ピクウィック・クラブ(下)
C.ディケンズ/北川悌二 訳
目 次
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第三十九章 サミュエル・ウェラー氏は恋の任務を授けられ、その実行にとりかかる。その成果如何は、そのあとで示される
第四十章  フリート監獄にはいったとき、ピクウィック氏の身に起きたこと。どんな囚人をそこに見たか、最初の夜をいかにして送ったかの話
第四十一章 フリート監獄にはいったとき、ピクウィック氏の身に起きたこと。どんな囚人をそこに見たか、最初の夜をいかにして送ったかの話
第四十二章 前章と同様、逆境は人を妙な同室者とまじわらせるという古くからのことわざを示す。サミュエル・ウェラー氏にたいするピクウィック氏のとてつもない驚くべき言葉を伝える
第四十三章 サミュエル・ウェラー氏が苦境に立ついきさつ
第四十四章 フリート監獄で起きたさまざまの小事件、ウィンクル氏のなぞめいた態度をあつかい、あわれな大法院の囚人が釈放されたいきさつを示す
第四十五章 サミュエル・ウェラー氏と一族のあいだの感動的な会見を描写。ピクウィック氏は自分の住む小世界を巡遊し、将来それとできるだけ交際せぬことを決心する
第四十六章 やさしい思いやりある心の感動的な行為を語るが、ドッドソンとフォッグ両氏によっておこなわれたおもしろいことも、そこにまじえられている
第四十七章 主として事務的なことがらとドッドソンとフォッグの一時的な有利さを語る。ウィンクル氏は、じつに途方もない事情のもとで、その姿をふたたびあらわす。ピクウィック氏の慈悲がその頑固さより強いことがわかる
第四十八章 ピクウィック氏が、サミュエル・ウェラーの援助を得て、ベンジャミン・アレン氏の心をやわらげ、ロバート・ソーヤー氏の怒りを静めようとしたいきさつ
第四十九章 旅商人の叔父の話
第五十章  ピクウィック氏がその任務にとびだし、出発のさいに、思いもかけぬ補助者に助けられること
第五十一章 ピクウィック氏はむかしの知人に奇遇、この幸運な事情により、権力あり威力のあるふたりの公人に関するじつにおもしろい話が読者に伝えられる
第五十二章 ウェラー一族における重大な変化と赤っ鼻のスティギンズ氏のときならぬ没落を述べる
第五十三章 ジングル氏とジョッブ・トロッターの最後の退場。グレイ・イン広場のすばらしい朝の取引きをふくみ、パーカー氏の事務所の戸口での二重のノック音で終わりとなる
第五十四章 二重のノックに関するある細かな話とほかのことがら。その中で、スノッドグラース氏と若い婦人に関するおもしろい話は、この物語には決して筋ちがいのものとは言えない
第五十五章 ソロモン・ペル氏が、御者の選りぬきの委員たちに助けられて、父親ウェラー氏の財産を整理する
第五十六章 ピクウィック氏とサミュエル・ウェラーのあいだに重要な会議がおこなわれ、彼の父親がそれを助ける。かぎタバコ色の服を着た老紳士が思いがけずも到着する
第五十七章 ピクウィック・クラブは最終的に解散し、すべてのことはすべての人が満足いくように終結する
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ピクウィック・クラブ(下)
THE POSTHUMOUS PAPERS OF THE PICKWICK CLUB
第三十九章
[#3字下げ]サミュエル・ウェラー氏は恋の任務を授けられ、その実行にとりかかる。その成果如何は、そのあとで示される
つぎの日一日中、サムは大本営から発せられたはっきりとした訓令があるまでは、一瞬たりともウィンクル氏から目をはなすまいと固く決心して、ウィンクル氏をしっかりと見守っていた。ウィンクル氏にとってサムのきびしい監視と厳重な警戒がどんなに不愉快なものであったにせよ、あらあらしく抵抗して力ずくでつれ去られる危険をおかすより、それを我慢しているほうが賢明に思えた。力ずくでもつれ去るのが、任務を強く身に感じていたら、当然すべき筋合いのものであると、ウェラー氏は何回か強くほのめかしていたからである。ダウラー氏がとどけるのを引き受けた手紙にたいするピクウィック氏の即刻の手配がそれを阻止しなかったら、サムが手足をふんじばってウィンクル氏をバースにつれてゆき、自分の気のとがめをさっさと静めてしまっただろうということを疑うべき筋はほとんどない。簡単に言えば、夕方八時に、ピクウィック氏は『ブッシュ旅館』の喫茶室にはいってゆき、ニッコリと笑いかけて、お前はりっぱにやってくれた、これ以上の監視をつづける必要はない、とサムに告げ、彼をほっとさせたのだった。
「自身で来るほうがいいと思ってね」サムに大外套と旅行用のショールをぬがせてもらったとき、ピクウィック氏はウィンクル氏に言った。「それに、このことでサムを使うのを承諾する前に、この若いご婦人に関してきみが本当に真剣なのかどうかをたしかめる必要があったしね」
「心の底から――魂の底から、真剣ですよ」すごく力をこめて、ウィンクル氏は答えた。
「いいかい」晴れやかな目をして、ピクウィック氏は言った、「われわれが彼女に会ったのは、あのりっぱな親切な友人の家なのだよ、ウィンクル。この問題をいい加減に軽々しくあつかい、あの若いご婦人の愛情をきちんと考えてあげなかったら、それは恩知らずの行為になるのだ。そんなことは、わしは許さん、絶対に許しませんぞ」
「そんなつもりは、本当に、ありません」ウィンクル氏は熱をおびて叫んだ。「わたしは、このことを、ながいあいだよく考えました。そして、わたしの幸福は彼女に結びつけられていると感じているのです」
「そいつは、いわゆる、小さな荷物に結びあげるというやつですな」感じよくニヤリとして、ウェラー氏は口をはさんだ。
この邪魔にウィンクル氏はそうとうきびしい顔をし、ピクウィック氏はいかにも腹立たしげに、人間のもつもっとも美しい感情をからかいものにしてはいけない、と従者をたしなめたが、これにたいしてサムは「そいつがわかってたら、そんなことはしないんですが、なにしろそいつは、どこにでもうんとみつかるものなんで、その話を聞いても、どれがいちばん美しいもんかはわからないんでねえ」と答えた。
ウィンクル氏はそれから、アラベラに関して自分とベン・アレン氏のあいだに起きたことを語り、自分の目的はアラベラになんとかして会い、自分の愛情を正式に伝えることにあると述べ、ベンのそれとないほのめかしとつぶやきによれば、どこに彼女が閉じこめられていようと、それはダウンズ(イングランドの南部および南東部地方の低い丘陵地帯)のどこかにちがいないものと見こんでいることを伝えた。そして、以上がこの問題に関する彼の知識・思惑のすべてだった。
このわずかな手がかりをもとにして、翌朝ウェラー氏が捜索にのりだし、そうしたことに自信のないピクウィック氏とウィンクル氏は、そのあいだに町を歩きまわり、その日のうちにボッブ・ソーヤー氏のところにちょっと立ちより、アラベラの所在を多少なりともさぐることになった。
そこで、翌朝、見とおしがとても暗いのに少しも気おくれせずに、サム・ウェラー氏は捜索にとびだし、この道をのぼったかと思うとあの道をくだり――この岡をのぼったかと思うとあの岡をくだりと言おうとしていたのだが、クリフトンではのぼり坂ばかり――結局、この問題にほんのわずかでも光を投げるどんなもの、どんな人にも会えず|終《じま》いになってしまった。何回かサムは、道路で馬と散歩している馬丁、小道で子供と散歩している乳母と話しこんでみたが、うまくもちこんだ質問の目的に少しでも関係のあることを、馬丁からも乳母からも引きだすことができなかった。たくさんの屋敷にはおびただしい数の若い婦人がいて、その大部分は、だれか男に深い愛情をよせているもの、あるいは、チャンスがありさえすれば、そうしたふうになる態勢は十分なものと、家の男女の使用人たちによって、抜け目なく推測されていた。しかし、こうした若い婦人のだれもアラベラ・アレン嬢ではなかったので、そうした情報は、サムの知識を一歩でも進めるものにはならなかった。
サムはそうとう強い風をまともに受けて、この地方ではいつも両手で帽子を抑えていなければならないのかなと考えながら、このダウンズ地方を苦労して歩きまわり、人里はなれた気配のする静かな何軒かの小さな別荘が散在している木陰の多い地区にやってきた。大通りからはなれたながい裏の小道をゆきつめたところにある馬小屋の戸の外で、ふだん着を着た馬丁が、くわと手押し車でなにかしているんだと自分では思いこんで、ブラブラしていた。ついでながら、馬小屋の近くでブラブラしているたいていの馬丁は、多かれ少なかれ、こうした幻想の犠牲者になっている、とここで申し述べてもいいだろう。
サムは、歩きまわってとてもつかれ、手押し車の真向かいに手頃な大きな石があったので、この馬丁に話すのがとても好都合と考えた。そこで、彼は小道をブラリブラリと歩いてゆき、彼の特徴になっているあの屈託なさと楽な気分で、話をはじめた。
「やあ、お早う」サムは言った。
「お早うではおそすぎるだろう、もう午後なんだからな」ムッと不機嫌な顔をサムに投げて、馬丁は答えた。
「そのとおりだね」サムは言った。「お早うじゃなかったよ。ご機嫌はどうだね?」
「いやあ、お前さんと会ったからといって、べつに気分はよくならないね」不機嫌な馬丁は答えた。
「そいつはじつに妙なこったね――そいつは」サムは言った、「きみはとても陽気に、まったく元気に見えるんで、きみの顔を見たら、こっちの気分もよくなるといったほどなんだからね」
不機嫌な馬丁は、これを聞いてさらに不機嫌になったが、サムは、それにたいしてはケロリとしたもの、いかにも心配そうな顔をして彼の主人の名前はウォーカーというのではないかとたずねた。
「いや、そうじゃあないよ」馬丁は答えた。
「ブラウンでもないだろうな?」サムはたずねた。
「いや、そうじゃないな」
「ウィルソンでもね?」
「うん、それでもないな」馬丁は答えた。
「うん」サムは答えた、「じゃ、おれの勘ちがい、きみのご主人はおれと知り合いと思ってたんだが、その光栄に浴していないわけだね。おれに気兼ねして、そこにいなくてもいいよ」馬丁が手押し車を中に入れ、門を閉めようとしたときに、サムは言った。「気兼ねより気楽が第一、きみにそれを許してやるよ」
「半クラウンでももらえたら、手前の首をふっとばしてやるんだがな」門の片面を閉め、さし錠を入れながら、不機嫌な馬丁は言った。
「そんなに安くこの首はわたせないよ」サムは言った。「そいつは少なくともお前さんにとって生涯の食事宿泊手当て(勤労の報酬として食事と宿泊を給すること)くらいの値打ちはあるもんだし、そのうえ、それでも安すぎるといったもんなんだからね。中のみなさんによろしく言っとくれ。おれのために夕食を待ってる必要はない、なにもとっておく必要はないって、伝えておくれ、おれがくるまでに、そいつは冷えちまうだろうからね」
これに応えて、馬丁は大いにむくれ、だれかをやっつけてやりたいもんだとつぶやき、しかし、それを実行にうつさずに、腹立たしげにドアをピシャンと閉め、立ち去る前に髪を一房のこしておいてくれよというサムの愛情こもった言葉には、耳もかさないでいた。
サムは大きな石の上に坐りつづけ、どうしたらいちばんいいだろうかと考え、一日百五十軒か二百軒をたばにして、ブリストルから五マイル以内のすべての家の戸口をたたき、その方法でアラベラ嬢を見つけだそうかといった計画を心で思いめぐらしているとき、突然ある事件が起きて、彼がそこに一年坐りつづけていても、この事件がなかったら、とても発見はできなかったろうと思われるものにぶつかることになった。
彼が坐っていた小道に、二、三軒の家の庭の門が開いていた。そうした家は、それぞれはなれてはいたものの、庭つづきのものだった。この庭は大きくてながく、木がたくさん植えられていたので、家がある程度はなれていたばかりではなく、そのほとんどが視界からかくされていた。サムは馬丁が姿を消した門のとなりの門の外にあった塵の山の上に目をすえ、自分の現在の仕事の困難を心の中で深く考えながら坐っていたが、そのとき、門が開き、女の召使いが小道に出てきて、何枚かの寝台わきのじゅうたんのほこりを払おうとした。
サムは自分自身の考えにすっかり心をうばわれていたので、彼女にはだれも助け手がなく、じゅうたんは女手ひとつではとても始末できぬほどに重いものであることに気づいて、女にたいする彼のやさしい気持ちがとても強くかき立てられなかったら、この若い女に特別の注意を払わず、ただ頭をあげて、こぎれいな姿をした女がいるなと言っただけだったろう。ウェラー氏は、彼なりのふうに、女にたいしてはとてもやさしい男だった。そこで、この事情に気づくやいなや、彼は急いで大きな石から立ちあがり、彼女のほうに進んでいった。
「ねえ、きみ」大いに敬意のこもった態度でそばにすっとよっていって、サムは言った、「あのじゅうたんのほこりをきみひとりだけで払ったりなどしたら、きみのとてもきれいな姿は台なしになっちまうよ。おれも手をかしてやろう」
男がそんなに近くにいるのを恥ずかしそうに気づかぬふりをしていたその若い女性は、サムが話しかけたとき、ふりかえったが――疑いもなく(じっさい、彼女はあとでそう言っていたのだが)まったくの赤の他人からのこの申し出を断わるために――そのとき、言葉を発するかわりに、なかばおし殺した悲鳴をあげた。サムもほとんど同じくらいびっくりしていた。それというのも、恰好のいい女の召使いの顔に、彼は自分の恋人、ナプキンズ氏の家からやってきたあの美しい女中のまさにあの目を見たからだった。
「いやあ、メアリーかい!」サムは叫んだ。
「まあ、ウェラーさん」メアリーは言った。「本当にあんたったら、人をびっくりさせることね!」
サムはこの文句にたいして言葉の上での返事をしなかったが、どんな答えを彼がした[#「した」に傍点]のかを正確に言うのは困難なことだった。われわれが知っていることといえば、少し間をおいたあとで、メアリーが「まあ、ウェラーさん、やめて!」と言ったこと、それよりちょっと前に、彼の帽子が頭から落ちたことだけだが、そうしたふたつの兆候から、ひとつのキスかそれ以上のものかが、このふたりのあいだでかわされたらしいと推測したくなるしだいである。
「まあ、あなたはどうしてここに来たの?」この邪魔の割りこんだ会話がふたたびつづけられたとき、メアリーはたずねた。
「もちろん、きみをさがしに来たのさ」このたびだけは、自分の情熱が真実より優位に立つのを許して、ウェラー氏は答えた。
「そして、わたしがここにいるのが、どうしてわかったの?」メアリーはたずねた。「わたしがイプスウィッチで仕事を変え、家の人がここに引っ越して来たのを、だれがあなたに話すことができたのかしら? だれがそんなことができた[#「できた」に傍点]の?」
「ああ、たしかに」抜け目ない顔をして、サムは言った。「そこが問題さ。だれがおれにそんなことを教えられたのかな?」
「マズルさんじゃないでしょうね、そうなの?」メアリーはたずねた。
「おお、ちがうさ」厳粛に頭をふって、サムは答えた、「彼じゃないよ」
「料理番の人にちがいないわ」メアリーは言った。
「もちろん、そうにちがいないさ」サムは答えた。
「そう、こんな話って、聞いたこともないことよ!」メアリーは叫んだ。
「おれもないね」サムは言った、「だが、メアリー」ここでサムの態度はとてもやさしさのこもったものになった、「メアリー、おれにはとてもさしせまったもうひとつの用件があるんだ。おれの旦那の友人のひとりにウィンクルさんていう人がいてね、きみはその人を知ってるはずだよ」
「緑の上衣を着た人かしら?」メアリーは言った。「おお、そう、その人なら知ってるわ」
「うん」サムは言った、「その人はおっそろしい恋愛状態にあってね。すっかりそれでやられて、いかれちまってるんだ」
「まあ!」メアリーは口をはさんだ。
「そうなんだ」サムは言った。「だが、もしわれわれが相手の若い女の人を見つけることができたら、そいつは消えちまうのさ」ここでサムは、メアリーの美しさや、この前わかれて以来彼が味わった口には言えぬ拷問の苦しみについていろいろと話をわき道にそらしながら、ウィンクル氏の現在の苦しい立場をありのまま語って聞かせた。
「そう」メアリーは言った、「そんな話、聞いたこともないわ!」
「もちろん、そうさ」サムは言った、「だれも聞いたことはなし、これからも聞くことはないだろうよ。そして、このアラベラ・アレン嬢をさがして、おれは、さまよえるユダヤ人よろしくの姿で歩きまわってるのさ――お前も聞いたことがあるだろうが、メアリー、大急ぎで試合をやり、少しも眠ることのないスポーツ狂の男のようにね」
「なに嬢ですって?」ひどくびっくりして、メアリーはたずねた。
「アラベラ・アレン嬢さ」サムは答えた。
「まあ、驚いた!」不機嫌な馬丁が錠をおろしてはいっていった庭の門をさして、メアリーは言った。「まあ、それは、あの家だことよ。その方は、この六週間、そこにいるのよ。ご夫人がかりの女中でもある女中頭の人が、ある朝、家の人がまだ起きてないと洗濯場のとがり杭の囲い越しに、そのことを話してたわ」
「えっ、きみのとなりの家だって?」サムはたずねた。
「そう、となりの家よ」メアリーは答えた。
ウェラー氏はこの情報を得てすっかり圧倒されてしまい、体を支えるために、この知らせを伝えてくれた美しいメアリーにすがりつかなければならなくなった。そしてさまざまなちょっとした愛の言葉がふたりのあいだでかわされてから、彼の心はすっかり落ち着き、もとの話題にかえれるようになった。
「うーん」とうとうサムは言った、「こいつはたしかに闘鶏を見るよりおもしろいこったぞ、晩餐のあとで、娘の健康を祝って総理大臣が乾杯と言ったとき、ロンドンの市長が言ったようにね。となりの家だって! いやあ、わたそうと一日中歩きまわってた彼女あての伝言があるんだからね」
「ああ」メアリーは言った、「だけど、それは、いまはだめよ。あの方が庭を歩くのは夕方だけど、それもほんの短い時間だけなの。老夫人といっしょでなくて外に出ることは、絶対になくてよ」
サムはちょっと考えこんでいたが、最後につぎの作戦計画が頭に浮かんだ。すなわち、薄暗くなったころ――アラベラがいつも散歩する時刻――にここにもどり、メアリーが住んでいる家の庭の中にメアリーに入れてもらい、人に見られぬように彼の姿をしっかりとかくしてくれる大きななし[#「なし」に傍点]の木のおおいかぶさっている枝の下のところで、壁をなんとかよじのぼり、そこで伝言をアラベラ嬢に伝え、できたら、つぎの晩の同じ時刻に、ウィンクル氏が彼女と会えるようにとりはからうことだった。大急ぎでこのとりきめをし、彼はメアリーに手をかして、ながくのばしていたじゅうたんの塵払いの仕事にとりかかった。
小さなじゅうたんのきれの塵を払うのは、一見したほどそんなに無邪気なものではない――少なくとも、塵を払うためにそれをふることには、たいして危害はないのだが、たたむのがなかなか油断ならぬことなのである。じゅうたんのきれをふっているのがつづき、ふたりがじゅうたんの距離だけはなされているかぎり、これは、このうえない無邪気な遊びである。だが、たたみこみがはじまり、ふたりのあいだの距離が前のながさの半分から四分の一になり、それから八分の一、それから十六分の一、もしじゅうたんがながいものだったら、それが三十二分の一になると、それは危険なものになる。この場合、いくつのじゅうたんがたたまれたかは、精密にはわかっていないが、そのきれ数だけ、サムがこの美しい女中にキスしたことは、たしかに申しあげることができる。
ウェラー氏は、あたりがほぼ暗くなるまでに、そこの近くの酒場でほどほどに腹ごしらえをしてから、大通りのはずれにある例の小道にもどっていった。メアリーに庭の中に入れられ、その婦人から自分の体に関するさまざまの注意を受けてから、サムはなし[#「なし」に傍点]の木にのぼってゆき、アラベラが目の前にあらわれるまで、待つことになった。
彼はとてもながいこと待っていたが、この待ちに待った事態は起こらず、もうだめとあきらめかけているとき、彼は砂利石の上に軽い足音を聞き、その後すぐ、思いに沈んで庭を歩いてくるアラベラの姿が目にはいってきた。彼女がほぼ木の下に来るとすぐ、サムは、自分の存在をおだやかに知らせるために、幼い子供の時代から炎症性の喉痛み、偽膜性喉頭炎、百日咳を結び合わせたものになやまさせている中年の人にはおそらく当然のことと思われるいろいろのおっそろしい音を立てはじめた。
これを聞いて、若い婦人はこのおそろしい音が発せられた場所にあわただしい目を投げ、枝の中に男の姿を見たとき、前のギクリとした気持ちは少しも軽くならず、運よく恐怖が彼女の動く力をうばい、たまたま都合よくそばにあった庭のベンチに彼女をがっくりと坐らせなかったら、彼女はきっとそこを逃げだし、家の者を驚かせたことだったろう。
「気が遠くなりそうになってるぞ」ひどくあわてて、サムは独り言を言った。「気が遠くなってはいけないときに、こうした若い女の人たちは気が遠くなろう[#「なろう」に傍点]とするんだが、これはいったい、どういうことなんだろうかな。さあ、若いご婦人、お|医者《ソーボーンズ》(ソーボーンズは医者の戯言)のお嬢さん、ウィンクルの奥さん、だめですよ!」
アラベラの元気を回復させたのが、ウィンクル氏の名前のもつ魔力か、あたりの空気が冷えていたためか、ウェラー氏の声を多少思い出したためか、それは問題でない。「どなた、そして、どんなご用事がおありなの?」
「しっ」体をふって壁に乗りうつり、そこでできるだけ体をかがませて、サムは言った、「お嬢さん、わたしですよ、ご存じのわたしなんですよ」
「ピクウィックさんの召使いの人ね」むきになって、アラベラは言った。
「そのとおりですよ、お嬢さん」サムは答えた。「ウィンクルさんは、もうまったく、絶望状態に落ちてるんですよ、お嬢さん」
「ああ!」壁のほうに近づいてきて、アラベラは言った。
「ああ、本当にね」サムは言った、「きのうの晩は、彼に狂人用拘束服でも着せなきゃならんかと思ったほどですよ。彼は一日中うわ言を言ってました。明日の晩が明けるまでにあなたに会えなかったら、川に身を投げるか、グデングデンに酔っ払ってしまいたいと言ってますよ」
「おお、いけません、いけません、ウェラーさん!」グッと手をにぎり合わせて、アラベラは言った。
「それが彼の言葉ですよ、お嬢さん」サムは答えた。「彼は言葉どおりに実行する人、わたしは彼がそれをすると思ってます。眼鏡をかけたあのお|医者《ソーボーンズ》さんから、彼はすっかりあなたの話を聞いてるんです」
「兄からですって!」サムの言葉からその意味を漠然とつかんで、アラベラは言った。
「どっちがあなたの兄さんかは知りませんけどね、お嬢さん」サムは答えた。「ふたりのうちできたないほうの人ですか?」
「そうよ、そうよ、ウェラーさん」アラベラは答えた、「話してちょうだい。どうか急いで」
「わかりました、お嬢さん」サムは言った、「ウィンクルさんはこのことについてすべてのことを彼から聞き、もしあなたが急いで彼と会ってくださらなかったら、われわれがいま話していたあのお|医者《ソーボーンズ》さんたちが彼の頭に余計な鉛のかたまりをぶちこみ、あとでそれをアルコール漬けにしても、とても体はもとにはかえらないだろう、とうちの旦那は考えてますよ」
「おお、そのおそろしい喧嘩をやめさせるのに、どうしたらいいのでしょう!」アラベラは叫んだ。
「こうしたことすべての原因は、だれかもう好きな人があなたにいるんじゃないかということなんです」サムは答えた。「ウィンクルさんと会ったほうがいいですよ、お嬢さん」
「だけど、どうして?――どこで?」アラベラは叫んだ。「ひとりでこの家は出られません。兄はひどく不親切、わけわからずなのよ! こんなふうにわたしが話をしたら、それがあなたの目にどんなに妙なものに映るかは知っていることよ、ウェラーさん。でも、わたし、とても、とても不幸なの――」ここであわれなアラベラはひどく泣きだし、サムはとても義侠的になった。
「こうしたことについてわたしが話すなんて、とても妙なものに映るかもしれませんがね、お嬢さん」すごい勢いでサムは言った、「でも、わたしの言えることといえば、ただ、事態をよいほうに向かわせるためには、どんなことでもやる気持ちがあるばかりでなく、それをよろこんでするっていうことだけです。あのふたりの医者のどっちかを窓から放りだして、それができるもんなら、わたしはそれをしますよ」サム・ウェラー氏がこれを言ったとき、それにすぐとりかかる用意のあるところを示そうとして、彼は袖口をグッとたくしあげ、それをしながら、危く壁から落ちそうになった。
こうした好意の表示はうれしいものではあったが、それを利用するのを(サムにはじつにわけのわからぬことに思えたのだが)アラベラははっきりと断わった。しばらくのあいだ、サムがじつに悲痛に求めつづけていた会見をウィンクル氏に許すのを彼女は強く拒否しつづけていたが、とうとう、この話が好ましからぬ第三者の到来によって断ち切られそうになったときになってはじめて、彼女は何回か感謝の言葉を述べ、つぎの晩、もう一時間おそい時刻に、ひょいとしたら庭に出られるかもしれない、とあわただしく彼に知らせた。サムはこれをきちんと理解し、アラベラは、このうえなくやさしい微笑を彼に投げて、しとやかに軽い足どりで歩き去ってゆき、ウェラー氏はあとにのこって、彼女の肉体的・精神的魅力にすごく打たれていた。
壁から無事におり、自分自身の同じ方面の仕事にわずかな時間を割くのを忘れず、それを忠実におこなってから、ウェラー氏は大急ぎで『ブッシュ旅館』にもどっていったが、そこでは、彼がながいこと姿をあらわさなかったために、いろいろな推測、多少の恐慌がまきおこされていた。
「用心しなければならんな」サムの話を注意深く聞いてから、ピクウィック氏は言った、「われわれ自身のためではなく、あの若いご婦人のためにね。われわれはとても慎重にやらねばならん」
「われわれ[#「われわれ」に傍点]ですって!」はっきりと力をこめて、ウィンクル氏は叫んだ。
この語調を耳にして一瞬あらわれたピクウィック氏の憤慨の表情は、つぎのように答えたとき、彼の特徴となっている慈愛の表情に変わっていった――
「われわれですぞ。わたしはきみといっしょにゆくのだからね」
「あなたがですって!」ウィンクル氏は言った。
「わたしがだよ」おだやかにピクウィック氏は答えた。「きみにこうして会うのを許すことによって、あの若いご婦人は、当然のこととはいえ、じつに無分別な手段をとったわけ。ふたりの父親にもなれる年配の友人であるわたしがその場に居合わせたら、今後彼女にたいして非難の声は絶対に立てられぬわけだからな」
こう言ったとき、ピクウィック氏の目は、自分の先見の明にたいする心からのよろこびで、光り輝いていた。ウィンクル氏は自分の若き女性の被保護者にたいするピクウィック氏の細かな思いやりのある敬意がこうしてちょっとあらわされたのに心を打たれ、ほとんど尊崇といってもよいほどの尊敬の気持ちで彼の手をにぎった。
「あなたもいっていいですよ」ウィンクル氏は言った。
「ゆきますぞ」ピクウィック氏は答えた。「サム、わしの大外套とショールを用意し、十分に時間に間に合うように、絶対に必要の時間よりもっと早目に、明日の夕方、ここに車をまわすように手配してくれ」
その命令に服従する証拠として、ウェラー氏は帽子に手をあげ、引きしりぞいて、この遠征に必要なすべての準備にとりかかった。
馬車は定められた時間にきちんと姿をあらわし、ピクウィック氏とウィンクル氏を中にちゃんと入れてから、ウェラー氏は御者台で御者のかたわらに座席をとった。一同は、前もって定めてあったとおり、出合いの場所から四分の一マイルほどはなれた場所で車をすて、もどってくるまで待つように御者に言いつけて、のこりの距離を徒歩で進んでいった。
仕事のこの段階で、ピクウィック氏はいかにもニコニコし、その他さまざまな大いに悦に入っているふうを示して、上衣のポケットからこの場合のためにとくに装備した薄黒いカンテラを引っぱりだし、そのすばらしい機械仕掛けの美しさについて、歩きながら、ウィンクル氏に説明しはじめたが、これは彼らが出逢ったわずかな浮浪者たちをひどく驚かせていた。
「この前の夜の庭の遠征で、こんなものをなにかもっていたら、大いに好都合だったと思うがね、どうだい、サム?」あとをテクテク歩いてくる自分の従者のほうに上機嫌でふり向いて、ピクウィック氏は言った。
「そいつは、うまく使ったら、とてもいいもんですね」ウェラー氏は答えて言った。「しかし、こちらの姿が見られたくないときに、ろうそくがついてるときより、それが消えちまったあとのほうが、もっと役に立つことでしょうよ」
ピクウィック氏はサムの言葉に打たれたようだった。彼はカンテラをまたポケットにしまいこんでしまったからである。そして、三人はだまったまま歩きつづけていった。
「この奥です」サムは言った。「わたしがご案内しましょう。これが小道ですよ」
小道ぞいに彼らは進み、あたりはすっかり暗くなっていた。ピクウィック氏は、みなが道をさぐりながら進んでいったとき、例のカンテラを一度か二度引っぱりだし、直径約一フィートはあるキラキラ輝く光のトンネルを彼らの前に投げた。それは、ながめてはとてもきれいなものだったが、まわりのものを前よりもっと暗くしてしまう効果をもっているようだった。
とうとう、彼らは大きな石のところに到着した。サムは主人とウィンクル氏にここに坐るようにすすめ、自分は偵察に出かけ、メアリーがもう待っているかどうかをたしかめてくる、と言った。
五分か十分姿を消していたあとで、サムはもどり、門は開かれ、あたりは静かになっていると伝えた。忍び足で彼についてゆき、ピクウィック氏とウィンクル氏は、間もなく、庭の中にはいっていった。ここでそれぞれが何回か「しっ!」と言ったが、つぎにどうしたらいいのか、だれもはっきりとした考えをもっているようすはなかった。
「アレン嬢はもう庭に出ているかね、メアリー?」ひどく興奮して、ウィンクル氏はたずねた。
「わかりません」かわいい女中は答えた。「いちばんいいことは、ウェラーさんがあなたを木の中にもちあげ、ピクウィックさんには小道をやってくる人がだれもいないかを見張っていただき、わたしが庭のべつの端を監視することでしょう。まあ、あれはなにかしら?」
「あのいまいましいカンテラはおれたち全員の命とりになるぞ」ムカムカしてサムは叫んだ。「あなたのしてることを注意してくださいよ。裏の居間の窓ズバリのとこに、ギラギラした光を送りこんでるんですからね」
「いや、これは!」急いでわきに向きなおって、ピクウィック氏は叫んだ。「そうするつもりはなかったんだ」
「今度はとなりの家ですよ」サムは抗議した。
「いやあ!」またぐるりとまわって、ピクウィック氏は叫んだ。
「今度は馬小屋に向かってますよ。そこが火事だと思われるこってしょうよ」サムは言った。「それを閉められないんですか?」
「こいつは、いままでに見たこともないほどじつに妙なカンテラだぞ!」自分がそれと気づかずに生みだした効果にすっかりとまどって、ピクウィック氏は叫んだ。「こんなに強い反射鏡は見たこともないぞ」
「そんなふうにあなたが光をピカピカととばしてたら、われわれには強すぎる道具になるこってしょうよ」何度かへまをやったあとで、ピクウィック氏がようやくすべりぶたを閉めたとき、サムは答えた。「あの若いご婦人の足音が聞こえてきましたよ。さあ、ウィンクルさん、上にあがるんです」
「待て、待て!」ピクウィック氏は言った、「わしが最初に彼女に話さなければならん。わしをあげてくれ、サム」
「おだやかにたのみますよ」頭を壁におしつけ、背を台にして、サムは言った、「あの花鉢の上に乗るんです。さあ、あがりますよ」
「お前が傷をせんかね、サム?」ピクウィック氏はたずねた。
「わたしのことは少しも心配なく」サムは答えた。「旦那に手を貸してあげてくださいよ、ウィンクルさん。しっかり、しっかり! その調子、その調子!」
こうサムが言ったとき、ピクウィック氏は、彼の齢と体重の紳士にあっては超自然とも思えるくらいの努力を払って、サムの背に乗ろうと努力し、サムは静かに自分の体をのばし、ピクウィック氏はしっかりと壁の天辺にしがみつき、一方ウィンクル氏はピクウィック氏の両脚をがっしりとつかみ、こうした方法で三人はようやくピクウィック氏の眼鏡を笠木の上にあげることができた。
「アラベラさん」壁の向こうをながめ、反対側にアラベラの姿を認めて、ピクウィック氏は言った、「こわがることはありませんよ、わたしなんですからね」
「おお、どうか向こうにいってください、ピクウィックさん」アラベラは言った。「みんなにも向こうにゆくように言ってください。わたしはとってもこわいのです。どうか、どうか、ピクウィックさん、そこにはいないでください。あなたは倒れ落ちて、死ぬようなことになりますよ、きっと」
「さあ、どうかおびえないでください」相手の気持ちを静めるようにして、ピクウィック氏は言った。「本当に、心配する必要は少しもないのです。しっかり立ってくれ、サム」下を見おろしながら、ピクウィック氏は言った。
「大丈夫ですよ」ウェラー氏は答えた。「必要以上にぐすぐずはしないでくださいよ。そうとう重い体ですからね」
「もう少しだ、サム」ピクウィック氏は答えた。「わたしがただあなたに知っていただきたいことは、あなたのおかれている環境でなにかほかの方法を彼にとらせることができたら、人目忍んでこうしてあなたに会うのを彼には絶対に許さなかっただろうということだけです。好ましからぬこの方法があなたに不安をひきおこさないようにと、わたしがここに来ているのがあなたにおわかりなだけで、あなたはご満足ゆくことでしょう。わたしの話はそれだけですよ」
「本当に、ピクウィックさん、あなたのご親切とご配慮には深く感謝しています」ハンカチで涙をぬぐって、アラベラは答えた。サムの肩を踏みそこなった結果、ピクウィック氏の頭がいきなりさっと消えてしまわなかったら、彼女は、もっと語りつづけたことだろう。ピクウィック氏は地面にいきなり投げだされたが、彼はあっという間に立ちあがり、ウィンクル氏に急いで会見を終わらすように命じて、青年の勇気と情熱をもって、小道をかけてゆき、監視をつづけた。ウィンクル氏自身は、そのときの勢いで、すぐ壁の上にのぼり、ちょっと動きをとめて、主人に注意するようにとサムにたのんだ。
「旦那の世話はわたしが見ます」サムは答えた。「彼のことはわたしにまかせてください」
「彼はどこにいるんだい? なにをしているんだい、サム?」ウィンクル氏はたずねた。
「いや、こいつは大変なこと!」庭の戸のほうを見て、サムは答えた。「やさしいガイ・フォークス(一五七〇―一六〇六。一六〇五年十一月五日イギリスの議院を爆破して、国王ジェイムズ一世と議員たちを殺そうとし、事前に発覚して処刑された火薬事件の首謀者)のように、あの薄黒いカンテラをもって小道で警戒してますよ! あんなにいい人って、まったく見たこともないな! まったく、あの人の心は、体が生まれてから少なくとも二十五年して生まれてきたんだろう!」
ウィンクル氏は壁の上にいて、この友人の賛辞を聞いてはいなかった。彼は壁からとびおり、身をアラベラの足もとに投げだして、このときまでに、ピクウィック氏自身の言葉にしても恥ずかしくない雄弁をふるって、自分の愛情の誠実さを彼女に訴えていた。
こうしたことが外の大気の中で進行中、科学的な学識をもった初老の紳士が二、三軒先の家の書斎に坐り、哲学的な論文を書きながら、彼のわきに立っている重々しいびんからクラレット酒を盃につぎ、ときおり、勉強の最中に、それをひっかけていた。執筆の苦悶で、この初老の紳士はときどきじゅうたん・天井・壁をながめ、じゅうたんも天井も壁も必要な霊感を与えてくれないときには、窓から外をながめていた。
こうして想を練っている合い間のあるときに、この科学者はボーッとして外の暗闇を見入っていたが、地面からそうはなれていないところで、じつにギラギラした光が空中をすべり、ほとんど同時に消滅したのを見て、ひどくびっくりした。その後間もなく、この現象はくりかえされたが、それは一度や二度のことではなく、何回かつづけられた。とうとう科学者はペンをおき、こうした現象がどんな自然界の原因によるものかを考えだした。
それは流星ではなかった。余りに低すぎたからである。それは土ぼたる[#「ぼたる」に傍点]ではなかった。余りに高すぎたからである。それは狐火ではなかった。それはほたる[#「ほたる」に傍点]ではなかった。それは花火ではなかった。なんであるのだろう? なにか自然界の異常ですばらしい現象、どんな哲学者もいまだかつて見たことがないものなのだ。彼のみが発見するようにとっておかれ、後世のためにそれを記録することによって、彼の名を不滅のものにするなにかなのだ。この考えで頭をいっぱいにさせて、この科学者はペンをふたたびとり,この無類の出現物のことをさまざまと紙に書きとめ、それがあらわれた日づけ、時間、分、正確な秒を書きこんだ。こうしたものはすべては、文明世界のどこにでも住んでいるすべての宇宙に関する権威を驚かすことになる偉大な研究と深い学問を盛りこんだ膨大な論文の資料となるべきものだった。
彼は安楽椅子にのけぞりかえって身を投げ、自分の将来の偉大さにたいする考察に思いふけっていた。神秘的な光は前よりもっとギラギラしてあらわれ、見たところ小道ぞいのあちらこちら、それを横切って踊り、彗星自身と同じように風変わりな弧を描いて動いていた。
この科学者は独身だった。彼には呼びこんでびっくりさせる妻はいなかったので、彼はベルを鳴らして召使いを呼んだ。
「プラフル」科学者は言った、「今晩、大気の中にじつに異常なものがあらわれているよ。お前はあれに気がついていたかね?」例の光がふたたび見えるようになったとき、窓からそれをさして、科学者は言った。
「ええ、気がついてましたよ」
「あれをどう思うね、プラフル?」
「あれをどうですって?」
「うん。お前はこの地方で育った男だ。さあ、あの光の原因はどんなものだと、お前は言うのかね?」
その原因がぜんぜんわからぬというプラフルの答えを予想して、科学者はニコニコと笑っていた。プラフルは考えこんでいた。
「あれは泥棒でしょうね」とうとうプラフルは言った。
「お前はバカだな。下にさがってもいいよ」科学者は言った。
「ありがとうございます」プラフルは言い、階下におりていった。
しかも、もし利口なプラフル氏の考えがその誕生したところで押しつぶされてしまわなかったらきっとそうなったにちがいない事態――彼の考えていたりっぱな論文が世に伝えられぬことになるのを考えて、科学者はジッと落ち着いてはいられなくなった。彼はとことんまでこのことを調査しようと決心して、帽子をかぶり、さっさと庭におりていった。
さて、科学者が庭に出てくる少し前に、ピクウィック氏は大急ぎで小道を走り、みぞに落ちないようにと、薄黒いカンテラのすべりぶたをときどき開けながら、だれかがこちらにやってくるというあやまった警報を伝えた。この警報が伝えられるやいなや、ウィンクル氏は壁をよじのぼってもどり、アラベラは家の中に走りこみ、庭の門は閉じられ、三人の冒険家が小道ぞいに大急ぎでふっとんでいったとき、彼らは科学者が彼の家の庭の門の錠をはずしているのにギクリとした。
「ちょっと待って!」もちろん一行の先頭を切って走っていたサムはささやいた。「ほんのちょっとのあいだ、光を出してください」
ピクウィック氏はたのまれたとおりの行動をとり、サムは、自分の顔から半ヤードもへだたらぬところで男の頭が用心深く外をのぞいているのを見て、にぎりしめた拳でそれを静かにポンとひと撃ちし、その結果、その頭はうつろな音を立てて門にぶつかって倒れた。この離れ業をじつにすばやく巧みになしとげてから、ウェラー氏はピクウィック氏を背にせおい、こうした重荷を考えてみればまったく驚くべき速度で、小道ぞいにウィンクル氏のあとを追って走り去っていった。
「息がもとにもどりましたかね?」みなが小道の端のところに着いたとき、サムはたずねた。
「うん、すっかり、すっかりもどったよ」ピクウィック氏は答えた。
「じゃ、さあ」主人を下におろして、サムは言った。「わたしたちふたりのあいだにはいって進んでください。走る距離は半マイルもありませんよ。優勝盃をいまとろうとしてるんだと考えてください。さあ」
こう元気づけられて、ピクウィック氏はここを先途とかけだした。この記念すべき機会にピクウィック氏の黒いゲートルが走った以上にみごとに大地を蹴った黒いゲートルは絶対になかったと、ここで自信をもって申しあげてもよかろう。
馬車は待っていた。馬は元気で、道路はよく、御者の気構えも十分だった。ピクウィック氏の息切れがまだ回復しないうちに、一同は無事に『ブッシュ旅館』に到着した。
「すぐに部屋にはいってください」主人を車の外につれだしたとき、サムは言った。「あんな運動をしたあとで、街路になんぞちっとでも立っててはいけませんよ。失礼ですが」車からウィンクル氏がおりてきたとき、帽子に手をあげて、サムはつづけた、「彼女にだれか好きな人がいたんではないんでしょうね?」
ウィンクル氏はこの身分の低い友人の手をにぎり、彼の耳にささやいた、「万事心配なし、サム、万事心配なしだよ」それを聞いて、ウェラー氏はわかったという合図に自分の鼻を三回ポンポンとたたき、ニヤリとし、ウィンクをし、すっかりご満悦の表情で、馬車の踏み段をあげることにとりかかった。
例の科学者はといえば、彼は堂々たる論文でこうした驚くべき光が電気の作用であることを証明し、門のところから自分が頭を出したとき、一閃の光が自分の目の前に踊り、そのショックでその後十五分間人事不省におちたことをはっきりと証明し、この証明はすべての科学協会をこのうえなくよろこばし、その後、彼は科学の光と尊敬されることになった。
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第四十章
[#3字下げ]偉大なる人生劇でピクウィック氏は新しい、興味津々たる場面に登場する
バースに滞在しようとピクウィック氏が定めていた期間ののこりは、これというたいしたこともなく、すぎていった。高等法院第四期開廷期がはじまった。その最初の一週間が終わったときに、ピクウィック氏とその友人たちはロンドンにもどり、ピクウィック氏は、もちろんサムをともなって、『ジョージと禿鷹旅館』の古巣へ帰っていった。
彼らが到着して三日目の朝、ロンドンのすべての時計がそれぞれ九つの鐘を鳴らし、ぜんぶ合わせれば九百九十九ほどの鐘の音を報じていたとき、サムはジョージ・ヤードで散歩をしていたが、そのとき奇妙な新しくぬり立てた車が乗りつけ、そこからすごいすばやさで、手綱を自分のわきに坐っていた太った男に投げて、奇妙な紳士がとびだしてきたが、その紳士はこの乗り物のためにつくられ、その乗り物はこの紳士のためにつくられたような感じだった。
この乗り物は正確には一頭引き二輪馬車ではなく、ほろなしのひとり乗りの軽二輪馬車でもなかった。それは世間でひろく|一頭立ての二輪馬車《ドツグ・カート》(背中合わせの二座席があり、イギリスでは以前は座席の下に猟犬を乗せていた)と言われているものではなく、免税荷馬車(農夫・商人の使う二輪一頭引きの荷馬車。最初は軽い税が課されていたが、のちには無税になった)でも、一頭引きほろつき二輪馬車でも、ギロチン型の一頭立て二輪のほろ馬車でもなかったが、そのそれぞれの特徴を多少なりとももっていた。それは明るい黄色にぬられ、心棒と車輪は黒で引き立てられていた。御者は、正式のスポーツ式に、手すりの上に二フィートほど積みあげられたクッションの上に坐っていた。馬は栗毛で、とても恰好のいいものだったが、いやにはでな、犬の喧嘩といった激しさをもち、それは、馬車にも主人にも似合いのものになっていた。
主人自身はほぼ四十歳ほどの男、黒い毛をし、その頬髯には念入りにくしがかけられていた。彼の服はとくに豪華なもの、身には宝石類をつけていたが、――それはふつう紳士がつけているものより三サイズほど大きなもので――その最後の仕上げとして、粗毛の大外套をつけていた。馬車からおりたとき、この大外套の一方のポケットに彼は左手をつっこみ、右手でほかのポケットからとてもキラキラする絹のハンカチを引っぱりだし、それで靴からちょっとほこりを払い、ついでそれを手の中でまるめて、肩で風を切って小路を歩いていった。
この人物が馬車からおりたとき、そのときまで反対側の道をコソコソと歩いていた、ボタンがいくつかちぎれた褐色の大外套をまとったむさ苦しい感じの男が道を切ってわたり、ピタリとそばによってきたことが、サムの注意をひいていた。この紳士の来訪の目的について疑念以上に強いものをもっていたサムは、彼より先に『ジョージと禿鷹旅館』にゆき、ぐるりと鋭く向きを変えて、戸口の中央に突っ立っていた。
「おい、きみ!」高飛車な調子で粗毛の大外套を着た男は言い、それと同時にそこをおしのけてとおりぬけようとした。
「おい、どうしたんだ?」相手のおした力に複利をつけた勢いでおしかえして、サムは答えた。
「さあ、そんなことはやめるんだ。そんなことをしても、おれにはだめだからな」声を高くし、真っ青になって、粗毛の大外套の持ち主は言った。「おい、スマウチ!」
「はい、なんかまずいことがありましたかね?」褐色の大外套の男はうなった。彼は、この短い対話のあいだに、コソコソと小路ぞいにもうここにやってきていた。
「この若い男の厚かましい態度だけのことだがね」サムにもうひとおし加えて、主役は言った。
「さあ、そんなバカな真似はやめろ」サムに前よりもっとひどいひと突きをくれて、スマウチはうなった。
この最後のひと突きは、手練れのスマウチ氏が期待していた効果をあげた。このご挨拶に報いようとして、サムが、その紳士の体を戸口の柱にグイグイとおしつけているあいだに、主役はそこをすっととおりぬけ、酒場のほうに進んでいったからである。サムは、スマウチ氏と二、三言激しい言葉の応酬をしてから、そちらにすぐついていった。
「お早う、きみ」ボタニー湾(オーストラリア、ニュー・サウス・ウェイルズ沿いの湾。もとイギリスの犯罪人植民地)式の気楽さとニュー・サウス・ウェイルズ(オーストラリア南東部の州)の紳士的な態度で酒場にいた若いご婦人に呼びかけて、主役は言った。「きみ、ピクウィック氏の部屋はどこだね?」
「この方、ご案内して」このしゃれ男を一度見ただけで、二度とふりかえって見ようともせずに、彼の質問に答えて、酒場の女中は給仕に言った。
給仕は命じられたとおりに先に立って階段をあがってゆき、粗毛の大外套を着た男がそれにつづき、サムがさらにそのあとにつづいたが、彼は、階段をあがってゆく途中、最高の軽蔑と挑戦を示すさまざまな身ぶりを示して、召使いやそのほかの見ている人たちを得も言えぬほど楽しませていた。しゃがれ声の咳でなやまされていたスマウチ氏は、階下にのこり、廊下でつばをはいていた。
ピクウィック氏は床でぐっすり眠っていたが、そのとき、この早朝の訪問者がサムにともなわれて部屋にはいってきた、ふたりの立てた物音で、彼は目をさました。
「髯そり用の湯をたのむよ、サム」カーテンの中からピクウィック氏は言った。
「ピクウィックさん、すぐ髯をそってくださいよ」床の頭のほうのカーテンを引き開けて、客は言った。「バーデルの請求で強制執行令状をもってるんです――これが逮捕令状ですよ――民事訴訟裁判所のね――これがわたしの名刺。わたしの家にお越しねがえるでしょうな」ピクウィック氏の肩をやさしくたたいて、州長官の役人(彼はそうした身分の男だった)は自分の名刺を掛け布団の上に投げ、チョッキのポケットから金のつまようじをとりだした。
「名前はナムビー」ピクウィック氏が枕の下から眼鏡をとりだし、それをかけて、名刺を読もうとしたとき、州長官の代理は言った。「コールマン通り、ベル小路のナムビーですよ」
ここで、そのときまでナムビー氏のシルクハットをジッと見ていたサム・ウェラーは口をはさんだ――
「あんたはクエーカー教徒ですかね?」サムはたずねた。
「きみとけりをつけるまでに、わしがだれかは教えてやるよ」プリプリしている役人は答えた。「いずれ近い将来、天気のいい朝、きみに礼儀作法を教えてやろう」
「ありがとう」サムは言った。「同じことをきみにもしてやるよ。帽子をぬぎたまえ」こう言って、じつに巧妙なやり方で、ウェラー氏はナムビー氏の帽子を部屋の向こう側にすごい勢いでふっとばし、その結果、ナムビー氏はあやうく金のつまようじを飲みこみそうになった。
「ピクウィックさん、これを見てください」息を切らせて、狼狽した役人は言った。「わたしが義務を遂行するさい、あなたの部屋であなたの召使いの襲撃を受けたのですぞ。体に危害を受ける立場にあるわけ。あなたに|証人《ホイツトネス》になってもらいますぞ」
「なにも|見たり《ホイツトネス》はしないでくださいよ」サムは口をはさんだ。「しっかりと目を閉じててください。こいつを窓から外にほっぽりだしてやります。外の窓ガラスの鉛わくのために、そう遠くまでは放りだせませんけどね」
「サム」従者がさまざまな敵対的態度を示したとき、声を荒くしてピクウィック氏は言った、「もしお前がこれ以上一言でも言い、この方にちょっとでも邪魔をしたら、お前はその場で解雇だぞ」
「ですけどねえ!」サムは言った。
「だまりなさい」相手を抑えて、ピクウィック氏は言った。「あの帽子をひろってきなさい」
だが、これをするのをサムはきっぱり強く断わった。そして、主人から彼がきびしく叱られたあとで、役人は、急いでいたので、自身で帽子をひろいあげ、それをしながら、さまざまな脅迫をサムに浴びせていたが、サムはまったく平然としてその言葉を受け、ナムビー氏が丁寧にも帽子をまたかぶったりしたら、そいつをたたきつぶしてやる、とだけ言っていた。そのようなことをしたら自分に不便なことになるだろうと考えたのであろう、ナムビー氏はこの誘惑の提供を断わり、その後間もなく、スマウチ氏を二階に呼びあげた。逮捕が遂行されたこと、逮捕されたピクウィック氏が服を着こむまで待つべきことを彼に伝えて、ナムビー氏は肩で風を切って外に出てゆき、車で去っていった。スマウチはむっとして「いそがしいのだから、急ぐように」とピクウィック氏に要求し、ドアのそばの椅子を引きよせ、ピクウィック氏の服の着換えが終わるまで、そこに坐っていた。サムはそれから貸し馬車を呼びにやられ、それに乗りこんで三人組はコールマン通りに向けて走っていった。この距離が短かったのは幸いなことだった。それというのも、スマウチ氏は魅力的な会話の持ち主でないばかりでなく、もうすでに前に言及した肉体的な虚弱さのために、せまい場所ではじつに不愉快な道づれとなっていたからである。
馬車はとてもせまい暗い通りにまがってはいり、窓という窓に鉄の棧をはめた家の前にとまったが、そこの戸口の柱は「ロンドン地区長官の役人、ナムビー」という役職と名前で飾り立てられていた。スマウチ氏の双子兄弟で、放りだされたかわりに鍵を与えられたといった感じの男の手で奥の門は開かれて、ピクウィック氏は「喫茶室」に案内されていった。
この喫茶室は通りに面した部屋で、そこの主な特徴は、新しい砂と、古くさくなったタバコの煙のにおいだった。ピクウィック氏は、この部屋にはいったとき、そこに坐っていた三人の人にお辞儀をし、サムをパーカーのところに使いにやって、薄暗い片隅にしりぞき、そこから、多少の好奇心を浮かべて、彼の新しい仲間をながめていた。
このうちのひとりは十九か二十くらいのまだほんの子供、まだ十時にもなっていないのに、水割りのジンを飲み、葉巻きをふかしていたが、彼のふくれあがった顔からみて、この一年か二年のあいだ、こうした楽しみにかなり深入りしているふうだった。彼と向かい合いのところに、右の靴のかかとで火をかき立てて、血色のわるい顔と耳ざわりな声をした三十歳くらいの粗野で野卑な青年がいたが、酒場や玉突き台で得られる世間の知識とのびのびとした魅力的な態度の所有者であることは明らかだった。この部屋の第三の男はとても古い黒服を着こんだ中年の男で、顔は青ざめてやつれ、たえず部屋をあちらこちらと歩きまわり、ときどき足をとめては、まるでだれかを待っているように、心配そうに窓から外をながめ、また歩きつづけていた。
「エアスリーさん、今朝はわたしのかみそりを使ったらどうです?」友人の少年のほうに目くばせして、火をかきまわしていた男が言った。
「ありがたいことですが、いりません。その用はないでしょう。一時間かそのくらいしたら、ここを出られると思いますからね」あわただしく相手は答えた。それから、窓のところへまた歩いてゆき、またがっかりしてもどってきて、彼は深い溜め息をもらし、部屋から出てゆき、他のふたりはわっと大声で笑いだした。
「うん、あんなおもしろいやつ、見たこともないぞ」かみそりを提供した紳士は言ったが、この男の名はプライスというようだった。「絶対にな!」強い誓いの言葉をそえてプライス氏はそう断定し、また笑いだしたが、少年(彼はこの男のことをじつにさっそうとした人物と考えていた)は、もちろん、これに声を合わせていた。
「あんたは、まあ、考えんでしょうね、どうです?」ピクウィック氏のほうに向いて、プライス氏は言った、「あの男はここにきのうで一週間滞在、まだ一度も髯をそってないんですよ。それも、三十分もすれば放免はまちがいなしと確信し、家にもどるまで髯そりはのばしたほうがいいと考えてるためなんです」
「かわいそうに!」ピクウィック氏は言った。「この苦境からぬけ出る見とおしは本当にそんなにあるのですか?」
「見とおしなんて糞くらえさ」プライス氏は答えた。「そんな見とおしなんて、ぜんぜんないんですよ。やつが街を歩きまわる見とおしなんて、この十年間、これっぽちもありませんよ」こう言って、プライス氏はいかにも軽蔑したように指をパチンと鳴らし、ベルを鳴らした。
「クルーキー、おれに紙を一枚くれ」召使いにプライス氏は言ったが、この召使いは、衣装といい、全般的なようすからいっても、破産した放牧業者と支払い不能になった家畜商人の合いの子といった男だった。「それに、クルーキー、水割りのブランデーを一杯な、わかったかい? おれはおやじに手紙を書こうと思ってるんだが、刺激物がなかったら、あのおやじの心に強く訴えるようにうまくそいつを書くことができなくなっちまうからな」このふざけた言葉を耳にして、これは言うまでもないことだが、少年は身をよじらせておもしろがっていた。
「うん、いいぞ」プライス氏は言った。「しっかりやれ。まったくおもしろいだろう、どうだい?」
「すごいや!」年少の紳士は言った。
「お前には多少しっかりしたとこがあるな、まったく」プライス氏は言った。「多少とも世の中を見てきたんだからな」
「まあ、そうだと思うね!」少年は答えた。彼は人生を酒場の戸のよごれた板ガラス越しに見てきたのだった。
ピクウィック氏はこの話のやりとりと、それがおこなわれたふたりの男の態度・物腰で少なからずムカムカして、個人用の部屋を自分に与えてもらえぬかとたずねようとしたとき、二、三人の上品な風采をした見知らぬ男たちがはいってきたが、その姿を見ると、少年は葉巻きを炉に投げすて、自分のために「うまくやりに」彼らがやって来たのだとプライス氏にささやいて、部屋の向こうの端のテーブルに彼らといっしょに坐った。
しかし、若い紳士が予期したようにことはうまくいっているようではなかった。とてもながい話がつづき、不行跡と許されたことに関してくりかえし怒りまじりのきれぎれの言葉が否応なくピクウィック氏の耳にとびこんできたからである。とうとう、一行のうちでいちばん年輩の紳士がホワイトクロス通り(債務者監獄のあるところ)についてじつにはっきりとした言葉を述べ、それを聞くと年少の紳士は、その元気と勇気と人世の知識にもかかわらず、テーブルに頭を乗せ、ひどい勢いで泣きだした。
こうしてこの青年の勇気がいきなりがっくりとくずれ、効果的に彼の調子がだめになったのを見てとても満足して、ピクウィック氏はベルを鳴らし、彼自身が要求して、じゅうたん、テーブル、椅子、食器だな、ソファが家具として備えつけられ、姿見とさまざまな古版画で飾られた私室にとおされた。ここで彼は、朝食がつくられているあいだ、階上でのナムビー夫人の演奏する正方形ピアノ(いまのピアノの前にあった四角のピアノ)を楽しむことができ、朝食が運ばれてきたときには、パーカー氏がやってきた。
「ああ、あなた」小男は言った、「とうとう逮捕ですか、えっ? さあ、さあ、わたしはこのことを悲しんではいませんよ、これであなたのやり方のおろかさがわかるでしょうからね。この逮捕令状が出された査定訴訟費用と賠償金の金額は書きとめておきましたよ。一刻も猶予せず、すぐ話を決めたほうがいいですよ。たぶん、ナムビーはもう家に帰っているでしょう。あなたのご意見はどうです? わたしが小切手を切りましょうか? あなたがそれをなさいますか?」これを言ったとき、小男は、陽気さをよそおって、手をこすり合わせていたが、ピクウィック氏の顔をチラリとながめたとき、それと同時に、サム・ウェラーのほうにがっかりとしたまなざしを投げずにはいられなくなった。
「パーカー」ピクウィック氏は言った、「どうか、このことはもうわしに聞かせないようにしてくれたまえ。ここにいても意味のないこと、だから、今晩監獄にゆくことにするよ」
「ホワイトクロス通りにゆくなんて、だめですよ」パーカー氏は言った。「考えられぬこと! ひとつの監房に六十も寝台があり、一日二十四時間のうち、十六時間錠がおろされてるんですよ」
「もしできたら、ほかの監禁所にゆきたいんだがね」ピクウィック氏は言った。「それがだめだったら、そこでできるだけなんとかやっていくさ」
「どこかにゆくとなれば、フリート監獄にはゆけますよ」パーカー氏は言った。
「それで結構」ピクウィック氏は言った、「朝食が終えたら、すぐそこにゆくことにしよう」
「待ってください、待ってください。ほかのたいていの人がそこから逃げ出すのにむきになるその場所に、そう急いではいっていく必要は、少しもありませんよ」人のいい小男の弁護士は言った。「われわれは身柄提出令状(人身保護の目的で、拘禁の事実・理由などを聴取するため、非拘禁者を出廷させる命令書)を手に入れねばなりません。きょうの午後四時まで、判事室に判事はいないでしょう。そのときまで、あなたは待っていなけりゃならんのです」
「よくわかりましたよ」しっかりとした忍耐力を示して、ピクウィック氏は言った。「では、ここで二時に厚切りの肉の昼食をとることにしましょう。サム、そのことをとりはからい、時間はきちんと守るように言いつけておくれ」
パーカー氏の抗議・説得にもかかわらず、ピクウィック氏の気持ちは動かなかったので、昼食はやがてあらわれ、姿を消した。それから彼はべつの貸し馬車に乗せられ、ナムビー氏を三十分かそこいら待っていたあとで、チャンサリー小路につれてゆかれた。ナムビー氏は選りぬきの人たちが集まっている晩餐会をしていて、どうしても三十分以前に出て来ようとはしなかったからである。
サージャント法院にはふたりの判事――ひとりは高等法院王座部の判事、他は民事訴訟裁判所の判事――がいて、書類のたばをもってあわただしく出入りしている弁護士の書記の数がなにか証拠になるのだったら、多くの仕事がこのふたりの前でどんどん処理されているように見えた。ここへの入り口になっている低いアーチ道についたとき、パーカー氏はちょっと引きとめられて、御者を相手に運賃と釣り銭のことで話し合い、ピクウィック氏は、出入りする人の流れをさけてわきに立ち、そうとう物珍しげにあたりを見まわしていた。
彼の注意をいちばんひいたのは、上品そうなきたならしい恰好をした三、四人の男で、彼らは帽子に手をあげてとおりすぎる多くの弁護士に挨拶し、そこになにか仕事があるらしいふうだったが、その仕事の性格は、ピクウィック氏にはぜんぜん見当がつかなかった。彼らは奇妙な風態の男たちだった。ひとりはようかん色の黒服を着、白いネッカーチーフをつけたほっそりとし、そうとうびっこの男だった。べつの男は太ったたくましい人物、同じ服装をし、首のまわりには大きな赤みがかった黒の布をまといつけていた。第三の男はにきび|面《づら》の、しなびた、酔っ払いの感じのする小男だった。彼らは手をうしろにまわしてあたりをブラブラ歩きまわり、ときどき、深刻な顔をして、書類をもった紳士たちがそばをあわただしくとおりぬけてゆくとき、その一部の人たちの耳になにかをささやいていた。ピクウィック氏は、自分がアーチ道をとおりぬけたとき、彼らがそこでぶらついているのをよく見かけたことを思い出した。そして彼の好奇心は、こうしたきたない恰好をしたブラブラしている人たちが法廷の仕事のどんな部門に従事しているのか知りたくて、むずむずしてきた。
ナムビー氏はピクウィック氏のそばにいて、小指の大きな金の指環をしゃぶっていたが、ピクウィック氏はこの彼にこのことをきいてみようとしたが、そのとき、パーカー氏が急いで近づいてきて、一刻の猶予もならないと言って、先に立って法院の中にはいっていった。ピクウィック氏がそのあとにつづいたとき、びっこの男が彼に近づいてきて、丁重に帽子に手をあげて挨拶し、名刺をさしだしたが、ピクウィック氏は、断わって相手の気持ちを傷つけてはと考えて、それを慇懃に受けとり、チョッキのポケットにしまいこんだ。
「さて」自分の仲間がすぐうしろについて来ているかどうか調べようと、事務所のひとつにはいる前にふりむいて、パーカー氏は言った。「ここの中ですよ。おい、きみ、きみは[#「きみは」に傍点]なんの用事があるのだね?」
この最後の質問はびっこの男にかけられたものだったが、彼は、ピクウィック氏が気づかぬ間に、この一行のひとりになりすましていたのだった。それに答えて、びっこの男はまたいかにも慇懃に帽子に手をやり、ピクウィック氏のほうに身ぶりをして見せた。
「いや、いや」ニッコリしてパーカー氏は言った。「きみに用事はないのだよ。きみには用事はないのだよ」
「失礼ですが」びっこの男は言った。「この方がわたしの名刺を受けとられたのです。わたしを使っていただけたら、ありがたいのですがね。あの方はわたしにうなずいたんです。あの方に判断していただきましょう。あなたはわたしにうなずきましたね?」
「ふん、ふん、バカな! ピクウィック、きみはだれにもうなずきなんかしなかったね? まちがい、まちがいですよ」パーカー氏は言った。
「あの人はわたしに名刺をわたしましたよ」チョッキのポケットからそれを引っぱりだして、ピクウィック氏は答えた。「あの人がそれを希望しているようだったので、わたしはそれを受けとり――事実、暇になったらあとでそれを見ようと、多少好奇心を湧かしていたんです。わたしは――」
小男の弁護士はわっと大声で笑いだし、これはすべてまちがいだったと男に告げて、名刺をかえし、この男がプリプリして向こうに向いたとき、声をひそめて、彼は保釈保証人にすぎんのですよ、と伝えた。
「なんですって!」ピクウィック氏は叫んだ。
「保釈保証人ですよ」パーカー氏は答えた。
「保釈保証人ですって!」
「そうですよ――ここには五、六人ああした連中がいるんです。どんな金額の保証人にでもなり、礼金はたった半クラウンなんです。妙な商売でしょうが?」ひとつまみのかぎタバコをグッとすいこんで、パーカー氏は言った。
「えっ! あの人たちはこの辺で待ちかまえ、ひとつの犯罪半クラウンの値で、イギリスの裁判官の前で偽誓をおこない、それで生活を立てている、と考えろと言うのですか!」このことを知らされて、まったく呆然となって、ピクウィック氏は叫んだ。
「いやあ、偽誓についてはよくわかりませんがね」小男の紳士は答えた。「ひどい言葉、じっさい、とてもひどい言葉ですよ。それは法律上のつくりもの、ただそれだけのもんですからね」こう言って、弁護士は肩をすくめ、ニヤリとし、かぎタバコをふたたびつまみ、裁判官の書記がいる事務所に先に立ってはいっていった。
これは特別きたないようすの部屋で、天井はとても低く、羽目板の壁は古いもので、そのうえ、採光がとてもわるく、外ではまだ真っ昼間というのに、机の上では大きな獣脂のろうそくが燃えていた。一方の端に、判事の私室に通じるドアがあり、そのまわりにたくさんの弁護士や運営の書記が群らがり、彼らはそれぞれの約束が整理カードで示されている順にしたがって、中に呼びこまれていた。ドアが開かれて一団の人が出てくるごとに、つぎの一団が中にはいろうとすごい勢いで突進し、判事に会おうと待っている人たちのあいだでかわされるおびただしい数の話に加えて、判事と会ってきた人たちの大部分のあいだでさまざまの言い争いが起きていたので、こうしたせまい場所で起こされるかぎりのすごい騒音がまきおこされていた。
また、こうした紳士たちの話が、耳をおそうただひとつの物音ではなかった。部屋のべつの端の木のさくの背後の箱の上に、眼鏡をかけた書記がひとり立っていて、彼は「宣誓供述書を受け」とっていて、その大きなたばは、ときおり、判事の署名を受けるため、べつの書記によって判事の私室に運びこまれていた。宣誓させるべき弁護士の書記の数はおびただしく、彼らをいちどきに宣誓させるのは事実上不可能だったので、眼鏡をかけた書記のところにゆこうとするこうした人たちのおしつおされつの混乱ぶりは、女王陛下がおいでになった劇場の平土間での中にはいろうとする群集の混乱に匹敵するものだった。べつの職員が、ときおり、声をからして宣誓ずみの人の名を読みあげていたが、これは、判事の署名のすんだ宣誓供述書を彼らにかえすためだった。それは、わずかだが、さらにもみ合いをひきおこし、こうしたことが同時におこなわれていたので、それはじつに行動的で興奮しやすい人が見たいと思っているほどの大さわぎをかき立てていた。さらにべつの種類の人たちがいた――それはやとい主がもち出した召喚状に応じようと待っている連中で、反対側の弁護士がそれに出ようと出まいと随意的なもの――その仕事は、ときどき、反対側の弁護士の名前を呼ぶことで、これは、自分たちが知らないうちに相手弁護士が出席していることのないのをたしかめるためだった。
ひとつ例をあげてみよう。ピクウィック氏がとった座席のすぐわきに、壁によりかかって十四歳のテナー声の事務所の給仕がいて、彼のそばにはバス声の普通法の書記がいた。
書記がひとり、書類のたばをもってあわただしくはいってきて、あたりを見まわした。
「スニッグルとブリンク」テナーが叫んだ。
「ポーキンとスノッブ」バスがうなった。
「スタムピーとディーコン」新しくはいってきた男が言った。
だれも答えず、つぎにはいってきた男が、三人ぜんぶに呼びかけられ、その男はその男で、べつの商社の名を叫び求め、ついでほかのだれかが大声でべつの名を呼んでいた。
このあいだ中、眼鏡をかけた男はせっせと仕事をし、書記に宣誓をさせ、その宣誓は、句読点にたいする努力はぜんぜん払われずに、いつもつぎのように与えられていた――
「この本を右手にもちなさいこれがきみの名と筆跡きみの宣誓供述書の内容が真実であることを宣誓しなさい神のご加護があるように一シリング小銭はもっていてくださいよ当方にはありませんからな」
「うん、サム」ピクウィック氏は言った、「|身柄提出令状《ヘイビアス・コーバス》はつくられているのだろうな」
「ええ」サムは言った、「|彼の死体を受けとれ《ハヴ・ヒズ・カーカス》でも出してくれるといいんですがね。ここにわたしたちを待たせておくなんて、とても不愉快なこと。いまごろまでに、わたしだったら、ひっくるめて|彼の死体を受けとれ《ハヴ・ヒズ・カーカス》を六つもつくってるこってしょうよ」
身柄提出令状がサム・ウェラーの目にどんな厄介であつかいにくい機械にうつっていたかは、示されていない。パーカー氏がそのとき歩みよってきて、ピクウィック氏をつれ去っていったからである。
型どおりのことがおこなわれ、サミュエル・ピクウィックの身柄はその後すぐ職杖をもった役人に預けられ、この役人によってフリート監獄の所長のところにつれてゆかれ、バーデル対ピクウィック事件の損害賠償と訴訟費用が十分に支払われるまで、そこにとどめられることになった。
「そしてそれは」笑いながらピクウィック氏は言った、「ずいぶんながい時間がかかることだろうよ。サム、べつの貸し馬車を呼んでくれ。パーカー、さようなら」
「あなたといっしょにゆき、無事そこにあなたをとどけるようにしましょう」パーカー氏は言った。
「まったく」ピクウィック氏は言った、「サム以外のだれもついてきてくれないのが、こちらの希望なんです。落ち着きしだい、手紙を書いてお知らせしますよ。そうしたら、すぐ来てください。そのときまで、さようなら」
ピクウィック氏はこう言って、そのときまでにもう来ていた馬車に乗りこみ、そのあとに職杖をもった役人がつづいた。サムは御者台に坐り、馬車は走り去っていった。
「じつに風変わりな人だな、あの人は!」立ちどまり、手袋をはめながら、パーカー氏は言った。
「彼はどんな破産者になるこってしょうね!」わきに立っていたラウテン氏が言った。「彼は委員たちをなやますことになりますよ! 逮捕すると言っても、彼らを問題にせんでしょうからね!」
ピクウィック氏の性格を書記が法律的な立場からこう評価しても、弁護士はそれをたいしてよろこんでいるふうはなかった。彼はそれになにも答えず、歩いていってしまったからである。
貸し馬車がふつうそうであるように、この貸し馬車もフリート通りをガタガタゆれながら進んでいった。馬の前になにかものがあると馬は「よく進む」と御者は言っていたが(前になにもなかったら、すごい歩調で進んだことだろう)、この馬車は荷車のあとについていった。荷車がとまると、馬車はとまり、荷車がまた進みだすと、それも同じように進んでいった。ピクウィック氏は職杖をもった役人と向かい合わせに坐り、役人は膝に帽子をはさみ、口笛を吹き、馬車の窓から外をながめながら坐っていた。
時は奇蹟の実行者である。この力強い時という老紳士の援助を借りれば、貸し馬車でも半マイルは動くことになる。彼らの馬車はついにとまり、ビクウィック氏はフリート監獄の門のところにおりた。
職杖をもった役人は肩越しにふりかえって見て、自分の預かった人間がすぐうしろについてきているかどうかをたしかめ、先に立って監獄にはいっていった。はいってから左にまがって、ふたりは開いたドアをとおりぬけ、ロビーにはいったが、そこから、彼らがいまはいったドアの反対側に、手に鍵をもった太った看守によって守られているがっしりとした門があり、それが直接監獄の内部に通じる門になっていた。
ここでふたりは足をとめ、役人は書類をわたし、その道の人たちのあいだでは「肖像画を描かせる」として知られている儀式がすむまで、そこにいることになると、ピクウィック氏は知らされた。
「肖像画を描かせるんだって!」ピクウィック氏は言った。
「あんたに似た絵が書かれるんだよ」太った看守は答えた。「ここでおれたちは似顔の名人でね。すぐそれをとってしまって、いつも正確なのさ。さあ、中にはいって、ゆったりしたまえ」
ピクウィック氏はこの招きに応じ、腰をおろしたが、そのとき、椅子のうしろにいたウェラー氏は、肖像画をとられるというのは、看守たちが入獄者を来客と識別できるように、さまざまな看守に顔を見られることの別名なのだ、と耳打ちをして説明した。
「うん、サム」ピクウィック氏は言った、「それなら、画家たちが来てくれたほうがいいな。ここは人の出入りする場所だからね」
「たぶん、ながくはかかりませんよ」サムは答えた。「オランダ時計がありますよ」
「うん、あるね」ピクウィック氏は言った。
「それに鳥籠もあります」サムは言った。「監獄の中の監獄、こみいったからくりじゃありませんかね?」
ウェラー氏がこの哲学的な言葉を述べたとき、ピクウィック氏は自分の肖像描きがはじまったことを知った。錠前の勤務の交替を受けた太った看守は腰をおろし、ときおり無造作に彼をながめ、彼と交替した背の高い痩せた男は、上衣の尻尾の下に両手をつっこみ、向かい側につっ立って、シゲシゲと彼に見入っていた。はいってきたときバターのついたパン切れののこりを食べていた、茶の途中で呼び出されたにちがいない第三のむっと仏頂面した男はピクウィック氏のそば近くに立ち、腰に両手を当てて、彼を子細に観察し、ほかのふたりの者もこれに加わって、じつに深刻な考えこんだ顔をして、彼の容姿を調べていた。ピクウィック氏はこの監視のもとでかなりひるみ、落ち着かぬふうに椅子に坐っている感じだったが、その進行中はだれにも、サムにさえ言葉をかけず、サムは椅子の背によりかかって、ひとつには自分の主人の立場を考え、またひとつには、合法的で平和を破らずに、ここに集まった看守たちにつぎからつぎへと激しくおそいかかることができたら、どんなに胸がすっとするだろう、と考えていた。
とうとう似顔は完成し、監獄にはいってもよい、とピクウィック氏は知らされた。
「今晩どこに寝たらいいのかね?」ピクウィック氏はたずねた。
「いやあ、今晩のことは知りませんな」太った看守は答えた。「明日になれば、だれかとこみになり、そうなりゃ、ゆったり、気持ちよくなるでしょうよ。最初の夜は、ふつう、ちょっと落ち着かないもん、でも、明日になりゃ、すっかりしゃんとなるもんでさ」
多少議論したあとで、看守のひとりが貸しベッドをもっていて、ピクウィック氏がその夜それを借りられることがわかった。彼はよろこんでそれを借りることになった。
「おれといっしょに来たら、それをすぐ見せてやろう」その男は言った。「それは大きいもんじゃないがね、寝るにゃ最高のもんさ。こっちですよ」
ふたりは奥の門をとおりぬけ、短い階段をおりていった。彼らがとおったあとで鍵がかけられ、ピクウィック氏は、生まれてはじめて、自分が債務者監獄の中にいることをさとった。
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第四十一章
[#3字下げ]フリート監獄にはいったとき、ピクウィック氏の身に起きたこと。どんな囚人をそこに見たか、最初の夜をいかにして送ったかの話
ピクウィック氏といっしょに監獄の中にはいっていった紳士、トム・ローカー氏は、小さな階段の下までおりていったとき、グッと右にまがり、先に立って開いた鉄の門をとおりぬけ、もうひとつの短い階段をあがって、ながいせまい廊下にはいっていったが、そこはきたなく、天井が低く、石で舗装され、遠くはなれた両端の窓からとても暗い光が投げられていた。
「これは」両手をポケットにつっこみ、肩越しに無造作にピクウィック氏のほうをながめながら、ローカー氏は言った、「これは広間の階だよ」
「おお」暗いきたならしい階段を見おろして、ピクウィック氏は答えたが、それは地下のひとつづきの湿った陰気な石の地下室につながっているようだった。「あれは小さな部屋で、そこに囚人たちがわずかな石炭をおいているのでしょうな。おりてゆくのに不愉快な場所とはいえ、とても便利なものなんでしょうね」
