骨董屋 (上)
C.ディケンズ/北川悌二 訳
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骨董屋 (上)
THE OLD CURIOSITY SHOP
1
老人の身だが、わたしの散歩の時間は、だいたい夜になっている。夏には、朝早く家を出て、ひねもす野原や小道をうろつきまわり、何日間、何週間も出つづけでいることもある。だが、いなかでの話はべつにして、夕闇になるまで外出することはまずない。ありがたいことに、どんな生物にもおとらず、昼の光とそれが大地にそそぐ陽気さを好んではいるのだが……。
この習慣は、それと気づかずに、身につけたものだが、虚弱なわたしのからだに好適で、街路を埋めている人びとの性格や職業をもっと好都合に調べる機会を与えてくれるのだった。真っ昼間のギラギラした輝きやあわただしさは、わたしのやっているようなとりとめもない仕事には不向きで、街路灯やショーウィンドウの光でサッととらえるとおりすがりの顔の|一瞥《いちべつ》のほうが、陽光のもとで顔があからさまに示されるより、役に立つことが多かった。事実ありていのことを申しあげるとすれば、この点で、夜は昼間より親切だ、ということができる。昼間は、空中楼閣ができあがった瞬間に、なんの遠慮|会釈《えしやく》もなく、よくそれをとっとと打ちこわしてしまうからである。
あの絶え間のない往来、あの果てしのない落ち着きなさ、ゴツゴツした石をすりへらしてツルツルした、なめらかなものにしてしまうあの休みのない足の歩み――せまい路地に住んでいる人たちがその音にジッと堪えているなんて、まさに驚きではないだろうか! こうした足音に耳をかたむけている聖マーティン小路といったところに住んでいる病人のことを考えてもみたまえ。苦痛と疲労の|最中《さなか》にあって、心ならずも(果たさねばならない苦しい仕事のように)、男と子供、深靴をはいたしゃれ者とかかとのつぶれた靴をはいた乞食、いそがしい人とブラブラしている人、胸をふくらませている道楽者のイソイソとした足とブラリブラリと歩いていく浮浪者の気のない足どりを聞きわけなければならないのだ――いつもこうしたざわめきが五感を襲い、その休みのない夢をつらぬいて、とどまることのない生命の流れがグングンとおし進み、この病人が、死んではいながらも意識をもちつづけて、さわがしい墓地に横たわるように運命づけられ、これから先何万年ものあいだ、休息のみとおしがぜんぜんないことを考えてもみたまえ!
ついで、テムズ川にかかった橋(少なくとも通行税をとり立てられない橋)の上をたえずゆきつもどりつしている群集がある。そこで、天気のよい夕方には、多くの人が足をとめてなんとはなしに|水面《みずも》に目をやり、この川がやがてだんだんとひろくなっていく緑の|堤《つつみ》のあいだを流れ、ついには巨大な海にそそぎこむものと、ぼんやり考えている。重い荷物からひと息ぬこうと足をとめる人もあり、その人たちは、手すり越しにみやって、動きのにぶい、ノロノロした運送船で、熱くなった防水帆布の上に横になり、陽光につつまれて、タバコをのみながら生涯をブラブラ送り、眠ったままでいるのが、もうまったくの幸福と考えている。また、これとはまったくちがった人たちで、もっと重い荷を背負った人もいる。彼らは、溺死は苦しい死でなく、自殺のなかでいちばん安楽なものと、そのむかし、だれかから聞いたか本で読んだことがあるのを思い出している。
春か夏の日の出時のコヴェント・ガーデン・マーケットもまた、同じである。美しい花の香気が大気ちゅうにただよい、前夜の|放蕩《ほうとう》でぐったりとした人の流れを圧倒し、夜じゅうズッと屋根裏部屋の窓の外につるされた鳥籠の中の黒ずんだつぐみ[#「つぐみ」に傍点]をよろこびで半狂乱にしている。かわいそうな鳥! ほかの小さな捕えられたものの同類として、そばにいるのはこの鳥しかいないのだ。そうした捕えられたものの一部は、それを買った酔いどれの熱い手からこぼれ落ちて、もう路上でしなだれ、しっかりにぎられたままのほかの花はふやけ、水を与えられて精気をとりもどし、もっとまともな人たちの心をなぐさめる時を待っている。仕事に出かける途中の老事務員たちは、そうした人の流れのわきをとおりすぎて、祖国イギリスの幻影で自分たちの胸をいっぱいにしてきたものはなんだったのだろう? と考えている。
だが、わたしのさし当っての目的は、自分の散歩についてながながと述べ立てることではない。これから語ろうとしている話は、こうした散歩のひとつから起き、こうしてまあ、はしがきといった具合いに、この散歩のことを述べる気になったしだいなのだ。
ある夜、わたしはブラブラと歩いて市内にはいりこみ、いつものとおりゆっくりと歩きながら、あれこれといろいろなことに思いふけっていたが、なにかものをたずねられて、フッとわれにかえった。そのいっている言葉はよくわからなかったが、どうやらわたしに呼びかけているものらしく、とても快く心を打つ、美しいやさしい声で語りかけてきた。わたしはあわてて向きなおり、ほんのすぐそばに美しい少女の姿をみたが、彼女は、そうとうはなれたところにある、まったくべつの地区のある通りへの道を教えてくれ、といっていた。
「そこは、娘さん、ここからとても遠いとこなんだよ」
「それは知っています」オズオズして少女は答えた。「ずいぶん遠いことでしょうね。今晩、わたし、そこから来たのです」
「ひとりでかい?」ちょっとびっくりして、わたしはたずねた。
「ええ、それはなんでもないけど、ちょっとこわくなったの。道に迷ってしまったんですものね」
「で、どうしてわたしに道をたずねたのだい? まちがった道を教えてしまうかもしれないのだからね」
「おじさんは、きっと、そんなことはしないことよ」この小娘はいった、「おじさんはとっても齢をとった紳士の方、とてもゆっくり歩いているんですもの」
このたのみの言葉とそのひたむきさで、わたしがどんなに強い感銘を受けたか、とてもお伝えはできない。彼女は、こうしてたのんで、澄んだ美しい目に涙を浮べ、わたしの顔をみあげてのぞきこみながら、ほっそりとしたからだをふるわせていた。
「さあ」わたしはいった、「そこへつれていってあげよう」
彼女は、わたしと手をつないだが、その態度は、ゆり籠の時代からわたしと知り合いといった信用しきったもの、ふたりはつれ立ってテクテクと歩いていった。この小娘は歩調をわたしの歩調に合せ、わたしが彼女を保護するというより、彼女が先に立ってわたしを案内し、世話をみているような感じだった。わたしは気づいていたが、彼女は、わたしがあざむいてはいないのをたしかめるといったふうに、ときどき、ソッと調べるようなまなざしをわたしの顔に投げ、こうした|一瞥《いちべつ》は(とても鋭くピリッとしたものでもあったが)、それをくりかえすごとに、彼女の信頼感を大きくさせたようだった。
こちらとしても、この子供と同じくらい、好奇心と興味を呼び起されていた。わたしのみたところ、彼女のとても小さなきゃしゃなからだは、その外見に独得の明るい若さを与えていたが、子供であることに変りはなかった。もっと豪華な服が似合うだろうと思われはしたものの、着ている服はじつに小ぎれいで、貧乏や構わずに放りだしになっているようすは、いささかもなかった。
「きみをひとりでこんなに遠くまで出すなんて、だれのお使いなのかね?」わたしはたずねた。
「わたしにとても親切なある人よ」
「それに、なにをしていたのかね?」
「それを口に出してはいけないの」この子供は答えた。
この返事をした態度に、なにかあるものがひそみ、それにつき動かされて、わたしは、つい驚きの表情を浮べて、この娘に一瞥を投げてしまった。質問されて、すぐ応答ができる心構えをしているなんて、その用件は、いったいどんなものなのだろう、とふしぎに思ったからである。彼女の素早い目は、こちらの心を読みとったようだった。ふたりの目があったとき、彼女は、自分のしていることで、べつにいけないことはないのだが、それは大事な秘密――自分自身だって知らない秘密だ、といいそえた。
この語りぶりには、|狡猾《こうかつ》さやあざむきのようすは少しもなく、いかにも真実を思わせる影のない率直さが示されていた。彼女は、いままでどおり、ズンズンと歩いてゆき、足が進むにつれて、わたしとの親しみは増し、歩きながら陽気にしゃべっていた。自分の家について、もうそれ以上のことはいわず、ただ、今歩いている道はぜんぜん知らない道、それは近道なのかしら? とたずねただけだった。
こうして話をしていながら、わたしは心の中で、この謎の説明をあれこれととめどなく考えていたが、ピタリとする答えはどうしても出て来なかった。自分の好奇心を満足させようと、この子供の純真さや感謝の気持ちに乗ずるのは、いやだった。わたしはこうした小さな子供たちが大好きで、神のみ手からはなれたばかりの子供たちに愛されるのは、ありがたいことだった。彼女に信頼を寄せられて、最初、わたしは心うれしく思ったが、その信頼を裏切ることはすまい、信頼をわたしにおくようにさせたその性格をしっかり立ててやろう、とわたしは腹を決めた。
だが、無思慮にもこの娘をこんなに遠く、夜ひとりで使いに出した人物と会うのをはばかるべき筋は、べつになかった。家の近くに来たのを知ると、彼女がさよならといってそのままになってしまうのも十分に考えられることだったので、わたしは雑踏している道をさけ、とても入り組んだ複雑な道を進んでいった。こうして、めざす通りに出てはじめて、彼女は、わたしたちのいる場所がわかることになった。よろこびで手をたたき、わたしの前を少しはなれて走っていって、わたしと友だちになったこの子供は、ある戸口のところで足をとめ、わたしが追いつくまで入り口の階段の上に立ち、それから、そこをノックした。
その戸は、一部ガラスをはめられ、よろい戸はかけられていなかった。これは、すぐに気づいたことではなかった。奥はすっかり暗く、物音ひとつ立てず、わたしは(子供もそうだったのだが)、彼女のノックにたいする応答をジリジリして待っていたからである。このノックを二度か三度くりかえすと、中で人が動いてるような音がし、かすかな光がガラス越しにみえてきた。この灯りをもった人物がとり散らしたたくさんの物のあいだをとおりぬけなければならなかったので、その歩みはとてものろかったが、その光の具合いで、こちらにやってくる人物がどんな人か、彼がとおりぬけている場所がどんなものなのかが、わたしにわかってきた。
その男は、ながい灰色の髪をした、小柄な老人だった。頭上に灯りをかかげ、前をみながら進んできたとき、その顔と姿がわたしにははっきりとみえてきた。寄る年波でようすはとても変ってはいるものの、その痩せたほっそりとした姿に、この子供にみつけたあのきゃしゃなからだつきの|面影《おもかげ》がなにかあるように思えた。明るい青い目は、たしかに、似ていたが、顔は深いしわだらけで、|憂《うれ》いにあふれたものだったので、顔に似ているところは認められなかった。
この老人がゆっくりと進んできた場所は、骨董品をおさめてある場所で、そうした品物は、この町の片隅にひそみ、警戒と不信の目を光らせて、そのほこりだらけの宝を大衆の目からかくしているような感じだった。そこここに、|甲冑《かつちゆう》をつけた亡霊のように、鎖かたびら一式があり、修道僧のいた寺院から運びだされた奇妙な彫り物、さまざまな|錆《さび》ついた武器、陶器、木、鉄、象牙でつくったゆがんだ姿、つづれ|錦《にしき》、夢の中でつくりだされたかと思われる奇妙な調度がならんでいた。この小柄な老人の気味のわるいほどやつれたようすは、驚くほどこの場にふさわしいものだった。古い教会、墓、打ちすてられた家をこの男が手さぐりでさがし、こうした掠奪品すべてを彼自身の手で集めたともいえるものだった。|蒐集《しゆうしゆう》した品物は、いずれもそろって、彼に似合いのもので、どんな物も、彼以上に古いもの、彼以上にすり減っているものにはみえなかった。
錠前の鍵をまわすと、彼は多少驚いたようすを浮べてわたしの姿をみていたが、目をわたしから子供にうつしたときも、その驚きの色は減少してはいなかった。ドアが開くと、子供は彼をおじいちゃんと呼び、われわれがいっしょになったいきさつを簡単に話した。
「いやあ、お前」老人はいい、彼女の頭を軽くたたくと、「どうして道に迷ったりしたんだい? お前がいなくなったら、大変なことになるんだよ、ネル!」
「おじいちゃん、わたし、ち[#「ち」に傍点]ゃ[#「ゃ」に傍点]ん[#「ん」に傍点]と[#「と」に傍点]ここにもどってくることよ」臆する色なく、子供は答えた、「心配しないで」
老人は子供にキスし、わたしのほうに向いて「おはいりください」といい、わたしはそのとおりにした。戸は閉められ、錠がおろされた。彼は灯りをもって先に立ち、わたしがもう外からながめていた場所をとおって案内し、その背後にある小さな居間にわたしをつれていった。そこには、もうひとつべつの戸があり、それはまあ小部屋といったものに通じ、そこには妖精の寝台ともいえる小さな寝台があった。それはとても小さく、じつにかわいく、きれいな寝台だった。子供はろうそくを手にし、老人とわたしを居間にのこして、この小部屋に軽い足どりではいっていった。
「おつかれでしたでしょう」炉の火の近くに椅子をひきよせて、老人はいった、「ほんとうに、どうお礼してよいのか、わからぬくらいです」
「お礼って、これから先お孫さんのことをもっと考えてやってくだされば、それで十分ですよ」わたしは答えた。
「もっと考えろですって!」キンキン声になって老人はいった、「ネリーをもっと考えろですって! いやあ、だれより、このわたしがネルをいちばん愛してるんですよ!」
驚きをむきだしにして彼がこういったので、わたしは返答に困ってしまった。老人の態度に示されているなにか弱々しくとりとめないものといっしょに、その顔には、深い苦慮のしるしが刻みつけられていたので、わたしの|狼狽《ろうばい》はいっそう大きなものになった。その顔からみて、最初考えようとしていたほど、子供を溺愛したり、老人らしいおろかさにおちいっているものとは、たしかに思えなかった。
「あなたがお思いとは考えませんがね――」わたしは切りだした。
「わたしが思ってないですって!」わたしの言葉をさえぎって、老人は叫んだ、「わたしが、あの子のことを思ってないですって! ああ、あなたは事実をなにもご存じないんです! かわいいネリー、かわいいネリー!」
この最後の短い叫びで、この骨董屋があらわした愛情――その表示法はどのようなものにせよ――以上の愛情を表示するのは不可能なことだろう。こちらでは彼が話しだすのを待っていたが、彼は|顎《あご》を手でささえ、頭を二度か三度ふって、ジッと炉の火に見入っていた。
こうしてふたりがだまって坐っていると、小部屋のドアが開き、子供がもどってきたが、その明るい褐色の髪は首のあたりにゆるくさがり、われわれのところに急いでもどろうとしたため、顔は赤らんでいた。彼女はあわただしく夕食の準備にとりかかった。こうして彼女が仕事をしているあいだ、老人が前よりもっと細かに調べようと、わたしをジッとみていることがわかった。このあいだじゅう、すべてのことが子供の手でおこなわれ、この家にはほかにだれもいないのを知って、わたしはびっくりした。彼女が座をはずしたとき、この点について思いきってそれとなくたずねてみたが、それにたいする老人の答えは、彼女ほど信頼でき、彼女ほど注意深い者は、大人でもまずいない、ということだった。
「いつも悲しいことに思っているんですがね」老人の利己主義とも思えたこの行為に刺激されて、わたしはいった、「子供たちがまだ幼児の時期もぬけてないのに、世の荒波の中にはいっていく姿をみると、いつも悲しいことに思っているんです。信頼感と純真さは、神さまから授かった子供たちの最高の性格ですが、世に出ると、それが阻害され、世のよろこびをまだ味えぬうちに、世の悲しみを知ることになるんですからね」
「あの娘の場合には、絶対にそんなことはありません」わたしをしっかりみすえて、老人はいった、「春はまだまだ先のことです。その上、貧乏人の子供たちは、よろこびをほとんど知ってはいません。子供時代の安価なよろこびさえ、お金で買い、支払いをしなければならんのですからね」
「でも――こう申しては失礼なことですが――あなたは、たしかに、そう貧乏だとは思えませんけどね」
「あの|娘《こ》はわたしの娘ではありません」老人は答えた。「あの娘の母がわたしの娘で、娘は貧乏でした。ごらんのとおりな生活をしてはいますが、貯えはなんにも――びた一文も――ありません。でも」――彼は手をわたしの腕に乗せ、前にかがみこんで、ささやいた――「あの娘は近く金持ちになり、りっぱな貴婦人になりますとも。あの娘の手を借りてるからといって、わたしをわるくは思わないでください。ごらんのとおり、彼女は明るく手助けをしてくれ、あの小さな手でできることを、だれかほかの人にさせたりしたのを知ったら、彼女は嘆き悲しむでしょう。わたしが考えてはいないですって!」急にプリプリして、彼は叫んだ、「いやあ、あの子だけがわたしの生涯の思いの目的になっているのは、神さまもご存じ。でも、うまくとり計らってはくださらんのです――そう、絶対にね!」ちょうどこのとき、わたしたちの話題の人物がまたもどり、老人は身ぶりでテーブルに近づくように知らせて、話を切り、だまりこんでしまった。
食事をはじめるかはじめないかに、わたしがはいってきたドアのところでノックの音がし、ネルは元気にワッと笑いだして、キットがとうとうもどってきたのにちがいない、といった。この彼女の笑いは、聞いて楽しいものだった。いかにも子供っぽく、陽気さにあふれていたからである。
「おバカさんのネル!」彼女の髪をなでまわしながら、老人はいった。「かわいそうに、いつもキットのことを笑ってからかっているんですからね」
子供は前より元気にまた笑いだし、わたしも、ついそれにつられて、ニッコリしてしまった。小柄な老人は、ろうそくを手にとり、ドアを開けにいった。もどってきたとき、そのうしろにはキットがいた。
キットは、頭の髪のモシャモシャした、足をひきずって不細工に歩く少年、口は異常に大きく、頬はとても赤く、鼻はツンと上向き、そのときまでにみたことがないほどの喜劇的な顔つきをしていた。よそ者のわたしの姿をみて、彼はドアのところで足をとめ、へりのなごりは一切消滅してしまったクルリとまるい古帽子を手の中でねじり、交互に片脚で立ちつづけながら、戸口のところにへばりつき、みたこともないじつに妙ちくりんな流し目を送って、居間をのぞきこんでいた。その瞬間から、わたしはこの少年が好きになった。彼が子供の生活の喜劇をあらわしている、と感じたからである。
「道は遠かったろう、どうだい、キット?」小柄な老人はたずねた。
「ええ、そういえば、かなりありましたね、旦那さま」キットは答えた。
「家はすぐみつかったかい?」
「ええ、そういえば、あんまり楽ではありませんでしたよ、旦那さま」キットはいった。
「もちろん、腹ペコだろうね?」
「ええ、そういえば、だいぶ腹が|空《す》いてるようです、旦那さま」が返事だった。
この少年には、話しながら、横向きに立ち、肩越しに頭をつきだして、その動作をつけないと声が出ないといったような奇妙な癖があった。彼はどこででも人を楽しませただろうが、彼の奇妙さをこの娘がとても楽しんでいる気持ちと、彼女にいかにもふさわしくないと思われるこの場所に、彼女が陽気さと結びつけて考えているなにかがあると知って感ずるホッとした気分は、抵抗しがたいほど強いものになった。ここでまた重要なことは、キット自身が自分のつくりだしたこの感情でいい気分になり、|生《き》まじめな態度をもちつづけようと何度かしたあとで、とうとうワッと大声で笑いだし、その激しい笑いで、口をパックリと大きく開き、目をほとんど閉じた状態になっていたことだった。
老人は、このときにはもう、以前の|呆然《ぼうぜん》とした状態にもどり、いま起きていることに注意を払ってはいなかった。しかし、笑いが終ってから、この女の子の輝く目は、涙でくもらされた。この涙は、この夜のちょっとした心配のあとで、この妙なお気に入りの少年をよろこびむかえた心のたかまりで湧いてきたものだった。キット自身はといえば(その笑いは、いつも、泣くのと紙一重といったものだった)、大きなパンと肉のきれひとつとビール一杯を部屋の隅にもっていって、すごくガツガツして、それを平らげようとしていた。
「ああ!」わたしがちょうどそのとき話しかけたようなふうに、ため息をつきながらわたしのほうに向きなおって、老人はいった、「あの娘のことを考えていない、とそちらがおっしゃったとき、あなたは自分のおっしゃってることをご存じではなかったんです」
「ちょっとみただけでいった言葉を、そう気にしてはいけませんよ」わたしはいった。
「わかりました」考えこんで老人は答えた、「わかりました。ネル、こっちにおいで」
少女は、その座席から急いでゆき、片腕を老人の首にまわした。
「わしはお前を愛してるかい、ネル?」老人はいった。「答えておくれ。わしはお前を愛してるかい、それとも、ちがうかい、ネル?」
女の子は愛撫だけでその答えをし、頭を老人の胸にうずめた。
「どうして、お前、泣くんだい?」おじいさんはいい、さらに強く彼女を抱きしめ、わたしのほうをチラリとみた。「泣くのは、わしの愛情をお前が知り、さもそれを疑ってるように、そんな質問をされるのがいやなためだったのかい? わかった、わかった――じゃ、わしがお前をとても愛してるということにしておこう」
「ほんと、ほんと、そうなのよ」すごくむきになって、子供は答えた、「それは、キットも知っていることよ」
パンと肉の処分で、魔術使いの冷静さをもって、ひと口ごとにナイフの三分の二を喉元まで刺しこんでいたキットは、こう自分のことを引き合いに出されて、作業を中途でやめ、「知らんというほどの大バカ者はいるもんですか」と大声でわめき、その後、とてつもなく大きなサンドウィッチにガブリと|噛《か》みついて、もうそれ以上口がきけなくなってしまった。
「この|娘《こ》は、いまは、たしかに貧乏ですよ」子供の頬を軽くたたいて、老人はいった、「だが、もう一度くりかえして申しますがね、この娘が金持ちになる時期は近づいてるんです。来るのにずいぶん時間がかかりはしたものの、最後には来なければならんのです。とてもながい時間でしたが、たしかに来るにちがいないんです。それは、むだ使いをし|放埒《ほうらつ》な暮しをしているほかの男たちのところへは、もうおとずれたんです。いつそれがわたしのところに来るつもり[#「来るつもり」に傍点]なんでしょうかね?」
「おじいちゃん、わたし、いまのまんまでとても幸福なのよ」子供はいった。
「チェッ、チェッ!」老人は答えた、「お前は知らないんだ――どうして知ることができるもんか!」それから、口の中でモゴモゴとつぶやいた、「その時は来なければならん、そうなることを、かたく信じてる。来るのがおそいだけに、なおうれしいもんになるだろう」彼は|吐息《といき》をつき、前の物思いに沈んだ状態に落ちこみ、まだ子供を両膝のあいだにかかえたままで、あたりのことすべてを忘れているようだった。このときにはもう、数分すれば真夜中の十二時、そこで、わたしは立ちあがって、帰ろうとした。この動きで、彼はハッとわれにかえった。
「ちょっと待ってください」彼はいった。「さあ、キット――もう十二時近くだよ、まだここにいるなんて! お帰り、お帰り、明日の朝は、おくれずに来るんだよ。仕事があるんだからな。おやすみ! ほら、ネル、キットにおやすみをいって、家に帰すんだよ!」
「おやすみ、キット」明るさとやさしさで目を輝かして、子供はいった。
「おやすみなさい、ネル嬢さん」少年は応じた。
「それに、こちらの方にもお礼をするんだよ」老人は口を入れた、「この方にご心配いただけなかったら、今晩子供はもどって来なかったかもしれないんだからね」
「いいえ、いいえ、旦那さま」キットはいった、「そんなことにはなりませんよ、なりませんとも」
「というのは、どういうことだね?」老人は叫んだ。
「わたしが[#「わたしが」に傍点]さがしだしたでしょうからね、旦那さま」キットはいった、「わたしがさがしだしたでしょうからね。天国にいってしまっても、きっと、さがしだしますよ。だれにも負けずに、素早くね、旦那さま! ハッ、ハッ、ハッ!」
ここでもう一度、口を開いて目を閉じ、大声をはりあげる布告人のような高笑いをして、キットはドアのところまでジリジリとさがり、笑いながら外に出ていった。
部屋から出ると、少年は、さっさとひきあげていった。少年が去り、娘がせっせとテーブルの片づけをしているとき、老人はいった、
「今晩のご恩にたいして、わたしはまだ十分にお礼を申し述べなかったようです。でも、心の底から、感謝してます。あの娘も同じことです。そして、あの娘の感謝は、わたしの感謝より貴重なもの。それにしても、このままお別れして、あなたのご親切を忘れ、あの娘のことを気にしていないと考えられるのは、いかにも残念なこと――じっさい、そうではないんですからね」
いままでみてきたことから、そうでないのを確信している、とわたしは答えたが、「でも」といいそえた、「ひとつおたずねしていいでしょうか?」
「ええ、どうぞ」老人は答えた、「どんなことでしょう?」
「あのきゃしゃな娘さんのことですが」わたしはいった、「あんなに美しく、あんなに利口で――あの娘さんの世話をみる人は、あなた以外にいないんですか? ほかに仲間とか、注意をしてくれる人はいないんですか?」
「いません」心配そうにわたしの顔をのぞきこみながら、彼は答えた、「いません。そして、あの娘にしても、そうした人を望んではいないんです」
「でも、心配にならないでしょうか」わたしはいった、「あんなかよわい娘さんの世話がきちんとできるもんかとね? たしかに好意でなさってることでしょうが、こうした預りもののあつかいに確信をおもちなんですか? わたしも、あなたと同じ老人、わたしがこうして申すのも、若くて将来ある者への老人の心配からなんです。今晩、あなたとあの小さな娘さんのようすをみて、わたしは考えてしまうんですが、そうした考えの中には苦痛もまじってるとお考えではありませんか?」
「ええ」ちょっとだまっていたあとで、老人は答えた、「そちらのおっしゃったことを苦にする権利は、わたしにはありません。事実、多くの点で、わたしは子供、あの娘が大人なんですからね――それはもう、そちらにはおわかりのこと。でも、寝てもさめても、昼も夜も、元気だろうと病気だろうと、わたしの配慮はあの娘だけに向けられているんです。それがどれほどかをおわかりいただけたら、わたしをみるあなたの目も、ちがってくるでしょう。ああ! 老人にとってはつらい生活です――つらい、つらい生活です――でも、獲得できる大きな目標があり、それをいつも目の前においているんです」
老人が興奮しジリジリしているのがわかったので、わたしは横を向き、部屋にはいったとき放りだしておいた外套を着ようとし、それ以上なにもいうつもりはなかった。例の小娘が片腕に外套をかかえ、手には帽子とステッキをもって、ジッと辛抱強く立っているのをみて、わたしはびっくりした。
「それは、わたしのではないんですよ、お嬢ちゃん」わたしはいった。
「そうよ」静かに子供は答えた、「おじいちゃんのなの」
「でも、おじいちゃんは、今夜、外にはいきませんよ」
「いいえ、いきます」ニッコリして、子供はいった。
「そうすると、お嬢ちゃんは?」
「わたしですって! もちろん、ここにいるの。いつもそうしてるのよ」
肝をつぶして、わたしは老人に目を投げたが、彼はせっせと服を着こんでいた。さもなければ、そのふりをしていたのかもしれない。この老人から、わたしの目は、子供のほっそりとしたおとなしい姿にもどっていった。ただひとりで、ながいわびしい夜じゅう、この陰気な家にいるなんて!
彼女は、わたしの驚きに気づいているようすはあらわさず、老人が外套を着こむのを陽気に助け、老人の用意ができると、われわれの案内をしようと、ろうそくを手にとった。彼女が予期していたように、われわれがすぐあとについていかなかったので、彼女はふりかえってニッコリし、ジッと待っていた。老人の顔つきからみて、たしかにわたしがモジモジしている理由がわかっていたのだが、彼はただ頭をかしげてわたしに合図を送り、自分より先に部屋から出るようにと知らせ、ジッとだまったままでいた。こちらとしては、それに応ずる以外に方法はなかった。
戸口のところまでゆくと、子供はろうそくを下におき、ふりむいてさよならをいい、顔をあげてわたしにキスをした。それから、老人に駈けより、老人は彼女を両腕にしっかりと抱いて、神さまのみ恵みが授かりますように、といった。
「よーく眠るんだよ、ネル」低い声で彼はいった、「そして、お前の寝台を天使さまたちが守ってくださるように! お祈りを忘れてはいけないよ」
「ええ、忘れませんよ」熱をこめて子供は答えた、「天使さまのおかげで、わたし、とても幸福なんですものね!」
「よし、よし。それはわかってるよ。守ってくださるはずなんだ」老人はいった。「神さまのみ恵みが何回でも授かりますように! 朝早くもどってくるからね」
「ベルは二度鳴らさなくともいいことよ」子供は答えた。「ベルが鳴れば、目をさまします、夢をみているときでもね」
こういって、ふたりは身をはなした。子供はドア(いまよろい戸で守られていたが、これは、家を出るとき、少年がそれを立てているのがわたしの耳に聞えてきた)を開き、もう一度さよならをいって、われわれがとおりぬけるまで、ドアをおさえていたが、その澄んだものやさしい調べは、その後何回となく、わたしの記憶によみがえってくるものになった。ドアが静かに閉められ、内側から鍵をおろされているあいだ、老人は足をとめ、鍵がかけられたのを確認してから、ゆっくりと歩きだした。町角で彼はとまり、困った顔をしてわたしをながめ、ふたりの道の方向はとてもちがい、ここで失礼しなければ、といった。わたしはなにかいおうとしたが、外見からは思いもつかぬ素早さで、彼は足早にスタスタといってしまった。こちらにはわかったのだが、彼は二、三度ふりかえっていたが、これは、わたしがまだ彼をみているかどうかをたしかめるか、遠くはなれて彼のあとを追っていないかをみきわめるためのようだった。夜の暗さが彼の姿を消すのに好都合なものになり、間もなく彼の姿は視野から消えていた。
彼がわたしと別れた場所に、わたしは立ちつくしていた。これは、そこを去る気になれず、しかも、どうしてそこをうろつきまわるのか、わけがわからない状態にあったためだった。ふたりがいま出てきた街路を、わたしは物思いに沈んでながめ、しばらくしてから、そちらに向けて歩きだした。家の前を往きつもどりつし、足をとめ、戸口のところで耳を澄ませた。あたりは暗く、墓場のように静かだった。
それでも、わたしはブラブラと歩きまわり、そこからはなれることができず、あの子供の身に起きるありとあらゆる危害――火事、盗難、人殺しさえも――を考え、この場所に背を向けたら、なにかある不幸がかならず起るにちがいない、と感じていた。街路でドアや窓が閉じられると、わたしは、もう一度、骨董屋の前にもどり、道路を横切って、家をみあげ、その物音がこの家から出たのではないのをたしかめた。そう、この家は、いままでと同じように、黒々と、冷たく、生気のないものだった。
通行人はほとんどなかった。街路は物悲しく、陰気で、だいたいわたしのひとり占めといったものだった。劇場帰りのわずかな仲間はずれの人たちがあわただしくとおりすぎ、ときどき、千鳥足で家にもどっていくさわがしい酔いどれに道をゆずっていたが、こうした邪魔は珍しく、やがて、そうしたことも途絶えてしまった。時計は一時を報じた。それでも、わたしは往きつもどりつしつづけ、そのたびごとに、これで最後、と心に誓い、そうするごとに、なにか新しい口実をもうけて、その誓いを破りつづけていた。
老人がいったこと、彼のようすと態度を考えれば考えるほど、わたしの見聞してきたことの説明がつかなくなってきた。老人が夜ごとに家を空けるのは、なにかよからぬ目的のため、という疑惑は強いものだった。この事実を知るようになったのは、ただ子供の無邪気さのためだった。そのとき、老人はそばにいて、わたしのむきだしの驚きぶりをながめていたが、この問題にたいして奇妙なわけのわからぬ態度をくずさず、説明の言葉をぜんぜん語ろうとはしなかった。こう思い起してみると、当然のことながら、前にもまして強く、老人のやつれた顔、とりとめもない態度、落ち着きのない不安そうなようすが心に思い浮んできた。子供にたいする愛情は、兇悪きわまりない悪事と結びつかないわけではない。その愛情自体が、異常なほど矛盾しているものだ。そうでなかったら、あの小娘を、どうしてああして放りだしにしておけるのだろう。老人のことをわるく思おうとしたが、彼女にたいする老人の愛情は、疑念の余地のないほど真実のものだった。われわれふたりのあいだで起きたことと、彼があの娘の名を呼んだ声の調子を思い起してみると、老人をわるく考えるなんて、とてもできないことだった。
「もちろん、ここにいます」わたしの質問に答えて、あの子供はいっていた、「いつもそうしてるの!」夜、しかも毎夜、どんな用事で老人は家をはなれているのだろう? 大都会でおこなわれ、長年のあいだ露顕もせずにいたおそろしい人知れぬ悪事で、わたしの耳にはいった奇妙な話をぜんぶ頭に思い浮べてみたが、そうした多くの話は、途方もないものではありながらも、この神秘を解く鍵にはどうしてもならなかった。この神秘は、解決を求めようとすればするほど、ますます不可解の度合いを強めていったからである。
こうした考え、同じ点に向っているさまざまなほかの考えに心をうばわれて、わたしは、二時間ものあいだ、街路を歩みつづけていた。とうとう、雨がひどく降りはじめ、最初と変らずに興味は依然として燃えさかってはいたものの、疲労でクタクタになり、わたしは|最寄《もよ》りの馬車をやとって家に帰った。気持ちのいい火が炉に燃え、灯りは明るく、時計はなつかしい音でわたしをむかえ入れてくれた。すべてのものが静かで、温かく、快く、わたしがあとにしてきたあの陰気さと暗闇と好対照をなしていた。
わたしは安楽椅子に坐り、そのふっくらとしたクッションによりかかって、床の中にいるあの娘のことを想像した。それは、ただひとり、見守る人もなく、(天使たち以外には)世話も受けず、しかも安らかに眠っている姿だった。あんなに幼く、あんなに気高く、あんなにほっそりとして妖精のような娘が、あんなに似つかわしくない家で、退屈でながい夜をすごしているなんて! その姿は、わたしの頭にこびりついてはなれなかった。
われわれは、強い習慣で、外面的なもので印象を受けるようになっている。こうした印象は、本来、反省によって生み出されるべきものなのだが、目にはっきりと映るこうした援助がないと、ときどき、気づかずにやりすごしてしまうものである。あの骨董屋の店でみたゴタゴタと集められて、積みかさねられた奇妙な品物がなかったら、こうしてひとつのものに心がとりつかれていたかどうかは疑わしい。こうした骨董品は、あの子供と結びついて、群れをなして心に思い浮び、いわば彼女をすっかりとりかこんで、彼女の状態をマザマザとわたしの前に示したのだった。彼女の性格とはおよそ縁がなく、あの年頃の小娘の共感とはこの上なくかけはなれたすべてのものにあたりをグルッととりかこまれた彼女の像を、わたしは、想像力をべつに働かさずに頭に思い浮べた。こうした空想の援助物がぜんぜんなく、外見で異常か奇妙なものをなにもともなわずに、ありきたりの部屋にいる彼女の姿を想像しなければならなくなったら、彼女の変った、孤独な状態でこうまで強い印象を受けることは、おそらく、なかっただろう。ところが、そうではなかったので、彼女は一種の|寓意《ぐうい》物語の中の人物のようにみえ、身辺をこうした骨董品にとりかこまれて、わたしの興味をじつに強く刺激し、その結果、(もうお伝えしたように)どう努力しても、彼女を頭から追い払えなくなった。
「将来の生活でのあの娘の姿を想像したら、じつに奇妙なものになることだろう」部屋を何回も落ち着かずに歩きまわったあとで、わたしはいった、「それは、途方もないグロテスクな群れの中で、孤独な彼女の道を進んでいく姿だ。その群れの中で、ただひとつの純粋で、新鮮な、若々しい存在なのだ。奇妙なことだろうな――」
わたしはここで心の動きをおさえた。このテーマはすごい早さでわたしの心を運び去り、もう目の前に、そこにはいりたいとは夢にも思っていない領域がくりひろげられていたからである。これはつまらぬ物思い、と心に思い定め、床にはいって忘却を求めることにしよう、とわたしは決心した。
だが、その夜のあいだじゅうずっと、目をさましていようと眠っていようと、同じ考えが舞いもどり、同じ像がわたしの頭を占領しつづけていた。いつも目の前に浮んでくるのは、古い暗い陰気な部屋部屋――おそろしいものいわぬ物腰で立ちつくしている気味のわるい鎖かたびら――ニヤリと笑っている木や石のひきゆがんだ顔――ほこりと|錆《さび》と木の中に住んでいる虫けら――こうしたがらくた、老朽物、醜悪な古物につつまれて、ただひとり、明るい陽気な夢でニッコリとほほ笑んでいる、物静かな眠りの中のあの美しい子供の姿だった。
2
もうすでに細かなお話はした事情のもとで、出てきた家をふたたびおとずれたい気持ちに、わたしはつき動かされていた。そうしたわが心との戦いを、ほぼ一週間、つづけたあとで、とうとうそれに屈服してしまった。こんどは昼間の明るいうちにこの訪問をしようと決心して、午後早くそこに足を向けることになった。
わたしは例の家の前をとおり、街路を何度か往きつもどりつしたが、こうしたちゅうちょは、自分の訪問が思いがけぬもの、ひょいとしたら好ましいものではないかもしれないと意識している者には、当然起るものといえよう。しかし、店のドアは閉じられ、ただ店の前を往復しても、家の中の人には気づかれそうもなかったので、間もなく、そうした不決断は切りすて、骨董屋の中にはいっていった。
老人ともうひとりの男が奥のほうにいて、口論をしていたらしかった。高い調子になっていた彼らの声は、わたしがはいっていくと、いきなりピタリとやみ、老人はあわただしくわたしのほうに寄ってきて、ふるえ声で、来てくれてとてもうれしい、といった。
「ちょうどいいとこに来てくださいました」いっしょにいた男をさして、彼はいった、「この男はわたしを、いずれ近い将来に、殺すことでしょう。勇気があったら、もうとっくのむかしに、そうしていたことでしょう」
「バカな! できることなら、毒づいてぼくの命を消してしまったでしょうな」わたしをにらみつけ、渋面を投げたあとで、相手はやりかえした、「そんなこと、みんな知ってますさ!」
「それができたらと思うよ」彼のほうに弱々しく向いて、老人は叫んだ。「のろい、祈り、言葉で、きみを追い払うことができたら、それをするとも。きみを追っ払ってしまいたいのだ。きみが死んだら、こちらではホッとすることだろうよ」
「知ってますよ」相手は応じた。「そういったでしょうが、どうです? ところが、のろいも、祈りも、言葉も、ぼくを殺したりはしませんよ[#「しませんよ」に傍点]。だから、ぼくは生きてるし、生きつづけるつもりなんです」
「そして、母親は死んじまったんだ!」情熱的に両手を固くにぎりしめ、天をあおぎながら、老人は叫んだ、「これが神さまのみ裁きというものだ!」
相手は、片足を椅子にダラリと乗せて立ち、軽蔑的な冷笑を浮べて、老人をみていた。男は、二十一かそこいらの青年、からだの格好はよく、たしかに美男子だったが、顔の表情はとても感じがわるく、その態度と服装と相まって、人を不快にさせる|放蕩三昧《ほうとうざんまい》の、厚かましいようすを示していた。
「み裁きだろうとみ裁きでなかろうと」若い男はいった、「ぼくはここにいるし、出ていこうと思うときまで、ここにいますよ、助けを求めてぼくを追いだしたりしなかったらね――それは、まず、そちらではしないことでしょうな。ここでもう一度いっときますがね、ぼくは妹に会いたいんです」
「妹だって!」|辛辣《しんらつ》に老人はいった。
「ああ! そちらでこの関係を変えるわけにはいきませんよ」相手はやりかえした。「それができたら、とっくのむかしにやってたでしょうからな。ぼくは妹に会いたいんです。そちらは、ここで妹を監禁し、陰険な秘密で妹の心を毒し、妹に愛情をよそおい、妹をこき使って殺し、勘定もできないほどの大金に、毎週、かき集めたはした金をつけ加えようとしてるんです。ぼくは妹に会いたいし、会うつもりでいますよ」
「ここに道徳家があらわれて、毒された心を語り、気前のいい人間があらわれて、かき集めたはした金を軽蔑してるんです!」彼からわたしのほうに向いて、老人は叫んだ。「道楽者なんですよ。不幸にもその同族になってる人たちばかりか、その非行しか知られていない社会にたいして、すべて資格を失ってしまった男。その上、|嘘《うそ》つきです」わたしにもっと身を寄せ、声を低くして、彼はいいそえた、「わたしがどんなにあの|娘《こ》をかわいがってるかを知り、よその方がそばにいるのをみて、その点でもわたしを傷つけようとしてるんです」
「よその人たちなんて、ぼくには問題じゃありませんよ、おじいさん」その言葉を耳にして、若い男はいった、「ぼくもその人たちにそうであればいいんですがね。その人たちにいちばんしてほしいのは、他人のことにはおせっかいをしないでいることですな。外で待ってる友人がいるんですがね。どうやらちょっと待たねばならんようですから、お許しを得て、その友人をここに呼びこむことにしますよ」
こういいながら、彼は戸口のところにゆき、街路をながめて、だれか姿のみえぬ人物に何回かうなずき、その相手は、このうなずきにともなうイライラしたようすからみて、ひっぱりだすのにだいぶ説得を必要としているらしかった。とうとう、道の向う側に――偶然とおりすがったといったへたな仕草をつけて――薄よごれたハイカラぶりがその特徴といった人物が、ブラリブラリと近づいてきた。この男は、家にはいれという招きに抵抗して、何回か渋面をつくって頭をふったあとで、ついに道を横切り、店の中につれこまれた。
「ほうれ。ディック・スウィヴェラーですぞ」この男をおしこみながら、若い男はいった。「坐れよ、スウィヴェラー」
「でも、ご老人のご機嫌はいいのかね?」声を落して、スウィヴェラー氏はたずねた。
「坐れよ」仲間はくりかえした。
スウィヴェラー氏はこれに応じ、ご機嫌とりの微笑を浮べてあたりをみまわし、先週はあひる[#「あひる」に傍点]に好都合な一週間、今週はほこりに好都合な一週間、と語り、さらに、町角で柱のそばに立ってたら、口にわらを一本くわえた豚がタバコ屋の店からとびだしてくるのをみた、この徴候から察するに、あひる[#「あひる」に傍点]に好都合な一週間がまたやってきそうだ(豚が棒を運ぶときには、雲がいたずらをし、泥に寝ころんでいるときには、洪水の心配がない―イギリスのことわざ)、そのあとで、きっと雨が降るだろう、と話した。彼は、さらに、それを|機《しお》にして、自分の衣服の目にとまるだらしなさについて言訳をしはじめ、その理由は「陽光でひどく目をやられた」ということにあった。この表現で、彼は聞き手に、じつに|婉曲《えんきよく》なふうに、ひどく深酒をした、と伝えているものと理解された。
「でも」ため息をつきながら、スウィヴェラー氏はいった、「魂の火が歓楽の小さなろうそくで|焚《た》きつけられ、友情の翼が羽根毛一本でも落さぬかぎり、それがどうだというんです! 精神が|薔薇《ばら》色のぶどう酒でひろげられるかぎり、それがどうだというんです! 現在の瞬間が、人生のうちでいちばん不幸なもんなんですぞ!」
「ここで議長役は演じなくていいよ!」わきを向いてそっとといったふうに、友人はいった。
「フレッド!」鼻をポンポンと軽くたたいて、スウィヴェラー氏は叫んだ、「賢人には一言物申せば十分なんだ――富はなくとも、善良で幸福になれるんだよ、フレッド。もうこれ以上、なにもいうな。結びの言葉は心得てるよ。その言葉は気のきいたもの。ちょっとここで耳打ちさせてくれ、フレッド――ご老人は友好的かね?」
「心配するな」友人は答えた。
「これもまたそのとおり、まったくそのとおりだよ」スウィヴェラー氏はいった、「用心は言葉、用心は行為なんだ」こういって、なにか深い秘密を守っているように、彼は目くばせをし、腕を組み、椅子によりかかり、深遠な重々しい態度で天井をみあげた。
これまでに起きたことで、彼が口にしていたあの強力な陽光の影響からまだすっかりは回復してはいないと考えても、おそらく不当とはいえぬだろう。だが、こうした言葉で疑惑は湧かなくとも、彼の針金のような髪、ドロンとした目、黄ばんだ顔は、彼に不利な強い証人となるものだった。その服装は、彼自身がほのめかしていたように、最高のよそおいで特徴づけられたものではなく、ひどくとり乱した状態にあり、そのままの服装で床にはいった事実を強く思わせていた。前にはおびただしい数の真鍮のボタンが、うしろにはたったひとつのボタンがつけられた褐色のピタリとからだについた外套、明るい市松のネッカーチーフ、|格子縞《こうしじま》のチョッキ、よごれた白ズボン、へりについた穴をかくそうとして正面をちがえてかぶっているひどくグニャグニャになった帽子が、彼の服装のすべてだった。上衣の胸は外につけたポケットで飾られ、そこから、とても大きくてきたないハンケチのいちばんよごれていない端が顔をのぞかせていた。よごれた|袖口《そでぐち》はできるだけひきだされ、これみよがしにカフスの上にめくりかえされていた。彼は手袋を示さず、黄色のステッキをもっていたが、その|天辺《てつぺん》には骨の手型がつき、そこの小指には指環らしきものがはめられ、黒い玉をしっかりとにぎりこんでいた。こうしたすべての飾りを身に着けて(それに、強いタバコのにおいと、どこにも示されている油じみたようすをつけ加えることができるだろう)、スウィヴェラー氏は椅子にふんぞりかえり、ときどき、声を必要な調子に高めて、ひどく陰気な歌のわずかな小節をそこにいる人たちに聞かせ、調べの途中でいきなり、前の沈黙状態にもどっていった。
老人は椅子に坐り、手を組んで、ときに自分の孫を、ときにこの奇妙な孫の友人をながめていたが、それは、自分はまったく無力、彼らに好きなことをさせておく以外に打つ手はないといったふうだった。青年は、友人からそうはなれていないところで、起ったすべてのことに一見したところ無関心なふうに、テーブルによりかかり、そして、わたしは――老人が言葉と顔つきでわたしにたのみこんではいたのだが、ここで口を出すことのむずかしさを感じとって――販売品としてならべられている品物を一生けんめい調べ、自分の目の前の人たちにはほとんど注意を払っていないふりをできるだけしようとしていた。
沈黙は、ながくはつづかなかった。スウィヴェラー氏は、わが心は高地にあり(ロバート・バーンズ(一七五九―九六)の一七九〇年の詩から引用した言葉)、武勇と忠義の大偉業を達成する準備としてアラブ馬がありさえすればよい(G・A・ホドスンの歌にある言葉)ということを、いくつかの調べでわれわれに知らせてくれてから、目を天井からうつし、ふたたび散文調に舞いおりてきた。
「フレッド」この考えがいきなり彼の頭に思い浮んだかのように歌をやめ、前と同じはっきりと聞きとれるささやき声で、彼はいった、「ご老人は友好的かね?」
「それがどうだというんだ?」友人は気むずかしく反問した。
「どうということはないけどね、ご老人はそうなのかね?」
「もちろん、そうさ。そうであろうとなかろうと、こっちの知ったことじゃあるもんか」
どうやら、この応答で元気づけられてもっと個人的でない話をはじめようという気になったらしく、スウィヴェラー氏は|躍起《やつき》になってわれわれの注意をひきつけようとしはじめた。
彼は皮切りに、ソーダ水は理窟の上では結構なもんだが、しょうが[#「しょうが」に傍点]かわずかのブランデーをまぜないと、胃を冷しがち、ブランデーは、出費の点をのぞけば、どんな場合にも最高のものと考えてる、と述べ立てた。だれもこうした見解にあえて異議を申し立てはしなかったので、彼は論を進め、人間の髪の毛はタバコのにおいを吸収するもの、ウェストミンスター校やイートン校の若き紳士方が、心配してる友人たちからタバコの|口臭《こうしゆう》をかくそうとりんご[#「りんご」に傍点]をモリモリと食べたあとで、頭がそのにおいをもちつづけていたために、ついには露顕におよぶくだりを論じ、イギリス学士院(一六四五年創設された主として科学研究の学会)は、その注意をこうした事情に向け、科学的資源にこの不都合な暴露阻止の手段を発見しようと努力したら、人類の恩人とみなされるようにじっさいなるだろう、という結論を出した。こうした論議も、前に出されたものと同様に、論争の余地のないものだったので、さらに彼は、ジャマイカラム酒が|芳醇《ほうじゆん》さにあふれた好適な酒であることはたしかに事実だが、翌日までその味が口にのこる欠陥があることを知らせ、この点もだれも異議をさしはさもうとはしなかったので、彼の自信はさらにたかまり、前よりもっと親しみやすく、打ちとけて話すようになった。
「血のかよう者が喧嘩をし、意見が割れるなんて」スウィヴェラー氏はいった、「まったくイマイマしいこってすよ。友情の翼が羽根毛一本でも落すべきでないとしたら、親族の翼は絶対に刈りとられるべきではないばかりか、さらにいつも拡大され、明朗になっていなければならんのです。すべてが幸福に和解できるときに、孫とおじいさんが、どうしてたがいに暴力をふるってせっせといがみ合うことがあるでしょう? どうして握手をし、それを忘れてしまわないんでしょう?」
「なにもいうな」友人はいった。
「きみ」スウィヴェラー氏は答えた。「裁判長の職務の邪魔は許しませんぞ。諸君、現在の場合、事情はどのようなもんになってるんでしょう? ここに陽気なおじいさんがいます――これは最高の敬意をこめて語ってること――そして、ここに|放埒《ほうらつ》な青年の孫がいます。陽気なおじいさんは放埒な青年の孫に申します、『フレッド、わしはお前を育て、教育してきた。人生で暮しを立てられるようにしてやった。若い者によくあるように、お前はちょっと道を踏みはずした。お前にはもう将来のみとおしはない、影ほどもない』放埒な青年の孫はこれにたいして申すんです、『おじいさんはものすごい金持ち、いままで自分に特別大金をかけたわけじゃない。わたしの妹は、おじいさんといっしょに、人知れず、ひそやかに、こっそりと、なんの楽しみもなく暮してるが、その妹のために、うなるほどの金を貯えてる。もう大人になった親類のぼくのために、どうしてわずかの金を支払えないんです?』これにたいする陽気なおじいさんの応答は、そうした年ごろの紳士にあっていつもじつに感じがよく快適なあの陽気な気前のよさで金を払うのを断るばかりでない、出会うときにはいつでも、文句をいい、|悪態《あくたい》をつき、非難の言葉を浴びせてやるぞ、というわけ。そこで、はっきりとした問題は、こうした事態がつづくのは、いかにも残念なこと、ご老人がしかるべき金を手わたし、万事めでたしめでたしで終らせるほうがどんなにいいか、ということになりますな」
手をふったりかざしたりしてこう演説をぶったあとで、スウィヴェラー氏はいきなりステッキの頭を口の中におしこんだが、それはまるで、これ以上ひと言でもいって、自分の演説の効果をそこねては大変、といったふうだった。
「まったく、お前はどうしてわしを追いまわして迫害を加えるんだ!」孫のほうにふり向いて、老人はいった。「どうしてお前の|放蕩《ほうとう》者の仲間をここにつれてくるんだ? 何回いったらわしが心配と切りつめの日々を送り、貧乏人だというのがわかるんだ?」
「何回いったら」冷たく老人をみて、相手はやりかえした、「そんなことでごまかされはしない、というのがわかるんですかね?」
「お前は自分の進む道をえらんだんだ」老人はいった。「その道を進むがいい。ネルとわしを放っておいて、せっせと働かせてくれ」
「ネルはすぐ一人前の女になりますよ」相手はやりかえした、「そして、おじいさんの信念で育てられて、こちらがときどき姿をあらわさなかったら、兄のことは忘れてしまいますよ」
「用心するがいいぞ」目を輝かせて老人はいった、「あの|娘《こ》にいちばんはっきりと思い出してもらいたいときに、忘れられないようにな。用心するがいいぞ、お前が街を素足で歩き、そのそばをネルが自家用の華やかな馬車で乗りまわす日が来ないようにな」
「というのは、ネルがそちらの金をもらったときのことですかね?」相手は応じた。「まったく、そいつは貧乏人くさい言葉ですな!」
「だが、それにしても」声を落し、大声を出して考える人のように話して、老人はいった、「わたしたちは、なんて貧乏なんだろう! なんという生活を送ってることだろう! これは、どんな危害も、ひどいこともしてないあの娘のためのことなんだが、すこしもうまくはいかない! 希望と忍耐、希望と忍耐だ!」
このような言葉は声を低くして語られたので、若い男たちの耳にははいらなかった。スウィヴェラー氏は、自分の演説のたくましい効果の結果、相手のふたりが心にもだえを感じて、そうした言葉を発しているものと考えているらしかった。というのも、彼は友人をステッキでつつき、自分が「|止《とど》めの一言」をはき、それであげた利益にたいしては手数料をもらうぞ、とささやいていたからである。しばらくして、自分の見当ちがいに気づいて、彼はとても眠くなり、心満ち足りずといった状態になったらしく、何回となく、ここをひきあげたほうがいいのではないか、といっていたが、そのとき、ドアが開き、問題の娘自身が姿をあらわした。
3
この子供のすぐうしろに、とても険悪な顔をし、みるもゾッとするようすをした初老の男がついてきたが、背はひどく低く、まったく小人ともいえるもの、しかし、頭と顔は巨人にもふさわしいほど大きかった。黒い目は落ち着きがなく、陰険で、|狡猾《こうかつ》、口と|顎《あご》はゴワゴワしたこわい毛の無精ひげを生やし、肌色は、きれいでも健康的でも絶対にないあの肌色だった。だが、この男のグロテスクな表情をいちばん強くあらわしていたのは、身の毛のよだつニヤリとした笑いで、習慣でそうなっているだけの話で、楽しいとか満足した気分にはなんの関係もないようにみえるものだったが、その笑いは、口にまだわずかのこっている|牙《きば》のような歯をあらわし、彼にあえいでいる犬の様相を与えていた。その衣裳は、高い山型の帽子、すり切れた黒っぽい服、ダブダブした大きな靴、きたならしい白いネッカーチーフだったが、このネッカーチーフはヨレヨレでしわだらけ、筋立った喉の大部分をさらけだしていた。この男に生えている髪は、|白髪《しらが》まじりの黒髪、|額《ひたい》のところで短く刈られて突っ立ち、むさ苦しいふさになって耳にかぶさっていた。荒いゴワゴワした肌の手はひどくよごれ、指の爪はながく、黄ばみ、ひんまがっていた。
こうした細部の点をつかむくらいの十分な時間はあった。こと細かに観察しなくともそれがよくわかるばかりでなく、沈黙が破られる前に、ちょっと間があったからである。子供はオズオズと兄のほうに進み、兄は彼女の手をにぎった。小人(彼をそう呼んでよいのならばの話だが)は、そこにいる人たち全員を鋭くながめまわし、明らかにこのぶざまな訪問者の来訪を予期していなかった骨董屋の主人は、うろたえて途方に暮れているようだった。
「ああ!」目の上に手をかざして注意深く青年をながめていた小人はいった、「あれはきみの孫というところだね!」
「孫とはとても思えぬといってもらいたいとこ」老人は答えた。「だが、たしかに孫ですよ」
「そして、あちらは?」ディック・スウィヴェラー氏をさして、小人はいった。
「孫のだれか友人、孫と同じく、ここでは好ましくない人ですよ」老人は答えた。
「そして、あちらは?」クルリとまわり、まともにわたしを指さして、小人はたずねた。
「このあいだ、きみの家から帰る途中、ネルが道に迷ったとき、家までつれてきてくださった親切な方ですよ」
小男は、さっと子供のほうに向きなおった。それはまるで、彼女をしかるか、自分の驚きをあらわそうとしているかといったようすだった。だが、彼女が兄に話をしていたので、なにも口に出さず、頭をかしげて、その話を聞こうとした。
「うん、ネリー」若い男は大声でいった、「ぼくを憎むように、みんなに教えこまれているんかい、えっ?」
「いいえ、いいえ、そんなことを考えるなんて、ひどいことよ。まあ、ちがうわ!」子供は叫んだ。
「じゃ、たぶん、ぼくを愛するよう、教えこまれてるんだな?」冷笑を浮べて、兄はつづけていった。
「どちらもしないようにね」彼女は答えた。「お兄さんの話は、ぜんぜん出ないの。ほんとにそうなのよ」
「そうなると、お礼を申さねばならぬことになるな」祖父に辛辣な目を投げて、彼はいった。「それにたいして、お礼を申さねばならんな、ネル。おお、まったくお前のいうとおりなんだからな」
「でも、わたし、お兄ちゃんをとても好きよ」子供はいった。
「たしかにね! たしかにそう、これから先も、変らないことよ」強い感情をこめて、子供はくりかえした、「でも、ああ、おじいちゃんをいじめたり苦しめたりするのをやめてくれたら、もっとお兄ちゃんを好きになれるのだけどなあ!」
「わかったよ!」|無造作《むぞうさ》に子供の上にかがみ、キスをしてから、彼女をつきはなして、彼はいった、「さあ――お説教はもうしたんだから、向うにいったらいい。メソメソすることはない。お説教が目的なら、こっちはそれで気をわるくはしてないんだからね」
彼はそのままおしだまり、妹が自分の小部屋にゆき、そこのドアを閉めるまで、彼女の姿を目で追っていた。それから、小人のほうに向いて、いきなり、いった。
「ねえ、きみ、えーと……」
「おれのことかね?」小人は答えた。「おれの名はクウィルプ。憶えられるだろう? ながい名前じゃないんだからな――ダニエル・クウィルプだよ」
「そんなら、いいかね、クウィルプさん」若い男はつづけた。「きみには、多少、そこのじいさんを動かす力があるんだね?」
「多少はね」力をこめてクウィルプ氏は答えた。
「そして、じいさんの|謎《なぞ》と秘密を少しは知ってるんだね?」
「少しはね」前と同じそっけなさで、クウィルプは答えた。
「じゃ、きみを通じて、これを最後の言葉にして、じいさんに伝えておくことにしよう。じいさんがネルをここにおくかぎり、ぼくはいつでも好きなときに、ここに出入りはするよ。ぼくと会いたくなかったら、まずネルを手放すことだ。ぼくをおそろしいもんに仕立て、疫病でももちこんでくるように、はじきもんにするなんて、いったい、ぼくがなにをしたというんだ? |兄妹《きようだい》の自然の情はもってない、自分にたいするのと同様に、ネルにも妹として愛情はもってない、とあのじいさんはいうだろう。まあ、そういわせておくさ。気まぐれにここにやってきて、ぼくの存在を妹に思い出させること、そいつがぼくの好みでね。会いたいときには、妹と会うつもりだよ。ぼくのいいたいのは、そのことさ。きょうここにやってきたのは、それをやるため。同じ目的で何回でもここにやってき、同じ効果をあげるつもりだよ。目的を達成するまで、ここにいつづける、と前にぼくはいっておいたんだがね。どうやら目的は達成、これでぼくの訪問は終りにしよう。さあ、いこう、ディック」
「ちょっと待った!」仲間が戸口のほうに向ったとき、スウィヴェラー氏は叫んだ。「きみ!」
「へい、なんのご用でございましょうか?」きみと呼びかけられたクウィルプ氏は答えた。
「この陽気なお祭りさわぎの場所、きらめく灯火の広間を去るに臨み」スウィヴェラー氏はいった、「お許しを得て、一言もの申させていただきますぞ。ぼくは、きょう、ご老人が友好的という印象のもとに、ここにやってきたんです」
「さあ、どうぞ」ダニエル・クウィルプはうながした。弁説家が、いきなり、ここで言葉を切ってしまったからである。
「この観念と、それがひきおこす感情につき動かされ、双方に共通の友人として、いじめたり、苦しめたり、おどかしたりするのは、争う双方の魂をひろげ、和解を推進させるものではないと感じて、このさい採るべき唯一[#「唯一」に傍点]の針路となるべき針路を、ぼくはあえて知らせようと考えたんです。ちょっとお耳を拝借したいんですが、よろしいですかな?」
求めた許しを待ちもせずに、スウィヴェラー氏は小人に歩みより、その肩に寄りかかり、耳に自分の口をあてがおうとかがみこんで、しゃべりだしたが、その声は、そこにいる人全員に聞えるほどに大きなものだった。
「ご老人にたいする合い言葉はね――|放蕩者《フオーク》ですよ」
「えっ、なんですって?」クウィルプはたずねた。
「放蕩者、放蕩者ですよ」スウィヴェラー氏は、ポケットをピシャリたたいて、答えた。「きみははっきり目をさましてるんですかね?」
小人はうなずいた。スウィヴェラー氏ははなれ、同じようにうなずき、さらに少しひきさがり、またうなずき、その動作はくりかえされた。こうしたやり方で、彼はやがて戸口のところまでゆき、そこで、小人の注意をひこうと、大きな|咳《せき》をし、この機会をとらえて、無言劇の仕草で、この秘密は絶対口外無用、を伝えた。この考えをしっかりと伝えるのに必要な真剣なだんまり芝居をし終えてから、彼は友人のあとを追い、姿を消してしまった。
「フフン!」にが虫をかみつぶしたような顔をし、肩をすくめて、小人はいった、「親愛なる血縁者については、これで終り。ありがたいことさ、おれには親類なんてないんだからな! きみにだって、親類はいらんのだ」老人のほうに向きなおって、彼はいいそえた、「|葦《あし》のように弱く、分別がないんなら、べつの話だがね」
「わたしにどうしろというんですかね?」弱々しい上にちょっとやけ気味になって、老人は応じた。「しゃべり立て冷笑を浴びせるのは、楽なこと。わたしにどうしろというんですかね?」
「きみと同じ立場に立ったら、おれは[#「おれは」に傍点]どうすると思うかね?」
「きっと途方もないことをやるでしょうな」
「たしかにそのとおり」そのほめ言葉にとても満悦して、小男は答えた。老人の言葉を、彼はほめ言葉と考えていたからである。そして、きたない手でもみ手をし、悪魔のように歯をみせてニヤリニヤリとしていた。「クウィルプ夫人、かわいいクウィルプ夫人、従順で、臆病で、美しいクウィルプ夫人にきいてごらん。だが、それで思い出したぞ――奥さんをおれはひとりぽっちに放りだしておいたんだ。奥さんは心配して、おれがもどるまで、一刻も心が安まらんだろう。そう口に出してはいってないけど、おれが外出してると、奥さんはいつもそうなんだ、わかってるさ。こっちでうまくひきこみ、遠慮なく話をさせ、あいつをしかったりはせんといったら、話はちがってくるけどね。ああ、まったく仕込みのいいクウィルプ夫人さ!」
ゆっくりグルリグルリともみ手をし――このちょっとした仕草にさえも、なにか奇妙なものがあったのだが――むく毛の眉を落し、|顎《あご》をツンと突き出し、いかにも悦に入ったようすをひそかに示して、目をチラリと上にあげたとき、その怪物のような頭と小さなからだで、この小男はまったくおそろしいものに映った。その喜悦のようすは、小鬼がそれを真似してやってもいいほど、いやらしいものだった。
「さあ」胸に片手をつっこみ、話しながら老人ににじりよって、彼はいった、「万一のことがあっては大変と、そいつをおれ自身が持参におよんだよ。金貨なんで、ネルが袋に入れて運ぶには、ちょっとでかく重いもんなんでね。だが、あの娘も、早くこうした荷物に馴れんといかんね。お前さんが死んだとき、自分で重い財産を運ばにゃならないんだからな」
「どうかそうなりますように! そうなればいいんだが……」うめくようにして、老人はいった。
「そうなればいいんだがだって!」老人の耳もとに寄っていって、小人はおうむ[#「おうむ」に傍点]がえしにいった、「きみ、こうした補給の金がどんなにりっぱな投資に投げこまれてるのか、ひとつ知りたいもんだね。だが、きみは奥底の計り知れない男、秘密は胸底深くというやつだな」
「秘密だって!」ひどくやつれたようすで、老人はいった。「そう、そのとおり――わしは――それを胸に――胸に深くたたみこんでおくんだ」
彼はそれ以上なにもいわず、金を受けとり、ゆっくりとした不安定な足どりで向きなおり、つかれてがっくりした男のように、片手を頭におしつけた。老人が小さな居間にはいり、|炉棚《ろだな》の上の鉄の金庫に金をしっかりと鍵をかけてしまいこんでいるあいだ、小人はその姿を鋭い目で見守っていた。そして、しばらく考えこんでいたあとで、急いでもどらないと、クウィルプ夫人が|発作《ほつさ》を起してしまうだろう、といいながら、ここを立ち去ろうとした。
「さあ、これで」彼はいいそえた、「家に帰るとしよう。ネリーにはよろしく、そして、二度と道に迷わんように祈ってるよ。たしかに、ネリーが道に迷ったおかげで、思いもかけないおつき合いの名誉を授かったわけにはなるんだがね」こういって、彼はお辞儀をし、わたしをチラリと流し目でながめ、目にはいるものは、どんな小さなつまらぬものでも、みのがしたりはしないぞといった鋭い|一瞥《いちべつ》をあたりに投げて、家を出ていった。
わたしも、そのときまでに、何回か帰ろうとしていたが、老人は帰そうとせず、まだいてくれ、とたのみこんだ。ふたりだけになったとき、彼は改めてそうたのみこみ、前にふたりで会ったときのことを、何回も感謝し、口にしていたので、わたしはよろこんでその説得に応じ、彼がわたしの目の前においたいくつかの精巧な細密画やわずかの古いメダルを調べているふりをして、腰をおろした。わたしを長居させるのに、そう強くすすめる必要はなかった。最初の訪問のとき、わたしの好奇心が強くかき立てられたとすれば、いま、その好奇心は増しても、減ることはなかったからである。
ネルが間もなくわたしたちといっしょになり、テーブルのところに編み物をもってきて、老人のわきに坐った。部屋の中に新鮮な花、小さな籠をおおっている緑の枝についたかわいい小鳥をながめるのは楽しいことで、新鮮さと若さの|息吹《いぶ》きがこの古い味気のない家の中をサラサラと吹きとおり、この子供のまわりにただよっているようにみえた。この美しい気品のある小娘から目を転じて、老人の背のまがった姿、なやみにやつれた顔、つかれきったようすをながめるのは、奇妙な感じを与えるにしても、そう気持ちのいいことではなかった。この老人がもっと弱り力を失ったら、この孤独な小娘はどうなるのだろう? しがない保護者ではあるにせよ、もし彼が死んでしまったら――彼女の運命はどうなるのだろう?
