ピクウィック・クラブ(上)
C.ディケンズ/北川悌二 訳
目 次
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第一章 ピクウィック・クラブ会員
第二章 最初の日の旅行と最初の夜の冒険。その結果
第三章 新しい友人、放浪者の物語。おもしろからぬ邪魔と不愉快な出逢い
第四章 野外の一日と宿営。さらに新しい友人。郊外への招待
第五章 短い章。なかんずく、ピクウィック氏が車を走らせようとし、ウィンクル氏が馬に乗ろうとしたこと、彼らの試みた方法を語る
第六章 古風なカルタ会。牧師の詩。囚人帰還の物語
第七章 ウィンクル氏が、はと[#「はと」に傍点]を撃って|烏《からす》を殺すかわりに、烏を撃ってはと[#「はと」に傍点]を傷つけた話。ディングリー・デルのクリケット・クラブがオール・マグルトンと試合をし、オール・マグルトンがディングリー・デルに夕食をおごられる話。その他、興味深い教訓的なことがら
第八章 真の愛情の道は鉄道でないことを強く示す
第九章 発見と追跡
第十章 ジングル氏の性格の公正さにたいする疑惑(疑惑があったとすれば)をすべて解消する
第十一章 もうひとつの旅、考古学的発見をふくむ。選挙を見物しようとするピクウィック氏の決心と老牧師の原稿のことを記録する
第十二章 ピクウィック氏の側でのきわめて重要な行為を描いているが、これはこの物語ばかりでなく、彼の生涯でも一時期を画するものになる
第十三章 イータンスウィル、そこの党派の状態、あの古い、忠義心の厚い、愛国的な選挙区から下院議員を選挙することについての話
第十四章 『|孔雀《くじやく》旅館』に集まった人々の簡単な描写と旅商人の話
第十五章 ふたりの有名な人物の忠実な描写と彼らの家での公開の朝食会の正確な模様が伝えられ、その朝食会で古い知人と偶然会い、べつの章をひきおこすことになる
第十六章 簡単には伝えられぬほど冒険にあふれた章
第十七章 リューマチにおそわれることが、場合によっては発明的才能の促進剤になることを示す
第十八章 ふたつの点――第一はヒステリーの力、第二に環境の影響力――について簡単に説明する
第十九章 愉快な一日と不愉快な終結
第二十章 ドッドソンとフォッグが実務家、その書記が遊び人であること、感動的な会見がウェラー氏とながいあいだ行方不明だった父親のあいだで起きたいきさつを示す。さらに、どんなにすばらしい人たちが『かささぎ[#「かささぎ」に傍点]と切り株旅館』に集まり、つぎの章がどんなにすばらしい章になるかを示す
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ピクウィック・クラブ(上)
THE POSTHUMOUS PAPERS OF THE PICKWICK CLUB
第一章
[#3字下げ]ピクウィック・クラブ会員
暗闇に最初の光を投げ、不滅のピクウィックの初期の経歴が落ちこんでいるかに思える不明な点をまばゆいほど輝くものに変えたものは、ピクウィック・クラブ会報のつぎの記録であり、以下の記録の編者にゆだねられた多種多様の文書の調査に当たって払われた周到な注意、不撓不屈の努力、子細な鑑識眼を証明するものとして、それを読者の皆さまにここでご披露できることは、編者にとって最高のよろこびである。
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『一八二七年五月十二日 ピクウィック・クラブ終身副会長ジョーゼフ・スミガーズ司会。つぎの決議が満場一致で採択された――
「ハムプステッド池の起原に関する考察、とげ魚の理論に関する意見もそえて」と題するピクウィック・クラブ会長サミュエル・ピクウィック氏提出の論文の講読を純粋の感謝と無条件の称賛をもって傾聴し、この論文にたいして、ピクウィック・クラブ会長サミュエル・ピクウィック氏に深甚なる感謝をあらわすものである。
ピクウィック・クラブ会長サミュエル・ピクウィック氏のホーンセイ、ハイゲイト、ブリクストン、キャムバーウェルにおけるたゆみなき研究ばかりか、ただいま言及した論文が科学に寄与する利益を当協会は深く認識するばかりでなく、この学者が考察の分野をさらにひろめ、その旅行の範囲をひろくし、したがってその観察の範囲を拡大することから、知識の進歩、学問の普及のために必然的に起きる数知れぬ利益を、会員はまざまざと感じずにはいられない。
ただいま申した意図をもって、ピクウィック・クラブの通信部の称号のもとで、連合ピクウィック・クラブ会員の新しい部門を結成しようとする提案を、この協会は真剣に考えてきたが、この案は、前記ピクウィック・クラブ会長サミュエル・ピクウィック氏といずれ名をあげる三名のピクウィック・クラブ会員の発意によって起こされたものである。
前記の提案は当協会の賛成と承認を与えられた。
ピクウィック・クラブの通信部は、したがって、これによって結成され、ピクウィック・クラブ会長サミュエル・ピクウィック氏、ピクウィック・クラブ会員トレイシー・タップマン氏、ピクウィック・クラブ会員オーガスタス・スノッドグラース氏、ピクウィック・クラブ会員ナサニエル・ウィンクル氏がこれによって通信部の職員に指名・任命され、彼らの旅行・調査、風俗習慣の観察、その冒険すべての正統な報告、地方の場景とそれになじむことがひきおこす物語と記録をすべて、折りにふれて、ロンドンのピクウィック・クラブに提出することを要求されている。
通信部のすべての構成員は、それぞれの旅費を自己で負担する原則を心より承認し、当部の構成員が、同じ条件にもとづいて、随意の期間、その探究をおこなうことに、なんらの異議をとなえるものではない。
前記通信部の構成員は、彼らがその通信料と荷物運送料を負担すべきことを提案、それは当協会によって審議され、当協会はこの提案をその提案者の大らかな心にふさわしいものと考え、その完全なる承認をこれによって通告するものである。』
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以下の話は秘書の憶え書きによるものだが、彼の言葉によれば、たまたまゆきずりの部外者でも、上記決議が読会(議会の審議・採決・修正する機関)にかけられているとき、彼(秘書)の顔に向けられた熱心な|禿《は》げ頭、丸い眼鏡になにも異常なものを認めなかったことだろう。あの|額《ひたい》の下でピクウィックの巨大な頭脳が動き、あの眼鏡の奥でピクウィックの輝く目がきらめいているのを知っていた人たちにとって、その光景はまことに興味|津々《しんしん》たるものだった。ハムプステッドの堂々たる池をその根源までさぐり、そのとげ魚の理論で科学界を|震駭《しんがい》させたあの人物が、|凍《い》てつく極寒の日のハムプステッドの深い池の水のように静かに動かず、土製の壺の深部にひそむとげ魚のように、目の前に坐っていたからである。その崇拝者たちがいっせいに「ピクウィック」と呼びかけたとき、この偉人が急に活気をおびて躍動し、そのときまで坐っていたウィンズル腰掛けにゆっくりと登り、彼自身が創設したクラブの会員に話をしはじめたとき、その光景はますますもって興味深いものになっていった。この心を躍らせる場景は、芸術家にとって、なんという好適な研究対象になったことだろう! 一方の手を上品に上衣の下端の背後にかくし、のこりの手は空中にふられて、白熱した彼の宣言の辞を助け、椅子に乗った姿勢は、普通人の場合にはなんの注意もひかずにすんでしまうだろうが、ピクウィックの場合には――もしこうした表現が許されるものだったら――おのずからなる畏怖の情と尊敬の念をわきおこさずにはいないタイツとゲートルを示し、彼の旅行の冒険に志願して参加し、彼の発見のもたらす栄光に参与する運命の星の下に生まれた人々にとりかこまれて、雄弁なピクウィックが立っているのだ。彼の右手にはトレイシー・タップマン氏――あまりにも感受性の強いタップマン氏が坐っている。彼は、人間の弱点のうちでもっとも興味あり、許さるべきもの――愛情の点で、成熟期の知識と経験に、少年のもつ情熱と熾烈さを加えた人物である。|齢《とし》と栄養がかつてはロマンチックだった姿を膨脹させてしまっている。黒い絹のチョッキはしだいに発展をとげ、その下に垂れさがっていた時計の金鎖は、一インチ一インチと、タップマンの視野から姿を消し、その大きな|顎《あご》はしだいに白ネクタイの領域を侵してはいるが、タップマンの魂は変わることがない――女性にたいする驚嘆の情は、依然として、彼の支配的な情熱になっている。偉大なる指導者の左手には、詩的なスノッドグラース、彼の近くにはスポーツ好きのウィンクルが坐り、前者は神秘的な青の上衣をまとい、犬皮のカラーをつけ、後者は新しい緑の狩猟上衣、|格子縞《こうしじま》のネッカーチーフがピタリと肌についた茶色のズボンに光彩をそえている。
この場合のピクウィック氏の弁舌は、それに関する討論とともに、ピクウィック・クラブの会報に載せられている。その双方とも、他の有名な団体の討論に非常に似通ったものである。偉人たちのやり方に相似点をみつけることはつねに興味深いことであるから、われわれはこの会報の記事をここに転載することにしよう。
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「ピクウィック氏は(秘書は語る)、名声はすべての人の心に大切なものです、と言った。詩的名声はわたしの友人スノッドグラースの心に大切なものです。征服(女性征服の意)の名声は、同様に、わたしの友人タップマンにとって、大切なものです。野外・空気・水でのスポーツにおける名声は、わたしの友人ウィンクルの心にあって、いちばん重大なものです。わたし(ピクウィック氏)は、人間の情熱、人間の感情(喝采)――おそらくは人間の弱み(大声で『ノー』の叫び)――によって動かされはせぬと言うのではありません。だが、これだけは申しあげるつもりです。もし自分の心の中で自負の炎が燃えあがることがあったとしても、人類に|裨益《ひえき》しようとする心がその炎を効果的に消してしまいました。人類礼賛が自分の活動範囲であり、博愛の精神がその裏打ちの保障になっています(激しい喝采)。わたしはある誇りやかな気持ちを味わっています――彼はそれを率直に認め、その敵にこの言葉を思うがままに利用させた――自分のとげ魚の理論を世に問うたことにたいして、わたしはある誇りやかな気持ちを味わっています。それは称賛を受けるかもしれません、受けないかもしれません(『受けている』という一声がかけられ、大喝采)。わたしは、いまその声を耳にした尊敬すべきピクウィック・クラブ会員の主張を受理し、それが称賛を受けたことを認めましょう。しかし、あの論文の名声がこの世のすみずみまでゆきわたったとしても、その論文の作者であることに味わう誇りやかな気持ちは、わたしの生涯のもっとも誇りやかなこの瞬間に、自分の周囲を見わたしながら味わっている誇りやかな気持ちにくらべたら、物の数ではないでしょう(喝采)。わたしは身分のいやしい者です(『ノー』、『ノー』の叫び)。それにしても、非常に名誉あり、多少危険のともなう仕事に自分が選ばれたことに、感銘を受けずにはいられません。旅行は混乱状態にあり、馬車の御者の心は不安定な状態にあります。外をながめ、自分の周囲で動いている場景を考えてごらんなさい。駅伝馬車は四方八方で転覆し、馬は逸走し、船はひっくりかえり、ボイラーは爆発しています(喝采――『ノー』の一声)。ノーですって! 大声でノーを叫んだ尊敬すべきピクウィック・クラブ会員は前に出て、できるものなら、それを否定してごらんなさい(喝采)。ノーを叫んだ人はだれです? (激しい喝采)自分(ピクウィック氏)の研究に――たぶん不当に――与えられた称賛をねたみ――それと競争しようとする|己《おのれ》のつたない試みにたいして寄せられた多くの非難の傷の痛みにウズウズして――小間物屋とは言わずとも――(大きな喝采)――だれか虚栄心の強い、失望に苦しむ男がこのひどい、中傷的やり方で――」
ブロットン氏(オールドゲイトの)が起立して、演説者の規則違反を議長に抗議する。あの尊敬すべきピクウィック・クラブ会員は自分のことを暗に当てこすっているのだろうか?(『違法』、『議長』、『イェス』、『ノー』、『つづけろ』、『やめろ』等の声)。
ピクウィック氏はそのさわぎに圧倒されぬ気配を示す。自分はあの尊敬すべき紳士を暗に当てこすったのだ(興奮のうず)。
ブロットン氏は、自分はある尊敬すべき紳士のいつわりの、口ぎたない非難を衷心よりの軽蔑でしりぞけるだけだ、と答える(大喝采)。あの尊敬すべき紳士はいかさま師だ(大混乱、『議長』、『違法』の大きな叫び)。
A・スノッドグラース氏が起立して、演説者の規則違反を議長に抗議する。彼は椅子の上に躍りあがる(『ヒヤ、ヒヤ』の叫び)。このクラブのふたりの会員間に起こったこの恥ずべき口争いをつづけさせてよいのでしょうか? と問いただす(『ヒヤ』、『ヒヤ』の叫び)。
議長は、あの尊敬すべきピクウィック・クラブ会員がたったいま彼が用いた表現を撤回するものと確信している、と表明する。
ブロットン氏は、議長にたいする衷心よりの敬意にもかかわらず、断固撤回せぬことを表明する。
議長は、ブロットン氏の口からたったいまもれ、自分には聞きとれなかった表現が常識的に用いられたのかどうかを、その尊敬すべき紳士に問いただすのを自分の絶対的な義務、と感ずる。
ブロットン氏は即座に、自分はそうではない、自分はピクウィック・クラブ的な意味でその言葉を用いたのだ、と答える(『ヒヤ』、『ヒヤ』)。自分は個人的にはあの尊敬すべき紳士にたいして最高の尊敬と敬意をいだいていることを認めなければならない。自分はただピクウィック・クラブ的な見方から彼のことをいかさま師と考えたのだ、と答える(『ヒヤ』、『ヒヤ』)。
ピクウィック氏はその尊敬すべき友人の公正・率直・十分な説明に大いに満足する。彼は、自分自身の言葉がピクウィック・クラブ的な解釈を受けるようにとしゃべられただけであることを、即刻理解していただきたい、と申し述べる(喝采)。
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こうしたじつに満足すべき、はっきりとした点に到達したあとで、この討論が終結したことは疑念の余地のないところであるが、ここでこの記録も終結している。つぎの章で記録されている諸事実を公的に記録したものはないが、それは、れっきとした手紙、その他の原稿を注意深く照合したもので、疑いもなく厳正なもの、それを連続物語の形にしても、事実をそこねるものではない。
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第二章
[#3字下げ]最初の日の旅行と最初の夜の冒険。その結果
千八百二十七年五月十三日の朝、すべての仕事を手伝う時間の折り目正しいあの召使いの太陽が東の空にのぼり、その光を注ぎはじめたとき、サミュエル・ピクウィック氏はそれに対抗するもうひとつの太陽のようにその眠りからとびおき、部屋の窓をおし開き、足下にひろがる世界を見わたした。ゴズウェル通りが足下に伸びていた。右手に目のとどくかぎりゴズウェル通りがあり、左手にゴズウェル通りがひろがり、ゴズウェル通りの反対側は道の向こう側に見えた。「こうしたものが」ピクウィック氏は考えた、「自分の目の前にあるものの検討に満足して、向こう側にかくされている真理を見ようとしない哲学者たちのせまい見解なのだ。それと同様、このわしも、永遠にゴズウェル通りをながめることだけに満足して、その道を四方八方とりかこんでいるかくれた場所を洞察するために、ひと骨折ろうともしないかもしれんのだ」このみごとな反省を口にしてから、彼は服を着こみ、服を旅行カバンに入れはじめた。偉人は身なりのことには余りやかましいことは言わないものだ。髯剃り、着つけ、コーヒー吸引の作業は間もなく完了した。それから一時間すると、ピクウィック氏は手に旅行カバンをさげ、外套のポケットには望遠鏡をおさめ、書き|誌《しる》すに足る発見はすぐに記録できるようにと雑記帳をチョッキにしまいこんで、セイント・マーチンズ・ラ・グランドの駅伝馬車客待ち場に到着していた。
「馬車!」ピクウィック氏は叫んだ。
「へい、へい」ズック製の上衣と同じ織物のエプロンをつけたひとりの奇妙な人類の標本といった人物が、それに応えて叫んだ。この男は首のまわりに真鍮の表示板と数字をつけて、なにか珍品の収集で標本として分類されているような感じだった。これは馬の手入れ夫だった。「へい、へい。さあ、これが初出の馬車です!」彼が朝の最初のタバコの一服をやっていた居酒屋からこの初出の馬車がひっぱって来られたとき、ピクウィック氏とその旅行カバンは車の中に投げこまれた。
「ゴールデン・クロスまでたのむ」ピクウィック氏は命じた。
「トミー、たった一シリングのかせぎだぜ」車が走りだしたとき、御者はふくれっ|面《つら》をして、その友人の馬手入れ夫に叫んだ。
「きみ、あの馬は何歳なのかね?」運賃の支払いの用意にと手ににぎっていたシリング貨幣で鼻をこすりながら、ピクウィック氏はたずねた。
「四十二歳ですよ」相手を横目でにらみながら、御者は答えた。
「なんだって!」雑記帳に手をやって、ピクウィック氏は叫んだ。御者は前の陳述をくりかえした。ピクウィック氏はこの男の顔を穴のあくほどにらみすえたが、その顔は微動だにせず、そこで彼はこの事実をただちに記入におよんだ。
「そして、一度にどのくらい馬を外に出しておくのかね?」さらに知識をひろめようとして、ピクウィック氏はたずねた。
「二、三週間ですな」御者は答えた。
「週だって!」びっくりしてピクウィック氏は言い――雑記帳がふたたび引き出された。
「馬の家はペントンヴィルにあるんです」冷静に御者は応じた、「だけど、家につれてくことは、滅多にありませんや、ちょっとまずいとこがあるんでね」
「まずいとこがあるんだって!」とまどったピクウィック氏はくりかえした。
「馬車から出すと、やつはいつもぶっ倒れちまうんです」御者はつづけた、「だが、馬車におさまってるときにゃ、おれたちがやつをしっかりともちあげ、たづなをしめてるんです、やつがぶっ倒れないようにとね。馬車にはとてつもなくでかい車輪が二つついてますからね、やつが動くと、車輪がそのあとを追いかけてく、やつは前に進まにゃならなくなるんです――どうしてもね」
苦境にある馬の生命力の強靱さをふしぎにもあらわすものとして、クラブにこれを紹介するために、ピクウィック氏はこの陳述の一語一語をすべて雑記帳に記入した。この記入がすむかすまないかに、馬車はゴールデン・クロスに到着した。御者はとびおり、ピクウィック氏は馬車から出てきた。自分たちの輝かしい指導者の到着を待っていたタップマン氏、スノッドグラース氏、それにウィンクル氏は、彼を歓迎するために、寄り集まってきた。
「さあ、馬車代だ」例のシリング銀貨を御者のほうに差しだしながら、ピクウィック氏は言った。
このふしぎな男がその金を舗道に投げすて、金のかわりに、遠まわしに彼(ピクウィック氏)に勝負をいどんだとき、この学者は|愕然《がくぜん》とした。
「きみは気ちがいだぞ」スノッドグラース氏は言った。
「さもなけりゃ、酒で頭がおかしくなっているんだ」ウィンクル氏は言った。
「さもなけりゃ、両方だね」タップマン氏は言った。
「さあ、来い!」体にグングンとはずみをつけながら、馬車屋は言った。「さあ、来い――四人とも」
「こいつぁおもしれえや!」五、六人の貸し馬車屋は言った。「サム、がんばれ」――そして彼らは大よろこびで一行をとりかこんだ。
「なんの喧嘩だ、サム?」黒いキャラコの|袖《そで》をつけたある紳士がたずねた。
「喧嘩だって!」御者は答えた、「あの男、おれの番号になんの用があるんだ?」
「きみの番号には、べつに用はなかったよ」びっくりしてピクウィック氏は言った。
「それじゃ、なんのために、その番号の写しをとったんだ?」御者はたずねた。
「べつに写しはせん」憤激して、ピクウィック氏は言った。
「いいか、みんな」群集に呼びかけて、御者は言った、「いいか、みんな、スパイが人の車に乗って歩きまわり、その番号を写すばかりか、そのうえ、しゃべったことぜんぶを写しとろうとしてるんだぞ」(ピクウィック氏にさっと光がひらめいた――それは例の雑記帳のことだった。)
「だけど、あの男、そんなことをしたのかい?」べつの馬車屋がたずねた。
「ああ、したとも」御者は答えた。「おれはむくれちまって、やつをなぐってやろうと決心したんだが、そのあとで、やつはその証人にこの三人の男を仕立てようとしてやがるんだ。だが、やつをなぐってやるとも、半年監獄にたたっこまれようともな。さあ、来い!」こう言って、御者は自分の持ち物には委細かまわず、帽子を大地にたたきつけて、ピクウィック氏の眼鏡をふっとばし、この攻撃にひきつづいて、ピクウィック氏の鼻に一撃を加え、さらにピクウィック氏の胸にべつの一撃、三番目のものはスノッドグラース氏の目に、四番目のものは、変化をつけて、タップマン氏のチョッキに打ちつけ、道路におどりだし、それからふたたび舗道にもどって来て、最後に、一時的だが、ウィンクル氏の息の根をすっかりとめてしまった。しかも、これは五、六秒以内の活躍だった。
「巡査はどこにいる?」スノッドグラース氏は言った。
「やつらを井戸に投げこんでしまえ」熱狂したパイ売りが叫んだ。
「お前はこれでひどい目にあうことになるぞ」息をあえがせて、ピクウィック氏は言った。
「スパイども!」群集は叫んだ。
「さあ、来い」このあいだ中、絶え間なく体を動かしていた御者は叫んだ。
このときまで、群集はただ受動的にこの光景をながめているだけだったが、ピクウィック会員がスパイだという情報がみなに流れると、あの熱狂的なパイ売りの提案を実行にうつすことの是非を、そうとう熱気をおびて、彼らは議論しはじめた。この紛争が新しい登場人物のとりなしによって思いもかけず終結しなかったら、どんな被害がピクウィック氏たちに加えられたか、わかったものではなかった。
「なにをさわいでるんだ?」馬車置き場からいきなり出てきた緑の上衣を着た、そうとう背の高い、痩せた青年が言った。
「スパイどもだ!」ふたたび群集は叫んだ。
「ちがう」冷静な聞き手ならそれを信用してしまう自信満々の調子で、ピクウィック氏はどなった。
「だが、そうじゃないのかね――そうじゃ?」ピクウィック氏に呼びかけて、青年はたずね、群集の顔をおしのけるというまちがいのないやり方で人垣をかきわけて、彼は前に出てきた。
学者ピクウィック氏は、あわただしいわずかの言葉で、実状を説明した。
「じゃ、こっちへいらっしゃい」ピクウィック氏を自分のうしろに力いっぱい引っぱり、歩きながら話しつづけて、緑の上衣を着た青年は言った。「おい、九二四番、お前の運賃は受けとり、ここから消えちまえ――尊敬すべき紳士なんだぞ――懇意な人だ――バカなことをするな――こちらです――ご友人がたはどこにいます?――ええ、誤解ですとも――気にすることはありません――偶然のことは起きるもんですよ――どんなにしっかりとした家庭にだってね――雑記帳のことは口外無用――運がわるかったんです――やつを逮捕しろ――油をしぼってやれ――グイグイとな――ひどい悪党どもだ」驚くほどの流暢さで語られたこうしたとぎれとぎれの言葉をさらにつづけて語りながら、この見知らぬ男は旅行者待合室に向けて先頭を切って進み、そのあとにすぐつづいて、ピクウィック氏とその弟子たちが進んでいった。
「おい、給仕!」鈴をすごい勢いで鳴らして見知らぬ男は叫んだ、「みんなに酒だ――水割りブランデー、熱くて強く、うまくって、たっぷり――目を負傷したんですか? 給仕! この方の目の治療に|生《なま》の牛肉だ――打ち傷には|生《なま》の牛肉がなにより。冷たい外灯の柱がとてもよくきくんですが、外灯の柱は不便――片目を外灯の柱にくっつけて、三十分も街路に立ってるなんて、じつに妙ちくりん――そうでしょうが――わかりましたよ――はっ! はっ!」こう言って、見知らぬ男は、途中で息をもつかずに、半パイントはたっぷりある湯気の立った水割りブランデーを一気に飲みほし、なにもふだんと変わったことは起きてはいないといった調子で、楽々と椅子に身を投げた。
三人の仲間が新しい知人にせっせと礼を言っているあいだに、ピクウィック氏は、ゆっくりとその男の服装と外見を検討していた。
この男はほぼ中背といったところだったが、体が痩せているのと足が長いために、じっさいより背が高く見えていた。燕尾服として着られていた時代にこの緑の上衣はしゃれた服装といったものだったが、その当時、それは、この見知らぬ男よりずっと背の低い男を飾り立てていたことは明らかな事実だった。よごれた、色あせた|袖《そで》は彼の腕首にほとんどとどいてもいなかったからである。それは彼の|顎《あご》のところまできちんとボタンをかけられ、その背はいまにもはち切れんばかりになっていた。古い幅広の襟飾りが、シャツのカラーの飾りぬきで、彼の首につけられていた。貧弱な黒ズボンには長期の使用を物語るテラテラとしたところがそこここに見受けられ、よごれた白い靴下をかくすようにと、つぎはぎだらけの靴の上部で、それはしっかりと革ひもで結ばれていたが、それにもかかわらず、よごれた白い靴下ははっきりと見えていた。長い黒髪は、|無造作《むぞうさ》なウェイブを示して、つまみあげて先のとんがってしまった古帽子の両側からダラリとさがり、|素肌《すはだ》の腕首は、手袋の上部と上衣の袖のカフスのあいだのところで、チラリチラリとながめることができた。顔は痩せてやつれていた。だが、陽気な厚かましさと完璧な冷静さの得もいえぬ態度が、彼の体全面にみなぎりあふれていた。
ピクウィック氏が眼鏡越しに(幸いにも彼は眼鏡をとりもどしていた)ジッとながめていた人間は、こうした人物、友人たちが礼を言いつくしたあとで、彼はこの人物に最近の援助にたいして優雅な言葉で心よりの感謝を述べはじめた。
「ご心配なく」相手の言葉をすぐ切って、見知らぬ男は言った、「もう十分――たくさんです。あの御者は手の早いやつでしたね――指の使い方がじつにみごと。だが、ぼくが緑の狩りの服を着たあんたの友だちだったら――畜生――やつの頭に一発くれてやりますとも――じっさいですよ――すぐにね――パイ売りもね――嘘じゃありませんよ」
このいかにも辻つまのあった言葉は、ロチェスターゆきの御者が登場して、「コモドー」(車の名前)が出発するという言葉を伝えたことによって、中断された。
「コモドーだって!」見知らぬ男はとびあがって言った、「ぼくの馬車だ――座席は予約ずみ――外の座席――ブランデーの代はたのみますぞ――五ポンド紙幣では釣りがなくってね――ひどい銀貨――いかさま――だめ――役に立たん――えっ、そうでしよう?」そして、いかにもさとり顔をして、彼は頭をふった。
さて、ピクウィック氏とその三人の仲間の最初の休息地も、たまたま、ロチェスターに決められていた。そこで、同じ町に自分たちもゆくのだということを新しい知人に知らせて、彼らは、みながいっしょに坐れる馬車の奥のところに座席をとることになった。
「さあ、お乗りなさい」見知らぬ男は言い、ピクウィック氏が屋根にあがるのをとてもセカセカしたようすで助けたので、この紳士の重々しい態度はひどくそこねられてしまった。
「なにか荷物がありますか?」御者はたずねた。
「だれが――ぼくかい? この茶色の紙づつみ、それだけだ――ほかの荷物は船で運んだよ――釘づけの荷箱――家のようにでっかく――重く、重く、とっても重いもんだ」茶色の紙づつみをできるだけポケットにおしこみながら、見知らぬ男は答えたが、そのつつみの中味は、どうやら、一枚のシャツとハンカチらしかった。
「頭、頭――頭に注意しなさいよ!」アーチの通路の下をくぐったとき、多弁な見知らぬ男は叫んだ。アーチの通路は、その当時、馬車置き場の入口になっているものだった。「おそろしいとこだ――危険なもんだ――こないだ――五人の子供――母親――サンドウィッチを食べてる背の高い婦人――アーチのあるのを忘れ――ガン――ドシン――子供たちはあたりを見まわす――母親の頭はふっとんでる――手にサンドウィッチ――それを入れる口がない――家族の|頭《かしら》が消滅――ひどいこと、ひどいこと! ホワイトホールをご覧になってるんですか?――みごとな場所ですな――小さな窓――あそこでだれかの頭がとんだんですか(チャールズ一世が一六四九年に処刑された)、えっ?――その男も警戒心が足りなかったんですな――えっ、どうです?」
「わたしは考えているんです」ピクウィック氏は言った、「人間のうつろいやすい奇妙な運命のことをね」
「ああ! わかりましたよ――宮殿の戸口から|参内《さんだい》、翌日は窓から放りだされるというやつですな。あなたは哲学者なんですか?」
「人間性を観察している者です」ピクウィック氏は答えた。
「ああ、ぼくだってそうです。する仕事がなく、もうけはさらに少ないといった場合、たいていの人間はそれになりますな。詩人なんですか?」
「わが友スノッドグラース氏は詩的傾向の強い人です」ピクウィック氏は答えた。
「ぼくもそうした傾向をもってます」見知らぬ男は言った。「叙事詩――一万行――七月革命(フランスの七月革命。一八三〇年七月の革命。チャールズ十世が廃されて、ルイ・フィリップが王位についた)――その場で作成――昼は|武神《マルス》、夜は|詩神《アポロ》――野砲をドカーン、琴をコロリン」
「あの輝かしい場面にきみは参加したのですな?」スノッドグラース氏はたずねた。
「参加ですって! いたと考えてください*。小銃を発射――ある考えを胸に浮かべて発砲――酒場にとんで帰り――それを書きとめ――またもどり――シュッ、バーン――またべつの考え――また酒場へ――ペンとインク――またもどり――切りあい――いい時代でしたよ。あんたは運動家ですか?」これは、いきなりウィンクル氏に向かっての質問だった。
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(*) ジングル氏の想像力がいかに予言の力をおびたものだったかを示す注目すべき例証。この話は一八二七年のこと、七月革命は一八三〇年に起きたのである。
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「少しね」その紳士は答えた。
「りっぱなこと――りっぱなこってす――犬ですか?」
「いまはやめています」ウィンクル氏は答えた。
「ああ! 犬は飼うべきもんです――りっぱな獣です――利口なやつ――かつてぼくの犬は――ポインター――驚くべき本能――ある日、狩りに出て――囲い地にはいり――口笛を吹く――犬はとまる――また口笛を吹く――ポントー――動かず、ジッと立ちつくす――彼を呼ぶ――ポントー、ポントー――動こうとしない――犬は固定――看板をながめてる――目をあげると書いてある――『猟場番人、囲い地内の犬の射殺の命令を受く』――そこから中にはいろうとしない――すばらしい犬――貴重な犬――とても」
「奇妙なことですな、それは」ピクウィック氏は言った、「それを書きとっておいていいですか?」
「ええ、いいですとも――この犬の逸話ならそれ以外に百も――いい女ですな」(これは路傍の若い婦人にピクウィック・クラブ会員らしからぬさまざまな流し目を送っていたトレイシー・タップマン氏への言葉)
「ええ、とてもね!」タップマン氏は答えた。
「イギリスの女は、スペイン女にはかないませんぞ――気高いもの――黒玉の髪の毛――漆黒の目――美しい姿――やさしいもの――美しい」
「あなたはスペインにおいでになったことがあるんですね?」トレイシー・タップマン氏はたずねた。
「そこに住んでました――ながいことね」
「大いに征服したんですな」タップマン氏はたずねた。
「征服ですって! 千もね。ドン・ボラーロ・フィッズギッグ――スペインの太公――ひとり娘――ドナ・クリスティナ――すばらしい娘――ぼくに気もくるわんばかりに惚れ――嫉妬深い父親――高貴な娘――美しいイギリス人――ドナ・クリスティナは絶望――青酸カリ――ぼくの旅行カバンの中の胃ポンプ――洗浄――ボラーロは有頂天のよろこび――結婚承諾――手を結ばせ、滝の涙――ロマンチックな話――とてもね」
「そのご婦人は、いまイギリスにおいでですか?」タップマン氏はたずねた。彼女の魅力の描写が圧倒的に強烈な印象を彼に与えたからである。
「死にました――死にましたよ」とても古い亜麻布のハンカチの名残りといったものを右手にあてがって、見知らぬ男は言った。「胃ポンプもだめ――徐々に衰弱――犠牲になってしまったんです」
「彼女の父親は?」詩的なスノッドグラースはたずねた。
「悔恨と悲痛」見知らぬ男は答えた。「突如の失踪――町中の噂――あらゆるところを捜査――不首尾――大広場の噴水の水が突然とまる――何週間も経過――まだ停止――作業員がそこを掃除――水をぬく――中心パイプに頭を突っこみ、告解全文を右靴に入れた義父を発見――彼を引きだし、噴水は元どおり」
「そのささやかなロマンスを記帳してもいいでしょうかね?」強い感銘に打たれて、スノッドグラース氏はたずねた。
「ええ、いいですとも――聞きたければ、まだ五十もありますよ――ぼくの生涯は奇妙なもの――そうとう変化ある経歴――異常ではないにしても、ふしぎなもの」
こんな調子で、合いの手として、ときどきビールの杯を傾けて、馬車が馬を変えるときに、この見知らぬ男は語りつづけ、とうとう一同はロチェスターの橋に到着したが、そのときまでに、ピクウィック氏とスノッドグラース氏の雑記帳は、見知らぬ男の冒険談の選りぬきの話でいっぱいになっていた。
「堂々たる廃墟だ!」美しい古城が見えるところに来ると、その特質となっている詩的情熱を傾けて、オーガスタス・スノッドグラース氏は言った。
「考古学者のなんというすばらしい研究対象だろう!」が、望遠鏡を目に当てたとき、ピクウィック氏の口からもれた言葉だった。
「ああ、美しい場所ですな」見知らぬ男は言った、「輝かしい大建築物――眉をよせた壁――よろめく|拱門《きようもん》――薄暗い片隅――くずれかけた階段――古い大会堂もまた――土の香り――巡礼の足ですりへらされた石のきざはし――小さなサクソンふうの扉――劇場の受付け小屋のような告解室――あの坊主どもは妙なやつですな――赤ら顔、ひしゃげた鼻をして毎日あらわれる主教、出納職、その他あらゆる種類の老人たち――もみ革胴衣(むかしの軍服)も――火なわ銃――彫刻をほどこした大理石の石棺――美しい場所――古い伝説も――奇妙な話、すばらしい」こうしてこの見知らぬ男はひとり言を語りつづけ、とうとう一同は大通りの『雄牛旅館』という宿屋に到着、そこで馬車はとまった。
「ここにあなたはお泊まりですか?」ナサニエル・ウィンクル氏はたずねた。
「ここに――ぼくはちがう――だが、きみたちはここのほうがいい――建物もりっぱ――ベッドもりっぱ――ライト館(クラウン館ともいった宿屋の名)がとなり、高い――とても高い――給仕をながめると、勘定書に半クラウンつきますぞ――友人の家で食事をすると、喫茶部で食事をしたよりもっととられる――妙な男たちだ――とても」
ウィンクル氏はピクウィック氏をふりむき、わずか数語耳打ちし、それはピクウィック氏からスノッドグラース氏へ、スノッドグラース氏からタップマン氏に伝えられ、賛成のうなずきがかわされた。ピクウィック氏は見知らぬ男に話しかけた。
「われわれは、今朝、とてもあなたのお世話になりました」彼は言った、「われわれの|些細《ささい》な感謝の意をあらわすために、夕食にお招きすることをお許しねがえんでしょうか?」
「大よろこびで――指図するわけではありませんが、焼いた鳥、きのこ――すてきなもんですな! 時刻は?」
「さてと」時計を見ながら、ピクウィック氏は答えた、「いまはもう、そろそろ三時。五時はどうでしょう?」
「とても好都合」見知らぬ男は答えた、「五時きっかり――そのときまで――身のまわりの始末をなさい」こう言って、つまみあげて先のとがった帽子を数インチ頭からあげ、無造作にぐっと頭の横のところにそれをもどして、見知らぬ男は茶色の紙づつみを半分ポケットから出したまま、宿屋の内庭をとっとと進んでゆき、大通りへまがっていった。
「たしかにいろいろな国をへめぐってきた旅行者、人や物事をよく観察した人だ」ピクウィック氏は言った。
「彼の詩を読みたいもんですな」スノッドグラース氏は言った。
「犬を見たいもんですな」ウィンクル氏は言った。
タップマン氏はなにも言わなかったが、彼はドナ・クリスティナ・胃ポンプ・噴水のことを考え、目は涙でうるんでいた。
専用の居間の契約が結ばれ、寝室の調査が終わり、夕食の注文がすんでから、一行は外に出て、町とその付近の見物をした。
ストラウド、ロチェスター、チャタム、ブロムプトンの四つの町に関するピクウィック氏の憶え書きを注意深く読みとおしてみても、その町の姿から受けた彼の印象は、重要な点で、同じ地域を旅した他の旅行者の印象と異なっていないことがわかる。したがって、彼の一般的な描写は省略できるわけである。
「こうした町々の主要な産物は」ピクウィック氏は述べている、「軍人、水兵、ユダヤ人、白亜石、えび[#「えび」に傍点]、巡査、それに造船所の職人らしい。街路で主として売りに出されている品物は海産物、アーマンド入りのタフィ(一種の糖菓)、りんご、ひらめ[#「ひらめ」に傍点]、かれい[#「かれい」に傍点]の類、それにかき[#「かき」に傍点]である。町は活気を呈しているが、これは主として軍人が安楽に打ち興じているためである。過度の生気と熱気の影響の下に(酒気を帯びての意)こうしたしゃれ者がよろめき歩いているのをながめるのは、博愛的心情をもった心にとって、じつに楽しいことである。彼らのあとについてゆき、彼らと冗談をとばすのが、少年たちに無邪気な楽しみを与えていることを思うと、とくにそうである。彼らの上機嫌はこの上なしのものである(とピクウィック氏は言いそえている)。わたしの到着のたった一日前のことだが、彼らのうちのひとりがある酒場でひどい|侮《あなど》りを受けた。バーの女は彼に酒を出すのを強く拒んだのである。その仕返しに、彼は(ただ冗談で)銃剣をぬき、その女の肩に傷を与えた。だが、つぎの朝、この酒場に最初に姿をあらわしたこの愉快な男は、その事件を見のがし、起こったことを忘れる用意のあることを表明したのだった。
この四つの町におけるタバコの消費量はそうとうのものらしい(とピクウィック氏はつづけて語っている)。街路に滲透してる香りは、喫煙狂にとっては、じつにたまらないものであるにちがいない。皮相的な旅行者は、これらの町の主たる特徴になっている|泥濘《でいねい》に異議をとなえるかもしれない。しかし、それを交通と商業の繁栄の表示と見ている人たちにとって、それはじつによろこばしいものになっている」
ちょうど五時きっかりに、見知らぬ男があらわれ、その後すぐ、晩餐になった。彼の茶色の紙づつみの姿は消えていたが、その服装は少しも変わらず、ひょいとしたら、彼は前よりもっと雄弁になっていたとも言えた。
「あれはなに?」給仕がふたのひとつをとりはずしたとき、彼はたずねた。
「したがれい[#「したがれい」に傍点]でございます」
「したがれい[#「したがれい」に傍点]――ああ!――すばらしい魚――みんなロンドンからのもの――駅伝馬車の持ち主は策略的な食事をつくりますな――したがれい[#「したがれい」に傍点]の馬車――いく箱もの荷――ぬけ目のないやつらだ。ぶどう酒の乾杯」
「よろこんで」ピクウィック氏は応じた。見知らぬ男は最初は彼と、ついでスノッドグラース氏と、ついでタップマン氏と、ついでウィンクル氏と、ついで全員一同と、彼のまくしたてる口の早さと歩調を合わせて、素早く杯をかわした。
「給仕、二階ではすごいさわぎだな」見知らぬ男は言った。「ベンチは運びあげられる――大工たちはおりてくる――ランプ、杯、ハープ。これはなにごとだ?」
「舞踏会でございます」給仕は答えた。
「会合か、えっ?」
「いいえ、会合ではございません。慈善舞踏会でございます」
「この町の多くの美女をご存じなのですか?」非常に興味をかき立てられて、タップマン氏はたずねた。
「すごい――すばらしい。ケントですぞ――だれも知っているケントですぞ――りんご、桜ん坊、ホップ、それに女です。一杯いかが?」
「大よろこびで」タップマン氏は答えた。見知らぬ男は杯にぶどう酒を注ぎ、それを飲み乾した。
「それに参加したいものですな」舞踏会の話をつづけて、タップマン氏は言った。
「チケットは酒場のほうでどうぞ」給仕が口を入れた。「一枚半ギニーです」
タップマン氏は、ふたたび、その会合に出たい熱烈な希望を表明したが、スノッドグラース氏の暗いまなざし、ピクウィック氏の|茫然《ぼうぜん》たる凝視にはそれにたいするなんの反応もあらわれず、そこで彼は、ちょうどそのとき食卓の上におかれたポートワインとデザートをせっせとむさぼりはじめた。給仕は引きさがり、一同は夕食後の楽しい二時間を味わうことになった。
「失礼ですが」見知らぬ男は言った、「びんはぽつねんと立ってます――それをこちらにまわしてください――太陽のめぐるように――右まわりに――一滴のこさず乾杯」こう言って、彼は約二分前にいっぱいにした自分の杯をからにし、ものなれた人間の仕草で、そこにまたぶどう酒を満たした。
酒がまわされ、補充の酒が注文された。客はしゃべり、ピクウィック・クラブ会員たちはそれに聞き入っていた。タップマン氏の舞踏会にたいする執念は、刻一刻つのっていった。ピクウィック氏の|面《おもて》は慈愛の表情で輝き、ウィンクル氏とスノッドグラース氏はぐっすり寝こんでしまった。
「二階でははじまりましたな」見知らぬ男は言った――「給仕が来客の名を告げてるあの声をお聞きなさい――バイオリンが鳴ってます――あれはハープ――ほら、はじまった」下にまで伝わってくるさまざまな物音は、最初のカドリル(二人または四人が相対して踊る舞踏とくに十九世紀におこなわれた)の開始を伝えた。
「まったく、いってみたいもんですな」またタップマン氏が言った。
「ぼくだってそうです」見知らぬ男は言った。――「いまいましい荷物だ――のろのろしたスマック船だ――着てゆく服はなにもなし――こいつは奇妙なこってすな」
さて、ひろい慈悲はピクウィック・クラブの理論の最大特徴のひとつに数えられているもので、トレイシー・タップマン氏はこの崇高な原則をだれにもおとらず信奉していた。不用の服、金銭上の援助を求めて、このすぐれた人物が他の会員の家に慈善の対象を使いに出したことは、ピクウィック・クラブ会報に載せられているが、その回数は信じられぬほどおびただしいものだった。
「この目的のために、着換えの服を貸してあげられたらいいんですがね」トレイシー・タップマン氏は言った、「でも、あなたはそうとう細っそり型、当方は――」
「そうとう太り型――大人になったバッカス――頭につけたつた[#「つた」に傍点]の葉を切られ――桶(戦車のこと)からふり落とされ、ラシャ服を着たってわけですか、えっ?――二重の蒸留じゃなくって、二重のしごきっていうわけ――はっ! はっ! 酒をこっちにまわしてください」
この見知らぬ男がさっさとまわしてしまった酒を彼がいかにも傍若無人にタップマン氏にまわせといった語調に憤慨したのか、あるいは、ピクウィック・クラブの有力会員が不当にも車からふり落とされたバッカスにたとえられたのをタップマン氏が憤慨したのか、それはさだかではない。彼は酒をわたし、二度咳をし、きびしさをこめた鋭い目で、数秒間見知らぬ男をにらみつけていた。しかしながら、彼のさぐるまなざしのもとで、この男はケロリと落ち着きはらっていたので、彼の気持ちはしだいにゆるみ、話は舞踏会にもどっていった。
「わたしは申しあげようと思っていたんですがね」彼は言った、「わたしの服は大きすぎますが、わが友ウィンクル氏のだったら、きっともっとあなたに合うでしょう」
見知らぬ男は目でウィンクル氏の寸法をはかり、「まさにピタリですな」と言ったとき、その目は満足感でギラリと輝いていた。
タップマン氏はあたりを見まわした。スノッドグラース氏とウィンクル氏に眠気をもよおしていた酒は、ピクウィック氏の感覚にも、影響をもうおよぼしていた。夕食によってひきおこされる昏睡状態に先立つさまざまな諸段階とその結果を、この紳士はしだいに通過していた。彼は、陽気さの絶頂から無気力のどん底、無気力のどん底から陽気さの絶頂にうつってゆくというふつうの段階は、もうとおり越していた。パイプに風が当たっている街路のガスランプのように、彼は一瞬不自然な輝きを発したかと思うと、つぎの瞬間にはほとんど見分けがつかぬくらい低調になり、少し間をおいてから、またふきだしはじめて、一瞬間パッと明るくなり、それから不安定なちらつく|灯《ともしび》でちらちらと燃え、ついですっかり消えてしまった。彼の頭は胸の上にがっくりと沈み、ときに軽くむせながら、いびきを立てていたが、それだけがこの偉人の存在を物語る物音だった。
舞踏会に出席し、ケント美人の初印象を受けようとする気持ちは、タップマン氏の胸の中でたかまっていた。自分といっしょに見知らぬ男をつれていこうとする気持ちも、同様に強かった。彼はこの場所、その住民のことはぜんぜん知らず、見知らぬ男は、まるで子供のときからそこに住んでいるように、その両方をよく知っているようだった。ウィンクル氏は眠りこんでいた。タップマン氏はこうしたことでは十分に経験をつんでいたので、ウィンクル氏が目覚めた瞬間に、当然のなりゆきとして、床にずしりと転げこんでしまうことを知っていた。彼はまだふん切りがつかないでいた。「あんたのコップに酒を注ぎ、酒をこっちにまわしてください」不屈の客は言った。
タップマン氏は要求されたとおりにした。そして、最後の一杯を口にして、彼の決意は定まった。
「ウィンクルの寝室は当方の寝室の奥です」タップマン氏は言った。「いま彼を起こしても、彼はこちらのたのみごとを理解できんでしょう。だが、わたしは彼の旅行カバンに服がはいっているのを知ってます。あなたがそれを舞踏会に着てゆき、もどってきたときにそれを脱いだら、そのことで彼にいっさい面倒をかけずに、わたしはそれをもとにもどせますよ」
「すごい!」見知らぬ男は言った、「すてきな計画――じつに奇妙な事態――荷箱に十四着も服をもっていながら、他人の服を着なけりゃならんなんて――とてもいい考えですな、それは――とても」
「チケットを買わねばなりませんな」タップマン氏は言った。
「ギニー金貨をこまかくするのは面倒」見知らぬ男は言った、「ふたり分をだれが払うか、金投げで決めましょう――ぼくが声をかける、あんたが金をはじきなさい――初回――女――女――魅力的な女だ」ポンド金貨が舞いおり、龍(遠まわしに女のこと)が表になった。
タップマン氏はベルを鳴らし、チケットを買い、ろうそく立てをもってこいと命じた。それから十五分すると、見知らぬ男はナサニエル・ウィンクル氏の服をすっかり着こんでいた。
「それは新しい服です」見知らぬ男が大姿見にうつる自分の姿を大満悦でながめているとき、タップマン氏は言った。「われわれのクラブのボタンを着けてつくった最初のものです」こう言って彼は、中央にピクウィック氏の半身像、両側にそれぞれPとC(ピクウィック・クラブの頭文字)が示されている大きな金ボタンに相手の注意をうながした。
「PとC」見知らぬ男は言った――「妙な組み合わせ――老人の像とPC――PとCはなにをあらわしてるんです?――奇妙な上衣ですな、えっ?」
タップマン氏は、怒りで胸をムカムカさせ、いかにも重々しい態度で、その神秘的な模様の説明をした。
「腰のとこがだいぶ短いでしょう、どうです?」背中の真ん中まであがっている腰のボタンを鏡の中でとらえようと身をねじらせて、見知らぬ男は言った。「郵便配達夫の上衣のよう――あれは妙な上衣――契約づくり――寸法ははからず――奇妙な天の配剤――背の低い男はだれもながい上衣――背の高い男はだれも短い上衣」こうしてしゃべり立てながら、タップマン氏の新しい相手は自分の服、いや、むしろウィンクル氏の服をうまく都合し、タップマン氏をともなって、舞踏会室に通じる階段をあがっていった。
「お名前は?」戸口の男がたずねた。タップマン氏が歩みでて、自身の称号を名乗ろうとしたとき、見知らぬ男は彼を抑えた。
「名はないよ」こう言ってから、彼はタップマン氏にささやいた、「名前なんて通じませんよ――知られてはおらんのですからな――よい名だったら、それなりに使い道はあるけど、偉大な名はそうはいかん――すばらしい名は小さな会用のもの、多くの人の集まった会では、なんの印象も与えませんよ――お忍びこそ、いますべきこと――ロンドンから来た紳士――有名な外国人――どんなもんでもいいんです」ドアはパッと開かれ、トレイシー・タップマン氏と見知らぬ男は舞踏会室にはいっていった。
そこはながい部屋で、真紅のベンチがそこここにあり、シャンデリアの中ではワックスのろうそくが燃えていた。楽師たちは高い場所におさまり、カドリルの舞踏が二、三組の踊り手によってきちんと踊られていた。となりのカルタ用の部屋では二台のカルタ用のテーブルがしつらえられ、ふたりの老婦人二組とそれに相応する数の太った紳士がそこでホイストをやっていた。