「そう、それが便利であっても、ふしぎはないね」ローカー氏は答えた、「あそこには、かなり気持ちいい具合いに、何人か住んでるんだからね。あそこはかなりいいとこさ、あそこはね」
「きみ」ピクウィック氏は言った、「人間があのみじめな土牢に住んでいると、きみはまさか言うんではないのでしょうな?」
「言うんじゃないだって?」びっくりし腹を立てて、ローカー氏は答えた。「どうして言っちゃいけないのかね?」
「住んでいるですって! あの下に住んでいるんですって!」ピクウィック氏は叫んだ。
「あの下に住んでるのかだって! そう、そしてよく、あそこで死んでくよ」ローカー氏は答えた。「それがどうだというんだね? それにだれか文句をつけられるのかね? あの下に住んでるのかだって! そう、あそこは、住むのにとてもいい場所だよ、そうじゃないかね?」
こう言いながらローカー氏はそうとうすごい勢いでピクウィック氏のほうに向きなおり、そのうえ、いかにも興奮して、自分自身の目・手足・血に関して不愉快なまじない文句をつぶやいたので、ピクウィック氏は、これ以上この議論はつづけないほうがよいと考えた。ローカー氏は、それから、たったいま議論の種になった場所につながっていた階段と同じくらいきたない、べつの階段をのぼりはじめたが、そこをのぼるとき、ピクウィック氏とサムがすぐそのあとにつづいていった。
「ほれ」下の廊下と同じひろさのべつの廊下に着いたとき、息つぎに立ちどまって、ローカー氏は言った、「これは喫茶室の階だ。ここの上が三階、その上がいちばん上の階なんだ。今晩きみが眠ろうとしてる部屋は、所長の部屋だよ。それはこっち――さあ」一息でこれを言って、ローカー氏は、うしろにピクウィック氏とサム・ウェラーをしたがえて、べつの階段をのぼっていった。
この階段は、床から少し高いところにあるさまざまな窓で採光され、鉄の忍びがえしが上についている高い煉瓦の壁で周囲をかこまれた石を敷いた場所を見おろしていた。これは、ローカー氏の言葉から、ラケット球戯場(四方が壁でかこまれたコート内でラケットをもったふたりが球を壁にはねかえらせておこなう)のようだった。さらに同じ紳士の証言で、監獄でファリングドン通りにいちばん近いところには、もっとせまい、「絵のグランド」と呼ばれている場所があるらしかったが、これは、そこの壁がかつて帆をすっかりはったさまざまな戦艦に似た図柄と、むかし囚人になった製図工が暇をみてつくりだした芸術的効果を示している事実によるものだった。
ピクウィック氏に知らせてやろうという特別な目的というより、明らかに自分の胸の中にある重要な事実をはきだしたいという気持ちで、これを知らせてから、案内人はとうとうもうひとつべつの廊下に到着し、先に立ってそこの端にある小さな通路にはいってゆき、ドアを開き、八つか九つの鉄の寝台がある、あまりぞっともしない部屋を示した。
「ほうら」ドアを開いたまま抑え、得意満面のようすでピクウィック氏のほうにふり向いて、ローカー氏は言った、「これが部屋だよ!」
しかしながら、ピクウィック氏の顔が自分の宿のようすに満足しているふうをほとんど示していなかったので、ローカー氏はサミュエル・ウェラーの顔をのぞきこんで、そこに自分と同じ気持ちを読みとろうとした。サムは、このときまで、威厳ある沈黙を守っていた。
「若いの、これが部屋だよ」ローカー氏は言った。
「見てますよ」落ち着き払って頭をコクリとやり、サムは答えた。
「ファリングドン・ホテル(フリート監獄はファリングドン通りにあった)にこんなりっぱな部屋があるとは、思ってもいなかったろう、どうだい?」いかにもいい気分で、ローカー氏は言った。
これにたいして、ウェラー氏はわざとらしくない、巧まぬふうに片目を閉じたが、それは、見ている者の考えしだいで、思っていたとも、思っていなかったとも、それについてはぜんぜん考えていなかったとも、とれるものだった。この芸当を演じてから、目をまた開き、ローカー氏がいい気分で寝るのに最高のもんと言っていた寝台はどれなのだ、とウェラー氏はたずねた。
「あれだよ」隅の錆びだらけの寝台をさして、ローカー氏は答えた。「あそこにはいったら、だれでも否応なくぐっすり寝こんじまうよ、うん、そうだとも」
「わたしゃ思うんですがね」問題の寝台をひどい嫌悪のようすでジロジロながめながら、サムは言った、「阿片だって、あれにくらべたら、物の数じゃないでしょうな」
「もちろん、そうさ」ローカー氏は答えた。
「それに」このできごとで自分の主人の決心がグラリときたかどうかを見きわめようとしているように、主人のほうをチラリと横目で見て、サムは言った、「ここに寝てるほかの人は、紳士なんでしょうからな」
「まさに紳士だよ」ローカー氏は答えた。「そのうちのひとりは一日ビールを十二パイントも飲んでな、飯のあいだも、タバコをすいつづけてるよ」
「第一級の人物にちがいありませんな」サムは言った。
「ナンバーワンさ」ローカー氏は答えた。
こう知らされても少しもひるまず、ピクウィック氏は微笑をたたえ、今晩はその催眠用の寝台の力をためしてみよう、と言い、ローカー氏は、これ以上なにもすることはなく、眠りたいと思ったときに寝てもよい、と伝え、ピクウィック氏とサムを廊下にのこして、そこを立ち去っていった。
あたりは暗くなりかけていた。というのは、外で起こりかけている夕方にたいするご挨拶として、絶対に明るくはなかったこの場所で、いくつかわずかのガス灯がつけられたということである。そうとう温かかったので、両側でこの廊下に開いているたくさんの小部屋の住人たちの一部は、ドアを開いたままにしていた。そこの前をとおっていったとき、ピクウィック氏は大きな好奇心と興味をもってそこをのぞきこんでいた。ここでは、四、五人の大きな不恰好な男たちの姿がもうもうとしたタバコの煙をとおしてかすかに見え、彼らは何本かビールを飲んで、大声でワイワイ話したり、脂ぎったトランプの札でオール・フォーズ(トランプの遊び)をやっていた。となりの部屋には単独の住人の姿が見え、弱い獣脂ろうそくの光をたよりに、ほこりで黄色になり、ながい年月でボロボロになったよごれた書類のたばの上に目をすえ、だれかお偉方の人に読んでもらおうと、ながながとしたこれで百回目の苦情の陳述を書いていたが、それは相手のお偉方の目には絶対にとどかず、そのお偉方の心を絶対に動かしはしないものだった。第三の部屋では、妻とたくさんの子供たちといっしょにいる男が、年下の子供たちを寝ませるために、床やわずかの椅子の上にささやかな床をつくろうとしていた。そして、第四、第五、第六、第七の部屋では、さわがしい物音、ビール、タバコの煙、トランプの札が前にもますすごい勢いでくりかえされていた。
廊下自体で、とくに階段のところで、たくさんの人がぐずぐずしていたが、これは、一部は部屋が空っぽでわびしいため、他は部屋がいっぱいで暑いために、そこにやってきたもので、大部分は、自分たちが落ち着かず、居心地がわるく、身をもてあましているためだった。ここにはさまざまな階級の人――ファスチァン(もとは丈夫な木綿または麻織布を言ったが、いまは片面にけばを立てたコールテンや綿ビロードなどのあや織り綿布)の短い上衣を着た労働者から、うまく肘のところがぬけたショールのついた化粧着を着たすっかり落ちぶれた放蕩者まで――がいたが、彼ら全員には同じ態度――浮かぬ顔の囚人の無造作な威張った歩き方、なにを気にするものかといった浮浪者ふうの物腰――があり、これは言葉ではどうしても言いあらわせないものだが、それを知りたかったら、近くの債務者監獄にゆき、ピクウィック氏と同じ好奇心でそこで出逢う最初の一団の人を見れば、すぐにわかることである。
「わしは思うよ、サム」階段の上の鉄の手すりによりかかって、ピクウィック氏は言った、「負債で監獄にはいるのは、ほとんど罰とは言えないものだと、わしは思うな」
「罰とは言えないと思うんですって?」ウェラー氏はたずねた。
「あの連中がどんなに飲み、タバコをふかし、わめいているかがわかるだろう」ピクウィック氏は答えた。「彼らがそれをたいして気にしているとは、どうしても思えんね」
「ああ、まさにそうですね」サムは言った、「彼らは[#「彼らは」に傍点]そいつを気にしてないんです。そいつは彼らにとってまったくの休日――まったくの楽しみごとなんです。こうしたことですっかりやられちまうのは、べつの人種、ビールをグイグイと飲むこともならず、九柱戯(九本のとっくり形の柱をならべ、球をころがしてこれを倒す遊戯)もできないがっくりした連中、払える立場にあったら払い、ここに閉じこめられて意気消沈しちまう連中なんです。じっさいのとこを言えば、酒場でいつもブラブラしてる連中は、ここに入れられたって、屁でもないんです。そして、働けたらいつも働いている者が、ここでいちばんやられちまうんです。『不釣り合いなこった』グロッグ酒(水で割ったラム酒)の釣り合いがうまくいってないとき、おやじはいつも言ってましたよ、『不釣り合いなこった、そいつがそのいけないとこなんだ』とね」
「お前の言うとおりだと思うな、サム」少し考えこんでから、ピクウィック氏は言った、「まったく、そのとおりだ」
「ときには、たぶん、ここを好んでるまともな人間もいるでしょうよ」考えこんでいるような口調で、ウェラー氏は言った。「でも、褐色の上衣を着たきたない顔をした男以外には、思い出せるそんな男は聞いたこともありませんね。そして、そいつは習慣の力でしてね」
「それはだれかね?」ピクウィック氏はたずねた。
「いやあ、そいつこそ、だれにもわからない点なんですよ」サムは言った。
「だが、彼はなにをしたんだね?」
「ええ、もっとよく知られてる多くの連中が、いつかはやったことがあることなんです」サムは答えた、「分にすぎたことをやっちまって、放りこまれることになったんです」
「べつの言葉で言えば」ピクウィック氏は言った、「負債をしょいこんだわけなんだね」
「そのとおりです」サムは答えた、「そして、やがて、その結果として、彼はここにやって来ました。それはたいした金ではありませんでした――九ポンドにたいする執行、それも訴訟費用で五倍になってたもんでした。しかし、彼はここに十七年おかれたんです。顔にしわができたとしても、それはほこりで埋められてました。というのも、よごれた顔と褐色の上衣は、その時期の終わりに、最初のもんとそっくり同じだったんですからね。彼はとてもおだやかな、悪気のない小男で、いつもとびまわってだれかをさがすか、ラケット遊びをやっていて、一度も勝ったことがありませんでした。とうとう、看守たちまで彼をすっかり好きになり、毎晩彼らとおしゃべりしたり、話をしたりして、詰め所にいました。ある晩、彼は看守の親しい友人とそこにいたんですが、突然彼は言いだしたんです、『おれは外の市場を見たことがないよ、ビル』彼は言ったんです(フリート市場がその当時そこにあったんです)――『おれは外の市場を見たことがないよ、ビル、この十七年間な』。『それは知ってるよ』パイプをくゆらしながら、看守は言いました。『ちょっとでも、そいつを見たいもんだね、ビル』彼は言いました。『そうだろうな』パイプを激しくプカプカふかし、この小男の要求には応じられないと信じこませて、看守は言いました。『ビル』前よりもっといきなり小男は言ったんです、『そいつが頭にこびりついちゃってね。死ぬまでにもう一度、外の通りを見せてくれよ。もしおれが卒中にやられなかったら、五分してすぐもどってくるからね』。『そして、卒中にやられたら、おれはどうなるね?』看守は言いました。『いやあ』小男は言ったんです、『だれがおれを見つけようとも、ここにつれてきてくれるとも。おれはポケットに札をもってるんだからね、ビル』彼は言ったんです、『喫茶室階の二十番さ』それは、たしかに、そのとおりでした。彼がだれか新入りとなじみになろうとするときには、その言葉が書いてある小さなグニャグニャの札をいつも引っぱりだし、そのために彼はいつも二十番と呼ばれていたんですからね。看守はジッと彼を見つめ、とうとう重々しい態度で言いました、『二十番、おれはお前を信用するよ。お前は自分の親しい友人に迷惑をかけるようなことはすまいな』。『ええ、そんなことはしませんとも。ここのうしろには、もっとましなものがあると思いますからね』小男は言い、そう言いながら、小さなチョッキを強くたたき、涙が一滴両の目から流れだしました。これはじつにふしぎなことでした。水なんか彼の顔にふれたこともないと考えられていたからです。彼は看守と握手をし、外に出ていきました――」
「そして、二度ともどっては来なかったんだね」ピクウィック氏は言った。
「今度だけは見当ちがい」ウェラー氏は言った、「彼は怒りでわき立って、時間二分前に帰ってきたからです。貸し馬車にひかれるとこだった、自分はそれには馴れてないんだ、ロンドン市長にかならず手紙を書いてやるぞって言ってね。みながとうとう彼をなだめ、その後五年のあいだ、詰め所の門の外を見ようとさえしませんでしたよ」
「五年たってから、彼は死んだのだね?」ピクウィック氏はたずねた。
「いいえ、死にませんでしたよ」サムは答えた。「道の向こうの新しい酒場にビールを飲みにいきたくなりましてね、そこがとってもいい店だったんで、そこに毎晩出かけたくなり、そいつをながいことやってたんです。門が閉まる時刻の十五分前にはきちんと帰り、これは、まったく好都合のことでした。とうとう彼はとても陽気になりだし、いつも時間がたつのを忘れ、それをぜんぜん気にしなくなり、だんだんおそくなりだし、あげくの果て、ある夜、彼の友人の看守が門を閉めようとしたとき――事実鍵をまわしてしまったとき――彼がもどってきたんです。『ビル、ちょっと待ってくれ』彼は言いました。『あれっ、お前はまだもどらなかったのかい、二十番?』看守は言いました、『とっくのむかし、お前は帰ってきてるもんと思ってたぞ』。『いや、帰らなかったんだ』ニヤリとして、小男は言いました。『うん、そんなら、お前にはっきり言っとくぞ』とてもゆっくり、むっとして門を開けながら、看守は言いました、『お前は最近わるい仲間にはいったらしいな。こいつはとても残念なことさ。さあ、べつにひどいことを言いたくはないんだがね、もしお前がしっかりした仲間とだけ付き合い、定めの時間にもどってくることができなかったら、まちがいなし、おれはお前を一歩も外に出さないぞ』小男はすごいふるえの発作におそわれ、その後は、監獄の壁の外には絶対に出なくなりました」
サムの話が終わったとき、ピクウィック氏はゆっくりと階下に足をもどしていった。もう暗くなったので、ほとんど人気のなくなった絵のグランドで考えこんで少し散歩をしてから、もうお前は今夜引きさがってもいい時だよ、と彼はウェラー氏に伝え、どこか近くの宿屋で眠る場所を見つけ、翌朝早くもどってきて、『ジョージと禿鷹旅館』から自分の服を運ぶようとりはからってくれ、とたのんだ。この要求にしたがうのに、サミュエル・ウェラーとしてはできるだけ気持ちよくやるふうを見せようとしたが、それにもかかわらず、、それに余り心がすすまぬようすがありありとあらわれていた。その晩砂利の上に寝たら便利なのだが、といったことを何回かそれとなくほのめかしさえしていたが、ピクウィック氏がそうしたことに断固として耳をかそうとしないのを見て、とうとう引きさがっていった。
ピクウィック氏が非常に意気消沈し、とても居心地わるく感じたのは、おおうべくもないたしかな事実だった。これは話相手がないためではなかった。この監獄には人があふれ、ぶどう酒ひとびんで、紹介といったうるさい形式はぬきにして、すぐ少数の選りぬきの連中とこのうえなく打ち解けて語ることもできたからである。だが、彼は粗野で野卑な群集の中でただひとり立ち、釈放の見とおしもなく、自分が閉じこめられてしまったという思いに当然ともなって起きる意気沮喪・気の滅入りを感じたのだった。ドッドソンとフォッグの狡猾さに奉仕して身の釈放をはかろうなんぞということは、ただの一度も、彼の胸には思い浮かんで来なかった。
こうした気持ちで、彼はふたたび喫茶室の廊下にはいってゆき、ゆっくりとそこを歩きまわった。そこは我慢ならぬほどきたなく、タバコの煙のにおいは、まったく息がつまりそうだった。人々が出入りするとき、ドアはたえずバタン、バタンと鳴り、彼らの声と足音は、たえず廊下に鳴りひびいていた。痩せおとろえとみじめさでほとんどはうこともできぬような子供を両腕にかかえた若い女が、その夫といっしょに、この廊下をゆきつもどりつしていたが、その夫には彼女と会うほかの場所がないのだった。ふたりがピクウィック氏のそばをとおりすぎたとき、彼は若い女が泣いているのを耳にした。そして一度は、彼女は悲しみに打たれてワッと泣きだし、身の支えに壁によりかからなければならなくなり、夫は子供を両腕に受けとり、彼女をなだめようとしていた。
ピクウィック氏の胸はいっぱいになり、それに堪えられなくなって、寝みに階上にあがっていった。
さて、所長の部屋はとても居心地のよくないものだったが(飾りといい、便利さといい、すべての点で、地区の監獄のふつうの診療所と比較にならぬほどひどいものだったので)、それは、さし当たって、ピクウィック氏以外にだれもいないという利点をもっていた。そこで、彼は自分の小さな鉄の寝台の端に坐り、所長がこのきたない部屋から年にどのくらいの利益をあげているのか考えはじめた。数学的な計算によって、その部屋が一年の価値にしてロンドンの郊外の小さな通りの自由保有不動産くらいの値打ちがあるものと見定めてから、彼のズボンの上にはいまわっているきたならしいはえ[#「はえ」に傍点]が、たくさんの気持ちのいい場所を選ぶことができるのに、どんな誘惑を受けて、えりにもえってこんなにむっとした監獄にはいってきたのかと考えはじめたが――こう考えて、彼は否応なく、このはえ[#「はえ」に傍点]がくるっているのだという結論に達した。この点をはっきり決めてから、彼は自分が眠くなりはじめているのに気がつき、そこで、朝用心深くしまいこんでおいたナイトキャップをポケットから引きだし、ゆっくりと服をぬぎ、床にはいり、ぐっすりと眠りこんでしまった。
「うまいぞ! しゃんと踊って――カット(一方の足で切り除くようにして足の位置を変える動作)とずり足――やれよ、|西風《ゼフアー》! まったくオペラ・ハウスに出ても恥ずかしくはないぞ。がんばれ! 万歳!」じつにさわがしい声で語られ、ワッとした笑い声を伴奏にしたこうした言葉が、ピクウィック氏をぐっすり眠った眠りから呼びさましたが、その眠りは、現実には三十分くらいのものであったにせよ、眠った当人から見れば、三週間かひと月もつづいたような感じのする眠りだった。
その声が消えるやいなや、部屋はすごい勢いでゆり立てられ、窓はわくの中でガタガタといい、寝台もそれに応えて身をふるわせていた。ピクウィック氏はパッととびおき、数分間のあいだ、自分の目の前の光景に、口もきけずにびっくり仰天していた。
部屋の床の上で、幅ひろのすそのついた緑の上衣、ビロードの膝ズボン、灰色の木綿の靴下をはいた男が、上品さと軽快さをしゃれたふうにくずしておどけに変え、ホーンパイプ踊りのいちばん人気のあるステップを踊っていたが、そのやり方は、いかにもふさわしい彼の服装と結び合って、得も言えぬほど途方もないものになっていた。明らかにひどく酔っ払っているべつの男は、おそらく仲間たちによって寝台に放りこまれたのだろうが、敷布のあいだで起きなおり、頭をしぼって喜劇的な歌を思い出し、いかにも感傷的な気分と表情で、声をふるわせてそれを歌っていた。一方、第三の男は、寝台のひとつの上に坐って、いかにもその道の人らしいふうをして、このふたりの役者に拍手喝采し、すでにピクウィック氏を眠りからさました感情のほとばしりで、ふたりに声援を送っていた。
この最後の人物は、こうした場所以外ではその完全な姿が拝めないたぐいの男だった――彼らの不完全な姿は、ときどき、うまやの広場や居酒屋で見かけることはできるが、こうした温床以外の場所でその満開の状態になることは絶対に不可能、こうしたものを育てるためにのみ、国会は思いやり深くもこの温床を設置したと思われるほどである。
彼は背の高い男で、オリーヴ色の顔をし、黒みがかった毛はながく、モシャモシャと濃く生えた頬髯は顎の下で結び合っていた。一日中ラケット遊びをしていたので、彼はネッカーチーフを着けず、開いたシャツのカラーは、その豪華さを十分に発揮していた。頭にはありきたりの十八ペニーのフランスふうの頭蓋ずきん(ビロード製の頭にピタリと合うもので、主に老人が室内で用いる)をかぶり、そこから華かなふさがたれさがっていたが、それは、じつに幸いなことに、ありきたりのファスチャン織の上衣とピッタリのものだった。彼の両脚――それはながいために、ガクガクしているものだったが――はその釣り合いのよさを示すためにつくられた濃い灰色の羊毛生地のズボンを飾っていた。しかし、そうとう無造作にしめくくられ、そのうえ、ボタンのかけ方が不完全だったので、そのズボンは、そう優雅とはいえぬふうなひだになって靴の上にかかとまでおおいかぶさり、とてもよごれた白い靴下をあらわしていた。この男ぜんたいに、しゃれた、浮浪者じみた粋なところと、一種のひけらかした悪人ふうなものがあり、これは、金の鉱山ほどの値打ちがあるりっぱなものだった。
ピクウィック氏がながめているのに最初に気づいたのは、この男だった。そこで彼は|西風《ゼフアー》にウィンクをし、ふざけた重々しい態度で、あの紳士を起こしてはならんぞ、と言いつけた。
「いやあ、驚いた!」ぐるりと向きなおり、ひどく驚いたふうをして、|西風《ゼフアー》は言った、「あの紳士は起きてるよ。えへん、シェイクスピア君! ご機嫌いかがです? メアリーとサラーはいかが? それに、お家のあの親愛な老夫人は? そちらに送る最初の小荷物で、どうかわたしからもよろしくと伝え、前にお便りするとこだったんだけど、それが荷車でこわされたら大変と考えたんで、と言ってくれませんかね?」
「あの方がなにか酒を飲みたいと思っておいでなのに、ありきたりのご挨拶で当惑させるのはいかんね」おどけたふうに、頬髯の紳士は言った。「なにをお飲みになるか、どうしておたずねしないんだい?」
「いや、これは、すっかり忘れてましたよ」相手は答えた。「なにをお飲みになりますかね? ポートワインになさいますか、それとも、シェリー酒になさいますか? ビールはおすすめできますよ。それとも、黒ビールになさりたいのでしょうかね? 失礼ですが、わたしにあなたのナイトキャップを釘にかけさせてください」
こう言って、この男はピクウィック氏の頭からそのかぶり物をさっととり、あっという間にそれを酔っ払った男の頭に乗せ、この酔っ払った男は、たくさんの人を自分が楽しませているものと固く思いこんで、想像し得るかぎりのものわびしげな調子で、せっせと喜劇的な歌を歌いつづけていた。
力ずくで人の額からナイトキャップをうばいとり、それをきたならしい未知の紳士の頭に乗せるなんて、それ自体どんなにうまい機知に富んだ行為にせよ、たしかにわるふざけと言ってもよいものである。この行為をまさにこの立場から考えて、ピクウィック氏は、自分の意図を少しも知らせず、いきなり寝台からパッととび立ち、|西風《ゼフアー》の胸をしたたかなぐりつけ、ときどき彼の名前となっている風(息)がすっかりつけないようにし、ナイトキャップをうばいかえして、勇敢にも防衛態勢をとった。
「さあ」腕力をふるったためばかりか、興奮で息をあえがせて、ピクウィック氏は言った、「来い――ふたりとも――ふたりとも!」こうして相手に気前よく挑戦して、ピクウィック氏はにぎり固めた拳をクルクルと回転させ、拳闘の術に心得のあるところを示して、敵をふるえあがらせようとした。
敵の心を感動させたものは、ピクウィック氏のじつに思いもかけぬ勇猛ぶりだったのかもしれない。それともまた、寝台からとびだして、ドッとホーンパイプ踊りをしていた男におどりかかった複雑な身のこなしだったのかもしれない。とにかく、彼らは感動していた。ピクウィック氏が内心そうと予期していたように、彼らはその場で人殺しをしようとはせずに、立ちすくみ、しばらくのあいだ、互いに顔を見合わせ、それから最後にワッと笑いだした。
「うん、きみはいい男だ、それでなお、きみを好きになったよ」|西風《ゼフアー》は言った。「さあ、床にとびこみなさい。さもないと、リューマチにかかってしまうからね。気はわるくしてないんだろうね?」ときどき手袋屋の戸口にぶらさがっている黄色の指のかたまりのような手をさしだして、この男は言った。
「もちろん、気なんぞわるくはしていないよ」大急ぎでピクウィック氏は言った。興奮がおさまったいまとなって、脚のあたりがとても寒くなってきたからである。
「ひとつこちらにも名誉を授けていただこうかな」右の手をさし出して、頬髯をつけた紳士は言った。
「大よろこびでね」とピクウィック氏は言い、とてもながいこと厳粛に握手を交わしてから、ふたたび床にはいりこんだ。
「わたしの名前はスマングルだよ」頬髯をつけた男は言った。
「おお」ピクウィック氏は答えた。
「わたしの名はミヴィンズ」靴下をつけた男は言った。
「それをお聞きしてうれしいですな」ピクウィック氏は言った。
「えへん」スマングル氏は咳払いをした。
「なにかお話しだったのですかね?」ピクウィック氏はたずねた。
「いいや、話しませんよ」スマングル氏は答えた。
「あなたが話されたと思ったのでね」ピクウィック氏は言った。
こうしたことすべてはとても上品で気持ちのいいものだった。そして、さらに事態を快適にしたことに、スマングル氏は、何回となく、紳士の気持ちには非常に敬意を払っているとくりかえし述べていたが、どう見ても彼がそれを理解しているものとは思えなかったので、それは、かえって、彼に無限の名誉となるものになっていた。
「あんたは法廷をとおりぬけるつもりですかね?」スマングル氏はたずねた。
「なにをですって?」ピクウィック氏はたずねた。
「法廷ですよ――ポルトガル通りのね――救済法廷――ご存じでしょう」
「おお、いや」ピクウィック氏は答えた。「いや、そのつもりはありませんな」
「出ないつもり、というわけですかね?」ミヴィンズは言った。
「たぶん、そうなるでしょう」ピクウィック氏は答えた。「わたしはある損害賠償を払うのを断わり、その結果、ここに来たんですからな」
「ああ」スマングル氏は言った、「紙がわたしの身の破滅になりましたよ」
「文房具屋だったんですね?」無邪気にピクウィック氏はたずねた。
「文房具屋ですって! いや、いや。ちくしょう! そんなに低級なもんじゃありませんよ。商売じゃなくてね。紙というのは、勘定書きのこってすよ」
「おお、その言葉をその意味で使ったのですか。わかりました」ピクウィック氏は言った。
「ちくしょう! 紳士たる者、逆境は覚悟せにゃならん」スマングル氏は言った。「それがどうだというんだ? おれはここ、フリート監獄にいる。うん、結構だとも。だからどうだというんだ? そのためにどうということもないんだからな、どうだい?」
「ぜんぜんどうということはありませんよ」ミヴィンズは答えた。そして、まったく彼の言うとおりだった。というのも、スマングル氏がこのために少しでも具合いがわるくなったどころか、ここにはいる資格を得るために、とっくのむかしに質屋に入れた宝石類がただで彼の手もとにもどってきたからである。
「うん、だが、さあ」スマングル氏は言った。「こいつは喉の渇く話。温めたシェリー酒をちょっとやって、口をゆすごうじゃないか。新入りがおごり役、ミヴィンズが運び役、おれがそいつを飲む|助人《すけつと》になってやろう。それこそ、とにかく、公正で紳士らしい分業というもんだからな。ちくしょう!」
また喧嘩を起こすのも気がすすまぬことだったので、ピクウィック氏はよろこんでこの提案に賛成し、ミヴィンズ氏にその金をわたした。時刻はもう十一時近くになっていたので、彼は時をうつさずすぐこの用件で喫茶室に出かけていった。
「ねえ」友人が部屋を出てゆくとすぐ、スマングル氏はささやいた、「どんな金を彼にわたしたんですかね?」
「半ソヴリンですよ」ピクウィック氏は答えた。
「やつはじつに陽気な紳士ふうの男でしてな」スマングル氏は言った――「すごく陽気。あれ以上のやつは知りませんよ。だが――」ここでスマングル氏は話をとぎらせ、疑わしそうに頭をふった。
「彼が自分の用にその金を使ってしまうかもしれないと、あなたは考えてはいないのでしょうね?」ピクウィック氏はたずねた。
「いや、いや! いいですかね、そう言ってるわけじゃないんですよ。わたしがはっきり言ってるのは、やつがじつに紳士ふうな男ということだけ」スマングル氏は答えた。「だが、わたしは考えてるんですがね、もしだれかが下におりてって、彼が偶然くちばしをジョッキに入れてないかどうか、なにかすごいまちがいをしでかして、こっちにあがってくるとき、金をなくしてしまわないかどうか調べてもいいと思いますな。おい、きみ、ちょっと下に走っていき、あの紳士の世話を見てやってくれないかね?」
この言葉は小心そうで神経質な小男に呼びかけられたものだったが、そのようすはひどい貧乏を物語り、このあいだ中、彼は寝台にかがみこみ、自分の環境がこうして思いがけず変わったことに呆然としていたのだった。
「きみは喫茶室がどこにあるか、知ってるね」スマングル氏は言った。「ちょっと走っておりていき、ジョッキ運びの手伝いにやってきた、とあの紳士に言ってくれないか。いや――待て――いいかい――われわれが彼をどうあつかうか、教えてやろう」狡猾な顔をして、スマングル氏は言った。
「どうするんです?」ピクウィック氏はたずねた。
「釣り銭で葉巻きを買えと伝言してくれ。こいつは妙案。かけてって、そいつを伝えてくれ、わかったのかね? 葉巻きだったらむだにはなりませんよ」ピクウィック氏のほうに向いて、スマングル氏は語りつづけた。「わたしが[#「わたしが」に傍点]すってしまいますからな」
この策略はじつに巧妙なもの、そのうえ、じつに堂々とした落ち着きと冷静さでおこなわれたので、ピクウィック氏は、たとえその力をもっていても、それをかき乱すことはしなかったであろう。間もなくミヴィンズ氏はシェリー酒をもってもどり、それをスマングル氏は割れた茶わんふたつに分け、自分自身については、紳士たる者はこうした事情のもとでは小うるさいことを言ってはならぬもの、自分としては、ジョッキからなんぞ飲まないなんぞと高慢なことは言わぬ、と思いやり深くも言明した。その言葉で、彼の誠実さを示すために、彼はすぐ一同の健康を祝ってグッと一杯やり、その中の酒を半分飲みほしてしまった。
こうした手段で心のかよいがすっかりできたので、スマングル氏は聞き手に彼がときおり参加したさまざまのロマンチックな冒険談を話して聞かせたが、そこにはサラブレッド種の馬と堂々たるユダヤ女についてのおもしろい逸話が織りこまれ、その両方ともすごい美女、その王国の貴族・紳士のあこがれの的と銘打たれていた。
紳士の伝記のこうした優雅な抜粋が終わるずっと前に、ミヴィンズ氏は床にはいり、いびきを立てて眠りこみ、小心な見知らぬ男とピクウィック氏にスマングル氏の経験談をたっぷりと聞かせることになった。
しかし、語られた感動的な話によって、小心な見知らぬ男もピクウィック氏も、そう思ったほど啓発を受けることはなかった。ピクウィック氏がしばらくのあいだ眠りこんでいたとき、酔っ払いの男が新たに喜劇的な歌を大声で歌いはじめ、聴衆は音楽をお好みではないよ、と水差しでスマングル氏に物やわらかにたしなめられているのを、彼はかすかにおぼえていた。それからふたたび、眠りにおちこみ、スマングルがまだながながと話をつづけ、その主要な点は、とくに述べ示されたある特定のときに、彼が勘定書きとある紳士を同時にひっかけたという混乱した印象がのこっているだけだった。
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第四十二章
[#3字下げ]前章と同様、逆境は人を妙な同室者とまじわらせるという古くからのことわざを示す。サミュエル・ウェラー氏にたいするピクウィック氏のとてつもない驚くべき言葉を伝える
つぎの朝、ピクウィック氏が目をさましたとき、彼の目に最初にとまったものは、さっそうたるスマングル氏の堂々とした姿に、一見したところすっかり心をうばわれて見入っている、小さな黒い旅行用カバンに坐ったサミュエル・ウェラーだった。一方、スマングル氏自身は、もう一部着換えが終わっていて、ウェラー氏をにらみつけて顔色なからしめてやろうというどうにも見込みのない仕事を、寝台の上に坐って、せっせとやっていた。どうにも見込みのないというのは、スマングル氏の帽子・足・頭・脚・頬髯など一度にながめてしまう総合的な凝視で、いかにも満足そうに、しかも、木像や藁を腹からぬき出したガイ・フォークスの像(十一月五日議事堂爆破の陰謀事件を記念してその張本人のガイ・フォークスの像をつくり、子供が町内を引きまわして、夜それを焼きすてる風習がある)をながめているのと同じように、スマングル氏の個人的な感情はいっさい顧慮せずに、サムはしっかりと相手を見つづけていたからである。
「うん、今度おれに会ったとき、おれがわかるかね?」眉をよせて、スマングル氏はたずねた。
「どこでも、誓ってあんただと言えますね」陽気にサムは答えた。
「紳士にたいして生意気な態度はとるなよ」スマングル氏は言った。
「いや、絶対にとりませんよ」サムは答えた。「彼が目をさましたときに教えてくれたら、わたしは最高特別な態度をとるんですからね!」この言葉は、遠まわしにスマングル氏は紳士でないことを当てつけていたので、彼の怒りを燃え立たせた。
「ミヴィンズ!」激しい態度で、スマングル氏は言った。
「なんの用ですね?」自分の長椅子からミヴィンズは答えた。
「いったい、この男はだれなんだ?」
「いやあ」ものうげに布団の下からながめて、ミヴィンズは言った、「それはこっちであんたにきかなけりゃならんこってすよ。彼はここになにか用があるんですかね?」
「いいや」スマングル氏は答えた。
「じゃ、やつを下にたたき落とし、わたしが蹴っとばしにいくまで、起きたりはするなって言ってくださいよ」ミヴィンズ氏は答え、この忠告をさっと与えると、この優秀な紳士はまた眠りこんでしまった。
会話がまぎれもなく人身攻撃的なものになりそうになっていたので、ピクウィック氏はここぞ潮時と考えて、口をはさんだ。
「サム」ピクウィック氏は言った。
「はい」サムは答えた。
「きのうの晩から、なにか新しいことが起きたかね?」
「なにも特別起きてませんよ」スマングル氏の頬髯をチラリと見て、サムは答えた。「むっとした雰囲気がこもってたんで、おっそろしい殺伐な種類の雑草が茂るのにもってこいの状態になりましてね。しかし、その例外はべつにして、万事こともなく静かです」
「わしは起きるよ」ピクウィック氏は言った、「わしに新しい肌着をおくれ」
どんな敵意のある意図をスマングル氏がもっていたにせよ、旅行カバンを開いたことで、彼の考えはすぐそらされてしまった。旅行カバンの中身は彼に深い感銘を与えたらしく、彼はただちにピクウィック氏ばかりかサムにもとても好意的になり、早い機会をとらえて、風変わりなサムにも聞こえるほどの大声で、サムこそまさに純粋の風変わりな人物、したがって、自分の性分にピタリの男だ、と言っていた。ピクウィック氏については、彼がいだいた親愛の情はとめどなくひろがっていった。
「なんかあんたにしてあげられることがありますかね?」スマングル氏はたずねた。
「べつになにもありませんよ、ありがとう」ピクウィック氏は答えた。
「洗濯女に出したい肌着はありませんかね? 週に二回わたしのものをとりに来てくれる感じのいい洗濯女を知ってますよ。それに、まったく!――ほんとに運のいいこった!――彼女がやってくる日はきょうなんです。わたしのといっしょに、そこの小間物を入れてあげましょうかね? 面倒なんて、心配することはありませんよ。そんなことなんて、とんでもないこと! 苦境にある紳士が、同じ立場にあるべつの紳士を助けるために、少しくらいの不便を忍ばないとしたら、人間性なんてどんなものになってしまいますかね?」
こうスマングル氏は語り、それと同時に、旅行カバンにできるだけ近くにじりより、このうえなく熱烈で純粋な友情のある表情を発散させていた。
「あの男が|刷毛をかける《ブラツシユ》ようにと出したいものはなにもありませんな、きみ、ありますかね?」スマングル氏はつづけて言った。
「きみ、なにもないよ」返事を自分にひきとって、サムは答えた。「たぶん、その男をわずらわさずに、ここのだれかひとりが|ひっぱたか《ブラツシユ》れたら、だれにとっても、もっと愉快だろうがね。使用人|頭《がしら》になぐられるのを生徒が反対したとき、学校の先生が言ったようにね」
「わたしの小さな箱に入れて洗濯女に出すようなものは、なにもありませんかね、どうです?」サムからピクウィック氏のほうに向きなおり、ちょっと狼狽したふうを見せて、スマングル氏は言った。
「なんにもありませんよ」サムはやりかえした。「あの小さな箱は、いまのままでも、あんたのもんでいっぱいでしょうからね」
男の肌着を洗うさい、その洗濯女の腕がふつうためされるスマングル氏の服のしみにとくに目をつけて、この言葉はじつに表情豊かに語られたので、スマングル氏はクルリと向きなおり、さし当たってはとにかく、ピクウィック氏の財布と衣装にたいするすべての意図を放棄しなければならなくなった。そこで彼はがっくりしてラケット球場に引きしりぞき、前の晩に買いこんだ二本の葉巻きをくゆらせて、軽い朝食をとりにかかった。
タバコはすわず、雑貨類にたいする勘定書きが石板のどん尻のところまでとどき、それが裏側にまで「うつされ」ていたミヴィンズ氏は、床の中にいつづけ、彼自身の言葉では、「眠ることで満足していた」。
堂々たる「酒場」という名がつけられている喫茶室付属の小部屋で朝食をとり、そこに一時いて、余分のわずかな費用はとられながらも、前記喫茶室での話をぜんぶ聞けるという楽しみを味わい、ウェラー氏をある必要な用件で使いに出してから、ピクウィック氏は詰め所にゆき、自分の将来の宿泊施設について、ローカー氏と相談をはじめた。
「宿泊施設ですって、えっ?」大きな本を参考にして見ながら、ローカー氏は言った。「それはたくさんありますよ、ピクウィックさん。あんたの同宿伝票は三番、二十七室ですよ」
「おお」ピクウィック氏は言った。「わたしのなんですって?」
「あんたの同宿伝票ですよ」ローカー氏は答えた。「それはわかるでしょうな?」
「よくわかりませんな」ニヤリとして、ピクウィック氏は答えた。
「いやあ」ローカー氏は言った、「そいつはじつにはっきりしたこと。三番の二十七室にたいする同宿伝票をもらえるんですよ。その部屋にいるもんがあんたの同宿者でね」
「そうした人がたくさんいるのですかね?」疑わしげにピクウィック氏はたずねた。
「三人ですよ」ローカー氏は答えた。
ピクウィック氏は咳払いをした。
「そのひとりは牧師でね」話しながら、小さな紙切れになにか書きこんで、ローカー氏は言った。「もうひとりは肉屋ですよ」
「えっ?」ピクウィック氏は叫んだ。
「肉屋ですよ」書きにくいペン先をなおそうと、それを机の上にコツンとやって、ローカー氏はくりかえした。「まったく、あいつは徹底した達人だったね! ネッディ、トム・マーチンのことを憶えてるだろうね?」たくさん刃のついたポケット用のナイフで靴の泥を落としていたこの詰め所にいるべつの男に呼びかけて、ローカー氏は言った。
「おれは[#「おれは」に傍点]憶えてると思うね」人称代名詞にバカに力を入れて、呼びかけられた男は答えた。
「いや、まったく!」ゆっくりと頭をふりながら、まるで幼いころと、なにか静かな場景を楽しく思い起こしているように、自分の前にある格子のついた窓からボーッとして外をながめながら、ローカー氏は言った。「彼があそこの波止場で石炭運搬人夫をフォックス・アンダー・ザ・ヒルの下にぶっとばしたのは、まるできのうのような気がするな。なぐったあとで少し落ち着き、右のまぶたの上に酢をつけた褐色の紙をはりつけ、相手の小男をあとで抑えつけたあのかわいいブルドッグをあとにしたがえて、ストランド街をふたりの巡査にはさまれて彼がやって来た姿を、いまでもはっきり思い出すことができるようだよ。時って妙なもんだな、そうじゃないかい、ネッディ?」
こうした言葉をかけられた相手の紳士は、無口で考えこむたぐいの男らしく、ただその質問をおうむがえしに答えただけだった。ローカー氏は、われ知らず落ちこんだ詩的で陰気な物思いをふりすてて、日常のありきたりの事務にまいもどり、ペンをふたたび手にとった。
「第三の紳士はどんな人か、知っていますか?」彼の将来の仲間になるふたりの人物のこの描写に余り満足せずに、ピクウィック氏はたずねた。
「あのシンプソンはどんなやつだい、ネッディ?」仲間のほうにふり向いて、ローカー氏は言った。
「なにシンプソンだったっけな?」ネッディは言った。
「いやあ、この方が合宿することになってる、第三の二十七番のあの男さ」
「おお、あの男か!」ネッディは答えた。「あいつはまったくつまらん男さ。もとはいかさまの馬商人、いまはいかさまのぺてん師だよ」
「ああ、そうだと思ってたよ」本を閉じ、小さな紙切れをピクウィック氏の手にわたして、ローカー氏は答えた。
「これが伝票ですよ」
こうしていとも簡単に自分の体が処分されたことにひどく狼狽して、ピクウィック氏は監獄にもどり、どうしたものかと心中考えていた。しかしながら、ほかになにか手段をとる前に、彼がいっしょに住むようにと申しわたされた三人の紳士と会い、彼らと話してみるのがいちばんと考えて、彼は急いで第三階段のところに歩いていった。
暗い光の中でちがった戸口の番号を読みとろうとして、しばらくのあいだ、廊下をさぐりながら歩きまわったあとで、彼はとうとうしろめ[#「しろめ」に傍点]の器物を集めて朝の仕事をやっている雑役給仕に呼びかけた。
「きみ、二十七番というのはどれかね?」ピクウィック氏はたずねた。
「五部屋先のとこですよ」給仕は答えた。「ぶらさげられてタバコをすってる男のような絵が戸の外に描かれてますよ」
この言葉にみちびかれて、ピクウィック氏はゆっくりと廊下を進み、前に教えられた「紳士の肖像」にとうとうゆき逢い、その顔のところを人さし指の関節で――最初は静かに、ついではっきりと――コツン、コツンとたたいた。これを数回くりかえしてもなんの効果もなかったので、彼は思い切ってドアを開け、中をのぞいて見た。
部屋にはひとりの男しかおらず、彼は体の釣り合いをくずさないようにして窓からできるだけ体を突き出し、すごい熱心さで、下の中庭の友人の帽子の頭の天辺につばをはきかけていた。話をし、咳をし、くしゃみをし、ノックをし、その他注意をひくありとあらゆる方法を試みても、この男に来訪者の存在を気づかせることができなかったので、ピクウィック氏は、しばらく間をおいたあとで、窓のところにゆき、上衣のすそのところをそっと引っぱった。男はさっと頭と肩とを中に入れ、ピクウィック氏を頭から足までジロジロとながめ、むっとした調子で、いったいなんの用なんだ? とたずねた。
「ここは」伝票を見ながら、ピクウィック氏は言った、「第三の二十七室なんでしょうね?」
「それで?」男は答えた。
「この紙を受けとったんで、わたしはここに来たんですよ」ピクウィック氏は応じた。
「それをこっちにわたしな」男は言った。
ピクウィック氏はそれに応じた。
「ローカーのやつ、お前をどこかほかの場所に入れたらよかったんだがな」シンプソン氏(というのも、この人物は例のいかさま師だった)は、とても不満そうにだまっていたあとで、言った。
ピクウィック氏も同意見だったが、こうした事情のもとでは、だまっているのが得策と考えた。
その後、シンプソン氏はしばらく考えこみ、それから頭を窓から突き出して、甲高い口笛をひと声ピーッと吹き、何回か声高にある言葉をくりかえして叫んだ。その言葉がどんなものか、ピクウィック氏にはわからなかったが、それはマーチン氏のなにか綽名にちがいないものだった。これは、下にいたたくさんの紳士たち、社会のためになるこの階級の人たちが、昼間、中庭の手すりのところでいつも自分の存在を知らせるあの口調を真似して、すぐに「肉屋!」と叫びだした事実からもわかった。
これから起きたことも、ピクウィック氏の印象の正しかったことを裏書きしていた。数秒すると、年齢のわりには下卑た、青い細綾綿布の馬商人の服を着た、かかとのまるい乗馬靴をはいた紳士が息せき切って部屋にとびこみ、そのあとに、とてもきたない黒服を着用し、あざらし[#「あざらし」に傍点]の皮の帽子をかぶったべつの紳士がすぐはいってきたからである。ピンとボタンで交互に上衣をしっかりと顎のところまでまきつけていたあとの紳士は、とても粗野な赤ら顔をし、のんだくれの牧師といった感じ、彼はたしかに牧師だった。
このふたりの紳士はかわるがわるピクウィック氏の伝票をよく調べ、一方は、それが「いかさまだ」と意見を発表、もうひとりは、こいつは「困ったこと」という確信を発表した。ふたりの気持ちをこうしたとてもわかりやすい言葉であらわしてから、彼らは、気まずい沈黙につつまれて、ピクウィック氏をながめ、互いに顔を見合わせていた。
「寝台をとても気持ちよくしたんだから、こいつはいまいましいこったな」それぞれが毛布に巻かれた三つのきたない布団に目をやって、牧師が言ったが、そうした布団は、昼間のあいだ部屋の隅におかれ、一種の平板になっていて、その上には古い割れた洗面器、水差し、青い花のついた俗っぽい黄色の陶器づくりの石鹸皿がおかれてあった。「じつにいまいましいこった」
マーチン氏は、そうとう激しい言葉で同じ意見を発表し、シンプソン氏は、名詞ぬきのさまざまのつけたしの形容詞で社会をののしってから、袖をまくりあげ、夕食のために野菜を洗いだした。
こうしたことが進行中、ピクウィック氏は部屋をジッと見ていたが、それは不潔できたなく、たまらぬほどむっとする臭気がただよっていた。じゅうたん、カーテン、日除けのわずかな痕跡さえのこってはいなかった。そこには便器さえなかった。たとえなにかあったにせよ、片づけるものといって、ほとんどなにもなかった。しかし、数ではどんなに少なく、それぞれの量でどんなにわずかであろうとも、パンとチーズの切れののこり、ぬれたタオル、肉の切れ端、着物類、傷のついた瀬戸物、筒口のないふいご、またのとれたパン焼きフォークは、それが小さな部屋の床にまき散らされているとき、余りぞっとはしないものであり、こうした小部屋が、三人のなまけ者の居間兼寝室になっていた。
「こいつはなんとか始末がつくと思うな?」かなりながいことだまりこんでいたあとで、肉屋は言った。「外に出るのに、どれだけ欲しいんだね?」
「失礼ですが」ピクウィック氏は答えた、「なんと言われたんですか? あなたの言うことがちょっとわからないのでね」
「金をもらって出てくのに、どれだけ欲しいんだね?」肉屋は言った。「正規の部屋代は二シリング六ペンスだが、三シリング受けとるかね?」
「――それに六ペンス」牧師は言った。
「うん、そいつは問題じゃないさ。それぞれ二ペンスずつ出せばいいんだからな」マーチン氏は言った。
「さあ、どうだね? おれたちはお前さんに週三シリング六ペンス払ってやるよ。さあ!」
「それに、下でビールを一ガロンおごってやろう」シンプソン氏は調子を合わせた。「さあ!」
「そして、その場でそれを飲むんだぞ」牧師は言った。「さあ!」
「わたしはこの場所の規則にはとんと暗くてね」ピクウィック氏は答えた、「まだあなたの言われることがわからんのです。どこかほかの場所に住める[#「住める」に傍点]のですか? それは不可能と思いこんでいたのですが……」
こうたずねられて、マーチン氏は、ひどく驚いた顔をして、ふたりの友人をながめ、それから、それぞれの紳士は右の親指で左の肩越しにうしろをさした。この動作の意味は、消極的に「言葉の逆」をあらわしているのだが、いっしょに行動するのに馴れている女や男によっておこなわれる場合、とても優雅で軽快な効果をあげるもの、そのあらわすものは、軽いふざけたひやかしといったものである。
「住める[#「住める」に傍点]かだって!」あわれみの微笑を浮かべて、マーチン氏はおうむがえしに言った。
「うん、おれが人生についてそんなになにも知らなかったら、おれは自分の帽子を食い、締め金をそっくり飲んじまってもいいぞ」牧師は言った。
「おれだってそうだ」いかさま師は重々しく言いそえた。
この序論的な前口上のあとで、三人の同室者はひと息に、金はフリート監獄では外と同じもの、それで望むどんなものでもほとんど手にはいること、金をもっていて、それを使うのに異議がなく、一部屋を自分のものにしたい意志を伝えれば、三十分もすると、そうした部屋、しかも家具のついたしっかりした部屋が手にはいることをピクウィック氏に知らせた。
これで一同はわかれ、それぞれとても満足した気分になっていた。ピクウィック氏はもう一度詰め所にもどり、三人の仲間は喫茶室にゆき、そこで牧師がすばらしい慎重さと先見の明でピクウィック氏から借用した五シリングの金を使うことになった。
「わかってたよ!」ピクウィック氏がもどってきた目的を述べたとき、クスクスッと笑って、ローカー氏は言った。「そう言わなかったかい、ネッディ?」
なんでも用のペンナイフの哲学者のような所有主は、そうだ、とうなった。
「まったく、あんたが自分用の部屋を欲しがるだろうということはわかってたよ!」ローカー氏は言った。「はてな。家具が必要なんだな。それをおれから借りるんだろうね? それがまともなことだからな」
「大よろこびでね」ピクウィック氏は答えた。
「喫茶室の階にひとつすばらしい部屋があるよ。それは大法院の囚人のものなんだがね」ローカー氏は言った。「そいつには週に一ポンドの金がいるんだ。そいつはかまわないだろうね?」
「かまいませんとも」ピクウィック氏は答えた。
「ちょっとおれといっしょにそこにいってくれ」さっと帽子をとりあげて、ローカー氏は言った。「五分もすれば、話は決まるよ。まったく、金はどんどん出すと、最初にどうして言わなかったんだい?」
看守が予言したとおり、話はすぐに決まった。大法院の囚人はこの監獄にながいこと滞在し、友人・財産・家庭・幸福を失い、独房をもつ権利を獲得していた。しかし、彼は一口のパンにこと欠くといった窮状に苦しんでいたので、部屋を貸してくれというピクウィック氏の提案に熱心に耳を傾け、週二十シリングの部屋代でその単独所有権を彼にゆずりわたすことをよろこんで承知・賛成した。そしてさらに、そこに同室者として住むようになるかもしれないひとりまたはそれ以上の人にたいして、そこを追い払う費用をこの二十シリングの中から出すことを契約した。
この契約を結んだとき、ピクウィック氏は相手の人物を悲痛のこもった興味でながめていた。彼は古い大外套とスリッパを着けた背の高い、やつれた、死相を帯びた男、頬はくぼみ、目は落ち着かず、熱をもっていた。彼の唇には血の気がなく、骨はとがって細かった。気の毒に! 監禁と貧困の鉄の歯は、二十年間、ゆっくりとこの男をやすりですりへらしていたのだった。
「そして、あなたは、そのあいだ、どこに住むつもりです?」前金として最初の一週間の部屋代をよろよろしたテーブルの上に出して、ピクウィック氏はたずねた。
男はふるえる手でその金を集め、まだわからない、寝台をどこにうつせるものか調べてみなければならない、と答えた。
「心配なんですがね」手をやさしく、いたわるようにして相手の腕に乗せて、ピクウィック氏は言った、「心配なんですがね、あなたはどこかさわがしい、人のたくさんいる場所に住まなければならなくなるでしょう。静かになりたいときや、だれかお友だちが会いに来たときには、どうかこの部屋をあなた自身の部屋と考えてください」
「友だちですって!」喉がゴロゴロと鳴る声でその男は口をはさんだ。「棺にしっかりと、ねじをかけられハンダで結びつけられて、わたしの死体がこの世でいちばん深い鉱坑の底に埋められ、この監獄の土台の下でドロドロしたものを流している暗いきたならしいみぞでくさっていても、いまのわたし以上に忘れられ、おきざりにされることはないでしょう。わたしは死滅した人間、社会にたいしても死んだ者、その魂が裁きを受けにいった人たちが受けるあわれみも授けられていない者なんです。わたしに[#「わたしに」に傍点]会いに来る友だちですって! 驚いたこと! わたしは人生の盛りから老人になるまで、この場所に沈みこみ、わたしが床で死んだとき、そこに手をあげてくれ、『彼が死んだのはありがたいことなのだ』と言ってくれる人ひとりもいないのです」
話しているあいだ、ふだん見られぬ光をこの男の顔に投げていた興奮のようすは、話が終わると、消えていった。そして、あわただしく、とり乱した態度でしなびた手をしっかりと結んで、彼は足を引きずりながら部屋から出ていった。
「乗り具合いが、だいぶわるいというやつだな」ニヤリとしてローカー氏は言った。「ああ! あの連中は象のようなもん。ときどきそんなふうになって、荒れるのさ!」
この深い同情的な言葉を発してから、ローカー氏はさっさと自分の仕事をはじめ、間もなく、この部屋に、週二十七シリング六ペンスという安い値で、じゅうたん、六つの椅子、テーブルひとつ、ソファー式の寝台、やかん、その他さまざまな品物が借り物で備えつけられることになった。
「さて、なんかほかにご用はありますかね?」大満悦で部屋を見まわし、最初の週の収入をにぎりしめた拳の中で陽気にカチカチいわせて、ローカー氏はたずねた。
「うん、ありますよ」しばらくジッと考えこんでいたピクウィック氏は言った。「使い走りとかそういったことをしてくれる人が、だれかここにいますかね?」
「外部に、ということですかね?」ローカー氏はたずねた。
「ええ、外に出られる人のことです。囚人ではありませんよ」
「うん、いますよ」ローカー氏は言った。「貧乏人の側に友人をもってる不幸なやつがいますがね、やつなら、そうしたことはよろこんでしてくれますよ。やつは、このふた月のあいだ、片手間仕事といったことをやってますからね。彼を呼びにやりましょうかね?」
「もしよろしかったら」ピクウィック氏は答えた。「待って。それはよすことにしましょう。貧乏人の側ですって? そこをひとつ見たいもんですな。彼のところへわたし自身がゆきましょう」
債務者監獄の貧乏人の側というのは、その名が示すように、負債者のうちでいちばんみじめ、いちばん目も当てられない連中が入れられている場所である。貧乏人の側とはっきり言った囚人は、同室者分担の部屋代も払わない。監獄にはいり、出るときの費用も額が減らされ、わずかな食料をもらう資格を与えられ、その食料を支給するために、わずかな慈善家が、ときどき、遺言状でわずかな金額をのこしてくれている。つい二、三年前まで、フリート監獄の壁に一種の鉄籠があり、その中に飢えた顔つきをした男が入れられ、彼は、ときどき、銭箱をガラガラと鳴らし、悲しげな声をはりあげて「どうかあわれな負債者をお忘れなく、どうかあわれな負債者をお忘れなく」と叫んでいたのを、たいていの読者はご記憶であろう。多少なりともこの箱に収入があれば、それは貧乏な囚人のあいだでわけられ、このみじめなつとめを、貧乏人の側の人々は交替でやっていたのである。
この習慣は廃止され、籠は板がこいでかくされてしまっているが、こうした不幸な人々のみじめな困窮した状態は、依然としてもとのままである。彼らが監獄の門で通行人の慈悲と同情にすがるのはもう許されてはいないが、後世の尊敬と驚嘆を獲得するようにと、頑強な兇悪犯人が食事と衣服を与えられ、文なしの負債者は飢餓と素裸で死ぬにまかされているという正当で健全な法律は、法令全書のページで、消されぬままのこっている。これは、つくり話ではない。われわれがすごしているどんな一週間でも、イギリスの債務者監獄のどこででも、こうした人々の何人かは、仲間の囚人の救いの手がのばされなかったら、ゆっくりと進行する貧困の苦悶でどうしても死亡しなければならないことになっているのだ。
その下でローカー氏とわかれたせまい階段をのぼってゆきながら、こうしたことを心の中で考えて、ピクウィック氏はだんだんと興奮し、心は沸騰点にまで達していった。彼はこの問題についての考えですっかりカッカとなっていたので、彼が教えられた部屋にとびこんでいったときには、自分がいる部屋のこと、ここにやってきた目的のことは、なにもはっきりと考えないでいた。
この部屋の雰囲気がすぐ彼をハッとわれにかえらせたが、ほこりっぽい火の上を見つめてジッと考えこんでいる男の姿に目をとめるやいなや、彼は帽子を床の上に落としたまま、釘づけに立ちつくし、驚きで棒立ちになっていた。
そう、ボロボロの服をまとい、上衣も着けず、黄色でぼろになったいつものキャラコのシャツ姿、髪は顔にたれさがり、顔つきは苦しみで変わり、飢餓で痩せおとろえて、そこにアルフレッド・ジングル氏が坐っていた。彼は頭を片手でささえ、目はジッと火を見入り、彼の姿ぜんぶは、みじめさと失望を物語っていた。
彼のそばに、浮かぬ顔をして壁によりかかって、がっちりとしたいなか者が立ち、すりきれた乗馬用の鞭でその右足を飾っていた乗馬靴をピシッ、ピシッと軽く打っていたが、その左足は(彼の身じたくのととのえ方はゆっくりとしたもの)古いスリッパをつっかけたままだった。馬・犬・酒がとっとと彼をここに送りこんだのだった。片一方だけの乗馬靴には錆びた拍車がついていて、この靴をときどき彼はパッとあげ、それと同時に靴に激しい一撃をくれ、狩りをする人が馬をふるい立たせるなにかかけ声をブツブツつぶやいていた。彼は、このとき、なにかすごい野外横断競争で馬に乗っているものと想像しているのだった。かわいそうに! 彼の高価な競馬用の馬の中のどんな俊馬に乗って競馬をしたとしても、その速さは、フリート監獄で終点のコースを彼がしゃにむにふっとんでいった速度にくらべたら、その半分にもならなかったことだろう。
部屋の反対側には、老人がひとり小さな木の箱に坐っていて、目は床に釘づけ、その顔は深刻でどうにもならぬ絶望の動かぬ表情を示していた。小さな娘――彼の幼い孫娘――が彼のまわりにまといつき、子供らしいいろいろの工夫をめぐらして、彼の注意をひこうとしていたが、老人は孫娘の姿を見もせず、その言葉を聞いてもいなかった。彼にとって音楽であったあの声、光であったあの目は、彼の感覚を呼びさますものになってはいなかった。彼の手足は病気でふるえ、彼の心は麻痺状態におちいっていた。
この部屋には、小さな群れになって、二、三人の男がいて、仲間のあいだでさわがしく話し合っていた。また、痩せてやつれた女――囚人の妻――がいたが、いかにも心配そうに、青い葉を二度と出すことがないのはだれの目にもわかる、乾いてしなびた植物の株に水をやっていた。これは、彼女が果たそうとしてここにやってきた仕事の効果を、いかにもあからさまにあらわしている表象とも言えるものだった。
ピクウィック氏がびっくりしてあたりを見まわしたとき、彼の目にはいったのは、こうしたものだった。急いでけつまずきながらこの部屋にとびこんできただれか男の物音が、彼をハッとわれにかえらせた。目をドアのほうに向けると、そこにいまはいってきた男が立っていたが、ぼろを着て、よごれてはいながらも、彼はその男によく知っているジョッブ・トロッター氏のあの面影を認めた。
「ピクウィックさん!」ジョッブは大きな声をあげて叫んだ。
「えっ?」座席からパッと立ちあがって、ジングル氏は言った。「ピクウィック! まさにそうだ――奇妙な場所――妙なこと――身から出た錆――とてもね」ジングル氏はズボンのポケットがもとあった場所に両手をつっこみ、顎をガクリと胸に落として、椅子に沈みこんだ。
ピクウィック氏は気の毒になった。ふたりの男はじつにみじめなふうをしていたからである。ジョッブが運びこんできた小さな半焼けの羊の腰肉にジングル氏がわれ知らず投げた鋭いまなざしは、二時間かけての説明より、もっとはっきりと、彼らの困窮を物語っていた。ピクウィック氏はおだやかにジングル氏を見て、言った――
「きみとふたりだけで話したいのだがね……。ちょっと外に出てくれませんか?」
「いいですとも」急いで立ちあがって、ジングル氏は答えた。「遠くまではゆけず――ここで歩きすぎる心配はなし――王座部(高等法院の一部門)の監獄――美しい庭――ロマンチックだが、ひろいものではなし――大衆の視察は自由――一族はいつもロンドン市内――家屋管理人はすごく用心深く――とてもね」
「きみは上衣を忘れてきましたね」ふたりが階段のところに出てゆき、戸を閉めたとき、ピクウィック氏は言った。
「えっ?」ジングル氏は言った。「質屋――親しい親類――トム叔父さん――どうにも処置なし――食わねばならんのでね。自然の要求――そういったこと」
「というのは、どういうこと?」
「消えちまったんですよ――最後の上衣――どうとも処置なし。靴一足で生活――まるまる二週間。絹の傘――象牙の柄――一週間――事実――名誉にかけて――ジョッブにきいてごらんなさい――それを知ってるから」
「一足の靴と象牙の柄の絹の傘で三週間も暮らしたんですって!」ピクウィック氏は叫んだが、彼にとって、こんな話は、難破の場合の話として聞き、コンスタブル(一八二七年アーチボルド・コンスタブルが出した本で、そうとう人気を集めた)の雑録で読んだことがあるだけだった。
「そのとおり」頭をコクリとうなずかせて、ジングル氏は言った。「質屋の店――この質札――わずかな金額――とるにたらぬもの――どれもこれも悪党」
「おお」この説明でだいぶわかって、ピクウィック氏は言った。「わかりましたよ。衣類を質に入れたのですな」
「ありとあらゆるもの――ジョッブのものも――肌着はぜんぶ消え――かまいはせん――洗濯の手間はぶき。すぐに無――床に横になり――飢え――死に――検死――小さな棺――あわれな囚人――社会に必要なもの――それをもみ消し――陪審官――刑務所長の商人――それをうまくかくし――自然の死――検死官の命令――貧民院の葬式――身から出た錆――万事終わり――幕がさがる」
ジングル氏は、いつものおしゃべりで、この奇妙な前途の見とおしを語り、顔をいろいろに引きゆがめて、微笑をよそおおうとしていた。彼の無頓着さがただ外見だけのものであるのをピクウィック氏はすぐに見破り、顔をまともに、しかしやさしく、ながめて、彼の目が涙にうるんでいるのを知った。
「いい人だ」ピクウィック氏の手をにぎりしめ、顔をそむけて、ジングル氏は言った。「恩知らずの犬――泣くなんて子供っくさい――どうにもならないんだ――ひどい熱病――弱り――病気――空腹。これも当然のこと――だが、ずいぶんと苦労――とてもね」もうこれ以上外見をよそおうことができなくなり、そして、それはそれまでの努力でなお我慢できぬものになったのだろうが、がっくりとした放浪者は椅子に腰をおろし、両手で顔をおおって、子供のように泣きだした。
「さあ、さあ」すっかり気の毒になって、ピクウィック氏は言った、「ことすべてを話してもらったら、なにか打開策を考えてみることにしましょう。おい、ジョッブ。あの男はどこにいるのだろう?」
「ここにいますよ」階段のところに姿をあらわして、ジョッブは答えた。ちなみに、彼の目が深くくぼんでいることは前に述べたが、いまは、その目がすっかり消えてしまったような感じだった。
「ここにいますよ」ジョッブは叫んだ。
「ここに来てくれ」四粒の大きな涙をチョッキに流しながら、きびしい顔つきをくずすまいとして、ピクウィック氏は言った。「これを受けとれ」
とるって、なにを? こうした言葉のふつうの意味では、それは一撃をくらわすことになる。世間一般でいえば、それはしたたか加える強い一撃になるところである。ピクウィック氏はいまは思うように料理できるようになった無一文の放浪者によってだまされ、あざむかれ、ひどい目に逢っていたからである。ここで真実を申しあげねばならぬのだろうか? それはピクウィック氏のチョッキのポケットから出されたもの、ジョッブの手にわたされたとき、チリン、チリンと鳴り、それを与えられて、彼があわただしく去っていったとき、彼の目は多少輝きを帯び、その胸はふくらみあがっていた。
ピクウィック氏が自分自身の部屋にもどっていったとき、サムはもう帰っていて、いかにもきびしく、しかも満足げに、ピクウィック氏のためにととのえられた部屋の配置をながめていたが、それは、見ていてもおもしろくなるものだった。自分の主人がこの場所にいることにたいしてはっきりと反対の態度をとっていたので、ウェラー氏は、そこでおこなわれ、語られ、提案されたどんなことにたいしてもたいしたよろこびを示さぬことを、自分の高い道義的な義務と心得ているらしかった。
「うん、サム」ピクウィック氏は言った。
「はあ」ウェラー氏は答えた。
「これで、かなり住み心地よくなったね、えっ、サム?」
「まあ、かなりね」だめだといったふうにあたりを見まわして、サムは答えた。
「タップマン氏、その他の友人たちに会ったかね?」
「はあ、会いました。明日来るそうです。きょう来ないなんて、とてもびっくりしましたよ」サムは答えた。
「わしが欲しいと言っていたものはもってきてくれたね?」
ウェラー氏は、その返事がわりに、部屋の隅にできるだけきちんとならべられたいろいろの荷物を指さした。
「ありがとう、サム」少しモジモジしていたあとで、ピクウィック氏は言った。「わしのこれから言うことを、よく聞いておくれ、サム」
「はい、わかりました」ウェラー氏は答えた、「さあ、話してください」
「わしは最初から感じているんだがね、サム」いかにも重々しくピクウィック氏は言った、「ここは若い者がはいってくるべき場所ではないとね」
「老人も来るべきところではありませんね」ウェラー氏は言った。
「まったく、そのとおりだよ、サム」ピクウィック氏は言った。「だが、老人は、それ自身の不注意や警戒心不足でここにやってき、若い者は仕えていた者の利己主義でここにつれられてくるのかもしれない。しかし、そうした若い者は、どう見ても、ここにながくはいないほうがよいのだ。わしの言うこと、わかるかい、サム?」
「いや、わかりません。わかりません[#「せん」に傍点]よ」がんこにウェラー氏は答えた。
「わかるようにつとめてみておくれ、サム」ピクウィック氏は言った。
「はあ」ちょっと間をおいて、サムは答えた、「旦那さまの意向はわかります。でも、その意向がわかったにしても、それは度が強すぎるというのが、わたしの意見です、|吹雪《ふぶき》におそわれた郵便馬車の御者が言ったようにね」
「お前がわしの言うことを理解してくれたのはわかったよ、サム」ピクウィック氏は言った。「これから先何年も、お前がこんな場所にブラブラしていてはいけないというわしの考えはべつにしても、フリート監獄の負債者が召使いにかしずかれているなんて、途方もないバカげたことだと、わしは感じているのだ。サム」ピクウィック氏は言った、「しばらくのあいだ、お前とわしは別れなければならないね」
「おお、しばらくのあいだですって、えっ?」ひどく皮肉な調子で、ウェラー氏は答えた。
「うん、わしがここにいるあいだはね」ピクウィック氏は言った。「お前の給料は、ずっと払ってあげるよ。わしの三人の友人はだれでも、わしにたいする敬意からだけでも、よろこんでお前をやとってくれるだろう。そして、もしわしがこの場所から出るようなことになったら、サム」陽気なふうをよそおって、ピクウィック氏は言いそえた、「もしそうしたことになったら、約束してもいい、お前をすぐに呼びもどすよ」
「じゃ、ありていのことを申しましょう」重々しい、厳粛な声でウェラー氏は言った、「そんなことを言っても、だめです。だから、そんな話はもうしないでください」
「わしは本気、決心しているのだよ、サム」ピクウィック氏は言った。
「えっ、そうなんですか?」断固たる態度でウェラー氏はたずねた。「よくわかりましたよ。そんなら、わたしも本気、決心してるんです」
こう言いながら、ウェラー氏は帽子をきちんとかぶり、いきなり部屋を出ていった。
「サム!」彼のあとに呼びかけて、ピクウィック氏は叫んだ、「サム! おい!」
だが、ながい廊下にひびいた足音はとだえ、サム・ウェラーの姿は消えてしまった。
[#改ページ]
第四十三章
[#3字下げ]サミュエル・ウェラー氏が苦境に立ついきさつ
リンカン・イン・フィールズのポルトガル通りにある高い、採光のわるい、通風はなおわるい部屋に、小さな書き物机を前において、その場合に応じて、ひとり、ふたり、三人、あるいは四人のかつらをかぶった紳士が、ほとんど一年中、坐っている。その机は、ラックぬりはべつにして、イギリスの裁判官が使っているのとそっくりのつくりのものである。彼らの右手には法廷弁護士の席があり、左手には支払い不能の負債者のはいる囲いがあり、正面には特別きたない顔のならんだ斜面がひろがっている。この紳士たちは破産者法廷の事務官で、彼らが坐っているその場所は、破産者法廷である。
尾羽打ちからしたきたならしいロンドンの紳士たち全員がそろって、この場所を彼ら共通の落ち合い場所、毎日ののがれ場所ととにかく考え理解していることは、大むかしの時代から、この法廷の注目すべき宿命になっている。そこは、いつも満員状態である。ビールと酒の蒸気がたえず天井にあがってゆき、熱気で液化して、雨のように壁ぞいに流れ落ちる。ハウンズディッチで一年間に売られるのよりもっと多くの古着が一度にそこに集まり、タイバーンとホワイトチャペルのあいだのポンプと理髪店が一日では洗い清められないほどのきたない肌、ねずみ色がかった顎鬚が集まっている。
彼らがこうして根気よくかよいつめているこの場所に、彼らのうちのだれかが、ほんのわずかな用件、ほんのちょっとした関係でももっているとは考えないでいただきたい。もし彼らが用件・関係をもっていたら、それは驚くべきことではなくなり、ふしぎさは消滅してしまうだろう。その一部は、開廷中、大部分眠りこけ、ほかの連中はハンカチにくるんだり、すりきれたポケットから突き出している小さな弁当をもっていて、それをムシャムシャやり、裁判に聞き入って、その両方を同じように楽しんでいる。しかし、だれももちだされた事件に少しでも関係があるということは、ぜんぜん知られていない。なにをしていようとも、彼らは、最初の瞬間から最後の瞬間まで、そこに坐りつづけている。ひどい雨降りのときには、かれらはみんなびっしょりになってここにはいり、こうしたときに、この法廷の中のこもる蒸気は、かびの穴の蒸気のようである。
たまたまここにやってきた人は、この場所を、見苦しさの守護神に献げられた殿堂と考えるかもしれない。そこの文書送達吏や執達吏で、正式の制服の上衣を着ている者は、ひとりもいない。白髪の、りんご[#「りんご」に傍点]のような顔をした法廷使丁の小男以外に、まあまあ新鮮で、健全といった感じの男は、全法廷をさがしても、ぜんぜん見当たらない。その法廷使丁といっても、ブランデーに漬けられて保存された具合いのわるい桜ん坊のように、人工的に乾かし、しぼめて保存した感じで、保存とは義理にも言えぬような代物だった。法廷弁護士のかつらさえも、髪粉は十分にふられておらず、その巻き毛ものび気味である。
だが、事務官の下の大きなガランとした椅子に坐っている法廷弁護士は、じつに珍しいものである。こうした連中のうちで比較的金まわりのいい人たちのおきまりの道具立ては、青い袋と少年ひとりで、その少年はたいていユダヤ教の少年である。この法廷弁護士はきまった仕事をもってはいない。彼らの法律上の仕事が酒場の客間か、監獄の中庭でおこなわれているためで、彼らは監獄に群れをなしてゆき、乗り合い馬車の車掌のように、客とりをやっている。彼らはあぶらじみた、白かびの生えたようなふうをし、なにかわるい癖をもっているとしたら、たぶん、飲酒癖といかさまが、そのうちでもっとも目立つものと言えよう。彼らの住み家は通常ルールズ(ロンドンのフリート監獄と王座部監獄側の一区域で、以前囚人が保証金を出して居住を許されていた)地区周辺にあり、聖ジョージ・フィールズのオベリスクから一マイル以内のところに住んでいる。彼らの外見は、感じのいいものではなく、彼らの態度は、独得のものである。
この学識ある団体の一員であるソロモン・ペル氏は太った、筋肉のたるんだ、青白い顔をした男で、ある瞬間には緑に、つぎの瞬間には褐色に見える外套を着こみ、それには同じカメレオン式の色をしたビロードのカラーがついていた。彼の額はせまく、顔はひろく、頭は大きく、鼻はすっかり片方にかたむき、まるで造化の神が、彼の生まれたとき、そこにひそんでいる性癖に腹を立て、怒って鼻をひとねじりし、それがそのままにのこったといった感じだった。しかし、首が短く、ぜんそくを病んでいたので、彼は主としてこの機関を通して呼吸をしていた。そこで、その飾りとしてのたりないところは、この効用性でおぎないをつけられていたということができよう。
「大丈夫、彼をなんとかきりぬけさせますよ」ペル氏は言った。
「だけど、大丈夫ですか?」この保証が与えられた相手の男は答えた。
「まちがいなし」ペル氏は答えた。「だが、もし彼がいい加減な弁護士のところにいったら、いいですかな、その結果について当方は責任は負いませんぞ」
「ああ!」相手は、口をポカンと開いて、言った。
「そう、責任は負いませんぞ」ペル氏は言った。そして彼は口をすぼめ、眉をよせ、神秘的に頭をふった。
さて、この会話が交わされていた場所は、破産者法廷の真向かいの酒場だった。そして、それがおこなわれていた相手の男は、ほかならず父親のウェラー氏で、彼は、友人を元気づけ、なぐさめるために、ここにやってきたのだった。法令のもとでこの友人が放免される訴願状が、この日、審理されることになっていて、彼はその弁護士といま相談していた。
「ところで、ジョージはどこにいるんですね?」老紳士はたずねた。
ペル氏は裏の客間のほうに頭をグイッと動かし、ウェラー氏はすぐそっちにいって、彼の到着をよろこんでいた五、六人の同僚の御者たちによって、ただちに熱烈に大よろこびでむかえられた。急行の駅馬車に馬をつけること(競馬のこと)を投機的に無分別に好み、その結果、現在の苦境に立つことになった支払い不能の紳士は、とても元気そう、心の興奮を小えび[#「えび」に傍点]と黒ビールで静めていた。
ウェラー氏と彼の友人たちのあいだでかわされた挨拶は、御者独得のもので、右の手首をグルリとまわし、それと同時に小指をグイッと突き出すものだった。かつて双子の有名な御者(かわいそうに、いまはもう故人)がいたが、そのふたりは献身的な、心からの愛情で結ばれていた。彼らは、二十四年間、ドーヴァー街道でたがいにすれちがい、こうした挨拶以外のどんな挨拶も交わしてはいなかった。だが、一方が死んだとき、のこりのもうひとりは悲嘆に暮れ、間もなくそのあとを追ったのだった!