手をこの子供の手の上にかさね、大きな声で話しだしたとき、老人はわたしの心中のこうした疑問にたいする答えといったものをしてくれた。
「わしは、もっともっと元気になるよ、ネル」彼はいった、「お前のためにとってある幸運がなければならないんだからね――それは、わし自身のために求めてるのではなく、お前のためなんだ。それがなかったら、ひどいみじめなことが罪のないお前の頭の上にふりかぶってくる。そう信じずにはいられないが、招かれたら、幸福はきっと最後にはやってくるよ!」
彼女は、明るく老人の顔をのぞきこんだが、べつに返事はしなかった。
「お前の短い生涯で」彼はいった、「わしとふたりだけでわびしくすごしてきたながい年月、自分と同じ年ごろの仲間も子供らしい楽しみも知らずにすごしたお前の単調な生活、いまのお前になるまでお前をつつみ、ひとりの老人以外、仲間のだれからもはなれて暮してきた孤独を思うと、わしは、ときどき、お前をむごくあつかったと心配になるときもあるんだよ、ネル」
「おじいちゃん!」心からびっくりして、子供は叫んだ。
「そんなことをするつもりはなかった。そうだとも、そうだとも」彼はいった。「お前がこの上なく陽気でかわいい子供たちといっしょになり、だれにもおとらぬりっぱな立場に立てるときを、わしは楽しみにして待ってるのだ。だが、わしはまだそれを待っている身、待っている身なんだよ。そのあいだに、お前と否応なく別れなければならなくなったら、この世で生きぬくお前の|術《すべ》はどうなることだろう? あそこの小鳥は世間にとびだしていって、その慈悲で生きていくことはできないが、お前だってそれと同じこと――あっ、外にキットが来たらしいぞ! さあ、あの子のとこにゆきなさい、ネル、あの子のとこに」
彼女は立ちあがり、急いでゆきかけたが、足をとめ、もどってきて、両腕を老人の首のまわりにまわし、そこからはなれて、また急ぎ足で向うにいった――その足は前より早かったが、これは、流れ落ちる涙をみせまいとしてのことだった。
「ちょっとひと言お耳に」|急《せ》きこんでささやいて、老人はいった。「この前の晩そちらがおっしゃったことで、わたしは不安になり、わたしのいえることと申せば、ただ、すべて最善を計ってやってきたということだけ。(もういまはだめなんですが)たとえ取り消すことができたとしても、時すでにおそしということだけです。でも、まだ、最後には勝てるかもしれません。すべては、あの娘のためにしたことです。わたし自身は、ひどい貧乏を味ってきましたが、貧乏がもたらす苦しみは、彼女からは免じてやりたいんです。わたし自身のかわいい娘だったネルの母親を、まだ若い身空で、墓にひきこんでしまったあのみじめさから、彼女を免じてやりたいんです。彼女にのこしてやりたいのは――すぐにとっとと使い果たされる財産ではなく、貧困の手のとどかぬとこに永遠にあの子をおいてやることです。いいですかね? わずかの仕送りではなく、大きな財産なんです――シッ! いまも、いや、これから先のいつでも、わたしのいえるのは、それだけなんです。また、あの子がやってきましたよ!」
こうした言葉がわたしの耳にそそぎこまれたときのあのひたむきなようす、彼がわたしの腕をつかんだあの手のふるえ、わたしの上にすえたあの緊張したむきだしの目、荒々しい熱気のこもった興奮した態度は、わたしをひどくびっくりさせた。わたしがそのときまでに見聞したすべて、彼自身が語った話の多くで、わたしは彼を金持ちと推測した。利得を生活の唯一の目的にし、大金を集めるのに成功してからは、貧乏にたいする恐怖でいつもおそれおののき、損失と破滅のおそれにとりかこまれて暮しているみじめな人間がこの世にはいるものだが、この老人がそうした人でないとしたら、彼の人柄はわたしにはどうにもつかめないものだった。わたしにはなんとも見当がつかなかった彼の多くの言葉は、こうしてわたしの心に思い浮んできた考えとどうやら一致し、とうとうわたしは、彼はそうした不幸な人びとの仲間なのだ、という結論を出すことになった。
以上の意見は、あわただしく考えて出した結論ではない。子供がすぐもどってきて、書き方をキットに教える準備に間もなくとりかかったので、考える時間は、そのとき、たしかにぜんぜんなかったのだった。どうやらキットは、毎週二度、その授業を受け、そのうちの一度は、この夜受けることになっていたようで、キット自身も先生のネルも、それをとても楽しんでいた。彼がひどく遠慮して、見知らぬ紳士がいる居間でなかなか坐ろうとせず、その説得にはながい時間がかかったこと――いよいよ坐ったとき、彼が|袖《そで》をたくしあげ、|肘《ひじ》を四角に張り、習字帳に顔をピタリとひきよせ、やぶにらみの|眼《まなこ》ですごく行をにらみつけていたこと――手にペンをにぎった最初の瞬間から、なすり消しをせっせとはじめ、髪のつけ根までインクまみれになってしまったこと――偶然文字をひとつみごとに書きあげたとき、もうひとつ字を書こうとする準備で、せっかく書きあげた文字を腕でなすりつぶしてしまうさま――新しい失敗をしでかしたたびに、子供がワッと笑いだし、あわれなキット自身も、もっと大きな、それにおとらぬ陽気な笑い声を立てたようす――それにもかかわらず、それをしていながらずっと、彼女のほうには教えようとするやさしい気持ち、キットのほうには学ぼうとする熱心さがどんなにあったか――こうしたことすべてを語ろうとしたら、きっと、必要以上の場所と時間をとることになるだろう。授業がおこなわれ、夕刻がすぎ、夜となり、老人がまた落ち着かずにイライラしはじめ、前と同じ時刻に人知れず出てゆき、子供が陰気な壁につつまれてひとりのこされることになったとお伝えすれば、もう十分だろう。
わたし自身の立場で話をここまで運び、読者に以上の人物を紹介してきたのだから、これから先の話からわたしは身をひき、以下の話で目立つ重要な役割をもつ人たちに、自分で語らせ行動させることにしよう。
4
クウィルプ夫妻はタウア・ヒルに住み、主人公がいままでみてきたような仕事で出かけているあいだ、タウア・ヒルの自分の部屋で、クウィルプ夫人はその不在を嘆いていた。
クウィルプ氏の職業は多方面にわたり、仕事は数多くあったが、特定の職をもった者とはいえなかった。テムズ川の川べりのきたならしい通りや路地の地区から、彼は家賃を集め、商船の水夫や下級船員に金を前貸しし、東インド商会のさまざまな航海士の投機的な事業に参加し、税関事務所の鼻先で、密輸入の葉巻きをふかし、光沢のある黒の麦わら帽子とまるまるとしたダブルの上衣を着けた人たちと、毎日かなり盛んに、王立取引所で契約を結んでいた。テムズ川のサリー州側に、「クウィルプの波止場」と呼ばれている小さな、ねずみ[#「ねずみ」に傍点]の出没する囲い地があり、そこには、まるで雲から落ちてきて地面につきささったように、ちりの中でねじれまがって立っている小さな木造の会計事務所、|錆《さび》だらけのいくつかの錨のわずかな断片、大きな鉄の環、いくつか積みかさねたくさった材木の山、クシャクシャにひしげ、ひびがはいり、打ちつぶされた古い銅板の二、三の山があった。クウィルプの波止場で、ダニエル・クウィルプは船舶解体業者になっていたが、こうした事情から察するに、とても小規模な船舶解体業者が、船を粉々に細かく切りくだいてしまったものらしい。この場所では、活気や活動にあふれた異常な状態はいささかも示されていなかった。そこにいる人間といえば、ズック服を着こんだ水陸両生的な少年だけで、そのやっていることの変化といえば、ただ潮が引いたときに、ごみの山の|天辺《てつぺん》に坐って泥の中に石を投げこむことから、高潮のときに、両手をポケットにつっこんで、テムズ川の動きとさわぎを、立ったまま大儀そうにながめていることに変っていくだけだった。
タウア・ヒルの小人の住まいには、自分たち夫婦に必要な設備と、夫人の母親のための小さな小部屋の寝室があった。この母親は、夫婦といっしょに住み、ダニエルと永続的な戦闘状態にあり、そうして喧嘩をしていながらも、彼女はダニエルを少なからずおそれていた。じっさい、この醜悪な小男は、あれこれと手段を|弄《ろう》して――自分の醜悪さ、兇悪さ、生れながらの|狡猾《こうかつ》さのいずれを使おうとも、問題ではなかった――彼が日々接触し話し合うようになったたいていの人物に、自分の怒りをちゃんと心得ておそれるようにさせていた。彼のこうした支配権は、ほかならずクウィルプ夫人にたいしてもっとも完璧にふるわれていた。彼女はかわいい、小柄な、やさしいもののいい方をする、青い目をした女で、その例はべつに珍しいものでもないあの奇妙な心の迷いにとりつかれてこの小人と結婚してから、その日々の生活で、自分の愚行にたいする罪ほろぼしの苦行を積んでいるのだった。
クウィルプ夫人が自分の部屋で嘆いていることは、もう申しあげた。彼女が自分の部屋にいたのはたしかだが、ひとりでいるのではなかった。ついちょっと前にお伝えした母親である老夫人以外に、近所の六人ほどのご夫人方がここに集っていたからである。彼らは、奇妙な偶然のいたずらで(その上、また、彼らのあいだでのちょっとしたしめし合せで)、お茶の時刻あたりに、ここにつぎからつぎへと立ち寄ってきた。お茶の時刻といえば、話にはもってこいのとき、この部屋は涼しく、陽陰になり、けだるさを感じさせる場所で、開いた窓辺には何本か木があって、ほこりを閉めだし、家の中のお茶のテーブルと外のロンドン塔のあいだを気持ちよく区切っていたので、ご夫人方が腰をすえておしゃべりをしようとする気になったのも、べつに驚くには当らない。特に、新鮮なバター、新しいパン、小えび[#「えび」に傍点]、オランダがらし[#「がらし」に傍点]といった人をひきつけるものがあったことを考えてみれば、なおさらのことである。
さて、こうした事情のもとで、ご夫人方が集合したのであるから、弱き女性にたいして横暴にふるまおうとする男性の傾向、その横暴に抵抗し、自分たちの権利と尊厳を主張しなければならない女性の義務に話題が向っていったのは、きわめて当然なことのなりゆきだった。それが当然である理由は、四つあげることができる。第一に、クウィルプ夫人は若き女性であり、夫の支配下に屈服しているのはよく知れわたった事実、この女性を刺激して反乱にかり立てねばならなかった。第二に、クウィルプ夫人の母親は、性格が賞賛に値するほどのじゃじゃ馬で、男性の権威に反抗する気分の強いことが知られていたからである。第三に、それぞれの訪問者が、この点で、女性一般より自分がどんなに卓越しているかを示したがっていた。そして、第四として、この連中はふたりずつ組になってたがいに悪口をいい合うことに馴れていたため、全員が仲よく打ちとけて一堂に会したので、つね日ごろの話題をうばわれ、その結果、みなの共通の敵に攻撃を加える以外にすべきことがなかったためだった。
以上の考慮につき動かされて、太ったご夫人が、えらく心配し同情したようすで、クウィルプ氏はどんな具合いだ? とたずねて、議事の皮切りをおこなった。それにたいして、クウィルプ氏の妻の母親は|辛辣《しんらつ》に答えた、「まあ、とても元気――あの男に具合いのわるいとこはたいしてなくてね――いけない雑草は、たしかに、はびこるもんですよ」ご夫人方全員は、調子を合せてため息をつき、深刻に頭をふり、殉教者としてクウィルプ夫人に目を投げた。
「ああ」例の女代弁人はいった、「あんたがちょっと注意してやったらと思ってるのよ、ジニウィン奥さん」――ここで申しておかねばならないが、クウィルプ夫人はかつてのジニウィン嬢だった――「われわれ女が女としてしなければならないことは、あんたがいちばんよく知ってるんですからね」
「ああ、まったくね!」ジニウィン夫人は答えた。「あたしのあわれな亭主、あの|娘《こ》の父親が生きてたとき、このあたし[#「このあたし」に傍点]に怒った言葉ひとつでもはこうものなら、あたしはきっと――」この善良なるご夫人はこの言葉の結びをつけず、すごい勢いで小えび[#「えび」に傍点]の頭をねじりとったが、この動作は、ある程度、言葉の代用になっているようだった。ほかの連中によってこの動作はそうしたふうにはっきりと理解され、彼女らは大賛成ですぐにそれに答えた、「奥さん、あんたはあたしの気持ちをちゃんとくみとってるよ。あたしがすることだって、それと同じさ」
「でも、あんたはそんなことをする必要がないね」ジニウィン夫人はいった。「あんたにとっては幸いなことだけど、あたし以上にそれをするきっかけはないんだからね」
「女が自分に誠実だったら、きっかけなんて必要じゃないよ」太ったご夫人は答えた。
「聞いたかい、ベツィ?」注意を与える調子の声で、ジニウィン夫人はいった。「それとそっくり同じ言葉を、わたしはお前に何回いったことだろうね、しかも、それをいうとき、ひざまずくようにしてたのみこんでね!」
哀悼をあらわしているひとつの顔から他の顔へとぐったりして目をうつしていったクウィルプ夫人は、顔を赤く染め、微笑をもらし、ふんぎりがつかないように頭をふった。これが全員のさわぎだす合図になり、それは低いつぶやき声ではじまり、だんだんと大きな声にふくれあがってゆき、そのさわぎの中で全員が一斉にしゃべりだし、口をそろえて、彼女は若い女の身空、もっとよく事情を心得てる連中の経験にさからって異をとなえる権利はもっていない、彼女の幸福しか考えてない人たちの忠告を受け入れないなんて、彼女がとてもいけない、そんなふうにふるまうのは、まさに恩知らずと紙一重のちがい、自尊心をもたなくとも、ほかの女性には多少の尊敬の念をもってもいいはず、彼女のふがいなさで女性全員を不面目な立場に追いこんでる、ほかの女に対して尊敬の念をもたなかったら、ほかの女も彼女にたいして尊敬の念をもたなくなるときが来るだろう、いずれきっと、それをわるかったと思うようになるだろう、と述べ立てた。こうした注意を与えてから、ご夫人方はいままでにないほどの猛攻撃をまぜたお茶、新しいパン、新鮮なバター、小えび[#「えび」に傍点]、オランダがらし[#「がらし」に傍点]に加え、クウィルプ夫人がそんなふうにやってるのをみてひどくイライラしたので、ひと口でも食べる気にはなれない、といっていた。
「話すのはとても結構なことよ」なんの飾り気もなくクウィルプ夫人はいった、「でも、わかっているの、もしわたしが明日死ぬようなことがあったら、クウィルプは自分の好きなどんな|女《ひと》とでも結婚できるのよ――いまでもそれができること、わかっているの!」
この考えにたいして、まさに憤慨の悲鳴が発せられた。好きな女と結婚できるなんて! 自分たちのうちだれとでも、彼が図々しくも結婚しようと考えてるのをみたいもん、そんなことをほんのかすかにでもするとこをみたいもの。ひとりのご夫人(未亡人だった)は、彼がそれをほのめかしでもしたら、刺し殺してやる、といっていた。
「よくわかったわ」頭をコクリとうなずかせて、クウィルプ夫人はいった、「たったいまいったとおり、話すのはとても楽なことよ。でも、くりかえしていいますけどね、わたし、知っていると――確信しているわ――クウィルプは、その気になれば、ちゃんとやり方を心得ていて、ここにいるどんなに美しい|女《ひと》だって、わたしが死に、その|女《ひと》が自由の身、そして彼が言い寄ろうという気になったら、とても彼を断るわけにはいかなくなるのよ。さあ、どう!」
この言葉を聞いて、「あんたがあたしのことをいってるのはわかってることよ。まあ、やってみたらいいことね――それだけのことよ」といわんばかりに、全員がツンと|顎《あご》をひいてそりかえった。だが、なにかかくされた理由のために、彼女たちはみんな例の未亡人のことに憤慨し、この未亡人は自分のことをいわれてる女と心得てる、なんてずる賢い女だろう! とそれぞれの夫人はとなりの女の耳にささやいていた。
「母さんが知っているわ」クウィルプ夫人はいった、「わたしがいってることがまちがってはいないことをね。わたしたちが結婚する前に、よくいっていたんですもの。そうじゃないこと、母さん?」
この質問は尊敬を受けている母親の夫人をだいぶ微妙な立場に立たすことになった。娘をクウィルプ夫人に仕立てることで積極的に動いたのは、たしかに彼女だったし、その上、ほかの女がだれも夫にはしない男と娘が結婚したのを強調すれば、家名にもかかわる大事になったからである。逆に、義理の息子の魅力的な性格を大げさに誇張すれば、彼女が全精力をかたむけて努力している反乱の大義名分が弱められるわけだった。こうした相容れない考えにとりかこまれて、ジニウィン夫人は、うまくとりこむ力を認めはしたものの、支配する権利は否定し、例の太った夫人にうまい調子でお世辞をいって、議論を出発点にひきもどした。
「ああ、ジョージ奥さんがいまいったことは、分別のあるまともなことだよ!」老夫人は叫んだ。「女が自分に誠実でありさえしたらね! ――だけど、ベツィはそうじゃなくって、なお恥かきのあわれなことになってるのさ」
「クウィルプが娘さんにやってるようにこづきまわされるくらいなら」ジョージ夫人はいった、「あたしゃね――あたしゃ自殺し、まず手紙を書いて、そうさせたのはあの男だってはっきりいってやるよ!」
この言葉が大声の賞賛を受け承認を与えられたとき、べつのご夫人(マイノリーズ通り(オールギットとロンドン塔のあいだの通り)からやってきたご夫人だが)が言葉を入れた。
「クウィルプさんはとてもいい男かもしれませんよ」このご夫人はいった、「そして、きっとそうだと思うわ。クウィルプ奥さんがそうだといい、ジニウィン奥さんもそうだといい、あの男を知ってる人って、このふたりしかいないんですからね。でも、それにしても、あの男はまったくの――そう、美男子でも若い男でもないことね。そうだったら、まあ、多少はあの男を|勘弁《かんべん》できる筋にもなるんだけどね。それなのに、奥さんは若くて、美しく、それに女なの――これが、結局のとこ、とても重要な点なのよ」
この最後の言葉がとてつもない哀感をこめて語られたので、聞いている人たちからそれに応ずるつぶやきをひきだし、それに刺激を受けて、このご夫人は話をつづけ、もしもこんな夫がこんな妻にたいして怒ったり、わけわからずのことをしたら、そうしたら――
「もしもですって!」厳粛なる宣言の準備行動として、紅茶茶碗を下におき、膝からパンくずを払って、母親は口をはさんだ。「もしもですって! あの男はこの世にまたとないほどの暴君、娘は自分の魂を自分のものともいえなくなってるんですよ。たったひと言、ちょっとした目つきだけで、あの男は娘をふるえあがらせ、ひどくおびえさせてるんです。娘は意気地なしで、ひと言、そう、たったひと言でもやりかえせないのよ」
この事実は、ここでお茶を飲んでいる連中全員に、もう前から知られていること、過去一年のあいだ、近所でお茶を飲むときにはいつも、論議の的になり、ながながと述べ立てられていたものだったが、この正式な伝達がおこなわれるとすぐ、全員一斉にしゃべりはじめ、その激しさと|饒舌《じようぜつ》ぶりを相競うことになった。ジョージ夫人は、世間の話題になるだろう、前にもこの話は聞いたことがある、ここにいるシモンズ夫人がそう何回も話をしていた、自分はいつも「いいえ、ヘンリエッタ・シモンズ、自分自身の目でそれをみ、自分自身の耳でそれを聞くまでは、そんなこと、絶対に信じませんよ」といっていた、と述べ立てた。シモンズ夫人はこの証言を確証し、自身の強力な証拠をつけ加えた。マイノリーズ通りからやってきたご夫人は、自分が亭主に加えた成功をおさめた治療法を|披露《ひろう》し、自分の夫は、結婚後一カ月して、虎のまぎれもない兆候を示しはじめたが、この治療に屈服し、文句のつけられないおとなしい羊になった、といった。べつのご夫人は自分の闘争と最後の勝利について述べ、それをしながら、自分の母親とふたりの叔母を呼びこみ、六週間昼夜の別なくたえず泣きつづけるのが必要とわかった、と知らせた。第三のご夫人は、みんなのこうしたさわぎの中で、ほかに聞き手を確保できなかったので、たまたまここに来ていたまだ未婚の若い女に食いつき、自分の心の平和と幸福を大切に思っているのなら、この厳粛な機会を利用し、クウィルプ夫人の弱さから教訓を学び、これから先ズーッと、男性の反抗精神を馴らしておさえつけることにもっぱら心を集中すべきだ、と説きつけた。このさわぎは絶頂に達し、この一座の半分の者は声を高くして文句なしの金切り声になり、ほかの半分の人たちの声を打ち消そうとしていた。そのとき、ジニウィン夫人の顔色がさっと変り、ソッと人さし指をふっているのがみかけられたが、これは沈黙を命じている仕草のようだった。まさにそのとき、こうしたすべてのさわぎの原因ときっかけになっていたダニエル・クウィルプが部屋にいて、注意深く目を走らせ耳をかたむけている姿が見受けられた。
「さあ、話をつづけて、ご夫人方、話をおつづけください」ダニエルはいった。「おい、お前、夕食までおいでくださるよう、おねがいし、伊勢えび[#「えび」に傍点]二匹となにか軽くておいしいものを買ってくるんだ」
「わたしが――わたしがお茶に呼んだんじゃなくってよ、クウィルプ」妻はどもっていった。「偶然集ることになったの」
「なお結構じゃないか、お前。こうした偶然の会は、いつも、いちばん楽しいもんなんだからな」小人はいい、悦に入ってひどくもみ手をしたので、手にこびりついていた泥から豆鉄砲の小さな弾をつくっているような格好だった。「あれっ! まさかお帰りじゃないんでしょうな、ご夫人方! たしかに、ご帰還じゃないんでしょうな!」
それぞれのボンネット帽やショールをさがしながら、敵のご夫人方は頭をちょっとツンとそらせていたが、言葉の上の闘争はすべてジニウィン夫人にゆだねていた。彼女は、自分がチャンピオンの立場に立っているのを知って、チャンピオンの威名をおとすまいと、かすかな努力を示した。
「あたしの娘がその気になってたら」老夫人はいった、「夕食までいていただいて、どうしていけないんだい、クウィルプ?」
「たしかにね」ダニエルは応じた。「どうしていけないんです?」
「夕食したって、道をはずしたり、いけないことをしたことにはならないはずだがね?」ジニウィン夫人はいった。
「もちろん、そうですとも」小人は応じた。「そんなこと、あるはずはありませんからな。伊勢えび[#「えび」に傍点]サラダか車えび[#「えび」に傍点]が出るんじゃなかったら、健康にわるいこともないんですからな。えび[#「えび」に傍点]は消化によくないそうですからね」
「あんたの[#「あんたの」に傍点]奥さんが消化不良になったり、ほかのなにか不安の種になるような病気にかかるのはいやなんだね、どうだい?」ジニウィン夫人はいった。
「世界二十をもらっても、まっぴらですよ」ニヤリとして小人は答えた。「それと同時に、二十人の義理の母親をもらってもね――そんなになったら、まったくありがたいことなんでしょうがね!」
「わたしの娘は、クウィルプさん、たしかにあんたの妻なんですよ」クスクス笑いをして老夫人はいったが、この笑いは、その事実を思い起させるのに必要ということを暗にほのめかそうとする皮肉な笑いにするつもりのものだった。
「たしかにそうですよ。たしかにね」小人はいった。
「そして、娘には自分のしたいことをする権利があると思うんですがね、クウィルプ」身をふるわせて老夫人はいったが、このふるえは、一部は怒りのため、一部は小鬼のような義理の息子にたいする人知れぬ恐怖のために起されたものだった。
「権利があると思うですって!」彼は答えた。「おお! その権利をもってるのを知らなかったんですか? それを知らなかったんですかね、ジニウィン夫人?」
「もつべきだということは知ってるよ、クウィルプ、そして、娘があたしふうの考えになったら、もつとこなんだがね」
「お前はどうして母さんのような考えをもたんのだね、えっ?」グルリと向きなおり、妻に語りかけて、小人はいった、「どうして母さんの真似をいつもしてないんだい? 母さんは女性の|鑑《かがみ》――お前の父さんは、生涯毎日、そういってたんだ、うん、きっとそうなんさ」
「娘の父親は|もったいない《ブレシツド》くらいの男でね、クウィルプ、それにだれかさんたちの二万倍も値打ちのある人だったよ」ジニウィン夫人はいった、「二万倍なんておろかさ」
「その父さんの知り合いになれたらよかったんですがね」小人はいった。「そうなったら、|祝福された《ブレシツド》男になったことでしょうよ。でも、いまはもう、祝福されてますね。ありがたい解放だったわけ。きっとながいこと、苦しんでいたんでしょうからね?」
老夫人はあえいだが、言葉はなにも出てこなかった。クウィルプは、目には前と変らぬ悪意、口先では前と変らぬ皮肉な|慇懃《いんぎん》さをもって、話をつづけた。
「お具合いがわるいようですな、ジニウィンの奥さん、きっと興奮しすぎたんですよ――たぶん、おしゃべりをしてね。そいつがあんたの好みなんですからな。床にはいりなさい。さあ、床にはいりなさい」
「床にはいるのは、自分の好きなときにしますよ、クウィルプ、そして、その前に床にはいったりはしませんよ」
「だけど、どうか床におはいりなさい。さあ、どうか、どうか」小人はいった。
老婆は腹立たしげに彼をながめたが、彼が前に出てくると、うしろにしりぞき、彼の前でたじろいで、彼が自分にたいしてドアを閉め、このときにはもう下で群らがっていた客人たちのあいだに自分を追いだしてゆくのを、なんの抵抗もせずに許していた。妻とふたりだけになり、妻が目を伏せたまま身をふるわせながら坐っていると、小男は、少し距離をおいて、彼女の前に突っ立ち、腕組みをして、なにもしゃべらずジッと彼女をみすえていた。
「おお、かわいい女!」が、この沈黙を破った言葉だった。そして、|舌鼓《したづつみ》を打ったが、それは、言葉の|彩《あや》ではなく、彼女がじっさい砂糖菓子であるような調子だった。
「おお、大事なかわいい女! おお、じつに甘美な美女よ!」
クウィルプ夫人はシクシクと泣き、感じのいい主人公の性格を心得ていたので、ひどい暴力ざたの表示と同じように、こうしたお世辞におびえているようだった。
「女房は」ニヤリとした物すごい笑いを浮べて、小人はいった、「すごい宝石、すごいダイヤ、すごい真珠、すごいルビー、宝石という宝石をちりばめたすごい金の小箱なんだ! まったくすごい宝物! おれはすごく好きなんだよ!」
あわれな小女は、頭の天辺から足の爪先までふるえ、目をあげ懇願の表情を浮べてクウィルプの顔をのぞきこみ、また目を伏せ、もう一度シクシクやりだした。
「そのいちばんいいとこは」軽くとびあがりながらこの小人はいったが、その跳躍のさまは、ひんまがった脚、醜悪な顔、あざけりの態度で、まさに悪鬼のようだった――「そのいちばんいいとこは、とてもおとなしく、おだやかで、勝手をしようとはせず、じつに調子のいい母親をもってることさ!」
この最後のほうの言葉は、いかにも満悦した悪意をこめて語られ、その悪意の百度以内のところには、彼以外のだれも、だれも絶対に近づけないほどだった。そして、クウィルプ氏は両手を膝に乗せ、|股《また》をひろくひろげて、ゆっくり、だんだん、だんだんとかがみこみ、とうとう、頭を片側にグイッと強くねじって、妻の目と床のあいだにはいりこんできた。
「お前!」
「はい、クウィルプ」
「おれはきれいな男かね? |鬚《ひげ》さえつけたら、世界で最高の美男子かね? いまのまんまでも、まったくの|伊達《だて》男かね? どうだい、お前?」
クウィルプ夫人は従順に答えた、「ええ、そうよ、クウィルプ」そして、相手の視線に魅入られて、オズオズしながら、彼をながめつづけていた。一方、彼はこうしたおそろしい一連のニヤニヤ笑いで彼女の相手をしていたが、そうした笑いは、彼自身と悪魔以外の者には、とうていすることができないものだった。この上なくながくつづいたともいえるこうした演技のあいだ、彼は完全にものひとついわず、物音といえば、思いがけぬとびはねで、妻をうしろにとびさがらせ、思わず悲鳴をあげさせたときだけだった。ついで、彼はクスクスッと笑いだした。
「お前」彼はとうとういった。
「はい、クウィルプ」彼女はおとなしく答えた。
クウィルプは心の中にもっている問題の追求はおこなわず、立ちあがって腕組みをし、前よりもっときびしく彼女をにらみつけていたが、彼女のほうでは、目をそらし、ジッと下をみつめたままでいた。
「お前」
「はい、クウィルプ」
「もしあんな|婆《ばばあ》どもの話をこれから聞いたりしたら、お前を噛みつぶしてやるぞ」
この簡潔な脅迫にはうなり声がともない、このうなりは彼が特に本気になっているようすを与えた。こういって、クウィルプ氏はお茶の盆を片づけ、ラム酒をもってくるように、と彼女に命じた。大きな角びんにはいった酒が彼の前におかれたが、これは、もともと、船の倉庫からもってきたものだった。ついで、彼は水と葉巻きタバコの箱をもってくるようにいいつけ、それが運ばれると、肘かけ椅子に坐りこんで、大きな頭と顔を背におしつけるようにして寄せかけ、小さな両脚をテーブルの上に乗せた。
「さて、お前」彼はいった、「おれはタバコをふかしたい気分になっててな、夜じゅうズーッと、それをやってるだろう。だが、お前に用があるかもしれない。そこに、よかったら、坐っててくれ」
彼の妻は、いつもの「はい、クウィルプ」という返事以外にはなにもいわず、この小人の男性は、最初の葉巻きを手にとり、最初の水割りラム酒をつくった。太陽はもう沈み、星が輝きはじめ、ロンドン塔はその本来の色から灰色に、灰色から黒い色に変ってゆき、部屋の中はすっかり暗くなって、葉巻きの端は深い朱色に燃えていた。だが、前と変らず、クウィルプ氏は同じ姿勢で喫煙と飲酒をつづけ、顔にはいつも犬のような微笑を浮べて、窓の外を大儀そうににらみつけていた。この微笑は、クウィルプ夫人が不安か疲労でわれ知れず身を動かしたときに、ニヤリとしたよろこびの笑いにひろがっていった。
5
立てつづけにちょっと目をまばたいてクウィルプ氏が多少なりとも眠ったかどうか、さもなければ、夜じゅうズーッと目をカッと見開いて坐っていたかどうか、そのいずれにせよ、彼が葉巻きの火をたやさず、新しいタバコの火をすいつくしたタバコの灰からつけ、ろうそくの火をそれに使おうとしなかったことは、まぎれもない事実だった。また、一時間ごとに鳴りひびく時計の時報も眠気や床にはいろうとする自然の感情を湧かせることはなく、はっきりと目をさましている状態をなお強めている感じだった。こうして夜がふけていくのを物語る鐘が鳴るごとに、彼は自分が目ざめているのを喉をおし殺してクックッと鳴らし、肩をゆすってあらわしていたが、それは、心から愉快に笑ってはいるものの、同時に、陰険にひそやかに笑っている人のようでもあった。
とうとう夜が明け、あわれなクウィルプ夫人が早朝の寒さで身をふるわせ、疲労と睡眠不足でクタクタになって、椅子に辛抱強く坐っている姿が示されることになったが、彼女は、ときおり目をあげて、無言で主人公の同情と慈悲心をひきおこそうとし、ときどき咳をして、自分がまだ許されず、この苦行はながい時間にわたるものだったことを彼に思い起させようとしていた。だが、彼女の主人公の小人はまだ葉巻きをふかし、ラム酒を飲みつづけて、彼女に注意を払おうとせず、太陽がのぼってからややしばらくたち、町の活動と物音が街路ですごい勢いになってはじめて、言葉か合図で彼女の存在を認めてくれるようになった。だが、ドアをイライラしたようにたたく音がしなかったら、彼はこれさえしなかったことだろう。このドアでひびいた音は、ドアの向う側でそうとう固い|拳骨《げんこつ》でせっせとたたいているのを物語っているようだった。
「いや、驚いた!」意地のわるそうなニヤリとした笑いを浮べてあたりをみまわしながら、彼はいった、「もう昼だ! やさしいお前、ドアを開けておくれ!」
従順な妻は|桟《さん》をはずし、彼女の母親の夫人が中にはいってきた。
さて、ジニウィン夫人はすごい性急さで部屋におどりこんできたのだが、これは、義理の息子がまだ寝こんでいるものと思いこんで、彼の行為と性格についてのおしなべての悪口をたたいて、気を晴らそうと、ここにやってきたためだった。その義理の息子が起きていて、きちんと服を着こんでいるのをながめ、前の晩にそこを出てからズッと、部屋に人がいたらしいのを見て、多少とまどいながら、彼女は途中で足をとめた。
この醜悪な小男の目は、どんなことでもみのがしたりしなかった。この老夫人の心の中でどんなことが起きているかをすっかりみてとって、彼は満ちたりた満悦感でさらに醜悪になり、勝ちほこった流し目づかいをして、老夫人に朝の挨拶を述べた。
「まあ、ベツィ」老女はいった、「まさかお前は――まさかいうんじゃないだろうね、お前が――」
「夜じゅうズーッと起きてたですかね?」結論の言葉を補充して、クウィルプはいった。「ええ、起きてましたよ」
「夜じゅうズーッとですって!」ジニウィン夫人は叫んだ。
「ええ、夜じゅうズッとね」渋面まじりの微笑を浮べて、クウィルプはいった。「夫婦は仲のわるいもんなんていってんのは、だれですかね? はっ、はっ! 時間がとぶようにしてすぎちまったんですよ」
「あんたは人でなしだよ!」ジニウィン夫人は叫んだ。
「さあ、さあ」もちろん、わざと彼女の言葉をとりちがえて、クウィルプはいった、「女房の悪口は、いってはいけませんよ。もう、家にきた身なんですからね。たしかに時のたつのを忘れさせ[#「時のたつのを忘れさせ」に傍点]、わたしに眠らせなかったのは彼女ですけどね、わたしの身を大切に思って、彼女をしかったりしてはいけませんよ。親愛なる老夫人にお礼を申しあげますよ。さあ、あなたの健康を祈って、乾杯!」
「ほんとに[#「ほんとに」に傍点]ありがとさんよ」老女はやりかえしたが、その両手の落ち着きなさで、母親としての拳を義理の息子にふりかざしてやりたい激しい気持ちをあらわしていた。「まあ、ほんとに、ほんとにありがとさんよ!」
「恩義を心得た人だ!」小人は叫んだ。「お前」
「はい、クウィルプ」小心な受難者は答えた。
「朝食の準備でお母さんの手伝いをするがいい。おれは、今朝、波止場にいってくるからな――早けりゃ早いほどいいんだ。急いでくれ」
ジニウィン夫人は、なにもしないぞと決心を固めたように、戸口近くの椅子に坐りこみ、腕組みをして、反抗のかすかな表示を示したが、娘からちょっと耳打ちをされ、義理の息子からは、目まいでも感ずるのかと親切にたずねられ、それならとなりの部屋に冷たい水がたっぷりあるとほのめかされて、この兆候は効果的に消滅し、|不承不承《ふしようぶしよう》ながらもせっせと、朝食の準備にとりかかった。
準備が進められているあいだ、クウィルプ氏はとなりの部屋にひきさがり、上衣の|襟《えり》をうしろに折って、じつに不潔な感じのぬれたタオルで自分の顔をこすりはじめたが、それは、彼の肌を前よりいっそうもうろうとくもったものにしてしまった。だが、こうしたことをしていながらも、彼の注意力と探索癖は消えてはいなかった。前と変らぬ鋭い|狡猾《こうかつ》な顔つきをして、この短い仕事のあいだでも、ときどき手をとめ、自分のことが話題になっているかもしれないとなり部屋の会話を聞こうと、耳を澄ませて立っていた。
「ああ!」ちょっとしばらくのあいだ聞き耳を立てていたあとで、彼はいった、「なにか話してるようだと思ったのは、耳にかぶってたタオルのためじゃなかったんだな。そんなことだろうと思ってたんだ。このおれは、小男のせむしの悪党で、怪物なんだ、そうですかね、ジニウィン夫人? おお!」
この発見のよろこびは、以前の犬のような微笑を十分に呼び起すことになった。その微笑がすっかり消えてから、彼はいかにも犬のようにからだをブルブルッとふるわせ、ご婦人方のところにいった。
クウィルプ氏は、いま、鏡の前に進んでゆき、そこに立って、ネッカーチーフをつけていた。そのとき、ジニウィン夫人はたまたまそのうしろにいたので、この暴君の義理の息子に拳をふってやろうという気分が、抵抗できぬほど強く湧き起ってきた。それは一瞬間の身ぶりだったが、彼女がそれをし、その動作といっしょにおそろしい|形相《ぎようそう》をしたとき、彼女は鏡の中の彼の視線と目を合せ、現行犯のところをみられることになった。鏡の中の同じ|一瞥《いちべつ》は、舌をだらりと垂らしたおそろしくグロテスクなゆがんだ顔の映像を彼女に伝えたが、つぎの瞬間、小人はすっかり物やわらかな落ち着き払ったようすをしてふり向き、いかにも愛情のこもった調子でたずねた。
「さて、ご気分はいかがですかな、おばあちゃん?」
この事件はこれといったことではなく、|滑稽《こつけい》なものだったが、それは、彼をすごい小悪魔、おまけにじつに鋭敏な、なんでもわかっている小悪魔であるように思わせたので、老婆はすっかり彼のことをおそろしくなり、ただひと言もしゃべらず、驚くほどの|慇懃《いんぎん》さで、彼に案内をされて朝食の食卓につれられていった。食卓で、彼はいまつくりだした印象を弱めるようなことは一切しなかった。ゆで卵を殻ごとすっかり食べ、大きな車えび[#「えび」に傍点]を頭も尻尾もくっついたままガツガツと食べ、同時に、驚くほどの貪欲ぶりでタバコとオランダがらし[#「がらし」に傍点]を噛み、|煮《に》えこぼれる茶をまばたきもせず飲み、フォークとスプーンを噛みつけて、それをひんまげ、簡単に申せば、じつに多くのおそろしい異常なことをやってのけたので、女たちは正気を失ってしまうほどおびえ、彼がほんとうに人間なのかしらと考えはじめていた。とうとう、こうしたこと、それに、同様に彼のやり方の一部になっているほかのいろいろなことをやってのけて、クウィルプ氏は家から出ていったが、女たちは、すっかり反抗心の消え失せた従順な状態になっていた。彼はテムズ川の川|辺《べり》にゆき、そこでボートに乗りこんで、自分の名をつけた波止場にわたっていった。
向う岸にゆこうとダニエル・クウィルプが小舟に乗りこんだとき、ちょうど上げ潮になっていた。一群のはしけがゆっくりけだるげに進んできたが、一部は横向き、一部は船首を前にし、一部は船尾を前にして、いずれも片意地で強情、いかにも|頑固《がんこ》なふうに、大きな船にドシンとぶつかり、蒸気船の船首の下を走りぬけ、用のないあらゆる種類の片隅やへりにつっこんでゆき、同数のくるみ[#「くるみ」に傍点]の殻のように、四方八方でバリバリと噛みくだかれていた。一方、それぞれのはしけは、ながい一対のオールを水の中でもがかせ、パシャパシャ水をはねかして、苦しみもがいている不格好な魚のようだった。
停泊している何|艘《そう》かの船では、乗組員全員がなわを巻き、帆布をひろげて乾かし、船荷のあげおろしをやり、ほかの船では、二、三人のタールでよごれた少年、それに、ときどき吠えまわっている犬以外に、なんの活気も見受けられなかった。そうした犬は、甲板の上をあちらこちらと走りまわり、舷側越しに外をながめようとはいあがり、外の景色をながめると、なおいっそう声高に吠え立てていた。林立したマストのあいだを、ゆっくりと大きな蒸気船が進んできたが、その重い外輪で短くイライラしたように水を打ち、まるで息をする場所をさがし求めているよう、その大きな|図体《ずうたい》で、テムズ川の小魚の中におさまった海の怪物のようだった。両側には幾層にもならんだ真っ黒な石炭船がみえ、そのあいだを|縫《ぬ》って、帆を陽光にきらめかせ、船上ではキーキーと音を立てて、船がゆっくりと港を出ていったが、そのキーキーいう音は、四方八方から|木魂《こだま》になってはねかえってきていた。あたりの水とそこに浮ぶすべてのものは、活気にあふれ、踊り、軽快でウキウキしていた。一方、古い灰色のロンドン塔と岸辺にならび立つ建物は、そのあいだに突き立っている数多くの教会の|尖塔《せんとう》といっしょになって、冷やかにそうした光景をながめ、その苛立つ隣人の川を無視しているようだった。
ダニエル・クウィルプは、この明るい朝景色をながめても、傘をもたずにすむという以外に、べつにたいして心を動かされず、例の波止場の近くで舟をすて、せまい小道をとおってそこに進んでいったが、その道は、そこを歩いている人たちの水陸両生の性格を受けついで、泥と水とを同じくらいたっぷりふくんでいるものだった。目的の場所にゆきついて、最初に彼の目に映ったのは、靴底を上にしてひどい靴をはいた一対の足が高くそそり立っている光景だった。この珍しい光景は、ある少年がつくりだしていたもので、風変りな気質をもち、生れつきとんぼ返りが大好き、いま逆立ちをし、この逆立ちの状態でながめるテムズ川のようすを、ツラツラとみていたのだった。彼は主人の声でサッと自然の姿勢にかえり、頭が正しい位置にもどるやいなや、クウィルプ氏は、それをあらわすのにもっと適切な言葉がないのでここでそれを使うことにするが、この少年のほうに、なぐりつけてやろうと「サッと歩いて」いった。
「ねえ、わたしを放っといてくださいよ」両肘で交互にクウィルプのたたく手を受けとめながら、少年はいった、「いいですかね、いっときますが、そいつをやめないと、いまにいやな目にあうことになるでしょうからね」
「この犬め」クウィルプはうなった、「おれに口をきいたりなんぞしたら、鉄の棒でなぐり、|錆《さび》だらけの|釘《くぎ》でひっかき、お前の目をひっつぶしてくれるぞ。そう、それをしてくれるぞ!」
こうしたおどしをかけて、彼はふたたび拳をにぎりしめ、肘のあいだをたくみにかいくぐり、左右にさけて逃げている少年の頭をつかまえて、頭を三、四回したたかはりとばした。もう目的を果し、それをはっきりと伝えてから、彼はなぐるのをやめた。
「もうなぐらないんですね」うなずいて身をひき、最悪の場合に備えて肘の警戒は解かないままで、少年はいった、「さあ!」
「ジッと立ってろ、この犬め」クウィルプはいった。「もうせんぞ。思う存分なぐったんだからな。さあ、鍵を受けとれ」
「あんたと同じ背格好のやつをどうしてなぐらないんです?」とてもゆっくりと近づいてきて、少年はたずねた。
「おれと同じ背格好のやつなんて、どこにいるというんだ、この犬め?」クウィルプはやりかえした。「鍵を受けとるんだ。さもないと、それでお前の脳みそをたたきつぶしてくれるぞ」じっさい、こういいながら、彼は鍵の柄で少年をしたたかひとなぐりした。「さあ、事務所を開けるんだ」
少年は|仏頂面《ぶつちようづら》してそれに応じ、最初ブツブツいっていたが、ふりかえって、クウィルプが断固とした顔つきをしてうしろについてくるのをみると、そのブツブツをやめてしまった。ここでお伝えしておいてもよいと思うのだが、この少年と小人のあいだでは、奇妙な愛情がかよい合っていたのだった。どんなふうにしてその愛情が生れ育てられたのか、一方ではなぐりつけるとおどかし、他方では口返答と反抗で、それがどんなに栄養を与えられて大きくなったか、それは、さし当って、重要なことではない。クウィルプが、この少年以外に、反抗するのをだれにも許していないのはたしかなこと、少年にしても、いつでも逃げだせるのに、たしかにただクウィルプにだけ、自分をなぐりつけるのを許しているのだった。
「さあ」木造の会計事務所にはいっていって、クウィルプはいった、「波止場のほうを警戒するんだ。また逆立ちなんぞしたら、足をちょん切ってくれるぞ」
少年はなにも答えず、クウィルプが中に閉じこもるとすぐ、ドアの前で逆立ちになり、両手で裏まで歩いてゆき、そこで頭を地につけて立ち、さらに反対側のところにいって、同じ動作をくりかえした。この会計事務所の側面は、じっさい、四つあったが、彼は窓のある面はさけていた。窓から外をクウィルプがみているかもしれないと考えたからである。これは思慮深いことだった。事実、少年の性格を知っていたので、小人は大きな棒っきれで武装し、窓わくからそうはなれていないところで、待ち構え、その棒はギザギザし、のこぎりの歯のようになり、折れた釘がところどころにつきささっていて、少年に傷を与えたものと十分に思われた。
この事務所はきたならしい小さな小屋、その中にあるものといえば、ただ、グラグラした古机ひとつ、椅子ふたつ、帽子かけの釘、古い|暦《こよみ》、インクのはいっていない台つきのインクつぼ、すりへって使いものにならない羽根毛のペン、少なくともここ十八年間動いたことがなく、分針は|楊枝《ようじ》としてむしりとられてしまった八日巻きの時計があるだけだった。ダニエル・クウィルプは帽子を眉越しにグッとひきさげ、机の上にのぼり(そこには平らな面があった)、短かいからだをすっかりのばして、それをやりつけている者の気楽さで、眠りこんでしまったが、これは、きっと、ながくぐっすりと眠りこんで、きのうの晩の睡眠不足の穴埋めをしようと考えていたのだろう。
その眠りはぐっすりとはいえただろうが、ながくつづくものではなかった。というのも、眠ってからまだ十五分もたたないうちに、少年がドアを開け、へたくそに|摘《つ》んだまいはだ[#「まいはだ」に傍点]の玉のような頭をつっこんだからである。クウィルプは眠っても目ざとい男で、すぐパッととびおきた。
「だれか会いに来ましたよ」少年はいった。
「だれだ?」
「知りませんよ」
「きいてみろ!」クウィルプはこういい、前にいった棒っきれを手にとり、じつにたくみにそれを少年に投げつけたが、それがとどく前に、少年が立っていた場所から姿を消していたのは、幸運なことだった。「きいてみろ、この犬め」
こうした飛び道具のきくところに二度とはいるのはご免とばかり、少年は、慎重にも、自身のかわりに、この邪魔を最初にひきおこした人物を部屋の中に送りこみ、その人物がドアのところに姿をあらわした。
「あれっ、ネリーだね!」クウィルプは叫んだ。
「そうです」中にはいるべきか、ひきしりぞくべきか迷いながら、子供は答えた。たったいま目をさました小人は、ふり乱した髪をまわり一面に垂らし、黄色のハンカチを頭に乗せて、みるもおそろしいものになっていたからである。「わたしですよ」
「おはいり」机からはなれないままで、クウィルプはいった。「おはいり。いやちょっと待った。ちょっとそこいらをみて、頭を地につけて逆立ちしてる少年がいないかどうか調べてくれ」
「いいえ」ネルは答えた。「足で立っていますよ」
「まちがいないね?」クウィルプはいった。「よし。さあ、中にはいって、ドアを閉めるんだ。きみの伝言は、ネリー?」
子供は彼に手紙をわたした。クウィルプ氏は、前より少し横向きになり、片手に|顎《あご》を乗せる以外には姿勢を変えずに、その中身を読みはじめた。
6
子供のネルはオズオズしてわきに立ち、手紙を読んでいるクウィルプ氏の顔をみあげ、その彼女の顔つきで、この小男を多少おそれ、信用していないながらも、奇妙なようすとグロテスクな物腰を笑いださずにはいられない、といったふうを示していた。だが、この子供のほうには、相手の返事にたいする痛ましい心配と、彼がその返事をいやなものにも困ったものにもすることができる力をもっているのをよく心得ていることがはっきりと表示され、これは笑いだそうとする衝動とはひどくかけちがったもの、そこで、彼女自身の努力よりもっと強く、その配慮は、彼女の笑う衝動をおさえつけることになった。
クウィルプ氏自身が手紙の内容でとまどい、それも、そうとうとまどっていることは、たしかに明白なことだった。まだ最初の二、三行も読まないうちに、彼は目をカッとむき、じつにおそろしい渋面をみせはじめ、つぎの二、三行を読むと、驚くほど悪意のこもったふうに頭をひっかき、最後まで読みとおしたとき、ながく不吉な口笛を吹いたが、これは、驚きと|狼狽《ろうばい》をあらわしていた。手紙をたたみ、わきにおいてから、彼は十本の指の爪という爪をすごい勢いで|噛《か》み、手紙をまたサッととりあげ、読みなおした。二度目によく読んでも、どうやら、それは最初に読んだのと同じくらい不満なものらしく、そこで彼は深い物思いに沈み、それからさめると、また爪を噛み、子供をながいことジッとにらみつけていた。子供のほうでは、目を伏せ、彼の返事を待っていた。
「おい!」とうとう、いきなりすごい声で、彼はどなったが、子供は、そのために、鉄砲が耳に撃ちこまれたように、ギクリとした。「ネリー!」
「はい」
「この手紙の中身は知ってるかね、ネル?」
「いいえ、絶対に!」
「誓ってたしか、まったくたしか、まちがいないかね?」
「絶対にたしかです」
「よもや知ってることはあるまいな、えっ?」小人はたずねた。
「ほんとうに知りません」子供は答えた。
「よし!」彼女の真剣な顔をみて、クウィルプはつぶやいた。「お前の言葉を信ずることにしよう。ううーん! もう失くなっただって! 一日で失くなっちまったんだ。いったい、あのじいさん、あれをどうしたんだろう? まったくわからん話だ!」
こう考えて、彼は、また、頭をひっかき、爪を噛みはじめた。こうしているあいだに、彼の顔つきはだんだんにゆるんで、彼としては明るい微笑になっていったが、それは、ほかの人の場合だったら、苦痛のために歯をむきだしているといったものだった。目をふたたびあげたとき、子供は、この男が自分を異常ともいえる好意と満足そうなようすでながめているのに気づいた。
「きょうは、とてもきれいだね、ネリー、うっとりするほどきれいだ。つかれたかね、ネリー?」
「いいえ、急いで帰らなければならないのです。わたしが外に出ていると、おじいちゃんが心配しているのですからね」
「急ぐことはないさ、かわいいネル、まったく、急ぐことはないさ」クウィルプはいった。「おれの二号になるの、お前はどうだい、ネリー?」
「なるって、なににですか?」
「おれの二号さ、ネリー。おれの二番目、クウィルプ夫人さ」小人はいった。
子供はおびえたふうをみせたが、彼のいっていることがわからないらしく、それをみて、クウィルプ氏はその意味をもっとはっきり伝えることになった。
「第一のクウィルプ夫人が死んだとき、第二のクウィルプ夫人になるこったよ、かわいいネル」目をしわだらけにし、まげた人さし指で彼女を自分のほうにひきよせようとしてクウィルプはいった、「おれの女房、かわいい桜んぼのほっぺたをした、唇の真っ赤な女房になるこったよ。いまの女房が五年、いや、わずか四年まだ生きてるとしたら、お前はおれといっしょになれる結婚適齢期になるわけさ。はっ、はっ! いい娘になるんだよ、ネリー、とてもいい娘にな。そしたら、いずれ近く、タウア・ヒルのクウィルプ夫人にきっとなれるんだからな」
このうれしい将来のみとおしで元気づき、調子を出すどころか、子供は彼のところからしりごみし、身をふるわせていた。だれでもおびやかすのが生れつきのよろこびを与えるのか、クウィルプ夫人第一号の死を考え、クウィルプ夫人第二号を第一号の地位と称号にひきあげると考えるのが楽しいのか、あるいはまた、自分の都合で、このさい感じをよくし上機嫌になろうとしていたのかどうか、そのいずれにせよ、クウィルプ氏はただ笑い、彼女のおびえたようすに気づかないふりをしていた。
「すぐおれといっしょにタウア・ヒルに来て、現在のクウィルプ夫人と会うんだ」小人はいった。「女房はお前をとても好きでね、ネル、おれほど好きとはいえんけどね。とにかく、おれといっしょに来るんだ」
「ほんとう、帰らなければならないのです」子供はいった。「返事を受けたらすぐ帰れ、といわれているのですから」
「だが、返事はもらえんよ」小人はやりかえした、「そいつを手にすることはできんよ、おれが家に帰るまではね。だから、わかったろう、自分の任務を果すためには、おれといっしょに来なければならんのだ。さあ、帽子をとっておくれ。すぐに出かけることにしよう」こういって、クウィルプ氏はだんだんところがって机から身をはずし、床に短い脚がつくと、しっかりと立ち、先に立って会計事務所から外の波止場に出ていった。すると、そこで最初に目にはいったのは、逆立ちしていた少年と同じくらいの背丈のべつの若い紳士が、がっきと組み合って泥の中でころげまわり、たがいに激しく打ち合っている光景だった。
「キットだわ!」両手をグッとにぎり合せて、ネリーは叫んだ、「かわいそうに、わたしといっしょに来たキットよ! おねがい、ふたりをとめてちょうだい、クウィルプさん!」
「とめてやるとも!」小さな会計事務所にとびこみ、太い棒きれをもちだしてきて、クウィルプは叫んだ、「とめてやるとも。さあ、|坊主《ぼうず》ども、がんばってやるんだ。おれがお前たちの相手になってやろう。お前たちふたりの相手はおれだぞ、このおれだぞ!」
こう挑戦の言葉を投げて、小人は|棍棒《こんぼう》をふりかざし狂気のようになって、ふたりの闘士のまわりを踊り、ふたりを踏みつけふたりの上でとびあがって、すごい勢いで前後左右にそれぞれを打ちすえ、いつも相手の頭にねらいをつけ、この小人の野蛮人ならではのすごい打撃の雨を降らせた。これは予想以上の熱戦になったので、戦闘者の熱はすぐにさめ、ふたりはやっとのことで立ちあがり、助命をねがいでることになった。
「めっちゃくちゃにたたきつぶしてくれる、この犬どもめ」とクウィルプは叫び、最後の一撃を加えようとしたが、どちらにも近づくことができなかった。「肌が銅色になるまでぶっぱたいてやるぞ。ふたりのあいだで顔の|輪郭《りんかく》なんぞ失くなっちまうまで、顔を痛めつけてくれるぞ、うん、やってやるとも」
「さあ、その棍棒をすてろ。さもないと、ひどい目にあわせてやるぞ」彼のまわりをうまく逃げまわり、とびこむ機会をねらいながら、彼の使用人の少年は叫んだ。「棍棒をすてろ」
「もう少し近くに来い。そうしたら、お前の|頭蓋骨《ずがいこつ》の上にこいつをたたき落してやろう、この犬め」目をギラギラさせてクウィルプはいった。「もう少し近く、まだもう少し、寄って来い」
だが、少年は、主人がたしかに少し警戒をゆるめるまで、この招待を受けようとはせず、警戒がゆるむと、サッととびこみ、武器の棍棒をつかんで、それを主人の手からねじりとろうとした。ライオンのように強力なクウィルプは、少年が力まかせに棍棒をひっぱるときまで、それを楽々とにぎりこみ、それから、いきなり棒を放し、少年をうしろによろめかせ、とうとう、激しく頭を打って彼をドシンとひっくりかえしてしまった。この策略のみごとな成功は、えもいえずクウィルプ氏をよろこばせ、とてもたまらなくおもしろい冗談を聞いたように、彼は大声で笑い、足を踏み鳴らしていた。
「構うもんか」うなずき、それと同時に頭をこすりながら、少年はいった、「どこででも一文でみられる怪物よりあんたがもっと醜悪な小人といわれたって、おれはもう絶対に人をたたこうなんぞとはしないからね、それだけのことさ」
「おれが醜悪じゃないっていうつもりかね、この犬め?」クウィルプはやりかえした。
「そうさ」少年は応じた。
「じゃ、どうしておれの波止場で喧嘩なんぞするんだ、この悪党め?」
「あいつがそういったからさ」キットをさして、少年は答えた、「そちらが醜悪じゃないというためじゃないんだ」
「じゃ、どうしていったんだ」キットはわめいた、「ネリーお嬢さんが醜悪で、お嬢さんも旦那さまも、あいつの主人のいうままにならなけりゃならんとね? どうしてそんなことをいったんだ?」
「あいつがあいつの口上を述べたのは、あいつがバカなため。きみがきみの口上を述べたのは、きみがとても賢く利口なためさ――わが身を用心しないと、生きてくのには利口すぎるともいえるくらいになるぞ、キット」とクウィルプはいい、その態度には人ざわりのよさが示されていたが、目と口のあたりには、もっと物静かな悪意がこめられていた。「さあ、きみに六ペンスやろう、キット。いつも真実を話すんだぞ。いついかなるときも、キット、真実を話すんだぞ。事務所に錠をおろしとけ、この犬め。そして、鍵をもってくるんだ」
この命令が伝えられたもうひとりの少年は、命じられたとおりにし、自分の主人に肩を入れてやった報いとして、鍵で鼻の上をじつに巧妙にコツンとたたかれ、そのために目を涙でいっぱいにしていた。それから、クウィルプは、ネルとキットといっしょに、小舟に乗って去っていったが、少年は、その復讐に、波止場の突端で、みなが川をすっかりわたりきるまで、ときどき逆立ちをして踊っていた。
家にいたのはクウィルプ夫人だけで、主人公が帰還になるとは夢にも思っていなかった彼女は、元気づけのために睡眠をとろうとしていた。彼の足音を聞いて、彼女はパッと目をさました。なにか針仕事をやっていたふりをする暇もほとんどないうちに、クウィルプはネルをつれて部屋の中にはいってきた。キットは階下にのこされていた。
「ネリー・トレントが来たよ、お前」主人はいった。「ぶどう酒一杯とビスケットをやっておくれ。長道中をしたんだからな。手紙を書いてるあいだ、ネリーのお相手をたのむぞ」
ふだんにないやさしい態度はなんの予報かと考えて、クウィルプ夫人はふるえながら夫の顔をのぞきこみ、彼の身ぶりで伝えられた呼び出しにしたがって、彼についてとなりの部屋にはいっていった。
「いいか、おれのいうことをよく聞け」クウィルプはささやいた。「あの娘のじいさんのこと、ふたりがなにをしてるか、どんなふうに暮してるか、じいさんがあの娘にどんなことを話してるか、そうしたことについてあの娘からなにかひきだせるか、ひとつやってみるんだ。できることなら、それを知りたいわけがあるんだ。お前たち女どもは、男に話すよりもっと遠慮なく話し合うもん。それに、お前には、自分にだんだん好意をもたせるようにする物やわらかでおだやかな話しぶりがあるんだからな。わかったか?」
「はい、クウィルプ」
「じゃ、ゆけ。どうしたんだ?」
「ねえ、クウィルプ」彼の妻は口ごもっていった、「わたし、あの|娘《こ》が大好きなの――もしも[#「もしも」に傍点]あの娘をわたしがあざむかないですむことなら――」
小人はおそろしい罵言をつぶやき、いうことをきかない妻にたいして当然の罰を加えるなにか棒はないかとさがしているように、あたりをみまわした。おとなしい小女は、急いで怒らないようにとたのみこみ、命じられたとおりにする、と約束した。
「いいかな?」彼女の腕をつねって、クウィルプはささやいた、「なんとかうまくあの娘の秘密をひっぱりだすんだ。たしかに、お前にはそれができるんだ。いいか、おれは聞いてるぞ。うまく立ちまわらなけりゃ、ドアをキーキー鳴らし、それをうんと鳴らさにゃならなくなると、お前の身に大変なことが起きることになるんだからな。さあ、ゆけ!」
クウィルプ夫人は、命令どおり部屋から出ていった。彼女のやさしい夫は、一部開いたドアの背後に身をひそめ、耳をそこにピタリとあてがって、いかにも狡猾そうな、注意を集中した顔つきをして、耳を澄ませていた。
しかし、あわれなクウィルプ夫人は、どんなふうに切りだしたものか、どんな質問をしたものかと考えこみ、彼女の声が聞えてきたのは、ドアがいかにもジリジリしたふうにきしり、これ以上考えたりはせずに、話をはじめろとうながしてからのことだった。
「最近はほんとによく、わたしの主人のとこに往き来なさっておいでなのね?」
「わたしもおじいちゃんに、何回となく、そういっているのよ」無邪気にネルは答えた。
「そうすると、おじいさんはなんておっしゃるの?」
「ただため息をし、頭をうなだれ、とてもみじめで悲しそうにしているの。あなたがその姿をみたら、きっと、泣いてしまったでしょう。わたしと同じように、あなただって、それをどうすることもできないでしょうけどね。まあ、あのドア、とてもキーキー鳴ることね!」
「ときどき鳴るのよ」不安そうにチラリとそちらに目をやって、クウィルプ夫人は答えた。「でも、あなたのおじいさん――前にはそんなにみじめじゃなかったんでしょう?」
「まあ、そうじゃないことよ」むきになって子供はいった、「とても、ちがっていたの! わたしたち、前にはとても幸福で、おじいちゃんはとても陽気、満足していたのよ! その後、どんなに悲しい変りようがわたしたちにふりかかってきたか、あなたには想像もつかないくらいなのよ」
「そうしたお話を聞いて、とても、とても悲しいわ!」クウィルプ夫人はいったが、これは、たしかに、ほんとうのことだった。
「ありがとう」夫人の頬にキスをして、子供は答えた、「いつも親切にしてくださるのね。あなたにお話するのは楽しいことよ。おじいちゃんの話、あのかわいそうなキット以外には、だれにも話せないの。わたし、とても幸福よ。でも、わたしはいまよりもっと幸福だと思わなければいけないのね。でも、おじいちゃんのあんなに変ってしまった姿をみて、わたしがどんなに悲しく思っているか、想像もつかないことでしょうね」
「おじいさんはまた変ることよ、ネリー」クウィルプ夫人はいった、「そして、前のおじいさんにかえりますよ」
「ああ、そうなってくれればいいのだけれど!」涙を流して子供はいった。「でも、もうずいぶんながいことになるの、おじいちゃんが――あのドアが動いたようよ!」
「風よ」弱々しく、クウィルプ夫人はいった。「そして?」
「とても考えこみ、気落ちし、ながい夕暮れ時を楽しく送ったあの当時のことを忘れはじめてからね」子供はいった。「わたしはいつも|炉辺《ろばた》でおじいちゃんに本を読んであげ、おじいちゃんはそれに聞き入って坐り、わたしが読むのをやめて、ふたりの話がはじまると、おじいちゃんはお母さんの話をしてくれ、まだ小ちゃな子供のころ、そのようすも話しぶりもわたしにそっくりだったといっていたわ。それから、わたしはおじいちゃんの膝に乗せられ、お母さんはお墓にはいっているのではなく、空の向うの美しい国にとんでいってしまったのだと教えてもらったの。そこでは、なにも死ぬものはなく、齢をとることもないんですって――前にはとっても幸福だったのよ!」
「ネリー、ネリー!」――あわれな女はいった、「あんたのように|年端《としは》もいかない子供がそんなに悲しんでいるなんて、とてもみてはいられないわ。どうか、どうか泣かないでちょうだい」
「わたし、めったに泣いたりはしないのよ」ネルはいった、「でも、このことは、ながいこと、だれにもいわないでいたの。きっと具合いがわるいのね。だって、涙がこみあげてきて、おさえることができないんですもの。わたし、あなたには平気で自分の悲しみを話すことができるの。ほかのだれにも話さないことは、わかっているんですものね」
クウィルプ夫人は顔をそむけ、なにもいわないでいた。
「あの当時」子供はいった、「わたしたちは、よく、野原や緑の木のあいだを散歩したものよ。そして、夜家に帰ってくると、つかれたために家がなお好きになり、なんてうれしい家だろうといっていたわ。家が暗くて活気がなくとも、そんなことは問題じゃない、といつも話していたの。その前の散歩をなお楽しく思い出し、つぎの散歩を楽しみにして待つことになるんですものね。でも、いまは、そうした散歩に出ることは一度もなく、同じ家でも、前より暗く、もっともっと陰気になってしまったわ。ほんとうにね!」
彼女はここで話を切り、ドアは何度となくキーキー鳴っていたが、クウィルプ夫人はなにもいわないでいた。
「でも、いいこと」子供は真剣になっていった、「おじいちゃんが前より不親切になったなんて考えないでね。おじいちゃんの愛情は毎日大きくなり、前の日よりもっと親切でやさしくなっているのだわ。どんなにわたしをかわいがっているか、あなたにはわからないことよ!」
「ほんとうにかわいがっているのよ」クウィルプ夫人はいった。
「そうなの、そうなのよ!」ネルは叫んだ、「わたしがおじいちゃんを愛しているようにね。でも、おじいちゃんのいちばんひどくちがってきた点は、まだ話してないことよ。これはだれにも話さないでおいてね。おじいちゃんは、昼間安楽椅子でとる以外に、眠ったり休んだりはしないの。毎晩、ほとんど夜じゅうズーッと、家にいないんですものね」
「まあ!」
「シーッ」唇に指を当て、あたりをみまわして、子供はいった。「ふだんは、夜明けすぐ前の朝方、家に帰ってくると、わたしが家に入れてあげるの。きのうの晩は、帰りがとてもおそく、もうすっかり明るくなっていたわ。おじいちゃんの顔がひどく青ざめ、目が血走り、歩きながら脚がふるえているのがわかったわ。また床にはいったとき、おじいちゃんがうめいているのが聞えてきたの。わたし、起きて、おじいちゃんのとこに走っていったんだけど、わたしが来たのにまだ気づかないとき、もうこれ以上ながく生きてはいられない、あの子がいなかったら、死んでしまいたいとこだっていっているのを聞いてしまったの。わたし、どうしたらいいんでしょう? ああ、どうしたらいいんでしょう?」
心の泉が切り開かれ、悲しみと不安の重圧、自分があからさまにした最初の打ち明け話、その話にたいして示された同情に圧倒されて、子供はその顔を弱々しい友の腕の中に埋め、ワッと泣きだした。
やがてすぐ、クウィルプ氏がもどり、こうした状態の彼女をみて、ひどく驚いているようすを示したが、この驚きの表示はきわめて自然なふうに、すごい効果をあげて、おこなわれた。そうした演技は、ながい修練で、彼のおはこ、まったくお手のものだったからである。
「つかれてるんだよ、お前」自分の音頭どおりにやれと、すごくおそろしい|形相《ぎようそう》で、横目を使った合図を送りながら、小人はいった。「あの|娘《こ》の家から波止場まではながい道中、それに、あのふたりの悪党坊主どもが喧嘩してるのをみておびえ、その上、川をわたるときにはビクビクしてたんだ。こうしたことがかさなって、あの|娘《こ》には荷が重すぎることになったのさ。かわいそうに!」
クウィルプ氏は、ネルの頭を軽くたたいて、この若い訪問客の元気回復のために、彼として考えられるままに最高の方法を何気なくとることになった。ほかの手からそれをされても、こうまではっきりとした効果をあげなかったことだろうが、ネルはその手のふれからさっと身をひき、本能的に彼の手のとどかぬところに逃げだしたくなり、その結果、彼女はすぐに立ちあがり、もう帰る、といいだした。
「だが、ここにいて、家内とおれといっしょに夕食をしたほうがいいよ」小人はいった。
「もうおそすぎるわ」涙をぬぐって、ネルは答えた。
「うん」クウィルプ氏はいった、「帰りたいんなら、帰るがいいさ、ネリー。返事はここにある。中身はただ、明日かあさって、じいさんに会い、今朝、あのちょっとした用立てはできない、というだけのことさ。さよなら、さあ、きみ、ネリーのことはたのむぞ、えっ、わかったか?」
呼ばれて姿をあらわしたキットは、そんなわかりきった命令の返事なんかはせず、ネリーが涙を流して泣いた原因はクウィルプにあるのかもしれない、そう考えただけでも、その復讐をクウィルプにしてやりたくてたまらないといったように、|威嚇《いかく》的にクウィルプをにらみつけていたあとで、サッとまわれ右をし、若い女主人のあとを追ったが、彼女のほうでは、このときまでに、もうクウィルプ夫人に別れを告げて歩きだしていた。
「なかなかぬかりなくたずねる女だなお前は、えっ?」ふたりだけになるとすぐ、彼女のほうにふり向いて、小人はいった。
「あれ以上のことはできませんでしたよ」おだやかに彼の妻は答えた。
「あれ以上のことはできないんだって?」クウィルプはせせら笑った、「あんなにまでしないではすまなかったのかね? しなけりゃならんことを、例の得意の空涙まで流さずにはできなかったのかね、このあばずれ女め?」
「あの子供がとてもかわいそうでならなかったのよ、クウィルプ」妻はいった。「たしかに、わたしとしては十分やったことね。ふたりだけと思っていたとき、あの子に秘密を話させたのですからね。そして、あなたがそばにいてね……。いけないことをしてしまったわ」
「お前が秘密を話させただって? まったく大手柄さ!」クウィルプはいった。「ドアをキーキーおれに鳴らさせることについて、おれはなんといったっけな? あの娘がもらした言葉から望む手がかりがうまくつかめて、お前は運がよかったというもんだぞ。そいつがつかめなかったら、その罰は、お前に加えてやるつもりだったんだからな」
クウィルプ夫人はこれをよく承知していたので、なんの返事もしなかった、亭主のほうでは、なにかよろこび勇んだようすでつけ加えた。
「だが、お前は自分の星めぐりのいいのを感謝してもいいはずだぞ――お前をクウィルプ夫人に仕立てたのと同じ星のめぐり合せというやつさ――。おれがあのじいさんの手がかりをつかみ、新しい解釈の光を手にしたことでお前は星のめぐりのよさに感謝してもいいんだぞ。だから、いまもこのことについての話はもう無用だぞ。夕食にあまりうまいものはいらん、おれは家にはいないんだからな」
こういいながら、クウィルプ氏は帽子をかぶり、出ていってしまった。クウィルプ夫人は、たったいま演じた役割のことをひどく気に|病《や》み、自分の部屋に閉じこもって、寝具の中に頭をつっこみ、自分のやったことを悲しんでいたが、それは、はるかにもっとひどい罪を犯したもっと非情な人間の悲しみをはるかに上まわるものだった。というのも、たいていの場合、良心は弾力性があり、とても|柔軟《じゆうなん》なもの、大いにひきのばしがきき、さまざまな環境に順応してゆくものだからである。一部の人は、慎重な処置と、暖かい季節になってのフランネルのチョッキのように、良心を一枚一枚それをはぎとることによって、やがてはまったく良心なしですませるようになっていく。だが、ほかの連中は、思うがままに、良心の服を着こんだりぬいだりしている。これが、いちばん便利で最大の進歩と考えられているので、いちばん流行のものとなっているわけである。
7
「フレッド」スウィヴェラー氏はいった、「むかし流行した『つまらぬ|憂《うれ》いよ、消えてなくなれ』(十七世紀のバラッド)の曲を思い出し、友情の翼で歓喜の沈みゆく炎をあおり立てるのだ。さあ、薔薇色のぶどう酒をこちらにまわせ!」
リチャード・スウィヴェラー氏のアパートはドルアリー・レイン(新オクスフォード路からオールドウィッチへ北にのびた道。当時いかがわしい地区と考えられていた)の近くにあり、その土地柄の便利さに加えて、タバコ屋の店の上にあるという利点もかね備えていた。その結果、どんなときでも、ただ階段のところに出ていくだけで、身心をさわやかにするくしゃみをすることができ、かぎタバコ入れを携帯する面倒と出費を省略することができた。スウィヴェラー氏がそのがっかりしている友人をなぐさめ元気づけるために、上記の表現を利用したのは、こうしたアパートでのことだった。このような簡単な言葉でさえ、スウィヴェラー氏の心の比喩的で詩的な性格のもつ二重の意味を帯びていると申すことは、つまらぬことでも、不適当なことでもあるまい。薔薇色のぶどう酒は、事実、コップ一杯の水割りのジンで表示され、それは、必要なときには、テーブルの上のびんと水差しから補給され、大コップ不足の折りから、それはつぎからつぎへとまわし飲みされていた。しかし、この大コップの不足は、スウィヴェラー氏の世帯が独身者の世帯であるのを考えれば、べつに恥ずべきことでもなかった。同じように愉快なでっちあげで、彼のひと|間《ま》の部屋は、いつも、複数形で呼ばれていた。|空《あき》部屋になったとき、タバコ屋の主人は窓のところに広告を出して、その部屋を独身の紳士用の「ひと組の部屋」と|謳《うた》いこみ、スウィヴェラー氏は、このヒントにしたがって、いつもかならずそのひと部屋を自分のひと組の部屋と呼び、聞き手にはかぎりなくひろがる空間の概念を与え、聞き手の想像力が、思うにまかせて、ながいひとつづきの天井の高い広間をさまようのを許していた。
この想像力の|飛翔《ひしよう》の点で、いかさまの家具、すなわち外見は本箱だが、ほんとうは寝台の床架の家具で、彼は助けられていた。それは部屋で目立つ場所を|占拠《せんきよ》し、疑惑と探索に挑戦しているようだった。昼間にスウィヴェラー氏がこの人知れぬ便利なものをまさに本箱と信じ、寝台にたいしては目を閉じ、断固として毛布の存在を否定し、枕を頭から追い払っていたことは、疑念の余地のないところである。その真の利用法に関する言葉、その夜ごとの務めについてのほのめかし、その特性への当てつけは、彼と親しい友人たちのあいだで絶対に語られてはいなかった。虚構に寄せるいわず語らずの信頼の念が、彼の信条の第一条になっていた。スウィヴェラー氏の友人となるには、人はすべての情況的証拠、すべての理性、観察、経験を放棄し、本箱にたいする盲目的信仰をもたねばならなかった。それが彼の大切にしている趣味で、彼はそれをいつくしみ育てていた。
「フレッド!」前の自分のたのみごとがなんの効果も生みださないのをみて、スウィヴェラー氏はいった。「薔薇色のやつをたのむぜ!」
若者のトレントは、ジリジリしたように、コップを彼のほうにおしやり、いやいやながらそこからひきだされたもとの不機嫌な態度にもどっていった。
「きみに教えてやるよ、フレッド」酒と水をかきまわしながら、彼の友人はいった、「このさいにふさわしいささやかな情緒をね。さあ、乾杯、五月の――」
「畜生!」相手は口をはさんだ。「きみのおしゃべりには、まったくイライラするな。どんな事情でも、きみは陽気になれるんだからな」
「いやあ、トレント君」ディックは応じた、「陽気で賢明なことについての格言(スコットランドの格言で「陽気で賢明なのはりっぱなこと」というのがある)があるんだよ。陽気にはなれても、賢明になれない人もいる。また、賢明にはなれても(さもなければ、そうなれると考えてだけいるんだが)、陽気にはなれない人もいる。ぼくは前のほうの|類《たぐ》いなんだ。もしその格言がりっぱなもんなら、そのどっちにもならないより、その半分になってたほうがいいと思うな。とにかく、きみのようになるより――そのいずれでもないのより、ぼくは賢明ではなく陽気になりたいもんだね」
「フン、バカな!」気むずかしく、友人はつぶやいた。
「心からよろこんでね」スウィヴェラー氏はいった。「上流社会で、こうしたことは、自分の部屋にいる紳士にたいして、ふつう、いわれんもんなんだがね。が、まあ、いいや。どうかくつろいでくれたまえ」以上の言葉につけ加え、自分の友人は、気質の点で、そうとう「偏屈」らしいと述べて、リチャード・スウィヴェラーは薔薇のやつを飲み乾し、もう一杯の作製にとりかかり、大いに楽しんでその味見をしてから、空想上の一座の人たちへの乾杯を提案した。
「みなさん、よろしかったら、旧家スウィヴェラー家の成功と特にリチャード氏の幸運を祈って乾杯いたしましょう――いいですかな、諸君、リチャード氏ですぞ」すごく力をこめてディックはいった。「その人物は友人たちのためにあり金をはたき、あげくの果てには、その労苦にたいして、フン[#「フン」に傍点]、バカな[#「バカな」に傍点]! といわれてるんですからな。ヒヤヒヤ!」
「ディック!」部屋を二度か三度歩きまわったあとで、自分の座席にもどって、相手はいった、「ほとんど骨を折らずに身代をつくる方法を教えてやろうと思うんだが、しばらくのあいだ、まじめになって話をしてくれるかい?」
「いままで、いろいろと方法を教えてくれたね」ディックは答えた。「そのどれからも出てきたものは、|空《から》のポケットだけでね――」
「こんどの場合は、話がちがうはずなんだ、しばらくするとね」自分の椅子をテーブルにひきよせて、仲間はいった。「きみは妹のネルと会ったわけだな?」
「彼女がどうだというんだね?」ディックは応じた。
「あいつはかわいい顔をしてる。そうじゃないかね?」
「うん、もちろん」ディックは答えた、「彼女のためにいわなきゃならんがね、彼女ときみのあいだには、血のかよう者の似ているとこはそうないね」
「あいつはかわいい顔をしてるのかね?」イライラして友人はくりかえした。
「うん」ディックはいった、「かわいい顔をしてるよ、とてもかわいい顔をね。だが、それがどうだというんだい?」
「いいかな」友人は答えた、「あのじいさんとおれは、死ぬまで、たがいに敵意をもちつづけ、あいつを当てにしてもだめなことは、わかってるんだ。それはわかるだろうな?」
「めくらのこうもり[#「こうもり」に傍点]にもわかるさ、陽がカンカンと照ってるとこでね」ディックはいった。
「あのけちんぼじじい――あん畜生め! ――が死んだら、妹と分け合うようにしてやるといってた金が、ぜんぶ妹のもんになるのも、同じようにはっきりわかってるんだ。そうじゃないかね?」
「そういったとこだろうな」ディックは答えた、「ぼくが事情をあのじいさんに伝えた言葉づかいで強い印象を与えたんなら、べつの話だがね。強い印象を与えたかもしれんよ。強力なもんだったんだからな、フレッド。『ここに陽気なおじいさんがいます』――こいつは強力なもんと思ったね――とても友好的で自然なもんさ。きみもそんなふうに受けとったかね?」
「あいつ[#「あいつ」に傍点]はそんなふうには受けとらんさ」相手は応じた、「だから、そんなことは話す必要のないことだ。いいかね、ネルはもうじき十四になるんだ」
「その年ごろのきれいな娘さんだが、小柄だね」リチャード・スウィヴェラーはちょいと口をはさんだ。
「こちらで話をしてるんだ。ちょっとだまっててくれ」相手があまり身を入れて聞いていないのにジリジリして、トレントはやりかえした。「話はこれからやま[#「やま」に傍点]になるんだからな」
「わかったよ」ディックはいった。
「妹は強い愛情をもち、ああしたふうに育ち、あの年ごろだろ、すぐ動かされ、信じちまうんだ。あの娘をこちらで預ったら、ちょっとうまいことをいい、おどかしをかけさえしたら、こっちの思うようにきっとなるわけさ。だから、ズバリいって(というのも、この計画の利点を説明しようとしたら、一週間はかかっちまうだろうからね)、きみが彼女と結婚するのに、どんな不都合があるのかね?」
リチャード・スウィヴェラーは、相手がひどくむきになって以上の言葉を話しかけているとき、大コップの縁越しにジッとみていたが、それを聞くやいなや、ひどくびっくり|仰天《ぎようてん》したようすを示し、ようやくのことで、つぎの一語を発した。
「なんだって?」
「どんな不都合があるかっていってるのさ」しっかりとした態度で相手はくりかえしたが、友人にたいするそうした態度の効果を、ながい経験で、彼はちゃんと心得ているのだった、「きみが彼女と結婚するのに、どんな不都合があるんだね?」
「でも、彼女は『もうじき十四』なんだぜ!」ディックは叫んだ。
「いま結婚しろといってるんじゃないよ」兄はプリプリしていいかえした。「そう、二年か、三年か、四年かしてのことさ。あのじいさん、長生きしそうにみえるかね?」
「そうはみえんね」頭をふって、ディックはいった、「だが、ああした老人は――信用できないもんなんだよ、フレッド。ぼくがまだ八つのときに死にかけてた叔母さんがドーセットシャーにいるんだがね、まだ約束どおりにしてくれてないんだ。老人どもはじつに腹立たしい、じつに節操のない、じつに意地のわるい存在――一族に卒中の傾向がなかったら、フレッド、絶対にたよりにはならんね。卒中の気があるときだって、だまされることは珍しくないんだからな」
「じゃ、この問題をいちばんまずいふうに考えてみよう」前のしっかりした態度をくずさず、友人をジッとみつめながら、トレントはいった。「じいさんが生きつづける、としよう」
「たしかにね」ディックはいった。「そこに障害あり(『ハムレット』V・i、六五にある言葉)というとこさ」
「いいかな」友人は話をつづけた、「じいさんが生きつづけ、もしおれがネルを秘密結婚に説得するか、もっとうまくいきそうな言葉を使えば、強制するかをしたとしよう。それがどんなことになると思うかね?」
「子供ができて、食ってく収入は皆無ということか」しばらく考えていたあとで、リチャード・スウィヴェラーはいった。
「いいかね」前よりもっとむきになって、相手は応じたが、その態度がほんとうのものにせよ、みせかけのものにせよ、相手におよぼす効果の点では、べつに変りはなかった、「あのじいさんは妹のために生き、その全精力と思いは彼女としっかり結びつけられ、いうことをきかなくったって、相続から彼女をはずすことは絶対にないんだ、おれがひょんなことで道ならぬ従順や美徳の行為を示しても、あいつのお気に入りにはなれないのと同じことさ。相続からはずすなんて、できるもんか。きみだって、ほかのどんな人間だって、その気になったら、目さえありゃ、それはよくわかることなんだ」
「たしかに、そんなことにはならないだろうな」考えこんで、ディックはいった。
「そんなことにはならないから、ならないだろうということになるんさ」友人は応じた。「きみを許すようにする誘因をそれにつけ加えたら、たとえば、きみとおれのあいだに和解できないみぞ、ひどい憎悪の感情があるとしたら――もちろん、そうしたみせかけだけのことなんだが――さっさと相続は許してくれるよ。ネルだったら、雨の|滴《しずく》は石をもつらぬくというやつ、彼女に関するかぎり、きみはおれを信用してもいいよ。だから、じいさんが生きていようが死のうが、ことはどういうことになるかね? きみがあのにぎり屋のじじいの富の単独相続人になり、きみとおれがそれをいっしょに使い、おまけに、きみは美しい若い奥さんを手に入れることになるんだ」
「あのじいさんが金持ちなのは、疑いのないことだと思うな」ディックはいった。
「疑いだって! こないだ、あそこにいったとき、じいさんがポツリといった言葉を聞いたかい? 疑いだって? つぎにどんなことでも疑おうっていうんだい、ディック?」
この会話の巧妙なまがりくねりをぜんぶ追い、リチャード・スウィヴェラーの心がついにはとりこになったジリジリとやっていくとりこみ策をいちいち述べ立てるのは、退屈なことだろう。虚栄心、利益、貧困、放蕩者のすべての考慮が彼を動かして、この提案を好意的にみるようにさせ、ほかの誘因がまったくないところでは、彼の性格のいつもの|無造作《むぞうさ》さが足を踏み入れ、|秤《はかり》の同じ側をさらにおしさげることになったと知れば十分である。こうした衝動に加えられなければならないものは、彼の友人が彼にたいしていつもふるっていた支配力――最初には不運なディックの財布と将来をひどく踏みつけにしてふるわれ、ディックがその友人の悪徳の被害者、そして十中八、九の場合に、じっさいには無思慮で軽率な友人の手先でしかないのに、相手の陰険な誘惑者とみなされていたのに、依然としてふるわれていた支配力だった。
この相手の友人の動機は、リチャード・スウィヴェラーが考え理解していたものよりもっと奥底の知れぬ深いものだった。だが、そうした動機の話は、それぞれの発展にゆだねることにして、さし当ってその説明はしないでおくことにしよう。この話し合いは快適な結びで終り、金か動産を十分にもち、自分を夫にむかえる気があるどんな|女《ひと》とでも結婚するのに、自分のほうとしては動かしがたい異論があるわけではない、と華々しい言葉でスウィヴェラー氏は述べ立てていた。そのとき、その話は、ドアのノックで、ついで「おはいり」と叫ぶ必要で、さえぎられることになった。
ドアは開かれたが、そこでとびこんできたのは、石鹸だらけの片腕と、ツンと鼻をつくタバコのにおいだけだった。タバコのにおいは下の店からやってきたもの、石鹸だらけの腕は召使いの女のからだからつきだされたもので、この召使いは、ちょうどそのとき、そこで、階段の掃除をしていたのだが、手紙を受けとろうと温かいバケツから腕をひきぬき、それを、いま、手にもって、召使い階級独得の素早さで宛て名を読みとり、それがスウィヴェリング氏(召使いの読みちがい)宛てのものだ、と大声で叫んだのだった。
手紙の所書きをチラリとながめたとき、ディックはそうとう青ざめ、バカのようなようすをしていたが、中身を読む段になると、なおいっそうその気配を深め、これは女に|慇懃《いんぎん》にする男につきまとう不便のひとつ、いままで話していたように、ただ話すだけならとても楽なことなんだが、この女のことはすっかり忘れていた、といった。
「この女[#「この女」に傍点]だって。だれのことだい?」
「ソフィ・ワックルズだよ」ディックはいった。
「その女は何者だ?」
「彼女はわが思いの描くすべて(ウィリアム・ミー作詩、P・ミラード夫人作曲の十九世紀初頭のバラッド、『アリス・グレイ』からとった言葉)、それが彼女なんだよ」例の「薔薇色のやつ」をグーッと一杯やり、友人を重々しくみやって、スウィヴェラー氏はいった。「彼女は美しく、すばらしいんだ。きみは彼女を知ってるんだよ」
「憶えてるよ」無造作に友人はいった。「彼女がどうしたんだ?」
「いやあ、きみ」ディックは答えた、「ソフィ・ワックルズ嬢といまきみに話しかけている名誉をもっている身分の低い男のあいだに、温かくやさしい情緒が――じつに高潔な、心をふるい立たせる情緒がかもしだされたんだ。狩猟を大声で求めるディアナ(ローマ神話での山野狩猟の女神)だって、ふるまいのやかましさの点では、ソフィ・ワックルズには顔負けだね。それはもう、まちがいないこった」
「きみがいうことになにか真実があると、ぼくは信ずべきなんだろうかね?」友人はたずねた。「なにか恋愛ざたがいま進行ちゅうとまさかいおうとしてるんじゃないんだろうな?」
「恋愛ざた、まさにそのとおり。みとおし、まさにだめ」ディックはいった。「約束破棄で訴訟ざたは起きないよ、それがひとつありがたい点さ。心中を書状に託すといったことは、絶対にしたことがないんだからね、フレッド」
「手紙にはなんて書いてあるんだい?」
「今夜の注意予告さ、フレッド――二十人のささやかな会――二十人の紳士淑女の必要な道具立てがぜんぶそろってるとしたら、ぜんぶで二百本の軽い奇妙な足の指というわけさ。ぼくはいかにゃならんのだ、その会の中止のきっかけをつくるためだけにでもね――それはするさ、心配するにおよばんよ。この手紙を彼女自身がもってきたのかどうか、知りたいもんだな。自分の幸福への障害に気づかず、彼女がもってきたとしたら、いかにも痛ましいことだね、フレッド」
この疑問を解決するために、スウィヴェラー氏は例の召使いを呼び、ソフィ・ワックルズ嬢がじっさい自分の手でその手紙をわたし、体裁をおもんばかって、疑いもなく妹のワックルズ嬢を同行し、スウィヴェラー氏が在宅しているのを知り、二階におあがりくださいといわれて、ひどいショックを受け、そのくらいなら死んでしまう、といったことをたしかめた。スウィヴェラー氏はこの話をたったいま彼が同意した計画とはかならずしも一致しないほどの驚嘆の情をもって聞いていたが、彼の友人は、この点で、彼の態度をそう重要視はしていなかった。これは、自身の目的遂行のために、支配力の行使が必要と考えたときにはいつでも、このことで、あるいは、ほかのどんなことでも、リチャード・スウィヴェラーの行動をおさえられるくらいの支配力をもっているという自信のためだったのだろう。
8
仕事の処理が終って、スウィヴェラー氏は、心中、時刻が夕食時になったのを思い出し、これ以上の|物忌《ものい》みで健康をそこねたりはしないようにと、使いをもよりの食堂に出し、二人用の牛肉と野菜|煮《に》を至急もってこい、と注文した。しかし、この注文にたいして、その食堂は(そこの客の経験から)それに応ずるのを断り、答えとして卑劣にも、もしスウィヴェラー氏が牛肉を食べたいのなら、ご面倒ながら、店に来てそれを食べ、食前のお祈りとして、ながいあいだ支払いがとどこおっているあるわずかな金額をご持参ねがいたい、という返答を送りかえしてきた。この|肘《ひじ》鉄砲にいささかもひるまず、それでむしろ機知と食欲を燃え立たせて、スウィヴェラー氏は同じ伝言をべつのもっと遠い食堂に送り、さらに追加として、この紳士がそうした遠方に注文するようになったのは、そこの牛肉の大評判と人気のためばかりでなく、|頑固《がんこ》者の料理人の店で売られている肉はひどい固さのために、紳士の食料としてばかりでなく、どんな人間の消化のためにも不適切だ、と申し送った。このみごとな策略の効果は、小さなしろめ[#「しろめ」に傍点]食器の山の迅速な到着によって示されることになったが、その山は、皿やらふたやらで構成され、煮た牛肉がその土台になり、一クォート入りの酒びんがその頂上になっていた。この構造物をそれぞれ分解すると、楽しい食事にぜひ必要なものがぜんぶそろうことになり、スウィヴェラー氏と友人は、ひたむきに、大いに楽しんで、それを平らげることにとりかかった。
「いまの瞬間が」フォークを|真紅《しんく》色に染った大きなじゃがいも[#「じゃがいも」に傍点]につきさして、ディックはいった、「われわれの生活のどん底でありますように! じゃがいも[#「じゃがいも」に傍点]が皮のついたままで出されるやり方を、ぼくは好きでね、(まあ、そういえるものなら)じゃがいも[#「じゃがいも」に傍点]をその本来の質の中からひきだすとこに妙味があり、このことは金持ちや権力者には縁のないこと。ああ! 『人間はこの地上にて欲するところ少なく、そのわずかなるものをながく欲することなし』(オリヴァー・ゴールドスミス(一七二八―七四)のバラッド『隠者』からの言葉)さ! まったくそのとおりだ――夕食のあとではね」
「食堂の主人が欲するところ少なく、その主人[#「その主人」に傍点]がそのわずかなるものをながく欲しなければいいんだがね」仲間は答えた。「だが、この支払いをする金を、きみはもってないようだね!」
「いずれやがて、こちらがその店の前をとおり、立ち寄ることになるよ」意味深に片目をパチパチさせて、ディックはいった。「給仕は無力。品物は消えちまって、フレッド、それでけり[#「けり」に傍点]なんだからね」
じっさいのとこ、給仕は、この有益な真実を感じとっていたらしかった。|空《から》になった皿類をとりにもどり、スウィヴェラー氏が威厳のこもった無造作ぶりで、やがて店の前をとおるとき、立ち寄って勘定をする、と知らせたとき、給仕は多少の|狼狽《ろうばい》を示し、「配達払い」、「掛け売りお断り」とか、ほかの不愉快なことについてちょっとブツブツいっていたが、紳士がおたずねくださるのは、だいたい、いつごろになるだろうか、この肉、野菜、その他については自分に責任があり、その時刻には道に出ているようにしたいのだから、とたずねることで満足しなければならなくなった。スウィヴェラー氏は心の中でいろいろな約束を細かに計算したあとで、六時二分前から七分すぎまでにそこにゆくことになる、と答えた。給仕がこのたよりにならない心のなぐさめをいだいて姿を消したあとで、リチャード・スウィヴェラーはあぶらぎった備忘帳をポケットからひっぱりだし、そこに書きこみをおこなった。
「寄るのを忘れないようにと、書きとめてるのかい?」せせら笑って、トレントはたずねた。
「かならずしもそうではなくってね」いかにも事務的に書きつづけ、|悠然《ゆうぜん》と落ち着き払って、リチャードは答えた。「店が開いてるあいだとおれなくなった街路の名を、この帳面に書きこんでるのさ。きょうの晩餐でロング・エイカーは閉鎖された。先週|大女王通り《グレート・クイーン》で靴を買い、その通りも街路ではなくなった。ストランドに通じる道は、もう一本しかない。そして、手袋でその道も、今晩、閉鎖しなけりゃならなくなるだろう。四方八方道路は急速に閉じられ、もう|一月《ひとつき》もたち、叔母さんからの仕送りが来なかったら、道の向う側にいくのに、ロンドン市外を三、四マイルも歩かなければならなくなるだろう」
「最後はまちがいなく、叔母さんの金は来るんだろうね?」トレントはたずねた。
「いやあ、そうであればいいんだがね」スウィヴェラー氏は答えた、「だが、叔母さんの心を|懐柔《かいじゆう》するのに必要な手紙の平均本数は六本なんだが、今回はもう八本にもなってるのに、効果はぜんぜんあがらずなんだ。明日の朝、もう一本手紙を書くことにしよう。その手紙をうんとよごし、こしょう[#「こしょう」に傍点]びんから水をまいて、|悔恨《かいこん》の情をあらわすことにしよう。『わたしの心は悔恨に苦しみ、なんと書いてよいかわかりません』――しみ――『過去の不行跡にたいして、いま涙に暮れているぼくの姿をごらんになったら』――こしょうびん[#「こしょうびん」に傍点]――『考えると、手がふるえます』――また、しみ――これでうまくいかなかったら、万事休すだね」
このときまでに、スウィヴェラー氏の記載は終了、まったく完全、非の打ちどころのない深刻で真剣な心構えになって、彼は、鉛筆を小さなさやにおさめ、帳面を閉じた。友人はある約束を|履行《りこう》しなければならない時間が来たことに気づき、その結果、リチャード・スウィヴェラーはただひとりのこされ、薔薇色のぶどう酒とソフィ・ワックルズ嬢についての|瞑想《めいそう》を友とすることになった。
「そうとういきなりのことだな」無限の|叡知《えいち》を示すように頭をふり、あわただしく読む散文のように、詩の断片を(いつもやっていたように)さっさと語って、ディックはいった、「男の心、恐怖に打ちひしがれしとき(ジョン・ゲイ(一六八五―一七三二)の劇『乞食オペラ』からの言葉)、ワックルズ嬢が姿をあらわすと、霧は追い払われる。彼女はとてもいい娘だからだ。彼女は六月に新しく|萌《も》え出ずる赤き赤き薔薇の如く(ロバート・バーンズ(一七五九―九五)の有名な歌から)――それは否定できないこと――彼女はまた、調子よく美しく演奏された調べのようだ。まったく、いきなり、突然のことだな。フレッドのかわいい妹のことで、すぐ冷たくなる必要にせまられたというわけじゃなし、余り深入りせんほうがいいんだ。冷えはじめるというんなら、それをすぐはじめなけりゃいけない、それはわかる。約束破棄で訴訟が起きるみとおしがある、それがひとつの理由。ソフィがべつの夫をむかえるみとおしがある、それがもうひとつの理由。それに、みとおしとして――いや、そんなみとおしはないが、安全第一にしといたほうがいいだろう」
この途中で停止してしまった考えは、リチャード・スウィヴェラーが自分の心からもかくしたがっていた可能性、ワックルズ嬢の魅力に抗し得なくなり、なにか心の警戒が解かれた瞬間に、自分の運命を永久に彼女の運命と結びつけ、その結果、自分がよろこんでその一味になったあのすばらしい計画を推進することができなくなってしまう可能性についてのものだった。以上すべての理由で、彼は即刻ワックルズ嬢に喧嘩をふっかけようと決心し、口実をあれこれと考えて、いわれのない嫉妬でいこうということになった。この重要な点で腹をしっかりと固めて、彼はコップを(右手から左手へ、また逆に)かなり早くまわし、さらに慎重に自分の役割を演ずることができるようになり、ついで、多少服装をととのえて、自分の瞑想の美しい対象によって神聖なものになっている場所のほうにその歩みを向けたのだった。
その場所はチェルシーにあった。というのも、そこにソフィ・ワックルズ嬢が、未亡人の母親とふたりの姉妹といっしょに、住んでいたからである。彼女は、この姉妹といっしょに、とても小さなご婦人方のためにとても小さな通学の学校を経営していた。この事情は、正面一階の窓の上の|楕円《だえん》形の板によって近所の人たちには知られていた。その板の上には、とりかこみ式の飾り書きで「女子|学院《セミナリー》」という文字が示され、朝九時半から十時まで、爪先立ちで戸口にある靴の泥落しの上に立ち、習字の本でノッカーに手をとどかせようとむだな努力をしている、まだ年端もいかない、群れからはなれた孤独な娘さんの姿によって、その事実はさらに、ときどき、はっきりとあらわされていた。この学校での教育のさまざまな仕事は、つぎのように分担されていた。英文法、作文、地理、亜鈴の使用はメリッサ・ワックルズ嬢、書き方、算数、舞踊、音楽、一般芸能はソフィ・ワックルズ嬢、縫い物、|刺繍《ししゆう》細工はジェイン・ワックルズ嬢の担当だった。肉体的な罰、|断食《だんじき》、その他の拷問とおそろしいことは、ワックルズ夫人がひきうけていた。メリッサ・ワックルズ嬢は長女、ソフィ嬢は次女、ジェイン嬢は末娘で、メリッサ嬢は三十五かそのあたり、もう中年期にさしかかっていた。ソフィ嬢は新鮮、上機嫌、たくましい二十歳の娘で、ジェイン嬢はまだ十六にもなっていなかった。ワックルズ夫人は優秀な、だが、そうとう意地のわるい六十のお婆さんだった。
そこで、美しいソフィの心の平静をかき乱すことになる意図をいだいてリチャード・スウィヴェラーが足を急がせたのは、この女子学院だった。ソフィは、ひとつ赤らんだ薔薇の花の飾りしかつけていない|乙女《おとめ》の白い服姿で、光り輝くとまではいえないにしても、とても優雅な準備の|最中《さなか》に、到着した彼をむかえ入れた。この準備は、いつも外の窓の敷居の上に立ててある小さな花鉢で部屋を飾るといったもので、この花鉢は、風の強い日には、|空堀《からぼり》に吹き落されるので、中にしまいこまれることになっていた。この祝日の飾りになるのを許された通学生たちのすばらしい服、ふだんみかけられないジェイン・ワックルズ嬢の捲き毛も飾りの一部になっていた。彼女は、前の日一日じゅう、頭を芝居の黄色なビラの中にしっかりと固くねじこんでいたのだった。それに、飾りとして、老夫人とその長女の厳粛なお上品ぶりと堂々たる物腰があったが、スウィヴェラー氏はそれを珍しいものに思いはしたものの、それ以上の深い感銘はべつに受けてはいなかった。
真実のところ――|蓼《たで》食う虫もすきずき、こうした奇妙な好みも、勝手な意地のわるいでっちあげとはみなさずに、ここに記録できるわけなのだが――事実のところ、ワックルズ夫人もその長女も、スウィヴェラー氏の要求をそう好意的に考えているわけではなかった。彼のことを「陽気な青年」としてチラッと口にし、それを口にするときはいつでも、ため息をつき、不吉なふうに頭をふっていたからである。スウィヴェラー氏のソフィア嬢にたいする態度は、しっかりとした結婚の意志を語るものではないとふつうみなされている、あの漠然とした、緩慢なものだったので、相手の若いご婦人自身は、やがていずれにせよその決着をはっきりとつけるのを、とても望ましいことと考えはじめていた。このために、彼女はとうとう、悲嘆に暮れている菜園経営者をリチャード・スウィヴェラーの対抗馬にして、なんとかことをうまく運ぶのに賛成したのだった。この菜園経営者は、どんなきっかけでも与えられれば、すぐにでも結婚の申しこみをしようという気持ちになっているのがわかっていたからである。この機会をこの目的に利用しようということになっていたので、先に彼が受けとるのをながめてきたあの手紙を彼女がおいていくようになった彼の在宅の有無で、彼女が大いに気をもむことになったのだった。「妻をしっかりと養うことができる遺産相続のみこみなり財産なりがあったら」ワックルズ夫人は長女にいった、「彼は、きょう、それをいうことよ。そうじゃなかったら、もうみこみなしね」――「もしほんとうにわたしに気があったら」ソフィ嬢は考えていた、「今夜、わたしにそういうにちがいないわ」
だが、こうした言葉、行為、考えはスウィヴェラー氏には知らされていなかったので、彼はそうしたことにいささかも心を動かされてはいなかった。彼は、心中、どうしたらいちばんうまく嫉妬心を出せるものかを考え、この場合にかぎって、ソフィがじっさいよりずっとみにくく、また彼女が彼女自身の姉であったら同じように好都合なんだが、とねがっていた。そのとき、一座の人びとがはいってきて、その中にチェッグズという菜園経営者がまじっていた。が、チェッグズ氏は単独で、あるいは支持者がなく、はいってきたのではなかった。彼は慎重に妹を同行し、この妹のチェッグズ嬢はまっすぐソフィ嬢のところに進み、その両手をとり、両の頬にキスをして、来るのが早すぎたのでなければいいのだが、とはっきりみなに聞える声でささやいた。
「早すぎるですって? そんなこと、ないことよ!」ソフィは答えた。
「ああ、ほんとうに」前と同じささやき声で、チェッグズ嬢は答えた、「わたしはとても苦しめられ、なやまされていたの。危くここに午後の四時には来そうになってたのよ。アリックはここに来たくって、もう[#「もう」に傍点]ジリジリ。夕食前に着換えをすませ、時計とにらめっこ、わたしに、さあ、いこう、さあ、いこう、とせびりつづけていたのよ。こうなったのも、みんな、あなたがいけないからなの、このわからず屋さん」
ソフィ嬢は顔を赤らめ、チェッグズ氏(彼はご婦人方の前でははにかみ屋だった)も顔を赤らめ、チェッグズ氏にこれ以上顔を赤くはさせまいと、ソフィ嬢の母親とふたりの姉妹は、この彼にたいして、礼儀と|慇懃《いんぎん》さを惜しみなく浴びせ、リチャード・スウィヴェラーは放りだしにしておいた。これこそ、まさに彼の望むとこ、これこそ、怒っているふりをする絶好の理由、因縁、基盤になるとこだったが、彼はそれを発見できるものとは思わず、なんとか手に入れようとしてやってきたこの理由、因縁、基盤をいざ手に入れたとなると、リチャード・スウィヴェラーは本気になって腹立たしくなり、いったいチェッグズは、その厚かましさで、どういうつもりでいるんだろう、と考えていた。
だが、最初のカドリル(十九世紀に流行していた踊り)でソフィ嬢の手をとったのは、スウィヴェラー氏で(いなかの踊りは低級なので、完全に禁止されていた)、その結果、恋仇にたいして彼は優位に立ったわけだったが、その恋仇は、がっくりして部屋の隅に坐り、この複雑きわまりない踊りをたくみに踊っている若いご婦人の輝く姿をジッとながめていた。また、これが、スウィヴェラー氏が菜園経営者にたいして機先を制したただひとつの点ではなかった。というのも、どんなりっぱな男をいい加減にあつかっているかを一家の者にみせつけてやろうと腹を決め、そのときまでに飲んでいたおみき[#「おみき」に傍点]の効き目もあって、彼はじつに|敏捷《びんしよう》に動き、クルリクルリとたくみに踊りまわったので、そこにいた人たちはびっくり|仰天《ぎようてん》し、特に、とても背の低い婦人生徒と踊っていたとても背の高い紳士は、驚嘆に打たれて棒立ちになっていた。ワックルズ夫人さえ、うきうきしかけていた三人のチビさんの婦人生徒を頭ごなしにしかりつけるのをしばし忘れ、こうした踊り手を一家に加えられたら、まったく誇りの種になるだろうという胸に湧き起ってきた思いをおさえかねていた。
この重大危機に臨んで、チェッグズ嬢は、たくましい役に立つ友軍になった。スウィヴェラー氏の芸にたいするあなどりを軽蔑的な微笑であらわすだけでなく、あらゆる機会をとらえて、こんな|滑稽《こつけい》な男になやまされたことにたいするなぐさめと同情の言葉をソフィ嬢の耳にささやき、アリックが盛りあがる怒りにかられてスウィヴェラーに襲いかかり、彼を打ちのめしてしまうのではないかと心配でならない、といい、愛情と激怒で光り輝いているアリックの目をどうかみてくれ、とソフィ嬢にたのみこんでいた。これはいってもいいことだろうが、その激情は、彼の目だけでは事足りず、彼の鼻にも襲いかかり、|真紅《しんく》の輝きでそこを満していた。
「チェッグズ嬢とも踊らなければいけませんよ」自身はもう二度チェッグズ氏と踊り、その愛のいいよりの刺激を大いに誇示したあとで、ソフィ嬢はディック・スウィヴェラーにいった。「とってもすばらしいお嬢さんよ――そして、お兄さんはとっても感じのいい方でね」
「とても感じがいいだって?」ディックはつぶやいた。「あいつがこっちをみてるあのようすからみて、えらくいい気になってもいるらしいな」
ここでジェイン嬢は(前からそうした指示を受けていたのだが)カールをいっぱいかけた頭をさしはさみ、姉に耳打ちをして、チェッグズ氏がどんなに|妬《や》いているかをみなさい、といった。
「妬いてるだって! あいつの厚かましさと同じことだ!」リチャード・スウィヴェラーはいった。
「彼の厚かましさですって、スウィヴェラーさん!」頭をツンとそらせて、ジェイン嬢はいった。「注意したほうがいいことよ。あの人に聞かれたら、あなたがくやむことになりますからね」
「まあ、おねがい、ジェイン――」ソフィ嬢はいった。
「バカな!」彼女の妹は答えた。「どうして、その気になったら、チェッグズさんが妬いちゃいけないの? わたしは、たしかに、だれとも同じように、妬く権利がちゃんとあるんだし、いまはなくとも、もう間もなく、その権利を十分にもつようになるかもしれないのよ。それをいちばんよく知ってるのは、あなたなのよ、ソフィ!」
これは、ソフィ嬢とその妹のあいだでしめし合せてあった筋書きで、人情深い意図から発し、その目的は、早いとこスウィヴェラー氏にその意中を語らせることにあったのだったが、その効果の点で、それは失敗に帰した。それというのも、ジェイン嬢は、こんな齢でもう早くも金切り声をあげ、ガミガミ屋の性格をあらわし、自分の立場のほうばかりすごく強調してしまったので、スウィヴェラー氏は不機嫌になってひきさがり、自分の恋人をあきらめてチェッグズ氏にわたして、挑戦的な態度を顔に露骨にあらわし、チェッグズ氏は憤慨して、それと同じ顔つきでそれに応ずることになった。
「わたしに話されたのですかね?」スウィヴェラー氏のあとを追って隅にゆき、チェッグズ氏はたずねた――「たのみますぞ、微笑を示してください、ふたりが疑われると困りますからな――わたしに話されたのですかね?」
スウィヴェラー氏は、横柄な微笑を浮べてチェッグズ氏の|踵《かかと》をながめ、そこから目をくるぶしまで、そこから|脛《すね》まで、脛から膝まで、こんな調子でだんだんと相手の右脚ぞいに目をあげてゆき、とうとうチョッキに到達、そこでボタンからボタンに目をあげてゆき、とうとう|顎《あご》に到着、まっすぐ鼻の中央部まで道中をつづけ、ついに目に到達、そこでいきなり彼はいった、
「いいや、話しませんよ」
「フン!」肩越しにチラリと目をやって、チェッグズ氏はいった、「たのみますぞ、また微笑を示してください。たぶん、わたしに話そうと思ったんでしょう」
「いいや、話そうとも思ってませんでしたよ」
「それじゃもう[#「それじゃもう」に傍点]、たぶん、わたしに話すことはなにもないんでしょう」激しい調子でチェッグズ氏はいった。
こうした言葉を聞くと、リチャード・スウィヴェラーは目をチェッグズ氏の顔からはずし、彼の鼻の真ん中を道中してくだり、チョッキをさがり、右脚をさがり、また踵に到着、それを注意深く視察して、それが終ると、目を横にうつし、もうひとつの脚を上昇、そこから前と同じように、チョッキを経由して相手の目に到達したとき、「そう、なにもありませんな」と答えた。
「いや、まったく、きみ!」チェッグズ氏はいった。「それをお聞きしてうれしいですな。たぶん、わたしのいるところはご存じでしょう、万一[#「万一」に傍点]わたしになにかいいたいことがある場合にはね?」
「知りたけりゃ、すぐたずねられますよ」
「これ以上なにもいうべきことはないでしょうな!」
「もうありませんな」こういって、ふたりは、たがいに渋面を向け合って、このおそろしい問答を打ち切った。チェッグズ氏は急いでその手をソフィ嬢のほうにさしだし、スウィヴェラー氏は、ひどくムッとして、隅の椅子に腰をおろした。
この隅のすぐ近くに、ワックルズ夫人とワックルズ嬢が坐っていて、ダンスをながめていた。このワックルズ親子のところに、踊りの相手がその任務の一旋回をやっているとき、チェッグズ嬢はときどきとんでゆき、リチャード・スウィヴェラーの魂にとってはひどく不愉快なあれやこれやのことをいっていた。愛想をいってもらおうとワックルズ親子の目をのぞきこんで、ふたりの通学生の女の子が、ふたつの固い背のない椅子にきちんと、坐り心地わるそうに坐りこんでいた。ワックルズ嬢が微笑し、ワックルズ夫人が微笑すると、このふたりの小娘は、同じように微笑をもらしてご機嫌をとりむすぼうとし、そうした心づかいにありがたくも気がつくと、老夫人はすぐに眉をしかめて彼らをにらみつけ、もう一度そうした差し出がましいことをしたら、護衛つきでふたりをそれぞれの家庭に送りかえす、と伝えた。この脅迫は、気が弱くてすぐにふるえだす一方の若いご婦人に涙を流させることになり、この罪のために、生徒全員の心を恐怖で打つことになった迅速さで、このふたりはただちに列を組んで追いだされていった。
「すごいお知らせがあるのよ」また近よってきて、チェッグズ嬢はいった。「アリックはすごいことをソフィにいってるの。ほんと、たしかに大まじめで真剣なこと、それはたしかよ」
「なにをいっていたこと?」ワックルズ夫人はたずねた。
「いろいろなこと」チェッグズ嬢は答えた、「どんなに腹蔵なく兄が話してたか、そちらには見当もつかないでしょう!」
リチャード・スウィヴェラーは、もうこれ以上聞かないほうがいいと考えたが、踊りの合い間を利用し、チェッグズ氏が敬意をあらわそうとして老夫人に近づいていくのを潮時と考え、細心の注意を払って無造作な態度をとり、ドアのほうに肩で風を切るようにして進んでゆき、その途中でジェイン・ワックルズ嬢のわきをとおった。彼女は、捲き毛のすばらしい姿で、(ましな男がいない以上、よい練習台にとばかり)弱々しい老紳士を相手にしてじゃれついていたが、この男は、客間の下宿人だった。ドアの近くにソフィ嬢が坐っていたが、彼女はチェッグズ氏の求愛でまだワクワクし、とまどっていた。リチャード・スウィヴェラーはちょっと彼女のところで足をとめ、わずかな別れの言葉をかわした。
「ぼくのボートは岸辺にあり、ぼくのバーク船は海に浮んでます(バイロン(一七八八―一八五二)がアイルランドの詩人トマス・ムア(一七七九―一八五二)に寄せた詩を使ったもの)。でも、この戸口を出る前に、あなたにさよならを申しましょう」陰気に彼女をみやりながら、ディックはつぶやいた。
「お帰りになるの?」ソフィ嬢はいった。彼女の心は自分の策略の結果ですっかり滅入っていたが、それにもかかわらず、明るいケロリとした態度をよそおっていた。
「帰るのかですって?」苦々しげにディックはおうむ[#「おうむ」に傍点]がえしにいった。「ええ、帰りますよ。それで?」
「まだとっても早いということ以外にはべつに」ソフィ嬢はいった。「でも、もちろん、行動はそちらのご自由ですことね」
「女の点で、自分の自由になってたらと思いますよ」ディックはいった、「あなたについて考える前にね。ワックルズさん、わたしはあなたを誠実な人と信じてました。そして、そう信じて幸福でした。でも、いまは、こんなに美しく、こんなにいつわりのある娘を知ったことを、悲しんでます(わたしはあなたを…以下はムアの少年少女向きの詩の中にある言葉)」
ソフィ嬢は唇を噛み、遠くでレモン水をガブガブ飲んでいるチェッグズ氏の姿を大きな関心を寄せてながめているふりをしていた。
「ぼくがここに来たとき」ほんとうにここにやってきた意図はだいぶ忘れて、ディックはいった、「胸はひろがり、心はふくらみ、気持ちもそれに応じたものになってました。いまここを去ってく気分は、わかってはいながらも、なかなか口ではいえません。ぼくの最高の親愛の情の炎が、|今宵《こよい》、息の根をとめられたというわびしい真実を心の中で感じてます」
「ほんと、あなたのおっしゃっておいでのこと、わたしにはよくわかりませんわ」目を伏せて、ソフィ嬢はいった。「とても残念ですわ、もし――」
「残念ですって!」ディックはいった、「チェッグズのような男をわがものにして、残念ですって! でも、最後にちょっとひと言述べて、今晩のお別れにしましょう。それは、いまこの瞬間に、ぼくのためにスクスクと成長している若いご婦人がひとりいるということです。彼女は大きな魅力の持ち主であるばかりでなく、大きな財産をもってて、近親者の兄にたのんで、ぼくに結婚の申しこみをさせ、その一族の人たちを考慮の上で、ぼくはそれを承知したんです。特別このぼくのために、若くて美しい女性がいまスクスクと大きくなり、いまぼくのために、貯蓄をしていてくれてるというのは、うれしいことですよ。それを聞いて、きみもよろこんでくれるでしょう。それを申しあげようと思ってたんですが、いまは、きみが聞いてくださるのをいいことにして、こうして長広舌をふるってしまったことを、ただおわびするだけです。さようなら!」
「こうしたことすべてから生じるひとついいことがある」家にもどり、ろうそく消しを手にしてろうそくを消そうとしながら、リチャード・スウィヴェラーは考えていた、「それは、もうこれで、かわいいネリーについてのフレッドの計画で、彼と一身同体になって突き進めるということだ。ぼくがこうして熱をあげてるのをみたら、彼も大よろこびするだろう。明日、あのことについてはぜんぶ彼に知らせ、さし当って、夜もだいぶふけたのだから、ちょっと気持ちよくひと寝みすることにしよう」
「この気持ちのいい寝み」は、求めるとすぐにやってきた。わずか数分で、スウィヴェラー氏はぐっすりと寝こみ、ネリー・トレントと結婚し、財産を手に入れ、自分の権力の第一行動として、チェッグズ氏の菜園を荒し、そこを|煉瓦《れんが》製造所に変えてしまう夢をみていた。
9
子供は、クウィルプ夫人に打ち明け話をして、心の悲しみと|憂《うれ》い、彼女の家におおいかぶさり、家庭のまどいに暗い影を投げている厚い雲のことをかすかに伝えたにすぎなかった。彼女の生活をよく知っていない人にそこの陰気さとわびしさをきちんと伝えるのは、とてもむずかしかったばかりでなく、自分が心から愛している老人を危険にさらし、傷つけてはならないという、いつも心にかかっている配慮が、彼女の心が悲しみであふれているときでも、彼女をおさえ、彼女の心配と苦悶のほんとうの原因について口にするのをはばからせていたのだった。
ネルに涙をふりしぼらせたのは、変化の|彩《いろど》りも楽しい友人のまじわりもない単調な日々、暗いわびしい夕方やながい孤独な夜、若い心が舞いあがって求めるすべてのかりそめの屈託のない楽しみの欠如、子供時代の弱さとすぐに傷つけられる心しか知らないでいることではなかった。老人がなにか心にかくした悲しみの重圧のもとで打ちのめされているのを目のあたりにすること、彼の心定まらぬ不安定な状態をながめ、彼の心がさまよい歩いているのではないかというおそろしい心配で、ときどき胸をさわがすこと、彼の言葉と気配に失望の狂気の接近を感じとること、来る日も来る日もそうした予感が現実になってあらわれてくるのを耳を立てて心くばりしていること、どんなことが起きようと、ふたりはこの世で孤独の身、自分たちを助け、助言し、心配してくれる人はだれもいないと感じ知ること――こうしたことが憂鬱と不安の原因だったが、それは、心を楽しませよろこばすさまざまの力をもっているもっと年輩の人の胸でも、重くおしつぶしてしまったことだろう。だが、こうしたなやみをいつももち、そのなやみをいつもつき動かし刺激する環境にとりかこまれたまだ|年端《としは》もいかない子供の心に、それはどんなに重くのしかかってくることだろう!