フィナーレが終わると、踊り手は部屋をブラブラと歩きまわり、タップマン氏とその相手は、これを見ようと、片隅に陣どった。
「ちょっと待って」見知らぬ男は言った。「やがておもしろいこと――貴人はまだ来ていない――奇妙な場所――造船所の上流階級は造船所の下層階級を相手にせず――造船所の下層階級はけちくさい紳士を相手にしない――けちくさい紳士は商人を相手にせず――造船所長官はだれも相手にしない」
「髪が淡い色をし、目のふちを赤くしているあの仮装服の小さな少年はだれです?」タップマン氏はたずねた。
「しっ――目のふちを赤くし――仮装服――小さな少年――バカな――第九十七連隊――ウィルモット・スナイプ閣下――名門――スナイプ家――とてもね」
「サー・トマス・クラバーさま、クラバー夫人、クラバーさまの令嬢方!」鳴りひびく声で入口の男が叫んだ。青い上衣とキラキラ輝くボタンをつけた背の高い紳士、青いしゅす服をまとった大柄な夫人、同じ色の流行の服を着た同じく大柄なふたりの若い婦人の入場によって、室内ではいたる所で、センセイションがまきおこされていた。
「長官――造船所の長官――えらい人――じつにえらい人」慈善会の委員がサー・トマス・クラバーとその一族を部屋の上座に案内していったとき、見知らぬ男はタップマン氏の耳にささやいた。ウィルモット・スナイプ閣下、その他の地位の高い紳士たちが群らがり集まってクラバーのふたりの令嬢に挨拶をし、サー・トマス・クラバーは背筋をのばして立ち、いかにも威風堂々と、黒いネッカーチーフ越しに集まった人々を|睥睨《へいげい》していた。
「スミシー氏、スミシー夫人、スミシーさまの令嬢方」というのが、つぎにかかった叫び声だった。
「スミシー氏はどんな人です?」トレイシー・タップマン氏はたずねた。
「造船所のちょっとしたお偉方」見知らぬ男は答えた。スミシー氏はサー・トマス・クラバーにうやうやしくお辞儀をし、サー・トマス・クラバーはいかにも恩着せがましい態度でその挨拶を認めた。クラバー夫人は片眼鏡で遠目にスミシー夫人をながめ、スミシー夫人はスミシー夫人で、その夫が造船所につとめていないだれかの夫人をにらみつけていた。
「バルダー大佐、バルダー大佐夫人、バルダーさまの令嬢」がつぎに到来した客だった。
「守備隊長」タップマン氏のもの問いたげなまなざしに答えて、見知らぬ男は言った。
バルダー嬢はクラバーの令嬢たちによって熱烈な態度でむかえられ、バルダー大佐夫人とクラバー夫人のあいだでかわされた挨拶は、じつに愛情こもったものだった。バルダー大佐とサー・トマス・クラバーはかぎタバコ入れを交換し合い、一対のアレグザンダ・セルカーク(太平洋の孤島で孤独の生活を送ったスコットランドの船乗り。ロビンソン・クルーソーのモデルと言われている)、「見わたすかぎりの領域での君主」(セルカークが書いたとされている句の一節)といったものになっていた。
この場所の貴族階級――バルダー一族、クラバー一族、スナイプ一族――が部屋の奥のところでこうしてその威厳を維持していたとき、他の階級は、それぞれの部門で、彼らの真似をしていた。第九十七連隊の貴族色の薄い将校たちは、造船所の重要性の薄い職員の家族とせっせと往き来していた。弁護士の女房連とぶどう酒商の細君がもうひとつの層の長となり(醸造業者の細君はバルダー一族を訪問していた)、郵便局長夫人のトムリンソン夫人が、相互の賛成によって、商人階級の指導者に選ばれたようだった。
そこにいる、自身の活動範囲内でのもっとも人気のある人物のひとりは、黒い髪を頭のまわりにぐるりとまき、その|天辺《てつぺん》には禿げの平原をひろびろと示している小柄な太った男――第九十七連隊の軍医である医者のスラマーだった。彼はだれを相手にしてもかぎタバコを一服吸い、だれを相手にしても雑談し、笑い、踊り、冗談をとばし、ホイストをし、すべてのことをし、あらゆる場所にいた。こうした活動は多種多様のものだったが、この小柄な医者はどれよりもっと重要な活動をそれにつけ加えていた――彼は不撓不屈な態度で、根気強い、献身的な|慇懃《いんぎん》さをある小柄な老未亡人に払っていたが、その夫人の豪華な服装と装飾の豊かさは、収入の限られた男にとって、彼女がじつに望ましい付加物であることを物語っていた。
この軍医とこの未亡人の上に、タップマン氏とその伴侶の目はしばらくのあいだ釘づけになっていたが、ついで見知らぬ男が沈黙を破った。
「たくさんの金――老婦人――堂々とした軍医――まんざらでもない考え――ちょっとおもしろいこと」が、彼の唇を破ってとびだした、それとわかる言葉だった。タップマン氏はもの問いたげなふうに彼の顔をのぞきこんだ。
「あの未亡人とぼくは踊りますぞ」見知らぬ男は言った。
「彼女はどんな人です?」タップマン氏はたずねた。
「知りません――いまはじめて会ったんです――軍医の鼻をあかしてやろう――それ、はじめるぞ!」こう言って、見知らぬ男はすぐ部屋を切って進み、炉だなに寄りかかって、敬意をこめた、憂うつそうな、驚嘆の物腰で、小柄な老夫人の太った顔をしげしげとながめはじめた。タップマン氏は、無言の驚きにつつまれて、それを見守っていた。見知らぬ男はさっさと進んでいった。小柄な軍医はべつの婦人と踊り、その未亡人は彼女の扇を落とし、見知らぬ男はそれをひろいあげ、差しだし、――微笑――お辞儀――未亡人の|会釈《えしやく》――数語の話し合いとなった。見知らぬ男は儀礼係のところへ大胆にゆき、彼をつれかえり、ちょっとした紹介の無言劇をかわしてから、バジャー夫人といっしょにカドリル舞踏に参加した。
この手っとり早いとりひきをながめて、タップマン氏の驚きは大きなものだったが、それは、軍医の仰天ぶりには比すべくもないものだった。この見知らぬ男は若く、未亡人は悦に入っていた。軍医の親切に未亡人はふりむきもせず、彼の憤慨にたいして、その恋仇はケロリとしていた。スラマー軍医は麻痺状態におちいり、動けなくなってしまった。第九十七連隊の軍医スラマーが、だれもいままで会ったこともない、いまでもだれにも知られていない男にしてやられるなんて! スラマー医師――第九十七連隊の軍医スラマーがふられるなんて! 考えられぬこと! あり得ぬこと! だが、現実はそうだった。目の前に彼らはいた。あれっ! あの男の友人を紹介している! この目を信じられようか! 軍医はふたたび目をこらしてながめたが、苦しいことに、自分の目の真実さを認めないではいられなかった。パジャー夫人がトレイシー・タップマン氏と踊っていることは、まごう方なき事実だった。彼の目の前で未亡人は、ふだんにない勢いのよさで、体をそこここにはずませ、トレイシー・タップマン氏は、顔にこのうえない厳粛さを示して、あちこちととびまわり、(たくさんの人がするように)カドリル舞踏は笑いごとではない、不屈の決意が必要なきびしい感情の試練だといったふうに踊っていた。
こうしたことすべて、それにつづくニーガス酒(ぶどう酒に湯、砂糖、にくずく、レモンを加えた飲料)の手わたし、コップさがし、ビスケットをとりにとんでゆく姿、いちゃつきを、軍医は口もきかず、忍耐強く我慢していた。だが、バジャー夫人を馬車に送るために見知らぬ男が姿を消してから数秒して、彼は、いままでおさえ殺していた激怒を顔すべてに爆発させ、怒りの汗を流しながら、部屋からとびだしていった。
見知らぬ男はもどろうとし、タップマン氏は彼のかたわらにいた。彼は低い声で話し、笑っていた。小男の軍医は彼の命をうばってやりたくなった。やつは勝ち誇って、いい気になっているのだ。
「きみ!」名刺を出し、廊下の角に身をさけて、おそろしい声で軍医は言った、「わしの名はスラマー、軍医スラマー――第九十七連隊――キャサム兵舎――わしの名刺、わしの名刺です」彼はもっとしゃべるところだったが、怒りで息がつまってしまった。
「ああ!」見知らぬ男は冷静に答えた、「スラマーね――ありがとう――ご親切さま――スラマー、いまは病気じゃないんだ――だが、病気になったら――きみをたたきおこしてやるよ」
「きみは――きみはいかさま師だ!」怒りくるった軍医はあえいで言った、「卑怯者――憶病者――嘘つき――う、うん――どうしても、きみは自分の名刺をわしにわたさんのか?」
「ああ! わかりましたよ」なかばそっぽを向いて、見知らぬ男は言った、「ここではニーガス酒は強すぎますな――鷹揚な紳士――とてもバカな――とても――レモネードでも飲んだほうがずっといい――部屋はあついし――初老の紳士――明日の朝には苦しみますぞ――ひどいこと――ひどいこと」そして、彼は一、二歩歩きだした。
「きみはここに泊まっているのですな」憤慨した小男は言った。「きみはいま、酒で頭がおかしくなっている。明日の朝、きみに連絡することにしよう。きみを見つけだしてやりますぞ。見つけだしてな」
「ぼくを見つけだしたのは、家より旅先でね」いささかも動ぜず、見知らぬ男は言った。
スラマー軍医は、荒々しくドンと帽子をかぶったとき、得も言えず憤激しているふうだった。そして、見知らぬ男とタップマン氏は、借りた衣装を意識を失ったウィンクルにかえすために、タップマン氏の寝室にあがっていった。
この紳士はぐっすり眠っていて、返却はすぐにおこなわれた。見知らぬ男はとてもおどけ、ぶどう酒、ニーガス酒、|灯《あか》り、ご婦人方でフラフラになっていたトレイシー・タップマン氏は、ことすべてをじつにすてきな冗談と考えていた。彼の新しい友は立ち去り、彼は、頭を入れるナイトキャップの穴さがしに少し手間どり、それを頭に着けようともがいて、ろうそく台を倒したあとで、ひとしきり複雑に体をねじり曲げてベッドにようやくもぐりこみ、その後間もなく、寝こんでしまった。
つぎの朝、七時が鳴り終わるか終わらないうちに、部屋のドアをたたく大きな音で、眠りによって落ちこんだ無意識状態からピクウィック氏の包容力ある心はたたきおこされた。
「だれだ?」ベッドでとび起きて、ピクウィック氏は言った。
「靴みがきでございます」
「なんの用なんだ?」
「失礼ですが、PとCが彫りこんである金ボタンがついた明るい青の上衣を着ておいでの方は、こちらのどなたなのでしょうか?」
「靴を手入れに出したのだな」ピクウィック氏は考えた、「そして、この男はそれがだれの靴かを忘れたんだ。――ウィンクルさんだよ」彼は声を大きくして言った、「右側の、二つおいて向こうの部屋だよ」
「ありがとうございます」靴みがきはこう言って、立ち去った。
「どうしたんだ?」戸口で大きなノックの音がして、忘却の深い睡眠からたたきおこされたとき、タップマン氏は叫んだ。
「ウィンクルさんとお話しできましょうか?」靴みがきは外から答えた。
「ウィンクル――ウィンクル!」奥の部屋に呼びかけて、タップマン氏は叫んだ。
「うーん!」奥の寝巻きのあいだから、かすかな声が答えた。
「きみになにか用だぞ――ドアのとこにだれか来ている――」とこうようやくのことで言って、タップマン氏は寝がえりを打ち、ふたたびぐっすり眠りこんでしまった。
「用だって!」急いでベッドからとびだし、ちょっと服を体にまとって、ウィンクル氏は言った。「用だって! ロンドンからこんなにはなれているのに――自分に用なんて、だれがあるんだろう?」
「喫茶室においでの紳士の方です」ウィンクル氏がドアを開いたとき、彼の前に立って、靴みがきは答えた。「その方は、手間暇かけぬが、ぜひお会いしたい、と言っておいでです」
「おかしいなあ!」ウィンクル氏は言った。「すぐおりてゆくよ」
彼はあわただしく旅行用の肩かけと化粧着を体にまといつけ、下におりていった。ひとりの老婆とふたりの給仕が喫茶室を掃除し、ふだん着の軍服をつけたひとりの将校が窓の外をながめていた。ウィンクル氏がはいっていったとき、彼はぐるりと向きを変え、堅苦しく頭をさげた。召使いたちを部屋から追いだし、非常に注意深くドアを閉めてから、彼は言った、「ウィンクルさんでしょうな?」
「わたしの名前はウィンクルです」
「わが友、第九十七連隊のスラマー軍医のために、わたしが今朝あなたを訪問したと申しあげても、あなたはべつにお驚きにはならんでしょう」
「スラマー軍医ですって!」ウィンクル氏は言った。
「スラマー軍医です。彼がわたしに伝えてくれと言っていることは、あなたの昨夜の行動がいかなる紳士にも我慢ならぬもの、それに(彼は言い加えていました)紳士ならだれだってほかの紳士にはせぬことだ、ということです」
ウィンクル氏の仰天ぶりは心からのもの、じつに明白だったので、スラマー軍医の友人もそれを認めた。そこで彼は言った――「わが友スラマー軍医はわたしに申しそえるようにたのんでいました、あなたが、昨夜しばらくのあいだ、泥酔状態にあり、おそらく自分の加えた侮辱の程度を知らぬものと彼は確信しているということをね。あなたのふるまいの言いわけとしてこのことが申し立てられたら、わたしの申す言葉どおり、あなたがペンをとって謝罪文をお書きになった場合、彼はそれを受理する用意があることをお伝えするよう、わたしは依頼を受けています」
「謝罪文ですって!」じつに驚いたといった強い口調で、ウィンクル氏はくりかえした。
「それを拒まれたらどうなるかは、むろん、ご承知でしょう」客は冷静に答えた。
「わたしの名あてにこの伝言をもっておいでになったんですか?」ウィンクル氏はたずねたが、彼の頭は、このとてつもない会話で、すっかり混乱していた。
「わたし自身そこにはいませんでした」客は答えた、「名刺をスラマー軍医にわたすことをあなたがかたく拒まれた結果として、わたしはあの紳士から、じつに風変わりな服――胸像とPとCの文字を示した金ボタンのついた明るい青の上衣を着た人物がだれかを調べるようにたのまれました」
自分自身の服の精細がこうして語られるのを聞いて、ウィンクル氏は、じっさい、びっくり仰天して、立っていられないほどになった。スラマー軍医の友人は話しつづけた――「たったいま、酒場で調べた結果、その上衣の所有者は、三人の紳士といっしょに、きのう午後ここに到着したことがわかりました。わたしはただちに一行の長らしいと言われている人物に使者を送ったのですが、彼はすぐにわたしをあなたのところに差し向けたのです」
もしロチェスター城の中心ともなるべき重要な塔がその土台から歩きだし、喫茶室の窓の向こう側にすえられても、この話を聞いたときの彼の深い驚きにくらべたら、その驚きは物の数にもならなかったであろう。彼の受けた第一印象は、自分の上衣が盗まれたということだった。「少しお待ちいただけましょうか?」彼は言った。
「もちろん」好ましからざる来客は答えた。
ウィンクル氏は急いで二階にかけあがり、ふるえる手でつつみを開いてみた。問題の上衣はいつもの場所にあったが、こまかに調べてみると、前の晩にそれが着られていることが明らかになった。
「そうにちがいない」上衣を手から落として、ウィンクル氏は言った。「夕食後ぶどう酒を飲みすぎ、その後通りを歩きまわり、葉巻きを飲んだというじつに|朦朧《もうろう》とした記憶をもっている。自分が非常に酔ってたのは事実だ――上衣を着かえ――どこかにゆき――だれかに侮辱を加えたにちがいない――きっとそうだ。そして、この伝言がそのおそろしい結果なのだ」こう言いながら、ウィンクル氏は喫茶室のほうに歩みをもどし、戦闘的なスラマー軍医の挑戦を受け、起こるかもしれない最悪の事態を甘受しようとするおそろしい決心を、心を重くしながら、かためた。
こうした決心をウィンクル氏がかためたのは、さまざまな考察によってのことだった。その第一は、クラブでの彼の名声だった。攻撃的、防衛的、危害のないものいずれにせよ、すべての遊びと手練の点で、彼は高い権威者としていつも仰がれていた。もし、それがじっさいにためされるこの最初の機会に、自分の指導者の目の前で、彼がそれからしりごみをしたら、彼の名声と地位は永遠に失われてしまうだろう。そのほか、彼は、|介添《かいぞ》え人のあいだの諒解ずみの取りきめによって、ピストルに弾がこめられることはめったにないと、その道に通じない人々がよく噂しているのを耳にしたことを思い出した。さらに、スノッドグラース氏に介添え人を依頼し、危険を白熱した激しい言葉で伝えたら、彼はその話をたぶんピクウィック氏に伝え、ピクウィック氏は時をうつさず事件を土地の官憲に語り、こうして自分の信奉者が殺されること、あるいはかたわになることを阻止してくれるかもしれない、と考えた。
彼が喫茶室にもどり、軍医の挑戦を受理することを伝えたときの彼の心理状態は、こうしたものだった。
「ご友人に紹介ねがえぬでしょうか? 決闘の時刻と場所の話をするためなんですが……」
「それはぜんぜん無用のことです」ウィンクル氏は答えた。「時刻と場所は当方にお伝えください。介添え役の友人のことは、そのあとでとりきめますから」
「今晩日没時ではいかがでしょう?」と無造作な調子で、将校はたずねた。
「とても結構ですな」それはとてもまずいと心中思いながらも、ウィンクル氏は答えた。
「フォート・ピットをご存じですな?」
「ええ、きのうそこにゆきました」
「ご面倒でも、壕のへりにある野原にはいり、城砦の角のところにいったら、小道を左に進み、当方の姿を見受けるまで、まっすぐ歩いてくだされば、当方は人気のない場所にあなたをご案内しましょう。そこでは、邪魔のはいる心配なく、決闘をすることができます」
「邪魔のはいる心配なくだって!」ウィンクル氏は考えた。
「これ以上取りきめておくことはありませんな」将校は言った。
「ほかになにも気がつきませんな」ウィンクル氏は答えた。「さようなら」
「さようなら」そう言って、将校は、大股で歩いてゆきながら、勢いのいい歌を口笛で吹いていた。
その朝の食事は重苦しい雰囲気の中ですぎていった。ふだんにない前夜の浮かれさわぎで、タップマン氏は起き出せる状態ではなかった。スノッドグラース氏は詩的沈鬱のもとで苦しんでいるふうだった。ピクウィック氏でさえ、ふだんになく沈黙を守り、ソーダ水を飲んでいた。ウィンクル氏は熱心に機会をうかがっていた。やがてその機会はやってきた。スノッドグラース氏は城を見物にゆくことを提案し、散歩をしようとする気持ちの者は一行のうちウィンクル氏しかいなかったので、ふたりはいっしょに出かけることになった。
「スノッドグラース」大通りをまがったとき、ウィンクル氏は言った、「親愛なるスノッドグラース、きみはまちがいなく秘密を守ってくれるかい」これを言ったとき、スノッドグラースがそれを守れぬことを、彼は心から切実にねがっていたのだった。
「大丈夫だよ」スノッドグラースは答えた。「誓言しようか――」
「いや、いや」情報を絶対にもらさぬことを相手が無意識に誓ってしまうのにびっくりして、ウィンクルは相手をさえぎった。「誓わなくてもいいよ、誓わなくても。それは本当に必要のないことだ」
スノッドグラース氏は前記の誓言をしようとして、詩的精神にかられ、かなたの雲のほうに片手をあげていたのだったが、それをおろし、相手の言うことを聞こうという態度を示していた。
「名誉に関することで、きみに援助してもらいたいんだ」ウィンクル氏は言った。
「ああ、いいよ」友人の手をかたくつかんで、スノッドグラース氏は言った。
「相手は軍医――第九十七連隊のスラマー軍医だ」事態をできるだけ重大に見せようとして、ウィンクル氏は言った。「相手は将校、介添え役はべつの将校、今晩、日没時、フォート・ピットの向こうのわびしい野原でだ」
「きみの介添えはするよ」スノッドグラース氏は言った。
彼はびっくりはしていたものの、絶対に|狼狽《ろうばい》はしていなかった。こうした場合、立役者以外のだれでも、どんなに冷静な態度をもちつづけることができるかは、驚くべきことである。ウィンクル氏はこのことを忘れていた。彼は友人の感情を自分の感情で割りだしていたのだった。
「結果はおそろしいことになるかもしれん」ウィンクル氏は言った。
「そうならなければ、いいんだが……」スノッドグラース氏は答えた。
「軍医はきっと射撃の名手だろう」ウィンクル氏は言った。
「こうした軍人は、たいてい、そうだね」冷静な態度で、スノッドグラース氏は応じた。「だが、きみだってそうだろう、どうだい?」
ウィンクル氏はうんと答えたが、相手をおびやかすことがまだ足りぬとさとって、話題を変えた。
「スノッドグラース」高まる感情で声をふるわせて、彼は言った、「もしぼくが倒れたら、これからきみにわたす荷物の中にぼくの――ぼくの父あての手紙があることがわかるだろう」
この攻撃もまた失敗に終わった。スノッドグラース氏は感動はしたものの、まるでつまらぬ配達夫のように、その手紙の配達をひきうけたからである。
「もしぼくが倒れたら」ウィンクル氏は言った、「あるいは、もし軍医が倒れたら、きみは事前従犯として裁判も受けることになるだろう。友人を流刑――ひょいとしたら終身流刑にまきこむなんて!」
これを聞いて、スノッドグラース氏はちょっとひるんだが、彼の勇気は不屈のものだった。「友情のためだったら」彼は熱狂的に叫んだ、「ぼくはどんな危険でもおかすとも」
ふたりがならんでそれぞれの瞑想にふけりながら、数分間、だまって進んでいったとき、ウィンクル氏は自分の相手の献身的友情をなんとのろったことだろう! 朝の気配はだんだんと消えかけていた。彼は|自暴《や》|自棄《け》になった。
「スノッドグラース」急に足をとめて、彼は言った、「このことでぼくの邪魔はしないでくれたまえ――このことを土地の官憲に伝えないでくれたまえ――警官の援助を借り、ぼくなり、いまキャサム兵舎に駐屯している第九十七連隊のスラマー軍医なりを拘留して、その決闘を阻止するようなことはしないでくれたまえ――たのむ、それはやめてくれたまえ」
スノッドグラース氏は熱っぽく友人の手をとらえ、情熱的に答えた、「絶対にせんとも!」
友人の恐怖心をあてにしてもだめ、自分は生きながら的になるように運命づけられているのだという確信が激しく彼の心をおそったとき、ウィンクル氏の体にはゾクッとした悪寒が走った。
スノッドグラース氏にたいする事態の説明が型どおり終わり、火薬、弾丸、雷管といった付属品のついた決闘用ピストルを入れた箱をロチェスターの銃製造業者から借用におよんで、ふたりの友人は宿屋にもどり、ウィンクル氏は近づく闘争のことを思いふけり、スノッドグラース氏は武器をととのえ、すぐにもそれが使えるようにと、それを整備していた。
その晩はどんよりとくもった、うっとうしい晩だったが、彼らはふたたびこの始末のわるい仕事で外にとびだしていった。ウィンクル氏は人目をさけるために大きな外套ですっぽりと身をつつみ、スノッドグラース氏は重い破壊の道具を運んでいた。
「忘れたものはないかね?」興奮した口調でウィンクル氏はたずねた。
「ないよ」スノッドグラース氏は答えた。「万一不発が出るといけないから、弾薬は十分に用意してある。ケースの中には四分の一ポンドの火薬があり、|装填《そうてん》の用意にと、新聞紙を二枚ポケットに入れてあるよ」
こうしたことは、どんな人でも当然大いに感謝感激すべき友情の証しだった。ウィンクル氏はなにも言わず――そうとうゆっくりと歩みつづけていたが、思うに、彼の感謝の情は口には出して言えぬほど大きかったのであろう。
「時刻もちょうどいい」ふたりが最初の野原の柵をよじのぼっていったとき、スノッドグラース氏は言った。「太陽がいま沈もうとしているのだからね」ウィンクル氏は目をあげて沈みゆく太陽をながめ、苦しい思いを味わいながら、自分の間もなく「沈みゆく」可能性のことを考えた。
「あそこに例の将校がいる」数分歩いてから、ウィンクル氏は叫んだ。
「どこに?」スノッドグラース氏はたずねた。
「あそこ――青い外套を着けた紳士だ」スノッドグラース氏は友人の人さし指が示す方向をながめ、友人の言う、すっぽりとつつまれた人影を発見した。その将校は彼らにちょっと手をふって、彼らの存在に気づいているのを示し、彼が歩み去っていったとき、ふたりの友人は少し距離をおいて彼のあとについていった。
どんよりとした晩は刻一刻とその気配を深め、わびしい風が、番犬を口笛で呼んでいる遠くにいる巨人のように、人気のない野原を音を立てて吹きとおっていた。物悲しいこの場景は、ウィンクル氏の気持ちに陰鬱の色を伝えた。みなが壕の角のところをとおったとき、彼はギクリとした――壕が巨大な墓のように見えたからである。
将校は小道から突然はなれ、とがり杭の柵と生垣をよじのぼって進み、人目に立たぬ原にはいっていった。そこでふたりの紳士が待っていた。ひとりは小柄な太った男で、黒い髪をし、のこりのひとり――編んだ外套を着こんだ堂々たる人物――は、非の打ちどころのない落ち着いた態度で、折りたたみ式の椅子に腰をおろしていた。
「相手と、医者らしいな」スノッドグラース氏は言った。「まあ、ブランデーを一杯飲みたまえ」ウィンクル氏は友人のさしだしたやなぎ細工のびんをとり、元気づけの酒をぐーっと一杯飲んだ。
「わたしの友人スノッドグラース氏です」将校が近づいてきたとき、ウィンクル氏は言った。スラマー軍医の友人は頭をさげ、スノッドグラース氏が携帯してきたのと同じケースをさしだした。
「われわれとしては、これ以上申すことは、なにもないようですな」ケースをあけながら、彼は冷たく言った。「謝罪文は断固として拒否されたのですからな」
「これ以上申すことは、なにもありません」スノッドグラース氏は言ったが、彼は自身、だいぶ気分がわるくなっていた。
「こっちに来ていただけますかな?」将校は言った。
「もちろん」スノッドグラース氏は答えた。場所が測定され、準備がととのえられた。
「こちらのピストルのほうがあなたのよりよいでしょう」相手の介添え人は自分のピストルを出して言った。「あなたはわたしがそれに装填するのをご覧でした。これをお使いになるのにご異議ありますか?」
「もちろん、ありません」スノッドグラース氏は答えた。この提案で彼はそうとうの面倒を免じられることになっていた。彼の考えていたピストル装填法はそうとう漠然たるもの、とりとめもないものだったからである。
「そうすると、それぞれの人物を所定の場所に立たせてもいいわけですな」決闘の本人が|将棋《しようぎ》のこま、介添え役が競技者でもあるような無造作さで、将校は言った。
「そうしてもいいと思います」スノッドグラース氏は答えた。彼はどんな提案にも賛成したことだろう。決闘については、なにも知らなかったからである。将校はスラマー軍医のところに、スノッドグラース氏はウィンクル氏のところに、それぞれ近づいていった。
「もう準備はすっかりできましたぞ」ピストルを手わたしながら、スノッドグラース氏は言った。
「きみ、例の荷物はもっているね」あわれなウィンクルは言った。
「大丈夫」スノッドグラース氏は言った。「しっかり落ち着いて、相手をやっつけてしまいたまえ」
この忠告は街路の喧嘩で見物人が小さな子にいつも呼びかける言葉、「元気を出して、自信のあるところを見せてやれ」にとても似ていると、ウィンクル氏は思った。これは、その方法さえわかっていたら、すすめてもいいりっぱなことだった。だが、彼はだまって自分の外套をぬぎ――その外套をぬぐのには、いつも時間がかかった――ピストルを受けとった。介添え役はうしろに退き、折りたたみの椅子に坐っていた紳士もそれに従い、決闘者はたがいに近づいていった。
ウィンクル氏の目立つ特徴は、極端な人情の深さだった。おそろしい運命の場所に彼が到着したとき、彼の目を閉じさせたものは、仲間の人間を故意に傷つけるのをきらう彼の気持ちだったと推測されている。また、彼の目が閉じられていたために、スラマー軍医のじつに異常な、なんともわからぬ態度に気づかなかったものと考えられている。スラマー軍医はギクリとし、目をむき、うしろに退り、目をこすり、ふたたび目をむき、最後に「待て、待て!」と叫んだ。
「これは、いったい、どうしたことだ?」彼の友人とスノッドグラース氏がかけよっていったとき、スラマー軍医は言った。「あれはちがう」
「ちがうだって!」スラマー軍医の介添え役は言った。
「ちがうだって!」スノッドグラース氏は言った。
「ちがうだって!」折りたたみの椅子を手にした紳士は言った。
「たしかにちがう」小男の軍医は言った。「あれは、きのうの晩、わしに侮辱を加えた男ではない」
「じつにとてつもないこと!」将校は叫んだ。
「じつにね」折りたたみ式の椅子をもっていた紳士が答えた。「ここでのこされたただひとつの問題は、相手の紳士が決闘場に来ているだけに、形式上の問題として、彼がじっさいにその人物であろうとなかろうと、彼がわれわれの友人スラマー軍医を、きのうの晩、侮辱した人物と考えてはならぬかどうかということだけですな」いかにも利口そうな、神秘的なふうにこの提案をして、折りたたみ式の椅子をもった男はひとつまみ大きくかぎタバコをかぎ、こうした事柄に関する権威者然とした態度で、深刻なふうにあたりを見まわした。
さて、相手が戦闘の停止を叫んだとき、ウィンクル氏は目と耳をもう開いていた。そして、敵がそのあとで言ったことを耳にして、明らかにこの問題にはなにかあやまちがあるとさとって、彼がここにやって来た真の動機をかくせば、とりもなおさず、自分の名声が高まることを察知した。そこで、彼は勇ましく前に進み出して、こう言った――
「わたしはその人物ではありません。それは知っています」
「そうすると、それは」折りたたみ式の椅子をもっている男は言った、「スラマー軍医にたいする侮辱、すぐに決闘をはじめる十分な理由になりますな」
「どうか静かにしてくれたまえ、ペイン」軍医の介添え役が言った。「どうして、今朝、この事実を当方に伝えてくださらなかったんです?」
「まったくそのとおりだ――まったく」腹立たしげに折りたたみ式の椅子をもった男が言った。
「どうか、ペイン、静かにしてくれたまえ」スラマー軍医の介添え役は言った。「もう一度さっきの質問をいたしたいのですがね?」
「というのは」このときまでに返答を考える余裕のあったウィンクル氏は答えた、「というのは、酔っ払った紳士らしからぬ人物が、当方が着ているばかりでなく、発明もした名誉をもっている上衣を着ていたと、あなたがおっしゃったからです――あれはロンドンのピクウィック・クラブで着ることになっている制服なのですからな。その制服の名誉を当方は地に落としてはならんと考えたのです。そこで、その場ですぐ、あなたの挑戦を受けたわけです」
「きみ」手を差しだして、上機嫌の小男の軍医は言った、「あなたの勇気には敬意を表します。わたしがあなたの行為に深く感服し、この決闘で意味なくわざわざあなたにご足労をおかけしたことを残念に思っています」
「どうか、そうまでおっしゃらないでください」ウィンクル氏は言った。
「わたしはあなたとお知り合いになったことを誇らしく思うでしょう」小男の軍医は言った。
「あなたとお知り合いになれて、当方にとっても最大のよろこびです」ウィンクル氏は答えた。そこで、軍医とウィンクル氏は握手をし、ついでウィンクル氏とタップルトン中尉(軍医の介添え役)、ついでウィンクル氏と折りたたみ式の椅子をもった男、最後にウィンクル氏とスノッドグラース氏とのあいだに握手がかわされたが、最後の紳士は、自分の英雄的な友人の気高い行為に心から打たれていた。
「これで散会ですな」タップルトン中尉は言った。
「むろん」軍医は言いそえた。
「うん」折りたたみ式の椅子をもった男が口をはさんだ、「ウィンクル氏はこの挑戦を不満とされなければね。不満の場合には、たしかに、彼には決闘を求める権利があるのだから……」
ウィンクル氏は、偉大な克己心を発揮して、もう納得したことを表明した。
「あるいは、ひょいとしたら」折りたたみ式の椅子をもった男は言った、「ウィンクル氏の介添え役がこの会合のはじめに当方が発した言葉で侮辱を受けたとお感じかもしれない。もしそうだったら、当方はよろこんですぐお相手しますぞ」
スノッドグラース氏は急いで最後に発言をした紳士の寛大な提案にたいして謝意をあらわし、この取りきめすべてに|満腔《まんこう》の満足を感じているのだから、その提案は拒否せざるを得ないと言った。
ふたりの介添え役はこの事件の処理をとりきめ、全員は、ここにやって来たよりもっと元気よく、そこをはなれていった。
「あなたはここにながくご滞在ですか?」とても友好的な態度で歩いてゆきながら、スラマー軍医はウィンクル氏にたずねた。
「ここを明後日出発する予定だと思います」が、それにたいする答えだった。
「このまずいあやまちのあとで、わたしの部屋であなたとあなたのご友人にお会いし、愉快な一晩を送ることができるでしょうな?」小男の軍医は言った。「今晩お暇でしょうか?」
「ここに何人かの友人がいるのです」ウィンクル氏は答えた、「そして、今晩は彼らといっしょにいたいのです。あなたとあなたのご友人が『雄牛旅館』においでになり、われわれといっしょになりませんか?」
「とてもありがたいことです」小男の軍医は言った。「三十分ほどお邪魔したいのですが、十時ではおそすぎるでしょうか?」
「いや、いや」ウィンクル氏は言った。「大よろこびであなたをわが友、ピクウィック氏とタップマン氏にご紹介しますよ」
「たしかに、それはとてもよろこばしいこと」タップマン氏がいかなる人物かを少しもさとらずに、スラマー軍医は答えた。
「きっとおいでになりますな?」スノッドグラース氏はたずねた。
「ええ、もちろん」
このときまでに、彼らは道のところに出ていた。心こもる別れの挨拶がかわされ、一行はわかれわかれになった。スラマー軍医とその友人たちは兵舎にもどり、ウィンクル氏は、その友人スノッドグラース氏にともなわれて、宿屋にもどっていった。
[#改ページ]
第三章
[#3字下げ]新しい友人、放浪者の物語。おもしろからぬ邪魔と不愉快な出逢い
ふだんとようすがちがって、自分の友人がふたり姿を見せぬので、ピクウィック氏は多少心配していた。その不安は、彼らが午前中ずっと妙な態度を示していたので、薄れるどころではなかった。したがって、このふたりがふたたび部屋にはいってきたとき、彼はふだんにないよろこばしい気持ちになって、彼らをむかえようと、椅子から立ちあがった。そして、ふだんにない興味をもって、なにごとが起きて、ふたりが姿をあらわさなかったのかとたずねたのだった。彼のこの点に関する質問にたいして、スノッドグラース氏はいままでにくわしく述べた事情のあれこれを話そうとしたが、そこにいるのがタップマン氏と前日の駅馬車の仲間ばかりでなく、同じように妙なようすをしたもうひとりの見知らぬ男がいるのに気がついて、急にその話をするのをやめてしまった。それは悩みやつれた感じの男、その血色の悪く、黄ばんだ顔と、深くくぼんだ目は、もつれた乱れ髪になって顔にさがっているまっすぐな黒い髪によって、生来のものよりもっと目をひくものになっていた。彼の目はほとんど不自然といえるくらい輝いて鋭く、頬骨は高くて突き出し、|顎《あご》はとてもながくて痩せ、なかば開いた口と動かぬ表情が、それが彼のふつうの顔つきであることを伝えなかったら、なにか筋肉を引きつらせ、顔の肉をへこませているのではないかと思われるほどだった。首のまわりに、彼は緑のショールをかけ、その大きな端はだらしなく胸の上にさがり、古いチョッキのすりへったボタンの穴の下にその姿をときどきあらわしていた。彼の上半身の服はながい黒い外套、その下に彼は幅のひろい茶色のズボンを着、みすぼらしさを増している編みあげ靴をはいていた。
ウィンクル氏の目がとまったのは、この奇妙な人物、この人物のほうに手をのばして、ピクウィック氏は言った、「これはここのわれわれの友人の友だちの方。われわれは、今朝、われわれの友人が、公表をはばかりつつも、この土地の劇場に関係していることを知ったんです。そして、この紳士は同じ職業に従事しておいでの方。そうした職業に関係のあるちょっとした話をわれわれに聞かせてくださろうとしたちょうどそのとき、きみたちが部屋にはいってきたのです」
「たくさんの逸話」ウィンクル氏に近づき、低い内緒話のような口調で話して、前の日に緑の上衣を着こんだ見知らぬ男は言った。「妙な男――苦しい仕事をし――役者ではなく――奇妙な男――あらゆる苦しみ――巡業では陰気なジェミーと呼んでます」ウィンクル氏とスノッドグラース氏は優雅にも『陰気なジェミー』と|綽名《あだな》をつけられている紳士を丁寧に歓迎し、ほかの連中にならって水割りブランデーを注文し、テーブルに腰をおろした。
「さて」ピクウィック氏は言った。「あなたがお話しになろうとしていたことを、お話しねがえんでしょうか?」
陰気な男はポケットからきたない巻き紙をとりだし、たったいま雑記帳を引っぱりだしたスノッドグラース氏のほうに向いて、その外形といかにもよくつり合ううつろな声でたずねた――「あなたは詩人ですか?」
「わたしは――わたしは、それをちょっとかじっています」いきなりの質問にびっくりして、スノッドグラース氏は言った。
「ああ! 詩が人生にしてくれることは、|灯《あか》りと音楽が舞台にしてくれるのと同じことです――偽りの飾りを舞台から、幻想を人生からとってしまってごらんなさい。そのどちらにも、生きつづけて大切にするどんな真実があるというのでしょう?」
「たしかにそうですな」スノッドグラース氏は答えた。
「フットライトの前に立つことは」陰気な男はつづけた、「堂々とした宮廷劇の座席に坐り、華かな群集の絹の衣装に見とれているようなもの――その背後にいることは、世話も見られず、人にも知られずに、その美しい服をつくり、運命の流れに身をゆだねて、沈むなり泳ぐなり、餓死するなり生きつづけるなり、放りだされているのと同じことです」
「たしかにね」スノッドグラース氏は言った。陰気な男のくぼんだ目は彼の上に注がれていたので、彼はなにか言わなければならないと感じたからである。
「さあ、ジェミー」スペインの旅行者は言った、「やるんだ、黒目のスーザンのように――元気で――ぶつぶつ言うのはやめにして――話せ――元気を見せろ」
「話をはじめる前に、もう一杯いかがです?」ピクウィック氏は言った。
陰気な男はそのすすめにしたがい、コップにブランデーと水を注ぎ、それをゆっくり半分飲んでから、紙の巻き物を開き、つぎの話をはじめたが、それは、一部は読み一部は語るといったものだった。この物語はクラブの会報に『放浪者の物語』として載せられている。
放浪者の物語
わたしがこれからお話しすることには、すばらしいことはべつになにもありません。毛並みの変わったものさえありません。人生のいろいろな階層で欠乏と病気はじつにありきたりのこと、人間性のじつに変哲もないうつり変わりと同じくらい、とるにたりないことです。わたしがわずかな覚え書きをひとまとめにしたのは、ながい年月のあいだ、わたしがそれをよく知っていたからです。わたしは一歩一歩下落の淵をくだってゆくのを見ていましたが、とうとう、彼は尾羽打ち枯らしたひどい状態におちいり、そこから二度と立ちあがれませんでした。
わたしが話している男は、低俗なパントマイム(有名な昔話やおとぎ話を狂言に仕組んで、クリスマス期に演ずる芝居)の役者で、そうした人間によくあるように、常習の飲んだくれでした。放蕩《ほうとう》で体を弱らせ、病気で痩せおとろえる前のまだ元気なころ、彼はそうとういい俸給を受けとっていましたが、もし彼が注意深く慎重な男だったら、彼はながい年月とはゆかずとも、少なくとも数年間は、それを受けつづけることができたことでしょう。というのも、こうした人たちは若死にするか、体を使いすぎて、生活のただひとつの|資本《もと》になっている体力を永久に失ってしまうからです。しかし、彼をとりかこんでいる罪が急速に彼に迫り、その結果、彼が劇場に役立っていた立場で彼をやといつづけることは不可能になりました。酒場は、彼にとって、抵抗しがたい魅力をもっているとこでした。もし彼が同じ道を進みつづけたら、手当てを受けぬ病気と絶望的な貧乏が彼の身をおそうことは、死それ自身と同じように、確実なことでした。だが、彼は頑固にその生活を変えようとせず、その結果は十分に見当のつくことでした。彼は職にありつけず、パンにもこと欠く状態になってしまいました。
演劇界のことを多少なりともご存じの方は、どんなに多くのみすぼらしい、貧困に打ちひしがれた人々が大きな劇場の舞台のまわりにうごめいているかは、ご承知のはずです。彼らは正規にやとわれた役者ではなく、バレーの出方、行列人、軽業師などで、パントマイムやイースター祭の芝居の期間中だけやとわれ、それが終われば、なにか大きな見せ物の上演で彼らが|要《い》るようになるまで、くびになってしまうのです。この男もそうした生活をせねばならなくなり、どこか低俗な芝居小屋で、毎晩座長役をつとめて芝居の指図をし、それで毎週数シリングの金を得て、それで昔ながらの酒癖を満たしていたのです。だが、こうした収入の道さえ、彼には途絶えてしまいました。彼の無軌道ぶりはとてもひどいもの、こうして得られるわずかな収入さえ、彼はかせぐことができなくなり、彼は、じっさい、飢餓にひんした状態におちいり、むかしの仲間からわずかな金を借りたり、小さな芝居小屋のじつにつまらぬ場所で役を得たりして、なんとか雨露をしのいでいたのでしたが、少しでも金をかせげば、それは以前のように使いはたされてしまいました。
このころ、彼がどんな生活をしていたかわからぬ一年以上の時が経過したとき、わたしはテムズ川のサリー州の側のある劇場と短い契約をむすび、ここでしばらく見失っていたこの男と会いました。わたしは地方巡行に出ていたし、彼はロンドンの裏町に忍んで暮らしていたからです。わたしは小屋を出ようと服を着かえ、舞台を切ってそこから出かけようとしていたちょうどそのとき、彼がわたしの肩をたたいたのです。わたしが向きなおったとき、目にはいったあのいまわしい姿は、わたしの頭から絶対に消えないことでしょう。彼はパントマイムのための衣装をつけ、道化服の途方もない恰好をしていました。死の舞踏にあらわれる幽霊のような姿、一流の画家がカンバスに描いたこのうえなくおそろしい形だって、彼の姿の半分でも身の毛をよだたせるものではありませんでした。彼のむくんだ体とちぢみあがった脚――その醜悪さは奇妙な服で百倍もたかめられていました――顔にぬりたくられている厚い化粧とおそろしい対照をしているどんよりとした目、中風でふるえているグロテスクな飾りのついた頭、白のチョークをぬられたながい骨と皮といった手――こうしたものすべてが彼におそろしく、不自然なようすを与え、それは、どんなに話をしても伝えられるものではなく、|今日《こんにち》それを考えても、わたしをぞっとさせるくらいのものでした。彼がわたしをわきにつれてゆき、とぎれとぎれの言葉でながくつづいた病気と困窮を語り、例によってわずかな金をぜひ借りたいと言ったとき、彼の声はうつろで、ふるえていました。わたしは何シリングかの金を彼ににぎらせ、向こうにゆこうとしたとき、彼がはじめて舞台にあわてふためいて出ていったあとにつづいて起こった観客の哄笑を耳にしました。
その後幾晩かして、ある少年が一枚のきたない紙切れをわたしにわたしてくれましたが、それは鉛筆で数語なぐり書きした手紙、その男の病気がひどく重くなり、芝居が終わってから、小屋からあまり遠くはなれていないある通り――その名はもう忘れてしまいました――にある彼の宿に会いに来てくれ、と書いてありました。わたしはできるだけ早くそこにゆくことを約束しました。そして、幕がおりてから、このわびしい任務にとびだしていったのです。
時刻はもうおそくなっていました。わたしが役をもっていたのは、最後の芝居だったからです。そして、その夜は寄付興行の夕だったので、上演はふだんにないほどながいものになっていました。暗い、寒い夜で、凍りつくようなしめった風が吹き、それが窓や家の正面に激しく雨を吹きつけていました。細い、人どおりの少ない通りでは水たまりができ、まばらに立てられている街路灯は、多く風の勢いで消えてしまっていたので、この外出は不快であったばかりでなく、じつにふたしかなものでした。しかし、運よくわたしのとった道はまちがった道ではなく、少し苦労はしたものの、わたしが教えられた家はすぐに見つかりました。それは石炭おき場の小屋で、二階があって、その裏の部屋に、わたしのさがしていた男は横になっていました。
彼の妻であるみじめな風采をした女が階段でわたしに出逢い、彼はうとうと眠っていると話し、そっとわたしをつれこみ、わたしのためにベッドのわきに椅子をおいてくれました。病気の男は、顔を壁に向けて、横になっていました。そして、彼はわたしがそこにいることにぜんぜん気づかなかったので、わたしは自分のまわりをゆっくりとながめることができました。
彼は昼間のうちにもちこんだ古い寝台の上に横になっていました。市松模様のカーテンのぼろぼろになったなごりが、風がはいらぬようにと、寝台の頭の周囲に引かれてあって、風は戸にあるたくさんの割れ目からこの味気ない部屋に流れこみ、いつもそれをユラユラと動かしていました。錆びた不安定な炉格子には燃え殻のわずかの火が燃え、幾本かの薬びん、割れたコップ、ほかのわずかの家具をのせた古い三角のよごれたテーブルがその前に引き出されていました。小さな子供がひとり、その子供のために一時用にとつくられた床の上のベッドに眠り、女はそのわきの椅子に坐っていました。棚が二つあり、そこにはわずかの皿、茶わん、受け皿がおかれ、その下に舞台用の靴と一対の剣がつられていました。小さなぼろ切れのたばとつつみが無造作に部屋のすみに投げ出されてありましたが、それを除けば、棚の上のものがこの部屋にあるただひとつのものになっていました。
彼がわたしのいることに気づく前に、わたしはこうしたこまかなことを知り、病人の息づかいがひどくあらいのと、彼が熱にうかされてギクリギクリしているのをさとりました。頭を楽な場所に乗せようと、彼はたえず落ち着かぬふうに動き、ベッドから手を投げ出し、それはわたしの手の上に乗せられました。彼はギクリとし、ぐっとわたしの顔をにらみつけました。
「ジョン、ハットリーさんですよ」彼の妻が言いました。「今晩あなたが呼びにやったハットリーさんですよ」
「ああ!」額を片手でなでて、病人は言いました。「ハットリー――ハットリー――はてな」彼は数秒間考えをまとめようとしているらしく、ついでわたしの腕首をしっかりとにぎって言いました、「ここにいてくれ――きみ、ここにいてくれ。あの女に殺されちまうからね。それはわかってるんだ」
「ながいこと、こんなふうだったんですか」泣いている妻に話しかけて、わたしはたずねました。
「きのうの晩からね」彼女は答えました。「ジョン、ジョン、わたしがわからないの?」
「あの女をわたしに近づけんでくれ」彼女が彼の上にかがみこんだとき、男は身をふるわせて言いました。「彼女を追っ払ってくれ。あの女がそばにいると、たまらないんだ」ひどく心配そうなようすをして、彼はあらあらしく彼女をにらみつけ、それから、わたしの耳にささやきました、「わたしは彼女をぶんなぐった。きのうも、その前に何回も、彼女をぶんなぐった。彼女と子供に飢えの苦しみを味わわせた。そして、いまわたしは弱り、体の自由がきかない。ジェム、彼女はその復讐にわたしを殺すだろう。それは、わかってるんだ。わたしのように、彼女の泣いている姿を見たら、あんたもそれがわかるだろう。彼女を近よらせないでくれ」彼はにぎっていた手をゆるめ、疲れ果てて頭を枕に沈めてしまいました。
これがどういうことか、わたしにはわかりすぎるほどわかっていました。一瞬間それを疑う気持ちがわいたとしても、女の青ざめた顔とやつれた姿を一目見れば、それで十分実情がつかめたことでしょう。「あなたはわきにいたほうがいいですよ」わたしはあわれな女に言いました。「彼にどうにもしてやれないんですからね。あなたの姿が目にうつらなければ、たぶん、彼は静まるでしょう」彼女は男の見えぬところに身をかくしました。数秒後、彼は目を開き、不安そうにあたりを見まわしました。
「あの女はいってしまったかね?」彼はむきになってたずねました。
「うん――うん」わたしは答えました。「彼女がきみに危害を加えることなんてないよ」
「いいかね、ジェム」低い声で男は言いました、「彼女は現に危害を加えてるんだ。あの女の目には、わたしにひどい恐怖心をひきおこすなにかがあってね、それでわたしは気がくるったようになっちまうんだ。きのうの晩は一晩中、彼女の大きなにらむ目と青ざめた顔がわたしの顔の近くによせられててね、わたしがどっちを向こうと、それも向きを変えるんだ。そして、眠りから急にいつ目を覚まそうと、彼女は寝台のそばにいて、わたしをじっと見てるんだ」低い、おびえきったささやき声でしゃべりながら、彼はわたしを自分のそばに引きよせました――「ジェム、あの女は悪霊にちがいない――悪魔だ! しっ! それはわかってるんだ。もしあれが女だったら、とっくのむかしに死んでたことだろう。どんな女だって、あんな我慢はできはせんのだからね」
こんな男にこんな印象を植えつけるなんて、どんなにながい期間、無情とあなどりを彼は受けたことだろう、と思うと、わたしの胸はムカムカしてきました。わたしはそれになにも答えることができませんでした。目の前に横たわっているみじめな人間に、だれが希望やなぐさめの言葉を与えることができたでしょう?