「うん、ジョージ」外套をぬぎ、いつもの重々しい態度で腰をおろして、ウェラー氏は言った。「どうだい? うしろのほうは大丈夫、中身はいっぱいかい?」
「大丈夫だよ」苦境に立っている紳士は答えた。
「灰色の雌馬はもうだれかにゆずっちまったのかい?」心配そうにウェラー氏はたずねた。
ジョージはそうだとうなずいた。
「うん、そいつはよかった」ウェラー氏は言った。「馬車のほうは世話をみてもらってるんだね?」
「安全なとこに預けてあるよ」何匹かの小えび[#「えび」に傍点]の頭をちぎり、ケロリとしてそれをのみこんで、ジョージは答えた。
「よし、よし」ウェラー氏は言った。「下り坂のときには、いつも馬車のことを注意せにゃならんからな。乗客名簿のほうはちゃんとできているんかい?」
「文書は」ウェラー氏の言っている意味に見当をつけて、ペル氏が言った、「文書は、ペンとインクでつくられるかぎり、はっきり、しっかりしたものになってますよ」
ウェラー氏はこうした準備に心中満足しているといったふうにうなずき、それから、ペル氏のほうに向き、友人のジョージをさして、言った――
「いつ衣装をはぐんだい?」(馬衣をとって馬を出発させる意から、ジョージが法廷に出るのを言っているらしい)
「いや」ペル氏は答えた、「向こう側にある表によれば彼は三番目、だから、三十分もしたら、彼の順になるでしょう。見とおしがついたら、すぐにやってきて報告するようにと、事務員に言いつけてありますよ」
ウェラー氏は、いかにも打たれたように、弁護士を頭から足先まで見まわし、力をこめて言った――
「さて、あんたはなににしますね?」
「いや、本当に」ペル氏は答えた、「あんたはとても――。わたしの言葉と名誉にかけ、習慣として飲まず――。朝はまだ早いのですし、じっさい、わたしはほとんど――。そう、三ペニーほどのラム酒をいただきましょうかな」
注文が出ないうちからそれを予期していた世話好きな女の子は、ペル氏の前に酒を入れたコップをおき、さがっていった。
「みなさん」一同を見まわして、ペル氏は言った、「ご友人の成功を祈ります! みなさん、わたしは自慢を言うのはきらい、それはわたしのやり方ではありませんからな。しかし、言わずにはいられないんです、もしあなた方のご友人が幸運にもわたしの手に――だが、これから先の言葉は言わずにおきましょう。みなさんにご奉仕しますよ」あっという間にコップを飲みほし、ペル氏は舌鼓を打ち、そこに集まった御者たちを、いかにも満足げなようすで、グルリと見まわしたが、彼らが彼を神の一族と見なしていることは明らかだった。
「はてな」法の権威者は言った。「みなさん、わたしはなにを言ってましたっけね?」
「べつの弁護士に異議はないと言ってたと思うんですがね」真顔で冗談をとばして、ウェラー氏は答えた。
「はっ、はっ!」ペル氏は笑った。「うまい、うまい。べつの弁護士ですって! 朝のこんなときに、そいつは余りにうまい――。そう、わかりませんよ、きみ――よかったら、それをくりかえしてみてもいい[#「いい」に傍点]ですよ、えへん!」
この最後の音は厳粛で威厳のある咳払い、自分の聞き手のうちに不都合にも冗談をとばそうとする気味があるのをさとって、それをしたほうがよいと、ペル氏は考えたのだった。
「みなさん、故大法官閣下はわたしをとても|贔屓《ひいき》にしてくださいましてな」ペル氏は言った。
「閣下にしても、とてもりっぱなことですな」ウェラー氏は口をはさんだ。
「ヒヤ、ヒヤ」ペル氏の依頼人のジョージは賛意をあらわした。「当然のこってすよ」
「ああ! いや、まったく!」まだなにも言わず、これ以上なにも言う見こみはまずなかったとても赤ら顔の男が言った。「当然のこってすよ」
賛成のつぶやきが一座に流れた。
「みなさん、わたしは憶えてますがね」ペル氏は言った、「あるとき、彼といっしょに晩餐をしたんです――ふたりだけ、しかし、客が二十人も来るように、すべてはすばらしいもんでした――彼の右手のテーブルの中央の回転式食品台の上には|国璽《こくじ》があり、袋かつら(後髪の垂れた部分を絹袋につつむようにしたかつら)と甲冑をつけた男が剣をぬき、絹の靴下をはいて、権標(職権のしるしとした一種のほこ)を警護し――これは、みなさん、夜となく昼となく、たえずおこなわれてるもんなのですぞ。そのとき彼は言ったんです、『ペル』彼は言いましたよ、『いい加減な口先だけのお世辞じゃないぞ、ペル。お前は才能のある人間だ。お前はだれだって破産法廷をとおせるのだからな、ペル。イギリスはお前を誇りに思わにゃならんのだ』これが彼の言葉どおりのもん。『閣下』わたしは言いましたよ、『うまいことをおっしゃっておいでです』――『ペル』彼は言いましたね、『もしそうだったら、地獄に落ちてもいいぞ』」
「そう言ったんですかね?」ウェラー氏はたずねた。
「そうですよ」ペル氏は答えた。
「うん、もしそうなら」ウェラー氏は言った、「議会がそれをとりあげるべきでしたな。そして、彼が貧乏だったら、議会がそれをすべき[#「すべき」に傍点]でしたな」
「でも、ねえ」ペル氏は反論した、「それは内々の話だったんです」
「なんのですって?」ウェラー氏はたずねた。
「内々の話なんですよ」
「おお! よくわかりましたよ」ちょっと考えてから、ウェラー氏は答えた。「もし彼が内々の話で身を地獄に落としたんなら、もちろん、話は変わってきますな」
「もちろん、そうでしたよ」ペル氏は言った。「おわかりでしょうが、その区別ははっきりしたもの」
「話がぜんぜんちがってくるわけですな」ウェラー氏は言った。「さあ、つづけてください」
「いや、つづけませんよ」声を低くし、真剣な調子で、ペル氏は言った。「あなたの言葉で思い出したんですが、この話は個人的――個人的で内々のもんですぞ、みなさん。みなさん、わたしは弁護士です。わたしの職業でそうとう尊敬されているかもしれません――そうでないかもしれません。それは、たいていの人が知ってること。わたしはなにも言いませんよ。わたしの高貴な友人の名声を損ねるような言葉が、この部屋で、もうすでに発せられたんです。みなさん、どうかわたしを勘弁してください。わたしは考えなしでしたよ。この高貴な友人の許可なしでこのことを口にする権利は、わたしにはないわけなんです。ありがとう、ありがとうございました」こう言って、ペル氏は両手をポケットにつっこみ、眉をよせた恐ろしい形相であたりをにらみまわし、すごい勢いで一ペンス半貨幣を、パチンと鳴らして、テーブルの上においた。
このりっぱな決心が固められるか固められないかに、つがいの仲間になっている少年と青い袋が激しい勢いで部屋にとびこみ、問題の件がすぐ出そうだと報告した(少なくとも、少年はその報告をした。青い袋はこの言葉には参加しなかったからである)。この通知があるとすぐ、全員は急いで街路をつっきり、先を争って法廷にはいりはじめた――これは、ふつうの場合には、二十五分から三十分はかかるものと計算されている予備的な儀式だった。
ウェラー氏は元気者なので、群集の中にすぐとびこみ、自分に好都合などこか場所をとろうと、しゃにむにがんばっていた。しかし、それは予期どおりの成果をあげることができなかった。というのも、帽子をぬぐのを忘れ、そうとう強くかかとを踏んでしまっただれか男によって、その帽子が目の上にかぶせられてしまったからである。その後すぐこの男が自分の性急さを後悔していたことは、明らかだった。なにかはっきりとせぬ驚きの叫びをつぶやいてから、彼は老人ウェラー氏を廊下につれだし、やっさもっさと大さわぎをして、彼の頭と顔を救出したからである。
「サミュエル!」こうして自分を救ってくれた者の顔が見られるようになったとき、ウェラー氏は叫んだ。
サムはうなずいた。
「お前は孝行な、やさしい坊やだな、まったく」ウェラー氏は言った、「年よりのおやじの帽子をおしつぶして、目にあてがってくれるなんてな」
「あんたがだれか、わかってはいなかったんですからね」せがれは答えた。「踏んだ力の強さであんたを知れ、とでも言うんですかね?」
「うん、なるほど、そのとおりだよ、サミー」すぐに機嫌をなおして、ウェラー氏は言った。「だが、お前はここでなにをしてるんだい? お前の旦那は、ここではどうにもならんのだよ、サミー。ここではあの評決はくだしてもらえないよ、ここではだめなんだ、サミー」こう言って、法律的ないかめしさで、ウェラー氏はかぶりをふった。
「なんて手に負えない老人だろう!」サムは叫んだ、「いつも評決だ、アリバイだなんてベラベラしゃべりつづけているなんて! 評決についてのことなんて、だれが言ったんです?」
ウェラー氏はなんの返事もせず、いかにも物知りぶって、もう一度頭をふっていた。
「その頭をガタガタいわせるのは、やめにしたらどうです? さもないと、ばねがはずれて、とびだしちゃいますからね」いらいらしてサムは言った、「そして、まともに行動するんです。きのうの晩、あんたに会おうと、はるばる『グランビー侯爵旅館』までいったんですからね」
「グランビー侯爵夫人に会ったかい、サミー?」溜め息をもらして、ウェラー氏はたずねた。
「ええ、会いましたよ」サムは答えた。
「あの女、どんなようすをしていたね?」
「とても妙でしたよ」サムは答えた。「あのパイナップル入りのラム酒、同じたぐいのほかの強い薬を飲みすぎて、だんだんと体をいためてるようですね」
「まさか、サミー?」本気になって、父親は言った。
「いや、そうなんですよ」せがれは答えた。
ウェラー氏は息子の手をとり、それをしっかりとつかみ、パタリとそれを落とした。それをしながら、彼の顔にある表情が浮かんだが――それは当惑・不安といったものではなく、やさしい、おだやかな希望といったものを帯びた表情だった。つぎのように言ったとき、あきらめ、いや、陽気さといった輝きさえ、彼の顔をかすめて走っていた。「はっきりしたことじゃないんだがね、サミー。すっかり自信があると言いたくはないんだよ、あとでがっかりするといけないからね。だけど、おれは考えてるんだ、お前、おれは考えてるんだ、あの羊飼いの肝臓がわるいんじゃないかとね」
「具合いがわるそうなんですかね?」サムはたずねた。
「とても青い顔をしててね」父親は答えた、「鼻のとこだけはべつで、そこは前より赤くなってるけどね。食欲はとてもないけど、酒の飲みっぷりはすごいもんなんだ」
これを言ったとき、ラム酒についてのある考えが彼の心に浮かんだらしかった。陰気に考えこんでいるふうが彼に見えたからである。だが、彼はすぐに回復した。これは、とくに彼がよろこんでいるときだけによくやる目をパチパチさせる一連のウィンクで、はっきりと示されていた。
「さて」サムは言った、「今度はわたしの話ですけどね。耳をよく開いて、話の終わりまでなにも言ってはいけませんぞ」こう簡単に前おきして、サムは、できるだけつづめて、彼とピクウィック氏のあいだに起きたあの最後の記念すべき話のやりとりを伝えた。
「かわいそうに、ひとりであそこにいるんだって!」父親のウェラー氏は叫んだ、「味方するだれもいなくて! そいつはいかんよ、サミュエル、そいつはいかんよ」
「もちろん、いかんですよ」サムは相槌を打った。「ここに来る前にもう、そいつはわかってましたよ」
「いやあ、あの人は生きながら食いつぶされちまうぞ、サミー」ウェラー氏は叫んだ。
サムはそうだとうなずいた。
「あの人は、なま焼けもいいとこで、あそこにはいったんだ、サミー」比喩的にウェラー氏は言った。「出てくるときにはすっかり茶色になっちまって、どんな親しい友だちだって見わけがつかなくなってしまうよ。焼いた鳩だって、そいつにくらべたら、物の数じゃなくってね、サミー」
また、サム・ウェラーはうなずいた。
「そんなことになったらいけないな、サミュエル」重々しくウェラー氏は言った。
「いけませんな」サムは答えた。
「もちろん、そうさ」ウェラー氏は言った。
「ところで」サムは言った、「あんたはりっぱな予言をしてますけどね、六ペニー本にその絵が出てる赤ら顔のニクソンのようにね」
「そのニクソンって、だれだい、サミー?」ウェラー氏はたずねた。
「だれだってかまいませんよ」サムは答えた。「彼は御者じゃなかったんです。それで十分でしょう」
「そういう名の馬丁は知ってたがね」考えこんでウェラー氏は言った。
「それじゃありませんよ」サムは言った。「この紳士は予言者だったんです」
「予言者って、なんだい?」きびしい顔をして息子をながめながら、ウェラー氏はたずねた。
「いやあ、なにが起きるかを知らせてくれる人ですよ」サムは答えた。
「その人を知ってたらと思うよ、サミー」ウェラー氏は言った。「たったいま話してた肝臓の病気のことで、たぶん、少しは光を投げてくれるだろうからね。だけど、その男が死んで、商売のあとつぎがいなくなったら、それでもうけりというわけだね。さあ、話をつづけてくれ、サミー」溜め息をもらして、ウェラー氏は言った。
「そう」サムは言った、「旦那をひとりにしておいたらどんなことになるか、父さんは予言してたんですね。あの人の世話をみる、なんか方法はないもんでしょうかね?」
「うん、ないようだな」考えこんだ顔つきをして、ウェラー氏は言った。
「ぜんぜんないんですかね?」サムはたずねた。
「ないな」ウェラー氏は言った、「もし」声を落としてひそひそ声になり、口を息子の耳にあてがったとき、希望の光が一筋彼の顔を明るくした、「もし、看守にはさとられずに、折りかえしの寝台の中にあの人を入れて外に出すか、サミー、緑のベールをつけた婆さんのようにあの人を仕立てるかしなけりゃね」
サム・ウェラーはこうした提案を予期せぬほどの軽蔑しきった態度で聞いていて、また質問をくりかえした。
「ないな」ウェラー氏は言った。「あの人がお前をそこにおいてくれなかったら、ぜんぜん方法はないようだな。あそこは大通りじゃないんだよ、サミー、大通りじゃ」
「うん、それじゃ、方法を教えましょう」サムは言った、「おれが父さんから二十五ポンド借金するんです」
「それでどうなるんだね?」ウェラー氏はたずねた。
「いや、大丈夫なんです」サムは答えた。「五分後にあんたがそれをかえせと言う。こっちがかえさんと言って、いきまく。あんたは、まさか、その金で自分の息子をとらえ、フリート監獄にぶちこむようなことはせんでしょうな、この|情《じよう》なしの浮浪者さん?」
このサムの返事で、父親と息子はうなずきと身ぶりの完全な電信暗号を交わし、それがすんでから、父親のウェラー氏は石の階段に腰をおろし、顔が真っ赤になるまで笑いこけていた。
「なんてひでえ姿だ!」この時間の浪費に憤慨して、サムは叫んだ。「うんと用があるときなのに、どうしてそこにぶっ坐って、表の戸のノッカーのような顔をしてるんです? 金はどこにあるんですかね、金は?」
「荷物入れ」(御者の座席の下の荷物を入れる場所、ここではポケット)にあるよ、サミー、荷物入れにな」真顔にかえって、ウェラー氏は答えた。「帽子をもっててくれ、サミー」
この邪魔になる帽子をとって、ウェラー氏はいきなり体を一方にねじり、うまいひとひねりで、右手をとても大きなポケットになんとかつっこみ、獅子奮迅の努力であえいだのち、大きな革のひもで結びつけた大きな八つ折り判型の紙入れを引っぱりだした。この袋から彼はふたつの鞭ひも、三、四の締め金具、小さな麦のはいったサンプル袋、最後に小さく巻いたとてもよごれた|札《さつ》を引きだし、そこから必要な金額をぬきだして、それをサムにわたした。
「さて、サミー」鞭ひも、締め金具、サンプル袋をもとの場所にもどし、紙入れが同じポケットの奥にしまいこまれてから、ウェラー氏は言った、「さて、サミー、のこりの仕事をおれたちのためにすぐやってくれるここの紳士を、おれは知ってるよ――蛙のように、その頭が体中にひろがり、指の先までとどいてる法律の手足といった人、大法官閣下の友人の人をな、サミー。その人が大法官閣下にたのみこんだら、一生涯だってお前を監獄にぶちこんでくれるよ」
「いや」サムは言った、「それまでのことはないんです」
「それまでのことって、なんだい?」ウェラー氏はたずねた。
「いやあ、それをする憲法違反のやり方には用はないんです」サムは答えた。「|死体を受けとれ《ハヴ・ヒズ・カーカス》(身柄提出令状(ヘイビアス・コーパス)をサムが勘ちがいしたもの)は、機械の永久運動(一時これを求めて研究がおこなわれたが、無窮に動く機械がないかぎり、あり得ぬことが証明された)についで、じつにありがたいもんなんですからね。よくそいつは、新聞で読んでますよ」
「うん、それがこのこととどんな関係があるんだい?」ウェラー氏はたずねた。
「このことだけですよ」サムは言った、「自分の発明した方法のほうがよく、そのやり方で監獄にはいるってことです。大法官に耳打ちなんかしないでくださいよ。そいつはどうもいやですからね。出てくるときに、ちょっと|危《やば》いかもしれませんからね」
この点息子の気持ちに敬意をあらわして、ウェラー氏はすぐに学者のソロモン・ペルをさがし、二十五ポンドの金額と訴訟費用ですぐに令状を出してもらいたいと伝え、それがただちにサミュエル・ウェラーなる人物に執行されることを希望し、その費用は前もってソロモン・ペルに支払われることになった。
弁護士は大よろこびしていた。例の困っていた馬車馬屋の即時釈放の命令が出たからである。彼は主人にたいするサムの愛情をとてもほめ立て、それは彼の友人である大法官閣下にたいする自分自身の献身的な愛情を強く思い起こさせると語り、負債の宣誓口述書にいつわりのないことを誓約させるために、父親のウェラー氏をすぐに聖堂騎士団の殿堂(そこに法学院の一部がある)につれてゆき、例のつきそいの少年は、青い袋の助けで、その宣誓口述書をその場で作成した。
一方、サムは負債の弁済を免れた紳士とその友人たちにベル・ソウヴァージュのウェラー氏の息子として紹介され、特別な待遇を受け、負債の弁済を免れたことの祝いに彼らといっしょにごちそうを食べるようにと招待されたが、彼は、もちろん、さっさとその招待を受けてしまった。
この階級の紳士たちの歓楽は、ふだんは、重々しく静かなものであるが、この場合は特別の祝いごと、それだけに彼らはいっそうくつろいでいた。その日優秀な能力を発揮した首席事務官とソロモン・ペル氏のためのそうとうさわがしい乾杯がおこなわれてから、青いショールを着けたぶち色の顔の紳士が、だれかが歌を歌うことを、提案した。ここであらわれた明白な意見は、歌を所望しているぶち色の顔の紳士自身がそれを歌うべきだ、ということだったが、ぶち色の顔の紳士はがんこに、ちょっと不快なくらい、はっきりとそれを断わった。そこで、こうした場合によくあることだが、そうとう怒気をふくんだ話のやりとりが交わされることになった。
「みなさん」馬車馬屋は言った、「この楽しい会の気分をこわすくらいなら、たぶん、サミュエル・ウェラーさんが歌ってくださるでしょう」
「本当に、みなさん」サムは言った、「楽器なしで歌うのには、たいして馴れてはいないんですがね。だが、静かな生活のためならなんの犠牲をもというやつでいきましょう、灯台守の職についたときある男が言ったようにね」
こう前おきをして、サミュエル・ウェラー氏はつぎの野性的で美しい伝説を急にワッと歌いだしたが、この歌はひろく一般に知られていないようなので、それをここに遠慮なく引用することにしよう。第二行と第四行の終わりに簡単な「ああ」という言葉があるのに、とくにご注意ねがいたい。これは歌い手にそこで息をつかせるばかりか、韻律をとてもうまく調整しているものなのである。
[#ここから2字下げ]
ロマンス
勇敢なターピンはかつて、ハウンズロー・ヒースで
彼の勇敢な雌馬のベスに打ちまたがった――ああ。
そこで彼は主教の馬車が
道路ぞいに走ってくるのを見た――ああ。
そこで彼は馬の脚の近くにふっとんでゆき、
車の中に頭をつっこんだ。
そこで主教は言った、「まちがいなし、
これはたしかに勇敢なターピンだ!」
コーラス
そこで主教は言った、「まちがいなし、
これはたしかに勇敢なターピンだ!」
ii
ターピンは言った、「お前の前言はとり消しだ、
鉛の弾のソースをつけてな」
そこで彼はピストルを相手の口にあてがい、
そいつを喉にぶちこんだ。
御者はこれを見てふるえあがり、
まっしぐらに逃げだしたが、
ディックは彼の頭に弾を二発ぶちこみ、
その進行をとめてしまった。
コーラス(皮肉に)
だが、ディックは彼の頭に弾を二発ぶちこみ、
その進行をとめてしまった。
[#ここで字下げ終わり]
「この歌は同業者にたいする人身攻撃と思いますな」ここで歌をとめてしまって、ぶち色の顔の紳士は言った、「その御者の名前を教えてください」
「だれも知ってはいませんでしたよ」サムは答えた。「名刺をポケットに入れてなかったんでね」
「政治を入れたことには反対ですな」ぶち色の顔の紳士は言った、「みなさんの前で申しますがね、この歌は政治的じゃないかと思うんです。それとだいたい同じことなんですが、そいつは本当のことじゃない、と思うんです。わたしは、その御者は逃げはしなかった[#「しなかった」に傍点]、最後まで勇敢に戦った、――きじ[#「きじ」に傍点]のように勇敢に、と申しますよ。そして、その逆のことはなにも聞きたくはないんです」
ぶち色の顔をした紳士は、すごく力み、断固たる態度で語り、一座の意見はこの問題について分裂したように見え、激論が起こりそうな気配になったが、そのとき、じつに都合よく、ウェラー氏とペル氏が到着した。
「うまくいったよ、サミー」ウェラー氏は言った。
「役人はここに四時に来るでしょう」ペル氏は言った。「そのあいだ、逃げたりはしないでしょうな、えっ? はっ! はっ!」
「たぶん、ひどいおやじの心は、そのときまでにゆるむことでしょうよ」ニヤリと笑って、サムは答えた。
「絶対にそんなことはないよ」父親のウェラー氏は言った。
「たのみますよ」サムは言った。
「絶対にだめだ」情け容赦ない貸し方は答えた。
「その金額にたいして、月六ペンスの証書を出しますがね」サムは言った。
「そんなものは受けつけんよ」ウェラー氏は答えた。
「はっ、はっ、はっ! おもしろい、おもしろい」訴訟費用の小さな勘定書きを書いていたソロモン・ペル氏は言った。「まったく、愉快な事件ですな! ベンジャミン、これをうつすんだ」ウェラー氏にその金額を知らせたとき、ペル氏はまたニコリとした。
「ありがとう、ありがとう」ウェラー氏が紙入れからもう一枚あぶらぎった|札《さつ》をとり出して、それをわたすと、弁護士は言った。「十ペンス三つと十ペンスひとつで五シリング(本当は三シリング四ペンス。計算をごまかしたものか)。いや、ありがとうございます、ウェラーさん。あんたの息子さんはじつにりっぱな青年、まったく、そうですな。それは青年にあってじつに愉快な特質、とても愉快な特質」受けとった金を懐にしまいこみながら、あたりにおだやかな微笑を投げて、ペル氏は言いそえた。
「なんておもしろいことだ、こいつは!」クスクスと笑って、父親のウェラー氏は言った。「まったく、|怪物《プロデイジー》の息子だ!」
「|放蕩《プロデイガル》、放蕩息子ですよ」ペル氏はおだやかになおした。
「ご心配ご無用」威厳をこめて、ウェラー氏は言った。「こちらだって多少心得はありますからな。わからんときは、おたずねしますよ」
役人がやってくるときまでに、サムはすっかり人気者になり、その結果、ここに集まった紳士たちは一団になって監獄まで彼を見送ることになった。そこで、原告と被告は腕を組み、役人が先頭になり、八人のがっちりした御者たちが|殿《しんがり》をつとめて、一同は出発した。一同はサージャント・インの喫茶室で足をとめて一杯やり、法律上の手つづきがぜんぶすんでから、この行列はまた動きだした。
八人の紳士たちがふざけて四人ずつ横になって歩こうとしたので、フリート通りでちょっとしたさわぎが起きた。ぶち色の顔をした紳士が運搬人夫と喧嘩をはじめたため、彼をあとにのこしておかなければならなくなったが、友人たちがもどり道に彼を呼びかえすことに決められた。道中起きたことといえば、この程度のことだけだった。一同がフリート監獄の門に着いたとき、この行列の一行は、原告の許しを得て、被告のために万歳をすごい声をはり上げて三唱し、みんなと握手を交わしてから、去っていった。
サムは、ローカー氏をひどくびっくりさせ、鈍感なネッディをもひどく興奮させて、正式に監獄所長の管理にうつされ、すぐに監獄にはいり、まっすぐ主人の部屋に歩いていって、ドアにノックをした。
「おはいり」ピクウィック氏は言った。
サムは姿をあらわし、帽子をぬぎ、ニッコリした。
「ああ、サム、お前か!」身分の低い友人と再会したのを明らかによろこんで、ピクウィック氏は言った。「きのうはあんなことを言って、お前の気持ちを傷つけるつもりはなかったのだよ。サム、帽子を下において、わしがもう少しきちんと説明するのを聞いておくれ」
「もうしばらくしてからでは、いけませんか?」サムはたずねた。
「もちろん、いいよ」ピクウィック氏は言った。「だが、どうしていまではいけないのだい?」
「いまはちょっと気がすすまないんです」サムは答えた。
「どうして?」ピクウィック氏はたずねた。
「というのは――」モジモジして、サムは言った。
「というのは、なんなんだい?」自分の召使いの態度にびっくりして、ピクウィック氏はたずねた。「話しておしまい、サム」
「というのは」サムは答えた、「というのは、ちょっと片づけたい仕事があるんです」
「どんな仕事だね?」サムの困りぬいている態度に驚いて、ピクウィック氏はたずねた。
「特別どうってこともないんですが」サムは答えた。
「おお、それが特別どうということでなければ」ニッコリしてピクウィック氏は言った、「だれより先に、わしに話せるわけだろうが」
「すぐにそれをやっちまったほうがいいと思うんです」まだモジモジしながら、サムは言った。
ピクウィック氏はびっくりしているふうだったが、なにも言わなかった。
「事実は」サムは言い、途中で話を切ってしまった。
「さあ!」ピクウィック氏は言った。「話すのだよ、サム」
「いやあ、事実ありていのことは」しゃにむに努力して、サムは言った、「ほかのことより、まず第一に、たぶん、自分の寝台の始末をしたほうがいいだろうと思ってるんです」
「お前の寝台だって[#「お前の寝台だって」に傍点]!」びっくり仰天して、ピクウィック氏は叫んだ。
「そうです、わたしの寝台です」サムは答えた。「わたしは囚人。きょうの午後、負債で逮捕されたんです」
「お前が負債で逮捕されたって!」がっくりと椅子に沈みこんで、ピクウィック氏は叫んだ。
「ええ、負債でね」サムは答えた。「そして、わたしを放りこんだ男は、あんた自身が出所なさるまで、わたしを絶対に出してはくれないでしょうよ」
「いや、これは驚いたことだ!」ピクウィック氏は叫んだ。「これはどういうことなんだね?」
「わたしの言ったとおりのことだけです」サムは答えた。「もしこれから先四十年のことになっても、わたしは囚人でいて、それをとてもよろこんでいるんです。もしここがニューゲイトの監獄でも、同じこってすよ。さあ、これで秘密がばれ、これで、ちくしょう、けりになったわけです!」
すごく力をこめ、激しい勢いでこの言葉を二度くりかえしてから、サム・ウェラーは、ふだんになくひどく興奮して、帽子を床にたたきつけ、それから腕組みをして、しっかりと主人の顔を凝視していた。
[#改ページ]
第四十四章
[#3字下げ]フリート監獄で起きたさまざまの小事件、ウィンクル氏のなぞめいた態度をあつかい、あわれな大法院の囚人が釈放されたいきさつを示す
ピクウィック氏はサムの愛情の強さにとても打たれ、いつまでともわからぬ期間のあいだ、自分から債務者の監獄にとびこんできた無鉄砲なやり方に怒ることも、不快の念をあらわすこともできないでいた。彼が強く説明を求めたただひとつの点は、サムをこの監獄に入れた債権者の名だったが、サムは同じように強く、その名をおしかくしていた。
「それを言っても、むだなこってす」何回となく、サムはくりかえして言った。「その男は心のほぐしようのない、意地のわるい、性悪の、俗っぽい根性の、悪意のある、復讐心の強いやつでしてね。水腫症にかかった老紳士が自分の財産で礼拝堂を建てるくらいなら、それを妻にのこしてやる、って言ったとき、りっぱな牧師さんが言ったようにね」
「だが、考えてごらん、サム」ピクウィック氏は逆襲した、「その金額はほんとにわずかなもの、すぐに払えるのだよ。お前をここにおこうとわしが決心してからだって、お前は壁の外に出られたら、どんなにもっと役立つだろうと考えるにちがいないよ」
「本当にありがとうございます」重々しくウェラー氏は答えた。「だが、それをしたくはないんです」
「なにをしたくないのかね、サム?」
「もちろん、身分をさげて、こんな無慈悲な男なんかに慈悲を求めるなんてえことは、したくないんです」
「相手に相手の金を受けとってくれということは、慈悲を求めることにはならんよ、サム」ピクウィック氏は言いきかせた。
「失礼ですが」サムは答えた、「それを払うのは、とても大きな慈悲になることでしょう。相手はそんな値打ちのあるやつじゃないんですからね。そこが問題なんです」
ここでピクウィック氏は多少いらいらしたふうに鼻をこすっていたので、ウェラー氏は話題を変えたほうが賢明と考えた。
「主義主張で、わたしはこの決心をしたんです」サムは言った、「旦那さまは同じ考えで決心をなさるわけです。これで思い出しましたが、主義主張で自殺した男がいるんですよ、その男の話は、もちろん、お聞きおよびでしょうがね」話をここまで進めて、ウェラー氏は話を切り、目の隅からふざけた一瞥を自分の主人に投げた。
「この場合には、『もちろん』は通用せんよ、サム」サムのがんこさがひきおこした不安にもかかわらず、ついだんだんと笑い顔になって、ピクウィック氏は言った。「問題の紳士の名声はまだわしの耳にはとどいていないのだからね」
「とどいていないんですって!」ウェラー氏は叫んだ。「これはびっくりしましたね。彼は役所につとめてた事務員だったんです」
「そうかい?」ピクウィック氏は言った。
「ええ、そうでした」ウェラー氏は答えた。「そのうえ、じつに愉快な紳士で――雨の降る日にも足を小さなゴムの非常用火災バケツに入れとくような、きちょうめんで、きちんとした男、親友はだれもなく、主義主張で金を貯め、主義主張で毎日きれいなシャツを着こみ、主義主張で親類縁者とは絶対に話をしませんでした。彼らに金を借りられると困ると考えてたからなんです。そして、事実、まったく、めったにないほど感じのいい男でした。彼は、主義主張で、二週間に一度床屋にゆき、経済的な主義主張から、服の契約を結び、年に三着服を借りて、古いやつはかえしてたんです。とても規則正しい紳士だったんで、彼は毎日同じ店で夕食をしてました。そこでは大輪切りの肉が一シリング九ペンス、その値打ちだけのものを、彼は十分とってました、これは、そこの主人が、涙を流しながら、よく言ってたことでしたがね。冬に炉の火をひっかきまわし、それで一日四ペンス半のまるまる損になり、彼がそれをするのを見ていて癪にさわるのはべつにしてもね……。しかも、そいつはじつに堂々とやらかすものでした! 彼がはいってくるときは、毎日『つぎの紳士を追いかけろ』と彼は歌ってました。『トマス、タイムズ(ロンドンの新聞、以下同じ)をさがしてくれ。モーニング・ヘラルドがあいたら、そいつを見せてくれ。クロニクルは、忘れるなよ、予約ずみだぞ。アドヴァタイザーをちょっともってきてくれ』彼は時計に目を釘づけにし、時間のちょうど十五秒前にすごい勢いでとびだしてましたが、これは夕刊配達の少年を待ちうけるため、そして、この夕刊をせっせとおもしろそうに読みだし、そのためにほかの客はむかっ腹を立て、気がくるいそうになり、とくにひとりの怒りっぽい老紳士からは、給仕はいつも目をはなせませんでした、切り盛り用の大型肉切りナイフで彼がなにをしでかすかわからなかったからです。そう、彼はここの最上席で三時間はがんばり、食事後にとったものといえば、眠りだけ、それから、少しはなれたコーヒー店にゆき、コーヒー一杯と四枚のクラムペット(ホットケーキの一種、バターをつけて食べる)をとり、それがすむと、眠るためにケンジングトンの家に歩いて帰ってました。ある夜、彼はとても気分がわるくなり、医者を呼びにやりました。医者は緑色の軽装馬車で来ましたが、その馬車はロビンソン・クルーソー式の踏み段のついたもの、それは、車から出るときにはおろし、中にはいったときには引きあげられるもので、御者がおりる必要のないものでした。これで、御者が着てるのは仕着せの上衣だけ、それに釣り合うズボンをはいてないのを人に知られずにすんだわけです。『どうしたんです?』医者はたずねました。『とても具合いがわるいんです』患者は答えました。『なにを食べたんです?』医者はたずねました。『焼いた子牛肉です』患者は答えました。『最後に食べたものはなんです?』医者はたずねました。『クラムペットです』患者は答えました。『それだ!』医者は言いました。『すぐ丸薬の箱をとどけますから、クラムペットはもう絶対に食べないようにしてください』彼は言いました。「なにをもうなんです?」患者はたずねました――『丸薬ですかね?』。『いや、クラムペットですよ』医者は言いました。『どうして?』床でとびあがって、患者はたずねました。『主義主張で、この十五年間、毎晩クラムペットは四枚食べているんですよ』。『うん、それなら、主義主張で、それをやめたほうがいいですな』医者は言いました。『クラムペットは健康にいいもんですよ、先生』患者は言いました。『クラムペットは健康によくない[#「ない」に傍点]んですぞ』とても強い語調で医者は言いました。『でも、それはとっても安いんです』ちょっと譲歩して、患者は言いました、『それに、値段にしてはとっても腹がふくれるもんなんです』。『どんな値でも、それはあんたには高価なものになります、それを食べて金をもらえるにしても、高価なものにね』医者は言いました。『ひと晩に四枚クラムペットを食べるなんて』彼は言いました、『半年で死んじまいますぞ!』患者は医者の顔をまともににらみつけ、ながいことそれを心の中で考えていたあとで、とうとう言いました、『そのことはたしかですか?』。『医者としての評判をかけてもいいですよ』医者は答えました。『わたしをすぐ殺すには、一度にどのくらいクラムペットを食べたらいいと思います?』患者はたずねました。『わかりませんな』医者は答えました。『半クラウン(五シリングが一クラウン)分だけそれを食べたら、死ぬと思いますかね?』患者はたずねました。『死ぬでしょうな』医者は答えました。『三シリング分だけ食べたら、死ぬのは確実でしょうな?』患者はたずねました。『確実ですな』医者は答えました。『よくわかりましたよ』患者は言いました、『おやすみなさい』つぎの朝、彼は起き出し、炉に火をつけ、三シリング分のクラムペットを注文し、それをぜんぶ焼き、それをぜんぶ平らげ、ピストルで頭をぶちぬいてしまったんです」
「どうしてそんなことをしたんだろう?」ピクウィック氏はいきなりたずねた。この話の悲劇的な結末にそうとうびっくりしたからである。
「どうしてそんなことをしたのかですって?」サムはおうむがえしに言った。「いやあ、クラムペットは健康にいいという彼の大きな主義主張のため、だれにもその邪魔はされたくはないということを示すためだったんです!」
こうした話題の変更・転換で、ウェラー氏はその夜自分がフリート監獄に住むようになったことについての主人の質問をかわしていた。おだやかに反対してもむだなことを知って、ピクウィック氏は上の廊下で小さな部屋を貸している禿げ頭の靴なおしから一週間契約で部屋を借りるのを不承不承承知し、ウェラー氏はこの粗末な部屋にローカー氏から借りこんだ布団と寝具類を運びこんだ。そして、彼がそこに横になって寝こむときまでには、まるで監獄で育ち、親子三代にわたってそこで暮らしてきたように、そこにすっかりなじんでいた。
「あんたは、寝てからいつもタバコをすってるのかい、老|雄鳥《おんどり》君?」部屋に寝ようと引きこもったとき、ウェラー氏は家主に言った。
「うん、そうだよ、ひなのちゃぼ[#「ちゃぼ」に傍点]君」靴なおしは答えた。
「その松の板のテーブルの下にどうして寝場所をかまえてるのか、きいてもいいかい?」サムはたずねた。
「ここに来る前、四柱式寝台(四隅に柱があり、それにカーテンをつった大型のもの)に馴れててね、テーブルの脚がうまくそれに合うのがわかったからさ」靴なおしは言った。
「あんたはふう変わりな男だね」サムは言った。
「そんなものはなんにも、おれはもってないよ」頭をふって、靴なおしは答えた。「いいもんを手に入れようとしても、ここの戸籍役場でなにか文句をつけられちまうんだからな」
右の短い会話は、ウェラー氏が部屋の片隅で布団の上に体をのばし、べつの隅で靴なおしが体をのばし、部屋が灯心草ろうそくと靴なおしのパイプで照らしだされているときに、交わされたものだった。このパイプは、テーブルの下で、真っ赤な石炭のように輝いていた。この話は短いものだったが、それでウェラー氏は家主にとても好意をいだくようになり、肘で体を起こして、いままでよりもっと注意深く、ながいこと相手の姿をジッと見ていた。
彼は病的に黄白色になった男だった――靴なおしはみんなそうである。そして、がっちりとした|剛毛《こわげ》の顎鬚をもっていた――靴なおしはそんなそうである。彼の顔は奇妙な、上機嫌の、ねじれたたぐいのもので、かつてはとても陽気な表情をもっていたにちがいない一対の目で飾られていた。そして、その目はまだ輝きを失ってはいなかった。この男は齢は六十で、どのくらい監獄生活を送っているのか、だれも知らなかったので、彼が陽気さ、満足さといったものに似たふうを示しているのは、とてもふしぎなことだった。彼は小男、その上、床の上では体を半分に折りまげていたので、体は脚をぬいたくらいのながさにしか見えなかった。彼は大きな赤いパイプを口にくわえ、タバコをふかし、うらやましくなるほど落ち着き払った態度で、灯心草ろうそくの火に見入っていた。
「あんたはここにながくいるのかい?」しばらくつづいた沈黙を破って、サムはたずねた。
「十二年になるよ」話しながらパイプの端をかじって、靴なおしは言った。
「法廷侮辱罪でかい?」サムはたずねた。
靴なおしはうなずいた。
「うん、そんなら」多少きびしさをこめて、サムは言った、「どうしてがんこをおしとおして、このりっぱな留めおき場であんたの大切な生涯をむだにつかってるんだい。どうして降参し、法廷を侮辱して自分がわるかった、そんなことはもうしない、と大法官にわびを入れないんだい?」
靴なおしは、ニヤリとするあいだ、パイプを口の隅にうつし、それからそれをもとの場所にもどして、なにも言わないでいた。
「どうしてそれをしないんだい?」質問をがんこにおし進めて、サムは言った。
「ああ」靴なおしは言った、「お前さんはこうしたことがわかってないんだよ。おれの身の破滅になったもんが、なんだったと思ってるのかね?」
「いやあ」灯心草のろうそくの芯をなおして、サムは言った、「最初には負債をしょいこんだんだろう、えっ?」
「びた一文も借りたことはないよ」靴なおしは言った。「さあ、もう一度当ててごらん」
「うん、たぶん」サムは言った、「気がくるったことを遠まわしにいう『家を買った』というやつか、回復困難をあらわす医者の言葉の『建築にこった』というやつだな」
靴なおしは頭をふり、「さあ、もう一度当ててごらん」と言った。
「裁判さわぎをしたんじゃないだろうね?」くさいぞといったふうに、サムは言った。
「いままで一度もやったことはないよ」靴なおしは答えた。「事実は、金をのこされたんで身の破滅になったのさ」
「おい、おい」サムは言った、「そんなこと、言ってもだめだよ。だれか金持ちの敵に、そんなふうにおれの[#「おれの」に傍点]身の破滅をはかってもらいたいもんだね。そんなことだったら、敵にだってそれをさせてやるよ」
「おお、きっと信じてはくれないだろうな」静かにパイプをくゆらしながら、靴なおしは言った。「おれがお前さんだって、そんなこと、信じはしないだろう。だが、それにしても、そいつは本当のこったよ」
「それはどういうことだったんだい?」靴なおしの彼に向けた顔で、それをもう半分信じる気になって、サムはたずねた。
「こういうことさ」靴なおしは答えた。「いなかでおれが働いたことがあり、身分の低いその親類の女とおれがいっしょになったある老紳士が――その女はもう死んだよ、ありがたいことにな――発作にかかり、いっちまったんだ」
「どこに?」サムはたずねたが、その日の数多い事件のあとで、彼はねむくなっていた。
「どこにいったか、どうしてわかるもんかね?」パイプを大いに楽しみ、鼻の孔越しに話をしながら、靴なおしは言った。「死んじまったんだからね」
「ああ、そうだったんかい」サムは言った。「それで?」
「それで」靴なおしは言った、「遺産として五千ポンドをのこしたのさ」
「そんなことをしてくれて、じつにありがたいこっちゃないか」
「その一部を」靴なおしは語りつづけた、「彼はおれにのこしてくれたんだ。親類筋の女とおれがいっしょになったんだからな」
「よくわかったよ」サムはつぶやいた。
「たくさん姪や甥がいて、財産のことでいつも喧嘩ばかりしてたんで、彼はおれを遺言状執行人に仕立て、のこりをおれにくれたのさ。財産をすっかり依託されて、遺言状どおりにそれを彼らのあいだにわけろというわけさ」
「財産をすっかり依託されたって、どういうことかね?」ちょっと目をさまして、サムはたずねた。「それが現金じゃなかったら、なんの役に立つというんだい?」
「そいつは法律用語さ、それだけのこったよ」靴なおしは答えた。
「そうは思わんな」頭をふりふり、サムは言った。「法律ってえやつは、まったく信用ならんもんだからね。だけど、さあ、話をつづけてくれ」
「うん」靴なおしは言った、「おれが遺言検証権をとろうとすると、財産ぜんぶをとれなくってひどくがっかりしていた姪や甥は、それにたいして|差しとめねがい《ケイヴイアツト》を提出したんだ」
「ケイヴィアットってなんだい?」サムはたずねた。
「法律の道具で、だめだっていったようなもんさ」靴なおしは答えた。
「わかったよ」サムは言った、|死体を受けとれ《ハヴ・ヒズ・カーカス》の腹ちがいの兄弟ってえやつだね。わかったよ」
「だが」靴なおしはつづけた、「仲間同志で折り合いがつかず、その結果、遺言状にたいして言い分を申し立てることができなくなり、彼らは差しとめねがいを撤回し、おれは遺産税をみんな払っちまったんだ。それをするかしないかに、ある甥がその遺言状をおしのける訴訟を起こしてね。この訴訟事実は、数か月後、聖ポール大寺院の墓地の近くのどこかにある裏部屋にいたつんぼの老紳士のとこにもちだされ、四人の弁護士がそれぞれきちんと一日ずつ彼と話し合い、一、二週間よく考えてから、六冊の本になった証拠事実を読みあげ、それから判決をくだして、遺言書作成者の頭がおかしかったこと、おれが金と訴訟費用をぜんぶ払いもどさなけりゃならんということになったんだ。おれは控訴したよ。この訴訟は三人か四人のとても眠ったがりの紳士のとこにもちだされたんだが、彼らは前の法廷でこの事件のことはもうぜんぶ聞きこみずみ、彼らはそこで仕事なしの弁護士だったんだからね。ただひとつのちがいは、そこで彼らは|博士《ドクター》と呼ばれ、べつの場所では代表と呼ばれていただけのことさ、それをお前さんがわかればの話だがね。そして、彼らは忠実に前の老紳士の決定を確証したんだ。その後、おれたちは大法院にもちこんだんだが、そこで事件はストップ、いつまでもそうだろうよ。おれの弁護士はとっくのむかしにおれの千ポンドぜんぶをまきあげ、やつらが言う不動産権や訴訟費用やらで、おれは一万ポンドの金のことでここに放りこまれ、死ぬまで、靴をなおしながらここにいることだろう。何人かの紳士がそれを議会にもちだすことを話し、彼らがおれんとこに来る暇があり、おれに彼らんとこにゆく力があったら、たぶん、それはそういうことになったことだろう。彼らはおれのながい手紙にあき、この仕事をすててしまったのさ。これがありていの事実、ここの内外の五十人の人がよーく知ってることだが、かくしたり、大げさに言ったりする言葉はまったくぬきにしての、ありていの事実さ」
自分の話がサムにどんな感動を与えたかを調べようと、靴なおしは話を切ったが、彼がぐっすり眠りこんでいるのを知って、パイプの灰を落とし、溜め息をし、それを下におき、頭に布団をかぶり、同じように寝こんでしまった。
翌朝、ただひとりで、ピクウィック氏が朝食をとっているとき(サムは主人の靴をみがき、ゲートルに刷毛をかけるために、靴なおしの部屋でせっせと精を出していた)、ドアにノックの音がひびき、ピクウィック氏が「おはいり!」と叫ぶ前に、髪をぼうぼうにした頭と、|別珍《べつちん》の帽子があらわれたが、この両方とも、彼はすぐにスマングル氏のものとわかった。
「ご機嫌いかがです?」この言葉に何回か頭をコクリコクリとうなずかせて、このお偉方は言った。「ねえ――今朝だれか来ることになってるんですかね? 三人の男――じつに紳士らしい男――が下であんたをさがし、広間の階でドアというドアをトントンやって、ご親切にもドアを開いた連中にすごくどなりつけられてますよ」
「いや、これは! なんてバカなんだろう!」立ちあがってピクウィック氏は言った。「そう、彼らは、疑いもなく、きのうわたしがとても待っていた友人たちにちがいありません」
「あんたの友だちですって!」ピクウィック氏の手をとって、スマングル氏は叫んだ。「もうなにも言わなくていいですよ。彼らはいまからわたしの友人、ミヴィンズの友人です。じつに陽気な、紳士ふうのやつ、ミヴィンズはそうじゃありませんかね?」しみじみとした感動をこめて、スマングル氏はたずねた。
「あの紳士のことはほとんどなにも知らないんですからね」もじもじして、ピクウィック氏は言った、「だから、わたしは――」
「あんたが知ってることは、わたしも知ってますよ」ピクウィック氏の肩をつかんで、スマングル氏は口をはさんだ。「彼をもっと知るようにしてあげますよ。彼で楽しむことでしょうよ。あの男はね」厳粛な顔をして、スマングル氏は言った、「ドルアリー・レイン劇場(十七世紀以来のロンドンの大劇場)だってりっぱに飾れるほどの喜劇的才能の持ち主なんですからな」
「本当にそうですか?」ピクウィック氏はたずねた。
「ええ、まちがいなし、そうですとも!」スマングルは答えた。「彼が手おし車の四匹の猫――わたしの名誉にかけて言いますがね、四匹のそれぞれべつの猫――をさっそうとしてやるのを聞いてごらんなさい。さあ、それがじつにすごいもんなことはわかるでしょう! まったく、こんなりっぱなとこを見たら、あれを好きにならずにはいられなくなりますよ。あれにはたったひとつ欠点があるんですがね――その小さな欠点のことは、もう申しあげましたな」
ここでスマングル氏は打ち明け話的な、同情的な態度をとって頭をふったので、ピクウィック氏はなにか言わねばならぬかと感じ、「ああ!」と言い、落ち着かぬふうにドアのほうをながめていた。
「ああ!」ながく溜め息をして、スマングル氏はくりかえした。「彼はおもしろいやつ、あの男はそうですよ。もっとましな話し相手は、どこにもありませんな。しかし、あの男にはひとついけないとこがあるんです。もしやつの|祖父《じい》さんの亡霊がいま彼の前にあらわれたとしても、十八ペニーの印紙で、自分|贔屓《ひいき》の借金の申し込みをするでしょう」
「いや、これは驚いた!」ピクウィック氏は叫んだ。
「そう」スマングル氏は言いそえた。「この祖父さんを呼びだす力があったら、彼は、|二月《ふたつき》と三日すると、その証書の書き変えをするために、祖父さんを呼びだすことでしょうね!」
「それはじつに変わった特徴ですな」ピクウィック氏は言った。「しかし、われわれがここで話をしているあいだに、友人たちは、わたしが見つからなくて、とても困っていることでしょう」
「わたしが道案内をしましょう」ドアのほうに足を向けて、スマングル氏は言った、「さようなら。あなたのご友人がここにおいでのうちは、わたしはここにお邪魔に来ませんよ。さようなら――」
この最後の三語をスマングル氏が言ったとき、彼は急に足をとめ、開いたドアをまた閉ざし、ピクウィック氏のところにそっともどってきて、爪先立ちで彼のそばに近づき、とても静かなひそひそ話の声で言った――
「来週の末まで、半クラウン借りることができませんかね、どうです?」
ピクウィック氏はニヤリとせずにはいられなかったが、なんとか深刻な態度をくずさず、その金を引きだし、それをスマングル氏の手のひらに入れてやった。すると、この紳士は、深い神秘的なうなずきとウィンクを何度もくりかえして、三人のピクウィック氏の友人をさがしに姿を消し、すぐに彼らをつれてもどり、三回咳払いをし、三回うなずいて、金をかえすのを絶対に忘れはしないとピクウィック氏に保証し、全員に愛想よく握手をして、とうとう出ていった。
「いや、諸君」問題の三人の来訪者であるタップマン氏、ウィンクル氏、スノッドグラース氏とそれぞれ握手をして、ピクウィック氏は言った、「お目にかかれて、とてもうれしいですな」
三人組は激しい感動を受けていた。タップマン氏は悲嘆に打たれたように頭をふり、スノッドグラース氏はいつわらぬ感動でハンカチを引きだし、ウィンクル氏は窓のところにさがって、声高に鼻をクンクンさせていた。
「お早うございます、みなさん」そのとき靴とゲートルをもってはいってきて、サムは言った。「ふさぎこみなんて、あばよにしてくださいよ、学校の女の先生が死んだとき、小さな坊やが言ったようにね。この大学にようこそ、みなさん」
「このバカな男は」主人のゲートルのボタンをかけようとサムがかがみこんだとき、彼の頭を軽くたたいて、ピクウィック氏は言った、「このバカな男は、わしのそばにいようというわけで、自身が逮捕されたんです」
「なんですって!」三人の友人は叫んだ。
「そうですよ、みなさん」サムは言った、「わたしは――旦那さま、できたら、ジッと立っててください――わたしは囚人ですよ、みなさん。|監禁された《コンフアインド》んです、ご婦人が言ったようにね」(コンファインドには「お産の床につく」の意がある)
「囚人だって!」わけのわからぬ激しさをこめて、ウィンクル氏は叫んだ。
「いやあ!」目をあげて、サムは答えた。「どうしたんです?」
「ぼくは期待してたんだがね、サム――いいや、なんでもない、なんでもないよ」大あわてでウィンクル氏は言った。
ウィンクル氏の態度にはなにかあまり唐突で落ち着かぬものがあったので、ピクウィック氏は、われ知らず、ふたりの友人の顔をながめ、その説明を求めた。
「われわれは知ってはいませんよ」この無言の問いに声を出して答えて、タップマン氏は言った。「彼は、この二日間、とても興奮していて、彼の態度は、ふだんとはぜんぜんちがっているのです。なにかあったのではないかと心配なのですが、彼は、そんなことはない、と強く言い切っています」
「いや、いや」ピクウィック氏の視線を浴び、顔を赤くして、ウィンクル氏は言った、「本当になにもないのです。なにもないと、はっきり申しますよ。個人の用件で、しばらくロンドンを出なければならず、あなたにおねがいして、サムをいっしょにつれてゆけたらと考えていたのです」
ピクウィック氏は前よりもっとびっくりしたようだった。
「ぼくは考えているのですが」どもりながらウィンクル氏は言った、「それをするのにサムに異議はなかったとしても、彼がここで囚人になったのですから、それは不可能になったわけです。結局、ぼくはひとりでゆかねばならんのです」
ウィンクル氏がこう言っているとき、そうとうびっくりし、度肝をぬかれたように、サムの手がゲートルのところでふるえているのを感じて、ピクウィック氏はちょっと驚いた。ウィンクル氏の話が終わったとき、サムも目をあげてウィンクル氏をながめ、ふたりが交わした一瞥は、瞬間的なものではあったが、たがいに理解し合ったふうだった。
「お前はこのことを多少知っているのかね、サム?」ピクウィック氏は鋭くたずねた。
「いいや、知りませんよ」すごくせっせとボタンをかけはじめて、ウェラー氏は答えた。
「ほんとかね、サム?」ピクウィック氏はたずねた。
「いやあ、旦那さま」ウェラー氏は答えた。「いままでそのことをなんにも知らなかったというのは、たしかなこってす。たとえなんか見当をつけてたにしてもね」ウィンクル氏をながめて、サムは言いそえた、「それがなにかを言う権利は、わたしにはありませんよ、見当ちがいをしたら、大変ですからね」
「どんな親しい友人にせよ、その私事にこれ以上立ち入る権利は、わたしにはないわけだ」ちょっとだまっていてから、ピクウィック氏は言った、「さし当たって、わたしの言えることは、このことはぜんぜんわからぬということだけ。さあ、これでそのことはもうすんだことにしよう」
こう自分の意見を述べて、ピクウィック氏は話題をほかのものに変えてゆき、ウィンクル氏も、完全にそうとまではゆかずとも、だんだんくつろいだ気分になったようだった。みなには話すことがたくさんあり、午前中はあっという間にすぎ、三時に、ウェラー氏が小さな食卓の上に焼いた羊の脚と大きな肉パイをおき、さまざまな野菜料理と黒ビールの盃を椅子やらソファーの寝台、その他ならべられるところすべてにならべ立てたとき、肉が買われて料理され、パイがつくられたのは近くの監獄の調理場だったという事実にもかかわらず、みなはその料理を十分に賞味して食べようという気持ちになっていた。
これにつづいて極上のぶどう酒が一、二本出されたが、これはピクウィック氏が使いを民法博士会(むかしロンドンにあったドクターズ・コモンズの共同会堂。後には聖ポール大寺院付近の同会の建物)のホーン喫茶店に派遣してとりよせたものだった。一、二本のぶどう酒とは、正しく言ったら、一、六本のぶどう酒と言うべきであろう。それを飲み終え、お茶が終わったときには、もうベルが鳴りはじめ、来客の退去を知らせる時刻になっていたからである。
だが、朝のウィンクル氏の態度が合点ゆかぬものとしたら、彼が自分の気持ちに圧倒され、一、六本のぶどう酒を彼なりに飲んで、ピクウィック氏と別れようとしたときに、それは完全にこの世のものならぬ無気味な、厳粛なものになっていた。タップマン氏とスノッドグラース氏の姿が消えるまで、彼はぐずぐずといのこり、それから熱烈にピクウィック氏の手をにぎっていたが、その顔には、深い強い決心が集中した陰気さとおそろしいふうに入りまじっている表情があらわれていた。
「お寝みなさい!」歯をかみしめながら、ウィンクル氏は言った。
「さようなら!」若い友人の手をにぎりかえして、思いやりのあるピクウィック氏は答えた。
「さあ、早く!」廊下からタップマン氏が叫んだ。
「ああ、ああ、すぐね」ウィンクル氏は答えた。「お寝みなさい!」
「お寝み」ピクウィック氏は言った。
またお寝みなさいがくりかえされ、それからもう一度、さらにそれは何回となくくりかえされたが、それでもまだ、ウィンクル氏はピクウィック氏の手をしっかりとにぎりしめ、前と同じ奇妙な顔をして、彼の顔をジッと見つめていた。
「どうかしたのかね?」握手で腕がすっかり痛くなったとき、ピクウィック氏はとうとうたずねた。
「いや、べつに」ウィンクル氏は答えた。
「そう、じゃ、お寝み」手をふりほどこうとして、ピクウィック氏は言った。
「わたしの友、わたしの恩人、わたしのりっぱな仲間」ピクウィック氏の手首をとらえて、ウィンクル氏はつぶやいた。「わたしを冷酷に批判はしないでください。おねがいしますよ、絶望的な障害のために、どうともならなくなって、ぼくが――」
「さあ、早く!」ドアのところにまた姿をあらわして、タップマン氏は言った。「来るのかね? それとも、われわれは閉じこめられてもいいのかね?」
「ええ、ええ、すぐゆきますよ」ウィンクル氏は答えた。そして、獅子奮迅の努力で、彼はふっとんでいった。
ピクウィック氏が口もきかずびっくりし、廊下をジッとながめていたとき、サム・ウェラーは階段の上にあらわれ、ちょっとウィンクル氏の耳になにかを耳打ちした。
「おお、たしかに、心配ないよ」ウィンクル氏は大声で言った。
「ありがとうございます。まさか忘れはしないでしょうね?」サムは言った。
「もちろん、忘れはせんよ」ウィンクル氏は答えた。
「ご成功を祈りますよ」帽子に手をあげて、サムは言った。「いっしょにいきたいとこなんですがねえ。だが、親方が、もちろん、第一のもんですからね」
「きみがここにのこっているというのは、じつにりっぱな、名誉あることなんだよ」ウィンクル氏は言った。こう言って、ふたりは階段の下のほうに姿をかくしてしまった。
「じつに妙なことだ」部屋にもどり、テーブルに向かって腰をおろし、深く考えこんで、ピクウィック氏は言った。「いったい、あの青年はなにをしようとしているのだろうかな?」
彼がこのことをしばらく考えこんでいるとき、看守のローカー氏の声がして、はいっていいかどうかをたずねた。
「いいですよ」ピクウィック氏は答えた。
「やわらかい枕をもってきたんです」ローカー氏は言った、「きのうの晩あんたが使った臨時の枕のかわりにね」
「ありがとう」ピクウィック氏は言った。「一杯ぶどう酒を飲みませんか?」
「ありがとうございます」さしだされた盃を受けて、ローカー氏は答えた。「あなたの健康を祝って」
「ありがとう」ピクウィック氏は言った。
「残念なことですが、あんたの家主の具合いが、今晩とてもわるくなってるんです」コップを下におき、帽子をかぶる予備行動としてその裏地をながめながら、ローカー氏は言った。
「えっ! 大法院の囚人がですって!」ピクウィック氏は叫んだ。
「もうながいこと大法院の囚人になってはいますまいよ」帽子製造業者の名前をきちんと上向きにしようと、そこをのぞきこんで、帽子をグルグルとまわしながら、ローカー氏は答えた。
「そんな話を聞くと、ぞっとしますね」ピクウィック氏は言った。「いったい、どういうことなのです?」
「彼はながいこと肺病をわずらってました」ローカー氏は言った、「そして、今晩、息がとても苦しくなってきたんです。六カ月前、医者は言ってましたよ、転地以外に彼を救う方法はないとね」
「いや、大変なことだ!」ピクウィック氏は叫んだ。「あの人は、六カ月間、法律のためにゆっくりと殺されていたんですか?」
「そのことはなんとも言えませんがね」両手で帽子のへりをにぎって、ローカー氏は答えた。「どこにいようとも、同じ病気にかかったことでしょうよ。今朝、彼は病院に入れられました。できるだけ元気は|保《も》たせると先生は言い、監獄所長は彼にぶどう酒、肉汁、そういったものを家から送りとどけたんです。これは所長がいけないからっていうわけのもんじゃありませんよ」
「もちろん、そうですよ」急いでピクウィック氏は答えた。
「でも、心配ですね」頭をふりながら、ローカー氏は言った、「彼はもうきっとだめなんでしょうよ。たったいま、それになお、六ペニー分の水割りジンを二杯、ネッディにわたしてきたんですがね、彼はそれを飲まんこってしょうな。むりもありませんよ。ありがとうございました。お寝みなさい」
「ちょっと待ってください」むきになってピクウィック氏は言った。「その病院はどこにあるのです?」
「あんたが眠ったとこの真上ですよ」ローカー氏は答えた。「おいでになりたかったら、ご案内しましょう」ピクウィック氏はなにも言わずに帽子をさっととりあげ、すぐにあとについていった。
看守はだまって先に立って歩き、その部屋の掛け金をそっとあげて、身ぶりで中にはいれとピクウィック氏に伝えた。そこは大きなガランとした、わびしい部屋で、たくさんの四本柱のない鉄の寝台があり、そのひとつの上に影のようになった人間が、力なく、青ざめ、死人のようなおそろしい姿で横たわっていた。その息づかいは苦しく、早く、呼吸するごとに、彼は苦しそうにうめいていた。寝台のわきに靴なおしのエプロンをかけた老人の小男が坐り、角製の眼鏡をかけて、聖書からの言葉を声高に読んでいた。この男は幸運な遺産受けとり人だった。
病人はつきそいのこの男の腕に手をのばし、彼に読むのをやめさせた。老人の小男は聖書を閉じ、それを寝台の上においた。
「窓を開けてくれ」病人は言った。
窓は開けられた。馬車と荷車の音、車輪のガタガタいう音、男や少年たちの叫び声、生命と仕事にあふれたたくましい群集のあわただしい物音が入りまじって、ひとつの太いつぶやき声になり、部屋の中に流れこんできた。しわがれた大声のぶーんというひびきの中で、ときどき、さわがしい笑い声がひときわ高く鳴りひびいたり、うわついた群集のひとりが叫びだした調子よくひびく歌の断片が一瞬間耳を打ち、ついで、わめく人声と足音の中にそれは消えていった。それは、外で大きくうねっているたえず波立つ生命の大海の波浪のくだける音だった。これは静かに耳をすませて聞いている者には、いつでもわびしい物音、まして、死の床でそれを見守っている者には、どんなにわびしいものだろう!
「ここには空気がない」弱々しく病人は言った。「この場所がそれをよごしているのだ。何年か前、そこを歩いたとき、あたりの空気は新鮮だった。だが、ここの壁をとおりぬけると、それは暑く、重苦しいものになってしまうのだ。わたしはそれを吸えないよ」
「ながいこと、われわれはそれをいっしょに吸ってきたのじゃないか」老人は言った。「さあ、さあ、元気を出して」
短い沈黙がつづき、そのあいだに、ふたりの見ている者は寝台に近づいていった。病人は自分の古いなじみの仲間の囚人の手を自分のほうに引きよせ、それを両手でやさしくにぎりしめて、ジッとそのままでいた。
「おれの希望はね」しばらくして彼はあえいだが、その声はとても弱く、彼の青ざめた唇が発するかすかな音とも言えない音を聞きとるのに、寝台のごく近くに耳をよせねばならぬほどだった、「おれの希望はね、情け深い裁き主の神さまがこの地上でおれの受けたひどい罰を憶えていてくださることだけだよ。二十年間、このおそろしい墓に二十年間もいたんだ!子供が死んだとき、おれの気持ちはくだけてしまい、小さな棺におさめられたあの坊やにキスもできなかったんだ。この物音、このさわぎにつつまれたそれから以後のおれのわびしさは、とてもおそろしいものだった。神さまがおれをお許しくださいますように! おれのわびしい、ぐずぐずとながびく死のさまを、神さまはごらんになっていたのだからな」
彼は両手を組み合わせ、みなが聞きとれぬなにかをぶつぶつとつぶやき、眠りこんでしまった――最初はただの眠りだった。彼のニッコリする顔が見えたからである。
一同は、ちょっとのあいだ、ささやき合い、看守は枕の上にかがみこんでから、急いで体を起こした。「たしかに、彼は放免されたよ!」看守は言った。
そのとおりだった。しかし、生前彼は死にいかにも似かよっていたので、彼がいつ死んだのかは、だれにもわからなかった。
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第四十五章
[#3字下げ]サミュエル・ウェラー氏と一族のあいだの感動的な会見を描写。ピクウィック氏は自分の住む小世界を巡遊し、将来それとできるだけ交際せぬことを決心する
投獄されてから数日したある朝、主人の部屋をできるだけ綿密に掃除をし、主人が気持ちよく椅子に坐り、本と書類に目をとおしているのを見定めてから、サミュエル・ウェラー氏は引きしりぞき、それからの一時間か二時間をできるだけ楽しくすごそうとした。晴れあがった朝で、外の大気のもとで黒ビールを一パイント飲んだら、自分のできるどんなささやかな楽しみにもおとらず、つぎの十五分かそこいらを楽しくすごせることだろうと、彼はふっと思った。
この結論に達して、彼はすぐ酒場におもむいた。ビールを仕込み、そのうえさきおとといの新聞を手に入れて、彼は九柱戯場にゆき、ベンチに腰をおろして、とても落ち着いた、きちょうめんなふうに、楽しみはじめた。
まず第一に、彼は元気づけにビールをひと口飲み、ついで目を窓にあげ、そこでじゃがいも[#「じゃがいも」に傍点]の皮をむいていた若いご婦人にプラトニックな(精神的な、純潔な恋愛をいう)ウィンクを投げた。それから彼は新聞を開き、警察関係の記事が表に出るようにとそれをたたみ、風が多少とも吹いているときには、これは面倒でむずかしいことだったので、それがすんだとき、彼はまたビールをひと口飲んだ。それから、彼は新聞の二行を読み、途中でそれをやめて、ラケット球戯を終えかけているふたりの男をながめ、それが終わったとき、賞賛の「うまいぞ」の声をかけ、まわりの見物人の意見が自分の意見と同じかどうかたしかめようと、あたりを見まわした。これで例の窓を見あげることがまた必要になり、若いご婦人がまだそこにいたので、ふたたびウィンクをし、もうひと口ビールを飲んで、無言で彼女の健康を祝うのが、ふつうの礼儀としても必要なことになり、サムはそれを実行した。目をパッと見開いてこの彼の後半のやり口を見ていた小さな少年をグッとすごく眉をよせてにらんだあとで、彼は脚をかさね、両手に新聞をもって、せっせと熱心にそれを読みはじめた。
彼が心を静めて、必要な精神的集中状態におちいるかいらないかに、彼は、どこか遠くの廊下で自分の名が呼ばれているような気がした。これは勘ちがいではなかった。それは口から口へとどんどんと伝えられ、数秒もすると、「ウェラー!」という叫びで大気がいっぱいになったからである。
「ここにいるよ!」すごい大声をはりあげて、サムはどなった。「どうしたんだい? だれが用事があるんだい? 急使が来て、いなかの屋敷が燃えてるとでも伝えてきたのかい?」
「広間で、だれかがあんたに用事があるんだよ」わきに立っていた男が言った。
「そこの新聞とビールの容れ物をたのむよ、いいかい、きみ?」サムは言った。「すぐいくよ。まったく、弁護士の資格を与えるといったって、こんなさわぎはしないだろうにな!」
こうしたことを言いながら、求めている人間がほんの近くにいるとは露知らず、力をふりしぼって「ウェラー!」と叫んでいる前にも述べた少年の頭をやさしくコツコツたたいて、サムは急いで球戯場を横切り、階段をかけあがって、広間にはいっていった。ここで彼の目にはいった最初のものは、手に帽子をもち、いちばん下の階段に腰をおろしているなつかしい父親の姿で、彼は三十秒ごとに最高の声をはりあげて「ウェラー!」と叫んでいた。
「なにをわめいてるんですね?」老紳士がもうひとわめきしたあとで、サムはひどく怒ったような調子で言った。「かっかと熱を出して、まるで病気が重くなったガラス吹きのような姿ですよ。どうしたんです?」
「ああ!」老紳士は答えた、「お前がリージェント公園(ロンドン北西部にある公園。動物園がある)にでも散歩にいったんじゃないかと心配しはじめてたとこだったよ、サミー」
「さあ」サムは言った、「貪欲の犠牲になった者にそんな悪口を浴びせるのはやめにして、そこの階段からこっちに来なさい。そこにどうして坐ってるんです? こちらはそこの階段に住んでるわけじゃないんですからね」
「お前にとてもおもしろいことがあるんだよ、サミー」立ちあがりながら、父親のウェラー氏は言った。
「ちょっと待って」サムは言った、「背中が真っ白ですよ」
「うん、そうだ、サミー、そいつをこすりとってくれ」息子がほこりを払っているとき、ウェラー氏は言った。「服に石灰をつけて歩きまわったら、ここでは人身攻撃のように見えるだろうな(みながきたない服を着ているため)、えっ、サミー?」
ここでウェラー氏はクスクス笑いの発作接近の歴然たる徴候を示したので、サムは口をはさんで、それを抑えてしまった。
「静かにたのみますよ、ほんとに」サムは言った、「そんな古くさいトランプの絵札なんて、まだ見たこともありませんからね。なにをワイワイおかしがってるんです?」
「サミー」額をぬぐいながら、ウェラー氏は言った、「まったく、近々いずれ、おれは笑いこけて、卒中になるこったろうよ」
「うん、そんなら、どうしてそんなことをするんです?」サムはたずねた。「さあ、どんなことを言いたいんです?」
「おれといっしょに、ここにだれが来たと思うね、サミュエル?」一、二歩さがり、口をすぼめ、眉をのばして、ウェラー氏はたずねた。
「ペルですかね?」サムは言った。
ウェラー氏は頭をふり、彼の赤いほっぺたは出口を見つけようとしている笑いでふくらんでいった。
「たぶん、ぶち色の顔の男でしょう?」サムは言った。
ふたたびウェラー氏は頭をふった。
「それじゃ、だれなんです?」サムはたずねた。
「お前の義理の母さんだよ」ウェラー氏は言った。そして、彼がそれを言ったのは、幸運なことだった。さもないと、頬のじつに異常なふくらみで、それはきっと破裂してしまったにちがいなかったからである。
「お前の義理の母さんだよ、サミー」ウェラー氏は言った、「それにね、赤っ鼻の男なんだ、お前。あの赤っ鼻の男なんだよ。ほー! ほー! ほー!」
こう言って、ウェラー氏は笑いだして、笑いの痙攣におちいり、一方、サムは、はっきりニヤリとした笑いを顔一面にひろげながら、父親をジッと見ていた。
「ふたりはお前とちょっとした重大なことを話しにやってきたんだ、サミュエル」目をぬぐいながら、ウェラー氏は言った。「道ならぬ債権者については、他言はいっさい無用だよ、サミー」
「あれっ、それがだれか、ふたりは知らないんですかね?」サムはたずねた。
「ちっともね」父親は答えた。
「どこにふたりはいるんです?」老紳士のニヤリニヤリとした笑いにいちいち笑いをかえして、サムはたずねた。
「酒場だよ」ウェラー氏は答えた。「あの赤っ鼻の男が酒のあるとこ以外の場所にいくのをつかまえようったって、むりなことさ、サミュエル、むりなことさ。今朝、『侯爵旅館』からおれたちは道路ぞいにとても楽しい旅行をしてきたんだよ、サミー」はっきりと口がきける自信がついたとき、ウェラー氏は言った。「お前の義理の母さんの最初の亭主の持ち物だったあの二輪荷車で、おれはぶちの老いぼれ馬を走らし、そこには、あの羊飼いのために肘かけ椅子までもちこんだのさ。そして、まったく」いかにも軽蔑したといったふうをして、ウェラー氏は言った、「まったく、おれの家の前で、やつが馬車にのぼれるようにと、携帯用の階段を道路にもちだしまでしたんだよ」
「まさか?」サムは言った。
「いや、本当なんだ、サミー」父親は答えた、「そして、のぼっていったとき、どんなにしっかりと車のわきにあいつがしがみついてたか、お前にも見せたかったくらいだよ、六フィートたっぷりは落ちこみ、体が粉々にくだけちまうのを心配してるようなふうだったんだからね。だが、とうとうやつは中にころげこんではいってきて、われわれは出発したんだ。おれは思うがね、サミュエル、おれは思うがね、|角《かど》をまがるたびごとに、やつはそうとうグイグイッとゆすぶられてたこったろうよ」
「えっ、一、二本の柱に、あんたはぶつかったんじゃないんですかね?」サムはたずねた。
「どうやら」大よろこびで目をパチパチさせながら、ウェラー氏は答えた、「どうやら、一、二本そいつをとび越したらしいんだ、サミー。道中ずっと、やつは肘かけ椅子からとびだしつづけてたよ」
ここで老紳士は頭を左右に大きくひとふりし、しゃがれたゴロゴロいう音が体の中からひびき、それにともなって、顔が激しくふくれあがり、急に目・鼻・口などが大きくなっていったが、これは彼の息子を少なからず驚かせることになった。
「驚くことはないよ、サミー、驚くことはないよ」ひどくもがき、いろいろと痙攣的に地面を踏みしめて、声をとりもどしてから、老紳士は言った。「これは、ただ、おれがなんとかやろうとしてる、まあ、静かな笑いといったもんなんだからね、サミー」
「うん、もしそうなら」サムは言った、「それにまたならないようにしてくれたら、ありがたいんですがね。そいつはそうとう危険なやり方ですからね」
「それを好まんのかい、サミー?」老紳士はたずねた。
「ぜんぜんね」サムは答えた。
「うん」まだ頬に涙を流しながら、ウェラー氏は言った、「それができたら、おれにとってもとても好都合、お前の義理の母さんとおれとのあいだのやり合いも起こらなくってすむんだがね。だが、どうやらお前の言うのが正しいようだよ、サミー。そいつは卒中を起こすおそれが十分にあること、十二分と言ってもいいほどなんだからな、サミュエル」
こう話しているうちに、ふたりは酒場のところにやってきたが、その中にサムは――ちょっと立ちどまって、肩越しにうしろをふりかえり、まだうしろでクスクス笑っている自分の尊敬すべき父親になに食わぬ顔の流し目を送ってから――すぐ先に立ってはいっていった。
「義理の母さん」母親に丁寧に挨拶をして、サムは言った、「ここまで来てくださるなんて、とてもありがたいことです。羊飼いさん、ご機嫌いかがです?」
「おお、サミュエル!」ウェラー夫人は言った、「これはおそろしいことよ」
「いや、そんなことはぜんぜんありませんよ」サムは答えた。「これは、おそろしいこってすかね、羊飼いさん?」
スティギンズ氏は両手をあげ、目を上向きにし、ただ白目――いや、黄目――だけをむきだしにして、返事の言葉はなにも言わなかった。
「この紳士の方は、なにか苦しい病気にでもかかってるんですか?」説明をしてくれと言わんばかりに義理の母親のほうを見て、サムは言った。
「あの方はお前さんがここにいるのを見て、悲しんでおいでなんだよ」ウェラー夫人は答えた。
「おお、そうなんですか、えっ?」サムは言った。「あの人のようすから、この前きゅうり[#「きゅうり」に傍点]を食べたときに、こしょう[#「こしょう」に傍点]をつけるのを忘れてたんじゃないかと心配してましたよ。さあ、どうかお坐りください、坐ったからといって、べつに料金をもらうわけじゃありませんからね、王さまが、大臣どもを叱りつけたときに、言ったようにね」
「若い人よ」これ見よがしにスティギンズ氏は言った、「あんたの気持ちは、投獄されても、やわらぐことがないのですな」
「失礼ですが」サムは言った、「慈悲深くも、あんたはなんとおっしゃったんですか?」
「このこらしめを受けながら、若い人よ、あんたの性格は|やわらぐ《ソフト》ことがないのですな」大きく声をはりあげて、スティギンズ氏は言った。
「牧師さん」サムは言った、「そう言ってくださって、本当にありがとうございます。ありがたいことに、わたしの性格は|バカな《ソフト》もんではありませんでしてね。そう高く買ってくださって、本当にありがたく思ってますよ」
話がここまで進んだとき、失礼にも高笑いに似た物音が父親のウェラー氏が坐っていた椅子のところからひびき、それを耳にすると、ウェラー夫人は、この事情をすぐにさっとさとってしまって、だんだんヒステリーの度を強めるのが自分の絶対の義務と考えるようになった。
「ウェラー」ウェラー夫人は言った(老紳士は隅に坐っていた)。「ウェラー! こっちにいらっしゃい」
「とてもありがたいことだがね、お前」ウェラー氏は答えた、「だが、ここでとても気持ちがいいんだよ」
これを聞いて、ウェラー夫人はワッと泣きだした。
「どうしたんです、母さん?」サムはたずねた。
「おお、サミュエル!」ウェラー夫人は答えた、「お前のお父さんのおかげで、わたしはみじめな女になってるのよ。あの人、どうしてもだめなのかしら?」
「いまの言葉、聞いたですか?」サムはたずねた。「どうしてもあんたはだめなのか、とご夫人がおたずねなんですぞ」
「親切におたずねくださって、ウェラー夫人にとっても感謝してるよ、サミー」老紳士は答えた。「パイプを一服したら、とってもよくなると思うんだがね。パイプを貸してもらえるかい、サミー?」
ここでウェラー夫人はいっそう涙を流し、スティギンズ氏はうめいた。
「あれっ! またこの気の毒な紳士は病気になったようだぞ」あたりを見まわして、サムは言った。「こんどは、どこが痛むんですかね?」
「若い人よ、同じ場所だ」スティギンズ氏は答えた、「同じ場所だよ」
「それは、いったい、どこなんです?」ひどい純真さをよそおって、サムはたずねた。
「若い人よ、胸なのだ」傘をチョッキの上に当てて、スティギンズ氏は答えた。
このあわれな答えに接して、ウェラー夫人は気持ちを抑えられなくなり、大声ですすり泣きをはじめ、赤っ鼻の男は聖者にちがいないという彼女の確信を述べ立てた。これを聞くと父親のウェラー氏は、声をひそめて、あいつは外見シモン聖人(キリストの使徒ペテロの旧名。マタイ伝十章二節参照)の連合教区の代表者、内心はウォーカー聖人(イギリスの俗語でウォーカーは不信をあらわす「バカな」の意)にちがいないぞ、と言っていた。
「心配なんですがね、母さん」サムは言った、「顔をひんねじってるこの紳士は、目の前にこのわびしい監獄の光景を見て、そうとう喉が渇いてるんじゃないですかね? そうじゃありませんかね、母さん?」
このりっぱな夫人は返事を求めてスティギンズ氏のほうを見やり、この紳士は、何回も目をギョロギョロまわして、右手で喉元をつかみ、ものを飲む真似をして、自分の喉の渇いているのを伝えた。
「気持ちがたかぶってそうなったんじゃないかと、サミュエル、わたしは思うよ、本当に」悲しげにウェラー夫人は言った。
「あんたがいつもやってる酒は、なんですかね?」サムはたずねた。
「おお、親愛なる若き友よ」スティギンズ氏は答えた、「すべての酒は無益でつまらんものですぞ!」
「そのとおり、本当に、そのとおり」低いうめきを発し、いかにもそうだといったふうに頭をふって、ウェラー夫人は言った。
「うん」サムは言った、「そうかもしれませんな。だけど、あんたがとくに好んでる無益でつまらんものはなんですかね? どんな無益でつまらんものの風味をいちばんお好みなんですかね?」
「おお、親愛なる若き友よ」スティギンズ氏は答えた、「それはぜんぶ軽蔑してますぞ。もし」スティギンズ氏は言った、「もしほかのものよりいまわしさの度合いの薄いものがあるとしたら、それはラムという飲料。温めて、親愛なる若き友よ、コップに三つ砂糖を入れたものですぞ」
「まことに申しわけないこってすがね」サムは言った、「ここの建物では、その無益でつまらんものの販売は許されてないんです」
「おお、こり固まった悪人どもの冷酷な心!」スティギンズ氏は叫んだ。「おお、この人でなしの迫害者ののろわれた残酷さ!」
こう言って、スティギンズ氏はふたたび目を上に投げ、傘で胸をたたいた。彼の憤慨がまことのもの、いつわりのものではないように見えたということは、この敬虔な紳士にたいして当然述べるべき言葉であろう。
ウェラー夫人と赤っ鼻の紳士がとても強くこの冷酷な習慣について意見を述べ、その案出者にたいしてさまざまな信仰心の厚い、神聖なのろいの言葉を浴びせたあとで、赤っ鼻の紳士は、胃によいもの、ほかの多くの混合酒より無益なつまらなさの度合いが薄いものとして、一杯のポートワインがいいと言いだした。そこで、それが注文されることになった。それがつくられるまでのあいだ、赤っ鼻の男とウェラー夫人は父親のウェラーをながめて、うめいていた。
「うん、サミー」ウェラー氏は言った、「この勢いのいい訪問で、お前の元気もふるい立ったことだろうな。こいつはとても陽気で、ためになるお話というやつじゃないかい、サミー?」
「あんたは神さまに見すてられた罪深い人ですよ」サムは答えた、「そんなひどい言葉は、これ以上わたしには浴びせないでください」
このじつにしっかりとした答えでさとされるどころか、父親のウェラー氏はすぐはっきりとしたニヤニヤ笑いをまたやりだし、このまぎれもなくひどい行動は、夫人とスティギンズ氏に目をつぶらせ、いかにも心配そうに、椅子で体を前後にゆすぶらせることになったので、ウェラー氏はさらにいくつか無言劇の所作をしはじめ、それは、いずれも、前記スティギンズ氏の鼻をひっぱたき、ねじってやりたいという気持ちをあらわしているもので、この演技は彼に大きな精神的慰安を与えているようだった。あるときには、この老紳士の演技はあやうくばれるところだった。ニーガス酒(ブドウ酒に湯・砂糖・にくずく・レモンを加えた飲料)が運ばれてきたとき、スティギンズ氏はいきなりギクリとし、数分間、その耳もとから二インチもはなれていないところで、ウェラー氏が空中に架空の花火を描いていたにぎりしめた拳で、したたか頭をなぐられたからである。
「そんな荒っぽいふうに、どうしてコップに手を出すんです?」素早くサムは言った。「あの紳士をひっぱたいてしまったじゃないですか?」
「そんなバカなことをするつもりはなかったんだよ、サミー」この思いがけぬ突発事件で多少どぎまぎして、ウェラー氏は言った。
「服用してごらんなさい」赤っ鼻の紳士が痛そうな顔をして頭をこすっているとき、サムは言った。「温かい無益でつまらぬものの酒として、そいつをどう思いますかね?」
スティギンズ氏は口ではなんの返事もしなかったが、その態度は、いかにも心を語るものだった。サムが彼の手にわたしたコップの中身を彼は味わい、傘を床の上におき、それをまた味わい、二度か三度手で静かに腹をさすり、それからひと息にぜんぶ飲みこみ、舌鼓を打ち、もっとくれとコップを前に出した。
この酒を味わうのに、ウェラー夫人もおくれをとってはいなかった。この善良な夫人は、まず、その一滴にもふれることはできないと言いきり――それからちょっと飲み――それから大きく飲み――それからたくさん飲み、彼女の感情は、酒を飲むと強くそれに支配されるものだったので、ニーガス酒一滴ごとに涙を一滴流し、とうとう彼女はとても悲痛で上品なみじめな状態に到達してしまった。