だが、老人の目には、ネルは、前と変らぬネルだった。いつも心にまといついてはなれぬ幻想から、彼の心が一瞬解放されたときには、前と変らぬ同じ微笑を浮べ、同じひたむきな言葉を語り、同じ陽気な笑い声を立て、彼の心に深くしみとおっていたので、全生涯自分にともなっているように思えた変らぬ愛情と配慮を示してくれる年端もいかぬ|伴侶《はんりよ》が、彼にはいたのだった。こうして彼は、生活をつづけ、最初自分に示されたページから彼女の心という本を読みとることで満足し、ほかのページにかくされている物語のことは夢々思わず、少なくともこの子供だけは幸福なのだ、と心の中でつぶやいていた。
かつては彼女にも幸福な時代があった。陰気な部屋を歌いながらとおりぬけ、陽気で明るい足どりで部屋部屋のほこりだらけの宝物のあいだを動きまわり、若々しい生命でそうした品物をもっと古びたものにし、陽気で活気にあふれた存在で、その品物をもっとおそろしくきびしいものにしていた。だが、いま、部屋はひんやりとして陰気、退屈な時間をつぶそうと自分の小部屋を出てゆき、部屋のひとつに腰をおろしたとき、そこにある生命のない住人と同じように、彼女も静かで動きがなく、彼女の声で|木魂《こだま》――ながい沈黙でしわがれ声になっていたが――をひきおこそうとする気ももってはいなかった。
こうした部屋のひとつに通りに面した窓があり、そこにひとり物思いに沈んで坐って、彼女はながい|宵《よい》を何日も何日も送り、ときには、それが夜ふけまでつづくことがあった。眠らずに待っている人間の心配は、いちばん大きなもの。こうしたときに、痛ましい空想が群れをなして彼女の心に湧き起ってきたからである。
彼女は、たそがれ時、ここに坐りこみ、人びとが街路を往き来し、向う側の家々の窓辺に人が姿をあらわすのをジッとながめて、そうした部屋が自分の坐っている部屋と同じようにわびしいものか、頭が窓辺で出入りするのをみることだけで自分が感じている親しみの感じを、向うの窓辺の人たちも感じているのだろうか、と考えていた。屋根のひとつにねじれまがった一群の煙突があって、彼女はそれをときどきながめ、そこにいくつかの醜悪な顔を想像し、それは通り越しに彼女をにらみつけ、彼女の部屋をのぞきこもうとしているようだった。あたりが暗くなって、その煙突がみえなくなると、彼女はうれしくなったが、街灯をつける点灯夫がやってくると、物悲しい気分も味っていた――夜はもうふけ、部屋の中がとてもうっとうしくなったからである。それから、彼女は頭をひっこめて、部屋をみまわし、すべてのものがもとの場所にあり、動いていないかを調べ、また街路に目をやり、棺を背にした男がとおり、二、三人のほかの人たちがそのあとを追って、死体安置所にゆく姿をみかけたりしていた。それは、彼女の身をゾクリとふるわせ、そうした思いの連想で、こと新しく老人の変り果てた顔と態度を考えて、そこでまた新たに一連のおそろしいことやさまざまな物思いにふけることになった。もしおじいさんが死んだら――急に病気になり、生きて二度と家にもどることがなかったら――ある夜、家にもどり、いつものように自分にキスして祝福を与え、自分は床にはいり、眠りこみ、たぶん楽しい夢をみて、眠りの中でニッコリとほほ笑んでいるとき、おじいさんが自殺し、その血が床をつたわりつたわって自分の寝室の戸口のとこまで流れてきたら! こうした思いはとても考えられないほどおそろしいもの、そこで、彼女はふたたび街路に目をうつしたが、そこは、とおる人がいまはまばらになり、前よりもっと暗く静かになっていた。店はバタバタと閉じられ、近所の人たちが床にはいると、灯りが上の窓で輝きはじめた。こうした灯りは、しだいに細まり消えてゆくか、そこここで、夜じゅう燃えつづける灯心草のろうそくの弱い光にとってかわることになった。それでも、あまり遠くないとこに、おそくまで開いている店があり、いまでもまだ、赤らんだギラギラとした輝きを舗道に投げ、明るく親しみのもてる姿をみせていた。だが、しばらくすると、この店も閉じられ、灯りは消され、あたりはすっかり陰気で静か、ただ舗道にひびくときたまの足音か、近所の人が、いつもよりおそくまで外出をして、眠りこんでいる家人を起そうと、ドンドンと家の戸口を勢いよくたたいている音しか聞えてこなかった。
ここまで夜がだんだんとふけてくると(たいてい、このときまで起きていたのだが)、子供は窓を閉め、ソッと階段をおりてゆき、おりてゆきながら、夢とよく入りまじってくるあの下のおそろしい顔のひとつが、途中で、それ自身のもつ奇妙な光で姿をあらわし、自分に出逢うようなことになったら、どんなにこわい思いを味うことだろう、と考えていた。だが、この恐怖は、きちんと手入れをしたランプといつもなじんでいる彼女自身の部屋のようすの前では、消滅してしまった。老人、老人の心の平和の回復、ふたりがかつて味っていた幸福のために強烈な祈りをささげ、何回ともなく泣きくずれたあとで、彼女は枕に頭を横たえ、泣き寝入りをし、夜明け前には、ときどきパッととびおき、ベルの音に聞き耳を立て、眠りから自分をゆりおこした思いすごしの呼び声に返事をしていた。
ある夜、ネリーがクウィルプ夫人と会ってから三日して、一日じゅうぐったりと弱って病んでいた老人は、外出しない、といった。こう知らされて、子供の目はパッと輝いたが、目が老人の病みおとろえた顔にもどっていったとき、彼女のよろこびはスーッと消えてしまった。
「|二日《ふつか》が」彼はいった、「まるまる二日がすぎたのに、まだ返事がない。あの男はなんと[#「なんと」に傍点]いっていたんだね、ネル?」
「ほんとう、前におじいちゃんにいったのと同じことよ、おじいちゃん」
「そうだ」老人は弱々しくいった。「わかった。だけど、だけど、もう一度いっておくれ、ネル。わしの頭はおかしくなってるのだ。あの男がお前にいったことは、どんなことだったんだい? 明日かそのつぎの日にわしと会う、としかいわなかったのかい? それは手紙にも書いてあることなんだがね」
「ええ、それだけよ」子供は答えた。「おじいちゃん、明日、もう一度、あの人のとこにいってみましょうか? とても早く? 朝ご飯前に出かけてもどってくることよ」
老人は頭をふり、悲しげにため息をつき、彼女を自分のほうにひきよせた。
「そうしても、だめ、まったくだめだろうよ、お前。いまあの男にすてられたら、ネル――わしが失った時間と金を、お前がみるとおりのこんな姿にわしをしてしまった苦悶すべてをとりかえせるいまになって、あの男にすてられたら、わしはもうだめ、それに――もっとひどいことに、それよりもっとひどいことに――お前もだめになってしまうことだろう。お前のために、わしはすべてを|賭《か》けていたんだ。ふたりが|乞食《こじき》になるようなことになったら――」
「そうなっても、どうなの?」子供はくじけずにいった。「乞食になって、幸福になりましょう」
「乞食になって――幸福だって!」老人はいった。「かわいそうに!」
「おじいちゃん」その紅潮した顔、ふるえる声、激しい身ぶりに輝いているたくましさで、少女は叫んだ、「その点で、わたし、もう子供じゃないと思うの。たとえ子供でも、どうか聞いてちょうだい、いまのように暮しているより、わずかな日暮しのために、乞食をするか、道路ばたや畠で働いたほうがいいことよ」
「ネリー!」老人はいった。
「そう、そうよ、いまのように暮しているよりはね」前よりもっとむきになって、子供はくりかえした。「もしおじいちゃんが悲しいのだったら、そのわけをわたしに知らせ、いっしょに悲しませてちょうだい。おじいちゃんがやつれ果て、毎日毎日顔が青くなり弱くなっていくのだったら、わたしにその看護をさせ、元気づけをするようにさせてちょうだい。おじいちゃんが貧乏なら、わたしもいっしょに貧乏になるわ。でも、いっしょにいさせてちょうだいね、きっとよ。こんなにおじいちゃんが変ってしまったのに、こちらではわけがわからないでいるなんて、いやよ。さもないと、わたし、心がくだけて、死んでしまうわ。おじいちゃん、明日、この悲しい家をすて、戸口から戸口へと物乞いをしてゆきましょう」
老人は両手で顔をおおい、横になっていた長椅子の枕に顔を埋めてしまった。
「乞食になりましょう」老人の首に片腕をまわして、子供はいった、「きっと十分なものが手にはいることよ、まちがいなしだわ。いなかを歩きまわり、畠や木の下で眠り、お金やおじいちゃんを悲しませるどんなことも考えたりはせず、夜は休み、昼間は顔に陽の光と風を受け、いっしょに神さまに感謝することにしましょう! もうこれ以上暗い部屋やさびしい家に踏みこんだりすることはせず、好きなところへ、どこへでもさまよってゆき、おじいちゃんがつかれたら、おじいちゃんはいちばん感じのいいとこをみつけて、そこで休み、わたしは、ふたりのために、物乞いして歩きまわるわ」
老人の首にだきついたとき、子供はすすり泣き、その声は聞えなくなった。泣いているのは、彼女ばかりではなかった。
こうした言葉は、他人の耳に聞かれるためのものではなかったし、こうした悲嘆の場は、他人の目にみせるためのものではなかった。だが、ほかの耳、ほかの目がそこにあって、起ったことすべてを吸収し、その上、それは、ほかならず、ダニエル・クウィルプ氏の耳と目だった。彼は、子供が最初に身を老人のわきにうつしたとき、気づかれずにはいりこみ――たしかに、まったくの心づかいの動機でつき動かされて――その会話に口を入れるのを遠慮し、いつものとおりニヤニヤと笑って、わきに立ってながめていた。しかし、立っているのは、歩いてきてもうつかれている紳士にとっては、好ましくない姿勢、この小人はいつでもくつろいだ態度をとる人間だったので、そこにあった椅子にすぐ目をやり、すごい迅速さでそこにおどりこみ、座席に両脚を乗せ、椅子の背の上にとまるようにして坐り、どんな場合にも彼に強くとりついていた、奇妙で猿のような仕草をする好みを満足させながら、同時に前よりもっと気楽な気分になって、耳を傾け、打ちながめていた。ついで、彼は無造作に脚を組み、顎を片手のたなごころに乗せ、頭をちょっとかしげ、醜悪な顔をねじっていかにも満悦げにニヤニヤと笑い、椅子の上に坐りこんだ。老人は、やがて、たまたまそちらに目を投げて、とうとう彼がこうした格好をしているのに気がつき、ひどくびっくりすることになった。
このいかにも感じのいい姿をみて、子供はおし殺した悲鳴をあげ、この最初の驚きで、彼女も老人もどういっていいかわからず、それが事実かどうかとなかば疑って、ビクビクしながら、それをながめていた。こんなふうにむかえられても、ダニエル・クウィルプはいささかもあわてたりはせず、同じ姿勢をくずさず、ただすごく恩着せがましいふうに、二度か三度、頭をうなずかせていた。とうとう、老人は彼の名前を口に出し、どんなふうにここにはいってきたのか、とたずねた。
「ドアをとおってきたよ」親指で肩越しに指さして、クウィルプはいった。「鍵穴をとおりぬけられるほど小さくはないんだからね。そうだったらいいんだが……。きみとちょっと話したくってな、特別、そして、ふたりだけでね。だれもそこにはいないということさ。さようなら、ネリーちゃん」
ネルは老人のほうをみたが、老人はひきさがるようにと彼女にうなずき、その頬にキスをした。
「ああ!」唇を鳴らして、小人はいった、「まったく楽しいキスだな――ちょうど薔薇色のとこにキスしてな。なんてすばらしいキスだろう!」
こういわれて、ネルは、部屋を出てゆく足をゆるめはしなかった。クウィルプは驚嘆の横目を投げて彼女を見送り、ドアを彼女が閉めたとたん、老人を相手に彼女の|器量《きりよう》よしをほめはじめた。
「まったくみずみずしく、若い盛りの、つつましやかな、かわいい|蕾《つぼみ》だな」短い片脚をかかえこみ、ひどく目をキラキラと輝かして、クウィルプはいった。「まったく、ぽっちゃりした、薔薇のような、感じのいい、かわいいネルだ!」
老人はむりして微笑を浮べてそれに答え、ひどく苦しいジリジリした気分と戦っているのが、はっきりと読みとられた。これがクウィルプにわからぬはずはなかったが、彼は、老人に、いや、ほかのだれにでも、できるときにはいつでも、拷問の苦しみを味せるのを楽しみにしている男だった。
「あの娘はそうさ」とてもゆっくりと話し、この話題に没入しているようなふりをして、クウィルプはいった、「とても小柄で、からだがピッチリとしまり、じつに美しい姿をし、とてもきれい、血管はすごく青く、肌はぬけるよう、とても小さな足をし、じつに魅力的な物腰で――だが、これはしたり、きみはジリジリしてるんだな! いやあ、どうしたんだい? きみに誓ってもいいな」音も立てずに椅子にとびあがったあの素早さとは打って変った用心深い緩慢な仕草で、椅子から身をおろし、そこに坐って、小人は語りつづけた、「きみに誓ってもいいな、老人の血がそんなに早く流れ、熱くなってるとは、夢にも思ってなかったよ。その流れ方はノロノロし、冷たい、まったく冷たいもんと考えてたんだからな。そうあるべきことは、まあ、まちがいなしのことなんだからな。きみのからだは、きっと、具合いがわるいんだぞ」
「そうだと思いますね」両手で頭をかかえて、老人はうめいた。「ここが燃えるようにカッカとし、ときどき、名をいうのがおそろしいなにかが起きてるんです」
小人は、ひと言もいわず、相手がイライラして部屋をあちらこちらと歩きまわり、やがて自分の席にもどるのを、ジッと見守っていた。ここで老人は、しばらくのあいだ、頭を胸に埋めていたが、やがて、突然、頭をあげて、いった。
「こんどかぎりのことなんだが、金をもってきてくれましたかね?」
「いいや!」クウィルプは答えた。
「それじゃ」両手をしゃにむににぎりしめ、上のほうをみあげながら、老人はいった、「あの子もわたしも、もうおしまいだ!」
「ねえ、きみ」きびしい顔をして老人をながめ、相手の散漫な注意をひきつけようと、テーブルを二度か三度たたいて、クウィルプはいった、「ひとつズバリと物申し、カルタの札はぜんぶそちらでにぎり(秘密をにぎっていること)、こっちがみせてもらうのはその裏だけなんていう勝負は、ねがいさげにしたいもんだね。いまはもう、こちらにはぜんぶ、つつぬけにはっきりとわかってるんだからね」
老人は、ふるえながら、目をあげた。
「びっくりしてるんだな」クウィルプはいった。「うん、たぶん、びっくりしても当然のこったろう。いいかね、いまはもう、ぜんぶつつぬけに、おれにわかってるんだぜ、ひとつあまさずな。もうわかってるんだからな、あの大金、おれから受けとったあの貸し金、前わたし金、支出金はぜんぶ流れて――その先をいおうかね?」
「うーん!」老人は答えた、「いいたければ、いうがいい」
「|賭博《とばく》場にだ」クウィルプは答えた、「お前の夜ごとにいった場所さ。これがお前さんの身代づくりのすばらしい計画だったんだ、そうじゃないか? これがおれの金をぶちこんじまうとこだった財産の人知れない、たしかな根源だったんだ(おれがお前の考えてたようなバカだったらの話だがね)。お前の|無尽蔵《むじんぞう》の|金《きん》の鉱脈、お前の黄金郷というやつだったんだな、えっ?」
「そうだ」目をギラギラさせてクウィルプのほうに向きなおって、老人は叫んだ、「そうだった。そうなんだ。将来とも、わしが死ぬまで、そうだろう」
「つまらない浅はかな賭博師|風情《ふぜい》に」軽蔑したように老人をながめながら、クウィルプはいった、「このおれがめくらにさせられるなんて!」
「わしは賭博師ではないぞ!」すごい剣幕で老人は叫んだ。「神も照覧、自分の利益、賭博の楽しみで、それをしたんでは絶対にないぞ。金を|賭《か》けるたびごとに、わしは心の中であのみなし児の名をささやき、その賭けを祝福してくださるように、神さまに祈ってたんだ――祝福は一度も授からなかったがね。神さまの祝福は、だれに授かったと思う? わしの賭けの相手はだれだったんだ? |掠奪《りやくだつ》、放蕩、道楽で暮し、悪事をするのに金を湯水のように使い、悪徳と悪事をひろめてるやつらなのだ。わしが金をまきあげようとしたのは、こうしたやつらから、そしてその金は、最後のビタ一文まで、あのけがれのない子供に授けられるはずだったんだ。その金で、あの子の生涯を安楽にし、幸福にすることができたはずなんだからな。その金がどんなことをひきおこすとこだったのだろう? 腐敗、堕落、みじめさの道具になっただけさ。こうしたことで、望みをもたん者がいるだろうか? その返事をしてくれ! わしのように、望みをもたん者がいただろうか?」
「このきちがいじみたことを、いつはじめたんだ?」そのあざけり癖が、一瞬、老人の悲しみと粗暴さで静められて、クウィルプはたずねた。
「いつはじめたかだって?」|額《ひたい》をひとなでして、老人は答えた。「わしがはじめてやったのが、いつのこと[#「いつのこと」に傍点]かをいうのか? もちろん、わしの貯えがどんなにわずかなものか、それを貯えるのにどんなにながい年月がついやされたか、この歳で余命がどんなに短いものか、貧乏につきまとう悲しみからあの娘の身を守る金がなくて、世の荒波にあの娘が、どんなにして放りだされるかを考えはじめたときのことさ。わしがそのことを考えはじめたのは、そのときのことだったんだ」
「お前のりっぱなお孫さんをたたきだして船乗りにしてくれ、とはじめておれんとこにやってきたあとのことなのかね?」
「あのあとすぐだった」老人は答えた。「そのことをながく思いわずらい、何カ月ものあいだ、夢にもみていた。それから、はじめたんだ。それが楽しいわけではなかった。楽しみなんか、考えてもいなかった。それで得たものといえば、思いなやむ毎日、眠りのない夜、健康と心の安らぎが消え、からだの弱りと悲しみを得ただけだった!」
「まず第一に、自分の貯えてた金を失い、ついで、おれのとこに来たわけだな。お前が自分の身代をつくってるとこちらで思ってたとき(たしかにそういったんだからな)、お前は乞食の身分に転落しはじめてたんだな? いやはや! そのあげく、お前がかき集められるかぎりの抵当、譲渡証書――株と財産の譲渡証書をこちらでにぎるということになったわけだ」立ちあがり、商品でもちだされたものはないかとたしかめるようにあたりをみまわして、クウィルプはいった。「だが、もうけたことは一度もなかったのかね?」
「一度もないんだ!」老人はうなった。「損をとりもどしたことは、一度もないんだ!」
「おれは考えてたんだがな」小人はせせら笑っていった、「賭けをながいことやってれば、最後には勝つ、どんなにまずいことになっても損はしないですむとな」
「そのとおりだよ」いきなりいままでのがっくりしたふうから立ちなおり、激しい興奮状態におちいって、老人は叫んだ、「そのとおりだよ。最初からそれを感じ、いつもそれがわかり、それを目にし、いままでにないほど、いまそれを強く感じてるんだ。クウィルプ、わしは大金を手に入れた夢を、三晩も、みたんだ。そうした夢をみたいものと思ってたが、以前には、どうしてもだめだった。いまこうしたチャンスがあるのに、どうかわしをすてないでくれ。きみ以外に方法はないんだ。なんとか助けてくれ。この最後の希望をひとつやらせてみてくれ」
小人はひょいと肩をすくめ、頭をふった。
「いいかい、クウィルプ、やさしくて人のいいクウィルプ」ふるえる手でポケットから何枚かの紙きれをひきだし、小人の片腕をつかんで、老人はいった、「ちょっとこれをみてくれ。この数字、ながい計算と、つらくて苦しかった経験の結果をみてくれ。わしは勝たねばならん[#「勝たねばならん」に傍点]のだ。もう一度、ほんのわずかな援助が必要なんだ、わずかな金、たった四十ポンドの金がね、クウィルプ」
「この前の前わたした金は七十ポンドだったな」小人はいった。「それは一夜で消えちまったんだ」
「それは知ってる」老人は答えた、「だが、あれは運がどん底のときのこと、時機がまだ到来してなかったんだ。クウィルプ、考えてくれ、考えてくれ」老人は叫び、そのあいだにひどくからだをワナワナとさせていたので、手にもった紙きれは、風に吹かれたように、ヒラヒラとゆれ動いていた、「あのみなし児の子供! もしひとりの身だったら、わしはよろこんで死ねることだろう――じつに不平等に分け与えられるあの定めを楽しみにして待ちさえするだろう。定めというやつは、自分の力をほこって幸せになってる者に襲いかかり、貧乏で苦しみ、絶望で死を求めてるすべての者は、そのままにしておくんだからね――だが、わしがいままでしてきたことは、あの娘のためにしたことだ。たのむ、あの娘のためにわしを助けてくれ。わしのためではなく、あの娘のためなんだ!」
「わるいけど、シティー(ロンドンの旧市部、ロンドン市長と市会の支配する地区。イギリスの金融・商業の中心)に約束があってね」すごく落ち着き払って時計をながめながら、クウィルプはいった、「さもなければ、大よろこびで三十分ほどここにいて、きみの気分が静まるのを待つとこなんだけどね、大よろこびでね」
「いや、クウィルプ、いい男のクウィルプ」クウィルプの上衣のすそをつかまえて、老人はあえいだ、「きみとわしは、いままで何回となく、あの娘のかわいそうな母親の話をしてきた。あの娘に貧乏の味を味わせまいとする心配は、たぶん、そこから生れてきたんだろう。わしにむごいことはせず、そのことを考えておくれ。きみはこのわしで大もうけをしてるんだ。この最後の一回だけの希望のためにどうかあの金を都合してくれ!」
「まったく、だめでね」いつもにない|慇懃《いんぎん》な調子でクウィルプはいった、「だが、ちょっといっとくけどね――これは、おれたちのあいだで、どんなにぬけ目のない男でも、ときにひっかかることがあるという証明として、憶えといてもいいことなんだがね――お前さんの貧乏くさい、ネリーとふたりだけの暮しぶりには、このおれもすっかりひっかかっちまったよ――」
「財産を呼びこむため、金を貯えようとして、やっただけのこと、あの娘のよろこびを大きくしてやろうと思ってね」老人は叫んだ。
「うん、うん、おれには、いま、そいつがわかったよ」クウィルプはいった。「だが、おれはいおうとしてたんだが、そのこと、お前さんのけちくさいやり方、お前さんを知ってる連中のあいだでのお前さんが金持ちという評判、それに、おれの前わたし金を三倍、おれに払う利子を四倍にもしてくれるという、何回もお前さんがいった保証でこっちはすっかりひっかかっちまってね、思いもかけずお前さんの秘密にしてる暮しぶりを知ることにならなかったら、このいまでも、ただ一筆書いただけで、お前さんに望みの金を用立てしてやったことだろうよ」
「だれだったんだ」やけになって老人は応じた、「わしの用心にもかかわらず、その秘密をきみにもらしたやつは? さあ、その名、その人間を教えてくれ」
この陰険な小人は、少女から話を聞いたといえば、自分の使った|手練手管《てれんてくだ》がばれてしまう、それはなんの|得《とく》にもならないのだから、かくしておいたほうがいいと考えて、返事を途中でとめ、こういった、「さあ、だれだと思うね?」
「キットだ、あの少年にちがいない。あいつがスパイになり、きみに買収されたんだろう?」老人はたずねた。
「どうしてあいつのことを考えたんだね?」いかにも同情したような調子で、小人はいった。「そう、キットだよ。かわいそうに、キットのやつ!」
そういいながら、彼は親しみをこめてうなずき、少しはなれた戸口をとおりながら足をとめ、すごくうれしそうにニヤリと笑って、そこを去っていった。
「かわいそうに、キットのやつ!」クウィルプはつぶやいた。「一文でみられる怪物よりおれがもっと醜悪な小人だなんていったのは、たしかにキットだったな、ちがうかな? はっ、はっ、はっ! かわいそうに、キットのやつ!」
こういって、歩きながらまだクスクスと笑って、クウィルプは進んでいった。
10
老人の家へのダニエル・クウィルプの出入りには、ちゃんと観察者がついていた。大通りからわかれる多くの道のひとつに通じるほぼ向い側のアーチの道の物陰に、ひとりの男がいて、この男は、夕暮れになりはじめたころ、そこに陣どり、その我慢強さはいささかもおとろえずに、そこでがんばり、ながく待たねばならぬ、それにはもう馴れっこになっていて、あきらめているといった人のような態度で壁によりかかり、もうぶっつづけ一時間ものあいだ、その姿勢をほとんど変えてはいなかった。
この辛抱強いブラブラしている男は、通行人の注意はひかず、同様に通行人になんの注意も払ってはいなかった。その目はいつもひとつのとこ、子供が坐りつけていたあの窓に向けられていた。彼が一瞬そこから目をうつしたとすれば、それは、近くの店の時計をチラリとながめるためだけで、つぎには、前にもますひたむきさと注意力を集中させて、もとの場所をしっかりとみつめていた。
この人物がそのかくれ場所で退屈したようすをいささかも示していないことは、もう申しあげたが、ながいこと待っていても、その態度は少しも変らなかった。だが、時がたつにつれて、少し心配そうなようすと驚きをあらわし、時計をチラリとながめる回数がまし、窓をながめるまなざしには希望の色がうすれていった。とうとう、時計は嫉妬深げなシャッターのためにみえなくなり、つづいて教会の|尖塔《せんとう》が夜の十一時を、ついで十一時十五分すぎを報じ、もうこれ以上ここにいても無益なことが、彼の心にわかってきたようだった。
この確信はそううれしくはないもの、そうした確信をもつまいという気になっているのは、彼がその場所を去りかねていることでよくわかった。ときどきそこからはなれ、それでも、肩越しに同じ窓にふりかえっているノロノロとした歩みぶりから、また、空想の物音か変化するたよりにならぬ光のために、窓がソッとあげられたと思ったとき、彼がそのたびにもとの場所にもどっていく大あわてぶりからも、それは、はっきりとわかることだった。とうとう、彼は、この夜はもうだめ、とあきらめ、否応なくここを去ろうとしているように、サッと走りだし、一目散に突っ走り、またもどる気になってはと、一度もふりかえろうとはしなかった。
歩調をゆるめず、息を入れようととまったりもせず、このふしぎな人物は多くの路地と小道をとんでゆき、とうとう四角な舗装した裏通りに到着、そこでふつうの歩く歩調にもどり、窓から灯りがもれている小さな家のほうに進み、ドアの掛け金をあげ、中にはいっていった。
「まあ!」サッと向きなおって、女が叫び声をあげた、「だれ? まあ! お前、キットなのね!」
「そうですよ、母さん、ぼくですよ」
「まあ、なんてつかれた顔をしてるの、ほんとうに!」
「老旦那さまが今晩はお出かけでなくってね」キットはいった。「だから、嬢ちゃん、窓のとこにぜんぜん姿をあらわさなかったよ」こういって、彼は炉のそばに坐り、とても悲しげな不満そうなようすをあらわしていた。
こんなふうにキットが坐りこんだ部屋は、とても貧乏くさい粗末な場所だったが、清潔ときちんとした整頓ぶりがいつもある程度は与えてくれる快適さの雰囲気が、そこにあった。清潔で整頓されていながら快適でないとしたら、その場所はほんとうにひどいものといえるだろう。オランダ時計は時刻が夜ふけになっているのを知らせていたが、あわれな母親はまだせっせとアイロン台で働き、小さな子供は炉の近くのゆり籠で眠り、もうひとりのたくましい二、三歳の坊やは頭をしめつけているナイトキャップをかぶり、からだには合わない小さな寝巻きを着こんで、パッチリと目をさまし、洗濯籠の中でむっくり起きあがり、籠のへり越しに目をむいてにらみ、もうこれ以上眠りはしないぞと決心を固めているようだった。この坊やは自然の休息をとるのを拒否し、その結果、寝台からひきだされていたので、以上のことはこの子が大物になる証拠と、親類や知人からは考えられていた。キット、母親、子供たちはみんなよく似ていたので、ちょっと妙な一家だった。
キットは、だれにでもあることだが、不機嫌になりそうになっていた――が、ぐっすりと眠っているいちばん下の子供をながめ、そこから洗濯籠の中のもうひとりの弟、さらにそこから朝から文句もいわずにせっせと働いている母親に目を転ずると、機嫌のいいところをみせたほうがよく、親切なことになると考えた。そこで、彼は片足でゆり籠をゆすり、洗濯籠の中の反逆児にしかめっ|面《つら》をしてみせ、これは、やがて、彼を上機嫌にさせることになった。そこで彼は、大いにしゃべり、感じよくふるまおう、と固く決心した。
「ああ、母さん!」折りたたみナイフをとりだし、母親がもう何時間も前に彼のためにつくっておいてくれた肉のついた大きなパンの切れにかぶりついて、キットはいった、「なんてすばらしい人なんでしょう、母さんはね! 母さんのような人は、そうたんとはいないな、まったく」
「もっともっとましな人はたんといるよ、キット」ナッブルズ夫人はいった。「そう、いるともさ、いるはずなんだよ、|会堂《チヤペル》(国教以外の宗派の教会)の牧師さんのお話によればね」
「牧師さんは[#「牧師さんは」に傍点]そのことをよくご存じですね」軽蔑したようにキットは答えた。「あの人が男やもめになり、母さんのように働き、同じように|収入《みいり》が少なく、同じようにうんと仕事をし、同じように元気にしているときまで待ち、そんなときに、ぼくがひとつ、何時ですかね、ときいてみましょう。きっと、一秒もくるわず、正しい返事をしてくれるでしょうよ」
「そう」この話はさけて、ナッブルズ夫人はいった、「お前のビールは下のそこ、|炉格子《ろごうし》のとこにあるよ、キット」
「わかりましたよ」黒ビール(もとはロンドンの市場人夫などが飲んだもの)の壺をとりあげて、息子はいった、「乾杯、母さんにぼくの愛情を! それに、もしお望みなら、牧師さんの健康を! べつにあの人をわるく思ってるんじゃないんですからね、とんでもない!」
「たったいま、いったっけね、お前の旦那さまが今晩は出ていかなかったんだって?」ナッブルズ夫人はたずねた。
「ええ、いいましたよ」キットはいった、「運のわるいこった!」
「運がよかった、といわなけりゃいけないよ」母親は答えた、「だって、ネリー嬢ちゃんがひとりでのこされることにはならないんだからね」
「ああ!」キットはいった、「そいつは忘れてた。運がわるいといったのは、八時からズーッとこっちでみてたのに、あの嬢ちゃんの姿をぜんぜんみかけなかったからなんですよ」
「あの嬢ちゃん、なんていうだろうね?」仕事の手をとめ、あたりをみまわして、母親は叫んだ、「毎晩、かわいそうに、あの嬢ちゃんがあの窓にひとりで坐ってるとき、お前が嬢ちゃんになんかあってはと心配して、道路から監視をつづけ、どんなにつかれても、嬢ちゃんがもう大丈夫と思う時刻までその場所を動かず、家に帰っても眠りもしないと知ったらね……」
「なんていうかなんて、心配することはありませんよ」その奇妙な顔にちょっと赤面らしきものを浮べて、キットは答えた。「嬢ちゃんはなんにも知らず、だから、なんにもいいっこはないんですからね」
ナッブルズ夫人は、一分か二分のあいだ、アイロンかけをせっせとやり、べつのアイロンをとろうと炉のとこにきて、それを板の上でこすり、ぞうきんでほこりをぬぐいながら、ソッとキットに目をやったが、なにもいわずに、またアイロン台のところにもどっていった。そして、アイロンの熱を計ろうと、それを頬に驚くほど近くまで寄せ、ニッコリしてあたりをみまわしながら、彼女はいった、
「世間の人たちがなんていうかは、わかってるよ、キット――」
「バカな!」その先をちゃんとみとおして、キットは口を入れた。
「そう、でも、世間ではうわさするよ。あの嬢ちゃんにお前が惚れてる、という人もいるだろうよ。そうなることは、わかってるんだからね」
これにたいして、キットは照れくさそうに「やめてくれ」といい、脚と腕をいろいろと奇妙な形にねじり、それと同時に、それと釣り合うように顔をひきゆがめて、それを応答がわりにした。こうした方法からは彼が求めた援助は得られなかったので、彼は肉つきパンにパクリと大きく噛みつき、黒ビールをサッと飲みこみ、こうした人為的な援助のおかげで、むせかえり、この話題をたくみにそらしてしまった。
「これはふざけての話じゃないんだけどね」しばらくして、またこの問題をとりあげて、母親はいった、「いまは冗談でいっただけのこったけどね、これをするのは、とてもいいこと、思いやりのあること、お前らしいことだよ。でも、だれにもそれを知らせちゃいけないよ。いつかきっと嬢ちゃんはこれを知るようになり、とてもお前をありがたく思い、それに打たれることになるだろうけどね。あの嬢ちゃんをあそこに閉じこめておくなんて、むごいことさ。あの老人の方がそれをお前に知らすまいとしてるのも、むりのないことと思うね」
「とんでもない、むごいこととは、旦那さまは思ってないんです」キットはいった。「それに、そのつもりもありませんよ。そうじゃなかったら、あんなことはしないでしょうからね――母さん、ぼくはほんとに考えてますよ、世界じゅうの金銀をもらったって、旦那さまはそんなことをしませんよ。ええ、ええ、しませんとも。そんなことくらい、わかってるんです」
「じゃ、なんのためにしてるんだろうね? それに、どうしてそんなにお前に知らすまいとしてるんだろうね?」ナッブルズ夫人はいった。
「わかりませんよ」息子は答えた。「あんなに知らすまいとしなかったら、ぼくは気がつかなかったでしょうからね。なにが起きてるのかと変に思いだしたのは、旦那さまが夜ぼくをいつもよりズッと早く家から追いだし帰してくれたことなんですからね。あれっ! あれはなんだ?」
「通りに人がとおっただけのことさね」
「だれかが通りをこっちにやってきた」聞き耳を立てて立ちあがり、キットはいった、「しかも、だいぶ急いでるようだ。ぼくがあの場所をはなれてから旦那さまが外出し、家が火事になるなんてはずはないんだけどね、母さん!」
心に思い浮んだ心配で、一瞬、少年は動く力もなく立ちつくしていた。足音は近づき、ドアがあわただしく開けられ、ネル自身が、青ざめ、息を切らし、わずかな服をそそくさと巻きつけた格好で、部屋にとびこんできた。
「ネリー嬢ちゃん! どうしたんです?」母親と息子は声をそろえて叫んだ。
「すぐ帰らなければならないの」彼女は答えた、「おじいちゃんが重い病気にかかってね。|発作《ほつさ》を起して床にたおれていたの――」
「大急ぎで医者を呼んできましょう」――キットはいって、へりなし帽子をつかんだ。「ぼくはすぐあそこにいきますよ――ぼくは――」
「いけないの、いけないの」ネルは叫んだ、「家には人がいるわ。あんたには用がないのよ。あんたは――あんたは――もう絶対にわたしたちのそばに来てはいけないの!」
「えっ!」キットは大声でどなった。
「もう二度と来てはいけないの」子供はいった。「わけは、きかないでちょうだい。わたし、知らないんですもの。どうか、わけなんて、きかないでちょうだい、どうか悲しんだりはしないでね。どうか、わたしのことを怒ったりはしないでちょうだい! ほんとう、それにはなんの関係もないんですもの!」
キットは、目をカッと見開いて、彼女をながめ、口を何回となく開いたり閉じたりしたが、一語も発することができなかった。
「おじいちゃんはあんたのことをうらみ、わめいているの」子供はいった。「あんたがなにをしたのか知らないけど、ひどくいけないことじゃないのかしら」
「ぼくが[#「ぼくが」に傍点]したですって!」少年は大声でどなった。
「自分の不幸のわけはみんなあんたにあるって、おじいちゃんは叫んでいるの」涙をいっぱいためて、子供は答えた。「おじいちゃんはあんたを呼びつけようと、キーキーわめいていたわ。みんな、あんたをそばに近づけてはいけない、さもなければ、おじいちゃんが死んでしまうって、いってることよ。もう家に来てはいけないの。それを知らせに、わたし、来たの。ぜんぜん知らない人より、わたしが来たほうがいいと思ったので。ああ、キット、なにを[#「なにを」に傍点]したの? わたしがとても信用し、わたしのただひとりのお友だちといってもいいあんたが!」
気の毒なキットは齢のゆかぬ女主人をしだいにきつく、目をしだいにカッと大きく見開いてにらみつけていたが、身じろぎひとつせず、おしだまったままでいた。
「一週間のお給金としてこのお金をもってきました」キットの母親に目をやり、テーブルにそれをおいて、子供はいった――「それに――それに――もう少しのお金をね――いつもあの人はわたしにとても親切にしてくれたんですものね。あの人がこのことを|悔《く》い、どこかべつのつとめ先ではきちんとやり、このことを余り気にしなければと思っているの。こんなふうにあの人とお別れするのは、とても悲しいことよ。でも、仕方がないことだわ。そうしなけりゃいけないんですもの。おやすみなさい!」
涙をさめざめと流し、いま自分が出てきた光景、彼女が受けたショック、たったいま果した任務、数知れぬ痛ましい愛情こもった感じの興奮でほっそりしたからだを打ちふるわせながら、子供は急ぎ足でドアまでゆき、来たときと同じように、あっという間に姿を消してしまった。
息子に疑いをかける筋はぜんぜんなく、息子の正直さと誠実さをしっかりと信じていたあわれな母親は、それにしても、息子が自己弁護をひと言もいわないでいたのに、びっくりしていた。勇敢なおこない、悪事、盗賊行為の幻想、彼がじつに奇妙な説明をしていた夜ごとの不在が、なにか不法な仕事でひきおこされていたという幻想が、一斉に彼女の頭に湧き起り、彼女は彼に質問するのもおそろしくなってきた。彼女は、手をふりしぼり、激しく泣きながら、椅子でからだを前後に、ゆすっていたが、キットはそれをなぐさめようとはせず、もうまったく|呆然《ぼうぜん》としていた。ゆり籠の赤ん坊は目をさまして泣き、洗濯物籠の坊やは|仰向《あおむ》けにひっくりかえって籠をかぶり、姿を消していた。母親はだんだんと声を高くして泣き、からだのゆれは早くなった。だが、キットは、そうした物音やさわぎに気づかず、まったくあっけにとられて呆然としていた。
11
ネルを守っている屋根の下では、静けさと孤独が連続的な支配を維持することができなくなっていた。翌朝、老人は精神|錯乱《さくらん》にともなうひどい熱に襲われ、何週間ものあいだ、この熱のために、危篤状態に落ちこんだ。看護は十分におこなわれたが、それは見知らぬ男たちの看護、そして、その男たちは|貪欲《どんよく》にもそれを食い物にし、病人の世話をみる合い間に、おそろしいふうにぐる[#「ぐる」に傍点]になって集り、食べ飲み、大いに陽気になっていた(ルカ伝一二、一九に出てくる金持ちへの言及であろう)。病気と死が、彼らの守護神だったからである。
だが、こうしたあわただしさとゴタゴタした中で、子供は前よりもっと孤独、精神的にただひとり、燃え立つ寝台でやつれ細ってゆく老人への献身的看護でただひとり、いつわりのない悲しみと金銭ではどうにもならない同情の点で、孤独の立場に立っていた。毎日毎晩、彼女は意識を失って苦しんでいる老人の枕辺にいつも坐り、そのほしがるものすべてをいつも先まわりして考え、彼女の名前のくりかえし、老人の熱病のうわ言でいつもなにより先に心に浮んでくる自分にたいする心配と配慮を、いつもジーッと聞いていた。
家は、もう、老人と子供のものではなかった。病室でさえ、クウィルプ氏の好意という不安定な条件で保持されているようだった。老人が病気になってからまだそう日もたたないうちに、クウィルプ氏は家屋敷とそこにあるすべてのものを正式に手に入れてしまったが、それは、そうした|趣《おもむ》きの法律の力によるもので、その法律を理解している者はほとんどいず、勇気をふるってそれに疑いをかける者はだれもいなかった。この重要な手段はクウィルプ氏が同行した弁護士の援助でとられたものだったが、これが終ると、この小人は、この協力者といっしょにこの家に住みこみ、ほかのすべての人にたいして自分の権利を主張しようとし、ついで、彼なりに、彼のこの宿営地を快適なものにすることにとりかかった。
この目的のために、まず第一に、シャッターをおろしてこれ以上の商売を実質的に停止し、クウィルプ氏はうしろの客間に陣どった。古い家具の中からいちばん美しくいちばんでっかい椅子(これは自分用のもの)と特別ゾッとするような坐りにくい椅子(これは思いやり深くも友人用にと彼がしたもの)をさがしだし、それをこの部屋に運びこませて、じつに堂々と自分の陣地を固めた。この部屋は老人の部屋から遠くはなれていたが、熱病感染にたいする方法として、クウィルプ氏はこれを慎重な対策と考え、|燻蒸《くんじよう》消毒法として、自分自身が絶え間なくタバコをふかすばかりか、彼の弁護士にもそれをせよと主張していた。その上、急使を波止場に派遣して例の逆立ちをする少年を呼び寄せ、少年がすぐにやってくると、戸口をはいったところにある椅子に坐り、小人がその目的で支給した大きなパイプをたえずくゆらせているようにと命じられ、どんな事情のもとでも、たった一分間なりとも、パイプを口からはなしてはならない、それを犯せば断罪、と申しわたされた。こうした処置が完了して、クウィルプ氏は、クスクスと笑いながら大満悦、あたりをみまわしながら、これで快適になったぞ、といっていた。
その旋律の美しい名前をブラース(ブラースは真鍮、鉄面皮以外に金管楽器の意がある)という弁護士は、こうした環境を、ふたつの欠陥がなかったら、快適と呼んだことだったろう。ひとつの欠陥は、どんなに努力しても椅子に楽に坐れなかったことで、座席がとても固く、角ばり、すべって、傾斜していたからである。もうひとつの欠陥は、タバコの煙がいつも内臓の不快と苦痛をひきおこしたことだった。だが、彼は、クウィルプ氏のまったくの手先、なんとかクウィルプ氏にうまくとり入らなければならない筋がいろいろとあったので、ニッコリしようとつとめ、できるだけ愛想よくへいこらしてうなずいていた。
このブラースという男は、ロンドン市のビーヴィス・マークスからやってきた評判のあまりよくない弁護士、こぶ[#「こぶ」に傍点]のような鼻、つきでた額、落ちくぼんだ目、深い|紅《くれない》色の髪をした、背の高い、|痩《や》せこけた人物だった。その着ているながい黒外套はほとんどくるぶしまでとどき、黒のズボンは短く、高い靴をはき、木綿の靴下は青味をおびた灰色だった。その態度は、へいこらとした卑屈なものだったが、声は、ひどく耳ざわりだった。この上なく柔和な彼の微笑はじつに無気味、どんなに快い事情のもとで彼といっしょになっても、人は、彼が不機嫌になり、ただしかめっ|面《つら》だけしていたほうがまだましと考えたことだろう。
クウィルプは、自分の法律顧問をながめ、相手が自分のパイプに苦しんでひどく目をパチパチさせ、たまたまその芳香をまともにすいこむと身ぶるいし、たえず煙を自分のところから追い払っているのを知って、すごくよろこび、悦に入って手をこすり合せていた。
「タバコをジャンジャンやるんだ、この犬め」少年のほうにふり向いて、クウィルプはいった、「パイプにタバコをつめ、最後のひと吹きまで、プップとふかすんだ。さもないと、パイプの|封蝋《ふうろう》をぬった端を火につっこみ、その真っ赤に焼けたやつで手前の舌をこすってやるからな」
運のいいことに、この少年はもう焼き入れのすんだ人物、だれかがおごってくれたら、小さな石灰焼きの|釜《かま》でも煙にしてしまったことだろう。そこで、彼は主人にたいして短い不敵な言葉をつぶやいただけで、命令どおりにタバコをプップとふかしていた。
「気分がいいかな、ブラース? 感じがよく、いいにおいがするだろ? トルコ皇帝(イギリス人はトルコ皇帝は水ぎせるの煙につつまれていると想像していた)のような感じがするかね?」
そんな感じだったら、トルコ皇帝の気分はそううらやましいものではない、とブラース氏は考えたが、すばらしい、まったく大権力者のような気分が強くする、と答えた。
「これが熱病撃退法なんだ」クウィルプはいった、「これが人生の不幸の撃退法なんだ! タバコを手放すことはせんぞ、ここにいるあいだじゅうズーッとな――ドンドンすえ、この犬め、さもないと、パイプをまるのみさせてくれるぞ!」
「ここにながくいるんでしょうかね、クウィルプさん?」小人が部下の少年にこのやさしい注意を与えたとき、彼の弁護士の友人はたずねた。
「二階の老人が死ぬまで、ここにいなければならんだろうな」クウィルプは答えた。
「ヒッ、ヒッ、ヒッ!」ブラース氏は笑った。「おお! とても結構ですな!」
「タバコをすうんだ!」クウィルプはいった。「絶対に息ぬきするな! タバコをやりながら話はできるんだからな。時間のむだ使いはやめろ」
「ヒッ、ヒッ、ヒッ!」いまわしいパイプをまたすいはじめて、ブラースは弱々しく叫んだ。「でも、老人が元気になったら、クウィルプさん?」
「元気になるまでいるさ。元気になったら退散だがな」小人は応じた。
「そんときまで待つなんて、まったくご親切なこってすな!」ブラースはいった。「商品を売るか運んじまう人もあるでしょうからな――いや、まったく、法律の許可がありしだいにね。火打ち石のように冷酷無情、|花崗岩《かこうがん》になる人あり、人によっては――」
「人によっては、きみのようなおうむ[#「おうむ」に傍点]のおしゃべりの援助は求めんこったろう」小人は口をはさんだ。
「ヒッ、ヒッ、ヒッ!」ブラースは叫んだ。「すごくお元気ですな!」
戸口のところにいた喫煙ちゅうの歩哨は、ここで口を入れ、口からパイプをはずさずに、うなった。
「娘っ子がおりてきましたよ」
「なにがだって、この犬め?」クウィルプはいった。
「娘っ子ですよ」少年は答えた。「あんたはつんぼなんですかね?」
「おお!」スープでもすってるように、いかにもおいしそうに息をすいこみながら、クウィルプはいった、「お前とおれは、すぐに打ち合せをすることにしよう。お前用にと、すごいひっかきやぶんなぐりがとってあるんだからな、親愛なる若い友人よ! ああ! ネリーだね! おじいちゃんはどうだね、かわいいネリーちゃん?」
「おじいちゃんの具合いは、とてもわるいの」泣きながら子供は答えた。
「なんてきれいな、かわいいネルだろう!」クウィルプは叫んだ。
「おお、美しい、まったく美しい」ブラースはいった。「じっさい魅力的ですな!」
「クウィルプの膝に坐りにやってきたのかい?」彼としては機嫌をとるつもりの口調になって、小人はいった、「それとも、この奥の小部屋で寝るつもりなのかね? かわいそうに、ネリーはどっちにするつもりなんだい?」
「子供相手になんて感じよく話す人だろう!」天井相手に打ち明け話でもしているように、ブラースはつぶやいた。「まったく、聞いただけでも楽しくなってくるな」
「ここにいるつもりは、ぜんぜんないの」ネルはどもっていった。「あの部屋にちょっとほしいものがあるのよ。そうしたら、わたし――もうここにはおりてはこないわ」
「あの部屋は、まったく感じのいい部屋だな!」子供がはいっていったとき、そこをのぞきこみながら、小人はいった。「まさに婦人の部屋というやつだ! たしかにあの部屋を使わんのだね? もどってくるつもりはないんだね、ネリー?」
「もどりません」とりにきたわずかの服をもってサッと急いでゆきながら、子供は答えた。「もう二度とね! もう二度とね」
「とても神経過敏になってる」彼女の姿を見送りながら、クウィルプはいった。「とても神経過敏にな。かわいそうなこった。あの寝台は、だいたいおれの大きさくらい。あそこをおれの[#「おれの」に傍点]小部屋にすることにしよう」
ブラース氏はクウィルプの考えたことならなんでも|相槌《あいづち》を打つ男だったが、この考えにも相槌を打ち、小人はその実験をしようと部屋にはいってゆき、口にパイプをくわえたまんま寝台に|仰向《あおむ》けにひっくりかえり、両脚を上につきだし、激しくタバコをすいだした。ブラース氏はこの絵図を絶賛し、寝台がやわらかくて快適だったので、クウィルプ氏は、夜やすむ場所として、昼間は一種の|寝椅子《デイヴアン》(もともとディヴァンはトルコの会議の意。それからその会議に使う長椅子の意になった)として、それを使用することになり、ただちに寝椅子としてそれを使うために、その場所にいつづけ、パイプをパッパとふかしていた。弁護士はこのときまでに頭がフラフラしておかしくなっていたので(これが彼の神経組織におよぼすタバコの影響のひとつだった)、この機会をとらえて、こっそりと外に逃げだし、しばらくすると、すっかり回復し、かなり落ち着いた顔つきになって部屋にもどれるようになった。彼は、意地のわるい小人によってタバコをすわされ、調子はまた逆もどりすることになり、そうした状態で蹴つまずいて長椅子にころげこみ、朝までそこで眠りこむことになった。
新しい財産を手に入れてクウィルプ氏がまずやったのは、以上のようなことだった。彼の時間は、ブラース氏の援助を受けて、そこにある品物一切の精細な目録作成と、幸いにもぶっつづけ何時間もかかった外出のほかのいくつかの仕事で、かなりつぶされることになったので、彼は、否応なく、数日間、たちのわるいいたずらをなにもできずにいた。しかし、彼の貪欲と警戒心は、いま、もうすっかり目ざめていたので、一夜でもこの家を空けたりはせず、よかれあしかれ、老人の病気になにかけりをつけようとする気分が、時がたつにつれて、ぐんぐんと強くなっていったので、公然とつぶやいたり、イライラして叫んだりして、そうした気分をあからさまにしていた。
ネルは小人の話をしようとする態度をしりごみしてきらい、彼の声が聞えるところからさえ、逃げだしていた。また、弁護士の微笑も、クウィルプのしかめっ|面《つら》と同じように、彼女にはおそろしいものだった。祖父の部屋から外に出ると、階段や廊下でそのどちらかと出逢うのをたえずビクビクと心配していたので、夜おそくなるまで、ほんのちょっとのあいだでも、その部屋をはなれないでいた。こうして夜がふけると、彼女は静けさに勇気づけられ、思い切って部屋から出てゆき、どこか空いた部屋のきれいな空気をすいこんでいた。
ある夜、いつもの窓にソッと忍び寄り、とても悲しい気分になって坐っていた――老人の容態が、その日、わるかったからである――そのとき、街路の声が自分の名を呼んでいるのを耳にしたように、彼女は思った。下をみると、そこにキットがいたが、彼女の注意をひこうとする彼の努力が、彼女を悲しい物思いから呼びさました。
「ネル嬢ちゃん!」低い声で少年はいった。
「なあに?」罪人と考えられている少年と口をきいていいのかどうかと迷いながら、子供は答えたが、その気持ちは、以前のお気に入りだった少年のほうに傾いていった。
「なんの用なの?」
「ながいこと、ひと言お嬢ちゃんに話をしたかったんです」少年は答えた、「でも、下の人たちに追っ払われて、会えなかったんです。あんなふうに放りだされても仕方がないことをぼくがしたとは、まさか――ほんとうに嬢ちゃんは考えてないんでしょう?」
「そう考えなければならないわ」子供は答えた。「そうでなかったら、どうしておじいちゃんがあなたのことをああまで怒るんでしょう?」
「わからないんです」キットは答えた。「旦那さまからも、嬢ちゃんからも、あんなことをされる憶えは、ぜんぜんないんです。とにかく、それだけは、たしかに、真っ正直な心でいえますよ。それに、老旦那さまの具合いがどうかとただたずねにきたのに、戸口から追っ払われてしまうなんて! ――」
「その話は、聞いたこともないことよ」子供はいった。「ほんとうに知らなかったの。わたしが知っていたら、そんなことは、どんなことがあっても、させなかったわ」
「ありがとう、嬢ちゃん」キットは答えた、「そういっていただいて、うれしいですよ。あれが嬢ちゃんのしたことだとは絶対に信じはしない、といってたんですがね」
「そのとおりよ!」むきになって子供はいった。
「ネル嬢ちゃん」窓の下にきて、前より声を落して、少年は叫んだ、「下には新しい主人になる人たちがいます。嬢ちゃんにとっても、大きな変りようですね」
「ほんとにそうね」子供は答えた。
「旦那さまにとっても、元気になってから、同じことになります」病人の部屋をさして、少年はいった。
「――元気になればね」涙をおさえきれなくなって、子供はいいそえた。
「ああ、そうなります、そうなりますとも」キットはいった、「きっとそうなりますよ。がっかりしちゃあいけませんよ、ネル嬢ちゃん。どうか、おねがいしますよ!」
こうした激励となぐさめの言葉は、わずかなもので、荒っぽく語られたが、それは子供の心を動かし、しばらくのあいだ、泣く気持ちをいっそうつのらせていった。
「きっと旦那さまは元気におなりですよ」少年は心配そうにいった、「もし嬢ちゃんが、気を落したり病気になったりしなかったらね。そんなことになったら、いまなおりかけてる旦那さまはもっとわるくなり、病気がぶりかえしになっちゃいますからね。元気になったら、やさしい言葉――ぼくのために親切な言葉をいってください、ネル嬢ちゃん!」
「これから先ズーッとズーッと、あんたの名を口にしてもいけないといわれているの」子供は答えた。「そんなこと、できないことだわ。たとえできても、親切な言葉があんたにどんな役に立つというの、キット? わたしたちはとても貧乏になるのよ。食べるパンもないことになるでしょう」
「そうしたことをしてくださいというのは」少年はいった、「もう一度やとってもらうためじゃないんです。嬢ちゃんにお会いしようと、こうしてながく、ここで待ってたのは、食べ物やお賃銀のためじゃないんです。苦しんでるときに、そんなことを話そうとやってきたなんて、どうか考えないでください」
子供は感謝とやさしみのこもった目を少年に投げたが、相手の語りだすのをジッと待っていた。
「いいや、そんなことじゃないんです」モジモジしてキットはいった、「それとは大ちがいな話なんです。ぼくにたいした分別があるとは思ってませんがね、できるだけのことをして旦那さまの忠実な使用人になり、危害を加えるつもりなんぞはぜんぜんなかったことを信じてくださるようにしていただけたら、たぶん、旦那さまは――」
ここでキットはながいこと口ごもり、そこで子供は、夜はとてもふけ、窓を閉める時刻になったのだから、どうか早く話してくれ、と彼にたのみこむことになった。
「たぶん、旦那さまは――そう――こういっても出すぎ者とお考えにならないでしょう」急に腹をきめて、キットは叫んだ。「ここの家は、嬢ちゃんの手からも、旦那さまの手からも、放れてしまいました。母さんとぼくには粗末な家がありますが、あんな連中がいるここよりはまだましです。旦那さまがいろいろと考え、もっとましな家をみつけるまで、そこに来てください!」
子供はなにもいわなかった。キットは、この提案をしてホッとした気持ちになり、舌がまわるようになって、その有利さをじつに|滔々《とうとう》とまくし立てた。
「そこがとても小さくて不便と」少年はいった、「嬢ちゃんはお思いでしょう。たしかにそうですが、とてもきれいなんですよ。たぶん、さわがしいとお思いでしょうが、ロンドンの町のどこでも、あんな静かな場所はありませんよ。子供たちのことは心配におよびません。赤ん坊はまず泣くことがないし、もうひとりの坊やはとてもおとなしく――その上ちびたちの世話はぼくが[#「ぼくが」に傍点]みます。きっと、ふたりとも、そちらの迷惑にはそれほどなりません。来てみてください、ネル嬢ちゃん、来てみてください。二階の通りに面した小部屋は、とっても感じがいいんです。煙突越しに教会の時計がちょっとみえ、時間はだいたいわかります。そこは嬢ちゃんに打ってつけの場所、と母さんはいってますが、そうなるでしょう。母さんがあなた方ふたりの世話をみてくれますし、使いなら、ぼくがします。お金のことなんぞ、考えてもいませんよ、とんでもない。そのことは、そちらでも考えなくっていいんです! 旦那さまに話してみてくれますか、ネル嬢ちゃん? やってみるとだけでも、いってください。老旦那さまに来させるように話し、なにより先に、ぼくがなにをしたのか、きいてみてください。そのことだけでも約束してくれますか、ネル嬢ちゃん?」
この真剣なたのみに子供がまだ答えないでいるうちに、街路の戸が開かれ、ブラース氏がナイトキャップをかぶった頭を突き出して、つっけんどんな声で、「だれだ?」と声をかけた。キットはすぐにサッと姿を消し、ネルは音を立てずに窓を閉め、部屋にもどっていった。
ブラース氏がその訊問を何回もくりかえさぬうちに、これもナイトキャップの飾りをつけたクウィルプ氏が同じ戸口から出てきて、街路をあちらこちらと用心深くながめまわし、道路の反対側から家の窓ぜんぶをみあげた。だれの姿もみかけられないのを知り、彼はやがて弁護士の友人といっしょに家の中にはいっていったが、(これは子供が階段のところで聞いたこと)自分に対抗する同盟と陰謀計画があり、四六時ちゅう家のまわりをうろつきまわっている陰謀家の一団に掠奪される危険にさらされている、時をうつさずすぐに財産を処分し、自分の安らかな屋根のもとにもどる手段を講ずることにしよう、などといっていた。こうしたこと、それに同じ|類《たぐ》いのほかのいろいろの脅迫文句をうなってから、彼はまた子供の小さな寝台にもぐりこみ、ネルはソッと階段をのぼっていった。
キットとかわした彼女の短い、終りまで語りつくさなかった問答は、彼女に強い感銘を与え、その夜の彼女の夢を動かし、それから先ながいこと思い出の種になったのは、当然|至極《しごく》のことといえる。冷淡な債権者と病人にたいする金ずくの世話人にとりかこまれ、心配と悲しみの絶頂にありながら、まわりの女たちからさえ好意と同情を受けていなかったので、この子供のやさしい心が、その宿る|社《やしろ》がどんなにやぼなものにせよ、親切で寛大な精神に強く打たれたことは、べつに異とすべきことではない。こうした精神の宿る社が人間の手ではつくられず、|金襴緞子《きんらんどんす》で飾られるより貧弱なつぎはぎでおおわれているのは、じつにありがたいことである!
12
とうとう、老人の病気は、|峠《とうげ》を越し、回復に向いはじめた。とてもゆっくりと弱く、彼の意識はもどってきたが、頭の力は弱められ、機能はそこねられていた。忍耐強く、静かにしていて、ながいこと物思いに沈んで坐っていたが、べつにがっくりしているわけではなく、壁や天井にさす陽の光といったつまらないものでもすぐによろこび、昼間がながい、夜が退屈だとこぼしたりはせずに、時間観念と心配や退屈の意識をすっかり失ってしまったようだった。彼はネルの小さな手をつかみ、その指をいじくり、手をとめて髪をなでつけたり、額にキスをして、何時間もぶっつづけに坐りつづけ、彼女の目に涙がキラリと輝いているのをみると、びっくりしてあたりをながめまわし、その原因をさがそうとし、そうしてながめまわしているうちに、自分のびっくりしたのをもう忘れていた。
子供と老人は馬車で出かけることがあったが、彼はいくつかのクッションでささえられ、子供がそのかたわらについていた。彼らは、いつものとおり、手をとり合っていた。街路の物音と動きは、最初、彼の頭をつかれさせたが、彼は、驚き、好奇心、よろこび、焦燥を示したりはしなかった。あれやこれやを憶えているかとたずねられると、「ああ、憶えてるよ、よくね――もちろんさ」と答えていた。ときどき頭をまわし、真剣なまなざしで首をのばして、群集のだれか見知らぬ人を、姿が消えてしまうまで、ジッと見守っていた。だが、どうしてそれをしたのかとたずねられても、ひと言も答えずにいた。
彼は、ある日、安楽椅子に坐り、ネルはそのわきの背のない腰かけに腰をおろしていたが、そのとき、戸の外にいた男が、中にはいってもいいか、とたずねた。「いいですよ」なんの感情もあらわさず、ケロリとして、彼はいった、「わたしは知ってるが、クウィルプなんだよ。クウィルプはここの主人。もちろん、あの人ははいっていいのだ」こうしてこの男は家にはいっていった。
「とうとう、また、元気になって、うれしいことですな」老人と向い合せに坐って、小人はいった。「からだは、もう、しっかりしたね?」
「うん」弱々しく老人は答えた、「うん」
「きみをべつに|急《せ》き立てたくはないんだが」老人の感覚が前より鈍感になっていたので、声を高くして小人はいった、「だが、将来の計画は早く[#「早く」に傍点]立てたほうが、それだけなお好都合だと思うんだ」
「もちろん」老人は答えた。「どちらの側にも、好都合ですな」
「いいかね」ちょっと間をおいてクウィルプは語をついだ、「品物が運びだされちまったら、この家は住むのに快適でなく、事実、住めないもんになるのだろう」
「そのとおり」老人は答えた。「ネルもかわいそうに、あの娘[#「あの娘」に傍点]はどうなるんだろう?」
「そうなんだ」頭をコクリとさせて、小人は叫んだ。「そいつをいってくれたのは、とても結構なことさ。じゃ、そのことは考えてくれるんだね?」
「たしかに、考えますよ」老人は答えた。「ここにいることにはならんだろう」
「そう思ってたんだ」小人はいった。「いろいろな品物は売り払った。思ったほどの高値にはならなかったが、まあまあといったとこ――まあまあさ。きょうは火曜日。いつ品物をうつすことにしよう? 急ぐことはない――きょうの午後とするか?」
「金曜日の朝にしよう」老人は答えた。
「結構だよ」小人はいった。「そういうことにしよう――それから先にのばすのは絶対に困るという了解づきでな」
「わかった」老人は答えた。「忘れませんよ」
以上のことすべてが語られた奇妙な、活気のないともいえる話しぶりに、クウィルプ氏はだいぶとまどっているようだったが、老人がうなずき、「金曜日の朝にね。忘れませんよ」とくりかえしたので、それ以上この問題をクドクドと述べ立てる口実がなくなり、その結果、好意の表現と、老人がとても元気そうにみえることによろこびの言葉を何度となくくりかえし、この進行状態をブラース氏に報告するために、下におりていった。
その日一日とつぎの日一日、老人はこうした状態にあった。彼は家をあちらこちらと歩きまわり、さまざまな部屋に出入りし、そうしたものに別れを告げようというなにか漠然とした気持ちをもっているようだったが、この朝のクウィルプとの話や、どこかほかに宿所をみつけなければならないことについて、直接の言及なりほかの方法なりで、ふれたりはしなかった。子供がわびしい立場にあり、援助を必要としているのを、彼はぼんやりと考えていた。彼女を胸に抱きしめ、元気を出すようにとはげまし、たがいに相手をすてることはすまい、といっていたからである。だが、それ以上はっきりとふたりのほんとうの立場を考えることはできないようで、心身の苦しみで彼が落ちこんでしまった元気のない、感情の動きを示さない人間からはまだぬけだせないでいた。
われわれはこれを子供っぽい状態と呼んでいるが、それは、死を眠りの同族というのと同じ、お粗末な、内容のない、いい加減な言葉である。老いぼれた老人のトロンとした目のどこに、子供時代の笑う光と生命、抑制を知らない陽気さ、冷酷さを感じたことのない率直さ、絶対にしぼんだことのない希望、花を開かせながらすぐに消えていくよろこびがあるのだろう? きびしい醜悪な死の鋭い様相のどこに、目ざめてすごしたすぎ去った時間にたいする安息を語り、将来の時間にたいするやさしい希望と愛情を伝えてくれるあの静かな美しい睡眠があるのだろう? 死と睡眠をならべてみたら、このふたつが同じものと、だれがいうだろう? 子供と子供っぽい大人を示し、われわれ自身のむかしの幸福な状態に|誹謗《ひぼう》を加え、子供の称号を醜悪で、ひきゆがめられた像に与える思いあがりを恥じるがいい。
木曜日になったが、老人にはなんの変化もあらわれなかった。だが、この老人と子供が、その日の夕方、だまっていっしょに坐っていたとき、変化が彼に示されてきた。
彼のいた窓の下の小さなおもしろくもない中庭に、こうした場所にしては緑色の強い、勢いのいい木が一本生えていた。そして、風が葉のあいだを吹きぬけていたので、白い壁の上にチラチラと影が投げられていた。このわずかな光の当る場所で影がふるえているのを、太陽が沈むまで、老人は坐りながらジッとみつめ、ついで、夜になり、月がゆっくりとのぼってきたときにも、同じ場所にまだ坐りつづけていた。
落ち着きのない寝台の上で寝がえりを打ちつづけてきた人間にとって、こうしたわずかな緑の葉、それに、煙突と屋根で弱々しくはなっていたにせよ、この静かな光は、快いものだった。それは、遠くの静かな場所、休息、平穏を思わせた。
子供は、何回となく、老人が感動を受けていると考え、言葉を出すのをさしひかえていた。だが、いま、彼は涙――それをみると、彼女の痛む心は軽くなったのだが――を流し、ひざまずこうとしているような格好で、自分を許してくれ、と彼女にたのんだ。
「おじいちゃんを許すですって――なにを?」彼のいおうとしているのをおさえて、ネルはいった。「おじいちゃん、わたしが[#「わたしが」に傍点]なにを許さなければならないの?」
「すぎ去ったことすべて、お前に襲いかかってきたものすべてだよ、ネル、あの不安な夢の中でしてきたすべてだよ」老人は答えた。
「そんな話、してはいけないことよ」子供はいった。「どうか、話さないでちょうだい。なにかほかのことを話しましょう」
「うん、うん、そうしよう」彼は答えた。「ズーッと前――何カ月も前に話したことをみんな話すことにしよう。何カ月も前だったっけ? 週だったっけ? それとも日だったかな? どっちだったんだい、ネル?」
「おじいちゃんの話、わからないわ」子供はいった。
「それは、きょう、もどってきたんだ。それは、ふたりがここに坐ってるとき、みなもどってきたんだ。ほんとにありがたいことだよ、ネル!」
「ありがたいってなんのこと、おじいちゃん?」
「わたしたちがはじめて|乞食《こじき》の身分になったとき、お前がいってくれたことだよ、ネル。声を落して話すことにしよう。シッ! 下の連中がこちらの考えてることを知ったら、わしのことを気ちがいと叫び、お前をわしからひきはなしてしまうだろうからね。ここには、もう一日も、いないことにしよう。ここから遠くはなれたところへいってしまうんだ」
「ええ、いきましょう」むきになって子供はいった。「ここからいってしまい、もうもどらず、ここのことを二度と考えないことにしましょう。ここにグズグズしているより、はだしで世界をさまよい歩きましょう」
「そうしよう」老人は答えた、「野や森をとおり、川の土堤を歩いていって、神さまのお住まいの場所でわたしたちの身を神さまにおゆだねすることにしよう。心配といまわしい夢にあふれたここの息苦しい部屋にいるより、向うの空――どんなに輝いているか、みてごらん! ――このような開けた空の下で、夜、横になってやすむほうが、どんなにいいことか! お前とわしはいっしょになって、ネル、これから先また、陽気で幸福になり、いままでのことがなかったように、いまの時を忘れ去ることもできるんだ」
「わたしたち、幸福になりましょう」子供は叫んだ。「ここにはいられないわ」
「そうだ、二度とここにはいられない――絶対にな――ほんとうに、そのとおりだ」老人は答えた。「明日の朝、ぬけだすことにしよう――早く、ソッと、姿をみられたり、足音を聞かれたりはせずにね――そして、あの連中が追う痕跡をのこさないようにしよう。かわいそうに、ネル! お前の頬は青ざめ、わしのために――そう、わかってるよ――わしのために――夜も眠らず泣いてくれたんで、目は生気を失ってる。だが、ここから遠くはなれたら、お前はまた元気になり、陽気になるだろう。明日の朝、いいかい、この悲しみの場所から|面《おもて》をそむけ、鳥のように自由に幸福になれるんだよ」
ついで、老人は彼女の頭の上で両手を組み合せ、とぎれとぎれのわずかな言葉で、これから先は、いっしょにあちらこちらをさまよい歩き、死がどちらかをつれ去るまで、もう絶対に別れまい、といった。
子供の心は希望と確信で高鳴っていた。飢え、寒さ、喉の乾き、苦しみは、考えてもいなかった。この中に彼女がみたのは、ふたりがかつて楽しんだ|素朴《そぼく》なよろこびの再現、彼女が住んでいた陰気な孤独からの救い、最近の苦難のときに彼女をとりかこんでいた非情の人たちからの逃避、老人の健康と平穏の復活、静かな幸福につつまれた生活だった。太陽、小川、牧場、夏の日々が彼女の視野の中に明るく輝き、キラキラと輝いているその絵図の中には、暗い色彩の影ひとつなかった。
老人は床で数時間、ぐっすりと眠り、彼女は逃亡の準備をせっせとしていた。もっていく彼女自身のわずかの服、わずかの老人の服があり、落ちぶれた身分にふさわしい古服が、着るようにとならべられ、かよわい歩みのささえとなる杖が、老人のためにととのえられた。だが、これで彼女の仕事が終ったわけではなかった。最後に、古い部屋部屋をおとずれなければならなかったからである。
この部屋との別れは、彼女が予期していた別れ、なかでも、彼女がいちばんよく心に描いていた別れとは、まるでちがうものだった! そうした部屋の中で送った多くの時間の思い出が、彼女の張り裂けそうな心に浮びあがり、そこを去ろうとする気持ちは無情なことと彼女に感じさせたとき、意気揚々と部屋に別れを告げることなんて、どうして考えられたろう! そこで送った時間の多くは、さびしく、物悲しいものではあったのだが……、多くの|宵《よい》――きょうよりもっと暗い宵を送った窓辺に腰をおろすと、その場所で胸に思い浮んできた希望や明るさのすべての思い出が、心にマザマザとよみがえってきて、あっという間に、単調で悲しみにあふれたその場所に結びつく連想は、みなぬぐい去られた。
夜よくひざまずいて祈り――いま近づいてきたと彼女が思っている時間の来るのを祈った彼女自身の小部屋――とても安らかに眠り、とても楽しい夢をみたあの小部屋も、同じだった。もう一度そこをみまわさないでいるのはむずかしいこと、やさしい|一瞥《いちべつ》と感謝の涙をぬきにしてそこを立ち去るのは、困難なことだった。そこにはいくつかつまらないもの――なんの役にも立たぬがらくた――があったが、彼女はそれをもっていきたかった。だが、それは不可能なことだった。
このことで、彼女は鳥、そこにまだ吊りさげられている彼女のあわれな鳥のことを思い出した。この小鳥を失うことで、彼女は激しく泣いていたが、なにかの方法でそれがキットの手にはいるかもしれない、彼らがそれを自分のために|飼《か》い、彼がそれを手に入れるようにと希望し、彼に感謝している証拠に彼女がそれをあとにのこしておいたと思うかもしれないという考え――この考えがどんなふうに、どうして浮んできたか、彼女はわからなかった――がフッと彼女の頭に思い浮んだ。こう考えて、彼女は、冷静さをとりもどし、心のなぐさめをみつけ、前より明るい気分になって眠りについた。
この眠りで、明るい陽ざしの強い場所を歩きまわっている多くの夢をみたが、なにか漠然とした目的が達成されない感じがともない、それは、夢すべてをぼんやりとつらぬいていた。この夢から目をさましたとき、まだ夜で、星が空にキラキラと輝いていた。とうとう、夜明けが光を投げはじめ、星は光は失い、影を薄くしはじめた。これがはっきりとわかるとすぐ、彼女は起きあがり、旅の身じたくをととのえた。
老人はまだ眠っていて、それを起すのがいやだったので、太陽がのぼるまで、彼女は老人を眠らせておいた。彼は一刻も|猶予《ゆうよ》せずにこの家を出たがり、すぐに用意ができた。
ついで、子供は彼の手をとり、床板がきしむと身をふるわせ、ときどき足をとめて聞き耳を立てながら、ふたりは静かに用心して階段をおりていった。老人は自分がもたねばならない軽い荷物を入れた物入れ袋といったものを忘れ、それをとりに数歩もどったことは、ひどいおくれをひきおこしたように感じられた。
とうとう、ふたりは一階の廊下に着いたが、そこでクウィルプ氏と弁護士の友人のいびきは、彼らの耳に、ライオンの|咆哮《ほうこう》よりもっとおそろしくひびいてきた。ドアの|桟《さん》は|錆《さび》だらけで、音を立てずにはずすのはむずかしかった。そうした桟がすべてひかれたとき、錠がかかっているのがわかり、いちばん困ったことに、鍵はなかった。子供は、このときはじめて、看護婦のひとりが話していたことを思い出したが、それによれば、クウィルプは、夜、表と裏のドアに錠をおろし、鍵はその寝室のテーブルの上においてあるのだった。
大きな恐怖につつまれ、身をひどくふるわせながら、子供のネルは、靴をぬぎ、ブラース氏――在庫の骨董品の中で、いちばん醜悪な品物だったのだが(ブラースを真鍮の製品と見立ててのしゃれ)――が|布団《ふとん》の上で眠っている骨董品の倉庫部屋をソーッととおりぬけ、自分自身の小部屋にはいっていった。
ここでクウィルプ氏をながめ、恐怖で|釘《くぎ》づけになって、彼女はしばらく立ちつくしていた。彼は寝台からからだをすっかり乗りだし、まるで逆立ちしてるよう、そして、この姿勢の不安定さのためか、あるいは、彼の感じのいい癖かで、口をあんぐりと開いて、あえいでうなり、白目(いや、むしろきたならしい黄の目)をはっきりと示していたからである。しかし、いまは、具合いがわるいのか? とたずねるべきではなかった。そこで、あわただしく部屋をサッとみまわして、鍵を手にとり、横になっているブラース氏のわきをまたとおって、彼女は無事に老人のところにもどっていった。ふたりは、音を立てずにドアを開き、街路に出てから、ジッと立ちつくした。
「どっちの方向に?」子供はたずねた。
老人は、決断つかぬふうにモジモジと力なく最初に彼女を、ついで右と左を、ついでふたたび彼女をながめて、頭をふった。これから先、彼女が老人の案内者と先導者にならねばならぬことは、明白だった。子供はこれを感じとったが、疑惑や不安をもたず、自分の手を老人ににぎらせて、そこから静かに去っていった。
六月の一日が、いま、明けようとしていた。深い青色の空は、雲のよごれひとつなく、輝く光にあふれていた。街路には、まだ、人影がほとんどなく、家と店は閉じられ、朝の健康的な空気が、天使の|息吹《いぶ》きのように、眠っている町の上にひろがっていた。
老人と子供は、希望とよろこびでうきうきし、輝いて幸福な静かな街路をとおっていった。これでまた、ふたりだけになったのだった。すべてのものはキラキラと輝いて新鮮、対照的なちがいで思い出す以外に、ふたりがいまあとにした単調で|抑制《よくせい》を加えられた生活を思い出させるものは、なにもなかった。ほかのときだったら渋面をつくっている陰気な教会の塔と尖塔は、いま、陽光の中で輝き、それぞれのみすぼらしい町の片隅は、光に恵まれ、かげりといえばただあくまで澄んでいるためのかげりしかない澄みわたった空は、おだやかな微笑を地上のすべてのものに投げていた。
ロンドンの町がまだ眠っているとき、ふたりのあわれな冒険家は町からぬけだし、どことも知らぬところにさまよい歩いていった。
13
タウア・ヒルのダニエル・クウィルプと、ウェストミンスターの高等法院王座部と民事訴訟裁判所の女王陛下の弁護士であり、大法官庁の事務弁護士である紳士、ロンドン市ビーヴィス・マークス在住のサムソン・ブラースは、どんな災難のことも夢にも思わず、それに気もつかずの状態で眠りつづけ、最後に街路のドアがノックされることになった。このノックは何回かくりかえされ、遠慮がちな単一のたたきから、だんだんと文句なしのノックの打撃にたかまってゆき、ほとんど間もおかずのながい一連の砲撃となった。このために、上記ダニエル・クウィルプはもがくようにして水平の姿勢になり、眠そうな無関心ぶりで目をむいて天井をにらみ、この物音を耳にして、それにそうとう驚いてはいながらも、この問題にそれ以上の注意を払う面倒なことなんてできるものか、といった心理状態を示していた。
しかし、この彼の緩慢な状態にノックの音が調子を合せるどころか、激しさを増大し、いま一度目を開いた以上、また眠りこむことにたいしてむきになって抗議をしているように、もっとしつこく鳴りつづけたので、ダニエル・クウィルプは、戸口にだれか来ている可能性をしだいに考えるようになってきた。こうして彼は、きょうが金曜日の朝で、早くやってきて自分の世話をみるように、とクウィルプ夫人にいいつけてあったことを、思い出すことになった。
ブラース氏は、奇妙なじつに多くの姿勢をしてからだをねじらせ、ときに顔と目をひねり、季節のとても早くにすぐり[#「すぐり」に傍点]を食べて人が示すような表情をしたあとでは、もう目をさましていた。クウィルプ氏がふだんの服を着用におよんでいるのをみて、彼も急いで同じことをおこない、靴下の前に靴をはきこみ、上衣の|袖《そで》に脚をつっこむといったふうに、いきなり起されたイライラした気分で、あわてて服を着こみ、右往左往している人によくありがちな服の着つけでのつまらぬ失敗をくりかえしていた。
弁護士がこうしたことをやっているとき、小人はテーブルの下で手さぐりをし、自分自身、人類一般、その上、すべての無生物をひどくののしってブツブツといっていたので、ブラース氏はそれにつられて、「どうしたんです?」とたずねることになった。
「鍵だ」彼を意地わるくにらみつけて、小人はいった、「ドアの鍵――そいつがどうなったかの問題なんだ。鍵のこと、なんか知ってるかね?」
「知るはずなんてありませんよ」ブラース氏は答えた。
「はずなんてありませんだと?」せせら笑ってクウィルプはくりかえした。「お前さんはりっぱな弁護士、そうじゃないかい? ふん、このバカ者め!」
ほかの人間が鍵を失くしたからといって、彼の(ブラースの)法律的知識にはなんの関係もない、といまのような気分の小人にはいいたくはなかったので、ブラース氏はへいこらした物腰で、前夜からそれを忘れていたにちがいない、きっといま、その本来の鍵穴におさまってるのでしょう、といった。用心深くそれをはずしたのをおぼえてるのだから、そうじゃないとはっきり確信していたのだったが、クウィルプ氏は、そうかもしれない、と認めざるを得ず、そこで、ブーブーいいながらドアのところにゆき、たしかにそこに鍵をみつけた。
さて、クウィルプ氏が錠に手をのせ、ひどくびっくりして掛け金がはずされているのをながめたとき、ノックの音がじつにイライラする猛烈さで再開され、鍵穴をとおしてさしこんでいた陽光は、反対側で人の目によってふさがれることになった。小人はひどく怒り立ち、自分の不機嫌を浴びせかける相手を、と思っていた矢先だったので、いきなりとびだしていき、こうして親切にもあの物すごい音を立ててくれるのにたいしてクウィルプ夫人に手厚くお礼を申し述べてやろう、と決心した。
こうした目的をもって、彼は錠をソッと静かにうしろにひき、いきなりドアを開けて、反対側にいた人間におどりかかっていったが、その人物は、ちょうどそのとき、音をまた立てようとノッカーをもちあげたところ、この人物めがけて、小人は頭を前に突き出し、両手と両足をいっしょに投げだして、悪意にあふれて大気に噛みつきながら、とびかかった。
だが、なんの抵抗もせず、慈悲を乞う人物におどりかかるなんて、とんでもないこと、妻と考えていた人間の腕の中にクウィルプ氏がとびこむやいなや、彼は頭をしたたか二発ぶんなぐられ、さらに同様の二発を胸に受け、この敵手と格闘しながら、自分のからだに拳が|雨霰《あめあられ》と降りそそがれてきたのを知って、相手は手練の腕達者、と確信することになった。こうした応対にはいささかもひるまずに、彼は、敵にしっかりとしがみつき、すごい好意と誠実さをこめて噛みつきなぐりつけたので、少なくとも二分ほどして、ようやくそこからひきはなされることになった。そのとき、そのときになってはじめて、ダニエル・クウィルプは、自分が顔を赤くし髪をふり乱して街路のどまんなかに放りだされ、リチャード・スウィヴェラー氏がまわりでダンスらしきものを踊り、「もっと食らいたいかどうか?」知りたがっているのに気がついた。
「店にはまだまだこの品物はございますよ」|威嚇《いかく》的態度で順次前進し後退しながら、スウィヴェラー氏はいった、「いつでも、手もちの詰め合せ品がたんとございます――地方のご注文は迅速にご用立て――もう少しご入用でしょうか? ――おいやでなかったら、どうぞそうおっしゃってください」
「ほかのだれかと思ってたよ」肩をこすりながら、クウィルプはいった。「どうして自分がだれかをいわなかったんだ?」
「どうして自分がだれかをいわなかったんだ?」ディックはやりかえした、「気ちがいみたいに部屋からとびだしてきたりはせずにね?」
「ノックをしたのは――きみだったんだな」短いうめきを立てておきあがりながら、小人はいった、「そうなのかい?」
「そう、ぼくだよ」ディックは答えた、「あのご婦人が、ぼくがやってきたとき、それをやりだしてたんだが、あまり弱く打ってるんで、ぼくが交替したんだ」こういいながら、彼はクウィルプ夫人のほうを指さしたが、彼女は少しはなれたところで身をふるわせていた。
「フン!」妻に怒りのまなざしを投げて、小人はつぶやいた、「お前がいけないからだと思ってたんだ! ドアを打ち倒そうといった勢いでノックをするなんて、ここに病人がいるのを知らないのかね?」
「|糞《くそ》っ!」ディックは答えた、「だからこそ、ああしたのさ。ここにだれか死人がいると思ってたんだ」
「なんか目的があってここに来たんでしょうな」クウィルプはいった。「ご用はなんですね?」
「あのご老人がどうかを知りたいんだ」スウィヴェラー氏は答えた、「それに、ちょっといっしょに話したいと思ってるネル自身からも聞きたくってね。ぼくはあの一族の友人――少なくとも一族のうちのひとりの友人、それは同じことになるんだがね」
「じゃ、中にはいったらいいでしょう」小人はいった。「さあ。どうぞ、さあ。さて、クウィルプ夫人――お先にどうぞ」
クウィルプ夫人はモジモジしていたが、クウィルプ氏は強くそれをいいはった。これは礼儀正しさの競技ではなく、絶対に儀礼上のことがらでもなかった。自分の主人がこの順番で家にはいろうとしているのは、腕を何回かつねりあげるのに好都合な機会をとらえるためと、夫人はちゃんと心得、事実、彼女の腕は、いつも彼につねりあげられていて、黒と青のあざ跡だらけになっていた。この秘密を知らないでいたスウィヴェラー氏は、おさえ殺した悲鳴を耳にし、ふりむいて、クウィルプ夫人がいきなりズイッと自分のあとについてくるのをみて、ちょっとびっくりしていた。だが、彼は、こうしたようすについて、べつになにもいわず、間もなく、そのことを忘れてしまった。
「さて、お前」店に一同がはいると、小人はいった、「よかったら、二階にあがってネリーの部屋にいき、用があると伝えてくれないかね?」
「ここですっかりくつろいでるようだね」ディックはいったが、彼はこの家でのクウィルプ氏の権威をまだ知らなかった。
「くつろいでるよ[#「でるよ」に傍点]、若い人」小人は答えた。
こうした言葉がどんなことを意味するのだろう? それ以上に、ブラース氏の存在がなにを意味しているのだろう? とディックは考えていたが、そのとき、クウィルプ夫人が急いでおりてきて、二階の部屋には人がいない、と知らせた。
「人がいないだって、このバカ者め?」小人はいった。
「ほんとうなのよ、クウィルプ」ふるえながら、彼の妻は答えた、「部屋という部屋にいってみたけど、どの部屋にも人っ子ひとりいないの」
「いや、それで」力をこめ、手を一度パンと打ち合せて、ブラース氏はいった、「鍵の|謎《なぞ》が解けたわけですよ!」
クウィルプは渋い顔をして彼を、渋い顔をして自分の妻を、渋い顔をしてリチャード・スウィヴェラーをながめていたが、そのだれからもなんの説明も与えられず、急いで二階にあがり、間もなく、そこからバタバタとおりてきて、すでに伝えられた報告の裏づけをした。
「出ていくにしても、奇妙な出ていき方だな」スウィヴェラーをチラリとみて、彼はいった、「あの老人の無二の親友になってるこのおれになにも知らせないでるなんて、とても奇妙なこったな。ああ! きっと手紙をくれるさ。さもなけりゃ、ネリーにいって手紙を書かせるだろう――うん、うん、あいつはそれをするさ。ネリーはおれを大好きでな。かわいいネル!」
スウィヴェラー氏は、じっさいそうだったのだが、もうびっくり|仰天《ぎようてん》、口をあんぐりさせていた。この彼をまだソッとながめながら、クウィルプはブラース氏のほうにふり向き、無造作な態度をよそおって、このことがあったからといって、品物の|搬出《はんしゆつ》にはどうということはない、といった。
「というのも、まったく」彼はいいそえた、「ふたりがきょう出てくのは、わかってたんだからな。こんなに朝早く、こんなにソッと出てくものとは思ってもいなかったけどね。でも、あのふたりには、それなりの理由はあるんだ、それなりの理由はあるんだ」
「いったいぜんたい、どこにいっちまったんかね!」驚いているディックはたずねた。
クウィルプは頭をふり、口をすぼめたが、その態度は、自分はよく知ってる、だが、それはいえない、といったことをほのめかしていた。
「それに」まわりのゴタゴタしたようすをながめながら、ディックはいった「品物を運びだすなんて、どういうことなんだ?」
「おれがそれを買ったということさ」クウィルプは答えた。「えっ? それでどうだというんだね?」
「じゃ、あの陰険な古狐の老人は身代をこしらえ、変化する海を遠くにながめられる気持ちのいいとこで、静かな小屋に住もう(トマス・ヘインズ・ベイリー(一七九七―一八三九)作詩の『わたしといっしょに、さあ、暮しなさい』という歌にある言葉)と出かけたわけなんか?」ひどく|狼狽《ろうばい》して、ディックはいった。
「その隠退場所は極秘にしてね、やさしい孫さんやらその親友やらにあんまり訪問されたら大こまりというわけかね?」手をひどくこすり合せて、小人はいいそえた。「このおれは[#「このおれは」に傍点]なにもいわんよ。だが、それがきみのいってることなんかい?」
リチャード・スウィヴェラーはこの思いもかけぬ環境の変化に|呆然《ぼうぜん》としていた。それは、彼が目立った役割を演じていた計画の完全な|挫折《ざせつ》を思わせ、彼の将来の予定をまだ芽のうちについばんでしまったように思えたからである。前の晩おそく、フレデリック・トレントから老人の病気を知らされ、ネリーになぐさめの言葉をかけ、事情をたずね、ついには彼女の心を燃えあがらせる一連のながい魅力的な言葉をまず彼女にかける準備をオサオサおこたりなくして、ここにやってきたのだった。ところがここで、優雅にうまくとり入る方法すべてを考え、ソフィ・ワックルズにたいしてゆっくりと動きつつあるおそろしい報復を思いめぐらしているとき――ここで、ネル、老人、あり金ぜんぶが消え、|融《と》け、どことも知れず逃亡してしまったのだった。まるでこちらの計画を感知し、手段がとられる前に、しょっぱなからそれをだめにしようとしているように……。
人知れず心の奥底で、ダニエル・クウィルプは、いま起きた逃亡で、びっくりもし心配もしていた。必要な衣服がいくつか逃亡者といっしょに消滅したことを、彼の鋭い目はのがさずにつかみ、老人の心理状態が弱まっているのを知っていたので、子供の賛成をそんなにやすやすと得ることができた方針はどんなものだったのだろう? と考えていた。老人なりネルなりにたいして、彼が私欲にとらわれずに心から心配してやきもきしていたなどと考えてはいけない(そう考えたりしたら、悪名高いクウィルプ氏にたいしてひどい|侮辱《ぶじよく》を加えることになる)。彼の不安が起きたのは、彼が思ってもいなかったなにか秘密の金の貯えを老人がもっていたのではないか? という疑念からだった。それをひっつかめなかったと思うと、彼は苦痛と自責の念に責め立てられていた。
こうした心理状態で、リチャード・スウィヴェラーが、理由はちがうにせよ、同じ原因で明らかにイライラし、失望感を味わされていると知るのは、小人の心をなぐさめてくれるものだった。この男がここにやってきたのは、明らかに、彼の友人のため、老人をうまい言葉でひっかけるか、おどしをかけるかして、この連中がもっていると考えている老人のあの大財産の一部をかすめようとしているのだ、と彼は考えていた。そこで、老人が貯えていた富の絵図でスウィヴェラーの心を苦しめ、うるさい要求のとどかぬところに老人当人をうつしてしまった自分の|狡猾《こうかつ》さをながながと述べ立てるのは、彼の心をなぐさめることになった。
「そう」ぼんやりとした顔つきをして、ディックはいった、「ぼくがここにいても、べつに役には立たんようですな」
「いささかもね」小人は答えた。
「ぼくが訪問したとは伝えてくれるでしょうな?」ディックはいった。
クウィルプ氏はうなずき、彼らに会ったらすぐそれを伝える、といった。
「そして、いってください」スウィヴェラー氏はいいそえた、「わたしが和合の|翼《つばさ》に打ち乗ってここにただよい着き、友情の熊手で相互相痛め嫉妬し合う種を除去し、それにかわって、仲のよい和合の種を|播《ま》くためにやってきた、と伝えてください。この依託をひきうけてくださいますかな?」
「もちろん!」クウィルプは答えた。
「ご親切に、さらにそれにつけ加えてくださいますかね?」とても小さなグニャグニャになった名刺をひっぱりだして、ディックはいった、「これが[#「これが」に傍点]ぼくの宛て名、毎朝在宅するともね? ふたつはっきりノックをすれば、いついかなるときでも、下宿の女中が姿をあらわします。ぼくの特別な友人たちは、ドアが開かれると、くしゃみをすることになってて、自分たちがぼくの友人であり[#「であり」に傍点]、ぼくが家にいるかどうかたずねても、べつに利害に関係のある動機をもってるわけじゃないことを彼女に知らせてるんです。失礼ですが、その名刺をもう一度みせてくださいますかね?」
「ああ! 構いませんよ」クウィルプは答えた。