わたしはそこに二時間以上も坐っていましたが、そのあいだ中、彼は苦痛と焦燥の叫びをうめき、ジリジリしながら両腕をあちらこちらに投げ、たえず寝返りを打ちながら、ころげまわっていました。とうとう、彼はちょっと無意識状態に落ちこみましたが、そこで彼はとりとめなく場面から場面へ、場所から場所へと不安げにさまよい歩き、しかも、現在の苦しみの得も言えぬ感覚からは脱却しきれないでいました。彼のとりとめもないうわごとから彼がどんな状態にあるかを知り、熱病がすぐ悪化することはないとわかったので、わたしは彼とわかれ、翌日の晩ふたたびここを訪れ、もし必要だったら、夜中病人につきそってやることを、みじめな彼の妻に約束しました。
わたしは約束を実行しました。その二十四時間のうちに、おそろしい変化が起きていました。目は深くくぼみ、ドロンとしてはいながらも、それは見るもおそろしいつやを帯びて輝いていました。唇はかさかさになり、ところどころ割れていました。乾いてかたくなった皮膚は、かっかと燃える熱で光を発し、男の顔には、ひどい不安の、この世のものならぬと言ってもよさそうな表情が浮かんでいましたが、それは、さらに強く、病気の激しさを物語っているものでした。熱病は最高潮に達していました。
わたしは前夜と同じ場所に何時間も坐り、瀕死の男のおそろしいうわごとに耳を澄ませて聞き入っていましたが、それは、どんなに冷淡な男の心でも深く打つものでした。わたしが聞いた医者の助手の意見で、回復の希望がぜんぜんないことはわかっていました。わたしは彼の死の床に坐っていたのです。何時間か前には最上階のさわがしいさじきをよろこばすためにゆがめられていた痩せ細った手足は、燃える熱の苦しみでのたうっていました――わたしは道化役の|甲高《かんだか》い笑い声が死にかけている男の低いつぶやきとまじり合っているのを耳にしました。
弱まってぐったりとした肉体を目の前にし、しかもその心がふだんの仕事、健康人のすることに舞いもどっているのを聞くことは、人に感動を与えずにはいないものです。しかし、そうした仕事が重々しい、あるいは厳粛な考えと結びつくどんなものともおよそ反対の性格を帯びている場合、それが産み出す印象は、もっと無限に強烈になってきます。劇場と居酒屋がこのみじめな男のうわごとの中心的な話題になっていました。いまは夕方と、彼は空想していました。彼にはその夜演ずべき役割があり、時刻はおそく、すぐに家を出なければなりませんでした。どうして自分を抑え、ゆかせないのだ?――賃銀がもらえなくなってしまうじゃないか――ゆかなければならない。だめだ! 家の者はゆかせてくれない。彼は燃える手で顔をおおい、自分自身の弱さと迫害者の冷酷さを弱々しく嘆いていました。少し間をおいてから、彼はいくつかわずかのへぼ詩をどなりだしました――これは彼が最近覚えたものでした。彼はベッドの上に起きあがり、しなびた手足をもちあげ、奇妙な姿勢をして、転げまわりました。彼は役を演じ――劇場にいるのでした。一分ほど静かにしていてから、彼はなにかさわがしい歌の折り返し文句をつぶやきました。とうとう彼は酒場にゆきました。部屋はなんてあついんだろう! 自分は病気、重病だったが、いまはもう元気で、幸福なんだ。コップに酒を注げ。それを自分の唇から払いのけたのはだれだ? それは、前にも彼のあとについてきたあの迫害者でした。彼はひっくり返って頭を枕に沈め、大声でうめきました。それから短い忘却期間がすぎると、彼は退屈な迷路のような天井の低い部屋部屋をさまよい――その天井はとても低く、ときどき、彼は進んでいくために四つんばいにならなければなりませんでした。そこはむっとしていて暗く、どっちに向いても、進路になにか邪魔物がありました。また、虫、彼をにらみつけている目をもったおそろしいはいまわる虫がいました。その目は、あたりの空気の中で群れをなし、その場所の濃い暗闇の中でおそろしい輝きを発していました。壁と天井は爬虫類でうようよし――アーチ型の天井はとてつもない大きさにひろがり――おそろしい姿があちらこちらととびかい、あざけりとゆがめた口でおそろしいものになっている彼の知人の顔が、そうしたもののあいだから、顔をのぞかせていました。彼らは熱した鉄で彼の体を焼き、血が吹きだすまで、太いひもで彼の頭をしばりあげ、彼は死からのがれようと、気がくるったようにもがいているのでした。
こうした激しい発作のひとつがおさまり、彼をようやくのことで床に寝かせつけたとき、彼は眠りといった状態に落ちこみました。寝ずにいたことと疲れで、わたしは数分間目を閉じていましたが、急に猛烈な勢いで肩をつかまれたのです。わたしはすぐに目を覚ましました。彼は身を起こして床の中で坐っていました――おそろしい変化が彼の顔にあらわれていましたが、意識はもどっていました。彼ははっきりとわたしのことがわかっていたからです。彼のうわごとでずっと前から眠りをさまたげられていた子供は、その小さな寝台から起きあがり、恐怖の悲鳴をあげて、父親のとこに走りよってきました――母親は、父親の激しい狂乱で子供が傷つけられはしないかと、急いで子供を腕にだきしめましたが、彼の顔の変貌ぶりにおそれをなして、寝台のわきに棒立ちになっていました。彼は|痙攣《けいれん》的にわたしの肩をにぎり、のこりの手で胸をたたきながら、しゃにむに、なにかを言おうとしました。それはむだでした――彼は片腕を妻と子のほうにのばし、もう一度、激しくなにかを言おうとしました。喉にゴロゴロという音がひびき――目がかっと見開かれ――息のつまった短いうめきが立てられ――彼はあお向けに倒れて、死んでしまいました。
いままでの話に関するピクウィック氏の意見をここに記録することができたら、それは、われわれをこのうえなくよろこばせてくれることになるだろう。ここにじつに不幸な事件が起きなかったら、疑いもなく、それを読者にお示しすることができたろう。
ピクウィック氏は、前の話のほんの最後のところで手ににぎっていた杯をもうテーブルにもどし、ものを言おうと決心していた――じっさい、彼が口を開いたことは、スノッドグラース氏の雑記帳にも書かれている――そのとき、給仕が部屋にはいってきて言った――
「紳士の方が何人かおいででございます」
テムズ川を明るくはせずとも、この世を啓発する言葉を、ピクウィック氏はいま言おうとしていたものと推測されているが、それはこうして抑えられてしまった。彼はきびしく給仕の顔をにらみつけ、ついで、新しく来た客に関する情報を求めるように、一座の人たちのほうをながめたからである。
「おお!」立ちあがりながら、ウィンクル氏は言った、「わたしの友人たちです――彼らをこちらにご案内しなさい。とてもおもしろい連中です」給仕が姿を消してから、ウィンクル氏は言いそえた――「第九十七連隊の将校たちで、今朝、奇妙なことで知り合いになったのです」
ピクウィック氏はすぐ冷静な態度にもどった。給仕はかえってきて、三人の紳士を部屋に案内した。
「タップルトン中尉」ウィンクル氏は言った、「タップルトン中尉に、ピクウィック氏です――ペイン軍医にピクウィック氏です――スノッドグラース氏には前にお会いですな。わが友タップマン氏にペイン軍医です――スラマー軍医にピクウィック氏です――タップマン氏にスラ――」
ここでウィンクル氏の言葉は突然中断された。激しい感情がタップマン氏と軍医の顔にあらわれていたからである。
「この[#「この」に傍点]紳士には、前にお会いしたことがあります」言葉にはっきりと力をこめて、軍医は言った。
「へーえ!」ウィンクル氏は言った。
「それに――もし勘ちがいでなければ、あの人物にもね」緑の上衣を着た見知らぬ男をジロジロとにらみつけて、軍医は言った。「昨夜ぜひにと強く彼を招待したのですが、彼はそれを断わったほうがよいと考えたようです」こう言いながら、彼は寛容にも見知らぬ男に渋面をつくり、その友のタップルトン中尉になにか耳打ちをした。
「まさか!」その耳打ちが終わると、タップルトン中尉は言った。
「いや、そうなんだ」スラマー軍医は答えた。
「すぐ彼を蹴っとばしてやるべきですな」いかにも重々しく、折りたたみ式の椅子の所有者はつぶやいた。
「ペイン、だまっていたまえ」中尉は口を入れた。「あなたにおたずねしたいのですが」このじつに失礼きわまるわき芝居をあっけにとられて見ていたピクウィック氏に向けて、彼は言った、「おたずねしたいのですが、あの人物は、あなたのご同行の方ですか?」
「いいや」ピクウィック氏は答えた、「われわれの客です」
「彼はあなたのクラブの会員でしょう、ちがいますか?」しつこく中尉はたずねた。
「たしかに、ちがいます」ピクウィック氏は答えた。
「そして、あなたのクラブのボタンを絶対につけていたことはないのですね?」中尉はたずねた。
「いや――絶対に!」びっくりしたピクウィック氏は答えた。
タップルトン中尉は、それとわからぬくらい肩をすくめて、彼の友人スラマー軍医のほうに向きなおり、その記憶の正確さに疑いをもっているようすを示した。小男の軍医は憤慨しつつも、|狼狽《ろうばい》していた。そして、ペイン氏は、なにも知らぬピクウィック氏の輝く顔をものすごい形相でにらみつけていた。
「きみ」軍医は急にタップマン氏に向けて話しだしたが、その調子は、ふくらはぎにピンがうまく刺されたように、この紳士をギクリとさせた、「きみは、きのうの晩、ここの舞踏会においででしたな!」
タップマン氏はあえぎ、かすかな声で、そうだ、と答えたが、そのあいだ中、彼はジッとピクウィック氏の顔に目を注いでいた。
「あの人物があなたの仲間でした」まだケロリとしている見知らぬ男をさして、軍医は言った。
タップマン氏はその事実を認めた。
「さて、きみ」軍医は見知らぬ男に言った、「これら紳士方の前で、きみにもう一度たずねよう、きみは自分の名刺をこちらにわたし、紳士のあつかいを受けるかね? それとも、わしが自身できみをこの場でこらしめることを必要にさせるのかね?」
「ちょっとお待ちください」ピクウィック氏は言った、「なんの説明もなしで、このことをこれ以上進行させるわけにはいきませんぞ。タップマン、事情を説明しなさい」
タップマン氏は、こうした厳命を受けて、事情をわずかな言葉で説明し、上衣の借用にはわずかにふれ、それが「晩餐後」のことであることをながながと述べ立て、自分がいささかあやまったことを認めて、言葉を結び、つぎに、見知らぬ男ができるだけ身の無罪を証すことになった。
彼がそれをしはじめようとしていたその矢先、ジロジロとこの人物をながめていたタップルトン中尉が、いかにも軽蔑したように、言った――「きみは劇場で見かけた男ではなかったかね?」
「そうですよ」平然として見知らぬ男は答えた。
「彼は流浪の役者だ」中尉は、スラマー軍医のほうに向きなおって、ひどく軽蔑した態度で言った。――「やつは第五十二連隊の将校がロチェスター劇場で明日の晩に見る芝居で役をもっている男、スラマー、このことは、しようとしてもだめ――不可能だな!」
「完全にね!」威厳のあるペインは言った。
「こんなに不愉快な立場にあなたをお立たせして、お気の毒に思っています」ピクウィック氏にタップルトン中尉は言った。「こんなことを申してなんですが、将来こうしたことにならないようにする最善の方法は、仲間をお選びになるとき、もっと注意することですな。失礼します!」こう言って、中尉は部屋からとびだしていった。
「こんなことを申してなんですが」怒りっぽいペイン軍医は言った、「もしわたしがタップルトンかスラマーだったら、あなたの鼻、ここにおいでのすべての人の鼻を軽蔑的に引っぱったことでしょう。みなさん、きっとそうしましたよ。ペインというのがわたしの名前――第四十三連隊のペイン軍医です。失礼します」この弁説を終わり、失礼しますを力こめて大声で言って、彼は堂々と大股でその友のあとを追って部屋を出ていったが、そのあとにすぐつづいたのがスラマー軍医、彼はなにも言わなかったが、その一瞥でみなをちぢみあがらせたことで満足していた。
上記の挑戦的な言葉が語られているあいだ、たかまる怒りとひどい狼狽がピクウィック氏の気高い胸をふくらまし、そのために彼のチョッキはほとんど張り裂けそうになっていた。彼は空間をジッとにらみすえ、そこに棒立ちになっていた。戸が閉められて、彼はわれにかえった。彼は顔に激怒、目に烈火を浮かべて突進、その手は戸の錠前にかかり、スノッドグラース氏が尊敬する指導者の上衣の端をつかみ、彼をうしろに引きもどさなかったら、つぎの瞬間には、ピクウィック氏の手は第四十三連隊のペイン軍医の喉にかけられていたことだろう。
「ピクウィック氏を抑えろ」スノッドグラース氏は叫んだ、「ウィンクル、タップマン、彼はこんなことで大切な命を危険にさらしてはならんのだ」
「放してくれ」ピクウィック氏は言った。
「しっかり抑えろ」スノッドグラース氏は叫び、そこにいる全員の一致した努力によって、ピクウィック氏は否応なく肘かけ椅子に坐らされた。
「彼をそのまま」緑の上衣を着た見知らぬ男は言った――「水割りブランデー――陽気な老紳士――勇気満々――これを飲みなさい――ああ!――すばらしいもんですぞ」陰気な男が割ってつくった杯で酒の|功徳《くどく》を一杯前もって毒味してから、見知らぬ男はその杯をピクウィック氏の口におしつけ、飲みのこしの杯の酒はあっという間に姿を消してしまった。
ちょっと沈黙がつづいた。水割りブランデーはその|功徳《くどく》を発揮し、ピクウィック氏のおだやかな顔は急速にそのいつもの表情をとりもどしていった。
「あの連中はあなたの注意にも値しないやつらです」陰気な男は言った。
「そのとおり」ピクウィック氏は答えた、「彼らはそうした連中、こんなに興奮したところをお見せして、恥ずかしく思っています。さあ、あなたの椅子をテーブルによせてください」
陰気な男はそれにただちに応じ、テーブルのまわりに円形がふたたびつくられ、和気|藹々《あいあい》の雰囲気がもう一度流れはじめた。いらいらした気分のなごりがウィンクル氏の胸に巣食っていたらしかったが、これは一時的にせよ彼の上衣が抜きとられていた事実によってひきおこされたものであろう――こうしたことで、一時なりとも、ピクウィック・クラブの人々の胸に怒りの情がひきおこされると考えるなんて、それは途方もないことではあるが……。こうした例外はあったにしても、一座の上機嫌はすっかり回復し、この会がはじまったのと同じ陽気さで、この日の夕は閉じられた。
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第四章
[#3字下げ]野外の一日と宿営。さらに新しい友人。郊外への招待
多くの著者は貴重な知識を得るよりどころをもっているが、彼らには、それを認めようとしない愚かな、よこしまな気持ちがひそんでいる。われわれには、そうした気持ちはさらさらない。われわれはただ、あやまりのない正しい方法で、編集任務の責任ある仕事を追求するだけで、事情が異なれば、こうした冒険談の著者たることを主張しようとするどんな野望にかられるにせよ、真実にたいする尊敬の念が、思慮ある配置と公正な話し方以上の功績を主張することを、かたく禁止している。ピクウィック文書はわれわれの新しい川の|源《みなもと》であり、われわれは新しい川の会社みたいなものである。ほかの人の努力がわれわれのために重要な事実の巨大な貯水池をつくり、われわれはただ、こうした話によって、澄んだおだやかな流れになって、ピクウィックに関する知識を渇望している世界に、そうした事実を積みあげてわたすだけである。
こうした精神にもとづいて行動し、われわれが参照した典拠にたいする恩義を認めようとかたく決意しているのであるから、この章とつぎの章で書かれている詳細はスノッドグラース氏の雑記帳によるものであることを、率直に認めることができる――もうこれで言うべきことは言って、良心の負担を軽くしたのだから、これ以上なにも言わずに、その詳細を述べることにしよう。
ロチェスターとその付近の町々の人々は、このうえなく落ち着かぬ興奮状態で、翌日の朝早く、床から起きあがった。大観兵式が練兵場で挙行されることになっていたからである。六箇連隊の機動演習が司令官の鋭い目の査閲を受けることになっていて、応急の一時的な城が築かれ、この|城砦《じようさい》が襲撃を受け、占拠され、地雷が爆発されることになっていた。
ピクウィック氏は、彼のキャサムの描写からわれわれがお示ししたわずかの抜粋からご推測あったかもしれないが、情熱的な陸軍の礼賛者だった。この光景をながめることが、なににもまして彼には楽しいことであり、彼の仲間のそれぞれ独特の趣向にもじつにピタリと調和していた。そこで彼らはすぐに起き、練兵場のほうに歩みを進めたが、そこには群集がもうすでにさまざまな方向から流れこみはじめていた。
練兵場のすべての様相は、近づく儀式がじつに壮大な、じつに重要なものであることを示していた。部隊の場所を確保するために歩哨が立てられ、砲兵陣地のところにいる召使いたちはご婦人方の場所をとり、軍曹たちは子牛皮の本を小脇にかかえて右往左往し、バルダー大佐は軍装をととのえて、騎馬に乗り、あちらこちらにとびまわり、人々の群れの中に馬を後退させ、馬を踊らせ、跳躍させ、おそろしいふうに怒鳴り、これといったなんの理由もないのに、声をひどく枯らし、顔をひどく赤くしていた。将校たちは最初はバルダー大佐と連絡をとり、ついで軍曹たちに命令をくだして、あちらこちらにかけまわり、ついでかけだして、どこかに姿を消してしまった。兵卒さえも、神秘的な厳粛さをこめた態度で、みがきあげた銃床のところから外をながめていたが、それはこの儀式のもつ特殊性を十分に物語っていた。
ピクウィック氏と三人の仲間は群集の最前列に陣どり、忍耐強く行事の開始を待っていた。人の群れは、刻一刻、ましていった。獲得した場所を失うまいとする彼らの努力が、それにつづく二時間のあいだ、彼らの頭をいっぱいにしていた。あるときには、突然うしろから圧力がかかり、ふだんの重々しい態度とはおよそ不釣り合いな速さと弾力でピクウィック氏は前にはじきだされ、べつの瞬間には、前面から「さがれ」という要求があり、その要求を知らせるために、銃の台じりがピクウィック氏の爪先に落とされ、それを実行にうつすために、銃の台じりが彼の胸につきつけられた。それから、左側のあるおどけた紳士は、横から一団になっておしまくり、スノッドグラース氏の体をねじって極度の拷問の苦しみを与えてから、「やつは人をどこに押そうとしてるんだ?」とたずね、このいわれのない襲撃をながめて、ウィンクル氏が激怒すると、だれかうしろにいた人は、彼の帽子をうしろから突きあげ、彼の頭をポケットの中にしまいこんでくれないか、と声をかけた。こうしたことと、それ以外のたちのわるいいたずらは、タップマン氏(彼は急に姿を消し、どこにも見つからなかったのだが)のわけのわからぬ失踪と結びついて、彼らの立場を愉快で望ましいどころか、とても不愉快なものにしていた。
とうとう、低いどよめきが群集を走ったが、それは、彼らが待ち構えていたものの到着を知らせる叫びだった。すべての目は出撃門のほうに向けられた。ひたむきな期待の数瞬間、つづいて軍旗が華かに大気にはためき、武器が陽光にキラキラと輝き、軍隊の縦隊が怒濤のように平原にくりだされてきた。部隊は停止し、整列した。命令が全戦列に鳴りひびき、捧げ|銃《つつ》のときには小銃がいっせいにガチッと音を立て、バルダー大佐と多くの将校にともなわれた司令官は、正面のところに馬をゆっくりと進めた。軍楽隊がいっせいに鳴奏をはじめ、軍馬はそれぞれうしろ脚で立ち、うしろのほうになみ足でもどり、その尻尾を四方八方にふりまわしていた。犬は吠え、群集はキーキー声で叫び、部隊はもとの姿勢にもどり、両側は、目のとどくかぎり、きちんと身じろぎもせずにならんでいる赤の上衣と白のズボンだけになっていた。
ピクウィック氏はふりまわされ、奇蹟的にも馬の足のあいだからのがれでることにすっかり心をうばわれていたので、たったいま描写した状態になるまで、彼は自分の目の前の光景を観察するゆとりをもっていなかった。彼がとうとう両足でしっかりと立てるようになったとき、彼の満足とよろこびは、かぎりなくひろがっていった。
「これ以上にもっとみごとで楽しいものがあるだろうか?」彼はウィンクル氏にたずねた。
「なにもありませんな」この紳士は答えた。彼は、このときまで十五分間、左右の両足とも、背の低い男にそれぞれ踏みつけられっぱなしでいたのだった。
「じつに崇高な、輝かしい光景ですな」胸に詩の炎が急速に燃え立っていたスノッドグラース氏は言った、「この国の勇敢な防衛者が、その平和な市民の前に、輝かしい装いをして整列しているのをながめることはね。彼らの顔は――好戦的な勇猛さではなく――おだやかなやさしさで輝いています。彼らの目は――略奪や復讐のあらあらしい火ではなく――人情深さと知性のやわらかな光で、キラキラと燃え立っています」
ピクウィック氏はこの賛辞の精神に十分同調はしたものの、その言葉をそのままおうむ[#「おうむ」に傍点]返しにくりかえすわけにはいかなかった。というのも、「|頭中《かしらなか》」の号令がかけられていたので、戦士の目の中に燃えていた知性のやわらかな光は、そうとう影の薄いものになり、観衆が目の前に見たものといえば、ただ、まったくなんの表情も浮かべていない、前をしっかとにらみすえた数千対の目玉だけだったからである。
「われわれは、いま、すばらしい場所に陣どっている」あたりを見まわして、ピクウィック氏は言った。彼らの近くで群集は数少なくなり、ほとんど彼らだけしかそこにのこってはいなかったからである。
「すばらしい!」スノッドグラース氏とウィンクル氏はくりかえした。
「兵隊たちは、いま、なにをしているのだろう?」望遠鏡を調節しながら、ピクウィック氏はたずねた。
「わたしは――わたしは――思いますな」さっと顔色を変えて、ウィンクル氏は言った――「彼らは発射しようとしているのでしょう」
「バカな」急いでピクウィック氏は言った。
「わたしは――わたしは――本当にそうだと思いますよ」そうとうおびえて、スノッドグラース氏は主張した。
「あり得ぬこと」ピクウィック氏は答えた。彼がその言葉を発するか発しないかに、六箇連隊全員が、その目標はただひとつ、そして、それはピクウィック・クラブ会員たちといった勢いで、小銃のねらいをつけ、大地を中心からゆるがし、初老の紳士をその胆っ玉からゆすり立てる、とてつもない、おっそろしい射撃音を立てて、前にとびだしてきた。
偉人の心に自然にともなうものとなっている完全な冷静さ、落ち着きをピクウィック氏が示したのは、空砲のいまいましい発射にさらされ、軍事行動になやまされているこの苦しい情勢の|最中《さなか》のこと、そして新しい部隊が反対側にならべられはじめたときのことだった。彼はウィンクル氏の腕をとらえ、その紳士とスノッドグラース氏のあいだに立って、この物音でつんぼになる可能性以外には、鉄砲の発射で直接心配すべきものはなにもないことを、熱心にふたりに説いた。
「だが――だが――だれかがまちがって実砲をこめているとしたら」自分がつくりあげた仮定で顔を青くして、ウィンクル氏は抗議した。「たったいま、なにかが|空《くう》を切ってとんでいくのが耳に聞こえましたよ――とても鋭い音を立ててね。耳のほんのすぐそばでした」
「うつぶせになっていたほうがいいでしょう、どうです?」スノッドグラース氏は言った。
「いや、いや――もう終わった」ピクウィック氏は言った。彼の唇はふるえ、彼の頬は青ざめていたかもしれなかったが、不安・懸念の言葉は、この不滅の人物の唇からはもれて来なかった。
ピクウィック氏の言うとおりだった。射撃はやんだ。しかし、彼が自分の意見の正しさをよろこぶ暇もないうちに、戦列には素早い動きがあらわれた。しわがれた命令の声が戦列に鳴りひびき、一行のだれもがこの新しい機動の意味をまださとらぬうちに、六箇連隊の全員が、着け剣をし、かけ足で、ピクウィック氏とその友人がいるところを目がけて突撃してきた。
人間は不死のものではない。そして、それ以上に人間の勇気が踏み越えてゆけぬといった点がある。ピクウィック氏は、一瞬間、望遠鏡でせまってくる部隊を凝視し、ついで、ぐるりと背を向け――逃げだしたとは言うまい、第一にそれは卑しい言葉であり、第二に、ピクウィック氏の姿はそうした退却法にはふさわしくはなかったからである――彼はできるだけの|速足《はやあし》でそこからはなれていった。それはじつにすごい速足で、時すでにおそしということになるまで、彼は事態のまずさに十分気づかぬほどだった。
その整列が数秒前にピクウィック氏をとまどわせた対抗部隊は、城砦の仮装攻撃部隊の物真似の攻撃を撃退すべく、整列した。その結果は、ピクウィック氏とふたりの仲間がながくつづく二つの部隊――一方はかけ足で前進し、他方は|邀撃《ようげき》態勢をととのえてがっちりと待ち構えているという二つの部隊のあいだに挟まれることになった。
「おい!」前進してくる部隊の将校たちは叫んだ。
「そこを|退《の》け!」邀撃軍の将校たちは叫んだ。
「どこにいったらいいのだ?」興奮したピクウィック・クラブ会員たちは悲鳴をあげた。
「おい――おい――おい!」がそれにたいするただひとつの答えだった。ひどい狼狽の一瞬、ズシリズシリと踏みつける重い足音、激しい震動、押し殺した笑いが起こった。六箇連隊の兵は五百ヤードのかなたにあり、ピクウィック氏の靴底は空中に舞っていた。
スノッドグラース氏とウィンクル氏は、それぞれ、万やむを得ず、驚くべき敏速さでとんぼ返りを打ったが、地面に起きなおったとき、鼻血を黄色の絹のハンカチでとめようとしたウィンクル氏の目に最初にはいったのは、彼の尊敬すべき指導者が少しはなれたところで、向こうのほうにコロコロと転がってゆく帽子のあとを追っている姿だった。
人間の生涯のうちで、自分の帽子を追いかけている瞬間ほど、|滑稽《こつけい》な当惑をおぼえ、慈悲深い同情に出逢わぬときはない。多くの冷静さ、ある独得な判断力が帽子をつかまえるのには必要である。あわてすぎてはいけない。さもないと、それを踏みつけてしまうからである。余り先まわりしてはいけない。さもないと、それをすっかり見失ってしまうからである。最上の方法は、用心深く注意をし、追求物にしずかについてゆき、よい機会をねらい、しだいに先まわりし、その上部をつかんで、しっかりと頭に乗せてしまうことである。ほかの人と同じように、自分もそれをとてもおもしろい冗談と考えているふうをよそおって、たえず陽気に微笑を浮かべていることを忘れてはならない。
快い微風が吹き、ピクウィック氏の帽子はそれに乗ってフワフワと転がっていった。風が|一吹き《パフ》吹き、ピクウィック氏は|あえぎ《パフ》、帽子は、強い潮に乗った元気のいい亀のように、コロコロと転がっていった。この紳士が帽子をそのままあきらめてしまおうとしたちょうどその瞬間、その進みが突然とめられてしまわなかったら、それはピクウィック氏のとどかぬところに転がっていってしまったかもしれない。
ピクウィック氏はすっかり疲れ果て、追跡をやめてしまおうと思っていたちょうどその矢先、その帽子はある馬車の車輪にそうとう激しくたたきつけられた。その馬車は、他の六台の馬車と一列になって、彼の足が向けられていた場所に停止したのだった。ピクウィック氏は、このときとばかり、素早く前にとびだし、帽子を確保し、それを頭に乗せ、立ちどまって息をつこうとした。こうした状態が三十秒とつづかぬうちに、ある声が熱心に彼の名を呼んでいるのが聞こえ、それがすぐタップマン氏の声とわかり、上を見あげると、彼の心を驚きとよろこびで満たした光景が出現していた。
この混み合った場所にふさわしいようにと馬がとりのぞかれてあるおおいのないバルーシュ型の馬車には、ピカピカ輝くボタンのついた青い上衣、コール天のズボン、乗馬靴をつけた太った老紳士、スカーフと羽飾りの衣装をまとったふたりの若い婦人、その若い婦人のひとりに明らかに心をよせている若いひとりの紳士、年齢がはっきりせず、おそらくは若い婦人たちの叔母と思われる婦人、生まれたときからこの一族の者といったように、のんびりゆったりとしたタップマン氏が立っていた。馬車のうしろには、大きな詰め籠――思慮ある心の持ち主には、冷たい鳥肉、燻製または塩づけの舌肉、ぶどう酒のびんとむすびつく連想をいつも思い浮かばすあの詰め籠がしっかりと結びつけられてあった――そして、御者台には、いかにも眠そうにしている太った赤ら顔の少年が坐り、前に述べた詰め籠の中身を飲み食いする時刻がやってきたら、彼こそそれを配給する人といったようすを示していた。
ピクウィック氏がこうした興味深い対象にあわただしい一瞥を送ったとき、彼はふたたび忠実な弟子によびかけられた。
「ピクウィック――ピクウィック」タップマン氏は言った。「ここにあがっていらっしゃい。急いで」
「さあ、どうぞ。どうかおあがりください」太った紳士は言った。「ジョー!――くそっ、あの坊主め、また寝こんでしまったぞ――ジョー、踏み段をおろすんだ」太った少年はゆっくりと御者台から転げおち、踏み段をおろし、さあどうぞ、と馬車の戸を開いた。このときに、スノッドグラース氏とウィンクル氏が近づいてきた。
「みなさん、みんなはいれますぞ」太った紳士は言った。「ふたりの方は中へ、ひとりの方は外へ。ジョー、御者台に紳士の方ひとりをお入れする場所をつくれ。さあ、おはいりください」こう言って、太った紳士は片腕をのばし、最初にピクウィック氏を、ついでスノッドグラース氏を力まかせに馬車の中に引き入れた。ウィンクル氏は御者台にのぼり、例の太った少年もヨタヨタと同じ御者台にあがってきて、あっという間に、ぐっすりと寝こんでしまった。
「さて、みなさん」太った男は言った、「お会いして、とてもうれしく思ってます。そちらではご記憶ないかもしれませんが、当方はみなさんをよく存じあげていますよ。この前の冬、あなた方のクラブで幾夜か夜を送ったことがあるんです――今朝、ここでわが友タップマン氏とお会いし、それをとてもうれしく思っているんです。やあ、あなた、ご機嫌はいかがです? ふだんになくお元気のようですな」
ピクウィック氏はこの挨拶に応じ、乗馬用の長靴をはいた紳士と親愛の情のこもった握手をかわした。
「さて、きみのご機嫌はいかがです?」父親のようなやさしさをこめてスノッドグラース氏に話しかけて、太った紳士はたずねた。「魅力的ですかな、えっ? そう、それは結構――それは結構。(ウィンクル氏に)そして、あなたはいかがです? そう、お元気とお聞きして、当方もうれしいです。本当に、とてもうれしいですよ。みなさん、娘たち――これがわたしの娘たちです。そして、あれがわたしの妹レイチェル・ウォードルです。彼女はミスですがね、しかし、ミスではありませんよ――えっ、どうです?」そう言って、太った紳士はふざけて肘でピクウィック氏の脇を突っつき、いかにも愉快そうに笑った。
「まあ、お兄さま!」いけないといった微笑を浮かべて、ウォードル嬢は言った。
「そのとおり、そのとおり」太った紳士は言った。「だれもそれは否定できないこと。みなさん、失礼しました。こちらはわが友トランドル氏です。さあ、これで紹介がすんだんですから、愉快に楽しくやり、これから起きるものを見物することにしましょう。それがわしの提案です」こうして太った紳士は眼鏡をかけ、ピクウィック氏は望遠鏡を引っぱりだし、みんな馬車の上に立って、それぞれほかの人の肩越しに、部隊の機動演習をながめはじめた。
それは驚くべき機動演習で、一部隊が他の部隊の頭越しに射撃し、ついで走り去り、他の部隊がまたべつの部隊の頭越しに射撃して走り去り、ついで将校を中心にして方陣をつくり、ついで攻城ばしごで壕の片側をくだり、同じ方法で反対側をよじのぼって、籠の防柵を打ち倒し、じつに勇敢な行動を示すものだった。ついで、砲台では大きなモップのような道具を使って大きな大砲に弾こめがおこなわれ、その発射前にはすごい準備、それが発射されるとものすごい轟音が鳴りひびき、あたりは婦人の悲鳴でこだまするほどだった。ふたりのウォードル嬢はひどくおびえ、トランドル氏がそのひとりを車の中で支えなければならなくなり、一方、スノッドグラース氏は他のひとりを支え、ウォードル氏の妹はひどい神経質な恐怖状態におちいってしまったので、彼女を倒れないようにと、タップマン氏が彼女の腰に手をまわすことが絶対に必要なことになった。太った少年以外の全員は興奮していたが、彼は、まるで大砲の轟音が日常茶飯事の子守り歌といったように、ぐっすりと眠りこんでいた。
「ジョー、ジョー!」城砦が奪取され、攻撃者と被攻撃者が腰をおろして食事をはじめたとき、太った紳士は言った。「くそっ、あの坊主め、また眠ってしまった。ご面倒でしょうが、やつをつねってやってください――できたら、足をね。ほかの方法では、どうしても起きんのです――ありがとう。ジョー、詰め籠を開け」
足の一部をウィンクル氏の人さし指とおや指でつねられてはっきりと目を覚ました太った少年は、御者台からふたたび転げ落ち、前の不活発とはうって変わった敏捷さで、詰め籠の荷ほどきをはじめた。
「さて、ぴったり体をつけて坐っていただきましょう」太った紳士は言った。ご婦人方の|袖《そで》をつねってしまうことについて冗談をあれこれとかわし、ご婦人方が紳士の膝の上に坐ったらどうです、といった陽気な提案に顔を赤らめ切ったあとで、全員が馬車の中にぎっしりと坐らされ、太った紳士は(そのために馬車の背後に乗りこんだ)太った少年から荷物を馬車の中に手わたししはじめた。
「さあ、ジョー、ナイフとフォークだ」ナイフとフォークがわたされ、中のご婦人方と紳士方、それに御者台のウィンクル氏はその役に立つ道具を手にもった。
「皿だ、ジョー、皿だ」同じ方法でこの陶器は配付された。
「今度は、ジョー、鳥肉だ。くそっ、あの坊主め、また眠ってしまったぞ。ジョー! ジョー!」(何回か棒切れで頭をたたかれ、太った少年はようやくのことで昏睡状態から目を覚ました。)「さあ、食料品を運びこめ」
この食料品という言葉のひびきには、この脂ぎった少年をふるいたたせるなにかがひそんでいた。彼はとびあがり、山のような頬っぺたの背後で輝いていたどんよりとした目は、食料を籠からとりだすとき、すごい勢いでそれをにらみつけていた。
「さあ、急げ」ウォードル氏は言った。太った少年が食肉用の去勢した雄鶏をしっかりとだきしめ、いかにもそれと別れがたいといったようすを示していたからだった。少年はふっと深く溜め息をつき、そのぽっちゃりとした姿をじっとにらみつけ、不承不承、それを主人に手わたした。
「よーし――いいか。今度は舌肉――つきははと[#「はと」に傍点]のパイだ。あの子牛肉とハムには用心しろ――えび[#「えび」に傍点]に注意しろ――布の中からサラダをとれ――ソースをわたせ」ウォードル氏の唇からこうしたあわただしい命令が発せられ、そうしたさまざまの品物が車の中に運ばれ、各人の手、各人の膝の上に、数えきれぬほどのさまざまな料理が積みあげられた。
「さあ、これはすばらしいもんでしょう?」破壊の仕事がはじまったとき、その陽気な人物はたずねた。
「すばらしい!」御者台で鳥肉を切り開いていたウィンクル氏は言った。
「ぶどう酒はいかが?」
「大よろこびで」
「びんを一本、そっちにもっておいでになったほうがいいでしょう、どうです?」
「ありがとうございます」
「ジョー!」
「はい」(彼は、たったいま、子牛肉の小さなパイをうまうまとぬきとることに成功していたので、まだ眠ってはいなかった。)
「御者台の紳士の方にぶどう酒のびんをおわたしするんだ。お会いできて、結構でした」
「ありがとうございます」ウィンクル氏は杯を乾し、びんを自分のわきの御者台に乗せた。
「一杯いっしょに飲んでいただけますか?」トランドル氏はウィンクル氏に言った。
「大よろこびで」ウィンクル氏はトランドル氏に答え、ついでふたりの紳士はぶどう酒を飲み、それが終わると、ふたりはご婦人方やそのほか全員に杯をまわした。
「エミリーときたら、あの見知らぬ紳士の方とふざけまわっていることね」独身者の叔母は、いかにも独身者の叔母らしい嫉妬をこめて、兄のウォードル氏にささやいた。
「さあ! どうだかねえ」陽気な老紳士は答えた。「とても自然なこと――べつに変わったことはないようだね。ピクウィックさん、ぶどう酒はいかがです?」はと[#「はと」に傍点]のパイの中身を一生けんめいに調べていたピクウィック氏は、すぐそれに応じた。
「エミリー」独身者の叔母はもったいぶったふうに言った、「そんなに大きな声を出してはいけないことよ」
「まあ、叔母さま!」
「叔母さまとあの小柄な老紳士は、座をひとり占めにしようとしているのね」イザベラ・ウォードル嬢はその|姉妹《きようだい》のエミリーにささやいた。若い婦人たちはとても陽気に笑い、年配の婦人のほうでも愛想よくふるまおうとしたが、それはとても不可能なことだった。
「若い娘って、とても元気ですことね」おだやかな同情といったふうをよそおって、ウォードル嬢はタップマン氏に言ったが、それはまるで獣的な元気はいけないもの、それを許可なしでもっているのは兇悪な犯罪、不正行為といった口調だった。
「ああ、元気なもんですな」自分に期待されていた答えを正確にそのまま言わずに、タップマン氏は答えた。「じつに楽しいことです」
「えへん!」うさんくさげにウォードル嬢は言った。
「お|注《つ》ぎするのを許していただけますか?」魅力的なレイチェルの手首に片手でふれ、もう一方の手で静かにびんをもちあげて、じつにものやわらかな態度で、タップマン氏は言った。「お注ぎするのを許していただけますか?」
「まあ!」タップマン氏はいかにも厳粛な態度を示し、レイチェルはこれ以上もっと大砲が発射されるのではないかという恐怖の情をあらわした。そうした場合には、もちろん、彼女はふたたびだれかに支えてもらわねばならなかったからである。
「わたしの姪たちを美しいとお思いですか?」やさしい叔母はタップマン氏の耳にささやいた。
「彼らの叔母に当たる方がここにおいででなければ、そう考えることでしょう」情熱的なまなざしをこめて、即座にタップマン氏は答えた。
「まあ、おいたな方ね――でも、本当に、ふたりの顔色がもう少し、もう少しよかったら――
ろうそくの光では――ふたりとも美女になるとお思いになりません?」
「ええ、そうだと思いますな」冷淡な態度で、タップマン氏は答えた。
「まあ、いたずらやさんだこと――あなたがなにを言おうとしておいでだったか、わかっていますことよ」
「なんです?」なにか言おうと必ずしも決心していなかったタップマン氏はたずねた。
「あなたは、イザベラの背が丸くなっている、とおっしゃろうとしていたのです――わかってますわ――あなた方、男の方はとてもよく気がおつきになることね。ええ、たしかに背が丸くなっています。それは否定できないことですわ。娘をきたなく見せるなにかがあるとすれば、それは背のまがっていることです。ときどき、彼女に注意してはいるのです、もう少し年配になったら、ひどい姿になることよとね。ええ、あなたは本当にいたずらやさんだこと!」
こんなに楽々と名声を得ることにたいして、タップマン氏としてはなんの異議もなかったので、彼はいかにもさとりすました顔をし、神秘的な微笑を浮かべていた。
「皮肉な微笑だこと!」それに打たれて、レイチェルは言った。「ほんとに、あなたがおそろしくなりましたわ」
「わたしがおそろしい!」
「おお、どんなことをしても、このわたしの目をごまかすことはできませんよ――あなたの微笑がなにを意味しているか、よーくわかっているのですからね」
「なにをです?」自分でもぜんぜん見当がついていなかったタップマン氏はたずねた。
「あなたのおっしゃってることは」声をいっそう低くして、やさしい叔母は言った――「イザベラの背のまがっているのは、エミリーの厚かましさほどひどいものではない、ということでしょう? ええ、あの娘は厚かましいんです! それでわたしが、ときどき、どんなにわびしい思いを味わっているか、あなたにとてもおわかりにはならないでしょう。本当に、そのことでわたしは何時間も泣かされているのです――兄はとても善良で、人を疑ったりはしない人、だから、それがぜんぜんわからないのです。それを知ったら、兄の心はきっとくだけてしまうことでしょう。それがほんの外見だけのことだったらいいのですけど――そうであればと思いますわ――」(ここでやさしい叔母は深く溜め息をつき、がっくりしたように頭をふった。)
「きっと、叔母さま、わたくしたちのことを話しておいでなのよ」エミリー・ウォードル嬢はその|姉妹《きようだい》にささやいた――「きっとそうよ――いかにも悪意のこもったふうをしているわ」
「そうかしら?」イザベラは答えた――「えへん! 叔母さま!」
「なあに、お前?」
「叔母さま、|風邪《かぜ》をおひきになるのじゃないこと、とても心配よ――その年老いた頭に絹のハンカチーフをお巻きになったら――本当に、体を大切になさってね――|齢《とし》をお考えにならなければいけませんことよ!」
この仕返しがどんなに当然のものだったにせよ、それはこのうえなく復讐的な|執念《しゆうねん》深いものだった。ウォードル氏がジョーを激しく呼びつけ、無意識に話題を変えてしまわなかったら、叔母の怒りがどんな形をとって表現されたか、見当もつかないことである。
