ピクウィック・クラブ(中)
C.ディケンズ/北川悌二 訳
目 次
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第二十一章 この章では老人が好みの話題を話し、奇妙な依頼人についての話を語る
第二十二章 ピクウィック氏はイプスウィッチに旅行をし、黄色の毛巻き紙の中年の婦人を相手にロマンチックな冒険を味わう
第二十三章 この章では、サミュエル・ウェラー氏が自分自身とトロッター氏のあいだの再度の試合の準備に精力をそそぎはじめる
第二十四章 ピーター・マグナス氏が嫉妬心を燃やし、中年の婦人は不安になり、その結果、ピクウィック・クラブ会員たちは法律にふれることになる
第二十五章 さまざまな愉快なことのなかで、ナプキンズ氏がいかに堂々と公平であったか、ウェラー氏がいかにジョッブ・トロッターの激しい一撃に同様に激しい一撃を打ちかえしたかを示す。もうひとつのことは、いずれの場所で語ることにする
第二十六章 バーデル対ピクウィック訴訟の進行状態に関する簡単な話
第二十七章 サミュエル・ウェラーはドーキングへ巡礼に出かけ、義理の母親に出逢う
第二十八章 結婚の話とほかのスポーツをふくむ陽気なクリスマスの章。結婚といったりっぱな習慣でさえ、当今のなげかわしい時代には、それなりに宗教的にきちんと守られてはいないのだが
第二十九章 墓掘り男を盗み去った鬼どもの話
第三十章 ピクウィック・クラブ会員たちが医学生の好ましいふたりの青年と知り合いになり、彼らが氷の上でたわむれ、彼らの最初の訪問が終わるいきさつ
第三十一章 法律とそれに通じたさまざまの偉大な権威者についての話
第三十二章 バラの下宿でボッブ・ソーヤー氏によって開かれた独身者の会合を、法廷新聞記者よりもっとこまかに伝える
第三十三章 父親のウェラー氏は文学的作文に関していくつか批判的な意見を開陳する。そして息子のサミュエルに助けられて、赤っ鼻の牧師にたいして多少の復讐をする
第三十四章 バーデル対ピクウィック事件の記念すべき裁判の精細・誠実なる報告にすべて献げられた章
第三十五章 ピクウィック氏はバースにいったほうがよいと考え、それが実行にうつされる
第三十六章 この章の主な特徴は、ブラダッド王子伝説の本物の話とウィンクル氏の身にふりかかったじつに途方もない不幸
第三十七章 ウェラー氏の不在は、彼が招かれておもむいた夜会の話でりっぱに説明され、彼がピクウィック氏からむずかしい重要な個人的任務を授かったいきさつが語られる
第三十八章 ウィンクル氏はなべからとびだして、おとなしく気持ちよく火中にはいる
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ピクウィック・クラブ(中)
THE POSTHUMOUS PAPERS OF THE PICKWICK CLUB
第二十一章
[#3字下げ]この章では老人が好みの話題を話し、奇妙な依頼人についての話を語る
「ははあ!」その態度と外見を簡単に前の章の終わりのところで語った老人は言った、「ははあ! 四法学院のことを話してたのはだれですね?」
「わたしですよ」ピクウィック氏は答えた。「そこがなんて奇妙な古い場所だろうって言っていたんです」
「きみがか[#「きみがか」に傍点]!」軽蔑しきった態度で老人は言った、「若い連中があのわびしい部屋に閉じこもり、何時間も何時間も、来る夜も来る夜も、読みに読み、とうとう真夜中の勉強のために頭がおかしくなり、心の力が使いつくされ、朝の光が彼らに新鮮さも健康も与えなくなり、乾あがった古い本に不自然にも若さの精力を傾けたために、とうとう倒れてしまった時代のどんなことを、きみは[#「きみは」に傍点]知ってると言うのですかね? 後のとてもちがった時代にさがったとしても、肺病でだんだんと体をいためたり、熱病でさっさとやられてしまったこと――生命と放蕩のすばらしい結果――あの同じ部屋で人々が経験したことのどんなことを、きみは[#「きみは」に傍点]知ってるのですかね? 慈悲をねがってもだめだった連中が、どれだけ胸をムカムカさせて弁護士の事務所から出ていき、テムズ川にいこいの場所を見つけ、監獄に逃避所を求めたと思うのですかね? あの法学院はふつうの家とはちがうんです。あの古い羽目板のどの一枚だって、しゃべる力と記憶力を与えられたら、みんな壁からとびだし、その恐怖の話――人生のロマンス、いいかね、人生のロマンスを語って聞かせてくれるでしょうよ! いまはありきたりに見えるかもしれないが、ほんと、あそこは奇妙な古い場所、あの古い部屋部屋のじっさいの歴史を聞くより、おそろしい堂々とした名前のついた伝説でもたんと聞いたほうが、まだましなくらいですね」
老人が急に勢いよく話し出したその話しぶりと、それを引きだした話題にはなにか奇妙なものがひそんでいたので、ピクウィック氏は返事に窮してしまった。老人はその激しい勢いを抑え、いままでの興奮で消えてしまった流し目をまたとりもどして、つぎのように語りだした――
「四法学院をべつの角度から見てごらんなさい――あのじつにありきたりな、ロマンチックとはどうしても言えない面をね。緩慢な拷問のじつにみごとな場所なんですよ! パン一切れも与えてはくれない職業にはいろうとして、全財産をすり減らし、乞食の身分になりさがり、友人のものをかっぱらった貧乏人のことを考えてみなさい。待ってること――期待――失望――懸念――みじめさ――貧困――期待に投げる暗い影と成功の見こみの終末――おそらくは自殺か、うらぶれただらしのない飲んだくれ。彼らについて、わたしの言うことが当たっていないでしょうか?」老人は手をこすり、自分の好きな話をするのにべつの見方を見つけだしたのをよろこんでいるように、横目を使った。
ピクウィック氏は好奇心満々といったふうにこの老人を凝視し、一座のほかの人たちは、ニヤリとし、だまったまま、ながめつづけていた。
「ドイツの大学の話なんて」小男の老人は言った。「ちぇっ、ちぇっ! 半マイルも歩いていかなくったって、イギリスにもロマンスはたんとあるんですよ。人がただそれを考えないだけのことです」
「こうした話題のロマンスなんて、たしかに考えたことは一度もありませんね」笑いながらピクウィック氏は言った。
「たしかにそうでしょうね」小男の老人は言った、「もちろん、そうですとも。わたしの友人がいつもわたしに『部屋に特別などんなものがあるんだい?』と言ってたようにね。『妙な古い場所だよ』わたしは言ったんです。『とんでもない』と彼は応じたんです。『さびしいとこだ』わたしは言ったんです。『そんなことはあるもんかね』彼は答えましたよ。ところが、ある朝、外のドアを開けようとしたとき、彼は卒中で死んじまいました。自分の手紙箱の中に頭をつっこんで倒れ、一年半のあいだ、そこに倒れたまんまだったんです。みんなは彼がいなかにいっているもんと思ってたんですからな」
「最後にどうして見つかったんです?」ピクウィック氏はたずねた。
「法学院の幹部は、彼が二年間家賃を払ってないんで、彼のドアをこじ開けようと決め、それを実行したんです。錠をこじあけると、青い上衣、黒い半ズボンと絹衣をまとったほこりでひどくよごれた骸骨がドアを開いた門番の腕の中に倒れかかってきたんです。これは奇妙なこと、そうとう奇妙なことでしょうが?」小男の老人は前よりもっと頭をかしげ、得も言えぬ満悦ぶりで手をこすった。
「もうひとつの事件を知ってますよ』彼のくすくす笑いがある程度おさまったとき、小男の老人は言った。「それはクリフォード・イン(四法学院のひとつインナー・テムプルに合併された建物)で起きたことなんですがね。天井部屋の住人――わるい男でしたがね――は自分の寝室の押し入れに閉じこもり、|砒素《ひそ》を一服飲んだんです。支配人は彼が夜逃げしたものと思いこみ、ドアを開いて、貸し部屋のはり札を出しました。べつの男がやってきて、部屋を借り、家具をもちこんで、そこに住みこみました。とにかく、彼は眠ることができず――いつもいらいらして、気分がよくなかったんです『奇妙なことだ』彼は言いました。『べつの部屋をおれの寝室にし、ここは、居間にすることにしよう』彼は部屋変えをし、夜はよく眠れたんですが、なんだか夕方になると本が読めなくなることに、ハッと気づきました。彼は神経質になり、気分がわるくなって、いつもろうそくの芯を切り、いつもあたりを見まわしてました。ある夜、芝居から帰り、うしろにだれかいると空想しないようにと、背を壁に向けて冷酒を一杯やりながら、『こいつはわからん』と彼は言いました――『こいつはわからん』彼は言いました。ちょうどそのとき、そのときまでいつも錠がかけられていた押し入れに目がとまり、ゾクッと悪寒が頭から爪先まで走ったんです。『この奇妙な感じは前にも感じたことがあるな』彼は言いました、『あの押し入れになにかまずいことがあると考えずにはいられないぞ』彼は大努力を払い、勇気をふるいおこし、火かき棒で一度か二度たたいて錠前をこわし、ドアを開けてみると、そこにたしかに、手にしっかりと小さなびんをにぎって、前の住人が隅でまっすぐな姿勢をして突っ立っていたんです。その顔は――まあ、やめときましょう」小男の老人が話をやめたとき、彼はおそろしいよろこびの微笑を浮かべながら、驚いている聴衆のひたむきな顔をながめまわした。
「あなたが話してくださったことは、じつに奇妙な話ですね」眼鏡の力を借りて、老人の顔を子細に見ながら、ピクウィック氏は言った。
「奇妙だって!」小男の老人は言った。「バカな。なんにも知らないから、それを奇妙だなんて言うんですよ。おかしなことではあれ、べつに珍しいもんじゃないんですからな」
「おかしいですって!」われ知らずピクウィック氏は叫んでしまった。
「うん、おかしいもんではありませんかね?」おそろしい流し目を送って、小男の老人は答え、それから、返事を待たずに、語りつづけた――
「もうひとりの男を知ってましたよ――そう――いまから四十年前になりますな――彼は何年間も何年間も閉められ空き家になってたいちばん古い|住宅《インズ》のうちのひとつで一組の古い、湿っぽい、くさった部屋を借りたんです。その場所にはたくさんの老婆物語がまといつき、たしかに義理にも明るい部屋とは言えませんでしたね。が、彼は貧乏で、部屋代は安く、たとえ部屋が十倍もひどいものであったとしても、安いのが、彼にはありがたいことだったんです。彼はそこにあったくずれかかった用品を使うことになったんですが、その中に大きな、ぶざまな木製の紙の圧搾機があり、大きなガラスの扉と内側に青いカーテンがついてました。これは、彼にとって、まあ用のないものだったんです。そこに入れる紙といってべつになく、服はと言えば、着たきり雀で、べつに面倒なことではなかったんですからね。さて、彼は自分の家具ぜんぶを入れ――それは運搬車に乗せるほどのものでもなかったんです――それを部屋にまき散らし、四つの椅子をできるだけ六つに見えるようにして、夜炉の前に腰をおろし、借りで注文した二ガロンのウィスキーの最初の一杯をチビチビやりながら、その代金が払えるものかどうか、払えるとしたら、何年かかるだろうなんて考えていたんですが、そのとき、彼の目が木製の圧搾機のガラスの扉にとまったんです。『ああ』彼は言いました。『あのきたない品物を老ブローカーの値踏みどおり受けとらなければならなくなったが、そうでなかったら、その金でなにか気持ちのいいものを買うことができたろう。それがどんなものか教えてやろうか、きみ?』ほかに話しかけるものはなにもなかったので、その圧搾機に話しかけて、彼は言いました。『きみの老いぼれた体をぶっこわすほうが、そのままの値打ちよりもっと安あがりだったら、すぐにお前を燃して火にするところなんだがな』彼がその言葉をしゃべるかしゃべらないかに、かすかなうめきに似た物音がその入れ物の奥からしてきたようでした。それは最初彼をびっくりさせはしたものの、ちょっと考えて、それは夕食をしている隣部屋の若い男であるにちがいないと思いなおし、彼は炉格子に足をのせ、火かき棒をとりあげて、火をかきおこそうとしました。その瞬間、例の音はくりかえされ、ガラスの扉がゆっくりと開いて、きたないすり切れた服装をした青ざめやつれた男がその圧搾機の中に突っ立っている姿があらわれてきました。その男は背が高くて痩せ、顔は心配と不安をあらわしていましたが、肌の色と、姿ぜんたいのやつれてこの世のものならぬようすには、この世の者がもっていないなにかがありました。『きみはだれだね?』真っ青になりながらも、手に火かき棒をもち、その姿の顔に当たるところにそれとねらいをつけて、新しい借家人は言いました。『きみはだれだね?』。『その火かき棒をわたしに投げないでください』姿は答えました。『どんなにしっかりねらいをつけて投げようと、それはなんの抵抗も受けずにわたしの体をとおりぬけ、うしろの木にぶつかるだけのことですから、わたしは亡霊なんです』。『そして、ここになんの用事があるんだね?』どもりながら借家人は言いました。『この部屋で』化け物は答えました、『この世のわたしの破滅が起こり、わたしと子供たちは、乞食の状態になりさがったんです。この圧搾機のなかに、何年間もたまった、ながい、ながい訴訟の書類がおかれてあったんです。わたしが悲しみとながく引きのばされた希望で死んだとき、この部屋で、ふたりのずるい強欲な男たちが、わたしがみじめな生涯のあいだ争い、ついには不幸な子供たちのためにびた一文ものこらなくなってしまった財産を山わけしたんです。わたしは彼らをふるえあがらせてここから追い払い、その日以来、夜になると――それはわたしがこの世を再訪できる唯一の時間なんですが――わたしはながいあいだ苦労をなめた場所をうろつきまわっているのです。この部屋はわたしの部屋ですから、わたしにかえしてください』。『もしきみがここにあらわれると言い張るなら』亡霊のダラダラとした話のあいだに心の落ち着きをとりもどすことができた借家人は言いました、『わたしはよろこんで所有権は放棄するよ。だが、もしよかったら、ひとつだけきみにたずねたいんだがね』。『さあ、言ってください』きびしく化け物は言いました。『そう』借家人は言いました、『わたしの言うことは、あながちきみに当てて言ってるのではないんだけどね。というのも、それは、同じように、たいていの亡霊にも当てはまることなんだからね。だが、この地上でいちばん美しい場所を訪問する機会に恵まれていながら――空間はきみたちにとって問題じゃないんだからね――きみたちはいつもいちばんみじめな生活をした場所にばかりもどろうとしているのは、わたしに、なんだかおかしなことに思えるんだ』。『まったく、そのとおりですね。いままでそんなことは考えてもみませんでした』亡霊は答えました。『ねえ、きみ』借家人は言いました、『ここはじつに住み心地のわるい部屋だよ。その圧搾機のようすから見ても、そこに南京虫がいないわけではないだろう。とても不快なロンドンの気候は言わずもがな、もっとずっと気分のいい場所も見つかるものと、わたしは本当に思ってるんだがね』。『まったくあなたのおっしゃるとおりですな』|殷懃《いんぎん》に亡霊は言いましたよ、『いままでぜんぜん気がつきませんでしたね。すぐに転地を考えることにしましょう』事実、こう言っているうちに、彼は消えはじめ、脚はもう見えなくなっていたんです。『もし』亡霊のあとに呼びかけて、借家人は叫びました、『もしきみが親切にも、空き家に出没しているほかの紳士淑女たちにほかの場所のほうがもっと快適だと教えてやったら、きみは社会に大きな貢献をすることになるだろうよ』。『やってみましょう』亡霊は答えたんです。『われわれは鈍感、とても鈍感ですな。どうしてそんなにバカだったのか、見当もつきませんよ』こう言って、亡霊は姿を消してしまったんですが、ここで注目すべきことは」テーブルのまわりに抜け目のない目をグルリと送って、老人は言いそえた、「亡霊が二度ともどって来なかったことです」
「もしそれが事実だったら、まんざらでもない話だね」新しい葉巻きに火をつけながら、モザイク模様の飾りボタンの男は言った。
「もし[#「もし」に傍点]だって!」ひどい軽蔑の表情を浮かべて、老人は叫んだ。「わたしは思うね」ラウテンのほうに向きなおって、彼は言いそえた、「彼はつぎには言うだろうね、わたしが弁護士の事務所にいたときの奇妙な依頼人の話も本当のことではないとね――きっとそう言うよ」
「話はまだ聞いていないんですからね、それについてはまだなんとも言えませんよ」モザイク模様の飾りの持ち主は言った。
「それをもう一度話してください」ピクウィック氏は言った。
「ああ、そうしなさい」ラウテンは言った、「わたし以外には、だれもその話を聞いたことがないんだからね。わたしだって、ほとんど忘れちまったよ」
老人はテーブルをグルリと見わたし、みなの顔に描き出されている好奇心に、さも勝ち誇ったふうに、前よりもっとひどい流し目を送った。それから手を顎でこすり、事情を思い起こそうとしているように、天井を見あげて、つぎのような話をしはじめた。
奇妙な依頼人に関する老人の話
この簡単な話をどこで、どうして聞いたのか、それはほとんど重要なことじゃありませんよ。それがわたしの耳にはいった順で話すことになったら、話は中途からはじまり、終わったとこで、序の口の話にもどらなければならなくなるでしょう。話の情景の一部はわたし自身の目の前で起きたことだと申せば、それで十分でしょう。のこりの部分は、起きたことをわたしが知っていて、それをよーく憶えてる人がまだ何人か生きのこっているんです。
聖ジョージ教会のすぐ近く、バラ大通りの同じ側に、だれでも知ってるように、負債者監獄のうちでいちばん小さいマーシャルシー監獄が立ってます。後にそれは以前のよごれとほこりの掃きだめとは大ちがいなものになりはしたものの、その改善された事情だって、浪費家にはまず魅力的なものとは言えず、節約心のない者の心をなぐさめるものではありませんな。ニューゲイト監獄にいる兇悪犯罪人だって、マーシャルシー*監獄の破産した負債者と同じくらい、空気を吸い運動をする庭をもってるんです。
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(*) 同じというよりもっといいもの、よりよき時代のいまとなっては、これは過去の物語になり、その監獄はもはや存在していない。
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これはわたしの空想かもしれず、また、その場所をそれと結びつく古い連想と切りはなしては考えられないためかもしれませんが、わたしはロンドンのこの地区には我慢ならんのです。通りはひろく、店も大きく、とおる車の物音、たえずゆきかう人の流れの足音――交通のあわただしい物音すべてが、そこでは朝から晩まで鳴りひびいてますが、そのあたりの街路はみすぼらしく、むっとし、貧乏と放蕩が人の入りこんだ小道にうみを流して横たわり、欠乏と不幸がせまい監獄に閉じこめられてます。陰惨と味気なさの雰囲気が、少なくともわたしの目には、その情景におおいかぶさり、それにきたないムカムカする色彩をそえているように思えるんです。古いマーシャルシーの監獄の門をはじめてくぐったときには、とっくのむかしにもう墓の中で目を閉じてしまってる多くの目は、そのあたりを軽い気持ちで見まわしてました。不幸の最初のきびしい一撃とともに絶望がやってくるというのは、めったにないことだからです。人はまだためしたことのない友人たちに信頼をよせ、用のないときに、愉快な飲み友だちから、世話はしてやるよ、と何回も言われたことを憶えてるからです。彼は希望――経験知らずの幸福な希望をもち、最初の一撃でどんなに衝撃を受けても、希望はすぐに胸にわきおこり、しばらくのあいだ、燃え立ってるんですが、それは、失望と無視という暗い影のもとで、すぐ生気を失ってしまいます。負債者が解放の希望もなく、自由の見とおしもなく監獄でくさっていくという言葉が、比喩ではなく、文字どおりの事実だった当時、なんとすぐ深くくぼんだ同じあの目が、食事のとぼしさにやつれ、ここに閉じこめられているために黄色になった顔から、ギラギラと気味のわるい光を発するようになったことでしょう! そうしたひどいむごさは、いまは存在してませんが、そのなごりは十分にのこっていて、血を凍らす事件がときどき起きてるんです。
二十年前、あの舗道は母親とその子供の足ですりへらされていました。彼らは、毎日毎日、朝がやってくるとともに、監獄の門に姿をあらわし、ときには落ち着きのないみじめな思いと不安な物思いの一夜をすごしたあとで、まるまる一時間も早くそこに着き、そうしたときには、若い母親はおとなしく|踵《きびす》をかえして、少年を古い橋のところにつれていき、両腕に彼をだいて、朝の太陽の光に染められ、川がその早い時刻に示す仕事と悦楽のあわただしい準備でゆれ動いているきらめく|水面《みなも》を彼に示し、目の前の物に彼の思いを吸いつけようとしていました。だが、彼女はすぐに彼をおろし、ショールに顔をかくして、目を暗くする涙を流してしまったのです。関心をもち、おもしろがっているどんな表情も、彼の痩せた病的な顔を明るくはしなかったからです。彼の思い出といったものは、そうたくさんはありませんでしたが、それは同じ種類のものばかり、両親の貧困とみじめさに結びつけられたものばかりでした。来る時間も来る時間も、彼は母親の膝の上に坐り、子供らしい同情心で母親の顔を流れる涙をジッとながめ、それからそっと暗い片隅にはっていって、泣きながら眠りこんでしまったんです。多くの最悪の苦痛――飢えと渇き、寒さと貧困――をもったこの世の苦しい現実が、物心ついた最初のときから、彼につきまとい、姿こそ子供ではあったものの、子供の明るい心、陽気な笑い、キラキラ輝く目はもう消え失せてました。
父親と母親は、口にこそ出しませんでしたが、苦悩の思いでこれをながめ、たがいに顔を見合わせてました。活動的などんな動きの疲労にも負けなかったはずの健康でたくましい男は、しっかりと閉じこめられ、人いきれのする監獄のムカムカする雰囲気の中で、体をやつれされていました。ほっそりとしたたおやかな女は、肉体的と精神的な病苦のもとで、ぐったり倒れそうになっていたんです。子供の幼い心はくだけそうになっていました。
冬とともに、何週間もつづく寒さとひどい雨がやってきました。あわれな女は夫が投獄されている場所の近くのみすぼらしい部屋にうつってきましたが、この変化は増大する貧困のために必要になったこととはいえ、彼女は前より幸福になってました。夫のそば近くにやってきたからです。二か月のあいだ、彼女と彼女の小さな子供は、いつものとおり、門の開くのをながめてました。ある日、はじめて、彼女は姿をあらわしませんでした。つぎの朝がやってきたとき、彼女の子供は死んじまったんです。
このあわれな男の損失を死んだ者にとっては苦痛からの幸福な解放、生きのこった者にとっては慈悲深い出費の減少と冷淡に語ってた連中――彼らは、たしかに、こうした損失の苦悶がどんなものかをぜんぜん知ってはいないんです。ほかの目が冷やかにそむけられたときの愛情と尊敬のもの言わぬまなざし――すべてほかの者がわれわれをすて去ったとき、ひとりの人間の同情と愛情を確保しているという意識は、深い苦悶の中にあって、どんな富もあがなえず、どんな力も授け得ない手がかり、支え、楽しみとなるものなんです。子供は両親の足もとに何時間もぶっつづけに両手を組んで坐り、痩せて青ざめた顔をふたりのほうにあげていたんです。両親は彼が日ごと日ごとにやつれていくのを見ていました。彼の短い一生は楽しみのないもの、彼はいま、子供ながらもこの世では味わえなかったあの平和といこいの場所にうつされたのですが、ふたりは少年の両親、その損失はふたりの魂に強い深い印象を与えました。
母親の変わり果てた顔をながめた者の目には、死が間もなく逆境と苦痛の場所を閉ざしてしまうにちがいないということは明らかでした。夫の仲間の囚人たちは彼の悲しみと不幸に立ち入るのを遠慮し、以前にはふたりの仲間といっしょにいた部屋を、彼だけに与えていました。彼女はそこに夫といっしょに住み、苦痛もないかわりに希望もなくそこにいて、彼女の生命はゆっくりと消えていきました。
彼女は、ある夕方、夫の腕の中で気を失い、外の空気で彼女の意識を呼びもどそうとして、彼は彼女を開いた窓のところに運んでいきましたが、そのとき、月の光が彼女の顔にさしかかり、彼女の顔の変化を彼に示し、そのため、彼は、まるで力のない子供のように、彼女の重みのもとでヨロヨロッとよろめきました。
「ジョージ、わたしを下におろしてちょうだい」彼女はかすかな声で言いました。彼はそのとおりにし、彼女のわきに坐りこんで、両手で顔をおおい、わっと泣きくずれました。
「ジョージ、あなたとお別れするのはとてもつらいことよ」彼女は言いました、「でも、それは神さまのご意志、あなたは、わたしのためにも、それを堪えてゆかねばなりません。おお、坊やをお召しになったのは、なんとありがたいこと! あの子はいま幸福で、天国にいるのです。坊やがいたら、母親をなくして、ここであの子はどうすることでしょう!」
「お前は死なせるものか、メアリー、お前は死なせるものか!」とびあがって、夫は言いました。彼は拳を固めて頭をたたきながら、あわただしく部屋をあちらこちらと歩きまわり、それからふたたび彼女のわきに坐って、彼女を両腕にだきかかえ、もっと冷静になって「お前、元気を出すんだよ。どうか、どうか、元気を出しておくれ。まだ元気になる見込みはあるのだからね」と言いそえました。
「ジョージ、もうだめ、もうだめなの」臨終の女は言いました。「わたしをあのあわれな坊やのわきに埋めてちょうだい。でも、もしあなたがこのおそろしい場所から出ていって、お金持ちになるようなことになったら、わたしたちが静かに休めるようなどこか遠い、遠い――ここから遠くはなれた静かないなかの教会の墓地にわたしたちふたりをうつしてくださることを約束してちょうだい。ジョージ、そうしてくださることを約束してちょうだい」
「約束するよ、するよ」激情に圧倒され、彼女の前にがっくりとひざまずいて、男は言いました。「メアリー、もう|一言《ひとこと》話しておくれ、一言でも――たった一言でも!」
彼は言葉を途切らせました。彼の首にまきついていた腕がかたく、重くなったからです。深い溜め息が彼の目の前のやつれた姿からもれ、唇が動き、微笑が顔にただよいましたが、その唇は青ざめたもの、その微笑はこわばったおそろしい凝視に変わっていきました。彼はこの世で、たったひとりぼっちの身になったのです。
その夜、みじめな部屋の沈黙とわびしさの中で、このあわれな男は妻の死体のわきにひざまずき、神をおそろしい誓いの証人にしました。それは、その瞬間から、妻の死と子供の死の復讐に献身するという誓い、それから以後彼の命が絶える最後の瞬間まで、自分は全精力をこのひとつの目標にそそぐという誓い、自分の復讐は長期にわたり、おそろしいもので、この憎悪は不滅で消し得ぬもの、全世界を股にしても、その目的は追求するという誓いでした。
その一夜のうちに、このかぎりなく深い絶望と人間のものとも思えぬ怒りは、彼の顔と姿をすっかり変えてしまい、彼がわきをとおると、彼の不幸の仲間は、おそれをなして彼からはなれていってしまいました。彼の目は血走ってむくみ、顔は真っ青になり、体は齢をとったようにまがってしまいました。彼は激しい心の苦悩で下唇をほとんど噛みきり、その傷口から流れ出た血は、彼の顔をしたたり落ち、シャツとネッカーチーフをよごしていました。涙も苦情の言葉も、彼からはもれませんでした。しかし、落ち着きを失ったまなざしと内庭を歩きまわる乱れたあわただしさは、心の中で燃え立っている熱病を物語ってました。
時をうつさず、彼の妻の死体は監獄から運びださなければなりませんでした。彼はその通知をとても冷静に受けとめ、その妥当さを素直に認めました。この移送を見るために、監獄の住人はほとんどみな集まり、男やもめになった彼が姿をあらわしたとき、両側にさっとさがりました。彼はせかせかと歩いてゆき、門の近くの小さな柵をつけた場所にただひとりで立ってましたが、そこは群集が、本能的な礼儀感で、彼のために空けておいた場所でした。粗末な棺は男たちの肩に乗せられてゆっくりと運びだされました。シーンとした静けさが群集のあいだにひろがり、それは女たちの嗚咽と棺を運んでいる人たちが石だたみの上に足をひきずる足音で乱されるだけでした。彼らは妻を失った夫が立ってる場所に着き、そこで足をとめました。彼は棺の上に片手を乗せ、それがおおわれている棺衣をただ機械的になおしただけで、彼らに進んでゆくようにと、身ぶりを示しました。それがとおりぬけていくとき、監獄のロビーにいた看守たちは脱帽し、つぎの瞬間に、重い門は、それが出ていったあとで、ガチャリと閉ざされました。彼はうつろな目で群集を見わたし、ドシンと地面に倒れてしまいました。
この後何週間ものあいだ、熱病の激しいうわ言を言いながら、彼は夜も昼も監視されていましたが、彼の損失の意識と自分の立てた誓いの記憶は、一刻のあいだも彼の心から消えてはいませんでした。一時的な精神錯乱のあわただしさで、場面は彼の目の前でぐんぐんと変わり、場所につぐ場所、事件につぐ事件とうつっていったのですが、それはみな、なんらかの関係で、彼の心の中にいだいている大きな目的と結びつけられてました。彼は、頭上には血のように赤い空がひろがり、下では、四方八方に湧き立ち、渦をまいて、すごい勢いでかき立てられているかぎりなくひろがる海の上を航海してました。吠えるあらしの中で骨を折り苦労しているべつの船があり、帆布はズタズタになってマストの上ではためき、そこのデッキには、舷側にたたきつけられた人が群らがり、そこを越えて大きな波が一瞬ごとにおそいかかり、幾人か犠牲者があわ立つ海に流されていきました。吠える水のかたまりの|最中《さなか》で、このふたつの船は、なにも抵抗できぬほどの速さと力でぐんぐんと進んでいき、うしろの船は前の船の船尾にぶつかり、竜骨の下にそれをおしつぶしてしまいました。沈みかけている難破船がひきおこした大きな渦の中から、大きな|甲高《かんたか》い悲鳴がわきおこり――百名のおぼれかけている人たちの死の叫びは、入りまじって、ひとつの激しい喊声になってました――その悲鳴は雨風のときの声よりひときわ高く鳴りひびき、こだまして、空気・空・海をつんざくように見えました。だが、あれはなんだったのでしょう――水面の上に浮かび、苦悶のようすをし、助けを求める悲鳴をあげ、波と戦っているあの老いた灰色の頭は! それを一目見て、彼は船の舷側からとびおり、たくましく水をかいて、そこに向けて泳いでいきました。彼はそこに到着し、そこに近づきました。それはあの男の顔でした。老人は彼が近づいてくるのをながめ、彼につかまるのを避けようとしましたが、むだでした。彼はしっかりと老人をつかまえ、彼を水の下に引っぱっていきました。下に、下に、彼といっしょに五十ひろさがっていきました。老人のもがきはだんだん弱まり、とうとうそれは完全にとまりました。老人は死んだのです。彼は老人を殺し、その誓いを守ったのです。
彼は素足でただひとり、大砂漠の焼けつく砂の上を歩いてました。砂は彼の息をつまらせ、目を盲にしました。その細かな薄いつぶは肌の毛穴という毛穴にはいりこみ、気がくるわんばかりに彼をいらいらさせました。同じ砂の巨大なかたまりが風に運ばれ、燃える太陽に光をとおされて、燃える火の柱のように、遠くをとおりすぎていきました。このわびしい荒野で死んでいった人たちの骨が彼の足もとに散らばってました。おそろしい光がまわりのすべてのものの上に投げられてました。目のとどくかぎり、示されているものは、ただ恐怖と戦慄の対象となるものだけでした。舌が口に吸いついてしまいながらも、無益に恐怖の叫びをあげようとして、彼は狂気のように前方に突進していきました。超自然的な力に武装されて、彼は砂原を横切って進み、とうとう疲労と渇きでクタクタになり、意識を失って倒れてしまいました。なんという気持ちのいい涼しさが彼の生気をよみがえらせてくれたことでしょう! 噴出するあの物音はなんだったのでしょう? 水だったのです! それは本当に泉で、澄んだ水の流れが、彼の足もとを流れていました。彼はそれを腹いっぱい飲み、土堤の上に痛む手足を投げだして、快適な恍惚状態に沈んでいきました。近づく足音が彼の夢をさましました。灰色の髪をした老人がよろめいて進み、燃える喉の乾きをうるおそうとしました。また、あの男[#「あの男」に傍点]だったのです! 彼は両腕を老人の体にまきつけ、彼を抑えつけました。老人はもがき、水、自分の命を救うために一滴の水を叫び求めました! だが、彼は老人をしっかりと抑えつけ、食い入るような目で老人の苦悶を見守っていました。そして生命の失せた老人の頭ががっくりと胸の上にうなだれたとき、彼は足でその死体を自分のところから向こうに転がしました。
熱病が去り、意識をとりもどしたとき、彼が目をさますと、自分が金持ちになり、自由の身になっているのを発見しました。彼が牢獄で死ぬのをそのままほっておいたであろう親――自分自身よりもっともっと彼にとって大切だった人たちを薬では癒やすことのできぬ貧乏と心の病気で死なせてしまった親――が羽根布団の中で死んでいるのが発見されたのでした。この父親は自分の息子を乞食にしておく気持ちは十分にもっていましたが、自分の健康と力強さを誇って、それを実行にうつすのを時すでにおそしというときになるまで延期し、その怠慢が息子にのこした富を考えて、あの世でいまごろ歯ぎりしをしているのかもしれませんでした。彼は目をさましてこのことを知り、それ以上のことを知りました。すなわち、自分の生きてゆく目的を思い出し、それは、自分の敵が妻の父親――彼を監獄に投げこみ、彼の娘と孫が彼の足もとにひざまずいて慈悲を求めたとき、彼らを家から追い払った人物――であるのを忘れずにいることでした。おお、復讐の計画で自分が立ちあがって活動するのを抑えてしまっている自分の体の弱さを、彼はなんとのろったことでしょう!
彼は損失とみじめさの場面から運び出され、海岸の静かな住まいにうつされましたが、それは、心の平和と幸福を呼びもどすためではありませんでした。そうしたものは、永遠にとび去ってしまったものだったからです。そうではなく、それは弱った体力を回復させ、彼の念願の目的について思いをこらすためでした。ここである悪霊が彼の最初の、もっともおそろしい復讐の機会を彼に与えることになりました。
ときは夏でした。暗い物思いにつつまれて、彼はよく夕方早く孤独の住まいからとびだし、絶壁の下の細い小道ぞいにブラブラと歩いて、散歩中に彼の好みの場所になった荒涼としたわびしい場所にゆき、くずれ落ちた岩のかけらに腰をおろし、両手に顔を埋めて、そこに何時間もいつづけ――それは、ときどき、日がとっぷりと暮れ、頭上のおそろしい絶壁のながい影が彼の近くのものすべてに濃い黒い暗闇を投げるときまでつづきました。
ある静かな夕方のこと、彼はいつもの姿勢でここに坐り、ときおり頭をあげて、かもめ[#「かもめ」に傍点]が群れをなしてとんでゆくのを見守り、海の真ん中のあたりからはじまって、太陽が沈んでいるちょうどそのきわまでつづいているように見えたキラキラと輝く|真紅《しんく》の小道に目を走らせていましたが、ちょうどそのとき、そこの深い静けさは、助けを求める大きな人声に破られました。それをたしかに聞いたのかどうかたしかめようと、耳を澄ませていたとき、その叫びは前にもます激しさでくりかえされ、彼はパッと立ちあがって、その声のする方向に足を急がせました。
事情はすぐにそれとわかりました。幾枚かのぼろぼろの服が海岸に放りだされ、人間の頭が岸から少しはなれた波間にちょっと見えていました。そして、老人がひとり、苦悶で両手をしぼりながら、あちらこちらに走りまわり、助けの声をあげていたのです。いまはもう力が十分に回復していた病人は上衣をぬぎすて、海に向かって突進し、そこにとびこんで、おぼれかけている男を岸につれてこようとしました。
「おねがいです、急いでください。どうか助けてください、助けてください。あれはわたしの息子、ただひとりのわたしの息子です!」彼のところにやってきたとき、老人は狂気のように言いました。「ただひとりのわたしの息子で、父親の目の前で死にかけているんです!」
老人の最初の言葉を耳にしたとき、そこにとんできた見知らぬ男は急に立ちどまり、腕組みをして、ジッと立ちつくしていました。
「いやあ!」とびさがって、老人は叫びました。「ヘイリングだ!」
見知らぬ男はニヤリとし、なにも言わないで立っていました。
「ヘイリング!」激しい勢いで老人は叫びました。「わたしのせがれなんだ、ヘイリング、わたしの愛するせがれなんだ、見ろ、見ろ!」あえぎながら、あわれな父親は若い男がもがいている場所をゆびさしました。
「ほれ!」老人は叫びました。「また叫んだぞ。まだ生きているんだ。ヘイリング、彼を救ってやってくれ、彼を救ってやってくれ!」
見知らぬ男はまたニヤリとし、像のように身じろぎもしませんでした。
「お前にはひどいことをした」ひざまずき、両手をしっかりとにぎり合わせて、老人は悲鳴をあげました。「復讐するがいい。わたしのすべて、わたしの命をうばうがいい。わたしを足もとの海に投げこむがいい。もしもがくのを抑えることができたら、わたしは手も足も動かさずに死んでゆこう。それをするがいい、ヘイリング、それをするがいい。だが、わたしの坊やは救ってやってくれ。彼はまだ若く、ヘイリング、死なすにはまだ若すぎるのだ!」
「よーく聞け」老人の手首をすごい勢いでにぎって、見知らぬ男は言いました。「わたしは命にたいして命をもらうのだ。これでひとつ。わたしの[#「わたしの」に傍点]子供は、父親の目の前で、妹のことを悪しざまにののしっていたあの若い男がこうして話しているあいだに味わっている死よりはるかにもっと苦しいつらい思いをして、死んでいったのだ。あのとき、お前は笑った――死がもうおとずれかけている娘の面前で、われわれの苦しみをあざけり笑ったのだ。いまその苦しみをどう思うかね? あそこを見ろ、あそこを見ろ!」
こう言いながら、見知らぬ男は海をゆびさしました。かすかな叫びが海面で消え、おぼれている男の最後の力をふりしぼったあがきが、数秒間、海面に波紋をまきおこし、彼が若い身空で墓に沈んでいった場所は、あたりの水とぜんぜん区別できないものになりました。
* * * * *
[#ここで字下げ終わり]
それから三年たったある日、ひとりの紳士がロンドンのさる弁護士の家の前で個人用の馬車からおりてきて、重要なことがらで彼と直接面会したい、と申しこみましたが、この弁護士は、そうとうあくどいそのやり口で、よく知られている人物でした。この紳士がまだ壮年をすぎてはいないことは明らかでしたが、彼の顔は青ざめ、やつれ、がっくりしていて、倍の時間をかけて時の手だけでするよりももっと、病気か苦悩が彼の顔の形を変えていたことを一目でさとるためには、べつに弁護士の鋭い目を必要とはしませんでした。
「法律的なある仕事をあなたに担当していただきたいんですがね」見知らぬ男は言いました。
弁護士はへいこらして頭をさげ、紳士が手にしている大きなつつみをチラリと見やりました。客はその視線をながめて、話をつづけました。
「これはありきたりの仕事ではありません」彼は言いました。「また、この書類がわたしの手にはいったのも、ながい苦労と多大の出費を重ねたあとのことなのです」
弁護士は、前にもます注意をこめて、つつみをながめました。客は結んでいたひもを解き、たくさんの約束手形、証文の写し、ほかの書類を示しました。
「この書類にもとづいて」依頼人は言いました、「そこに名前が記載されている人物は、おわかりのように、この何年間か、たくさんの金を集めたんです。彼とこの書類がもともと手わたされていた人たちのあいだには――そうした人たちの手から、わたしは逐次名義上の値の三倍と四分の一の金を払って、そのぜんぶを買いとったのですが――無言の了解があり、この貸しつけは、ある定められた時期が経過するまで、ときどき改訂されることになっていました。そうした了解はどこにも示されてはいません。彼は最近損失を何回か重ね、この負担が一度に彼の上に積み重ねられたら、彼は倒産してしまうことでしょう」
「金額は何千ポンドという金額ですな」書類を見わたして、弁護士は言いました。
「そうです」依頼人は答えました。
「われわれはどうしたらいいのです?」弁護士はたずねました。
「どうしたらですって!」急にかっとなって、依頼人は答えました。「法律のあらゆる手管、工夫とわるだくみをこらして考えられるあらゆる手段、正しい手段であろうと不正な手段であろうと、法律のこのうえない陰険な商売人が考えられるあらゆる方法を総動員して、法律上の公然の圧迫を加えてください。あの男には苦しい、ながい死を味わわせてやりたいんです。彼の身を滅ぼし、彼の土地と財産をおさえて売りとばし、家と家庭から彼を追い出し、彼を引きずりだして老人の乞食にし、みじめな監獄で死なせてやってください」
「だが代価、こうしたことすべてをする代価は」瞬間的な驚きからわれにかえったとき、弁護士は言いました。「もし被告が無資産者だったら、その代価をだれが払うのです?」
「どんな代価でも言ってください」見知らぬ男は言いましたが、彼の手は興奮で激しくふるえて、話しながらペンがほとんどつかめぬほどになってました。「どんな代価でもおわたししますよ。どうか遠慮なく言ってください。目的さえ達したら、それを高いとは思いませんからね」
損害の見こみにたいする保証の前わたし金として、弁護士は当てずっぽうに大きな金額を口にしました。だが、それは、相手がこちらの要求に応じるというより、依頼人がどの程度の意志をもっているのかをたしかめるためでした。見知らぬ男はその全額を示した銀行あての小切手を書き、彼のところを辞去していきました。
その手形ふりだしは支払われ、弁護士は、奇妙な依頼人が信用できる人物とわかって、真剣にその仕事にとりかかりました。その後二年以上ものあいだ、ヘイリング氏は何日間もぶっつづけに事務所に坐り、集まってくる書類をジッと読み、訴訟につぐ訴訟、訴訟手続きにつぐ訴訟手続きがはじめられるにつれてどんどんとやってくる抗議の手紙、少しの遅延の嘆願書、被告がまきこまれなければならない確実な破滅を訴える手紙を、よろこびで目を輝かせながら、再三再四読みかえしていました。少しの猶予を求めるすべての嘆願にたいして、ただひとつの答え――金は払ってもらわねばならぬという答えしかありませんでした。土地・家・家具は、出された数多くの強制執行令状のもとで、つぎからつぎへと、うばい去られました。そして老人自身も、もし彼が役人の看視の目をごまかしてのがれ去らなかったら、監獄にとじこめられてしまったことでしょう。
ヘイリング氏の執念深い憎しみは、自分の迫害の成功に満足するどころか、自分の加えた破滅によって百倍も増大していきました。老人の逃亡を知らされたとき、彼の怒りはかぎりなくひろがっていきました。彼は怒りで歯がみをし、髪をかきむしり、令状を与えられていた人たちをひどくののしりました。逃亡者を確実に見つけだすという何回もくりかえして述べられた保証で、彼はやっと少し冷静になったのでした。密偵が逃亡者を求めて四方八方に出され、そのかくれ家を発見するために、考えられるありとあらゆる手段が用いられましたが、それはぜんぶむだに終わりました。すでに半年がすぎましたが、逃亡者はまだ見つかりませんでした。
とうとう、ある夜おそく、何週間ものあいだぜんぜん姿を見せないでいたあとに、ヘイリング氏は弁護士の私宅をたずね、紳士が即刻弁護士に会いたがっているという言葉を伝えました。二階で彼の声をそれと知った弁護士が召使いに彼を入れるようにと命ずる前に、彼は階段をとびあがり、顔を青ざめさせ、息を切らせて、応接間にはいってきました。盗み聞きをされぬようにとドアを閉めてから、彼はぐったりと椅子に坐り、低い声で言いました――
「しっ! とうとうやつを見つけたぞ」
「まさか!」弁護士は言いました。「いや、よくしてくださいました。おみごとです」
「やつはキャムデン・タウン(ロンドンにある地区)のみすぼらしい下宿に身をひそめている」ヘイリング氏は言いました。
「やつの姿を見失っていたほうが、たぶん、よかったろう。やつはじつにひどいみじめさにつつまれて、そのあいだ中ずっと、ただひとりでそこに住んでいたんだからな。やつは貧乏――とても貧乏をしてるんだ」
「よくわかりました」弁護士は言いました。「もちろん、明日逮捕状を作成させますね?」
「そうだ」ヘイリングは答えました。「待て! いや! あさってにしよう。それを延ばそうとしているんで、きみは驚いているのだな」おそろしい微笑を浮かべて、彼は言いそえました。「だが、わたしは忘れていたんだ。あさってはやつの生涯での記念日なんだ。これはそのときにすることにしよう」
「よくわかりました」弁護士は言いました。「役人を呼ぶ命令書をお書きになりますか?」
「いや、夕方八時にその役人をここに呼んでくれ。わたし自身が彼についてゆこう」
彼らはきめられた夜に出逢い、貸し馬車をやとい、教区の貧民院が立っているパンクラス通りのあの町角に馬車をとめさせました。彼らがそこにおりるときまでに、あたりは真っ暗になり、家畜病院の正面の盲壁のそばを進んでいって、リトル・コレッジ通りと呼ばれている、あるいは当時呼ばれていた小さな小道にはいっていきましたが、その道は、いまはどうともあれ、その当時は野原とどぶといったものにかこまれていたわびしい場所でした。
顔半分をかくしていた旅行用の帽子をグッと引きさげ、外套に身をつつんで、ヘイリングはその道路でいちばん貧弱な家の前に立ちどまり、静かにドアをノックしました。それはすぐ女によって開けられ、彼女は膝を少しまげ体をさげて会釈し、ヘイリングは、役人に下で待っていろとささやいて、そっと二階にあがり、道に面した部屋のドアを開けて、すぐに中にはいっていきました。
彼の探索と無慈悲な憎悪の対象、いまはヨボヨボになった老人はガランとした松板材のテーブルに坐り、その上には貧弱なろうそくが一本立っていました。彼は見知らぬ男がはいってくるとギクリとし、フラフラッと立ちあがりました。
「こんどはなんだ、こんどはなんだ?」老人は言いました。「これはどんな新しい苦しみなのだろう? ここになんの用事があるんです?」
「きみ[#「きみ」に傍点]と一言ね」ヘイリングは答えました。こう言いながら、彼はテーブルの向こう側に坐り、外套と帽子を投げすてて、彼の顔をあらわしました。
老人はその場で口がきけなくなったようでした。彼は椅子にのけぞりかえり、手をにぎり合わせて、嫌悪と恐怖の入りまじったようすで、この化け物をジッと見つめていました。
「六年前のきょう」ヘイリングは言いました、「わたしは自分の子供の命にたいしてきみに貸しになってる命を要求した。生命の|失《う》せたきみの娘の姿のわきで、老人よ、わたしは復讐の生涯を送ることを誓ったのだ。いままで一刻たりとも、わたしは自分の目的から道をふみはずしたことはなかった。だが、たとえ道をふみはずしたとしても、彼女がぐったりと倒れていったときの苦情一言言わない苦しみのようす、罪のない子供の飢えた顔を一度でも思い出したら、それはわたしをふるい立たせ、仕事に向かわせたことだろう。わたしの報復の第一歩は、きみもよく知っている。これがわたしの最後の報復だ」
老人は体をガタガタとふるわせ、彼の手はぐったりとわきにたれてしまいました。
「わたしは明日イギリスを去っていく」ちょっと間をおいて、ヘイリングは言いました。「今晩、わたしはきみが彼女に与えた生きながらの死――絶望的な監獄――にきみを引きわたし――」
彼は目をあげて、老人の顔をながめ、話を切りました。彼はろうそくを老人の顔のところにあげ、それを静かに下において、部屋を出ていきました。
「あの老人を見てやったほうがいいよ」ドアを開けたとき、彼は女に言い、役人に自分について通りに出るようにと、身ぶりで合図をしました。「彼は病気らしい」女はドアを閉め、急いで二階にかけあがり、老人が死んでいるのを発見しました。
* * * * *
[#ここで字下げ終わり]
ケント州のこのうえなく安らかで人里はなれた教会の墓地のひとつで――そこでは野生の花が雑草と入りまじり、あたりのものやわらかな景色は、イギリスの花園(ケント州のことを言う)でいちばん美しい場所になっています――飾りのない墓石の下に、若い母親と彼女のやさしい子供の骨が眠っています。だが、父親の遺骨は、彼らとはいっしょになってはいません。また、その夜以降、弁護士は、彼の奇妙な依頼人の後日譚については、なんの手がかりも得ていませんでした。
老人が話を終えたとき、彼は片隅の帽子かけのところにゆき、自分の帽子と外套をとって、ゆっくりとそれを身につけ、それ以上なにも言わずに、ゆったりとした態度でそこを出ていった。モザイク模様の飾りボタンの紳士はぐっすりと眠りこみ、一座の大部分は水割りブランデーの中に溶かしたろうそくの牛脂を流しこむというおもしろい方法に心をうばわれていたので、ピクウィック氏はだれにも気づかれずにそこを去り、自分とウェラー氏の勘定をすませ、ウェラー氏をともなって、『かささぎ[#「かささぎ」に傍点]と切り株旅館』の入口をとおりぬけ、おもてにとびだしていった。
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第二十二章
[#3字下げ]ピクウィック氏はイプスウィッチに旅行をし、黄色の毛巻き紙の中年の婦人を相手にロマンチックな冒険を味わう
「それは親分の荷物なんだな、サミー?」やさしい息子が旅行用の袋と小さな旅行カバンをもってホワイトチャペルの『雄牛旅館』の内庭にはいっていったとき、ウェラー氏はたずねた。
「まあ、そういったとこだね」荷物を内庭におき、その上に坐りこんで、せがれのウェラー氏は答えた。「親分自身もすぐここにやってくるよ」
「彼は辻馬車で来るんだな?」父親はたずねた。
「うん、八ペンスで二マイルの危険な道中をしてるわけでね」せがれは答えた。「今朝、義理の母さんはどうしてますね?」
「妙なんだよ、サミー、妙なんだよ」いかにも重々しく父親のウェラー氏は答えた。「最近メソディストの教会にそうとう凝っててね、サミー。たしかに、その信仰に打ちこんでるんだ。サミー、あの女はおれにはもったいない女だよ。おれじゃだめだと思ってるのさ」
「ああ」サミュエルは言った、「バカに遠慮した言葉ですね」
「まったくね」溜め息をもらして、父親は言った。「大人が生まれ変わることについてなにか考えてるんだ、サミー。再生とか呼んでるものらしいな。それが実行にうつされるのを、とても見たいもんさ、サミー。お前の義理の母さんがまた生まれてくるのを見たいもんだよ。そうしたら、乳母に預けちまうんだがな!」
「そうした女どもが、こないだ、なにをしたと思う?」少し間をおき、人さし指で鼻の横を何回かたたいたあとで、ウェラー氏はつづけた。「彼らが、こないだ、なにをしたと思う、サミー?」
「わかりませんな」サミーは答えた、「なんですね?」
「バカなことに、彼らが自分たちの羊飼い(牧師のこと)と呼んでる男のために、大きなお茶の会を開いたんだよ」ウェラー氏は言った。「家の近くの絵の店の前に立ちながらそこをのぞきこんでると、そこの近くにあった小さなはり紙に気がついてね、そこには『入場券、半クラウン。委員会に申し込まれたし。幹事、ウェラー夫人』とあるんだ。家に帰ると、裏の客間で委員会が開かれてた。十四人の女がいたんだ。彼らの話をお前にも聞かせてやりたかったよ、サミー。決議をしたり、支出を投票で決めたり、そんなことをやってたな。うん、母さんがおれにゆけとせっつき、そこにゆけば、珍しいもんでも見られるかと思ったんで、おれは入場券に名前を書きこみ、金曜日の夕方六時に、きちんと身なりをととのえ、母さんといっしょに出かけ、二階にあがってったんだが、そこには三十人分の茶道具がそろい、そこにいた女という女は、五十八の太った紳士をいままで一度も見たことがないといったように、ひそひそ話をはじめ、おれを見てやがるんだ。やがて下で大きなさわぎが起き、赤っ鼻をし、白のネクタイをつけた不恰好なひょろながい男がとびあがってきて、『羊飼いがその暴勇な羊どもをたずねにおいでですぞ』とどなり、黒い服を着こみ、青い大きな顔をし、時計仕掛けのようにニヤニヤしてやがる太った男がはいって来たんだ。まったくひでえことさ、サミー!『親睦の接吻』(初期のキリスト教会で親睦のしるしとしておこなわれた。いまでもカトリック教会のミサなどでおこなわれる)と羊飼いは言い、ついで、女ども一同にキスをし、それが終わると、赤っ鼻の男がそれをはじめたんだ。おれもはじめたほうがいいかなと考えだしてたとき――おれのとなりにとてもきれいな女が坐ってたんでね――お茶とやかんを下でわかしてた母さんがはいって来たんだ。やつらはすごい勢いでやりだしたよ。茶の準備をしてるあいだは、サミー、すごい大声の賛美歌、すごい食前の祈り、すごい食い方、飲み方なんだよ! あの羊飼いのやつがハムとマフィン(小さな円形の軽焼きパン。バターをつけて、朝食またはお茶のときに、そのできたてを食べる)をガツガツ食べるとこを、お前にも見せたかったよ。あんなに飲み食いするやつは、まだ見たこともないからな。赤っ鼻の男はいっしょに物を食いたいような男では絶対になかったが、やつだって、あの羊飼いにくらべたら、ものの数じゃなかったね。うん、お茶が終わってから、みんなはまたべつの賛美歌を歌い、ついで、羊飼いが説教をはじめたんだ。あいつの胸にあの食ったマフィンがどんなに重くつかえてるかを思えば、その説教はなかなかりっぱなもんだったよ。やがて、いきなりやつは説教をやめ、『罪人はいずこ、あわれな罪人はいずこ?』ってどなりだしたんだ。すると、女どもはぜんぶ、おれをながめ、まるで臨終のときのように、うめきだしてね。こっちでは、だいぶ妙なことになったぞとは思いながらも、だまってたよ。やがて、やつはまた話をやめ、おれをグッとにらんで、『罪人はいずこ、あわれな罪人はいずこ?』とぬかし、女どもはぜんぶ、前より十倍もの大声をあげて、うめきだしたんだ。こいつには、おれもだいぶかっかとしてきてね、そこで一歩か二歩前に出ていって、『きみ、その言葉はおれに当てつけに言ってるのかね?』と言ってやったんだ。どんな紳士だって当然やるようなわびなんかは一言も言わずに、やつの口は前よりもっとひどくなり、サミー、おれを|器《うつわ》――怒りの器(神の怒りにあうべき人の意。ロマ書。九章二十二節参照)――とかなんとか、いろいろな悪口をぬかしやがるんだ。そこで頭にきてね、羊飼いに最初二、三発食わし、赤っ鼻の男にも二、三発くれてやって、そこを出てきたんだ。羊飼いをテーブルの下からだきおこしたとき、サミー、女どもがどんなに悲鳴をあげたか、お前にも聞かせてやりたかったよ――やあ、まさに親分がお見えだぞ!」
ウェラー氏が話しているとき、ピクウィック氏は辻馬車からおり、内庭にはいってきた。
「お早うございます」父親のウェラー氏は言った。
「やあ、お早う」ピクウィック氏は答えた。
「お早よう」せんさく好きそうな鼻をし、青い眼鏡をかけた赤毛の頭がおうむがえしに言った。これはピクウィック氏と同時に辻馬車からおりた男だった。「イプスウィッチにおいでですか?」
「そうです」ピクウィック氏は答えた。
「これはまた、驚くべき偶然。わたしもそうなんです」
ピクウィック氏は頭をさげた。
「外の座席ですか?」赤毛の男はたずねた。
ピクウィック氏はまた頭をさげた。
「いやあ、これはたいしたこと――わたしも外の座席なんです」赤毛の男は言った。「まったく、ご同行できるわけですな」なにか言うたびに鳥のように頭をクイクイッと動かす癖があるもったいぶった、鼻のとがった、なにか神秘的な話し方をする人物である赤毛の男は、人間の才知に偶然知られることになったじつにふしぎな発見でもしたように、にっこりと笑った。
「あなたとごいっしょに旅ができて、うれしいですな」ピクウィック氏は言った。
「ああ」新客は言った、「われわれふたりにとって、それはうれしいことです、そうではありませんか。道づれは、ねえ――道づれは――ええ、ひとり旅とはぜんぜんちがうもの――そうではありませんか?」
「それはまさにそうですな」愛想よくにっこりとして、ウェラー氏も会話に加わった。「女中が犬のえさがかりの男に『お前さんは紳士ではないよ』と言ったとき、その男が言ったように、それは自明の話というやつです」
「ああ」尊大ぶった態度でウェラー氏の頭の|天辺《てつぺん》から爪先までながめて、赤毛の男は言った。「あなたのお友だちですか?」
「必ずしも友だちとは言えません」声を低くしてピクウィック氏は言った。「事実を申しあげれば、彼はわたしの召使いです。でも、彼にはそうとう勝手を許しているのです。というのも、ここだけの話ですが、彼はなかなか独創的な男、彼はわたしがちょっと鼻を高くしている人間なのです」
「ああ」赤毛の男は言った、「それぞれ人には好みがありますからな。わたしは独創的なことは、どんなものでも好みません。それがいやなんです。その必要がありませんからな。あなたのお名前は?」
「これがわたしの名刺です」この唐突な質問と見知らぬ男の妙な態度にとても興味をもって、ピクウィック氏は答えた。
「ああ」その名刺を紙入れに入れて、赤毛の男は言った、「ピクウィック。よくわかりました。わたしは人の名を憶えるのが好きなんです。そうすると、ずいぶんと骨を折らずにすみますからな。これがわたしの名刺――おわかりでしょう、マグナス――わたしの名前はマグナスです。そうとういい名前と思っているんですがね?」
「とてもよい名ですな、まったく」ニヤリとせずにはいられなくなって、ピクウィック氏は言った。
「そう、そうだと思いますよ」マグナス氏はつづけた。「おわかりでしょうが、その前にいい名前がついているんです。失礼ですが――名刺を少し斜め、こんなふうにおもちになったら、上に向けた筆使いのところに光が当たるでしょう。そう――ピーター・マグナス――いいひびきだと思いますな」
「とてもね」ピクウィック氏は言った。
「頭文字は、妙な組み合わせになっているんです」マグナス氏は言った。「おわかりでしょう――P. M.――ポスト・メリディアン(午後の意)なんです。親しい友人に急いで手紙を書くときには、わたしはときどき自分の名を『午後』と書いてます。ピクウィックさん、これは友人たちをとても楽しませているんです」
「彼らに最高の満足を与えるように仕組まれているわけですな」マグナス氏の友人たちがそう楽々とよろこぶのをちょっとねたましく思って、ピクウィック氏は言った。
「さて、みなさん」旅館の馬丁は言った。「よろしかったら、駅伝馬車の用意はできましたよ」
「わたしの荷物はぜんぶはいっているかね?」
「大丈夫です」
「赤の袋ははいっているかね?」
「大丈夫です」
「それに、縞の袋は?」
「前の荷物入れの中にあります」
「それに、褐色の紙づつみは?」
「座席の下にあります」
「それに、なめし革の帽子入れの箱は?」
「みんな中にはいってます」
「さあ、上に登りませんか?」ピクウィック氏は言った。
「ちょっと待ってください」車輪の上に立って、マグナス氏は答えた。「ちょっと待ってください、ピクウィックさん。こんな不安な気持ちでは、上にはとても登ってゆけません。あの男の態度から見ると、あのなめし革の帽子入れの箱は乗せられていない[#「いない」に傍点]ようなんですからね」
馬丁がどんなにはっきりと断言しても、なんの効果もなく、なめし革の帽子入れは荷物入れのどん底のところから引っぱりだされて、それが無事に入れられていることを彼に納得させることになり、この項目で納得すると、まず第一に、赤い袋をおきわすれたのではないか、第二に、縞の袋が盗まれたのではないか、第三に、褐色の紙づつみが「解けた」のではないか、というおそろしい予感が彼をおそってきた。こうした疑惑がすべて事実無根であるのを目でたしかめてから、彼は上の座席に登っていくのを承知し、これですっかり心配の種がなくなったので、快適愉快に旅行ができる、と言った。
「あんたは神経質なんですね、えっ?」自分の座席に登ってゆきながら、この見知らぬ男を横目でにらんで、父親のウェラー氏は言った。
「そう、こうしたちょっとしたことには、いつもそうとう神経質なんだ」見知らぬ男は言った、「だが、もう大丈夫――すっかり大丈夫だよ」
「ええ、そいつはありがたいこと」ウェラー氏は言った。「サミー、お前のご主人を助けて御者台におあげするんだ。べつの脚をどうぞ、それでいいです。手をこっちに出してください。さあ、引きあげますぞ。子供のときには、もっと軽かったんでしょうね?」
「それはそうさ、ウェラーさん」御者台で彼のわきに座席をとって、息をはずませながら、ピクウィック氏は上機嫌で言った。
「前のとこにとびあがれ、サミー」ウェラー氏は言った。「さあ、ウィリアム、馬から手を放してくれ。みなさん、アーチの道を注意してくださいよ。パイ売りが言ったように『頭を』ですよ(|頭《ヘッド》には銭投げの「表」の意がある。ロンドンではパイ売りが客に銭投げをさせていた)。それでいいよ、ウィリアム。馬はそのまんまにしておいてくれ」ホワイトチャペルのかなり人のこんでいる地区のすべての人々が感嘆してながめている中で、駅伝馬車はそこから出発した。
「ここはあまり感じのいい地区じゃありません」帽子にちょっと手をやってサムは言ったが、この動作は、主人と話をはじめる前に、彼がいつもやる仕草になっていた。
「まったく、そうだな、サム」彼らがとおっている雑踏したきたない街路を見わたして、ピクウィック氏は答えた。
「貧乏とかき[#「かき」に傍点]がいつもいっしょにいるように見えるのは」サムは言った、「ちょっとおもしろいこってすな」
「お前の言うことはよくわからんがね、サム」ピクウィック氏は言った。
「わたしが言ってるのは」サムは言った、「貧乏地区になればなるほど、かき[#「かき」に傍点]の要求が多くなるらしいということです。そこをごらんなさい。五、六軒に一軒はかき[#「かき」に傍点]を売る店があります。通りはそうした店でいっぱいになってます。人がとても貧乏になると、下宿からとびだし、しゃにむにかき[#「かき」に傍点]を食うことになるらしいですね」
「たしかにそうだね」父親のウェラー氏は言った。「塩漬けのしゃけ[#「しゃけ」に傍点]についても、同じことが言えるぞ」
「それはいままでぜんぜん気がつかなかった注目すべきふたつの事実だ」ピクウィック氏は言った。「車がとまる最初の場所で、それを書きとめておくことにしよう」
このときまでに、車はマイル・エンドの通行税取り立て門のところにさしかかっていた。二、三マイルさらに進んでゆくまで、みなはすっかりだまりこんでいたが、そのとき、父親のウェラー氏は、急にピクウィック氏のほうにふりかえって、言った――
「パイク・キーパーの生活はじつに奇妙な生活ですな」
「なんですって?」ピクウィック氏はたずねた。
「パイク・キーパーです」
「パイク・キーパーって、なんのことだね?」ピーター・マグナス氏はたずねた。
「みなさん、おやじは通行税取り立て門の番人のことを言ってるんですよ」その説明として、サミュエル・ウェラー氏が言った。
「おお」ピクウィック氏は言った、「わかった。そう、とても奇妙な生活ですな。じつに不愉快な生活でね」
「彼らはみんな、人生でなにか失望を味わった人たちなんです」父親のウェラー氏は言った。
「えっ、えっ?」ピクウィック氏は言った。
「そうです。その結果、彼らは世間をすて、|通行税取り立て門《パイク》に閉じこもってしまったんです。ひとつには孤独になるために、ひとつには、道銭をとりたてて、人類に復讐をするためにね」
「いや、これは」ピクウィック氏は言った。「これはいままで、ぜんぜん知らないことでしたよ」
「まったくの事実ですよ」ウェラー氏は言った。「彼らが紳士だったら、人間ぎらいというとこですがね。ところが、じっさいはそうした者じゃないんで、彼らは通行税取り立てをやってるんです」
おもしろさと教訓をまじえたこうした会話で、その日の大部分のあいだ、ウェラー氏は旅の退屈さをまぎらわしていた。会話で話題の欠けることは、ぜんぜんなかった。ウェラー氏のおしゃべりに間ができたときにも、同行者の経歴をすべてを知ろうとするマグナス氏の強い欲望と宿場宿場でふたつの袋、なめし革の帽子箱と褐色の紙づつみの安全・福祉に関する彼の心配の大声で、それは完全にまぎらわされていたからである。
イプスウィッチの大通りで、道の左側、市役所の正面の開けた場所をとおりぬけて少しゆくと、『大白馬旅館』という名称でひろく知られている旅館が立ち、玄関の戸口の上にかかげられている、気のくるった荷馬車馬にかすかに似ていないわけでもない、たてがやみと尾をなびかせたある乱暴そうな獣の石像で、それはなお目立つものになっている。この『大白馬旅館』は、賞金を得た牛や州の歴史にのこっているかぶら[#「かぶら」に傍点]、不細工な大きな豚と同じ程度に――そのとてつもない大きさで――近所で有名なものになっていた。イプスウィッチの『大白馬旅館』の四方の壁の中に集められているほど、ひとつ屋根のもとにある迷路のようなじゅうたんの敷いてない廊下、かびくさい、採光のわるい部屋のかたまり、おびただしい数の食事をしたり眠ったりする小さな部屋部屋は、絶対になかった。
ロンドンの駅伝馬車は、毎夕同じ時刻に、このだだっぴろい旅館の前にとまり、同じロンドンの駅伝馬車から、ピクウィック氏、サム・ウェラー氏、ピーター・マグナス氏が、われわれの物語のこの章で言及しているある夕方に、おりてきた。
「ここにお泊まりですか?」縞の袋、赤い袋、褐色の紙づつみ、なめし革の帽子箱がぜんぶ廊下にならべられたとき、ピーター・マグナス氏はたずねた。「ここにお泊まりですか?」
「泊まります」ピクウィック氏は答えた。
「いや、これは」マグナス氏は言った、「こうしたとてつもない偶然というものには、まだ出逢ったこともありませんな。いやあ、わたしもここに泊まるんです。夕食はごいっしょにねがえましょうね?」
「よろこんで」ピクウィック氏は答えた。「だが、ここにわたしの友人がいるかどうか、まだよくわかっていないのです。ここにタップマンという紳士の方はおいでかね、給仕君?」
小脇に二週間もたったような古ナプキンをかかえ、脚にそれと同じくらいの時代物の靴下をはいた太った男は、こうピクウィック氏に呼びかけられて、街路をジッとながめていた視線をゆっくりそらし、ピクウィック氏のようすを帽子の天辺からゲートルのいちばん下のボタンまで子細に調べあげてから、力をこめて答えた――
「いいえ」
「スノッドグラースという紳士の方もおいでではないかね?」ピクウィック氏はたずねた。
「いいえ!」
「ウィンクルも?」
「いいえ」
「わたしの友人たちは、きょう、まだ着いてないようです」ピクウィック氏は言った。「それでは、ふたりだけで食事をすることにしましょう。部屋に案内してくれたまえ給仕君」
こう要求され、太った男は身分を落として靴みがきにお客さま方の荷物を中に入れるように命じ、ながい暗い廊下ぞいに彼らの先に立って、きたない炉格子のついた大きな家具づけのよくない部屋に彼らを案内したが、その炉格子のところでは、わずかな火が燃え立とうとみじめな努力をしながらも、その場所の意気|沮喪《そそう》させる影響力のもとで、グングンと消えかかっていた。一時間ほどして魚のひと切れとビフテキが旅行者たちに出され、夕食が片づけられたとき、ピクウィック氏とピーター・マグナス氏は椅子を炉のところによせ、旅館の利益になるようにと、このうえなく高いべらぼうな値でべらぼうにひどいポートワインのひとびんを注文し、彼ら自身は水割りブランデーを飲みはじめた。
ピーター・マグナス氏は生来話好きな人物で、水割りブランデーがすごい効果をあげて、彼の心の奥深くにしまいこんである秘密を燃え立たせることになった。自分自身、自分の一家、自分の親類・友人、自分の冗談、自分の商売、自分の兄弟たち(おしゃべりの人は、たいてい、自分の兄弟に関して多くしゃべる話をもっている)についていろいろ話したあとで、ピーター・マグナス氏は、数分間、色眼鏡越しに青く映るピクウィック氏の姿をジッとながめ、それから遠慮がちに言った――
「そして、あなたはどうお思いです――あなたはどうお思いです、ピクウィックさん――わたしがどんな用でここに来たとお思いです?」
「まったく」ピクウィック氏は言った、「それを当てるなんて、わたしにはぜんぜんできないことです。たぶん、商用でしょうな」
「一部当たってます」ピーター・マグナス氏は答えた。「だが、同時に、一部まちがってます。もう一度当ててごらんなさい、ピクウィックさん」
「本当に」ピクウィック氏は言った、「わたしはあなたのご慈悲に身をまかせ、話すなり話さないなり、あなたがいいと思うようになさってください。というのも、一晩中かかっても、当たりっこはないのですからね」
「いやあ、それなら、ひっ――ひっ――ひっ!」恥ずかしそうにニヤニヤして、ピーター・マグナス氏は言った、「ここにわたしがやってきたのは、結婚申しこみのためと申したら、ピクウィックさん、あなたはどうお考えになります、えっ? ひっ――ひっ――ひっ!」
「考えるかですって! あなたが成功する可能性は十分と考えますな」いつものなごやかな顔をして、ピクウィック氏は答えた。
「ああ!」マグナス氏は言った。「だけど、ピクウィックさん、あなたは本当にそうお考えですか? そうお考えですか?」
「もちろん」ピクウィック氏は答えた。
「いやあ、あなたは冗談を言っているんです」
「いや、そうではありませんよ」
「いや、それなら」マグナス氏は言った、「秘密を少しおもらししましょう。わたしも[#「わたしも」に傍点]そう考えてるんです。わたしは生まれつきひどく嫉妬深く――まったくひどいもんですが、遠慮なくあなたには申しあげましょう、相手の婦人はこの旅館にいるんです」ここで、目をパチパチさせて合図を送るために、マグナス氏はわざわざ眼鏡をはずし、それがすむと、また眼鏡をかけた。
「それだからこそ、夕食前にあなたは何回も部屋からとびだしていたんですね?」いたずらっぽくピクウィック氏は言った。
「しっ! そうなんです、あなたの言うとおり、そうだったんです。でも、彼女と会うようなバカなことはしませんよ」
「会わないんですって!」
「そうです。たったいま旅を終えたばっかりでは、ねえ、だめですよ。明日まで待つんです。そうすれば、チャンスは倍になりますからね。ピクウィックさん、あの袋の中には服がひとそろいあり、あの箱の中には帽子がはいってます。それは、それが生みだす効果の点で、かけがえのない貴重なものになることでしょう」
「まったくね!」ピクウィック氏は言った。
「そうなんです。きょう荷物に関するわたしの心づかいぶりには、あなたもお気づきだったにちがいありません。ああしたひとそろいの服、ああした帽子は、金で買おうにも買えないものなんですからね、ピクウィックさん」
ピクウィック氏は、そうした魅力的な衣類を入手したことに関して、その幸運な所有者を祝福し、ピーター・マグナス氏は、しばらくのあいだ、たしかに物思いにふけっているふうだった。
「彼女は美しい女です」マグナス氏は言った。
「そうですか?」ピクウィック氏は応じた。
「とてもね」マグナス氏は言った、「とてもね。ピクウィックさん、彼女はここから二十マイルはなれたとこに住んでます。わたしは、彼女が今晩と明日の午前中ずっとここにいるのを耳にして、チャンスをとらえるために、ここにやってきたんです。宿屋は、独身の女に結婚申しこみをするのに打ってつけの場所だと思いますね。家にいるのより、旅に出てもっと、自分の立場の孤独さを感ずるでしょうからね。ピクウィックさん、どうお考えになります?」
「それは十分考えられることですね」ピクウィック氏は答えた。
「これは失礼なことですが、ピクウィックさん」ピーター・マグナス氏は言った、「わたしは生まれつき好奇心の強い男です。あなたは、いったい、なんのためにここにおいでになったんですか?」
「もっともっと愉快ではない仕事なんです」それを思い出して、かっと顔をほてらせて、ピクウィック氏は答えた。「その誠実と節操には無条件の信頼をよせていたある人のいかさまと虚偽をあばくために、わたしはここに来たのです」
「おや、おや」ピーター・マグナス氏は言った、「それはとても不愉快なことですな。それは婦人なんでしょう? えっ? ああ! 陰険、陰険なことですよ、ピクウィックさん。そう、ピクウィックさん、あなたの心の傷をさぐるようなことは、絶対にしませんよ。痛ましい話です、こうしたことはね、とても痛ましいことです。気持ちをはきだしておっしゃりたかったら、ピクウィックさん、どうかわたしにはかまわず、それを言ってください。すてられるのがどんなことか、わたしだって知ってますよ。わたしもそうしたことを三、四回堪えてきたんですからね」
「わたしの憂鬱な事情とお考えのものについてご同情をいただいて、本当にありがたく思います」時計にねじをかけ、それをテーブルの上において、ピクウィック氏は言った、「しかし――」
「いや、いや」ピーター・マグナス氏は言った、「それ以上一言もおっしゃらなくても結構です。それは痛ましい話です。わかりました、わかりました。いま何時です、ピクウィックさん?」
「十二時すぎです」
「いや、これは、もう寝む時間ですな。ここに坐っていたって、どうにもなりません。明日はきっと顔色がわるくなってしまいますからね、ピクウィックさん」
そうした不幸をちょっと考えただけで、ピーター・マグナス氏は下女を呼ぶ鐘を鳴らし、縞の袋、赤の袋、なめし革の帽子箱と褐色の紙づつみは彼の寝室に運びこまれていたので、彼は日本製のろうそく立てをもって旅館の一方の側に引きさがり、一方ピクウィック氏とほかの日本製のろうそく立ては、たくさんのまがりくねった廊下をとおって、べつの側に案内されていった。
「これがあなたのお部屋です」下女は言った。
「わかったよ」あたりを見まわしながら、ピクウィック氏は言った。それはかなり大きな、ふたり用寝台のある部屋で、炉には火が燃え、『大白馬旅館』の施設にたいするピクウィック氏の短い経験で彼が予期していたより、だいたいのところ、もっと感じのよさそうな部屋だった。
「もうひとつのベッドでは、もちろん、だれも眠りはしないのだろうね?」ピクウィック氏はたずねた。
「おお、そんなことはありません」
「よくわかった。明日の朝八時半にわたしのところに湯をもってき、今晩はもうなにも用事はないと、わたしの召使いに伝えてくれないかね?」
「わかりました」そしてピクウィック氏にお寝みの挨拶をして、下女は引きさがっていった。
ピクウィック氏は炉の前の椅子に坐り、漫然ととりとめもない物思いにふけった。最初彼は友人たちのことを思い、いつ彼らが自分に合流してくるのかと考え、ついで彼の思いは、マーサ・バーデル夫人に走り、その夫人から、当然のなりゆきとして、ドッドソンとフォッグのきたない事務所にただよい流れていった。ドッドソンとフォッグの事務所から、それは急転回して、奇妙な依頼人の話のどまん中にとび、それからイプスウィッチの『大白馬旅館』にもどっていったが、ピクウィック氏に自分が眠りそうになっているのをはっきりと知らせるくらい、彼の頭ははっきりとしていた。そこで彼は気をふるい立たせて、服をぬぎはじめたが、そのとき、自分が階下の部屋のテーブルに時計をおいてきたことを思い出した。
さて、この懐中時計はピクウィック氏のお気に入りのもので、ここで述べる必要はないほどながい年月のあいだ、チョッキの陰でもち運ばれていた。枕の下か頭上の懐中時計用のポケットの中でそれが静かにチクタク音を立てずに眠りこむことは、ピクウィック氏が考えたこともないことだった。そこで、時刻はかなりおそいし、夜そんなおそい時刻に鐘を鳴らすのはあまり気がすすまなかったので、彼はたったいまぬいだばかりの上衣をひっかけ、手に日本製のろうそく立てをもって、そっと階段をおりていった。
ピクウィック氏が階段をおりればおりるほど、おりなければならぬ階段があらわれてくるような感じで、再三再四、ピクウィック氏はあるせまい階段にはいりこみ、ようやく一階におりてきたのをよろこぶと、べつの階段が彼のびっくりしている目の前にあらわれてきた。とうとう彼は石づくりの広間に着いたが、ここは彼が旅館にはいったときに見憶えのあるものだった。廊下につぐ廊下を彼はさぐり歩き、部屋につぐ部屋をのぞきこみ、とうとう、もう捜査してもだめとあきらめようとしたとき、その夕方おくったちょうどその部屋のドアを彼は開き、テーブルの上にさがしていた品物を見つけた。
ピクウィック氏はいい気持ちになって時計をつかみ、自分の寝室に足をもどそうとした。彼が一階におりてくることが困難と不安定をともなったものだったとしたら、彼の帰り道はそれよりもっともっととまどいするものになった。あらゆる形、つくり、大きさの靴で飾られた幾列ものドアが、ありとあらゆる方向にのびていた。何回となく彼は自分自身の寝室のドアに似たドアの取っ手をそっとまわしたが、「いったいだれだ?」とか「ここになんの用事?」とかいう奥からの素っ気ない叫びが、まったく驚くべきすみやかさで、彼を爪先立ちにし、そこから彼を追い払ってしまった。彼はもうどうにもならないとあきらめようとしたが、そのとき、開いたドアが彼の注意を引きつけた。彼は中をのぞきこんだ。とうとうもどれたのだ! ふたつの寝台があり、その配置の仕方は彼がちゃんと憶えているもの、そして炉の火はまだ燃えていた。彼が最初に受けとったとき、もうすでにながいものではなかったろうそくは、彼がとおっていった隙間風の中でチラチラとし、部屋のドアを閉めたとき、ろうそく立ての中に沈みこんで消えそうになっていた。「構わん」ピクウィック氏は言った、「炉の火の灯りで服はぬげるからな」
寝台はドアの左右それぞれの側にひとつずつおかれてあった。それぞれの寝台の奥には小さな通路があり、それは灯心草をはった椅子で終わり、男女がしようと思えば、そちらの側から寝台に出入りできるくらいの幅をもっていた。寝台の外側のカーテンを注意深く閉めて、ピクウィック氏は灯心草をはった椅子に腰をおろし、ゆっくりと靴とゲートルをぬぎはじめた。それから彼は上衣、チョッキとネクタイをぬいでたたみ、ふさ飾りのついたナイトキャップを落ち着いてかぶり、彼がいつもそれにつけていたひもを顎の下で結んで、それをしっかりとさせた。このときになって彼は自分のいままでの狼狽ぶりのバカさ加減に気づき、灯心草をはった椅子にのけぞりかえって、ピクウィック氏はひとりで愉快に笑った。その笑いがナイトキャップの下から輝き出たとき、彼のやさしい顔をのびのびとさせていたあの微笑をながめるのは、どんなまともな心の持ち主にも楽しいことであったろう。
「これはとてもおもしろいことだ」ナイトキャップのひもを切りそうになるまでニヤリとして、ピクウィック氏は独り言を言った。「これはとてもおもしろいことだ、この旅館で道に迷い、あの階段をさまよい歩いたなんていうことはな。愉快、愉快、じつに愉快なことだ」ここでピクウィック氏は前にもますはっきりとした微笑をもらし、上機嫌で着物をぬぐのをつづけようとしたが、そのとき、じつに思いがけない邪魔で、それはとめられてしまった。つまり、ろうそくをもっただれかが部屋にはいってきて、ドアの錠をおろしたあとで、化粧テーブルのところにゆき、ろうそくをその上においたからである。
ピクウィック氏の顔にあらわれていた微笑は即座に消え、かぎりない驚愕の表情がそれにとってかわった。それがだれであろうと、その人はいきなり、音も立てずにはいってきたので、ピクウィック氏は声を出したり、それをしめだす余裕はなかった。いったい、だれなのだろう? 泥棒だろうか? たぶん、美しい懐中時計を手にして彼が二階にあがって来るのを見ていた心よからぬ男なのだろう。どうしたらいいだろう?