「ちょっとした、不自然ともいえないまちがいで」その名刺のかわりにべつの名刺を出して、ディックはいった、「『輝かしきアポロウズ』(サミュエル・ウエッブズ(一七四〇―一八一六)が一七九〇年に『グリー・クラブ』のためにつくった有名な合唱歌)と呼ばれている入会条件のやかましい饗宴会の入場許可証で、ぼくは名誉なことにその終身会長になってるんです。これが[#「これが」に傍点]ぼくの名刺です。さよなら」
クウィルプはこの彼に別れの挨拶をし、『輝かしきアポロウズ』の終身会長は、クウィルプ夫人に敬意をあらわして、帽子を高くかかげ、無造作にそれを頭の側面に落して、はでにサッと手をひとふりして、姿を消した。
このときまでに、荷物の運搬のために、何台かの荷馬車が到着し、帽子をかぶったさまざまのたくましい男たちが|箪笥《たんす》やそれと同類の品を頭に乗せ、彼らの顔をかなり赤く染めた力のはなれ|業《わざ》を演じていた。このどさくさにおくれをとらじと、クウィルプ氏は驚嘆すべきたくましさで仕事にとりかかり、まるで悪霊のように、人びとをあちらこちらに追いまわして使い、クウィルプ夫人にはありとあらゆる類いの骨の折れる、とてもできない仕事をおしつけ、これといった努力もしてない格好で大荷物を運び、近づいたときにはいつでも、波止場からやってきた少年にひと蹴りをくれ、その荷物でブラース氏の肩に何回となく陰険な衝突、打撃を加えていた。このブラース氏はドアの階段のところに立ち、|穿鑿《せんさく》好きな近所の人たちの質問に答えていたが、これは、彼の任務だった。クウィルプ氏の存在とこの手本が、使用人たちのあいだにすごい|敏捷《びんしよう》さを普及させ、その結果、数時間すると、家はすっかり|空《から》になり、のこっているのは、むしろ、|空《から》の黒ビールの壺、まき散らされた藁くずだけになった。
アフリカ人の酋長のように、こうしたむしろの上にどっかと腰をすえて、小人は客間でパン、チーズ、ビールを大いに食べて楽しんでいたが、そのとき、それと気づかぬふりをしながら、少年が外のドアのところで中をのぞきこんでいるのをみていた。その鼻以外にはほとんどどこもみたわけではないのに、それがキットとねらいをつけて、クウィルプ氏は名ざしでこの少年を呼び、そこで、キットがはいってきて、なんの用か? とたずねた。
「ここに来たまえ」小人はいった。「うん、こうしてきみの老主人と齢ゆかぬ女主人がいっちまったわけだね?」
「どこへ?」あたりをみまわして、キットは反問した。
「どこか知らんというつもりなんかね?」クウィルプは鋭く答えた。「どこにいったんだい、えっ?」
「知りませんよ」キットはいった。
「さあ」クウィルプはやりかえした、「そんな話はもうやめることにしよう! 今朝明るくなるとすぐ、ふたりがここを忍び出たのを知らんというつもりなんかね?」
「そうですよ」はっきりとびっくりしたようすを示して、少年はいった。
「それを知らんだって!」クウィルプは叫んだ。「まるで|盗人《ぬすびと》のように、こないだの晩、きみがこの家のまわりをうろつきまわってたのを、このおれが知らんのだろうかね、えっ? そんとき、知らされなかったんかね?」
「ええ」少年は答えた。
「知らされなかったんだと?」クウィルプはいった。「じゃ、なにを知らされたんだ? どんなことを話してたんだ?」
いまとなって、それを秘密にしておくべき特別な理由はべつにないと考えたので、キットはそのときに自分がやってきた目的と自分がおこなった提案のことを話した。
「ああ!」ちょっと考えていたあとで、小人はいった。「そんなら、まだあのふたりはきみんとこに来る可能性はあるわけだな」
「来ると思いますか?」むきになってキットは叫んだ。
「うん、来ると思うな」小人は答えた。「さて、ふたりがやってきたら、おれに知らせてくれ、わかったな? おれに知らせるんだ。そうしたら、なにかやるぞ。あの連中に親切をしてやりたいんだが、どこにいるのかわからなくっちゃ、それもできないわけさ。おれのいってること、わかるな?」
偶然のこされているものはないかと、この部屋をコソコソ歩きまわっていた波止場からの少年が、このときたまたま、「あっ、鳥がいる! これをどうしましょうね!」と叫ばなかったら、この怒りっぽい質問者には感じのよくないなにか返事を、キットはしたかもしれぬとこだった。
「そいつの首をねじっちまえ」クウィルプは答えた。
「おお、そんなことはしないでください」前に出ていって、キットはいった。「それをぼくにください」
「いや、いかんぞ」もうひとりの少年は叫んだ。「さあ! 籠には手を出さず、おれにその首をねじらせるんだ、いいか? おれがしろと命じられたんだからな。籠には手を出さずにいろ、いいか?」
「ここにもってこい、おれにわたすんだ、この犬どもめ」クウィルプはわめいた。「それを手に入れるために、さあ、喧嘩をするんだ、この犬どもめ。さもないと、おれが自分で鳥の首をねじっちまうぞ!」
けしかけはもうこれで十分、ふたりの少年はすごい勢いで格闘をはじめ、クウィルプは片手に鳥籠をかかげ、|有頂天《うちようてん》になってナイフで地面をひっかいて、ののしりや叫び声で、もっと猛烈に格闘しろ、とワイワイとどなっていた。この喧嘩はいい勝負、負けずおとらずの試合で、ふたりは子供|業《わざ》とは思えない打撃をかわして、上になり下になり、転げまわっていたが、とうとう、キットはねらいすました一撃を相手の胸に加え、身をふりはなしてサッとはねおき、クウィルプの手から鳥籠をひっさらって、一目散に逃げだした。
家に着くまで、彼は一度も足をとめず、家では、血まみれの彼の顔がみなをびっくり仰天させ、上の子供がおそろしいわめき声をあげることになった。
「まあ、キット、どうしたの? なにをしてたの?」ナッブルズ夫人は叫んだ。
「心配ないよ、母さん」ドアのうしろにあった回転式長タオルで顔をぬぐいながら、息子はいった。「傷はしてないんだ。心配しなくっていいよ。鳥を手に入れようと喧嘩をして、それを手に入れただけのことさ。チビのジェイコブ、そんなに泣いちゃいけないぞ。こんなにわけわからずの坊やはみたこともないぞ!」
「鳥を手に入れようと喧嘩したんだって!」母親は叫んだ。
「ああ! 鳥を手に入れるために喧嘩したのさ!」キットは答えた、「そして、ほれ、ここにそれがいるんだ――ネリー嬢ちゃんの鳥なんだよ、母さん。そして、首をねじられようとしてたんだ! だけど、それをぼくがやめさせたのさ――ハッ、ハッ、ハッ! ぼくがそばにいて、首をねじらせなんかするもんか、とんでもない、とんでもない。そんなことしたって、つまらんもんね、母さん、まるでつまらんもんね。ハッ、ハッ、ハッ!」
ふくれあがった傷ついた顔をタオルのあいだからのぞかせて、キットがいかにも陽気に笑ったので、チビのジェイコブもそれにつられて笑いだし、ついで母親も笑い、ついで赤ん坊も、大はしゃぎをして声をあげ、足を蹴って動かし、全員が声をそろえてワッと笑いだした。これは、ひとつには、キットが意気揚々としていたため、またひとつには、みながたがいに愛し合っていたためだった。この|発作《ほつさ》がおさまったとき、キットはこの鳥をすばらしい貴重な珍品として――じつはべにひわ[#「べにひわ」に傍点]にすぎなかったのだが――ふたりの子供にみせ、壁をながめまわして古釘をみつけ、椅子とテーブルを踏み台にして、大よろこびしながら、それをねじってとった。
「さてと」少年はいった、「窓にさげてやることにしようかな。そこは明るく、気をひき立ててくれる場所、みあげれば、空がみえるだろう。まったく、この鳥はすごい歌い手なんだぞ!」
そこでまた踏み台がつくりなおされ、キットは|金槌《かなづち》がわりに火かき棒を手にしてそこにのぼり、釘を打ちこみ、籠を吊りさげ、一家の者全員を大よろこびさせた。何回か籠を調整して位置を変え、そのすばらしさに打たれて炉のところにさがっていってから、これでもう非の打ちどころなしということになった。
「さて、母さん」少年はいった、「ここでグズグズしたりはせず、ぼくはすぐ出かけて、おさえておく馬(とまっている馬車の馬の口をおさえていてわずかな金をもらうこと)がいるかどうか、みてきましょう。そうすりゃ、|粒餌《つぶえ》が買えるし、その上、母さんにもうれしいもんを、ちょっぴり買えますからね」
14
この仕事はどこででもすることができたので、キットが自分がもとつとめていた家の方向に動きだしたのは、当然ともいえることだった。もう一度その前をとおるのを、自分が屈服せずにはいられなかった心のねがいとはまったく別問題のこととして、不愉快ながらも絶対に必要なことと、彼は自分の心に説きつけようとしていた。これよりもっといかがわしいことで、自分の好みを義務にすりかえ、じっさいには心を満足させていながらも、公平無私な態度を示して大いに面目をほどこすことは、クリストファー・ナッブルズよりもっと衣食が足りて教育を受けている人にあっても、べつに珍しいことではないのだ。
この場合には、警戒する必要はなかったし、ダニエル・クウィルプのところの少年に、雪辱戦をしよう、とひきとめられる心配もなかった。そこの家は、すっかりガランとし、何カ月間もほこりだらけでよごれているようだった。|錆《さび》だらけのナンキン錠がドアにしっかりととりつけられ、よごれた陽よけとカーテンの端が半開きの上の窓をわびしくパタパタと打ちつけ、下の閉じられたシャッターのところのくりぬかれてねじまがった穴は、奥の暗さで、黒々としていた。彼がよく見守っていた窓のガラスの一部は、この朝の荒っぽいあわただしさで割られ、そこの部屋は、ほかのどの部屋より、もっとわびしく活気がないようにみえた。一団のわんぱく坊主どもがドアの階段をわがもの顔に占領し、一部はノッカーをいじくりまわし、それが装具をひきはがされた家にひびきわたらせるうつろな音に、楽しいながらもおそろしそうに聞き入っていた。ほかの連中は鍵穴のまわりに集り、なかば冗談、なかば真剣といったふうに、「幽霊」をみつけようとしていた。いままでここに住んでいた人たちをつつんでいた謎めいた雰囲気につけ加えて、一時間のそこの陰鬱さが、もうそこに幽霊をつくりだしていたからである。街路の商売と雑踏の|最中《さなか》にただポツンと立って、その家は冷たい荒廃を絵に描きだしたようだった。冬の夜そこにいつも燃えていた火と、あの小部屋を鳴りひびかせた、それにおとらぬ陽気な笑いを思い出したキットは、いかにも物悲しげに、そこからはなれていった。
あわれなキットについてまちがった印象をお伝えしないように、彼は決して感傷的な少年ではなかったことを、ここではっきりと申しておかなければならない。彼は、たぶん、感傷的ななんぞという形容詞を、生れてこの方、耳にしたことはなかったろう。彼は、ただ、心のやさしい、恩義を心得た男だけのこと、お上品で|慇懃《いんぎん》なふうなんて、まったくもってはいなかった。その結果、悲しみに打たれて家にもどり、弟たちを蹴っとばし、母親をののしったりはせずに(世間のみごとに着飾った人がご機嫌ななめになると、ほかの人たちみんなを同じように不幸にしなければ気がすまないのだが)、できることなら、自分の気分をもっと気持ちのよいものにしようと、庶民的な方法にとりかかった。
まったく、なんとたくさんの騎馬の紳士があちらこちらに練りまわり、なんとわずかな者しか、馬をおさえておいてもらおうとしないことだろう! ロンドンの有能な山師か議会の事務官だったら、馬をゆっくりと駈けまわらせているこの群集から、馬をおさえていることだけで、一年にどれだけの収入があげられているか、一文のくるいもなくはじきだすことができただろう。そして、馬丁なしの紳士の二十分の一の人が馬からおりなければならない用件をもっているとしたら、たしかに、その金額は莫大なものになるだろう。だが、そんな用件はなかった。この世で最高のたくみな評価を台なしにするのは、ときどき、こうした|臍《へそ》まがりな事情があるためなのだ。
キットは、ときに早い足どりで、ときにゆっくりした足どりで、乗り手が馬の歩調をゆるめてあたりをみまわすと足をとめ、だれか遠くの騎馬の人がノロノロと道の木陰の側を進み、一軒ごとにとまりそうな気配をみせているのをチラリとでもみれば、一目散にそこにとんでいったりして、あちらこちらと歩きまわった。だが、みんな、つぎからつぎと、どんどん馬を進めてゆき、一文の収入も得られなかった。「こうした紳士のうちのだれかがぼくの家に食べ物がないと知ったら、わずかなりとももうけられるようにと、わざととまり、どこかを訪問しようとしているみせかけをしてくれるかな?」と、少年はとりとめもない空想を走らせていた。
何回かくりかえした失望はいうまでもなく、街路を歩きまわることで、彼はもうヘトヘトになり、からだを休めようと、上り口の階段のところに腰をおろしていた。そのときガラガラッと音を立てて小さな四輪馬車が彼のほうに近づいてきたが、それは小柄な、|頑固《がんこ》そうな、モシャモシャ毛の小馬にひかれ、太った、おだやかな顔をした小柄の老紳士が走らせている馬車だった。この小柄な老紳士のわきには、ぽっちゃりとした、老紳士と同じようにおだやかな顔の小柄な老夫人が坐っていた。この小馬は自分自身の歩調で歩み、ことすべてを思ったとおり自己流にやっていた。老紳士が手綱をふって抗議をしても、小馬は頭をふって答えていた。この小馬が承知してやっているせいぜいのところは、老紳士がとおりたいと思っている街路を自分なりのやり方で進んでいくだけのこと、それをするにしても、小馬流にやり、そうでなければ動きはしないという了解が老紳士と小馬のあいだで成立しているのは、明らかなことだった。
こうした馬車が前をとおったとき、キットがいかにもがっくりしてこの小さな馬車をみていたので、老紳士は彼の姿をながめていた。キットは立ちあがり、帽子に手をあげ、老紳士はとまりたいという希望を小馬に伝え、この提案にたいして、小馬(こうした任務に異議を申し立てることはまずなかった)は慈悲深くも賛意をあらわした。
「これは失礼しました」キットはいった。「そちらの足をとめて申しわけありません。馬の世話をご希望かどうかをおたずねしたかっただけのことだったんです」
「つぎの街路でとまるつもりだよ」老紳士は答えた。「わしたちのあとを追ってきてくれたら、その仕事をあげよう」
キットは礼をいい、よろこんで承知した。小馬は道の反対側の街灯柱を検査しようと鋭角を切ってとびだし、ついで急転換して、また反対側のべつの街灯柱に走っていった。この二本の柱が同じ型で、同じ物でできているのをたしかめてから、小馬は停止状態にはいったが、これは明らかに瞑想にふけるためだった。
「きみは進んでゆくのかね!」老紳士は重々しくたずねた、「それとも、われわれがここできみを待ち、約束におくれてしまうという仕儀になるのかね?」
小馬はビクとも動かなかった。
「まあ、わからず屋のホウィスカー」老夫人はいった。「まあ、いやだこと! こんなことするなんて、わたしまで恥ずかしいことよ」
こう感情に訴えられて、小馬は心を打たれたようだった。たしかに不機嫌なふうではあったが、すぐだく足になり、「公証人――ウィザーデン」という文字のついた|真鍮《しんちゆう》板のある戸口にゆきつくまで、もう足をとめなかったからである。ここで老紳士は車をおり、老夫人がおりるのに手をかし、座席の下から、形といい大きさといい、取っ手を短くした寝床暖め器そっくりの花束をひっぱりだした。これを老夫人は、落ち着き払った堂々たる物腰で家の中に運びこみ、老紳士(えび[#「えび」に傍点]足の男だった)はすぐそのあとにつづいた。
ひびいてくるふたりの声でわかったのだが、彼らは道路に面した客間にはいっていき、そこは、どうやら、事務所らしかった。その日はとても暖か、街路は静かだったので、窓はひろく開かれ、そこでの出来事は板すだれをとおして楽に聞きとることができた。
最初に大握手と小きざみのすり足がおこなわれ、ついで花束が贈呈された。このいきさつを聞いている者にはウィザーデン氏の声と思われる声がくりかえしくりかえし「おお、いい|香《かお》り!」、「おお、まったくいいにおい!」を叫び、これもまたその紳士のものと思われる鼻が、すごくよろこんでクンクンと音を立てながら、そのにおいをかいでいるのが聞えてきたからである。
「このよろこびの機会のお祝いにと、これをもってきましたの」老夫人はいった。
「ああ! まったくお祝いですね。わたしに名誉、わたしに名誉になる機会です」公証人のウィザーデン氏は答えた。「たくさんの紳士が、そう、たくさんの紳士が公証人としてわたしの徒弟になりました。一部の者は、いま、金に埋まったような大金持ちになってますが、むかしの仲間と友人をふりかえろうともしません。ほかの連中は、|今日《こんにち》まで、いつもわたしのところにやってきて、『ウィザーデンさん、生涯でいちばん楽しい時といえば、この事務所――このまさに背なしの椅子の上ですごしたときも、その中にはいりますよ』その多くは、かわいい連中でしたが、あなたのただひとりのご子息ほど将来有望と思われる者は、その中にひとりもいませんでしたよ」
「まあ!」老夫人はいった。「ほんとに、そういっていただくと、わたしたち、とてもうれしいことですわ!」
「わたしの申しあげてるのは」ウィザーデン氏はいった、「正直な人間としてわたしが考えてることです。詩人がいっているように、正直な男は神さまのつくりたもうたもののうちでいちばん崇高なもの(R・バーンズ(一七五九―九六)の『日やとい農夫の土曜日の夜』およびA・ポープ(一六八八―一七四四)の『人間論』にある言葉)なんですからな。わたしはその詩人とまったく同意見ですよ、奥さん。一方には峨々たる山並みのアルプス、他方では蜂鳥、そうしたものでも、正直な男――さもなければ女、そう、さもなければ女にくらべたら、つくりの点で、物の数じゃありませんよ」
「ウィザーデンさんがわたしについておっしゃれるどんなことでも」細い小さな声がいった、「それは、たしかに、利息をつけて、当のご本人にもいえることです」
「それは、さらに」公証人はいった、「彼の二十八の誕生日に起きる幸福な環境、真に幸福な環境であり、そのありがたさを評価する方法は、当方でも心得てるつもりです。ガーランドさん、このめでたい機会をわれわれはたがいに祝い合ってもいいと思いますな」
これにたいして、老紳士は、たしかにそのとおり、と答えた。その結果、どうやら、もう一度握手がくりかえされたようで、それが終ったとき、自分がいうべき言葉ではないが、息子のエイベル・ガーランドほど、親をよろこばせてくれる息子はほかにないと信じている、と老紳士はいった。
「暮し向きがよくなるまでながい年月待ったあとで、もういい齢になってからわたしたち夫婦は結婚し――もう若いとはいえないときに結ばれ、いつも従順でやさしいひとり息子に恵まれて――ほんとうに、それは、わたしたちふたりの大きな幸福の源泉になっているんです」
「もちろん、そう、たしかに、そうですよ」そうだ、そうだといった声で公証人は答えた。「こうしたことを考えると、独身者の身のわたしの運命がつらくなってきますな。かつて一流のきちんとした装具問屋の娘さんだった若いご婦人がいたんですけどね――いや、それは愚痴というもの。チャクスター、エイベル君の年季契約書をもってきてくれたまえ」
「おわかりのことですが、ウィザーデンさん」老夫人はいった、「エイベルの育て方は、ふつうの若い人たちとはちがったものだったのです。あの子はわたしたちのなかでよろこびの種、いつもわたしたちといっしょにいたのです。エイベルは、一日でも、わたしたちからはなれたことはありません。そうでしょう、あなた?」
「そうだよ、絶対にね、お前」老紳士は答えた、「あの子がいっていた学校の先生だったトムキンリーさんといっしょに、ある土曜日、マーゲイト(イギリス、ケント州の海岸保養地)にゆき、月曜日に帰ってきたときはべつにしてね。でも、憶えているだろう、あのあと、ひどい病気をしたっけね。あれは、まったく、浪費といったものだったね」
「ああしたことには馴れていなかったんですよ」老夫人はいった、「それには堪えられなかったというのが、真実のとこ。その上、わたしたちがいなくてマーゲイトにいっても、なんの楽しみもなく、話し相手も、いっしょに楽しむ者も、いなかったんですよ」
「そうだったんですよ」前に一度話したことのあるあの細い静かな声が口を入れた。「すっかり家からはなれ、お母さん、すっかりさびしくなり、ぼくたちのあいだには海があるのだと思うと――ああ、ぼくたちのあいだに海があるとはじめて考えたときのあの気持ち、ぼくは絶対に忘れはしませんよ!」
「そのような事情のもとでは、きわめて当然のこと」公証人はいった。「エイベル君の気持ちは彼の性格の|誉《ほま》れ、奥さん、あなたの性格の誉れ、父親の性格と人間性の誉れになることです。同じ流れが、いま、彼の静かで目立たぬやり方すべてに流れてるのが、わたしにはわかりますな――チャクスター君が立ち会い人になってくれる年季契約書の下のところに、いいですかね、わたしはこれから自分の名前を署名します。そして、へりにギザギザの刻み目をつけたこの青い|封緘紙《ふうかんし》の上にわたしの指をおいて、はっきりとした|口調《くちよう》で――奥さん、おびえることはありませんよ、これはただ、法律の定まった型だけのことなんですからね――自分の証書としてこれを授与す、って申さなければならんのです。エイベル君は、同じく神秘的な言葉をとなえて、べつの封緘紙のとこに自分の名前を書き、それで仕事は終りなんですよ。ハッ、ハッ、ハッ! こうしたことがじつに楽々とおこなわれるのが、これでおわかりでしょう!」
エイベル氏が規定の形式をやっているあいだ、たしかに、短い沈黙がつづき、ついで、握手と小きざみのすり足がまたはじまり、その後しばらくして、ぶどう酒の杯のふれ合う音、全員の大きなしゃべり声が聞えてきた。十五分ほどすると、チャクスター氏が(ペンを耳にはさみ、ぶどう酒で顔を赤くして)戸口にあらわれ、恩着せがましくなれなれしい態度で、キットを「若いえせ紳士君」というふざけまじりの称号で呼び、お客さまたちがいま出てくることを知らせた。
すぐに、みなは出てきた。背が低く、ポチャポチャと太り、キビキビとして、堂々たるウィザーデン氏は、じつに慇懃な態度で老夫人を案内し、父親と息子は、腕を組んでそのあとにつづいた。なにか奇妙な旧式さを身につけているエイベル氏は、父親とほとんど同年輩にみえ、顔と姿は驚くほど父親そっくり、ただ、父親のまる味をおびたあふれんばかりの陽気さで多少欠けるところがあり、そのかわりに、小心そうな遠慮ぶりをあらわしていた。そのほかのすべての点、小ぎれいな服装、いや、えび[#「えび」に傍点]足の点でさえ、彼と老紳士はまさに瓜ふたつだった。
老夫人をその座席にしっかりとおさめ、夫人の装具の必要欠くべからざるものになっている外套と小さな籠をきちんとととのえる手助けをして、エイベル氏は明らかに彼のためにつくられたうしろの小さな席に乗りこみ、自分の母親からはじまって最後には小馬にいたるまで、そこにいる者全員に順次微笑を投げていた。止め手綱をつけるために小馬の頭を高くさせることで大騒動が起きたが、とうとう手綱もつけ終り、老紳士は座席に坐り、手綱を手にして、キットに与える六ペンスを出そうと、手をポケットにつっこんだ。
ところが、あいにく、彼は六ペンスをもち合さず、老夫人、エイベル氏、公証人、チャクスター氏も同じく、それをもっていなかった。老紳士は一シリングでは多すぎると思ったが、小銭を手に入れようにも街路に店はなく、そこで、その一シリングを少年に与えた。
「さあ」彼は冗談まじりにいった、「来週の月曜日の同じ時刻に、ここにまた来るからね、いいかい、きみはここに来て、お|釣《つ》りの分はそのときの働きでかえしておくれ」
「ありがとうございます、旦那さま」キットはいった。「きっとここに来ます」
彼のほうでは大まじめだったが、そういったことにたいして、一同は陽気に笑い、特にチャクスター氏はすぐに大声でワッワッと笑いだし、この冗談をすごく楽しんでいるようだった。小馬は、これから家に帰るのだと予感を働かせ、あるいは、ほかの場所にはいかないぞと腹をきめて(それは、結局、同じことなのだが)、サッサと速歩でとんでいってしまったので、キットは弁解する余裕もなく、そこをはなれていった。宝物の一シリングで家でいちばんよろこばれると知っている品物を買いこみ、あのすばらしい小鳥のための粒餌も忘れずに買って、自分の成功とすごい幸運でもううきうきして、彼は家路を急いで一目散にとんでゆき、ネルと老人がもう家に来ているかもしれない、とまで考えていた。
15
出発の朝、老人とネルがまだロンドン市内の街路を歩いているとき、澄みきった遠くのところのはっきりとはみえない人影に、正直者のキットの姿をみかけたように思ったとき、子供は希望と恐怖の入りまじった感動で身をふるわせていた。だが、キットと握手をし、最後の出逢いのときに彼がいってくれたことにたいして感謝の言葉は述べたことだったろうが、近づいてみると、こちらにやってきた人物がキットではなく、見ず知らずの人と知ったとき、彼女はホッとしていた。かりに、彼をみて老人の受けるショックを心配していなかったとしても、いまだれにでも、なかんずく、ずっと誠実にしてくれた彼と別れを告げるのは、とても堪えられないこと、と彼女は感じていたからである。ものいわぬもの、自分の愛情と悲しみを感知しないものと別れるだけで、もう十分だった。このおそろしい旅の皮切りのところで、自分のただひとりの友と別れるのは、じっさい、胸のはり裂ける苦しみを彼女の心に与えたことだろう。
現実に別れを告げるより心の中で別れを告げるほうが、どうして楽なのだろう? 別離を実行する勇気をもっているのに、どうしてそれを口にする勇気がないのだろう? ながい航海や長年にわたる不在が起きる前夜、親しい友人たちがふだんと変らぬ顔つき、ふだんと変らぬ握手をして別れ、翌朝最後の別れを告げようと計画しているが、それぞれの友人は、それはただ、最後の別れの言葉を口にする苦痛を味わずにすまそうとするつまらぬみせかけだけのこと、その見送りは絶対にしないことを、ちゃんと心得ているのだ。将来の可能性のほうが、確実な事実より堪えがたいものなのだろうか? われわれは現実に死のうとしている友人たちをさけたりはしない。親愛の情につつまれて別れた人たちのあいだで、ひとりにだけはっきりと別れを告げないでいるのは、ときどき、のこる生涯のあいだ、ほろ苦い思いを味わされるからである。
ロンドンの町は、朝の光の中で、うきうきしていた。夜じゅうズッと醜悪で不信感のたたずまいを示していた場所は、いま、微笑をたたえていた。部屋の窓の上で踊り、陽よけとカーテンをとおして眠っている人の目の前でチラチラするキラキラと輝く太陽の光は、夢の中にまで光を投げ、夜の影を追い払っていた。ピッタリと暗くおおわれた蒸し暑い部屋の中の鳥は、朝が来たのを感じとり、小さな籠の獄舎で落ち着かず、イライラしていた。目を輝かしているねずみ[#「ねずみ」に傍点]は小さな巣にはいもどり、ビクビクしながらからだをすりよせてかたまっていた。つやつやとした家猫はその餌を忘れ、ドアの鍵穴と隙間をとおしてさしこんでくる陽光にまばたきしながら坐り、外で音も立てずに走り、温かくつやつやして日光浴するのを待ち望んでいた。|檻《おり》に閉じこめられたもっと崇高なけだものたちは、|桟《さん》の背後に身じろぎもせずに立ちつくし、そこにむかしの林が微かな光を発している目で、ハタハタと動く枝、小さな窓をとおしてさしこんでくる陽光をジッとみつめ――ついで,捕われの身になった足がすりへらした場所をジリジリして歩み――足をとめてまたジッと目をこらしていた。土牢の中の人たちは窮屈な冷えきった手足をのばし、どんな輝く太陽も温めることのできない石をのろっていた。夜眠っていた花は、やさしい目を開き、それを昼間のほうに向けた。創造物の心となっている光は、どこにもゆきわたり、万物は光の力を認めていた。
ふたりの巡礼は、ときどき、たがいに手をにぎりしめ、微笑や明るい顔をかわし合って、だまったまま、道をズンズンと進んでいった。あたりは輝いて幸福そうになっていたが、ながい人気のない街路にはなにか厳粛なものがあり、そこからは、魂のぬけた肉体のように、いつもの性格と表情は消え去って、すっかり同じな静寂だけがのこされ、その静寂がすべてのものに同じ様相を与えていた。早朝のこの時刻に、すべては静まりかえり、ふたりが出逢ったわずかな青ざめた人たちは、その状景に不似合いのもの、そこここでまだ燃えている光のあせたランプが太陽の光り輝く中で無力で弱々しいものになっているのに似ていた。
ふたりのいる場所と町はずれの場所とのあいだにある迷路のような家屋の中にまだそうはいっていかぬうちに、こうした様相は消滅しはじめ、物音と雑踏がそれにとってかわることになった。ゴロゴロと音を立ててとおっていくダラダラと進む荷馬車と馬車は、最初にこの魔力を破り、ついでほかの車、それについでもっと活動的なほかの車がつづき、最後に群集があらわれた。最初、商人の部屋の窓が開かれているのをみるのが驚きとなっていたが、もう、閉じられた窓をみるのが珍しいことになった。ついで、煙がゆっくりと煙突から立ちのぼり、空気を入れるために|窓枠《まどわく》がサッとあげられ、ドアが開かれた。ものうげに|箒《ほうき》をみずに四方八方をみまわしていた下女たちは、褐色のほこりの雲を|辟易《へきえき》する通行人の目にまき散らしたり、いなかでの|市《いち》のことを語り、陽よけやその他の準備はすっかりととのえ、おまけにいなかのしゃれ者を乗せて、もう一時間もすれば旅に乗りだそうとしているうまやの四輪大型荷馬車のことを話している牛乳配達夫の言葉を、物悲しげに聞き入っていた。
こうした地区をとおりすぎて、ふたりは商業と大きなとりひきがおこなわれている地区にゆき当ったが、そこには多くの人がもうつめかけ、商売が盛んにおこなわれていた。老人は、びっくりしたとまどった凝視で、あたりをながめまわした。こうした場所は、彼のさけてとおりたいところだったからである。彼は唇に指をあてがい、子供を裏小路やまがりくねった道ぞいにつれてゆき、そこから遠くはなれるまで安心できないようすで、ときどきふりかえってそこをながめ、破滅と自殺が街路すべてにひそみ、自分たちのにおいをかぎつけられたら、それにあとをつけられるだろう、早く逃げるにしくはない、とブツブツつぶやいていた。
この地区をまたとおりぬけると、バラバラとつづく家のあるところに来たが、そこでは、小部屋に分割され、窓がぼろや紙きれでつぎはぎされているあばら家が、そこに住むたくさんの貧乏人を物語っていた。店で売っている品物は、貧乏人が買える物だけ、売り手も買い手も、同じようにやつれ苦しんでいた。ここのうらぶれた街は、没落した連中がわずかな場所と破産した財産でか弱い最後の抵抗をしようとしているところだったが、ほかの場所と同じように、収税吏と債権者がここにも集り、弱々しい抵抗をつづけている貧困は、とっくのむかしに屈服して、もうだめとあきらめてしまった貧困と同様に、醜悪さをあらわし、困窮をあからさまにしていた。
ここは、ひろい、ひろい道だった――富裕の陣営の身分いやしい従軍者たちが、そのまわり何マイルにもわたって、幕舎を張っていたからである――だが、その性格は依然として変ってはいなかった。多くは貸し家、多くは建築ちゅう、多くは半分できあがって|朽《く》ちかけている、湿気をおびたくさった家――貸している人、借りにやってくる人、そのどっちをあわれんだらいいのかわからなくなる下宿――とぼしい衣食しか与えられぬ子供たちが街路という街路にひろがり、ほこりの中をはいまわり――キーキーがなり立てる母親はかかとのつぶれた靴をはいた足で舗道を踏みつけ、大声でおどかしをかけ――薄ぎたない父親は、元気のない顔をして、「日々の|糧《かて》」(主祷文にある言葉)しか与えてくれない職場にあわただしくかよい――洗濯の仕上げ女、洗濯婦、靴なおし、仕立て屋、ろうそく屋が居間、台所、裏部屋、天井裏部屋で商売をいとなみ、ときに、そうした連中はみんな同じ屋根の下の住人――|煉瓦《れんが》製造所が古樽の板や焼け落ちた家から盗んできた材木でとりかこんだ庭をつつみこみ、そこを炎で黒くし、火ぶくれだらけにしている――ひどくゴタゴタと積みあげられたすかんぽ[#「すかんぽ」に傍点]、いらくさ[#「いらくさ」に傍点]、下等な草、かき[#「かき」に傍点]の殻の山(その当時貧乏人はかきを多く食べていた)、にこと欠くことはなく、地上のみじめさを教えている小さな非国教派の礼拝所、貧者の一灯を集めて建てられた天への道を示す新しい教会、こうしたものがそこにはあった。
とうとう、こうした街路は、家がまばらになり、数がだんだんと少なくなって、ついには路傍の小さな庭地だけとなり、そこには、ペンキもぬらず、古材やボートの切れ端の材でつくったたくさんのあずまやふうの家があり、それは、そのまわりにつくられている固いキャベツの茎と同じ緑色になり、つぎ目のところで、きのこ[#「きのこ」に傍点]やピタリとすいついているかたつむり[#「かたつむり」に傍点]の装飾がつけられていた。このあとには生意気な感じのする百姓家がつづき、二軒ずつならんで前に土地をもち、それは固いつげ[#「つげ」に傍点]のへりと、あいだにせまい小道をもった四角の花壇で地どりされ、その小道のところは、砂利をよごさないようにと、足の踏んだあとひとつなかった。ついで、居酒屋があらわれたが、それは新しい緑と白のペンキでぬり立てられ、茶店のある庭と|芝生《しばふ》の球戯場づきのもので、かつて四輪大型荷馬車がとめられていたところには馬用のかいばおけをおいて、むかしの近所のお客をそこから追い払っていた。それから畠、ついでポツンポツンと立っている芝生づきのそうとう大きな家があり、その一部には、門番夫婦が住みこんでいる小屋づきの家まであった。ついで、通行税取立門があらわれ、ついでは木と干し草の山のある畠、ついで岡が姿をあらわした。その岡の頂上で旅人は足をとめ、ふりかえって(天気がよければ)煙をとおしてぼんやりとみえる聖ポール大寺院が雲の上でその十字架を陽光にキラキラと輝かせている姿を臨み、それがそびえ立つ混乱のバベル(ノアの洪水後、人びとはバベル、すなわちバビロンに天まで届く塔を建てようとし、神の怒りにふれ、言語が混乱し、塔はついに完成されなかった)に目を転じ、煉瓦としっくいの侵入軍のいちばん遠くの前哨地点をさぐり、その駐屯地が、いまのところ、ほぼ自分の足もとまでのびてきているのを知って――自分はロンドンをはなれた、とようやく感ずることになるだろう。
こうした場所の近くの快い野原で、老人と彼の小さな案内人(もしどこにゆくのかも知らないでいる彼女が案内人だったらの話だが)は、腰をおろして休息した。彼女は用心深く自分の籠にいくつかのパンきれと肉を入れてあり、ここでふたりはつつましい朝食をとった。
その日の新鮮さ、鳥の歌声、波打つ草の美しさ、深い緑の木の葉、野生の花、大気にただよい流れる数えきれぬほどのよい香りと物音――たいていの者には深いよろこびだが、群集の中で生活をいとなみ、あるいは、人間の井戸のバケツの中にいるように、大きな都市で孤独な生活をしている人間には、特にそうなのだ――は、彼らの胸にしみこんでゆき、ふたりをとてもよろこばした。子供は、その朝、おそらく生れてこの方かつてないほど熱心にあどけない祈りを献げたのだったが、こうしたすべてのよろこびを感じたとき、その祈りの言葉がふたたび彼女の口にのぼってきた。老人は帽子をぬぎ――彼は祈りの言葉を憶えていなかった――アーメンといい、とてもいいお祈りだったといった。
家の棚の上に、奇妙な木版画づきの『天路歴程』(イギリスの説教師ジョン・バニヤン(一六二八―八八)が一六七八年に書いた話)の古い本があり、彼女は、ときどき、夕方ずっとそれに読みふけり、そこの言葉がすべてほんとうのことか? 奇妙な名前のあるそうした遠くの国はどこにあるのだろう? と考えていた。自分たちがいま出てきた場所をふりかえってみたとき、その本の一部が彼女の心に強く浮んできた。
「おじいちゃん」彼女はいった、「もしあの本に書いてある場所がそのとおりだとすれば、ここはそこよりもっと美しく、ずっとずっといい場所なわけね。その点をべつにしたら、わたしたちふたりがクリスチャン(『天路歴程』に出てくる人物)になり、わたしたちのもってきた心配と苦しみをみんな草の上におろし、それをもう二度ととりあげることがないような感じがすることよ」
「そうだ――絶対にもどらない――絶対にもどらないぞ」――町のほうに手をふりながら、老人は答えた。「お前とわしは、いま、町から解放されたのだ、ネル。やつらにつれもどされたりはするものか」
「つかれたこと?」子供はいった、「大丈夫、このながい歩きで気分がわるくはないこと?」
「もうあの土地をはなれたんだ。気分がわるくなるなんていうことは、絶対にないよ」が答えだった。「さあ、歩きはじめよう、ネル。もっと――もっとずーっとずーっと遠くにいかねばならないのだ。まだ近すぎるのだから、とまったり休んだりはしていられない。さあ!」
野原にきれいな水をたたえた池があり、そこで子供は手と足を洗い、また歩きだす準備にと足を冷やした。彼女は老人も同じように元気づけてやりたいと思い、草の上に坐らせて、手で彼の手足に水をかけ、彼女の質素な服でそれをふきとってやった。
「わしは自分でなにもできんのだよ、お前」おじいさんはいった。「どうしてそうなったのか、わからん。前にはできたんだが、そうした時代は、もう去ってしまった。わしをすてないでおくれ、ネル。すてないといっておくれ。ずーっといままで、お前を愛してきた、ほんとうにそうなんだ。お前まで失ってしまったら、お前、わしは死ななければならなくなるよ!」
彼は、頭を彼女の肩の上に乗せ、悲しげにうめいた。この子供が涙をおさえられず、老人といっしょに泣いてしまったにちがいない時代もあった。ほんの何日か前だったら、そうなったことだろう。だがいま、彼女は老人をやさしいいたわりの言葉でなぐさめ、ふたりが別れられると老人が思っているのを耳にしてニッコリとし、その冗談で彼を陽気に元気づけてやった。老人はすぐ心が静まり、小さな子供のように、低い声で歌を歌って、眠りこんでしまった。
彼は元気を回復して目をさまし、ふたりは旅をつづけた。道路は、美しい牧場と小麦の畠にはさまれて、気持ちよく、そのあたりでは、ひばりが澄んだ青空に高くとび立って、幸福な歌をさえずっていた。空気は吹きとおってきながら集めてきた芳香に満され、蜜蜂は香りのよい風に乗ってただよい流れながら、眠たげに満足の歌声を低くブンブンとうなっていた。
ふたりは、もう、開けた田園につつまれていた。家はとてもまばらになり、ながい間をおき、ときに何マイルもはなれて、まき散らされていた。ときおり、貧乏な百姓家の部落があり、開けたドアのところに椅子をおいたり板を低く張ったりして、はいまわる子供たちを道に出すまいとしている家、一家全員が|野良《のら》仕事をしているあいだ、ピタリと閉めきっている家があった。こうした家は、ときどき、小さな村の入り口を示し、しばらくすると、車大工の小屋か|鍛冶《かじ》屋の工場らしいものがあらわれ、ついで、金持ちの農家が姿をみせ、そこでは、囲い地で乳牛が眠そうに横になり、馬が低い壁越しに外をながめ、馬具をつけた馬が道をとおっていくと、自分の自由な身分を勝ちほこっているように、大急ぎでとび去っていった。鈍感な豚もいて、おいしい食料を求めて地面をひっくりかえし、えさを求めてうろつきまわり、それをしながら仲間とぶつかると、単調なうなり声をブーブーと立てていた。ムクムクと太った|鳩《はと》は、屋根のまわりをかすめてとんだり、|軒《のき》の上を気どって歩いたりしていた。あひる[#「あひる」に傍点]とがちょう[#「がちょう」に傍点]は、自分たちはもっとお上品だとおさまりかえって、池のへりを不細工な格好をしてヨタヨタと歩いたり、水面をスイスイと泳ぎまわったりしていた。農家のまわりの囲い地をとおりすぎると、小さな宿屋、粗末なビール店、村の商人の店がつづき、つづいて弁護士の家と牧師さんの家があらわれたが、牧師のおそろしい名前を聞くと、ビール店ではふるえあがっていた。ついで、木の茂みの中から教会がつつましやかに顔をのぞかせ、さらに、何軒かわずかの百姓家がつづいた。それから、獄舎と迷子のけものを入れる|檻《おり》、よくみかけられるものだったが、路傍の土堤の上に、ほこりにまみれた深い古井戸があった。そこを出ると、両側にきれいに|生垣《いきがき》をつけられた畠、そしてふたたび、開けた道路になった。
ふたりは終日歩き、寝台を旅人に貸してくれる小さな百姓家で、その夜は眠った。つぎの朝にはまた旅をつづけ、最初ぐったりとしてつかれてはいたが、間もなく元気をとりもどし、キビキビした歩調で歩みつづけていった。
ときに足をとめて休むことはあったが、それは短い時間だけのこと、朝以来ほとんど食べ物をとらずに、ズンズンと歩きつづけた。もう午後五時近くになり、労務者の小屋のある部落に近づいていったとき、子供は心配そうにそれぞれの家をのぞきこみ、どの家でしばらく休ませてもらって、牛乳を買おうかととまどっていた。
これは、すぐにきめられることではなかった。彼女は小心で、断られるのがおそろしかったからである。ここに泣いている子供がいるかと思うと、あちらにはわめき散らしている女房がいた。こちらの家の人たちは貧乏すぎるようにみえ、あちらの家の人たちは多すぎるようだった。とうとう彼女はある一軒の家の前で足をとめたが、そこでは一家の人たちがテーブルをかこんで坐っていた――彼女がそこで足をとめたのは、老人が炉のわきのクッションづきの椅子に坐り、この人物がこの家のおじいさん、自分のおじいさんにも同情してくれるだろう、と考えたためだった。
この老人のほかに、作男、その妻、褐色に陽焼けした三人のまだ齢のいかぬたくましい子供がいた。たのみの言葉を語るとすぐ、それは許された。乳をとりに長男は走ってゆき、次男は戸口にふたつの背なしの腰かけを運び、いちばん下の子供は母親のガウンのところにはっていって、陽焼けした手をかざして、老人とネルをながめていた。
「やあ、|今日《こんにち》は、旦那さん」笛のような力のない声で老人の作男はいった。「遠くまで旅に出るんですかね」
「ええ、ずっと遠くまでね」――子供は答えた。老人が返事を彼女にしてくれとたのんだからだった。
「ロンドンからですかね?」相手の老人はたずねた。
子供は、そうだ、と答えた。
ああ、自分は何回もロンドンにいったことがある――四輪大型荷馬車で、かつては、そこにゆきつけていたもんだ。この前そこにいってから、もう三十二年近くにもなる。話では、ロンドンもずいぶんと変ったそうだが、たしかに考えられること! そのとき以来、こういう自分も、変っているんだから。三十二年といえばながい期間、八十四歳は高い齢、なるほど、たしかに、知ってる者で百ちかくの齢になってる人もいるんだが――でも、その男は自分ほど達者ではなく――そう、ぜんぜんちがうんだ――と老人はいった。
「さあ、旦那さん、この肘かけ椅子に坐んなさい」ステッキで煉瓦の床を打ち、それも鋭く打とうとしながら、老人は語りつづけた。「あの箱からかぎタバコをひとつつまんだらどうです? わたし自身はそうやってはいませんがね。なにしろ高くつくんで。だけど、ときどき、それをやると、頭がはっきりしてね。それに、このわしにくらべたら、そちらはまだ子供みたいなもんですからな。せがれがひとりいたんですが、生きてたら、あんたぐらいの齢になってるでしょうよ。だが、兵隊にとられちまったんです――でも、帰ってはきましたよ、一本脚にはなりましたけどね。赤ん坊のころいつもよじのぼってた日時計のそばに埋めてくれっていってましたが、まったく、そうだったんです。そして、その言葉どおりのことになりましたよ――その場所は、あんた自身の目でみることができますさ。その後ずっと、|墓守《はかも》りはつづけてますよ」
彼は頭をふり、涙を流しながら自分の娘をみやり、心配することはない、その話はもうこれ以上はしないから、と伝えた。自分はだれも苦しめたりはしたくない、自分の言葉でだれかを苦しめたとしたら、許しを|乞《こ》うだけだ、と彼はいった。
牛乳が運ばれ、子供は小さな籠をひきだし、おじいさんにいちばんいいところをとってやって、ふたりは食事を十分にとった。その部屋の家具は、もちろん、質素なものだった――荒っぽいわずかの椅子とテーブルひとつ、わずかの陶器とデルフト焼き(オランダ製の濃厚な、主に青を中心にした彩色の陶器)をおさめた隅の食器棚、明るい赤の服を着た婦人がとても青いパラソルをさして出ていく絵柄のケバケバしい灰皿、壁と炉の上の枠に入れられた俗っぽいわずかの彩色の聖書の絵、小人のような衣装戸棚、八日巻きの時計、みがきあげたわずかのシチューなべ、それにやかんひとつが、家財のすべてだった。だが、すべてきれいで小ざっぱりとし、あたりをチラリとみまわしたとき、子供は、もうながいことなじんでいない快適さと満足感の物静かな雰囲気を感じとった。
「どこかの町か村まで、どれくらいありますか?」彼女はそこの家の主人にたずねた。
「五マイルたっぷりというとこかな」と相手は答えた、「でも、今晩出発するわけじゃないんでしょうね?」
「いや、いや、ネル」彼女にも合図を送って、老人は急きこんでいった。「もっと遠く、もっと遠く、お前、真夜中まで歩いたら、もっとはなれたとこまでいけるんだよ」
「近くにりっぱな|納屋《なや》がありますよ」この男はいった、「さもなけりゃ、『すきとまぐわ屋』という宿屋もありますよ。失礼ですが、あんたはちょっとおつかれのよう、先をべつに急ぐのでなかったら――」
「いや、いや、急いでるんです」イライラして老人は答えた。「もっと遠く、ネル、もっと遠くにいくんだよ」
「ほんとうに、どんどんいかなければならないのです」老人のジリジリとした希望に屈して、子供はいった。「ほんとうにありがとうございました。でも、そんなにすぐ足をとめるわけにはいかないのです。もう用意はできていますよ、おじいちゃん」
だが、この家の女主人は、ネルの歩きぶりから、かわいい一方の足がまめでひどく痛んでいるのに気づいていたので、女性であり母親でもある身、その傷口を洗い、なにか簡単な薬をつけてやるまで、彼女を旅立たせる気にはなれず、その結果、注意深くやさしい手で――その手は仕事で荒れた肌になり、固くはなっていたが――それをしてやり、ネルの心はそれでもういっぱいになって、熱をこめた「ありがとう!」以外の言葉は口に出せなくなり、この小屋から少しはなれたところに来るまで、ふりかえったり、口をきいたりする勇気が出ないほどになっていた。頭をまわしてみると、年寄りのおじいさんまで家族全員が道路に立って、去っていく自分たちをながめている姿が彼女の目に映り、手を何回かふり、明るいうなずきをかわし、少なくとも一方では涙を浮べて、別れを告げたのだった。
もう一マイルかそこいら、ふたりは、前よりもっとゆっくり、苦しみを味いながら、トボトボと進んでいった。そのとき、うしろに車の音が聞え、ふりかえってみると、空車がかなり早い速度で近づいてくるのがわかった。御者は、ふたりに追いつくと馬をとめ、ネルをしっかりとみつめていた。
「お前さん、あの向うの小屋に休んだ人かね?」彼はたずねた。
「そうです」子供は答えた。
「ああ! お前さんをさがすようにとたのまれててね」男はいった。「こちらも同じ道をいくんだ。お前さんは手をかして――旦那さんはとび乗んなさい」
これは、ほんとうに助かることだった。ふたりの疲労はひどく、もうはっても進めないくらいになっていたからである。彼らにとって、ガタガタとゆれる荷馬車は|贅沢《ぜいたく》な自家用の馬車、このひと乗りは、この世で最高に楽しいものだった。片隅の|藁《わら》をちょっと積みかさねたところに身をおくとすぐ、ネルは、その日はじめて、ぐっすりと眠りこんでしまった。
馬車がとまったとき、彼女は目をさましたが、この馬車は小道にまがりこもうとしていた。御者は、親切に車からおり、彼女が車からおりるのを助けてくれ、すぐ前にある木立ちをさして、町はそこにあり、教会の墓地の中をとおっているのがみえる小道を進んでいったらいい、と教えてくれた。そこでふたりは、つかれた歩みをそこに向けて、進んでいった。
16
ふたりが小道のはじまる小さな木戸口に着いたとき、太陽は沈みかけ、正しい者にも不正な者にも同じように降りつける雨(マタイ伝五・四五からの引用)は、死者のいこいの場にもその温かい色合いをそそぎ、翌日の雨のあがりを強く期待するように命じていた。教会は古くて灰色、つた[#「つた」に傍点]がそこの壁と玄関にまといついていた。つた[#「つた」に傍点]は墓をさけ、身分のいやしい貧乏人たちがその下に眠っている小さな山のまわりをはい、そうした人たちがはじめて獲得した花環を彼らのためにつくりだしていたが、その花環は、多年のあいだ静かにかくされ、とうとう遺言執行人と悲しみに打たれている遺産受取人にだけ示されることになった美徳を堂々とした言葉で石や大理石に深く刻みつけた墓よりもっと損傷を受けず、それなりにもっとはるかにながくつづく花環だった。
牧師の馬は、鈍い音を立てて墓のあいだでけつまずきながら、草を|食《は》み、死んだ教区民から正当ななぐさめをもらうと同時に、これが万人の到達するところ(イザヤ書四〇・六の「人はみな草なり、その栄華はすべて野の花のごとし」より。ヨブ記三四・一五も考えられる)というこの前の日曜日の説教の聖句を否応なく説教していた。資格もなく聖職にもつけられないで、この聖句を説教しようとしていた痩せたろば[#「ろば」に傍点]は、そのすぐそばの草の生えていない囲い地で耳を立て、飢えた目をして隣人の僧侶の馬をながめていた。
老人と子供は、小石をしいた道をさけ、墓のあいだをさすらい歩いていった。そこでは地面がやわらかく、つかれた足には歩きやすかったからだった。教会のうしろをとおっていったとき、すぐ近くに人声が聞え、やがて話している人たちのところにやってきた。
それはゆったりとした姿勢で草の上に坐っていたふたりの男で、仕事をせっせとしていたので、ふたりの|闖入者《ちんにゆうしや》には、最初、気づかないでいた。この男たちが旅の見世物師――パンチの気まぐれ(イギリスでアン女王(一六六五―一七一四)のころ、イタリアから伝えられた人気のあった人形芝居『パンチとジューディ』の主人公)の演出者だと見当つけるのは、べつにむずかしいことではなかった。というのも、彼らの背後の墓石の上であぐらをかいて、いつものとおり鼻と顎が|鉤《かぎ》型になり、顔が輝いている例の主人公自身の姿がみえたからである。パンチの落ち着き払った性格がこれほどはっきりと示されたことは、たぶん、ないことだったろう。彼のからだは、じつに気分のよくない姿勢でダラリとさがり、すっかりゆるんで、グニャグニャ、不格好なものになり、一方、彼のながいとんがり帽はひどく細い脚のほうに倒れかかって、彼はいまにもまっさかさまに落ちこみそうになっていた。
一部はふたりの男の足もとにまき散らされ、一部はながい平たい箱の中にゴタゴタとつめこまれて、この芝居のほかの登場人物がいた。主人公の妻とひとりの子供、馬、医者、英語を知らないので、上演で自分の考えをいいあらわそうにも「シャラバラー」と三回はっきりというしか方法のない外国の紳士、ブリキ製の鐘がオルガンだとは絶対に認めようとしない急進的な隣人、処刑人、悪魔がみなそろっていた。その持ち主がこの場所にやってきたのは、たしかに、舞台装置の必要な修理のためだった。ひとりの男は糸で小さな絞首台をしっかりしばりつけようとし、のこりの男は頭がつるっ|禿《ぱげ》になってしまった急進的な隣人の頭に、小さな|金槌《かなづち》と|鋲《びよう》を使って、新しい黒いかつらを一生けんめいになってつけようとしていた。
老人とその齢いかぬ伴侶が近づいていったとき、彼らは目をあげ、仕事の手を休めて、好奇に燃えた目をかえした。そのひとり、たしかに上演者になっている男は、キラキラと輝く目をし、赤い鼻をした陽気な顔の小男で、この男は、舞台に登場の中心人物パンチの性格を多少無意識に吸収していたようだった。もうひとりの男――というのは、金を受けとる男なのだが――はそうとう注意深く慎重なようすをしていたが、これもまた、たぶん、自分の任務とピタリのものだったのだろう。
陽気な男のほうが、最初に、見知らぬふたりにうなずいて挨拶をした。そして、老人の目を追って、舞台外のパンチの姿をみたのは、これがはじめてのことなんだろう、といった。(パンチは、帽子の先で、じつに堂々たる墓碑銘をさし、腹の底からそれをクスクスと笑っているようだった、とここで申しあげておいてもいいだろう。)
「こんなことをしに、どうしてここに来たんだね?」彼らのわきに坐り、とても楽しそうに人形の姿をながめながら、老人はたずねた。
「いやあ、いいですかね」小男はいった、「今晩は向うの居酒屋で興行をするんでね、修理してる役者たちをみせるわけにはいかんもんでね」
「いかんだって!」聞くようにとネルに合図をして、老人は叫んだ、「どうしていかんのだ、えっ? どうしていかんのだ?」
「幻想のぶちこわしになり、おもしろくなくなっちゃうからね、そうじゃないですかね?」小男は答えた。「かつらをぬいだ大法官を個人的に知ってたら、大法官なんて問題にするかね? ――たしかに、問題なんかにするもんか」
「そのとおり!」思い切って人形のひとつにさわり、キーキーと笑って手をひっこめながら、老人はいった。「今晩、芝居をみせるのかね、えっ?」
「そうするつもりなんだがね、旦那」相手は答えた、「そして、こちらがたいした勘ちがいをしてるんじゃなかったら、トミー・コドリンは、いま、旦那に来られてこちらが受けた損害を計算してるこってしょうよ。元気を出すんだ、トミー、たいした損害じゃないんだからな」
小男は目をパチパチさせてこのあとの言葉をいっていたが、この目くばせは、いま会った旅行者の|懐《ふところ》具合いにたいする彼の評価をあらわしているものだった。
これにたいして、ムッとして不平を鳴らしているような態度のコドリン氏は、墓石からパンチをサッとさらい、それを箱の中に投げこみながら、いった。
「びた一文だってなくさなけりゃ、こっちは構いはせんよ。だが、お前さんは気前がよすぎるぜ。もし幕の前に立って、おれのようにお客さんの|面《つら》をみてたら、もっと人間とはどんなもんかがわかるだろうがね」
「ああ! それがお前をだめにしてるんだ、トミー、そっちのことばっかし考えてることがね」相棒は答えた。「まともな|市《いち》でする芝居でお前が亡霊役を演じてたとき、お前はすべてのことを信じてたんだ――亡霊はべつにしてね。ところが、いまは、なんでもかんでも疑ってばかしいる。こんなに変っちまった人間なんて、おれは[#「おれは」に傍点]みたこともないね」
「構いはせんとも」不平満々たる哲学者といったふうに、コドリン氏はいった。「おれは前ほどバカじゃないんだ。そして、たぶん、前のことを|悔《く》いてるんだろうよ」
箱の中の人形を、それを知り軽蔑している人のように、手荒くひっくりかえして、コドリン氏はそのひとつをひっぱりだし、友人がみるようにと、それを高々とかかげた。
「いいかね。ほうれ、ジューディの衣装はまたボロボロになっちまった。針と糸はもってないんだろうな?」
小男は頭をふり、この重要な演技者の痛ましい荒廃ぶりをながめながら、物悲しげに頭をひっかいた。ふたりが途方に暮れているのをみて、子供はオズオズといった。
「籠の中に針と糸がありますよ。それをわたしがなおしてみましょうか? わたしのほうが、もっときれいに仕上げることができると思うのですが……」
|時宜《じぎ》を得たこの提案に、コドリン氏でさえ、なんの異議もとなえられなかった。ネリーは箱のそばにひざまずいて、すぐ、せっせとその仕事にとりかかり、すばらしいふうにそれを仕上げていった。
彼女がこうして仕事をしているあいだ、陽気な小男は興味深げに彼女の姿をながめていたが、彼女のたよりない伴侶のほうにチラリと目を投げても、その関心が減ったようにはみえなかった。仕事が終ったとき、彼は彼女に感謝し、どこに旅行しているんだ? とたずねた。
「今晩は、もう終りと思います」自分の祖父のほうをながめて、子供はいった。
「泊り場所がほしいんだったら」男はいった、「おれたちといっしょの宿に泊ったらいいと思うな。あれだ。あそこのながくつづいた、低い、白い家だよ。とっても安いぜ」
老人は、そのつかれにもかかわらず、この新しい知人がこの墓地にいるのだったら、終夜そこにいたことだったろう。この提案にたいして彼はすぐに|有頂天《うちようてん》になって賛成したので、みんなは立ちあがり、一団になってそこを去り、老人は、すっかり心をうばわれている人形の箱のそばにピタリとつき、陽気な小男は、携帯用にとそれにつけてある革ひもでそれを腕につっかけて運び、ネリーは、自分のおじいさんの手をつかみ、コドリン氏は、うしろでゆっくりブラブラと歩き、町の中の商売で、この見世物をする手ごろな場所をさがしているとき、応接間や子供部屋の窓にいつも投げているあの顔つきを、教会の塔や近くの木立ちに投げていた。
居酒屋は、太った老人の宿屋の主人とそのおかみが経営して、新しい客を入れるのに文句はなく、ネリーの美貌をほめたたえ、すぐに彼女を好きになった。台所にはふたりの見世物師以外に客はなく、子供は、こうしたよい宿にゆき当ったのをとてもよろこんでいた。ふたりがはるばるロンドンからやってきたのを知って、宿屋のおかみは、ひどくびっくりし、その行く先について少なからぬ好奇心を燃え立たせているようだった。子供はこのおかみの質問をできるだけうまく受け流し、それは、たいして骨の折れることではなかった。そうした質問が子供を苦しめているらしいと知って、老人のおかみは、質問をやめてしまったからである。
「あのふたりのお客さんは、一時間したら夕食をたのむ、といってましたよ」ネルを酒売り台のほうにつれていって、おかみはいった。「あの人たちといっしょに食べたほうがいいことよ。そのあいだに、あんたに元気をつけるなにかを、ちょっと食べさせてあげますよ。きょう一日の苦労のあとで、きっとそうしたものをほしいんでしょうからね。さあ、あのおじいさんのことは心配しなくともいいことよ。これをあんたが飲んでから、あの人にも飲ませてあげるんですからね」
しかし、子供がどうしても老人を放りだしにしておこうとはせず、老人に最初にたくさん飲み食べさせなければ、なににも手をふれようとはしなかったので、おかみは、まず最初に、老人に飲ませてやらなければならなくなった。こうしてふたりが飲み物を飲んだとき、家じゅうの者はみな、見世物のおこなわれる|空《から》になったうまやのほうにとんでいったが、そこでは、天井からひもでつりさげた輪のまわりにつけたわずかのユラユラと燃えるろうそくの光で、見世物がすぐ開かれることになっていた。
さて、人間ぎらいのトマス・コドリン氏は、パンの笛(長短の管を長さの順にならべ、平らにたばねた原始的な吹奏楽器)を吹いてすっかりみじめな気分になってから、人形を動かす人間をすっかりかくしてしまう市松模様の掛け布の片側に場所をとり、両手をポケットにつっこんで立ち、パンチの質問と言葉に応答し、そのいちばん親しい友人であり、どこまでも徹底的にパンチを信じこみ、その殿堂で、日夜、陽気で輝かしい日暮しをし、いついかなるときにも、いかなる状況のもとにあっても、パンチが、観客がいまみているのと同じ利口でよろこびにあふれた人物であるのを知っている陰気なみせかけをする準備がすっかりととのった。以上のすべてのことを、コドリン氏は最悪の事態は覚悟し、もうあきらめきっているといった人のような態度でおこない、最高の機知縦横ぶりを発揮している当意即妙の応答をしながら、目をゆっくりとあたりに動かし、観客、特に宿屋の主人とおかみにたいする効果を観察していた。というのも、宿屋の主人とおかみにたいする効果は、夕食につながる重大な結果を生みだすことにもなったからだった。
この点については、しかしながら、なんの心配をする必要もなかった。上演すべては高らかな|喝采《かつさい》を受け、観客全員のよろこびをもっと強く証明している気前のよさで、金が|雨霰《あめあられ》とふりそそがれたからである。笑いの中でいちばん|頻々《ひんぴん》と声高に立てられている笑いは、老人の笑いだった。ネルの笑い声は聞えなかった。あわれな子供のネルは、おじいさんの肩に頭をよせかけて、ぐっすりと眠りこみ、その眠りは深く、おじいさんが彼女を起し、自分のよろこびを味わせようとしても、むだな努力に終ってしまった。
夕食はとてもおいしいものだったが、彼女はつかれて食べられず、しかも、おじいさんの床でキスをするまで、おじいさんのところをはなれようとはしなかった。幸福にもすべての不安と心配には気づかないで、老人は坐り、うつろな微笑を浮べ、驚嘆に打たれた顔をして、新しく知り合った友人たちの話すことすべてに聞き入り、相手があくびをしながら部屋にひきあげていってから、ようやく子供のあとについて二階にあがっていった。
彼らのやすみ部屋はふたつの部屋にわけた屋根裏だったが、彼らは十分に満足し、これ以上りっぱな部屋を望んではいなかった。横になったとき、老人は不安感に襲われ、いままで幾晩となくしてきたように、自分の寝台のわきに坐ってくれ、とネルにたのみこんだ。ネルは急いで彼のところにゆき、彼が眠るまで、そこに坐っていた。
彼女の部屋に小さな窓があったが、それは壁の割れ目といった小さな窓だった。寝入った老人のところをはなれると、彼女はその窓を開き、あたりの静かさに驚いていた。月光につつまれた教会とそのまわりの墓地、サヤサヤとささやく音を立てている黒々とした木立ちは、前よりもっと彼女を物思いにさそいこんだ。彼女は窓を閉め、寝台に坐って、これから先々のことを考えた。
彼女は、わずかの金をもっていたが、それはわずかなもの、それがなくなったら、ふたりは|物乞《ものご》いをしなければならなかった。その金の中には金貨が一枚あり、|切羽《せつぱ》つまったときになれば、それが百倍もの値打ちを発揮することも考えられた。この金貨はかくしておき、事情がどうにもならずほかに方法がなくなるまでは、それを絶対に出さないほうがいいだろう。
こう決心して、彼女はこの金貨を服に縫いこみ、前より心が軽くなって寝台にゆき、深い眠りに沈みこんでいった。
17
つぎの輝く陽が小さな開き窓をとおしてさしこみ、子供の同じように輝くつぶらな目をさそって、彼女を眠りからさまさせた。奇妙な部屋とそこのみなれない物をみて、彼女はびっくりしてとびおき、きのうの夜眠りこんだと思っていたあのなつかしい部屋から、どうして、どこに移されたのだろう? と考えていた。だが、もう一度部屋をみまわすと、きのう起きたことすべてが思い出され、彼女は、期待と信頼感にあふれて、床からとびだした。
朝はまだ早く、老人は眠っていたので、彼女は教会の墓地まで歩いていった。そこで、ながい草にとまる露を足で払いのけ、ときどき道からはなれて草がほかよりながくなっているところに足を踏み入れたが、これは、墓を踏まないようにという彼女の心づかいからだった。こうした死者の家のあいだをさまよってると、奇妙なよろこびが湧き起り、善良な人びとの墓(そこにはたくさんの善良な人びとが埋葬されていた)の墓碑銘を、つぎからつぎへとだんだん興味をつのらせて、読み進んでいった。
そこは、そうした場所が当然そうであるように、とても静かな場所だったが、巣を高い老木の枝の中につくっているみやまがらす[#「みやまがらす」に傍点]だけが、カアカアと鳴き、高い空でたがいに呼び合っていた。最初、一羽のすべすべした鳥が風の中でゆれ動きながらその粗末な巣の近くをさまよってとび、まったく偶然といったふうに、しゃがれ声の叫びをあげ、それは、ひとり言をいっているような地味な調子のものだった。べつの鳥がそれに答え、前の鳥が呼びかけをかさねたが、それは前より大きな声だった。ついで、ほかの鳥が語り、またべつの鳥がそれにつづいた。そして、毎回ごとに、第一の鳥が、異議を立てられたのに憤慨して、前より強く自分の立場を主張した。そのときまでだまりこんでいたほかの声が、低いところ、高いところ、中途のところの枝、左右の枝、木末のところから、口をつっこみ、ほかの鳥も、灰色の教会の尖塔や古い鐘つき堂の窓から急いでとんできて、このさわぎに加わり、それは、高くなり低くなり、ふくらんだかと思うとまた落ちこみ、さらにつぎからつぎへとつづいていった。そして、このさわがしい争いは、枝にすれすれに左右にとびかい、新しい枝にとまり、ときどき場所を変えておこなわれていたが、それは、下の|苔《こけ》と芝生の下でじつに静かに横たわっている人たちの生前のあの落ち着きなさ、彼らが命をすりへらしていったあの争いに皮肉を投げかけるものになっていた。
こうした物音がふりそそがれてくる木のほうにときどき目をあげ、そうしたさわぎがこの場所を静寂よりもっと静かにしているように感じながら、子供は墓から墓へとさまよい、青々とした|土饅頭《どまんじゆう》の形をくずれさせまいとそこから|生《お》いでている|野薔薇《のばら》を注意深い手でおこしなおしてやろうと足をとめたり、格子窓から教会の中をのぞきこんだりしていた。教会の内部には、机の上に虫に食われた本、座席の側面からくずれて落ちかけ、裸の材をあらわしている|褪《あ》せた緑のベーズ(けば立てをした緑や赤の単色の紡毛織物)などがあった。また、貧乏な老人たちが坐る座席はすりへらされ、老人たちと同じように、黄ばんでいた。子供たちの名がつけられる古くてゴツゴツした洗礼盤、その子供たちが大きくなってからひざまずくつつましやかな祭壇、彼らがこのひんやりとする暗い古い教会に最後のおとずれをしたとき、その死んだからだの重みをささえてくれたうま[#「うま」に傍点]があった。すべてのものが、長期にわたる使用と静かで緩慢な衰退を物語り、玄関の鐘のひもそのものまで、すりきれほぐれて、ふさへり飾りのようになり、老齢で白っぽくなっていた。
彼女は、いま、粗末な墓石をながめていたが、それは、五十五年前に死亡した二十三歳の青年の墓だった。そのとき、近づいてくるよろめく足音が聞え、ふりかえってみると、歳月の重みで腰がまがった弱々しい女がそこに立っていた。その女はいまネルがみていた同じ墓のもとによろめきながら近づき、石にきざんだ文字を読んでくれ、とネルにたのんだ。それを読んでやると、このお婆さんは彼女に感謝し、自分はそこの言葉をながいながい年月のあいだ暗記していたのだが、いまはもう文字がみえない、と話した。
「あなたはお母さんだったのですか?」子供はたずねた。
「妻ですよ」
このお婆さんが二十三歳の青年の妻だなんて! ああ、そのとおり! 五十五年前に起きたことだったのだ。
「わたしがこんなことをいって、あんたはびっくりしているんだね」頭をふりながら、お婆さんはいった。「あんたではじまる話じゃないんだよ。あんたより齢上の人たちだって、いままでも、同じことにびっくりしてきたんだからね。そう、わたしは妻でしたよ。生きてると変るけど、死ねばそんなに変りはしないんだからね」
「ときどきここに来るのですか?」子供はたずねた。
「夏時には、よくここに坐ってるよ」彼女は答えた。「前にはいつもここにやってきて泣き悲しんだもんだがね、それも、ほんとうに、うんざりするほど遠いむかしのことさ!」
「ひなぎく[#「ひなぎく」に傍点]が出てくると、それを|摘《つ》み、家にもって帰ってるよ」ちょっとだまっていたあとで、お婆さんはいった。「この花がどの花よりも好きでね、この五十五年間、そうだったんだよ。ずいぶんながい年月、わたしはもうひどい年寄りになってるんだね!」
相手は子供だったけれど、その聞き手には耳新しい話をベラベラとしゃべりはじめて、このことが起きたとき、自分がどんなに泣き、悲しみ、死をねがったか、愛情と悲しみの情でたかぶっている若い女として、この場所にはじめて来たとき、自分の心臓がはりさけそうになっていたが、それがじっさいに起きるようにとどんなに祈ったかを語った。だが、そうした時は過去のものになり、ここに来ると依然として物悲しくはなるものの、ここに来るのに堪えられるようになり、それがつづくと、ついには苦痛を感じなくなって、厳粛なよろこび、好きになってきたおつとめになったのだった。そして五十五年がすぎたいま、彼女は死んだ男のことを、その若さにたいする憐憫といったものをこめて、彼がまるで息子か孫のように、話していた。この憐憫の情は、彼女自身の老齢から発したもので、そこには、自分自身の弱さと老衰にくらべての彼の力強さ、男らしい美を礼賛する気持ちもこめられていた。だが、彼女は、彼を夫としても語り、いまの自分ではなく、過去の若い自分を彼と結びつけて考え、彼の死がまるできのうのできごとのよう、以前の自分とひきはなされた彼女が、彼といっしょに死んでしまったように思えるあの美しい娘の幸福を考えているように、あの世でのふたりの出逢いを語っていた。
子供は墓に生えている花を摘んでいるお婆さんと別れ、考えこんでもどっていった。
老人は、このときまでにもう起き、服を着けていた。この世の無情な現実をツラツラとながめるようにまだ運命づけられていたコドリン氏は、前の晩の上演で燃えあましになったろうそくの端を布にくるんでいた。一方、彼の仲間は、うまごやのそばの囲い地に集ったブラブラしている連中から賞賛の言葉を受けていた。そうした連中にしてみれば、彼の存在をパンチの黒幕から分離できず、重要性の点ではあの陽気な無法者につぐ存在と考え、パンチとほとんど同じ愛情が、この男にも寄せられていたのだった。自分の人気を十分に認識したあとで、彼は朝食をしに部屋にはいってきたが、そこで全員顔をそろえて座につくことになった。
「きょうはどっちにいくんだい?」ネルに話しかけて、小男はたずねた。
「ほんとうに、よくわからないの――まだきめていないのですもの」子供は答えた。
「おれたちは競馬場にいくんだ」小男はいった。「そっちがお前さんのいく方向で、おれたちの仲間になるのがいやじゃなかったら、いっしょに旅をすることにしようや。お前さんたちふたりだけでいきたかったら、遠慮なくそういいな。べつに面倒をかけたりはしないからね」
「きみたちといっしょにいくよ」老人はいった。「ネル――いっしょにいくんだ、いっしょにいくんだ」
子供はちょっと考えこみ、自分が間もなく物乞いしなくてはならなくなる、それをするには金持ちの紳士や淑女が楽しみとお祭りさわぎのために集ってくる場所がいちばん好都合と考えて、そこまでこのふたりの男に同行しようと決心した。そこで、そういってくれたことにたいして、彼女は小男に礼の言葉を述べ、その友人のほうを心配そうにながめて、自分たちが競馬の町までいっしょにいっても邪魔じゃなかったら――
「邪魔だって!」小男はいった。「おい、トミー、こんどだけはやさしい気持ちになって、いっしょにいってくれたほうがいいっていえよ。お前がそういってくれるのは、おれにわかってるよ。さあ、やさしい気持ちになるんだ、トミー」
「トロッターズ」コドリン氏はいったが、哲学者や人間嫌いによくあるように、彼はとてもゆっくりと話し、ひどくガツガツして食事をしていた、「お前さん、気前がよすぎるよ」
「いやあ、それでどんな不都合があるというんだい?」相手は強くいい張った。
「こんどの場合だけは、どうという不都合もないだろうな、たぶん」コドリン氏は答えた。「だが、主義ってえやつは危険なもんでね、たしかにお前さんは気前がよすぎるよ」
「うん、あの連中、おれたちといっしょにいってもいいんかい、どうだい?」
「うん、いいよ」コドリン氏はいった。「だが,それをこっちの好意のせいにしたっていいはずだったんだがな、どうだい?」
この小男の本名はハリスといったが、この名はだんだんと調子のよくないトロッターズという名の中に姿を没し、その前に|背の低い《シヨート》という形容詞がつけられて、ついには、足の短さのためにこの名が彼に授けられることになっていた。しかし、ショート・トロッターズは複合的な名前で、親しい会話では使うのに不便だったので、この名が授与された紳士は、その友人たちのあいだで、「ショート」、あるいは「トロッターズ」として知られ、堅苦しい会話か儀式の場合以外に、そのふたつをならべてショート・トロッターズと呼ばれることは、まずなかった。
そこで、ショート、あるいはトロッターズ――これは読者のご随意にというわけだが――は、友人トマス・コドリン氏の抗議にたいして、その不満を静めるようにと意図されたふざけまじりの返事をし、冷たい|煮《に》た肉、お茶、バターつきパンにいかにもおいしそうにとりかかって、同座の人たちにも、同じようにするがいい、と強く|示唆《しさ》した。コドリン氏には、まったく、こんな説得は不要だった。彼はもう腹につめこめるだけはつめこみ、いま強いビールをだまったまま、いかにもおいしそうに、グイッと深くひと飲みし、ほかのだれにも、それをいっしょにやれとはすすめなかった――これは、ふたたび、彼の人間嫌いの傾向を強くあらわしているものだった。
朝食がとうとう終り、コドリン氏は勘定書を請求し、ビール代を全員のコミ払いにして(これもまた、人間ぎらいの傾向の強いやり方)、総額を公正で平等なふうにふたつにわけ、半分を自分と友人、のこりの半分をネリーとおじいさんに割り当てた。この支払いをそれぞれきちんとすませ、出発準備がすっかりととのって、一同は宿屋の主人とおかみに別れを告げ、旅をつづけた。
ここで、コドリン氏の社会におけるまやかしの地位と、彼の傷つけられた精神におよぼすそれの影響が、はっきりと示されることになった。というのも、きのうの時に彼はパンチ氏によって「旦那さん」と呼びかけられ、彼はパンチを|扶養《ふよう》してるのは、自分自身の|贅沢《ぜいたく》な道楽と楽しみのためという推測を観客に勝手にさせていたのだが、ここでいま、まさに同じパンチの殿堂の荷を背負って苦労して歩き、ムンムンする日に、ほこりっぽい道路ぞいに、それを肩にして進んでいったからである。機知をたえず発射し、自分の親類知人の頭を六尺棒(むかしイギリスの農民が使っていた武器)で陽気にポカポカなぐったりして自分の主人に元気づけをしたりはしないで、ここでは、もうあの陽気なパンチは背骨をすっかりぬかれ、暗い箱の中で活気を失ってぐったりし、両脚を首のまわりに折りまげられて、社交的な性格はいささかものこってはいなかった。
コドリン氏はテクテクと重そうに歩き、間をおいてショートと一語か二語話し、ときどき足をとめて休んで、うなっていた。ショートが先頭に立ち、例の平らな箱、ひと包みにした自分の荷物(そうかさばったものではなかった)、肩にかけた|真鍮《しんちゆう》のラッパをもっていた。ネルとおじいさんはそのうしろにならんでつづき、トマス・コドリンがしんがりをつとめた。
町か村に着くと、いや、堂々とした一軒家にでも来ると、ショートは真鍮のラッパをひと吹きし、パンチとその仲間に共通のあの陽気でさわがしい調子で歌の断片を吹奏した。人びとが窓のところにとんでくると、コドリン氏は、殿堂を張り、急いで垂れ布を開き、それでショートをかくし、ヒステリーにかかったように笛を華やかに吹き、歌をひとつ演奏した。ついで、できるだけ手早いとこ、芝居がはじまった。上演のながさをきめ、人類の敵にたいするパンチの最後の勝利の時間をのばしたりちぢめたりするのは、コドリン氏が責任をもって決定することになっていたが、これは、最後の半ペンスのいただきの|多寡《たか》にたいする彼の見込みしだいのものだった。最後の一文まで徹底的にいただくものはいただくと、コドリン氏は荷物を背負い、また旅がつづいた。
ときどき、橋やわたしのところで、ふたりは道銭がわりに上演をおこない、一度は、道銭取立門のところで、特別の所望で芝居を上演した。そこでは、集金人がひとりで酔っ払い、芝居をひとりじめしようと、一シリングを払ってくれた。じつに有望そうにみえながらも、期待を裏切られた小さな場所があった。芝居の中の人気者が上衣に金モールをつけたおせっかい焼きのバカ者だったので、|教区吏員《ビードル》(教会の雑務をする役人)にたいする|誹謗《ひぼう》と考えられ、そのために、当局の命令で早々に退却におよんだためだった。だが、彼らは一般には好意をもってむかえられ、町を出るときには、たいてい、一群のぼろ服姿の子供たちがそのあとにつづき、大声でわめき立てていた。
こうした邪魔にもかかわらず、一日のながい旅はつづけられ、まだ宿につかぬうちに、月が空で輝いていた。ショートは、歌や冗談で旅の退屈をまぎらわせ、起きたことすべてをうまく利用していた。コドリン氏はといえば、これと反対に、自分の運命と地上のすべてのうつろなもの(特にパンチ)をのろい、この上なくいまいましい劇場を背に背負って、びっこをひきながら進んでいった。
四つの街道が合流している指導標の下で休もうと足をとめたが、コドリン氏は、深い人間ぎらいの気分につつまれて、垂れ布をさげ、見世物台の底に腰をおろし、人間の目から姿をかくし、仲間の連中を相手にもしていなかった。そのとき、彼らがやってきた道の角のところから、ふたつのすごい物の影が、威張った格好をして彼らのほうにやってくるのがみえた。子供はこのおそろしい巨人の姿をみて――木の陰の下を、彼らが高い|大股《おおまた》で進んできたとき、たしかにそうみえたのだが――最初おびえていたが、ショートは、なにもこわがることはない、と彼女に教えて、ラッパをひと吹き吹き鳴らし、それにたいする応答として、陽気な叫びの声が聞えてきた。
「グラインダーの連中かね、どうだい?」大きな声でショート氏は叫んだ。
「そうですよ」|甲高《かんだか》いひと組の声が答えた。
「じゃあ、こっちへ来な」ショートはいった。「顔をひとつみせてくれ。お前さんたちだと思ってたんだ」
こうして招かれると、「グラインダーの連中」は速度を倍加して近づき、間もなく小さなこちらの一隊に追いついた。
グラインダー氏の一座――親しい人たちのあいだでは連中と呼ばれているのだが――は高脚に乗った若い紳士と若い淑女、それにグラインダー氏自身の三人で構成され、グラインダー氏は、歩行のためには生れながらの脚を使い、背中には太鼓を背負いこんでいた。若い連中の人前での衣裳は高地服だが、その夜は湿気が強く寒かったので、若い紳士はキルト(スコットランドの高地人や軍人が着用する縦ひだの短いスカート)の上にかかとまでとどく男用の厚いラシャのジャケツをまとい、テカテカと光沢のある帽子をかぶり、若いご婦人も古い婦人用外套で身をつつみ、頭のまわりにはハンカチをまきつけていた。漆黒の羽根毛の飾りをつけた彼らのスコットランドふうのボンネット帽は、太鼓の上に乗せて、グラインダー氏が運んでいた。
「競馬にいくんだな」息を切って追いついてきて、グラインダーはいった。「おれたちもそうなんだ。ご機嫌いかがだね、ショート?」こういって、二人はとても仲よく握手をした。若い連中は、高いところにいてふつうの挨拶ができなかったので、彼らなりの挨拶をショートにした。若い紳士は右の高脚をひねってあげ、ショートの肩を軽くたたき、若い婦人はタンバリンをトントンと鳴らしていた。
「練習かね?」高脚をさして、ショートはたずねた。
「いいや」グラインダーは答えた。「それをはいて歩くか、それを運ぶかのどっちかなんだが、ふたりは歩くほうが好きでね。みとおしがとてもよくきくんだからね。どっちの道をきみはいくんだね? おれたちはいちばんの近道でいくよ」
「いやあ、じっさいのとこ」ショートはいった「おれたちはいちばん遠まわりをしていくのさ。もう一マイル半いけば、宿に泊れるんだからね。だが、三マイルか四マイル今晩かせいでおけば、明日は道がそれだけちぢまるわけ。きみたちがいくんだったら、おれたちも同じことをやったほうがいいようだな」
「相棒はどこにいるんだい?」グラインダーはたずねた。
「ここにいるさ」前舞台に頭と顔を出し、そこではめったにみられない表情をみせて、トマス・コドリン氏は叫んだ。「今晩どんどん進んでいくくらいなら、その[#「その」に傍点]相棒が釜ゆでになるのをみたいもんさ。それがショートの相棒の[#「ショートの相棒の」に傍点]いい分だよ」
「もっと楽しいことに使われる場所で、そんなことはいうもんじゃないぞ」ショートはいった。「いくら腹を立てても、トミー、連想というものを忘れちゃいかんな」
「腹が立とうが立つまいが」パンチがそこで自分の脚の格好のよさと絹の靴下をはいてうまく似合うのにいきなり大よろこびして、脚を観客にみせて驚嘆させるあの小さな踏み板を手でたたいて、コドリン氏はいった、「腹が立とうが立つまいが、今晩、もう一マイル半以上はごめんだよ。おれは|陽気な砂売り小僧《ジヨリー・サンド・ボイズ》(イギリスで砂は磨き用、それを売る男の陽気なことはことわざになっている)旅館で泊るんだ。ほかんとこはまっぴらさ。そこに来るんだったら、来たらいいさ。ひとりでどんどんいきたいんだったら、ひとりでいって、できるもんなら、おれぬきで商売をしたらいいだろう」
こういいながら、コドリン氏は舞台から姿を消し、すぐ劇場の外にあらわれ、グイッとそれを肩にひっかつぎ、驚くほどの速さでさっさとそこを去っていった。
これ以上の論争は問題なく不可能となったので、ショートは、グラインダー氏とその弟子たちと別れ、不機嫌な仲間のあとを追わねばならなくなった。二、三分指導標のとこにグズグズして、高脚が月光の中で軽快にはねまわりながら去ってゆき、それを追って太鼓をもった男がノロノロと歩いてゆくのをながめたあとで、ショートは、別れの挨拶としてラッパのわずかの調べを吹き鳴らし、大急ぎでコドリン氏のあとを追っていった。これをしようとして、彼は空いた手をネルに与え、今晩の旅はもうじき終るのだから、元気を出すように、と彼女に声をかけ、同じ保証を老人にも与えて勇気をふるい立たせ、目的地に向けてかなり早い速度で先頭を切って進んでいった。いま月は雲におおわれ、雨が降りそうになっていたので、彼は、なお早くその宿に着きたいものと思っていたのだった。
18
陽気な砂売り小僧旅館というのは、かなりむかしの時代の路傍の小さな宿屋で、道路のむかい側で、|天秤棒《てんびんぼう》をキーキーいわせて運んでいる三杯のジョッキのビールと黄金の袋三つをもってますます陽気になっている、三人の砂売り小僧の看板が立てられていた。旅人たちがその日、競馬の町にだんだんと近づいてきている徴候、同じ方向に進んでゆくジプシーのキャンプ、|賭博《とばく》小屋とその付属品を積んだ荷車、さまざまな見世物師、ありとあらゆる種類の|乞食《こじき》と浮浪者をながめたのだったが、コドリン氏は宿屋がもう満員になっているのではないかと心配し、宿屋への距離がちぢまるにつれて、この心配はふくらんでいったので、彼の歩調は早まり、運ばなければならない重い荷物にもかかわらず、その威勢のいい早足はゆるむことなく、とうとう宿屋の入り口のところまでやってきた。ここで、うれしいことに、自分の心配が根も葉もないことが彼にわかった。宿屋の主人がドアの柱によりかかって、なにすることもなく雨足の強くなってきた雨をながめ、ひびのはいった鐘の鳴る音、ワイワイという叫び、さわがしい合唱が、家の中に人のいるのを伝えてはいなかった。
「だれもいないんかい?」荷物をおろし、額をぬぐって、コドリン氏はいった。
「まだですよ」空をチラリとみて、主人は答えた、「でも、今夜はお客さんの入りがあるでしょう。おい、だれか給仕、その見世物台を|納屋《なや》に運んであげろ。さあ、トム、ぬれますよ。早く中におはいんなさい。火を燃すようにいいつけてあるんですからね、台所ではドンドンと火が燃え立ってますよ、ほんとうに」
コドリン氏は、よろこんで主人のあとを追って中にはいり、間もなく、主人の言葉がうそでないのを知った。炉では火が燃え盛り、楽しい音を立ててひろい煙突をゴーゴーとのぼってゆき、火にかけた大きな釜がグツグツと煮え立って、火のパチパチという音に快い援軍を送っていた。部屋には|真紅《しんく》の輝きがあふれ、主人が火をかきまわし、炎をおどりあがらせたとき――鉄のなべのふたをとり、いいにおいが鼻をつき、煮え立つ音がだんだんと太く|豪奢《ごうしや》なものになり、|脂《あぶら》まじりの蒸気が流れ出て、気持ちのいい霧の状態になってふたりの頭上をただよい流れたとき――主人がこうしたことをしたとき、コドリン氏の心は感動に打たれていた。彼は炉の隅に坐り、ニッコリとした。
コドリン氏は炉の隅でニッコリしながら坐り、宿屋の主人がいたずらっぽい顔つきをしてふたを手にもち、そうするのは料理の仕上げにはぜひ必要なことといった仕草で、快い蒸気が客の鼻をくすぐるのを許したとき、コドリン氏はその主人の姿をジッと見守っていた。火の輝きは主人の|禿《は》げた頭、彼のキラキラと輝く目、彼のよだれを流している口、彼のにきびだらけの顔、彼のまるまるとした太った姿をつつんでいた。コドリン氏は|袖《そで》で口をぬぐい、つぶやくような声で「それはなんだい?」といった。
「これは牛の胃袋」|舌鼓《したづつみ》を打って、主人はいった、「それに牛の足のとこ」また舌鼓、「それにベーコン」もう一度舌鼓、「それに厚い切り身」四度目の舌鼓、「それに豆とカリフラワー、新しいじゃがいも[#「じゃがいも」に傍点]とアスパラガス、ぜんぶ同じおいしい肉汁で味つけをしてね」絶頂点に達すると、彼は何回となく舌鼓を打ち、あたりにただようよいかおりをフーッとながくひと息すいこんで、この地上での苦役は終ったといった態度で、またふたを閉じた。
「いつごろ料理はできあがるんだい?」弱々しくコドリン氏はいった。
「ころ合いに煮あがるでしょうな」時計をみあげて主人はいい――、その時計まで、白い顔に赤味をおび、陽気な砂売り小僧たちがながめるに好適な時計のようになっていた――「十一時二十二分前にはころ合いに煮あがるでしょうな」
「じゃ」コドリン氏はいった、「温かいビールを一パイントもってきてくれ。そのときがくるまで、ビスケットひとつだってこの部屋に運びこませないようにしてな」
この断固たる男らしいやり方に賛成してうなずきながら、主人はビールをつぐために奥にひっこみ、やがてそれを手にしてもどってきて、火の奥まで入れてあかあかと燃えているとこまでとどくようにと工夫した|漏斗《ろうと》型をした小さなブリキの容器に入れて、そのビールを温める仕事にとりかかった。これはすぐに終り、|燗《かん》をしたビールにともなううれしい状態のひとつになっているクリーム状のあわを表面に浮べたビールが、コドリン氏に手わたされた。
この気分を静める飲料ですっかり心をやわらげられて、コドリン氏は、いま、自分の仲間たちのことを考え、砂売り小僧旅館の主人に、彼らの到着は間もないだろう、と伝えた。雨は窓にバラバラと打ちつけ、どしゃぶりになり、コドリン氏の心はもうすっかりなごんでいたので、あの連中、ズブぬれになるほどバカな真似をしなければいいんだが、と何回となくむきになってくりかえしていた。
とうとう三人が到着したが、ショートができるだけ自分の上衣のすそに子供をかばっていたにもかかわらず、みんな雨でびしょぬれ、じつにみじめな格好になり、急いで来たために、すっかり息を切らせていた。だが、道に彼らの足音が聞えるやいなや、外の戸口のところで彼らの到着を心配そうに待ち受けていた主人は、台所にとびこみ、なべのふたをとった。その効果は電撃的だった。雨水が彼らの服から床にしたたり落ちてはいたものの、彼ら全員は微笑で顔をほころばせてこの部屋にはいり、ショートの最初の言葉は「なんていいにおいだ!」だった。
陽気な火のわきに坐り、明るい部屋にいて、雨と泥のことを忘れるのは、さして難事ではなかった。彼らはスリッパをもらい、この宿屋か自分の荷物で都合のつく乾いた着物を着こみ、コドリン氏がもうやっていたように、温かい炉の隅に身を落ち着けて、すぐにいままでの苦しみを忘れてしまった。さもなければ、それを思い出しても、それは現在のよろこびをさらに大きくするのに役立つことになった、といってもよい。この温かさと快適さ、それにいままでの疲労に打ちひしがれて、ネリーと老人は、席につくと間もなく、眠りこんでしまった。
「あの連中、だれですね?」主人はささやいた。
ショートは頭をふり、自分もそれを知りたいもんだ、といった。
「あんたは[#「あんたは」に傍点]知ってますかね?」コドリン氏のほうにふり向いて、主人はたずねた。
「おれは知らんよ」彼は答えた。「どうせ役立たずの人間だろう」
「べつに害になりはせんよ」ショートがやりかえした。「そいつは、まちがいのないこった。いいかな――あの老人、頭がおかしくなってるのは、たしかだ――」
「それ以上新しいことはなにもいえないんだったら」時計をチラリとみて、コドリン氏はうなった、「おれたちの心を夕飯に集中させ、いらんことはいわないほうがいいだろう」
「おれのいうことをすっかり聞くんだ、いいか?」友人はやりかえした。「その上、あの連中がこうした暮し方に馴れてないのも、たしかなこった。あの美しい子供が、この二、三日やってきたのと同じように、ふだんもふらつきまわってるなんぞといっちゃいかんぞ。おれはそんなことを考えるほどバカじゃないんだからな」
「うん、だれ[#「だれ」に傍点]がふらついてるなんぞといったんかね?」ふたたび時計に、そこから大釜にチラリと目をやって、コドリン氏はうなった。「ものをいうとそれに反対する、ということ以外に、いまの状態にもっとピタリとしたどんなことも考えられんのかね?」
「だれかがお前に夕飯を食わせてくれたらと思うよ」ショートは答えた、「なにしろ、飯を腹におさめるまで、おだやかにものをやってくことはできないんだからな、あの老人がどんなにどんどん先にいきたがってるか、みたかね? ――いつも先へ先へと――先へ先へといきたがってるのを? そいつをみたんかね?」