「くそっ、あの坊主め」老紳士は言った、「また寝こんでしまった」
「じつに風変わりな少年ですな、あれは」ピクウィック氏は答えた。「こんなふうに、いつも眠っているのですか?」
「眠るですって!」老紳士は言った、「やつはいつも寝ています。ぐっすり眠ったまま使いにゆき、食卓で給仕しているときは、いびきをかいているんです」
「じつに変わってますな!」ピクウィック氏は応じた。
「ああ! じっさい変わってます」老紳士は答えた。「わたしはあの坊主を自慢の種にし――どんなことがあっても、手放さんつもりです――天来の珍品ですからな! おい、ジョー――ジョー――ここのものを片づけ、もう一本、びんを開けるんだ――聞こえたのか?」
太った少年は起きあがり、目を開き、その前に眠りこんだとき噛んでいた大きなパイの切れを飲みこみ、ゆっくりと主人の命令にしたがい――皿を片づけ、それを詰め籠に入れながら、食事ののこりをぐったりとほれぼれしてながめこんでいた。新しいびんが何本か出され、すぐに|空《から》になった。詰め籠は以前の場所にしっかりと結びつけられ――太った少年はもう一度御者台にのぼり――眼鏡と望遠鏡がふたたび調節され、機動演習がまたはじまった。大砲の轟音、ご婦人方の悲鳴が鳴りひびき――ついで地雷がみなをよろこばして|炸裂《さくれつ》し――その爆発が終わったとき、軍隊もこの一座の人たちもその例にならって、そこから姿を消していった。
「さて」機動演習が終わろうとしているあいだ中、ときたまかわしていた話が終わったとき、ピクウィック氏と握手をして、老紳士は言った――「明日、みなさんとお会いしましょう」
「ええ、もちろん」ピクウィック氏は答えた。
「当方の宛名はご存じですな?」
「ディングリー・デルのファーム|館《やかた》ですな」雑記帳を見ながら、ピクウィック氏は言った。
「そのとおり」老紳士は応じた。「いいですか、一週間以内にあなた方を放免することはありませんぞ。見るべきものはぜんぶ、ご覧に入れるつもりです。田園生活をしようとロンドンをおはなれになったのだったら、ぜひわたしのところにお出でになってください。それを十分味わわせてあげますからな。ジョー――くそっ、あの坊主め、また寝こんじまった――ジョー、トムの手伝いをして、馬を馬車につけるんだ」
馬は馬車につけられ――御者は乗りこみ――太った少年はそのわきによじのぼり――別れの挨拶がかわされ――馬車はガラガラと音を立てて去っていった。その最後の姿をながめようとしてピクウィック・クラブ会員たちがふりかえったとき、沈みゆく太陽は彼らの招待者たちの上に豊かな光を投げ、太った少年の姿を照らしだしていた。彼の頭は胸に沈み、彼はふたたびぐっすりと眠りこんでいた。
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第五章
[#3字下げ]短い章。なかんずく、ピクウィック氏が車を走らせようとし、ウィンクル氏が馬に乗ろうとしたこと、彼らの試みた方法を語る
ピクウィック氏がロチェスター橋の|欄干《らんかん》によりかかり、自然の景観をながめ、夜明けを待っているとき、空は輝いて明るく、大気はさわやか、まわりのすべてのものは美しかった。その景色は、それをながめているピクウィックの心よりはるかに物思いの情の薄い心でも魅了してしまいそうなものだった。
この観賞者の左手に廃墟になった城壁があり、多くの場所がくずれ、一部では、荒れたずっしりとしたかたまりになって、下の細い海岸の上におおいかぶさっていた。大きな房になった海草がギザギザと先が尖った岩におおいかぶさり、風が吹くごとに、ゆれていた。緑のつた[#「つた」に傍点]が薄黒いこわれた胸壁のまわりに物悲しげにまといついていた。その背後には古城がそびえ、その塔からは屋根が消え、巨大な城壁はくずれ落ちていたが、七百年前、それが甲冑のひびきでこだまし、饗宴のさわぎで鳴りひびいていたときと変わらず、それ自身のたくましい力強さをわれわれに物語っていた。麦畑と牧場におおわれ、そこここに風車や遠くに教会が立っているメドウェイ川の両岸は、見わたすかぎりひろくひろがり、豊かな変化のある光景を展開し、朝の太陽の光の中で雲になりかかった薄い雲が地面すれすれにとんでいったとき、さっととおってゆく変化のある影によって、それはさらに美しいものになった。空の澄んだ青を映す川は、音も立てずに静かに流れてゆくとき、キラリキラリと輝き、漁師のオールは、ずっしりとはしているが絵のように美しい漁船がゆっくりと川を流れくだってゆくとき、澄んだ流れる音を立てて、水の中にさしいれられていた。
ピクウィック氏は目の前の美しい景色で快い|恍惚《こうこつ》とした気持ちになっていたが、それは深い溜め息と肩をさわられたことで覚まされてしまった。彼がふり向くと、わきに例の陰気な男が立っていた。
「景色をながめておいでですか?」陰気な男はたずねた。
「ええ」ピクウィック氏は答えた。
「そして、早起きしたのをよろこんでおいでだったのですね?」ピクウィック氏は、そうだ、とうなずいた。
「ああ! そのすばらしさすべてを発揮している太陽をながめるためには、人は早起きをしなければなりません。太陽の輝きが一日中つづくことは、めったにないことですからね。一日の朝と人生の朝とは、いやになるほど似ているものですね」
「おっしゃるとおりですな」ピクウィック氏は言った。
「『朝は美しすぎて、ながつづきはしない』ということわざがありますが」陰気な男はつづけた、「それは世間で知られている言葉。われわれの毎日の生活にも、それは十分にあてはまることです。自分の子供時代がとりもどされ、あるいは、それを永遠に忘れることができたら、まったく、わたしが失うものはなにもありませんがね!」
「あなたはとても苦労なさったのですね」気の毒そうにピクウィック氏は言った。
「そうです」陰気な男は急いで言った。「そうです。いまのわたしの姿をご覧になる方が信じられないほどね」彼はちょっと口をつぐみ、それからいきなり言った――
「こうした朝、水死は幸福で静かなものとお思いになりますか?」
「いやあ、とんでもない!」陰気な男が実験として自分を川に投げこむかもしれないという心配がそうとう強く心にわきおこってきたとき、|欄干《らんかん》から少し後ずさりしながら、ピクウィック氏は答えた。
「わたしはそう思うんです、よくね」ピクウィック氏の動きには気づかずに、陰気な男は言った。「静かな、冷たい水は、わたしの目には、静寂と休息への|誘《いざな》いをささやいているように思えます、ひと飛び。ピシャリという水音、わずかのもがき。一瞬水が波立つことはあっても、それはだんだん静まり、おだやかなさざ波になってゆきます。水が頭の上におおいかぶさり、この世は永遠にあなたの不運・不幸を閉ざしてしまうのです」こう言いながら、陰気な男のくぼんだ目はキラリと輝いたが、この瞬間的な興奮はすぐに消えてしまった。そして、つぎのように言いながら、静かに向こうを向いた――
「さあ――その話はそれまでにしましょう。もうひとつべつの問題で、あなたのご意見をうかがいたいのです。一昨日の晩、あなたはあの書き物を読めとおすすめになり、わたしが読んでいるあいだ、注意して聞いておいででしたね」
「そうです」ピクウィック氏は答えた。「そして、わたしはたしかに考えました――」
「ご意見を求めているのではありません」ピクウィック氏の言葉をさえぎって、陰気な男は言った、そして、「わたしはそれに用がないのです。あなたは楽しみと知識をひろめるためにご旅行中。奇妙な原稿――途方もないとかあり得ぬことのために奇妙というのではなく、現実生活のロマンスからの一片として奇妙な原稿――をあなたのところにお送りしたら、あなたがよくお話しになっているクラブにそれをお伝えになりますか?」
「もちろん」ピクウィック氏は答えた、「お望みでしたらね。そして、それは会報に載せられることでしょう」
「それをお送りします」陰気な男は答えた。「あなたの宛名は?」ピクウィック氏が自分のこれからの大体の道筋を伝えると、陰気な男は注意深くそれを油ぎった手帳に書きこみ、ピクウィック氏がぜひ朝食をいっしょにとすすめたが、その言葉を抑えて、ゆっくりと立ち去っていった。
ピクウィック氏の三人の仲間はもう起き、彼の帰りを待って朝食をはじめようとし、すぐにいかにもおいしそうな朝食が出され、彼らは朝食にとりかかった。焼きハム、卵、紅茶、コーヒー、その他いろいろのものがずんずんと食べられていったが、その速さは、朝食のおいしさとそれを食べる者の食欲の旺盛さを物語っているものだった。
「さて、ファーム|館《やかた》だが」ピクウィック氏は言った。「そこへはどうしていったものだろう?」
「たぶん、給仕にきいてみたらいいでしょう」とタップマン氏が言い、そこで給仕が呼びだされた。
「ディングリー・デルでございますか?――十五マイルあります――直線で――ふたり乗りの一頭馬車ではいかがでございましょう?」
「それにはふたり以上は乗れないね」ピクウィック氏は言った。
「はあ、そうでございます――失礼ですが――とてもりっぱな四輪馬車で――うしろにふたり用座席――馬を走らす方のために前に座席がひとり分――ああ、失礼しました!――それでは三人しか乗れないことになっています」
「どうしたらいいだろう?」スノッドグラース氏が言った。
「たぶん、どなたかおひとりの方は馬に乗るのをお好みでしょう?」ウィンクル氏のほうを見ながら、給仕は提案した。「じつにりっぱな乗馬用の馬です――ロチェスターにやってくるウォードルさまの使用人がそれをここにもどしてくれるでしょう」
「それがいい」ピクウィック氏は言った。「ウィンクル、きみは馬でいってくれるかい?」
ウィンクル氏は乗馬の技術に関して心の奥底でたいして強い自信をもっているわけではなかったが、そんな疑念をだれにももたれたくはなかったので、すぐにしっかりと大胆不敵に答えた、「もちろん、それはなによりうれしいことです」
ウィンクル氏は自分のおそろしい運命に突進していったのだったが、それ以外に方法はなかったのである。「十一時までにそれを戸口のところへ準備してくれたまえ」ピクウィック氏は言った。
「かしこまりました」給仕は答えた。
給仕はしりぞき、朝食は終わり、旅行者たちはそれぞれ二階の寝室にあがっていって、近づく遠征にもってゆく着換えの服の準備にとりかかった。
ピクウィック氏は、準備を終わり、喫茶室の日よけ越しに街路の通行人をながめていた。そのとき、給仕がはいってきて、馬車の準備ができたことを知らせた――この報告が事実であることは、馬車がすぐ喫茶室の日よけの前に姿をあらわして、裏づけられた。
それは四つの車輪のついた奇妙な緑の馬車で、うしろにふたり用のぶどう酒貯蔵箱のような低い場所があり、前には高い御者用の座席がついていて、とてもつりあいのとれた骨格を示している大きな褐色の馬がそれにつけられていた。馬丁がすぐそばに立ち、手綱でもう一頭のべつの大きな馬――明らかに馬車の馬と近い親戚――を抑えていたが、それはウィンクル氏用にとちゃんと|鞍《くら》がつけられてあった。
「いや、大変!」外套類が積みこまれているあいだ、舗道に一同が立っていたとき、ピクウィック氏は言った。「いや、これは大変だ! だれが馬車を動かすのだろう? それはぜんぜん考えてもいなかったぞ」
「おお、もちろん、あなたですよ」タップマン氏は言った。
「もちろん」スノッドグラース氏も言った。
「わしだって!」ピクウィック氏は叫んだ。
「少しも心配はいりませんよ」馬丁が口をはさんだ。「馬のおとなしいことは保証づき、初心者だって大丈夫ですからね」
「横にふっとんだりはしないかい、どうだい?」ピクウィック氏はたずねた。
「横にふっとぶですって?――四輪の大荷馬車いっぱいの尻尾を焼き切られた猿に出逢ったって、横っとびなんかするもんですか」
この最後の言葉は論議の余地のないものだった。タップマン氏とスノッドグラース氏は箱に乗りこみ、ピクウィック氏は御者台にのぼり、その下に足乗せ用にとおいてある敷き物のある棚の上に足をおいた。
「さあ、テラテラ光りのウィリアム」馬丁は助手に声をかけた、「あの方に手綱をおわたしするんだ」『テラテラ光りのウィリアム』――これは、おそらく、つやのある髪の毛と脂ぎった顔でこう呼ばれていたのだろうが――はピクウィック氏の左手に手綱をわたし、馬丁は鞭を彼の右手に投げわたした。
「ウーウー!」背の高い馬が後ずさりし、喫茶室の窓にとびこもうとしたとき、ピクウィック氏は叫んだ。
「ウーウ!」箱の中からタップマン氏とスノッドグラース氏が応じた。
「ただふざけただけです」気を落とさせまいと、馬丁は言った。「ウィリアム、馬をしっかり抑えろ」助手はじれている馬を抑え、馬丁はかけていって、ウィンクル氏が馬に乗るのを手伝った。
「失礼ですが、向こう側です」
「まったく、あの紳士はちがった側から馬に乗ろうとしてるぜ」得も言えぬほど満悦している給仕にニヤニヤと笑いかけて、郵便配達夫はささやいた。
ウィンクル氏はこう教えられて、まるで超弩級の船艦の舷側をのぼるような苦労を味わいながら、|鞍《くら》によじのぼっていった。
「いいかね?」心中うまくいっていないという予感を覚えながら、ピクウィック氏はたずねた。
「いいですよ」ウィンクル氏はかすかに答えた。
「はなせ!」馬丁は叫んだ、――「だんな、馬をしっかり抑えて」こうして御者台にはピクウィック氏が、馬の背にはウィンクル氏がそれぞれ乗って、馬車と乗馬用の馬は、宿屋の内庭にいる全員を楽しませ、よろこばせて、出発した。
「どうしてその馬は横っちょに進むんだろう?」馬に乗っているウィンクル氏に箱の中のスノッドグラース氏はたずねた。
「見当もつかないね」ウィンクル氏は答えた。彼の馬はじつにふしぎな恰好をして――側面を先に出し、頭を道の片側に、尻尾をその反対側に向けて――道路を漂うようにして流れていった。
ピクウィック氏は、こうしたことや、ほかのどんなことにも気づく心の余裕はなかった。彼の全知全能は馬車につけられた馬をこなすことに集中され、その馬は、はたの目にはじつにおもしろいものではあるにせよ、その背後に坐っている者には絶対に興味深いものとは言えないさまざまな奇癖を示していたからである。じつに不愉快ないやな態度で頭をグイッとひきあげ、ピクウィック氏が手綱をもってはいられなくなるほど、それを強く引っぱるばかりでなく、その馬は、ときおり、急にとびだしたかと思うと急に立ちどまり、それから数分間、どうにもしようのないほどの速度を出して突進するという奇妙な癖をもっていた。
「これはどういうことなんだろう?」この馬が何回かこうした動きを示したあとで、スノッドグラース氏は言った。
「わからんね」タップマン氏は答えた。「横っとびのようにも見えるが、どうだい?」スノッドグラース氏がそれに答えようとしたとき、ピクウィック氏の叫びによって、それは中断された。
「ウー!」ピクウィック氏は言った。「鞭を落としてしまったぞ」
「ウィンクル」高い馬に乗ったウィンクル氏が帽子を深々とかぶり、この激しい運動で体が粉々にならんばかりにブルブルふるえて、速足でそばに近づいてきたとき、スノッドグラース氏は言った、「たのむ、鞭をひろってくれたまえ」ウィンクル氏は顔を真紅に染めて背の高い馬の手綱を引っぱり、とうとうそれを停止させて、馬からおり、鞭をピクウィック氏にわたし、手綱をにぎって、ふたたび馬に乗ろうとした。
さて、この背の高い馬が生来のふざけ癖でウィンクル氏を相手にちょっとした他愛もないひとふざけをしようとしたのか、人を乗せなくても、人を乗せたのと同じように、ちゃんと旅をすることができるとでも思ったのか、これはわれわれにははっきりと決めることのできない問題である。たとえどんな動機でこの馬が動いたにせよ、ウィンクル氏が手綱を手にとるとすぐ、馬が頭越しにそれをするりとはずし、手綱のながさいっぱいとびさがったことは、たしかな事実だった。
「かわいそうに」なだめるようにして、ウィンクル氏は言った、――「かわいそうに――かわいい馬だ」『かわいそうなやつ』はお世辞を言ってもだめだった。ウィンクル氏が近づこうとすればするほど、馬はジリジリとさがっていった。どんなにだましすかしても、ウィンクル氏と馬は、ものの十分ほど、グルグルとまわるばかり、それだけの時間がたっても、それぞれがはじめと同じ距離を保ったまま――これはどんな事情のもとでも、とくに人の助けを借りようのないわびしい道では、じつに困った事態だった。
「どうしたらいいんだ?」この追いかけっこがそうとうながくつづいたあとで、ウィンクル氏は叫んだ。「どうしたらいいんだ? 馬に乗れやしない!」
「通行税取り立て門のところまで引っぱっていったほうがいいだろう」馬車からピクウィック氏は答えた。
「だが、動かないんです!」ウィンクル氏はどなった。「おりてきて、馬を抑えてください」
ピクウィック氏は親切・慈愛の権化だった。彼は手綱を馬の背に投げ、座席からおりてきて、通行の邪魔にならないようにと、注意深く馬車を生垣によせ、タップマン氏とスノッドグラース氏を車に乗せたままにしておいて、苦難の友の援助に急いでもどっていった。
馬は、ピクウィック氏が馬車用の鞭をもって自分のほうに近づいてくるのを見ると、いままでのグルグルまわりの動きをすごい勢いの後ずさりに変え、その結果、まだ手綱の端をにぎっていたウィンクル氏はいままで進んできた方向に、速足より急速な歩調で引っぱられることになった。ピクウィック氏は彼の援助のためにかけよったが、ピクウィック氏が足を急がせれば急がせるほど、馬はグングンとうしろにさがっていった。足はひどく引きずられ、ほこりはもうもうと立った。そして、とうとう、腕が引っぱられて関節からはずれそうになったので、ウィンクル氏は手綱をすっかりはなしてしまった。馬は立ちどまり、目をむき、頭をふり、ぐるりと向きを変え、静かに速歩でロチェスターのうまやにもどりはじめ、のこされたウィンクル氏とピクウィック氏はポカンとした|狼狽《ろうばい》状態でおたがいに顔を見合わせていた。近くでガラガラという音がし、彼らは、それに注意をひかれて、目をあげた。
「いや、これは大変!」苦悶のピクウィック氏は叫んだ、「もう一頭の馬が逃げだそうとしているぞ!」
まさにそのとおりだった。馬はその物音に驚き、手綱はその背に乗せられていた。その結果は、当然予想できるわけである。馬は四輪馬車をうしろにつけ、馬車にはタップマン氏とスノッドグラース氏を乗せて、疾走しはじめた。その興奮は一時的のものだった。タップマン氏は生垣に身を投げ、スノッドグラース氏はその例にならい、馬は四輪馬車を木の橋にぶつけ、車体から車輪を、御者台からは箱を引きちぎって、最後にジッと立ちつくし、自分がつくりだした残骸を見つめていた。
馬から放りだされなかったふたりの友人の第一の配慮は、不幸な仲間をその生垣の床から救い出すことだった――が、それは、彼らが口に出して言えぬほどうれしかったことに、服がところどころで引き裂かれ、いばら[#「いばら」に傍点]でいろいろの掻き傷をこしらえた以外に、ふたりがなんの傷も受けていない事実が判明することでけりになった。つぎにすべきことは、馬具をはずすことだった。この面倒な仕事もとうとう終わり、一行は馬を引っぱり、馬車はそのまま放りだしにして、ゆっくりと前進しはじめた。
一時間歩いて、彼らは正面に二本の|楡《にれ》の木、馬のかいば桶、道しるべが立っている路傍の居酒屋にやってきた。そこのうしろにはひとつふたつのきたない乾し草の山、わきには野菜畑、あたり一面には、妙な混乱状態を示して、くさった小屋やくずれかかったはなれ家が立っていた。赤毛の男が畑で働いていて、この男にピクウィック氏は元気な声をかけた――「おい、きみ?」
赤毛の男は体をあげ、目をかざし、ピクウィック氏とその仲間を、ながいこと冷静に、見つめていた。
「おい、きみ!」ピクウィック氏はくりかえした。
「やあ!」というのが赤毛の男の答えだった。
「ディングリー・デルまでどのくらいあるね?」
「七マイル以上はあるね」
「道はいいかね?」
「よくはないね」こう簡単に答え、もう一度とっくりと一行をながめてから、赤毛の男はふたたび仕事をしはじめた。
「この馬をここにおいてほしいのだがね」ピクウィック氏は言った。「いいだろうね、どうだい?」
「あの馬をここにおきたいんだって?」|鍬《くわ》によりかかって、赤毛の男はくりかえした。
「そうなんだ」このときまでに、馬を手にして、畑の|柵《さく》のところまで進んでいったピクウィック氏は答えた。
「かあちゃん」――畑から出てき、馬をしげしげとながめながら、赤毛の男はどなった――「かあちゃん!」
背の高い骨ばった――すらりとした――粗い青の外套を着、腰が腋の下一インチか二インチのところにある女がその呼び声に答えた。
「なあ、おかみさん、この馬をここにおいていいかね?」タップマン氏は前に進み出て、このうえなく|慇懃《いんぎん》な調子で語りかけた。女は一行全員をしっかりとにらみすえ、赤毛の男は、女の耳になにかささやいた。
「だめだよ」少し考えてから、女は答えた、「それがおそろしいんだもの」
「おそろしい!」ピクウィック氏は叫んだ、「あの女、なにがおそろしいというのだろう?」
「この前、ひどい目にあったのさ」家にはいってゆきながら、女は言った。「なにも人には言いたくないね」
「いままで出逢ったことがないようなとてつもない話だ」びっくりしてピクウィック氏は言った。
「わたしは――わたしは――本当に思うんですが」ウィンクル氏のまわりに友人たちが集まってきたとき、彼はささやいた、「彼らはわれわれがこの馬をなにか不正な方法で手に入れたものと考えているのでしょう」
「えっ!」激しい怒りにつつまれて、ピクウィック氏は叫んだ。ウィンクル氏はその考えをおだやかにもう一度くりかえした。
「おい、きみ!」怒ったピクウィック氏は言った、「この馬を盗んだとでも考えてるのかね?」
「そう思ってるよ」耳から耳まで顔を動かし、ニヤリと笑って赤毛の男は答えた。そう言ってから、彼は家にはいり、ドシンと戸を閉めてしまった。
「夢のようだ」ピクウィック氏は叫んだ、「悪夢のようだ。処分できないおっそろしい馬をつれて、人が一日中歩きまわるなんて!」がっくりしたピクウィック・クラブ会員たちは、このうえない嫌悪の情がつのってゆく背の高い馬をのっそりとうしろに従えて、気を滅入らせながら、そこから立ち去っていった。
四人の友人とその四つ脚の仲間がファーム館に通じる小道にはいったのは、午後おそくなってからのことだった。そして、目的地にそんなに近くまでたどり着いたときでさえ、彼らが当然感ずべきよろこびの情は、自分たちの風変わりな外見と途方もない事態を考えると、すっかり沈んだものになってしまった。引きちぎられた服、掻き傷だらけの顔、ほこりをかぶった靴、なかんずく、この馬! おお、この馬をピクウィック氏はなんとのろったことだろう! 彼はこの気高い獣を、ときおり、憎悪と復讐心を表示するまなざしでながめやり、再三再四、馬の首を切り裂いたら、どのくらい出費をまねくだろうと考えていた。そして、いま、この馬を殺してしまおう、さもなければ放り出してしまおうという誘惑が、いままでの十倍もの強さで、彼の心をおそってきた。ふたりの男の姿がこの小路の角のところにあらわれ、彼はこうしたおそろしい空想の夢から目を覚まされた。それはウォードル氏と彼の忠実な従僕、例の太った少年だった。
「あれっ、どこにおいでになっていたんです?」親切な老紳士はたずねた。「一日中お待ちしていたんです。うん、お疲れのようですな。あれっ! 掻き傷! たいしたことはないのでしょうな――えっ? うん、それをお聞きして、安心しましたよ――とてもね。すると、馬から放りだされたんですな、えっ? 気にすることはありませんよ。ここでは珍しくはないことです。ジョー――また眠ってる!――ジョー、あの馬をあの紳士の方から受けとり、うまやに入れろ」
太った少年は、馬をつれて、一同のあとにノソリノソリとついていった。老紳士は、一同が伝えたほうがよいと考えたその日の冒険談を聞いて、地味な言葉でなぐさめの言葉を述べ、先に立って台所に案内した。
「ここで身なりをなおすことにしましょう」老紳士は言った、「それがすんだら、みなさんを客間の人たちに紹介することにします。エマ、チェリーブランデー(さくらんぼをブランデーに一、二か月ひたして、砂糖を加えてつくったリキュール)をもって来い。さあ、ジェイン、針と糸をもってくるんだ。メアリー、タオルと水をな。さあ、みんな、急いでやれ」
三人か四人のがっちりした娘が必要な品物をとりにさっと四方に散り、大頭の、丸い顔をしたふたりの男は炉辺で(時は五月の夕方だったが、炉辺の火にたいする彼らの愛情は、クリスマスのときと変わりはなかった)坐っていた場所から立ちあがり、奥まった暗いところにとびこんで、すぐ靴ずみのびんとブラッシを六つほど引っぱり出した。
「急げ!」老紳士はふたたび叫んだが、この注意はまったく不要のものだった。というのも、女中のひとりはチェリーブランデーを|注《つ》ぎ、もうひとりはタオルをもちこみ、ひとりの男は、ピクウィック氏をあやうくひっくりかえさんばかりの勢いで、いきなりその脚をつかみ、彼の足にできたまめ[#「まめ」に傍点]がかっかと赤くなるほど、靴をせっせと磨きあげたからである。一方、べつの男は大きな服ブラッシでウィンクル氏のほこりをとり、それをしながら、馬丁が馬の体を磨きたてているときによくわめくシュッ、シュッという掛け声をかけていた。
スノッドグラース氏は、その|沐浴《もくよく》を終わってから、背を炉に向けて、いかにも満悦げにチェリーブランデーをすすりながら、この部屋を、ひとわたり、ながめまわしていた。彼はそこを赤煉瓦の床の、ゆったりとした煙突のついた大部屋、天井はハム・ベイコンのわき肉、なわにぶらさがった玉ねぎに飾りたてられたものと描写している。四方の壁は何本かの狩り用の鞭、二、三本の手綱、鞍ひとつ、一|挺《ちよう》の古い|錆《さ》びたらっぱ銃(十七、八世紀ごろ使われた筒先の太い短銃)で飾られていたが、この銃は、その下の書きこみによれば、装弾されたもので――同じ文書によると、少なくとも、この半世紀間、弾をこめっぱなしのものだった。厳粛で地味な八日巻きの古時計が重々しく片隅でカチカチと音を立て、そして、同じ時代物の銀の懐中時計が、食器戸棚に飾っていた多くの掛けかぎのひとつにさげられていた。
「もういいですかね?」客人が洗われ、手入れをされ、ブラッシをかけられ、ブランデーを飲まされたとき、老紳士はいかにももの問いたげにたずねた。
「すっかり準備できました」ピクウィック氏は答えた。
「じゃ、どうぞ」そして、いくつか暗い廊下をとおりぬけ、エマからキスを盗もうとあとにのこり、そのためにみなから突きのめされたりくすぐられたりしていたタップマン氏があとから追いついてきて、一同は客間のドアのところに到着した。
「ようこそ」ドアをさっとおし開き、彼らの来訪を知らせるために中にはいっていって、親切な主人は言った、「ようこそ、みなさん、ファーム|館《やかた》にようこそ」
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第六章
[#3字下げ]古風なカルタ会。牧師の詩。囚人帰還の物語
古い客間に集まっていた何人かの客は、ピクウィック氏と彼の友人が部屋にはいっていったとき、彼らに挨拶しようと立ちあがった。そして、しかるべき作法を守って紹介がおこなわれているあいだに、ピクウィック氏は自分をとりかこんでいる人たちのようすを観察し、その性格・職業を考えていた――これは、数多いほかの偉人たちと同様、彼が好んでする習慣だったのだが……。
高い帽子をかぶり、色のあせた絹のガウンをまとった高齢の夫人――ほかならずウォードル氏の母親だった――が炉作りの右隅の高貴の座に坐っていた。彼女が若かりしころむかしふうに育てられ、|齢《とし》老いてからも、そのふうをすてていないことを証しているさまざまな品物――古い刺繍の練習品、同じように古い|梳《そ》毛糸の風景画、もっと新しい時代の真紅の絹のやかんの敷き台――が壁を飾っていた。叔母、ふたりの若い婦人、ウォードル氏は、たがいに競い合って、この老夫人に熱心に、たえ間なく敬意をあらわし、彼女の安楽椅子のまわりに集まり、ひとりは彼女のらっぱ型補聴器を、二番目はオレンジを、三番目はかぎびん(気つけびんとも言い、むかし用いられた)をもち、四番目の人は彼女の体を支えるためにおかれてある枕をあれこれ
とたたいていた。その反対側には、上機嫌なやさしい顔をした頭の|禿《は》げた老紳士――ディングリー・デルの牧師が坐り、そのとなりには、彼の妻、太った血色のいい老夫人が坐っていたが、彼女は他人を大いによろこばすために自家製の酒をつくる巧妙な|業《わざ》に長じていたばかりでなく、ときどきそれを自分も大いに楽しむのに長じているふうだった。小柄な頑固そうな冬りんごのような顔をした男が、片隅で太った老紳士と話し合っていた。さらにそれ以外にも、二、三の老紳士と二、三の老夫人が、それぞれの椅子に、まるで棒でも飲んだようにまっすぐ、身じろぎもせずに坐り、ピクウィック氏とその仲間をジーッとにらんでいた。
「お母さん、ピクウィックさんです」声をはりあげて、ウォードル氏は言った。
「ああ!」頭をふりながら、老夫人は答えた。「聞こえないよ」
「お婆ちゃま、ピクウィックさんですよ!」ふたりの若い婦人は金切り声をあげた。
「ああ!」老夫人は叫んだ。「そう、どうでもいいのよ。たぶん、わたしのようなお婆さんは、その方には、どうという用もないだろうからね」
「本当です、奥さん」老夫人の手をにぎり、大声でそのやさしい顔を真っ赤に染めながら、ピクウィック氏は言った、「本当です、奥さん、あなたのようなお|齢《とし》の方がこうしたりっぱなお家の長になり、こうして若くお元気になっておいでの姿をながめるのは、わたしにとって、なによりうれしいことですよ」
「ああ!」少し間をおいて、老夫人は言った。「とても結構なお話なんだろうけどね、わたしには聞こえないことよ」
「お婆ちゃまはちょっとドギマギしているんです」低い声でイザベラ・ウォードル嬢は言った。「でも、すぐお話ししますことよ」
ピクウィック氏はうなずいて、老人の気ままを容認する態度を示し、そこにいるほかの人々と話をはじめた。
「これは美しい場所だ」ピクウィック氏は言った。
「美しいですな!」スノッドグラース氏、タップマン氏、ウィンクル氏はそれぞれ応じた。
「うん、そうだと思いますな」ウォードル氏は言った。
「ケント州で、こんなにいいとこはありませんぞ」冬りんごの顔をした頑固そうな男は言った。「まったく、ありませんぞ――たしかにね」頑固そうな男は、だれかに強く反駁され、最後にとうとうそれを論破したような勢いで、いかにも勝ち誇ったようなふうをして、あたりを見まわした。
「ケント州でこんなにいいとこはありませんぞ」間をおいてから、頑固そうな男はふたたびくりかえした。
「マリンズの牧場はべつにしてね」太った男は重々しく言った。
「マリンズの牧場ですって!」いかにも軽蔑的な態度を示して、相手は叫んだ。
「ああ、マリンズの牧場はべつにしてね」太った男はくりかえした。
「まったく、あれはいい土地だ」もうひとりの太った男が口をはさんだ。
「うん、たしかにね」第三の太った男が言った。
「それはだれでも認めていること」太ったウォードル氏が言った。
頑固そうな男はあたりを不安そうに見まわしたが、自分の意見があまり賛成されていないのを知って、いかにも気の毒、といった態度をとり、それ以上なにも言わなかった。
「なにをあの人たちは話しているの?」老夫人ははっきり聞こえる声で孫娘のひとりにたずねた。というのは、多くのつんぼの人のように、彼女は自分が言ったことを他人が聞く心配はないと考えているようだった。
「お婆ちゃま、土地のことよ」
「土地がどうだって言うの?――べつに心配なことはないんだね、えっ?」
「いいえ、ちがうの。ここの土地がマリンズの牧場よりいいって、ミラーさんがおっしゃっていたのよ」
「あの男がこの土地のことを、なに知ってるもんかね?」憤慨して老夫人はたずねた。「ミラーは|自惚《うぬぼ》れの気取り屋さ。わたしがそう言ってたと言ってもいいよ」こう言って、老夫人は自分が大声を出したとはいささかも意識せずに、グイッと胸を張って姿勢を正し、頑固そうな犯罪人を鋭くにらみつけた。
「さあ、さあ」当然のことながら、話題を変えようとして、主人はあわただしく言った、――「ピクウィックさん、トランプの三番勝負はいかがです?」
「それは大好きなものですが」ピクウィック氏は答えた、「わたしのために四人一組をつくってくださらなくとも結構ですよ」
「いや、まったく、母は三番勝負がとても好きなんです」ウォードル氏は言った。「そうじゃありませんか、お母さん?」
このことにはほかのことより耳がさとい老夫人は、そうだ、と答えた。
「ジョー、ジョー!」老紳士は言った。「ジョー――くそっ、あの――おお、やって来た。トランプのテーブルを出すんだ」
ポーッとした少年は、これ以上なにも文句を言われずに、なんとかトランプのテーブルを二台引き出したが、そのひとつはポープ・ジョーン(ダイヤの8を除いておこなうトランプ遊びの一種)用のもの、他はホイスト用のものだった。ホイストをやるのはピクウィック氏と老夫人、相手はミラー氏と太った紳士、組にならない勝負にはのこりの全員が参加した。
三番勝負は『ホイスト』(ホイストには「静かにする」の意がある)と名づけられた仕事にふさわしい重々しい、慎重な態度でおこなわれた。このホイストは厳粛な儀式とも言うべきもので、それを『遊び』と呼ぶのは非礼、恥ずべきことである。組にならない勝負のほうは、これに反して、ワイワイと陽気におこなわれ、それはひどくミラー氏の瞑想を阻害し、彼は当然の注意集中ができなくなり、ひどい罪と非行を重ね、それは太った紳士の怒りをひどく刺激し、それに応じて老夫人をだんだんと上機嫌にしていった。
「ほれ!」犯罪人のミラーは勝負の最後の決勝の十三回目の番になって言った。「はばかりながら、あれほど冴えた手はなかったろう――べつの手は不可能だったな」
「ミラーはダイヤを切り札で切るべきだったんでしょう、どう?」老夫人は言った。
ピクウィック氏はうなずいて賛成した。
「だけど、そうだったのかなあ?」組んだ相手にそれはどうだろうといったようすを示して、気の毒なミラーはたずねた。
「そうすべきだったのさ」おそろしい声で太った紳士は答えた。
「わるかったね」がっくりして、ミラーは言った。
「これで大いに|懲《こ》りるんだな」太った紳士はうなった。
「最高の役札二つで、こちらは八になりますな」ピクウィック氏は言った。
「もう一勝負。いいこと?」老夫人はたずねた。
「いいですよ」ピクウィック氏は答えた。「ダブル、シングル、そして二番勝ちです」
「こんな幸運なんて、ないな」ミラー氏は言った。
「こんな札なんて、あるもんか」太った紳士は言った。
重々しい沈黙がつづき、ピクウィック氏はふざけ気味、老夫人は大まじめ、太った紳士はあらさがしをし、ミラー氏はビクビクしていた。
「もう一勝負、ダブルを」ろうそく台の下に六ペンスと形のくずれた半ペニーの金をおき、勝負の記録をとって、意気揚々と老夫人は言った。
「ダブルですよ」ピクウィック氏は言った。
「よくわかってます」太った紳士は鋭く答えた。
もう一勝負がおこなわれたが、運のわるいミラーが反則をおかして、同じ結果に終わり、そこで太った紳士はすごい憤激状態におちいった。それは勝負が終わるまでつづき、ついで彼は片隅に引っこみ、一時間と二十七分のあいだ、ジッとそこにだまりこくったままでいた。その時刻が切れると、彼は自分が引っこんだ場所から出てき、受けた損害に目をつぶろうと決心したようすで、ピクウィック氏にかぎタバコをひとつまみ提供した。老夫人の耳ははっきりとよくなり、不運なミラーは、番兵小屋のいるか[#「いるか」に傍点]よろしくの姿で、すっかりとまどっているふうだった。
一方、組にならない勝負は陽気に進行していった。イザベラ・ウォードルとトランドル氏が『組になって』しまい、エミリー・ウォードルとスノッドグラース氏も同様だった。タップマン氏と独身の叔母さえ、おもねりの漁業株式会社を設立していた。老ウォードル氏は陽気の絶頂にあり、勝負の仕方がじつにおかしく、老夫人たちは勝負のかけ金に|鵜《う》の目|鷹《たか》の目だったので、そこのテーブルをかこんでいた人たちはワッワと陽気に笑い興じていた。毎回の勝負ごとに支払いをしなければならない五、六枚の札をかかえているある老夫人がいたが、それをみんなが笑い、この老夫人が支払いのときに|仏頂面《ぶつちようづら》をすると、彼らはいっそう笑い声を高くし、とうとう老夫人までだんだん明るい顔になり、最後には彼女自身がだれより大きな笑い声を立てて笑いころげていた。ついで独身の叔母が『マトリモニー』(キングとクイーンの組合せ。マトリニーには「結婚」の意がある)の札を手に入れると、若い婦人たちの笑いが新しくこみあげ、そこで独身の叔母は不機嫌になりそうになったが、テーブルの下でタップマン氏の手が自分の手をにぎっているのを感じて、彼女も明るくなって、結婚も一部の人が考えているほどそう遠い日のことではないといったようすで、いかにも心得顔をしたので、全員の笑いはふたたび爆発、どんな若い者にも劣らず冗談好きな老ウォードル氏は、ときに大声を出して笑っていた。スノッドグラース氏はといえば、彼はただカルタ遊びの提携と人生の提携についての詩的感想を自分の提携者の耳にささやくだけ、これがある老紳士をこっけいなほど茶目にし、それは、さまざまのウィンクやクスクス笑いの伴奏づきで、この老紳士に幾度か口をきくようにさせ、その言葉は一座をとても陽気に、とくにその老紳士の妻をとても陽気にしていた。ウィンクル氏はロンドンではよく知られているが、いなかではまだぜんぜん知られていない冗談をとばし、みんながそれを腹の底から笑い、それをとてもすばらしいものだと賞賛したので、ウィンクル氏は名誉と栄光の座についていた。やさしい牧師はそれを楽しそうにながめつづけていた。テーブルをかこんでいる幸福そうな顔・顔はこの老人をも幸福にしたからである。この陽気さはそうとうさわがしいものではあったが、それは口先だけのものではなく、心から出たもの、こうしたものこそ、結局、まともな陽気さなのだ。
その宵はこうした楽しい陽気さでどんどんと流れてゆき、つつましやかではあるが内容のある夕食がすみ、一同が仲よく炉のまわりに集まったとき、ピクウィック氏はこんな幸福感を味わったことはない、こんなにすぎゆく刻一刻を味わい、それを吸収しようという気持ちになったことはない、と考えていた。
「さて」老夫人の肘かけ椅子のとなりで夫人の手をしっかりとつかみながら堂々とした態度で坐っていた親切な主人は言った――「これこそ、まさにわたしの好んでいることなんです――わたしの生涯でもっとも幸福な瞬間は、この古い炉辺ですごしました。わたしはそれに強い愛着を覚え、その結果、毎夜ここに熱すぎるくらいになるまで明るい火を燃やしつづけているんです。いや、ここのわたしの老母も、まだ少女のころ、この炉の前で、あの小さな腰掛けに坐っていたもんです。そうではありませんか、お母さん?」
むかしの時代の思い出とかつての幸福が思い起こされたとき、われ知らずにじみ出た涙が老女の顔にホロホロと流れ、彼女はわびしげな微笑を浮かべて、|頭《かぶり》をふった。
「ピクウィックさん、この古い土地、屋敷についてつい話をしてしまいましたが、どうかお許しください」少し間をおいて、主人は語りつづけた、「わたしがそれをとても愛し、ほかのところは知っていないからです――古い屋敷、畠は、わたしには生きた友のようです。つた[#「つた」に傍点]のはっているあの小さな教会も同じこと――つた[#「つた」に傍点]と言えば、そこのわれわれの友人が、はじめてわれわれの仲間になったとき、歌をつくりました。スノッドグラースさん、杯に酒はありますか?」
「ありがとう、十分あります」スノッドグラース氏は答えたが、彼の詩的好奇心は招き主の最後の言葉によってとてもかき立てられていた。「失礼ですが、あなたはつた[#「つた」に傍点]の歌についてお話しでしたね?」
「そのことなら、向こう側のわれわれの友人におききください」主人は心得顔に言い、頭をコクリとやって、牧師を示した。
「それをもう一度お教えねがえぬでしょうか?」スノッドグラース氏は言った。
「いや、本当に」牧師は答えた、「それはとてもつまらぬもの、そのただひとつの弁解といえば、わたしが、その当時、青年だったということだけです。そうしたものですが、もしご希望なら、それをお聞かせしましょう」
好奇のつぶやきがその答えだったことは、言うまでもない。そこで老紳士は、妻にいろいろと教えられながら、問題の詩を|吟誦《ぎんしよう》した。「わたしはこの詩を『緑のつた[#「つた」に傍点]』と呼んでいます」彼は言った。
[#ここから2字下げ]
緑のつた[#「つた」に傍点]
おお! むかしの廃墟をおおうつた[#「つた」に傍点]、
そはやさしき緑なり!