できるだけこちらは見られないようにして、ピクウィック氏がこのふしぎな来訪者をチラリとでもながめるただひとつの方法は、寝台のところまではってゆき、反対側のカーテンの隙間からのぞいて見ることだった。そこで、彼はそれをやることになった。顔とナイトキャップ以外に彼の姿はなにも見えないようにと、手でカーテンをしっかりと抑え、眼鏡をかけて、彼は勇気をふるいおこして、そっと外をのぞいて見た。
ピクウィック氏は恐怖と狼狽でほとんど気絶せんばかりになった。化粧テーブルの前に立っているのは、黄色の毛巻き紙をつけた中年の婦人で、婦人方が「うしろ髪」と呼んでいるものにせっせと|櫛《くし》を入れている姿だった。このなにも意識していない中年の婦人がどうしてここにはいってきたにせよ、彼女が夜のあいだここにいようと考えていることは、至極明瞭なことだった。というのも、彼女は灯心草ろうそくとランプのかさを持参し、火事にたいする賞賛すべき用心深さで、それを床の上の洗面器の中に入れ、それは、特別な小さな水面における巨大な灯台のように、チラリチラリと輝いていたからである。
「いやあ、驚いたぞ」ピクウィック氏は考えた。「なんというおそろしいことだ!」
「えへん!」と婦人は言い、自動機械のようなすみやかさで、ピクウィック氏の頭は奥に消えた。
「こんなおそろしい目には、いままで一度も会ったことがないぞ」冷汗の|滴《しずく》をナイトキャップにたらしながら、あわれにもピクウィック氏は考えた。「一度もないぞ。これはたまらんことだ」
なにが進行中なのか見ようとする強い欲望に抵抗するのは、不可能なことだった。そこでピクウィック氏の頭は、ふたたびあらわれた。見とおしは前より具合いのわるいものになっていた。中年の婦人は髪の手入れを終わり、小さな編んだへりのついたモスリンのナイトキャップで注意深く髪をつつみ、ジッと物思いにふけりながら、炉の火に見入っていた。
「事態はだんだんまずいことになっているぞ」ピクウィック氏は心中考えた。「これをこのままにしておくわけにはいかん。あの婦人の落ち着きぶりから見ると、自分がまちがった部屋にはいったことは明らかだ。もし声を出したら、彼女は旅館中の者を驚かすことになるだろう。だがここにいのこるとしたら、結果はもっとおそろしいことになるだろう」
これは言うまでもないことだが、ピクウィック氏はじつに遠慮深い、心づかいの細やかな人物だった。自分のナイトキャップをご婦人に示すことだけでも、彼にはたまらぬこと、しかし、彼はあのいまいましいひもをしっかり結びつけてしまって、どう努力しても、それを解くことができなかった。こちらがいることは伝えねばならず、それをする方法は、ほかにひとつしかなかった。彼はカーテンの陰に姿をかくし、大声を出した。――
「は――ふん!」
この思いもかけぬ物音が婦人を驚かしたことは、彼女が倒れて灯心草ろうそくのかさにぶつかったことで、明らかだった。彼女がそれを空想のいたずらにちがいないと思いこんだことも、同様に明らかだった。それというのも、彼女が恐怖心で完全に失神してしまったにちがいないと思いこんでピクウィック氏がふたたび外をのぞいて見たとき、彼女は前どおり物思いにふけって炉の火をながめていたからである。
「じつに異常な女だぞ、これは」カーテンの奥にまた姿をかくして、ピクウィック氏は考えた。「は――ふん!」
この最後の物音は、伝説によれば、兇悪な巨人ブランダーボア(「巨人殺しのジャック」という物語に出てくる巨人)が食事の準備をしろということをいつも伝えていた物音にそっくり、とてもはっきりと聞こえてきて、気のせいとふたたび勘ちがいすべきものではなかった。
「まあ!」中年の婦人は言った、「あれはなにかしら?」
「それは――それは――ご婦人――紳士にすぎません」カーテンのうしろからピクウィック氏は言った。
「紳士ですって!」おそろしい悲鳴をあげて婦人は叫んだ。
「万事休すだ!」ピクウィック氏は考えた。
「見知らぬ男ですって!」婦人は悲鳴をあげた。一刻でも猶予すれば、旅館中は大さわぎになるだろう。彼女がドアのところにとんでいったとき、その服はサラサラッと鳴った。
「ご婦人」頭を突き出し、必死になって、ピクウィック氏は叫んだ。「ご婦人!」
さて、頭を外に出したことでピクウィック氏はべつにはっきりとした目的をもっていたわけではなかったが、それはその場で良好な結果を生みだした。もうすでに述べたように、婦人はドアのすぐそばにいっていた。彼女は階段にゆくためには、そこをとおらねばならず、ピクウィック氏のナイトキャップが突然にあらわれ、それが彼女を部屋のいちばん隅に追いやらなかったら、彼女は当然そこをとおりぬけたことだろう。そこで、部屋の隅で彼女はピクウィック氏を激しくにらんで立ち、ピクウィック氏はピクウィック氏で、逆に彼女を激しくにらみつけていた。
「卑劣漢!」両手で目をおおって、彼女は言った、「ここになんの用があるのです?」
「なんの用も、ご婦人、なんの用も絶対にありません」むきになってピクウィック氏は言った。
「なんの用もないですって!」目をあげて、婦人は言った。
「名誉にかけ、ご婦人、なんの用もありません」ひどくむきになって頭をコクリコクリとやりながらピクウィック氏は言ったので、彼のナイトキャップの房はそれに応じて踊りあがっていた。「ご婦人、ナイトキャップをかぶってご婦人に話しかけるなんぞという失礼の狼狽で(ここで婦人は急いで彼女のナイトキャップをぬぎすてた)、わたしは身がちぢむ思いです。だが、それがぬげないのです(ここで、その言葉の証しにと、ピクウィック氏はそれをすごい勢いで引っぱった)。わたしがこの寝室を自分の部屋と勘ちがいしたことは、ご婦人、もうわたしにははっきりとわかっています。わたしがまだここに五分といないうちに、ご婦人、あなたが突然ここにはいっておいでになったのです」
「この考えられない話が本当だったら」激しくすすり泣きながら、婦人は言った、「すぐここを出ていってください」
「よろこんで、ご婦人、そうしますよ」ピクウィック氏は答えた。
「すぐにね」婦人は言った。
「もちろんです、ご婦人」さっとピクウィック氏は口をはさんだ。「もちろんです、ご婦人。まことに――まことに――すみませんでした。ご婦人」寝台の下から姿をあらわして、ピクウィック氏は言った、「なにも知らずとはいいながら、こんな驚きとさわぎをひきおこしてしまいまして、本当にあいすみません、ご婦人」
婦人はドアをゆびさした。ピクウィック氏のもつ性格のひとつのすぐれた点が、このじつに苦しい事情のもとで、この瞬間にじつに美しく発露された。彼は急いで、|手練《てだ》れの巡視人のように、ナイトキャップの上に帽子をかぶり、手に靴とゲートルをもち、腕には上衣とチョッキをかけてはいたが、どんなことも、彼の生来の|慇懃《いんぎん》さを打ち消すことはできなかった。
「本当にすみませんでした、ご婦人」低く頭をさげて、ピクウィック氏は言った。
「もしすまなかったら、すぐに部屋を出ていってください」婦人は言った。
「すぐに、ご婦人、ただいますぐに、ご婦人」ドアを開きながら、扉をガタンと落として、ピクウィック氏は言った。
「わたしは思います、ご婦人」靴をひろい、お辞儀をしようとまた向きなおって、ピクウィック氏はつづけた、「わたしは思います、ご婦人、わたしのけがれのない評判、それに女性にたいしてわたしがいだいている献身的な敬意が、このことにたいするほんのわずかな弁明となり――」しかしピクウィック氏がまだその言葉を終えないうちに、婦人は彼を廊下に追い出し、彼が出たあとのドアにしっかりと錠をかけ、かんぬきをおろしてしまった。
いままでの気まずい事態からこうして無事にのがれでられたことにたいして、それをよろこぶどんないわれがピクウィック氏にあったにせよ、彼の現在の立場は決してうらやましいものではなかった。彼は真夜中、服もほとんど着けずに、見知らぬ旅館で、ガランとした廊下にただひとりいるのだった。灯りをもってもぜんぜん発見できなかった部屋を、真暗闇の中で見つけだすことは、考えられないことだった。そして、それをしようとする無益な努力で彼が少しでも音を立てたら、だれか目をさましている旅行者の手で彼が撃たれ、おそらくは殺される可能性だって、十分にあった。夜明けが近くなるまで、彼がいまいるところにいる以外に、なんの方法ものこされてはいなかった。そこで、廊下ぞいに手さぐりで何歩か進み、何足かの靴に蹴つまずいてひどくびっくりしたあとで、ピクウィック氏は壁の小さなひっこんだところにうずくまって、できるだけあきらめの気持ちをもって、夜明けを待つことになった。
しかしながら、彼は、こうして加えられた忍耐の試練を受けずともすむように運命づけられていた。というのは、このかくれ場所にそうながくはひそんでいないうちに、口には出せぬほどおそろしいことに、灯りをもった男が廊下の端にあらわれたからである。しかし、彼の忠実な召使いの姿をそこに見つけだしたとき、彼の恐怖は、突然、よろこびに変わっていった。それは、じっさい、サミュエル・ウェラー氏で、彼は、郵便物を待って起きている靴磨きたちとこうして夜ふけまで話をしていたあとで、いま眠ろうと出てきたところだった。
「サム」急に彼の前にあらわれて、ピクウィック氏は言った、「わたしの寝室はどこなのだね?」
ウェラー氏はひどくびっくりして、目をむいて自分の主人をにらみつけ、この質問が三回くりかえされてはじめて、向きを変え、ながくさがし求めていた部屋に主人を案内していった。
「サム」床にはいったとき、ピクウィック氏は言った、「今晩は前代未聞のとてつもないあやまちをしでかしてしまったよ」
「いかにもそうらしいですな」素っ気なくウェラー氏は言った。
「だが、このことで決心したよ、サム」ピクウィック氏は言った、「この旅館に六カ月滞在することになっても、二度とふたたび、ひとりでここを歩きまわったりはせんとね」
「それは、このうえない慎重な決心ですな」ウェラー氏は答えた。「あなたの判断力がフラフラと外に出歩いているときには、あなたの世話を見るだれかが、どうしても必要なんです」
「というのは、どういうことだね、サム?」ピクウィック氏はたずねた。彼は寝台で体を起こし、なにかもっと言おうとして、手をのばしたが、急にそれを抑えて、向きを変え、召使いに「お寝み」と言った。
「お寝みなさい」ウェラー氏は答えた。ドアの外に出たとき、彼は立ちどまり――頭をふり――歩きだし――足をとめ――ろうそくの芯を切り――また頭をふり――最後に、明らかにこのうえない深い瞑想にふけりながら、自分の部屋に進んでいった。
[#改ページ]
第二十三章
[#3字下げ]この章では、サミュエル・ウェラー氏が自分自身とトロッター氏のあいだの再度の試合の準備に精力をそそぎはじめる
黄色の毛巻き紙をつけた中年の婦人相手のピクウィック氏の冒険で開けることになったその朝早く、うまやの内庭の近くの小さな部屋に父親のウェラー氏は坐っていて、ロンドンへの旅の準備をしていた。彼は自分の肖像画でも描いてもらっているようなりっぱな姿勢をしていた。
若かりしころ、ウェラー氏の横顔はくっきり、きりっとした輪郭を示していただろうということは、十分に考えられることである。しかしながら、りっぱな生活をし、あきらめが目立つ性格であったために、彼の顔がひろがり、その肉づきのいいくっきりとした線が、それにもともと与えられていた限度をはるかに踏み破ってひろがり、正面から彼の顔をまともに見るのでなかったら、ひどく赤味をおびた鼻の|突《と》っ先以上のものを見わけるのは、困難になっていた。顎は、その表情豊かな箇所に「二重の」という形容詞がつけられてふつう描写されている重々しい、堂々とした形をそなえるようになり、顔色は彼の職業に属している紳士と生焼けの牛の焼き肉にだけ見られるあの独得の雑色の組み合わせの色を示していた。首のまわりには、|真紅《しんく》の旅行用のショールが着けられ、それは、それとわからぬふうに彼の顎と合流して、一方のひだを他のひだと区別するのは困難になっていた。この上に、彼は幅のひろい縞のついたながいピンクのチョッキを着こみ、その上にまた、大きな真鍮のボタンで飾られたすそびろの緑の上衣を着ていて、腰のあたりを飾っているそのふたつのボタンはひどくはなれてつけられ、同時にふたつは目にはいらなくなっていた。短く、なめらかで、黒い彼の髪は、低い褐色の帽子の大きなふちの下で、ちょっとわずかに見えていた。両脚は膝ひものついたズボンと色をぬった乗馬靴の中におさめられ、銅の時計鎖の端には印形と銅の鍵がつき、それは彼の大きなバンドからダラリとさがっていた。
ウェラー氏がロンドンへの旅の準備をしていたと伝えたが、事実は、食事をしていたのだった。彼の前のテーブルに、ビールの壺、牛の冷えたもも肉、とてもいい恰好をした焼きパンがならべられ、|依怙《えこ》|贔屓《ひいき》のないじつにきびしい態度で、彼はそのそれぞれに順次好意を示していた。焼きパンの大きな切れを切りとったちょうどそのとき、部屋にだれかがはいってくる足音がして、頭をあげると、彼はそこに息子の姿を見た。
「お早よう、サミー!」父親は言った。
せがれはビールの壺のそばに近づき、父親に意味深にうなずいて、答えがわりに、それをグーッと一杯ひっかけた。
「なかなか吸引力が強いね、サミー」長男がそれをほとんど|空《から》にして下においたとき、中をのぞきこみながら、父親のウェラー氏は言った。「もしお前がかき[#「かき」に傍点]に生まれてたら、サミー、お前はすごくりっぱなかき[#「かき」に傍点]になったことだろうよ」
「うん、吸いあげて、かなりりっぱな暮らしができるようになったでしょうよ」そうとう勢いよく冷えた牛肉に食らいついて、サムは答えた。
「とても残念に思ってるよ、サミー」飲む前の準備として、壺で小さな円を描きながら、ビールをふり、父親のウェラー氏は言った。「とても残念に思ってるよ、サミー、お前の口から、あの赤紫色の男にお前が|やられた《ギヤモン》のを聞いてね……。三日前までいつも思ってたんだ、ウェラーとギャモンという言葉は絶対に契約を結ぶことはないとね、サミー、絶対にね」
「もちろん、後家さんの場合はべつにしてですな」
「後家は、サミー」ちょっと色をなして、ウェラー氏は答えた。「後家はすべての規則の例外さ。ひとりの後家に匹敵するどれだけ多くふつうの女がお前をひっかけようとしてるかは、おれも知ってるよ。それが二十五人くらいだろうとにらんでるが、それ以上でないとは思ってないね」
「うん、だいたいそんなとこですな」サムは言った。
「そのうえ」相手が口を入れたのを気にもとめずに、ウェラー氏はつづけた、「そいつはとてもちがったことなんだ。陽気になったときいつも火かき棒で女房をなぐってた紳士の弁護をした弁護士がなんて言ったかは、サミー、お前も知ってるだろう。『閣下、結局』彼は言ったんだ、『それはおだやかな欠陥です』とね。後家についても、わしはそう言うね、サミー、お前もわしくらいの齢になったら、そう言うだろうよ」
「あんなにバカじゃいけなかったわけですな」サムは言った。
「あんなにバカじゃいけなかっただって!」拳でテーブルをたたいて、ウェラー氏はくりかえした。「あんなにバカじゃいけなかっただって! いやあ、わしは知ってるぞ、お前の半分、四分の一も教育を受けず、市場のあたりで眠ったことはなく、そう、六か月も眠ったことがない若い男だって、あんなふうにしてやられるのは、いさぎよしとはしないだろう、サミー、いさぎよしとはしないだろうよ、サミー」この苦しい考えで生みだされた興奮で、ウェラー氏は鐘を鳴らし、さらにビールを一パイント注文した。
「うん、そのことをいま話したってむだですよ」サムは言った。「トルコでまちがった首を切りとってしまったときにいつも言うように、それで終わり、どうにもしようがなく、それは、ひとつの気晴らしになるんですからね。おやじさん、こんどはこちらの番、あのトロッターのやつをとっつかまえたらすぐ、ちゃんとやっつけて見せますよ」
「そうすることを待ってるよ、サミー。そうすることを待ってるよ」ウェラー氏は答えた。「さあ、サミー、お前の健康を祝おう。そして、お前が家名に受けた恥を早くそそぐようにな!」この乾杯に敬意を表して、ウェラー氏は新しく運ばれてきた一パイントのビールの少なくとも三分の二を一気に飲みほし、のこりを処分するようにと、それを息子にわたし、息子はすぐそれを片づけてしまった。
「さて、サミー」銅の鎖の端にさがっていた大きな両面銀時計を見て、ウェラー氏は言った。「いまはもう、事務所にいって貨物運送状を受けとり、駅伝馬車に荷積みをするのを見る時刻になった。駅伝馬車は、サミー、鉄砲のようなもん――ぶっぱなす前には、うんと注意して、弾こめ(荷積み)をせにゃならんのだからな」
この父親の職業的な冗談を耳にして、息子のウェラー氏は息子らしい微笑を浮かべ、彼の尊敬すべき父親は厳粛な調子で話をつづけた――
「わしはいまお前とわかれようとしてるが、せがれのサミュエルよ、お前にいつ会えるかわかったもんじゃない。お前の義理の母さんはおれには荷の勝ちすぎたものになるかもしれないし、ベル・ソウヴァージュの有名なウェラーのなにか話をお前が耳にするまでには、千ものことが起きてるかもしれない。サミュエル、家名の浮沈は、お前の肩にかかってるのだぞ。それにたいして、正しいことをやってくれ。育ちのすべての細かなことについては、まるでおれ自身のように、お前も信頼できることは知ってるよ。だから、おれのお前に与えるのは、このほんのちょっとした忠告だけだ。もしお前が五十以上になり、だれかと――だれでもかまわんが――結婚したくなったら、部屋をもってた場合には、その部屋に引っこもり、すぐ毒で自殺してしまうんだ。首をつるのは下品なことだ。だから、そんなことにはかかわり合うな。毒で自殺をするんだ、せがれのサミュエルよ、毒で自殺をするんだ。そうすれば、あとでそれをありがたかったと思うぞ」こうしたやさしい言葉を述べながら、ウェラー氏はしっかりと自分の息子をにらみすえ、ゆっくりと|踵《かかと》をめぐらして、姿を消していった。
こうした言葉がひきおこした思索的な気分になって、サミュエル・ウェラー氏は父親が去っていくと、『大白馬旅館』から出てゆき、足を聖クレメント教会のほうに向け、そこの古い境内の散歩で憂鬱な気分をまぎらわそうとした。しばらくのあいだ、あちらこちらをさまよい歩いているうちに、彼は自分が奥まった場所――重々しいふうの一種の内庭――にいることに気づき、彼がはいってきた入口以外にほかの出口がないことを発見した。足を引きかえそうとした瞬間、彼は突然の出現物によって、急にその場所に釘づけになってしまった。この出現物のようすと態度をこれから語ることにしよう。
サミュエル・ウェラー氏はときどき古い煉瓦建ての家をボーッとして見あげ、健康そうな下女が鎧戸をあげたり寝室の窓を開けたりしているとき、彼女にウィンクを送ったりしていた。そのとき、内庭の奥の庭の緑の門が開かれ、男がそこからあらわれて、出てきたあと、とても注意深くその緑の戸を閉め、ウェラー氏が立っているちょうどその場所のほうにツカツカッと歩いてきた。
さて、それにつきまとった事情をぬきにして、このことを孤立した事実と考えれば、これには、べつにたいして異常なことはなにもない。というのも、世界の多くの場所で、人は庭から出てきて、そのあと緑の門を閉め、どんな人にも特別気づかれはせずに、そこをツカツカッと立ち去ってゆくからである。だから、その男に、あるいはその男の態度に、あるいはその両方に、ウェラー氏の特別の注意をひくなにかがあったにちがいないことは明らかである。それがあろうとなかろうと、問題の人物の態度を忠実に描写する場合、そのことは読者の決定にゆだねなければならない。
男が出たあと緑の門を閉ざしたとき、前にももう二回述べたように、彼はツカツカッと中庭を歩いてきた。しかし、ウェラー氏に気がつくやいなや、彼はとまどい、足をとめ、さし当たってどう進んだらいいか迷っているようだった。しかし、緑の門は背後で閉じられ、正面の出口以外にほかの出口はなかったので、彼は間もなく、そこを出てゆくには、サミュエル・ウェラー氏のわきをとおらなければならないと考えた。そこで、彼はツカツカッとした足どりをとりもどし、まっすぐ自分の前をにらんで、進んでいった。この男についてもっとも異常なことは、彼が自分の顔をじつにおそろしい、驚くべき渋面に引きゆがめているということだった。造化の神のつくったどんな顔も、この男があっという間に自分の顔をおおってしまったほどとてつもない人工的な彫刻で変装されたことはないほどだった。
「うん」ウェラー氏は、男が近づいてきたとき、心中考えた。「これはじつに奇妙なこったぞ。あれがやつだと誓言もできるくらいなんだがな……」
男は近づき、近づくにつれて、彼の顔は前よりもっとひどく引きゆがめられた。
「あの黒い髪と赤紫色の服はまさにまちがいなしと誓えるくらいなんだがな」ウェラー氏は言った。「ただ、あんな顔はいままで見たこともないぞ」
ウェラー氏がこれを言ったとき、男の顔はまったくおそろしいこの世のものならぬ痛みをおびてきた。しかし、男はサムのとても近くをとおらねばならず、サムの目を凝らした一瞥は、こうしたおそろしい顔の引きつりにもかかわらず、容易に勘ちがいはできぬジョッブ・トロッター氏の小さな目とじつによく似ているなにかあるものを発見した。
「おい、きみ!」激しい勢いでサムは叫んだ。
見知らぬ男は立ちどまった。
「おい!」もっと素っ気なく、サムはくりかえした。
おそろしい顔をした男は、ひどく驚いたようすで、内庭のあちらをながめ、こちらをながめ、家々の窓の中をながめ――サム・ウェラー氏以外のすべての場所をながめ、一歩歩みだしたが、もうひと叫びの声で、またとめられてしまった。
「おい、きみ!」これで三度目だが、サムは叫んだ。
その声が発せられた場所を勘ちがいするふりはもうできなかったので、見知らぬ男はほかにしようもなく、とうとうサム・ウェラーの顔をまともに見すえた。
「ジョッブ・トロッター、そんなことをしてもだめだ」サムは言った。「さあ、そんなバカな真似はやめにしろ。お前はきれいな顔つきをうんと投げすてることができるほど、そんなに美男子じゃないんだからな。お前のその目をもとの場所にかえしてやれ。そうしないと、その目玉を頭からたたきだしてやるからな。わかったか?」
ウェラー氏のようすにはその言葉を実行にうつしかねまじき気配が十分にあったので、トロッター氏はだんだん顔に本来の表情をとりもどし、それから、いかにもうれしそうにギクリとして、叫んだ、「いや、これはどうだ! ウォーカーさん!」
「ああ」サムは答えた。「おれに会って、お前はとてもよろこんでるんだな、そうじゃないか?」
「よろこぶですって!」ジョッブ・トロッターは叫んだ。「おお、ウォーカーさん、この出逢いをわたしがどんなに楽しみに待っていたかわかってくださったらねえ! これはもうたまらないことです、ウォーカーさん。もう我慢できません、本当にそうです」こう言って、トロッター氏はさめざめと泣きだし、彼の両腕をウェラー氏の体のまわりにまわして、よろこびの有頂天さで、彼をギュッとだきしめた。
「はなせ!」このやり方に腹を立て、情熱的な知人の手からのがれようと無益な努力をして、サムは叫んだ。「本当に、はなせ。なんのためにおれのことで泣いてるんだ、この移動機関め?」
「お会いしてとてもうれしいからですよ」ウェラー氏の戦闘意識が消えかけているのを見とどけて、だんだんと手を放して、ジョッブ・トロッター氏は答えた。「おお、ウォーカーさん、これはもう、たまらないことです」
「たまらないだって!」おうむがえしにサムは叫んだ、「たまらないだろうとも――そうとうな! さて、おれにたいしてお前の言うことって、どんなことがあるんだい、えっ?」
トロッター氏はなにも答えなかった。小さなピンクのハンカチがその威力を発揮していたからである。
「お前の頭をふっとばす前に、おれにたいしてお前の言うことって、どんなことがあるんだい?」脅迫的な態度で、ウェラー氏はくりかえした。
「えっ!」ひどいことを言われたものといった驚きのふうを示して、トロッター氏は言った。
「おれにたいしてお前の言うことって、どんなことがあるんだい?」
「わたしがですって、ウォーカーさん!」
「ウォーカーなんぞと呼んでくれるな。おれの名はウェラーってんだからな。そいつはお前もよく知ってるじゃないか。おれにたいしてお前の言うことって、どんなことがあるんだい?」
「まあ、ウォーカーさん――いや、ウェラーさんですがね――どこかゆっくり話せるようなとこへ来てくださったら、山ほど話したいことはありますよ。どんなにお会いしたく思ってたかをご存じだったら、ウェラーさん――」
「まったく、とても熱心に、というところだろうな?」素っ気なくサムは言った。
「とても、とてもですよ」顔をピクリともさせずに、トロッター氏は答えた。「でも、握手をしましょう、ウェラーさん」
サムは数秒間相手をジッとながめ、それから、急に衝動につき動かされたように、その要求に応じた。
「いかがです?」そこから歩いてゆきながら、ジョッブ・トロッター氏は言った、「あなたのやさしい、善良なご主人はいかがです? おお、あの方はりっぱな紳士ですよ、ウェラーさん! あのおそろしい夜に、風邪をおひきではなかったでしょうね?」
こう言ったとき、ジョッブ・トロッター氏の目は瞬間的に狡猾さをあらわしたが、それは、ウェラー氏のにぎりしめた拳をゾクリとさせ、相手のあばら骨をひと突きしてやりたい気持ちを燃え立たせた。しかし、サムはそうした気持ちを抑え、自分の主人はとても元気だ、と答えた。
「おお、とてもうれしいこと!」トロッター氏は答えた、「あの方はここにおいでですか?」
「お前の主人はここにいるのかね?」返事としてサムはたずねた。
「ああ、いますよ。残念なことですが、ウェラーさん、彼は前よりもっといけない人間になってます」
「えっ、えっ?」サムは言った。
「おお、驚いたこと――おそろしいこと!」
「寄宿学校にいるのかね?」サムはたずねた。
「いいえ、寄宿学校じゃありません」サムが前に気づいていたのと同じ狡猾そうなようすをして、ジョッブ・トロッター氏は答えた。
「緑の門のある家でかね?」相手を子細にながめながら、サムは言った。
「いや、いや――おお、あそこではありません」彼には似合わぬ素早さで、さっとジョッブは答えた、「あそこではありません」
「あそこでお前はなにをしてたんだ?」鋭い一瞥を投げて、サムはたずねた。「たぶん、偶然門の中にはいっちまったんだろうな?」
「いやあ、ウェラーさん」ジョッブは答えた、「あなたには遠慮なくわたしの小さな秘密をお伝えしますよ。だって、ねえ、はじめて会ったとき、すっかり仲よしになってしまった仲ですものねえ。あの朝どんなにわたしたちが楽しかったか、憶えておいでですか?」
「おお」いらいらしてサムは言った。「憶えてるよ。とてもよくね」
「ところで」非常に正確に、そしてとても重要な秘密を伝えるように声を低くして、ジョッブは答えた、「あの緑の門のある家には、ウェラーさん、とてもたくさんの召使いがいるんです」
「外見から見ても、そうらしいな」サムは口をはさんだ。
「そうなんです」トロッター氏はつづけた、「そしてそこに料理女がいるんですが、彼女は小金をためててね、ウェラーさん、もし身を固めることができたら、雑貨屋の小さな店を開きたいと思ってるんです」
「そうかい」
「そうなんですよ、ウェラーさん。そう、わたしがいってる教会で彼女に会いました、この町のとても小ざっぱりした小さな教会なんですがね、ウェラーさん。そこでは讃美歌の第四集が歌われてるんです。これは小さな本で、いつももち運んでるもの、たぶん、その姿はわたしの手の中にごらんになったことがあるでしょう――そして、彼女とちょっと親しくなったんです、ウェラーさん。それから、われわれのあいだに交際がはじまりましてね。こう申してもいいでしょうが、ウェラーさん。わたしは雑貨屋になることになったんです」
「ああ、とても愛想のいい雑貨屋になるこったろうな」ひどい嫌悪の横目を使ってジョッブをながめながら、サムは答えた。
「そのとてもありがたい点は、ウェラーさん」話しながら、目に涙をいっぱいためて、ジョッブはつづけた、「あの悪人に、屈辱的につかえるのをやめることができ、もっとましな、りっぱな仕事に身を打ちこめるということです、わたしの育ちにもっとふさわしいようにね、ウェラーさん」
「お前はきっととてもりっぱな育ちを受けたんだろうからな」サムは言った。
「おお、とてもね、ウェラーさん、とてもね」ジョッブは答えた。自分の若かりしころの清らかさを思い出して、トロッター氏はピンクのハンカチをとりだし、さめざめと泣きだした。
「学校にいくのに、お前さんはじつにいい子だったろうな」サムは言った。
「そうでしたよ」深い溜め息をもらして、ジョッブは答えた。「わたしは学校の偶像的存在でした」
「ああ」サムは言った、「きっとそうだと思うな。お前の運のいい母さんは、とてもよろこんでただろうな」
この言葉を聞いて、ジョッブ・トロッター氏はピンクのハンカチの端を目の隅にかわるがわるさしこんで、わあわあと泣きはじめた。
「こいつ、どうしたんだろう?」ムカムカしてサムは言った。「チェルシーの噴水だって、お前にくらべたら、物の数じゃないな。なにをメソメソ泣いてるんだ? 罪の意識かね?」
「とても気持ちを静めてはいられませんよ、ウェラーさん」ちょっと間をおいて、ジョッブは言った。「あなたとした話のことを主人は勘ぐり、駅伝馬車にわたしを引きずりこみ、あのやさしいお嬢さんには、彼のことはなにも知らないと言え、と説きつけ、学校の先生にも袖の下を使って同じことをやらせ、彼女をすてて、もっとましな女をねらってるんです! おお、ウェラーさん、それを思うと、身にふるえがくるほどです」
「おお、そうだったのかい、えっ?」ウェラー氏はたずねた。
「たしかに、そうでした」ジョッブは答えた。
「うん」ふたりはいまホテルの近くまで来ていたので、サムは言った、「ジョッブ、お前とはちょっと話をしたいんだ。だから、特別用がないんだったら、今晩八時ごろに、『大白馬旅館』でお前に会いたいんだがね」
「きっといきますよ」ジョッブは言った。
「うん、来たほうがいいぞ」意味深な目つきをして、サムは答えた、「さもなけりゃ、緑の門の向こう側でお前のことをたずね、お前を出しぬくことになるかもしれんからな」
「きっといきますよ」とトロッター氏は言い、ひどく熱っぽくサムの手をにぎってから、立ち去っていった。
「用心しろよ、ジョッブ・トロッター、用心しろよ」彼のあとを見送って、サムは言った、「さもなけりゃ、今度はお前にはちょっと始末がつかんことになるぞ。まったくな」こう独り言を言い、ジョッブの姿を見えなくなるまで見送ってから、ウェラー氏は急いで主人の寝室に出かけていった。
「もうすっかり準備はできましたよ」サムは言った。
「なにが準備できたというんだね、サム?」ピクウィック氏はたずねた。
「やつらを見つけだしたんです」サムは言った。
「見つけだしたって、だれを?」
「あの妙な男と黒い髪をした陰鬱な男ですよ」
「本当かね、サム!」すごい力をこめて、ピクウィック氏は言った。「どこにいるんだい、サム? どこにいるんだい?」
「しっ、しっ!」ウェラー氏は言い、ピクウィック氏が服を着けるのを手伝いながら、彼がやろうと思っている行動計画をくわしく述べ立てた。
「だが、それはいつするのだね、サム?」ピクウィック氏はたずねた。
「いずれ適当なときにです」サムは答えた。
それが適当なときおこなわれたかどうかは、いずれ今後語ることにしよう。
[#改ページ]
第二十四章
[#3字下げ]ピーター・マグナス氏が嫉妬心を燃やし、中年の婦人は不安になり、その結果、ピクウィック・クラブ会員たちは法律にふれることになる
ピクウィック氏が前の晩をピーター・マグナス氏と送った部屋におりていったとき、彼はその紳士がふたつの袋、なめし革の帽子箱と褐色の紙づつみの大部分をじつにみごとに自分の体に着け、彼自身はひどい興奮とワクワクした気持ちになって、部屋をいったり来たりしているのに気がついた。
「お早うございます」ピーター・マグナス氏は言った。「これをどうお思いです?」
「じつに効果的ですな」ピーター・マグナス氏の服を人のいい微笑を浮かべてながめながら、ピクウィック氏は答えた。
「そう、これでいいと思います」マグナス氏は言った。「ピクウィックさん、名刺をもう出したんです」
「そうですか?」ピクウィック氏は言った。
「そして給仕は彼女が十一時に――十一時ですよ――会うという言葉を伝えてきました。もうあと十五分しかないわけです」
「もうじきですな」ピクウィック氏は言った。
「そう、もうじきです」マグナス氏は答えた、「じきすぎて、なんだか気が落ち着きませんよ――えっ、どうです、ピクウィックさん?」
「こうした場合には自信が大切なことですよ」ピクウィック氏は言った。
「そうだと思いますね」ピーター・マグナス氏は答えた。「わたしは自信満々。本当に、ピクウィックさん、こんな場合にどうして男がはらはらしなければならないのか、わたしにはわかりませんよ。それは、いったい、なんなんです? 恥じるべきことはなにもありません。それは相互の調和だけのことですからな。一方では夫、一方では妻だけのこと。それがこのことに関するわたしの考えなんです、ピクウィックさん」
「それはまことに哲学的な考えですな」ピクウィック氏は答えた。「だが、朝食ができていますよ、マグナスさん。さあ、ゆきましょう」
ふたりは朝食のテーブルについたが、ピーター・マグナス氏の自慢にもかかわらず、彼がそうとう神経質になっていることは明らかで、食欲の喪失、茶道具をひっくりかえしそうになったこと、冗談をとばそうとするむなしい試み、一秒おくごとに時計をつい見てしまうことが、その神経質の主要な徴候となっていた。
「ひっ――ひっ――ひっ」陽気さをよそおい、興奮であえぎながら、マグナス氏はくすくす笑いをした。「ピクウィックさん、もう二分しかありません。顔は青くなってますか?」
「いいや、たいして」ピクウィック氏は答えた。
ちょっと沈黙がつづいた。
「失礼ですが、ピクウィックさん、あなたは、お若いころ、こうしたことをなさったことがおありですか?」マグナス氏は言った。
「結婚申しこみですか?」ピクウィック氏はたずねた。
「そうです」
「いや、一度もね」ひどく力をこめて、ピクウィック氏は言った、「いや、一度もね」
「それじゃ、それをどうはじめたらいいか、わかっておいでではないのですね?」マグナス氏は言った。
「いやあ」ピクウィック氏は言った、「その問題に関しては、いくつか考えをまとめてあるかもしれませんが、なにせ、それを実行にうつしたことはないので、それであなたのやり方を決めるようなことになってはいけませんからな」
「どんな忠告でもいただければ、とてもありがたいんですが」時計をまた見て、マグナス氏は言った。時計の針は十一時五分すぎになろうとしていた。
「そうですな」この偉人が、その気になれば、自分の語る言葉を非常に印象的なものにすることができるあの深い厳粛さで、ピクウィック氏は言った。「婦人の美とすぐれた素質にたいする賛辞でまずはじめることでしょうな。それから、自分自身のいたらぬことにうつってゆくでしょう」
「とてもうまいですな」マグナス氏は言った。
「いたらぬといっても、彼女にたいしてだけのことですよ」ピクウィック氏はつづけた。「というのも、完全にいたらぬわけではないのを示すために、わたしは自分の過去の生活と現在の状況を簡単に述べることでしょう。類推で、ほかのどんな人間にとっても、自分はとても望ましい男であることを示しますな。それから自分の愛情の熱烈さと献身の深さについてながながと述べることになるでしょう。たぶん、そのとき、心誘われて彼女の手をつかむことになるかもしれません」
「いや、わかりました」マグナス氏は言った。「それはとても重要な点になることでしょうな」
「それから」この問題が輝く色をおびて心にわきおこるにつれて、だんだんと熱を加えて、ピクウィック氏はつづけた、「それからわたしは『わたしを夫にしてくださいますか?』と単刀直入にたずねるでしょう。こうこちらで言うと、彼女は|面《おもて》をそむけると考えてもいいでしょうな」
「それを当然のことと考えていいとお思いなんですね?」マグナス氏はたずねた。「彼女がちょうどそのとき、それをしなかったら、まずいことになりますからな」
「そうなると思いますよ」ピクウィック氏は言った。「そこで、わたしは彼女の手をギュッとにぎりしめ、わたしは考えますな――考えますな[#「考えますな」に傍点]、マグナスさん――それがすんだら、拒否はなかったものとして、わたしの人間性に関するわずかな知識から判断して、彼女がそのとき目にあてがっているハンカチをそっとはずし、敬意のこもったキスをすることでしょう。きっとキスをしますよ、マグナスさん。そして、このときになって、もし彼女がわたしを夫にむかえる気持ちになっていたら、彼女は恥ずかしそうに承知の言葉をわたしの耳にささやくものと、強く確信しています」
マグナス氏はギクリとし、ピクウィック氏の知的な顔をしばらくのあいだだまったまま見つめ、それから(時計が十分すぎを示していたので)熱烈に彼の手をにぎり、しゃにむに部屋からとびだしていった。
ピクウィック氏は数歩大股であちらこちらに歩きまわり、時計の短針はピクウィック氏のこの動作にまねて大股に進み、三十分を示す数字のところにとどいていたが、そのときドアが急に開かれた。ピーター・マグナス氏があらわれるものと思って彼はふり向いたが、そのかわりに、タップマン氏のうれしそうな顔、ウィンクル氏の静かな顔つき、スノッドグラース氏の知的な顔立ちがそこにあらわれていた。ピクウィック氏が彼らに挨拶をしているとき、ピーター・マグナス氏が軽やかに急ぎ足で部屋にはいってきた。
「諸君、こちらはいま話していた紳士の方――マグナスさんですよ」ピクウィック氏は言った。
「みなさん、よろしくおねがいします」明らかにひどく興奮して、マグナス氏は言った。「ピクウィックさん、ちょっとあなたにお話しするのを許してください」
そう言いながら、マグナス氏は人さし指をピクウィック氏のボタンの穴にひっかけ、彼を窓のくぼみのところに引っぱっていって、こう言った――
「よろこんでください、ピクウィックさん。あなたのご忠告をそのまま文字どおりにやったんです」
「そしてそれがみんな、ピタリピタリでしたかね?」ピクウィック氏はたずねた。
「そうでした。あれ以上うまくはいかなかったことでしょう」マグナス氏は答えた。「ピクウィックさん、彼女はわたしのものになりました」
「心からお祝いします」新しい友人の手を熱っぽくにぎって、ピクウィック氏は答えた。
「彼女と会っていただかなければなりません」マグナス氏は言った。「よろしかったら、どうぞこちらへ。みなさん、ちょっと失礼させていただきます」こうしてあわただしくピーター・マグナス氏はピクウィック氏を部屋からつれだしていった。彼は廊下のつぎのドアのところで立ちどまり、そっとそこをノックした。
「どうぞ」女性の声がし、ふたりは中にはいっていった。
「ウィザーフィールド嬢」マグナス氏は言った、「わたしの特別な親友のピクウィックさんを紹介するのをお許しください。ピクウィックさん、あなたをウィザーフィールド嬢にご紹介します」
婦人は部屋の奥のところにいた。ピクウィック氏はお辞儀をしながら、チョッキのポケットから眼鏡を出し、それをかけたが、そうするやいなや、驚きの叫び声をあげて、ピクウィック氏は数歩さがり、婦人は、なかばおし殺した悲鳴をあげて、顔を両手に埋め、ガクリと椅子に坐ってしまった。そこでピーター・マグナス氏はその場で身動きできぬ状態におちいり、極端な恐怖と驚きの表情を浮かべた顔で、一方から他へとジッと見つめる視線を流していた。
これは、たしかに、どう見ても、じつにわけのわからない態度だった。だが、事実は、ピクウィック氏が眼鏡をかけるやいなや、彼はすぐに未来のマグナス夫人に、前の晩彼が不当にも闖入した部屋の婦人を認め、ピクウィック氏の鼻に眼鏡がかけられるやいなや、婦人はすぐにナイトキャップにつつまれたあのおそろしい顔を認識したということだった。
「ピクウィックさん!」びっくり仰天して、マグナス氏は叫んだ、「これはどういうことです? これはどういうことです?」威圧的な、声を高めた調子で、マグナス氏はくりかえした。
「きみ」ピーター・マグナス氏がいきなり高飛車な態度になったのにちょっとむっとして、ピクウィック氏は言った、「その質問に答えることは、お断わりします」
「断わる?」マグナス氏は言った。
「断わります」ピクウィック氏は答えた。「あのご婦人の賛成、許可なしに、彼女の体面をよごし、あるいは、彼女の胸に不愉快な思い出をひきおこすどんなことでも言うのには、反対です」
「ウィザーフィールド嬢」ピーター・マグナス氏は言った、「この人物をご存じなんですか?」
「彼を知っているかですって!」モジモジしながら、中年の婦人はくりかえした。
「そうです、ご存じかと言ったんです。そう申しましたぞ」すごい勢いでマグナス氏は答えた。
「お見かけしたことはあります」中年の婦人は答えた。
「どこで?」マグナス氏はたずねた、「どこで?」
「それは」座席から立ちあがり、面をそむけて、中年の婦人は言った、「それは、どんなことがあってもお伝えすることはできません」
「ご婦人、あなたのお気持ちはわかります」ピクウィック氏は言った、「そして、あなたの細かなお心づかいにたいして、敬意を表します。わたし[#「わたし」に傍点]からそれを伝えるようなことは、絶対にいたしませんぞ」
「まったく、ご婦人」マグナス氏は言った、「あなた自身に関してわたしがおかれている立場を考えてみると、ずいぶん冷静に、ぬけぬけとやっておいでですな――ずいぶん冷静にね、ご婦人」
「ひどいマグナスさん!」中年の婦人は言い、ここでさめざめと泣きだした。
「あなたの言葉は、このわたしに向けてください」ピクウィック氏は口をはさんだ。「だれかいけない者がいるとしたら、それはわたしだけなんですからな」
「おお、きみだけがいけないって言うのかね?」マグナス氏は言った。「わたしは――わたしは――これを見とおしだよ。きみは自分の決心を後悔しているのだろう、どうだね?」
「わたしの決心だって!」ピクウィック氏は叫んだ。
「きみの決心だ。おお! そんなにわたしをにらまなくったっていいよ」マグナス氏は言った。「昨夜のきみの言葉を思い出すよ。きみはその誠実と節操には無条件の信頼をよせていたある人のいかさまと虚偽をあばくためにここに来たんですな――えっ?」ここでピーター・マグナス氏はながいこと冷笑しつづけ、青の眼鏡をはずして――これは嫉妬の発作で余計のものと考えたのだろう――見るもおそろしいふうに、小さな目をギョロギョロさせていた。
「えっ?」マグナス氏は言い、それから、前にもます効果をあげて、冷笑をくりかえした。「だが、それにたいして、きみには責任をとってもらいますぞ」
「責任って、なにに?」ピクウィック氏は言った。
「心配することはない、部屋を大股で歩きまわりながら、マグナス氏は答えた。「心配することはない」
「心配することはない」というこの言葉にはなにか非常に包含的なあるものがあるにちがいない。街路、劇場、人の出入りする部屋、その他で喧嘩があれば、必ずそこで、それは挑戦的な質問にたいする標準的な答えになっているのを、われわれは知っているからである。「それで、きみは自分を紳士と思ってるのか?」――「心配することはない」。「あの若い女性にぼくがなにか言おうとしたというのかね?」――「心配することはない」。「きみは頭をあの壁にたたきつけられたいのか?」――「心配することはない」。このひろく使われている「心配することはない」には、なにかあるかくされた嘲笑がひそみ、それが、惜しみなく浴びせられるののしり言葉より、もっとそれを言われた人間の胸に怒りをかき立てるらしいことがわかる。
この簡単な言葉を自分に当てつけられて、それが必ず野卑な人間の胸にかき立てたであろうような怒りをピクウィック氏の心にひきおこした、と申すつもりはない。われわれはただ、ピクウィック氏が部屋のドアを開き、いきなり「タップマン、ここに来てくれ!」と叫んだ事実を記録するだけである。
タップマン氏は、いかにも驚いたようすをして、すぐ姿をあらわした。
「タップマン」ピクウィック氏は言った、「あのご婦人が関係しているあるちょっと言いにくい秘密が、この紳士とわたしのあいだでいま起きた紛争の原因なのだ。きみがいるところで、それは彼自身に関係あることではなく、彼のことにぜんぜんかかわり合いのないものだということを保証し、彼がそれでも議論をしつづけ、わたしの誠実を疑う言葉をはきつづけたら、それを気にする必要はないわけだ。それはひどく侮辱的なことだからな」ピクウィック氏がこう言ったとき、彼は百科大辞典的な重々しいまなざしをピーマー・マグナス氏に投げた。
ピクウィック氏の大きな特徴になっているあの力強いたくましい言葉と結び合わせての彼のきちんとしたりっぱな態度は、まともな人間だったら、納得させることになったであろう。ところが、不幸なことに、その瞬間のピーター・マグナス氏の心は、まともどころではなかった。その結果、ピクウィック氏の説明を当然とるべきようにとることはせず、彼はすぐにカンカンの、焦げあがった、身を焼きほろぼす憤激状態におちいり、彼自身の気分にふさわしいすべての言葉をしゃべりはじめ、部屋をあちらこちらと大股で歩き、髪をかきむしって――これは、ピクウィック氏の慈悲深い顔の面前で拳をふって、ときおりそれに変化をそえているおもしろい現象だったのだが――彼の大熱弁の力強さを増大させていた。
ピクウィック氏はピクウィック氏で、自分の無罪と正しさを意識し、中年の婦人を不幸にもこうした不愉快な事件の巻きぞえにしたことでジリジリしていたので、ふだんの彼ほど静かな気持ちになってはいなかった。その結果、言葉は激しくなり、声はよりいっそう激しく高くなっていった。とうとうマグナス氏はピクウィック氏に、いずれ音沙汰はする、と伝え、それにたいして、ピクウィック氏は、賞賛すべき|慇懃《いんぎん》さで、沙汰のあるのが早ければ早いほど好都合、と答えた。そこで中年の婦人は恐怖にかられて部屋からとびだし、タップマン氏はピクウィック氏を部屋から引きだしたので、ピーター・マグナス氏がただひとり物思いにふけって部屋にのこることになった。
この中年の婦人があわただしい世間と多くまじわっているか、法律をつくったり流行の範を示したりしている人たちの態度や習慣でなにかを体得していたら、こうした狂暴さは、この世でこのうえなく無害なものであることを知っていたことだろう、ところが、彼女はたいていいなか暮らしをしていて、議会の討論を読んでいなかったので、文明生活のこうした独得の洗練されたものをぜんぜん知らないでいた。そこで、彼女が自分の寝室にはいり、さし錠でわが身を部屋にとじこめ、たったいま見た場景を考えはじめたとき、じつにおそろしい|殺戮《さつりく》と破壊の場面が彼女の頭に浮かびあがり、その中は、左の脇腹に小銃弾を雨あられと浴びたピーター・マグナス氏が四人の男によって家に運ばれてゆく全身像がいちばんおそろしさの少ないものになっていた。中年の婦人は、考えれば考えるほど、おそろしくなった。とうとう彼女は町の主席治安判事のところにゆき、即刻ピクウィック氏とタップマン氏の身柄を拘束するようにたのもうと決心した。
中年の婦人はさまざまの考慮によってこの結論につき動かされていったのだったが、その中で主要なものは、それが示すピーター・マグナス氏にたいする彼女の献身的愛情の否定し得ぬ証拠と、彼の身の安全を思う彼女の配慮だった。彼女は彼の嫉妬深い性格を知っていたので、ピクウィック氏を見たときの彼女の興奮の真の原因には少しもふれず、小男にたいする自分の力と説得力は、ピクウィック氏がとり除かれ、新しい争いが起きなければ、彼の激しい嫉妬心を十分に静められるものと考えていた。こうした考えで頭をいっぱいにさせて、中年の婦人はボネット帽をかぶり、ショールを着けて、すぐ市長邸へと直行した。
さて、前に述べた主席治安判事のジョージ・ナプキンズ氏は、六月二十一日の日の出から日没まで、足のいちばん早い人が発見し得る最高の堂々とした人物だった。この日はあたかも、暦によれば、一年で昼間がもっともながい日で、捜索するのにも当然いちばんながく時間をかけられる日だったわけである。この朝ナプキンズ氏はひどく興奮していらいらしていた。というのは、町で叛乱が起こり、町でいちばん大きな通学学校(イギリスでは寄宿学校が多い)の通学生がきらわれ者のりんご売りの店の窓をこわそうと計画し、教区吏員をやじり、警官――このさわぎを鎮圧するために呼び出され、少年と大人の時期を通じて少なくとも五十年は治安官をつとめていた乗馬靴姿の初老の紳士――に石を投げつけたのだった。こうしてナプキンズ氏が堂々と眉をひそめ、怒りで湧き立って安楽椅子に坐っていたとき、さしせまった、個人の、特別な用件で、ある婦人がやってきたことが知らされた。ナプキンズ氏は、落ち着き払ったいかめしい態度で、その婦人をつれてくるように命じ、その命令は、皇帝、治安判事、その他この世のほかのお偉方の命令と同じように、即座に実行にうつされた。そこで、いかにも興味をそそるふうに興奮しているウィザーフィールド嬢が案内されてきた。
「マズル!」治安判事は言った。
マズルはながい胴体と短い脚をもった小柄な従僕だった。
「マズル!」
「はい、閣下」
「椅子をおき、部屋を出てゆけ」
「かしこまりました」
「さて、ご婦人、ご用件を述べていただけませんか?」治安判事は言った。
「とても苦しいお話なのですが……」ウィザーフィールド嬢は言った。
「そうでしょうな」治安判事は言った。「どうぞ気をお静めください」ここでナプキンズ氏はやさしい態度を示した。「そして、どんな法律上のご用件でここにおいでになったのか、お話しください」ここで治安判事としての性格が人間ナプキンズに打ち勝って、彼はふたたびきびしい態度を示した。
「これをお伝えするのは、わたしとしては、とてもつらいことなのです」ウィザーフィールド嬢は言った、「でも、決闘がこの町でおこなわれようとしているのではないか、と心配なのです」
「この町で?」治安判事は言った。「どこでです、ご婦人?」
「イプスウィッチでです」
「イプスウィッチでですって、ご婦人! イプスウィッチで決闘ですって!」それを考えただけで茫然として、治安判事は言った。「考えられんことです。わたしは確信していますが、この町でそんなことは考えられんことです。まったく、ご婦人、この区の治安判事の活動をご存じですか? この前五月四日、たった六十人の特別警官をつれてわたしが懸賞拳闘場に急行し、激怒した群集の怒りの犠牲になるのは覚悟の上で、ミドルセックス州のダムプリングとサフォーク州のバンタムのあいだの拳闘試合を禁止したいきさつをお聞きおよびですか? イプスウィッチで決闘ですって、ご婦人! 考えられません――考えられませんな[#「ませんな」に傍点]」心の中で自分に説きつけて、治安判事は言った、「どんなふたりの男でも、厚かましくも、この町でそんなことを計画して、治安を破ろうとしていることなんてね」
「わたしのお知らせは、残念ながら、本当なのです」中年の婦人は言った、「その争いの場所にわたしがいたのですからね」
「それはじつに途方もないこと」びっくり|仰天《ぎようてん》して治安判事は言った。「マズル!」
「はい、閣下」
「ジンクス君をここに呼べ、すぐにな! 即刻だぞ」
「かしこまりました」
マズルはしりぞき、中年の、顔色のわるい、鼻のとがった、栄養不良の、服装のきたならしい書記が部屋にはいってきた。
「ジンクス君」治安判事は言った。「ジンクス君」
「はい」ジンクス氏は答えた。
「このご婦人は、ジンクス君、この町で意図されている決闘のことを知らせに、ここにおいでになったのだ」
ジンクス氏はどうしたらいいかわからなかったので、ただ下っぱ役人的な微笑を浮かべているだけだった。
「なにをニヤニヤ笑っているのだ、ジンクス君?」治安判事はたずねた。
ジンクス氏はすぐ真顔になった。
「ジンクス君」治安判事は言った、「きみは阿呆だぞ」
ジンクス氏はオズオズとこの身分の高い人をながめ、もっている自分のペン先を噛んだ。
「きみはこの知らせにとても喜劇的なものであると思っているのかもしれんが、ジンクス君、このことだけは言っておくぞ。すなわち、きみが笑うべきものはなにもないということをな」治安判事は言った。
ひもじそうな顔をしたジンクス氏は、自分に陽気になるべき筋のものはなにもないという事実を十分に心得ているといったように、ふっと溜め息をもらし、この婦人の情報を書きとるように命じられて、ヨロヨロ足をひきずって座席につき、それを書きとりはじめた。
「このピクウィックという男が主犯らしいですな」陳述が終わったとき、治安判事は言った。
「そうです」中年の婦人は答えた。
「そして、もうひとりの治安攪乱者は――ジンクス君、名前はなんといったっけな?」
「タップマンです」
「タップマンが介添え人だな?」
「そうです」
「もう一方の主犯は失踪したんですな、ご婦人?」
「そうです」ちょっと咳をして、ウィザーフィールド嬢は言った。
「よくわかりました」治安判事は言った。「ロンドンからやってきたふたりの人殺しがいて、陛下の国民を殺害しようとこの町にはいりこみ、首府からこれだけはなれていれば、法律の手は弱まり、麻痺していると考えているわけ。ふたりは見せしめにしてやりましょう。ジンクス君、逮捕令状を書きたまえ。マズル!」
「はい、閣下」
「グラマーは下にいるかね?」
「はあ、おります、閣下」
「ここに彼を呼んでくれ」
へいこらしてマズルは引きさがり、やがてもどってきて、乗馬靴をはいた初老の紳士を紹介したが、この男の特徴は、主として大きな赤鼻、しゃがれ声、かぎタバコ色の外套、キョロキョロした目にあった。
「グラマー」治安判事は言った。
「はい、閣下」
「町はいま静かかね?」
「かなり良好です、閣下」グラマーは答えた。「少年たちがクリケットのほうに散っていったので、民衆の感情もある程度静まりました」
「グラマー、当今は強硬手段しか役に立たんぞ」断固とした態度で、治安判事は言った。「もしも役人の権威が無視されることになったら、われわれは騒擾取締まり令(一七一五年に発布されたもので、十二人以上の者が不穏な集会をもよおした際、官憲が本令状を読みあげ、解散を命じても応じない者は重罪に処せられた)を読みあげるのだ。もし警察力が窓を保護し得ない場合には、グラマー、軍隊の力が警察力と窓を保護しなければならん。これが憲法の金言と思うが、どうかね、ジンクス君?」
「もちろん、そうです」ジンクス氏は答えた。
「よくわかった」逮捕令状に署名しながら、治安判事は言った。「グラマー、きょうの午後、このふたりの人物をわしのところに引きつれてきてくれ。彼らは『大白馬旅館』にいるだろう。きみはミドルセックス州のダムプリングとサフォーク州のバンタムの事件を憶えているだろうな、グラマー?」
グラマー氏は追憶的に頭をふって、それは絶対に忘れることはないと伝えた――それが毎日引き合いに出されている以上、忘れるなんて、まったく、考えられないことだったからである。
「これはもっと非憲法的なことだ」治安判事は言った。「これは、もっとひどい治安擾乱、もっとひどい陛下の特権の侵害だ。決闘は疑念の余地のない陛下の特権のひとつだと思っているのだがな、ジンクス君?」
「大憲章(一二一五年六月十五日イギリス王ジョンが貴族にせまられて承認した自由の特許状、イギリス憲法の基礎になった)にはっきりと規定されてあります」ジンクス氏は言った。
「|豪族《バロン》たちによって陛下からうばい去られたイギリスの王冠のいちばん輝く宝石のひとつだろうが、ジンクス君?」治安判事は言った。
「まさにそのとおりです」ジンクス氏は答えた。
「よくわかった」誇りやかに胸をそらせて、治安判事は言った、「陛下の領地のこの地域で、それが侵されるのは許せぬことだ。グラマー、応援をしてもらって、できるだけ早くこの令状を執行するのだぞ。マズル!」
「はい、閣下」
「ご婦人を外にご案内しろ」
ウィザーフィールド嬢は、治安判事の学識と研究に打たれて、引きしりぞいた。ナプキンズ氏は昼食に引きしりぞいた。ジンクス氏は自分自身の中に引きしりぞいていった――昼間には下宿のおかみの一家に占領されている小さな客間の寝台兼用の長椅子以外に彼の引きしりぞくべき場所はなかったからである――そして、グラマー氏は、現在の任務遂行のやり方で、午前中に彼自身と陛下のもうひとりの代表――教区吏員――の上に浴びせられた恥辱をぬぐい去るために、引きしりぞいていった。
陛下の治安を維持せんがために、こうして断固決然とした準備がなされているあいだ、ピクウィック氏と彼の友人たちは、進行中の重大な諸事件にはぜんぜん気がつかず、静かに夕食の座につき、一同は大いに語り愉快になっていた。ピクウィック氏は、彼の信奉者たち、とくにタップマンを楽しませて、前夜の冒険談を語っている最中、ドアが開かれ、ちょっとゾッとするような顔が部屋をのぞきこんだ。そのゾッとする顔にすえられた目は、数秒間、ジッとピクウィック氏を見つめ、見たところ、その調査の結果に満足したようだった。というのも、そのゾッとする顔と持ち主である体がゆっくりと部屋にはいりこみ、乗馬靴をはいた初老の人物の姿をあらわした――読者たちをこれ以上どっちつかずの不安な状態に落とさぬために申しあげると、簡単に言って、その目はグラマー氏のギョロギョロした目、その体は同じ人物の体だった。
グラマー氏のやり口は専門家的なものではあったものの、独得のものだった。彼の最初の行動は、ドアの錠を内側からかけること、第二の行動は、木綿のハンカチで注意深く頭と顔をみがき立てること、第三の行動は、木綿のハンカチを中に入れていちばん近くの椅子に自分の帽子をおくこと、第四の行動は、上衣の胸のポケットから巡査用の真鍮の冠のついた棍棒をとりだし、重々しく亡霊のような態度で、それでピクウィック氏をさしまねくことだった。
スノッドグラース氏が、びっくり仰天した沈黙を破る最初の人となった。ほんのしばらくのあいだ、彼はグラマー氏をしっかりとにらみすえ、それから語気を強めて言った、「これは私室、私室ですぞ」
グラマー氏は頭をふって答えた、「街路の戸をとおりぬけて一歩外に出たら、どんな部屋だって、陛下にたいして、私室とは申し立てられませんぞ。それが法律というもんです。イギリス人の家は城だなんて言う人もいますが、それはたわ言です」
ピクウィック・クラブ会員たちは、驚きの目で、たがいの顔を見合わせていた。
「タップマン氏はどちらの方です?」グラマー氏はたずねた。彼は直観的にピクウィック氏をそれと感じとっていた。彼は彼を[#「彼を」に傍点]すぐに知ったのである。
「わたしの名はタップマンですが……」タップマン氏は言った。
「わたしの名前は法律です」グラマー氏は言った。
「なんですって?」タップマン氏はたずねた。
「法律」グラマー氏は答えた、「法律、警察力、行政部。それがわたしの称号。ここにわたしの許可証があります。某・タップマン、某・ピクウィック――われわれのなやめる陛下の平和を乱したるかどにより――その場合の法令はつくられ、規定されてあります――そして、みんなれっきとしたもの。わたしはピクウィックと前記タップマンを逮捕しますぞ!」
「こんな厚かましいことをするなんて、どういうことなのだ?」パッと立ちあがって、タップマン氏は言った。「部屋を出てゆきたまえ!」
「おい」素早くドアのところにさがり、それを一インチか二インチ開けて、グラマー氏は言った、「ダブリー!」
「はい」廊下から太い声が言った。
「出て来い、ダブリー」
その命令の言葉を聞くと、背は六フィートをちょっとこえ、それなりに太ったきたない顔をした男がなかば開いたドアに身をねじらせ(それをしながら、顔を真っ赤にさせて)、部屋にはいりこんできた。
「ほかの臨時巡査は外にいるかね、ダブリー?」グラマー氏はたずねた。
口数の少ないダブリー氏は、いる、とうなずいた。
「きみの指揮下の人たちを中に入れろ、ダブリー」グラマー氏は言った。
ダブリー氏は命じられたとおりにし、六人の男が、それぞれ真鍮の冠のついた短い棍棒をもって、部屋にどっとはいってきた。グラマー氏は自分の棍棒をポケットにおさめ、ダブリー氏を見やった。ダブリー氏は自分の[#「自分の」に傍点]棍棒をポケットにおさめ、部下を見やった。部下は彼らの[#「彼らの」に傍点]棍棒をしまい、タップマン氏とピクウィック氏を見やった。
ピクウィック氏と彼の信奉者たちは、同時に立ちあがった。
「わたしの私室にこうして厚かましくも侵入してくるなんて、どういうことです?」ピクウィック氏は言った。
「だれがぼくを逮捕しようと言うんです?」タップマン氏は言った。
「悪党ども、ここになんの用があるのだ?」スノッドグラース氏は言った。
ウィンクル氏はなにも言わなかったが、彼は目をグラマー氏の上に釘づけにし、もしグラマー氏が多少なりとも感情をもっていたら、彼の頭脳をさしつらぬいたにちがいない視線を彼に投げていた。しかし、相手は鈍感なグラマー氏のこと、それはいちじるしい効果を彼に与えなかった。
警官たちは、ピクウィック氏と彼の友人たちが法律の権威にたいして抵抗しようとしているのをさとって、まず彼らを打ち倒し、ついで彼らをとらえるのは、当然のすべきことと考えなければならない職業的な行動にすぎぬといったように、意味深に上衣の袖をめくりあげはじめた。この示威は、ピクウィック氏に効果をおよぼさないではいなかった。彼はタップマン氏とふたりだけでちょっと相談、市長邸にすぐゆくことを知らせたが、その場に集まった人々に、自分が自由の身になったら即刻、イギリス人としての特権をこうしてひどく侵されたことにたいする憤慨の情を表明するのが自分の断固たる意志であることを知っていてもらいたい、と伝えた。それを聞いて、そこに集まった人々は、いとも陽気に笑いだしたが、グラマー氏だけはべつだった。彼は治安判事の神権にたいして投げられたどんな侮辱も許すべからざる一種の冒涜と考えているらしかったからである。
しかし、ピクウィック氏は祖国の法律にたいして頭をさげる気持ちのあることを示し、給仕・馬丁・下女・御者たちは彼が示していた強硬な態度からなにかおもしろいさわぎがもちあがるものと考えていたのだったが、それが裏切られてムカムカし、向こうにゆこうとしたとき、予期しなかった困難がわきおこった。憲法で定められた当局にたいしての尊敬心はさることながら、ピクウィック氏はありきたりの犯罪人のように警官にかこまれ守られて人どおりのある街路に出るのをはっきりと断わったからである。グラマー氏は、そのとき公僕精神のいらいらした状態で(その日は半休日で、少年たちはまだ家にもどってはいなかった)、はなれて道の反対側を歩いてゆき、ピクウィック氏が逃亡はせずまっすぐ治安判事のところにゆくという彼の誓いを受けいれるのを、同じようにはっきりと拒否した。ピクウィック氏とタップマン氏は両方とも、唯一の体裁のいい護送方法となった駅伝馬車の出費には、同じように強硬に反対した。議論は高まり、食いちがいはながくつづき、治安判事のところに歩いてゆくのにたいするピクウィック氏の反対を、警官隊が彼をそこにつれていってしまうというありきたりのやり方で圧倒しかけていたとき、宿屋の内庭に古い椅子かごがあり、これは公債に投じた財産もちの中風の紳士のためにもともとはつくられたもの、近代的な駅馬車と少なくとも同じくらい好都合にピクウィック氏とタップマン氏を乗せるだろうということがわかった。この椅子かごが借りられ、入口の広間に運びこまれた。ピクウィック氏とタップマン氏は身をねじって中にはいり、すだれをおろした。ふたりのかごかきがすぐ見つけられ、行列は堂々と出発した。臨時警官がかごのまわりをとりかこみ、グラマー氏とダブリー氏は威風堂々と前を行進し、スノッドグラース氏とウィンクル氏は腕を組んでうしろにつづき、イプスウィッチの腕白坊主どもがしんがり役をつとめた。
町の商人たちは、この犯罪がどのようなものかをよくは知らないでいたが、この光景にはとても打たれ、満足せずにはいられなかった。法律のたくましい腕が、金箔をひきのばす力の二十倍の強力さでのび、首府からここにやってきた犯罪人をおそい、その強靱な機関は彼ら自身の治安判事によって指揮され、彼ら自身の役人によって動かされ、その協力した努力によって、ふたりの犯罪人はせまい一台の椅子かごの中に閉じこめられたのだ。手に杖をもってグラマー氏が行列の前を行進していったとき、彼をむかえた多くの人々の顔には感謝と驚嘆の表情が浮かんでいた。腕白坊主どもがあげた叫び声は、高くながくつづいていた。こうして群集の一致した称賛の表示につつまれて、この行列はゆっくり堂々と進んでいった。
ウェラー氏は黒いキャラコの袖のついた朝用のジャケットを着て、緑の門のある|摩訶《まか》ふかしぎな家の不成功に終わった調査からそうとうがっかりした気持ちになってもどりかけていたとき、目をあげると、いかにも椅子かごらしいものをとりかこんで、群集が街路ぞいに流れているのが目にはいった。自分の失敗から心をまぎらわせたく思っていたので、彼はわきにどき、群集がとおってゆくのをながめ、彼らがいかにも満足げにやんやとはやし立てているのを見て、(自分の気持ちを引き立てるために)すぐ声をかぎりにやんやとやりはじめた。
グラマー氏はとおりぬけ、ダブリー氏はとおりぬけ、椅子かごはとおりぬけ、臨時警官の護衛隊はとおりぬけ、サムはまだ群集の情熱的な喝采に応じ、いかにもよろこんでいるふうに帽子をふりまわしていたとき(もちろん、彼はこれがどのようなものか、ぜんぜん知らないでいた)、彼は、思いがけぬウィンクル氏とスノッドグラース氏の出現によって、それをとめられてしまった。
「このさわぎは、どういうことなんです?」サムは叫んだ。「あの喪に服した番兵小屋みたいなもんの中に、だれが入れられてるんです?」
ふたりの紳士は声を合わせて答えたが、その言葉はあたりのさわぎにもみ消されてしまった。
「だれです?」サムはふたたび叫んだ。
もう一度ふたりは声をそろえて答え、言葉は聞きとれはしなかったものの、その口の動きで、サムは彼らが「ピクウィック」という魔術的な言葉を語ったことをさとった。
これだけでもう十分だった。つぎの瞬間、ウェラー氏は群集のあいだをとおりぬけ、かごかきをとめ、堂々たるグラマーの正面に突っ立った。
「やあ、きみ」サムは言った。「この乗り物でだれを運んでるのだね?」
「どけっ!」グラマー氏は言ったが、その威厳は、ほかの多くの人の威厳のように、ちょっとした人気ですごくふくらみあがっていた。
「もしどかなかったら、打ち倒せ」ダブリー氏は言った。
「いや、とても感謝するよ、きみ」サムは答えた、「おれの便宜をはかってくれてね。もうひとり、巨人の隊商からたったいま逃げだしてきたような風態の紳士には、とてもりっぱなご指示をいただいて、もっともっと感謝するよ。だが、同じことなら、おれの質問に答えてもらったほうが、もっとありがたいんだがな。――いかがです?」この最後の言葉は、前の窓からのぞき見をしていたピクウィック氏に、いかにもやさしく、呼びかけたものだった。
グラマー氏は、怒りで口がまったくきけなくなり、真鍮の冠のついた棍棒をそれをおさめてあるポケットから引きだし、それをサムの目の前でふりまわした。
「ああ」サムは言った、「いかにもきれいだね、とくに冠はね。そいつは本物とそっくりだ」
「どけっ」激怒したグラマー氏は言った。その命令をいっそう強めるために、彼は王の権威をあらわす真鍮の表象を片手でサムのネクタイにつっこみ、のこる手でサムのカラーをつかみ、ウェラー氏はこの挨拶にたいして、前もって下敷きになるようにと慎重にもかごかきを打ち倒しておいてから、グラマー氏を即座にその上になぐり倒してしまった。
ウィンクル氏が危害感に源を発するあの狂乱の一時的発作におそわれたのか、あるいは、ウェラー氏の勇猛ぶりに刺激されたのかは、よくわからぬことだが、グラマー氏が倒れたのを見るやいなや、彼が自分のわきに立っていた小さな少年にすごい勢いでおそいかかったことはたしかである。そこでスノッドグラース氏は、真のキリスト教徒の精神を発揮し、まただれをも不意におそうことはすまいとして、大音声をはりあげ、はじめるぞっと宣言し、いとも慎重に上衣をぬぎはじめた。彼はすぐにとりかこまれ、身柄をおさえられた。だが、彼についてもウィンクル氏についても、彼らが自分自身とウェラー氏を助けようとはぜんぜんしなかったことは、ここで申しあげておかねばならない。ウェラー氏は手ごわい抵抗をしたあとで、多勢に無勢、圧倒されて、とらわれてしまった。ついで行列はふたたび組まれ、かごかきはその場所につき、行進は再開された。
このあいだにピクウィック氏の憤激はかぎりなくひろがっていった。彼はサムが臨時警官を打ち倒し、獅子奮迅の活躍ぶりをしているのを見ることができたが、それ以上はなにも目にはいらなかった。椅子かごのドアは開こうとせず、すだれもあがろうとはしなかったからである。とうとう、タップマン氏の助けを借りて、なんとか屋根を打ち破り、座席の上にのぼり、タップマン氏の肩に片手を乗せてできるだけ身を安定させて、ピクウィック氏は群集に向かって演説をはじめ、自分が受けた不当なあつかいの詳細を説き、自分の召使いが最初に襲撃されたのを注意するように、と叫びはじめた。こんな具合いで彼らは治安判事の家に到着、かごかきは小走りでとっとと歩き、囚人たちはそのあとにつづき、ピクウィック氏は演説をぶち、群集はわあわあと叫んでいた。
[#改ページ]
第二十五章
[#3字下げ]さまざまな愉快なことのなかで、ナプキンズ氏がいかに堂々と公平であったか、ウェラー氏がいかにジョッブ・トロッターの激しい一撃に同様に激しい一撃を打ちかえしたかを示す。もうひとつのことは、いずれその場所で語ることにする
ウェラー氏がひったてられていったとき、彼の怒りは激しいもの、グラマー氏とその仲間の外見と態度にたいする当てつけの言葉を多くはき、彼をとりかこんでいる六人の者にたいしては、勇ましいののしりを浴びせかけていた。スノッドグラース氏とウィンクル氏は、彼らの指導者が椅子かごから流し出している雄弁の奔流に陰気な敬意をこめて聞き入り、その早い流れは、車のふたを閉じるようにとタップマン氏がいくらたのんでも、一瞬もとどまろうとはしなかった。しかし、この行列が逃亡者のジョッブ・トロッターと出逢ったちょうどその内庭をまがっていったとき、ウェラー氏の怒りは好奇心に変わり、いかにもいかめしげなグラマー氏が椅子かごに停止を命じ、威厳ある重々しい足どりで、ジョッブ・トロッターが出てきたちょうどその緑の門のところに歩いてゆき、そこのわきにさがっている鐘のハンドルを強く引いたとき、この好奇心はこのうえないよろこびにあふれた驚きに変わっていった。その呼び鐘に応じてとても小ぎれいな、美しい顔をした下女があらわれ、彼女は囚人たちの反抗的な態度とピクウィック氏の激しい言葉にびっくりして両手をあげたあとで、マズル氏を呼んだ。マズル氏は馬車寄せの門を半分開き、椅子かごととらわれた人たちと臨時警官を入れ、群集の顔にたたきつけるようにしてそれを閉めた。群集は、追い出されたのを憤慨し、それからあとのことを見たく思って、その後一時間か二時間のあいだ、門を蹴とばし、鐘を鳴らして、その鬱憤を晴らしていた。こうした楽しみを彼らは順番にやっていたが、三人か四人の運のいい人たちは、どこも見わたせない格子口を門に見つけ、不屈の忍耐力を発揮して、そこからのぞき見をやっていたが、この忍耐力は、街路で酔っ払いが犬車にひかれ、薬屋の奥の部屋で治療を受けているとき、人々が鼻をそこの店先のガラスにおしつけて平らにするのと同じ忍耐力と言ってもよいものだった。
両側をアメリカ産の|蘆薈《ろかい》(ゆり科に属する薬用、観賞用の植物)に守られている家の入口に通じる階段の下で、椅子かごはとまった。ピクウィック氏と彼の友人たちは玄関の間に案内され、そこから、マズル氏によって前もって知らされ、ナプキンズ氏にそれと命じられていたので、彼らは公共精神の強烈なあの役人の前につれだされていった。
そこの場景は印象的なもの、犯罪人の心に恐怖心を起こさせ、法律のきびしい威厳にたいする当然の畏敬の念を与えるようにうまく仕組まれてあった。大きな本箱の前で、大きなテーブルの向こうの大きな椅子に、大きな本を前にして、ナプキンズ氏が坐っていたが、そうした大きなものぞろいなのに、彼はそれよりひとまわり大きなものに見えた。テーブルはいくつも積み重ねられた書類で飾られ、その上の奥のところに、いかにもいそがしげなようすをしてせっせと働いているジンクス氏の頭と肩があらわれていた。一行全員がはいったとき、マズル氏は注意深くドアを閉め、主人の椅子の背後に身をおいて、その命令を待っていた。ナプキンズ氏はゾクッとする威厳ある態度で身をうしろにそらせ、ここに不承不承やってきた連中の顔をつらつらとながめまわした。
「さて、グラマー、あの人物はだれだ?」ピクウィック氏をゆびさして、ナプキンズ氏は言ったが、ピクウィック氏は、友人たちの代表者として、帽子を手にもって立ち、じつに慇懃に敬意をこめてお辞儀をしていた。
「これがピクウィックです、閣下」グラマーは言った。
「さあ、そんな火打ち石のようなことはやめにしろ」前の列のところに乗りだしてきて、ウェラー氏は口をはさんだ。「失礼ですが、この|雌黄《しおう》(インドシナ地方に産するおとぎりそう科のしおう樹の樹皮からとる褐色の樹脂。薬用や顔料になる)の乗馬靴をはいたここにいるあんたの役人は、儀式係の者としては、まともな暮らしを絶対に立てられませんな。こちらは」グラマーをわきにおしのけ、愉快ななれなれしさで治安判事に話しかけて、ウェラー氏はつづけた、「こちらはS・ピクウィックさん。こちらはタップマンさん。あちらはスノッドグラースさん。そして彼の反対側のとなりにいるのはウィンクルさん――お近づきになってあんたがとってもよろこびそうなりっぱな紳士ぞろいですぞ。だから、早くここにいるあんたの役人をとっつかまえて、踏み車の刑にかけてやれば、それだけ早く、われわれは楽しく了解し合えるわけです。リチャード三世が子供たちをしめ殺す前に、ロンドン塔の中でもうひとりべつの王さまを刺し殺したとき言ったように、先憂後楽(サッカレー(一八一一―六三)の『薔薇と輪』にある言葉)というやつでしてね」
この口上を言い終えると、ウェラー氏は右の肘で帽子をこすり、得も言えぬ畏怖の念で彼の言うことをぜんぶジッと聞いていたジンクス氏にやさしくうなずいた。
「この男はだれだ、グラマー?」治安判事は言った。
「とても無鉄砲な人物です、閣下」グラマーは答えた。「彼は囚人どもを助けようとして、警官を襲撃しましたので、身柄を拘留し、ここにつれてまいりました」
「正しい処置だったな」治安判事は答えた。「彼は明らかに無鉄砲な悪人だ」
「彼はわたしの召使いです」憤然としてピクウィック氏は言った。
「おお、きみの召使いかね、えっ?」ナプキンズ氏は言った。「法の目的を阻害し、その役人を殺そうとする陰謀だ。ピクウィックの召使いだって? ジンクス君、それを書きとめておきたまえ」
ジンクス氏はそのとおりにした。
「お前の名前はなんというのだ、おい?」ナプキンズ氏は蛮声をはりあげた。
「ウェラーですよ」サムは答えた。
「ニューゲイト監獄暦報(同監獄の重罪囚人の経歴の記録。十八世紀から十九世紀にいたる)に載せるにはじつにりっぱな名だな」ナプキンズ氏は言った。
これは冗談をとばしたものだったが、ジンクス、グラマー、ダブリー、臨時警官全員、それにマズルは、そこで、五分間つづいた笑いの発作におちいった。
「彼の名前を書いておけ、ジンクス君」治安判事は言った。
「きみ、ウェラーのLはふたつですぞ」サムは注意した。
ここである臨時警官が不運にもまた笑いだし、治安判事は即刻逮捕のおびやかしを彼にかけた。こうした場合、まちがった人を笑うのは危険なことなのである。
「お前はどこに住んでいるのだ?」治安判事はたずねた。
「住めるとこにはどこにでもね」サムは答えた。
「そのことを書いておけ、ジンクス君」かっかと怒り立っていた治安判事は言った。
「それアンダーラインをつけてね」サムは言った。
「彼は浮浪者だ、ジンクス君」治安判事は言った。「彼は自分の陳述で浮浪者なんだ。そうじゃないかね、ジンクス君」
「もちろん、そうです」
「それでは、彼を逮捕することにしよう。浮浪者として、彼を逮捕することにしょう」ナプキンズ氏は言った。
「この国は、法の公正におこなわれる国ですからね」サムは言った。「他人を|逮捕する《コミツト》倍も|言質をとられ《コミツト》て苦しいことにならない治安判事はいませんよ」
この非難の言葉を聞いて、べつの臨時警官が笑いだし、いかにも不自然なふうにいかめしい顔をしようとしたので、治安判事はすぐにこの男を見つけだしてしまった。
「グラマー」激怒で顔を赤くし、ナプキンズ氏は言った、「あんな無能な、いかがわしい男を、お前はどうして臨時警官に選んだのだ? どうしてそんなことをしたんだ?」
「あいすみません、閣下」グラマーはどもって言った。
「すまんだって!」カンカンになった治安判事は言った。「グラマー、お前はこの勤務怠慢を後悔することになるぞ。お前を見せしめにしてやろう。あの男の職杖をとってしまえ。あの男は酔っ払いだ。きみは酔っ払いだぞ」
「わたしは酔っ払いではありません、閣下」その男は言った。
「お前は酔っ払い[#「酔っ払い」に傍点]だ」治安判事はやりかえした。「わしがそうだと言っているのに、お前はおこがましくも、どうしてそうじゃないと言うのだ? あの男、酒のにおいはせんかね、グラマー?」
「ひどいもんです、閣下」どこかにラム酒のにおいがしていると漠然と考えていたグラマーは答えた。
「それはわかっていたぞ」ナプキンズ氏は言った。「やつがはじめて部屋にはいってきたとき、やつの興奮した目でそれとわかっていたのだ。きみはやつの興奮した目に気がついていたかね、ジンクス君?」
「もちろん、気がついていました」
「今朝酒一滴だって飲んではいませんよ」このうえなく|素面《しらふ》の相手の男は言った。
「どうして厚かましくも嘘を言うのだ?」ナプキンズ氏は言った。「やつはいま酔っ払ってはいないかね、ジンクス君?」
「もちろん、酔っ払ってます」ジンクス氏は答えた。
「ジンクス君」治安判事は言った、「法廷侮辱罪で彼を逮捕するぞ。彼の留置の書類をつくってくれたまえ」
そして、この臨時警官はあやうく逮捕されるところだったが、治安判事の顧問役をつとめていたジンクス氏は(彼はいなかの弁護士の事務所で三年間法律教育を受けていた)は、それはだめだろうと思う、と治安判事の耳にささやき、その結果、治安判事はひと演説ぶち、臨時警官の家族のことを考慮して、自分は彼を叱責・解任するだけにとどめておこうと伝えた。そこで、この臨時警官は十五分間こっぴどくののしられ、追い払われ、グラマー、ダブリー、マズル、それにほかの臨時警官全員は、ナプキンズ氏の寛大さに驚嘆の声を口にしていた。
「さて、ジンクス君」治安判事は言った、「グラマーに宣誓して証言させてくれ」
グラマーはすぐに宣誓した。しかし、グラマーは横道にそれ、ナプキンズ氏の食事がほぼできあがっていたので、ナプキンズ氏はグラマーに誘導尋問をかけてことを簡単に切りあげ、その尋問にたいして、グラマーはできるだけそうだという肯定で答えていた。そこで尋問はとてもすらすらと快適にすすみ、ウェラー氏にたいしてはふたつの襲撃、ウィンクル氏にたいしてはひとつの脅迫、スノッドグラース氏にたいしてはひとつのつきおしが証言された。こうしたことすべてが治安判事の満足のいくふうにおこなわれたとき、治安判事とジンクス氏はひそひそと相談をはじめた。
この相談は約十分ほどつづき、ジンクス氏はテーブルの端の自分の席にもどり、治安判事は前ぶれの咳払いをして、胸をはって椅子で威厳を示し、語りだそうとしたちょうどそのとき、ピクウィック氏が口をはさんだ。
「あなたの言葉をうばって失礼ですが」ピクウィック氏は言った。「ここで述べられた言葉にもとづいて意見を示し、行動をとる前に、わたし個人に関するかぎり、当方の言うことを聞いてもらう当方の権利を主張しなければなりません」
「だまりたまえ」高飛車に治安判事は言った。
「おおせのとおりになりましょう」ピクウィック氏は言った。
「だまりたまえ」治安判事は口をはさんだ、「さもないと、役人に命じて、きみをここから追い払うぞ」
「あなたが自分の役人に命じて好き勝手なことをさせるのは自由です」ピクウィック氏は言った。「役人たちのあいだで示されているいままでの服従ぶりから見れば、あなたが命ずることはなんでも執行されることでしょう。だが、力ずくでここから追い払われるまで、わたしは聞いてもらう当方の権利を遠慮なく主張しつづけますぞ」
「ピクウィックと|主義主張《プリンシプル》だ!」ひびきわたる大声でウェラー氏は叫んだ。
「サム、静かにしろ」ピクウィック氏は言った。
「穴のあいた太鼓のようにだまりますよ」サムは答えた。
ナプキンズ氏はピクウィック氏がこうしたふだんにない豪胆ぶりを発揮したことにたいして、ひどい驚きの視線を投げ、明らかに怒った返事を彼に投げかえそうとしたが、そのときジンクス氏はナプキンズ氏の袖を引っぱり、彼の耳になにかをささやいた。これにたいして治安判事はなかば聞こえる返事をし、それからささやきが再開された。ジンクス氏は明らかに反対しているのだった。
とうとう治安判事は、これ以上なにも聞くまいとする気持ちをひどくしぶしぶとした態度で抑え、ピクウィック氏のほうに向きなおって、鋭く言った、「きみはなにを言いたいのだ?」
「まず第一に」そのもとではナプキンズ氏でさえひるんでしまった一瞥を眼鏡越しに送って、ピクウィック氏は言った。「まず第一に、わたしとわたしの友人がなぜ、ここにつれられてきたのかを知りたいのです」
「これを言わなければならんかね?」治安判事はジンクス氏にささやいた。
「お話しになったほうがいいでしょう」ジンクス氏は治安判事にささやいた。
「ある情報が宣誓を立ててわたしに伝えられたのだ」治安判事は言った、「きみが決闘をしようとし、もうひとりの男タップマンがその援助者、煽動人だということをな。そこで――えっ、ジンクス君?」
「もちろん、そうです」
「そこで、わしはきみたちふたりを召喚し――それが順序だろうな、ジンクス君?」
「もちろん、そうです」
「そして――そして――なんだったっけ、ジンクス君?」いらいらして治安判事はたずねた。
「保釈保証人を見つけることです」
「うん、そこでわしはきみたちふたりを召喚し――言おうとしていたんだが、書記に邪魔されたのだ――保釈保証人を見つけようと思ったのだ」
「りっぱな保釈保証人をね」ジンクス氏はささやいた。
「りっぱな保釈保証人だぞ」治安判事は言った。
「市民をね」ジンクス氏はささやいた。
「それは市民でなければならん」治安判事は言った。
「それぞれ五十ポンド」ジンクス氏はささやいた、「そして、もちろん、世帯主でね」
「それぞれ五十ポンドのふたりの保釈保証人を要求し」どっしり威厳をかまえて治安判事は大声で言った、「彼らは、もちろん、世帯主でなければならん」
「だが、まったく」タップマン氏といっしょにびっくりもし、憤慨もしていたピクウィック氏は言った、「われわれはこの町でまったくのよそ者、だれかと決闘する意志がないのと同様、世帯主なんかぜんぜん知りませんぞ」
「そうだろう」治安判事は答えた、「そうだろう――きみも同意見だろう、ジンクス君?」
「もちろん、そうです」
「なにかもっと言うことはあるかね?」治安判事はたずねた。
ピクウィック氏には言うことはたくさんあり[#「あり」に傍点]、彼の言葉が切れたとき、ウェラー氏によって袖を引っぱられなかったら、彼はきっとそれを言ってしまい、自分の利益にもならず、治安判事をもたいして満足させなかったであろう。そこで彼はすぐに熱心にウェラー氏と話をはじめ、治安判事の最後の質問はすっかり彼の耳をすどおりしてしまった。ナプキンズ氏はこうした質問を二度くりかえして述べる人物ではなく、そこで、前ぶれの咳払いをもう一度して、巡査たちの敬虔と驚嘆の沈黙の中で、彼の判決を発表しはじめた。
ウェラー氏にたいしては、最初の襲撃にたいして二ポンド、二度目の襲撃にたいして三ポンドの罰金となった。ウィンクル氏にたいしては二ポンド、スノッドグラース氏にたいしては一ポンドの罰金となり、同時に陛下の国民にたいし、とくに陛下の公僕、ダニエル・グラマー氏にたいして治安を乱さぬという誓約が要求された。ピクウィック氏とタップマン氏は保釈金を払うものと、もうすでに決められていた。
治安判事の言葉が終わるとすぐ、ピクウィック氏はふたたび上機嫌になった顔の上に微笑をひろげて、前に歩みだして言った――
「治安判事のお許しを得たいのですが、治安判事自身にとって非常に重大なことがらで、治安判事と数分間個人的にお話をしたいのですが?」
「なんだ?」治安判事はたずねた。
ピクウィック氏はその要求をくりかえした。
「これは途方もない要求だ」治安判事は言った。「個人的な話だって?」
「個人的な話です」しっかりとピクウィック氏は答えた。「ただ、わたしがお伝えしたいお知らせの一部は、わたしの召使いが伝えてくれたものですから、彼にもそこにいてもらいたいと思っています」
治安判事はジンクス氏をながめ、ジンクス氏は治安判事をながめた。役人たちはびっくりしてたがいに顔を見合わせていた。ナプキンズ氏は急に真っ青になった。ウェラーという男は、悔恨の情に打たれ、自分を暗殺する秘密計画を明るみに出したのだろうか? それは考えるもおそろしいこと。彼は公けの立場に立っている人物。ジューリアス・シーザーやパーシヴァル氏(スペンサー(一七六二ー一八一二)。政治家で、破産したブローカーのジョン・ベリンガムに暗殺された)のことを考えると、さらに真っ青になった。
治安判事はふたたびピクウィック氏をながめ、ジンクス氏をさし招いて呼んだ。
「この要求をどう思うかね、ジンクス君?」治安判事はつぶやいた。
どう考えてよいか見当もつかず、まずいことを言ってはと心配していたジンクス氏は、うろんなふうに、かすかな微笑を浮かべ、口の両端をギュッとねじりあげて、ゆっくりと頭を左右にふった。
「ジンクス君」治安判事は重々しく言った、「きみはバカだな」
こうちょっと意見を述べられて、ジンクス氏は――前よりもっと弱々しく――ふたたび微笑し、ジリジリッと自分自身の隅にさがっていってしまった。
ナプキンズ氏は数秒間このことを心の中で考え、それから椅子から立ちあがり、ピクウィック氏とサムについてくるように言い、先に立って裁判官の客間に通じる小さな部屋にはいっていった。この小部屋の奥のところにゆくようにとピクウィック氏に要求し、なにか少しでも乱暴なことが起きそうになった場合には、すぐにでも逃げられるようにと、なかば閉じたドアに手をかけて、ナプキンズ氏は、どんな情報にせよ、それを聞く用意があることを伝えた。
「その点はすぐお話しします」ピクウィック氏は言った。「それはあなた自身とあなたの名声に大きな影響があることです。わたしにはどうしてもそうとしか考えられないのですが、あなたのお家にはひどいいかさま師がいるようですな!」
「ふたりです」サムがさえぎって言った。「涙と悪事で人非人とも言える赤紫色です」
「サム」ピクウィック氏は言った、「わしがこの紳士にわかるようにお話をしなければならないとしたら、お前も自分の気持ちを抑えなければだめだよ」
「すみませんでした」ウェラー氏は答えた。「しかし、あのジョッブのことを考えると、せきとめ弁を一インチか二インチ開かずにはいられなくなっちまうんです」
「一言で申せば」ピクウィック氏は言った、「フィッツ=マーシャル大尉とかいう男がいつもここの来客になっているとわたしの召使いは考えていますが、そうなのでしょうか? というのも」ナプキンズ氏がひどく憤慨して言葉をさえぎろうとしているのを見て、ピクウィック氏は言いそえた、「というのも、もしそうであれば、わたしは知っているのですが、その人物は――」
「しっ、しっ」ドアを閉めながら、ナプキンズ氏は言った。「彼をどういうふうに知っているんです?」
「無節操な冒険家――いかがわしい人物――社会を餌食にし、だまされやすい人々を自分の獲物、自分のおろかな、バカな、みじめな獲物にしている男です」興奮したピクウィック氏は言った。
「いや、驚いた」ひどく赤くなり、すぐに自分の態度をすっかり変えて、ナプキンズ氏は言った。「いや、驚いた、ええと――なにさんだったっけな?」
「ピクウィックです」サムは言った。
「ピクウィック」治安判事は言った、「いや、驚いた、ピクウィックさん――どうぞ坐ってください――まさかそんなことはないでしょう? フィッツ=マーシャル大尉がですって?」
「やつを大尉と呼ぶ必要はないんです」サムは言った、「フィッツ=マーシャルともね。そのどっちでもないんですから。やつは浮浪の旅役者、そうなんです、そして、名前はジングル。もし赤紫色の服を着けた狼がいるとしたら、あのジョッブ・トロッターこそそれです」
「まったくそのとおりです」治安判事の驚きのまなざしに答えて、ピクウィック氏は言った。「この町でのわたしのただひとつの仕事は、いまわれわれが話している人物の素性を暴露することだけなんです」
ピクウィック氏はナプキンズ氏の恐怖に打たれた耳にジングル氏の悪事の簡単な話を流しこんだ。彼は自分が最初に彼と会ったいきさつ、ウォードル嬢と駈け落ちした話、金ずく勘定でその婦人をさっさとすててしまった話、自分が真夜中に女の寄宿学校にむざむざとおびきこまれた話、彼(ピクウィック氏)が現在の名前と地位を名乗っているあの男の本性を暴露するのを自分の義務と心得ているいきさつを話した。
話が進むにつれて、ナプキンズ氏の体の中の熱い血は彼の両耳たぶにのぼっていった。彼は近くの競馬場で大尉と知り合いになり、大尉が貴族の知人を多くもっていること、あちらこちらに旅行していること、その当世風な態度に魅せられて、ナプキンズ夫人とナプキンズ嬢はフィッツ=マーシャル大尉を紹介し、フィッツ=マーシャル大尉を引き合いに出し、フィッツ=マーシャル大尉を彼らの選びぬかれた知人たちの献身的な顔に投げつけ、彼らの親友のポークナム夫人、ポークナム嬢、シドニー・ポークナム氏は嫉妬と絶望で胸がはり裂けんばかりになっているのだった。そして、いま、その男が貧乏人の冒険家、浮浪の旅役者、いかさま師とまでゆかずとも、それに似た者で、それとたいしたちがいのない者ということを耳にするなんて! いや、大変なこと! ポークナム一家の者はなんと言うだろう! こんなつまらぬ競争相手にたいする自分の慇懃な態度がないがしろにされていたのを知ったら、シドニー・ポークナムの意気揚々とした態度はどんなものだろう! つぎの四季裁判所(年四回開かれる下級の刑事裁判所)で彼ナプキンズは老ポークナムとどう目を合わせることができよう! この話が世間にひろまったら、反治安判事派になんという絶好の好機を与えることになるだろう!
