は叫んだ。「数字には、たしかにまちがいがないのかい?」
「ああ、たしかにね」老人は答えた。「大丈夫だとも」
「ひどいつんぼになったもんだ」墓掘り男はブツブツとひとりでつぶやいた。「どうやら、頭もぼけてきたらしいぞ」
どうして彼がそう考えるのか、子供はふしぎでならなかった。じっさいのところ、老人は彼におとらず頭はしっかりし、もっとズッと元気だったからである。だが、さし当って墓掘り男はそれ以上なにもいわなかったので、彼女はしばらくそのことを忘れていて、また話しだした。
「木や草を植えていると」彼女はいった、「この前話していたことね。ここにも植えているんですか?」
「墓地にかい?」墓掘り男は応じた。「いいや」
「このあたりにちょっと花と小さな木をみたんですけど」子供は答えた、「向うにも、ほれ、いくらかあるでしょう。あれはあなたが育てているものと思っていたの、たしかに育ちはあまりよくないけれど……」
「神さまのご意志のままに育ったもんだよ」老人はいった。「ここでは、ありがたいことに、絶対にうまく育たんようになってるんだ」
「わたしには、それが解らないわ」
「いやあ、こういうことさ」墓掘り男はいった。「それは、とてもやさしい愛情のある友だちをもった人の墓のしるしになってるのさ」
「たしかにそうだったわね!」子供は叫んだ。「そうだと知って、とてもうれしいわ!」
「うん」老人は応じた、「だが、お待ち。あそこをみてごらん、どんなに頭をさげ、うなだれ、しぼんでるか、みてごらん。そのわけ、わかるかい?」
「いいえ」子供は答えた。
「地下の下に眠ってる人の思い出がすぐに消えちまうからなんだよ。最初、朝、昼、晩とお参りをする。だが、すぐに来方が間遠になりはじめるんだ。一日に一度から、週に一度、週に一度から月に一度、それからは、ながい、いつともわからない|間《ま》がおかれるようになる。それから、ぜんぜん音さたなし。そうした記念品がうまく育つなんていうことは、まずないことだよ。どんなにはかない夏草だって、それ以上長生きをするんだからね」
「そんな話、悲しいことね」子供はいった。
「ああ、お参りにここにやって来るりっぱな人たちも、同じことをいってるよ」頭をふりながら、老人は答えた、「が、おれは、それとはちがったふうにいってるのさ。『墓にものを植えるのは』ときどき、そういう人たちはおれにいってるよ、『この地方のいい習慣。だが、そうした草木が枯れるのをながめるのは、わびしいこと』だとね。だけど、おれはご免こうむって遠慮なく、わしのみるところ、それは、生きてる者の幸福にとっては、おめでたいことっていってるのさ。まったくそうだよ。それが自然というもんなんだからな」
「たぶん、悲しみに暮れている人は、昼間には青い空を、夜にはお星さまを、あおいで、死んだ人たちがお墓ではなく、そこにいるのを知るようになるのでしょう」子供は真剣な声でいった。
「たぶん、そうだろうな」さあどうかなといったふうに、老人は答えた。「そうかもしれんね」
「わたしが信じているとおりであろうとなかろうと」子供は胸の中で考えていた、「わたしはこの場所をわたしの[#「わたしの」に傍点]庭にするつもりよ。ここで毎日仕事をしても、少なくともいけないことではないし、きっとそこから楽しい思いが湧いて来るでしょうから」
墓掘り男は、彼女の赤くなった頬とぬれた目には気づかず、老人のデイヴィッドのほうに向き、その名を呼んだ。彼がベッキー・モーガンの齢をまだ気にしているのは、明らかだった。それがなぜかは、ネルには見当もつかなかったけれど……。
二、三度呼びかけられて、老人ははじめてそれに気がついた。仕事の手を休めて、彼はシャベルによりかかり、手を勘のにぶくなった耳に当てた。
「呼んだのかい?」彼はいった。
「おれは考えてるんだよ、デイヴィ」墓掘り男は答えた、「あの女は」ここで彼は掘っている墓をさした、「お前やおれよりズッと年寄りだったにちがいないとね」
「七十九さ」頭をひとふりして、老人は答えた、「ほんと、そいつをみたんだからな」
「みたんだって?」墓掘り男は応じた。「うん、デイヴィ、女というやつは、齢のことになると、嘘をつくことがよくあるからな」
「まったく、そのとおりさ」相手の老人は急に目をパッと輝かせていった。「もっと年寄りだったかもしれんな」
「たしかに、そうさ。いやあ、どんなに|老《ふ》けこんでたかを、考えてもごらん。あの女にくらべたら、お前もおれも、子供みたいなもんだったんだぜ」
「老けこんではいたな」デイヴィッドは答えた。「お前のいうとおりだよ。老けこんでたよ」
「ながいながいこの年月のあいだ、あの女がどんなに老けこんだふうになってたかを思い出し、最後に七十九、おれたちの齢にしかなってないといえるもんかね?」
「どんなに少なくみつもっても、五つは上だな!」相手は叫んだ。
「五つだって!」墓掘り男は答えた。「十さ。八十九はたしかだ。あの女の娘が死んだときのことを思い出すよ。まちがいなし、絶対に八十九、十だけさばを読んで、おれたちをごまかそうとしてたんだ。ああ! 人間の浅ましさときたら!」
相手の老人もこれにおくれをとらず、この実りのある話題についていくつか道徳的な感想をもらし、ふたり口をそろえて重大な証拠を山ほどもちだしたが、それは、死んだ人が八十九もの年齢であったかどうかというのではなく、彼女が百といった家長的(ユダヤ民族の祖先のアブラハム、イサク、ヤコブなどは非常に高齢だった)年齢に達していたのではないか? といったことだった。この問題を双方に納得いくようにとりきめてから、墓掘り男は友人の助けで立ちあがり、立ち去っていった。
「ここに坐ってるとゾクゾクするな。注意しなくちゃいかん――夏まではな」びっこをひきながらそこからいこうとして、彼はいった。
「えっ、なんだい」老人のデイヴィッドはたずねた。
「かわいそうに、あいつはひどいつんぼだ!」墓掘り男は叫んだ。「あばよ!」
「ああ!」彼の姿を見送りながら、老人のデイヴィッドはいった。「あいつはグングン弱ってるな。日ごとに|老《ふ》けこんでるんだ」
こうしてこのふたりは別れ、それぞれが、相手のことを自分より短命と確信し、ベッキー・モーガンについてふたりの意見が一致したささやかな虚構で大いになぐさめられ、元気をふるい立たせていた。そして、ベッキー・モーガンの死は、もはや不愉快で気になる先例ではなく、これから先二十年間、彼らにはぜんぜん関係のないことになった。
子供は、それから数分間、そこにいて、つんぼの老人がシャベルで土を放りだし、ときどき仕事をやめて咳払いをし、息をととのえ、落ち着き払った態度でクスクスと笑いをもらしながら、墓掘り男がズンズンと参っている、とブツブツつぶやいている姿を見守っていた。とうとう彼女はそこからはなれ、考えこんで墓地をとおりぬけていったが、そこで思いがけずも先生に出逢うことになった。彼は、陽の当るところで、青い墓に腰をおろして本を読んでいた。
「ネルがここにいるのかい?」本を閉じて、彼は明るくいった。「大気と光のなかにいるきみの姿をみるのは、うれしいことだね。きみがよくゆく教会にまたいっているのじゃないか、と心配していたのだよ」
「心配ですって!」彼のわきに坐って、子供は答えた。「あそこはいい場所じゃないのかしら?」
「そう、いい場所だよ」先生はいった。「だけど、ときには陽気にならなければね――いや、そんなに悲しそうに、頭をふり、ニッコリしたりしてはいけないよ」
「わたしの心をご存じだったら、悲しそうではありませんよ。わたしが悲しみに沈んでいると思っているように、そうジロジロみないでちょうだい。いまのわたしより幸福な人なんて、この世にだれもいないんですからね」
感謝の愛情をこめて、子供は先生の手をとり、それを自分の手の中につつんだ。しばらくだまっていたあとで、彼女は「それは神さまのお心なのよ」といった。
「なにが?」
「こうしたことすべて」彼女は答えた。「わたしたちの身のまわりのこうしたことすべて。でも、わたしたちのうちのどっちが、いま、悲しんでいるのかしら? わたしが[#「わたしが」に傍点]いまニコニコしているのは、おわかりでしょう?」
「わたしだってそうだよ」先生はいった。「この同じ場所で、これから先、わたしたちがいっしょに何回笑うことになるかを考えて、ニコニコしているのだよ。向うで話をしていたようだね?」
「ええ」子供は答えた。
「きみを悲しくしたなにかを?」
ながい沈黙がつづいた。
「どんな話?」やさしく先生はたずねた。「さあ、その話をしなさい」
「とても悲しいの――ほんとうに[#「ほんとうに」に傍点]とても悲しいの」ワッと泣きだして、子供はいった、「わたしたちの身のまわりで死んだ人たちがすぐ忘れられてしまうんですもの」
「きみは考えているのかね」彼女があたりに投げている視線に気づいて、先生はいった、「お参りすることのない墓、枯れた木、色あせた一、二の花が忘却や冷たい無視の証拠だと? こうした死んだ人たちがいちばんよく思い出されている行為が、ここから遠くはなれたところにないと考えているのかね? ネル、ネル、そのりっぱな行為とりっぱな思いの中で、こうした墓そのものが――われわれには無視されているようにみえるものの――重要な道具になっている人が、いま世の中でせっせと働いているのだよ」
「それ以上なにもいわないでちょうだい」子供は素早くいった。「それ以上なにもいわないでちょうだい。それはわかっているような気がします。先生のことを思ったとき、どうしてこのわたし[#「このわたし」に傍点]がそれに気づかなかったのでしょう?」
「潔白、善良なもので」彼女の友人は叫んだ、「死滅したり、忘れられたりするものは、そう、なにもないのだよ。その信念をしっかり守りぬくことにしよう。さもなければ、どんな信念もないのだ。ゆり籠の中で死んだみどり児、片言しかしゃべらない子供は、その子を愛していた人たちのきれいな思いの中でよみがえり、その肉体は焼かれて灰になり、深い深い海で身を溺らせようとも、そうした人たちをとおして、世の中をよくする行動でその役目を果しているのだよ。天国の軍勢に加えられる天使はみな、この地上でその天使の子を愛していた人たちの中で、その神聖な仕事をしているのだ。忘れられるだって! おお、人間のよい行為をその|源《みなもと》までたどることができたら、死でさえどんなに美しくみえることだろう! それというのも、どれだけ多くの慈善、慈悲、清められた愛情がほこりだらけの墓から出てきているかがわかってくることだろうからね!」
「はい」子供はいった、「それは、ほんとうのこと。それがほんとうのことだと、わたしは知っています。その力強さをわたしほど感じている者が、どこにいるでしょうか? わたしの中には先生のあの小さな生徒が生きているのですものね。ああ、先生、先生からいただいたよろこびがどんなものかをわかっていただけたらと思うわ!」
あわれな先生はなにも答えず、だまって彼女の上にかがみこんだ。彼の心はいっぱいだったからである。ふたりはまだ同じ場所に坐りつづけていたが、そのとき、おじいさんが近づいてきた。三人がいっしょになってまだそう話さないうちに、教会の鐘が学校開始の時刻を報じ、先生はひきあげていった。
「いい人だ」彼を見送りながら、おじいさんはいった、「親切な人だ。たしかにあの人[#「あの人」に傍点]からは危害を受けたりはしないよ、ネル。わたしたちは、ここで、とうとう安全になったのだ、そうだろう? ここから出ていったりはしないだろうね?」
子供は頭をふり、ほほ笑んだ。
「この子には休息が必要だ」彼女の頬を軽くたたいて、老人はいった。「顔が青すぎる――青すぎる。以前のようすとはすっかりちがっている」
「以前って、いつのこと?」子供はたずねた。
「ハッ!」老人はいった、「たしかに――いつのことだろう? 何週間前のことだったろう? その週を指で数えることができるだろうか? だが、それはそのままにしておけばいい。消えてしまったほうがいいんだ」
「ズッといいわ、おじいちゃん」子供は答えた。「それは忘れてしまいましょう。さもなければ、それを思い起すようなことがあっても、ただ消えてしまったなにか不安な夢として考えることにしましょう」
「シッ!」片手であわただしく彼女に合図を送り、肩越しにながめて、老人はいった。「夢やそれがひきおこしたすべてのみじめな話は、もうしないことにしよう。ここにはどんな夢もない。ここは静かな場所、夢は近づいて来はしない。夢に追われないように、夢のことは絶対に考えないことにしよう。くぼんだ目とこけた頬――湿気、寒さ、それに飢え――もっとおそろしい、そうしたことすべての以前のおそろしさ――ここで静かに暮したいのなら、そうしたものは忘れてしまわなければならんのだ」
「うれしいわ!」子供は心の中で叫んだ、「こうした幸福な変化が起きたんですもの!」
「お前がここにいるのをわたしに許してくれたら」老人はいった、「わたしはジッと我慢し、謙虚になり、とても感謝し、従順になるよ。だけど、わたしからかくれたりはしないでおくれ。ひとりでソッと出ていったりはしないでおくれ。わたしをお前のそばにおいておくれ。ほんとうに、わたしはとても誠実になり、嘘はついたりはしないよ、ネル」
「わたしがソッと出ていくですって!」陽気をよそおって、子供は答えた、「まあ、それはとてもおもしろい冗談になることよ。ごらんなさい、おじいちゃん、ここをわたしたちの庭にしましょう――いいじゃないの! ここはとてもいい庭よ――そして、あした、はじめることにして、いっしょにならんで働きましょう」
「すばらしい考えだ!」おじいさんは叫んだ。「いいかね、お前、あした、はじめるんだよ!」
翌日仕事をはじめたとき、この老人ほどよろこんでいた人があっただろうか! 彼ほどこの場所に結びつくすべての連想に気づかないでいた人があっただろうか! ふたりはながい草やいら[#「いら」に傍点]草を墓からぬきとり、貧弱な小藪を間引きし、根をとり、芝生をなめらかにし、そこから木の葉や雑草をとりのぞいた。こうして彼らが夢中になって仕事をしているとき、子供がかがみこんでいた地面からふと頭をあげると、すぐそばの階段(牧場の垣やへいを乗り越えられるようにつくった階段)に坐り、だまって自分たちをジッと見守っているバチェラーの姿に気がついた。
「親切な仕事をしているね」膝をちょっと曲げ、からだをさげてネルが彼にお辞儀をすると、彼女にうなずいて小柄な紳士はいった。「今朝、これをぜんぶしたのかい?」
「ほんのわずかなことです」目を伏せて、子供は答えた、「わたしたちがこれからしようとしていることにくらべたら」
「りっぱな仕事だ、りっぱな仕事だ」バチェラーはいった。「だが、きみたちの仕事は、ただ子供と若い人たちの墓のところだけなのかね?」
「いずれほかの人たちのところにも、手をのばします」|面《おもて》をそむけ、物やわらかに話して、ネルは答えた。
それは、どうということもない出来事、意図あってのことか、偶然のこと、さもなければ、若さにたいする子供の無意識の同情だったのかもしれない。そのときまで老人はこのことに気づかないでいたが、それは、彼の心をハッとさせたようだった。彼はあわただしく墓をみまわし、ついで心配そうに子供をながめ、彼女をわきにひきよせて、仕事をやめて休むようにと命じた。ながいこと忘れていたなにかあるものが、彼の心の中でうずきはじめたようだった。もっと重大なことがもう心から消えてしまったのに、それは消え去らず、その日、また、またと何回となく、その後もときどき、彼の心の表面に浮びあがってきた。一度、またふたりが仕事をしているとき、なにか苦しい疑問を解決しようとしているか、バラバラになったさまざまな思いをまとめようとしているように、彼がときどき彼女のほうに向き、不安そうに彼女をながめているのをみて、彼女は、その理由をいってくれ、と彼に強くせまった。だが、彼は、なんでもない――なんでもない、といっただけで、彼女の頭を腕に乗せて、彼女の美しい頬を手で軽くたたき、毎日だんだん丈夫そうになっている、間もなく、一人前の女になるだろう、とつぶやいていた。
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そのとき以来、子供についての心配が老人の心に湧いてきたが、その心配は絶えず彼の心につきまとっていた。人間の心には|弦《げん》――変化する奇妙な|琴線《きんせん》――があり、それは、たまたま偶然に接して、音を発するだけのものである。熱烈で真剣な訴えにたいしては、無言で感応せず、そして最後に、何気なく軽く手にふれられると、それには反応を示す。なんの感受性のない、また、子供っぽい心の中に、ある一連の思想があり、それは人工的な技巧ではみちびくことが不可能、しかも、偉大な真理と同じように、発見者がこの上なくはっきりとしたほかの意図をもっているとき、偶然、その姿をあらわすことになる。そのとき以来、子供の虚弱さと献身は、一刻のあいだも、老人の頭から消えたことがなかった。このちょっとした事件があったとき以来、彼女が自分のかたわらで困難と苦しみをとおりぬけていくのをながめ、わが身にそれをヒシヒシと感じて、彼女のためばかりでなく、少なくとも自分のためにも嘆いていたみじめさをともに味っている者としてしか彼女のことを考えていなかった老人は、自分が彼女にどんなに恩を受けたか、あのみじめさが彼女をどんなにしてしまったかを、はっきりと自覚するようになった。そのときから最後の瞬間まで、ふとしたどんなときにでも、自分の身を構ったり、自分だけの安逸を思うといった利己的な考慮のために、自分の愛情のやさしい対象であるネルのことを忘れてしまうといった態度は、老人には絶対にみられなくなった。
彼はネルのあとをあちらこちらとついてまわり、彼女がつかれて彼の腕に寄りかかるまで待ち――炉隅(むかしふうの大きな炉の壁ぎわの隅で、居心地のよい座席)にいる彼女に向い合せて坐り、彼女の姿をジッと見守るだけで満足し、以前と同じように彼女が頭をあげて彼にほほ笑みかけるまで、そうした状態をつづけ――彼女には負担になりすぎていた家事をソッとやってしまい――寒い暗い夜には、起きあがって、彼女の寝息に耳を澄ませ、ときには何時間も、彼女の寝台のわきでかがみこんで、ただ彼女の手をにぎりしめていた。すべてのことをお心得の神さまだけが、あの乱れた頭の中にどんな希望、恐れ、深い愛情の思いがひそんでいたか、このあわれな老人にどんな変化が起きたかをご存じだった。
ときどき――何週間かがもうノロノロとすぎていった――べつにたいして疲労もしていないのにヘトヘトになってしまった子供は、炉のそばの長椅子で、宵の時刻をすっかりすごしていた。こうしたときに、先生は本をもちこみ、彼女にそれを読んで聞かせ、バチェラーがはいってきて、先生にかわって本読みをしない夜はほとんどないくらいだった。老人は坐ってジッと聞き入り――言葉はよくわからないながらも、目をネルの上に釘づけにして――彼女が話で微笑をもらしたり明るくなったりすると、彼はそれを、おもしろい話だ、といい、その本自体にたいしてまで愛情を寄せていた。夕方の話で、バチェラーが彼女をよろこばせるなにか話をすると(彼の話はいつも彼女をよろこばせた)、老人は骨を折ってその話を憶えこもうとし、いや、バチェラーが部屋を出てゆくと、ソッと部屋を出ていって彼のあとを追い、自分もおぼえこんでネルをニッコリさせたいのだから、といって、話の一部をもう一度くりかえしてくれ、と遠慮しながらたのみこんだりした。
だが、こうしたことは、うれしいことに、めったにないことだった。子供は戸外に出て自分の厳粛な庭を歩きたがっていたからである。教会をみに来る人びとがいたが、一度来た人たちは、ネルのことをほかの人に語り伝え、見学者はさらにまし、その結果、こうした季節でも、ほとんど毎日、来訪者の足がとだえることはなかった。老人は、建物の中で、少しはなれてそうした人たちのあとを追い、とても愛しているネルの声に聞き入り、来訪者がネルと別れて去っていくと、そうした人たちの中にまじりこんで、彼らの話の断片を聞きとろうとしたり、同じ目的で、白髪の頭に帽子もかぶらずに、人びとがとおりすぎてゆく門のところに立っていたりした。
来訪者は、いつもネルと彼女の思慮深さ、美しさをほめ賛え、それを聞いて、老人はほこりやかな気分になっていた! だが、それにじつにしばしばつけ加えられて、彼の心をひきねじり、わびしい片隅でただひとり忍び泣きをさせていたあの苦悶は、どんなものだったのだろう? ああ! 無関心な来訪者――彼女にたいしてさし当っての興味しかもっていない人たち――そこを去って、そのつぎの週には彼女の存在をもう忘れてしまっている人たち――そうした彼らでさえそれをみてとり――そうした人たちでさえ彼女をあわれみ――そうした人たちでさえ同情して老人にさよならの挨拶をし、とおってゆきながら、声をひそめてささやきをかわしていた。
村人もあわれなネルにたいしてみんな愛情を寄せるようになっていたが、こうした村人のあいだにあってさえ、同じ感情が流れ、彼女に寄せる思いやり――彼女に寄せる同情は、日ごとにたかまっていった。屈託がなく考えもない学校の生徒でさえ、彼女に心を寄せていた。彼らの中でいちばん荒っぽい少年も、登校の途中で彼女がいつもの場所にいないと、それに気づき、まわり道をして、格子窓のところで彼女の顔をみようとしていた。彼女が教会で坐っていると、彼らはよく、ソッと開いたドアのところで中をのぞきこんでいたが、彼女が立ちあがって声をかけなければ、絶対に彼らのほうから彼女に話しかけようとはしなかった。ネルを自分たちより崇高なものにしていたある感情が、人びとにゆきわたっていた。
日曜日になると、そうだった。教会にやってくる人たちは、貧乏ないなか者ばかりだった。古い一族が住んでいたお城はもううつろな廃墟になり、七マイル四方、身分の低い人たちしかいなかったからだった。ここでも、ほかの場所と同じように、人びとはネルに関心を寄せていた。教会のおつとめの前後に、彼らは教会の玄関のところで彼女のまわりに集った。幼い子供たちは彼女のスカートのあたりに群れ、老人の男女はいつもの話相手をすて、彼女にやさしい挨拶の言葉を投げた。老いも若きも、彼女のそばをとおれば、かならず彼女にやさしい声をかけた。四、五マイルはなれた村からやってきた多くの人たちは、ささやかな贈り物を彼女に持参し、ひどく身分の低い粗野な人たちまで、彼女に幸福を祈る挨拶をした。
彼女は、墓地で遊んでいるのを最初にみた幼い子供たちを、もうさがしだしていた。そのうちのひとり――兄のことを話していた少年――は、彼女のかわいいお気に入りの友で、ときどき教会で彼女のわきに坐り、彼女といっしょに塔の|天辺《てつぺん》まで登ったりした。彼女の手助けをしたり、それをしていると空想するのが彼のよろこび。ふたりはすぐに親友になった。
ある日、彼女がいつもの場所でひとりで本を読んでいると、この子供が目に涙をいっぱいためてかけこんできて、彼女を自分からはなしてしっかりとおさえ、ちょっと彼女をむきになってながめていてから、すごい勢いで彼女の首をその小さな両腕に抱きしめるといったことが起きた。
「まあ、どうしたの?」少年をなだめながら、ネルはいった。「どうしたことなの?」
「このひとは、まだあれじゃあない!」もっと強く彼女を抱きしめながら、少年は叫んだ。「いや、いや、まだだ」
彼女はびっくりして少年をながめ、彼の顔から髪をおしのけ、彼にキスをして、それはどういうことか? とたずねた。
「あれになっちゃいけないよ、ネル」少年は叫んだ。「それは目にみえないんだもん。いっしょに遊びに来てもくれないし、話もしてくれないんだもん。いまのまんまでいてね。そうのほうがいいんだ」
「あなたのいうこと、わからないわ」ネルはいった。「どういうことか、話してちょうだい」
「うん、みんながいってるんだよ」目をあげて彼女の顔をのぞきこみながら、少年は答えた、「また鳥が歌いだすまでに、きみが天使になってしまうんだとね。だけど、そうはならないね、どう? 空はたしかに[#「たしかに」に傍点]明るく輝いてるけど、ネル、そこにいったりしてはいけないよ。ぼくたちとは別れないでね!」
子供はがっくりと頭をさげ、両手で顔をおおった。
「そんなことになるのを考えると、このひとはたまらなくなるんだ!」涙を流しながらもよろこび勇んで、少年は叫んだ。「いったりはしないね。ぼくたちがどんなに悲しむか、きみは知ってるんだ。ねえ、ネル、ぼくたちの中にいるといっておくれ。ああ、どうか、どうか、そういっておくれ」
小さな少年は手を組み、彼女の足もとにひざまずいた。
「ちょっとぼくをみておくれ、ネル」少年はいった、「そして、ここにいるといっておくれ。そうすりゃ、みんながまちがってると、ぼくにわかるし、もう泣いたりはしないからね。そうだといってくれないか、ネル?」
彼女はまだ頭をたれ、顔をかくし、|嗚咽《おえつ》以外には――まったくおしだまっていた。
「しばらくしたら」彼女の手を顔からひきはなそうとしながら、少年は話しつづけた、「親切な天使たちは、きみがその仲間にならずに、ここでぼくたちといっしょにいると考えて、きっとよろこんでくれるよ。ウィリーはいってしまって、天使の仲間になった。だけど、夜ぼくたちの小さな寝台で、ぼくがどんなにさびしがってるかがわかってたら、たしかに、ぼくをすてていったりはしなかったよ」
まだ、彼女は少年に返事ができず、心がはりさけんばかりにすすり泣いていた。
「どうしてきみは、いこうとしていたんだい、ネル? きみがいなくなって、ぼくたちが泣いてるのを知ったら、きみが幸福を味えないのを、ぼくは知ってるよ。ウィリーがいま天国にいて、そこではいつも夏だ、とみんなはいってるけど、ぼくがウィリーの庭の寝台で横になり、ウィリーがふり向いてぼくにキスできないとき、きっと悲しんでるよ。でも、もしきみがいくんなら、ネル」彼女をしっかりと抱き、彼女の顔に自分の顔をおしつけて、少年はいった、「ぼくのためにも、ウィリーを好きになってね。ぼくがいまでもどんなに彼を愛してるか、どんなにきみを愛してたかを、ウィリーに話しておくれ。きみたちふたりがいっしょにいて幸福になってると考えたら、ぼくは一生けんめいに我慢し、いけないことをしてきみを苦しめたりは絶対にしないよ――ほんとに、絶対にするもんか!」
ネルは、少年の動作にしたがって両手を顔からはなし、それを彼の首のまわりにおいた。涙であふれた沈黙がつづいたが、間もなく、ニッコリとして彼をながめ、とてもやさしい静かな声で、神さまのお許しがあるまで、この地上にいて彼の友だちになることを約束した。少年はよろこんで両手をかたくにぎりしめ、何回も何回も、彼女に礼をいった。そして、ふたりのあいだで起きたことはだれにもいってはいけない、と命じられると、だれにもいわない、とむきになって約束していた。
ネルの知っているかぎりで、少年はたしかに約束を守り、彼女の散歩と物思いでいつも静かな|伴侶《はんりよ》になり、この問題には二度とふれようとはしなかった。原因はわからないながらも、それが彼女を苦しめることになる、と少年が感じとっていたからだった。多少の不信感が、まだ彼にはのこっていた。暗い夕暮れ時にさえ少年はときどきやってきて、オズオズした声でドアの外から呼びかけて、彼女に変りはないかを知ろうとし、大丈夫、中にはいりなさい、といわれると、彼女の足もとの低い背なしの椅子に坐り、家の者が少年をさがしにきてつれて帰るまで、そこにジッと坐りつづけた。朝になるとかならず、彼は家の近くにやってきて、彼女が元気か? とたずね、朝、昼、夜、どこに彼女がゆこうとも、彼は、遊び友だちと遊びをすてて、彼女といっしょになっていた。
「あの子供は、かわいくていい友だちでもあるよ」かつて墓掘り男は彼女にいった。「あの子の兄が死んだとき――兄というのもおかしな感じだ、たった七歳だったんだからね――あの子がそれをとても悲しんでたのを、わしは憶えてるよ」
子供は、先生が前に自分に話したことを考え、この少年にあってさえ、その真実が、ほのかながらも、どんなに示されているかを感じた。
「それであの子は多少落ち着いたようだね」老人はいった、「そのために、十分陽気にもなってるんだがね。こうなれば賭けてもいいが、きみとあの子は、あの古井戸のそばでジッと耳を澄ませていたんだろう」
「ほんと、そんなことはしていなかったことよ」子供は答えた。「あのそばにいくのが、こわかったの。教会のあそこの下のほうにはそういかず、下の底のところは知らないんですもの」
「わしといっしょにおりてこう」老人はいった。「子供のころから、あそこは知ってるんだからね。さあ!」
ふたりは教会堂地下室に通じるせまい階段をおりてゆき、薄暗い陰気な場所のアーチのあいだで足をとめた。
「ここがその場所だよ」老人はいった。「きみがふたをとってるあいだ、おれはきみの片手をにぎってることにしよう。けつまずいて落ちこんだりしたら、大変だからね。わしは年寄り――リューマチのことなんだが――自分ではかがめないんだ」
「黒々としたおそろしいとこ!」子供は叫んだ。
「のぞきこんでごらん」指で下をさしながら、老人はいった。
子供は命じられたとおりにし、穴の中をみおろした。
「墓そのもののようだな」老人はいった。
「そうね」子供は答えた。
「わしはよく考えてるんだが」墓掘り男はいった、「それが最初掘られたのは、むかしの教会をもっと陰気にし、老人の坊主たちの宗教心を強めるためだったのかもしれないとね。そこはふさがれ、その上に教会を建てなければならないんだ」
子供はまだ立ちつくして、考えこみながら井戸の穴をみおろしていた。
「いずれはわかることだろうよ」墓掘り男はいった、「光がここから閉めだされたとき、どんな陽気な頭の上にほかの土がかぶさってくるかはね。それは、だれにもわかるもんか! ここはふさがれるだろう、つぎの春にはね」
「春には、また、鳥が歌うわ」開き窓に寄りかかり、沈んでゆく太陽をジッと見守りながら、子供は考えた。「春! 美しくて幸福なときだわ!」
56
荒野館でのクウィルプ茶会があってから一日か二日して、スウィヴェラー氏はいつもの時間にサムソン・ブラース氏の事務所にはいりこみ、この公正の殿堂にほかに人がいなかったので、帽子を机の上におき、ポケットから黒いクレープの小さなきれをとりだし、帽子につけた黒い喪章といったふうに、それを帽子にまきつけてピンでとめる仕事にとりかかった。この添付物のすえつけが終ってから、彼は至極ご満悦で自分の作品を打ちながめ、また帽子をかぶったが――これは片目の上に深くかぶりこんだ型、|悼《いた》みの効果をあげるためのものだった。こうしてすっかり満足がいくようによそおいの仕上げが終ってから、彼は両手をポケットにつっこみ、ゆっくりと重々しく事務所を歩きまわった。
「ぼくには、いつも同じ運命がおとずれるんだ」スウィヴェラー氏はいった、「いつもそうなんだ。いつもそうで、子供時代から最高の希望がだめになっていくのをみてきたんだ。木でも花でも、ぼくがそれを愛したりすると、それはしぼんで消えてく最初のものになった。やわらかい黒いひとみでぼくをよろこばしたかわいいガゼル(アフリカ・西アジア産の小形のかもしかで、姿が優美で目がやさしい。ここでは女の意も)をいつくしむと、ぼくをよく知り、ぼくを愛するようになったとき、それは、たしかに、野菜つくりと結婚してしまったんだ(トマス・ムアの詩的なロマンス『ララ・ルーク』(一八一七)有名なバラッドからの引用をひねったもの)」
こうした思索におしつぶされて、スウィヴェラー氏は依頼人の椅子のところで足をとめ、そこの開いた肘の中に身を投げだした。
「そして、これが」ちょっとあざけりの冷静さといったもので、スウィヴェラー氏はいった、「人生というもんだ。ああ、たしかにね。それでいいのさ。ぼくはすっかり満足してるよ。ひとつ着けるとしよう」帽子をまたぬぎ、自分がそれを蹴とばさないでいるのはただ経済的な思慮のためだけといったふうに、それをジーッとみつめていてから、彼はいいそえた、「彼女の思い出として、ぼくは女の背信のこの象徴を着けるとしよう。ぼくはあの女とは絶対にグルグルまわりのダンスを二度と縫うようにして踊りはしないし、ぶどう[#「ぶどう」に傍点]酒で絶対に彼女の乾杯はせず、 彼女は、 ぼくののこりの短い生涯のあいだに、 ぼくの眠りを殺害する(『マクベス』U・ii、三七にある言葉)ことになるだろう。ハッ、ハッ、ハッ!」
この独白の結びのところになにか不調和があるといったふうにみえないように、スウィヴェラー氏が陽気な楽しい笑いで言葉を結んだわけではない、そうした笑いは、疑いもなく、彼の厳粛な思索とは矛盾するものだったろう、そうではなく、芝居気分になっていたので、ただメロドラマでいう「悪魔のように笑う」という例の所作をやっただけのこと――それというのも、ご存じの悪魔というやつは、いつも音節、いつもピタリ三つの音節で笑うらしく、それはそうした紳士諸君にあっては注目すべき特性、記憶に値する特性となっているのだから――と、ここで申しあげておくのが必要なことかもしれない。
この悪意のこもった声がまだほとんど消えず、スウィヴェラー氏がまだすごい不屈な気分で依頼人の椅子に坐っていたとき、ベルの音――その音を彼のそのときの気分に合せていえば、葬式の鐘の音――が事務所にひびきわたった。大急ぎでドアを開くと、そこにチャクスター氏の表情豊かな顔があり、そこで、チャクスター氏と彼自身のあいだで、同じ会の会員としての挨拶がかわされることになった。
「この古びた疫病的屠殺場に、きみはバカに早く来るもんですな」片脚で立ち、のこりの脚を屈託なくふりながら、この紳士はいった。
「そのとおり」ディックは応じた。
「そのとおりですと!」チャクスター氏は、とてもよく似合うあの優雅なふざけた態度で、やりかえした。「ぼくだったら[#「ぼくだったら」に傍点]、そう思うところさ。いやあ、きみ、いま何時だか知ってるのかい――朝、午前九時半なんだぜ?」
「中にはいりませんかね」ディックはさそった。「ぼくだけ、スウィヴェラーのみなんですからな。『時はいまや魔力横行する――』」
「『|丑《うし》三つ時!』」
「『墓地は大口を開けてあくびをし』」
「『墓は死人を放りだす』(以上引用文四つは『ハムレット』V・ii、四一三以下のもの)
問答でのこの引用文の終りのところで、それぞれの紳士は芝居気たっぷりな仕草をし、すぐに散文調子にもどって、事務所にはいっていった。こうしたちょっとした情熱は輝かしきアポロウ会では共通のもの、じっさい、彼らを結びつけている環になり、彼らを冷たい鈍い大地から超絶させるものになっていた。
「うん、ところでどうだね、きみ?」背なしの椅子に坐りながら、チャクスター氏はいった。「ぼく個人のちょっとしたある用件でシティに来なければならなくなり、街路の角をとおるときには、いつも家の中をのぞきこむことにしてるんだが、まったく、きみの姿をみかけるなんて夢にも思ってなかったね。まだすごく朝は早いんだしね」
スウィヴェラー氏はその承認を表示し、さらに話を進めていくと、どうやら彼は健康状態にあり、チャクスター氏も同じうらやましい状態にあったので、このふたりの紳士は、彼らが所属している古く輝かしきアポロウ会の厳粛なる習慣にしたがって、終りのところをながくふるわせ、くりかえして『すべてよし』(トマス・ディブディン(一七七一―一八四一)の『イギリスの艦隊』の二重唱。ながいこと人気のあった歌で、節はジョン・ブレイアン(一七七四? ―一八五八)によってつけられた)の流行の二重唱を歌いだした。
「ところで、どんな情報があるかね?」リチャードはたずねた。
「町はオランダのかまど(小さなもので携帯用のものが多く、中で石炭を焼き、平らな上部で料理する)のように」チャクスター氏は答えた、「ペシャンコさ。なんの情報もないよ。ところで、きみんとこのあの下宿人、じつにとてつもない男だね。いくら調べあげようとしても、理解できん人間だ。あんな男って、まずないな!」
「いま、なにをしてるんだい、あの男は?」ディックはたずねた。
「まったく、きみ」細ながいかぎタバコ入れをとりだして、チャクスター氏はいったが、そのふたには狐の頭が|凝《こ》ったふうに彫刻してあった。「あの男はわからない男だ。彼はあの年季契約の人物(エイベル・ガーランドのこと)と友人になった。あの人物にどうと不都合はないんだが、ひどく頭の回転が鈍い男でね。さて、友が必要なら、どうしていささか物に心得があり、その態度と話によって少しは益を得られる人間をえらべないんだろうかね? ぼくにも、もちろん、欠陥はあるけどな」
「いや、いや」スウィヴェラー氏は口をはさんだ。
「いやあ、そう、欠陥はあるさ。だれが自分の欠陥を知ってるといっても、ぼくにはおよばんよ。だが」チャクスター氏はいった、「ぼくはふがいのない男じゃないぞ。ぼくの最大の敵――だれにも敵はあるもの、ぼくにだってあるんだ――にも、ふがいのない点でぼくは責められたことが一度もないよ。いいかね、ふつう男と男のまじわりに大切なこうした資格を、あのやとわれの書記以上にぼくがもってないとしたら、ぼくはチェシャー(イギリス西部の州チーズの名産地)のチーズをかっぱらい、それを首にしばりつけ、身を水に投げて死んじまうよ。もうまちがいなし、いやしい死にざまをしてみせるとも。名誉にかけても、やってみせるとも」
チャクスター氏は話をとめ、人さし指の関節で狐の頭の鼻面をポンとたたき、ひとつまみのかぎタバコをとり、しっかりとスウィヴェラー氏をにらみつけ、自分がくしゃみをしようとしていると思ったら、それはとんでもない勘ちがいといった素振りを示していた。
「その上、きみ」チャクスター氏はいった、「エイベルと友人になるのだけではあきたりず、やつは、そのおやじとおふくろとまで仲よくしてるんだ。あの途方もないひと旗あげ(独身男が海外に出ていたこと)から帰ってきて以来、あの男はあそこに――じっさい、あそこにジーッといつづけてるんだ。おまけに、あのきざっぽい紳士気どり(キットのこと)をひいきにしてね。きみにもわかるだろうが、あいつは、いつもここに出入りしてるよ。だが、あいつがぼくに[#「ぼくに」に傍点]かけた言葉ときたら、ありきたりの挨拶だけといってもいいくらいさ。このぼく[#「このぼく」に傍点]とは、いままで五、六語しかしゃべったことはないんだ。さて、まったく、いいかね」事態がちょっとひどすぎると考えるときに人がよくやるように、頭を重々しくふりながら、チャクスター氏はいった、「こいつは、まったくひどく下劣なことさ。ぼくがいなくなったら、おやじが困るだろうと気の毒に思わなかったら、この仕事は、やむを得ない、やめたいとこなんだ。ほかにどうとも方法はないんだからね」
スウィヴェラー氏は、この友人の向い合せの背なしの椅子に坐り、ひどく同情して火をかきまわしていたが、なにもいわないでいた。
「あの若僧の紳士気どりときたら」予言でもするような顔つきになって、チャクスター氏はつづけた、「きっとあいつは、悪人になるよ。われわれの職業をやってると、多少人間というもんがわかってきてね。たしかに、あの預った一シリング分を働こうともどってきたあいつは、いずれその地金を出すことになるだろう。あいつはいやしい泥棒野郎さ。そうにちがいない」
チャクスター氏は興奮してこの問題の追求を、もっと激しい言葉を使って、おこなうところだったが、ドアをトントンとたたく音がし、それは仕事でだれかが来たのを知らせているようだったので、さっきの彼の宣言とまったくピタリ一致しているとは絶対にいえない、ふがいない態度を彼にとらせることになった。この音を聞くと、スウィヴェラー氏は一本脚でサッと椅子をまわして机に向い、このあわてふためきで火かき棒を手放すのを忘れたので、それを机の中に投げこみ、「おはいり!」と叫んだのだった。
そこに姿をあらわしたのは、ほかならず、チャクスター氏の怒りの題目になっていたキット自身だった! チャクスター氏がはいってきた人物をキットと知ったとき、彼ほどサッと勇気をふるいおこし、彼ほどすごい顔つきをした人はない、といってもいいだろう。スウィヴェラー氏は、一瞬間、彼をにらみつけ、ついで椅子からとびあがり、かくし場所から火かき棒をひっぱりだし、狂乱状態ともいえる姿で|斬《き》りこみと守備のすべての構えで剣術の術すべてを披露におよんだ。
「あの紳士の方はおいででしょうか?」この型はずれの応対にひどくびっくりして、キットはたずねた。
スウィヴェラー氏がまだその応答をしないうちに、チャクスター氏はこの質問の仕方にたいしてプリプリして文句をつけるきっかけをつかみ、目の前にれっきとふたりの紳士がいるのがわかってるのに、ほかの紳士のことを口にするなんて、いやむしろ(キットがさがしている相手はもっとひどい人間であるのは十分に考えられることなのだから)相手の名をはっきりといい、その人物の社会的地位の判定は自分たちの思慮にゆだねるべきだ、だから、キットのたずね方は礼儀をわきまえない、紳士気どりなやり方だ、ときめつけた。同様に、チャクスター氏は、こうした呼びかけ方は自分にたいして失礼ないい方、自分は適当にあしらわれるような人間ではない――これは、きっとある紳士気どりども(それがどんな人物か、これ以上細かに述べることはしないが)がいずれ痛い目を味ってわかることだろう、といった。
「わたしのいっているのは、二階の紳士の方です」リチャード・スウィヴェラーのほうに向って、キットはいった。「あの方は家においででしょうか?」
「どうしてだい?」ディックは応じた。
「もしおいでだったら、手紙をおわたししたいからです」
「だれからのもんだい?」ディックはたずねた。
「ガーランドさんからです」
「おお!」ひどく|慇懃《いんぎん》な態度になって、ディックはいった。「じゃ、わたしていいよ。返事を待つんだったら、きみ、廊下で待ってるがいい。あそこは風とおしがよくって、気分のいいとこだからね」
「ありがとうございます」キットは答えた。「でも、わたしがあの方自身にお手わたししなければならないんです」
この返事の示すひどい厚かましさは、チャクスター氏の気分を強く圧倒し、友人の名誉にたいするやさしい思いやりをつき動かしたので、自分の職務にたいする配慮でおさえつけられるのでなかったなら、自分は即刻その場でキットをたたき殺してしまうとこだろう、無礼なふるまいにたいするこの怒りは、それにともなういかにもしゃくにさわる事情のもとで、かならずやイギリスの陪審員の承認を得られるだろう、陪審員は、復讐者の|清廉《せいれん》さを高く買って、正当と認められる殺人の判決をくだすことだろう、とチャクスター氏はまくし立てた。スウィヴェラー氏はこのことに関してそうカンカンにはならず、むしろ、この友人の興奮で恥ずかしくなり、(キットはまったく冷静で上機嫌だったので)どうふるまったものかと、多少とまどっていた。そのとき、独身男が二階からすごい勢いで呼んでいるのが聞えてきた。
「わしに用事のだれかが来たんじゃないんかね?」下宿人は叫んだ。
「ええ」ディックは答えた。「たしかにね」
「じゃ、どこにいるんだ?」独身男はわめいた。
「ここにいますよ」スウィヴェラー氏は応じた。「さあ、若いの、二階にあがらなくちゃならんのが聞えんのかね? きみはつんぼかい?」
キットは、こうした口論に仲間入りするのはつまらぬことと考えていたらしく、あわただしくそこを去り、ふたりの輝かしきアポロウ会員をだまってたがいに顔を見合せたままにしておいた。
「そういっただろう?」チャクスター氏はいった。「あれをきみはどう思うかね?」
だいたいのところ人のいい男で、キットのいまのふるまいにべつにひどい悪事ととるべき筋はないと考えていたので、どう返事したものか、スウィヴェラー氏は見当もつかないでいた。だが、サムソン氏とその妹の登場によって、彼はこの窮状から救出され、その姿をみると、チャクスター氏はさっさとひきあげていった。
ブラース氏とその愛すべき伴侶は、アルコールぬきの朝食をとりながら、とても興味深い重要ななにかことを相談していたらしかった。こうした会議の折りには、彼らが事務所に姿をあらわすのは、ふだんの時刻より三十分ほどおそいのが通例、すごくニコニコして、そこでたくらまれた陰謀が彼らの心を静め、ふたりの苦しい道に光を投じたか、といったふうだった。この場合には、ふたりは特別陽気になっているらしかった。サリー嬢のようすは、いかにもペラペラしゃべり立てたそうなようす、ブラース氏は、ひどくおどけて陽気な態度で、もみ手をしていた。
「ねえ、リチャード君」ブラースはいった。「今朝、調子はどうだね? われわれはかなり新鮮で陽気かね――えっ、リチャード君?」
「まあ、かなり元気ですよ」ディックは答えた。
「それは結構」ブラースはいった。「ハッ、ハッ! われわれは、ひばり[#「ひばり」に傍点]のように陽気にならなくちゃいかんよ、リチャード君――それでいいじゃないか。われわれが住んでるのは愉快な世界、とても愉快な世界なんだ。その世界にわるいやつはいるけどね、リチャード君、そうした連中がいなかったら、りっぱな弁護士は根だやしになっちまうこったろう。ハッ、ハッ! 今朝郵便は来てるかね、リチャード君?」
スウィヴェラー氏は、来てない、と答えた。
「オヤッ!」ブラース氏はいった、「いや、構わん。きょうたいして商売がなくったって、明日にはうんと仕事があるだろう。満足した心というやつは、リチャード君、生活の宝といったもんなんだからね。だれかここに来たかね、きみ?」
「ぼくの友だちだけです」――ディックは答えた。「欠けることのなきように――(J・デイヴィ(一七六三―一八二四)の『理性の夜明けから』という歌の第一節の最後の二行、「友か、友に与える酒びんが」とつづく)」
「『友か』」ブラースはサッとそれに調子を合せた、「『友に与える酒びんが』というやつだね。ハッ、ハッ! 歌はそういったもんだったね、どうだい? とってもいい歌、リチャード君、とってもいいもんだ。その情緒がたまらんね。ハッ、ハッ! きみの友人はウィザーデン事務所からの若い者だと思うが――そう――『欠けることのなきように――』。ほかの人はぜんぜん来なかったのかね、リチャード君?」
「下宿人のとこにだれか来てるだけですよ」スウィヴェラー氏は答えた。
「やっ、そうかい!」ブラースは叫んだ。「下宿人のとこにだれかかね、えっ? ハッ、ハッ!『欠けることのなきように、友か――』。下宿人のとこにだれかかね、えっ、リチャード君?」
「そうですよ」自分のやとい主が示したひどくうきうきした気分にいささかとまどって、ディックは答えた。
「いま、彼といっしょにいるんだな!」ブラースは叫んだ。「ハッ、ハッ! やつらはそこにいさせてやれ、陽気に屈託なくな、トゥーア・ラル・ロル・ルレ。えっ、リチャード君? ハッ、ハッ!」
「ええ、たしかにね」ディックは答えた。
「ところで、えーと」書類の中を小きざみの踊り足で歩いて、ブラース氏はいった、「下宿人の訪問客はだれだね――ご婦人の訪問客ではないだろうね、えっ、リチャード君? ビーヴィス・マークス地区の道義をきみは知ってるね――『美しき女性の愚行に屈するとき(オリヴァ・ゴールドスミス(一七二八―七四)作『ウェイクフィールドの牧師』、二十四章にある詩で、そのあとにとりかえしのつかぬことになるといった言葉がつづく)』――とかそういったこと――どうだい、リチャード君?」
「べつの若い男、これもウィザーデンのとこというか、そこに半分所属というか、そういった若い男ですよ」リチャードは答えた。「キットと呼ばれてる男です」
「キットだって、えっ!」ブラースはいった。「奇妙な名前――ダンス教師が使ってる|小提琴《キツト》かね、えっ、リチャード君? ハッ、ハッ! キットがあそこにいるんかい、えっ? おお!」
ディックはサリー嬢のほうに目をやり、サムソン氏のこの異常なあふれんばかりの陽気さを彼女がおさえようとしないのを、ふしぎに思っていた。だが、そうしようとする気配はさらになく、むしろ、それを無言で容認しているようすをあらわしていたので、いままでふたりは、だれかにいかさまを働き、勘定書きを受けとったものと、彼は結論を出した。