父親のウェラー氏はこうした兆候を何度か嫌悪の情をあらわにしてながめ、その二杯目を飲み終わって、スティギンズ氏が不吉なふうに溜め息をもらしはじめたとき、彼は、さまざまなとりとめもない言葉で、このやり方にたいするはっきりとした反対意見を示していたが、そうした言葉のうちで、何回か怒ったように「いかさま」という言葉をくりかえしているのだけがはっきりと聞きとれた。
「いいかい、教えてやろう、サミュエル」自分の夫人とスティギンズ氏をながいことジッと見つめていたあとで、ウェラー氏は息子の耳にささやいた、「赤っ鼻の男だけではなく、お前の義理の母さんの臓物のどこかが具合いわるいにちがいないんだ」
「というのは、どういうこってす?」サムはたずねた。
「というのは、こういうことさ、サミー」老紳士は答えた、「やつらが飲むものはなんの滋養にもならず、みんな温かい水になっちまって、目から流れ出してしまうらしいんだ。まったく、こいつは体のどこかに欠陥があるからなんだよ」
ウェラー氏は、いかにも確信ありげに何回か眉をよせ、うなずいて、この科学的な意見を述べ、その仕草にウェラー夫人は気づき、それが彼女自身かスティギンズ氏、あるいは両方に多少非難めいた関係があるものと結論をくだして、もっともっと無限に容態がわるくなろうとしていたとき、スティギンズ氏ができるだけしっかりと立ちあがって、一同のために、とくにサミュエル氏の目を開くために、有益な話をしはじめた。彼は感動的な言葉でサムが投げこまれた不正の巣で警戒の心をゆるめず、すべての偽善、心のおごりをつつしみ、すべてのことで彼(スティギンズ)から正しいひな型と手本をならうべきだ、そうした場合には、彼と同じように、サムもじつに尊敬すべき欠点のない人物、彼の友人知人はぜんぶ、どうにも手のつけられない放埓な悪人という快適な結論に、おそかれ早かれ、到達するものと考えてよいと論じ立てた。そうした結論はかならずや大きな満足を与えてくれるもの、と彼は主張した。
彼は、さらに、なににもまして、飲酒の悪癖を避けるようにサムにすすめ、それを豚のいまわしい習慣になぞらえ、また、口の中で噛んでいると記憶力を消滅させてしまう毒のあるおそろしい薬(かみタバコのこと)にたとえた。話がここまで進むと、尊敬すべき赤っ鼻の紳士の話は妙なふうにちぐはぐになり、自分の雄弁に酔ってヨロヨロとよろめき、自分の垂直状態をたもつために、椅子の背にしがみつかなければならなくなった。
世の中にはいつわりの予言者、宗教をあざけっているつまらぬ者がいて、彼らは、宗教のもっとも重要な理論を説明する頭がなく、そのもっとも重要な原理を感受する心ももたずに、ふつうの罪人よりもっと危険な社会の存在となり、必然的にもっとも虚弱で知識のとぼしい人たちをあざむき、もっとも神聖なものとして考えられるべきものにあなどりと軽蔑を投げ、多くのすぐれた宗派や意見に属する徳のすぐれた、りっぱな人たちのいる大きな団体が一部汚名にさらされるようなことになっているのだが、こうしたものにたいして警戒せよ、とスティギンズ氏はその聴衆に説いてはいなかった。しかし、彼がそうとうながいあいだ椅子の背によりかかり、片目を閉じ、のこりの目をパチパチとさせているとき、彼はこうしたことすべてを考えているらしかったが、それは、ついに、彼の胸におさめられたままになってしまった。
この演説中、ウェラー夫人は話の一区切りごとにすすり泣き、嗚咽をあげていた。一方、サムは脚を組んで椅子に坐り、両腕を椅子の背の上に乗せて、いかにも丁寧・温和な態度で語り手をジッとながめ、ときどき、老紳士のほうに、うんわかった、といったうなずきを送っていたが、老紳士は、はじめはおもしろがっていたものの、途中でぐっすりと寝こんでしまった。
「万歳、じつにみごとなもんですな!」赤っ鼻の男の話が終わったとき、サムは言った。赤っ鼻の男はすりきれた彼の手袋をはめ、指の関節がはっきり見えるほど、切れた手袋の先から指を突き出していた。「じつにみごとなもんです」
「お前さんのためになったらいいんだけどね」厳粛な口調でウェラー夫人は言った。
「そうなると思いますよ」サムは答えた。
「お前の父さんのためにもなると考えられたらいいんだけどね」ウェラー夫人は言った。
「ありがとうよ、お前」父親のウェラー氏は言った。「お前は[#「お前は」に傍点]そのあとでどんな気分になってるのかね?」
「お説教の悪口をいうなんて!」ウェラー夫人は叫んだ。
「ゆき暮れたあわれな男!」牧師のスティギンズ氏は言った。
「お前さんのそのいかさま以上の光に逢えなかったら」父親のウェラー氏は言った、「おれが道からすっかりはずされちまうまで(死ぬときまでの意)、夜の馬車になりつづけてるこったろうよ。さあ、ウェラーの奥さん、あのぶち馬をこれ以上うまやに預けっぱなしにしてたら、もどるときには、もうなにも言うことをきかなくなり、あの肘かけ椅子は、羊飼いといっしょに、たぶん、どこか生垣に、放りこまれることになりますぞ」
こう言われて、牧師のスティギンズ氏は、明らかにびっくりして、自分の帽子と傘を集め、すぐに出発することを提案し、それにウェラー夫人は賛意をあらわした。サムは彼らといっしょに詰め所までゆき、礼儀正しく別れを告げた。
「|あばよ《アデユー》、サミュエル」老紳士は言った。
「アデューってなんですね?」サミーはたずねた。
「うん、そんなら、さようなら」老紳士は言った。
「おお、あんたが言おうとしてたことは、それなんですか?」サムは言った。「さようなら!」
「サミー」あたりを用心深く見まわして、ウェラー氏はささやいた。「お前の旦那によろしくな。こんどのことをよく考えなおしたら、おれに連絡をとるように伝えてくれよ。おれと家具師があの人をつれだす計画を立ててるんだ。ピアノだよ、サミュエル、ピアノだよ!」手の甲でせがれの胸をたたき、一歩か二歩うしろにタジタジッとさがって、ウェラー氏は言った。
「どういうことなんですね?」サムはたずねた。
「ピアノだよ、サミュエル」前よりもっと神秘的なふうに、ウェラー氏は答えた、「彼が借りられるもんで、演奏はだめなんだよ、サミー」
「それがどんな役に立つんです」サムはたずねた。
「旦那がおれの友人の家具師のとこに使いをやり、それをとりにいかせるんだ、サミー」ウェラー氏は答えた。「さあ、わかったかい?」
「わかりませんね」サムは答えた。
「その中はからっぽなんだ」父親はささやいた。「帽子と靴をつけたまんまでも、あの人は十分中にはいれるし、中をうつろにしてあるピアノの脚をとおして、息もできるんだ。アメリカいきの乗船券をすぐにとってもらうんだ。アメリカ政府が彼をみすてるようなことはせんよ、彼が使う十分な金をもってることがわかればな、サミー。バーデル夫人が死ぬか、ドッドソンとフォッグが絞首刑になるまで(このあとのほうが最初起こりそうに思うんだがな、サミー)、旦那をアメリカにいかせ、それから帰ってきて、アメリカ人についての本でも書かせるんだな。その本でアメリカ人をうんとたたいたら、アメリカにいった費用以上のもんまでもうかるぜ」
ささやき声ながら大いに力をこめて、ウェラー氏は彼の計画のあらましを述べ立て、これ以上話して自分のすごい話の効果を弱めてはと心配しているように、彼は御者流の挨拶をして、姿を消した。
尊敬する父親の秘密の話を聞いて、サムの顔はひどく当惑したふうを示していたが、それがもとにかえるかかえらないかに、ピクウィック氏が彼に話しかけた。
「サム」ピクウィック氏は言った。
「はい」ウェラー氏は答えた。
「この監獄をグルッとまわってみようと思っているよ。お前にもいっしょに来てほしいのだ。われわれが知っている囚人がこっちにやって来るのが見えるがね、サム」ニッコリしてピクウィック氏は言った。
「どれです?」ウェラー氏はたずねた。「頭に髪の生えた男ですか、それとも靴下をはいたおもしろい囚人ですか?」
「どっちでもないね」ピクウィック氏は答えた。「彼はもっと古いお前の友人だよ」
「わたしのですって?」ウェラー氏は叫んだ。
「お前は、たぶん、その紳士をとてもよく憶えているよ、サム」ピクウィック氏は言った、「さもなけりゃ、お前はわしが思っていたより自分のむかしなじみを大切にしていないことになるよ。しっ! だまって、サム。一言もいかん。さあ、やって来たぞ」
ピクウィック氏が話しているとき、ジングルが近づいてきた。彼は前ほどみじめなようすはしていなくて、なかばすり切れた服を着ていたが、これは、ピクウィック氏の援助で、質屋から受け出されたものだった。彼は、そのうえ、きれいな下着を着ていて、調髪もされていた。しかし、彼はとても顔が青ざめ、痩せ細っていて、ステッキをたよりにゆっくりと歩いているとき、彼が病気と欠乏にひどくなやみ、まだ体が非常に弱っている事実は、すぐに読みとることができた。ピクウィック氏が彼に挨拶したとき、彼は帽子をとり、サム・ウェラーを見て、ひどく恥じ、どぎまぎしているふうだった。
彼のあとにつづいて、すぐジョッブ・トロッターがあらわれたが、その悪事のうちには、自分の仲間にたいする誠実さと愛情の不足は、とにかく、あらわれていなかった。彼はまだぼろをまとい、きたならしかったが、彼の顔は、数日前ピクウィック氏と会ったときほど、そんなにうつろなものではなかった。慈悲深い旧友に帽子をぬいだとき、彼はとぎれとぎれの感謝の言葉をつぶやき、飢餓から救い出されたことについてなにかブツブツ言っていた。
「うん、うん」いらいらしながら彼をさえぎって、ピクウィック氏は言った、「きみはサムといっしょについてきなさい。ジングル君、わたしはきみに話をしたいんです。彼の腕に助けられなくとも歩けますかね?」
「もちろん――大丈夫――あまり速くはなく――脚がグラグラ――頭が妙な具合い――グルグル――地震のような感じ――とてもね」
「さあ、わたしの腕をつかみなさい」ピクウィック氏は言った。
「いや、いや」ジングルは答えた。「ほんとに大丈夫――大丈夫です」
「バカな」ピクウィック氏は言った、「わたしによりかかりなさい、それはわたしの希望なんですよ」
彼が当惑し興奮して、どうしたらよいか迷っているのを見て、ピクウィック氏は病人の歩行者の腕を自分の腕にとおして、それにけりをつけ、そのことについてはなにも言わないで、彼を向こうにつれ去っていった。
こうしたあいだ中ずっと、サミュエル・ウェラー氏の顔は想像し得るかぎりの大きな圧倒的な、心をうばう驚きの表情を示していた。ジョッブからジングルへ、ジングルからジョッブへだまったまま目をうつして、静かに「うん、ぶったまげたぞ」という言葉を叫び、少なくとも二十回はそれをくりかえし、それがすむと、口をきく力を失ったふうになり、無言の狼狽と驚きで、一方から他方へと視線をうつしていた。
「さあ、サム!」うしろをふりかえって、ピクウィック氏は言った。
「はい、すぐ参ります」機械的に主人のあとについていって、ウェラー氏は答えたが、その目はまだ、だまって自分のわきを歩いているジョッブ・トロッター氏の上に釘づけになっていた。
ジョッブは、しばらくのあいだ、目を地面に伏せたままでいた。サムは、目をジョッブの顔の上に注いだままで、そこを歩きまわっている人にぶつかり、小さな子供に倒れかかり、階段や手すりにけつまずいても、それに一向気づかぬようす、そして、とうとう、ジョッブがそっと目をあげて言った――
「ご機嫌いかがです、ウェラーさん?」
「あの男だ!」サムは叫び、疑いの余地のないほどジョッブが何者かをはっきり見定めてから、彼は脚を打ち、ながい甲高い口笛で自分の気持ちをはきだした。
「事情はすっかり変わってしまったんです」ジョッブは言った。
「そうらしいね」驚きの情をむきだしにして相手のぼろぼろの服をながめて、ウェラー氏は叫んだ。「これは具合いわるいほうへの変化ですな、トロッターさん、りっぱな半クラウンのかわりにいかがわしいシリング銀貨二枚、六ペニーのお守りのお金をもらった紳士が言ったようにね(一クラウンは五シリング。お守りの金には通貨となっていないもの、いかがわしいものが使われていた)」
「まったく、そのとおりですよ」頭をふりふり、ジョッブは答えた。「もういまは、なんのごまかしもありませんよ、ウェラーさん。涙は」瞬間的にいたずらっぽさをちょっと示して、ジョッブは言った、「涙は苦しみのただひとつの証しではなし、最上のものとも言えませんからね」
「そうだよ、うん」意味深にサムは答えた。
「それは、よそおうこともできるんですからね、ウェラーさん」ジョッブは言った。
「そいつは知ってるよ」サムは答えた。「人によってはいつもそいつを準備してて、思ったときにはいつでも、その栓をぬくことができるんだからな」
「そうです」ジョッブは応じた。「でも、こうした[#「こうした」に傍点]ことはそんなに楽につくろえるものではなし、これを仕立てるのはもっと苦しいこってすよ」こう言いながら、彼は自分の血色のわるいくぼんだ頬をさし、上衣の袖をひきあげて、片腕を示したが、それはひと触れすればくだけそうな腕、薄い肉のおおいの下で、とてもとがり、もろくなっているように見えた。
「自分の体をどうしたんだい?」とびさがって、サムはたずねた。
「べつになにもしませんよ」ジョッブは答えた。
「べつになにもしないだって!」サムはおうむがえしに言った。
「ここ何週間ものながいあいだ、なんにもしていませんでしたよ」ジョッブは言った、「同じように、ほとんど飲み食いもしないでね」
サムはトロッター氏の痩せた顔とみじめな服装をぜんぶ見まわし、それから相手の腕をとって、猛烈な勢いで彼を引っぱりはじめた。
「どこにいくんです、ウェラーさん?」むかしの敵にしっかりとつかまれてむだにもがきながら、ジョッブは言った。
「さあ、来るんだ」サムは言った。「さあ、来るんだ!」酒場にゆくまで、彼はそれ以上の説明はせず、ついで一杯の黒ビールを注文し、それはすぐにもってこられた。
「さあ」サムは言った、「そいつを飲むんだ、|滴《しずく》ひとつのこさずにな。それからコップをさかさにして、その薬を飲んだのを、おれに見せるんだ」
「だけど、ウェラーさん」ジョッブは反対した。
「さあ、そいつを飲んじまえ!」高飛車にサムは言った。
こう注意されて、トロッター氏はコップを口のところにもってゆき、ゆっくり、ほとんどそれとわからぬ速度で、それを高く傾けていった。彼は一回、ただ一回だけ、ながい息をつくために、飲むのを休止していたが、容器からは顔をあげず、それから間もなく、彼はその容器をさかさにして、腕の先に突き出した。そこから地面に落ちたものといえば、ただほんのわずかのあわだけ、それはゆっくりとコップの縁からはなれて、力なく滴になって落ちただけだった。
「おみごと!」サムは言った。「飲んだあとの気分はどうだね?」
「いいです。気分がよくなったようです」ジョッブは答えた。
「もちろん、そうさ」サムは理屈っぽく言った。「そいつは風船にガスを入れるようなもんさ。そいつを飲んでお前さんが元気になったのは、この目で見ただけでもわかるこったよ。同じ大きさのやつをもう一杯どうだい?」
「とてもありがたいこってすが、まあ、やめときましょう」ジョッブは答えた。「もう、やめときましょう」
「うん、そんなら、なにか食い物はどうだね?」サムはたずねた。
「あんたのりっぱな旦那のおかげでね」トロッター氏は言った、「三時十五分前に、焼いた羊の脚を半分いただきましたよ、それがゆだるのを抑えるために、下にじゃがいも[#「じゃがいも」に傍点]が敷いてあってね」
「なんだって! 旦那がお前に食わせていたんだって?」力を入れて、サムはたずねた。
「そうなんですよ」ジョッブは答えた。「そのうえ、ウェラーさん、わたしの主人の容態がとてもわるいんで、あんたのご主人は、われわれのために部屋をとってくれ――前には犬小屋のようなとこにいたんです――その支払いをしてくれたんです。そして、だれにも知られないようにと、夜会いに来てくれてるんです。ウェラーさん」今度だけは目に本当の涙を浮かべて、ジョッブは言った、「あの人の足もとで倒れて死ぬときまで、あの人に仕えたいもんですがね」
「いいかね!」サムは言った、「きみをただではおかんぞ! そんなことはしないでくれ!」
ジョッブ・トロッターはびっくりしたようだった。
「そんなことはしないでくれ、若いの」しっかりとサムはくりかえした。「あの人に仕えるのは、おれ以外にはないんだからね。こういうことを話しだしたんだから、それ以外にもうひとつの秘密を教えてやろう」ビールの代を払いながら、サムは言った。「いいかね、ピタリついたズボンとゲートルを着けた天使なんて、おれは聞いたこともないし、物語の本でも読んだこともなし、絵で見たこともないんだがね、――また、眼鏡をかけた天使もね、考えてみると、そいつはさかさにつけられていたかもしれんけどね――だが、おれの言うことをよく聞けよ、ジョッブ・トロッター、あの人は、それにもかかわらず、まったくの純血種の天使なんだ。もっとりっぱな人を知ってる人間がいたら、ひとつその人に会ってみたいもんだよ」こう挑戦的な言葉をはいて、ウェラー氏は釣り銭をわきのポケットにしまいこみ、何回となくそうだ、そうだといったようにうなずき、身ぶりをして、この話の主人公の姿を求めて進んでいった。
彼らは、ピクウィック氏がジングルといっしょにとてもむきになって話しているのを見つけたが、ピクウィック氏はラケット球戯場に集まっていた人々には目もくれてはいなかった。そこにいた人たちは種々さまざまな人たちの群れ、ただのつまらぬ好奇心だけでも、一見の価値はたしかにあるものだったのだが……。
「そう」サムとその仲間が近づいていったとき、ピクウィック氏は言った、「きみの健康状態を見守り、そのあいだに、そのことは考えなさい。それが大丈夫できると思ったときには、わたしにそう言ってください。それをよくこちらでも考え、そのあとで、そのことはよくきみと話し合うことにしましょう。さあ、部屋に帰りなさい。きみは疲れていて、外にながく出ているほど元気にはなっていないのですからな」
アルフレッド・ジングル氏は、以前の元気さはほんのかけらほどもなく――みじめな状態の彼にはじめてピクウィック氏が出逢ったとき、彼が示した陰気な陽気さもぜんぜんなく――なにも言わずに低くお辞儀をし、すぐ自分にはついて来ないように身ぶりでジョッブに知らせてから、ゆっくりとはうようにして去っていった。
「奇妙な場景だな、これは、どうだい、サム?」上機嫌にあたりを見まわして、ピクウィック氏は言った。
「とても奇妙ですね」サムは答えた。「ふしぎなことは、絶対に絶えないようだな」サムはひとり言を言った。「たしかにあのジングルは水まき仕事式のことをやってたようなんだからな」
ピクウィック氏が立っていたフリート監獄の場所に壁でつくりだされている一区画は、りっぱなラケット球戯場になるくらいの面積はあり、一方は、もちろん、壁そのもの、他の面は、聖ポール大寺院のほうに(壁がなかったら)臨んでいる監獄の一部になっていた。ぼんやりなにもしないでいる状態のありとあらゆる姿勢をとり、ブラブラしたり坐ったりして、たくさんの債務者たちがいたが、その大部分は、破産者法廷が開かれる前に、自分の「昇天」の日が来るときまで、監獄でぐずぐずしている連中、一方、ほかの連中は、いろいろとちがった期間、ここに拘留され、その期間をできるだけうまくなんとかつぶしているのだった。ある者は薄ぎたなく、ある者はりゅうとし、多くは不潔、わずか少数の者が清潔な身なりをしていたが、そこではみんな、見せ物の動物園の獣のようにほとんど元気も目的もなく、ただブラブラと歩きまわり、さまよい、こそこそと動いていた。
この散歩場を見おろしている窓からは、ダラリとそれによりかかっているたくさんの人がいたが、一部は下の知人とさわがしく語り合い、一部は外の勇敢な球の投げ手と球を投げ合い、他は球戯をしている人たちや、それを見てワーワーとはやし立てている少年たちをながめていた。きたない、だらしのない女たちがこの内庭の隅にある料理場に出入りし、べつの隅では、子供たちが金切り声をあげ、喧嘩し、いっしょに遊び、九柱戯の柱の倒れる音、それをする人の発する叫びは、こうした物音、そして、それ以外の百もの物音とまじり合い、あたりはただ音とさわぎ一色――ただ静かなところといえば、数ヤードはなれたところにあるみじめな小さな小屋だけ、そこには、静かにおそろしく、前の晩に死んだ大法院の囚人の死体が横たえられ、真似ごとの検死を待っていた。|死体《ボデイ》だって! ボディというのは、生きた人間をつくりあげている心配と不安、愛情、希望と悲しみの渦巻く落ちつかぬかたまりを法律家が呼ぶ言葉なのだ(ボディには「肉体」、「人」の意がある)。法律が彼の肉体を抑え、そして、法律のやさしい慈悲にたいするおそろしい証人として、墓の衣装をまとって、それがそこに転がっているのだ。
「ホウィスリング・ショップをごらんになりたいですか?」ジョッブ・トロッター氏はたずねた。
「それはどういうこと?」がそれにたいするピクウィック氏の質問だった。
「ホウィスリング・ショップですよ」ウェラー氏が口をはさんだ。
「それはなんだね、サム? 小鳥屋なのかね?」(ホウィスルには、「口笛を吹く」の意がある)ピクウィック氏はたずねた。
「おや、おや、ちがいますよ」ジョッブは答えた。「ホウィスリング・ショップっていうのは酒を売ってる場所なんです」すべての人間が、きびしい罰則のもとで、酒を負債者監獄にもちこむのを禁じられ、そうしたものはそこに閉じこめられている男女によってとても珍重がられているので、利益になる心づけの代償に、二、三の囚人が自分にも利益をあげて人気のあるジンを売るのを大目に見てやろうということが、ある企業心のある看守の胸に思い浮かんだといういきさつが、ここでジョッブ・トロッター氏によって手短かに説明された。
「この計画はね、債務者監獄ぜんぶにだんだんと入れられることになったんです」トロッター氏は言った。
「その大きな利点は」サムは言った、「看守は金を払ってる者以外でそうした悪事をしようとする者をぜんぶとっつかまえようと警戒をきびしくし、それが新聞に出ると、その警戒のきびしさで彼らはほめられるわけなんです。そこでふたつの道が開かれるわけなんです――ほかの連中はふるえあがってその商売をしないようになり、看守自身の評判は高くなることになってね」
「本当にそうなんですよ、ウェラーさん」ジョッブは言った。
「うん、そうした部屋に酒がかくされてはいないかどうかと、そこが捜索を受けるようなことはないのかね?」ピクウィック氏はたずねた。
「もちろん、捜索は受けますよ」サムは答えた。「しかし、看守は前もって知り、酒売りに知らせてやるんです。そこを見にいくときには、口笛を吹いてそれをくれと言ってもいいわけなんです」
このときまでに、ジョッブはあるドアをたたき、それはもつれた髪の毛をした紳士によって開けられ、三人が中にはいったとき、ドアに錠がかけられ、その紳士はニヤリと笑った。するとジョッブもサムもニヤリとし、ピクウィック氏も、自分もそうしなければならないかと考えて、この一件が終わるまで、ずっとニコニコと笑いつづけていた。
もつれた髪の毛をした紳士はこの無言の商売の連絡法にすっかりよろこんでいるふうで、二クォート(液量の単位、一・一四リットル)くらいはいりそうな平らな石のびんを寝台の下から出し、三杯のジンをコップに注ぎ、それをジョッブとサムはいかにも手馴れたふうに飲みほしてしまった。
「もっと要りますかね?」酒売りの男は言った。
「いや、もうたくさん」ジョッブ・トロッター氏は答えた。
ピクウィック氏は金を払い、ドアの錠ははずされ、三人は外に出ていった。髪の毛のもつれた紳士は、そのときたまたまそこをとおっていたローカー氏に、いかにも親しげに、うなずいて挨拶をしていた。
この場所から、ピクウィック氏はすべての廊下ぞいに、すべての階段をあちらこちらと歩きまわり、ふたたび内庭ぜんぶをブラブラした。この監獄の住民の大部分は、ミヴィンズ、スマングル、牧師、肉屋、いかさま師の何回も何回ものくりかえしのように思えた。同じきたなさ、同じさわぎと物音、全般に流れる同じ特徴が、すべての隅々、もっともよいところにも、もっともわるいところにも、見受けることができた。その場所ぜんぶが落ち着きなく、いらいらしているようで、人々は、不安な夢の中の影のように、群らがり、あちらこちらにとびまわっていた。
「もう十分見てしまった」自分の小さな部屋の椅子に身を投げだしたとき、ピクウィック氏は言った。「わしの頭はこうした景色でズキズキと痛んできた。そして、わしの胸もな。今後は自分自身の部屋に閉じこもっていることにしよう」
そして、ピクウィック氏はこの決心を少しもくずさなかった。三月というながいあいだ、彼は一日中部屋にジッとしていて、仲間の囚人の大部分が床につくか、部屋で酒を飲んでいるとき、夜中に新鮮な空気をすうためにそっと外に出てゆくだけだった。彼の健康はこうして部屋に閉じこもっていることで損われはじめたが、パーカー氏と友人たちのくりかえして述べた懇願、サミュエル・ウェラー氏のもっと頻繁にくりかえした注意とお説教にもかかわらず、ピクウィック氏はその不屈の決心を少しも変えようとはしなかった。
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第四十六章
[#3字下げ]やさしい思いやりある心の感動的な行為を語るが、ドッドソンとフォッグ両氏によっておこなわれたおもしろいことも、そこにまじえられている
その番号はべつに記録されていない一頭立て二輪のほろつき貸し馬車がはやい歩調でゴズウェル通りを進んでゆくのが見うけられたのは、六月が終わる一週間以内のことだった。御者以外に三人の人間がそこにギュッギュッと積みこまれ、御者はわきの自分自身の小さな御者席に坐り、ひざかけの上には、それをかけたふたりの小柄な雌狐のような婦人のもちもののふたつのショールがさがり、ふたりのあいだで、とてもせまい場所におしこめられて、ずっしりとしたおとなしい態度の紳士がひとりつめこまれていたが、彼が思い切ってなにか一言言うと、それは、いつも前に述べた雌狐のような婦人のひとりによって、プツリと途中で切られていた。最後に、ふたりの雌狐のような婦人とずっしりした紳士は矛盾した指示を御者に与えつづけ、それはバーデル夫人の家の戸口のところでとまる点では意見が一致していた。そして、そこのドアのことを、ずっしりとした紳士は、雌狐のようなご婦人方とは真反対に、それを無視して、緑のドアで、黄色のドアではないと主張していた。
「御者、緑のドアがある家のとこでとまってくれ」ずっしりとした紳士は言った。
「おお、意地っぱりな人だこと!」雌狐のような婦人のひとりは叫んだ。「御者さん、黄色のドアのある家のとこにとめてちょうだい」
御者は、緑のドアがある家のところでいきなりとまろうとして、馬を高く引きあげ、その結果、彼自身の体があやうく車の中に落ちこみそうになるくらいのけぞっていたが、この言葉を聞くと、馬の前脚をもとどおり地面におろし、立ちどまった。
「さあ、どこでとまったらいいんです?」御者はたずねた。「それはみなさんのあいだで決めるこってすよ。わたしのたずねるのは、どこだということだけなんですからね」
ここで前より激しい勢いで議論が再開され、ぶよが馬の鼻を苦しめていたので、御者はやさしく、反対刺激法の原則にもとづいて、ゆっくりと馬の頭のあたりを鞭でたたいていた。
「票の多いほうが勝つわけよ!」とうとう雌狐ふうの婦人のひとりが言った。「御者さん、黄色のドアのある家ですよ」
しかし、雌狐ふうの婦人のひとりが得意になって言ったことだが、「自分の馬車で乗りつけたのよりもっと物音を立てて」この馬車がすばらしいふうに黄色のドアのある家のところにとんでいったとき――そして、御者が台からおりて、御婦人方が外に出るのに手をかそうとしたとき、何番地か先の赤いドアのある家の一対の戸のついている窓からトマス・バーデル坊やの小さなまるい頭が突き出された。
「癪にさわることね!」最後に言った雌狐ふうの婦人が、ずっしりとした紳士に相手をひるませる激しい視線を投げて、言った。
「お前、わしがわるいからじゃないよ」紳士は言った。
「わたしには話をしないで、あんた、やめてちょうだい」夫人はやりかえした。「御者さん、赤いドアのある家ですよ。おお、見ず知らずの人の前で、機会をとらえては自分の妻に恥をかかすのを自慢の種にし、それを楽しみにしてる悪人のような夫になやまされてる女がいるとしたら、その女こそ、このわたしよ!」
「あんたは自分が恥ずかしくならないの、ラドル?」もうひとりの小女がたずねたが、これは、ほかならず、クラッピンズ夫人だった。
「わしがなにをしてたというんだね?」ラドル氏はたずねた。
「わたしには話をしないで、やめて、この獣、わたしが腹を立て、宗派を忘れ、あんたをたたくようなことになるといけませんからね」ラドル夫人は言った。
この会話が進行中、御者は、じつに不名誉なことに、手綱で馬を赤いドアのある家のところまで引いてゆき、そのドアをバーデル坊やはもう開いていた。これは友人の家に着くのに、いかにも野卑な、低級な到着方法だった! 馬の烈火と燃える激しい勢いでさっそうと乗りつけもせず、御者がとびおり、戸をドンドンと高く打つこともなく、風の吹きとおる中に婦人を坐らせておくのを配慮して、最後の瞬間までひざかけをとりのぞかず、それをとると、御者が、まるで個人やといの御者のように、すぐショールを手わたすこともなかった! このよい点がすべてそぎとられて、それは、歩いてくるよりもっとつまらないものになってしまったのだった。
「そう、トミー」クラッピンズ夫人は言った、「あんたのかわいそうな母さんは、どうしてるの?」
「おお、とっても元気だよ」バーデル坊やは言った。「表の客間にいるよ、すっかり用意してね。ぼくだって、用意はできてるよ」ここでバーデル坊やは両手をポケットにつっこみ、戸口のいちばん下の階段からとんで出たりもどったりした。
「ほかにだれかいくの、トミー?」毛皮のケープをなおして、クラッピンズ夫人は言った。
「サンダーズさんもいくよ、いくんだから」トミーは答えた。「ぼくもいくんだから、ぼくもね」
「この坊やのいまいましいったら!」小柄のクラッピンズ夫人は言った。「自分のことしか考えてないんだからね。さあ、トミー、ねえ」
「なんだい?」バーデル坊やは言った。
「ほかのどんな人がいくの、坊や?」猫なで声でクラッピンズ夫人はたずねた。
「おお! ロジャーズ夫人もいくよ」これを知らせたとき、パッと目を見開いて、バーデル坊やは答えた。
「まあ! 下宿した女の人が!」クラッピンズ夫人は叫んだ。
バーデル坊やは両手をなお深くポケットにつっこみ、それはほかならぬ婦人の下宿人であることを知らせようと、正確に三十五回うなずいた。
「まあ!」クラッピンズ夫人は言った。「そうすると、ずいぶん人が集まることね!」
「ああ、戸棚になにがあるかを知ってたら、そう言うだろうね」バーデル坊やは答えた。
「なにがあるの、トミー?」あやすようにして、クラッピンズ夫人は言った。「きっと、トミー、わたしには教えてくれることね?」
「いや、教えないよ」頭をふり、また下の階段でせっせと精を出して遊びはじめて、バーデル坊やは答えた。
「あの坊やのいまいましいったら!」クラッピンズ夫人はつぶやいた。「なんて癪にさわる小僧かしら! さあ、トミー、仲よしのクラッピーには教えてちょうだい」
「教えちゃいけないって、母さんが言ってたよ」バーデル坊やは答えた。「ぼくも少し食べにいくよ、ぼくもね」この見とおしで陽気になって、この早熟な少年は、前よりもっと元気よく、踏み車遊びをせっせとやりはじめた。
幼い少年にたいする前記の訊問は、ラドル夫妻と御者のあいだで運賃についての口論がつづけられているとき、起こったもので、この口論がここで御者に有利に終わったので、ラドル夫人はヨロヨロして近づいてきた。
「まあ、メアリー・アン! どうしたの?」クラッピンズ夫人はたずねた。
「体一面、ガタガタふるえちまったことよ、ベツィー」ラドル夫人は答えた。「ラドルは男らしくないの。みんな、わたしにまかせちまうんだもん」
これは不幸なラドル氏にたいして公正なものとは言えなかった。紛争がはじまると同時に、彼は善良な夫人によってわきにおしのけられ、だまっているように、高飛車に命じられていたからである。しかし、彼は弁解する機会をぜんぜん与えられなかった。ラドル夫人は気絶の歴然たる兆候を示し、これが、客間の窓から、バーデル夫人、サンダーズ夫人、下宿人、下宿人の召使いたちによって気づかれ、彼らはあわてふためいて外にとびだし、彼女を家の中につれこみ、まるで彼女がこの地上でいちばんなやみ苦しんでいる者のように、いろいろなあわれみとなぐさめの言葉をかけたからである。正面の客間につれこまれ、そこで彼女はソファーの上に寝かされ、二階からおりてきた婦人は二階にかけあがり、アンモニアのびんをもってもどり、ラドル夫人の首をしっかりと抑えて、女らしい親切とあわれみの気持ちで、それを彼女の鼻にあてがい、とうとう、ラドル夫人は、何回かもがき転げまわったあとで、はっきり気分がよくなった、と言わずにはいられなくなった。
「ああ、かわいそうに!」ロジャーズ夫人は言った、「あの人の気持ち、わかりすぎるくらいわかることよ」
「ああ、かわいそうに! わたしもわかるわ」サンダーズ夫人は言い、それからすべての婦人方がいっしょになってうめき、自分たちは[#「自分たちは」に傍点]それがどんなものかを知ってる、心の底から本当に気の毒に思う、と言った。まだ十三歳で、三フィートの背しかない下宿人の小さな召使いまで、ブツブツと同情の言葉をつぶやいていた。
「でも、これはどうしたことなの?」バーデル夫人は言った。
「ああ、奥さん、どうして気分がわるくなったんです?」ロジャーズ夫人がたずねた。
「わたしはとてもまごついてたの」叱責の態度で、ラドル夫人は答えた。そこで、婦人たちは憤慨のまなざしをラドル氏に投げた。
「いやあ、事実はこうなんです」前に歩み出して、気の毒な紳士は言った、「ここの家の戸口におりたとき、馬車の御者相手に議論が起こり――」この馬車という言葉を口にすると、彼の妻から出された大声の悲鳴が、これ以上の説明を聞きとれぬものにしてしまった。
「ラドル、彼女を正気にかえすのは、わたしたちにまかせておいたほうがいいことよ」クラッピンズ夫人は言った、「あんたがここにいるかぎり、彼女は絶対によくはならないんですからね」
婦人すべてがこの意見に同意し、そこで、ラドル氏は部屋から追いだされ、裏庭で散歩するように命じられ、それを彼が約十五分したとき、バーデル夫人が厳粛な顔をして、いまははいってもよい、しかし、妻にたいする態度は十分に注意しなければならない、と伝えた。彼が妻にたいして不親切な態度をとろうとしたのではないのはわかっているが、メアリー・アンの体は強いどころではなく、もし彼が注意しなかったら、思いもかけぬとき、彼女を失うことになるかもしれぬ、そうなったら、あとでそれをとてもくやむことになるだろう、等々といった注意だった。こうしたことすべてを、ラドル氏は非常におそれ入った態度で聞き、やがて、いかにもつつましやかな羊のようになって、客間にもどってきた。
「まあ、ロジャーズ奥さん」バーデル夫人は言った、「あなたの紹介はまだだったことね、ほんとに! こちらはラドルさんですよ、奥さん。クラッピンズ夫人とラドル夫人ですよ」
――「ラドル夫人はクラッピンズ夫人の妹さんです」サンダーズ夫人が言った。
「まあ、そうなの!」愛想よくロジャーズ夫人は言った。というのも、彼女は下宿している女性、そのうえ召使いまで使っていたので、その立場から言っても、親しくなるというより愛想のいい態度をとっていたのである。
ラドル夫人はやさしくほほえみ、ラドル氏はお辞儀をし、クラッピンズ夫人は「ロジャーズ夫人のように評判のいい婦人に紹介される機会を得たのは、たしかにとてもうれしいことだ」ということを述べた。そして、この言葉はいとも品のある優越感を意識しての丁寧な態度で、ロジャーズ夫人によって受け入れられた。
「さあ、ラドルさん」バーデル夫人は言った。「ハムプステッドのスペイン人のとこまで、ずっと道中、こんなにたくさんの婦人方を護衛するのはあなたとトミーだけということを、あなたは大きな名誉に考えるべきだと思いますけどね。ロジャーズ奥さん、そうお考えになりませんこと?」
「おお、もちろん、そうですわ」ロジャーズ夫人は答え、それにならって、ほかのご婦人方全員が「おお、もちろん、そうですわ」と唱和した。
「もちろん、奥さん、わたしはそれを感じてますよ」よろこんで両手をこすり合わせ、少し明るくなりそうなかすかな気配を示して、ラドル氏は言った。「まったく、ありていのことを申しあげれば、わたしは言ったんです、われわれが馬車に乗って――」
じつに数多くの痛ましい追憶を思い起こさせる馬車という言葉がくりかえされると、ラドル夫人はふたたびハンカチを目にあてがい、なかばおし殺した悲鳴をあげたので、バーデル夫人は眉をよせた顔をラドル氏に投げ、これ以上なにも言わぬがよいと知らせ、身ぶりでロジャーズ夫人の召使いに「ぶどう酒を出しなさい」と合図した。
これはおし入れのかくされた宝物を出せという合図で、そこにはオレンジやビスケットを入れたさまざまな皿、古くてびんに酒あかの生じたポートワイン――一シリング九ペンスのポートワイン――十四ペンスの有名な東インドのシェリー酒がふくまれていて、それは、下宿人のロジャーズ夫人に敬意をあらわしてもちだされ、みなにかぎりない満足を与えた。いま出されている戸棚の中のものについてどんなにうるさくたずねられたかをトミーが話しだそうとして、クラッピンズ夫人は内心ひやりとしたが(これは、この坊やが酒あかのついた古いポートワインを一杯「まちがったふうに」飲みこみ、数秒間命を失いそうになったことで、運よく、芽のうちにつみとられてしまった)、一行は、ハムプステッドの舞台を求めて、外に出ていった。これはすぐに見つけられ、二時間もすると、彼らは全員無事にスペイン人の茶店のある庭園に着き、そこで、不運なラドル氏の最初の行動は、彼の夫人に例の発作をあやうくひきおこしそうになった。その問題というのは、まさに七人分の茶を注文したということで、(ご婦人方は全員口をそろえて言っていたのだが)給仕が見ていないとき、トミーがだれかの茶わん――あるいは、みなの茶わん――からお茶を飲むのはこのうえなくたやすいこと、それで一人分の茶が節約でき、茶がまずくなることはないのだ、ということだった!
だが、もう処置なし、七つの茶わんと受け皿、それに相応するバターつきパンが乗せられたお盆が運ばれてきた。バーデル夫人がみなの一致した意見で座長役をつとめることになり、ロジャーズ夫人が彼女の右手に、ラドル夫人が左手に坐って、食事はとても陽気に、大成功をおさめて進行していった。
「本当に、いなかって美しいことね!」ロジャーズ夫人は溜め息をもらした。「そこにいつも住んでたいほどだわ」
「おお、そんなこと、あなたの気に入るもんですかね」そうとう急きこんで、バーデル夫人は答えた。そうした考えをすすめるのは、下宿にとって、ぜんぜん得にはならないことだったからである。「いなかなんて、好きにはなりませんよ」
「おお、あんたはにぎやかで、人に求められるような方、いなかではとても我慢できないと思うわ」小女のクラッピンズ夫人は言った。
「たぶん、そうでしょう。たぶん、そうでしょうね」二階の下宿人は溜め息をもらした。
「だれも心をよせず、世話もみず、さもなければ、心を傷めたとかそういったわびしい人にだったら」少し陽気さをふるい立て、あたりを見まわして、ラドル氏が言った、「いなかはとても結構なものでしょう。いなかは傷ついた魂のため、と言われてますからね」
さて、この不運な男の口にできるどんなことでも、この言葉以上にまずいことはなかったろう。もちろん、バーデル夫人はワッと泣きだして、すぐテーブルのところからつれだされるのを求め、やさしい子供のバーデル坊やも、じつに陰鬱なふうに泣きはじめた。
「だれでも信じることができるかしら」二階の下宿人のほうにさっと向きなおって、ラドル夫人は叫んだ、「女がこんな男と結婚し、一日中ひっきりなしに、あんなふうに、女の気持ちをおもちゃにされるなんてね?」
「お前」ラドル氏は抗議した、「わたしはべつにどうという気もなかったんだよ」
「どうという気もないんですって!」ひどく見くだした軽蔑の念をこめて、ラドル夫人はおうむがえしに言った。「向こうにいってちょうだい。この獣、あんたの顔なんか、見てはいられないことよ」
「そんなに興奮してはいけないことよ[#「いけないことよ」に傍点]、メアリー・アン」クラッピンズ夫人は口をはさんだ。「あんたは自分のことを考えなければいけないのよ。あんたは、それをぜんぜんしないのですからね。さあ、向こうへいってちょうだい、ラドル、いい子だから。さもないと、あの人の気分をわるくするだけなんですからね」
「あなたはひとりでお茶を飲んだほうがいいことよ、本当に」また気つけびんを鼻に当てて、ロジャーズ夫人は言った。
習慣でせっせとバターつきパンをつめこんでいたサンダーズ夫人は、同じ意見を述べ、ラドル氏は静かに引きさがっていった。
このあとで、だきしめるにはもう大きくなりすぎていたバーデル坊やが彼の母親の両腕に大さわぎをしてだきあげられ、それをしながら、彼は靴を茶の盆の中につっこみ、茶わんと受け皿にそうとうの混乱をひきおこした。しかし、婦人方のあいだで伝染性をもっているあの気絶の発作は、ほとんどながつづきするものではなく、その結果、坊やにキスをし、少し泣いたあとで、バーデル夫人の発作はおさまり、坊やを下におろして、自分はどうしてこんなにバカなのだろうと言い、さらにもっとお茶を注ぎはじめた。
近づく馬車の車輪の音が聞こえ、ご婦人方が目をあげ、貸し馬車が庭園の門のところにとまるのをながめたのは、このときのことだった。
「お客さまがおいでよ!」サンダーズ夫人は言った。
「紳士の方だわ」ラドル夫人が言った。
「まあ、ドッドソンとフォッグの事務所の若い人、ジャックソンさんだわ!」バーデル夫人は叫んだ。「まあ、驚いたこと! ピクウィックさんが賠償金を払ったはずはないのにね」
「さもなければ、結婚の申し込みよ!」クラッピンズ夫人は言った。
「まあ、なんて、あの人、ゆっくりしてるんでしょう!」ロジャーズ夫人は叫んだ、「どうして急いで来ないのかしら?」
ロジャーズ夫人がこうした言葉をしゃべっているとき、手に太いとねりこ[#「とねりこ」に傍点]のステッキをもって馬車から出てきた黒い|脚絆《きやはん》をつけた薄ぎたない男になにか数言言っていたジャックソン氏は馬車に背を向け、髪を帽子のへりにまきつけながら、ご婦人方が坐っているほうに進んできた。
「なにかまずいことでもありますの? なにか起きたんですか、ジャックソンさん?」むきになってバーデル夫人はたずねた。
「いや、なにもべつに」ジャックソン氏は答えた、「ご機嫌いかがです、みなさん? こんなふうにとびこんできて、おわびを申さなければなりません――が、法律、ご婦人方――法律がありましてな」こうわびの言葉を述べて、ジャックソン氏はニヤリとし、みなに向かってお辞儀をし、髪をもう一度ひとひねりした。ロジャーズ夫人はラドル夫人に、あの人は本当に優雅な青年、とささやいていた。
「ゴズウェル通りをおたずねしたんですがね」ジャックソン氏はつづけた、「女中さんからあんたがここにおいでと聞き、馬車に乗ってやってきたんです。バーデル奥さん、事務所ですぐあなたに来ていただきたいんですよ」
「まあ!」このいきなりな話に驚いてギクリとして、バーデル夫人は叫んだ。
「そうなんですよ」唇を噛んで、ジャックソン氏は言った。「それはとても大切で、さしせまった用件、どうしてものばせないんです。じっさい、ドッドソンがはっきりとわたしにそう申してましたし、フォッグもそうでした。あなたがもどるようにと、馬車もちゃんととってありますよ」
「まあ、なんて妙なことかしら!」バーデル夫人は叫んだ。
それがとても妙なことという点で、ご婦人方の意見は一致したが、彼女たちは声をそろえて、それはとても重要なことにちがいない、さもなければ、ドッドソンとフォッグが使者を出すことは絶対にないだろう、さらに、ことがさしせまっているのだから、ぐずぐずせず、すぐにドッドソンとフォッグの事務所にゆかなければいけない、とすすめた。
こうしてとてつもないふうにあわただしく自分の弁護士に呼び立てられることには、ある程度の誇りやかな気持ちと貫禄の重さがあり、とくにそれが二階の下宿人の見る目で自分の地位を高めるものとも当然考えられるので、それは、バーデル夫人にとって、決して不愉快なものではなかった。彼女はちょっとニヤニヤし、ひどくいらいらし迷っているといったそぶりを示したあとで、とうとう、ゆかねばならぬだろうという結論に達した。
「でも、ジャックソンさん、こうして歩いておいでになったあとで、ちょっと一杯おやりになりません?」ぜひにといったようすでバーデル夫人は言った。
「いやあ、まったく暇はないんです」ジャクソン氏は答えた、「それに、友人がいますからね」とねりこ[#「とねりこ」に傍点]のステッキをもった男のほうを見て、彼はつづけて言った。
「おお、お友だちをここに呼んでください」バーデル夫人は言った。「どうかお友だちをここにお呼びください」
「いや、ありがとうございます」ちょっととまどったように、ジャックソン氏は言った、「彼はご婦人方といっしょになるのにはあまり馴れてませんでしてね、恥ずかしがっちまうんです。もし給仕に言いつけて、なにか|生《き》一本の強いのを彼のとこにもっていってやったら、すぐにグイッとは、まあ、飲まんこってしょうな――まあ、ためしにやってごらんなさい!」話がここまで進んできたとき、ジャックソン氏の指はふざけ半分に鼻のまわりをさすり、彼が逆説的に言っていることをみなに伝えていた。
恥ずかしがり屋の紳士のところにすぐ給仕がやられ、恥ずかしがり屋の紳士はなにかを飲み、ジャックソン氏もなにかを飲み、ご婦人方も、付き合いの義理で、なにかを飲んだ。ついで、ジャックソン氏は、もうゆかねばならぬ時だ、と言い、そう言われて、サンダーズ夫人、クラッピンズ夫人、トミー(彼はバーデル夫人と同行すべきことが決められ、ほかのご婦人方はラドル氏の護衛を受けることになった)が馬車に乗りこんだ。
「アイザック」バーデル夫人が車に乗ろうとしたとき、葉巻きをくゆらしながら御者席に坐っていたとねりこ[#「とねりこ」に傍点]のステッキをもった男を見あげて、ジャックソン氏は言った。
「うん、なんですね?」
「これが[#「これが」に傍点]バーデル夫人だ」
「おお、とっくのむかしに、そいつは知ってますよ」その男は言った。
バーデル夫人は楽に乗りこみ、ジャックソン氏もそのあとで乗りこみ、馬車は走り去っていった。バーデル夫人は、ジャックソン氏の友人が言った言葉を考えずにはいられなかった。こうした弁護士たちは抜け目のない人たち、まったく、人をちゃんと見つけてしまうのだ!
「事務所でこうした費用を出すなんて、悲しいこってすよ、どうです?」クラッピンズ夫人とサンダーズ夫人が眠りこんでしまったとき、ジャックソン氏は言った。「あんたの訴訟費用の勘定書きのこってすがね」
「それを払ってもらえなくて、とてもお気の毒なことね」バーデル夫人は答えた。「でも、弁護士をしているあなた方が賭けでこうしたことをしておいでだったら、ときには損をなさることもあるのでしょうね?」
「裁判のあとで、訴訟費用にたいする被告承認書をあんたは連中にわたしたそうですね?」
「ええ、形式だけのこととしてね」バーデル夫人は答えた。
「もちろん」そっけなくジャックソン氏は答えた。「まったく形式のこととしてね。まったく」
馬車はどんどん進み、バーデル夫人は寝こんでしまった。しばらくして、馬車がとまり、彼女は眠りから目をさまされた。
「まあ!」夫人は言った。「フリーマン小路にもう着いたのかしら?」
「そんなに遠くまでいきはしませんよ」ジャックソン氏は答えた。「どうかおりてください」
バーデル夫人はまだすっかり目がさめず、相手の言うなりになった。そこは奇妙な場所で、大きな壁があり、その真ん中に門があって、中ではガス灯が燃えていた。
「さあ、ご婦人方」馬車の中をのぞきこみ、サンダーズ夫人の体をゆすって、彼女を起こしながら、とねりこ[#「とねりこ」に傍点]のステッキをもった男は叫んだ、「さあ!」友をゆりおこして、サンダーズ夫人は車からおり立った。バーデル夫人はジャックソンの腕によりかかり、トミーの手をとって、もう玄関口にはいっていた。サンダーズ夫人とクラッピンズ夫人はそのあとにつづいた。
彼らがはいっていった部屋は玄関口よりもっと奇妙な感じのするものだった。じつにたくさんの男たちがあたりに立ち、そのうえ、目をむいてこちらを見ていた。
「ここはどんな場所なの?」立ちどまって、バーデル夫人はたずねた。
「役所のひとつにすぎませんよ」急いで彼女を戸口から奥につれこみ、ふりかえってほかの夫人たちがついてくるのをたしかめて、ジャックソン氏は答えた。「アイザック、ちゃんと見張るんだぞ!」
「安全無事ですよ」とねりこ[#「とねりこ」に傍点]のステッキをもった男は答えた。彼らのうしろでドアは重々しく閉まり、彼らは小さな階段をおりていった。
「さあ、とうとう着きましたぞ。ちゃんとしっかりとね、バーデル奥さん!」うれしそうにあたりを見まわして、ジャックソン氏は言った。
「というのは、どういうことです?」胸をドキドキさせて、バーデル夫人はたずねた。
「こういうことだけの話」わきにちょっと彼女を引きよせて、ジャックソン氏は答えた。「びっくりしてはいけませんよ、バーデル奥さん。ドッドソン以上に心のやさしい男は絶対にいず、フォッグよりもっと慈悲深い男はいないんですよ。訴訟費用にたいしてあなたの身柄を強制執行令状でおさえるのは、仕事として彼らの義務なんです。でも、できるだけ気持ちの上の苦痛を免除してあげたいと、彼らは思ってたんです。これがどんなふうにおこなわれたかを考えてみれば、あんたもどんなにか気が安まるこってしょう! ここはフリート監獄ですよ、奥さん。お寝みなさい、バーデル奥さん。お寝み、トミー!」
ジャックソン氏がとねりこ[#「とねりこ」に傍点]のステッキをもった男とあわただしく出ていったとき、それを見ていた手に鍵をもったべつの男が、先に立ってとまどっているバーデル夫人を戸口に通じるべつの短い階段に案内していった。バーデル夫人は激しい悲鳴をあげ、トミーはわめき、クラッピンズ夫人は身をちぢこめ、サンダーズ夫人はべつにさわがずに急いで逃げ出していった。というのも、夜気に当たろうとして散歩をしている被害者のピクウィック氏がそこに立ち、彼のわきにはサミュエル・ウェラーが前かがみになっていたからである。サムはバーデル夫人の姿を見て、からかい半分にうやうやしく帽子をぬぎ、彼の主人は怒気を浮かべてぐるりとこちらに向きなおった。
「その女はかまわんでくれよ」看守はウェラーに言った、「新入りなんだからな」
「囚人なんですって!」さっと帽子をもとにもどして、サムは言った「原告はだれなんです? どういうことで? さあ、早く話して」
「ドッドソンとフォッグだよ」看守は答えた、「訴訟費用にたいする被告承認書にもとづく執行だよ」
「おい、ジョッブ、ジョッブ!」廊下に走っていって、サムは叫んだ。「ジョッブ、パーカーさんとこへとんでいってくれ。おれが[#「おれが」に傍点]すぐ彼に用があるんだからな。これはなにかありがたいことになるぞ。こいつはおもしろいぞ。万歳! 親分はどこにいるんだ?」
こうした質問にはだれも答えなかった。ジョッブは任務を受けるとすぐ、すごい勢いでとびだし、バーデル夫人は、今度こそまったくかけ値なく、気絶してぶっ倒れてしまっていたからである。
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第四十七章
[#3字下げ]主として事務的なことがらとドッドソンとフォッグの一時的な有利さを語る。ウィンクル氏は、じつに途方もない事情のもとで、その姿をふたたびあらわす。ピクウィック氏の慈悲がその頑固さより強いことがわかる
ジョッブ・トロッターは速度をぜんぜん落とさずにホウバンを突っ走り、その通路のそれぞれのところで男・女・子供・馬車のこみ合い具合いによって場所を変え、ときには道路の真ん中、ときには舗道、ときには車道と人道のあいだにあるみぞぞいといった具合いにふっとんでいった。そして、すべての障害にもめげず、グレイ・インの門に着くまで、一刻のあいだも足をとめなかった。しかし、こうまで急いだにもかかわらず、彼がそこに着いたのは、その門が閉まってからたっぷり三十分経過してからのことだった。グレイ・イン小路の背後のどこかで、ある醸造所のほんの近くのある通りで、番号をふたつ兼ねているところに住んでいるある住みこみでない給仕と結婚した娘といっしょに暮らしているパーカー氏の洗濯女を彼が見つけだしたときには、監獄が夜閉まる時刻までもう十五分もない時になっていた。そのうえ、『かささぎと切り株旅館』の裏の部屋からラウテン氏を狩り出さなければならず、ジョッブがこの目的を達し、サム・ウェラーの伝言を伝えたときに、時計は十時を報じていた。
「ほうら」ラウテン氏は言った、「もうおそすぎますよ。今晩は中にはいれず、締め出しを食ったことになりますね」
「わたしのことは、どうでもいいんです」ジョッブは答えた。「わたしはどこででも眠れます。でも、われわれが明日の朝すぐあそこにゆけるように、今晩のうちにパーカーさんとお会いしといたほうが、いいんじゃないでしょうかね?」
「いや」少し考えたあとで、ラウテン氏は答えた、「これがほかのだれかの場合だったら、家におしかけられて、パーカーはたいしてよろこびはせんでしょうがね。だが、これがほかならぬピクウィックさんのことなんだから、貸し馬車に乗り、そいつを事務所に走らせても大丈夫でしょう」こう行動方針を決定して、ラウテン氏は帽子をとりあげ、一時の不在中、代理の議長を指名してくれるように集まった人たちにたのんで、近くの馬車のたまりにゆき、早く走りそうな馬車をえらんで、ラッセル広場のモンタギュー・プレイスにゆくようにと御者に命じた。
パーカー氏は、この日、晩餐会を開いていたが、応接間の窓に灯りが見えること、改良型のグランドピアノの音、そこから流れ出てくるまだまだ改良の余地のある人声、階段と入り口にまでゆきわたっているむっと強い肉のにおいで、そのことはわかった。事実、りっぱな地方の代理人ふたりがたまたま時を同じくしてロンドンにやって来たので、彼らと会うために、気持ちのいいささやかな会が開かれ、生命保険会社の事務官のスニック氏、有名な法律顧問のプロージー氏、三人の事務弁護士、ひとりの破産者処理委員、法学院の特別申し立て人、不動産権利譲渡権に関する法律について、たくさんの傍註と参照をつけて、鋭い意見を述べた本を書いた彼の弟子である小さな目をした、厳然とした若い紳士、その他数人のすぐれた有名な人たちが集まっていた。自分の事務員が来たことをそっと伝えられると、パーカー氏はこうした人たちのところからはなれ、食堂で台所用のろうそくでぼんやりと暗く照らしだされているラウテン氏とジョッブ・トロッターを発見したが、このろうそくは、四季払いの年金を受けとりにきたフラシ天の半ズボンと木綿の服を着た紳士が、「事務所」に所属する事務員とすべての物にたいする彼相応の軽蔑の気持ちで、そこのテーブルにおいてあったものだった。
「さて、ラウテン」ドアを閉めて、小男のパーカー氏は言った、「どうしたんだい? 小荷物で重要書類が来たんじゃないのだろうね、どうだい?」
「そうじゃありません」ラウテン氏は答えた。「こちらはピクウィックさんからの使いの者です」
「ピクウィックさんからだって、えっ?」さっとジョッブのほうに向いて、小男は言った。「うん、用件は?」
「ドッドソンとフォッグが、訴訟費用にたいする強制執行令状で、バーデル夫人をつかまえました」ジョッブは答えた。
「まさか!」両手をポケットにつっこみ、食器棚によりかかって、パーカー氏は叫んだ。
「そうなんです」ジョッブは答えた。「裁判のあとすぐ、訴訟費用にたいする被告承認書を彼女からとってあったらしいんです」
「いや、驚いた!」ポケットから両手を出し、右手の関節で左手の手のひらを強くたたいて、パーカー氏は言った、「あの連中はじつに抜け目のないひどい悪党だ!」
「じつにぬかりのない弁護士ですな」ラウテン氏は言った。
「ぬかりのないやつらだ!」パーカー氏はおうむがえしに言った。「やつらは抑えようにも抑えようのない男どもだ」
「まったく、そのとおり、抑えようはありませんな」ラウテン氏は答えた。そして、主人とその部下はふたりとも、人間の叡知のおこなったもっとも美しい巧妙な発見をながめているようなようすで、数秒間、面を輝かして考えこんでいた。この驚嘆のうっとりした状態から多少なりともわれにかえったとき、ジョッブ・トロッターはのこりの自分の任務を伝えた。パーカー氏は考えこんで頭をうなずかせ、懐中時計を引っぱりだした。
「十時きっかりに、わたしはあそこにいくからね」小男は言った。「サムの言うとおりだ。彼にはそう伝えてくれたまえ。ラウテン、一杯やるかね?」
「いいや、ありがとうございます」
「それは『はい』の意味だろうね」ぶどう酒のびんとコップを出そうと食器棚のほうに向いて、小男は言った。
ラウテン氏は『はい』のつもりでさっきの言葉を言っていたので、それ以上このことについてはなにも言わず、炉の向かいにかかっているパーカー氏の肖像画はすばらしくそっくりのものではないかと、聞こえよがしのささやき声でジョッブにたずね、ジョッブは、もちろん、そうだと答えていた。ぶどう酒はこのときまでにもう注がれていたので、ラウテン氏は、パーカー夫人とその子供たちのために、ジョッブは、パーカー氏のために、乾杯した。フラシ天の短ズボンと木綿の服を着た紳士は、事務所から人を送りだすのを自分の任務とは心得ておらず、ベルの音に答えるのをがんとして拒否していたので、ふたりは案内を受けずに外に出ていった。パーカー氏は応接間に、ラウテン氏は『かささぎと切り株旅館』にもどり、ジョッブは、コヴェント・ガーデンの市場にゆき、野菜籠の中で一夜をすごすことになった。
翌朝、約束の時間きっかりに、上機嫌の小男の弁護士はピクウィック氏の部屋のドアをノックし、それはすごいすばやさでサム・ウェラーによって開かれた。
「パーカーさんです」考えこんだようすをして窓の近くに坐っていたピクウィック氏に、サムは来客の名を告げた。
「フラリと立ちよってくださって、とてもありがたいことです。旦那さまはきっと、あなたとちょっと話をしたがっておいででしょう」
パーカー氏はサムにわかったといった顔をし、自分が呼ばれてきたのを言うべきではないことを理解しているのを知らせ、彼を近くに招きよせて、言葉短かに彼の耳にささやいた。
「まさかそんなことは?」ひどく驚いてとびさがりながら、サムは言った。
パーカー氏はうなずき、ニッコリした。
サミュエル・ウェラー氏は小男の弁護士を、ついでピクウィック氏を、ついで天井を、ついでふたたびパーカー氏をながめ、ニヤリとし、ワッと笑いだし、最後にじゅうたんのところから帽子をとりあげて、それ以上なんの説明もせずに、姿を消してしまった。
「これはどういうことです?」びっくりしてパーカー氏を見ながら、ピクウィック氏はたずねた。「どうしてサムはあんな妙な行動をするのです?」
「いやあ、なんでもありませんよ、なんでもありませんよ」パーカー氏は答えた。「さあ、テーブルのところにあなたの椅子をよせてください。いろいろとお話しすることがありますからな」
「それはなんの書類です?」赤いひもで結んだ小さな書類のたばを小男がテーブルの上においたとき、ピクウィック氏はたずねた。
「バーデルとピクウィック事件の書類ですよ」歯で結び目を解きながら、パーカー氏は答えた。
ピクウィック氏は椅子の脚をきしらせ、そこに身を投げ、手を組み、自分の法律上の友人を――もしピクウィック氏がきびしい顔つきをすることができるものとしたら――きびしくにらみつけていた。
「この事件の名を聞くのがおいやなようですな?」まだせっせと結び目を解きながら、小男は言った。
「ええ、まったく好みませんな」ピクウィック氏は答えた。
「それは残念なこと」パーカー氏はつづけた、「というのも、それがこれからの話の主題になるのですからね」
「われわれのあいだでは、その問題はもちださんほうがいいと思うね、パーカー」急いでピクウィック氏は口をはさんだ。
「バカな! バカな!」つつみのひもを開き、目の隅でピクウィック氏をジッと見つめながら、小男は言った。「それは申さねばならんことです。そのためにここにやってきたんですからな。さて、わたしの申すことを聞いていただけますかな? 急ぐことはありませんぞ。その用意がなければ、お待ちするだけのことですからな。ここに朝の新聞はもってきてます。さあ、ここでそれを読ませていただきましょう」ここで小男は脚を組み、ゆっくりと熱心に新聞を読みだすそぶりを見せた。
「まあ、まあ」溜め息をフッともらし、それと同時にだんだんと笑い顔になって、ピクウィック氏は言った。「あんたの用件を言っていいですよ。また以前と同じ話なんでしょうが?」
「ちがいはありますよ、ちがいは」ゆっくりと新聞をたたみ、それをポケットにしまいこんで、パーカー氏は答えた。「訴訟の原告だったバーデル夫人がここの刑務所の中にいるというちがいがあってね」
「それは知っていますよ」がピクウィック氏の答えだった。
「よくわかりました」パーカー氏は答えた。「そして、どうして彼女がここに来たかはご存じなんでしょうな? それがどんな理由で、だれの訴えでということですがね?」
「ええ、少なくとも、このことに関するサムの話は聞きましたよ」無造作をよそおって、ピクウィック氏は言った。
「このことに関するサムの話は」パーカー氏は答えた、「完全に正しい話といっていいでしょう。そこでわたしがおたずねしなければならない第一の問題は、この女性がここにいるべきかどうかということです」
「ここにいるべきかどうかですって!」ピクウィック氏はおうむがえしに言った。
「ここにいるべきかどうかです」椅子でそりかえり、依頼人をジッと見つめて、パーカー氏は答えた。
「どうしてそんなことをわたしにたずねるのです?」ピクウィック氏は言った。「その権利はドッドソンとフォッグにあるわけ、そのことはあなたもよく承知のはずです」
「そんなことは、なにも知りませんよ」しっかりとパーカー氏は答えた。「その権利はドッドソンとフォッグにはありませんよ[#「ありませんよ」に傍点]。あなたは、わたしと同様、あの男たちのことはご存じです。それはただ、まったく、すべて、あなたにあるのです」
「わたしにですって!」椅子から神経質に立ちあがり、またすぐに坐りこんで、ピクウィック氏は叫んだ。
小男はかぎタバコ入れのふたをトントンと二度たたいてそれを開き、大きくそれをひとつまみし、またふたをし、同じ言葉「あなたにあるのです」をくりかえした。
「ねえ」かぎタバコで自信を深めたかのようすの小男はつづけて言った、「ねえ、彼女のすみやかな釈放も、永遠の投獄も、それはあなたに、あなただけにあるのです。よろしかったら、どうかわたしの話をぜんぶ聞き、そんなに力まないでください。そんなことをしても、ただ汗をかき、体をわるくするだけですからね。ねえ」ひとつの提案ごとにちがった指をそれぞれ折って、パーカー氏はつづけた、「ねえ、彼女をこのみじめな巣から救い出す者といえば、あなたをおいてほかにはいないんです。この訴訟費用――原告と被告双方の――をフリーマン小路の詐欺師の手に払うこと以外に、それをする方法はありません。まあ、どうかだまっていてください」
この話のあいだ中、その顔が驚くほどの変化ぶりを見せ、明らかに怒りがほとばしりでそうになっていたピクウィック氏は、できるだけ自分の怒りを抑えていた。パーカー氏は、もう一服かぎタバコをかいでその討論の力を強めてから、さらに話をすすめた。
「わたしは、今朝、あの夫人に会いました。訴訟費用を払うことによって、あなたは完全な釈放と損害賠償からのがれることができるのです。さらに――これは、あなたにあって、さらに重要な考慮対象になるわけですが――わたし宛の手紙の形をとった、すぐ手もとにある自発的な陳述、今度のことが、最初から、ドッドソンとフォッグによってたくらまれ、焚きつけられ、進行され、あなたを苦しめなやます道具になったことを、彼女は深く後悔し、わたしにあなたへのとりなしをたのみ、あなたの許しを得たがっているという陳述書を得ることができるのです」
「もし彼女のために彼女の訴訟費用をわたしが払えばですって!」腹立たしげにピクウィック氏は言った。「まったく、貴重な文書というものですな!」
「この場合には『もし』はないんです」勝ち誇ったようにパーカー氏は言った。「わたしがいまお話ししているその手紙は、ここにあるんです。誓って、わたしがここにはいり、バーデル夫人と連絡をとる前に、今朝九時半べつの女性によってわたしの事務所にもってこられたものなんです」たばの中からその手紙をえらびだし、小男の弁護士はそれをピクウィック氏の肘のところにおき、目をパッと見開いたまま、二分間ぶっつづけにかぎタバコをかいでいた。
「あなたがわたしにおっしゃりたいことは、それだけですか?」おだやかにピクウィック氏はたずねた。
「いや、まだありますよ」パーカー氏は答えた。「被告承認書の言葉づかい、表向きな考慮の性格、この訴訟の運営すべてに関してわれわれが集められる証拠が、共同謀議の告発を正当化するに十分なものかどうかは、いまのところ、なんとも言えません。わたしは心配はしていません。彼らが利口でそんなことはしない、とも言いきれませんからね。だが、わたしは申しますよ、事実すべてをまとめて考えたら、すべてのまともな人は、あなたの主張を正当なものと認めるでしょう。さて、これはあなたに申しあげておきますよ。この百五十ポンド――それを大まかな数で申して――あるいは、どんな金額にせよ、それはあなたにとってなんでもないものです。陪審はあなたに不利な判決をくだしました。そう、彼らの判決はあやまったものです。でも、彼らは正しいと思ったふうに判決をくだし、それがあなたの不利になっている[#「なっている」に傍点]のです。あなたはいま、楽な条件で、ここにとどまっていることで得られるよりもっとずっと高い地位に身をおく機会を与えられているんです。あなたを知らぬ人たちは、ここにあなたがいるのを、ただもうまったくの強情な、片意地な、人間ばなれした頑固さのため、本当ですよ、ただそれだけのためと思うことでしょう。この機会があなたを友人方に、もとの仕事に、あなたの健康と楽しみにもどしてくれるのに、それを利用するのをためらうなんていうことがあるのですか? それがあなたの忠実な愛する召使いを解放し――そうしなければ、彼は、あなたの生きているかぎり、ここに閉じこめられているでしょう――それがあなたに、みじめさと堕落の場面からあの女を解放するという――あなた自身の心には打ってつけのと思われる――じつに寛大な復讐をすることができるようにしてくれるのに? もしわたしの思うとおりになったら、この監獄にはだれもぶちこまれるべきものではなく、女性にその苦しみが加えられるのは、もっともっとおそろしく、野蛮なことなのです。さて、あなたの法律上の顧問としてばかりでなく、あなたのとても誠実な友人として、あなたにおたずねしますがね、ほんのわずかな金がふたりの悪人のポケットにはいるというつまらぬ考えで、こうしたすべての目的を達成し、こんなためになることをすることができる機会をすててしまう気なのですか? あのふたりの悪人にとって、その金はどうということもなく、ただもうければなお欲がつのって、それだけ早く身の破滅になるなにか悪事につりこまれてゆくだけのことなのです。わたしは以上のような考えをとてもはっきり、とてもしっかりとはあなたにお伝えできませんがね、どうか、それを考えてみてください。いくらでもよろしいだけゆっくりと、それを考えてみてください。わたしはここでゆっくりとご返事を待ってますよ」
ピクウィック氏がまだ答えないうちに、こうしためったにない長口上のあとでパーカー氏に絶対に必要となったかぎタバコの二十分の一もまだすわないうちに、外で低いつぶやきの何人かの声が聞こえ、ついでモジモジしたふうなドアのノックの音がひびいてきた。
「あれ、あれっ!」友人の言葉でたしかに心を動かされ、興奮していたピクウィック氏は叫んだ、「あのドアはなんという厄介なものなのだろう! だれですか?」
「わたしです」頭をつっこんで、サム・ウェラーが答えた。
「いまお前とは話ができんよ、サム」ピクウィック氏は言った。「いまは用事があるのだからね、サム」
「失礼ですが」ウェラー氏は答えた、「とくにお話ししたい用件があると言っておいでのご婦人がここにおいでになってるんです」
「どんなご婦人にもお会いできんよ」心がバーデル夫人の姿でいっぱいになっていたピクウィック氏は答えた。
「わたしだったら、そうはっきりとは言い切りませんね」頭をふりながら、ウェラー氏は言った。「だれが近くにいるかをご存じだったら、その調子はどうやら変わりそうといったとこでしょう。こまどり[#「こまどり」に傍点]が向こうで鳴いてるのを聞いたとき、鷹が陽気に笑って、言ったようにね」
「だれだね?」ピクウィック氏はたずねた。
「その方にお会いになりますかね?」向こう側になにか珍しい生き物でもひかえているように、ドアを手で抑えて、ウェラー氏はたずねた。
「会わねばならんと思うね」パーカー氏のほうに目をやって、ピクウィック氏は言った。
「わかりました。そんなら、まず最初に、みんなはいってください!」サムは叫んだ。「ゴングを鳴らし、幕があがり、ふたりの共謀者登場ってわけです」
こうサム・ウェラーが言ったとき、彼はドアをパッと開き、激しい興奮状態でナサニエル・ウィンクル氏が部屋にとびこみ、彼のあとに手をとって、ディングリー・デルでは上のところに毛皮をつけた靴をはいていたあの若い婦人をつれこんできた。彼女は、いまは顔を赤らめ、狼狽し、ライラック色の絹の服を着こみ、気のきいたふちなし帽子をかぶり、豪華なレースのヴェールをつけて、前よりもっと美しい姿を見せていた。
「アラベラ・アレン嬢だ!」椅子から立ちあがって、ピクウィック氏は叫んだ。
「いいや」ひざまずいてウィンクル氏は答えた、「ウィンクル夫人です。どうか許してください、許してください!」
ピクウィック氏は目にしたものをほとんど信じることができず、パーカーのニコニコしている顔、背景にサムと美しい女中の確実な存在によって与えられる補強的証拠がなかったら、それを信じなかったことであろう。美しい女中はこれをじつに強い満足感でながめているようだった。
「おお、ピクウィックさん!」まるで沈黙をおそれているように、低い声でアラベラは言った。「わたしの無謀を許していただけますかしら?」
ピクウィック氏はこのたのみに言葉の返事は与えず、大急ぎで眼鏡をはずし、この若い婦人の両手をにぎって、何回となく――おそらく必要以上に何回となく――彼女にキスをし、それから、まだ彼女の片手をにぎったままで、ウィンクル氏に、きみは厚かましい子犬だぞ、と言い、彼に立ちあがれと命じた。いかにも悔いているといったようすで、数秒間帽子のへりで鼻をこすっていたウィンクル氏は、この命令にしたがい、そこで、ピクウィック氏は何回か彼の背をたたき、ついで、心からパーカーと握手し、パーカーはパーカーで、このさいの挨拶におくれをとらじと、花嫁と美しい女中に気持ちよくお辞儀をし、じつに心をこめてウィンクル氏の手を強くにぎり、彼のよろこびの表示の最後のけりとして、ふつうの鼻をもった六人の男を生涯くしゃみさせつづけるほどのかぎタバコをグッとすった。
「いやあ、花嫁さん」ピクウィック氏は言った、「これはどうして起きたんです? さあ! 坐って、すべてを聞かせてください。本当に彼女は美しいね、どうだい、パーカー?」まるでアラベラが自分の娘でもあるかのように、いかにも誇らしげな、うれしそうなようすでアラベラの顔に見入りながら、ピクウィック氏は言いそえた。
「ほれぼれしますね」小男は答えた。「わたしが結婚した男でなかったら、この犬さん、きみがとってもうらやましくなるとこですよ」こう自分の考えを述べてから、小男の弁護士はウィンクル氏の胸をポンとひと突きし、ウィンクル氏はそのひと突きにおかえしをし、ふたりは大声をあげて笑いだしたが、その笑い声はサミュエル・ウェラー氏の笑いにはおよびもつかなかった。彼は、食器入れ戸棚の戸の陰にかくれ、美しい女中にキスをして、その気持ちを晴らしたばかりだった。
「あなたには十分お礼できないくらいよ。サム、本当に」想像し得るかぎりのやさしい微笑を浮かべて、アラベラは言った。「クリフトンの庭でのあなたの尽力は、もう絶対に忘れはしないわ」
「そのことについては、なんにも言わないでください」サムは答えた。「わたしはただ自然の勢いを助けたまでのこと、放血して少年を死なせてしまったとき、医者が少年の母親に言ったようにね」
「メアリー、お坐り」サムの言葉を途中で切って、ピクウィック氏は言った。「さて、きみたちは結婚してどのくらいたったのかね、えっ?」
アラベラは恥ずかしそうに自分の主人のほうをながめ、彼は「たった三日です」と答えた。
「たった三日だって、えっ?」ピクウィック氏は言った。「いやあ、この三月間なにをしていたのかね?」
「ああ、まったく!」パーカー氏は口をはさんだ。「さあ! このなまけの説明をしなさい。おわかりでしょう、ピクウィックが驚いてるのは、ただそれが何か月も前に終わってなかったことだけなのですからな」
「いやあ、事実は」顔を赤らめている若い妻のほうを見やりながら、ウィンクル氏は答えた、「ながいこと、わたしがベラに逃げだすのを説きつけられなかったためなんです。それをようやく説きつけても、その機会を見つけるのに、さらにながいことかかってしまいました。メアリーも、となりの家のつとめをやめるためには、一月前に知らせておかなければなりませんでした。そして、彼女の援助がなくては、今度のことは、たぶん、実現不可能だったでしょう」
「これは、これは!」ピクウィック氏は叫んだが、彼は、もうこのときまでに、眼鏡をかけ、アラベラからウィンクルへ、ウィンクルからアラベラへ、温かい心と好意が人間の顔に伝えられるかぎりのよろこびの情を顔に浮き彫りにさせながら、目をうつしていた。「これは、これは! 今度のきみのやり方は、なかなか計画的だったのですな。そして、あなたの兄さんは、このことすべてをご存じなのですかね?」
「おお、ちがいます。ちがいます」顔色を変えて、アラベラは答えた。「ピクウィックさん、兄にそれを知らせるのは、あなたをとおして――あなたの口をとおしてしか方法はありません。彼の気性はとても激しく、とても偏見をもち、彼の友人のソーヤーさんのことばかり考えているのです」目を伏せてアラベラは言いそえた、「ですから、その結果がとてもおそろしいのです」
「ああ、まったく」重々しくパーカー氏は言った。「これはあなたが引き受けねばならんことですぞ。この若いふたりは、ほかのだれの言うこともきこうとしないときでも、あなたにたいする敬意は失っていないのですからな。不幸は阻止せねばなりませんぞ。血気にはやるというやつ、血気にはやるというやつ」こう言って、小男はかぎタバコをひとつまみし、疑わしげに頭をふった。
「きみは忘れておいでですな」やさしくピクウィック氏は言った、「わたしが囚人なことを、きみは忘れておいでですな」
「いいえ、忘れてはおりません」アラベラは答えた。「絶対に忘れてはおりません。このおそろしい場所で、あなたのお苦しみがどんなに大きなものか、いつもわたしは考えていました。でも、ご自身にたいする考慮があなたにさせないことでも、わたしたちの幸福にたいする思いやりがそれをさせるかもしれないと、わたしは思っていたのです。兄が最初にあなたの口からこのことを聞けば、わたしたちはきっと和解できると思います。ピクウィックさん、兄はこの世でのただひとりの肉親なのです。あなたがわたしのために話してくださらなかったら、その彼さえ失ってしまうでしょう。わたしは、自分がいけないこと、とても、とてもいけないことをしたのを、よく知っています」ここであわれなアラベラは顔をハンカチに埋め、激しく泣きだした。
この涙で、ピクウィック氏の心はグッと動かされた。しかし、ウィンクル夫人が涙をぬぐい、とてもやさしい声にこのうえなくやさしい抑揚をつけて、彼の機嫌をとり、たのみはじめたとき、彼はとても落ち着かなくなり、どうしてよいのか決めかねているふうだった。これは彼の眼鏡の玉・鼻・ズボン・頭・ゲートルをいらいらしてこするといったさまざまな仕草にはっきりとあらわれていた。
こうした不決断の兆候に乗じて、パーカー氏(若い夫妻は、その朝、まっすぐ彼のところへ車を走らせたらしいのだが)は、法律的な急所を抑えてぬかりなく、ウィンクル氏の父親がその息子の人生の階段におけるこの重要な一歩前進をまだ知らず、息子のウィンクル氏の将来の遺産相続の見込みは、父親のウィンクル氏が前に変わらぬ親愛の情で彼の身を考えることだけにかかり、この大事件をながいこと父親に知らせずにいたら、父親の変わらぬ愛情は期待し得べくもないこと、アレン氏に会うためにブリストルにゆくピクウィック氏は、同じ理由で、父親のウィンクル氏と会うためにバーミンガムにいったらよいこと、最後に、父親のウィンクル氏はピクウィック氏を、ある程度、息子の保護者・忠告者と考えてもよく、父親のウィンクル氏に直接、口頭で、こんどの事件の全貌と、この処置で自分がとった役割りを知らせるのがピクウィック氏の当然すべきこと、じっさい彼の人柄にふさわしいことを論じ立てた。
じつに都合よく、話がここまで進んだとき、タップマン氏とスノッドグラース氏が到着し、いままで起こったことすべてと賛否両論のさまざまな理由を彼らふたりに説明するのが必要になったので、議論すべてがもう一度くりかえされ、それがすんでから、みながそれぞれの意見を、彼らなりに、彼らなりのながさで開陳することになった。そして、とうとう、ピクウィック氏はすっかり論破されて決心がグラグラになり、そのうえ、頭までおかしくなりそうになって、アラベラを両腕にだきしめ、彼女はかわいい女だ、どうしてだかわからないが、最初から彼女を好きだったと言い、自分は若い人たちの幸福を阻害する気持ちにはなれない、みなが好きなように自分をするがいい、と言明した。
この譲歩の言葉を耳にしたとき、ウェラー氏の第一の行動は、ジョッブ・トロッターを有名な弁護士のペル氏のもとにやり、緊急の事態でいついかなるときに釈放が必要になったときでも、それがわたせるようにと、慎重な彼の父親が前もってこの学識ある人物に預けてあった正式の釈放状をこのジョッブにわたすように依頼した。つぎに彼がしたことは、彼がそのときもっていた現金すべてを投じて、苦味の少ない黒ビールを二十五ガロン買入れたことで、これをラケット球戯場で、彼自身、それを飲みたい人すべてにわけてやった。これがすむと、声がかれるまで、この建物のさまざまな場所で万歳を叫び、それから静かに、いつもの落ち着いた哲学的な状態にもどっていった。
その日の午後三時に、ピクウィック氏はこれを最後に自分の小部屋を見まわし、彼と握手をしようとむきになって集まってきた負債者たちの群れの中をできるだけうまくとおりぬけ、とうとう詰め所の階段のところまでやってきた。彼は、あたりを見まわすために、ここで足をとめ、そうしながら、彼の目は明るくなった。青ざめやつれた顔の群れの中に、彼の同情と慈悲でそれだけ幸福にならなかった顔はひとつもなかったからである。
「パーカー」ひとりの若い男を自分のところに招いて、ピクウィック氏は言った、「こちらはかねてきみに話してあるジングルさんだよ」
「よくわかりましたよ」ジングルをジッと見つめて、パーカー氏は答えた。「若い人、明日あなたとお会いしましょう。そのときわたしがあなたにお伝えすることは、肝に銘じて憶えていただきたいもんですね」
ジングルは敬意をこめてお辞儀をし、ピクウィック氏のさしだされた手をとったとき、ひどく体をふるわせ、引きさがっていった。
「ジョッブはご存じでしょうな?」彼を示して、ピクウィック氏は言った。
「その悪党は知ってますよ」上機嫌にパーカー氏は答えた。「きみの友人の世話をみてあげ、明日一時には近くに来ていなさいよ。わかったかい? さて、これ以上なにか用事はありますかな?」
「なにもありませんよ」ピクウィック氏は答えた。「わたしが与えたお前のいままでの家主用の小さなつつみはわたしたね、サム?」
「はあ、わたしました」サムは答えた。「彼はワッと泣きだし、あなたはとても寛大な思いやりのある方だと言ってました。早く進行する肺病の種をあなたに接種してもらいたいとも言ってましたよ、ここにながく住み、いまは死んでる彼の親友だった男のためにね。ほかの友人をさがそうにも、どこにもいないんですからね」
「かわいそうに、かわいそうに!」ピクウィック氏は言った。「みなさん、さようなら!」
ピクウィック氏がこの別れの言葉を述べたとき、群集は大きな叫びをあげた。彼らの多くは、ふたたび彼と握手をしようと、前におしだしてきたが、ピクウィック氏は腕をパーカーの腕にとおし、急いで監獄から出た。彼は、このとき、はじめてここにはいってきたときよりも悲しい、わびしい気持ちにおそわれていた。ああ! 背後にどれだけの悲しい、不幸な人たちをのこしてきたことだろう!