「だが、結局」ながい沈黙のあとで、ちょっと明るくなって、ナプキンズ氏は言った、「結局、これはただ陳述だけのこと。フィッツ=マーシャル大尉はとても魅力的な態度の持ち主です。そして、たぶん、多くの敵がいることでしょう。こうした言葉が事実であることを証すどんな証拠をおもちですか?」
「彼と直接会わせてください」ピクウィック氏は言った、「わたしが望み求めるのは、ただそれだけです。わたしとわたしの友人たちを彼と会わせてください。あなたはそれ以上の証拠をお求めにはならないでしょう」
「いやあ」ナプキンズ氏は言った、「それはとても楽なこと。彼は今晩ここに来ますからな。それに、このことが世間にひろまる心配もなし――ただ――ただ――あの青年自身のためにね。だが、まず第一に、このやり方の適否について、わたしは――わたしは――妻と相談をしてみたいんです。とにかく、ピクウィックさん、ほかのことにとりかかる前に、この法律上の仕事を片づけてしまわなければなりませんからな。どうか、となりの部屋におもどりください」
となりの部屋に一同ははいっていった。「グラマー」おそろしい声で治安判事は言った。
「閣下」お気に入り特有の微笑を浮かべて、グラマー氏は答えた。
「おい、おいっ」治安判事はきびしく言いわたした、「そんな軽はずみな態度は、ここでは示してはならんぞ。それはじつにふさわしからざること、たしかに笑うべきことなんて、なにもないのだからな。たったいまお前が述べた話は、たしかに本当のことかね? 注意するがいいぞ、どうだ?」
「閣下」グラマー氏はどもって言った、「わたしは――」
「おお、お前は狼狽しているのだな?」治安判事は言った。「ジンクス君、きみもあの狼狽ぶりはわかるね?」
「もちろん、わかります」ジンクス氏は答えた。
「さて」治安判事は言った、「グラマー、お前の陳述をくりかえすのだ。重ねて言っておくが、注意するがいいぞ。ジンクス君、彼の言葉を書きとっておいてくれたまえ」
気の毒にもグラマー氏は自分の告訴事実をふたたび述べはじめたが、ジンクス氏が自分の言葉を書きとめ、治安判事がそれをとりあげていること、もって生まれただらだらとなが話をする癖、彼のひどい狼狽などで、三分もたたぬうちに、こんがらがった矛盾だらけの言葉をしゃべりだし、その結果、ナプキンズ氏は、彼の言う言葉を信用しない、とすぐ宣言した。そこで罰金は免除され、ジンクス氏はすぐにふたりの保釈保証人を見つけた。こうした厳粛な処置がしっかりとおこなわれたとき、グラマー氏は不面目にも退場を命じられた――これは、人間の高い地位の不安定ぶりと偉人の恩寵のふたしかさを物語るおそろしい一例と言えよう。
ナプキンズ夫人はピンクの紗のターバンと明るい、褐色のかつらをつけた堂々とした女性だった。ナプキンズ嬢はターバンぬきの母親の高慢、かつらぬきの彼女のわるい性格すべてをもっていた。ふたつのこうした愛すべき性質を行使して、母親と娘ふたりがなにか不愉快なのっぴきならぬ立場に立ったとき――彼らはよくそうしたことになったのだが――ふたりはいつもその責任をナプキンズ氏の肩に負わせていた。そこで、ナプキンズ氏が夫人を呼び、ピクウィック氏の話をしたとき、夫人は、自分がいつもそういったことを予期していたこと、そうなるだろうと自分がいつも言っていたこと、自分の忠告は絶対に受けいれられなかったこと、ナプキンズ氏が自分のことをどう思っているのか本当にわからないでいること等々を、急に思い出した。
「まあ!」両目の隅にほんのわずかな涙をむりやりこみあげさせて、ナプキンズ嬢は言った。「まあ、そんなにバカにされたなんて!」
「ああ、お前、お父さまに感謝してもいいのですよ」ナプキンズ夫人は言った。「あの大尉の一族を調べていただくように、どんなにあの方におねがいし、おたのみしたことでしょう! なにか決定的な手段をとるように、なんとおねがいし、懇願したことでしょう! だれもそんなことはきっと信じてはくれないでしょうがね――きっと」
「だけどね、お前」ナプキンズ氏は言った。
「いまいましい人、わたしには話さないでちょうだい、話さないで!」ナプキンズ夫人は言った。
「お前」ナプキンズ氏は言った、「お前はフィッツ=マーシャル大尉をとても好きだと言ってたじゃないか? お前はいつも彼をここに招き、どんなときにも必ず彼をほかのところに紹介していたじゃないか?」
「わたしがそう言わなかったこと、ヘンリエッタ?」ひどく危害を受けた女性の態度をとって、自分の娘に訴えながら、ナプキンズ夫人は叫んだ。「お父さまの気持ちが変わり、これをみんなわたしのせいにするでしょう、とわたし、言わなかったこと? そう言わなかったこと?」ここでナプキンズ夫人はすすり泣きはじめた。
「おお、お父さま!」ナプキンズ嬢が抗議を申し入れた。そして、彼女もここですすり泣きをはじめた。
「こんな恥辱と物笑いの種をわたしたちのとこにもちこんできていながら、その原因はわたしだなんて責めるなんて、あんまりじゃない?」ナプキンズ夫人は叫んだ。
「世間にどうして顔を出せましょう!」ナプキンズ嬢は言った。
「ポークナムの人たちにどうして顔を合わされましょう!」ナプキンズ夫人は叫んだ。
「グリッグズの人たちにもね!」ナプキンズ嬢は叫んだ。
「スラミントウケンの人たちにもね!」ナプキンズ夫人は叫んだ。「だけど、お父さまはなにを気になさいましょう! それがお父さまに[#「お父さまに」に傍点]どうだというのです!」このおそろしいことを考えて、ナプキンズ夫人は心の痛みで泣き、ナプキンズ嬢もそのあとを追った。
ナプキンズ夫人の涙はすごい速度で流れつづけ、最後に、このことがらを考えるちょっとした時がやってきた。最善のすべきことは、ピクウィック氏とその友人たちに大尉が到着するときまでここにいてもらい、ついでピクウィック氏に彼が求めていた機会を与えてやることだ、と夫人は心中で決定した。彼の言葉が事実とわかったら、世間をさわがさずに大尉を家から追い出し、彼の一族の宮廷のコネで彼がシエラ・リオウン(アフリカ西部、フランス領のギニアと大西洋のあいだのイギリス植民地(保護領))か、ソーガー・ポイント(詳細不明)か、さもなければ、ヨーロッパ人の心をとても魅了し、そのために人が一度そこにいったら、二度と帰ってくる気にはなれないどこかとても気候のよい場所の総督に任命されたと言って、ポークナムの人たちに彼の姿を消したことを説明できるわけだった。
ナズキンズ夫人の涙が乾きあがったとき、ナプキンズ嬢の涙[#「ナプキンズ嬢の涙」に傍点]も乾きあがり、ナプキンズ氏はナプキンズ夫人が提案したようにことを決めるのをとてもよろこんでいた。そこでピクウィック氏と彼の友人たちは、さきほどの衝突のことはすっかり水に流して、婦人たちに紹介され、その後すぐ、晩餐に招待された。治安判事が特別な聡明さで三十分のうちにこの世でまたとないりっぱな男と認めたウェラー氏は、マズル氏の配慮と保護に引きわたされ、マズル氏は、彼を下につれてゆき大いにもてなすようにと、とくに命じられた。
「やあ、いかがです?」ウェラー氏を台所の階段の下につれていったとき、マズル氏は言った。
「いやあ、少し前、客間できみが親分の椅子のうしろに突っ立ってるのを見たときから、おれの体にはべつにどうっていうこともないよ」サムは答えた。
「あんとき、あんたにもっと気をつけなくって、失礼しましたね」マズル氏は言った。「ねえ、あんときには、まだご主人がわれわれを紹介してくださらなかったんですからな。いやあ、ウェラーさん、たしかにご主人はあんたにぞっこん参ってるんですよ!」
「ああ」サムは言った、「あの人は、まったくおもしろい人だね」
「そうでしょうが?」マズル氏は答えた。
「じつにユーモアがあるね」サムは言った。
「そして、弁説の立つ人です」マズル氏は言った。「あの方の考えは、どんどんとあふれ流れてるんですからね、どうです?」
「すごいもんだ」サムは答えた。『その考えはどんどん噴き出してきて、頭をがんがんとぶつけ合い、たがいに目をまわしてるらしいからね。あの人がなにを言おうとしてるのか、ほとんどわかりはせんだろう、どうだね?」
「それがあの方の話しっぷりの大きな長所」マズル氏は答えた。「最後の踏み段を注意してくださいよ、ウェラーさん。ご婦人方にお会いになる前に、手をお洗いになりますか? ここが流しで、水が引かれていて、ドアのうしろには回転式の長タオルがついてます」
「ああ、たぶん、ひと洗いしたほうがいいだろうな」タオルに黄色の石鹸をたっぷりつけ、顔がふたたびテラテラと光りだすまで洗って、サムは答えた。「ご婦人は何人いるのかね?」
「台所にはたったふたりしかいません」マズル氏は言った、「料理女と下女です。きたない仕事をする男の子とひとり女の子がいますが、このふたりは洗濯場で食事をしてます」
「おお、洗濯場で食事をするのかい、えっ?」ウェラー氏は言った。
「そうですよ」マズル氏は答えた、「ふたりがはじめてやってきたとき、ここのみんなのテーブルでためしてみたんです。でも、彼らをここにおくことはできませんでした。女の子の態度はおっそろしく野卑で、男の子は食べながらひどい息使いをするんです。だから、彼といっしょのテーブルで食事はできないことがわかったんですよ」
「若いさかまた[#「さかまた」に傍点]のような息使いの荒い男なんだね」ウェラー氏は言った。
「いや、そのおそろしいことったら、マズル氏は答えた。「だけど、ウェラーさん、これがいなかのつとめでいちばん困ることでしてね。若い|者《もん》はいつもとてもがさつなんです。よろしかったら、こちらへどうぞ、こちらへ」
このうえなく慇懃な態度でウェラー氏の先に立って、マズル氏は彼を台所に案内した。
「メアリー」美しい召使いの女にマズル氏は言った、「こちらはウェラーさんだ。できるだけ気持ちよくしてあげるようにと、旦那さまがこっちにおよこしになった方だ」
「そして、あんたのご主人は物わかりのいい方、ちゃんとふさわしい場所におれを送ってくださったね」メアリーに驚嘆の目をチラリと投げて、ウェラー氏は言った。「もしおれがこの家の旦那だったら、メアリーがいるとこには楽しみの種を見つけるだろうよ」
「まあ、ウェラーさん」顔を赤らめて、メアリーは言った。
「まあ、驚いた!」料理番の女は叫んだ。
「いや、これは、料理番さん、きみのことは忘れてたよ」マズル氏は言った。「ウェラーさん、あなたを紹介させてください」
「やあ、いかがです、ご婦人?」ウェラー氏は言った。「あなたにお会いして、まったくうれしいですよ。そして、紳士が五ポンド紙幣に言ったように、ながくおつき合いねがいたいもんですな」
紹介の儀式が終わったとき、料理番の女とメアリーは裏の台所に引きさがって、十分間くすくす笑いをしながらしゃべり、それからもどってきて、くすくすと笑い、顔を赤らめながら、夕食の座についた。
ウェラー氏の屈託のない態度と会話力は彼の新しい友人たちをすっかり魅了し、食事がまだなかば終わりもしないうちに、彼らはすっかり仲よしになり、ジョッブ・トロッター氏の非行をぜんぶ知ってしまった。
「あのジョッブには我慢ならなかったわ」メアリーは言った。
「我慢する必要なんてありませんとも」ウェラー氏は答えた。
「どうして?」メアリーはたずねた。
「醜悪といかさまは、優雅さと美徳となれなれしくなってはいかんのですからね」ウェラー氏は答えた。「そうなってもいいもんでしょうかね、マズルさん?」
「絶対いけませんな」マズル氏は答えた。
ここでメアリーは笑いだし、料理番の女が笑わせたのだと言い、料理番の女も笑いだして、そんなことはないと言った。
「わたし、コップがないわ」メアリーは言った。
「おれといっしょに飲みなさい」ウェラー氏は言った。「この大コップにあんたの唇をつけなさい。そうすりゃ、代理のきみにキスができるからね」
「まあ、ウェラーさん!」メアリーは言った。
「なにがまあなんだね?」
「そんな話をするなんて」
「バカな。べつにどうということもないじゃないか。そいつは天性というもんだよ。そうじゃないかい、料理番さん?」
「厚かましいことはきかないでちょうだい」すごくうきうきして料理番の女は答え、ここで料理番の女とメアリーはふたたび笑い、とうとう、ビールやら冷えた肉やら笑いやらで、メアリーはあやうくむせかけ、背をいろいろとたたくやら、その他ウェラー氏が心づかい細やかにして与えた救助によって、彼女はようやくそのおそろしい危機から脱することができた。
この陽気さと酒宴の真っ最中に、庭の門のところで大きく鐘が鳴らされる音がひびき、洗濯場で食事をしていた若い紳士がそれに応じた。ウェラー氏は美しい下女の看護の最中、マズル氏はせっせとテーブルで主人役をつとめ、料理番の女は笑うのをやめて、大きな一口を口にもっていこうとしていたとき、台所のドアが開き、ジョッブ・トロッター氏が中にはいってきた。
ジョッブ・トロッター氏が中にはいってきたといま述べたが、その言葉は、われわれがいつも事実を忠実に描写しているのとは、ちょっとちがっている。ドアが開き、トロッター氏が姿をあらわした。中にはいってくるところで、まさにそれをしようとしていたのだったが、そのときウェラー氏の姿に気がつき、彼はわれ知らず一、二歩とびさがり、驚きと恐怖で身動きがならず、自分の目の前の思いがけない光景をジッとながめて、突っ立っていた。
「彼が来たぞ!」大よろこびで立ちあがって、サムは言った。「いやあ、たったいまきみのことを話してたとこなんだ。機嫌はどうだね? どこにいってたんだい? 中にはいれよ」
無抵抗のジョッブの赤紫色のカラーに手をかけて、ウェラー氏は彼を台所の中に引きずりこみ、ドアに錠をおろして、鍵をマズル氏にわたし、マズル氏はそれを落ち着き払ってわきのポケットにボタンをかけてしまいこんでしまった。
「うん、こいつはおもしろいぞ」サムは叫んだ。「おれのご主人がお前の主人と二階で会い、おれがお前に下のここで出逢うなんて、考えてもみろよ。調子はどうだい? 雑貨屋の商売はどうなりそうだい? うん、お前さんに会えてとてもうれしいよ。お前さん、いかにも幸福そうだね。お前さんに会えたのは、とてもうれしいこった。そうじゃないかね、マズルさん?」
「まったくね」マズル氏は言った。
「彼はすごく陽気だぞ!」サムは言った。
「じつに上機嫌ですな!」マズル氏は言った。
「そして、おれたち[#「おれたち」に傍点]と会ったことをとてもよろこんでるんだ――それでますます気分はよくなるってわけさ」サムは言った。「坐れよ、坐れよ」
トロッター氏は炉の近くの椅子にむりやり坐らされ、唯々諾々とそれにしたがった。彼は最初小さな目をウェラー氏に、ついでマズル氏に投げていたが、だまったままでいた。
「さてと」サムは言った、「ここのご婦人の前で、まあ一種の好奇心というやつでたずねたいんだがね、きみは自分自身のことをピンクの市松模様のハンカチと讃美歌集四番を使ったとびきりりっぱな、身だしなみのいい若い紳士とでも思ってるのかね?」
「そして料理女と結婚しようとしていたのね」料理番の女はムカムカして言った。「ひどい悪党だこと!」
「そしてわるいことをするのをやめ、そのあとで、雑貨商になろうとしてるのね」下女は言った。
「さて、若いの、それがどんなことか教えてやろう」最後のふたつの当てつけに憤慨して、マズル氏はおごそかに言った、「この婦人は(料理番の女をさし)いつもおれといっしょにいるんだ。きみが彼女と雑貨屋をやるなんぞとおこがましくも言ったとき、男がほかの男をやっつけるいちばん痛いとこを突いたことになるんだぞ。おれの言ってることがわかるかね?」
ここで、主人を真似て、自分の雄弁に大得意になっていたマズル氏は、話をやめて、返事を待った。
だが、トロッター氏はなんの返事もせず、そこで、いとも厳粛なる態度でマズル氏は語りつづけた――
「ここ数分間、きみが二階に呼ばれないだろうというのは、十分に考えられることだ。おれの[#「おれの」に傍点]ご主人が、いまこの瞬間、きみの[#「きみの」に傍点]主人をさんざんにやっつけてるのだからね。だから、きみはおれとふたりだけでちょっと話す暇はあるわけだ。おれの言ってることがわかるかね?」
マズル氏はふたたび話をやめて、返事を待ったが、ふたたびトロッター氏は彼の期待を裏切った。
「よし、それなら」マズル氏は言った、「ご婦人方の前で自分の立場を説明しなけりゃならんのはとても残念なことだが、なにせ急場のこと、それも許してもらおう。裏の台所があいてるんだ。もしきみがそこにはいっていったら、ウェラーさんの審判は公平、鐘が鳴るまで互いに思いきりやれるぜ。あとについて来い、きみ!」
マズル氏はこう言いながら、一、二歩ドアのほうに歩いてゆき、時間の節約にと、歩きながら上衣をぬぎはじめた。
さて、料理番の女は、このしゃにむにの挑戦の最後の結びの言葉を耳にし、マズル氏がそれを実行にうつそうとしているのを見るや、つんざくような大きな叫び声をあげ、その瞬間に椅子から立ちあがったジョッブ・トロッター氏におそいかかり、興奮した女性特有のたくましさで、彼の大きな平たい顔を引き裂いて打ち、両手を彼のながい黒髪にまきつけ、死者の思い出になるこのうえなく大きな形見の指輪が五、六ダースは十分にできると思われるほどの髪の毛を、そこからむしりとった。マズル氏にたいする献身的な愛情がつき動かしたこうした激しさでこの放れ業を達成してから、彼女はうしろによろめき、興奮しやすい繊細な感情の婦人だったので、彼女はその場で料理台の下に倒れ、そのまま気を失ってしまった。
この瞬間に、鐘が鳴った。
「あれはお前を呼んでる鐘だぞ、ジョッブ・トロッター」サムは言った。トロッター氏が抗議か返事をする暇も与えず――失神した婦人によって加えられた傷の血どめをする暇さえ与えずに、サムは片腕を、マズル氏はのこりの腕をとらえ、一方は前で引きずり、他はうしろからおして、ふたりは彼を二階につれあげ、客間におしこんだ。
それは印象的な劇的場面だった。アルフレッド・ジングル、またの名フィッツ=マーシャル大尉は、自分のじつに不愉快な立場にもぜんぜん心を動かされずに、手に帽子をもち、顔には微笑を浮かべて、ドアの近くに立っていた。彼の真ん前にピクウィック氏が立っていたが、ピクウィック氏が高度に道徳的なある教訓を説いて聞かせていたことは明らかだった。彼の左の手は上衣の尻尾の下におかれ、右手は空中にのばされていたが、これは印象的な演説をしているときの彼の癖だった。少しはなれたところに、ふたりの年下の若い友人に注意深く抑えられて、怒り顔のタップマン氏が立ち、さらに部屋の奥のほうには、ナプキンズ氏、ナプキンズ夫人、ナプキンズ嬢が、陰気に堂々と、ひどくいらいらして、ひかえていた。
「どうしてなんだ」ジョッブがつれこまれてきたとき、治安判事としての威厳をこめて、ナプキンズ氏は言った、「どうしてこの男たちを悪人、いかさま師として拘留できないのだ? それはおろかな慈悲というもの。どうしてそれができないんだ?」
「じいさん、誇り、誇りというやつさ」すっかりくつろいで、ジングル氏は答えた。「だめ――うまくはいかん――大尉をつかまえたんだって?――はっ! はっ! とても結構――娘の亭主にね――一杯くったぺてん師――公表する――絶対にするもんか――バカげたこってすからな――とてもね」
「卑劣漢」ナプキンズ夫人は言った、「あんたの卑劣な迎合ぶりは軽蔑していますよ」
「あの人、わたしはいつも大きらいだったわ」ヘンリエッタはつけ加えた。
「おお、もちろん」ジングル氏は言った。「背の高い若い男――年とった恋人――シドニー・ポークナム大尉――金持ち――いい男――だが、大尉ほど金持ちじゃない?――彼を追い出せ――彼を追っ払え――大尉のためならなんでも――どこにも大尉のようなのはいない――女の子という女の子――気がくるったようにうわ言――えっ、そうだろう、ジョッブ?」
ここでジングル氏はとても陽気に笑い、ジョッブはよろこびで両手をこすり合わせて、この家にはいって以来はじめての物音――低い、声にならぬクスクス笑いを発したが、それは、自分の笑いを楽しみすぎて声にもならぬといった感じだった。
「あなた」初老の夫人は言った、「これは召使いたちに聞かせるのにふさわしくはない話です。あの卑劣漢たちを追い出してください」
「もちろん、お前」ナプキンズ氏は言った。「マズル!」
「閣下」
「正面のドアを開けろ」
「はい、閣下」
「出てゆけ」激しく手をふって、ナプキンズ氏は言った。
ジングル氏はニヤリとし、ドアのほうに進んでいった。
「待て!」ピクウィック氏は叫んだ。
ジングル氏は足をとめた。
「わたしは」ピクウィック氏は言った、「きみとそこにいるきみの偽善的な友人の手で受けたあつかいにたいして、はるかにもっとひどい復讐もできるところだったんだぞ」
ジョッブ・トロッターはいかにも慇懃にお辞儀をし、心臓の上に片手をあてがった。
「わたしが言うのは」しだいにむらむらしてきて、ピクウィック氏は言った、「もっとひどい復讐もできるところだったということだ。だが、きみの素性をばらすことだけで満足しているのだ。それは社会にたいする義務だと思うからな。これは慈悲というもの、それを忘れないようにな」
ピクウィック氏がここまで話してきたとき、ジョッブ・トロッターは、おどけた真剣さで、いかにもその一語も聞き落とすまいとしているように、耳に手をあてがった。
「そして、わたしが言いそえておかなければならんことは」いまはもうすっかりカンカンになって、ピクウィック氏は言った、「ただ、きみが悪人で、な――ならず者であり、わたしが見たり聞いたりしたどんな男よりわるいやつだということだけだ、赤紫の仕着せを着たあの敬虔な信心ぶった浮浪者はべつにしての話だがね」
「はっ! はっ!」ジングル氏は言った、「いい男だよ、ピクウィック――りっぱな心――太った老人――だが、カンカンになってはだめ[#「だめ」に傍点]――わるいことだからな、とてもね――バイ、バイ――またいつか会うことにしよう――元気でいろよ――さあ、ジョッブ――速足だ!」
こう言って、ジングル氏は以前どおりに帽子を頭に乗せ、大股で部屋から出ていった。ジョッブ・トロッターは立ちどまり、あたりを見まわし、ニヤリとし、それからピクウィック氏にはからかいの厳粛なお辞儀をし、ウェラー氏にはウィンクをして、有望な自分の主人のあとを追ったが、そのぬけぬけとした陰険さは筆舌につくしがたいものだった。
「サム」ウェラー氏がそのあとを追おうとしたとき、ピクウィック氏は言った。
「はい」
「ここにいなさい」
ウェラー氏は落ち着かぬふうだった。
「ここにいなさい」ピクウィック氏はくりかえした。
「前の庭であのジョッブのやつを片づけてしまってはいかんのですか?」ウェラー氏はたずねた。
「もちろん、いかん」ピクウィック氏は答えた。
「やつを蹴って門の外に追い出してはいかんのですか?」ウェラー氏はたずねた。
「絶対にいかん」彼の主人は答えた。
ウェラー氏は、やとわれて以来はじめて、一瞬不満で悲しげなようすを示した。だが、彼の顔はすぐに晴れあがった。それというのも、策略家のマズル氏が街路の戸の背後に身をかくし、ちょうど潮時にすごい勢いでとびだしてきて、じつにうまく出口の階段の下にジングル氏と彼の従者をひっくりかえし、下に立っていたアメリカ|蘆薈《ろかい》のおけの中に彼らをたたきこんでしまったからである。
「わたしの義務の遂行は終わり」ピクウィック氏はナプキンズ氏に言った、「わたしは、友人たちとともに、お別れします。われわれが受けましたご歓待に感謝はしながらも、強い義務感につき動かされているのでなかったら、そうした歓待はお受けせず、このようにして窮地から脱することにも賛成しなかったであろうことを、友人たちと連名で、はっきりと申しあげることをお許しください。われわれは、明日ロンドンにもどります。あなたの秘密のことは、どうぞご心配なく」
一同が午前中受けたあつかいにたいしてこう抗議をしてから、ピクウィック氏はご婦人方に低くお辞儀をし、一家の懇願を固辞して、友人たちと部屋を出ていった。
「サム、帽子はどうした?」ピクウィック氏は言った。
「下にあります」とサムは言い、それを見つけに階段をかけおりていった。
さて、台所には例の美しい下女以外にだれもいず、サムは帽子をおき忘れていったので、それをさがさねばならず、美しい下女は、彼のために、灯りをつけてくれた。ふたりは台所一面にさがしまわらなければならなかった。美しい下女はそれをさがそうとしてひざまずき、ドアのそばの小さな隅に積み重ねてあったすべてのものをひっくりかえした。その隅は不都合なものだった。ドアを先に閉めなければ、そこにはいれぬ代物だったからである。
「ここにあるわ」美しい下女は言った。「これでしょう?」
「見せてください」サムは言った。
美しい下女は床の上にろうそくを立てていた。それはとても暗い灯りだったので、自分の帽子かどうかを見きわめるために、サムもひざまずか[#「ひざまずか」に傍点]ねばならなくなった。それはひどくせまい隅で、その結果――それは家を建てた人以外のだれの責任でもない――サムと美しい下女はどうしてもピッタリと体をくっつけねばならないことになった。
「うん、これだ」サムは言った。「さようなら!」
「さようなら!」美しい下女は言った。
「さようなら!」とサムは言い、こう言いながら、さがすのにひどく骨を折った帽子を下に落とした。
「本当にあんたって、困った人ね」美しい下女は言った。「用心しないと、またなくしてしまうことよ」
そこで、彼が二度とそれを失わないようにと、彼女はそれを彼の頭に乗せてやった。
美しい下女の顔がサムの顔のほうにあげられたとき、それが前よりもっと美しく見えたのか、あるいは、それがふたりの身をよせ合っていた偶然の結果かどうかは、|今日《こんにち》にいたるまでよくわからないことだが、とにかく、サムは彼女にキスをした。
「帽子をなくしたりなんぞして、それをわざとしたんではないのでしょうね?」顔を赤らめて美しい下女は言った。
「いや、あんときは、そんなつもりはなかったよ」サムは言った。「だが、今度はそのつもりだ」
そう言って、サムはふたたび彼女にキスをした。
「サム!」手すり越しにピクウィック氏は呼びかけた。
「すぐいきます」階段をかけあがって、サムは答えた。
「なんて手間がかかるんだ?」ピクウィック氏は言った。
「ドアのうしろにものがありましてね、そのために、ドアを開くのに暇がかかってしまったんです」サムは答えた。
そしてこれが、ウェラー氏の初恋の最初のいきさつだった。
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第二十六章
[#3字下げ]バーデル対ピクウィック訴訟の進行状態に関する簡単な話
ジングルの素性を暴露することで旅の主要な目的を果たして、ピクウィック氏はただちにロンドンにもどることを決心し、そのあいだにドッドソン氏とフォッグ氏によって彼にたいしてとられている訴訟手続きを調べることになった。彼特有のたくましさと決断でこの決心にもとづいて行動を起こし、いままでの二章でくわしく述べた記念すべき事件のあった翌朝、彼はイプスウィッチを出発する最初の駅伝馬車の背後の座席に乗りこみ、三人の友人とサミュエル・ウェラー氏をともなって、同じ日の夕方、無事元気にロンドンに到着した。
ここで、彼の友人たちは、しばらくのあいだ、彼とわかれることになった。タップマン氏、ウィンクル氏、スノッドグラース氏は、近くおこなわれるディングリー・デル訪問に必要な準備をするため、それぞれの家庭に帰り、ピクウィック氏とサムはとてもりっぱな、古風で快適な地区、すなわち、ロムバード街、ジョージ・ヤード、『ジョージと|禿鷹《はげたか》旅館』にさし当たって居を定めることになった。
ピクウィック氏は夕食をすませ、特別のポートワインの二パイント目を飲み終わり、頭に絹のハンカチを乗せ、炉格子に両足をのばして、安楽椅子にひっくりかえっていたとき、ウェラー氏がじゅうたんでつくった旅行かばんをもって部屋にはいってきて、彼を静かな瞑想から呼びさました。
「サム」ピクウィック氏は言った。
「はい」ウェラー氏は答えた。
「いま考えていたんだがな、サム」ピクウィック氏は言った、「ゴズウェル街のバーデル夫人の家にいろいろとものをのこしてきたので、ロンドンを出てゆく前に、なんとかそれをとりださなければならんな」
「そうですね」ウェラー氏は答えた。
「さし当たって、サム、それはタップマン氏の家においてもらうことにしよう」ピクウィック氏はつづけた、「だが、それをとりだす前に、それを調べ、まとめておかなければならない。サム、お前にゴズウェル街にいってもらい、それをうまくやってほしいのだがね」
「すぐにですか?」ウェラー氏はたずねた。
「ああ、すぐにだ」ピクウィック氏は答えた。「それに、待ってくれ、サム」財布を引きだして、ピクウィック氏は言いそえた、「払わなければならん部屋代がある。四季支払い日(聖母マリアの祝日の三月二十五日、洗礼者ヨハネの祝日の六月二十四日、ミカエル祭の九月二十九日、クリスマスの十二月二十五日をいう)はクリスマスだが、それを払って、すませてしまったほうがいい。一か月の契約解除の予告でわしの借用期間は終わるわけだ。これが、それを書いた書類だ。それをわたし、いつでも好きなときに、貸し間札を出してもいいと伝えてくれ」
「よくわかりました」ウェラー氏は答えた。「なにかほかに?」
「なにもないよ、サム」
ウェラー氏は、なにかほかの用件を予期しているように、ゆっくりとドアのところにゆき、ゆっくりとそれを開け、ゆっくりと歩みだし、それをゆっくりと閉めて、もうあと二インチでそれが閉まってしまいそうになったとき、ピクウィック氏が叫んだ――
「サム」
「はい」さっともどり、ドアを閉めて、ウェラー氏は答えた。
「サム、バーデル夫人がわしにたいしてどんな気持ちになっているらしいか、このひどい、いわれのない訴訟が最後の土壇場まで本当におこなわれそうかどうか、お前がたしかめてみてもかまわないよ。それが希望なら、サム、それをしてもいいんだよ」
サムはわかったと簡単にうなずき、部屋を出ていった。ピクウィック氏はふたたび頭の上に絹のハンカチをひろげ、うたたねをしようとしていた。ウェラー氏は自分の仕事をするためにさっさととびだしていった。
彼がゴズウェル通りに着いたときには、もう九時近くになっていた。通りに面した小さな客間では、二本のろうそくが燃えていて、ふたつの帽子が窓おおいに影を投げていた。バーデル夫人のところには客が来ていた。
ウェラー氏はドアをノックし、ややしばらくしてから――外にいたウェラー氏は口笛を吹き、家の中の者は言うことをきかないもち運び用の平台短軸の燭台のろうそくに火をつけるのに手間どり――小さな編上げ靴が床の敷き物の上でパタパタと音を立て、バーデル坊やが姿をあらわした。
「うん、坊や」サムは言った、「母さんはどうだい?」
「かなり元気だよ」バーデル坊やは答えた。「ぼくだって、そうだよ」
「うん、そいつはありがたいこった」サムは言った。「神童君、おれが話したいって、母さんに伝えてくれないかい?」
こうたのまれて、バーデル坊やは手に負えぬろうそくをいちばん下の階段の上におき、その伝言を伝えようと、正面の客間に姿を消した。
窓おおいの上に写し出されていたふたつの帽子はバーデル夫人のとくに親しくしている知人のかぶり物で、彼らは、静かにお茶を一杯飲み、二本の豚の足と焼いたチーズのささやかな夕食を食べるために、たったいま部屋にはいってきたところだった。チーズは炉の前の小さな肉焼き器の中でじつにおいしそうにブツブツと焼けてこんがりとし、豚の足は炉の横の台の上の小さな錫のシチューなべの中でうまそうに煮えていた。バーデル夫人とふたりの友人はそれぞれの知人友人についてのささやかな静かな話に打ち興じていた。そのとき、バーデル坊やが戸口のところからもどり、サミュエル・ウェラー氏にたのまれた伝言を伝えた。
「ピクウィックさんの召使いですって!」青くなってバーデル夫人は言った。
「まあ!」クラッピンズ夫人は言った。
「そう、わたしがここに居合わせなかったら、とっても本当とは思えないことだわ!」サンダーズ夫人は言った。
クラッピンズ夫人はきびきびした、せわしそうな感じの小女、サンダーズ夫人は大きな、太った、生気のない顔をした女で、ふたりは仲間だった。
バーデル夫人はここで興奮しなければならないと感じた。三人のだれもが、いまの事情のもとで、ドッドソンとフォッブを通して以外に、ピクウィック氏の召使いと連絡をとるべきかどうかについて見当もついていなかったので、彼らはみんな不意をつかれたわけだった。こうしたどっちつかずの状態のもとで、まずすべき第一のことは、ウェラー氏を戸口のところで見つけたことにたいして、少年に拳骨を一発くらわすことだった。そこで母親は一発くらわし、少年は大声で泣きだした。
「おだまり――えっ――このきかん坊主め!」バーデル夫人は言った。
「そう、母さんを苦しめちゃいけないよ」サンダーズ夫人は言った。
「トミー、母さんは、お前さんなしでも、いまのまんまで苦労は十分にあるんだからね」同情的なあきらめで、クラッピンズ夫人は言った。
「ああ、かわいそうに、また運のわるいことになったね!」サンダーズ夫人は言った。
こうしてお説教をされて、バーデル坊やは前より大きな声をはりあげて泣きだした。
「さあ、どうしたらいいんだろうね?」バーデル夫人はクラッピンズ夫人にたずねた。
「会うべきだとわたしは[#「わたしは」に傍点]思うね」クラッピンズ夫人は答えた。「だけど、証人なしでは絶対にだめだよ」
「ふたり証人がいたほうがなおまともと、わたしは[#「わたしは」に傍点]思うね」サンダーズ夫人は言ったが、彼女は、クラッピンズ夫人と同様、好奇心に燃え立っているのだった。
「たぶん、その召使いの人はここに入れたほうがいいね」バーデル夫人は言った。
「もちろん」その考えにとびついて、クラッピンズ夫人は答えた。「おはいりなさい、若い人。そして、まず、表の戸を閉めてくださいよ」
ウェラー氏はすぐそれと気をきかして、客間に姿をあらわし、自分の用件をバーデル夫人にこう説明した――
「奥さん、ご面倒をかけて申しわけありません、夜盗が老婦人の家におしこみ、彼女を火あぶりにしたときに言ったようにね。でも、わたしと旦那さまはたったいまロンドンに来て、もうすぐまた出かけてしまうんで、どうにもしようのないことだったんです」
「もちろん、主人のいけないことを、この若い人がどうできるわけのものではないからね」ウェラー氏の出現とその話しぶりにひどく打たれて、クラッピンズ夫人は言った。
「もちろん、そうだよ」サンダーズ夫人は相槌を打った。彼女は、小さな錫のシチューなべをもの欲しそうにチラチラながめているところから見ても、サムが夕食に招かれた場合、豚の足がどう分けられるだろうかを心で思いめぐらしているふうだった。
「そこで、わたしの用件はこのことだけです」口を入れられたのにはおかまいなしで、サムは言った。「第一に、旦那さまの契約解除の通告――それはこれです。第二に、部屋代を払うこと――それはこれです。第三に、旦那さまのもちものはぜんぶまとめ、それを受けとりにきただれにでもわたすこと。第四に、いつでも部屋は貸していいこと――それだけです」
「どんなことが起ころうとも」バーデル夫人は言った、「わたしはいつも言ってたことだし、これからもいつも言うことでしょうが、ひとつの点をのぞくほかのすべての点で、ピクウィックさんはりっぱな紳士らしくいつもおふるまいでしたよ。あの人のお金は、銀行と同じように、いつもしっかりしたものだったのですからね、いつも」
バーデル夫人がこれを言ったとき、彼女はハンカチを目にあてがい、受領証をとりに部屋から出ていった。
サムは、自分がだまっていさえすれば、女たちが話しだすことを知っていた。そこで、彼は錫のシチューなべ、焼いたチーズ、壁、天井を、ジッとだまったまま見まわしていた。
「かわいそうに!」クラッピンズ夫人は言った。
「ああ、かわいそうに!」サンダーズ夫人は答えた。
サムはなにも言わなかった。彼はふたりがだんだんと問題にふれてきたのをさとっていた。
「わたしは本当に我慢ならないんだよ」クラッピンズ夫人は言った、「こんな嘘の誓いを考えるとね。あんたを不愉快にすることはべつに言いたくはないんだけどね、若い人、あんたのご主人は人でなしの老いぼれ、あの人がここにいて、わたしがそれを言ってやりたいよ」「そうであればいいんですがね」サムは言った。
「友だちが気の毒に思ってここにやってきて楽しましてやるとき以外には、彼女はふさぎこんで歩きまわり、すっかり滅入って、ひどく苦にしているんだよ」錫のシチューなべと肉焼き器をチラリとながめて、クラッピンズ夫人はつづけた、「ひどいことだよ!」
「野蛮なことさ」サンダーズ夫人は言った。
「そしてあんたのご主人は、若い人! 金持ちの紳士で、女房の出費なんぞ、屁とも思わない人なんだからね」ペラペラとクラッピンズ夫人はまくし立てた。「まったく、あの人のやり方には言いのがれの筋はこれっぽっちもないよ! どうしてあの人と結婚しないんだろう?」
「ああ」サムは言った、「まったく、そこが|問題《クエスチヨン》ですな」
「まったく、クエスチョンさ」クラッピンズ夫人はやりかえした。「あの人にわたしの勇気があったら、あの男に|詰問《クエスチヨン》するところなんだがね。男たちは、できることなら、わたしたちをみじめなもんにするだろうけど、わたしたち女には、だけど、法律ってえもんがあるんだよ。六か月たたない間に、あんたのご主人は、若い人、きっとひどい目にあって、そいつがわかるだろうよ」
こう心のなぐさめになることを考えて、彼女はツンとそりかえり、サンダーズ夫人にニヤリと笑いかけたが、サンダーズ夫人のほうでも、ニヤリとして笑いをかえした。
「訴訟が進行中なことは、まちがいないな」バーデル夫人が受領証をもって部屋にもどってきたとき、サムは考えた。
「これが受領証ですよ、ウェラーさん」バーデル夫人は言った、「これがお釣りのお金です。古なじみのためだけでも、寒さを払いのけるために、なにか一杯やったらどう、ウェラーさん?」
サムはそれで得られる利点を察知し、相手の申し出に承服した。そこで、バーデル夫人は小さな戸棚から黒いびんとぶどう酒用のグラスをとりだし、心の深い苦しみで茫然としていたので、ウェラー氏のグラスに酒を注いだあと、さらに三つぶどう酒用のグラスをとりだし、それに酒をいっぱい注ぎこんでしまった。
「まあ、バーデルさん!」クラッピンズ夫人は言った、「こんなことをして!」
「でも、ありがたいもんだわ!」サンダーズ夫人は叫んだ。
「ああ、頭がおかしくなってるわ!」気乗りのしない微笑を浮かべて、バーデル夫人は言った。
サムは、もちろん、こうしたことすべてを理解し、ご婦人が自分といっしょに飲まなかったら、食事前に酒はどうしても飲めない、とすぐに言った。大笑いがそれにつづいて起こり、サンダーズ夫人がまずサムの言うとおりになろうと言いだし、自分のグラスからほんのちょっぴり酒を飲んだ。それから、それが全員でなければとサムが言い、そこで全員がちょっぴり酒を飲んだ。それから小女のクラッピンズ夫人が乾杯として「バーデル対ピクウィック事件の成功」を提案し、ついで、その考えに敬意を表して、ご婦人方はそのグラスを|空《から》にし、間もなくペラペラとしゃべりだした。
「いま進行中のことを聞いたでしょうね、ウェラーさん?」バーデル夫人はたずねた。
「少しは聞いてますよ」サムは答えた。
「あんなふうに人前に引きずりだされるなんて、おそろしいことよ、ウェラーさん」バーデル夫人は言った。「でも、いまは、それがしなくちゃならないただひとつのことだとわかってるんです。それに、わたしの弁護士さんになってるドッドソンさんとフォッグさんは、わたしたちの呼ぶ証人がいれば、きっと成功まちがいなしって言ってるんですからね。そうならなかったら、ウェラーさん、わたしはどうしたらいいか途方に暮れてしまうことよ」
バーデル夫人が訴訟で敗れると考えただけで、サンダーズ夫人はすっかり心を打たれてしまい、すぐにグラスに酒を満たし、それを飲まなければならなくなった。彼女があとで言ったことだが、そうする心の落ち着きがなかったら、彼女は倒れてしまいそうになったからである。
「それはいつなんですかね?」サムはたずねた。
「二月か三月よ」バーデル夫人は答えた。
「証人はたくさんいるんでしょうね?」クラッピンズ夫人はたずねた。
「ああ、いますともね!」サンダーズ夫人は答えた。
「そして、原告が証人を出さなかったら、ドッドソンさんとフォッグさんはカンカンになって怒るでしょう?」クラッピンズ夫人は言いそえた、「ふたりがやまをはって、それをやってるときね!」
「ああ、もちろん、怒るわよ!」サンダーズ夫人は言った。
「だけど、証人を出すのは原告よ」クラッピンズ夫人はつづけた。
「そうなりゃいいんだけど」バーデル夫人は言った。
「おお、それはもう、まちがいのないことよ」サンダーズ夫人は答えた。
「さて」立ちあがり、グラスを下において、サムは言った、「わたしがいま言えることは、あんたが証人を得られる[#「得られる」に傍点]ように、ということだけですな」
「ありがとう、ウェラーさん」熱をこめてバーデル夫人は言った。
「ただで人に争いを起こさせ、裁判沙汰でことを決めようとしてる近所の人や知り合いのあいだの小さなもめごとを見つけようと、書記たちをせっせと走りまわらせてるほかの親切で気前のいい人たちばかりでなく」ウェラー氏はつづけた、「やまをはってこうしたことをやってるあのドッドソンとフォッグというやつらについてはね――やつらについてわたしの言えることは、わたしのやりたいと思ってる報いを得たらいい、ということだけですよ」
「ああ、すべての親切で気前のいい人が彼らに与えたいと思ってる報いを、彼らが受けられたらいいんですがね!」満悦のバーデル夫人は言った。
「それに賛成!」サムは答えた、「それでやつらが実入りのある、幸福な暮らしを立てられるように! みなさん、お寝みなさい!」
サンダーズ夫人がとてもほっとしたことに、バーデル夫人は豚の足や焼いたチーズについてはなにも言わずに、サムを帰らせ、ご婦人方は、バーデル坊やの援助を得て、すぐそれを十二分に味わい――まったく、そのご馳走は、彼らの獅子奮迅の努力の前に、すっかり姿を消してしまった。
ウェラー氏は『ジョージと禿鷹旅館』にもどり、バーデル夫人訪問でひろうことができたドッドソンとフォッグの不正なやり口の徴候を忠実に報告した。翌日おこなわれたパーカー氏との会談は、十分すぎるほどウェラー氏の言葉を裏書きしていた。そしてピクウィック氏は、二、三か月もすれば、結婚の約束破棄で受けた損害のことで自分にたいして提起された訴訟が民事訴訟裁判所で公然と審理され、原告は情況からばかりでなく、おまけに、ドッドソンとフォッグの不正なやり口から得られるかぎりの利点をあさり求めるだろうという楽しい期待をもって、ディングリー・デルへのクリスマス訪問の準備にとりかからなければならなくなった。
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第二十七章
[#3字下げ]サミュエル・ウェラーはドーキングへ巡礼に出かけ、義理の母親に出逢う
ピクウィック・クラブ会員たちがディングリー・デルに出発するときまでにまだ二日あったので、早い夕食をすませたあとで、ウェラー氏は『ジョージと禿鷹旅館』の裏部屋に坐りこみ、いちばんうまく時間つぶしするのにはどうしたものかを考えていた。その日はとても天気がよく、このことを十分間も考えていないうちに、彼は急に孝行心と親愛の情に打たれ、父親に会いにゆき、義理の母親につとめを果たさねばならないと強く考えるようになり、以前にこの義務のことを考えたこともない自分自身の怠慢に、すっかりびっくりしてしまった。一刻も猶予せずに過去の怠慢のつぐないをしようと、彼はすぐに二階のピクウィック氏のところにあがってゆき、この賞賛すべき目的のための休暇をねがいでた。
「もちろん、サム、もちろん」自分の従者のこの孝行心の発露によろこびの目を輝かせて、ピクウィック氏は言った。「もちろん、いいとも、サム」
ウェラー氏は感謝してお辞儀をした。
「お前が息子としてそのように孝行心が強いのを見て、わしはとてもうれしいよ、サム」ピクウィック氏は言った。
「いつもその気持ちはもってました」ウェラー氏は答えた。
「そう考えられるのは、なによりのことだよ、サム」満足そうにピクウィック氏は言った。
「ええ、そうです」ウェラー氏は答えた。「なにかおやじにたのみたいものがあると、いつもとてもうやうやしく、ていねいな態度で、そいつをたのみこみました。くれない場合には、それを盗んじまったんです。それがなくって、なにかいけないことをしたらいかんと心配でしたんでね。こんなふうにして、おやじにはグッと面倒をかけないですんだんです」
「それは、わしの言ったこととちょっとちがうな、サム」ちょっとニヤリとして、頭をふりながら、ピクウィック氏は言った。
「自分といっしょにいて不幸そうにしてる女房から逃げだした紳士が言ったように、わるい気はさらさらなく――みんなよかれと祈ってやったことなんです」ウェラー氏は答えた。
「お前はいってもいいよ、サム」ピクウィック氏は言った。
「ありがとうございます」ウェラー氏は答え、最敬礼をし、晴れ着を着こんで、アランデルゆきの駅伝馬車の上の座席に乗りこみ、ドーキングに向けて出発した。
ウェラー氏の時代の『グランビー侯爵旅館』は比較的よい典型的な路傍の旅館で――便利なくらいの大きさはあり、気持ちいいくらいの小ささをそなえたものだった。道路の反対側には、高い棒の上に大きな看板があり、深い青の縫いとりのある赤い上衣を着た、中風性の顔つきをした紳士の頭と肩が描きだされ、その三角帽の上には、空として同じ青の色がちょっとぬられてあった。さらにその上には、一対の旗が示されていた。彼の上衣のいちばん下のボタンの下には、一対の大砲が描かれ、それはまごう方なくあの輝かしい歴史をもったグランビー侯爵(ウィリアム三世を助けて兵をあげたジョン・マナーズ(一六三八―一七一一)のことか)をあらわしたものだった。
酒場の窓は選りぬきのてんじくあおいを集めたもの、キチンとほこりを払った一列の酒びんを示し、出入り口のよろい戸にはさまざまな金文字が書かれ、よい寝台と混ぜ物のないぶどう酒をほめたたえていた。選ばれた一団のいなかの人たちと馬丁は、うまやの戸口や馬のかいばおけのあたりをブラブラし、奥で売られているビールや酒のうまいことを推定できる証拠を示していた。サム・ウェラー氏は、駅伝馬車からおりたとき、経験をつんだ旅行者の目で、繁栄した商売のこうしたちょっとした徴候すべてに気がつき、それを見定めてから、自分の観察したすべてにすごく満悦して、すぐ中にはいっていった。
「さあ!」サムが入口に頭をつっこんだ瞬間に女性の甲高い声が言った、「若い方、なにをあげましょうか?」
サムはその声が発せられたほうにふり向いた。それは感じのいい、そうとう太った女の声で、彼女は、酒場の炉のそばに坐り、お茶を入れようとやかんを煮え立たせるために、火を吹いていた。彼女はそこにひとりでいるのではなかった。炉の反対側に、背の高い椅子にしゃんと坐り、背を椅子の背と同じようにながく堅くさせて、すり切れた黒い服を着た男がひとりいたからである。この男はすぐに、サムの特別な注意をひくことになった。
彼はしかつめらしい顔をした赤っ鼻の男で、顔はながくて痩せ、目はなかばがらがら[#「がらがら」に傍点]蛇といった感じ――そうとう鋭いものだったが、それがわるくなっているのははっきりとわかった。彼はとても短いズボンと黒の木綿の靴下をはいていたが、それは、彼のほかの服装と同様、とくに色がさめたものだった。彼の外見は、のりをはったように堅苦しかったが、白いネッカーチーフはそうではなく、そのながいグニャグニャした端は、隙なくボタンをつけたチョッキの上に、とても奇妙に、あまり美しくもないふうに、ダラリとさがっていた。一対の古いすりきれたビーバーの手袋、つばびろの帽子、上のところに取っ手がないのと釣り合いをとるように、底のほうで鯨骨がバラバラと突き出ている色のあせた傘が彼のわきの椅子に乗せてあり、とてもきちんと注意深くそれが片づけられてあったので、この赤っ鼻の男がだれであろうとも、彼がここを急いで立ち去ってゆく意志はもっていないことを示しているようだった。
この赤っ鼻の男についてありていのことを言えば、もし彼が立ち去ってゆく意志をもっているとしたら、彼はとても間ぬけな男と言えるだろう。どこかほかの場所で、ここ以上に快適になれると思ってもいいとしたら、その男はこのうえなくいい知人たちに恵まれているにちがいないからである。火はふいごで吹き立てられ、カッカと燃え、やかんはそうした影響のもとで陽気な歌声を立てていた。茶道具を入れた小さなお盆がテーブルの上にならべられ、一枚のバターをぬったパンが火の前でブツブツと静かに焼け、赤っ鼻の男自身が大きなパンのひと切れを、ながい真鍮のパン焼きフォークで、同じおいしい焼きパンにしようとせっせと精を出していた。彼のわきにはレモンの切れを入れた湯気を立てている熱いパイナップルの水割りラム酒のグラスがあり、焼け具合いはどうかと赤っ鼻の男が手を休めてパンの切れをながめるたびごとに、彼は熱いパイナップルの水割りラム酒をひとすすりかふたすすりし、火を吹いているそうとう太った婦人に微笑を投げていた。
サムはうっとりとしてこの快適な場景に見とれ、そうとう太った婦人の最初の質問には気がつかないでいた。その質問が、その度ごとに甲高くなって、二度くりかえされたときになってはじめて、彼は自分の不作法さに気がついた。
「おやじさんはいますかね?」質問にたいする答えとして、サムはたずねた。
「いいえ、いませんよ」ウェラー夫人は答えた。というのは、このそうとう太った婦人はほかならず、いまは亡きクラーク氏のかつての夫人で単独の遺言執行人となっている人物だったからである。「いいえ、いませんよ。帰ってくることもないでしょうよ」
「きょうは馬車でロンドンに出てるんですね?」サムはずねた。
「そうかもしれないし、そうじゃないかもしれないわ」赤っ鼻の男が焼き終わったパンの切れにバターをぬってやりながら、ウェラー夫人は答えた。「わからないのよ。そのうえ、わたし、気にしてないの。スティギンズさん、食前の祈りをしてちょうだい」
赤っ鼻の男は要求されたとおりにし、猛烈な食欲ぶりを発揮して、焼きパンを食べはじめた。
赤っ鼻の男の外見は、最初一見したときから、この男こそ彼の尊敬すべき父親が語っていた代理の羊飼いだろうとサムに思わせていたものだったが、この男が食べるのを見た瞬間、この問題に関するすべての疑念は解消した。そして自分が一時なりともここに泊まらせてもらおうと思っているのなら、即刻自分の足場を固めねばならぬことを、彼はさとった。そこで彼は酒場の上下二段に仕切られた扉の上に腕を乗せ、冷静にそのかんぬきをはずしてそれを開け、ゆっくりと中にはいりこむことで、それにとりかかった。
「義理の母さん」サムは言った、「ご機嫌いかがです?」
「まあ、この人、ウェラーの一家だというのはわかることよ!」たいして満悦といった感じを顔にあらわさないで、サムの顔に目をあげて、ウェラー夫人は言った。
「そうだと思いますね」落ち着き払ってサムは答えた。「そして、義理の母さん、わたしがあんたの亭主だったらよかったのにと思ってると言っても、ここにいる牧師さんは許してくれるでしょうね」
これは二連発のお世辞の言葉だった。それは、ウェラー夫人がじつに感じのいい女性であること、スティギンズ氏が牧師らしい外見をそなえていることを暗にほのめかしていたからである。それはすぐはっきりとわかる効果をひきおこし、サムはこれに乗じて、義理の母親にキスをした。
「バカな!」彼をおしのけて、ウェラー夫人は言った。
「若い人、みっともないことですぞ!」赤っ鼻の紳士は言った。
「気をわるくしないで、気をわるくしないでください」サムは答えた。「でも、あんたの言うとおりですよ。義理の母さんが若くて美しかったら、キスするなんて、まともなことじゃありませんからね、どうです?」
「それはすべて虚栄というもの」スティギンズ氏は言った。
「ああ、そうですよ」帽子をなおしながら、ウェラー夫人は言った。
サムもそうだとは思ったものの、だまっていた。
代理の羊飼いはサムの到着をたいしてよろこんでいるふうはなく、挨拶の最初の興奮が静まっていったとき、ウェラー夫人でさえ、彼がいなくても少しもどうということもないといったようすをあらわしていた。が、彼がここにやってきた以上、うまく追い出すこともできなくなって、三人はお茶にとりかかった。
「父さんはどんな具合いです?」サムはたずねた。
こうたずねられて、その問題は苦しいことなのでふれることもできないといったふうに、ウェラー夫人は両手をあげ、目を上に向けた。
スティギンズ氏はうめいた。
「この紳士はどうかしたんですか?」サムはたずねた。
「あんたの父さんのやり方に、あの方はびっくりしておいでなんだよ」ウェラー夫人は答えた。
「おお、そうなんですか?」サムは言った。
「そして、いかにももっともなことだと思うよ」重々しくウェラー夫人は言いそえた。
スティギンズ氏は新しく焼いたパン切れをとりあげ、ひどくうめいた。
「あの人は神さまに見すてられた罪の深いおそろしい人です」ウェラー夫人は言った。
「神罰を受けるべき人!」スティギンズ氏は叫んだ。彼は焼きパンを大きく半円形に噛み切り、またうめいた。
サムはスティギンズ牧師にうめきを立てさせるなにものかに一発食らわしたく強く思ったが、その気持ちを抑え、「おやじさん、なにをはじめたんです?」とただたずねただけだった。
「はじめたですって!」ウェラー夫人は言った。「あの人はかたくなな心の持ち主です。毎夜毎夜このりっぱな方は――スティギンズさん、顔をしかめないでください。あなたはりっぱな方[#「りっぱな方」に傍点]だと言おうとしてるんですからね――ここに来て、何時間もここに坐っていてくださるんだけど、あの人にはなんの効果もないのよ」
「うん、そいつは奇妙なこと」サムは言った。「もしわたしがおやじだったら、そいつはとても大きな効果をあげたでしょうがね。そいつはわかってます」
「事実は、若い友よ」いかめしくスティギンズ氏は言った、「彼は頑固な心の持ち主なのです。おお、若き友よ、われわれのこのうえなく公正な十六人の姉妹の訴えに抵抗し、西インド諸島の黒人の子供たちにフランネルのチョッキと道徳的なハンカチを与えようとするわれわれの気高い協会の勧告にさからえるのは、ほかにだれがいましょう?」
「道徳的なハンカチって、なんですね?」サムはたずねた。「そんな家具なんて、見たこともありませんがね」
「楽しみと教訓をかね合わせているものです、若き友よ」スティギンズ氏は答えた。「選りぬきのお話を木版画とまぜてね」
「おお、知ってますよ」サムは言った。「切れ地商人の店で、乞食の懇願とかそういったもののついた、そこにぶるさがってるやつなんでしょう?」
スティギンズ氏は焼きパンの三切れ目を食べはじめ、そうだ、とうなずいた。
「ご婦人方が説いても、彼にはだめなんでしょう、どうです?」サムはたずねた。
「ぶっ坐り、タバコをふかし、言ったんだよ、黒人の子供たちは――黒人の子供たちはなんだと言いましたっけね?」
「ちびのいかさま師」ひどく感動してスティギンズ氏は答えた。
「黒人の子供たちはちびのいかさま師と言ったんだよ」ウェラー夫人はくりかえした。そしてふたりは、老紳士ウェラー氏の兇悪行為にたいしてうめいた。
同じたぐいの兇悪行為がもっともっと暴露されるところだったが、焼きパンはぜんぶ平らげられ、茶はひどくうすくなり、サムは出てゆく徴候をぜんぜん示さなかったので、羊飼いにひどくさしせまった用があることをスティギンズ氏は急に思い出し、そこから出ていった。
茶道具が片づけられ、炉床の掃除がすむかすまないかに、ロンドンからの駅伝馬車が到着し、父親のウェラー氏が戸口にあらわれた。
「あれっ、サミー!」父親は叫んだ。
「やあ、父さん!」せがれは叫んだ。そしてふたりは心の底から握手をした。
「お前に会えて、とてもうれしいよ、サミー」父親のウェラー氏は言った、「お前の義理の母さんをどうまるめこんだのか、ぜんぜんわからんけどね。おれのたのみたいのは、その処方箋を伝授してくれということだけさ」
「しっ!」サムは言った、「母さんは家にいるんですよ、父さん」
「聞こえやしないよ」ウェラー氏は答えた。「茶が終わったら二時間は、下でがんがん文句を言うのが癖なんだからね。だから、おれたちはちょっと一杯やろうじゃないか、サミー」
こう言いながら、ウェラー氏は水割りの酒を二杯つくり、パイプをふたつとりだした。サムは炉の一方で背の高い椅子に、父親のウェラー氏は反対側の安楽椅子に、それぞれ向かい合って坐って、ふたりはそれぞれ然るべき重々しい態度で、酒を味わいはじめた。
「だれかここに来たかね、サミー?」ながい沈黙のあとで、素っ気なく父親のウェラー氏はたずねた。
サムは表情豊かに、来た、とうなずいた。
「赤っ鼻の男かね?」ウェラー氏はたずねた。
サムはふたたびうなずいた。
「あれは人好きのする男だ」タバコを激しくふかして、ウェラー氏は言った。
「そうらしいですな」サムは言った。
「勘定のうまいやつさ」ウェラー氏は言った。
「そうですか?」サムは答えた。
「月曜日には十八ペニー借り、火曜日には一シリング借りに来て、そいつを半クラウンにする。水曜日にはもう半クラウン借りにやってきて、それを五シリングにする。そして倍、倍と借りつづけて、すぐに五ポンド紙幣の金にしてしまうんだ。算数の本にある馬蹄の釘の計算のようにな、サミー」
サムはうなずいて、父親が言った問題はおぼえていると伝えた。
「だから、父さんはフランネルのチョッキには寄付をせんのですね?」タバコをふかし、少し間をおいたあとで、サムはたずねた。
「もちろん、寄付はせんとも」ウェラー氏は答えた。「海の外の黒人の子供たちに、フランネルのチョッキがどんな役に立つというんだい? だが、ありていのことをお前に教えてやろう、サミー」声をひそめ、炉越しにかがみこんで、ウェラー氏は言った。「国内の人の窮屈なチョッキのためなら、おれはうんと金を出すんだぜ」
これを言い終わったとき、彼はゆっくりと前の姿勢にかえり、意味深なふうに、自分の息子に目をパチパチとさせた。
「使い方を知らない人にハンカチを送るなんて、たしかに奇妙なこってすね」
「やつらはいつもそんないかさまをやってるんだよ、サミー」父親は答えた。「こないだの日曜日、おれは道を歩いてたんだがね、教会の戸口のとこで手に青いスープ皿をもって立ってたのが、ほかならぬお前の義母の母さんだったのさ! そんとき、サミー、その皿の中には、ぜんぶ半ペニーの小銭の銅貨で二ソヴリン(一ソヴリン(一ポンド)は二十シリング、一シリングは十二ペニー)はあったと思うね。それから人が出てきて、そこにペニー銅貨をバラバラ入れたんだから、どんな皿だってもちそうもない感じだったな。それがみんな、なんのためだと思う?」
「またお茶の会を開くためでしょうね、たぶん」サムは言った。
「とんでもない」父親は答えた。「羊飼いの水道料金のためなんだよ、サミー」
「羊飼いの水道料金ですって!」サムは叫んだ。
「そうなんだよ」ウェラー氏は答えた、「支払いが三期未払いなんだ。羊飼いはびた一文も払ってない、びた一文もな――たぶん、やつには水がたいして役に立つもんじゃないからなんだろう。やつがその飲み口から飲むなんてえことは、まずないこったからな、サミー、そうだとも、飲むんだったら、いくらだって方便はあるんだからな。だが、料金は払われず、断水されちまったというわけさ。あいつは教会にいき、自分が迫害を受けてる聖者だと言いふらし、断水した給水栓係りの心がやわらげられ、まともになればいい、だが自分はなにか不快なことに運命づけられてるんだろうと思う、なんてぬかしやがったんだ。そこで、女どもは会を開き、讃美歌を歌い、投票でお前の義理の母さんを座長に選び、つぎの日曜日に募金し、それをそっくり羊飼いにわたしちまったんだ。やつが水道会社から一生免除になるくらいの金をせしめたのは、確実なことさ」最後の結びの言葉として、ウェラー氏は言った。
ウェラー氏は数分間だまったままタバコをふかし、それから語りつづけた――
「こうした羊飼いどものいちばんいけないことは、この辺の若い女の頭をすっかりおかしくしちまうことさ。まったく、彼らはそれでいいと思いこみ、それ以上なんにも知らないでるんだ。だが、彼らはいかさまの犠牲者、サミュエル、いかさまの犠牲者なんだよ」
「そうだと思いますね」サムは言った。
「まったく、そのとおりさ」頭を重々しくふって、ウェラー氏は言った。「そして、いまいましいことに、サミュエル、そんなものは必要としてない銅色の肌をした人間のために服をつくろうと時間と労力をつぶし、それを必要としてるまともなキリスト教徒のことは、なんとも思ってないのさ、おれの思うとおりすることができたら、こうしたなまけ者の羊飼いどもは大きな手押し車のうしろにつけ、十四インチ幅の板材に一日じゅうゴロゴロころがしてやればいいんだ。そうすりゃ、やつらの阿呆さも頭からぬけるかもしれんからな」
ウェラー氏は力をこめ、さまざまにうなずいたり目をゆがめたりして、おぎないをしながら、このおだやかな対策を論じ、一息にグッとコップをほし、生まれながらの威厳ある態度でパイプの灰を払い落とした。
彼がこれをやっているとき、甲高い声が廊下に聞こえてきた。
「お前の親愛なる肉親が来たぞ、サミー」とウェラー氏は言い、ウェラー夫人があわただしく部屋にはいってきた。
「おお、あんた、帰ってきたの!」ウェラー夫人は言った。
「うん」パイプに新しくタバコをつめながら、ウェラー氏は答えた。
「スティギンズさんはもどってきたこと?」ウェラー夫人はたずねた。
「いいや、まだだよ」近くの火からとった真っ赤に焼けた石炭を火ばさみにつまんで、それをたくみに火皿のところにもっていって、パイプに火をつけながら、ウェラー氏は答えた。「そのうえ、あの男がもどって来なくたって、おれは平気だよ」
「まあ、浅ましい人!」ウェラー夫人は言った。
「ありがとよ」ウェラー氏は答えた。
「さあ、さあ、父さん」サムは言った、「よその人の前でそんなにうなるのはやめにしなさい。牧師さんがやって来ましたよ」
こう言われて、ウェラー夫人はいまむりやり流し出そうとしていた涙を急いでふきとり、ウェラー氏は、むっとして、椅子を炉隅に引いていった。
スティギンズ氏はちょっとすすめられただけで、熱いパイナップル入りの水割りラム酒を立てつづけに一杯、二杯、三杯と飲み、正式の食事の前の軽い夕食をさっさと食べた。彼は父親のウェラー氏と同じ側に坐り、妻に見つからずにできるときにはいつでも、ウェラー氏は、代理の羊飼いの頭上で拳をふって、自分の腹の中を息子に伝えていた。スティギンズ氏は静かに熱いパイナップル入り水割りラム酒を飲みつづけ、こうしたことにぜんぜん気づいていなかったので、それはますます彼の息子にまぎれもないよろこびと満足を与えたのだった。
会話の大部分はウェラー夫人とスティギンズ牧師のふたりにかぎられ、そこで論じられた主なことは、羊飼いの美徳、彼の部下の羊たちのりっぱさ、それ以外の人間の大罪とあやまちで、それは、父親ウェラー氏の語るウォーカーという名の紳士へのなかば圧しつぶされた言及、同じたぐいの連続した批評によってときどきさまたげられていた。
とうとう、スティギンズ氏はパイナップル入りの水割りラム酒を腹いっぱい飲んだというまぎれもないいくつかの徴候を示し、帽子をとって、立ち去っていった。そして、サムはそのすぐあと、父親によって寝室に案内された。尊敬すべき老紳士は熱烈にサムの手をにぎり、彼になにか言いたげなようすだったが、ウェラー夫人が彼のところに近づいてきたので、彼はその意図をすてたらしく、いきなり息子にお寝みの言葉をかけた。
サムは翌日早く起き、あわただしくしつらえられた朝食をちょっととり、ロンドンにもどろうとしていた。彼が家の外に一歩踏み出すと、父親が彼の前に立っていた。
「ゆくのかね、サミー?」ウェラー氏はたずねた。
「すぐ出発します」サムは答えた。
「お前があのスティギンズというやつを絞め殺し、お前といっしょにつれてってくれたらと思うよ」ウェラー氏は言った。
「父さんのことが恥ずかしくなっちまいますよ!」サムはなじるようにして言った。「どうしてあんな赤っ鼻を『グランビー侯爵旅館』に入れるんです?」
父親のウェラー氏はジッと息子をにらみ、答えた、「それはおれが結婚した男だからだよ、サミュエル、結婚した男だからだよ。お前が結婚したら、サミュエル、いまお前にはわからんことが、たくさんわかるようになるよ。アルファベットの終わりまでやったとき、慈善学校の生徒が言ったように、そんなわずかなことを知るためにそんなに骨を折る必要があるかどうかは、好みの問題だがね。おれとしては[#「おれとしては」に傍点]、そんなに骨を折る必要はないと思ってるがね」
「では」サムは言った、「さようなら」
「バイ、バイ、サミー」父親は答えた。
「このことだけは言っておかなけりゃなりませんがね」途中で足をとめて、サムは言った、「もしわたしが『グランビー侯爵旅館』の持ち主で、あのスティギンズがやってきて、わたしの[#「わたしの」に傍点]酒場で焼きパンなんぞ食べたら、わたしは――」
「どうするね」いかにも熱心に、ウェラー氏は口をはさんだ。「どうするね?」
「――やつの水割りラム酒に毒を入れてやりますよ」
「まさか!」息子の手をむきになってふりながら、ウェラー氏は言った、「だが、お前は本当にやる気かね? どうだい?」
「いや、やりますとも」サムは言った。「最初はあんまりつらく当たりませんよ。まずやつを天水おけにたたきこみ、そいつにふたをしちまうでしょうね。やつにその親切がわからなかったら、ほかの説得法をやってみますがね」
父親のウェラー氏はそのせがれに深い、得も言えぬ感嘆の情を示し、もう一度せがれの手をにぎってから、彼の忠告がひきおこしたさまざまな考えを心であれこれ思いながら、ゆっくりと歩き去っていった。
サムは、彼が道のまがり角をまがるまで、そのうしろ姿を見送り、それからロンドンに向けて歩きだした。彼は、最初、自分の忠告がひきおこし得る結果、父親がそれを実行するかどうかについて考えていたが、その結果を示してくれるのは時だけだというありがたい考えで、その問題を心から追い払ってしまった。読者も同じ考えをもっていただきたいものである。
[#改ページ]
第二十八章
[#3字下げ]結婚の話とほかのスポーツをふくむ陽気なクリスマスの章。結婚といったりっぱな習慣でさえ、当今のなげかわしい時代には、それなりに宗教的にきちんと守られてはいないのだが……
妖精のように軽々とまではゆかずとも、蜂のように元気よくキビキビと、四人のピクウィック・クラブ会員たちは、忠実に記録された彼らの冒険がおこなわれて達成された年の十二月二十四日の朝に集合した。クリスマスはたしかに、陽気に率直に、目前にせまっていた。それは、客を招き、陽気にさわぎ、率直に遊ぶ季節だった。古い一年は、齢老いた哲学者のように、自分のまわりに友人たちを呼び集め、食べるやら飲むやらの酒宴の音につつまれて、おだやかに静かに去ろうとしていた。時は陽気で明るく、クリスマスが来たことをよろこんでいる数多くの人の心のうち少なくとも四人の心は、陽気で明るくなっていた。
そして、じっさい、クリスマスによって幸福とよろこびの短い季節がもたらされる心の数は、少なからずあるといってよい。生活のあわただしい営みで一族が遠くはなればなれに散ってしまったどれだけ多くの家族が、清らかなまじり気ないよろこびの源であり、この世のわずらいと悲しみとは相容れないあの幸福で親密な交わりと好意につつまれて、クリスマスにより集まり、再会のよろこびを味わうことだろう。その結果、もっとも文明化された国々の宗教的信仰も、あらあらしい野蛮人の粗野な伝統も、ともども、クリスマスを、祝福された幸福な人々に与えられる来世の最初のよろこびのひとつに数えているのである。なんと多くの古い思い出、なんと多くの眠っていた共感を、クリスマスの季節は呼びさますことだろう!
来る年も来る年もわれわれが陽気な楽しい一団となってその日につどい集まった場所から遠くはなれて、わたしはいまこうした言葉を書いている。その当時陽気に脈打っていた多くの心は、もうその鼓動を打ちやめている。その当時明るく輝いていた多くのおもざしは、いまはもう輝いてはいない。われわれがつかんだ手は冷えきり、われわれが求めた目は、そのつややかさを墓の中にかくしている。しかし、古い家、部屋、陽気な声、ほほ笑みを浮かべた顔、冗談、笑い、あの幸福な会合と結びつけられたじつにつまらぬ些細なことは、まるで最後の集まりがきのうあったように、この季節がめぐって来るごとに、われわれの心に群らがり起こってくるのだ! 子供時代の幻想にわれわれを引きもどし、老人には青春のよろこびを思い出させ、何千マイルもはなれた水夫や旅人の心を自分自身の炉辺と静かな家庭につれもどす幸福な、幸福なクリスマス!