「ご面倒だろうが、ひとつ、リチャード君」机から一通の手紙をとりだして、ブラースはいった、「ペカム・ライにこれをもってってくれないかね? 返事はいらんが、そうとう重要な手紙、手わたししなければならんもんだ。帰りの馬車代は、事務所に請求してやりたまえ。事務所に遠慮はいるもんか。とれるもんはできるだけとる――書記の座右銘というやつ――えっ、そうじゃないかね、リチャード君? ハッ、ハッ!」
スウィヴェラー氏は、海水浴のジャケットを厳粛な態度でぬぎ、上衣を着こみ、木釘から帽子をとり、手紙をポケットに入れ、外に出ていった。彼がいってしまうとすぐ、サリー・ブラース嬢は立ちあがり、兄にやさしくほほ笑みかけ(兄のほうはその返事にうなずき、鼻をたたいていた)、これもまた、ひきさがっていった。
サムソン・ブラースはひとりになるとすぐ、事務所のドアをサッとおし開き、ドアに向い合せの机にぶっ坐って、二階からおりて街路の戸口をとおりぬける者はだれもみのがさぬ態勢をとり、いかにも陽気に熱心に書きはじめ、そうしながら、音楽的とは絶対にいえない声で、なにか歌をフンフンと歌いはじめたが、それは、どうやら、教会と国家の結合に関係のある歌らしかった。その歌は、夕べの賛美歌とイギリス国歌の合成物(夕べの賛美歌はケン主教(一六三七―一七一一)のつくった『なんじ、わが神に今宵ささぐ』)だったからである。
こうして、ビーヴィス・マークスの弁護士はながいこと、坐り、書き、フンフンと歌を歌っていたが、それをやめたのは、とても|狡猾《こうかつ》な顔をして聞き耳を立てたときのことだけ、そして、なにも聞えないとわかると、前より大声で歌い、筆の運びがだんだんとのろくなっていった。とうとう、こうした停止状態のあるときに、下宿人のドアが開かれて閉じられ、下におりてくる足音が聞えてきた。すると、ブラース氏は書くのをすっかりやめ、手にペンをにぎったまま、最大限の声でうなり、魂すべてが音楽に打ちこまれているといった人のように、頭を左右にふり、いかにも最高天使の清らかさで、ニコリニコリとしていた。
そこの階段とやさしい歌声がキットをつれだした場所は、こうした感動的な光景の示されているところだった。戸口のところにキットが到着すると、ブラース氏は歌をやめたが、ニコニコはやめず、愛想よくうなずき、それと同時に、ペンで彼を招き寄せた。
「キット」想像し得るかぎりの感じのいい調子で、ブラース氏はいった、「どうだい?」
キットは、この友人をちょっとさけようとして、適当な返事をし、街路のドアの錠に手をかけたとき、ブラース氏は温和にこの彼を呼びもどした。
「キット、いっちゃいけないよ」弁護士は神秘的でしかも事務的にいった。「よかったら、こっちにはいって来ないか? いや、これは、これは! きみをみてると」背なしの椅子をすて、背を炉のほうに向けて立って、弁護士はいった。「いままでみた最高にかわいらしい小さな顔を思い出すな。われわれがあの骨董屋のさしおさえをしていたとき、きみが、二度か三度、そこに来たのを憶えてるよ。ああ、キット、わたしのような職業に従事してる紳士は、ときどき、ひどくつらい任務をしなければならなくなってね――きみにうらやまれるようなことはないんだよ――うらやまれるようなことはないんだ、まったくね!」
「うらやんだりはしていませんよ」キットはいった、「それは、わたしのような者にはわからないことですが……」
「われわれのただひとつのなぐさめは、キット」物思いに沈み|呆然《ぼうぜん》としているといった態度で彼をみつづけながら、弁護士はいった、「風の向きは変えられないにせよ、それをやわらげられるということなんだ。こういえるとしたら、毛をはぎとられた羊たちにたいして、風を緩和するということになる(ローレンス・スターン(一七一三―六八)の『感傷旅行』からの言葉。ジョージ・ハーバート(一五九三―一六三二)の『ヤクバ・フルーデントム』にもある)かな」
「はぎとるだって!」キットは考えた。「ずいぶん短く刈りとったもんだ!」だが、彼はそうとは口には出さなかった。
「あのときには、キット」ブラース氏はいった、「いまちょっといったあのときには、わたしはクウィルプさんと|強く《ハード》争って(というのも、クウィルプさんはすごく|冷酷な《ハード》人)、あの程度で許してもらえるようにしてやったんだよ。危くお得意さんひとりを失うとこだった。だが、苦難にある徳がわたしをふるい立たせ、とうとう説得したんだ」
「結局のとこ、この人はそうわるい人間じゃないんだな」弁護士が口をすぼませ、良心と戦っている人のようなようすをみせたとき、正直者のキットは考えていた。
「きみを[#「きみを」に傍点]わたしは尊敬してるよ、キット」ブラースはしみじみといった。「きみの地位は低く、財産もお粗末なもんだが、あのときのきみのふるまいをみて、わたしは打たれてるんだ。わたしがみてるのは、チョッキじゃない。心なんだ。チョッキ(それをみれば身分がわかるわけ)についてる|碁盤《ごばん》じまは、籠の鉄の線にすぎない。だが、心はその中の鳥なんだ。ああ! なんと多くの鳥がたえず毛をぬけ落し、くちばしを籠の外につきだして、人間すべてをつついて非難しようとしていることだろう!」
自分の碁盤じまのチョッキを特にいっているものとキットが考えたこの詩的な比喩は、すっかり彼の心を圧倒してしまった。ブラース氏の声と態度は、少なからず、その効果を増大させていた。彼は隠者のおだやかなきびしさすべてをこめて語り、彼のようかん色の外套の腰にまきつけたなわ、炉棚の上の骸骨ひとつありさえしたら、そうした商売は十分にやっていけそうな気配をあらわしていたからである。
「うん、うん」善良な人たちが自分の弱さや仲間の弱さに同情しているときにみせる微笑を浮べて、サムソンはいった、「これは的はずれの話だ。よかったら、それをあげるよ」こういいながら、彼は机の上のふたつの半クラウンの貨幣を指さした。
キットは、貨幣を、ついでサムソンをながめ、モジモジしていた。
「きみにあげるんだよ」ブラースはいった。
「だれ――」
「それを贈った人間がだれだっていいじゃないか」弁護士は答えた。「よかったら、わたしだとしときたまえ。ここの上の友人は風変りな男でね、キット、ここでものをたずねたり話をしすぎたりしては、まずいことになる――わかるね? きみは、あの金をとっとけばいいんだ。ここだけの話だが、ここでそうした金をもらえるのは、これで最後というわけじゃないだろうよ。そうじゃないと思うな。さようなら、キット。さようなら!」
何回か感謝し、この最初の皮切りの会見で自分が従前そうと思いこんでいたものとは打って変った人物であることがわかった人を、軽率にも誤解したことをひどく後悔して、キットは金をもらい、家へ急いで帰っていった。ブラース氏は、炉の火でからだを温めている姿勢をくずさず、また歌の練習と最高天使の微笑を同時にはじめた。
「はいっていいかしら?」部屋をのぞきこみながら、サリー嬢はいった。
「ああ、どうぞ、はいってもいいよ」兄は答えた。
「エヘン!」物問いたげにブラース嬢は|咳《せき》払いをした。
「うん、うん」サムソンは答えた、「ことは上首尾、念願成就といってもいいくらいだね」
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チャクスター氏が憤慨まじりで心配しているのも、|根拠《いわれ》がないわけではなかった。たしかに、独身男とガーランド氏のあいだの友情は冷たくなるどころか、急速に成長し、グングンとのびていったからである。間もなくたえず交際し文通し合う仲になり、このとき、独身男が軽い病気――たぶん、最近の興奮とその後の失望の結果と思われるが――で苦しんでいたことは、ふたりがさらに緊密な連絡をとり合う理由を与えることになった。そこで、フィンチリーのエイベル荘の住人のだれかが、ほとんど毎日、その場所とビーヴィス・マークスのあいだを往き来することになった。
小馬はもう仮面をかなぐりすて、遠慮会釈なく、キット以外のどんな御者も断固として拒否していたので、老ガーランド氏なりエイベル氏なりが出かけるときにはいつも、キットがお供をおおせつかることになった。すべての伝言やみまいのときには、キットは、職責上、それを運び、こうして、独身男の具合いがわるいあいだじゅう、ふつう郵便配達夫(『骨董屋』出版ちゅうに、従前の二ペニーの郵便配達夫以外に全国的な一ペニーの郵便配達夫があらわれ、これを従前のものと区分するため、ふつう郵便配達夫(ジェネラル・ポーストマン)と呼ばれていた)の規則正しさで、毎朝ビーヴィス・マークスをおとずれることになっていた。
たしかに身辺を鋭く警戒しなければならない理由をもっていたサムソン・ブラース氏は、間もなく、街路のまがり角での小馬の|速《はや》|歩《あし》と小さな馬車の立てる物音を聞きわけることができるようになった。その音が耳にはいるやいなや、彼はすぐにペンを下におき、手をこすり、すごい喜悦をあらわしていた。
「ハッ、ハッ!」彼は叫んでいた。「また小馬が来たぞ! じつにすばらしく、じつにおとなしい小馬じゃないかね、えっ、リチャード君、えっ、きみ?」
ディックはありきたりの返事をし、窓のおおい越しに街路をながめようと、背なしの椅子の下の横木の上に立って、ブラース氏は訪問客を観察していた。
「また、老紳士だ!」彼は叫んでいた、「とても感じのいい老紳士だね、リチャード君――魅惑的な顔――とても冷静――目、鼻、口、どこにでも慈悲があらわれてる。領地をもってたときの姿のリア王を、あの人はすっかりあらわしてるな、リチャード君――同じ上機嫌、同じ白髪と一部の|禿《は》げ、同じひっかけられそうな性質を示してる。ああ! ながめるのに楽しい美しいもん、きみ、まったく美しいもんだ!」
ついで、ガーランド氏が馬車からおり、二階にあがってしまうと、サムソンはキットに窓からうなずき、微笑を投げ、やがて、彼に挨拶をしようと、街路に出てゆき、以下のような会話がそこでおこなわれた。
「すばらしい馬の手入れぶりだね、キット」――ブラース氏は小馬を軽くたたいた――「まったくきみの大きな名誉になるこった――たしかに、驚くほどツヤツヤして光ってる。文字どおり、馬は、からだじゅう、ワニスをぬりつけたようだね」
キットは帽子に手をあげ、ニッコリし、自分も小馬を軽くたたいて、「ブラースさんはこうした馬をそうはおみかけにならないでしょう」という確信を述べ立てた。
「ほんとうに美しい馬だ!」ブラース氏は叫んだ。「その上、利口なんかね?」
「まったく!」キットは答えた、「自分にいわれたことは、人間と同じように、ちゃーんとわかってるんです」
「ほんとにそうかね?」同じ場所で、同じ人間から、同じ言葉で、同じことを何回となく聞いてはいるものの、それにもかかわらず、びっくり仰天で感覚をしびらせていたブラース氏は叫んだ。「これは、これは!」
「はじめて会ったとき、考えてもいませんでしたよ」自分のお気に入りにたいして示された弁護士の興味でうれしくなって、キットはいった、「いまのように、この馬と親しくなれるなんてことはね」
「ああ!」道徳的教訓と道徳愛護の情にあふれて、ブラース氏は答えた。「きみにとっては、反省の魅力的な題目だ、とても魅力的なね。正当なほこりとよろこびの題目だ、クリストファー。正直が最上の政策――わたしはいつもそうと考えてるよ。今朝、正直にやったことで四十七ポンド十シリングの損をしたけどね、それはすべて利益、利益なんだよ!」
ブラース氏は、狡猾にペンで鼻をくすぐり、目に涙を浮べて、キットをながめた。キットは、外見とちがった善良な人がいるものとすれば、それこそサムソン・ブラースだ、と考えていた。
「正直で、ある朝、四十七ポンド十シリング失う人は」サムソンはいった、「うらやむべき人間だよ。それが八十ポンドの損ともなれば、豊かな気分はますます増すだろう。損失の一ポンド、一ポンドは、獲得した幸福を百ウェイト(一ウェイトは一一二ポンド、五〇・八キログラム)にするだろう。静かなる細き声(烈王記略上、一九、一二にある言葉。良心の声のこと)が、クリストファー」微笑を浮べ、胸をたたいて、ブラースは叫んだ、「わたしの胸ん中で喜劇的な歌を歌ってて、すべては、幸福とよろこびになってるんだよ!」
キットはこの会話ですっかり教化を受け、すっかり心を打たれて、ガーランド氏が姿をあらわしたとき、なんといったらいいだろうか? と考えていた。老紳士はひどくへいこらした態度のサムソン・ブラース氏の手で馬車に乗せられ、小馬は、何回か頭をふり、しっかりと四つ脚で大地を踏みしめて三、四分立ちつくし、そこから絶対に動きはしないぞ、そこで生き死ぬんだ、といった気配をみせてから、いきなり、なんの予告もなく、一時間十二イギリス・マイル(一七六〇ヤード)の速度でそこからとびだしていった。ついで、ブラース氏と(戸口のところで彼といっしょになった)彼の妹は、奇妙な微笑をかわし――その表情は絶対に感じのいいものではなかった――部屋にもどって、リチャード・スウィヴェラー氏といっしょになった。このスウィヴェラー氏のほうは、このふたりがいないあいだ、だんまり芝居のさまざまな|所作《しよさ》で心を楽しませ、机のところで顔をカッカとひどくほてらせているのが見受けられたが、小刀半分を使ってすごい勢いで書類をひっかいていたが、なんの効果もあげてはいなかった。
馬車をともなわずにキットがひとりで姿をあらわしたときにはいつも、サムソン・ブラースはなにか仕事を思い出し、ふたたびペカム・ライではなくとも二、三時間、いや、たぶん、もっとズッとながい時間、事務所を空けることになるどこかかなり遠くの場所に、この紳士を派遣することになっていた。スウィヴェラー氏は、じっさいのところ、こうしたさいに素早さで知られた人物ではなく、時間をギリギリのところまでのばしてグズグズすることで知られていた。スウィヴェラー氏の姿が消えると、サリー嬢はすぐにひきさがっていった。すると、ブラース氏は事務所のドアをひろくおし開き、いかにもほがらかに古い歌をウンウンとうなりはじめ、以前と同じように、最高天使の微笑を浮べていた。二階からおりてくるキットは、いつも呼びこまれ、なにか説教か感じのいい会話の接待を受け、ブラース氏が道路の向う側にいっているあいだ、事務所にいてくれとたのまれ、その後、そのときの事情に応じて、ひとつかふたつ半クラウンの貨幣をもらっていた。これは再三再四にわたったことで、それが、母親にじつに気前よく支払いをしてくれた独身男のくれた金にちがいない、と夢々疑ってはいなかったので、その気前のよさにはただただ感服するばかり、母親、チビのジェイコブ、赤ん坊、その上バーバラにいろいろと安い贈り物をしていた。その結果、そうした連中のだれかひとりは、毎日、なにかつまらぬ新しい贈り物を受けとることになっていた。
こうした行動がサムソン・ブラースの事務所の内外で進行ちゅう、リチャード・スウィヴェラーは、事務所によくひとりだけで放りだしになっていたので、そのひまをもてあましていた。そこで、自分の陽気さをうまく維持し、さらには、自分の腕を|錆《さび》させぬようにと、彼はクリベッジの得点表示板とトランプ一組を用意し、空席相手に、何回かの危険なそうとう巨額の賭け以外に、二万、三万、ときには五万ポンドのクリベッジの賭け勝負をやっていた。
賭け金の巨大さにもかかわらず、こうした勝負が静かに進行ちゅう、ブラース氏とブラース嬢が外出している夕暮れ時(彼らは、最近、よく外出していた)、ドアのほうから鼻を鳴らす音か息使いの荒い音かが聞えてくるように思われてきた。そして、少し考えた結果、湿っぽいところに住んでいるためにいつも風邪をひいているチビの召使い女からそれが発せられているにちがいない、と思い当った。ある夜、そちらにしっかりと目をすえていると、片目が鍵穴のところでギラリギラリと輝いているのを、はっきりとみてとった。そこで、自分の推定が正しかったとしっかり思い定めて、彼はソッとドアのところにゆき、彼の接近に気づかぬうちに、この小女におどりかかった。
「おお! べつにどうというつもりはありませんでした。ほんと、そんなつもりはなかったんです」小女の召使いは叫び、もっと大柄な女のようにもがいた。「下ではとってもつまらないんです。どうかあたしのことを告げ口しないでください、たのみます」
「きみのことを告げ口するだって!」ディックはいった「鍵穴からのぞいてたのは交際したかったから、というつもりなんかね?」
「ええ、ほんとにそうだったんです」小女の召使いは答えた。
「あそこでどのくらい、きみの目を冷やしてたんだね?」ディックはたずねた。
「おお、はじめてあんたがトランプをやりだしてからズーッと、その前にもながいことね」
仕事の疲労のあとで彼が何度か奇妙な運動をやって元気をつけ、それを|逐一《ちくいち》この小女の召使いにみていられたかと漠然と思うと、スウィヴェラー氏はそうとうドギマギしてしまった。だが、彼はそうした点ではそう神経質な男ではなく、さっさと落ち着きをとりもどした。
「わかった――はいっておいで」――ちょっと考えてから、彼はいった、「さあ、ここにお坐り。このゲームのやり方を教えてあげよう」
「おお! そんなこと、できないわ」小女の召使いは答えた。「ここにあがってきたなんて知られたら、サリーさんに殺されちまうわ」
「下に火はあるのかい?」ディックはたずねた。
「とても小さな火ならね」小女の召使いは答えた。
「ぼくがそこにおりてったのを知られても、サリー嬢はぼくを殺すことはできないよ。だから、ぼくがおりていこう」トランプの札をポケットに入れて、リチャードはいった。「いやあ、きみはひどく痩せてるね! そいつはどういうことなんだい?」
「あたしがわるいからじゃなくってよ」
「パンと肉の食事を食べていたのかい?」帽子を下において、ディックはいった。「えっ? ああ! そうだと思ってたんだ。ビールを飲んだこと、あるかい?」
「一度ひとすすりしたこと、あるわ」小女の召使いはいった。
「これはひどいことだ!」目を天井にあげて、スウィヴェラー氏は叫んだ。「あの女はそれを味ったことは一度も[#「一度も」に傍点]ないんだ――ひとすすりで味えるものじゃないんだからな! うーん、きみはいくつだい?」
「知らないわ」
スウィヴェラー氏はカッと目を大きく見開き、一瞬、物思いにふけっているようだった。それから、もどってくるまでドアのみはりをしているように命じて、すぐに姿を消した。
やがて彼はもどり、そのうしろに居酒屋の小僧がついてきたが、その小僧は、片手にパンと牛肉の皿を運び、べつの手にはとてもいいにおいのする合成酒をいっぱいつめた大きな壺をもっていたが、それは、快い蒸気を発散していた。この酒は、スウィヴェラー氏が帳簿に没頭したため、居酒屋の亭主との友好を温めたくなったとき、この亭主に伝授した特殊の処方どおりにつくったまったくの銘酒の絶品だった。戸口で小僧の運んできたものを受けとって、不意打ちを食わぬように小女の召使いにドアをしっかり閉じるように命じて、スウィヴェラー氏は彼女のあとにしたがって台所におりていった。
「さあ!」皿を彼女の前において、リチャードはいった。「まず第一に、それを片づけてしまいたまえ。つぎのものがなにか、いずれみせてあげるよ」
小女の召使いに二度くりかえして命ずる必要はなく、皿はすぐに|空《から》になった。
「つぎに」酒をわたして、ディックはいった、「それをひと飲みしたまえ。でも、あまり有頂天になってはいけないよ。きみはそれに馴れてないんだからね。うん、おいしいかい?」
「おお、おいしいのなんのって!」小女の召使いはいった。
スウィヴェラー氏はこの返事で得もいえぬほど満悦したらしく、自分もそれをグーッと一杯やり、それをしながら、しっかりと相手をながめていた。こうした最初の段階の処理がすむと、トランプを彼女に教えはじめたが、頭がよくってぬけ目のない彼女のこと、間もなく、それをかなりこなせるようになった。
「さあ」受け皿に六ペンス貨幣ふたつをおき、みじめなろうそくの|芯《しん》を切り、札をカットして配ってから、スウィヴェラー氏はいった、「これが賭け金だよ。きみが勝ったら、それはぜんぶ、きみのもんさ。ぼくが勝ったら、ぼくがそいつを頂戴するよ。雰囲気をもっとまともな楽しいもんにするため、きみを侯爵夫人と呼ぶことにしよう、わかるかね?」
小女の召使いはうなずいた。
「じゃ、侯爵夫人」スウィヴェラー氏はいった、「さあ、はじめたまえ!」
侯爵夫人は、両手に札をしっかりにぎり、どれからはじめたらいいかを考え、スウィヴェラー氏は、こうした勝負に必要な陽気で社交会的な態度をよそおって、大コップからまた一杯グーッとひっかけ、相手の出方を待っていた。
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スウィヴェラー氏と相手は、勝ち負けこもごもの状態で、三番勝負を何回かやり、六ペンスの貨幣三つの損失、酒がだんだん消えていったこと、十時の鐘が鳴りわたったこと、それぞれが力を合せて、この紳士に時の早い足どりを気づかせ、サムソン氏とサリー嬢の帰宅前にここをひきあげることの有利さを思わせることになった。
「こうした目的を考えて、侯爵夫人」おもおもしくスウィヴェラー氏はいった。「得点表示板をポケットにおさめ、この大コップを、飲み乾したとき、ご前からひきしりぞくお許しを得たいと思いますな。当方の申しあげることはただ、侯爵夫人、人生は川のごとくに流れるもの、川岸にこうした酒があるかぎり、それに、こうした目が流れゆく波に光を投ずるかぎり、それがどんなにドンドンと流れ去っていこうとも、わたしは一向に気にはいたしません(トマス・モアの『ぶどう酒の杯のほほ笑むとき』をスウィヴェラーが多少変えたもの)ということだけ。侯爵夫人、あなたの健康を祝って乾杯! わたしが帽子をかぶるのをお許しください。だが、この宮殿は湿気が強く、大理石の床は――この表現をお許しいただけたら――水たまりだらけですな」
このあとの不便さにたいする警戒手段として、スウィヴェラー氏は炉の横の台に足をのせてしばらく坐り、その姿勢でこうした申し開きの口上を述べ、ゆっくりと神の美酒の最後ののこりをすすっていた。
「するとサムソノー・ブラソー男爵とその美しき妹御は(お話によれば)観劇をなさっておいでなのですな?」左の腕をどっしりとテーブルに乗せ、芝居に出てくる山賊もどきに、声をはりあげ、右脚をあげて、スウィヴェラー氏はいった。
侯爵夫人はうなずいた。
「ハッ!」おそろしい渋面をつくって、スウィヴェラー氏はいった。「それは結構、侯爵夫人!――いや、構いはしない。おい、ぶどう[#「ぶどう」に傍点]酒をもってこい、おいっ!」じつにうやうやしく自分自身に大コップをわたし、それを傲然と受け、ガツガツとそれを飲み、激しく舌を鳴らして、彼はこのメロドラマの一節を実演した。
小女の召使いは、スウィヴェラー氏ほど芝居の因襲をよく知らなかったので(じっさい、芝居はまだ一度もみたことがなく、偶然ドアの隙間やほかのかくれた場所以外で、それについての話を聞いたこともなかった)、こうした物珍しい演出にすっかりおびえ、その心配ぶりをじつにはっきりと表情に浮べたので、スウィヴェラー氏は自分の山賊の仕草を変え、個人生活にもっとふさわしい物腰にするのが必要と感じて、こうたずねた。
「栄光の|侍《はべ》る場所(ムアの『ゆけ、栄光の侍る場所に』というアイルランド歌謡よりとったもの)にふたりはよくゆき、きみをここに放りだしにしておくのかね?」
「おお、そう、そのとおりですよ」小女の召使いは答えた。「サリーさんはその道の|達人《ワナー》よ、ほんとに」
「その道のなんだって?」ディックはたずねた。
「その道の|達人《ワナー》」侯爵夫人は答えた。
ちょっと考えてから、スウィヴェラー氏は彼女の言葉を訂正する責任ある仕事を放棄し、彼女にどんどんと話させようと決意した。彼女の舌が銘酒ですっかりゆるみ、人と話をする彼女の機会はそうしばしばあるわけではなく、ここでその流れをおさえれば、重大なことになるかもしれなかったからだった。
「ふたりはよくクウィルプさんに会いにいくことよ」ぬかりない顔つきをして、小女の召使いはいった。「いろんな場所に出かけてくのよ、ほんとに!」
「ブラースさんは|達人《ワナー》かね?」ディックはたずねた。
「サリーさんの腕にはおよびもつかないわ、そうよ」頭をふりながら、小女の召使いは答えた。「ほんとう、あの人がなにかするときには、サリーさんがかならずついてんの」
「おお、するときにはかならずかい?」ディックはたずねた。
「サリーさんはあの男をしっかりおさえてるの」小女の召使いは答えた。「いつもサリーさんのご意見うかがいしてるのよ、ほんと。そして、ときどきしかられてるわ。どんなにしかられてるか、ほんと、あんたには見当もつかないでしょう」
「きっと」ディックはいった、「ずいぶんと相談し合い、いろんな人のこと――たとえば、ぼくのことなんて、ときどき――話してるんだろうね、えっ、侯爵夫人?」
侯爵夫人はすごい勢いでうなずいた。
「おほめの言葉かね?」スウィヴェラー氏はたずねた。
侯爵夫人はこのときまでうなずきつづけてきた頭の動きを変え、急に首の骨がはずれないかと心配になるほどのすごい勢いで、頭を横にふりはじめた。
「フーン!」ディックはつぶやいた。「いまお話しいただく名誉を獲得することになった身分のいやしい人間について、あのふたりがなんといってるかおもらしねがうのは、信任を裏切ることになりますかな?」
「サリーさんは、あんたはおかしな男、っていってることよ」彼の友人は答えた。
「うん、侯爵夫人」スウィヴェラー氏はいった、「それは悪口とはいえないね。陽気さというものはね、侯爵夫人、わるいとか堕落をひきおこす筋合いのもんじゃないんだからね。老コウル王(陽気な王さまとして童謡に歌われている)は、自身陽気なご老人だったんだからね。これは歴史の話を信じての話だが……」
「でも、サリーさんはいってることよ」相手は語りつづけた、「あんたは信頼できない男だってね」
「いやあ、まったく、侯爵夫人」考えこんでスウィヴェラー氏はいった。「何人かの貴婦人と紳士の方々――かならずしも知的な商売をしてる人ばかりでなく、商人階級の人たちも、夫人、商人階級の人たちまでも――同じことをいってるんですからな。道の向うでホテルを経営してる名も知れぬ市民も、晩餐を用意するようにとぼくが命じたとき、今夜、そうした意見に強く傾いてたんですよ。それは、世間の人がもってる偏見というもん、侯爵夫人。だが、たしかに、それは当方としては|合点《がてん》のいかぬところ。かつてはそうとう信用され、信頼がぼくをすててしまうまで、絶対にぼくは信頼感をすてたりはしなかった――そう、絶対にすてたりはしなかった、とたしかにいえるんですからな。ブラースさんも同じ意見なんでしょうな?」
彼の友人はぬかりのない顔をしてうなずいたが、それは、この問題に関して、ブラース氏のほうが妹よりもっと強い意見をもっていることをほのめかしているようだった。それでハッと思いついたらしく、彼女はたのみこむようにして、「でも、いいつけたりはしないでね、さもないと、死ぬほどたたかれてしまうから」といいそえた。
「侯爵夫人」立ちあがりながら、スウィヴェラー氏はいった、「紳士の言葉は、証文と同じように確実なもの――ときにそれ以上にもっと確実なもの、この場合には、その証文はたよりにならない保証にしかならんのですからな。ぼくはきみの味方、そして、この同じ大広間でいっしょにもっともっと三番勝負をやりたいもん。だが、侯爵夫人」ドアのほうにゆこうとして足をとめ、ろうそくをもって彼についてきた小女の召使いのほうにグルリと向きなおって、リチャードはいいそえた、「こうしたことすべてをつかんでるなんて、いま思いついたんだが、鍵穴んとこできみはいつも目をさらすことにしてるらしいね」
「あたしが望んでるのは」ふるえながら侯爵夫人はいった、「ただ、金庫の鍵がどこにかくされてるかを知りたいだけなの。それがみつかっても、そうたくさん盗んだりはしないことよ――ただお腹がいっぱいになればいいんだから」
「じゃ、それがみつからないんだね?」ディックはいった。「だが、もちろん、みつかりはしないさ。それがみつかったら、きみは鉛管敷設工になれることだろうよ。おやすみ、侯爵夫人。さらば、そが|永遠《とわ》のものなれば、|永遠《とわ》にさらば(バイロン(一七八九―一八二四)の『さらば』という歌より。合唱歌として節をつけて歌われていた)――それに、万一のこともあるんだから、侯爵夫人、ドアの鎖も忘れないようにね」
この別れのことづけを伝えて、スウィヴェラー氏は家からとびだし、自分のからだにちょうどいいと思っただけは十分に飲んだものと感じて(酒はかなり強くて頭にくる合成酒だった)、下宿に帰って、すぐに寝ようと賢明にも思い定めた。そこで彼は家路につき、ひと組みの借りた部屋(彼はひとつの部屋の下宿にいたのだが、まだひと組みのといった大風呂敷の嘘をついていた)は事務所からそう遠くはなかったので、彼は間もなく自分の寝室に坐りこみ、そこで靴の一方だけをぬぎ、べつのほうをぬぐのを忘れて、深い|瞑想《めいそう》に落ちていった。
「この侯爵夫人は」腕組みをして、スウィヴェラー氏はいった、「じつに異常なる人物――謎につつまれ、ビールの味を知らず、自分自身の名も心得ず(これはビールの味を知らぬことほど注目すべきことではないが)、ドアの鍵穴をとおしてのかぎられた社会観しかもっていない――こうしたことは、彼女の運命といえるんだろうか、それとも、だれか見知らぬ人物が運命の定めにたいして反対をはじめたんだろうか? これは、じつに推測できない、まったく文句のつけようのない謎だ!」
彼の瞑想がこの満足すべき点に到達したとき、彼は靴をはいたままの片脚に気づき、威厳をいささかもそこねずに、それをぬぎ、そのあいだじゅう、いかにも重々しく頭をふりつづけ、深いため息をもらしていた。
「あの三番勝負は」帽子とまったく同じふうにナイトキャップをかぶりながら、スウィヴェラー氏はいった、「夫婦生活の炉辺を思い起させるな。チェッグズの奥さんはクリベッジをやり、オール・フォーズ(ソフィ・チェッグズがやっていたクリベッジと同じくふたり、あるいは四人でする遊び)もする。同じことをいろいろとおもむきを変えてやってるんだ。連中は遊びから遊びへと彼女をあわただしくうつしていって、後悔の念を追い払おうとし、彼女から微笑を得ると、彼女が忘れたもんと考えている(トマス・ヘインズ・ベイリー(一七九七―一八三九)の『おお、ちがう、われわれは彼女のことを絶対に口にせぬ』という抒情詩からとったもの)――だが、彼女は忘れたりはしていないぞ。いまごろは、きっと」彼の左頬を横写しにし、鏡に映るほんのわずかな|頬髯《ほおひげ》を満足げにながめて、リチャードはいいそえた、「いまごろは、きっと、くろがねの鎖が彼女の魂にもうはいりこんでいるぞ(詩篇、一〇五、一七―八の言葉より)。ざまをみろというとこさ!」
このきびしい、頑固な気分からもっとやさしい、悲痛な気分に融けていって、スウィヴェラー氏はちょっとうめき、荒々しく部屋を歩きまわり、髪をかきむしろうとする気配までみせたが、これは思いなおし、そのかわりに、ナイトキャップからふさをちぎりとり、最後には、陰気な決意をもって、床の中にはいりこんだ。
彼のようにまずい、そこなわれた立場に立ったら、酒に走った人もあることだろうが、スウィヴェラー氏はそれをもうやっていたので、ソフィ・ワックルズが自分には永遠に失われたものとなったという知らせを受けたとき、彼のしたのは、ただ笛を吹くことだけだった。十分に考慮したあとで、それが自分の悲しい思いに一致するばかりでなく、近所の人たちの胸にも同じ気持ちをひきおこすのに、好都合で、健全な、陰気な仕事と考えたためだった。この決意を遂行しようとして、彼は、いま、小さなテーブルを寝台のわきにひきよせ、ろうそくと小さな長方形の楽譜を都合のいいふうに立て、笛を箱からとりだし、じつに物悲しげに笛を吹きはじめた。
歌は『憂鬱を追い払え』(モーツァルトの『魔笛』の節に合せた作者不明の抒情詩『われらの友』にその一部が載せられている)で、床の中でゆっくりと演奏され、さらに楽器にそうなじみのない紳士によって吹かれ、つぎの調べがわかるまでに前の調べを何回となくくりかえす不利さがかさなるとあっては、いきいきとした効果はとてもあげられない曲だった。だが、半夜、いや、それ以上ものあいだ、スウィヴェラー氏は、ときにあおむけになって天井に目をすえ、ときに寝台から半分からだを乗りだして楽符であやまちをなおそうとし、この不幸な歌を何回となくくりかえしくりかえし演奏しつづけ、息をついて侯爵夫人のことを独語するために、一、二分間休息する以外には、絶対に演奏をやめたりはせず、この短い休息が終れば、また元気を盛りかえして、笛を吹きつづけていた。瞑想の主題をいくつか考えつくし、酒の感情を底のかすまですっかり笛に吹きこみ、家の人びと、両側の家と道の向うの人びとをほとんど狂乱状態におとし入れてから、彼ははじめて楽譜を閉じ、ろうそくを消し、心がとても明るくホッとしたのを感じながら、床の中で向きなおり、ぐっすり眠りこんでしまった。
翌朝、彼はすっかり元気になって目をさました。そして、三十分間笛の練習をし、夜明けからそのつもりで階段のところで待ち構えていた下宿のおかみからいともやさしくも退去命令を受けて、彼はビーヴィス・マークスにおもむいたが、そこでは美しいサリーがもうその席につき、面を光り輝かせて、新月から輝きでるようなやさしき光(なにか出典はあるはずだが不明)を放っていた。
スウィヴェラー氏は、彼女の存在をうなずいて認め、上衣を海水浴用のジャケットにかえたが、これは、着こむのにちょっと|手間《てま》|暇《ひま》のかかることだった。袖の窮屈さの結果、からだをつづけざまにねじって、ようやく着こめる|代物《しろもの》だったからである。この困難を克服して、彼は自分の机に向って腰をおろした。
「ねえ」いきなり沈黙を破って、ブラース嬢はのたもうた、「今朝、銀の鉛筆入れをみかけなかったこと、どう?」
「街路では、そうたくさんの鉛筆箱さんには出逢いませんでしたよ」スウィヴェラー氏は答えた。「ひとつ――きちんとした外見の太った鉛筆箱をみかけましたがね、それは初老の小刀君とつれ立ち、若い|爪《つま》|楊枝《ようじ》君とむきになって話をしてたんで、呼びかけるのに遠慮しちまったんです」
「ちがうの。でも、みたこと?」ブラース嬢は応じた。「まじめな話なのよ」
「まじめにこんな質問をぼくにするなんて、きみはまったく退屈な犬というとこだね!」スウィヴェラー氏はいった。「ぼく、たったいま、ここに来たばっかしなんですよ」
「ええ、わたしの知ってることといえば」サリー嬢は答えた、「それがみつからず、今週のある日、それを机の上においたら、消えちまったということだけよ」
「いや、これは!」リチャードは考えた、「侯爵夫人がここで活躍したんじゃないだろうな」
「ナイフもあったの」サリー嬢はいった、「同じ型のでね。ずいぶんむかし、父からもらったもんだけど、両方とも消えちまったのよ。あんた自身も、なにかをなくしはしないこと、どう?」
スウィヴェラー氏は、われ知らずサッと両手をジャケットにやり、それが[#「それが」に傍点]ジャケットで、袖つきの上衣でないのをたしかめ、この品物、ビーヴィス・マークスでの彼のただひとつの動産の安全を確認してから、なにもなくしてはいない、と答えた。
「とても不愉快なことよ、ディック」ブリキの箱をひっぱりだし、ひとつまみのかぎタバコで元気をつけて、ブラース嬢はいった。「でも、ここだけ――友だちのあいだだけの話だけど、サミーにこのことを知らせたら、文句タラタラ果てしなしということになるの――ここにのこしといた事務所のお金の一部も、同じように消えちまったんですからね。特に、半クラウンのお金が三つ、それぞれちがったときに、姿を消しちまったのよ」
「まさか!」ディックは叫んだ。「自分の言葉に注意したほうがいいですな、|きみ《オールドボーイ》、これは重大なことなんですからね。たしかなことなんですかね? あやまちはないんですかね?」
「そうよ、まちがいなんか、あるはずないの」力をこめてブラース嬢は答えた。
「じゃ、まちがいなし」ペンを下において、リチャードは考えた、「これで侯爵夫人も身の破滅ということか!」
心の中でこの問題を考えてみればみるほど、あのみじめな小女の召使いが犯人ではないかという思いが、だんだんとディックに強くなっていった。どんなわずかの食事をあてがわれて彼女が暮しているか、どんなに無視され教育も受けないでいるか、彼女の生れながらの狡猾さが必要と困窮でどんなにとぎすまされたものになっているかを考えたとき、彼として、それに疑いをいれる余地はまずなかった。だが、それにしても、彼は彼女をとてもあわれに思い、こんな重大な事柄で自分たちの奇妙な友人関係を乱すのはとてもいやだったので、いま即金で五十ポンド受けとるより、侯爵夫人の無罪の証しが立てられたほうがズッといい、と思い、じっさいにそう考えこんでいた。
この問題についてとても深刻で真剣な物思いに彼が沈んでいるあいだ、サリー嬢は、大きな神秘と疑惑の態度で、頭をふりながら坐っていたが、そのとき、陽気な歌を歌っている彼女の兄のサムソンの声が廊下で聞え、その紳士自身が、高潔な微笑で|面《おもて》を輝かしながら、姿をあらわした。
「リチャード君、お早う! またここで出逢い、睡眠と朝食で肉体は元気づけられ、心は新鮮さで充満して、べつの一日をはじめるわけですな。リチャード君、われわれは太陽とともに起き、ここに集ってささやかな道――勤務の道を走り(トマス・ケン主教(一六三七―一七一一)の『朝の賛美歌』よりとったもの)、太陽と同じように、一日の仕事を果して、わが身には名誉を与え、仲間の人たちには利益をもたらすわけですな。魅力的な思索、まったく魅力的なもんだ!」
こうした言葉を書記にかけながら、ブラース氏は、いかにもこれみよがしに、五ポンドの銀行紙幣を事細かに検討し、それを太陽の光にかざす仕草をしていたが、この紙幣は、彼が手にしてもちこんできたものだった。
リチャード氏はこの言葉をそう熱をこめて聞いていなかったので、やとい主は目をリチャードの顔に向け、心配そうな顔をしているね、といった。
「きみは元気がないね」ブラースはいった。「リチャード君、われわれはがっくりした気分ではなく、朗らかに、仕事にとりかからねばならんのですぞ。われわれにふさわしいことは、リチャード君――」
ここで純潔なるサリーが大きなため息をもらした。
「いや、これは、これは!」サムソン氏はいった、「きみもか! どうかしたんかい? リチャード君――」
ディックは、サリー嬢のほうをチラリとながめ、彼女が合図を送って、さっきのふたりの話を兄に知らせろ、といっているのを知った。いずれにせよ、このことの決着をつけるまで自分の立場がそうすっきりとしたものにならなかったので、彼は合図どおりの行動をとり、ブラース嬢は、かぎタバコをむだになるほど惜しみなくすって、彼の言葉の裏づけをした。
サムソンの顔は沈み、心配そうな表情がそこにひろがっていった。サリー嬢が予期したように、金の損失をひどく嘆いたりはせず、彼はぬき足さし足でドアのところにゆき、そこを開き、外をながめ、ドアをソッと閉め、また同じ態度でもどり、ささやき声でこういった、
「これはじつに異常で痛ましいこと――リチャード君、じつに痛ましいことですぞ。じつのところ、最近、わたし自身も何回か、わずかな金を机のところで失くしてるんだが、なにか偶然のことで犯人がわかるもんと思って、それを口にせずにいたんだ。だが、期待どおりにことは運ばなかった――ことは運ばなかった。サリー――リチャード君――これはまったく困ったことですぞ!」
こう話しながら、サムソンはボーッとして机の上の書類の中に紙幣をおしこみ、両手をポケットにつっこんだ。リチャード・スウィヴェラーはそれを指摘し、それをとりだすように、とサムソンに注意を与えた。
「いや、リチャード君」カッとしてブラース氏は答えた、「それをとりだしたりはしませんぞ。そこに放りだしておくんです。それをとりだしたりしたら、リチャード君、それこそ、きみを疑ってることになるんですからな。しかも、きみには、かぎりない信頼を寄せてるんですぞ。よかったら、あれはあのまんまそこにおき、絶対にそれをとりあげたりはせんことにしましょう」こういって、ブラース氏はスウィヴェラーの肩をいかにも友好的に軽く二度か三度たたき、自分の正直さにたいしてと同様に、彼の正直さにたいしても絶対の信頼を寄せてるのを信じてもらいたい、と彼にたのみこんだ。
べつのときだったら、スウィヴェラー氏はこうした言葉をうろんなお世辞と受けとるとこだったが、そのときの状況にあって、彼が不当に疑惑をかけられていないと保証されたのは、とても気の安まることと感じていた。彼がしかるべき応答をすると、ブラース氏は彼の手をギュッとにぎりしめ、サリー嬢といっしょに、瞑想にふけりはじめた。リチャードも物思いに沈み、侯爵夫人が|弾劾《だんがい》される事態になるのを刻一刻心配し、彼女が罪を犯したにちがいないという確信に抵抗できなくなっていた。
数分間、それぞれがこうした状態でいたあとで、サリー嬢はとうとうにぎり固めた拳で大きな音を立てて机をまずドシンとたたき、「|わかったわ《ヒツト》!」と叫んだ――まさに文字どおり彼女は机を|たたき《ヒツト》、そこから木の切れ端をちぎりとってしまったが、それは、彼女のいっている意味ではなかった。
「うん」心配そうにブラースは叫んだ。「さあ、いいたまえ、さあ!」
「まあ!」彼の妹は勝ちほこった態度でいった、「この三、四週間、いつもこの事務所に出入りしていた者がだれかいはしないこと? そのだれかが――あんたのおかげで――事務所にひとりでいたんじゃないこと? そのだれかさんが泥棒じゃない、とあんたはいうつもりなの?」
「そのだれかっていうのは、だれのことだい?」ブラースは大声でどなった。
「まあ、あんたがなんと呼んでいたっけ?――キットよ」
「ガーランドさんのとこの若い|者《もん》かい?」
「たしかにね」
「絶対ちがうぞ!」ブラースは叫んだ。「絶対ちがう。そんなこと、承知するもんか。よしてくれ――」頭をふり、一万の|蜘蛛《くも》の巣を追い払っているといったように両手をふりながら、サムソンはいった。「あの男のことで、そんなこと、信じたりはするもんか。絶対に信じたりはせんぞ!」
「あたしはいうことよ」かぎタバコをもうひとつまみとって、ブラース嬢はくりかえした、「あの男は泥棒よ」
「わたしはいうよ」すごい勢いでサムソンはやりかえした、「彼はそんな男ではない[#「ではない」に傍点]とね。それはどんなことなんだい? どうしてそんなことがいえるんだい? りっぱな人物がそんなふうに陰口でほうむり去られていいもんかね? 彼がこの上なく正直、この上なく誠実な男、文句つけようのないいい評判の持ち主なのを知ってるのかい? おはいり、おはいり!」
この最後の言葉は、その前の憤慨まじりの抗議が語られていた調子を帯びてはいたものの、サリー嬢に語りかけられたものではなかった。それは、事務所のドアをノックしただれかに向けての言葉だった。その言葉がブラース氏の口をついて出るか出ないかに、まさに問題の人物のキットが中をのぞきこんだ。
「あの紳士の方は二階においででしょうか?」
「ああ、いるよ、キット」まだ義憤で燃え立ち、眉を寄せて妹をにらみつけながら、ブラースはいった。「ああ、いるよ、キット。きみに会えて、うれしいよ、キット、きみに会えて、よろこんでるよ。下におりてきたとき、またここにお寄り、キット。あの[#「あの」に傍点]若者が泥棒なんて!」キットがひきさがっていったとき、ブラースは叫んだ、「あんなに率直であからさまな顔をしてるのに! あの男になら、かぎりない黄金でも預けることだろう。リチャード君、ご面倒だが、すぐブロード通りのラスプ会社の事務所にいき、カーケムとペインターの民事裁判で出頭の命令を受けとったかどうか、たずねてきてくれないかね? あの[#「あの」に傍点]若者が泥棒だなんて」怒りで顔を紅潮させ、熱気を帯びて、サムソンはせせら笑った。「わたしはめくら、つんぼ、愚か|者《もん》なのかね? 人間性を目の前にみていて、それがわからんというんかね? キットが泥棒だなんて! バカな!」
この最後の間投詞を計り知れぬあなどりと軽蔑をこめてサリー嬢に投げつけて、サムソン・ブラースは頭を机の中につっこんでしまったが、それは、いやしい世間を自分の視野から閉めだし、ほとんど閉ざされた机のふたの下から挑戦の言葉を投げつけているような格好だった。
59
キットが任務を果して、十五分かそこいらして階下におりてきたとき、サムソン・ブラース氏はただひとり事務所にいた。彼は、いつものとおり、歌も歌わず、机に向って坐ってもいなかった。開いたドアから炉に背を向けて立っている彼の姿がみえ、じつに奇妙なようすをしていたので、きっと急病に襲われたにちがいない、とキットが思ったほどだった。
「どこか具合いがわるいんですか?」キットはたずねた。
「具合いだって!」ブラースは叫んだ。「いいや。どうして具合いがわるいなんていうんだね?」
「すっかり青ざめ」キットはいった、「そちらがブラースさんとわからないくらいでした」
「バカな、バカな! ただの思いすごしさ」燃え殻をかき立てようとかがみこんで、ブラースは叫んだ。「こんなに調子のいいことはないんだよ、キット、生涯にわたっての最高のコンディション、陽気にもなってるよ。ハッハッ! 二階のわれわれの友人の具合いはどうだね、えっ?」
「ズッとよくなりました」キットは答えた。
「それはうれしいことだ」ブラースは答えた。「ありがたい、ともいえるね。すばらしい紳士――りっぱな、気前のいい、寛大な人で、迷惑をかけることもない――ほんとにすごい下宿人だ。ハッ、ハッ! ガーランドさん――あの方は元気だろうね、キット――それに小馬――あれはわが友、特別に親しいわが友だよ。ハッ、ハッ!」
キットはエイベル荘のささやかな家族全員のことをこと細かに伝えた。ブラース氏は、それにたいしてひどく無関心、イライラしたふうをみせ、背なしの椅子にぶっ坐り、もっと近くに寄るようにと招いて、キットのボタン穴に手をかけた。
「わたしは考えてたんだよ、キット」弁護士はいった、「きみの母さんに多少なりとも俸給をあげられるんじゃないかとね――きみには母さんがいるんだろう、えっ? 記憶にまちがいなければ、たしかに――」
「ええ、そうです、ええ、たしかに」
「後家さんだったね? せっせとがんばってる後家さんだね?」
「あんなによく働く女、あんなにいい女親は、この世にいませんよ」
「ああ!」ブラースは叫んだ。「気の毒なこと、まったく気の毒なこった。孤児たちをきちんと育てあげようと悪戦苦闘してるあわれな後家さん、まったく人間の善良さを美しく絵に描いたようなもんだ――帽子を下におきたまえ、キット」
「ありがとうございます。でも、すぐいかなきゃなりません」
「とにかく、ここにいるあいだ、下におきたまえ」彼から帽子をとり、机の上にそれをおく場所をみつけよう、と書類をちょっとゴチャゴチャと動かして、ブラースはいった。「われわれが心配してる人たちのための貸し家とかそういったものを、キット、わたしは考えてたんだ。そうした人たちの世話をみるために、その連中をこうした家に入れてやらなければならなくなってね――たよりにならないつまらない連中を入れてやることも、よくあることさ。たよりになる[#「たよりになる」に傍点]人を入れ、それと同時に、よいことをしたと思うよろこびを味っていけない法があるだろうかね? このりっぱなご婦人、きみの母さんをわれわれがやとっていけない法があるかね? あれやこれやの仕事で、宿はあり――しかもいい宿――一年じゅう暮し向きがかなりよく、家賃はただ、その上、毎週の給与はもらえ、キット、それでいまは味えないいろいろな楽しみも十分に味えることになるんだよ。さて、この話をどう思うね? なにか異議があるかね? わたしのねがいは、ただきみの役に立ってあげたいということだけなんだよ、キット。だから、反対の筋があったら、ドンドンといってくれたまえ」