「ああ! だからどうだというんだ?」トマス・コドリンはつぶやいた。
「じゃ、こういうことさ」ショートはいった。「あの老人はな、知り合いの目をくらましてずらかってるんだ。いいか、よく聞け――知り合いの目をくらましてずらかってるんだ。そして、あのかよわい子供を、自分にたいする愛情をいいことにして、自分の案内人、旅の道づれにしようとしてるのさ――行く先がどこか、そいつはまったくわかってないんだ。こいつは許せんことだな」
「お前が許せんだって!」またチラリと時計をながめ、狂気のように両手で髪をひっぱって、コドリン氏は叫んだが、この髪をひっぱった仕草が、相手の言葉によるものか、または時のおそい歩みによってひきおこされたのか、これを決定するのはむずかしいことだった。「大変な世の中になったもんだ!」
「おれは」ショートは力をこめ、ゆっくりとくりかえした、「そいつを許せん。おれはこの美しい子供がわるい人間の手に落ち、この子にふさわしくない人間の仲間入りするのをだまってみてる気にはなれないんだ。そんな連中は、ふつうの友だちとして、天使の仲間入りするにふさわしくないのと同じことさ。だから、あのふたりがおれたちから別れようと考えだしたら、なんとかして彼らをひきとめ、友人たちのとこにもどしてやるつもりだ。その人たちは、もういまごろきっと、ロンドンの壁という壁にその心の悲しみをはりだしてることだろう」
「ショート」両手に頭を乗せ、両肘を膝に乗せて、ここまでイライラとしてからだをゆすり、ときどき足踏みをしていたコドリン氏はいった。だが、彼はいま、ズッと目をすえてみあげていた。「お前さんのいったことには、珍しくりっぱな分別があるかもしれんな。そいつがあり、礼金が出るようなことになったら、おれたちはどんなことでも仲間なんだということを忘れるなよ!」
相手には、簡単な承諾のうなずきをするひましかなかった。ちょうどそのとき、子供が目をさましたからである。彼らは、いままでの耳打ちのあいだ、からだをピッタリと寄せ合い、いまあわててはなれて、いつもの調子でさりげない言葉を、なにかちょっと間がわるそうに、かわそうとしていた。そのとき、聞きなれぬ足音が外でし、新しい四人の仲間が部屋にはいってきた。
この連中は、ほかならぬ四匹のひどく陰気な犬で、パチャパチャと音を立ててつぎからつぎとはいりこみ、先頭の特別痛ましい姿をしたがに股の老犬は、あとにしたがう最後の犬が戸口のとこまでやってきたとき、うしろ脚で立ち、仲間たちのほうにふりかえり、その仲間も、一列に重々しく痛ましくならんで、すぐその例にならった。だが、これらの犬について注目すべきことは、こればかりではなかった。それぞれの犬はよごれたピカピカする飾りでふちどられた、なにかケバケバしい色の小さな上衣といったものを着こみ、そのうちの一匹は、顎の下にとても注意深く結びつけられた帽子をかぶり、それがいま鼻の上にずり落ちて、片目をすっかりおおっていた。これに加えて、ケバケバした上衣は雨でぐっしょりぬれ、色は台なしになり、それを着ている犬は泥水だらけでよごれていたとお伝えすれば、陽気な砂売り小僧旅館にやってきた、こうした訪問者たちの異常なようすの概念が、多少はつかめることになるだろう。
ショートも主人もトマス・コドリンも、しかしながら、いささかも|辟易《へきえき》せず、ただ、この犬はジェリーのとこの犬だ、もうすぐジェリーも来るだろう、といっただけだった。そこで、犬どもはチンチンをしたままで立ち、辛抱強く目をしばたたき、あくびをし、煮え立つなべをすごくむきになってながめていたが、ジェリーが姿をあらわすと、すぐに立った姿勢をくずし、自然の姿にかえって部屋を歩きまわった。これは申しあげておかねばならないが、四つ足にもどったからといって、彼らの外見がそうりっぱになったわけではなかった。彼ら自身の尻尾と彼らの上衣の尻尾――それなりにいずれもすばらしいものではあったが――がそろってはいなかったからである。
踊る犬の親方、ジェリーは、|別珍《べつちん》の上衣を着こんだ|黒髯《くろひげ》の背の高い男で、宿屋の主人とそこの客人とは懇意の者らしく、とても親しげに彼らに話しかけた。手まわし|風琴《ふうきん》をからだからはずして椅子の上におき、手下の喜劇俳優たちを威圧するのに使う小さな鞭を手から放しはせずに、彼はからだを温めようと炉に近づき、みなと話をはじめた。
「お前の手下は役つきの格好でいつも旅をしてるんじゃないんだろうね、どうだい?」犬の衣裳を指さしながら、ショートはいった。「そんなことしたら、金がかかってたまらんからな」
「そうだよ」ジェリーは答えた、「そう、いつもそうしてるわけじゃないんだ。だが、きょうは、道中ちょっと商売をし、競馬のとき用にと新しい衣裳をもってきたんで、グズグズして衣裳をぬがせる必要はないと考えたのさ。ペドロ、チンチンやめっ!」
これは、帽子をかぶっている犬にかけた言葉だった。この犬は、一座では新参者、しっかりと自分の任務を身につけていなかったので、帽子でふさがれていない片目でいつもジッと心配そうに主人をながめ、必要がないのに、たえずチンチンをしたり四つ足になったりしていた。
「ここにも、けだものがいるよ」上衣の大きなポケットの中に片手をつっこみ、小さなオレンジかりんご[#「りんご」に傍点]か、なにかそういったものでもさぐっているといったふうに、奥にまで手を入れて、ジェリーはいった、「ほうれ、これさ。ショート、お前さんにはちょっとなじみのあるもんだろうがね」
「ああ!」ショートは叫んだ、「ちょいとみせてくれ」
「さあ、ほれ」ポケットから小さなテリア犬をひっぱりだして、ジェリーはいった。「こいつは、お前さんの商売のほうのトウビーをやってた犬なんだよ」
パンチのすばらしい芝居話のいくつかの伝書の中に、小さな犬がいて――これは新しい話なのだが――それはパンチの私有物と考えられ、名前はいつもトウビーとなっている。このトウビーは、幼いころ、べつの紳士から盗まれ、人をすぐ信用してしまう主人公パンチにまんまと売りつけられ、パンチはずるさのない人間だけに、他人にずるさがひそんでいるとは夢にも思っていないが、トウビーは、感謝の心をこめて前の主人のことを憶えていて、新しい主人に愛情を寄せようとはせず、パンチの命令でパイプをふかすのをこばむばかりか、自分の忠誠心をもっとはっきり示そうとばかり、パンチの鼻にかぶりつき、それをグイグイねじり立て、犬の愛情のこうした証拠をながめて、観客は深い感銘に打たれる。問題の小さなテリア犬がかつてもっていた役は、以上のようなものだった。このことに関してなにか疑念がもたれたとしても、この犬は、自分の行動でその疑念を氷解させてしまったことだったろう。それというのも、ショートの姿をみると、じつにはっきりと、わかった、といったふうを示したばかりでなく、平らな箱が目にはいると、その中にあるのを知っている例のボール紙の鼻にすごい勢いでほえかかり、その結果、ジェリーは、この犬をつまみあげ、またもとどおりポケットの中にしまいこんで、みなをホッとさせることになった。
宿屋の主人は、もう、食事を出すのにとりかかり、それをやっているとき、コドリン氏は、親切にも、いちばん便利な場所に自分のナイフとフォークをならべ、そのうしろに陣どって、その手伝いをしていた。すべての準備がととのうと、主人はこれを最後にとふたをはずし、すばらしい夕食を約束するじつにすばらしい香りを発散させたので、もし彼がまたふたをかぶせようとしたり、食事の延期をほのめかしたりなんぞしたら、彼はたしかに自分の家の炉で|犠牲《いけにえ》にささげられてしまったことだろう。
だが、彼はそうしたことをせず、そのかわりに、太った下女に手を貸し、大釜の中身を大きな深皿に盛りつけをする手伝いをした。そしてこれを、鼻にこぼれてくる熱い汁にいささかも|辟易《へきえき》せずに、犬どもはすごくひたむきになってジッとみつめていた。とうとうこの大皿はテーブルにうつされ、ビールの壺はもう前に配られてあったので、子供のネルは勇気をふるいおこして食前の祈りをささげ、ここでいよいよ夕食がはじまった。
このとき、あわれな犬どもは、じつに驚いたことに、チンチンの姿勢をしていた。ネルはこうした犬をあわれに思い、自身お腹を空かしてはいながらも、まだそれを口にしないうちに、食べ物をいくらか犬たちに投げてやろうとした。そのとき、犬の親方が声をかけた。
「だめ、だめ、おれ以外の手からは、これっぽっちもやってはいけないよ。あの犬は」犬の一団の頭になっている老犬をさし、おそろしい声で話して、ジェリーはいった、「きょう、半ペニー失くしちまったんだ。あいつは[#「あいつは」に傍点]晩飯ぬきだよ」
不運なこの犬は、すぐチンチンをやめ、尻尾をふり、たのみこむように、自分の主人をみあげた。
「もっと注意しなけりゃいかんな」オルガンをおいた椅子のところにゆき、|音栓《おんせん》をつけて、ジェリーはいった。「ここに来い。夕食のあいだ、これで演奏をするんだ。やめたりしたら、承知しないぞ」
犬は、すぐに手風琴の柄をまわして、じつに悲しげな曲を演奏しはじめた。親方はこの犬に鞭を示してから座席にもどり、ほかの犬を呼んだ。呼ばれた犬は一列になってならび、まるで兵隊がならんだように、きちんとチンチンをして立っていた。
「さあ、諸君」注意深く犬たちをながめながら、ジェリーはいった。「名前を呼ばれた犬が食べるんだぞ。カーロウ!」
名前が呼ばれた幸運な犬は、自分のほうに投げられたひと口をパクリと食べたが、ほかの犬はどれも動かなかった。こうしたふうに、犬は親方の裁量どおりに食事を与えられた。一方、面目まるつぶれの犬はせっせと、ときに早く、ときにおそく、オルガンの柄をまわしていたが、一刻たりとも休もうとはしなかった。ナイフとフォークの音が高く鳴りひびいたり、仲間のほかの犬が特大の脂肉にありついたりしたとき、彼は音楽に、短い遠ぼえの伴奏をつけたが、親方がふりかえると、すぐそれをやめ、前よりもっと一生けんめいになって古い百番曲の賛美歌(いつつくられたのかはわからないが、一八五一年ころ出版された歌)を演奏していた。
19
まだ食事が終らないうちに、ほかの客たちと同じ場所にゆくもうふたりの旅人が、陽気な砂売り小僧旅館に到着した。彼らは数時間も雨の中を歩き、雨水でテラテラと光り重くなって、部屋にはいってきた。そのうちのひとりはほろつきの大馬車でゆられてやってきた巨人と脚も腕もない小さなご婦人(当時市の見世物で有名な存在だったミス・サラー・ビフィン(一七八四―一八五〇)のこと)の座長で、もうひとりはもの静かな紳士、トランプの奇術をみせて暮しを立て、小さな菱形の鉛を目に入れて口から出す芸で、生れながらの容貌を、すっかり台なしにしていた人物だった。こうした新来の客の最初の人物の名はヴァフィン、もうひとりは、その醜悪さにたいする陽気な諷刺なのだろうが、美男のウィリアムと呼ばれていた。できるだけこのふたりの気分をよくしてやろうと、宿屋の主人はさっさと動きまわり、ちょっとするともう、このふたりの紳士はすっかりくつろいでいた。
「巨人はどうだね?」みんなが炉のまわりに坐ってタバコを飲んでいるとき、ショートはいった。
「脚で立ってると、だいぶ弱くなってね」ヴァフィン氏は答えた。「ひざまずくようになるかと心配しだしてるとこだよ」
「そいつはあんまりパッとしないみとおしだな」ショートはいった。
「うーん! まったくパッとしないんだ」ため息をもらして、ジッと火をみつめながら、ヴァフィン氏は答えた。「巨人の脚が一度ぐらつきだすと、古キャベツの茎と同じ、もう世間ではふり向きもしてくれないからな」
「老巨人どもはどうなってるんだい?」ちょっと考えこんでいたあとで、またヴァフィンのほうに向いて、ショートはいった。
「運搬車に入れられて、小人どものお相手をしてるよ」ヴァフィンは答えた。
「舞台に出せないのに、それを養っておくなんて、金のかかるこったろうね、えっ?」うさんくさそうに相手をジロジロみながら、ショートはいった。
「それのほうがいいのさ、教区や街路を歩きまわらせるよりもな」ヴァフィン氏はいった。「一度巨人を大衆的にしちまったら、もうお客を呼べなくなっちまうんだ。木の脚を考えてごらん。木の脚をつけた男がたったひとりしかいなかったら、そいつ[#「そいつ」に傍点]はすごい財産になるんだがね!」
「まったくね!」宿屋の主人とショートが同時に応じた。「まったくそのとおり」
「そのかわりに」とヴァフィン氏は語をついでいった、「木脚ばっかしで上演するシェイクスピアの芝居を広告したって、まちがいなし、三文の|得《とく》にもなるもんか」
「そうだと思うね」ショートは答えた。宿屋の主人もそれに|相槌《あいづち》を打った。
「これでわかるんだがね」討論調子になってパイプをふりかざしながら、ヴァフィン氏はいった、「これでわかるんだ、使い果した巨人どもをいつまでも運搬車にしまっとく利点がね。そこで、生涯、ただで食事と住居を与えられ、だいたいのとこ、そこにいるのを大よろこびしてるよ。ひとり巨人――黒いやつだったが――がいて、そいつは何年か前に運搬車からぬけだし、馬車の|札《ふだ》をロンドンの近くに配達するのをはじめたんだ、横断歩道の掃除人のように身分をひきさげてね。やつは死んだよ。おれはべつにだれのことも当てこすって悪口をいったりしてるんじゃないよ」重々しくあたりをみまわして、ヴァフィン氏はいった、「だが、あいつは、この商売をだめにしようとし――死んじまったんだ」
宿屋の主人は、フーッと強く息をすいこみ、犬の親方をながめ、犬の親方はうなずいて、自分[#「自分」に傍点]は憶えてる、としわがれた声でいった。
「お前さんが憶えてるのは、おれも知ってるよ」深刻な意味をこめて、ヴァフィン氏はいった。「そいつをお前さんが憶えてるのは、おれも知ってるよ、ジェリー。世間の考えは、身から出た|錆《さび》、といったとこだったな。いやあ、二十三台の運搬車をもってた老モーンダーズのことをおれは憶えてるがね――老モーンダーズが、シーズンが終った冬の季節に、スパー・フィールズ(むかしはイズリンク・スパーとして知られ、荒っぽい興行がおこなわれていた)の小屋で八人の男女の小人に毎日夕食で腰をおろさせてた時代のことを憶えてるよ。その小人どもは、緑の上衣、赤いピッタリ合う半ズボン、青の木綿の靴下、くるぶしまである編みあげ靴をつけた八人の老巨人にかしずかれ、もう初老で意地わるになった小人がひとりいたが、そいつは、自分の巨人が思うように早く動いてくれないと、巨人の脚にピンをいつもつきさしてたもんさ、なんといったって、それ以上手がとどかなかったんだからね。そいつはもうたしかなこと、モーンダーズが自分の口でそう話してくれたんだからな」
「小人が老人になると、どういうことになるんですかね?」宿屋の主人がたずねた。
「小人は、老人になればなるほど、値打ちが出てきてね」ヴァフィン氏は答えた。「しわだらけで灰色の頭をした小人、こいつはもうまちがいなしのもんさ。だが、脚が弱ってキチンと立てない巨人なんて! ――そいつは運搬車におさめといて、どんなにくどくせがまれたって、絶対に人にみせないこった、人にみせないこったな」
ヴァフィン氏とそのふたりの友人がパイプをくゆらし、以上のような話のやりとりで時間つぶしをしていたとき、物静かな紳士は温かな隅に坐りこみ、練習のために半ペニーの銅貨を六ペニー分飲みこみ、あるいは飲みこむふりをし、鼻の上に羽根毛を立てたり、ほかのそういった放れ|業《わざ》をやって、一座の連中にはぜんぜん|頓着《とんちやく》せず、そっちの連中もそっちの連中で、彼には一向に注意を払ってはいなかった。とうとう、つかれきったネルは、寝所にひきさがるように、とおじいさんに説きつけ、ほかの連中を炉のまわりに坐らせたままにして、ふたりは部屋を出ていった。犬どもは、人間に敬意を払って、少しはなれたところでぐっすりと眠りこんでいた。
老人におやすみの言葉をかけてから、ネルは粗末な屋根裏部屋にひきあげたが、ドアを閉めるか閉めないかに、トントンとドアを静かにたたく音がした。彼女は、すぐドアを開き、そこにトマス・コドリン氏の姿をみて、ちょっとびっくりした。彼女が部屋を出たとき、彼はたしかに眠っているようだったからだった。
「どうしたの?」子供はたずねた。
「どうっていうことはないさ」訪問者は答えた。「おれはお前さんの味方だよ。たぶん、そうとは思ってないだろうが、お前さんの味方はこのおれ――あいつじゃないよ」
「あいつって?」子供はたずねた。
「ショートのことさ。いいかね」コドリンはいった、「お前さんが好きになりそうなやり方をあいつはやってるけどね、おれは本物の、腹蔵のない男なんだよ。そんなふうにみえんかもしれないが、たしかにそうなんだ」
ビールがコドリン氏にすっかりまわり、こうした|手前味噌《てまえみそ》はその結果と考えて、子供はおそろしくなってきた。
「ショートはとてもやさしく、親切そうにみえるね」人間嫌いは語りつづけた、「だが、度がすぎるというもんさ。ところで、おれはちがうんだ」
コドリン氏のふだんのふるまいになにか欠陥があるものとすれば、それはたしかに、まわりの人への親切の度がすぎるというより、そうとうその度がたりないということだった。だが、子供はとまどい、どういっていいのかわからないでいた。
「おれの忠告を受けるんだ」コドリンはいった。「どうしてなんぞといわずに、おれの忠告を受けるんだ。おれたちといっしょに旅をつづけるかぎり、できるだけおれにくっついていて、おれたちと別れようなんて考えちゃいけない――絶対にいけない――いつもおれにくっつき、おれがお前さんの味方だというんだ。それをいつも忘れないでいて、お前さんの味方はこのおれだ、といつもいってくれるかね?」
「いうって、どこで――そして、いつ?」無邪気に子供はたずねた。
「ああ、べつにどこっていうことはないさ」この質問でどうやらちょっとドギマギして、コドリンは答えた。「お前さんにそう考えてもらい、おれのほんとんとこをちゃんと心得ててもらいたいだけなのさ。おれがお前さんのことをどんなに思ってるか、わからんだろうな。お前さんのちょっとした経歴――お前さんとあの気の毒なじいさんの話――をどうしておれに話してくれなかったんだい? 忠告をする人間といやあ、おれがいちばんの人間、お前さんのことをとっても[#「とっても」に傍点]思ってるんだからな、ショートよりもっとずっとな。どうやら下では解散になったらしいな。いいかね、こうしてちょっと話したことを、ショートにしゃべる必要はないよ。おやすみ。味方を忘れんようにな。ショートじゃなくって、コドリンが味方なんだ。ショートはそれなりにいいやつだが、ほんとの味方は――ショートじゃなくって――コドリンなんだよ」
あれこれと慈悲深く保護してやるといった熱のこもった態度やようすを示して、右の言葉をおぎない、トマス・コドリンは忍び足で去っていったが、のこされた子供は、ひどくびっくりしていた。コドリンのこの奇妙な態度を彼女は考えつづけていたが、そのとき、グラグラした階段と踊り場の床が寝所にひきあげていくほかの旅行者たちの足に踏みつけられてキーキーと鳴った。みながとおりすぎ、足音が消えたとき、そのうちのひとりがもどり、ちょっとモジモジし、まるでどのドアにノックしたものかどうかと迷っているように、廊下で服をこすってゴワゴワと音を立てたあとで、彼女の部屋のドアをノックした。
「はい」中から彼女は答えた。
「おれだ――ショートだよ」――鍵穴をとおして声が呼びかけた。「明日の朝、早出をすると伝えておきたいと思っただけのことさ。犬どもや魔術使いの先まわりをしなかったら、村をまわったって一文のかせぎにもならんのだからね。まちがいなく早く起きて、おれたちといっしょにいくかい? 声はかけてやるよ」
子供は、そのとおりにする、と答え、「おやすみなさい」の挨拶をかえし、彼がこっそり歩いてゆくのを耳にした。こうしたふたりの男の気づかいは、かえって心配の種になり、それは、下でふたりがささやき合っていたこと、彼女が目をさましたとき、ちょっとあわてていたことを思うと、なお大きなものになっていった。また、このふたりの男がたまたまの旅の|伴侶《はんりよ》として最高のものではないのじゃないかという疑念も、心からぬぐい去ることができなかった。しかし、この彼女の不安は、疲労にくらべれば物の数ではなく、彼女はすぐに眠りこんで、それを忘れてしまった。
つぎの朝とても早く、ショートは約束を実行にうつし、彼女の部屋のドアをソッとノックして、すぐに起きてくれ、犬の親方はまだいびきをかき、時をうつさずいますぐに出発すれば、この男と魔術使いの機先を制することになる、魔術使いは寝言をいってて、聞えてくる言葉からみて、夢の中でどうやらろば[#「ろば」に傍点]を|秤《はかり》にかけてるらしい、と伝えた。彼女はすぐパッと床からはねおき、大急ぎで老人を起したので、ふたりともショートと同じくらい早く用意ができ、この紳士を得もいえぬほどよろこばし、ホッとさせることになった。
その主な食べ物はベーコンとパン、それにビールがつけられていたが、こうした食事をなりふりかまわずさっさとつめこんで、彼らは主人に別れを告げ、陽気な砂売り小僧旅館の戸口からとびだしていった。その朝は晴れあがって温かく、雨のあとだけに、地面は足にひんやりとし、|生垣《いけがき》は美しく緑の色をさらに濃くし、すべてのものがみずみずしく、健康的だった。こうしたものにとりかこまれて、一同はとても明るい気分でドンドンと歩いていった。
まだそう遠くまでゆかないうちに、ネルは、ふたたび、トマス・コドリン氏の打って変った態度にびっくりした。いままでやってきたように、ただひとり不機嫌にトボトボと歩いたりはせずに、彼は、彼女にピタリとつき、仲間に気づかれずに彼女をながめられる機会があれば、顔をねじり頭をグイッとふって、ショートは信頼せず、信頼はすべてコドリンに寄せるように、と彼女に注意を与えたからである。彼のやることは、顔つきや身ぶりにかぎられていたわけではなかった。彼女とおじいさんが前記ショートとならんで歩き、この小男がいつもの陽気さでとりとめなくあれやこれやの話をしていると、トマス・コドリンは、彼女のうしろにピタリとつき、ときどき芝居小屋の脚で、いきなり、とても手痛く彼女のくるぶしに注意を与え、その嫉妬と不信感をあらわしていた。
こうしたことすべては、子供の警戒心と疑惑をさらに大きくし、村の居酒屋やほかのところの前で足をとめて芝居をやるときにはいつも、芝居の自分の分をやっていながら、コドリン氏が彼女と老人からいつも目を放さず、さもなければ、大きな親しみと思いやりをみせて老人を自分の腕によりかからせ、見世物が終ってまた歩きだすまで、こうして老人をしっかりとおさえているのが、彼女に間もなくわかってきた。この点で、ショートさえ変ってきたようで、その人のよさに、ふたりを安全にしっかりとおさえておこうとする気持ちがはいりこんできたようだった。これが子供の疑惑をますますつのらせ、彼女の心配と不安をさらにもっと大きくすることになった。
そうこうしているうちに、競馬が明日からはじまる町に一同はだんだんと近づいていった。それというのも、町をめざして進み、すべてのわき道や畠を突っ切った小道からバラバラと出てくるジプシーや浮浪者のおびただしい群れをとおりすぎて、彼らは、いま、だんだんと人の流れの中にはいっていったからである。そうした人たちは、おおいをした荷馬車のわきを歩き、馬をつれ、ろば[#「ろば」に傍点]をひき、背に重い荷を負ったりして、さまざまだったが、みな同じ地点に向けて進んでいた。路傍の居酒屋は、もっと遠い場所の居酒屋と同じようにガランとして静まりかえっていたのとは打って変って、いまは、さわがしい叫びと煙の雲を吹きだしていた。霧のかかったもうろうとした窓からは、大きな赤らんだ顔の群れが道路をみおろしていた。すべての空き地や共有地では、小柄な|賭博《とばく》人がさわがしい商売をはじめ、ブラブラととおりすぎていく人に足をとめて運だめしをしてみるように、と大声で呼びかけていた。群集はだんだんと密度が濃いものになり、さわぎは大きくなった。ズック布仕立ての露店の金ぴかにぬり立てられたしょうが[#「しょうが」に傍点]入りの菓子はその輝きをほこりにさらし、とんでゆく四頭立ての馬車は、ときどき、それがまき立てる砂だらけの雲の中にすべてのものをつつみこみ、人をびっくりさせ、めくらにして、遠くのほうにふっとんでいった。
彼らが町そのものに着くまでに、もうあたりは暗くなり、最後の数マイルは、たしかに、ながいものだった。町はすべてがゴッタゴッタの大混乱だった。街路は人の群れでいっぱいになっていた――あたりをみまわしている顔つきからみて、よそ者がそこに多く流れこんできているようだった――教会の鐘はさわがしい音を鳴りひびかせ、旗は窓や屋根からふき流されていた。大きな宿屋の中庭では、給仕があちらこちらにとびかい、たがいにぶつかり合い、馬はでこぼこした石の上でひづめの音を立て、馬車の踏み段がガラガラッとおろされ、たくさんの夕食から立ちのぼる胸のムカムカするにおいは、重いなま温かい息になって、鼻を襲ってきた。比較的小さな居酒屋では、バイオリンが、ヨロヨロする足に合せて、ここを|先途《せんど》とすごい金切り声で調べをかなでていた。酔っ払いは、自分の歌っている歌のくりかえし言葉を忘れて、意味のないわめき声を立ててそれに合流し、それは、かよわい鐘のチリンチリンという音を聞えなくし、酔っ払いを酒で乱暴者にかり立てていった。浮浪者の群れは、戸口のまわりに集って、ブラブラしている流れ者の女が踊っているのをながめ、|甲《かん》高いフラジョレット(六個の音孔とくちばし状の歌口のあるたて笛)と耳をつんぼにする太鼓の音に、そのワイワイいうわめき声をつけ加えていた。
ネルは、目にはいるすべてのものにおびえ、胸をムカムカさせていたが、こうした狂乱の光景の中をとおりぬけて、老人の案内役をやっていた。老人はショートにすがりつき、彼女が自分からはなれて迷子になるのではないかと心配して、身をふるわせていた。こうした|喧騒《けんそう》の|巷《ちまた》からはなれようと足を早めて、彼らはとうとう町をとおりぬけ、競馬場のほうに進んでいった。この競馬場は、町のいちばんのはずれからも一マイルはたっぷりある小丘の上にあるひろびろとしたヒースの原にあった。
ここにはたくさんの人がいて、顔つきといい装いといい一級品とはどうしてもいえぬもの、せっせと天幕を張り、杭を地面に打ちこみ、泥足でわめき散らしながらあちらこちらにとび歩き――荷車の車輪の下で|藁《わら》の山の上に放りだされてヘトヘトになった子供は、泣き寝入りし――あわれな痩せた馬やろば[#「ろば」に傍点]は、馬車からやっと解放され、男女、壺やらやかん、焚きつけられたばかりの火、露天のもとでユラユラと燃えているろうそくのあいだで、草を|食《は》んでいたが――こうしたことにもかかわらず、ネルは、この環境を町からの脱出と考え、前より呼吸が楽になったように感じていた。わずかな夕食がすんでから――この夕食を買ったために、彼女の貯えはもう残り少なになり、明日の朝食を買うわずかな半ペンス銅貨がのこっているだけになった――彼女と老人は、天幕の隅に横になり、彼らのまわりで夜じゅうズッとさわがしい準備が進行していたが、ぐっすりと眠りこんでしまった。
彼らが物乞いをしなければならないときがいよいよやってきた。朝陽がのぼるとすぐ、彼女は天幕からソッとぬけだし、近くの原を歩きまわって、野生の|薔薇《ばら》と野花をわずか|摘《つ》んだが、これは、それで小さな花束をつくり、ご婦人方が馬車に乗ってここにやってきたとき、それを彼らに売るつもりのものだった。こうした仕事をしながらも、彼女の頭は、いろいろと考えを思いめぐらしていた。もどって、天幕の隅で老人のわきに坐ったとき、彼女は花をたばねはじめたが、ふたりの男は天幕のべつの隅で横になって、ウツラウツラと眠っていた。彼女は老人の|袖《そで》をひっぱり、ふたりの男のほうにチラリと目を投げて、低い声でいった、
「おじいちゃん、わたしがこれから話す人のほうをみちゃいけないことよ。いまやっている仕事の話をしているようなふりをしていてちょうだい。ロンドンのあの家を出る前におじいちゃんが話していたこと、どんなことでしたっけ? わたしたちが逃げだそうとしているのがあの人たちに知れたら、あの人たちは、おじいちゃんを気ちがいあつかいにし、ふたりをひきさいてしまうということだったわね?」
老人はすごくおびえたように彼女のほうに向いたが、彼女は目で彼をおさえ、自分がたばねるあいだ、花をもっていてくれ、とたのみ、こうして口を老人の耳に近づけて、いった――
「あのときのおじいちゃんの話がそういうことだったのを、わたし、憶えているわ。おじいちゃんはなにも話さなくていいの。あのこと、よーく憶えているわ。忘れたりはしないことよ。おじいちゃん、あの人たちは、わたしたちがお友だちのとこをソッと逃げだしたのではないかと考え、だれか紳士のところにわたしたちをつれてゆき、世話をみてもらって送りかえさせようとしているのよ。そんなに手をふるわせたら、あの人たちのところから絶対に逃げられないわ。でも、いま静かにしていさえすれば、そうすることができるの、楽にね」
「どんなふうに?」老人はつぶやいた。「ネリー、どんなふうにだい? どこか暗くて冷たい石の部屋にわしを閉じこめ、壁に鎖でつないで、ネル――鞭でわしを打ち(狂人の病院で当時治療法と考えられていた)、二度とお前には会えなくなるだろう!」
「またふるえているのね」子供はいった。「一日じゅうわたしからはなれないでいてちょうだいね。あの人たちを気にせず、みもせず、わたしだけについていてちょうだい。逃げだすときは、わたしがみつけだすわ。わたしが忍び足で出ていったら、おじいちゃんはわたしといっしょに出てきて、足をとめたり、ひと言でも話してはいけないことよ。シッ! 話はそれだけ」
「あれっ! お前さん、なにをしてるんだい!」頭をあげ、あくびをしながら、コドリン氏はいった。それから、自分の相棒がぐっすりと眠っているのをみて、声をひそめ、むきになっていいそえた、「忘れるなよ、ショートじゃなくって、コドリンが味方なんだよ」
「花束をつくっているのです」子供は答えた。「競馬のある三日間、それを売ってみようと思っているの。ひとつあげましょうか――贈り物としてね?」
コドリン氏は起きあがってそれを受けとろうとしたが、子供は急いで彼のほうにゆき、花束を彼の手にわたした。彼は人間ぎらいにしては珍しい得もいえぬ満足そうなようすをして、それをボタン穴にさしこみ、なにも知らないで眠っているショートに得意気な横目を投げ、また横になりながら、ブツブツといった、「まったく、トム・コドリンは味方なんだよ!」
朝の時刻がだんだんとたっていくにつれ、天幕は前よりもっと華やかで輝くようすをおびはじめ、ながい幾列もの馬車が草地の上を静かにこちらにやってきた。上っ張りと革の|脚絆《きやはん》姿で夜じゅうズーッとぶらつき歩いていた男たちは、魔術使いか大道の売薬業者(道の壇上で演説や手品をして薬を売りつける)になって、絹の長上衣、帽子、羽根毛をつけてあらわれたり、賭博小屋での口の上手な手先として豪華な仕着せ、不法な勝負へのおとりとしてがっちりとした騎馬義勇兵(郷土の子弟をもって組織した)の服を着こんで、登場してきた。黒い目をしたジプシーの女たちははでなハンカチを頭にまきつけてとびだしてきて、運命うらないをし、肺病|病《や》みのような顔をした青ざめたほっそりとした女たちは、腹話術者と魔術使いのまわりにグズグズつきまとって、まだもうけもしないうちに、もう不安そうな目をして、かせぎ高を勘定していた。子供たちはつめこめるかぎりギュッギュッとつめこまれて、よごれと貧困のほかのしるしといっしょに、ろば[#「ろば」に傍点]、荷馬車、馬のあいだにおしこまれ、こうして処理できない子供たちは、複雑に入りこんだ場所を駈けて出たりはいったりし、人びとの脚や車輪のあいだをはいまわり、馬のひづめの下から傷を受けずにノコノコと出てきた。踊る犬、高脚、小さなご婦人と大男、それ以外のありとあらゆる見世物が、無数のオルガンや楽隊づきで、夜をすごした穴蔵や隅のところから湧き出してきて、陽ざしのもとで臆面もなく華をきそうことになった。
きれいに片づいていない道にそって、ショートは一行の先頭に立ち、真鍮のラッパを吹き鳴らし、パンチの声を大いに楽しみながら進んでゆき、トマス・コドリンがそのあとに、いつものとおり、舞台を背負ってつづき、ネリーとおじいさんがおくれがちになっていたので、たえず彼らから目をはなさずにいた。子供は花を入れた籠を腕にかけ、ときどき、オズオズとした遠慮勝ちな顔をして立ちどまり、華やかな馬車のところで花を売ろうとした。だが、気の毒なことに、そこにはもっと大胆なたくさんの乞食、将来の夫を約束するジプシー、その他その道の達人どもがいて、一部のご婦人方は断って頭をふりながらもやさしくほほ笑み、また、わきの紳士に「まあ、なんてかわいい顔でしょう!」と叫んだご婦人もいたが、彼らはこのかわいい顔をやりすごしにし、その顔が疲労や飢えをあらわしているなんぞとは、夢々考えてもいなかった。
だが、ネルのことを理解したひとりの婦人がいた。それは美しい馬車の中でただひとり坐っているご婦人で、たったいまその馬車からおりたばかりの|颯爽《さつそう》とした服を着こんだふたりの青年は、少しはなれたところで,大声で話をしたり笑ったりして、彼女の存在をまったく忘れているようだった。まわりにはたくさんのご婦人方がいたが、彼らは、彼女に背を向けるかそっぽを向くか、例のふたりの青年を(それもきわめて好意的に)ながめたりして、彼女を放りだしにしていた。彼女は、運勢うらないをおしつけようとしているジプシー女を身ぶりで追い払い、もううらないはしてもらった、ここ何年もそれをつづけている、と告げたが、ネルを自分のほうに呼び、彼女の花を受けとって、ふるえている手に金をわたし、おねがい、もう家に帰って、外には出ないように、といいつけた。
何回となく、彼らはながい、ながい道筋をいったりきたりし、馬と競馬以外のすべてのものをながめていた。競馬場からの退去を命ずる鐘が鳴ると、馬車やろば[#「ろば」に傍点]のあいだにひきさがり、暑気が去るまで、二度と外に出てこなかった。また、何回となく、パンチがその真骨頂を発揮して演じられたが、そのあいだじゅうズッとトマス・コドリンの彼らにたいする監視はつづけられ、気づかれずに逃げだすことは不可能だった。
とうとう、昼間もだいぶたってから、コドリン氏は好都合な場所で見世物をはじめ、観客は間もなく見せどころの場面に夢中になって見入っていた。ネルは、そのすぐうしろで老人といっしょに坐って、じつに正直でみごとな競馬の馬がそのまわりに呼びよせる人たちぜんぶを、どうしてこうも浮浪者に仕立ててしまうのだろう、と考えていた。そのとき、その日のことになにかひっかけたショート氏の即席の機知がワッと笑いをひきおこし、そのために、彼女は物思いからハッとわれにかえって、あたりをみまわすことになった。
もし気づかれずに逃げだすとすれば、いまこそそのときだった。ショートは六尺棒を力まかせにふるい、格闘の激しさの中で登場人物を舞台の側面にたたきつけ、人びとは笑いながらそれに見入り、コドリン氏はそのキョロキョロする目で客の手がチョッキのポケットのほうに動き、そこでソッと小銭をさぐっているのをみると、思わずニヤリとおそろしい微笑をもらしていた。もし気づかれずに逃げだすとすれば、いまこそそのときだった。この機会をとらえて、ふたりは逃げだした。
ふたりは屋台店や馬車や人の群れのあいだをとおりぬけ、一度でも足をとめてふりかえろうとはしなかった。鐘が鳴りひびいていて、彼らがなわのところにゆくまでには、競馬場から人は追い払われていた。だが、ふたりは、なわの向うにとびだし、禁断の場所に踏みこんだことにたいしてあげられた叫びや金切り声には気づかず、足早に小山の端の下をはうようにして歩き、開けた野原に向けて進んでいった。
20
毎日毎日、職を得ようとするなにか新しい努力のあとで家にもどる途中、キットは目をあげて、いつもネルにほめていたあの小部屋をながめ、そこに彼女のいることのなにか兆候をみてとろうとしていた。彼自身の強い希望は、彼がクウィルプから受けた保証と結びついて、彼女がまたもどってきて彼が申し出た粗末な避難所を求めるものと彼に思いこませ、毎日の希望がついえ去っても(シェイクスピアの『マクベス』U・ii、三八にある言葉)、またべつの希望が湧き、明日の希望になっていた。
「あの人たちは明日来ると思うよ、どう、母さん?」つかれきったふうに帽子をおしのけ、ため息まじりで、彼はいった。「出ていってからもう一週間になる。一週間以上、たしかに家を空けてはいられないものね、そうだろう?」
母親は頭をふり、もう何回失望感を味ってきたかを彼に思い出させた。
「その点では」キットはいった、「いつも母さんのいうとおり、たしかにほんとう、分別のあることと思うよ、母さん。それにしても、あのふたりにとって、一週間歩きまわってたら、もう十分だと思うね。そうじゃないかな?」
「もう十分だよ、キット、十分以上さ。でも、それだって、帰って来ないかもしれないよ」
こう否定されて、キットは、一瞬、イライラした気分になりかけたが、それは、自分自身でもそう思い、それがどんなに正しいかを心得ているからといって減少するといった筋のものではなかった。だが、このイライラしかけた衝動はただ瞬間的のもの、イライラとした目つきは、部屋をまだグルリとながめまわさないうちに、もうやさしい目つきに変っていた。
「じゃあ、母さん、あの人たち、どうなったと思う? とにかく、海に出たとは思わないだろうね?」
「たしかに、水夫になったりはしてないよ(「海に出る」には、「船乗りになる」の意がある)」ニッコリして母親は答えた。「でも、どこか外国にいったんじゃないかと思わずにはいられないんだよ」
「ねえ」悲しそうな顔をして、キットは叫んだ、「そんな話はしないでよ、母さん」
「そうじゃないかと思うんだよ。そして、それがほんとのことさ」彼女はいった。「それが近所の衆のみんながいってること、ふたりが船に乗ってる姿をみかけたのを憶えてて、その行く先をはっきりいえる人さえいるんだからね。その名はとてもむずかしい名で、わたしは憶えたりはできないんだけどね」
「そんなこと、信じはしないよ」キットはいった。「ひと言だってね。つまらないおしゃべり連中にわかるはずはあるもんか!」
「むろん、まちがってるかもしれないよ」母親は答えた、「その人たちのいうことがいい加減なこととも思えないけど、まあ、なんともわからないことだね。というのも、うわさでは、あのご老人が、だれも知らない、お前があたしに話してたあのきたない小男――名はなんといったっけね――そう、クウィルプさえ知ってない、小金をためてて、それがとられる心配のない、安楽に暮しのできるどこかの外国で暮すために、あの人とネル嬢ちゃんがいっちまったそうだからね。それも考えられないもんでもなしね、どうだい?」
いやいやながらもそう認めずにはいられなくなって、キットは悲しそうに頭をひっかき、古釘のところまでよじのぼって鳥籠をおろし、その掃除をし、鳥に餌をやりはじめた。彼の考えは、この仕事から自分に一シリングくれた小柄な紳士のところにもどっていって、その日があの小柄な紳士がまた公証人の家に来るといっていたちょうどその日――いや、もうその時刻近くになっているのを、いきなりフッと思い出した。それが心に浮ぶとすぐ、彼は大あわてで鳥籠をつるし、自分の仕事のことを急いで話して、全速力で約束の場所にとんでいった。
その場所は彼の家からかなり遠く、そこに着いたとき、もう約束の時間を二分すぎていたが、幸いなことに、小柄の老紳士はまだ到着せず、少なくとも小馬の馬車の姿はあたりにはみえず、こんな短い時間に老紳士がやってきて帰ってしまうとは考えられないことだった。おくれはしなかったのをとてもホッとして、キットは街灯柱によりかかって息をつき、例の小馬と馬車の到来を待っていた。
たしかに、間もなく、小馬が|速歩《はやあし》で通りの角を走ってきたが、その姿は|頑固《がんこ》そのもの、いちばんきれいな場所をみつけている、足をよごしたり、不都合なふうに急いだりは絶対にしないぞ、といったように、気をつけて道を進んできた。小馬のうしろには小柄な老紳士、この老紳士の横には小柄な老夫人が坐り、老夫人は、前にもってきたのとそっくり同じの花束をかかえていた。
老紳士、老夫人、小馬、馬車は、すっかり調子を合せて、街路を進み、公証人の家の数軒前のところまでやってきたが、そのとき小馬は、仕立て屋のノッカーの下にある真鍮の板にごまかされて、停止し、そこがめざす家だ、と|頑強《がんきよう》な沈黙によっていい張った。
「おい、きみ、も少し進んでくれんかね? ここはその場所じゃない[#「じゃない」に傍点]んだからね」老紳士はいった。
小馬はその近くにあった消火栓をすごく綿密な注意を払ってながめ、その観察にすっかり没頭しているようだった。
「まあ、ほんとうにわけわからずのホウィスカーだこと!」老夫人は叫んだ。「その上、いままでとてもいい子で、ちゃんとりっぱにここまでやって来たのに! ほんとに、あの馬、恥ずかしいことね。どうしたらいいのか、わからないわ、ほんとに」
消火栓の性格と質をすっかり調べあげてから、宿敵はえ[#「はえ」に傍点]のあとを追って空中をみあげ、ちょうどそのとき、一匹のはえ[#「はえ」に傍点]が彼の耳をくすぐったので、頭をふり、尻尾を軽くふり、その後すっかり物思いに沈んではいながらも、小馬は、まったく快適、すっかり落ち着き払っているようだった。老紳士は、もう説得力を使い果し、小馬をひこうと馬車からおりた。すると小馬は、おそらく、これを十分な譲歩と受けとったためか、おそらく、たまたまほかの真鍮に目がとまったためか、さらに、おそらくは意地のわるい気分にあふれていたためか、とにかく、老夫人を乗せたままでサッととびだし、めざす家の前でとまり、老紳士はハーハーいいながらそれを追いかけることになった。
小馬の前にキットが姿をあらわし、ニッコリとし、手を帽子のところにあげて挨拶したのは、ちょうどそのときのことだった。
「いやあ、驚いたぞ」老紳士は叫んだ、「あの少年がここに[#「ここに」に傍点]きているぞ! お前、わかったかい?」
「ここに来ると約束したんです」ホウィスカーの首を軽くたたきながら、キットはいった。「気分よくひと走りなさったのでしょうね、旦那さま? とてもおとなしい小馬です」
「お前」老紳士はいった。「これは珍しい少年だ。きっといい子だろう」
「ええ、きっといい子よ」老夫人は答えた。「とってもいい子、それに、きっといい息子よ」
キットは帽子に手をあげ、ひどく赤くなって、この夫婦の信頼の表示に答えた。ついで、老紳士は手を貸して老夫人を馬車からおろし、賞賛の微笑で彼をながめたあとで、ふたりは家にはいっていった――そうしながら、自分の話をしているらしい、とキットは感じずにはいられなかったのだが……。やがて、ウィザーデン氏が、花束を一生けんめいかぎながら、窓辺にやってきて彼をながめ、その後エイベル氏がやってきて彼をながめ、その後老紳士と夫人がふたたびやってきて彼をながめ、その後、全員やってきて、そろって彼をながめたが、キットはそれでもうすっかりドギマギして、それに気づかないふりをしていた。そこで、彼はいっそう激しく小馬をポンポンとたたくことになり、小馬はこの勝手な仕打ちをいとも寛大に許していた。
顔が窓のところから消えると間もなく、勤め用の上衣を着こみ、木釘から落ちてきたのを頭で受けとめたそのままの格好といったふうに帽子をかぶって、チャクスター氏が舗道の上に姿をあらわし、家の中で呼ばれてるぞ、そのあいだ、馬車の世話は自分がみる、とキットに告げた。こうして指示を彼に与えながら、チャクスター氏は、彼(キット)が「すごく|初心《うぶ》」か「すごく陰険」かがわかったらありがたいのだが、といい、信用できないといったふうに頭をふって、自分としては後者の意見をとりたい、と話していた。
キットは、からだをブルブルとふるわせて、事務所にはいっていった。見知らぬ紳士淑女の中にはいっていくことには馴れず、ブリキの箱やほこりっぽい書類の束は、彼の目には、おそろしくいかめしいものに映ったからだった。ウィザーデン氏はまた、大声で早口にまくし立てるいそがしそうな人物で、すべての目は、このウィザーデン氏の上にそそがれ、彼は、とてもきたない格好をしていた。
「うん、坊や」ウィザーデン氏はいった、「きみはあの一シリングののこり仕事をしにやってき――もう一シリングもらおうというんじゃないんだね?」
「ええ、そうじゃありません」勇気をふるいおこして目をあげ、キットは答えた。「そんなこと、考えたこともありません」
「父さんは生きてるのかね?」公証人はたずねた。
「死にました」
「母さんは?」
「生きてます」
「再婚したんかね?」
キットは、多少怒気まじりに、母親は三人の子供をかかえた後家、母親の再婚に関しては、あなたが母親を知ってたら、そんなことは考えもしないだろう、と答えた。この応答に接すると、ウィザーデン氏はふたたび鼻を花束の中に埋め、花束のうしろで、この少年はとても正直者だ、と老紳士に耳打ちした。
「さて」それ以上いくつか質問をしたあとで、ガーランド氏はいった。「わしはきみになにもやるわけじゃないが――」
「ありがとうございます」キットは答えたが、これはほんとうに本気の答えだった。公証人が暗に当てつけていった疑惑から、この言葉で自分が解放される、と思ったからである。
「――しかし」老紳士は話しつづけた、「たぶん、もっときみについて知りたいことになるだろう。だから、きみの住所を教えてくれたまえ。手帳にそれを書きとめておくことにしよう」
キットは住所を知らせ、老紳士は鉛筆で宛て名を書きしるした。彼がそれを終るか終らないかに、街路ですごいさわぎが起り、急いで窓辺にいった老夫人が、ホウィスカーが走っていってしまった、と叫んだ。それを聞くと、キットは救援にとびだし、ほかの者が彼につづいた。
どうやら、チャクスター氏は両手をポケットにつっこんだままで立ち、無造作に小馬をながめ、ときどき、「ジッとしてるんだ」――「静かにしてろ」――「ほうれ!」といった注意の言葉で彼に侮辱を加え、これは気概のある小馬には我慢ならぬものとなったらしい。そこで、小馬は義務や服従という観念にはいささかもわずらわされず、目の前に人間の目という心配は少しももっていなかったので、とうとうとびだし、ちょうどその瞬間に街路をガラガラと走り――チャクスター氏は帽子をふっとばし、耳にペンをはさんで、馬車のうしろにぶらさがり、みている者全員を得もいえぬほど驚嘆させて、馬車をひきもどそうとむだな努力をしていた。だが、逃げだすことでも、このホウィスカーは臍まがりだった。というのも、まだそう遠くまでいかないうちに、彼は急にとまり、援助の手がさしだされぬうちに、前進とほとんど同じくらいの速度で後退しはじめたからである。こうしたやり方でチャクスター氏は、面目まるつぶれの状態で、ふたたび事務所にグイグイッとおしもどされ、ヘトヘトになり、ひどく|狼狽《ろうばい》して、そこに到着した。
ついで、老夫人が座席に乗りこみ、エイベル氏(老夫妻はこの彼をつれにきたのだった)も乗りこんだ。老紳士は、小馬の不作法な態度について小馬にお説教をし、チャクスター氏にはできるだけのつぐないをしてから、自分の座席に乗り、公証人とその書記に別れの手をふり、道路に立って見送っているキットのほうに何度もふり向き、やさしくうなずいて、馬車を走らせていった。
21
キットは向きを変えてそこを立ち去り、彼の物思いの源泉になっている前の主人とその美しい孫娘はどうなったことだろうと考え、小馬、馬車、小柄な老夫人、小柄な老紳士、その上に小柄な若い紳士のことを、間もなく忘れてしまった。ネルと老人が姿をあらわさないことを説明するなにかもっともな理由をまだあれこれと思いめぐらし、きっとすぐにもどってくるとわが心に説きつけて、彼は足を家のほうに向け、老紳士との契約をいきなり思い出して放りだしにしたままになっていた仕事にけりをつけ、それからもう一度家からとびだし、その日の仕事の運だめしをしてみようと考えていた。
彼が住んでいる路地の角にやってくると、これは驚いたこと、また目の前に例の小馬がいた! そう、たしかに小馬がいて、前よりもっと頑固な気配をみせ、馬車でただひとり、小馬のすべての目ばたきをしっかりと監視して、エイベル氏が坐っていた。このエイベル氏は、偶然フッと目をあげて、キットのとおっていく姿をみかけ、頭がぬけそうになるくらいのすごい勢いで、彼にうなずいていた。
この小馬の姿をながめ、しかも、それが自分の家のとても近くだったので、キットはびっくりはしていたが、なんの目的で小馬がそこにやってきたのか、老夫人と老紳士がどこにいってしまったのか、ぜんぜん考えてもいなかった。が、とうとう、ドアの掛け金をあげて家の中にはいったとき、この夫妻が自分の家の部屋に坐り、母親と話しこんでいるのをみた。この思いもかけぬ光景に接して、彼は帽子をぬぎ、多少狼狽の色を示して、できるだけきちんとお辞儀をした。「クリストファー、われわれは、こうして、きみより先にここに来たんだよ」ニッコリして、ガーランド氏はいった。
「はい、そうです」キットはいい、そういいながら、この訪問の説明をしてもらおうと、母親のほうをみた。
「この紳士の方はとてもご親切でね、お前」この無言の質問に答えて、彼女はいった、「お前がいいとこにつとめてるのか、いや、どこかにつとめてるのか、とたずねてくださってね、いいえ、どこにもつとめてはいません、とお答えすると、ご親切にも――」
「われわれの家でいい少年がほしくてね」老紳士と老夫人は声をそろえていった、「すべての条件がこちらの希望どおりのものだったら、そのことを考えてもいい、といっていたのだよ」
この考えるというのは、明らかにキットをやとうのを考えるということだったので、キットは母親といっしょに心配しはじめ、ひどくドキドキしていた。この小柄な老夫婦は、とてもきちょうめんで用心深く、いろいろの質問を数多く浴びせたので、彼はもう採用されるみこみはないものと考えだしていた。
「おわかりですことね」ガーランド夫人はキットの母親にいった、「こうしたことでは、とても注意し、うるさく考えなければならないのです。わたしたち一家は三人だけ、とても静かなまともな人間なのです。なにかまちがいをして、ことが思いもかけないことになり、期待はずれになったりしたら、悲しいことですものね」
これにたいして、キットの母親は、それはまったくそのとおり、まったく当然のこと、まったく正しいこと、自分なり息子なりの評判についての質問をしりごみしたり、しりすごみする筋があるなんて、とんでもないこと、母親の口からいうのもなんだが、息子はとってもりっぱな息子、その点で、思いきって申しあげれば、息子は父親似、その父親はその[#「その」に傍点]母親にたいしてりっぱな息子であったばかりでなく、最高の夫、その上最高の父親、自分は知ってるが、それはキットが確証できるし、それをすることでしょう、チビのジェイコブや赤ん坊だって、もっと齢がいっていたら、同じことをすることでしょう、ところが、残念なことに、まだそうした齢にはなってない、小さな子供たちは自分たちがどんな損害を受けたかは知っていないので、いまのように|年端《としは》いかぬほうがズッといいのでしょう、といった具合いに、エプロンで目をぬぐい、チビのジェイコブの頭を軽くたたいて、ながい話を結んだが、ジェイコブは揺り籠の中でユラユラとし、カッと目を見開いて、見知らぬ貴婦人と紳士をにらみつけていた。
キットの母親の話が終ると、老夫人がまた口をつっこみ、キットの母親がとても正直で、とてもきちんとした人物であるのはわかっている、そうでなかったら、そうしたふうに自分の考えを述べたりはしなかったろう、たしかに子供のようすと家の清潔さは、大いに賞賛すべきもので、そこの主婦には最高の名誉になる、と述べ立てた。それを聞いて、キットの母親はちょっと腰を落してお辞儀をし、晴れ晴れとした思いを味っていた。ついで、この善良な女は、生れたときから現在におよぶキットの生涯と歴史の微に入り細をうがったなが話をはじめ、まだいたいけない子供のころ、裏の居間の窓から彼が奇跡的にも落っこちたこと、はしかにかかって彼がふつうにないほどひどく苦しんだことまで、きちんと述べ立てた。このはしかの状態は、キットが、日夜、焼きパンと水を求め、「母さん、泣いちゃいけないよ、ぼくはすぐによくなるからね」といった痛ましいようすの身ぶり、手ぶりの正確な真似まで入れて語られ、その言葉にうそのないことは、角をまがったとこにいるチーズ商の家の下宿人グリーン夫人、イングランドやウェイルズのさまざまな場所にいるいろいろとほかの淑女紳士(いま東インドで伍長になっていると考えられ、もちろん、たいした苦労もなくさがしだすことができるブラウン氏も加えて)にたずねてみればわかること、そうした人たちが見聞きしているところで以上の事態は起きたのだから、ということだった。この話が終ると、ガーランド氏は、キットの資格と身につけた一般の技術についてキットに直接いくつかの質問をし、一方ガーランド夫人は、子供たちのことに気づき、キットの母親からそれぞれの子供の誕生にともなういくつかの注目すべき事実を聞き、自分自身の息子エイベルの誕生にともなったいくつかほかの注目すべき事実を語った。こうしたことから、キットの母親と彼女自身は、事情や齢はちがうにせよ、ほかのどんなすべての女にもまして、いや、それ以上に、特に危険とおそろしさにとりかこまれてきたように思われる、ということになった。最後に、キットの衣裳の性質と程度について質問が出され、わずかの前わたし金でその衣裳の補充をおこなうことになり、食事と住居代はべつにして、年六ポンドの給料で、フィンチリーのエイベル荘のガーランド夫妻によって、キットは正式にやとわれることになった。
このとりきめで、どちらがもっとよろこんでいたかを決めるのは困難なことだろう。この話がとりきめられて示されたものは、ただ双方の側でのうれしそうなようすと明るい微笑だけだったからである。キットが自分の新しい場所に翌々日の朝にゆくことに話が決まり、チビのジェイコブと赤ん坊にそれぞれ輝く半クラウンを与えてから、小柄な老夫婦は、新しい使用人に街路まで護衛されて、最後の別れを告げることになった。キットは、夫妻が座席に乗りこむあいだ、頑固者の小馬を手綱でおさえ、彼らが馬車で去っていくのを晴れやかな気分で見送っていた。
「うん、母さん」急いで家にもどっていって、キットはいった、「これでもうぼくの運命はしっかりしたものになったようだね」
「まったくそうと思うよ、キット」母親は答えた。「年に六ポンドだなんて! ほんとうに考えてみてごらん!」
「ああ!」こうした巨大な金額を考えるのに必要な重々しい態度をくずすまいとしながら、われにもあらず、よろこびでニヤリとして、キットはいった。「ひと身代だ!」
こういったとき、キットはフーッとながく息をすいこみ、それぞれのポケットに一年の俸給がはいっているように、ポケットに深く両手をつっこみ、母親をながめたが、それはまるで、母親をとおして向うにある将来の莫大なソヴリン金貨をみているようなふうだった。
「うまくいったら、母さん、母さんを日曜日にはすごい貴婦人に仕立ててやるよ! ジェイコブをすごい学者に、赤ん坊をすばらしい子供にしてやり、ジェイコブには二階にすごい部屋をつくってやるんだ! 一年に六ポンドだなんて!」
「エヘン!」見知らぬ人声がしわがれ声でいった。「年に六ポンドって、それはなんのことだい?」この声がこうたずねたとき、ダニエル・クウィルプがうしろにリチャード・スウィヴェラーをしたがえて部屋にはいってきた。
「キットが年に六ポンドもらうって、だれがいってるんだ?」あたりを鋭くみまわして、クウィルプはいった。「老人がそういったのかね? かわいいネルがそれをいったのかね? それに、なんのためにキットがそれをもらうんだね? 彼らはどこにいるんかね?」
善良な女のキットの母親は、この見知らぬ醜悪な怪物の突然の出現ですっかりおびえ、急いでゆり籠から赤ん坊を抱きあげ、部屋のいちばん奥のところにひきさがった。一方、チビのジェイコブは、両手を膝に乗せて背なしの椅子に坐り、ワッワとわめきっぱなしで、なにか魅せられたように、穴のあくほど彼をジッとみつめていた。リチャード・スウィヴェラーは、クウィルプ氏の頭越しに、楽々と家族全員をみわたし、クウィルプ自身は、両手をポケットにつっこみ、自分がひきおこしたこの騒動をすごく楽しんでニヤリニヤリとしていた。
「おびえることはないよ、おかみさん」ちょっと間をおいて、クウィルプはいった。「あんたの息子とおれは知り合いなんだ。赤ん坊を食ったりはせんよ、そいつは好きじゃないんだからな。だが、あのキーキーわめいてるやつは、泣かせないほうがいいぞ、この調子じゃガンと一発やりたくなってくるからな。おい、きみ! 静かにせんか?」
チビのジェイコブは、目からしぼりだしていた涙の流れをおさえ、即座にものいわぬ恐怖状態におちこんでいった。
「この野郎め、二度とわめいたりはするな」きびしくジェイコブをにらみつけて、クウィルプはいった、「さもなきゃ、こわい顔をして、ふるえあがらせてやるぞ、きっとな。さて、きみ、どうして約束どおりおれんとこに来なかったんだい?」
「なんのためにいく必要があるんです?」キットはやりかえした。「ぼくはそちらに用がないんですからね、そちらでもこちらに用がないようにね」
「さあ、おかみさん」サッと向きを変え、キットから彼の母親のほうに話をうつして、クウィルプはいった。「最近あいつの老旦那がここにやってきたり、使いをよこしたのはいつのことかね? いま、ここにいるんかい? いないとしたら、どこにいったんだい?」
「ここに来たことは、一度もありませんよ」彼女は答えた。「あの人たちがどこにいったか、知りたいとは思ってますがね。知ってれば、息子も、それにあたしも、ほんとうに安心しますからね。もしあんたがクウィルプさんという人なら、あんたが知ってる、とこちらじゃ思ったことでしょうよ。現に、きょうも、息子にそういってたんですからね」
「フン!」クウィルプはつぶやいたが、この話を事実と信じてがっかりしているのは明らかだった。「この紳士の方にも、きみはそう話すわけだな、えっ?」
「あの紳士の方が同じことをききにここにおいでなら、そうとしかいえませんよ。返事ができたら、ほんとにいいんですがね、わたしたち自身のために」がそれにたいする応答だった。
クウィルプはチラリとリチャード・スウィヴェラーのほうに目をやり、戸口のところで出逢ったんだから、この男も逃亡者のなにか情報をさぐりにやってきたもんと考えてる、そうなんだろう? といった。
「そうだよ」ディックはいった、「この遠征の目的はそこにあったんだ。ひょいとしたらと|考えて《フアンシー》いたんでね――だが、|浮気心《フアンシー》のともらい鐘(シェイクスピア『ヴェニスの商人』V・ii、七〇にある言葉)を打ち鳴らすことにしよう。ぼくが[#「ぼくが」に傍点]そいつをはじめるぞ」
「がっくりしたようだな」クウィルプはいった。
「がっくり、がっくり、ただもうそれだけ」ディックは答えた。「ある投機をはじめたんですがね、そいつががっくり来ちまったんですよ。そして、輝きと美の存在がチェッグズの祭壇に|犠牲《いけにえ》としてささげられることになるでしょうよ。それだけのことです」
小人は、皮肉な微笑を浮べてリチャードを子細にながめていたが、友人といっしょにそうとうこってりとした昼食をとってきたリチャードは、クウィルプをみたりはせず、痛ましい落胆のようすで、自分の運命を嘆きつづけていた。この訪問と彼の異常な悲嘆ぶりにはなにか秘密の理由がひそんでる、とクウィルプははっきりとみてとり、その下には悪事の種になることがあるかもしれない、と考えて、それをひとつさぐりだしてやろう、と決心した。こう決心するやいなや、彼としてはできるだけ正直そうなふうを顔に浮べ、ひどくスウィヴェラー氏に同情を寄せることになった。
「このおれだって、がっかりしてるんだよ」クウィルプはいった、「彼らにたいする友情からだけでもね。だが、こうしてがっかりしてるきみには、ほんとの理由、なにか個人的な理由がきっとあるんだろう。だから、おれよりもきっと、それが応えてるんだ」
「いやあ、もちろん、応えてますよ」イライラして、ディックはいった。
「まったく、とても気の毒、とても気の毒に思ってるよ。おれだって、そうとう気落ちしてるんだからな。おれたちは不幸の仲間、それを忘れる確実この上ない方法の点でも、ひとつ仲間にならんかね? もしなんか特別に用があってよそにいかなければならんというのじゃなかったらな」ディックの袖をひき、目の隅から狡猾にその顔をみあげて、クウィルプはいった、「川べりに店があってね、そこでは最高級のスキーダム(オランダの有名な酒の産地)産のオランダジン――うわさによれば密輸品、だが、そいつはここだけの話――が飲めるんだ。そこのおやじはおれと知り合いさ。川をみおろしてるあずまやがあって、そこで最高のタバコをふかしながら――そのタバコはこのケースの中にあり、たしかに珍品なんだ――おいしい酒をいっぱいやり、その気になりゃあ、非の打ちどころのないふうに気分よく幸福感を味えるんだよ。それとも、どうしてもよそにいかなけりゃならん特別な約束でもあるんかね、えっ、スウィヴェラー君?」
小人が話しているうちに、ディックの顔はゆるんでやさしい微笑になり、寄せられた眉はゆっくりとほどけてきた。クウィルプの話が終るまでに、ディックは、クウィルプが彼をみあげているのと同じように、狡猾にクウィルプをみおろし、のこることといえば、ただ問題の店にゆくばかりになった。ふたりは、これをすぐにおこなった。彼らが背を向けて出発するやいなや、チビのジェイコブの緊張の霜はとけ、クウィルプが彼を凍らせた泣き声のつづきをまた泣きはじめた。
クウィルプ氏が話したあずまやは、くさったむきだしのボロボロの小屋で、川の泥の上にかぶさり、いまにもそこにのめりこもうとしていた。その|主家《おもや》になっている酒場は、ねずみ[#「ねずみ」に傍点]の被害を受けて、ヨタヨタのこわれかかった建物、壁におしつけてささえになっている大きな材木でようやく立ち、そのささえの材木までながい使用でくさりかけ、重荷におしつぶされそうになっていた。その結果、風の強い夜には、キーキーミシミシという音がひびき、建物ぜんぶがよろめいて倒れそうな気配をあらわしていた。この家は工場の煙突のはきだす有害な煙でいためつけられ、鉄の|舵輪《だりん》の出す金属音と波立ちさわぐ水の突進を|木魂《こだま》している荒地の上に立っていた――こうして老いて弱り果てたものが立っているということができるならばの話だが……。内部の装備も、外部からみての推測を十分に裏書きするものだった。部屋は天井が低くて湿気をおび、ジトジトした壁は割れ目と穴だらけ、くさった床はもともとの高さよりさがり、|梁《はり》そのものまではずれて、小心な者には、その近くには寄らないようにと警告を与えていた。
この心をさそう場所に、とおりながらそこの美しさをしっかりみておいてくれといって、クウィルプ氏はリチャード・スウィヴェラーを案内し、多くの絞首台やら頭文字を深く刻みつけられたこのあずまやのテーブルの上に、ご自慢の酒をいっぱいに満した木の小だるが間もなく姿をあらわした。手馴れたたくみな手つきでそれをつぎ、三分の一ほどの水をそれにまぜてから、クウィルプ氏は、リチャード・スウィヴェラーに酒をわたし、古めかしい傷だらけのカンテラの中にあるろうそくの端からパイプに火をつけ、座席にしっかりと坐りこんで、パイプをプカプカとふかしはじめた。
「おいしいですかな?」リチャード・スウィヴェラーが舌打ちをしたとき、クウィルプはいった。「強くて燃えるようですかね? それにひるみ、むせ、目からは涙が流れ、息が切れるんですかね――どうです?」
「どうですかですって?」コップの中の酒を一部投げすて、水で割りながら、ディックは叫んだ、「いやあ、きみ、こんな火のような酒をきみは飲んでるというつもりはないんでしょうな?」
「つもりはないですと?」クウィルプは答えた。「それを飲まんのですと? ほーら。それに、ほーら。もう一度ほーら。それを飲まんのですと?」
こういいながら、ダニエル・クウィルプは酒をつぎ、|生《き》のままの酒を小さなコップに三杯立てつづけにのみ、ついで、おそろしく顔をひきゆがめて、パイプを何度も何度もすい、煙をそのまま飲みこんで、それを鼻から濃い雲にして吹きだした。この放れ業をやってのけてから、彼は以前の姿勢にもどってどっかと坐り、ワーワーと大声で笑いだした。
「さあ、乾杯だ!」拳と肘を交互にたくみに使ってテーブルで歌の調子らしき音を立てながら、クウィルプは叫んだ、「女、美しい女だ。おれたちの乾杯の対象になる女をえらび、最後のひと|滴《しずく》まで飲み乾すことにしよう。さあ、その女の名を教えてくれ!」
「名前がほしいんなら」ディックはいった、「ソフィ・ワックルズという名があるよ」
「ソフィ・ワックルズ」小人はキーキー声でどなった、「ソフィ・ワックルズ嬢、というのは――将来のリチャード・スウィヴェラー夫人――将来のね――ハッ、ハッ、ハッ!」
「ああ!」ディックはいった、「数週間前だったら、それもいえたんだがね。だが、いまはだめさ、意気のいい|伊達《だて》男君。チェッグズの|社《やしろ》の|犠牲《いけにえ》になって――」
「チェッグズに毒を盛り、チェッグズの耳を切りとってやるんだ」クウィルプは答えた。「チェッグズなんていう名は聞きたくもないぞ。彼女の名は、スウィヴェラーにあらずんば無だ。彼女の健康を祝ってもう一度乾杯、そしてそのおやじ、おふくろ、姉妹、兄弟――ワックルズの輝かしい一族――一杯の杯で全ワックルズに乾杯――杯の底まで乾杯だ!」
「うん」杯を口にまでもっていこうとして、途中で手をとめ、小人が両腕と両脚をふりまわしているとき、この彼をちょっと|朦朧《もうろう》としてながめながら、リチャード・スウィヴェラーはいった、「きみは陽気な男だな。だが、ぼくが会ったり聞いたりしたすべての陽気な男の中で、きみはいちばん奇妙な、いちばん風変りな癖をもったやつだぞ――たしかに、まちがいなし、そうだぞ」
この率直な宣言は、クウィルプ氏の異常さを抑制するというより、むしろ増大させることになり、リチャード・スウィヴェラーは、相手がこうした酔狂なさわがしい気分になっているのをながめ、自分もつき合いでそうとうきこしめして――それと気づかぬうちに前よりもっと打ち解け、打ち明け話をするようになった。その結果、クウィルプ氏によって慎重に誘導されて、彼は最後にはすっかり打ち明け話をすることになった。彼をこの気分に一度ひきこみ、とまどっているときにはいつでも、ふれるべき基調をすっかり心得ていたので、ダニエル・クウィルプの仕事はやすやすと達成できることになり、間もなく、このお人好しのディックと彼のもっと腹黒い友人のあいだでたくらまれていた計画の|逐一《ちくいち》を、クウィルプはすっかりにぎることになった。
「やめ!」クウィルプはいった。「それなんだ、それなんだ。そいつはでかすことができるし、でかしてもやるぞ。さあ、これが約束の握手だ。これから先、おれはきみの味方だぞ」
「えっ! まだみこみがあると思ってるんかね?」この激励にびっくりして、ディックはたずねた。
「みこみだって!」おうむ[#「おうむ」に傍点]がえしに小人はいった、「確実なことさ! ソフィ・ワックルズはチェッグズなり、ほかの好きなどんなものになったって構いはせん。だが、スウィヴェラーになったりはせんぞ。ああ、きみは運のいいやつだ! あの老人はこの世のどんなユダヤ人より金持ちなんだからな。きみは成功者だ。きみはもう、まさに金貨と銀貨の中に埋まって暮してるネリーの旦那だ。手を貸してやるよ。そいつはやるとも。いいかね、そいつはかならずやってやるよ」
「だが、どんなふうに?」ディックはたずねた。
「時間は十分にある」小人は答えた、「そいつはやるとも。さあ、坐って、そのことをズーッと相談することにしよう。おれのいってるあいだ、酒は遠慮なくやってくれたまえ。すぐに――すぐにもどってくるからな」
こうしたあわただしい言葉をのこして、ダニエル・クウィルプは酒場のうしろの設備をとりのぞいてしまったスキトル遊戯場(スキトルは、九本のとっくり形の柱をならべ、球をころがしてこれを倒す遊戯。九柱戯ともいう)にひきさがり、身を地面の上に投げだして、おさえきれないよろこびでキーキーと叫びながら、ころがりまわっていた。
「これはおもしろくなったぞ!」彼は叫んだ、「計画も準備もあちらまかせ、さあ楽しんでくださいとばかりさしだされたようなおもしろいことだぞ。こないだおれの骨をズキズキと痛ませやがったのは、あの薄のろ野郎だったんだ。えっ、そうだったんかい? クウィルプ夫人に色目を使い、横目を流してみてやがったのは、あいつの友人でこの陰謀の相棒、トレント君だったんだ。えっ、そうだったんかい? このごりっぱな計画で二、三年骨を折ったあと、最後には乞食を手に入れ、そのうちのひとりは生涯の監獄生活(負債者監獄が当時ロンドンにあった)にたたきこまれてるのがおち[#「おち」に傍点]になるわけだ。ハッ、ハッ、ハッ! やつにはネルと結婚させてやるさ。ネルを手に入れ、縁がしっかりと結ばれたら、やつらがどんなものを手に入れ、おれが手を貸してものにしてやった|代物《しろもの》がどんなもんか、そいつを教えてやる皮切り役は、おれがひとつつとめることにしよう。これで、古い勘定の清算がすむというわけだ。これで、どんなにすばらしい友人だったか、女相続人に|婿入《むこい》りするのに、おれがどんなに助けてやったかを思い知らせてやるときがやって来るんだ。ハッ、ハッ、ハッ!」
この有頂天の絶頂のところで、クウィルプ氏は感じのわるい妨害にぶつかりそうになった。こわれた犬小屋のすぐそばまで転がっていったとき、大きな猛犬がとびだし、鎖がひどく短いものでなかったら、感じのよくないご挨拶を彼にするところだったからである。ところが、まあ、鎖が短いものだったので、小人は文句なく安全地帯でひっくりかえり、おそろしい面相をして犬をののしり、犬との距離は二フィートもなかったのだが、犬がそれ以上少しも進めないのに、ざまあみろとばかり、意気揚々と|凱歌《がいか》をあげていた。
「どうしてここにやってきて、おれに噛みつかないんだ? どうしてここにやってきて、おれをバラバラに噛み切らないんだ、この臆病|者《もん》め?」犬の気がくるいそうになるまでののしり立てて、クウィルプはいった。「お前はおっかないんだ、このあばれ|者《もん》め、お前はおっかないんだ、お前はそれを承知してるんだ」
犬は目をむき、すごい勢いで吠え立て、鎖に噛みつき、それをひっぱったが、小人は挑戦と軽蔑の姿勢をとり、パチンパチンと指を鳴らして、目の前に横たわっていた。このよろこびから十分に冷静をとりもどしてから、彼は立ちあがり、両手を腰に当てて肘を張り、犬小屋のまわりの鎖のとどくスレスレのとこで一種の悪魔踊りをし、犬を狂乱状態におとしこんだ。こうした方法で心を落ち着け、快い気分になって、彼はなんの疑念もいだいていない仲間のところにもどっていったが、そこで彼がみたのは、ひどく深刻な顔をして湖をジッとみつめ、クウィルプ氏が語ったあの金銀の財宝を考えこんでいるスウィヴェラーの姿だった。
22
その日ののこりとその翌日のぜんぶは、ナッブルズ一家にとってあわただしい時間だった。この一家の目からみれば、キットの装備と出発に係わり合いのあるすべてのことは、まるで彼がアフリカの奥地に探検にゆくか、世界一周の巡航に出るかのように、重大な事柄だったからである。この二十四時間ちゅうに、彼の衣裳と必要品を入れたトランクほど何回も開かれたり閉じられたりしたトランクは、まずないことだろう。たしかに、チビのジェイコブのびっくりしている目に映った三枚のシャツとそれに釣り合う靴下やハンカチの装備品を入れたこのたくましい箱ほどの衣裳の宝の山は、このふたつの小さな目には絶対に示されたことのないものだった。とうとうそれは運送屋の店に運ばれ、フィンチリーにあるその店に、翌日、キットがそれをとりにいくことになった。トランクが姿を消すと考慮すべきふたつの問題がのこっていた。第一の問題は、このトランクを運送屋が道中で失うか、失ったふりをしないかということ、第二の問題は、息子がいなくなったらキットの母親が身のふり方をきちんと心得ているかということだった。
「運送屋がほんとうにそれを失くしちまう心配はまずないと思うんだけど、たしかに、失くしちまったというふりをする大きな誘惑はあるんだからね」第一の問題に関して、ナッブルズ夫人は心配そうにいった。
「そいつはたしかですね」真剣な顔になって、キットは応じた。「まったく、母さん、あれを預けっぱなしにしたのは、よくなかったな。だれかがそれについていくべきだったんじゃないのかな」
「もうどうにもしようはないよ」母親はいった。「でも、こうしてまかしたりしたのは、バカなこと、まちがってたね。人を誘惑したりしてはいけないんだからね」
|空《から》のトランクはべつにして、運送屋の心を誘惑したりすることなんぞ、今後は絶対にすまい、とキットは心に誓った。こうしたいかにもキリスト教徒らしいりっぱな決心を固めてから、彼は思いを第二の問題にめぐらしていった。
「いいですか、母さん、しっかりと元気を出して、ぼくがいないからといって、さびしがったりしてはいけませんよ。たぶん、ロンドンにやってきたときには、ときどき家に立ち寄れるでしょうし、ときには手紙も出しますよ。四半年がやってきたら、もちろん、休日を一日もらえるんです。そしたら、まあ、みてなさい、きっとチビのジェイコブを芝屋につれてって、かき[#「かき」に傍点]がどんなものか知らせてやりますよ」
「お芝居が罪深いもんでなかったらいいんだがね、キット。でも、あたし、ちょっと心配だよ」ナッブルズ夫人はいった。
「だれがそんなことを母さんの頭につめこんでるか、知ってますよ」やるせなさそうに息子は答えた。「また、|礼拝所《リトル・ベセル》(非国教徒の礼拝所。ベセルは神の家の意)なんですね。いいですかね、どうかあそこにはきちんきちんといったりはしないでくださいよ。もし万一、家をいつも明るくしてきた母さんの上機嫌な顔が悲しげなもんになり、赤ん坊までが悲しそうなようすをするようにしこまれ、自分のことを齢いかぬ罪人と呼び(その心に幸あれ)、悪魔の子(それは死んだ父さんをあしざまにののしること)と呼んだりするようになったら、こんなふうになるのをながめて、チビのジェイコブが同じように悲しそうなふうをしているのをみたら、ぼくは、それですっかり悲しくなり、きっと志願して兵隊になり、自分のほうにとんでくる最初の大砲の弾にこちらから頭を出してぶつかっちまいますよ」
「まあ、キット、そんな話、しちゃいけないことよ」
「いや、母さん、ほんとうにぼくはそうしたいんですよ。みじめでわびしい思いをぼくにさせたくなかったら、あの母さんのボンネット帽の蝶結びは、つけたまんまにしといてください。先週、それをはずしちまおうという気になってたんですからね。貧乏ながらもできるだけ陽気なふうをして、陽気になってることに、なにかいけないことでもあると思ってるんですか? こんどのりっぱな就職の仕方に、ぼくが泣き声を出して|悔《く》いたふりをし、厳粛にし、ヒソヒソ話をする人間になり、まるでどうしてもといったようにコソコソと歩きまわり、じつに不愉快な殊勝な鼻声で自分の考えを述べなければならない、なにかことでもあるんですか? それとは逆に、陽気になっちゃいけない理由は、ぜんぜんないと思いますよ。ほれ、聞いてごらんなさい! ハッ、ハッ、ハッ! これのほうが歩くのと同じように自然、同じように健康にいいんじゃありませんかね? ハッ、ハッ、ハッ! これのほうが、羊の鳴き声、豚のうなり声、馬のいななき、鳥の歌のように、自然なもんじゃありませんかね? ハッ、ハッ、ハッ! どうです、母さん?」
キットの笑いには、なにか伝染性のものがあった。前には深刻な顔をしていたキットの母の顔は、まず微笑の段階にうつり、ついで勢いよくその笑いに加わったからである。それは、それが自然なものと知っていた、とキットに語らせ、さらに彼を笑わせることになった。キットと母親はいっしょにかなり大声で笑ったので、赤ん坊の目をさまさせることになり、赤ん坊は、なにかとても楽しく感じのいいことが進行ちゅうと知って、母親の両腕に抱きあげられるとすぐ、すごい勢いで足を蹴っとばし、笑いはじめた。こうして新たに自分の議論が実証されたことがキットをよろこばし、その結果、彼はフウフウいって椅子でのけぞりかえり、赤ん坊を指さし、腹をねじり、ふたたびからだを前後にゆすることになった。二、三度笑いがおさまり、そのたびにまた笑いのぶりかえしを味ってから、彼は目をぬぐい、食前の祈りをささげ、このとぼしい夕食はとても陽気な食事になった。
旅に出発して富裕な家庭をあとにする多くの若い紳士ならとても起り得ないと考えるほどのキスと|抱擁《ほうよう》と涙の|愁嘆場《しゆうたんば》を演じてから(もしこうした低俗なことをここで書けるものならの話だが)、キットは、翌朝早く家を出発、フィンチリーに向けて歩いていった。そして、彼は心中、いま自分があの|礼拝堂《リトル・ベセル》の会衆のひとりになっていたら、このはでな姿のためにそこからは破門されてしまうだろう、とほこらかな気分にひたっていた。
キットの衣裳がどんなものだったのだろうとだれかに好奇心を湧かされると困るから、つぎのことを簡単に申しあげておくことにしよう。彼はどんな仕着せも着てはいず、霜降りの上衣、カナリア色のチョッキ、鉄灰色の下着を着こみ、こうした輝かしい美服のほかに、新しい編みあげ靴とひどくコチコチのテラテラした帽子を着用におよんでいた。この帽子は、指の関節でどこをたたいても、太鼓のようにコツンコツンと鳴りひびくものだった。こうした服装をし、人目をそうひかずにいるのに内心そうとうびっくりしながら、それは早起きする人びとの鈍感さによるものと考えて、彼はエイベル荘に向けて進んでいった。
道中、むかしの自分そっくりのふちなし帽子をかぶった少年に出逢い、その子にもっていた三ペンスの|金子《きんす》を授与した以外にはべつにこれといった事件もなく、キットはやがて運送屋の店に着き、これは人間性の永遠の名誉になることだが、トランクが無事にそこに到着しているのを知った。このけがれを知らぬ清らかな男の妻からガーランド邸への案内を受けて、彼はトランクを肩に乗せ、そこに直行した。
たしかに、そこはかや[#「かや」に傍点]ぶき屋根の美しい小さな小屋で、切り妻の端には小さなとがった屋根がつき、窓の一部には、紙入れくらいのステインドグラスがはめられているところもあった。家の片側に小馬を入れるのにちょうどピタリの馬小屋があり、その上には、キットを入れるのにちょうどピタリの小部屋があった。白いカーテンがはためき、籠にはいった黄金づくりといったように輝いている小鳥が、窓辺で歌を歌っていた。小道の両側には植物が植えられ、ドアのあたりに密生し、庭は満開の花であでやか、あたりに快い香りをまき、魅力的で優雅なよそおいをみせていた。家の内外のすべてのものは、小ぎれいさと完璧な秩序をあらわしているようだった。庭に雑草は一本も見受けられず、いくつかある小ざっぱりした庭の手入れ道具、籠、小道にあった手袋の状態から察して、老ガーランド氏が、その朝も、そこで働いているのがわかった。
キットはあたりをみまわして驚嘆に打たれ、またみまわし、これを何回となくくりかえしたあとで、ようやく決心して、べつの方向に頭をめぐらし、ベルを鳴らすことになった。だが、それを鳴らしたとき、またあたりをみまわす時間があった。だれも姿をあらわさなかったからである。そこで、二度か三度ベルを鳴らしたあとで、トランクに腰をおろして待つことになった。
彼は何回となくベルを鳴らしたが、まだだれもやっては来なかった。だが、とうとう、見知らぬ家をはじめておとずれたとき、物語本ではかならず身分の低い若者につき物になっている巨人の城、髪の毛で木釘にしばりつけられている王女さま、門のうしろからとびだしてくる竜、その他同じような事件を考えながら彼がそこに坐っていたとき、ドアが静かに開かれ、とても身ぎれいにした、つつましやかで、きまじめそうな、しかも、とてもきれいな小さな下女が姿をあらわした。
「あなたはクリストファーと思いますが?」下女はいった。
キットはトランクから立ち、そうだ、と答えた。
「きっとベルを何回も鳴らしたことでしょうね」彼女はいった、「でも、聞えなかったの。小馬をつかまえていたのでね」
キットは、これはどういうことなのだろう? とちょっとわからなかった。だが、ものをたずねて、そこに立っているわけにもいかなかったので、トランクをまた肩にして、玄関の間にはいっていったが、そこで裏のドアをとおして、この|我《が》の強いホウィスカーが(これはあとで知ったことなんだが)、一時間四十五分のあいだ、裏の小さな囲い地で家族の者の手を逃げまわったあとで、ガーランド氏が意気揚々としてこの小馬を庭づたいにつれていく姿がみかけられた。
老紳士は彼をとてもやさしくむかえ入れ、老夫人も同様だった。老夫人はかねがねキットに好感をもっていたが、足の裏が焼けつきそうになるほど彼がマットで靴をこすっているのをみて、その好感はますますもって高められた。ついで、居間にとおされ、新しい服を着こんだ姿がみられることになり、何回かながめられて、その外見でこの上ない満足を与えてから、馬小屋につれていかれた(ここで例の小馬は、ふだんにない満悦ぶりで彼をむかえてくれたのだった)。そこからさらに、もうすでにみていた小部屋につれていかれたが、そこはとてもきれいで快適なものだった。つぎには庭に出ていったが、そこで老紳士は、いずれそこでの仕事は教えてやろうといい、その上、キットがその資格ありということになったら、彼を快適に、そして幸福にしてやるために、どんなにすばらしいことをしてやるつもりでいるか、を語った。こうしたすべての親切にたいして、キットは種々さまざまな感謝の表示で答え、新しい帽子に何回となく手をあげたので、そのへりはそうとうにいたんでしまう結果になるほどだった。老紳士が約束やら注意やらの面でいうべきことすべてをいいつくし、キットが|請《う》け合いと感謝の面でいうべきことすべていいつくしたあとで、彼はふたたび老夫人にひきわたされ、老夫人は下女(その名はバーバラ)を呼んで、彼を階下につれてゆき、ながい道中をしたのだから、飲食物をなにか彼に与えるように、といいつけた。
そこで、キットは階下におりていった。階段の下には玩具店の窓ではみたことも聞いたこともないすばらしい台所があり、そこにあるすべてのものは、バーバラ自身と同じように、光り輝き、その上きちんと整頓されていた。この台所で、キットは、テーブル掛けのように真っ白なテーブルに腰をおろし、冷えた肉と薄いビールを味うことになったが、見知らぬバーバラにジッとみつめられ監視を受けていたので、ナイフとフォークの動きは、それだけになお、ギクシャクした間のわるいものになってしまった。
しかし、この見知らぬバーバラに、特別おそるべきものはなにもないようだった。彼女はとても静かな生活をしてきたので、ひどく赤くなり、キットがおそらくそうであったように、ひどくドギマギし、なにをいい、なにをしたらいいのか見当もつかないでいた。地味な時計のカチカチいう音に聞き入りながら、ちょっとしばらくのあいだ、坐っていてから、彼は思い切って食器戸棚づきの料理台をながめてみたが、そこには、浅皿やら深皿の中に、糸の玉をしまいこむすべりぶたつきのバーバラの小さな針箱、バーバラの|祈祷《きとう》書、バーバラの賛美歌の本、バーバラの聖書があった。バーバラの小さな鏡は窓の近くの採光のいい場所にかかり、バーバラのボンネット帽はドアの背後の釘にかかっていた。こうしたバーバラの存在のものいわぬしるしと証しから、彼は、当然なことながら、バーバラ自身に目をうつしていったが、彼女は、そうした品物と同じように、だまりこくって豆をむき、それを皿の中に入れていた。そして、キットが彼女のまつ毛をながめ――まったく純真な心で――彼女の目の色はどうだろう? と考えていたとき、間がわるく意地のわるいことに、彼をみようとバーバラがちょっとたまたま頭をあげ、その結果、ふたりの目は急いでそらされ、キットは自分の皿の上に、バーバラは豆のさやの上に、それぞれ相手にみつかってしまったことでひどくドギマギして、かがみこんでしまうことになった。
23
リチャード・スウィヴェラー氏はまがりくねった、|螺旋《らせん》状の歩きっぷりで、何回となくとまったり、けつまずいたりし、いきなり足をとめてあたりをみまわし、ついで同じようにいきなり数歩駈け足をし、同じようにいきなりまた足をとめ、頭をふり、どんなことも計画的にやらずに、すべてのことをグイッと衝動的にやり、荒野館(クウィルプのえりすぐりのかくれ家はこう呼ぶのがふさわしいのだから)から家に向けて帰ってゆき――この状態は、意地のわるい連中の口にかかると、|酩酊《めいてい》の表示になり、俳優が心得ているあの深い知識と瞑想の状態をあらわしているのではなかったのだが、こうした状態でリチャード・スウィヴェラー氏は家に帰ってゆきながら、もしかしたら自分は打ち明け話の相手の選択であやまちをしでかしたのかもしれない、あの小人はこうした微妙で重大な秘密を託すべき人物ではなかったのかもしれない、と考えはじめた。こうした|悔恨《かいこん》の情にかられて、前記意地のわるい連中のいういわゆる泣き|上戸《じようご》、あるいは泥酔状態におちこんでゆき、スウィヴェラー氏はフッと帽子を地面にたたきつけ、嘆き悲しんで、自分は不幸な孤児、もし自分が不幸な孤児でなかったら、事態はこうまでひどいことにはならなかったろう、と大声でわめきはじめた。
「幼いころに両親に死に別れて孤児になり(ジョン・バリー(一七七六―一八五一)のバラッド『あわれな百姓の子供』からの引用文であろうとされている)」自分のつらい|運命《さだめ》を嘆いて、スウィヴェラー氏はいった、「まだ|嬰児《みどりご》のときに世の荒波に放りだされ、いかさま師の小人の思うがままになっているのだから、自分がこうした弱さをもつのも当然なことだ! みてくれ、みじめな孤児なんだ。みてくれ」声を高くあげ、眠そうにあたりをみまわして、スウィヴェラー氏はいった、「みじめな孤児なんだ!」
「じゃ」ほんのすぐそばで、だれかがいった、「おれにきみのおやじ役をつとめさせてくれ」
スウィヴェラー氏は倒れまいと身をユラユラとゆすり、自分をつつんでいるように思えた|靄《もや》のようなものをのぞきこみ、とうとう、霧をとおしてぼんやりと輝いているふたつの目にどうやら気づき、ややしばらくしてようやくわかったことだったが、その目は鼻と口の近くにあるものだった。男の顔からみて、その脚が当然あるべき方向に目を投げて、顔はそれについているからだをもっているのがわかり、もっとしっかりと目をすえてながめると、その人物がクウィルプ氏であることを、彼は納得した。クウィルプ氏は、じっさい、彼とズーッといっしょに歩いていたのだったが、彼は、自分がクウィルプ氏を一マイルか二マイルもうしろに放りだしてきたものと、なにか漠然と思いこんでいた。
「きみは孤児をあざむいたんだぞ」厳粛にスウィヴェラー氏は伝えた。
「おれが! おれはきみの第二の父親だよ!」クウィルプは答えた。
「きみがぼくの父親だって!」ディックは応じた。「自分でちゃんとやっていけるんだから、放りだしにしておいてもらいたいもんだね――いますぐね」
「きみはじつに妙な男だな!」クウィルプは叫んだ。
「いっちまえ!」柱に寄りかかり、手をふって、ディックはやりかえした。「いっちまえ、いかさま師、いっちまえ!(ムアのアイルランド歌謡『はじめてお前に逢ったとき』からの引用)将来いつの日か、たぶん、悦楽の夢から目をさまし、打ちすてられた孤児の嘆きを知ることになるだろう。向うにいくかね?」
小人はこの懇願をぜんぜん気にもとめていなかったので、スウィヴェラー氏はそれ相応の罰を加えてやろうと前に進み出た。だが、クウィルプに近づくまでに自分の意図を忘れるか、気持ちを変えてしまって、彼はクウィルプの手をにぎり、永遠の友情を誓い、このとき以後、それぞれの外見はべつにして、すべてのことでふたりは兄弟、と感じのいい率直さで宣言した。ついで彼は自分の秘密をくりかえし述べ立て、ワックルズ嬢の問題については悲痛な気持ちを味っている、というおまけまでつけ加えていた。ワックルズ嬢こそは、その瞬間にクウィルプ氏が自分の言葉に気づくかもしれないちょっとした支離滅裂さのきっかけになっている人物だ、と彼はクウィルプ氏に知らせ、この支離滅裂さは、薔薇色のぶどう酒やほかの|発酵《はつこう》した液体によるものではなく、まったく彼の親愛の情の深さによるもの、ということだった。それがすむと、ふたりは腕を組み、いとも親密にいっしょに進んでいった。
「おれはね」別れぎわに、クウィルプは彼にいった、「白いたち[#「いたち」に傍点]のように敏感、いたち[#「いたち」に傍点]のように狡猾なんだ。トレントをおれんとこにつれてこい。おれはやつの味方なんだと保証してやれ、なるほど、ちょっとおれのことを信用しないかもしれんけどな(どうして信用してもらえんのか、身におぼえのないおれにはわからんのだが)。そしてきみたちは、ふたりとも、身代をつくってしまったわけなんだ――みとおしの点ではね」