しかし、聖なるクリスマスの美点に心を奪われ、関心を払いすぎて、われわれはピクウィック氏と彼の友人たちをマグルトンゆきの駅伝馬車の外に待たせることになってしまった。彼らは外套、ショール、ながい毛糸の襟巻きに身をつつんで、たったいま、そこに着いたのである。旅行カバンとじゅうたん地でつくったカバンはもう馬車におさめられ、ウェラー氏と車掌は前の荷物入れにとても大きすぎるたら[#「たら」に傍点]の包みを入れようとしていたが――それは、上にわらを敷いてながい褐色の籠につめられ、土産を入れた六つのたるの上に安全におさめるため、最後にのこされていたものだった。こうしたものはぜんぶピクウィック氏の所有物で、たるは、荷物入れの底にきちんとならべられてあった。ウェラー氏と車掌がたら[#「たら」に傍点]の籠を荷物入れに入れようと、最初は頭を先にし、ついで尻尾を先にし、それから頭を上にし、尾を上にし、横向きに、縦向きに、いろいろと手をつくしてそれをおさめようとしたとき、ピクウィック氏は、いかにもおもしろそうな顔をして、それをながめていた。始末におえぬたら[#「たら」に傍点]は、こうした工夫すべてに頑固に抵抗し、とうとう車掌が偶然に籠の真ん中どころでたら[#「たら」に傍点]の腹を打つと、それはさっと荷物入れの中に姿をかくし、それと同時に車掌の頭と肩ももんどりうって中にめりこんでしまった。この車掌はたら[#「たら」に傍点]の受動的な抵抗がこう急にやむものとは夢々思っていなかったので、思いがけぬショックを受けることになり、運搬人やわきにいる人たちはわっわと楽しむことになった。これを見て、ピクウィック氏はいかにも上機嫌にニヤリとし、チョッキのポケットから一シリングをとりだして、車掌が荷物入れから体を引きだしたとき、熱い水割りブランデーを一杯飲んで自分の健康を祝ってくれと言い、こう言われて、車掌もニヤリとし、スノッドグラース氏、ウィンクル氏、タップマン氏もいっしょになってニヤリとした。車掌とウェラー氏は五分間姿を消していたが、これは、おそらく彼らが熱い水割りブランデーを飲みにいっていたためだったのだろう。ふたりがもどってきたとき、そのにおいがプンプンしていたからである。御者は御者台に登り、ウェラー氏はうしろにとび乗り、ピクウィック・クラブ会員たちは外套を脚のまわりに、ショールを鼻の上に巻きつけ、助手は馬衣をはぎとり、御者は陽気な「よーし」を叫んで、馬車は出発した。
車は街路をガラガラッと音を立てて進み、石の上でガタガタとゆれ、とうとう、ひろびろと開けたいなかに出ていった。車輪は霜で堅く凍りついた大地の上をすいすいとんでゆき、馬は鞭でピシリとひと打ちされて、急にかけ足になり、その背後の荷物、馬車、乗客、たら[#「たら」に傍点]、かき[#「かき」に傍点]のたるやすべてのものが自分たちの踵につけた軽い羽毛のように、道路ぞいにとっとと進んでいった。馬車はなだらかな傾斜をくだり、平坦な道に出ていったが、それは二マイルつづく大理石の堅いかたまりのように目の詰んだ、乾きあがったものだった。もうひと打ち鞭がビシリと鳴ると、馬は速いギャロップにうつり、まるで動きの速さをよろこんでいるように、頭をグイッとあげ、馬具をガタガタひびかせ、御者は片手に鞭と手綱をにぎり、のこる手で帽子をぬいで、それを膝に乗せ、ハンカチを引きだして、額をぬぐっていた。これは、ひとつには彼にそうした癖があるためだったが、またひとつには、自分がどんなに冷静か、自分ほどの経験を積めば、四頭立ての馬車を走らすことがどんなに容易かを乗客に示すのも結構なことだったからである。これをゆっくりとすませて(そうしなければ効果はひどく損ねられたことだろう)、御者はハンカチをしまいこみ、帽子をかぶり、手袋を調節し、肘をはり、またひと鞭加え、馬車は前よりもっと陽気にとんでいった。
道のかたわらにまき散らされていたわずかな家は、どこかの町や村へはいったことを物語り、車掌の吹き鳴らす元気のいい有鍵らっぱ(六つの鍵があって、半音階が奏される古い楽器)は澄んだ寒空にひびきわたり、馬車の中の老紳士の目をさまさした。彼は中途まで窓障子を注意深くおろし、歩哨役をつとめてちょっと外を見わたし、ついで注意深くまた窓障子をあげて、奥にいる乗客に馬の交換がすぐおこなわれるのを知らせ、すると知らされた乗客は目をさまし、馬の交換がすむまで、うたた寝をのばすことになった。ふたたび角笛がたくましく鳴りわたり、小屋にいる妻と子供たちをかり立て、彼らは戸口から外をのぞいて、道の角をまがるまで馬車を見送り、その後ふたたび燃える火のまわりに集まり、父親が家に帰ってくるのにそなえて、薪を一本投げこんだ。一方、その父親自身は、そこから一マイルはたっぷりはなれたところで、御者と友好的なうなずきをかわし、馬車がとんでいったとき、ふり向き、それをジッとながく見送っていた。
さて、馬車が舗装のわるいいなかの町の街路をガタガタととおっていったとき、勢いのいい角笛の楽がかなでられ、御者は手綱をまとめて抑えている金具をはずし、馬車がとまるとすぐ、それを投げ出そうと身構えていた。ピクウィック氏は外套の襟のところから顔を出し、いかにも物珍しそうにあたりをキョロキョロ見まわし、御者はこれに気づいて、町の名を彼に伝え、きのうはここで|市《いち》の立つ日だったことを教え、そうしたふたつの情報を彼は仲間の乗客にさらに伝え、そこで彼らも外套の襟から顔を出し、外をのぞくことになった。馬車がチーズ屋(バターや卵を売る)の店のそばで急角度の街角をまがり、市が開かれる町の広場にはいっていったとき、片脚を宙にダラリとさげて座席の端に坐っていたウィンクル氏は、あやうく街路に放り出されそうになり、彼のとなりに坐っていたスノッドグラース氏が驚きからまだ正気にかえらぬうちに、新しい馬が馬衣をつけたままでもう待っている旅館の内庭にピタリととまった。御者は手綱を投げ出し、馬車からおり、ほかの外の乗客たちも、またそこに登ってゆけるという自信をもっていない者はべつにして、下におり、おりた場所からは動かずに、足を温めようと馬車を蹴り――うらめしそうな目をし、鼻を赤くさせて、宿屋の酒場にかっかと燃えている火、そこの窓を飾っている赤い実のついたひいらぎ[#「ひいらぎ」に傍点]の枝をながめていた。
だが、車掌は革のひもで肩にかけられていた小さな袋からとりだした褐色の紙の小荷物を穀物屋の店にわたし、馬が馬車につけられたのも見とどけ、馬車の屋根の上に乗せてロンドンから運んできた鞍を舗道の上にもう投げだし、この前の火曜日に右の前脚をいためた灰色の雌馬に関する御者と馬丁の打ち合わせへの助言も終わって、ウェラー氏といっしょにうしろで準備完了、御者も前で準備完了、このあいだ中ずっと窓を二インチはおろしたままでいた老紳士はふたたびそれをあげ、馬衣ははぎとられ、「ふたりの太った紳士」以外には、全員出発準備が完了、御者は、このふたりのことを、ちょっといらいらして、たずねていた。そこで、御者、車掌、サム・ウェラー、ウィンクル氏、スノッドグラース氏、その他数ではそうした人たちをぜんぶ合わせたよりもっといたブラブラしている人たち全員が、わめき得るかぎりの大声をはりあげて、この行方不明になったふたりの紳士を呼び求めた。遠く旅館の内庭から返事が聞こえ、ピクウィック氏とタップマン氏が息せき切って突っ走ってきた。ふたりはそれぞれ一杯ずつビールを飲んでいたのだったが、ピクウィック氏の指がひどくこごえていて、その代価の六ペンスを見つけるのに五分はたっぷりかかってしまったからである。御者は「さあ、みなさん、出発ですぞ!」という警告の叫びをあげ、車掌がそれに呼応した。内にいる老紳士は、時間がないのを知っているのに馬車からおりるなんて、じつに途方もないことだと考え、ピクウィック氏は片側から、タップマン氏は反対側から車によじのぼり、ウィンクル氏は「よーし」と叫んで、馬車は出発した。ショールは引きあげられ、外套の襟はふたたび調整され、舗道は姿を消し、家も見えなくなり、新鮮な澄んだ大気が乗客の顔に吹きつけてその心をうきうきとさせ、馬車はふたたび開けた道路ぞいにふっとんでいった。
ディングリー・デルにゆく道中、マグルトン駅伝馬車によるピクウィック氏と彼の友人たちの旅行の進行状態はこうしたものだった。そして、道中ビールとブランデーを十分に飲んで、大地を鉄の鎖でしめあげ、その美しい網細工を木や生垣の上に織りなしていた霜を物ともせずに、その日の午後三時には、彼らは全員元気で無事に『青獅子旅館』の入口の階段の上に立っていた。ピクウィック氏はせっせとかき[#「かき」に傍点]のたるを勘定し、たら[#「たら」に傍点]を引きだすのを管理していたが、そのとき、彼は上衣の裾をそっと引かれているように感じた。ふりかえって見ると、こうして彼の注意を引いていた者は、ほかならぬウォードル氏のお気に入りの召使い、このありのままの物語の読者には太った少年というりっぱな名称でもっとよく知られているあの人物であることがわかった。
「あはあ!」ピクウィック氏は言った。
「あはあ!」太った少年は言った。
こう言いながら、彼はたら[#「たら」に傍点]からかき[#「かき」に傍点]のたるにチラリと視線をやり、うれしそうにクスクスッと笑った。
「うん、きみはとても薔薇色になっているね」ピクウィック氏は言った。
「酒場の火の真正面のとこで眠ってたんです」と太った少年は答えたが、彼は、一時間のうたた寝のうちに、熱で自分の体を煙突の上につけた新しい通風管の色に染めあげていた。「あなたのお荷物を運ぶために、旦那さまは二輪軽装馬車でわたしをここにおよこしになりました。乗馬馬を出そうとなさったんですが、きょうは寒いんで、きっとあなたはお歩きになるだろうと考えたんです」
「そうだ、そうだ」急いでピクウィック氏は言った。この前のときほとんど同じ道を彼らがどんなふうに進んだかを、彼は思い出したからである。「そうだ、われわれは歩いたほうがいいんだよ。おおい、サム!」
「はい」ウェラー氏は答えた。
「ウォードルさんの召使いに手を貸して、荷物を馬車に入れ、それから彼といっしょに馬車に乗ってくれ、われわれはすぐ歩いて出発するからね」
この指示を与え、御者との話をすませて、ピクウィック氏と三人の友人は畠を横切っている小道にはいり、元気に歩み去り、ウェラー氏と太った少年は、ここではじめて向かい合ってのこることになった。サムはひどくびっくりして太った少年をながめていたが、なにも言わず、さっさと荷物を馬車に積みはじめ、太った少年は静かにそばに立ち、ウェラー氏がひとりで働いているのをながめていることに、ひどく興味をそそられているふうだった。
「さあ」最後にじゅうたんでつくった旅行カバンを投げ入れて、サムは言った、「さあ、すんだよ!」
「そうですな」いかにも満足げな口調で、太った少年は言った、「すみましたね」
「うん、若い二十ストーン君(ストーンは十四ポンドで、とくに人の体重をあらわすに用いる)」サムは言った、「きみは懸賞の拳闘選手に打ってつけだな、まったく!」
「ありがとう」太った少年は言った。
「きみには心配になるようなものは、なにもないんだろう、どうだい?」サムはたずねた。
「まあ、まずありませんな」太った少年は答えた。
「きみを見ると、だれか若い女へのあわび[#「あわび」に傍点]の片思いで苦しんでる人と思うところだね」サムは言った。
太った少年は頭をふった。
「うん」サムは言った、「それを聞いてうれしいね。なにか飲むかい?」
「食べるほうが好きですよ」少年は答えた。
「ああ」サムは言った、「そう考えるべきだったんだな。だが、おれの言ってるのは、体を温めてくれるなにかをちょっぴり欲しくはないかということさ。だが、弾力的な付着物がそんなにうんとあったら、寒いことはぜんぜんないんだろうな、どうだい?」
「ときにはね」少年は答えた。「それにうまいやつだったら、なにかをチョッピリ好きですよ」
「おお、好きなのかい、えっ?」サムは言った、「そんなら、こっちへ来いよ!」
彼らはすぐに『青獅子旅館』の酒場にゆき、太った少年は目をパチリともさせずに酒を一杯グイッと飲んでしまったが、これは彼にたいするウェラー氏の好意を大いに高める放れ業となった。ウェラー氏は同じことを自分でもやってのけて、ふたりは馬車に乗りこんだ。
「馬車を動かせますかね?」太った少年はたずねた。
「まあ、できると思うね」サムは答えた。
「そんなら、ほれ」手綱を彼の手にわたし、小道をさして、太った少年は言った、「道はこのうえなくまっすぐなんですよ、迷いっこはありませんからね」
こう言って、太った少年はやさしくたら[#「たら」に傍点]のわきに体を横たえ、枕としてかき[#「かき」に傍点]のたるを頭の下において、その場でぐっすりと寝こんでしまった。
「うん」サムは言った、「いままで冷静な男をたくさん見てきたが、この若い紳士ほど冷静なやつはまだ見たこともないぞ。さあ、目をさますんだ、この若い|水腫《みずぶく》れ君!」
だが、若い水腫れは一向に意識をとりもどす兆候を示さなかったので、サム・ウェラーは車の前に坐り、手綱をグイッと引っぱって老馬を出発させ、ファーム|館《やかた》に向かって体をゆられながらどんどんと進んでいった。
一方、ピクウィック氏と友人たちは歩いて血のめぐりがよくなり、陽気に歩みつづけていた。小道は固くなり、草は霜でカリカリ、空気は気持ちのいい、乾燥した、さわやかな寒気をたたえていた。灰色の夕闇(霜の強い天気では、黒ずんだねずみ[#「ねずみ」に傍点]色と言ったほうがいいだろう)がどんどんとせまってきたことは、客もてなしのいいウォードル氏の家で彼らを待っている楽しみにたいする快い期待の情をつのらせていった。その日の午後は、わびしい畠に立つふたりの初老の紳士に外套をぬがせ、心軽く陽気に馬とびをさせそうな日で、タップマン氏がそのとき「馬」になったら、ピクウィック氏は大よろこびでその提案を受け入れたことだろう。
しかし、タップマン氏はそんな申し出はせず、友人たちは陽気に話をしながら進んでいった。彼らが横切らなければならない小道にはいっていったとき、たくさんの人の声が急に耳にひびいてきた。それがだれの声か見当もつかぬうちに、彼らの到着を待ち受けている人たちのどまんなかにピクウィック氏たちはもう歩みこんでいた――これは、彼らの姿が目に見えたとき、老ウォードル氏の口からついて出た大声の「万歳」でピクウィック・クラブ会員たちに第一に知らされた事実だった。
まず第一に、そんなことが可能とすれば、前にもましてうれしそうなようすのウォードル氏自身がいた。ついで、ベラと忠実な彼女のトランドル氏、最後にエミリーと八人か十人の若い女性たちがいたが、この女性たちは明日おこなわれる結婚のためにやってきて、こうした重大な場合に若いご婦人がいつもそうであるように、いかにも幸福そう、いかにももったいぶったふうをし、彼らのふざけと笑いで、はるか遠くまで、野原と小道をざわめかせていた。
こうした事情のもとで、紹介の儀式はすぐすんでしまった。あるいは、なんの儀式もなく紹介はすぐに終わったと、むしろ言うべきだろう。その後すぐ、ピクウィック氏は、彼が見ているあいだは畠のあいだの階段(牧場などの垣やへいを乗り越えられるように設けられた階段)を越えたくはないと言っていた若い女性たち――あるいは、美しい足と文句のつけようのない足首をもっていたので、こわくて動けないと言って、五分かそこいらへいの上に立っているのをむしろ望んでいた女性たちと、生まれて以来彼らを知っているといった気楽さ、遠慮や窮屈さなしで、冗談をとばしていた。スノッドグラース氏がその階段の恐ろしさ(それはまるまる三フィートの高さがあり、階段はふたつしかなかったが)が必要とするよりはるかにもっと大きな援助をエミリーに与えていたのは、注目に値する事実だった。一方、上のところに毛皮をつけたかわいいとてもきれいな靴をはいた黒目の若い婦人はとても大声で悲鳴をあげ、ウィンクル氏がそれに手を貸して、そこを越えられるようにと手伝っていた。
こうしたことすべては、とても気持ちよく、快適なことだった。そして階段の困難がとうとう克服され、一同がふたたび開けた原に出ていったとき、クリスマスの休みのあとで若い夫婦が借りることになっている家の家具と装置を見るために、みんながこうして一団になって出かけてきたいきさつを老ウォードル氏がピクウィック氏に話したとき、ベラとトランドル氏は、酒場の火にあたっていたあとの太った少年のように、真っ赤に顔を染めていた。まわりに毛皮をつけた靴をはいた黒い目の若い婦人は、エミリーの耳になにかささやき、いたずらっぽくチラリとスノッドグラース氏をながめ、それにたいして、エミリーは、あなたはバカよ、と答えはしたものの、顔を真っ赤にし、偉大な天才がいつもそうであるように、遠慮深いスノッドグラース氏は、赤味が頭の天辺にグッと登ってくるのを感じ、心の奥底で、黒い目をした、いたずらっぽい、靴に毛皮をつけた前記の若い女性を近くの州に無事スッとうつせたらよいのだが、とひそかに考えていた。
だが、家の外で彼らが社交的でうれしそうだったとしたら、館に着いたときの彼らの歓迎ぶりの熱烈さ、傾倒ぶりはなんと言ったらよいだろう! 召使いたちでさえ、ピクウィック氏の姿を見ると、よろこびでニヤリと笑い、エマはなかばとりすました、なかば厚かましい、じつにきちんとした会釈をタップマン氏に与えたが、それは廊下にあるボナパルトの像に両腕を開かせ、彼女をしっかりとだかせるくらいのみごとな態度だった。
老夫人は前の客間のいつもの場所に坐っていたが、ご機嫌はそうとう斜め、したがって、耳はじつに遠くなっていた。彼女は自分自身出迎えることはせず、同類のほかの老夫人たちがそうであるように、だれかほかの人が自分のできないことを勝手にやると、それを家庭の叛逆行為と考えたがっていた。そこで、かわいそうに、彼女は肘かけ椅子にシャンとして坐り、できるだけすごい顔つきをしていたが――それは、結局、やさしいものになっていった。
「お母さん」ウォードル氏は言った、「ピクウィックさんですよ。憶えておいででしょう?」
「心配しなくていいよ」いともいかめしく老夫人は答えた。「わたしのようなお婆さんのことでピクウィックさんにご心配かけることはないよ。わたしのことなんぞ、もう、だれもかまわず、そうなるのも当然でしかないのだからね」ここで老夫人は頭をツンとそらし、ふるえる手でラベンダー色の絹の服のしわをのばした。
「さあ、さあ、奥さん」ピクウィック氏は言った、「なじみの友人をそんなふうに素っ気なくあつかわせはしませんよ。わたしがやってきたのは、たしかに、あなたとなが話をし、トランプ遊びをするため。二日とたたないうちに、ここにいる少年少女たちにミニュエット(十七世紀ごろフランスに起こった三拍子の優雅な舞踏)をどう踊るかを教えてやりましょう」
老夫人の気持ちはズンズンとやわらいでいたが、彼女はすぐにそれを外に示したくはなく、そこで彼女は「ああ! あの人の言うことは聞こえないよ!」と言っただけだった。
「バカな、お母さん」ウォードル氏は言った。「さあ、さあ、おねがいですから、不機嫌はやめにしてください。ベラのことを考えてください。さあ、かわいそうに、あの|娘《こ》の気を沈めてはいけないんですよ」
老夫人の耳にこのことは聞こえた。彼女の息子がこれを言ったとき、彼女の唇はふるえていたからである。だが、老人の気質にはなかなか気むずかしいところがあるもので、彼女はすぐに機嫌をなおすようなことはしなかった。そこで、彼女はラベンダー色の服のしわをまたのばし、ピクウィック氏のほうに向いて、「ああ、ピクウィックさん、わたしが娘のころには、若い人もずいぶんちがってましたよ」と言った。
「そうですとも、奥さん」ピクウィック氏は言った、「だからこそ、古い伝統を多少なりとももっている人を、わたしは大いに尊重しているのです」――こう言いながら、ピクウィック氏はやさしくベラを自分のところに引きよせ、その額にキスをして、彼女のお婆さんのわきの小さな椅子に彼女を坐らせた。ベラの顔が老夫人の顔のほうにあげられたとき、その顔の表情がむかしの思いを呼び起こしたのか、老夫人がピクウィック氏のやさしい思いやりに打たれたのか、その原因はともあれ、彼女の気持ちはかなりなごんでいった。そこで老夫人は孫の首に身を投げかけ、静かに涙にむせんでいるあいだに、彼女にのこっていたわずかの不機嫌は蒸発してしまった。
その夜、一同は幸福な気分にひたっていた。ピクウィック氏と老夫人が組になってやった二十回のトランプの三番勝負は落ち着いた厳粛なもの、円卓のまわりの遊びはわっわとさわがしいものだった。ご婦人方が引きさがってからながいこと、ブランデーと香料でうまい味つけをした古い熱いぶどう酒が何回となく客のあいだにグルグルとまわされ、眠りは完全、それにつづいた夢は楽しいものだった。スノッドグラース氏の夢はたえずエミリー・ウォードルにつながるもの、ウィンクル氏の幻想の中の中心人物は、黒い目をし、いたずらっぽい微笑を浮かべ、上のところに毛皮をつけたとてもきれいな靴をはいた若い婦人だったことは、注目すべき事実だった。
ピクウィック氏は、朝早く、太った少年をもその深い眠りからさましそうな人声とあわただしいパタパタする足音で目をさまされた。彼は寝台に坐り、耳を澄ませた。女の召使いと女の訪問客はたえずあちらこちらに走りまわり、湯を何回か要求し、叫び声をあげて何度も針と糸を求め、「おお、いい子だから、ここに来て、結んでちょうだい!」と何回もなかば圧し殺した懇願がくりかえされたので、なにも知らないピクウィック氏は、なにかおそろしいことが起こったにちがいないと考えていたが、目がさめてくるにつれ、きょうの婚礼のことが思い出されてきた。これは重要な行事だったので、彼は特別注意を払って服を着こみ、朝食の部屋におりていった。
帽子に蝶形リボンをつけ、ピンクのモスリンのガウンの真新しい制服を着こんだ女中たちが、得も言えぬ興奮とワクワクした気分になって、家の中を右往左往していた。老夫人は錦織りのガウンを着ていたが、この服は、それがしまわれていた箱の割れ目をとおして忍びこんだ光はべつにして、この二十年間陽の目を見ていないものだった。トランドル氏はすごく元気だったが、少し神経をたかぶらせていた。陽気な老地主のウォードル氏は明るい無関心ぶりをよそおおうとしていたが、目的はたいして達せられないでいた。娘たちはすべて、花婿と花嫁に二階で個人的な面会を許されていた選ばれた二、三の者はのぞいて、涙に暮れ、白モスリンを着ていた。ピクウィック・クラブ会員たちはみんな、そろってみごとなよそおいをこらし、家の前の草原ではすごい喊声がわきおこっていた。これはこの農場付属の男・少年・青年たち全員によって起こされたもので、それぞれ上衣のボタンの穴に蝶形リボンをさし、声をかぎりに大声をはりあげていた。これはサミュエル・ウェラー氏の音頭とお手本によってそうなったもの、彼らはそれで興奮していた。彼はもうみなの中ですごい人気者になり、まるでこの土地で生まれたように、すっかりくつろいでいた。
結婚は冗談をとばすのが天下ご免の行事であるが、そのもの自体は、結局、たいした冗談ごとではない――われわれはその儀式についてだけ語るのであり、結婚生活について、胸の中にたたみこんでいる皮肉にふけっているのではないことを、はっきりと理解していただきたいものと思っている。結婚のよろこびと楽しみにまじって、家を去る嘆き、親と子の別れの涙、人生のもっとも幸福な期間中に結んだ親しい親切な友と離別して、まだそれとわからぬ未知のほかの人たちとともに人生の憂いと悩みに向かってゆくといった不安があるが、これは自然の感情、それを描いてこの章を悲しいものにしたくはなく、それにもまして、それを嘲笑しているものとは思われたくないのも自然の感情と言うことができよう。
だから、この儀式はディングリー・デルの教区の教会で老牧師によってとりおこなわれ、そこの聖具室(祭服のほか聖餐用器物が蔵され、また登録などの教区事務がとりおこなわれる)にまだ保存されている記録にピクウィック氏の名が載せられ、黒い目をした若い女性はひどく不安定なふるえる筆跡で彼女の名を署名し、エミリーの署名は、ほかの花嫁と同じように、ほとんど読みとれるものではなく、儀式はりっぱに進行し、若いご婦人方はそれを思ったよりびっくりすることではないと考え、黒い目といたずらっぼい微笑の持ち主は、こんなおそろしいことは自分にはどうしてもできない、とウィンクル氏に語りはしたものの、彼女が勘ちがいをしていると考えるべき筋はこちらには十分あることだけを、簡単に申し述べておこう。こうしたすべてのことに、ピクウィック氏が花嫁に挨拶した最初の人であり、それをしながら、宝石商の目以外にはそのときまでふれられていなかった豪華な金時計と鎖を彼女の首越しに彼が投げかけたことを、つけ加えてもよいであろう。それから古い教会の鐘の音がこのうえなく陽気に鳴りわたり、一同はそろって朝食にもどってきた。
「ひき肉入りのパイはどこにいったんだい、若い阿片吸飲者君?」前の晩にきちんとならべられていなかった食べ物をおくのに手伝いをしていたウェラー氏はたずねた。
太った少年はパイのありかを指で示した。
「よくわかった」サムは言った、「そこにひいらぎ[#「ひいらぎ」に傍点]とやどり木の枝をつけるんだ。テーブルの向こう側の料理だよ。それだ。子供のやぶにらみをなおしてやろうと、子供の頭をちょん切ったとき、おやじが言ったように、それできちんと気持ちよくなったよ」
ウェラー氏がこのたとえを言ったとき、彼は一、二歩さがって、その言葉に効果をそえ、準備した品々をいかにも満足げにながめまわしていた。
「ウォードル」一同が座席につくとすぐ、ピクウィック氏は言った、「この晴れの儀式を祝って、ぶどう酒を一杯乾杯しよう」
「よろこんで。おい」ウォードル氏は言った。「ジョー――くそっ、あの坊主ときたら、もう眠ってしまったぞ」
「いいや、眠ってはいませんよ」遠くの隅からとびだして、太った少年は答えたが、その隅で、太った少年たちの守護神である不滅の角笛吹き(童謡の主人公のジャック)のように、彼はクリスマス・パイをムシャムシャやっていたのだった、この若い紳士の常日頃の特徴になっている冷静と慎重さはなかったにしても……。
「ピクウィックさんの杯に酒をお注ぎしろ」
「はい」
太った少年はピクウィック氏の杯に酒を満たし、主人の椅子の背後に引きさがっていったが、そこから彼は、じつに印象的な一種の陰気で暗いよろこばしそうなようすで、ナイフとフォークの動き、おいしい料理が皿からそれぞれの人の口に運ばれてゆくのをジッと見守っていた。
「きみ、神の祝福がきみに授かりますように!」ピクウィック氏は言った。
「同じことがきみにもね!」ウォードル氏は答え、ふたりは陽気に乾杯し合った。
「ウォードル老夫人」ピクウィック氏は言った、「われわれ老人は、このよろこばしい行事を祝って、ぶどう酒を一杯いっしょに飲まねばなりませんな」
老夫人は、ちょうどこのとき、じつに堂々としたふうを示していた。彼女は錦織りのガウンを着こみ、片側に新しく結婚した孫娘、反対側にピクウィック氏を坐らせ、テーブルの肉を切りわけようと、上座に坐っていたからである。ピクウィック氏はとても大声でしゃべったわけではなかったが、彼女はすぐに彼の言ったことを理解し、彼の長寿と幸福を祈ってぶどう酒の杯をほし、それがすむと、自分自身の結婚の細かな話にうつり、ハイヒールの靴をはく流行について論じ、いまは亡き美しいトリムグラウア夫人の生涯と冒険についてのいくつか細かな話をし、そうした話すべてに老夫人自身がとても陽気に笑い、一方若い婦人たちもそれに調子を合わせていた。彼らはお婆さんがなにを話しているのだろうと、仲間のあいだでふしぎに思っていたからである。彼らが笑うと、老夫人は十倍も陽気に笑い、こうした話はいつもすばらしい話と考えられていたと語り、それが若い婦人たちをまた笑わせ、老夫人を最高のご機嫌に盛りあげていった。それから菓子が切られ、テーブルのまわりの人たちにわたされ、若い婦人たちは、それを枕の下に入れて将来の夫のことの夢をみようと、その一部をしまい、そのことで、顔を赤らめたり冗談をとばす種がいろいろととびだしてきた。
「ミラーさん」ピクウィック氏はがんこな紳士の知人に言った、「ぶどう酒を一杯いかがです?」
「大よろこびで」がんこな紳士はいかめしく言った。
「わたしも仲間にしてくださいますか?」やさしい老牧師は言った。
「そして、わたしも」彼の妻は口をはさんだ。
「そして、わたしも、わたしも」とても元気に飲み食いをし、なんにでも笑っていた末座にいた貧乏なふたりの親戚の者が言った。
こうして申しこみを受けるごとに、ピクウィック氏は心からのよろこびをあらわし、彼の目は歓喜と陽気さに輝いていた。
「紳士淑女諸君」突如立ちあがって、ピクウィック氏は言った。
「ヒヤ、ヒヤ! ヒヤ、ヒヤ! ヒヤ、ヒヤ!」すっかりワクワクして、ウェラー氏は叫んだ。
「召使い全員を呼んでくれ」そうでなかったらウェラー氏が主人からきっと受けたにちがいない人前での叱責を抑えようと口をはさんで、老ウォードル氏は叫んだ。「乾杯のために、彼ら全員にぶどう酒を一杯注いでくれ。さあ、ピクウィック」
一座の沈黙、女の召使いたちのささやき、男たちの気まずいとまどいの中で、ピクウィック氏は語りはじめた。
「紳士淑女諸君――いや、紳士淑女諸君とは呼ばず、ご婦人方が勝手をお許しくださったら、わが友、わが親愛なる友と呼ぶことにしましょう」――
ここでピクウィック氏は女性たちから起き、紳士たちが呼応した大喝采で話を中断され、そのあいだに、黒い目の持ち主が、あの親愛なピクウィックさんにならキスもできる、と叫んだのがはっきりと聞きとれた。そこでウィンクル氏は、代理でそれはできないでしょうか、と慇懃にたずね、それにたいして黒目の若い婦人は、顔で語れるかぎりはっきりと「もしできるならば」といったことを語りながらも――口先では「まあ、バカな!」と答えていた。
「親愛なる友よ」ピクウィック氏は語りつづけた、「わたしは花嫁と花婿の健康を祝います――神よ、彼らに祝福を授けたまえ(喝采と涙)。わが若き友トランドルは、非常に優秀な男らしい人物とわたしは信じ、彼の妻は、その父親の家で二十年間その身辺にふりまいていた幸福をいまはちがった行動範囲にうつすことが十分にできる、非常に愛らしい美しい女性とわたしは知っています。(ここで太った少年はオイオイと大声をあげて泣きはじめ、上衣の襟首をウェラー氏につかまれて、つれだされていった。)わたしはねがうのですが」ピクウィック氏は言いそえた、「わたしは、ねがわくば、若くて、彼女の妹の夫になれるくらいの齢であればと思っていますが(喝采)、それがだめである以上、彼女の父親になれるくらいの年配であることをよろこんでいます。そうであれば、姉妹ふたりを驚嘆し、尊敬し、愛していると申しても、腹に一物あるものと疑われなくてすむからです(喝采とすすり泣き)。花嫁の父、そこにいるわれわれの善良な友人は気高い人物、わたしは彼と知人であることを誇りに思っています(大きな叫び)。彼はやさしく、すぐれ、独立心の強い、心のりっぱな、客もてなしのよい、気前のいい人物です(すべての形容詞にたいして、とくに最後のふたつの形容詞にたいして、貧乏な親戚から熱烈な叫び)。自分の娘がすべての幸福を味わうようにとは、父親の彼もねがっていること。彼女の幸福をながめて、彼が当然受けてもいい心の満足と安らぎを味わうことは、わたしは確信していますが、われわれの一致した希望です。ですから、彼らの健康をねがって乾杯し、彼らの長寿とすべての幸福を祈りましょう!」
ピクウィック氏はあらしのような喝采の中でその話を終わり、ウェラー氏の音頭のもとで、定員外の人たちの声はまた効果的にふりしぼられた。ウォードル氏はピクウィック氏に、ピクウィック氏は老夫人に、乾杯を申し出た。スノッドグラース氏はウォードル氏に、ウォードル氏はスノッドグラース氏に、乾杯を申し出た。貧乏な親戚のひとりはタップマン氏に、他の貧乏な親戚はウィンクル氏に乾杯を申し出た。すべては幸福とお祝いの気分にあふれ、とうとうふたりの貧乏な親戚の人がふしぎにもテーブルの下に姿をかくしてしまったことが、散会する時刻が来たのを知らせることになった。
夕食に彼らはふたたび集まったが、朝食でのぶどう酒の酔いをぬくため、男たちは、ウォードル氏のすすめで、二十五マイルも散歩をしていた。同じように晩餐の席を飾ろうと、貧乏な親戚の者は一日中床の中にはいっていたが、それを果たせないことになり、ここに一夜泊まることになった。ウェラー氏は使用人たちをたえず陽気に浮き立たせ、太った少年は自分の時間を交互に食事と睡眠にわけていた。
晩餐は朝食と同じくらい陽気になり、涙はぬきで、同じようにさわがしいものになった。それから食後のデザートになり、さらに幾杯かの乾杯がおこなわれた。それからお茶とコーヒーになり、ついで、舞踏会が開かれることになった。
ファーム館の最高の居間は、高い炉づくりとひろびろとした煙突のついた、りっぱな、ながい、浅黒い羽目板をはった部屋で、その煙突は新式特許の馬車を車輪ごととおしてしまうくらいひろいものだった。部屋の奥には、ひいらぎ[#「ひいらぎ」に傍点]と|常緑樹《ときわぎ》の暗いあずま屋の下で、マグルトン切っての優秀なふたりのバイオリンひきとひとりのハープ演奏家がいた。すべてのくぼみとあらゆるはりだし棚には、四本の枝のひろがった大きな古い銀のろうそく立てが立てられてあった。じゅうたんはめくられ、ろうそくはあかあかと燃え、火は炉でパチパチと燃えさかり、陽気な声と明るい笑い声は部屋中に鳴りひびいていた。もし古いイギリスの郷士たちが死んだときに妖精になっていたら、そこは彼らが酒宴を張りそうな場所になっていた。
この快い場景のおもしろさをたかめるなにかがあったとしたら、それは、ピクウィック氏がゲートルをはかないであらわれたこと、これは、彼のもっとも古い友人たちの記憶でも、はじめてのことだった。
「きみは踊るつもりなのかい?」ウォードル氏はたずねた。
「もちろん、そうだよ」ピクウィック氏は答えた。「そのように衣装をつけているのがわからんのかね?」ピクウィック氏は斑点のある絹の靴下ときれいに結んだパンプス(ひもでしばらないかかとの低いスリッパ式の靴。黒エナメルのものは男子礼装用)を示した。
「あなたが[#「あなたが」に傍点]絹の靴下をはくんですって!」タップマン氏はふざけて叫んだ。
「どうしていけないのかね、きみ――どうしていけないのかね?」彼のほうに向きなおり、ピクウィック氏はむきになってたずねた。
「おお、もちろん、あなたがそれをはいていけない理由は、なにもありませんよ」タップマン氏は答えた。
「そうだと思うね、そうだと思うね」ひどく高飛車な調子でピクウィック氏は言った。
タップマン氏は笑おうと思っていたが、ことは重大そうなので、真顔になり、その靴下は美しい、と言った。
「そうであればいいんだがね」目を友人の上に釘づけにして、ピクウィック氏は言った、「靴下として[#「として」に傍点]、この靴下にべつに異常なところはないだろうね?」
「もちろん、ありませんとも。もちろん、ありませんとも」タップマン氏は答えた。彼は向こうに歩いてゆき、ピクウィック氏の顔はいつものやさしい表情をとりもどした。
「もうみんな、準備はいいのでしょうな?」ピクウィック氏は言ったが、彼は老夫人といっしょにダンスの先頭に立ち、それをはじめようとはやる心で、もう四度も踏み出しそこなっていた。
「じゃ、すぐはじめよう」ウォードル氏は言った。「さあ!」
ふたつのバイオリンとひとつのハープの演奏がはじまり、ピクウィック氏は手を組んだが、そのとき、みなが手をたたき、「やめろ、やめろ!」という叫びが聞こえてきた。
「どうしたんだ?」ピクウィック氏はたずねたが、彼はバイオリンとハープがやんだのでその動きをとめられただけで、たとえ家が燃えあがっていたとしても、この世のどんなほかの力であっても、彼をとめることはできなかったであろう。
「アラベラ・アレンはどこにいるのだ?」何人かの声が叫んだ。
「そして、ウィンクルは?」タップマン氏は言いそえた。
「ここにいますよ!」片隅から美しい相手といっしょにとびだしてきて、その紳士は叫んだ。そうしながら、どっちの顔が赤かったか、彼のか、黒目をした若い女性のかを言うのは、ちょっとむずかしいことだったろう。
「ウィンクル、これは途方もないことだぞ」そうとういらいらして、ピクウィック氏は言った、「きみが自分の場所にちゃんとついていないなんて」
「べつに途方もないことではありませんよ」ウィンクル氏は言った。
「うん」目をアラベラの上に流しながら、とても意味深な微笑を浮かべて、ピクウィック氏は言った、「うん、結局、わしも、途方もないこととは思っていないがね」
しかしながら、このことを考える時間的余裕はなかった。バイオリンとハープが今度こそ本当にはじまったからである。手を組んで――ピクウィック氏は踊りはじめ、中央から部屋の端まで、煙突の途中まで舞いあがり――もどって戸口のところまで――どこでも手を組んだまま――床を踏みつける大きな音――つぎのカップルの番――また出発――もう一度前と同じ型のくりかえし――調子をとるためにもう一度足踏み――つぎ、つぎ、つぎとカップル――こうした踊りはかつてないものだった! とうとう、踊りがぜんぶすみ、老夫人につづいた十四|組《カツプル》がクタクタになって引きしりぞき、牧師の奥さんが老夫人のかわりになったあとでも、ピクウィック氏は、それを求められてはいないのに、自分の場所で踊りつづけて、音楽と調子を合わせ、得も言えぬ温和な態度で自分の相手に微笑を投げていた。
ピクウィック氏がまだ踊りにあきないうちに、新婚夫妻はそこから姿を消していた。しかし、階下ではまた堂々とした食事があり、そのあとにながく座談がつづいた。ピクウィック氏が翌朝おそく目をさましたとき、『ジョージと禿鷹旅館』で四十五人くらいの客と、彼らがロンドンにやってきた最初のときに、それぞれ別個に親しく食事をしたという、なにかとんちんかんなことを思い浮かべていたが、これを、ピクウィック氏は前の晩に踊り以外になにかをそうとうにやったかなり確実な証拠と考えていたが、それはまさに図星だった。
「ここの一族は今晩台所でひと遊びするんだね、どうだい?」サムはエマにたずねた。
「ええ、そうよ、ウェラーさん」エマは答えた。「クリスマスの前の晩には、いつもそうよ。旦那さまが必ずそれをしてくださるんだもの」
「きみのご主人はなんでもきちんとなさる方だな」ウェラー氏は言った。「あんなに分別のある人、あんなにれっきとした紳士は見たこともないよ」
「おお、本当にそうだよ!」この話に口を入れて、太った少年は言った。「りっぱな豚を飼ってるんだからね!」焼いた豚の脚と肉汁に思いをはせて、太った少年はウェラー氏に、なかば人食い人種的な流し目を送った。
「おお、きみもとうとう目をさましたのかい?」サムはたずねた。
太った少年はうなずいた。
「ちょっと教えてやるけどね、王へび[#「へび」に傍点]君」感銘深くウェラー氏は言った。「もう少し眠りを少なくし、もう少し運動をとらないと、大人になったとき、あの辮髪の老紳士が味わったような不便を味わわされることになるぞ」
「その紳士はどんな目に会ったんだい?」どもり声で太った少年はたずねた。
「いま言うとこだよ」ウェラー氏は答えた。「その男はいままで見たこともないほどの大男でね――すごく太った男、四十五年間も自分自身の靴にチラリともお目にかかれなかったんだ」
「まあ!」エマは叫んだ。
「いや、まったくそうだったんだよ」ウェラー氏は言った。「目の前、食卓の上に彼自身の脚とそっくりのものをおかれても、彼はそれがわからなかったことだろうよ。うん、彼は一フィート四分の一くらいのながさのあるじつに美しい金の時計鎖をつけ、その値打ちはどのくらいのもんかちょっと見当もつかないが、時計としては最高の金時計をズボンの時計入れに入れて事務所にいつも歩いていったんだが、その時計は大きな、重い、まるいもの、彼が人間として太ってたように、そいつは時計としては太ったもの、そして、それに釣り合ったでかい顔をしてたんだ。『その時計はもち運ばないほうがいいよ、それを盗まれちまうからね』老紳士の友人たちは言ったんだ。『そうかね?』彼は言ったね。『うん、そうさ』友人たちは言ったんだ。『うん』彼は言ったよ、『この時計をぬきとれるような泥棒にお目にかかりたいもんさ。おれだって、まったく、ぬけないんだからな。じつにピタリとくっついてるんだからな』彼は言ったね。『そして、何時か知りたいと思うときにはいつも、パン屋の店をのぞきこまにゃならん始末さ』うん、それから彼は体がくだけんばかりに大笑いし、髪粉をつけ、辮髪で外に出かけ、ふだんよりもっと鎖を出し、大きなまるまるとした懐中時計を灰色の綾織りラシャのズボンからはじけんばかりにして、ストランド街をころげるように進んでいったんだ。その鎖を引っぱったことがないすりは、ロンドンひろしといえども、ひとりもいなかったね。だが、鎖は切れようとはせず、時計も出ようとはしなかったんで、すりたちは舗道ぞいにこんな太った老紳士を引っぱり歩くのにあきてしまい、彼は家に帰ってきて、辮髪がオランダ時計の振り子のようにふるえるまで、笑いこけていたもんさ。とうとうある日、老紳士はころげるように通りを進んでいき、見憶えのあるすりが、とってもでっかい頭をしたちびの少年と腕を組んでこちらにやってくるのを見かけたんだ。『こいつはおもしろいぞ』老紳士は考えたね、『もう一度やってみようとしてるが、うまくはいくもんか!』そこで彼はいとも陽気にクスクスと笑いだしたんだが、いきなり、ちびの少年がすりの腕からはなれ、老紳士の腹に頭を前に出してドンとぶつかり、一瞬間、痛みで彼は体をかがませちまったんだ。『人殺し!』老紳士は言い、すりは『大丈夫ですよ、旦那』と彼の耳にささやいたのさ。彼が体をのばしたとき、時計と鎖の姿は消え、それよりもっと困ったことに、老紳士の消化が、その後、すっかりわるくなり、それは死ぬ最後の日までつづくことになったんだ。だから、若いの、よく気をつけて、あんまり太りすぎないように注意するんだな」
ウェラー氏が太った少年に多大の感銘を与えたらしいこのお説教を終えたとき、彼ら三人は大きな台所にいったが、そこには、太古の時代から老ウォードル氏の祖先によってまもられているクリスマス・イーヴの年々の習慣によって、一族の者がもうこのときまでに集められていた。
この台所の天井の中心のところから、老ウォードル氏は自分自身の手でやどり木の大きな枝をたったいま吊るし終わったところ、そして、その同じやどり木の大きな枝が、みなの楽しいおし合いへし合いと混乱をひきおこしていた。その最中にあって、ピクウィック氏は、トリムグラウア夫人自身の子孫にも名誉となるほどの慇懃さで、老夫人の手をとり、彼女を神秘的なやどり木の下につれてゆき、すべての礼儀正しさと丁重さをこめて、彼女にキスをした。老夫人は、こうした重要で厳粛な儀式にふさわしい威厳をこめて、この自分に払われた丁重さを受けたが、若いご婦人方は、習慣にたいする迷信的な敬意をそれほどもたず、あるいは、キスの価値はそれを得ようとして少し苦労させればなお昴まるものと考えて、悲鳴をあげたりもがいたりし、隅に逃げこみ、おどしをかけ、抗議をし、部屋を逃げだす以外のありとあらゆることをし、とうとう冒険心のあまり強烈でない一部の紳士は追いまわすのをやめようとしたくらいだったが、そのときになって、突然、彼女たちはそれ以上抵抗するのは無益と考え、気持ちよくキスを受けていた。ウィンクル氏は黒目の若い婦人に、スノッドグラース氏はエミリーにキスをし、ウェラー氏はやどり木の下という形式にはべつにこだわらずに、ゆきあたりばったり、エマやほかの女中たちにキスをしていた。貧乏な親戚はといえば、若いご婦人方であまりきれいでない人も例外とはせずに、まんべんなくすべてのご婦人にキスをし、そうしたご婦人は、ひどくあわてふためいたために、やどり木の枝が垂らされるやいなや、その真下に逃げこんでしまったのだった! ウォードル氏は背を炉に向けて立ち、いかにも満悦げにそうした場景をながめ、太った少年はこの好機をうまくとらえて、ほかのだれかのためにとってあった特別にうまそうなひき肉入りのパイをさっさと平らげていた。
さて、悲鳴はおさまり、顔は輝き、巻き毛はもみくしゃになり、ピクウィック氏は、前にも述べたとおり、老夫人にキスをすませてから、やどり木の下に立ち、とてもうれしそうな顔をしてあたりで起きているものごとをながめていたが、そのとき、黒い目をした若い婦人が、ほかの若いご婦人方とちょっと耳打ちをすませてから、いきなり前にとびだしてきて、ピクウィック氏の首に片腕をまきつけ、彼の左の頬にやさしくキスをし、あっという間もあらばこそ、彼は全員にとりかこまれ、みんなにキスをされてしまった。
この一団にとりかこまれたピクウィック氏があっちに引っぱられ、こっちに引っぱられ、最初は頬に、つぎは鼻に、そのつぎは眼鏡にキスをされるのをながめ、四方で起こる笑いの喊声を耳にするのは楽しいことだった。だが、その後間もなくピクウィック氏が絹のハンカチで目かくしをされ、壁にぶつかり、隅にはいこみ、いかにも楽しそうに目かくし遊びの秘術のありとあらゆるおもしろさを見せ、とうとう貧乏な親戚のひとりをとらえ、ついで、見ている人全員の驚嘆と賞賛をひきおこした思いもかけぬ敏捷さで、彼自身が鬼から逃げまわるのをながめるのは、さらにおもしろいことだった。貧乏な親戚はつかまるのを希望していると思われる人たちをつかまえ、それがだれてきたとき、自身がつかまえられた。一同が目かくし遊びにあきたとき、スナップドラゴン(燃えるブランデーの中の乾しぶどうなどをとって食べる遊戯)の大遊戯がおこなわれ、指がそれで十分に焼け、乾しぶどうがすっかりなくなってしまったとき、一同は燃える薪木の大きな火のそばに坐り、たっぷりある夕食と大きなはちに入れたウォッセイルの酒(香料を入れたビールやぶどう酒。むかしクリスマス・イーヴに飲まれた)を味わったが、この酒を入れたはちは洗濯場の銅釜よりちょっと小さなもので、そこでは、焼いたりんご[#「りんご」に傍点]が得も言えず豊かに、楽しい音を立ててシュウシュウ、ブツブツ言っていた。
「これは」あたりを見まわして、ピクウィック氏は言った、「これは、じっさい、楽しいことだ」
「われわれのいつも変わらぬ習慣なのだよ」ウォードル氏は答えた。「きみがいま見ているとおり、クリスマス・イーヴには――召使いもだれも――全員そろって腰をおろし、クリスマスをむかえ入れるために、時計が十二時を打つまで待ち、それまで、遊びの罰則やら古い物語で時をすごすのだ。トランドル、火をかき立ててくれないか」
薪木が動かされると、何千何百万という明るい火の粉がまいあがった。深い赤色の炎は部屋の隅々にまでゆきわたる豊かな輝きを送り出し、その陽気な色彩をすべての人の顔に投げていた。
「さあ」ウォードル氏は言った、「歌――クリスマスの歌だ! もっとうまい歌がなかったら、わしがひとつ歌ってやるぞ」
「がんばれ!」ピクウィック氏は叫んだ。
「酒を注げ」ウォードル氏は叫んだ。「ウォッセイルの酒の深い豊かな色をとおして鉢の底が見えるようになるまでには、まだたっぷり二時間はかかるぞ。さあ、みんなに酒を注いで、歌をはじめるんだ」
こうして陽気な老紳士は美しい、朗々とひびく、たくましい声で、さっさとつぎの歌を歌いはじめた。
[#3字下げ]クリスマス祝歌
[#ここから2字下げ]
春をわたしは好きでない。気まぐれな翼に乗せて
花や芽を運び去るがいい。
そのいたずらな雨で花や芽の愛をグングンと求め、
朝にならぬうちに、それを散らしてしまうからだ。
心定まらぬいたずらな妖精、彼は自分を知らず、
一時間も自分自身の変わりやすい心を知らない。
彼は人の面前でニッコリほほ笑み、顔をしかめて、
若い花をしぼませてしまうのだ。
夏の太陽はその明るい家に走ってもどるがいい。
わたしは絶対にそれを求めはしない。
雲でくもらされたとき、わたしは声をあげて笑い、
どんなに不機嫌になろうと、それを気にしない!
それが生むいとし子はあらあらしい狂気、
激しい熱病のお供をして、たわむれているからだ。
恋心が強すぎれば、それはながつづきしないもの、
これは苦痛を味わって多くの人がさとること。
おだやかな穫り入れの夜は、
つつましくおとなしい月の静かな光に照らされて、
あからさまな厚かましい昼間より
はるかに美しい輝きをもっているように思われる。
だが、すべての葉が木の下に落ちるとき、
それはわたしの心を悲しみにさそう。
だから、秋の空気がどんなにさわやかであろうとも、
それは、どうしてもわたしの気持ちに染まない。
だが、クリスマスのためなら、歌をつぎつぎに歌う、
陽気で、誠実で、勇ましいクリスマスのために。
盃いっぱいの酒をわたしは飲みほし、力をこめて
この古いクリスマスのために、三度喝采を送る!
その陽気な心をよろこばす
明るいさわぎで彼を呼びこみ、
食事がつづくかぎり、彼をもてなし、
仲よく彼と別れることだろう。
彼はりっぱな正直な誇りの気持ちで、
きびしい天候の傷痕をかくそうとはしない。
それは不面目なことではない。勇敢な水夫の頬にも
同じ傷痕は多くあるのだから。
だから、屋根が鳴りひびき、壁から壁へと
それがこだまするまで、わたしは歌いつづける――
四季すべての王として、このたくましい老人に、
今宵はよろこびの歓迎の歌を。
[#ここで字下げ終わり]
この歌はごうごうたる喝采を浴びた――友人と家の使用人が聞き手の大部分になっていたからである。そして貧乏な親戚はとくに恍惚状態におちいっていた。ふたたび炉に薪木がくべられ、ふたたびウォッセイルの酒がまわされた。
「なんて雪が降っていることだろう!」低い声でひとりの男が言った。
「雪が降っているんだって?」ウォードル氏はたずねた。
「荒れた、寒い夜ですよ」その男は答えた。「そして風が起こり、濃い白い雲になって、それは野原に吹きとんでいます」
「ジェムはなにを言っているの?」老夫人はたずねた。「べつに変わったことはないのだろうね?」
「ありませんとも、ありませんとも、お母さん」ウォードル氏は答えた。「ふぶきが起こり、風がとても寒くなったと言っただけです。煙突のゴウゴウいう音からも、それと察しがつくわけです」
「ああ、わたしは憶えているけどね、何年かずいぶんむかしにも、こんな風が吹き、こんなに雪が降ったことがあったよ――お前のお父さんが死ぬちょうど五年前にね。そのときも、クリスマス・イーヴのとき。わたしは忘れないけど、その晩にあの人は老ゲイブリエル・グラブをつれ去った鬼の話をわたしたちにしてくださったよ」
「なんの話ですって?」ピクウィック氏はたずねた。
「いや、つまらんこと、つまらんことです」老ウォードル氏は答えた。「ここの人たちが鬼につれ去られたと考えている墓掘りの老人の話なんです」
「考えているですって!」老夫人は叫んだ。「それを信じない頑固者はどこにいること? 考えているですって! 彼が鬼につれ去られたって[#「つれ去られたって」に傍点]、お前は子供のときから聞いていないの? それを知らないの?」
「よーく知っていますよ、お母さん、お母さんがそうお望みなら、彼はつれ去られたんです」笑いながらウォードル氏は言った。「ピクウィック、彼は鬼につれ去られたんだ。それだけのことさ」
「いや、いや」ピクウィック氏は言った、「それだけのことではすまないよ。その話のどうして、なぜといったすべてを聞かなければならないんだからね」
すべての頭がそれを聞こうと前に傾けられたとき、ウォードル氏はニヤリとし、物惜しみせぬ手でウォッセイル酒を注ぎ、ピクウィック氏の健康のためにと頭をコクリとやって、つぎのように語りはじめた――
だが、これは驚いたこと、ついわれ知らず、なんとながい章になってしまったことだろう! まったく、章というようなつまらぬ制約を、われわれはすっかり忘れていた。そこで、鬼はりっぱなスタートを新しい章ではじめることにしよう! もしよろしかったら、紳士淑女諸君、舞台を新しくしましょう、べつに鬼どもを|贔屓《ひいき》しているわけではないのですがね。
[#改ページ]
第二十九章
[#3字下げ]墓掘り男を盗み去った鬼どもの話
ずっとむかしのこと――ずっとむかしのことで、祖先たちが無条件でそれを信じていたのだから、それは事実あった話にちがいない――この国のこのあたりの古い大修道院のある町に、ゲイブリエル・グラブという男が教会の墓地の寺男と墓掘りとしてつとめていた。男が寺男であり、たえず死の表象にとりまかれているからといって、彼が気むずかしく憂鬱な男になるとは、必ずしも言えたことではない。葬儀屋だって、この世でいちばん陽気な男ということもあるのだ。わたしはかつておしの男ととても親しくなったことがあるが、彼は勤務をはなれた個人生活では、|放埓《ほうらつ》な歌を歌った男の中でももっとも喜劇的なおどけた小男、その記憶力はよどみがなく、息もつかずにアルコール分の強い酒を盃になみなみ飲みほしたものだった。だが、こうした逆の先例があるにもかかわらず、ゲイブリエル・グラブはつむじまがりの、片意地で、不機嫌な男――気むずかしい、孤独な男で、彼はチョッキの大きな深いポケットにピタリとはいるやなぎ細工の酒のびん以外のだれともつき合わず――陽気な顔が自分のそばをとおりすぎたりすれば、それを悪意と不機嫌のひどい渋面でながめ、彼と出逢えば、だれしも気分がわるくなるのが当たり前のことになっていた。
あるクリスマス・イーヴの夕暮れ時の少し前に、ゲイブリエルはくわを肩にし、カンテラに灯をつけ、古い教会の墓地のほうに歩いていった。それというのも、翌朝までに墓をひとつ掘らねばならず、気分がひどく滅入っていたので、すぐ仕事にかかったら、気も晴れるか、と考えたためだった。古い街路ぞいに道を進んでゆくと、古い窓をとおして、さかんに燃えている炉の火が輝くのが見え、そこのまわりに集まった人たちの笑い声や陽気な叫びが聞こえてきた。翌日のごちそうのためのあわただしい準備のようすが彼の耳にはいり、そのための料理のかぐわしいにおいが雲になって台所の窓から流れ出たとき、彼はそれをかぐことができた。こうしたことすべては、ゲイブリエル・グラブの心には、ひどくいやな苦しいものだった。そして、子供の群れが家からとびだし、道路を横切って走り、反対側の家の戸をまだノックしないうちに、クリスマスの遊びで|宵《よい》をすごそうと階段を群れになってあがっていく彼らをとりかこんでしまう五、六人の巻き毛をした腕白坊主どもに出逢ったとき、彼は気味のわるい微笑をもらし、はしか、猩紅熱、|鵞口蒼《がこうそう》、百日咳、その他いろいろとなぐさめになるものを考えて、なおいっそうしっかりとくわの柄をかたくにぎりしめていた。
こうした幸福な心理状態で、彼は大股で進んでゆき、ときおり自分のわきをとおりすぎてゆく近所の人の上機嫌の挨拶に不機嫌な渋面を投げかえし、とうとう、墓地につづく暗い小道にはいっていった。さて、ゲイブリエルはこの暗い小道に着くのを楽しみにしていた。それというのも、そこは概して気持ちのいい、陰気な、沈みきった場所で、町の人は、真っ昼間か太陽が輝いているとき以外には、そこにはいりたがらなかったからである。そこで、この古い大修道院と頭をそった修道僧の時代からお棺小路と呼ばれていたこの聖所で、腕白坊主がひとり、陽気なクリスマスについての明るいなにか歌をわめいているのを耳にしたとき、彼はそうとう腹がムカムカしてきた。ゲイブリエルが進んでゆき、声が近づくにつれて、彼はそれが小さな少年の口から出されているのを知った。少年は古い通りで仲間の少年たちのひとりに出逢うために道をとっとと急ぎ足で歩き、ひとつにはひとりのさびしさをまぎらわすために、またひとつにはクリスマスにたいする心組みをつくりあげるために、精かぎりの大声をはりあげて歌を歌っていたのだった。そこで、ゲイブリエルは少年が来るまで待ち、それから隅に彼を避け、声を抑えるのを少年に教えてやろうと、カンテラでコツコツと彼の頭を五、六回たたいてやった。この少年が前とはまるっきりちがった調子の歌を歌って、頭に手を当てながら逃げ去っていったとき、ゲイブリエル・グラブはいとも陽気にクックッとひとり笑いをし、門に鍵をおろして、墓地にはいっていった。
彼は上衣をぬぎ、カンテラを下におき、まだ仕上げていない墓の中にはいり、一生けんめい一時間かそこいら土を掘った。だが、土は霜で固まり、それをくずして外に運び出すのはなみたいていの骨折りではなく、月は出ていたけれども、まだ満月にはほど遠く、教会の陰にあった墓には、ほとんど光を投げてはいなかった。ほかのときだったら、こうした障害はゲイブリエル・グラブをとても不機嫌にし、みじめな気持ちにさせるところだったが、彼は少年の歌をとめたのをとてもよろこんでいたので、仕事があまりはかどらないことにもそれと気づかず、この晩の仕事を終えたとき、おそろしい満足感を味わいながら墓をのぞきこみ、道具を集めながら、つぶやいた――
[#ここから2字下げ]
すばらしい|屋敷《やしき》、すばらしい屋敷だ、
生命が終わったとき、数フィートの冷たい土は。
頭には石がひとつ、足にも石がひとつ、
虫が食らうための豪華な汁のある食事。
頭の上には生い茂る雑草、まわりには|湿《しつ》けた土くれ、
これは、聖なる大地の中の、すばらしい屋敷だ!
[#ここで字下げ終わり]
「ほーい! ほーい!」お気に入りの休息所になっていた平たい墓石に腰をおろして、彼は笑い、やなぎ細工の酒のびんをとりだした。「クリスマスに棺だって! クリスマスの|贈り物《ボツクス》(召使いや郵便配達に与える祝儀)だ。ほーい! ほーい! ほーい!」
「ほーい! ほーい! ほーい!」彼の背後近くでひびいた声がそれをくりかえした。
やなぎ細工の酒のびんを口にもってゆく途中で、ゲイブリエルは多少びっくりして口をつぐみ、あたりを見まわした。彼の近くのどんな古い墓の底でも、青白い月の光がさしているこの墓地の静けさよりもっと深いものではなかった。冷えきった白霜が墓石の上でギラリと光り、古い教会の石の彫刻の中で、幾列もの宝石のように、キラキラと輝いていた。雪は大地の上にパリパリと音を立てそうに堅く積もり、あたり一面に盛られた土饅頭の上に真っ白ななめらかなおおいを敷き、まるでそこに死体が横たわっていて、ただ|経《きよう》|帷子《かたびら》でおおわれているような感じだった。この厳粛な景色の静けさを破るカサリという音ひとつ、立ってはいなかった。音そのものまで|凍《い》てついたよう、すべては冷えきって静かだった。
「あれはこだまだったのだ」また酒のびんを口にもってゆきながら、ゲイブリエル・グラブは言った。
「そうではないぞ[#「ないぞ」に傍点]」太い声が言った。
ゲイブリエルはギクリとし、驚きと恐怖でその場に釘づけになって立ちつくしていた。彼の目は彼の血を凍らせる姿をながめていたからである。
彼のそば近く、まっすぐに立った墓石に坐っているのは、奇妙なこの世のものならぬ形のもの、ゲイブリエルはすぐにそれをこの世の存在物ではないと感じとっていた。地面にとどくほどのながい奇妙な脚は引きあげられ、じつに奇妙なふしぎなふうに組まれ、そのたくましい腕はむきだし、両手は膝の上に乗せられていた。まるい短い体の上には、ピッタリと肌についた上衣を着こみ、それは小さな切り口で飾られていた。短い外套が背にダラリとさがり、カラーは奇妙なとんがり型に切られ、それはこの鬼にひだ襟かネッカーチーフの役をし、靴は爪先でめくれあがって、ながいとんがった先になっていた。頭にはひろ幅のへりのついた円錐形の帽子をかぶり、それは一本の羽根で飾られていた。帽子は白い霜でおおわれ、この鬼は、ここ二、三百年ものあいだ、同じ墓石の上に快適に坐りつづけているといった感じだった。彼はなんの音も立てずに静かに坐り、舌はまるであざけっているように出され、鬼だけが示せるといったニヤリとした笑いを浮かべて、ゲイブリエル・グラブに歯を見せてニヤリと笑いかけていた。
「こだまではなかったのだぞ」鬼は言った。
ゲイブリエル・グラブは体がしびれ、返事をすることができなかった。
「クリスマス・イーヴに、お前はここでなにをしているのだ?」きびしく鬼はたずねた。
「墓を掘りに来たんです」どもりながら、ゲイブリエル・グラブは答えた。
「こんな夜に、どんな人間が墓や墓地をさまよったりするだろう?」鬼は叫んだ。
「ゲイブリエル・グラブ! ゲイブリエル・グラブ!」墓地をいっぱいに満たした感じのするあらあらしいコーラスが叫んだ。ゲイブリエルはおそるおそるあたりを見まわしたが――なにも目にはいらなかった。
「びんの中になにを入れてあるのだ?」鬼はたずねた。
「オランダ製のジンです」前よりもっと体をふるわせて、墓掘り男は答えた。彼はそれを密輸入者から買い、この訊問者が鬼の世界の間接税務局の役人かもしれないと考えたからである。
「こんな晩に、ただひとり、教会の墓地でオランダ製のジンを飲むのはだれだ?」鬼はたずねた。
「ゲイブリエル・グラブ! ゲイブリエル・グラブ!」と、またあらあらしい声が叫んだ。
鬼はおびえた墓掘りに意地のわるい横目を流し、それから、声をはりあげて叫んだ――
「すると、われわれの正当でまともな獲物はだれなのだ?」
この質問にたいして、目に見えぬコーラスは、古い教会のオルガンのたくましいたかまりに合わせた多くの少年聖歌隊員の声のようにひびく調子――あらあらしい風に乗って墓掘りの耳に運ばれ、それがとおりすぎると消えてゆくようにみえた調子で答えたが、その答えのおりかえしの文句はいつも同じ「ゲイブリエル・グラブ! ゲイブリエル・グラブ!」となっていた。
鬼は前よりもっとはっきりとした笑いをニヤリと浮かべて、「うん、ゲイブリエル、これにたいして、お前はなんと言う?」とたずねた。
墓掘りはあえいだ。
「ゲイブリエル、お前はこれをどう思う?」墓石の両側に足を蹴あげ、ボンド街でいちばん流行のウェリントン(膝までくる長靴)をながめているように、いかにも満悦げにそっくりかえった爪先を見て、鬼はたずねた。
「それは――それは――とても奇妙なこってす」恐怖でなかば死んだようになって、墓掘りは答えた。「とても奇妙、そしてとてもきれいですけど、もしよろしかったら、わたしは仕事にもどり、それを仕上げたいんです」
「仕事だって!」鬼は言った、「どんな仕事だ?」
「墓です。墓つくりです」どもりながら墓掘りは答えた。
「おお、墓かね、えっ?」鬼は言った。「ほかの人間が陽気になってるとき、だれが墓をつくり、それを楽しんでいるのだ?」
ふたたびふしぎな声が「ゲイブリエル・グラブ! ゲイブリエル・グラブ!」と答えた。
「どうやら、おれの友人どもがお前を欲しがっているらしいぞ、ゲイブリエル」前よりもっと頬を舌でふくらませて、鬼は言った――その舌は、まったく驚くべきものだった――「どうやら、おれの友人どもがお前を欲しがってるらしいぞ、ゲイブリエル」鬼は言った。
「失礼ですが」恐怖に打たれた墓掘りは答えた、「そんなはずはないと思います。彼らはわたしを知らないんです。その方々はわたしを見たこともないでしょう」
「おお、見たことがあるとも」鬼は答えた。「今晩不機嫌な顔をし、おそろしいしかめっ|面《つら》をして道路をやってき、子供たちに怒った目を投げ、くわをしっかりにぎりしめてた男を、われわれは知ってるとも。少年が陽気になれ、自分がそうなれないからといって、その少年を嫉妬のこもった悪意でたたいた男を、知ってるとも。われわれはその男を知ってるとも、知ってるとも」
ここで、鬼は大きな甲高い笑い声を立て、それは、二十倍のこだまになってかえってきた。そして、鬼は両脚を空中に投げあげ、墓石のせまいへりの上で、頭の上、いや、むしろ円錐形の帽子の先の上に逆立ちになり、そこからちょうど墓掘りの足もとのところにとんぼがえりしてとびおり、仕立て屋がふつう坐り台に坐るような姿勢でジッとしていた。
「わたしは――わたしは――失礼しなければならんと思います」動こうとしながら、墓掘りは言った。
「失礼するだって!」鬼は言った、「ゲイブリエル・グラブがゆこうとしてるぞ。ほーい!ほーい! ほーい!」
鬼が笑ったとき、墓掘りは、一瞬間、教会の窓の中にキラキラ輝く光をながめ、それはまるで建物ぜんたいが明るく照らしだされたといった感じだった。それは消え、オルガンが元気のいい曲を鳴りひびかせ、最初の鬼とそっくりのたくさんの鬼どもが教会の墓地に流れこみ、墓石で馬とびをはじめ、息をしようと一刻でも立ちどまらずに、じつに驚くべき軽妙さで、つぎからつぎへと、そこでいちばん高い墓石をとんでいった。最初の鬼がいちばんすごいとび手で、ほかの鬼たちはだれも、彼にはおよびもつかなかった。ひどい恐怖感におそわれていた墓掘りさえ、ほかの鬼たちがふつうの大きさの墓石の上をとび越えるので満足しているのに、最初の鬼は一族の遺骸をおさめた地下納骨所、鉄の手すりやすべてのものを、それがまるで街路の杭のように、スイスイと楽にとび越しているのに気がつかずにはいられなかった。
とうとう、この遊びは最高潮に達し、オルガンの演奏はだんだんと速さを加え、鬼たちのとび方もそれにつれて早くなり、輪のように体をねじらせ、地面の上で逆立ちをしてころがり、まるでフットボールの球のように墓石の上をとび越えていた。墓掘りの頭は自分が見ている動きの速さでクルクルとまわり、妖精たちが自分の目の前をとんでいったとき、彼の脚は体の下でヒョロヒョロとよろめいたが、そのとき、鬼の王さまは、突然彼のほうにとんできて、彼のカラーに手をかけ、自分といっしょに地下に沈んでいった。
ゲイブリエル・グラブは下降の速さで一瞬間息もつけなかったが、ようやく息がつけるようになったとき、彼は自分が大きな穴蔵と思われるようなところにいることに気がついた。そこは四面、醜悪でおそろしい鬼の群れでつつまれ、部屋の中央の高い座席には、教会の墓地で知り合いになった彼の友人が坐り、そのほんの近くに、動く力を失って、ゲイブリエル・グラブ自身が立っていた。
「今晩は寒いな」鬼の王さまは言った、「とても寒いぞ。なにか温かいものをここにもってきてくれ!」
こう命令がくだされると、たえず顔に微笑を浮かべ、そのために、ゲイブリエル・グラブが鬼の廷臣ではないかと想像していた何人かのへいこらした鬼どもが急いで姿を消し、すぐにドロドロとした液体の火の盃をもってもどり、それを王さまにささげた。
「ああ!」鬼は叫んだが、彼の頬と喉は、その炎をさっと飲みこんだとき、透明になっていた、「こいつは、まったく、温かいもんだ! グラブ君のために、同じものを入れた大盃をもってこい」
不幸な墓掘りが夜温かいものを飲むのには馴れていないといくら言っても、むだだった。鬼のひとりが彼を抑えつけ、べつの鬼が彼の喉にドロドロとした燃える液体を流しこんだ。彼が、燃える液体を飲んだあとで、咳をし、むせ、目からどっと流れ出る涙をぬぐったとき、そこに集まった鬼どもはキーキー叫んで笑いころげた。
「さて、これで」王さまはその円錐形の帽子のとがった先を墓掘りの目の中に妙なふうにおしこみ、それでひどい痛みを与えて、言った、「さて、これで、みじめで陰鬱なこの男に、われわれの大倉庫にある何枚かの絵を見せてやれ!」
鬼の王さまがこれを言ったとき、穴蔵の遠い端をぼんやりとさせていた濃い雲がだんだんと消え去り、明らかに遠いところに、小さくて家具はとぼしくとも、小ざっぱりとしたきれいな部屋があらわれた。一群の小さな子供たちがかっかと燃えている火のまわりに集まり、母親のガウンにまといつき、彼女の椅子のまわりをとびはねてふざけていた。母親はときどき椅子から立ちあがり、だれかを待っているように、窓のカーテンをおし開いていた。ささやかな食事がテーブルの上にもうならべられ、肘かけ椅子がひとつ、火の近くにおかれてあった。ノックがドアのところで聞こえ、母親がそれを開き、子供たちは彼女のまわりに群らがり集まり、彼らの父親が中にはいってきたとき、よろこびで手をたたいた。彼はぬれて、疲れ、子供たちがまわりに群らがって、彼の外套、帽子、ステッキ、手袋をせっせととり、それを走りながら部屋の外に運び出したとき、彼は服から雪を払い落とした。それから、彼は炉の前の食卓に腰をおろし、子供たちは彼の膝のあたりによじのぼり、母親は彼のそばに坐り、全員が幸福で楽しそうだった。
だが、それとわからぬふうに、変化があらわれてきた。場面は小さな寝室にうつり、そこではいちばん美しい、いちばん齢のゆかぬ子供が死にかけて横たわり、薔薇色はその頬から消え、光はその目から失せ、墓掘りがそのときまで感じたことのない興味でこの子供を見守っていたとき、この子供は死んでしまった。彼の幼い兄弟姉妹は小さなベッドのまわりに集まり、冷えきって重くなった彼の小さな手をつかんだが、その感触をおそれて手を引っこめ、そのあどけない顔を畏怖の念をこめて見つづけていた。それはおだやかで平穏なもの、美しい子供はいこいとやすらぎの中で眠っているように見えたが、子供たちは、彼が死んでいるのをさとり、彼がいまは天使になって、輝く幸福な天国から彼らを見おろし、彼らに祝福を送っているのを知っていた。
ふたたびふわりと浮かんだ雲が絵を横切って走り、ふたたび主題が変わっていった。父親と母親はいまは老いて体が弱り、彼らのまわりの子供の数も半分以下に減っていた。だが、満足と陽気さは、彼らが炉のまわりに集まり、以前のすぎ去った時代のむかし話をし、それに耳をかたむけているとき、すべての顔の上にあらわれ、すべての目に輝いていた。ゆっくりと安らかに、父親は墓の中に沈み、その後間もなく、彼の苦しみと悩みをともにわけ合った母親も、彼につづいて安息の地にはいっていった。まだ生きのこっているわずかの人は、彼らの墓のそばにひざまずき、そこをおおっている緑の芝生を涙でぬらし、それから立ちあがり、悲しい重い気持ちでそこから去っていったが、悲痛に泣き叫んだり、絶望的に嘆き悲しむことはしなかった。これは、彼らがいつかふたたび出逢うことがあるのを知っていたからであり、生きのこった人たちはふたたびあわただしい世間にはいりこみ、彼らの満足と陽気さは、元どおりにもどっていた。雲はこの絵の上にとどまり、それを墓掘りの目からかくしてしまった。
「あれを[#「あれを」に傍点]お前はどう思う?」大きな顔をゲイブリエル・グラブのほうに向けて、鬼はたずねた。
ゲイブリエルは、それがとても美しいことについて、なにかモゴモゴつぶやき、鬼がその燃える目を彼に向けたとき、ちょっと恥じ入っているようだった。
「お前は[#「お前は」に傍点]みじめな男だよ!」ひどい軽蔑の口調で、鬼は言った。「お前はな!」彼はもっともの言いたげだったが、怒りが彼の口をふさいでしまい、そこで彼はとてもしなやかな一方の脚をあげ、ねらいをしっかりとつけるために、それをちょっと頭上でふりかざして、ゲイブリエル・グラブをしたたか蹴っとばした。そのすぐあとに、仕えていたすべての鬼どもは、みじめな墓掘りのまわりに群らがり集まり、情け容赦なく彼を蹴っとばしたが、これは、王さまが蹴る者を蹴り、王さまがだきしめる者をだきしめる地上の廷臣のむかしからある変わらぬ習慣によるものだった。
「もう少し彼に見せてやれ!」鬼の王さまは言った。
こうした言葉が発せられると、雲は散り、豊かで美しい景色が目の前にあらわれてきた――こうした景色は、|今日《こんにち》にいたるまで、古い大修道院のある町から半マイルとはなれぬところにあるものである。太陽は晴れあがった青い空から輝き、水はその光の下でキラキラと映え、太陽の元気づける影響を受けて、木はもっと緑に、花はもっと華かに見えていた。水は快い音を立てて流れつづけ、木は葉のあいだでつぶやく微風でサラサラと鳴り、鳥は枝にとまって鳴き、ひばり[#「ひばり」に傍点]は朝をよろこびむかえる歌を高い声で歌いつづけていた。そう、時は朝、キラキラ輝く、|馥郁《ふくいく》たる夏の朝だった。じつにこまかな葉、じつに小さな草の葉まで、生気にあふれていた。蟻は穴からはいだして、その日ごとの仕事につき、蝶は羽根をはためかせ、太陽の温かい光を浴びていた。何百万という虫はその透明な翼をひろげ、短いが幸福な生活を謳歌していた。人はその景色に心をおどらせて歩みだし、すべてのものが光り輝き、豪華なよそおいを示していた。
「お前は[#「お前は」に傍点]みじめな男だよ!」前よりもっと軽蔑的な口調で、鬼の王さまは言った。鬼の王さまはふたたび脚をふりかざし、それはふたたび墓掘りの肩に打ちおろされ、ふたたび従者の鬼たちは、主人の手本にならって、彼を打ちのめした。
何回か雲は去来し、多くの教訓をそれはゲイブリエル・グラブに教えた。鬼どもの足に何度も打たれて肩が痛んではいたものの、彼はますますつのってゆく興味でそれをながめつづけていた。せっせと働き、労働でそのとぼしいパンを獲得している人たちの生活が陽気で幸福なこと、このうえなく無知な人にも、自然の美しい顔がいつも陽気さとよろこびの源になっていることを、彼は学んだ。ひ弱く育ち愛情でやさしくはぐくまれた人たちが、貧困のもとにあっても陽気さを失わず、もっと粗雑な多くの人を打ちのめしてしまう苦痛にも屈せず、それは、彼ら自身の胸の中に幸福・満足・安らぎの源をもっているからだということを、彼は学んだ。神のつくりたもうたもののうちでもっとも弱くもろい女性が、じつにしばしば、悲痛・逆境・苦痛に屈せず、それは、彼ら自身の心の中に愛情と献身のつきることのない泉をもっているためだということを、彼は学んだ。他人の楽しみと陽気さに歯をむいてガミガミ怒る彼自身と同じような人間は、美しい地面の表のいちばんきたない雑草であることを、彼はなかんずく学び、世間の幸福と不幸を比較してみれば、この世は、まあ、とてもよいりっぱなたぐいのものだという結論に達した。この結論を出すとすぐ、最後の絵の上におおいかぶさっていた雲が彼の感覚の上にうつり、彼の心をすっかり安らいだものにしたようだった。つぎからつぎへと鬼たちは姿を消し、最後の鬼の姿が見えなくなったとき、彼は深い眠りに落ちこんでいた。
ゲイブリエル・グラブが目をさまし、自分が墓地の平たい墓石の上に大の字になって寝こみ、やなぎ細工の酒のびんが|空《から》になって自分のわきにころがり、上衣・くわ・カンテラが前夜の霜ですっかり真っ白になって地面に散らばっているのを知ったとき、夜はもう明けていた。その上に鬼が坐っているのを彼が最初に見た石は、彼の前にまっすぐに立ち、前の晩に彼が掘っていた墓は、ほど遠からぬところにあった。最初、彼は自分の冒険の真実性に疑いをかけていたが、起きあがろうとしたときに感じた肩のひどい痛みは、鬼どもが蹴ったことがたしかに架空のことではない事実を、彼にはっきりと知らせた。鬼たちが墓石で馬とびをしていたのに雪に足跡がぜんぜんないのに気がついて、彼はふたたびびっくりした。しかし、妖精であるので鬼たちが跡をのこさぬことを思い出したとき、彼にはすぐその事情がわかってきた。そこで、背中は痛みながらも、ゲイブリエル・グラブはなんとか一生けんめい起きあがり、霜を上衣から払い落とし、それを着こみ、町のほうに歩いていった。
だが、彼は生まれ変わった人間になっていた。そして、自分の改悛があざけり笑われ、自分の再生が信じられない場所にもどってゆくのには堪えられなかった。彼はちょっとためらってから、向きを変え、自分のゆけるところにさまよって流れてゆき、ほかのどこかの場所で暮らしを立てようと決心した。
カンテラ・くわ・やなぎ細工の酒のびんは、その日、教会の墓地で見つかり、最初は、この墓掘りの運命についてさまざまの憶測がおこなわれていたが、それはすぐ、彼が鬼たちに運び去られたものと決められてしまった。片目がめくらで、後半身が獅子、尻尾は熊の尻毛の栗毛の馬に乗って、彼が空を切ってさらってゆかれるのをはっきりと見たと言う信頼すべき証人も、幾人か出てきた。とうとう、この話はみなにすっかり信じられるようになり、新しい墓掘りは、前に述べた馬が空中を飛行しているとき偶然に蹴落とし、その後一、二年して彼自身が墓地でひろったという教会のそうとう大きな風見の切れ端をもの珍しさに集まった人たちに見せて、わずかな金をもらっていた。
ゲイブリエル・グラブが、その後十年ほどして、ぼろ衣をまとった、満足した、リューマチにかかった老人としてふたたび姿をあらわしたことによって、不幸にも、こうした話はだいぶゆさぶられることになった。彼は自分の話を牧師と市長に語り、やがて事実談としてそれは受けとられるようになり、その形でそれは|今日《こんにち》まで語りつがれている。風見の話を信じている人たちは、一度それを信じこんでしまった以上、容易にその話を手放そうとはせず、その結果、彼らはできるだけさとりすました顔をし、肩をすくめ、額をさすり、ゲイブリエル・グラブがオランダ製のジンをすっかり飲みほし、平らな墓石の上で眠りこんでしまったとかなんとかつぶやき、ゲイブリエルが鬼の穴蔵で見たと思っていたものを、彼が世の中の見聞を深め、利口になったのだと言って説明しようとしている。しかし、どんな時代にもあまり人に好まれなかったこの意見は、消滅してしまった。そのことはどうあろうとも、ゲイブリエル・グラブは終生リューマチになやまされていたのであるから、この話は、もっとましな教訓ではないにせよ、少なくともつぎの教訓だけはもっていることになる。つまり、クリスマスのときに人が不機嫌になり、ひとりで酒を飲むといったようなことをすると、妖精がどんなによいものであろうと、また、妖精が、ゲイブリエル・グラブが鬼の洞穴で見た妖精と同じように、証明できないものであろうとも、その当人自身はそれでなんの利益も得られぬものと、その人は覚悟しなければならないのだ。
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第三十章
[#3字下げ]ピクウィック・クラブ会員たちが医学生の好ましいふたりの青年と知り合いになり、彼らが氷の上でたわむれ、彼らの最初の訪問が終わるいきさつ
「うん、サム」クリスマスの日の朝、このお気に入りの召使いが湯をもって寝室にはいってきたとき、ピクウィック氏は言った、「まだ凍りついた寒さがつづいているかね?」
「洗面だらいの水には氷がはってます」サムは答えた。
「きびしい気候だな、サム」ピクウィック氏は言った。
「しっかりとつつまれてるもんには好都合なときです、北極の熊がスケートをやってるとき考えてたようにね」ウェラー氏は答えた。
「十五分したら、わしは下におりてゆくよ、サム」ナイトキャップのひもをゆるめながら、ピクウィック氏は言った。
「よくわかりました」サムは答えた。「下にはふたりのソーボーン(骨をのこぎりで切るの意)がいます」
「なにがふたりだって!」寝台の上に坐って、ピクウィック氏は叫んだ。
「ふたりのソーボーンです」サムは答えた。
「ソーボーンって、なんだね?」それが生きている獣か、なにか食べ物かよくわからないので、ピクウィック氏はたずねた。
「あれっ! ソーボーンがなにか、知らないんですか?」ウェラー氏はたずねかえした。「ソーボーンが外科医なことは、だれでも知ってると思ってましたがね」
「おお、外科医かね、えっ?」にっこりとしてピクウィック氏は言った。
「まさにそうです」サムは答えた。「でも、下にいる連中はれっきとしたソーボーンではありませんよ。教育を受けてる最中ですからね」
「というのは、医学生だというのだね?」ピクウィック氏はたずねた。
サム・ウェラー氏はそうだとうなずいた。
「それはうれしいな」ナイトキャップをパッと掛け布団に投げつけて、ピクウィック氏は言った、「そうした連中はおもしろい男、とてもおもしろい男だよ。観察と思索で判断力が成熟し、読書と研究で好みが洗練されているのだからね。それはとてもうれしいことだ」
「彼らは台所の炉のとこで葉巻きをふかしてます」サムは言った。
「ああ!」両手をこすりながら、ピクウィック氏は言った、「やさしい気持ちと元気にあふれてな。それは、見て楽しいものだよ」
「そして、ひとりは」主人が口を入れたことに注意も払わずに、サムは言った、「そのひとりは両脚をテーブルに乗っけ、ブランデーを|生《き》のまま飲み、もうひとりの男――眼鏡をかけてる男――は膝のあいだにかき[#「かき」に傍点]のたるをかかえこみ、そいつをさっさと開いて、それを食うなりどんどん、かき[#「かき」に傍点]の殼を炉の隅でぐっすり眠ってるあの若い水|腫《ぶく》れ(太った少年のこと)に投げつけてます。」 「天才の奇癖というやつさ、サム」ピクウィック氏は言った。「もう、さがっていいよ」
サムはそこで引きさがった。ピクウィック氏は、十五分たつと、朝食に階下におりていった。
「とうとうおりてきたな!」老ウォードル氏は言った。「ピクウィック、こちらはアレン嬢の兄、ベンジャミン・アレン氏だ。われわれは彼をベンと呼んでいるが、きみも、もしよかったら、そう呼んでいいよ。こちらの紳士は彼の親友――」
「ボッブ・ソーヤー氏です」ベンジャミン・アレン氏が口をはさんだ。そう言って、ボッブ・ソーヤー氏とベンジャミン・アレン氏は声を合わせて笑った。
ピクウィック氏はボッブ・ソーヤー氏にお辞儀をし、ボッブ・ソーヤー氏はピクウィック氏にお辞儀をした。ボッブと彼の親友はそれから、ふたりの前にあった食べ物をせっせと食べだし、ピクウィック氏はその機会を利用して、ふたりをチラリチラリとながめていた。
ベンジャミン・アレン氏はがさつな、太った、ずんぐりした青年、髪はそうとう短かくかり、青い顔はそうとうながいものだった。彼は眼鏡で飾られ、白いネッカーチーフを着けていた。顎までボタンを着けられていた一列ボタンの黒い外套の下には、霜降り色の二本脚が見え、その先はあまりみがいてない靴で終わっていた。上衣の袖は短かかったが、リンネルの袖口の痕跡を示してはいなかった。そして、シャツのカラーの侵入を許すくらいの十分の顔はありながらも、それはいささかでもそうした付加物らしき物で飾られてはいなかった。彼は、ぜんたいとして、そうとうかび臭いようすを示し、十分に風味をつけたキューバタバコのプンプンするにおいを発散させていた。
大外套でもなし、さりとてふつうの外套でもなく、その両者の性格を兼ねそなえていた粗末な青い外套を着ていたボッブ・ソーヤー氏は、昼間街路でタバコをすい、夜はそこで大声をはりあげ、給仕をなれなれしくその洗礼名で呼び、それと同類のおかしなさまざまの所作・行動をしている若い紳士特有のだらしのない気どったふうや、ふんぞりかえって歩く癖をもっていた。彼は格子縞のズボンをはき、大きな、粗末な二列ボタンのチョッキを着こみ、戸外では、大きな頭のついた太いステッキをもっていた。彼は手袋ははめず、だいたいのところ、放蕩者のロビンソン・クルーソーといった風貌の持ち主だった。
クリスマスの朝、ピクウィック氏が朝食のテーブルについたとき、彼が紹介されたふたりのお偉方は、こうした人物だった。
「諸君、すばらしい朝ですな」ピクウィック氏は言った。
ボッブ・ソーヤー氏はこの言葉にだまって、そうだ、とうなずき、ベンジャミン・アレン氏に、からしをとってくれ、と言った。
「おふたりとも、今朝遠くからおいでだったんですか?」ピクウィック氏はたずねた。
「マグルトンの『青獅子旅館』から」簡単にアレン氏は答えた。
「きのうの晩、われわれといっしょになってくださればよかったんですがね」ピクウィック氏は言った。
「そうするとこだったんですが」ボッブ・ソーヤー氏は答えた、「ブランデーがうますぎて、さっさと出ることができなくなってしまったんです。そうじゃなかったかい、ベン?」
「うん、そうさ」ベンジャミン・アレン氏は言った。「それに葉巻きも豚の厚切りの肉も、まんざらではなかったしね。まずかったかい、ボッブ?」
「たしかに、まずくはなかったね」ボッブは言った。ふたりの親友は、まるで昨夜の夕食の思い出で食事にたいする新しい食欲がつけられたように、朝食をまたモリモリと食べはじめた。
「せっせとやれよ、ボッブ」はげますようにアレン氏は相手に言った。
「うん、そうしてるよ」ボッブ・ソーヤー氏は答えたが、たしかに、彼はそのとおりだった。
「解剖ほど人に食欲を与えるものはないな」テーブルを見まわして、ボッブ・ソーヤー氏は言った。
ピクウィック氏はちょっとブルッと体をふるわせた。
「ところで、ボッブ」アレン氏は言った、「あの脚はもう終えたかい?」
「ほぼね」話しながら、鳥一羽の半分くらいの肉を自分にとって、ソーヤー氏は言った。「子供の脚にしては、ずいぶん筋肉のたくましいやつだよ」
「そうかい?」無造作にアレン氏はたずねた。
「とてもね」ほおばったまま、ボッブ・ソーヤー氏は答えた。
「学校で、腕のほうを志願したんだがね」アレン氏は言った、「解剖用死体で研究個所ごとにクラブをつくって、その志願者名簿はほぼ満員になってるんだがね、頭のない死体が手にはいらないんだ。きみが頭を受けもってくれればいいんだがな」
「いや、だめだ」ボッブ・ソーヤー氏は答えた。「金のかかるぜいたくなんかする余裕はないからね」
「ちぇっ、バカな!」アレン氏は言った。
「いや、じっさい、だめなんだ」ボッブ・ソーヤー氏は答えた。「脳だったらかまわないんだけどね、頭まるまるひとつは、とてもだめだね」
「しっ、しっ、おねがいしますよ、みなさん」ピクウィック氏は言った、「ご婦人方がおいでのようですからな」
こうピクウィック氏が言っているとき、ご婦人方が、スノッドグラース氏、ウィンクル氏、タップマン氏に慇懃に護衛されて、朝早くの散歩からもどってきた。
「まあ、ベン!」自分の兄の姿を見てよろこびより驚きをあらわしている口調で、アラベラは言った。
「明日きみを家につれて帰るためにやってきたのさ」ベンジャミンは答えた。
ウィンクル氏は真っ青になった。
「ボッブ・ソーヤー氏に気がつかないのかね、アラベラ?」ちょっとなじるようにベンジャミン・アレン氏は言った。ボッブ・ソーヤー氏の存在を認めているというしるしに、アラベラはやさしく手をさしのべた。ボッブ・ソーヤー氏がそのさしのべられた手をそれとわかるほどギュッとにぎりしめたとき、憎しみの悪寒がウィンクル氏の心に走った。
「ねえ、ベン!」顔を赤らめながら、アラベラは言った、「あなたは――あなたは――ウィンクルさんにご紹介ずみ?」
「いや、まだだよ。紹介してもらえれば、とてもうれしいがね、アラベラ」重々しく彼女の兄は答えた。ここでアレン氏はウィンクル氏に冷たいきびしい態度でお辞儀をし、ウィンクル氏とボッブ氏は、目の端から相互不信のようすをあらわして、チラリと目をかわしていた。
ふたりの新しい客の到着、その結果起こったウィンクル氏と靴のまわりに毛皮をつけた若いご婦人の窮屈さは、ピクウィック氏の陽気さとウォードル氏の上機嫌が全員の幸福のために最大限に発揮されなかったら、この人たちの楽しさにとても不愉快な障害となったことだろう。ウィンクル氏はだんだんとベンジャミン・アレン氏にうまくとりこみ、ボッブ・ソーヤー氏との友好的な話にも加わりはじめ、ボッブは、ブランデー、朝食、おしゃべりで元気づいて、だんだんとひどいふざけをとばすようになって、ある紳士の頭の腫瘍の除去に関する愉快な話をおもしろおかしく語り、それをかき[#「かき」に傍点]のナイフと二ポンドのパンのかたまりで説明して、そこに集まった人たちを大いに啓発した。それから、全員そろって教会にいったが、そこでは、ベンジャミン・アレン氏はぐっすりと眠りこみ、ボッブ・ソーヤー氏は、座席に四インチのながさの太い文字で自分の名を刻みこむといったたくみな方法で、俗事から心を解放させていた。