こういいながら、ブラースは帽子を二度か三度動かし、なにかさがしているように、また書類をかきまわした。
「こうしたご親切なお話に、どうして反対なんかできましょう?」心をこめてキットは答えた。「お礼の言葉もありません、ほんとうにありません」
「いや、そんなら」ブラースはいったが、そのとき、彼はいきなりキットのほうに向きなおり、じつに醜悪な微笑を浮べて自分の顔をキットの顔のところにグイッと近づけたので、キットは、感謝の情もさることながら、ギクリとして、とびさがってしまった。「いや、そんなら、話はきまった[#「話はきまった」に傍点]」
キットは、ちょっとうろたえて、彼をながめた。
「話はきまりましたぞ」両手をもみ、いつもの口の達者な態度にもどって、サムソンはいいそえた。「ハッ、ハッ! そういうことにしよう、キット、そういうことにしよう。だが、これはしたり」ブラースはいった、「なんというときに、リチャード君はいってしまったんだろう! まったく、うろつきまわって手におえない男だ! 大急ぎで二階にいってるあいだ、一分間、この事務所の番をしてくれたまえ。ただの一分間だ。絶対に、それ以上一刻でもきみをひきとめたりはしないからね、キット」
出てゆきながらこういって、ブラース氏はあたふたと事務所をとびだし、すぐにもどってきた。スウィヴェラー氏はそれとほとんど同時に帰り、失った時間の穴埋めをしようとキットがあわただしく部屋から出ていったとき、ブラース嬢自身が戸口のところで彼に出逢った。
「おお!」部屋にはいりながら彼のあとを見送って、サリー嬢はせせら笑った。「サミー、あそこにあんたのお気に入りがいくことね、えっ?」
「ああ! あそこにいくね」ブラースは答えた。「よかったら、お気に入りといっても構わんよ。正直者さ、リチャード君――まったくりっぱな男だ!」
「エヘン!」ブラース嬢は咳払いをした。
「いいかな、このいまいましい浮浪者め」怒り立ったサムソンはいった、「あの男の正直なことには、こちらの命を賭けてもいいぞ。いつまでもこんなことをグジグジといいつづける気かね? きみの下劣な|猜疑《さいぎ》心で、わたしはいつまでもなやまされ、苦しめられなければならんのかね? 真に価値ある人物にたいする尊敬心はないのかね、この意地のわるいやつめ? そういうことになれば、彼の正直さよりきみの正直さに疑いをかけたくなるぞ」
サリー嬢は、ブリキのかぎタバコ入れをとりだし、ながくゆっくりとひとつまみのタバコをかぎ、そのあいだじゅうズッと、兄をしっかりにらみつけていた。
「まったく、あの女にはイライラしてくるな、リチャード君」ブラースはいった。「我慢ならんほどムカムカしてくるんだ。わたしはカンカンになって興奮してるよ、たしかに、そのとおりだ。こうしたことは、仕事の上の態度、仕事の上の顔つきとはいえないけど、あの女にはついカッとなってしまうんだ」
「どうしてブラースさんを放っておけないんですかね?」ディックはたずねた。
「それができないからなんだよ」ブラースは答えた。「わたしをイライラさせ苦しめるのが、あの女の|性分《しようぶん》でね、それをするつもりばかりか、それをしなければならんのだ。そうしないと、あいつの健康はもたんことだろうからね。だが、心配することはないさ」ブラースはいった、「心配することはないさ。こちらの目的は果したんだ。あの青年にわたしの信頼を示したんだ。この事務所の番をまたしてくれたんだからね。ハッ、ハッ! フン、この毒蛇め!」
美しき|乙女《おとめ》はさらにタバコをひとつまみし、かぎタバコ入れをポケットにおさめ、いかにも落ち着き払って、前と変らず兄をジッとにらみつけていた。
「この事務所の番をまたしてくれたんだよ」勝ちほこってブラースはいった。「彼には信頼を寄せ、こうした状態はいつまでもつづくことだろう――彼は――あれっ、どこにいったんだ、あの――」
「なにか失くしたんですか?」スウィヴェラー氏はたずねた。
「いや、これはしたり!」つぎからつぎへとポケットぜんぶをたたき、机の中、その下、その上をながめ、荒々しく書類をあたりにまき散らしながら、ブラース氏はいった、「紙幣だ、リチャード君、五ポンド紙幣だ――どうなったんだろう? ここにおいたんだがね――いや、驚いたこった!」
「えっ!」とびあがり、両手を打ち、床に書類をまき散らして、サリー嬢は叫んだ。「消えたんですって! さあ、どっちが正しかったんでしょうね? しかられるのは、だれかしら?――五ポンドなんて、心配なしよ――五ポンドがどうだっていうの? 彼が正直者なのは、あんたもご承知、まったくの正直者よ。彼を疑うなんて、いやしいことよ。追っかけたりしてはだめ。だめ、だめ、絶対にだめよ!」
「だが、じっさいに失くなったんですか?」ブラースと同じように顔を青ざめさせてブラースをながめながら、ディックはいった。
「まったく、リチャード君」この上ない興奮したようすでポケットを手さぐりでさぐりながら、弁護士は答えた、「これは、大それたひどいことかもしれない。たしかになくなってしまった。どうしたらいいだろう?」
「あの男を追っかけたりしてはいけないことよ」かぎタバコをもっとすって、サリー嬢はいった、「絶対にそれをしてはだめ。ゆっくり時間を与えて、それを処分できるようにしてやんなさい。あの男の罪をあばきだすなんて、むごいことよ!」
スウィヴェラー氏とサムソンは、とまどったように、サリー嬢から目を放して、たがいの顔をみつめ、まるで同じ衝動につき動かされたように、帽子をとりあげ、街路にとびだし――しゃにむに突っ走っている格好で、道路の真ん中をふっとび、すべての邪魔物をおしのけていった。
たまたま、キットも、そうまで早くはなくとも、走っていて、数分間先に出ていたので、ズッと先のほうにいた。だが、ふたりはキットの進む道にはかなり自信があり、すごい速度で走りつづけていったので、キットがひと息つき、また走りだしたちょうどそのとき、彼に追いついた。
「とまれ!」一方の肩に手をかけて、サムソンは叫んだが、そのあいだに、スウィヴェラー氏はべつの肩におどりかかった。「そんなに急ぐことはない。急いでいるのかね?」
「ええ、急いでるんです」とてもびっくりして相手の顔をみまわして、キットはいった。
「わたしは――わたしは――それを信じられんくらいなんだ」サムソンはあえいでいった、「だが、事務所から貴重な物が紛失してね。それがなにかは、わからないだろうね?」
「それがなにかですって! いやあ、ブラースさん!」頭から足先までふるわせて、キットは叫んだ。「まさか、あなたは――」
「いや、いや」サッとブラースは答えた、「わたしはなんにも考えてはいないよ。きみがしたとわたしが[#「わたしが」に傍点]いったとなんぞ、いわんでくれたまえ。きみは静かにもどってくれるだろうね?」
「もちろん、もどります」キットは答えた。「いいですとも」
「いかにもね!」ブラースはいった。「いいですともか! いいですともなんかじゃなくなる事態になりそうなんだがね。きみの味方をして、今朝わたしがどんな苦しみを味ったかを知ってたら、クリストファー、きみはそれをくやむことだろうよ」
「きっと、わたしを疑ったことで、そちらこそくやむことになるでしょう」キットは答えた。「さあ、急いでもどりましょう」
「もちろん!」ブラースは叫んだ、「早けりゃ早いほど好都合だ。リチャード君――どうかそちらの腕をおさえてくれたまえ。こちらはわたしがおさえるからね。三人ならんで歩くのは大変なこったが、こうした事情では、万やむを得んのだ。どうにもしようがないんだからな」
こうしてふたりがキットをおさえつけたとき、キットの顔色は蒼白から赤らみへ、赤らみからまた蒼白にもどってゆき、一瞬、抵抗の気配をみせた。だが、すぐに思いなおし、自分がもがいても、襟首をつかまれて大通りをひきずられていくことになるだろうと考えて、ひどくむきになり、目に涙を浮べて、いまにこれを|悔《く》いることになるだろう、とただくりかえしただけ、そして、ふたりにひったてられていった。事務所にもどるこの道中で、現在の任務をとてもいやに思っていたスウィヴェラー氏は、機会をとらえて、ただうなずくだけでもいい、自分の罪を認め、二度とこうしたことはしないと約束したら、サムソン・ブラースの向うずねを蹴っとばし、小路を逃げていっても、みのがしてやろう、とキットの耳にささやいた。だが、キットは憤然としてこの提案を蹴ってしまったので、リチャード氏は、ビーヴィス・マークスに到着するまで彼をしっかりとおさえ、彼を魅力的なサリー嬢のご前にひったてていく以外に、どうすることもできなくなった。サリー嬢はすぐに、用心深く事務所のドアに錠をおろした。
「さて、いいかね」ブラースはいった。「これが無罪の事件だったら、それは、クリストファー、裏表なく十分にさらけだすのが全員にとっていちばん満足のいくといった事件なんだ。だから、検査を受けるのも承知したら」どんな検査を受けることになるかを、彼は上衣の襟口をめくりかえして伝えた、「それは、全員にとって、気持ちのいい快適なことになるんだがねえ」
「身体検査をしてください」両腕をあげてほこりやかにキットはいった。「でも、いいですか――わたしにはわかってますが、最後の日まで、あなたはこれを悔いることになりますよ」
「これは、たしかに、とても痛ましい突発事件だ」キットのひとつのポケットに手をつっこみ、さまざまな小さな品物のかたまりをひっぱりだして、ため息まじりにブラースはいった、「とても痛ましいこと。ここにはなにもないよ、リチャード君、すべて文句なしだ。ここにもない、また、チョッキにもない、リチャード君、また上衣の尻尾のとこにもない。これまでのとこ、うれしい結果になったな、たしかに」
リチャード・スウィヴェラーは、キットの帽子を片手にもち、とてもおもしろそうにこうしたいきさつをジッとながめ、ブラースが片目を閉じ、のこりの目で、まるで望遠鏡をのぞきこむように、あわれなキットの上衣の一方の袖をのぞきこんだとき、彼の顔にはじつにかすか微笑の兆候さえ浮んでいた――そのとき、あわただしく彼のほうに向きなおって、サムソンは帽子を調べるようにと彼に命じた。
「ハンカチがありますよ」ディックはいった。
「それはどうということでもない」べつの袖をのぞきこみ、ひろびろとした場所をみわたしている人のような声で話しながら、ブラースは答えた。「ハンカチは、絶対にどうということもないよ。ハンカチを帽子に入れて運ぶなんて、医者は健康的なこととは考えないだろうけどね、リチャード君――それは頭を蒸しちまうと聞いてるんだがね――だが、そのほかのどの点でも、それがそこにあるのは、とても満足すべきこと――とっても満足すべきことだよ」
同時にリチャード・スウィヴェラー、サリー嬢、キット自身から発せられた叫びが、弁護士の言葉を断ち切った。彼は頭をめぐらし、ディックが問題の紙幣を手にして立っているのをみた。
「帽子の中にか?」悲鳴といった叫びをあげて、ブラースはどなった。
「ハンカチの下の裏張りの下につっこんであってね」この発見に|茫然《ぼうぜん》として、ディックはいった。
ブラース氏は、ディックを、妹を、壁を、天井を、床を、キット以外のすべての場所をながめ、キットは、ボーッとして身じろぎもせずに立ちつくしていた。
「そして、これが」両手をしっかり組み合せて、サムソンは叫んだ、「自身の|軸《じく》の上で回転し、月の影響、天体のまわりの周転、そういったさまざまのたくらみをもってる世界というもんなんだ! これが人間性というもん、そうなんだ! おお、|性《しよう》、性というもの! これが、わたしのささやかな|業《わざ》すべてをつくしてなにか役に立ってやろうとし、このいまでさえ、とても気の毒に思って、放してもやりたいと思ってる悪党なんだ! だが」勇気をふるいおこして、ブラース氏はいいそえた、「わたし自身は弁護士、自分の幸福な国の法律を実施して、手本を示さなければならん。サリー、わたしを許しておくれ。そして、この男の向う側をおさえておくれ。リチャード君、ご面倒だが、ひとっ走りして巡査をつれてきてくれたまえ。性格の弱さはもう消え、もう道徳的な力をとりもどしたよ。さあ、たのむ、巡査をつれてきてくれたまえ!」
60
キットは、クラヴァット(首にまきつけてブローチかピンでとめた古風なネクタイ)の一方をブラース氏にふるえながらおさえられ、反対側をもっとしっかりとサリー嬢につかまれていたが、それにもかかわらず、目をカッと見開き、床をジッとにらんで、まるでボーッとなった人のように立ちつくしていた。サリー嬢のおさえつけ方は、それ自体、かなり手きびしく、この魅力的なご婦人は、ときどき指の関節をすごいふうにねじって彼の喉にまでそれをつっこむ以外に、まず手はじめとしてじつにしっかりとすごい勢いで彼にしがみつき、その結果、彼は、うろたえ乱れた思いの|最中《さなか》にあってさえ、自分は窒息してしまうのではないかという感じを心からとりのぞけないほどだった。兄と妹にはさまれて、まったく抵抗せず、いうがままになって、彼はこうした状態で立っていたが、やがてスウィヴェラー氏が、巡査をひとりしたがえてもどってきた。
この役人は、もちろん、こうした光景には手馴れの者、つまらぬ窃盗からおしこみ強盗や追いはぎにいたるまでのありとあらゆる盗みを自分の仕事の通常のことと考え、そうした犯罪者を、刑法のおろし問屋と小売り店でサーヴィスを受けるためにやってくるお客さん連、自分はそうした店の勘定台のうしろに立っている人物と思っている者だった。彼はブラース氏が述べ立てる事実をたいして興味も驚きもあらわさずに受けとり、それは、葬儀屋が世話をみてくれと呼ばれた人物の最後のことこまかな病状を聞かされているときに示す興味と関心といった程度のものでしかなかった。そして、この優雅な無関心ぶりで、キットの身柄を受けとった。
「治安判事がおいでのうちに」裁判所のこの下級官吏はいった、「役所にいったほうがいいな。きみたちも同行してくれたまえ、ブラース君とそれに――」サリー嬢がグリフィン(ギリシャ神話でライオンの胴体とわしの頭と翼をもつ怪物)かほかの物語に出てくる怪獣ではないかとちょっと疑っているように、彼はサリー嬢を打ちながめていた。
「このご婦人ですか?」サムソンはたずねた。
「ああ!」巡査は答えた。「うん、そのご婦人だ。同様、その物品をみつけた青年もね」
「リチャード君です」物悲しげな声でブラースはいった。「悲しいことだが、必要なことだ。だが、きみ、わが国の祭壇は――」
「貸し馬車は呼んでくれるだろうね?」(ほかのとりおさえていた者が手を放した)キットの腕の肘から少し上のとこを無造作につかんで、巡査は口をつっこんだ。「すまんが、それを呼びに、だれかをやってくれんかね?」
「でも、わたしがひと言いうのを聞いてください」目をあげ、たのむようにしてあたりをみまわしながら、キットは叫んだ。「わたしがひと言いうのを聞いてください。あなた方のどなたとも同じように、わたしは罪を犯してはいませんよ。絶対に罪を犯してはいません。わたしが泥棒ですって! おお、ブラースさん、あなたはそんなバカなことはお考えではないでしょう。たしかに、そんなことをお考えのはずありません。これは、ほんとうに、ひどいことです」
「巡査さん、はっきりわたしの言葉をお伝えしますがね――」ブラースはいった。だが、ここで、彼の言葉は「言葉なんて|糞《くそ》食らえだ」という法律上の原則で断ち切られ、巡査は、言葉なんて赤ん坊と乳飲み児どもがさじで食べてるやわらかい食べ物、たくましい大人にふさわしい食い物は宣誓だけだ、といいきった。
「まったくそのとおり、巡査さん」同じ物悲しげな調子でブラースは賛同した。「まさにおおせのとおり。わたしは、巡査さん、宣誓しますよ、このおそろしい発見がおこなわれた何分か前まで、わたしはあの若者に強い信頼を寄せ、彼にゆだねたことでしょう、たとえば――貸し馬車だ、リチャード君。なにをグズグズしてるんだね、きみ?」
「わたしを知ってる人で」キットはいった、「わたしを信用しようとしなかった人――わたしを信用してない人が、どこにいるでしょう? わたしを疑ったことがあるかどうかを、ビタ一文でも盗んだことがあるかどうかを、だれにでもきいてごらんなさい。貧乏で腹を|空《す》かせてたとき、わたしが一度でも不正直なことをしたでしょうか? いまそれをはじめるなんて、考えられることでしょうか? おお、あなたのいましてることを考えてください。こうしたおそろしい嫌疑をかけられて、とても親切にしてくださった人たちに、どうして顔を合せることができるでしょう!」
いま捕えられた人間が、それを前に考えたらよかったんだ、とブラース氏は応じ、ほかになにか|陰鬱《いんうつ》な言葉をいおうとしたが、そのとき、独身男の声が聞え、どうしたんだ、このさわぎとどさくさの原因はなんだ? と二階からたずねてきた。キットは、自分でそれに答えようと、とっさにドアのほうにゆこうとしたが、巡査にすぐとりおさえられ、サムソンがひとりで外にとびだし、彼なりのふうにこの話を伝える光景をながめる苦しみを味うことになった。
「あの人も、それを信じられない気持ちになってる」もどってきたとき、サムソンはいった、「だれも同じだ。この目でみた証拠を疑うことができたら、とわたしは思うよ。だが、目の伝える宣誓証書は申し分のないもの。わたしの目に反対訊問をかけたって、意味のないこったからね」目をパチパチさせ、それをこすりながら、サムソンは叫んだ、「目は最初の陳述を変えず、変えようとはしない。さあ、サリー、マークスに馬車の音が聞えてきたぞ。ボンネット帽をかぶりなさい。出かけることにしよう。悲しい仕事だ! 道義上の葬式、まったくね!」
「ブラースさん」キットはいった、「ひとつのことだけしてください。どうかわたしを最初にウィザーデンさんの事務所につれていってください」
サムソンは決断つかぬといったふうに頭をふった。
「おねがいします」キットはいった。「わたしの旦那さまがそこにおいでなんです。どうかおねがいです、最初、わたしをそこにつれてってください」
「うーん、わからんな」ブラースはどもっていった。公証人の目のみるところ、できるだけ公正な態度をとっているふうにみせたがっている筋も、彼にあったからである。「時間のほうはどうでしょうかね、巡査さん、えっ?」
いかにもさとりすました顔をして、このあいだじゅうズッと、わら[#「わら」に傍点]を噛んでいた巡査は、すぐ出かけたら時間は十分にあるだろう、だが、ここでこれ以上グズグズしてたら、マンション・ハウス(ロンドン市長官邸とその付近の地区の名)の警察署にまっすぐいかなければならない、と答え、そここそ警察署のある場所、そここそ問題なんだ、という意見を最後に表示した。
リチャード・スウィヴェラー氏はもう馬車に乗りこんで到着し、馬のほうに顔を向けていちばんひろい隅で動かずにがんばっていたので、ブラース氏は、役人に囚人の移動をたのみ、自分はいつでも出発できる、といった。そこで、巡査は前と同じふうにキットをおさえ、彼を少し前におしだし、前方腕のながさの四分の三くらいのところに彼をおくようにし(これが巡査の職業的なやり方)、彼を車の中におしこみ、自分自身もそのあとにつづいた。サリー嬢がつぎに乗りこんだ。もう車の中にいるのは四人になったので、サムソン・ブラースは御車台に乗り、御者をうながして出発させた。
自分の身に起きたいきなりのおそろしい変化にまだ|茫然《ぼうぜん》となったまま、キットは、馬車の窓から外をジッとながめて坐り、街路になにかとてつもない現象はみられないものか、そうすれば、自分が夢の中にいると信ずることもできるのだが、とはかない望みをいだいていた。だが、悲しいこと! すべてのものは、真実でなじみ深すぎるくらいだった。同じつづくまがり角、同じ家々、舗道の上をさまざまな方向にならんで流れていく同じ人の流れ、車道では荷馬車と馬車の同じ雑踏、店の窓にはよく憶えている同じ品物があり、その物音とあわただしさには、どんな夢も映しだすことのない規則正しさがあった。この話は夢のようではあったが、たしかに事実だった。盗みの嫌疑はたしかに受けていた。考えとじっさいの行為で、罪を犯してはいないながらも、紙幣は彼のからだに発見され、いま彼は、囚人として、ひったてられているのだった。
こうした痛ましい物思いに沈み、気を滅入らせながら母親とチビのジェイコブのことを考え、自分の友人たちが自分を有罪と信じたら、そうした人たちの前で、自分の無罪の確信さえも自分をささえるのに十分のものとはならないだろうと感じ、公証人の事務所に近づくにつれて、だんだんと希望も勇気も消滅して、あわれなキットはむきになって窓の外をながめていたが、彼の目には、なにも映ってはいなかった――そのとき、突然、魔力で呼びだされたように、彼はクウィルプの顔の存在に気づいた。
その顔には、なんという意地のわるい目つきがあらわれていたことだろう! それがながめているのは、ある居酒屋の開いた窓からだった。小人はからだを窓の上にひろげ、両肘を窓じきいの上にはり、頭は両手に乗せ、その結果、こうした態度のためや、笑いをおさえていることでからだがふくれあがっていたために、彼のからだの|幅《はば》はふだんの倍にもふくれあがって大きくなったようにみえた。ブラース氏は、彼に気づくと、すぐに馬車をとめた。馬車は彼が立っている場所の真向いのところでとまったので、小人は帽子をぬぎ、おそろしいグロテスクな|慇懃《いんぎん》さで一行に挨拶した。
「へへー!」彼は叫んだ。「どこへゆくんだい、ブラース? どこへ? サリーもいっしょかね? やさしいサリー! それにディックも? 愉快なディック! それにキットも! 正直者のキット!」
「あの人はえらく陽気になってるな!」ブラースは御者にいった。「とても陽気になってるな! ああ――悲しい仕事なんです! これから先、人の正直なんて信用しちゃいけませんぞ」
「どうしていけないんだ?」小人はやりかえした。「どうしていけないんだ、この悪党の弁護士野郎め、どうしていけないんだ?」
「事務所でなくなった紙幣が」頭をふりながら、ブラースはいった、「彼の帽子の中にみつかったんです――彼はその前にひとりで事務所にいたんです――もうまちがいのないこと――証拠の鎖のつながりは完全なもの――|環《わ》ひとつ欠けてはいませんぞ」
「なんだって!」からだを半分窓から乗りだして、小人は叫んだ。「キットが泥棒だって! キットが泥棒だって! ハッ、ハッ、ハッ! いやあ、あいつは一ペニー出してどこでもみられるものよりもっと醜悪な泥棒だ。えっ、キットだって、えっ? ハッ、ハッ、ハッ! おれをやっつける暇と機会に恵まれないうちに、キットはご用になっちまったのか! えっ、キットだって、えっ?」こういって、彼はワッワと|甲《かん》高い声で笑いだして、御者をひどくおびえさせ、そばの染物屋の柱(染物屋と洗濯屋はその店の入り口で棒の先から服をつりさげ、看板にしていた)を指さしたが、そこでは、ダラリとつるさがった服が絞首台からつりさげられた人間のような形をしていた。
「こういうことになったんかね、キット!」激しく両手をこすり合せながら、小人は叫んだ。「ハッ、ハッ、ハッ、ハッ! チビのジェイコブ、それに|愛《いと》しの母君にとって、なんという失望の種になるこったろう! やつをなぐさめ元気づけてやるために、非国教徒の礼拝所の牧師をつれていってやったらいいぞ、ブラース。えっ、キットだって、えっ? さあ、走ってけ、御者、走ってくんだ。キット、バイバイ、幸福になるようにな。気落ちなんかするなよ。ガーランド夫妻――親愛なるおばあちゃんとおじいちゃんによろしくな。おれがご機嫌うかがいをしてたと伝えてくれ、どうだい? あの老夫妻、きみ、それにすべての人間に祝福が授かりますように、キット。全世界に祝福が授かりますように!」
こうしてとっとと流れる|奔流《ほんりゆう》のように、それが聞えなくなるまで好意と別れの言葉を叫んで、クウィルプは彼らと別れ、馬車がもうみえなくなると、頭をひっこめ、喜びで有頂天になって、地面の上でころげまわっていた。
彼らが小人と出逢ったのは公証人の事務所からほど遠からぬ小道、そこで、そう時間がかからずに公証人の事務所に到着したが、そこでブラース氏がまず馬車からおり、わびしげな顔をして馬車の戸を開き、妹に自分と同行して事務所にはいるようにとたのんだが、これは、中にいる善良な人たちに、彼らを待ち構えている悲しい知らせにたいする心構えをつくらせるためだった。サリー嬢はそれを承知し、サムソンはさらにスウィヴェラー氏に同行を求めた。こうして、一同は事務所にはいり、サムソン氏と妹は腕を組み、スウィヴェラー氏はただひとりそのあとにつづいた。
公証人は、外の事務所で炉の前に立ち、エイベル氏とその父親のガーランド氏に話をし、チャクスター氏は机に向って書き物をしながら、たまたまもれ聞えてくる会話の断片をひろいあげていた。ドアのハンドルをまわしながら、ブラース氏は、こうした事態をガラスのドア越しにみてとり、公証人が自分に気づいたと知るや、まだドアが開かれていないのに、頭をふり深いため息をもらしはじめた。
「ああ」帽子をぬぎ、右手のビーバーの手袋の人さし指と中指にキスをしながら、サムソンはいった、「わたしの名はブラースと申します――ビーヴィス・マークスのブラースです。わたしはいくつかちょっとした遺言の事件に関係して、そちらに対抗する立場に立ったことがございますな、ご機嫌はいかがです?」
「そちらがおいでになったご用件はどんなことでも、わたしの書記がうけたまわりますよ」サッとそっぽを向いて、公証人はいった。
「ありがとうございます」ブラースはいった、「まことにありがとうございます。ひとつ妹を紹介いたすのをお許しください――女性の身ではありながらも、われわれの仲間のひとり――たしかに、わたしの仕事では大いに役に立ってます。リチャード君、こちらに出てきてくれたまえ――いいや、まったく」ブラースはいい、公証人とその専用の事務所(そちらに公証人はひきこもうとしていた)のあいだに割りこみ、被害者はこちらといった調子で語りつづけた、「まったく、ごめんこうむって、ひと言かふた言そちらとお話をしなければならんのです」
「ブラースさん」|毅然《きぜん》とした口調で、相手はいった、「わたしには用事があるんです。この紳士方とお話をしてるのは、おわかりでしょう。用件を向うのチャクスター君にお伝えくださったら、十分にお話はうけたまわりますよ」
「みなさん」右手をチョッキに乗せ、温和な微笑を親子に投げて、ブラースはいった――「みなさん、おねがいします――ほんとうに、みなさん――どうぞ、お考えください。わたしは法律にたずさわる者。議会の法令では『紳士』と呼ばれてます。その免許状のために年々英貨十二ポンド(事務所弁護士の免許状の代金は、いまは三―九ポンドになっている)を払って、その称号を維持してるんです。わたしは音楽家、舞台俳優、著者、画家といった|風情《ふぜい》の者ではありません。そうした連中は、彼らの祖国の法律が認めてない地位をかたってる者です。例の旅役者や放浪者でもありませんぞ。だれかがわたしに訴訟を起したら、わたしのことを紳士と書かねばならず、それをしなかったら、その訴訟は無効になっちまうんです。おねがいします――これは丁重なあつかいといえるでしょうか? ほんとうに、みなさん――」
「よろしい、じゃ、ご用件をひとつ述べていただきましょうかね、ブラースさん」公証人はいった。
「ええ」ブラースは答えた、「申し述べますよ。ああ、ウィザーデンさん! あんたはご存じないんです――だが、要点からはずれないように注意することにしましょう。こちらの紳士方のどちらかのお名前はガーランドとおっしゃるもんと思いますが……」
「両方のね」公証人はいった。
「いやあ!」ひどくペコペコして、ブラースは答えた。「だけど、おふたりとも瓜ふたつ、それからでも見当がつくとこでしたな。こうした紳士おふた方にご紹介の栄をたまわって、たしかに、当方はとても幸福|者《もん》、なるほど、今回のことはじつに痛ましいことではあるんですがね。おふた方のどちらかは、キットという召使いをお使いですね?」
「両方とも」公証人は答えた。
「キットがふたりですって」ニヤリとしてブラースはいった。「いや、これは驚いた!」
「キットはひとりですぞ」腹立たしげにウィザーデン氏は答えた、「彼は、このふたりの紳士の方々にやとわれてるんだからね。ところで、彼がどうだというんです?」
「こういうこってす」重々しく声を落して、ブラースは応じた。「わたしがかぎりなき大きな信頼を寄せ、いつも対等の人物としてあつかってやったあの若者――あの若者が、今朝、わたしの事務所で窃盗を働き、まず現行犯といってもいい状況でとりおさえられたんです」
「それは、なにかいかさまにちがいない!」公証人は叫んだ。
「そんなことは考えられないこと」エイベル氏はいった。
「そのひと言だって信じはしないぞ」老紳士は叫んだ。
ブラース氏はおだやかにみなをみまわし、それから答えた、
「ウィザーデンさん、あなたの[#「あなたの」に傍点]お言葉は訴訟を提起できるもんですぞ。相手が口頭|誹毀《ひき》を受けてもゆったりとしてられるわたしだからこそ幸運、もしそんな余裕のない|下賤《げせん》の人間だったら、ここで損害賠償の訴訟を起すとこでしょう。しかし、わたしはれっきとした人間、そうした言葉はただ笑殺してしまうだけです。べつの紳士の方の心からの熱意にたいしては、わたしは敬意を表します。そして、こうした不愉快な知らせをお伝えする者になったのを、残念に思ってるんです。あの若者自身がまず第一にここにつれてこられるのを望まなかったら、たしかに、わたしはこうした痛ましい立場に立つのを回避したことでしょう。わたしはただ、彼の懇願に屈服したまでのこってす。チャクスターさん、ひとつご面倒でも、馬車の窓をたたき、馬車の中で待ってる巡査を呼びだしてくれませんかね?」
こうした言葉が語られたとき、三人の紳士はポカンとしてたがいに顔を見合せ、チャクスター氏は、要求どおりの行動をとり、予言が機熟していよいよ実現したといった霊感を受けた予言者の興奮の気配をちょっとみせながら、背なしの椅子からとびだし、みじめな捕われ人を中に入れるために、ドアを開いたままにおさえていた。
キットが家の中にはいり、真実がついに彼をふるい立たせた荒々しい雄弁で、天も照覧、自分は潔白の身、どうして問題の紙幣が自分のからだにみつけられることになったのか、自分としては見当もつかない、と|滔々《とうとう》と述べ立てたとき、すごい光景が展開されることになった! 細かな事情が語られ、証拠が示されるまでに、すごい言葉のやりとりの混乱が起きた! だが、すべてが語られると、おそろしい沈黙がつづき、キットの三人の味方は、疑惑と|驚愕《きようがく》のまなざしをかわしていた!
「考えられないことだろうか」ながい話の停止のあとで、ウィザーデン氏はいった、「この紙幣が、なにかの偶然で、その帽子の中にはいりこんだものとはね――たとえば、机の上で書類を動かしたといったことでね?」
だが、これは、まったくあり得ぬことという事実がはっきりと伝えられた。いやいやながらしたことだったが、スウィヴェラー氏は、それが発見された事情からみて、それが意図をもってそこにかくされたにちがいない、と論証せずにはいられなかったからである。
「これはとても苦しいことです」ブラースはいった、「たしかに、ひどく苦しいことです。彼が裁判を受けるようになったら、前によい評判もあること、大よろこびで彼のために慈悲深い判決がくだされるように申し立てるつもりでいますよ。たしかに、それ以前に金の紛失は起きてました。が、だからといって、彼がその金をとったことにはなりません。この推定は彼に不利――強く彼に不利なもんですが――わたしたちはキリスト教徒でしょうが?」
「思うんですがな」あたりをみまわして、巡査はいった、「ここにおいでのどなたも、あの男が最近金をふんだんにもってたかどうかについては、なんの証言もできないでしょうな? そちらでは、なにかたまたまご存じのことでもありますかな?」
「たしかに、彼はときどき金をもっていました」巡査に質問されたガーランド氏は答えた。「しかし、彼がいつもいっていたことですが、それは、ブラースさん自身が彼に与えたものなのです」
「ええ、たしかにそのとおりです」むきになってキットはいった。「その裏づけはしてくださいますね?」
「えっ?」ボーッとした驚きのうつけた表情を浮べてみなの顔をみまわしながら、ブラースは叫んだ。
「ご存じのお金――あなたがわたしにくださった半クラウンのお金――下宿人の方からいただいたもんです」キットはいった。
「いや、これはしたり!」頭をふり、ひどく眉を寄せて渋面をつくりながら、ブラースは叫んだ。「これは、ひどいいいがかりですぞ。まったく、とてもひどいいいがかりだ」
「えっ! だれかの代理で、金を彼にわたさなかったというのですか?」ひどく心配そうに、ガーランド氏はたずねた。
「わたしが[#「わたしが」に傍点]彼に金を与えるですって!」サムソンは答えた。「おお、いいですか、これはもうまったく厚かましいこと。巡査君、きみ、もうとっとといってしまったほうがいいですな」
「えっ!」キットは金切り声をあげた。「わたしにお金をくれたのを、否定するんですか? どうか、どなたか、彼にきいてみてください。彼がお金をくれなかったかどうか、彼にきいてみてください!」
「きみは金をやったのかい?」公証人はたずねた。
「いいですかね、みなさん」とても深刻な態度で、ブラースは答えた、「そんなふうに自分のいい分を立てるわけにはいきませんよ。まったく、もし彼に少しでも関心をおもちなら、べつの方法をとったほうがいいだろう、と注意してやったらどうです? わたしがですって? もちろん、絶対にそんなことはしたことがありませんよ」
「みなさん」キットは叫んだが、突然、彼に光がさしこんできたからだった、「旦那さま、若旦那さま、ウィザーデンさん、みなさん――彼がそれをしたんです。彼を怒らすどんなことをわたしがしたのか、わたしにはわかりません。でも、これは、わたしをだめにしてしまおうとする陰謀です。いいですか、みなさん、これは陰謀です。それからどんなものが出て来ようと、わたしは臨終の息で、彼が自分であの紙幣をわたしの帽子の中に入れた、といいますよ! みなさん、あの男をみてください! 顔色を変えてるのを、みてください。どっちが罪を犯した人間にみえますか――彼のほうでしょうか? わたしのほうでしょうか?」
「みなさん、彼の言葉をお聞きでしょうな?」ニヤリとして、ブラースはいった、「あなた方は彼の言葉をお聞きです。さて、この事件はそうとう険悪な様相をおびたもんだとはお思いにはなりませんか? それとも、ちがいますか? これは陰険な事件とお思いですか? それとも、単なるふつうの犯罪事件でしょうか? たぶん、みなさん、彼がみなさんの前でこのことを申さず、それをわたしが報告したら、あなた方は同じように、これをあり得ぬこととお考えになったでしょうな、えっ?」
こうしたおだやかなからかいまじりの言葉で、ブラース氏は、自分の人格に浴びせられたひどい中傷を|反駁《はんばく》したが、徳のすぐれたサリーは、もっと強い感情につき動かされ、一族の名誉にたいするもっと|一途《いちず》な関心から、自分の意図を前もってぜんぜん知らせずに、サッと兄のわきをはなれ、すごい激怒で囚人にとびかかっていった。用心深い巡査が彼女の意図を前もって察知し、あわやというときにキットのからだをおしのけ、こうしてチャクスター氏が危険な環境におかれることにならなかったら、キットの顔は、疑いもなく、ひどい目に遭ったことだったろう。というのも、チャクスター氏は、たまたま、ブラース嬢の怒りの対象のとなりのところにい合せ、激怒は、愛情や運命と同じように、盲目なので――男をとりこにするこの美しい女性に彼はおどりかかられることになり、つけカラー(こうしたカラーは一八三〇年にもうすたれ、これはチャクスターの貧乏状態を物語っていると考えるべきだろう)を根こそぎひきぬかれ、髪をバラバラにされてからはじめて、みなが努力して、彼女に自分のあやまちをさとらせるというしだいになったのだった。
巡査は、このしゃにむにの襲撃で警戒心を深め、囚人をバラバラにしてしまうより健全な姿で治安判事の前にひきたてていったほうが裁判の目的にかなうものと考えて、さっさと彼を貸し馬車のところにつれもどし、その上、ブラース嬢を馬車の外に乗せろ、と命じた。この提案にたいして、問題の魅力的な女性は、ちょっと腹立たしげにやりとりをかわしたあとで、承諾の意志をあらわし、御者台の兄サムソンの座席をとり、ブラース氏は不本意ながらも車の中の彼女の席をとることになった。こう話がついて、一同は全速力で裁判所に車を走らせ、べつの車に乗って公証人とふたりの彼の友人がそのあとを追うことになった。あとにのこされたのはチャクスター氏だけ――彼はこれをひどくプリプリと怒っていた。例の一シリングを働いてかえそうとキットがもどってきたことについて、彼が示すことのできた証言は、キットの偽善的なたくらみのある性格に関してはきわめて重要なもの、その発表の機会が与えられなかったのを、彼は兇悪犯罪同然のことと考えていた。
裁判所には、独身男がいた。彼はそこに直行し、ひどくイライラして彼らの来るのを待っていた。だが、独身男が五十人ひとたばになっても、あわれなキットを救いだすことはできなかったことだろう。キットは、三十分後には、裁判のために収容され、監獄にゆく道中、親切な役人から、裁判はすぐに開かれ、たぶん、このささやかな事件は処理され、二週間もしないうちに気持ちよく流刑地に送られることになるのだから、がっくりする必要はない、と保証された。
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道徳家や哲学者がどんなに好きなことをいおうとも、罪を犯さぬキットがその夜味ったみじめさの半分でも、罪を犯した人間が味いはしなかっただろう。世間は、たえず大量の不正を犯しているので、虚偽と悪意の犠牲は、心に暗い陰がないため、かならず苦しい試練を堪えぬき、なんとかとにかく最後にはその主張がとおるものと考えて、いささか安易な気持ちになりすぎている。「そうした場合には」追跡してこの犠牲者を捕えた連中はいう、「――たしかにそうしたことがあるとは思わないが――だれよりいちばんよろこぶのは、われわれなのだ」ところが、不正行為そのものが、すべての寛容なきちんとした心にとって、危害となり、どんなものにもましていちばん我慢ならぬ、いちばん苦痛をもたらす、どうにも忍びようのない危害となって、多くの清い心は、その清算を求めてあの世にゆき、まさにこの理由で、多くの健全な心は打ちくだかれてしまうということを、世間は反省すべきだろう。自分自身の美点を心得ていることこそ、かえって、彼らの苦痛をつのらせ、それをなお堪えがたいものにするからだ。
しかし、キットの場合、世間があやまっているわけではなかった。だが、キットは罪を犯してはいなかった。そして、これを知り、自分のもっと親しい友人たちが自分のことを罪を犯したものと考えている――ガーランド夫妻は自分を忘恩の怪物とみているだろう――バーバラは自分のことを悪と犯罪のすべてに結びつけているだろう――小馬は自身のことをすてられたと考えているだろう――自分の母親でさえ、たぶん、自分に不利な強い事情に負け、自分のことを外見どおりの悪人と信じることになるかもしれない――こうしたことすべてを知り、感じて、彼は、最初、言葉ではいいつくせない苦悶を味い、その夜閉じこめられた小さな独房を、悲しみでほとんど狂乱状態になって、あちらこちらと歩きまわっていた。
こうした激しい感情が多少おさまり、もっと冷静になりはじめたときでも、新しい考えが彼の心に浮び、その苦痛は前の苦しみにおとらぬものになった。あの子供――この純真な青年の生活における輝く星――美しい夢のようにいつもまいもどってきた彼女――自分の生涯のうちでいちばんみじめな時期をいちばん幸福な最高のものにしてくれ――いつもやさしく、思いやりがあり、親切にしてくれた彼女――もしこのことを耳にしたら、彼女はどう考えるだろう? この考えが心に思い浮んだとき、監獄の壁は融け去り、冬の夜のあのいつもの姿で、あのなつかしい場所がそれにとってかわってあらわれたような気がした――あの炉辺、小さな夕食のテーブル、老人の帽子と外套とステッキ――彼女の小部屋に通じる半分開かれたドア――こうしたものすべてが、そこに示されていた。その上、ネル自身も彼もそこにいて――よくやっていたように、ふたりは明るく笑っていた。だが、幻想がここまで進んでくると、キットはそれ以上もう進めず、みすぼらしい寝台に身を投げて泣き伏してしまった。
ながい夜だった。いつ果てるともわからないながい夜だった。だが、彼も眠り、夢をみた――それはいつも、自由の身になり、あれやこれやの人といっしょになってさまよい歩きながらも、監獄に呼びもどされるという漠然とした恐怖がつきまとい、監獄も彼がはいっていた監獄ではなく、それ自体漠然とした観念の監獄――場所をもった監獄ではなく、心配と悲しみの監獄、胸をおしつけていつも存在してはいながらも、どうともはっきりとはつかめない監獄だった。とうとう夜明けが忍び寄り、監獄そのもの――冷たく、黒々とし、わびしく、たしかに真実性の度合いの強い監獄が姿をあらわした。
だが、ひとりで放りだされていても、そこに心のなぐさめをみつけることができた。ある時間に石を敷きつめた小さな中庭を歩きまわる自由を与えられ、独房の錠をはずして洗面所の場所を教えてくれた看守から、毎日定められた面会時間があり、友人のだれかがやってきたら、|格子《こうし》のところにつれてゆかれることを、伝えられた。このことを知らせ、朝食を盛ってあるブリキの深皿をわたしてから、この男は彼をふたたび錠で閉じこめ、たくさんのほかの戸を開けたり閉めたりし、すごい数の高い|木魂《こだま》を立ててガタガタと石づくりの廊下を歩いていった。彼の立てた木魂は、まるでそれも監獄に閉じこめられて外に出られないでいるように、ながいこと、その建物じゅうに鳴りひびいていた。
この看守は、監獄のほかのわずかの人たちのように、囚人たちの群れからはなれてキットが独房に入れられたことを、知らせてくれた。それは、彼がすっかり堕落して手のつけようもない人物とは考えられず、また、この|館《やかた》に放りこまれたことがまだ一度もなかったためだった。キットはこの免除に感謝し、坐って教会の教義問答を注意深く読みふけっていた(小さな子供の時代から、それをすっかり暗記していたのだが)。そしてとうとう、錠をまわす鍵の音が聞え、例の看守がまたはいってきた。
「さあ」彼はいった、「来るんだ!」
「どこへです?」キットはたずねた。
看守は簡単に「客だ」といえば十分と考え、前の日に巡査がやったのとそっくり同じふうに、彼の腕をとらえ、いくつかまがりくねった道やがっしりとした門をとおりぬけて、ある廊下のところに彼をつれていった。そこで、看守は彼を格子のところにおき、クルリとまわれ右をしていってしまった。この格子の向うで、約四、五フィートはなれたところに、それとそっくり同じのべつの格子があった。このあいだのところに、新聞を読んでいる看守が坐り、向うの手すりの外に、キットは心臓をドキドキさせながら、赤ん坊をかかえた母親、いつもの傘をもったバーバラの母親、あわれなチビのジェイコブの姿をながめたが、ジェイコブは、鳥か野獣でもさがしていて、そこにいる人間は|桟《さん》とはおよそ縁のない偶然のものと考えているといったふうに、ギュッとばかり力をこめて中をのぞきこんでいた。
だが、兄の姿をながめ、彼を抱こうと手すりのあいだに手をつっこんでも、兄がそばに寄っては来ず、桟のひとつにしがみついている腕に頭を乗せてまだ遠くに立っているのをながめると、チビのジェイコブはじつにあわれな泣き声を立てはじめた。我慢に我慢をかさねていたキットの母親とバーバラの母親は、ここでまた、ワッと泣きくずれた。あわれなキットはそれと同調せずにはいられず、だれもひと言も口をきけなくなった。
このわびしい沈黙のあいだ、看守はおどけた顔をして新聞に読みふけり(彼は明らかに|滑稽《こつけい》な項目を読みだしていた)、ちょうどその瞬間、ちょっと物思いに沈んで、ほかのものより深みのある冗談の|精髄《せいずい》にふれようといったように、たまたま一瞬目をはなしたが、そのときになってはじめて、だれかが泣いているのにふと気づいたようだった。
「やあ、ご婦人方、ご婦人方」びっくりしてあたりをみまわしながら、彼はいった、「こんなふうに時間をむだにするなんて、つまらんこってすぞ。時間は決められてるんですからな。あの子供をああして泣かしておくなんて、いけませんな。みんな規則違反なんですぞ」
「わたしは、あの男のあわれな母親なんです」おとなしく膝をまげちょっとからだをさげてお辞儀をしながら、ナッブルズ夫人はいった、「そして、これが弟です。ああ、ああ!」
「そう!」膝の上で新聞をたたみ、すぐにつぎの欄のはじめのところにとりかかれるようにして、看守は答えた。「いいですかな、どうにもならんこってすぞ。同じ苦しい境界にあるのは、あの男ばかしじゃないんですからな。そんなことをさわぎ立てたって、仕方のないこと!」
こういって、彼は新聞を読みつづけた。この男が自然の情にそむいて残忍、冷酷というわけではなかった。彼は兇悪犯罪を|猩紅《しようこう》熱や丹毒のような一種の病気とみるようになっていたのである。それにかかる人もいる――かからない人もいる――ただ運命しだい、と考えていたのだった。
「おお、かわいいキット!」バーバラの母親からやさしくも赤ん坊を抱きとってもらって、彼の母親はいった、「ここでお前をながめるなんてねえ!」
「わたしが告発を受けてる罪を犯したなんて、まさか信じてはいないんでしょうね、母さん?」
「あたしが[#「あたしが」に傍点]それを信じるだって!」あわれな女は叫んだ、「嘘をついたことも知らず、ゆり籠の時代からわるいことをしたのも知らず――まだ小さな子供なのに、いかにも上機嫌に満足してお前がひもじい食事を食べたので、どんなに親切で思いやりがあるかと考えていながらも、どんなにわずかしか食べ物をお前にやらなかったかを忘れてしまったあのときはべつにして、お前のために悲しい思いを味ったことのないこのあたしがだって!――生れてからいままで、あたしのよろこびの種になり、怒って横になった一夜とてない息子について、あたしがそんなことを信ずるだって! あたしがそんなことを信ずるだって、キット!――」
「いや、そんなら、ありがたいこと!」桟をゆり立てるほどむきになって桟にしがみつきながら、キットはいった、「ぼくは我慢できますよ、母さん! どんなことが起きようとも、母さんがそれをいってくれたと考えれば、ぼくの心には幸福のひと|滴《しずく》がいつものこってることでしょう」
これを聞いて、あわれな女はふたたび泣きだし、バーバラの母親も泣きだした。バラバラになっていた思いが、このときまでにもうまとまって、自分が望んでも、キットが散歩には出て来れない、あの桟のうしろには鳥、ライオン、虎、その他の自然の珍しいものはいない、そこにいるのは、じっさい、|檻《おり》に入れられた兄だけだというかなりはっきりとした印象になっていたチビのジェイコブは、できるだけ声をおさえて、母親たちといっしょに泣きだした。
キットの母親は、涙をぬぐい(かわいそうに、ぬぐうとすぐ、また目を前よりもっと涙でぬらして)、床から小さな籠をとりあげ、看守にへいこらして話しかけて、ちょっと話を聞いていただけないでしょうか? といった。看守は冗談のいちばんきわどいおもしろいところを読みかけていたので、彼女に手をふり、たのむ、もう一分だまっていてくれ、と合図を送った。彼は手の姿勢をくずさず、その項目の終りにゆくまで、そうした注意を与える態度をとりつづけていて、読み終ってからも、数秒間、「この編集者はおもしろい男――妙なやつだ」といわんばかりにジッと微笑を浮べてそのまま坐りこみ、それから、なんの用事だね? とたずねた。
「息子にちょっと食べ物をもってきたんですが……」善良な女性はいった。「それをわたせるもんでしょうか?」