「そこがいちばん困るとこさ」ディックは答えた。「みとおしの身代というやつは、はるかはるかかなたのもんにみえるんだからね」
「だが、そのために、そうした身代はじっさいより小さなもんにもみえるんだ」スウィヴェラーの腕をギュッとにぎって、クウィルプはいった。「そばに寄るまで、自分の獲物の価値がどんなもんか、見当もつかんのだろう。その点は注意しとくんだな」
「見当もつかんと考えてるのかね?」ディックはたずねた。
「そう、考えてるよ。おれは自分のいってることに自信があるんだからな。そいつのほうがありがたいことさ」小人は答えた。「トレントをおれんとこにつれてこい。おれはあの男ときみの味方だ、というんだ。味方になっていけない筋はないだろう?」
「たしかに、そのとおりだな」ディックは答えた。「そして、たぶん、きみがこっちの味方になるべき筋はうんとあるわけだろう――もしきみがえりすぐりの人物だったら、きみがぼくの友人ならびに味方になるのを望んでることに、少なくとも、べつにふしぎはないわけだがね。ところが、きみがえりすぐりの人物ではない[#「ではない」に傍点]のは、きみも知ってることさ」
「おれがえりすぐりの|人物《スピリツト》でないんだって?」クウィルプは叫んだ。
「いささかも」ディックは答えた。「きみのような|風采《ふうさい》のやつは絶対になれんよ。きみがもしなんかのスピリットだったとしたら、まあ、|悪霊《スピリツト》だな。えりすぐりの|人物《スピリツト》はね」自分の胸をピシャリとたたいて、彼はいいそえた、「まったくちがった風采の人間だよ、その点、きみは誓言してもいいくらいだ」
クウィルプは、狡猾さと嫌悪の入りまじった表情で、あけすけにものをいうこの友人をチラリとながめ、それとほとんど同時にもみ手をしながら、自分は|並《なみ》はずれた人物、われながら熱烈な敬意をあらわさずにはいられないんだ、と伝えた。こういって、ふたりは別れ、スウィヴェラー氏はなんとかして家にもどり、眠りをとって|素面《しらふ》にもどることになり、クウィルプは、自分のおこなった発見について熟考し、楽しみの豊かな領域とそれが自分に開いてくれる復讐のみとおしを大よろこびすることになった。
スウィヴェラー氏が、翌朝、有名なスキーダム酒の蒸気で頭をズキズキさせて、友人のトレントの下宿(それは、古い幽霊の出そうな宿屋の古屋敷の屋根裏部屋だった)におもむき、きのう自分とクウィルプのあいだに起きたことをいともゆっくりと述べ立てたのだったが、それは、とても気が進まず、心もとない気分をともなったものだった。彼の友人がこの話を聞いたとき、この友人は、ひどくびっくりし、想像できるクウィルプの動機をあれこれと思いめぐらし、ディック・スウィヴェラーのおろかさにたいして辛辣な言葉を浴びせかけた。
「ぼくは弁解したりはしないよ、フレッド」後悔しているリチャードはいった。「でも、あいつはじつに奇妙な癖をもち、じつに|手管《てくだ》を弄するやつでね、こちらには、まず第一に、やつに話をしてなにか危害が起きるかどうかを考えさせ、考えているうちに、それをぼくからしぼりだしてしまったんだ。ぼくと同じに、あいつが酒を飲みタバコをふかしてる姿をみたら、きみだって彼からはなにもかくせはしなかったろう。やつは火とかげ[#「とかげ」に傍点](火中に住んで焼けないと信じられていた伝説の動物)なんだよ、それがやつの[#「やつの」に傍点]本性さ」
火とかげ[#「とかげ」に傍点]が信頼のおける代理人になる必然性をもっているか、火に燃えない人間が当然のこととして信頼できる人物となるのかはべつにたずねたりはしないで、フレデリック・トレントは椅子に身を投げだし、両手に頭を埋めて、クウィルプがたくみにリチャード・スウィヴェラーの心をつかんで秘密をつかむことになった動機をなんとかつかもうとしていた――この暴露はクウィルプが追求していたもの、ディックが自分のほうから自然にもらしたものでないことは、クウィルプがスウィヴェラーとの交際を求め、彼を|誘拐《ゆうかい》したことからも、十分にはっきりつかめることだった。
トレントが逃亡者についての情報をつかもうと努力していたとき、この小人はもう彼とは二回出逢っていた。彼は、以前、ふたりの逃亡者についてなんの懸念も示してはいなかったのだから、このことだけでも、たぶん、天性嫉妬心と不信感の強いあの小男の胸に、疑惑の念を湧かせることになったのだろう。ディックの不用心な態度がひきおこしたかもしれない好奇心への衝動のおまけはべつにしても……。だが、自分たちのたくらんでいる計画を知って、どうして彼はその援助を申し出たのだろう? これはもっと解決困難なことだった。だが、悪人が自分の意図を他人にぬりつけてしくじりを招くことはよくあることなのだから、クウィルプと老人のあいだになにかおもしろからぬ事態が起き、それは彼らの人知れぬ取り引きから湧いたもので、おそらくは老人の突然の|失踪《しつそう》と無縁ではない、そのためにクウィルプは、老人の愛情と懸念のただひとつの対象になっているネルを、老人がおそれ憎悪していると知っている縁組みになんとか結びつけてしまうことによって、老人に復讐をしたがっているのだという考えが、すぐに浮びあがってきた。フレデリック・トレント自身も、財産をうばう目的についで、妹のことはぜんぜん考えずに、この復讐の意図も心にもっていたので、トレントの目には、それがクウィルプの行動の中心的な動機のように映ってきた。ネルとスウィヴェラーをそそのかす彼自身の意図、これは、彼らの目的が達成されれば、用がたりることになるのだが、そうした意図を小人のクウィルプももっていると考えれば、クウィルプがそのしようとしていることで誠心誠意裏表なくやってることを信ずるのは、容易なことだった。クウィルプが有力で役に立つ援助になるのは疑いのない事実だったので、トレントは、クウィルプの招待を受け、その夜、彼の家にゆこうと決心し、クウィルプの言動が自分の想像している考えを裏づけることになったら、自分たちの計画の利益ではなく、労苦をわけ与えてやろう、と考えた。
心の中でこうしたことを思いめぐらし、この結論に達して、トレントは、自分の考えのうち適切と思われる個所(そうまでしなくとも、ディックはもう十分に納得したことだったろう)だけをスウィヴェラー氏に伝え、その日の昼間を前の晩の火とかげ[#「とかげ」に傍点]になった状態からの回復に当てさせて、夕方、彼をともなってクウィルプ氏の家におもむいた。
彼らと会って、クウィルプ氏は大よろこびだった、あるいは、大よろこびしているようなふうだった。クウィルプ氏は、クウィルプ夫人とジニウィン夫人にたいしおそろしく|慇懃《いんぎん》、妻に投げた目つきはすごく鋭く、若いトレントの姿をみて、彼女の心がどんなに動かされるかを観察しようとしていた。クウィルプ夫人は、彼女の母親と同じで、トレントの姿をみたからといって、苦しい感情も楽しい感情もべつに味っているわけではなかったが、夫のまなざしで彼女はおびえとまどい、どうしたらいいのか、なにを要求されているのか、見当もつかないでいたので、クウィルプ氏は、彼女の当惑が自分が心に思っている原因のため、ときめこんでしまい、自分の目の鋭さを得意になってクスクス笑っていながらも、心中では人知れず嫉妬の情でプリプリしていた。
だが、そうしたものは、外にはぜんぜんあらわれていなかった。それとは逆に、クウィルプ氏は温和と愛想のよさそのもの、ふだんにないほどの気前のよさで、ラム酒の角びんをふるまっていた。
「うーん、はてな」クウィルプはいった。「知り合いになってから、もう二年くらいになるでしょうな」(第三章で、このときから数週間前にトレントがクウィルプの名をたずねていることから考えると、作者の勘ちがいかもしれない)
「いや、三年近くになるでしょう」トレントは答えた。
「三年近くだって!」クウィルプは叫んだ。「時って、とぶように早くすぎるもんだね。お前、そんなにたったと思えるかね?」
「ええ、まるまる三年のように思えることよ、クウィルプ」が不運な応答になった。
「うん、まったくね、お前」クウィルプは心で考えていた、「嘆き悲しんでいたんだな、どうだい? よーくわかってるよ、お前」
「メアリー・アン号に乗ってきみがデマレアラ(英領ギアナの州名)にわたったのは、ついきのうのように思えるんだがね」クウィルプはいった。「たしかに、きのうのようさ。うん、おれはちょっとした荒っぽいことが好きでね。もともと、おれ自身荒っぽい男だったんでね」
クウィルプ氏はこうして自分の過去を認めながら、すごくおそろしいウィンクをしたが、それは、むかしの放浪と放蕩を物語るものだった。その結果、ジニウィン夫人はプリプリし、そんな|懺悔《ざんげ》は少なくとも妻のいる前ではすべきでない、と声をひそめていわずにはいられなくなった。こうした大胆不敵な反抗の態度に接して、クウィルプ氏は、彼女をにらみつけて顔色なからしめ、ついで、きちんと格式ばって彼女の健康のために乾杯をした。
「きみはすぐ帰ってくるもんと思ってたよ、フレッド。いつもそう思ってたんだ」コップを下において、クウィルプはいった。「そして、どんなに悔いてるか、自分に与えられた地位でどんなに幸福を味ってるかを知らせる手紙じゃなくって、きみ本人が乗りこんでるメアリー・アン号がもどってきたとき、おれはおもしろかったよ――すごくおもしろかったよ。ハッ、ハッ、ハッ!」
青年は微笑を浮べたが、この話題が自分を楽しますためにえらぶことができる最高に楽しいものだ、といったふうは、ぜんぜん示さなかった。だからこそ、クウィルプはその話題をおし進めていったのだった。
「これから先、いつでもいうつもりだよ」彼は語りつづけた、「ふたりの若い者――姉妹なり兄弟なり、さもなけりゃ、兄貴と妹――の世話をみてる金持ちの親類が、そのどっちかだけに愛情をかたむけ、べつのやつを追っ払っちまうのは、たしかにいけないことだとね」
青年はイライラした態度をみせたが、クウィルプは、いまそこにいる人間にはいささかの関係もないなにか抽象的な問題を論じているような冷静な調子で、話を進めていった。
「たしかに」クウィルプはいった、「きみのじいさんは、何回かくりかえした勘弁、忘恩、放蕩、乱行とかそういったことを強く主張していたっけな。だが、『こうしたことはよくあること』とおれはじいさんにいってやったんだ。じいさん曰く、『だが、あいつは無頼漢だ』とね。『そうだとしても』おれは応じたよ(こいつは、もちろん、議論のための言葉だったんだがね)、『若い貴族や紳士も無頼漢になってるやつは、うんとこさいるよ』とね。だが、じいさん、納得しようとはしなかったんだ」
「そいつはふしぎなことですな、クウィルプさん」いやみたっぷりに青年は応じた。
「うん、そのときには、おれもふしぎに思ってたさ」クウィルプはいった、「だが、じいさんはいつも|頑固者《がんこもん》でな。おれのまあ友人といったもんだったんだが、いつも頑固で片意地でね。かわいいネルは、いい娘、魅力的な娘にはちがいはないが、なんてったって、きみは彼女の兄なんだ、フレデリック。結局んとこ、兄なんだ。これは最後の出逢いできみがいってた文句なんだが、じいさんはその関係を変えるわけにはいかんのだからな」
「できることなら、それをすることだろう。そうしたこと、それにほかの親切すべてにたいして、じじい、くたばりやがれ! ってやりたいとこさ」イライラして青年はいった。「だが、こんなことをいったからって、べつにいまどうということもない。そんな話は、まっぴら、ねがいさげにしたいもんだな」
「賛成だよ」クウィルプは答えた。「おれのほうでは、よろこんで賛成するよ。どうしておれがそんな当てつけをしたのかだって? ただ、おれがいつもきみの味方だったことを知らせてやるためだけさ、フレデリック。だれが自分の味方か、だれが自分の敵かを、きみはぜんぜん知らんでいたんだ。いまはもう、わかったかね? おれが敵だときみは思いこみ、その結果、おれたちのあいだは冷たいもんになってたんだ。だが、それはきみのせい、まるっきりきみのせいだったんだよ。さあ、握手をしなおすことにしよう、フレッド」
頭を肩のあいだにすっぽりと沈め、おそろしいニヤリとした笑いを顔一面に浮べ、小人は立ちあがり、テーブル越しに短い腕をさしのばした。ちょっとちゅうちょしたあとで、青年は自分の腕をさしだして、相手の手をにぎった。クウィルプは青年の指をギュッとつかみ、指の血行が、その瞬間、すっかりとまってしまった。それから彼は、のこる手で自分の唇をおし、なにも不審は感じていないリチャードのほうに渋面をつくって、トレントの指を放し、腰をおろした。
この行動は、トレントにたいして効果のないものではなかった。リチャード・スウィヴェラーは自分の手中の道具にすぎず、自分の計画についても自分が伝えてもいいと考えたものだけしか知らないでいるのを心得ていたので、トレントは、この小人が自分たちの相互関係をよく理解し、自分の友人の性格を十分につかんでいるのをさとったからである。このことは、たとえ悪事にあっても、高く評価すべきことだった。小人の素早い理解力ですでにもう自分に与えられている権力のみならず、自分の卓越した能力にたいするこの無言の敬意は、あの醜悪なすぐれた人物に好意をもたせる方向に青年の心を動かし、小人の援助で利益をあげよう、と彼に決心させることになった。
リチャード・スウィヴェラーが、その不用心さで、女どもが知っては不都合なことを暴露しては大変と、できるだけ穏便に早いところ話題を変えるのが、いま、クウィルプの役目になったので、彼は、四人でするトランプ遊びのクリベッジをやろうと提案し、組みがトランプの札できめられ、クウィルプ夫人はフレデリック・トレントと、ディックはクウィルプと組みになることになった。トランプ遊びが大好きなジニウィン夫人は義理の息子によって注意深くゲームへの参加から除外され、角びんからときどきコップに酒をつぐ任務を割り当てられた。そして、彼女には絶対に酒を味わせないようにと、クウィルプ氏はその瞬間から片目をたえずジニウィン夫人の上に釘づけすることになり、それによって、このあわれな老夫人(彼女はカルタにたいするのと同じように、角びんにも大きな愛情をよせていた)を二重に、じつにたくみなふうに、じらして苦しめることになった。
だが、クウィルプ氏の注意が向けられたのは、ジニウィン夫人にたいしてばかりではなかった。いくつかほかの事柄が彼の不断の監視を必要としていたからである。彼のさまざまな奇癖のうちに、カルタでいかさまをするというおもしろい癖があり、そのために、彼のほうでは、ゲームを子細にみていて、勘定や点の計算で手先の早業を行使するばかりでなく、目つきや渋面、テーブルの下でのひと蹴りでリチャードの札のさばきをたえず改めさせることが必要になってきた。スウィヴェラーは、自分の札が命令を受ける素早さと足がテーブルの板の下をとびまわる素早さに圧倒され、ついわれ知らず、ときどき、自分の驚きと信じられぬ気持ちを表示していた。さらに、クウィルプ夫人が若いトレントと組みになっているので、ふたりのあいだでかわされるすべてのまなざし、ふたりが語る一語一語、ふたりが動かすすべての札にたいして、小人は目と耳を働かしていた。こうして彼は、テーブルの上で起っていることのみならず、その下でかわされているかもしれない信号にまで注意を払い、そうした信号をとらえようと、ありとあらゆる|罠《わな》を張りめぐらせていた。その上、ときに妻のかかとを踏みつけ、その苦痛のもとで彼女が叫びを発するか、だまっているかを調べなければならず、彼女がだまったままでいる場合には、トレントからその前に同様の仕打ちを受けているのがじつにはっきりとわかるわけだった。だが、こうしたさまざまの注意をひくものがあったのにもかかわらず、片目はいつも老夫人の上にそそがれ、彼女が近くのコップのほうにお茶用のスプーンをソッとでものばして(これを彼女はよくやっていた)、そのうまい中身をひとすすりだけでも味おうとすると、彼女がまさに凱歌をあげようとするその瞬間に、クウィルプの手がそのスプーンをひっくりかえしてしまい、クウィルプのあざけりの声が、貴重な自分自身の健康を考えてくれるように、と彼女にたのみこんでいた。こうした彼のさまざまな注意のどの点でも、最初から最後まで、クウィルプは決して気力のおとろえやたじろぎを示してはいなかった。
とうとう、みなが三番勝負を何回かくりかえしてやり、角びんからそうとうとっとと酒を飲んでしまったとき、クウィルプ氏は夫人に、部屋にひきさがってやすむように、と指示を与え、従順な妻がそれに応じ、そのあとにつづいてプリプリした彼女の母親がひきあげていったとき、スウィヴェラー氏はもう眠りこんでしまっていた。小人はのこった自分の仲間をうなずいて部屋のべつの端のほうに呼び、ヒソヒソ声で短い打ち合わせをした。
「おれたちのりっぱな友人の前では、必要以上のことはいわんほうがいいだろう」眠っているディックに向けてしかめっ|面《つら》をして、クウィルプはいった。「おれたちのあいだで話はついたんかね、フレッド? やがてあの男をかわいい薔薇色のネルと結婚させるのかね?」
「きみだって、もちろん、自分なりの目的はもってるんだからな」相手は応じた。
「もちろん、もってるとも、フレッド君」真の目的がどんなものかを相手がどんなに知らないでいるかを考えてニヤリとしながら、クウィルプはいった。「たぶん、仕返し、たぶん、気まぐれといったもんだろう。おれには力があってね、フレッド、助けもできるし、反対もできるんだ。そいつをどっちに使ったらいいのかな? |秤《はかり》の皿はふたつあり、どっちかひとつにそいつは乗せられることになるんだ」
「じゃ、ぼくの皿に乗せてもらいたいもんだな」トレントはいった。
「わかったよ、フレッド」にぎった片手をつきだし、分銅を落すような格好でそれを開きながら、クウィルプは答えた。「これからは秤に分銅がかけられ、その向きを変えることになるんだ、フレッド。そいつを忘れるなよ」
「あのふたり、どこにいっちまったんだな?」トレントはたずねた。
クウィルプは、頭をふり、その点はこれからさぐらなければならないこと、だが、それはたやすくできるだろう、と答えた。そうなったら、こちらで予備的な接近策を講ずることになる。自分が老人をたずねることになるだろう。それは、リチャード・スウィヴェラーでも構わない。老人のために深く心配しているふりをし、しかるべくりっぱな家に落ち着いてくれ、とたのみこみ、ネルが彼のことを感謝と好意で憶えこむようにする。この程度まで一度強い印象を与えておいたら、一年か二年するうちに彼女を獲得するのは容易なことだろう。自分の身辺の者に貧乏のふりをするのは(ほかの多くのけちん坊と同じように)、あの老人の用心深い策略の一部なんだから、彼女は老人を貧乏と思いこんでいるんだ。
「最近、ぼくにもよくそんなふりをしてたな」トレントはいった。
「ああ! おれにもそうだったよ!」小人は答えた。「ほんとうはやつがどんなに金持ちか、ちゃんとわかってるだけに、そいつはなお異常なことといえるな」
「きみにはわかってると、ぼくは思ってるよ」トレントはいった。
「まあ、そういったとこさ」小人は答えたが、その点では、少なくとも、彼は真実を語っていた。
さらにわずかささやき声で言葉をかわしてから、ふたりはテーブルにもどり、青年は、リチャード・スウィヴェラーを起して、もう帰ろう、と伝えた。これはディックにはうれしい知らせ、彼はすぐにパッととびおきた。計画の結果についてふたりだけのちょっとした話をしてから、彼らはニヤリとしているクウィルプに別れを告げた。
彼らが下の通りを歩いているとき、クウィルプは窓辺にはっていき、耳を澄ませていた。トレントは、クウィルプの妻にたいする賛辞を述べ立て、どんな魔力にかかって彼女があんな醜悪で下劣な男と結婚することになったんだろう、といっていた。小人は、いままでにないほどニヤリとした笑いを顔にひろげて、彼らの去ってゆく物陰をジッと見送ってから、闇の中をソッと自分の寝台のほうに歩いていった。
この計画のもくろみで、トレントもクウィルプも、あわれな罪のないネルの幸不幸をぜんぜん考慮に入れていなかった。幸不幸両方の道具になっていた|無頓着《むとんちやく》な放蕩者のスウィヴェラーがこうした考慮を気にしているとしたら、それはふしぎともいえたことだったろう。彼は、自分の才芸を高く買いかぶっていたので、この計画をむしろ賞賛すべきものと考え、それ以外のものとはいささかも思わず、反省といった珍しい来客の訪問を受けても――自分の欲望を満すことでもうまったく目がくらんでいたので――自分は妻を打ったり殺したりするつもりはない、だから、結局のとこ、まあかなりりっぱな、標準的な亭主になるだろう、という口実で、自分の良心を静めてしまったことだったろう。
24
老人とネルが思い切って足をとめ、腰をおろして小さな森のへりに休むことになったのは、ふたりがもうヘトヘトになり、競馬場から逃げだしてきた歩調を維持できなくなってからのことだった。ここで、競馬の走路はみえなくなっていたけれど、遠くの叫びの物音、人声の低い音、太鼓の音は聞えてきた。彼らと逃げてきた場所のあいだにある高みにのぼっていって、子供ははためく旗や張り出し小屋の白い屋根をみることさえできた。だが、自分たちのほうに近づいてくる人影はなく、そこの休息地は、わびしくひっそりとしていた。
彼女が自分のふるえている|伴侶《はんりよ》をしっかりとさせ、かなり冷静な状態にとりもどすまでに、しばらく時間がかかった。老人は、混乱した想像力で、藪の陰で自分たちのほうに忍びより、すべての|溝《みぞ》にひそみ、そよぐすべての木の葉からこちらをのぞいている人の群れをながめていたのだった。彼にいつもつきまとっている心配は、どこか陰気な場所につれ去られて捕われの身になり、そこで鎖でしばられ|鞭《むち》打たれ、いちばん苦しいのは、壁の鉄の|桟《さん》と|格子《こうし》越し以外には、ネルとは絶対に会えなくなることだった。彼の恐怖は、子供にも影響を与えていた。おじいさんと別れることは、彼女のおそれている最大の不幸で、しばらくのあいだ、どこにゆこうとも、自分たちは追いまわされることになり、姿をかくす以外に安全には絶対になれないと思いこんでいたので、彼女の元気はぬけ、彼女の勇気は勢いを失ってしまった。
こうまで齢のいかない身、いままで動いてきた場景にはとても不馴れな身だったので、こうして意気|阻喪《そそう》するのも、むりからぬことだった。だが、造化の神は、しばしば、弱々しい胸の中に――ありがたいことに、もっともしばしば、女性の胸の中に、勇気ある気高い心を宿させるものである。子供が涙にあふれた目を老人に投げ、彼がどんなに弱っているか、自分がだめになったら、彼がどんなにみすてられ、困窮した立場に落ちこむかを思ったとき、彼女の中に勇気が湧きあがり、新しい力と不屈の精神が彼女を元気づけることになった。
「もうすっかり安全、なにも心配することはないのよ、おじいちゃん」彼女はいった。
「なにも心配することはないだって!」老人は答えた。「お前からひきはなされて、なにも心配することはないだって! 仲をひきさかれても、なにも心配することはないだって! みんな、わしには嘘をついてるのだ。そう、だれもみんなな。ネルだってそうなんだ!」
「まあ、そんなこと、いってはいけないことよ」子供は答えた。「正直で真剣な心をだれかがもっているとしたら、それはこのわたしなんですものね。たしかにおじいちゃんだって、それを知っているはずよ」
「じゃ、どうして」おそろしそうにあたりをみまわして、老人はいった、「どこでもみんながわしをさがし、こうして話をしてるときまでさえ、ここにやってきて、わしたちに襲いかかるかもしれないのに、どうして安全なんて考えていられるんかね?」
「あとをつけられてはいないと自信があるからよ」子供は答えた。「おじいちゃん、自分で判断してごらんなさい。あたりをみて、どんなにそこがシーンと静まりかえっているか、みてちょうだい。わたしたちはふたりだけ、好きなところにブラブラと歩いていけるのよ。安全じゃないですって! なにか危険がおじいちゃんに襲いかかろうとしているとき、わたし、気楽にしていられたかしら? ――気楽にしていたことがあるかしら?」
「たしかに、そうだな」彼女の手をにぎりしめ、それでもまだ不安そうにあたりをみまわしながら、彼は答えた。「あれはなんの音だ?」
「鳥よ」子供は答えた、「森の中にとんでゆき、あとについてきなさい、って道案内をしてくれる鳥よ。森や野原や川のへりを歩いていったら、どんなに幸福になるだろう、ってふたりで話したこと、憶えているでしょう――憶えていること? でも、ここでは、太陽が頭の上で輝き、すべてのものが明るく幸福になっているのに、わたしたちは悲しそうに坐りこみ、むだに時間をすごしているのよ。みて、なんて気持ちのいい小道でしょう! あそこに鳥――あの鳥――がいるわ――べつの木にとんでいき、そこで歌っていることよ。さあ!」
地面から腰をあげ、森をとおりぬけている木陰の多い小道を進んでいったとき、彼女は、前をおどって進んでゆき、|苔《こけ》に小さな足あとをつけていたが、苔はそうした軽い圧力からピンと立ちあがり、かかった息を鏡が消してしまうように、その圧力をはねかえしてしまった。こうして彼女は、何回となくふりかえり、陽気にうなずき、小道を切ってのびだしている枝にとまってさえずっているただ一羽の鳥をソッと指さしたかと思うと、足をとめて幸福な静けさを破っている鳥の歌声に耳を傾けたり、葉越しにふるえてとおりぬけ、がっちりとした老木のつた[#「つた」に傍点]のまきついた幹のあいだに忍びこんで、光のながい小道を開いている太陽をジッと見守ったりしていた。彼らの進む道に群らがっている枝をかきわけながら進んでいったとき、最初にみせかけだけでやっていた明るさが、彼女の胸の中にほんとうにはいりこんでくるようになった。老人はもう、心配そうにあとをふりかえってみたりはせず、気楽で明るい気分になっていた。深い緑の木陰の中にはいっていけばいくほど、神の静寂な心がそこにあり、その安らかさを自分たちの上に投げているという感じがますます強くなってきたからだった。
とうとう小道は前より開け、邪魔物が少なくなって、彼らは、森の道を終り、大通りに出ることになった。この道にそってちょっと進んでから、小道があらわれたが、その道は両側から木がこんもりと枝をひろげ、頭上でそれが結びつき、せまい道の上でアーチをつくっていた。くずれた指導標が、この道が三マイルはなれた村に通じているのを教え、ふたりはそこにゆくことになった。
この三マイルはとてもながく感じられたので、道に迷ったにちがいない、とふたりはときどき思ったほどだった。だが、とうとう、とてもうれしいことに、道はけわしいくだり|勾配《こうばい》になり、のしかかってくるような土堤にはさまれ、その上には歩道がつけられ、下のこんもりとした盆地のところから集った村の家が顔をのぞかせているところに、ふたりはやってきた。
そこは、とてもささやかな場所だった。男や少年たちは村の共有地でクリケットをし、ほかの人たちはそれをながめていたので、老人とネルはあちらこちらとさまよい歩き、どこでわびしい宿を求めたものか、ととまどっていた。小屋の前の小さな庭にたったひとり老人が立っていたが、彼らはモジモジしてこの老人に近づけないでいた。それというのも、この人物は学校の先生で、窓の上に白い板がかけられ、そこには黒い文字で「学校」と書かれてあったからである。彼は、貧しい倹約をする習慣を身につけた、青白い、素朴な感じのする男で、戸口前の玄関でパイプをくゆらしながら、花と蜂蜜の巣箱の中に坐っていた。
「あの人に話してごらん、ネリー」老人はささやいた。
「声をかけて邪魔したりするのが、なんだかこわいような感じがするの」ビクビクしながら子供は答えた。「わたしたちに気づいていないようだわ。ちょっと待っていたら、きっとこっちに目を向けることよ」
彼らは待っていたが、先生は彼らのほうに視線を向けず、小さな玄関のところで物思いに沈み、だまって静かに坐っていた。彼の顔はやさしかった。飾り気のない黒の古い服を着こんで、青ざめ、痩せこけていた。その上、彼とその家をつつんでいるわびしい雰囲気があるように思えたが、それは、たぶん、ほかの人たちが共有地で陽気な一団となり、この場所で彼だけが、ただひとりの孤独な人間にみえたためだったのだろう。
老人とネルはとてもつかれていて、この先生が不安かなやみに苦しめられているのを伝えているように思えたなにかあるものがなかったら、ネルは勇気をふるい、たとえ先生にでも、話をしかけたことだろう。少しはなれたところでモジモジしながら立っていたとき、彼が物思いに沈んでいる人のように数分間ぶっつづけに坐り、それからパイプを横におき、庭をちょっと歩きまわり、ついで門に近づいて共有地のほうをながめ、それからため息をついてパイプをふたたびとりあげ、前どおり物思いに沈んで坐りこんでいるのが、彼らにわかってきた。
ほかの人はだれもあらわれず、間もなく暗くなってしまうので、ネルは、とうとう勇気をふるい起し、彼がパイプを手にしてまた座席についたとき、思い切っておじいさんの手をひきながら、そこに近づいていった。小門の掛け金をあげたときに立てたかすかな物音で、彼はハッとした。彼は、やさしくふたりをながめたが、同時に失望したらしく、わずかに頭をふっていた。
ネルは、膝をまげ腰を落しお辞儀をし、自分たちはあわれな旅人、一夜の宿を求めているが、自分たちの財布で許すかぎり、そのお礼はするつもり、と彼に伝えた。こう話しているとき、先生は、ジッと目を|凝《こ》らして彼女をながめ、パイプを横におき、すぐに立ちあがった。
「どこかに案内していただけたら」子供はいった、「とてもうれしいのですけど」
「ずいぶんとながい道を歩いてきたのだね」先生はいった。
「ながい道でした」子供は答えた。
「旅をするにしても、まだ子供なのに」やさしく彼女の頭に手を乗せて、彼はいった。「あなたのお孫さんですかね?」
「そうです」老人は叫んだ、「そうして、わたしの命のささえとなぐさめになっている娘です」
「おはいりなさい」先生はいった。
これ以上なにもいわずに、彼はふたりを小さな教室に案内していったが、そこは同時に、居間でも台所でもある場所だった。そして、翌朝までよろこんでこの家に泊めてあげよう、といった。お礼の言葉もまだ述べないうちに、彼は粗末な白いテーブルかけをひろげ、ナイフと大皿を出し、パン、冷たい肉、ビールのジョッキひとつを運びだしてきて、ふたりに、さあ、どうぞ、とすすめてくれた。
席につきながら、子供は部屋をみまわした。長腰掛けがふたつあり、それは一面に刻み目をつけられ、インクのしみのついたものだった。四本脚の小さな|樅《もみ》板づくりの机がひとつあったが、これは、たしかに先生の坐るものだった。高い棚には、隅のめくれあがったわずかな本があり、そのわきには、木製ごま、球、|凧《たこ》、釣り糸、おはじき玉、食べかけのりんご[#「りんご」に傍点]、その他なまけ者の腕白坊主どもからの没収品のがらくたの山があった。こうした腕白坊主をふるえあがらせて、壁の鉤の上には|鞭《むち》と定規がかかり、その近くで、小さな独立した棚の上には、古新聞でつくり、この上なく大きなけばけばしい|封緘紙《ふうかんし》で飾り立てたバカ帽子(むかし学校でおぼえのわるい、またはなまけ者の生徒に罰としてかぶらせた円錐形の紙帽子)があった。だが、壁の最大の飾り物は、りっぱなまるまるとした字できれいに写しとったいくつかの格言と、明らかに同じ手で作成された寄せ算と掛け算の計算をした数字で、それは、部屋のまわり一面にたくさんはりつけられてあった。これは、どうやら、二重の目的をもち、ひとつには、この学校の優秀さの証拠になり、もうひとつには、生徒たちの胸の中にりっぱな競争心を燃え立たせるためのものだった。
「そうだよ」彼女の注意がこうしたあとのものにひきつけられているのをみて、老先生はいった、「あれは美しい字だね」
「とても美しいです」子供は遠慮勝ちに答えた、「先生がお書きになったのですか?」
「わたしがだって!」自分の心にとても大切なものになっている自慢の種をもっとよくみようと、眼鏡をはずし、またそれをかけて、彼は応じた。「この齢になると、わたしには[#「わたしには」に傍点]とてもあんなふうには書けないよ。ちがう。あれはみんな同じ手の書いたもの。小さな手でね、きみほどの齢にもなっていないのだが、とても利口な子供だ」
こういったとき、先生は、写しのひとつにインクの小さなしみがついているのに気づき、ポケットからペンナイフをとりだし、壁のところにゆき、注意深くそれをけずりとった。それを終えると、その書き物のところからゆっくりとあとずさりし、美しい絵をみているように、驚嘆の情に打たれていたが、彼の声と態度にはなにか悲しみの情がこもり、原因はわからないながらも、それは、ネルの心を強く打った。
「ほんとうに小さな手だよ」あわれな先生はいった。「勉強でも運動でも、仲間全員をグッとつきはなしている。どうしてあの子がわたしをあんなに好きになってくれたのだろう? わたしがあの子を愛するのは、べつに驚くには当らないこと。だが、あの子がわたしを愛してくれるなんて――」そこで先生は話をとめ、眼鏡のくもりをぬぐいとろうとしているように、眼鏡をはずした。
「なにか心配なことはないのでしょうね、先生?」ネルは心配そうにたずねた。
「たいしたことはないのだよ」先生は答えた。「今晩、共有地であの子の姿をみたいものと思っていた。あの子はいつも、子供たちの中で、いちばん先に来ていたのだ。だが、明日はあそこにやってくるだろう」
「その人は病気なのですか?」子供らしくすぐ同情に打たれて、ネルはたずねた。
「そう重くはない。かわいそうに、きのうはうわごとをいっていたそうだ。その前の日も同じだったとか。だが、それは、あの病気にはつきものともいえるもの。わるい兆候ではない――わるい兆候では絶対にないのだ」
子供はだまっていた。彼はドアのところにゆき、物思いに沈んで外をながめていた。夜の影がだんだん濃くなり、あたりは静まりかえっていた。
「だれかの腕にすがれるものなら、わたしにはわかっているが、あの子はわたしのところに来ることだろう」部屋にもどってきて、彼はいった。「あの子はいつも庭にはいってきて、おやすみなさい、と挨拶をしていた。だが、あの子の病気は、ほんのいま、よくなりだし、彼がやってくるには、もうおそすぎるのだろう。いま、とても湿気が強く、露がしっとりおりているのだからね。今晩は外に出ないほうがいい」
先生はろうそくに火をつけ、窓のよろい戸をしっかりと閉め、ドアを閉めた。だが、こうしたことをし、ちょっとだまって坐っていてから、彼は帽子をおろしてとり、もしネルが自分のもどってくるまで起きていてくれたら、出かけてたしかめてきたい、といった。子供はすぐにその求めに応じ、そこで先生は外に出ていった。
彼女は、そこに三十分かそれ以上ものあいだ坐り、その場所がとても奇妙でものわびしいところ、と思っていた。それというのも、老人は彼女にすすめられてもう床にはいり、耳に聞えてくるものといえば、古時計のカチカチと時をきざむ音と、木々のあいだの風のそよぎ以外に、なにもなかったからである。もどってくると、先生は、炉の隅に坐ったが、ながいこと、だまったままでいた。とうとう彼はネルのほうに向き、とてもやさしく、病気の子供のために、その夜、彼女も祈りをあげてくれないか? とたのんだ。
「わたしの大好きな生徒なのだ!」火をつけるのを忘れたパイプをすい、悲しそうに壁をみまわして、あわれな先生はいった。「あれぜんぶを書いたのは、小さな手。病気でやつれ果てているのだ。それは、とっても、とっても小さな手なのだ!」
25
その夜、子供はかや[#「かや」に傍点]ぶき屋根の屋根裏部屋でぐっすりと眠ったが、その部屋は、墓掘り男が何年間か住みついていて、妻をむかえるために自分の小屋にそこからうつっていったものだった。彼女は、朝早く起き、昨夜夕食をとった部屋におりていった。先生はもう床からはなれ、外に出ていたので、彼女はその部屋を片づけて小ぎれいで感じのよいものにしようと立ち働き、ようやく掃除が終ったとき、親切な主人がもどってきた。
彼は何回となく彼女に礼をいい、自分のためにいつも掃除をしてくれている老婆は、話をした例の小さな生徒の看病のために、そこにいっているのだ、と伝えた。ネルは、その子の具合いはどうか? よくなっていればいいのだが、といった。
「いいや」頭を悲しそうにふりながら、先生はいった、「よくはなっていない。わるくなったという話だよ」
「ほんとうにお気の毒だこと」子供はいった。
あわれな先生は、彼女の真心こもった態度をよろこんでいるようだったが、その態度で彼の不安はますますつのっていった。急いで、心配している人間は不幸を拡大し、じっさいよりそれを大きく考え勝ちなものだ、といいそえたからである。「わたしとしては」静かに辛抱強く彼はいった、「そうならないように祈っているよ。あの子がもっと容態がわるくなるなんて、考えられないことだからね」
ネルは朝食の準備をする許可を求め、おじいさんがおりてきたので、三人はそろって朝食を食べた。食事をとっているあいだに、先生は、老人がとてもつかれているようにみえ、明らかに休息を必要としている、といった。
「これから先の旅がながいもので」彼はいった、「一日もむだにはできないというのでなかったら、もうひと晩ここですごしても結構ですよ。そうなされば、わたしもほんとうにうれしいのですからね」
この話を受けるべきか断るべきかをきめかねて、老人がネルをながめているのを、先生はみてとり、こうつけ加えた。
「あなたの幼い同伴者が、もう一日、ここにいてくれたら、うれしいのですよ、孤独な男に慈悲を授け、それと同時に、あなたもからだを休められるものなら、どうかそうしてください。でも、どうしても出発しなければならぬのだったら、旅のご多幸を祈り、学校がはじまる前に、いっしょに少しお見送りしましょう」
「どうしたものだろうね、ネル?」迷って老人はいった、「どうしたものか、お前がいっておくれ」
このすすめを受け、ここにいたほうがいいと子供に答えさせるのに、そう説得する必要はなかった。彼女は大よろこびして、この親切な先生にたいする感謝の心をこの小屋に必要な家事をすることであらわそうとした。そうした仕事が終ったとき、彼女は自分の籠から編み物をとりだし、格子のそばの背なしの椅子に腰をおろしたが、そこではすいかずら[#「すいかずら」に傍点]がやわらかな茎をからませ合って、部屋に忍びこみ、そこをそのかおりのいい|息吹《いぶ》きでいっぱいにしていた。おじいさんは、外で陽ざしのもとに坐り、花のかおりをすいこみ、夏のそよ風に乗ってただよい流れていく雲をぼんやりとながめていた。
先生はきちんと長椅子をそろえ、自分の机に坐り、学校の準備をしていたとき、ネルは自分が邪魔にならないかと心配し、自分の小さな寝室にひきあげる、と申し出た。だが、先生はそれを許そうとせず、彼女がそこにいるのをよろこんでいるようだったので、彼女は、仕事にせっせと精を出しながら、そこにいつづけた。
「生徒はたくさんいるのですか?」彼女はたずねた。
あわれな先生は頭をふり、ふたつの長椅子にもいっぱいにならないくらい、と答えた。
「ほかの生徒も利口なのですか?」壁の上にはってあるものをチラリとみて、子供はたずねた。
「よい子供たちだよ」先生は答えた、「とてもよい子供たちだけれど、あんなふうにはどうしてもなれないね」
彼が話しているとき、顔のすっかり陽焼けした小さな亜麻色の髪の少年が戸口にあらわれ、そこに立ちどまり、いなかふうのお辞儀をし、中にはいってきて、長椅子に坐った。
ついで、この少年は膝の上にひどく隅のめくれあがった本を開いて乗せ、両手をポケットにつっこみ、そこにいっぱいつまっているおはじきの玉を勘定しはじめたが、顔にあらわれた表情からみて、目を釘づけにしているつづりの問題は|上《うわ》の空になっていることがはっきりとわかった、その後間もなく、べつの亜麻色の髪をした小さな少年がブラリブラリとはいってき、それにつづいて赤毛の子供、ついでふたりの亜麻色の頭、ついで同じ髪の色の少年といった具合いに、ふたつの長椅子は十人あまりの少年でいっぱいになったが、その髪の色は霜降り以外の種々雑多な色、年齢は四歳から十四歳、いや、それ以上にも達していた。いちばん小さな少年の脚は、長椅子に坐ると、床から遠くはなれ、いちばん年上の生徒はずっしりとした、人のいい、頭のとろい少年で、背は先生より頭半分くらい高かった。
第一の長椅子のいちばんの|上座《かみざ》――この学校での名誉の座席――は例の病気の生徒の空席で、帽子をかぶってきた生徒が帽子をかける一列の木釘の最初のものには、なにもかかっていなかった。どの少年も神聖な座席と木釘を侵そうとはせず、多くの生徒は、そのうつろな場所から先生のほうに目をうつし、手で顔をかくして、となりのなまけ坊主に耳打ちをしていた。
ついで、学習し、それを暗記するざわめき、冗談のささやき、先生の目をかすめてやる遊び、学校につきものの物音とノロノロと読む声が湧き起り、そうしたさわぎの|最中《さなか》にあって、あわれな先生は坐りつづけていたが、それは、その日の任務に心を集中させ、自分の友人の生徒のことを忘れようとしながらも、それができないでいる弱々しい地味な人物を絵に描いたような姿だった。だが、退屈な彼の任務が、なおいっそう強く、あの勉強をしたがっていた生徒のことを思い出させ、彼の思いはただよい流れて、目の前の生徒たちのところからはなれていった――これは、はっきりとみてとれることだった。
これをいちばんよく心得ていたのは、いちばんなまけ者の坊主どもだった。彼らはしかられないのでだんだんと大胆になり、声は大きく、思い切ったことをやりはじめ、先生の目の下で丁か半かをやり、公々然としかられずにりんご[#「りんご」に傍点]をかじり、物おじもせずにふざけたり意地わるでたがいをつねり合い、先生の机の脚に自分の名前をきざみこんでいた。本から直接の勉強をするために先生の机のわきに立っていたとまどい気味の薄のろは、忘れた言葉を思い出そうとして天井をもうみたりはせず、先生の|肘《ひじ》のところににじりより、大胆不敵にも、そこにある開いた本をのぞきこんでいた。小さな一団のひょうきん者たちは、横目をつかい、顔をしかめ(相手は、もちろん、いちばんチビの生徒)、目の前に本をおいたりはせず、それに見惚れている連中は、はばかるところなく、そのよろこびをあらわしていた。もし先生がハッとわれにかえり、進行ちゅうのことに気づいた気配をみせると、さわぎは一瞬静まり、だれも先生をまともにみようとはせず、勉強し、とてもおそれ入ったというようすをあらわしていたが、先生がまた前の状態にもどっていくと、さわぎがまた湧き起り、前より十倍もワイワイとしたそうぞうしさになっていった。
おお! なまけ者たちは、なんと戸外に出たいと思い、外にワッととびだし、森の中にとびこみ、それからはズッと野生の少年や野蛮人になろうと心に思い定めているように、開いたドアと窓をなんとながめていたことだろう! けしからんことに、ひんやりとする川と枝の先が水にふれている柳の木の下の陰の多い水浴場に思いを走らせて、シャツのカラーのボタンをはずし、できるだけそれをうしろにひきおろして、習字の本で赤らんだ顔に風を入れ、こんなに暑く煮えくりかえる日には、鯨、とげ[#「とげ」に傍点]魚、はえ[#「はえ」に傍点]、いや、学校の生徒でなければ、どんなものになっても構わないと思いながら坐っているあのたくましい少年の心が、なんと誘惑を感じ、そそのかされたことだろう! 暑いのなんのって! もうひとりべつの少年にたずねてみるがいい。その少年は、座席がドアにいちばん近かったので、ソッと庭に忍びだし、顔を井戸のバケツにひたし、ついで草の上にころがって、仲間の生徒を気がくるわんばかりにうらやましがらせている生徒だった――この少年に、こんな日ってあるかしら、とたずねてみるがいい。その日は、蜜蜂でさえ花の奥深くまではいりこみ、仕事はやめて、蜜の製造人にはもうなるまいと決心したように、そこにジッとひそんでいるのだ。その日は、怠惰のためにつくられた日、緑の場所でひっくりかえり、空をジッとにらんで、その明るさで人が目を閉じ、眠りこんでしまう日なのだ。この時は、太陽そのものにさえあなどられている暗い部屋でかびくさい本をせっせと読む時なのだろうか? とんでもない!
ネルは、編み物をしながら窓辺に坐り、ときどきさわぎ立てる少年たちにおびえながらも、起ったことすべてに、気づいていた。学科が終り、書き方の時間がはじまった。机はひとつしかなく、それは先生の机だったので、それぞれの少年は、順番にそこに坐り、ねじくれた写本で一生けんめい学び、先生は歩きまわっていた。これは比較的静かな時間だった。先生がやってきて、書いている生徒の肩越しにながめ、壁にはった写しでこうした文字はどんなふうにまげられているかをおだやかに教え、ここの上に向けた筆づかい、ここの下に向けた筆づかいをほめ、壁の写しをお手本にするように、と伝えていたからである。ついで、彼は話を切って、病人の子供が昨夜なんといったか? どんなにもう一度仲間のところにもどりたがっているか、を伝えた。このあわれな先生の態度はとてもやさしく愛情こもったものだったので、少年たちは先生をひどく苦しめたことをすっかり後悔し、もうシーンと静まりかえり、りんご[#「りんご」に傍点]をかじり、名前を刻み、つねったり、しかめっ面など、その後のまるまる二分間、ぜんぜんせずにいた。
「きょうの午後は」時計が十二時を報じたとき、先生はいった、「特別なお休みにしよう」
こう知らされると、背の高い少年に音頭をとられて、少年たちは|大喊声《だいかんせい》をあげ、そのさわぎにつつまれて、先生が話しているのは目にはいったが、その声は聞えぬことになった。しかし、静かにするようにという合図に先生が片手をあげると、彼らのうちでいちばん息のながい生徒の息がすっかり切れてしまうとすぐ、思いやりの情を働かして、彼らのさわぎは静まっていった。
「まず第一に約束しなくちゃいけないよ」先生はいった、「さわぎ立てないことをね。さもなけりゃ、さわぎ立てるのなら、遠くはなれて――というのは、村から出ていってから、さわぎ立てるのだよ。自分たちの遊び仲間の友だちの安静を乱すようなことは、きっとしないだろうね」
そんなことはしないという全員のつぶやき(彼らは少年、たぶん、誠意の強くこもったつぶやきだったのだろう)が起り、例の背の高い少年は、たぶん、生徒のだれにもおとらず真心からのものだったのだろうが、自分のまわりの仲間に呼びかけ、自分はただヒソヒソ声で叫んでいただけだったことの証人になってくれ、とたのみこんでいた。
「じゃ、いい子だからね」先生はいった、「わたしのたのんだことを忘れないようにしておくれ。たのむよ。できるだけ幸福になるのはいいことだが、自分たちが健康に恵まれているよろこびを忘れないようにするのだよ。みんな、さようなら!」
「ありがとう、先生」と「さようなら、先生」がさまざまな声で何回となくくりかえされ、少年たちはとてもゆっくりと静かに去っていった。休日と半休日にだけ太陽は輝き、小鳥は歌うものなのだが、その日は太陽が輝き、小鳥が歌っていた。木は拘束されない少年たちに手をふり、よじのぼって葉のついた枝の中で気持ちよく休むようにさそい、|干《ほ》し草は、ここにやってきて、それを清らかな大気の中にまき散らしてくれとたのみ、緑の麦は、やさしく森と小川のほうにさし招いていた。入りまじる光と影でいっそうなめらかさをました大地は、走り、とび、どこへなりとながい散歩に出るように、とさそっていた。これは、子供たちにはもうどうにも我慢ならぬことだった。こうして、よろこびの喊声をあげて少年たちは全員サッと走りだし、叫び笑いながら、四方八方に散っていった。
「ありがたいことに、これは当然のことなのだ!」彼らの姿を見送りながら、あわれな先生はいった。「わたしのことなんて気にしていないのは、とてもうれしいこと!」
だが、たとえその教訓を示している寓話(市場にらばをつれていく父親と息子の話、イギリスでは十六世紀後半からある)がなくとも、たいていの者は気づくことなのだが、すべての人をよろこばすのはむずかしいことである。その日の午後のうちに、生徒の母親や叔母が何人かやってきて、先生のやり方にはまったく賛成できない、と伝えた。わずかの者はただ遠まわしにそれをいい、礼儀正しく、|暦《こよみ》によればきょうはどんな赤文字の日(教会の暦では聖者の日、その他の休日は赤い文字で書かれていた)、聖者の日なのでしょう? とたずねるだけにとどめていた。何人かわずかの者(これは深遠なる村の政治家たちだった)は、君主の誕生日以外の日につまらぬ口実で半休日を許すのは王座をないがしろにし、教会と国家を侮辱するもの、革命思想のにおいがする、といっていた。だが、大多数の者は個人的な理由で、はっきりした言葉で、その不満を表示し、こうして生徒に学問をわずかしか教えないでいるのは、まさに窃盗といかさま行為にほかならない、と論じ立てた。そしてある老夫人は、話をするだけではおだやかな先生を燃え立たせジリジリさせることはできないとさとって、先生の家からとびだし、先生自身の窓の外でほかの老人に語りかけ、先生に聞えよがしにしゃべり立て、一週間のお礼金からこの半休日の分は、もちろん、さしひいてくれるだろう、先生は、もちろん、自分にたいする反対が起きるのを当然覚悟しているのだろう、このあたりでなまけ者には事欠いていない(ここで老夫人は声をはりあげた)、なまけ者すぎて先生にもなれない人間は、間もなく、自分にとってかわるほかの人たちがいるのがわかることだろう、注意して、しっかりと用心してもらいたいもんだ、と述べ立てた。だが、こうしたののしりやわずらわしさは、おだやかな先生からひと言でも言葉をひきだすことができず、先生は――前より多少がっくりはしていたろうが、まったく無言で不平をこぼさず――わきにネルをおいて坐りつづけていた。
もう夜も間近いころ、ひとりの老婆が庭をよろめきながら大急ぎでかけつけ、ドアのところで先生と逢って、すぐにウェスト夫人の家にゆきなさい、自分より先に走っていったほうがいい、と伝えた。彼とネルはつれ立って散歩に出かけるところだったが、彼女の手を放しもせず、先生はあわただしくとびだし、使いの者はできるだけ急いでそのあとを追うことになった。
ふたりは小屋の戸口で足をとめ、先生はソッと戸をノックした。時をうつさず戸は開けられ、彼らは部屋にはいっていったが、そこでは、わずかの女の人たちの一団がそれより年輩のひとりの女のまわりに集り、彼女は激しく泣きくずれ、もみ手をしながら、からだを前後にゆすって坐っていた。
「ああ、奥さん!」この老女の椅子に近づいていって、先生はいった、「そんなに具合いがわるいのですか?」
「ズンズンと死にかけてるんだよ」老夫人は叫んだ。「孫の坊やが死にかけてるんだよ。みんな、お前さんのせいさ。孫がどうしてもといってるんじゃなかったら、会わせたくはないとこなんだがね。これが勉強ばっかししてた因果なのさ。ああ、まあ、まあ、まあ、どうしたらいいんだろう?」
「わたしがなにかまちがいをしたとは、どうかいわないでください」おだやかな先生は強くいった。「わたしはべつに気にはしていませんよ。とんでもない、とんでもない。あなたは、とても苦しみ、本気でそんなことをいっているのじゃないんですからね。たしかにそうですよ」
「いや、本気だよ」老婆はやりかえした。「ぜんぶ本気でいってるんだよ。お前さんこわさに本にかじりついたりしなかったら、いまごろ、元気で陽気になってたことだろうよ。そうだとも、わかってるさ」
先生はほかの女たちをみまわしたが、それは、そのうちのだれかが自分のためにやさしい言葉を語ってくれとたのみこんでいるようなふうだった。だが、女たちは頭をふり、学問をしてもろくなことはないと思ってた、これではっきりとわかった、とたがいにブツブツつぶやいていた。それにたいする応答はひと言もいわず、叱責のまなざしを彼らに投げもせずに、彼は自分を呼んでくれた(そして、いま、女たちといっしょになっていた)老婆のあとにつづき、べつの部屋にはいっていったが、そこでは、半分裸になった先生の子供の友人が寝台に身をのばして横になっていた。
この友人はとても齢のいかぬ少年、ほんとうに小さな子供だった。まだ捲き毛の髪は顔のあたりにさがり、目はとてもキラキラと輝いていたが、その輝きは地上のものではなく、天国のものだった。先生は彼のわきに坐り、枕の上にかがみこんで、彼の名をささやいた。少年はパッととびおき、手で顔をなで、先生の首に痩せた両腕を投げて、先生は自分の大切な親友だ、と叫んだ。
「以前もいつもそうだったのだよ。ほんとうに、そのつもりでいたのだからね」あわれな先生はいった。
「あの人はだれです?」ネルの姿をみて、少年はたずねた。「キスは心配でできません。あの人を病気にしたら、大変ですからね。ぼくと握手するよう、たのんでください」
ネルは、すすり泣きながらそばに近づき、小さな、ぐったりとした手をにぎった。しばらくすると、手をふたたびはなして、病気の少年は静かに横になった。
「あの庭を憶えているね、ハリー」目をさまさせようと、先生はささやいた。トロンとしたようすがこの子供にあらわれてきていたからである。「夕方にはいつもどんなに楽しかったか、憶えているね。早くまたそこにゆくようにしなければいけないよ。花はきみがいなくてさびしがり、いつもほど陽気になっていないようなのだからね。じきに来てくれるね、もうすぐ、じきにね――どうだい?」
少年はかすかにほほえみ――とても、とてもかすかなものだった――自分の手を友人の白髪まじりの頭の上においた。それと同時に唇を動かしたが、声はそこから出てはこなかった。そう、ぜんぜん出てこなかった。
それにつづく沈黙の中で、暮色に運ばれてきた低くうなる遠くの人声が、開いた窓をとおしてただよい流れてきた。「あれはなんです?」目を開いて、病気の子供はたずねた。
「共有地で遊んでいる子供たちだよ」
彼は、枕のところからハンカチをとり、それを頭の上でふろうとしたが、弱々しい腕は力なくぐったりと落ちてしまった。
「わたしがそれをしてやろうか?」先生はいった。
「どうか窓のところでそれをふってください」が弱々しい答えだった。「|格子《こうし》にそれをしばりつけておいて。だれかがそれをみるかもしれませんからね。たぶん、ぼくのことを思い、こちらをみるでしょうからね」
彼は頭をあげ、そのはためく合図のハンカチから、部屋のテーブルの上にある石板、本、その他の少年らしい道具といっしょにあるジッと動かぬ自分のバットのほうに目をチラリとうつした。それから、彼はふたたび静かにからだを横たえ、小さな女の子の姿がみえない、ここにいるのか、とたずねた。
彼女は前に出てゆき、寝台の上がけの上にある動かぬ手をしっかりとにぎりしめた。ふたりの親友と仲間――一方は男の子、他方は女の子であったが、彼らはそうした親友と仲間になっていた――は、ながいこと抱き合い、それから、小さな生徒は顔を壁のほうに向けて、眠りこんでしまった。
あわれな先生は、冷たい小さな手をにぎりしめ、それをこすって、同じ場所に坐りつづけていた。それは、ただ死んだ子供の手ともいえるものにすぎなかった。彼はそれを感じてはいたものの、なおそれをこすりつづけ、それを下におくことができなかった。
26
断腸の思いといったものを味いながら、ネルは、先生といっしょに少年の枕もとをはなれ、先生の小屋にもどっていった。悲しみと涙に閉ざされながらも、彼女は注意して、老人にそのほんとうの原因を打ち明けないでいた。というのも、死んだ少年は孫息子で、その時ならぬ死を悲しんでいるひとりの老人の祖母がいたからである。
彼女は急いで寝所にソッとひきあげた。そして、ひとりだけになると、胸いっぱいつまっている悲しみを思い切りはきだした。だが、彼女がみた光景には、満足と感謝の教訓がないわけではなかった。それは、自分に健康と自由を与えてくれている運命にたいする満足と、愛している血縁者と友人を自分が与えられ、多くの幼い子供たち――自分と同じ若さで将来のある――が病いに倒れ墓に運ばれているのに、美しい世界に生きて動きまわるのを自分が許されていることにたいする感謝の念だった。最近歩きまわったあの古い墓地で、子供たちの墓の上で、どれだけ多くの|土饅頭《どまんじゆう》が緑におおわれていることだろう! 彼女自身子供として考え、幼くして死ぬ者がどんなに明るい幸福な来世に運ばれていくか、死んで深い愛情を墓場にもちこみ、まわりの人が死ぬのをながめる苦痛(これは、ながい生涯で、老人に何回となく死を味わせるもの)をどんなに免じられるかを、たぶん、十分に考えてはみなかったのだろうが、それにしても、彼女はしっかりと考え、その夜みたことから、はっきりとした、よくわかる教訓をくみとり、それを心深くきざみこんでいたのだった。
その夜彼女のみた夢は、あの小さな生徒についてのものだった。それは、棺に入れられもせず、おおわれてもいなく、天使にまじって幸福にほほ笑んでいるものだった。太陽が明るい光をさしこんで、彼女の目をさまさせた。いましなければならないことは、あのあわれな先生と別れを告げ、もう一度さまよいでることだけだった。
彼らが出発しようとしたときには、学校はもうはじまっていた。暗い部屋で、きのうのさわぎがまた、進行していた。それは少し落ち着き、やわらげられたとはいえたろうが、たとえそうだとしても、ほんのわずかだけのことだった。先生は机から立ちあがり、彼らといっしょに門のところまで歩いてきた。
手をふるわし、オズオズとして、ネルは競馬場で例の婦人が花代として彼女にくれたお金をさしだし、その金額がどんなにわずかなものかを考えて、お礼の言葉にも口ごもり、それをさしだしながら、顔を赤らめていた。
だが、先生は、それをしまっておくように、と彼女に伝え、かがみこんで彼女の頬にキスをし、グルリと向きを変えて、家にはいってしまった。
まだ五、六歩も進まないうちに、彼は戸口にふたたび姿をあらわした。老人はもどっていって握手し、子供もその例にならった。
「幸運と幸福に恵まれるように!」あわれな先生はいった。「わたしは、これで、まったくのひとりぼっち。またこちらにやってきたら、この小さな村の学校を忘れないように」
「忘れたりは決してしません」ネルは答えた。「このご親切にたいして、感謝の気持ちも忘れることはありません」
「子供たちの口からそうした言葉を何回となく聞いてはきたけれどね」頭をふり、考えこんでほほ笑みながら、先生はいった、「そうした言葉はすぐ忘れられてしまうものだよ。ひとり若い友人、若いだけになおよい友人――と愛情で結びつけられていたのだが、それももう終ってしまった――さようなら!」
彼らは何回も先生に別れを告げ、向きを変えて、ゆっくりと、ときどきふりかえりながら去ってゆき、とうとう彼の姿はみえなくなった。ついに村はズッとうしろになり、木のうしろに立つ煙もみえなくなった。大通りを進み、それが通じるどこへでもゆこうと決心して、彼らは前より足を早めてテクテクと歩いていった。
だが、大通りはズーッとズーッとのびていた。足をとめずにただとおりすぎた二、三軒のとるに足らない小屋の集り、彼らがパンとチーズを食べた路傍に一軒、ポツンと立っていた居酒屋以外に、この大通りは――午後おそくなっても――どんな町にも通じず、遠くにまでのび、いままで一日じゅう進んできた道と同じ、退屈で、あきあきする、まがりくねった道のままだった。だが、前進する以外に方法はなかったので、とてもつかれてクタクタになり、足はひどくのろくはなりながらも、彼らは前へ前へと進んでいった。
午後はしだいに深まって、美しい夕方になり、彼らは道が急に鋭くまがり、共有地を切っている地点に達した。この共有地のへりのところ、そこと耕作地を区切っている生垣の近くに、ほろつきの大馬車がとまって休んでいた。そうした場所にいたために、彼らはこの車といきなりぶつかることになり、たとえそれをさけようとしても、それは不可能だった。
それはみすぼらしい、薄よごれた、ほこりだらけの荷車ではなく、車に乗せた|瀟洒《しようしや》な小さな家、白い浮き|縞《じま》綿布のカーテンが窓を飾り、ケバケバしい赤のわくでひき立たせた緑の窓のよろい戸がつき、このあざやかな色の対照で、ぜんたいが光り輝くものになっていた。またそれは、一頭のろば[#「ろば」に傍点]や痩せ細った馬でひかれている貧相な大馬車でもなかった。そうとう元気な二頭の馬がかじ棒からはずされ、きたない草を|食《は》んでいたからである。それはジプシーの大馬車でもなかった。開いたドアのところで(そこはみがきあげた真鍮のノッカーで飾られていた)太った、みた目に感じのいいまともな婦人が坐り、そのボンネット帽は蝶結びのリボンでユラユラとゆれていた。そして、この大馬車が尾羽打ち枯らしたものでないことは、この婦人のやっていることではっきりとわかった。それはお茶という快適な、元気をつけてくれる仕事だったからである。ちょっといかがわしい性格をもったびんとハムの膝肉をもふくめて、茶道具が、白いナプキンをかけた太鼓の上にならべられてあった。そこに、まるで世界きっての便利な円卓に向っているように、この放浪の婦人が坐り、お茶を飲み、大いに楽しんで食べ物にとりかかろうとしていた。
たまたまそのとき、大馬車の婦人がその茶碗(彼女の身辺のすべてのものが太っていて、みた目で感じのいいものになるようにと、それは朝食用の大きな茶碗だった)を口のところまで運び、紅茶のかおりを十分に楽しんで――そこには例のいかがわしいびんからそそいだあるものが、おそらく、ほんのちょっぴりまじっていたはず、これはただの推測、れっきとした事実の事柄ではないのだが――目を空のほうにあげていたので、もう一度いいなおすと、たまたまそのとき、こうして楽しいことをやっていたので、ふたりの旅人が近づいてきたとき、彼女はその姿に気づかないでいた。老人と幼い子供がゆっくりとわきをとおり、遠慮しながらも、飢えに苦しむ感嘆の目で彼女のしていることをチラリとながめているのに大馬車の婦人が気づいたのは、彼女が茶碗を下におろそうとしながら、その中身を飲み乾した運動のあとでフーッと深く息をすいこんでいるときのことだった。
「ちょいと!」膝からパンくずをすくいとり、口をぬぐいもせずにそれを飲みこんで、大馬車の婦人は叫んだ。「うん、たしかにそうだわ――嬢ちゃん、あのガラガラ競走の賞杯をものにしたのは、だれだったの?」
「ものにしたって、なにをですか?」ネルはたずねた。
「競馬でのガラガラ競走の賞杯よ――二日目の賞杯のことよ」
「二日目の?」
「二日目のだって! そう、二日目よ」ジリジリしているようすをみせて、婦人はくりかえした。「きちんとたずねられてるのに、だれがあのガラガラ競走の賞杯を手にしたかをいえないの?」
「わかりません」
「わからないだって!」大馬車の婦人はくりかえした。「まあ、あんたはそこにいたんじゃないの。この目でちゃんとみてたのよ」
ネルは、これを聞いて、少なからずおそろしくなった。この婦人がショートとコドリンの商社と緊密な関係にあるのかもしれない、と考えたからである。だが、それにつづく言葉が彼女をホッとさせた。
「パンチ|風情《ふぜい》といっしょになってるのをみて」大馬車の婦人はいった、「とても気の毒に思ってたのよ。あいつは、世間の人がみるのもいやがってる低級な、いかさまをやる、下品な男なのよ」
「べつにすき好んであそこにいたのではありません」子供は答えた。「道がわからず、あのふたりの人がとても親切にしてくれ、いっしょに旅をするのを許してくれたからです。あの――あの人たちをご存じなのですか?」
「ご存じかだって!」キーキー声ともいえる声を張りあげて、大馬車の婦人は叫んだ。「あの連中[#「あの連中」に傍点]をご存じかだって! でも、あんたは幼く、経験のない娘、だからこそ、そんな質問をしても許されるのよ、あたしがあんな連中と知り合いのようにみえること? この大馬車があんな連中と知り合いのようにみえること?」
「いいえ、みえません」自分がなにかひどい失敗をしたのかと心配になって、子供は答えた、「どうか許してください」
こうした自分に不名誉な想像でこの婦人は少なからず苛立ち、心の平静をまだとりもどしていないようだったが、許しはすぐに与えられた。ついで、子供は、自分たちが第一日目に競馬場から去り、この道路の先にあるつぎの町にゆくところ、そこで夜をすごすつもりだ、と説明した。この太った婦人の顔が晴れあがってきたので、ネルは思い切って、その町まではどのくらいあるだろうか? とたずねてみた。それにたいする応答――あの競馬には一頭びきの二輪馬車で初日にいった、それは|遊山《ゆさん》の旅、そこにいったのは商売や利益とはぜんぜん関係のないことを十分に説明してから、はじめてその応答になったのだったが――は、その地まで八マイルあるということだった。
がっかりさせるこの知らせは、子供の心をちょっと打ちくだいた。暮色の濃くなってゆく道路に目をやったとき、涙がひと|滴《しずく》思わずこぼれてしまうほどだった。彼女の祖父は、不平はこぼしはしなかったものの、杖によりかかりながら、深い|吐息《といき》をもらし、ほこりだらけの遠くのほうをみとおそうとむだな努力をかさねていた。
大馬車の婦人は、テーブルを片づける予備行動として、茶道具を集めようとしていたが、子供の不安そうなようすに気づいて、モジモジし、手をとめてしまった。子供は膝をまげ腰を落してお辞儀をし、道案内を受けた礼をいい、老人に手をさしだして、もう五十ヤードかそこいら向うに立ち去っていったが、そのとき、大馬車の婦人は、こちらにもどっていらっしゃい、と彼女に声をかけた。
「こっちに、もっとこっちに来なさい」――入り口の階段をのぼるようにと招いて、彼女はいった。「あんた、お腹が空いてるの?」
「いいえ、それほど――でも、わたしたち、つかれているのです。道は――道はとても遠いんですもの――」
「そう、お腹が空いていようがいまいが、お茶にしたほうがいいことよ」新しい彼女の知人はいった。「それには賛成でしょうね、おじいさん?」
老人は、つつましく帽子をぬぎ、礼を述べた。そこで大馬車の婦人は彼にも階段をあがってくるようにといったが、太鼓は二人用のテーブルにしては不便なものだったので、ふたりはまた車からおり、草の上に坐り、そこに婦人は茶のお盆、バターつきパン、膝肉のハム、簡単にいえば、例のびんはべつにして、彼女が飲み食べしたすべてのものをわたしてくれた。酒のびんは、もうちゃんと、彼女のポケットにスルリとおさめられてあった。
「それをうしろの車の近くにならべなさい、嬢ちゃん、そこがいちばんいいとこなんだから」――車の上からならべ方を指示して、彼らの友人はいった。「さあ、|急須《きゆうす》をこっちによこして。熱い湯をもう少し入れてあげるからね。それにお茶をひとつまみね。そうしたら、ふたりとも、お腹いっぱい食べたらいいわ、遠慮することないことよ。それだけは、おねがいしときますよ」
そうした気前のいい言葉がなくとも、そんな言葉がぜんぜんなくとも、ふたりは、たぶん、この婦人の希望どおりのことをしたことだったろう。しかし、こういわれれば、もう|体裁《ていさい》を構ったり遠慮したりすることはなかったので、ふたりは十分に食べ、心おきなくそれを楽しんだ。
こうして食事をしているあいだ、婦人は地面におり、手をうしろに組み、大きな帽子をすごくふるわせて、調子をとった足どりでいとも堂々とあちらこちらと歩きまわり、静かなよろこびのようすで、ときどき大馬車を打ちながめ、特に赤いへり板と真鍮のノッカーにご満悦のようだった。このおだやかな運動をしばらくしたあとで、彼女は階段に坐りこみ、「ジョージ」と呼んだ。すると、このときまで生垣の中にすっぽりとつつまれ、自分の姿はみられずに起っていることすべてをながめていた馬車の御者の仕事着を着た男が自分をかくしていた小枝をかきわけ、両脚の上にはパン焼き皿と半ガロン入りの石のびん、右手にはナイフ、左手にはフォークをもって、坐ったままの姿勢で姿をあらわした。
「はい、奥さん」――ジョージはいった。
「冷たいパイはどうだったこと、ジョージ?」
「まんざらでもありませんでしたよ」
「それにビールだけど」大馬車の婦人は、前の質問よりこの質問のほうに関心をもっているようすで、いった、「それはまずまずのものだったこと、ジョージ?」
「意外に気のぬけたもんだったけど」ジョージは答えた、「それにしても、まんざらすてたもんでもありませんよ」
女主人を安心させようと、彼は石のびんからひとすすり(それは一パイントほどの分量だった)し、ついで舌打ちをし、ウインクし、頭をコクリとうなずかせた。きっと同じやさしい願望につき動かされてのことだろうが、このビールが自分の食欲にわるい影響をおよぼさなかった事実を実地に示そうと、彼はすぐにふたたびナイフとフォークをとりあげた。
大馬車の婦人は、しばらくのあいだ、よしよしといったようにそれをながめていてから、いった、
「もうだいたい終ったこと?」
「だいたいね」じっさい、ナイフで皿を一面にひっかき、おいしい褐色のいく口かを口に運び、目にはそれとほとんどわからないほどゆっくりと頭をだんだんとうしろに傾かせ、ついには地面の上にからだをのばして横になりそうになるくらいまで、いかにも科学の理に合ったひと飲みを石のびんでやってから、この紳士はすっかり作業は終ったといい、奥まった場所から出てきた。
「べつに急がせたりはしなかったことね、ジョージ?」女主人はたずねたが、彼女は、彼がいままでやっていた仕事に大きな共感を寄せているようだった。
「急がせたら」これから起きるかもしれない自分に好都合な緊急事態にたいして賢明にも備えを固めて、この使用人は答えた、「つぎのときに、その穴埋めをしなけりゃなりませんな、それだけのこってすよ」
「あたしたちは重い荷物じゃないことね、ジョージ?」
「それは、ご婦人方がいつもいってることでね」こうしたとてつもない話にたいして、あまねく自然界のすべてのものに訴えようとしているように、ズーッとあたり一面をみまわして、男は答えた。「女が車を走らせるのをみてると、鞭を静かにしておくことが絶対にないのがわかるはずですよ。馬がどんなに早く走っても、女は絶対に満足しないんですからね。家畜が相応の荷をしょってても、もう少し荷をしょわせてやろう、とかならずくるんですからね。この話のわけは、どういうもんなんでしょうかね?」
「このふたりの旅をしてる人がわたしたちといっしょになったら、馬の荷にうんとちがいが出てくること?」相手の哲学的な質問はそのままにして、ネルと老人をさしながら、女主人はたずねたが、ふたりは、これから徒歩の旅をつづけようと、せっせと準備にとりかかっていた。
「もちろん、ちがいは出ますさ」ジョージは強情にいい張った。
「うんとちがいが出るかしら?」女主人はくりかえした。「ふたりは、そう重いはずはないんだけどね」
「あのふたりの重さは」細かな計算をしている人のように彼らをジッとみながら、ジョージはいった、「オリヴァー・クロムウェル(一五九九―一六五八、イギリスの将軍で、清教徒の政治家。ここではその人形のこと)の重さにはちょっと足らんでしょうな」
自分たちの時代よりだいぶむかしに生きていたと本で読んだことのある人物の体重を、この男がこうまで正確に知っているのに、ネルはひどくびっくりしたが、自分たちがこの大馬車に乗っていけると聞いたよろこびで、この問題はすぐ頭からぬけてしまった。そして、心からの誠意をこめて、この婦人にお礼をいった。彼女はさっさと迅速に茶道具やあたりにあったほかのものの片づけの手伝いをし、そのときにはもう馬の馬具づけが終っていたので、車に乗りこみ、老人もよろこんでそのあとにつづいた。恩人の女主人はつづいてドアを閉め、開いた窓べりの太鼓の近くに坐り、階段はジョージの手ではずされ、車の下にしまいこまれて、一同はパタパタ、キーキー、ミシミシという大きな音を立てながら出発し、だれもノックをしたことのないノッカーは、車が重くゆれて進んでいくと、自動的に二重の音をいつまでもつづけて立てていた。
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わずかの距離だが車がゆっくりと進んでいったとき、ネルは勇気をふるいおこして、そっとこの車をみわたし、もっと細かに観察した。その半分――ゆったりと落ち着いて女主人がそのときに坐っていた半分――はじゅうたんがしかれ、その奥のほうは仕切られて、船の上の寝台のようにつくられた寝台になり、そこには、小さな窓のように、美しい白いカーテンがかけられ、とても快適には思えたが、この大馬車の女主人がどんなふうにうまくからだを動かしてそこにはいってゆくのかは、計り知れぬ深遠な神秘だった。べつの半分は台所になり、ストーヴがつけられ、その小さな煙突は屋根をつきぬけて外に出ていた。そこには、さらに戸棚、すなわち、食料貯蔵戸棚、いくつかの箱、大きな水さし、わずかの料理道具、瀬戸物類があった。こうしたあとの必需品は壁にかかり、この大馬車の婦人専用になっている場所のところの壁は、|三角形打楽器《トライアングル》とふたつの手あかでよごれたタムバリンといった華やかで明るい装飾品で飾り立てられていた。
大馬車の女主人はほこりやかで詩的な楽器にかこまれて一方の窓のところに坐り、小さなネルとおじいさんはやかんやシチュウなべといった地味なものにかこまれてべつの窓のところに坐っていた。一方、馬車はユラユラと進み、暗さのましてゆく景色をゆっくりと変えていた。最初、ふたりはほとんど話し合わず、話をしても、ささやき声でそれをしていたが、その場所に馴れるにつれて、もっと気楽にしゃべれるようになり、とおりすぎるいなかの景色や目に映るさまざまな物のことを語り合っていた。そして、老人はとうとう眠ってしまった。女主人はこれをみて、ネルにそばに来て坐るようにとさそった。
「そう、嬢ちゃん」彼女はいった、「こうした旅行、気に入ったこと?」
ネルは、ほんとうにとても楽しい、と答え、それにたいして、婦人は、元気な人の場合にはそうだろう、と賛成した。自分自身は|気鬱《きうつ》でいつもなやまされ、そのために、いつも刺激物が必要なのだ、と彼女はいった。だが、そうした刺激物が前にもうふれたいかがわしいびんから得られるのか、それとも、ほかのものから得られるのかについては、彼女はなにもいわなかった。
「それが、若い人たちの幸福というもんよ」彼女は語りつづけた。「気鬱がどんなものか、あんたは知らないことね。その上、いつも食欲はあるしね。それは、ほんとうに楽しいもんなのよ」
自分に食欲がなくともべつに不都合はない、とネルは考え、さらに、この婦人の外見にも、お茶のときの態度にも、食べ物と飲み物にたいする生れながらの好みがなくなってしまったと結論を出すべきものはなにもないようだが、と考えていた。だが、当然すべきこととして、彼女はこの婦人のいったことをだまって認め、相手が語りだすのを待っていた。
だが、なにも話さずに、この婦人は、ながいこと、だまったままで子供をジッと見守り、それから立ちあがって、|幅《はば》が一ヤードほどもある大きな巻いたズックの布を隅からひきだし、床におろし、それを足でひろげたが、それは、この車の端から端までとどくほどのものだった。
「ほーら、嬢ちゃん」彼女はいった、「これを読んでごらん」
ネルはそこにゆき、そこにすごい黒文字で書かれてある言葉を「ジャーリーのろう人形」と大きな声で読みあげた。
「もう一度読んでごらん」ご満悦で、婦人はいった。
「ジャーリーのろう人形」ネルはくりかえした。
「それがあたしよ」婦人はいった。「あたしがジャーリー夫人なの」
元気を出しなさいといったようすをネルに示して――これは、いま本物のジャーリーの目の前にネルは立っているのだが、すっかり圧倒されておそれ入る必要はないと知らせるつもりのもの――大馬車の婦人はもうひとつの巻き物をひろげてみせたが、その上には「実物大の百人の人物」とあり、ついでべつの巻き物には「真のろう人形の世界唯一のすばらしい|蒐集《しゆうしゆう》」とあり、さらにもっと小さな巻き物には「いま奥で展覧中」――「唯一の正真正銘のジャーリー」――「ジャーリーの無類の蒐集」――「ジャーリーは貴族と紳士のよろこび」――「王室はジャーリーを後援」と書かれてあった。びっくりしている子供にこうした巨大な広告を示してから、彼女はちらしの形のざこ[#「ざこ」に傍点]の標本をひっぱりだし、その一部には流行歌の変え歌、「わたしを信じて、もしあのすばらしいジャーリーのろう人形がみんな」(ムアのバラッド『わたしを信じて、あのかわいい子供たちがみんな』から)――「あなたの見世物を若かりし花のころみましたよ」(やはりムアのバラッドから)――「川をわたってジャーリーのもとに」(ジェイムズ二世のころの歌のくりかえし句に、『川をわたり、海を越えて……』がある)とあり、すべての好みに合せるために、ほかのものはもっと明るいおどけた人たちを対象にして、人気のあった歌「もしろば[#「ろば」に傍点]をもってたら」(一八二二年に動物虐待禁止のマーティン法が出たときの『動こうとしないろばをもっていたら』の歌)の変え歌があり、それは、
[#ここから2字下げ]
ジャーリー夫人のろう人形を
みにいこうとしないろば[#「ろば」に傍点]と知り合いだったら、
それを友だちとして認めるかしら?
[#1字下げ]おお、とんでもない、とんでもない!
[#2字下げ]それじゃ、走ってジャーリーの展覧会に――
[#ここで字下げ終わり]
ではじまっているものだった。そのほかにも、いくつか散文のものがあり、それはシナの皇帝とかき[#「かき」に傍点]の問答、キャンタベリーの大主教と国教反対者の教会維持税(一八六八年に廃止された)についての問答といったものだったが、いずれも同じ教訓、すなわち、それも読んだ者は急いでジャーリーの展覧会にかけつけなければいけない、子供とやとい人の入場料は半額、をうたい文句にしていた。社会における重要性を示すこうしたすべての証拠を子供の相手にすっかりしっかりとみせてから、ジャーリー夫人はそれを巻き、注意深く片づけてから、また腰をおろし、意気揚々として子供をながめた。
「これからは」ジャーリー夫人はいった、「きたならしいパンチの仲間入りなんて絶対しちゃいけないことよ」
「ろう人形は一度もみたことがありません」ネルはいった。「パンチよりもっとおもしろいものなのですか?」
「もっとおもしろい!」キンキン声でジャーリー夫人はいった。「ぜんぜんおもしろくはないことよ」
「まあ!」すっかりおそれ入って、ネルはいった。
「ぜんぜんおもしろくはないことよ」ジャーリー夫人はくりかえした。「それは静かで――あの言葉はなんだったっけ――|批判的《クリテイカル》? ――いいや――|古典的《クラシカル》、そう、それ――それは静かで古典的なもの。低級な打つなぐるのさわぎ、あのひどいパンチのように冗談をとばしたりキーキーいったりするもんじゃなく、冷淡と上品さのいつも変らぬ態度をした、いつも同じもんなのよ。生きてる実物そっくり、だから、ろう人形が話をし歩きまわりさえしたら、そのちがいには気づかないくらいよ。いまのまんまで、ろう人形が生きてる|実物《ライフ》そっくりとまでいう気はないけど、ろう人形そっくりの|生活《ライフ》は、たしかにみたことはあることよ」
「それはここにあるのですか?」ネルはたずねたが、彼女の好奇心はこの話でたしかにかき立てられたのだった。
「なにがここに?」
「ろう人形です」
「まあ、驚いた、嬢ちゃん、あんた、なにを考えてんの? その集めたもんが、どうしてここにおけると思うの? ここでは、ひとつ小さな戸棚といくつかの箱の中以外のもんは、ぜんぶみえるでしょ、それはほかのほろつきの大馬車にのせて会場に送ってあって、あさって、公開されるのよ。あんたは、いま、その町にいこうとしてるのよ。きっと、あんたもそれをみるでしょうよ。あんたがそれをみるのは当然のこと、きっとみることよ。どんなに一生けんめい逃げようとしたって、そこにはついついひき寄せられてしまうんでね」
「町には、きっと、いかないことよ」子供はいった。
「そこにいかない?」ジャーリー夫人は叫んだ、「じゃ、どこへいくの?」
「わたしは――わたしは――よくわかっていないのです。はっきりはしていないのです」
「まさか、どこにいくのかわからずにいなかを旅して歩いてる、というんじゃないことね?」大馬車の婦人はいった。「なんて変な人たちだこと! なんの商売をやってるの? 競馬場でみたあんたの姿は、まったくそことはお|門《かど》ちがいのもん、そこに偶然いきついたといった感じだったわ」
「あそこにはまったくの偶然でいったのです」ネルは、このいきなりの質問にドギマギして、答えた。「わたしたちは貧乏人で、ただあてどなく歩きまわっているのです。仕事はなにもありません――あればいいのですけど!」
「驚きは深くなるばかりというとこね」彼女の人形と同じように、しばらくのあいだ、ジーッとだまっていてから、ジャーリー夫人はいった。「じゃ、どんな身分の人なの? まさか|乞食《こじき》じゃないんでしょう?」
「ほんとうに、わたしたちは、それとしかいいようのない者なのです」子供は答えた。
「まあ、驚いた!」大馬車の婦人はいった。「そんな話って、聞いたこともないことよ。そんなことって、考えられることかしら!」
こう叫んでから、ながいこと彼女はだまったままでいたので、彼女がこんな貧乏人に保護を与え、それと話をするようになったことを自分の威厳にたいするとりかえしのつかない侮辱と感じたのではないか? とネルは心配になってきた。夫人が沈黙を破り、つぎのようにいいだした口調で、この確信はなおいっそう強まっていった。
「でも、あんたは読むことができるのね、それに、書くこともできるんでしょ、きっと?」
「ええ」それを認めて、新しく不機嫌の種になるのではないかと心配しながら、子供は答えた。
「そう、それはりっぱなことよ」ジャーリー夫人はいった。「あたしは[#「あたしは」に傍点]、それができないの!」
ネルは「まあ!」と答えたが、その調子は、貴族と紳士のよろこびであり、王家から特別の愛護を受けている正真正銘の唯一のジャーリーがこうしたあたりまえの技能をもっていないのを知っての当然の驚きとも、こんな身分の高い夫人はそんなありきたりの才芸は必要としていないということとも、いずれともとれるものだった。この反応をどんなふうにジャーリー夫人が受けとったにせよ、それで彼女はさらに質問をかさねたりはせず、さし当って、それ以上なにもいおうとはしなかった。彼女はもとの物思いに沈んだ沈黙にもどり、そうした状態のままで、ながいこと、ジッとしていたので、ネルはもうひとつの窓のほうにひきさがり、いまはもう目をさましていた老人といっしょになった。
とうとう、大馬車の婦人は、瞑想の発作を払いのけ、御者を呼んで彼女が坐っている窓辺に来させ、まるで重要なことで彼の意見を求め、なにか重大なことで賛否を論じているといったふうに、声をひそめて彼と長談義をやっていた。この会議はとうとう終り、彼女は頭をひっこめ、手招きでネルを近くに呼び寄せた。
「それにご老人もね」ジャーリー夫人はいった。「あの人ともちょっと話したいんだからね。あんたのお孫さんにりっぱな地位をお望みですか? もしそうだったら、そのお役に立てるんですがね。いかがでしょう?」
「あの子とは別れられません」老人は答えた。「ふたりは別れられないんです。あの子がいなくなったら、このわたしはどうなることでしょう?」
「その気になれば自分で暮しを立てられるくらいの年輩の人と思うとこでしょうがね」ピリッとジャーリー夫人はやりかえした。
「でも、決してそうはならないのです」声をひそめ、むきになって、子供はいった。「もうそうなることは、二度とないでしょう。どうか、おじいさんにきびしく当らないでちょうだい。わたしたちは、とてもありがたく思っています」彼女は大声でいいそえた。「でも、世界じゅうのお金を半分ずつもらっても、わたしたちは別れられないのです」
ジャーリー夫人は自分の提案をこんなふうに受けられて、ちょっととまどい、老人をながめた。老人はネルの片手をとり、それをにぎりしめていたが、それはまるで、自分がいっしょにいなくても、いや、自分がこの世にいなくとも、ネルのほうはちゃんとやっていけるといったふうだった。気まずい沈黙のあとで、ジャーリー夫人はまた窓から頭を出し、御者を相手になにかある問題についてもう一度会議をはじめたが、この問題については、どうやら、前の議題ほどすぐに意見の一致に到達しないようだった。だが、とうとう話は終り、彼女はまた老人に話しかけた。
「ほんとうに仕事をする気があるのなら」ジャーリー夫人はいった、「人形のほこりを払ったり、入場券を受けとったりといった手助けをして、あんたがする仕事はたくさんあることよ。あんたのお孫さんにしてほしいのは、お客さんに人形の案内をしてもらうことなの。そんなこと、すぐ憶えられることよ。それに、あの子にはお客さんによろこばれるものがあるの。そりゃあ、あたしほどにはいかないけどね。あたしはいつも、お客さんといっしょに歩きまわってたんですからね。気鬱でちょっと息ぬきが絶対に必要ということにならなかったら、あたしがそれをつづけていたことでしょうよ。いいこと、これはそこらにゴロゴロころがってるような話じゃないのよ」いつも客に呼びかけている口調と態度になって、夫人はいった。「いいですか、これはジャーリーのろう人形なんですよ。仕事は、とても楽でお上品、お客さんは、特別の上流階級、展覧会は、集会場、市の公会堂、旅館の大部屋、競売の陳列場なんですよ。忘れないでね、ジャーリーのとこでは、露天の放浪生活なんて、ぜんぜんないんですからね。いいこと、ジャーリーのとこでは、防水用の天幕やおがくずはありませんよ。ちらしに書いてあることには|嘘《うそ》いつわりはなし、すべての人形は、この王国で前代無類の堂々たる天才的輝きの成果。入場料はわずか六ペンスなること、かかる機会は二度となきことをお忘れなきよう、お忘れなきよう!」
口上がここまでくると、壮大なることから日常|些末事《さまつじ》にまいおりてきて、俸給の点では、ネルの能力をしっかりとためし、その任務遂行ぶりを子細にみるまでは、はっきりとした金額は約束できない、と言明し、食事と宿はネルと老人に与えると約束し、さらに食事はいつも上等のもの、量は豊富、と固く約束した。
ネルと老人は相談し、それをしているあいだ、ジャーリー夫人は手をうしろに組み、お茶のあとで退屈な大地の上でいつもやっていたように、なみなみならぬ威厳と自尊心を示して、車の中をノッシノッシと歩きまわっていた。この車がいつも不安定にゆれ、生れながらのすばらしい堂々たる態度を身につけた気品ある人でなかったら、ヨロヨロせずにはいられなかったろうという事実を想起すると、これは、なかなかもって、語るに足りぬつまらぬこととはいい切れないことになってくる。
「さあ、どう?」ネルが向きなおると、ジャーリー夫人は足をとめて叫んだ。
「心からお礼を申しあげ」ネルはいった、「よろこんでそのお話をお受けします」
「そして、後悔することはないことよ」ジャーリー夫人は応じた。
「それにはかなり自信があるの。話はすっかりきまったんだから、ちょっと夕食を食べることにしましょう」
こうしたあいだじゅう、大馬車は、強いビールを飲んで眠くなったように、ヨタヨタと進み、とうとう通行人のいない静かな舗装した町の通りにやってきた。もうこのときには真夜中、町の人びとはみな眠っていた。展覧会場にゆくには時刻がおそすぎたので、古い町の門(以下の描写からみて、この町はイングランドの中心部にあるウォリックとされている)のすぐ奥にある空地に道を転じ、もうひとつべつの大馬車のかたわらで、その夜をすごすことになった。この大馬車は、定まった羽目板にはジャーリーという偉大な名前がつけられ、その上、国のほこりになっているろう人形を各地に運ぶのに使われているのに、下劣な印紙切手局によって「普通四輪大型駅荷馬車」と命名され、七千何百番とか番号を打たれて、その貴重な荷物は単なる小麦粉か石炭のようなあつかいを受けていた!
この虐待を受けている馬車は|空《から》だったので(この車は荷物を展覧会場でおろし、また必要になるまで、ここにおかれていたのだった)、それは、この夜、老人の寝所になることになり、その木の壁の中で、ネルは手もとの材料を使ってできるだけ気持ちのいい寝場所を老人のためにつくってやった。彼女自身は、夫人の好意と信頼のすばらしい証しとして、ジャーリー夫人専用の旅行用馬車の中で眠ることになっていた。
彼女はおじいさんと別れ、べつの馬車のほうにもどろうとしたが、そのとき、夜の快い冷気にさそわれて、もう少し外に出ていたくなった。月は町の古い門の上に輝き、そこの低いアーチの道はとても暗く黒々としていた。好奇心と恐怖の入りまじった気持ちで、彼女はゆっくりと門に近づき、そこに静かに立って上をみあげ、その門がどんなに暗く、おそろしく、古く、冷たくみえるかをながめて、びっくりしていた。
うつろな|壁龕《へきがん》がひとつあったが、そこからは古い像が、何百年も前に、落ちるか、運び去られていた。その像がそこに立っていたとき、どんなに奇妙な人びとをみおろしていたか、何回、この静かな場所で、苦闘や殺人がおこなわれたかを、彼女は考えていたが、そのとき、アーチの道の黒々とした物陰から、いきなり、ひとりの男があらわれた。彼があらわれると、それがだれかを、彼女はすぐにさとった。その瞬間に、あの醜悪でグロテスクなクウィルプを、だれがみそこなうことがあろう!