「さて」強いビールとチェリーブランデー(さくらんぼをブランデーに一、二か月ひたし、砂糖を加えてつくったリキュール)といったおいしいもののついた豊かな昼食を十分に味わったあとで、ウォードル氏は言った、「一時間氷すべりはどうだね? 時間は十分にあるからね」
「すばらしい!」ベンジャミン・アレン氏は言った。
「すごい!」ボッブ・ソーヤー氏は叫んだ。
「きみも、もちろん、すべるね、ウィンクル?」ウォードル氏はたずねた。
「えっ――ええ。ああ、いいですよ」ウィンクル氏は答えた。「わたしは――わたしは――そうとう[#「そうとう」に傍点]練習不足でしてね」
「おお、ウィンクルさん、どうか[#「どうか」に傍点]おすべりになって」アラベラは言った。「それを見るのがとても好きなの」
「おお、それはとても[#「とても」に傍点]優美なものですものね」べつの若い婦人が言った。
第三の若い婦人はそれが上品なものと言い、第四の若い婦人はそれが「白鳥のよう」だと言った。
「ほんとに、とてもうれしいんですが」赤くなってウィンクル氏は言った、「スケート靴がないんです」
この反対はすぐにおしきられてしまった。トランドル氏は二足それをもち、太った少年は階下にそれが六足あることを知らせたからである。そこでウィンクル氏は大きなよろこびを表明し、いかにも落ち着かないようすを示していた。
老ウォードル氏は先に立って氷のはったかなり大きな場所にゆき、太った少年とウェラー氏が、前夜降りつもった雪をシャベルで払いのけ、ボッブ・ソーヤー氏は、ウィンクル氏にはまったくすばらしいものと映ったたくみさで、自分のスケート靴をはき、左の脚で円をえがき、8の字を描き、息つぎに一度もとまることなく、愉快な驚くべきほかの模様を氷の上に書き、ピクウィック氏、タップマン氏、ご婦人方をいたく満悦させ、老ウォードル氏とベンジャミン・アレン氏は、このボッブ・ソーヤー氏に助けられて、彼らがリール踊り(スコットランドの元気な踊りで、ふつう向かい合った二組の踊り手で踊られ、8の字をつづいて描く)と呼ぶいくつかの神秘的な旋回をおこなったとき、それは最高潮に達した。
このあいだじゅうずっと、ウィンクル氏は、寒さで顔と手を青くさせて、靴底に滑走具をむりやりとりつけ、靴の先をうしろにまわして、スケート靴をはこうとし、そうした靴のことはなにも知らないスノッドグラース氏の助けを借りて、靴のひもをとても複雑な、こんがらがったものにしていた。しかしながら、とうとう、ウェラー氏の援助で不幸なスケート靴はしっかりと結びつけられ、びじょう金もつけられて、ウィンクル氏は立たされることになった。
「さあ、これでいいんです」はげますような口調でサムは言った。「とびだして、スケートはどうやるもんかを、みんなに見せてください」
「ちょっと、サム、ちょっと!」ひどくふるえ、おぼれかけている人のようにサムの両腕をしっかりとつかんで、ウィンクル氏は言った。「なんてすべっこいんだろう、サム!」
「氷の上なら、べつに珍しいことじゃありませんよ」ウェラー氏は答えた。「倒れないでくださいよ!」
ウェラー氏のこの最後の言葉は、両脚を空中に投げあげ、頭のうしろを氷にたたきつけようとする狂気じみた欲望を、ウィンクル氏がその瞬間に示したことにたいする言葉だった。
「これは――これは――困った靴だ。そうじゃないかい、サム?」よろよろしてウィンクル氏はたずねた。
「靴ん中に困った紳士がいるんじゃないんですかね?」
サムは答えた。
「さあ、ウィンクル」困ったことが起きているのにはぜんぜん気づかずに、ピクウィック氏は叫んだ。「さあ、ご婦人方がみんなお待ちだぞ」
「ええ、ええ」おそろしい微笑を浮かべて、ウィンクル氏は答えた。「すぐゆきますよ」
「いま、はじめるとこです」自分の体をふりはなそうとしながら、サムは言った。「さあ、とびだすんです!」
「ちょっと待ってくれ、サム」ウェラー氏に強い愛情をこめてすがりつきながら、ウィンクル氏はあえいだ。「もう用のない二着の上衣が家にあることがわかったんだ、サム。それをきみにやってもいいよ、サム」
「ありがとうございます」ウェラー氏は答えた。
「サム、帽子に手をかける必要はないよ」急いでウィンクル氏は言った。「そのために手を放さなくてもいいよ。今朝、クリスマスの贈り物として、きみに五シリングあげるつもりだったんだ、サム。それは午後にあげるよ、サム」
「とてもありがたいしだいです」ウェラー氏は答えた。
「最初、ぼくを、サム、ちょっと抑えていてくれないか?」ウィンクル氏は言った。「うん――それでいい。すぐこれに馴れるよ、サム。早すぎちゃいかん、サム、早すぎちゃ」
ウィンクル氏は体をほとんど折りこんで前かがみになり、じつに奇妙な、白鳥らしからぬふうに、ウェラー氏に助けられて氷の上をソロソロとすべっていったが、そのとき、なにも知らないピクウィック氏は向こうの土堤から叫んだ――
「サム!」
「はい?」
「ここだ。用があるのだ」
「放してください」サムは言った。「旦那さまがお呼びになってるのが聞こえるでしょう? 放してください」
激しく身を動かして、ウェラー氏は困り果てているウィンクル氏の手からのがれ、そうしながら、不幸にも、ウィンクル氏にそうとう強いはずみをあたえてしまった。どんなたくみさ、どんな練習ぶりを発揮しても必ずしも獲得できぬほどの正確さで、この不幸な紳士は、ボッブ・ソーヤー氏が無類の美技を演出しているちょうどそのとき、リール踊りの真っただなかにさっととびこんでいった。ウィンクル氏はすごい勢いで彼につき当たり、大きな物音を立てて、ふたりともズシンと倒れた。ピクウィック氏はその場所に走っていった。ボッブ・ソーヤー氏はもう立ちあがっていたが、ウィンクル氏はスケート靴をはいていたので、賢明至極、そんなことはしなかった。彼は氷の上に坐りこみ、ただ痙攣的に微笑を示そうとこれつとめていたが、彼の顔のあらゆる箇所には苦悶の表情が描きだされていた。
「傷しましたかね?」いかにも心配そうにベンジャミン・アレン氏はたずねた。
「たいしたことはありません」背中をせっせとこすりながら、ウィンクル氏は答えた。
「手術でぼくに放血をさせてくれたらいいんですがね」すごくむきになってベンジャミン氏は言った。
「いいや、ありがとうございます」あわててウィンクル氏は答えた。
「それをしたほうが、ほんとにいいと思いますがね」アレン氏は言った。
「ありがとうございます」ウィンクル氏は答えた。「でも、したくはないのです」
「あなたは[#「あなたは」に傍点]どうお考えです、ピクウィックさん?」ボッブ・ソーヤー氏はたずねた。
ピクウィック氏は興奮し、プリプリしていた。彼は手でウェラー氏をさしまねき、きびしい声で「彼の靴をぬがせてやれ」と言った。
「いや、まったく、いまはじめたばかりなんですからね」ウィンクル氏は抗議した。
「彼の靴をぬがせてやれ」きっぱりとピクウィック氏はくりかえした。
この命令は逆らえぬものだった。ウィンクル氏はだまったまま、サムにその命令を実行させていた。
「彼をだきあげてやれ」ピクウィック氏は言った。サムは彼が立ちあがるのを助けてやった。
ピクウィック氏は見物人のところから数歩さがり、彼の友人を近くにさしまねき、さぐる目を彼の上にしっかとそそぎ、低いがはっきりとした強い口調で、つぎのような注目すべき言葉を述べた――
「きみはいかさま師だぞ」
「なんですって?」ギクリとして、ウィンクル氏はたずねた。
「いかさま師さ。もしそれが希望なら、もっとはっきり言おう。ぺてん師なんだ」
こう言って、ピクウィック氏はゆっくりと向きなおり、元どおり自分の友人たちのところへもどっていった。
ピクウィック氏がいま伝えた意見を述べているあいだに、ウェラー氏と太った少年は力を合わせて滑走場をつくりだし、じつにうまい華かなふうに、その上ですべっていた。とくにサム・ウェラーは、世間ではひろく「靴なおしの戸たたき」と命名され、片脚で氷の上をすべり、のこりの脚でときどき氷を郵便配達夫のようにトントンたたいて達成できる変わった型のすべり方の美しい演技を示していた。それはみごとなながいすべり方で、動かないでいたためにとても寒くなっていたピクウィック氏がうらやましくてたまらなくなるようななにかあるものを、その動きの中にもっていた。
「あれは温かくなりそうな運動らしいね、どうだい?」ウォードル氏が両脚を一対のコンパスに変え、氷の上に複雑な問題を熱心にグングンと書きまくったためにすっかり息が切れてしまったとき、彼はこの紳士にたずねた。
「ああ、まったくそのとおりだね」ウォードル氏は答えた。「きみはすべるかね?」
「子供のときには、いつもみぞの上をすべっていたものだがね」ピクウィック氏は答えた。
「いま、やってみたらいいじゃないか」ウォードル氏は言った。
「おお、どうか、ピクウィックさん」婦人たちはみな叫んだ。
「あなた方を楽しませてあげられたら、とてもうれしいのですが」ピクウィック氏は答えた、「この三十年間、そうしたことはぜんぜんやっていないのです」
「チェッ! チェッ! バカな!」彼のやり方すべての特徴になっている性急さでスケート靴をひきずりながら、ウォードル氏は言った。「さあ。きみといっしょにいってあげるよ。さあ、来なさい!」こう言って、ウェラー氏とほんのすれすれになり、太った少年をふっとばしてしまった速度で、上機嫌の老人は滑走場をふっとんでいった。
ピクウィック氏は立ちどまり、考えこみ、手袋をぬいで、それを帽子にはさみ、二、三度ちょっと走り、その度にまた立ちどまり、とうとうもう一度走って、全観衆のよろこびの喊声につつまれながら、ゆっくりと重々しく、両脚を一ヤード四分の一くらい開いたまんまの姿勢で、滑走場をすべっていった。
「元気でやってくださいよ!」サムは叫び、ふたたびウォードル氏がすべってゆき、それからピクウィック氏、それからサム、それからウィンクル氏、それからボッブ・ソーヤー氏、それから太った少年、それからスノッドグラース氏と、つぎからつぎへと|踵《きびす》を接して滑っていって、まるで人生の将来における見とおしがそれぞれのスピードにかかっているような猛烈な勢いで、たがいのあとを追いかけていった。
ピクウィック氏がこの儀式で自分の責任を果たしている態度をながめ、うしろの人が彼をひっくりかえしそうな勢いで彼に近づいてくるのを見ているときの彼の拷問の苦しみに似た苦悶の表情をながめること、走って最初につけた勢いをだんだん使い果たし、滑走場でゆっくりふりかえって自分が出発した箇所に顔を向け、それだけの距離をすべったことで、彼の顔をおおうことになった愉快そうな微笑、それが終わったとき、彼がグルリと向きを変え、先にすべってゆく人を追いかけてゆくむきな表情、彼の黒いゲートルが雪の中をとおしてチョコチョコと踊り、彼の目が眼鏡をとおして陽気さとよろこびに輝いているのをながめるのは、じつに楽しみきわまりないことだった。そして彼が倒れたとき(これは三回まわるごとに平均一度は起きたことだが)、彼が帽子、手袋、ハンカチをかっかとほてった顔をして集め、どんなことにもくじけぬ熱心さと情熱で、列の中の自分の場所につこうとするのをながめるのは、じつに想像し得るかぎりのさわやかな場景だった。
このスポーツが最高潮に達し、スケートはフルスピード、笑いの声がグングンと昴まっていったとき、鋭いバリバリッという音がひびいた。土堤に向けて一同がさっと走り、婦人たちからは激しい悲鳴があがり、タップマン氏は大声を出した。大きな氷のかたまりが消え、水がブクブクとそこに湧きあがっていた。ピクウィック氏の帽子、手袋、ハンカチが水面に浮かんでいたが、これが目にはいるピクウィック氏のすべてだった。
狼狽と苦悶の表情がすべての人の顔に描きだされ、男は青くなり、女は気絶し、スノッドグラース氏とウィンクル氏はたがいに手をにぎり合い、狂気のようにむきになって、彼らの指導者が沈んだ場所をジッと見つめていた。一方、タップマン氏は、できるだけ早く救助をし、同時に、聞くことができるすべての人にできるだけはっきりと、このおそろしい結末を知らせるために、フルスピードで野原を突っ走ってゆき、声をかぎりに「火事だ!」と叫んでいた。
老ウォードル氏とサム・ウェラーが用心しながら穴に近づき、ベンジャミン・アレン氏がボッブ・ソーヤー氏とあわただしく打ち合わせをし、ためになるちょっとした療法として、そこににいる全員に放血をおこなう可否を論じていたちょうどそのとき――ちょうどそのとき、顔・頭・肩が水の下からあらわれ、ピクウィック氏の顔と眼鏡が浮かび出た。
「ちょっとのあいだ、元気を出していてくださいよ――ほんのちょっとのあいだ!」スノッドグラース氏はわめいた。
「ええ、そうです。おねがいします――わたしのために!」ひどく感動して、ウィンクル氏はどなった。この懇願はむしろ不必要なものだった。ほかのだれかのために元気を出すのをピクウィック氏が拒否したとしても、自分自身のためにそうしたほうがいいと考えただろうというのは、十分にあり得ることだったからである。
「きみ、そこでは底に足がとどくかい?」ウォードル氏はたずねた。
「うん、たしかにね」頭と顔から水をふりはらい、あえいで、ピクウィック氏は答えた。「うしろ向きにひっくりかえったので、最初は立てなかったんだ」
まだはっきりと見えているピクウィック氏の上衣の大部分についていた泥は、この言葉の正しさを証明し、見ている人たちの恐怖心は、太った少年が急に、水はどこでも五フィート以上の深さはない事実を思い出したことで、グッと軽くなったので、彼を引き出すために、真実とは思えぬほどの勇気が発揮された。いろいろと水をはねかえし、氷をビシビシッと割り、悪戦苦闘したあとで、ピクウィック氏はとうとうその不愉快な場所からすっかりぬけだし、ふたたび乾いた土の上に立つことになった。
「おお、寒さで死んでしまうことよ」エミリーは言った。
「かわいそうなおじいさん!」アラベラは言った。「このショールをあなたにまきつけてあげるわ、ピクウィックさん」
「ああ、それはいちばんありがたいことだよ」ウォードル氏は言った。「そして、それをまきつけたら、できるだけ早く急いで家にかけていって、すぐ寝床にとびこむんだ」
何枚かのショールが即座にさし出された。三、四枚のいちばん厚いのが選びぬかれ、ピクウィック氏はそれにつつまれ、ウェラー氏の案内で出発したが、それは、一時間六マイルはたっぷり進む速度で、これといったはっきりとした目的もなく、水をしたたらせ、帽子もかぶらず、両腕とも脇にピタリつけられて、地面の上をとんでゆくじつに奇妙な姿の初老の紳士を現出していた。
だが、こうした緊急事態で、ピクウィック氏は外見などにかまってはおられず、サム・ウェラーにうながされて、ファーム館に着くまでは、最高速度で突進していった。ファーム館にはタップマン氏が五分くらい前に到着、台所の煙突が燃えあがったというはっきりとした確信を老夫人に与えて、彼女をふるえあがらせ、その心臓をドキドキさせていた。これは、老夫人のまわりにいるだれかが少しでも興奮したようすを見せると、燃え立つ色で彼女の心に浮かんでくる不幸の姿だったからである。
ピクウィック氏は一刻もグズグズせず、気持ちよく寝台におさまることになった。サム・ウェラーは部屋に燃え立つ火をつけ、彼の夕食を二階に運んできた。わんに入れたポンスがその後もちこまれ、彼の安全を祝って、大酒宴が開かれた。老ウォードル氏はピクウィック氏が起きあがるのを聞き入れようとはせず、そこで一同は寝台を議長席に仕立て、ピクウィック氏が議長役をすることになった。二杯目、三杯目のポンスのわんが注文され、翌朝ピクウィック氏が目をさましたときには、リューマチの兆候はぜんぜん起きていなかった。これは、ボッブ・ソーヤー氏がじつに当を得て言ったことだったが、こうした場合にはポンス酒ほどきくものはなく、もし熱いポンス酒が予防薬として効果をあげなかったら、患者がそれを十分に飲まないという世間でひろくあやまり信じられている事実によるのだということを証明していた。
この愉快な会合は翌朝解散になった。解散は、われわれの学校時代には、すばらしいものだが、それからあとでは、じつにつらいものである。死、自分の利害関係、運命のうつり変わりは、毎日多くの幸福な一団の人たちを解散させ、彼らをひろく遠くにまき散らし、少年や少女は二度と帰ってくることはない。今度の場合も、ちょうどそれと同じだった、と言うつもりはない。読者にお知らせしたいのは、ただ、この会合のそれぞれの人たちがそれぞれの家に散っていったということだけである。ピクウィック氏とその友人たちはふたたびマグルトンの駅伝馬車の上の席に乗りこみ、アラベラ・アレンは、それがどこにあろうとも、その行く先のところにゆき――その場所は、ウィンクル氏はたぶん知っているだろうが、われわれははっきりとは知らない――彼女の兄のベンジャミンとその親友ボッブ・ソーヤー氏に守られていたとお伝えできるだけである。
しかし、彼らがわかれる前、ボッブ・ソーヤー氏とベンジャミン・アレン氏は、なにか神秘的なふうに、ピクウィック氏をわきに呼び、ボッブ・ソーヤー氏は人さし指をピクウィック氏の二本の肋骨のあいだにつっこみ、それで同時に彼の生来の茶目っ気と人体の解剖学的知識を示して、こうたずねた――
「ねえ、あんたはどこに|住んでる《ハング・アウト》(住む」という意と「ぶらさがる」の意があり、後の意味でピクウィックのサスペンド「さがる」につづく)んです?」
ピクウィック氏は、さし当たっていまは、『ジョージと禿鷹旅館』に|いる《サスペンド》と答えた。
「ぼくのとこに遊びにきてくださったらいいんだが」ボッブ・ソーヤー氏は言った。
「大よろこびでゆきますよ」ピクウィック氏は答えた。
「ここがぼくの下宿です」名刺を出しながら、ボッブ・ソーヤー氏は言った。「バラのラント通り、ガイ病院の近くで、ぼくには便利なとこなんです。聖ジョージ教会をとおってから少しいき――大通りを右にまがっていくんです」
「きっと見つかりますよ」ピクウィック氏は答えた。
「二週間後の木曜日に来てください。そして、ほかの連中もいっしょにつれてくるんですよ」ボッブ・ソーヤー氏は言った、「その夜、ぼくも何人か医学生を呼ぶつもりです」
ピクウィック氏は医学生に会うのがどんなに楽しいかを話し、ボッブ・ソーヤー氏は大いにおしゃべりをするつもり、友人のベンもその仲間に加わるはずだ、ということを知らせてから、彼らは、握手をし、わかれていった。
以上の短い会話のあいだ、ウィンクル氏がアラベラ・アレンにささやいていたかどうか、もしそうだったら、彼はなにを話したのか、さらに、スノッドグラース氏がはなれてエミリー・ウォードルと話していたかどうか、もしそうだったら、彼は[#「彼は」に傍点]なにを話したのか、といった質問にわれわれはここで答えなければならないと思う。これにたいして、われわれは、ご婦人方になにを話したにせよ、二十八マイルの道中、彼らはなにもピクウィック氏やタップマン氏に語らず、彼らがじつにしばしば溜め息をもらし、ビールもブランデーも断わって、陰鬱そうなようすをしていたと言うだけである。観察力のあるご婦人の読者がこうした事実からなにか満足すべき推測を引きだせるものとしたら、われわれはそうした読者にぜひともそれをしていただくようにおねがいするだけである。
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第三十一章
[#3字下げ]法律とそれに通じたさまざまの偉大な権威者についての話
|聖堂騎士団の殿堂《テムプル》(ロンドンにあり、その跡に法学院の一部、インナー・テムプルとミドル・テムプルがある)のさまざまな穴蔵・隅にまき散らされて、暗いきたない部屋があり、休廷期の午前中ずっと、また、開廷期の夕方の半分、弁護士の書記のほとんどとぎれのない流れが、書類のたばを小脇にかかえ、それをポケットから突き出して、あわただしく右往左往しているのが見受けられる。弁護士の書記にはいくつかの階級がある。年季契約の書記があり、それは謝礼金が支払いずみ、ゆくゆくは弁護士になる人で、仕立て屋の勘定をとどこおらせ、会の招待を受け、ガウア通りの家族やタヴィストック|広場《スクウエア》の家族と知り合い、夏期休暇のたびごとに父親と会いにロンドンからはなれ、無数の馬を飼い、簡単に言えば、書記の中のまさに貴族階級的人物である。俸給をもらっている書記――必要に応じて、戸外と戸内の書記があり、その週給三十シリングの大部分を自分の遊びと飾りに使い、少なくとも週に三回は半額でアデルフィ劇場にかよい、その後、りんご酒の貯蔵所ではでな金使いをし、六か月前の流行のきたならしい漫画といった存在である。大きな家族をかかえた中年の筆写の書記があり、彼はいつもむさくるしい恰好をし、ときどき酔っ払っている。はじめての外套を着こんだ事務所の青年たちがいるが、彼らは当然のことながら通学学校(イギリスでは寄宿学校が大部分)の生徒を軽蔑し、夜家に帰ると、クラブにいって塩豚ソーセージと黒ビールを味わい、こんなに楽しい生活はないものと考えている。この種類にはさまざまの変種があり、あまり多いのでいちいちそれをあげられないくらいだが、彼らがどんなに多かろうとも、ある定まった執務時間には、彼らがいま申した場所をあわただしく右往左往するのを見受けることができる。
こうした引きこもった片隅は法律の官庁であり、そこでは令状が出され、判決が署名され、布告が書類差しにとじこまれ、数多くのほかの精密な機械が、陛下の臣民に拷問の責め苦を味わわせ、法律の従業者を楽しませ、彼らに利益を与えるように、動かされている。そうした事務所は、大部分、天井の低い、かびくさい部屋で、そこでは、過去一世紀のあいだ、人知れず汗をかきつづけていた無数の巻いた羊皮紙が快いかおりを発し、それは昼間にはむれくさったにおいとまじり合い、夜には湿った外套、くさりかけた傘、いちばん粗末な獣脂のろうそくから発するさまざまな発散物とまじり合っている。
ピクウィック氏と彼の友人たちがロンドンにもどってきてから十日か二週間たったある夕方の七時半ころに、真鍮のボタンのついた褐色の上衣を着た男が、こうした事務所のひとつにあわただしくはいっていったが、そのながい髪の毛は細心の注意を払ってすり切れた帽子のへりのまわりに巻きつけられ、そのくすんだとび色のよごれたズボンが編上げ半長靴の上でピッタリと肌についてはかれていたので、膝がもうすぐにもとび出しそうな恰好になっていた。彼は上衣のポケットから細ながい羊皮紙の切れをひっぱりだしたが、その上に、監督の長の役人のわけのわからぬ黒の印がおされてあった。彼はそこから同じ大きさの四枚の紙を引き出したが、そこには、名を書きこむために空所のある羊皮紙の印刷した写しが書かれてあり、彼はこの空所に名を書きこんでから、五枚の文書をポケットにしまい、セカセカとそこから出ていった。
神秘的な書類をポケットにおさめた褐色の上衣の男は、ほかならぬわれわれの旧友、コーンヒルのフリーマン・コートにあるドッドソンとフォッグ事務所のジャックソンだった。しかし、彼がやってきたところから事務所にはもどらずに、彼は足をサン・コートに向け、まっすぐ『ジョージと禿鷹旅館』にはいっていって、ピクウィック氏という人物が中にいるかどうかをたずねた。
「トム、ピクウィックさんの召使いの人を呼んでちょうだい」『ジョージと禿鷹旅館』の酒場の女中は言った。
「心配することはないよ」ジャックソン氏は言った、「わたしは用件で来たんだ。ピクウィックさんの部屋を教えてくれたら、わたしが自分であがっていくからね」
「お名前は?」給仕がたずねた。
「ジャックソンだよ」書記は答えた。
給仕はジャックソン氏の名を伝えるために階段をあがっていったが、ジャクソン氏はそのあとにピタリとついてゆき、給仕がまだ一言も言わないうちに部屋にはいっていった給仕に面倒をかけはしなかった。
ピクウィック氏は、その日、彼の三人の友人を晩餐にまねき、彼らがみな炉のまわりに坐って、ぶどう酒を飲んでいたとき、ジャックソン氏が、上記のように、姿をあらわした。
「ご機嫌いかがです?」ピクウィック氏にうなずいて、ジャックソン氏は言った。
ピクウィック氏はお辞儀をし、そうとうびっくりしているふうだった。ジャックソン氏の顔を彼は忘れていたからである。
「ドッドソンとフォッグの事務所から来たんです」説明的な調子でジャックソン氏は言った。
その名を聞いて、ピクウィック氏はグッときた。「わたしの弁護士のところへいってください。グレイ・インのパーカー氏ですがね」彼は言った。「給仕君、この方を外にご案内してくれ」
「失礼ですが、ピクウィックさん」ゆっくりと帽子を床の上におき、ポケットから羊皮紙の切れを出して、ジャックソンは言った。「こうした事件で、これは、ピクウィックさん、書記か代理人がおこなう個人的サービスなんですよ――すべての法律上の形式で、用心に越すことはないでしょうが?」
ここでジャックソン氏は羊皮紙にチラリと目をやり、両手をテーブルにつき、愛想のいい説得的な微笑を浮かべてあたりをながめまわして、言った、「さあ、さあ、こんなちょっとしたことで文句を言うのはやめにしましょう。あなた方のうちで、スノッドグラースという名の方はどなたです?」
こうたずねられて、スノッドグラース氏はじつにいつわらぬ、はっきりとしたふうにギクリとしたので、それ以上の返事は必要のないことになった。
「ああ、そう思ってましたよ」前よりもっと愛想よく、ジャックソン氏は言った。「あなたにご面倒かけなければならないちょっとしたことがあるんですがね」
「わたしにですって!」スノッドグラース氏は叫んだ。
「バーデルとピクウィック事件で、原告のための召喚状にすぎないんですがね」一枚の紙切れを選りだし、チョッキのポケットから一シリングとりだして、ジャックソンは答えた。「それは開廷期になると来るでしょう。二月の十四日と思いますがね。それは特別な陪審事件で、書類では十行のもんです。これはあなたのもんです、スノッドグラースさん」こう言いながら、ジャックソンは羊皮紙をスノッドグラース氏の目の前に示し、紙切れと一シリングを彼の手にスッとわたした。
タップマン氏は、だまったままびっくりして、これをながめていたが、ジャックソンは、さっと彼のほうに向きなおって、言った、「もし勘ちがいでなけりゃ、あんたのお名前はタップマンでしょう、どうです?」
タップマン氏はピクウィック氏をながめたが、ピクウィック氏のかっと見開いた目に自分の名を否定せよといったようすもなかったので、言った――
「そう、ぼくの名はタップマンですよ[#「ですよ」に傍点]」
「そうして、もうひとりの方はウィンクルさんですな?」ジャックソンは言った。
ウィンクル氏はそうだとどもりながら答え、ふたりの紳士は巧妙なジャックソン氏によって紙切れと一シリングをそれぞれわたされた。
「さて」ジャックソンは言った、「面倒なやつだとわたしのことをお思いでしょうが、もしご都合がわるくなかったら、もうひとり|要《い》るんです。ピクウィックさん、ここにサミュエル・ウェラーという名があるんですがね」
「給仕君、わしの召使いをここによこしてくれたまえ」ピクウィック氏は言った。そうとうびっくりして、給仕は引きさがり、ピクウィック氏は身ぶりでジャックソンに坐れと伝えた。
苦しい沈黙がつづいたが、それはとうとう、罪なき被告ピクウィック氏によって破られた。
「わたしは思うのですがな」話しながらグッグと腹が立ってきて、ピクウィック氏は言った。「わたしは思うのですがな、わたし自身の友人たちの証言でわたしを罪人に仕立てようというのが、きみの主人どもの意図なんですな?」
ジャックソン氏は人さし指で鼻の左側を何回もたたき、自分がここに来たのは牢獄の秘密をもらすためではないということを伝え、ふざけまじりに答えた――
「知りませんな。わかりませんよ」
「もしそのためでなかったら」ピクウィック氏はなおも言った、「なんの理由で召喚状が彼らにわたされたんです?」
「なかなかうまい策略ですな、ピクウィックさん」ゆっくりと頭をふりながら、ジャックソンは答えた。「だが、それはだめですよ。それをやったって、べつにわるいことはありませんがね、わたしからなにか引っぱりだそうったって、だめですよ」
ここでジャックソン氏はもう一度みなに微笑を投げかけ、鼻の先に左の親指をあてがい、右手で架空のコーヒーひきを動かし、それでじつに優雅な無言劇を演出したが、それは世間では「ひき臼の演技」(あざけりを示す)と名づけられているものだった(これはその当時流行のもの、いまは、残念ながら、大変すたれたものになっている)。
「だめ、だめ、ピクウィックさん」最後にジャックソンは言った。「われわれがなぜこの召喚状をわたしたか、パーカーのとこの者だったら見当がつくでしょう。もしそれができなかったら、裁判が来るまで待ってるんですな、そのとき、それがわかりますからね」
ピクウィック氏はこの好ましからざる来客に極度の嫌悪の一瞥を投げ、このときサムが登場してそれをとめなかったら、ドッドソン氏とフォッグ氏の頭上にすごいのろいの言葉を投げつけたことだったろう。
「サミュエル・ウェラーですかね?」さぐるようにしてジャックソン氏は言った。
「このながい年月のあいだで、あんたが言った本当のことのひとつですよ」じつに落ち着き払った態度で、サムは答えた。
「ウェラーさん、これがあなたへの召喚状です」ジャックソンは言った。
「それはふつうの言葉で言ったら、なんですね?」サムはたずねた。
「これが原本です」要求された説明はせずに、ジャックソン氏は言った。
「どれが?」サムはたずねた。
「これです」羊皮紙をふりながら、ジャックソン氏は答えた。
「おお、それが原本なんですね、えっ?」サムは言った。「うん、原本にお目にかかれたことは、とてもうれしいこと。そいつは満足いくことだし、とても気が楽になりますからな」
「そして、これが一シリング」ジャクソン氏は言った。
「それはドッドソンとフォッグからのもんです」
「贈り物を見ず知らずのこのおれにくれるなんて、ドッドソンとフォッグはじつに気前のいいこってすな」サムは言った。「そいつはじつにりっぱなご挨拶と思いますな。価値のあるものに出逢えば、その報い方を知ってるってえことは、彼らにとっても名誉なこってすからね。そればかりでなく、そいつは人を感動させるもんですよ」
ウェラー氏がこう言ったとき、上衣の袖で右のまぶたをちょっとこすり、そのさまは、家庭悲劇を演じている役者の名演技そのものだった。
ジャックソン氏はサムの仕草にそうとうとまどっているふうだったが、召喚状をわたし、これ以上なにも言うことがなかったので、外見上彼がいつも手にもって運んでいる片方の手袋をはめるふりをし、進行状態を報告するために、事務所にもどっていった。
ピクウィック氏は、その晩、ほとんど眠らなかった。バーデル夫人の訴訟の問題に関して、とても不愉快な思い出が新たに湧いてきたからである。翌朝、彼は早く朝食をすませ、サムにいっしょに来るように命じて、グレイ・イン・スクウェアに向けて出発した。
「サム!」ふたりがチープサイドの端に着いたとき、ふりかえって、ピクウィック氏は言った。
「はっ?」主人のところに歩みよって、サムは答えた。
「どっちだい?」
「ニューゲイト通りをいくんです」
ピクウィック氏はすぐに向きなおらずに、数秒間サムの顔をぼんやりとながめ、深い溜め息をもらした。
「どうしたんです?」サムはたずねた。
「この訴訟は、サム」ピクウィック氏は言った、「来月十四日にあるはずだ」
「これは驚いた偶然の一致ですな」サムは言った。
「どうして驚いたことなんだね、サム?」ピクウィック氏はたずねた。
「聖バレンタインの祭日(二月十四日。この日に恋人に贈り物や恋文をおくるならわしがある)なんです」サムは答えた。「約束破棄の訴訟には打ってつけの日ですよ」
ウェラー氏の微笑は、主人の顔に楽しみの輝きをひきおこすことにはならなかった。ピクウィック氏はさっと向きなおり、だまったまま、先に立って歩きだした。
ふたりはそうとうの距離を歩いてゆき、ピクウィック氏は、深い瞑想に沈潜して足早に先を進み、サムは、この世のどんな物、どんな人も問題ではないといったじつにうらやましい、気楽な顔をして、主人のあとについていった。サムは自分の胸にたたみこんでしまってある話はどんなものでも主人に特別伝えたがっている人物だったが、彼はこのとき足を早め、ピクウィック氏のすぐうしろに近づき、ふたりが前をとおっている家をゆびさして、言った――
「あれはじつにりっぱな豚肉屋ですね」
「うん、そうらしいな」ピクウィック氏は言った。
「有名なソーセージの工場なんです」サムは言った。
「そうかい?」
「そうかいですって!」ちょっとむくれたように、サムはくりかえした。「有名だったとむしろ言うべきでしょうね。いやあ、まったく、あの店こそ、四年前にれっきとした商人がふしぎにも姿をかくしてしまった店なんです」
「彼が絞め殺されたと言うんじゃないのだろうね、サム?」せかせかとあたりを見まわして、ピクウィック氏はたずねた。
「いやあ、そんなことは言いません」ウェラー氏は答えた。「そうだったらいいんですがね。それよりもっとずっとひどいことなんです。彼はあの店の主人、絶対にとまらない特許のソーセージ製造蒸気機械の発明者、敷き石でも、それをそばによせすぎると、飲みこみ、まるでそれがやわらかい子豚のように、楽々と、ソーセージにしちゃうもんだったんです。これは当然のことですが、彼はその機械をえらく自慢してました。それがトットと動いてるとき、彼は地下室でそれをながめながら立っていて、よろこびでぐったりなってしまうほどでした。この機械とふたりのかわいい子をもって、じつにひどい意地わる女だった女房さえいなかったら、彼はとても幸福な男だったでしょう。この女はいつも彼につきまとい、ワイワイとわめき散らし、彼はとうとうそれに我慢ならなくなりました。『お前、ちょっと言っておくがね』ある日彼は言ったんです。『もしお前がこんな道楽をつづけるんだったら』彼は言いました、『おれは絶対にアメリカにいっちゃうよ。それだけのことさ』。『あんたはなまけ者の悪党よ』彼女は言いました、『それで、アメリカ人からよろこんでもらえたらいいことね』こう言って、彼女は三十分間彼をののしりつづけ、店のうしろの小さな居間にかけこんでって、キーキーとわめきだし、彼のために自分は殺されるだろうと言い、発作をひきおこしたんですが、それは三時間たっぷりつづき――キーキーとわめいて蹴っとばす発作だったんです。それで、つぎの朝、夫の姿は消えちまいました。彼は銭箱からはなにもとらず――外套さえも着ず――そこで、アメリカにいったんじゃないことははっきりしてました。彼はその翌日に帰らず、そのつぎの週にももどって来ませんでした。おかみはビラを印刷し、彼がもどって来たら、すべて許してやるって言ったんです(彼がなにもしなかったことを考えてみれば、これはじつに寛大な処置というもん)。運河の底もさらい、その後二か月のあいだ、死体が浮かぶと、当然のこととして、そいつはソーセージの店にすぐもっていかれてました。それでも、どうしてもだめでした。そこで、みんなは彼が逃げだしたものとあきらめ、彼女は商売をつづけてました。ある土曜日の晩、小さな痩せた老紳士がひどく興奮して店にはいってきて、言ったんです、『あんたがこの店のおかみさんかね?』とね。『ええ、そうですよ』彼女は答えました。『うん、おかみさん』彼は言ったんです、『わたしとわたしの家族は、どんなものでも窒息するのは真っ平だと伝えに、ちょっと立ちよったんですよ。そのうえ、おかみさん』彼は言いました、『こう言っても許してくれるでしょうがね、ソーセージをつくるとき、最上の肉は使わないにしても、牛肉だったら、ボタンくらいの安さで手にはいると思うんですがね』。『ボタンくらいですって!』彼女は言いました。『ボタンですよ、おかみさん』小男の老紳士は言い、紙切れを開いて、ボタンの半分になったものを二十箇か三十箇見せました。『ズボンのボタンとは、ソーセージにいい味つけになりますな、おかみさん』。『それはわたしの夫のボタンだわ!』と未亡人は叫び、気が遠くなりそうになりました。『えっ!』真っ青になって、小男の老紳士は悲鳴をあげました。『よくわかるわ』未亡人は言いました、『一時的な狂乱の発作で、あの人は、考えなしにも、自分の体をソーセージにしてしまったんだわ』そして、まったくそのとおりだったんです」恐怖に打たれたピクウィック氏の顔をしっかりと見すえて、ウェラー氏は言った、「さもなけりゃ、彼は機械の中に引っぱりこまれたんです。でも、それはともあれ、生まれてこの方とてもソーセージが好きだった小男の老紳士は、狂乱状態で店をとびだし、その後なんの音沙汰もありませんでしたよ!」
個人生活のこの感銘深い話をしているうちに、主人と召使いはパーカー氏の事務所に着いた。ラウテンはドアを半分開けたままにして、踵のない靴をはき、指のない手袋をはめ、色のさめた服をまとって、みじめなふうをした男と話をしていた。その痩せた、心配にやつれた顔には、貧困と苦痛――ほとんど絶望――があらわれていた。彼は自分の貧乏を身に感じていた。ピクウィック氏が近づいたとき、彼は階段のほの暗い側に身をひそめたからである。
「それはとても残念なことです」溜め息まじりに見知らぬ男は言った。
「とてもね」ペンで自分の名を戸口の柱に書き、羽根でそれをふき消しながら、ラウテンは答えた。「彼への伝言でも伝えましょうか?」
「彼はいつもどるとお思いです?」見知らぬ男はたずねた。
「まったくわかりませんな」見知らぬ男が目を伏せたとき、ピクウィック氏に目ばたきして、ラウテンは答えた。
「彼をここで待っていてもむだとお考えなんですね?」事務所を物思いに沈んだふうにのぞきこんで、見知らぬ男はたずねた。
「おお、そうです。むだなことははっきりしてますね」戸口の中央部に少し体をうつして、書記は答えた。「今週もどらないことはたしか、来週もどるかどうかも、よくわかってはいません。一度ロンドンを出たら、パーカーが急いで帰ってくるなんて、絶対にないことですからな」
「ロンドンを出たんですって!」ピクウィック氏は言った。「いや、じつに残念なことだ!」
「ピクウィックさん、お帰りにならないでください」ラウテンは言った、「あなたあての手紙があるんです」見知らぬ男は決心がつきかねているふうで、もう一度目を伏せたが、書記は、まるでなにかおもしろいことが進行中といったふうに、ピクウィック氏にひょうきんな目くばせをしていた。しかし、それがなにかは、ピクウィック氏にはぜんぜん通じなかった。
「ピクウィックさん、中におはいりください」ラウテンは言った。「そう、ウォッティさん、伝言をお伝えしましょうか、それとも、またおいでになりますか?」
「わたしのことでどんな処置がとられているか、伝えておいていただきたいと連絡してください」その男は言った。「おねがいします、それだけはしてください、ラウテンさん」
「ええ、ええ、忘れませんよ」書記は答えた。「ピクウィックさん、中におはいりください。ウォッティさん、さようなら。きょうは散歩にいい日ですよ、そうじゃありませんかね?」見知らぬ男がまだぐずぐずしているのを見て、彼は主人について中にはいるようにとサム・ウェラーをさしまねき、その男の顔へまともにドアを閉めてしまった。
「まったく、破産者といっても、あんなにいやなやつはいませんな!」被害者といった態度でペンを投げだしながら、ラウテンは言った。「彼の事件は大法院でまだ四年もたってはいないんですからな。週に二回は必ずやって来て、ごねまわしてるんです。ピクウィックさん、こちらにおいでください。パーカーは奥にいますよ[#「いますよ」に傍点]。彼はあなたとお会いするでしょう。すごく寒いですな」いらいらして、彼は言いそえた、「戸口に立ち、あんなみすぼらしいなりをした浮浪者と時間つぶしをするなんてね!」特別小さな火かき棒で特別大きな火をすごい勢いでかき立てて、書記は先に立って主人の私室に進んでゆき、ピクウィック氏の名を伝えた。
「ああ」せかせかと椅子から立ちあがって、小男のパーカー氏は言った。「やあ、あなたの事件でなにかありましたかね、えっ? フリーマン小路のわれわれの友人たちについて、なにか新しいことでも? 彼らが眠ったままでいないことは、知ってますよ。ああ、彼らはなかなか抜け目のない男たちですからな、まったく、なかなか抜け目がないんですよ」
話を終えたとき、この小男は、ドッドソン氏とフォッグ氏の抜け目なさにたいする賛辞として、かぎタバコをひとつまみグッとかいだ。
「彼らはすごい悪党ですよ」ピクウィック氏は言った。
「そう、そう」小男は言った。「それは見解の問題ですからな。われわれは言葉についての議論をしたくはありませんな。というのも、こうした問題を専門的な目であなたに見ろと言っても、むりな話ですからね。そう、必要なことはもうぜんぶしてあります。上級法廷弁護士のスナビン氏は確保してありますよ」
「その人はりっぱな人ですかね?」ピクウィック氏はたずねた。
「りっぱな人かですって!」パーカー氏は答えた。「いいや、驚いた、上級法廷弁護士のスナビン氏はその職業では最高級のもの。法廷のだれより三倍も仕事をかかえ――あらゆる事件に関係してるんです。これは外で言ってもらっては困りますがね、われわれ――この職業に従事しているわれわれは、法廷を牛耳ってるのは上級法廷弁護士のスナビン氏だ、と言ってるほどです」
これを伝えたとき、小男はかぎタバコをもうひとつまみつまみ、なにかわからぬふうに、ピクウィック氏にうなずいた。
「ドッドソンとフォッグはわたしの三人の友人を召喚しているんですよ」ピクウィック氏は言った。
「ああ、もちろん、そうでしょうな」パーカー氏は答えた。「重要な証人です。むずかしい立場に立ったあなたの姿を見てるんですからな」
「だが、バーデル夫人は自分で気絶したんですよ」ピクウィック氏は言った。「彼女は自分の身をわたしの腕に投げかけてきたんですよ」
「いかにもありそうなことですな」パーカー氏は答えた。「いかにもありそうなこと、いかにも自然なことです。まったくそのとおり、まったくね。でも、だれがその証明をします?」
「彼らはわたしの召使いも召喚しました」問題をそらして、ピクウィック氏は言った。パーカー氏の質問はそうとう彼をギクリとさせたからである。
「サムですか?」パーカーはたずねた。
ピクウィック氏はそうだと答えた。
「もちろん、そうですよ、もちろん。彼らがそうするのは、知ってました。ひと月前にだって、それは言うこともできましたよ。いいですか、あなたの事件を弁護士にゆだねたあとで、それを自分の手にひきもどそうとなさる[#「なさる」に傍点]のなら、その結果もあなたは引き受けなければなりませんよ」ここでパーカー氏は意識的に威厳のあるふうをして胸をはり、シャツのひだからタバコのくずを払い落とした。
「彼らは彼になにを証言させようとしているのでしょうね?」二、三分の沈黙のあとで、ピクウィック氏はたずねた。
「なにか妥協の提案をするために、あなたがサムを原告のとこにゆかせたということでしょうな」パーカー氏は答えた。「だが、それはたいしたことではありませんよ。多くの弁護士は彼から[#「彼から」に傍点]多くは得られんことでしょう」
「そうだと思いますな」証人としてのサムのようすを考え、いらいらしながらも、にっこりして、ピクウィック氏は言った。「われわれはどういう方法をとるのです?」
「ひとつしか方法はありませんな」パーカー氏は答えた。
「こちらから証人たちに反対訊問をし、スナビン氏の雄弁に信頼をかけ、裁判官の目をくらまし、陪審に身をゆだねるんです」
「そして、判決がわたしに不利だったら?」ピクウィック氏はたずねた。
パーカー氏はニヤリとし、かぎタバコをながいことかぎ、火をかきまわし、肩をすくめ、意味深長にだまったままでいた。
「その場合にわたしが損害賠償金を払わねばならんと言われるのですな?」そうとうきびしい態度でこの以心伝心的返答をジッと見ていたピクウィック氏は言った。
パーカー氏は用もないのにまた火をかき立て、「そうだと思いますな」と答えた。
「では、失礼ですが、申しあげておきましょう、賠償金は断じて払いませんぞ」断固たる態度でピクウィック氏は言い放った。「パーカー、びた一文もね。わたしの金は一ポンド、一ペニーだって、ドッドソンとフォッグにはわたしませんぞ。それが、慎重に考えたわたしの最終的な決心です」自分の意図の決定的なことを強調するために、ピクウィック氏は目の前のテーブルをドシンとたたいた。
「よくわかりました、よくわかりました」パーカー氏は言った。「もちろん、あなたがいちばんよくご存じなんですからな」
「もちろん、そうです」急いでピクウィック氏は言った。
「上級法廷弁護士のスナビン氏はどこに住んでいるのです?」
「リンカン・イン・オールド・スクウェアです」パーカー氏は答えた。
「彼に会いたいものですな」ピクウィック氏は言った。
「上級法廷弁護士のスナビン氏に会うんですって!」びっくり仰天して、パーカー氏は言った。「ふーん、バカな、ふーん、不可能ですよ。上級法廷弁護士スナビン氏に会うんですって! まったく、そんな話は聞いたこともありませんよ、相談金も前に払わず、その相談の話も決めてないのにね! それはだめ、それはだめですよ」
しかし、ピクウィック氏はそれができると決心したばかりでなく、それをおこなわねばならぬと決心していた。そしてその結果は、それが不可能と保証されてから十分もしないうちに、彼は事務弁護士(法廷弁護士と訴訟依頼人の中に立って訴訟事務をあつかう下級弁護士)につれられて、偉大なる上級法廷弁護士スナビン自身の控え事務所にはいりこむということになった。
そこはかなりのひろさのあるじゅうたんの敷いてない部屋で、炉のちかくに大きな書き机がひとつすえられているものだった。その机のベイズ(けば仕上げをした緑や紅の単色の紡毛織物)の表面は、もともとの緑の色をとっくに失い、その本来の色の痕跡がインクのしみでよごされているところは除いて、ほこりと歳月でだんだんと灰色になっていた。そのテーブルの上には、赤いテープでしばられた数多くの小さな書類のたばがあり、その背後には、初老の書記が坐り、そのきちんとした風貌とずっしりした金の鎖は、上級法廷弁護士スナビン氏の広範囲にわたる、もうかる商売を堂々と物語っていた。
「マラードさん、スナビンさんは部屋においでですか?」慇懃さいたれりつくせりの態度でかぎタバコ入れをさしだしながら、パーカー氏はたずねた。
「ええ、いますよ」が答えだった、「だが、とてもおいそがしいんです。ここをごらんなさい。こうした事件のどれにも、意見はまだ示されてはいないんです。しかも、至急用の謝礼金はみんな支払いずみなんですからな」こう言って、彼はニヤリとし、いかにもおいしそうにひとつまみのかぎタバコをすいこんだが、そのようすは、かぎタバコを好む気持ちと礼金を好む気持ちの双方を示しているような感じだった。
「それは経験の功といったようなもんでしょうね」パーカー氏は言った。
「そうですな」自分自身のかぎタバコ入れを引っぱりだし、それをいかにも慇懃にさしだして、法廷弁護士の書記は言った。「そこでいちばんありがたいことは、わたし以外のだれもスナビンさんの筆跡は読めんということなんです。彼が意見を出したときでも、わたしがそれを写すまで、依頼人は待たねばならんということになりますな、はっ――はっ――はっ!」
「それはスナビンさん以外のだれかの利益になり、依頼人のふところからもう少し引っぱりだすということになりますか、えっ?」パーカー氏は言った。「はっ、はっ、はっ!」これを聞いて上級法廷弁護士の書記も笑いだしたが、それはさわがしい高笑いではなく、静かな内面的なクスクス笑い、ピクウィック氏が聞いて胸糞のわるくなるものだった。体で内面的に出血するとき、それはその当人にとって危険なものだが、その人が内面的に笑うとき、それは他人にとっての不幸を知らせることになるのだ。
「わたしがあなたに借りている礼金のちょっとした表は、まだつくってくれてはないんですね、どうです?」パーカー氏はたずねた。
「ああ、まだつくってありませんよ」書記は答えた。
「つくってくれたらいいのに」パーカー氏は言った。「それをわたしてもらったら、小切手を送るとこなんですがね。だが、現金をさらいこむのにいそがしすぎて、負債者のことなんて考える暇はないんでしょうな、えっ? はっ、はっ、はっ!」
この皮肉は書記の心をひどくくすぐったらしく、彼はまた静かなひとり笑いを味わっていた。
「だが、親友のマラードさん」急に重々しい態度にかえり、上衣のかえり襟をつかみお偉方の手下のお偉方を隅に引っぱっていって、パーカー氏は言った。「スナビンさんに説いて、わたしとここにいるわたしの依頼人に会うようにしてくださらねばいけませんぞ」
「まあ、まあ」書記は言った、「それはいけないことでもないがね。スナビンさんに会うだって! いやあ、そいつはとてつもないこと」しかし、この話のとてつもなさにもかかわらず、書記はだまってピクウィック氏の聞こえないところにつれられてゆき、ひそひそ声でおこなわれた短い話のあとで、小さな暗い廊下をそっと歩いてゆき、法律の先覚者の私室に姿を消し、間もなくそこから忍び足でもどり、しっかりと打ち立てられた規則と習慣を破って、ふたりとすぐに会うように上級法廷弁護士を説得した、とパーカー氏とピクウィック氏に報告した。
上級法廷弁護士のスナビン氏は顎のこけた、血色のわるい顔をした男、齢は四十五歳か、さもなければ――小説で言っているように――五十くらいだった。彼の目はどんよりとした|煮《に》つめたような目、つまらぬ骨の折れる研究にながい歳月をささげた人によく見かけられる目、首のまわりにかけた幅ひろの黒いリボンからダラリとさがっている眼鏡がなくとも、彼が強い近視である事実を他人に知らせる目をしていた。髪は薄く弱々しく、それは、ひとつには、髪の手入れにながい時間をかけたことは絶対になかったこと、またひとつには、彼のわきの台に乗せられてあった法廷用のかつらをここ二十五年のあいだ着けていたために起こったことだった。上衣のカラーに髪粉の跡が見えること、首のまわりに不細工にまきつけられた洗濯不足のひどい色をした白いネッカーチーフは、法廷を出てから、彼がまだ服の着がえをする暇のなかったことを物語っていた。一方、それ以外の彼の服装のだらしなさは、たとえ暇があっても、彼の外見はたいしてよくはならないだろうという推測を裏書きしていた。業務上の本、うずたかくつまれた書類、開いた手紙はテーブルにまき散らされ、整頓・整理の気配はぜんぜん示されていなかった。部屋の家具は古いガタガタのもの、本箱の扉は蝶番の上でくさりかけ、一歩歩くごとに、ほこりの小さな雲がじゅうたんから立ちのぼっていた。陽除けはながい年月とほこりで黄色になり、部屋のすべての物の状態は、勘ちがいすべくもなくはっきりと、スナビン氏がその仕事に追われて、ゆったりと快適にすごすことに注意なんぞ払ってはいられぬことを物語っていた。
依頼人たちがはいっていったとき、スナビン氏は書き物をしていた。ピクウィック氏がパーカー氏によって紹介されたとき、彼はボーッとしてお辞儀をし、それから身ぶりで坐れと合図をしてから、注意深くペンをインクスタンドにさしこみ、左脚をかかえて、相手が語りだすのを待っていた。
「スナビンさん、ピクウィックさんはバーデルとピクウィック事件の被告なんです」パーカー氏は言った。
「わたしがそれに関係のある弁護士なんですかね?」上級法廷弁護士はたずねた。
「そうですよ」パーカー氏は答えた。
上級法廷弁護士はうなずき、言葉がかけられるのを待っていた。
「スナビンさん、ピクウィックさんがあなたのところにまいるのを希望されたのです」パーカー氏は言った、「それは、あなたがこの事件にとりかかる前に、彼にたいするこの訴訟にはなんの根拠もいわれもないことを主張し、潔白な気持ちで法廷にはいり、原告の要求を蹴っても当然という良心にやましくない確信がなければ、法廷に出る気持ちがいささかもないことをお知らせするためなのです。あなたのお考えはこれでいいのでしょうね、どうです?」ピクウィック氏のほうに向きなおって、小男は言った。
「そのとおりです」ピクウィック氏は答えた。
上級法廷弁護士のスナビン氏は眼鏡を開き、それを目にあげ、いかにもジロジロとピクウィック氏を数秒間ながめていたあとで、パーカー氏のほうに向き、ちょっとにっこりとして、言った――
「ピクウィック氏にはその立場を強く支持する言い分があるのですかね?」
パーカー氏は肩をすくめた。
「あなたは証人を呼ぶつもりですか?」
「いいや」
上級法廷弁護士の顔にあらわれた微笑はもっとはっきりしたものになった。彼は前よりもっとひどく片脚をゆすり、安楽椅子にグッと身をそらせて、うろんなふうに咳払いをした。
この問題に関する上級法廷弁護士の予感のこうした兆候は、ピクウィック氏にわからぬはずはなかった。彼は鼻に眼鏡をもっとしっかりとかけ、その眼鏡をとおして、法廷弁護士が思わずもらした彼の感情のこうした表示をジッと見つめ、力をこめ、パーカー氏が注意して与えた目ばたきや渋面をいっさい無視して、こう言った――
「こうした目的であなたにお会いしたいと思うなんて、きっと、あなたのようにこうしたことがらに多く経験ずみの方には、じつに途方もないことに見えることでしょう」
上級法廷弁護士は炉の火をまじめくさって見ようとしたが、微笑がまたもどってきてしまった。
「あなたのような職業に従事している方は」ピクウィック氏はつづけた、「人間性の最悪面を見ているのです。その紛争、その悪意、その憎しみすべてが、あなたの目前に浮かんでくるのです。あなたは、陪審員をご存じです(わたしはあなたも、彼らも、非難するつもりはありません)、どれほど結果[#「結果」に傍点]がものを言うかをご存じです。あなたは、清潔でりっぱな意図、依頼人のために最善をつくそうとする賞賛すべき目的で、いろいろな道具をいつもお使いになり、その道具の性格と価値をよく心得ておいでです。いつわりと自分の利益のために、他の人間がそうした道具を使おうとしているものと、あなたはお考えになりがちです。あなた方が、ぜんたいとして、猜疑心が強く、人を信用せず、用心深すぎると世俗的にひろく考えられているのは、こうした事情によるものと、わたしは本当に考えています。こうした事情のもとで、こうした言葉を申すことの不利は十分に心得ながらも、わたしの友人のパーカー氏が申したように、わたしにたいして申し立てられた虚偽はまったく身におぼえのないものであることをあなたにはっきりと理解していただきたいために、わたしはここにやってきたのです。そして、あなたのご援助の価値がどんなに大きなものかを十分に知りながらも、あなたがこのことを心から信じてくださらなければ、あなたのご援助を得るより、むしろそれがないほうを望んでいると、失礼ながら、申しそえねばなりません」
この言葉は、ピクウィック氏にしては、ずいぶん散文的なものであったことを、われわれも認めなければならないが、この言葉が終わるずっと前に、上級法廷弁護士はうわの空の|呆然《ぼうぜん》とした状態にもどっていた。しかし、ペンをふたたびとりあげてからしばらくして、また依頼人の存在に気がついたようで、書類から頭をあげて、彼はそうとうぶっきら棒に言った――
「この事件で、わたしの仲間はだれですかね?」
「スナビンさん、ファンキーさんです」パーカー氏は答えた。
「ファンキー、ファンキー」上級法廷弁護士は言った、「そんな名はいままでに聞いたこともありませんな。まだとても若い男でしょう」
「そう、とても若い男です」パーカー氏は答えた。「ついこないだ、弁護士の資格をとったばっかしです。そう――まだ弁護士になってから、八年とたってはいませんな」
「ああ、そうだと思ってましたよ」ふつうの人間が弱い幼児のことを話すときのあのあわれむような口調で、上級法廷弁護士は言った。「マラード君、だれか使いを――ええと――ええと――」
「ファンキー――グレイ・インのホウバン小路です」パーカー氏が口をはさんだ。(ホウバン小路は、ついでながら、いまは|南広場《サウス・スクウエア》と呼ばれている。)
「ファンキーさんのとこにいって、ちょっとここにおいでねがえたら幸い、と伝えてくれないかね?」
マラード氏はその命令で立ち去ってゆき、ファンキー氏自身が紹介されるときまで、上級法廷弁護士のスナビン氏はもとの呆然とした状態にもどっていた。
法廷弁護士としては赤ん坊にしても、彼は一人前の男だった。彼はとても神経質そうな態度の持ち主で、いかにも苦しそうにモジモジと話す男だったが、それは生まれながらの欠陥ではなく、財産・利害関係・コネ・厚かましさのいずれにせよ、それが足りぬために「下積みになっている」のを意識していることから起こった小心の結果のように思われた。彼は上級法廷弁護士に圧倒され、パーカー氏にもとてもヘコヘコしていた。
「いままで運わるく、お会いしたことはないようですな、ファンキーさん」威厳をこめた丁寧な態度を示して、上級法廷弁護士のスナビン氏は言った。
ファンキー氏は頭をさげた。彼は、この八年と三か月の期間中、上級法廷弁護士の姿をながめ、貧乏人の味わうねたましさの情で、彼のことをうらやましく思っていたのだった。
「この事件で、あなたはわたしの仲間と思いますが?」
もしファンキー氏が金持ちだったら、それを調べるために、すぐに自分の書記を呼びに使いを出したことだろう。もし彼が賢明な人間だったら、彼は|額《ひたい》に人さし指をあてがい、自分が引き受けたいろいろの契約のうちに、この事件があるかどうかを思い出そうとしたことだろう。しかし、金持ちでも(とにかく、この意味では)賢明でもなかったので、彼は顔を赤らめ、お辞儀をした。
「ファンキーさん、書類をお読みですかね?」上級法廷弁護士はたずねた。
ここでふたたび、ファンキー氏は、この事件の内容についてはすっかり忘れてしまった、と言うべきだった。だが、訴訟の進行中彼の前におかれた書類はぜんぶ読んでいたし、上級法廷弁護士スナビン氏の下級法廷弁護士となったこの二か月間、寝てもさめてもこの事件ばかりを考えていたので、彼はもっと顔を赤らめ、ふたたびお辞儀をした。
「こちらがピクウィックさん」ピクウィック氏が立っている方向にペンをふって、上級法廷弁護士は言った。
ファンキー氏は最初の依頼人が弁護士にひきおこすにちがいない敬意をこめてピクウィック氏にお辞儀をし、ふたたび頭を自分の指導者のほうに向けた。
「たぶん、きみはピクウィック氏を向こうにおつれし」上級法廷弁護士は言った、「そして――そして――そして――ピクウィックさんがお話しになりたがっているお話をなんでも聞いてくださるでしょうな。もちろん、そのあとで、ご相談はしますよ」もう邪魔は十分とこうほのめかして、だんだんと気ぬけしたようになっていた上級法廷弁護士のスナビン氏は、一瞬目に眼鏡をあてがい、軽くあたりに会釈をして、もう一度深く自分の目の前の事件に没入してしまった。それは、そこからだれも歩いてきたことがないある場所から、だれもいったことがないあるほかの場所に通じる小道をふさいでしまった、百年かそこいら前に死んだある男の行為から発生した、果てしのない係争問題にからむ問題だった。
ファンキー氏は、どんなドアのところでも、ピクウィック氏とパーカー氏が彼より先にそこをとおらなければ、そこをとおりぬけようとはせず、その結果、|南広場《サウス・スクウエア》に着くまでに、そうとう時間がかかった。一同がそこに着いたとき、彼らはそこを歩きまわり、ながいこといろいろと相談をしたが、その結果は、判決がどうなるかを断言するのは非常に困難、どんな訴訟でもその結果はとても予想できないこと、相手方に上級法廷弁護士のスナビン氏を獲得されなかったのはとても幸運だったということ、その他、こうした情勢にはよくある疑惑となぐさめの話といったものになった。
ウェラー氏は主人によって一時間の快い睡眠から起こされ、ふたりはラウテンにわかれを告げて、シティにもどっていった。
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第三十二章
[#3字下げ]バラの下宿でボッブ・ソーヤー氏によって開かれた独身者の会合を、法廷新聞記者よりもっとこまかに伝える
バラのラント通りには、魂におだやかな憂鬱を投げかけてくれるゆったりとした落ち着きがある。その通りには、いつも、そうとうたくさんの貸し家がある。そこは裏通りでもあって、そこの動きのなさには、心を静めてくれるものがある。ラント通りの家は、一流という言葉の厳密な意味で、一流のものでないにせよ、じつに望ましい場所と言うことができる。もし人が世間のかかわり合いからぬけだし――誘惑の手からのがれ――窓から外をのぞこうとする気持ちを断ちたい、と思えば、その人はぜひラント通りにゆくべきである。
この|人気《ひとけ》のない幸福な場所に、わずかの洗いはり屋、少数の製本職人、一、二の破産法廷監獄の役人、造船所でやとわれているほんのわずかな家屋管理人、ひとにぎりの婦人服つくり、きわめて少数の手間賃仕事の仕立て屋が住んでいる。住民の大部分は、家具つきの部屋を貸すのに精を出すか、健康的で元気をつけてくれる洗濯の仕上げ機の仕事に献身している。この街路の静かな生活の主な特徴は緑のよろい戸、貸し間のはり札、真鍮の標札、ベルのハンドルで、生きている主要なものと言えば、居酒屋の雑役給仕、マフィン配達夫、焼きいも屋である。そこの人は放浪性をもち、四季支払い日がせまると、たいていは夜のあいだに、姿を消している。陛下の収入となる税金がこの幸福な谷で集められることはめったになく、貸し家や貸し間の料金は徴収見こみが不安定、水道はとだえがちになっている。
ボッブ・ソーヤー氏は、彼がピクウィック氏を招いた夜早く、彼の通りに面した二階の部屋で、炉の片側を飾り、ベン・アレン氏がのこりの側を飾っていた。来客をむかえ入れる準備は完了しているようだった。廊下にあった傘は裏の居間のドアの外の片隅に積みあげられ、下宿のおかみさんの下女のボネット帽とショールは手すりのところからとりのぞかれてあった。街路のドアのマットの上には、二足以上のパットン(泥道などを歩くときに、靴につけて使うはきもの)は見当たらず、燃えて黒くなった芯がながくついている台所用のろうそくが、階段の窓の棚の上で、明るく燃えていた。ボッブ・ソーヤー氏自身が大通りのぶどう酒店で酒を買いこみ、まちがった家に配達されるのを予防するために、配達人より先に家に帰っていた。ポンスは、寝室の赤い平なべの中で、もうつくられていた。緑のベイズの布でおおわれた小さなテーブルは客間から借りてこられ、トランプをそこですることになっていた。下宿のコップは、居酒屋からこのために借りてきたコップといっしょに、盆の中にならべられ、それは、ドアの外の踊り場におかれてあった。
こうしたすべての準備が満足すべきふうにととのえられていたにもかかわらず、炉のそばに坐っているボッブ・ソーヤー氏の顔はくもっていた。石炭をジッと見入っているベン・アレン氏の顔にも、それと同じ表情が浮かび、ながい沈黙のあとで、彼がつぎのように言ったとき、彼の声には憂鬱の調子がこもっていた。
「うん、ちょうどこのときになって、彼女が不機嫌になろうとするなんて、まったく間のわるいことだな。それをせめて明日までのばしてくれたらよかったんだがね」
「彼女の意地のわるさ、彼女の意地のわるさったら」激しくボッブ・ソーヤー氏は言った。「会を開く余裕があるんだったら、あのいまいましい『わずかの勘定書き』を払うこともできるはずだって、彼女は言ってるんだ」
「それはどのくらい突っ走ってるんだい?」ベン・アレン氏はたずねた。ついでながら、勘定書きというものは、天才が発明したじつにとてつもない機関車で、自分でとまることは一度もなく、どんなにながい一生のあいだでも、走りつづけているものである。
「四か月か、そこいらのもんさ」ボッブ・ソーヤー氏は答えた。
ベン・アレンは絶望的に咳払いをし、ストーブの上の二本の鉄の棒の棧のあいだをジッとさぐるようににらんでいた。
「あの人たちがここに来たとき、ワイワイわめこうと彼女が考えてるとしたら、これはひどく不愉快なことになるぜ、どうだい?」最後にベン・アレン氏が言った。
「ひどいことさ」ボッブ・ソーヤー氏は答えた、「ひどいことさ」
部屋のドアに、低いノックの音が聞こえた。ボッブ・ソーヤー氏は意味ありげに友人をながめ、ノックをした人に中にはいるように言った。そこで、ひどく困窮した老人のごみ掃除人夫が放りだしたなりふりかまわぬ娘としても通じるほどの、黒の木綿の靴下をはいた、きたならしい、だらしのない女の子が頭をつっこんで、言った――
「失礼ですが、ソーヤーさん、ラドルおかみさんがあんたと[#「あんたと」に傍点]話をしたいそうなんです」
まだボッブ・ソーヤー氏が返事もしないうちに、この娘は、背後からだれかにグイッと引っぱられたように、いきなりすっと姿をかくしてしまった。このふしぎな退去がおこなわれるかおこなわれないかに、ドアをノックするべつの音が聞こえてきたが――それは鋭いピリピリするノックの音、まるで「わたしはここにいて、いま中にはいっていきますよ」と言っているようだった。
ボッブ氏はおびえきった心配そうなまなざしを友人にチラリと投げ、もう一度「どうぞおはいり」と叫んだ。
この許可はほとんど無用のものだった。ボッブ・ソーヤー氏がそれを言いもしないうちに、あらあらしい小女が、激情で体をワナワナさせ、激怒で青くなって、部屋にとびこんできたからである。
「さあ、ソーヤーさん」冷静なふりをよそおうとして、あらあらしい小女は言った、「もしあなたが親切にあのわずかの勘定書きを払ってくださったら、わたしはあんたにお礼を言いますよ。きょうの午後家賃を払わねばならず、|家主《おおや》さんがいま下で待ってるんですからね」ここで小女は両手をこすり、ボッブ・ソーヤー氏の頭越しに、彼のうしろの壁をしっかりとにらみつけた。
「ラドルの奥さん、あなたにご不便をかけてとても申しわけなく思ってますが」敬意をこめてボッブ・ソーヤー氏は言った、「しかし――」
「おお、べつに不便なことはちっともありませんよ」甲高いクスクス笑いをして、小女は答えた。「きょうまで、それはべつに要らないんですからね。少なくとも、それは|家主《おおや》さんにまっすぐいっちまうもんなんですからね、それをもってるのがわたしだって、あなただって、同じことですよ。ソーヤーさん、あなたはきょうの午後と約束してくださいましたね。ここにおいでになったどんな紳士も約束を守ってくださいましたよ、紳士と自称する人は、だれでもすることなんですがね」ラドル夫人はグイッと頭をあげ、唇を噛み、両手を前よりいっそう激しくこすり、前よりもっと猛烈に壁をにらんだ。あとでボッブ・ソーヤー氏が東洋の比喩式に言ったことだったが、彼女が「湯気を出して怒っている」のは、明らかなことだった。
「ラドルの奥さん、とても申しわけないのですが」できるだけ低姿勢に出て、ボッブ・ソーヤー氏は言った、「だが、事実は、きょうシティで思ったとおり芽が出なかったということなんです」――あのシティとはとてつもないところ、驚くほどたくさんの人が、そこでは芽が出ないでいる。
「え、ソーヤーさん」キッダーミンスター(イギリス、ウスター州にある町で、じゅうたんの産地で有名)のじゅうたんのはなはぼたん[#「はなはぼたん」に傍点]の上にすっくと立って、ラドル夫人は言った、「それがわたしにどんな関係があるんです?」
「ぼくは――ぼくは――きっとそうなると思うんですがね、ラドルの奥さん」この最後の質問を無視して、ボッブ・ソーヤー氏は言った、「来週のなかばまでには、勘定を決済し、その後はもっとうまくいくと思ってるんですがね」
これはラドル夫人のねらっている図星そのものだった。彼女はカンカンになろうと意気ごんで、不幸なボッブ・ソーヤー氏の部屋にワイワイとさわぎながらあがってきたのだから、金が払われたら、おそらく、それは彼女をがっかりさせたことだったろう。彼女は、通りに面した台所でその皮切りのやり合いを亭主相手にちょっとやったあとなので、そういった気晴らしには打ってつけの気分になっていた。
「ソーヤーさん、あんたは思ってるんですか」近所の人にも知らせてやろうと声をはりあげて、ラドル夫人は言った、「部屋代を払おうともせず、朝食のために買いこんだ新しいバターや角砂糖、街路の戸口からとりこんだミルク代まで払おうとしない男に、わたしが毎日毎日部屋を貸しておくとでも思ってるんですか? 二十年間もこの街に住みついてるせっせと働く勤勉な女が(道の向こうに十年、この家に九年と九か月住んでるんですからね)、勘定の払いの助けになるどんなことでもよろこんでせっせとやるべきときに、いつもタバコをふかし、酒を飲み、ブラブラしてるなまけ者どものために働いて死んじまう以外に、仕事がないとでも思ってるんですか? あんたは――」
「ねえ、おねがいですから」ベンジャミン・アレン氏がなだめるようにして口をはさんだ。
「おねがいです、あなたはだまっててくださいな」急に急速な話の流れをとめ、第三者には印象的な緩慢さと威厳をこめて話しかけて、ラドル夫人は言った。「あんたにはわたしに話をしかける権利はないものと思いますよ。この部屋をあんたに貸したんじゃないんですからね」
「ええ、たしかにそうです」ベンジャミン・アレン氏は言った。
「よくわかりましたよ」高慢な慇懃さをこめてラドル夫人は答えた。「そんなら、あんたはせっせと病院であわれな人たちの腕や脚を切るのに精を出し、つまらないちょっかいはしないでしょうね。さもないと、あなたをおとなしくさせる何人かの男が、ここにいるかもしれませんよ」
「でも、あなたはじつにわからずやの女ですよ」ベンジャミン・アレン氏は抗議した。
「失礼ですが、お若いお方」怒りの冷汗を流して、ラドル夫人は言った。「失礼ですが、もう一度、その言葉をくりかえしてくれませんか?」
「その言葉をあなたのしゃくにさわるような意味で使ったのではありませんがね、奥さん」身に多少の危険を感じて、ベンジャミン・アレン氏は言った。
「失礼ですが、お若いお方」前より大きな高飛車な調子になって、ラドル夫人はたずねた、「女とはだれのことをお呼びなんです? あの言葉はわたしに言ったものなんですか?」
「いやあ、これは驚いた!」ベンジャミン・アレン氏は言った。
「あんたにおたずねしますがね、あの言葉はわたしに当てつけたものなんですか?」ドアをひろく開き、すごく|気色《けしき》ばんで、ラドル夫人は口をつっこんだ。
「いやあ、もちろん、そうですよ」ベンジャミン・アレン氏は答えた。
「ええ、もちろん、そうですとも」ドアのほうにだんだんとさがってゆき、とくに台所にいる亭主のラドル氏のために、声を最高潮にはりあげて、ラドル夫人は叫んだ。「ええ、もちろん、そうですとも! 亭主が下で眠りこけ、街路の犬同然にわたしをなんとも思ってないときに、あの人たちが、わたし自身の家で、わたしにどんな悪態をついても平気なことは、だれでも知ってますよ。下宿の恥になるような、生きてる人を切ったりはったりする若い男たちに女房のわたしをこんなふうにあつかわせておき(ここでラドル夫人のすすり泣き)、ひどい悪態に女房をさらしたままにしておくなんて、あの人はわが身が恥ずかしくないのかしら?(ここでまた、すすり泣き。)二階にあがって、悪党どもに刃向かうのをおそれ――来るのを――来るのをおそれてる気の弱い臆病者ったら!」ラドル夫人は話を切り、悪態をくりかえして言ったことが自分の亭主に刺激を与えたかどうかに聞き耳を立て、それがうまくいかなかったことを知って、オンオンと激しく泣きながら、階段をおりはじめたが、そのとき、街路の戸に大きなトントンというノックの音が聞こえ、そこで、彼女はおそろしいうめきをともなったヒステリー的な嗚咽の発作におちいり、それはノックが六回くりかえされるまでつづけられ、そのときになって、彼女は、心の苦悶が抑えられなくなって、傘ぜんぶを投げおろし、裏の居間に姿をかくし、そのあと、すごい音を立てて、ドアを閉めてしまった。
「ソーヤーさんはここにおいででしょうか?」戸が開かれたとき、ピクウィック氏はたずねた。
「ええ」女の子は言った、「二階ですよ。階段をあがっていくと、真ん向かいにあるドアがそこです」こう教えてから、サザク(ロンドンのあまり柄のよくない地区)の原始人的住民のあいだで育った下女は、手にろうそくをもって、台所に通じる階段をおりて姿をかくしてしまった。彼女は、こうした事情のもとで、自分のしなければならぬことはぜんぶもうしてしまったものと考えていたからである。
最後にはいったスノッドグラース氏は街路の戸を何回か閉めようとして失敗してから、鎖を引きあげて、ようやく戸を閉めた。友人たちはつまずきながら階段をあがってゆき、二階でボッブ・ソーヤー氏にむかえられた。彼は、ラドル夫人に待ち伏せをくわないかと心配して、階下にはおりてゆけなかったのである。
「やあ、いかがです?」うろたえた医学生は言った。「お会いできて、うれしいです――コップに注意してくださいよ」この注意はピクウィック氏に向けられた言葉だった。彼は帽子をお盆の上におこうとしていたからである。
「いや、これは」ピクウィック氏は言った、「失礼しました」
「どういたしまして、どういたしまして」ボッブ・ソーヤー氏は言った。「ここは部屋がせまいんです。しかし、若い独身者のとこにやってきたときには、そうしたことは我慢していただかねばなりませんよ。中におはいりください。この人には前にお会いになったことがありますね?」ピクウィック氏はベンジャミン・アレン氏と握手をし、彼の友人たちもその先例にならった。彼らが座席につくやいなや、また、戸にトントンというノックの音がした。
「あれはジャック・ホプキンズだと思うんだが……」ボッブ・ソーヤー氏は言った。「しっ。うん、そうだ。あがってこいよ、ジャック、あがって」
ズシンズシンという足音が階段に聞こえ、ジャック・ホプキンズが姿をあらわした。彼ははでな色のボタンのついた黒いビロードのチョッキ、白い見せかけのカラーのついた青い縞のシャツを着ていた。
「おそかったね、ジャック」ベンジャミン・アレン氏が言った。
「バーソロミューの病院でひきとめられてしまったんだ」ホプキンズは答えた。
「なにか新しいことがあったのかい?」
「いや、べつに。そうとうおもしろい事故患者が重傷者病棟にもちこまれてね」
「それはどういうことですかね?」ピクウィック氏はたずねた。
「男が四階の窓から落ちただけのことです――だが、そいつはとてもいい患者――じっさい、とてもいい患者です」
「というのは、患者がすぐなおるということなんですか?」ピクウィック氏はたずねた。
「いや」無造作にホプキンズは答えた。「いや、そんなことはないと思いますね、だが、明日すばらしい手術があるにちがいないんです――スラッシャーがそれをしたら、まったく|見物《みもの》ですからね」
「スラッシャー氏はすぐれた手術医とお考えなのですね?」ピクウィック氏はたずねた。
「現代の最高のもんですね」ホプキンズは答えた。「先週、男の子の脚を根本から切りとり――坊やはりんごを五つとしょうが入りケーキをひとつ食べ――手術が終わってから二分しかたってないのに、みんなのなぶり物にはなりたくはない、つれだしてくれなかったら、母さんに言いつけるぞって、少年は言ったんです」
「いや、驚いたこと!」ピクウィック氏はびっくりして言った。
「ふん! そんなことなんて、なんでもありませんよ、なんでもね」ジャック・ホプキンズは言った。「どうだい、ボッブ?」
「なんでもないさ」ボッブ・ソーヤー氏は答えた。
「ところで、ボッブ」ピクウィック氏のジッと聞いている顔をほとんどチラリともながめずに、ホプキンズは言った、「きのうの晩、妙な事件があったよ。ネックレースを飲みこんじまった子供が連れこまれたんだ」
「なにを飲んだんですって?」ピクウィック氏は口をはさんだ。
「ネックレースですよ」ジャック・ホプキンズは答えた「一度にぜんぶじゃありませんよ。そんなことをしたら、きつすぎますからな――子供が飲んだにしても、あなただったら[#「あなただったら」に傍点]、飲めんでしょうね――えっ、ピクウィックさん? はっ! はっ!」ホプキンズ氏は自分の冗談にひどく満悦しているようすで、話をつづけた。「いや、そのやり方はこういうもんだったんです。子供の両親は貧乏人で、裏町に住んでました。子供のいちばん上の姉がネックレース、大きな木製の玉でつくったありきたりのネックレースを買ってきたんです。子供はおもちゃ好きなもの、そのネックレースを盗み、かくし、それをおもちゃにし、ひもを切り、玉をひとつ飲んだんです。子供はそれをすばらしいおもしろいことと思い、翌日かくし場所にもどっていって、もうひとつ玉を飲んだんです」
「いや、驚いたことだ」ピクウィック氏は言った、「なんというおそろしいことだろう! これは失礼しました。さあ、おつづけください」
「つぎの日、子供は玉をふたつ飲み、そのつぎの日に、三つごちそうになり、こんな調子で、一週間たつうちに、ネックレースをぜんぶ飲んじまったんです――ぜんぶで二十五箇の玉をね。勤勉な娘で、美しい装飾品なんか身に着けたこともない姉は、ネックレースが消えてしまったので、目を泣きはらして泣き悲しみ、それをあちらこちらとさがしたんですが、言うまでもなく、どうしてもそれは見つかりませんでした。数日後、一家が夕食をし――料理は焼いた羊の肩肉とその下にじゃがいも[#「じゃがいも」に傍点]――子供は腹が空いてなかったので、部屋のまわりで遊んでたんですが、そのとき急に、ちょっとした|雹《ひよう》がひどく降るような、すごい物音が聞こえてきたんです。『さわいだりはするなよ』おやじは言いました。『なんにもしてないよ』子供は答えました。『うん、二度とするなよ』おやじは言いました。しばらく静かになっていたあとで、前よりもっとひどい音がまたしました。『父さんの言うことをきかないんなら、坊や』おやじは言いました、『すぐ寝台に放りこんでしまうぞ』子供に言うことをきかせようと、彼は子供をひとゆすりしたんですが、だれも聞いたことがないすごいゴロゴロッていう音が聞こえてきたんです。『いやあ、ちくしょう、音は坊やの体の中で[#「中で」に傍点]してるぞ!』おやじは言いました、『変なところに偽膜性喉頭炎(子供の喉頭や気管を侵す炎症)が起きたもんだな!』『ううん、父さん、ちがうんだ』泣きだして、子供は言いました、『それはネックレースだよ。ぼくがそれを飲んじまったんだよ、父さん』――父親は子供をだきあげ、病院に突っ走ってきました。子供の胃の中の玉は、道中、ゆすられると、ゴロゴロ鳴り、人々は空を見あげ、地下蔵をのぞきこんで、この妙な音がどこから来たのかを調べてました。いま子供は病院にいますよ」ジャック・ホプキンズは言った、「そして子供が歩きまわるとすごい音を立て、患者の目をさましてはというわけで、彼は守衛の上衣の中につつまれてます」
「それは、いままで聞いたこともない途方もない患者だ」テーブルを強くドンとたたいて、ピクウィック氏は言った。
「おお、そんなことなんて、なんでもないこってすよ」ジャック・ホプキンズは言った、「どうだい、ボッブ?」
「もちろん、なんでもないさ」ボッブ・ソーヤー氏は答えた。
「たしかに、じつにふしぎなことがわれわれの職業では起きるもんなんですよ」ホプキンズは言った。
「そう思わずにはいられませんね」ピクウィック氏は答えた。
またドアにノックの音が聞こえて、黒いかつらをかぶった大きな頭をした青年の来着を報じたが、彼はながい幅ひろの襟飾りをつけた壊血病にかかったような青年をいっしょにつれてきた。つぎの来訪者はピンクの|錨《いかり》で飾ったシャツを着た紳士で、そのあとすぐ、編んだ懐中時計のひもをつけた顔色の青い青年がつづいてはいってきた。きれいなキャラコのシャツを着こみ、布の靴をはいた、とりすました人物の到着で、会の全員がそろうことになった。緑のベイズのおおいのついた小さなテーブルは外に出され、ポンスの最初の一回分が白い水差しに入れてもちこまれた。それにつづく三時間は、十二点で六ペンスの賭けで、トランプの『二十一』にささげられ、それは、ただ一度だけ、壊血病の青年とピンクの錨の紳士のあいだにちょっとした口争いが起きただけで、進行していった。その争いで、壊血病の青年は希望の表象をつけた紳士の鼻をひねってやりたいという熱烈な希望を示し、それに応えて、ピンクの錨の紳士は、壊血病の顔をした怒りっぽい紳士からも、頭で飾られたどんなほかの人からも、「生意気な言葉」はただでもらいたくはないものだ、とやりかえした。
最後の「ナチュラル」(『二十一』ですぐ勝となる二枚の手札、配られた手札が二十一になっているもの)が宣言され、数とりの札と六ペンスの損得がみなの満足のゆくように清算されたとき、ボッブ・ソーヤー氏はベルを鳴らして夕食を運びこませ、その用意ができるまで、来客は隅に身をよせて立っていた。
その準備は、人が想像するほど容易なものではなかった。第一に、台所のテーブルに顔をうつ伏せにして眠っていた女の子を起こさねばならなかった。これは少々時間のかかることで、ベルに彼女が答えたときでさえ、彼女に多少なりとも理性をとりもどすのに、十五分はかかってしまった。かき[#「かき」に傍点]の注文を受けた男はそれを開くように言いつけられてはいなく、ふつうのナイフや二本またのフォークでかき[#「かき」に傍点]殼を開くのは容易なことでなく、こんなふうでは、なかなかはかがいかなかった。牛肉はほとんど料理されておらず、ハムは(これも角をまがったところの味つけソーセージの店から買ったものだが)同じような状態だった。しかし、ブリキかんには多くの黒ビールがあり、チーズが大いに役に立った。それがそうとうかおりの強いものだったからである。そこで、この夕食は、こうしたものとしては、まあまあといったところになっていた。
夕食後、もうひとつの水差しのポンスが、タバコひと袋と二本の酒といっしょに、出された。それから、おそろしい沈黙がつづいたが、このおそろしい状態は、こうした場所にはべつに珍しくはないもの、それにしても、じつにわずらわしいものだった。
事実は、女の子がコップを洗いだしたということだった。この下宿が誇りの種にしてもっていたコップは四つだった。これを書いたからといって、ラドル夫人を悪しざまに言っているわけではない。コップが不足してない下宿はなかったからである。このおかみさんのコップは薄い褐色の小さなガラスのコップ、酒場から借りてきたのは、ヨロヨロした大きな脚づきのでっかい、ふくれあがったものだった。これだけあれば、みなが酒盛りをするのに十分だったが、下女の女の子は、ビールをまだ飲み終わらぬとっく前に、みんなのコップをむりやりうばいとり、ボッブ・ソーヤー氏の目くばせや邪魔にもおかまいなし、それを下に運んでいってすぐに洗ってしまわなければならないと述べ、どんな紳士の心にもこの問題に関する誤解が起きないようにしてしまった。
だれにも役に立たない風はたしかに悪い風というものだ(格言。どんなわるいものでも、なにかの役に立つの意)。布の靴をはいたとりすました男は、順にまわるゲームが進行中ずっと、なにか冗談をとばそうとして、うまくゆかずにいたが、チャンスの到来をさとり、これを利用することになった。コップが姿を消したとたん、その名は忘れてしまったあるりっぱな公人が、これもその名はどうしてもわからないべつの地位の高い有名な人物にあざやかな返答をしたことに関するながい話を、彼はしはじめた。彼はこの逸話とはほとんど関係のないさまざまな付随的な事情をそうとうながく、こと細かに話したが、過去十年間大喝采を博してこの話をいつもしているのにもかかわらず、そのときにかぎって、その逸話がどのようなものか、どうしても思い出せないでいた。
「いや、まったく」布の靴をはいたとりすました男は言った、「これはとてつもないことだ」
「きみがそれを忘れたのは、残念だね」コップがチリンチリンいうのを耳にしたと思ったボッブ・ソーヤー氏は、むきになって、戸のほうに目をやりながら、言った。「とても残念だね」
「そのとおり」とりすました男は答えた、「それを話したら、みながとても楽しんだだろうからね。でも、かまうもんか。三十分かそこいらしたら、なんとか思い出すだろうからね」
コップがもどってきたちょうどそのとき、とりすました男の話はここまで進んでいた。ボッブ・ソーヤー氏は、このあいだ中ずっと、注意力をうばわれていたが、話の最後をぜひ聞きたいもんだと言った。話はいままでのところ、文句なし、聞いたことがないほどすばらしいものだったからである。
コップの姿をながめたことで、ボッブ・ソーヤー氏は、おかみと会見以来失っていた落ち着きを、ある程度とりもどすことになった。彼の顔は明るくなり、すっかりくつろいだ気分になった。
「さて、ベツィー」ひどく愛想よく、女の子がテーブルの中央にゴタゴタと集めたコップを、それと同時にみなにわたしながら、ボッブ・ソーヤー氏は言った、「さて、ベツィー、熱い湯をたのむよ。いい|娘《こ》だから、早くしておくれ」
「お湯はだめだよ」ベツィーは答えた。
「お湯はだめだって!」ボッブ・ソーヤー氏は叫んだ。
「だめ」たくさん言葉をならべるよりもっと断固とした否定をあらわす頭のひとふりを加えて、女の子は言った。「ラドルおかみさんがあげちゃいけないって言ってましたからね」
来訪者の顔に描き出された驚きの表情は、ボッブ・ソーヤー氏に新しい勇気を与えた。
「すぐ湯をもってきてくれ――すぐにな!」しゃにむにのきびしさをこめて、ボッブ・ソーヤー氏は言った。
「いいえ、できないわ」女の子は答えた。「ラドルおかみさんは、寝床にはいる前に台所の火をかきだし、やかん入れに鍵をかけちまいましたよ」
「おお、気にしないで。気にしないで。どうかそんなつまらないことを心配しないでください」ボッブ・ソーヤー氏の顔に描かれたとまどいの表情を見てとって、ピクウィック氏は言った、「冷たい水だって十分ですよ」
「いや、りっぱなもんさ」ベンジャミン・アレン氏は言った。
「下宿のおばさんは少し精神錯乱にかかってましてね」死人のような微笑を浮かべて、ボッブ・ソーヤー氏は言った。「こうなった以上、下宿をうつる予告を出さにゃなりませんな」
「いや、そんなことはするなよ」ベン・アレン氏は言った。
「いや、それをしなけりゃならんだろう」英雄的なしっかりとした態度で、ボッブは言い切った。「ぼくは借金を彼女に払い、引き払いの予告を、明日の朝、彼女に出してやろう」かわいそうに、それができたらと、心の底から彼はどんなにねがっていたことだろう!