「うん――受けとっていいよ。それをしてはいけないという規則はないんだからね。帰るときにそれをわしにわたしてくれれば、あの男の手にそれがはいるよう、とりはからってやろう」
「いいえ、でも、よろしかったら――どうか怒らないでください――あたしはあの子の母親、あんたにだって母さんはいたんです――もしちょっとでもあの子の食べる姿をみられたら、気分よくやっているとそれだけなお強く納得して、ここを出ていけるんですが……」
ここで、ふたたび、キットの母親、バーバラの母親、チビのジェイコブの涙が吹きだしてきた。赤ん坊はといえば、からだじゅうの力をふりしぼって勝ちどきをあげて笑っていたが――これは、明らかに、こうしたすべての光景が自分を満足させるために工夫されつくりあげられたと考えていたためだった。
この要求は奇妙なこと、ふつうのやり方とはだいぶちがったものだ、といった顔を看守はしていたが、それでも、彼は新聞を下におき、キットの母親が立っているところにまわってきて、籠を彼女から受けとり、その中身を調べてから、それをキットに手わたし、もとの場所にもどっていった。キットにたいして食欲がなかったということは容易に想像のつくことだが、彼は、床に坐り、一生けんめいそれを食べだした。一方、ひと口彼が口に食べ物を入れるごとに、母親はまた新たにすすり泣いてサメザメとしていたが、その悲しみはズッとやわらげられ、この光景が彼女に与えた満足を物語っていた。
こうして食べながら、キットは心配そうに自分のやとい主についてたずね、彼らが自分についてなにか意見を述べたかをきいてみたが、彼が知ったことはただ、エイベル氏が、前の晩おそく、この情報をとても親切な心使いを示して母親に伝え、キットの無罪と有罪についてはなんの意見も述べてはいなかった、ということだけだった。キットは勇気をふるいおこして、バーバラについてバーバラの母親にたずねようとしたが、ちょうどそのとき、彼を案内してきた看守が姿をまたあらわし、第二の看守が来訪者のうしろにあらわれ、新聞をもった第三の看守が「時間終了!」と叫び――同じ息で「さあ、つぎの者!」といい、ついでふたたび、新聞の中に深く没入してしまった。キットは、母親からの祝福の言葉とチビのジェイコブの金切り声を耳に鳴りひびかせながら、すぐにつれ去られていった。前の案内人につれられて、手に籠をもちながらキットがつぎの内庭のところを横切って歩いていったとき、べつの役人が彼らにとまれと呼びかけ、手に黒ビールの一パイント(〇・五七リットル弱)入りのびんをもって近づいてきた。
「これはクリストファー・ナッブルズだろうね、どうだい、きのうの晩、兇悪罪で入所した?」その男はいった。
彼の仲間は、これはその男だ、と答えた。
「じゃ、こりゃお前さんのビールだよ」相手の男がクリストファーにいった。「なにをみてるんだい? そこには鼻水なんぞはいっていないんだからな」
「失礼しました」キットはいった。「これはどなたがくださったものです?」
「もちろん、お前の友人さ」男は答えた。「毎日それをくれる、とその男はいってるよ。支払いさえあれば、そういうことになるだろう」
「わたしの友人ですって!」キットはおうむ[#「おうむ」に傍点]がえしにいった。
「みかけたところ、お前さん、いろいろとつき合いがひろいようだな」べつの男が応じた。「これがその人の手紙だ。さあ、受けとるんだ!」
キットはそれを受けとり、部屋に閉じこめられたとき、つぎのような文を読んだ。
「このコップから飲むがいい。人間の万病をおさえてくれる魔力をそのひと滴、そのひと滴の中にみつけることだろう。ヘレン(ギリシャ伝説でスパルタ王メネラウスの妻、トロイのパリスにつれ去られてトロイ戦争が起きた)のためのキラキラと輝いた甘美の酒の話なんて!(トマス・ムアのアイルランド歌謡のひとつの最初の言葉)彼女の酒なんていつわりのもの。だが、これは本物(バークレイ会社(一七八一年以来の醸造会社で有名な老舗)のもんだからね)、気のぬけたもんだったら、会社の親分に文句をいってやりたまえ。R・S」
「R・Sだって!」ちょっと考えてから、キットはいった。「これはリチャード・スウィヴェラーさんにちがいない。ああ、ありがたいこと、心からあの方に感謝しなければならない」
62
ブラース氏がクウィルプの波止場の会計事務所に用心深い足どりで近づいていったとき、その木造小屋からチラチラときらめき、まるで人間の目のように霧で苦しんでいるといったふうに、夜霧をとおして燃えあがって赤くみえるかすかな光が、すばらしい経営者である自分の大切な依頼人が家の中にいて、いつもの忍耐強さとやさしい気質で、いまブラース氏をこの美しい領地に呼び寄せた約束の実行を、たぶん、待っているのだろう、ということを、彼に前もって知らせていた。
「暗い夜に、進んでいくのに危っかしい場所だ」その辺にころがっている材木にこれで二十回もけつまずき、痛みでびっこをひきながら、サムソン氏はぼやいた。「人を傷つけかたわにしようと、あの少年のやつ、わざと毎日ちがったふうにここいらの整地をしているにちがいないぞ。こいつはもっとありそうなことだが、あいつの主人が自分の手でそれをしてるのかもしれないがな。サリーがいなくてここに来るのは、もうまっぴらだ。あの女だったら、十二人の男よりもっとたのみ|甲斐《がい》があるんだからな」
そこにいない魅惑の女性の価値についてこの賛辞を述べたとき、ブラース氏はピタリと足をとめ、うろんげに光のほうに目をやり、肩越しにうしろをながめた。
「あの男、なにをしてるんだろう?」爪先立ちで立ち、家の中で起きていることをひと目でもながめようと努力しながら、弁護士はつぶやいたが、この距離で家の中をみるのは不可能なことだった――「酒を飲んでるんだろうな――自分をカッカとすごい勢いで燃え立たせ、悪意といたずらを|煮《に》えたぎるまで熱してるんだろう。あの男の勘定がかなりでっかくなったとき、おれはひとりでここにやって来るのがいつもおそろしくてならんのだ。きっと気にもせずにおれをしめ殺し、満潮の川におれの死体をそっと投げこむことなんて、ねずみ[#「ねずみ」に傍点]を殺すのと同じ、平気の平座でやらかすことだろう――まったく、ひょいとすると、それを愉快な冗談ごとに考えるかもしれんぞ。あれっ! いま歌ってるようだぞ」
クウィルプ氏は、たしかに、声の練習で楽しんでいたが、それは歌というよりむしろ一種の詠唱といったものだった。ひとつの文句をとても口早にくりかえし、最後の言葉にながく強く力をこめ、それを大きくふくらませて陰気なわめき声にしていたからである。また、この歌の折りかえし文句は、歌のふつうの話題になっている愛情、戦争、酒、忠義等々といったものにはおよそ縁遠いもの、そう節もつけられず、バラッドでふつうは知られていないものを、主題にしていた。その言葉は以下のようなものだった――「りっぱな治安判事は、囚人が陪審に説きつけて自分の話を信じてもらうようにするには多少の困難があるだろうといったあとで、近くにせまっている裁判で彼の裁判をおこなうために彼を逮捕し、起訴のために通常の誓約がおこなわれるようにと|指示《しーじー》しーた」
この最後の言葉に到着し、それにつける強勢の力がすべてつきてしまうと、クウィルプは金切り声を立てて笑い、またもとにもどっていった。
「彼はひどく無思慮な男だな」詠唱が二、三回くりかえされるのを聞いたあとで、ブラースはつぶやいた。「おっそろしく無思慮な男だ。つんぼだったらいいんだが。おしだったらいいんだがな。めくらだったらいいんだがな。畜生、あいつめ」詠唱がまたはじまったとき、ブラースは叫んだ。「あいつが死んじまったらいいんだがな!」
自分の依頼人のためにこうした友好的なねがいを語って、サムソン氏は顔をいつものおだやかな状態にもどし、金切り声がまた聞え、それが消えてゆくときまで待って、木造の家屋に近づき、ドアをノックした。
「おはいり!」小人は叫んだ。
「今晩、ご機嫌はいかがです?」中をのぞきこんで、サムソンはいった。「ハッ、ハッ、ハッ! ご機嫌はいかがです? いや、驚いた、なんて気まぐれなこってしょう! まったくすごく気まぐれなこってすな、まったく!」
「このバカ、はいれ!」小人は答えた、「そこで頭をふったり歯をむきだしたりして立っていてはいかん。はいれ、このいかさま証人、偽誓者、偽証教唆者め、はいれ!」
「ユーモアたっぷりというとこですな!」家にはいってからドアを閉めながら、ブラースは叫んだ。「じつに驚くべき喜劇気分! だけど、ちょっ[#「ちょっ」に傍点]と無思慮にすぎませんかね、えっ――?」
「なにがだ?」クウィルプはたずねた。「なにがだ、このユダ(キリストを裏切った使徒)め?」
「ユダですって!」ブラースは叫んだ。「まったくすごい元気だ! 気分はひどくふざけ気分! ユダですって! ああ、そうですよ――おや、おや、なんてみごとなことだろう! ハッ、ハッ、ハッ!」
このあいだじゅうズッと、サムソンは両手をこすり合せ、滑稽な驚きと当惑まじりのようすで、大きな、ギョロ目の、素っ気ない鼻をした、なにか古い船の船首像をジッとにらんでいたが、それは、ストーヴの近くの隅で壁に寄せかけて立て、小人が崇拝している悪鬼か、おそろしい偶像かといった|代物《しろもの》だった。三角帽をかすかに思わせるように彫ったその頭上の木のかたまりは、左の胸につけられた星印と肩章とともに、それがだれか有名な提督の像のためにつくられたことをあらわしていた。だが、こうした助けがなかったら、だれだってそれをながめた者は、それが有名な男の人魚、さもなければ、すごい海の怪物のれっきとした像とそれを考えたことだろう。それが飾りとして使われることになったこの部屋では、原型のままでは大きすぎたので、それは腰のところでのこぎりで切られていた。この状態でも、それは床から天井までとどき、船首像のいつもの特徴になっているあのひどくぬかりのない顔つきと多少厚かましい|慇懃《いんぎん》さのこもった態度でからだを前につきだして、ほかのすべてのものをただの小人の大きさにしているような感じだった。
「あれを知ってるかね?」サムソンの目をみて、小人はいった。「似てるとこがわかるかね?」
「えっ?」鑑定家がやるように、頭を一方に傾け、それをちょっとうしろにひいて、ブラースはいった。「さて、もう一度ながめてみると、どうやら、ええと――そう、その微笑に示されてるもので思い起しますが――でも、それにしてもたしかに、わたしは」さて、事実のところは、サムソンはこうしたがっしりとした幻影にいささかでも似た|代物《しろもの》をぜんぜんみたことがなく、ひどくとまどっていたのだった。クウィルプ氏がそれを自分に似たものと考え、そこで家の肖像用にとそれを買い求めたのか、それとも、彼がそれをだれか敵と似てると考えたがっているのか、まったく見当がつかなかった。この疑念は、すぐに解決されることになった。人びとがきちんと見定めなければならないのに、どうもよくわからない肖像画をはじめてジッとながめているときによくやるあのさとり顔をして、それをながめているあいだに、すでに引用した言葉を詠唱していた新聞を小人は投げすて、火かき棒がわりに使っていた|錆《さび》だらけの鉄の棒を手にとり、すごい一撃をこの木像の鼻に加え、そのため、それがユラリとゆれたからである。
「こいつはキットに似てるかね――こいつはやつの生き写し、像、やつそっくりのものかね?」感覚をもっていない顔を雨|霰《あられ》と打ちつけ、そこをくぼみだらけにして、小人は叫んだ。「こいつはあの犬とそっくりのもの、よく似たもんかね――どうだ――どうだ――どうだ?」そして、質問をくりかえすごとに、彼はこの大きな像を打ちすえ、とうとう、この激しい動きで、汗がとっとと顔を流れ落ちることになった。
闘技場に出ていない人からみれば闘牛はおもしろいみせ物、それと同じように、安全な最上階の|桟敷《さじき》からみれば、これはとても喜劇なものであったろうし、火事で燃えあがっている家は、近くに住んでいない人びとにとっては芝居以上におもしろいものだろうが、クウィルプ氏の態度にはなにか真剣なものがあり、このためにクウィルプ氏の法律顧問は、こうしたふざけを楽しむには、この会計事務所はちょっとせますぎ、とてもわびしすぎる、と感じ、そこで、小人がこうして大活躍をしているあいだ、できるだけ遠くにはなれて立ち、弱々しい賞賛の言葉をすすり泣くようにして発し、クウィルプがまったくの疲労で打つのをやめ、腰をおろしたとき、前にもますヘイコラした態度で彼のそばに近づいていった。
「まったく、すばらしいですな!」ブラースは叫んだ。「ヒッ、ヒッ! おお、おみごと、おみごと! いいですか」打たれた提督に訴えるようにグルリと目をやって、サムソンはいった、「彼はまったく注目すべき人物です――まったく!」
「坐れ」小人はいった。「あの犬は、きのう買ったんだ。おれはあいつに|撞木《しゆもく》|錐《ぎり》をねじこみ、目にはフォークを刺し、おれの名をあいつの上に刻んでたんだ。最後には燃やしてやるつもりさ」
「ハッ、ハッ!」ブラースは叫んだ。「とっても楽しいこってすな、まったく!」
「ここに来い」そばにひきよせようと彼を招いて、クウィルプはいった。「なにが無思慮だというんだ、えっ?」
「いや、べつに――いや、べつに。申すだけのこともないことです。ただ、あの歌が――たしかにそれ自体はすごくおもしろいもんなんですが――たぶん、ちょっと――」
「わかった」クウィルプはいった、「ちょっとなんだというんだ?」
「たぶん、無思慮の境界にスレスレのとこ、かすかにそれに接してるといいましょうか」火のほうに向けられ、その赤い光を反射している小人の狡猾な目をおっかなびっくりながめながら、ブラースは答えた。
「どうしてだ?」目をあげもせず、クウィルプはたずねた。
「いやあ、いいですか」思い切って前よりもっとなれなれしい態度をとって、ブラースは答えた、「――事実のとこは、それ自体は賞賛すべき目的のためとはいえ、法律では共同謀議と呼んでる友人の結束に多少なりとも言及するのは――おわかりでしょうな?――秘密にしておき、友人のあいだだけのことにしとくのがいちばんいい、ということですよ」
「えっ!」まったくうつろな顔をして目をあげながら、クウィルプはいった。「というのは、どういうことだ?」
「用心深い、とても用心深いが、とても正しく適切なこってす!」うなずきながら、ブラースは叫んだ。「ここでさえ、他言無用――それがわたしのいってることズバリなんです」
「お前の[#「お前の」に傍点]いってることズバリだって、この厚かましいこけおどし野郎め?――それはどういうことだ?」クウィルプは答えた。「結束だなんて、どうしてこのおれにいうんだ? このおれが[#「おれが」に傍点]結束してるのか? お前の結束なんて、このおれがなにかを知ってるんだ?」
「いや、いや、ちがいますよ――たしかにちがいます。絶対にそんなことではありませんよ」ブラースは答えた。
「おれにそんなに目をパチパチさせたり、うなずいたりしたら」火かき棒をさがしているようにあたりをみまわして、小人はいった、「手前の|猿面《さるづら》をめちゃくちゃにしてくれるぞ。いいか?」
「おねがいしますよ、どうかそんなとてつもないことはしないでください」素早く言葉をおさえて、ブラースは答えた。「そちらのおっしゃるとおりです、まったくそのとおりですよ。この問題は当方で口にすべきじゃなかったんです。口にしなかったほうが、ズッとよかったんです。まったく、おっしゃるとおりですよ。よかったら、話題を変えるとしましょう。サリーの話では、われわれの家の下宿人のことをおたずねだったそうですね? 彼はまだ帰宅してません」
「帰宅せん?」小さなシチューなべでラム酒を温め、それが|煮《に》えこぼれないようにとジッと見守りながら、クウィルプはいった。「どうして帰宅せんのだ?」
「いやあ」ブラースは答えた、「彼は――あれ、あれっ、クウィルプさん――」
「どうした?」シチューなべを口にもっていこうとしながら、手をとめて、小人はいった。
「水をお忘れですよ」ブラースはいった。「それに――失礼ですが――それはカッカと燃え立ってる熱いもんですよ」
この抗議にたいする返事をただ実行で示して、クウィルプ氏は熱いシチューなべを|口許《くちもと》にもってゆき、中にはいっている酒をぜんぶ、ゆっくりと飲み乾してしまった。それは半パイントほどの分量、ちょっと前に彼が火からとりだしたときには、沸騰して激しいシュウシュウという音を立てていたものだった。このおだやかな刺激物を飲み乾し、提督に向って拳をふりかざしてから、彼はブラース氏に、話をつづけろ、と命じた。
「だが、最初に」いつものニヤリとした笑いを浮べて、クウィルプはいった、「お前自身がひと滴飲め――おいしいひと滴――うまくて、温かく、燃えるようなひと滴だぞ」
「いやあ」ブラースは答えた、「すぐ手にはいるひと口の水といったものがあれば、話はべつですが――」
「ここでは、そんなものは手にはいらん」小人は叫んだ。「弁護士どもに水だって! お前のいってるのは、融けた鉛と|硫黄《いおう》、熱したあぶくの立つりっぱなピッチとタール――そいつがやつらにはふさわしいもん――どうだ、ブラース、どうだ?」
「ハッ、ハッ、ハッ!」ブラース氏は笑った。「ああ、なかなか|辛辣《しんらつ》ですな! だが、それはくすぐられたような感じ――そこにも楽しみはあるというもんですよ!」
「これを飲め」もうこのときまでにラム酒を多少熱くしていた小人はいった。「それをグイッと飲んじまうんだ。|滴《しずく》ひとつのこすな。喉を焼いて幸福になるんだ!」
みじめなサムソンは酒をほんの少し何回かちょっとすすったが、それはすぐに|蒸溜《じようりゆう》されて焼きつくような涙になり、その形で彼の頬を流れ落ちて土なべの中にもどってゆき、彼の顔とまぶたの色を|深紅《しんく》に変え、咳の激しい発作をひきおこしたが、その発作の|最中《さなか》にあってさえ、殉教者の変らぬ心で、それが「まったくすばらしいものだ!」といっているのが聞えてきた。彼がまだ得もいわれぬ苦悶を味っているときに、小人は前の話をむしかえした。
「下宿人だって」クウィルプはいった――「あいつがどうしたというんだ?」
「あの男はまだ」咳で言葉をとぎらせながら、ブラースは答えた、「ガーランド一家のとこにいるんです。あの罪人の尋問の日以来、家にもどったのは、ただの一回きりです。あのことが起ってから以後、わたしの家には我慢ならん、それでみじめな気分を味ってる、ある意味で自分はあの事件の元兇だ、と彼はリチャード君にいったんです――じつにりっぱな下宿人ですよ。あの男は失いたくないもんですな」
「いやあ、たまらん!」小人は叫んだ。「自分以外のことは絶対に考えんのだからな――じゃ、どうして費用を切りつめ――なんとかやり、たくわえ、節約しようとせんのだ、えっ?」
「いやあ」ブラースは答えた、「まったく、節約の点なら、サリーはだれにも|負《ひ》けをとりませんよ。まったくです、クウィルプさん」
「とっとと飲み、グイグイとやるんだ、おい!」小人は叫んだ。「お前はおれへの義理で書記をやとったっけな」
「まったく、ありがたいこってす」サムソンはいった。「そうです、やといましたよ」
「うん、そんなら、やつを首にしてもいいぞ」クウィルプはいった。「それですぐ、お前の切りつめにも役立つだろう」
「リチャード君を首にするんですって?」ブラースは叫んだ。
「そんな質問をするなんて、このおうむ[#「おうむ」に傍点]の物真似め、ひとり以上の書記でもやとってるというのか? そう、首にするんだ」
「まったく」ブラースはいった、「思ってもいませんでしたね――」
「おれが思ってもいなかったのに」小人はせせら笑った、「お前が思ってるはずがあるもんか。何回お前にいったらわかるんだ? お前んとこにあいつをつれてったのは、いつもこっちであいつに目をつけ、どこにいるかがわかってるようにするため――おれにはたくらみ、計画、ちょっとした静かな楽しみがあって、その最高の|精髄《せいずい》は、あの老人と孫娘(やつらは、どうやら、地面の下にもぐっちまったらしい)が、あいつとあいつの親友には金持ちと思いこまれてるんだが、おっとどっこい、ほんとうは尾羽打ち枯らした|素寒貧《すかんびん》にすぎんということにあったんだ」
「その点はよくわかってましたよ」ブラースは答えた。「よーくね」
「よし」クウィルプはやりかえした、「ところで、お前は、いま、わかってるのかい、あの老人と孫娘は貧乏じゃない[#「じゃない」に傍点]――あのふたりをさがし、国じゅうをあちらこちらとせっせとさぐり求めてるお前んとこの下宿人といった連中がいる以上、あのふたりは貧乏なはずはないということを?」
「もちろん、わかってますよ」サムソンはいった。
「もちろん、お前はわかってるさ」相手の言葉に意地わるくガミガミと噛みついて、小人はやりかえした。「もちろん、わかってるんだな、あの男がどうなろうと構いはしないということをな? もちろん、お前はわかってるんだな、ほかの目的のためだったら、あの男は、おれにも、お前にも、役に立たん男だということをな?」
「わたしはよくサリーにいってたんですよ」ブラースは答えた、「あの男は仕事では一向に役立たずだとね。彼は信用ならん男です。わたしの申すことを信じていただけたら、あの男にゆだねられた事務所のじつにつまらんありきたりのことでも、はっきりと注意されてるのに、口をすべらしてうっかり事実をもらしちまうんです。あの男のいまいましいときたら、想像以上のもん、ほんとうなんですよ。そちらにたいする尊敬と義理の気持ちからだけで――」
ちょうど絶好の妨害がはいらなかったら、サムソンが絶賛の長広舌をふるおうとしていたのは明らかなことだったので、クウィルプ氏は礼儀正しく慇懃にシチューなべで彼の頭の|天辺《てつぺん》を軽くポンとたたき、どうか口をつぐんでくれないか? と要求した。
「実効ある処置、実効ある処置ですな」たたかれた場所をこすり、ニヤニヤして、ブラースはいった。「それにしても、とても愉快な処置――とても愉快なもんです!」
「いいか、よく聞け」クウィルプは応じた、「さもないと、すぐ、もうちょっと愉快なあつかいをしてやるぞ。あいつの仲間の友人がもどってくるみとおしはない。なんか悪事をしでかして、あのごろつきは逃亡せずにはいられなくなり、外国に逃げだしたそうだ。あいつはそこで、くさっちまえばいいんだ」
「もちろん。まったく適切――説得力のあるお話です!」提督が仲間の第三の男といったふうに、そちらをチラリとながめて、ブラースは叫んだ。「まったく、説得力のあるお話です!」
「おれはあいつを憎んでる」声をひそめてクウィルプはいった、「そして憎んできたんだ、いろいろと家庭の理由があってな。その上、やつは手に負えない悪党だった。そうでなかったら、あいつは[#「あいつは」に傍点]役に立つとこだったんだがな。こちらの男ときたら、臆病者で気楽な男、もうあれには用がない。首をくくるなり、おぼれ死んじまうなり、勝手にすればいいんだ――餓死しても構わん――糞食らえというわけだ」
「よろしいですとも」ブラースは答えた。「いつがよろしいでしょうかね――ハッ、ハッ!――その小旅行をやつにさせるには?」
「裁判が終ったときだ」クウィルプはいった。「それが終えたらすぐ、やつを追っ払っちまうんだ」
「かしこまりました」ブラースは答えた。「よろしいですとも。サラーにとってはちょっと応えるでしょうが、あの女は、自分の感情をきちんとおさえられる女ですよ。ああ、クウィルプさん、もっと以前に神さまのおぼしめしで、あなたとサラーが結ばれるようになったら、どんなうれしい結果がそのご縁から出てきたことだろう、とわたしはよく考えてるんです! わたしの父とは一度もお会いになったことはありませんね?――魅力的な紳士で、サラーは父親のほこりとよろこびの種でした。自分の娘にあなたのような|連添《つれそ》いをみつけることができたら、彼フォクシー(狐のような、わる賢いの意がある)は安らかに目をつぶることができたでしょう。サラーのことを高くお買いですかね?」
「愛してるよ」しわがれ声で小人はいった。
「ありがとうございます」ブラースは答えた、「ほんとうに。ところで、リチャード君についてのこのちょっとしたこと以外に、書きとめておかねばならないなにかほかのご用事がおありですか?」
「ない」シチューなべを手にとって、小人は答えた。「美しいサラーに乾杯するとしよう」
「それをするにしても、カッカと煮え立ってないなにか酒ですることができたら」遠慮しながらブラースはいった、「ありがたいということになるんですがね。前のよりもっと冷たい酒でサラーのための乾杯がおこなわれたと知ったら、あなたが彼女に与えてくださった名誉をわたしの口から聞いたとき、彼女の気持ちはもっとうれしくなることでしょう」
だが、こうした抗議に、クウィルプ氏は耳をかさなかった。同じ強い酒をもう何杯か否応なく飲まされて、もうしらふは愚かという状態になっていたサムソン・ブラースは、それが、しらふにもどるのに役立つどころか、この会計事務所をすごい速さでクルクルと回転させ、床と天井をじつにへどもどさせるふうにふくらみあがらせる珍しい効果をあげたのを知ったのだった。ちょっと|昏睡《こんすい》状態に落ちてからハッとわれにかえると、彼のからだは、一部テーブルの下に、一部格子の下に横たわっていた。こうした姿勢でいるのは身をおくのにそう快適とはいえぬものだったので、彼は、ようやくのことでヨロヨロッと立ちあがり、提督のからだにしがみついて、あたりをみまわし、主人の姿をさがした。
ブラース氏の最初に受けた印象は、主人が自分をひとりのこして出かけてしまった――たぶん、夜じゅうここに閉じこめになったのだろう、ということだった。しかし、タバコの強いにおいがして、一連の新しい考えが湧き、上をみると、ハンモックでタバコをすっている小人の姿が目に映った。
「さようなら」弱々しくブラースは叫んだ。「さようなら」
「ここに泊っていかないのか?」顔をちょっと出して、小人はいった。「ここにゆっくり泊っていけ!」
「それは、とてもだめです」はき気と部屋の息苦しさで死の苦しみを味いながら、ブラースは答えた。「中庭をとおれるように、灯りを貸していただけたらありがたいんですが――」
クウィルプはすぐにとびだしたが、それは足が最初、頭が最初、腕が最初といったものではなく、からだごと――そっくりのものだった。
「いいとも」いまはこの場所のただひとつの灯りになっていたカンテラをとりあげて、彼はいった。「きみ、道には注意したらいいぞ。材木のあいだを進んでくように注意しろよ。|錆釘《さびくぎ》という錆釘は、みんな上向きになってるんだからな。小道には犬がいて、きのうの晩には男に、おとといの晩には女に噛みつき、この前の火曜日には子供を殺したんだ――だが、それは、じゃれついてやったまでのこと。その犬には近づくなよ」
「その犬は、道のどっち側にいるんです?」ひどくうろたえて、ブラースはたずねた。
「右手にいるんだが」クウィルプはいった、「ときどき、とびかかろうと、左手にまわることもあるぞ。その点では、どっちとも見当がつかん。自分のからだは大切にしろよ。そうしなかったら、こちらだって、許しはせんぞ。さあ、灯りは外に出した――気にするな――道は知ってるな――さっさといけ!」
クウィルプは、灯りを胸に寄せかけてもって、それを少し暗くし、いま、弁護士が中庭でけつまずき、ときどきドスンと倒れるのを耳にして、クスクスと笑い、よろこびで有頂天になって、からだじゅうをふるわせていた。しかし、とうとう、弁護士はそこをぬけだし、その立てる物音は聞えなくなった。
小人は戸をしっかりと閉め、もう一度ハンモックにとびこんだ。
63
|中央刑事裁判所《オウルド・ベイリー》でのキットのささやかな事件の決着、それがすぐ処理されるだろうという可能性について、あのなぐさめの情報を彼に流してくれた専門家の役人の紳士(看守のこと)の予言は、まったく正しいことがわかった。八日たつと、裁判ははじまった、その後一日して、大陪審(一二―二三人から成り、起訴状を審査し、証拠十分と認めるときに、起訴を決定する。一九三三年廃止)はクリストファー・ナッブルズの重罪の原案適正大陪審が起訴状案を適正と認めたとき、その裏面に記入する文句を認め、その認定から二日して、前記クリストファー・ナッブルズは、紳士サムソン・ブラースなる者の住宅ならびに事務所から英国銀行ならびに該総裁の発行した五ポンド紙幣を兇悪にもぬきとり盗んだ、これは、紙幣発行のさいにつくり備えられた法令にさからい、国王陛下(ジョージ四世(在位一八二〇―三〇)かウィリアム四世(在位一八三〇―三七))ならびにその王冠と尊厳の安寧を乱すものであるという起訴状にたいして、有罪か無罪の申し立てをするために、呼びだされることになった。
この起訴状にたいして、クリストファー・ナッブルズは、低いふるえ声で、無罪を申し立てた。ここで、外見からあわただしい判断をくだす習慣をもち、もし潔白の身なら、クリストファーに強く大声でしゃべらせたいと思っている人たちは、監禁と心配はどんな強い心でも打ちくだいてしまうもの、たった十日か十一日だけにせよ、石の壁ととてもわずかの石のような顔しかみていないでしっかりと閉じこめられてきた人間にとって、活気にあふれた大きな部屋にいきなりつれだされるのは、そうとうとまどいをひきおこし、その人間をそうとうびっくりさせることになるという事情を、どうかお忘れにならぬようにしていただきたい。これにつけ加えなければならぬのは、かつらを着けた裁判所の生活(法廷で法官・弁護士が着用する)は、民衆のたいていの者にとって、かつらをとったふつうの髪の生活よりはるかにもっとおそろしく、強い感銘を与えるものだということである。もしこうした考慮に、青ざめ心配そうな顔をしてこちらをみているふたりのガーランド氏と小男の公証人をみてキットが当然感じた興奮をさらに考えてみれば、彼がひどくがっくりし、ゆったりした態度なんぞおよそとれなかったことも、べつに驚くに当らぬことがわかるだろう。
ガーランド氏親子のどちらとも、また、ウィザーデン氏にも、逮捕のとき以来会ってはいなかったが、彼らが自分のために弁護士を立てているのを、キットは知らされていた。そこで、かつらを着けた紳士のひとりが立ちあがり、「わたしが被告側弁護人です、閣下」と述べたとき、キットはこの人物にたいしてお辞儀をした。そして、かつらを着けたもうひとりべつの紳士が「わたしは原告側弁護人です、閣下」と述べたとき、キットはひどくふるえ、この人物にもお辞儀をした。そして、自分の側の弁護士が相手側の弁護士に十分対抗できる人物で、すぐにも相手に屈辱感を味わせてくれたら、と彼は心中でねがわなかったことだろうか!
原告側弁護士が最初に話さなければならず、すごくはりきっていたので(というのも、この前の裁判で、不幸にも自分の父親を殺してしまった若い紳士の無罪放免の獲得寸前まで、彼は弁じ立てたからだった)、陪審団にたいしてたしかに堂々とまくし立て、もし被告が無罪放免を許されたら、この前べつの陪審団に、被告を有罪としたらきっとひどい苦悶を味うことになるだろうといったあの苦悶を、今度の陪審団も味うものと覚悟しなければならない、と語った。彼がこの事件のすべてを陪審に語り、これ以上の兇悪事件はみたこともないと述べたとき、なにかおそろしいことを語らねばならないといったように、しばらく話をとぎらせ、いま自分がここに呼びだそうとしている潔白な証人の立てる証言に疑念を投げるこころみが自分の学識ある仲間(ここで彼は横向きにキットの弁護人のほうをながめた)によっておこなわれるであろうことは理解している、だが、告発人の評判にたいしてもっと敬意と尊敬の念をこの学識ある仲間が寄せてくれるのを期待している、自分の所属しているあのもっとも名誉ある職業に従事している人物のなかで、自分はよく知っているが、告発人以上にりっぱな人間は存在せず、いままでも絶対に存在したことはないのだから、と述べ立てた。ついで、陪審団の方々はビーヴィス・マークスをご存じでしょうか? とこの弁護士はたずねた。もしビーヴィス・マークスをご存じだったら(ご自身の評判のためにも、ご存じのことと信ずるのだが)、そのもっとも注目すべき場所に結びつく歴史的な永久につづく連想をご承知でしょうか? ブラースのような人物がそこに住みつき、徳にすぐれ、この上なく廉直な人物にならないでいることなんて、信じられることでしょうか? この点についてこの弁護人が大いに論じ立てたあとで、自分が述べなくとも陪審官諸公が強く感じていたにちがいない事項について語るのは、陪審官諸公の理解力にたいする侮辱ということを思い出し、そこですぐに、サムソン・ブラースを証人台に呼びこんだ。
ついで、とてもキビキビと元気に、ブラース氏が証人台にのぼった。そして、ありがたいことに前にお会いしたことがある、その後ご機嫌はうるわしいことなのでしょう、といった態度で裁判官にお辞儀をしてから、彼は腕組みをし、「ここにいますよ――証拠は十分――わたしをポンと軽くたたいてください!」といわんばかりに、自分の弁護人のほうに目をやった。そして、弁護人はすぐ彼を軽くポンと、しかもいとも慎重にたたき、少しずつ証言をひきだし、そこにいる人全員にはっきり|光彩《こうさい》|陸離《りくり》とそれを示すことになった。ついで、キットの弁護士が彼に訊問することになったが、なにもひきだすことができず、おびただしい、とてもながい訊問と、とても短い答弁のあとで、サムソン・ブラース氏は意気揚々と証人台からおりていった。
彼につづいて証人台にのぼったのは、サリーで、彼女は、同じように、ブラース氏の弁護人にとっては御しやすい人物だったが、キットの弁護人にたいしては頑強そのものだった。一言にしていえば、キットの弁護人は、彼女がもう語ったことのくりかえし(ブラースの依頼人に対抗するものとして、少し語調が強くなっただけ)以外には、彼女からなにもひきだせず、そこで、多少狼狽しながら、彼女を放免することになった。これにつづいて、ブラース氏の弁護人はリチャード・スウィヴェラーを呼び、そこで、リチャード・スウィヴェラーが姿をあらわした。
さて、ブラース氏の弁護人は、この証人が被告にたいして好意的な気持ちをもっていることを耳打ちされ――これは、じっさいのところ、彼を大いによろこばせていた。自分の強みは、いわゆるいじめぬきにあると考えていたからである。そこで、彼はまず皮切りに、証人が聖書にしっかりとキスをするよう役人の確認を要求し、それから、手段のかぎりをつくして食いついたりひっかいたりして、彼の訊問にとりかかった。
「スウィヴェラーさん」明らかに不承不承、なんとかうまくしのごうといったようすで彼が自分の話をし終えたとき、この弁護人はディックにいった、「おたずねしますが、きのうの晩、どこで食事をしましたかね?」――「きのうの晩、どこで食事をですって?」――「ええ、そう、きのうの晩、どこで食事をしましたかね――ここの近くですかね?」――「いやあ、たしかに――そうです――ここの道の真向いのとこでしたよ」――「たしかに。そうです。ここの道の真向いのとこでしたな」裁判官をチラリとながめて、ブラースの弁護人はディックの言葉をくりかえした――「ひとりでですかね?」――「もう一度おねがいします」質問を聞きとれなかったスウィヴェラー氏はいった――「ひとりで[#「ひとりで」に傍点]ですか?」雷のような声をはりあげて、ブラースの弁護人はくりかえした、「ひとりで夕食をしたんですか? だれかにおごったりしたんですか? さあ!」――「いやあ、たしかに――ええ、おごりましたよ」ニッコリとしてスウィヴェラー氏はいった。「おねがいしますぞ、ここでは軽薄な態度はとらんでください。それは、きみがいま立っている場所にはふさわしからざるもんなんですからな(この場所だからこそと感謝すべき理由が、きみにはあるでしょうがな)」頭をコクリとやり、刑事裁判の被告席こそスウィヴェラー氏の合法的な活躍場面ということを暗にほのめかして、ブラース氏の弁護人はいった。「ところで、よーく聞いてくださいよ。きみは、きのう、この裁判が起きるものと思って、このあたりで待ってましたな。きみは道の向うで夕食をとった。だれかにおごった。さて、そのだれかは、法廷にいる囚人の弟だったんですかね?」――スウィヴェラー氏は説明しはじめた――「イエスですかね? ノーですかね?」ブラース氏の弁護人は叫んだ――「だが、許していただきたいんですが――」――「イエスですかね? ノーですかね?」――「イエスかノーかは――」――「イエスでしたよ」あとをいわせないで、弁護人は叫んだ――「まったくおみごとな証人ですな、きみは[#「きみは」に傍点]!」
ブラース氏の弁護人はドシンと坐った。キットの弁護人は事態の真相がつかめず、この問題の追求をはばかっていた。リチャード・スウィヴェラーはマゴマゴしてひきあげていった。裁判官、陪審官、傍聴者は、おそろしい|形相《ぎようそう》をした、頬髯の大きな、|放埒《ほうらつ》な六フィート大の若い男と彼がうろつきまわっている姿を想像していた。だが、その真相は、ふくらはぎをむきだしにし、ショールでからだを結んだチビのジェイコブだった。この真相を知っている者は、だれもなかった。すべての人は虚偽を信じ、これはすべて、ブラース氏の弁護人のぬかりのない活躍のためだった。
ついで、人物証明書についての証人があらわれたが、ここでもまた、ブラース氏の弁護人が光を発することになった。キットについて、ガーランド氏は前のやとい主の人物証明書を受けておらず、推薦といってもキットの母親からのものしかなく、なにかわからぬ理由のために、前のやとい主から突然解雇されたことが判明した。「まったく、ガーランドさん」ブラース氏の弁護人はいった、「あなたのような年齢に達した方として、あなたは、なんとしても、無思慮なことですな」陪審官もそう信じ、キットの有罪を認めた。キットは、遠慮しながら自分の潔白を抗議して、つれ去られた。傍聴人は、注意力をかき立てて、その席でドッシリと坐りこんだ。つぎの事件で何人かの女性の証人があらわれて訊問を受け、ブラース氏の弁護人が囚人のために彼らの反対訊問をおこなってすごくおもしろい場面を展開するといううわさが流れていたからだった。
あわれな女のキットの母親は、バーバラの母親(正直者の彼女は、ただ泣くばかり、赤ん坊を抱きしめていた)にともなわれて、階段の下の格子戸のところで待ち、物悲しい面会がつづいて起った。新聞を読んでいる看守が彼らに一部始終をもう語っていたのだった。まだりっぱな人物証明をする時間がある若い身空だから、終身流刑にはなるまい、それがきっと彼に役立つことになるだろう、とこの看守は考え、どうしてそんなことをしたのだろう? といぶかしがっていた。「あの子は絶対にそんなことはしたりはしませんよ!」キットの母親は叫んだ。「うーん」看守はいった、「べつに反対はしないよ。こうなれば、しようがしまいが、同じことなんだからね」
桟をとおしてキットの母親の手は彼の手にとどき、それをしっかりとにぎりしめた――それがどんな苦悶につつまれていたかは、神さまと彼がこうした愛情を寄せていた人たちにしかわからないことだった。キットは、母親に元気でいるように伝え、自分にキスするために子供たちを抱きあげてもらう口実を使って、母親を家につれていってくれ、とソッとバーバラの母親にたのみこんだ。
「だれか味方がぼくたちのためにあらわれてきますよ、母さん」キットは叫んだ、「まちがいなしです。いまではなくとも、間もなくね。ぼくの潔白がはっきりと証明され、母さん、ここからつれもどされることになりますよ。自信があるんです。チビのジェイコブと赤ん坊には、この事件すべてがどんなもんかを教えてやってください。ふたりが大きくなってものがわかるようになったとき、ぼくが不正を働いたことがあるなんぞとふたりが考えるようになり、ぼくが何千マイルもここからはなれたところにいるとしたら、それを知って、ぼくの心ははりさけてしまいますからね――おお! 母さんの世話をみてくれるだれか親切な紳士の方がいないものかな?」
母親の手は、スルッと彼の手からはなれた。あわれにもこの女性は失神して大地の上に沈みこんでしまったからだった。リチャード・スウィヴェラーが急いで近づき、見物人をおしわけ、芝居の人さらいのように片腕で(ちょっと苦労して)彼女を抱きあげ、キットにうなずき、バーバラの母親にうしろについてくるように命じて、さっさと彼女をつれ去っていった。外で馬車が待っていたからである。
そう、彼女を家につれていったのは、リチャードだった。この道中で、歌や詩からの引用の面で、どんなにびっくりするようなバカバカしいことを彼がしたかは、だれも知らない。彼は彼女を家につれてゆき、彼女が回復するまで待ち、馬車代を払う金をもち合せてはいなかったので、堂々とビーヴィス・マークスにもどり、「小銭」をとりに中にはいっているあいだ、戸口のところで待っていろ、と御者に命じた(その日は土曜日(週給の払われる日)の晩だった)。
「リチャード君」陽気にブラースはいった、「今晩は!」
最初、キットの話はとてつもなくひどいことに思われたが、リチャード氏は、その夜、愛想のいい自分のやとい主になにか腹黒いたくらみがあるのではないか、と強く感じていた。彼の無造作な性格にこの衝動を与えたのは、たぶん、彼がたったいまみたみじめな状態のためだったのかもしれない。だが、理由はともあれ、その疑いは彼にあってとても強く、彼はできるだけ言葉短かに自分の希望を述べた。
「金だって!」財布をとりだして、ブラースは叫んだ。「ハッ、ハッ! いいですとも、リチャード君、いいですとも。人間はすべて生活せにゃならんのだからね。五ポンド紙幣で釣りはありませんな、どうです?」
「ありません」ディックはズバリと答えた。
「おお!」ブラースはいった、「ここにちょうどピタリの金がある。これで面倒がなくてすむな。たしかにきみは大歓迎ですよ――リチャード君――」
このときまでに戸口のところまで歩いていっていたリチャードは、グルリと向きなおった。
「これ以上」ブラースはいった、「ここにもどってくる必要はありませんよ」
「えっ?」
「いいですかね、リチャード君」両手をポケットにつっこみ、背なしの椅子でからだをユラユラさせて、ブラースはいった、「事実は、きみのような能力をもった人は、われわれの味気ないつまらない商売ではもったいない、まったくもったいないということにあるんですよ。ここの仕事はすごい骨折り仕事――ショッキングなことです。まあ、舞台か、さもなけりゃ、うーん――軍隊、リチャード君――さもなけりゃ、酒類販売免許の方面のもっと優秀ななにかが――きみのような人物の|天賦《てんぷ》の才をひきだすものといいたいとこですな。ときどきは、どうか立ち寄ってください。サリーは、きっと、よろこびますよ。きみを失うのを、彼女はとても悲しんでましたよ、リチャード君。だが、社会にたいする彼女の義務感が、彼女をあきらめさせたんです。あの女は驚嘆すべき人物! 金はまちがいないでしょうな。窓が一枚割られたけど、そのための減額はしませんでしたよ。友と別れるときには、リチャード君、ケチケチしたとこはみせずに別れることにしましょうや。これは、うれしい思いやりというもの!」
こうしたとりとめもない言葉にたいして、スウィヴェラー氏はひと言も答えず、海水浴用のジャケットをとりにもどり、それをしっかりとしたまるいボールにまき、そのあいだじゅうズッと、それで彼をころがしてやろうという意図をもっているように、ブラースをしっかりとにらみつけていた。だが、彼はそれを小脇にかかえるだけですませ、ジッとおしだまったまま、|悠然《ゆうぜん》と事務所から出ていった。ドアを閉めてから、彼はそこをまた開け、前と変らぬ不吉な重々しさで、しばし、中をふたたびにらむようにしてのぞきこみ、ゆっくりと幽霊のように一度頭をコクリとやって、姿を消した。
彼は御者に支払いをすませ、キットの母親をなぐさめ、キット自身を救ってやろうという大きな計画で胸をふくらませて、ビーヴィス・マークスをあとにした。
だが、リチャード・スウィヴェラーのような楽しみに没頭する紳士の生活は、ひどく不安定なものである。過去二週間の|精神的《スピリチユアル》興奮は、数年間にわたる|アルコール性《スピリチユアス》の興奮で少なからぬ影響を受けていたからだに作用して、ちょっと堪え切れぬ重荷になっていた。まさにその夜、リチャード氏はおそろしい病気に襲われ、二十四時間たつと、荒れくるう熱病に打ちのめされることになった。
64
熱いジッとしていられない寝台であちらこちらと寝がえりを打ち、どんなものでも静められない喉の渇きで拷問の苦しみを味い、どんなに姿勢を変えても一刻の安らぎも休息も得られず、休息の場所、元気づけといこいを思わせる光景も物音もなく、あるものといえばつまらぬ永遠の倦怠だけ、といった思考の砂漠をいつもさまよい、みじめな肉体を落ち着きなく動かし、うんざりしながら心をただよわす以外になんの変化もなく、のこるものといえばただ、いつも姿をみせているひとつの不安――なにかしないでいたこと、克服しなければならないあるおそろしい障害、追い払うことができず、病気にかかった頭にあれやこれやの形をとって出没し、いつも影がかかってぼんやりとし、それがとるすべての形で同じ幻と認めることができるある不安な心配の意識、寝ざめのわるい思いのように、すべての幻想を暗くし、眠りをおそろしいものにするもの――とてもおそろしい病気のこうした緩慢な拷問につつまれて、不幸なリチャードはだんだんと痩せ細り、やつれて床に横たわり、とうとう、起きあがろうと戦いもがき、悪魔どもにおし倒されたように思ったとき、深い眠りに沈みこみ、もう夢はみなくなった。
彼は目をさました。眠りそのものにもまさる楽しい安息感を味いながら、彼はだんだんとこうした苦しみを思い出し、その夜はなんというながい夜だったのだろう、二度か三度自分は|錯乱《さくらん》状態におちいったのではないか? と考えはじめていた。こうした物思いの最中に、たまたま手をあげて、それがどんなに重く思われるか、しかも、じっさいにはどんなに痩せて軽くなっているかを知って、びっくりした。それにしても、彼の気分は|無頓着《むとんちやく》で、幸福感を味い、その問題を追求する好奇心はべつにもっていなかったので、彼の注意が咳にひかれるまで、前と同じ目ざめながらの睡眠状態にあった。これは、きのうの晩自分がドアに鍵をかけたかという疑念を起し、部屋に同伴者がいるのに、ちょっとした驚きをひきおこすことになった。それにしても、彼にはこの考えを追求していく精力はなく、ゆったりとした安息感につつまれて、無意識に寝具の緑のいくつかの縞をジッとみつめ、それを奇妙なふうに新鮮な芝生のきれと結びつけ、縞のあいだの黄色の土地は砂利の道となり、こうしてその助けで、ズッとみわたせる小ぎれいな庭園をながめることになった。
彼は、想像の中で、こうした台地を歩きまわり、そこにすっかり没入していたが、そのとき、また、咳が聞えてきた。その音とともに、散歩道は小さくちぢみあがってふたたび縞にもどり、寝台で少しからだをもちあげ、片手でカーテンをおし開けて、彼は外をながめた。
たしかに同じ部屋、まだろうそくの灯りで照らしだされていたが、そこにならんでいるびん、水鉢、火のそばに乾してあるリンネルのシャツ、下着類、病室のそうした道具類をながめたとき、どんなにびっくりしたことだったろう! それはみな、とても清潔で小ざっぱりしていたが、彼が床にはいったときの状態とはまったくちがったものになっていた。あたりの雰囲気も薬草や酢のひんやりとするにおいで満され、床も新しく水をまかれてあった。あれは? 侯爵夫人かな?
そう、彼女はテーブルでひとりでクリベッジをやっていた。そこの目の前に彼女は坐り、ゲームをせっせとやり、彼を起してはと心配しているように、声をおさえてときどき咳をし――札をかきまぜ、切り、配り、勝負をし、勘定し、点をつけ――ゆり籠の中の赤ん坊の時代からそれをやっているといったように、クリベッジの秘術のかぎりをつくしてやっていた!