向うの街路はとてもせまく、道の一方の|家並《やな》みの影はとても深く黒々としていたので、彼は大地から湧き起ってきたような感じだった。だが、たしかに、彼は目の前そこにいた。子供は暗い隅に身をひそめ、彼が自分の近くをとおりすぎていくのをみていた。彼は手に棒をもち、門の道の影からすっかり出たとき、門によりかかり――そう思えたのだが、まっすぐ彼女が立っているほうに――ふりむき、手招きをした。
自分にだろうか? いいや、ありがたいことに、そうではなく、彼女に手招きしたのではなかった。というのも、ひどい恐怖につつまれ、悲鳴をあげて助けを呼ぼうか、彼が近づいて来ないうちに、かくれ場所から出て逃げようかと迷っているとき、アーチの道からべつの姿――少年の姿がゆっくりと出てきたが、その背にはトランクが乗せられていた。
「おい、もっと早く!」古い門の道をながめ、月の光の中で、そこの壁龕からおりてきて、自分の古い住み家をチラリふりかえってながめているなにか物おそろしい像のように、クウィルプは叫んだ、「もっと早く!」
「すごく重い荷なんですよ」少年は|言訳《いいわけ》をいった。「まあかなり早く来たんですがね」
「お前が[#「お前が」に傍点]まあかなり早く来ただって!」クウィルプはやりかえした。「お前ははってるんだぞ、この犬め、ノソノソはって、虫けらのように旅をしてるんだ。いま鐘が鳴り、もう十二時半なんだぞ」
彼は聞き耳を立てて立ちどまり、少年をびっくりさせた素早さと兇暴さで少年のほうに向きなおり、何時にあのロンドンゆきの駅馬車が道の角をとおるのか? とたずねた。少年は、一時だ、と答えた。
「じゃ、来い」クウィルプはいった、「さもないと、おれはおくれちまうんだからな。もっと早く――聞いてるのか? もっと早く」
少年は|根《こん》かぎりに急ぎ、クウィルプは先に立ち、いつもふりかえって少年を|威嚇《いかく》し、もっと早く歩けと|急《せ》き立てた。彼らの姿がみえなくなり、その物音が聞えなくなるまで、ネルは身動きもならず、それから急いでおじいさんをおいてきたところにとんでいったが、あの小人がこんなに近くをとおっただけで、おじいさんはおびえと恐怖で胸をいっぱいにしているにちがいない、と感じたからだった。だが、彼はぐっすりと眠りこみ、彼女はソッとそこから出ていった。
自分の寝台のほうに歩いていったとき、彼女は、この冒険のことはなにも話すまい、と決心した。どんな用件であの小人がやってきたにせよ(それは自分たちをさがすためにちがいない、と彼女は考えていた)、ロンドンゆきの駅馬車のことをたずねていた以上、彼が帰ろうとしているのは明らかなこと、彼がこの場所をとおっていったのだから、ほかの場所よりここにいたほうがクウィルプの探索からのがれることができると考えたのは、当然すぎることだった。こう考えても、彼女自身のおびえた気持ちは消えなかった。ひどく恐怖心にかられて、なかなか心が静まらず、自分が群らがる多くのクウィルプにすっかりとりかこまれ、空気そのものさえ、そうした姿でいっぱいになっているように感じていた。
貴族と紳士のよろこびであり王家の|庇護《ひご》を受けている人物は、彼女自身にだけ知られている自己縮小の|業《わざ》で、旅行用の寝台にもうはいりこみ、安らかないびきを立て、あの大きなボンネット帽は、注意深くきちんと太鼓の上に乗せられて、屋根からたれさがっている暗いランプの光の中で、その華やかさをあらわしていた。子供の床はもう床の上に敷かれ、彼女が中にはいるとすぐ、階段がはずされる音を耳にし、外の人間と真鍮のノッカーのあいだの容易な連絡は、このとりはずしで効果的に阻止されることになったと知ったことは、彼女にとってとてもうれしいことだった。この車の床をとおりぬけて、ときどき、のぼってくる喉声の物音と、同じ方向に聞える|藁《わら》のカサカサいう音は、御者が下の地面の上に横になっていることを彼女に知らせ、安全感をさらに増大させることになった。
以上の保護物にもかかわらず、彼女は、クウィルプおそろしさで、夜じゅうとぎれとぎれに眠ることしかできなかった。クウィルプは、彼女の不安な夜のはじめから終りまで、とにかくろう人形と結びつき、ろう人形そのものになり、ジャーリー夫人とろう人形にもなり、クウィルプ自身、ジャーリー夫人、ろう人形、それに手まわし|風琴《ふうきん》、すべてをいっしょくたにしながらも、正確にそのどれでもないものになっていた。とうとう、明け方近く、疲労と不眠のあとにつづき、意識といっても、圧倒的で抵抗できない快さの意識しかもたないあの深い眠りが、彼女に訪れてきた。
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眠りがながいことネルのまぶたの上にたれさがっていたので、彼女が目をさますと、ジャーリー夫人は、もう大きなボンネット帽の飾り立てをすませ、朝食の準備にせっせととりかかっていた。ネルが寝坊したのをわびると、彼女は上機嫌でそれを受け、昼まで眠っていても起しはしなかったろう、といっていた。
「つかれたときに」大馬車の婦人はいった、「できるだけながいこと眠り、つかれをすっかりぬいちまうのは、からだにいいことなのよ。それが、あんたのような人生の若さのもつもうひとつのありがたい点でね――ぐっすりと眠れるんだから」
「いやな夜をすごしたのですか?」ネルはたずねた。
「いつもきまってそうなのよ」殉教者よろしくの態度で、ジャーリー夫人は答えた。「どうしてこれでやっていけるのかと、ときどき、考えてるくらいよ」
ろう人形の女主人が夜をすごした大馬車のさけ目からもれてきたあのいびきを思い出して、ネルは、眠られぬ夜を送った夢をみていたにちがいない、と考えたが、健康状態のそんなにわるい話を聞いて、とてもお気の毒に思っている、と述べ、その後間もなく、おじいさんとジャーリー夫人といっしょに、朝食を食べはじめた。食事が終ると、ネルは茶碗や受け皿を洗う手伝いをし、それをきちんと片づけ、こうした家事の仕事がすむと、ジャーリー夫人は、この町の街路を行進するために、ひどくはでなショールで身を飾り立てた。
「荷馬車が箱を運びにくることよ」ジャーリー夫人はいった、「あんたはそれに乗ってきたらいいわ。あたしは歩かなければならないの、とてもいやいややってることなんだけどね。でも、世間の人はそれをわたしに期待し、|公《おおやけ》の立場に立ってる人間は、こうしたことで、気ままは許されないもんなの。あたしのようす、どうだこと?」
ネルは満足のいく返事をし、ジャーリー夫人は服のいろいろな個所におびただしいピンをさし、自分の背中をとっくりながめようと無益な努力をかさねたあとで、とうとう自分の姿に満足し、堂々と外に歩み出ていった。
大馬車は、彼女のあとをそうはなれずについていった。それが街路をガタガタとゆれながら進んでいったとき、自分たちが来た場所がどんなところかをみようと、ネルは窓から外をのぞいていたが、町角という町角で、クウィルプのあのおそろしい顔に出逢うのではないかとハラハラしていた。かなり大きな町で、大きな四角な広場があり、そこを、いま、ネルの一行はゆっくりとはうようにして進んでいた。この広場の中心に市の公会堂が立ち、そこには時計台とにわとりの形をした|風見《かざみ》がついていた。石の家、赤煉瓦の家、黄煉瓦の家、こまいと|漆喰《しつくい》づくりの家があり、木造の家もあったが、その多くはとても古い家で、その|梁《はり》にはひからびた顔が彫りつけられ、目をむいて街路をにらみつけていた。こうした家には、とても小さなのぞき窓と低いアーチ型の戸がつき、せまい通りの一部では、舗道の上にすっかりおおいかぶさっていた。街路は、とてもきれい、とても陽当りがよく、とても|人気《ひとけ》がなく、とても退屈なものだった。なにもしないでいるわずかな男たちが、ふたつの宿屋、ガランとした市場、商家の戸口のところでブラブラし、老人が何人か、養老院の壁の外の椅子でウトウトと眠っていたが、どこかにゆこうとしていたり、なにか目的をもっているように思える通行人の姿はほとんど見受けられず、たまたまはぐれ者がそうしたことをしていると、その足音は、その後数分間、明るい熱した舗道の上で|木魂《こだま》のように鳴りひびいていた。動いているのはただ時計だけという感じだったが、時計の顔はいかにも眠たげで、その針はいかにも重くて|不精《ぶしよう》くさく、その鐘の音はひどくひびのはいったものだったので、時計もたしかにおくれているにちがいないと思われるほどだった。犬でさえみんな眠り、はえ[#「はえ」に傍点]は、乾物屋の店のぬれた砂糖で酔っ払って、自分の翼と活気を忘れ、窓のほこりっぽい片隅で死ぬまで太陽の光に身を焼きつけられていた。
ふだんにはめったにないゴロゴロという音を立てて進んでいった大馬車は、とうとう、展示会場でとまり、そこで、驚嘆の目を見張っている子供たちの群れの中で、ネルは車からおりた。子供たちは、たしかに、彼女のことを珍しい物の中の重要な逸品と考え、彼女のおじいさんは精巧につくったろう[#「ろう」に傍点]細工と信じこんで、深い感銘を受けていた。箱はさっさと出されて運びこまれ、ジャーリー夫人によって錠をはずされることになったが、ジャーリー夫人は、ジョージと、綿ビロードの半ズボンを着こみ、道銭取立門の切符で飾り立てたとび色のラシャ帽をかぶったべつの男にともなわれて、箱の中身(それは赤い花づなとほかの室内装飾品だった)を部屋の飾りとしていちばん効果的に使おうと待ち構えていた。
時をうつさず、一同は仕事にとりかかり、あわただしく立ち働いた。ものすごい蒐集物は、ほこりで顔がよごれないようにと、まだ布でおおわれ、ネルはせっせと部屋の飾り立てで手助けをし、おじいさんもまた結構役に立っていた。ふたりの男はこの仕事にもうとても馴れていたので、短い時間のうちに、大仕事はどんどんとはかがいき、ジャーリー夫人は、この目的で身につけていた道銭取立人のポケットのようなリンネルのポケットからすずの釘をわたし、助手たちをふるい立たせ、バリバリと仕事をやらせていた。
こうして仕事をしているとき、鉤っ鼻で黒髪の、背のちょっと高い紳士が戸口で中をのぞきこみ、愛想よくニッコリとした。この紳士は、とても短い、|袖《そで》が窮屈な軍人用の外套を着こんでいた。それは、かつて肋骨をつけてモールで飾り立てられていたものだったが、いま、そうした飾りは無情にもはぎとられ、すっかりすり切れていた。この男は、さらに脚にピッタリとついた古めかしい灰色のズボン、霜枯れ時をもうむかえているスリッパー式の靴を着用におよんでいた。そのとき、ジャーリー夫人の背が彼のほうに向けられていたので、この軍人のような紳士は人さし指をふって、彼女の護衛者が自分の存在を彼女に知らせるにはおよばぬ、と合図を送り、彼女の背後にスーッと近づいていって、その首を軽くポンとたたき、ふざけまじりに「ボー!」と叫んだ。
「まあ、スラムさん!」ろう人形の婦人は叫んだ。「まあ! あんたとここで会うなんて、だれが考えたことでしょう?」
「わたしの魂と名誉にかけ」スラム氏はいった、「それはりっぱなお言葉。わたしの魂と名誉にかけ、それは賢明なお言葉。だれが考えたことでしょう[#「ことでしょう」に傍点]ってね! 裏表のないジョージ君、調子はどうですかね?」
ジョージは、この言葉を不機嫌な無関心で受けとめ、調子の点なら結構元気だ、と答え、そのあいだじゅう、たえず|槌《つち》をふるっていた。
「わたしはここに来たんですけどね」ジャーリー夫人のほうに向いて、軍人のような紳士はいった――「わたしの魂と名誉にかけ、なんの用のためだったかは、自分にもわかんないんです。それをあんたに話すとなると、とまどっちまうことでしょうよ。神かけ、そうなんです。わたしがほしかったのは、ちょっとした霊感、ちょっとした清新さ、ちょっとした頭の切り換え、それに――わたしの魂と名誉にかけ」言葉をおさえ、部屋をみまわして、軍人のような紳士はいった、「これはまた、なんてすごく古典的なものでしょう! 神かけ、これはまったくミネルヴァ的(ローマのミネルヴァはギリシャのアテネと同じ神で、知恵・芸術・科学をつかさどる)なものですな!」
「仕上がったら、十分りっぱなもんになることよ」ジャーリー夫人はいった。
「十分りっぱですって!」スラム氏はいった。「こういっても信じてもらえますかね、この魅力的なテーマに自分のペンをふるったことがあると考えると、詩をかじったことが生涯のよろこびになってくるんですよ。ところで――なんかご注文は? なんか当方でお役に立てるちょっとしたことがありますかね?」
「それにはお金がかかるし」ジャーリー夫人はいった、「それに、たいして効果はあがらないと思ってるんでね」
「シッ! とんでもない、とんでもない!」片手を高くあげて、スラム氏は答えた。「他愛もない嘘は、やめ、やめっ。そんなことは承知しませんよ。効果があがらないなんて、いっちゃいけませんよ。その手は食いませんからな!」
「効果があがらない、とあたしは思ってんのよ」ジャーリー夫人はいった。
「ハッ、ハッ!」スラム氏は叫んだ、「あんたはもう譲歩し、金を出そうとしてるんですよ。香料の商人、靴ずみ屋、帽子屋、|老舗《しにせ》の富くじ屋の主人にきいてごらんなさい――わたしの詩がどんなに効果的だったか、そのだれにでもきいてごらんなさい。いいですかね、その人はスラムの名前を賞賛してますよ。その男が正直者なら、目を天にあげ、スラムの名前を賞賛するんです――いいですかね! ジャーリー夫人、あんたはウェストミンスター寺院をご存じですね?」
「もちろん、知ってるわ」
「じゃ、わたしの魂と名誉にかけ、あんた、あのわびしい大建築物のある|角《かど》に詩人の片隅と呼ばれてるとこがあるんですが、そこにスラムよりもっとつまらん名前をいくつかみつけることでしょうよ」額をいわくありげにたたきながら、この紳士はいったが、その動作は、額のうしろに多少の頭脳があるのを暗に知らせているものだった。「いま、ここにわずかちょっとしたもんがあるんですがね」紙きれがいっぱいつまっている帽子をぬいで、スラムはいった、「即興的につくりだしたちょっとしたもん、それは、この場所を注目の的にするために、あんたには打ってつけのもんなんです。アクロスティック(各行のはじめの文字を集めると語句などになる一種の遊戯詩)でしてね――その名は、いま、ウォレンですが、それはとり変えられるもん、すぐにジャーリーに変えてみせますよ。このアクロスティックになさい」
「とてもお金がかかるんでしょうが?」ジャーリー夫人はいった。
「五シリング」鉛筆を|楊枝《ようじ》がわりに使いながら、スラムは答えた。「どんな散文より安あがりなもんですよ」
「三シリング以上は出せないことよ」ジャーリー夫人はいった。
「――それに六ペンス」スラムは答えた。「さあ、三シリング六ペンス」
ジャーリー夫人は詩人のうまくとりいる態度に抵抗しきれず、スラム氏は、小さな帳面に、この注文を三シリング六ペンスの注文と書き込んだ。この女性庇護者に愛情こもった別れの挨拶をしてから、このアクロスティックの変更のために、スラム氏はひきさがり、できるだけ早く、印刷屋用の浄書をもってもどってくるのを約束した。
彼の存在は、準備の邪魔にはならず、それを阻止しなかったので、準備はもうズッと進行し、彼が去っていってから間もなく、完成した。花づなができるだけ上品に飾りつけられると、あのものすごい蒐集物のおおいがはずされ、床から二フィートほどの高さの壇の上で、部屋のまわり一面に、胸の高さの真紅のなわで粗野な大衆からはひきはなされて、ひとりだけのや、群れをなした有名な人物のさまざまな元気のいい像が姿をあらわした。それは、いろいろな国々・時代の華やかな衣装をつけ、多少不安定なふうに立ち、目をパッとひろく見開き、鼻孔を大きくふくらませ、脚と腕の筋肉はすごく盛りあがり、すべての顔は大きな驚愕ぶりをそろってあらわしていた。紳士はすべて、ひどい鳩胸、|髭《ひげ》のあたりはすごく青かった。淑女はすべて、すごい姿のものだった。紳士淑女すべては、どこということもない一点を強烈ににらみつけ、どれということもないものをすごいひたむきさで目をむいてにらみつけていた。
この光景がひきおこした最初の|有頂天《うちようてん》の気持ちが消え去ったとき、ジャーリー夫人は、自分とネル以外の全員の退場を命じ、中央の肘かけ椅子に腰をおろして、彼女自身が人物を紹介するのにながいこと使ってきたやなぎ[#「やなぎ」に傍点]のしなやかな棒を儀式張ってネルに授与し、とても骨を折って彼女にその任務を教えこんだ。
「あれは」ネルが棒で壇の最初の像にふれたとき、説明調になってジャーリー夫人はいった、「エリザベス女王の時代の不幸な侍女(エリザベス・ラッセル(一五七五―一六〇一)のこと。ここの話はジャーリー夫人のつくったもの、じっさいには二十六歳肺病で死亡)でございます。彼女は日曜日に編み物をしたために(日曜日の安息日は、仕事をしてはいけない)指をさして死亡いたしました。その指からしたたり落ちてる血をご覧くださいませ。それに、彼女が編み物をしておりましたその当時の黄金のめどの針をお見落しなきように」
こうしたせりふをぜんぶ、しかるべきときには指と針をさしながら、ネルは二度か三度くりかえし,つぎのせりふにうつっていった。
「あれは、みなさま」ジャーリー夫人はいった、「兇悪なる名をのこしたジャスパー・パクルマートンでございます。彼は十四人の女性に求愛して結婚いたし、彼らが心清らかに眠っているとき、足の裏をくすぐって、彼ら全員を殺害いたしました。処刑台にひかれてゆき、自分の所業を悔いているかとたずねられ、そう、女どもをああして安楽に死なせたことを悔いている、亭主諸公よ、この失策を許したまえ、と答えました。若いご婦人方よ、これを鏡にして、選ぶ夫の性格にとくとご用心。彼の指がまがってくすぐっている格好をあらわし、この野蛮なる殺人をおこなったときさながらに、目くばせを送っている彼の顔をとくとご覧ください」
ネルがパクルマートンについてのすべてを憶えこみ、よどみなくそれをいえるようになると、ジャーリー夫人は、太った男、痩せた男、背の高い男、低い男、百三十二歳のときに踊りで死亡した老夫人、森の野人の少年、塩づけにしたくるみ[#「くるみ」に傍点]で十四家族を毒殺した女性、その他の歴史的人物、興味深くはあるものの道を踏みはずした人間にうつっていった。ネルはこの教訓をじつによく身につけ、すぐにそれを憶えこんでしまったので、ジャーリー夫人とふたりだけで二時間をすごしたあとで、彼女は、ここの人物すべての経歴をもうすっかりおぼえこみ、観客の啓発が完全にできるようになっていた。
ジャーリー夫人は、こうして上首尾に終ったとき、よろこんですぐに彼女をほめあげ、若い友であり弟子でもあるネルとつれ立って家の中ののこりの陳列品を示したが、そうした陳列品で通路は、彼女が前にみた書き物(スラム氏の作品)をつりさげた緑のベーズ(ナッピング仕上げをした緑や赤の単色の紡毛織物)の森になっていた。奥まったところにえらく飾り立てたテーブルがあったが、これはジャーリー夫人自身の使うもので、そこに坐って、彼女は、ジョージ三世国王陛下、道化としてのグリマルディ、スコットランドのメアリー女王(一五四二―八七。カトリック教徒でヘンリー八世の死後イングランドの王位にたいして第二の相続権をもった人物で、数奇な運命にもてあそばれ断頭台の露と散った)、クウェイカー教徒の匿名の紳士、窓税賦課(窓を六以上もった家に課したもので、一六九五年から一八五一年までつづいていた)の法案の正確な|雛型《ひながた》を手にしたピット氏(いわゆる小ピットのウィリアム・ピット(一七五九―一八〇六)。イギリスの宰相)といっしょになって、金を受けとることになっていた。戸外の準備も無視されてはいなかった。すごく魅力的な尼僧が柱廊玄関(円柱またはせり持ちでささえられた屋根つきの建物)の上で|数珠《じゆず》をつまぐって祈りをとなえ、|漆黒《しつこく》の髪をし、じつにすきとおってぬけるような顔色をした山賊が、小型の婦人と相談をしながら、そのとき、車に乗って町を行進していた。
ここでのこるのは、スラム氏の作品を慎重に配布し、悲痛な感情の発露を個人の家や商人にまで浸透させ、「もしろば[#「ろば」に傍点]を知ってたら」ではじまるもじり詩文は、居酒屋だけのものにして、そこの弁護士の事務員やこの町のえりすぐりの人物に配布することだけになった。これがおこなわれ、ジャーリー夫人は、みずから寄宿学校をご機嫌うかがいに訪問して、学校向きのちらしをくばり、その中では、ろう人形は心を洗練し、審美眼をつくり、人間の理解力を拡大させるとうたわれていた。以上すべてが完了したとき、この不屈の婦人は夕食の席に向い、この成果をあげた|遊説《ゆうぜい》戦にたいして、あのいかがわしいびんからの一杯を乾杯した。
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ジャーリー夫人が発明の才の持ち主なのは、もう疑問の余地のないことだった。この展覧会に客をひきよせるさまざまな工夫の中で、子供のネルの存在を忘れてはいなかった。山賊がふつうその巡回をおこなう二輪の小馬車は、旗や吹き流しで華やかに飾られ、山賊がそこにおかれて、いつものとおり小型の恋人をジッと見入っていたが、ネルは造花で飾られた姿で山賊のわきに座席を与えられ、こうした威儀堂々たる姿で毎朝町をゆっくりと巡回し、太鼓とラッパの音に合せて、籠からちらしをくばっていた。この子供の美しさは、彼女のおだやかなオズオズとした態度と結び合せて、この小さないなか町ですごいセンセイションをまきおこした。街路での興味をいままで独占していた山賊は、単に二次的な考慮しか与えられず、彼女が中心的魅力になっている見せ物の一役としての重要性しかもたないものになりさがった。大人は、目のパッチリとしたこの娘に興味を寄せ、五、六十人の少年は、彼女をしゃにむに好きになり、小さな子供のきれいな文字で贈り先を書いたくるみ[#「くるみ」に傍点]やりんご[#「りんご」に傍点]のつつみを、いつもろう人形の展覧会場の戸口にとどけていった。
この望ましい印象をジャーリー夫人がみのがすはずはなく、ネルがあまり安っぽくならないようにと、山賊だけを巡回に出し、彼女を展覧会の部屋にとどめ、そこで彼女は、驚嘆している客を十分に|堪能《たんのう》させて、三十分ごとにろう人形の説明をしていた。こうした客は、数多くの女学生の寄宿舎学校をふくめたきわめて上等な客で、道化としてのグリマルディ氏の顔と衣装を変えて、あの有名な英文法を執筆しているリンドリー・マレー氏(一七四五―一八二六。文法学者で「英文法の祖」と呼ばれたアメリカ生れのスコットランド人)を仕立て、有名な人殺しの女はハナー・モア夫人(一七四五―一八三三。イギリスの宗教作家)に変えて、ジャーリー夫人は|躍起《やつき》になってこうした寄宿舎学校のご機嫌をとり結ぼうとしていた。町で一流の寄宿・通学女学校の校長だったモンフラザーズ先生は八人の優秀な生徒をつれて、わざわざこの会場の下見にやってきたが、この先生は、この変貌のなれの果てのリンドリー・マレー氏とハナー・モア夫人を実物そっくり、まったく驚嘆に値する、とほめ賛えていた。ナイトキャップと寝巻き姿、靴をぬいだピット氏はピタリ寸分たがわぬ詩人クーパー(ウィリアム(一七三一―一八〇〇)。イギリスの詩人)になり、浅黒いかつらと白いシャツのカラーをつけて男装になったスコットランドのメアリー女王は、もう完璧なバイロン卿(一七八八―一八二四。イギリスのローマン派の詩人)になりすましていたので、女生徒たちはこのバイロン卿をみて、キャーッと金切り声をあげていた。しかし、モンフラザーズ校長先生は、こうした熱狂ぶりをしかりつけ、ジャーリー夫人がその蒐集物をもっと厳選したものにしていないのに文句をつけて、バイロン卿はろう人形に与えられている名誉とはまったく相容れない意見の持ち主だった、と述べ立て、ウェストミンスター大寺院の|首席司祭《デイーン》と|参事会《チヤプター》についてのあること(バイロンがギリシャで一八二四年死したとき、その埋葬をウェストミンスター寺院は拒否したことをさす。バイロンが革命思想をもっているとされたため)をつけ加えたが、それはジャーリー夫人にはとんとちんぷんかんぷんのものだった。
ネルの仕事はとても骨が折れたが、大馬車の婦人がとても親切で思いやりのあることが、彼女にはわかった。この婦人は、自分が快適にやっていくのを特別に愛好していたばかりでなく、自分のまわりのすべての人を快適にしてやるのが大好きだった。この後者の好みは、大馬車よりはるかにもっとりっぱな場所に住んでいる人の場合でも、前の好みよりずっともっと珍しいもので、ふつうにはみかけられないこと、最初の好みをもっているからといって、必然的にあとの好みをもつものとはかぎらない、といってもいいだろう。ネルはその人気で客から小金をもらうことが多く、女主人はその分け前を絶対に要求したりはせず、彼女のおじいさんも親切にあつかわれ、役にも立っていたので、クウィルプの思い出から生ずる心配と、この男がここにもどってきて、いつかいきなり自分たちと出逢うことになりはしないかという恐怖以外に、彼女には、ろう人形に結びついての不安の理由はなにもなかった。
クウィルプは、じっさい、この子供にとっての永続的な夢魔ともなっていた存在で、彼女はいつも、彼の醜悪な顔と成長のとまった小さな姿の幻想にとりつかれていた。彼女はろう人形の警護のために、それがおいてある部屋で寝ていたが、その部屋にひきさがると、ろう人形の死んだような顔のどれかがあの小人と似ていると想像し――彼女はそう思わずにはいられなかった――その恐怖でひどくなやまされ、ときどき、この空想が彼女にとても強くおしせまり、クウィルプが人形を移動させ、その服を着て立っていると信じたくなることがあった。ついで、生気のないどんよりとした大きな目をしたろう人形がじつにおびただしくあり――彼女の寝台のまわり一面にそのろう人形がかさなって立っていたので、そうした人形は生きている人間そっくり、しかも、そのおそろしい静かさと沈黙の点で、人間とはおよそ似ても似つかないものだったので、彼女は、ろう人形そのものとしてろう人形がこわくなり、ときどき、その黒ずんだ姿を横になったままでジッと見守り、とうとう起きあがってろうそくをつけずにはいられなくなったり、開いた窓のところにいって坐り、キラキラと輝く星に親しみを寄せたりしていた。こうしたとき、彼女はあの古い家と、いつもひとりで坐っていた窓のことを思い出した。すると、あわれなキットのこと、彼のすべての親切が心に浮び、とうとう涙が目に湧き、彼女は泣きながらニッコリとほほえんでいた。
こうしてあたりが静まりかえった時刻に、ときどき、そして心配な気持ちに襲われて、彼女の思いは自分の祖父のところにもどっていき、彼が自分たちの以前の生活をどの程度思い出しているのか、自分たちの状態の変化と最近の貧困ぶりを気にしているのだろうか? と考えていた。ふたりがさまよい歩いているとき、彼女はほとんどこうしたことを考えてはいなかったが、いま、彼が病気になったり、彼女自身の力がぬけてしまったら、自分たちはどうなることだろう? と考えずにはいられなかった。彼は、とても辛抱強く、ものを進んでやり、どんな小さな仕事でもよろこんでやって、役に立つのをうれしがっていた。だが、前と同じ|無頓着《むとんちやく》な状態にあり、回復するみこみはなく――まったくの子供――あわれな、考えのない、うつろな人間――彼女にたいするやさしい愛情と思いやり、楽しさと苦しみの印象だけはもっているものの、それ以上のことはなにも感知できない、他愛もない、毒にも薬にもならない老人にすぎなかった。こうした状態になっているのを知るのは、彼女をひどく悲しませた――それをながめて、とても悲しかったので、彼女がふりかえると、ほほ笑みかけたりうなずいたりして、なにもせずに彼がそばに坐っているとき、また、いつも彼は何時間でもそれをするのを好んでいたのだが、だれか小さな子供を愛撫し、それをあちらこちらにつれまわり、その子の率直な質問にとまどい、しかも、自分自身の弱さで、それを意識しているようすで、辛抱強く、赤ん坊の前でさえ、へりくだっているふうを示していたとき――そうした彼の姿をながめることは、彼女をひどく悲しませ、彼女はワッと泣きだし、どこか人知れぬところにかくれ、ガクリとひざまずき、彼が回復するようにと祈りをささげていた。
だが、彼女のつらい悲しみは、彼が少なくとも満足して静かになっているとき、以上のような状態にある彼をながめることにあったのではなく、また、それは若い心には苦しいことではあったものの、彼の変り果てた状態をただひとりで思いめぐらすことにあったのでもなかった。もっと深い、もっと苦しい悲しみの原因が、この後起きることになっていた。
ある夕方、ふたりにとって休みの夜だったが、ネルとおじいさんは、散歩に出かけた。ふたりは、ここ何日間か、部屋の中にすっかり閉じこめられて暮し、気候は温かだったので、ながい距離をブラリブラリとさまよい歩いていった。町をすっかりあとにして、ふたりは感じのいい畠を横切っている小道を進み、それが自分たちの別れてきた大きな道に最後はゆき当り、こうして町にもどることができるものと思いこんでいた。だが、この小道は思ったよりズッと大きく|迂回《うかい》していて、こうして彼らはついつい太陽が沈むときまで進んでゆき、そのときになってようやく求めていた道にぶつかり、足をとめてそこで休むことになった。
そのときまでにだんだんと雲が濃くなり、いま空は暗く険悪になってきて、明るいところといえば、沈みゆく太陽の輝きが黄金のように燃えあがっている火のかたまりを積みあげ、そのおとろえかけたのこり火が、黒い雲のおおいをとおして、そこここに光を投げて、大地の上に赤く輝いている場所だけになっていた。太陽が沈んで、よろこばしい昼をよその場所に運んでいったとき、風はうつろなつぶやきを立ててうめきはじめ、一連の雲がそれにさからって湧き出て、雷と稲妻が起りそうな気配になった。すぐに大きな雨の|滴《しずく》が落ちはじめ、あらし雲がはやてのようにどんどんととんでゆくと、ほかの雲がそののこしたすき間を埋め、空一面にひろがっていった。ついで遠雷の低いうなり声が聞え、ついでは、稲妻がひらめき、つぎには、一時間の暗黒が一瞬のうちに集結したように思えた。
木や生垣の下に難をさけるのはこわかったので、老人と子供は街道をあわただしく走り、あらしから身を守ってくれるどこか家をみつけようとした。あらしは、いま、すごい勢いではじまり、刻一刻、その激しさをましていた。打ちつける雨でびしょぬれになり、耳をつんざく雷に狼狽し、|叉《また》になってひらめく稲妻におびえて、戸口に立っている男が中にはいれと大声をかけてくれなかったら、家が近くにあるのも気づかずに、ふたりはそこをとおりすぎてしまうところだった。
「打たれてめくらになるのをそんなふうにこわがらずにいるんだったら、お前さんたちの耳は、とにかく、ほかの人間よりましなもんなんだろうな」ドアのところから身をさげ、ギザギザした稲妻がまた襲ってきたとき、両手を目にかざしながら、彼はいった。「どうしてここをとおりすぎていこうとしたんだい、えっ?」ドアを閉め、先に立って奥の部屋に案内しながら、彼はいいそえた。
「声を耳にするまで、家をみかけなかったのです」ネルは答えた。
「まったく」この男はいった、「この稲妻が目にはいったら、そうなるこったろうな。この火のわきに立ち、からだをちょっと乾かしたらいい。なにかほしいんだったら、好きなものを注文しな。なにもほしくなかったら、そいつをしなくたって構わないよ。そんなこと、心配するにはおよばんよ。ここは居酒屋だってえことだけさ。『勇敢なる兵士』ってえのは、ここらじゃまあ名のとおった店なんだ」
「この家は『勇敢なる兵士』と呼ばれているのですか?」ネルはたずねた。
「そいつはみんなの知ってることと思ってたんだがね」主人は答えた。「教会の教義問答(キリスト教の教義を問答形式にしたもので、按手礼を受けようとする人の教育のものだが、学童時代に教えこまれる)ばかりじゃなく、『勇敢なる兵士』を知らんとしたら、どっからやってきた旅の人なんだい? ここは認可をジェイムズ・グロウヴズ――ジェム・グロウヴズ――正直者のジェム・グロウヴズがもってる『勇敢なる兵士』なんだよ。その男は、一点のけがれもない人格者、乾きあがったりっぱな九柱戯場の持ち主なんだ。それに文句をつけるやつがだれかいたら、ひとつそいつをジェム・グロウヴズに面と向って[#「面と向って」に傍点]いってもらいたいもんさ。ジェム・グロウヴズは、四ポンドから四十ポンドまで、どんな条件でもちゃんとお相手をつとめてやるんだからね」
こういいながら、この語り手は自分のチョッキを軽くたたき、自分がこうして賞賛を受けているジェム・グロウヴズなのを伝え、ジェム・グロウヴズの肖像画を相手にしてみごとな拳闘の身構えをしてみせたが、その相手は、炉棚の上の黒い額枠の中から、社会全般を相手に同じ身構えをしていた。こうして彼は、なかば飲みほした水割り酒のはいったコップを口にあてがい、ジェム・グロウヴズの健康に祝杯をあげた。
その夜は温かだったので、炉の火の熱をさけるために部屋を切って大きな仕切りのつい立てが立っていたが、この仕切りの向う側のだれかがグロウヴズ氏の武勇にたいして疑念をほのめかしていたらしく、その結果、彼はこうして自分のことばかりまくし立てていたのだった。グロウヴズ氏はこの仕切りにガーンと挑戦の拳をふるい、向う側からの応答を待っていた。
「ジェム・グロウヴズの家の屋根の下でジェム・グロウヴズに文句をつけるやつなんて」なんの応答もなかったので、グロウヴズ氏はいった、「たんとはいないんだぞ。そいつができるやつは、たしかに、ひとりはいる。その男は、ここから百マイルとはなれたとこにいるわけじゃないんだ。だが、その男は、何人でも相手にできる男、だから、そいつにだけは、おれのことを好きなようにいわせてるんだ――やつは、そいつを承知してるぞ」
このほめ言葉に応じて、すごいどら声がグロウヴズ氏に「静かにして、ろうそくをつけろ」と命じ、同じ声はさらに、グロウヴズ氏が「ほらを吹いて息を切る必要はない、彼がどんな男かは、たいていの人間がよく知ってることなんだから」とつけ加えた。
「ネル、あの連中は――あの連中はトランプをしてるんだ」急に関心を湧かして、老人はささやいた。「聞えないかい?」
「そのろうそくの手入れをしっかりたのむぜ」その声はいった。「こんなふうだったら、札の上の点しかみえねえじゃないか。ここの窓のシャッターも早いとこ閉めてくれ、えっ? ここのビールも、今夜の雷でまずくなるこったろう――さあ、勝負! 七シリング六ペンスこっちによこしな、アイザック。さあ、わたすんだ」
「聞えるかね、ネル、あの連中が聞えるかね?」金がテーブルの上で鳴ると、前よりもっとむきになって、ささやき声で老人はくりかえした。
「こんなあらしって、みたこともねえな」おそろしい雷鳴が消えると、じつに感じのわるい割れた鋭い声がいった、「老ルーク・ウィザーズが赤札で十三番ぶっつづけに勝ちぬいた夜以来のこった。やつが悪魔の幸運と自分の幸運をいっしょにしょいこんでると、おれたちみんな、いってたんだが、あの夜は悪魔が出かけてせっせと働く夜だったんで、悪魔が目にみえるもんなら、悪魔があの男の肩越しに目を配ってた[#「目を配ってた」に傍点]もんと思うな」
「ああ!」どら声が答えた。「老ルークは近年やみくもに勝ちぬいてるけどな、やつが運のどん底に落ちてたときのことを思い出すな。さいころ箱か札を手にすりゃ、きっとふんだくられ、はぎとられ、洗いざらいにしぼりとられてたもんさ」
「あの男のいうこと、聞えるかい?」老人はささやいた。「あれが聞えるかい、ネル?」
老人の姿すべてがすっかり変ってしまったのを、子供は、びっくりし、おびえながら、ながめていた。顔は赤らみ、ひたむきになり、目はピンと張り、歯はかみしめられ、息遣いがハッハと激しくなり、彼女の腕に乗せた彼の手がひどくふるえていたので、彼につかまれていた彼女のからだまでふるえだした。
「たしかなことなんだ」目をあげて、彼はつぶやいた、「わしはいつもそういっていたんだ。それを知り、夢にみ、それが真実、そうならなければ、と感じていたんだ。お金はどのくらいある、ネル? さあ、きのうみてたんだが、お前にはいくらかお金があるな。どのくらいお金がある? それをわしによこしなさい」
「だめ、だめ、わたしにそれをもたせておいて、おじいちゃん」おびえた子供はいった。「ここから出てゆきましょう。雨なんて、どうでもいいの。さあ、ゆきましょう」
「それをわしにわたすんだ」老人は激しい勢いで答えた。「シッ、シッ、泣くんじゃない、ネル。きびしくいったにしても、そのつもりはなかったんだからね。これは、お前の幸福のためなんだ。わしはお前にひどいことをしたんだ、ネル。だが、そのつぐないはするつもりだよ、じっさいするつもりだよ。どこにお金はあるかね?」
「とらないで」子供はいった。「どうかとらないでちょうだい、おじいちゃん。ふたりのためなのよ、それをわたしにもたせておいて。さもなけりゃ、すてさせてちょうだい――いま、おじいちゃんにあげるくらいなら、すててしまったほうがまだいいの。ゆきましょう。さあ、ゆきましょう」
「金をわしにくれ」老人は応じた、「それが|要《い》るんだ。さあ、さあ、いい子だね、ネル。いつかこのつぐないはするよ、するとも、心配することはないんだ!」
彼女はポケットから小さな財布をとりだしたが、老人は、その言葉の特徴になっていた性急さでそれをひったくり、あたふたしてつい立ての向うに歩いていった。彼をおさえるのは不可能、そこで、身をふるわせながら、ネルはそのすぐあとを追っていった。
主人は、テーブルの上に灯りをおき、窓のカーテンをひこうとしていた。彼らが耳にしていた語り手はふたりの男、手に札をもち、そのあいだには、いくらかの銀貨がおかれてあり、つい立てそのものの上に、彼らがやった勝負の結果が|白墨《はくぼく》で書かれてあった。荒い声をした男は中年のたくましい男で、大きな黒い|鬚《ひげ》をつけ、頬は大きくひろがり、口は下品で大きなもの、赤いネッカーチーフがゆるくシャツのカラーにまきつけられていただけだったので、ずんぐりとした|猪首《いくび》は、かなりはっきりとみえていた。彼は褐色がかった白の帽子をかぶり、そのわきには節くれ立った太めのステッキがあった。この男がアイザックと呼んでいたもうひとりの男は、もっとほっそりし――猫背で、両肩を高く立て――顔はすごく醜悪、とても気味のわるい、悪党らしいやぶにらみの男だった。
「うん、じいさん」グルリとふり向いて、アイザックはいった。「おれたちのどっちかと知り合いなんかね? つい立てのこっち側は私用のもんなんだよ」
「まずいことはないでしょうな」老人は答えた。
「だが、まったく、特別せっせと仕事をしてるふたりの紳士のとこに」老人をさえぎって、相手はいった、「|闖入《ちんにゆう》してくるなんて、たしかに[#「たしかに」に傍点]まずいことだ」
「そんなつもりはなかったんです」気づかわしそうに札をながめながら、老人はいった、「わたしは考えたんですが――」
「だが、考える権利はきみにないんだよ」相手はやりかえした。「お前さんみたいな齢の男が、いったい、考えるどんな用があるっていうんだい?」
「なあ、おい」このときになってはじめて札から目をあげて、太った男がいった、「あのじいさんに話をさせてやったらどうなんだい?」
この問題のどっちに太った男が肩を入れるかをはっきりと見定めるまで、たしかに中立的な立場をとりつづけようとしていた主人は、ここで、「いや、まったく、アイザック・リスト、ご老人に話をさせたらどうだね?」と調子を合わせた。
「話をさせたらどうかだって?」主人の言葉の調子を|甲《かん》高い声でできるだけ真似しようとして、アイザックは冷笑的にそれに応じた。「うん、話をさせたって構わんよ、ジェミー・グロウヴズ」
「うん、そんなら、話したらどうですな?」主人はいった。
リスト氏のやぶにらみの目が不吉な様相をおび、この議論はながびきそうな気配をみせていた。そのとき、鋭く老人を見守っていた相手の男が、折りよく、それをおさえることになった。
「もしかしたら」|狡猾《こうかつ》な目つきをして、彼はいった、「この紳士の方は試合参加の名誉をお求めになってたのかもしれんぞ!」
「そうだったんです」老人は叫んだ。「そのつもりなんです。それがいま望んでることなんです!」
「そうだと思ってたよ」同じ人物が応じた。「じゃ、この紳士の方は、おれたちがただで勝負をするのをいやがってると考えて、ご|丁寧《ていねい》にも|賭《か》け勝負をお望みなんだな?」
老人は、ギュッとにぎりしめた小さな財布をふりかざして、それをテーブルに投げ、けちん坊が黄金につかみかかるように、札をさっさと集める動きで、それに応じた。
「ああ! それがまったく――」アイザックはいった、「それがこの紳士のおつもりだったら、紳士にお許しを求めなけりゃならんな。これが紳士の小さな財布かね? とてもかわいい小さな財布だな。そうとう軽い財布だぞ」それを空中に投げ、うまく受けとめて、アイザックはつけ加えた、「だが、三十分かそこいら、この紳士のお楽しみになるこったろう」
「四人の勝負をし、グロウヴズを入れることにしたらいいな」太った男はいった。「さあ、ジェミー」
こうしたささやかな会にはもう馴れっこといったふうの主人は、テーブルに近づき、座席をとった。子供はもうハラハラし、祖父をわきにひきよせ、このときになっても、それをしないでくれ、とたのみこんだ。
「さあ、ゆきましょう。そうすれば、とても幸福になれるのよ」子供はいった。
「幸福になるつもり[#「つもり」に傍点]なんだ」セカセカと老人は答えた。「はなしてくれ、ネル。幸福になる方法は、札とさいころにあるんだ。小さな勝ちから大きな勝ちになるわけだ。ここではわずかしかもうからないが、いずれ大きなもうけになる。自分の金をとりもどすだけのことだ。これはみんな、お前のためなんだよ、ネル」
「神さまのお助けを!」子供は叫んだ、「どうして運わるくここに来たんでしょう?」
「シッ!」彼女の口をおさえて、老人は答えた。「しかったりすると、運は腹を立てるもんなんだ。運を責めたりしてはいけない。さもないと、運は向うにいってしまうんだからね。それはもう、わかってるんだ」
「さあ、旦那」太った男はいった。「自分でやるんじゃなかったら、札はこっちにわたしてもらいますぜ、どうです?」
「やりますよ」老人は叫んだ。「さあ、お坐り、ネル、そこに坐ってみておいで。元気を出すんだ。みんなお前のためなんだからね――みんな――一文のこらず。あの連中にそれはいってはいない、とんでもない、とんでもない。いったりしたら、こうした仕事がわしに与えてくれるつき[#「つき」に傍点]をこわがって、勝負をしてはくれないだろうからな。あの連中をみてごらん。連中がどんな人間か、それにお前がどんな娘か、考えてもごらん。勝つのは、もうまちがいなしのことなんだ!」
「あの紳士は思いなおして、やめようとしてるんだ」いまにもテーブルから立ちそうな気配をみせて、アイザックはいった。「あの紳士ががっくりしたのは残念なこったな――虎穴に入らずんば虎児を得ずか――だが、こいつは|先様《さきさま》ですっかりご承知のはずだ」
「さあ、すぐにしますよ。早いのはこちらだけなんですからね」老人はいった。「わたしほど早くやりたがってる者は、いないでしょう」
こういいながら、彼はテーブルに椅子をひきよせ、それと同時に、ほかの三人もまわりに集って、勝負がはじまった。
子供はわきに坐り、心配しながら勝負の進行をながめていた。運のなりゆきは問題でなく、祖父をとらえている激しい興奮だけを気にしていたので、損も得も、彼女には同じことだった。はかない勝ちで|有頂天《うちようてん》になり、負けると打ちのめされて、目の前で彼はひどく荒々しく落ち着かない状態を示し、熱っぽい激しい不安にかられ、おそろしいほどひたむき、つまらぬ賭け金にガツガツになっていたので、彼女は、こんな姿をみるよりは死んだ姿をみるほうがまだまし、と思ったほどだった。だが、この彼女が、こうした拷問の苦しみすべての罪のない原因、老人は、どんな強欲な|賭博《とばく》師よりもっと|因業《いんごう》に欲得に走りながらも、自分のためになんぞとは夢々思ってもいなかったのだった!
それとは逆に、ほかの三人――いずれもその商売は悪事と賭博――は、勝負に心を傾けながらも、すべての|功力《くりき》がその胸にありといったように、冷静で落ち着き払っていた。ときどき、だれかが立ちあがって、目を投げてほかの男にニヤリと笑いを投げ、弱々しいろうそくの|芯《しん》を切り、稲妻が開いた窓とユラユラするカーテンをとおしてひらめくと、それをチラリとながめ、雷が特別大きく鳴りひびくと、イライラするといったようにちょっと瞬間的に苛立ちのようすを浮べて、それに聞き入っていた。だが、彼らはそこで、札以外のすべてのものにケロリとした無関心ぶりを示し、一見したところ非の打ちどころのない哲学者になりすまし、まるで石づくりのように、激情も興奮も外にあらわさなかった。
あらしは、三時間たっぷり、荒れくるっていた。稲妻はしだいに弱まり、回数が少なくなり、雷は、頭の上でゴロゴロと鳴っていまにも落ちようとしている状態から、だんだんに消えていって、太いしゃがれ声の遠雷になったが、勝負はまだつづき、ハラハラしているネルの存在は、すっかり忘れられていた。
30
とうとう勝負は終り、アイザック・リスト氏がただひとりの勝利者になった。マットと主人は、いかにもその道の者にふさわしい勇気で、この損失に平然としていた。アイザックは、ズーッと勝つものときめこんでいた者の態度で金をふところにおさめ、べつに驚きもよろこびもあらわしてはいなかった。
ネルの小さな財布は使い果されていた。|空《から》になって放りだされ、ほかの相手はもうテーブルから立ちあがっているのに、老人は、札の上に目をすえて坐りつづけ、前に配られたとおりに札を配り、ちがった札をめくって、まだ勝負がつづいているとしたら、それぞれがどんな札を手に入れただろう、と調べていた。彼がこのことにすっかり没入しているとき、子供は、彼に近づいて肩に手を乗せ、もう真夜中に近いことを知らせた。
「貧乏のたたりをみるがいい、ネル」テーブルの上にひろげた札を指さしながら、彼はいった。「もうほんの少し、もうほんの少しでもつづけられたら、運はわしのほうに向いてきただろう。そう、それは、札の上のしるしと同じように、はっきりしたことだ。ここ――それにあそこ――それにここを、もう一度みてごらん」
「それは片づけてしまって」子供はすすめた。「忘れたほうがいいことよ」
「忘れろだって!」彼女の顔のほうに自分の顔をあげ、信じられないほどの|凝視《ぎようし》で彼女をにらみつけながら、彼は答えた。「忘れろだって! それを忘れたら、わしたちはどうして金持ちになれるんだ?」
子供のできるのは、ただ頭をふるだけだった。
「いや、いや、ネル」彼女の頬を軽くたたいて、老人はいった、「忘れてはならんのだ。できるだけ早いとこ、この穴埋めをしなければならん。辛抱――辛抱だ。そうすれば、約束してもいいが、お前につぐないができるんだ。きょうは負けて、明日は勝つというやつだ。不安と心配ぬきでは、どんなもんも獲得できんのだからな。さあ、すぐゆくとしよう」
「いま何時か、知ってるのかね?」友人たちとタバコをすっていたグロウヴズ氏がいった。「十二時はまわって――」
「――雨降りの夜」太った男がつけ加えた。
「ジェイムズ・グロウヴズが経営してる『勇敢なる兵士旅館』。寝台はよし、客と馬の接待は安直」看板の文字を引用して、グロウヴズ氏はいった。「時刻はもう十二時半」
「とてもおそいことね」子供は不安そうにいった。「もっと前に出かけたらよかったんだけど。あの人たちにどう思われるかしら! もどれば二時になってしまうでしょう。ここに泊るのには、いくらかかるのでしょう?」
「ふたつの上等な寝台、一シリング六ペンス。夕食とビール、一シリング。しめて二シリング六ペンス」『勇敢なる兵士旅館』は答えた。
さて、ネルは服に縫いこんだあの金貨をまだもっていた。時刻のおそくなったこと、ジャーリー夫人がよく眠る習慣を考え、真夜中にあの善良な婦人をたたき起して彼女に味わせるびっくり|仰天《ぎようてん》ぶりを思うと――そして、反面、いまいるところに泊り、朝早く起きれば、夫人が目をさます前にもどり、自分たちがつつまれてしまった激しいあらしが自分たちの帰らなかったいい口実になると思いついたとき――とつおいつ迷ったあとで、彼女は、とうとう、ここに泊ろうと決心した。そこで、彼女はおじいさんをわきにつれてゆき、宿料を払うお金はまだもっている、と知らせて、ここにひと晩泊ったらどうだろう? と話をもちかけた。
「前にその金があったら――ちょっと前にその金があるのを知ってたら!」老人はブツブツといっていた。
「よかったら、ここに泊ることにしましょう」急いで主人のほうに向きなおって、ネルはいった。
「それが思慮あるやり方というもんでしょうな」グロウヴス氏は答えた。「すぐに夕食は出しますよ」
そこで、パイプをすい終り、灰を打ちだし、パイプの火皿を下に向け、用心深くそれを炉の隅においてから、グロウヴズ氏はパンとチーズ、それにビールを運びこみ、この食事のすばらしさに惜しみなく賛辞をふりまいてから、客に食事をはじめ、くつろぐようにとすすめた。ネルとおじいさんは、わずかしか食べられなかった。それぞれの物思いに沈んでいたからである。ほかの紳士連にとってビールは弱くておとなしすぎる飲み物、そこで彼らは、火酒とタバコで心の|憂《う》さを晴らしていた。
翌朝とても早くこの家を出ることになっていたので、ネルは、床にはいる前に、宿料を払っておこうと考えていた。だが、わずかなこの貯えは祖父からかくさねばならず、金貨の釣りをもらわなければならなかったので、彼女は、かくし場所からそれをソッとぬきとり、主人が部屋から出ていったときに、その機会をとらえてあとを追い、小さな酒場でこの金貨を彼にわたした。
「お釣りは、ここでいただけますか?」子供はいった。
ジェイムズ・グロウヴズ氏は明らかにびっくりし、その金をながめ、そのひびきをたしかめ、子供をながめ、また金をながめて、どうしてそれを手に入れたのだ? とききたがっているようだった。だが、金貨はにせ物ではなく、彼の家で両替えをするのだったから、彼は、おそらく、賢明な宿屋の主人らしく、そんなことは自分の知ったことじゃない、と感じたのであろう。とにかく、釣りを勘定して、それを彼女にわたした。子供は、夕方をすごした部屋にもどろうとしていたが、そのとき、戸口のところで人影が音もなくスーッとはいってくるのをみたような気がした。この戸と彼女が両替えをした場所のあいだには、ながい暗い廊下しかなく、彼女がそこに立っているあいだ、出入りした者はだれもいなかったことがはっきりとしていたので、彼女はハッとして、自分が監視されていたのではないか、と考えた。
だが、監視するといっても、だれが? 部屋にもどったとき、そこにいた人は、彼女がそこを出たときとそっくり同じ人だった。太った男は、頭を片手でささえてふたつの椅子の上に横になり、やぶにらみの男は、同じ姿勢で部屋の反対側で休んでいた。このふたりのあいだに老人が坐り、飢えた驚嘆といったようすで勝った男をジッとみつめ、その男がなにか別格卓越した存在のように、その言葉に耳を傾けていた。彼女は一瞬とまどい、だれかほかの者がそこにいるか? と部屋をみまわした。だれもいなかった。そこで彼女は、老人にささやき声で、自分が部屋にいなかったとき、だれかが部屋から出ていったか? とたずねてみた。「いいや」彼はいった、「そんな人はだれもいなかったよ」
そうしてみると、彼女の空想だったにちがいない。だがそれにしても、そうしたことを考えさせるものは頭になにもなかったのに、この姿をああまではっきりと想像するなんて、奇妙なことだった。彼女は、まだそれをいぶかしく思い、そのことを考えていたが、そのとき、ひとりの女の子がやってきて、灯りで彼女を部屋に案内することになった。
老人は、それと同時に、部屋の人と別れを告げ、三人はいっしょになって階段をあがっていった。そこは大きな、まがりくねった家で、廊下は変化がなくて|素《そ》っ|気《け》ないもの、階段はひろく、燃えあがるろうそくは、そこをいっそう陰気なものにしていた。彼女は、老人とその寝室のところで別れ、案内人のあとについて廊下の端にあるべつの部屋にいったが、そこは、五、六段のグラグラする階段をあがった先の部屋だった。この部屋が、眠るようにと、彼女のためにととのえられた。この女の子は、しばらくグズグズしていて、自分の不平をタラタラとこぼしていた。自分の勤め口はいいものではない、賃銀は安く、仕事はつらく、二週間したらここをやめるつもり、なにかほかにいい仕事を紹介してはもらえないでしょうね? とこの娘は訴えていた。ここに住みこんだ以上、べつの仕事をみつけるのは困難なことだと思う、この宿にはとてもいかがわしい評判がつきまとってる、とにかく、トランプの賭けごとやそんなことをひどくやっているのだから、ともいい、ここによくやってくる連中が正直者と思ったら、大きな見当ちがい、だが、自分がそんなことをもらしたなんぞとは、絶対に知られたくはない、と彼女は伝えた。それから彼女は、兵隊にいってしまうぞ、とおどかしをかけてはきたものの、肘鉄砲を食らわせてやった恋人のなにかとりとめもない話をそれとなく語り――最後に、翌朝早く起すと約束し――おやすみなさいと挨拶して出ていった。
ひとりになったとき、ネルの気分は、安らかにはなれなかった。廊下ぞいに入り口の階段を忍び足でいった姿のことを考えずにはいられず、給仕の娘がいったことも、彼女の心を暗くした。男たちは兇悪な顔をし、旅人に盗みや殺人を働いて暮しを立てているのかもしれない。それは、なんともいえないことだった。
自分の心に説きつけてこうした恐怖を追い払ったり、それをしばらく忘れていると、この夜の冒険がひきおこした不安が湧き起ってきた。賭け事にたいする以前の熱情が彼女のおじいさんの胸にまた|焚《た》きつけられ、それが彼にどんな狂乱ぶりをひきおこすかは、見当もつかないことだった。自分たちの不在が、もうどんな心配を起していることだろう! いまでももう、自分たちの|捜索《そうさく》がおこなわれているかもしれない。明日の朝、許してもらえたらいいのだが! それともまた、放浪の旅に出なければならなくなるのだろうか! おお! この奇妙な場所にどうして足をとめてしまったのだろう? どんなことがあろうとも、どんどんと歩いていったほうがよかったのだ!
とうとう、眠りがしだいに彼女に忍び寄ってきた――とぎれとぎれの発作的な眠りで、高い塔から落ち、ギクリとし、すごい恐怖につつまれて目をさますといった夢になやまされる眠りだった。このあとにもっと深い眠りがつづき――それから――なんということだろう! 部屋にあの姿があらわれた。
人影がそこにあった。そう、明け方になったとき光がはいるようにと、彼女は陽除けをあけてあったのだが、寝台の足と暗い窓のあいだに、それはかがんでいて、音を立てずに手さぐりで進み、寝台のまわりをソッと忍び足で歩いていた。彼女は助けを求める声も出ず、動くこともならずで、それをジッと見守りながら静かに横になっていた。
スッ、スッと、それは静かに、ひそやかに寝台の頭のほうに進んできた。彼女の枕もとのほんの近くで|息吹《いぶ》きが感じられ、その探っている手が自分の顔にさわらないようにと、彼女は枕の奥にちぢみあがった。
その人影はまた窓のほうにもどり――頭を彼女のほうに向けた。その黒々とした人影は、部屋のもっと明るみのある闇の上でのほんの一点のしみにすぎなかったが、彼女には頭がグルリとまわったのがわかり、どんなにその目が凝らされ、聞き耳が立てられているかが感じとられた。目の前そこに、それは、彼女と同じように、身じろぎもせずに立ちつくしていた。とうとう、顔はまだ彼女のほうに向けたままで、それはなにかの中で手をいそがしく動かし、お金の音が彼女の耳にひびいてきた。
それから、前と同じように静かに、ひそやかに、それはまたやってきて、寝台のわきからもっていった服をもとにもどし、四つんばいになって、向うに去っていった。もう彼女にはそれがみえず、音だけが聞えてきたのだが、床の上をはっていくその動きが、なんとおそく感じられたことだろう! それは、とうとうドアに達し、そこで立ちあがった。
音も立てぬその歩みのもとで、階段はキーキーと鳴り、その人物は去っていった。
子供の最初の衝動は、部屋でひとりでいる恐怖からのがれ――だれかにそばにいてもらい――ひとりではいまいということだった。そうすれば、話す力ももどってくるだろう。自分の動きも意識せずに、彼女はドアのところにいっていた。
そのおそろしい影は、階段の下のところで立っていた。
彼女は、そこをとおりぬけられなかった。暗闇の中で、たぶん、捕えられずにそれをすることができたのだろうが、それを考えただけでも、血が凍りついてしまった。人影は身じろぎひとつせずに立ち、彼女も同じように立ちつくしていた。これは、勇敢な行為ではなく、そうせずにはいられなかったからである。というのも、部屋の中にもどっていくのは、前に進んでゆくのと同じくらい、おそろしいことだった。
雨は、外でサッサッとすごい勢いで打ちつけ、ピシャピシャと音を立てる流れになって、かやぶきの屋根から流れ落ちていた。なにか夏の虫が、外にのがれでられずに、からだを壁や天井に打ちつけ、ブンブンいううなり声で静かな場所をいっぱいにして、しゃにむに、あちらこちらととびまわっていた。人影はふたたび動き、子供も無意識に同じように動いた。おじいさんの部屋にゆけたら、もう安全になれるのだが……。
人影は廊下ぞいにはい進み、とうとうそれは、彼女が心の底から強くゆきたいと思っていたそのまさにドアのところにゆきついた。その部屋のほんの近くにやってきた苦悶で、子供は、部屋にパッととびこみ、すぐにドアを閉めてしまうつもりで、いまにもとびだそうとしていたが、そのとき、例の人影はまた立ちどまった。
ある考えが、いきなり、彼女の頭にひらめいた――それがそこにはいりこみ、老人の命をうばおうとする意図をもっているとしたら! 彼女は、頭がフラフラになり、胸がムカムカしてきた。それは、たしかに、はいっていった、はいっていった。部屋には灯りがあった。人影はもう中にはいっていて、彼女は、まだ無言――まったくの無言で、ほとんど感覚をも失って――立ったまま、ながめつづけた。
ドアは少し開いていた。自分がなにをしようとしているのかはわからず、それにしても、老人を助けるか、自分の命を投げだそうと考えて、彼女は、よろめきながら進み、中をのぞきこんだ。
彼女の目に映ったのは、どんな光景だったろう!
寝台ではまだ人が眠らず、そこはなめらかで、空っぽだった。そして、テーブルのところでは、老人自身が坐っていた。ほかに人はだれもいなかった。彼の青ざめた顔は、貪欲でひきつり、きびしさをまし、目を貪欲で異常に輝かせて――彼女から盗んだ金を勘定していた。
31
この部屋に近づいてきたときよりもっとよろめく不安定な足どりで、子供は、そこのドアをはなれ、手さぐりで自分の部屋にもどっていった。彼女がこのときまで味っていた恐怖は、いま彼女の心を押しつぶしている恐怖にくらべたら、物の数ではなかった。どんな奇妙な盗人、客の掠奪を大目にみのがしたり、眠っている客を殺そうと寝台に忍び寄るどんないかさまを働く宿屋の主人、どんなにおそろしい残酷な夜盗でも、静かな彼女の訪問者がだれかを知ったときに、彼女の胸にひきおこされた恐怖の半分でもひきおこすことはできなかったろう。白髪まじりの老人が、自分がぐっすり眠りこんでいると思いこんで、そのあいだに、亡霊のように自分の部屋にすべりこみ、盗みを働き、その獲物を運び去り、自分が目にしたあのおそろしい満悦ぶりでそれをジッと見守っていること、これは、彼女の途方もない空想で思いつくどんなものよりもっとおそろしいこと――計り知れぬほどもっとおそろしいこと、いま思い出すと、はるかにもっとこわいことだった。もし老人がもどってきて――ドアには錠も|桟《さん》もついていなかった――まだ金をのこしてきたのではないかと考え、もっとうばいとろうともどってくるとしたら――ひそやかな足どりで彼がまた忍びこみ、とても我慢できない彼の手のふれをさけようと、彼の足もと近くに彼女がちぢみあがって小さくなっているとき、ぬけ|殻《がら》になった寝台のほうに彼が顔を向けるかと思うと、漠然とした畏怖と恐怖の念がその考えをつつんで湧き起ってきた。彼女は坐り、耳を澄ませた。ああ! 階段に足音、いまドアがゆっくりと開けられている。これはただ想像にすぎなかったが、想像は、現実の恐怖すべてを備えていた。いや、現実よりもっとおそろしいものだった。現実は姿をあらわし、姿を消し、それでけりになる(シェイクスピア、『マクベス』V・iv、七八―八〇の引用)のに、想像では、それがいつもあらわれていて、消えることが絶対になかったからだった。
子供をつつんでいた感情は、漠然とした不安定な恐怖の感情だった。あのおじいちゃんは、べつにこわくはなかった。この狂乱は、自分にたいする愛情がもとで生じているからだった。だが、|賭博《とばく》の勝負に夢中になり、自分の部屋にひそみ、チラチラする灯りで金を勘定しているその夜みた男は、おじいちゃんの形をとったべつの男、彼の像をおそろしくひきゆがめたもの、それからふるえあがってとびさがるべきもの、彼に似て、ああして自分につきまとっているだけに、なおおそろしいものだった。自分の愛情深い伴侶をこの老人と結びつけることは、まずまずできないことだった、彼がいなくなってしまった場合には話はちがってくるだろうが……。それは、とても似てはいるものの、とてもちがったものだった。彼が鈍感になり静かになった姿をみて、彼女は泣いていた。だが、いま、それよりはるかにはるかに大きな泣く原因が、彼女にあったのだ!
子供は、眠らずにこうしたことを考えながら坐っていたが、心の中でこの幻の暗さと恐ろしさがとても大きなものになってきたので、老人の声を聞くか、もし眠っていたら、その姿をみただけでも、どんなにホッとすることだろう、と思った。そうすれば、彼の像にまといついている恐怖を多少なりとも追い払えるだろう。彼女は階段と廊下をまた忍び足で歩いていった。ドアは、彼女が去ったときと同じように、まだ開き、ろうそくもまだ以前どおり燃えていた。
彼女は、自分のろうそくを手にもっていたが、老人がまだ目をさましていたら、自分が不安で眠られず、彼のところのろうそくがまだ燃えているかどうかをみにきた、というつもりだった。部屋をのぞくと、彼が静かに床の上に横になっている姿がみえ、そこで彼女は、勇気をふるいおこして、中にはいっていった。
ぐっすりと眠っていた。顔には激しい感情、貪欲、不安、荒々しい欲望の跡はなく、やさしく、静かで、安らぎのあるものだった。これは、賭博師でも、彼女の部屋の影でもなく、灰色の朝の光の中で、彼女と顔をよく合せていたあのやつれてつかれ果てた男でさえなかった。これは、彼女の親しい友、危害を加えたりはしない旅の伴侶、善良で親切な彼女のおじいさんだった。
眠りこんでいる彼の顔をながめたとき、恐怖心は感じなかったものの、胸には、深い、心をおしつぶす悲しみがあり、そのはけ口は涙になった。
「かわいそうに!」かがんで静かに落ち着いた彼の頬にやさしくキスをしながら、子供はいった。「あの人たちにみつかったら、わたしたちはほんとうにひきさかれ、おじいちゃんは太陽と空の光のないところに閉じこめられてしまうでしょう。おじいちゃんを助けてあげるのは、わたしだけだわ。神さまのみ恵みが授かりますように!」
自分のろうそくに火をつけ、来たときと同じように、ソーッとそこを去り、自分の部屋にもどりつくと、彼女は、のこりのながいながいみじめな夜を、ズーッと坐ったままですごした。
とうとう、昼が弱ったろうそくの光を薄くし、彼女は眠りこんだが、すぐに、前の晩そこに案内してくれた給仕の娘に起され、服を着こむやいなや、おじいさんのところにおりてゆこうとした。だが、最初に、ポケットをさぐってみたが、彼女の金はすっかり消えて――六ペンスのお金さえのこってはいなかった。
老人の準備はできていて、すぐにふたりは道に出た。彼が自分の目をさけ、金の紛失を話すのを予期しているふうに、彼女には思えた。彼女は、それをしなければならないと感じた。そうしなければ、老人が事実に勘づくことになるかもしれないからだった。
「おじいちゃん」一マイルほどおしだまったままで歩いてから、彼女はふるえ声でいった、「あの向うの宿屋の人たち、正直な人と思うこと?」
「どうして?」ふるえながら老人は答えた。「正直な人と思うかだって? ――そう、勝負ではいかさまをしなかったよ」
「そのわけはね」ネルは応じた、「きのうの晩、わたし、お金を失くしてしまったの――寝ていた部屋からだと思うわ。だれかが、それをふざけて――ただふざけてとったのでなければね。それがわかりさえしたら、わたし、大笑いで笑ってしまうとこなんだけど――」
「だれがふざけて金をとったりするものかね?」あわてて老人はいった。「お金をとるやつは、それを手に入れようと、とるんだよ。ふざけてなんかは、するもんかね」
「じゃ、わたしの部屋から盗まれたんだわ」最後の期待を老人の態度で打ちくだかれて、子供はいった。
「だが、もうのこったお金はないんかね?」老人はたずねた。「どこにも、もうないんかね? すっかり――びた一文ものこさず――とられたんかい? もうすっかりないんかい?」
「すっかりないわ」子供は答えた。
「もっと手に入れにゃならん」老人はいった、「それを手に入れ、ネル、それをたくわえ、かきあつめ、とにかく、なんとかものにしなければならん。こんな損失は気にすることはない。このことは、だれにもいわんようにな。たぶんまた、とりもどすこともあるだろう。どうしてとりもどすなんて、たずねてはいけない――とりもどすかもしれんのだ、もっともっとたくさんな――だが、だれにもいってはいけないよ。いうと、面倒が起きるかもしれんのだからな。そうすると、お前が眠ってるとき、それを部屋からとっていったんだね!」彼は同情したような口調でいいそえたが、それは、そのときまで話していた人目を忍ぶ|狡猾《こうかつ》な話しぶりとは打って変ったものになっていた。「かわいそうに、ネル、かわいそうに、かわいいネル!」
子供は、頭をたらして泣いていた。老人が語っていた同情の口調は心からのもの、それは、もうまちがいのないことだった。これが自分のためにおこなわれたと承知しているのは、彼女の悲しみの少なからぬ負担になっていた。
「わし以外のだれにも、ひと言だってもらしちゃいけないよ」老人はいった、「いいや、わしにだっていっちゃいかん」彼は急いでいいそえた、「それをいったって、なんの役にも立たんのだからな。いままで失ったものすべてで、お前は泣く必要はないんだよ、ネル。いずれそれはとりもどすもんなんだから、泣く必要はないわけなんだ」
「なくなったものは、そのままにしておいてちょうだい」目をあげて、子供はいった。「そのままにしておいてちょうだい、いつまでも、いつまでもね。そうすれば、そのお金が百倍千倍のものでも、もう涙はひと|滴《しずく》も流したりはしないことよ」
「わかった、わかった」なにか衝動的な返事がグッと口にのぼってきたのをおさえて、老人は答えた、「あの子にはそれしかわかっていないんだ。これはありがたいこと」
「でも、わたしのいうこと、よーく聞いてちょうだい」むきになって子供はいった、「聞いてくださる?」
「うん、うん、聞くとも」まだ彼女のほうをみずに、老人は答えた。「かわいい声だ。わしの耳には、いつも美しいひびきをもってるものだ。かわいそうに、あの|娘《こ》の母親のときにも、いつもそうだったんだ」
「じゃ、おじいちゃんにおねがいしたいの――ああ、ぜひおねがいするわ」子供はいった、「もう損も得も考えず、運も、わたしたちがいっしょに求めてきた運以外のものは、もう追わないでちょうだい」
「この目的は、わしたちがいっしょに求めてるもんなのだよ」まだ目をそらし、心の中で考えているような態度で、老人は答えた。「勝負を清らかなものにしてるのは、だれの像だと思ってるのだね?」
「おじいちゃんがああした心配を忘れ」子供はつづけた、「いっしょに旅に出てから、わたしたち、前より不幸になったのかしら? あの不幸な家に住み、おじいちゃんが損得で心配していたときより、泊る家がなくとも、わたしたち、ズッと気分がよく、幸福になったのじゃないかしら?」
「たしかに、そのとおりだ」前と同じ調子で老人はつぶやいた。「それでわしの考えを変えるわけにはいかんのだが、たしかに、そのとおりだ。まちがいなし、そのとおりだ」
「あの明るく太陽が輝いていた朝、これを最後にとあの家を出て以来、わたしたちがどんな暮しをしてきたか、それだけを考えてみてちょうだい」ネルはいった、「ああしたみじめさを味わなくなって以来、どんなふうに暮してきたか、考えてみてちょうだい――どんなに安らかな日と静かな夜を送り――どんなに楽しい時を味い――どんな幸福を楽しんだか、考えてみてちょうだい。つかれ、お|腹《なか》が空いても、すぐに元気をとりもどし、それだけになおよく眠ったものよ。どんなに美しいものをみてきたか、どんなに満足を味ったかを考えてちょうだい。それなのに、罰当りにも、どうしてそれを変えることがあるのでしょう?」
彼は、手をふって彼女をおしとどめ、自分はいそがしいのだから、いまはもう、なにもいわないでくれ、と彼女に命じた。しばらくして、彼は彼女の頬にキスをし、まだだまっているようにと身ぶりで伝え、はるか前方に目をやり、ときに足をとめ、眉を寄せて地面をみつめ、乱れた心をとりなおそうと骨を折っているようなそぶりをあらわして、進んでいった。一度は、彼の目に涙が浮んでいるのが、彼女にはっきりとわかった。こうしてしばらく歩きつづけてから、彼は、いつものとおり、彼女の手をとったが、それはいつもしているままのもので、さっき示した荒々しさや勢いづいたものは、ぜんぜん消えていた。こうして、子供にはそれと気づかぬほど少しずつ、彼はふだんの彼にもどってゆき、彼女を先に立たせ、彼女のゆくところについていった。
あのすばらしい蒐集品の中に姿をあらわしたとき、ネルの予想にたがわず、ジャーリー夫人はまだ床をはなれず、前の晩には彼らのことで多少心配し、十一時すぎまで、じっさい、起きてはいたものの、そこからそうとうはなれたところであらしに巻きこまれ、その近くに宿をとり、翌朝まではもどらないだろうと考えて、床にはいってしまったことがわかった。ネルは、すぐに部屋の飾りつけと準備にせっせととりかかり、王家から愛顧を受けている人物が朝食に出てくるまでに、仕事を終え、身づくろいをしっかりとととのえてしまった。
「ここにいるあいだじゅう」食事が終ると、ジャーリー夫人はいった、「モンフラザーズ先生んとこの生徒は八人以上来なかったことね。生徒は二十六人いるのよ、料理係の女の人にひとつふたつ問いかけ、ただではいれる優待者名簿の中に名をのせてやったとき、ききだしたことなんだけどね。新しいちらしでのこりの連中の心をひいてみなくちゃね。そこで、ネル、あんたがそれをもっていき、どんな効果があがるか、ひとつやってみてごらん」
この遠征は、最高に重要なことだったので、ジャーリー夫人はみずからネルのボンネット帽を調整し、それは、たしかにとてもかわいらしいものだった、この展覧会には恥ずかしからぬものだ、といって、多くの賛辞を浴びせて彼女を送りだし、右にまがり、左にまがってはいけないなどと必要な指示もいくつか与えた。こう教えこまれていたので、モンフラザーズ先生の寄宿・通学学校はすぐにみつかったが、それは大きな家で、高い壁でかこまれ、大きな真鍮の板のついた大きな庭の門があり、そこには小さな格子戸がついていて、そこをとおして、モンフラザーズ先生の小間使いが、すべての訪問者を検閲してから、中に入れることになっていた。男の形をしたどんなもの――そう、牛乳配達夫でさえ――特別な許可なしで、その格子戸をとおりぬけるのは禁止になっていた。太って、眼鏡をかけ、大きなへりのついた帽子をかぶった収税吏でさえ、この格子戸越しに、税金をわたされていた。金剛石の門や真鍮の門以上の|頑固《がんこ》さで、モンフラザーズ先生の門は、すべての男性に渋面を投げていた。肉屋ですら、神秘の門としてそれに敬意を払い、鐘を鳴らすときには、口笛を吹くのをつつしんでいるのだった。
ネルがこのおそろしい門に近づいていったとき、それは|蝶番《ちようつがい》をキーキーいわせてゆっくりと開き、向うの厳粛な森の中から、ながい列になった生徒が行進してきて、ふたりずつならび、開いた本を手にもち、一部のものはパラソルをも手にしていた。この行列の最後にモンフラザーズ先生がつき、自身で薄紫のライラック色のパラソルを手にし、ニコニコしているふたりの先生にささえられていたが、このふたりは、それぞれ、相手をひどくうらやみ、モンフラザーズ先生に献身的な愛情をささげている人物だった。
女生徒のまなざしとささやきにドギマギして、ネルは目を伏せたままで行列をやりすごし、しんがりをうけたまわるモンフラザーズ先生が自分に近づいてきたとき、彼女は、膝をまげ腰を落してお辞儀をし、その小さな束を手わたしたが、それを受けとると、モンフラザーズ先生は行列の停止を命じた。
「あんたはろう人形のとこの子供ね、そうじゃない?」モンフラザーズ先生はたずねた。
「はい、そうです」顔を真っ赤に染めて、ネルは答えた。生徒が彼女のまわりに集り、自分に視線が集中されていたからだった。
「ろう人形のとこの子供になっているなんて」そうとうお天気屋で、あらゆる機会をとらえて女生徒の感じやすい心に道徳的真理をきざみつけることにしているモンフラザーズ先生はいった、「あんたはとても腹黒い子供だと思ってはいないこと?」
あわれなネルは、そのときまで、自分の立場をそうした観点からみたことがなく、どういっていいかわからず、前よりもっと顔を赤くして、おしだまっていた。
「知らないの」モンフラザーズ先生はいった、「教養の力で眠っている状態からゆりおこされる発展的な力があるのに、そんなことをしているのは、とても下劣で非女性的なこと、わたしたちに賢明に慈悲深くも与えられた性格を悪用していることになるのよ」
ふたりの先生は、この急所のひとつきに敬意をこめた賛成のつぶやきを発し、たしかにモンフラザーズ先生が彼女をしたたか打ちのめしたといわんばかりに、ネルをながめ、それからニッコリし、モンフラザーズ先生をチラリとながめ、それから、ふたりの目がカチンと出会って、それぞれが自分をモンフラザーズ先生のお気に入り、相手をニッコリとする権利をもたぬものと考え、そんなことをするのはまさに僭越・無礼な行為であることを明白に物語っている視線をかわしていた。
「ろう人形のとこの子供になってるなんて」モンフラザーズ先生はつづけた、「子供なりの力に応じて、この国の工業を助け、蒸気機関車をたえず考えることで心を鍛錬し、週に二シリング九ペンスから三シリングまでかせぐことで快適な人にたよらぬ生活をするほこりやかな意識をもとうとすればもてるのに、それがどんなに下劣なことか、感じてないの? 仕事をせっせとやればやるほど、それだけ自分が幸福になるのを、あんたは知らないの?」
「どんなに小さな――(アイザック・ウォッツ(一六七四―一七四八)の『なまけといたずらにたいする教訓』という歌の言葉)」ウォッツ博士の言葉を引用して、先生のひとりがつぶやいた。
「えっ?」サッとふり向いて、モンフラザーズ先生はいった。「いまの言葉、だれがいったの?」
それをいわなかった先生は、もちろん、それをいった競争相手の先生を指摘し、モンフラザーズ先生は渋面をつくって、だまっているように、とその先生に命じ、このことで密告をした先生は、有頂天になってよろこんでいた。
「小さなせわしい蜜蜂は」グイッと背をそらせて、モンフラザーズ先生はいった、「上品な子供たちだけに当てはまる言葉ですよ。
[#2字下げ]本、仕事、健康な遊びで(アイザック・ウォッツの前掲の詩の言葉)は、
そうした子供たちに関するかぎりでは、まったく妥当なもの。もっとも、仕事はビロードに描く絵、装飾用の|刺繍《ししゆう》、刺繍のことなんですがね。こうした子供の場合には」とパラソルでネルをさして、「そして、すべての貧乏人の子供の場合には、わたしたちはそれをつぎのように解釈しなければならないのです。すなわち、
[#ここから2字下げ]
仕事、仕事、仕事で、いつも仕事で
わたしの幼いころはすぎるように。
それは、日ごと日ごとに、最後には
りっぱな勘定ができるため。
[#ここで字下げ終わり]
ということですよ」
賞賛の低いうなりがふたりの先生からばかりでなく、全生徒から湧き起ってきた。こうしたすばらしいふうにモンフラザーズ先生が即席に歌をつくりだすのを聞いて、生徒たちは同じようにびっくり|仰天《ぎようてん》していたからである。それというのも、モンフラザーズ先生が政治家というのはながいこと知られている事実だったが、こうした独創的な詩人とは、ついぞ思われてもいなかったからだった。ちょうどそのとき、だれかがネルの泣いているのをたまたま発見し、すべての目が、ふたたび、彼女のほうに向けられることになった。
彼女の目には、たしかに涙が浮び、それをふきとろうとハンケチをとりだして、彼女は偶然それを落してしまった。かがんでそれをひろいあげようとしたとき、十五か十六歳くらいの少女で、生徒のあいだでは認められた地位を与えられてはいないといったふうに、ほかの連中からは少しはなれて立っていた若い婦人が、前にとびだし、それを彼女の手にわたしてくれた。彼女はオドオドしてスーッとさがっていったが、そのとき、彼女は|女総督《ガヴアネス》(ガヴァネスには女家庭教師の意もある)にとっつかまってしまった。
「それをしたのはミス・エドワーズですね、知ってますよ[#「知ってますよ」に傍点]」モンフラザーズ先生は、予言でも語るようにいった。「たしかに、それはミス・エドワーズ」
それはミス・エドワーズで、それがミス・エドワーズであることを、すべての者が語り、そうであるのを、ミス・エドワーズ自身が認めた。
「あんたが」犯罪人をもっときびしくみすえようとパラソルを下において、モンフラザーズ先生はいった。「下層階級の者に愛情を寄せ、いつもその味方になってるのは、ミス・エドワーズ、とても注目すべきことじゃないかしら? いいえ、それよりむしろ、あんたのもともとの身分のために、不幸にも、あんたにはもう習慣的なものになってしまってる傾向を、わたしの言動すべてがあんたからとりのぞかないでいることこそ、とても異常なことじゃないかしら、とてもひどく野卑な|性根《しようね》の娘さん?」
「べつにどうというつもりはなかったのです、先生」美しい声がいった。「それは、ほんとうに、瞬間的な衝動だったのです」
「衝動だって!」いかにも軽蔑したように、モンフラザーズ先生はおうむ[#「おうむ」に傍点]がえしにいった。「おこがましくもわたしに衝動の話をするなんて、驚いたこと」――ふたりの先生は賛成して――「びっくりしたわ」といい――ふたりの先生はびっくりしていた――「出逢うすべてのへっつくばった下劣な人間の味方になるようにあんたをさせてるのは、衝動なんでしょうね」――ふたりの先生も、そうだと考えていた。
「でも、あんたに心得ててもらいたいものね、ミス・エドワーズ」いやますきびしい口調で女総督はつづけた、「こうしてひどく下品なふうに目上の者にまっこうから反抗するのは――この学校でまともなお手本と行儀作法をくずさないためにも――それは、許されない、許すことができない、許してはおけないということをね。ろう人形のとこの子供たちにたいしてふさわしいほこりを感ずべき筋があんたには[#「あんたには」に傍点]ないにしても、そうした筋をもってる若いご婦人方の生徒がここにいて、その方たちに敬意を払うか、この学校を出ていくか、どっちかひとつにしなさい、ミス・エドワーズ」
この若い婦人は、母親がなく貧乏だったので、この学校に見習奉公で入れられ――無料で授業を受け――習ったことを他の生徒に無料で教え――食事は無料――宿泊は無料――この学校に住んでいる全員から、無よりはるかにはるかにおとるものとみなされ、評価されていた。下女たちは、彼女を自分より下の者と感じていた。彼らはもっとよいあつかいを受け、出入は自由、その地位はもっと敬意をこめてみられていたからである。先生たちは、彼女よりかぎりなく上位にある者だった。かつては授業料を払って学校にかよい、いまは俸給をもらっていたからである。家庭について語るべき堂々たる話をもたず、駅馬でやってき、女総督によって菓子とぶどう酒で丁重にむかえられる友人、休日のあいだ、つかえて家に送りとどけてくれるうやうやしい召使いのない仲間、自慢の種にするお上品なこと、みせびらかすどんなものももっていない仲間にたいして、生徒は、なんの尊敬の念ももってはいなかった。だが、このあわれな奉公人にたいして、モンフラザーズ先生はどうしていつもジリジリ、イライラしていたのだろう――どうしてそうしたことになったのだろう?
いやまったく、モンフラザーズ先生の最高のほこり、モンフラザーズ先生の学校のいちばん輝かしい名誉は、准男爵の娘――本物の准男爵の本物の娘だったが、この娘は、なにかある自然の|掟《おきて》の異常な逆転で、顔がみにくいばかりでなく、頭がわるく、一方、貧乏人の奉公人は|敏捷《びんしよう》な頭と美しい容姿を兼ね備えていたからだった。これは信じられないことのように思われる。ミス・エドワーズはとっくのむかしに使い果してしまったわずかな入学金しか払っていないのに、毎日、准男爵の娘に立ちまさって圧倒的な輝きを示し、しかも、准男爵の娘は、課外の授業すべてを学び(あるいは、教えられているだけ)、その半年の勘定はこの学校のほかのどの生徒の勘定の倍にもなっているのに、生徒の身分で受ける名誉と名声を問題にしてもいなかった。そこで、さらに、相手が自分にたよっている者だったので、モンフラザーズ先生はミス・エドワーズにたいしてひどい嫌悪感をいだき、彼女を蔑視し、彼女に腹立たしさを感じ、ネルにたいしてミス・エドワーズが同情を示したとき、いままでみてきたように、言葉の上で彼女に襲いかかり、虐待を加えたのだった。
「きょうの散歩は禁止ですよ、ミス・エドワーズ」モンフラザーズ先生はいった。「さあ、さっさと自分の部屋にひきさがり、許可なしでそこを出るのは禁止ですよ」
このあわれな娘は、大急ぎでひきさがろうとしたが、そのとき、モンフラザーズ先生から発せられたグッとおさえた金切り声で、海洋語でいえば、彼女は「停船させられ」ることになった。
「お辞儀もせずにわたしのとこをとおっていくなんて!」目を空にあげて、女総督は叫んだ。「わたしの存在を完全に無視して、ほんとうにとおっていったんですよ!」
若い娘は向きを変え、膝をまげ腰を落してお辞儀をした。彼女は黒みのかった目を自分の上級者の顔にあげたが、その目の表情とその瞬間の態度すべての表情には、このひどい仕打ちにたいする無言ではあるがとても強く心を打つ哀願の情がこもっているのが、ネルにはわかった。モンフラザーズ先生のそれにたいする応答は、ただ頭をツンとそらせただけ、大きな門は、苦しみではりさけそうになっている心の上に閉じられてしまった。
「あんたはといえば、この腹黒の娘さん」ネルのほうに向いて、モンフラザーズ先生はいった、「あんたの女主人が、おこがましくも、これ以上人をわたしのとこに使いに出したりしたら、わたしは立法府の当局に手紙を出し、あの女をさらし台(足をさしこむふたつの穴のあいた厚板)でさらし物にするか、|懺悔《ざんげ》の白服を着て人前で懺悔をさせるかしてやりますよ。あんたにしても、おこがましくも二度とここにやってきたりなどしたら、まちがいなし、きっと、踏み車(むかし監獄で懲罰のために囚人に踏ませた)を味わせてやりますよ。さあ、みなさん、いきましょう」
行列は二列になり、本とパラソルをもって静々と進み、モンフラザーズ先生は、乱れた心を静めようと、准男爵の娘を呼んで自分といっしょに歩かせて、ふたりの先生を放りだしにし――このふたりは、そのときにはもう、微笑を同情の表情に変えていた――彼らにしんがり役をつとめさせ、つれ立っていっしょに歩かなければならなくなったことで、彼らのたがいの憎しみの情は、さらに少しかき立てられることになった。
32
さらし台や懺悔といった不名誉なことでおどかしをかけられたことをはじめて知ったときのジャーリー夫人の激怒は、筆舌につくしがたいほどすごいものだった。正真正銘で唯一のジャーリーが世間の軽侮にさらされ、子供にあざけり笑われ、教区吏員にバカにされるなんて! 貴族と紳士のよろこびが市長夫人でもため息をもらしてかぶりたがってるボンネット帽子をはぎとられ、みせしめと屈辱の見世物になって白い服を着せられるなんて! あの厚かましい女のモンフラザーズが、その想像のどんなに漠然としたかけはなれた姿にせよ、おこがましくもそうした屈辱的な絵図を心に描きだすなんて! 「あたし、ほんとうに」怒りで胸がはりさけんばかりになりながらも、復讐の方法がみつからないのでイライラして、ジャーリー夫人はいった、「それを考えると、神も仏もない人間になりたくなってしまうことよ!」
しかし、そうした報復手段はとらずに、ジャーリー夫人は思いなおして、あのいかがわしいびんをもちだし、お気に入りの太鼓の上にコップをならべるように命じ、その背後の椅子にどっかと沈みこんで、身辺にお供を呼び寄せ、彼らに一語一語正確に自分の受けたあなどりを何回か語って聞かせた。これが終ると、深い絶望状態といったものにおちいって、酒を飲めとすすめ、それから笑い、それから泣き、それから自身ちょっと酒をひとすすりし、それからまた、笑って泣き、さらにもう少し酒を飲んだ。こうして、だんだんと、この貫禄のある夫人は微笑をまし、涙を減少させて、ついには、とうとう、モンフラザーズ先生をとことんまで嘲笑しきれなくなり、モンフラザーズは極端ないらだちの対象から、まったくの嘲笑とバカらしさの対象にうつり変っていった。
「というのも、あたしたちふたりのどっちが、暮し向きがいいというんだい?」ジャーリー夫人はいった、「あの女かね、このあたしかね? 結局んとこ、話だけのこと。あの女がさらし台でさらされてるあたしのことをしゃべるんだったら、そう、こっちだって、さらし台にさらされてるあの女のことを話せるんだよ。そういうことになったら、あいつのほうがズッとおかしな姿になるよ。まあ、結局んとこ、そんなこと、どうだというんだい!」
こうした爽快な心境に到達して(これは、あの哲学的なジョージのいくつかの短い叫びの言葉によって、大いに助けられた)、ジャーリー夫人は多くのやさしい言葉でネルをなぐさめ、わたしのためだと思って、しておくれ、モンフラザーズのことが頭に浮んだときにはいつでも、死ぬときまでズッと、ただあの女をあざけり笑ってやるんだよ、といっていた。
こうしてジャーリー夫人の怒りは終止符を打ち、それは太陽の沈むとっくのむかしにおさまってしまった(新約エペソ人への書、四・二六、「憤怒を日の入るまで続くな」への言及)。だが、ネルの心配はもっと深いもので、彼女の陽気さをおさえていたものは、そう容易には除去できなかった。
その日の夕方、彼女がおそれていたように、老人はソーッとぬけだし、ズッと夜ふけになるまでもどっては来なかった。つかれきり、心身ともにヘトヘトになっていたが、彼女は刻一刻を数えながら、老人が帰ってくるまで、起きていた――老人は文なしになり、がっくりし、みじめにはなっていながらも、まだ病みつきの賭博に夢中になっていた。
「金を手に入れてくれ」眠る別れぎわに彼は荒々しくいった。「金を手に入れなければならんのだ、ネル。将来いつか、堂々としたりっぱな利子をつけて、それをお前にかえしてやるからな。だが、お前の手にはいる金はすべて、わしにわたさねばいかん――わし自身のためじゃなくって、お前のために使う目的のためなんだ。いいかね、ネル、お前のために使う目的のためだぞ!」
彼が恩人のジャーリー夫人の金を盗んだりする気持ちにならないようにと、あり金すべてをわたしてしまう以外に、子供の分別ではどうすることができたろう? ありていのことを話したら(子供は考えた)、老人は狂人あつかいを受けることになるだろう。もし金をわたさなかったら、自分で金の都合をつけるだろう。金をわたして、彼女は、彼を燃え立たせている火の補給をおこない、たぶん、彼をとりかえしのつかぬものにしているのだった。こうした考えで思い乱れ、他人には語れない悲しみの重さで打ちひしがれ、老人がいないときにはいつでも、群らがる不安で拷問の苦しみを味い、彼の外出と帰りを同じようにおそれていたので、赤らんだ色は彼女の頬から消え、目の光沢はくもり、心はおしつぶされて重くなっていた。以前の彼女の悲しみはすべて、新しいおそれと疑いで大きくなって、彼女のところにもどり、昼間には、悲しみがいつも心にかかり、夜には、彼女の枕もとでそれがチラチラと動き、夢の中では、彼女につきまとっていた。
こうした苦痛の|最中《さなか》にあって、彼女の思いがあの美しい若い女性のもとにもどっていったのは、当然なことだった。その女性を、彼女はただチラリとながめただけだったが、ほんのちょっとした短い行動で示されたその人の同情は、何年間にもわたる同情のように、彼女の心の中に忘れられずにのこっていた。自分の悲しみを打ち明けることができるああした友がいたら、自分の心はどんなに軽くなることだろう――自由にあの声を聞けたら、自分はもっと幸福になれるだろう、と彼女はよく考えていた。ついで、彼女は、自分がもっとましな人間だったら、こんなに貧乏で身分がいやしくなかったら、はねつけられる心配もなくあの婦人に語りかけることができたらと考え、ついで、ふたりのあいだには計り知れない距離がある、あの若い婦人が自分のことをあれ以上考えてくれるのは望むべくもないことだ、と感じていた。
いま、学校は休暇になり、生徒たちは家にもどり、モンフラザーズ先生は、ロンドンで華やかな日々を送り、中年の紳士の心を|悩殺《のうさつ》しているといううわさがひろまっていた。だが、ミス・エドワーズについては、だれもなにもいわず、彼女が家に帰ったのか、帰るべき家があるのか、まだ学校にいるのか、その他、彼女についてのどんなことも語られてはいなかった。だが、ある夕方、ネルがただひとりのわびしい散歩から帰ろうとしていたとき、たったいまやってきた駅伝馬車がとまっている宿屋の前をとおったが、彼女がよく知っているあの美しい娘が、駅伝馬車の屋根席(いちばん安い座席)から助けておろされている小さな子供を胸に抱こうと、人ごみをおしわけて前に出ようとしていた。そう、これは彼女の妹、ネルよりズッと年下の小さな妹、五年間会わずにいた(あとでそうしたうわさが流れていた)妹で、この妹をほんのしばらくここに呼ぶために、ズーッとこのときまで、わずかな金を貯金していたのだった。ふたりが出逢うのを目にしたとき、ネルは胸がはりさけそうになった。ふたりは駅馬車のまわりに集った人の群れからちょっとはなれ、たがいに首にすがりつき、すすり泣き、よろこびで涙を流していた。ふたりの飾りのない質素な服、この妹がはるばるひとりでやってきた距離、ふたりの興奮とよろこび、流していた涙、もうそれだけで、この姉妹の来歴を物語っていた。
やがて、彼らは少し落ち着き、手に手をとるというより、たがいにすがりついて、そこからはなれていった。「お姉ちゃん、ほんとうに幸福なの?」ネルが立っているわきをとおりながら、妹はたずねた。「いま、ほんとうに幸福よ」姉は答えた。「でも、いつも幸福?」子供はいった。「ああ、お姉ちゃん、どうして顔をそむけてしまうの?」
ネルは、少し距離をおいて、ふたりのあとについていかずにはいられなくなった。ふたりは齢をとった看護婦の家にいったが、そこで、姉が妹の寝室を契約してあったのだった。「毎朝早く、ここに来ることよ」彼女はいった、「そして、昼間じゅうズッと、いっしょにいれるのよ」――「どうして夜もそうできないの? お姉ちゃん、夜来ると[#「夜来ると」に傍点]、しかられるの?」
その夜、なぜネルの目は、あの姉妹の目のように、涙でぬれていたのだろう? ふたりが出逢ったことで、どうしてネルの心は感謝であふれ、ふたりが間もなく別れねばならないと考えて、どうして苦痛を味ったのだろう? 自分を中心に考えて、自分の苦しみに結びつけて――それは無意識のものだったのかもしれないが――こうした同情の念が湧いたとは考えず、他人のけがれのないよろこびが強くわれわれの心を動かして、堕落した性格をもつわれわれでさえ、天で賞賛を受けるにちがいない清らかな感情の源泉をひとつもっているのを、神さまに感謝しようではないか!