この最後の一撃のもとで、なんとか元気を出そうとつとめているボッブ・ソーヤー氏の沈痛な努力は、一座の心をしめらせることになり、彼らの大部分は、元気を出そうと、いかにも陽気に冷たい水割りブランデーを飲みはじめたが、その最初のそれとわかる効果は、壊血病の青年とシャツを着た紳士のあいだの敵意の復活となってあらわれた。戦闘員は、しばらくのあいだ、さまざまな渋面や鼻息を荒くすることで、相互蔑視の感情を示していたが、とうとう、壊血病の青年は、このことに関してもっとはっきりとした理解に達するのが必要と感じ、つぎのようなはっきりとした理解が成立することになった。
「ソーヤー」壊血病の青年は大声で言った。
「うん、なんだい、ノッディー?」ボッブ・ソーヤー氏は答えた。
「友人のテーブルで、いわんや、きみのテーブルで」ノッディー氏は言った、「不愉快なことをひきおこすのは、とてもわるいことなんだがね、ソーヤー――とてもね。だが、この機会を利用して、ガンター氏に、彼は紳士ではない、と知らせなけりゃならんのだ」
「それに、きみが住んでる通りでさわぎをひきおこすことは、ソーヤー、ぼくは[#「ぼくは」に傍点]とても残念なんだがね」ガンター氏は言った、「たったいま話してた男を窓から外に放りだして、近所の人をびっくりさせなければならないことになったと思うんだ」
「それはどういうことですかね?」ノッディー氏はたずねた。
「言ったとおりのことさ」ガンター氏は答えた。
「そうするのを、ひとつ見たいもんですな」ノッディー氏は言った。
「すぐそれを、きみの体に味わわせてやるよ」ガンター氏は答えた。
「ひとつおねがいしたいが、きみの名刺をいただきたいもんですな」ノッディー氏は言った。
「そんなことはしませんよ」ガンター氏は答えた。
「どうしてせんのです?」ノッディー氏はたずねた。
「炉づくりの上にそれをはって、紳士がそこにいったときみの訪問客に誤解されては困りますからな」ガンター氏は答えた。
「きみ、ぼくの友人が、明日の朝、きみのところにうかがうことになりますぞ」ノッディー氏は言った。
「そのご注意、深く感謝します。召使いにはスプーンに錠をかけてしっかりとしまっておくよう、よく注意しておきましょう」ガンター氏は応じた。
ここで、ほかの来客たちが口をはさみ、ふたりの行為の不当さをそれぞれに申し立て、それにたいして、ノッディー氏は、自分の父親はガンター氏の父親におとらず、れっきとした人物だ、ということを言わせてくれと述べ、それにたいして、ガンター氏は、自分の父親はノッディー氏の父親におとらず、十分にれっきとした人物、いついかなるときでも、自分の父親の息子は、ノッディー氏におとらず、りっぱな男だ、と応じた。この言葉は紛争再開のきっかけになりそうだったので、一座の人たちの口出しがふたたびおこなわれ、あれこれとおしゃべりやさわぎがつづいて起こり、そうしているあいだに、ノッディー氏はだんだんと自分の感情に圧倒されることになり、ガンター氏にたいしては、いつも自分は献身的な愛情をいだいてきた、と表明した。これにたいして、ガンター氏は、大まかに言ったところ、自分はノッディー氏を兄弟より好きだ、と答えた。この言葉を耳にして、ノッディー氏は寛大にも自分の座席から立ちあがり、手をガンター氏にさしだした。ガンター氏は熱をこめて強くその手をにぎり、すべての人は、この紛争すべては、当事者双方にとって、とても名誉あるふうにおこなわれた、と述べた。
「ねえ、ボッブ」ジャック・ホプキンズは言った、「またみんなが元気を出すように、ぼくは歌をひとつ歌ってもいいよ」そしてホプキンズはみなからワイワイとそれをしろとすすめられて、『神よ、王を祝福したまえ』をすぐ歌いだしたが、彼は、『ビスケイ湾』と『蛙に言いよりにいって』の曲をごっちゃまぜにした珍しい曲に合わせて、それを声をかぎりに歌いだした。コーラスがこの歌の聞かせどころ、各人がそのコーラスを自分のいちばんよく知っている曲に合わせて歌ったので、その効果は、たしかに、とてもすごいものだった。
ピクウィック氏が耳をそば立てるような態度をして片手をあげ、みなが静かになるとすぐ、つぎのように言ったのは、歌の第一節のコーラスが終わったときだった――
「しっ! 失礼ですが、二階でだれかが呼んでいるのが聞こえたようですよ」
すぐ深い沈黙がつづいて起こり、ボッブ・ソーヤー氏が青くなったのが、みなにわかった。
「それはたしかに聞こえますよ」ピクウィック氏は言った。「どうかドアを開けてください」
ドアが開けられるやいなや、この問題に関するすべての疑惑は解消された。
「ソーヤーさん! ソーヤーさん!」三階の踊り場からキーキー声が叫んだ。
「下宿のおかみさんだ」ひどくあわててあたりを見まわしながら、ボッブ・ソーヤー氏は言った。「はい、ラドルの奥さん!」
「これはどういうことなんです、ソーヤーさん?」すごく|甲《かん》高い声で口早に、声は答えた。「部屋代をうまくごまかされ、その上お金までとられ、図々しくも自分のことを男だなんぞと言ってるあんたの友人にののしられただけで、十分じゃないこと? 家をひっくりかえされ、朝の二時に、消防ポンプを呼びそうなさわぎがなくてもね?――そんな悪党どもは追い出してください」
「きみたちは自分が恥ずかしくならないのかね?」夫のラドル氏の声が言ったが、それはどこか遠くの夜具の下から出てきている感じだった。
「恥ずかしくならないのかだって!」ラドル夫人は言った。「どうしてあんたは下におりてって、みんなを階段の下にたたきおとしてやらないの? 男だったら、あんたはそれをするはずよ」
「おれが十二人の男だったら、そうするよ」おとなしくラドル氏は答えた、「だが、相手は数で優勢なんだからね、お前」
「ふん、この卑怯者め!」最高の軽蔑をこめて、ラドル夫人は答えた。「ソーヤーさん、あんたはあの悪党どもを追い出すつもり、追い出さないつもり?」
「みんな帰ろうとしてますよ、ラドルの奥さん、帰ろうとしてますよ」みじめなボッブは叫んだ。「どうやら、きみたちは帰ったほうがいいだろう」ボッブ氏は友人たちに言った。「少しさわぎすぎると思ってたんだ[#「思ってたんだ」に傍点]」
「これはとても不幸なこと」とりすました男が言った。「しかも、われわれの気分がよくなった矢先なんだからね!」とりすました男は、自分が忘れていた話をぼんやりと思い出しかけていたのだった。
「こいつは、まず我慢ならんこと」あたりを見まわして、とりすました男は言った。「まず我慢ならんこと、そうじゃないかね?」
「我慢ならんことだね」ジャック・ホプキンズは言った。「もうひとつ、歌を歌おうや、ボッブ。さあ、はじまるぞ!」
「だめ、だめ、ジャック、だめだよ」ボッブ・ソーヤー氏は口を入れた。「それはすばらしい歌なんだが、そいつは歌わないほうがいいだろう。あの連中、この家の人は、荒っぽい人たちなんだからね」
「ぼくが上にあがり、おかみに文句をつけてこようか?」ホプキンズはたずねた、「さもなけりゃ、ベルを鳴らしつづけるか、階段でウンウンうなってやろうか? きみの言うとおりになるよ、ボッブ」
「きみの友情と親切にはとても感謝するがね、ホプキンズ」みじめなボッブ・ソーヤー氏は言った、「これ以上のいざこざをさけるいちばんいい方法は、すぐに散会することだと思うんだ」
「さあ、ソーヤーさん!」ラドル夫人の甲高い声が叫んだ、「あの獣たちは帰ろうとしてるんですか?」
「帽子をさがしてるとこですよ、ラドルの奥さん」ボッブは言った、「すぐ帰りますよ」
「すぐ帰るだって」タップマン氏にともなわれてピクウィック氏が居間から出ようとしていたとき、ナイトキャップを手すりの上に出して、ラドル夫人は言った。「すぐ帰るだって! あの獣たち、なんのためにここに来たのかしら?」
「奥さん」目をあげて、ピクウィック氏は抗議をした。
「この老いぼれめ、さっさとお帰り!」ナイトキャップをあわててひっこめて、ラドル夫人は答えた。「あの人のじいさんと言ってもいいくらいの齢をしてるのに、この悪党め! お前さんがいちばんの|性《しよう》わるだよ」
自分の潔白を抗議してもむだなことを、ピクウィック氏はさとり、そこで急いで階段をおりて街路に出てゆき、そのあとにすぐ、タップマン氏、ウィンクル氏、スノッドグラース氏がつづいた。酒と興奮でひどくがっくりしていたベン・アレン氏は、彼らといっしょにロンドン橋までゆき、秘密を打ち明けるのにとくに好ましい人物としてウィンクル氏に白羽の矢を立て、妹のアラベラの愛情を得ようとしてるどんな男でもいたら、ボッブ・ソーヤー氏はべつにして、その素っ首をたたき切ってやる、と道中で言っていた。兄としてのこの苦しい義務をきちんと果たす決意を表明してから、彼はワッと泣きだし、目の上に深く帽子をグイッとひきさげ、さっさと急ぎ足でもどってゆき、バラ・マーケットの事務所の戸をトントンとたたき、それと交互に戸口の階段でトロトロと寝み、そうした状態は夜明けまでつづいていた。彼はそこを自分の下宿と思い、鍵を忘れたものと一途に考えこんでいたのだった。
ラドル夫人のそうとう強圧的な要求にしたがって来客がみな立ち去っていったとき、気の毒なボッブ・ソーヤー氏はただひとりのこり、明日起こりそうな事件や、|今宵《こよい》の楽しみのことをいろいろと思いふけっていた。
[#改ページ]
第三十三章
[#3字下げ]父親のウェラー氏は文学的作文に関していくつか批判的な意見を開陳する。そして息子のサミュエルに助けられて、赤っ鼻の牧師にたいして多少の復讐をする
二月の十三日の朝、これは作者同様、この信頼すべき物語の読者が、バーデル夫人の訴訟公判の前日であることをご存じだが、その朝は、サミュエル・ウェラー氏にとって、とてもいそがしい朝だった。朝の九時から午後の二時まで、『ジョージと禿鷹旅館』とパーカー氏の事務所のあいだの使い走りに、彼はしょっちゅう使われていたからである。これはしなければならぬなにか仕事があったためではない。相談はもうすみ、とるべき方法はもう最終的に決められていたからである。だが、ピクウィック氏は極端な興奮状態にあり、たえず弁護士に小さな書きつけを送りつづけていたが、それはただ、「パーカーさん、万事うまく進行していますか?」という質問程度のもの、これにたいして、パーカー氏はいつも、「ピクウィック氏さん、とてもうまくいっています」という答えを出していた。事実は、もうすでにそれとなくほのめかしたように、よくもわるくも、進行すべきものはなにもなく、ただ翌朝の開廷を待つばかりになっていたのだった。
だが、はじめて訴訟を自発的にひきおこし、あるいは、否応なしにそこに引き出される人たちは、一時的にせよ、焦燥と不安にかられるのは、当然のことと言えよう。そしてサムは、人間性の弱さを十分に考えて、彼のいちばんすばらしく愛すべき特徴になっているあの心乱さぬ上機嫌と静かな落ち着きで、自分の主人のすべての命令にしたがっていた。
サムはじつに快適なささやかな夕食で心をなぐさめ、温かい酒が来るのを酒場のところで待っていたが、これは、サムが朝歩きまわった疲れをそれでとるようにと、ピクウィック氏が彼に飲ませた酒だった。そのとき、毛のモシャモシャとついた帽子をかぶり、ファスチャン(もとは丈夫な綿または麻織布を言ったが、いまは片面にけばを立てたコールテンや綿ビロードなどのあや織綿布)の作業ズボンをはきこみ、いずれは馬丁の地位にのしあがろうとする賞賛すべき野望をその服装に示している三フィートくらいの小さな少年が『ジョージと禿鷹旅館』の廊下にはいってきて、最初階段を見あげ、ついで廊下を、ついで酒場をながめて、だれか用件のある人をさがしているふうを示していた。そこで酒場の女中は、その用件が旅館の茶かスプーンねらいのものかと考えて、こう呼びかけた――
「ねえ、坊や、あんた[#「あんた」に傍点]、なんの用事があるの?」
「サムという人がここにいるかい?」甲高い大声で、少年はたずねた。
「もうひとつの名前は、なんていうんだい?」ふりかえって、サム・ウェラー氏は言った。
「知るもんかね」毛のモシャモシャした帽子の下で、この若い紳士は答えた。
「きみは利口な鋭い坊やだよ、まったく」ウェラー氏は言った。「だが、わたしがきみだったら、そのみごとな鋭い刃はあまり見せたりはしないね。だれかにかっぱらわれては困るからね。ホテルにやってきて、まるで野生のインディアンのような慇懃さでサムをさがすなんて、いったい、どういうことなんだね?」
「老紳士にそうしろと言われたからさ」少年は答えた。
「どんな老紳士だね?」すごく尊大な態度でサムはたずねた。
「イプスウィッチの駅伝馬車を走らし、店の客間を使ってる人だよ」少年は答えた。「『ジョージと禿鷹旅館』にきょうの午後ゆき、サムをさがすようにって、きのうの朝、おれに言ったんだ」
「いやあ、そいつはおれのおやじだ」酒場にいる給仕女のほうに説明するようにしてふり向いて、ウェラー氏は言った。「おれのもうひとつの名を知らないなんていうはずはないんだがなあ。うん、若いもろい芽君、それから、どうなんだね?」
「うん、それから」少年は言った、「六時におれたちの店に来いっていうことだよ。その老紳士があんたに会いたいそうだからね――レドンホール・マーケット(ロンドンの鳥獣肉類市場のあるところ)の『青いのしし』だよ。あんたが来るって言っていいかい?」
「そう言ってもいいよ」サムは言った。この権限を与えられて、この若き紳士は立ち去っていったが、そうしながら、御者の口笛を独得の豊かさと音量のある調子で清らかに正確に真似をして、ジョージ・ヤードを鳴りひびかせていた。
ピクウィック氏は、そのときの興奮といらいらした気持ちで、ひとりでいたい気持ちになっていたのだったが、ウェラー氏は彼から暇をもらい、定められた時間よりずっと前に出発し、時間が十分にあったので、マンション・ハウス(ロンドンの市長官邸)までブラブラと歩いてゆき、そこで歩みをとめ、冷静なさとりすました顔をして、たくさんの下等な人間や短距離の駅馬車の御者をながめていたが、こうした人々はこの有名な盛り場に集まってきて、この地区の老婦人たちの大きな恐怖と狼狽をひきおこしているものだった。ここで三十分ほどブラブラして、ウェラー氏は向きを変え、さまざまな裏道や路地をとおって、レドンホール・マーケットのほうに歩きだした。彼は暇つぶしにブラブラと歩き、彼の目にぶつかったほとんどすべてのものに足をとめてながめていたので、ウェラー氏が小さな文房具屋と版画商の窓の前に立ちどまったのは、べつに異とするにたりないことと言えよう。しかし、彼の目がそこに売りに出されていた幾枚かの絵にとまるやいなや、彼が急にギクリとし、すごく激しく右脚を打ち、力をこめて「これに出逢わなかったら、あのことはすっかり忘れ、おそくなっていただろう!」と叫んだ事実は、さらに説明の言葉がなかったら、たしかに驚くべきことになるわけである。
こう言ったとき、サム・ウェラー氏の目がその上に釘づけになっていた絵は、矢でくし刺しにして結ばれ、陽気な火の前で焼かれているふたつの桜色の人間の心臓の絵、近代的服装をした男女の人食い人種が――男のほうは青い上衣と白いズボンを着こみ、女のほうは深い赤の婦人用外套をまとい、同色のパラソルをもっていた――そこにつづくまがりくねった小石を敷いた小道ぞいに、飢えた目をしてこの料理のほうに近づいてゆく図だった。一対の翼以外になにも身につけていないたしかに品のない若い紳士が、その料理の世話役として、描かれていた。ランガム・プレイスの教会の尖塔の図が遠くに描きだされ、ぜんたいはヴァレンタインの恋人をあらわし、これは窓の中の書き物が語っていたことだったが、奥にはそのさまざまな種類があり、店主はそれをそれぞれ一シリング六ペンスという割引き値段でひろく一般に売りさばくことになっていた。
「忘れるとこだった。たしかに忘れるとこだったぞ!」サムは言った。そう言いながら、サムはすぐに文房具屋の店にはいり、金のへりのついた最高の便箋一枚とはじけないこと保障づきの先のかたいペンを買い求めた。こうした品物はすぐ手わたされ、彼は、いままでのぐずぐすした歩調とは打って変わったきびきびした歩調で、まっすぐレドンホール・マーケットのほうにずんずんと歩いていった。あたりを見まわして、画家が象の鼻のかわりにわし鼻の空色の象にかすかに似たものを描いている看板が、彼の目にはいった。これこそ『青いのしし』と正しく見当をつけて、彼はその家にはいってゆき、父親のことをたずねた。
「四十五分かもう少しのあいだ、ここには来ないでしょうよ」『青いのしし』の家の中の総指揮をとっていた若いおかみは言った。
「わかりましたよ、おかみさん」サムは答えた。「九ペニーばかしのなまぬるい水割りブランデーと台つきインクつぼをくれませんかね、えっ、おかみさん?」
なまぬるい水割りブランデーと台つきインクつぼが小さな部屋に運びこまれ、若いおかみさんが石炭を注意深く平らにし、それが燃えあがらないようにして、火かき棒は運び去られ、『青いのしし』の同意を得ずに、それがかき立てられる可能性がすっかり除去されてしまってから、サム・ウェラー氏はストーブのそばの座席に坐り、金のへりのついた便箋一枚と先のかたいペンを引っぱりだした。それからペンをよく見て、そこに髪の毛がついていないかを調べ、テーブルのほこりを払って、紙の下にパンくずがないようにして、サムは上衣の袖口をたくしあげ、両肘を左右にはって、手紙を書くのにとりかかった。
文字を書くことに馴れていない紳士淑女にとって、手紙を書くのは容易ならぬ仕事である。こうした場合、それを書く人が左の腕の上に頭をかしげて、できるだけ目を紙と同じ高さにしようとし、自分が書いている文字を横目でにらみながら、舌でそれに応ずる頭の中の文字を発音することが必要と考えられているからである。こうした動作が、手紙を書くのに非常に助けになるのは疑いのない事実であるが、それは、書く人の進度をある程度おくらすことにもなる。サムは知らないうちに一時間半も小さな肉太の文字で手紙を書きつづけ、まちがった文字は小指でぬり消し、新しい文字は、古いしみをとおしてそれが見えるようにするために、何度もなすってそれを書きこんでいたが、そのとき、ドアが開かれ、父親がはいってきて、彼ははっとわれにかえった。
「よう、サミー」父親は言った。
「やあ、すばらしい父さん」ペンをおいて、せがれは答えた。「義理の母さんの最近のようすはどうです?」
「母さんは、きのうの晩、とても気持ちのいい一晩を送ったんだが、今朝はふだんになく不機嫌で感じがわるいんだ。禁酒同盟参加に、誓いを立てて、T・ウェラーなんぞと署名してね。それが出された最新版さ、サミー」ショールをはずしながら、ウェラー氏は答えた。
「まだそんなにひどいんですかね?」サムはたずねた。
「すべての兆候は悪化の一途だね」頭をふりながら、ウェラー氏は答えた。「だが、お前がそこでしてるもんはなんだね? 困難のもとにあって知識を求めてるというやつかね、サミー?」
「もう終わったんですよ」ちょっとどぎまぎして、サムは言った。「書きものをしてたんです」
「うん、わかってるよ」ウェラー氏は答えた。「若いご婦人相手のもんじゃないんだろうな、サミー?」
「そうじゃないと言ったら、うそになりますな」サムは答えた。「これはヴァレンタインの手紙なんです」
「なんだって!」明らかにその言葉で恐怖に打たれて、ウェラー氏は叫んだ。
「ヴァレンタインの手紙ですよ」サムは答えた。
「サミュエル、サミュエル」なじるような口調で、ウェラー氏は言った。「お前がそんなことをするとは、考えてもいなかったぞ。父親のいけない癖を知らされ、この問題についてお前におれがいろいろと話し、お前の義理の母さんと会い、いっしょに暮らしたあとで、死ぬまで頭からぬけないほどの教訓を得たものと思ってたんだがね! まさかそれをお前がするとは思ってもいなかったよ、サミー、思ってもいなかったよ!」こうした考えはおやじには堪えがたいもの、彼はサムのコップを口までもってゆき、その中身を飲みほしてしまった。
「どうしたんです?」サムはたずねた。
「心配することはないよ、サミー」ウェラー氏は答えた、「この齢になって、そいつはおれにとてもつらいことさ。だが、おれはかなり頑強、そいつはありがたいこったよ、農夫が、ロンドンの市場に出すために、しめなけりゃならんかなともらしたとき、七面鳥が言ったようにね」
「なにがつらいんですね?」サムはたずねた。
「お前の結婚した姿を見ることだよ、サミー――お前がちょろまかされた|犠牲《いけにえ》になり、なにも知らずに、それをとてもすばらしいもんと考えてるのをながめることさ」ウェラー氏は答えた。「そのことは、父親の気持ちにとっては、とてもつらいことさ、サミー」
「バカな!」サムは言った。「結婚なんかする気はありませんよ。そのことで気をもまないでください。こうしたことは、父さんがいちばんよく心得てると、こっちでも知ってるんですからね。父さんのパイプをもってくるようにたのみなさい。こちらは手紙を読んであげますからね。おい!」
ウェラー氏の気持ちを静め、彼の悲しみの情をやわらげたのが、パイプの楽しみだったか、結婚するおそろしい性格が自分の一族に流れていて、それはどうにもしようのないこととあきらめきってさとったためだったか、なんともはっきりとは言えない。そうした結果が得られたのは、こうした慰安の源泉がふたつ結びついたためと、むしろ考えるべきだろう。というのも、彼はあきらめの気持ちを低い声で何回かくりかえして言い、一方、ベルを鳴らして、パイプを注文していたからである。それから彼は外套をぬぎ、パイプに火をつけ、炉の温かさを十分に味わい、それと同時に、炉づくりによりかかれるようにと、炉に背を向けて立ち、サムのほうに向き、タバコの心を静める力でとてもおだやかな顔をして、サムに「はじめろ」と言った。
サムは、インクにペンをつけ、手紙をなおすときには、いつでもそれができるようにして、いかにも芝居がかったふうに、読みはじめた――
「愛しき――」
「待て」ベルを鳴らして、ウェラー氏は言った。「いつものやつより倍濃くしたのを一杯たのむ」
「よくわかりました」女の子は答えたが、彼女はすごい速さであらわれ、消え、もどり、姿をかくしてしまった。
「ここでは、父さんの癖をよく知ってるらしいですね」サムは言った。
「うん」父親は答えた、「若いころ、以前ここに来たことがあるからな、さあ、はじめろ、サミー」
「愛しき女よ」サムはくりかえした。
「そいつは詩じゃないんだろうな、どうだい?」父親は口をはさんだ。
「いや、いや、ちがいますよ」サムは答えた。
「そいつを聞いて安心したよ」ウェラー氏は言った。「詩は不自然なもんさ。ボクシングの日の教区吏員、ウォレンの靴墨屋、ロウランドの油屋か、低級な一部のやつらしか、詩のことは話さんのだからな(当時商品の広告に流行歌のつくりかえ歌がよく使われていた)。身分をさげて詩を口にするようなことはするなよ。さあ、はじめるんだ、サミー」
ウェラー氏は重々しい批判的な態度でパイプをふたたびすいはじめ、サムは、つぎのように、ふたたび手紙を読みはじめた――
「『愛しき女よ、わたしは感ずるんだが、自分はひどく』――」
「それはうまくないな」パイプを口からはなして、ウェラー氏は言った。
「いや、『ひどく』じゃない」手紙を灯りのところまでもっていって、サムは言った、「それは『恥じてる』です、そこにしみがあってね――『わたしは感ずるんだが、自分は恥じてて』」
「とてもいいぞ」ウェラー氏は言った。「さあ、つづけろ」
「『自分は恥じてて、完全にサー――』この言葉がなんだったか、忘れちまったな」サムは言い、ペンで頭をひっかいてそれを思い出そうとしたが、むだだった。
「そいつをよく見ればいいじゃないか?」ウェラー氏は言った。
「ええ、見てるんですがねえ」サムは言った、「でも、そこにもしみがあるんです。ここにcがあり、iがあり、dがあるんですがね」
「たぶん、|出しぬかれた《サーカムヴエンテイツド》だろう」ウェラー氏はほのめかした。
「いや、それじゃありませんね」サムは言った、「|とりかこまれた《サーカムスクライブド》、うん、それです」
「そいつは出しぬかれたという言葉ほどいいもんじゃないな、サミー」重々しくウェラー氏は言った。
「そうと思いませんかね?」サムは言った。
「比較にならんな」父親は答えた。
「だけど、その言葉のほうがもっと幅があるでしょう?」サムはたずねた。
「うん、たぶん、そのほうが、やさしい言葉とは言えるだろうな」ちょっと考えたあとで、ウェラー氏は言った。「さあ、つづけろ、サミー」
「『自分は恥じてて、完全にきみの威力にとりかこまれてしまった。きみはいい娘そのものなんだからね』」
「そいつはなかなかきれいな気持ちだな」口からパイプをはずし、父親のウェラー氏は言った。
「そう、だいぶいかすもんと思ってますよ」ひどくよろこんで、サムは言った。
「この書きっぷりで気に入ったのは」父親のウェラー氏は言った、「そこで名前を呼んだりしてないことさ――ヴィーナスとかそういった呼び方がないことさ。若い女をヴィーナスとか天使と呼んで、どんなご|利益《りやく》があるんだい、サミー?」
「ああ、まったくね」サムは答えた。
「彼女をグリフィン(ライオンの胴体に鷲の頭と翼をもつ怪獣、ギリシャ神話に出る)とか一角獣(額に一本のねじれた長い角のある馬に似た伝説的動物)とか王の腕とか呼んだほうが、ましなくらいさ、そいつは、みんな、物語に出てくる有名な獣なんだからな」ウェラー氏は言いそえた。
「そのとおりですね」サムは答えた。
「さあ、進むんだ、サミー」ウェラー氏は言った。
サムはその要求に応じ、つぎのように読みはじめた。彼の父親は才知と自己満足のまじった表情でタバコをすいつづけていたが、その表情は、とくに人の気持ちを昴めるものだった。
「『きみと会うまでは、すべての女は同じものと思っていた』」
「そうさ」口をはさんで、ウェラー氏は言った。
「『だが、いまは』」サムはつづけた、「『いまは、自分がどんなにバカな、疑い深いかぶら[#「かぶら」に傍点]かがわかったわけ。きみのような人はだれもいないのだからね。ぼくは[#「ぼくは」に傍点]きみをだれより好きなんだけどね』ぼくはというのをそうとう強めたほうがいいと思ったんですよ」目をあげてサムは言った。
ウェラー氏はいかにもといったふうにうなずき、サムはつづけて読んだ。
「『そこで、ぼくはこの日を利用して、親愛なるメアリーよ――困った立場にある紳士が、日曜日に外に出たとき、したように――きみを見た最初のそのときに、きみの似姿が、横顔写しの写真機でとるよりもっと早く、もっと美しい色でぼくの心に刻みつけられてしまったことを白状するわけだ(この機械のことは、たぶん、親愛なるメアリーよ、きみも聞いてることだろう)。なるほど、機械のほうも、写真をとり、わくにはめ、きちんとガラスを入れ、掛けるようにと端に鍵をくっつけ、それがぜんぶ、二分と十五秒で終わるけれどね……』」
「そいつはちょっと詩のにおいがするようだな、サミー」ウェラー氏はうさんくさそうに言った。
「いや、そんなことはありませんよ」サムは答え、この点を言い争うのを避けようと、さっさと急いで先を読んでいった。
「『ぼくを、親愛なるメアリーよ、きみのヴァレンタインとして受けとり、ぼくの言ったことを考えてくれ――親愛なるメアリーよ、わたしはこれで手紙を終わりにしよう』これだけですよ」サムは言った。
「急にぷっつり切れたもんだな、どうだい、サミー?」ウェラー氏はたずねた。
「そんなことはありませんとも」サムは言った。「もっと書いてあればと彼女は思うでしょうが、そこが手紙を書く|急所《こつ》なんですよ」
「うん」ウェラー氏は言った、「たしかに一理だな。それと同じ上品な原則でお前の義理の母さんも話をしてくれたらいいもんと思うんだけどね。お前は署名をしないのかい?」
「そこで困ってるんですよ」サムは言った。「どう署名したもんか、わからないんでね」
「ウェラーと署名すればいいじゃないか」その名の最長老者は言った。
「だめですよ」サムは言った。「ヴァレンタインの手紙には自分自身の名は絶対に署名しちゃいかんのですからね」
「そんなら、『ピクウィック』と署名しろ」ウェラー氏は言った。「そいつはとてもいい名だし、つづりも楽だからな」
「ピタリいいもんですな」サムは言った。「詩で終わりを結ぶこともできますね。それをどう思います?」
「そいつは好まんな、サム」ウェラー氏は答えた。「れっきとした御者で詩を書くやつなんて、ひとりも知らんな。辻強盗で絞首刑になる前の晩にうまい詩を書いたやつはべつにしての話だが、やつはキャムバーウェル(ロンドン南部の地区)の者にすぎんのだから、そいつは例外さ」
だが、サムは思いついた詩的な考えをすてることをせず、手紙の署名に、
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「きみを恋い焦がれる
ピクウィックより」(恋い焦がれるのラヴシックはピクウィックと韻をふむ)
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と書いた。そして、それをとても複雑なふうにたたみ、片隅に肩さがりに「サフォーク州、イプスウィッチ、市長ナプキンズ氏の邸宅の下女、メアリーへ」とねじこむようにして書き、封をし、すぐ中央郵便局で出せるようにして、それをポケットにおさめた。この重要な仕事が終わったので、父親のウェラー氏は、息子を呼んだ用件を切り出した。
「最初のことは、お前の旦那に関係のあることなんだよ、サミー」ウェラー氏は言った。「彼は明日裁判を受けるんだな、どうだい?」
「裁判は明日ですよ」サムは答えた。
「うん」ウェラー氏は言った、「彼の評判について語る証人か、彼のアリバイを証明する証人を何人か呼びたいことだろう。そのことは頭の中でいろいろと考えたんだが、旦那は心配しなくったっていいんだよ、サミー。彼のためにそのどっちでもやってくれる何人かの友人がおれにはいるが、おれの言いたいのは、こういうことなんだ――評判なんてことは考えずに、アリバイ一本でゆけ、ということさ。アリバイほど有効なものはあるもんか、サミー、あるもんかね」この法律的意見を述べたときに、ウェラー氏はいかにも物知りらしい態度を示し、鼻をコップの中に埋め、その天辺越しに、びっくりしている息子にたいして、目をパチパチさせて合図を送った。
「いやあ、それはどういうことなんです?」サムは言った。「旦那がオールド・ベイリー(ロンドンにある中央刑事裁判所)で裁判を受けようとしているだなんて、まさか父さんは考えているんじゃないでしょうね、どうです?」
「そんなことなんて、いま考えなければならない問題じゃないよ、サミー」ウェラー氏は答えた。「裁判を受けようとするときにはどこでも、アリバイは逃げ道になるものなんだ。お偉方がみんなそろって、トム・ワイルドスパークはどうしてもだめ、と言ってたとき、おれたちはアリバイで彼をあの人殺しの罪から救い出したんだよ。そして、おれの意見はね、サミー、お前の旦那にアリバイの証明ができなかったら、イタリア人の言ってるとおり、まったく面くらうだろうということ、それだけのことさ」
オールド・ベイリーがこの国の最高法院であり、そこのやり方の規則と形式がほかのどんな裁判所の慣習をも規定し支配しているというしっかりとした不変の確信を父親のウェラー氏はいだいていたので、アリバイは承認できぬものであるということを知らせようとする彼の息子の言葉や議論は彼に完全に無視され、ピクウィック氏は|犠牲《いけにえ》になっているのだと、彼は強くがんばった。このことをこれ以上議論してもむだとさとって、サムは話題を変え、自分の尊敬している父親が相談したいと思っている第二の問題はなにか、とたずねた。
「そいつは家の中のやり方の問題なんだがね、サミー」ウェラー氏は言った。「あのスティギンズのやつが――」
「赤っ鼻の男ですね?」サムはたずねた。
「まさにそいつだ」ウェラー氏は答えた。「この赤っ鼻の男が類のないほどの親切さと節操でお前の義理の母さんのとこへ、サミー、やって来てるんだ。やつはおれたち一家とすっかりなじみになってな、サミー、おれたちからはなれてるときには、おれたちを思い出すなんか物をもっていなけりゃ、落ち着けないくらいになってるんだ」
「おれが父さんだったら、これから十年間かそこいら、やつの記憶にテレピン油をつけ、みつろうを塗るようなことをなんかしてやるんですがね」
「ちょっと待て」ウェラー氏は言った。「おれは言おうとしてたんだが、やつはいつも一パイント半ははいる平たいびんをもってきて、帰るときには、いつもそいつにパイナップル入りラム酒をいっぱいつめていくんだよ」
「そして、もどるまでに、それを空にしてるんでしょう?」サムは言った。
「きれいにな!」ウェラー氏は答えた。「そこにのこってるものといえば、コルクとにおいだけ。そのことは、もうまちがいなしなんだ、サミー。ところで、こうした連中が、お前、連合グランド・ジャンクション・エベニーザ禁酒協会のブリック小路支部の月例会を今晩開こうとしてるんだ。お前の義理の母さんはそれに出るつもりだったん[#「だったん」に傍点]だがね、サミー、リューマチが起きて、いけなくなっちまったんだ。そしておれが、サミー――おれが彼女に送られてきた二枚のチケットをもってるんだ」ウェラー氏はこの秘密を大満悦の態で伝え、それが終わってから、すごく目をパチパチさせてウィンクをしていたので、サムは父親の右目が顔面痙攣にかかったにちがいないと考えはじめたくらいだった。
「それで?」サムはたずねた。
「それでな」あたりをとても用心深く見まわして、彼の父親は言った、「お前とおれとが時間ピッタリにそこにいくんだ。代理の羊飼いは来んだろうよ、サミー。彼は来んだろうよ」ここでウェラー氏はクスクス笑いの発作におそわれ、それは最後にはだんだんと、初老の紳士が無事にはほとんど堪えられないほどの窒息状態になっていった。
「うん。こんなやつはいままで見たこともありませんね」ウェラー氏の背中を火事が起きんばかりにせっせとこすって、サムは叫んだ。「太ったおやじさん、なにを笑ってるんです?」
「しっ! サミー」前にもます用心深さであたりを見まわし、声をひそめて話しながら、ウェラー氏は言った。「オクスフォード道路で働き、すべてのおもしろいことに首をつっこんでるおれのふたりの友だちが安全無事に代理の羊飼いを抑えてるんだ、サミー。そして彼がエベニーザ・ジャンクションに来たら(こいつはまちがいなしのことさ、彼らふたりが戸口まで彼を送り、必要とあれば、彼をそこにつっこんじまうんだからな)、やつはドーキングの『グランビー侯爵旅館』で飲んだことがないほど水割りラム酒を飲まされちまうんだ。こいつはちょっぴりといったもんじゃないわけさ」こう言って、ウェラー氏はふたたびとめどなく笑いだし、その結果、またちょっと窒息状態にまいもどりそうになった。
赤っ鼻の男の本性を暴露するこの計画ほどサム・ウェラーの気持ちにピッタリ合うものはなく、時刻は会の定められた時間近くになっていたので、父親と息子はすぐブリック小路に向かい、サムは、その道中、忘れずに例の手紙を郵便局に投げこんだ。
連合グランド・ジャンクション・エベニーザ禁酒協会のブリック小路支部の月例会は、安全でゆったりとした階段の最上部で気持ちよく風とおしをよくした大きな部屋でおこなわれていた。その会長はまっすぐに道を歩くアンソニー・ハム氏で、改宗した火夫、いまは学校の先生、ときには巡回説教師ともなっている人物だった。秘書はジョーナス・マッジ氏、ろうそく屋の店主で、公正な熱狂的人物、会員に茶を売っている人物だった。仕事がはじまる前に、ご婦人方は長椅子に坐り、お茶を飲み、それは、彼らがそれをやめたらいいと考えるときまでつづいていた。大きな木の銭箱が目立つふうに事務机の緑のベイズの布の上におかれ、その背後には秘書が立っていて、銭箱の中にためられている豊かな銅の鉱脈がふえるたびに、愛想のいい笑いをなげかけていた。
この会のときには、女たちは驚くほどたくさん茶を飲み、父親のウェラー氏をすごくびっくりさせた。彼は、サムが注意して肘でそっとつついたのには一向おかまいなしで、驚いたようすをあからさまに外に出し、あたり一面をジロジロとながめまわしていた。
「サミー」ウェラー氏はささやいた、「明日の朝、ここにいる連中のうちのだれかに腹水穿取が必要でなかったら、じつにおかしなことになるぞ。まったくだ。いやあ、おれのとなりの老夫人は、茶でアップアップになってるんだからな」
「静かにしてなさい、えっ」サムはつぶやいた。
「サム」ひどく興奮した語調で、ちょっと間をおいたあとで、ウェラー氏はささやいた。「いいかい、おい。あの秘書のやつがもう五分もあんな調子をつづけたら、やつは焼きパンと水で破裂しちまうぜ」
「ええ、そうなりたいんなら、ならせりゃいいでしょう」サムは答えた。「そいつは父さんには関係のないことなんですからね」
「こんな調子がながくつづくと、サミー」同じ低い声でウェラー氏は言った、「おれは人間として立ちあがり、喝采を送らねばならんと思うな。ふたつ向こうの長椅子に坐ってる若い女は、朝食用コップで九杯半は飲み、おれの目の前ではっきりとぐんぐんふくれあがってるんだからな」
コップや受け皿を片づける大きな音が、幸運にも、茶を飲むのが終わったことを知らせなかったら、ウェラー氏がその人情味豊かな考えをすぐ実行にうつしたことは、まずまちがいのないことだった。茶道具は運び去られ、緑のベイズのおおいのあるテーブルが部屋の中央に出されて、頭の禿げた、褐色の半ズボンをはいた勢いのいい小男によってこの晩の仕事ははじめられたが、彼は、突然、褐色の半ズボンにおさめられた小さな脚を折らんばかりの勢いで階段をかけあがってきて、言った――
「紳士淑女諸君、わたしはわれわれのすぐれた仲間、アンソニー・ハム氏を議長に推薦します」
ご婦人方は、この提案にたいして、美しいハンカチをふり、性急な小男は、ハム氏の肩をつかみ、かつてはマホガニーの椅子だったマホガニーのわくの中に彼をおしこんで、文字どおり彼を椅子につけてしまった(「椅子につける」は「議長にする」の意があり、その点で文字どおりのわけ)。ハンカチはこのときふたたびふられ、たえず汗をかいているきちんとした、顔の青白いハム氏は、いとも静かにお辞儀をして、女性たちのすばらしい驚嘆を受け、正式に座についた。褐色の半ズボンをはいた小男によって沈黙が命じられ、ハム氏は立ちあがって、ここに出席しているブリック小路支部の同志のみなさまのお許しを得て、秘書がブリック小路支部委員会の報告書を読みます、と述べたが、その提案は、ふたたび、ハンカチがふられて承認された。
秘書はとても印象的なふうにくしゃみをし、なにか特別なことがおこなわれそうになると、いつも集まった人たちをとらえる咳払いをきちんとおこなってから、つぎの文書が読みあげられた――
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[#1字下げ] 連合グランド・ジャンクション・エベニーザ禁酒協会ブリック小路支部報告書
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「この委員会は、過去一か月、感謝に満ちた努力をつづけ、口には言えぬほどよろこばしいことに、禁酒に転向したさらにつぎの例を報告することができる。
仕立て屋のH・ウォーカー、妻、ふたりの子供。懐具合いがよかったころ、いつもビールを飲んでいたことを認め、二十年間、『犬の鼻』を週に二回は飲んでいなかったとは言いきれぬと述べている。これは、委員会の調査によると、温かい黒ビール、湿糖(糖蜜を完全に分離していないためにべとべととしている未精製の砂糖)、ジン、にくずく(香味料や薬用にする)でできたもの(ここでうめき声、初老のご婦人から『そうだわ!』の声)。いまは失職し、文無し。それは黒ビールのせいか(喝采)、右手を使えなくなったためかにちがいないと考えているが、そのどちらかは、はっきりとわかっていない。しかし、生涯水ばかり飲んでいたら、彼の仲間の作業員が錆びついた針を彼に刺し、彼の受けた事故をそれでひきおこすことは絶対になかったろうと確信している(すごい喝采)。いまは飲み物として冷水しか飲まず、喉の渇きを少しも訴えていない(大喝采)。
ベツィー・マーチン、未亡人、子供ひとり、片目。昼間は家庭の雑用と洗濯に従事。生まれついての片目だが、母親がびんづめの強い黒ビールを飲み、そうでなかったら、片目にはならなかったろうと考えている(大きな喝采)。自分がいつも酒をつつしんでいたら、いまごろふたつの目がそろっていることも不可能ではないと考えている(すごい拍手喝采)。彼女がゆくすべてのとこで、一日十八ペンス、黒ビール一パイント、酒を一杯もらっていたが、ブリック小路支部の会員となったときからは、そのかわりに三シリング六ペンス要求している(この興味深い事実の発表は、耳をつんざかんばかりの喊声でむかえられた)。
ヘンリー・ベラーは、多年のあいだ、さまざまな会社の晩餐会で乾杯の辞を述べていた人物で、そうしたときに多量の外国のぶどう酒を飲み、それを一本か二本、ときどき、家にもって帰ったかもしれないが、そのことはよくわからない。しかし、もしもって帰ったとすれば、その中身を飲んだことはたしかである。とても気分が滅入り、憂鬱になり、ひどく熱っぽく、いつも喉の渇きを訴えるようになり、それはいつも飲んでいたぶどう酒のためと考えている(喝采)。いまは失職中、どんなことがあっても、外国のぶどう酒の一滴でも飲もうとはしない(すごい拍手喝采)。
トマス・バートンは市長、治安判事、市会の何人かの議員宅の猫のえさ肉(くしに刺して町で売っている馬肉・くず肉)のまかない屋(この紳士の名前の発表は興味深いもの、一同|固唾《かたず》をのんで聞き入る)。片脚が木の義足だが、石の上を歩いているので、その義足をぜいたくと考え、古物の義足をはめ、毎晩かならず熱い水割りのジンを一杯――ときには二杯――飲んでいた(深い溜め息)。古物の義足が早く割れてくさることがわかり、それが水割りジンで損ねられたものと確信する(ながい喝采)。いま新しい義足を買い、水と薄い茶ばかり飲んでいる。新しい義足はいままでの倍もながもちし、彼はこれをただただ禁酒の習慣のおかげと考えている(勝ち誇った喝采)」
アンソニー・ハムは、今度、一同が歌で楽しむ動議を提出、彼らの合理的、道徳的楽しみのために、同志モードリンが「陽気な若い船頭をだれか知らざる?」の美しい歌詞を讃美歌百番の節に合わせたものを、一同といっしょに歌いたいと申し出た(大拍手喝采)。彼は、この機会を利用して、故人となったディブディン氏(チャールズ(一七四五―一八一四)イギリスの劇作家、俳優、舞台音楽の作曲家)が過去の生活のあやまちを認め、禁酒の利点を示すためにその歌を書いたものと彼が確信していることを披露し、それは禁酒の歌だと宣言した(あらしの喝采)。その青年の小ざっぱりとした服装、水かきが水平になるようにオールをぬく動作のたくみさ、詩人の美しい言葉で、彼に
[#2字下げ] なにも考えずに、こぎ進め
を可能にさせたうらやましい心理状態、こうしたことすべては、彼が禁酒家であったにちがいないことを証拠立てている(喝采)。おお、なんという道徳的よろこびだろう!(恍惚とした喝采)そして、この青年の受けた報いはどういうものだっただろう! すべての青年たちはこれを注意していただきたい――
[#2字下げ] おとめたちすべて、彼のボートに群れ集まる
(大喝采、それにご婦人方も参加。)なんという輝かしい手本であろう! 姉妹たち、おとめたちはこの若い船頭のまわりに群らがり集まり、義務と禁酒の流れにそって、彼をおし進めてゆく。だが、彼の心をなぐさめ、癒やし、支えたのは、いやしい身分のおとめだけだったのだろうか? いいや!
[#2字下げ] 彼はいつも町のりっぱなご婦人方のボートの調整手
(ものすごい喝采。)やさしい性の人たちは、ぜんぶ、この若い船頭のまわりに集まり、酒を飲む人たちをきらって、それに背を向けた(喝采)。ブリック小路の同志は船頭である(喝采と笑い)。この部屋はわたしたちの船、聴衆はおとめたち、わたし(アンソニー・ハム氏)は、いかにふつつかな者にせよ、「調整手」である(果てしない拍手喝采)。
「やさしい性の人たちって、どういうことなんだい、サミー?」ヒソヒソ声でウェラー氏はたずねた。
「女どものこってすよ」同じ調子でサムは答えた。
「やつは、その点では、そうまちがってはいないね、サミー」ウェラー氏は言った。「やつのような男なムザムザとごまかされるなんて、あの女どもはやさしい性――たしかに、とてもやさしい(「やさしい」意のソフトには、口語で、「かつがれやすい」の意がある)性にちがいない[#「ちがいない」に傍点]からな」
憤慨しているこの老紳士の言葉は、歌の開始の言葉によって断ち切られてしまった。アンソニー・ハム氏は、この歌を知らない人たちのために、一度に二行ずつ伝えていたからである。歌が歌われているあいだに、褐色の半ズボンをはいた小男は姿を消したが、歌の終わったときにもどり、いかにも深刻な顔をして、なにかアンソニー・ハム氏にささやいていた。
「みなさん」まだ一、二行おくれて歌っている太った老婦人たちに沈黙を命ずるために、いかにも懇願的な態度で片手をあげて、ハム氏は言った。「みなさん、われわれの協会のドーキング支部の代表、同志スティギンズ氏が階下でお待ちです」
いままでよりもっと元気よく、ふたたびハンカチがふられた。スティギンズ氏は、ブリック小路の女性選挙民のあいだでは、とても人気のある人物だったからである。
「彼はここに来てもいいと思いますがね」うつけた微笑を浮かべてあたりを見まわしながら、ハム氏は言った。「同志タジャー君、彼にここに来て、挨拶させてください」
同志タジャーの名に答えた褐色の半ズボンの小男は大急ぎで階段をかけおり、すぐにスティギンズ牧師といっしょに、蹴つまずきながら階段をあがってくるのが聞こえた。
「やつが来るぞ、サミー」おし殺した笑いで顔を真っ赤にさせて、ウェラー氏はささやいた。
「なにも言わないでくださいよ」サムは答えた、「笑いが抑えられないんですからね。やつはドアの近くに来てますよ。やつが頭を壁にぶっつけてるのが、たったいま、聞こえてきたんですからね」
サム・ウェラーがこう言ったとき、小さなドアがパッと開かれ、同志タジャーが姿をあらわし、そのあとにすぐ、スティギンズ牧師の姿があらわれた。彼が部屋にはいるやいなや、大きな拍手と足で床を踏む音が聞こえ、ハンカチが華かにふられたが、こうしたよろこびの表示すべてにたいして、同志スティギンズ氏はあらあらしい目つきとジッと動かぬ微笑でテーブルの上のろうそくの芯の先のところを見つめるだけ、そうしながら、不安定なたよりないふうに、体を前後にゆらゆら動かしていた。
「気分がおわるいのですか、同志スティギンズ?」アンソニー・ハム氏はささやいた。
「大丈夫ですよ」スティギンズ氏は答えたが、そこには、狂暴さが言葉の不鮮明に入りまじっていた。「大丈夫ですよ」
「いや、結構なこと」数歩さがって、アンソニー・ハム氏は答えた。
「わたしが具合いがよくないなんぞと、おこがましくも、ここにいる人はだれも言わんでしょうな?」スティギンズ氏は言った。
「ええ、もちろん、言いませんとも」ハム氏は答えた。
「そんなことは言わんようにと忠告しときますぞ、忠告しときますぞ」スティギンズ氏は言った。
このときまでに聴衆はすっかり静かになり、会の事務が再開されるのを、多少いらいらしながら、待っていた。
「同志よ、ここのみなさんに話していただけますか?」誘いの微笑を浮かべて、ハム氏は言った。
「だめですよ」スティギンズ氏は答えた。「だめですよ。する気はないんですからね」
会衆は目を見開いてたがいに顔を見合わせ、驚きのつぶやきが部屋を走った。
「これはわたしの意見なんですがね」上衣のボタンをはずし、大声でしゃべって、スティギンズ氏は言った。「ここに集まった人たちは酔っ払いだというのが、わたしの意見ですぞ。同志タジャー!」狂暴さを急にあらわにし、褐色の半ズボンをはいた小男のほうにさっと向きなおって、スティギンズ氏は言った、「きみは飲んだくれだぞ!」こう言って、会の禁酒状態を促進させ、そこから好ましからざる人物すべてを追い払ってしまおうとする賞賛すべき意図をもって、スティギンズ氏はしっかりとねらいをつけて同志タジャーの鼻の天辺に一撃加えたので、褐色のズボンは、稲妻の一閃のように、さっと姿を消してしまった。同志タジャーは、まっさかさま、階段の下になぐり倒されたのである。
これにたいして、女たちは大声の不吉な叫び声をあげ、危険から身を守ろうと、小さな群れになって、それぞれ好みの男の同志のところにとんでゆき、両腕で彼らにすがりついた。これは親愛の情の発露となり、それはハム氏にはあやうく命とりになりそうになった。彼は非常な人気者で、彼の首のまわりにしがみつき、彼に愛撫を重ねる女性のファンの群集で、ほとんど窒息しそうになったからである。灯りの大部分はさっさと消され、ただ物音と混乱があたり一面に鳴りひびいていた。
「さあ、サミー」外套をゆっくりとぬいで、ウェラー氏は言った、「お前は外に出て、夜警を呼びこめ」
「そして、父さんは、そのあいだ、なにをするつもりなんですね?」サムはたずねた。
「おれのことは心配するな、サミー」老紳士は答えた。「おれはあのスティギンズのやつとちょっと話をつけているからな」サムがそれを阻止する暇もあらばこそ、この英雄的な父親は部屋の遠くの隅まで人をおしわけて進んでゆき、腕力の妙技をふるって、スティギンズ牧師襲撃をはじめた。
「こっちに来なさい!」サムは言った。
「さあ、来い!」ウェラー氏は叫び、なにも言われないのに、まず一発予備的にスティギンズ牧師の頭に一撃を加え、うきうきとしたコルクのような軽快な態度で、彼のまわりを踊りはじめたが、それは、彼の年配の紳士としては、じつに驚くべき身軽さというものだった。
抑えようとしてもむだなことをさとって、サムはしっかりと帽子をかぶり、片腕に父親の外套をひっかけ、老人の胴体をかかえて、むりやり彼を階段から引きずり落とし、街路に出ていったが、ふたりが町角にゆきつくまで、サムは手を放さず、父親が立ちどまるのを許そうとはしなかった。町角にいったとき、彼らは群集の叫びを耳にしたが、その人たちは、スティギンズ牧師が一夜堅牢で脱走不可能な部屋におしこめられるのをながめていた連中、そのうえさらに、連合グランド・ジャンクション・エベニーザ禁酒協会のブリック小路支部の会員たちが、さまざまな方向に散ってゆく物音を聞くことができた。
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第三十四章
[#3字下げ]バーデル対ピクウィック事件の記念すべき裁判の精細・誠実なる報告にすべて献げられた章
「陪審長はだれにせよ、彼は朝食になにを食べたのかな?」二月十四日の波瀾の多かった朝、話をつづけようとして、スノッドグラース氏は言った。
「ああ!」パーカー氏は言った、「おいしい食事をとってくれたらいいんですがね」
「どうしてそうなんですかね?」ピクウィック氏はたずねた。
「高度に重要なこと、とても重要なことですよ」パーカー氏は答えた。「善良で、満足し、十分に朝食をとった陪審は、ぜひ抑えなければならん重要なもんなんです。不満を感じ、さもなければ、腹を空かせている陪審は、かならず原告に有利な判定をくだすもんですからね」
「いや、驚いた!」ひどくポカンとして、ピクウィック氏は言った。「どうしてそういうことになるのかな?」
「いやあ、わかりませんな」小男は冷静に答えた。「時間の節約になるんでしょうな。晩餐どき近くなら、陪審たちが引きさがったとき、陪審長は懐中時計を引きだし、『いや、これは! 諸君、五時十分前ですぞ! わたしの晩餐は五時なのですからな、諸君』。『わたしもそうなんです』ふたりを除いて、ほかの全員が言うんです。このふたりは三時に食事をしたにちがいなく、その結果、がんばろうという気合いは十分といったところなんです。陪審長はニヤリとし、懐中時計をしまい――『さて、諸君、どっちでしょうかな、原告ですかね、被告ですかね? わたしに関するかぎりでは、諸君、わたしは思うんですがね――わたしは思うんですがね――だが、それだからといって、あなた方のお考えを変えることはありませんよ――わたしは原告がズバリその人と思うんですがね』すると、自分もそう思うと二、三のほかの陪審が言いだすのは必定――もちろん、そう言いますとも。そして陪審たちは口をそろえ、調子よくやってゆくんです。やっ、九時十分すぎですな!」自分の懐中時計を見て、小男は叫んだ。「もう出発せにゃならん時刻ですよ。約束破棄の裁判――こうした事件では、法廷はいつも満員になるもんです。ベルを鳴らして、馬車を呼んだほうがいいですよ。さもないと、そうとうおくれてしまいますからな」
ピクウィック氏はすぐにベルを鳴らし、馬車が見つかったので、四人のピクウィック・クラブ会員とパーカー氏はそれに乗りこみ、ギルドホールにゆき、サム・ウェラー、ラウテン氏と青い袋は、辻馬車で、そのあとを追った。
「ラウテン」一同が法廷の外の広間に着いたとき、パーカー氏は言った、「ピクウィックさんのお友だちの方々を研究生席におつれしろ。ピクウィックさんご自身は、わたしのそばに坐っておいでのほうがいいんです。こちら、ピクウィックさん、こちらへ、どうぞ」ピクウィック氏の上衣の|袖《そで》をとって、小男は王室弁護士の机の真下の低い席に彼をつれていったが、それは弁護士たちの便利のためにつくられているもので、彼らは、その場所から、事件の指導的な弁護士の耳に、裁判の進行中に必要などんな指示でも耳打ちすることができるようになっていた。この座席にいる者は、傍聴人には姿が見えないようになっているが、それは、そこが法廷弁護士や傍聴人よりずっと低い場所にあり、法廷弁護士と傍聴人の座席は床の上に高くあげられているためである。もちろん、この低い座席の人たちは背を弁護士や傍聴人に向け、顔は裁判官に向けられている。
「あれは証人台でしょうな?」左手の、真鍮の手すりのある、ちょっと説教壇めいたものを指さして、ピクウィック氏は言った。
「あれは証人台ですよ」ラウテンが足もとにおいていった青い袋から多くの書類を引っぱり出して、パーカー氏は答えた。
「そして、あれは」右手のふたつのとり囲まれた座席をさして、ピクウィック氏は言った、「あれは陪審が坐るところですな、そうじゃありませんか?」
「まさにそうですよ」かぎタバコ入れのふたをたたいて、パーカー氏は答えた。
ピクウィック氏は激しい興奮状態につつまれて立ちあがり、法廷をチラリとながめまわした。廊下には、もうちらほらと、かなりの数の傍聴人がつめかけ、法廷弁護士の座席には、かつらをかぶったたくさんの紳士の群れが見受けられたが、彼らはあの感じのよい、さまざまな鼻と頬髯を一団になって示し、それでイギリスの法廷が有名になっているのもいかにも当然と、それは思われるものだった。運ぶべき訴訟事件摘要書をもっている紳士たちは、できるだけ目立つようにしてそれを運び、ときどき、その書類で鼻をこすって、その事実を傍聴人にさらに強く印象づけていた。示すべき訴訟事件摘要書をもっていないほかの紳士たちは、腕の下に、背後には赤いはり紙がつけられ、専門的には「上等小牛皮」として知られている、まだ十分に焼けていないパイの殼の色をしたおおいのついている堂々たる八折り版本をかかえていた。訴訟事件摘要書も本ももたないほかの連中は、手をポケットにつっこみ、できるだけ利口そうなふうをよそおい、さらにほかの者は、いかにも気ぜわしげな真剣な態度で、あちらこちらと動きまわり、事情を知らぬ傍聴人たちを驚嘆・びっくりさせることで満足していた。全員は、ピクウィック氏がいたく驚いたことに、小さなグループにわかれ、まるで裁判なんかどこふく風といったふうに、じつにケロリとした態度で、その日の出来事をあれこれとしゃべり、議論していた。
ファンキー氏がはいってきて、王室弁護士に当てられた列の背後に坐ったとき、彼からのお辞儀がピクウィック氏の注意をひいた。彼がそれにお辞儀をかえすやいなや、上級法廷弁護士のスナビン氏が姿をあらわし、彼のあとにはマラード氏がつづき、彼は大きな真紅の袋の背後にほとんど上級法廷弁護士の姿をかくし、それをスナビン氏のテーブルの上におき、パーカー氏と握手をしてから、引きさがっていった。ついで、さらに二、三人の上級法廷弁護士が入場し、そのうちのひとり、太った胴体と赤い顔をした男は、友好的な態度で、上級法廷弁護士スナビン氏にうなずき、きょうは天気のいい朝ですな、と挨拶した。
「きょうは天気のいい朝だと言い、われわれの弁護士にうなずいたあの赤い顔をした男はだれです?」ピクウィック氏はささやいた。
「上級法廷弁護士のバズファズ氏ですよ」パーカー氏は答えた。「彼はわれわれの反対の側に立ち、その指揮をしているんです。彼のうしろにいるあの紳士は、彼の下級法廷弁護士のスキムピン氏です」
ピクウィック氏は、その男の冷酷な悪事をひどくいみきらう気持ちにおそわれて、相手の弁護人になっている上級法廷弁護士バズファズ氏が、自分の弁護人になっている上級法廷弁護士スナビン氏に、どうしておこがましくもきょうは天気のいい朝だなんぞと挨拶をするのかともたずねようとしたとき、弁護士全員が起立し、法廷の役人たちが大声で「静粛!」と叫んだので、それは阻止されてしまった。あたりを見まわしたとき、これが裁判官の入場によって起こされたことを、彼は知った。
裁判官ステアリー氏(病気のため欠席の裁判長の代理)はじつにすごく背の低い、とても太った男、顔とチョッキだけといった感じの男だった。彼はまがった小さな脚でここにころがりこみ、彼に重々しく頭をひょいとさげた弁護士団に重々しくひょいと頭をさげてから、その小さな脚をテーブルの下に入れ、小さな三角帽をその上においた。裁判官のステアリー氏がこれをし終わったとき、彼の姿で目にはいるものと言えば、ただふたつの奇妙な小さな目玉と、大きなピンクの顔、それに大きな、とても喜劇的な感じのするかつらのほぼ半分だけになっていた。
裁判官が座席につくや、法廷の床の上に立っていた役人が命令調子で「静粛!」を宣し、それに呼応して、廊下のべつの役人が怒ったように「静粛!」と叫び、それに呼応して、三、四人のべつの廷丁が憤慨した抗議の声で「静粛!」とどなった。これが終わると、裁判官の下に坐っていた黒服の紳士が陪審の名前を呼びはじめ、あれこれとわめいたあとで、十人の特別陪審員(特別の階級から選ばれたもの)だけが出席していることがわかった。そこで、上級法廷弁護士のバズファズ氏が補欠陪審員(法廷で列席者または傍聴人の中から補欠として選ばれる陪審員)を請求し、黒服の紳士が普通陪審員のふたりを特別陪審員の中におしこみはじめ、八百屋と薬屋がすぐにつかまってしまった。
「宣誓するように、それぞれの名に返事をしてください」黒服の紳士は言った。「リチャード・アップウィッチ」
「はい」八百屋は答えた。
「トマス・グロフィン」
「はい」薬屋は答えた。
「ふたりとも、聖書を手にもってください。あなた方はきちんと誠実に――」
「法廷のお許しを得たいんですが」背の高い、痩せた、黄色い顔をした薬屋は言った、「わたしの出席を免除していただきたいんです」
「どんな理由で?」裁判官のステアリー氏はたずねた。
「店員がいないんです」薬屋は答えた。
「それは当方ではどうともなりませんな」裁判官のステアリー氏は応じた。「店員をやとうのは、あなたなんですからな」
「そんな余裕はないんです」薬屋は答えた。
「じゃ、その余裕をもつようになるべきですな」顔を赤らめて、裁判官は言った。というのも、裁判官ステアリー氏の気質は癇癪もちに近いもの、反対は我慢ならなかったからである。
「当然なふうにうまくとんとん拍子にいってたら、そうなるべきことは知ってますがね、じっさいには、そうなってないんです」薬屋は答えた。
「その紳士に宣誓を」裁判官は高飛車に言った。
役人が「あなたはきちんと誠実に審査し」以上言わないうちに、それはまた薬屋によってさえぎられた。
「裁判長閣下、宣誓しなければならないんですか?」薬屋はたずねた。
「もちろん」怒りっぽい小男の裁判官は答えた。
「よくわかりましたよ」あきらめたふうに薬屋は言った。「じゃ、この裁判が終わらないうちに、殺人事件が起きるでしょう。それだけのこってすよ。よろしかったら、どうかわたしに宣誓をさせてください」そして、裁判官がまだなにも言えないうちに、薬屋は宣誓をすませてしまった。
「裁判長閣下、わたしが言いたかったことはただ」ゆっくり座席について、薬屋は言った、「店にのこしてきたのは、使い走りの小僧だけだということなんです。彼はいい小僧にはちがいないんですが、裁判長閣下、薬のことはなにも知ってはいないんです。彼の心に強く刻みつけられてる考えは、|瀉利塩《しやりえん》(下剤に用いられる)は|蓚酸《しゆうさん》(染色、鞣皮、漂白などに使用)、センナの煎じ汁(下剤に用いられる)は阿片だということでしょう。それだけのこってすよ、裁判長閣下」こう言って、背の高い薬屋はゆっくりと快適に坐りこみ、明るい表情で、最悪事態にも覚悟はきめたといったふうをしていた。
ピクウィック氏はひどい恐怖の念で薬屋をながめていたが、そのとき、法廷にちょっとしたセンセイションがまきおこされ、その直後、クラッピンズ夫人に助けられて、バーデル夫人がつれこまれ、ぐったりしなだれたようすで、ピクウィック氏が坐っている席のべつの端のところに坐らされた。ついで、特大の傘がドッドソン氏によってわたされ、木靴が一足フォッグ氏によってわたされたが、この両氏とも、この場合にとっておきのじつに同情的な、悲しそうな顔つきをしていた。それからサンダーズ夫人が、バーデル坊やをつれて、はいってきた。この子供の姿を見ると、バーデル夫人はギクリとし、はっとわれにかえって、狂気のようにこの坊やにキスをし、ヒステリー的な痴呆状態におちこんで、この善良な夫人は、自分はいまどこにいるのか、とたずねた。これに答えて、クラッピンズ夫人とサンダーズ夫人は、|面《おもて》をそむけて泣き、一方、ドッドソン氏とフォッグ氏は、原告バーデル夫人に、心を静めるようにと言った。上級法廷弁護士のバズファズは大きな白いハンカチで目をしきりにこすり、訴えるまなざしを陪審のほうに投げ、一方、裁判官ははっきりと感動し、何人かの傍聴人は、咳払いをして、わきおこる同情の念を静めようとしていた。
「なかなかうまい考えですな、あれは、まったく」パーカー氏はピクウィック氏にささやいた。「ドッドソンとフォッグはすごいやつらですよ。効果満点の策略、効果満点ですな」
パーカー氏がしゃべっているとき、バーデル夫人はゆっくりと回復しはじめ、一方、クラッピンズ夫人はバーデル坊やのボタンをきちんとボタン穴にはめてから、母親の前の床の上に彼を立たせたが、ここは、まぎれもなく裁判官と陪審のあわれみと同情をひきおこす恰好の場所だった。これは、バーデル坊やのそうとう強い反対と涙をおしきってやったことだった。彼にしてみれば、裁判官にジロジロとにらまれるところに立つのは、自分が即時の死刑のためにここを追い出されるか、少なくとも、生涯流刑になる形式的な前奏曲にすぎないのではないかと、内心ビクビクしていたからである。
「バーデルとピクウィック訴訟」表の最初にある訴訟を読みあげて、黒衣の紳士は叫んだ。
「わたしは原告の弁護人です」上級法廷弁護士のバズファズ氏は言った。
「きみと組んでいるのはだれだね、バズファズ君?」裁判官はたずねた。スキムビン氏はお辞儀をし、自分がそれだということを知らせた。
「わたしは被告の弁護人になっています」上級法廷弁護士のスナビンは言った。
「きみと組んでいるだれかがいるかね、スナビン君?」裁判官はたずねた。
「ファンキー氏です」上級法廷弁護士のスナビン氏は答えた。
「原告には上級法廷弁護士のバズファズ氏とスキムビン氏」帳面に名前を書きこみ、書きながら読んで、裁判官は言った。「被告には、上級法廷弁護士スナビン氏とマンキー氏」
「失礼ですが、ファンキーです」
「おお、よくわかりましたぞ」裁判官は言った。「その方の名前を聞いたことがなかったのでね」ここでファンキー氏はお辞儀をして微笑し、裁判官もお辞儀をして微笑、ついでファンキー氏は、白目まで真っ赤にさせて、すべての人の目が自分に注がれているのに気がつかぬふりをしようとしたが、これは、過去将来を通じて、人がどんなに努めても、うまくゆかぬことだった。
「開始」と裁判官は言った。
廷丁はふたたび静粛を叫び、スキムピン氏は「立証に先立つ|事実《ケース》の陳述」をおこなったが、その陳述をおこなったとき、その|箱《ケース》の中にはたいして物がはいっていないような感じだった。彼は自分が知っている精細な事実は伏せたままにし、三分すぎると着席してしまい、陪審はこの事件に関して以前とは変わらぬ、なにも知らぬ状態のままでいたからである。
上級法廷弁護士のバズファズは、こうした重大な訴訟行為が要求する堂々とした威厳ある態度で立ちあがり、ドッドソンに耳打ちし、手短にフォッグと打ち合わせをして、ガウンを肩にひっかけ、かつらをしっかりとかぶり、陪審にたいして語りはじめた。
上級法廷弁護士バズファズの開口一番の言葉は、彼のこの職業の経験すべてをとおして――法律の研究と職業に従事した最初のときから――こうした深い感動をおぼえ、自分に課された責任をこうして痛切に感じて、訴訟に接したことは、いまだかつて一度もない、ということだった。真実と正義の立場、言葉をかえて言えば、ひどく傷つけられ、ひどい目にあっている彼の依頼人の立場が、彼がいま自分の前の座席に見ている高潔で頭のすぐれた人たちを説得せずにはいないという強い確信、いや、強い自信に支えられていなかったら、彼が絶対に引き受けはしなかったとも言ってよい、それは責任感だった。
弁護士たちはいつもこんなふうにはじめるものである。それが陪審と自分たちをこのうえない友好的な関係に立たせ、自分たちがどんなに鋭い人間かを、陪審に考えさせるからである。その効果はすぐはっきりとあらわれてきて、何人かの陪審はせっせといろいろなことを書きこみはじめていた。
「みなさん、みなさんはもうわたしの学識ある友人からお聞きずみのことですが」その学識ある友人から陪審がまだなにも聞いていないことを百も承知で、上級法廷弁護士のバズファズはつづけた――「みなさん、みなさんはもうわたしの学識ある友人からお聞きずみのことですが、これは結婚の約束破棄の訴訟で、損害は千五百ポンドとされているものです。だが、それがわたしの学識ある友人の領域ではなかったために、みなさんはこの訴訟の諸事実と事情をご存じではありません。そうした諸事実と事情を、みなさん、わたしがくわしく説明し、それを、あなた方の前にあるあの証人台に申し分なくりっぱなご婦人を呼ぶことによって証明することにしましょう」
ここで、上級法廷弁護士のバズファズ氏は、「証人台」という言葉にすごく力を入れ、高い音を立てて自分のテーブルをたたき、ドッドソンとフォッグにチラリと目をやったが、彼らはうなずいてこの上級法廷弁護士にたいする驚嘆の情を示し、被告にたいする憤懣やる方ない挑戦の態度を伝えた。
「原告は、みなさん」やわらかい、ものうれわしげな声で上級法廷弁護士のバズファズはつづけた、「原告は未亡人です。そうです、みなさん、未亡人です。故バーデル氏は、陛下の収入を保管する役人のひとりとして、多年のあいだ陛下の尊敬と信頼をかけられていたあとで、それと気がつかぬ間に他界し、税関が決して与え得ぬあの安息と平和をべつの場所に求めることになりました」
居酒屋の地下蔵で一クォート入りのびんで頭をしたたかなぐられたバーデル氏の死をこうして痛ましく描写したとき、学識ある上級法廷弁護士の声はとぎれがちになり、彼は熱をこめて語りつづけた――
「彼の死の少し前に、彼は自分の忘れ形見をのこしました。死亡した収税吏のただひとつの形見であるこの幼い少年といっしょに、バーデル夫人は世間をしりぞき、ゴズウェル通りの人気のない静けさを求め、つぎのような言葉が書かれてある札を通りに面した客間の窓にさげたのです――『独身の紳士のための家具つきの部屋。当家におたずねありたし』」ここで上級法廷弁護士のバズファズは話をとめ、何人かの陪審はこの証拠事実を書きとめていた。
「それには日づけはないのですね?」ある陪審がたずねた。
「みなさん、日づけはありません」上級法廷弁護士のバズファズは答えた。「しかし、それが原告の客間の窓にここ三年間さげられていたことは知っています。この文書の言葉使いを陪審のみなさんにご注意ねがいたいのです。『独身の紳士のための家具つきの部屋』ですぞ! 男性にたいするバーデル夫人の考えは、みなさん、彼女のいまは亡き夫のすぐれた性格をながく見ていたことから得られたものなのです。彼女は恐怖心、不信感、猜疑心はいだかず、すべてこれ信用、信頼だったのです。『夫バーデルは』未亡人は言いました、『夫バーデルは信義を守る人、約束を破らぬ人、いつわりを言えぬ人でした。夫バーデルもかつては独身の紳士でした。独身の紳士[#「独身の紳士」に傍点]に、わたしは保護・援助・楽しみ・なぐさみを求めます。独身の紳士[#「独身の紳士」に傍点]に、わたしは、いつもわたしの若い清らかな愛情を獲ち得たかつてのバーデルの姿を思い出させるなにかを見つけるでしょう。だから、独身の紳士にわたしは自分の部屋をお貸しします』この心を打つ美しい衝動につき動かされ(それは人間の不完全な性格のもつもっともりっぱな衝動のひとつです、みなさん)、孤独でわびしい未亡人は涙をぬぐい、二階に家具づけをし、無邪気な少年を母なる彼女の胸にだき、客間の窓に札をさげたのです。それはそこにながくさげられていたでしょうか? いや。狡猾な蛇は監視の目を光らし、罠がかけられ、地雷はしかけられ、工兵は作業をしていたのです。客間の窓に札がかけられて三日――三日ですよ、みなさん――もしないうちに、二本の脚でしゃんと立ち、外見は怪物ではなく、人間のようすをしたものが、バーデル夫人の家のドアをノックしたのです。彼は家の者にたずね、部屋を借り、その翌日、そこにはいりこんでしまったのです。この人物はピクウィック――被告ピクウィックです」
いともペラペラとしゃべり立て、顔を真紅に染めた上級法廷弁護士のバズファズは、ここで息をつぐために、話をとめた。沈黙は裁判官ステアリー氏の目をさまさせ、彼はすぐさまインクのついていないペンでなにかを書きとめ、ひどく深刻そうな顔をしていたが、これは、目をつぶっているときに自分はいつももっとも深く考えているのだ、ということを陪審に信じこませるためのものだった。上級法廷弁護士のバズファズは話をつづけた。
「このピクウィックという人物については、わたしはほとんどなにも申しますまい。そうした話は、魅力のないことだからです。わたしは、みなさん、そしてあなた方も、いまわしい冷酷さと計画的な悪事を考えるのをよろこぶような人物ではないからです」
このとき、しばらくのあいだだまって書きものをしていたピクウィック氏は、裁判官と法が厳存するその目の前で、上級法廷弁護士のバズファズにおそいかかってやろうという漠然とした考えが心に浮かんだといったようすで、いきなり激しくギクリとした。パーカーからの注意の身ぶりが彼を抑え、彼は学識ある紳士ののこりの話を怒りの顔でジッと聞き入っていたが、それは、クラッピンズ夫人とサンダーズ夫人の驚嘆の顔つきと好対照をなしていた。
「わたしは計画的な悪事と申しますぞ、みなさん」ピクウィック氏をじーっとながめ、彼に当てつけを言って、上級法廷弁護士のバズファズは言った。「そして、組織的悪事と申したとき、ピクウィックはここにいるということですが、もし彼がここにいたら、わたしは被告ピクウィックに申しましょう、もし彼が裁判をやめたら、そのほうが彼にあってもっとまともなこと、もっとふさわしく、もっと分別があり、もっと目がきいていたことになったろうと申します。この法廷で彼が駆使するかもしれぬ異議・否認の身ぶりもあなた方には承認されず、あなた方はそれをどう判定し評価するかをお心得だ、と彼に申しましょう。さらに、これは裁判長閣下がみなさんにお知らせすることでしょうが、弁護士は、依頼人にたいする自分の義務の遂行に当たって、おどかし、脅迫、抑圧には応ぜぬものだということ、そのいずれか、最初のものでも最後のものでもおこなおうとするどんな試みも、それが原告であれ、被告であれ、その名がピクウィック、ノークス、ストークス、スタイルズ、ブラウン、トムプソンであれ、それを試みる者の頭上にはねかえっていくことを、ここで彼に申しておきましょう」
このちょっとした脱線は、もちろん、衆目をピクウィック氏に集める意図した効果をあげていた。上級法廷弁護士のバズファズは自分をかり立てていった道徳的昴揚から少しまともにかえって、語をついだ――
「みなさん、ピクウィックが、二年間たえず、とぎれることなく、たえ間もなしに、バーデル夫人の家にいつづけたことを、これからお伝えしましょう。バーデル夫人が、そのあいだ中ずっと、彼にかしずき、彼が安楽に暮らせるように心をつかい、彼の食事を料理し、シャツを外に出すときは、それに目をとおし、それがもどってきたときには、そのつくろいをし、それを乾し、着られるようにととのえ、簡単に申せば、彼の全面的な信頼を受けていたことを、これからお伝えしましょう。何回か彼が彼女の小さな坊やに半ペニーを、ときには六ペニーさえ与えたことを、これからお伝えしましょう。相手の学識ある弁護士といえども弱め、あるいは反駁することのできぬ証人によって、あるとき、彼が坊やの頭を軽くたたき、最近上等なおはじきやふつうのおはじき(これは、両方とも、この町の子供たちがとても大切にしているおはじきと、わたしは理解していますが)をもうけたかどうかをきいたあとで、つぎの注目すべき言葉、『べつの父さんをもつのを、きみはどう思うね?』と語ったことを、みなさんに証明いたしましょう。さらに、みなさん、約一年前、ピクウィックはながいあいだ家を留守にしはじめ、わたしの依頼人とだんだん縁を切ろうといった意図を見せはじめたことを、みなさんに証明いたしましょう。さらに、彼の決意はその当時そう強いものではなく、良心が彼にありとせば、その良心がまだ克服されず、わたしの依頼人の魅力と身につけた家事の才が彼の男らしからぬ意図に打ち勝っていた事実は、あるとき、彼がいなかからもどってきたとき、彼がはっきりと言葉で彼女に結婚を申しこみ、しかも、この厳粛な契約にだれも証人がいないよう特別注意を払っていたことを証明して、みなさんにお伝えしましょう。彼自身の三人の友人――みなさん、じつにいやいやながらの証人たち――じつにいやいやながらの証人たちの証言にもとづき、その朝、彼が原告を両腕にかかえ、愛撫と愛情の表示で彼女の興奮を静めていた姿が発見された事実をみなさんに証明できる立場に、わたしはあるのです」
学識ある上級法廷弁護士の演説のこの部分が、聴き手に深い感銘を与えたことは、明らかだった。とても小さな紙切れ二枚を引きだして、彼はなお話をつづけた――
「さて、みなさん、もう一言だけ。ふたりのあいだで、二通の手紙がかわされました。被告の筆跡であることは認められ、まったく、語るところの多いものです。そのうえ、この手紙は男の性格を物語っています。それはただただやさしい愛情の言葉を語っている率直・熱烈・雄弁な手紙ではありません。それはひそかな、狡猾な、秘密の連絡ですが、幸いなことに、もっとも輝く言葉、もっとも詩的な比喩におさめられた場合よりはるかにもっと決定的なもの――用心と疑いの目でながめねばならぬ手紙――だれか第三者の手に落ちた場合、そうした人の目をかすめごまかすように、その当時ピクウィックによって明らかに意図されていた手紙です。最初の手紙を読んでみましょう――『ギャラウェイの店(当時ロンドンにあった古いコーヒー店)にて、十二時。親愛なるB夫人よ――厚切りの肉とトマトソース。あなたのもの、ピクウィックより』みなさん、これはなにを意味するものでしょう? 厚い肉切れとトマトソース! あなたのもの、ピクウィック! 厚い肉切れ! いや、驚いたこと! それにトマトソース! みなさん、感受性の強い、人を信じやすい女性の幸福が、こんな浅薄な策略によって、もてあそばれていいものでしょうか? つぎの手紙には日づけがなく、それは、それだけで、くさいものです。『親愛なるB夫人よ、明日まで家にもどりません。ゆっくりとした駅伝馬車』つぎにじつに注目すべき言葉がつづいています。『寝床暖め器(ふたのある長柄の十能のようなもので、むかし寝床を暖めるのに用いた)についてはご心配なく』寝床暖め器ですって! いやあ、みなさん、寝床暖め器について、だれが心配しましょう? 男女の心の平和が寝床暖め器によって破られ、乱されたことが、いつあったでしょう? それは、それ自体、害のない、有益な、それに、みなさん、わたしは申しそえましょう、気持ちをよくしてくれる家具なのですからな。それがかくされた火をおおっているもの(この場合は、たしかにそうなのですが)でなかったら――前もってとりきめられたある通信連絡の方法で、計画している同居拒否の意図をもってピクウィックによってたくみにたくらまれ、いまわたしがそれを説明すべきでない、なにかある愛撫の言葉か約束にかわる言葉でなかったら、どうしてバーデル夫人がそうむきになってこの寝床暖め器についてさわぐなとたのまれることがありましょう? それに、ゆっくりとした駅伝馬車についての言葉は、なにを意味しているのでしょう? 思うに、それは、ピクウィック自身をさしているのかもしれません。この話し合いのあいだ中ずーっと、彼は疑いもなくじつに罪深いゆっくりとした駅伝馬車だったのでしょうが、いまはそのスピードが思いもかけずに加速され、その車輪は、みなさん、ひどい目にあって彼にはわかることでしょうが、すぐに油をさされる(「車輪に油をぬる」には「金を払う」の意がある)ことになるでしょうからな!」
上級法廷弁護士のバズファズ氏はここで話をちょっと切り、彼の冗談に陪審がニヤリとするかどうかを調べたが、その朝ふたり乗りの二輪荷馬車に油をやったためにこの問題にたいする感度がたぶん強くなっていた八百屋以外のだれにも、それがわからないでいたので、学識ある上級法廷弁護士は、自分の演説を終える前に、沈んだ調子にちょっともどったほうが有利と考えた。
「だが、この話はそれまでにしましょう」上級法廷弁護士のバズファズ氏は言った、「痛む心をもちながら、ニッコリするのは困難なことです。このうえなく深い同情心の目がさまされているとき、冗談をとばすのは、よからぬことです。わたしの依頼人の希望と前途は打ちこわされ、彼女の仕事はなくなってしまったと言っても、それは誇張ではありません。札は出されました――が、間借りをする人がいないのです。好ましい独身紳士が往き来はするものの――彼らが家の内外にものをたずねる魅力がなくなってしまいました。家を支配しているのは陰鬱と沈黙だけ、子供の声さえ沈んでしまいました。母親が泣いているとき、子供の遊びは無視されるものです。彼の上等なおはじきやふつうのおはじきは、ともども、放りだされてしまいました。彼はいつもあげていたあのおはじきの叫びを忘れ、棒打ち遊び(両端がとがった木片を棒で打っておどりあがらせ、地に落ちないうち、同じ棒で打って遠くへとばせる子供の遊び)や丁半遊びにも手を出さないでいます。しかし、ピクウィック、みなさん、ゴズウェル通りの砂漠のこの家庭的なオアシスを破壊したピクウィック――井戸をふさぎ、芝生に灰をかけてしまったピクウィック――冷酷なトマトソースと寝床暖め器をもって|今日《こんにち》みなさんの前に姿をあらわしたピクウィック――そのピクウィックは、臆することなき厚かましさで、まだ|頭《ず》を高くし、溜め息ひとつつくことなく、自分のひきおこした廃墟をジッとながめているのです。損害賠償、みなさん――高い損害賠償こそ、あなた方が彼に与え得る唯一の罰です。あなた方がわたしの依頼人に与え得る唯一のつぐないです。そして、こうした損害賠償を彼女は啓発された、高潔な、正しい感情をもった、良心的な、公正な、同情ある、思考力のすぐれた文明国人の陪審諸公に求めているのです」この美しい結びの言葉で上級法廷弁護人のバズファズ氏は腰をおろし、裁判官のステアリー氏ははっと目をさました。
「エリザベス・クラッピンズを呼んでください」一分後に立ちあがり、元気を新たにして、上級法廷弁護士のバズファズは言った。
いちばん近くにいた廷丁はエリザベス・タピンズの名を呼び、少しはなれていたべつの廷丁はエリザベス・ジャプキンズの名を呼び、三番目の廷丁は息もつかずにキング通りにとび出し、声がかれるまで金切り声をあげてエリザベス・マフィンズの名を呼んでいた。
そのあいだに、クラッピンズ夫人は、バーデル夫人、サンダーズ夫人、ドッドソン氏、フォッグ氏にともども助けられて、証人台にあがり、彼女が無事に最上段の踏み段の上に立ったとき、バーデル夫人はいちばん下の踏み段の上に立ち、片手にハンカチと木靴、のこりの手に気つけ薬が四分の一パイントもはいるガラスびんをもって、万一の場合にたいする備えを固めていた。サンダーズ夫人は目をしっかと裁判官の顔の上にすえ、大きな傘をもってそばに立ち、真剣な顔つきをして右の親指を傘のばねの上におき、ちょっとでも声がかかったら、それをすぐふりかざす用意万端をととのえていた。
「クラッピンズ夫人」上級法廷弁護人のバズファズは言った、「どうぞ、奥さん、気を静めてください」もちろん、心を静めるようにと言われるとすぐ、クラッピンズ夫人は前にます激しさですすり泣き、近づく気絶の発作、あるいは、これはあとで彼女が言ったことだが、自分の気持ちが千々に乱れてどうにも始末がつかなくなるさまざまのおそろしい兆候を示しはじめた。
「クラッピンズ夫人、憶えておいでですか」上級法廷弁護士はとるにたりぬちょっとした質問をいくつかしたあとで言った、「この前の七月のある朝、彼女がピクウィックの部屋を掃除していたとき、あなたがバーデル夫人の二階の裏にいたことを憶えておいでですか?」
「ええ、裁判長さまと陪審のみなさま、憶えてます」クラッピンズ夫人は答えた。
「ピクウィック氏の居間は二階の通りに面した部屋でしたな?」
「ええ、そうです」クラッピンズ夫人は答えた。
「奥さん、裏の部屋であなたはなにをしていたんです?」小男の裁判官はたずねた。
「裁判長さまと陪審のみなさま」興味ある興奮状態を示して、クラッピンズ夫人は答えた、「嘘は申しあげません」
「奥さん、嘘は言わんほうがいいですぞ」小男の裁判官は言った。
「バーデル夫人には知られずに」クラッピンズ夫人はつづけた、「わたしはそこにいました。わたしは小さな籠をもって三ポンドの卵形じゃがいも[#「じゃがいも」に傍点]を買いに出かけていたんですが、それは三ポンドで二ペンスと半ペニーのものでした。そのとき、バーデル夫人の表の戸が開いてるのを見たんです」
「表の戸がなんだって?」小男の裁判官は叫んだ。
「一部開いていたのです」上級法廷弁護士のスナビンは答えた。
「彼女は開いてると言ったのだ」狡猾な顔つきをして、小男の裁判官は言った。
「同じことです」上級法廷弁護士のスナビンは言った。小男の裁判官は疑わしそうな顔をし、それを帳面にとっておこうと言った。ついでクラッピンズ夫人が話をつづけた。
「わたしは、ただ朝の挨拶を言うために、中にはいり、きちんとした態度で二階にあがり、裏の部屋にはいっていったんです。みなさん、表の部屋で人声がし――」
「そして、きみは聞いたわけだね、クラッピンズ夫人?」上級法廷弁護士のバズファズは言った。
「失礼ですが」堂々とした態度でクラッピンズ夫人は答えた。「そんな態度はいやしいことです。その声はとても大きかったんで、否応なく耳にひびいてきたんです」
「うん、クラッピンズ夫人、きみは聞いていたわけじゃないが、その声を耳にしたのだね。その一方の声はピクウィックの声だったのかね?」
「ええ、そうです」
そして、クラッピンズ夫人は、ピクウィック氏がバーデル夫人に話しかけていたとはっきり述べたあとで、少しずつゆっくりと、何回か質問されて、読者がもう知っている話のやりとりをくりかえして話した。
陪審はうさんくさげな顔をし、上級法廷弁護士のバズファズ氏はニヤリとして、腰をおろした。上級法廷弁護士のスナビンが証人に反対訊問はしないと知らせたとき、彼らの顔はひどくおそろしいものになった。彼女の話が実質的に正しいものだと言うのは彼女にたいする当然の処置、それをはっきり述べたいというのが、ピクウィック氏の希望だったからである。