スウィヴェラー氏は、ちょっとのあいだ、こうしたことをジッとながめ、カーテンをもとの状態におろして、また頭を枕の上に横たえた。
「自分は夢をみているのだ」リチャードは考えた、「それははっきりしたこと。床にはいったときに、ぼくの手は痩せ細ったものではなかった。それなのに、いまはみすかすことができるくらいになってしまっている。これが夢でなかったら、ロンドンの夜じゃなくって、なにかのあやまちで、アラビアの夜につつまれて目をさましたのだ。だが、ぼくはたしかに眠っている。これは、まちがいのないことだ」
ここで、小女の召使いがまた咳をした。
「じつにはっきりしたものだな!」スウィヴェラー氏は考えた。
「いままで、あんなにマザマザと真にせまった咳の夢は、みたこともないぞ。咳やくしゃみなんかの夢は、たしかに、みたこともない。たぶん、それを絶対にしないというのが、夢の哲学の一部かもしれんぞ。また咳――また咳――まったく驚いたこと!――ぼくの夢はそうとう早く進行してるな!」
自分の真の状態がどんなものかとためすために、スウィヴェラー氏は、しばし物思いにふけっていたあとで、自分の腕をつねってみた。
「これはまた、ますます奇々怪々!」彼は考えた。「床にはいったとき、どうかというと、ぼくはそうとう肉づきがよかったんだが、いまはつまむものもないくらい痩せ細ってる。もう一度、外をながめてみよう」
こうしておこなった再度の観察の結果は、自分がとりかこまれている物は本物、もう疑いの余地はなく、そうしたものを目をさましたはっきりとした目でながめている、ということを彼に納得させることになった。
「アラビアの夜、まさにアラビアン・ナイトが実状だ」リチャードはいった。「ぼくはダマスカス(シリア西南部にある都市で同国の首都現存する世界の都市で最古のもの)かグランド・カイロ(カイロにグランドという形容詞をつけて堂々とさせたもの)にいるんだ。侯爵夫人は回教の霊魔(この話は『アラビアン・ナイト』に出てくる群島の王子クミル・アル・ズマウムとシナの王女バドウラの恋物語)、世界の若い男でだれが最高の美男子か? シナの王女さま(『アラビアン・ナイト』の第二一四話で語られているアラディンの話)の夫になるのにだれがいちばんふさわしいか? べつの霊魔と賭けをして、われわれをいっしょに比較しようと、部屋ごとそっくりぼくを運んできたんだ。たぶん」だるそうに枕の上でぐるりとからだをまわし、壁に近いベッドの側のほうをみて、スウィヴェラー氏はいった、「王女さまはまだ――いいや、彼女はいっちまったぞ」
これが正しい解釈であったとしても、そこにはまだちょっと謎めいたものと疑念があったので、この解釈ではまだ十分に納得せず、スウィヴェラー氏はふたたびカーテンを開き、自分の仲間に語りかける最初の好都合な機会をとらえようとした。その機会はすぐに到来した。侯爵夫人は札を配り、ジャックをめくり、そこでつけこむいつもの手段をとらなかった。そこで、スウィヴェラー氏はできるだけ大声をはりあげた――「すぐつづいて二だ!」
侯爵夫人はパッととびあがり、手をたたいた。「たしかに、アラビアン・ナイトだ」スウィヴェラー氏は考えた。「あそこに出てくる連中は、鐘を鳴らさずに、いつも手をたたいてるんだからな。さあ、これで、頭に宝石の壺をのせた二千人の黒人の奴隷があらわれてくるぞ!」
しかし、彼女が手をたたいたのは、どうやら、よろこびのためだけのものらしかった。その直後、彼女は笑い、ついで、泣きはじめたからだった。そして、えりすぐりのすばらしいアラビア語ではなく、ふだんのなじみの英語で「とてもうれしい、どうしたらいいかわからなかった」といっていた。
「侯爵夫人」考えこんで、スウィヴェラー氏はいった、「どうかこっちに来てくれたまえ。まず第一に、ぼくの声がどこで出ているものか、第二に、ぼくのからだの肉はどこに消え失せたのか、どうか教えてくれないか?」
侯爵夫人はただ悲しげに頭をふっただけ、また泣きだした。そこで、スウィヴェラー氏も(とても弱っていたので)涙にさそわれることになった。
「きみの態度とこのあたりのようすから見当つくんだが、侯爵夫人」間をおき、唇をふるわせながらほほ笑んで、リチャードはいった、「ぼくは病気だったようだね」
「いままでそうだったのよ!」目をぬぐって、小女の召使いは答えた。「そして、バカげたことをうわごとでしゃべってたわ!」
「おお!」ディックはいった。「侯爵夫人、重態だったのかい?」
「死にそうになってたわ」小女の召使いは答えた。「よくなるとは、夢にも思ってなかったの。よくなって、ほんとによかったわ!」
スウィヴェラー氏は、ながいこと、おしだまっていた。やがて彼はまた話をはじめ、自分はどのくらいここにいたのだ? とたずねた。
「あしたで三週間よ」少女の召使いは答えた。
「三のなんだって?」ディックはいった。
「週間よ」力を入れて侯爵夫人はいった。「ながい、ノロノロとした三週間よ」
そんなに危険状態にあったと考えただけで、リチャードはまた沈黙に沈みこみ、からだをながながとのばして、ふたたびバッタリと倒れてしまった。侯爵夫人は、気持ちよく|布団《ふとん》をかけなおし、手と額に手を当てて熱が去ったのをたしかめ――これはよろこびで彼女の胸をいっぱいにしたことだった――またちょっと泣き、お茶の準備をして、バターをつけない薄いパンを焼くのにとりかかった。
彼女がこうして働いているあいだ、彼女がすっかりこの家の人間になりきっているのにどぎもをぬかれ、これも、もとをただせばサリーのおかげと考え、サリーに感謝しながら、スウィヴェラー氏は侯爵夫人をながめていた。彼自身の心では、サリーにどんなに感謝しても感謝しきれない気分だった。パン焼きが終えると、侯爵夫人は盆の上にきれいな布をしき、彼のところにカリカリした幾切れかのパンと大きな鉢に入れた薄い茶をもってきた。これは(彼女の話によると)、目をさましたとき、彼が元気づけに食べてもいいと医者がいいのこしていったことだった。彼女は、ながい年期をつとめた専門の看護婦ほどはうまくなくとも、それにおとらず物やわらかに、彼をいくつかの枕でささえ、患者が――ときどき手を休めて彼女と握手をしながら――この粗末な食事をモリモリとおいしそうに食べているのを、口にはいえぬほどの満足した気分を味いながら、ながめていた。こうした彼の食欲は、ほかのどんな事情のもとで、どんなに|珍味《ちんみ》|佳肴《かこう》を出そうとも、とてもひきおこせるものではなかった。片づけが終り、彼の身辺をすっかりきちんと片づけてから、彼女はテーブルに坐って、自分のお茶にとりかかった。
「侯爵夫人」スウィヴェラー氏はいった、「サリーはどうしてるね」
小女の召使いは、顔をひきねじってひどく狡猾さをからみこませた表情をし、頭をふった。
「えっ、彼女とは最近会わなかったのかい?」ディックはたずねた。
「会ったかですって!」小女の召使いは叫んだ。「まあ、あたしは逃げだしてきたのよ!」
スウィヴェラー氏はすぐに、ふたたび、バッタリと倒れ、五分間ほど、そのままの状態でいた。こうした時間の経過の後、彼はまた坐った姿勢にもどって、たずねた、
「きみは、いま、どこに住んでるんだい、侯爵夫人?」
「住むですって!」小女の召使いは叫んだ、「ここよ!」
「おお!」スウィヴェラー氏はいった。
こういって、彼はまたバッタリと倒れたが、それはまるで撃たれたようにいきなりのものだった。こうして彼はみじろぎもせず、口もきけない状態でいたが、そのあいだに、彼女は食事を終え、すべてのものを片づけ、炉の掃除をすませた。それから、寝台のわきに椅子をもってくるようにと彼は身ぶりで彼女に伝え、ふたたびからだにつかえをして坐り、さらに会話がつづけられた。
「すると」ディックはいった、「きみは逃げだしてきたんだね?」
「そうよ」侯爵夫人はいった、「あのふたりは|告《こく》であたしをさがしてるのよ」
「あのふたりは――もう一度いってくれないか?」ディックはいった――「ふたりはなにをしてたんだい?」
「|告《こく》であたしをさがしてるのよ――告よ――新聞で」侯爵夫人は答えた。
「ああ、ああ」ディックはいった、「広告かい?」
小女の召使いは、頭をコクリとさせ、目をパチパチとさせた。彼女の目は不眠と泣いたことでもう真っ赤、悲劇の|詩の神さま《ミユーズ》の目でも、もっとしっかりまばたきはできたことだったろうと思われるほどだった。そして、ディックの受けた感じは、それと同じものだった。
「じゃ、いってくれないか」彼はいった、「どうしてここに来ようと思ったんだい?」
「まあ、いいこと」侯爵夫人は答えた、「あんたがいっちまったとき、あたしにはお友だちがぜんぜんいなくなったの。だって、下宿してるあの人はぜんぜん帰らず、あの人もあんたも、どこにいるかわからなかったんですもの。でも、ある朝、あたしが――」
「鍵穴の近くにいたときかね?」彼女が口ごもるのをみて、スウィヴェラー氏はうながした。
「ええ、そう」うなずいて小女の召使いはいった。「事務所の鍵穴の近くにいたとき――あんたがあたしをみつけたと同じようにね――だれかが、自分はここに住んでる、あなたの下宿の女主人だ、あんたの病気がとても重く、だれも世話をみに来てくれる者はない、といってるのが聞えてきたの。ブラースさんは『そんなこと、おれに関係のないこったよ』といってたわ。サリーさんは『あの男、妙な男だけど、そんなこと、あたしに関係ないことよ』といい、その女は出ていき、出ていくとき、たしかに、ドアをピシャーンと閉めてったわ。そこで、その晩、あたしは逃げだし、ここに来て、あんたはあたしの兄といい、みんなはそれを信用し、それからズーッとここにいるの」
「かわいそうに、このチビさんの侯爵夫人は骨と皮にやつれてしまったんだ!」ディックは叫んだ。
「ううん、そんなこと、ないわ」彼女は答えた、「ぜんぜん、そんなこと、ないことよ。あたしのことなんて気にしなくていいの。あたしは起きてるのが好き、あの椅子のどれかで、ほんとに、ときどき眠ってるのよ、でも、どんなにあんたが窓からとびだそうとしたかをみることができ、歌を歌い、演説をしつづけていたかを聞くことができたら、とてもほんととは思えないでしょうよ――具合いがよくなって、ほんとにうれしいわ、リヴェラーさん」
「まったく、リヴェラー(侯爵夫人は彼スウィヴェラーをあやまってこう呼んだのだが、ここでは生きたもの(リヴァー)にかけたもの)だ!」考えこんで、ディックはいった。「ぼくがリヴェラーであるのは結構なこと。きみがいなかったら、侯爵夫人、ぼくはきっと死んじまっただろうからね」
ここで、スウィヴェラー氏は小女の召使いの手をふたたびにぎり、もうわかっているように、ひどく弱っていたので、感謝の気持ちをあらわそうとして苦しんで、彼の目も、彼女の目と同様、真っ赤にしてしまうところだったが、彼女は彼を横にさせて、サッと話題を変え、ジッと静かにしているように彼に強くすすめた。
「先生は」彼女は伝えた、「あんたはジッと静かにしていなければいけない、っていってたの。音も立ててはいけないし、どんなこともだめだとね。さあ、おやすみなさい。そうしたら、また話をしましょう。いいこと、あたしはあんたのそばに坐ってるわ。目を閉じたら、たぶん、眠れるでしょう。眠れば、それでなおよくなることよ」
侯爵夫人は、こういいながら、小さなテーブルを寝台のわきに運び、そこに坐り、二十人もの薬剤師の腕のたくみさで、なにか解熱剤の水薬の調合にとりかかった。リチャード・スウィヴェラーはじっさい疲労していたので、眠りに落ちこみ、約三十分して目をさまし、いまは何時だ? とたずねた。
「ちょうど六時半よ」小女の友人は答え、彼に手を貸して、また坐らせた。
「侯爵夫人」手で額をなで、その瞬間に問題が頭にひらめいたといったように、サッと向きなおって、リチャードはいった、「キットはどうなったんだい?」
彼は、ながい年月のあいだ、流刑に処せられることになった、と彼女は答えた。
「もういっちまったのかい?」ディックはたずねた――「彼の母さん――彼女はどうだい――どうなったんだい?」
彼の看護婦は頭をふり、彼らのことはなにも知らない、と答えた。「でも、もし」彼女はとてもゆっくりとした口調でいった、「あんたがとても静かにしていて、熱病をぶりかえす心配がもうないとわかったら、いうこともあるんだけど――いまは、だめよ」
「いいや、いっておくれ」ディックはいった、「それがおもしろいんだからね」
「ああ、そうであればいいんだけど!」小女の召使いはふるえあがった表情を浮べて答えた。「でも、そんなことでごまかされたりはしないことよ。気分がよくなるまで待ちなさい。そうしたら、知らせてあげるわ」
ディックはすごくむきになって彼の小さな友人をジッとみつめ、彼の目は病気で大きく、くぼんでいたので、その表情をとてもきびしくしたので、彼女はすっかりおそろしくなり、そのことはもうこれ以上考えないように、と彼にたのみこんだ。しかし、彼女の口からもうもれてしまった言葉は、彼の好奇心を強くそそり立てることになったばかりか、ひどく彼の心配をかき立て、そこで、最悪のことをすぐに伝えてくれ、と彼は強く彼女にせまった。
「おお、最悪のことなんて、べつにないのよ」小女の召使いはいった。「あんたにはぜんぜん関係のないことなの」
「それが関係してることって――それは、さけ目か鍵穴をとおしてきみが聞いたこと――聞くつもりはなかったことだ、というのかい?」息を切らし、かたずを飲んで、ディックはたずねた。
「そうよ」小女の召使いは答えた。
「ビーヴィス・マークス、ビーヴィス・マークスのことかね?」あわただしくディックは追求した。「ブラースとサリーのあいだの話かい?」
「そうよ」小女の召使いはくりかえし叫んだ。
リチャード・スウィヴェラーは、痩せた片腕を寝台からつきだし、彼女の手首をつかみ、彼女をそばにひきよせて、それを話してくれ、しかも、腹蔵なく、そうでないと、その結果について自分は受け合えなくなってしまう、そうした興奮と期待のワクワクした状態に我慢はとてもできないのだから、と伝えた。彼女は、彼がとても興奮し、その話をのばしていることが、話をすぐすることから起きるかもしれないどんな結果より重大なことになるかもしれない、とさとって、彼の要求に応ずる約束をし、患者がジッと静かにし、とびあがったりころげまわったり絶対にしないようにというひとつの条件をつけた。
「でも、そんなことをしはじめたら」小女の召使いはいった、「話はやめることよ、いいこと?」
「しゃべり終るまで、やめちゃいけないよ」ディックはいった。「さあ、話しておくれ、いい子だからね。おねがいだ、妹、話しておくれ。かわいいポリー、いっておくれ(ジョン・ゲイが書いた劇『乞食のオペラ』(一七二八)の中でマクヒースの述べるセリフ)。おお、いつのことか、どこでのことかをいっておくれ、どうか、侯爵夫人、おねがいだ!」
まるでこの上なく厳粛でとてつもなく大変なことをいっているようなふうに、熱をこめてリチャード・スウィヴェラーが語ったこうした熱っぽい懇願に圧倒されて、彼の相手はこう話した、
「いいわ! 逃げだす前に、あたしはいつも台所で眠ってたの――あのトランプをした場所よ。サリーさんは台所のドアの鍵をいつもポケットに入れ、夜になると、ろうそくをとり、火をかきだすために、下におりてきたの。それをすますと、あの女は暗闇の中であたしを眠らせ、外からドアに鍵をかけ、ポケットにまた鍵をしまいこみ、翌朝またおりてき――それも、たしかに、とても早く――あたしを外に出してくれるまで、あたしをそこに閉じこめといたのよ。こんなふうにされてるのは、とてもこわかったわ。だって、火事があったら、ふたりは、あたしのことなんかはすっかり忘れて、自分のことしか考えないでしょうからね。そこで、どこにでも古い錆だらけの鍵をみつければいつでも、それをひろいあげ、それがドアに合うかどうかをためしてみていたんだけど、とうとう石炭がらをすてる地下室の中に、たしかに[#「たしかに」に傍点]合うのをみつけたのよ」
ここで、スウィヴェラー氏は、両脚で荒々しい動きを示した。だが、小女の召使いがすぐに話をやめてしまったので、彼はまたもとの静かな状態にもどり、ふたりの盟約を一時的に忘れたことをわびて、話を進めるようにとたのみこんだ。
「あの人たちは、あたしにとてもひもじい思いをさせてたの」小女の召使いはいった。「ああ、どんなにひもじい思いを味ってたか、あんたにはわからないでしょう! そこで、ふたりが床にはいってから、あたしはいつも出てって、暗闇の中の手さぐりでビスケットのかけら、あんたが事務所にのこしてったサングウィッチ(サンドウィッチのことをこういったもの)、オレンジの皮のきれまでさがしまわったの。オレンジの皮は水に入れ、それをぶどう酒と考えることにしてたの。水に入れたオレンジの皮、味ったことがあること?」
スウィヴェラー氏は、そんな強烈な酒は飲んだことがない、と答え、もう一度話の糸のよりをもどすようにと友人にたのみこんだ。「そうしっかりと思いこめば、とてもおいしいものよ」小女の召使いはいった、「でも、そう思いこまないと、たしかに、もう少し風味をつけたいとこね。そう、ときどき、ふたりが床にはいってから、あたしは出ていき、ときには、その前にすることもあったわ。そして、事務所であのすごいさわぎが起きたひと晩かふた晩前――というのは、あの若い男がとっつかまったことなんだけど――ブラースさんとサリーさんが事務所の火のとこで坐ってるとき、あたしは上にあがってったの。ほんとのことをいえば、金庫の鍵のことで話を聞くために、そこにいったのよ」
スウィヴェラー氏は膝を高くし、布団で大きな|円錐《えんすい》形をつくり、顔にひどく心配そうな色を浮べた。だが、小女の召使いは話をとめ、人さし指を立てたので、その円錐形は静かに姿を消していったが、彼の不安のようすは消えなかった。
「あの男とあの女がね」小女の召使いはいった、「火のそばに坐り、ソッと話をしてたの。ブラースさんはサリーさんに『まったく、これは危険なことで、いろいろとひどく面倒なことにひきずりこまれるかもしれないぞ。わたしは気が進まんな』といったの。サリーさんはいったわ――あの|女《ひと》の話しっぷり、知ってることね――あの女はいったのよ、『あんたはひどく臆病な、とても気の弱い、たよりにならない男なのね、あたし、思うわ』あの女はいったの、『あたしが男で、あんたが女だったらよかったとね。クウィルプはここの大事なささえになってる人じゃないこと?』。『たしかにそうだな』ブラースさんはいったの。『あたしたちは』あの女がいったわ、『いつも商売でだれかかれかの身上をつぶしてるんじゃないこと?』。『たしかにそうだな』ブラースさんは答えたの。『じゃあ』サリーさんはいったわ、『クウィルプが望んだら、このキットの身を滅ぼしたからって、どうだというの?』。『たしかにどうということもないな』ブラースさんは答えたわ。それからふたりは、うまくやればなんの危険もないことで、ながいこと、ささやき、笑い、それから、ブラースさんは紙入れを出して、いったの、『うん、ここにそれがある――クウィルプ自身の五ポンドの紙幣だ。じゃ、こういうことにしよう、わかってるが、キットは明日ここに来る。二階にいってるあいだに、きみは邪魔にならんよう、出ていきたまえ。リチャード君はこっちで追っ払うことにしよう。キットだけを相手にして、わたしは彼と話しこみ、これを彼の帽子に入れてやろう。その上、なんとか工作して』彼はいったの、『リチャード君がそれをそこにみつけるようにし、彼を証人に仕立ててやろう。それでクウィルプさんの邪魔にならないようクリストファーを追っ払わず、クウィルプさんのうらみを晴らさなかったら、悪魔がその中にいるとでもいえるだろうよ』。サリーさんは笑い、それで計画はきまった、といい、ふたりがそこから動きそうな気配があり、それ以上そこにいるのはこわくなったんで、あたし、また、下におりてったの――これが話よ」
小女の召使いは、だんだん、スウィヴェラー氏と同じくらい興奮してきて、彼が寝台で起きあがり、この話をだれかほかの人にしたかどうか? を急いでたずねたとき、この彼をべつにおさえようともしなかった。
「そんなこと、ありっこないじゃないの」彼の看護人はいった。「それは、考えてもおそろしいくらい。あの若い人が自由の身になれたら、とねがってたんです。自分がしないことで罪を犯したという判決を受けたと聞いたとき、あんたはいないし、下宿してるあの人もいなかったんです――たとえいたとしても、あの人にはこわくていえなかったかもしれないわ。ここに来て以来、あんたはわけわからずの状態。そんなあんたに話をしたって、なんの役にも立たなかったでしょう」
「侯爵夫人」ナイトキャップをぬぎ、それを部屋の向うの隅に投げすてて、スウィヴェラー氏はいった、「たのむ、ちょっと外に出てみて、今夜はどんな夜か、みてきてくれたまえ。ぼくは起きるよ」
「そんなこと、考えちゃいけないことよ」看護人は叫んだ。
「いや、起きねばならんのだ」部屋をみまわして、患者はいった。「ぼくの服は、どこにある?」
「まあ、うれしい――服はないことよ」侯爵夫人は答えた。
「いやあ!」びっくり|仰天《ぎようてん》して、スウィヴェラー氏は叫んだ。
「あんたのために必要といわれたものを手に入れるため、それをすっかり売らなければならなくなったの。だけど、そのことで怒ったりはしないでちょうだいね」ディックが枕にひっくりかえって倒れたとき、侯爵夫人はたのみこんだ。「あんたは弱ってて、じっさい、立てはしないことよ」
「どうやら」悲しげにリチャードはいった、「そうらしいな。どうしたらいいんだろう? どうすべきなんだろう?」
当然のことながら、ちょっと考えて、ここで第一にすべきことは、すぐガーランド氏一家のだれかに連絡をとることだ、ということが彼の頭に思い浮んだ。エイベル氏がまだ事務所にいることも、十分に考えられることだった。大急ぎで小女の召使いは、紙に書きつけた宛て名を与えられ、父親と息子の特徴を伝えられて、これで彼女はそのどちらもすぐにわかるようになり、キットにたいする反感がわかっていたので、チャクスター氏をさけるようにと注意を受けた。こうしたたよりない力で武装され、老ガーランド氏かエイベル氏自身をこのアパートにつれてくるように依頼を受けて、侯爵夫人はとびだしていった。
「どうやら」彼女がゆっくりとドアを閉め、彼が気分よく横になっているかどうかをたしかめようと、ふたたび部屋をのぞきこんだとき、ディックはいった、「どうやら、なんにものこってはいないようだね――チョッキさえもか?」
「そう、なんにもないことよ」
「困ったことだね」スウィヴェラー氏はいった、「火事になったりするとね――傘だって多少役には立つんだが――でも、侯爵夫人、きみのやったことはまったく正しいことだったよ。きみがいなかったら、こっちは死んじまうとこだったんだからね!」
65
小女の召使いが、鋭くぬかりのない女であるのは、好都合なことだった。そうでなかったら、彼女が姿をあらわすのが危険きわまりない場所から彼女をひとりで外に出す結果は、おそらく、彼女にたいする最高の権威をサリー・ブラース嬢がとりもどすことになったかもしれなかったからである。だが、自分の危険をちゃんと心得て、家を出るやいなや、目についた最初の暗い小路におどりこみ、さし当って自分の目的地は考えずに、わが身とビーヴィス・マークスのあいだにたっぷり二マイルの距離をおくのをまず第一の目標と考えた。
この目標を達成すると、公証人の事務所へゆくことを考えはじめ、そこへゆく道の方向を――灯りのついた店やきちんとした人にたずねて注意をひく危険をおかすのをさけて、ぬかりなくりんご[#「りんご」に傍点]売りの女やらかき[#「かき」に傍点]売り商人やらにたずねて――すぐに知った。伝書鳩は、見知らぬ場所で放されると、しばらくちょっと手当りしだいに翼を羽ばたかせて空をとび、それから目的地に向けてとび去るものだが、侯爵夫人も、身の安全を信じるまであたりをグルグルととびまわり、それから目的地の港に向ってサッととんでいったのである。
彼女はボンネット帽をかぶらず――頭にかぶっていたのは大きな帽子だけ、これは、だいぶ前、サリー・ブラースがかぶっていたもので、この女の帽子の好みは、もうご承知のとおり、独得のものだった――靴のために、速度を早められるというより、にぶらされていた。それがひどく大きく、かかとがつぶれていたので、ときどき足からはずれ、通行人の群れの中でそれをひろうのはなかなか困難だったからである。じっさい、泥と|道端《みちばた》のみぞでそうした品物を手さぐりでさがすのに、このあわれな女はなみなみならぬ苦労と|遅延《ちえん》を味い、それをひろいだすのに、ひどくおされ、つきとばされ、ねじられ、あちらこちらと放りだされたので、公証人のいる通りに着くまでに、彼女はヘトヘトになってすっかりつかれ、泣きださずにはいられなくなった。
だが、とうとうそこにたどり着いたのは、うれしいことだった。事務所の窓には灯りがまだついて、自分がおくれはしなかったという希望を多少与えてくれたのは、特にうれしいことだった。そこで、侯爵夫人は、手の甲で涙をぬぐい、ソッと階段をのぼっていって、ガラスのドア越しに中をのぞいてみた。
チャクスター氏は机のうしろに立ち、袖口をおろし、シャツのカラーを立て、|襟《えり》飾りの上に自分の首をもっと優雅にすえるといった仕事じまいの準備をし、小さな三角形の鏡の助けで頬髯の手入れにとりかかっていた。炉の火の灰の前にはふたりの紳士が立ち、そのひとりは公証人、のこりのひとり(この人物は外套のボタンをかけ、ここをすぐにも出ようとしているのは明らかだった)はエイベル・ガーランド氏と、目にくるいなく彼女は見当をつけた。
こうした偵察をおこなってから、この小女の密偵はあれこれと心中考え、エイベル氏が外に出てくるまで待ってようときめた。そうすれば、チャクスター氏の前で話さなければならなくなる心配はとり除かれ、自分の伝言をたやすく伝えられるからだった。こうした目的で、彼女はスッとそこからはなれ、道路を横切って、ちょうど向い合いの家の戸口の階段に腰をおろした。
彼女がこうして坐るか坐らないかに、小馬が一頭、脚を妙に踊らせ、頭をありとあらゆる場所にグルグルとふりまわして、街路を踊りながらやってきた。この小馬の背後には小さな四輪馬車がつき、男がひとりそこに乗りこんでいた。だが、小馬はそんなことはお構いなしでうしろ脚で立ちあがり、とまり、ズンズンと進み、また立ちどまり、もどり、横っちょにとびだして、人間も馬車も一切気にしていないようだった――それは、自分の思いつくがままに行動し、自分はこの世でいちばん自由に行動している|生物《いきもの》といったふるまいだった。公証人の戸口にやってきたとき、男はとてもうやうやしく「オーラ」と声をかけたが――それは、意見を申し述べるのが許されたら、自分たちはここでとまりたいということを知らせていた。小馬は瞬間足をとめたが、要求されたときにとまったりしたら、自分に不便で危険な先例をつくりだすことになると思いついたらしく、またパッととびだし、町角まで早い速歩でガラガラッと走り、そこでグルリとまわり、もどり、ついで自分自身の意志で足をとめた。
「ああ! お前はえらい馬だ!」男はいった――だが、ここで申しあげておくが、彼は、自分が舗道の上にしっかりと立つまで、自分の本心を明かさないでいた。「まったく、お前に一発お礼を申しあげたいもんさ――ほんとにな」
「小馬はなにをしていたんだね?」入り口の階段をおりてきながら首のまわりにショールをまきつけて、エイベル氏はいった。
「まったく、あいつには腹がジリジリしてきますよ」御者は答えた。「じつにひどいやつです――オーラ、わかったか?」
「悪口をいったりすると、ジッと立っていたりは絶対にしなくなるよ」車に乗りこみ、手綱をとって、エイベル氏はいった。「御し方さえわかっていたら、とてもいいやつ。このながいあいだ、彼が外に出たのはこれがはじめてのこと。以前の御者とは別れ、ほかのだれが動かそうとしても、絶対に動こうとはせず、今朝になってようやく動きはじめたのだからね。ランプは大丈夫だね? それで結構。よかったら、明日、馬を受けとりにここに来てくれたまえ。おやすみ!」
そして、これはまったく自分の発想になる奇妙な|跳《は》ねとびを一、二度してから、小馬はエイベル氏の温和さに屈服し、静かに速歩で走りだした。
このあいだじゅうズッと、チャクスター氏がドアのところに立っていたので、小女の召使いはこわくてそばに近づけないでいた。そこで、こうなると、彼女としては、馬車のあとを追い、エイベル氏に、とまってくれ、と声をかけるしかなかった。それに追いついたときに、息はもうハアハア、大声を出して彼を呼べなくなった。重大な事態になっていた。小馬は足を早めていたからである。侯爵夫人は、しばらく、うしろでつりさがってがんばっていたが、もうこれ以上はだめ、すぐ力がつきてしまうと感じて、すごい努力の結果、うしろの座席によじ登り、そうしながら、靴の片方を永遠に紛失することになった。
エイベル氏は物思いにふけりがちの気分にあり、その上、小馬を走らせることだけでも手いっぱいだったので、うしろをふり向いたりはせずにズンズンと進み、自分のうしろピタリのところにあらわれた奇妙な人間の姿のことなんて、夢想だにしていなかった。そして、とうとう、多少息が楽につけるようになり、靴の紛失と自分のこの物珍しい立場からようやく立ちなおって、彼女は彼の耳の近くでこうしゃべった――
「ねえ、旦那さま――」
彼は素早くサッと頭をまわし、小馬をとめながら、からだをブルブルとふるわせて、叫んだ、「いやあ、これは! これはどうしたこと?」
「心配なさることはありません」まだあえぎながら、使者はいった。「ああ、あなたのあとを、ずいぶんながいこと、追いかけたんです!」
「ぼくになんの用事があるのかね?」エイベル氏はいった。「どうしてそんなところに乗りこんだのかね?」
「うしろから乗りこんだんです」侯爵夫人は答えた。「ああ、どうか馬車を走らせ――とまったりはせず――シティにいってくださいませんか? そして、どうか急いでください。とても大変なことなんですから。そこでは、あなたにお会いしたがってる人が待ってるんです。すぐに来てください、キットのことはみんな知ってる、まだ彼を救い、その無罪を証明することができる、と伝えに、あたしは使いとして来たんです」
「これはまた、なんという話だ!」
「わたしの約束と名誉にかけて、ほんとうのことなんです。でも、どうか車を走らせてください――早く、どうぞ! もうながいこと家を留守にし、あの人は、あたしが道に迷ったもんと思ってるでしょう」
エイベル氏は、われ知らず、小馬をとっとと走らせた。小馬は、なにか人知れぬ共感か、新しいある気まぐれにつき動かされて、パッとすごい勢いでとびだし、スウィヴェラー氏の下宿の戸口に着くまで、歩調をくずしたりはせず、妙な仕草をやりだしたりもしなかった。そこで、じつに奇々怪々なことながら、エイベル氏が進行をおさえたとき、彼はそれに応じて足をピタリととめたのだった。
「ほら! 上のあそこの部屋です」かすかな灯りがほのかにみえる部屋をさして、侯爵夫人はいった。「さあ!」
じつに純真でひっこみ思案、その上、生れながらの小心者のエイベル氏は、ここでためらいの色をみせた。こうした事態ととてもよく似た事情のもとで、人びとが奇妙な場所につれこまれ、盗みを働かれたり殺されたりしたのを、耳にし、どうやら、その案内人は、侯爵夫人にそっくりの人物だったからである。だが、キットにたいする心配が、ほかの考慮すべてを打ち破った。そこで、そばでウロウロして仕事をさがしている男にホウィスカーをあずけて、彼は案内人に自分の手をとらせ、暗くてせまい階段を案内させることになった。
灯りを暗くした病室につれこまれたとき、彼は少なからずギョッとしたが、そこの寝台では、男がスヤスヤと眠っていた。
「ああして静かに眠ってる姿をみるなんて、うれしいことじゃないこと?」案内人は小声でむきになっていった。「二、三日前のあの人の姿をみたら、あんただって、きっとそういったことでしょうよ」
エイベル氏はなんの返事もせず、じっさいのところ、寝台から遠くはなれ、ドアのすぐ近くに立っていた。彼の気の進まぬようすをつかんだらしい案内人は、ろうそくの芯を切り、それを手にして、寝台に近づいていった。彼女が近づくと、眠っていた男はパッととびおき、そのやつれ果てた顔に、エイベル氏はリチャード・スウィヴェラーの面影を読みとった。
「いやあ、これはどうしたこと?」急いで彼のところに走り寄って、エイベル氏はやさしくいった。「病気だったんですね?」
「ひどい病気でね」ディックは答えた。「死ぬとこでしたよ。きみをつれに出かけていってくれたあの友人がいなかったら、棺台に乗ったリチャードのことを、きみは耳にすることになったかもしれませんよ。よかったら、侯爵夫人、もう一度握手をしてくれたまえ。エイベルさん。さあ、坐ってください」
案内人がどんな身分の者かを聞いて、エイベル氏はそうとう|胆《きも》をつぶしているようだった。
そして、寝台のわきの椅子に腰をおろした。「きみを呼びに使いを出したんですが」ディックはいった――「なんのためかは、もう彼女からお聞きでしょうな?」
「話してくれましたよ。ほんとうにびっくりしました。どういったらいいか、どう考えたらいいか、まったくわからないくらいです」エイベル氏は答えた。
「きみはそうした言葉を、もうすぐ、またいうことになりますよ」ディックは答えた。「侯爵夫人、寝台の上に坐ったらどうだい? さあ、きみがぼくに話してくれたことを、この紳士にも話してくれたまえ、細かにね。そちらは、ジッとだまって聞いててください」
例の話はくりかえされた。それは、事実上、前に語られたのとそっくり同じもの、脱線も省略もないものだった。この話のあいだ、リチャード・スウィヴェラーは目を来客の上に釘づけにし、話がすむとすぐ、ふたたび語りはじめた。
「話はぜんぶお聞きです。忘れることはないでしょう。ぼくは頭がフラフラし、からだの調子がとてもわるくて、どうしたらいいか、なんぞと意見はいえません。だが、きみと友人の方々には、それがわかるでしょう。こうしてながいことグズグズしてたんですから、これから先の一分一分は大事な時間です。いままでに家に早く帰ったことがあるのなら、きょうこそ早く家に帰ってください。ひと言でもものをいって、ここにグズグズしていたりはせず、すぐに出かけてください。用があれば、いつでも彼女はここにいますよ。ぼくはといえば、ここ一、二週間、ここにいるのはまちがいなし、ときみも確信がもてるでしょう。その理由はひとつどころでなく、いくつもあるんですからな。侯爵夫人、灯りをたのむ! ぼくをながめてもう一分でもむだ使いをしたら、絶対に許したりはしませんぞ!」
エイベル氏としても、これ以上抗議をされたり説得を受けたりする必要はなく、すぐにそこからとびだしていった。侯爵夫人は灯りをつけて階段の下にエイベル氏を案内し、そこからもどってきて、小馬がなんの異議も申し立てずに、全速力でふっとんでいった、と報告した。
「それで結構!」ディックはいった。「親切なことだ。これからは、彼に敬意を払うことにしよう。だが、きみはなにか夕食とビールを一杯やりたまえ、つかれてるにちがいないんだからね。ビールを一杯やるんだ。きみが飲んでるのをみたら、自分が飲んだのと同じように、ぼくにも元気がつくんだからね」
この保証以外にどんなに説いても、小女の看護人にこうした|贅沢《ぜいたく》をさせることはできなかったろう。彼女は、スウィヴェラー氏がとても満足いくように飲み食いし、彼には飲み物を与え、きちんとぜんぶ片づけをすませてから、古い|布団《ふとん》でからだをつつみ、炉の前の敷き物の上に横になった。
スウィヴェラー氏は、そのときまでにもう、眠りの中で「藺(古くは床にまき、椅子の底・むしろ・籠などをつくるのに用いる)の寝床をまけ、おお、まけ。朝の頬が赤らむまで、われわれはここにいるとしよう(トマス・ムアのよろこびの歌、『おお美しき婦人よ』と『巡礼の眠りよ、清らけくあれ』にある対句の二行、『大いなる遺産』一三章にも引用されている)。おやすみ、侯爵夫人!」とつぶやいていた。
66
翌朝目をさますと、リチャード・スウィヴェラーは部屋の中にコソコソしたさまざまな人声が立てられているのにだんだんと気づきはじめた。カーテンのあいだから外をみると、ガーランド氏、エイベル氏、公証人、独身男が侯爵夫人のまわりに集り、すごく真剣ではありながらも声をひそめて、彼女に話しかけている姿をながめた――これは、たしかに、彼を起すまいとする配慮からだった。彼は時をうつさず、こうした用心の必要がないことを伝え、すぐに寝台のそばに四人の紳士全員が近づいてきた。老ガーランド氏がまず手をさしだし、気分はいかが? と彼にたずねた。
当然のことながら、まだひどく弱ってはいたが、ディックは、とても元気になった、と答えようとした。そのとき、小女の看護人が、まるでその干渉を|妬《や》いているように、客人たちをおしのけ、彼の|枕辺《まくらべ》にグイグイと寄ってきて、彼の前に朝食をすえ、話したり話しかけられたりする疲労の前に朝食をとるべきだ、と主張した。スウィヴェラー氏はもう完全に|飢《う》え、夜じゅうズッと、羊肉(焼肉用、またはフライ料理用のあばら肉)、倍の強さの黒ビール、|珍味《ちんみ》|佳肴《かこう》のそういった夢を驚くほどはっきりと、ひっきりなしにみていたのだったが、薄い茶とバターをぬらない焼きパンさえもすごく心をひくものと感じ、ひとつの条件をつけて、飲み食いすることに賛成した。
「そしてそれは」ガーランド氏が手を強くにぎりしめたのにおかえしをしながら、ディックはいった、「少しでも飲み食いする前に、この質問にありのまま答えてくださることです。もう時すでにおそしなんですか?」
「きのうの晩、きみがりっぱに皮切りをつけてくれた仕事を完成させるためにですかね?」老紳士は答えた。「いいや。その点は安心してください。たしかに、まだおそくはありませんよ」
この情報によろこび、患者は食欲旺盛に食事にとりかかり、食べながらいかにも楽しそうにしていたが、その楽しさに上まわるよろこびを、彼が食べるのをながめながら、彼の看護人があらわしていた。彼の食事の仕方はつぎのようなものだった――その場合に応じてスウィヴェラー氏は焼きパンなり茶碗なりを左手にもち、食べたり飲んだりしながら、いつも右の手には侯爵夫人の手のひらをしっかりとつかみ、おさえつけたその手をふり、いかにも真剣な意図とじつに重々しい態度で、食事をのみこもうとしているまさにその瞬間にあってすら、ときどき、それをするのをやめて、彼女の手にキスをしようとしていた。食べるにせよ飲むにせよ、彼がなにかを口に入れるたびごとに、侯爵夫人の顔は、得もいえぬふうに明るくなった。が、こうした感謝の認識のどれかを彼が示しだすと、いつも、彼女の顔の影は深くなり、シクシクと泣きはじめた。さて、笑いだすよろこび、それとも泣きだすよろこびのいずれの場合にせよ、侯爵夫人は訪問者たちに訴える顔つきを向けずにはいられなくなり、それは、「あなた方はこの男をながめておいでです――わたしは泣かずにいられましょうか?」といっているようにみえ――彼らは、こうして、まあいわば、この光景の中の人物になって、「そう、たしかに泣かずにはいられない」というべつの顔つきを、同じようにきちんとかえしていた。この無言劇は、患者の朝食のあいだじゅうズッとつづけられ、青白く痩せ細った患者自身がそこで小さいとはいえない役割を演じていた。そこで、はじめから終りまで、ほめ言葉なりののしり言葉なりがぜんぜん語られないどんな食事にあっても、それ自体はとるにたりない、さして重要ともいえない身ぶりで、こうまで多くの感情の表示がおこなわれたことがあるだろうか? と考えても決してむりとは思えぬくらいだった。
とうとう――それも、事実を申せば、そう時間がたたないうちに――スウィヴェラー氏は回復のこの段階で彼に適当と考えられた分の焼いたパンと茶を平らげてしまった。だが、侯爵夫人の配慮は、これでやんだわけではなかった。というのも、ちょっと姿をかくしてから、すぐにきれいな水を入れた盆を運びこんで、彼の顔と手を洗い、髪に|櫛《くし》をかけ、簡単に申せば、こうした事情のもとにあるどんな人にもおとらず、彼を小ぎれい、さっぱりとした男に仕立ててしまった。しかもこれは、彼がとっても小さな坊や、彼女が一人前の大きな看護婦といったふうに、いかにもキビキビと事務的におこなわれたのだった。こうしたさまざまな世話にたいして、スウィヴェラー氏は言葉にもいいつくせない感謝の驚きといったものにつつまれて、|易々《いい》|諾々《だくだく》とそれを受けていた。こうした世話がとうとう終り、侯爵夫人が自分自身の粗末な朝食(そのときまでにもうすっかり冷えていた)をとろうと、遠くの隅のほうにひきさがっていったとき、彼は、ちょっとしばらくのあいだ、顔をそむけ、心をこめてうつろな空気を相手に握手をしていた。
「みなさん」この停止状態から心をふるい立たせ、ふたたび向きなおって、ディックはいった。「お許しください。ぼくのようにこうして元気をなくしてしまった人間は、つかれやすいもんなんです。でも、いまはもう元気になり、話もできますよ。ここでは、いろいろとつまらないものが不足してますが、椅子も足りません。でも、もし寝台の上に坐っていただけたら――」
「きみのためにわれわれがしてあげられることで、どんなことができるでしょう?」ガーランド氏はやさしくたずねた。
「あの向うの侯爵夫人をほんとうにまちがいなく侯爵夫人にすることができたら」ディックは答えた、「それを即刻実現してくだされば、ありがたいしだいなんですがね。だが、それはできないこと、さし当っての問題は、あなたがぼくのためにしてくださろうと思ってることではなく、もっとましな要求権をあなたにもってる、だれかほかの人間のためになさることなんです。だから、どうか、あなたが、いま、なにをなさろうとしてるのかを、ぼくに知らせてください」
「われわれがいま来たのは、主としてその用件のためなんです」独身男は答えた、「というのも、べつの来客がすぐここに来るでしょうからな。どんな手段をわれわれがとろうとしてるのか、われわれ自身の口から直接聞かなければ、きみが心配するものと考え、そこで、このことで動きだす前に、ここにやってきたしだいなんです」
「みなさん」ディックは答えた、「ありがとうございます。ぼくのような情けない状態にある者はだれでも、当然のことながら、心配するもんなんです。ぼくはそちらの話の邪魔をしたりはしませんよ」
「じゃ、いいですかな、きみ」独身男はいった、「じつに|天佑《てんゆう》神助で明るみに出されることになったこの|露顕《ろけん》の真実性をいささかでも疑ったりしてるわけではないんですが――」
「彼女の話のことですか?」侯爵夫人のほうをさして、ディックはいった。
「――もちろん、彼女の話です。そのことは疑わず、それをうまく使えば、あのあわれな若者の即時の|赦免《しやめん》と釈放を得られるでしょうが、それだけでこの悪事の張本人のクウィルプまでわれわれが手をのばせるかどうか、そこには大きな疑問があるんです。この短い時間のあいだに、この問題について集めることのできた最高の意見からみても、この疑問は、ほとんど確実といってもいいほどのものに固まってきたんです。きみもわれわれと同意見でしょうが、万が一少しでも彼にのがれられるチャンスを与えることになったら、それはとてつもないことになるでしょう。きみも、きっと、われわれと同じことをいうことでしょうが、もしだれかをのがさなければならなくなっても、あの男だけは、そうさせたくはないもんです」
「そうです」ディックは答えた、「たしかにね。それは、だれかをのがさなければならん[#「ならん」に傍点]場合のことですがね――だが、ほんとう、だれかをのがすなんて、いやなこってすね。法律はすべての階級のためにつくられ、ぼくのみならず、ほかの者の悪徳をおさえつけるためのもん(ジョン・ゲイの『乞食のオペラ』(一七二八)の登場人物マキースの歌のひとつにある言葉)――等々なんですが――あなたも、そうした光でお考えではないんですか?」
スウィヴェラー氏が質問を表現したその光がこの世でいちばんはっきりしたものではないといったふうに、独身男はニヤリとし、自分たちは、まず第一に、策略でことをはじめようと考えてる、自分たちの計画は、あの女性のサラーを告白させようとすることにある、と説明しはじめた。
「われわれがどれだけ多く知ってるか、どうしてそれを知るようになったかが、彼女にわかったら」彼はいった、「そして、もうすでにはっきりと自分の体面がまるつぶれになっているのを知ったら、彼女をとおしてほかのふたりに効果的に罰を加えることもできるのじゃないか、とそうとう強く期待してるんです。それができたら、まあ、あの女は罰をのがれさせてやってもいいわけです」
この計画にたいするディックの態度は、絶対に愛想のいいといえるものではなく、あの老雄鹿(サラーのこと)はあつかうのはクウィルプ自身よりもっと難物だろう――どんなにいじりまわし、おどかし、|籠絡《ろうらく》しようにも、彼女はじつに妥協を知らぬ不屈な相手――彼女は融かして型にいれてつくるのは容易でない|真鍮《ブラース》――簡単にいえば、あなた方は彼女に対抗できず、ひどく打ちのめされてしまうだろうということを、病人としてはできるだけの熱をこめて述べ立てた。だが、なにかほかの方針をとれと彼らに強くすすめても、むだなことだった。いままでの話では、独身男が自分たちの協力的な意図を単独で説明したことになっているが、それは、彼ら全員が一斉に話しだし、だれかが偶然、一瞬、口をつぐんでいたとしても、その人物は息をハーハーはずませてあえぎ、また話に割りこむ機会をうかがっていた。要約すれば、彼らが説得も納得も不可能なジリジリとした焦燥と不安の状態にあり、自分たちの決心を再考するようにと説きつけるのは、強風の方向を変えようとするのと同じくらい、容易なことでなかった、ということになる。そこで、自分たちはキットの母親と子供たちのことを忘れてはいない、キット自身のことも一度でも失念したことはなく、彼の受けた判決の軽減を獲得しようとする努力は根気よくつづけられている、彼の罪の強力な証拠と自分たちのもっている色あせていく彼の無罪の期待との板ばさみになって、どんなに自分たちがヤキモキしているか、いまから夜までのあいだに、すべてがきちんとめでたく始末をつけられるのだから、彼、リチャード・スウィヴェラーは安心していてよい、とスウィヴェラー氏に話したあとで、さらに、ここでいちいちお伝えする必要のない彼個人にたいする親切な心こもったさまざまな言葉を伝えてから、ガーランド氏、公証人、独身男はギリギリの|瀬戸際《せとぎわ》のところでひきあげていった。こうして彼らがひきあげていかなかったら、リチャード・スウィヴェラーは、たしかに、また熱病をぶりかえし、その結果は命とりのことになったかもしれなかった。
エイベル氏はあとにのこり、しきりに自分の懐中時計に目をやって、部屋のドアのほうをながめていた。しばらくして、スウィヴェラー氏は短いうたた寝からハッと目をさましたが、これは、運送人の肩からといったように、なにか巨大な荷物を外の踊り場におろした物音のためで、それは家をゆすぶり立てる物音、|炉棚《ろだな》の上の小さな薬びんがそれでゆれて音を立てていた。この物音を耳にするとすぐ、エイベル氏はパッと立ちあがり、びっこをひいてドアのところにゆき、そこを開いた。すると、驚いたこと! そこにはたくましい男がひとり立っていて、がっちりとしたつめ籠をもち、それが部屋にひきずりこまれ、すぐに荷ほどきをされると、紅茶、コーヒー、ぶどう[#「ぶどう」に傍点]酒、ラスク(一種の固焼きビスケット)、オレンジ、ぶどう、すぐに|煮《に》られるようにと串刺しにした鳥肉、子牛足ゼリー(子牛の足を煮だしてとったゼラチンでつくったもの)、くず粉、サゴ(サゴやしの髄からとる澱粉で、プディングの材料として使う)、そのほかのおいしい栄養食のすごい宝物がはきだされてきた。そこで、商店以外のところではこんなことは考えられぬものと考えていた小女の召使いは、片足に靴をつっかけたままの姿でその場に棒立ちになり、口と目から同時に液体を流しだし、もう口もきけない状態になった。だが、エイベル氏、それに、あっという間にすごく大きなつめ籠の中身を籠から出したたくましい男の場合は、それとはちがっていた。また、親切な老夫人の場合も、それとはちがっていた。彼女は、まったく|忽然《こつぜん》と姿をあらわしたので、この彼女まで、つめ籠から出てきたのではないかといった感じ(籠は、たしかに、すごく大きなものだった)、彼女は、爪先立ちで音を立てずにとびまわり――いまここにいるかと思うと、もうあそこにいて、同時にどこにでもいるといったよう――病人のために茶碗にゼリーをつめ、小さなシチューなべでひな鳥の肉汁をつくり、オレンジの皮をむき、それをこなごなにきざみはじめ、もっとしっかりとした食事を元気づけのために料理するまでのとりあえずのものとして、小女の召使いにぶどう酒やすべてのおいしいちょっとした食べ物をせっせとすすめていた。こうしたものの出現すべては、まったく思いもかけないもので、とまどいをおこすもの、その結果、ふたつのオレンジと小さなゼリーひとつを平らげ、例のたくましい男が空籠をもってひきあげて、たしかにこうしたたくさんのものぜんぶがすっかり彼のためにのこされていったのをみとどけると、スウィヴェラー氏は、こうしたすばらしい驚きを心につめこんでもちつづけることができなくなり、ふたたび横になって眠らなければならなくなった。
一方、独身男、公証人、ガーランド氏はあるコーヒー店にゆき、そこで手紙を書いて、それをサリー嬢に送り、神秘的な簡単な言葉で、未知の友人が彼女の意見を求めている、できるだけ早くお越しねがいたい、と伝えた。この伝達はじつに効果的に使命を果し、そのため、使いの者がもどってきてその配達を報告してからまだ十分もたたぬうちに、ブラース嬢の到来が報じられた。
「さあ、どうぞ」部屋にひとりでいた独身男はいった、「お坐りください」
ブラース嬢はとても堅苦しい改まった態度で腰をおろし、たしかにそうだったのだが、下宿人と神秘的な手紙の主が同一人物であるのを知って、少なからずびっくりしているようだった。
「ここにわしがいるものとは、思っていなかったわけですな?」独身男はいった。
「それについて、そうは考えてませんでしたよ」美女は答えた。「なにかの仕事と考えてたんです。もし部屋のことだったら、もちろん、兄に正規の契約解除の通告なり――現金なりをわたしてください。話はとても簡単につきますよ。あなたは責任を負う当事者、こうした場合、法定の|金子《きんす》と法定の契約解除の通告はだいたい同じもんです」
「そうした好意的な意見をもっていただいて、感謝します」独身男は答えた、「そして、そちらのご意見にはまったく同感です。だが、あなたとお話したいと思ってるのは、そんな問題じゃないんですよ」
「おお!」サリーはいった。「じゃ、詳細の事項をちょっと述べていただけません? それは法律上の事柄でしょう?」
「いやあ、たしかに、法律とは関係があります[#「あります」に傍点]な」
「よくわかりました」ブラース嬢は答えた。「兄とわたしはまったく同一のもの、わたしはどんな指示でも受けとれるし、どんな忠告もできるのですからね」
「わし以外の関係者もいるんですから」立ちあがり奥の部屋のドアを開いて、独身男はいった、「いっしょに話したほうがいいでしょう。みなさん、ブラース嬢はここにいますよ」
ガーランド氏と公証人がとても重々しい顔をして部屋にはいり、独身男のそれぞれの側にふたつの椅子をひきよせて、やさしいサリーをとりまく一種の囲いといったものをつくりだし、彼女を隅に閉じこめた。こうした事情のもとで、彼女の兄のサムソンだったらそうとうの狼狽と不安を示しただろうが、彼女は――平然と落ち着き払って――ブリキのかんをひっぱりだし、静かにひとつまみのかぎタバコをかぎはじめた。
「ブラース嬢」この重大な時機に臨んで話をはじめて、公証人はいった、「われわれ法律専門家はたがいに理解し合ってるもの、その気になれば、用件は、とてもわずかな言葉でいえるもんなんです。このあいだ、逃亡した召使いのことで広告を出しておいででしたな?」
「ええ」サッと顔を赤く染めて、サリー嬢は答えた、「それがどうなんです?」
「みつかったんですよ」ハンカチをとりだし、それをひとふりして、公証人はいった。「みつかったんですよ」
「だれがみつけたんです?」あわただしくサリーはたずねた。
「われわれ――われわれ三人ですよ。ほんのきのうの夜のことでしてね。そうでなかったら、こちらからの連絡をもっと早く出せたんでしょうがね」
「そして、いまそちらから連絡をいただいて[#「いただいて」に傍点]」あるひとつのことは絶対に否定でおしとおそうとしているように、腕組みをしてブラース嬢はいった、「そちらのいい分は、どういうことなんです? もちろん、あの女について、そちらはなにかお考えなんでしょうね。その立証をしてください――とこちらはいうだけです。立証をしてください。彼女をみつけた、とそちらはおっしゃっておいでですね。たしかに(ご存じでなければの話ですが)、あの女はこの上なしの|狡猾《こうかつ》な、嘘つきの、こそどろを働く、悪魔のようなチビのあばずれ女――ここにあの女をつれてきたんですか?」あたりを鋭くみまわしながら、彼女はいいそえた。
「いいや、彼女は、さし当って、ここにはいませんよ」公証人は答えた。「だが、彼女の身の安全については、ご心配にはおよびません」
「ハッ!」小女の召使いの鼻をいまねじ切っているといったように、悪意をこめて箱からひとつまみのかぎタバコをグイッととって、サリーは叫んだ。「たしかにね、これから先、あの女は安全でしょうとも」
「まあ、そうなるでしょう」公証人は答えた――「彼女が逃げだしたとき、きみの台所のドアに鍵がふたつあったのを、お気づきでしたかな?」
サリー嬢はもうひとつまみかぎタバコをかぎ、頭を|斜《しや》に構えて、質問者をながめ、口のあたりを奇妙に|痙攣《けいれん》させながらも、狡猾なすばらしい表情を浮べていた。
「鍵がふたつですよ」公証人はくりかえした。「そのひとつは、彼女がしっかりと鍵で閉じこめられてるときみが考えてた夜に、家じゅうをうろつきまわり、内密の相談を盗み聞きする機会を彼女に与えることになったんです――なかんずく、その中には、あの特別な会議、きみも彼女が語るのを聞くことになるはずの、きょう裁判官の前で述べられるあの会議、あのじつに不幸な罪のない若者が盗みの告発を受けた前の夜に、きみとブラース氏がいっしょにおこなったあの会議があるんです。あの告発はおそろしいたくらみで、でっちあげられたもん、それは、このみじめな小女の証人にきみがくっつけた形容詞、それにもっと強烈なわずかな形容詞をつけてもいいはずのもんと、当方としてはいうだけにとどめておきましょう」
サリーは、かぎタバコをもうひとつまみすった。彼女の顔はすごい落ち着きをあらわしてはいたものの、彼女がまったく虚をつかれ、小女の召使いについて文句をつけられるものと予期していたことが、これとはひどくかけちがったものだったことは、明らかだった。
「さあ、さあ、ブラース嬢」公証人はいった、「きみの顔に乱れはみえませんがね、たしかにきみは感じてるんですよ、思いもかけぬ偶然でこの低劣な計画は暴露され、陰謀者のふたりは裁判にかからねばならないということをね。さて、それで当然受けることになる刑罰はきみもご存じ、それをここでくわしく述べ立てる必要はないわけです。だが、ここでひとつ提案があるんです。きみは名誉至極にもまだ絞首刑になっていない極悪きわまりなき悪人の妹である身分をおもちの方、ご婦人にたいしてこういうのもなんですが、きみは、すべての点で、その兄にまったくふさわしい人物です。だが、きみたちふたりに結びついて、第三の男があり、それは、クウィルプという名の悪党、このふたりのどちらよりもっと兇悪と思われる、この悪魔的たくらみすべての元兇なんです。この男のために、ブラース嬢、どうかこの事件の全貌をわれわれに話してください。ここで一言申しておきますが、こちらの求めに応じてきみが話してくだされば、きみの立場は安全で快適――いまきみの立場は、望ましいもんではありませんな――そして、きみの兄さんにも危害はおよばんのです。というのも、彼ときみの罪状の証拠は、(お聞きおよびのとおり)こちらでしっかり十分ににぎってるんですからね。慈悲の気持ちにかられて、われわれがこの方針をとるようになったとは申しますまい(ありていのとこ、きみにたいして尊敬の念はいささかももってないんですからな)、それは、われわれが万やむを得ずにやったまでのこと、それを最善の方策としてきみにおすすめしてるんです。時間は」懐中時計をとりだしながら、ウィザーデン氏はいった、「こうした仕事では、非常に貴重なもの。できるだけ早いとこ、きみの決定を当方にお伝えください」
顔に微笑を浮べ、三人の紳士の顔をつぎからつぎへとみまわして、ブラース嬢は、かぎタバコをさらに二度、三度かぎ、これでもうのこりはわずかになってしまったので、人さし指と親指で箱をグルグルとさぐって、もうひとつまみ分のかぎタバコをかき集めた。これも同じように処理し、箱を注意深くポケットにおさめてから、彼女はいった――
「すぐにその受理か拒絶かを決めなければならないんですか、えっ?」
「そうです」ウィザーデン氏はいった。
この魅力的な女性が返事をしようと口を開きかけたが、そのとき、ドアがあわただしく開き、サムソン・ブラースの頭がこの部屋にさし入れられた。
「失礼」この紳士はあわただしくいった。「ちょっと待ってください!」
こういいながら、自分の出現がひきおこした驚きには一向お構いなしで、彼は部屋にはいりこみ、ドアを閉め、それが|塵《ちり》|芥《あくた》といったようにへいこらして自分の油ぎった手袋にキスをし、じつに卑屈なお辞儀をした。
「サラー」ブラースはいった、「たのむ、きみはだまっていて、わたしに話をさせてくれたまえ。みなさん、こうしたお三方がめでたくもこうして心をひとつにして気持ちをおそろえになってるお姿を拝見して、それで与えられるよろこびをわたしがあらわせるとしても、それは、とても信じてはいただけないこってしょう。しかし、わたしは不幸な男――いや、みなさん、こうしたみなさんの中でいやな言葉を使ってよいもんでしたら、犯罪人ともいえる男ですが――それでも、ほかの人たちと同じように、わたしにも自分の感情はあるんです。感情はすべての人間に共通に与えられたもんといった詩人のことを耳にしたことがあるんですからね。その詩人は、豚だったかもしれません、みなさん。でも、そうしたりっぱな考えを述べたら、彼は、やっぱり、不死の存在になったことでしょう」
「あんたが白痴でなかったら」ブラース嬢は辛辣にいった、「だまっていたほうがいいことよ」
「かわいいサラー」兄は応じた、「ありがとう。だが、自分は、自分のやってることをちゃんと心得てるんだ。だから、遠慮なく自分の意見はいわせてもらうよ。ウィザーデンさん、ハンカチがポケットからさがってますよ――失礼ですが――」
さがったハンカチをなおそうとブラース氏が前に出てきたとき、公証人は嫌悪の情を露骨に示してしりごみしながら、彼をさけた。ふだんの感じのいい性格にさらにつけ加えて、ひっかかれた顔、片目につけた緑の目かくし、ひどくおしつぶされた帽子姿のブラースは、途中で立ちどまり、あわれな微笑を浮べながら、あたりをみまわした。
「あの方は、わたしをさけておいでです」サムソンはいった、「そういっていいでしょうが、熱き火を彼の|頭《こうべ》に積もう(ロマ書、一二、二〇、箴言、二五、二二にある言葉で、うらみにたいして徳をおこなって相手を恥じ入らせること)としているときにもね。いいですとも! ああ! でも、わたしはくずれかけてる家、ねずみ[#「ねずみ」に傍点]どもは(なににもましてわたしが尊敬し愛してる紳士について、こうした表現が許されればの話ですが)わたしのとこからとっとと逃げていっちまうんです! みなさん――たったいまのお話について、わたしは妹がここにやってくるのをたまたまみかけ、どこにいったいいくのだろうと考え――こう申していいでしょうか?――生れつき疑い深い|性分《しようぶん》なんで、そのあとをつけてきたんです。それから、ジッと聞き耳を立ててました」
「もしあんたが気がふれていなかったら」サリーが口をはさんだ、「そこで話をやめ、もうなにもいっちゃいけませんよ」
「かわいいサラー」依然として|慇懃《いんぎん》な態度をくずさずに、ブラースは答えた、「心からお礼はいうけどね、話はやめないよ。ウィザーデンさん、われわれは同じ職業に従事してる名誉をもつ会員なんですから――もうひとりのあの紳士の方はわたしの家に下宿をなさり、わが屋根の、まあ、歓待を受けたともいえる方は申すにおよばず――あなたは、まず第一に、この提案の取捨選択権をわたしに与えてくださってもよかった、とわたしは考えてますよ。ほんとうに、そう考えてるんです。さて、おねがいしますよ」公証人が自分の話を切ろうとしているのをみて、ブラースは叫んだ、「どうか、わたしに話をさせてくださいよ」
ウィザーデン氏は口をつぐみ、ブラースは話をつづけた。
「ひとつごめんをこうむって」緑の目かくしをあげ、ひどいあざのついた片目を示して、彼はいった、「この目をみていただきましょう。みなさんは、当然のことながら、心の中で、どうしてそんなことになったのだろう! とお考えでしょう。目からわたしの顔をながめていただいたら、こうしたひっかき傷すべての原因は、いったい、どんなことなのだろう? とふしぎにお思いでしょう。そうしたものから、さらにわたしの帽子に目をうつしていただけば、それがどうしてごらんの状態になったか? といぶかしくお思いになるでしょう。みなさん」拳で激しく帽子をたたいて、ブラースはいった、「こうした質問すべてにわたしは答えます――クウィルプなんです!」
三人の紳士は顔を見合せたが、なにもいわなかった。
「そう」妹に知らせようと自分はしゃべっているのだといったように、彼女のほうをチラリとながめ、彼のふだんのおだやかさとは打って変った態度で、噛みつくような悪意をこめて、ブラースはしゃべりつづけた、「こうした質問すべてにわたしは答えますよ――クウィルプ、クウィルプなんです。やつはあの地獄のようなやつの穴蔵にわたしをさそいこみ、わたしが|火傷《やけど》をし、傷つき、かたわになってるあいだ、それをながめてクスクスと笑って楽しんでたんです――クウィルプは、ズーッとつき合っているあいだじゅう、犬以外のあつかいは一度でも、そう、一度でもわたしに与えたことはないんです――クウィルプは、いつも、わたしが心の底から憎悪してたやつですが、最近の彼ほど憎いもんは絶対にありません。こんどのことでも、いちばん先に話をしだしたのはやつでいながら、自分にはぜんぜん関係ないといったふうに、ヨソヨソしい態度をみせてるんです。やつは、もう、信用なりません。あのわめき、うわごとをいう、ひどい気分になって、たとえ人殺しの罪でもやつは暴露し、こちらをおびやかすことができたら、自分の身のことも絶対に考えたりなんぞはしないでしょう。さて」帽子をまたとりあげ、目かくしをかけ、ひどくペコペコした態度でかがみこんで、ブラースはいった、「こうしたことすべては、どういうことになるんでしょう?――それで、わたしがどういうことになったとお思いです、みなさん?――図星近くまで推測なさることがおできでしょうかね?」
だれも話す者はいなかった。なにかすばらしいとんち問答でもいいだしたように、しばらくのあいだ、ブラースはつくり笑いをして立っていて、それからいった、
「簡単に申せば、それで、わたしはこういうことになったんです。もうどうにも対抗できないくらいにはっきりと事実は暴露されたんですが、もし真実があらわれてきたら――真実というものは、みなさん、それなりに、じつに壮大で堂々としたもんです、たしかに、雷雨とか、そういったほかの壮大で堂々としたもんのように、それをみて、われわれはいつもそうよろこんでばかりはいられないもんなんですがね――この男がわたしの虚をつくというより、こちらであの男の虚をついてやったほうがいいんです。この身がもうだめなもんとは、わたし自身よーくわかってます。だから、だれかが密告するとなったら、わたしがその人間になり、それを利用したほうがいいんです。サラー、比較的な話だけど、きみは安全だよ。こうした事情をぶちまけるのは、自分自身の利益のためなんです」
こういって、ブラース氏は、すごくあわただしく、ことすべてをぶちまけ、ものやわらかな自分の主人にできるだけ責任をかぶせ、なるほどたしかに――彼は認めていたのだが――人間の弱みに屈しはしたものの、自分自身のことは聖者のような神聖な人物に仕立てていた。彼の結びの言葉は以下のようなものだった、
「さて、みなさん、わたしは中途|半端《はんぱ》なことをする人間ではありません。乗りかかった船である以上、ことわざにあるとおり、もうあとにはひかんつもりです。あなた方はわたしをお好きなように処理し、どこへなりと好きなとこにひきだしてください。それを書類にしてほしいというのでしたら、われわれはすぐそれを書類にしましょう。あなた方は、きっとわたしをお手やわらかにあつかってくださるでしょう。お手やわらかにあつかってくださるものと確信してますよ。みなさんは信義を重んじる方々、やさしい心の持ち主です。わたしは、必要上クウィルプに屈服しました。必要は|掟《おきて》をもたぬものとはいいながらも、その必要にはちゃんと弁護士がついてるからです。みなさんにも、わたしは、必要上、屈服します、その上、政策上からもね。それに、かなりながいあいだ、わたしの心の中で|発酵《はつこう》してた感情もあります。みなさん、クウィルプを罰してやってください。おしつぶしてやってください。たたきのめしてやってください。足で踏みつぶしてやってください。もう何日ものながいあいだ、やつはそれをわたしにしてきたんですからね」
こうして話の結論に達して、サムソンは怒りの流れを制止し、また自分の手袋にキスをし、|寄生者《いそうろう》と卑怯者だけができる卑屈な微笑をもらした。
「そして、これが」このときまで坐りながら頬杖をついていた頭をグッとあげ、辛辣な冷笑で彼を頭の|天辺《てつぺん》から爪先までながめながら、ブラース嬢はいった、「これが、わたしの兄なのかしら、えっ? わたしがそのために働いて骨を折り、多少は男らしいとこがあると信じてたわたしの兄は、こんな人間だったんだわ!」
「かわいいサラー」弱々しく手をこすり合せて、サムソンは答えた。「そんなことをいうと、友人のみなさんの心をかき乱すことになるよ。その上、きみは――きみは失望し、サラー、自分のいってることがわからずに、自分の素性をあらわしてるんだよ」
「そうよ、このあわれな卑劣漢め」美しい婦人は答えた、「あんたのことは、ちゃんとわかってますよ。あたしがあんたの先まわりするのが、こわかったのよ。このあたしが[#「このあたしが」に傍点]うまくつりこまれて、ひと言だって話すと思ってるの? 二十年間苦しみと誘惑にさらされたって、あたしはそれを軽蔑してやったことでしょうよ!」
「ヒッ、ヒッ!」ブラースはニタニタと笑っていたが、このひどい卑劣さで、まったく、性別を妹とすっかりとりかえ、彼がもっていたかもしれない男らしさのひらめきはぜんぶ、妹にわたしてしまったかのようだった。「きみはそう考えてる、サラー、たぶん、そう考えてるんだろう。だが、いざ実行の段になれば、すっかりちがったもんになっただろうよ、ねえ、きみ。きみは忘れはしないだろう、フォクシー――みなさん、これはわれわれの尊敬してる父親なんです――の格言は、『いつもだれでも疑え』だったことをね。それこそ、人生案内のことわざなんだ! わたしが姿をあらわしたとき、きみが自分の安全をあがなおうとじっさいしていなかったとしても、いままでにはもう、それをしてたことだろうよ。だから、わたし自身がそれをし、この恥辱と骨折りの肩がわりをしてやっただけのことさ。この恥辱は、みなさん」それにちょっと打たれているといったふうをして、ブラースはいいそえた、「多少の恥辱がありとすれば、それは、わたしが受けるべき恥辱ですよ。女性には、それを味わせないほうがいいんですからね」
ブラース氏のこのりっぱな意見と、特にその偉大なる祖先の権威に一応敬意は表しながらも、この後者の紳士によって定められ、それにもとづいて子孫が行動している心をたかめるその原則が、いつも、慎重なものかどうか、じっさいに所期の目的を達成するかどうか、ここで、おそれ多いことながら、疑念を投げかけてもいいだろう。これは、たしかに、大胆不敵な尊大ともいえる疑念である。世間をよく知っている人、先見の明のある人、ぬけ目のないやつ、如才のない男、商売上のすばらしい男等々、数多くのすぐれた人物は、この格言をその北極星とコンパスにしてきたし、いまも毎日それをしているからである。それにしても、この疑念は、静かながらも、提出してもいいだろう。その例証として、ブラース氏がもしこうして過度の|猜疑《さいぎ》心をもたず、のぞきこんだり聞き耳を立てたりせずに、兄妹ふたりのためにこの会議の運営をすっかり妹の手にゆだね、こうまで大あわてをして妹の先まわりをしようとしなかったら(彼の不信感と警戒心がなかったら、これはしなかったことだろう)、彼は、結局、この場をはるかにもっとうまくしのげただろう、と思われるからである。このようにして、|甲冑《かつちゆう》をつけて世をわたっている世間をよく知っているこうした人たちは、不幸のみならず幸福をも近づけまいとして、いつも身を固めているわけである。どんなときにも顕微鏡で警備兵をつけ、どうという心配もないときにも|鎧《よろい》で武装するという不便とバカバカしさは、ここでいうまでもあるまい。
三人の紳士は、しばらく、はなれたところで相談していた。とても短かかったこの相談が終ると、公証人はテーブルの上の筆記具を指さし、陳述を書類でしたかったら、それをしてもよい、と伝えた。それと同時に、やがて治安判事の前に彼の同行を求めることになるだろう、彼の言動はまったく自分自身の|発意《ほつい》によるものだということをブラースにいっておかなければならない、と彼は感じた。
「みなさん」手袋をぬぎながら、精神的にはみなの前で地面にはいつくばった状態になって、ブラースはいった、「わたしは知ってますが、これから受けるみなさんのご好意の正しさを、これで証明することにしましょう。もうこうした暴露がおこなわれたんですから、ご好意を受けなかったら、三人のうちでわたしがいちばんひどい目にあうことになるわけ。だから、もうまちがいなし、すっかり泥を吐いちまいましょう。ウィザーデンさん、なんだか気が遠くなりそうです――ベルを鳴らして、なにか温かくていいにおいのするもんを注文していただけたら、いままで起きたことにかかわりなく、わびしいながらも、あなたのご健康を祈って一杯やるというよろこびを味えることになるんですがね。わたしはねがってたんですよ」悲しげな微笑を浮べてまわりをみまわしながら、ブラースはいった、「将来いつの日か、マークスのわたしの粗末な客間でマホガニーの食卓をかこんで、あなた方三人の紳士の方々とお会いすることをね。だが、希望ははかなく消え去るもの。まったくね!」
ここまでくると、ブラース氏自身はすっかり心を打たれ、元気づけの飲み物があらわれるまで、それ以上、話も行動もできなくなった。こうした興奮状態にある人間にしてはかなりたっぷりと酒を飲んでから、彼は坐って書きはじめた。
美しいサラーは、いま腕組みをしたかと思うと、こんどはうしろで手をにぎりしめて、兄がこうして書いているあいだ、部屋を男のような大股で歩きまわり、ときに足をとめて、かぎタバコ箱をひっぱりだし、そのふたをかじっていた。すっかりつかれきるまで、彼女はこの動作をつづけ、それから、戸口近くの椅子に坐って、眠りこんでしまった。
この眠りはいつわりのもの、みせかけのものではなかったか? とその後考えられているが、これは、多少理由のあることかと思われる。彼女は、午後の暗さにまぎれて、気づかれずにそこをソッと逃げだそうと、たくらんでいたからである。これがはっきりと目をさました意図的な脱出か、そうでなかったら、夢遊歩行の|訣別《けつべつ》で眠りながら歩いていったのかは、議論のわかれるとこだろう。だが、ひとつの点(しかも、重要な点)で、みなの意見は一致している。どんな状態でそこを出ていったにせよ、彼女は、たしかに、二度とそこにはもどってこなかったのである。
午後の暗さについて言及したのだから、ブラース氏が仕事を完成させるのにそうとうの時間がかかったことは推測できるだろう。夕方になるまで、それは仕上げられなかった。とうとうそれが終ると、このりっぱな人物と三人の友人は貸し馬車に乗りこみ、裁判官の私邸におもむいた。この裁判官は、ブラース氏を熱烈に歓迎し、翌朝彼に会えるよろこびを確保しようと、彼を心配のない場所にしっかりと拘留し、クウィルプ氏の逮捕令状が翌日かならず出される、国務大臣(彼は運よくロンドンにいた)にたいしてすべての事情をきちんと申し入れて陳述をしたら、キットの無条件の|赦免《しやめん》と釈放は疑いもなく即刻獲得できるだろう、といううれしい保証を与えて、ほかの三人を家に帰した。
これで、じっさい、クウィルプの悪意のこもった生涯は終局に近づき、ときにゆっくりとした歩調で進んでいくあの報復(H・W・ロングフェロウ(一八〇七―八二)の詩『報復』からひいたもの)――特にもっとも痛烈な報復の場合には――が、確実でまちがいのない嗅覚を働かして、彼のあとを追い、グングンと彼にせまっていったようだった。そのひそかな足どりには無頓着に、その犠牲者は勝利を空想して歩みを進めていた。それでも、彼のあとに報復の女神はついてゆき、|一度《ひとたび》動きだしたら、脇道にそれることは絶対にないのだった!