さびしく冷たき小部屋の|糧《かて》は
粋を集むる天下の絶品。
壁はくずれ、石はくち果て、
その|乙《おつ》なる好みを満たし、
ながき歳月の生めるくずれし|塵《ちり》は
つた[#「つた」に傍点]の楽しき食事なり。
|生命《いのち》見られぬところにはう
緑のつた[#「つた」に傍点]ぞ古き名木。
翼はなくとも、その足早く、
その古き|心臓《こころ》は強靱そのもの。
その友なる高くそびゆる|樫《かし》の木に
すがりまとわる力の強さ!
亡き人の墓の豪華なる台を
陽気にかきいだき、はいまわるとき、
つた[#「つた」に傍点]はひそやかに地に足をひきずり、
その葉は風にやさしくゆらぐ。
かつておそろしき死のありしところにはいて、
緑のつた[#「つた」に傍点]ぞ古き名木。
幾世かとび去り、その作くちて、
国々すべて散り去りぬ。
されど、たくましき古木のつた[#「つた」に傍点]は、
その|溌剌《はつらつ》たる強き緑の姿を消さず。
わびしき日々の勇ましき古木のつた[#「つた」に傍点]は
過ぎし日を|糧《かて》に|齢《よわい》ながらう。
人の打ち建てし巨大なる建物は、
ついにはつた[#「つた」に傍点]の|糧《かて》となる定め。
かつて時のありしところをはい、
緑のつた[#「つた」に傍点]ぞ古き名木。
[#ここで字下げ終わり]
老紳士が二度この詩をくりかえし、それをスノッドグラース氏に書き写させているあいだに、ピクウィック氏は、いかにも興味深げに、彼の顔の輪郭を穴のあくほど熱心に見守っていた。老紳士がその|吟誦《ぎんしよう》を終わり、スノッドグラース氏が雑記帳をポケットにおさめたとき、彼は言った、
「こんな短いおつき合いでこんなことを申しあげるのも失礼なことですが、あなたのような方は、福音を伝える牧師としてのご経験中、記録に値する場景や事件をご覧になったことも数少なくはなかったことと思いますが……」
「たしかに、そうしたものをいくつか見てきました」老紳士は答えた。「しかし、わたしの行動範囲はとてもせまいものなのですから、そうした事件や人物は目立たぬ、当たり前のものでしかありません」
「ジョン・エドマンズについて、なにかお書き留めだったのでしょう、どうです?」新しい訪問客の見聞をひろめるために自分の友人を引き出したげなようすを強く見せていたウォードル氏はたずねた。
老紳士は賛成のしるしに軽く頭をうなずかせ、話題を変えようとしたとき、ピクウィック氏は言った――
「失礼ですが、もしおたずねしてよろしかったら、そのジョン・エドマンズという人はだれなのです?」
「それは、いまわたしがおたずねしようと思っていたことです」スノッドグラース氏は熱っぽく言った。
「あんたは、もう、|退《の》っぴきならん立場にあるのですぞ」陽気な主人は言った。「おそかれ早かれ、この紳士方の好奇心を満たしてあげねばならんのです。この好機をとらえ、話をすぐにはじめたほうがいいでしょう」
椅子を前に引き出しながら、この紳士は上機嫌な微笑を浮かべた――のこりの人たちは椅子をそれぞれ近くによせ合い、タップマン氏と独身の叔母はとくに目立ってそれをした。ふたりはそうとう耳が遠かったのかもしれない。老夫人はらっぱ補聴器をきちんと調節し、ミラー氏(彼は詩の吟誦中ぐっすりと寝こんでいた)は前のホイストで組んでいたいかめしい太った男にテーブルの下でグイッとつねられて眠りから目を覚まし、老紳士はそれ以上なにも前おきをせずに、『囚人の帰還』と題してもよいつぎの話をはじめた。
囚人の帰還
それはちょうど二十五年前のことですが、わたしがはじめてこの村に住みついたとき、わたしの教区民のなかでいちばん悪名をとどろかせていた人物は、この場所の近くで小さな農場を借り受けていたエドマンズという名前の男でした。彼はむっつりした、あらあらしい気質の悪人で、なまけ者で放縦、むごくて兇悪な性格をもっていました。その当時野原をいっしょにさまよい歩き、さもなければ、酒場で酒を飲んでいたなまけ者で向こう見ずなわずかな浮浪者をのぞいては、彼は友・知人をひとりももっていませんでした。多くの人がおそれ、みなが|忌《い》みきらっている人間と、だれも口をきこうとはせず――エドマンズはみなに避けられていました。
この男には妻と息子ひとりがありましたが、ここにはじめてわたしがやって来たとき、その子供は十二歳ほどでした。あの女性のつらい苦しさ、それを彼女が堪えていたやさしい辛抱強さ、その少年を育てた苦労ぶりは、だれにも見当がつかないほどです。これがわたしのむごい想像だったら、わたしは神さまにお許しをねがわねばなりませんが、あの男は、ながい年月のあいだ、意識的に彼女の心を打ちくだこうとしていました。しかし、彼女はそうしたことすべてを、自分の子供のために、そしてこんなことを申しては、多くの方々にとても奇妙に聞こえましょうが、その少年の父親のために、ジッと我慢していました。というのも、彼は人でなしであり、彼女をむごくあつかいはしたものの、彼女はかつて彼を愛し、彼女にたいする男のかつての態度の思い出が、苦しみにあいながらも、彼女の胸に我慢とやさしさの感情を呼び覚ましたからです。こうした感情は、女しかもたぬものと言えましょう。
彼らは貧乏でした――男がそんなふうである以上、そうならざるを得なかったのです。しかし、朝早くから夜おそくまでの女のひっきりなしの、たゆむことのない努力のおかげで、家の者は必要品にこと欠くことはありませんでした。だが、こうした努力は報いられなかったのです。そこを夕方――ときには夜おそく――とおりすぎた人たちは、苦しんでいる女のうめきとすすり泣き、打ちすえる物音を耳にしたと話していました。そして何回となく、真夜中をすぎたとき、少年が近所の家にゆかされて、そっと戸をノックしていましたが、これは、父親らしからぬ父親の酔いどれの激怒をのがれるためでした。
このあいだ中ずっと、そして、このあわれな女がすっかりはかくせなくなってしまった虐待と暴力ざたの痕跡をつけているときでも、彼女はいつもわれわれの小さな教会に出席していました。規則正しく毎日曜日、朝と午後に、彼女はわきに少年をつれて同じ座席に坐っていました。彼らの服装は粗末なもの――同じ下層階級の多くの近所の人よりずっと粗末なもの――でしたが、いつも小ざっぱりとしたきれいなものでした。だれもが好意的にうなずき、「あわれなエドマンズのおかみさん」にたいしてやさしい言葉を一言かけてやりました。ときどき、おつとめが終わったとき、教会の玄関につながる小さな|楡《にれ》の並木道のところで、彼女が足をとめて近所の人とちょっと話そうとしたり、少年が子供の仲間と彼女の前でたわむれ、彼女があとにのこって母親の誇りと愛情をこめて自分の健康な子供をジッと見つめているとき、心労でやつれた彼女の顔は心の底からの感謝の表情で明るくなり、彼女は、陽気で幸福そうではなくとも、少なくとも心静かに、満足しているように見えました。
五、六年がすぎ、少年はたくましい大きな青年になりました。少年のほっそりとした体格を強固にし、彼の弱々しい四肢をがっちりとした男らしさに変えた歳月は、母親の姿形をまげ、その足どりを弱めてしまいました。だが、彼女を支えるべき腕は、もはや彼女の腕の中にしっかりとだきかかえられてはいませんでした。彼女を元気づけるべき顔は、もはや彼女の顔を見上げてはいませんでした。彼女はむかしながらの座席に坐っていましたが、そのかたわらの座席は空いていたのです。聖書は従前と変わらず注意深く手に支えられ、読む場所はいつものとおりに開かれ、閉じられていました。しかし、彼女といっしょにそれを読む人はだれもいませんでした。涙は激しくその本の上にこぼれ落ち、そのために、字が読めなくなるほどでした。近所の人たちは以前と変わらず親切にしていましたが、彼女は|面《おもて》をそむけて彼らの挨拶を避けてしまいました。もう古い楡の木の中にのこっていることもなく――心楽します将来の幸福への期待も消えてしまっていたのです。心わびしいあの女はボネット帽を顔の上に深々とさげ、セカセカと歩き去っていったのです。
記憶と意識がもどせるかぎり自分の子供時代のむかしのことをふりかえり、そこから現在までを考えてみて、自発的に母が自分のために味わったながいひとつづきの困窮、虐待、侮辱、暴力、自分のために堪えてくれたすべてのものとなにか結びついていないものはなにも思い起こすことのできぬ青年――この彼が母親の心を打ちくだいてしまうことを無鉄砲にも顧慮せず、自分のために彼女が忍んでくれたすべてのことをすねてわざと忘れてしまい、堕落して世からすてられた人たちと仲間になり、自分には死を、母親には恥辱をもたらす向こう見ずな生活を送っていたと、わたしはみなさんにお知らせすべきでしょうか? ああ、人間性とはたよりないもの! あなた方はとっくの昔にそれを予想しておいでだったのです。
この不幸な女のみじめさと非運は、もうほとんど完璧とでも言うべきものになっていました。数多くの非行がこの付近で続発し、犯人は見つからず、その大胆不敵さはつのってゆきました。あるぬけぬけとしたたちのわるい盗難が、賊たちの予想もしていなかった追求の激しさと捜査の厳重さをひきおこし、若いエドマンズは、三人の仲間とともに、嫌疑者になりました。彼は逮捕――拘禁――裁判にかけられ――死刑の判決をくだされました。
厳粛な判決が申しわたされたとき、法廷に鳴りひびいたあらあらしい、つんざく女の悲鳴はいまでもまだわたしの耳にのこっています。裁判、死刑宣告――死そのものの接近さえ目覚めさすことのできなかった罪人の心に、その叫びは恐怖心をひきおこしました。そのときまでむっとして頑固に結ばれていた唇はふるえ、いつとはなしに開かれていました。冷汗が毛孔という毛孔から吹き出してきたとき、顔は灰のように青ざめていました。兇悪犯人のたくましい手足はふるえ、彼は被告席でよろめきました。
苦悶の最初の夢うつつの状態で、苦しみの母親はわたしの足下に身を投げてひざまずき、いままでのすべての悩みで彼女を支えてくださった全能の神に、憂いと苦悩のこの世から自分を解放し、彼女のただひとりの子供の生命を救ってくださることを、熱烈に祈り求めていました。二度と目にしたくない悲しみの爆発と激しいあがきが、それにつづいて起こりました。そのときから彼女の心がくだけはじめているのがわかりましたが、彼女の唇からは、泣き言やつぶやきは絶対にもれてきませんでした。
監獄の中庭に立ってあの女が、毎日毎日、愛情と懇願で強情な自分の息子のかたくなな心をやわらげようとしているのをながめるのは、いたましいことでした。しかし、それはなんの|甲斐《かい》もなく、彼は不機嫌で、頑固、心を動かそうとはしませんでした。思いもかけず彼が減刑を受け、十四年間の流刑になったことも、彼の態度の不機嫌なかたくなさをくずすものとはなりませんでした。
だが、彼女をながく支えていたあきらめと忍耐の精神も、肉体的な弱まり、病気には勝てませんでした。彼女は病気になったのです。彼女はよろめく体で寝台をはなれ、もう一度息子のところにゆこうとしましたが、とうとう力つき、がっくりと地面に倒れてしまいました。
さて、あの青年の誇っていた冷淡と無関心は、これで試練を受けることになり、彼の心にふりかかった懲罰は、彼をほとんど狂乱状態に追いやってしまいました。一日たちましたが、彼女はそこに姿をあらわさず、もう一日がとび去りましたが、彼女は彼のそばに来ず、三日目の夕方になっても、彼は彼女の姿を見ませんでした。そして、二十四時間たつと、彼は彼女から引き裂かれることになっていたのです――おそらく永遠に。おお! まるで足を急がせればそれだけ早く知らせがとどくかのように――彼がせまい内庭をほとんど走るような速度で動きまわっているとき、ながいあいだ忘れていたむかしの思い出がなんと心に群らがり――彼が事実を知ったとき、無力感、寂寞感がなんと苦しく彼をおそったことでしょう! 自分の母親――自分の知っているただひとりの親が、自分の立っている一マイル以内のところで、おそらくは死の床についていたのです。もし彼が自由の身で足かせをかけられていなかったら、数分も歩けば彼女のところにゆけたでしょう。彼は門のところにとんでゆき、力まかせに鉄の|柵《さく》をつかみ、それが音を立てるまでゆすり、まるで石の場所に通路でもつけようとするかのように、身を厚い壁に打ちつけました。しかし、頑強な建物は彼の力ない努力をあざけるだけ、彼は手を打ち合わせ、子供のように泣いていました。
わたしは母親の許しと祝福を監獄にいる彼女の息子のところにもってゆき、息子の厳粛な悔恨の保証と許しをねがう彼の熱烈な気持ちを、彼女の病気の床にもたらしてやりました。国に帰ってきたとき、母親をなぐさめ支えるために、悔いた彼はあれこれとささやかな計画を立てていましたが、わたしは、それをあわれみと同情の気持ちで聞いていました。しかし、彼が流刑地に着く何か月も前に、彼の母親がもうこの世にはいないであろうことを、わたしは知っていたのです。
彼の移動は、夜おこなわれました。その後数週間して、このあわれな女の魂はとび去りましたが、そのゆく先は永遠の幸福といこいの場であったものと、わたしは自信をもって期待し、厳粛に信じています。わたしは彼女の遺骸に埋葬の式をおこない、彼女はいまわれわれのささやかな教会の墓地に眠っています。彼女の墓の頭のところには墓石は立っていません。彼女の悲しみは人間に、彼女の徳は神さまに、知られていたのです。
囚人が許可を得しだい母親に手紙を書き、その手紙をわたしあてに送ることが、彼の出発前に決められていました。父親は、息子が逮捕された瞬間から、彼に会うことをかたくこばんでいました。息子の生死は、彼には関係のないことだったのです。彼からなんの便りもなく、ながい歳月がたち、彼の流刑の期限の半分以上が経過しても、彼から連絡がなにも来なかったとき、わたしは彼が死んだものと考えていました。じっさい、そうであることをわたしは期待していたと申してもかまいません。
しかしながら、エドマンズが植民地に着いたとき、彼はそうとう奥地に送られ、こうした事情のために、数本手紙を出しながらも、それはわたしの手にはとどかなかったのでしょう。彼は、流刑の十四年間、同じ場所にいました。刑期が終えると、彼はむかしの自分の決心と母親に与えた約束をしっかりと守り、数知れぬ困難をものともせず、イギリスにもどり、徒歩で自分の生まれ故郷に帰ってきました。
八月のある晴れた日曜日の夕方、ジョン・エドマンズは恥辱と不面目につつまれて去った村に足を踏み入れました。彼の近道は教会の墓地をとおりぬける道でした。|階段《スタイル》(牧場などの垣やへいを乗り越えられるように設けた階段)を越えて進んでいったとき、この男の胸はいっぱいになりました。傾きかけた太陽がその枝越しに豊かな光をそこここで影のある小道に投げている高い|楡《にれ》の古木は、彼の幼いころの連想を呼び覚ましました。母親の手にすがりつき、安らかに教会に歩いてゆく当時の自分の姿を彼は思い描いたのです。自分がいつも母親の青ざめた顔を見あげ、彼女が自分の顔を見おろしたとき、その目がときどき涙――自分にキスしようと彼女がかがんだとき、彼の額に熱く流れ落ち、それがどんなに苦しい涙であったかは当時知らぬながらも、自分ももらい泣きさせられた涙――でいっぱいになっていたことを、彼は思い出しました。彼は、自分がよく、だれか子供の遊び仲間といっしょに、あの小道を陽気に走り、母親の微笑をとらえ、彼女のやさしい声を聞こうと、ときどきふりかえったことを考えました。ついで、彼の記憶からベールをとり去られた感じがし、報いられぬ親切な言葉、かえりみられなかった注意、破りすてられた約束の言葉がどっと彼の思い出にわきおこり、彼の気分はすっかり沈み、それをもうこれ以上我慢できなくなってきました。
彼は教会にはいってゆきました。夕方のおつとめは終わり、会衆の姿は見えませんでしたが、それはまだ閉じられてはいませんでした。彼の足音はうつろな音を立てて低い建物中にひびきわたり、彼はひとりでいるのがこわいような気持ちにおそわれました。あたりはしーんと静まりかえっていたからです。彼はあたりを見まわしました。変わっているものはなにもなく、その場所は以前より小さなものにうつりはしたものの、彼が子供らしい畏怖の念で何回となく見つめたことのある古い記念碑、色あせたクッションのある説教壇、彼が子供としては尊敬し、大人としては忘れてしまった十戒をその前で何回もくりかえして唱えた聖ざん台は、依然としてそこにありました。彼はむかしの座席のそばに近づいてゆきましたが、それは冷たくわびしいものでした。クッションはとりのぞかれ、聖書はそこにはありませんでした。たぶん、自分の母親はもっとつまらぬ座席に坐っているのかもしれない。さもなければ、体が弱くなり、ひとりでは教会に出られないのかもしれない。彼には自分が心配していることを考える勇気が出ませんでした。ひんやりとした冷たい感じが彼の心に忍びより、彼が向きを変えたとき、激しいふるえが彼の身をおそいました。
彼が玄関のところにいったとき、老人がひとりそこにはいってきました。エドマンズはギクリとしました。その人物をよく知っていたからです。何度も何度も、その男が教会の墓地で墓を掘っているのを見かけたことがあったからです。もどってきた囚人にたいして、この老人はなんと言うだろう?
老人は見知らぬ男の顔を見あげ、『今晩は』と挨拶し、ゆっくりと歩き去ってゆきました。老人は彼のことを忘れていたのです。
彼は岡をくだり、村を通りぬけました。その日は暖かく、彼が歩いていったとき、人々は戸口に坐ったり、小さな庭をブラブラしたりなどして、その日の夕方のさわやかさ、労働からのいこいを楽しんでいました。多くのまなざしが彼に向けられ、多くの自信のなさそうな一瞥が彼から左右に投げられましたが、これは、だれかが自分を知って避けているのではないかと思ったからです。ほとんどこの家にも見知らぬ顔が見えました。ある家では、この前会ったときにはまだ少年だったむかしの学校友だちのたくましい姿がたくさんの陽気な子供たちにかこまれているのが見えました。べつの家では、戸口のところで弱った病気の老人が安楽椅子に坐っているのをながめましたが、それは彼がただ健康で元気な労働者としてしかおぼえていない人物でした。だが、そうした人たちはみんな、彼のことは忘れてしまい、彼は素性をさとられずにとおりすぎてゆきました。
むかしの家――彼の幼少時代の家庭――の前に彼が立ったとき、沈む太陽の最後のやわらかな光が大地に落ちて、黄色の麦の束に豊かな輝きを投げ、果樹園の木々に影をながく引いていました。この家は、とらわれと悲しみのながいわびしい歳月のあいだ、彼の心が、得も言えぬ強烈な愛情をこめて、あこがれの気持ちをよせていたものでした。とがり杭は、かつては彼の目に高い壁に見えたものの、低いものでした。そして、彼はそこ越しにむかしの庭をのぞきこみました。そこにはかつていつもあったよりもっと多くの種子と明るい花が見えましたが、むかしの木――陽ざしのところでの遊びにあきたとき、何回となくその下で横になり、幸福な少年時代のやわらかくておだやかな眠りがそっと自分に忍びよってくるのを感じたあの木――は依然としてのこっていました。家の中では人声がしていました。彼は耳を澄ませましたが、それは聞きなれぬ声、彼はそれに心憶えはありませんでした。それはまた、陽気な声でした。そして、自分がいないのにあわれな母が明るくなれるはずがないことを、彼はよく知っていました。戸が開かれ、一団の小さな子供たちが、叫びふざけまわりながら、外にとびだしてきました。父親は、腕に小さな少年をだいて、戸口にあらわれ、子供たちは小さな手をたたき、彼を外に引っぱり出して、自分たちの楽しい遊びに父親を引き入れようと、彼のまわりに群らがり集まりました。その同じ場所で自分が父親の目の前から何回となくコソコソと逃げだしたことを、囚人は思い出しました。自分がふるえる頭を何度か寝具の下に埋め、冷酷な言葉、ひどい鞭打ち、母親の嘆きを聞いたことを思い浮かべました。そこを立ち去ったとき、男は心の苦しみで声高にすすり泣いてはいたものの、激しいおそろしい怒りで、彼の拳は固められ、歯はしっかりと噛みしめられていました。
わびしいながい歳月のあいだ彼が待ち望み、そのために多くの苦悩に堪えてきた帰還は、こうしたものでした! よろこび迎える顔はなく、許しのようすもなく、受け入れてくれる家、助けてくれる手もなく――しかもこれは、自分の村で起きたことだったのです。これにくらべたら、人影の絶えて見えない野生の濃い森林の中の孤独さなどは、なんでもないことでした!
不名誉なとらわれの遠い土地で、自分が生まれ故郷をそこを去ったときのままに考え、自分がもどったとき、そこがなるであろうものとしてはぜんぜん考えていなかったことを、彼は感じました。悲しい現実が冷たく彼の心を打ち、気持ちは沈んでゆきました。彼は人にものをたずねたり、自分を親切と同情で迎えてくれそうなただひとりの人のところにゆく勇気をも失ってしまいました。彼はゆっくりと歩きつづけ、罪人のように道路を避けて、自分がよく知っている牧場にはいり、両手で顔をおおって、草の上に身を投げました。
彼はひとりの男が自分のわきで土手の上に寝ころんでいるのに気がつきませんでした。新しく来た男をそっとひとのぞきしようとしてこの男が向きを変えたとき、その服はかすかな音を立て、エドマンズは頭をあげました。
男は体を起こし、坐った姿勢をしていました。彼の体はひどく前にかがみ、顔はしわだらけで黄ばんでいました。その服は男が貧民院の住人であることを物語っていました。彼はとても高齢のふうでしたがそれは年齢の高さというより、放蕩か病気の結果といった感じでした。彼は見知らぬ男をジッと見つめ、その目はつやを失いどんよりしてはいましたが、しばらくその目が相手の上に釘づけになっていたあとで、それは異常な、おびえた表情で輝き、ついには、それがとび出さんばかりの勢いになりました。エドマンズはゆっくり体を起こしてひざまずき、だんだん熱を加えて、老人の顔をしげしげとながめていました。ふたりはだまったまま、たがいににらみ合っていました。
老人は真っ青になりました。彼は身をふるわせ、ヨロヨロッと立ちあがりました。エドマンズはパッと立ちあがり、老人は一、二歩さがり、エドマンズは前に出てゆきました。
「お前さんが話すのを、おれに聞かせてくれ」とぎれとぎれのだみ声で囚人は言いました。
「近よるな!」おそろしいののしり声をあげて老人は叫びました。囚人はさらに近く老人のそばによっていきました。
「近よるな!」老人は金切り声をあげました。恐怖でたけり狂って、彼はステッキをふりあげ、エドマンズの顔を激しく打ちました。
「おやじ――悪魔め!」口を固く噛みしめたまま、囚人はつぶやきました。彼は猛然と前にとびだし、老人の喉をつかみました――だが、相手は自分の父親、そして彼の腕はぐったりとおろされてしまいました。
老人は大きなわめき声を発し、それは、わびしい畠を切って、悪霊のうめきのように鳴りひびきました。彼の顔は真紅に染まり、血のかたまりが口と鼻から吹きだし、彼がよろめき倒れたとき、草を黒みがかった深い赤色に染めました。彼の血管は破裂し、彼の息子が彼をだきおこすまでに、彼はもうこと切れていました。
「教会の墓地のあの片隅に」ちょっと沈黙がつづいたあとで、老紳士は言った、「わたしが前にお話しした教会の墓地のあの片隅に、この事件のあと三年間わたしが使っていた男、本当に心を改め、後悔し、謙虚になった男が埋められています。あの男が生きているあいだ中、わたし以外にだれも、彼が何者か、どこからやって来たのか知ってはいませんでした――それはもどってきた囚人、ジョン・エドマンズだったのです」
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第七章
[#3字下げ]ウィンクル氏が、はと[#「はと」に傍点]を撃って|烏《からす》を殺すかわりに、烏を撃ってはと[#「はと」に傍点]を傷つけた話。ディングリー・デルのクリケット・クラブがオール・マグルトンと試合をし、オール・マグルトンがディングリー・デルに夕食をおごられる話。その他、興味深い教訓的なことがら
疲労をひきおこすその日の冒険か、牧師の話の眠りをもよおす力かが強くピクウィック氏の眠気をさそい、快適な寝室に案内されて五分もたたないうちに、彼はぐっすり、夢も見ずに眠りに落ちこみ、翌朝責めるようにして明るい光を彼の部屋に流しこんできた太陽で、ようやく彼の眠りは覚まされた。ピクウィック氏はなまけ者ではなかった。彼は熱烈な戦士のようにその天幕――寝台からとびだした。
「楽しい、楽しいいなかだ」格子窓を開きながら、熱をおびたピクウィック氏は溜め息をもらした。「一度こうした景色を味わった人間が、日ごと日ごと、どうして煉瓦と屋根瓦のスレートばかりながめて暮らすことができよう? 煙突の上の通風管にとりつけた牛以外に牛がどこにも見当たらないところに、|さん瓦《バンタイル》以外にパン(森・原・牧羊の神。頭に角があり、足は山羊に似て、笛を吹く)はなく、|べんけい草《ストーンクロツプ》以外になんにも|農作物《クロツプ》のないところに、だれが住みつづけることができよう? だれがそんなところで、ながい生涯を暮らせよう? それにだれが堪えられるだろうか?」こうしてじつにりっぱな先例にならってそうとうの時間孤独を子細に検討してから、ピクウィック氏は頭を格子の外に出し、あたりを見まわした。
干し草の山の豊かな芳香が彼の部屋の窓まで立ちのぼり、下の小さな花壇のさまざまな香りがあたりの空気を染めていた。葉という葉の上でギラリと光っている朝露には、それがそよ風でゆれるとき、深い緑の牧場が輝いていた。鳥は、すべてのきらめく露が霊感の泉でもあるかのように、歌いさえずっていた。ピクウィック氏は心を魅する快い恍惚状態に落ちこんでいった。
「やあ!」というのが、彼をはっとさせた物音だった。
彼は右手を見たが、だれもいなかった。彼の目は左手にさまよい、そちらの先をずっと見わたした。彼は空をジッとにらんだが、彼はそこで呼ばれているのではなかった。ついで、彼はふつうの人だったらすぐにしたこと――庭をながめ、そこにウォードル氏の姿を見つけた。
「気分はいかがです?」楽しみの期待で息を切らして、上機嫌のウォードル氏はたずねた。「美しい朝でしょう? こんなに朝早くお目にかかれて、うれしいです。急いでおりて、ここに来てください。わたしはここでお待ちしてますからな」
ピクウィック氏を二度呼ぶ必要はなかった。身じたくをととのえるのには、十分あればもうたくさん、その時間の終わりに、彼は老紳士のわきに立っていた。
「やあ!」今度はピクウィック氏が声をかけた。相手が鉄砲で武装し、さらにもう一挺の鉄砲が草の上にあるのを見て、「これからなにが起きるのです?」
「いや、あなたのお友だちとわたしは」主人は答えた、「朝食前にみやま烏撃ちにゆこうとしているんです。彼は射撃の名人でしょう、どうです?」
「自分はすばらしい名射手、と彼が言っているのを聞いたことはあります」ピクウィック氏は答えた。「でも、彼がなにかをねらっているのを見たことは、一度もありませんよ」
「そう」主人は言った、「あの人、早く来ればいいのに。ジョー、ジョー!」
朝の刺激的な影響のもとで四分の三と少し以上眠っているふうにはどうしても見えなかった太った少年は、家から出てきた。
「二階にあがり、あの紳士をお呼びし、みやま烏の森でわしとピクウィックさんがお待ちしているとお伝えしろ。あの方をそこまでご案内するんだ。わかったか?」
少年は自分の任務を遂行するためにそこをはなれ、主人は、第二のロビンソン・クルーソーよろしくの姿で、二挺の銃をもって、先に立って庭を出ていった。
「ここです」数分歩いてから並木道のところで足をとめて、老紳士は言った。この知らせは不必要なものだった。なにも知らぬみやま烏の絶え間ない鳴き声は、十分にその居場所を示していたからである。
老紳士は一挺の銃を地面の上におき、のこりの銃に弾をこめた。
「彼らが来ました」ピクウィック氏は言った。こう言ったとき、タップマン氏、スノッドグラース氏、ウィンクル氏の姿が遠くにあらわれた。太った少年は、どの紳士を呼ぶように命じられたのかあまりはっきりしていなかったので、彼独得の叡知を働かせて、失敗の可能性を阻止するために、彼ら全員を呼んできたのだった。
「早くいらっしゃい」ウィンクル氏に老紳士は叫んだ。「あなたのような腕ききの名手は、こんなつまらぬ仕事にでも、とっくのむかしにもう起きておいでのはずですぞ」
ウィンクル氏はつくり笑いをしてそれに応じ、のこりの銃をとりあげたが、その表情は、近づく暴力による死を予感して瞑想的なみやま烏が示すかと思われる表情だった。それは熱心さを表示したものであったかもしれないが、いかにも心のみじめさを物語っているように思えた。
老紳士はうなずいた。ラムバートという少年の指図でそこに整列していたぼろを着たふたりの少年は、すぐに二本の木にのぼりはじめた。
「あの子供たちはなんのために?」いきなりピクウィック氏はたずねた。彼の心はそうとう動転していた。彼がよく耳にしていた農業不況のために、こうした土地の子供たちが、経験の浅い狩猟家のために、わが身を的にして、不安定で危険な生計を立てているのではないかと思ったからである。
「ただ烏撃ちの皮切り役でね」笑いながらウォードル氏は答えた。
「なんですって?」ピクウィック氏はたずねた。
「いや、はっきり申せば、みやま烏をおどかすんです」
「おお! それだけのことですか?」
「おわかりになりましたかね?」
「よくわかりました」
「よろしい。わたしがはじめますかな?」
「よろしかったら」どんな息抜きでもといった気持ちで、ウィンクル氏は答えた。
「じゃ、そこをどいてください。さあ、はじめ!」
少年は大声をあげ、巣のある枝をゆすった。
すごい勢いで語り合っていた六羽のまだ若いみやま烏が巣をとびだして、どうしたんだ?とたずねた。老紳士は返事がわりに一発お見舞いした。一羽落ち、ほかの烏はとび去った。
「ジョー、あれをとって来い」老紳士は命じた。
ジョーが進んでいったとき、その顔には微笑が浮かんでいた。みやま烏のパイのぼんやりとした幻影がフッと彼の頭をかすめたからである。鳥をもってもどってきたとき、彼は大声で笑っていた――それはむくむくと太った烏だった。
「さあ、ウィンクルさん」自分の銃に弾をこめながら、主人は言った。「今度はあなたが撃ってください」
ウィンクル氏は前に進み出て、ねらいをつけた。ピクウィック氏とその友人たちはわれ知らずおびえて、みやま烏が何羽か落ちてくる危害からのがれようとした。というのも、友人のおそろしい銃火のもとで、それはきっと起きるものと、彼らは確信していたからである。厳粛な沈黙――ひと叫び――翼のバタバタいう音――かすかなカチリという音。
「やあ!」老紳士は言った。
「弾が出ないのかね?」ピクウィック氏はたずねた。
「不発でした」顔を真っ青にしたウィンクル氏が言った。それは、おそらく、失望のためだったのだろう。
「妙だな」鉄砲を手にとりながら、老紳士は言った。「どれも不発なんていうことは、いままでに一度もないことなんだが……。あれっ、雷管がどこにもないぞ」
「いやあ、これは!」ウィンクル氏は叫んだ。「まったく、雷管のことを忘れてました!」
このちょっとした省略は訂正された。ピクウィック氏はふたたび身をかがめた。ウィンクル氏は断固たる決意を固めて前進し、タップマン氏は木の背後からのぞいていた。少年が大声を出し、四羽のみやま烏がとび出し、ウィンクル氏が発射した。みやま烏ではなく――人間が苦しんでいる悲鳴があがった。タップマン氏が火薬の一部を左腕に浴びて、無数の罪なき鳥の命を救ったのだった。
つづいて起こった混乱状態を描写しようとしても、それは不可能なことであろう。ピクウィック氏が憤激の最初の発作にかられてウィンクル氏のことを「卑劣なやつ!」と呼んだこと、タップマン氏が大地に倒れ伏したこと、ウィンクル氏が恐怖に打たれて彼のわきにひざまずいたこと、タップマン氏が夢中になってだれか女性の洗礼名を呼びかけ、ついで片目、ついでのこりの目を開き、ついでひっくりかえって、両目を閉じてしまったこと――こうしたすべてのことを子細に描写することは、不幸に見舞われたタップマン氏の漸次の回復、ハンカチで彼の腕をしばりあげ、心痛めている友人たちの腕に支えられて彼がゆっくりとつれもどされたことを描写するのと同様に、困難なことであろう。
一同は家の近くに来た。婦人たちは、彼らの到着と朝食を待って、庭の門のところに出てきていた。独身の叔母が姿をあらわした。彼女は微笑を浮かべ、彼らをさしまねき、足を急がせた。彼女がこの不幸を知らないでいることは明らかだった。かわいそうに! 無知が幸福な時ということは、じっさいにあるものなのだ。
一同はそばに近づいてきた。
「まあ、あの小柄の老紳士の方、どうしたの?」イザベラ・ウォードルは言った。独身の叔母はこの言葉に注意を払わなかった。彼女はその言葉がピクウィック氏のことを言っているものと思ったからである。彼女の目で見ると、トレイシー・タップマンは青年だった。彼女は彼の年齢を縮小眼鏡をとおして見ていたのである。
「心配することはない」娘たちを驚かすことをおそれて、ウォードル氏は叫んだ。このわずかな一行はタップマン氏をすっかりとりかこんでいたので、女性たちは、事件がどのようなものか、はっきりとはつかめないでいた。
「心配することはない」ウォードル氏は言った。
「どうしたの?」女性たちは金切り声をあげた。
「タップマンさんがちょっとした災難に逢ったんだが、それだけのことさ」
独身の叔母は絹を裂く悲鳴をあげ、わっとヒステリックに笑いだし、うしろ向きに姪たちの腕の中にひっくりかえった。
「あの女の頭に冷たい水をかけてやれ」老紳士は言った。
「大丈夫、大丈夫」独身の叔母はつぶやいた。「わたしはもうよくなったことよ。ベラ、エミリー――外科の先生をおねがいしますよ! あの方、傷をなさったの? 死んだの? あの方――はっ、はっ、はっ!」ここで独身の叔母は悲鳴まじりの第二のヒステリックな笑いの発作におちいった。
「心を静めてください」自分の苦しみにたいするこの同情の表示に打たれ、涙を流さんばかりになって、タップマン氏は言った。「どうか、気をお静めになってください」
「まあ、あの方の声だわ!」独身の叔母は叫んだ。そしてすぐ、第三の発作の強い徴候があらわれはじめた。
「おねがいします、どうか興奮なさらないでください」なだめるようにして、タップマン氏は言った。「ほんと、わたしの傷はたいしたものではないのです」
「では、死んだのではないのですことね!」ヒステリックな婦人は叫んだ。「おお、どうか、死んではいない、と言ってちょうだい!」
「レイチェル、バカなことを言ってはいけないよ」その場景の詩的性格とはまったく相容れないあらあらしい態度で、ウォードル氏が口をはさんだ。「死んではいないと彼が言ったって、それが、いったい、どうだというのかね?」
「ええ、ええ、わたしは死んではいませんよ」タップマン氏は言った。「わたしが求めているのは、あなたのご援助だけ。あなたの腕によりかからせてください」彼はささやき声で「おお、レイチェルさん!」と言いそえた。かっかと興奮した婦人は前に進み出てきて、その腕をさし出した。ふたりは朝食の部屋にはいり、トレイシー・タップマン氏はやさしく彼女の手を唇におしつけ、ぐったりとソファに坐りこんだ。
「目まいがするのですか?」心配そうにレイチェルはたずねた。
「いいや」タップマン氏は答えた。「なんでもありません。すぐによくなります」彼は目を閉じた。
「お|寝《やす》みなのよ」独身の叔母はつぶやいた。(彼の目の機関が閉じられてから、まだものの二十秒もたっていなかった。)「やさしい――やさしい――タップマンさん!」
タップマン氏はとびあがった――「おお、その言葉、もう一度言ってください!」彼は叫んだ。
婦人はギクリとした。「いまの言葉、たしかにお聞きにならなかったことね!」彼女ははにかんで言った。
「おお、たしかに聞きました!」タップマン氏は答えた。「それをくりかえしてください。わたしを回復させようとお思いでしたら、どうかそれをくりかえしてください」
「しっ!」婦人は言った。「兄が来ました」
トレイシー・タップマン氏は前の姿勢にもどった。ウォードル氏は外科医をともなって部屋にはいってきた。
腕は診察を受け、傷は手当てをされ、とても軽い傷と診断された。一座の人たちの心はこうして|安心《サテイスフアイ》を得たので、彼らは陽気さの表情がふたたびとりもどされた顔で、その食欲を|満たす《サテイスフアイ》ことになった。ただピクウィック氏だけがだまって口をきかないでいた。疑念と不信の念が彼の顔にあらわれていた。ウィンクル氏によせていた信頼の念が朝の事件によってゆり動かされ――ひどくゆり動かされていたのである。
「あなたはクリケットをなさいますか?」ウォードル氏は射撃の名手にたずねた。
ほかのときだったら、ウィンクル氏はそれを認めたことであろう。彼は自分がいま立っている微妙な立場を考え、遠慮深く「いいや」と答えた。
「あなたはクリケットをなさるのですか?」スノッドグラース氏はたずねた。
「そのむかしはね」主人は答えた。「だが、いまはそれをやめてしまいました。ここのクラブの会費は払ってますが、それをするのはやめたんです」
「きょう大試合があるのですね?」ピクウィック氏はたずねた。
「そうです」主人は答えた。「もちろん、それをご覧になりたいでしょうな」
「わたしは」ピクウィック氏は答えた、「安全にそれをすることができ、無能な人間のつまらぬ|業《わざ》が人間の命を危険にさらさないスポーツなら、どんなスポーツでも見るのが好きです」ピクウィック氏は話を切り、ジッとウィンクル氏をにらみつけたが、相手のウィンクル氏は、指導者のさぐるまなざしのもとで、すっかり小さくなっていた。偉人ピクウィック氏は、数分後、目をはずし、言いそえた、「傷ついたわれわれの友人をご婦人方の看護におゆだねしておいていいものでしょうか?」
「これ以上信頼できる看護人はいませんよ」タップマン氏は言った。
「まったく、そのとおり」スノッドグラース氏は応じた。
そこで、タップマン氏は家で婦人方の手にゆだね、のこりの客は、ウォードル氏の案内で、試合がおこなわれる場所にゆくことになったが、この試合は、マグルトンの町全体を無気力から呼び覚まし、ディングリー・デルを興奮の渦に巻きこんでいるものだった。
彼らのとおる道は二マイル以上の距離はなく、それは木影の多い小道、人気のない歩道であり、会話は四面道がかこまれている美しい景色を|愛《め》でることになったので、ピクウィック氏はそこを早くとおりすぎてしまったことを惜しむ気持ちにおそわれていたが、そのときはもう、彼はマグルトンの町の大通りに出ていた。
地理的才能を豊かにたくわえている人はだれでも、マグルトンが法人団体である自治都市で、市長、代議士、自由市民をもっていることを知っている。市長の市民にたいする言葉、自由市民の市長にたいする言葉、その双方の自治都市にたいする言葉、あるいは三者のイギリス議会にたいする言葉を調べたことがある人ならだれでも、そこから彼らが当然前から知っていなければならなかったこと、すなわち、マグルトンは古い、忠誠の心の厚い都市であり、商業的権利を強く愛好しながらも、キリスト教の教えを熱烈に信奉している事実を知ることだろう。その証拠として、市長、自治都市、その他の住民が、さまざまなときに、海外における奴隷制度継続に反対する千四百二十通もの請願書、それと同数の国内における工場制度にたいする干渉反対の請願書、教会における聖職禄売却に賛成の六十八通の請願書、日曜日に街路における商売廃止賛成の請願書を出しているのである。
ピクウィック氏はこの有名な町の大通りに立ち、いかにもおもしろいといった態度のまじっていないわけではない好奇心をかりたてて、自分の身のまわりのものをながめていた。市場を開くためのひろい広場があり、その中央に、道しるべを正面にすえた大きな宿屋が立ち、芸術界ではきわめてありきたりだが、自然界ではめったに出逢わないもの――すなわち、三本のわに足を空中に舞わし、四番目の足の中央の爪先で立っている青獅子を示していた。目の見えるところに競売人の店、火災保険の事務所、穀物問屋の店、切れ地商人の店、馬具屋の店、酒造家の店、乾物屋の店、靴屋の店があり、最後の店では帽子、ボネット帽、衣類、木綿の傘、それに役に立つ知識(本のことか)が売られていた。正面に石を敷きつめた小さな前庭のある赤煉瓦づくりの家があったが、それはだれにでもわかるとおり、弁護士のものだった。その上、もう一軒、板すだれのついた赤煉瓦づくりの家があり、そこにはそれが外科医の病院であることをはっきり示す大きな真鍮の標札がはりつけられてあった。数人の少年がクリケット場にゆこうとしていたが、戸口に立っている二、三の店主はいかにも同じところへゆきたそうなふうだった、見たところたいして客も失わずに、それをすることができそうにも思えたのだったが……。ピクウィック氏は足をとめてこうした観察をおこない、将来しかるべきときに自分の雑記帳にそれを書き|誌《しる》す準備をしたのだったが、足を急がせて友人たちといっしょになった。彼らはもう大通りをまがり、競技場の見えるところに進んでいた。
クリケットの二本の三柱門は、立てられて横木をわたされ、相互のチームの休養のために、二つの大テントが張られていた。試合はまだはじまっていなかった。二、三のディングリー・デルの選手とオール・マグルトンの選手は、堂々とした態度で、ボールを無造作に手から手へわたして楽しんでいた。そして彼らと同じ服装をして、麦藁帽をかぶり、フランネルのジャケット、白のズボン――彼らがいかにもしろうとの石工然と見えた服装だったが――を着けたほかの何人かの紳士がテントのあたりにまき散らされていた。そうしたテントのひとつにウォードル氏は一行を案内していった。
老紳士が到着すると、「ご機嫌いかがです?」という挨拶の声が周囲からかけられ、彼の客人たちはロンドンからの紳士として紹介され、この日の試合をとても見たがっておいでで、きっとそれを大いに楽しまれるだろう、という言葉が伝えられると、全員が麦藁帽を脱ぎ、フランネルのジャケットを前にかがめて、挨拶をかえした。
「大テントにおはいりになったほうがいいでしょう」ひとりのとても太った紳士が言ったが、その体と脚は二つのふくらました枕おおいの上に乗せた巨大な一巻きのフランネルのようだった。
「そこのほうがずっと気持ちがいいですよ」もうひとりの太った紳士がすすめたが、この人物は前に言った一巻きのフランネルののこりの半分にとてもよく似ていた。
「ありがとうございます」ピクウィック氏は答えた。
「こちらへ」最初に話しかけた男が言った。「ここで点が記録されるのです――ここが観覧席のうちでいちばんいい場所です」こう言って、このクリケットの選手は、息を切らして前に出てゆき、彼らをテントに案内した。