その晩は、少なくとも『ジョージと禿鷹旅館』にいる一行にとって、幸福な晩であり、翌朝、そこの客もてなしのいい戸口から出てきたふたりの人物の心は軽やかで陽気なものだった。その心の持ち主は、ピクウィック氏とサム・ウェラー、ピクウィック氏はすぐうしろに後部従者席のついた感じのいい駅伝馬車に乗りこみ、その後部従者席に、すごいすばやさで、サムはとびのった。
「旦那さま」ウェラー氏はその主人に叫びかけた。
「なんだい、サム?」窓から頭を出して、ピクウィック氏は応じた。
「あの馬どもが三か月以上フリート監獄にいたらと思いますよ」
「どうしてだね、サム?」ピクウィック氏はたずねた。
「いやあ、旦那さま」手をこすりながら、ウェラー氏は叫んだ、「そうなったら、その走りっぷりはどんなものでしょうかね!」
[#改ページ]
第四十八章
[#3字下げ]ピクウィック氏が、サミュエル・ウェラーの援助を得て、ベンジャミン・アレン氏の心をやわらげ、ロバート・ソーヤー氏の怒りを静めようとしたいきさつ
ベン・アレン氏とボッブ・ソーヤー氏は店の背後の小さな薬局にいっしょに坐り、細切れの子牛肉と将来の見とおしについて語り合っていたが、その話は、当然のことながら、ボッブが獲得したおとくいと、彼がそのときまで研究していた医業から完全に独立できるこれからの見とおしのことになった。
「そいつは、ぼくは思うんだけどね」話題の糸を追って、ボッブ・ソーヤー氏は言った、「そいつは、ぼくは思うんだけどね、ベン、なかなか怪しいもんだよ」
「なにがなかなか怪しいんだ?」ビールをひと飲みして頭をはっきりさせながら、ベン・アレン氏はたずねた。「なにが怪しいんだね?」
「いやあ、見とおしのことさ」ボッブ・ソーヤー氏は答えた。
「忘れてたよ」ベン・アレン氏は言った。「ビールを飲んで、忘れてたのを思い出したよ、ボッブ――そう、そいつは怪しいもんだな」
「貧乏な人たちがぼくを贔屓にしてくれることには驚いたね」考えこんでボッブ・ソーヤー氏は言った。「彼らは夜中ぼくをたたきおこし、まったく思いもかけないほど薬を買ってくれるのさ。そんなことにはもったいないような根気のよさで、発泡膏やひる[#「ひる」に傍点]を使ってくれてるよ。まったくおそろしいようなふうに家族はふえていくんだ。さっき言った小さな金額の六枚の約束手形は、みんな同じ日に支払い期日が来るし、しかも、みんなぼくに依託のものなんだよ!」
「とてもありがたいこと、そうじゃないかい?」もっと細切れの子牛の肉をとろうと皿をもって、ベン・アレン氏は言った。
「ああ、とてもね」ボッブは答えた。「ただ、余分の一シリングか二シリングをもった患者の信頼ほどにありがたいもんではないけどね。あの広告でこの商売はすばらしいふうに書かれてあったね、ベン。これは商売、とても規模の大きな商売――ただそれだけのこったよ」
「ボッブ」ナイフとフォークを下におき、友人の顔の上に目をすえて、ベン・アレン氏は言った、「ボッブ、ちょっと言うがね」
「なんだい?」ボッブ・ソーヤー氏はたずねた。
「きみは、できるだけ早く、アラベラの千ポンドの持ち主にならねばいかんよ」
「イングランド銀行総裁の帳簿でいま彼女名義になってる三分の利息のコンソル公債(一七五一年各種公債を三分利づきの年金形式に統合整理したイギリスの整理公債)だね」法律上の言葉を使って、ボッブ・ソーヤー氏は言いそえた。
「まさにそのとおりだ」ベンは言った。「二十一になるか、結婚すれば、それは彼女のものになるんだ。二十一になるには、まだ一年たりない。きみが勇気をふるい立たせたら、結婚するのにひと月はいらんのだよ」
「彼女はとても魅力的な、愛嬌のある女だよ」ロバート・ソーヤー氏は答えて言った。「そして、ひとつだけ欠点があるんだ、ベン。不幸なことに、そのひとつの欠点は、目がないということなんだ。彼女はぼくを好いてはいないんだからね」
「自分の好いてるものを知らん、というのがぼくの意見だね」軽蔑したようにベン・アレン氏は言った。
「たぶん、そうだろう」ボッブ・ソーヤー氏は言った。「だが、彼女は自分が好いてないものは知ってる、というのがぼくの意見だよ。そして、そのほうがもっと重要なことなんだ」
「まったく」歯を食いしばり、ナイフとフォークで細切れの子牛の肉を食べているおだやかな青年紳士というより、指で|生《なま》の狼の肉を切りさいている野蛮人の戦士といったふうに話しながら、ベン・アレン氏は言った、「まったく、だれか悪党が彼女をもてあそび、その愛情をうばおうとしてるのかどうか、知りたいもんだな。そいつを刺し殺してやるんだがな、ボッブ」
「そいつを見つけたら、弾をぶちこんでやるよ」ビールをグッと大きくひと飲みする途中でそれをやめ、その壺のへりから悪意ある目を輝かせて、ソーヤー氏は言った。「それで目的が達せられなかったら、あとで弾を引きぬき、それでやつを殺してやるよ」
ベンジャミン・アレン氏はだまったまま数分間ボーッとして友人をながめ、それから言った――
「きみはズバリと彼女に申し込んだことは一度もないんだね、ボッブ?」
「ないよ。そんなことをしてもだめなこと、わかってたからね」ロバート・ソーヤー氏は答えた。
「二十四時間以内に、それをすべきだね」向こう見ずの冷静さで、ベンはやりかえした。「きみを彼女の亭主にさせる[#「させる」に傍点]んだ。そうならなかったら、その理由を聞くつもりだよ。ぼくは兄としての権威を行使してやるからね」
「うん」ボッブ・ソーヤー氏は言った、「まあ、結果を見てみよう」
「うん、結果を見てみるさ[#「みるさ」に傍点]」激しくベン・アレン氏は言った。彼は数秒間だまっていて、激情で途切れがちの声で言いそえた、「きみ、きみは、彼女の子供のころから彼女を愛してるんだ。われわれがいっしょに学校へいってたときも、きみは彼女を愛し、そのときも、彼女は気ままで、きみの気持ちを無視してたよ。子供の愛情の激しさで、ある日習字帳の紙でキャラウェーの実(辛い香味の強い小粒の実で、菓子・パン・チーズ・酒のにおいつけに用いる)入りのビスケットとおいしいりんごをひとつまるめてつつんだやつを、彼女におしつけたことを憶えてるかい?」
「憶えてるよ」ボッブ・ソーヤー氏は答えた。
「彼女はそれを無視したろう、えっ?」ベン・アレン氏は言った。
「そうだね」ボッブは答えた。「そのつつみをコール天のズボンにながく入れてたんで、りんご[#「りんご」に傍点]が気味のわるいほど温かくなってる、と彼女は言ってたよ」
「憶えてるよ」ムッとしてアレン氏は言った。「そこで、ぼくたちはかわりばんこにかぶりついて、そいつを食っちまったっけ」
ボッブ・ソーヤー氏は眉をひそめて、その話を思い出していることを示し、ふたりの友人は、それぞれの物思いにふけって、しばらくのあいだ、ボーッとしていた。
こうした話がボッブ・ソーヤー氏とベンジャミン・アレン氏とのあいだで交わされているとき、灰色の仕着せを着た少年が、夕食がふだんになくながくかかっているのにびっくりして、ときどき心配そうな目をガラスのドアに投げ、彼自身用にと最後にとっておかれる細切れの子牛の肉の量についてハラハラしはじめていた。このとき、ブリストルの街路を個人用の軽装馬車が重々しく走っていた。それは地味な緑色にぬられた馬車で、丸ぽちゃの褐色の馬にひかれ、脚は下男式の服装、体は御者の上衣で飾られてムッとした男が御者になっていた。こうした外見は、節約家の老婦人のもちものである多くの馬車に共通な特色、この車の中には、その持ち主である老婦人が坐っていた。
「マーチン!」前の窓からこのムッとした男に呼びかけて、老婦人は言った。
「なんでしょうか?」老婦人にたいして帽子に手をあげ、ムッとした男は言った。
「ソーヤーさんの家よ」老婦人は言った。
「そこにいくとこです」ムッとした男は答えた。
このムッとした男の見当がはずれていないことが彼女の気持ちに伝えた満足感を示すために、老婦人はコクリとうなずき、ムッとした男は丸ぽちゃの馬にピシリと鞭を加えて、車はボッブ・ソーヤー氏の家に向けて走っていった。
「マーチン!」馬車がかつてのノックモーフ、ボッブ・ソーヤーの家の前にとまったとき、老婦人は言った。
「なんでしょうか?」マーチンは言った。
「あの若い者を呼びだし、馬の世話を見させてちょうだい」
「わたし自身が馬の世話は見ます」馬車の屋根の上に鞭をおいて、マーチンは答えた。
「それは、どうしても、許すことができませんよ」老婦人は言った。「あんたの証言はとても重要、あんたを部屋につれてゆかなければならないのですからね。話のあいだ中、わたしのそばをはなれてはいけませんよ。わかったこと?」
「わかりましたよ」マーチンは答えた。
「そう、どうしてそこにぐずぐずしているの?」
「なんでもありません」マーチンは答えた。そう言いながら、ムッとした男は右足の爪先で足をひっかけて体の釣り合いをとっていた車輪のところからゆっくりとおり、灰色の仕着せを着た少年を呼んで、馬車の戸口を開け、踏み段をさっとおろし、黒みがかったもみ[#「もみ」に傍点]皮の手袋をした片手を車の中につっこみ、老婦人がまるで紙箱であるかのように、ケロリとした態度で、彼女を引きだした。
「まあ!」老婦人は叫んだ。「ここに着くと、マーチン、わたし、なんだかそわそわしてしまって、体のふるえがとまらないわ」
マーチン氏は黒みがかった手袋を口にあてがって咳払いをしたが、なんの同情したようすも見せず、そこで、老婦人は気持ちを静めて、トコトコとボッブ・ソーヤー氏の家の階段をあがり、マーチン氏はそのあとにつづいていった。老婦人が店にはいるとすぐ、水で割った酒をかくし、タバコの悪臭を消そうと胸のわるくなるような薬をひっくりかえしていたベンジャミン・アレン氏とボッブ・ソーヤー氏は、よろこびと親愛の情で有頂天になった状態で、急いでとびだしてきた。
「叔母さん」ベン・アレン氏は叫んだ、「おいでくださって、本当にありがとうございます! こちらはソーヤー君、わが友ボッブ・ソーヤー君で、あなたにお話しした――ね、叔母さん」ここで、そのときまだしらふにはすっかりなりきっていなかったベン・アレン氏は「アラベラ」という言葉を、彼としてはささやき声のつもりで、話したのだったが、とくによく聞きとれる、はっきりした口調で語られたので、それは、その気になれば、だれにでも聞こえるくらい声高なものになっていた。
「ベンジャミン」はずむ息を抑え、頭の天辺から足の先までふるわして、老婦人は言った、「びっくりしないでね。でも、ちょっとのあいだ、ソーヤーさんとだけお話ししたほうがいいかもしれないことね。ほんのちょっとのあいだだけね」
「ボッブ」ベン・アレン氏は言った、「叔母さんを薬室のほうにつれてってくれるかい?」
「もちろん」いかにも専門家らしい声で、ボッブは答えた。「どうかこちらにおいでください。心配なさることはありません。きっとすぐなおりますからね。さあ、どうぞ!」こう言って、ボッブ・ソーヤー氏は老婦人の手をとって椅子に坐らせ、ドアを閉め、べつの椅子を彼女の近くに引きよせ、病気の兆候の細かな話を聞こうと待ちかまえていたが、その話から彼は、ながいひとつづきの利益と利点が生じるものと予期していたのだった。
老婦人がした最初の動きは、何回となく頭をふり、それから泣きだしたことだった。
「神経過敏ですな」ゆったり落ち着いてボッブ・ソーヤー氏は言った。「日に三回樟脳の砂糖水、夜には鎮静剤ですな」
「どう切りだしたらいいものかしら、ソーヤーさん?」老婦人は言った。「それはとても苦しく、つらいことなのです」
「切りだす必要はありませんよ」ボッブ・ソーヤー氏は答えた。「あなたのおっしゃることは、ぜんぶわかりますからね。頭が不調なんですよ」
「それが心(臓)だとしたら、とても残念なことですわ」ちょっとうめいて、老婦人は言った。
「その危険は少しもありませんよ」ボッブ・ソーヤー氏は答えた。「胃が第一の原因です」
「ソーヤーさん!」ギクリとして、老婦人は叫んだ。
「まちがいなし、それです」いかにも悟り顔をして、ボッブは答えた。「薬は、やがて、そうしたことすべてを抑えてくれますよ」
「ソーヤーさん」前より落ち着かないようすになって、老婦人は言った、「このふるまいは、わたしのような立場にある者にたいしてとても失礼な態度か、それとも、わたしの訪問の目的を誤解していることから起きたことです。もし起きた事件を抑えるのが薬でできること、わたしの勘でできることだったら、きっとそれをしたことでしょうよ。すぐに甥と会ったほうがいいようですことね」手さげ袋を腹立たしげにねじり、そう言いながら立ちあがって、老婦人は言った。
「ちょっと待ってください」ボッブ・ソーヤー氏は言った。「どうもあなたのおっしゃっておいでのことが腑に落ちません。どうしたんです?」
「わたしの姪が、ソーヤーさん」老婦人は言った、「あなたの友人の妹が……」
「わかりましたよ」すごくいらいらして、ボッブは言った。というのは、非常に興奮しながらも、この老婦人は、老婦人によくあるように、じつにいまいましいほどゆっくりと話していたからである。「わかりましたよ」
「三日前に、ソーヤーさん、わたしの家をとびだしてしまったんです。第三の里程標のちょっと向こうにある、とても大きなきんぐさり[#「きんぐさり」に傍点]の木が生え、樫の門のある大きな寄宿舎学校を経営しているわたしの|姉妹《きようだい》、彼女のもうひとりの叔母のところにゆくとうそをついてね」涙をぬぐうために、話をここでとめて、老婦人は言った。
「おお、きんぐさり[#「きんぐさり」に傍点]の木なんかどうでもいいんです!」不安のために医師としての威厳はすっかり忘れて、ボッブは言った。「もう少し早く話してください。どうか、もう少し蒸気の力をあげてください」
「今朝」いともゆっくりと老婦人は言った。「今朝、彼女は……」
「彼女はもどってきたんでしょう?」すごく気負って、ボッブは言った。「彼女はもどってきたんですか?」
「いいえ、もどってきませんでした。手紙をよこしたんです」老婦人は答えた。
「なんと言ってました?」むきになってボッブはたずねた。
「彼女は言っています、ソーヤーさん」老婦人は答えた――「そしてこうなんです、そして、やさしく、ゆっくり、ベンジャミンにそれにたいする心がまえをつくってやっていただきたいのです。彼女は言っているんです、彼女は――ポケットにその手紙はありますが、ソーヤーさん、眼鏡は馬車の中にあるのです。眼鏡なしでその行をあなたにお示ししようとしても、あなたの時間をつぶすことになるだけでしょう。彼女は、簡単に申せば、ソーヤーさん、結婚したと申しているのです」
「なんですって!」とボッブ・ソーヤー氏は言うというより、むしろ叫んだ。
「結婚したんです」老婦人はくりかえした。
ボッブ・ソーヤー氏はそれ以上の話は聞いてはいず、薬室から外の店のほうにとびだしていって、大声をはりあげて、「ベン、おい、彼女は駈け落ちしたぞ!」と叫んだ。
頭を膝より半フィートかそこいら低くして、勘定台のうしろでうたた寝をしていたベン・アレン氏は、この驚くべき情報を耳にするやいなや、さっとマーチンのところに突っ走ってゆき、あの口数の少ない召使いのネクタイに片手をまきつけ、その場で彼の息の根をとめようとする意志をあらわした。この意図を、絶望の結果としてよくあらわれるすみやかさで、彼は早速、大いに力み、医学的な腕をふるって、実行にうつしはじめた。
言葉が少なく、雄弁や説得力はほとんどもっていないマーチン氏は、数秒間、顔にとても冷静で感じのいい表情を浮かべて、この荒療法を受けていたが、将来ずっと食事その他つきの自分の賃銀を要求することができなくなる結果をそれがすぐひきおこしそうになっているのに気づいて、彼はなにかわけのわからぬ抗議をつぶやき、ベンジャミン・アレン氏を地面にぶっ倒した。アレン氏はマーチン氏のネクタイに両手をからみ合わせていたので、マーチン氏自身も、アレン氏のあとを追って、床に倒れるよりほかに方法はなかった。そこでふたりは組んづほぐれつドタバタしていたが、そのとき、店のドアが開き、思いもかけぬふたりの来訪者、すなわち、ピクウィック氏とサミュエル・ウェラー氏の到着によって、その人数は増大することになった。
ウェラー氏が目にしたことで、すぐに彼の心に植えつけられた印象は、マーチン氏がかつてのノックモーフ、ソーヤーの店にやとわれ、強い薬を飲むか、発作におちいって実験を受けているのか、新しい解毒剤の効力をためす目的でときおり毒薬を飲んでいるか、さもなければ、偉大なる医学を推進させるためになにかをやり、若きふたりの教授の胸に燃え立っている熱烈な探究心を満足させているのだ、ということだった。そこで、邪魔したりはせずに、ジッと静かにわきに立ち、いまおこなわれている実験の結果に多大の興味をもっているかのように、ただそれをながめていた。ピクウィック氏は、そうではなかった。彼はすぐびっくりしている格闘者たちにいつものたくましさでとびかかり、大声でわきに立っている人たちに呼びかけて、ふたりのあいだを割くように、とたのんだ。
この声が、ボッブ・ソーヤー氏をハッとわれにかえらせた。彼は、このときまで、友人の狂乱状態に、電撃のように打たれていたのだった。ソーヤー氏の助けを得て、ピクウィック氏はベン・アレン氏を立たせた。マーチン氏は自分がひとり床の上に転がっているのに気づいて立ちあがり、あたりを見まわした。
「アレン君」ピクウィック氏は言った、「これはどういうことです?」
「心配しないでください!」尊大な挑戦的な態度をとって、アレン氏は答えた。
「これはどういうことです?」ボッブ・ソーヤー氏のほうを見て、ピクウィック氏はたずねた。「彼の具合いがわるいのですかね?」
ボッブがまだ答えないうちに、ベン・アレン氏はピクウィック氏の手をとらえ、いかにも悲しそうに、「妹なんです。妹なんです」とつぶやいた。
「おお、それだけのことですかね!」ピクウィック氏は言った。「そのことはすぐ話がつくと思いますがね。きみの妹は安全無事、元気で、わたしがここに来たのは、きみ――」
「こうしたとてもおもしろい議事のお邪魔をして申しわけないことですがね、議会を解散させたとき、王さまが言ったようにね」ガラス戸越しに向こうをのぞいていたウェラー氏は口をはさんだ。「でも、ここにもうひとつ実験物がありますよ。解剖、電気療法、さもなけりゃ、なにかほかの蘇生法の科学的発明のためにじゅうたんの上に転んで待ってるりっぱな年配のご婦人がここにいますよ」
「忘れてたっ!」ベン・アレン氏は叫んだ。「それはぼくの叔母なんだ」
「あれ、あれっ!」ピクウィック氏は言った。「かわいそうに! そっとな、サム、そっと静かにな」
「一族のひとりとしては、奇妙な立場に立ったもの!」叔母を椅子に引きあげて、サム・ウェラー氏は言った。「さあ、代理のお医者さん、揮発性のものを出してくださいよ!」
このあとの言葉は灰色の仕着せを着た少年に呼びかけたもので、この少年は、馬車を通りにいた街路巡査にあずけ、このさわぎはなにごとならんと、もどってきたところだった。灰色の仕着せの少年、ボッブ・ソーヤー氏、それからベンジャミン・アレン氏(彼は叔母をふるえあがらせて気絶の発作におとしいれたのだったから、愛情深くも、彼女の回復をねがっていた)のあいだで、老婦人はとうとう意識をとりもどした。それからベン・アレン氏は、とまどった顔をしてピクウィック氏のほうに向きなおり、あのおそろしい邪魔がはいったとき、なにを言おうとしていたのかとたずねた。
「ここには敵といった人物はいないのでしょうな?」咳払いをし、丸ぽちゃの馬で馬車を走らせてきたムッとした、言葉の少ない男のほうを見やって、ピクウィック氏は言った。
こう言われて、ボッブ・ソーヤー氏は、灰色の仕着せを着た少年が、目をパッと見開き、聞き耳を立てて、こちらをながめているのに気がついた。このかけだしの化学者が上衣の襟をつまみあげられ、外に放りだされてから、ボッブ・ソーヤー氏は、遠慮なくなんでも言ってください、とピクウィック氏に伝えた。
「あなたの妹は、きみ」ベンジャミン・アレン氏のほうに向いて、ピクウィック氏は言った、「ロンドンにいて、元気で幸せに暮らしていますよ」
「彼女の幸福なんか、ぼくにとって|目的《オブジエクト》じゃないんです」手をふりかざして、ベンジャミン・アレン氏は言った。
「彼女の夫が、ぼく[#「ぼく」に傍点]にとっては、|目的《オブジエクト》なんです[#「なんです」に傍点]よ」ボッブ・ソーヤー氏は言った。「そいつを十二歩へだてたぼくの|目標《オブジエクト》にし(決闘のことをいう)、彼をとてもきれいな|もん《オブジエクト》にしてやりますよ――下劣な悪党め!」この言葉は、そのままでは、かなりりっぱな非難で、そのうえ堂々としたものだったが、ボッブ・ソーヤー氏は、その結びとして、頭をぶんなぐってやり、目を引っこぬいてやるといった、前のに比較するとありきたりな一般的な言葉をはいたので、その効果はだいぶ薄れてしまった。
「ちょっと待って」ピクウィック氏は言った。「問題の紳士にそうした言葉を浴びせる前に、公正な気持ちで、彼のいけなかった点がどんなものかをよく考え、なににもまして、彼がわたしの友人であることを忘れないでください」
「えっ!」ボッブ・ソーヤー氏は言った。
「彼の名前!」ベン・アレン氏は叫んだ。「彼の名前!」
「ナサニエル・ウィンクル氏ですよ」ピクウィック氏は答えた。
ベンジャミン・アレン氏は靴のかかとでゆっくりと自分の眼鏡を踏みつぶし、そのこなごなになった切れっ端をつまみあげ、それを三つのべつのポケットに入れてから、腕組みをし、唇を噛み、ピクウィック氏の温和な顔をおそろしい権幕でにらみつけていた。
「じゃ、この縁組みをすすめ、ひきおこしたのは、あんたなんですね?」とうとうベンジャミン・アレン氏はたずねた。
「わたしの家の近くをうろつきまわり、召使いたちを女主人にそむかせようとしていたのは」老婦人は口をはさんだ、「この紳士の召使いだと思いますよ。マーチン!」
「なんですかね?」前に出てきて、ムッとした男は言った。
「今朝お前が話してた小道で見かけた若い男というのは、あの人のこと?」
すでにもうわかっているように、口数が少ないマーチン氏はサム・ウェラーをながめ、頭をうなずかせ、「あれがその男です!」とうなった。決してお高くとまることのないウェラー氏は、自分の目がムッとした下男の目に逢ったとき、友好的な「やあ」といった微笑を浮かべ、自分は「前から彼を知っている」ということを、慇懃な言葉で述べた。
「ぼくがいまほとんど窒息させようとしていた男は」ベン・アレン氏は叫んだ、「忠実な人物なんですぞ! ピクウィックさん、ぼくの妹の誘拐に、どうしてあんたんとこのやつなんか使ったんです? このことの説明をあんたに要求しますぞ」
「それを説明してください!」すごい権幕でボッブ・ソーヤー氏は叫んだ。
「これは陰謀だ」ベン・アレン氏は言った。
「まぎれもない策略だ」ボッブ・ソーヤー氏は言いそえた。
「ひどいいかさま」老婦人は言った。
「まさにいんちき」マーチン氏は言った。
「どうかわたしの言うことを聞いてください」ベン・アレン氏が患者の放血用の椅子に倒れこみ、目にハンカチを当てて泣きだしたとき、ピクウィック氏は言った。「この若いふたりが会ったとき、わたしがそこにいたということ以外に、わたしは、このことで、なんの援助もしてはおりませんぞ。この会ったことは、わたしがとめようとしても、どうにもならぬこと。わたしがそこにいたら、そうでない場合に起こる世間態のわるさも多少は除去できると思ったからです。今度の話でわたしがしたことといえば、これだけのこと。即座の結婚さえ考えられていたことは、まちがいないことですからな。だが、いいですか」急いで自分を抑えて、ピクウィック氏は言いそえた、「いいですか、そうしたことが意図されていたと知っていたとしても[#「としても」に傍点]、わたしはそれを阻止したろうとは申しませんがね……」
「きみたち、みんな、いまの言葉を聞いたね。聞いたかね?」ベンジャミン・アレン氏は言った。
「聞いたと思いますよ」あたりを見まわして、おだやかにピクウィック氏は言った、「それに」話しながら顔を赤らませて、この紳士はつけ加えた、「そして、つぎのことも聞いてもらいたいものですな。すなわち、わたしが聞いたところでは、あなたがしたように、あなたの妹さんの好みをむりにゆがめようとした点で、あなたは絶対に正しくはない、あなたはむしろ、あなたの親切と我慢によって、彼女が子供のときから一度も会ったことのないほかの近親のかわりになるように努めるべきだった、とわたしは申しますよ。わたしの若き友人について言えば、この世の利点のあらゆる点で、彼は、ずっといいとまではゆかなくとも、少なくとも、あなた自身と対等の立場にあり、この問題がしかるべき冷静と節度をもって論じられるのを聞くことができなかったら、この問題に関してこれ以上論ずるのを聞くのは真っ平だ、とわたしは申しそえねばなりませんな」
「たったいま話を終えた旦那さまがおっしゃった言葉につけそえて、わたしもちょっと申したいことがありますよ」前に出てきて、ウェラー氏は言った、「それはこういうこと。ここにいる人のうちのひとりが、わたしのことをやつ呼ばわりしたんです」
「それは問題とはぜんぜん関係のないことだよ、サム」ピクウィック氏は口をはさんだ。「どうか、だまっていておくれ」
「その点について、なにも申すつもりはありませんよ」サムは答えた、「ただ、このことだけは申しますよ。たぶん、あの方は、彼女にだれか好きな人がいた、と考えてるかもしれませんがね、そんなものはなんにもなかったんです。あの若いご婦人は、付き合いをはじめたしょっぱなに、あの男には我慢ならない、って言ってたんですからね。だれもあの男にとってかわったわけではありませんよ。あの若いご婦人がウィンクルさんに会わなくったって、彼にとっては、少しも変わりはなかったんです。これがわたしの言いたかったこと、これであの方の気も楽になったでしょう」
ウェラー氏のこうしたなぐさめの言葉のあとに、短い沈黙がつづいた。それからベン・アレン氏が椅子から立ちあがり、アラベラの顔は二度と見る気がしないと言いきり、一方、ボッブ・ソーヤー氏は、サムのうれしい保証にもかかわらず、幸福な花婿にたいするおそろしい復讐を誓った。
だが、事態がこうして最高潮に達し、そのままの状態をつづけそうな気配を示しだしていたとき、ピクウィック氏は例の老婦人に強力な援護者を発見することになった。彼女は明らかにピクウィック氏が彼女の姪の立場を弁護したその言葉に強く打たれ、わずかな明るい見とおしで、ベンジャミン・アレン氏の説得にかかったからである。その主要な点は、結局のところ、それがこの程度のことですんで、よかったのではないか、文句は言わぬが花、まったく、この話は、つまるところ、そうわるい話とは思えない、もうすんでしまったことは、とりかえしがつかないとか、そういったたぐいの斬新な、たくましい論説だった。こうしたことすべてにたいして、ベンジャミン・アレン氏は、自分の叔母やここにいるだれをもないがしろにするつもりは毛頭ない、だが、彼らにとって同じことであり、彼に勝手を許してもらえるのだったら、自分はむしろ妹を死ぬまで、いや、その後までも憎んでいたい、と答えた。
この決意が五十回もくりかえされたとき、とうとう、老婦人は急に怒ったようすを示し、とてもいかめしい態度になって、自分の年齢と地位にたいしてなんの敬意も払われず、こうしたふうに、自分自身の甥にまで物乞いをしなければならなくなるなんて、自分はなにをしたというのだろう、その甥は、彼が生まれる二十五年も前から知り、直接には、まだ歯がないときから知っているのに、と述べ立てた。彼がはじめて髪を切ったときにも、彼女は立ち合い、そのほか、彼の赤ん坊時代に、重要なさまざまの場合や儀式にも援助の手をのばし、彼の愛情・服従・共感を永遠に要求してもよいはず、これは言うまでもないことと、さらに堂々とまくし立てた。
この善良な婦人がベン・アレン氏をこうして叱責しているあいだに、ボッブ・ソーヤー氏とピクウィック氏は奥の部屋にはいって密談をかわし、そこでソーヤー氏が何回か口に黒いびんをあてがっている姿が見受けられたが、その酒の影響で、彼の顔は明るい、楽しそうな表情すらだんだんと帯びるようになってきた。そして、とうとう、彼はびんを手にして部屋からとびだし、自分がバカな真似をしていたのはとても残念なことだ、と言って、ウィンクル夫妻の健康と幸福を祈りたいと提案し、その幸福をうらやむどころか、それを彼らに祝う最初の人間になりたい、と言いだした。これを聞いて、ベン・アレン氏は急に椅子から立ちあがり、黒いびんを手にとって、心から乾杯をしたが、その酒は強いものだったので、彼の顔はびんと同じくらい黒いものになっていった。最後に黒いびんはまわされて、とうとう空になり、握手と祝いの挨拶の言葉が何回となく頻繁に交わされたので、無表情なかたい顔をしたマーチン氏までニッコリするようになった。
「さて、これで」両手をこすりながら、ボッブ・ソーヤー氏は言った、「楽しいひと晩を送ることにしましょう」
「残念ですが」ピクウィック氏は言った、「わたしは旅館に帰らねばなりません。最近はつかれがこたえてね。そのうえ、旅行でとてもつかれているのです」
「お茶はお飲みになるでしょう、ピクウィックさん?」悩殺的なやさしさをこめて、老婦人は言った。
「ありがとうございますが、茶も飲みたくはありません」ピクウィック氏は答えた。事実を申せば、老婦人が明らかに示した驚嘆の情が、ピクウィック氏を去らせた第一の原因になっていたのだった。彼はバーデル夫人のことを考え、老婦人の投げたそれぞれの一瞥は、彼に冷汗をどっと流させていたのである。
ピクウィック氏をどうしても説得できないことになったので、彼自身の提案によって、ベンジャミン・アレン氏が父親ウィンクル氏のところにゆくピクウィック氏の旅行に同行すること、翌朝九時に馬車を戸口まで呼んでおくことがとり決められた。彼はそれから別れを告げ、サミュエル・ウェラーをともなって、『ブッシュ旅館』におもむいた。別れぎわにサムと握手をしたとき、マーチン氏の顔がひどく痙攣し、微笑すると同時に激しい言葉をなにか口にしていたことは、ここで一言しておく必要がある。その紳士の風変わりな点をよく知っている人たちは、そうした表示を、彼がウェラー氏との交際をよろこび、さらに交際をつづけたい意志をあらわしているものと推測していたからである。
「個人用の部屋をたのみましょうか?」ふたりが『ブッシュ旅館』に着いたとき、サムはたずねた。
「いや、いいよ、サム」ピクウィック氏は答えた。「喫茶室で夕食をしたし、すぐに寝てしまうのだから、そんな必要はないのだ。旅行者用の部屋にだれがいるか、ちょっと見てきておくれ、サム」
ウェラー氏はこの用件で出かけ、間もなくもどってきて、片目の紳士ひとりしかいない、彼と旅館の主人がビショップ酒(ぶどう酒にレモンまたはオレンジと砂糖を加えた温い飲料)をやっている、と報告した。
「わしもそこにゆくことにしよう」ピクウィック氏は言った。
「その片目の男は、妙なやつですよ」先に立って案内しながら、ウェラー氏は言った。「彼は宿屋のおやじになにかすごい大ぼらをふき、亭主は足の上に立ってるのか、帽子の天辺に立ってるのか、わからないくらいになってますよ」
こうした言葉が語られていた当の本人は、ピクウィック氏がはいっていったとき、部屋の奥に坐り、目をしっかりと宿屋の亭主のまるい顔の上にすえて、大きなオランダふうのパイプをくゆらせていた。宿屋の亭主は陽気そうな老人で、この彼に片目の男がいままでなにかふしぎな驚くべき奇跡の話をしていたことは、宿屋の亭主が片目の男のジッと見つめる目に視線をかえしながら、「うん、そんなことはとても信じられないこと! いままで聞いたこともないふしぎな話! そんなことがあるなんて、考えられないこってす!」というさまざまな、とぎれとぎれの叫び声や、そのほかの驚嘆の表示が彼の口からついわれ知らずついて出ていた事実でもわかることだった。
「これは失礼しました」片目の男はピクウィック氏に言った。「よい晩ですね」
「まったく、いい晩ですな」給仕がピクウィック氏の前にブランデーの小さなびんと熱くした湯をおいたとき、彼は答えた。
ピクウィック氏がブランデーと湯をまぜているあいだに、片目の男はときどき彼のほうに強い視線を投げ、とうとう言った――
「前にお会いしたことがあるように思いますがね」
「思い出しませんな」ピクウィック氏は答えた。
「たぶん、そうでしょうよ」片目の男は言った。「あなたはわたしをご存じではありませんでしたが、選挙のとき、イータンスウィルで『孔雀旅館』にお泊まりだったあなたのふたりのご友人と知り合いになりましたよ」
「うん、そうですか!」ピクウィック氏は叫んだ。
「ええ、そうです」片目の男は答えた。「トム・スマートという名のわたしの友人についてのちょっとしたことを、彼らにお話ししたんです。あなたは、たぶん、彼らがその話をするのをお聞きになったでしょう」
「ときどきね」ニッコリして、ピクウィック氏は答えた。「彼はあなたの叔父さんだったのですね?」
「いや、いや、叔父の友人というだけのこと」片目の男は答えた。
「だが、あんたの叔父さんはすばらしい人でしたよ」頭をふりながら、宿屋の主人は言った。
「うん、そうだと思いますな。そうだと言ってもいいでしょうな」片目の男は言った。「みなさん、この叔父について話をすることができるんですがね、きっとびっくりなさるでしょうよ」
「話をしてくれますか?」ピクウィック氏は言った。「ぜひとも、それを聞かしていただきましょう」
片目の男はどんぶりからニーガス酒をひしゃくでくみだし、それを飲み、オランダふうのパイプでスウーッとながく一服すいこみ、ドアの近くでもじもじしていたサム・ウェラーに呼びかけて、この話は秘密のことではないのだから、よかったら、ここにいてもいいと告げ、宿屋の主人の目をジッとにらみすえて、つぎの章に示されているようなことを、話しはじめた。
[#改ページ]
第四十九章
[#3字下げ]旅商人の叔父の話
みなさん、わたしの叔父はこのうえなく陽気で、愉快で、利口な男でした。みなさん、彼のことを知っていてくださったら、と本当に思いますよ。しかし、考えてみると、みなさん、彼を知っていたらとは、わたしは思いませんよ。もし知っていたら、自然のふつうのなりゆきで、いまごろまでには、死なないまでも、とにかく死が間近になり、家に閉じこもって、人と交際しなくなり、その結果、いまあなた方にお話しをするという、計り知れないよろこびを、わたしからうばってしまうことになるでしょうからね。みなさん、あなた方のお父さん、お母さんが叔父を知ってたらと思いますね。彼らは、とくにお母さんたちは、彼をとても好きになったことでしょうからね。そうなるのは、わかってるんです。彼の美点のどれかふたつが彼の性格を飾ってた多くの美点よりすぐれたものだったとしたら、それは、彼がまぜてつくったポンス酒と、彼の夕食後の歌だったと思いますね。死んだこうしたりっぱな男の憂鬱な思い出話をすることを、どうか許してください。わたしの叔父のような人物には、そうめったやたら、毎日会えるもんではないんですからね。
わたしの叔父がシティのキャティアトン通りにある「ビルソンとスラム」の大きな家に住んでたトム・スマートの親友で仲間だったという事実は、彼の性格の大きな特徴だったと、わたしはいつも思ってますよ。わたしの叔父はティギンとウェルプス(商社の名前)のために集金してたんですが、ながいこと、トムとだいたい同じ旅をしてました。そして、ふたりが出逢った最初の晩、叔父はトムが好きになり、トムは叔父が好きになりました。付き合いはじめてまだ三十分もたたないうち、だれがいちばんおいしいポンス酒をつくり、それをいちばんはやく飲むかで、ふたりは新しい帽子をかけることになったんです。酒つくりのほうは叔父が勝ったものと判定を受けましたが、トム・スマートは、塩さじ半分くらいの差で、飲む点では叔父を負かし、ふたりは、たがいの健康を祝って、さらにそれぞれ一クォートずつ飲み、その後はずっと、無二の親友になってました。こうしたことには、みなさん、|運命《さだめ》というものがあり、それは、われわれがどうにもできないもんなんです。
外見で、叔父は中背よりちょっと低く、ふつうの人より心持ち太り、顔はちょっぴり赤かったと言えるでしょう。彼の顔は、みなさん、このうえなく陽気なもんでした。ちょっとパンチ(イギリスの盛り場で人気を集めていたあやつり人形、パンチというせむしで鼻がながくまがった奇怪な恰好をした主人公が、子供を殺したり、妻のジューディを打ち殺したりする)に似ていて、鼻と顎はパンチより美しく、目はいつも上機嫌でキラキラと輝いてました。そして、微笑――よくある意味のない、無表情なニヤニヤ笑いではなく、本当の、陽気な、やさしい、上機嫌な微笑がいつも彼の顔にあらわれてました。彼はかつて彼の一頭引き二輪馬車から放りだされ、頭っから里程標にぶつかってしまったんです。そこに彼は気絶をしてぶっ倒れ、その近くに重ねて積みあげてあった小石でひどく顔を切られ、そこで、叔父自身の強い表現を借りれば、彼の母親がこの世をふたたびおとずれても、彼に気がつかぬほどのひどい顔になってしまいました。まったく、このことをよく考えてみると、みなさん、母親はきっと気づかなかったろうと思うんです。ともかく、叔父が生まれてようやく二年と七か月したとき、彼女は死亡し、たとえ小石がなくとも、彼の陽気な赤い顔は言わずもがな、その乗馬靴だけでも結構この善良な夫人をとまどわせたことでしょうからね。しかし、彼はそこにぶっ倒れて横になり、彼をひろいあげてくれた人が、まるで彼がごちそうにとびだしていくように陽気にニコニコし、放血の治療を受けたあとで、生気をとりもどした最初のかすかな兆候は、彼が寝台からとびだし、ワッと笑いだし、洗面器をもっていた若い婦人にキスをし、羊の厚い肉切れと塩漬けのくるみ[#「くるみ」に傍点]をもってきてくれと要求したことだと言っていたと、叔父がよく話していたのを聞いたことがあります。みなさん、彼の好物は塩漬けのくるみ[#「くるみ」に傍点]でした。酢ぬきで食べると、それは、ビールの味をよくするものだということをちゃんと知っている、と彼は言ってました。
叔父の大旅行がおこなわれたのは葉の散るころのこと、そのころ彼は北のほうで貸し金を集め、注文をとり、ロンドンからエジンバラへ、エジンバラからグラスゴーへ、グラスゴーからもどってエジンバラへ、そこからスマック船でロンドンにもどってきました。彼の二度目のエジンバラ訪問は彼自身の楽しみのためだったということを理解しておいてください。彼はいつも、旧友たちに会うために、そこに一週間もどり、この友人と朝食、あの友人と昼食、第三の男と夕食、べつの男と夜食といった具合いに、彼はいつもかなり酔っ払った一週間をすごしていました。みなさんのうちどなたか、たっぷりしたもてなしのいいスコットランドふうの朝食を食べ、それからたくさんかき[#「かき」に傍点]を盛った軽い昼食に出かけ、そこには一ダースのびんづめのビール、最後の仕上げとして小型ジョッキに入れられたウィスキーが出るといったことを経験したことがおありですか? もしその経験がおありだったら、そのあとで夕食と夜食に出かけるというのは、かなり酒に強いことが必要とおわかりになるでしょう。
だが、まあ、あきれたことに、こうしたことは、叔父にはなんでもなかったんです! 彼は熟練の古つわもの、そんなことは児戯に類することだったんです。自分はいつでもダンディー(スコットランド東海岸の港)の連中を酒で負かし、そのあとで、ヨロヨロしたりはせずに家に歩いて帰ってくることができる、と彼が言ったのを聞いたことがあります。しかも、ダンディーの連中ときたら、この世で出逢うどんな人にもおとらぬほど酒が強く、じつに強いポンスを飲んでる人たちなんです。グラスゴーの男とダンディーの男が十五時間ぶっつづけに酒の飲みくらべをした話を聞いたことがありますよ。彼らはたしかに同時に息がつまってしまったんですが、このちょっとした異常はありながらも、みなさん、ふたりはそれで少しも気分がわるくなったりはしなかったんです。
ある夜、ロンドン向けの船に乗りこむ予定の時刻までにもう二十四時間もないときに、エジンバラの古都に住んでた市参事会員のマック・なんとかという、そのあとに四音節もつづく彼の旧友の家で、夕食をとりました。市参事会員の奥さん、三人の娘、成人したひとりの息子、それにとくに叔父のために会を陽気にしようと招いた三、四人の太った、毛深い眉をした、おとなしいスコットランド人が集まってました。それはすばらしい夜食でした。キッパー燻製法(開いた魚を塩づけにし、乾燥していぶす方法)をほどこしたさけ[#「さけ」に傍点]、燻製のたら[#「たら」に傍点]、羊の頭、臓物胃袋煮(羊、子牛などの臓物をきざみ、オートミル・こしょうなどとともにその胃袋につめて煮たもの)――これは、それが食卓に出されると、叔父の目には、キューピッドの胃のように映ったと、叔父はいつも言ってた有名なスコットランドの料理――そのほか、その名前は忘れましたが、それにしても、とてもおいしいたくさんの食べ物が出ました。娘たちは美しくて感じがよく、市参事会員の奥さんはとてもいい女、叔父は上機嫌になってました。その結果、はじめから終わりまで、若いご婦人方はクスクス、ニヤニヤと笑い、老夫人は大声で笑いだし、市参事会員とほかの連中は、顔が赤くなるまで、ワッワッと笑いこけてました。夕食後各人が何杯トディ(ウィスキー、その他の酒に湯と砂糖とレモンを加えたもの)を飲んだか、わたしはよく憶えてません。しかし、朝の一時ごろになって、市参事会員の成人した息子は『ウィリーが麦芽酒(麦芽を発酵させてつくったビール)をたっぷりつくった』の第一節を歌おうとしているあいだに頭がもうろうとなり、彼が、ここ三十分のあいだ、マホガニーの食卓の上で姿を見せているただひとりの男になっていたので、もうそろそろ辞去したほうがいいだろう、と叔父は考えだしました。彼がしかるべきときに家にもどれるようにと、この酒宴が七時にはじまっていたことを考えれば、とくにそうだったんです。しかし、すぐそのとき引きあげるのは失礼になるかと考えて、叔父は自ら座長席につき、もう一杯の酒をまぜてつくり、立ちあがってみずからの健康を祝い、自身に要領のいいほめ言葉を述べ、すごい熱をこめて乾杯しました。それでもまだだれも目をさまさず、そこで、叔父はもう少し――トディで気分がわるくならないようにと、今度は|生《き》のままで――飲み、帽子をすごい勢いでとりあげて、通りにとびだしていきました。
叔父が市参事会員の家の戸を閉めたとき、夜空には風が吹き荒れ、風に吹きとばされないようにと、頭にしっかりと帽子を乗せて、両手をポケットにつっこみ、空をあおいで、天候の状態をちょっと見ようとしました。雲はすごいスピードで月の面を横切り、あるときには、すっかりその顔をかくし、べつのときには、華かな姿でとびだしてその光をあたりのものすべてに投げるのを月に許し、その後すぐ、前にもます速さで、月の上を走りぬけて、すべてのものを暗い影につつんでいました。「まったく、こいつはいかんな」まるで腹が立ってきたように、天候に話しかけて、叔父は言いました。「これはおれの航海には不向きなもんだ。どうしても、こいつはいかんな」とても重々しく叔父は言いました。これを何回かくりかえしてから、彼はちょっと苦労して体の釣り合いをとりもどし――空をながいこと見あげていたので、頭がそうとうフラフラになってたんです――陽気にさっさと歩きだしました。
市参事会員の家はキャノンゲイトにあり、叔父はリース・ウォークの向こう端にいこうとしてたんで、その道のりは一マイル以上はありました。彼の両側には、暗い夜空をついて、時の流れでよごれた玄関、人間の目と同じ|運命《さだめ》をもち、老齢でにごってくぼんでしまった窓のある高い、やつれた、バラバラに散在している家がそびえ立っていました。そうした家は、六、七、八階のものでした。それは、子供がトランプの札で積みあげるように、つぎつぎと高く積み重ねられたもので――荒く舗装された道路の上に暗い影を投げ、暗い夜をさらに暗いものにしていました。わずかの油の灯火がながい距離をおいてまき散らされてましたが、それはただ、どこかせまい露地への入り口を示すか、共通の階段が、けわしく、複雑にうねって、上のさまざまなアパートの部屋につながる場所をあらわしているにすぎませんでした。こうしたものはいままで何回も見たことがある、いまさらべつに気にもならないといったようすで、これをチラリチラリとながめながら、叔父はチョッキのそれぞれのポケットに親指をつっこんで、道の真ん中を歩き、ときどき、さまざまな歌の断片を元気に勢いよく歌いだし、そのため、静かなまわりの人は寝入りばなを起こされ、その歌声が遠くに消えるまで、寝台で体をふるわせながらジッと横になってました。歌声が聞こえなくなると、彼らはいまとおったのはだれか酔っ払いの役立たずが家に帰ろうとしているんだろうと考え、布団をかぶって体を温め、また眠りこんでしまいました。
みなさん、わたしがとくに念を入れて、叔父がチョッキのポケットに親指をつっこんで、通りの真ん中を歩いていったと申すのは、これはつねづね彼がよく言ってたことなんですが(そして、たしかにりっぱな理由のあること)、彼は絶対にすばらしいとか、ロマンチックな気質の男ではなかったということを最初に理解しなけりゃ、この話にはなんの珍しい異常なことがないためなんです。
みなさん、叔父はチョッキのポケットに親指をつっこみ、道路の真ん中をわが物顔をしてとおり、恋歌やら酒の歌をとぎれとぎれに歌い、それにあきたときには、調子よく口笛を吹き、とうとう|北橋《ノース・ブリツジ》にやってきましたが、そこは、エジンバラの古い町と新しい町の接点になってるとこでした。ここで彼はちょっと足をとめ、つぎつぎと高く積みあげられ、遠くのとても高いとこでチラチラして、まるで星のように見える奇妙な、不規則にならんだ光のかたまりを見てましたが、それは一面では城壁から、もうひとつの面ではカールトンの岡から輝いてるものでした。それはまるで、空中のお城に灯りをつけたような感じでした。一方、古い絵のような町は、下の暗闇の中でぐっすりと眠りこみ、その宮殿とホリールードの礼拝堂は、叔父の友人がよく言ってたように、昼も夜も、|アーサー王の座席《アーサーズ・シート》(獅子が頭をもたげてうずくまっている形をしたエジンバラの東にある岡)によって護衛され、そして、この岡は、アーサー王がながく見守ってきた古いこの町にたいして、まるで荒っぽい守護神のように、不機嫌に黒々とそびえ立ってました。いいですか、みなさん、叔父はここでちょっと足をとめ、あたりを見まわし、それから、月は沈みかけてましたが、少し晴れあがってきた天気にちょっと挨拶の言葉をかけ、前と同じ、王さまと同じように堂々とした足どりで、いかにも威厳あるふうに道路の真ん中を歩き、道路の所有権を彼と争う者に会いたいもんだといった態度で、歩きつづけていきました。たまたま、彼とその所有権を争おうとする者はだれもおらず、そこで、羊のようにおだやかに、チョッキのポケットに親指をつっこんで、彼は歩いていったんです。
リース・ウォークの端についたとき、叔父は、その下宿にまっすぐいくために、まがってはいっていく短い街路に通じるかなりひろい野原を横切らなければなりませんでした。さて、この野原には、その当時、古くなった郵便馬車を買いこむことを郵便局と契約していたある車輪製造人のもちものだった囲いをした場所がありましたが、叔父は、新旧は問わず、馬車をとても好きだったので、ちょっとより道して、とがり杭のさくのあいだから、そこにある郵便馬車をながめてみようという気になったのでした。そうした馬車が十二台ほど、とてもわびしい、とりこわした状態で、その中にゴタゴタとつめこんであるのを見たことを、彼は思い出したからです。叔父は、みなさん、とても熱っぽい、むきな男でした。そこで、とがり杭のあいだからでは十分にながめられないのを知って、彼はそれを乗り越え、古い車軸棒の上に坐って、いかにも重々しい態度で郵便馬車をながめはじめました。
馬車は十二台か、それ以上あったかもしれません――叔父はこの点ではあまりはっきりしたことは知らず、数についてはとてもうるさい男だったので、それを口にしたがりませんでした――だが、いかにもわびしい姿で、それは、ゴタゴタと集められて、そこに立ってました。戸は|蝶番《ちようつがい》から引きちぎられてはずされ、内張りははぎとられ、ぼろだけが釘に打ちつけられて、そこここにさがり、ランプは姿を消し、ながえはとっくのむかしに消え失せ、鉄製の部分は錆だらけ、ペンキははげて、風は裸の木の部分の隙間を吹きとおり、屋根にたまった雨水は、うつろなわびしい音を立てて、ポタリポタリと中に滴を落としてました。それは生命を失った郵便馬車の老いくちた骸骨、夜のこの時刻に、このわびしい場所で、さむざむとした陰気な雰囲気をふりまいてました。
叔父は両手を顎にあてがい、何年か前、この古い馬車の中でべちゃくちゃしゃべってはいたものの、いまは、この馬車と同様、静かに変わったものになっているせわしく、あわただしい人たちのことを考えました。こうしたくるったようなくちかけている馬車が、何年間もながいあいだ、夜ごと夜ごとに、あらゆる天候をとおして、心配して待っている通知、むきになって待っている送金、約束した健康と無事の通知、病気と死の突然の知らせをもたらした数多くの人たちのことを考えたのです。商人、恋人、妻、未亡人、母親、学校の生徒、配達夫のノックの音で戸口のところまでヨタヨタ歩いてくる子供まで――彼らはみな、どんなに古い郵便馬車の到着を待ち焦がれていたことでしょう。そして、彼らはいま、どこにいるのでしょう!
みなさん、このときこうしたことすべてを考えた、と叔父はよく言っていました。しかし、わたしは、彼があとで、そういったことを本で学んだのではないかと思ってます。こわれた馬車をながめながら古い車軸棒に坐っていたとき、彼はウトウトッと眠りこみ、教会の鐘が太い声で二時を報じたとき、急に目をさました、と彼ははっきり述べていたからです。さて、叔父はさっさと早くものを考える男ではなく、こうしたことぜんぶを考える男ではなく、こうしたことぜんぶを考えたとしたら、どんなに少なくとも、二時半まで十分にかかったものと、わたしは考えてます。だから、みなさん、叔父がちょっとウトウトしはじめ、どんなこともぜんぜん考えてはいなかったものと、わたしは思ってますよ。
それはともあれ、教会の鐘は二時を報じました。叔父は目をさまし、目をこすり、びっくりしてとびあがったんです。
時計が二時を報じた直後、このわびしい静かな場所すべては、じつに驚くべき生命と活気にあふれた場所になってました。郵便馬車の戸には蝶番がつけられ、裏地はとりかえられ、鉄製の部分は真新しいものと同じになり、ペンキはもとどおりにぬられ、ランプは輝き、クッションと大外套は御者台に乗せられ、かつぎ人夫はすべての荷物入れにつつみを投げこみ、車掌は手紙の袋をつめこみ、馬丁は新しくかえた車輪にバケツの水をかけ、たくさんの人たちがとびまわって、ながえをすべての馬車にとりつけ、乗客は到着して、旅行カバンがわたされ、馬が馬車につけられていました。簡単に申すと、そこにいるすべての郵便馬車がすぐ出発しようとしているのは、はっきりわかることでした。みなさん、こうしたすべてのことを見て、叔父はかっと目をむいて開き、彼の生涯の最後の瞬間まで、その目をふたたび閉じることができるようになったのは、どうしてなんだろう、といつもいぶかしがっていました。
「さあ!」肩に手が乗せられたのを感じたとき、声が言いました、「あんたの予約の座席は、中なんですよ。もうはいったほうがいいでしょう」
「予約の座席だって!」グルリとふり向いて、叔父は言いました。
「もちろん、そうですよ」
叔父は、みなさん、なにも言えませんでした。すっかりたまげてしまったからです。中でもいちばん奇妙なことは、こんなにたくさんの人の群れがいて、刻一刻新顔が流れこんできていながらも、彼らがどこからやってきたのか、ぜんぜんわからないことでした。彼らは、なにか妙なふうに、地面からか大気からかわきおこってきて、同じように消えていくようでした。かつぎ人夫が荷物を馬車に入れ、賃銀を受けとると、彼はグルリとまわり、姿を消してしまい、彼がどうなったのだろうと考えだす間もあらばこそ、六人の新しいかつぎ人夫があらわれ、彼らを圧しつぶすかに見える大きな重いつつみの下でヨロヨロと歩いてました。乗客の服装はまた、じつに奇妙なものでした! 大きな、ひろいスカートのついた、カラーがなくて、大きなカフスのある、モール飾りの上衣とかつら――うしろにひものついた大きな堅苦しいかつらだったんですよ! 叔父は狐につままれたような感じでした。
「さあ、中にはいり[#「はいり」に傍点]ますかね?」前に叔父に話しかけた男が言いました。彼は頭にかつらを着け、上衣にはとてつもなく大きなカフスをつけて、郵便馬車の車掌の服装をし、片手にカンテラ、のこりの手には大きならっぱ銃をもち、その銃を小さな武器箱の中にしまいこもうとしてました。「さあ、ジャック・マーチン、中にはいりますかね?」カンテラを叔父の顔のとこに突き出して、車掌は言いました。
「おやっ!」一歩か二歩さがって、叔父は言いました。「そいつはなれなれしい口のきき方だな」
「乗客名簿ではそうなってますよ」車掌は答えました。
「そのあとに『さん』がついてないのかね?」叔父はたずねました。というのも、みなさん、彼と知り合いでない車掌が彼のことをジャック・マーチンと呼びすてにするなんて、郵便局当局が知ったら、絶対に許しはしない失礼な態度だったからです。
「いいや、べつにありませんよ」車掌は冷静に答えました。
「旅行の賃銀は払ってあるのかね?」叔父はたずねました。
「もちろん、払ってありますよ」車掌は答えました。
「そうかい、えっ?」叔父は言いました。「そんなら、よし! どの馬車だね?」
「これです」旧式なエジンバラとロンドン間の郵便馬車をさして、車掌は言いましたが、その踏み段はもうおろされ、戸は開かれてました。「待ってください! ほかに乗客がいるようです。彼らを先に入れてください」
車掌が話してるとき、突然、叔父の真ん前に若い紳士があらわれましたが、彼は髪粉をふったかつらをかぶり、スカートをひろくゆったりとった、銀の飾りをつけた空色の上衣を着こみ、そのスカートにはバックラム(のり・にかわなどで固めた亜麻布。洋服のえり芯や製本などに用いる)の裏地が打ってありました。ティギンとウェルプスがプリントのきゃらこやチョッキのほうの商売をしていたので、みなさん、叔父にはすぐ、それがどんな材料のものかがわかったのです。彼は半ズボン、絹の靴下の上にまきあげた一種のきゃはん、しめ金のついた靴をつけていました。手首にはひだ飾りをつけ、頭には三角帽をかぶり、腰にはながい細身の剣をさげてました。チョッキのたれは腿の中途のとこまでさがり、古風なクラヴァットのネクタイ(首にまきつけて、ブローチかピンでとめたもの)の端は腰までとどいてました。彼は重々しくもったいぶって馬車の戸口のとこまでいき、帽子をぬぎ、それを腕いっぱいのながさだけ頭上にかざし、それと同時に、気どった人が紅茶茶わんを手にするときにするように、小指をつんと突き出しました。それから彼は足をそろえ、丁寧な、重々しいお辞儀をし、それから左手を前にさしだしました。叔父は前に歩み出て、その手をとって熱烈な握手をしようとしたんですが、そうした慇懃な態度は、彼に向けられたものではなく、その対象はながい胴部のついた旧式の緑のビロード服と胸衣(十五―七世紀に流行した上半身をつつむ三角形の女の衣服)をつけた若い婦人であることがわかりました。彼女は、みなさん、ふちなし帽子はかぶらず、頭は黒い絹のずきんでつつまれてましたが、馬車の中にはいろうとするとき、ちょっとあたりを見まわし、彼女が示したとても美しい顔は、叔父が――絵でも――見たことがないほどでした。彼女は、片手で服を引きあげて、車の中に乗りこんだんです。この話をするとき、叔父はいつも断固とした誓言づきで言ってたんですが、彼が自分自身の目でそれを見なかったなら、足というものがこんなみごとなものになるとは絶対に信じなかったことでしょう。
しかし、その美しい顔をただチラリと見ただけで、この若い婦人が自分のほうにたのむようなまなざしを投げ、彼女がおびえ苦しんでいることを、叔父はさとってしまいました。彼はさらに、髪粉をふったかつらをつけた若い男が、いかにもりっぱで堂々とした慇懃な態度をとってるにもかかわらず、彼女が馬車の中にはいったとき、彼女の腕首をしっかりとつかまえ、すぐあとにつづいて車の中にはいってったことに気づきました。ピタリとした褐色のかつらをかぶり、すもも[#「すもも」に傍点]の色をした服を着け、とても大きな剣をさげ、腰にまでとどく長靴をはいたじつにみにくい顔の男が、この一行に加わってました。彼が近づくと、若い婦人は隅に体をちぢめてさがってしまったのですが、この彼が彼女のとなりに腰をおろしたとき、叔父はなにか腹黒くて謎めいたことが進行中、これは彼がいつも言ってたことですが、『どこかでねじがゆるんでいる』といったはじめに受けた印象をさらに強くしました。彼女が援助を必要とするのなら、どんな危険をおかしてでも、彼女を援助しようと、彼がどんなにすばやく決心したかは、まったく驚嘆に値することです。
「死と稲妻!」叔父が馬車の中にはいっていったとき、剣に手をかけて、若い紳士が叫びました。
「血と雷鳴!」もうひとりの紳士はわめきました。こう言って、彼はさっと剣をぬきはなち、それ以上なにも言わずに、叔父にひと突きしました。叔父は体になんの武器ももってはいませんでしたが、じつにあざやかにこのみにくい顔の紳士の三角帽を彼の頭からはぎとり、剣の先を帽子の天辺をさしとおして受けとめ、帽子の側面をギュッとねじって、剣を動かぬように抑えつけました。
「うしろから刺してください!」剣をとりもどそうともがきながら、みにくい顔の紳士は叫びました。
「それをしないほうがいいぞ」威嚇的に一方の靴のかかとを示して、叔父は叫びました。「脳味噌を少しでももってたら、そいつを蹴っとばしてたたきだすか、さもなけりゃ、頭蓋骨をこなごなにしてやるからな」このとき、叔父は力をふりしぼって、みにくい顔の男の剣をその手からねじりとり、それを馬車の窓から投げ出したんですが、それと同時に、若い男は「死と稲妻!」とふたたび叫び、すごい権幕で剣のつかに手をやりはしたものの、それをぬきはしませんでした。たぶん、みなさん、叔父がニヤリとして言ってたように、たぶん、例のご婦人をびっくりさせてはいけないと考えたからなのでしょう。
「さあ、おふたり」ゆっくりと座をとって、叔父は言いました、「ご婦人の前で、稲妻があろうとなかろうと、死んじまうなんて、真っ平なこってすな。もう一度の旅には十分なくらい、血と雷鳴は味わったわけです。そこで、よろしかったら、静かな乗客らしく、それぞれ坐ったらいいでしょう。おい、車掌、あの方の切り盛り用の大型肉切りナイフをひろってあげろ」
叔父がこう言うとすぐ、車掌が手にあの男の剣をもってあらわれ、それを中にわたすとき、カンテラをかかげ、ジッと叔父の顔を見つめてました。そのとき、そのカンテラの光で、叔父がひどくびっくりしたことに、おびただしい数の郵便馬車の車掌が窓のとこに群らがり集まり、そのだれもが叔父に目を釘づけにしているのがわかりました。生まれてこの方、こんなにたくさんの青ざめた顔、赤い体、ひたむきな目の集まりを見たことがなかったのです。
「これは、いままで係り合ったこともないような奇妙なことだぞ」叔父は考えてました。「さあ、あんたの帽子をかえしてあげましょう」
みにくい顔の男はだまって自分の三角帽を受けとり、いぶかしそうに真ん中の穴をながめ、最後に、厳粛な態度で、かつらの上にそれを乗っけましたが、そのときひどいくしゃみをして、帽子がパッと落ちたので、その厳粛な態度の効果も、ちょっと形無しといったものになってしまいました。
「よーし、出発!」うしろの小さな座席にとびのって、カンテラをもった車掌は叫びました。車はとびだし、叔父は、馬車が内庭から出ていったとき、窓から外を見て、御者・車掌・馬・乗客を完全にそろえたほかの馬車が、一時間五マイルほどのゆっくりとした歩調で、円を描いてグルグルとまわっているのを知りました。みなさん、叔父は大憤慨でした。商人として、彼は郵便袋を粗末にあつかうべきでないと感じ、ロンドンに着いたらすぐ、この問題について郵便局に報告してやろうと決心しました。
しかし、さし当たって、彼の考えは、ずきんで顔をしっかりとつつんで、馬車のいちばん奥に坐ってる若い婦人に集中してました。空色の上衣を着た紳士は、彼女と向かい合わせて坐り、すもも[#「すもも」に傍点]の色をした服のもうひとりの男は、彼女のわきに坐って、ふたりともジッと彼女を見守ってました。もし彼女がずきんのひだをサラリとでも音を立てると、みにくい顔をした男が手を剣にかけるのが聞こえ、のこりの男の息づかいで(車の中はとても暗く、その顔は見えませんでした)、ひと口で彼女を飲みこみそうなふうをして、居丈高に彼女をにらみつけてるのがわかりました。こうしたことがしだいに叔父の気持ちをたかぶらせ、なにが起ころうとも、この結果は見とどけてやろう、と彼は決心しました。彼は輝く目・美しい顔・かわいい足のすごい礼賛者、簡単に言えば、女性愛好者だったのです。みなさん、これはわれわれ一族に流れてる性格で――わたしもそうなんです。
この婦人の注意をひこう、さもなければ、少なくとも、このふしぎな紳士たちを会話に引きこもうと、叔父はいろいろと工夫をこらしましたが、そうした努力は、すべてむだに終わりました。男たちは話そうとはせず、ご婦人はそれができなかったのです。彼はときどき頭を馬車の窓から突き出し、どうしてもっと早く走らないのかと、声がかれるまで叫び立てましたが、だれも彼にはぜんぜん注意を払ってくれませんでした。彼は馬車の中でうしろによりかかり、美しい顔と足のことを考えました。これのほうがまだましでした。それで時間つぶしにはなるし、自分がどこにいくのか、自分がこんな妙な立場にどうして立つようになったのかを、考えずにすんだからです。こうしたことを、彼がとても苦にしていたというわけではないんです――彼は、みなさん、とても屈託のない、あちらこちらとうろつきまわる、ひどくのんきな男だったからです。
突然、馬車がとまりました。「おやっ!」叔父は言いました、「風向きがどう変わったんだろう?」
「ここでおりてください」踏み段をおろして、車掌は言いました。
「ここでだって!」叔父は叫びました。
「ここでです」車掌は答えました。
「そんなことは絶対にせんぞ」叔父は言いました。
「よくわかりましたよ。そんなら、そこにいてください」車掌は言いました。
「いるとも」叔父は答えました。
「どうぞ」車掌は言いました。
ほかの乗客たちは、この話のやりとりを聞き耳立てて聞き入り、叔父がおりぬと腹を決めているのを知って、若い男は彼のわきをとおりぬけ、手をかして婦人を外につれだしました。この瞬間に、みにくい顔をした男は彼の三角帽の天辺の穴をしらべてました。若い婦人がわきをとおりぬけたとき、彼女は手袋をひとつ叔父の手の中に落とし、彼女の温かい息が鼻に感じられるほど唇を彼の顔に近づけて、そっと「助けてください!」という一語をささやきました。みなさん、叔父はすぐすごい勢いで馬車からとびだし、そのため、馬車はバネの上でユラユラとゆれたほどでした。
「おお! 考えなおしたんですね?」叔父が地面の上に立ってるのを見たとき、車掌は言いました。
叔父は、数秒間、車掌をジッとながめてましたが、これは、らっぱ銃を彼からうばいとり、大きな剣をもった男の顔にそれをぶっぱなし、のこりの者の頭を銃の台尻でなぐりつけ、若い婦人をさっとさらい、硝煙の中を逃げだしたらいいかどうかを考えてたためでした。しかし、彼は考えなおし、これを実行するとちょっとメロドラマ的になりすぎると、この計画を放棄し、ふたりのわけのわからぬ男のあとについていきました。ふたりは、あいだに婦人をはさんで、馬車がその前にとまった古い家にはいろうとしてたのです。ふたりは廊下にまがってはいっていき、叔父はそのあとにつづきました。
この家は、叔父がまだ見たこともないほど、こわれてわびしいもんでした。それはかつては人をもてなす大きな家だったようでしたが、ところどころ屋根は落ちこみ、階段はけわしく、ボロボロで、くずれてました。彼らがはいっていった部屋には、大きな炉があり、煙突は煙で黒くなってましたが、温かい炎は、いま、それを照らし出してはいませんでした。燃えた薪木の白い羽根のような灰がまだ炉にまき散らされてはいましたが、ストーブはひえびえとし、あたりは暗く、陰気でした。
「うん」あたりを見まわしながら、叔父は言いました、「郵便馬車が一時間六マイル半の速さで進み、どのくらいかもわからぬ時間のあいだ、こんなむさくるしいとこにとまってしまうなんて、そうとう型破りなことだと思うな。これは世間に知らせにゃならん。新聞に投書してやるぞ」
叔父はこれをかなりの大声で、あたりはばからぬふうに言ったのですが、これは、もしできたら、ふたりの見知らぬ男を会話に引きこむためでした。しかし、ふたりともそれにはぜんぜん注意を払わず、ただたがいにささやき合って、そうしながら、彼に向かって渋い顔を向けてるだけでした。婦人は、部屋の奥のほうにいて、まるで叔父の援助をたのむように、一度思い切って手をふっただけでした。
とうとう、ふたりの見知らぬ男はちょっと前に出てきて、話が真剣にはじまりました。
「おい、この部屋が私室なのは、たぶん、知らんのだろうな?」空色の上衣を着た紳士は言いました。
「おお、知らんとも」叔父は答えました。「ただ、これが特別このために注文した私室だったとしたら、大衆部屋はきっととても[#「とても」に傍点]快適なものにちがいないだろうな」こう言って、叔父はよりかかりの背の高い椅子にどっかと腰をおろし、目でその紳士の寸法をじつに正確にはかったんです。だから、その計算からだけでも、ティギンとウェルプスが服用にとプリントのキャラコを彼に与えても、大小いずれにも、寸分のちがいも生じなかったことでしょう。
「この部屋を出てゆけ」剣をつかんで、ふたりの男は声をそろえて言いました。
「えっ?」その意味がぜんぜんわからぬといったふうをして、叔父は言いました。
「部屋を出てゆけ。さもなければ、お前を殺してやるぞ」大きな剣をもったみにくい顔をした男は言い、それと同時に剣をぬき、それを空中にふりまわしました。
「やつをやっつけろ!」空色の上衣の紳士は叫び、彼も剣をぬいて、二、三ヤードとびさがりました、「やつをやっつけろ!」婦人は大きな悲鳴をあげました。
さて、叔父は、非常な勇敢さと冷静さの点でとくに目立ってる人物でした。進行中のことに、一見したところ、ケロリとしてはいながらも、彼はぬかりなくなにかとび道具か身を防ぐ武器をさがしてたんですが、剣がぬかれた瞬間に、炉づくりの中に、錆だらけのさやにおさまった|籠柄《かごづか》のついた古い細身の剣が立ってるのを見つけました。ひとっとびして、叔父はそれを手にし、それをぬきはなち、それを勇ましく頭上にふりまわし、ご婦人にはのくようにと呼びかけ、空色の服の男に椅子を、すもも[#「すもも」に傍点]色の服を着た男にはさやを投げつけ、相手方の混乱に乗じて、しゃにむにふたりにおそいかかりました。
みなさん、りっぱなアイルランドの青年紳士について古くから伝わる話がありますが――それが事実談であるからといって、べつにつまらないわけのものではありません。彼はバイオリンがひけるかどうかをたずねられ、できることはまちがいないが、確実にはっきりとは言えない、ともかく、それを一度もひいたことがないのだから、と答えたんです。これは、叔父とその剣術についても、言えることです。特設劇場でリチャード三世を一度演じたとき以外に、彼は、剣を手にしたことはぜんぜんなかったのです。そのときには、剣をまじえずに背後から彼が突き刺されるものと、前からリッチモンド(シェイクスピア作『リチャード三世』でリチャードと王位をあらそい、彼をボズワスで破る)と話合いがついてたんです。しかし、このさいには、それまで剣術の心得はぜんぜんないものと自分も思っていたんですが、彼はふたりの剣士相手に切りむすび、いかにも男らしくたくみなふうに、ちょうちょうはっしと剣をまじえていました。やってみるまで、人はなにができるかわからないという古いことわざがありますが、叔父のこの行動は、それがどんなに本当かをはっきりと物語ってます。
この激闘の物音はものすごく、三人の闘士それぞれはとてつもなく大きなわめき声を立て、打ち合う剣は、まるでニューポート(イングランド南西部にある港市)の市場のナイフと金具がいちどきにガチャガチャ鳴りだしたような音を立ててました。この戦闘が最高潮に達したとき、ご婦人は(たぶん、叔父を鼓舞するためだったのでしょうが)ずきんをすっかり顔からはずし、目がくらむほどに美しい面をあらわし、そのために、叔父はこの顔から微笑ひとつを得られたら、五十人の男を相手にして戦い、死んじまってもよい、といった気持ちになりました。このときまでの彼の活躍ぶりは目をみはらせるほどのものでしたが、今度彼は、うわ言をわめいている狂気の巨人のように、縦横むじんにとびまわりはじめました。
この瞬間に、空色の上衣を着た紳士はふり向き、若いご婦人が顔のおおいをはずしたのをながめて、激怒と嫉妬の叫びをあげ、彼女の美しい胸に剣をかざし、彼女の心臓をひと刺ししようとしたため、叔父は恐怖の叫びをあげ、その声は建物ぜんぶに鳴りひびきました。ご婦人はちょっと横に身をかわし、まだ姿勢がもとにもどらぬうちに、若い男の剣をその手からさっとうばいとり、彼を壁のとこに追いやり、剣を彼と羽目板に|柄《つか》のとこまでズバリとつきとおし、そこにしっかりと彼を釘づけにしてしまいました。それはすばらしい手本でした。叔父は大きな勝ちどきをあげ、無類の勇気をふるい立たせて、相手を同じ方向に後退させ、そのチョッキの服地についた大きな赤い花のど真ん中に古い剣をグサリとつきさし、友人のわきに彼を釘づけにしました。彼らふたりは、みなさん、そこで苦しんで手足をバタバタさせて立ち、まるでからげひもで動いているおもちゃの人物のような姿をしていました。叔父はいつも、敵をやっつけるには、これがいちばん確実な方法だ、と言ってましたが、相手ひとりにたいして剣一本が必要なので、経費の点でこの考えは反対されるかもしれませんね。
「郵便馬車に、郵便馬車に!」叔父のとこにかけより、美しい腕を彼の首にまきつけて、ご婦人は叫びました。「まだのがれられるかもしれません」
「かも[#「かも」に傍点]ですって!」叔父は叫びました。「いやあ、ほかに殺す人間はだれもいないでしょうが、いますか?」みなさん、叔父はちょっとがっかりしたのです。話題を変えるためだけでも、この|殺戮《さつりく》のあとで、少しくらい愛の言葉が交わされてもよかろう、と思ってたからです。
「ここでは一刻の猶予もなりません」若いご婦人は申しました。「彼は(空色の上衣の若い紳士をゆびさして)あの強大なフィルトヴィル侯爵のひとり息子なのですから」
「ええ、それなら、その爵位を彼はものにすることは絶対にないでしょうよ」わたしがもうお伝えしたこふきがね[#「こふきがね」に傍点](虫の名)のように、壁に釘づけになって立ってる若い紳士を冷静にながめながら、叔父は言いました。「あなたがその限嗣相続の制限をといてしまったんですからな」
「このふたりの悪人のために、わたしは家と友人たちのところから引き立てられてきたのです」怒りで面を輝かせて、若いご婦人は申しました。「もう一時間もしたら、あの男は腕ずくでわたしと結婚していたことでしょう」
「厚かましいやつだ!」死にかけているフィルトヴィルの後嗣者にひどい軽蔑の目を投げて、叔父は言いました。
「あなたがごらんになったことから見当がおつきになるでしょうが」若い婦人は申しました、「わたしがだれかに助けを求めたら、あの人たちはわたしをすぐ殺すつもりだったのです。彼らの仲間がわたしたちをここに見つけたら、もうだめです。これから二分たったら、もうおそすぎるでしょう。さあ、郵便馬車に!」こう言い、自分の興奮と、フィルトヴィル侯爵の息子を突き刺したつかれでぐったりして、彼女は、叔父の腕の中に倒れこんできました。叔父は彼女をだきあげ、家の戸口のとこまで彼女をつれていきました。そこには、ながい尾をした、たてがみをなびかせた黒い馬が四頭、馬具をつけられ、郵便馬車の前に立ってましたが、馬の頭のとこには、御者も、車掌も、いや、馬丁さえいませんでした。
みなさん、叔父の思い出にたいしてべつにひどい冒涜を加えるつもりはありませんが、どうもわたしには、独身男ではありながらも、このとき以前に、彼は何人かの女性を腕にかかえたことがある[#「ある」に傍点]と思えるんです。まったく、彼は酒場女にキスをする癖をもっていたようですし、信ずべき証人の言葉によれば、はっきりそれとわかる態度で、宿屋のおかみさんをだいてたのを見られたことがあるんです。わたしがこうしたことを申すのは、叔父をこんなふうに好きになるなんて、この美しい若い婦人はとても変わり者だったにちがいない、ということをお話しするためなんです。彼女のながい黒みがかった髪が彼の腕に尾をながくひき、彼女がわれにかえって、彼女の美しい黒みがかった目が彼の顔にジッと向けられたとき、彼はじつに妙な神経質な状態におちいり、脚が体の下でガクガクとふるえてきた、といつも言ってました。でも、美しい柔和な黒みがかった目を見て、だれが妙な気持ちにならずにいられましょう? みなさん、わたしは[#「わたしは」に傍点]、たしかにだめですよ。わたしは自分の知ってるいくつかの目を見るのがこわく、それがありていの事実なんです。
「わたしをすてたりは絶対になさいませんことね?」若い婦人はつぶやきました。
「絶対に」と叔父は答えましたが、彼はそれを本気で言ってたんです。
「わたしのいとしい守護神!」若い婦人は叫びました。「わたしのいとしい、親切な、勇敢な守護神!」
「そんなこと、言わないでください」彼女の言葉をさえぎって、叔父は言いました。
「どうして?」若い婦人はたずねました。
「お話しになるとき、あなたの口がとても美しくなるからです」叔父は答えました、「それにキスをするといった失礼をするのではないか、と心配になりますからね」
若い婦人は、そうしてはいけない、と叔父に注意を与えるように、手をあげて、言いました――いや、彼女はなにも言わず――ニッコリしました。この世でもっとも美しい一対の唇を見つめ、それがゆっくりといたずらっぽい微笑にくずれていくのをながめ――男がそのすぐそばに立ってて、ほかにだれも近くにいなかったら――その美しい形と色にたいする驚嘆の情は、それにすぐキスをすることによって、もっともよくあらわされるわけです。わたしの叔父はこれをし、それをしたことで、わたしは彼をりっぱな者と尊敬してます。
「あっ!」ギクリとして若い婦人は叫びました。「車と馬の音です!」
「そうですね」耳を立てながら、叔父は答えました。彼は車と馬のひづめの音には敏感な男でした。しかし、ふたりに遠くから音を立てて近づいてくる馬と馬車の数はとても多いように思え、その数を測定するのは困難でした。それはそれぞれ六頭の純血種の馬に引っぱられた五十台の大型四輪馬車の立てる物音のようでした。
「追われているのです!」両手をにぎりしめて、若い婦人は叫びました。「追われているのです、あなただけがたよりですことよ!」
彼女の美しい顔にはひどい恐怖の情があらわれてたので、叔父はただちに決心を固めました。彼は彼女を馬車に乗せ、おびえないようにと彼女に言い、もう一度彼女の唇に自分の唇をおしつけ、それから、寒い風を入れないために窓を閉めるようにと彼女に注意して、御者台にのぼりました。
「ちょっと待ってください、恋人」若い婦人は叫びました。
「どうしたんです?」御者台から叔父は言いました。
「あなたにお話したいのです」若い婦人は言いました。「たったひと言。たったひと言なのです、愛する人」
「おりなければならんのですか?」叔父はたずねました。婦人はなんの返事もせず、またニッコリしました。とても美しい微笑だったんですよ、みなさん! これにくらべたら、前の微笑なんて物の数ではありませんでした。叔父はさっと御者台からとびおりました。
「なんのご用事です?」馬車の窓から中をのぞきこんで、叔父は言いました。婦人は、ちょうどそのとき、たまたま前にかがみ、叔父は、彼女は前よりもっと美しいぞ、と思いました。叔父はそのとき、彼女のほんの近くによっていたのですよ、みなさん。だから、彼は本当にそれがわかったにちがいありません。
「なんのご用事です?」叔父は申しました。
「あなたはわたし以外の女をお愛しになりませんこと? ほかのだれとも絶対に結婚なさいませんこと?」若い婦人はたずねました。
叔父はほかのどんな女とも絶対に結婚せぬことを堅く誓い、若い婦人は頭を引っこめて、窓を閉めました。彼は御者台にとびのり、肘をはり、手綱をとりなおし、屋根の上にあった鞭をとり、右側の先頭の馬にピシリと鞭を入れ、四頭のながい尾の、たてがみをなびかせた黒馬は、一時間十五マイルの速度で、古い郵便馬車を引っぱって、とびだしました。いやあ!
なんというスピードでふっとんでったことでしょう!