仕事が終ると、三人の紳士は、急いでスウィヴェラー氏の下宿にもどったが、彼の回復はきわめて良好、もう三十分も床に起きあがって、陽気に話せるようになっていた。ガーランド夫人は、だいぶ前に、もう家に帰っていたが、エイベル氏は彼といっしょにいた。きょう一日の行動をぜんぶ話してから、ふたりのガーランド氏と独身男は、まるで前からしめし合せていたように、明日までの別れを告げ、のこったのは、患者、公証人、小女の召使いだけになった。
「具合いがとてもよくなったんですから」寝台のわきに腰をおろして、ウィザーデン氏はいった、「公証人としてわたしの耳にはいった新しい知らせを、思いきってきみにお知らせしてもいいでしょう」
法律上の事柄に関係のある紳士から職業上の知らせを受けとるのは、どんなことにせよ、リチャードにはあまりゾッとするものではないようだった。彼は心の中でこのことを、たぶん、もう何通かおどかしの手紙を受けていた一、二の大きな勘定に結びつけて考えているようだった。以下のような答えをしたとき、彼の顔色は沈んでいた、
「もちろんですよ。でも、そう不愉快なことではないんでしょうね?」
「そう思ったら、それをお伝えするのに、べつのもっといい時をえらんだことでしょう」公証人は答えた。「まず第一に申しますがね、きょうここに来たわたしの友人たちは、このことについては、なにも一切知ってませんし、きみにたいする彼らの親切は、まったく自発的のもの、お礼のことなんかは考えてません。それを知れば、考えなしな無造作な人の薬にはなることでしょうな」
ディックは彼に礼を述べ、そうなるだろう、と答えた。
「きみについて多少の調査をしていたんですがね」ウィザーデン氏はいった、「われわれが出会うことになった事情のもとにきみがあるものとは、夢々思ってませんでした。きみはドーセットシャー(イングランド南部の州)のチェズルブアンの未婚婦人で故人になったレベッカ・スウィヴェラーさんの甥御さんなんですな」
「故人ですって!」ディックは叫んだ。
「故人です。そちらとはちがった甥御さんだったら、きみは二万五千ポンドの財産を与えられたことでしょう(遺言書にそうあり、それを疑うべき筋はありません)。ところで、じっさいの問題として、きみは百五十ポンドの年金を受けることになったんです。でも、それでも、きみにお祝いの言葉を述べてもいいと思いますな」
「ええ」すすり泣き、同時に笑いながら、ディックはいった、「そうですよ。というのも、ありがたいことに、それであのあわれな侯爵夫人に勉強をさせてやることができるんですからね! そして、彼女に絹の服を着せて歩かせ、お金は大切にとっておかなければなりません(彼女に……以下スザンナ・プラマイア(一七四七―九四)の『銀の王冠』というバラッドのはじめの言葉)。それをしなかったら、このぼくは、病いの床から絶対に起きあがることのないように!」
67
前の章で忠実にお伝えしたいきさつには気がつかず、自分の足の下で爆発しかけている地雷じかけのことは夢々思ってもいないで(というのは、いまおこなわれていることを彼に察知されないようにと、首尾一貫、秘密が固く守られていた)、クウィルプ氏は、どんな疑惑にも心をまどわされず、自分の策謀の成功に至極満足して、わびしい一軒屋に閉じこもっていた。いくつかの勘定の整理――このかくれ家の静かさと孤独はこうした仕事には打ってつけだった――をやっていたので、彼は、まるまる二日間、きたならしい住み家から一歩も外に出ないでいた。仕事に没入してから三日目になっても、彼はまだ仕事をせっせとやり、外に出ようとする気配を示さなかった。
その日は、ブラース氏の自白の翌日、したがって、クウィルプ氏の自由が制約され、じつに不愉快で好ましからざるいくつかの事実が彼に伝えられそうになっていた日だった。自分の家の上に襲いかかっている雲(『リチャード三世』T・i、三にある言葉。クウィルプは、ふたたび、根こそぎにする豚のリチャード王として言及されている)を直観的に感知するといったことはいささかもなく、小人はいつもどおり陽気にしていて、健康と気力の点を考慮してみれば、仕事に没入しすぎていたのに気づき、ちょっと金切り声をあげ、うなり、そういった類いの無邪気な息ぬきをして、単調なおきまりの仕事に変化をつけていた。
彼におつきの者は、いつものとおり、トム・スコットで、ひきがえる[#「ひきがえる」に傍点]のように火の上にかがみこんで坐り、主人の背が向けられると、ときどき、すごい正確さで彼の渋面の真似をしていた。船首像の姿はまだ消えず、もとの場所にのこっていた。赤く焼いた火かき棒をときどきおしつけられてひどくこげ、鼻の先に三インチの大釘を打ちこまれてさらに飾りをつけられた顔は、傷の少ない個所でまだ温和な笑いを失わず、たくましい殉教者のように、さらに新しい乱暴と屈辱を加えろ、と拷問者にうながしているようだった。
その日は、ロンドンのいちばん高くて明るい地区でも、湿気が強く、暗く、寒くて、陰気だった。この低い沼地帯の場所では、霧が濃いモウモウとした雲になってありとあらゆる隅にまで入りこみ、すべての物は一、二ヤードの距離でもぼんやりとしていた。テムズ川の|川面《かわも》の警戒の灯りと火は、このとばりのもとで、すっかり無力化し、肌をつくピリッとした寒さ、オールに身を寄せかけて自分の居場所をさぐろうとしているとまどっただれか船頭のときおり立てる叫びがなかったら、川自体は何マイルか遠くにあるような感じだった。
この霧の動きはにぶく緩慢だったが、それはグッと身に応えるものだった。どんなに毛皮や上質の広幅黒ラシャを身にまとおうと、それは防げなかった。ちぢみあがって道を歩いていく人たちの骨の髄にまでしみこみ、彼らに寒さと苦痛の拷問をかけているみたいだった。すべての物は、ふれると、湿気をおびてジトジトしていた。温かい炎だけがそれをものともせず、陽気に跳ねあがり、パチパチと燃えあがっていた。その日は、家にいて、火のまわりに集り、荒れ地でこんな天気のもとで道に迷った旅人の物語をする日、いつにもまして温かい炉を愛好する日だった。
小人の気分は、われわれが知っているとおり、炉辺を独占することにあり、宴会気分になったときには、ひとりで大いに楽しもうとしていた。家の中にいる快適さはちゃんと心得ていて、彼は、トム・スコットに小さなストーブに石炭を積みあげるように命じ、その日の仕事はやめにして、ひとつ楽しくやろうという気分になっていた。
この目的のために、彼は新しいろうそくをつけ、火の上にさらに燃料を積みかさね、ちょっと野蛮人の人食い人種的なやり方で自分で料理をしたビフテキを平らげ、大きな鉢に入れた熱いポンスをつくり、パイプに火をつけ、腰をおろして、この晩をすごそうとしていた。
この瞬間に、小屋のドアをたたく低い音が彼の注意をひいた。二、三度それがくりかえされると、彼はソッと小窓を開け、頭を外につきだして、だれか? とたずねた。
「わたしが来ただけのことよ、クウィルプ」女の声が答えた。
「わたしが来ただけだって!」訪問者をもっとしっかりたしかめようと、首をつきだして、小人は叫んだ。「それに、なんだってここに来たんだ、このあばずれ女め? このおそろしい怪物のお城に、どうしておこがましくも近づいてくるんだ、えっ?」
「ちょっとお知らせをもってきたの」彼の妻は答えた。「私のことを怒らないでちょうだい」
「そいつは、よい知らせ、愉快な知らせ、人を跳ねあがらせ、指をピチンと鳴らせる知らせなのか?」小人はいった。「親愛なる老夫人がくたばったのか?」
「どんな知らせか、いい知らせかわるい知らせかは、わからないわ」妻は答えた。
「じゃ、あいつは生きてるんだな」クウィルプはいった、「そして、あの婆さんにはどうということもないわけ。さあ、帰れ、この|縁起《えんぎ》でもない鳥め、帰るんだ!」
「手紙をもってきたのよ」辛抱強い小女は叫んだ。
「そいつはこの窓から投げこみ、帰るんだ」相手の言葉をおさえて、クウィルプはいった、「さもなけりゃ、出てって、ひっかいてくれるぞ」
「だめ。でも、どうか、クウィルプ――わたしのいうのを聞いてちょうだい」涙に暮れながら、従順な妻は強くいった。「どうか聞いてちょうだい!」
「じゃ、話せ」意地わるくニヤニヤ笑って、小人はうなった。「早く手短かにいうんだぞ。さあ、いえ、どうだ?」
「手紙は、きょうの午後、わたしたちの家にとどけられたの」ふるえながら、クウィルプ夫人はいった、「それをもってきたのは坊やで、それは、だれからのものかわからない、ただ、家にとどけるようにとわたされた、すぐあんたのとこにもってくようにいえといわれてる、とってもとっても重大なことなんだからと伝えられた、といってたわ――でも、どうか」それをとろうと亭主が手をつきだすと、彼女はいいそえた、「どうか、わたしを中に入れてちょうだい。わたしがどんなにぬれてこごえてるか、この濃い霧でここに来るのにどんなに道に迷ったか、あなたにはわからないのよ。五分間でもいいの、火のとこでからだを|乾《ほ》させてちょうだい。出てけといわれたら、すぐに出てくことよ、クウィルプ。ほんとうに、そうすることよ」
やさしい彼女の夫は、ちょっとちゅうちょしていた。だが、手紙には返事が必要になるかもしれない、それを彼女に運ばせることもできる、と考えなおして、彼は窓を閉じ、ドアを開き、彼女に、はいれ、と伝えた。クウィルプ夫人は大よろこびでそれに応じ、手を温めようと火の前でひざまずきながら、彼の手に小さな包みをわたした。
「お前がぬれみずくになってるとは、うれしいことさ」手紙をうばい、横目でにらんで、クウィルプはいった。「お前がこごえてるとは、うれしいこった。道に迷ったのも、うれしい。お前の目が泣いて赤くなってるのも、うれしい。お前の小さな鼻がピリピリし寒さでちぢみあがってるのをみてると、こちらは楽しくなってくるな」
「おお、クウィルプ!」彼の妻はすすり泣いた。「ほんとにひどい人ね!」
「おれが死んだと思ってたのかな?」顔をねじってとてつもないさまざまな渋面をつくりながら、クウィルプはいった。「金はそっくり頂戴し、お好きなお方と再婚を考えてるのかな? ハッ、ハッ、ハッ、! どうだね?」
あわれな小女は、こうしてののしり立てられても、なんの口答えもせず、ひざまずいたまま、手を火にかざし、すすり泣き、それをながめて、クウィルプ氏は大満悦だった。だが、こうして彼女の姿をながめ、しきりにクスクスと笑っていたとき、トム・スコットも悦に入っているのが、ひょいと彼の目にはいった。そこで、おこがましくも自分のよろこびの仲間入りするなんてとんでもないとばかり、小人は即座にトムの襟首をとっつかまえ、戸口までひっぱっていき、ちょっともみ合いをしてから、ひと蹴りを加えて、彼を中庭に放りだした。この親切のおかえしにと、トムは逆立ちして窓のところにゆき――こうした表現が許されるものなら――自分の靴で中をのぞきこみ、その上、さかさになったバンシー(アイルランドとスコットランドの伝説で、家に死人があるとき、おそろしい泣き声でそれを知らせるという化物)のように、足の爪先で窓ガラスをガタガタとたたいていた。当然のことながら、クウィルプ氏は時をうつさずあの効果|覿面《てきめん》の火かき棒を手にとり、ヒラリヒラリと身をかわし、ジッと待ち構えて、彼のこの若き友人に一、二発ねらい定めたご挨拶をしたので、相手はサッと姿をかくし、こうして彼は戦場を静かに独占することになった。
「よし! この小仕事が片づいたから」冷静な態度をみせて、小人はいった、「手紙をひとつ読むとしよう。フフン!」宛て名を読みながら、彼はつぶやいた。「この書きっぷりには、みおぼえがあるようだぞ。うん、美女のサリーだ!」
手紙を開いて、彼は美しい、まるみをおびた、弁護士流の筆跡で書かれたつぎの文章を読んだ。
「サミーは弱みにつけこまれ、秘密を打ち明けてしまいました。すべては暴露です。逃げたほうがいいです。相手はそこにいこうとしてるのですから。不意討ちをかけようと、彼らは、いまのところ、ジッと静かにしてます。機を逸しないように。こちらは、うまく立ちまわりました。もう姿をくらましたからです。わたしがあなただったら、姿をくらましてしまうでしょう。以前のB・M(ビーヴィス・マークスの省略)のS・B(サリー・ブラースの省略)」
この手紙を何回となく読みかえしているときに、クウィルプの顔に起った変化をお伝えするのには、英語以外のなにか新しい言葉を必要とするだろう。表現力の点で、いままでに書かれ、読まれ、語られたこともない言葉が必要になってくる。ながいこと、彼の口からはひと言ももれず、そのあいだに、彼の表情が生みだした驚きのようすで、クウィルプ夫人はほとんど身動きもできなくなっていた。こうしてややしばし間をおいてから、彼はようやくあえぐようにしていった。
「あいつがここにいたらなあ! あいつがここにいさえしたら――」
「おお、クウィルプ!」妻はいった、「どうしたの? だれのことを怒っているの?」
「――水攻めにして殺してやるんだが」妻の言葉にはお構いなしで、小人はいった。「楽すぎる死、短かすぎて、早すぎる死だ――だが、川はすぐそこに流れてるんだ。おお! あいつがここにいたら! うまくごまかし陽気にあいつを川岸にちょっとさそいだし――ボタン穴でやつをおさえ――冗談をとばし――いきなりドンとついて、パシャンと放りこんでやるんだが! おぼれる人間は、水の面に三回顔を出すそうだ。ああ、そうしてあいつの顔を三回ながめ、浮んできたたびごとに、あいつに悪口|雑言《ぞうごん》を浴びせかけたいもんだ――おお、そうなりゃ、じっさい、とてつもなく楽しいことだろう!」
「クウィルプ!」思いきって彼の肩に手をやって、彼の妻はどもりながらいった、「なにかまずいことになったの?」
彼がこうして楽しみながらひとりで想像をめぐらしている姿にすっかりおびえて、彼女は、ほとんど口もきけないくらいになっていた。
「まったく臆病なのら犬め!」とてもゆっくりともみ手をし、それからしっかりと手をにぎり合せて、クウィルプはいった。「あいつの臆病と卑屈がやつの沈黙の最大の保証と、こちらでは考えてたんだ。おお、ブラース、ブラース――親愛で善良、やさしく忠実、お世辞をいって魅力的なわが友よ――きみがここにいてくれさえしたらなあ!」
こうしたつぶやきに聞き耳を立てているようには思われまいと片隅にひっこんでいた彼の妻は、ここでふたたび、思いきって彼に近づき、話しかけようとしたが、彼は急いでドアのところにゆき、トム・スコットを呼んだ。相手は、さっきのやさしい注意を忘れずに、ここですぐ姿をあらわしたほうが得策と考えた。
「そらっ!」彼をひきずりこみながら、小人はいった。
「あの女を家につれていけ。明日はここにもどるなよ。ここは閉じられてるだろうからな。こちらから便りをするなり、おれと会うときまで、もどってくるな。わかったか?」
トムはムッとしてうなずき、クウィルプ夫人のほうに手招きして、先に立って案内しようとしていた。
「お前はな」妻に話しかけて、小人はいった、「おれのことで、あれこれとたずねたりはせず、探したりもせず、おれについては、なんにもいうな。おれは死んだりはせんよ、おかみさん、それを聞いて、お前はうれしいだろう。お前の世話はあの坊主がしてくれるぞ」
「でも、クウィルプ? どうしたの? どこにいくの? なにかもっといってくださらないの?」
「お前がすぐ出ていかなかったら」彼女の片手をつかんで、小人はいった、「お前にはしゃべらず、しないでおいたほうがいいようなことを、しゃべり、その上、やることにもなるんだぞ」
「なにかが起きたの?」妻は叫んだ。「おお! それだけはいってちょうだい?」
「そうだ」小人はガミガミといった。「いいや、ちがう。どっちだって、どうだというんだ? お前がどうしたらいいかは、もういったんだぞ。もしそれをせず、少しでもおれのいったとおりにしなかったら、お前の身にわざわいが起るように! さあ、とっとと|失《う》せるか?」
「いくわ、すぐにいくことよ。でも」妻は言葉をつまらせていった、「まず第一に、ひとつだけ、こちらのいうことに答えてちょうだい。この手紙は、あのかわいい子供のネルに関係があるの? それをたずねなければならないの――ほんとにそうよ、クウィルプ。あの子を一度だましたことで、わたしがどんなに悲しい日夜を送ったか、あなたにはわからないくらいよ。どんな危害をひきおこしたかは、わたしにはわからないけど、それが大きなものにせよ、小さなものにせよ、あれは、あなたのためにしたことなのよ、クウィルプ。あれをしながら、気がとがめてならなかったの。どうか、できたら、そのことだけは返事してちょうだい」
ムカムカしている小人はなんの返事もせず、向きなおっていつもの武器をすごい勢いでつかんだので、トム・スコットは、できるだけ素早く力まかせに彼女をひっぱった。彼がそうしたのは、ありがたいことだった。激怒で狂乱ともいってもいい状態になっていたクウィルプは、ふたりを近くの小道のところまで追いかけ、その追跡をさらにもっとつづけたかもしれなかったからだった。だが、濃い霧は、彼らの姿をすっかりかくし、刻一刻その濃さをましているようだった。
「人知れず旅をするには、打ってつけのよい晩だな」ゆっくりともどっていきながら彼はいった。ひとかけして、すっかり息が切れていたからだった。「待てよ。ここはみとおしがきくな。これじゃ、お客さまに丁寧すぎ、道のとおりがよすぎるぞ」
彼は力をふるって泥の中に深くはまりこんでいたふたつの古ぼけた門を閉め、重い|梁《はり》でそれに|桟《さん》をかけた。それがすむと、目にかかった乱れ髪をふり払い、門の閉り具合いをたしかめた――それは、がっしりとしっかり、閉っていた。
「この波止場とつぎの波止場のあいだの柵は、楽に登ることができるな」こうして予防策を講じてから、小人はいった。
「ここからは裏道もある。そこは、おれの脱出口にするとしよう。今夜この美しい場所であの道をみつけるなんて、道をよく知ってる者じゃなくちゃできんことだ。ここがもちこたえてるあいだは、いやなお客さまのご来訪を心配することはないだろう」
ほとんど手さぐりで道を進まねばならなくなって(あたりはとても暗くなり、霧もひどく濃さをましていた)、彼は自分の巣にもどり、火にあたりながら考えこんでいたあとで、素早く出発する準備にせっせととりかかった。
わずかな必要品を集め、それをあちらこちらのポケットにつっこみながら、彼はたえず低い声でブツブツといい、口をおし開き、ブラース嬢の手紙を読み終えたとき、ギリギリと歯を噛み鳴らしていた。
「おお、サムソン!」彼はつぶやいた、「りっぱないいやつだ――お前をグッと抱きしめてやれたらいいんだがな! お前をおれの両腕の中に抱きこみ、お前のあばら骨をギュッとしめあげてやれさえしたらいいんだがな、お前をしっかりとっつかまえたら、それができる[#「できる」に傍点]ようにな――おれたちふたりのあいだで、すごい出会いが起きることになるぞ! 道ですれちがうようなことになったら、サムソン、まったく、ちょいとたやすくは忘れられないご挨拶が起きることになるぞ。万事トントン拍子にいってたこの時期をえらぶなんて、まったくおみごとなもんさ! まったく思慮があり、悔いの情を示し、じつにりっぱなもんだ。おお、この部屋で二度と顔をまともに合せるようなことになったら、この臆病者の弁護士君、おれたちのうちのどっちかが大満悦ということになるんだがな!」
そこで彼は話を切り、ポンスの鉢を口のところに運び、それが水で、焼けついた喉でも冷やすように、グーッと深くそれをひと飲みした。鉢をいきなり下におき、準備をまたはじめて、彼はひとり言を語りつづけた。
「サリーがいる」目をキラリとさせて、彼はいった。「あの女はしっかりしたとこ、決意、目的をもってるやつだ――あの女は眠ってたんだろうか? それとも、石のように無感覚になったんだろうか? あの女なら、あいつを突き殺すこともできたはずなのにな――安全に毒を盛ることだってできたんだ、こうしたことがせまってきてるのを、さとれたはずなんだ。時すでにおそしとなってから、どうしてこのおれに知らせたりするんだろう? あいつがそこに――向うのそこ、あの向うに――顔を青くし、赤毛の頭で、ムカムカするニヤニヤ笑いを浮べて坐ってたとき、どうしてやつの心中をさとらなかったんだろう? やつの秘密を知ってたら、あの晩、おれは、ひっぱたくことなんか、やめたことだろう。男を眠らす薬、男を焼いちまう火がないもんなんだろうか!」
ここで彼は、また鉢からひと飲みした。そして、ものすごい顔をして火の上にかがみこんで、またつぶやきはじめた。
「そして、このことは、最近のおれのほかのなやみと心配の種のように、あの老いぼれとあいつのかわいがってる孫娘――ふたりのみじめな浮浪者から湧いて出てきたもんなんだ! だが、おれはやつらの悪霊になってやるぞ。それにお前、やさしいキット、正直者のキット、りっぱで罪のないかわいらしいキット、用心するがいいぞ。おれは憎んでる者には噛みついてやるんだからな。かわいい男、おれはお前を憎んでるんだぞ、ちゃんと理由があってな。今晩、お前はいい気になってるが、おれの順番だってまわってくるんだ――あれはなんだ?」
彼がいま閉じた門をノックする音が聞えてきた。大きな激しいノックの音だった。それから間があり、ノックをした連中が耳を澄ませているような感じだった。ついで、また音が聞えてきたが、前よりもっとさわがしい|執拗《しつよう》な物音だった。
「こんなに手まわしが早いのか!」小人はいった。「それに、すごくむきになってるな! どうやらきみたちをがっかりさせることになりそうだぞ。しっかりと用意してあったのは好都合。サリー、礼をいうぞ!」
こういいながら、彼はろうそくを消した。|急《せ》きこんで火の明るみを消そうとして、彼はストーブをひっくりかえし、それは前方に倒れ、倒れながらこぼした燃えさしの上にドシンと音を立ててころがって、部屋を真っ暗闇にしてしまった。門のところの物音はまだつづき、彼は手さぐりでドアまでゆき、外に歩みでた。
その瞬間、ノックの音はやんだ。時刻は八時ごろだった。だが、どんなに暗い夜の闇でも、そのとき大地におおいかぶさり、すべてのものを視界から消していた濃い雲にくらべたら、真昼間の明るみともいえたことだろう。彼は、暗い、ガップリと口を開いた|洞穴《ほらあな》の口にでもはいっていくように、何歩かパッととびだしていった。それから、まちがった方向に進んだと思って向きを変え、ついで、どこに向ったらいいか見当がつかなくなって、ジッと立ちつくしていた。
「やつらがまたノックしてくれたら」自分をつつみこんでいる暗闇をすかしてみようとしながら、クウィルプはいった。「その音がおれの道案内になるんだがな! さあ! もう一度門をガンガンとたたくんだ!」
彼はジッと聞き耳を立てながら立っていたが、なんの音も聞えてこなかった。この打ちすてられた場所は静まりかえり、ただときおり、遠くで犬の吠えるのが聞えてくるだけだった。だが、その吠え声ははるかかなたのもの――いまあるところで聞えたかと思うと、その答えはべつの場所――それは、道案内にはなんの役にも立たなかった。彼が知っていたことだが、それは、ときどき、船の上からも聞えてきたからである。
「壁か柵をみつけることができたら」両腕をのばし、ゆっくりと歩きながら、小人はいった、「どっちに向ったらいいかがわかるんだがな。今夜はまったく、あの親友をここにむかえるのには打ってつけのみごとな悪魔の闇夜というやつだ! そのねがいさえかなえられたら、二度と昼間が来なくったって、一向に構いはせんぞ」
この言葉が口からもれたとき、彼はよろめき、倒れ――つぎの瞬間には、黒々とした冷たい水の中でもがいていた。
水が湧き立ち、耳の中にはいってきたが、彼は門をふたたびたたく音を聞くことができた――それにつづく叫びを聞き――その声を認めることができた。もがいて、水をパシャパシャたたいてはいたものの、彼らが道に迷い、出発点のところまでさまよってもどり、彼が水死の難にあっているとき、ただ|呆然《ぼうぜん》としてながめているばかり、ほんの間近にいながらも、自分を救おうとする努力はできないでいる、自分自身がこうした連中を|桟《さん》をかけて閉めだしてしまった、ということを、彼は理解できた。彼は――悲鳴で―その叫びに答えたが、その悲鳴で、彼の目の前で踊っている百もの火は、まるで一陣の突風でゆすり立てられたように、チラチラとふるえているようだった。悲鳴をあげても、なんの役にも立たなかった。強い潮流は彼の喉を満し、その早い流れに乗せて、彼をズンズンと運んでいった。
もうひとあがきすると、彼はまた浮びあがり、両手で水を打ち、荒々しいギラギラとした輝く目であたりをみまわしたが、その近くをただよい流れているなにか黒いものがあるのに気づいた。船体だった! そのなめらかなヌラヌラする表面にさわることができた。大声でもうひと叫び――だが、その叫びを発しないうちに、抵抗できぬ強力な流れは、彼を呑みこみ、水面の下で死体になった彼を運び去っていった。
水は、そのおそろしい荷物とふざけたわむれ、それを積みかさなったヌラヌラしたものにぶつけ、泥や生い茂ったながい草の中にかくし、荒い石や小石の上で重そうにひきずり、またときに、そのもともとの塵(汝塵なれば、塵に帰るべきなり―創世記、三、一九にある言葉)にゆだねるふりをし、そうしながら、それをおびきこんでズンズンと運び、とうとうこの醜悪なたわむれの道具にあきてしまって、それを沼に放りだし――そこは海賊たちが、冬の幾夜も、鎖でつながれてつりさげられていた陰気な場所(クウィルプの死体は少なくともグリニッジの沼地のさらし場のウォッピングまで約八マイル運ばれたわけ、挿し絵の 12 の印のついた柱は処刑された海賊が鎖でその死体をつるされていたもの)――そこでそれは、風雨にさらされて白骨になることになった。
そこで死体は、ポツンとただひとり横たわっていた。空は炎で赤く染まり、死体をそこに運んだ水は、流れてゆきながら、怒り顔の炎で色を染めつけられていた。放りだされた死体が、ついさっき、生きた人間として出ていった場所は、いま、燃えあがる廃墟と化した。そのギラギラと輝く光の一部は、その顔を照しだした。髪の毛は、湿気の強い微風になぶられて、死をあざけるように――それは、この死んだ男自身が、生きていたとき、楽しんでいたあざけりに似ていた――彼の頭のあたりでたわむれ、服は夜風になぶられて意味もなくハタハタとゆれていた。
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灯りのついた部屋部屋、陽気な顔、よろこびの声の音楽、愛と歓迎の言葉、温かい心、幸福の涙――これはまた、なんという変化であろう! だが、キットが足を急がせていたのは、こうしたよろこびへではなかった。彼らが自分を待っているのを、彼は知っていた。そうした彼らの中にはいっていくまでに、自分はよろこびで死んでしまうのではないか、と心配していた。
みなは、一日じゅう、このことにたいして彼に心構えをさせていた。まず第一に、ほかの囚人といっしょに、明日、ここからつれだされはしないはずだ、と彼らは彼に伝えた。疑惑がいくつか起き、調査がおこなわれるはず、結局のところ、たぶん、彼は|赦免《しやめん》されるだろう、と彼らはだんだんと彼に知らせた。とうとう、夕方になると、彼らは彼を何人かの紳士が集っている部屋につれていった。そうした人たちの真っ先に善良な老人の彼の主人が立ち、彼は、ツカツカと前に出てきて、キットの手をにぎりしめた。自分の無罪が確証され、赦免されることになったのを、彼は耳にした。彼はそれをいっている人の姿をみられず、その声のほうに向き、答えようとしながらも、意識を失って倒れてしまった。
彼らは彼を|蘇生《そせい》させ、心を落ち着け、男らしくこれに堪えなければいけない、と彼に伝えた。あわれな母のことを考えなければ、とだれかがいった。このうれしい知らせがこうして彼の心をおしつぶしたのは、彼が母親のことを考えたからだった。みなは彼のまわりに群らがり集り、真実が明るみに出され、ロンドンと国じゅうぜんぶが、彼の不幸にたいする同情で湧き立っている、と伝えた。彼にはこれを聞く耳がなかった。彼は、まだ、家のことしか考えられなかった。
母親は[#「母親は」に傍点]知ってるのだろうか? 彼女はなんといっただろう? だれが彼女に知らせたのだろう? 彼はこのこと以外になにも、口にすることができないでいた。
彼らは彼に少しぶどう[#「ぶどう」に傍点]酒を飲ませ、しばらく彼にやさしく話しかけ、ようやく彼はもっと落ち着きをとりもどし、話をジッと聞き、彼らに礼をいうことができるようになった。彼は自由の身になっていた。気分がよかったら、もうゆくべき時刻ではないか、とガーランド氏は考えた。紳士たちは、彼のまわりに集り、彼と握手をした。彼は、彼らの寄せてくれた関心と、彼らの親切な約束をとてもありがたいことと思った。だが、言葉を語る力がまたぬけ、主人の片腕に寄りかかりながらも、立つのにひどく苦労していた。
一同が陰気な廊下をとおりぬけていったとき、そこで待っていた幾人かの監獄の役人は、彼ら独得の荒っぽいやり方で、彼の釈放を祝ってくれた。新聞好きの看守もそのひとりだったが、彼の態度は、まったくの心からのものとはいえぬ態度だった――その挨拶には多少の不機嫌がこもっていたからである。彼は、キットを|闖入者《ちんにゆうしや》、いかさまの口実でこの場所にはいるのを許され、正統の資格もないのに特権を|享受《きようじゆ》した男、とみなしていたためだった。キットはとてもいい青年かもしれないが、ここには用のない男、早く出てってくれたら、それだけなお結構、というのが、彼の考えだった。
みなが出ていったあとで、最後のドアが閉められた。みなは外の壁をとおりぬけ、開けた外気の中に立った――陰気な石にかこまれていたとき、彼がじつにしばしば空想の夢を走らせ、夢の中でいつもあらわれていたあの街路に立った。その街路は、いつもの街路よりもっとひろく、もっとあわただしいように思えた。その夜は感じのいい夜ではなかったが、なんと陽気に明るくみえたことだろう!
ひとりの紳士は、キットと別れるとき、なにがしかの金を彼の手におしつけていった。彼はその金の勘定もせず、あわれな囚人のための寄付金箱(通行人の慈悲を受けるため、負債者監獄の外にこうした箱があった。『ビクウィック・クラブ』四十二章参照)のところを数歩とおりすぎてから、その金をそこに入れようと、そこに急いでもどっていった。
ガーランド氏は近くの通りに馬車を待たせてあり、自分といっしょにキットを中に入れ、御者に家にもどるようにと命じた。最初、馬車は|並《なみ》足でしか進めず、前にたいまつをつけて走っていた(闇の道をゆく人をたいまつをもって案内していた者で、コールタールをぬったなわや樹脂の多い材をたいまつに使っていた)。霧が濃かったからである。だが、テムズ川からはなれ、町の立てこんだ地区からぬけだすと、馬車はこうした警戒をぬきにして、もっと早く進めるようになった。道路上でせっせと全速力で走っても、キットにはおそすぎるように思えたが、いざ旅の終りに近づくと、彼は馬車の速度をゆるめてくれるようにとたのみ、家がみえると、馬車を――一、二分間――とめ、息をつく余裕を与えてくれ、とたのみこんだ。
だが、そのときはもう馬車はとめられず、老紳士はしっかりとした口調で彼に話しかけ、馬は歩調を改め、もう庭の門のとこに到着していた。つぎの瞬間には、戸口のところに来た。家の中ではしゃべる声が聞え、足音がした。ドアは開き、キットは中にとびこみ、自分の母親が首のまわりにすがりついた。
さらにまた、いつも誠実なバーバラの母親がいて、こうしたよろこびはとても望めなかったあの日以来、下においたことはないといったように赤ん坊をまだかかえ――そこで、かわいそうに、目を泣きはらし、いままで女にはかつてないといったふうにすすり泣いていた。小さなバーバラがいた――かわいそうに、小さなバーバラ、ひどく痩せ、ひどく青ざめていたが、とても美しく――木の葉のようにふるえ、壁に身を寄せかけて立っていた。前よりいっそう小ぎれいに美しくなったガーランド夫人は、だれも助け手がなく気を失い、死んだようになって身動きもせずに倒れていた。エイベル氏は激しく鼻をクンクンいわせ、だれかれお構いなしに抱きかかえようとし、独身男はみんなの中をチラチラと歩きまわり、どんなことにもぜんぜん手つかずの状態だった。善良で、かわいく、考えこみ屋のチビのジェイコブは、いちばん下の階段にひとりで坐り、老人のように膝に両手をすえ、だれにも面倒をかけずにすごい勢いでわめいていた。それぞれ全員の頭は、しばらくのあいだ、すっかりおかしくなり、いっしょになり、バラバラになって、あらゆる類いのバカげたことをやっていた。
ほかの連中がある程度われにかえり、しゃべって微笑を浮べることができるようになったときに、バーバラ――あの心のやさしい、おとなしい、バカな、小さなバーバラ――の姿は突然消え、裏の居間でひとりで気を失っているのが発見され、彼女は、その失神からヒステリーに落ちこみ、そのヒステリーからまた失神にまいもどりし、状態は、じっさい、ひどくわるく、どんなに|酢《す》と冷した水を使っても、最後に、最初の状態より少しもよくはなっていなかった。それから、キットの母親がはいってきて、「キットがいって、彼女に話してみたら?」といい、キットは「うん」と答えて、部屋を出ていった。彼はやさしい声で「バーバラ!」といい、バーバラの母親は彼女に「ほんとうにキットよ」と伝え、バーバラは(そのあいだじゅうズッと目を閉じたままで)「ああ! ほんとうにあの人なの?」といい、バーバラの母親は「たしかにそうよ、お前。これで心配はないことね」と答えた。安全で元気なことをさらに知らせようと、キットはまた彼女に話しかけ、バーバラはまた笑いの発作におちいり、ついでまた泣き叫びの発作におちいった。そこで、バーバラの母親とキットの母親はうなずき合い、彼女をしかるふりをしたが、これはただ、まったく、それだけ早く彼女を正気にもどすためだった。彼らは経験豊かな夫人であり、回復の最初のきざしを素早く察知し、「もう大丈夫」というなぐさめの言葉をキットに与え、彼は、もとの部屋にもどることになった。
まあ! その場所には(そこはとなりの部屋だったんだが)、ぶどう[#「ぶどう」に傍点]酒のびん、その他、そういった類いのすべてのものが、キットと彼の友人たちが一流の人物といったように、堂々とならべ立てられ、チビのジェイコブは驚くほどの素早さで家づくりの干しぶどう[#「ぶどう」に傍点]入りケーキを俗語でいうたらふく食い、つづいて出てきたいちじく[#「いちじく」に傍点]とオレンジに目をつけ、たしかに時間をいちばん有効に利用していた。キットが入場するとすぐ、あの独身男(こんなにせわしく立ちまわる男は絶対にいなかった)はすべてのコップ――大きなコップ――にぶどう[#「ぶどう」に傍点]酒を満し、彼の健康を祈って乾杯し、自分が[#「自分が」に傍点]生きてるかぎり、友に不足をさせたりはしない、と誓い、ガーランド氏、ガーランド夫人、エイベル氏もその例にならった。だが、この名誉と栄誉がすべてではなかった。独身男は、すぐポケットから大きな懐中時計をひっぱりだし――それは半秒とくるわずせっせと動いていた――その背後には一面に|唐草《からくさ》ふうの装飾曲線をつけてキットの名が彫られてあったのだが、要するに、それはキットの懐中時計、はっきりと彼のために買い求め、その場で彼に贈られた。これはもうまちがいのないことだが、ガーランド夫妻は、自分たちにも贈り物があることをほのめかさずにはいられなくなり、エイベル氏はズバリと、自分にも贈り物はある、といい、キットは幸福者のうちの最高の幸福者になっていた。
まだ会っていないひとりの友人がいた。彼が鉄の靴をはいた四つ足だったので、この一家の連中に紹介されるのには不都合、そこで、キットは大急ぎでうまく機会をとらえて、そこからぬけだし、うまやに急行した。彼が掛け金に手をかけた瞬間、小馬は、小馬としていちばん大声の挨拶をいななき、彼がまだ敷居をまたがないうちに、そのゆったりとしたボックス(彼はたづなの屈辱なんか我慢ならなかった)の中で小踊りし、気がくるわんばかりに彼を歓迎しようとした。キットが近づいて愛撫を与え、軽くポンポンとたたいてやると、小馬は上衣に鼻をすりつけ、いままで人がみたことがないほどの愛情をこめて彼をなでまわしていた。これが小馬の心からの真剣な歓迎の絶頂点、キットは、しっかりと片腕をホウィスカーの首にまわして、彼を抱きしめた。
だが、どうしてそこにバーバラがチョコチョコとはいってきたのだったろう? 彼女は、ふたたび、なんと美しくなったことだったろう! 彼女は、気分がよくなってから、鏡に向っていたからだった。場所もあろうに、バーバラはどうしてうまやにやってきたのだろう? いやあ、キットが家を出ていって以来、小馬は彼女以外のだれからも飼料を受けようとせず、いいですかね、バーバラはそこにクリストファーがいるとは露知らず、異常がないかを調べようとちょっと立ち寄り、気づかず、彼とぶつかることになったのだった。顔を赤らめた小さなバーバラ!(いろいろな形容詞をつけてこの小さなバーバラはくりかえされているが、これは十九世紀初期の二重唱の流行歌『やさしい小さなバーバラ』によるものだろうといわれている)
キットはもう十分に小馬を愛撫したのだったかもしれない。小馬よりもっと愛撫に適したものがあったのかもしれない。とにかく、彼は小馬をバーバラにかえ、気分がよくなったか? とたずねていた。そう、バーバラはズッとよくなっていた。彼女は――ここで彼女は目を伏せ、顔をもっと赤くした――自分のことをとてもバカと思うのではないか、と心配していた。「とんでもない」とキットはいった。バーバラはそれをよろこび、咳をした――エヘン!――それはじつにこの上なく軽い咳――ただそれだけのことだった。
その気になれば、小馬はなんと慎重なやつになったことだったろう! 彼はまるで大理石づくりのように静かだった。彼はいかにもしたり顔をしていたが、彼はいつもこうだったのだ。「まだ握手をする暇もなかったね、バーバラ」キットはいった。バーバラは彼女の手を彼に与えた(女から男に手をさしだすことには、結婚の承諾を与える、という意味もある)。いやあ、彼女はからだをふるわせていた! バカなソワソワしているバーバラ!
腕のながさの距離ですって? 腕のながさの距離なんて、絶対にたいしたものではない。バーバラの腕は、とにかく、そうながい腕ではなかった。その上、彼女はそれをサッとのばしていたのではなく、ちょっとまげていた。ふたりが握手したとき、キットは彼女のすぐそばにいたので、小さな小さな涙がまだ彼女のまつげにふるえているのをみることができた。バーバラに気づかれずに、彼がそれをながめたのは、当然のことだった。バーバラがわれ知らず目をあげ、そこに彼をみたのは、当然のことだった。その瞬間に、前々からの衝動や意図とは一切関係なしで、キットがバーバラにキスをしたのは、当然なことだったろうか? いずれにせよ、彼はキスをした。バーバラは「まあ!」といいはしたものの、彼にそれをさせていた――二回もそれをさせていた。彼はそれを三回かさねてやるとこだったが、小馬が、いきなり、よろこびの|痙攣《けいれん》に襲われたように、うしろ脚を蹴あげ、頭をふり、バーバラはおびえて逃げ去ってしまった――だが、まっすぐ自分の母親とキットの母親がいるとこにいったのではなかった。彼女の顔がひどく赤くなっているのに彼らが気づき、どうしてなのか? とたずねられたくはなかったからである。ぬけ目のない小さなバーバラ!