「すばらしい試合――スマートなスポーツ――よい運動――とてもね」という言葉が、ピクウィック氏がテントにはいっていったとき、彼の耳に聞こえてきた言葉だった。そして、彼の目にとまった最初のものは、オール・マグルトンの選りぬきの人たちに、彼らを大いに楽しませ教化して、大弁説をふるっている例のロチェスターの駅馬車の緑の上衣を着た友人だった。彼の服装は少しよくなり、編上靴をはいていたが、それはまごう方なくあの人物だった。
見知らぬ男はすぐに自分の友人に気づき、とびだしてきてピクウィック氏の手をつかみ、いつもの性急さで座席のところに彼を引っぱってゆき、そのあいだ中、ことすべてが彼の特別な庇護と指図のもとで運営されているような口ぶりでしゃべりまくっていた。
「こちらへ――こちらへ――すばらしい楽しみ――たくさんのビール――大だる。牛のもも肉――去勢牛。からし[#「からし」に傍点]――荷馬車何台分も。輝かしい日――お坐りなさい――ゆっくりしてください――お会いしてうれしいですよ――とてもね」
ピクウィック氏は命じられたとおりに坐り、ウィンクル氏もスノッドグラース氏もこのふしぎな友人の指示にしたがった。ウォードル氏は、だまって驚きに打たれながら、それを見ていた。
「わたしの友人――ウォードルさんです」ピクウィック氏は紹介した。
「あなたの友人ですって!――やあ、ご機嫌いかがです?――ぼくの友人の友人――握手しましょう」――こう言って、見知らぬ男はながい歳月の親しいまじわりが生む激しい熱をこめてウォードル氏の手をにぎり、ウォードル氏の顔と姿を十分に見定めようといったふうに一、二歩さがり、ついで――そんなことは不可能にせよ――前にもます激しさをこめて、彼とふたたび握手した。
「さて、どうしてここに来られたんです?」やさしさが驚きと戦っている微笑を浮かべて、ピクウィック氏はたずねた。
「来たんです」見知らぬ男は答えた――「マグルトンのクラウン館という宿屋――そこに泊まっていて――一行にあい――フランネルのジャケット――白のズボン――アンチョービ(かたくちいわし属の小魚、塩づけやソースに用いる)のサンドウィッチ――からい味の腎臓――すばらしい連中――すてきな」
ピクウィック氏はこの見知らぬ男の速記術を十分に心得ていたので、この口早なとぎれとぎれの言葉から、彼がとにかくオール・マグルトン・チームと親しくなり、それを彼独得のやり方で招待がおこなわれるまでの親しい関係に変えていったのだと推測した。それで彼の好奇心は満たされたので、眼鏡をかけて、いまはじまろうとしている試合を見ることにとりかかった。
試合はオール・マグルトンの打撃ではじまった。このすぐれたチームのもっとも有名なふたりの打者、ダムキンズ氏とポダー氏が手にバットをもってそれぞれの三柱門に歩みよったとき、興奮はたかまっていった。おそろしいダムキンズに投球するにはディングリー・デルの花形のラフィー氏がすえられ、不敗のポダーにたいしては同じ任務にストラグルズ氏が選ばれた。フィールドのさまざまな場所に『守りを固める』ために何人かの選手が配置され、彼らは膝に手を当ててしっかりとした姿勢をとり、馬とびの初心者に『背を貸す』ように低くかがみこんだ。すべてのれっきとした選手はこうしたことをするものである――まったく、それ以外の姿勢ではきちんとした守りは固められないものと、一般に信じられている。
アンパイアが三柱門のうしろに立った。採点係は点数を記入しようと待ちかまえていた。息づまる沈黙がつづいて起こった。ラフィー氏は打者ポダーの三柱門の背後数歩のところにしりぞき、数秒間ボールを右眼にあてがっていた。ダムキンズは自信満々、ラフィーの動きにしっかりと目をすえて、球のとんでくるのを待っていた。
「さあ、はじめ!」投手はやにわに叫んだ。ボールは彼の手から三柱門の中央の柱に向けてまっすぐ炎のようにとんでいった。用心深いダムキンズは油断なく見張っていた。ボールはバットの端に当たり、守備勢の頭を越えて遠くにとんでいった。彼らはすっかりかがみこんでいたので、ボールに手がとどかなかったのである。
「走れ――走れ――もういっちょう――さあ、球を投げろ――投げるんだ――そこでとまれ――もういっちょう――だめだ――そうだ――だめだ――球を投げろ、投げろ!」――この一撃につづいて起こった叫びはこうしたものだった。そしてその叫びが静まったとき、オール・マグルトンは二点をあげていた。自身とマグルトンを飾る名誉を獲得する点で、ポダーもひけをとってはいなかった。彼はくさい球はバットに当てて打ちとめ、わるい球は見のがし、よいものだけを選んで、それをフィールド一面に打ちとばした。守備勢はかっかと熱くなって疲れ、投手のほうは交替で腕がいたくなるまで球を投げた。だが、ダムキンズとポダーは依然として不敗のままだった。初老の紳士が球の進行をとめようとすると、それは脚のあいだをころがっていったり、指のあいだをすりぬけていった。ほっそりした紳士がそれを捕えようとすると、それは彼の鼻を打ち、前の倍の勢いで楽しげにとび去り、一方、ほっそりとした紳士の目は涙でいっぱいになり、その体は痛みでねじられていた。球がまっすぐ三柱門に投げられても、ダムキンズが球より前にそこにとびこんでいた。簡単に言うと、ダムキンズとポダーがアウトになるまでに、オール・マグルトンは五十四点をあげ、一方、ディングリー・デルのほうは一点もとってはいなかった。こうした優勢は、まったくどうにもならぬものだった。ディングリー・デルが試合で失った点をとりかえそうとして、ラフィーとストラグルズがどんなに腕によりをかけようと、それはむだだった――どうにもならなかったのである。そして、この決勝試合の早い時期にディングリー・デルは屈服し、オール・マグルトンの勝利を認めてしまった。
見知らぬ男は、そのあいだ中、ひっきりなしに食べ、飲み、しゃべっていた。球がうまくとばされるごとに、彼は恩着せがましい尊大な態度で選手にたいする満足の気持ちと賞賛の辞をあらわしていたが、それは、関係者にとっては、とてもうれしいものだった。一方、彼は、球を捕えようとして失敗しヘマをやる度に、むきになっている選手の頭に自分の不満を投げつけ、「ああ、ああ!――バカ者」――「さあ、受けそこないのへま野郎」――「とんま」――「いかさま師」とかいった罵言を浴びせていた。このような叫びは、あたりにいる人たちに、自分こそこの崇高なクリケットの|業《わざ》のれっきとしたすばらしい判定者と認めさせているようだった。
「すばらしい試合――みごとな|術《わざ》――すごい打撃もあった」試合が終わって両軍がテントに引きあげてきたとき、見知らぬ男は言った。
「あなたはクリケットをやったことがあるのですね?」彼の騒々しい多弁ぶりにひどく興味をひかれて、ウォードル氏はたずねた。
「やったですって! やりましたよ――何千回もね――ここではなくって――西インド諸島――おもしろいこと――熱い仕事――とてもね」
「そんなところでやったら、とても熱いことでしょうな」ピクウィック氏は言った。
「熱い!――灼熱――焼けるよう――燃えるよう。一度試合をし――三柱門はひとつだけ――友人の大佐――サー・トマス・ブレイゾー――だれがいちばん大きな点をあげるか――トスに勝ち――|表《おもて》――午前七時――守備は六人の土人――打者になる。打撃ばっかり――猛烈な暑気――土人はみんな気絶――つれ去られ――新しい六人を配置――これも気絶――ふたりの土人に支えられ――プレイゾーが投球――ぼくをアウトにできず――これも気絶――大佐を運びだし――降参しようとしない――最後にのこされた男――忠実な従者――クウァンコー・サンバ――太陽はジリジリ、バットは火ぶくれ、ボールは茶色に焼け――五百七十点――そうとう疲労――クウァンコーが最後の力をふりしぼり――ぼくをアウトにする――一風呂浴びて、夕食を食べにゆく」
「そして、そのなんとかという人はどうなりました?」ある年配の紳士がたずねた。
「ブレイゾーですか?」
「いや――もうひとりの人です」
「クウァンコー・サンバ?」
「そうです」
「かわいそうなクウァンコー――回復しませんでした――ぼくのためにボールを投げつづけ――自分でアウト――死んじまったんです」ここで見知らぬ男はその顔を褐色のジョッキの中に埋めたが、それが悲しみをかくすためだったのか、中身を飲むためだったのかは、なんともわからない。われわれがわかっていることはただ、彼がいきなり話をするのをやめ、ながくて深い息を一息つき、ディングリー・デル・クラブの主要人物ふたりがピクウィック氏に近づき、つぎのように言ったとき、それを心配そうにながめていたということだけである。
「われわれは『青獅子旅館』で粗末な夕食を食べようと思っています。あなたとあなたのお友だちの方々がいっしょに来てくださるとありがたいのですが……」
「もちろん」ウォードル氏が言った、「われわれの友人の中には、あの――」こう言いながら、彼は見知らぬ男のほうを見た。
「ジングル氏ですな」すぐその意味をさとって、多才のその紳士は言った。「ジングル――ノーホエアのノー・ホール(どこにもない、邸宅もないの意をふくんでいる)のアルフレッド・ジングル氏ですな」
「そうなれば、わたしも本当にうれしいです」ピクウィック氏は言った。
「ぼくもそうですよ」片腕をピクウィック氏の腕にとおし、のこりの腕をウォードル氏の腕にとおして、アルフレッド・ジングル氏は言い、ピクウィック氏の耳にそっとささやいた――
「すばらしくおいしい料理――冷えていても、すごいもの――今朝部屋をのぞいて見たんです――鶏とパイとそういったものすべて――この連中は愉快な人たち――その上、行儀がいい――とてもね」
これ以上べつにとり決めることもなかったので、一同はふたり、三人と連れだってブラブラと町に歩いてゆき、十五分もたたぬうちに、全員がマグルトンの『青獅子旅館』の大広間に坐り――ダムキンズ氏が司会者役を、ラフィー氏が道化の悪役を演ずることになった。
おしゃべりが大いにおこなわれ、ナイフとフォークはにぎやかな音を立て、皿がどんどん運びこまれた。重そうな頭をした三人の給仕があちらこちらととびまわり、テーブルの上の豊かな食料はどんどんと姿を消していったが、そのごたごたした料理のそれぞれに、おどけたジングル氏は少なくとも六人前の援助の手をさしのべていた。全員が腹いっぱい食べたとき、食事は片づけられ、酒びん、コップ、デザートがテーブルの上に並べられ、給仕たちは引きさがって『片づけ』、言葉を変えて言えば、彼らが手に入れられるかぎりののこりの食事・酒類を食べたり飲んだりがはじまった。
つづいて起こった笑いさざめきと会話のガヤガヤした音の中で、なにも言うな、さもなければ食いつくぞといったふくらんだ顔をした小男がひとりいたが、彼はなにも言わずにいて、ときどき、話がだれてきたとき、きわめて重大ななにごとかを言おうとしているように、あたりを見まわし、折りにふれて、得も言えぬほど堂々とした短い咳払いをしていた。あたりがちょっと静かになったとき、この小男はとても大きな、厳粛な声で叫んだ――
「ラフィーさん!」
相手が「はっ!」と答えたとき、みなは話をやめて静まりかえった。
「みなさんに杯を満たすよう、おねがいしてください。わたしはあなたにちょっとお話がしたいのです」
ジングル氏はもったいをつけて「ヒヤ、ヒヤ!」と叫び、のこりの人々はみなそれに応じた。杯が満たされてから、副会長はいかにも注意を払っているといったさとり顔をして言った――
「ステイプルさん」
「きみ」立ちあがりながら、小男は言った、「わたしは有能なる議長にではなく、あなたにわたしの言葉をお伝えしたいのです。有能なる議長はある程度――いや、大いに――わたしの言うこと、いや――」
「述べること」とジングル氏は口をはさんだ。
「そう、述べることの主題になるからです」小男は言った。「もし友と呼ぶことを許していただければ――(「ヒヤ」の声が四声、そのうちひとつは、たしかにジングル氏のもの)――いま口をはさんでくださったことにたいして、尊敬すべき友に感謝いたします。わたしはデルの住人――ディングリー・デルの住人です(喝采)。マグルトンの町の一員である名誉を主張することはできません。また、これは率直に認めますが、そうした名誉を望んでもいません。その訳を申しあげましょう――(ヒヤ)。マグルトンにはそれが当然主張できる名誉とすぐれた点があることは、わたしも|素直《すなお》に認めます――それは余りにも多く、余りにも知れわたっているので、ここでわたしが言葉をそえ、その要点をくりかえす必要はないほどです。しかし、マグルトンがダムキンズやポダーのような人物を生み出したことを記憶する一方、ディングリー・デルがラフィーやストラグルズといった人物を誇ることができる事実を絶対に忘れないようにしましょう(大声の喝采)。ダムキンズやポダーの価値をわたしがけなそうとしているものとは、どうかお考えにならないでください。彼らがいま心に味わっている満足感を、わたしはうらやましく思っています(喝采)。わたしの話をお聞きのみなさんは、たぶん、――ふつうの言葉を使えば――|桶《おけ》の中に『住居を定め』ていたある人間がアレクサンダー大帝にした返事をご存じでしょう――『もしわたしがディオゲネスでなかったら』彼は言ったのです、『わたしはアレクサンダーになりたい』。ここにおいでの紳士方が『もしわたしがダムキンズでなかったら、わたしはラフィーになりたい。もしわたしがポダーでなかったら、わたしはストラグルズになりたい』とおっしゃることは、わたしには十分に想像できます(熱狂)。だが、マグルトンの方々、あなたの仲間の町の方がすぐれているのは、クリケットだけでしょうか? ダムキンズと断固たる決意のことをお聞きになったことはありませんか? ポダーと所有権を結びつけて考えるように教えられたことはありませんか?(大拍手喝采)。自分の権利、自由、特権のために闘っているとき、たった一瞬のあいだでも、疑惑と絶望に走らされたことはありませんか? そして、あなたの心がこうして沈んでいったとき、ダムキンズの名がたったいま消えた火をあなたの胸にふたたび燃えあがらせはしませんでしたか? あの人物が発した一言がその火をふたたび消えたことがないように明るく燃え立たせませんでしたか? (大喝采)。みなさん、わたしは『ダムキンズとポダー』の結ばれた名前を熱狂的な喝采の豊かな光輪の中につつみたいのです」
ここで小男は話をやめ、ここで一座は声をあげ、テーブルをどんどんとたたきはじめ、それは、ほとんどやむことなく、のこりの宵のあいだ中つづけられた。ほかの乾杯がおこなわれた。ラフィー氏とストラグルズ氏、ピクウィック氏とジングル氏は、それぞれ順番に、無条件の賞賛の対象になり、各人それぞれ、その名誉にたいして感謝の言葉をかえした。
いままで献身的努力を払ってきた崇高な事業にわれわれは情熱を傾けているのであるから、こうした言葉のわずかな輪郭なりとも熱心な読者にお伝えできたら、われわれが表示できぬほどの誇りやかな気持ち、いまや奪われてしまった不死の名に値することを自分が果たしたという意識をもつことができるだろう。スノッドグラース氏は、例によって、じつに多量の覚え書きを書き|誌《しる》している。燃える雄弁、あるいはぶどう酒の熱気をおびた影響力が、あの紳士の手をひどく不安定なものにし、彼の字と文体をほとんど訳のわからぬものにしてしまわなかったら、彼の覚え書きは疑いもなくじつに有益で貴重な情報をもたらしてくれたことだろう。忍耐強い調査の結果、語り手の名に多少は似ている何人かの人物を探り当てることができたし、さらに、歌(たぶんジングル氏によって歌われたものだろう)の記入も識別することができる。その歌の中では「大杯」、「キラキラ輝く」、「ルビー」、「光り輝く」、「ぶどう酒」といった言葉がしばしばくりかえされている。覚え書きの最後のところに、『あぶり肉』のことを言っているかと思われるぼんやりとした言葉、ついで、『冷えた』、『なしの』といった単語を識別できるが、そうした言葉を基にしてつくりあげることのできる仮定は必然的にただ推測にたよることになるのだから、それがひきおこすどんな推定も、ここでは慎重につつしむことにしたい。
そこでわれわれはタップマン氏のところにもどることになるが、その夜十二時数分前になるまで、ディングリー・デルとマグルトンのお偉方の集合の歌声が、強い感動と力をこめて、つぎの美しい心を打つ国歌を歌っていたのが聞こえてきたことだけはつけ加えておこう。
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朝まで家にはもどりはせぬ、
朝まで家にはもどりはせぬ、
朝まで家にはもどりはせぬ、
夜明けの光のさすまでは。
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第八章
[#3字下げ]真の愛情の道は鉄道でないことを強く示す
ディングリー・デルの静かな|人気《ひとけ》のない雰囲気、たくさんの女性がいること、彼らがトレイシー・タップマン氏のために示した気づかいと配慮は、生来深く彼の胸に植えつけられ、いまひとりの美しい対象にそれを集中すべく運命づけられているかに見えたあのやさしい感情をはぐくみ育てるのにとても好都合なものだった。若い婦人方は美しく、その態度は魅力的、その性格は非の打ちどころのないものだったが、独身の叔母の態度には威厳、その歩きぶりにはふれてはならぬといったようす、その目つきには尊厳が備わり、若い婦人方の|齢《とし》で、それはどうにもならぬもの、その特質が、タップマン氏のいままで見たどんな女性とも彼女を異なるものにしていた。ふたりの性格に同類のもの、その魂に共鳴し合うもの、その胸になにか神秘的に共感をわかせるものがあることは明らかだった。タップマン氏が傷ついて草の上に倒れたとき、最初に彼の唇から出たのは彼女の名前、家まで支えられてもどったとき、最初に彼の耳を打ったのは、彼女のヒステリックな笑いだった。しかし、彼女の興奮は、どんな場合でも同じように抑えがたいやさしい女性の感受性の発露であったのだろうか? それとも、それは、すべての男のなかで彼のみがひきおこし得るもっと熱烈な情熱的感情であったのだろうか? 彼がソファの上にのびて横になっていたとき、彼の頭を悩ましたのは、こうした疑問だった。この疑問を、彼はただちに、永久に解決しようと決心した。
夕方だった。イザベラとエミリーはトランドル氏といっしょに散歩に出ていた。つんぼの老夫人は椅子で眠りこみ、太った少年のいびき声は、低い単調な音となって、遠い台所から聞こえてきていた。元気な召使いたちはわきのところでぶらつき、夕方の快さ、農場の太ってノソノソとした獣と荒っぽくふざけ楽しむよろこびを味わっていた。そして、興味深い一対の男女が、だれにもかまわれず、だれをもかまわずの状態で坐っていた。簡単に言えば、彼らは注意深くたたまれた一対の手袋のように――たがいにひとつに結び合って――坐っていたのである。
「花のことを忘れていましたわ」独身の叔母が言った。
「いま水をおやりなさい」説得するような調子でタップマン氏は言った。
「夕方の空気で|風邪《かぜ》をおひきになりますことよ」やさしく独身の叔母は注意した。
「いや、いや」立ちあがりながらタップマン氏は言った。「かえって気分がよくなります。いっしょにお伴をさせてください」
婦人は立ちどまり、青年の左腕が入れられているつり包帯をなおし、その右腕をとって、彼を庭につれだした。
奥にすいかずら[#「すいかずら」に傍点]、ジャスミン、つた[#「つた」に傍点]類のあるあずまや――心やさしい人が|蜘蛛《くも》の住み家のために建てたあの快いかくれ家があった。
独身の叔母は隅にある大きな|如雨露《じようろ》をとりあげ、あずまやを出ようとした。タップマン氏は彼女を抑え、自分のそばの席に彼女を引っぱっていった。
「ウォードルさん!」彼は言った。
独身の叔母は体をふるわし、たまたまこの大きな|如雨露《じようろ》の中に入れられてあった小石は、子供のおもちゃのがらがらのように、ガタガタと音を立てた。
「ウォードルさん」タップマン氏は言った、「あなたは天使です」
「タップマンさん!」如雨露それ自身のように真っ赤になって、レイチェルは叫んだ。
「いや」雄弁なピクウィック会員は言った――「それはもう十分にわかっていることです」
「すべての女性は天使、と申しますことね」ふざけて婦人はつぶやいた。
「では、あなたはなにになるのでしょう? 失礼ですが、あなたをなにに|譬《たと》えたらいいのでしょう?」タップマン氏は答えた。「あなたに似た女性がどこにいましょう? 美質と美が世にもまれにこうしてひとつに結ばれているのを、ほかのどこに見つけることができましょう? ほかのどこにわたしが――おお!」ここでタップマン氏は話を切り、幸福な如雨露の柄をにぎっていた手をしっかりとにぎりしめた。
婦人は|面《おもて》をそむけた。「男の方はひどい嘘つきです」彼女は物柔かにささやいた。
「そうです、そうです」タップマン氏は叫んだ。「しかし、すべてがそうだとはかぎりませんよ。絶対に心変わりできない男――全生活をあなたの幸福にささげ――生き|甲斐《がい》をあなたの目だけに見出し――呼吸をするのもあなたの微笑の中だけ――ただあなたのためにのみ人生の重い荷を堪える男が少なくともひとりはいるのです」
「そんな人って、見つかるものなら――」婦人は言った――
「見つかりますとも」口をはさんで、熱をおびたタップマン氏は言った。「見つかったんです。ウォードルさん、ここにいるのですからね」そして、婦人がまだ彼の意図に気づかぬうちに、タップマン氏は彼女の足もとにひざまずいた。
「タップマンさん、どうかお立ちください」レイチェルは言った。
「いや、絶対に立ちません!」が勇ましい返答だった。「おお、レイチェル!」――彼は無抵抗の彼女の手をつかみ、それを唇におしつけたとき、如雨露は地面にころがり落ちた――「おお、レイチェル、愛していると言ってください」
「タップマンさん」頭をそむけて、独身の叔母は言った――「そんな言葉、とても口にはできませんわ。でも――でも――あなたはわたしにぜんぜん無関心というわけではないのですことね」
この愛の告白を耳にするや、タップマン氏は自分の情熱的激情がうながし、おそらく(というのも、われわれはこうしたことにはほとんど門外漢なのだから)そうした環境におかれた男がいつもすることをしはじめた。彼はパッと立ちあがり、片腕を独身の叔母の首にまわし、その唇に何回かキスをおしつけ、彼女は一応もがき抵抗はしながらも、そのあとではそれを無抵抗に受けつづけ、この婦人がいかにも驚いたようにおびえた声で「タップマンさん、だれかが見ています!――見られてしまったわ!」と叫ばなかったら、それから先タップマン氏が何回キスをおしつけたかは、見当もつかなかった。
タップマン氏はあたりを見まわした。そこには身じろぎもせず、大きな丸い目をむいてあずまやをのぞきこんでいる例の太った少年が立っていたが、どんなすぐれた人相学者でも、驚き、好奇心、その他人間の心を動かすどんな情熱をもあらわしていると言える表情は、その顔にぜんぜん示されてはいなかった。タップマン氏は太った少年をジッと見つめ、太った少年は彼をジッとにらみつけていた。太った少年の顔のうつろさをタップマン氏が見れば見るほど、少年がいままでのことを知らず、あるいは理解していないという確信がタップマン氏の心に強くなっていった。こうした印象のもとで、彼はじつにしっかりとした態度で言った――
「なにか用かね?」
「夕食ができました」がさっと出た返事だった。
「たったいまここに来たのかね?」目を鋭くさせて、タップマン氏はたずねた。
「たったいまです」太った少年は答えた。
タップマン氏はふたたびギュッと強く相手をにらんだが、相手の目はまばたきひとつせず、顔はゆがみもしなかった。
タップマン氏は独身の叔母の腕をとり、家のほうに歩いてゆき、太った少年はそのあとにつづいた。
「あの少年はなにも知らないでいるんです」彼はささやいた。
「ええ、なにもね」独身の叔母は答えた。
彼らの背後に、つい抑え切れずに出たといったくすくす笑いのような物音がした。タップマン氏はさっとふりかえったが、それはあの太った少年であるはずはなかった。彼の顔のどこにも、おもしろがっている気配、食い気以外のどんな感情もあらわれてはいなかった。
「彼はぐっすり眠っていたにちがいありません」タップマン氏はささやいた。
「ええ、きっとそうよ」独身の叔母は答えた。
ふたりは愉快そうに笑った。
タップマン氏はまちがっていた。太った少年は、今回にかぎり、ぐっすりと眠ってはいなかったからである。彼はいままでのことをはっきり――じつにはっきりと知っていたのだった。
夕食は、みなが語り合おうとする気配もなく、終わってしまった。老夫人は床にはいり、イザベラ・ウォードルはもっぱらトランドル氏にかかりっきり、独身の叔母の配慮はタップマン氏に向けられ、エミリーの思いは遠くかなたにあるものに奪われているようだった――おそらくそれは、いまはここにいないスノッドグラース氏のところにとんでいたのであろう。
十一時――十二時――一時が鳴ったが、一行はまだもどって来なかった。驚きの表情がみなの顔にあらわれていた。彼らが待ち伏せされ、おそわれたのだろうか? 彼らが帰ってくると思われるすべての道にカンテラをもった人を派遣すべきだろうか? あるいは、それとも――あっ! 彼らが帰ってきた。どうしてこんなにおそくなったのだろう? 聞きなれぬ声もしている! あの声はだれの声だろう? 一同は遊びほうけて帰ってきた連中がはいっていった台所にとんでゆき、その実情をすぐはっきりとさとった。
ピクウィック氏は手をポケットに入れ、帽子を左目の上に深く斜にかぶり、食器戸だなによりかかって、頭を大きく横にふりながら、なんのこれといったわけもないのに、じつに柔和なやさしい微笑を浮かべつづけていた。老ウォードル氏は顔を真っ赤にさせて見知らぬ紳士の手をつかみ、永遠に変わることなき友情の誓いをつぶやいていた。ウィンクル氏は八日巻きの時計のそばで身を支えて、寝たらよいとすすめる家族のだれの頭にも破滅がふりかかれと弱々しく祈っていた。スノッドグラース氏は椅子にぐったりと坐り、人間が想像し得るかぎりのぐったりした絶望的なみじめさをその表情豊かな顔一面にあらわしていた。
「どうかしたのですか?」三人の婦人はたずねた。
「なんでもありませんよ」ピクウィック氏は答えた。「われわれ――われわれは大丈夫です。――ねえ、ウォードル、われわれは大丈夫だろう、えっ?」
「そうと思いますな」陽気な主人は言った――「お前たち、これがわが友――ピクウィック氏の友――ジングルさんだ。ちょっとした訪問でおいでになったんだけどね」
「スノッドグラースさんはどうかなさったのかしら?」いかにも心配そうに、エミリーがたずねた。
「なんでもありませんよ」見知らぬ男は答えた。「クリケット試合の晩餐――すばらしい会――すごい歌――時代つきのポートワイン――クラレット酒――おいしい――とてもおいしい――ぶどう酒――ぶどう酒」
「ぶどう酒じゃなかったよ」とぎれとぎれの声でスノッドグラース氏はつぶやいた。「それはさけ[#「さけ」に傍点]だったんだ」(とにかく、こうした場合には、絶対にぶどう酒ではないのだ。)(当時酒に酔ったとは言わずに、料理に酔ったと言う習慣に言及したもの。ここでは魚のさけ)
「お寝みになったほうがいいのじゃないかしら?」エマはたずねた。「召使いたちふたりでみなさんを二階におつれできるわ」
「ぼくは寝ませんぞ」断固としてウィンクル氏が言った。
「どんな召使いだって、わしを運べるものか」ピクウィック氏はしっかりと言い切り――前どおり微笑しつづけていた。
「万歳!」ウィンクル氏がかすかにあえいだ。
「万歳!」ピクウィック氏はそれに応じ、帽子をとって、それを床に投げつけ、気が狂ったように、眼鏡を台所の真ん中に放りだし――このおかしな放れ|業《わざ》を彼はすぐに笑いだしていた。
「もう――一本――飲みましょう」ウィンクル氏は叫んだが、その声は非常な大声ではじまったものの、最後には、かすかな声音になっていた。彼の頭は胸の上にがっくりと垂れ、寝はしないぞという不屈の決意と、朝「タップマンをやっつけ」なかったことにたいする心からの悔恨をつぶやきながら、ぐっすりと眠りこみ、太った少年が自ら監督をして、ふたりの若い巨人の手によって、そのままの状態で、彼は寝室に運びこまれていった。スノッドグラース氏も、その後間もなく、その体を太った少年に預けることになった。ピクウィック氏はタップマン氏の差しだされた腕をそのまま受けとり、前よりもっとニコニコしながら、静かに消えていった。ウォードル氏は、いますぐ処刑されるといった人のように、家族全員に愛情こもった別れの挨拶を述べ、わが身を二階に運ぶ名誉をトランドル氏に与え、いかにも厳粛で威厳のあるふうをよそおおうとむだな努力をしながら、引きさがっていった。
「なんてひどい光景だこと!」独身の叔母は言った。
「|忌《い》まわしい!」ふたりの娘は叫んだ。
「おそろしい――おそろしい!」とても深刻な顔をして、ジングルは言った。彼は、一本と半分くらい、仲間のだれより深酒をしていたのだった。「おそろしい光景――とてもね!」
「なんていい方なんでしょう!」独身の叔母はタップマン氏にささやいた。
「その上、美男子よ!」エミリー・ウォードルはささやいた。
「おお、たしかにね」独身の叔母は言った。
タップマン氏はロチェスターの未亡人のことを思い、彼の心はかき乱されていた。それにつづく三十分の会話は、この乱された心を静めてくれるものではなかった。新しい客はとても話好きで、そのおびただしい逸話の数を上まわるものといえば、それはただ彼の|慇懃《いんぎん》さだけだった。ジングルの人気があがればあがるほど、自分(タップマン)の影が薄くなることを、タップマン氏は感じた。彼の笑いはむりな作り笑い――彼の陽気さはいつわりのものになっていた。そして、とうとう痛む頭を床に横たえたとき、彼はおそろしいよろこびを味わいながら、いまこの羽根入り敷きぶとんと掛けぶとんのあいだにジングルの頭をかかえていたら、どんなにうれしいことだろう、と考えていた。
不屈の見知らぬ男は翌朝早く起き、仲間は前夜の酒宴のためにまだ床の中にのびていたのに、彼の努力は、朝食の陽気さをとても盛りあげていた。この努力はすごい成功をおさめ、つんぼの老夫人まで、らっぱ補聴器で彼のすぐれた冗談をひとつふたつ伝えてもらおうとし、この彼女さえ独身の叔母に「彼(ジングルのこと)は遠慮のない青年」と言ったのだったが、この考えは彼女の一族全員が即座に完全に共鳴した意見だった。
夏の天気のよい朝、タップマン氏がすでに異彩を放ったあのあずまやにつぎのようないでたちでゆくことが、老夫人の習慣になっていた。まず第一に、太った少年が老夫人の寝室のドアのうしろの掛けくぎからピッタリした黒いしゅすのボネット帽、温かい木綿のショール、しっかりとした柄のついた太いステッキをもってき、老夫人がゆっくりとボネット帽とショールを着け終わると、片手をステッキに、片手を太った少年の肩にかけて、ゆっくりとあずまやに歩いてゆき、太った少年はそこに彼女をおいておき、三十分ほど新鮮な空気を楽しませ、その時刻が終わると、彼がもどってきて、彼女を家に連れもどすのだった。
老夫人はとても|几帳面《きちようめん》でうるさい人だった。この儀式は、あいつぐ三年の夏のあいだ、いつもの型と少しもちがわずに、おこなわれてきていたので、この朝、太った少年があずまやを出てゆかずに、そこから数歩だけ外に出てゆき、四方を用心深く見わたし、そっと、じつに深遠な神秘をひそめた態度で彼女のところにもどって来たのを見て、彼女は少なからずびっくりした。
この老夫人は小心で――たいていの老夫人はそうである――彼女の最初に受けた印象は、このふくれあがった少年が、自分から小金を盗もうとして、なにかひどい危害を自分に加えようとしている、ということだった。彼女は助けを求めて悲鳴をあげるところだったが、老齢で体が弱っているので、それは不可能だった。そこで彼女は彼の動きをひどい恐怖の情でジッとながめていたが、その恐怖の情は、彼が彼女のそばによって来て、興奮した、彼女にはそう思えたのだが、脅迫的な語調で彼女の耳に「奥さん!」と叫んだとき、少しも軽減してはいなかった。
さて、ジングル氏は、たまたまちょうどそのとき、あずまやの近くの庭を歩いていた。彼もまた「奥さん」という叫びを耳にし、足をとめて、その先を聞こうとしていた。彼がそうしたのには、三つの理由があった。まず第一に、彼はなまけ者で、好奇心の強い男だった。第二に、彼は物堅くて実直な人間では絶対になかった。最後、第三に、花の咲いた木の|藪《やぶ》で彼の姿はかくされていた。
「奥さん!」太った少年は叫んだ。
「ねえ、ジョー」ふるえながら、老夫人は言った。「いいかね、ジョー、わたしはいままでお前に親切にしてやったのだよ。お前はいつも親切にあつかわれてきたね。仕事といっても多すぎることはなし、いつだって十分な食べ物をあてがわれてきたのだよ」
この最後の言葉は、太った少年のもっとも敏感な感情に訴える力をもっているものだった。彼が力をこめてつぎのように答えたとき、彼は心を打たれているようだった。
「それは知ってます」
「では、いま、お前はなにをしたいと思っているの?」元気が出てきて、老夫人はたずねた。
「あなたをぞっとさせたいんです」少年は答えた。
これは、感謝をあらわすいかにも血なまぐさい方法といった感じだった。そうした結果を達成する方法が老夫人にははっきりとつかめなかったので、以前の彼女の恐怖がすべてもどってきた。
「きのうの晩、このあずまやで、わたしがなにを見たとお思いになります?」少年はたずねた。
「まあ! なにかしら?」太った少年の重々しい態度におびえて、老夫人は叫んだ。
「あの見知らぬ紳士の方――腕を傷した人――がキスをし、だきしめてました――」
「ジョー、だれを? それは下女ではないのでしょうね?」
「それよりもっとまずいことです」太った少年は老夫人の耳もとでどなった。
「孫娘たちではないことね?」
「それよりもっとまずいことです」
「ジョー、それよりもっとまずいことですって!」これを人間の兇悪さの限度と考えていた老夫人は言った。「ジョー、だれだったの? ぜひ知らせておくれ」
太った少年は用心深くあたりを見まわし、それを終えてから、老夫人の耳もとで叫んだ――
「レイチェルさんです」
「まあ!」|甲高《かんだか》い声を出して、老夫人は叫んだ。「もっと大きな声を出して」
「レイチェルさんです」太った少年はどなった。
「わたしの娘ですって!」
そうだということを示す太った少年の一連のうなずきは、彼の太った頬にブラマンジュ(コーンスターチ、牛乳、砂糖をまぜてつくったクリーム状の白い食べ物)的動きを伝えた。
「そして、あの女があの男にそれをさせたんですって!」老夫人は叫んだ。
太った少年がつぎのように答えたとき、彼の顔にニヤリとした笑いがひろがっていった。
「あの方のほうから男にキスしているのを、わたしは見ました」
この言葉を聞いたときの老夫人の顔の表情をジングル氏がそのかくれ場所から見ることができたら、たぶん急に笑いだして、自分があずまやのほんの近くにひそんでいることを暴露していたことだろう。彼は聞き耳を立てて聞いていた。「わたしの許しもなしで!」――「あんな齢をしているのに」――「わたしのようなみじめな老婆」――「わたしが死ぬまで待ってくれてもよさそうなもんなのに」といった怒りの言葉の断片が、彼の耳に聞こえてきた。ついで、太った少年が引きさがり、老夫人をひとりだけのこしていったとき、彼の靴のかかとが敷き石をザクザクと踏みしめる音が聞こえてきた。
ジングル氏が前夜ファーム|館《やかた》に着いて五分とたたないうちに、さっそく独身の叔母の心を攻略することにとりかかろうと心中決めていたのは、注目すべき偶然の一致ではあったが、それにせよ、それは厳然たる事実だった。彼の美しい攻撃対象にとって彼の無造作な態度が決して不愉快なものではなかったことを、彼はちゃんと見てとり、相手がすべての必要条件のうちでいちばん望ましいもの、ささやかな自活できる収入をもっているものと、強く見こんでいた。なにか手段を使って恋仇を追っ払ってしまうのが絶対に必要だということが、すぐ彼の頭にひらめき、一刻もぐずぐずはせずに、その目的に役立つ方法をとろうと、彼はすぐ決心した。フィールディング(ヘンリー・フィールディング(一七〇七―五四)、イギリスの小説家)は、男は火、女は麻くず、彼らに火をつけるのは魔王サタンだ、と言っている。独身の叔母にとって若い男は火薬にたいする燃えたガスであることを、ジングル氏は知っていて、時刻をうつさず爆発の効果をためしてみよう、と決心していた。
この重要な決意を十分に考えながら、彼はかくれ場所からはいだし、前にも言った|木藪《こやぶ》の陰にかくれて、家に近づいていった。運命の神は彼の意図を祝福しているようだった。家が見えてきたとき、タップマン氏とほかの紳士たちがわきの門をとおって庭から外に出てゆき、若い婦人たちが、朝食後すぐ、ひとりひとりになって散歩に出かけたことを、彼は知っていた。邪魔する者はなし、いまこそチャンスだった。
朝食の部屋のドアは少し開いていた。彼は中をのぞきこんだ。独身の叔母は編み物をしていた。彼は咳をした。彼女は目をあげ、にっこりした。|躊躇《ちゆうちよ》はアルフレッド・ジングル氏の性格にはないものだった。彼は神秘的に指を唇にあてがい、中にはいり、ドアを閉めた。
「ウォードルさん」真剣をよそおって、ジングル氏は言った、「|闖入《ちんにゆう》をお許しください――わずかなおつき合い――形式ばっているひまはなし――みんなばれてしまいました」
「まあ!」思いもかけず男が闖入してきたことにひどく驚き、ジングル氏が正気かどうかに強い疑念をもって、独身の叔母は言った。
「しっ!」他人に聞こえよがしなささやき声で、ジングル氏は言った――「大きな少年――まんじゅう|面《づら》――丸い目――悪党め!」ここで彼は表情豊かに頭をふり、独身の叔母は興奮して体をふるわせた。
「ジョーゼフのことをおっしゃっておいでなのかしら?」つとめて冷静をよそおって、婦人はたずねた。
「そうです――いまいましいジョーのやつめ!――ジョーは陰険な犬――老夫人に話し――老夫人はカンカン――狂乱――うわ言――あずまや――タップマン――キスとだきしめ――そうしたことすべて――どうです、えっ――どうです?」
「ジングルさん」独身の叔母は言った、「もしわたしに侮辱を加えるためにここにおいでになったとしたら――」
「とんでもない――絶対ちがいます」臆せずジングル氏は答えた――「その話を立ち聞き――あなたの危険を知らせにやってき――お役に立とうとし――さわぎを起こさないように。かまいません――それを侮辱と考えてください――部屋を出てゆきます」まるでその言葉をすぐに実行にうつそうとしているように、彼はクルリと向きを変えた。
「わたし、どうしたらいいのでしょう!」わっと泣きだして、あわれな独身女は言った。「兄はきっとひどく怒ることでしょう」
「もちろん、そうですな」立ちどまって、ジングル氏は言った――「けしからんことです」
「おお、ジングルさん、わたし、どう言ったらいいのでしょう!」もう一度絶望でわっと泣きだしながら、独身の叔母は叫んだ。
「彼がそんな夢を見たんだ、と言いなさい」冷静にジングル氏は答えた。
こう教えられて、|安堵《あんど》の光が一筋、独身の叔母の心にさしこんできた。ジングル氏はそれを察知し、その虚に乗じで言った――
「ふーん、バカな!――これほど楽なことはない――ごろつきの少年――美しい女性――太った少年は馬の|鞭《むち》でたたかれ――あなたは信じられ――万事終わり――めでたし、めでたし」
この間のわるい暴露の結果をのがれられる可能性が独身女の心にうれしいものだったか、あるいは、自分が「美しい女性」と言われたのを聞いて、その悲しみがゆるめられたのか、これはなんとも言えない。彼女はちょっと頬を染め、うれしそうな一瞥をジングル氏に投げた。
このとりこみのうまい紳士は深い溜め息をもらし、二分間独身の叔母の顔をジッと見つめ、いかにも芝居がかったふうにギクリとし、突然目をそむけた。
「ジングルさん、あなたはご不幸のようですね」物悲しげな声をして、婦人は言った。「あなたがご親切にも口をはさんでくださったことにたいするお礼のしるしに、そのわけをおたずねしてもいいかしら? できたら、その不幸をとり除いてあげたいのですけど……」
「はっ!」もう一度ギクリとして、ジングル氏は叫んだ――「とり除くですって! わたしの不幸をとり除き、あなたの愛情はそのありがたみを知らん男に授けられる――いまでも、ある人の姪の愛情を奪おうとたくらみ、その人は――いや、よしましょう。彼はぼくの友人、彼の欠点をばらすことはやめにしましょう。ウォードルさん――さようなら!」彼が話した言葉のうちでいちばん途切れのないこの言葉を話し終わって、ジングル氏は前にお知らせしたハンカチののこりを目にあてがい、ドアのほうに向かった。
「ジングルさん、お待ちください!」独身の叔母は力をこめて言った。「あなたはタップマンさんのことを言っておいでなのね――それをどうかはっきりと説明してください」
「いや、絶対だめです!」いかにも職業的な(すなわち、芝居がかった)態度で、ジングルは叫んだ。「絶対だめです!」それ以上あれこれと問いただされたくはないというのを示す方法として、彼は独身の叔母の椅子のそばにべつの椅子を引きよせ、そこに坐った。
「ジングルさん」叔母は言った、「おねがい――一生のおねがい、もしタップマンさんになにかおそろしい秘密があるのでしたら、どうかそれを教えてください」
「ぼくが」叔母の顔に目をすえて、ジングル氏は言った――「ぼくが見ていられましょうか――美しい女性――|社《やしろ》に|犠牲《いけにえ》にされ――ひどい|貪欲《どんよく》だ!」彼は、数秒間、さまざまの相容れぬ激情と戦っているようだったが、それから、低い太い声で言った――
「タップマンがねらっているのは、きみの金だけです」
「ひどい人!」ものすごく憤慨して、独身女は叫んだ。(ジングル氏の疑惑はこれで解消。彼女は金をもっているのだった。)
「その上」ジングルは言った――「べつの女を愛してます」
「べつのですって!」独身女は叫んだ。「だれです?」
「背の低い娘――黒目――姪のエミリー」
ここで話がちょっと途切れた。
さて、全世界で独身の叔母が強い深く根ざした嫉妬を燃え立たせている人間がひとりいるとしたら、それはまさにこの姪だった。彼女の顔と首にはさっと赤味がさし、口にも出せぬほどいかにも軽蔑しきったようすで、彼女はだまったまま、グイッと頭をそらせた。とうとう、薄い唇を噛み、|顎《あご》を引いてつんとして、彼女は言った――
「そんなことはあり得ないこと。わたし、信じませんことよ」
「ふたりをジッと見ていてごらんなさい」ジングル氏は言った。
「ええ、見ていますわ」叔母は言った。
「彼の顔つきをジッと見ていてごらんなさい」
「ええ、見ていますわ」
「彼のささやきも」
「ええ」
「食卓で、彼は彼女のとなりに坐りますよ」
「ええ、いいわ」
「彼女にお世辞たらたらでしょう」
「ええ、いいわ」
「彼女に、もう、へいこらすることでしょう」
「ええ、いいわ」