クラッピンズ夫人は、こうしておしゃべりの皮切りをしたので、このチャンスを利用して、自分自身の家庭の事情をちょっとぶちまけようという気になった。そこで彼女はすぐに、いま自分は八人の子供の母親であり、六か月先のいまごろは、夫クラッピンズ氏に第九番目の子供を献げる見とおしの十分なことを申し立てた。話がこのおもしろいところにさしかかったとき、小男の裁判官はひどくプリプリして口をはさみ、その言葉の要旨は、これ以上なにももの申さず、このりっぱな夫人とサンダーズ夫人をジャックソンの護衛のもとで法廷の外に礼をつくして運び出せ、ということだった。
「ナサニエル・ウィンクル!」スキムピン氏は叫んだ。
「はい!」弱々しい声が答えた。ウィンクル氏は証人台に立ち、宣誓をきちんとすませてから、うやうやしく裁判官にお辞儀をした。
「こちらは見ないように」相手の挨拶に答えて、裁判官は鋭く言った。「陪審のほうを見るのだ」
ウィンクル氏はその命令に服し、陪審がたぶんいるだろうと思われる方向を見た。そのときの彼の頭の混乱状態でものを見るなんて、まったくとんでもないことだったからである。
ついでウィンクル氏はスキムピン氏によって審問されたが、スキムピン氏は四十二、三歳の将来有望な青年、証人が相手側のはっきりとした味方なので、もちろん、彼をできるだけとまどわせようとしていた。
「さて」スキムピン氏は言った、「恐縮ですが、裁判長閣下と陪審諸公にきみの名を知らせてあげてくれませんか、どうです?」そして、スキムピン氏は頭を一方にかしげ、答えをとても鋭く聞いているふりをし、そうしながら、陪審のほうをチラリとながめて、ウィンクル氏の生来の偽誓好みの癖が、彼のものではないなにかべつの名を彼に言わせるだろうといったようすを暗にほのめかした。
「ウィンクルです」証人は答えた。
「洗礼名は?」腹立たしげに小男の裁判官はたずねた。
「ナサニエルです」
「ダニエルだな――ほかの名は?」
「ナサニエルです、あなた――いや、閣下」
「ナサニエル・ダニエルか、それとも、ダニエル・ナサニエルかね?」
「いや、閣下、ただナサニエルだけ、ダニエルではぜんぜんありません」
「それじゃ、どうしてダニエルと言ったのだ?」裁判官はたずねた。
「わたしは申しませんでした、閣下」ウィンクル氏は答えた。
「きみは言ったよ」きびしく眉をよせて、裁判官は答えた。「きみがそう言わなければ、こちらの帳面にダニエルと書くはずはないじゃないか?」
こういう論法では、どうにも答えようはなかった。
「ウィンクル氏の記憶力はだいぶ弱いようです、閣下」また陪審のほうをチラリと見て、スキムピン氏は口をはさんだ。「この証人にけりをつけるまでに、その記憶力をよみがえらす手段は、たぶん見つかることでしょう」
「注意したほうがいいぞ」証人をおそろしい態度でながめて、小男の裁判官は言った。
かわいそうに、ウィンクル氏は屈託のない態度をよそおうとしていたが、それは、そのときの彼のとまどった状態では、彼にあわてふためいたすり[#「すり」に傍点]の様相しか与えぬことになった。
「さて、ウィンクル君」スキムピン氏は言った、「よろしかったら、わたしの言うことをよく聞きなさいよ。注意せよと言われた裁判長閣下の命令は、あなた自身のためにも、よく心にとめておいたほうがいいですぞ。きみは被告ピクウィックの親友だとわたしは思っていますがね、そうじゃありませんかね?」
「いま憶えているかぎりで、ピクウィック氏との交際はほぼ――」
「失礼ですが、ウィンクル君、質問をそらさないでください。あなたは被告の親友なんですか、それとも、そうじゃないんですか?」
「わたしは言おうとしていたんですが――」
「質問に答えるつもりですか、そうじゃないんですか?」
「質問に答えなかったら、きみを逮捕するぞ」帳面越しに目を投げて、小男の裁判官は口をはさんだ。
「さあ」スキムピン氏は言った、「そうなんですか、そうじゃないんですか?」
「そう、親友です」ウィンクル氏は答えた。
「ええ、そうですとも。どうしてそれをすぐ言わなかったんです? たぶん、きみは原告のことも知っているのでしょうな? どうです、ウィンクル君?」
「知ってはいませんが、姿を見たことはあります」
「おお、知ってはいなくとも、姿は見たことがあるんですな? さて、陪審の諸公に、その言葉[#「その言葉」に傍点]がどういう意味のものか、ひとつ説明していただけませんかな、ウィンクル君?」
「彼女とは懇意ではないが、ゴズウェル通りのピクウィック氏を訪問したとき、彼女の姿を見かけたということです」
「何回彼女の姿を見かけましたかね?」
「何回ですって?」
「ええ、ウィンクル君、何回です? この質問が必要なら、何回でもくりかえしますぞ」こう言って、この学識ある紳士は、しっかりと動かぬ渋面をつくり、両手を腰にあてがい、うさんそうに陪審のほうへニヤリと微笑を投げた。
この質問で、こうした場合につきもののおどかしの誘導訊問が起こった。まず第一に、ウィンクル氏は、何回バーデル夫人の姿を見かけたかをはっきりと述べるのはまったく不可能だと述べた。それから、二十回は見たかとたずねられ、それにたいして彼は「たしか――それ以上」と答えた。そこで、百回は見たかどうか――五十回以上見たと誓えないかどうか――少なくとも七十五回は見たと思わないかどうか――等々をたずねられ、最後に到達した満足すべき結論は、自分に注意し、自分のしていることに気をつけたがいい、ということになった。こうしたやり方で証人の興奮状態のとまどいが所期のとおりに静まってきたので、審問はつぎのようにつづけられた。
「さて、ウィンクル君、この前の七月のある特定の朝、ゴズウェル通りにある原告の家の被告ピクウィックの部屋を訪問したことを憶えていますかな?」
「ええ、憶えています」
「そのとき、タップマンという名の友人、スノッドグラースというべつの友人といっしょでしたかね?」
「ええ、いっしょでした」
「彼らはここに来ていますかね?」
「ええ、来ています」自分の友人たちがいる箇所をジッと見て、ウィンクル氏は答えた。
「どうぞ、ウィンクル君、こちらの言うことをよく聞き、友人たちには注意を払わないでください」また意味深な目を陪審のほうに投げて、スキムピン氏は言った。「前もってきみと相談なんかせずに、彼らは自分の話をせにゃならんのですからな。もちろん、前もっての話がまだおこなわれていなければの話ですがね(ここでまた陪審にチラリ)。さて、この特定の朝に、被告の部屋にはいっていったとき、きみが見たことを、陪審の諸公に話してください。さあ、話してください。いずれおそかれ早かれ、それは聞かねばならんことですからな」
「被告のピクウィック氏は、手で原告の腰をだき、両腕で彼女を支えていました」当然の|躊躇《ちゆうちよ》のふうを示して、ウィンクル氏は答えた、「そして、原告は気絶していたようでした」
「被告がなにか言うのを聞きましたかね?」
「彼がバーデル夫人のことをいい女と言い、気を落ち着けるように、いまだれか人が来たら、どんなことになるかとか、そんな意味の言葉を言っているのを聞きました」
「さて、ウィンクル君、もうひとつだけきみに質問をしたいんですが、裁判長閣下のご注意を忘れないようにたのみますぞ、いま問題になっている場合に被告のピクウィックが『親愛なるバーデル夫人よ、あなたはいい女だ。この事態にたいして心を落ち着けなさいよ。というのも、この事態にきみは来なければならないのだから』とか、そういった意味の言葉を言わなかったと、きみは宣誓できますかね?」
「わたしは――わたしは、たしかに、彼の言葉をそうは考えませんでした」彼が聞いたわずかな言葉をこううまくはめこんだことにびっくりして、ウィンクル氏は言った、「わたしは階段にいたので、はっきり聞くことができませんでした。わたしが受けた印象は――」
「陪審諸公が求めているのは、ウィンクル君、きみの印象ではないのですぞ。それは正直なまともな人間にはあまり役に立たんことと思いますからな」スキムピン氏は口をはさんだ。「きみは階段にいて、はっきりは聞きとらなかったんです。しかし、わたしが引用した表現をピクウィックが使用はしなかったと、きみは宣誓しないのですな? そう考えていいんですか?」
「ええ、そう宣誓はしません」ウィンクル氏は答え、スキムピン氏は、勝ち誇った顔をして、腰をおろした。
ピクウィック氏の主張は、ここまでのところ、そううまい具合いに進行してきたわけではなく、そこには、さらに疑惑を投げられる余地が十分あった。しかし、もしできたら、もっと好都合な光のもとにそれをおくこともできたので、反対訊問でなにか重要なことをウィンクル氏から引き出そうと、ファンキー氏は立ちあがった。ファンキー氏が彼からなにか重要なことを引き出したかどうかは、すぐ判明するであろう。
「わたしは思うのですが、ウィンクル君」ファンキー氏は言った、「ピクウィック氏は青年ではないのでしょう?」
「おお、ちがいます」ウィンクル氏は答えた、「わたしの父親くらいの年齢です」
「あなたはわたしの学識ある友人に、ピクウィック氏とは長年の知人だ、とおっしゃいましたね。彼が結婚しようとしていると考えたり信じたりすべき筋は、なにかありましたかね?」
「おお、ありません。たしかにありません」すごく熱を入れてウィンクル氏は答えたので、ファンキー氏は大急ぎで彼を証人台からおろさなければならないところだった。弁護士たちの言葉では、二種類のとくにまずい証人があり、それは気の進まぬぐずぐずしている証人と気負いすぎている証人、そのふたつの性格を備えもつことが、ウィンクル氏の運命となっていた。
「これよりさらに進んでおたずねしますがね、ウィンクルさん」じつにすらすらと満足げな態度でファンキー氏はつづけた。「ピクウィック氏の女性にたいする態度なり行為なりに、彼が近い将来結婚を考えているときみに信じさせるものが、なにかありましたかね?」
「おお、ありません。たしかにありません」ウィンクル氏は答えた。
「女性がかかわり合いになった場合、彼の態度は、人生でかなり高齢に達し、自身の仕事と楽しみに満足して、ただ父親が娘をあつかうように女性をあつかう人の態度でしたか?」
「それはいささかの疑いもないことです」グッと力をこめて、ウィンクル氏は答えた。「それは――そうです――おお、そうですとも――たしかに」
「バーデル夫人、あるいはほかの女性にたいする彼の態度で少しでも疑わしい点はなにも知らないのですね?」ファンキー氏はこう言って坐ろうとした。上級法廷弁護士のスナビンが彼にたいして目をパチパチさせて合図を送っていたからである。
「いいや」ウィンクル氏は答えた、「あるちょっとした場合はべつにしてね。それは、まちがいなく、すぐ説明できることでしょうが……」
さて、上級法廷弁護士スナビンが目をパチパチさせて合図を送ったとき不運なファンキー氏が坐っていたら、あるいは、上級法廷弁護士のバズファズが最初からこの変則的な反対訊問を阻止していたら(ウィンクル氏の不安げなようすを見、それがたぶん自分に有利ななにかことをひきおこすだろうとちゃんと見越していたので、彼は反対訊問を阻止するようなバカなことはしなかったのだが)、この不幸な言葉は引き出されはしなかったであろう。その言葉がウィンクル氏の口からもれるやいなや、ファンキー氏は腰をおろし、上級法廷弁護士のスナビンはそうとうあわてて彼に証人席をはなれてよいと伝え、ウィンクル氏はすぐ席をはなれようとしたが、そのとき、上級法廷弁護士のバズファズが彼をひきとめた。
「ちょっと、ウィンクル君、ちょっと待ってください!」上級法廷弁護士のバズファズは言った、「ウィンクル君の父親くらいの年齢の紳士の女性にたいする疑わしい態度のこの一例について、裁判長閣下にご訊問ねがえぬでしょうか?」
「きみはあの学識ある弁護士の言葉を聞いただろうね」みじめな苦悶のウィンクル氏のほうに向いて、裁判官は言った。「きみがいま言った場合のことを説明しなさい」
「裁判長閣下」不安で身をふるわせて、ウィンクル氏は言った、「わたしは――わたしはそれを申したくはないのですが」
「たぶん、そうだろうが」小男の裁判官は言った。「言わねばなりませんぞ」
全法廷が固唾を飲んで静まりかえっているなかで、ウィンクル氏はどもりどもり、そのつまらぬ疑惑の事情は、ピクウィック氏が真夜中にある婦人の寝室にいるのが発見され、その結果、問題の婦人の予定の結婚が中止されたらしいこと、このことで彼ら全員が否応なく自治都市イプスウィッチの治安判事のジョージ・ナプキンズ氏の前に引き出されることになったいきさつを語った。
「証人台をおりてもいいですよ」上級法廷弁護士のスナビンは言った。ウィンクル氏は証人台をおり、狂乱状態のあわただしさで、『ジョージと禿鷹旅館』にとんでゆき、そこで、数時間して、ソファーのクッションの下に頭を埋めてうめいているのを、給仕によって発見されることになった。
トレイシー・タップマンとオーガスタス・スノッドグラースはそれぞれ証人台に呼びこまれ、彼らの気の毒な友人の証言を確証し、ひどい訊問で気が狂わんばかりにいためつけられた。
スザンナ・サンダーズがそれから呼びこまれ、上級法廷弁護士のバズファズに訊問を受け、上級法廷弁護士のスナビンに反対訊問を受けた。ピクウィックがバーデル夫人と結婚するだろうといつも言い、信じていたこと、バーデル夫人がピクウィックと婚約をしていることは、七月の気絶以来、近所の話のいつもの話題になっていたこと、洗濯の仕上げ機械をもっているマッドベリ夫人と洗い張りをするバンキン夫人に彼女はその話を聞いたが、マッドベリ夫人もバンキン夫人もいま法廷にはいないらしいこと、ピクウィックが坊やにべつの父さんをもつのをどう思うかとたずねたのを耳にしたこと、バーデル夫人がそのときパン屋と仲よくしていたかは知らないが、パン屋がそのときは独身で、いまは結婚しているのを知っていること、バーデル夫人がパン屋をたいして好んでいなかったと宣誓できないが、パン屋がバーデル夫人をそう好きではなかったものと考えられる、さもなければ、彼はだれかほかの女と結婚はしなかったろうからということ、ピクウィックがバーデル夫人に結婚の日を言えとせまったので、七月のあの朝、失神したものと思っていたこと、夫のサンダーズ氏が結婚の日を言えとせまったとき、彼女(証人)は完全に失神してしまったことを知り、婦人と呼ばれている女性ならばだれでも、同じ状況のもとでは同じことになるだろうと信じていること、おはじきについてピクウィックが坊やにたずねたのは耳にしたが、誓ってもいい、上等のおはじきとふつうのおはじきの区別は自分にはできないこと、等々を証言した。
法廷にかけ、たしかに――夫サンダーズ氏と仲よくしているあいだは、ほかの婦人と同じように、ラブレターを受けとり、そうした文通で、サンダーズ氏はときどき彼女を「あひる」(「かわいい人」、「愛人」の意)と呼んだが、「厚い肉切れ」とか「トマトソース」とは絶対に呼んだことはないこと、彼がとくにあひるが好きだったこと、もし彼が同じように厚い肉切れとトマトソースを好きだったら、彼も、愛情の言葉として、そうした言葉を使ったかもしれないことを、さらに証言した。
上級法廷弁護士のバズファズは、とても考えられぬほどの、前にもますもったいぶったようすをして立ちあがり、大声で「サミュエル・ウェラーを召喚」と叫んだ。
サミュエル・ウェラーを呼ぶのは、まったく不必要なことだった。彼の名が呼ばれた瞬間に、サミュエル・ウェラーはさっさと証人台にあがってゆき、帽子を床の上におき、両腕を手すりに乗せて、いかにも陽気で元気そうな顔つきをし、法廷と判事席の全景を見まわしていたからである。
「きみの名は?」裁判官はたずねた。
「サム・ウェラーです、閣下」この紳士は答えた。
「ウェラーはVでつづるのかね、それともWかね?」裁判官はたずねた。
「それは、書く人の好みと趣向によりますよ、閣下」サムは答えた。「いままでそれを書くようなことは、一度か二度しかありませんでしたが、わたしはそれをVで書いてます」
そこで廊下で声がわめいた、「まったくそのとおりだ、サミュエル、まったくそのとおりだ。閣下、そいつをVと書いてください、そいつをVと書いてください」
「おこがましくも法廷に呼びかけたあの男はだれだ?」目をあげて、小男の裁判官は言った。「廷丁」
「はい、閣下」
「すぐあの男をここにつれてこい」
「はい、閣下」
だが、廷丁はその人物を見つけださなかったので、それをつれてくることはせず、大さわぎのあとで、その犯人を見つけようと立ちあがった人たちは、ふたたび腰をおろした。小男の裁判官は怒りがおさまって口がきけるようになるとすぐ、証人のほうに向きなおって、言った――
「あの男がだれか、きみは知っているかね?」
「あれはおやじじゃなかったかと思いますね、閣下」サムは答えた。
「ここでいま彼の姿が見えるかね?」裁判官はたずねた。
「いいえ、見えませんね、閣下」法廷の屋根の天窓をのぞきこんで、サムは答えた。
「きみがあれだと教えてくれたら、即刻逮捕するところだったんだがな」裁判官は言った。
サムはそれに応えてお辞儀をし、相変わらずの陽気な顔つきをして、上級法廷弁護士のバズファズのほうに向いた。
「さて、ウェラー君」上級法廷弁護士のバズファズは言った。
「はあ」サムは答えた。
「きみはこの訴訟の被告ピクウィック氏にやとわれている者と思うが、よかったら、その点をはっきり言ってくれたまえ、ウェラー君」
「はっきり言うつもりです」サムは答えた。「わたしはあの紳士にやとわれてます。それはとてもいい勤めです」
「することはほとんどなく、手にはいるものはうんとある、ということだろうね?」ふざけて上級法廷弁護士のバズファズは言った。
「おお、手にはいるものはうんとありますよ、三百五十の鞭打ちの刑を申しわたされた兵隊が言ったようにね」サムは答えた。
「兵隊なり、ほかのどんな人間でも、その言ったことを、ここで言ってはならんぞ」裁判官は口をはさんだ。「それは証言にはならんのだからな」
「よくわかりました、閣下」サムは答えた。
「被告にはじめてやとわれたとき、その朝に起こったなにか特別のことを憶えているかね、えっ、ウェラー君?」上級法廷弁護士のバズファズは言った。
「ええ、憶えてますよ」サムは答えた。
「それがなんだったか、陪審の方々にひとつ話してくれないかね」
「陪審のみなさん、その朝、まったく新しいひと揃いの服をもらいました」サムは言った、「そして、そいつは、その当時、わたしにとっては特別な、珍しいことだったんです」
そこでみなが笑いだした。小男の裁判官は、怒った顔で机越しにながめて、「注意したほうがいいぞ」と言った。
「そのとき、ピクウィックさんもそうおっしゃいましたよ、閣下」サムは答えた。「そして、わたしはその服にとても注意してました、まったく、とても注意してましたよ、閣下」
裁判官は、まるまる二分間、きびしくサムをにらみつけていたが、サムの顔つきは完全に落ち着き払って平静そのもの、その結果、裁判官はなにも言わず、身ぶりで上級法廷弁護人のバズファズに話をすすめるようにうながした。
「ウェラー君、きみは言うつもりなんですかね」しっかと両腕を組み、なかば陪審のほうに向いて、さもまだまだ証人を困らしてやるといった無言の保証を与えて、上級法廷弁護士のバズファズは言った、「きみは証人たちが話すのを聞いていたろう、原告が被告の両腕にかかえられて気絶していたのをぜんぜん見なかったと、ウェラー君、きみは言うつもりなのかね?」
「もちろん、見ませんでしたよ」サムは答えた。「みんなに呼ばれるまで、わたしは廊下にいたんです。そこにいったときには、老夫人はそこにはいませんでしたよ」
「さて、いいかね、ウェラー君?」サムの返答を書きとめるといったふりで彼をおどかそうとして、目の前のインクつぼに大きなペンをひたして、上級法廷弁護士のバズファズは言った。「きみは廊下にいながら、そのとき進行中のことはなにも見なかったのだな。きみは目の玉をもっているのかね、ウェラー君?」
「ええ、目の玉はもってますよ」サムは答えた、「だが、ただそれだけのこってす。もしそれが特許の二百万倍拡大の特別の力のある酸水素光の顕微鏡だったら、階段と松板のドアを見とおすことも、たぶん、できたでしょうがね。ところが、ただの目なんで、目の力にも制限があるわけなんですよ」
少しもいらつくふうはなく、いとも率直に落ち着き払って述べたこの答えに、傍聴人はクスクスと笑い、小男の裁判官はニヤリとし、上級法廷弁護士のバズファズは特別うつけのバカ者に見えてきた。ドッドソンとフォッグにちょっと打ち合わせをしてから、学識ある上級法廷弁護士はふたたびサムのほうに向きなおり、自分の焦燥をかくそうとして痛ましい努力を払いながら、言った、「さて、ウェラー君、よろしかったら、もうひとつべつの点のことで、きみに質問しますぞ」
「よろしかったら、どうぞ」このうえない上機嫌で、サムは答えた。
「この前の十一月のある晩、バーデル夫人の家にいったのを憶えてますかね?」
「おお、よーく憶えてますよ」
「おお、そのことは憶えているんですな、ウェラー君」元気をとりもどして、上級法廷弁護士のバズファズは言った。「なにかにゆきつくものと、わたしは思っていましたぞ」
「わたしもそう思ってましたよ」サムは答えたが、これで傍聴人はまたクスクスと笑いだした。
「うん、きみがいったのは、この裁判についてちょっと話をするためだったのだろうね――えっ、ウェラー君?」いかにもさとり顔をして陪審のほうをながめながら、上級法廷弁護士のバズファズはたずねた。
「部屋代を払いにいったんですが、わたしたちは裁判のことも話しましたよ[#「話しましたよ」に傍点]」サムは答えた。
「おお、裁判のことを話したんだね」なにか重要な発見でもできるかと思って顔を明るくしながら、上級法廷弁護士のバズファズは言った。「さあ、裁判についてどんな話をしたか、ひとつ話をしてはくれないかね、ウェラー君?」
「ええ、大よろこびで」サムは答えた。「きょうここで訊問を受けたふたりのりっぱなご夫人が、たいしたこともないことをちょっと言ってから、ドッドソンさんとフォッグさんの正しいやり方をとてもほめはじめましてね――そのふたりの紳士は、いまあなたのそばに坐ってる人たちですよ」この言葉は、もちろん、法廷全員の注目をドッドソンとフォッグに集め、彼らはいかにもしかつめらしい顔をしていた。
「原告の法廷弁護士のことですな」上級法廷弁護士のバズファズは言った。「そう! ご夫人方は、原告の法廷弁護士、ドッドソン氏とフォッグ氏の正しいやり方をとてもほめていたんですな、えっ?」
「ええ」サムは答えた、「当てずっぽうの投機でこの訴訟をとりあげ、ピクウィックさんからふんだくる以外に、代金をぜんぜん要求しないなんて、ふたりはとても気前のいい人だって言ってましたよ」
この思いがけぬ返答を聞いて、傍聴人はふたたびクスクスと笑い、ドッドソンとフォッグは、真っ赤になって、上級法廷弁護士のバズファズのほうに体をのばし、あわただしくなにかを彼の耳にささやいていた。
「まったく、そのとおり」わざと落ち着き払ったふうをよそおって、上級法廷弁護士バズファズは言った。「裁判長閣下、証人はどうにも処置なしのおろか者、彼からなにか証言をとろうとしても、まったくむだな努力になります。これ以上彼に訊問をおこなって、法廷のみなさんのお耳をわずらわすことはいたしません。証人、そこをおりてもいいですぞ」
「ほかのだれか、わたしになにかききたくはありませんかね?」帽子をとりあげ、いともゆっくりとあたりを見まわして、サムはたずねた。
「ありがたいが、わたしにも用はありませんな、ウェラー君」笑いながら上級法廷弁護士のスナビンは言った。
「きみはおりてよろしい」いらいらして手をふりながら、上級法廷弁護士のバズファズは言った。そこで、ドッドソンとフォッグの主張にできるだけ損害を与え、ピクウィック氏についてはできるだけ少なく語ったあとで、サムは証人台をおりたが、これこそまさにサムがずっとねらっていたものだった。
「もしそれでもうひとりの証人の訊問をはぶけるものなら」上級法廷弁護士スナビンは言った、「裁判長閣下、ピクウィック氏が実務からしりぞき、そうとうの楽に暮らせる財産の所有者であることを認めるのに異議はありません」
「よくわかりました」読むようにと例の二通の手紙を提出して、上級法廷弁護士のバズファズは言った、「では、これがわたしの訴訟事実です」
上級法廷弁護士のスナビンは、それから、被告のために陪審にたいして演説し、それはとてもながく、とても力のこもったもので、それで、彼は、ピクウィック氏の行為と性格にたいして最高の賛辞を献げたが、ピクウィック氏の長所と美点については、上級法廷弁護士のスナビンより読者のほうがはるかに正しくそれを評価できるのであるから、この学識ある紳士の言葉をここでくわしく述べ立てる必要はないであろう。示された二通の手紙は、ただピクウィック氏の晩餐、あるいは、あるいなかの旅行から彼がもどってくるときに、部屋で彼をむかえ入れる準備に関連したものだけのことと、彼は説明しようとした。一般的な言葉だが、スナビン氏がピクウィック氏のために最善をつくしたと言いそえれば、それで十分、むかしから伝わることわざのあやまりなき言葉にしたがえば、最善といっても、それだけしかできなかったことは、だれでも知っていることである。
裁判官のステアリー氏は、むかしからおこなわれている、じつにしっかりとしたやり方で、要約をおこなった。彼は自分の帳面に書きつけたものを、こうしたいきなりの場合として判読できるかぎり、陪審に読んで聞かせ、そうしながら、証拠について、簡単な説明をした。もしバーデル夫人が正しければ、ピクウィック氏があやまっているのは完全に明瞭なこと、もしクラッピンズ夫人の証言を陪審が信頼にたるものと考えれば、陪審はそれを信じ、もしそうでなければ、信じないだろう。もし彼らが結婚の約束破棄がおこなわれたと考えれば、適当と思われる賠償金を原告のために決定するだろう。これに反して、結婚の約束はなされなかったものと彼らが考えたら、彼らは被告に賠償金支払いの必要はぜんぜん認めないだろう、といった裁判官の言葉だった。それから、このことを審議するために、陪審は陪審室に引きさがり、裁判官は、羊の厚い肉切れと一杯のシェリー酒で元気をつけるために、彼の[#「彼の」に傍点]裁判長室に引きさがっていった。
不安な十五分間が経過し、陪審はもどり、裁判官は呼びこまれた。ピクウィック氏は眼鏡をかけ、興奮した顔をし、胸をドキドキさせて、陪審長を食い入るようにしてながめていた。
「みなさん」黒服の男は言った、「判決について意見がおまとまりですか?」
「まとまりました」陪審長は答えた。
「原告に有利な判決ですか、それとも、被告に有利な判決ですか?」
「原告に有利なものです」
「損害賠償金は?」
「七百五十ポンドです」
ピクウィック氏は眼鏡をはずし、注意深くそれをふき、それを折ってケースにおさめ、ポケットにしまいこんだ。それから手袋をきちんとはめ、そのあいだ中ずっと陪審長をにらみつづけていてから、彼は機械的にパーカー氏と青い袋が法廷から出てゆくあとについていった。
彼らはわきにある部屋のところで足をとめ、パーカー氏は法廷費用を払ったが、ここでピクウィック氏は友人たちといっしょになった。ここで彼はドッドソン氏とフォッグ氏にも出逢ったが、彼らはもみ手をして、いかにも満悦げなふうを示していた。
「さて、ご両人」ピクウィック氏は言った。
「はあ」自分とフォッグを代表して、ドッドソンは答えた。
「きみたちは骨折り賃はもらえると思っているのでしょうな、どうです?」ピクウィック氏はたずねた。
フォッグは、それは十分見こみのあること、と答え、ドッドソンはニヤリとし、得るように努力するつもりだ、と答えた。
「努力は何回でも、何回でもなさって結構ですよ、ドッドソンさんとフォッグさん」激しい勢いでピクウィック氏は言った、「だが、債務者刑務所で余生を暮らすようになっても、わたしからは骨折り賃も損害賠償金も得られはせんでしょう、びた一文だってね」
「はっ! はっ!」ドッドソンは笑った。「つぎの開廷期までには、もっとよくそのことを考えるようになるでしょうよ」
「ひっ! ひっ! ひっ! そのことはいずれこちらでも考えますさ、ピクウィックさん」フォッグは歯をむきだしてニヤリと笑った。
怒りで口がきけなくなり、ピクウィック氏は彼の弁護士と友人たちに戸口のところまでつれだされ、呼びこまれてあった貸し馬車に、いつも慎重に配慮しているサム・ウェラーに助けられて乗せられた。
馬車の踏み段をあげ、御者台にとび乗ろうとしていたとき、サムは自分の肩に手がやさしくかけられているのを感じ、ふりかえって見ると、目の前に彼の父親が立っていた。重々しく頭をふったとき、この老紳士の顔は悲しげな表情をおび、注意を与える口調で、彼はこう言った――
「こんなやり方ではどんなことになるか、見当がついてたよ。おお、サミー、サミー、どうしてアリバイの問題をもちださなかったんだい?」
[#改ページ]
第三十五章
[#3字下げ]ピクウィック氏はバースにいったほうがよいと考え、それが実行にうつされる
「だが、たしかに」裁判の翌朝、ピクウィック氏の部屋で立ちながら、小男のパーカー氏は言った。「たしかにあなたは――腹立ちまぎれはべつにして、本当に本気で――あの訴訟費用と損害賠償金を払うつもりはないと言われるのではないのでしょうね?」
「びた一文も払いませんよ」断固としてピクウィック氏は言った。「びた一文もね」
「勘定書きを更新しようとしなかったとき金貸しが言ったように、その方針には万々歳ですな」朝食を片づけていたウェラー氏は言った。
「サム」ピクウィック氏は言った、「どうか下におりてくれないか」
「はい」ウェラー氏は答え、ピクウィック氏のやさしい暗示にしたがって、サムは引きさがった。
「だめですよ、パーカーさん」とても真剣な態度になって、ピクウィック氏は言った、「ここにいるわたしの友人たちも、この決心をやめさせようとしたのですが、だめでした。わたしにたいする処刑の法的処置をおこなう力を相手が得るまでは、わたしはふだんどおりに行動し、もし相手が兇悪にもその力を利用し、わたしの身柄をとりおさえるようになれば、わたしは、明るく満足した気持ちで、身柄を引きわたしてやります。相手がそれをできるようになるのは、いつでしょうかな?」
「損害賠償と査定した訴訟費用にたいしての強制執行令状はつぎの開廷期に出せます」パーカー氏は答えた、「これからちょうど|二月《ふたつき》先のことです」
「よくわかりました」ピクウィック氏は言った。「そのときまでは、おねがいしますが、そのことはもうなにも、わたしの耳には入れないでください。さて」上機嫌の微笑を浮かべ、どんな眼鏡もくもらせたりかくしたりはできぬふうに目を輝かして友人たちをながめまわしながら、ピクウィック氏はつづけた、「のこるただひとつの問題は、つぎにどこへゆくかということですな」
タップマン氏とスノッドグラース氏は彼らの友人のりっぱな勇ましい態度にすっかり打たれて、返事もできないでいた。ウィンクル氏は裁判での自分の証言の思い出からまだ十分にぬけだせず、どんなことにも自分の意見は言えない気持ちになっていたので、ピクウィック氏が返事を待っていても、それはむだだった。
「よろしい」ピクウィック氏は言った、「どこにゆくかをわたしに言わさせてくださるのなら、バースがいいと思いますな。だれもまだそこにいったことはないでしょうが……」
だれもそこにいったことはなかったし、その提案は、パーカー氏の熱烈な支持を受けることになった。ピクウィック氏が少し気分転換をし、陽気なことでも見たら、自分の決心のことをもう一度考えなおし、債務者刑務所をつらいところと思うようになるだろう、と彼は考えていたからである。そこで、全員異議なくそれに賛成した。サムはすぐに『白馬地下蔵旅館』に使いに出され、翌朝七時半の駅伝馬車で五つの座席をとることになった。
車の中にとれる座席がちょうどふたつ、外にとれるのがちょうどふたつあったので、サム・ウェラーはその予約をとり、「釣り銭」の一部としてわたされたしろめ[#「しろめ」に傍点]の半クラウンについてちょっと切符売り場の切符売りと話したあとで、『ジョージと禿鷹旅館』にもどり、そこで、服やシャツをできるだけ小さくまとめ、錠も|蝶番《ちようつがい》もない箱にふたをつけるのにさまざまのたくみな工夫をめぐらして機械的な天才を発揮し、寝る時間がくるまで、彼はあわただしく働いていた。
つぎの朝は旅行にはじつに不都合な朝でうっとうしく、湿気がつよく、しぐれ模様だった。町をとおりぬけて、これから出かけようとしていた宿場の馬の体からはひどく湯気が立ちのぼり、外の乗客の姿が見えぬくらいだった。新聞売りは水気たっぷり、かびくさいにおいがしていた。オレンジ売りが頭を駅伝馬車の窓の中につっこむと、湿気がその帽子から湧きあがり、馬車の内側にいいにおいを流していた。五十の刃のついた小ナイフ(鵞ペンをけずるために使ったもの)を売っていたユダヤ人たちは、もうあきらめて、刃をたたみこみ、紙入れを売っていた人たちは、自分を紙入れにして、それをしまいこんでいた。懐中時計の鎖とパン焼きフォークは同じように安売りされ、鉛筆入れやスポンジは市場ではぜんぜん売れない品物になっていた。
駅伝馬車がとまるとすぐ荒っぽく荷物の上に身を投げる七、八人の荷物運びから荷物を守るためにサム・ウェラーをのこしておき、二十分ほどまだ時間があったので、ピクウィック氏と彼の友人たちは人間の失望の最後のうさ晴らしになる旅行者待合室に難をさけた。
『白馬地下蔵旅館』の待合室は、もちろん、不愉快だった。もしそれが待合室でなかったら、義理にも待合室なんぞと言えた代物ではなかった。それは右手の客間で、あつかましい台所の炉が、反抗的な火かき棒・火ばし・シャベルをともなって、そこに闖入してきたような感じだった。そこは、旅行者たちがそれぞれべつにいられるようにと、小さな座席にわかれ、時計、姿見、給仕がひとり装備されていたが、この給仕は部屋の隅の小さな掘立て小屋でコップを洗っていて、そこに釘づけになっていた。
このとき、こうした座席のひとつに、四十五歳くらいのきびしい目つきをした男が坐っていたが、彼の額は禿げあがってツルツルし、黒い髪が頭の両面とうしろにぼうぼうと生え、大きな黒い頬髯をたくわえていた。彼は褐色の上衣を着て、顎のところまでボタンをかけ、大きな旅行用のおっとせい[#「おっとせい」に傍点]の毛皮の帽子、大外套と袖なし外套が彼の横の座席の上におかれてあった。ピクウィック氏がはいっていったとき、彼はとても威厳のある激しい横柄な態度で朝食から目をあげ、ピクウィック氏一行を満足ゆくまでジッとながめてから、低い声で歌を歌っていたが、それはまるで、だれかが自分をだまそうとしているらしいが、そんなことをしてもだめだぞ、と言っている感じだった。
「給仕」頬髯つけた紳士が言った。
「はっ?」きたない顔つきをし、きたないタオルをもった男が前に言った掘立て小屋から出てきて答えた。
「もう少し焼きパンをくれ」
「はい」
「いいか、バターつきの焼きパンだぞ」激しい権幕でその紳士は言った。
「すぐにもってきます」給仕は答えた。
頬髯を生やした紳士は前と同じふうに低い声で歌を歌い、焼きパンがとどけられるのを待っているあいだ、炉の前のところにゆき、上衣の尻を腋の下にかかえて、自分の靴を見入り、ジッと考えこんでいた。
「この駅伝馬車はバースでどのへんにとまるだろうかな?」おだやかにウィンクル氏に話しかけて、ピクウィック氏は言った。
「ふん――えっ――それがどうだというのかね?」見知らぬ男は言った。
「わたしの友人に話したのですよ」いつでもすぐ話をはじめようとしているピクウィック氏は答えた。「バースゆきの駅伝馬車がどの旅館の前でとまるかと考えていたのです。たぶん、あなたはご存じでしょうね」
「きみはバースにゆくのかね?」見知らぬ男はたずねた。
「そうですよ」ピクウィック氏は答えた。
「それに、ほかのあの紳士たちもね」
「彼らもゆくんです」ピクウィック氏は言った。
「内側はだめだ――内側の座席でゆくなんぞということは、絶対にないぞ」見知らぬ男は言った。
「われわれ全員が内側の座席でゆくわけではありませんよ」ピクウィック氏は言った。
「そうだとも、きみたち全員はな」力をこめて見知らぬ男は言った。「わたしはふたつ座席をとってある。四人しか坐れないいまいましい座席に六人もつめこもうとしたら、ほかの駅伝馬車に乗り、訴訟を起こしてやりますぞ。わたしは料金を払ったんだから、そんなことをしてもだめですぞ。座席を予約したとき、そんなことをしてもだめだ、と切符売りに言ってやったんです。そうしたことはいままでおこなわれ、毎日おこなわれてるのは知ってますがね、わたしは、ごまかされたこともなし、今後もごまかされるつもりはありませんからな。わたしをいちばんよく知ってる連中は、それをいちばんよく知ってます。ちくしょう!」ここで激しい権幕の紳士はすごい勢いでベルを鳴らし、五秒したら焼きパンをもってこい、さもないと、その理由をたずねてやるぞ、と給仕にわめいた。
「あなた」ピクウィック氏は言った、「失礼ですが、そうして興奮なさるのはじつに必要のないことです。内側にふたり分の座席しか、わたしはとっていないのですからね」
「いや、それを聞いて安心しました」激しい権幕の男は言った、「わたしの言葉をとりけしましょう。おわびを申します。これがわたしの名刺。どうかよろしくおねがいします」
「こちらこそ」ピクウィック氏は答えた。「われわれは旅の道連れです。おたがいに楽しくやってゆきたいものですな」
「そうなれば、ありがたいのですが」激しい権幕の男は言った、「きっとそうなりますよ。わたしはあなたの顔つきが気に入りました。感じのいい顔ですな。みなさん、握手とお名前をおねがいします。どうかわたしをお見知りおきください」
もちろん、このうれしい挨拶につづいて、友好的な挨拶の交換がおこなわれ、激しい権幕の男はすぐに新しい友人たちに、同じ短い、いきなりの、痙攣的な言葉で、自分の名はダウラー、遊びでバースにゆこうとしていること、前には陸軍にいたこと、いまは紳士として商売をはじめ、その利潤で生活を立て、彼がとった二番目の席はほかならず彼の妻ダウラー夫人のためであることを伝えた。
「彼女は顔のきれいな女です」ダウラー氏は言った。「わたしは彼女を誇りに思ってます。それには理由がちゃんとあるのですからな」
「いずれ拝見させていただきましょう」ニッコリしてピクウィック氏は言った。
「ええ、お目にかけますよ」ダウラー氏は答えた。「彼女にもあなたとお近づきにさせ、あなたを尊敬するようにさせましょう。わたしは妙な事情のもとで彼女に求愛したんです。向こう見ずな誓いで彼女を獲得したんです。こうなんですよ。彼女を見、彼女を愛し、結婚の申しこみをし、彼女はわたしを拒否しました――『ほかの男を愛しているんですね?』――『わたしに顔を赤くさせないでください』――『ぼくは彼を知ってますよ』――『ご存じですわ』――『よくわかりました。もし彼がここにぐずぐずしていたら、生ま皮をはいでやります』」
「いや、驚いた!」思わずピクウィック氏は叫んでしまった。
「その相手の人の皮をはいでしまったんですか?」とても青い顔をして、ウィンクル氏はたずねた。
「彼に手紙を出したんです。それはつらいことだとわたしは言ったんですが、たしかにそうでした」
「もちろん、そうですとも」ウィンクル氏は口をはさんだ。
「紳士として彼の生ま皮をはぐと誓いを立てた、とわたしは言ったんです、それは、わたしの名声にかかわることだったんです。ほかにどうとも方法はなかったんですからな。陛下に勤務している将校として、わたしは彼の生ま皮をはがなければならない破目に落ちたわけです。そうしたせっぱつまった立場に立ったことを後悔はしたものの、それはしなければならないことになったんです。彼は理に服してくれました。彼は軍務の規律が絶対的であることを知り、逃亡しました。そこでわたしは彼女と結婚したんです。ああ、馬車が来ました。あれが彼女の頭です」
ダウラー氏が話を終えたとき、彼はたったいまとまったばかりの乗り合い馬車をゆびさしたが、その開いた窓から、明るい青のボネット帽をかぶったそうとう美しい顔が、舗道の上の群集を見ていたが、おそらく、この向こう見ずな男自身をさがしていたのであろう。ダウラー氏は自分の勘定書きを払い、旅行帽、大外套、袖なし外套をもって急いでとびだし、ピクウィック氏とその友人たちは、座席を確保するために、そのあとにつづいた。
タップマン氏とスノッドグラース氏は駅伝馬車のうしろのほうに坐り、ウィンクル氏は中にはいり、ピクウィック氏はそれにつづいて中にはいろうとした。そのとき、サム・ウェラーが主人に近づき、彼の耳にささやいて、じつに謎めいたふうに、彼に話をしたい、と言った。
「うん、サム」ピクウィック氏は言った、「どうしたんだい?」
「妙なことなんですがね」サムは答えた。
「なにが?」ピクウィック氏はたずねた。
「このことなんです」サムは答えた。「この駅伝馬車の持ち主がわれわれになにか厚かましいことをやってるような気がするんです」
「というのは、どういうことなんだい、サム?」ピクウィック氏は言った。「乗客名簿に名前がないのかい?」
「名前が乗客名簿に載ってるどころか」サムは答えた、「そのひとつが馬車の戸にペンキで書いてあるんです」サムはしゃべりながら、馬車の所有者の名前がふつう書かれている場所をさしたが、そこには、たしかに、そうとう大きな金文字で、ピクウィックという魔力的な名が書かれてあった!
「いや、これは!」この偶然の一致で度肝をぬかれて、ピクウィック氏は叫んだ。「なんという変わったことだろう!」
「ええ、でも、それだけじゃないんです」また主人の注意を馬車の戸のほうに引いて、サムは言った、「ピクウィックと書き立てたことで満足はせずに、その前に『モーゼズ』と書いてあるんです。こいつは危害に侮辱を加えたことになりますよ、おうむ[#「おうむ」に傍点]をその生まれ故郷の国からつれてきたばかりでなく、それにあとで英語を話させようとしたとき、そのおうむ[#「おうむ」に傍点]が言ったようにね」
「たしかに、これは奇妙なことだね、サム」ピクウィック氏は言った。「だが、ここで立ち話をしていたら、座席をとられてしまうよ」
「あれっ、これにはなにもしないんですか?」ピクウィック氏が冷静に馬車の中におさまろうとしているのにすっかりびっくりして、サムは叫んだ。
「しないのかだって!」ピクウィック氏は言った。「なにをしなけりゃいけないのかね?」
「こんな勝手をされて、だれもひっぱたいてやらないんですか?」とウェラー氏は言ったが、彼はその場で自分が車掌や御者に拳闘試合を申しこむように命ぜられるものと期待していたのだった。
「むろん、せんとも」強くピクウィック氏は答えた。「絶対にせんとも。すぐお前の座席にとび乗るのだ」
「心配だな」背を向けたとき、サムはひとり言をつぶやいた、「なにか妙なことが親分の身に起きたんじゃないのかな。そうでなけりゃ、こんなことを、ああおだやかに我慢してるはずはないんだからな。あの裁判でがっくりしてるんでなければいいんだが。だが、こいつはいかんこと、とてもいかんこった」ウェラー氏は重々しく頭をふっていた。馬車がケンジングトンの通行税取り立て門に着くまで彼が一言も口をきかないでいた事実は、彼がこのことを深く悲しんでいた例証として、一言しておく必要がある。これは、彼がだまっているにしてはとてもながい時間、こうした事実はまったく前例のないことだったからである。
この旅行中、とり立てて言うべきことはなにも起こらなかった。ダウラー氏はさまざまの逸話を語り、それはぜんぶ自分の武勇伝と無鉄砲物語、それを確証するために、ダウラー夫人に相槌を打たせていた。そのとき、ダウラー夫人は、付録として、ダウラー氏が忘れたか、あるいは彼が遠慮してはぶいたかと思われるなにか注目すべき事実や事情をもちだしていた。遠慮してはぶいたのではないかと思うのは、そうした付録は、どのような場合にも、ダウラー氏が自分で言っていたよりもっとすばらしい男であることを証明していたからである。ピクウィック氏とウィンクル氏は舌をまきながら話に聞き入り、ときおり、とても感じのいい魅力的なダウラー夫人と話をしていた。そこで、ダウラー氏の逸話、ダウラー夫人の魅力、ピクウィック氏の上機嫌、ウィンクル氏がおとなしく話に聞き入っているといったことで、馬車の内側は道中ずっととても和気|藹々《あいあい》の雰囲気につつまれていた。
外側は、いつもの外側どおりのものだった。そこの乗客は、宿場から出たはじめのころは陽気でよくしゃべり、中ほどではとても陰気でねむくなり、終わりに近づくとふたたび明るく目がはっきりとしてきた。一日中葉巻きをふかしている弾性ゴムの袖なし外套をまとった青年あり、さらに大外套まがいのものを着こんだべつの青年がいて、何本も葉巻きに火をつけながら、二服目以後には気分が落ち着かなくなり、人目を忍んでその葉巻きを投げすてていた。御者台には第三の青年がいて、家畜のことを勉強したいと言っていた。うしろには農業にくわしい老人がいた。仕事着や白い上衣を着た人たちは、たえず洗礼名でたがいに親しげに呼び合っていたが、この連中は車掌によって「ただ乗り」に招待された人たち、道路の内外を問わず、どんな馬でも馬丁でもよく知っていた。もしほどほどの口数がそろっていて時間以内に平らげることができたら、一口半クラウン払っても安いような夕食もあった。午後七時に、ピクウィック氏とその友人たち、ダウラー氏と彼の妻は、バースで、大社交広場(温泉場で逗留客が鉱泉水を飲む。ここでは固有名詞)の向かい側にある『白雄鹿旅館』のそれぞれの居間に引きさがった。そこにいる給仕は、服装から見れば、ウェストミンスターの生徒(ウェストミンスターにあるイギリス屈指のパブリック・スクール)とまちがえるくらい、ただその礼儀作法がずっときちんとしていて、そうした幻想は打ちこわされていた。
つぎの朝、朝食がまだほとんど片づけられていないうちに、給仕がダウラー氏の名刺をもってあらわれ、ひとりの友人を紹介したいと言ってきた。ダウラー氏はこの名刺のあとですぐつづいて姿をあらわし、その友人をつれてきた。
この友人は五十をたいして出ていない魅力的な青年、ピカピカ光るボタンのついたとても明るい青の上衣と黒いズボンを着こみ、テラテラに磨き立てたとても薄い靴をはいていた。金の片眼鏡が首から幅ひろの短いリボンによってつるされ、金のかぎタバコ入れが軽く左手ににぎられ、無数の金の指環が指に輝き、金にはめられた大きなダイヤモンドのピンがシャツのひだ飾りにギラリと光を放っていた。彼は金の懐中時計、大きな金の印形がいくつかついた金のとめ鎖をつけ、ずっしりとした金の頭のついたしなやかな黒檀のステッキをもっていた。シャツは最高に真っ白、美しく、パリッとし、かつらは最高につややか、黒く、まき毛になっていた。彼のかぎタバコはプリンセス・ミクスチュア(かぎタバコの一種。バラ油でかおりをつけた黒みがかったもの)で、香水は|国王の花束《ブーケ・ド・ロア》だった。彼の顔はしかめられて永続的な微笑を示し、歯はきちんとならんでいて、少しはなれると、本当の歯と入れ歯との区別がつかないほどだった。
「ピクウィックさん」ダウラー氏は言った、「わたしの友人、式部官(宮中の宴会などをつかさどる)のアンジェロー・サイラス・バンタム氏です。バンタム、こちらはピクウィック氏です。おふたりともどうぞよろしく」
「バ――スにようこそ、これはまさに掘り出し物です。バースに大歓迎です。あなたがこの前鉱泉水をお飲みになってから、久しいこと――本当に久しぶりのことです、ピクウィックさん。ひとむかしのような気がしますな、ピクウィックさん。驚いたこと!」
式部官アンジェロー・サイラス・バンタム氏がピクウィック氏の手をとったときの挨拶はこうしたもの、そうしながら、ピクウィック氏の手を自分の手ににぎり、たえずペコペコとお辞儀をして肩をすくめ、まるでその手を放すのが惜しくて、なかなか踏み切りがつかないといったふうをしていた。
「たしかにここの鉱泉水を飲んでから、ずいぶん久しいことになりますな」ピクウィック氏は答えた。「と申すのも、どう考えてみても、わたしはここにまだ一度も来たことがないのですからね」
「バ――スに一度も来たことがないんですって、ピクウィックさん!」びっくりし彼の手を放して、式部官は叫んだ。「バ――スに一度も来たことがないんですって! ひっ! ひっ! ピクウィックさん、あなたはおもしろい方ですな。まずくはありませんとも、まずくはありませんとも。おみごと、おみごと! ひっ! ひっ! ひっ! 驚いたこと!」
「恥ずかしいことですが、わたしが本当に本気なことを申しあげねばなりません」ピクウィック氏は答えた。「わたしは本当にいままで、ここに一度も来たことがないのです」
「おお、わかりました」いかにもうれしそうなようすで、式部官は叫んだ。「そうです、そうです――みごと、みごと――ますますみごとですな。あなたはわれわれが聞きおよんでいる方です。そうです、あなたを存じあげていますよ、ピクウィックさん。あなたを存じあげていますよ」
「あのいまいましい新聞に出た裁判の記事だな」ピクウィック氏は考えた。「ここの連中は自分のことをみんな聞いているのだ」
「あなたはクラパム・グリーンにお住みの紳士」バンタムはつづけた、「ポートワインを飲んだあとで、うかつにも風邪をひいたために、手足が動かなくなり、ひどい痛みで動きもならず、キングズ・バースの鉱泉水を百三度の温度でびんづめにし、それを車でロンドンの寝室に送ってもらい、それを浴び、くしゃみをし、即日回復した方です。まったく驚いたこと!」
ピクウィック氏はそうした推測がほのめかしている敬意は認めたものの、それを否認する自制心はもっていた。そして、式部官がちょっと話をとぎらせたのに乗じて、彼の友人であるタップマン氏、ウィンクル氏、スノッドグラース氏を紹介しようとしたが、これは、よろこびと名誉で式部官を圧倒することになった。
「バンタム」ダウラー氏は言った、「ピクウィックさんとそのご友人方はこの土地ではお客さま、その名前を書かなければならないのだけど、その帳面はどこにあるのかね?」
「バ――スへの有名なお客さまの登録簿は、|今日《きよう》は二時に大社交広場に来るでしょう」式部官は答えた。「あのすばらしい建物にこの方々をご案内し、そのご自署をいただけるようにしてくださいますか?」
「ええ、いいですよ」ダウラー氏は答えた。「今度の訪問は長期のもの。もう失礼しなければなりません。一時間したら、またここにもどってきますよ。さあ」
「今夜は舞踏会があります」立ちあがってゆこうとしながら、ふたたびピクウィック氏の手をとって、式部官は言った。「バ――スの舞踏会の夜は極楽からうばってきた時ともいうべきもの、音楽、美、優雅さ、流行、礼儀作法、そして――そして、なかでも商人がいないことで魅力的になっているものです。商人は天国とは相|容《い》れず、別個に毎十四日ごとにギルドホールで彼らは融合していますが、これは、どう言っても、驚くべきことです。さようなら、さようなら!」そして、階段をおりる道中ずっと、自分はとても満足した、うれしい、圧倒され、よろこんでいると言いながら、式部官のアンジェロー・サイラス・バンタム氏は戸口のところで待っていたじつに優雅な四輪軽装馬車に乗りこみ、ガラガラッと音を立てて去っていった。
定められた時間に、ピクウィック氏と友人たちは、ダウラーの護衛を受けて、大社交広場にゆき、帳簿に署名をした。これは、アンジェロー・バンタムが前よりさらに恐縮した丁寧なピクウィック氏の態度だった。夕方の集会の入場券がピクウィック氏一行のためにつくられるはずだったが、その用意ができていなかったので、アンジェロー・バンタムの抗議にもかかわらず、ピクウィック氏は午後四時にサムを|女王広場《クウイーン・スクウエア》の式部官の屋敷に出向かせることにした。町をちょっと散歩し、パーク通りは人が夢の中でながめ、どうしても登ることができない垂直に立った道にそっくりだ、という異口同音の結論に達してから、一同は『白雄鹿旅館』にもどり、ピクウィック氏は約束した用件でサムを使いに出した。
サム・ウェラーはとてもゆったりとした品のあるふうに帽子をかぶり、両手をチョッキのポケットにつっこんで、ゆっくりと|女王広場《クウイーン・スクウエア》に歩いてゆき、唇、手まわし風琴といった気高い楽器に合わせてつくった新しい旋律の当時一流の流行歌をいくつか道中で口笛で吹いていた。|女王広場《クウイーン・スクウエア》の定められた番地にゆきつくと、彼は口笛をやめ、陽気にノックをし、豪華な仕着せをまとった、釣り合いのとれた体つきをした、髪粉を頭にふりかけた召使いがそれに応じてすぐ姿をあらわした。
「ここはバンタムさんのお宅ですかね、きみ?」彼の目にはいった豪華な仕着せをまとった、髪粉を頭にふりかけた召使いの光り輝く姿にいささかも辟易せずに、サム・ウェラーはたずねた。
「どうしてかね、若い衆?」が髪粉を頭にふった召使いの傲慢な返事だった。
「もしバンタムさんのお宅だったら、この名刺をちょっと彼のとこにもっていって、ウェラーがお待ちしてますと言って欲しいからさ、いってくれるかね」サムは言った。そう言いながら、彼は、いとも落ち着き払って玄関の間にはいりこみ、そこに腰をおろした。
髪粉を頭にふりかけた召使いはドアをすごい勢いでピシャンと閉め、堂々とした渋面をつくったが、ピシャンとドアを閉めたことも渋面をつくったことも、サムにたいしてはぜんぜん威力を発揮せず、彼はマホガニー製の傘台をいかにもあらさがしをしたそうな態度でしげしげと見守っていた。
主人の示した名刺の受けとり方が、サムに有利な感銘を髪粉を頭にふりかけた召使いに与えたことは明らかだった。名刺をわたしてもどってきたとき、彼は友好的な微笑を浮かべ、返事はすぐに与えられるだろう、と言ったからである。
「よくわかりましたよ」サムは言った。「ご主人には、汗をかく必要はない、と言ってくれませんかね。急ぐことはないんですからね、六フィート君。それに晩餐はもうすんでますからね」
「あんたは晩餐を早くすまされるんですね」髪粉を頭にふりかけた召使いは言った。
「早くすませたほうが、そのあとの食事に都合がよくってね」サムは答えた。
「バースにながくおいでですかね?」髪粉を頭にふりかけた召使いはたずねた。「まだあなたのお噂は耳にしていませんがね」
「まだびっくりするようなことを、ここではやってないんでね」サムは答えた、「わたしも、ほかの上流社交人方も、ほんのきのうの晩、ここに来たばっかしですからね」
「いいとこですよ」髪粉を頭にふりかけた召使いは言った。
「そうらしいですな」サムは答えた。
「とても感じのいい上流社交会」髪粉を頭にふりかけた召使いは言った。「とても気持ちのいい召使いたちぞろいですからな」
「そうだと思いますな」サムは答えた。「愛想がよく、気取らず、口数も少ない人たちでね」
「おお、そうですとも、まったく」サムの言葉を強い賛辞と受けとって、髪粉を頭にふりかた召使いは言った。「そのとおりですよ、まったく。こっちのほうは少しおやりですかね?」狐の頭のふたのついた小さなかぎタバコ入れを出して、背の高い召使いはたずねた。
「そいつをやると、いつもくしゃみが出てね」サムは答えた。
「いや、たしかに、これはむずかしい[#「むずかしい」に傍点]ことですよ」背の高い召使いは言った。「だんだん馴らしていけば、できますよ。コーヒーが練習にはいちばんですな。わたしだって、ながいこと、コーヒーをもってましたよ。それはラビー(一種の粗末なつよいかぎタバコ、黒みがかった色をしている)にそっくりのもんですからな」
ここでベルを鳴らす鋭い音がし、髪粉を頭にふりかけた召使いは不面目にも狐の頭のかぎタバコ入れをふところにしまい、おそれ入った顔つきをして、バンタム氏の「書斎」に急いでゆかなければならぬことになった。ついでのことながら、読みも書きも絶対にしない男でも、必ず裏の居間をもっていて、それを自分の「書斎」と呼びたがっているものである!
「これが返事です」髪粉を頭にふりかけた召使いは言った、「申しわけないが、不便なほど大きなものでしてね」
「どういたしまして」小さな中身を入れた手紙を受けとって、サムは言った、「疲れた者だってそれを運べるかもしれませんからな」
「またお会いしたいもんですな」両手をこすり、戸口の階段のところまでサムについてきて、髪粉を頭にふりかけた召使いは言った。
「そう言ってくださって、ありがとう」サムは答えた。「さあ、自分の体をあまり疲れさせないでくださいよ、いい子だからね。上流社交会で自分がどんなに重要な存在かを考え、あまり体を使いすぎて、病気にならないようにしてくださいよ。あんたの仲間のためにも、できるだけ静かにしてなけりゃいけませんぞ。あんたの損失がどんなに大きなものか、ちょっと考えてごらんなさい!」こうしたやさしい悲痛な言葉をのこして、サム・ウェラーは去っていった。
「すごく変わった若い男だな、あれは」髪粉を頭にふりかけた召使いは言って、ウェラー氏のうしろ姿を見送っていたが、その顔には、あの男のことはどうとも見当がつかないといった表情があらわれていた。
サムはなにも言わないでいた。彼はウィンクをし、頭をふり、ニッコリし、またウィンクをし、なにかをとてもおもしろがっている表情をして、陽気に歩き去っていった。
その夜、八時二十分前きっかりに、式部官アンジェロー・サイラス・バンタム氏は、同じかつら、同じ歯、同じ片眼鏡、同じ懐中時計と印形、同じ指環、同じシャツのピン、同じステッキのいでたちで、大社交広場の戸口に、軽装四輪馬車から姿をあらわした。彼の姿で変わった点といえば、ただ絹の白い裏地をつけたもっと明るい青い上衣、黒の肉じゅばん、黒の絹靴下、パンプス、それに白チョッキだけで、強いて言えば、香水がちょっと強くなっていた。
こうした服装をして、式部官は、彼のきわめて重要な役職のつとめをしっかり遂行するために、さまざまな部屋に身をおいて、来客の歓迎をすることになった。
バースには人がたくさん来ていたので、客と茶代の六ペンス銀貨はどっと流れこんできた。舞踏室、細ながいカルタ室、八角形のカルタ室、階段、廊下では、人声のざわめきと多くの足の立てる音が、まったくびっくりするほどのものになっていた。服はサラサラと|衣《きぬ》ずれの音を立て、羽根飾りは波を打ってゆらめき、灯火は輝き、宝石はキラキラと光っていた、音楽はあったが――カドリル楽隊のものではなかった。それは、その当時、まだ流行のものとなってはいなかったからである。その音楽は、やわらかい小さな足音の音楽で、ときおり、澄んだ陽気な笑い声がそれにそえられていたが、それは、低くてやさしいもの、バースであれどこであれ、女性の声のそれを聞くのは、とても楽しいことである。うれしい期待で灯りをともされた輝く目がどこからも輝き、どちらを見ても、ある美しい姿が優雅に群集の中をすべるようにしてとおりぬけ、それが見えなくなったと思えばすぐ、もうひとつべつの同じように美しい魅力的な姿に、それはとってかわっていた。
茶の部屋に、そしてカルタのテーブルのまわりにちらほらして、多数の老婦人と老いぼれた紳士が集まっていて、その当時の世間話や醜聞をあれこれと議論していたが、そのようすはいかにもそれを楽しみ味わっているふう、それから彼らが得ている楽しみの強烈さを物語っていた。こうした連中にまじって、縁結びをねらっている母親たちがいたが、彼女らは自分が加わっている会話にすっかり心をうばわれているふうをよそおいながらも、心配そうな横目を自分たちの娘に流すのを忘れず、その娘たちは、自分の若さの魅力を十分に発揮するようにという母親の命令を忘れずにいて、スカーフをおき忘れたり、手袋をはめたり、コップをおいたりすることで、初歩的な遊びふざけをはじめていたが、こうしたことは、一見したところ、つまらぬことのように思われるが、手練れの者は、それを驚くほど有効に利用することができるものである。
ドアの近くや遠い隅のところに、おろかな青年の群れがブラブラし、さまざまな生意気でバカバカしい仕草をして、そのおろかさと|自惚《うぬぼ》れで近くの分別あるすべての人たちをおもしろがらせていたが、幸福にも、彼ら自身は、自分がみなの驚嘆の的になっているものと思いこんでいた。これは賢明で慈悲深い天の配剤、まともな人間ならだれも、これと争いはしないものである。
そして最後に、夜の自分たちの場所をとり、うしろのベンチに坐って、大厄年の六十三歳を越えたさまざまな未婚のご婦人方がいたが、彼女らは、ダンスの相手がないためにダンスをせず、とりもどしのきかぬ独身女ときめつけられはせぬかとカルタ遊びもしないで、自分自身のことはいっさいお構いなしに、すべての人の悪口を言える有利な立場に立っていた。簡単に言えば、すべての人がそこにいたから、彼女らはすべての人をののしることができたのだった。そこは陽気さ、輝き、見せ物の場面だった。豪華な服を着た人、美しい鏡、チョークをぬった床、枝つきの飾り燭台、ワックスのろうそくの場面で、こうした場景のあらゆるところで、静かなものやわらかさである地点からべつの地点にすべるようにしてうつり、こちらにヘコヘコと頭をさげていたかと思うと、あちらになれなれしくうなずき、すべての人に満悦した微笑を投げて、式部官のアンジェロー・サイラス・バンタム氏の粋な恰好をした姿が見受けられた。
「茶室で、あなたの払った六ペンス分は飲んでください。鉱泉水をここに引いて、それを茶と呼んでいるんです。それをお飲みなさい」片腕でダウラー夫人を案内しささやかな一行の先に立って歩いていたピクウィック氏に指図をして、ダウラー氏は大声で言った。この茶室にピクウィック氏ははいっていったが、彼の姿を見ると、バンタム氏は群集の中を螺旋状に縫うようにしてやってきて、有頂天になって彼を歓迎した。
「いや、これはとても名誉なこと。バースも特別な名誉を授かったことになります。ダウラー夫人、あなたはどの部屋も飾り立ててくださいます。あなたの羽根飾りはじつに美しいものですねえ。驚くべきもの!」
「だれかここにいますかね?」うさんくさそうにダウラーはたずねた。
「だれかですって! バ――スの選りぬきの人々です。ピクウィックさん、紗のターバンを着けたご婦人が見えますか?」
「あの太った老婦人ですか?」無邪気にピクウィック氏はたずねた。
「しっ――バ――スではだれも太ったり、齢をとったりはしていないんです。あれは未亡人財産をもったスナファナフ夫人です」
「へえ、そうですか?」ピクウィック氏は言った。
「たしかに、ほかならずあの人ですよ」式部官は言った。「しっ。ピクウィックさん、もう少しこちらによってください。こちらに進んでくるすばらしい服装の青年が目におはいりでしょう?」
「ながい髪をし、特別小さな額をした人ですか?」ピクウィック氏はたずねた。
「そうです。いまバ――スでいちばんの富豪です。若きミュータンヘッド公です」
「まさか?」ピクウィック氏は言った。
「いや、そうなんです。すぐにあの方の声が聞けますよ、ピクウィックさん。あの方はわたしに話しかけるでしょうからね。赤い胴着下(胴着の下に重ねて着るべつの胴着)と浅黒い口髭のあの方といっしょにいるもうひとりの紳士は、彼の親友のクラッシュトン閣下です。ご機嫌いかがです、殿下?」
「とても暑いね、バンタム」公は言った。
「とても温かです、殿下」式部官は答えた。
「じつにひどくね」クラッシュトン閣下は応じた。
「殿下の郵便車は見受けなかったかね、バンタム?」少し間をおいてから、クラッシュトン閣下はたずねたが、そのあいだに、若きミュータンヘッド公はピクウィック氏をにらみつけて顔色なからしめようとし、クラッシュトン閣下は、公がどんな話題についていちばんうまく話せるか、を考えていた。
「まあ、驚いたこと、見かけませんよ」式部官は答えた。「郵便車ですって! なんというすばらしい考えでしょう。驚くべきこと!」
「いやあ、驚いたぞ!」公は言った、「新しい郵便車はだれでも見ていると思ったんだがね。それはまだ見たことがないほどの小ぎれいな、美しい、品のあるものなのだ。クリーム色のぶちのついた赤ぬりのものでね」
「手紙を入れる本当の箱があり、すべて完備しているものなんだ」クラッシュトン閣下は言った。
「それに御者のためには、鉄の手すりのついた小さな前の座席があってね」公はつけ加えた。「こないだの朝、ぼくは、真紅の上衣を着こんで、それをブリストルまでとばしてね、ふたりの召使いが四分の一マイルうしろで馬に乗ってついてきたよ。まったく人が小屋からとびだしてきて、自分が早馬じゃないか知ろうとし、そのために進めないくらいだったんだ。すてきだったな、すてきだったな!」
この逸話を話して、公はいとも陽気に笑ったが、聞き手のほうは、もちろん、それに調子を合わせていた。それから、へいこらしているクラッシュトン閣下の腕に自分の腕をとおして、ミュータンヘッド公は向こうへ歩き去っていった。
「おもしろい青年ですよ、公は」式部官は言った。
「そういったところですかな」素っ気なくピクウィック氏は答えた。
ダンスがはじまり、必要な紹介はすみ、すべての準備は終わっていたので、アンジェロー・バンタムはピクウィック氏といっしょになり、彼をカルタ室につれていった。
彼らがそこにはいっていったちょうどそのとき、スナファナフ夫人と、もうふたりの年配の、ホイスト好きらしい婦人が空いたカルタのテーブルの近くをうろうろし、アンジェロー・バンタムに案内されているピクウィック氏の姿を見るやいなや、彼が三番勝負をするのに打ってつけの人物であるのを知って、たがいに一瞥を交し合っていた。
「バンタムさん」機嫌をとるようにしてスナファナフ夫人は言った、「このテーブルが四人になれるように、どなたかいい方を見つけてくださらないこと、おねがいだわ」ピクウィック氏は、ちょうどそのとき、たまたまべつのほうをながめていたので、スナファナフ夫人は彼のほうにうなずき、意味深に眉をよせた。
「わたしの友人ピクウィックさんはとてもおよろこびでしょう。きっと、驚くほどよろこばれますよ」その暗示を理解して、式部官は言った。「ピクウィックさん、スナファナフ夫人――ワグズビー大佐夫人――ボーロー嬢です」
ピクウィック氏はご婦人方のそれぞれに頭をさげてお辞儀をし、どうにものがれられぬものとさとり、札を切った。
二度目に札が配られて勝負がはじまり、札が表を上にしておかれたとき、ふたりの若い婦人が急いで部屋にとびこみ、ワグズビー大佐夫人の椅子の両側に坐り、ジッと辛抱強く勝負が終わるのを待っていた。
「さあ、ジェイン」ワグズビー大佐夫人はそのうちのひとりのほうに向いて言った、「なんの用なの?」
「お母さま、わたしが来たのはね、いちばん年下のクローリーさんといっしょに踊っていいかどうか、おたずねするためなの」ふたりのうちで美しく若い娘がささやいた。
「まあ、ジェイン、どうしてそんなことを考えることができるの?」腹立たしげに母親は答えた。「もう何回も聞いたでしょう、あの人のお父さんの年収は八百ポンド、そして、それはそのお父さんといっしょに消滅してしまうものなのよ。そんなにわからず屋のあなたを、わたし、恥ずかしいことよ。絶対にいけません」
「お母さん」妹よりずっと年上で、とても退屈な、気取ったもうひとりの若い婦人がささやいた、「ミュータンヘッド殿下がわたしに紹介されたの。わたしはまだ婚約していないと思う[#「と思う」に傍点]と言ったことよ、お母さま」
「いい子ね、お前はかわいい|娘《こ》よ」扇子で娘の頬をつついて、ワグズビー大佐夫人は答えた、「そして、いつも信頼できる|娘《こ》よ。あの方は大富豪。まあ!」こう言って、ワグズビー大佐夫人は上の娘に愛情深くキスをし、下の娘に注意を与えるように眉をよせて、自分の札を選んだ。
あわれなピクウィック氏! 彼はそのときまでこんなに腕達者な相手とトランプをしたことは一度もなかった。彼女らはすごくうまく、彼は辟易してしまった。もし彼がまちがった札を出すと、ボーロー嬢はすごい目をしてにらみつけ、どちらが正しい札かと考えてジッとしていると、スナファナフ夫人は、椅子にそりかえって身を投げ、いらつきとあわれみのまじった目をワグズビー大佐夫人に投げかけ、ワグズビー大佐夫人は、それに応じて、肩をすくめ、咳払いをして、彼がいつはじめるのかしらといった態度を示していた。それから、一勝負が終わるごとに、ボーロー嬢はどうしてピクウィック氏があのダイヤに同じ札で応じなかったか、クラブを真っ先の手として出さなかったのか、スペードを切り札でとらなかったのか、ハートをフィネス(ホイストやブリッジで高点のもち札をのこし、低い点の札を出して場札をとろうとすること)しなかったのか、最高の役札でつぎの者を手が出せないようにしなかったのか、エースを出さなかったのか、王さままで札を出しつづけなかったのか、とかそういったことを陰気な顔をし、責めるような溜め息をもらしながらたずね、こうした深刻な質問すべてにたいして、このときまでにはもうゲームのことがすっかり頭からぬけてしまっていたので、ピクウィック氏はぜんぜんまともな答えができなくなっていた。人々がやってきて、勝負をながめていたが、これがピクウィック氏を神経質にしていた。こうしたことのほかに、アンジェロー・バンタム氏とマチンターズ嬢のあいだに交わされた気をそらすいろいろの会話があった。このマチンターズ嬢は、独身女なので、ときおり彼に相手になってもらおうと、式部官のご機嫌を大いにとっている女だった。こうしたことすべては、たえず出入りする物音とじゃまと結びついて、ピクウィック氏にへまをやらせ、そのうえ、彼にたいしては札運がわるく、十一時十分すぎに勝負を終わったときには、ボーロー嬢はそうとう興奮してテーブルから立ちあがり、オンオンと涙を流して、椅子かごに乗って家に帰っていった。
これ以上楽しい晩はまずすごしたことはないと声をそろえて言っていた友人たちといっしょになって、ピクウィック氏は『白雄鹿旅館』にもどり、熱いものを飲んで自分の気分を癒やし、床につき、それとほとんど同時に眠りこんでしまった。
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第三十六章
[#3字下げ]この章の主な特徴は、ブラダッド王子伝説の本物の話とウィンクル氏の身にふりかかったじつに途方もない不幸
ピクウィック氏は少なくともバースに二か月は滞在しようと考えていたので、その期間、自分と友人たちのために、ホテルではない私室を借りたほうがいいと思っていたが、それをかなり安い条件でロイアル・|三日月《クレツセント》広場の家の二階で借りられる好都合な機会に恵まれ、それは彼らの要求しているものより大きいものだった。が、ダウラー夫妻が寝室と居間を借りようと助け舟を出してくれた。この提案はすぐに受け入れられ、三日たつと、一同はみんな、新しい家にうつり住むことになったが、このとき、ピクウィック氏がじつに熱心に鉱泉水を飲みはじめた。ピクウィック氏はそれを計画的に飲んでいた。彼はそれを朝食前に四分の一パイント飲み、それから岡にのぼり、朝食後にさらに四分の一パイント、それから岡をくだり、こうして鉱泉水を飲んだたびごとに、じつに厳粛な力をこめた言葉で、ずっと気分がよくなったと宣言し、友人たちは、以前にピクウィック氏になにか具合いのわるいところがあったものとは知らないでいたが、それを聞いてとてもよろこんでいた。
大社交広場はひろびろとした大広間で、コリントふうの柱・音楽会場、トムピオン(イギリスのアン女王時代の有名な時計作り(トマス)の名)時計・ナッシュ(リチャード(一六七四―一七六二)イギリスの伊達男。バースの管理者として豪奢で風流な社交生活を流行させた)の肖像・金の碑文で飾られていたが、この最後の碑文はりっぱな慈善事業に訴えるもので、ここの鉱泉を飲む人々すべてそれを読まねばならぬものだった。大理石の壺のある大きな飲み部屋があり、その壺からくみ手の男が鉱泉水をくみだし、たくさんの黄色のコップがあって、そこから客は鉱泉水を飲んでいた。彼らがそれをどんなにがんばり、どんなに重々しい態度でガブガブ飲んでいるかをながめることは、じつに身のためになり、満足を与えてくれる光景だった。近くに入浴場がいくつかあり、そこで客の一部は体を洗い、その後、音楽隊の演奏がおこなわれて、のこりの者に彼らが入浴したことを祝っている。さらにもうひとつ大社交広場があり、そこへはじつに驚くべき種々さまざまの椅子やふたり乗り一頭引き二輪軽装馬車で病人の婦人紳士方が運びこまれ、健全な足の指をそろえた冒険家でも、そこへはいると、出てくるまでにその足の指を落としそうな危険にさらされる。さらに第三の大社交広場があるが、そこにゆくのは静かな人たち、そこはべつのふたつの場所よりさわぎが少ないからである。松葉杖をつけたりはずしたり、ステッキをもったりもたなかったりして、たくさんの人々がブラブラと散歩し、多くの会話・活気・陽気さがそこにあふれている。
毎朝、ピクウィック氏もその中にはいっていたのだが、定期的に鉱泉水を飲む人たちが大社交広場で顔を合わせ、四分の一パイントを飲み、運動のための散歩をしていた。午後の散歩では、ミュータンヘッド公、クラッシュトン閣下、スナファナフ夫人、ワグズビー大佐夫人、すべてのお偉方、すべての朝の鉱泉水を飲む人たちは、堂々とした会合で顔を合わせていた。このあとで、彼らは散歩に出かけ、車で出かけ、あるいは温泉場の車椅子でおされて去ってゆき、ふたたび出逢っていた。このあとで、紳士方は閲覧室にはいってゆき、一部の人と出逢って、それから、家に帰っていった。もし夜に芝居があれば、彼らはおそらく劇場で出逢い、もしそれが会のある夜なら、彼らは部屋で出逢い、そうしたことがいずれもなければ、彼らは翌日に出逢っていた。これは、多少単調といった気味はあるものの、とても愉快な一日の定まった行事だった。
こうしたふうに一日を送ったあとで、日記帳をつけながら、ピクウィック氏はひとりで坐っていた。彼の友人たちはもう寝室に引きあげていた。そのとき、部屋のドアを静かにたたく音で、彼ははっとわれにかえった。
「失礼ですが」下宿のおかみさんのクラドック夫人が中をのぞきこんで言った。「なにかもっとご用事があるでしょうか?」
「もうなにもありませんよ」ピクウィック氏は答えた。
「娘はもう寝てしまい」クラドック夫人は言った、「ダウラーさんは、ご親切にも、会がおそくまで終わりそうもないので、自分が起きていて奥さんのお帰りを待つと言ってくださってます。そこで、もしこれ以上なにもご用事がなかったら、ピクウィックさん、わたしはもう寝もうと思ってるのですが……」
「ぜひ、お寝みなさい、奥さん」ピクウィック氏は答えた。
「では、お寝みなさい」クラドック夫人は言った。
「お寝みなさい、奥さん」ピクウィック氏は答えた。
クラドック夫人はドアを閉め、ピクウィック氏はふたたび書きはじめた。
三十分たつと、日記の書きこみは終わった。ピクウィック氏は注意深く最後のページに吸いとり紙を当ててこすり、日記帳を閉じ、上衣の尻の先っぽの裏側でペンをぬぐい、それを注意深くしまいこもうと、台つきインクつぼの引き出しを開けた。こまかに書きこまれた二枚の書簡用紙がその引き出しの中にあり、そのたたみ方で、まるまるとした筆跡で書かれていた題が彼によく見えた。このことから、それが私信ではないことを知り、それがこのバースに関係があるように思われ、とても短いものだったので、ピクウィック氏はそれを開き、それを読み終えるまでによく燃えているようにと、寝室のろうそくに火をともし、炉のそばに椅子を引きよせて、つぎのような文を読みはじめた。
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[#3字下げ]ブラダッド王子の伝説事実談
二百年にもならぬ前、この町の公共浴場のひとつに、そのたくましい創始者、有名なブラダッドをたたえた碑文があったが、それはいまはけずりとられている。
そのとき以前の何百年ものあいだ、時代から時代へと、古い伝説が伝わり、この有名な王子がアテネで豊かな知識の実りを刈りとってもどってきたときに癩病になやまされ、父王の宮廷をさけ、農夫や豚と暗い気持ちで付き合っていたと伝えられている。豚の群れの中に(伝説の語るところによれば)重々しい厳粛な顔つきをした豚が一頭いて、この豚に王子はある共感を感じていた。この豚も賢明であり――思慮あるひかえ目な豚で、そのうなり声はすごく、その噛み方はひどい、他の豚とはずっとまさった獣だった。この堂々たる豚の顔を見たとき、若い王子は深い溜め息をもらした。彼は父王のことを思い、目は涙でぬれていた。
この利口な豚は豊かな、湿った泥を浴びるのを好んでいた。|今日《こんにち》体を冷やすためにふつうの豚がし、そうしたむかしの時代にあってすら豚がしていたように(これは文明の光が、たとえ弱いものではあろうとも、もうすでに夜明けの光を放ちはじめていたことの証拠になるが)、それは夏におこなわれるのではなく、冬の寒さのきびしい日におこなわれていた。彼の外套はいつもとてもなめらか、その顔は色つやがよく、王子は彼の友人の豚がやっているのと同じ水の浄める力をためしてみようと決心した。彼はその実験をした。あの黒い泥の下で、バースの温泉がブクブクと吹き出していた。彼は体を洗い、病気が癒された。彼は急いで父王の宮廷にゆき、心からの敬意をあらわし、すばやくここにもどり、この町をつくり、その有名な浴場を創設した。
彼はむかしのままの友情の熱意をこめて例の豚をさがしたが――ああ、ここの鉱泉水が彼の命とりになっていた。彼は不用心にもあまり高い温度の温泉にはいり、この自然の哲学者はこの世から去っていた! 彼の後継者はプリニウス((二三―七九)ローマの博物学者、百科辞典編集者、著述家)で、彼もまた知識欲の犠牲者になったのである。
これが伝説だった[#「だった」に傍点]。事実談に耳をかたむけていただきたい。
いまから何世紀か前のこと、イギリス王の有名なラッド・ヒューディブラスが華かに繁栄していた。彼は強大な専制君主で、彼が歩くと大地がゆらぐほど大きな太った体をしていた。国民は彼の顔の発する光にぬくぬくと温まっていた。その顔はとても赤く輝いていたからである。彼は、じっさい、どこからどこまでも王者で、体はとても大きなものだった。というのも、背はとても高いというわけではなかったが、体のまわりがとても大きく、背丈で欠けているところは、身のまわりの寸法でおぎなわれていた。もしも近代の堕落した君主が多少なりともこの彼にくらべられるとしたら、あの尊敬すべきコール王(童謡にも歌われているイギリスの伝説的な王さまで、笛と盃と三人の提琴家を好んでいた)がこの有名な君主になぞらえられるくらいのものだろう。
この善良な王さまにはおきさきがいたが、彼女は十八年前にブラダッドと呼ばれた王子を生んでいた。この王子は、十歳になるまで、父の領地にある入学準備用の学校にやられ、それから、信頼できる使者にあずけられて、アテネの最終の仕上げの学校に送られた。休暇のあいだ学校にのこっていても余分の代金は請求されず、生徒を退学させる前になんの予告をする必要もなかったので、彼は八年というながい年月のあいだそこにとどまり、その時期が終わると、彼の父親の王さまは宮内長官をアテネに派遣し、勘定の支払いをすませ、彼を国につれもどさせた。宮内長官はこの大任を果たし、喚声をもって国にむかえ入れられ、すぐに年金を与えられることになった。
ラッド王は息子の王子と会い、彼が美しい青年に成長しているのを見たとき、急いで彼を結婚させたらどんなにすばらしいことだろうと、すぐ考えた。そうなれば、王子の子供たちが輝かしいラッドの流れを未来永劫に末ながく伝えることができるからである。この目的で、彼は、べつに特別仕事がなく、なにか得になる仕事を欲しがっている大貴族から編成した特別使節団をとなりの王のところに派遣し、そこの美しい姫が自分の王子と結婚することを要求し、それと同時に、自分の兄弟であり友人であるとなりの王とこのうえない友好関係を結びたいとはねがっているものの、もしこの結婚のとりきめに賛成できなかったら、不本意ながら、彼の領土に侵入し、その目玉を引きぬかねばならぬことになるだろう、と述べた。これにたいして、相手の王(ふたりの王のうちで弱いほう)は、この親切と寛大さには大いに感謝している、ブラダッド王子が彼女を受けとりに来たいときにはいつでも、姫は結婚の用意ができている、と答えた。
この答えがイギスリに着くとすぐ、国中の者はよろこびで有頂天になった。どこででも、宴会と飲めや歌えの大さわぎ以外のどんな物音も聞こえぬほどだった――このめでたい儀式の費用をひねりだすために、収税吏にたいして国民が払う金の音はべつだったが……。枢密院のお偉方が全員そろっているところで、よろこびの情にあふれて、ラッド王が王座の上で立ちあがり、最高裁判所長に最高のぶどう酒と宮廷の吟遊詩人を呼ぶように命じたのは、このときのことだった。これは、彼の威厳が示し語られているつぎの有名な詩で、伝統的な歴史家の無知によって、コール王のものとされている慈愛の行為だった。
[#ここから2字下げ]
笛を求め、酒壺を求め、
三人の提琴家を求めて。
[#ここで字下げ終わり]
これではたしかに、ラッド王の追憶を不当にないがしろにし、コール王の徳を事実をまげて高めることになるわけである。
しかし、この宴会の|最中《さなか》にあって、きらめくぶどう酒が注がれたときに、それを味わわず、吟遊詩人が演奏しても、踊りを踊らぬ人がひとりいた。これは、ほかならぬ、ブラダッド王子その人であり、その人の幸福を祝って、全国民がそのとき|声をはりあげて《ストレイン》歌い、財布のひもを|ゆるめている《ストレイン》当の本人だった。事実は、彼の代理で恋におちいってもいいという外務大臣のもつはっきりとした特権(王子の嫁決めは外務大臣の任務ということ)を忘れ、政策・外交のすべての先例を破って、王子がもうすでに自分で恋におちいり、ひそかにアテネの貴族の娘と婚約していたということだった。
ここで、文明と高い教養のもつさまざまな利点のひとつが、はっきりと示されている。もし王子がのちの時代に生まれていたら、彼はすぐに父親の選んだ女性と結婚し、ついで、自分に重くのしかかってきた重荷をとりのぞこうと、真剣にとりかかったことだろう。彼は計画的な軽蔑と無視のやり方で彼女の心を打ちくだこうとつとめるか、彼女の女性としての精神、ひどい仕打ちを受けたという誇りやかな意識が、この虐待のもとにあっても、彼女を支えているようなことがあったら、彼は彼女の命をうばい、効果的に彼女からのがれることを考えたであろう。が、こうした打開策は、いずれもブラダッド王子の胸に思い浮かばず、そこで、彼は父王との単独謁見を求め、そのことを父王に打ち明けた。
自分の激情以外のすべてのものを支配するのが、むかしからの王の特権である。ラッド王は大怒りに怒り、王冠を天井に投げあげ、それをふたたび受けとめ――というのは、その当時、王は王冠をロンドン塔におくことはせず、それを頭の上に乗せていた――地面を踏みしめ、|額《ひたい》をたたき、なぜ自分自身の骨肉が自分にさからうのかと驚き、最後に、護衛兵を呼びこんで、高い塔にすぐ王子を閉じこめろと命じた。これは、むかしの王さまたちが、自分の息子の結婚の意志が自分の意志と合わぬときに、じつによく息子にたいしてとっていたやり方だった。
一年の大部分のあいだ、ブラダッド王子が高い塔の中に閉じこめられ、肉眼の前には、石の壁以外の美しい景色はなく、心の目には、長期にわたる監禁以上の見とおしが浮かんでこなかったとき、当然のことながら、彼は逃亡計画を考えはじめ、何か月かの準備のあとで、それをどうやら達成したのだが、思いやり深くも、刑務所の看守(彼は家族もちの男だった)が王子の逃亡に一役買っているものと考えられ、怒り立つ王によって処罰を受けては気の毒とばかり、食事用のナイフをその男の心臓に突き刺して、それをおこなったのだった。
王子の姿が消えてしまうと、王は狂乱状態におちいった。彼は自分の悲しみと怒りをだれにぶちまけたらいいか見当もつかず、運よくたまたま王子を国につれ帰った宮内長官のことに思いついて、王はその年金をとりあげ、首をはねてしまった。