全員の最初の有頂天が静まり、キットとその母親、バーバラとその母親、それにチビのジェイコブと赤ん坊が食事――それは、そこに泊る予定になっていたので、あわただしいものではなかった――を終えたとき、ガーランド氏はキットを自分のところに呼び、ふたりだけになれる部屋に彼をつれていって、まだ彼にはいうことがある、それは彼をとても驚かすだろう、といった。これを聞いて、キットはとても心配そうなようすをあらわし、真っ青になった。そこで、老紳士は急いで、それはうれしい驚きだ、といいそえ、翌朝旅に出られるか? とたずねた。
「旅ですって、旦那さま!」キットは叫んだ。
「わたしと、となりの部屋にいるわたしの友人といっしょにゆくのだよ。その目的がどんなものか、見当がつくかね?」
キットは、前より青くなり、頭をふった。
「いいや。もう見当がついたと思うんだがね」主人はいった。「当ててごらん」
キットはそうとう散漫なわけのわからないなにかをブツブツといったが、二回か三回、はっきりと「ネル嬢ちゃん」といい、それをいいながら、その望みはない、といいそえようとしているといったそぶりで、頭をふっていた。
だが、「もう一度当ててごらん」ときっといわれると思っていたキットのみこみとはちがって、ガーランド氏は、とても真剣な口調で、推測のとおりだ、と答えた。
「ふたりがひきこもった場所が、じっさい、発見されたのだよ」彼はいった、「とうとうね。そして、そこが、われわれの旅路の果てというわけさ」
キットは口ごもりながら、そこはどこにある、どうしてそこがわかったか、いつごろのことか、彼女は元気で幸福か? といった質問を発した。
「もうまちがいなし、幸福に暮しているよ」ガーランド氏はいった。「それに元気――間もなくそうなるものと思っているよ。わたしは知ったのだが、彼女は弱り、からだの具合いがわるかった。だが、今朝聞いたところでは、よくなっていて、回復の期待は十分にあるようだ。さあ、坐りたまえ。のこりの話をしてあげるからね」
息もつけぬほどの緊張状態になって、キットは命じられたとおりにした。ついでガーランド氏は、自分に兄弟がいる(この人物についての話はキットも聞いたことがあるはず、まだ青年のころの姿を伝える彼の肖像画は、いちばんりっぱな部屋にかかっているのだから)、この兄弟が、若いころの友人だったいまは老人の牧師といっしょに、遠くはなれたいなかに暮していること、兄弟としての愛情をいだきながらも、もう何年間も会ってはいず、ときどき文通をし、もう一度手をにぎり合うときの来るのをいつも楽しみにして待ち、しかも、世間の人がよくやっているように、現在の時を流れるにまかせ、将来が過去に融けこんでゆくのを許していることを語って聞かせた。この兄弟の気質はとてもおだやかで静か、世間の表面に出るのを好まず――これは、エイベル氏の性格とそっくり――彼をバチェラーと呼んで尊敬している村人たちに愛され、慈悲と好意をそこのすべての人に与えているのだった。こうしたちょっとした事実も、とてもゆっくり、ながい年月をかけてガーランド氏に伝わってきた。バチェラーは、善行が陽の当るところをさけ、どんなにりっぱな行為にせよ、それをワイワイと自画自賛するより、他人の善行を発見し、それをほめそやすほうに楽しみをみつけていた。こうした理由で、この人物が村の友人について語ることはまずなかったが、それにしても、彼の心はふたりの友人――彼がとても親切にあつかっている子供と老人――のことでいっぱいになり、その結果、数日前受けとった手紙で彼はこのふたりの話を|逐一《ちくいち》語り、その放浪と相互の愛情の心を打つ話を伝えたので、それを読む人はみんな涙を流していた。そこで、この手紙を受けとったガーランド氏は、このふたりこそ捜索がかさねられていたあの放浪者自身にちがいない、神さまのおみちびきで自分の兄弟が彼らの世話をみることになったのだ、とすぐ考えることになった。そこで、このことを疑いの余地のないはっきりとした事実にするために、さらにくわしい情報を求める手紙を出し、その返事が今朝とどき、彼の最初の印象がまちがいではないことがわかり、それが、こんど計画された旅立ちの原因、そして、明日その旅行をすることになっている、という話だった。
「だが、そのときまで」立ちあがり、キットの肩に手をおいて、老紳士はいった、「きみは絶対に休息をとらなければならんのだよ。きょうのような一日をすごせば、どんな強い人間だって参ってしまうのだからね。おやすみ、そして、神さまのご慈悲で、われわれの旅行がめでたく終るように!」
69
翌朝、キットは物ぐさなんぞはきめこまず、夜明け前に床からとびおき、このうれしい旅立ちの準備をはじめた。きのうのいろいろな事件の結果起きた心のあわただしさと、夜聞いた思いもかけぬ知らせで、ながい暗い夜のあいだ、眠りの安らかさは乱され、枕辺に不安なさまざまの夢を呼び起していたので、起きてしまうほうがかえって気分がよかった。
だが、これが同じ目的をもったなにか大きな難業の皮切りだったとしても――これが、この寒い季節に徒歩でおこなわれ、すべての窮乏と困難のもとで遂行され、大きな苦難、疲労、痛苦をへてはじめて達成される大旅行のはじめだったとしても――これが、彼の決心と忍耐の極限を要求し、彼の最高の勇気を必要としながらも、うまくいったらネルに幸運とよろこびをもたらすかもしれないといった不安定なものだったとしても――キットの明るい情熱は同じように高く燃えあがり、キットの熱と苛立ちは、少なくとも、同じものだっただろう。
興奮してむきになっているのは、彼ばかりではなかった。彼が起きだしてからまだ十五分もしないうちに、一家全員はもうあわただしく動きまわっていた。すべての人間が、旅の準備の手助けをしようと、せっせとなにかをやっていた。独身男は、たしかに、自分でなにもすることはできなかったが、ほかの人すべてを監督し、だれよりとっとと動きまわった。荷づくりのそのほかの準備はさっさと進められ、夜明けまでにすべての旅の準備は完了した。こうなると、全員がこうまでキビキビと動かなくても、とキットは考えはじめていた。このためにやとった旅行の馬車は九時まで到着はせず、それまでの一時間半の空白を埋めるのに、朝食以外にすることはなにもなかったからである。
だが、そう、たしかに仕事はあった。バーバラがいた。なるほど、バーバラはいそがしかったが、それは、好都合なことだった――キットが彼女の手助けをし、考えられるほかのどんなことより、それで時間をすごすことができたからだった。バーバラとすれば、この段どりに異議はなく、キットは、夜にいきなり心に浮んできた考えを追って、たしかにバーバラが自分を好きになっている、と考えはじめていた。彼のほうでは、たしかに、バーバラを好きになっていた。
さて、事実をお伝えしなければならぬとしたら――たしかに、それは絶対にしなければならぬことだが――バーバラは、この小さな一家の者のうちで、このさいのさわぎをいちばん楽しんでいない人物のようで、キットが、心の率直さで、これで自分の心がどんなによろこびで圧倒されているかを彼女に伝えたとき、バーバラは以前にもまして気落ちし、前よりもっと仕事を楽しんでいないようだった。
「あんたはこの家を、ズッとながいこと、はなれていたのよ」バーバラはいった――それをどんなに彼女がさりげなくいったか、ここでお伝えすることはできない――「あんたはこのお家を、ズッとながいこと、はなれていたのよ。だから、またはなれるのは、うれしいことなんだと思うわ」
「だけど、すばらしい目的があるんだからね」キットは答えた。「ネル嬢ちゃんをつれもどすんだ! あの人とまた会えるなんて! ちょっと考えてもみてごらん! きみも[#「きみも」に傍点]、バーバラ、とうとう嬢ちゃんに会えるようになって、こっちまで大よろこびしてるんだよ」
その点で満足してはいない、とバーバラははっきりいいはしなかったが、頭をちょっとツンとさせてその考えをじつにはっきりとあらわしたので、キットはすっかりドギマギし、その心の単純さで、どうして彼女はこのことにそう冷静でいられるのだろう? と考えた。
「きみはきっというだろうよ、あの人はこの上なくやさしい美しい顔をした人だとね」手をすり合せながら、キットはいった。「たしかに、そういうよ」
バーバラは、また、頭をツンとそらせた。
「どうしたんだい、バーバラ?」キットはたずねた。
「なんでもないの」バーバラは叫んだ。そして、口をとがらせたが、それは不機嫌とか醜悪とかいえるものではなく、前よりもっと彼女の顔をさくらんぼ[#「さくらんぼ」に傍点]のような口つきにしただけだった。
バーバラにキスをしたとき、キットは学校の生徒になったわけだったが、生徒がこの学校ほど急速な成長を物語る学校はなかった。いまバーバラのいってることはなにか? を彼はさとった――彼は授業の内容を、突然、暗記して憶えこんだ――彼女は教科書――それは、印刷したようにはっきりと、彼の目の前におかれてあった。
「バーバラ」キットはいった、「ぼくのことを怒ってるんじゃないね?」
「まあ、とんでもない! どうして怒ることなんてあるの? 怒る権利がどこにあるのかしら? 自分が怒ろうと怒るまいと、それがどうだというの? わたし[#「わたし」に傍点]のことなんて、気にする人はいないんだから!」
「いやあ、ぼくが[#「ぼくが」に傍点]気にするよ」キットはいった。「もちろん、気にするとも」
バーバラは、それがどうして、もちろんなのかはわからない、と答えた。
キットは、彼女がわからなければならない、と確信し、もう一度考えてごらん、といった。
バーバラは、たしかに考えてはみるけど、それがどうして、もちろんなのかはわからない、クリストファーのいってることが理解できない、その上、もう二階で自分に用があるはず、そこに、ほんとうに、ゆかなければならない――と応じた。
「いいや、だけど、バーバラ」やさしく彼女をひきとめて、キットはいった。「仲よく旅立ちすることにしようよ。ぼくは、苦しいときに、きみのことをいつも考えてたんだよ。きみがいなかったら、もっとズッとみじめな思いを味ったことだろうからね」
まったく、バーバラが顔を赤く染めたとき――それに、臆病な小鳥のように、からだをふるわせたときに、彼女はなんと美しかったことだろう!
「ぼくは、ほんとうに、事実をきみに話してるんだよ、バーバラ、でも、思っているほど強くは、半分もいえていないんだ」キットはいった。「ネル嬢ちゃんに会ってきみをよろこばせたいと思ってるとき、そのわけはただ、ぼくをよろこばせるものできみをよろこばせたいからだけなのさ――それだけだよ。嬢ちゃんはといえば、お役に立てれば死んでも構わないくらいの気でいるよ。ぼくほどあの人を知ってたら、きみだってその気になるさ。そう、そうなるともさ」
バーバラは心を打たれ、冷淡な態度をとったのを後悔した。
「いいかい」キットはいった、「ぼくはいつもあの人のことを、まるで天使のように語り、考えてきた。あの人とまた会うのを楽しみにしてるとき、いつもしていたようにニッコリとし、ぼくと会ったのをよろこび、手をさしだし、いつもいってたように――『わたしのキットだわ』とかそういった言葉をいってくれるあの人のことを、ぼくは考えてるんだ。幸福になり、友人たちにとりかこまれ、あの人には当然そうならなければならないように育てられてる姿を、ぼくは考えてるんだ。自分自身のことを考えても、それはあの人の忠実な召使いとしてだけ、親切で、善良で、やさしい女主人としてあの人を愛してる召使いとしてだけのことなんだよ、あの人の役に立つのだったら――どんな危害も突き破って進んでいく召使いとしてね。一度は心配せずにいられなくなったよ、友人たちにとりかこまれてもどってきたら、ぼくのような身分の低い若い者なんて、あの人は忘れてしまうだろう、そんな者と知り合いになってたことを恥ずかしく思い、冷たく話しかけ、それで、バーバラ、口にはいえないほどのとても深い傷を心に受けるだろうとね。でも、思いなおして考えてみると、そんなふうに考えて、嬢ちゃんにわるいことをした、とぼくは信じてるよ。だから、最初どおり、いつものとおりの嬢ちゃんにもう一度会いたいもんと考えつづけてるのさ。これを望み、以前の嬢ちゃんを思い出すと、ぼくは、いつもあの人をよろこばそうとし、まだあの人の召使いだったら、あの人の目にこうも映りたいとねがってたものにいつもなっているように思えてくるんだ。それでぼくがそれだけなおりっぱな人間になったら――そう、それでわるくなるものとは思わないよ――それにたいして、ぼくはあの人に感謝し、それだけなお、あの人を愛し尊敬することになるのさ。それが、バーバラ、たしかに明らさまな正直な事実、そうなんだよ!」
小さなバーバラは気ままや気まぐれな女ではなく、後悔の気持ちで胸がいっぱいになり、泣きくずれた。これがどんな会話をひきおこすことになったかは、ここで立ちどまって調べる必要はない。その瞬間に、馬車の車の音がひびき、それにつづいて庭の門のキビキビとした鐘の音が聞えて、しばらく眠ったように静かになっていた家にさわぎをひきおこし、前にます十倍もの活気とたくましい活動が、ワッとはじまったからである。
旅行用の馬車ひとそろいとともに、貸し馬車でチャクスター氏が到着し、彼は独身男のためにある書類と金をもってきたのだが、それは、独身男の手にわたされた。この任務を果すと、彼は一家の中にはいりこみ、ブラブラする、すなわち、|逍遥《しようよう》をともなう朝食を楽しみ、お上品な無関心ぶりで、馬車への荷物の積みこみのようすをジッと見守っていた。
「紳士気どりのやつは、たしかに、この仲間になってるんですな?」彼はエイベル・ガーランド氏にいった。「この前の旅に彼はいなかったように思いますがね。たぶん、彼の存在は、古き水牛さん(王立ノア洪水前水牛団のことで、その団員の老ガーランド氏をさしたもの。これはウィリアム・レズリーによって一八二二年に創設された)には好ましいものではなかったんでしょうな」
「だれにですって?」エイベル氏はたずねた。
「老紳士には、ということですよ」いささかドギマギして、チャクスター氏はいった。
「われわれの依頼人の父は、いま、彼をつれてゆきたがっていますよ」愛想なくエイベル氏はいいきった。「そうした用心をする必要はもうなくなったのです。父が探索していた相手の人たちが十分に信頼を寄せている紳士と父親の関係が、この任務の友好的な性格をはっきり物語ることになるのですからね」
「ああ!」窓から外をながめながら、チャクスター氏は考えていた、「自分以外にはだれもだ! 自分の目の前にいる紳士気どりのやつは、もちろんのことだ。やつは、たまたま、問題のあの五ポンド紙幣を盗みはしなかったが、やつがいつもそういったことをやらかそうとしてるのは、疑いの余地のないこった。このことが起きるとっく以前に、自分はいつもそういってたんだ、あれは、また、すごくきれいな女だな! まったく、驚くほどかわいい小さなやつだ!」
チャクスター氏がほめ賛えていたのは、バーバラで、彼女が馬車の近くにいたので(出発の準備はすっかりできていた)、この紳士は急に車のことに強い関心をもつようになり、そこで彼は、否応なく、庭をふんぞりかえって進み、色目を使うのに便利な、しかるべきところに陣どることになった。女性の経験は豊か、女性の心をつかむ|手練手管《てれんてくだ》を万事ちゃんと心得ていたので、チャクスターは、陣どるとすぐ、片手をしっかりと腰に当て、のこる手で自分の流れる髪をなでつけた。これは優雅な連中のお好みのポーズ、それにお上品な口笛をそえれば、大きな働きをすることが知られているのだった。
しかし、ロンドンといなかの相違は大きなもの、そこで、この女心をとらえるポーズに気づく者はだれもなく、浅ましいやつらは、すっかり、旅に出る人たちに別れを告げ、それぞれ手にキスをし合い、ハンカチをふるといった陳腐で低俗なことをせっせとやっていた。というのも、独身男とガーランド氏はもう馬車におさまり、第一の左馬騎手は馬に乗りこみ、キットはすっかり服につつみこまれて背後の従者席にあり、ガーランド夫人、エイベル氏、キットの母親、チビのジェイコブがそこに立ち、バーバラの母親が遠く向うのほうですぐ目をさます赤ん坊をあやしている姿がみられたからである。全員がうなずき、招き、膝を少しまげ腰を落してお辞儀をし、声をかぎりに「さようなら!」を叫んでいた。それから一分すると、もう馬車の姿はなく、そこに立っているのはただひとり、チャクスター氏だけになった。この場所では、ついさっき、従者席で立ちあがってバーバラに手をふっているキットの姿、彼の目――彼の目[#「彼の目」に傍点]――チャクスターの目――日曜日には公園で貴婦人方が軽二輪四輪馬車から好意をこめて打ちながめておいでの――成功者チャクスターの輝くつややかな目に映っていたバーバラのキットに手をふる姿があったのだが!
チャクスター氏が、このとてつもない事実に|呆然《ぼうぜん》として立ち、心中で、キットを兇悪な人物たちの中での王者、紳士気どりの連中の中でのまさに皇帝、モガル帝国(十六世紀にインドを征服したバベル(一四八三―一五三〇)はモガル帝国を創設した)の偉大な皇帝(インドの皇帝で、大立て者の意によく用いられる)と考えていたこと、このいまわしい事実の根源をあのたくらみ深い一シリングの悪事に明らかにたどっていたことは、われわれの目的には関係のないこと、われわれの目的は、ゴロゴロと鳴る車輪のあとを追い、寒いわびしい旅をしている人たちについていくことにあるからだ。
その日は、肌を刺すような寒い日だった。ピリッとする風が吹きまくり、彼らに激しくつきあたり、堅い大地を白くし、木や垣根から白い霜をふり落し、うずをまきながら、ほこりのようにそれを吹きとばしていた。だが、キットにとって、天気は問題でなかった。風がうなりながらとび去っていくと、そこには新鮮さと自由があり、それがどんなにピリピリと肌を刺そうと、とても好ましいものになっていた。それが霜の雲といっしょになって吹っとび、乾いた小枝と大枝、しぼんだ葉をおしつぶし、それをごっちゃまぜにして遠くに運び去っていくとき、なにか同じ気持ちがひろくゆきわたり、旅人たちと同じように、すべてのものがあわただしく動きまわっているようだった。突風が強ければ強いほど、ズンズンと道がはかどって進むように思われた。ひとつひとつ風を制圧しながら、もがき戦って進むのは、楽しいことだった。風が近づいてきながら猛威をたかめているのをジッと見守り、ヒューッとうなってとおりすぎてゆくとき、一瞬からだを前にかがめ、ふりかえって、風がとび去り、そのしゃがれ声の物音が遠くに消え、がっしりとした木がその前で身をかがめているのをみることは、楽しいことだった。
一日じゅう、風はたえ間なく吹いていた。夜空は晴れて星がきらめいていたが風は落ちず、寒さは肌をつんざくばかりだった。ときどき――宿場と宿場のあいだのながい旅が終るころ――もう少し温かだったらとキットは思わずにいられなかった。だが、馬をかえるために馬車がとまり、そうとうかけずりまわり、前の御者に賃銀を払い、新しい御者を起し、馬をつけるまであちらこちらととびまわったりしていると、彼のからだはとても温かになり、血はウズウズと鳴って指先が痛くなってくると――もう一度でも寒さがゆるんだら、この旅のよろこびと誉れが半分失われてしまうことになるだろう、と彼は感じ、すっかり陽気になってまた車にとび乗り、車がゴロゴロと音を立てて進んでいくとき、その明るい音楽に調子を合せて歌を歌い、町の人たちを温かい寝台にのこして、わびしい道を突き進んでいった。
このあいだ、車の中のふたりの紳士は、眠る気分には少しもなれずに、話で時をまぎらしていた。ふたりとも心配をしながらも期待をかけていたので、話は、当然のことながら、この旅行の主題、この旅がどんなふうにひきおこされたか、それについて彼らがいだいている希望と心配に向けられていった。前者の期待については多くの期待があり、後者の心配については――急に目ざめた希望とながくのばされている期待にかならずつきまとう得もいわれぬ不安以外には――たぶん、なにもなかった。
夜半分がゆっくりとたっていったとき、彼らの話のとぎれのある合い間に、だんだんと静かになり物思いにふけっていた独身男は、仲間のほうに向きなおって、いきなりいった、
「きみはうまい聞き手ですかな?」
「たぶん、たいていのほかの人くらいはね」ニッコリして、ガーランド氏は答えた。「興味が湧けば、そうなれますよ。興味をもたなくとも、興味をもっているふうをみせようと努めるでしょう。どうしてそんなことをたずねるのです?」
「わたしには話そうとしてる短い話があってね」彼の友人は応じた、「それを話して、きみをためしてみることにしよう。とても短い話です」
返事を待ちもせずに、彼は手を老紳士の袖に乗せ、こう話しはじめた。
「かつてふたりの兄弟がいて、彼らはたがいに強い愛情をいだき合っていた。ふたりの年齢はそうとうかけはなれ――十二歳くらいの差があった。はっきりしたことはいえないが、このためになお、ふたりの愛情は知らぬ間に強くなっていたのだろう。この年齢の差は大きなものながら、ふたりは早くも恋仇になることになった。ふたりのこの上なく深く強い愛情は、ひとつの対象の上にしっかりと向けられることになったわけ。
弟は――彼が[#「彼が」に傍点]敏感になり用心深くなる筋はたくさんあった――まず最初にこのことに気づいてね、どんなみじめさを彼が味ったか、どんな魂の苦悶を彼が知ることになったか、その心の苦悶がどんなに大きなものだったかは、ここで述べるのはやめることにしよう。彼は病弱の子供だった。自分自身のすばらしい健康とたくましさの盛りにありながらも忍耐強く思いやりのある兄は、何日も何日も、自分の楽しみのスポーツをしようともせずに、弟の寝椅子のわきに坐り、その青ざめた顔がふだんにない輝きで明るくなるまで、むかし話を語って聞かせ、両腕に彼を抱いてどこかの緑の草原に運び、輝く夏の景色をながめ、自分以外にすべての自然が健康に輝いているのをながめながら、あわれな物思いに沈む少年の世話をみてやり、どんな面からみても、弟のやさしい忠実な看護人になっていた。彼がしてくれたすべてのことは、ここで語りますまい。さもないと、この話はとめ度もなくながいものになってしまいますからな。とにかく、このために、あわれな、からだの弱い弟の愛情は、ますます強いものになったんです。だが、試練の時がやってくると、弟の心はこうしたむかしのことでいっぱいになった。神さまはその情を強めて、思いやりのない少年時代に強制した犠牲を思慮のある成人時代の犠牲でつぐないをさせることになった。彼は兄と別れ、兄を幸福にしてやった。真実は彼の口からは語られず、彼は祖国をすて、外国で死にたいものとねがっていた。
兄はその女と結婚したが、間もなく、彼女は天国に昇り、彼に赤ん坊の娘をのこすことになった。
どこか旧家の画廊をみたことがあれば、同じ顔と姿――ときにいちばん美しくほっそりとした者――が世代をへだててあらわれ、同じやさしい娘がながい肖像画の列をとおして――その一族の善霊が――絶対に齢もとらず変りもせずに――すべての逆境の中で彼らのとこにとどまり――その罪のつぐないをしているのを憶えているでしょう。
この娘は、母親の再生ともいえるものだった。獲得したばかりなのにこの母親を失った彼が、この娘、母親の生き写しにどんなに献身的な愛情を傾けたか、あなたにもおわかりでしょう。この娘は成人し、その心をある男に与えたんですが、その男は、その女性の心の価値を評価できないやつだったんです。そう! やさしい父親は彼女が嘆き悲しむのをみてはいられなかった。男は自分が考えてるよりもっとりっぱな人物かもしれない、自分の娘のような妻をもったら、きっとそうなるだろう、と父親の彼は考え、ふたりの手を結ばせ、ふたりは結婚したんです。
この結婚につづくすべてのみじめさ、冷酷な無視と不当な叱責、彼が彼女にもたらしたすべての貧困、語ることもできないほどの野卑でみじめな、しかも堪えがたくおそろしい日々の生活の苦闘をとおして、彼女は献身の愛情と女にだけできる善良さでがんばりつづけたんです。彼女の財産は浪費され、彼女の父親は彼女の夫の手で乞食のような状態になり、彼女の受ける虐待と不幸をたえずながめてることになり(いま、彼らは同じ屋根の下で暮していたんですからな)――彼女は、父親のため以外に、自分の運命を嘆いたりは絶対にしなかった。堪え忍び、最後まで強い愛情にささえられて、三週間ほど未亡人の生活を送ってから死亡し、ふたりのみなし児を自分の父親の世話にゆだねることになった。ひとりは十歳か十二歳の男の子、もうひとりは娘――若い母親に死なれたとき、彼女自身がかつてそうだったような――もうひとりべつの赤ん坊――無力さの点、年齢と|姿《すがた》|形《かたち》の点で母親と瓜ふたつの赤ん坊でした。
兄、すなわち、このふたりの子供の祖父は、いまはもう、打ちひしがれた男、年齢の重みというより悲しみの|苛酷《かこく》な手でおしつぶされ、打ちのめされた男になっていた。自分のわずかなのこりの財産で、彼は商売――最初は絵の、ついでは珍しい古物の商売をはじめることになった。少年時代からそうしたものが好きで、身につけた鑑識眼が、いま、不安定なたよりのない生活の資を与えてくれることになったわけ。
少年は、性格もからだつきも、父親そっくりになり、娘は母親ととても似かよい、その結果、老人が彼女を膝に抱き、そのおだやかな青い目をのぞきこんだとき、彼は、みじめな夢から目をさましたように感じ、自分の娘がまた小さな子供になったように思ったんです。気ままな少年は、間もなく、彼の屋根の保護を無視し、自分の|性《しよう》に合った仲間を求めることになり、老人と子供だけが、ふたりでいっしょに暮していたんです。
彼の心にいちばん近く、いちばんかわいがっていたふたりの死んだ人間にたいする愛情は、このほっそりとした女の子にそっくり乗りうつることになった。いつも彼の目の前にいる彼女の顔が、時々刻々、それとそっくりのべつの顔に起きたあまりにも時機の早い変化――彼がジッと見守って知っていたすべての苦難、自分の娘が味ったすべてを彼に思い起させたんです。あの若い男の|放蕩《ほうとう》|三昧《ざんまい》の無情な暮しぶりは、彼の父親のやり方と同じように、彼の持ち金を|蕩尽《とうじん》してしまい、ときどき、彼らに一時的な窮乏と苦難をひきおこしていた。貧困と欠乏の恐怖が彼をつつみこみ、彼の心にまといつくようになったのは、そうしたときのことだったんです。このことで、彼は自分のことを考えていたわけじゃありません。彼の心配は、この子のための心配だったんですからな。それは、彼の家の幽霊になり、日夜彼にまといついてはなれなかったんです。
弟のほうは、さまざまな国を旅行し、生涯ただひとりで巡礼の道を歩みました。彼の自発的な出奔は誤解され、自分の心をふりしぼり、自分の進む小道に悲しい影をなげていることをしたことで、叱責とあなどりを(苦痛を味いながら)受けてたんです。そればかりでなく、この彼と兄のあいだの文通は困難で不安定なもの、ときにとだえがちになっていた。それにしても、それがプッツリと切れてしまったわけではなく――知らせの合い間にながい空白とみぞはありながらも――いま話したことすべてを、彼は知ってたんです。
それから、ふたりの幼いころの幸福な生活――苦痛と少年のなやみに満されてはいたものの――の夢が前にもまして|頻々《ひんぴん》と彼の枕辺をおとずれるようになり、毎夜、また少年にかえって、彼は、兄のそばにいることになりました。彼は、大急ぎで自分の事業の始末をし、持ち物すべてを現金にかえ、ふたりには十分のりっぱな富をもち、物惜しみせぬ寛大な心と手をいだき、手足をふるわせながら、人間にはほとんど堪えられぬほどに心をおどらせて、ある夕方、兄の家の戸口に到着したんです!」
もうその声はとぎれとぎれになっていた語り手は、話をここで切った。「のこりは」ちょっと間をおいてから相手の手をにぎりしめて、ガーランド氏はいった、「知っていますよ」
「そう」彼の友人は答えた、「そのつづきは省略してもいいでしょうな。わたしの捜索のみじめな結果は、ご存じのとおりです。最高の看視と頭脳を働かせて捜査をおこなっても、それで得た結果は、彼らがあわれなふたりの旅芸人といっしょにいるのがみかけられたということだけ――やがて、その旅芸人自身をみつけ――やがて、そのひきこもってる場所までみつけたんですが、そうなっても、時すでにおそしでした。こんども時すでにおそしといったことにはならなければいいんですがね!」
「そうなるはずはありませんよ」ガーランド氏はいった。「こんどはきっと成功しますとも」
「そう信じ、そう期待してるんです」相手は答えた。「いまでもまだ、そう信じ、期待しようとしてますよ。でも、なにか重苦しいものがズシリと心におおいかぶさり、わたしをつつんでしまう悲しみで、期待も理性ももてないのが、わたしのいまの心境です」
「それは、べつに意外とはいえないことですね」ガーランド氏はいった。「それは、きみが呼び起したさまざまな事件の自然の結果、このわびしい季節と場所、なににもまして、この荒れた陰気な夜の自然の結果なのです。まったく、陰気な夜ですねえ! ほれ! 風がひどくうなっていること!」
70
夜が明け、彼らはまだ旅をつづけていた。出発して以来、彼らはそこここで休息のために足をとめ、夜間になると特に、馬の補給でときどき手間どっていた。この旅でほかに足をとめることはなかったが、天気の荒れ模様はつづき、道はしばしば急|勾配《こうばい》でぬかるみ、目的地に着くまでに、また夜の幕がおりそうになっていた。
キットは寒さでかえってキビキビと元気になり、勇敢に進んでいった。そして、血行をよくし、この危険な旅の幸福な終結を空想し、あたりをみまわして、すべてのものに驚きの目をみはるものが十分にあったので、旅の不快さを思う時間的な余裕はなかった。彼と、彼といっしょに旅行している人たちのもっていたジリジリした気分は、日暮れに近づくと、ズンズンとましていったが、時間の歩みがとまっているわけではなかった。冬の短い陽ざしはすぐに色あせ、もうあたりは暗くなったが、彼らの旅路はまだながくのこっていた。
薄暮になると、風は落ちた。その遠くのうなりは、前よりもっと低く物悲しげになり、そうした風は、道路をはうようにして進み、両側の乾きあがったいばら[#「いばら」に傍点]のあいだでカサコソとひそやかな音を立てると、道がせますぎるためにゆったりと進んでいきながら、|衣《きぬ》ずれの音を立てている、なにか大きなまぼろしのようだった。風はしだいにおさまって姿を消し、それにつづいて雪となった。
雪の足は早くて濃く、すぐに大地に数インチも積り、あたりに厳粛な静けさがひろまっていった。進んでゆく車輪は音を立てず、馬の|蹄《ひづめ》の立てる鋭い鳴りひびく物音は、にぶく、つつまれたようなドシドシという音になった。前進の活気はゆっくりとおさえつけられ、なにか死に似たあるものが、それにとってかわった感じだった。
まつげを凍らし、視力をうばってしまうふりしきる雪をさけようと小手をかざしながら、キットは、ほど遠からぬ町に近づいたことを知らせるチラチラする灯りの影を早くとらえようとしていた。こうしたときに、物はちゃんとみえはしたものの、その姿をしっかりととらえることはできなかった。いま、教会の高い尖塔がみえてきたが、それはすぐ木、納屋、馬車の明るいランプによって地上に投げだされた影になった。いま、馬に乗った人、徒歩の通行人、馬車が前を進んでいくようにと思われ、せまい道でこちらと出会うようにみえるかと思うと、近づいたときには、それもまた影になっていった。壁、廃墟、たくましい|切妻《きりづま》壁が道路にそそり立っていたが、こちらの馬車がそれにぶつかって進んでいくと、それは道路そのものになった。奇妙な道の|彎曲《わんきよく》、橋、一面の水も、そこここに姿をサッとあらわし、道を不安ではっきりとしないものにしていたが、それはむきだしの道路上のもの、ほかのものと同じように、とおりすぎると、ぼんやりとした幻影になっていった。
わびしい宿場に着くと、キットはゆっくりと席からおり――手足がしびれていたので――旅路の果てまでゆくのにまだ道はどのくらいあるのか? とたずねた。こうした人里はなれた場所で、時刻はもう深夜、人びとは床についていたが、上の窓から人声がして、十マイル、と返事をしてくれた。それにつづく十分間は、一時間のように感じられたが、その十分の終りには、からだをブルブルとふるわせている人の姿が必要な馬をひきだし、それから少しグズグズしていたあとで、馬車はもう走りだしていた。
道は田畑を切ってのびているもの、最初の三、四マイルをとおりすぎると、穴と車の跡だらけになり、それが雪におおわれていたので、ふるえている馬にとってはそれと同数のおとし穴になり、その結果、馬は|並《なみ》足で進んでいくことになった。こうしてこのときまでにもう興奮しきっている人たちがジッと坐り、そんなにゆっくりと進んでゆくのはほとんど我慢ならぬことだったので、三人とも馬車からおり、そのあとを重い足で歩いていった。この距離は果てしなくつづくように思われ、歩くのはとても骨の折れることだった。それぞれが心中で、御者が道を迷ったにちがいないと、考えていたとき、すぐ近くの教会の鐘が真夜中十二時を報じ、馬車はとまった。馬車はゆっくりと進んでいたのだが、雪を踏みつけるその音がやんだとき、大きな物音が完全な静けさにとってかわったように、そこに起った静けさはものすごいものだった。
「ここが目的地ですよ、みなさん」馬からおり、小さな宿屋のドアをノックしながら、御者はいった。「おーい! 十二時すぎといえば、ここではもう真夜中なんです」
ノックは大きくながくつづけられたが、そこの人を起すことはできなかった。以前どおり、あたりは暗く静かだった。彼らは少しはなれ、窓をみあげたが、白い家の正面で、そこだけがただ真っ黒な場所になっていた。灯りはみえなかった。この家は打ちすてられたか、眠っている人たちが死んでしまったかと思われるばかりだった。人間が住んでいる気配はぜんぜんなかったからである。
みなは、ささやき声で、妙にくいちがった話を語り合った。これは、いま起したわびしい|木魂《こだま》をまたかき立てたくはなかったからだった。
「さあ、いきましょう」さきの物語での弟だった独身男はいった、「そして、ここの家の者を起すのは、この男にまかせておきましょう。時すでにおそしにはまだなってないのを知るまで、ジッとしてはいられんのです。さあ、さあ、たのみますよ、ズンズンと進んでいきましょう」
彼らは進んでゆき、この家での食事その他の注文は、御者にまかせ、また改めてノックをつづけさせておいた。キットは、小さな荷物をもって彼らに同行したが、それは出発のときに馬車につっておき、彼女が彼と別れて以来――彼の古い鳥籠に入れた例の小鳥なのだが――ズッと忘れずにいたものだった。この小鳥をみたら彼女がよろこぶのを、彼は知っていた。
道はゆるやかなくだり|勾配《こうばい》になってまがっていた。進むにつれて、その時計の音を聞いたあの教会とそのまわりに集っている小さな村は、視野から消えていった。またはじめられ、この静けさの中ではっきりと聞えてくるノックの音は、彼らの胸をさわがせた。御者がそれをやめてくれるか、自分たちがもどるまで、静けさを破らないようにといいつけておけばよかった、とみなは考えていた。
寒さのまじりけのない白さの幽霊のような衣裳をまとった古い教会の塔が、ふたたび、彼らの前にそびえ立ち、やがて間もなく、彼らはその近くまでいった。神々しい建物――白々としたあたりの景色の|最中《さなか》にあってさえ、灰色で神々しい建物だった。鐘楼の壁の上にあるむかしの日時計は、雪の吹きだまりの下でほとんど姿をかくし、日時計とはわからぬものになっていた。時そのものさえ動きが鈍くなって年老い、昼間がこのわびしい夜にとってかわることがないようだった。
小門がすぐそばにあったが、それにつながっている墓地の小道はいくつかあり、そのどれを進んでよいのかわからず、彼らは、また、足をとめた。
村の通り――通りと呼べればの話だが、さまざまの高さと年代の粗末な小屋のゴタゴタとしたかたまりが、一部は正面を、他は裏を、べつの家は切妻壁を道路に向け、そこここには道しるべがあり、小屋が道路にはみだしていた――は、すぐ近くにあった。そう遠くはない部屋の窓にかすかな灯りがともり、キットは、道をたずねようと、そこに走っていった。
彼の最初の叫びに答えたのは部屋の中の老人で、寒さから身を守るためになにか着物を首にまいて、開き窓のところに姿をあらわし、こうした時ならぬ時刻に自分に用があるなんて、いったいだれだ? とたずねた。
「きびしい天候だ」彼はブツブツいった、「わしを呼び起す夜じゃないぞ。わしの商売は、人にたたき起される心配なんてない商売なんだからな。世間の人間がわしに望んでる仕事は、特にこうした季節には、冷たくしとくことなんだ。なんの用事なんだね?」
「あなたがご老人で病人と知ってたら、起したりはしなかったんですが……」キットはいった。
「老人だって!」気むずかしげに相手は答えた。「わしが老人と、どうしてわかるんだね? きみが考えてるほど、そう老人じゃないかもしれんぞ。病気という点では、多くの若い|者《もん》がこのわしよりもっと具合いがわるくなってることがわかるだろうよ。そんなふうになってるなんて、ますますあわれなことさ――それは、齢の割りにわしが強くて元気ということじゃなく、若い者が弱くてきゃしゃだということさ。だが、最初にそうとう荒っぽい口をきいたとすれば」老人はいった、「おわびをするよ。わしの目は、夜には、だめになってね――これは齢でも病気でもない、こんなことはなかったんだ――きみがよその人とは気づかなかったんだからな」
「寝床からひきだしたりして、すみませんでした」キットはいった、「でも、墓地の門の近くにごらんのあの紳士の方々も、よその者で、ながい旅をして、いまここに着いたばかしなんです。さがしてるのは牧師さんの家。道を教えていただけるでしょうか?」
「それはできるともさ」ふるえる声で老人は答えた、「つぎの夏になったら、わしは、まるまる五十年間、ここの墓掘り男なんだからね。右手の小道が、ねえ、その道だよ――ここのあのやさしい紳士の方になにかわるい知らせじゃないんだろうね?」
キットは礼をいい、急いで、ちがう、と答えて、もどろうとしたが、そのとき、子供の声に気づいた。目をあげると、となりの窓にとても小さな子供の姿がみえた。
「あれはなに?」むきになって、子供は叫んだ。「夢がほんとうになったの? 目をさまして起きてるあれが、いったい、だれなのか、ぼくに教えてちょうだい」
「かわいそうに!」キットがまだ答えないうちに、墓掘り男はいった、「気分はどうだね、坊や?」
「夢がほんとうになったの?」聞く者の心までゾクリとさせる熱をおびた声で、子供はまた叫んだ。「でも、ちがう。そんなことになるはずは絶対にないもん! どうしてそんなことになるもんか――ああ! どうしてそんなことになるもんか!」
「あの坊やのいってることは、見当つくよ」墓掘り男はいった。「やすむんだよ、かわいそうな坊や!」
「ああ!」絶望の気持ちにおしつぶされて、子供は叫んだ。「そんなことには絶対にならないのを、ぼくは知ってたんだ。きく前にもう、そうだとはっきりしすぎるほど感じてたんだからね! だけど、今夜じゅうズーッと、きのうの晩も、同じだったんだ。眠ったりは少しもしないのに、あのおそろしいむごい夢がもどってくるんだよ」
「眠るように、またやってみるんだ」あやすようにして老人はいった。「いまにそれは消えるよ」
「ちがう、ちがう。それがいてくれたほうがいいのさ――おそろしくてむごいもんだけど、それがいてくれたほうがいいんだ」子供は答えた。「夢でそれをみるのは、こわくはないよ。でも、とっても悲しい――とっても、とっても悲しいのさ」
老人は子供に祝福を与え、子供は泣きながら「おやすみなさい」をいい、キットは、また、ひとりぼっちになった。
彼は、いま聞いたことで心を打たれながら、急いでもどっていった、意味は彼にわからなかったので、子供がいった言葉よりその態度に心を打たれていたのだったが……。一同は、墓掘り男に教えられた小道を進み、間もなく牧師館の壁の前に到着した。ここまでやってきたとき、彼らはあたりをみまわし、遠くのいくつかの廃墟になった建物のなかに、ただひとつの灯りをみた。
それは、古い出窓と思われるところから輝き、おおいかぶさる壁の深い影にとりかこまれていたので、星のようにきらめいていた。その灯りは、彼らの頭上の星のようにキラキラと明るく輝き、それと同じようにわびしく動かなかったので、天の永遠のランプとなにか同類であると主張し、それといっしょになって燃えているように思われた。
「あの光はなんだろう?」弟の独身男はいった。
「あれは、たしかに」ガーランド氏はいった、「彼らの住んでいる廃墟だ。このあたりにほかの廃墟はないのですからね」
「彼らが」急いで独身男が答えた、「こんなおそい時刻に起きてるはずはないんですがね――」
キットは、すぐに口をはさみ、ふたりが門のところで鐘を鳴らして待っているあいだに、この灯りが輝いているところに自分をゆかせ、だれかが起きているかどうかをたしかめさせてくれ、とたのみこんだ。この許可を与えられて、彼は息もつかずにむきになって突っ走り、鳥籠を手にしたままで、その場所に向けてまっすぐに進んでいった。
墓の中でこの歩調を維持するのは容易なことでなく、べつのときだったら、彼はもっとゆっくり、あるいは、小道をまわって進んでいったことだろう。しかし、障害をものともせず、歩調をゆるめることもなしにズンズンと進み、やがて、窓から数ヤード以内のところに着いた。
できるだけ静かに近づき、壁のほんの近くまでいったので、白くなったつた[#「つた」に傍点]に自分の服をふれさせながら、ジッと耳を澄ませていた。中ではコトリとも音がしなかった。教会そのものも、もっと静かだとはいえぬほどだった。頬を窓ガラスにつけて、また耳を澄ませた。だめだった。だが、あたりはじつに静かに音もなく静まりかえり、家の中に人がいるのだったら、その人の寝息だってたしかに聞えるはずだ、と彼は信じていた。
夜のこの時刻にこうした場所に灯りがともり、そのそばに人がいないなんて、奇妙なことだった。
窓の下のところにはカーテンがひかれ、部屋の中をのぞきこむことはできなかった。だが、家の中からそこに投げかけられている影はなかった。壁に足場をつくり、上からのぞきこもうとしたら、それはある危険をともない――たしかになにか音を立て、そこに子供が住んでいるとしたら、彼女をおびやかすことにもなるだろう。何回となく耳を澄ませたが、何回となく同じ空白がはねかえってくるだけだった。
ゆっくりと用心深い足どりでそこを去り、この廃墟を数歩歩きまわると、彼はとうとう戸口にゆき当った。ノックをしたが、答えはなかった。だが、中で奇妙な物音がしていた。それがなにかと見当つけるのは、むずかしいことだった。苦しんでいる人の低いうめき声に似ていたが、それではなかった。それよりズッと規則的で変化がなかったからである。いま、それは一種の歌、いま、泣きむせぶ声のようだった――すなわち、彼のうつろい変る空想には、そのように思えたのだった。というのも、音そのものは絶対に変らず、おさえられもしていなかったからだった。それは、いままで耳にしたどんな物音ともちがい、その調子には、なにかおそろしい、ゾッとさせる、この世のものならぬものがひそんでいた。
聞き手の血は、霜と雪の中でよりもっと凍りついて流れていたが、またノックをした。なんの返事もなく、例の物音は、そのまま、さまたげられずにつづいていた。彼はソッと掛け金に片手を乗せ、片膝をドアにおしつけた。それは、中でしっかり閉められてはいたものの、このおす力に屈し、スーッと開いた。彼は、古い壁の上にかすかに光る火をながめ、中にはいっていった。
71
|薪《まき》の火の鈍い赤い輝き――ランプもろうそくも、部屋の中で燃えていなかった――が人影を彼に示したが、それは、彼に背を向け、パッパッと発作的に燃えあがる火の上にかがみこんで、炉に坐りこんでいる姿だった。その姿勢は、熱を求めている人の姿勢だったが、それは、そうでもあり、しかも、そうでもなかった。かがみこんだ姿勢とちぢこまった形は目の前にあったが、ありがたい温かみを受けようと両手はさしだされず、肩をすくめたり身をふるわせたりして、そのありがたさを外の肌を刺す寒さとくらべる仕草もなかった。手足はちぢこまり、頭は前にさげ、胸の上で腕組みをし、指は固く結ばれて、その姿は、一瞬の停止もなく座席の上で前後にからだをゆらし、その動きにともなって、キットが聞いたあの物悲しげな音を発していた。
彼が部屋にはいってからうしろで閉った重いドアは、彼をギクリとさせる物音を立てた。人の姿は語らず、ふり向いてみようともせず、それ以外のようすでも、それを耳にした兆候はぜんぜんみせなかった。その姿は老人の姿で、その白い髪の色は、彼がジッとみつめているくずれかけた燃えさしにそっくりだった。彼、消えかけている炎、死滅しようとしている火、時ですりへらされた部屋、孤独、やつれ果てた生命、陰鬱さ、こうしたものは、いずれも結び合ったものになっていた。灰と|塵《ちり》と廃滅!