「そして、あなたに知らん顔をするでしょう」
「知らん顔ですって!」独身の叔母は金切り声をあげた。「あの人が知らん顔――ですって!」こう言って、彼女は、怒りと失望で体をふるわせた。
「それで納得しますね?」ジングル氏は言った。
「ええ、納得します」
「あなたのしっかりしたところを見せてくださいますね?」
「ええ、見せますわ」
「あとで彼を恋人にはしませんね?」
「絶対に」
「ほかのだれかを恋人にしますか?」
「ええ」
「そのことは、こちらにまかせてください」
ジングル氏はひざまずき、その状態を五分つづけ、立ちあがったときには、独身の叔母のれっきとした恋人になっていた。ただし、タップマン氏の偽りがはっきりと証明されたら、という条件づきで……。
この証明の重荷がアルフレッド・ジングル氏の肩に重くかかったわけだが、彼は、もうその日の夕食で、その証拠を示した。独身の叔母は自分の目を信じられぬ気持ちだった。トレイシー・タップマン氏はエミリーのわきに席をとり、スノッドグラース氏に対抗して、秋波を送り、ささやき、ニコニコしていたのである。前の晩の彼の心の|憧《あこが》れの的にたいしては、一言も、一瞥も、流し目ひとつ送らなかった。
「くそっ、あの坊主め!」老ウォードル氏は心中考えていた――彼は母親から例の話を聞いていたのだった。「くそっ、あの坊主め! やつは寝ていたにちがいない。あの話は、みんなやつのでっちあげだ」
「裏切り者!」独身の叔母は考えた。「ジングルさんの言葉には、うそはなかったのだわ。まあ、あんな男なんて、大きらい!」
つぎの会話は、トレイシー・タップマン氏の一見したところわけのわからぬ態度の変化を読者に説明することになるだろう。
時は夕刻、場所は庭。小道を歩いているふたりの人影があった。一方はそうとう背が低く太り、のこりはそうとう背が高くほっそりしていた。このふたりはタップマン氏とジングル氏だった。太った人物が話しだした。
「どうしてあんなことをしてしまったのだろう?」彼はたずねた。
「すばらしい――すごい――ぼくだってあれ以上の芝居はできない――明日もう一度、それをしなけりゃいけませんぞ――こちらから言葉をかけるまで、毎晩ね」
「まだレイチェルが、それを希望しているんですか?」
「もちろん――それを好んではいない――だけど、しなけりゃならないこと――疑いを避け――兄をおそれ――仕方がないと言ってます――もうわずか何日間かのこと――老人たちの目をくらましたら――あなたの幸福は万々歳」
「なにか彼女からの伝言は?」
「よろしく――よろしく――くれぐれもよろしく――変わることなき愛情とね。きみからの伝言はなにかありますか?」
「きみ」激しく彼の「友人の」手をつかんで、すっかり相手を信用し切っているタップマン氏は言った――「ぼくからも、くれぐれもよろしく――偽るのがどんなに苦しいかを伝え――やさしい言葉はどんなものでも伝えてくれたまえ。だが、今朝きみをとおして彼女がぼくに伝えた言葉がどんなに重要かは、ぼくがしっかり心得ているということもね。彼女の才知をぼくが礼賛し、その慎重さに心を打たれていると伝えてくれたまえ」
「ええ、伝えますよ。ほかになにか?」
「なにもありません。ただ、彼女を自分のものと呼べるようになり、すべての偽りが不必要になる時が来るのをどんなに待ち望んでいるかだけはちゃんと伝えてください」
「もちろん、もちろん。ほかになにか?」
「ああ、きみ!」相手の手をふたたびつかんで、あわれなタップマン氏は言った、「きみの私心のない親切にたいしては、心から感謝していますよ。そして、たとえ口に出さずとも、ひどいこと、きみがぼくの邪魔をするかもしれないと考えたことを許してくれたまえ。親愛なる友よ、どうしてきみにお礼したらいいのだろう?」
「そんなことは考えないでください」ジングル氏は答えた。彼は、なにか急に思い出したといったように、話を切って、言った――「ところで――十ポンド都合していただけませんか?――特別な用件――三日でおかえしします」
「貸してあげられるでしょう」感激で胸をいっぱいにして、タップマン氏は答えた。「三日ですね?」
「たった三日――そのときには、ぜんぶけり――それ以上どうということなし」
タップマン氏は金を数えてそれを相手にわたし、ふたりが家のほうに歩いていったとき、ジングル氏はその金をひとつずつポケットに落としていった。
「用心するんですぞ」ジングル氏は言った――「一瞥だってだめ」
「チラリとも見ませんよ」タップマン氏は答えた。
「一言だってだめ」
「コソリとも話しませんよ」
「姪のほうにせっせと努力――叔母のほうには、そうとう不作法――それが老人たちの目をくらますただひとつの方法」
「用心しますよ」声を大きくして、タップマン氏は言った。
「そして、こちらも用心するさ」ジングル氏は心中で語り、ふたりは家にはいっていった。
その日の午後の光景は、その晩もくりかえされ、それはその日につづく三日間の午後と晩にもつづけられた。四日目に主人はとても上機嫌だった。タップマン氏にたいする非難に根拠のないことがよくわかったからである。タップマン氏も上機嫌だった。自分の恋愛が間もなくとどのつまりに来ることを、ジングル氏から伝えられていたからである。ピクウィック氏も上機嫌だった。というのも、彼はいつもそうした気分になっていたからである。スノッドグラース氏は上機嫌ではなかった。彼はタップマン氏を妬っかむ気分におそわれていたからである。老夫人はホイストで勝っていたので、上機嫌だった。ジングル氏とウォードル嬢も上機嫌だったが、その理由はこの波瀾のある物語で重要なもの、つぎの章でそれをお話しすることにしよう。
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第九章
[#3字下げ]発見と追跡
夕食はきちんとならべられ、椅子は食卓のまわりに引かれ、びん、ジョッキ、コップが食器だなに飾られ、すべてのものが、一日二十四時間のうちでもっとも楽しい食事の近づいたことを物語っていた。
「レイチェルはどこにいる?」ウォードル氏はたずねた。
「そう、それにジングルは?」ピクウィック氏が言葉をそえた。
「いやあ」主人は言った、「いままで、あの人の姿を見かけないことはなかったのだが……。いや、少なくとも二時間、彼の声は聞いてませんぞ。エミリー、ベルを鳴らしておくれ」
ベルが鳴らされ、太った少年が姿をあらわした。
「レイチェルさんはどこにいる?」彼はそれに答えることができなかった。
「それから、ジングルさんはどこに?」彼はそれにも答えることができなかった。
みなはびっくりしていた。時刻はおそく――十一時をすぎていたからである。タップマン氏はほくそ笑んでいた。ふたりはどこかをブラブラと歩き、自分のこと[#「自分のこと」に傍点]を話しているのだ。はっ、はっ! こいつはおもしろい――おかしなことだ。
「心配することはない」少しして、ウォードル氏は言った、「すぐあらわれるでしょうよ。だが、わしはだれかのために夕食を延ばすことは絶対にしませんぞ」
「それはりっぱな規則」ピクウィック氏は言った、「すばらしいものです」
「どうかお坐りください」主人は言った。
「ええ」ピクウィック氏は答え、一同は腰をおろした。
食卓の上には冷えた牛の巨大なもも肉がすえられ、ピクウィック氏はその大きな一部を与えられた。彼は唇のところにフォークをもってゆき、いままさに肉の|一片《ひときれ》を口に入れようとしていたとき、大声のガヤガヤ言う声が台所でわきおこった。彼は聞き耳を立てて動作をとめ、フォークを下におろした。ウォードル氏の動きもとまり、それと気づかずに切り盛り用の大型フォークから手を放し、フォークは肉に突き刺さったままになっていた。彼はピクウィック氏をながめ、ピクウィック氏は彼をながめた。
どたばたいう足音が廊下に聞こえ、部屋のドアがいきなりさっと開かれた。ピクウィック氏がはじめてここに到着したとき彼の靴の掃除をした男が部屋にとびこみ、そのあとに太った少年、召使い全員がつづいた。
「これは、いったい、どうしたことだ?」主人は叫んだ。
「台所の煙突が火事になったんじゃないのだろうね、えっ、エマ?」老夫人はたずねた。
「まあ、おばあちゃま! ちがうことよ」ふたりの孫娘は悲鳴をあげた。
「どうしたんだ?」ウォードル氏はどなった。
男は息をつこうとはあはああえぎ、弱々しく叫んだ――「旦那さま、ふたりはいっちまいました!――本当にいっちまいました!」(このとき、タップマン氏はナイフとフォークを下におき、真っ青になった。)
「だれがいってしまったんだ?」激しい勢いでウォードル氏がたずねた。
「ジングルさんとレイチェルさんです。マグルトンの『青獅子旅館』から駅伝馬車に乗ってゆきました。わたしはそこにいたんです。でも、それをとめるわけにはゆかず、そこで、報告にとんで帰ってきたんです」
「その金はぼくが払ったんだ!」狂乱状態でとびあがりながら、タップマン氏は言った。「ぼくの金を十ポンドもっているんだ!――彼をとめろ!――いかさまだ!――これが我慢できるもんか――ピクウィック、仕返ししてやるぞ!――許すもんか!」こんなとりとめない叫びを発して、この気の毒な紳士は激しい怒りの発作で部屋をくるくるととびまわっていた。
「いや、これは大変!」おびえ、びっくりしながら、友人のとてつもない動きを見て、ピクウィック氏は叫んだ。「頭がおかしくなったのだ! どうしたらいいだろう?」
「どうするだって!」ピクウィック氏の最後の言葉だけをつかまえて、太った老主人は言った。「一頭引きの二輪馬車に馬をつけろ! わしは『青獅子旅館』でふたり乗りの馬車をやとい、すぐにふたりを追いかける。どこに」――男がそれをしに外に走り出していったときに、主人は叫んだ――「あの悪党のジョーはどこにいるんだ?」
「ここにいます。でも、わたしは悪党じゃありません」声が答えたが、それは例の太った少年の声だった。
「ピクウィック、とめないでくれ」この不幸な若者にとびかかってゆきながら、ウォードル氏は叫んだ。「やつはあの悪人のジングルから金をもらい、妹ときみの友人タップマンのいい加減な話をして、わしをごまかそうとしたんだ!」(ここでタップマン氏はぐったりと椅子に坐った。)「とめないでくれ!」
「どうかそれをとめて!」女たちは声をそろえて金切り声をあげたが、その声の中で、太った少年のオイオイ泣く声がひときわはっきりと聞こえていた。
「抑えたりするな!」ウォードル氏は叫んだ。「ウィンクルさん、手を放してくれ。ピクウィックさん、わしを自由にしてくれ!」
太った少年が部屋にいる女性全員に引っかかれ、引っぱられ、部屋から追いだされてゆくあいだ、ピクウィック氏が顔をだいぶほてらせ、太った主人の大きな腰にその両腕をしっかりと巻きつけているとき、この混乱とさわぎの|最中《さなか》にあって、彼の冷静な、さとり澄ました顔を眺めることは、美しい光景とも言えるものだった。彼が手を放すとすぐ、男がはいってきて、一頭引きの二輪馬車の準備ができたことを伝えた。
「ひとりでゆかせてはいけません!」女たちは叫んだ。「だれか人を殺してしまうでしょうからね」
「わたしがいっしょにゆきましょう」ピクウィック氏が言った。
「いや、ありがたい、ピクウィック」彼の手をつかんで、主人は言った。「エマ、首にまきつけるショールをピクウィックさんにあげるんだ――急いで。娘たち、おばあちゃんの世話をたのんだぞ。気が遠くなっているのだからな。さあ、いいですか?」
大きなショールでピクウィック氏の口と顎が巻かれ、帽子が頭に乗せられ、外套が腕に投げられてから、彼は、用意ができた、と返事をした。
ふたりは馬車にとびこんだ。「トム、全速力だ!」主人は叫び、せまい小道を車のわだちにとびこんだりとびでたり、両側の生垣にドスンドスンと車をぶつけたりして、まるで車体がいつ粉々になるかもしれないような勢いで、ふたりはとびだしていった。
「やつらはどのくらい先にいったのだ?」『青獅子旅館』の戸口に着いたとき、ウォードル氏は叫んだ。時刻はおそいのに、戸口のまわりには小さな人の群れができていた。
「四十五分は越えていません」がみなの答えだった。
「四頭立ての馬車をすぐ!――早くたのむ! 乗ってきた馬車はあとでしまってくれ」
「おい、みんな!」宿屋の主人は叫んだ――「四頭立ての馬車を出せ――急ぐんだ――ぐずぐずするな!」
馬丁と御者たちはとんでいった。人が右往左往しているとき、カンテラがチラチラと輝いた。内庭のでこぼこした敷石の上で、馬の|蹄《ひづめ》がカタカタと音を立てた。車体は、車小屋から引きだされたとき、ゴロゴロと音を立てた。あたりは物音とさわぎにつつまれていた。
「さて!――いったい、車は今晩中に出るのかね?」ウォードル氏は叫んだ。
「いま内庭から出てくるとこです」馬丁は答えた。
車が引きだされ――馬がつけられ――御者たちがとびのり――旅に出るふたりは中に乗りこんだ。
「いいか、七マイルの道を三十分たらずでたのむぞ!」ウォードル氏は叫んだ。
「さあ、出発!」
御者は鞭と拍車を加え、給仕と馬丁は大声をあげ、すごい勢いで車はとびだしていった。
「なかなかおもしろい事態だ」一瞬考える余裕が出たとき、ピクウィック氏は考えていた。「ピクウィック・クラブの議長にとっては、なかなかおもしろい事態だ。しめった馬車――妙な馬――一時間に十五マイル――しかも、時刻は夜十二時!」
最初の三、四マイルのあいだは、ふたりの紳士はいずれも一言も話さないでいた。それぞれが自分の考えにふけり、仲間に話しかける余裕がなかったからである。しかし、三、四マイル進み、馬の体がすっかり温まってズンズンと調子よく走りはじめたとき、ピクウィック氏はその速度ですっかりいい気分になり、これ以上だまってはいられなくなった。
「きっとふたりはつかまりますよ」彼は言った。
「そうだといいんですがね」相手は答えた。
「美しい夜ですな」|耿々《こうこう》と輝いている月を見あげて、ピクウィック氏は言った。
「いや、それだけ不都合なわけですよ」ウォードル氏は答えた。「やつらは月の光を利用してわれわれの機先を制し、われわれはそれだけおくれるわけです。月はもう一時間もしたら、沈むことでしょう」
「暗闇をこんな速度でとぶなんて、あまりぞっともしませんな、どうです?」ピクウィック氏はたずねた。
「そう、そうでしょうな」彼の友は冷淡に答えた。
ピクウィック氏がなんの考えもなくとびだしたこの探険旅行のもつ困難と危険を考えたとき、彼の一時的な興奮は静まっていった。先頭の馬にたいする左の馬の騎手の大きな叫び声で、彼ははっとした。
「よう――よう――よう――よう――よう」最初の騎手が叫んだ。
「よう――よう――よう――よう!」第二の騎手が叫んだ。
「よう――よう――よう――よう!」馬車の窓から頭と体半分を乗り出して、老ウォードル氏がじつにたくましく調子を合わせた。
「よう――よう――よう――よう!」その意味・目的はぜんぜんわからないながらも、その叫びに合わせて、ピクウィック氏は大声を出した。そして、四人がこうして「よう、よう」と叫んでいるその叫びの最中に、馬車はとまった。
「どうしたんだろう?」ピクウィック氏はたずねた。
「門があるんです」老ウォードル氏は答えた。「逃亡者のなにか情報を聞けるでしょう」
五分間絶え間なくノックしたりどなったりしたあとで、シャツとズボン姿の老人が通行税取り立て門の小屋から出てきて、門を開いた。
「駅伝馬車がここをとおってから、どのくらいたったかね?」ウォードル氏はたずねた。
「どのくらいですって?」
「ああ!」
「いや、はっきりはわかってませんね。ずっと前でもなし、ついさっきというわけでもなし――ちょうどその中ほどというとこでしょうな、たぶん」
「駅伝馬車がここをとおったかね?」
「ええ、とおりましたよ、駅伝馬車がね」
「どのくらい前かね、きみ?」ピクウィック氏は口をはさんだ、「一時間くらいかね?」
「ああ、そうかもしれませんね」男は答えた。
「それとも、二時間くらいかね?」|後馬《うしろうま》に乗った御者はたずねた。
「うん、そんなようにも思いますね」疑がわしそうに、老人は答えた。
「さあ、ゆくんだ」いらいらして、老紳士は叫んだ。「あの老人のバカを相手にして時間をつぶさんほうがいい!」
「バカだって!」門を半分閉じ、道の真ん中に立って、グングンと遠ざかって姿を小さくしてゆく駅伝馬車を見やりながら、ニヤリとして老人は叫んだ。「いや――とんでもない。ここでお前さんは十分むだにつぶし、結局なんにもわかってはいないじゃないか。ちびのでぶさん、|金輪際《こんりんざい》まちがいはなし、あの駅伝馬車はミカエル祭(九月二十九日)までつかまらないよ」そして、もう一度ゆっくりニヤリとして、老人は門を閉じ、家にはいりこみ、ドアをしっかりと閉めた。
一方、馬車は道路の終点に向けて歩調をゆるめず進んでいった。月は、ウォードル氏が予言したように、どんどんかけていった。ここしばらくのあいだ、だんだんと空にひろがりだしていた幾重もの大きな黒々とした雨雲は、いまはもう頭上でひとつの黒いかたまりになり、馬車の窓にときおり打ちつけていた大きな雨の|滴《しずく》は、あらしの夜の急速な接近を旅人たちに知らせているようだった。彼らに真向かいから吹きつけていた風は、せまい道路ぞいに激しい突風となってとおりすぎ、小道をとりまく木のあいだで、陰気なうなり声をあげていた。ピクウィック氏は外套をしっかりと体に巻きつけ、馬車の隅で体を丸め、ぐっすりと眠りこみ、それから目を覚ましたのは、車がとまり、馬丁のベルが鳴り、「すぐに馬をつけろ!」という大きな叫びがあげられたときだけだった。
だが、ここでべつの遅延が起きた。御者が|摩訶《まか》ふかしぎにも完全な眠りにおそわれ、彼らを起こすのに、それぞれ五分はかかってしまった。馬丁は、とにかく、うまやの鍵をまちがった場所におき、それが見つかったときでも、ふたりのねぼけ|眼《まなこ》の助手はまちがった馬具をまちがった馬につけ、馬具づけぜんぶをもう一度やりなおさなければならなくなった。ピクウィック氏がひとりだったら、こうした幾重もの障害にぶつかって、追跡はもうあきらめてしまったことだったろうが、老ウォードル氏はそんなにたやすくは参らなかった。彼は心からの熱心さで|獅子奮迅《ししふんじん》の活躍ぶりを示し、この男を平手でピシャリやったかと思うと、あの男をグイッとおし、ここで締め金具をとめたかと思うと、あそこで輪をとり、その結果、こうした多くの困難のもとで、馬車の準備は思ったよりずっと早くできあがった。
彼らは旅をつづけたが、前途の見とおしは決して明るいものではなかった。道のりは十五マイルあり、夜は暗く、風は強く、雨は|篠《しの》つくように降っていた。こうしたさまざまな障害にぶつかっては、早く進むことは不可能だった。もうやがて一時になろうとし、つぎの宿場に着くのに、ほぼ二時間が使われてしまった。しかし、ここで、彼らの希望の火をふたたびともし、彼らの滅入る心をふたたびふるい立たせるものがあらわれた。
「この馬車はいつはいってきたのかね?」自分自身の車からとびだし、中庭に立っているびっしょり泥まみれの馬車をゆびさしながら、老ウォードル氏は叫んだ。
「まだ十五分にもならん前です」質問を浴びせられた馬丁は答えた。
「婦人と紳士だろう?」じりじりした気持ちであえぎながら、ウォードル氏はたずねた。
「そうです」
「背の高い紳士――燕尾服――ながい足――|痩《や》せた体かね?」
「そうです」
「年配の婦人――痩せた顔――そうとう痩せこけた――どうだね?」
「そうです」
「たしかに、あのふたりだ、ピクウィック」老紳士は叫んだ。
「もっと早く着くとこだったんですがね」馬丁は言った、「引き革を切っちまったんです」
「あのふたりだ!」ウォードル氏は言った、「きっとあのふたりだ! すぐ四頭立ての馬車をたのむ! つぎの宿場に着くまでに、やつらをつかまえられるだろう。御者の諸君、それぞれに一ギニーやろう――ぐずぐずするな――せっせとやってくれ――たのむぞ」
こんな注意をして、老紳士は興奮状態で内庭をとび歩き、あちらこちらとあたふたしていたが、その興奮状態はピクウィック氏にも感染していった。そうした状況のもとで、ウォードル氏は、馬具・馬・馬車の車輪とじつに驚くほどのごっちゃまぜのもみくちゃ状態になり、それでいながら、旅をつづける準備を推進させるのに自分は大いに役立ったものと固く信じこんでいた。
「とびこんで――とびこんで!」馬車によじのぼり、踏み段を引きあげ、ドアをピシャンと閉めて、老ウォードル氏は叫んだ。「さあ! 急いで!」そして、それとわからぬうちに、ピクウィック氏はべつのドアのところでウォードル氏に引っぱられ、馬丁に尻をおされて、中におしこまれていた。かくして、ふたりはふたたび出発した。
「さあ、これでわれわれは動いてるぞ」うれしそうに老紳士は言った。じっさい、動いていることはたしかで、それは、馬車の木細工や相手の体にたえずひどくぶつかっていることで、ピクウィック氏に十分に証明されていた。
「しっかりして!」ピクウィック氏が頭からウォードル氏の大きなチョッキの中にとびこんでいったとき、彼は叫んだ。
「こんなひどいゆれは、いままで味わったこともありませんな」ピクウィック氏は言った。
「心配することはない」相手は答えた、「すぐに終わりますからな。しっかりして、しっかりして」
ピクウィック氏はできるだけしっかりと自分の隅に身をすえ、馬車は前にもまして、つむじ風のように、突進していった。
ふたりがこのようにして約三マイルほど進んでいったとき、窓から二、三分間外を見ていたウォードル氏は、突然泥まみれの顔を引っこめ、息もつけぬほどむきになって叫んだ――
「あっ、あそこにいる!」
ピクウィック氏は頭を窓の外に出した。そう、彼らの少し前方に全速力でとんでゆく四頭立ての駅馬車があった。
「進め、進め」老紳士の声は金切り声に近かった。「御者諸君、それぞれに二ギニーやろう――やつらにわしたちを引きはなすようなことはさせるな――どんどん進め――どんどん進め」
先頭の馬車の馬は全速力で走り、ウォードル氏の馬はそのあとをすごい勢いでとんでいった。
「あいつの頭が見える」激しやすい老人は叫んだ。「ちくしょう、あいつの頭が見えるぞ」
「たしかにそうですな」ピクウィック氏は言った、「あれが彼です」
ピクウィック氏の目に狂いはなかった。車輪からはねあがる泥でべったり塗られたジングル氏の顔が彼の馬車の窓のところにはっきりと見え、激しい勢いで御者にふっている彼の腕の動きは、彼が御者をせかせていることを物語っていた。
興味|津々《しんしん》の場面だった。畠、木、生垣はつむじ風のような速さでとおりすぎていった。彼らのとんでゆく速さはそうしたものだった。彼らは先頭の馬車のわきにピタリとついていて、車のガラガラという音にもかかわらず、御者を|急《せ》かせているジングルの声がはっきりと聞こえてきた。老ウォードル氏は激怒と興奮で口からあわを吹いていた。彼は悪党・悪人の罵声を何回かどなってくりかえし、拳をつかみ、それを怒りの対象に向けてはっきりとふっていたのだが、ジングル氏はただ軽蔑の微笑でそれに答えるだけ、鞭と拍車をさらに加えて彼の馬が速度をまし、追跡者をあとにしたとき、勝ちほこった叫びでウォードル氏の脅迫の言葉に答えた。
ピクウィック氏が頭を引っこめ、ウォードル氏がその怒号にくたびれて同じように頭を引っこめたとき、ひどいひとゆれがして、ふたりは車の前面にたたきつけられた。急にドシンとぶつかり――ガラガラッというすさまじい音響――車はひっくりかえった。
ほんの数秒の狼狽と混乱――そこでは、馬が後脚をあげてとびあがり、ガラスがくだけるのしかわからなかったが――の後で、ピクウィック氏は自分の体が激しい勢いで車の残骸の中から引き出されるのを感じ、立ちあがって、彼の眼鏡の効用をひどく損ねていた外套のすそから頭を出すとともに、この事件の全損害がはっきりと彼にわかってきた。
老ウォードル氏は、帽子は消え、服はところどころ切れて、彼のわきに立ち、馬車の破片がふたりの足下に散らばっていた。引き革をうまく切るのに成功した御者たちは泥まみれ、きつい旅でぐったりして、馬の頭のわきのところに立っていた。百ヤードほど前方には、轟音を聞いてとまったジングル氏の馬車があった。御者たちは、それぞれニヤリとした笑いで顔をゆがませ、鞍の上から相手方を見やり、ジングル氏はいかにも満足そうに馬車の窓から残骸をジッとながめていた。夜は明けようとし、朝の灰色の光で、光景ぜんぶをすっかり見わたすことができた。
「やあ!」恥知らずのジングル氏は叫んだ、「だれか傷しましたかね?――初老の紳士方――体重も軽くはなし――危険な仕事――とてもね」
「お前は悪人だぞ!」ウォードル氏はどなった。
「はっ! はっ!」ジングル氏は答え、それから、心得顔のウィンクをし、親指で馬車の中をさしながら、言いそえた――「ねえ――彼女はとても元気――よろしくって――心配しないようにと言ってますよ――タッピーによろしく――うしろに乗りませんかね?――さあ、御者諸君、馬を走らせろ」
御者たちは姿勢を正し、馬車はガラガラと走りだして、ジングル氏は窓から白いハンカチをからかってふっていた。
こうしたすべての冒険のどんなことも、車の転覆さえも、ピクウィック氏の気質の静かな波立たぬ流れを乱しはしなかった。だが、自分の忠実な信奉者からまず金を借り、その名前を省略して「タッピー」と呼ぶといったひどいことは、ピクウィック氏にはとても我慢ならぬことだった。彼がゆっくりと力をこめてつぎのように言ったとき、彼の息づかいは荒くなり、眼鏡のへりのところまで顔が真っ赤になっていった。
「あの男にまた出逢うようなことがあったら、わたしは――」
「そうだ、そうだ」ウォードル氏が口をはさんだ、「それはとても結構なこと。だが、われわれがここで話しながら立っているあいだに、やつらは結婚認可証を手に入れ、ロンドンで結婚してしまうでしょう」
ピクウィック氏は話をやめ、自分の復讐心をびんにつめ、それにしっかりとコルクをはめた。
「つぎの宿場までどのくらいあるかね?」ウォードル氏は御者のひとりにたずねた。
「六マイルないかね、トム?」
「いや、もっとありますな」
「六マイル以上あります」
「仕方がない」ウォードル氏は言った、「ピクウィック、歩かにゃなりませんぞ」
「どうにもほかに方法はありませんな」真に偉大なるかの人物は言った。
そこで御者のひとりを馬で先にやって、新しい馬車の都合をさせ、のこりの者をうしろにのこしてこわれた馬車の面倒を見させて、ピクウィック氏とウォードル氏は、首のまわりにショールを巻きつけ、ついで、ちょっとあがったあとで、ふたたびすごい勢いで降りだしたひどい雨をできるだけ避けるために、帽子を前に引きさげて、勇敢にさっさと歩きだした。
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第十章
[#3字下げ]ジングル氏の性格の公正さにたいする疑惑(疑惑があったとすれば)をすべて解消する
ロンドンには何軒かの古い宿屋があり、駅伝馬車が|今日《こんにち》やっているよりもっと重々しく、もっと厳粛にその旅をしていた時代に、それは有名な駅伝馬車の本部だったところであるが、いまはいなかの荷車のとまっている予約場所になりさがってしまっている。近代的なロンドンの街路に堂々とした正面をはりだしている『黄金十字旅館』や『雄牛と飲食旅館』といったものに、こうした古い旅館を求めても、それはむだだろう。こうした古い場所を見つけたかったら、読者はロンドンの比較的人に知られていない地区に足を向けなければならない。そうしたら、そこのどこか奥まった片隅に、近代的な改革にとりまかれて、そういった建物がまだ何軒か、一種の陰気なたくましさを示しながら、立っているのに気がつくだろう。
とくにバラ地区(サザクと同じ。ロンドンの自治区で、テムズ川の南岸北域)には古い宿屋がまだ数軒かのこっていて、外見は変わらず、一般の改革の流行と個人企業の侵入からまぬかれている。それは回廊・廊下・階段のついた大きな、まがりくねった、妙な古い場所で、われわれが幽霊話を発明しなければならないといった痛ましい状態におちいり、この世がながくつづいて、古いロンドン橋やその近くのサリー州側の地区にまつわる数知れぬもっともらしい伝説が使いつくされてしまったとすれば、そこは、そうした百もの話の材料を提供してくれるほどガランとしてひろく、古めかしいものだった。
前の章で語ったさまざまな事件のあった日の翌朝早く、こうした宿屋の一軒――『白雄鹿』という有名な宿屋――の内庭で、ひとりの男がせっせと靴の泥を刷毛で落としていた。彼は黒いキャラコの|袖《そで》のついたあらい|縞《しま》のチョッキ、青いガラスのボタン、茶色のズボンときゃはんを着けていた。明るい赤のハンカチがとてもゆるく、わざとらしくないふうに首にまかれ、白い古帽子が無造作に頭の横に乗せられていた。彼の前には靴が二列ならんでいて、一方は掃除ずみのもの、のこりはよごれたままのものだったが、きれいになった列に一|足《そく》加えるごとに、彼は仕事の手を休め、いかにも満足げに仕事の成果をながめていた。
この内庭には、大きな駅伝馬車の宿屋のいつもの特徴になっているあの雑踏とさわぎのようすは、ぜんぜん見かけられなかった。ふつうの家の三階の窓にとどくほどのゆったりとしたおおいの下に荷物の山をそれぞれ積んでいる三、四台の不恰好な荷車が、内庭の端にひろがる高い屋根の下に入れられ、おそらくその朝旅に出るもう一台の荷車は、開けた場所に引き出されていた。古い不細工な手すりのついた二層になった寝室の回廊がこのまとまりのない内庭の二面を走り、それに応ずる二列のベルが、小さな傾斜した屋根で雨風から守られて、バーと喫茶室に通じるドアの上にかけられてあった。二、三台の一頭引きの二輪馬車と二輪荷馬車が異なった小さな小屋と差しかけ小屋の下に引かれて入れられていた。そして荷馬車馬のときどき立てる重い足音や内庭の奥で鎖のガラガラいう音は、それに関心のある人には、うまやがそちらにあることを示していた。わらの山の上にまき散らした重い荷物、羊毛を入れた|俵《たわら》、それ以外の荷の上に仕事着を着た数人の若者が眠っていたことを言いそえれば、問題の朝の、バラ地区の|大通り《ハイ・ストリート》にある『白雄鹿旅館』の内庭の概要を、必要なだけちゃんと説明したことになろう。
ベルのひとつが大きな音を立て、それにつづいて、ひとりの小ざっぱりとした女中が二階の寝室の回廊にあらわれ、ドアのひとつを軽くたたき、奥から注文を受けて、手すり越しに大声を出した――
「サム!」
「やあ」白い帽子をかぶった男が答えた。
「二十二番で靴をお求めよ」
「それがいま必要か、できるまで待ってくれるか、二十二番にきいてくれ」
「まあ、バカなことを言っちゃだめよ、サム」機嫌をとるようにして、女中は言った、「お客さまはすぐに靴がお入り用なのよ」
「うん、お前は音楽会にもつれていけるようないい子だよ、お前は」靴掃除夫は言った。「ここにある靴をご覧――十一足の編上靴と六番の片っ方の短靴と木の義足だ。八時半までに十一足の編上靴を掃除し、九時までに短靴を片づけなくちゃならんのだ。ほかの人を出しぬこうなんて、二十二番は、いったい、だれなんだい? だめ、だめ、ジャック・ケッチ(一六六三―八六年ごろ有名だった絞刑吏、それから一般の絞刑吏をいうようになった)が人をつりさげるときに言ったように、きちんと順番待ちだよ。お待たせしてすみませんな、旦那、でも、すぐあなたのにとりかかりますよ」
こう言って、白帽子の男は前にもます熱心さで乗馬靴を磨きにかかった。
もう一度大きくベルが鳴り、『白雄鹿旅館』のあたふたした老おかみが反対側の回廊に姿をあらわした。
「サム」おかみは叫んだ、「どこにいるんだろう、あのなまけ者の、ぐうたらな――まあ、サム――おお、そこにいるのね。どうして返事しないの?」
「そちらの話が終わるまでに返事したら、失礼になりますからね」つっけんどんにサムは答えた。
「さあ、十七番のこの靴をすぐに磨いてちょうだい。そして、それを二階の五番の私室の居間にもっていってね」
おかみは一足の婦人用の靴を内庭に投げ、そそくさと消えていった。
「五番と」靴をひろいあげ、ポケットから|白墨《はくぼく》をとりだし、靴の底にその番号を書きこんで、サムは言った――「婦人靴と私室の居間だって! まさか、その女、荷車に乗ってやって来たんじゃあるまいな」
「今朝早く来たのよ」回廊の手すりにまだよりかかっていた女中は叫んだ、「貸し馬車で紳士といっしょにね。靴を欲しがってるのはその人、それを早く磨いたほうがいいことよ、それだけの話だけど」
「どうして前にそう言わなかったんだい?」自分の前の靴の山から問題の靴を選りだして、大むくれでサムはたずねた。「たぶん、あの男はまったくつまらんやつだったんだろう。私室だって! それに婦人だって! あいつがちょっとでも紳士だったら、使い走り代はべつにしても、一日一シリングのかせぎがあるわけだぞ」
この元気を出させる考えにうながされて、サミュエル氏はせっせと精をこめて靴を磨き、数分たつと、靴と短靴はあの人のいいウォレン氏をも(ロンドンで一流の靴ずみ商。少年ディケンズは同じ名のべつの靴ずみ商につとめていた。つぎの靴ずみはその商売仇の製品)(というのも、『白雄鹿旅館』で使われているのはデイとマーチン(靴ずみの名)だった)羨ましがらせる|艶《つや》を出して五番の部屋の戸口にとどけられた。
「おはいり!」サムがドアをたたいたのに答えて、男の声が言った。
サムはじつに丁寧なお辞儀をし、朝食に坐っている婦人と紳士の前に出てゆき、おせっかいにも紳士の靴を彼の足下の左右に、婦人の靴を彼女の足下の左右において、ドアのほうにさがっていった。
「おい、靴磨き」紳士は言った。
「はっ」ドアを閉め、手を錠の引き手にかけて、サムは答えた。
「きみは知ってるかね――ええと――民法博士会(むかしロンドンにあった民法博士会の共同食堂。後に聖ポール寺院近くの同会の建物で、その法廷で遺言、検証、結婚、離婚などをとりあつかったが、一八五七年にとりこわされた)を?」
「はあ、知ってます」
「どこにある?」
「聖ポール寺院の境内です。馬車用の側には低いアーチの道、ひと隅には本屋の店、べつの隅にはホテルがあり、真ん中には認可書の客引きとしてふたりの門番がいます」
「認可書の客引きだって!」紳士は言った。
「認可書の客引きです」サムは答えた。「白いエプロンを着けたふたりの男――人がはいってゆくと帽子に手をあげ――『認可書、認可書ですか?』。やつらは妙なやつ、それにやつらの主人――中央刑事裁判所の代弁人もね――こいつはまちがいありません」
「客引きはなにをするんだね?」紳士はたずねた。
「なにをするかですって! あなたがおたずねになるなんて! そんなことだけじゃないんです。やつらは老紳士が考えたこともないことまで教えてくれるんです。わたしのおやじは、御者でした。彼は男やもめで、金持ち――たしかに大金持ちでした。おふくろが死んで、彼に四百ポンドの金をのこしてくれたからです。弁護士に会い、現金を引きだすために、民法博士会にいきました――とても身ぎれいにしてね――乗馬用の靴をはき――胸のボタン穴には飾り花――広ぶちのシルクハット――緑のショール――りゅうとした紳士ぶりでした。アーチの道をとおりながら、金をどう投資したものかと考えてました――客引きが近づき、帽子に手をあげ――『認可書、認可書ですか?』――『そいつはなんだい?』おやじはたずねました――『認可書です』彼は答えました――『なんの認可書なんだい?』がおやじの言葉――『結婚認可書ですよ』が客引きの答え――『ちぇっ』おやじは言いました、『そいつは考えたこともないぞ』――『それが欲しいんじゃないですか?』客引きはたずねました――おやじは足をとめ、ちょっと考え――『だめだ』彼は言いました、『ちぇっ、おれは年寄りすぎる。そのうえ、でかくなりすぎてるんだ』――『とんでもない』客引きは答えました――『とんでもないだって?』おやじはたずねました――『たしかにそうですよ』彼は答えました。『この前の月曜日、あんたの倍も大きな人を結婚させたんですからね』――『そうかい?』――『ええ、そうですとも』客引きは答えました、『あの男にくらべたら、あんたなんて赤ん坊も同然――こちらへ、どうぞ――こちらへ!』――そして、おやじはたしかに、オルガンのあとについていくおとなしい猿のように、彼のあとについて、小さな裏の事務所にはいっていき、そこではひとり男がきたない書類とブリキ箱のあいだに坐り、いかにもいそがしそうに見せかけてました。『どうか、わたしが宣誓口供書をつくるあいだ、そこにお坐りください』弁護士は言いました。『ありがとう』おやじはこう言って坐り、目を皿のようにし、口をあんぐり開いて、箱の上の名前をジッと見てました。『お名前は?』と弁護士。『トニー・ウェラーだよ』とおやじ――『教区は?』と弁護士――『ベル・ソウヴァージュ』おやじは答えました。車でやって来たとき、おやじはそこに泊まり、教区のことなんて、ぜんぜん知らなかったからです――『そして、ご婦人のお名前は?』弁護士はたずねました。おやじは度肝をぬかれてしまいました。『知るもんか』彼は答えたんです。『知らない!』弁護士は応じました――『お前さんと同じようにね』おやじは言ったんです、『それはあとで書きこめないんかね?』――『だめです!』が弁護士の答え――『ようし』ちょっと考えて、おやじは言いました、『クラーク夫人としてくれたまえ』――『なにクラークです?』ペンをインクにつけて、弁護士はたずねました――『ドーキングのグランビー侯爵家のスーザン・クラーク』おやじは答えたんです。『たぶん、こちらでたのめば、おれを亭主にしてくれるだろう――あの女になにも言ったことはないんだが、おれを亭主にするとも』。認可書がつくられ、彼女はおやじを亭主にし、そのうえかかあ天下、運のわるいことに、こちらは四百ポンドの金にはぜんぜんありつけない始末です。これは失礼しました」話が終わったとき、サムは言った、「でも、話がこの怨みごとのことになると、車に油をやった手押し車のように突っ走っちまうんです」こう言い、なにかべつに用はないかといったふうにちょっと立ちどまったあとで、サムは部屋から出ていった。
「九時半――ちょうどいい時刻――すぐに出発」と紳士は言ったが、この紳士をジングル氏として紹介する必要はもうなかろう。
「時刻って、なんの?」なまめかしく独身の叔母はたずねた。
『最愛の人よ、結婚認可書――教会と予約――明日、あなたはわたしのもの」――ジングル氏はこう言い、独身の叔母の手をギュッとにぎった。
「結婚認可書ですって!」顔を赤らめて、レイチェルは言った。
「結婚認可書」ジングル氏はくりかえした――
「急いで、さっさと結婚認可書、
急いで、さっさとわたしは帰る」
「あなたはなんて急いでおいででしょう」
「急ぐ――ふたりが結ばれたときの時間、日、週、月、年にくらべたら問題じゃない――急ぐ――時はとんでゆく――稲妻――逃亡だ――蒸気機関――千馬力――それにくらべたら、問題じゃない」
「でも――明日の朝にならないうちに、結婚できないかしら?」レイチェルはたずねた。
「不可能――だめ――教会と予約――きょう結婚認可書をおいてくる――式は明日」
「兄に見つかりはしないかと、とても心配なの!」レイチェルは言った。
「見つかる――バカな――馬車の故障でがっくり――そのうえ――非常な用心――駅伝馬車はすて――歩き――貸し馬車に乗り――バラに来たわけ――彼は絶対にこんな場所を調べはしない――はっ! はっ!――これはすばらしい考え――とてもね」
「ながいこと、ぐずぐずしていないでね」ジングル氏がとんがり帽を頭に乗せたとき、やさしくレイチェルは言った。
「ながいこと、きみからはなれてる?――ひどい人だ」ジングル氏はふざけて独身の叔母のところにとんでゆき、その唇に清らかなキスをし、踊りながら部屋から出ていった。
「かわいい人だこと!」彼が出ていったあとドアが閉められると、未婚の婦人は言った。
「妙な婆さんだ」廊下を歩いていったとき、ジングル氏は言った。
人間の背信について考えることは、苦しいことである。だから、ジングル氏が民法博士会にゆく道中の彼の考えの糸をたどるのはやめにしよう。あの魔力をもった場所の警護を固めている白いエプロン姿の監視の|罠《わな》をのがれて、彼は無事に主教の俗人代理(主教の司法行政事務を代行する)の事務所に到着、キャンタベリーの大主教からの「信頼し愛するアルフレッド・ジングルとレイチェル・ウォードル」にたいするお世辞たらたらの言葉を受けて、その神秘的な書類をポケットに注意深くしまいこみ、意気揚々とバラへもどっていったとお伝えすれば十分だろう。
彼が『白雄鹿旅館』にまだ帰りつかぬとき、ふたりの太った紳士とひとりの痩せた紳士が宿屋の内庭にはいって来て、あたりを見まわし、なにかものをたずねる人をさがしていた。サミュエル・ウェラー氏がたまたまそのとき色のついた乗馬靴を磨いていたが、その靴は、バラの|市《いち》での疲れのあとで、二、三ポンドの冷肉と一杯か二杯の黒ビールで元気づけをしている農夫のものだった。この彼のところに痩せた紳士はまっすぐ進んでいった。
「もし、友だちよ」痩せた紳士は言った。
「お前さんはただでべちゃくちゃ忠告してくれるようなやつだな」サムは心中考えた、「そうでなかったら、そう急におれを好きになるはずはないんだからな」しかし、彼は口では答えた――「はあ」
「友だちよ」機嫌をとるようにエヘンと咳払いをして、痩せた紳士は言った――「ここに、いま、お客はたくさん泊まっているかね? かなりいそがしいようだね、えっ?」
サムはそっと質問者のほうを見た。彼はひどく乾あがったような小男、顔は浅黒くておしつぶされた感じ、小さな落ち着きのない目は、物問いたげな小さな鼻の両側で、まるでその鼻といつまでも「いないいないばあ!」をやっているように、パチパチとまばたきをし、キラキラと輝いていた。彼の衣装は黒ずくめ、靴は目のように輝き、低い白ネクタイをつけ、ひだ飾りのついたシャツを着こんでいた。金の時計鎖と印鑑が時計入れのポケットからさがり、手に着けているのではなく、手の中に山羊皮の黒い手袋をにぎりこんでいた。彼は話しながら、手首を上衣のうしろのすそにつっこんで、いつも人を難問で苦しめているような態度を示していた。
「かなりいそがしいようだね、えっ?」小男はたずねた。
「ああ、よくわかりましたよ」サムは答えた、「破産もしなけりゃ、一身代もつくらんでしょう。ケイパー(西洋ふうちょうぼくのつぼみの酢づけ。ソースの味つけに用いる)なしで煮《に》た羊肉を食べ、牛肉があれば、わさび[#「わさび」に傍点]大根は食べたがりませんからね」
「ああ」小男は言った、「きみはひょうきん者だね?」
「わたしのいちばん上の兄貴はそいつで苦しめられててね」サムは言った。「それは伝染するのかもしれない――彼とはいつもいっしょに寝てましたからね」
「このきみの家は、妙な古い家だね」あたりを見まわしながら、小男は言った。
「おいでになるとお知らせがあったら、修繕しておくんでしたがねえ」落ち着き払ってサムは答えた。