朝の明るい輝きで、いや、それよりもっとよく夕方のやわらかい光の中で、彼女が近づいてよろこびの言葉をかけるのを禁じられていた――それをとてもしたかったのだが――このふたりの姉妹の短い幸福な出逢いに敬意を払いながら、ふたりの散歩とそぞろ歩きで、少し距離をおいて、子供は、彼らのあとを追い、彼らが足をとめれば自分も足をとめ、彼らが草の上に坐れば坐り、彼らが進めば立ちあがって、こうして彼らのそばにいられるのを、友のまじわり、よろこびと感じていた。彼らの夕方の散歩は川べりぞいのところでおこなわれ、子供も、彼らの目につかず、思われもせず、無視されたままで、そこにいたが、自分たちが友だち、たがいに打ち明け信頼し合い、自分の荷が軽くなって背負いやすくなったように、悲しみをいっしょにして、たがいになぐさめをみつけだしたように、感じていた。それは、たぶん、弱々しい空想、幼い孤独な娘の子供じみた空想といえよう。だが、夜ごと夜ごと、姉妹は同じ場所をさまよい、子供は、おだやかななごんだ心をいだきながら、そのあとについていった。
ある夜、家にもどったとき、あのすばらしい蒐集物が現在の場所にもう一日しかとどまっていないという告知文をつくるようにと、ジャーリー夫人が命令を出したのを知って、彼女はひどくびっくりした。この脅迫を実行して(公衆の娯楽に関する告知は変更がきかず、正確であるのはよく知られていたこと)あのすばらしい蒐集物はその翌日に閉じられることになった。
「すぐここから出ていくのですか?」ネルはたずねた。
「いいこと、ネル」ジャーリー夫人は答えた、「これでひとつ、教育してあげよう」こういいながら、ジャーリー夫人はべつの告知文をとりだしたが、そこには、ろう人形展覧会の戸口での多くの問い合せの結果、さらに数多くの人が入場できずに落胆している事実にかんがみ、この展覧会はさらにもう一週間つづけられ、翌日再開、とうたわれていた。
「というのも、学校は休暇になり、正規の観客の種はつきてしまったので」ジャーリー夫人はいった、「大衆にまで手をのばすことになったのよ。あの連中には刺激が必要でね」
その翌日の正午、ジャーリー夫人は、前にお伝えしたおえら方のいくつかの肖像にともなわれて、ひどく飾り立てたテーブルのうしろにデンと坐り、眼識あり啓蒙された大衆の再入場のために、ドアをパッとおし開くように命じた。だが、初日の作戦は、どうみても、成功をおさめたものではなかった。大衆は、ジャーリー夫人そのものと、ただでみられる彼女のろうづくりのお供には強い関心を示しながらも、ひとり六ペンスの入場料を払おうとする衝動にはつき動かされなかったからである。こうして、たくさんの人が入り口とそこに示されてある人物に眼を|凝《こ》らし、すばらしい忍耐力を発揮してそこにとどまり、演奏される手まわし|風琴《ふうきん》に耳を傾け、広告文を読んでいたにもかかわらず、さらに、彼らは親切にも友人たちをさそって同じようにこの展覧会を後援するのをすすめ、その結果、戸口はいつも町の人口の半分でみっしりとつまり、その連中が勤務を終ると、のこりの半分がその交替をおこなったのにもかかわらず、金庫にはいささかの金もはいらず、この施設のみとおしが明るいものになったとはいえないことがわかってきた。
こうした古典的市場の悲運の|最中《さなか》にあって、ジャーリー夫人は、大衆の審美眼を刺激し、大衆の好奇心をそそり立てようと、獅子|奮迅《ふんじん》の努力をしていた。戸口の上の鉛ぶきの屋根の上の尼僧のからだの中におさめたある機械は掃除されて動くようになり、そこで、この尼僧の像は、終日、頭を中風患者のようにコクリコクリと動かし、それは道の向うの酔っ払いではあっても新教的思想の強い床屋をすごくびっくりさせ、彼は、この中風患者的な頭の動きを、ローマ教会の儀式が人間の心におよぼす堕落的効果を典型的にあらわしたものと考え、大弁舌をふるって、この問題についての説教をおこなった。ふたりの御者が、さまざまに姿を変えて、たえず展覧会場の部屋を出はいりし、生れてこの方みたどんなものより、この展覧会は入場料以上にみごたえのあるもの、とどなり、わきに立っている連中に、目に涙をためながら、こうしたすばらしい満足のいくものをみのがさないように、とすすめていた。ジャーリー夫人は、料金支払い所に坐り、正午から夜まで銀貨をジャラジャラと鳴らし、入場料はたった六ペンス、この蒐集物は、欧州の王さま方にみせる短い旅に出ることになっているので、出発は来週のきょうに、しっかりときめられているのをお忘れなきように、と群集におごそかに呼びかけていた。
「だから、おおくれなきように、おおくれなきように、おおくれなきように」こうした呼びかけの結びのところで、ジャーリー夫人はいっていた。「これは百人以上の人物を集めたジャーリーのすばらしき蒐集品、これは世界でただひとつの蒐集、ほかのものは、どれもこれも、みんなにせ物のいかさまばかりということをお忘れなきように。おおくれなきように、おおくれなきように、おおくれなきように!」
33
この話の進行が、このあたりで、サムソン・ブラース氏の家庭経済に関係するわずかな事項をわれわれが知るのを必要とし、この目的のために、この場所以上に好都合なところは起きそうにないように思われるので、語り手は友好的な読者の手をとり、彼とともに空中にとび立ち、ドン・クレイオーファース・レイアーンドロウ・ペイレイス・ザンビュロ(フランスの小説家ルサージュの書いた社会風刺小説『びっこの悪魔』に出る人物で、空中をとんで運ばれ、一瞬のうちにすべての個人の家の中が示される)とその使い魔がつれ立って快い空中をとびぬけたのより早い速度でそこをかけぬけ、読者とともにビーヴィス・マークスの舗道の上におり立つことにしよう。
おそれを知らぬ飛行士は、かつてサムソン・ブラース氏の住み家だった小さな黒ずんだ家の前におり立つことになる。
この小さな住宅の客間の窓には――その窓は歩道にとても近く、壁ぞいのよい道をとおる通行人は上衣の袖でそこのくもったガラスをこすってしまうが、窓はひどくよごれているだけに、それはその掃除に大いに役立っている――この客間の窓には、サムソン・ブラース氏がそこに住んでいた当時、すっかりねじれてダラリとし、陽焼けで変色した、色あせた緑のカーテンがかかっていたが、ながく使っていたためにすっかりすりきれ、その結果、小さな暗い部屋をながめるのを邪魔するどころか、そこを正確に観察するのに好ましい手段を提供していた。そこには、みるべきものはべつになかった。ポケットの中にながいこと入れて運ばれたために黄色くボロボロになった不用の書類の束をこれみよがしに乗せてあるグラグラしたテーブル、このヨタヨタしたテーブルの向い合せの両側におかれたふたつの背なしの椅子、炉のそばのあまりたよりにならない古椅子――そのひからびた腕は、たくさんの依頼人を抱きしめ、それをカラカラにしぼりあげるのに手を貸した腕――書きこみ用の文書、請求趣旨申し立て書(第一審で原告のするもの)、その他、小さな法律の申し込み用紙のおき場として使われている中古のかつら入れの箱――そうした文書は、かつてこの箱に属するかつら頭の唯一の内容だったのだが、いまそれは、この箱そのものの内容品になっている――二、三の訴訟関係の本、インク壺、色粉箱(ふたに小穴があいて、模写や筆記のさい、ふりかけるようになっている)、ちょびた炉用のほうき、ボロボロに踏み切られてはいるが、しゃにむにの勢いでとめ鋲にまだしがみついているじゅうたん、――以上のものが、壁の黄の板張り、煙でまだらになった天井、ほこりと|蜘蛛《くも》の巣とともに、サムソン・ブラース氏の事務所のもっとも目立つ装飾品になっていた。
しかし、これは単なる静物、戸口にはられた「事務弁護士(法廷弁護士と訴訟依頼人との仲に立って、訴訟事務をとりあつかう下級の弁護士)ブラース」と書いた標札やノッカーに結びつけられた「二階、独身の紳士用の貸し部屋」と書いた広告以上に重要なものではない。この事務所には、ふつう、この物語の意図にもっとかなった生物のふたつの標本がいて、それにたいして、この物語はもっと強い興味ともっと特別な関心をもっている。このうちのひとりはブラース氏自身、彼はもうすでにこの本で姿をあらわしている。もうひとりは、彼の書記、助手、家政婦、秘書、腹心の陰謀家、忠告者、計画者、訴訟費用明細書の水まし増額者、ブラース嬢――普通法における一種のアマゾン(ギリシャ伝説で、古代コーカサス山や黒海沿岸に住み、戦争と狩猟をこととしていたと伝えられる勇猛な女族)で、この人物について簡単にここでお伝えしておいたほうがよいであろう。
サリー・ブラース嬢は二十八かそこいらのご婦人、ひょろながい骨ばった姿をし、断固たる態度を示し、それは、愛情のもっとものやわらかな情緒をおさえ、礼賛者どもを近よらせないにしても、たしかに、幸運にも彼女に近づくことになった見知らぬ男性の胸に畏怖に似た感情をひきおこしていた。彼女の顔は、兄のサムソンと驚くほど似かよい――まさに瓜ふたつ、ふざけて兄の服を着こむのがブラース嬢の処女のつつしみとやさしい女性の身にふさわしいものだったら、この一族のどんなに古い友人でも、どちらがサムソンで、どちらがサリーかをきめるのは困難なことだったろう。特に、このご婦人は上唇の上に赤味をおびた表示物をもち、想像力が彼女の男装で助けを与えられたら、それは、|口髭《くちひげ》と考えられたかもしれないものだった。だが、この表示物は、おそらく、場所をちがえて生えたまつ毛にすぎなかったのかもしれない。ブラース嬢の目は、こうした自然のくだらないものは一切もってはいなかったからである。サリー嬢の肌色は黄白色――むしろ、いわゆる薄ぎたない黄白色――だが、この色は、彼女の笑っている鼻の最先端にひろがっている健康的な燃え立つ色彩の輝きによって感じよくひき立てられていた。声は極度に印象的――音質は太くて低く、一度それを耳にしたら、容易に忘れられぬものだった。ふだん着ている服は緑のガウン、色彩は事務所の窓のカーテンに似てないわけではなく、からだにピタリとついてつくられ、喉のところで終り、そこで、それは、背後のところで、特大の、どっしりとしたボタンでしっかりとめられていた。疑いもなく、簡素こそ優雅の|精髄《せいずい》(シェイクスピア、『ハムレット』U・ii、九〇にある「簡潔こそ機知の精髄」のもじり)と感じとって、ブラース嬢は頭以外にはカラーもカーチフ(ずきんの一種)もつけず、頭はいつも、物語に出てくる|悪霊《ヴアンパイア》(十分に埋められていない死人の体内にはいりこみ、死人をよみがえらせるという)の翼のように、褐色の|紗《しや》のスカーフで飾り立てられ、それは、そのときまかせの形にねじられて、ゆったりとした気品のある頭飾りになっていた。
ブラース嬢は、からだつきでは、こうした人物だった。心はというと、強くたくましい性格、幼いころより法律の勉強に異常なほどの情熱を傾けて打ちこんできた。法律の鷲のように高い|飛翔《ひしよう》に思いをはせるのは、当今、めったにないことだが、彼女はそうした無益な努力はせず、法律がふつうツルツルとすべるうなぎ[#「うなぎ」に傍点]のような腹ばいになって低くはっていく道を注意深く進んでいった。また彼女は、偉大な知性を備えた多くの人のように、理論だけに注意を集中させたりはせず、じっさいの効果がはじまるところで足をとめることもしなかった。非の打ちどころのない正確さで法律文字を駆使して書類を書きあげ、浄書し、印刷した書式の空所に書きこみをすることができ、簡単に申せば、羊皮紙の肌にインクと散りどめの粉をふり(いかの甲などを粉にしてインクのにじみどめに使った)、ペンをけずってとがらすことにいたるまで、事務所のふつうの仕事はなんでもやることができたからである。こうした魅力を兼ね備えながら、彼女がどうして独身でとおしているのか、理解に苦しむところである。だが、彼女が男性族にたいして心にはがねのよそおいをつけていたのか、はたまた、求愛して彼女を獲得した連中が、彼女が法律に習熟しているだけに、契約違反の訴訟とふつう呼ばれているものを規定しているあの法規をすぐふりまわすのじゃないかという心配で思いとどまったのかどうか、それはともかくとして、彼女がまだ独身の状態にあり、兄のサムソンの椅子に向い合った背なしの古椅子にまだ毎日坐っているのは、たしかに事実だった。そして、ついでながら、この二脚の椅子のあいだで、数多くの人たちがひどい目にあった(二脚の椅子のあいだの不安定さは古くからことわざになっている)ことも、またたしかな事実だった。
ある朝、サムソン・ブラース氏はなにか法律上の訴訟手続きを写しながら背なしの椅子に坐り、それをわたす相手のまさに心臓の上に書きこんでいるかのように、悪意をこめて紙にペンを深くつきさしていた。ブラース嬢も椅子に坐り、彼女の好きな仕事の小さな調書を書こうと新しいペンづくりをし、こうしてふたりは、ながいこと、だまったまま坐っていたが、とうとうブラース嬢がこの沈黙を破った。
「もうだいたい終ったこと、サミー?」ブラース嬢はいった。彼女のおだやかな女性的な唇では、サムソンはサミーになり、すべてのものがやわらげられていた。
「いいや」兄は答えた。「うまいころ合いにきみが助けてくれたら、もうすっかり仕あがっていたはずなんだがね」
「ああ、わかったことよ」サリー嬢は叫んだ。「あたしに助けてもらいたのね、どう? ――書記をやとうつもりのあんたでもね[#「あんたでもね」に傍点]!」
「自分自身の道楽で、さもなけりゃ、自分自身の望みで、書記をやとおうとしているんかね、このいまいましい悪党め?」ペンを口につっこみ、悪意をこめて妹にニッと笑いかけて、ブラース氏はいった。「書記をやとおうとしてることで、どうして、人に嫌味をいったりなんかするんだね?」
ブラース氏がご婦人を悪党と呼んでいる事実がふしぎや驚きの念を起させないように、男性の資格で彼女をそばにおいておくことにもうすっかり馴れっこになっていたので、彼が、彼女をまるで男性のように語りかけていたことを、ここで申しあげておいてもいいだろう。そして、この感情はすっかりふたりでたがいにもち合っているものになっていたので、ブラース氏がときどきブラース嬢を悪党と呼び、その前にひどい形容詞までつけても、ブラース嬢はまったく当り前と考え、他の女性が天使と呼ばれてもケロリとしているように、それを気にもとめてはいなかった。
「書記をやとうことで、きのうの晩三時間も話をしたのに、どうして人に嫌味をいったりなんぞするんだね?」まるでだれか貴族か紳士の飾り冠(もともと騎士のかぶとの上につけたけだものや人間の形をあらわすものが紋章の上にのせられ、環や槍を口にくわえていた)のように、ペンを口にくわえてまたニッと笑いながら、ブラース氏はくりかえした。「それはこっちがわるいからかね?」
「あたしが知ってることはただ」素っ気ない微笑を浮べて、サリー嬢はいった。というのも、兄を苛立たせるほど楽しいことは、彼女にはなかったからである、「依頼人全員が否応なく書記をやとうようにわたしたちに強圧をかけてきたら、兄さんはこの仕事をやめ、弁護士名簿から名をけずってもらい、できるだけ早いとこ、負債者監獄に放りこまれたほうがいいだろう、ということだけよ」
「あんないい依頼人がここにはいるかね?」ブラースはたずねた。「いま、あの男のような依頼人が、ほかにいるかね? ――そこんとこをひとつ、返事をしてもらえないかね?」
「あの男のようなって、顔のこと?」妹はいった。
「顔のことだって?」手形記入帳をとりだそうと手をのばし、それを手早くサラサラッとめくって、サムソン・ブラースは冷笑した。「みてごらん――ダニエル・クウィルプ殿――ダニエル・クウィルプ殿――ダニエル・クウィルプ殿――ぶっとおしだ。彼が推薦し、『これがきみに打ってつけの男だ』といってる書記を採用すべきか、これをぜんぶポイにしちまうか、どっちがいいんだね、えっ?」
サリー嬢はこれにたいして返事を授与することはしなかったが、またニヤリとし、仕事をつづけた。
「だが、事情は心得てるよ」ちょっと間をおいてから、ブラースは語りつづけた。「きみは、いままでどおり、仕事で勝手がきかないと心配してるんだろう。それがわからんこっちと思ってるのかね?」
「あたしがいなかったら、商売はつづかないもんと思うわ」落ち着き払って妹は応じた。「バカな真似をして、わたしを怒らせたりしてはだめ。仕事のほうをせっせとおやんなさい」
心中大いに妹をおそれていたサムソン・ブラースは、不機嫌に自分の仕事にとりかかり、耳を澄ませて彼女がこういうのを聞いていた、
「その書記を来させまいとあたしが考えたら、もちろん、その人がここに来るのは許されないことよ。このことは、そちらでも十分に承知のこと。だから、バカげたことはいわないでちょうだい」
ブラース氏は、この言葉を前にもましておだやかな態度で受け、ただ声をひそめて、そんな冗談は好まない、自分を怒らさなかったら、サリー嬢は「ズーッといい男」になるんだが、といっていた。この賛辞にたいして、自分はそうした楽しみを好み、それをあくまで追求するつもりだ、とサリー嬢は答えた。どうやら、ブラース氏はこれ以上この話をしたくないらしく、ふたりはすごいスピードでペンを走らせ、ここでこの討論は終止符を打つことになった。
こうして仕事をしているとき、だれかが窓にピタリと身をつけて立っているといったふうに、窓のところがいきなり暗くなった。ブラース氏とサリー嬢がその原因をたしかめようと目をあげると、上の窓|枠《わく》が外からサッとおろされ、クウィルプが頭をさしこんだ。
「やあ!」窓の台に爪先立ちで立ち、部屋をみおろして、彼はいった。「だれか家にいるかい? 悪魔の商品がなにか、ここにあるかね? ブラースには高い値がついてるんかね、えっ?」
「ハッ、ハッ、ハッ!」|有頂天《うちようてん》をよそおって、弁護士は笑った。「おお、とっても結構! おお、まったく、とっても結構! まったく風変り! ほんとうに、|諧謔味《かいぎやくみ》満点の方だ!」
「あれがおれのサリーかい?」ブラース嬢に秋波を送って、小人はガーガーといった。「あれが目かくしをはずし、|剣《つるぎ》と|秤《はかり》をもってない正義の女神(手に秤と剣をもち、目かくしをしている)かね? あれが法律の強き腕かい? ビーヴィスの|乙女《おとめ》かね?」
「なんと活気があふれてることだろう!」ブラースは叫んだ。「まったく、じつにすごいもんだ!」
「ドアを開けてくれ」クウィルプはいった、「あの男、ここにつれてきたぞ。ブラース、お前にはすごい書記、すごい掘り出し物、すごいピカ一の絶品だぞ。さあ、早くドアを開けろ。さもないと、この近くにべつの弁護士がいて、ひょいと窓から外をみるといったことになったら、あの男はお前の目の前でさっさとさらわれていっちまうんだぞ、まったく」
不世出のすばらしい書記がたとえ競争相手の弁護士にうばわれようと、ブラース氏はそうがっかりはしなかったろう。だが、大急ぎの体裁をつけて、彼は座席から立ちあがり、ドアのところにゆき、もどってきて、自分の依頼人を中に入れたのだったが、この依頼人が手をとってつれてきたのは、ほかならずリチャード・スウィヴェラー氏だった。
「あそこに彼女はいるな」戸口で足をとめ、サリー嬢のほうをみながら、眉にしわを寄せて、クウィルプはいった。「あそこにおれが結婚すべきだった女がいる――美しいサラーだ――女の魅力はすべて備え、その弱さはぜんぜんもってない女性なんだ。おお、サリー、サリー!」
この恋幕の呼びかけにたいして、ブラース嬢の応答は簡単な「兄さん!」だけだった。
「その名をとった|真鍮《ブラース》と同じように、冷酷な心をもってる女だな」クウィルプはいった。「どうしてそれを変えないんだ? ――|真鍮《ブラース》をとかしちゃって、べつの名にしないんだ?」
「バカなこと、やめてちょうだい、クウィルプさん、おねがいしますよ」おそろしい笑いを浮べて、サリー嬢はやりかえした。「見も知らぬ若い男の人の前で、自分が恥ずかしくないのかしら?」
「見も知らぬ若い男の人はね」ディック・スウィヴェラーを前につれだしてきて、クウィルプはいった、「とても感受性が強くてね、ちゃーんとおれのことはわかってるんだ。これは、おれの親友のスウィヴェラー君――家柄がよく、将来有望な紳士だが、若さの無思慮でご難に逢い、しばらくのあいだ、目をつぶって書記といういやしい職で満足しようという方さ――いやしいもんだが、ここならじつにうらやましいもんさ。なんて感じのいい雰囲気だ!」
クウィルプ氏の話が比喩的で、サリー・ブラース嬢が呼吸する空気がこの優雅なご婦人によって甘美になり浄化されるというのだったら、その言葉には、たしかに、りっぱな筋はあるわけだった。だが、ブラース氏の事務所の雰囲気のよろこばしさを文字どおりにいっているとしたら、彼の好みは独得のものといわなければならない。そこはムッとした俗悪なもの、デュークス・プレイスやハウンズディッチ(いずれもその当時ユダヤ人の古着屋が多く住んでいたロンドンの地区)で売りに出されているセコハンの衣類の強いプンとしたにおいがそこにこもっていたばかりでなく、ねずみ[#「ねずみ」に傍点]のはっきりしたにおいと、かびよごれをもっていたからである。たぶん、その純粋なよろこびにたいする疑念がスウィヴェラー氏の心に浮んだのだろう、彼は一、二度鼻をクンクンと鳴らし、信じられぬといったふうに、ニヤニヤしている小人をながめていた。
「スウィヴェラー君は」クウィルプはいった、「野生のオート麦を|播《ま》く(若気のいたりで道楽をするという意味で、古くから使われている)という|野良《のら》仕事にはかなり馴れてるんだから、サリー嬢、半分のパンは無よりもまさると慎重にも考えてるんです。彼は慎重にも、危険に近よらんでいるのはありがたいこととも考え、そこで、きみの兄さんの話を受けたわけなんですぞ。ブラース、これでスウィヴェラー君はきみんとこの|者《もん》になったわけだ」
「とてもうれしいこと」ブラース氏はいった、「まったく、とてもうれしいこってす。そちらとご友人になるなんて、スウィヴェラーさんも運のいい人ですな。クウィルプさんとお近づきになったなんて、そちらも、とてもほこらしく思っていいことですぞ」
ディックは、友人の点でも、自分に与える酒のびんの点でも、欠乏したることは絶対になし(J・デイヴィ(一七六五―一八二四)のつくった『友の絶対に欠くることのなきように』という歌にある言葉)ということについてなにかブツブツといい、友情の翼と、それが抜け変りの絶対にないことについて好みの故事をひくことを、あえぐようにしてやっていたが、彼の能力すべては、サリー・ブラース嬢を熟視することにすっかりうばわれているらしく、ポカンとした物思わしげな目つきで彼女を凝視し、このことが監視をおこたらぬ小人を得もいえぬほどよろこばしていた。神のようにすばらしいサリー嬢自身はといえば、商売人がよくやるように、手をこすり、ペンを耳にはさんで、事務所を何回か歩きまわっていた。
「おれは思うんだがな」法律上の友人のほうにキッと向きなおって、小人はいった、「スウィヴェラー君はすぐに仕事にとりかかるんだろうな? きょうは月曜日の朝だからね」
「よろしかったら、すぐおねがいしますよ、ぜひとも」ブラースは答えた。
「サリー嬢が彼に法律を教えたらいいな、楽しい法律の勉強をな」クウィルプはいった。「彼女が彼の指導者、友、仲間、彼のブラックストーン(ウィリアム(一七二三―八〇)イギリスの法律学者)、彼のリトルトンに加えたコウク(サー・トマス・リトルトン(一四〇二―八一)はフランス語で『保有権論』を書き、これは一五〇〇年に英訳され、一六二八年に、サー・エドワード・コウク(一五五二―一六三四)の注をつけて出版された。これが『リトルトンに加えたコウク』としてふつう知られている)、彼の若き法律家の最高の伴侶になるんだ」
「なかなか雄弁なこってすな」ボーッとして向い側の家の屋根をながめている男のように、両手をポケットにつっこんで、ブラースはいった。「彼は言葉の驚くべき流れをもった人物。まったく美しいもんですな」
「サリー嬢」とクウィルプは語りつづけた、「法律の美しい虚構で、あの男の毎日はとっとと流れ去っていくことだろう。詩人が美しくもつくりだしたもの、ジョン・ドウとリチャード・ロウ(借地占有回復訴訟の文書にむかし使用された虚構の名前。一八五二年にこの使用は禁止された)が彼にはじめてわかりかけてきたとき、それは、彼の知性の拡大と情緒の向上のために、新世界をつくりだすことになるだろう」
「ああ、美しい、美しい! まったく、ウツクシイですな!」ブラースは叫んだ。「聞いてると楽しくなりますよ」
「スウィヴェラー君は、どこに坐るんだね?」あたりをみまわしながら、クウィルプはいった。
「いやあ、もうひとつ背なしの椅子を買いますよ」ブラースは答えた。「ご親切にもそちらからお話があるまで、ここに人をおねがいするなんて、考えてもいなかったんです。それに、ここの施設はそうひろいもんじゃないんですからね。セコハンの背なしの椅子をさがしてみましょう。さし当って、スウィヴェラー君が当方の座席に坐り、この借地占有回復訴訟の浄書をしてくださったら、午前ちゅうズーッと当方は――」
「おれといっしょに散歩するんだ」クウィルプはいった。「商売のことで、きみに話すことがちょっとあるんだ。時間を|割《さ》けるかね?」
「あなた[#「あなた」に傍点]と散歩する時間を割けるかですって? 冗談をいっておいでなんですな、冗談を」帽子をかぶりながら、弁護士は答えた。「さあ、よろしいですよ、もうよろしいですよ。あなたと散歩をする暇がないなんて、そうなりゃ、ほんとにいそがしいというやつですな。クウィルプさんと散歩して心を|鍛錬《たんれん》できるなんて、だれにでもできることじゃないんです」
小人は皮肉に彼の真鍮の(ブラース(真鍮)と「鉄面皮の」にかけたしゃれ)友人をチラリとながめ、短い空咳をして、クルリとまわり、サリー嬢にいざさらばの挨拶をした。彼のほうでは、じつに|慇懃《いんぎん》な挨拶をし、彼女のほうではきわめて冷静で紳士的な挨拶をしたあとで、彼はディック・スウィヴェラーにうなずき、弁護士といっしょに立ち去った。
ディックは、もうまったくのボーッとした状態で机のところに立ち、うるわしきサリーを目をむいて|根《こん》をかぎりににらみつけていたが、それはまるで、彼女が他に類のない奇妙な動物といった感じだった。街路に出ると、小人はふたたび窓の台に乗り、|檻《おり》をのぞきこんでるように、ニヤニヤして事務所を一瞬のぞきこんだ。ディックは目をあげ、彼をチラリとながめたが、その顔を認めた兆候はぜんぜんあらわさず、彼が姿を消してからもズーッと、ブラース嬢にジッと見入り、そのほかのものはなにもみず、考えもしてないといったふうに、そこに棒立ちになって立ちつくしていた。
ブラース嬢は、このときまで訴訟費用明細書に没入し、ディックのことには一切気づかず、うるさく音を立てるペンで、たしかに楽しみながら、数字をキーキーときざむようにして書きこみ、蒸気機関車のように突進していた。ディックは、うつけた狼狽といった状態で、緑のガウン、褐色の頭飾り、顔、さっさと動くペンをつぎつぎにながめ入り、どうして自分はこの奇妙な怪物の仲間入りをしたのか? これが夢で、そこから目をさますことがあるのだろうか? と考えていた。とうとう、彼はフーッと深いため息をもらし、ゆっくりと上衣をぬぎはじめた。
スウィヴェラー氏は上衣をぬぎ、えらく念を入れてそれをたたんだが、そのあいだじゅうズッと、サリー嬢をにらみつづけていた。ついで、二列の金のボタンのついた青のジャケットを着こんだ。これは、もともと、海水浴用にと注文したものだが、その朝、事務所で使おうと、持参におよんだ|代物《しろもの》だった。だが彼は、依然として彼女から目をはなさず、静かにブラース氏の椅子にストンと坐りこんだ。それからもとの状態にまいもどり、また力がぬけてしまって、片手に|顎《あご》を乗せ、すごい勢いで目をカッと見開いていたので、彼が二度と目を閉じるなんて、まったく考えられないくらいだった。
もうなにもみえなくなってしまうほど、ながいこと目をすえていたあとで、ディックは驚嘆の美しい対象から目をはなし、写さなければならない草案のページをめくり、インク壺にペンをひたし、とうとうゆっくりと書きはじめた。だが、まだ、五、六語も書かないうちに、ペンにインクをつけようとインク壺に手をのばして、彼はフッと目をあげた。目の前には我慢ならぬあの褐色の頭飾り――緑のガウン――簡単に申せば、その魅力すべてで飾り立て、前よりもっとものすごいサリー・ブラース嬢がいたのである。
これがじつに何回となくくりかえされたので、スウィヴェラー氏はしだいに奇妙な力が自分にジワジワとひろがっていくのを感じはじめ――このサリー・ブラースを|殲滅《せんめつ》してしまいたいというおそろしい欲望――頭飾りをぶっ払い、それがなくなったら、彼女がどんな姿になるかを試してみたいという心の衝動が湧き起ってきた。テーブルの上には定規、とても大きな、黒々とした、輝いている定規があった。スウィヴェラー氏はそれをとりあげ、それで鼻をこすりはじめた。
定規で鼻をこする動作から、それを手に構え、まさかりのようにふりまわす動作への転換は、容易で自然なものである。こうしてふりかざしているうちに、それがときにサリー嬢の頭近くまでとび、そのひきおこす風で、頭飾りのボロボロのへりはヒラヒラとゆれていた。それをもう一インチのばせば、あの大きな褐色の結びはバタリと落ちるところだった。だが、依然として無意識の乙女はさっさと仕事をつづけ、目を一度たりともあげたりはしなかった。
そう、これは大きな救いだった。しゃにむに、ひたむきに書きつづけるのは、結構なことだった。とうとう彼はむしゃくしゃし、それから定規をさっととりあげ、その気になればそれをふっとばすこともできるんだが、と考えながら、それを褐色の頭飾りのあたりにふりまわした。サリー嬢が目をあげようとしていると彼が考えたときには、定規を手もとにひきつけ、それでゴシゴシと鼻をこすり、彼女がまだ夢中になって書いていると知ったときには、もっと激しくふりまわしてその穴埋めをしていたのは、結構なことだった。こうした方法で、スウィヴェラー氏は心の興奮をおさえ、ついには定規の使用もだんだんにおだやか、|間遠《まどお》になり、それをせずとも一気に五、六行もぶっつづけに書くことさえできるようになった――これは大きな勝利ともいえることだった。
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やがて、というのは、二時間かそのくらいせっせと仕事をして、ブラース嬢の仕事は終り、緑のガウンでペンをぬぐい、ポケットに持参の小さな丸いかん箱から、かぎタバコをひとつまみとりだすことで、この事実を記録にとどめることになった。このおだやかな元気回復剤を服用してから、彼女は背なしの椅子から立ちあがり、書類を赤ひも(公文書を結ぶのに用いる)で結んで型どおりの束にし、それを小脇にかかえて、威風堂々と事務所から出ていった。
スウィヴェラー氏が夢中になってパッと立ちあがり、狂乱のホーンパイプ踊り(水夫間でおこなわれる活発な踊り。ホーンパイプは拡声部に角を用いたむかしの木笛)をはじめるかはじめないかに、ふたたびひとりになったよろこびの真っ最中に、ドアが開き、サリー嬢の頭がふたたびあらわれることで、それは妨害されることになった。
「あたしは外出してきますよ」ブラース嬢はいった。
「よーくわかりましたよ」ディックは答えた。「ぼくのために帰りを急ぐ必要はありませんからね」彼は心中いいそえた。
「事務所の仕事でだれか来たら、その伝言を受けとり、それをうけたまわる紳士は外出ちゅうです、といってちょうだい、いいこと?」ブラース嬢はいった。
「わかりましたよ」ディックは答えた。
「すぐにもどってきますよ」出ていこうとしながら、ブラース嬢はいった。
「それをうけたまわって、残念ですな」彼女がドアを閉めると、ディックは応じた。「思いもかけない用事でひきとめられてたらいいんですがね。なんとかして、重大事故にはならずに馬車にひかれたら、それだけなお結構というわけなんですがね」
いとも重々しくこうした善意の言葉を語りながら、スウィヴェラー氏は依頼人の椅子に坐って物思いに沈み、ついで、部屋を何回か歩きまわり、ふたたびドシリと椅子に倒れこんだ。
「してみると、ぼくはブラースの書記になったわけ、そうかな?」ディックはいった。「ブラースの書記だって、えっ? それに、ブラースの妹の書記、女の竜(翼と爪をもち口から火を吐くという伝説上の怪獣)の書記なんだ。とっても結構、とっても結構! つぎにはなにになるかな? 制服には番号がきれいに|刺繍《ししゆう》され、脚にはガーター勲位章(イギリスで勲爵位の最高勲位をあらわすもので、首飾りと左脚にガーター(靴下どめ)をつける。ここでは足かせのこと)をつけ、ねじったまだら染めのベルチャーのハンカチ(拳闘家ジム・ベルチャー(一七八一―一八一一)の愛好したはでな色のネッカーチーフ)のためにくるぶしもひっかくことができなくなって、海軍工廠のあたりをとっとと動きまわってる、フェルト帽子をかぶり、灰色の服を着こんだ囚人にでもなるかな? そんなもんになるんかな? それで足りるのかな? それとも、まだお上品すぎるかな? なんでもお好きなように、もちろん、どんなふうにでも勝手にやってくださいよ」
完全にひとりぼっちでいたのだから、スウィヴェラー氏は自分の定めか運命に語りかけていたものと考えてよかろう。英雄が悲運をかこつとき、先例もあることだが、じつに|辛辣《しんらつ》皮肉なふうに運命をののしるのは、そうした英雄の習慣になっているからである。スウィヴェラー氏が天井に向ってその言葉をしゃべっている事情からも、これは十分に考えられることだった。こうした肉体をおびた人物(運命をふざけていったもの)が住みついているのは、通常、天井と考えられている――もっとも、劇場の場合には、これとはちがって、それが住むのは大きなシャンデリア(ヴィクトリア時代の演芸場や劇場ではろうそくや油のランプ用の大きなシャンデリアが土間の上に天井からつりさげられていた)の中心部となっているのだが……。
「クウィルプがこの地位を提供し、それを保証するといっている」物思いに沈んだ沈黙のあとで、ディックは語をつぎ、自分の立場のもつ事情を、いちいち指を折って、数えあげた。「これはぼくの宣誓供述書にかけてもいえることだが、そんなことには耳もかさなかったはずのフレッドが、びっくりしたことに、クウィルプを支持し、この地位を受けろと強くすすめてる――ギョッの第一。いなかの叔母が補給を停止し、愛情深い手紙をよこして、遺言状を書きなおし、ぼくをそこから除外したと伝えてきている――ギョッの第二。金はなく、信用はなく、フレッドからの支持もない。あの男は、どうやら、いきなり、がっちり屋になったらしい、むかしからの下宿の出る予告――ギョッの第三、第四、第五、第六だ! こんなにギョッがかさなったんじゃ、どんな人間だつて自由人とは考えられない。だれだって、自分をぶったおすことはない。ぶったおすのが運命なら、ひろいおこしてくれるのも運命なんだ。そうすると、ぼくの運命がこうしたことすべてを自分にもたらしてくれたのは、じつにありがたいこと。ぼくはできるだけ|無頓着《むとんちやく》をきめこみ、すっかりくつろいで、その腹いせをしてやろう。だから、ひとつやってくれ、|伊達《だて》|者《しや》君」とスウィヴェラー氏はいい、意味深にうなずいて天井と別れを告げ、「ひとつ、どっちが先に参るかやってみようじゃないか!」といった。
たしかに、いとも深遠で、たしかに、道徳哲学のいくつかの体系では知られていないわけでもないこうした考察で自己の没落の問題を心から追い払って、スウィヴェラー氏は、自分の落胆を忘れ去り、無責任な書記の陽気な屈託なさを身につけることになった。
心を落ち着け沈着になる方法として、彼はいままでやっていたよりもっと詳細に事務所の調査をはじめ、かつら箱、帳簿、インクびんをのぞきこみ、すべての書類をほどいて査閲し、ブラース氏のペンナイフの鋭い刃でテーブルにわずかの模様を刻みこみ、木製の石炭入れの内側に自分の名を書きこんだ。こうしたやり方で、いわば、書記の身分を正式に確保してから、窓をおし開き、ビール運び(盆にビールの壺を乗せた商人が午前と午後にその地区をまわってビールを売っていた)がたまたまとおりかかるときまで、そこからなげやりなふうに身を乗りだしていた。彼は、この商人に盆を下におき、にがみの少ない黒ビール一パイントを出すようにと命じ、即刻その場でそれを飲み乾し、すぐその代金を払ったが、これは、時をうつさず将来の借金体制の下ごしらえをし、それに役立つ連絡を開始するためだった。それから、ブラース級の三、四の弁護士からの法律上の任務で三、四の少年が立ち寄り、これと同じ事情のもとで道化がだんまり芝居で示す程度の専門的な態度と、彼らの仕事にたいする同じ程度の正確で総合的な理解力をもって、スウィヴェラー氏はそうした少年をむかえ入れ、そこから追い払った。こうしたことをやり終えると、彼はまた背なし椅子にぶっ坐り、ペンとインクでブラース嬢の漫画を描こうとし、そのあいだじゅうズーッと、いとも陽気に口笛を吹いていた。
駅伝馬車がドアの近くにとまったとき、彼はこの気晴らしをやっていたが、その後すぐ、大きな二重のノック(ふつう役人が家をおとずれるときにするノック)の音がひびいてきた。事務所の鐘を鳴らさない人物はスウィヴェラー氏には関係のないことだったので、この家にはほかにだれもいないものとそうとう強く確信はしていたものの、彼はいささかも心乱さず、心静かにこの気晴らしをつづけていた。
だが、この点は彼の勘ちがいだった。だんだんとつのってくる苛立たしさでノックがくりかえされてから、ドアが開かれ、足音をひどく立ててだれかが階段をのぼり、二階の部屋にはいっていったからである。スウィヴェラー氏は、これはもうひとりべつのブラース嬢、例の竜のふた子の姉妹かな? と考えていたが、そのとき、事務所のドアを|拳骨《げんこつ》でたたくコツコツという音がひびいてきた。
「おはいり!」ディックはいった。「堅苦しく考える必要はないよ。これ以上うんとお客さんにやってこられたら、仕事はそうとう面倒くさいものになるからな。おはいり!」
「ああ、おねがい」戸口のとても低いところで、小さな声がいった、「あんたがいって、貸し部屋の案内をしてくださらないこと?」
ディックはテーブル越しに身をかがませ、きたならしい粗末なエプロンとよだれかけをかけた小柄なだらしのない娘(ディケンズが子供のころ、チャタムの教区貧民院からディケンズの家につれてこられた雑役婦の描写といわれている)に気づいたが、そのエプロンとよだれかけ以外に、目にみえるものは顔と足だけといった小娘だった。これはバイオリン入れの箱の衣装をつけたといったていたらくのものだった。
「いやあ、きみはだれだね?」ディックはいった。
これにたいするただひとつの答えは、「ああ、あんたがいって、貸し部屋の案内をしてくださらないこと?」だけだった。
そのようすといい態度といい、こんなにむかしふうの感じのする子供は絶対にいないように思われた。この娘は、ゆりかごの時代から仕事をしているにちがいなかった。ディックがこの娘にびっくり|仰天《ぎようてん》していたのと同じように、娘のほうでも、ディックのことをビクビクおそれているようだった。
「貸し部屋なんて、ぼくには関係ないことなんだよ」ディックはいった。「また来てくれといってくれ」
「ああ、どうかあんたがいって、貸し部屋の案内をしてくださらないこと?」娘は答えた。「代金は週に十八シリング、食事と寝具はこちらもちなの。靴と服の勘定はべつ。冬の季節の燃料は一日八ペンスよ」
「どうしてきみ自身が案内しないんだい? どうやら、そうしたことはみんな心得てるようじゃないか」ディックはいった。
「サリーさんが、しちゃいけない、といったの。わたしがとっても小さいのを最初にみられたら、サービスがいいと人が思わないからなのよ」
「うん、だが、きみがどんなに小さいか、いずれわかることだろう。どうだい?」ディックはいった。
「ああ、でもまちがいなし、そのときはもう二週間の借りの契約はできてるのよ」ぬかりのない目つきで、子供は答えた。「それに、一度落ち着いたら、人はうつりたがらないもんなのよ」
「これは奇妙なことだな」立ちあがりながら、ディックはつぶやいた。「どういうことになるんだろうね、きみは――料理人かね?」
「ええ、簡単なお料理はしてるの」子供は答えた。「女中でもあるのよ。家の仕事はぜんぶしてるの」
「ブラースと竜とぼくが、この家のいちばんきたない仕事をしてるらしいな」ディックは考えた。疑いをもち、ふんぎりのつかない気分になっていたので、彼はこれ以上いろいろと考えこむところだったが、娘はたのみをまたくりかえし、ある神秘的なドシンドシンという廊下と階段の物音が貸し間の申し込み人の苛立ちを伝えているようだった。そこで、リチャード・スウィヴェラーは、自分がどんなに重要人物か、仕事にどんなに打ちこんでいるかの証しに、それぞれの耳に羽根ペンをたばさみ、おまけにもう一本口にくわえこんで、あわててとびだし、独身男と出逢い、話をすることになった。
ドシンドシンという物音が独身男のトランクを二階にひきあげる物音と知って、彼はいささかびっくりした。それは、幅が階段のほぼ倍もあり、その上ひどく重かったので、けわしい階段でそれを運びあげるのは、独身男と御者がふたりがかりになっても、なかなか容易ならぬことだった。だが、ふたりはがんばり、たがいにからだをぶっつけ合い、力まかせにおしたりひいたりし、ありとあらゆる変てこな角度にトランクをしっかり動かぬようにつめこんでいたので、そこをとおりぬけるのは、もう問題外のことだった。こうして理由が十分にあったので、スウィヴェラー氏は、ゆっくりとそのあとにつづき、サムソン・ブラース氏の家がこうして急襲を受けたことにたいする抗議を、ひと階段ごとに、新たに申し入れることになった。
こうした抗議にたいして、独身男はひと言も答えず、トランクがとうとう寝室に運びこまれたとき、その上にぶっ坐り、ハンカチでその|禿《は》げあがった頭と顔をぬぐった。彼はポッポッとすごく暑がっていたが、それはむりもないことだった。というのも、トランクを二階にあげる仕事はいわずもがなのこと、寒暖計は物陰でも、一日じゅう、八十一度にもなっているのに、彼は冬衣装でからだをすっぽりとつつんでいたからである。
「ぼくは思ってるんですがね」ペンを口からはずして、リチャード・スウィヴェラーはいった、「あんたは、ここのアパートをみたいんでしょう。とても魅力的なアパートですよ。そこからはズーッとみわたしが――道の向うまできき、一分も歩かないうちに――町角に出るんです。ほんのすぐ近くではとてもにがみの少ない黒ビールが売りだされ、こうした偶然の便利さはものすごいもんですよ」
「部屋代はいくらだね?」独身男はいった。
「週一ポンド」条件をはりこんで、ディックは答えた。
「よし、承知だ」
「靴と服の勘定はべつ」ディックはいった、「それに、冬の季節の燃料は――」
「みんな承知したよ」独身男は答えた。
「二週間はまちがいなし」ディックはいった、「そいつは――」
「二週間だって!」ディックを頭の|天辺《てつぺん》から足の先までジロジロとみて、独身男はつっけんどんにいった。「二年だ。ここに二年間住みつくことになるぞ。さあ、即金で十ポンド。話はついたぞ」
「いやあ、いいですかね」ディックはいった、「ぼくの名はブラースじゃなくって――」
「だれがブラースだといった? こちらの[#「こちらの」に傍点]名前はブラースじゃないぞ。それで?」
「ブラースはこの家の主人の名なんです」ディックはいった。
「そいつはうれしいな」独身男は答えた。「弁護士にはいい名だ。御者君、もう帰ってもいいよ。きみも同じだ」
スウィヴェラー氏は、こんなふうに独身男に威張り散らされて、もうすっかり|度肝《どぎも》をぬかれ、さっきサリー嬢をみつめていたように、ジッと目を凝らしてこの独身男をながめていた。だが、独身男はこうした事情にいささかもとまどわず、|悠々《ゆうゆう》と落ち着き払って首にまきつけたショールをはずし、靴をぬぎはじめた。こうした邪魔物をとりはずしてから、ほかの衣類をぬぎつづけ、それをひとつひとつたたみこんで、順序正しくトランクの上にならべた。ついで、窓のおおいをおろし、カーテンをひき、懐中時計のねじをまき、じつにゆったりと順序正しく、床にはいりこんだ。
「広告札はもってってくれ」が、カーテンのあいだから顔をのぞかせての彼の別れの言葉だった、「それに、鐘を鳴らすまで、だれにもおれを呼ばせないでくれ」
この言葉でカーテンは閉じられ、相手はすぐにいびきをかきはじめたようだった。
「ここは、じつにすごい、超自然の家といったもんだな!」手に広告札をもって事務所におりてゆきながら、スウィヴェラー氏はいった。「女竜どもが商売をし、専門の紳士のように行動してる。三フィートのきたならしい料理女が|摩訶《まか》ふかしぎにも地面の下から姿をあらわす。みしらぬ男どもが、真っ昼間、許しや承諾もなしに家に|闖入《ちんにゆう》し、床にはいってしまうんだからな! もしあの男が、ときどき姿をあらわし、二年間眠りこんじまう連中のひとりだったら、おもしろいことになるところだ。だが、これはぼくの運命、これがブラースのお気に召したらいいんだがな。そうならなかったら、残念なこと。だが、こいつは、ぼくの知ったこっちゃない――それにはなんの関係もないんだからな!」
35
ブラース氏は、家にもどって、書記の報告をとてもよろこび、満悦して受けとり、十ポンド紙幣の調査を綿密におこなったが、その結果、イングランド銀行発行の正真正銘の|札《さつ》とわかったので、その上機嫌はますます高まっていった。まったく、彼は気前のよさと目下の者にたいする親切心であふれ、心あふれるままに、世間でよく「いずれ」といわれている遠い将来の不定の時期に、自分といっしょにポンス(ぶどう酒や火酒に牛乳・水などをまぜ、砂糖・レモン・香料などで味つけをした飲料)を一杯飲もうとまでいい、就職第一日の彼の行動がじつにはっきりと示した商売にたいするなみなみならぬ能力へのものすごい賛辞を何回となく彼に浴びせた。
賛辞を浴びせるのは、金をかけずに人の舌をなめらかにするというのが、ブラース氏の格言で、弁護士の場合に役立つからだのこの一部を|錆《さび》つかせたり、|蝶番《ちようつがい》の上でまわるのにキーキー音を立てさせてはならず、それをいつも|流暢《りゆうちよう》でなめらかにしておかなければならなかったので、彼はあらゆる機会をとらえて、美辞や賞賛の言葉を語り、自己の向上にこれつとめていたのだった。これが彼には強い習慣になり、舌を自由に駆使するとまではいえないにしても、顔以外のどんなところにもそれをもっていた、とたしかにいえるようになっていた。顔は、もうすでに知っているように、ザラザラした、いまわしい性格をおびたもの、そう容易にはなめらかにするわけにはいかず、なめらかの言葉すべてにたいして、きびしい渋面をつくっていた――これはのろしの自然の標識で、世間、あるいは、法律というあの危険な海峡の浅瀬や波浪を航海する者に、そこに近づくなと知らせ、もっと危険のない港を求め、べつの場所で運だめしをするようにと警告しているものにもなっていた。
ブラース氏が、こもごも、賛辞で書記を圧倒し、十ポンド紙幣の検閲をやっていたとき、サリー嬢はなんの感情もあらわさず、あまり感じのよくないものだけをあらわしていた。法律にたずさわっている役職がら、思いをわずかな利益やにぎりこみの上に凝らして、生れながらの才知にみがきをかけることになっていたので、相手がここの下宿をぜひに確保しようとしているのがわかっている以上、ふつうの料金の二倍や三倍は少なくとも徴集すべきだった、相手が強くおしだしてくれば、それだけスウィヴェラー氏はためらいをみせるべきだった、と論じて、独身男にこんなに安く下宿を貸してしまったことを、彼女は少なからず残念がっていた。だが、ブラース氏の意見も、サリー嬢の不満も、この若い紳士にべつに深い感銘を与えはしなかった。この行為、今後彼がおこなうことになるすべてのほかの行動や行為の責任はすべて自分の不幸な運命のためと考えて、彼はすっかりあきらめ、心明るく、最悪のことを覚悟し、最善のことにたいしても、さとりすまして、べつに心を動かしたりはしなかったからである。
「やあ、お早う、リチャード君」スウィヴェラー氏の書記就職第二日目に、ブラースはいった。「きのうの夕方、サリーはホワイトチャペルできみのためにセコハンの背なしの椅子をみつけてくれたよ。あの女はかけひきにはすご腕を発揮してね、まったく、リチャード君、こいつはまちがいないこと、その椅子は一級品だよ」
「みたとこ、なんだかガタガタしたもんですね」ディックはいった。
「坐るにゃじつにすばらしいもんとわかるよ、まちがいないことさ」ブラース氏は答えた。「病院(一七四〇年創設のロンドン病院)の真向いのひろびろとした通りで買ったもんでね、そこに|一月《ひとつき》か|二月《ふたつき》投げだされてあったんでほこりっぽくなり、陽ざしにさらされていたんで、ちょっと褐色にはなってるがね、それだけのことさ」
「そこに熱病とかそんなものがひそんでないといいんですがね」サムソン氏と純潔なサリー嬢のあいだで、不満そうに腰をおろして、ディックはいった。「脚のひとつがほかの脚よりながいですよ」
「じゃ、そこに材の端っきれを入れるさ」ブラースは答えた。「ハッ、ハッ、ハッ! そこに材の端っきれを入れるさ。そいつが、われわれのために妹が|市《いち》にいってくれるもうひとつの利点さ。リチャード君、ブラース嬢は――」
「静かにしてくださらないこと?」こうした以上の言葉の美しき主題は、書類から目をあげて、口をはさんだ。「そんなおしゃべりをつづけて、どうしてあたしが仕事をつづけられるというの?」
「まったくきみはお天気屋だな!」弁護士は答えた。「ときにおしゃべりに夢中になるかと思うと、べつのときには、仕事べったりなんだからな。きみがどんな気分か、まったく見当もつかんよ」
「いまは仕事をする気分になってるのよ」サリーはいった、「だから、よろしかったら、あたしの邪魔をしないでちょうだい。それにあの人を」サリー嬢はペンの羽根でリチャードをさした、「遊ばせないでちょうだい。たぶん、できるだけなまけようって人なんですからね」
明らかに、ブラース氏は腹立ちまぎれの返事をしようとしていたが、いまいましいことと浮浪者についてなにかブツブツと口の中でいっていたところからみると、慎重な思慮か、小心のために、それをやめてしまい、このブツブツ文句は、だれか特定の個人に結びついたものではなく、たまたま彼の頭に浮んだいくつかの抽象観念に関連したものとして語られているものになった。この後ながいこと、三人はだまったままで書きつづけた――これはじつに退屈な沈黙だったので、スウィヴェラー氏(彼は刺激を必要とする人物だった)は何回か眠りこみ、目を閉じたまま、なにかわからぬ文字でさまざまな奇妙な言葉を書いていたが、とうとう、サリー嬢は、小さなかんの箱をひっぱりだし、音を立ててかぎタバコをひとつまみし、それから、リチャード・スウィヴェラー君が「それをやったのだ」という彼女の意見を発表して、事務所の単調さを破ることになった。
「やったって、なにをです?」リチャードはたずねた。
「知ってること」ブラース嬢は答えた、「下宿人がまだ起きず――きのうの午後床にはいってから、彼の姿も声も、ぜんぜん見も聞きもしてないんですよ?」
「そう」ディックはいった、「その気になったら、静かに安らかに、払った十ポンド分は眠ってもいいはずなんですがね」
「ああ! 絶対に目をさまさないんじゃないかという気がするんだれど」サリー嬢はいった。
「そいつは注目すべき状況だ」ペンを下において、ブラースはいった。「まったく、じつに注目すべきことだ。リチャード君、きみは忘れはせんだろうね、もしこの紳士が寝台の柱で首をつってるのが発見されたら、あるいはそうした類いのなにか不愉快な事件が起きたら――忘れはせんだろうね、リチャード君、この十ポンド紙幣が二年分の部屋代の一部としてきみにわたされたことを? それをしっかりと憶えといてくれたまえ、リチャード君。証拠を請求される場合を考えて、それを書きとめといたほうがいいだろう」
スウィヴェラー氏は大きなフールスキャップ判(縦十三、横十七インチ大の印刷用紙の判)の紙をとり、顔には深遠なる深刻さをあらわして、ひと隅にとても小さな書きこみをしはじめた。
「用心は深すぎることなしなんだからね」ブラース氏はいった。「世間では多くの兇悪なこと、多くの兇悪なことがおこなわれてね。あの紳士はたまたまいったかね――だが、さし当ってそれを気にすることはない。まず、そのささやかな手控えを書きあげてしまいたまえ」
ディックはそれをし、ブラース氏にそれをわたしたが、ブラース氏はもう背なしの椅子から立って、事務所を歩きまわっていた。
「ああ、これが手控え、そうなんだね」文書に目をとおしながら、ブラースはいった。「とっても結構。さて、リチャード君、あの紳士はほかになにかいったかね?」
「いいや」
「たしかかね、リチャード君?」厳粛にブラースはいった、「あの紳士がほかになにもいわなかったのかね?」
「ひと言だっていいはしませんでしたよ」ディックは答えた。
「もう一度考えてみたまえ」ブラースはいった。「わたしがいまいる地位で、法律の職の名誉ある一員として、それはわたしの義務なんだ――この職務は、この国、いや、ほかのどんな国、いや、夜われわれの頭上に輝き、人が住んでると考えられてるどんな星の国でも、最高の職業なんだ――こうした微妙で重要な事柄で、きみにたいして誘導訊問をしないのは、そうした職業にたずさわってる名誉ある一員として、わたしの義務なんだ。きのうの午後、二階の部屋をきみから借り、物財を入れた箱――物財を入れた箱をもってきた紳士が、手控えに書いたこと以外のことを、なにかいったかね」
「さあ、バカな真似はやめなさい」サリー嬢はいった。
ディックは彼女を、ついでブラースを、ついでまた彼女をながめ、前と同じ「いいや」と答えた。
「チェッ、チェッ! まったくいまいましいな、リチャード君、きみはなんて鈍感なんだろう!」やわらいで微笑をもらしながら、ブラースは叫んだ。「彼はその物財についてなにかいったかね? ――それ、しっかり!」
「そう運ばなくっちゃあね」兄にうなずきながら、サリー嬢はいった。
「たとえば」気分のよさそうな、楽しげな調子で、ブラースはいいそえた、「いいかね、彼がそういった、とわたしが主張するわけじゃないんだよ。こうしてたずねてるのは、ただきみの記憶をよみがえらすためなんだ――たとえば、ロンドンで自分は身よりのない身――身元保証人を立てるのは気分に染まないこと、あるいはできないこと――こちらでそうした品物を要求するのは当然のことと感じてる――いついかなるときでも、身になにか起きたら、この建物で彼がもってる物財は、わたしがかぶるにちがいない面倒と苦労にたいするわずかなつぐないと特に考えてほしい、なんぞといったかね? そして、簡単にいって」前よりもっと気分よさそうに、楽しそうにブラースはいいそえた、「こうした条件で、わたしにかわってきみは、借家人として彼を受け入れることになったのかね?」
「いいや、たしかにそうじゃありませんよ」ディックは答えた。
「うん、そんなら、リチャード君」横柄な責めるまなざしを彼に投げつけて、ブラースはいった、「きみは職業の選択をあやまり、弁護士には絶対にならんだろう、というのがわたしの意見だね」
「千年たっても、だめよ」サリー嬢はいいそえた。そこで、兄と妹は、それぞれ、小さなかんの箱からかぎタバコをさわがしくひとつまみし、陰気な物思いにふけった。
スウィヴェラー氏の昼食時は三時だったが、このときまで、これ以上のことはなにも起きず、その時刻に到達するまでに、三週間がすぎたような感じだった。時計が鳴りだすと、新しい書記は姿を消した。五時を報ずる鐘の音が鳴り終ると、彼はまた姿をあらわし、事務所には、魔法の力でそうなったように、水割りジンとレモンの皮の芳香がプンプンとただよってきた。
「リチャード君」ブラースはいった、「問題の男はまだ起きてないよ。どうしても起きないんだ。どうしたらいいだろうな?」
「十分眠らしてやったらいいでしょうがね」ディックは答えた。
「十分眠らすだって!」ブラースは叫んだ。「いやあ、もう二十六時間も眠ってるんだぞ。あの男の頭の上でたんすを動かし、街路のドアをトントン、トントンと二重にノックし、何回か女中に二階からころげおちさせたんだが(彼女は軽く、たいした傷を受けはしないんだ)、どうしても目をさまさないんだ」
「たぶん、はしご」ディックは申し出た、「そして、二階の窓からはいったら――」
「だがそれにしても、あいだにドアがあってね。その上、そんなことをしたら、近所の人たちが武装して立ちあがることだろう」ブラースはいった。
「ひき窓をとおって屋根の上に出、煙突ぞいに下に落ちてったら、どうです?」ディックは提案した。
「それはすばらしいやり方だろう」ブラースはいった、「だれかが」――ここで彼はグッとスウィヴェラー氏をにらみすえた――「親切、友好的、腹がでかくて、それをひきうけてくれたならばの話だがね。それは、一見して思うほど不愉快なことではないだろうと思うんだが……」
ディックはこうした提案をしたものの、その実行の義務は、おそらくはサリー嬢の部門になると考えていた。これ以上彼はなにもいわず、ブラースのほのめかしに応ずる気配をみせなかったので、ブラースは、いっしょに二階にあがってゆき、それほど猛烈でないなにかの方法で眠っている人物をおこす最後の努力をしよう、この最後のこころみが失敗したら、つづいては、もっと強硬な方策をとらざるを得なくなる、と提案しなければならぬことになった。スウィヴェラー氏は承知し、背なしの椅子と定規で武装し、主人といっしょに作戦行動の舞台におもむいたが、そこでは、サリー嬢がもう力まかせに振り鈴をふっていた。だが、彼女の行動はむなしく、神秘的な下宿人にはいささかの効果もあげていなかった。
「あれが彼の靴だ、リチャード君」ブラースはいった。
「あれも|頑固《がんこ》そうな|代物《しろもの》ですな」リチャード・スウィヴェラーはいった。たしかに、それはこの上なくたくましい、ぶっきらぼうな靴、その所有者の脚部がすっぽりそこにはいっているように、がっちりと床にすえられ、その幅のある靴底と無骨な|爪先《つまさき》で、獅子|奮迅《ふんじん》、陣地を固守しようとしているようだった。
「寝台のカーテンしかみえないぞ」目をドアの鍵穴にピタリとつけて、ブラースはいった。「その男、頑強な男かね、リチャード君?」
「とてもね」ディックは答えた。
「いきなりドッととびだしてきたら、とてもまずいことになるな」ブラースはいった。「階段は邪魔物がないようにしておけよ。そりゃあ、もちろん、そんな男は物の数じゃないけどね、わたしはこの家の主人、主人としての|歓待《かんたい》の|掟《おきて》は破るわけにはいかん――おーい! おーい! おーい!」
ブラース氏が目をひんねじって鍵穴をのぞきこみながら、下宿人の注意をひく手段として、こうしてワイワイとどなり、ブラース嬢が振り鈴をせっせと振っているあいだに、スウィヴェラー氏はドアのそばの壁に椅子をひきよせ、その上に乗り、そこに突っ立ち、下宿人が突進して出てきても、前進の猛烈な勢いでおそらく自分のわきをとおりぬけてしまうだろうと考えて、ドアの羽目板を定規で猛砲撃しはじめた。自分の名案でスウィヴェラー氏はいい気持ちになり、自分の陣地の強固さを確信していたが、この陣地の強固さは、観客がみっしりとつめかけた夜に、平土間席と最上階さじきの戸を開けるあの屈強な連中のやり方にならって、彼が採用したものだった。こうして彼は、すごい打撃を|雨霰《あめあられ》とふらせたので、鈴の音はすっかり消えてしまい、いつでも逃げられるようにと下の階段にいた例のチビの女中は、つんぼになっては大変とばかり、耳をふさがずにはいられなくなったほどのさわぎになった。
いきなりドアの錠が中ではずされ、すごい勢いでパッと開かれた。チビの女中は石炭小屋にふっとび、サリー嬢は自分の寝室にもぐりこんだ。勇気の点でめざましいとはいえないブラース氏は、となりの街路まで逃亡し、だれも火かき棒やその他ほかの武器で武装して自分を追ってくる者がないと知って、両手をポケットにつっこみ、いきなりいともゆっくりと歩きだし、口笛を吹いていた。
一方、スウィヴェラー氏は背なしの椅子の上でここを先途とばかり壁にペタリとへっつくばり、|悠々《ゆうゆう》とは薬にしたくともいえない態度で独身男をみおろしていたが、独身男のほうは、すごい勢いでうなりののしりながらドアのところに姿をあらわし、手に靴をもって、当てずっぽうにそれを階段に投げおろそうとしているようだった。だが、こうした考えを彼は放棄し、まだひどくうなりながら、部屋にもどろうとした矢先、彼の目は自分をジッとみつめているリチャードの目とぶつかることになった。
「あのおっそろしい音、きみが[#「きみが」に傍点]立ててたのか?」独身男はたずねた。
「手は貸してましたよ」ディックは答えたが、相手から目をはなさず、右手で静かに定規をふっていた。これは、相手が暴力ざたに出れば、どんな目にあうかを知らせるつもりのものだった。
「どうしてあんなことをしたんだ?」下宿人はいった、「えっ?」
これにたいするディックの応答は、その返事をせず、ぶっつづけに二十六時間眠りつづけるのが紳士の行為と性格にふさわしいものと考えているのか? |秤《はかり》にかけて、愛すべきまともな一家の平穏が無にひとしいものと評価すべきかどうか? をたずねることになった。
「おれの平穏は無だというのか?」独身男はいった。
「一家の平穏は無だというんですか?」ディックはやりかえした。「べつに脅迫をかけたくはないんですがね――まったく、脅迫は法律の許さぬところ、脅迫は起訴犯罪なんですからな――しかし、これを二度くりかえしたら、目のさめないうちに、検死官の調査を受け、四つ辻で埋められないように(むかしイギリスで、自殺者は教会での埋葬を許されず、いなか道の十字路に埋められた)用心なさいよ。あんたが死んだものと思い、われわれはその恐怖で頭がおかしくなってたんですからね」すべるようにして静かに床におりながら、ディックはいった、「要するに、|独身《シングル》の紳士がこの施設にやってきて、|ふたり《ダブル》の紳士のように眠るのは、余分の料金をいただかないかぎり、許されてないんです」
「いや、驚いた!」下宿人は叫んだ。
「そうですよ、まったく」すべて運命に身をゆだね、心に思いつくまま勝手にしゃべり立てて、ディックは答えた。「ひとつの寝台から二十六時間もの量の睡眠をとるなんて、絶対にないこってすよ。もしあんたがそんなふうに眠ろうというんなら、ダブルベッドつきの部屋代を払わなけりゃいけませんな」
こうした言葉で怒りがさらに燃えあがったりはせずに、下宿人は、だんだんと不遠慮なニヤニヤ笑いをしはじめ、目をキラキラと輝かせてスウィヴェラー氏をながめた。彼は褐色に陽焼けした男だったが、白いナイトキャップをかぶっていたので、もっと褐色、もっと陽焼けしているようにみえた。ある面でこの男が|癇癪《かんしやく》もちなのがはっきりわかっていたので、彼がすごく上機嫌になっているのをみて、スウィヴェラー氏はホッとし、相手の気分をもっと盛り立てようと、彼自身もニッコリとした。
下宿人は、ああして乱暴に起されたことで怒り立って、ナイトキャップを禿げ頭の一方にひどくかしげてかぶっていた。これは、じつに風変りで意気な風貌を彼に与え、いまそれをながめる余裕が出てきたので、スウィヴェラー氏はそれにすっかり魅了されていた。そこで、彼は、ご機嫌うかがいにと、起きられてはいかがです? といい、さらに、これ以上絶対にもう眠らないほうがいいでしょう、とすすめてみた。
「こっちに来い、この厚かましい悪党め!」が、部屋にもどりながらの下宿人の返事だった。
スウィヴェラー氏はそのあとを追って部屋にはいり、椅子は外に放っておいたが、奇襲を受けるのを顧慮して、定規は持参におよんでいた。この独身男が、いきなり、なんの予告も説明もなく、ドアに二重の鍵をおろしたとき、スウィヴェラー氏は自分の慎重さに大いに満悦していた。
「酒はやれるかね?」が彼のつぎの質問だった。
スウィヴェラー氏は、ついさっき|渇《かつ》えの苦痛はしずめたばかりだが、手近にあるものなら、「ちょっと一杯」くらいはやれる、と答えた。それ以上なにもふたりのどちらからも言葉を発しないうちに、下宿人はその大トランクからみがきあげた銀の一種の寺院といったものをひっぱりだし、それを注意深くテーブルの上においた。
相手のやることに多大の興味を湧かして、スウィヴェラー氏は彼を子細に見守っていた。この寺院のひとつの小部屋に彼は卵を、べつの部屋にコーヒー、第三の部屋に小ぎれいなかんの入れ物からとりだした、よくしまった|生《なま》の肉の厚い厚い切り身を落し、第四の部屋にはいくらか水をつぎこんだ。それから、|燐《りん》箱(硫酸の小びんを入れた小箱で、薬品をつけた小木片(マッチ)をそこにつけて点火に用いた。一八二九年黄燐マッチの発明まで点火にひろく用いられていたもの)と小さな何本かの木のきれで火をつけ、それをアルコールランプにうつしたが、このランプは、寺院の下の定めの場所におかれてあった。これがすむと、彼は小部屋のふたをぜんぶ閉め、ついでそれを開いた。すると、なにかすばらしい目にみえぬものの働きで、肉は焼きあがり、卵はゆだり、コーヒーはきちんとわかされ、朝食の準備はすっかりできあがった。
「湯だよ――」下宿人はいい、台所の火の前に立っている冷静さで、それをスウィヴェラー氏にわたした――「すばらしいラム酒――砂糖――それに旅行用のコップだ。自分でまぜてくれたまえ。グズグズしちゃいかん」
ディックは命令どおりに行動したが、そのあいだじゅう、彼の目は、すべてをやってのけているように思えたテーブルの上の寺院から、すべてをすっかりおさめているように思えたトランクへとさまよっていった。下宿人はこうした奇跡をやることには馴れきっているといったふうに朝食をとり、そんなものは問題にもしていなかった。
「この家の主人は弁護士だね、どうだい?」下宿人はいった。
ディックはうなずいた。ラム酒はすばらしいものだった。
「この家の女――あれは何者だい?」
「竜ですよ」ディックはいった。
独身男は、たぶん旅行中そうした怪物に出逢ったことがあるためか、たぶん自分が独身男である[#「である」に傍点]ためだったのだろうが、べつに驚いたようすはみせず、ただ「女房かい? それとも妹かい?」ときいただけだった。「妹ですよ」ディックは答えた。――「それだけなお結構なこと」独身男はいった、「好きなときに、追っ払えるからな」
「おれは自分の好きなとおりにしたいんだよ、若い衆君」ちょっとだまっていてから、彼はつけ加えた。「好きなとき床にはいり、好きなときに起き、好きなときに部屋にもどり、好きなときに外出したいんだ――なんにもたずねられたりはせず、スパイにとりまかれるのはまっぴらだよ。この最後の点で、召使いというやつが悪魔なんだ。ここには召使いがひとりしかいないな」
「それに、とてもチビの召使いでね」ディックはいった。
「それに、とてもチビの召使いだ」下宿人はおうむ[#「おうむ」に傍点]がえしにいった。「うん、この場所はおれに合うことだろう、どうだね?」
「そうですな」ディックはいった。
「|鮫《さめ》どもだろうな?」下宿人はいった。
ディックは、そうだ、とうなずき、自分のコップを飲み乾した。
「やつらにおれの気分を伝えておいてくれ」独身男は立ちあがりながらいった。「こっちの気分を乱したりしたら、いい下宿人を失うことになるんだ。それだけわかってたら、やつらにはもう十分。それ以上知ろうなんぞとしたら、それが出ていく通告になるわけだ。こうしたことはすぐ頭に入れといたほうがいいだろう。じゃ、さよなら」
「失礼ですが」ドアのほうに歩いてゆきながら足をとめて、ディックはいった。下宿人はドアをもう開こうとしているのだった。「汝を愛する者、その名のみをのこしたるとき(ムアの『アイルランド歌謡』より)――」
「それはどういうことだ?」
「名のみ」ディックはいった――「名のみのこす――手紙や荷物の場合にね」
「そんな物は絶対に来んよ」下宿人は答えた。
「さもなけりゃ、だれかが訪問したとき」
「だれも訪問しては来んよ」
「名前がないことからなにかまちがいが起きても、こちらのせいにされちゃ困りますよ」まだグズグズして、ディックはいいそえた――「おお、詩人を責むることなかれ(ムアの『アイルランド歌謡』から)――」
「だれも責めはせんよ」すごい癇癪を起して下宿人がいったので、あっという間にディックは階段のところにとびだし、ふたりのあいだには、ドアの鍵がおろされた。
ブラース氏とサリー嬢はすぐ近くにひそんでいたが、これは、スウィヴェラー氏のいきなりの退出で、鍵穴のところから追い払われたためだった。だが、先に部屋の中をのぞきこもうと喧嘩をし、事の性質上、おしたり、つねったり、そうした無言劇だけにとどまって、その喧嘩はズッとつづいていたので、どんなに努力をしても、以上の話し合いの一語たりとも耳にすることができなかったため、ふたりはディックをあわただしく事務所につれこみ、この会話の話を彼の口から聞くことになった。
スウィヴェラー氏はこの話を彼らにした――独身男の希望と性格に関しては忠実に、大きなトランクに関しては詩的に、話をしたが、このトランクの描写は、きびしく事実を忠実に伝えるというより、華やかな想像の駆使のほうが特徴になっているもので、この当時知られていたすべての豪華な食料とぶどう[#「ぶどう」に傍点]酒の|雛型《ひながた》を備え、特に、それは自動的なもので、時計じかけによるものと思われるが、必要なものはなんでも出されることを、強くくりかえしくりかえし述べ立てた。これは自分の目でながめ、口で味ったことなのだが、この料理の装置は二分十五秒で|常衡《じようこう》(一ポンドが十六オンスで、貴金属・宝石・薬品以外のものを測る重さの単位)六ポンドくらいの牛の腰肉のみごとなきれを焼きあげ、さらに、その結果がどのようにして生みだされるにせよ、独身男がまばたきをした瞬間に、水は|煮《に》え立ち|沸騰《ふつとう》したのをはっきりとみてとった、とさらに彼はふたりに語った。以上の事実から、彼(スウィヴェラー氏)は、この下宿人がある偉大な魔法使いか化学者、さもなければ、その両方と考えずにはいられない、彼がこの屋根の下に住んでいる事実は、将来いつの日か、かならずやブラースの名前に大きな名誉と名声をもたらし、ビーヴィス・マークスの歴史に新しい興味をつけ加えることになるだろう、というわけだった。
スウィヴェラー氏がくわしく述べ立てるのは不用と考えていたひとつの点があったが、これは、ちょっと一杯やった事実で、それは、その本質的な強さと、昼食で彼が楽しんだおだやかな飲料の直後に飲んだために、軽度の熱病をひきおこし、その日の夕方に、酒場でさらにほかのおだやかな二、三杯をかさねなければならない仕儀をひきおこすことになった。
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独身男は、この下宿に何週間か滞在したあとでも、なおブラース氏およびその妹のサリーと言葉や身ぶりで語るのをこばみ、連絡の仲介としてもっぱらリチャード・スウィヴェラーをえらび、すべてのものは前払い、厄介はかけず、物音も立てず、早寝早起きで、すべての点で望ましい下宿人となったので、リチャード氏は、この神秘的な下宿人を動かす力をもち、ほかの人間がその身辺に近づけないときに、よかれあしかれ、彼と話し合うことができる人間として、この一家の中で知らぬあいだに有力な人物とみなされるようになった。
事実を申しあげれば、スウィヴェラー氏の下宿人にたいするこの接近でさえ、とてもよそよそしいもの、そうみとおしの明るいものではなかったのだが、この知られざる人物とわずかな言葉をかわしてひきあげてくればかならず、「スウィヴェラー、きみは信頼できる人物だ」――「おれは迷わずにいえるがね、スウィヴェラー、きみを尊敬してるよ」――「スウィヴェラー、きみはおれの友人、きっと力になってくれるだろう」、その他、これと同種の親しみのこもった打ち明け話的な短い多くのセリフを引用し、それが独身男から自分にかけられ、話の主成分になっているということになっていたので、ブラース氏もサリー嬢も、スウィヴェラーの支配力の大きさをいささかも疑わず、無条件で|満腔《まんこう》の信頼を彼に寄せていた。
だが、この人気の根元とはまったくべつ、それとは別個に、スウィヴェラー氏はもうひとつの人気の根元をもち、それは同じように永続的で、彼の立場をそうとう明るくするみこみ十分のものだった。
彼はサリー・ブラース嬢に恩寵の目でみられていた。女性の魅力を軽蔑している人びとは、耳を立て、冗談の種にもなる新しい恋の話を聞こうなどと心構えをしないでいただきたい。ブラース嬢は、いかに愛されるようにしっかりとつくられているとはいえ、人を愛する類いの女性ではなかったからである。この愛すべき乙女は、幼少のころから法律のスカートにすがりつき、いわばひとり立ちではじめて走ったときには、その助けでささえられ、その後ズッとそのスカートをしっかりとにぎりしめて放さず、法律的幼少時代ともいえる生涯をすごしたのだった。まだいたいけ盛りの片言をしゃべっているころ、執達吏の歩きぶりや態度を真似する異常な才能で人目をひき、執達吏の資格で遊び仲間の肩を軽くたたき、その仲間を空想上の債務者拘留所(債務未済で逮捕された人を入獄前一時監禁して、債務弁済の猶予を与えたところ。旅館が多く用いられていた)に拘留することを学び、真似とはいえ、その正確さは、彼女の演技をながめていた人すべてを驚かせ、それに上まわるものといえばただ、彼女の人形の家に強制執行令状をわたし、椅子やテーブルの財産目録を正確にとるじつにすばらしいやり方だけだった。こうした無邪気な遊びは、老いて弱っていた男やもめの父親の心を当然のことながらなぐさめ、元気づけていたが、この父親は(友人たちからは、そのすごい狡猾さで、『老狐』と呼ばれていた)人の手本ともなるべき紳士、彼はそうした遊びをできるだけ奨励し、自分の死期がせまったのを知ったときの彼の主な悲しみは、自分の娘が弁護士の資格証明書をとれず、弁護士名簿に名をつらねることができないということだった。この心を打つ愛情こもった悲しみで胸をいっぱいにさせて、彼は重々しくこの娘をかけがえのない助手として息子のサムソンにゆだね、この老紳士の死後この話のときまで、サリー・ブラース嬢はサムソンの仕事の柱石になっていた。
幼少のころからこのひとつの仕事と研究に打ちこんできたので、ブラース嬢が法律に関連するもの以外に世間のことをなにも知らず、こうした高い才能を|賦与《ふよ》されていたご婦人から、女性がふつう能力を発揮するもっとおとなしい静かな家事の|業《わざ》の優秀さは期待すべくもなかったことは、明白である。サリー嬢の身につけた才芸は、すべて男性的な、もっぱら法律的なものだった。それは、弁護士の仕事ではじまり、弁護士の仕事で終っていた。彼女は、いわば、法律バカの状態にあった。法律が彼女の乳母だった。子供のがに股やそうした肉体的な醜悪な欠点がまずい育児法の結果とされているのとまったく同じふうに、かくも美しい心に、なにか道徳的なゆがみやがに股の状態があるものとすれば、サリー・ブラース嬢の乳母のみがその責任を問われるべきものだった。
スウィヴェラー氏の存在が新鮮さをたたえた、新しい、そのときまで夢想だにしていなかったものとして襲いかかったのは、このご婦人にたいしてであり、歌やら陽気なさわぎをちょっとやって事務所を明るくし、インク壺やら|封緘紙《ふうかんし》の箱で手品をし、片手にオレンジ三つをつかみ、顎に背なしの椅子を、鼻にペンナイフを釣り合いをとりながら立たせ、変らぬたくみさでほかのいろいろの多くの放れ業を、彼はやらかしていた。リチャードは、ブラース氏が不在の折り、こうした気晴らしで自分の監禁の退屈さをまぎらわしていたからだった。こうした社交的な性格は、サリー嬢が最初偶然発見したものだったが、それは彼女にしだいに強い印象を与え、その結果、彼女はスウィヴェラー氏に、まるで自分がそばにいないようにくつろいでくれ、とたのむことになり、スウィヴェラー氏は、いやどころか大よろこびして、すぐにそれに応じた。こうした方法で、ふたりのあいだでは友情が結ばれることになった。スウィヴェラー氏はだんだんと、兄のサムソンが彼女をみていたように、ほかに書記がいたら、そうした書記を彼がみたであろうように、彼女をみることになった。彼女に果物、しょうが[#「しょうが」に傍点]入りのビール、焼いたじゃがいも[#「じゃがいも」に傍点]、いや、ちょっと一杯を賭けて、銭投げ(表か裏の合わないひとりの者を三人(以上)のなかから選びだす遊び)やわかりやすいニューマーケット(ストップスと同じで、ストップをかけられるまで遊戯者がやりゲームをつづける)の秘術を伝授し、彼女は、そのちょっと一杯をとまどいしたりはせずに味っていた。彼は、よく彼女にたのみこんで、彼女自身の書き物に加えて、彼の分までおしつけ、いや、ときには、彼女の背を陽気にたたいて礼をいい、彼女はすごくいいやつ、陽気な犬等々といい、そうした賛辞すべてを、サリー嬢は、わるいふうにはぜんぜんとらないで、大いによろこんでいた。
ひとつの事情がひどくスウィヴェラー氏の苦の種になっていたが、それは、例のチビの女中が、いつもビーヴィス・マークスのどこか地下深くにもぐりこみ、独身男が鐘を鳴らさなかったら、絶対に地表に姿をあらわさないことだった。鐘が鳴ると、彼女はそれに答え、すぐにまた姿を消してしまった。彼女は絶対に外出せず、事務所にはいらず、顔をきれいにせず、粗末なエプロンをぬがず、どの窓からも外をながめず、ひと息入れようと街路の戸口に立たず、どんな休息も楽しみも味ってはいなかった。彼女に会いに来る者はなく、だれも彼女のことを話さず、だれも彼女に関心を払ってはいなかった。ブラース氏はかつて、あの|娘《こ》は「|私生児《ラヴ・チヤイルド》」(これは愛情の生んだ子の意味では絶対にない)ではないか、といっていたが、リチャードの得た情報といえば、ただそれだけだった。
「竜にきいても、むだなことだ」ある日、サリー・ブラース嬢の顔をツラツラとながめながら坐っていたとき、ディックは考えた。「その問題でなにかたずねたりしたら、われわれの連合はこわされちまうだろう。ところで、あいつ、竜なんか[#「なんか」に傍点]な、それとも、人魚ふうのなにかのものなんかな? そうとううろこだらけの顔はしてる。だが、人魚は自分の姿を鏡でみるのを好むんだから、あいつがそれであるはずはない。それに、人魚は髪に櫛を入れる癖があるが、あいつにはそれがない。そう、あいつは竜なんだ」
「きみ、どこにいくんです?」サリー嬢がいつものとおり緑の服でペンをぬぐい、座席から立ちあがったとき、ディックは大声でいった。
「昼ご飯よ」竜は答えた。
「昼ご飯だって!」ディックは考えた、「これはまたちがった事情がひとつ湧いたぞ。きっとあのチビの女中は、食い物はなにも与えられてはいないんだろう」
「サミーは帰って来ないの」ブラース嬢はいった。「わたしがもどるまで、ここにいてちょうだい。すぐ帰ってきますよ」
ディックはうなずき、目でブラース嬢のあとを追ったが――目は戸口に、耳は裏の小部屋に向けられ、この小部屋は、彼女と彼女の兄が食事をする場所だった。
「さて」ポケットに両手をつっこんであちらこちらと歩きまわりながら、ディックはいった、「なんかくれてやってもいいぞ――なんかあればの話だが――ふたりがあの子供をどうあつかってるか、どこに彼女をおいてるのか、ひとつ知りたいもんだな。おれのおふくろは、とても|穿鑿《せんさく》好きな女だったにちがいないぞ。まちがいなし、おれのからだのどっかに疑問符のしるしがついてるんだろう。われ、わが心をおし殺す、されど、汝はこの苦悶の|原因《いわれ》なり、わが(トマス・ヘインズ・ベイリー(一七九七―一八三九)のバラッド2にある言葉)――まったく」自分の気持ちをおさえ、考えこんで依頼人の椅子にくずれこみながら、スウィヴェラー氏はいった、「ふたりがあの子供をどうあつかってるか、ひとつ知りたいもんだな!」
こうしたふうに、しばらく、考えこんでいたあとで、にがみの少ない黒ビール一杯を手に入れるために道路を横切ってとびだそうとして、彼は事務所のドアをソッと開いた。その瞬間、台所の階段をさっとおりてゆくブラース嬢の褐色の頭飾りがチラリと彼の目に映った。「うん、たしかに!」ディックは考えた、「あの女はたしかにあのチビの女中に食べ物を与えようとしてるんだ。この機を逸してなるものか!」
最初に手すり越しにのぞき、頭飾りが下の闇に消えるのをみすましてから、彼は、手探りで階段をおりてゆき、手に冷えた羊肉の脚をもって、ブラース嬢が裏の台所にはいっていくとすぐ、そこの戸口に到着した。そこは、とても暗いみじめな場所、とても天井が低く、湿気がとても強くて、壁は無数のさけ目としみでよごれていた。穴のあいた大桶からは水がチョロチョロとしたたり、じつにみじめな猫が胸のムカムカする飢餓のひたむきさで水の|滴《しずく》をペチャペチャとなめていた。ひろく開いた火|格子《ごうし》はしっかりとねじりまげられて、ほんのわずかなサンドイッチくらいの火しか燃えないようにしてあった。すべてのものに錠がしっかりかけられていた。石炭貯蔵地下室、ろうそく箱、塩入れの箱、肉をしまっておくはい帳にはすべて、ナンキン錠がかけられていた。食べ物といえば、ごきぶり[#「ごきぶり」に傍点]が食べるものさえなかった。この場所の食べ物のない切りつめたとぼしい姿をみたら、カメレオン(餌がなくてもながく生きていられると考えられていた。『ハムレット』V・ii、九八にある言葉から)でも死んでしまったことだろう。カメレオンは、はじめのひと口で、そこの空気は食い物にならないとさとり、絶望で息の根をとめてしまうはずだった。
チビの女中は、サリー嬢の前におそれ入って立ち、頭をさげていた。
「そこにいるの?」サリー嬢はいった。
「はい」が弱々しい声の返事だった。
「羊の肉の脚のとこからもっとはなれなさい。そうしないと、きっと、お前はつまんじまうんだからね」サリー嬢はいった。
チビは隅にひきさがり、ブラース嬢はポケットから鍵をとりだし、はい帳を開き、そこからわびしいくずのような冷えたじゃがいも[#「じゃがいも」に傍点]をとりだしたが、それは、ストーンヘンジ(イングランド、ウィルトシャーのソールズベリの平原にある巨石柱の二重環列。石器時代後期のものといわれる)と同様、とても食べられた代物ではなかった。これを彼女はチビの女中の前におき、坐れと命じ、それから切り盛り用の大型肉切りナイフをとりあげ、切り盛り用大型フォークでそれをとぎあげるすばらしい仕草をみせた。
「これがわかる?」こうした準備のあとで、冷えた羊肉を二インチ平方くらい切りとり、フォークの先でそれをかざして、ブラース嬢はいった。
それは小さなものだったが、そのどこも見落すことがないようにと、チビの女中は飢えた目を凝らしてそれをジッとながめ、「はい」と答えた。
「じゃ、世間でいいふらしたりしちゃいけないことよ」サリー嬢は応じた、「ここで肉なんぞ食べたことはないとね。さあ、お食べ」
これはすぐに片づけられた。「さあ、もっと食べたいこと?」サリー嬢はたずねた。
飢えた女中は弱々しく「いいえ」と答えた。ふたりは、明らかに、おきまりの型を実行しているのだった。
「お前は一度肉の料理を食べさせられたのよ」いままでの事実の要約をおこなって、ブラース嬢はいった。「お前はお腹いっぱい食べたのよ。もっと食べたいかときかれ、『いいえ!』と答えたのよ。いいこと、食事の量を制限されてるなんぞと世間で|吹聴《ふいちよう》してはいけないことよ」
こういいながら、サリー嬢は肉をしまいこみ、はい帳に錠をおろし、それからチビの女中に近づいていって、チビの女中がじゃがいも[#「じゃがいも」に傍点]を食べているあいだ、それを監視していた。
なにか異常な物惜しみの|遺恨《いこん》の情がブラース嬢のやさしい胸の中で動き、チビの女中のわきに立っているとちょっと軽くたたかずにはいられなくなるといったふうに、いま、なんの|理由《いわれ》もないのに、その遺恨の情につき動かされて、ナイフの刃で子供の手、頭、背中をつぎからつぎへとポカポカやっていたのは、たしかなことだった。だが、彼のこの仲間の書記が、まるで部屋を出ようとはしていながらもそれができないといったふうに、ドアのほうにゆっくりとさがっていったあとで、いきなり前にとびだし、チビの女中に襲いかかり、|拳固《げんこ》をにぎりしめてしたたか彼女を打ちすえているのをみて、スウィヴェラー氏は少なからずびっくりした。犠牲者のチビの女中は泣きだしたが、自分の声をあげるのをおそれているように、それは、おさえ殺した声になっていた。サリー嬢はひとつまみのかぎタバコで心を晴らし、リチャードが安全無事に事務所にもどったちょうどその瞬間に、階段をのぼりはじめた。
37
独身男は、ほかの奇癖のなかで――彼はそれを数多くもち、いくつかの新しいその例を毎日示していた――パンチ芝居にたいしてじつに異常な、驚くべき興味を持っていた。どんなに遠いところからだろうと、パンチの|声音《こわね》がビーヴィス・マークスにひびいてくると、独身男は、たとえ床で眠っていても、ガバッとはねおき、大あわてで服を着こんで、全速力をあげてそこにとんでゆき、劇場と演出家をグルリととりまいたのらくら者どもの行列の先頭に立って、やがてもどってきた。すぐにブラース氏の家の前に舞台がもうけられ、独身男は二階の窓のところにおさまり、心をワクワクさせる横笛、太鼓、叫びの伴奏をともなって芝居が進行し、この物静かな通りの商売に献身しているまじめな人たちの|肝《きも》をつぶしていた。芝居が終ったら、俳優も客も当然散っていくところだったが、その納め口上は、劇そのものと同じくらい、ひどいものだった。悪魔が|往生《おうじよう》をとげるやいなや、人形芝居の親方と相棒は独身男によって二階に呼びこまれ、そこで彼の貯蔵物からひきだされた酒で大もてなしを受け、ながい談義がつづいたからだったが、どんな話をしているかは、人の推測を越えたことだった。だが、こうした談義の秘密は、さして重要なことではなかった。そうした話がつづいているあいだ、外の群集はまだ家のまわりにたむろし、少年たちは拳で太鼓を打ち、子供声でパンチの真似をし、事務所の窓は、おしつけられたたいらになった鼻でくもってしまい、街路のドアの鍵穴は、目玉でギラギラと輝き、上の窓で独身男なり客人のいずれかの姿がみえ、いや、彼らのうちのだれかの鼻だけでも目にはいると、中に入れてもらえない群集からはのろいの大喊声が湧き、彼らはワイワイキャッキャッとさわぎつづけて不満の気分を発散しつづけ、上演者が彼らの手にもどされ、べつの場所でまた芝居をすることになって、ようやくそのさわぎがおさまることになったと申せば、もう十分だろう。簡単にいって、ビーヴィス・マークスがこうした大衆の動きで革命の洗礼を受け、平安と静けさがその付近から姿を消してしまったと申せば、十分だろう。
このことでいちばん怒ったのはサムソン・ブラース氏だったが、彼は、こうした自分の利益になる下宿人を追い払う気にはなれず、その与える侮辱をそれが与える現金とともにポケット(「こらえる」と「ポケットに入れる」の両意がある)にしてしまい、自分の家の戸口に集った芝居の客どもを自分に可能な不完全な報復手段でやっつけたほうが慎重と考えていた。そしてこの方法とは、目につかぬ|如露《じようろ》から彼らの頭にきたない水をしたたらせ、屋根から|瓦《かわら》やしっくいの破片を投げつけ、貸し馬車の一頭立て二輪馬車の御者に金をつかませて、街角からいきなりとびだし、彼らの中にすごい勢いでとびこませる程度のことだった。弁護士ともあろうブラース氏がこの厄介をひきおこしている張本人のだれか、あるいは一団の人たちを法的に告発しないでいるなんて、驚くべきことのように、一見したところ、思慮のないわずかの人たちの目には映るかもしれない。だが、そうした方々にここで思い出していただきたいのは、医者が自分の|処方箋《しよほうせん》を受け入れることはまずなく、聖職者は自分の説教をかならずしも実行していないように、弁護士は、自身のために法律をいじくりまわすのをしりごみするということである。これは、法律がどう適用されるかわからない刃のついた道具、それを動かすにはとても金がかかり、当然の人間からいつもしぼりとるというより、あぶない刃わたりといった性格のほうが強く浮き彫りにされているのを、弁護士がよく心得ているからである。
「さあ」ある午後、ブラース氏はいった。「パンチ芝居のない日がこれで二日つづいたな。ありがたい、どうやら彼も、とうとう、芝居をみつくして種切れになったんだろう」
「どうしてありがたいなんていうの?」サリー嬢は答えた。「それでどんな害が起きるというの?」
「これはまた、ひどいやつがあらわれたぞ!」やけになってペンを下におきながら、ブラースは叫んだ。「まったくムカムカするけだものがここにあらわれたぞ!」
「ええ、どんな害が起きるというの?」サリーはやりかえした。
「どんな害だって!」ブラースは叫んだ。「鼻の先でいつもワイワイとさわぎ立てられ、仕事の邪魔をされ、イライラして歯ぎしりをかまされるのが、害じゃないのかね? めくらになり、息がつまり、王さまの大通りがキーキーワーワーいうやつらでいっぱいになって人もとおれなくなるのが、害じゃないのかね? あいつらの喉のつくりは――うん――」
「|真鍮《ブラース》製ですよ」スウィヴェラー氏は口を入れた。
「ああ! |真鍮《ブラース》製だ」ディックがこの言葉をいいだしたのは本気、皮肉をとばそうといった意図がなかったのをたしかめようと、チラリと彼のほうをみて、弁護士はいった。「それが害じゃないんかね?」
弁護士はののしり立てるのを中途でやめ、ちょっと耳を澄ませ、よく知られている声を耳にして、頭に手を乗せ、弱々しくつぶやいた。
「また来た!」
独身男の窓はすぐにサッとあげられた。
「また来た」ブラースはくりかえした。「群集がいちばん集った潮時に、運よく四頭立てのサラブレッドの大馬車をこのマークスに向けてつっこませることができたら、十八ペンス放りだしても惜しくはないんだがな!」
遠くでキーキーいう音がふたたび聞えてきた。独身男のドアはパッと開けられた。彼は猛烈な勢いで階段をかけおり、街路にとびだし、帽子もかぶらずに、窓のわきを音が聞えてくる場所にむけてふっとんでいった――これは、たしかに、例の芝居の演出家に芝居をすぐにたのもうとしてのことだった。
「あの男の友人どもがだれか、わかりさえしたらいいんだが」ポケットに書類をいっぱいつめこんで、サムソンはつぶやいた。「グレイズ・イン(ロンドンにある四法学院のひとつ)のコーヒー・ハウスでささやかな狂人審査委員会が構成され、その仕事を自分にまかせてくれたら、下宿がしばらく|空《から》になっても、とにかく、不平はいわんだろうよ」
こういい、このおそろしいワイワイさわぎをチラリとでもながめるのをさけようとしているように、目の上まで帽子をポンとかぶりこんで、ブラース氏は家からとびだし、あわただしく外に出ていった。
スウィヴェラー氏は、パンチ芝居をながめること、いや、窓からどんなものでもながめることのほうが仕事をするよりましなことだったので、こうした上演にははっきりと好意をもち、この理由で、彼の仲間の書記のサリー嬢にその美しさと価値を認めさせようとそうとう骨を折っていたので、彼とサリー嬢は、ともども一斉に立ちあがり、窓のところに場所をとった。そこの窓台のところでは、名誉の座席といったふうに、赤ん坊の味気ない養育に従事し、こうしたさいには、その齢いかぬ荷物といっしょに、かならず参集してきたさまざまな若いご婦人や紳士方は、事情の許すかぎり快適に、もうその場所に陣どっていた。
窓ガラスがくもっていたので、スウィヴェラー氏は、ふたりのあいだで確立した友好的な習慣にしたがって、サリー嬢の頭から褐色の頭飾りをサッととり、それで窓ガラスのほこりを念入りにゴシゴシとふきとった。彼がそれをもどし、美しきその持ち主がそれをまた頭につけるまでに(彼女はこれを心乱さず、まったくケロリとしてやってのけていた)、下宿人は、見世物、演出家、それに観客団にたいする強力な増援部隊をうしろにしたがえて、もうもどってきた。上演者はすばやくたれ布の背後に姿をかくし、相方は、劇場の横に立って、じつに憂鬱の情をたたえた表情で観客をみわたし、口と顎は万やむを得ず|痙攣《けいれん》状態にありはしたものの、顔の上部の物悲しげな表情をいささかも変えずに、ホーンパイプの曲を世間でよくパンパイプと呼ばれているあの妙なる楽器で吹いたとき、その憂鬱な表情はなおいっそう目に立つものになってきた。
芝居は終局に向けて進行し、いつものとおり、観客の関心を釘づけにしていた。息もつけぬはりつめたサスペンスの状態から脱し、ふたたび口をきき身を動かせる状態にもどったときでも、大群集の燃えあがった感情はまださめやらず、このとき、いつものとおり、下宿人は上演者たちを二階に呼びあげた。
「ふたりともな」彼は窓から声をかけた。ただじっさいの上演者だけ――太った小男――がこの呼びに応じようとしていたからである。「きみたちと話をしたいんだ。ふたりともあがってきてくれ!」
「トミー、来いよ」小男はいった。
「おれは話が苦手でね」相手は答えた。「あの旦那にそういってくれ。おれがいって話すこともないだろう?」
「わかんないのかい、旦那はあそこに酒のびんとコップをもってるんだぜ?」小男は応じた。
「最初、そいつをいってくれたらよかったのにな」いきなり敏捷になって、相手は答えた。「さあ、なにをグズグズしてるんだ? 旦那を一日じゅう待たせておくつもりかね? 礼儀[#「礼儀」に傍点]ってえこともあるだろう」
こう抗議の言葉を投げて、憂鬱な男、ほかならぬトマス・コドリン氏は同業の仲間、ハリス氏、別名ショート、あるいはトロッターをおしのけ、ハリス氏の先に立って、あわただしく独身男の部屋にあがっていった。
「やあ、きみたち」独身男はいった。「なかなかみごとな芝居だったな。なにを飲むかね? うしろのチビ君にドアを閉めるようにいってくれたまえ」
「ドアを閉められんのかね?」友人のほうにつっけんどんにふり向いて、コドリン氏はいった。「いわれなくったって、戸くらい閉める礼儀は知っていそうなもんなのにな」
ショート氏はいわれたとおりにしたが、声をひそめて、どうやら友人はふだんにないほど「気むずかしい」らしい、近所に|搾乳《さくにゆう》場があったら大変、この不機嫌でそこの乳はみんな|酸《す》っぱくなっちまうぞ、といっていた。
紳士はふたつの椅子を指さし、グッと頭をうなずかせてそこに坐るように、と伝えた。コドリン氏とショート氏は、そうとうモジモジしてとまどったあげく、とうとう――それぞれ指摘された椅子のほんの端に――坐り、帽子をしっかりとにぎりしめていた。一方、独身男は自分のわきのテーブルのびんからふたつのコップに酒をいっぱいつぎ、それをきちんとふたりにわたした。
「ふたりとも陽焼けして、かなりいい色になってるね」接待者はいった、「旅をしてたのかね?」
うなずき、微笑して、ショートはそうだと答え、コドリン氏は、それに|相槌《あいづち》を打ってうなずき、ちょっとうめいたが、それは、舞台の殿堂の重みがまだ肩にのこっているといった感じだった。
「市場、祭り、競馬などにいくんだろうね?」独身男は語りつづけた。
「ええ、そうです」ショートは答えた、「イングランドの西部のほとんど|隈《くま》なくね」
「北、東、南からやってきたきみたちの同業者とはもう話したんだがね」そうとうセカセカした調子で、主人は応じた。「だが、西部から来た者には、いままでまだ会ったことがないね」
「夏にいつもまわってるのが西部でね、旦那」ショートはいった。「そっちをまわってるんです。春と冬にはロンドンの東をめぐり、夏時にはイングランドの西部でね。西部の旅では、雨や泥の中を一日じゅう歩き、おまけにビタ一文もかせぎにならないつらい日も、何日かありましたよ」
「さあ、もう一杯どうだね?」
「ありがとうございます。いただきますよ」いきなりショートのコップをおしのけ、自分のコップをつきだして、コドリン氏はいった。「旅してるときも、家にいるときも、いつも苦しんでるのはこっちなんですよ。ロンドンでもいなかでも、雨につけ晴れにつけ、寒さ暑さをとおして、苦しんでるのはトム・コドリン。でも、トム・コドリンは|愚痴《ぐち》ったりはしませんよ。とんでもない! ショートは愚痴っても、コドリンは愚痴ひとついわないんです――いや、まったく、やつは、やっつけたらいいんです、やつは[#「やつは」に傍点]やっつけたらいいんです、すぐにね。愚痴るのは、やつの[#「やつの」に傍点]立場なんてもんじゃありませんよ。そいつは、まったく、問題じゃないんですからね」
「コドリンは、結構役に立ってますよ」いたずらっぽい目つきをして、ショートはいった、「でも、目はいつも開いてるばかりとはいえなくってね。ときどき眠りこんじまうんですよ。この前のあの競馬のときがそうだったな、トミー」
「人をムカムカさせるのは、やめてくれんかね?」コドリンはいった。「五シリング十ペンスの見物料の金を集めるんに、ひと巡業のうちで眠りこんじまうことは、そりゃたまにはあるさ、そうじゃないかね? おれは自分の仕事に精を出してて、お前さんだってそうだろうが、|孔雀《くじやく》(ギリシャ神話で百眼のアルゴスはユノによって孔雀に変えられた)じゃあるまいし、一度にいろんな場所に目を配っちゃいられないんだ。老人と小娘におれがしてやられたといったって、お前だってそうじゃないか。だから、それで文句はまっぴらだよ、痛いとこはまったくピッタリ同じなんだからな」
「そんな話はやめといたほうがいいよ、トム」ショートはいった。「旦那に特別おもしろいといった話じゃないだろうからな」
「じゃ、そんな話をもちださなきゃいいんだ」コドリン氏はやりかえした。「だから、お前にかわって、おれが旦那におわびしとくよ、自分がしゃべってればご機嫌、ただしゃべってさえいたら、なにをしゃべったって気にもしない頭のいかれた男としてね」
招き主は、このやり合いのはじめに、ジーッとおしだまって坐り、なにかさらに質問をするか、話のはじめにもどっていくかの機会を待ち構えているように、一方の男からべつの男のほうに目をうつしていた。だが、コドリン氏が眠り癖で文句をつけられたところから、この議論に強い関心をあらわしはじめ、いま、その調子はグッと高まってきた。
「きみたちは、わしの望んでるふたりの男だ」彼はいった、「わしがさがし求めてたふたりの男なんだ! きみたちが話してるその老人と子供は、どこにいるんだい?」
「えっ?」モジモジし、仲間のほうに目をやりながら、ショートはいった。
「きみたちといっしょに旅行した老人とその孫娘のことだよ――ふたりはどこにいるんだい? 保証してもいい、話しても損にはならん。いや、信じられんほどのもうけになるだろう。ふたりは、きみたちの話では、その競馬場のとこで、きみたちからはなれていっちまったんだね。そこまでは探れたんだが、そこで|行方《ゆくえ》がわからなくなっているんだ。ふたりをつれもどすのに、なにか手がかり、これという手がかりはないのかね?」
「あのふたりの旅人は、たしかに、探索されてるって」ひどくびっくりして仲間のほうに向きなおりながら、ショートは叫んだ、「おれはいつもいってたろう?」
「お前が[#「お前が」に傍点]いっただって!」コドリン氏は応じた。「あのすばらしい娘っ子は、いままでみたこともないほど心ひかれる女って、いつもおれはいってたろう? あの娘を愛し、夢中になってる、とおれはいつもいってたろう? かわいい|娘《こ》だった。あの声がいまでも聞えてくるようだな。『コドリンはわたしのお友だち』感謝の涙をあのかわいい目からホロホロとこぼして、あの娘はいってたんだ、『コドリンはわたしのお友だち』こういってたよ――『ショートじゃなくてね。ショートはとてもいい人よ』彼女はいってたよ。『ショートと喧嘩なんかしてないわ。きっと、親切にしてくれるつもりですもん。でも、コドリンは』彼女はいったんだ、『そんなふうにはみえないけど、あたしの[#「あたしの」に傍点]お金のことを思ってくれてる人よ』ということさ」
ひどく興奮してこうした言葉をくりかえし、コドリン氏は鼻柱を上衣の袖でこすり、物悲しげに頭をふっていたので、このかわいい娘を見失ってから、彼の心の安らぎと幸福は消えてしまったものと、独身男は推測した。
「いや、驚いた!」部屋をグルグルと歩きまわって、独身男はいった、「この連中をとうとうみつけだしたのに、なんの情報も援助も得られない始末か! 期待がこうしてくだかれてしまうより、日々を期待につつまれて暮し、この連中に出会わなかったほうがまだましだったろう」
「ちょっと待ってくださいよ」ショートはいった。「ジェリーという名前の男――お前、ジェリーを知ってるな、トマス?」
「おお、ジェリーの話なんて、しないでくれ。あのかわいい娘のことを考えると、ジェリーなんて、もう問題じゃないんだ。『コドリンはあたしのお友だちよ』彼女はいってたんだ、『大好きな、やさしくて親切なコドリンは、いつも、わたしの心を楽しませようとしてくれてるのよ! ショートにはいやな気持ちはもってないけど』彼女はいってたよ、『コドリンが好きなの』一度は」考えこんでこの紳士はいった、「あの娘はコドリンの父さんとおれを呼んでくれたんだ。もう胸がいっぱい、はりさけそうになっちまったよ!」
「ジェリーという名前の男は」自分のことばかりいっている仲間から新しい知人のほうに向きなおって、ショートはいった「踊る犬の一座をもってる男なんですがね、たまたまフッとといったふうに、旅をしてるろう人形といっしょにいるあの老紳士の姿をみかけた、といってましたよ。あのふたりはおれたちんとこから逃げだし、それでどうということもないし、老紳士の姿がみかけられたのは、ズッといなかの奥だったんで、こちらではどうという手も打たず、べつにたずねもしなかったんですがね。でも、お望みだったら、それをすることはできますよ」
「そのジェリーという男、ロンドンにいるんかね?」独身男はイライラしてたずねた。「さあ、さっさといってくれ」
「いや、ロンドンにはいませんよ。でも、明日にはやってくるでしょう。同じ宿に泊るんですからね」さっさとショート氏は答えた。
「そうしたら、その男をここにつれてきてくれ」独身男はいった。「さあ、それぞれにソヴリン金貨(一ポンドの金貨)をやろう。きみたちのおかげであのふたりをさがしだすことができたら、この金はその二十倍もの金の前奏曲になるわけだ。明日、わしのとこに来てくれ。この問題は胸の中にたたみこんで、他言は無用――それはもうわかってるだろう。そうすれば、身のためにもなることなんだ。さあ、きみたちの宛て名を教えてくれ。それで失礼することにしよう」
宛て名は教えられ、ふたりの男は去り、群集は彼らのあとについていってしまった。独身男は、二時間のあいだ、スウィヴェラー氏とサリー・ブラース嬢のびっくりしている頭の上で、ふだんにない興奮状態で、部屋をあちらこちらと歩きまわっていた。
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C・ディケンズ (Charles Dickens)
(一八一二――一八七〇)イギリスを代表する作家の一人。法律事務所勤務、新聞の通信員などを経て作家の道に入る。『ディヴィッド・コッパーフィールド』『二都物語』『オリヴァー・トゥイスト』『クリスマス・キャロル』など多数の名作がある。
北川悌二(きたがわ・ていじ)
(一九一四――一九八四)東京に生まれる。東京大学卒業。東京大学教授を経て独協大学教授。訳書に『クリスマス・キャロル』他、ディケンズの作品多数がある。
本作品は一九七三年七月、三笠書房より刊行され、一九八九年九月、ちくま文庫に収録された。