一方、若い王子は、彼のつらい苦しみのなにも知らぬ原因となっていたアテネの少女のことをやさしく思いやり、すべての苦痛の中で元気づけられ支えられ、うまく変装して、父親の領土を徒歩でさまよい歩いていた。ある日、彼は足をとめて、あるいなかの村に休み、広場で陽気な踊りがおこなわれ、華かな顔が右往左往するのを見て、自分のそばに立って酒を飲んでいる男に、こうしてよろこび踊っているわけをたずねた。
「おお、旅の人、恵み深い王さまの最近のお触れを知らないんですか?」がその答えだった。
「お触れですって! いいや。どんなお触れです?」王子はたずねた――彼は人のかよわぬ裏道ばかり歩いていて、大通りといったところで起きていることは、なにも知らないでいたからである。
「いやあ」農夫は答えた、「王子さまが結婚したいとお思いの外国の婦人の方は、同じ国の貴族と結婚なさり、王さまはその事実と大祝宴のお触れをお出しになったのです。こうなれば、もちろん、王子さまはお帰りになって、王さまがお選びのお姫さまと結婚なさるでしょうからね。そのお姫さまは昼間の太陽のように美しい方だそうですよ。さあ、あなたの健康を祝って、一杯いきましょう。王さま、万歳!」
王子はそれ以上なにも聞こうとせず、近くの森のいちばん茂みの奥に姿をかくしてしまった。昼も夜も、照りつける太陽や冷たい青ざめた月の光を浴び、昼の乾いた熱気と夜の湿った寒さにつつまれ、朝の灰色の光と夕焼けの赤い輝きを受けて、王子はずんずん、ずんずん、さまよいつづけた。彼は時とか目に映る物にはぜんぜん注意を払わず、アテネにゆこうとは思っていながらも、その道からさまよい出て、バースに来てしまった。
その当時、いまバースが立っているところには、どんな町もなかった。そうした名をもつどんな人間の住んでいる形跡、人間がかよっているようすもなかったが、はるかかなたには、いまと同じ気高い田園、同じひろびろとした岡と谷、同じ静かに流れている川床、人生の悩みと同じように、遠くからながめ、朝の明るい霧をとおして一部見れば、そのごつごつしたきびしい面は消え、いかにも楽々として物やわらかに思われる同じ高い山がひろがっていた。その景色のおだやかな美しさに打たれて、王子は緑の芝生に体を沈め、ふくれあがった両足に涙をそそぎかけた。
「おお!」手をにぎり合わせ、悲しそうに空に目をあげて、悲しみのブラダッドは言った、「わたしの放浪がここで終わってくれたら! 見当ちがいの希望とすてられた愛情をわたしがいま嘆いているこのありがたい涙が、いつまでも平和に流れつづけたら!」
このねがいは聞きとどけられた。そのときは異端の神々の時代であり、そうした神々は、ときにひどく困ったことになるようなすみやかさで、人々のねがいを文字どおり受けとっていた。王子の足もとで大地が開き、彼はその割れ目の中に沈み、その後すぐ、彼の頭上でそれは永遠に閉ざされ、ただのこったなごりといえば、地面をとおして彼の涙が湧きあがり、その後ずっとそれが噴き出しつづけていることだけになった。
今日にいたるまで、連れ合いを得ることができなかったたくさんの初老の男女、それを得ようとしている同じくらいたくさんの若い人たちは、鉱泉水を飲むために、年々バースにおもむき、それから多くの力づけとなぐさめを得ている。これはブラダッド王子の涙の効力をこのうえなくたたえているもの、この伝説の真実性を強く証拠立てているものである。
このささやかな手記の終わりまで読むと、ピクウィック氏は何回かあくびをし、注意深くそれをたたみ、台つきインクつぼの引き出しにそれをもどし、ひどくうんざりしたといった顔つきで、自分の部屋のろうそくをつけ、寝るために二階にあがっていった。
彼は習慣にしたがってダウラー氏の戸口のところで足をとめ、ノックをして、お寝みの挨拶をした。
「ああ!」ダウラー氏は言った、「寝るのですか? わたしも寝られたらいいんだが。陰気な夜ですな。風が出てるんじゃありませんかね?」
「とてもね」ピクウィック氏は言った。「お寝みなさい」
「お寝みなさい」
ピクウィック氏は自分の寝室にはいり、ダウラー氏は、妻が家に帰ってくるまで起きているという軽率な約束のために、炉の前の自分の座席にもどっていった。
だれかを待って起きている、とくにそのだれかが会に出ている場合ほど、いらいらするものはめったにない。自分のほうでは時間がのろのろと進んでいるのに、会に出ている人にとっては、それがどんなにさっさとすぎてゆくかを、人は考えずにはいられない。このことを考えれば考えるほど、相手が早く帰ってくる希望の色は薄くなってゆく。そのうえ、ひとりで起きていると、時計はじつに大きなカチカチの音を立て、自分は蜘蛛の巣の下着を着ているような感じになってくる。最初に、なにかが右の膝をくすぐり、ついで同じ感じがいらいらっと左の膝にする。姿勢を変えるやいなや、それはまた両腕に起こってくる。ムズムズして手足をあらゆる奇妙な恰好にすると、それが急に鼻にあらわれ、人は鼻をこすりとってしまうような勢いで鼻をこする――もしそれができることだったら、じっさい、人はそれをしてしまうことだろう。目もまた、ただやっかい至極なものになるだけ。ろうそくの芯は、一方の芯を切っているあいだに、べつの芯が一インチ半もながくなってしまう。こうしたこと、それにほかのさまざまな小さないらだちのもとになる面倒なことが、ほかのすべての人が眠ったあとながく起きているのを、じつに楽しみのない、うんざりするものにしてしまう。
ダウラー氏が炉の前に坐り、自分をこうして起こしている会の不人情な人々にたいして心の底から腹立たしくなっているとき、彼の意見は、まさにこうしたものだった。その日の夕方早く、彼は頭が痛み、その結果、家にのこることになったのだと考えなおしてみても、彼の気分は晴れあがらなかった。とうとう、何回かコクリコクリと眠りこみ、炉の棧のほうに倒れこみ、顔に|火傷《やけど》をしないようにすばやく体を起こすといったことをしたあとで、ダウラー氏は、裏の部屋の寝台に身を投げて――もちろん、眠るのではなく――考えよう[#「考えよう」に傍点]と決心した。
「自分はぐっすり眠る男だ」寝台に身を投げたとき、ダウラー氏は言った。「起きていなければならないぞ。ここでノックの音は聞こえるだろう。うん、そうと思っていたさ。夜警の音も聞こえるぞ。あそこを歩いているな、だが、いまはかすかな音になったな。ますますかすかになったぞ。角をまがってるな。ああ!」ダウラー氏がここまで来たとき、彼自身が[#「彼自身が」に傍点]ながいことモジモジしていた町角をまがり、彼はぐっすりと眠りこんでしまった。
時計が三時を打ったちょうどそのとき、一方は背が低くて太ったかつぎ手、他は背が高くて痩せたかごかきに運ばれ、中にはダウラー夫人が乗っている椅子かごがこの|三日月《クレツセント》広場にふっとんできたが、かごのかつぎ手ふたりは、椅子はおろか、自分たちの体を垂直にするだけでも、すごく骨を折っていた。だが、この高台で、そして、舗道の石をめくりとらんばかりの勢いで風がくるくる舞って吹いている|三日月《クレツセント》広場では、風の勢いはものすごいものだった。彼らは椅子をおろすことができるのを大よろこびし、街路に面したドアをそうとう激しくトントンとノックした。
ふたりはしばらく待っていたが、だれも出てはこなかった。
「召使いたちは鯨の腕の中というやつだな」|松明《たいまつ》の火に手をかざして、背の低いかつぎ手が言った。
「鯨がやつらをひとひねりし、起こしてしまったらいいんだがな」背の高いかつぎ手が言った。
「もう一度ノックしてくださいません?」椅子からダウラー夫人が叫んだ。「二度か三度、ノックしてください」
背の低い男はできるだけ早く仕事をすませたいと思っていた。そこで、彼は戸口の階段の上に立ち、トントン、トントンと四、五回激しくノックをし、一回ごとに八回か十回ドアをたたき、背の高い男のほうは、道路に出ていって、灯りが見つからないかと、窓を見あげていた。
だれも出ては来なかった。家は前どおり静かで、暗かった。
「まあ!」ダウラー夫人は言った。「もう一度ノックをしてください」
「ベルがないんですかね、奥さん?」背の低いかつぎ手が言った。
「いや、あるよ」|松明《たいまつ》もちは口をはさんだ。「おれはそいつをずっと鳴らしてるんだがね」
「それは取っ手だけなの」ダウラー夫人は言った、「ひもは切れているのよ」
「召使いの頭が切れてたらいいんだがね」背の高い男はうなった。
「またノックしていただかなければならないわ」いとも慇懃にダウラー夫人は言った。
背の低い男はまた何回かノックをしたが、なんの効果もなかった。背の高い男はひどくいらいらしてきて、背の低い男を助け、まるで気がくるった郵便配達夫のように、ドンドン、ドンドンと激しくノックをつづけていた。
とうとう、ウィンクル氏は夢を見はじめ、その夢は彼がクラブにいて、ある会員がひどく言うことをきかず、始末におえないので、議長が、秩序を維持するために、テーブルをそうとう強くハンマーでたたかずにはいられぬといったものだった。それから、競売場の混乱した想念が浮かび、そこではせりの入札者がぜんぜんなく、せり売り人がすべてのありとあらゆる品物を買いこんでいた。そして最後に、だれかが街路の戸をノックしているのかもしれないとぼんやりと考えはじめていた。しかし、それをしっかりとたしかめるために、彼は十分かそこいら床の中でジッとし、耳を澄ませていた。そして、三十二か三のノックの音を数え終わったとき、彼はすっかり納得し、耳ざとい自分のことを大いに手柄顔に思っていた。
「トントン――トントン――トントン――ドンドンドンドンドンドーン!」ノックの音はつづいた。
ウィンクル氏は、いったいなにごとならんと思って、寝台からとびだし、急いで靴下とスリッパをつっかけ、化粧着を体にまきつけ、炉で燃えていた灯心草ろうそくから平台短軸の燭台に火をうつし、あわてて階段をおりていった。
「いよいよだれかがやってきたようですよ、奥さん」背の低いかつぎ手が言った。
「小さなきりをもって、やつのうしろに立ってたいもんですな」背の高い男がつぶやいた。
「そこにいるのは、だれです?」鎖をはずしながら、ウィンクル氏は言った。
「この頭のこちこち野郎、ブーブー言ってぐずぐずするな」質問をした男は当然召使いだと思いこみ、大いにむくれて、背の高い男は答えた。「そんなことはせずに、ドアを開くんだ」
「おい、しっかりやれ、この寝ぼけまなこ野郎め」もうひとりの男がせき立てて声をかけた。
ウィンクル氏は、なかば眠った状態で、機械的にこの命令にしたがい、少しドアを開けて、外をのぞいて見た。彼が最初に見たのは、松明もちがもった松明のギラギラとした赤い輝きだった。家が火事になったのかという恐怖に急におそわれ、彼は急いでドアをさっとひろく開け、ろうそくを頭の上にかかげて、自分の目にはいったものが椅子かごか消防車だかがよくわからず、前方をジッとにらみつけていた。この瞬間、激しい突風が吹きつけ、ろうそくの火は消えてしまった。ウィンクル氏は否応なく入口の階段のところに出ざるを得なくなり、ドアはすごい音を立ててバターンと閉まった。
「さあ、若いの、いよいよ出てきたな!」背の低いかつぎ手は言った。
ウィンクル氏は椅子かごの窓に婦人の顔を見て、急いで向きなおり、力まかせにノッカーをカチカチと打ち、狂気のようにかごのかつぎ手に呼びかけて、椅子かごを向こうにもってゆくようにたのんだ。
「それを向こうに、向こうに!」ウィンクル氏は叫んだ。「ほら、べつの家からだれかが出てきた。ぼくを椅子の中に入れてくれ。ぼくをかくしてくれ! ぼくをどうにかしてくれ!」
このあいだ中、彼は寒さで体をガタガタさせ、彼がノッカーに手をかけるたびごとに、風がじつにぶざまなふうに彼の化粧着をまくりあげていた。
「|三日月《クレツセント》広場を人がやってくるぞ。そこにはご婦人方もいる。なにかぼくにかけてくれ。ぼくの前に立ってくれ!」ウィンクル氏はわめいた。だが、椅子かごのかつぎ手ふたりは笑いで動けなくなり、彼に少しの助けも与えず、問題のご婦人方は刻一刻近づいてきた。
ウィンクル氏は最後の絶望的なノックをした。ご婦人方はほんの数軒先のところにせまってきていた。彼はこのあいだ中ずっと頭の上にかかげていた灯りの消えたろうそくをかなぐりすて、ダウラー夫人がいる椅子かごの中にまっしぐらとびこんでいった。
さて、クラドック夫人はとうとうノックの音と人声を耳にし、ナイトキャップよりなにかましなものをかぶろうとしてぐずぐすしたあとで、通りに面した客間にかけおり、相手がまともな人間かどうかをたしかめようとした。ウィンクル氏が椅子かごの中にとびこんでいったとき、彼女は窓障子をさっとあげ、下で起こっていることを目にするやいなや、彼女は激しいおそろしい悲鳴をあげ、奥さんがだれか男と逃げだそうとしているから、すぐ起きてくれ、とダウラー氏にたのみこんだ。
これを耳にすると、ダウラー氏はゴムボールのように床からはねおき、通りに面した部屋にかけこみ、ピクウィック氏が窓をパッと開けたとき、べつの窓のところに着き、ふたりの目にはいった最初のものは、椅子かごの中にとびこんでゆくウィンクル氏の姿だった。
「夜警!」カンカンになってダウラー氏は叫んだ。「彼をとめろ――彼をしっかり抑えておけ――彼を閉じこめておくんだ。おれがすぐ降りていくからな。やつの喉笛をかき切ってやる――ナイフをよこせ――クラドックのおかみさん、耳から耳までがっぱりとな――うん、やるとも!」こう言って、金切り声を立てている下宿のおかみとピクウィック氏の腕をふり払ってとびだしてゆき、怒りくるった夫は小さな夕食用のナイフを手にもち、街路におどりでた。
だが、ウィンクル氏はこの男が来るのを待ってはいなかった。勇敢なダウラー氏のおそろしいわめき声を耳にするやいなや、彼はとびこんだのと同様のすばやさで椅子かごからとびだし、スリッパを道路に放りだして、さっさと逃げ、ダウラー氏と夜警の激しい追跡を受けながら、|三日月《クレツセント》広場のまわりをふっとんでいった。彼は先頭をきって進んだ。彼が二度目にもどってきたとき、ドアは開いたままだった。そこで彼は家にとびこみ、ダウラー氏の顔へまともにそれをピシャンと閉め、自分の寝室にあがってゆき、ドアに錠をおろし、そこに手洗い台、引き出しの箱、テーブルをおしつけ立て、夜が明けるとすぐ逃げだせるようにと、必要なわずかな品物の荷づくりをした。
ダウラー氏はこのドアの外まであがってきて、鍵穴をとおして、翌日ウィンクル氏の喉をかき切る断固たる決意を表明し、和解させようとつとめているピクウィック氏の声がはっきりと聞こえてきた応接間でのひどくゴタゴタした人声のあとで、家の住人はそれぞれの寝室に散ってゆき、家の中はもとの静けさをとりもどした。
このあいだ中、ウェラー氏がどこにいたかという質問が起きるのは、当然のことといえよう。彼がどこにいたかは、つぎの章で述べることにしよう。
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第三十七章
[#3字下げ]ウェラー氏の不在は、彼が招かれておもむいた夜会の話でりっぱに説明され、彼がピクウィック氏からむずかしい重要な個人的任務を授かったいきさつが語られる
「ウェラーさん」このじつに波瀾の多かった日の朝、クラドック夫人は言った、「あなた宛の手紙が来てますよ」
「そいつはじつに妙なことだなあ」サムは言った、「なにかまずいことが起きたんじゃないかな。手紙を書けるような知り合いは、おれの知ってる中にはいないんだからね」
「たぶん、なにか変わったことでも起きたんですよ」クラドック夫人は言った。
「じっさい、こんな手紙をだれか友だちに書かせるなんて、なにかとても変わったことがあったにちがいないですな」うさんくさそうに頭をふりながら、サムは答えた。「きっと自然界の大変動だぞ、発作にかかったとき、若い紳士が言ったようにね。これがおやじからのはずはない」所書きを見ながら、サムは言った。「おやじは、字を切符発売所の大きなはり札から憶えて、いつも活字体で書いてるんだからな。この手紙がどこから来たのか、こいつはじつに妙なこったぞ」
こう言いながら、サムは、手紙の差し出し人がよくわからないとき、多くの人がよくすることをした――封印を、それから表を、それから裏を、それから側面を、それから表書きをながめ、最後の手段として、中を調べ、そこから手がかりを見つけたほうがいいだろうと考えた。
「金ぶちの紙に書かれているんだな」それを開きながら、サムは言った、「そして、ドアの鍵の頭で青銅色のワックスに封印がおされてあるな。さあ、中身を読んでみよう」こう言って、とても深刻な顔をして、ウェラー氏はゆっくりとつぎのような手紙を読んだ――
[#ここから1字下げ]
バースの召使いの選りぬきの上流階級がウェラー氏に挨拶の言葉を献げ、いつもの付け合わせをそえた煮た羊肉の脚の友好的な夜会に、今晩、ご招待いたします。この料理は、今晩九時半きっかりに、食卓に出されることになっています。
[#ここで字下げ終わり]
これはべつの手紙の中にはさまれてあったのだが、そのべつの手紙は、以下のようなものだった――
[#ここから1字下げ]
数日前、共通の知人バンタム氏の家でウェラー氏にお会いできる光栄に浴したジョン・スモーカーが、ウェラー氏にこの招待状を同封します。もしウェラー氏がジョン・スモーカーを九時におたずねくださったら、ジョン・スモーカーはウェラー氏をご紹介する光栄をもつことになりましょう。
[#ここで字下げ終わり]
[#地付き](署名)ジョン・スモーカー
[#ここで字下げ終わり]
封筒には、ピクウィック家のウェラーさまとあり、左手の隅に、手紙持参人にたいする指示として、「風の吹きとおるベル」という文字がかっこに入れられてあった。
「うん」サムは言った、「こいつはそうとう大げさな言葉だな、こいつは。煮た羊肉の脚を夜会と呼ぶなんて、聞いたこともないぞ。焼いた羊肉の脚の場合には、そいつをどう呼ぶんだろうかな」
しかし、その点を考えてぐずぐずしたりはせずに、サムはすぐにピクウィック氏のところにゆき、その日の夕方の休暇をねがい出て、それはすぐに許された。この許しを得、表の戸の鍵を手にして、サム・ウェラーは約束の時間より少し早目にとびだし、ゆっくりと|女王広場《クウイーン・スクウエア》に歩いていったが、そこに着くとすぐ、うれしいことに、髪粉を頭にふりかけたジョン・スモーカー氏が少しはなれたところで街灯柱によりかかり、|琥珀《こはく》のパイプで葉巻きをふかしている姿が目にはいった。
「やあ、ご機嫌いかがです、ウェラーさん?」帽子を優雅なふうに片手であげ、のこる手をお高いふうにやさしくふって、ジョン・スモーカー氏は言った。「ご機嫌いかがです?」
「いやあ、かなり元気ですよ」サムは答えた。「ところで、きみのほうはどうですかね?」
「まあ、たいしたいい調子というわけでもありませんな」ジョン・スモーカー氏は言った。
「ああ、あんたは働きすぎですな」サムは言った。「そうなるんじゃないかと、心配してましたよ。そんなことしちゃ、だめですよ。あのあんたのがんこな|性質《たち》をおしとおしたりしちゃ、いけませんぞ」
「いや、そのためより、ウェラーさん」ジョン・スモーカー氏は答えた、「わるい酒のためなんですよ。どうやら、飲みすぎらしいんです」
「おお、そうなんですかね?」サムは言った。「それはまったく困ったことですな」
「それにしても、その誘惑がね、ウェラーさん」ジョン・スモーカー氏は言った。
「うん、もちろんね」サムは答えた。
「上流社会のまさに渦の中に投げこまれてるんですからな、ウェラーさん」溜め息をもらして、ジョン・スモーカー氏は言った。
「まったく、おっそろしいこってすな!」サムは答えた。
「だが、そういったもんなんですよ」ジョン・スモーカー氏は言った。「もし運命の手で公共生活と公共的立場に立つようなことになると、ほかの人たちが解放されてる誘惑を受けるのを、覚悟しなけりゃなりませんからね、ウェラーさん」
「公共の仕事についたとき、そいつはまさに、叔父貴の言ってたことでしたよ」サムは言った、「そして、あの老紳士の言ってたとおりでしたよ。彼は酒を飲んで、三か月もしないうちに死んじまいましたからね」
ジョン・スモーカー氏は、彼自身と問題の死んだ紳士が多少なりとも似ているといった言葉に、ひどく憤慨しているふうだったが、サムの顔はじつに平静そのもの、ケロリとしたものだったので、彼は思いなおし、また愛想のいい態度にかえった。
「もう出発したほうが、たぶん、いいでしょうな」深い懐中時計用のポケットの底にあった銅製の時計を、べつの端に銅の鍵のついた黒いひもで引っぱりだして見ながら、スモーカー氏は言った。
「たぶん、そうでしょうな」サムは答えた。さもないと、連中は夜会をやりすぎ、そいつを台なしにしてしまいますからな」
「鉱泉水は飲みましたかね、ウェラーさん?」大通りに向けて歩いてゆきながら、スモーカー氏はたずねた。
「一度だけね」サムは答えた。
「それをどう思いましたかね?」
「特別感じのわるいもんと思いましたよ」サムは答えた。
「ああ」ジョン・スモーカー氏は言った、「あんたは、おそらくキリビート(シルヴァイト(sylvite)カリ岩塩のなまりであろう)の味がお気に召さないんでしょうね?」
「そんなことはよくわかりませんがね」サムは言った、「熱くなったアイロンのにおいがとてもしてますな」
「それはキリビートですよ[#「ですよ」に傍点]、ウェラーさん」軽蔑したふうにジョン・スモーカー氏は言った。
「うん、たとえそうだとしても、その言葉は、なんだかひどくわけのわからんもんというだけのこってすな」サムは言った。「そうかもしれませんがね、こちらは化学のほうがそんなに明るくはないんで、なんとも言えませんよ」ここで、ジョン・スモーカー氏がひどくふるえあがったことに、サム・ウェラーは口笛を吹きはじめた。
「失礼ですが、ウェラーさん」このあまりお上品とは言えぬ音を苦にして、ジョン・スモーカー氏は言った、「わたしの腕をおとりになりませんかね?」
「ありがとう、ご親切さま。だけど、あんたの腕を借りるようなことはしたくありませんな」サムは答えた。「それがあんたにとって同じことなら、わたしは両手をポケットにつっこむ癖をもっててね」こう言いながら、サムはその言葉を行動にうつし、前よりずっともっと大きく口笛を吹き鳴らした。
「こちらですよ」裏道にまがってはいっていったとき、はっきりとてもほっとしたようすを見せて、彼の新しい友人は言った。「もうすぐそこへゆきますよ」
「そうですかね?」バースの召使いたちの上流社交界に近づいたことを知らされても、まったくケロリとして、サムは答えた。
「そうですよ」ジョン・スモーカー氏は言った。「心配することはありませんよ、ウェラーさん」
「おお、心配なんてするもんですかね」サムは答えた。
「とてもきれいな制服をいくつか見るでしょうよ、ウェラーさん」ジョン・スモーカー氏はつづけた。「そして、たぶん、一部の紳士方は最初ちょっとお高くとまってるかもしれませんけどね、すぐに機嫌がよくなりますよ」
「それはありがたいこと」サムは答えた。
「で、いいですか」保護してやるぞといったえらそうな顔をして、ジョン・スモーカー氏はつづけた、「いいですか、あんたは新入りなんですからね、彼らは最初そうとうあんたにきつく当たるでしょうな」
「とてもむごい仕打ちはしないんでしょうな、どうです?」サムはたずねた。
「いや、いや」狐の頭のついたかぎタバコ入れを引っぱりだし、紳士らしくそれをひとつまみして、ジョン・スモーカー氏は答えた。「われわれの中には妙なやつが何人かいましてな、彼らはからかうようなことをするかもしれませんがね、それは気にしないこってす、気にしないこってす」
「そんなすごい一撃には、なんとかがんばるようにやってみますよ」サムは答えた。
「その意気、その意気」狐の頭をあげ、自分の頭もあげて、ジョン・スモーカー氏は言った。「わたしはあんたの援助をしてあげますからな」
このときまでにふたりは小さな八百屋の店に着き、そこにジョン・スモーカー氏ははいってゆき、サムがそのあとにつづいた。サムは、ジョン・スモーカー氏のうしろにまわると、じつにあからさまなはっきりとしたニヤニヤ笑いをはじめ、心の中でとてもおもしろがっているといったほかのじつにうらやましいしぐさを示していた。
八百屋の店をつっきり、その背後にある小さな廊下のところの階段にそれぞれの帽子をおいて、ふたりは小さな客間にはいっていったが、ここで、そのすばらしい場景のすべてが、ウェラー氏の視界にどっととびこんできた。
ふたつのテーブルが客間の中央でつなぎ合わされ、それは洗濯の時期がそれぞれずれている布でおおわれていたが、その場としてとりつくろえるかぎり、そのずれは目立たないようにならべられてあった。このうえに、六人か八人用のナイフとフォークがならべられてあった。ナイフの柄の一部は緑、他は赤、黄色のものもわずかだがあった。フォークはぜんぶ黒だったので、色彩の配合はすばらしいものだった。来客に合わせた数の皿は、炉格子のうしろで温められ、その前では客自身が身を温めていた。こうした客の長でもっとも重要そうな人物は、ながい尾のついた明るい真紅の上衣、目にもはっきりとした赤いズボンと三角帽子をつけたやや太り気味の紳士で、彼は背を炉に向けて立ち、彼がたったいまここにやってきたことは明らかだった。三角帽を頭に乗せているばかりか、彼のような職業の紳士が馬車の屋根の上にいつも傾斜させておいてある高い大きなステッキがまだ手ににぎられていたからである。
「やあ、スモーカー、きみの手を」三角帽の紳士は言った。
スモーカー氏は右手の小指のいちばん上の関節を三角帽の紳士のそれにはめこみ、こんな元気な姿を見て、とてもうれしい、と言った。
「うん、かなり元気そうだと、みんな言ってくれてるんだがね」三角帽の男は言った、「これは驚きでもあるのさ。この十四日間、毎日二時間、奥さんのおともをしててね。あのいまいましい藤色の古ガウンのうしろをホックと留め金でとめてるあの奥さんのようすを年がら年中拝んでて、だれでも一生がっくりしちまうほど気落ちしなかったら、三か月分の俸給はとめられてもかまわんよ」
これを聞いて、ここに集まった上流社会の人々はとても陽気に笑い、馬車の飾りつけのへりをつけた黄色いチョッキ姿のある紳士は、となりの緑の金箔のついたズボンをはいた男に、今晩タックルは元気だね、とささやいた。
「ところで」タックル氏は言った、「おい、スモーカー、きみは――」のこりの言葉はひそひそ話でジョン・スモーカー氏の耳に伝えられた。
「あっ、これは大変、すっかり忘れてたぞ」ジョン・スモーカー氏は言った。「みなさん、わが友ウェラーさんです」
「火にあたらさなくってわるかったね、ウェラー」なれなれしくうなずいて、タックル氏は言った。「寒くはないだろうね、ウェラー」
「ちっとも寒くはありませんよ、火の玉君」サムは答えた。「あんたが前に立ってるとき、寒くなんかなったら、ずいぶん冷えたもんというとこでしょうな。お役所できみを炉格子の向こうにおいたら、石炭の節約になるとこなんですがね、まったく」
この切りかえしはタックル氏の真紅の仕着せにたいする当てつけのように思われたので、この紳士は数秒間威厳のこもったふうをしていたが、だんだんと炉からはなれて、むりにつくり笑いをニヤリとし、これはなかなかいける、と言った。
「そうほめてもらって、大いに感謝しますよ」サムは答えた。「たぶん、だんだん調子が合ってくるでしょうよ。いずれすぐ、もっとましなやつをやってみることになるでしょうからね」
この会話がここまで進んだとき、大きな靴下をはいた紫の服の紳士をともなった、オレンジ色のフラシ天の服の紳士の到着によって、それはさえぎられた。この新しく来た客がみなから歓迎の言葉を受けたのち、タックル氏は食事を運びこませたらどうだろうと言いだし、この動議は異議なく通過した。
八百屋とその妻は、ついで、ふうちょうぼく[#「ふうちょうぼく」に傍点]のつぼみの酢づけで味つけをしたソース、かぶら[#「かぶら」に傍点]、じゃがいも[#「じゃがいも」に傍点]のついた煮たてのポッポとした羊肉の脚をテーブルの上にならべた。タックル氏が上座につき、テーブルのべつの端にはオレンジ色のフラシ天を着た紳士が座をしめた。八百屋は皿をわたすために鹿皮の手袋をはめ、タックル氏の椅子の背後に立った。
「ハリス」命令調でタックル氏は言った。
「はい」八百屋は答えた。
「手袋はつけたかね」
「はい」
「じゃ、おおいをはずしてくれ」
「はい」
八百屋はいかにもおそれ入ったふうをして命じられたとおりにし、へいこらして切り盛り用大型肉切りナイフをタックル氏にわたしたが、それをしながら、うっかりあくびをしてしまった。
「それは、どういうことなのだね、きみ?」ピリッとしたきびしさで、タックル氏はたずねた。
「これは失礼しました」がっくりした八百屋は答えた、「そんなつもりはなかったんですが、きのうの晩、えらく夜ふかしをしてしまったんで……」
「きみのことをわたしがどう思ってるか、ひとつ教えてやろうか、ハリス」じつに感銘的な態度でタックル氏は言った、「きみは野卑な獣だぞ」
「みなさん」ハリスは言った、「どうかわたしに手きびしく当たらないでください。みなさんのご|贔屓《ひいき》を受け、給仕の手助けが必要なときには、ご推薦を受けて、みなさん、わたしはとてもありがたいと思ってるんです。みなさんにご満足していただけたらと思ってます」
「いや、満足なんかしてないぞ」タックル氏は言った。「とんでもないことだ」
「われわれはきみを不注意な悪党と思ってるよ」オレンジ色のフラシ天の服を着ている紳士は言った。
「そして、低級な泥棒とね」青味をおびた金箔付きのズボンをはいた紳士がつけ加えた。
「そして、どうにもしようのない悪人とね」紫色の服を着た紳士がつけ加えた。
じつにわずかな横暴ぶりの真精神を発揮して、こうしたささやかな言葉が彼に投げつけられているあいだ、あわれにも八百屋はすっかり恐縮して頭をさげ、みながそれぞれの優越性を示すなにか言葉を言い終わったとき、タックル氏は羊肉の脚を切り、盛りわけをしはじめた。
この晩のこの重要な業務がはじまったかはじまらないかに、ドアはパッと開かれ、鉛のボタンをつけた明るい青の服を着たもうひとりの紳士が姿をあらわした。
「規則違反だ」タックル氏は言った。「おそすぎる、おそすぎる」
「いや、いや、まったくどうにも仕方がなかったんです」青い服の紳士は言った。「みなさんにおねがいします。婦人にたいしての慇懃な行為で、劇場での約束だったんです」
「おお、そうだろうともね」オレンジ色のフラシ天を着た紳士は言った。
「そうなんですよ。本当に、輝く名誉にかけてね」青服の男は言った。「十時半にいちばん下の娘をつれにいくって、約束したんです。あの娘は世にもまれなとてもいい|娘《こ》でしてね、だから、本当に、彼女をがっかりさせたくはなかったんです。みなさんにどうという気はなかったんですが、女、ねえ、女というやつはどうにもならんもんでしてね」
「なんだかそっちのほうがくさくなりはじめたぞ」新しく来た客がサムのとなりに坐ったとき、タックル氏は言った。「車の乗り降りするとき、あの女がきみの肩にひどくよりかかってると、いままでも一度か二度、言ってたんだがね」
「おお、本当に、本当に、タックル、そんなことを言っちゃいけませんよ」青服の男は言った。「それはひどいこと。彼女はすばらしい女、はっきりした理由もなく、一、二の結婚申し込みの話も断わったと、一、二の友だちには話したかもしれませんよ。でも――だめ、だめ、だめ、じっさい、タックル――人前もあるじゃないですか――いかんこってすよ――そんなことはいけません、微妙なこってすからな、微妙な!」そして青服の男は、ネッカーチーフを立て、上衣の袖口をきちんとなおして、それ以上のことがまだある、言おうと思えば言えるのだが、体面上それを公表しないだけのことといったふうに、うなずき、眉をよせていた。
青服の男は薄青い髪をした、猪首をした、ゆったりとのびのびした召使いで、ふんぞりかえって歩き、生意気な顔つきをし、最初からウェラー氏の特別な注意をひいている人物だったが、こうしてその姿をあらわしてくると、サムは前にもましてこの男と親しくなりたくなった。そこで、例のおかまいなしの態度で、すぐに話をはじめた。
「きみの健康を祝って一杯やりましょう」サムは言った。「あんたの話、気に入りましたな。なかなかおもしろいもんですよ」
これを聞いて、青服の男は、そうした挨拶には馴れきってるといったようすで、ニヤリとしたが、それと同時に、好意的なまなざしをサムに投げ、もっとお近づきになりたいもの、お世辞ぬきで、あんたはとてもよい男の素質は十分もち、自分には打ってつけの人らしいから、と答えた。
「いや、ありがとう」サムは言った。「あんたって、まったく運のいい人ですね!」
「というのは、どういうことです!」青服の男はたずねた。
「その若いご婦人のこってすよ」サムは答えた。「彼女には目がありますな、まったく。ああ、わかってますよ!」ウェラー氏は片目を閉じ、頭を横にふったが、それは、青服の紳士の誇りやかな気持ちをとても満足させるものだった。
「あんたは抜け目のない人らしいですな、ウェラーさん」青服の男は言った。
「いや、いや」サムは言った。「その点はぜんぶ、あんたにおまかせしますよ。そいつはわたしよりあんた向きのこってすからな、気のくるった牡牛が小道をふっとんできたとき、庭のうまいほうの側に逃げた紳士がまちがった側に逃げた男に言ったようにね」
「うん、うん、ウェラーさん」青服の紳士は言った、「彼女はわたしの風采・態度がわかったんでしょうよ、ウェラーさん」
「まあ、そういったとこでしょうな」サムは答えた。
「そういったかわいいものを、あんたはおもちですかね?」チョッキのポケットからつまようじをとって、青服の女もてする紳士はたずねた。
「もってるとはっきり言えたもんでもありませんな」サムは答えた。「わたしの主人の家には娘といったものがいなくてね。そうじゃなかったら、もちろん、だれかに話はつけたでしょうがね。いまのまんまじゃ、女侯爵以下の者とはだめですな。爵位なんかなしの、大金持ちの若い女に猛烈に言いよられたら、それと付き合うかもしれないけど、そうじゃなかったら、まずだめですね」
「もちろん、そうですとも、ウェラーさん」青服の紳士は言った、「面倒なことはいやですからな。そして、ウェラーさん、世の中をよく知ってるわれわれは[#「われわれは」に傍点]――りっぱな制服というものは、おそかれ早かれ、女心をとらえるもんだ、ということを心得てるんです。事実、ここだけの話ですが、それがあるからこそ、つとめ奉公のしがいもあるといったもんなんですからね」
「まさにそのとおり」サムは言った。「もちろん、そうですとも」
この打ち明け話がここまで進んだとき、コップが配られ、紳士たちはみな、酒場が閉まる前に、それぞれ好みの酒を注文した。この一座の中心的しゃれ者になっていた青い服の紳士とオレンジ色の服を着た男は、「水割りの冷たいシラブ」(レモンなどに砂糖やラム酒を入れた飲料)を注文したが、ほかの連中はあまい水割りジンが好みのようだった。サムは八百屋を「ひどい悪党」と呼び、大きな入れ物に入れたポンスを注文したが、このふたつのことは、ここにいる上流階級の連中にひどく彼を高く買わせるものになったらしかった。
「みなさん」最高のしゃれ者ぶりを発揮した態度で、青服の男は言った、「みなさんにご婦人をおわけしましょう。さあ」
「ヒヤ、ヒヤ!」サムは言った、「若いかあちゃんだよ」
ここで大声の「違法!」(議会で議事規則違反をとりしまれという議長への抗議)という声がかかり、ジョン・スモーカー氏は、ウェラー氏をこの一座に紹介した責任者として、彼がたったいま使った言葉は議会的ではない、と彼に知らせた。
「それはどんな言葉でしたっけね?」サムはたずねた。
「かあちゃんですよ」おそろしい渋面をして、ジョン・スモーカー氏は言った。「そんな区別は、ここでは認められてないんですからな」
「ああ、よくわかりましたよ」サムは言った。「じゃ、その言葉をなおし、火の玉君が許してくれたら、かわいい女の子とでも呼びましょうや」
議長を「火の玉君」と呼んで合法的なものかどうかということについて、青味をおびた金箔付きのズボンの紳士の心に多少の疑念はあったようだったが、みなが議長のことは気にしていないふうだったので、この問題はもちだされなかった。三角帽の男は息づかいを荒くし、ながいことサムをにらみつけていたが、逆に自分がひどい目にあってはと思いなおし、なにも言わないほうが得策とたしかに考えていたようだった。
ちょっと沈黙がつづいたあとで、刺繍した上着が足のかかとのところまでとどき、同じたぐいのチョッキを着て、脚の半分を温かくしている紳士が激しい勢いで水割りジンをかきまわし、力をふりしぼって突然立ちあがり、みなにちょっと一言申しあげたい、と言った。そこで三角帽をかぶった男は、ながい上衣を着た男が言いたいことはなんでも、みなはとてもよろこんで聞くにちがいない、と応じた。
「不幸にも自分は御者にすぎず、この気持ちのいい夜会に客員として招かれているにすぎないので」ながい上衣を着た男は言った、「こうしてお話をするのにも、みなさん、とても気おくれを感じてるわけなんです。しかし、わたしが知ることになった困った事情をお知らせするのは、みなさん、わたしのしなければならないことで――そんな表現を使ってもいいもんなら、切羽つまった立場に立たされたわけなんです。それは、わたしの毎日の考えの中で起こったものと言ってもいいでしょう。みなさん、われわれの友人ホウィファーズさんは(みなはオレンジ色の服を着た男をながめた)、われわれの友人ホウィファーズさんは辞職したんです」
聞いた者全員の顔にびっくりした表情が浮かんだ。それぞれの紳士は隣人の顔をのぞきこみ、それから目を立っている御者にうつしていった。
「みなさん、びっくりなさるのもむりからぬことです」御者は言った。「このとりかえしのつかぬ辞職の理由を、わたしはあえて申しあげますまい。しかし、彼を尊敬している友人たちの教化と模範のために、ホウィファーズさんご自身にそれを説明していただきたいと思います」
この提案は大声の賛成を受けたので、ホウィファーズ氏はその説明をした。彼は、自分がいま辞職した職務はもちつづけていたいものとたしかに思っただろう、と述べた。制服はとても豪華で金のかかったもの、一家の女性はすべて感じのいい人たち、自分の職務は、たしかに、重いものではない。自分に要求されている主な仕事は、これもまた辞職したべつの紳士といっしょに、玄関の広間の窓からできるだけ外を見張っていることだけだったからである。自分がいま言おうとしている苦しい、いまわしい話をみなさんにお聞かせしたくはないのだが、説明を要求された以上、思い切ってはっきりと、冷えた食事を食べろと要求された事実を申し述べるよりほかに方法はない、と彼は説明した。
この言明が聞き手の胸に呼び起こした嫌悪の情は、理解に困難なほどだった。怒りのうめきとしっという声にまじって、「ひどい仕打ちだ!」という大きな叫びが十五分間鳴りやまずにあげられていた。
このひどい仕打ちの一部は自分の遠慮っぽい順応性によるのではないかと思う、とホウィファーズ氏はそれから言いそえた。彼は自分が塩気の強いバターを食べるのを承諾し、そのうえ、家で急病人が出たときには、すっかり夢中になり、石炭入れを手にして三階までかけあがってしまったことを、はっきりおぼえていた。自分の欠点をこうして率直に認めても、自分の友人たちは自分を見くびるようなことはないと信じている、もし自分を見くびったとしても、いま言及した自分の感情にたいするこの最後のひどい仕打ちを怒って自分がどんなにすみやかに処置をとったかで、みなはまた自分を高く買ってくれるものと期待している、と述べた。
ホウィファーズ氏の演説は感嘆の叫びで応じられ、この興味ある殉教者のための乾杯がじつに熱狂的におこなわれた。これにたいして、殉教者は感謝の言葉を述べ、彼自身はまだ親しい間柄にはなっていないが、ジョン・スモーカー氏の友人であり――このことはどこのどんな上流社交界にも十分な推薦状になるものだが――きょうの来客であるウェラー氏のための乾杯を提案した。このために、友人たちがぶどう酒を飲んでいたら、ウェラー氏の健康をきちんとりっぱに祝って一杯乾杯したいところなのだが、彼らはいま気分転換に強い酒を飲み、乾杯ごとに大きな杯を飲みほすのは不都合のことと思われるので、そうした敬意の気持ちだけは理解してもらいたい、と話をした。
この演説がすむと、全員はサムに敬意をあらわして酒をチビリとひと飲みし、サムは自分に敬意をあらわして、ひしゃくでポンスをくみだして、それを二杯たっぷり飲みほし、要領のいい演説で礼の言葉を述べた。
「みなさん、このお招きをいただいて大いに感謝してます」じつにケロリとした落ち着き払った態度で、ポンスをひしゃくですくいながら、サムは言った、「こうした方々からそれをいただいただけに、なお感銘深いものなんです。団体としてあなた方のことはかねがね聞きおよんでましたが、ここでわかったような、こんなじつに世にも稀なりっぱな方々とは思ってもいなかったことを、ここに申しあげます。私が望むことといえばただ、あなた方がわが身のことをよく考え、その威厳を損ねることのないようにということだけです。これは、人が散歩に出たとき、目にはいるじつに魅力的なもの、わたしがそこにいる尊敬すべき友人、火の玉君の真鍮の頭のついたステッキの半分くらいの背の少年だったとき以来ずっと、ながめてとても楽しんでいたもんです。圧制の犠牲者になった硫黄の服(オレンジ色の服のこと)の知人についてわたしが言えることは、ただ、彼がその能力にふさわしいりっぱな職場を得るように期待するだけです。そうなったら、彼がまた夜会の冷たい料理でなやまされることは、まずまずないことになるでしょう」
ここで、サムは明るい微笑を浮かべて腰をおろし、彼の演説は大声の賞賛を受け、会はお開きになった。
「あれっ、まさかきみは帰るなんて言おうとしてるんじゃないのだろうね、きみ?」サム・ウェラーはその友人のジョン・スモーカー氏に言った。
「いや、本当に帰らにゃならんのだ」スモーカー氏は言った。「バンタムと約束したんでね」
「ああ、よくわかったよ」サムは言った。「そうなると話はべつだ。約束どおりにしなかったら、バンタムのほうで[#「バンタムのほうで」に傍点]、辞職するだろうからね。きみは帰るんじゃないんだろうね、火の玉君?」
「いいや、帰るよ」三角帽の男は言った。
「えっ、あとに盃に四分の三もポンスをのこしていくんだって!」サムは言った。「バカな! さあ、坐りたまえ」
こう誘惑されて、タックル氏はそれを受けずにはいられなくなった。彼はたったいまとりあげた三角帽とステッキをわきにおき、付き合いのために、もう一杯だけ飲もうと言った。
青い服の紳士の帰り道はタックル氏と同じ道だったので、彼ものこるように説得されてしまった。ポンスが半分ほど飲みほされたとき、サムは八百屋の店からかき[#「かき」に傍点]を注文し、ポンスとかき[#「かき」に傍点]ですっかり陽気になり、タックル氏は三角帽とステッキの盛装で、テーブルの上のかき[#「かき」に傍点]の殼の中で、かえるのホーンパイプ踊り(水夫間でおこなわれる活発な舞踏、もとホーンパイプを伴奏楽器としたが、演技者はかえるの恰好を示した)を踊り、青服の紳士はくしと毛巻き紙でつくった精巧な楽器でその伴奏をかなでていた。とうとう、ポンスはすっかり姿を消し、夜はもうすぐ姿を消そうというときになって、彼らはそこをとびだし、それぞれの家までの見送りをすることになった。
タックル氏は大気のもとに出るとすぐ、歩道と車道の境にあるへり石の上に横になりたいという欲望に急にとらわれ、サムはそれにさからっては気の毒と思ったので、彼に好きなようにさせた。三角帽をそこにおいておくとよごれるというわけで、サムは思いやり深くもそれを平らにして、青服の紳士の頭の上に乗せ、彼の手に大きなステッキをにぎらせ、彼自身の家の表の戸口に彼をよせかけ、ベルを鳴らしてから、静かに家に歩いていった。
翌朝、いつも起きるのよりずっと早い時刻に、ピクウィック氏はきちんとした服装をして階段をおりてき、ベルを鳴らした。
「サム」このベルに答えてウェラー氏が姿をあらわしたとき、ピクウィック氏は言った、「ドアを閉めておくれ」
ウェラー氏は言われたとおりにした。
「きのうの晩、不幸な事件がここで起きたのだ、サム」ピクウィック氏は言った、「それが、ダウラー氏からなにか暴行ざたを受けるのじゃないかとウィンクル氏に心配させることになってね」
「下でクラドックのおかみさんからそう聞いてます」サムは答えた。
「そして残念なことだが、サム」ひどく当惑した顔をして、ピクウィック氏はつづけた、「この暴行ざたをおそれて、ウィンクル氏は逃げてしまったのだ」
「逃げてしまったんですって!」サムは叫んだ。
「前もってわしになにも連絡もしないで、今朝早く家を出てしまったんだ」ピクウィック氏は答えた。「そして、どこかわからぬところに、姿をかくしたのだ」
「ここにのこって、最後まで戦いぬくべきだったんですがね」軽蔑したような調子でサムは言った。「あのダラウーをぶったおすのに、そう手間暇はかからんでしょうからね」
「うん、サム」ピクウィック氏は言った、「わしとしても、彼の勇気と決心には疑念をもってはいるよ。だが、それはともあれ、ウィンクル氏は姿を消してしまったんだ。彼を見つけねばならん、サム。見つけてつれもどさにゃならんのだ」
「そして、帰ろうとしなかったら?」サムはたずねた。
「むりにでもつれかえすんだ、サム」ピクウィック氏は答えた。
「だれがそれをするんです?」ニヤリとしてサムはたずねた。
「お前だよ」ピクウィック氏は答えた。
「よくわかりましたよ」
こう言ってウェラー氏は部屋を出てゆき、そのすぐあとで、街路の戸が閉まるのが聞こえた。二時間すると、まるでありきたりのつまらぬ仕事で使いに出されたときのような落ち着き払った態度で彼はもどって来て、あらゆる点でウィンクル氏と思われる人物が、その朝、ロイアル・ホテルから支線の駅伝馬車に乗ってブリストルにいったという情報をもってきた。
「サム」サムの手をにぎって、ピクウィック氏は言った、「お前はすばらしい男だ、じつに貴重な男だ。彼のあとを追ってくれ、サム」
「はい、わかりました」ウェラー氏は答えた。
「彼を見つけたらすぐ、わしに手紙を書いてくれ、サム」ピクウィック氏は言った。「もし彼が逃げだそうとしたら、彼をなぐり倒すか、閉じこめてしまうんだ。わしはその権限をお前に与えるぞ、サム」
「よく注意します」サムは答えた。
「彼に言ってくれ」ピクウィック氏は言った、「彼が正しいものと思っているじつにとてつもないやり方にたいして、わしがひどく興奮し、ひどく不快を感じ、ひどく憤慨しているとね」
「わかりました」サムは答えた。
「彼に言ってくれ」ピクウィック氏は言った、「もし彼がこの家にお前といっしょに帰らなかったら、わしといっしょに帰ることになるぞってね。わしは出かけて、彼をつれて帰るつもりなんだからね」
「そのことは申します」サムは答えた。
「彼を見つけられるとお前は思っているんだね、サム?」サムの顔をむきになってのぞきこんで、ピクウィック氏はたずねた。
「おお、どっかにいたら、きっとさがしだしますよ」自信満々、サムは答えた。
「よし、よし」ピクウィック氏は言った。「じゃ、早くいったほうが、それだけいいわけだ」
こうした命令を与えて、ピクウィック氏は忠実な召使いの手にある金額の金をわたし、逃亡者を追ってすぐブリストルに出発するように命じた。
サムはわずかな必要品をじゅうたん製のカバンの中に入れ、出発の準備はととのった。廊下の端までいったとき、彼は足をとめ、静かにもどってきて、頭を客間のドアのところにつっこんだ。
「旦那さま」サムはささやいた。
「なんだい、サム?」ピクウィック氏は答えた。
「旦那さまのご命令をわたしはちゃんと理解しているのでしょうね?」サムはたずねた。
「そうだと思うがね」ピクウィック氏は答えた。
「なぐり倒すことについて、きちんと了解はついてるんですね?」サムはたずねた。
「完全にね」ピクウィック氏は答えた。「すっかりついているよ。必要と思ったことをするがいい。お前はわしの命令を受けているのだからね」
サムはわかったとうなずき、戸口から頭をひっこめて、明るい気持ちになって、巡礼の途に出発した。
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第三十八章
[#3字下げ]ウィンクル氏はなべからとびだして、おとなしく気持ちよく火中にはいる
すでに申しあげたようにロイアル・|三日月《クレツセント》広場の住民を驚かせた異常な物音とさわぎの不幸な張本人となった紳士は、非常な狼狽と不安な一夜を明かしたあとで、彼の友人たちがまだ眠っている家をあとにして、自分でもゆく先のわからぬところにさまよいでた。ウィンクル氏にこの手段をとらせたりっぱな思いやりのある感情は、あまり高く評価し、熱烈に賞賛はできぬものだった。「もし」ウィンクル氏は心中考えた、「もしこのダウラーが(これはまちがいないことだが)わたしに危害を加えるというあの脅迫を実行にうつそうとしたら、こちらとしても、決闘の申しこみをしなければならなくなるだろう。彼には妻があり、その妻は彼に愛情をよせ、彼をたよりにしている。いやあ! わたしが怒りで盲目になってあの男を殺してしまったら、その後わたしはどんな気持ちを味わうことになるだろう!」この痛ましい考慮はやさしいこの青年の気持ちに強い刺激を与え、その結果、膝はガタガタとふるえ、その顔には心の苦痛がおそろしいほどあらわれてきた。こうした考えにつき動かされて、彼はじゅうたん製のカバンをとり、そっと階段を忍びおり、いまいましい表のドアをできるだけ静かに閉め、そこから歩き去っていった。足をロイアル・ホテルのほうに向けたとき、ちょうど駅伝馬車がブリストルに向けて出発するところ、ブリストルもほかの場所とおとらずゆくには恰好のところと考えたので、彼は御者台にのぼりこみ、日に二回か三回宿場宿場をとおってこの道を往復している二頭の馬が当然目的地に着くころに、目指すブリストルに到着した。
彼は『ブッシュ旅館』に宿をとり、ダウラー氏の怒りがある程度蒸発してしまうまで、ピクウィック氏との文通も断とうと考えて、市内見物に出かけたが、この町はいままで見たどの町より少し薄ぎたないように彼の目には映った。係船修理用の施設や船舶を視察し、大聖堂を見物したあとで、彼はクリフトンにゆく道をたずね、教えられた道を歩きはじめた。しかし、ブリストルの舗道は世界中でいちばんひろくも、きれいなものでもなく、その結果、街路は真っすぐでも簡単なものでもなかった。ウィンクル氏はそのねじれまがりにひどくとまどい、あたりを見まわして、手頃な店を見つけ、そこでまた道案内をたのもうとした。
彼の目は最近ペンキをぬられた家に向けられたが、それは新しく店と住宅兼用のものにつくり変えられた家で、以前には通りに面した部屋だったところの窓の上の板張りに金文字で「医院」の文字が書かれていなくとも、表の戸の扇窓の上につきだしている赤ランプが十分にそこが医者の家であることを物語っていた。ここがものをたずねるのに好ましい場所と考えて、ウィンクル氏は金色の札がはられたひきだしとびんがならべられてある小さな店にはいってゆき、だれもそこにいないのを見て、半クラウン銀貨で勘定台をコツコツとたたき、裏の部屋にいるかもしれない人の注意をひこうとした。この裏の部屋は、戸にくりかえして医院と書いてあるところから――この場合は、単調さをさけるために、白ペンキで書かれてあった――この建物のいちばん奥の特別な聖所と彼は判断していた。
最初のノックで、炉辺用具でフェンシングをしているといった、そのときまではっきり聞こえていた物音はパタリとやみ、二度目にノックをすると、いかにも勉強家といった感じの緑の眼鏡をかけた若い男が、手にとても大きな本をもって、すべるようにして静かに店に姿をあらわし、勘定台のうしろに歩いていって、なにかご用でしょうか、とたずねた。
「ご面倒をおかけしてすみませんが」ウィンクル氏は言った、「道を教えていただきたく――」
「はっ! はっ! はっ!」勉強家といった感じの若い紳士は大笑いし、その大きな本を空中に投げあげ、本が間一髪で勘定台の上のすべてのびんを|木端微塵《こつぱみじん》にしようとするところでじつにたくみにそれを受けとめた。「こいつは驚いたぞ!」
たしかに、これは驚いたことだった。ウィンクル氏はこの医者の異常なふるまいにすっかり肝をつぶし、われ知らず戸口のほうに身を引き、この奇妙な応対ぶりにひどくとまどっているふうだった。
「あれっ、きみにはぼくがわからないんですかね?」医者はたずねた。
ウィンクル氏はそれに答えて、まだお会いした光栄に浴したことがないので、とつぶやいた。
「うん、それなら」医師は言った、「まだ希望の糸はぼくにのこってるわけだ。運がまあ向いてきたら、ブリストルのお婆さん連の半分は世話を見ることができるかもしれないんだからね。出てゆけ、このかびくさい老いぼれの悪党め、出てゆけ!」例の大きな本に向けて発せられたこの言葉といっしょに、医師はすごいすばやさで本を店の隅のほうに蹴っとばし、緑の眼鏡をとると、ラント通りに下宿していた以前のバラのガイ病院の医学生ロバート・ソーヤー氏が彼のあのニヤリとした笑いを投げた。
「きっとぼくを怨んでいたんだろうね!」親しみをこめてウィンクル氏と握手をしながら、ボッブ・ソーヤー氏は言った。
「本当に、怨んでなんかはいませんでしたよ」握手の手を強くにぎりかえして、ウィンクル氏は答えた。
「ぼくの名前に気づかなかったんじゃないかな」表のドアに友人の注意を向けて、ボッブ・ソーヤー氏は言ったが、そこには、同じ白のペンキで、「以前のノックモーフ、ソーヤー」の文字が書かれてあった。
「あれにはぜんぜん気がつきませんでしたよ」ウィンクル氏は答えた。
「まったく、きみがだれかを知ってたら、とびだしてって、腕にきみをだいたとこなんだがね」ボッブ・ソーヤー氏は言った。「だが、本当に、ぼくはきみのことを収税吏と思ってたのさ」
「とんでもない!」ウィンクル氏は言った。
「まったく、そう考えてたのさ」ボッブ・ソーヤー氏は答えた、「そして、家にはいないって言おうとも思ってたんだが、きみが伝言をのこしてったら、ぼくは確実にそれを自分自身に伝えることになっただろう。収税吏はぼくを知らず、街灯と舗装道路係りもぼくを知らんのだからね。教会維持税係りはぼくがだれかを見当つけてるだろう。水道税係りもそうだろうと思うな、ここにはじめてやってきたとき、その歯をぬいてやったことがあるんだからな。だが、さあ、おはいりなさい、おはいりなさい!」こんなふうにしゃべり立てて、ボッブ・ソーヤー氏はウィンクル氏を裏の部屋におしこんだが、そこでは、赤く熱した火かき棒で炉づくりに小さなまるい穴をあけるのに打ち興じて、ほかならぬベンジャミン・アレン氏が坐っていた。
「いやあ!」ウィンクル氏は言った。「これは、まったく、思いもかけない楽しいこと。ここの家はほんとに気持ちのいいとこですね!」
「まあ、かなり、まあ、かなりといったとこでね」ボッブ・ソーヤー氏は答えた。「あの大変な会のすぐあとで試験にパスしてね、友人たちがこの商売に必要なものをもってきてくれたのさ。そこでぼくは黒い服と眼鏡を着用におよんで、できるだけいかめしいふうをして、ここに来たわけさ」
「そして、きっと不自由のない気分のいい商売をしてるんでしょうね?」さとり顔をして、ウィンクル氏は言った。
「とてもね」ボッブ・ソーヤー氏は答えた。「とても不自由のない生活で、数年もしたら利益はぜんぶぶどう酒のコップの中に注ぎこみ、その上にぺんぺん草でも生えるこってしょうよ」
「まさか?」ウィンクル氏は言った。「仕入れ品だけだって――」
「見せかけだけのものさ」ボッブ・ソーヤー氏は言った。「引き出し半分は空っぽ、のこりの半分は開かなくってね」
「バカな!」ウィンクル氏は叫んだ。
「まったくの事実――名誉にかけてもね!」店のほうに出てゆき、見せかけの引き出しの上についた金箔を張った小さな取っ手をいくつか引っぱって見せて、自分の言葉に嘘いつわりないことを証明して、ボッブ・ソーヤー氏はやりかえした。「ひる[#「ひる」に傍点]以外に店にあるもので、本物はまずないね、そのひるも[#「そのひるも」に傍点]セコハンのものでね」
「そんなことなんて、考えられないことですね!」ひどくびっくりして、ウィンクル氏は叫んだ。
「そうでありゃいいんですがね」ボッブ・ソーヤー氏は答えた、「そうでなけりゃ、外見をつくったって、どんな意味もないでしょう、えっ? だが、なにを飲みますかね? われわれと同じにしますか? わかりましたよ。ベン、たのむ、戸棚に手をつっこんで、特許の温浸器(蒸してやわらかにする器具)をとりだしてくれないか?」
ベンジャミン・アレン氏はニヤリと笑って、それにすぐ応ずる態勢を示し、彼の肘のところにあったおし入れから、半分ブランデーがはいっているびんをもちだした。
「もちろん、水はいらんでしょうね?」ボッブ・ソーヤー氏はたずねた。
「ありがとう」ウィンクル氏は答えた。「でも、まだずいぶん早いでしょう。よろしかったら、それを薄めたいもんですな」
「かまいませんよ、それで気がすむもんならね」ボッブ・ソーヤー氏は答え、こう言いながら、いかにもうまそうに、一杯ぐっとあおった。「ベン、どびんをたのむよ!」
ベンジャミン・アレン氏は、同じかくし場所から、小さな真鍮の容器を引っぱりだし、とくにそれがいかにもお医者様ふうなものに見えるので、これは自慢のものなのだ、とボッブ・ソーヤー氏は言った。このお医者様ふうな容器の中の水は、やがて「ソーダ水」とはり紙がはってある実用的な窓下腰かけから少しずつとりだされた石炭で沸騰してきたので、ウィンクル氏はそれで自分のブランデーを薄め、会話の話題がだんだんとひろまっていったとき、少年がひとり店の中にはいってきて、その話をとぎらせることになった。この少年は地味な灰色の仕着せを着こみ、金モールのついた帽子をかぶり、わきにおおいをした小さな籠をかかえていたが、ボッブ・ソーヤー氏はすぐにこの少年に声をかけた、「トム、この浮浪者め、ここに来い」
少年は、そこで、部屋にはいってきた。
「お前はブリストルの柱という柱に足をとめていたんだろう、このなまけ者のちび悪党め!」ボッブ・ソーヤー氏は言った。
「ちがいますよ、そんなことはしてませんよ」少年は答えた。
「せんほうがいいぞ!」おそろしい顔つきをして、ボッブ・ソーヤー氏は言った。「やとってる少年がみぞのとこでおはじき遊びをしたり、馬のとおる道で靴下どめとばしなんかやってるのを見たら、だれがそいつの主人の医者をたのもうと思うかね? この下卑たやつめ、お前は自分自身の職業意識をもってないのか? 薬はぜんぶおいてきたかね?」
「ええ」
「新しい家族のいる大きな家の子供のための粉薬、脚が中風にかかってる機嫌のわるい老紳士が一日四回飲む丸薬は?」
「配りましたよ」
「じゃ、ドアを閉め、店のことに精を出すんだ」
「ねえ」少年が引きさがっていったとき、ウィンクル氏は言った、「事情は、あんたがわたしに信じさせようと思っているほど、そんなにわるくもないようですね。配達する薬が、いくらかは[#「いくらかは」に傍点]あるんじゃないですか」
ボッブ・ソーヤー氏は店をのぞきこんで、だれもよその者が聞いていないのをたしかめてから、ウィンクル氏のほうに身をかがめ、声をひそめて言った――
「それをぜんぶ、見当ちがいの家においてきてるんだよ」
ウィンクル氏は目を白黒させ、ボッブ・ソーヤー氏と彼の友人は声を立てて笑った。
「わからんのですかね?」ボッブは言った。「あの子供は家にいき、地下勝手口の呼びりんを鳴らし、召使いの手に宛名のない薬のつつみをつっこみ、出てきてしまうんです。召使いはそれを食堂にもっていき、主人はそれを開き、はり紙を読むわけなんです。「就寝時間に服用すべき水薬一回分――前どおりの丸薬――いつもの外用水薬――散薬、以前のノックモーフ、ソーヤー店より。医師の処方箋は周到に調合」等々といったあんばい。それは奥さんに示され――奥さんは[#「奥さんは」に傍点]はり札を読み、それが召使いたちにさげられ――彼らは[#「彼らは」に傍点]はり札を読む。つぎの日、子供がやってきて、『とても申しわけありません――あやまりでした――仕事がたくさんあり――たくさんのつつみを配らなければならず――ソーヤーさんからよろしくとのこと――以前のノックモーフさんからね』と言うのさ、名前はひろまり、それが、きみ、薬屋商売での要領というやつさ。まったく、きみ、そいつはどんな広告よりもっと効果的だよ。四オンスの薬びんをブリストルじゅうの家の半分に出したんだが、まだすっかりは終わってないよ」
「いやっ、これは! わかりましたよ」ウィンクル氏は言った。「じつに巧妙な計画ですな!」
「おお、ベンとぼくは、こうした計画はうんともっててね」大満悦のボッブ・ソーヤー氏は答えた。「点灯夫(むかし街路上のガス灯に点火するため、夕方町を走って歩いた)は、まわってくるたびごとに、十分間ここの夜のベルを鳴らして、週十八ペンスかせいでいるし、教会で人があたりを見まわす以外になにもすることのない讃美歌のちょうど前に、子供がかけこんでいって、顔に恐怖と狼狽の色を浮かべて、ぼくを呼ぶんだ。『いやあ!』みんなは言うね、『だれかが急病にかかって、以前のノックモーフ、ソーヤーが呼ばれているんだ! あの若い男はすごい商売をしてるな!』ってね」
売薬の秘訣の一部はこうして披露され、それが終わると、ボッブ・ソーヤー氏と彼の友人のベン・アレン氏は、それぞれの椅子で身をうしろに投げ出し、大声で笑いだした。こうして思いきりこの冗談を楽しんだあとで、話題はウィンクル氏がもっと直接に関心をもっているものにうつっていった。
ベンジャミン・アレン氏がブランデーを飲んだあとで感傷的になる癖をもっていることは、もうすでにどこかでお知らせしたものと思う。われわれでも、たまには、同じ苦しみを味わっている患者に出逢ってわかっているように、こうした患者はべつに特別なものではない。この場合に、ベンジャミン・アレン氏は、たぶん、いままでにないほど泣き上戸になる傾向を強くもっていたのであろう。この病気の原因は、簡単に以下のようなものだった。彼はボッブ・ソーヤー氏の家にほぼ三週間滞在していたが、ボッブ・ソーヤー氏は禁酒で有名な人物ではなく、ベンジャミン・アレン氏は酒のとても強い人として有名な人物ではなかった。その結果は、この三週間の全期間をとおして、ベンジャミン・アレン氏は部分的な酩酊と完全な酩酊のあいだをよろめきつづけていたのだった。
「きみ」前にも言ったセコハンのひる[#「ひる」に傍点]の一部を売るために、ボッブ・ソーヤー氏が勘定台のうしろにはいっていった不在の隙を利用して、ベン・アレン氏は言った、「きみ、ぼくはとても悲しいんだよ」
ウィンクル氏はそれを聞いて、心からお気の毒に思う、と述べ、この苦しんでいる医学生の悲しみをやわらげるために、自分がなにかできるだろうか? とたずねた。
「だめだ、きみ、だめなんだ」ベンは言った。「きみはアラベラを憶えているかい、ウィンクル? ウォードルの家にわれわれがいたときの――ぼくの妹のアラベラ――ウィンクル、黒い目をした小娘を? きみが彼女に気がついたかどうかはわからんがね、かわいい小娘なんだよ、ウィンクル。たぶん、ぼくの顔を見れば、きみも彼女の顔を思い出してくれると思うがね?」
あの美しいアラベラを思い出すのに、ウィンクル氏はなんの援助の必要もなかった。そうであったことは、むしろ幸運なことと言えよう。というのも、彼女の兄のベンジャミンの顔は、たしかに、ウィンクル氏の記憶をそうはっきりと呼びさますものではなかったからである。彼は、できるだけ冷静をよそおって、自分はその若い婦人のことはよく憶えている、きっとお元気なのでしょうね? と答えた。
「われわれの友人のボッブはいい男だよ、ウィンクル」ベン・アレン氏はただそう答えただけだった。
「とてもね」ウィンクル氏は答えたが、アラベラとボッブの名がこうして近くにならべられたことは、彼にとって、そうぞっとしたものでもなかった。
「ぼくはふたりのおたがいのために計画したんだ。ふたりはおたがいのためにつくられ、おたがいのためにこの世に送り出され、おたがいのために生まれたんだよ、ウィンクル」力をこめてコップを下において、ベン・アレン氏は言った。「ねえ、これは、特別の運命で決められていることなんだ。ふたりのあいだにはたった五年のちがいしかなく、ふたりの誕生日はともに八月なんだ」
ウィンクル氏としては、それから先の話を聞こうとする気がとても強くなっていたので、驚くべきものではあるにせよ、このすごい偶然の一致にそう強い驚きを示してはいられなかった。そこで、ベン・アレン氏は、涙をちょっと流したあとで、語りつづけ、彼の友人にたいする心の底からの敬意にもかかわらず、アラベラは不可解・不実にもこの友人の風采にたいするじつにはっきりとした反感を示していることを伝えた。
「ぼくは考えてるんだが」結論としてベン・アレン氏は言った、「ぼくは[#「ぼくは」に傍点]考えてるんだが、彼女にはだれか好きな男がいるらしいのだ」
「その愛情の相手がだれか、見当がついているのですか?」体をひどくふるわせて、ウィンクル氏はたずねた。
ベン・アレン氏は火かき棒をつかみ、戦闘でもするようにそれを頭上にふりかざし、想像上の頭蓋骨に激しい一撃を食らわせ、その結びとして、じつに意味深なふうに、見当がつけばいいのだが、と言っただけだった。
「そいつをぼくがどう思ってるか、見せてやるとこなんだがね」こう言って、前よりもっと激しい勢いで、火かき棒がふりまわされた。
こうしたことすべては、もちろん、ウィンクル氏の気持ちを安らかにしてくれるもので、彼は数分間ジッとだまっていたが、とうとう勇気をふるいおこして、アレン嬢がケント州にいるのかどうかとたずねた。
「いや、いや」火かき棒をわきにおき、とても抜け目のない顔つきをして、ベン・アレン氏は言った。「ウォードルの家は、あんな気ままな娘には適当な場所じゃないと考えてね。両親は死んだんで、当然ぼくが彼女の保護者であり後見人でもあるわけ。彼女をこの近くにつれてきて、退屈な人目につかない閑静な場所にいる老人の叔母のところで、何か月か暮らさせるつもりなんだ。それで、きっと彼女も気分を変えるだろうよ。もしそれでだめなら、彼女をしばらくのあいだ海外につれてゆき、その結果を見るつもりさ」
「おお、その叔母さんのお家はブリストルにあるのですか、えっ?」ウィンクル氏はどもりながらたずねた。
「いや、いや、ブリストルじゃないんだ」右の肩越しに親指をつき出して、ベン・アレン氏は答えた、「あの道の向こう、あっちなんだ。だが、しっ、ボッブが来た。どうかなにも言わないで、なにも言わないで」
この話のやりとりは短いものであったが、それは、ウィンクル氏の心に、最高の興奮と不安をひきおこした。だれか好きな人がいるらしいということが、彼の心をひどく苦しめた。自分がその対象なのだろうか? 美しいアラベラが元気者のボッブ・ソーヤー氏を軽蔑してながめているとは、自分のためなのだろうか? それとも、みごと彼女の心を射とめた恋仇がいるのだろうか? どんなことになっても、彼女と会ってみよう、と彼は決心した。だが、ここで越えがたい障害が姿をあらわしてきた。「あの道の向こう」や「あっち」というベン・アレン氏の説明が、三マイルはなれたものか、三十マイルはなれたものか、また三百マイルはなれたものか、彼にはとんと見当がつかなかったからである。
だが、そのとき、自分の愛情について考えている暇は、ウィンクル氏にはなかった。ボッブ・ソーヤー氏がもどってくるとすぐ、パン屋から肉入りパイが到着し、それを食べてゆけと彼が強くすすめたからである。ときおりやってくる雑役婦が食卓の準備をし、彼女はボッブ・ソーヤー氏の家政婦として世話を焼いてくれ、三本目のナイフとフォークは灰色の仕着せを着た少年の母親から借用(それというのも、ソーヤー氏の家事的なやりくりは窮屈なものだったから)、三人は晩餐の席につき、ビールは、ソーヤー氏の言葉を借りて言えば、「土地のしろめ[#「しろめ」に傍点]製の器物」で出されていた。
夕食後、ボッブ・ソーヤー氏は店でいちばん大きな乳鉢をもってこさせ、その中で湯気の立っている大コップ一杯分のラム酒のポンスをつくりはじめ、じつにあざやかな薬剤師的な手ぶりを示して乳棒で材料をかきまわし、つきまぜていた。ソーヤー氏は、独り者なので、コップはひとつしかもたず、それは客人にたいする礼儀として、ウィンクル氏に与えられ、ベン・アレン氏は細い穴にキルクをつめた|漏斗《ろうと》を支給され、ボッブ・ソーヤー氏は処方箋で薬をつくるとき薬屋が水薬を計るのにいつも使うふしぎな文字の書きこまれているあの口びろのガラスの容器で満足していた。こうした準備ができて、ポンスは味見をされ、うまい味だと判決を受け、ボッブ・ソーヤー氏とベン・アレン氏はウィンクル氏の一度にたいして二度酒をついで飲んでもよいということになって、一同は大満悦、友好的な気分につつまれて、気持ちよく酒を飲みはじめた。
歌は歌われなかった。ボッブ・ソーヤー氏が、商売上それはまずいだろう、と言ったからである。だが、その穴埋めに、大いに語り大いに笑ったので、それは通りの端で聞こえたろうし、その可能性は十分にあった。この会話はとても時間の歩みを明るくし、ボッブ・ソーヤー氏のやとっている少年の心を啓発した。彼はいつものとおり勘定台に自分の名前を書きこんだり消したりして宵の時間つぶしをするかわりに、ガラス戸越しに中をのぞきこみ、こうして聞くのとながめる動作を同時におこなっていたからである。
ボッブ・ソーヤー氏の陽気さは、酒がまわるにつれて、どんどんと狂暴なものになり、ベン・アレン氏はズンズンと感傷的気分にもどりはじめ、ポンスがほとんど姿を消しそうになっていたとき、少年が急いでかけこんでき、ある若い婦人がやってきて、以前のノックモーフ、ソーヤー氏にすぐ通りふたつへだてたところに来て欲しいと言っている、と伝えた。これで会はお開きになった。ボッブ・ソーヤー氏は、二十回ほどその伝言がくりかえされたあとで、ようやくそれを理解し、酔いをさますためにぬらした布を頭にしばりつけ、それが少し効果をあらわしはじめると、緑の眼鏡をかけて、とびだしていった。彼が帰ってくるまでいろというすすめをしりぞけ、心にいちばんひっかかっている問題でもほかのことでも、ベン・アレン氏とわけのわかった話をするのはもうだめと考えて、ウィンクル氏は別れを告げ、『ブッシュ旅館』にもどっていった。
心にまといついていた不安の情、それにアラベラがひきおこしたさまざまの考えのために、乳鉢の中のポンスを飲んでも、彼はふだんほど酔わないでいた。そこで、酒場でソーダ水で割ったブランデーを一杯飲んでから、この晩のさまざまな事件で元気が出たというよりがっくりして、彼は喫茶室にはいっていった。
この部屋にいたほかの人物といえば、大外套を着こんだ背のやや高い紳士だけで、彼は炉の前に背をウィンクル氏に向けて坐っていた。その晩は季節にしては肌寒く、この紳士は自分の椅子をわきによせて、いまはいってきた人を炉にあたらせようとした。そうしながら、彼があの復讐心の強い殺伐なダウラーの顔と姿を示したとき、ウィンクル氏の心中はどんなものだったろう!
ウィンクル氏の最初の衝動は手近なベルの取っ手を激しく引っぱることだったが、それは不運にもダウラー氏の頭のすぐうしろにあった。彼はそちらに向けて一歩歩みだしたが、そこで足をとめてしまった。彼がこうしたことをやっていたとき、ダウラー氏はすごくあわてて身を引いた。
「ウィンクルさん。どうか静かにして、わたしを打ったりはしないでください。そいつは我慢なりませんからな。一撃ですって! 絶対だめです!」ダウラー氏は言ったが、そのようすは、ウィンクル氏がこうした狂暴な紳士に期待していたよりずっとおだやかなものだった。
「一撃ですって?」ウィンクル氏はどもりながらたずねた。
「一撃です」ダウラー氏は答えた。「どうか気持ちを静めてください。坐って、わたしの言うことを聞いてください」
「ねえ」頭の天辺から爪先までふるえながら、ウィンクル氏は言った、「給仕がいないところで、あなたのわきなり正面なりに坐るとすれば、その前にある了解を得、身の安全を確保しなければなりませんよ。きのうの晩、あなたはぼくにたいして脅迫、ひどい脅迫をしたのですからね」ここでウィンクル氏は本当に真っ青になり、話を途切らせてしまった。
「そうでした」ウィンクル氏と同じくらい顔を真っ青にして、ダウラー氏は言った、「事情はいかにもうさんくさいものでしたからね。しかし、その説明はもうすみました。あなたの勇敢さには敬意を表します。あなたのお気持ちはじつにりっぱなもの、意識的潔白というものです。さあ、この手と握手をしてください」
「本当に」手を出すべきかどうか躊躇し、手を出したらそれに乗ぜられはせぬかと心配しながら、ウィンクル氏は言った、「本当に、ぼくは――」
「あなたの言おうとしておいでのことは、よくわかります」ダウラー氏は口をはさんだ。「あなたはご不満なのでしょう。きわめて当然のこと。わたしだってそう思うでしょう。わたしがわるかったんです。許してください。仲よしになって、わたしを許してください」こう言って、ダウラー氏はしゃにむに手をウィンクル氏におしつけ、ウィンクル氏の手をものすごくふりまわし、あなたはじつに不屈の勇気の持ち主、前にもましてあなたを好きになった、と宣言した。
「さあ」ダウラー氏は言った、「坐って、話をぜんぶしてください。どんなふうにして、あなたはわたしを見つけだしたんです? いつ跡をつけてきたんです? ありていに、わたしに話してください」
「まったく偶然のことですよ」話が妙な思いがけないものになってきたのにひどく狼狽して、ウィンクル氏は答えた、「まったくの偶然です」
「そいつはありがたいこと」ダウラー氏は言った。「わたしは今朝目をさまし、自分の脅迫のことはすっかり忘れ、あの事件のことを笑いとばしていたんです。友好的な気持ちになってね。じっさい、そう言ってたんですよ」
「だれにです?」ウィンクル氏はたずねた。
「家内にですよ。『あなたは誓ってたわよ』と家内は言いました。『そうだ』とわたしは答えたんです。『あれは軽率な誓いだったことね』と彼女は言い、わたしは『そうだった、おわびを言うつもりなんだが、彼はどこにいるんだろう?』と答えたんですよ」
「彼ってだれのことです?」ウィンクル氏はたずねた。
「あなたのことですよ」ダウラー氏は答えた。「わたしは下におりていったんですが、あなたの姿は見当たりませんでした。ピクウィック氏は陰気な顔をし、頭をふり、暴力ざたが起きねばいいが、と言ってました。わたしにはすべてがわかったんです。あなたは身に恥を受けたと感じ、出かけていったんです。たぶん介添え人の友人をさがすためにね。たぶん、ピストルを手に入れるためにね。『すごい勇気だ、感服するな』とわたしは言ったんです」
ウィンクル氏は咳払いをし、形勢がだんだんとわかりだして、いかにももったいぶった態度をとりはじめた。
「あなた宛に手紙をのこしてきましたよ」ダウラー氏はつづけた。「わたしは、申しわけない、とそこに書いたんです。じっさい、申しわけないと思ったんですからね。さし迫った用件があって、わたしはここに来たんです。あなたは気分が晴れず、わたしのあとをつけ、口頭の説明を要求されたのです。ごむりのないことです。これで万事けりがつきましたな。わたしの用事はすみました。明日もどるつもり。わたしといっしょに帰ってください」
ダウラー氏の説明が進むにつれて、ウィンクル氏の顔の威厳は増大していった。ふたりのあいだではじまった神秘的な話がどんなものかは、これで説明された。ダウラー氏は、ウィンクル氏自身と同様、決闘には反対だった。簡単に言えば、どなりちらしていたおそろしいこの人物は、じつにひどい臆病者、自分自身の恐怖の尺度でウィンクル氏の不在に解釈をくだし、ウィンクル氏と同じ方法をとり、すべての興奮が静まるまで、慎重に身をかくしたのだった。
実情がウィンクル氏にわかってくるにつれ、彼はじつにおそろしい態度をとり、よく納得したとは言ったものの、そう言いながらも、それと同時に、もし自分が納得しなかったら、じつにおそろしく破壊的ななにか事件がどうしても起こったろうとしかダウラー氏には思えぬ態度を示した。ダウラー氏はウィンクル氏の寛大と親切を身にしみて感じているようだった。そしてふたりの闘士は、変わらぬ友情の誓いを何回かかわしたあとで、それぞれ寝所に引きあげていった。
十二時半ごろ、寝入りばな二十分ほどしたとき、部屋のドアを激しくたたく音でウィンクル氏の眠りは突然破られ、それは激しさをまして何回かくりかえされたので、彼は床でパッととびおき、そこにいるのはだれだ、どうしたのだ、とたずねた。
「失礼ですが、すぐお会いしなければならないと言ってる若い人が来てるんです」下女の声が答えた。
「若い人だって!」ウィンクル氏は叫んだ。
「そいつはもうまちがいないこってすよ」鍵穴をとおしてべつの声が答えた。「もしそのとてもおもしろい若い|者《もん》がすぐ入れてもらえなかったら、その脚のほうが顔より先にとびこんでゆくかもしれませんよ」その言葉に力をそえ、ピリッとさせるためといったように、こう話してから、その若い男はドアの下の羽目板をちょっと蹴っとばした。
「きみか、サム?」寝台からとび出して、ウィンクル氏はたずねた。
「顔をみなけりゃ、どんな紳士でもだれかははっきりわからんもんですよ」その声は独断的に言った。
ウィンクル氏はこの若い男がだれかだいたい見当がついたので、ドアの錠をはずしたが、それをするかしないかに、サミュエル・ウェラー氏がすごい勢いでとびこみ、注意深く内側からドアに錠をおろし、ゆっくりと鍵をチョッキのポケットにおさめてしまった。そして、頭の天辺から足の爪先までウィンクル氏をジロジロとながめたあとで、こう言った――
「あなたはじつにおもしろい青年紳士ですねえ、まったく!」
「このふるまいはどういうことなのだ、サム?」腹立たしげにウィンクル氏はたずねた。「きみ、すぐ出たまえ。これはどういうことなのだ?」
「どういうことですって?」サムはやりかえした。「さあ、こいつは、ちょっとひどすぎるこってすよ、中に脂肉しかはいってない豚肉パイを売りつけられた若いご婦人がパン屋に言ったようにね。どういうことですって! うん、そいつはなかなかおもしろいおもしろいぞ」
「ドアの錠を開け、すぐにこの部屋を出てゆきたまえ」ウィンクル氏は言った。
「あなたがこの部屋を出たらすぐ、わたしもこの部屋を出てゆきますよ」力のこもった調子でサムは答え、いかにも重々しい態度で坐りこんだ。「背に乗せてあんたを運びださなけりゃならんことになったら、もちろん、あんたよりほんのちょっと前に部屋を出ることになるでしょうがね。だが、わたしに極端な手段をとらせるようなことはしないでください。こいつは、食用巻き貝がピンでは殼から出ようとせず、その居間のドアをぶち破らなけりゃならない破目になったとき、ある貴族が言った言葉の引用なんですがね」彼にしては異常なくらいながいこのセリフが終わったとき、ウェラー氏は手を膝に乗せ、適当にあしらわれるのは絶対許さぬという意志を示した顔つきをして、ウィンクル氏の顔をまともににらみつけた。
「あんたはやさしい気持ちをもった青年ですね」お説教でもしているような調子で、ウェラー氏はつづけた、「われわれのりっぱな旦那が主義主張でどんなことでも我慢してやりぬこうと決心してるとき、あの人にいろんな心配をかけることを、あんたはまさかしはしないでしょうな。あんたはドッドソンよりもっとずっと|性《たち》のわるい男、フォッグだって、あんたにくらべたら、生まれながらの天使と言えますぞ!」ウェラー氏はこの最後の意見を述べたとき、膝を強くたたいてその伴奏をかなで、ひどい嫌悪の情を浮かべて腕組みをし、罪人の弁解を待つといった態度で、椅子に身をのけぞりかえらせた。
「ねえ、きみ」手をさしだしてウィンクル氏は言ったが、彼が話しているあいだ中、歯はガタガタと鳴っていた。ウェラー氏のお説教中ずっと、寝巻き姿で彼は立ちつづけていたからである。「きみ、ぼくのりっぱな友人にたいするきみの愛情には敬意を表し、彼の心配を増大させたことは、とても残念に思っているよ。さあ、サム、さあ!」
「そう」そうとう不機嫌に、しかし、それと同時に、敬意をこめてさしだされた手をにぎって、サムは言った、「そう、あんたは残念に思うべきだし、そうなのを知って、わたしもとてもうれしいですよ。というのも、わたしでできることだったら、あの旦那がひっかけられるようなことはさせませんからね、それだけは言っときますよ」
「もちろん、そうさ、サム」ウィンクル氏は言った。「さあ! もう寝るんだ、サム、そして明日の朝、このことについてもっと話をすることにしよう」
「とてもわるいですけどね」サムは言った、「わたしは寝られないんです」
「寝られないだって!」ウィンクル氏はおうむがえしに言った。
「そうです」頭をふって、サムは言った、「できませんよ」
「今晩帰るんだなんぞと、まさか、きみは言うのではないのだろうね、サム?」ひどくびっくりして、ウィンクル氏はたずねた。
「あなたがとくに望まなかったらね」サムは答えた。「だが、わたしはこの部屋を出られないんです。旦那の命令は絶対のものでしたからね」
「バカな、サム」ウィンクル氏は言った、「ぼくは二、三日ここに滞在しなけりゃならないんだ。そのうえ、サム、きみもここにいてもらわにゃ困るよ、ある若いご婦人――きみも知ってるだろう、アレン嬢――となんとかして会うことで、きみに助けてもらわなければならんのでね――彼女とは、ぼくがブリストルを去るまでに、会わにゃならんし、会うつもりなんだ」
だが、こうした提案にたいして、サムは断固として頭をふり、力をこめて答えた、「それはできません」
しかし、ウィンクル氏のほうで大いに論じ立てて言葉をつくし、ダウラー氏との会見で起きたことを十分話したあとで、サムはぐらつきはじめ、とうとう妥協案が成立したが、その主要な条件はつぎのようなものだった。
サムが外からドアに鍵をかけ、鍵をもってゆくという条件づきで、彼は引きしりぞき、ウィンクル氏が自分の部屋をだれにも邪魔されずに独占することを許す。ただし、出火、あるいは、そのほかの危険な事態が起きたさいには、ドアの鍵はすぐはずされるという条件づきだった。翌朝早くピクウィック氏に手紙を書き、すでに述べた目的・意図のためにサムとウィンクル氏がブリストルにとどまることを求め、つぎの駅伝馬車でその返事をもらうように要求し、それはダウラー氏によってピクウィック氏のもとにとどけられ、その要求が承認された場合には、ふたりはのこり、もし許されない場合には、返信を受けとりしだい、すぐバースにもどること。そして、最後に、そのあいだ、窓、炉、その他秘密の逃亡手段に訴えぬことをウィンクル氏がはっきり誓約ずみと了解さるべきこと。こうした条件が結ばれて、サムはドアに鍵をかけ、立ち去っていった。
彼がまだ下におりないうちに、彼は足をとめ、鍵をポケットから引っぱりだした。
「ぶっ倒すことをすっかり忘れてたぞ」なかばもどりかけて、サムは言った。「それをしなければいけないと、旦那はたしかに言ってたんだ。まったく間抜けだったな、これは! まあ、いいや」顔を明るくして、サムは言った、「とにかく、明日の朝だってそれはすぐやれるからな」
この考えですっかり気が楽になって、ウェラー氏はポケットに鍵をもどし、これ以上良心に新しくなやまされることもなく、のこりの階段をおりてゆき、間もなく、この家のほかの住人と同じように、ぐっすり寝こんでしまった。
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C.ディケンズ (Charles Dickens)
(一八一二――一八七〇)イギリスを代表する作家の一人。法律事務所勤務、新聞の通信員などを経て作家の道に入る。『ディヴィッド・コッパーフィールド』『二都物語』『オリヴァー・トゥイスト』『クリスマス・キャロル』など多数の名作がある。
北川悌二(きたがわ・ていじ)
(一九一四――一九八四)東京に生まれる。東京大学卒業。東京大学教授を経て独協大学教授。訳書に『クリスマス・キャロル』他、ディケンズの作品多数がある。
本作品は一九七一年一一月、三笠書房より刊行され、一九九〇年三月、ちくま文庫に収録された。