背後の物音はもっと高くなってきました。古い郵便馬車が早く走れば走るほど、追跡者の足どりも早くなったのです――人間・馬・犬がこの追跡でいっしょになってました。その物音はおそろしいもんでしたが、ひときわ高く、叔父をせきたて、「もっと早く! もっと早く!」と叫んでいる若い婦人の声がひびいてました。
羽根毛が大暴風の前に吹きとばされるように、ふたりは黒々とした木々のわきをとんでいきました。家、門、教会、ほし草の山、あらゆる種類のもののわきを、急に解きはなされたさかまく水のような早さと音を立てて、彼らはとびすぎていきました。それでも追跡の物音はもっと高くなり、若い婦人が夢中になって「もっと早く! もっと早く!」と叫ぶのを耳にすることができました。
叔父は鞭を当て、手綱をせっせと使い、馬はグングンととびだして、とうとう口からの泡で馬体が真っ白になりましたが、背後の音はまだ大きくなり、若い婦人はまだ「もっと早く! もっと早く!」と叫びつづけてました。叔父はその時の力んだはずみで、大きな音を立てて靴を踏みつけ――時は灰色の夜明け、自分が車輪製造人の囲った場所で、古いエジンバラの郵便馬車の御者台に坐り、寒さと湿気で身をふるわし、足を温めるために足踏みしてることがわかりました! 彼は御者台からおり、美しい若い婦人を求めて、むきになって中をのぞきこみました。悲しいことに、その馬車には戸も座席もありませんでした。それはもうまったくの骨組みだけのもんでした。
このことになにかふしぎがひそみ、いつも語ってたのとそっくりそのままのふうに万事が進行してたことを、叔父は、もちろん、よく知ってました。彼は美しい若い婦人に立てた大きな誓いをしっかりと守りつづけ、彼女ゆえに、何人かの好ましい宿屋のおかみの申し出も断わり、死ぬまで独身をつづけてました。とがり杭を乗り越えたといったちょっとした偶然で、亡霊のような郵便馬車と馬・車掌・御者・乗客が毎夜きちんと旅をしつづけてることを発見するなんて、なんて奇妙なことだろう、と彼はいつも言ってました。こうした旅行に乗客として加わった者で、生きてる人間は自分だけだ、と彼はいつもつけ加えてました。そして、みなさん、たしかに彼の言うとおりだと思いますよ――少なくとも、ほかの生きた乗客の話は聞いてませんからね。
――――――――
[#ここで字下げ終わり]
「こうした亡霊の郵便馬車の袋の中に、なにが入れてあったんでしょうね?」この話ぜんぶをジッと聞いていた宿屋の主人は言った。
「もちろん、|死んだ手紙《デツド・レターズ》(この言葉には「配達不能郵便物」の意がある)さ」旅商人は答えた。
「おお、ああ! たしかにね」宿屋の主人は言った、「そいつは、まったく、考えてませんでしたね」
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第五十章
[#3字下げ]ピクウィック氏がその任務にとびだし、出発のさいに、思いもかけぬ補助者に助けられること
つぎの朝、かっきり九時十五分前に、馬が馬車につけられ、ピクウィック氏は中に、サム・ウェラーは外に、それぞれ座席をとり、御者は、ベンジャミン・アレン氏を乗せるために、ボッブ・ソーヤー氏の家にまずゆくように命じられた。
馬車が赤ランプのついた、はっきりと「以前のノックモーフ、ソーヤー」と書いてあるドアの前にとまったとき、馬車の窓から頭を出して、灰色の仕着せを着た少年がせっせと雨戸を閉めているのを見て、ピクウィック氏は少なからずびっくりした。それは朝のこの時刻にはふつうではない、事務的といえないやり方だったので、すぐふたつ[#「ふたつ」に傍点]の推測が彼の頭に浮かんだ。ひとつは、ボッブ・ソーヤー氏のだれか友人のよい患者が死んだということ、他は、ボッブ・ソーヤー氏が破産したということだった。
「どうしたんだい?」ピクウィック氏は少年にたずねた。
「べつにどうということもありませんよ」顔一面に口をふくらませて、少年は答えた。
「心配なし、心配なし!」グニャグニャした、きたない小さななめし革のリュックサックを片手にもち、もう一方の腕には粗毛の上衣とショールを引っかけ、急に姿をあらわして、ボッブ・ソーヤー氏は叫んだ。「ぼく、すぐいきますよ」
「きみが!」ピクウィック氏は叫んだ。
「ええ、そうですよ」ボッブ・ソーヤー氏は答えた。「りっぱな旅行を、ひとつやりましょうや。おい、サム! たのむぞ!」こう言ってサムの注意をひき、ボッブ・ソーヤー氏はなめし革のリュックサックを御者席に投げ、それは、すぐサムによって、座席の下にしまいこまれた。サムはこのいきさつを感嘆しながらながめていたのだった。これがすむと、ボッブ・ソーヤー氏は、少年の助けをかりて、自分の体には幾サイズか小さい粗毛の上衣をむりやり着こみ、それから馬車の窓のところに近づき、頭を中につっこんで、ワッワと笑い出した。
「これはなんというすごい出発だ、そうでしょうが!」粗毛の上衣の袖口で目から涙をぬぐいながら、ボッブは叫んだ。
「ねえ、きみ」ちょっとどきまぎして、ピクウィック氏は言った、「きみがいっしょに来るなんて、考えてもいませんでしたよ」
「そう、それがズバリねらいなんですよ」ピクウィック氏の上衣のかえし襟をつかんで、ボッブは答えた。「そこがおもしろい点なんです」
「それがおもしろい点ですって!」ピクウィック氏は言った。
「もちろん」ボッブは答えた。「そこがこのことのねらいのすべてでしてね――それと商売をこのまんま放りだしにすることとね。商売のほうでも、ぼくの世話はみまいと決心したふうなんですからね」雨戸を閉め立てることをこう説明して、ボッブ・ソーヤー氏は店をゆびさし、またワッワと笑いだした。
「これはまあ、世話をみるだれもいないのに、患者たちをそのまま放りだしにするようなバカな真似はせんのでしょうな!」とても真剣な口調で、ピクウィック氏は異議を申し立てた。
「どうしていけないんです!」答えとして、ボッブはたずねた。「それで節約になるんですよ。患者はだれも支払いをせず、そのうえ」内輪話をするといったふうに声を落として、ボッブは言った、「患者のほうも、それで都合がよくなるんです。それというのも、薬はほとんど底をつき、さし当たって借りをふやすわけにもいかんので、患者にはぜんぶ|甘汞《かんこう》(下剤に用いる)しかやれず、それが合わない患者も何人かいるのは、確実なことなんですからね。だから、こうしたほうが、すべての面でいちばんいいんですよ」
この返答は一理も二理もあること、そうした返事を受けるものとは、ピクウィック氏は予期もしていなかった。彼はちょっと口をつぐみ、つぎのように言ったが、その口調は前ほど強いものではなかった。
「しかし、きみ、この馬車にはふたりしか中に乗れず、アレン君とは約束ずみなんですからね」
「ぼくのことは、ぜんぜん考えなくともいいですよ」ボッブは答えた。「その準備はしてあるんです。サムとぼくがうしろの御者台をわけ合うんです。ほーれ、この小さなはり札は店のドアにはりつけるもの、『以前のノックモーフ、ソーヤー。道の向こうのクリップス夫人におたずねください』と書いてありますよ。クリップス夫人というのは、ここの少年の母親の名です。『ソーヤーさんはとても申しわけないと言ってます』クリップス夫人は言うんです、『どうにも仕方がなかったんです――この国で一流の外科医の相談に、今朝早く、呼ばれましてね――彼がいなくちゃ、どうにもならないんです――どんな代償を出しても彼を呼ぼうとし――すごい手術なんです』事実はね」結びの言葉として、ボッブは言った、「きっとそれは、ぼくにプラスになりますよ。もしそれがこの地方の新聞の記事になったら、それでもうぼくの身分は安泰ということになるでしょうからね。ベンが来ましたよ。さあ、中にとびこめ!」
こうあわただしく言って、ボッブ・ソーヤー氏は御者をわきのほうにおし、友人を車の中におしこみ、戸をバタンと閉め、踏み段をあげ、街路のドアにはり札をはり、それに錠をかけ、鍵をポケットに入れ、うしろの御者台にとび乗り、「出発!」と叫び、こうしたことすべてを異常なほどのすみやかさでやってのけたので、ボッブ・ソーヤー氏がゆくべきかどうかをピクウィック氏がまだ考えもせぬうちに、車はゴロゴロと走りだし、ボッブ・ソーヤー氏は完全に馬車の一部になりすましていた。
馬車がブリストルの街路をとおっているあいだは、ふざけ者のボッブはその職業にふさわしい青の眼鏡をかけ、相応のしっかりとした重々しい態度を示して、サミュエル・ウェラー氏がただ楽しむようにと、さまざまな言葉のしゃれをとばしていただけだった。しかし、彼らが開けた道路に出ると、彼は青の眼鏡と重々しい態度をかなぐりすて、さまざまなわるふざけをし、それは、通行人の注意をひき、この馬車とそこに乗っている人たちをなみ以上の好奇の目の対象にするようにと仕組まれたものになった。こうした放れ業のうちでもっとも目立たぬものは、有鍵らっぱ(六個の鍵があって、半音階が奏される古楽器)をいともさわがしく真似すること、散歩用のステッキに結びつけた真紅の絹のハンカチを華かに示すことで、このハンカチは、優越性と挑戦をあらわすさまざまな仕草で、ときおり空中にふりまわされていた。
「あれっ」ウィンクル氏とベン・アレン氏の妹の数多くの美点に関して、アレンとじつに静かに話している最中に話を切って、ピクウィック氏は言った、「あれっ、わきをとおる人たちがあんなに目をむいてながめているなんて、われわれにどんなことがあるのだろう?」
「りっぱな馬車と供まわりですよ」ちょっと誇りやかな口調で、ベン・アレン氏は答えた。「たぶん、こうしたものを毎日見てはいないためなんでしょう」
「ひょいとしたらね」ピクウィック氏は答えた。「そうかもしれない。たぶん、そうでしょうな」
たまたま馬車の窓から外をながめ、通行人の顔が示しているものが敬意のこもった驚きといったものではぜんぜんなく、さまざまな電信連絡が彼らと車の外にいる者とのあいだで交わされているらしいと気がつかなかったら、おそらくピクウィック氏は、本当にペン・アレン氏の言うとおり、と納得したことだったろう。そこで、こうした通行人の表示は、たとえわずかにせよ、ロバート・ソーヤー氏のふざけた態度に関係があるかもしれないぞ、といった考えがピクウィック氏の頭にフッと浮かんだ。
「ねえ」ピクウィック氏は言った、「うしろの御者台で、われわれのはしゃぐ友人がなにかバカな真似をしているんじゃないでしょうな」
「おお、ちがいますよ」ベン・アレン氏は答えた。「うきうきしているときはべつにして、ボッブはこの世でいちばん静かなやつですからね」
ここで、ながく引っぱった有鍵らっぱの物真似が耳にひびき、そのあとに喊声とキャッキャッと笑う声がつづいたが、それがすべてこの世でいちばん静かなやつ、もっとはっきり言えば、ボッブ・ソーヤー氏自身の喉と肺から出ていることは明らかだった。
ピクウィック氏とベン・アレン氏は意味深な目をたがいに交わし、ピクウィック氏は帽子をぬぎ、チョッキぜんぶが馬車の窓から外に出てしまうくらいまで体をのりだし、とうとうふざけた彼の友人の姿をチラリ一瞥することができた。
ボッブ・ソーヤー氏は坐っていたが、それは後部御者席にではなく、馬車の屋根の上、両脚はできるだけひろく開き、頭の側面にサミュエル・ウェラー氏の帽子をかぶり、片手には、とてもでっかいサンドウィッチを、のこりの手には、そうとう大きなさやつきのびんをもち、その両方をいかにもおいしそうにせっせと味わい、その単調さを、ときどきわめくか、通行人となにかおもしろい冗談を交わして、まぎらわしていた。真紅の旗は御者台の手すりのところにまっすぐにしっかりと立てられ、サミュエル・ウェラー氏は、ボッブ・ソーヤー氏の帽子で飾られて、御者席のど真ん中にぶっ坐り、活気のある顔をしてボッブ・ソーヤー氏と同じサンドウィッチをかじり、その顔の表情は、こうしたことすべてを彼が全面的に賛成している事実をあらわしていた。
これだけでも、ピクウィック氏のような礼儀正しい紳士をいらだたせるのに十分なものだったが、いまいましいことは、これだけではなかった。というのも、内も外も満員の駅伝馬車がそのとき彼らとゆきちがいになり、乗客たちの驚きがはっきりと示されていたからである。馬車といっしょに走り、そのあいだに物乞いをしていたアイルランド人一家の祝いの言葉はそうとうにさわがしいもの、とくに男の言葉はそうで、彼はこうした見せ物をなにかある政治かそういったものの勝利の行列と考えているようだった。
「ソーヤー君!」カンカンになってピクウィック氏は叫んだ。「ソーヤー君!」
「やあ!」冷静そのものといったふうに馬車の片側越しにのぞきこんで、ボッブ・ソーヤー氏は言った。
「きみは気がくるったのかね?」ピクウィック氏はたずねた。
「いいや、ぜんぜん」ボッブは答えた。「ただ陽気になってるだけですよ」
「陽気にだって!」ピクウィック氏は叫んだ。「その言語道断な赤いハンカチをおろしてくれたまえ、かならずおろすのですぞ。サム、それをおろしてしまえ」
サムが手を出す間もなく、ボッブ・ソーヤー氏は降参し、それをポケットにおさめ、慇懃にピクウィック氏にうなずき、さやつきのびんの口をぬぐい、それを自分の口にあてがい、それで、むだ口をたたかずに、この乾杯はピクウィック氏の幸福と繁栄を祈ってのもの、ということを知らせた。これをしてから、ボッブは注意深くコルクをはめ、やさしくピクウィック氏を見おろして、サンドウィッチを大きくパクリとひと噛みし、ニッコリと笑った。
「さあ」瞬間的な怒りがボッブの落ち着き払った冷静さに抗し得べくもなかったピクウィック氏は言った、「どうかこれ以上、そんなバカなことはしないでくれたまえ」
「はい、はい」もう一度帽子をウェラー氏と交換して、ボッブは答えた。「そんなことをするつもりはなかったんですがね、この旅行ですっかりいい気分になり、ジッとしてはいられなくなったんです」
「外見を考えてみたまえ」ピクウィック氏はたしなめた。「多少は体裁も考えなければね」
「おお、もちろん」ボッブは言った、「そんなことじゃ、ぜんぜんないんですよ。もう万事終わりです、頭領」
この保証で満足して、ピクウィック氏はまた馬車の中に頭をひっこめ、ガラス窓を引きあげた。しかし、ボッブ・ソーヤー氏の邪魔のはいった前の話をしはじめるとすぐ、窓の外に長方形の小さな浅黒いものが出現したことによって、彼は少なからずびっくりした。それは、まるで早く入れてくれと言わんばかりに、窓をトントンとたたいていた。
「あれはなんだろう?」ピクウィック氏は叫んだ。
「さやつきのびんらしいですな」多少興味の色を浮かべて眼鏡越しに問題のものをジッと見ながら、ベン・アレン氏は言った。「あれはボッブのものらしいですよ」
この印象は、たしかに正確なものだった。ボッブ・ソーヤー氏がさやつきのびんを散歩用のステッキの端につけて、それで窓をたたき、中にいる彼の友人たちも、仲間づき合いと和解のために、その中身を味わってほしいという気持ちを伝えていたからである。
「どうしたらいいだろう?」びんをながめながら、ピクウィック氏は言った。「このやり方は、前のよりもっとバカげたことですな」
「びんを中にとりこんだらいちばんいいと思いますね」ベン・アレン氏は答えた。「それをとりこみ、抑えてしまったら、彼にたいして、ざまあみろといったことになるでしょうからね、どうです?」
「そうですな」ピクウィック氏は言った、「中にとりこみますか?」
「それがいちばんいいやり方と思いますよ」ベンは答えた。
この忠告は彼自身の意見とも完全に合致していたので、ピクウィック氏は静かに窓わくをおろし、ステッキからびんをはずしたが、それが終わると、ステッキは引きあげられ、ボッブ・ソーヤー氏のうれしそうな高笑いが聞こえてきた。
「なんて陽気なやつだろう!」手にびんをもって、相手のほうをながめながら、ピクウィック氏は言った。
「まったくね」アレン氏は答えた。
「彼にはどうしても怒れませんね」ピクウィック氏は言った。
「もちろんですよ」ペンジャミン・アレン氏は答えた。
こうした短い意見交換のあいだに、ピクウィック氏は、ついポーッとした気分で、びんのコルクをはずしてしまっていた。
「それはなんです?」無造作にベン・アレン氏はたずねた。
「わかりませんな」同じように無造作に、ピクウィック氏は答えた。「どうやらミルクポンス(牛乳・砂糖・調味料などをまぜた酒精飲料をふくむ飲み物)のようですな」
「えっ、そうなんですか?」ベンはたずねた。
「そうだと思いますな[#「思いますな」に傍点]」まちがったことを述べてはいけないととても用心深く、ピクウィック氏は答えた。「いいですかね、それを味わわずに正確なことは、とても言えませんからね」
「味わってみたらいいでしょう」ベンは言った。「それがなにかを知っていたほうがいいですからな」
「そう思いますかね?」ピクウィック氏は答えた。「ええ、あんたが知りたいと言うのなら、もちろん、わたしに異議はありませんよ」
いつも自分の気持ちを殺しても友人の希望をと考えているピクウィック氏は、すぐに、かなり時間をかけてグッとそれを飲んでみた。
「なんですかね?」多少いらいらしながら邪魔を入れて、ベン・アレン氏はたずねた。
「奇妙ですな」舌打ちをしながら、ピクウィック氏は言った。「ちょっとわからなくてね。おお、そうだ!」二度目に味わってから、ピクウィック氏は言った。「ポンスですよ」
ベン・アレン氏はピクウィック氏をながめ、ピクウィック氏はベン・アレン氏をながめた。ベン・アレン氏はニヤリとし、ピクウィック氏はニヤリとしなかった。
「彼にはざまあみろといったことになりますな」多少きびしさをこめて、ピクウィック氏は言った、「それをぜんぶ飲んでしまったら、まさにざまあみろといったわけ」
「そのことは、ぼくも考えてましたよ」ベン・アレン氏は言った。
「そうですかね、本当に?」ピクウィック氏は答えた。「それじゃ、これで彼の健康を乾杯!」こう言って、ピクウィック氏は元気よくびんからひと飲みし、それをベン・アレン氏にわたし、ベン・アレン氏もさっそく彼の例にならった。ニッコリと微笑が交わされ、ミルクポンスはだんだんと、陽気に飲みほされていった。
「結局」最後の一滴を飲みほしてから、ピクウィック氏は言った、「彼のいたずらは、じっさい、とてもおもしろいもの、とても愉快なものですよ」
「たしかにそうですね」ベン・アレン氏は答えた。ボッブ・ソーヤー氏がこの世でいちばんおかしなやつだという証拠に、ボッブがかつて酒を飲んで熱病にかかり、その結果、頭の髪をそりとられた話を、ながながとこと細かに彼はピクウィック氏に語り、この愉快でおもしろい来歴の物語は、馬をかえるために、馬車がバークリー・ヒースの『鐘旅館』にとまるまでつづいた。
「ねえ! ここで正餐にするんでしょう、えっ?」窓から中をのぞきこんで、ボッブは言った。
「正餐ですって!」ピクウィック氏は言った。「いやあ、まだ十九マイル走っただけですよ。これから先八十七マイル半もあるんですからね」
「だからこそ、疲労に堪えられるようにと、なにか食べなけりゃいかんのです」ボッブ・ソーヤー氏は反駁した。
「おお、昼間十一時半に正餐をとるなんて、まったくだめですよ」懐中時計を見ながら、ピクウィック氏は言った。
「そのとおりですな」ボッブは答えた、「昼食が打ってつけのもの。おい! 三人の昼食だ、すぐにな。馬は十五分間抑えておいてくれ。宿屋の者には冷たいもんはなんでもテーブルに出し、それに、びん入りのビールもつけるように言いつけてくれ。それから、ここにある最高のマデーラぶどう酒も味わってみることにしよう」いかにも重々しく、バタバタして、こうした注文を発してから、ボッブ・ソーヤー氏はただちに宿屋にとびこみ、その準備の指揮をとり、五分もしないうちに彼はもどってきて、そうした食物はすばらしいものだとみなに伝えた。
昼食はボッブが言った賛辞を裏書きするもので、ボッブばかりか、ベン・アレン氏もピクウィック氏もそれを大いに賞味した。三人の協力で、びんづめのビールとマデーラぶどう酒はすみやかに処分され、(馬がふたたび馬車につけられ)さやつきびんが、ミルクポンスのかわりに、こうしたいきなりの注文としてはできるかぎり上等の酒でいっぱいに満たされ、みながそれぞれの座席にもどったときに、今度はピクウィック氏の反対はぜんぜん受けずに、有鍵らっぱが鳴りひびき、赤い旗がはためいていた。
テュークスベリの『ホップ・ポール旅館』(ホップ・ポールはホップのつるの細ながい支え棒)で彼らは足をとめて夕食をとり、このときには、さらにびんづめのビール、マデーラぶどう酒、そのうえ黒ビールまで出て、ここでさやつきびんは、これで四度目の補給を受けた。こうして重ねて酒を飲んだために、ピクウィック氏とベン・アレン氏は、三十マイルのあいだ、ぐっすりと眠り、ボッブとウェラー氏は後部の御者席で二重唱を歌っていた。
ピクウィック氏が目をさまして窓から外を見られるようになったときは、もうすっかりあたりは暗くなっていた。路傍にポツンポツンと散らばって立っている小屋、目にはいるすべてのもののよごれた色、暗い雰囲気、燃え殼と赤れんがの粉末がまき散らされた小道、遠くのかまどの火の深い赤色の輝き、あたりの物すべてを黒くぼやかしている高いグラグラした煙突からモクモクとはき出されている濃い煙、遠くの灯火のきらめき、ガチャガチャいう鉄の棒を積み、重いものをうずたかく乗せて、道路をせっせと進んでゆく重々しい荷車――こうしたものすべては、彼らがバーミンガムという大きな活動的な町にグングンと近づいていることを物語っていた。
馬車がこのさわぎの中心部に通じるせまい道路をガラガラと音を立てて進んでいったとき、真剣な仕事の光景と物音がさらに強く心にひびいてきた。街路は労働者でいっぱいになっていた。労働のうなり声はどこの家からも鳴りひびき、光は屋根裏部屋のながい開き窓から流れ、車輪の回転と機械の音はふるえる壁をゆさぶっていた。そのおそろしいむっとした光が何マイルものあいだ見えていた火は、町の大きな作業場と工場で、激しい勢いで燃えあがっていた。ハンマーの音、蒸気の噴出する音、エンジンの鈍いガチャンガチャンという重い音は、すべての場所からわきおこってくる耳ざわりな音楽だった。
御者は開けた道をとおり、町の周辺とオールド・ロイアル・ホテルのあいだの美しい、灯りのよくともされた店の前を勢いよく走りぬけていったが、ピクウィック氏は、自分をここにつれてきた任務の困難さ、むずかしさをまだ考えはじめてはいなかった。
この任務のむずかしさと満足いくふうにそれをおこなう困難さは、自発的にボッブ・ソーヤー氏が参加してくれたからといって、いささかも減少はしていなかった。じっさいのところ、このさいに彼がいることは、それがどんなに思いやりがあり、うれしいことにせよ、ピクウィック氏がよろこんで求めるといったありがたいものではなかった。事実、ボッブ・ソーヤー氏を五十マイル以上はなれた場所にすぐうつしてもらえたら、ピクウィック氏はよろこんでそれ相応の金を払ったことだろう。
ピクウィック氏は一、二度ウィンクル氏の父親と文通し、その息子の素行に関する彼の質問に満足すべき返事をしたことはあったが、この父親と親しく個人的な文通をしたことはなかった。ちょっと酔っているボッブ・ソーヤー氏とベン・アレン氏にともなわれて、はじめてこの父親に会うのは、自分にたいして彼の好意を獲得するためにとるべき策としては、あまりたくみな、好ましいものとは言えまいと、彼ははらはらしながら考えていた。
「しかし」自信をとりもどそうとつとめながら、ピクウィック氏は言った、「できるだけうまくやらねばならん。彼に会うのはきょうにしなければいけない。そうするとはっきり約束したのだからな。ふたりがどうしてもついてくると言ったら、この会見はできるだけ短いものにし、彼ら自身のために、彼らが正体をばらさないように期待するだけで、満足せにゃならんだろう」
こうした考えで彼が心をなぐさめていたとき、馬車はオールド・ロイアル・ホテルの前でとまった。ベン・アレン氏はすごい眠りからちょっと目をさまし、襟首をつかんでサミュエル・ウェラー氏に引っぱりだされたので、ピクウィック氏は車からおりることができた。三人は快適な部屋に案内され、ピクウィック氏はただちに、ウィンクル氏の家がどの辺にあるのか、と給仕にたずねた。
「近くです」給仕は答えた、「五百ヤード以上はなれてはいないでしょう。ウィンクルさんは運河のとこにいる波止場管理人です。私宅は、ええと――ええ、そうです――五百ヤード以上はなれてはいません[#「いません」に傍点]よ」ここで給仕はろうそくを吹き消し、それをまたつける仕草をしたが、これは、ピクウィック氏にその気があれば、もっと質問をする機会を与えるためだった。
「なにかおとりになりますか?」ピクウィック氏の沈黙に困ってしまって、ろうそくをつけながら、給仕はたずねた。
「いや、いまはなにも欲しくないね」
「よくわかりました。夜食のご注文は?」
「いまはよしておこう」
「よーく[#「よーく」に傍点]わかりました」ここで、給仕はそっとドアのほうに歩いてゆき、それから途中で足をとめ、クルリふり向いて、とても愛想よく言った――
「みなさん、女給仕をよこしましょうか?」
「よかったら、よこしてもいいよ」ピクウィック氏は答えた。
「そちらで[#「そちらで」に傍点]よろしければ……」
「そして、ソーダ水をもってきてくれ」ボッブ・ソーヤー氏は言った。
「ソーダ水ですか? かしこまりました」とうとう注文をとり、心の大きな重荷をおろして、給仕はすーっとそれとわからぬうちに融けるように姿を消してしまった。給仕というものは、絶対に歩いたり走ったりはしないものである。彼らはほかの人間のもっていない部屋からすーっと出てゆく特別な、神秘的な力をもっているのだ。
ソーダ水を飲んでベン・アレン氏に多少の生気がよみがえり、彼は、みなにすすめられて顔と手を洗い、サムの手で服に刷毛をかけてもらった。ピクウィック氏とボッブ・ソーヤー氏も、旅による服装の乱れをなおし、三人は腕を組み合ってウィンクル氏の家に向けて出発し、ボッブ・ソーヤー氏は歩きながらタバコをプカプカとふかしつづけていた。
約四分の一マイルほどはなれた静かな、裕福そうな通りに、ドアの前には三段の階段があり、ドアには真鍮の板がつき、その上には、太い文字で「ウィンクル」と書かれてある、古い赤れんがの家が立っていた。階段はとても白く、れんがはとても赤く、家はとてもきれいだった。そして、時計が十時を報じたとき、ピクウィック氏、ベンジャミン・アレン氏、それにボッブ・ソーヤー氏がそこに立っていた。
身なりのきちんとした女中がノックの音に答え、三人の見知らぬ客を見て、ギョッとした。
「ウィンクルさんはご在宅ですかね?」ピクウィック氏はたずねた。
「これから夜食をなさるところです」女中は答えた。
「彼にこの名刺をおわたししてくれませんか?」ピクウィック氏は言った。「こんなにおそくお訪ねして申しわけないが、ぜひ今晩お会いしたく、たったいま到着したところ、とお伝えしてください」
さまざまとすごいふうに顔をひんまげて、女中の体つきにたいする感嘆の情をあらわしていたボッブ・ソーヤー氏を女中はこわごわとながめ、廊下にかかっていた帽子と外套にちょっと目をやり、二階にいっているあいだ、ドアに注意するようにと、べつの女中が呼ばれた。この歩哨の交替はすぐにおこなわれた。女中はすぐにもどり、通りに待たせておいたことにたいして三人の紳士にわびの言葉を述べ、なかば事務所、なかば衣装室といった敷き物ののべてある裏の部屋に、彼らを案内した。その部屋で、主な役に立つ装飾用の家具といえば、机ひとつ、洗面台器と髯そり用の鏡、靴棚と靴ぬぎ器、背のない高い腰かけひとつ、四つの椅子、テーブルひとつ、古い八日巻きの時計だけだった。炉づくりの上には、鉄の金庫のくぼんだ戸が見え、ふたつの壁にかかった本棚、暦、ほこりだらけの書類のとじこみが壁を飾っていた。
「戸口にお待たせするなんて、本当に申しわけありませんでした」ランプをつけ、愛想のいい微笑を浮かべてピクウィック氏に話しかけながら、女中は言った、「でも、そちらはまだお会いしたことのない方、それに、ここにはとてもたくさん浮浪者がいて、なにか盗もうかとやってくるんですもの、本当に――」
「言い訳をする必要なんか、ぜんぜんありませんよ」上機嫌にピクウィック氏は言った。
「少しもありませんとも、かわいい子」ふざけて両腕をのばし、まるでこの若い婦人が部屋を出てゆくのを抑えようとしているように、あちらこちらとびまわって、ボッブ・ソーヤー氏は言った。
若い婦人の気持ちは、こうした誘惑で、やわらげられはしなかった。彼女はすぐ、ボッブ・ソーヤー氏は「いやらしい男」だという意見を発表し、言いよりの態度でもっと積極的な態度を示すと、その美しい指を彼の顔にかけ、嫌悪と軽蔑の言葉をあれこれとはいて、部屋からとびだしていったからである。
こうしてこの若い婦人といっしょにいられなくなると、ボッブ・ソーヤー氏は机をのぞき、引き出しの中をながめ、鉄の金庫の錠をこじあけるふりをし、裏がえしにして壁の暦をめくり、自分の靴の上に父親のウィンクル氏の靴をはこうとし、その他いろいろとふざけながら家具をしらべて、気をまぎらわしはじめたが、こうしたことすべては、ピクウィック氏には得も言えぬ恐怖と苦悶、ボッブ・ソーヤー氏にはそれに釣り合ったよろこびを与えていた。
とうとうドアが開けられ、かぎタバコ色の服を着こみ、頭がそうとう禿げているという以外には、頭も顔も息子そっくりの小柄な老紳士が、片手にピクウィック氏の名刺、のこりの手には銀の燭台をもって、部屋の中に小股でさっさとはいってきた。
「ピクウィックさん、ご機嫌いかがです?」燭台を下におき、手をさしだして、父親のウィンクルは言った。「お元気でしょうな。お会いしてうれしいです。どうか、ピクウィックさん、お坐りください。この方は――」
「わたしの友人、ソーヤー氏です」ピクウィック氏は口をはさんだ、「あなたのご子息の友人です」
「おお」ボッブをそうとうきびしい目つきでながめて、父親のウィンクル氏は言った。「あなたも[#「あなたも」に傍点]お元気でしょうな?」
「しごく元気ですよ」ボッブ・ソーヤー氏は答えた。
「もうひとりのこの紳士は」ピクウィック氏は叫んだ、「わたしがご子息から預かってきました手紙をごらんになれば、おわかりのことですが、非常に近い親戚の方、いや、むしろあなたのご子息の特別な親友と申すべきでしょう。彼の名はアレンです」
「あの方が[#「あの方が」に傍点]ですって?」名刺でベン・アレン氏のほうをさして、ウィンクル氏はたずねたが、ベン・アレン氏は、背骨と上衣の襟しか見えない姿勢で、もうぐっすりと眠りこんでいた。
ピクウィック氏はその質問に答えて、ペンジャミン・アレン氏の名前とそのりっぱな特質を十分に述べ立てようとした矢先、元気者のボッブ・ソーヤー氏は、友人を起こし、その立場を理解させようとして、友人の腕の肉のついたところをギュッとひとつねりし、そのため、彼は悲鳴をあげてとびおきた。突然、彼は自分が見知らぬ人の前にいることに気づき、五分間も両手で愛想よくウィンクル氏の手と握手をし、彼と会ってとてもうれしいこと、散歩のあとでなにか食べたくはないか、それとも「夕食時まで」待ったほうがよいかと礼儀正しくたずねるといったことを、ほとんどわけのわからないとぎれとぎれの言葉で話しかけ、それがすむと、自分がどこにいるのかぜんぜんわからぬといったふうに、こわばった目つきをしてあたりをながめまわしていたが、彼はたしかにそんな状態にあったのだった。
こうしたことはすべては、ピクウィック氏をとまどわせるものだったが、このふたりの――異常なとまではゆかずとも――風変わりな態度に父親のウィンクル氏はそれとはっきりわかる驚きの情を示していたので、とくにそのとまどいはひどいものだった。事態をすぐに問題の点にもってゆくために、彼はポケットから手紙を引きだし、父親のウィンクル氏にそれをわたして、言った――
「この手紙は、ご子息からのものです。その内容から、彼の将来の幸福があなたのそれにたいする好意的で父親らしいご配慮にかかっていることは、おわかりでしょう。この手紙を冷静にお読みくださり、そうした問題が当然受けてもいい話し方と精神で、そのあとで、この問題をわたしと話し合っていただけるでしょうか? あなたのご決定がご子息にどんなに重要なものか、この問題に関して彼がどんなに心配しているかは、なんの予告もなしで、こんなおそい時刻にわたしがここにおたずねした事実でもおわかりになるでしょう。それに」彼のふたりの同伴者をチラリとながめて、ピクウィック氏は言いそえた、「それに、こんなに好ましくない状態のもとで参ったことでも……」
こう前おきして、ピクウィック氏は四枚の上質な、つやのある紙にびっしりと書きこまれた悔い改めの手紙をびっくりしている父親のウィンクル氏の手にわたした。それから、ふたたび椅子に腰をおろし、心配そうではあるが、言い訳や申し開きをすべきことはなにもしていないといった気持ちの紳士のもつ率直な顔をして、相手のようす・態度をジッと見守っていた。
老人の波止場管理人は手紙をひっくりかえし、正面、裏、側面をながめ、印章(手紙につけた封ろうの上におすもの)の上に浮かび出ている太った小さな少年の像を顕微鏡で見るように細かにしらべ、ピクウィック氏の顔に目をあげ、それから、背のない高い椅子に坐り、ランプをそばに引きよせて、封ろうを破り、手紙を開き、それを灯りにかざして、読みだそうとした。
ちょうどこのとき、その機知が数分間眠っていたボッブ・ソーヤー氏は膝に手をあてがい、道化役として、故グリマルディ氏(一七七九―一八三七、イギリスの道化役の名人)の肖像そっくりのしかめっ面をした。たまたまそのとき、父親のウィンクル氏は、ボッブ・ソーヤー氏が考えていたように一生けんめい手紙は読んでおらず、手紙の上越しにほかならぬボッブ・ソーヤー氏をながめていて、当然のことながら、前記の顔つきが自分をあざけり笑ってつくりだされたものと考えて、じつにきびしい表情でボッブをジッとにらみつけたので、故グリマルディ氏の表情はだんだんと融け去り、謙虚と狼狽のとてもみごとな顔に変わっていった。
「あんたはなにか話したのですかね?」おそろしい沈黙のあとで、父親のウィンクル氏は言った。
「いいえ」頬をひどく赤くしている以外には、道化の表情のなごりを少しもとどめずに、ボッブは答えた。
「まちがいなく、そうなんですかね?」父親のウィンクル氏はたずねた。
「おお、そうですよ、たしかに」ボッブは答えた。
「なんか話をしたように思いましたがね」腹立たしそうに力をこめて、老紳士は答えた。「たぶん、あんたはわしを見て[#「見て」に傍点]いたんですね?」
「おお、いいえ、とんでもない!」とても慇懃に、ボッブは答えた。
「それを聞いて、とてもうれしいですよ」父親のウィンクル氏は言った。じつに堂々とした態度でおそれ入っているボッブに怒った顔を向けてから、老紳士はふたたび手紙を灯りのところにもってゆき、今度は真剣にそれを読みはじめた。
彼が一ページ目の下から二ページ目の上に、二ページ目の下から三ページ目の上に、三ぺージ目の下から四ページ目の上に目をうつしていったとき、ピクウィック氏は彼をジッと見つめていたが、ピクウィック氏が最初の数行のうちに書かれてあるものと知っていた彼の息子の結婚を伝えた言葉にたいする父親ウィンクル氏の気持ちを読みとる鍵は、その顔にはぜんぜんあらわれて来なかった。
彼は手紙を最後の言葉まで読み、商売人のもつ用心深さと正確さでそれをふたたびたたみ、ピクウィック氏が激しい感情の表示があらわれるものと予期していたちょうどそのときに、ペンをインクつぼにつけ、じつにありきたりの事務所の話でもしているような冷静な態度で言った――
「ナサニエルの宛名はどこでしょうか、ピクウィックさん?」
「いまは『ジョージと禿鷹旅館』です」ピクウィック氏は答えた。
「『ジョージと禿鷹旅館』。それはどこにあります?」
「ロムバード通りのジョージ・ヤードです」
「シティのですか?」
「そうです」
老紳士は手紙の裏にきちんとその宛名を書きこみ、それからそれを机にしまい、それに鍵をかけ、腰かけから立ちあがり、鍵のたばをポケットに入れて、言った――
「もうこれ以上、なにもほかに用はないと思いますがね、ピクウィックさん?」
「なにもほかに用はないのですって!」腹立たしい驚きにつつまれて、やさしい心のピクウィック氏は言った。「なにもほかに用はないのですって! われわれの若い友人の生涯でのこの大事件について、なにかおっしゃる意見がないのですか? あなたの愛情と保護の手がつづくと、わたしをとおして、彼に伝えることもしないのですか? 彼と、なぐさめと支持を彼に期待している心配につつまれたあの娘に元気をつけ、支えとなるなにか言うべき言葉はないのですか?」
「わたしは考えてみるつもりです」老紳士は答えた。「さし当たってなにも言うことはありません。わたしは商売人なんですよ、ピクウィックさん。どんなことでも、急いで言質を与えるようなことは、絶対にしません。見たところ、このことは、どうもわたしの気に入らんのです。千ポンドといっても、大金ではありませんからな、ピクウィックさん」
「まったく、そのとおりですよ」なんの苦もなく自分の千ポンドを使ってしまったことがわかる程度に頭がはっきりとしていたベン・アレン氏は口をはさんだ、「あなたは物わかりのいい人ですな。ボッブ、あの人はとてもよく物を知ってる人だよ」
「その程度まであなたに[#「あなたに」に傍点]お認めいただいて、恐縮ですな」さとり顔をして頭をふっているベン・アレン氏をいかにも軽蔑したふうにながめて、父親のウィンクル氏は言った。「世の中に出たとき、だれにでもだまされる学校出の弱虫にならぬようにと、多少は人間と世の中を見させるために(それを息子はあなたのご保護のもとでおこなったわけですが)、一年か二年ブラブラしている許可を彼に与えたとき、わたしは、こんな約束は絶対にしなかったのです。彼はそのことをよく知っています。だから、このためにわたしが援助の手を引っこめても、驚くことはないわけです。彼にはわたしから便りをしますよ、ピクウィックさん。お寝みなさい。マーガレット、ドアを開けておくれ」
このあいだ中、ボッブ・ソーヤー氏はそっと肘でベン・アレン氏をつつき、なにかまともなことを言えとうながしていた。そこでベンは、なんの前おきもなく、いきなり、簡単だが激しい雄弁をふるうことになった。
「ウィンクルさん」とてもぼんやりとしたものうげなふたつの目で老紳士をにらみつけ、右腕を激しく上下にふって、ベン・アレン氏は言った、「あなたは――あなたは自分を恥ずかしく思うべきですぞ」
「ご婦人の兄上として、もちろん、あなたはこの問題のりっぱな判定者ですな」父親のウィンクル氏はやりかえした。「さあ、もうこれで十分。ピクウィックさん、もうなにもおっしゃらないでください。みなさん、お寝みなさい!」
こう言って、老紳士は燭台をとりあげ、部屋のドアを開けて、慇懃な身ぶりで廊下のほうを示した。
「後悔しますぞ」怒りを抑えるために歯をしっかりと食いしばって、ピクウィック氏は言った。この結果が彼の若い友人にどんな重大な結果をおよぼすかを、彼は十分に感じとっていたからである。
「いまのところ、わたしはちがった考えをもっていましてね」冷静に父親のウィンクル氏は答えた。「もう一度、みなさん、お寝みなさい」
ピクウィック氏は、腹立たしげな大股で、街路に出てゆき、ボッブ・ソーヤー氏は、老紳士の断固たる態度にすっかり圧倒されて、そのあとにつづいた。その直後、ベン・アレン氏の帽子が入口の階段に転がり落ち、ベン・アレン氏の体がそれにつづいた。三人ともだまったまま、夜食もとらずに寝につき、ピクウィック氏は、眠りこむ直前に、父親のウィンクル氏がこんな商売人と知っていたら、こんな用件で彼のところには絶対に来なかったろう、と考えていた。
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第五十一章
[#3字下げ]ピクウィック氏はむかしの知人に奇遇、この幸運な事情により、権力あり威力のあるふたりの公人に関するじつにおもしろい話が読者に伝えられる
八時にピクウィック氏の視野に開けてきた朝は、彼の気分をひきたて、彼が代理としてやってきた任務の思いがけぬ結果がひきおこした、がっくりした気持ちを軽くするものではなかった。空は暗くて陰気、空気は湿ってうすら寒く、街路はぬれてツルツルすべっていた。煙は、まるで立ちのぼる勇気を失ってしまったように、煙突の上部の通風管の上にぐずぐずとたれさがり、雨は、まるでどしゃぶりになる元気がないように、ゆっくりジトジトと降りつづけていた。うまやのある内庭にいた闘鶏は、いつもの活気のあるふうをすっかり失って、隅に片足で陰気に立っていた。付属建物のせまい屋根の下で頭をさげてふさぎこんでいたろば[#「ろば」に傍点]は、その考えこんでいるみじめな顔つきから、自殺を考えているようだった。街路では傘が目にはいるただひとつのもの、パテン(泥道などを歩くときに靴につけて使うはきもの。ふつうは木靴の下にごとくのような輪のある金具をつけたもの)のカチカチという音と雨の滴のピシャピシャという音だけが耳にはいった。
朝食は、話でさまたげられることがほとんどなく、ボッブ・ソーヤー氏さえ、天候と前の日の興奮の影響を受けていた。彼自身の表現豊かな言葉で言えば、彼は完全に「のされて」いた。ベン・アレン氏も、ピクウィック氏も同様だった。
雨がなかなかあがりそうもなかったので、ロンドンからの前日の夕刊が、極端な所在なさの場合にだけ理解できるひたむきな熱心さで、何回となく読みかえされた。じゅうたんのありとあらゆる箇所は、同じような熱心さで、踏みつけられ、窓からは何回となく外がのぞかれ、外をみる任務が窓にあるのかと思われるほどだった。あらゆる種類の話題が出され、失敗に終わった。とうとう昼になったとき、ほかにどうという気晴らしもなかったので、ピクウィック氏は鐘を強く鳴らし、馬車の用意を命じた。
道はぬかるみ、ジトジト雨は前より強く降り、泥と湿気が馬車の開いた窓にひどくはねかえり、その不快さは、中のふたりにとっても、外のふたりとほとんど同じではあったものの、この動きと立って活動しているという感じには、つまらぬ街路に滴になって落ちているつまらぬ雨をながめながら、つまらぬ部屋に閉じこめられているより何倍かまさるあるものがあって、出発のとき一同は声をそろえて、この変化はじつにありがたいこと、どうして、こんなにぐずぐずしていて、こうしなかったのだろう、といぶかしがったほどだった。
コヴェントリーで馬をかえるためにとまったとき、馬から立ちのぼる湯気はまるで雲のよう、そのために馬丁の姿は見えず、それにもかかわらず、彼の声は霧の中から聞こえてきて、御者の帽子をとってやったことで、つぎの賞金授与のときには、人道協会から最初の金メダルをもらわにゃならんぞ、と言っていた。帽子のへりからとっとと水が流れ、自分が落ち着き払ってあいつ(御者)の頭からさっと帽子をはずしてやり、アップアップしているあの男の顔をわらのたばでぬぐってやらなかったら、やつはきっと溺死してしまったろう、と目に見えぬ馬丁は叫んでいた。
「こいつはおもしろいな」たったいま飲んだブランデーの味を消すまいと、上衣の襟をあげ、ショールを口に当てて、ボッブ・ソーヤーは言った。
「とてもね」落ち着き払って、サムは答えた。
「きみは気にならんらしいね」ボッブは言った。
「いやあ、気にしてもどうなるもんでもなさそうですからね」サムは答えた。
「とにかく、そう言われたら文句なしだね」ボッブは言った。
「そうですよ」ウェラー氏は答えた。「どんなことがあろうと、それでいいんですよ。若い貴族の母親の叔父さんの奥さんのおじいさんがかつて携帯用のほくち箱で王さまのパイプに火をつけてあげたために、年金受領者の表の中に入れられたとき、その若い貴族の人が愛想よく言ったようにね」
「そいつはまんざらでもない考えだね」そうだといったふうにボッブ・ソーヤー氏は言った。
「その後、のこりの生涯中、四季払い日にはいつも、この若い貴族の人が言ってたことなんですよ」ウェラー氏は答えた。
「呼ばれたことがありますかね」ちょっとしてから、御者にチラリと目をやり、神秘的なひそひそ声に声を落として、サムはたずねた、「お医者さんの徒弟をしてたころ、御者に往診するように、呼ばれたことがありますかね?」
「呼ばれたことはないようだね」ボッブ・ソーヤー氏は答えた。
「あんたがスーッと歩いてた[#「歩いてた」に傍点](これは亡霊について使う言葉ですがね)病院では、御者の姿を見かけたことは一度もないでしょうね?」サムはたずねた。
「ないね」ボッブ・ソーヤー氏は答えた。「見たことはないと思うな」
「御者の墓のある教会の墓地は知らず、死んだ御者の姿も見たことはないでしょうね?」教義問答をさらに進めて、サムはたずねた。
「ないね」ボッブは答えた、「一度もないね」
「ないでしょう!」得意満面でサムは応じた。「これからも、絶対に見られませんよ。だれも絶対に見ないものが、もうひとつあるんです。そいつは死んだろば[#「ろば」に傍点]ですよ。死んだろば[#「ろば」に傍点]は、だれも見たことがなくてね。その例外は、山羊を飼ってた若い女を知ってた黒い絹のズボンをはいた男だけなんです。でも、そいつはフランスのろば[#「ろば」に傍点]でね、まともな種のものじゃなかったかもしれませんよ」
「うん、それが御者とどんな関係があるんだい?」ボッブ・ソーヤー氏はたずねた。
「こうなんです」サムは答えた。「一部のとても考えのある人が言ってるように、御者とろば[#「ろば」に傍点]とは、両方とも、不死のものだなんとまでは言いませんよ。わたしの言うのは、こうなんです。自分の体がこわばり、仕事がもうできなくなったと感ずると、彼らはいっしょに出ていっちまうんです、いつものとおり、御者ひとりにろば[#「ろば」に傍点]二頭といった具合いにね。彼らがどうなるのか、だれにもわかってません。でも、どこかほかの世界に遊びにいくのかもしれませんね。だって、ろば[#「ろば」に傍点]なり、御者なりが、この世で遊んでるのを見た人はないんですからね」
この学識あり、注目すべき理論をながながと述べ立て、その理論の証拠にと、多くの奇妙な統計的、その他の事実を引用して、サム・ウェラーはダンチャーチに着くまでの退屈な時をまぎらわせ、そこで体の乾いた御者と新しい馬が交替し、つぎの宿場はダヴェントリー、そのつぎの宿場はトウスターとなり、それぞれの旅程の最後には、そのはじめのときより、雨の勢いはもっと強くなっていた。
「ねえ」トウスターの『サラセン人の頭旅館』の戸口の前に馬車がとまったとき、馬車の窓から中をのぞきこんで、ボッブ・ソーヤー氏は抗議をした、「これじゃだめですよ」
「いや、これは!」うたた寝からハッと目をさまして、ピクウィック氏は言った、「ぬれたんじゃないのかね?」
「おお、ぬれたんじゃないのかですって?」ボッブはやりかえした。「ええ、ぬれましたよ、ちょっとばかしね。たぶん、気持ちがわるいほど|湿《しつ》けてるでしょうよ」
雨がボッブの首、肘、カフス、スカート、膝に流れていたので、彼はたしかに湿けて見えた。彼の服ぜんたいは水で輝き、防水布の服のようだった。
「ぼくはそうとうぬれてますよ」ボッブは体をひとふりし、たったいま水から出たばかりのニューファウンドランド犬(従順で利口、泳ぎのうまい黒毛の深い大きなスパニエル種の犬)のように、水をあたりにまき散らした。
「今晩旅をつづけるのは完全に不可能のようですね」ベンが口をはさんだ。
「もちろんですよ」この会議の助けにと口を出して、サム・ウェラーは言った。「それをしてくれとたのむのは、馬にもむごい仕打ちです。ここには寝台がありますよ」主人に語りかけて、サムは言った、「すべては清潔で快適。とてもおいしいささやかな夕食も、三十分すればできますよ――鶏が二羽、子牛の薄い切り身、いんげん豆、果物入りパイ、それに小ぎれいな料理もね。もしおすすめできるものなら、ここでお泊まりになったほうがいいですよ。医者が言ったとおり、忠告は受けるべきです」
『サラセン人の頭旅館』の主人がこのとき都合よく姿をあらわし、この旅館の設備についてウェラー氏の言葉を裏書きし、この宿に泊まらせようとして、道路の状況に関するさまざまなおそろしい推測、つぎの宿場で新しい馬を得る困難、夜中雨が降りつづけるのは絶対まちがいのないこと、翌朝はきっと晴れあがること、その他宿屋の主人にはつきもののほかの客引きの言葉を述べ立てた。
「そう」ピクウィック氏は言った。「だが、わしはなんか輸送手段で手紙をロンドンに出し、朝早くそれが配達されるようにしなければいけないのだ。それがだめなら、どんな危険をおかしてもゆかなければならないよ」
宿屋の主人はうれしそうにニッコリとした。それはいともたやすいこと、褐色の包装紙に手紙をつつみ、バーミンガムから出る郵便馬車か夜の便の駅伝馬車で、それを送ればよい、できるだけ早く配達されるのをとくに望むのだったら、包みの外に「即時配達」と書けば、そのとおりになるだろう、さもなければ、「速達のためにそれをもってゆく者に半クラウン余計に払ってくれ」と書けばいい、そのほうがなお確実だろう、と述べた。
「よーし」ピクウィック氏は言った、「では、ここに泊まることにしよう」
「ジョン、太陽の間に灯りをもっていけ。炉をたのむよ。お客さまはぬれておいでなんだ!」宿屋の主人は叫んだ。「こちらへ、どうぞ。郵便配達人のことは、どうかご心配なく。鐘を鳴らしてくだされば、すぐその男をそちらにさし向けます。さあ、ジョン、ろうそくをたのむ」
ろうそくはもって来られ、炉の火はかき立てられ、新しい薪が投げこまれた。十分たつと給仕がテーブルかけを敷いて食事の用意をととのえ、カーテンは引かれ、火は明るく燃えあがり、万事が(これはすべてのまともなイギリスの旅館でそうなのだが)まるで、何日間も客が来るのを待ち、受け入れ準備がととのっていたような感じになった。
ピクウィック氏はわきテーブルに向かって坐り、急いでウィンクル氏に手紙を書き、ひどい天候のために引きとめられてはいるが、翌日にはまちがいなくロンドンにゆくと知らせ、そのときまで今度のことの話は引きのばしてしまった。この手紙は急いでつつみこまれ、サミュエル・ウェラー氏によって酒場にもってゆかれた。
サムはこの手紙を宿屋のおかみに預け、台所の火で身を乾かしてから、主人の靴をぬがせようと部屋にもどりかけていたとき、なに気なく半分開いたドア越しに目をやり、前のテーブルに大きな新聞のたばを積み重ね、そのひとつの社説を読みふけっている紳士を見て、ハッと足をとめた。この紳士は、終始冷笑を浮かべ、それが鼻と顔一面を引きゆがめ、高慢な軽蔑の堂々たる表情にそれを変えていた。
「いやあ!」サムは言った、「あの頭と顔は知ってるもんだぞ。眼鏡もへりのひろいシルクハットもな! イータンスウィルにまちがいなしだ」
その紳士の注意をひこうとして、サムはすぐに苦しそうに咳をしはじめ、この紳士はその物音にギクリとして、頭と眼鏡をあげ、イータンスウィル・ギャゼットのポット氏の深遠な、思慮ある顔をあらわした。
「失礼ですが」お辞儀をして前に出てゆきながら、サムは言った、「ポットさん、わたしの主人もここにいますよ」
「しっ、しっ!」サムを部屋に引き入れ、ドアを閉め、神秘的な恐怖と心配の表情を浮かべながら、ポットは叫んだ。
「どうしたんです?」ぼんやりとあたりを見まわして、サムはたずねた。
「わたしの名はささやいてもいかんよ」ポットは答えた。「ここの連中はバフ派なんだ。もし興奮しやすい怒りっぽい人たちがここにいる自分のことを知ったら、この身はこなごなに引きさかれてしまうだろうからね」
「まさか! そんなことになりますかね?」サムはたずねた。
「わたしは彼らの燃え立つ怒りの犠牲になるだろう」ポットは答えた。「さて、きみ、きみのご主人はどうだね?」
「ふたりの友人といっしょに、ロンドンにゆく途中でここにお泊まりですよ」サムは答えた。
「ウィンクル君はそのひとりかね?」ちょっと眉をよせて、ポットはたずねた。
「いいえ。ウィンクルさんはいま家においでです」サムは答えた。「結婚なさいましてね」
「結婚したって!」すごい激しさで、ポットは叫んだ。彼は言葉を切り、暗い微笑を浮かべ、低い、復讐的な調子でつけ加えた、「ざまあみろ、いい気味だ!」
倒れた敵にたいして、おそろしい悪意をこうして激発させ、こうして冷酷に勝ちどきをあげてから、ピクウィック氏の友人たちがブルー派かどうかを、ポット氏はたずねた。このことについてはポット自身と同じくらい明るいサムから、そうだというじつに満足すべき答えを得て、彼は、サムといっしょにピクウィック氏の部屋にゆくのを承知し、そこでは心こもる歓迎が彼を待っていた。ともに食事する協定がすぐに結ばれ、批准された。
「イータンスウィルでは事情はどうです?」ポットが炉のそばに座をとり、全員がぬれた靴をぬぎ、乾いたスリッパをはいたとき、ピクウィック氏はたずねた。「インディペンデントはまだ健在ですか?」
「インディペンデントは」ポットは答えた、「みじめな、ぐずぐずした存在をまだつづけてますよ。そのあわれな、屈辱的な存在を認めているわずかな人たちにさえ忌み嫌われ、軽蔑され、それがおびただしくまき散らしているその汚物で息がつまり、それ自身のドロドロした発散物でつんぼとめくらになり、それは、いかさまの泥の下にどんどん沈もうとしてます。その泥は、低級で下劣な階級相手にそれにしっかりとした立場を与えているかに見えながらも、その低劣な頭の上にうずたかく積み重なり、それを永遠にグングンと呑みこもうとしてますよ」
この宣言を激しい語調で発表して(これはその前の週の彼の社説の一部だったのだが)、この編集者は話をとめて息をつき、堂々とした態度でボッブ・ソーヤー氏をながめた。
「あなたはお若いですな」ポットは言った。
ボッブ・ソーヤー氏はうなずいた。
「あなたもそうですな」ベン・アレン氏に話しかけて、ポットは言った。
ベンはこのおだやかな弾劾を認めた。
「そして、おふたりとも、ブルー派の原則を深く吹きこまれているわけですな? その原則を、わたしの命のつづくかぎり、支持することを、わたしはイギリスの国民に公約しているのですがね」ポットはたずねた。
「いやあ、そのことはよく知りませんがね」ボッブ・ソーヤー氏は答えた。「ぼくは――」
「バフ派ではありませんな、ピクウィックさん?」椅子をうしろに引いて、ポットは口をつっこんだ、「あなたのご友人は、バフ派ではないんでしょうな?」
「いや、いや」ボッブは答えた、「ぼくは、いまのところ、格子縞でしてね、いろんな色で組み立てられているんです」(バフには淡黄色、鈍黄色の意がある)
「決断にまよう」厳粛にポットは言った、「決断にまようというやつですな。イータンスウィル・ギャゼットにあらわれた八綱領をお目にかけたいもんですな。あなたは、間もなく、しっかりとした堅いブルー派の土台の上に自分の意見を打ち立てるだろうと言ってもいいと思いますな」
「その終わりまで読むずっと前に、ぼくはきっと|陰鬱《ブルー》になることでしょうよ」ボッブは答えた。
ポット氏はうんくさげに、数秒間、ボッブ・ソーヤー氏をながめ、ピクウィック氏のほうにふり向いて、言った――
「過去三か月間イータンスウィル・ギャゼットにときおりあらわれていた文学論文はお読みですな? これはじつにひろい――普遍的なとも言っていい――注意と驚嘆をひきおこしていたものです」
「いやあ」この質問でちょっと狼狽して、ピクウィック氏は言った、「事実は、ほかの面のことでとてもいそがしく、まったく、それをよく読むことができなかったのです」
「読まなければいけませんな」きびしい顔つきになって、ポットは言った。
「読みますよ」ピクウィック氏は答えた。
「それは中国の形而上学に関する著作にたいする委曲をつくした批評という形であらわれたもんです」
「おお」ピクウィック氏は言った、「あなたが書かれたものでしょうな?」
「わたしのとこの批評家が書いたもんです」威厳をこめて、ポットは答えた。
「深遠な題目ですな」ピクウィック氏は言った。
「とてもね」ひどく賢人ぶった態度で、ポットは答えた。「専門用語とはいえ、なかなか意味深な言葉を使って言えば、彼はそのために一夜漬けの猛勉強[#「一夜漬けの猛勉強」に傍点]をしたんです。わたしの要望で、その問題のために、大英百科辞典を彼は読みあさりましてね」
「いやあ!」ピクウィック氏は言った。「中国の形而上学についての知識が、あの百科辞典にあるとは思ってもいませんでしたね」
「彼は読んだんですよ」手をピクウィック氏の膝に乗せ、知的優越性を示す微笑を浮かべて、あたりを見まわしながら、ポットは答えた。「彼はMのとこで|形而上学《メタフイジツクス》を、Cのとこで|中国《チヤイナ》をそれぞれ読み、それを結びつけたんです!」
ポット氏の顔は、問題の学識の発露で示された力と研究の深さを思い起こして、さらに威厳を加え、そのため、数分してようやく、ピクウィック氏はこの話をつづける勇気が出てきたほどだった。とうとう、この編集者の顔つきがだんだんとゆるんで、いつもの道徳的優越を示す表情にもどったとき、彼は思いきって話をつづけ、こうたずねた――
「あなたがどんな目的でこんな遠くまで来られたのかを、おたずねしてもいいでしょうかね?」
「すべてのわたしの巨人的努力にあってわたしをつき動かし活気づけてるあの目的ですよ」落ち着き払った微笑を浮かべて、ポットは答えた。「祖国の幸福ということです」
「なにか公共の任務とは思っていたんですがね」ピクウィック氏は言った。
「ええ」ポットはつづけた。「そうなんです」ここで、体をピクウィック氏のほうにかがませて、太いうつろな声で彼はささやいた、「バフ派の舞踏会が、明日の晩、バーミンガムでおこなわれるんです」
「いや、驚いたこと!」ピクウィック氏は叫んだ。
「そうなんです、それに夜食会がね」ポットは言いそえた。
「まさか!」ピクウィック氏は叫んだ。
ポットはものものしくうなずいた。
さて、こう知らされてピクウィック氏はびっくりしたふりをしてはいたものの、地方政治のことはなにも知らず、その暴露が語っているおそろしい陰謀の重要性を正しくつかむことはできないでいた。これを察して、ポット氏は最新版のイータンスウィル・ギャゼットを引っばりだし、それを示して、つぎの文を読みあげた――
[#3字下げ]人目忍んでおこなわれるバフ派の会合
[#ここから1字下げ]
われわれのすぐれた、優秀なる代表者のスラムキー氏、現在の気高い、高貴な地位を得るずっと前に、いつの日か、いまの彼のように、祖国のもっとも輝かしい名誉、もっとも誇らしい自慢の種、祖国の勇敢な防衛者と清廉な誇りとなることを予言していたかのスラムキーの美しい名をけがそうとするむだな絶望的な試みで、ある爬虫類的人物は、最近、その黒い毒をダラダラと流しだした。その爬虫類的人物は、とびきり上等の浮き彫りをほどこしためっきの石炭入れをだしに使って、浮かれさわいでいる。この石炭入れは、狂喜する選挙民によって、かの輝かしい人に献げられたもの、この購入にたいして、スラムキー氏自身が、彼の使用人|頭《がしら》の親友を通じて、寄付金全額の四分の三以上を寄贈したものと、この名もなき卑劣漢はほのめかしている。いや、もしこれが事実であったとしても、スラムキー氏が、それが可能とすれば、以前にもまさる人をひきつける輝く光につつまれてあらわれるだけということを、このはいまわる虫けらはさとらないのだろうか? 選挙民団体の希望を現実しようとする人をひきつけ、心を打つこのねがいは、豚以上には醜悪でない、言葉をかえれば、爬虫類的人物その人ほど下劣ではない市民諸君の心と魂にとって、彼を永久的に親愛なる人物にすることを、彼の愚鈍をもってしても、さとらないのだろうか? だが、人目を忍ぶバフ派のひどい策略ときたら! 彼らの術策は、こうしたものばかりではない。大反逆罪のうわさがひろまっている。その暴露をせずにはいられなくなったので、思いきってそれを述べ、身を国家とその警察の保護にゆだねることにしよう――バフ派の舞踏会の開催準備がいまこの瞬間にひそかに進行中であることを、思いきって述べることにしよう。それは、バフ派の人々のまさにど真ん中、さるバフ派の町でおこなわれるものであり、それはバフ派の司会者によって進行され、極端なバフ派の国会議員四名が出席し、そこへの入場券は、バフ派の発行によるものなのだ! われわれは「そこに乗りこんでゆく」ことを宣言する。悪魔的な敵はひるむだろうか? 無能な悪意で、彼は身もだえするがいい。
[#ここで字下げ終わり]
「さあ」すっかりつかれきって新聞をたたみながら、ポットは言った、「これが実状というもんですよ!」
ちょうどそのとき、宿屋の主人と給仕が夕食をもって部屋にはいりかけ、ポット氏は手を唇に当て、彼の生命はピクウィック氏の手中にあり、その秘密保持にかかっていることを知らせた。イータンスウィル・ギャゼットからの引用文を読み、それにつづく議論の最中に失礼にも眠りこんでしまっていたボッブ・ソーヤー氏とベンジャミン・アレン氏は、彼らの耳に「夕食」という魔力ある言葉がささやかれただけで目をパッとさまし、食欲をふるい立たせ、元気に、給仕ひとりにかしずかれて、夕食をはじめた。
夕食とそれにつづく座談中に、ポット氏は、話題をおとして、しばらくのあいだ家庭の話にうつり、イータンスウィルの空気が彼の夫人に合わず、損なわれた健康と元気をとりもどすために、彼女はいろいろな海水浴場に旅行している、とピクウィック氏に伝えた。これは、ポット夫人が彼女のくりかえして言っていた離婚の脅迫にもとづいて行動を起こし、彼女の兄の中尉によって交渉され、ポット氏によって締結されたとりきめによって、イータンスウィル・ギャゼットの編集と販売によって年々得る収入と利益を半分わけてもらって、忠実な護衛者といっしょに夫人が永続的に身を引いてしまった事実を遠まわしに言ったものだった。
偉大なるポット氏がこうしたことやほかのことを論じ立て、ときおり、彼自身の沈思黙考の作品からのさまざまな引用で話に活気をそえていたとき、荷物をわたすために宿屋の前にとまっていたくだりの駅伝馬車の窓から、きびしい顔をした見知らぬ男が、旅をここで一時中止し、一夜泊まろうとしたら、必要な寝具類はあるかどうか、を大声をあげてたずねていた。
「もちろん、ございますとも」宿屋の主人は答えた。
「大丈夫かね、えっ?」見知らぬ男はたずねたが、彼は、外見・態度とも、いつも猜疑心の深い男のようだった。
「もちろん、大丈夫です」宿屋の主人は答えた。
「よし」見知らぬ男は言った。「御者、わしはここでおりるぞ。車掌、わしのじゅうたんの旅行カバンをたのむぞ」
そうとうぶっきらぼうにほかの乗客にお寝みの挨拶を言って、見知らぬ男は車をおりた。彼は背がちょっと低い男で、とてもかたい黒い髪の毛はやまあらし[#「やまあらし」に傍点]ふう、さもなければ、靴ずみの刷毛ふうに刈られ、それが頭一面にかたく、まっすぐに突っ立っていた。彼の顔つきは堂々としたもので威圧的、態度は高飛車、目は鋭く落ち着かず、彼の物腰すべては、自信満々で、他のすべての人より自分が計り知れぬほど卓越しているのを意識していることを物語っていた。
この紳士は愛国的なポット氏にもともとは割り当てられていた部屋に案内されたが、給仕がろうそくに火をつけるやいなや、彼は帽子をグッと深くかぶりこみ、新聞を引っぱりだし、一時間前にポット氏の堂々とした顔にあらわれ、給仕をふるえあがらせたのとまったく同じ怒った軽蔑の表情で、その新聞を読みはじめた、とこのふしぎな偶然の一致で口がきけぬほどびっくりしながら、給仕は話していた。給仕はまた、ポット氏の軽蔑がイータンスウィル・インディペンデントと銘を打った新聞でひきおこされたのにたいして、今度の紳士のふるえあがるようにおそろしい軽蔑は、イータンスウィル・ギャゼットと題した新聞によってひきおこされた、と語っていた。
「主人を呼べ」見知らぬ男は言った。
「はい」給仕は答えた。
主人が呼ばれ、やってきた。
「きみが主人かね?」紳士はたずねた。
「そうでございます」主人は答えた。
「わしを知ってるかね?」紳士はたずねた。
「残念ながら」主人は答えた。
「わしの名はスラークだ」紳士は言った。
主人はちょっと頭をかしげた。
「スラークだよ」傲慢な態度で紳士はくりかえした。「さて、わかったかね、きみ?」
主人は頭をかき、天井をあおぎ、見知らぬ男をながめて、弱々しく微笑した。
「わかったかね、おい?」腹立たしげに見知らぬ男はたずねた。
主人は勇気をふるいおこし、とうとう答えた、「はあ、存じあげません[#「ません」に傍点]」
「いや、驚いたことだ!」にぎりしめた拳でテーブルをたたいて、見知らぬ男は言った。「そして、これが人気というものなのだ!」
主人はドアのほうに一歩か二歩さがり、見知らぬ男は、彼をにらみつけて、話をつづけた。
「これが」見知らぬ男は言った、「これが大衆のために何年間も骨を折り、研究をしたことにたいする感謝というものなんだ。わしはぬれ、つかれて車をおりたが、その保護者をむかえるため、情熱的な群集がおしよせてくることもない。教会の鐘は沈黙を守っている。その名前さえ、彼らの無神経な胸にはなんの感情も呼びおこさない。それは」あちらこちらと歩きまわりながら、興奮したスラーク氏は言った、「人のペンのインクを凍らせ、永遠にその主義主張を放棄させるほどのものだ」
「水割りのブランデーとおっしゃったのでしょか?」思いきって主人はたずねた。
「ラム酒だ」すごい権幕で主人のほうにふり向いて、スラーク氏は言った。「どこかに火はあるかね?」
「すぐおつけいたします」主人は言った。
「というのは、寝るときまで熱くはならんということさ」スラーク氏は口をはさんだ、「台所にだれかいるかね?」
だれもいない、美しい火が燃えている、みんな出てゆき、家の戸は夜中閉ざされている、がその返事だった。
「台所の火のそばで」スラーク氏は言った、「水割りラム酒を飲むことにしよう」そこで、彼は帽子と新聞をとりあげ、主人のあとについて、粛々ともったいぶって、そのささやかな部屋にはいってゆき、炉辺のなが椅子に身を投げ、もとの軽蔑の表情にかえり、威厳ある沈黙につつまれて、新聞を読み、酒を飲みはじめた。
さて、ある不和をひきおこす悪魔がちょうどそのとき『サラセン人の頭旅館』の上をとび、ただのつまらぬ好奇心で目を下に投げ、スラーク氏が台所の炉のところに気持ちよく坐り、ポット氏がぶどう酒で多少いい気分になってべつの部屋にいるのをたまたま見かけ、意地のわるい悪魔は、ポットの部屋に目にもとまらぬ速さでとびおり、ボッブ・ソーヤー氏の頭の中にすぐはいりこんでいって、彼(悪魔)自身の兇悪な目的のために、ソーヤー氏につぎのようなことを言わせた――
「やあ、火が消えてしまったぞ。雨のあとでひどく寒いな、どうです?」
「まったくね」体をふるわせて、ピクウィック氏は答えた。
「台所の炉のそばで葉巻きを一服するのも、まんざらではありませんね、どうです?」まだ前記の悪魔につき動かされているボッブ・ソーヤー氏は言った。
「とくに快適とわたし[#「わたし」に傍点]は思いますな」ピクウィック氏は答えた。「ポットさん、あなたのご意見はいかがです?」
ポット氏はすぐに賛成し、四人の旅人は、それぞれ手に自分のコップをもって、道案内として行列の先頭にサム・ウェラーを立てて、すぐに台所におもむいた。
見知らぬ男はまだ新聞を読んでいて、目をあげてギクリとした。ポット氏もギクリとした。
「どうしたんです?」ピクウィック氏はささやいた。
「あの爬虫類のやつ!」ポットは答えた。
「どんな爬虫類なんですかね?」すごく大きくなったあぶら[#「あぶら」に傍点]虫か、水腫症にかかった蜘蛛を踏んでは大変とあたりを見まわしながら、ピクウィック氏はたずねた。
「あの爬虫類なんですよ」ピクウィック氏の腕をとらえ、見知らぬ男をさして、ポット氏はささやいた。「あの爬虫類のスラーク、インディペンデントのね!」
「引きあげたほうが、たぶん、いいでしょう」ピクウィック氏はささやいた。
「絶対に」二重の意味の|一杯機嫌の元気《ボツト・ヴアリアント》で、ポット氏は答えた(ポット・ヴァリアントの酒びん(ポット)をポットの名前にかけたもの)、「絶対に引きさがったりはしませんぞ」こう言って、ポット氏は向かい合いのなが椅子に自分の陣地をとり、小さな新聞のたばからひとつを選びだし、敵に対抗してそれを読みはじめた。
ポット氏は、もちろん、インディペンデントを、スラーク氏は、もちろん、ギャゼットを読み、それぞれの紳士が、辛辣な笑いと皮肉な鼻あしらいで、相手の文章にたいする軽蔑を聞こえよがしに表示し、それからさらに進んで、「バカな」、「けちな」、「兇悪」、「いかさま」、「悪事」、「泥」、「よごれ」、「悪臭あるもの」、「どぶの水」、その他これと同類の批判的な言葉を、意見としてはっきりと口にすることになっていった。
ボッブ・ソーヤー氏とベン・アレン氏の両方とも、こうした敵意と憎悪の兆候を、あるよろこばしげな態度でながめ、それは、彼らがしきりにふかしていた葉巻きに大いに味をそえることになった。この兆候がおさまりかけた瞬間に、いたずら者のボッブ・ソーヤー氏は、じつに慇懃な態度でスラーク氏に話しかけて、こう言った――
「あなたの新聞が用ずみになりましたら、それを見せていただけないでしょうか?」
「このくだらんもの[#「もの」に傍点]を骨折ってお読みになっても、報いはなにもありませんよ」悪魔的渋面をポット氏に向けて、スラーク氏は答えた。
「これをあなたにすぐわたしてあげますよ」激怒で真っ青になって目をあげ、同じ原因で言葉をふるわせながら、ポット氏は言った。「はっ! はっ! こいつの[#「こいつの」に傍点]厚かましさで、きっとおもしろいこってしょうな」
この「もの」と「こいつ」にすごい力がこめられ、両編集者の顔は挑戦の気魄で輝きはじめた。
「このみじめな男の下劣さは、軽蔑的ないまわしいもの」ボッブ・ソーヤー氏に話しかけているふりをし、スラーク氏をにらみつけながら、ポット氏は言った。
ここでスラーク氏はとても陽気に笑い、新しい欄がうまく見られるようにと新聞をたたみなおして、あのバカはまったくおもしろい、と言った。
「こいつはなんという厚かましいまちがいをしでかすやつでしょう」ピンク色から真紅色に顔色を変えて、ポット氏は言った。
「この男のバカさ加減をあらわすなにか文を読んだことがおありですか?」スラーク氏はボッブ・ソーヤー氏にたずねた。
「いいや、一度も」ボッブは答えた。「それはとてもひどいものですか?」
「おお、ギョッとするくらい! ギョッとするくらい!」スラーク氏は答えた。
「まったく! 驚いたこと、これはひどすぎる!」まだ夢中で読んでいるふりをしながら、ちょうどこのとき、ポット氏は叫んだ。
「もし悪意、野卑、いかさま、偽誓、欺瞞、偽善的な言葉づかいにあふれたこの文章をちょっとむりして読んでみたら」新聞をボッブにわたしながら、スラーク氏は言った、「この文法のめちゃくちゃな、むだ口をたたく文体をあざけり笑って、たぶん、少しは報いられることでしょうよ」
「いま、きみが言ったことはなんだね?」目をあげ、激怒で全身をふるわせて、ポット氏はたずねた。
「それがきみにとってどうなんですかね?」スラーク氏は答えた。
「文法のめちゃくちゃな、むだ口をたたくと言うのかね?」ポット氏はたずねた。
「ええ、そうですとも」スラークは答えた。「もしお好みなら、鼻につく陰気なやつ[#「鼻につく陰気なやつ」に傍点]と言っても、結構ですな。はっ! はっ!」
このふざけまじりの嘲笑にポット氏は一語も答えず、もっていたインディペンデントをゆっくりとたたみ、注意深く平らにし、それを靴で踏みつぶし、堂々と威厳をつけてつばをはきかけ、それを火の中に放りこんだ。
「さあ」ストーブからはなれて、ポット氏は言った、わたしが祖国の法律で抑えられているのはあの男に幸いなこと、もしそうでなかったら、あの新聞を生み出した毒蛇をどうあつかうかは、いまごらんになったとおりですぞ」
「そうしたらいいじゃないか!」パッと立ちあがって、スラーク氏は叫んだ。「そうした場合に、法律に訴えたりはするもんか。さあ、そうしたらいいじゃないか、きみ!」
「ヒヤ! ヒヤ!」ボッブ・ソーヤー氏は言った。
「まったく公正なことだな」ベン・アレン氏は言った。
「そうしたらいいじゃないか、きみ!」大声で、スラーク氏はくりかえした。
ポット氏は軽蔑の視線を投げたが、それは錨をもしぼますほどのものだった。
「そうしたらいいじゃないか、きみ!」前よりもっと大きな声を出して、スラーク氏はくりかえした。
「やめとこう」ポット氏は答えた。
「おお、やらないんだな、えっ?」あざけりの態度で、スラーク氏は言った。「みなさん、これをお聞きですな! やらないんですよ、こわくってね。そう! やらないんですよ。はっ! はっ!」
「わたしはきみを」この冷笑にむっとして、ポット氏は言った、「わたしはきみを毒蛇と考えてるんだ。わたしはきみのことを、じつに厚かましい、恥ずかしい、忌まわしい公的行動によって、自分を社会の境界外においた人間と考えてるんだよ。個人的にも政治的にも、無類の、絶対的な毒蛇としての光以外のものでは、きみを見てはいないんだよ」
憤慨したインディペンデントは、この非難の言葉を最後まで聞きとろうとはせず、中身のみっしりとつまったじゅうたん製旅行用カバンをとりあげ、ポット氏が向こうを向いたとき、それを空中に投げ、それは円を描いて、そうとう厚い髪刷毛がたまたまつまっているカバンの角で相手の頭を打つことになり、台所じゅうにするどい打撃音がひびき、ポット氏はただちにバッタリと地面に倒れた。
「諸君」ポット氏がサッとはねおき、十能をつかんだとき、ピクウィック氏は叫んだ、「諸君! おねがいだ、考えてください――助けてくれ――サム――ここだ――どうか、諸君――だれか、中にはいってくれ」
こうしたとりとめもない叫びをあげ、怒り立つ闘士のあいだにピクウィック氏はとびこんでいったが、ちょうど間がわるく、体の片側には旅行カバンを、反対側には十能をもろに受けることになってしまった。イータンスウィルの世論の代表者たちが敵意で盲目になっていたか、(双方ともするどい論客だったので)あいだに打撃すべてを受けとめてくれる第三者がいることの有利さを見てとったのか、それはどうともあれ、彼らがピクウィック氏にはぜんぜん注意を払わず、勇気をふるい立ててたがいにののしり合い、すごい勢いで旅行カバンと十能をふりまわしたのは、たしかなことである。ウェラー氏が主人の叫びにひきよせられ、ちょうどそのときにとびこんできて、あら粉(麦・豆などのふるいにかけないもの)のふくろをサッととりあげ、それをたくましいポット氏の頭と肩にかぶせ、その肩をしっかり抑えなかったら、ピクウィック氏はまちがいなくその人情味ゆたかな仲裁でひどい目にあったことだったろう。
「もうひとりの気ちがいからあのカバンをとってください」ベン・アレン氏とボッブ・ソーヤー氏にサムは言ったが、このふたりはただ闘士たちから逃げまわり、気絶した最初の男に放血をおこなおうと、手にべっ甲の|披針《ひらきばり》をもつこと以外になにもしていなかった。「このちびめ、そいつをすてろ。さもないと、その中にお前をつめこんで窒息させてやるぞ」
この威嚇に驚き、すっかり息を切らして、インディペンデントは武装解除を認め、ウェラー氏は十能をポット氏からうばい、注意を与えて彼を解放してやった。
「ふたりとも静かに寝台にいきなさい」サムは言った、「さもなけりゃ、ふたりをそこにつめこみ、口をしばったままで、徹底的に戦わせますぞ、そんなことをするやつがいたら、何人でもそうしてやるようにね。そして、もしよかったら、どうかこちらに来てください」
こう主人に叫びかけ、サムは腕をとって彼を外につれだした。一方、相争う編集者ふたりは、ボッブ・ソーヤー氏とベンジャミン・アレン氏の監視のもとで、宿屋の主人によってそれぞれの寝台にべつべつにつれてゆかれたが、出てゆくときに、いろいろと殺伐な威嚇の言葉をわめき立て、漠然と翌日の決闘の約束を交わしていた。しかし、よく考えてみると、それを印刷でしたほうがもっとよいということに彼らは気づき、即刻猛烈な戦闘がふたりのあいだで起こり、全イータンスウィルは――紙上での――彼らの勇敢さで鳴りひびくことになった。
彼らは、翌朝早く、ほかの旅行者たちがまだ起きていないうちに、それぞれべつの馬車に乗ってそこを去り、天気はもう晴れあがっていたので、ピクウィック氏たちは、もう一度、その|面《おもて》をロンドンに向けることになった。
[#改ページ]
第五十二章
[#3字下げ]ウェラー一族における重大な変化と赤っ鼻のスティギンズ氏のときならぬ没落を述べる
若い夫妻がその来るのを十分に期待しているときまでボッブ・ソーヤー氏なりベン・アレン氏なりの紹介をさしひかえるのが心づかいとして当然のことと考え、できるだけアラベラの気持ちを傷つけまいと配慮して、ピクウィック氏は、自分とサムが『ジョージと禿鷹旅館』の近くで車をおり、ソーヤーとアレンはさし当たってほかの場所に宿をとるようにと提案した。これにたいしてふたりはすぐに賛成し、すべてピクウィック氏の提案どおりにおこなわれた。ベン・アレン氏とボッブ・ソーヤー氏はバラ地区のずっと遠くの引っこんだところにある旅館におもむいた。彼らの名は、そこの酒場の戸の背後で、つい最近まで、白墨で書かれたながい複雑な計算の筆頭によく書きだされていたものだった。
「|まあ、驚いた《デイアー・ミー》、ウェラーさん」戸口のところでサムに会ったとき、美しい下女は言った。
「それが|かわいいあたし《デイアー・ミー》だったらよかったんだがね」主人の聞こえないところへという配慮から、あとにのこって、サムは答えた。「きみはなんというほれぼれする女だろう、メアリー!」
「まあ、ウェラーさん、なんてバカなことおっしゃるの!」メアリーは言った。「おお、やめて[#「やめて」に傍点]、ウェラーさん」
「やめろって、なにを?」サムはたずねた。
「まあ、それをよ」美しい下女は答えた。「まあ、静かにして」こう彼に注意をし、美しい下女はサムを壁におしつけ、彼のために帽子がくしゃくしゃになり、巻き毛がすっかり台なしになってしまった、とぐちをこぼした。
「そのうえ、お話ししようとしていたこともお話しできなくなってしまったのよ」メアリーは言いそえた。「ここにあなたを四日も待ってる手紙があるの。あなたが出ていってから三十分もしないうちに、それが来たの。そのうえ、それはすぐ外のとこにおいてあったのよ」
「それはどこにあるんだい、恋人さん?」サムはたずねた。
「あなたのために、それを大切にとっておいたわ。さもなけりゃ、もうとっくのむかしになくなっていたかもしれないことよ」メアリーは答えた。「さあ、受けとってちょうだい。これは、あなたの身にあまるごほうび」
こう言い、なくさなければよいがといったかわいいちょっとしたあだっぽい心配と希望を述べたあとで、メアリーはじつに美しいかわいらしいモスリンのタッカー(十七、八世紀の婦人が用いた首にかけ、胸で合わせた麻、モスリンなどの布)から手紙を出し、それをサムにわたしたが、サムは、とても慇懃・献身的に、それにキスをした。
「まあ、驚いた!」タッカーをなおし、さり気ないふうをよそおって、メアリーは言った。「その手紙が、いきなり、とても好きになったらしいことね」
これにたいして、ウェラー氏はただウィンクだけで答えていたが、その深刻な意味は、とても筆舌にはつくしがたいものだった。そして、窓下腰かけのメアリーのわきに腰をおろして、手紙を開き、その中身をチラリとながめて見た。
「いやあ!」サムは叫んだ。「これはどういうことなんだ?」
「心配なことは、なにもないんでしょうね?」彼の肩越しにのぞきこんで、メアリーは言った。
「ああ、きみの目ときたら!」目をあげてサムは言った。
「わたしの目のことは、どうでもいいの。手紙を読んだほうがいいことよ」美しい女中は言い、そう言いながら、彼女は目をいかにもいたずらっぽく、美しく輝かしたので、それはまったく悩殺的なものとなっていた。
サムはキスで元気をとりもどし、つぎのように読んだ――
[#ここから1字下げ]
水曜日
ドーキンの
[#地付き]『グランビー侯爵旅館』にて
親愛なるサムよ、
わるい知らせを伝えねばならんことは残念だが羊飼いの話を雨の中湿った草の上で無用心にもながく坐って聞いてたためにお前の義理の母さんは風邪をひいてしまったのだあの羊飼いは水割りブランデーですっかりはりきって夜おそくまで話をつづけ少ししらふになるまで自分を抑えられなくなったのだしらふになるまで大変時間がかかったのだよ医者の話によれば母さんが前じゃなくてあとに温い水割りブランデーを飲んでたらそうひどくはならなかったろうと言ってたがね彼女が動けるようになるようにとすぐに車輪には油をぬり考えられるかぎりのすべてのことはしたんだいつものとおり元気になるもんと父さんは考えてたんだがねえお前角をまがったときに母さんはまちがった方向に突っ走りお前が見たこともないほどの速力で岡をかけおり医者がすぐ薬を与えたんだがなんの役にも立たなかったよきのう晩六時二十分前に彼女は最後の通行税を払いだいたい定期時間を守って旅を終えたのだこれはたぶん荷物のもちこみが少なかったためにもよるもんだろうがねところでサミーお前が会いにやってきてくれたらとてもありがたいと父さんは言ってるよおれはサミヴェルとてもさびしいんだいいかいやつはお前の名をサミヴェルにしようとしてるんだがおれはまちがってると言ってるのさ決めなくちゃならないたくさんのことがあるんでお前の親方は文句を言わんだろうとやつは思ってるんだもちろんサミー文句なんぞ言いはしないさ彼を知ってるんだからそんなバカなことはしないさやつはお前によろしくと言ってるがおれも同じだよじゃ元気で
[#ここで字下げ終わり]
[#地付き]トニー・ウェラー
[#ここで字下げ終わり]
「なんてわけのわからない手紙だろう」サムは言った。「こんなにやつだ、おれだ、があったんじゃ、手紙の意味が、まるっきし、わからなくなっちまうもんな! 印刷文字でのこの署名以外には、これは、おやじの書いたもんじゃないぞ。署名はたしかにおやじのもんだがね」
「きっと手紙をだれかに書いてもらい、あとでお父さんが署名をしたのよ」美しい女中は言った。
「ちょっと待ってくれ」また手紙を読みかえし、あちらこちらで目をとめて考えこみながら、サムは答えた。「きみの言うとおりだね。手紙を書いた男はきちんと不幸の話を語ってるんだが、おやじがその監視にやってきて、口を入れて、ことを面倒にしちまったんだ。おやじなら、やりかねないことさ。メアリー、きみの言葉どおりだよ」
この点を納得して、サムは手紙をもう一度読みかえし、はじめてその内容がわかったらしく、それをたたみながら、考えこんで大声をあげた――
「するとあのかわいそうな女は死んだんだな! 気の毒に。あの羊飼いどもがちょっかいを出さなかったら、あの人だってわるい女じゃなかったんだ。本当に気の毒なこった」
ウェラー氏はこうした言葉をとても本気になって語ったので、美しい女中は目を伏せ、とても悲しそうなようすをしていた。
「だけど」ふっと溜め息をもらして手紙をポケットにしまいこみながら、サムは言った、「そういう|運命《さだめ》だったんだ、下男と結婚したあとで老夫人が言ったようにな。いまはどうにもならないのさ、どうだい、メアリー?」
メアリーは頭をふり、溜め息をもらした。
「皇帝さまにおねがいして、お暇をもらわなくちゃならんな」サムは言った。
メアリーはまた溜め息をもらした。手紙はじつに感動的なものだったからである。
「さようなら!」サムは言った。
「さようなら」面をそむけて、美しい女中は言った。
「うん、握手をしよう、どうだい?」サムは言った。
美しい女中は手をさしだしたが、それは下女の手ながら、とても小さなものだった。それから彼女は立ちあがって出てゆこうとした。
「すぐにもどってくるよ」サムは言った。
「あんたはいつも出てばっかしいるのね」ちょっと頭をツンとそらせて、メアリーは言った、「ウェラーさん、あんたはもどってくるとすぐ、また出かけていくんですもの」
ウェラー氏は美人の女中をグッと引きよせ、ひそひそ話をはじめたが、まだそれがそう進まぬうちに、彼女は顔をこちらに向きかえ、ふたたびしげしげと彼を見はじめた。ふたりがわかれたとき、彼女はとにかく、女主人の前に姿をあらわす前に、自分の部屋にもどって、帽子をかぶりなおし、髪をととのえなければならなくなった。その準備をするために、彼女は二階にトントンとあがっていったが、そうしながら、手すり越しに、何回となくうなずきと微笑をサムに投げていた。
「どんなにながくても、一日か二日でもどってきます」父親の不幸の話をピクウィック氏に伝えたとき、サムは言った。
「必要なだけゆっくりしてきていいよ」ピクウィック氏は答えた、「わしがそれをちゃんと許すのだからね」
サムはお辞儀をした。
「きみの父親の現在の立場でなにかわしが手助けできるものなら、大よろこびでできるかぎりの援助はすると、サム、お前の父さんに伝えてくれ」ピクウィック氏は言った。
「ありがとうございます」サムは答えた。「それを伝えます」
相互の好意と関心をあらわす言葉を幾度かかわして、主人と召使いはわかれた。
ドーキングをとおる駅馬車の御者席からおりて、サミュエル・ウェラーが『グランビー侯爵旅館』から数百ヤードとへだたらぬところに立ったのは、ちょうど七時のときだった。寒いどんよりした晩だった。小さな通りはわびしく不吉に見えた。貴人でしゃれ者の侯爵のマホガニー製の顔は、それが風の中でキーキーと音を立ててユラユラとゆれているとき、いつもよりもっと物悲しげ、陰鬱そうな表情を示していた。よろい戸は引きおろされ、シャッターは一部閉じられていた。ふだんはドアのところでブラブラしている人の群れは、ひとりもその姿が見られず、そこは静かでわびしいものになっていた。
前もってたずねられるような人はだれもいなかったので、サムはそっと中にはいっていった。あたりをチラリとながめて、彼はすぐ父親の姿を遠くに認めた。
男やもめは酒場の背後の小さな部屋で小さな丸テーブルに坐り、パイプをふかし、目をしっかりと火の上にすえていた。葬式がその日におこなわれたことは、明らかだった。まだかぶりっぱなしの帽子には約一ヤード半くらいのながさのある黒い喪章がついていて、椅子の手すり越しにダラリと下にさがっていたからである。ウェラー氏はひどく茫然として考えこんでいた。サムが何回か彼の名を呼んだのに、彼はまだ同じ堅い静かな表情をくずさずにタバコをすいつづけ、彼の息子が手のひらを彼の肩の上に乗せたとき、はじめてハッとわれにかえった。