キットは話そうとし、なにかほとんどわからないながらも、幾語か口に出した。それでも、同じおそろしい低い叫びはつづき――それでも、椅子での同じからだのゆさぶり――同じ打ちのめされた姿が目の前にあり、いささかも変らず、彼の存在に気をとめはしなかった。
彼は手を掛け金にかけたが、そのとき、その姿にあるあるもの――薪が一本くずれて倒れ、倒れながら燃えあがったときに、たしかにはっきりとみたのだが――が、彼の手をとめた。彼はそのときまで立っていたところにもどり――一歩――さらにまた一歩――さらにまた一歩と進んでいった。さらにもう一歩進むと、その人物の顔がみえた。そう! とても変り果ててはいたものの、彼はその顔をよく知っていた。
「旦那さま!」片膝をついてかがみ、老人の手をつかんで、キットは叫んだ。「なつかしい旦那さま! 話してください!」
老人は、ゆっくりと彼のほうに向き、うつろな声でつぶやいた、
「またべつの霊だ!――今夜はいくつ霊がやってきたことだろう!」
「旦那さま、霊ではありません。むかしの旦那さまの召使いです。もうきっと、わたしのことがおわかりでしょうね? ネル嬢ちゃん――あの方はどこに――どこにおいでです?」
「みんながそれをいっている!」老人は叫んだ。「みんなが同じ質問をしている! 霊だ!」
「嬢ちゃんはどこにいるんです?」キットはたずねた。「ああ、それだけ――それだけを教えてください、旦那さま!」
「眠ってるよ――向うで――あの奥でね」
「ありがたい!」
「そう! ありがたいことだ!」老人は答えた。「あの|娘《こ》が眠ってるとき、幾夜も幾夜も幾夜も、ながい夜ズーッと、わしは神さまに祈ってきたんだ。神さまはご存じだ。あっ! あの娘が呼んだのかな?」
「声は聞えませんでしたよ」
「きみは聞いたんだ。いま聞えるだろう。あれを[#「あれを」に傍点]聞きはしないというのかね?」
彼はギクリとし、また耳を澄ませた。
「あれも聞えんのかね?」勝ちほこった微笑を浮べて、彼は叫んだ。「わしほどあの声を知ってる者がいるだろうか? シッ! シッ!」
静かにしろと身ぶりで伝えて、彼はべつの部屋にソーッとはいっていった。ちょっと姿を消してから(そのあいだ、やわらかいなだめるような調子で彼が話しているのが聞えてきた)、手にランプをもって、もどってきた。
「あの娘はまだ眠ってる」彼はささやいた。「きみのいったとおりだった。彼女は呼ばなかったんだ――眠りの中で呼んだんでなければね。いままでも、眠りの中でこのわしに呼びかけたことがある。眠らずに彼女のそばに坐ってたとき、彼女の唇が動いたのをみたことがあり、音はひびいて来なかったが、わしのことを話してるのを知ってたんだ。彼女の目をくらませ、目をさまさせてはと思って、灯りはここにもってきたよ」
彼は、来訪者にというより、自分自身に語りかけていたが、ランプをテーブルの上においたとき、ある瞬間的な思い出か好奇心につき動かされたといったように、またランプをとりあげ、それをキットの顔の近くにかざした。それから、それをやりながら自分の動機を忘れたといったふうに、向うを向き、それをふたたびテーブルにおいた。
「ぐっすりと眠ってるよ」彼はいった。「だが、べつに驚くことはない。天使さまの手が大地に深い雪をまき、どんな軽い音でももっと軽いものになり、彼女を起すまいと、鳥まで死んじまったんだからな。あの娘はいつも鳥に餌を与えてたよ。どんなに寒く腹を空かしてても、臆病な鳥はわしたちのところからとんでいってしまった。だが、あの娘のとこからとび去るなんていうことは、絶対になかったよ!」
また、彼は話をやめて耳を澄ませ、ほとんど息もしないで、ながいあいだズーッと、そのままの姿勢でいた。その空想が消えると、彼は古い箱を開き、まるで|生物《いきもの》のように愛情をこめていくつか服をとりだし、手でそのしわをのばして、ほこりを払いはじめた。
「どうしてお前は、そこでなんにもせずに横になっているんだね、かわいいネル」彼はつぶやいた、「つんでくれとお前を待ってる赤いきいちご[#「きいちご」に傍点]が家の外にあるのに? どうしてお前はそこでなんにもせずに横になってるんだね、小さな友だちたちが戸口にはいよってきて、『どこにネル――やさしいネルはいるの?』と叫び――お前が姿をみせないので、すすり泣いてるのに? あの娘はいつも子供にはやさしくしてやっていた。どんなに荒っぽい子でも、あの娘のいうことはきいていた――まったく、子供にたいしてやさしいやり方を知ってたんだ、あの娘は!」
キットは語る力がつき、目は涙でいっぱいになっていた。
「あの娘の小さなつつましい服――あの娘の大好きな服だった!」胸にそれを抱きしめ、しなびた手でそれを軽くたたいて、老人は叫んだ。「目をさますと、それをほしがることだろう。みんながふざけて、ここにかくしたんだが、彼女にそれをかえしてやるぞ――それをかえしてやるぞ。ひろい世界じゅうの金をもらっても、あのかわいい|娘《こ》を苦しめたりはするもんか。ここをみてごらん――この靴――なんとすりきれてることだろう!――ながい旅の記念にと、あの娘はそれをとっておいたんだ。あの小さな足のどこが地面にむきだしになってたかが、わかるだろう。あとで聞いた話だが、石があの小さな足を切り、傷をつけてたそうだ。あの娘は[#「あの娘は」に傍点]それを、ひと言だってわしにはいわなかった。そう、そう、そんなことはひと言だっていわなかったぞ。その後思い出したことなんだが、自分がどんなにびっこをひくかをみせまいとして、あの娘は、わしのうしろを歩いてたんだ――だが、わしの手をいつもにぎり、わしの先に立って歩いてるような感じだった」
彼は靴を口におし当て、それを念入りにまたしまいこんで、ひとり言をつづけ――ときどき、わびしげに、いまいった部屋のほうに目を投げていた。
「あの娘はいつも、寝坊はしなかった――だが、そのときには元気だったんだ。我慢が必要だ。元気になったら、いつものとおり早く起き、すがすがしい朝には、この辺を歩きまわるだろう。ときどき、あの娘のとおった道をさぐろうとしたが、あの小さな足は、道しるべになる足跡を露にぬれた土の上にのこさなかった。あれはだれだ? ドアを閉じるんだ。早く!――あの大理石のような冷たさを追い払い、あの娘を温かにしてやることはできないのか?」
ドアはたしかに開かれたが、これは、ガーランド氏とその友人が、ほかのふたりの人物にともなわれて、ここにはいってくるために開かれたのだった。このふたりの人物は、学校の先生とバチェラーだった。先生は手に灯りをもっていた。彼は、どうやら、キットがここにやってきて、老人がただひとりでいる姿をながめたとき、燃えつきたランプの補給のために、自分の小屋にちょっともどったところだったようだった。
このふたりの友人の姿をみると、老人の態度はふたたびやわらぎ、ドアが開いたときに話しぶりにあらわした怒ったようす――こうした弱々しい物悲しげなようすにそのような言葉が使えればの話だが――は消えて、自分の前の座席に坐りこみ、だんだんと以前の行動にもどり、以前の、にぶい、とりとめもない物音を立てはじめた。
みしらぬふたりの男のことは、気にもとめていなかった。その姿をながめはしたけれど、関心も好奇心も湧かすことはできないようだった。弟ははなれて立っていた。バチェラーは、老人の近くに椅子をひきよせ、ピタリそのわきに坐った。ながい沈黙のあとで、彼は思いきって話しはじめた。
「もうひと晩たちましたよ。それなのにまだ、床についていないんですか!」彼はやさしくいった。「わたしとの約束をもっと忘れないようにしてもらいたいもんですね。どうしてやすまないんです?」
「眠りは、わしのところからはなれていってしまったよ」老人は答えた。「眠りはすっかり、あの娘とばかりいっしょにいるんだ!」
「こうしてあなたが眠らずにいるのを知ったら、とても彼女は悲しむでしょうよ」バチェラーはいった。「彼女を悲しませたくはないんでしょう?」
「それであの娘の目をさますことができたら、わしはそうとは思わんね。もうとてもながいこと眠ってる。だが、そんなことをいうなんて、わしは考えなしなこと。それは楽しくて幸福な眠りなんだからね――そうだろう?」
「ほんとうに、そうですよ」バチェラーは答えた。「ほんとうに、ほんとうに、そうですよ!」
「それなら結構!――そして、目をさましてる者」――老人は口ごもった。
「も幸福なんですよ。口にはいえぬほど、人間の心で考えられないほど、幸福なんですよ(コリント前書、二、九がこの言葉の源かといわれている)」
老人が立ちあがり、ランプがとりかえられた部屋に爪先立ちでソッとはいっていくのを、彼らはジッとながめ、そこのものいわぬ壁のあいだで彼がまた話しだしたとき、それに耳を澄ませていた。彼らはたがいに顔を見合せ、だれの頬も涙でぬれていた。老人はもどってきて、彼女はまだ眠りつづけているが、手を動かしたようだ、といった。それは彼女の手――ほんのわずか――とても、とてもわずか――だが、彼女が手を動かしたのは、まずまちがいのないこと――たぶん、自分の手を求めていたのだろう、前にも、深く深く眠ってはいながらも、それをしたのを憶えているのだから、と彼はいった。こういい終ると、彼はまた落ちこむようにして椅子に坐りこみ、頭の上で両手を組み合せて、絶対に忘れられないような叫びをあげた。
あわれな先生は身ぶりで、自分が反対側に坐り、老人に話しかけてみよう、バチェラーに知らせた。ふたりは、灰色の髪の中でねじっていた老人の組んだ指をやさしくはずし、それをそれぞれの手でしっかりとにぎりしめた。
「彼はわたしのいうことを聞いてくれますよ」先生はいった、「きっとね。たのめば、わたしでも、あなたでも、話すのを聞いてくれますよ。あの娘は、いつでも、そうしてくれたのですからね」
「あの娘が聞くのをよろこんでた声なら、どんな声でも聞くよ」老人は叫んだ。「あの娘が好きだったものはなんでも、わしは好きなんだから!」
「それは知っていますよ」先生は答えた。「それはたしかなことです。彼女のこと、あなた方ふたりがいっしょに味ったすべての悲しみと苦しみ、ともに経験したすべての苦難、すべての安らかなよろこびを考えてごらんなさい」
「そうだ、そうだ。わしはそれしか考えてないのだ」
「今夜は、そのほかのことはなにも考えててほしくはないのです――あなたの心をやわらげ、それをむかしの愛情とむかしの時代にかえしてくれるもの以外のことはね。彼女自身があなたに話しかけるとすれば、話はそうなるし、彼女の名でわたしがいま話しているのは、そのことなのです」
「静かに話してくれて、ありがたいよ」老人はいった。「われわれはあの娘の目をさまさせたくはないんだからね。あの娘の目、あの娘の笑いをまたみることができたら、うれしいんだがな。いまでも、あの若々しい顔には微笑が浮んでるが、それは動かず、変化のないもんだ。それが動くのをみたいもんだ。それは、天国での楽しい時のことになるだろう。われわれは、あの娘の目をさまさせたくはないんだ」
「眠っている彼女のことを話すのは、やめにしましょう、あなた方がいっしょにはるか遠くまで旅をしたとき――あなた方がいっしょに逃げだしたあの古い家で彼女がくつろいだとき――むかしの陽気な時代に、彼女がそうであったその彼女のことを話すことにしましょう」
「あの娘はいつも陽気だった――とても陽気だった」先生をしっかりとにらみすえて、老人は叫んだ。「忘れもしないが、最初から、あの娘には、なにかにおだやかで静かなものがあったんだが、幸福な性格の持ち主だった」
「あなたのお話を聞いたことがあるのですが」先生は語りつづけた、「この点で、それに、すべてのよい点で、彼女は母親似だったそうですね。その母親のことを考え、思い出すことができるでしょうね?」
老人はしっかりとした顔つきをくずさずにいたが、返事はなにもしなかった。
「さもなければ、その母親のまた母親も?」バチェラーはいった。「それはずいぶんむかしのこと、そして、苦しみは、時間をながいものにするものです。でも、あの娘の価値を知り、あの娘の心を読みとれるようになる前にもう、あの娘をあなたにとってとても大切なものにしたあの死んだ人のことは、まさか忘れているのではないでしょうね? 遠くへだたった時代――まだ若々しかった時代――この美しい花とはちがって、あなたの青春時代をひとりではすごしていなかった当時に、あなたの思いをひきもどすことができる、といってください。遠いむかし、あなた自身がまだ子供のころ、あなたをとても愛していたべつの子供を思い出すことができる、といってください。ながいこと忘れ、ながいこと会わず、ながいことあなたと別れていた弟がいた、といってください。その弟は、とうとう、あなたの最後のこの|土壇場《どたんば》になって、もどってきて、あなたを元気づけなぐさめようとし――」
「あなたがかつてその弟にしてくださったように、こんどは、それをあなたにしてあげるためなんです」彼の前にひざまずいて、弟の独身男は叫んだ、「兄さん、変らぬ配慮、心づかい、愛情で、むかしの愛情のおかえしをするためになんです。兄さんの右手にいて、大海がふたりのあいだにさかまいていたとき、いつもそうなりたいと思っていたものになるためなんです。すぎ去った時代、わびしいながい何年もの年月すべてを通じてもっていたその変らぬ誠実さと心づかいを証明するためなんです。兄さん、ただひと言でいい、わたしを自分の弟として認めてください――そして――あわれな、なにも知らない少年だったわたしたちが、生涯をいっしょにすごすと思いこんでいたあの幼かった当時のいちばん輝かしい瞬間のときの親愛の情でも、絶対に、絶対に――今後ふたりがいだき合う親しみと強い愛情にくらべたら、物の数ではないのです!」
老人は顔から顔ヘと目をうつし、唇は動いたが、返事の言葉は、そこからなにも出て来なかった。
「その当時わたしたちが結びつけられていたとしたら」弟は語りつづけた、「いまわたしたちのあいだの|絆《きずな》は、どんなものになるでしょう? わたしたちの愛情と仲間意識は、人生がまだこれから先にある子供時代にはじまり、人生を味い、最後に子供にまいもどってしまったときに、またはじめられることになるんです。多くのジッとしていられない人たちは、この世で財産、名声、快楽を追い求め、老人になると、生れた場所に帰り、死ぬ前にまた子供にもどりたいというあだな望みをいだくもんです。そのように、幼いころにはそうした人たちほど幸福ではなくとも、人生の幕を閉じる晩年にはもっと幸福になったわたしたちは、少年時代をすごした場所にもどって、また安らぎをつくりだしましょう。青年時代に心にいだいた希望はなにも実現せずに故郷にもどり――むかしもっていたたがいの愛情以外に、運び去ったものはなにももち帰らず――最初に人生をいとしいものにしてくれた愛情以外に、人生の残骸からなにも手にせずに――わたしたちは、じっさい、はじめどおりの子供にもどれることでしょう。そして」声を変えて彼はいいそえた、「口にするのもおそろしいことが起きても――たとえそうなり、そうならなければならないとしても(神さま、それを免じてくださるように!)――それでも、兄さん、わたしたちは別れ別れにはならず、大きな苦悶の中にあっても、心のそのなぐさめはもてるのですよ」
こうした言葉が語られているあいだに、しだいしだいに老人は奥の部屋にひきしりぞいていった。そこを指さしながら、彼は唇をふるわせて答えた。
「きみたちは、わしの心をあの|娘《こ》からひきはなそうとたくらんでるんだな。それは絶対にできんことだぞ――わしの命がつづくかぎりはな。あの娘以外にわしの親類、友人はない――そんなものは絶対になかった――今後も絶対にないだろう。あの娘こそ、わしのすべて、いまさら別れるなんて、できるもんか」
手をふってほかの者をふり払い、彼女にやさしく声をかけながら、彼は部屋にソーッとはいっていった。あとにのこった人たちは身を寄せ合い、わずかの言葉をささやいてから――それは興奮でとぎれがち、容易に言葉になってあらわれるものではなかった――そのあとにつづいた。彼らの動きはとても静かだったので、なんの物音も立たなかった。だが、彼らのあいだからすすり泣き、悲しみと|悼《いた》みの声がもれてきた。
彼女が死んでいたからである。目の前、小さな寝台で、彼女はいこいについていた。厳粛な静けさは、もう、当然のものと思われた。彼女は死んでいた。こうまで美しく静か、こうまで苦しみの跡のない、こうまで目に美しい眠りはなかった。彼女は、神さまのみ手からいまつくりだされ、生命の|息吹《いぶ》き与えられるのを待っているよう、生命を終り死を味ったものとは思えなかった。
彼女の寝椅子は、そこここで、うめもどき[#「うめもどき」に傍点]や緑の葉で飾られていたが、これは、彼女がいつも好んでいた場所で集めたものだった。「わたしが死んだら、光を愛し、その上にいつも空がひろがっているものを、わたしのそばにおいてちょうだい」これが彼女の言葉だった。
彼女は死んでいた。かわいらしい、やさしい、辛抱強い、気高いネルは死んでいた。彼女の小鳥――指でも殺すことができる、あわれな、ほっそりとした小鳥――は、籠の中で機敏に動きまわっていた。そして、女主人の子供のたくましい心臓は、永遠に無言、動きを失ってしまっていた。
彼女の以前の心配、苦しみ、疲労の痕跡はどこにあるのだろう? みな、消えていた。悲しみは、じっさい、消滅し、安らぎと完全な幸福の新生があり、それは、彼女の静かな美しさと深いやすらぎの中に、映しだされていた。
だが、この変化でも変ることなく、以前の彼女は横たわっていた。そう、年老いた|炉端《ろばた》はあの同じやさしい顔に微笑を投げていたが、この彼女は、夢のように、みじめさと苦しみのつきまとう場所をとおりぬけていったのである。夏の|宵《よい》にあわれな先生の家の戸口に、湿気の強い寒い夜に炉の火の前に、死にかけている少年の静かな寝台のわきに、それと同じおだやかで美しい顔がかつてはあったのだった。死後、威儀を正した天使の姿もそうであることを、われわれはさとるだろう。
老人は、温めてやろうと、彼女のぐったりとした腕を自分の腕にかかえ、小さな手をしっかりと胸にかかえていた。それは、最後の微笑を浮べて彼女が老人にさしのべた手――ふたりの放浪ちゅうズーッと、先に立って老人を案内した手だった。ときどき、彼は、それを口におし当て、また胸に抱きしめ、もう温かくなったとつぶやき、それを語りながら、苦悶につつまれて、彼女を助けてくれと懇願しているように、まわりに立っている人たちをながめていた。
彼女は死亡し、すべての救助のかなた、その必要はないものになっていた。彼女自身の生命が急速に終りに近づいているときにさえ、彼女が生命で満しているように思われたあの古めかしい部屋――彼女が世話をみていた庭――彼女がよろこばせていた人の目――物思いに沈むながい時間をよくすごしていた静まりかえった場所――まるできのうのように思われるのだが、彼女の歩いていた小道――は、もう二度と彼女の姿をみられぬことになった。
「いいや」身をかがませて彼女の頬にキスし、涙をとめどなく流しながら、先生はいった、「神さまの正義は、この地上で終るものではありません。彼女の若々しい魂がまだ幼いのにとんでいったあの世界にくらべて、この地上がどんなものかを、考えてもごらんなさい。この寝台の上で厳粛な言葉で語られる重々しいねがいだけで彼女を生命に呼びもどすことができたとしても、われわれのうちのだれが、それを口にするでしょう!」
72
朝になり、悲しみの対象についてもっと冷静に話せるようになったとき、彼らは、彼女の生命が終ったときの姿を伝えられた。
彼女が死んだのは、二日前のことだった。彼女の死が近づいているのを知っていたので、そのとき、人びとはみな彼女のところに集っていた。彼女は夜が明けるとすぐ死亡した。夜がまだふけぬころ、彼らは彼女に本を読み、語りかけていたのだが、時がゆっくりとうつっていくと、彼女は眠りに沈んでいった。夢の中で彼女がかすかに語る言葉で、その夢が、老人といっしょにしている旅のことであるのがわかった。それは、痛ましい場所の夢ではなく、ふたりを助け、ふたりを親切にあつかってくれた人たちの夢だった。彼女が、ときどき、とても熱をこめて「神さまのみ恵みが授かりますように!」といっていたからである。目をさまして彼女がうわごとをいったのは、ただ一回しかなかった。それは、あたりを一面に満している美しい音楽についての言葉だった。これは、だれにもわからぬことだが、それであったのかもしれない。
とても静かな眠りから最後に目を開いて、彼女は、もう一度自分にキスをしてくれ、とみなにたのんだ。それがすむと、顔に美しい微笑を浮べて老人のほうに向き――それは、みたこともない、絶対に忘れられない美しい微笑だった、とみなはいっていた――両腕をさしだしてその首にすがりついた。最初、彼女が死んだのが、みなにはわからなかった。
彼女は、例のふたりの姉妹のことをよく話した。彼らは自分にとって親しい友人のようだ、といっていた。自分がどんなにふたりのことを思い、夜、川辺でふたりがいっしょに散歩しているとき、その姿を自分がどんなに見守っていたか、を彼らに伝えてくれ、と彼女はたのんだ。あわれなキットに会いたいものと、最近彼女はよくいっていた。キットによろしくという言葉をだれかが伝えてくれるように、と彼女は望んでいた。そのときでも、彼のことを思い出して話をするとき、いつも彼女は、以前の、明るい、陽気な笑い声を立てていた。
それ以外のことで、絶対につぶやいたり不平をこぼしたりはせず、彼女は、静かな心とまったく変りのない態度で――毎日もっと真剣になり、彼らにたいする感謝の情がつのっていた以外に――夏の宵の光のように消えていった。
彼女の小さな友人だった子供は、夜が明けるとすぐ、乾燥した花の捧げ物をもってそこにかけつけ、それを彼女の胸の上にのせてくれ、とたのんだ。前の晩、窓のところに出てきて墓掘り男に話しかけていたのは、この少年だった。雪の積ったところに小さな足跡があったが、それは、眠る前、立ち去りかねて、彼女がやすんでいる部屋の近くに彼がいた跡だった。どうやら彼は、彼女がそこでひとりのこされていると考えていたらしく、そう考えると、もうたまらなくなったのだった。
彼は、自分の夢の話をし、それは、いつものとおりの彼女がふたたび彼らのところにもどってきた夢だった。ジッと静かにしているからといって、彼は、彼女の姿をみせてくれ、と熱心にたのみ、自分の幼い兄が[#「自分の幼い兄が」に傍点]死んだとき、そのそばに一日じゅう坐り、そうして兄の近くにいれるのをよろこんでいたのだから、自分がおびえると心配することはない、といった。みなは彼の希望をかなえ、じっさい彼は、自分の言葉どおりのふるまいを示し、その子供らしいやり方で、みなに教訓を与えていた。
そのときまで、老人は――彼女以外には――一度も語りかけず、寝台のそばから動こうともしなかった。だが、彼女のお気に入りの少年の姿をながめると、いままでにないほど感動し、彼をもっとそばにひきよせようとする素振りをみせた。それから、寝台をさして、彼ははじめてワッと泣きだし、そばに立っていた人たちは、この子供の姿が彼にいい影響を与えたものと考えて、ふたりをいっしょにしておいた。
彼女のことをあどけなく話して老人の心を静めながら、子供は老人に、少し休み、外を歩き、自分の望んでいるようにしてくれ、と説得した。この世の姿の彼女を永遠に人間の目からひきはなしてしまわなければならない日がやってくると、いつ自分の手から彼女がとり去られたかを知らせまいとして、子供は老人を外につれだしていった。
ふたりは、彼女の床を飾る新しい葉と木の実を集めるつもりでいた。その日は日曜日――明るい、晴れあがった冬の午後――村の通りを進んでいくと、その小道を歩いていた人たちは、彼らに道をゆずってわきにさがり、彼らにやさしい挨拶をした。一部の者は、老人の手を心からにぎり、他の者は、彼がよろめいて歩いてゆくとき、帽子をぬいで立ち、多くの人は、彼がそばをとおりすぎていくと、「神さまのみ助けが授かりますように!」と叫んでいた。
「ねえ!」自分の幼い道案内の母親が住んでいる小屋のところで足をとめて、老人はいった、「ここの人たちがほとんどみんな、きょう、喪服を着てるのは、どういうことなんです! 喪のリボンやクレープを、ほとんどだれにも見受けるんですがね?」
「わかりません」この女は答えた。
「いやあ、きみ自身も――きみも喪をつけてますね?」彼はいった。「ふだん昼間には絶対に閉めない窓が閉じられてる。これはどういうことなんです?」
また「わかりません」と女はくりかえした。
「もどらにゃならん」あわただしく老人はいった。「これがどういうことか、調べなけりゃならんのだからね」
「いえ、いえ」老人をひきとめて、子供は叫んだ。「約束を忘れないでください。ぼくたちのいくとこは、古い緑の小道で、そこにはあの人とぼくがよくいき、あの人の庭のために花環をつくってるのを、おじいさんが何度もみかけたことがある場所なんですよ。もどったりはしないでください!」
「あの娘はどこにいるんだ?」老人はたずねた。「それを教えてくれ」
「知らないんですか?」子供は答えた。「たったいま、あの人のとこから出てきたばかしでしょうが?」
「なるほど。なるほど。いま出てきたのは、あの娘のとこからだったね――そうかい?」
彼は片手を額におしつけ、あたりをうつろにみまわし、いきなり浮んだ考えにつき動かされたといったように、道を横切って、墓掘り男の家にはいっていった。墓掘り男とその助手は、火の前に坐っていた。はいってきたのがだれかをみて、ふたりとも立ちあがった。
子供は大急ぎで、このふたりに手で合図を送った。それは一瞬の動きだったが、それと老人のようすだけで、もう十分だった。
「きょう、だれかをきみたちは――きみたちは埋めるのかね?」むきになって、老人はたずねた。
「いや、いや! だれを埋めるというんですね?」墓掘り男は答えた。
「そう、まったくだれなのかな? きみといっしょにわしはいうが、だれなのかな?」
「きょうは、わたしどもの休みの日でしてね」ものやわらかに墓掘り男は答えた。「きょうは仕事がないんですよ」
「うん、そんなら、きみの好きなとこにいくとしよう」子供のほうに向いて、老人はいった。「きみがいったことにまちがいはないね? 嘘をついたりはしないだろうな? この前会ってからのわずかの時間のうちに、わしは変ってしまったんだ」
「あの坊やといっしょにおいでなさい」墓掘り男は叫んだ、「そして、神さまがあんた方ふたりとともにありますように!」
「わしはすぐにいくよ」おとなしく老人はいった。「さあ、坊や――」こういって、彼は少年に案内されて出ていった。
そしていま、鐘――彼女が夜となく昼となくじつにしばしば耳にし、生きた声と同じように厳粛なよろこびを感じながら聞いていたあの鐘――が、ああも若く、ああも美しく、ああも親切だった彼女のために、その無情の|弔鐘《ちようしよう》をゆるやかに鳴らしていた。よぼよぼの老人、たくましい壮年の男女、若い盛りの者、自分では動けない赤ん坊が、彼女の墓のまわりに集ろうと――松葉杖をつき、力と健康の絶頂、将来のみこみの豊かなつぼみ、人生のまだ夜明けの状態で――流れだしてきた。目がかすみ感覚もおぼつかなくなった老人――十年前に死んでもやはり老人と呼ばれたような老婆――耳の聞こえない者、目の見えない者、足の不自由な者、手足のしびれた者、さまざまな姿をした生けるしかばねが、この幼い者の墓が閉じられるのをながめようと、そこに集ってきた。まだ地上をはって歩ける者にくらべたら、その墓が閉じこめる死はどんなものだろう!
いま、人の立てこんでいる小道ぞいに、人びとは彼女を運んでいった。彼女は、道をおおっている新しく降りつもった雪のように清らか、その地上での期間は、雪のようにはかないものだった。慈悲深い神さまがこの安らかな場所に彼女をみちびいてくださったとき、彼女がよく坐っていた教会の玄関の下を、彼女はふたたびとおっていった。そして、古い教会は、そこの静かな陰に彼女を受け入れた。
人びとは彼女を古い片隅に運んだが、そこは、彼女が何回となく物思いに沈んで坐っていた場所だった。そして、舗装した床の上に運んできたものを静かにおいた。彩色の窓をとおして光がその上に流れこんできたが、その窓辺は、夏には木の枝がいつもざわめき、鳥が一日じゅう美しい歌声でさえずっていたところだった。陽光につつまれてこうした枝の中で動く風のそよぎのたびごとに、ふるえて変化する光が、彼女の墓の上に投げかけられた。
土は土に、灰は灰に、|塵《ちり》は塵にもどっていく! 多くの若い手は小さな花環を落し、多くのおし殺したすすり泣きがもれてきた。何人かは――それもそうとうの数の人だった――ひざまずいた。すべての人の悲しみは、誠実で真心のこもったものだった。
おつとめの儀式がすむと、会葬者は、わきに立ち、舗装の石がもとの場所にもどされる前に墓の中をひと目みようと、村人たちは墓のまわりに集った。ある人は、ちょうどこの場所に彼女が坐っているのをながめ、彼女のもっていた本が彼女の膝に落ち、彼女が物思いに沈んだ顔をして空をジッとみつめていたようすを、心に思い浮べた。べつの人は、ああした彼女のようなきゃしゃな娘が、どうしてああも勇敢だったのだろう? 夜ひとりで教会にはいるのを絶対にこわがらず、あたりが静まりかえっているのに、そこにいるのを好み、厚い古い壁の中の小窓をとおして忍びこむ月の光しかないのに、塔の階段を登るのをどうして好んでいたのか、自分にはとてもわからない、といっていた。彼女が天使をながめ、それと語っていたのだというささやきが、いちばん年配の老人たちのあいだでかわされ、彼女のようす、話しぶり、その早い死を思い浮べたとき、じっさいそうだったのかもしれない、と考えている人もあった。こうして、人びとは、わずかな群れになって墓をおとずれ、墓をみおろし、ほかの人たちに場所をゆずり、三々五々ささやきながら散っていって、やがて教会にいるのは、墓掘り男と悲しみに暮れた友人たちだけになった。
彼らは、地下納骨所が閉められ、石のふたがおかれるのをみた。そして、薄暮が近づき、物音ひとつこの場所の神聖な静けさを乱さなくなったとき――明るい月がその光を墓と記念碑、柱、壁、アーチ、なかんずく(と彼らには思えたのだが)彼女の静かな墓の上に注いだとき――外のものと心の中の思いすべてが不死の確信にあふれ、世俗的な希望と恐怖がその確信の前で屈辱を受けて塵まみれになるあの静かなとき、おだやかで従順な心を胸にいだいて彼らはもどり、この子供を神さまのみ手にゆだねた。
おお、こうした死が教える教訓を心にしっかりと刻みつけるのは、困難なことだ。だが、だれも、それをこばむことのないように。それは、人が学ばねばならぬ教訓、力強い普遍的な真理だからだ。死の神が若い罪のない者を打ち倒すとき、死があえぐ魂を解放するすべてのもろい姿ひとつにたいして、百もの美徳が慈悲、慈善、愛情の形をとって湧き起り、世間をめぐって、それに祝福を与えるのだ。こうした緑の墓の上に悲しみに打たれた人の流すすべての涙の|滴《しずく》から、ある善が生れ、あるやさしい性格が出てくる。破壊者死のとおった足跡には、その力に挑戦する輝くものが湧き起り、死の暗い小道は、天に通じる光の道になるのだ。
老人がもどってきたときは、もうおそくなっていた。帰り道で、少年はなにか口実をつくって老人を自分の家につれこみ、ながい散歩と最近の休息不足で彼は眠くなり、炉のそばで深い眠りに落ちこんでしまった。彼は疲労|困憊《こんぱい》し、家の者は彼を起さぬようにと心を配っていた。この睡眠は彼をながいことそこにおさえておき、とうとう目をさましたときは、月が輝いていた。
弟の独身男は、老人がながいこと姿をあらわさないので心配になり、戸口で彼の帰るのを待っていたが、そのとき、道案内といっしょに、彼の姿が小道にみえた。弟は、前に出ていってふたりをむかえ、老人をやさしく自分の片腕にもたれかからせ、ゆっくりとふるえる足どりで彼を家につれていった。
老人は、すぐ、彼女の部屋にいった。そこにのこしておいたものがみつからなかったので、気がくるったような顔をしてみなが集っている場所にもどってきた。そこからは、彼女の名を呼びながら、先生の小屋の中に突っ走っていった。みなは彼のすぐあとを追い、無益な彼の探索が終ってから、彼を家につれもどした。
憐憫と愛情が語ることができる説得の言葉で、彼らは彼に説いて、自分たちのあいだに坐らせ、自分たちの話を聞かせることになった。ついで、すべてのちょっとした策略を使って、これから起ることにたいして彼に心構えをつくらせようとし、多くの熱のこもった言葉で、彼女に与えられた幸福な運命を語って、とうとう老人に事実を話した。彼らがそれを口に出した瞬間、老人は、まるで殺された人間のように、彼らの中で倒れてしまった。
ながい何時間ものあいだ、老人が死ぬものとしか、人は考えていなかった。だが、悲しみはたくましいもの、彼は回復した。
死のあとにつづく空白感――ぐったりとしたうつろさ――なにか親しみをもち愛していたもの、感覚のない無生物と追憶の対象との結びつきがどこを向いても目にはいらなくなったとき、すべての家の守護神が記念碑になり、すべての部屋が墓になったときのそうした空白感を少しも知らないでいる人がいるとしたら――こうしたことを知らず、自分の経験でそれを味ったことがない人がいるとしたら、そうした人たちは、この老人がどんなに何日間も嘆き悲しんで日を送り、なにかを求めてさまよい歩き、心のなぐさめはなにも得られなかったことを、かすかなりとも推測することはできないだろう。
どんな思考力と記憶力を彼がとどめていたにせよ、それはすべて、彼女に結びつけられていた。自分の弟については、絶対に理解せず、理解したがっているようにもみえなかった。すべての愛情と配慮の表示にたいして、無頓着な状態をつづけていた。もし彼らが――ひとつの問題をべつにして――あれやこれやのことを話しかけても、彼はそれをしばらく辛抱して聞き、それからフッと向うを向いて、以前どおりの探求をつづけていた。
彼と彼らの心にあったあのひとつの問題についてふれることは、不可能だった。死んでしまった! 彼はその言葉を聞き、それに堪えることができなかった。少しでもそれにふれると、それがはじめて語られたときと同じように、激しい発作が彼を襲った。どんな希望をもって彼が生きているのか、だれにもわからなかった。だが、彼女をふたたびみつけだすというある希望――日ごと日ごとにのばされ、彼を日ごと日ごとに弱らせ、心のなやみを深くしているなにかあるかすかな、影のような希望を彼がもっていることは、明らかだった。
この最後の悲しみの場所から彼をうつし、転地が彼を元気づけなぐさめるかどうかためしてみようと、彼らは考えた。彼の弟はこうしたことの専門家と考えられている人たちの意見を求め、そうした人たちはやってきて、老人を診察した。一部の専門家は、この場所に滞在して、老人が話す気分になったとき、彼と話し、彼がただひとりだまってあちらこちらを歩きまわっているとき、その彼を観察した。彼をどこにうつそうとも、彼はいつもここにもどろうとするだろう、彼の心はその場所の上をかけめぐっている、彼をしっかりと閉じこめ、彼をきびしく監視しつづけたら、彼を捕えることはできるだろうが、なんらかの手段で脱走できたら、彼はたしかにここにさまよいながらもどってくるか、道中で死んでしまうだろう、以上が専門家の意見だった。
老人が最初よくいうことをきいていた例の少年は、もう、彼を動かすことができなかった。ときどき少年が自分のわきを歩くのを許し、少年の存在に気づいて、彼に手を与え、足をとめて彼の頬にキスしたり、頭を軽くたたいたりはしていた。またべつのときには、彼に――不親切とはいえない態度で――向うにいってくれとたのみこみ、彼がそばにいるのに堪えられぬふうだった。だが、ひとりでいようとも、このおとなしい友といっしょにいようとも、また、運よく方法がみつかりさえしたら、どんな代償と犠牲を払おうとも、彼に心のなぐさめと安らぎを与えようとしている人たちといっしょにいようとも、老人はいつも同じ――人生のどんなものにも愛情と顧慮はなく――心を打ちくだかれた人間になっていた。
とうとう、ある日、老人が早く起きだし、背に物入れ袋を負い、杖を手にし、彼女自身の帽子、彼女がいつももっていたものをいっぱいつめた小さな籠をもっていってしまったことがわかった。遠くひろく彼をさがそうとみなが準備しているとき、おびえたひとりの生徒がやってきて、ほんのちょっと前、老人が教会で――彼女の墓の上に坐っているのをみた、と伝えた。
彼らは急いでそこにゆき、ドアのところにソッと近づいて、ジッと辛抱強く待ちつづけている老人の姿をみた。彼らは,そこで彼の心を乱させたりはせず、その日一日じゅう、彼の監視をつづけた。すっかり暗くなると、彼は立ちあがって家にもどり、ひとりで「あの娘は明日来るぞ!」とつぶやいて、床にはいった。
その翌朝も、また、陽の出から夜になるまで、そこにいたが、夜になると横になってやすみ、「あの娘は明日来るぞ!」とつぶやいていた。
それから、毎日、終日、彼は墓のところで彼女を待ちつづけていた。楽しいいなかの新しい旅、自由なひろびろとした空のもとの休息、野や森の散歩、人のめったにかよわぬ小道、そうしたものの何枚の絵図――頭にしみこんで忘れ得ないあの声のどれだけ多くの調子、あの姿、ヒラヒラする服、風でじつに陽気に波立っている髪の何回かの|一瞥《いちべつ》――かつてはあり、いつかはもどってくると彼が期待していたもののどれだけ多くの幻想――が、あの古い、陰気な、静かな教会で、彼の前に湧き起ったことだろう! 自分がなにを考え、どこにいっているかは、絶対に口にしなかった。夜になると彼らといっしょに坐り、彼らにはわかったのだが、心中ひそかに満悦しながら、夜がふたたびおとずれる前に、自分と彼女がおこなう逃亡のことを考えていた。それでもまだ、彼が祈りの中で「主よ、明日はあの娘をもどらせたまえ!」とささやいているのが、彼らの耳に聞えてきた。
最後の時は、春のある快い日にやってきた。老人はいつもの時間にもどらず、彼らは彼をさがしに出かけていった。彼は石の上に倒れて死んでいた。
彼らは彼の遺骸を、彼がああまで深く愛していた彼女のわきに埋葬し、ふたりがときどき祈り、物思いにふけり、手に手をとってジッとしていたあの教会で、子供と老人はいっしょに眠ることになった。
最後の章
前にはクルクルとまわって、この語り手をここまでつれてきた魔法の糸巻きは、いまその歩調をゆるめ、とまってしまった。それは、ゴールの前にころがっている。追跡は終ったのだ。
道中でわれわれの仲間になった一群の人たちの指導者の退出をねがい、そして、旅の終りを結ぶことがのこっているだけである。
そうした連中のなかで、まず第一にわれわれの丁重な注意を呼ぶものは、腕を組んだあのお世辞のよいサムソン・ブラースとサリーである。
サムソン氏は、すでにお話したように、彼が訪問した裁判官にひきとめられ、その滞在をひきのばすように強くすすめられて、どうしてもそれをこばむことができなくなり、そうとうながい期間、裁判官の保護のもとにとどまることになった。そのあいだじゅう、接待主のすごい世話ぶりは彼をもうすっかりきびしい監視のもとにおき、その結果、社交界とはまったく没交渉、小さな舗装した中庭以外には、運動のためにどこにも出てゆくことができなくなった。じっさい、彼の遠慮深くてひっこみ思案の性格は、彼が相手にしなければならなくなった人たちによってじつによく理解され、彼らは彼が姿をかくすのを油断なくみはっていたので、彼がこの客もてなしのいい家を出るのを許す前に、ふたりの金持ちの家屋管理人にそれぞれ千五百ポンドの金額を一種の友好的契約書(保釈金のこと)として入れることを要求した――どうやら、一度放免されたら、それ以外のどんな条件でも、彼はもどりはしまいとにらんだからである。ブラース氏はこの冗談のおもしろさに打たれ、その精神をとことんまでやってのけようとし、ひろい知人の中からふたりの友人をえらび、その共有財産は十五ペンスに半ペンスほど足りぬもの、そして、その金を保釈金として提出した――というのも、これが双方でとりきめた愉快な約束の言葉だったからである。このふたりの紳士は二十四時間のふざけたわむれのあとで却下されたので、ブラース氏は滞在をつづけることに賛成し、じっさいに滞在をつづけ、とうとう、大陪審(一二―二三人から成り、起訴状を審査し、証拠十分と認めるとき、起訴を決定する。イギリスでは一九三三年に廃止)と呼ばれる一流人のクラブ(彼らもこの冗談に参加)が、偽証と詐欺の罪で、十二人のほかのおどけ者の前で彼の審査をおこなおうとして彼を召喚、この連中は、じつにおどけふざけて、大よろこびで彼を有罪と認め――いや、大衆自身もこの気まぐれにさそいこまれ、こうしたおどけ者たちが集っている建物にブラース氏が貸し馬車で運ばれていったとき、くさった卵や猫の死骸で彼に挨拶し、彼を粉々にひきさいてしまいたいという希望を表明、これはこの事件の喜劇性を大いに増大させ、疑いもなく、彼の興趣をますますつのらせることになった。
このふざけ気分をさらに推進させようと、ブラース氏は自分の依頼弁護士によって、身の安全の保証と恩赦の約束があったからこそ、自分は有罪を認めるように誘導されたとして、判決阻止の動議を提出し、こうしてだまされることになった人のいい人物にたいして法律が手をのばしている慈悲を要求することになった。厳粛なる論議をすませてから、この点は(その|諧謔《かいぎやく》気分をそれ以上誇張して述べるのは困難なことと思われるほかの専門的な点とともに)裁判官の判決に委託することになり、サムソンは、その間、前の住居にうつされることになった。最後に、論点の一部はサムソンに有利、他は不利の判決を与えられ、そのつまるところは、しばらくのあいだ海外旅行(オーストラリアに流刑になること)を要請されるかわりに、あるとるにたりぬ制約のもとで、母国に光彩をそえるのを許されることになった。
この制約というのは、ある期間、何人かの紳士方が国費で宿泊と食事を与えられている広大な|館《やかた》住まいをすることで、この連中は黄色の縁どりをした灰色の服を着て歩き、髪は極端に短く切られ、食事として主にかゆと、胃にもたれないスープを与えられていた。またさらに、果てしない階段(むかし監獄で、懲罰のために囚人に踏ませた踏み車)をたえず登っていく運動に参加するのを要求され、こうした運動には馴れていない彼の脚がそれで弱くならぬようにと、一方のくるぶしに鉄の|護符《ごふ》、または魔よけをつけることも要求された。こうした条件がきめられて、彼は、ある夕方、新しい住宅にうつされ、九人のほかの紳士とふたりの貴婦人といっしょに、王家御用の馬車(もちろん囚人護送車のことだが、その側面に王室の組み合せ文字がつけられていた)に打ち乗って隠退所に護送される特権を享受することになった。
こうしたとるにたらない罰に加えて、サムソンの名は弁護士の名簿から|抹殺《まつさつ》解消され、この抹殺は、最近においては、大きな名誉の低落、不面目、なにか驚くべき犯罪をおかしたものと、いつも考えられている――じっさい、じつに多くのくだらない名前がケロリとして弁護士名簿に載せられているのを考えれば、これが実状なのかもしれない。
サリー・ブラースについては、矛盾したうわさがいくつかひろまっている。彼女が男の服装をして船だまりにゆき、女水夫になったという者もいるし、第二歩兵近衛連隊の兵隊を志願し、制服姿で勤務についているのをみた、すなわち、ある晩、聖ジェイムズ公園の番兵小屋で銃剣に身を寄せかけて警戒している彼女をみた、となにかつかめぬふうにささやいている人もいた。こうした多くのささやきが流されていたが、五年が経過してから(そのあいだに彼女の姿がみかけられたという直接の証拠はない)、ふたりのみじめな人間が、何回となく、聖ジャイルズ(ロンドンの貧民地区)の奥まったところから夕暮れ時にソッとはいだし、足をひきずり、おびえふるえる姿で街路ぞいに進み、そうしながら、食べ物のくずや投げすてられたくず肉をあさって道路やどぶをのぞきこんでいる姿が見受けられたというのが、どうやら真相らしい。この姿がみかけられるのは、寒い陰気な夜にかぎってのことだった。ほかのときにはいつもロンドンのゾッとするかくれ場所、アーチの道、暗い地下室や穴蔵にひそんでいるおそろしい妖怪が、このときには、街路にはいだしてくるのだった。それは、病疫、悪徳、飢餓の肉体をおびた亡霊だった。それと気づいても当然と思われる人たちのあいだでは、これこそサムソンとその妹のサリーだと耳打ちされ、今日にいたるまで、天気のひどくわるい夜に、そこをおびえながらとおっていく人のほんのわきを、このふたりが前と同じいまわしい服をつけてすりぬけてとおっていく、といわれている。
クウィルプの死体は発見され――その後数日してのことだったが――それが岸に打ちあげられた場所の近くで検死がおこなわれた。彼が自殺したものと世間ではひろく考えていたが、彼の死の状況からみて、これが妥当と思われたので、評決はそういうことになった。さびしい道路の四つ辻で、心臓に杭を打ちこまれて、彼は埋められることになった(自殺者の墓から吸血鬼が出て眠っている人の生き血を吸うという中世の迷信のなごりだろうが、これは一八二三年に廃止された)。
このおそろしくて野蛮な儀式はとりやめになり、遺骸はひそかにトム・スコットにわたされたといううわさが、その後、流れていた。だが、この点でも、意見はわかれている。トムが真夜中に死骸を掘りだし、未亡人の指示した場所にそれを運んでいった、と伝えている人がいるからである。こうしたふたつの話の起りは、検死のさいに、トムが涙を流したという単純な事実――異常なことにみえるだろうが、トムはたしかに泣いていた――にあるのかもしれない。その上、陪審を襲撃しようとする強いねがいを彼は表明し、とりおさえられて法廷からつれだされると、敷居の上に逆立ちしてただひとつの窓を暗くし、とうとう最後に、用心深い教区吏員の手でたくみに突かれ、ふたたび足で立つことになった。主人の死で世に投げだされて、彼は逆立ちをして世をわたろうと決心し、そこで、生活の資をかせぐために、とんぼがえりをすることになった。だが、この商売で世に出るためには、イギリス人の生れがどうにもならぬ邪魔になることがわかったので(彼の|業《わざ》は高い評判をとってご|贔屓《ひいき》を受けていたのだが)、彼は肖像売りのイタリア人の若者(ロンドンのソホウやグレイズ・イン路には、古典的な人物や胸像のしっくいづくりのものを盆に入れ、頭に乗せ、肩にかついで、六ペンスから半クラウンで売り歩いているイタリアの植民地出身の青年の行商人がたくさんいた)で親しくしていた者の名をとり、その後、ものすごく成功し、あふれんばかりの観客にとんぼがえりの|業《わざ》をご披露におよんでいた。
小女のクウィルプ夫人は、自分の心に重くのしかかっていた一度のいつわりで良心の呵責に責め立てられ、それを考えたり口にしたりするたびに、涙に暮れていた。彼女の夫に親類がなく、彼女は豊かな身分になった。クウィルプは遺言状をのこさなかったが、それがあったら、彼女は、おそらく、貧乏人になったことだろう。最初の結婚を母親のすすめでおこなったので、二度目の結婚では、彼女はだれとも相談せず、ひとりできめてしまった。夫は、たまたま、とてもスマートな青年ということになり、彼の結婚の前提条件として、ジニウィン夫人が救貧院の院外扶助金受給者になるということが定められてあったので、結婚後の生活で、まあ普通程度以上の喧嘩はせず、死んだ小人の遺産で楽しい生活を送ることになった。
ガーランド夫妻とエイベル氏はいつものとおり外出し(すぐにおわかりのように、彼らの家に変化が起きたのはべつにして)、やがてエイベル氏はその友人の公証人と共同経営をすることになり、そのさいには、晩餐、舞踏会、大きな散財がおこなわれた。この舞踏会に、たまたま、じつにはにかみやの若いご婦人が招待され、この女性と、たまたま、エイベル氏は恋におちいることになった。それがどんなふうに[#「どんなふうに」に傍点]起きたか、どんなふうにふたりがそれに気づいたか、どちらがその発見を相手に伝えたかは、だれにもわかっていない。だが、やがてふたりが結婚したのはたしかなこと、彼らが幸福者のうちの最大の幸福者となったのは同じくたしかなこと、彼らがそうなる資格を十分にもっていたことも、それにおとらずたしかなことである。このふたりに子供が生れたことを書きしるすのは、愉快なことである。善良さと慈悲心の増殖は、性格の貴族階級にとって少なからぬ寄与、ひろく人間一般にとって少なからぬよろこびの種になるからである。
小馬は独立と主義主張を愛好する性格を生涯の最後の瞬間まで失わなかったが、この生涯は異常なくらいながいもの、じっさい、そのために、小馬の中の老パー(トマス・パーは一四八三年に生れ、一六三五年に死亡、一五二歳の長寿をたもったと伝えられている。ウェストミンスター寺院に埋葬された)とあおがれていた。彼は、ときどき、小さな軽四輪馬車をひいてガーランド氏とその息子の家のあいだを往復し、老人と若い夫妻はよく往き来していたので、息子の家にも自分のうまやをもち、そこには、いつも驚くほどの威厳ある態度で、人にひかれずに、自分ではいっていった。子供たちが彼と友人になれるくらいに大きくなると、彼は彼らと遊んでやり、まるで犬のように、小さな囲い地を彼らといっしょにかけまわっていた。だが、そこまではくつろぎ、子供たちに愛撫を、いや、自分の|蹄《ひづめ》をながめ、尻尾にぶらさがる程度のいたずらを許してはいたものの、彼らのだれにも自分の背に乗ったり、自分を走らすことは、絶対にさせなかった。こうして、彼は、子供たちのまじわりには限度がなければならない、彼らと自分のあいだにはいい加減にあつかうには事重大すぎる点があることを表示したのだった。
後年になって、彼は強い愛情を感知するようになった。牧師が死去して善良なバチェラーがガーランド氏といっしょに住むようになったとき、彼は、このバチェラーに大きな友情をいだくようになり、少しも抵抗せずに、彼の手で車を走らすのを許していた。死の前の二、三年はなにも仕事をせず、安楽にすごし、彼が最後にやったことは(怒りっぽい老人の紳士のように)、自分の医者を蹴っとばすことだった。
スウィヴェラー氏の病気の回復はとてものろく、年金を受けるようになると、侯爵夫人のためにたくさんの衣裳を買いこみ、熱病の床で立てた誓いを実行にうつして、彼女をすぐに学校に出した。彼女にふさわしい名前をしばらくあれこれと思案したあとで、口調もよし、上品でもあり、さらに神秘性をも示しているというので、ソフロウニア・スフィンクス(スフィンクスはギリシャ神話で、胸から上は女で、ライオンの、胴に翼を備えた怪物)の名を決定した。この称号のもとで、侯爵夫人は涙ながらに彼のえらんだ学校にゆき、抜群の成績をあげたので、何学期もたたないうちに上級の学年にうつされた。彼女の教育費で彼のふところは、六年間、とても窮屈になっていたが、彼の情熱はいささかもゆるむことなく、女の先生への月々の訪問で彼女の進歩ぶりの話を(いとも重々しく)聞くと、自分の労苦は十分につぐなわれたといつも感じていたとお伝えするのは、スウィヴェラー氏の労にたいして当然のことにすぎない。女の先生は、彼のことを風変りな癖のある文学的な紳士、じつにすごい引用の才能を備えた人物と考えた。
一言でいえば、スウィヴェラー氏は、侯爵夫人をどんなに少なく見積っても満十九歳になるまでこの学校におき――彼女は器量のいい、りこうな、愛想のいい娘になった。このとき、彼は、これから先彼女をどうしたらいいだろう? と真剣になって考えだした。この問題を心の中で思いめぐらしながら、あるとき、学校への周期的な訪問をしたとき、侯爵夫人はいつもよりもっとニコニコし、もっとみずみずしい姿で、ただひとり、彼のところにやってきた。このとき、これははじめてのことではなかったのだが、彼女が自分と結婚してくれたら、どんなに楽しくふたりはやっていけるだろうということが、フッと彼の頭に浮んできた。そこで、リチャードは彼女に申しこみ、彼女がなにをいったにせよ、それはノーではなかった。そこで、一週間後のその日、彼らは大まじめで結婚した。このことで、それからあとのさまざまなときに、スウィヴェラー氏は、結局のとこ、自分のために金を節約してくれた若いご婦人がいた、とことあるごとにいうことになった。
ハムステッドに小さな貸し家があり、そこの庭に文明世界があこがれ求めている喫煙用のあずまやがあったので、スウィヴェラー夫妻は、そこを借りることになり、蜜月旅行が終ると、そこにうつっていった。この隠遁所に、チャクスター氏は毎週日曜日にかならずおとずれて、一日をすごし――それは、ふつう、朝食とともにはじまった――ここで彼は一般の報道や流行界の情報を伝える大立て者になっていた。何年間かのあいだ、彼はキットの|不倶《ふぐ》|戴天《たいてん》の敵になり、青天白日の身分となったときより五ポンド紙幣をくすねたと考えられていたときのほうが、ズッと高くキットを評価していた、といっていた。キットの罪にはなにか大胆不敵なものがあり、彼の無罪は、卑劣で陰険な性格のもうひとつのあらわれにすぎない、というのがその理由だった。しかし、ゆっくりながらもだんだんと、彼は最後にはキットと和解することになり、ある程度心を入れかえたのだから、許さるべき人物として、キットに|庇護《ひご》の恩寵を与えるまでになっていった。だが、例の一シリングの件は絶対に忘れず、許しもせず、もう一シリングもらいにもどってきたら、りっぱなことだったろう、だが、前にもらった一シリングを働いてかえそうとしたのは、彼の人柄に加えられた重大な汚点、それは、どんなに悔いようとも洗い流せるものではない、とがんばっていた。
スウィヴェラー氏は従前も、ある程度、哲学的で瞑想的な傾向をもった人物だったが、ときどき、あずまやでひどく物思いにふけり、こうしたときに、心の中で、ソフロウニアの親についての神秘的な問題をいつもとつおいつ考えていた。ソフロウニア自身は自分を孤児と考えていたが、スウィヴェラー氏は、さまざまなちょっとした事情をつなぎ合せて、ときどき、ブラース嬢がそれ以上によく事情を心得、自分の妻から、ブラース嬢が奇妙な会見をクウィルプとおこなったことを聞いて、クウィルプが、生前その気になれば、この謎を解くことができたのではないか? といろいろと思いめぐらしていた。しかし、こうした思索は彼に不安の感じをいささかも与えてはいなかった。ソフロウニアはいつもじつに明るい、やさしい、思慮深い妻となっていたからである。そして、ディックは(チャクスター氏とときどきやり合うのはべつにして――彼女は良識を働かせて、この喧嘩に反対するより、むしろそれを奨励していた)彼女にたいしては愛情深いおとなしい夫だった。ふたりは、もう何万回となく、クリベッジの勝負をやっていた。ここでディックの名誉になることとして、われわれは彼の夫人のことをソフロウニアと呼んできたが、彼は、最初から最後まで、彼女を侯爵夫人と呼び、自分の病室に彼女の姿をみた日が毎年めぐってくるごとに、チャクスター氏は晩餐に呼ばれ、すごいお祭りさわぎがおこなわれたことを、ここでつけ加えさせていただきたい。
賭博師のアイザック・リストとジャウルは、文句のつけようのない名声をもったジェイムズ・クロウヴズ氏とともに、ときに運命の変転はありながらも、その進路を進み、ついに、その職業上の勇ましい一か|八《ばち》かの勝負で失敗して、チリチリバラバラになり、その進む道は、法律のながいたくましい腕で、いきなり妨害を受けることになった。この敗北の|発端《ほつたん》になったのは、新しい仲間――若いフレデリック・トレントの好ましからざる悪事|露顕《ろけん》にあり、こうしてトレントは、彼らと自分自身の受ける処罰の無意識の道具になったのだった。
この若者自身についていえば、彼は、しばらくのあいだ、海外で|放埒《ほうらつ》|三昧《ざんまい》の生活を送り、自分の才知で――というのは、正しく使えば人間をけだもの以上にたかめ、ひどく堕落すれば人間をけだものにもはるかにおとるものにしてしまうすべての能力の悪用で、暮しを立てていた。その後間もなく、彼の死体が、死亡前のなにかある格闘で起されたといわれていた打ち傷や顔形のくずれにもかかわらず、認知のために水死人がならべられているパリの病院(この死体公示場はセイヌ川河畔にある)に偶然おとずれた見知らぬ男によって、それと認められることになった。だが、この人物は帰国するまでこの秘密を胸にたたみこみ、死体を請求する者はだれもあらわれなかった。
弟、すなわち、独身男――この名称のほうがなじみ深いものになっている――は貧乏な先生をそのわびしい隠遁所からつれだし、自分の仲間と友人にしようとしていた。だが、つつましい村の先生は、思いきってさわがしい世界にとびだしていくのをおそれ、例の古い墓地にある自分の住み家をとても好きになっていた。自分の学校とこの場所で、あの彼女の哀悼者である子供の寄せる愛情につつまれて静かな幸福を味いながら、彼は平穏で物静かな生涯を送り、その友人の当然な感謝で――それについてはこの簡単な言葉で十分ということにしよう――もう貧乏な[#「貧乏な」に傍点]先生ではなくなった。
その友人――独身男なり弟なり、どちらでもよいのだが――は、心にひどい悲しみをいだいていたが、だからといって、人間ぎらいにもならず、修道院的な陰鬱さにつつまれるわけでもなく、自分の同類の人間の愛好者として、世間に出ていった。ながいながいあいだ、老人と子供の足どりを(彼女の最後の話からたどれるかぎり)たどって旅をし、ふたりが足をとめたところで足をとめ、彼らの苦難の場所では同情の心を温め、彼らがよろこんだところではよろこぶのを、いちばんの楽しみにしていた。彼らに親切にしてやった人たちが、彼の探索をのがれることはなかった。学校の姉妹――自分たちに友がなかったので、彼女の友人になったあの姉妹――ろう人形のジャーリー夫人、コドリンとショート――彼はそうした人たち全員をみつけだした。そして、たしかに、熔鉱炉の火をくべていた男を忘れることもなかった。
キットの話が世間に知れわたると、たくさんの友人が彼にあらわれ、彼の将来の世話を申しでる人も少なからずいた。キットは、最初、ガーランド氏のところのつとめをやめることなど、ぜんぜん考えてもいなかった。だが、当のガーランド氏がむきになって説いて忠告してから、いずれこうした変化が起きる可能性を考えはじめるようになり、よい職場がハッと息を呑むような素早さで彼に提供されたが、それをしてくれたのは、嫌疑をかけられて彼が罪をおかしたものと信じこみ、その信念にもとづいて行動した紳士たちのうちの何人かの人たちだった。同じ親切な人たちのとりはからいで、彼の母親は貧困から救いだされ、すっかり幸福を満喫した。こうして、キットがよくいっていたように、彼の大きな不幸は、後の彼の繁栄の原動力になった。
キットは生涯独身でいただろうか? それとも、結婚しただろうか? もちろん、結婚したし、その妻といって、バーバラ以外にだれがあろうか? いちばんすばらしい点は、彼がいち早く結婚したことで、その結果、チビのジェイコブは、この話でもう述べた彼のふくらはぎがまだ広幅黒ラシャのズボンにつつまれないうちに、叔父の身分になっていた――これは、いちばんすばらしいこととはいえないのだが……。というのも、当然のことながら、赤ん坊もまた叔父の身分になっていたからである。その晴れの機会でのキットの母親とバーバラの母親のよろこびは、もう筆舌につくしがたいものだった。その点で、その上,ほかのすべての点で、意見がすっかり一致していることに気づいて、ふたりの母親は同じ家に住むことになり、それから以後、ズーッとじつに仲のいい友人になった。アストリー座は、彼らが三月に一度つれ立ってそこに――平土間に――ゆくことで、よろこぶべきいわれをもってはいなかっただろうか? そして、そこの外のペンキのぬりかえがおこなわれているとき、キットのこの前のおごりのおかげでそれができるようになったのだ、わたしたちがこの小屋の前をとおっていくとき、ここの管理人がそれを知ったら、なんというだろう? とキットの母親はいつもいっていなかっただろうか!
キットが六歳と七歳の子供をもったとき、その中にバーバラという娘がいて、彼女はまったくかわいいバーバラだった。また、みなからかき[#「かき」に傍点]がどういうものかを教わったときのチビのジェイコブのまさに生き写しも、いないわけではなかった。もちろん、エイベルという子がいたが、これは同じ名前のガーランド氏自身の名づけ子だった。スウィヴェラー氏の特にお気に入りになっていたディックもいた。キットの子供たちは、よく夜になると、彼のまわりに集り、死んでしまったあのよい人のネル嬢ちゃんについてのあの話をまたしてくれ、と彼にせがんでいた。キットはこの話をした。それを聞いて子供たちが泣き、もっと話をしてくれとせがむと、すべてのよい人がゆくように、ネル嬢ちゃんも天国にいった、お前たちもよい人間になれば、いつかはそこにいき、自分がまだ小さな少年だったころと同じように、ネル嬢ちゃんに会って話をすることができるようになるんだよ、と話してやった。それから、自分がいつもどんなに貧乏だったか、貧乏でとても勉強ができなかったこと、ネル嬢ちゃんが自分に勉強を教えてくれたこと、「あの娘はキットの話を聞いていつも笑ってる」といつも口癖のように老人がいっていたことを、キットは子供たちに話してやり、それを聞くと、子供たちは涙をふき払い、ネル嬢ちゃんも笑ったんだと考えて、彼ら自身も笑いだし、またすっかり陽気になった。
彼は、ときどき、子供たちをネルが住んでいた通りにつれていったが、新しい改装がそこの通りをすっかり変えてしまい、そこは同じものとはとても思えない通りになっていた。例の古い家はとっくのむかしにこわされ、美しいひろい通りがそこにとおっていた。最初、彼はステッキで地面に四角の図を描き、その家が立っていた場所を子供たちに教えようとした。だが、間もなく、その場所に自信がもてなくなり、この辺だと思う、こうした変化にはまったくとまどってしまう、としかいえなくなった。
わずか数年の年月がひきおこす変化はこうしたもの、そして、語り伝えられる話のように、すべてのものは消え去っていくのだ!
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C・ディケンズ (Charles Dickens)
(一八一二――一八七〇)イギリスを代表する作家の一人。法律事務所勤務、新聞の通信員などを経て作家の道に入る。『ディヴィッド・コッパーフィールド』『二都物語』『オリヴァー・トゥイスト』『クリスマス・キャロル』など多数の名作がある。
北川悌二(きたがわ・ていじ)
(一九一四――一九八四)東京に生まれる。東京大学卒業。東京大学教授を経て独協大学教授。訳書に『クリスマス・キャロル』他、ディケンズの作品多数がある。
本作品は一九七三年七月、三笠書房より刊行され、一九八九年九月、ちくま文庫に収録された。