「サミー」ウェラー氏は言った、「よく帰ってきてくれたな」
「何回か呼びかけていたんですよ」帽子を木釘にかけながら、サムは言った。「だが、父さんの耳には聞こえなかったんです」
「うん、サミー」また考えこんで火を見入りながら、ウェラー氏は答えた。「おれは夢中で考えこんでたんだよ、サミー」
「なにをです?」炉のそばに椅子を引きつけて、サムはたずねた。
「夢中で考えこんでたのさ」父親のウェラー氏は答えた、「あの女[#「あの女」に傍点]についてね、サミュエル」ここでウェラー氏はドーキングの墓地のほうに頭を動かし、無言で、自分の言葉は故ウェラー夫人に関するものであることを知らせた。
「おれは考えてたのさ、サミー」パイプをくゆらしながら、むきになって自分のせがれをながめながら、自分の言葉がどんなに途方もなく信じられないものに見えようとも、それは冷静・慎重に語られているのだということをはっきりと伝えようとしているように、ウェラー氏は言った、「おれは考えてたんだよ、サミー、あの女が死んだのは、まあ、とても悲しいことだということをね」
「ええ、そうあるべきですよ」サムは答えた。
ウェラー氏は、うなずいて、その意見に賛成を示し、またジッと火をにらんで、タバコの煙の中に身をつつみ、深い物思いに沈んだ。
「あの女が言ってた言葉は、とても分別のあるもんだったよ、サミー」ながいことだまっていたあとで、手で煙を払いのけながら、ウェラー氏は言った。
「どんな言葉なんです?」サムはたずねた。
「病気になってから、彼女が言った言葉さ」ウェラー氏は答えた。
「それはどんな言葉なんです?」
「だいたい、こんなことさ。『ウェラー』彼女は言ったんだ、『あんたにたいしてすべきだったことを、わたし、しなかったんじゃないかしら。あんたはとても親切な人よ。あんたの家庭をもっと楽しいものにすることもできたのかもしれないことね。もうおそすぎるときになって』彼女は言ったよ、『わたし、わかりはじめたわ、結婚した女が宗教心をもとうと思ったら、家庭の義務を果たし、自分のまわりの人を陽気に幸福にすることからはじめ、定めの時間に教会、礼拝堂なんぞにいくときには、そうしたことを、なまけや気ままの口実にしないようにとても注意しなければいけないことをね。わたしはそうしたこと[#「そうしたこと」に傍点]をし、わたし以上にそんなことをしてた連中に、時間とお金をむだ使いしていたの。でも、わたしが死んだとき、ウェラー、あの人たちを知る前のわたし、生まれながらのわたしのことを考えてちょうだいね』。『スーザン』おれは言ったよ――わしはこの言葉で不意をつかれたんだ、サミュエル。それは認めるよ――『スーザン』おれは言ったんだ、「お前はおれにとってもいい女房だったよ。それについては、なにも言ってはいけないよ。元気を出すんだ。そうすりゃ、おれがあのスティギンズの頭をひっぱたいてやるのも見られるんだからな』これを聞いて、サミュエル、彼女はニッコリしたよ」パイプで溜め息をおし殺して、ウェラー氏は言った、「だが、結局、あの女は死んじまったんだ!」
「そう」ウェラー氏がゆっくりと頭を横にふり、重々しくタバコをすって、三、四分ついやしてしまったあとで、つつましやかななぐさめの言葉を思いきって述べて、サムは言った、「そう、父さん、おれたちだってみんな、いずれはそうなるんですよ」
「そうだな、サミー」父親のウェラー氏は言った。
「そうしたことには、神さまのおぼしめしがあるんですからね」サムは言った。
「もちろん、そうだよ」重々しくそうだとうなずいて、父親は答えた。「それがなくなったら、葬儀屋はどうなることだろうな、サミー?」
こうした考えで開かれた推測のひろい分野に思いふけって、ウェラー氏はパイプをテーブルの上におき、考えこんだ顔つきをして、火をかきまわした。
ウェラー氏がこうしたことをしているあいだに、酒場でとびまわっていた喪服姿のとてもたくましい料理女がすべるようにして部屋にはいってきて、サムにたいして挨拶のニヤニヤ笑いを何回かし、静かに彼の父親の座席の背後に座をしめ、軽く咳払いをして自分の存在を知らせ、それが無視されたので、そのあとにもっと大きな咳払いがつづいた。
「あれっ!」ふりかえって火かき棒を落とし、急いで自分の椅子を向こうに引っぱっていって、父親のウェラー氏は言った。「どうしたんだい?」
「お茶を一杯、お飲みなさい、いい人だからね」たくましい女性はあやすようにして言った。
「やめとくよ」ちょっと乱暴なふうに、ウェラー氏は答えた、「きみと会うのは」ここでウェラー氏は急いで自分の気持ちを抑え、低い声で言いそえた、「あとで、いちばん先にね」
「おお、まあ、まあ! 逆境って、人をなんて変えるもんかしら!」上をあおぎ見ながら、婦人は言った。
「この女と医者のあいだで、おれの[#「おれの」に傍点]状態を変えるただひとつのものといえば、そいつだけだね」ウェラー氏はつぶやいた。
「こんな不機嫌な人って、ほんとに見たことないことよ」たくましい女性は言った。
「かまわんよ。みんなおれのためになるこったからな。みんなにふくろだたきにあったとき、後悔した生徒が自分の気持ちをなぐさめる考えといったもんさ」ウェラー氏は答えた。
たくましい女性は気の毒、同情するといった態度で頭をふり、父親が本当に元気をふるい立てようと努力し、そうした沈鬱の気分に負けないようにするべきではないか、とサムのほうに向いてたずねた。
「ねえ、サミュエルさん」たくましい女は言った、「きのう言ってたことなんですけどね、あの人はさびしく感じたがって[#「感じたがって」に傍点]るんですよ。感じなけりゃならないことは感じなけりゃならないにしても、元気でいなけりゃね。だって、まったく、わたしたちはみんなあの人の不幸を気の毒に思い、あの人のためなら、なんでもする気でいるのよ。この世にはね、サミュエルさん、手のつけようもないことなんて、ないんですからね。それは、わたしの亭主が死んだとき、とてもりっぱな人が言ってた言葉よ」ここで語り手は手を口にあてがい、また咳払いをし、やさしく父親のウェラー氏のほうをながめた。
「さし当たっていまは、あんたのお話に用はないんですよ、奥さん。向こうにいっていただけますかね?」重々しくしっかりとした声で、ウェラー氏はたずねた。
「わかりましたよ、ウェラーさん」たくましい女は言った、「たしかに、わたしがあんたに話したのは、親切心からなんですからね」
「そうでしょうな、奥さん」ウェラー氏は答えた。「サミュエル、そのご婦人をそとにおつれし、そのあと、ドアを閉めておくれ」
この当てつけは、たくましい女にはっきりと伝わった。彼女はすぐに部屋を出てゆき、戸をバタンと閉めたからである。そこで、汗びっしょりになって、父親のウェラー氏は椅子に倒れかかり、こう言った――
「サミー、ひとりでここに一週間いたら――いいかい、たった一週間だよ――それが終わらないうちに、腕力と暴力で、あの女はおれと結婚してることだろうよ」
「なんですって! あの女は父さんをそんなに好きなんですか?」サムはたずねた。
「好きだって!」父親は答えた。「あの女は、どうしてもおっ払えないんだ。おれがしっかりした鍵で火をとおさない箱の中に錠をかけて入れられていようと、あいつはおれのとこに来る方法を見つけることだろうな」
「追いまわされるなんて、これはなんということ!」ニヤリとしてサムは言った。
「おれはそれを自慢する気はないね、サミー」激しく火をかきまわして、ウェラー氏は答えた。「そいつはいやなこったよ。じっさい、それで、家からも家庭からも追い出されちまうんだからな。あわれなお前の義理の母さんの体から息が絶えるか絶えないかに、婆さんのひとりはおれにジャムの壺、ほかのやつはゼリーの壺をおくり、またほかのやつはとてつもない大きな壺に入れたかみつれ[#「かみつれ」に傍点](薬用植物)の薬湯をつくって、そいつを自分の手でもってきたんだ」ひどい嫌悪の情を浮かべてウェラー氏は話を切り、あたりを見まわして、そっと言いそえた、「やつらはみんな、後家なんだ、サミー、いずれもそろってな、かみつれ[#「かみつれ」に傍点]の薬湯のやつはべつだがね、それは五十三の独身の若いご婦人でね」
サムは、返事がわりにふざけたおかしな顔をし、ウェラー氏は、がんこな石炭のかたまりを、それがいままでに述べた後家さんたちの頭であるように、真剣さと悪意のこもった顔つきをして、たたきこわしてから、言った――
「簡単に言ってな、サミー、御者台以外のどこにいてもおれは危険なんだ」
「どうして、ほかのとこよりそこが、安全なんです?」サムは口をはさんだ。
「御者は特権階級だからさ」息子をジッと見つめて、ウェラー氏は答えた。「御者は、ほかの人間だったら疑われちまうことも、疑われずにできるからな。八十マイルもつづく女の群れととても親しくなりながらも、御者がそのだれとでも結婚する気があるなんて、だれも考えないからさ。ほかのどんな人間が、それと同じことを言えるかね、サミー?」
「うん、たしかに一理ですね」サムは言った。
「もしお前の旦那が御者だったら」ウェラー氏は推論した、「あのことがあんなにけたはずれにひどいもんになることも考えられると判断して、陪審が有罪と判決をくだしただろうかね? きっと、そんなことはしなかったよ」
「どうしてしなかったと言うんですね?」けなすような態度で、サムはたずねた。
「どうしてしなかっただって!」ウェラー氏は答えた。「陪審の良心にさからうことだからさ。れっきとした御者は独身と結婚を結びつける輪のようなもの。まともな人間なら、だれでもそのことは知ってるよ」
「なんですって! 御者はみんなの人気者、だれも、たぶん、つけこんでくるようなことはないと言うんですかね?」サムは言った。
父親はうなずいた。
「どうしてそんなことになったのか」父親のウェラー氏はつづけた、「おれにはわからんよ。長距離駅伝馬車の御者が、そのとおる町という町の若い女たちに、どうして気に入られ、いつも尊敬――いや、敬慕といってもいいだろう――されるのか、おれにはわからんね。おれにわかってることは、そうだということだけさ。そいつは自然の摂理――お前の義理の母さんがいつも言ってたことだが、ディスペンサリー(「施薬所・施療院の意」。父親ウェラーは「天の配剤」の意で使っている)というやつさ」
「|天の配剤《デイスペンセイシヨン》ですね」父親の言葉をなおして、サムは言った。
「いいとも、サミュエル、そっちのほうがよけりゃ、ディスペンセイションでもいいよ」ウェラー氏は答えた。「おれは[#「おれは」に傍点]そいつをディスペンサリーと呼び、ただでびんに薬を入れてくれるとこでは、いつもそう書かれてるよ。ただそれだけのこったがね」
こう言って、ウェラー氏はパイプにふたたびタバコをつめ、それに火をつけ、もう一度考えこんだ顔つきにもどって、つぎのように語りつづけた――
「そこで、ここにいて、否応なく結婚しちまっても損だし、それと同時に、あのおもしろい御者連中とわかれるのもいやなんで、安全号の馬車を走らせ、もう一度『ベル・ソウヴァージュ旅館』に泊まることにしたよ、それがおれにピタリのもんというやつなんだからな、サミー」
「すると、商売のほうはどうなるんです?」サムはたずねた。
「商売は、サミュエル」ウェラー氏は答えた、「のれん、在庫品、建物、そのほかの付属物は個人契約で売られ、その金のうちで、死ぬちょっと前のお前の義理の母さんの希望で、二百ポンドはお前の名で投資するんだ――ええ、あれはなんといったっけな?」
「なんですね?」サムはたずねた。
「シティでいつもあがったりさがったりしてるやつだよ」
「乗り合い馬車ですかね?」サムはたずねた。
「バカな!」ウェラー氏は答えた。「いつも上下し、とにかく国債や大蔵省証券とかそういったもんに関係あるもんさ」
「おお! 公債ですね」サムは言った。
「ああ!」ウェラー氏は答えた、「公債さ。その金のうちの二百ポンドは、サミュエル、お前のために公債に投資するんだ。四分五厘利まわりの割り引きのコンソル公債だよ、サミー」
「わたしのことを思ってくれるなんて、あの母さんも親切者」サムは言った、「とても彼女に感謝しますよ」
「それ以外の金は、おれの名で投資されるんだ」父親のウェラー氏は語りつづけた。「そして、おれがこの世からおさらばしたら、それはお前のもんになるんだよ。だから、お前、それを一度に使わんように注意し、お前の財産のことは、どんな後家さんにも気づかれんように気をつけるんだ。さもなけりゃ、身の破滅だからな」
こうした注意を与えて、ウェラー氏は、前よりさっぱりした顔をして、パイプをすいはじめた。こうしたことを息子に知らせて、彼はすっかり気が楽になったふうだった。
「だれかがドアをたたいてますよ」サムは言った。
「たたかせとけばいいさ」威厳ある態度で、彼の父親は答えた。
サムはこの指示どおりに行動した。また、ついでまた、その後ながくつづいて、ドアがたたかれ、そこでサムは、どうしてその人を中に入れないのか、とたずねた。
「しっ」心配そうな顔をしてウェラー氏はささやいた、「それを気にすることはないよ、サミー。たぶん、後家さん連のだれかだろうからね」
ドアをノックする音に注意が払われなかったので、少ししてから、姿の見えぬ訪問者はドアを開け、そっと中をのぞきこんだ。一部開かれたドアのところにつっこまれたのは、女の頭ではなく、スティギンズ氏のながい黒い髪の毛と赤ら顔だった。ウェラー氏のパイプは手からパタリと落ちた。
牧師はそれとわからぬくらいにだんだんとドアを開け、その空き間が彼の痩せた体をとおすくらいのひろさになると、部屋にするりとはいりこみ、中にはいると、とても用心深く、そっと、それを閉めた。サムのほうに向き、この一家にふりかかった不幸について彼が考えている得も言えぬ悲しみのしるしに、両手と目をあげ、背の高い椅子をいつもの彼の炉の場所に運び、その端に腰をおろし、褐色のハンカチを引っぱりだして、それを目にあてがった。
こうしたことが進行中、父親のウェラー氏は、パッと目を開き、手を膝に乗せ、すっかり驚きに心をうばわれたようすを顔中にあらわして、椅子に深く坐りこんでいた。サムは彼の向かい側に坐り、一言もものを言わず、好奇心を燃え立たせて、この場の結果如何と固唾をのんでいた。
スティギンズ氏は、数分間、褐色のハンカチを目に当てたままで、上品なふうにうめき、それから大努力を払って、自分の気持ちを抑え、ハンカチをポケットにおさめ、それにボタンをかけた。このあと、彼は火をかきまわし、それがすむと、両手をこすって、サムをながめた。
「おお、きみ」とても低い声で沈黙を破って、スティギンズ氏は言った、「悲しい苦しみごとが起こったものですな!」
サムは、とてもかすかに頭をうなずかせた。
「神の怒りを受くべき人にとってもね!」スティギンズ氏は言いそえた。「人の心は、それで血を流してしまいますよ」
人間の鼻血を流すことについてウェラー氏がなにかブツブツ言っているのが、彼の息子には聞こえたが、スティギンズ氏にはそれが聞こえなかった。
「彼女がエマニュエルになにかのこしたかどうか」椅子をサムのところに引きつけて、スティギンズ氏はささやいた、「あんたは知ってますかね?」
「エマニュエルって、だれですね?」サムはたずねた。
「礼拝堂」スティギンズ氏は答えた、「われわれの礼拝堂ですよ。サミュエルさん、われわれの羊小屋ですよ」
「彼女は羊小屋にはなんにも、羊飼いにもなんにも、獣どもにもなんにも、のこしはしませんでしたよ」はっきりとサムは言い切った、「それに犬どもにもね」
スティギンズ氏は陰険にサムをながめ、チラリとウェラー氏に目をやったが、彼は、まるで眠ったように、目を閉じていた。そこで、椅子をなお近くに引きよせて、スティギンズ氏は言った――
「わたしにはなにもないんですか、サミュエルさん?」
サムは頭をふった。
「なにかあると思うんですがね」彼としてはできるだけ真っ青になって、スティギンズは言った。「考えてくださいよ、サミュエルさん。なんの形見もないんですか?」
「あんたのあの古傘ほどの値打ちのものもありませんよ」サムは答えた。
「たぶん」ちょっとのあいだ深く考えこんでいたあとで、もじもじしながら、スティギンズ氏は言った、「たぶん、彼女はわたしの世話を神の怒りを受くべき人に託したんでしょうね、サミュエルさん?」
「彼の言葉から察して、それはとてもありそうなこってすね」サムは答えた。「たったいま、あんたのことを話してたんですからね」
「そうなんですか?」明るくなって、スティギンズは叫んだ。「ああ! 彼は人が変わったんでしょう、たぶんね。われわれは、これで、いっしょにとても気持ちよくすごせますよ、サミュエルさん、どうです? あんたがここにいないときには、彼の財産の世話は見てあげますよ――とってもよくね」
フーッとながく溜め息をついて、スティギンズ氏は話を切り、返事を待った。サムはうなずき、父親のウェラー氏はとてつもない物音を発したが、それはうなりでも、ブウブウいう声でも、あえぎでも、どなり声でもなく、ある程度その四つぜんぶをかね備えているもののように思えた。
スティギンズ氏はこの物音を悔悛、あるいは後悔を示すものと考え、それに元気づけられて、あたりを見まわし、両手をこすり合わせ、泣き、ニッコリとし、また泣き、ついで、静かに部屋を横切り、勝手知った隅の棚のところにゆき、大コップをとりだし、いともゆっくりと砂糖のかたまりを四つその中に入れた。それから、彼はまたあたりを見まわし、悲しげに溜め息をもらし、それといっしょに、そっと酒場にゆき、やがて大コップにパイナップル入りのラム酒を半分入れてもどり、炉の台のところでチュンチュンいっているやかんのところにゆき、湯を酒に入れ、それをかきまわし、すすり、腰をおろし、グーッと一杯それをひっかけ、息つぎにと一息入れた。
眠ったふりをしようとさまざまと妙な不器用な恰好をまだしつづけていた父親のウェラー氏は、こうしたあいだ、一言もものを言おうとしないでいたが、スティギンズ氏が一息入れたとき、彼におそいかかり、大コップを彼の手からうばい、のこりのラム酒を彼の顔にひっかけ、コップ自体は炉格子に投げこんでしまった。それから、牧師の襟首をしっかりと抑えつけ、彼を突然すごい勢いで蹴りはじめ、スティギンズ氏を乗馬靴で蹴っとばすごとに、彼の手足、目、体にさまざまの激しい、とりとめもないのろいを投げつけた。
「サミー」ウェラー氏は言った、「おれの帽子を頭にしっかりかぶせてくれ」
サムは忠実にながい喪章のついた帽子を父親の頭にしっかりかぶせ、ウェラー氏は、前にもます敏捷さで、また蹴りはじめ、スティギンズ氏といっしょに、酒場と廊下をとおって、正面の戸のところに、さらにおもての通りに転げるようにして出てゆき、道中ずっと彼を蹴りつづけ、乗馬靴で蹴あげるたびごとに、その勢いは弱まるどころか、ますます強くなっていった。
赤っ鼻の男がウェラー氏につかまれて身もだえし、矢つぎ早につぎからつぎへと蹴っとばされて、彼の体すべてが苦痛でふるえるのをながめるのは、まったく楽しい天下の絶景、たくましい格闘のあとで、ウェラー氏がスティギンズの頭を水をいっぱいにはった馬のかいば桶につっこみ、彼がほとんど窒息しそうになるまで、それをそこに抑えつけていたのをながめるのは、それにもまさる天下の絶景だった。
「ほうれ!」かいば桶から頭を引っこめるのをスティギンズ氏にとうとう許したとき、力まかせ最後の複雑なひと蹴りを与えて、ウェラー氏は言った、「なまけ者の羊飼いどもは、だれでもここによこすがいい。まず第一にそいつを散々に打ちのめし、それから水攻めにしてやるからな! サミー、おれを中につれていき、小さなコップでブランデーを飲ませてくれ。すっかり息が切れちまったからな」
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第五十三章
[#3字下げ]ジングル氏とジョッブ・トロッターの最後の退場。グレイ・イン広場のすばらしい朝の取引きをふくみ、パーカー氏の事務所の戸口での二重のノック音で終わりとなる
やさしく心の下ごしらえを与えられ、何回か気落ちする必要はぜんぜんないのだとなぐさめられたあとで、バーミンガム訪問のあまりかんばしからぬ結果をピクウィック氏から知らされたとき、アラベラはワッと泣きくずれ、大声ですすり泣きをしながら、自分が父親と息子の仲たがいの不幸な原因になったことを、とても痛ましい言葉で嘆いていた。
「アラベラ」ピクウィック氏はやさしく言った「それはきみがわるいからではないのですよ。あの老紳士が息子の結婚にあんなに強い反感をもつなんて、考えられなかったことなのですからね。きっと」彼女の美しい顔をチラリと見て、ピクウィック氏は言いそえた、「わが身に受けようとしないでいるよろこびがどんなものか、あの人には見当がつかんのでしょう」
「おお、ピクウィックさん」アラベラは言った、「もし彼がわたしたちに怒りつづけていたら、わたしたち、どうしたらいいのでしょう?」
「いやあ、考えなおしてくれるまで、ジッと待つんですよ」元気にピクウィック氏は答えた。
「でも、ピクウィックさん、もし父親の援助がなくなったら、ナサニエルはどうなるのでしょう?」アラベラはたずねた。
「その場合には、アラベラ」ピクウィック氏は答えた、「だれか友人があらわれて、よろこんで、彼が世の中に出られるよう、手を貸してくれるでしょう」
この答えの意味は、ピクウィック氏がそれをそううまくはつくろっていなかったので、アラベラにはすぐわかった。そこで、両腕を彼の首に投げかけ、彼にやさしくキスをして、彼女は前よりもっと激しく泣きはじめた。
「さあ、さあ」彼女の手をとって、ピクウィック氏は言った、「ここでもう何日間か待っていて、彼の父親が手紙を書いてよこすか、あなたのご主人の話にたいしてなにかべつの方法をとるか、見てみましょう。もしそうしたことがなければ、わたしにもいくつか計画があり、そのどれもすぐにあなたを幸福にすることでしょうよ。さあ、元気を出して、さあ!」
こう言いながら、ピクウィック氏はやさしくアラベラの手をにぎりしめ、涙をぬぐい、夫を心配させないように、と注意した。この注意を受けると、とても気立てのよいかわいいアラベラは、ハンカチを手さげ袋におさめ、夫のウィンクル氏がやってくるまでに、彼の心をとらえたあの輝く微笑とキラキラする目をすっかりとりもどしていた。
「この若いふたりにとって、これは困ったことになったな」翌朝着がえをしているときに、ピクウィック氏は考えていた。「パーカーのところにゆき、このことを相談してみよう」
これ以上ぐすぐずせず、あの親切な小男の弁護士と金銭上の話にけりをつけるために、グレイ・イン広場にゆきたいものともピクウィック氏は考えていたので、彼はあわただしく朝食をすませ、さっさと仕事にとりかかった。そこで、まだ十時の鐘が鳴らないうちに、彼はもうグレイ・インに到着していた。
上にパーカーの事務所がある階段を彼がのぼっていったとき、まだ十時十分前だった。事務員はまだ来ていないので、彼は時間つぶしに階段の窓から外を見ていた。
晴れあがった十月の朝の健康的な光は、きたならしい古ぼけた家々を多少なりとも明るいものにしていた。太陽の光がそそがれたとき、ほこりだらけの窓さえ、じっさい、陽気ともいえるものになっていた。つぎからつぎへと、事務員たちはあちらこちらの入口から広場に姿をあらわし、ホールの時計を見あげ、事務所が開かれる時間に合わせて、その足を早めたり、おそめたりしていた。九時半の人たちは、急に足を急がせ、十時の人たちは、ほとんど貴族的な歩き方といったほどのゆっくりとした歩調になっていた。十時の鐘が鳴ると、事務員たちは前より早く流れこみはじめ、それぞれあとの人間は前の人間よりもっと汗をかいていた。ドアの錠をはずして開く物音が四方八方で何回かひびきわたり、まるで魔法じかけのように、頭があらゆる窓にあらわれ、門番は一日の定めの場所につき、かかとのつぶれた靴をはいただらしのない洗濯婦たちは、あわただしく消え去っていった。郵便配達人は家から家へととんでゆき、蜂の巣のようなこの法律関係の場所は、ざわめきにつつまれることになった。
「早くお出かけですね、ピクウィックさん」背後で声が聞こえた。
「ああ、ラウテン君」うしろをふり向き、知人の姿を認めて、ピクウィック氏は答えた。
「まったく歩いて暑いこってすね、えっ?」ちりのはいらぬように小さなせんがつめてあるブラーマ鍵をポケットから引きだして、ラウテンは言った。
「だいぶ暑そうですね」文字どおり真っ赤にゆだっているラウテンをながめてニッコリとして、ピクウィック氏は答えた。
「まったく、そうとう暑くなってここにきたんですよ」ラウテンは答えた。「ポリゴンをとおりぬけたとき、九時半にはなっていたけど、あの人[#「あの人」に傍点]より前にここに着いたんだから、かまいませんとも」
こう考えて気をとりなおし、ラウテン氏はせんをドアの鍵からはずし、ドアを開いてから、鍵にまたせんをはめ、ポケットにそれをしまいこんで、郵便箱に郵便配達夫が入れていった手紙をとりだした。彼はそれから、ピクウィック氏を事務所につれていった。ここで、あっという間に、彼は上衣をぬぎ、机から引っぱりだしたすり切れた服を着こみ、帽子をかけ、何枚か交互にかさねた画用紙と吸取り紙を引っぱりだし、耳のうしろにペンをはさみ、いかにも満足げに両手をこすり合わせた。
「さあ、これで、ピクウィックさん」彼は言った、「これで用意はすっかりできましたよ。事務所の服は着こみ、道具一式ももう出してあるんですから、彼にいつ来られてもかまいませんよ。あなたはかぎタバコをおもちじゃないでしょうね、どうです?」
「いや、もっていませんな」ピクウィック氏は答えた。
「それは残念ですな」ラウテン氏は言った。「でも、かまいませんよ。すぐとびだして、ソーダ水をひとびん飲んできますからね。わたしの目のあたり、ちょっと変じゃありませんかね、ピクウィックさん?」
こう言われて、ピクウィック氏はラウテン氏の目を遠くからながめ、そこにべつに異常はないようだ、と答えた。
「いや、ありがたい」ラウテン氏は言った。「きのうの晩『切り株旅館』でそうとう華かにやり、今朝はちょっと二日酔いだったんです。ところで、パーカーはあなたのあの仕事をしてましたよ」
「なんの仕事でしたかね?」ピクウィック氏はたずねた。「バーデル夫人の訴訟費用のことですかね?」「いいや、そうじゃありません」ラウテン氏は答えた。「あなたのために――フリート監獄からつれだそうと、手形割り引き業者に一ポンドにつき十シリングの割りできのう払ってやったあの男――あの男をデメラーラ(北英領ギアナの州の名)に送り出すことですよ」
「おお、ジングル君のことか!」ピクウィック氏は急いで言った。「うん、そこで?」
「ええ、話はぜんぶ決まりましたよ」ペンをなおしながら、ラウテン氏は言った。「リヴァプールの支配人は、あなたが引退なさる前にはずいぶんお世話になったものだ、あなたのご推薦なら、よろこんで彼を引きとろう、と言ってましたよ」
「そいつは結構なこと」ピクウィック氏は言った。「それを聞いてうれしいですな」
「でもねえ」新しい割れ目をつけようとしてペンの背をこすりながら、ラウテンは話をつづけた、もうひとりの男はなんて薄バカ野郎でしょう!」
「もうひとりのって?」
「いやあ、あの召使いか、友人か、それはなんでもいいんですがね、あんたが[#「あんたが」に傍点]ご存じの人物ですよ。トロッターのことです」
「ああ?」ニッコリしてピクウィック氏は言った。「わたしはいつも彼をその逆と思っていましたがね」
「ええ、わずかですが、わたしの見たところからも、そう思ってましたよ」ラウテン氏は答えた、「それで、人がどんなにだまされやすいもんかがわかるわけですね。彼も[#「彼も」に傍点]デメラーラにゆこうとしてるのを、あなたはどうお考えになりますかね?」
「なんですって! ここで彼に提供されたものを放棄してですって!」ピクウィック氏は叫んだ。
「週に十八シリングやろうというパーカーの申し出と、きちんとふるまったら昇進させようという言葉を、ちりあくたのようにあつかい、問題にしなくてね」ラウテン氏は答えた。「彼はもうひとりの男といっしょにいかねばならないと言って、ふたりしてパーカーに書類を書きなおしてくれとたのみ、同じ土地で彼になにか職を与えてやることになったんです。パーカーの話では、犯罪人が新しい服を着て裁判所にあらわれた場合、その男がニュー・サウス・ウェイルズ(オーストラリア、東南部の州)で得られる地位にもおよばんようなつまらない職だそうですがね」
「バカなやつだ」目をしばたたかせて、ピクウィック氏は言った。「バカなやつだ」
「おお、バカよりもっとひどいもんですよ。それこそまさにへいこらするというやつ」軽蔑を顔にあらわしてペンの先をとがらせながら、ラウテン氏は答えた。「彼は自分のもったただひとりの友だち、彼を好きなんだとかなんとか、やつは言ってましたよ。友情というものは、それなりに、いいもんですよ。われわれは、たとえば、『切り株旅館』で酒を飲みながら、大いに仲よく愉快にやってますよ、そこでは各自自分の酒代は払ってね。でも、だれか他人のために、自分の身を損ねるなんて! どんな男でもふたつ以上愛情はもってはいけないんです――第一は自分自身に、第二はご婦人にたいするもの。それがわたしの言うこってすな――はっ! はっ!」ラウテン氏は大声の笑いで自分の言葉に結びをつけ、それはなかば冗談、なかば嘲笑のものだったが、これは途中で階段のパーカーの足音で断ち切られ、それが聞こえるとすぐ、彼は、すごく早い身のこなしで、自分の席に腰をおろし、せっせとものを書きはじめた。
ピクウィック氏と彼の法律顧問のあいだの挨拶は心こもった熱のあるものだった。ピクウィック氏が弁護士の肘かけ椅子に腰を落ち着けるやいなや、ノックの音がドアにひびき、人の声が、パーカーがいるかどうかをたずねた。
「ほーれ!」パーカーは言った、「あれはわれわれの浮浪者の友人のひとり――ジングル自身ですよ。彼とお会いになりますかね?」
「きみはどう考えますか?」もじもじしてピクウィック氏はたずねた。
「ええ、お会いになったほうがいいと思いますね。はい、あなたの名前は? おはいり、さあ」
この無作法な呼び入れの言葉に応じて、ジングルとジョッブが部屋にはいってきたが、ピクウィック氏の姿を見て、ちょっと狼狽して、立ちどまった。
「そう」パーカーは言った、「あの紳士の方はご存じありませんかね?」
「当然知っているべき人」前に進み出てきて、ジングル氏は答えた。「ピクウィックさん――心の底からの感謝――命の恩人――わたしを一人前にしてくれた人――このことをあなたに後悔させるようなことはしませんよ」
「そう言ってくださって、うれしいですよ」ピクウィック氏は言った。「前よりずっと元気そうになりましたね」
「ありがとうございます――とても大きな変化――階下のフリート監獄――とても不健康な場所――とてもね」頭をふりながら、ジングルは言った。彼はきちんとした、身ぎれいな服装をし、ジョッブもその点では同じで、ジングルの背後に直立し、鉄のように動かぬ表情で、ピクウィック氏をジッと見つめていた。
「いつ彼らはリヴァプールにゆくのです?」なかば独り言のようにピクウィック氏はパーカーにたずねた。
「今晩、七時です」一歩前に出てきて、ジョッブは言った。「ロンドンからの大きな駅伝馬車でいきます」
「座席はとれたのかね?」
「はい、とれました」ジョッブは答えた。
「きみはゆく決心をしっかりと固めたのだね?」
「はあ、固めました」ジョッブは答えた。
「ジングルにとってどうしても必要な支度について申せば」大きな声でピクウィック氏に話しかけて、パーカーは言った、「彼の四季払いの俸給からわずかの金額をさしひくように、わたし一存の考えでとりきめました。それは一年間だけつづけられ、きちんと送ってこられたら、その費用は出せるんです。彼自身の努力と善行にもとづかないどんなことでも、あなたが彼にしてやることは、わたしとしてはどうしても賛成できませんな」
「もちろん」じつにしっかりとした態度で、ジングルは口をはさんだ。「明晰な頭――世間をよく知った人――まったくそのとおり――完全にね」
「あの男の債権者と話し合いをつけ、質屋から彼の服を出し、監獄で彼を助けてやり、彼の渡航費を払って」ジングルの言葉にはふりむきもせずに、パーカーはつづけた、「もうあなたの損失は五十ポンド以上になっているのですよ」
「損失とはちがう」急いでジングルは言った。「それを払い――仕事をしっかりやり――負債を払い――びた一文のこさず――ひょいとしたら|黄熱《おうねつ》(中南米・アフリカ海岸などでの一種の蚊の媒介による熱病)――それはどうにも処置なしのこと――そうでなかったら――」ここでジングル氏はひと息入れ、すごい勢いで帽子の天辺をたたき、手で目をこすり、腰をおろした。
「彼が言おうとしてることは」数歩前に出てきて、ジョッブは言った、「熱病で死ぬようなことがなかったら、その金はお返しするつもりだということです。もし生きてたら、ピクウィックさん、彼はそれをしますよ。それをするように、わたしも注意します。彼がそれをするのは、わたしにはわかってるんです」力をこめて、ジョッブは言った。「それを誓ってもいいですよ」
「わかりましたよ、わかりましたよ」ピクウィック氏はパーカーに何回となく眉をよせて見せ、与えた慈悲を彼が数えあげるのをやめさせようとし、それを小男の弁護士に完全に無視されていたのだったが、彼は言った、「ジングル君、もうこれ以上むちゃなクリケット試合をしたり、トマス・ブレイゾー卿とまた付き合いをはじめたりするのはやめるようになさい。そうすれば、健康が損われないことは太鼓判ですからね」
ジングル氏はこの皮肉にニッコリしたが、それにもかかわらず、いかにもうつけたふうに見えた。そこで、ピクウィック氏は話題を変えて、言った――
「きみのもうひとりべつの友だち――わたしがロチェスターで見かけたもっと身分の低い男はどうなったか、ご存じですかね?」
「陰気なジェミーのこと?」ジングルはたずねた。
「そうですよ」
ジングルは頭をふった。
「利口なならず者――妙なやつ、一杯食わす天才――ジョッブの兄弟」
「ジョッブの兄弟ですって!」ピクウィック氏は叫んだ。「そう、いま注意して彼をよく見てみると、たしかに似たところはありますな」
「いつも似た者兄弟と言われてましたよ」目の隅に狡猾さをチラリと見せて、ジョッブは言った、「ただわたしはまじめな性格、あいつはそうではなかったんです。彼はここで追いまわされて楽しく暮らせなくなり、アメリカにとびだしていったんですが、その後なんの便りもありませんよ」
「それで、彼から『本当の生活のロマンスからの一ページ』をまだ受けとっていない理由がわかりましたよ。ロチェスター橋の上で彼が自殺を考えていたらしいとき、ある朝、それをわたしに送ってくれると約束したんですがね」ニッコリしてピクウィック氏は言った。「彼の陰気な態度が本当のものか、つくりものか、たずねる必要のないことです」
「あれはどんなふりもできる男でした」ジョッブは言った。「彼からそんなに楽にのがれられて、あなたは運がよかったと思うべきですよ。親しくなると、彼はもっともっと危険な友人になるんですからね――」ジョッブはジングルに目をやり、ちょっとためらい、最後に言った、「わたし――わたし自身よりもね」
「きみの一族は有望な一族ですな、トロッター君」ちょうど書き終えた手紙に封をしながら、パーカーは言った。
「そうですよ」ジョッブは答えた。「とてもそうなんです」
「うん」笑いながら、小男は言った、「きみがその一族の名折れになるよう、わしは期待しますね。リヴァプールに着いたら、この手紙を支配人にわたしてください。西インド諸島(北米東南部と南米北部とのあいだの諸島)では、ふたりとも、あまり|手管《てくだ》は使わんようにすることですな。このチャンスをのがしたら、ふたりとも絞首刑になってもしかたがないとこでしょう、きっとそうなるもんと思いますがね。さて、ピクウィックさんとわたしとふたりだけにしてもらいましょうか、ふたりとも話し合わねばならぬことがあり、時は金なりと言いますからな」こう言って、パーカーはドアのほうに目をやり、別れの挨拶はできるだけ簡単にしてほしいということをはっきりと示した。
ジングルのほうは簡単だった。弁護士が援助を与えてくれた親切と迅速さにたいして、彼はあわただしいわずかの言葉で小男に礼を述べ、彼の恩人のほうに向かっては、まるでなにを言ったものか、どうしたらいいのか決めかねているように、数秒間立ちつくしていた。ジョッブ・トロッターはこのとまどいに助け舟を出した。というのも、ピクウィック氏にたいして丁寧に感謝の念をこめてお辞儀をしてから、彼は友人の腕をやさしくとり、彼をつれだしていったからである。
「りっぱな二人組ですな!」彼らが出ていったあとでドアが閉まったとき、パーカーは言った。
「そうなってくれればいいんですがね」ピクウィック氏は答えた。「あなたはどう思います? ふたりが恒久的に立ちなおる見とおしありと思いますかね?」
パーカーは疑わしげに肩をすくめたが、ピクウィック氏の心配そうな、がっかりした顔を見て、こう答えた――
「もちろん、その見とおしはありますよ。これが前途開けるものになればいいんですがね。ふたりはたしかに、いまは前非を悔いてます。しかし、それにしても、つい最近の苦しみの記憶はまだ真新しいものなんですからね。その記憶がうすれていったとき、彼らがどうなるかは、あなたにもわたしにもわからんことなんです。しかし」パーカーはピクウィック氏の肩に手を当てて、言いそえた、「その結果がどうであれ、あなたの目的は同じようにりっぱなものですよ。とても用心深くて遠目がきき、慈善者自身がごまかされまい、自己心が傷つけられまいとして、結局はほとんどなにもおこなわれないことになってしまうあの慈善というものが本当の慈善か、世俗的ないかさまかの問題は、わたしより優秀な頭の持ち主に決定してもらうことにしましょう。だが、あのふたりがたとえ明日泥棒をしたとしても、このあなたの行為はやはり尊いもの、とわたしは考えますな」
弁護士などにはめったに見受けられない力をこめた真剣な態度でこうしたことを述べ立ててから、パーカーは椅子を机に引きよせ、父親ウィンクル氏の頑固さについてのピクウィック氏の話に耳を傾けた。
「一週間お待ちなさい」予言でもするように頭をうなずかせて、パーカーは言った。
「彼の気持ちが変わると考えるのですか?」ピクウィック氏はたずねた。
「そうだと思いますな」パーカーは答えた。「もしそうならなかったら、あの若いご婦人の説得力にたよらねばなりません。それは、あなた以外のだれもが、まず第一に試みたことでしょうからね」
若いご婦人方のもつ強い説得力をほめたたえるために、いろいろとグロテスクなふうに顔を引きゆがめて、パーカー氏はかぎタバコをかいでいたが、そのとき、外の事務所でブツブツ声のたずねたり答えたりする声が聞こえ、ラウテンがドアをノックした。
「どうぞ!」小男は叫んだ。
ラウテンは中にはいり、なにかとてもふしぎな態度で、ドアを閉めた。
「どうしたんだね?」パーカーはたずねた。
「あなたに用事なんです」
「だれが?」
ラウテンはピクウィック氏を見やり、咳払いをした。
「だれが? きみは言えんのかね、ラウテン君?」
「いやあ」ラウテンは答えた、「それはドッドソンで、フォッグもいっしょにきてます」
「これはまあ!」自分の時計を見ながら、小男は言った、「ピクウィック、あんたの例のことの話をつけるために、十一時半にここに来るようにと、彼らに言っといたんですがね。わたしはふたりに約束し、それにもとづいて、彼らはあなたを監獄から放免したわけなんです。とてもまずいことですな。どうします? となりの部屋にはいっていますかね?」
そのとなりの部屋というのはドッドソン氏とフォッグ氏がいた部屋だったので、ピクウィック氏は、自分がいまいるところにいよう、自分が彼らに会うのを恥じるというより、ドッドソン氏とフォッグ氏こそ彼をまともに見るのを恥じるべきなのだから、と答えた。そのあとのほうの事情をよく考えていただきたい、と顔をほてらせ、いかにも怒ったふうを見せて、彼はパーカー氏にたのんだ。
「よくわかりました、よくわかりましたよ」パーカーは答えた、「わたしの言えることはただ、あなたと顔を合わせることになって、ドッドソンなりフォッグなりが恥じたり狼狽したりするふうを見せるなんて思っているとしたら、あなたはわたしがまだ会ったことがないほど考えのあまい人だということだけですよ。ふたりを案内してつれてきてくれたまえ、ラウテン君」
ラウテン氏はニヤリと笑って姿を消し、すぐに、法律相談所の名前の順どおりに、ドッドソンを先に、フォッグをあとにして、ふたりを室内につれてきた。
「あなたはピクウィックさんとお会いになったことはありますね?」ペンをピクウィック氏が坐っているほうに向けて、パーカーは言った。
「やあ、ご機嫌いかがですかね、ピクウィックさん?」大きな声でドッドソンは言った。
「いや、これは!」フォッグは叫んだ、「ご機嫌いかがですかね、ピクウィックさん? お元気でしょうな? なんだかそちらの顔に見おぼえはあると思ってたんですよ」椅子を引きよせ、ニヤリとあたりを見まわして、フォッグは言った。
こうした挨拶にたいして、ピクウィック氏はちょっと頭を傾け、フォッグが上衣のポケットから書類のたばを引っぱりだすのを見て、立ちあがって、窓辺にいった。
「ピクウィックさんが座をはずす必要はありませんよ、パーカーさん」小さなたばをしばった赤いひもをほどき、前よりもっと愛想よくニッコリとして、フォッグは言った。「ピクウィックさんはこうしたことはかなりよくご存じ、われわれのあいだには、なにも秘密はないと思いますからな。ひっ! ひっ! ひっ!」
「そうたんと秘密はないはずだね」ドッドソンは言った。「はっ! はっ! はっ!」金を受けとろうとする人たちがよくやるように、このふたりは――陽気に楽しそうに――声を合わせて笑いだした。
「のぞき見にたいして、ピクウィック氏に罰金を払わしますかな」書類を開きながら、彼なりのユーモアを大いに発揮させて、フォッグは言った。「査定した訴訟費用の金額は百三十三ポンド、六シリング、四ペンスですよ、パーカーさん」
この損益の陳述のあとで、書類の照合、ページのめくりがフォッグとパーカーによっていろいろとおこなわれたが、そのあいだに、ドッドソンは愛想よくこうピクウィック氏に話しかけた――
「この前お会いしたときほどお元気そうには思えませんがね、ピクウィックさん」
「たぶん、そうでしょうよ」ピクウィック氏は答えた。彼は激怒の目を何回か投げかけていたが、それは、この狡猾な弁護士たちのいずれにも、ぜんぜん通じるものではなかった。「きっとそうだと思いますよ。最近悪党どもに迫害を受け、なやまされていたのですからな」
パーカーは激しい咳をし、朝の新聞を読みたくはないか、とピクウィック氏にたずね、その質問にたいして、ピクウィック氏は断固として、読みたくはない、と答えた。
「まったく」ドッドソンは言った、「フリート監獄ではたしかに[#「たしかに」に傍点]なやまされたことでしょうな。あそこには妙な紳士連が何人かいますからね。あなたの部屋はどの辺でしたかね、ピクウィックさん?」
「わたしのひとつの部屋は」被害をひどく受けたピクウィック氏は答えた、「喫茶室の階にありましたよ」
「おお、そうでしたか!」ドッドソンは言った。「そこは監獄ではとても感じのいいとこですよ」
「とてもね」素っ気なくピクウィック氏は答えた。
こうした態度すべてには冷静な態度が示され、こうした事情のもとで、それは怒りっぽい気質の紳士にはじつに我慢ならぬものになっていた。ピクウィック氏は巨人的な努力を払って自分の怒りを抑えていたが、パーカーが全金額の小切手を書き、フォッグがそれを小さな紙入れにおさめ、にきびだらけの顔に勝ち誇った微笑を浮かべ、それがドッドソンのきびしい顔に伝わっていったとき、彼は頬の血が怒りでうずくのを感じた。
「さあ、ドッドソンさん」紙入れをおさめ、手袋をはめながら、フォッグは言った、「お供しますよ」
「ありがとう」立ちあがって、ドッドソンは言った、「すぐ失礼しましょう」
「とてもうれしいこってすよ」小切手で気持ちをなごませて、フォッグは言った、「ピクウィックさんとお知り合いになれてね。ピクウィックさん、はじめてお会いしたときほど、われわれのことをそうわるく考えてはいただきたくないもんですな」
「そうですとも」せっかくの美徳が中傷を受けたといった高い調子で、ドッドソンは言った。「ピクウィックさんはこれでもうわれわれのことをよくご存じと思いますな。われわれ弁護士のことをどう思っておいでかわかりませんがね、わたしの仲間がいま申したあのとき、コーンヒルのフリーマン小路のわれわれの事務所であなたが発表してもいいと思われたあのご意見にたいして、わたしはべつにあなたに悪意・復讐心はもっていないことを、はっきりと申しあげておきましょう」
「ええ、そうですとも、そうですとも。わたしもそんな気持ちはもってはいませんよ」いかにも許してやるといった態度で、フォッグは言った。
「われわれの行動は」ドッドソンは言った、「どんな場合でも、それで自身を語り、それが正しいことを示すでしょう。わたしはこの職業に何年間か従事し、ピクウィックさん、多くのりっぱな依頼人にも信用されているんですからな。さて、お別れしますかな」
「さようなら、ピクウィックさん」フォッグは言った。そう言いながら、彼は傘を小脇にかかえ、右の手袋をぬぎ、あのカンカンに怒り立っている紳士のほうに和解の手をさしのべた。ピクウィック氏は、そこで、両手をさっと上衣のうしろの垂れの下にかくし、軽蔑をこめた驚きの目で、フォッグをジッとながめていた。
「ラウテン!」このときパーカーは叫んだ、「ドアを開けなさい」
「ちょっと待って」ピクウィック氏は言った、「パーカー、わたしは話すつもり[#「つもり」に傍点]なんですからな」
「いやあ、いまのまま波風は立てないでおいてください」この話し合い中ずっとハラハラと心配しながらながめていた小男の弁護士は言った。「ピクウィックさん、おねがいしますよ」
「わたしはだまってはいませんぞ」せきこんでピクウィック氏は答えた。「ドッドソンさん、あんたはなにかわたしに言いましたね」
ドッドソンは向きなおり、おだやかに頭をかがめ、ニッコリとした。
「あんたはなにかわたしに言いましたね」あえぐようにして、ピクウィック氏はくりかえした。「そして、あんたの仲間はわたしに手をさしだし、ふたりとも、許容と高潔の調子をよそおっておいでですな。これは、きみたちのような人間からも、予期していなかった厚かましいことですぞ」
「えっ、なんですって!」ドッドソンは叫んだ。
「えっ、なんですって!」フォッグはくりかえした。
「わたしがきみたちの策略・陰謀の犠牲になっていたことを、あんたたちは知っているのですか?」ピクウィック氏はつづけた。「わたしがきみたちによって獄に投じられ、略奪されてきたことを、あんたたちは知っているのですか? バーデルとピクウィックの事件で、きみたちが原告の弁護士だったことを知っているのですか?」
「ええ、われわれはそれをたしかに知ってますよ」ドッドソンは答えた。
「もちろん、われわれはそれを知ってますよ」たぶん偶然だろうが、ポケットをピシャリと打って、フォッグは答えた。
「それを思い出して満悦していることはわかりますよ」生まれてはじめて冷笑を顔に浮かべようとし、みごとにそれに失敗して、ピクウィック氏は言った。「あなたたちのことをわたしがどう考えているか、はっきりとした言葉できみたちに伝えたいものと、ながいこと考えていたんですがね、きみたちの厚かましい調子と図々しいなれなれしさがなかったら、わが友パーカーの希望に敬意をあらわして、この機会をのがしてしまったことでしょう」ピクウィック氏はこう言って、すごい勢いでフォッグのほうにふり向いたが、そのため、フォッグは大急ぎでドアのほうにとびさがった。
「ピクウィックさん、注意なさいよ」四人のなかでいちばんの大男のくせに、もう慎重にもフォッグの背後に身をおき、顔を真っ青にしてフォッグの頭越しに話をしながら、ドッドソンは言った、「フォッグ君、彼に手を出させるんですぞ。こっちからの反撃は絶対にいけませんぞ」
「ええ、ええ、反撃はしませんよ」話しつつさらに少しさがりながら、フォッグは言った。これはたしかにドッドソンには助かったことで、彼はこれでだんだんとおもての事務所のほうに出ていったからである。
「きみたちはね」話の糸をもとにもどして、ピクウィック氏はつづけた、「きみたちはいかにも釣り合った、野卑な、たちのわるい、三百代言的な盗人ふたりというところ」
「さあ」パーカーは口をはさんだ、「それですみましたかね?」
「いまの言葉ですっかり語りつくされていますよ」ピクウィック氏は答えた。「彼らは野卑な、たちのわるい、三百代言的な盗人ですよ」
「さあ」とても和解的な調子でパーカーは言った。「おふたりとも、彼は言いたいことぜんぶを言ったのです。どうぞお引きとりください。ラウテン、ドアは開いてるかね?」
ラウテン氏は、遠くでクスクス笑いながら、開いている、と答えた。
「さあ、さあ――さようなら――さようなら――さあ、どうかおふたりとも――ラウテン君、ドアだ!」事務所から大よろこびでドッドソンとフォッグをおしだしながら、小男は叫んだ。「こちらですよ、おふたりとも――おねがいです、これは早く切りあげにしてください――あれっ!――ラウテン君――ドアだ――なにをぐすぐずしてるのだい?」
「イギリスに法律というものがあったら」帽子をかぶりながら、ピクウィック氏のほうを見て、ドッドソンは言った、「あんたはこれでひどい目にあいますぞ」
「きみたちはそろいの野卑な――」
「いいですか、これで高い代償を払うことになるんですからな」フォッグは言った。
「――たちのわるい、三百代言的な盗人だ!」自分に浴びせられた威嚇は一向気にせずに、ピクウィック氏はつづけた。
「盗人どもだ!」ふたりの弁護士がおりていったとき、階段の上のところにかけていって、ピクウィック氏は叫んだ。
「盗人どもだ!」ラウテンとパーカーのところからとびだし、階段の窓から頭を突き出して、ピクウィック氏は叫んだ。
ピクウィック氏が頭をひっこめたとき、彼の顔は微笑を浮かべ、平静になり、静かに事務所にもどっていって、これで心の重荷をおろし、すっかり快適・幸福な気分になったと言い切った。
パーカーはかぎタバコ入れを空にしてしまうまでなにも言わず、それにタバコをつめるようにとラウテンを使いに出してから、急に爆笑の発作におそわれ、それは五分間つづき、それが終わると、自分はとても憤慨すべきなのだが、さし当たって仕事を真剣に考える気にもなれない――考えることができるようになったら、考えることにしよう、と言っていた。
「さて、そこで」ピクウィック氏は言った、「あなたとも話をつけることにしたいものですな」
「いまのと同じもんですかね?」また笑いだして、パーカーはたずねた。
「かならずしも同じとは言えませんな」紙入れを引きだし、小男と心こもる握手をして、ピクウィック氏は答えた、「わたしが考えているのは金銭上の話。あなたにはとてもおかえしできぬほどいろいろと親切をしてもらいました。そのおかえしをする気はありませんよ、その恩義をこれからもつづけていただきたく思っているのですからな」
こう前おきして、ふたりの友人はとても複雑な勘定書きと領収証の話にうつり、パーカーがそれをきちんと示し、精密に調べてから、ピクウィック氏は感謝の言葉をいろいろと述べて、すぐにその支払いをすませた。
彼らの話がここまで進んだとき、じつに激しいびっくりするほどのノックの音がドアに聞こえてきた。それはふつうのトントンとたたくものではなく、たたき手がいつまでも打ちつづける力を与えられているか、外の人が手を休めるのを忘れてしまったかのように、ひとつひとつがじつに大きな音を立てる絶え間なしの連続音だった。
「いや、驚いた、あれはなんだろう!」ギクリとして、パーカーは言った。
「ドアのノックの音と思いますな」その事実にいささかなりとも疑念があるといったような口ぶりで、ピクウィック氏は返事をしたのだった!
ノックしている人物は、これにたいして、言葉以上のたくましい返事を与えた。一刻も休まず、驚くべき力と物音で、それがつづけられたからである。
「これは驚いたこと!」ベルを鳴らして、パーカーは言った、「法学院ぜんぶがびっくりすることでしょうよ。ラウテン君、ノックの音が聞こえないのかい?」
「すぐにそこにいって返事をしますよ」事務員は言った。
ノックをしている人物は返事を聞いたが、そんなにぐずぐずはしていられないといったようすだった。それはすごい物音だった。
「まったくひどい音だ」耳をふさぎながら、ピクウィック氏は言った。
「急ぐんだ、ラウテン君」パーカーは呼びかけた、「羽目板をぶち破られてしまうからな」
暗い小部屋で手を洗っていたラウテンは急いでドアのところにゆき、取っ手をまわして、つぎの章で描かれている場景をながめた。
[#改ページ]
第五十四章
[#3字下げ]二重のノックに関するある細かな話とほかのことがら。その中で,スノッドグラース氏と若い婦人に関するおもしろい話は、この物語には決して筋ちがいのものとは言えない
びっくり仰天している事務員の目の前に姿をあらわしたのは、少年――すごく太った少年――まるで眠っているように目を閉じて靴ぬぐいの上に直立している奉公人姿の少年だった。旅まわりの動物見世物の内外で、彼はこんなに太った少年を見たことはなく、これは、こうした激しいノックをした者から当然予期されるものとはひどくかけちがった外貌の冷静と落ち着きと結び合わせて、彼をびっくりさせたのだった。
「どうしたんです?」事務員はたずねた。
この風がわりな少年は一言も答えず、一度うなずいただけ、事務員の想像するところでは、かすかにいびきを立てているようだった。
「どこから来たんですね?」事務員はたずねた。
少年はなんの兆候も示さず、息づかいを荒くしていたが、その他の点では、ジッと立ちつくしていた。
事務員は質問を三回くりかえし、返事がなかったので、ドアを閉じようとすると、少年は急に目を開き、何回かウィンクをし、一度くしゃみをし、まるでノックをくりかえそうとするように、片手をあげた。ドアが開かれているのに気がついて、彼はびっくりしてあたりを見まわし、最後にとうとうラウテン氏の顔にジッと目をそそいだ。
「いったいぜんたい、どうしてあんなにノックをしたんですかね?」腹立たしそうに、事務員はたずねた。
「あんなにって、どんなふうに?」ゆっくりと眠たそうな声で、少年はききかえした。
「いやあ、四十人の貸し馬車の御者のようにですよ」事務員は答えた。
「ドアが開けられるまでノックをやめてはいけない、眠りこんではいけないからって、旦那さまから言いつかったんでね」少年は言った。
「そう」事務員は言った、「ところで、用件は?」
「彼は階段の下にいるんです」少年は答えた。
「彼って、だれが?」
「旦那さまですよ。あんたが家にいるかどうか、知りたがっておいでなんです」
ラウテン氏はこのとき、フッと思いついて、窓の外をながめてみた。おおいのない馬車に乗った元気そうな老紳士がとても心配そうにこちらを見あげているのをながめて、彼は思いきって手招きしたが、すると、老紳士はすぐ車からとびだしてきた。
「車にいるきみのご主人というのは、あの人でしょうね?」ラウテンはたずねた。
少年はうなずいた。
これ以上の質問はなにもおこなわれず、老ウォードルがあらわれ、彼は階段をかけあがって、ラウテンにちょっと挨拶をし、すぐにパーカー氏の部屋にはいってゆくことになった。
「ピクウィック!」老紳士は言った。「さあ、握手! どうして監獄に閉じこめられていたことを、おとといまで知らせなかったんだい? それに、どうしてきみはピクウィックにそんなことをさせたんだい、パーカー?」
「どうにもしようがなかったです」ニッコリとし、かぎタバコをひとつまみして、パーカーは答えた。「彼がどんなに頑固か、あなたもご存じのはずです」
「もちろん、知ってるよ、もちろん、知ってるよ」老紳士は答えた。「だが、ともかく、彼と会えてとてもうれしいね。あわてて彼の姿を見失うようなことは、二度としないよ」
こう言って、ウォードルはピクウィック氏ともう一度握手し、パーカーにたいしてもそれをして、肘かけ椅子に身を投げ、彼の陽気な赤い顔は、微笑と健康でふたたび輝いていた。
「うん!」ウォードルは言った。「いろいろとりっぱな仕業がおこなわれるもんさ――パーカー、きみのかぎタバコをひとつまみくれたまえ――こんな時代ってないね、どうだい、えっ?」
「というのは、どういうことですね?」ピクウィック氏はたずねた。
「どういうことだって!」ウォードルは答えた。「いやあ、女どもはみんな気がくるってると思うんだ。そんなことなんか珍しいことではないとでも言うのかい? たぶん、そうだろうね。だが、それにしても、それは事実だよ」
「そんなこと[#「そんなこと」に傍点]を話すために、えりにえってロンドンにあなたはやってきたのではないのでしょうね?」パーカーはたずねた。
「そう、そればっかりではないけどね」ウォードルは答えた。「でも、それがわしのやってきた主な原因ではあるのだ。アラベラはどうしてますね?」
「とても元気ですよ」ピクウィック氏は答えた、「きっと、あなたにお会いして、よろこぶことでしょう」
「黒いひとみのちびの浮気女め!」ウォードルは答えた。「いずれ近く、わし自身があの女と結婚しようと強く考えていたんだがね。だが、それはうれしいこと、とてもうれしいことだ」
「だが、どうしてそれを知ったんです?」ピクウィック氏はたずねた。
「おお、もちろん、その知らせは家の娘たちのとこに来たのさ」ウォードルは答えた。「アラベラはおととい手紙をよこし、夫の父親の承諾を得ずに結婚してしまい、父親が反対してもどうにもならぬときになって、その承諾をとりにきみが出かけていったこと、その他を知らせてきたんだ。これはわしの[#「わしの」に傍点]娘たちにある重大なことを話すいい潮時と考え、親の承諾なしに結婚するのがどんなにおそろしいことかといったようなことを話してやったんだが、驚いたことに、娘たちはなんの反応を示さず、ケロリとしているんだ。花嫁の付添人(若い処女がそれをつとめる)なしで結婚するのをもっともっとおそろしいことと彼らは考え、まるでわしがジョー相手に説教したのと同じなんだ」
ここで老紳士は話をとめて笑いだし、思いきり笑ってから、すぐ話をつづけた。
「だが、どうやら、それで最後というのではないらしい感じ。これは進行中の求婚と陰謀の半分にすぎんもんでね。この半年のあいだ、われわれは地雷の上を歩いていて、とうとうそれが爆発したんだ」
「というのは、どういうこと!」青くなってピクウィック氏は叫んだ。「ほかに秘密の結婚があったわけじゃないんでしょうね?」
「いや、いや」ウォードルは答えた、「そんなにひどいことではないさ」
「じゃ、どういうこと?」ピクウィック氏はたずねた。「わたしがそれと関係しているんですかね?」
「この質問に答えていいかね、パーカー?」ウォードルは言った。
「それで、のっぴきならぬことにならなければね」
「うん、それなら、きみも関係してるよ」ウォードルは言った。
「どう?」心配そうにピクウィック氏は言った。「どんなふうに?」
「まったく」ウォードルは答えた、「きみは気性の激しい青年だからね、話すのがおそろしくなるくらいだよ。だけど、パーカーがわれわれのあいだに坐っていて、面倒が起きないようにしていてくれるのだから、まあ、思いきって話すことにしよう」
部屋のドアを閉め、パーカーのかぎタバコで元気をふるい立たせて、老紳士はつぎのような言葉でそのすごい打ち明け話をしはじめた。
「事実は、わしの娘ベラ――青年トランドルと結婚したあのベラが――」
「ええ、ええ、知っていますよ」いらいらしてピクウィック氏は言った。
「しょっぱなから驚かさないでくれたまえ。アラベラの手紙を読んで聞かせてくれたあとで、エミリーが頭痛で部屋に引きあげていってから、娘のベラが、このあいだの晩、わしのそばに坐り、この結婚について話をしはじめたんだ。『ねえ、お父さま』彼女は言ったよ、『それをどうお考えになること?』。『うん、お前』わしは言ったね、『とても結構なことと思うよ。それが最上のことだったらいいのだけどね』わしはそんなふうに答えたんだが、そのとき物思いにふけりながら酒を飲んで坐り、ときどきはっきりしない言葉をさしはさんでやったら、それで彼女の話もつづくものと思ったからさ。娘ふたりはその女親の生き写し、わしも齢をとると、娘ふたりだけをわきにおいて坐っているのが好きになってるのだからね。ふたりの声と顔つきは、生涯でいちばん幸福だった時代にわしをつれもどし、ちょっとそのあいだだけ、そう陽気ではないにせよ、むかしどおりの若々しい気分にわしをしてくれるのだからね。『それは、お父さま、純粋の愛情の結婚よ』ちょっとだまっていたあとで、ベラは言ったんだ。『そうだね、お前』わしは言ったね、『でも、こうした結婚は、かならずしもいちばん幸福なものになるとはかぎらないよ』」
「うん、そう、疑問ですな!」熱気をおびてピクウィック氏は口をはさんだ。
「わかった、わかった」ウォードルは答えた、「きみが話す番になったら、どんな疑問・質問もかまわないが、どうかわしの話の腰は折らんでくれたまえ」
「これは失礼」ピクウィック氏は言った。
「かまわんよ」ウォードルは答えた。「『愛情の結婚にお父さまが反対とお聞きして、残念ですわ』少し色をなして、ベラは言ったよ。『わしがわるかったよ。そんなことは言うべきではなかったね』わしのような荒っぽい老人としてはできるだけやさしく彼女の頬をたたいて、わしは言ったんだ、『お前のお母さんの結婚も、お前の結婚も、そうだったのだからね』。『わたしの言っているのは、そんなことじゃないのです。お父さま』ベラは言ったよ、『事実は、お父さま、わたし、エミリーについてお話ししたいのよ』」
ピクウィック氏はギクリとした。
「あれっ、どうしたんだね?」話をやめて、ウォードルはたずねた。
「いや、どうもしませんよ」ピクウィック氏は答えた。「どうか話をつづけてください」
「話をながながとしてることは、どうしてもできなくってね」いきなりウォードルは言った。「おそかれ早かれ、それはわかってくることだし、すぐそうなれば、時間の節約というもの。話のとどのつまりは、ベラがとうとう勇気をふるいおこして、こう言ったのだ。エミリーがとても気の毒な状態にあり、彼女ときみの若い友人のスノッドグラースは、この前のクリスマス以来、ずっと文通と連絡をとりつづけ、じつに忠実に彼女の旧友で学校友だちだった女の模範をみごとに踏襲し、彼と駈け落ち結婚を決心したものの、彼らふたりにわしがいつもそうとう親切にしていたので、そのことにちょっと気がとがめ、まず第一に、彼らがふつうどおりの結婚をするのにわしが反対かどうかをたずねるほうが礼儀だろう、と考えなおしたというわけさ。さあ、ピクウィック君、もしきみがその目をふだんの大きさにもどし、われわれがどうすべきか、きみの考えを知らせてくれたら、とてもありがたいしだいなんだがね!」
この陽気な老紳士がこの最後の言葉をしゃべったときのいらいらした態度は、かならずしも不当とは言えないものだった。ピクウィック氏の顔は、見るもふしぎなほどの驚愕と狼狽の表情に変わっていったからである。
「スノッドグラースが! この前のクリスマスからですって!」があわてふためいた紳士の口からついて出た最初のとぎれとぎれの言葉だった。
「この前のクリスマスからさ」ウォードルは答えた。「それははっきりしたこと。以前にそれを発見しなかったとは、ずいぶんひどい眼鏡をわれわれがかけていたことになりますな」
「まったく理解できませんな」考えこんでピクウィック氏は言った。「本当に、理解できませんな」
「それは理解しようとすれば、楽なことですぞ」怒りっぽい老紳士は言った。「あんたがもっと若かったら、とっくのむかしにその秘密を知ってたでしょうな。そのうえ」ちょっともじもじしてから、ウォードルは言いそえた、「ありていのことを言えば、このことはなにも知らなかったので、四、五か月前、近くにいるある青年紳士の言いよりを(もしできたらの話、わしは娘の好みにむりおしつけなんか絶対にせんからね)好意的に受けとるように、わしはエミリーにそうとう強くせまったのだ。これはまちがいないことだが、彼女は娘らしく、自分自身の価値を高くし、スノッドグラース氏の熱をあおり立てるために、このことをとても美しい色に染めあげて伝え、ふたりは、自分たちはひどい迫害を受けた不幸な男女、秘密結婚か無か、ほかに方法はないものと結論を出したのだ。さて、ここで問題になるのは、どうしたらいいか? ということさ」
「きみは[#「きみは」に傍点]どうしたんです?」ピクウィック氏はたずねた。
「わしがだって!」
「きみの結婚した娘がこの話をしたとき、きみはどうしたか? ということですよ」
「おお、もちろん、わしはバカげた態度をとったよ」ウォードルは答えた。
「まあ、そうでしょうな」時計の鎖をさまざまにねじり、鼻を激しくこすり、その他いろいろといらいらしているふうを見せて、この話を聞いていたパーカーは口を入れた。「それはきわめて当然のこと。だが、どんなふうに?」
「わしは怒りくるって、母親に発作を起こさせてしまったよ」ウォードルは答えた。
「それは思慮あること」パーカーは言った。「それ以外には?」
「翌日一日じりじりと怒り立ち、大さわぎをひきおこしたね」老紳士は答えた。「とうとう自分自身不愉快になり、ほかの人間すべてをみじめにするのにうんざりし、わしはマグルトンで馬車を借り、それにわしの馬をつけて、エミリーをアラベラに会わせるという口実で、ロンドンにやってきたわけさ」
「すると、ウォードル嬢はきみといっしょにいるわけですな?」ピクウィック氏はたずねた。
「たしかにいるよ」ウォードルは答えた。「今朝ロンドンにわしがやってきてから、きみの活躍家の友人が彼女と駈け落ちしていなかったら、いまアデルフィのオズボーンのホテルにいるよ」
「それじゃ、和解したんですね」パーカーはたずねた。
「とんでもない」ウォードルは答えた。「その後、きのうの晩はべつにして、彼女は泣いたりふさぎこんだりしていてね。きのうの晩は、お茶と夕食のあいだに、なにか大げさに手紙を書いているふうを示し、こちらはそれにぜんぜん気づいていないといったふりをしていたんだけどね」
「このことでわたしの意見を聞きたいのでしょうな?」ピクウィック氏の考えこんだ顔からウォードルのむきな顔つきのほうに目をうつして、好物のかぎタバコをつづけざまにいくつまみかして、パーカーは言った。
「そうだと思うんだがね」ピクウィック氏のほうを見やって、ウォードルは言った。
「もちろん」ピクウィック氏は答えた。
「ええ、それなら」立ちあがり、椅子をうしろにおして、パーカーは言った、「わたしの忠告は、あなた方ふたりがいっしょに歩いて出ていくか、車でいくか、あるいはなんかの方法でここを退散することです。あんたたちには、もううんざりですからな、そして、ふたりのあいだで、このことを話し合うんです。このつぎお会いするときまでに、まだ話がついてなかったら、そのときには、どうしたらいいか教えてあげましょう」
「それで満足ですよ」微笑すべきか、腹を立てるべきか、見当もつかずに、ウォードルは言った。
「ちぇっ、ちぇっ」パーカーはやりかえした。「あなた方が自分自身を知っているより、わたしのほうがおふたりのことをずっとよく知ってますよ。どの点から見ても、あなたたちはもう、それを決めてるんですからね」
こう自分の考えを述べ立てて、小男の紳士はかぎタバコ入れをまず第一にピクウィック氏の胸に、ついでウォードル氏のチョッキに突き出し、そこで三人は笑いだしたが、とくにあとのふたりの紳士の笑いは声高のもの、これといった明白な理由もないのに、ふたりはすぐふたたび握手をかわしていた。
「きょうはわしといっしょに晩餐をしてくれ」ふたりを外につれだしていったとき、ウォードルはパーカーに言った。
「お約束はできませんよ、お約束はね」パーカーは答えた。「とにかく、夕方ちょっと立ちよらせていただきましょう」
「五時に待ってるよ」ウォードルは言った。「さあ、ジョー!」そして、ジョーがとうとう目をさましたので、ふたりの友人はウォードル氏の馬車で去っていったが、その馬車の背後には、人情味ある配慮で、太った少年のための従者席があり、もしそれがただ単に踏み台だけだったら、この太った少年は、最初のうたた寝で、馬車から転げ落ち、死んでしまったことだったろう。
『ジョージと禿鷹旅館』に馬車でゆくと、彼らは、アラベラとその下女が、エミリーからロンドン到着の知らせを受けるとすぐ、貸し馬車を呼びにやり、まっすぐアデルフィにいったことを知った。ウォードルには市内で片づける仕事があったので、彼らは馬車と太った少年をウォードルの泊まっているホテルにやり、五時に彼とピクウィック氏が夕食をとりにもどってゆくことを伝えさせた。
この伝言を託されて、太った少年は、舗道の石の上を後部座席で、まるでそれが時計ぜんまいの上の羽毛の寝台のように、ぐっすりと眠りこんでもどっていった。馬車がとまったとき、なにか異常な奇跡によって、彼は自然に目をさまし、頭をはっきりさせるためにそうとう強く体をひとふりして、その任務遂行のために階段をのぼっていった。
さて、このひとふりが太った少年の能力をきちんと整頓させるかわりに、それを混乱させたのか、あるいは、ふつうの形式・儀式を忘れさせるほど多くの新しい考えを彼の頭に湧かせたのか、あるいは(これもまた考えられることなのだが)彼が階段をのぼってゆくとき、眠りをうまくとめることができなかったのか、それはいずれにせよ、彼が前もってドアにノックもせずに居間にはいりこんでゆき、ソファーの上にいとも仲むつまじくある紳士が彼の若い女主人のそばに坐り、両腕をこのご婦人の腰にまわし、アラベラとその美しい下女が部屋のべつの端のところで窓から外を熱心に見ているふりをしているのをながめたのは、たしかにまぎれもない事実だった。この現象を目にして、太った少年は思わず叫び声を、ご婦人方は悲鳴を、紳士はののしりの叫びを、ほとんど同時に発した。
「卑劣なやつ、ここになんの用があるのだ?」紳士は言ったが、彼は言うまでもなくスノッドグラース氏だった。
これにたいして、太った少年はひどくおびえ、ただ簡単に「お嬢さま」と答えただけだった。
「わたしにどうして用事があるの?」顔をそむけて、エミリーはたずねた、「バカな人ね!」
「旦那さまとピクウィックさんがここで五時に食事をなさいます」太った少年は答えた。
「部屋を出てゆけ!」とまどっている少年をにらみつけて、スノッドグラース氏は言った。
「いえ、いえ、いえ」急いでエミリーは言った。「ベラ、あなたの考えを教えてちょうだい」
ここで、エミリーとスノッドグラース氏、アラベラとメアリーは片隅に集まり、ひそひそ声で真剣に話し合いをはじめ、そのあいだ、太った少年はうとうとと眠っていた。
「ジョー」じつに魅惑的な微笑を浮かべてふり向いて、アラベラはとうとう言った、「ジョー、気分はどうなの?」
「ジョー」エミリーは言った、「あんたはとてもいい子ね。あんたのことは絶対に忘れないことよ、ジョー」
「ジョー」びっくりしている少年のほうに近づき、その手をにぎって、スノッドグラース氏は言った、「きみのことは知らなかったんだ。きみに五シリングあげるよ、ジョー!」
「いずれ五シリングあげることよ、ジョー」アラベラは言った、「むかしなじみのおしるしにね」そしてもう一度じつにすばらしい微笑がこの太った闖入者の上に投げられた。
太った少年の頭の動きは緩慢だったので、こうして相手に急に気に入られることになって、それをどう説明したらいいかととまどい、とてもすごいふうにあたりを見まわしていた。とうとう彼のだだっぴろい顔はそれに釣り合った大きなニヤリとした笑いの兆候を示しはじめ、ついで半クラウン銀貨(二シリング六ペンス)をそれぞれのポケットに入れ、そのあとに手と手首をつっこみ、生まれてはじめて、このさいにかぎり、しゃがれた笑い声を立てた。
「わたしたちのことが、わかってくれたのだわ」アラベラは言った。
「すぐになにか食べものを食べたほうがいいことね」エミリーは言った。
この話を聞いたとき、太った少年はまた大声で笑いだしそうになった。メアリーは少しひそひそと話をつづけたあとで、みなからはなれてとんとんと歩み出て、こう言った――
「そちらにご異議がなかったら、きょうはあなたとごいっしょに夕食をしたいわ」
「こちらへどうぞ」むきになって、太った少年は言った。「とてもおいしい肉パイがありますよ!」
こう言って、太った少年は先に立って階段をおり、彼の美しい相手は、給仕全員を魅了し、下女全員をプリプリさせて、彼のあとについて食堂にはいっていった。
太った少年がしみじみとして言っていた肉パイ、その上にビフテキ、じゃがいも[#「じゃがいも」に傍点]料理、黒ビールのびんが食卓に出されてあった。
「どうぞ坐ってください」太った少年は言った。「いや、驚いた、なんてすばらしいんだろう! ああ、腹が空いた!」
いかにも恍惚としたふうに視線を五、六度投げてから、少年は小さなテーブルの上座につき、メアリーは下座に坐った。
「これを少し食べますか?」ナイフとフォークを柄のはめ輪のところまでパイにつきさして、太った少年は言った。
「よろしかったら、少し」メアリーは答えた。
太った少年はメアリーには少し、自分にはたくさんとって、いざ食べようとしたとき、彼はいきなりナイフとフォークをおろし、前にのりだし、ナイフとフォークをつかんだままで、両手を膝の上におき、とてもゆっくりと言った――
「まったく! なんてきみはきれいなんだろう!」
これは驚嘆的に語られ、その点では満足すべきものだったが、この若い紳士の目には食人種的色彩が濃厚、その賛辞を倍にも強いものにしていた。
「まあ、ジョーゼフ」顔を赤らめるふりをして、メアリーは言った、「それはどういうこと?」
太った少年はだんだんともとの姿勢にもどり、深い溜め息でその返事をし、しばらくのあいだ考えこんでいてから、グッと黒ビールを飲みこんだ。これをすませてから、彼はまた溜め息をもらし、せっせとパイを食べはじめた。
「エミリーお嬢さんはなんて美しいお嬢さんでしょう!」ながい沈黙のあとで、メアリーは言った。
太った少年はこのときにはもうパイを食べ終わっていた。彼は目をメアリーの上にすえ、答えた――
「もっと美しい人を知ってるよ」
「|まあ《インデイード》!」
「うん、|本当さ《インデイード》!」ふだんにはない激しい勢いで、太った少年は言った。
「その方のお名前は?」メアリーはたずねた。
「きみの名前は?」
「メアリーよ」
「彼女の名前もそうだよ」太った少年は言った。「きみがその彼女なんだからね」少年はこのお世辞に風味をそえようと歯をむきだしにしてニヤリと笑い、そこでどうやら色目を使おうとしたものらしいのだが、その目はやぶにらみともすが目ともつかない恰好のものになった。
「そんなこと、わたしに話してはいけないことよ」メアリーは言った。「あなたはそんなつもりで言ってはいないことね」
「そんなつもりはないだって?」太った少年は答えた。「いや、驚いた!」
「そうよ」
「ここにはいつも来るのかい?」
「いいえ」頭をふって、メアリーは答えた、「今晩出かけるのよ。どうして?」
「おお!」強い感情をこめた調子で太った少年は言った、「きみがここにいてくれたら、食事でとても楽しめるのになあ!」
「たぶん、あなたと会いに、ときどきここに来るかもしれないことよ」恥じらいをよそおってテーブルかけを折りながら、メアリーは言った、「ひとつおねがいをきいてくれたらばね」
太った少年は、そのおねがいがなにか食べ物と結びついたものにちがいないといったふうに、パイの皿からビフテキのほうに目をうつした。それから、半クラウン銀貨をとりだし、心配そうにそれをながめていた。
「わたしの言ってること、わからないこと?」彼の太った顔をいたずらっぽくながめて、メアリーはたずねた。
彼はふたたび半クラウン銀貨に目をやり、弱々しく「わからないね」と答えた。
「ご婦人方は、あの若い紳士の方が二階においでになってたことを、あなたの口からあなたの旦那さまに伝えてほしくはないの。わたしも同じ気持ちよ」
「それだけのことかい?」半クラウン銀貨をポケットにおさめながら、とてもホッとしたようすで、太った少年は言った、「もちろん、言うつもりはないよ」
「いいこと」メアリーは言った、「スノッドグラースさんはエミリーお嬢さんをとても好き、エミリーお嬢さんはスノッドグラースさんをとても好き。もしあんたがそのことを話したら、あんたの旦那さまは遠いいなかにあんたをつれていって、そこでは、だれとも会えないことよ」
「いや、いや、だれにも言わないよ」太った少年はしっかりと言った。
「あんたはいい子だことね」メアリーは言った。「さあ、もう二階にいって、奥さまに晩餐の仕度をしてあげなければならないわ」
「まだいかなくてもいいよ」太った少年は言った。
「いかなければならないの」メアリーは答えた。「しばらくのあいだ、さようなら」
太った少年は、象のようなふざけっぷりで、両腕をのばしてキスをうばおうとしたが、彼からのがれるのに、べつに特別の敏捷さを必要とはしなかったので、彼が腕を組み合わせるまでに、彼の心を魅了した美女は姿を消してしまい、そこで無感動の少年は感傷的な顔をしてビフテキを一ポンドがそこいら平らげ、ぐっすりと眠りこんでしまった。
階上では語るべきことがとても多くあり、老ウォードルが妥協的態度を示さぬ場合、駈け落ち結婚をするのに打ち合わせておかねばならぬいろいろの計画があったので、スノッドグラース氏が最後の別れを告げたときには、夕食までもう三十分しかない時刻になっていた。ご婦人方は衣装がえにエミリーの寝室にかけこみ、スノッドグラース氏は帽子をとり、部屋から出ていった。彼が部屋のドアから出るかでないかに、彼の耳に大声でしゃべっているウォードルの声がひびき、手すり越しにながめると、彼が何人かほかの紳士をしたがえて、まっすぐ階段をあがってくるのが目にはいった。この家の事情にはぜんぜん通じていないスノッドグラース氏は、あわてふためいて、急いでいま出てきた部屋にまいもどり、そこから奥の部屋(ウォードル氏の寝室)にはいっていって、彼がチラリと見かけた人たちが居間にはいってくるちょうどそのとき、ドアをそっと閉めた。この人たちはウォードル氏、ピクウィック氏、ナサニエル・ウィンクル氏とベンジャミン・アレン氏で、彼らの声でその人たちがだれかは、彼にすぐわかった。
「心が落ち着いていたので、彼らをさけることができた。本当に運がよかったな」ニヤリとしてスノッドグラース氏は考え、爪先立ちで寝台のすぐそばのドアのほうにそっと歩いていって、「このドアは同じ廊下に通じているもの。静かに気持ちよく、ここを出てゆけるわけだ」
彼が静かに気持ちよく出てゆくのにはひとつしか障害はなく、それはドアに錠がかけられ、鍵が紛失していることだけだった。
「きょうはいちばんいいぶどう酒を出してくれ、給仕君」悦に入って両手をこすり合わせながら、老ウォードルは言った。
「最高のものをお出ししますよ」給仕は答えた。
「ご婦人方にわれわれが来たことを知らせてくれたまえ」
「承知いたしました」
自分も[#「自分も」に傍点](この部屋に)やって来る破目になったことをご婦人方に知らせたいものと、スノッドグラース氏は心の底から熱烈に希望していた。彼は一度思いきって鍵穴から「給仕君!」とささやいてみたが、見当ちがいの給仕が彼を救いにとびこんでくる可能性と、自分自身の立場が近くのホテルでべつの紳士が発見された立場(この不幸な話はその日の朝刊に「警察」の項目のもとで出ていたものだった)にとても似かよっていることを思い合わせて、彼は旅行カバンに腰をおろし、ひどく体をふるわしはじめた。
「パーカーを待っていることはありませんな」懐中時計を見ながら、ウォードルは言った。「彼は時間を守る男。来るつもりなら、時間どおりにここに来るでしょう。もし来なかったら、待っててもむだなこと。はっ! アラベラだ!」
「妹だ!」とベンジャミン・アレン氏は叫び、じつにロマンチックなふうにアラベラをだきしめた。
「まあ、ベン、とてもタバコのにおいがすることね!」この愛情の表示にすっかり圧倒されて、アラベラは言った。
「そうかい?」ベンジャミン・アレン氏は言った、「そうかい、ベラ? うん、そうかもしれないな」
たしかにそうだった。大きな火の燃えている小さな裏の部屋で、十二名の医学生が楽しいささやかな喫煙会をもよおし、彼はそこを出てきたばかりだったからである。
「だが、きみに会えてうれしいよ」ベン・アレン氏は言った。「おめでとう、ベラ!」
「はい、どうぞ」兄にキスをしようと前にかがみこんで、ベラは言った、「ベン、おねがい、わたしをもうこれ以上つかまえてはいけないことよ。だって、あなたにもみくちゃにされてしまうんですもの」
和解のこの点で、ベン・アレン氏は自分の感情・タバコ・黒ビールにすっかり打ちのめされ、ぬれた眼鏡でまわりの人を見まわした。
「わしにはなんにも話してはもらえないのかね?」両腕をひろげてウォードルは叫んだ。
「たくさんありますことよ」老紳士の心こもる愛撫と祝福を受けながら、アラベラはささやいた。「あなたはひどい、冷酷な、残忍な怪物よ」
「きみは叛逆者のチビ公だよ」同じ調子で、ウォードルは言った、「それに、きみには、家に立ち入り禁止を命じなければならんかもしれんな。だれにもおかまいなし結婚してしまうきみのような連中は、社交界におっぱなしてはならんものなんだからな。だが、さあ!」老紳士は大声で言いそえた。「さあ、晩餐だ。きみはわしのわきに坐るのですぞ。ジョー、あれっ、あいつときたら、目をさましてるぞ!」
主人がとてもあわてたことに、太った少年はたしかにしっかりと目をさましている状態にあり、その目はパッと見開かれ、そうした状態をつづけそうな気配を示していた。彼の態度には、また、てきぱきしたところがあり、これも同じようにわけのわからぬことだった。彼の目がエミリーかアラベラの目に出逢ったときにはいつも、彼はつくり笑いをし、ニヤリとして、一度はたしかにウィンクをしたとウォードルが誓言できるほどだった。
太った少年の態度におけるこの変貌ぶりは、彼自身の重要性、若いご婦人方の内輪話に引きこまれたことで彼が身につけた威厳を彼がいっそう強く意識していることから発したもので、つくり笑い、ニヤリとした笑い、ウィンクは、自分の忠実さにご婦人方が信頼してもよいというそれぞれのいたわりの保証だった。こうした兆候は疑惑を静めるよりそれを起こさせるもの、そのうえ、だいぶやっかいなものだったので、それは、アラベラから渋面、あるいは頭をふるといった答えを受けることになったが、太った少年はそれを警戒せよという合図に受けとったので、彼は前にも倍する熱心さで、つくり笑い、ニヤリとした笑い、ウィンクをして、その合図を完全に理解していることを表示していた。
「ジョー」ポケットをぜんぶさがしても見つからなかったので、ウォードル氏は言った、「わしのかぎタバコ入れはソファーの上にあるのかね?」
「いいえ、ちがいます」太った少年は答えた。
「ああ、思い出した。今朝それを化粧テーブルの上においたのだったな」ウォードルは言った。「となりの部屋に走っていって、それをとってきてくれ」
太った少年はとなりの部屋にはいってゆき、約一分ほどして、かぎタバコ入れをもってもどってきたが、その顔は、この太った少年にはかつてないほど青ざめていた。
「あの少年はどうしたんだろう!」ウォードルは叫んだ。
「べつにどうということはありませんよ」神経質そうにジョーは答えた。
「なんか亡霊でも見たのかい?」老紳士はたずねた。
「あるいは、なんかを飲んでたのかい?」ベン・アレン氏は言いそえた。
「そのとおりだと思いますな」テーブル越しにウォードルはささやいた。「たしかに酔っ払ってますよ」
ベン・アレン氏はそう思うと答え、この紳士は問題の病気をたくさん診断した経験の持ち主だったので、ウォードルは自分の心中にこの三十分間チラチラと姿をあらわしていた印象にまちがいはないと思いこみ、ただちに、太った少年は酔っ払っているものと判定をくだした。
「ちょっと数分間、彼から目をはなさないでいてくれたまえ」ウォードルはささやいた。「彼が酔っているかいないかは、すぐにわかるからね」
不幸な少年はスノッドグラース氏とほんの十数語話を交わしただけだった。スノッドグラース氏が自分を解放するようにそっとだれか友人にたのんでくれと彼に依頼し、彼がぐずぐずしていて発見されるようなことになっては大変と、かぎタバコをもたせて、彼を部屋からおしだしたからである。彼はじつに困った表情をしてちょっと考えこみ、メアリーをさがしに部屋を出ていった。
しかし、メアリーは女主人の化粧をすませてから家にもどっていってしまったので、太った少年は前にもました困った表情を浮かべてもどってきた。
ウォードルとベン・アレン氏は目を交わし合った。
「ジョー!」ウォードルは言った。
「はい」
「なんのため、部屋を出ていったのだね?」
太った少年は食卓についているすべての人の顔を絶望的にのぞきこみ、どもりながら、知らない、と答えた。
「おお」ウォードルは言った、「知らんのかい、えっ? このチーズをピクウィックさんのところへもってゆけ」
さて、ピクウィック氏は最高の健康と元気の状態にあり、夕食中ずっとくつろぎ、このとき、エミリーとウィンクル氏を相手に、むきになって話しこみ、話の勢いで慇懃に頭をさげ、自分の意見を強めるために、おだやかに左手をふり、静かな微笑で光り輝いていた。彼はチーズのひと切れを皿からとり、向きなおって会話をまたつづけようとしたとき、太った少年が前かがみになって、頭をピクウィック氏の頭の高さまでさげ、親指を肩越しにさし、クリスマスのおとぎ|芝居《パントマイム》でも見かけられぬほどのじつにおそろしい、兇悪な顔をしてみせた。
「あれっ!」ギクリとしてピクウィック氏は言った、「なんというまあ――えっ?」彼は話をとぎらせた。太った少年が体を引きあげ、ぐっすり眠りこんでしまったか、そのふりをしたからである。
「どうしたんですね?」ウォードルはたずねた。
「この少年はじつに妙なやつですね!」不安そうに少年をながめて、ピクウィック氏は答えた。「こんなことを言うと奇妙に思えるかもしれませんがね、まったく、彼はときどき頭がおかしくなっているんじゃないですかね」
「おお! ピクウィックさん、どうかそんなことは言わないでください」エミリーとアラベラは同時に叫んだ。
「もちろん、よくはわかりませんがね」深い沈黙とみなの狼狽しているようすにつつまれて、ピクウィック氏は言った。「でも、たったいま、彼がわたしにとった態度は本当にまったくおそろしいものでしたよ。おお!」短い悲鳴をあげていきなりとびあがりながら、ピクウィック氏は叫んだ。「ご婦人方、これは失礼しました。しかし、いま、彼はわたしの脚になにかとがったものをつきさしたのです。本当に、彼は危険な人物ですな」
「やつは酔っ払っているんです」激しい勢いで老ウォードルはわめいた。「ベルを鳴らせ! 給仕たちを呼べ! 彼は酔っ払ってるのだ」
「酔っ払ってはいません」主人に襟首をつかまれて、太った少年はひざまずきながら言った。「酔っ払ってはいません」
「じゃ、お前は気ちがいだ。そいつはなお始末がわるいぞ。給仕たちを呼べ」老紳士は言った。
「気ちがいでもありません。わたしは正気です」泣きはじめて、太った少年は答えた。
「じゃ、どうしてとがったものをピクウィックさんの脚にさしたりするんだ?」プリプリしてウォードルはたずねた。
「わたしを見ようとしなかったからです」少年は答えた。「あの方と話をしたかったんです」
「話をしたいって、なにを?」五、六人の声が同時にたずねた。
太った少年はあえぎ、寝室のドアをながめ、またあえぎ、左右の人さし指の関節で涙二滴をぬぐいとった。
「なにを言いたかったんだ?」彼の体をゆすり立てて、ウォードルはたずねた。
「ちょっと待って!」ピクウィック氏は言った。「ちょっと待ってください。坊や、お前はわしになにを伝えたかったのだね?」
「あなたに耳打ちをしたかったんです」太った少年は答えた。
「お前はあの人の耳を食いちぎりたかったんだろう」ウォードルは言った。「やつのそばによってはいけませんぞ。やつは敵意満々。ベルを鳴らして、彼を下につれてゆかせろ」
ウィンクル氏がベルのひもを手につかんだとき、それはみなの驚きの表情でとめられてしまった。とらわれの身の恋人が、狼狽で顔を燃え立たせ、急に寝室から歩み出てきて、みなに一礼したからである。
「いや、これは!」太った少年の襟首をはなし、ヨロヨロッとうしろによろめいて、ウォードルは叫んだ。「これはどうしたこと!」
「あなたがおもどりになってからずっと、となりの部屋にわたしはかくれていたのです」スノッドグラース氏は説明した。
「エミリー」なじるようにウォードルは言った、「卑劣と|欺瞞《ぎまん》はわしの大きらいなものでな。この行為は最高に不当な、たしなみのないこと。まったく、エミリー、お前からこんな仕打ちを受ける筋はないのだぞ!」
「お父さま」エミリーは言った、「わたしがこの潜伏の一味でないことは、アラベラも――ここのみんなも――ジョーも知っていることです。オーガスタス、どうかおねがい、この説明をしてちょうだい!」
話を聞いてもらおうと待ちかまえていたスノッドグラース氏は、この困った立場に自分がどうして追いこまれたのか、ウォードル氏が家にはいってきたとき、彼をさけたのは、ただ家庭内のもつれをひきおこすまいと配慮したためだけだったこと、べつのドアから出てゆくつもりだったが、そこに錠がかかっていて、心ならずもここにいのこることになったいきさつをすぐに説明した。それは苦痛を与える立場ではあったものの、ふたりの友人たちの前で、自分がウォードル氏の娘を深く心から愛し、この気持ちはたがいにいだき合っているものであることを誇りやかに宣言し、ふたりのあいだに何千マイルの距離があろうと、大海がさかまこうと、はじめて|云々《うんぬん》したあの幸福なときは絶対に忘れられない、等々を認める機会をそれが与えてくれたことを思えば、その苦痛はそれほどのものではない、とスノッドグラース氏は述べ立てた。
こうした意味のことを語ってから、スノッドグラース氏はふたたびお辞儀をし、帽子の天辺のところをのぞきこみ、ドアのほうに歩いていった。
「待て!」ウォードルは叫んだ。「どうして、すべての――」
「燃えやすいかな」なにかもっとひどいことが起きそうだと考えていたピクウィック氏はそっと言った。
「うん、燃えやすいすべてのものの名にかけ」この代用の言葉を使って、ウォードルは言った、「きみはそのことを最初にわしに話せなかったのだね?」
「あるいは、このわしに打ち明けられなかったのだね?」ピクウィック氏は言いそえた。
「まあ、まあ」弁護側にまわって、アラベラは言った、「そんなことをいま言っても、なんの役に立つのかしら? とくに、ご存じのように、あなたがもっと金持ちの義理の息子をむかえようとし、ひどくプリプリして怒りっぽくなり、わたし以外の人は、みんなふるえあがっていたんですものね。おねがい、彼と握手をし、彼になにか夕食を注文してあげてちょうだい、彼はいまにも飢え死にしそうなようすをしていることよ。それに、どうかすぐぶどう酒をもって来させてちょうだい。少なくとも二本それを飲むまで、まあ我慢できるあなたにはもどらないでしょうからね」
老紳士はアラベラの耳を引っぱり、さっさと彼女にキスをし、愛情をこめて自分の娘にもキスをし、熱をこめてスノッドグラース氏と握手をした。
「とにかく、ひとつの点では彼女の言うとおりだ」陽気に老紳士は言った。「ベルを鳴らして、ぶどう酒をたのんでくれ!」
ぶどう酒は運ばれ、パーカーがそれと同時に階段をあがってきた。スノッドグラース氏はわきのテーブルで夕食をとり、それをすますと、老紳士の反対はいささかも受けずに、椅子をエミリーのとなりに運んでいった。
この晩はすばらしい晩になった。小男のパーカー氏はすばらしく、さまざまな喜劇的な話をして聞かせ、その話と同じくらいにおもしろいまじめな歌を一曲歌った。アラベラはとても魅力的、ウォードル氏はとても陽気、ピクウィック氏はとても和気|藹々《あいあい》、ベン・アレン氏はひどくさわぎ、恋人たちはとても静か、ウィンクル氏は話しまくり、全員はとても大きな幸福感にひたっていた。
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第五十五章
[#3字下げ]ソロモン・ペル氏が、御者の選りぬきの委員たちに助けられて、父親ウェラー氏の財産を整理する
「サミュエル」葬式のあった日の翌朝、息子に話しかけて、ウェラー氏は言った、「そいつを見つけたよ、サミー。それがあそこにあると思ってたんだ」
「なにがどこにあると思ってたんです?」サムはたずねた。
「お前の義理の母さんの遺言状さ、サミー」ウェラー氏は答えた。「それにもとづいて、きのうの晩公債についておれが言ってた話が進められるのさ」
「えっ、それがどこにあるか、母さんは教えてくれなかったんですか?」サムはたずねた。
「いや、ぜんぜん」ウェラー氏は答えた。「ふたりはちょっとした意見のちがいを調整し、おれは彼女に元気を出させ、がんばらせていたんで、そのことをきくのは、ぜんぜん忘れてたんだ。それが頭にあったとしても、それをきいたかどうかはわからんけどね」ウェラー氏は言いそえた。「病人を助けてるとき、その財産をほしがるなんて、サミー、あんまりぞっとしない話だからね。馬車から外の乗客が投げ出されたとき、それを助けあげ、溜め息をもらしながら、具合いはどうだねとたずねて、そのポケットに手をつっこむようなもんだからな、サミー」
自分の言っていることをこうして比喩的に説明しながら、ウェラー氏は紙入れを開き、きたない手紙の紙きれをとりだしたが、その上には、すごい混乱状態でびっしりと書かれたさまざまな文字が示されていた。
「これがその書類さ、サミー」ウェラー氏は言った。「酒場のおし入れのいちばん上の棚の小さな黒いきゅうすの中にあったんだ。サミュエル、結婚する前いつも、彼女はお|札《さつ》をそこにしまっておいてね、何回となく、勘定を払うのに、彼女がそのふたをとってるのを見たことがあるんだ。かわいそうに、家の中のきゅうすぜんぶをお札でいっぱいにしたって、べつに不便を感じなかったかもしれないな。というのも、禁酒会の夜以外には、最近、ほとんどなんにも飲まず、その夜だって、元気をふるい立たせるのに、茶しか飲んでいなかったんだからね!」
「その書類にはなんと書いてあるんです?」サムはたずねた。
「お前に話したことだけさ」父親は答えた。「わたしの義理の息子サミュエルに割り引き公債二百ポンド、どんな種類のものにせよ、それ以外のわたしの財産ぜんぶは、わが夫トニー・ウェラーさんに。そしてわたしは夫を単独遺言執行人に指名します」
「それだけですかね?」サムはたずねた。
「それだけだよ」ウェラー氏は答えた。「関係者であるお前とおれにとって、そいつは好都合で満足いくことなんだから、こんな紙きれなんか火にくべてしまったほうがいいだろう」
「なにをするんです? 父さんは気がくるったんですか?」父親がなにも知らず、言葉どおりに書類も燃そうと、火をかき立てたとき、その書類をうばって、サムは言った。「あんたは、まったく、りっぱな遺言執行人ですね」
「どうしていけないんだい?」手に火かき棒をもち、きびしい顔をしてあたりを見まわしながら、ウェラー氏はたずねた。
「どうしていけないかですって!」サムは叫んだ。「そいつは検認を受け、事実を宣誓で証言され、そのほか型どおりのことをぜんぶすまさなければならないからですよ」
「まさか?」火かき棒を下において、ウェラー氏は言った。
サムは遺言状をわきのポケットにボタンをかけてしっかりとしまいこみ、そのあいだに、顔つきで、自分は本気、真剣なんだ、ということを伝えていた。
「じゃ、ちょっと言っとくがね」少し考えこんでいたあとで、ウェラー氏は言った、「これはあの大法官の親友にうってつけの事件だよ。ペルにこれをやってもらうことにしよう、サミー。あの男は法律のむずかしい問題には打ってつけの男だからね。すぐ、こいつを|産者法廷《ソルヴエント・コート》(ウェラー氏は破産者(インソルヴェント)法廷のつもりで言っている)にもちだしてもらうことにしよう、サミュエル」
「こんなに頭のわるい老人って見たこともないな!」いらいらしてサムは叫んだ、「|中央刑事裁判所《オールド・ベイリー》、産者法廷、アリバイ、そのほか、ありとあらゆるバカげたことが、いつもその頭をかけめぐってるんだからな! 父さんは、自分にわけのわからないことをしゃべってそこに突っ立ってるより、外出着に着かえて、この仕事でロンドンにいったほうがいいですよ」
「よくわかったよ、サミー」ウェラー氏は答えた、「仕事をさっさと片づけるんなら、どんなことにでも賛成だよ、サミー。だが、お前、こいつは注意しろよ、法律顧問なら、ペル――ペルにかぎるよ」
「わたしだって、ほかのやつは真っ平ですよ」サムは答えた。「さあ、来るんですかね?」
「ちょっと待ってくれ、サミー」窓にかかった小さな鏡でショールをまきつけ、今度は大奮闘をして上衣をなんとか着こもうとしていたウェラー氏は答えた。「ちょっと待ってくれ、サミー。お前のおやじさんくらいの齢になると、いまのお前とはちがって、そう楽にチョッキは着こめんのだからね」
「それを着るのにそんな苦労するんなら、そんなもの、絶対に着たりはしませんね」息子はやりかえした。
「いまはそう考えてるのさ」老齢の重々しさをこめてウェラー氏は言った、「だが、体の幅がましてきたら、もっと利口になるもんだよ。幅と頭は、サミー、いつもいっしょに動いてるもんだからな」
ウェラー氏がこのゆるぎなき格言――長年の体験と観察の結果――を語ったとき、彼はたくみに体をねじって、上衣のいちばん下のボタンをはめようとしていた。息の乱れをととのえようと数秒ジッとしていてから、彼は帽子を肘でこすり、用意はできたと宣言した。
「ふたつの頭より四つの頭のほうがいいからな、サミー」ふたり乗り二輪軽装馬車でロンドン街道を進んでいったとき、ウェラー氏は言った、「こうした財産は弁護士にはとっても大きな誘惑の種になるもんだからね、なにかまちがったことをしたらすぐ文句をつける友人ふたりをいっしょにつれてくことにしよう。あの日、フリート監獄にお前を見送ってくれたふたりの友人さ。あの連中は最高の目ききなんだからね」ほとんどひそひそ声に声を落として、ウェラー氏は言いそえた、「馬の最高の目ききなんだからね」
「そして、弁護士の最高の目ききなんですかね?」サムはたずねた。
「獣をちゃんと見わけることができる者は、どんなものでもちゃんと見わけることができるさ」父親は答えたが、その態度はいかにも独断的だったので、サムはこれ以上その問題を論ずる気がなくなってしまった。
この注目すべき決断にしたがって、ぶち色の顔をした紳士ともうふたりのとても太った御者――その幅とそれにともなう頭を勘定に入れて、たぶん、ウェラー氏によって選ばれたのだろうが――が徴発され、この援助が確保されてから、一行はポルトガル通りの酒場におもむき、そこから使者を向こう側の破産者法廷に送り、すぐソロモン・ペル氏を呼びよせることになった。
使者は運よくソロモン・ペル氏を見つけたが、彼は仕事がそうとう暇なので、堅焼きビスケット(香味の強い小粒のキャラウェイの実で風味づけしたもの)と塩豚ソーセージで、軽い食事をしているところだった。伝言が彼の耳にささやかれるとすぐ、彼はさまざまな法律の書類といっしょにその食料をポケットにつっこみ、急いでさっさと道路越しに歩いていったので、使いの者が法廷から出てくる前に、彼は酒場の部屋に着いていた。
「みなさん」帽子に手をあげて、ペル氏は言った、「ご用はつとめますよ。これは、みなさん、お世辞で言ってるのではなく、きょうそのためにあの法廷からわたしがとびだしてくるような人物は、この世にほかに五人とはいないんですからね」
「そんなにいそがしいんですか、えっ?」サムはたずねた。
「いそがしいですって!」ペルは答えた。「わたしはもうヘットヘトですよ、わたしの故大法官の友人が上院で請願攻めにあって出てきたとき、みなさん、いつもわたしに言ってたようにね。かわいそうに! あの人はとてもつかれっぽい人でした。いつもあの請願をひしひしと身に感じてたんです。それに埋められちまうだろうと、一度ならずわたしはじっさい考えてたんですからね。まったく、そうだったんですよ」
ここでペル氏は頭をふり、話をとめ、そこで父親のウェラー氏は、この弁護士の身分の高い知人に注意を払うようにと、自分のそばの仲間を肘でそっとつっつき、問題の仕事がその身分の高い友人の体に恒久的な悪影響をおよぼしたかどうかをたずねた。
「それから回復したとは思いませんな」ペルは答えた。「いや、たしかに回復はしなかったんです。『ペル』彼は何回かいつも言ってましたよ、『きみがやってる頭脳的な仕事にきみがいったいどうして堪えられるのか、わしにはふしぎでならんよ』――『そう』わたしはいつも答えてましたよ、『自分でもどうしてだか、よくわかってはいないんです』――『ペル』溜め息をもらし、ちょっとうらやましそうにわたしを見て――友好的なうらやみ、いいですかな、みなさん、まったくの友好的なうらやみですぞ――彼は言いましたね、『ペル、きみは奇跡、奇跡だよ』ああ! あの人をご存じだったら、みなさん、みなさんもきっとあの人をとても好きになったことでしょうよ。三ペニーのラム酒をここにもってきてくれ」
抑え殺した悲しみの調子でこのあとの言葉を給仕女にかけて、ペル氏は溜め息をもらし、自分の靴と天井をながめ、そのときまでにラム酒が運ばれてきたので、それを飲みほした。
「しかし」椅子をテーブルに引きつけて、ペルは言った、「法律上の援助の依頼を受けたときには、弁護士は自分の個人的な友情のことなど、考えることもできんのです。ところで、みなさん、この前ここでみなさんとお会いしてから、とても悲しいことに涙を流さねばならなくなりましたな」
涙を流すという言葉を語りだしたとき、ペル氏はポケットからハンカチを引きだしたが、それを上唇についていたほんのわずかのラム酒の滴をぬぐう以外には使わなかった。
「ウェラーさん、それをアドヴァタイザー新聞で読みましたよ」ペル氏はつづけた、「まったく、まだ五十二なのにねえ! ほんとに――考えてもごらんなさい」
こうした瞑想的な言葉は、たまたまペル氏がその目をとらえたぶち色の顔の男に語りかけられ、こう話されて、その理解力は霧のかかったようにぼんやりとしているぶち色の顔の男は、落ち着かぬふうに座席で体をもじもじさせ、それに関するかぎり、ことがどうして起こったのかはどうとも言えないと意見を述べた。この言葉は、議論で対抗するのにはなかなかむずかしい問題をふくんでいたので、だれからも反論を受けることがなかった。
「彼女はとてもいい女だったという話を聞きましたがね、ウェラーさん」同情的にペル氏は言った。
「ええ、そうでしたよ」こんなふうにこの問題が議論されるのをあまり好まなかったが、故大法官とのながい親しいまじわりで、この弁護士は上品なそだちのことをだれよりよく知っているにちがいないと考えて、父親のウェラー氏は答えた。「はじめて知ったとき、彼女はとてもいい女でしたよ。その当時、彼女は後家さんでしてね」
「いや、これは奇妙なこと」悲しげな微笑を浮かべてまわりを見まわしながら、ペル氏は言った。「わたしの家内も後家さんだったんですよ」
「それはじつにふしぎなことですな」ぶち色の顔の男は言った。
「うん、奇妙な偶然の一致ですな」ペル氏は言った。
「とんでもない」つっけんどんに父親のウェラー氏は言った。「後家で結婚する女は、ひとりにかぎりませんからな」
「そう、そう」ペル氏は言った、「そのとおりですよ、ウェラーさん。わたしの家内はとても優雅で教養のある女でしてね。彼女の行儀作法は近所でひろく驚嘆の的になってましたよ。あの女が踊るのを見て、わたしは得意になってました。その身のこなしには、とてもしっかりして威厳がそなわり、しかも自然なものがあったんですからね。彼女の服の型は、みなさん、簡素そのものでした。ああ! そう、そう! サミュエルさん、ひとつ質問させてください」声を低くして弁護士はつづけた、「あんたの義理の母さんは背の高い人でしたかね?」
「たいして高くはありませんでしたよ」サムは答えた。
「わたしの家内は背が高くてね」ペル氏は言った、「すばらしい女で、恰好には気品があり、鼻は命令的で堂々としたもんでした。彼女はわたしをとても――とても愛し、血縁には身分の高い人がいました。彼女の母親の兄弟は、みなさん、法律書類代書人として、八百ポンドで破産しましてね」
「うん」この議論のあいだにそうとうじりじりしていたウェラー氏は言った、「用件の話なんだが」
この言葉は、ペル氏の耳には快いものだった。なにか処理すべき用件があるのか、水割りブランデー、ポンス酒一杯といった挨拶程度のことでここに呼ばれただけなのか、彼はこのときまで心の中で思いめぐらしていたのだった。そして、この疑念は、自分のほうから積極的に口に出さずに、はっきりと解決がついたのである。彼が帽子をテーブルの上におき、つぎのように言ったとき、その目はギラリと輝いていた――
「うーん、用件はどんなことですかね? みなさんのうちのどなたか、裁判ざたをなさりたいんですかね? 逮捕が必要ですよ。友好的な逮捕でもいいんですがね。ここにいるのは、みんな味方の友人なんでしょう?」
「あの書類をくれ、サミー」息子から遺言状を受けとって、ウェラー氏は言ったが、サムはこの会見をすごく楽しんでいるふうだった。「われわれがおねがいしたいのは、この書類の|試験《プローブ》なんです」
「遺言|検証《プローベイト》、|検証《プローベイト》ですな」ペル氏は言った。
「ええ」ウェラー氏は鋭く答えた、「|試験《プローブ》とそれを|試験《プローブ・イツト》するのとはだいたい同じもんですよ。もしわたしが言うことがあんたにわからないんなら、わかる人を見つけることにしましょう」
「どうか気をわるくしないでください、ウェラーさん」おだやかにペル氏は言った。「あんたは遺言執行人なんですね」書類に目を投げて、彼は言いそえた。
「そうですよ」ウェラー氏は答えた。
「ほかの方々は|遺産受けとり人《レガテーズ》なんでしょうな?」それを祝うように微笑を浮かべて、ペル氏はたずねた。
「サミーが|楽な脚《レグ・アト・イーズ》ですよ」ウェラー氏は答えた。「ほかの人たちはわたしの友人、審判するために来たんです。まあ一種のアンパイアですな」
「おお!」ペル氏は言った、「とても結構ですな。わたしのほうは、たしかに、異議はありませんよ。仕事をはじめる前に、あなたから五ポンドいただくことになりますな。はっ! はっ! はっ!」
委員会によって五ポンド前払いしてもよいと決められたので、ウェラー氏はその金額をさしだし、そのあと、これといってべつにどうということもないことがらにながい打ち合わせが重ねられ、そのあいだに、審判する人たちが十分に納得するように、この仕事の処置が自分にゆだねられなかったら、これはぜったいにうまくはゆかなかったろう、とペル氏は説明した。そしてその理由はあまりはっきりと示されはしなかったが、ともかくそれで十分納得のいくものと、みなから考えられていた。この重要な点にけりがついたので、ペル氏は、遺産の代金で、厚切りの肉片三つ、ビール、酒を平らげ、それから全員打ちそろって、民法博士会(遺言・検証・結婚・離婚等をあつかっていた)に出かけていった。
そのつぎの日もまた一同は民法博士会にゆき、証人の馬丁のことで大さわぎをした。この馬丁は酔っ払っていたので、みだらなののしり言葉以外になにも証言しようとはせず、それは、代理人にひどく悪態をつくものだった。つぎの週には、さらに何回か民法博士会への出頭がくりかえされ、遺産税事務所にも足を運ばねばならず、借地契約と営業権処分のために結ばれた約定、同じものの批准、つくりだされた財産目録、昼食、夕食、その他しなければならぬじつにおびただしい多くのためになることがあり、書類が山と積みあげられたので、ソロモン・ペル氏と少年、そのうえ、おまけに青い袋までひどくふくれあがり、彼らを数日前ポルトガル通りをうろつきまわっていた同一人物、少年、袋とはだれも思わなかったことだったろう。
とうとうこうした重要事項はすべてとりきめられたので、商品を売りわたし、その目的で株式仲買人のウィルキンズ・フラッシャー氏と会う日が決められた。この人物はそのためにソロモン・ペル氏が推薦した人物で、イングランド銀行(一六九四年に設立されたイギリスの中央銀行)の近くにいる男だった。
これは一種のお祭りの日、一同はそれにふさわしい服装をしていた。ウェラー氏の乗馬靴は新しく掃除され、彼の服は特別の注意を払って手入れをされた。まだら色の顔をした紳士は胸のボタン穴に何枚かの葉をつけた大きなダリアをさし、彼のふたりの友人の上衣は月桂樹とほかの|常緑《ときわ》|木《ぎ》の花束で飾られていた。三人ともみなよそゆきの服装でしっかりと身を固めていた。というのは、彼らは顎のところまですっかりつつまれ、できるだけたくさん服を着こんでいたのだったが、これは、駅伝馬車が発明されて以来、御者の正装の観念となっているものだった。
ペル氏はいつもの出逢いの場所で定めた時刻に待っていた。ペル氏さえ手袋をはめ、洗濯でカラーと袖口がひどくすり切れているきれいなシャツを着こんでいた。
「二時十五分前ですな」部屋の時計を見て、ペル氏は言った。「二時十五分すぎにフラッシャーさんのとこへいったら、いちばんいいでしょう」
「ビールをちょっぴり、いかがです?」まだら色の顔の紳士は言った。
「そして、ちょっと冷えた牛肉をね」第二の御者が言った。
「あるいは、かき[#「かき」に傍点]」まるまるとした脚のしゃがれ声の紳士の第三の御者は言った。
「ヒヤ、ヒヤ!」ペル氏は言った、「財産を手に入れたことで、ウェラーさんにお祝いをするためにね、えっ、そうじゃありませんかね? はっ! はっ!」
「みなさん、わたしも賛成ですよ」ウェラー氏は答えた。「サミー、ベルのひもを引っぱってくれ」
サムは命じられたとおりにし、黒ビール、冷えた牛肉、かき[#「かき」に傍点]がすぐ出されたので、昼食は十分に賞味された。みんながじつに大活躍をしたこの昼食で、差別立てをするのはほとんどけしからんこととも言えるのだが、もしひとりの人物が他の人物よりもっと大きな力を示したとしたら、それはしゃがれ声の御者で、彼は、ケロリとした態度で、かき[#「かき」に傍点]といっしょに、特大の一パイント(〇.五リットル弱)入りの酢を平らげていた。 「ペルさん」水割りブランデーをかきまわしながら、父親のウェラー氏は言った。かき[#「かき」に傍点]の貝殼が片づけられたとき、ブランデーがみなの前に出されていた。「ペルさん、このさい、公債の話をするつもりだったんですがね、サミュエルが耳打ちし――」
ここで、静かな微笑を浮かべてだまってかき[#「かき」に傍点]を食べていたサミュエル・ウェラー氏は、とても大きな声で「ヒヤ!」と叫んだ。
「――耳打ちし」父親はつづけた、「あんたに成功と繁栄を祈り、あんたがこの仕事をやってくださったことにたいして感謝して、酒を出したほうがいいだろう、と言ったんです。さあ、あんたの健康を祝って乾杯!」
「ちょっと待ってくださいよ」急にふるい立って、ぶち色の顔をした紳士が口をはさんだ、「みなさん、こちらを見てください」
こう言いながら、ぶち色の顔をした紳士はほかの紳士と同様に立ちあがり、一同を見わたし、ゆっくりと片手をあげ、そこで全員(ぶち色の顔をした人をもふくめて)がフッとひと息ながく息をすいこみ、大コップを口にもっていった。あっという間にぶち色の顔の紳士は手をふたたび下におろし、すべてのコップは空になってテーブルの上におかれた。このすばらしい儀式によって生みだされた効果を描きだそうとしても、それは不可能である。同時に威厳あり、厳粛、感銘的なもので、それは荘厳のすべての要素をそなえたものだった。
「さて、みなさん」ペル氏は言った、「わたしの申しあげることはただ、こうした信頼の証しは、弁護を職としている者にとって、とてもうれしいことにちがいない、ということだけです。利己的と思われるようなことはなにも申したくはありませんがね、みなさん、しかし、みなさんがわたしのとこにお出でになったことは、あなた方ご自身にとっても、とてもよろこばしいことだったということだけですよ。もしあなた方がもっと低級な弁護士のとこへいったら、あなた方が、いまごろまでにもう、苦境に追いこまれていたろうと確信しますし、それは、たしかな事実なんです。わたしは気高いあの友人が生きていて、この事件の処理ぶりを見てくれていたら、と思いますよ。これは自慢で申すのではありませんが、わたしは思うんです――だが、みなさん、そんな面倒なことは申しあげますまい。わたしはいつもここにいますよ、みなさん。でも、わたしがここにおらず、道の向こうにもいなかったら、これがわたしの宛名です。わたしの条件が安く妥当なものなことは、おわかりでしょうし、依頼人にたいする親切で、わたし以上の者はいませんよ。そのうえ、これでも職業のことは多少心得ているつもりなんです。お友だちのだれかに機会があってわたしを推薦してくださったら、みなさん、わたしはとてもありがたいしだい、わたしを知るようになったら、そのお友だちもよろこぶことでしょうよ。あなた方の[#「あなた方の」に傍点]健康を祈ります、みなさん!」
こう自分の気持ちを述べてから、ソロモン・ペル氏はウェラー氏の友人たちの前に手書きの小さな名刺を三枚おき、時計を見て、もうゆくべき時刻だと言った。こう言われて、ウェラー氏は勘定を払い、外にとびだして、遺言執行人、遺産受けとり人、弁護士、アンパイアたちはシティに向けて出発した。
株式取引所のウィルキンズ・フラッシャーの事務所はイングランド銀行のうしろの裏小路の二階にあった。ウィルキンズ・フラッシャーの家はサリー州、ブリックストンにあった。ウィルキンズ・フラッシャーの馬とほろなしのひとり乗り軽二輪馬車は近くの貸し馬車屋においてあった。ウィルキンズ・フラッシャーの馬丁は猟の獲物をもってウェスト・エンド(ロンドンの西区にあり、富裕階級の住宅地)に出かけ、ウィルキンズ・フラッシャーの事務員は食事に出かけ、その結果、ペル氏とその仲間が会計室のドアをノックしたとき、「おはいり」と叫んだのは、ほかならぬウィルキンズ・フラッシャーその人だった。
「お早うございます」へいこらとお辞儀をして、ペルは言った。「よろしかったら、ちょっと譲渡のことをお話ししたいのですがね」
「おお、おはいりなさい、えっ?」フラッシャー氏は言った。「ちょっと坐っていてください。すぐにお話はうけたまわりますからな」
「ありがとうございます」ペルは言った、「べつに急ぐことはありませんよ。ウェラーさん、お坐りなさい」
ウェラー氏は椅子に坐り、サムは箱に坐り、アンパイアたちは坐れるものに坐り、壁にはりつけてあった暦と一、二の紙切れを、それがむかしの絵の巨匠の最大傑作であるかのように、敬意を払い、目をむきながらながめていた。
「うん、わしはそれに六杯のクラレット酒を賭けよう。さあ!」ペル氏がはいってきたためにちょっと中断された話をつづけて、ウィルキンズ・フラッシャー氏は言った。
この言葉は、右の頬髯に帽子をつっかけ、定規ではえ[#「はえ」に傍点]を殺しながら、机の上にぐったりと横になっているとてもハイカラな若い紳士に呼びかけたものだった。ウィルキンズ・フラッシャー氏は事務所の椅子のうしろの二本脚の上で体の釣り合いをとり、小ナイフで封緘紙の箱を突き刺そうとし、ときおり、たくみに外にはってある小さな赤い封緘紙のど真ん中にナイフを落としていた。この紳士はふたりともとても胸の開いたチョッキ、とてもそりかえったカラー、とても小さな靴、とても大きな指輪、とても小さな懐中時計、とても大きな留め鎖、恰好のいいズボン、香水をつけたハンカチを身に着けていた。
「六杯なんていう賭けは絶対にしなくてね」相手の紳士は言った、「十二杯にしてもらいましょう」
「よし、シマリー、よし!」ウィルキンズ・フラッシャー氏は言った。
「分割払いでですよ、いいですかね」相手は言った。
「もちろん」ウィルキンズ・フラッシャー氏は答えた。ウィルキンズ・フラッシャー氏はそれを金のさやのついた鉛筆で小さな帳面に書きこみ、相手も同じく、それをべつの金のさやのついた鉛筆でべつの小さな帳面に書きこんだ。
「今朝ボッファーについて通知が出ていたがね」シマリー氏が言った、「かわいそうに、やつは株式取引所を追っ払われてしまったんだ!」
「やつが喉笛かっ切ることは、きみの五ギニーにたいして、こっちは十ギニー賭けてもいいね」ウィルキンズ・フラッシャー氏は言った。
「よし!」シマリー氏は答えた。
「待った! 条件づきだ」考えこんでウィルキンズ・フラッシャー氏は言った。「ひょいとしたら、首をくくるかもしれんよ」
「結構」金のさやをまた引っぱりだして、シマリー氏は答えた。「きみがそんなふうに言っても、異議はないよ。自殺するということにしよう」
「じっさい、自殺だな」ウィルキンズ・フラッシャー氏は言った。
「そのとおり」それを書きこみながら、シマリー氏は答えた。「『フラッシャー――五ギニーにたいする十ギニーで、ボッファーが自殺する』というわけだな、いつ以内としたらいいかね?」
「二週間はどうだい?」ウィルキンズ・フラッシャー氏は言った。
「バカな、だめさ」定規ではえ[#「はえ」に傍点]を打つためにちょっと話をやめて、シマリー氏は答えた。「一週間としよう」
「その中間をとろう」ウィルキンズ・フラッシャー氏は言った。「十日といこう」
「よし、十日だ」シマリー氏は答えた。
そこで、それぞれの小さな帳面に、ボッファーが十日以内に自殺する、そうならなければ、ウィルキンズ・フラッシャー氏がフランク・シマリー氏に十ギニーの金額を手わたす、もしボッファーがその期間以内に死んだら、フランク・シマリー氏がウィルキンズ・フラッシャー氏に五ギニー払うということが書きこまれた。
「あいつが失敗したのは、とても残念なことだよ」ウィルキンズ・フラッシャー氏は言った。「すばらしい晩餐会をしてくれたからな」
「うまい黒ぶどう酒ももってたよ」シマリー氏は言った。「明日の競売会には家の使用人頭をいかせるつもりだ、あの六十四年製の酒を少し手に入れるためにね」
「ひどいやつだな、きみは」ウィルキンズ・フラッシャー氏は言った。「わしのとこの者もいくはずだよ。こちらがきみのほうより高値をつけるのに、五ギニー賭けるとしよう」
「よし」
金のさやでもう一度小さな帳面に記入がおこなわれ、シマリー氏はこのときまでにもうすべてのはえ[#「はえ」に傍点]を殺し、すべての賭けをしたので、情勢調べのために、ブラリブラリと株式取引所のほうに歩いていった。
ウィルキンズ・フラッシャー氏はここでソロモン・ペル氏の話を聞きたもうことになり、いくつか印刷した申しこみ用紙に記入をすませてから、一行に自分についてイングランド銀行に来るようにと求め、彼らはそのとおりに行動したが、ウェラー氏とその三人の友人は底知れぬほどびっくりして彼らが見るものすべてをジッと見つめ、サムは、どんなことにも心を乱さぬ冷静さで、すべてのものをながめていた。
物音と人のざわめきでいっぱいの内庭を横切り、隅に片づけられている赤い消防用ポンプに対抗するように衣装をつけられた感じの玄関番ふたりのわきをとおりすぎて、みなはある事務所にはいっていったが、そこは彼らの仕事が処理されるところで、そこでペル氏とフラッシャー氏はほかの連中をしばらく立たせておき、ふたりは階段をのぼって遺言状事務所にはいっていった。
「ここはなんの場所だい?」ぶち色の顔をした紳士は父親のウェラー氏にささやいた。
「弁護士事務所さ」ひそひそ声で遺言執行人が答えた。
「勘定台のうしろに坐ってる人たちは、なんだい?」しゃがれ声の御者はたずねた。
「待命弁護士だろう」ウェラー氏は答えた。「あれは待命弁護士じゃないのかい、サミュエル?」
「いやあ、待命の弁護士はまさか生きてはいないでしょう、どうです?」ちょっと突っ放すようにして、サムはたずねた。
「おれにどうしてわかるもんかね?」ウェラー氏はやりかえした。「どうもそうらしいと思ったのさ。それじゃ、彼らはなんなんだい?」
「事務員ですよ」サムは答えた。
「どうして彼らはハムサンドを食べてるんだい?」父親はたずねた。
「それがつとめの一部だからでしょうよ」サムは答えた、「それは制度の一部、一日中ここでそれをやってるんですよ!」
ウェラー氏とその友人たちには、この国の貨幣制度に結びつけられたこの奇妙な規則について考える暇はほとんどなかった。ペルとウィルキンズ・フラッシャー氏が彼らと合流し、大きなWの文字が書かれた丸い黒板が上にかかっている勘定台のところに彼らをつれていったからである。
「あれはなんのためのもの?」ペルの注意を問題のものに向けて、ウェラー氏はたずねた。
「死亡者の頭文字ですよ」ペルは答えた。
「ねえ」アンパイアたちのほうに向いて、ウェラー氏は言った、「これはどこか変だよ。Vがわれわれの頭文字なんだ――こいつはいかんな」
審判官たちはただちに、Wの文字のもとで任務は法的に遂行できないことをはっきりとした意見として述べ、サムのすみやかな、一見したところ、言うことをきかぬ行動がなかったら、少なくとも一日間、それは延期になったことだったろう。彼は父親の上衣のすそを引っぱり、勘定台のところにつれてゆき、ふたつの書類に署名が終わるまで、彼をそこに釘づけにしていた。これは、ウェラー氏の活字体で字を書く習慣から、そうとう骨が折れ、時間がかかる仕事で、その結果、係りの事務員は、それが進行中、冬りんご三つの皮をむき、それを食べてしまっていた。
ウェラー氏は自分の相続分をすぐ売りに出すことを主張したので、一同はイングランド銀行から株式取引所にゆき、そこに、少し姿を消していたあとで、ウィルキンズ・フラッシャー氏はスミス・ペイン・スミスあての五百三十ポンドの小切手をもってもどってきた。この金額は、ウェラー夫人の公債に投じた貯蓄の差引残高を考え、その日の株値で、ウェラー氏が当然受ける資格ありと考えられたものだった。サムの二百ポンドは彼の名前に書きかえられ、ウィルキンズ・フラッシャー氏はその手数料をもらい、無造作にそれをポケットにつっこみ、ブラリブラリと事務所に帰っていった。
ウェラー氏は最初は頑固に小切手を一ポンド金貨に変えるつもりでいたが、それを家にもって帰るには小さな袋を買わねばならなくなるとアンパイアたちに言われて、五ポンド紙幣でそれを受けとることに賛成した。
「息子と」銀行営業所から出てきたとき、ウェラー氏は言った、「息子とわしは、きょうの午後、じつに特別な契約を結んだんだから、すぐこの話をはっきりと決めてしまいたいんだ。だから、その会計をはっきりとやってしまうことができるどこかに、すぐいくことにしよう」
静かな部屋はすぐに見つかり、勘定が示され、計算された。ペル氏の勘定書きはサムによって査定され、ある出費はアンパイアたちによって認められはしなかったものの、あまり酷すぎるということを厳粛に何度となくペル氏が文句を言っていたにもかかわらず、この商売は、彼がそのときまでに受けもったどんな仕事よりずっと利益の上まわるもので、それをもとにして、それから六か月間、彼は食事・下宿・洗濯代をまかなうことができたのだった。
アンパイアたちは、酒をいっしょに飲み、その夜馬車でロンドンから出発しなければならなかったので、握手をし、去っていった。ソロモン・ペル氏は飲食いずれの面でもこれ以上なにも出ないことを知って、友好的な別れを告げ、サムと父親のふたりだけがあとにのこることになった。
「さあ!」紙入れをわきのポケットにつっこんで、ウェラー氏は言った。「借地権にたいする勘定書きとあれで、ここに千百八十ポンドあるぞ。さあ、サミュエル、馬首を『ジョージと禿鷹旅館』に向けるとするか!」
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第五十六章
[#3字下げ]ピクウィック氏とサミュエル・ウェラーのあいだに重要な会議がおこなわれ、彼の父親がそれを助ける。かぎタバコ色の服を着た老紳士が思いがけずも到着する
いろいろと多くのことを考え、なかんずく、その不安定な状態が彼のたえぬ後悔と不安の種になっている若い夫妻のことをどう扶養したらよいものかを思いわずらって、ピクウィック氏がただひとりで坐っていたとき、メアリーが軽やかに部屋にはいってきて、テーブルのところに進み、そうとう急きこんで、こう言った――
「おお、よろしゅうございましたら、サミュエルが下にいて、あの人の父親とお会いねがえましょうかと申しています」
「もちろん」ピクウィック氏は答えた。
「ありがとうございます」メアリーは答えて、ふたたびドアのほうに軽い足どりで歩いていった。
「サムは帰ってきてすぐなんだろうね、えっ?」ピクウィック氏はたずねた。
「おお、そうでございます」むきになってメアリーは答えた。「たったいま帰ってきたばっかしです。これ以上お暇はいただかないと申しています」
必要以上に熱をこめて自分がこの最後の言葉を述べたことを、メアリーは気がついてもいいところだった。また、彼女が話し終えたとき、ピクウィック氏が彼女をながめていた上機嫌の微笑に気がついてもよかったはずだった。彼女はたしかに頭をさげ、必要以上子細に、とてもしゃれた小さなエプロンの隅をジッと調べていた。
「ぜひ、すぐこちらにあがってくるように、ふたりに伝えておくれ」
メアリーは、ホッとした気配をはっきりと見せて、その伝言を伝えに、急いで出ていった。
ピクウィック氏は二、三度部屋を歩きまわり、そうしながら、左手で顎をこすって、思いにふけっているふうだった。
「うん、うん」やさしいが多少わびしそうなふうに、とうとうピクウィック氏は言った、「それが彼の愛情と忠実さに報いる最善の方法なのだ。絶対に、そのようにしてやろう。自分の身のまわりの者が新しいちがった愛情をつくりだし、去ってゆくのが、わびしい老人の背負った運命なのだ。わしの場合にそれがちがったものになるのを期待してもむりなことだ。いや、いや」もっと陽気になってピクウィック氏は言葉をそえた、「そんなことをしたら、利己的で恩知らずというもの、彼にそうしてりっぱに報いる機会にめぐまれて、わたしはよろこぶべきなのだ。わたしはよろこんでいる。もちろん、よろこんでいるさ」
ピクウィック氏はこうした物思いにすっかり沈みこみ、彼が気がつく前に、ドアのノックは三、四回くりかえされた。急いで席にもどり、ふだんどおりの陽気な顔つきをとりもどして、彼はおはいりと言い、サム・ウェラーとつづいてその父親が部屋にはいってきた。
「もどってきたのだね、サム」ピクウィック氏は言った。「ご機嫌はいかがです、ウェラーさん?」
「ありがとうございます、とても元気でね」男やもめは答えた。「あなたもお元気なのでしょうね?」
「ありがとう、すっかり元気」ピクウィック氏は答えた。
「ちょっとお話ししたいと思ってたんです」ウェラー氏は言った、「もし五分かそこいら、割いていただけたらね」
「もちろん」ピクウィック氏は答えた。「サム、椅子を出してあげろ」
「ありがとう、サミュエル、ここに椅子はあるよ」話しながら、椅子を引っぱりだして、ウェラー氏は言った。「ふだんにないいい天気ですな」腰をおろしながら、床の上に帽子をおいて、ウェラー氏は言いそえた。
「まったくね」ピクウィック氏は答えた。「とても順調な天気」
「いままで見たこともないほど順調な天気です」ウェラー氏は応じた。ここでウェラー氏は激しい咳の発作におそわれ、それが終わると、彼は頭をうなずかせ、ウィンクをし、その他さまざまの懇願と威嚇の身ぶりを彼の息子に示したが、そうしたことすべてを、サム・ウェラーは完全に無視しつづけていた。
ピクウィック氏はウェラー氏にとまどいの色を認め、わきにあった本のページを切っているふりをして、ウェラー氏が訪問の目的を切りだすまで、ジッと辛抱強く待っていた。
「お前のようにいまいましい息子は見たこともないぞ、サミュエル」腹立たしげに息子のほうを見て、ウェラー氏は言った。「おれが生まれて以来な」
「彼がどうしたというんですかね、ウェラーさん?」ピクウィック氏はたずねた。
「やつは切りだそうとしないんです」ウェラー氏は答えた。「なにか特別な用件があるとき、わたしがそれを言えないことを知ってながら、やつは立ったまんまでいて、なにか一言言ってわたしを助け出すより、あなたの貴重な時間をつぶしてわたしがここにぶっ坐り、ひどいさらし者になるのを見ようとしてるんです。それは息子らしからぬふるまいだぞ、サミュエル」額をぬぐいながら、ウェラー氏は言った、「まったく、ひどいもんだ」
「あんたは話したいと言ってましたね」サムは答えた。「しょっぱなからだめになっちまったなんて、考えてもいませんでしたよ」
「話の切りだしに困ってるのは、お前にもわかってもいいはずなんだぞ」父親は答えた。「おれは道をまちがえ、とがり杭の囲いとか、そういった気分のわるいとこにはいりこんじまってるのに、お前は助けの手ひとつ出してくれようともしないのだ。わしはお前が恥ずかしいよ、サミュエル」
「事実は」ちょっとお辞儀をして、サムは言った、「おやじは自分の金を引きだしたんです」
「よし、よし、サミュエル」満足そうに頭をうなずかせて、ウェラー氏は言った、「わしはお前にひどいことを言うつもりじゃなかったんだよ、サミー。よし、よし。それが切りだしの方法だ。すぐに要点にうつってくれ。よし、よし、サミュエル」
ウェラー氏は至極満悦の態で、異常なほど何回となく頭をうなずかせ、耳をすませているような態度を示して、サムが話をつづけるのを待っていた。
「お前も坐ったらいい、サム」この話が思ったよりながくなりそうな雲ゆきをさとって、ピクウィック氏は言った。
サムはふたたびお辞儀をし、腰をおろした。父親はあたりを見まわし、サムは話をつづけた――
「おやじは五百三十ポンド引きだしたんです」
「割り引き公債でね」父親のウェラー氏は低い声で口をはさんだ。
「それが割り引き公債であろうとどうだろうと、たいして関係はありませんよ」サムは言った。「五百三十ポンドが金額でしたね、どうです?」
「そうだよ、サミュエル」ウェラー氏は答えた。
「その金額に加えたものが、家と商売の――」
「借地権・のれん・商品・付合物(主体物件の付属物と見られる建物・植木・埋設鉄管・取付家具などの類)でね」ウェラー氏は口をはさんだ。
「――額をできるだけ加えて」サムはつづけた、「ぜんぶで、千百八十ポンドになったんです」
「ほ――うっ!」ピクウィック氏は言った。「それを聞いてうれしいね。そんなにうまくやって、ウェラーさん、おめでとう」
「ちょっと待ってください」いかんといったふうに手をあげて、ウェラー氏は言った。「さあ、つづけろ、サミュエル」
「この金を」ちょっととまどって、サムは言った、「それを安全などこかに、彼はおきたがってるんです。わたしもとても心配してます。もし彼がそれをにぎってたら、それをだれかに貸したり、馬に投資したり、紙入れを地下勝手口の階段で落としたり、あれやこれやと自分をエジプトのみいらにしちまうこってしょうからね」
「よし、よし、サミュエル」自分の慎重さと前途の見とおしにたいして、サムが最高の賛辞を述べ立てたように、いかにも満悦げなふうに、ウェラー氏は言った。「よし、よし」
「そうしたわけで」神経質に帽子のへりを引っぱって、サムはつづけた、「そうしたわけで、彼はそれをきょう引っぱりだし、わたしといっしょにここにやって来て、言う、申し出る、いや、言葉をかえて言えば――」
「――こう言うためなんです」いらいらして父親のウェラー氏は言った、「金はわたしに役に立つものじゃないとね。わたしはきちんと御者稼業をつづけるつもり、金の世話をみてくれる礼金を護衛に払うか、馬車のポケットにそれを入れるかしなけりゃ、そのしまい場所はぜんぜんないんです。馬車のポケットじゃ、中に乗りこんだ乗客の誘惑の種になるしね。わたしのためにあんたがその世話をみてくれたら、とても助かるんですがね。たぶん」ピクウィック氏のところに歩みより、声を落として、ウェラー氏はその耳にささやいた、「たぶん、この預けものを使うのには、ちょっと手間暇がかかりますよ。わたしの申すことはただ、かえしてくれとおねがいするときまで、それを保管してくれ、ということだけなんです」こう言って、ウェラー氏は紙入れをピクウィック氏の手の中におき、帽子をつかんで、こんな太った男には予期できぬほどのすばやさで、部屋からとびだしていってしまった。
「彼をとめてくれ、サム!」むきになって、ピクウィック氏は叫んだ。「追いついて、すぐつれもどしてくるんだ! ウェラーさん――さあ――帰ってきてください!」
サムは主人の命令にはしたがわなければならないと考え、階段をおりかけている父親の腕をつかまえ、力まかせに彼をつれもどしてきた。
「きみ」老人の手をとって、ピクウィック氏は言った、「きみの誠実な信頼には心を打たれますよ」
「そんなものには用はありませんよ」頑固にウェラー氏は答えた。
「ほんとに、きみ、わたしには必要以上の金があるんです。わたしの齢の男が使い切れないほどね」ピクウィック氏は言った。
「自分がどのくらい使えるか、やってみるまでわからんもんですよ」ウェラー氏は言った。
「たぶん、そうでしょうな」ピクウィック氏は答えた。「だが、そんな実験をやってみる気はないので、金に不足するようなことになりそうもないのです。これは、どうか、受けもどしてください、ウェラーさん」
「よくわかりましたよ」ご機嫌ななめでウェラー氏は言った。「よくおれの言うことを聞いておけよ、サミー。おれはこの財産でなにかがむしゃらなことをやるぞ、なにかがむしゃらなことをな!」
「それはしないほうがいいですよ」サムは答えた。
ウェラー氏はしばらくのあいだ考えこみ、それから、腹を決めたといったふうに上衣のボタンをぜんぶはめて、言った――
「おれは通行税取り立て門の番人になるよ」
「えっ!」サムは叫んだ。
「通行税取り立て門だよ」歯を食いしばって、ウェラー氏は答えた。「おれは通行税取り立て門の番人になるよ。おやじにはさよならを言ったほうがいいぞ、サミュエル。おれはのこりの生涯を通行税取り立て門の番人として献げるんだ」
この威嚇はおそろしいものだった。ウェラー氏はこれを実行にうつそうと堅く決心しているばかりか、ピクウィック氏の拒否でひどくがっかりしたふうだったので、ちょっと考えこんでから、ピクウィック氏は言った――
「わかりました、わかりました、ウェラーさん、金はわたしがお預かりしましょう。たぶん、あんたよりわたしのほうがそれをうまく使えるでしょうからね」
「まったく、ねがったりかなったり」顔を明るくして、ウェラー氏は言った。「もちろん、そうですとも」
「そのことは、もうこれまでにしましょう」錠をかけ紙入れを机にしまいこみ、ピクウィック氏は言った。「心からあなたには感謝しますよ。さあ、坐ってください。わたしはね、あんたの意見を聞きたいのです」
自分の訪問の目的をみごとに達成して、ウェラー氏は顔ばかりか、腕・脚・体まで痙攣させて、紙入れが錠をかけてしまいこまれるのをながめていたが、そのひきおこした心中の笑いは、これを聞いたとき、さっと消え、そのかわりに、威厳ある重々しさがあらわれてきた。
「ちょっと外で待っていてくれないか、サム、えっ?」ピクウィック氏は言った。
サムはすぐに引きさがった。
ウェラー氏は、ピクウィック氏がつぎのように言いだしたとき、ふだんにないほどさとり顔をし、びっくりしているようすだった。
「あんたは結婚をあまり快くは思わんのでしょうね、ウェラーさん?」
ウェラー氏は頭をふった。彼はぜんぜん話すことができなかった。だれか腹黒い未亡人が、みごと、ピクウィック氏にたいする計画に成功したという漠然とした考えが、彼の話す力をうばってしまったからである。
「あんたが、たったいま、息子さんとここにはいってきたとき、下で若い娘を見かけませんでしたかね?」ピクウィック氏はたずねた。
「ええ、若い娘を見ましたよ」ウェラー氏は言葉短く答えた。
「さて、彼女をどう思います? 率直に言ったところ、ウェラーさん、彼女をどう思いますかね?」
「とてもぽっちゃりしていて、恰好がいいと思ってましたよ」批判的な態度で、ウェラー氏は言った。
「そうですよ」ピクウィック氏は言った、「そうですよ。あなたの見たところ、あの娘の態度をどうお思いです?」
「とてもいい感じですな」ウェラー氏は答えた。「とてもいい感じで、気持ちのいいもんですな」
ウェラー氏が最後の「気持ちのいい」に与えた正確な意味はよくわからなかったが、彼の語調から、それが好意的なものであることははっきりしていたので、ピクウィック氏は、その問題についてすっかりはっきりとした説明を受けたように、満足していた。
「わたしは彼女にとても関心をもっているのですよ、ウェラーさん」ピクウィック氏は言った。
ウェラー氏は咳払いをした。
「というのは、彼女がりっぱに暮らしてゆくことにね」ピクウィック氏は話をつづけた、「彼女が気分よくりっぱに暮らせてゆけたらというねがい、おわかりでしょうな?」
「よくわかりますよ」まだなにもわかっていないウェラー氏は答えた。
「あの若い女は」ピクウィック氏は言った、「あなたの息子さんを愛しているんです」
「サミュエル・ウェラーをですって!」父親は叫んだ。
「そうですよ」ピクウィック氏は答えた。
「それは当然のこと」少し考えてから、ウェラー氏は言った、「当然のことですが、ちょっとおっそろしいこってすな、サミーは注意しなければね」
「というのは、どういうことです?」ピクウィック氏はたずねた。
「あの女にはなにも言わないように、とても注意しなければということ」ウェラー氏は答えた。「無邪気についうかうかと約束違反の罪に問われることにならないよう、とても注意しなけりゃいけませんな。女がねらいをつけたら、ピクウィックさん、男はもう危いもんなんですよ。女には、どこといってつかみどころがありませんからな。そして、こっちがそれを考えてるあいだに、とっつかまっちまうんです。わたし自身も、最初、そんなふうに結婚して、サミーがその策動の結果となったんです」
「そうお聞きしていると、わたしの言いたいことが言いにくくなってきますね」ピクウィック氏は言った、「だが、すぐそれを申したほうがいいでしょう。あの若い娘があなたの息子さんを好きばかりでなく、ウェラーさん、息子さんも彼女を好きなんです」
「うん」ウェラー氏は言った、「これはおやじの耳にはなかなか感じのいい話というもんですな!」
「わたしはふたりを何回か見ています」ウェラー氏の最後の言葉にはぜんぜんふれずに、ピクウィック氏は言った。「そして、それはもうまちがいのないことと思っています。ふたりが夫婦としてまともな暮らしができるように、なにかささやかな商売か地位を彼に与えてやりたいとわたしがねがっているとしたら、あなたはそれをどう思いますかね、ウェラーさん?」
最初、ウェラー氏は自分が関心をよせている者の結婚の話を、顔をしかめて聞いていたが、ピクウィック氏の話が進み、メアリーが未亡人でない事実を彼が強調すると、ウェラー氏の態度はだんだんにおだやかなものになっていった。ピクウィック氏は彼にたいして大きな影響力をもち、彼はすでにメアリーの美しい姿に心を強く動かされ、事実、このときまでに、もう何度か父親らしからぬウィンクを彼女に投げていたのだった。とうとう、ピクウィック氏の意向にさからうつもりはない、その忠告はよろこんで受け入れる、と彼は言い、そこでピクウィック氏はよろこんでその言葉をそのまま受けとり、サムを部屋に呼びもどした。
「サム」咳払いをして、ピクウィック氏は言った、「お前のお父さんとわしは、お前のことについて、ちょっと話をしていたのだ」
「お前についてだよ、サミュエル」恩着せがましい、おさまった声でウェラー氏は言った。
「お前がウィンクル夫人のとこのメアリーにたいして友好的な気持ち以上のものをもっているのをとっくのむかしに気づいていないほど、わたしは盲ではないのだよ」ピクウィック氏は言った。
「この話、わかったな、サミュエル?」前どおりの慎重な話しぶりでウェラー氏は言った。
「わたしは思うんですが」主人に向けてサムは言った、「若い男が外見も素行も文句なくりっぱな若い女に注意を払っても、べつにわるいことはないと思うんですがね」
「もちろん、そうだよ」ピクウィック氏は言った。
「絶対にそうさ」やさしくはあっても厳然として、ウェラー氏は同意した。
「そうしたきわめて当然な行為になにか具合いのわるいことがあると考えるなんて、とんでもないこと」ピクウィック氏はつづけた、「この点でお前の希望を助け推進させようというのが、わしの希望でもあるのだよ。こうした気持ちで、わしはお前のお父さんとちょっと話し、お父さんもわしと同意見なのを知って――」
「婦人が後家さんでないのだからな」説明としてウェラー氏が口をはさんだ。
「婦人が後家さんでないのだからね」ニッコリして、ピクウィック氏は言った。「わたしはお前を現在の地位が与えている抑制から解放し、すぐにお前をあの娘と結婚させ、独立した生計を立てられるようにしてあげて、お前の誠実さとそのほかのりっぱな性質にたいするわたしの考えを示したいのだ。サム、わたしは誇りやかな気持ちで」このときまでその声は多少どもりがちだったが、もうふだんの調子をとりもどしていたピクウィック氏は言った、「わたしは誇りやかなうれしい気持ちで、お前の将来を感謝しながら世話してあげたいのだ」
しばらくのあいだ深い沈黙がつづき、それから、声は低くしゃがれながらも、しっかりとした調子で、サムは言った――
「ほんとに旦那さまらしいご親切にたいして深くお礼申しあげますが、それはだめです」
「だめだって!」びっくりしてピクウィック氏は叫んだ。
「サミュエル!」威厳をこめてウェラー氏は言った。
「それはだめだと申しあげますよ」声を大きくしてサムはくりかえした。「旦那さまはどうなるんでしょう?」
「お前」ピクウィック氏は言った、「友人たちのあいだでの最近の変化は、わたしの将来の生活様式をすっかり変えることになるのだよ。そのうえ、わたしはだんだん齢をとってきて、安らぎと静かさが必要なのだ。わたしのブラブラ旅行は終わったのだよ、サム」
「どうしてそれがわかります?」サムは言った。「いまはそうお考えでも、これは十分ありそうなことなんですが、気が変わったら、わたしがいなくて、旦那さまはどうなることでしょう? 旦那さまはまだ二十五歳の青年の気持ちをおもちなんですからね。だめです、だめです」
「よし、よし、サミュエル、お前の言うことには一理も二理もあるぞ」けしかけるようにウェラー氏は言った。
「わたしはながく考えたあとで、約束は守るものと確信して、話しているのだよ、サム」頭をふって、ピクウィック氏は言った。「新しい局面がわしに近づき、わしのブラブラ旅行は終わったのだ」
「よくわかりましたよ」サムは答えた。「そうすると、あなたを元気づけ、あなたを気持ちよくしてあげるために、あなたを理解してるだれかがそばにいなけりゃならないわけですね。もっと磨きのかかった人間が欲しいのなら、結構ですよ、そうした男をおやといなさい。だけど、賃銀をもらおうともらうまいと、解雇の予告があろうとなかろうと、泊まり場所、食事のあるなしにかかわらず、バラの古宿屋であなたにやとわれたサム・ウェラーは、どんなことが起ころうとも、あなたのそばに食いついてますよ。どんなこと、だれがどんなに邪魔をしても、絶対にそれをやめませんよ!」
すごい勢いでサムがぶちまくったこの宣言が終わると、父親のウェラー氏は椅子から立ちあがり、時・場所・礼儀のすべて忘れて、頭の上に帽子をふりまわし、激しく喊声を三度あげた。
「ウェラーさん」自分自身の熱っぽい態度にちょっとどぎまぎして、ウェラー氏がまた腰をおろしたとき、ピクウィック氏は言った、「あんたは若い婦人のことも考えてやらねばならんのですよ」
「わたしはその若い女のことを考えてますよ」サムは言った。「そのことを、いままでも考えてたんです。彼女に話もしました。わたしの立場を話し、彼女はわたしの都合を待ってくれる気、きっと待ってくれると思いますよ。もし待ってくれなかったら、あの若い女をわたしは見損なったわけ、よろこんで彼女をすてちまいますよ。わたしのことは、あなたも前からご存じ。わたしはもう決心して、どんなことがあっても、それを変えたりはしませんよ」
だれがこうした決心に対抗できるだろうか? ピクウィック氏は対抗できなかった。彼がそのとき身分の低い友人たちのわが身をかえりみぬ愛情から得た誇りやかな豊かな気持ちは、その当時のもっとも身分の高い人たちから得る万の愛の言葉よりもっと強いものだった。
この話がピクウィック氏の部屋で進行中、かぎタバコの色をした服を着けた小柄の老紳士が、小さな旅行カバンをもったホテルのボーイをともなって、階下に姿をあらわし、その夜一晩泊まる契約をしてから、ウィンクル夫人がここにいるかどうかを、給仕にたずね、それにたいして、給仕は、もちろん、いる、と答えた。
「彼女はひとりでいるかね?」小柄な老紳士はたずねた。
「そうだと思いますが」給仕は答えた。「彼女の下女を呼ぶことができますよ、もしあなたが――」
「いや、その下女には用はないのだ」素早く老紳士は言った。「わしの名は伝えないで、わしを彼女の部屋に案内してくれたまえ」
「え?」給仕は言った。
「きみはつんぼなのかね?」小柄な老紳士はたずねた。
「いいえ」
「じゃ、よく聞いてくれたまえ。今度は聞こえるかね?」
「はあ」
「よろしい。わしの名は伝えないで、わしを彼女の部屋に案内してくれたまえ」
小柄な老紳士がこの命令をくだしたとき、彼はそっと五シリングを給仕の手にわたし、しっかりと彼の顔をにらみすえた。
「ほんとうに」給仕は言った、「わたしにはわからないのです、もし――」
「ああ! わかった、それをしてくれるのだね」小柄な老紳士は言った。「それをすぐにしたほうがいいよ。時間の節約になるからね」
この紳士の態度にはじつに冷静で落ち着き払ったものがあり、その結果、給仕は五シリングをポケットに入れ、もうなにも言わずに、彼を二階に案内していった。
「これが彼女の部屋なんだね、えっ?」紳士は言った。「きみは向こうにいっていいよ」
給仕は、この紳士が何者だろう、なんの用事があるのだろうとひどくいぶかりながら、引きしりぞいていった。小柄な老紳士は給仕の姿が消えるまで待っていて、ドアをコツコツとたたいた。
「おはいりなさい」アラベラは言った。
「うん、とにかくきれいな声だな」小柄な老紳士はつぶやいた。「だが、それは問題ではない」これを言ったとき、彼はドアを開け、中にはいっていった。編み物をしながら坐っていたアラベラは、見知らぬ男を見て――ちょっとどぎまぎし――しかし品わるくはなくどぎまぎして――立ちあがった。
「どうか立ったりはしないでください、奥さん」中にはいりこみ、ドアを閉めて、見知らぬ男は言った。「ウィンクル夫人でしょうな?」
アラベラは頭をさげた。
「バーミンガムにいる老人の息子と結婚したナサニエル・ウィンクル夫人ですな?」はっきりとわかる好奇の目でアラベラをジッと見ながら、見知らぬ男はたずねた。
ふたたび、アラベラは頭をさげ、救いを呼ぶべきかどうか決めかねているように、不安そうにあたりを見まわした。
「あなたはびっくりしておいでですな、奥さん」老紳士は言った。
「ええ、たしかにちょっとね」だんだん驚きの情を深めながら、アラベラは答えた。
「よろしかったら、椅子に坐らせていただきますよ、奥さん」見知らぬ男は言った。
彼は坐り、ポケットから眼鏡入れを引きだし、ゆっくりと眼鏡を出して、それを鼻にかけた。
「わたしをご存じではないのですね、奥さん?」彼は言い、ジッとアラベラを見つめたので、アラベラはおそろしくなってきた。
「ええ」おずおずと彼女は答えた。
「そうですな」左脚をかかえて、紳士は言った。「知らないはずですよ。だが、あなたはわたしの名前をご存じですよ」
「そうでしょうか?」わけがわからずながらも体をふるわせて、アラベラは答えた。「そのお名前、おたずねしてもよろしいでしょうか?」
「すぐあとでね、奥さん、すぐあとでね」彼女の顔からまだ目をはなさないで、見知らぬ男は言った。「あなたは最近結婚なさったのですな、奥さん?」
「そうです」編み物をわきにおき、前にも起こったことがある考えがもっと強く彼女の心にわきおこってきたとき、ひどく興奮して、ほとんど聞きとれぬような声で、アラベラは答えた。
「夫がたよりにしているその父親に最初相談するのが正しいこと、と彼に言いもせずにでしょうな?」見知らぬ男は言った。
アラベラはハンカチを目に当てた。
「父親が当然強い関心をもっていることに関するその意見を、なにか遠まわしな方法で、たしかめることもせずにね?」見知らぬ男は言った。
「たしかにそのとおりです」アラベラは答えた。
「しかも、父親の希望どおりに結婚したら夫が得るとあなたが知っている世間的な利点と交換に、永続的な援助を彼に与える自分自身の財産もなしでね?」老紳士は言った。「これは少年・少女が、自分自身の少年・少女をつくるときまで、私心のない愛情と呼んでいるものなのです。子供ができれば、もっと荒っぽい、とてもちがった光でそれをながめることになるのですがね」
その言い訳に自分は若くて経験が浅く、自分の愛情だけで自分がとった行動をとるようになったこと、ほとんど子供時代から両親の指導と意見は受けていなかったことをアラベラが述べ立てたとき、彼女の目から涙がどんどんと流れ出た。
「それはまちがったこと」前よりおだやかな語調で老紳士は言った、「とてもまちがったこと。それは愚かで、ロマンチック、非事務的なことですぞ」
「それはわたしがいけなかったから、わたしがみんないけなかったからです」泣きながら、あわれなアラベラは答えた。
「バカな」老紳士は言った。「彼があなたを好きになったのは、あなたがいけなかったためではないのでしょう? だが、そう、そうですな」アラベラをそうとういたずらっぽくながめて、老紳士は言った。「それはきみがいけなかったからですぞ。彼はどうとも動きがとれなかったからです」
このちょっとしたお世辞、あるいは、この小柄の紳士の妙なお世辞の言い方、あるいは、彼のガラリと打って変わった態度――最初よりずっと親切になった態度――あるいは、その三つぜんぶが、泣きながらも、ついアラベラに微笑を浮かべさせることになった。
「あなたのご主人はどこにいます?」自分の顔にも浮かびかけていた微笑をとめて、いきなり老紳士はたずねた。
「いまかいまかと待っているところです」アラベラは答えた。「今朝、散歩に出るようにと、わたしは彼に説きつけたのです。父親から便りがないので、彼はとても気落ちし、がっかりしています」
「気落ちしているのですって?」老紳士はたずねた。「身から出た錆だ!」
「わたしのために気落ちしているのではないかしら?」アラベラは言った。「そして、本当に、彼のためにわたしはとても心配しているのです。このわたしがあったからこそ、彼はいまのような立場に落ちこんだのですからね」
「彼のために心配することはありませんぞ」老紳士は言った。「身から出た錆なんですからな。彼に関するかぎり、わたしはそれをよろこんでいますよ――じっさいによろこんでいますよ」
この言葉が老紳士の口から出るか出ないかに、階段をのぼる足音が聞こえ、それを、彼とアラベラは、同時にだれの足音かわかったようだった。小柄な紳士は青くなり、落ち着いたふうに見せようと大努力を払い、ウィンクル氏が部屋にはいってきたとき、立ちあがった。
「お父さん!」びっくりしてとびさがりながら、ウィンクル氏は叫んだ。
「そうだよ」小柄な老紳士は答えた。「さて、きみ、きみの言いたいことはどんなことかね?」
ウィンクル氏はだまっていた。
「きみは身を恥じているのだろうね?」老紳士はたずねた。
まだウィンクル氏は、だまったままだった。
「きみは身を恥じているのかね、いないのかね?」老紳士はたずねた。
「恥じてはいませんよ」アラベラの腕を自分の腕にとおして、ウィンクル氏は答えた。「ぼくは自分自身のこと、自分の妻のことを、恥じてはいませんよ」
「まったくね!」皮肉に老紳士は叫んだ。
「ぼくにたいするあなたの愛情を減らすようなことをしたのを、ぼくはとても残念に思っています」ウィンクル氏は言った。「でも、それと同時に、ぼくは申しますよ、この婦人を自分の妻にむかえ、お父さんが彼女を娘にむかえたことを恥じる理由はぜんぜんないことをね」
「握手をしよう、ナット」いままでと打って変わった声で、老紳士は言った。「さあ、わしにキスをしておくれ。結局のところ、きみは、本当に、感じのいい義理の娘なんだからね!」
数分たつと、ウィンクル氏はピクウィック氏をさがしに出かけ、ピクウィック氏といっしょにもどってきて、彼を父親のところにおしやり、そこでふたりの紳士は、五分間ひきもきらずに、握手をつづけていた。
「ピクウィックさん、息子にたいするあなたのご親切には、心の底からお礼を申しあげますよ」飾りのない率直な態度で、老ウィンクル氏は言った。「わたしはせっかちな性分。この前お会いしたとき、わたしはいらだち、虚をつかれていたんです。いまは自分の目で判断し、十二分に満足してますよ。これ以上おわびの言葉が必要ですかな?」
「いいや、ぜんぜん」ピクウィック氏は答えた。「わたしの幸福に欠けていたただひとつのことを、あなたがしてくださったのですからね」
ここで、さらに五分間、握手がおこなわれ、それにともなって、さまざまのほめ言葉がとびだしたが、それは、ほめ言葉である以外に、心からのものであるというおまけの、じつにめずらしい付属物までついていた。
サムは孝行息子ぶりを発揮して父親を『ベル・ソウヴァージュ旅館』まで送ってゆき、帰り道に裏小路で太った少年に出逢ったが、この少年はエミリー・ウォードルからの手紙の配達を託されていたのだった。
「ねえ」ふだんになく多弁のジョーは言った、「メアリーはなんてきれいな娘なんでしょう、どうです? あの女はとても好きですよ、まったく!」
ウェラー氏はそれにたいして口に出してなんの返事もせず、太った少年の僣越ぶりにすっかりびっくりして、しばらくのあいだ彼をジットと見つめ、その襟っ首をつかまえて隅のところに引っぱってゆき、危害は加えずとも型どおりのひと蹴りを与えて、彼を追い払い、その後、口笛をふきながら、家にもどっていった。
[#改ページ]
第五十七章
[#3字下げ]ピクウィック・クラブは最終的に解散し、すべてのことはすべての人が満足いくように終結する
バーミンガムからウィンクル氏がうれしくも到着してからまるまる一週間のあいだ、ピクウィック氏とサム・ウェラーは一日中家をはなれ、夕食時にようやく間に合ってもどり、それ以後は、彼らには珍しい神秘的な、もったいぶった態度を示しつづけていた。とても重大で波瀾のあることが進行中であることはわかったが、それがなにかについては、さまざまな推測がおこなわれていた。一部の者は(その中にタップマン氏もいたが)ピクウィック氏が結婚を考えているのだという考えに傾いていたが、この考えは、ご婦人方の強い反撃を受けていた。ほかの者は、彼がどこか遠くへ旅行をしようとしていて、さし当たり、予備的準備をするのに忙殺されているのだと考えようとしたが、これもまた強くサム自身に打ち消され、彼はメアリーにくわしく問いつめられて、新しい旅は絶対にしないことをはっきりと述べたのだった。とうとう、全員の頭が、六日間というながいあいだ、あれこれとなやまされつづけたあげくに、ピクウィック氏にその行動を説明し、彼を敬慕している友人たちからどうしてはなれているのかをはっきりと話すように要求することが、満場一致で決定された。
この目的で、ウォードル氏はアデルフィでの晩饗に全員を招き、ぶどう酒のびんが二度みなにまわされてから、この仕事がはじめられた。
「われわれはみんな知りたがっているのですよ」老紳士は言った、「あんたのご機嫌を損ねるどんなことをわれわれがし、われわれのところをはなれて、ああして一日中あなたがうろつきまわっているようになったのかをね」
「そうですか?」ピクウィック氏は言った、「まさにきょう、こちらのほうから自発的に十分説明するつもりだったのは、妙なめぐり合わせですね。だから、もしもう一杯ぶどう酒をいただけたら、あなた方の好奇心を満足させることにしましょう」
びんはふだんに見られない機敏さで手から手へとわたされ、ピクウィック氏は陽気な微笑を浮かべて、友人たちの顔を見わたして、話をつづけた――
「われわれのあいだで起こったすべての変化は」ピクウィック氏は言った、「というのは、もう[#「もう」に傍点]起きた結婚とこれから[#「これから」に傍点]起きる結婚は、それがもっている変化といっしょに、わたしに、真剣に、ただちに、自分の将来のことを考えなければならなくしたのです。ロンドンの近くのどこか静かな美しい場所に引退しようと、わたしは決心したのです。わたしは自分の好みにピタリ合う家を見つけました。わたしはそこを借り、家具のとりつけもすませました。わたしを受け入れる準備はすっかりととのい、平和な引退状態でまだ何年か静かな年をそこで送り、友人たちとの交際で生涯を楽しみ、死後は彼らの愛情ある思い出にむかえられるものと確信して、わたしはすぐその家にはいろうと思っているのです」
ここでピクウィック氏はひと息つき、低いつぶやき声がテーブルのまわりを走った。
「わたしが借りた家は」ピクウィック氏は言った、「ダリッジにあり、大きな庭がついていて、ロンドン周辺のいちばん快適な場所のひとつです。あらゆる注意を払って住み心地よいものになっていて、多少の優雅さをもそえられたものです。だが、それは、みなさん自身の目で判断していただくことにしましょう。サムはそこにわたしといっしょに来てくれます。パーカーの推薦で、家政婦――とても齢をとった婦人――と彼女が必要と思っている何人かの召使いもやといました。わたしが非常に関心をよせている儀式をそこでおこなって、このささやかな隠居所を清めたく思っています。もしわが友ウォードルに異議がなかったら、わたしがそこにはいるその日に、彼の娘をその家から結婚して出したいのです。若い人たちの幸福は」ちょっと感動して、ピクウィック氏は言った、「わたしの生涯の中心的なよろこびだったのですからね。わたしにもっとも親しい友人たちの幸福をわたし自身の家の屋根の下に見ることは、わたしの心を温めてくれることでしょう」
ピクウィック氏はここでまたひと息入れ、エミリーとアラベラは大きくすすり泣いていた。
「クラブとは、わたし自身と手紙で、連絡をとり」ピクウィック氏はつづけた、「彼らにわたしの意図は伝えてあります。わたしのながい不在中、それは、内部的不和にひどくなやまされ、わたしの名をそこからはずすことは、あれこれの事情と結び合わせて、その解散をひきおこしたのです。ピクウィック・クラブはもはや存在していません」
「わたしは絶対に後悔することはないでしょう」低い声でピクウィック氏は言った、「二年の大部分をさまざまな色合いの人との付き合いに献げたことを、わたしは絶対に後悔することはないでしょう、わたしがもの珍しさを追求したことは、多くの人の目に、軽薄なものと映ったかもしれませんがね。以前の生活のほとんどは商売と富の追求に献げられていたので、そのときまで見当もついていなかった数多くの場景がわたしにぼんやりとわかりかけてきました――これがわたしの心をひろめ、理解力の助けになってくれればいいのですがね。いいことはほとんどなにもしないにしても、危害を加えたことはそれよりもっと少なく、わたしの冒険のどれも、老いてからのおもしろい、楽しい思い出の種になることと思います。みなさん、お元気で!」
こうした言葉を述べてから、ピクウィック氏は、手をふるわせて、杯に酒をつぎ、乾杯し、彼の友人たちがいっせいに立ちあがり、心から彼の健康を祝って乾杯したとき、彼の目は涙でぬれていた。
スノッドグラース氏の結婚のために準備すべきことは、ほとんどなかった。彼には父も母もなく、未成年のときにはピクウィック氏の後見を受けていたので、ピクウィック氏が彼の財産や将来の見とおしのことはよく知っていた。この点に関する彼の話はウォードルにとっては十分なものであり――どんなほかの説明でも十分なものであったろう、ウォードルは陽気と親切にあふれていたのだから――多額の持参金がエミリーに与えられていたので、その結婚はその日から四日目におこなわれることになり、その準備のあわただしさは、三人の婦人服裁縫師と仕立て屋をてんてこ舞いさせることになった。
馬車に早馬をつけて、老ウォードルは、彼の母親をロンドンにつれてくるために、出発した。この知らせをいかにも彼らしい性急さで老婦人に伝えると、彼女は気絶してしまったが、意識を回復するとすぐ、彼女は即刻錦の絹の衣装の荷づくりを命じ、死亡したトリムグロウア夫人の長女の結婚に起こった同じような事情の話をながながと語り、それは三時間もかかったが、まだ半分も語りつくせないといったふうなものになった。
ロンドンでおこなわれているすばらしい準備すべてをトランドル夫人に伝えなければならなかったが、健康があまりすぐれていなかったので、この知らせが強烈すぎはしないかとの心配で、それはトランドル氏をとおして知らされることになった。だが、それは強烈すぎるといったことはなかった。彼女はすぐにマグルトンに手紙を出して、新しい帽子と黒のしゅすのガウンを注文し、そのうえ、その結婚式に自分も出席することを宣言したからである。そこで、トランドル氏は医者を呼びこみ、医者は、トランドル夫人が自分の容態をだれよりもよく知っているべきだと述べ、それにたいして、トランドル夫人は、それに堪えられる、自分はゆこうと決心しているのだと答え、そこで、賢明で思慮があり、他人ばかりでなく自分自身になにがよいかを心得ていた医者は、もしトランドル夫人が家にとどまっていたら、いらいらして、ゆくよりもっと体を痛めることになるだろう、と言った。そこで彼女はゆくことになり、医者は道中服用すべき六種類もの薬を慎重に送りとどけた。
こうした騒動の種になることに加えて、ウォードルは花嫁の付添い人になるはずのふたりの小さな若いご婦人宛の小さな手紙を託されていた。この手紙を受けとると、この若いご婦人方は、こうした重大な儀式にふさわしいどんな「着物」もなく、それをつくる時間もないことで、気がくるわんばかりになり――この事情は、このふたりの小さな若いご婦人方のふたりのりっぱな父親にむしろ満悦感を与えたようだった。しかし、古いフロック服がへりを切りとられ、新しいボネット帽がつくられて、若いご婦人方は予想どおりの美しい姿を見せることができるようになった。そしてふたりはあとの儀式の適当なところで泣き、うまいときに体をふるわせたので、彼らの動作は見ている人たちの驚嘆の的になっていた。
ふたりの貧乏な親戚がどうしてロンドンに到着したか――彼らが歩いたのか、馬車のうしろに乗ったのか、あるいは、荷車に乗せてもらったのか、たがいに順番に運びあって来たのか――それは不明である。だが、彼らはウォードルより前にロンドンに着き、結婚式の朝にピクウィック氏の家にノックをした真っ先の人物は、満面笑みをたたえ、シャツにカラーをつけていたふたりの貧乏な親戚だった。
しかし、ふたりは心からよろこんでむかえられた。貧富はピクウィック氏にとってなんの問題でもなかったからである。新しくやとわれた召使いは敏捷と活気にあふれ、サムは最高無類の上機嫌と興奮状態にあり、メアリーは美しさとしゃれたリボンで光り輝いていた。
二、三日前からこの家に滞在していた花婿は、ピクウィック氏、ベン・アレン、ボッブ・ソーヤー、タップマン氏にともなわれて、花嫁をむかえにダリッジの教会にやさしくもとびだし、サム・ウェラーは外にいて、ボタン穴を彼の恋人が贈った白い花で飾り、このために考案された新しい豪華な仕着せを着こんでいた。彼らはウォードル一家、ウィンクル一家、花嫁と花婿、トランドル夫妻と合流し、儀式が終わってから、朝食をとるために、何台かの馬車は音を立ててピクウィック氏の家にもどり、そこで小男のパーカー氏がもう彼らの到着を待っていた。
ここで、行事の比較的厳粛な部分のもつ軽い雲は消え去り、すべての顔は楽しそうに輝き、祝福と賞賛の言葉以外にはなにも耳にはいらなかった。すべてのものはじつに美しかった! 正面の芝生、背後の庭園、小型の温室、食堂、応接間、寝室、喫煙室、なかんずく絵、安楽椅子、奇妙な用だんす(宝石、その他貴重品を入れる)、風変わりなテーブル、沢山の本のある書斎、快い芝生に向けて開き、ほとんど木にかくされてそこここに点在している小さな家のある美しい景色を見晴らすそこの大きな窓、それから、カーテン、じゅうたん、椅子にソファー! すべてのものがとても美しく、小ぢんまりとし、小ぎれいで、いかにも好みのいいもの、どれをいちばんほめたらいいのか見当もつかない、とみなが言っていた。
そうしてこうしたすべてのものの中に、ピクウィック氏は立ち、その顔は微笑で輝き、その魅力には、どんな男・女・子供の心も抵抗できぬほどだった。彼はそうした人たちの中でいちばん幸福な人物、同じ人たちと何回も何回も握手をかさね、手を握手に使っていないときには、よろこびで手をこすり、よろこびや好奇の言葉が新しく発せられるたびに、そちらにグルリと向きなおり、よろこびと楽しみの彼の表情でみなの気持ちをふるい立たせていた。
朝食の準備のできたことが知らされた。ピクウィック氏は老夫人(彼女はトリムグロウア夫人のことで大弁舌をふるっていた)をながいテーブルの上座につれてゆき、ウォードルが下座につき、友人たちは両側にならんで坐った。サムは自分の主人の背後にその場所をとった。笑いと話はやみ、ピクウィック氏は食前の祈りの言葉を述べ、ちょっと話を切り、あたりを見まわした。彼がそうしたとき、よろこびの余り、涙が彼の頬にころがり落ちた。
われわれの旧友をこうした純粋の幸福感にひたらせておこう。こうした幸福の瞬間は、もしわれわれがそれを求めたら、ときに見つかり、この地上のわれわれのはかない生活をなぐさめてくれるものなのだ。この世には暗い影はあるものの、それにくらべたら、光のほうが強いのだ。一部の人は、こうもり[#「こうもり」に傍点]やふくろう[#「ふくろう」に傍点]のように、光より暗闇によい目をもっている。そうした目の力の持ち主でないわれわれは、この世の短い陽光があかあかと輝いているとき、多くの孤独な時間の伴侶となっている幻想的な人々に最後の別れを告げたいと思うものなのだ。
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[#ここで字下げ終わり]
多くの真の友をつくり、自然の流れでそれを失うことは、この世にまじわり、人生の壮年期に達した人が多く味わう運命である。想像上の友人をつくり、それを芸術の流れで失うことは、すべての作者と年代記作者の運命である。また、彼らの不幸はこれだけにとどまっていない。彼らは、そのうえ、そうした友人たちの話をしなければならないからである。
この習慣にしたがい――それはまちがいなくわるい習慣なのだが――ピクウィック氏の家に集まった人たちについて、わずかだが伝記的な言葉をそえることにしよう。
ウィンクル夫妻は、老紳士にすっかりお気に入りになり、ピクウィック氏の家から半マイルとはなれていない新築の家に、その後間もなくうつることになった。ウィンクル氏はその父親の代理人、ロンドンの取引人としてシティで仕事をすることになったので、以前の服をふつうのイギリス人の服にかえ、その後は教養ある人間の外貌を示していた。
スノッドグラース夫妻はディングリー・デルに住みつき、そこで小さな農場を購入、農耕をしていたが、それは利益のためというより、むしろなにか仕事をするためだった。スノッドグラース氏はときどき茫然となり憂鬱になるので、友人たちのあいだでは、|今日《こんにち》まで偉大な詩人と風評を立てられているが、そうした風評を裏書きする作品はなにも書いていないらしい。この世の中にはこれと同じような条件で高い名声を得ている多くの文学的、哲学的、その他の名士が数多くいる。
タップマン氏は、友人たちが結婚し、ピクウィック氏が家をもったとき、リッチモンドで下宿生活をはじめ、その後ずっとそこに住んでいる。彼は、夏のあいだ、若々しい、元気のいいようすで、いつも台地町を歩きまわっているが、その風采は、近くに住む多くの独身の初老のご婦人方のあこがれの的になっている。彼は二度と結婚の申しこみをしたことがない。
ボッブ・ソーヤー氏は一度破産者として官報に公示され、ベンジャミン・アレン氏といっしょにベンガル(もとインド北東部の州)にわたっていった。ふたりとも東インド会社の医師として採用されたからである。ふたりはそれぞれ黄熱病に十四回かかり、それから少し酒をつつしもうと決心、そのとき以来、元気に暮らしている。
バーデル夫人は多くの独身の気のおけない紳士を下宿人として入れて、大いに利益をあげているが、結婚の約束の破棄で裁判ざたを二度と起こしてはいない。彼女の弁護士だったドッドソン氏とフォッグ氏は商売をつづけ、そこから大きな収入をあげているが、ふたりは、商売仲間のあいだで、抜け目のない男の|最《さい》たる者と考えられている。
サム・ウェラーは約束を守り、二年間結婚しないでいた。そのとき年老いた家政婦が死んだので、ピクウィック氏は、ウェラー氏と結婚することを条件にして、メアリーを家政婦の地位に昇進させ、彼女は文句なしにその条件に服した。裏庭の門のところにたくましいふたりの小さな少年の姿が何回となく見受けられるところからしても、サムが子もちになったものと考えてもいいだろう。
父親のウェラー氏は、一年間、駅伝馬車の御者をしていたが、痛風になやまされ、引退せざるを得ないことになった。しかし、紙入れの中身はピクウィック氏によってじつにうまく投資されていたので、彼には引退生活ができる大きな収入があり、それをもとにして、シューター・ヒルの近くのりっぱな宿屋で、まだ生きているが、そこで彼は哲人として大きな尊崇を集め、ピクウィック氏と懇意なことを自慢の種にし、未亡人にたいしては依然として不屈の嫌悪の情をもちつづけている。
ピクウィック氏自身はその新しい家に住みつづけ、暇な時間は覚え書きの整理(これはあとでかつて有名だったクラブの秘書に寄贈された)や、サム・ウェラーが、彼の心に浮かぶ説明づきで、本を大声で読むのに聞き入ることでついやされていたが、このサムの説明はいつもピクウィック氏を大いに楽しませていた。彼は、最初、スノッドグラース氏、ウィンクル氏、トランドル氏から何回となく彼らの子供の名づけ親になってくれとたのまれて、とてもなやまされていたが、いまはもうそれに馴れっこになり、当然のこととしてその役をつとめている。彼はジングル氏への慈悲を悔いたことはなかった。ジングル氏とジョッブ・トロッターは、むかしの巣と誘惑の場面にもどるのをいつも堅く拒んでいたが、もはや社会的にりっぱな人物になっていたからである。ピクウィック氏はいま少し体が弱っているが、以前の精神的な若々しさは失わず、いまでもダリッジ美術館で絵をながめ、天気のいい日には、近くの散歩を楽しんでいる姿を見かけることができる。彼は付近の貧乏な人すべてに知られ、彼らは、彼がそばをとおると、かならずとてもうやうやしい態度で帽子をぬいでいる。子供たちは彼を偶像化し、近くの人たちすべても同じ気持ちになっている。毎年、彼はウォードル氏の家でおこなわれる一族の大きなお祭りさわぎにおもむいているが、このときには、ほかの場合と同様、彼はいつもその忠実なサムを同伴している。サムとその主人のあいだには、死以外のどんなものも消すことのできないしっかりとした、たがいにいだき合っている愛情が流れているのだ。
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C.ディケンズ (Charles Dickens)
(一八一二――一八七〇)イギリスを代表する作家の一人。法律事務所勤務、新聞の通信員などを経て作家の道に入る。『ディヴィッド・コッパーフィールド』『二都物語』『オリヴァー・トゥイスト』『クリスマス・キャロル』など多数の名作がある。
北川悌二(きたがわ・ていじ)
(一九一四――一九八四)東京に生まれる。東京大学卒業。東京大学教授を経て独協大学教授。訳書に『クリスマス・キャロル』他、ディケンズの作品多数がある。
本作品は一九七一年一一月、三笠書房より刊行され、一九九〇年四月、ちくま文庫に収録された。