こう何回も肘鉄をくって、小男はだいぶとまどったようす、彼とふたりの太った紳士のあいだでちょっと打ち合わせがおこなわれた。それが終わると、小男が長方形の銀の箱からかぎタバコをひとつまみとりだし、会話をまたつづけようとしたとき、やさしい顔をした、眼鏡をつけ、黒いゲートルをはいた太った紳士が口を入れた――
「ありていに言えば」やさしい紳士は言った、「きみが一、二の質問に答えてくれたら、このわたしの友人(もうひとりの太った紳士を指でさしながら)が半ギニーあげるのだがね……」
「もしもし――もしもし」小男は言った、「失礼ですが――もしもし、こうしたことで守らなければならない第一の原則は、専門家の手にことをまかせたら、途中で口を絶対につっこまないことです。相手を絶対的に信頼しなければいけません。まったく、(ここで、彼はもうひとりの太った紳士のほうに向いて言った)このあなたのご友人の名前を忘れてしまいましたが……」
「ピクウィックだ」ウォードル氏は言った。というのも、それはほかならずあの陽気な紳士だったからである。
「ああ、ピクウィックでしたな――失礼しました、まったく、ピクウィックさん、法廷助言者としてあなたの個人的な示唆なら、どんなものでもよろこんでお受けしますが、半ギニーやるといった人気とりのための議論でこの事件のわたしのやり口に干渉する不適当さはおわかりでしょう。まったく、まったく」こう言って、小男はさあ議論だといったふうにかぎタバコをひとつまみとり、いかにも深刻そうなふりをした。
「わたしが希望していたのはただ」ピクウィック氏は言った、「この不愉快な一件にできるだけ早く結着をつけようとしただけのことですよ」
「よくわかりました――よくわかりました」小男は言った。
「その目的で」ピクウィック氏はつづけた、「わたしの人にたいする経験がどんな場合にもいちばん成功しそうだと教えてくれたやり方を使ったまでのことなんです」
「ええ、ええ」小男は言った、「たしかにとても結構、とても結構。しかし、それをわたしにおっしゃるべきでしたね。専門家におくべき信頼がどの程度のものかは、あなただってご存じでしょう。こうした点でなにか拠りどころが必要とおっしゃるのでしたら、ご参照ください、あの有名な事件、バーンウェルと――」
「ジョージ・バーンウェルなんて、どうだっていいさ」この短い問答のあいだ、びっくりしながら話を聞いていたサムは口をはさんだ。「彼の事件がどんなものだったかは、だれだって知ってるさ。あの若い女の首を彼よりもっともっと絞めてやったほうがよかったと、おれはいつも考えてるけどね。だけど、そいつは関係のないことさ。あなたは半ギニー受けとれとおっしゃるんですね。結構、承知しましたよ。これ以上それをはっきり言えますかね?(ピクウィック氏はにっこりした。)それで、つぎの問題は、いったいわたしにどんな用があるんですかというこってす、亡霊を見た男が言ったようにね」
「われわれは知りたいのだが――」ウォードル氏は言った。
「もしもし――もしもし」せわしい小男は口をはさんだ。
ウォードル氏は肩をすくめ、だまってしまった。
「われわれは知りたいのだ」小男は厳粛に言った。「そして、家の中の者に不安をひきおこさないように、きみにたずねるんだがね――この家にいまどんな人がいるかを、われわれは知りたいんだ」
「家にだれがいるかですって!」サムは言ったが、その心の中では、客といえばいつも、彼が世話を見ることになる靴であらわされているのだった。「六番には木の義足。十三番にはヘシアン靴(十九世紀に使われた前方膝のところにふさのついた靴)。商談部屋では二足の半長靴。バーの中の部屋ではこの色のついた乗馬用の靴。喫茶室にはもう五足乗馬用の靴がありますよ」
「それしかないかね?」小男はたずねた。
「ちょっと待ってください」ふっと思い出して、サムは答えた。「うん、五番にずいぶん|摩《す》り切れたウェリントン靴(膝までくる長靴)が一足、それに女用の靴が一足ありますよ」
「女用の靴って、どんなものかね?」ピクウィック氏といっしょに、この妙な客の示し方にびっくり仰天していたウォードルが急いでたずねた。
「いなか製のもんですよ」サムは答えた。
「靴屋の名前はあるかね?」
「ブラウンです」
「どこの?」
「マグルトンです」
「やつらだ」ウォードル氏は叫んだ。「とうとう、見つけたぞ」
「しっ!」サムは言った。「ウェリントン靴は民法博士会にいきましたよ」
「まさか」小男は言った。
「いいや、いきました、結婚認可書をとりにね」
「間に合ったぞ」ウォードル氏は叫んだ。「部屋に案内してくれ。一刻も猶予はならんのだ」
「もしもし――もしもし」小男は言った。「用心、用心」彼はポケットから赤い絹の財布を引きだし、そこからソヴリン金貨をとりだしながら、ジッとサムを見つめていた。
サムは意味深にニヤリとした。
「われわれの名を伝えずに、すぐその部屋に案内してくれたら」小男は言った、「これはきみにやるよ」
サムは色のついた乗馬用の靴を隅に投げだし、先に立って暗い廊下をとおり、ひろい階段をあがっていった。彼は第二の廊下の終わったところで足をとめ、手をさしだした。
「さあ、これだ」案内人の手に金をわたしながら、弁護士はささやいた。
サムは数歩歩み、ふたりの友人とその法律顧問がそのあとにつづいた。サムはある戸口のところで足をとめた。
「これがその部屋かね?」小柄な紳士は声をひそめて言った。
サムはうなずいた。
老ウォードルがドアを開き、ちょうどそのときもどってきたジングル氏が独身の叔母に結婚認可書をさしだしたとき、三人全員が部屋の中にはいっていった。
独身の女は大きな悲鳴をあげ、椅子に身を投げて、両手で顔をおおった。ジングル氏は結婚認可書をくしゃくしゃに丸め、上衣のポケットにそれをつっこんだ。好ましからざる来訪者は部屋の中央に進んでいった。
「きみは――きみはひどい悪党だ、そうじゃないかね?」怒りで息がつまって、ウォードル氏は叫んだ。
「もしもし、もしもし」帽子をテーブルの上において、小男は言った。「どうか考えてください――どうか。名誉毀損、損害賠償訴訟ですぞ。どうか心を落ち着けてください、どうか――」
「図々しくも、どうして妹を家からつれだしたのだ?」老人はたずねた。
「ええ――ええ――とても結構」小柄な紳士は言った、「それはきいてもいい点です。どうして、図々しくもしたんだね?――えっ、きみ?」
「いったい、きみはだれだ?」すごい権幕でジングル氏がたずねたので、小柄な紳士はわれ知らず一、二歩とびさがった。
「彼がだれだと、この悪党め?」ウォードル氏が口をはさんだ。彼はグレイズ・イン(ロンドンにある法廷弁護士の協会四法学院のひとつで、イギリスの裁判官や法廷弁護士は、その会員で、この協会の試験を受ける)のわしの弁護士、パーカーさんだ。パーカー、わしはこの男を告発し――起訴し――わしは――わしはやつの身を滅してやるぞ。そしてきみは」妹のほうに突然向きなおって、ウォードル氏はつづけた。「レイチェル、もっと分別があってもいい|齢《とし》をして、浮浪者とかけおちし、家の名を傷つけ、自分自身をみじめにして、いったいどんなつもりになっているのだね? ボネット帽をかぶり、家に帰りなさい。おい、すぐに貸し馬車を呼び,この婦人の勘定書きをもってきてくれ、わかったか――わかったか?」
「はい、承知しました」ウォードル氏がベルを激しく鳴らしたのに応じてサムは答えたが、その素早さは、この会見中彼の片目が鍵穴の外にピタリとあてがわれていたのを知らない人には、きっとすごい驚きだったろう。
「帽子をかぶりなさい」ウォードル氏はくりかえした。
「そんなことはしなくていい」ジングル氏は言った。「部屋を出ていってもらいましょう――ここに用事はありませんよ――婦人の行動は自由なんですからな――二十一をすぎていてね」
「二十一をすぎてる!」ウォードル氏はさげすんだように叫んだ。「四十一をすぎてるとも!」
「ちがうわ」怒りが気絶しようとする決心に勝ってしまって、独身の叔母は言った。
「そうだとも」ウォードル氏は答えた、「絶対に五十だ」
ここで独身の叔母は大きな悲鳴をあげ、意識不明になった。
「水を一杯たのむ」やさしいピクウィック氏は宿屋のおかみを呼んで言った。
「水を一杯だって!」カンカンのウォードル氏は言った。「バケツをもってきて、それを彼女にぶっかけてやれ。そいつは彼女に薬になるだろうし、そいつをされても仕方がないんだ」
「まあ、ひどい人!」親切者のおかみは叫んだ。「かわいそうに」そして、「さあ、いい子ね――これを少しお飲みなさい――きっときくことよ――そんなにがっくりしてはだめ――いい子ね」等々といった叫びをあげて、おかみは、女中の手を借りて、額に酢をつけ、手を打ち、鼻をくすぐり、独身の叔母のコルセットをはずし、自分をかき立ててヒステリーになろうとしている女にやさしい女がいつもするほかの気力回復を試みはじめた。
「馬車の用意ができました」戸口にあらわれたサムが言った。
「さあ」ウォードル氏は叫んだ。「彼女はわしが下に運んでゆく」
こう言うと、前にも倍する勢いでヒステリーが起こってきた。
おかみがこのやり方に激しく抗議をしようとし、ウォードル氏が自分のことを神さまと思っているのかと怒気をまじえてなじりはじめたとき、ジングル氏が口をはさんだ――
「靴磨き」彼は言った、「巡査を呼んでくれ」
「ちょっと待って、待って」小男のパーカー氏が言った。「よく考えてください、よく考えて」
「ぼくは考えないよ」ジングル氏は答えた。「彼女は干渉されることはないんだ――だれが彼女をつれていけるもんか――彼女がそれを望まなければね」
「わたしはつれてゆかれたくないわ」独身の叔母はつぶやいた。「そんなこと、希望しないわ」(ここでヒステリーが激しくぶりかえしてきた。)
「もしもし」ウォードル氏とピクウィック氏をわきにつれだして、小男は声を低めて言った。「われわれはとてもまずい立場に立っています。困った事件です――とてもね。こんな事件にぶつかったことはありません。しかし、じっさい、じっさい、われわれはあのご婦人の行動を指図することはできないんです。ここに来るまでにご注意しておきましたが、できることといえば、ただ妥協だけなんですよ」
ちょっと沈黙がつづいた。
「どんな妥協をきみはすすめるのだね?」ピクウィック氏はたずねた。
「いや、あの人は困った立場――とても困った立場に立ってます。多少の金銭的な損害は覚悟しなけりゃなりませんな」
「この屈辱を受け、バカながらあの女を生涯みじめにするくらいなら、どんな損害でも受けるとも」ウォードル氏は言った。
「できると思うんですがね」ちょこちょこ動きまわる小男は言った。「ジングルさん、ちょっととなりの部屋に来ていただけませんか?」
ジングル氏は承知し、四人は空き部屋にはいっていった。
「さて」注意深くドアを閉めて、小男は言った、「このことを調停する方法はないもんでしょうかな?――ちょっと、こちらに来てください――この窓のところにね、ふたりだけになれますからな――そこに、どうぞ、坐ってください。さて、あなたとわたしのあいだだけの話ですが、あなたが金目当てでこの婦人と逃げだしたことは、このわれわれふたりはよーく知ってるんです。顔をしかめなくったっていいですよ、いいですよ。あなたとわたしのあいだだけの話ですが、われわれはそれを知ってるんです。われわれはふたりとも、世間を知った男、それに、あのわれわれの友人たちはそうではないことも、われわれは[#「われわれは」に傍点]とてもよく知ってるんです、そうじゃありませんかね――えっ?」
ジングル氏の顔はしだいにゆるみ、ウィンクにかすかに似たあるようすが、彼の左目にチラリと示された。
「よくわかりました、よくわかりました」自分が相手に与えた印象を知って、小男は言った。「さて、事実はこうなんです。あの婦人は彼女の母親――りっぱな老夫人が死ぬまで、ほとんど、いや、まったく財産はないんですよ」
「老[#「老」に傍点]夫人でね」ジングル氏は簡単だが、老に力をこめて言った。
「いや、そうです」ちょっと咳払いをして弁護人は言った。「たしかに、あの方はそうとう|齢《とし》のいった方です。しかし、あの方は古い家柄の出の方、古いのすべての意味でね。あの家の創始者は、ジューリアス・シーザーがこの国に侵入したとき、ケント州に来たんです。その後一族で八十五まで生きなかった人はただひとりだけ、そしてその男はヘンリー派(プランタジニット王朝第一のイギリス王ヘンリー二世(一一五四―八九)のことか)の者に首をはねられたんです。あの老夫人はまだ七十三歳にもなっていませんよ」小男は話を切り、かぎタバコをひとつまみとりだした。
「うん」ジングル氏は叫んだ。
「そう、ねえ――かぎタバコはやらないんですか?――ああ! それだけ結構――金のかかる習慣ですからな――さて、ところで、あんたはりっぱな青年、世間を知った男です――資本さえあれば、一身代だって築けますよ」
「うん」ジングル氏はくりかえした。
「わたしの言うことがわかりますか?」
「よくはわからんね」
「考えませんかね――ねえ、あんたに言ってるんですよ、考えませんかね――五十ポンドと自由のほうがウォードル嬢と待ちぼうけよりましだとね?」
「だめだよ――半分にもならん!」立ちあがってジングル氏は言った。
「いや、いや、あんた」小男の弁護人は彼のボタンを抑えて言った。「端数のない金――あんたのような人だったら、すぐにそれを三倍にふやすことができるんですがね――五十ポンドあったら、ずいぶんいろいろとできますからな」
「百五十ポンドあったら、もっとできるさ」冷静にジングル氏は答えた。
「わかりました、つまらん細かなことで時間つぶしはやめることにしましょう」小男はまた話しだした、「そう――そう――七十ポンドといきましょう」
「だめだよ」ジングル氏は答えた。
「待ってください――急いではいけませんよ」小男は言った。「八十ポンド、どうです? すぐに小切手を切ってあげますよ」
「だめだよ」ジングル氏は言った。
「うん、うん」まだ相手を抑えながら、小男は言った。「いいと言うのはどのくらいか、ちょっと教えてください」
「金のかかることさ」ジングル氏は言った。「出費は――急行馬車が九ポンド。結婚認可証が三ポンド――それで十二ポンド――補償金が百ポンド――百十二ポンド――約束違反――婦人の損失――」
「わかりました、わかりました」心得顔をして、小男は言った、「最後の二項目は気にすることはありません。そうすると百十二ポンド――百ポンドで――どうです?」
「それに二十ポンドたしてね」ジングル氏は答えた。
「さあ、さあ、小切手を切ってあげますよ」小男は言い、そのためにテーブルに坐った。
「それが明後日支払い可能なようにしてあげましょう」ウォードル氏のほうを見ながら、小男は言った。「そして、ご婦人はおつれできるわけです」ウォードル氏は不機嫌に賛成をうなずいた。
「百ポンド」小男は言った。
「それに二十ポンドたしてね」ジングル氏は言った。
「これは……」小男は抗議をした。
「それをやって」ウォードル氏は口をはさんだ、「あの男をゆかせてしまえ」
小切手は小男の紳士によって書かれ、それはジングル氏のポケットにおさめられた。
「さあ、この家をすぐ出ていってくれ!」パッととびあがって、ウォードル氏は言った。
「もしもし」小男は言った。
「そして、いいか」ウォードル氏は言った、「お前のポケットに金をもったら、もたない場合より、きっとそれだけ早く悪魔のとこにいくんだ。それがわかってなかったら、どんなことがあっても、こんな妥協はしなかったはずだぞ――家名のことを考えてもな」
「もしもし」小男がまた口をはさんだ。
「パーカー、静かにしていてくれ」ウォードル氏はつづけた。「部屋を出てゆきたまえ」
「すぐに出ていきますよ」平然とジングル氏は言った。「ピクウィック、バイ、バイ」
その名がこの作品の題名の中心になっているあの有名な人物の顔を、この会話の後半のところで、だれか冷静な観察者がながめていたら、彼の目から燃え出る怒りの炎が彼の眼鏡をとかしてしまわなかったことをふしぎに思ったことだろう――彼の激怒はそのようにすごいものだった。この悪人に自身が呼びかけられているのを耳にしたとき、彼の鼻孔はふくらみ、彼の拳はわれ知らずにぎりしめられていた。しかし、彼はふたたび自分の気持ちを抑えた――彼は相手を粉々に打ちくだきはしなかったのである。
「さあ」ピクウィック氏の足もとに結婚認可証を投げつけて、鉄面皮の裏切り者は言った。「名前を変えたらいいよ――女は家につれていくがいい――タッピーに役立つことだろうからね」
ピクウィック氏は哲学者だったが、哲学者だって、|所詮《しよせん》は、武装した人間だけのこと。その悪態の矢は彼にとどき、彼の哲学的よろいをつらぬき、まさに彼の心臓に達した。激怒の狂乱にかられて、彼はインクスタンドを夢中で投げ、それにつづいて身を突進させた。だが、ジングル氏はもう姿を消し、彼は自分がサムの両腕にだかれているのを知った。
「やあ」この風変わりな男は言った、「家具はあんたのおいでのとこではお安いんですな。ここにある自動的なインクは、あんたのしるしを壁につけちまいましたよ。ジッとしていらっしゃい。さっさと逃げだし、いまごろはバラのはずれまでとんでってしまってる男を追っかけたって、なんの役に立つんですかね?」
ピクウィック氏の心は、真に偉大なすべての人の心のように、理に服するものだった。彼は素早い、力強い推論家、一瞬反省して、自分の激怒の無益さをさとった。彼の怒りは、それが起きたのと同様に早く、さっと引いていった。彼ははあはあとあえぎ、向きを変えて、やさしく友人たちをながめた。
ウォードル嬢が不実なジングル氏にすてられたのを知ったときの嘆きを語る必要があろう? あの悲痛な場景についてのピクウィック氏のすばらしい描写をここに引用する必要があろうか? 同情のやさしさの涙でしみている彼の覚え書きが、いまここに開かれている。ひとこと言えば、それは印刷工の手にはいるわけである。だが、やめよう! 決心はくずすまい! こうした悲しみをここに描いて、読者の心を苦しめるのはやめにしよう!
ゆっくりと悲しげに、ふたりの友人とすてられた婦人は、翌日、ずっしりとしたマグルトンゆきの馬車に乗った。夏の夜の陰気な影が|陰鬱《いんうつ》に暗くあたりに舞いおりたとき、彼らはふたたびディングリー・デルに着き、ファーム|館《やかた》の入口のところに立っていた。
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第十一章
[#3字下げ]もうひとつの旅、考古学的発見をふくむ。選挙を見物しようとするピクウィック氏の決心と老牧師の原稿のことを記録する
ディングリー・デルの深い静けさにつつまれて一夜安静に休み、つぎの朝新鮮でかぐわしい空気を一時間ほど吸って、ピクウィック氏はいままでの肉体の疲れと心労からすっかり回復した。この偉人は自分の友人・信奉者とまるまる二日間わかれていたので、ふつうの想像力ではおよびもつかぬほどの楽しみとよろこびの情で、朝の散歩からもどってきてウィンクル氏とスノッドグラース氏に出逢ったとき、彼らをむかえたのだった。そのよろこびはたがいにもちあっていたものだった。なごやかなピクウィック氏の顔をあおいで、そうしたよろこびの情を味わわぬ者がどこにいるだろうか? だが、それでも、雲が彼の友人たちの上におおいかぶさり、偉人はそれに気がつかないでいるはずはなく、それがどういうわけのものか、彼は見当もつかないでいた。彼らふたりにはなにか謎めいたものがあり、それはおそろしくもあり、異常なものでもあった。
「そして、どうだね」自分の信奉者たちの手をつかみ、歓迎の温かい挨拶をかわしたときに、ピクウィック氏は言った。「タップマンはどうだね?」
この質問を浴びせられたウィンクル氏はそれに答えず、ただ頭をそむけて、|憂鬱《ゆううつ》な思いにふけっているようだった。
「スノッドグラース」むきになってピクウィック氏は言った、「われわれの友人はどうしたね――病気ではないのだろうね?」
「いや、ちがいます」とスノッドグラース氏は答え、涙が一|滴《しずく》、窓枠の上の雨の滴のように、彼の感傷的な|瞼《まぶた》の上でゆれていた。「いいえ、彼は病気ではありません」
ピクウィック氏は話すのをやめ、かわるがわる友人の顔を見わたした。
「ウィンクル――スノッドグラース」ピクウィック氏は言った。「これはどういうことだ? タップマンはどこにいる? なにごとが起きたのだね? 話してくれたまえ――おねがいだ、たのむ――いや、命令する、話してくれたまえ」
ピクウィック氏の態度には厳粛さ――威厳があり、それは、抵抗し得ぬ力をもっていた。
「彼はいってしまいました」スノッドグラース氏が言った。
「いってしまった!」ピクウィック氏は叫んだ。「いってしまったって!」
「いってしまいました」スノッドグラース氏はくりかえした。
「どこへ?」ピクウィック氏は叫んだ。
「この手紙から想像できるだけですよ」ポケットから手紙をとりだし、それを友人の手にわたして、スノッドグラース氏は答えた。「きのうの朝、ウォードルさんの手紙がとどき、あなたが彼の妹と夜家に着くのを知ると、前の日一日中われわれの友人の上におおいかぶさっていた雲は、いっそう影を濃くしてゆきました。彼はその後間もなく姿を消し、一日中姿を見せず、夕方になって、マグルトンの『クラウン旅館』の馬丁がこの手紙をもってきたのです。手紙は朝彼にあずけられ、夜になるまでもっていってはならぬときびしく命じられていたのだそうです」
ピクウィック氏はその手紙を開いた。それはタップマンの筆跡のもの、つぎのような内容が書かれてあった――
[#ここから1字下げ]
親愛なるピクウィック氏へ
親愛なる友よ、あなたは、常人では打ち勝てぬ人間の多くのもろさと弱さでは手がとどかぬ、はるかかなたに立っている人です。美しい魅力的な婦人にすてられ、それと同時に、友情の仮面の下に|狡猾《こうかつ》な笑いをひそめている悪人の手玉にとられたことがどんなものか、あなたにはおわかりにならぬでしょう。そんなことは、わからぬほうがよいのです。
わたしの手紙はケント州、コバムのレザー・ボトルあてに回送してください――わたしがまだ生きているとしたら……。わたしは急いでわたしの目にはいまわしいものになった世界から姿を消してしまいます。浮き世から急いで姿を消したら、わたしをあわれみ――許してください。親愛なるピクウィックよ、人生は、わたしにとって、堪えられない重荷になりました。われわれの中で燃えている精神はかつぎ人夫が使っている肩当て、その上にこの世の|憂《うれ》い、嘆きの重い荷を乗せることができるのです。その精神が消えてしまうと、荷は重すぎて、堪えられないものになってきます。その重荷のもとで、われわれは沈んでしまうのです。あなたはレイチェルに伝えてもいいです――ああ、あの名前!
[#ここで字下げ終わり]
[#地付き]トレイシー・タップマン
[#ここで字下げ終わり]
「すぐにここを出発しなければならない」手紙をたたみながら、ピクウィック氏は言った。「こんなことが起きたあとで、どんな事情のもとでもわれわれがここにいたら、まずいことになるだろう。そして、いまわれわれは友人を探しにそのあとを追わねばならんのだ」こう言いながら、彼は先に立って家のほうに歩いていった。
彼の意図はすぐに伝えられた。ここにのこっているようにというねがいは強いものだったが、ピクウィック氏はそれに屈しなかった。用件ですぐにゆかなければならぬ、と彼は言ったのである。
老人の牧師がそこにいた。
「あなたは本当にわかれるのではないのでしょうね?」ピクウィック氏をわきに連れていって、牧師は言った。
ピクウィック氏は彼の前の決意をくりかえして述べた。
「では、ここに」老紳士は言った、「ちょっとした原稿があります。それは、わたしがあなたに読んでお聞かせしようと思っていたものです。それは、わたしの友人――州の精神病院に勤務していた医師ですが――が死んだとき、さまざまな書類の中にあったものです。その書類は焼くなり保存するなり、わたしが適当と思ったように、どうともできるものでした。その原稿が友人の筆跡のものでないことにはまちがいはありませんが、それが本当のものとは、どうしても信じられません。しかし、それが狂人のまったくのでっちあげか、ある不幸な人のうめきにもとづいたもの(この可能性のほうが強いとわたしは思いますが)かは、あなたがそれをお読みになって、ご判断ください」
ピクウィック氏はその原稿を受けとり、好意と尊敬の言葉を何回か述べて、このやさしい老紳士とわかれた。
彼らが多くの歓待と親切を受けたファーム|館《やかた》の住人とわかれを告げることは、そう簡単にはいかなかった。ピクウィック氏はふたりの若い娘とキスをしてわかれ――まるで彼らが彼自身の娘のように、と言いたいところだが、その挨拶に彼はもう少し熱を入れたかもしれなかったので、その比喩は正確には妥当なものとは言えないだろう――息子のような誠意をこめて老夫人をだき、女中たちそれぞれの手の中に感謝のしっかりとしたしるしをわたしたとき、いかにも家長じみた態度で、彼らの|薔薇《ばら》色の頬を軽くたたいてやった。親切な老主人とトランドル氏との別れの挨拶はもっと心のこもる、ながいものだった。スノッドグラース氏が何回か呼ばれ、ついに暗い廊下から出て来て、その後すぐエミリー(その明るい目はふだんにないほど暗かった)が姿をあらわすという段になってはじめて、三人の友人は自分たちをもてなしてくれた人たちからはっきりとわかれることができた。三人がゆっくりと歩き去っていったとき、彼らは何回もふりかえってファーム|館《やかた》をながめ、道がまがってその古い家が見えなくなるまで、上の窓からふられていた婦人のハンカチとおぼしきものに答えて、多くのキスをスノッドグラース氏は空に投げかけていた。
マグルトンで、彼らはロチェスターゆきの馬車に乗り、ロチェスターに着くまでに、彼らの激しい悲しみは薄らいでいた。とてもおいしい早い晩餐をそこで食べ、道に関する必要な知識を集めてから、午後ふたたびそこを出発、彼らはコバムに向けて歩きだした。
それはたしかに楽しい散歩だった。というのも、時節は快い六月の午後、道は深い、影の多い森を横切り、濃い葉にサラサラとやさしく音を立てさせる軽い風で冷やされ、枝の上にとまっている鳥の歌によって活気を与えられていたからである。つた[#「つた」に傍点]と|苔《こけ》が厚いかたまりになって老木をおおい、やわらかい緑の芝生は絹の布団のようにひろがっていた。彼らは古い建物のある開けた公園のところに出ていったが、その建物はエリザベス女王時代の奇妙で絵のように美しい建築を示していた。堂々とした|樫《かし》と|楡《にれ》の木の開けた展望が、どこを見ても望むことができた。大きな鹿の群れが新鮮な草をついばみ、ときどき、驚いた兎が地面をとんで走っていったが、その速さは、夏のはかない息吹きのように|陽《ひ》の当たっている景色を切って流れてゆく薄雲の投げる影の速さに似ていた。
「もしこれが」あたりを見まわしながら、ピクウィック氏は言った、「もしこれがタップマンの嘆きになやむすべての人の来るところだったら、この世にたいする彼らの以前の愛着はすぐもどって来ることだろうがね……」
「わたしもそう思いますね」ウィンクルは言った。
「そして本当に」三十分歩いて彼らが村に着いたとき、ピクウィック氏は言いそえた、「本当に、人間嫌いが住むに選ぶ場所としては、こここそ最上の美しい、望ましいところだね」
この意見にも、ウィンクル氏とスノッドグラース氏は賛意をあらわした。そして、レザーン・ボトル(革のびんの意)というきれいでひろい村の居酒屋(宿屋でもある)に案内されると、三人の旅人はそこにはいり、すぐにタップマンという紳士がいないかどうかとたずねた。
「お客さまを客間に案内しなさい、トム」おかみは言った。
太ったいなかの青年が廊下の端のドアを開き、三人の友人はながい、天井の低い部屋にはいっていったが、そこには奇妙な形をしたよりかかりの高い、なめし革のクッションのついたたくさんの椅子があり、さまざまの古い肖像画やあらっぽい色彩のちょっと古い版画が飾られてあった。この部屋の奥にテーブルがあり、そこには白い布がしかれ、焼いた鳥、ベイコン、ビール等々がならべられ、そこにこの世と別れを告げた人とはとても思えぬようすをして、タップマン氏が坐っていた。
友人たちが部屋にはいってゆくと、この紳士はナイフとフォークを下におき、いかにも悲しげに彼らをむかえに進んできた。
「ここであなたにお会いするとは、思ってもいませんでした」ピクウィック氏の手をにぎって、彼は言った。「ありがとうございます」
「ああ!」椅子に腰をおろし、散歩でかいた汗を|額《ひたい》からぬぐいながら、ピクウィック氏は言った。「食事をすませたら、わたしといっしょに散歩に出よう。ふたりだけで話したいことがあるのだからね」
タップマン氏はピクウィック氏に言われたとおりにした。そして、ピクウィック氏はビールを何杯か飲んで元気をつけ、友人の食事が終わるのを待っていた。食事は手早く片づけられ、ふたりはつれだって散歩に出かけた。
三十分のあいだ、ふたりの姿が教会の墓地をあちらこちらと歩きまわっているのが見えたことだろうが、このあいだ、ピクウィック氏は相手の決意を打ちくだこうと一生けんめいになっていた。彼の議論をどんなにくりかえしてみても、それは結局むだであろう。どんな言葉でも、この議論にこの偉大な独創家が伝えた力強さとたくましさをそえることはできないからである。タップマン氏がすでに隠退の境地にあきあきしていたか、あるいはまた、自分におこなわれた雄弁な訴えに抵抗することができなかったかは、問題ではない。彼はついにそれに抵抗できなくなった。
「わたしのみじめな余生をどこでながびかせるか」彼は言った、「それは自分にはどうでもいいことです。あなたがそうまで自分といっしょに来いと言ってくださるのですから、わたしはよろこんであなたの冒険に参加しましょう」
ピクウィック氏はにっこりした。ふたりは握手をかわし、のこりの仲間といっしょになるために、もどっていった。
ピクウィック氏があの不滅の発見、友人たちの誇りと自慢の種になり、この国、ほかのどんな国のすべての考古学者の羨望の種になっているあの発見をしたのは、この瞬間のことだった。ふたりは、宿屋の戸口の前をとおりぬけ、村を少し歩いていったとき、宿屋のある正確な場所を思い出した。ふたりが足をもどしたとき、ピクウィック氏の視線はある小屋の戸口の前で一部土に埋められている小さなくだけた石にひきよせられた。彼は立ちどまった。
「これはじつに奇妙なことだ」ピクウィック氏は言った。
「なにが奇妙なんです?」問題の石はべつにして、自分の近くのあらゆるものをグッとにらみつけて、タップマン氏はたずねた。「いや、これは、どうしたんです?」
この最後の言葉は抑え切れぬ驚きをあらわした叫びで、ピクウィック氏が、発見にたいする熱意のあまり、小さな石の前にひざまずいて、ハンカチでそこからほこりをとりはじめたのをながめて起こされたものだった。
「ここに彫った文字がある」ピクウィック氏は言った。
「そんなことがありましょうか?」タップマン氏は言った。
「わたしにはわかるよ」力いっぱいこすり、眼鏡をとおしてジッと目をすえて、ピクウィック氏はつづけた。「十字とBとTがひとつずつあるね。これは重要なことだぞ」パッととびあがって、ピクウィック氏はつづけた。「これはなにかとても古い碑文で、この場所にあった古い養老院よりずっと前に存在していたものだ。これは大切にしなけりゃならん」
彼は小屋のドアをトントンとたたいた。一人の労務者がそれを開けた。
「きみ、この石がどうしてここに来たか、その由来を知っているかね?」ピクウィック氏はやさしくたずねた。
「いや、知りませんよ」男は丁寧に答えた。「わたしが生まれた、いや、だれが生まれたときよりずっと前から、ここにあるもんです」
ピクウィック氏はいかにも勝ち誇ったように、タップマン氏にチラリと目をやった。
「きみは――きみは――たぶん、特別それに愛着をもっているわけではないのだろうね」不安で体をふるわしながら、ピクウィック氏は言った。「売ってくれるだろうね?」
「ああ! だけど、だれが買ってくれるんですかね?」男はいかにも狡猾なつもりといった表情を浮かべてたずねた。
「それを掘り起こしてくれたら」ピクウィック氏は言った、「即金で十シリングあげよう」
ピクウィック氏が(その小石はくわのひとひねりで動かされた)力をふるいおこしてそれを自分の手で宿屋にもちかえり、丁寧に洗ったあとで、それをテーブルの上にすえたときの村中の驚きは、容易に想像されよう。
忍耐と努力、洗いと磨きが最後に成功をおさめたとき、ピクウィック・クラブ会員たちの有頂天、よろこびは限りなくひろがっていった。石はでこぼこでくだけ、文字はばらばらで不規則だったが、碑文のつぎの断片だけは、はっきりと読みとることができた。
[#画像終わり]
自分が発見した宝を坐ってほれぼれとながめているとき、ピクウィック氏の目はよろこびでキラキラと輝いていた。彼は自分の野心の最大目標のひとつを達成したのだった。古い時代の遺跡が多くあると知られている地方で、古代のいくつかの記念品がいまでもまだ伝わっている村で、彼――彼、ピクウィック・クラブの会長――がいままでの多くの学者の目をのがれていた、れっきとした古代の奇妙な碑文を発見したのだ。彼はほとんど自分の目を信じられなかった。
「これで――これで」彼は言った、「わたしの腹はきまった。明日ロンドンに帰ることにしよう」
「明日ですって!」彼の熱心な信奉者たちは叫んだ。
「明日だ」ピクウィック氏は言った。「この宝は、それが徹底的に調査され正しく理解されるところに、すぐもってゆかねばならない。それに、ロンドンに帰るもうひとつの理由がある。数日すると、イータンスウィル選挙区の選挙があり、最近会ったパーカー氏がある候補者の世話役をしている。すべてのイギリス人にとってじつに興味のある場景をながめ、こまかにそれを検討することになるだろうよ」
「そうしましょう」が三人の声の勢いのいい叫びだった。
ピクウィック氏はあたりを見まわした。自分の信奉者の愛情と情熱が彼の中に情熱の火をつけた。彼は彼らの指導者であり、彼はそれを身にヒシヒシと感じたのだった。
「このありがたい出逢いを楽しい杯で祝うことにしよう」彼は言った。この提案は、ほかの提案と同じように、満場一致の喝采でむかえられた。重要な石は、そのために宿屋のおかみから買った小さな松の板の箱に彼自身がおさめて、彼はテーブルの上座の肘かけ椅子に坐り、その夜は祝宴と話にささげられた。
ピクウィック氏が彼のために準備された寝室に引きあげたとき、もう時刻は十一時をまわり――このコバムの小さな村にしては夜ふけ時になっていた。彼は格子窓を開き、テーブルの上に|灯《あか》りをおいて、この二日間のあわただしい事件のことを、あれこれと考えはじめた。
時間も場所も瞑想には打ってつけ、ピクウィック氏は十二時を報ずる教会の時計でギクリとした。その時報の最初のひと打ちは彼の耳に厳粛にひびき、鐘が鳴りやんだとき、あたりの静けさは堪えられぬものになってきた――仲間をひとり失ったような感じだった。彼は神経質になり、興奮し、急いで服をぬいで、灯りを煙突の中におき、床にもぐりこんだ。
肉体的疲労感におそわれながらもなかなか寝つかれぬ不快さは、だれしも経験することである。この瞬間のピクウィック氏の状態はそうしたものだった。彼は最初横になり、ついで寝がえりを打ち、まるで自分をなんとかごまかして寝つかせようとするように、しっかりと目をふさいでいたが、どうしてもだめだった。それが彼のした馴れぬ運動のためか、熱、水割りブランデー、馴れぬ床のためだったか――それはどうでもあれ、彼の思いは、不快にも、階下のおそろしい絵や、それが夕方中ずっとひきおこしていた古い伝説にたえずもどりつづけていた。三十分床の上にころがりまわったあとで、彼は不満ながらも、寝ようとしてもだめだ、とさとり、床から起きて、服をちょっと着こんだ。いろいろとおそろしいことを空想しながらそこで横になっているより、どんなことでもまだましだ、と彼は考えた。彼は窓から外をながめたが、外は真っ暗だった。彼は部屋を歩きまわったが、それはとてもわびしいものだった。
彼はドアから窓へ、窓からドアへと何回か歩いたが、ちょうどそのとき、牧師の原稿がはじめて彼の頭に思い浮かんだ。それはいい考えだった。もしそれがおもしろくなくても、それは自分を眠らせてくれるかもしれない。彼はそれを上衣のポケットからとりだし、小さなテーブルを寝台のわきに引きよせて、ランプの芯を切り、眼鏡をかけて、読みはじめた。それは奇妙な筆跡のもの、紙はとてもよごれ、しみがついていた。題は彼をギクリとさせ、彼は物思いに沈んだまなざしを部屋一面に投げずにはいられなくなった。しかし、そうした気持ちに沈む愚かさを反省して、彼はふたたびランプの芯を切り、読みはじめた。
狂人の記録
そう!――狂人のもの! 何年か前のむかしだったら、その狂人という言葉は、どんなにわたしの心に強い印象を与えたことだろう! わたしをときにおそっていた恐怖心をそれがどんなにかきたて、血管の血をゾクゾクかっかと鳴らせ、膚には恐怖の大きな冷汗が浮かび、膝がおそれでガクガクと打ち合わされたことだろう! しかし、いま、わたしはそれが好きになっている。それはりっぱな名前だ。その怒りの渋面が狂人の目をむいた|形相《ぎようそう》ほどおそれられている君主なんて、いるものだろうか? 君主のなわとまさかりだって、狂人のつかむ力の半分の確実さもないのだ。ほ、ほーっ! 気がくるうというのはすばらしいことだ!
あらあらしい獅子のように鉄の|棧《さん》越しにのぞかれ――重い鎖の陽気なひびきに合わせて、ながい静かな夜のあいだ、歯ぎしりをしてわめき立て――そうした勇ましい音楽で夢中になって、|藁《わら》の中でころげて体をくねらすのは、すばらしいことだ! 精神病院万歳! おお、それはすばらしい場所なのだ!
自分が狂人になるのをおそれて[#「おそれて」に傍点]いた当時のことを、わたしは憶えている。パッと床からとび起き、ひざまずいて、自分の種族ののろいから免ぜられるのを祈ったあの当時のことを、わたしは憶えている。陽気で幸福な姿を見るのを避けて逃げ、どこかさびしい場所に身をかくし、将来自分の頭をだめにしてしまう熱病の進み具合いをジッと見守って何時間かすごした当時のことを、わたしは憶えている。狂気が自分の血の中、骨の髄にまじり、その病気があらわれずに一世代がすぎ、わたしがその復活の第一号の人物であることを、わたしは知っていた。そうならねばならぬ[#「ならぬ」に傍点]こと、過去いつもそうであり、未来もずっとそうなることを、わたしは知っていた。人がたくさん集まっている部屋の人知れぬ片隅でわたしがおびえ、人々がささやき、ゆびさし、その目をわたしに向けたとき、彼らがたがいに運命づけられた狂人のことを話しているのを、わたしは知り、そこからそっと逃げだして、孤独の中でふさぎこんでいたのだ。
わたしはこうしたことを、ながい年月のあいだやっていた。それはずいぶんながい、ながい年月だった。ここの夜はときどきながい――とてもながいものに感じられる。しかし、それはあの不安な夜、その当時夢にみたおそろしい夢にくらべたら、なんでもない。その当時のことを思い出すと、わたしはゾッとする。陰険で嘲笑の笑いを浮かべた大きな暗い影が部屋の隅にひそみ、夜それがわたしの寝台の上にかがみこんで、わたしを狂乱にさそったのだ。彼らは低いささやき声で、祖父が死んだ古い家の床は、激しい狂乱にかられて彼自身の手で流した彼自身の血で染められているのだ、とわたしに教えてくれた。わたしは指を耳につっこみ、それを聞くまいとしたが、彼らは部屋が鳴りひびくほどわめき、祖父の一代前には狂乱は眠っていたが、彼の祖父は、身を粉々に引き裂くのを抑えるために、手を地面にしばりつけられてながい歳月を送ったことを、わたしに教えた。わたしは、彼らの話が嘘ではないことを、知っていた――わたしはよくそれを知っていたのだ。みながそれをわたしからかくそうとしていたが、わたしは何年も前にそれを見つけだしていたのだった。はっ! はっ! わたしのことを狂人と思っていたが、こちらではうまく立ちまわって、彼らを出しぬいてたわけだ。
とうとう狂気がやってきたが、どうしてそれをおそれたりしたのだろう、とわたしはふしぎに思った。いまはわたしは世の中に出てゆき、そこのどんなりっぱな人ともいっしょになって笑い叫ぶことができるのだ。わたしは自分がくるっているのを知っていたが、世間の人たちはそれを考えてもいなかった。まだわたしが狂人ではなく、いつか狂人になるかもしれぬことをおそれていた当時の世間の指さしやら意地のわるい横目のあとで、自分自身が彼らにやっているみごとないかさまを思ったとき、わたしはよろこびでわが身をだきしめたものだった。自分がただひとりでいるとき、どんなにうまく自分の秘密を守っているか、友人たちが事実を知ったらどんなにさっさと自分からはなれてゆくかを考えたとき、わたしはよろこびで笑いこけたものだった。あるりっぱな、しゃべり立てる男とふたりだけで食事をしていたとき、彼のそばに坐って、ギラギラするナイフを磨いている親友が、それを彼の心臓につきさす力は十分にあり、それをしようとする意志もなかばはもっている狂人だと知ったら、彼はどんなに真っ青になり、どんなにさっさと逃げだすだろうと思ったとき、わたしは有頂天のよろこびでキーキーと大声をあげることもできるほどの気持ちを味わっていた。おお、それは楽しい生活だった!
富はわたしのものになり、金はわたしのところに流れこみ、わたしは楽しみを満喫したが、その楽しみは、自分がしっかりと秘密を守っているという意識で、千倍もたかめられていた。わたしは財産を相続した。法律――目の鋭い法律――もわたしにだまされ、争われていた何千ポンドの金を狂人の手にわたした。健全な頭をもった目の鋭い人間の才知は、どこにいってしまったのだろう? あらさがしにむきになっている弁護士の機敏さは、どこに消えてしまったのだろう? 狂人の才知が彼ら全員を出しぬいてしまったのだ。
わたしは金をもっていた。なんと求婚されたことだろう! わたしは金を湯水のように使った。なんと賞賛されたことだろう! あの三人の傲慢な威圧的な兄弟たちがわたしの前でなんとヘコヘコしたことだろう! 彼らの老いた白髪の父親も同じことだった――すごい尊敬――すごい敬意――すごい献身的な友情――彼はわたしを崇拝していたのだ! 老人には娘ひとり、若い兄弟たちには妹がひとりいて、彼ら五人は、みんな貧乏だった。わたしは金持ちだったのだ! そして、わたしがその娘と結婚したとき、彼女の貧乏な親戚たちは、自分たちのうまくたくらんだ計画とそのみごとな償金を考えて、いい気持ちでほくそえんでいた。ほくそえむのは、こちらのすることだった。ほくそえむだって! わっと笑いだし、髪をかきむしり、おかしさの悲鳴をあげてころげまわるのだ。彼女を狂人と結婚させたとは、彼らはゆめゆめ考えてもいなかった。
待って! もし彼らがそれを知っていたら、彼らは彼女を救ってやっただろうか? 夫の黄金にくらべて妹の幸福なんて、わたしの体を飾っている黄金の鎖にくらべて、空中に吹きあげる軽い羽根のようなものだった!
こうしてわたしの才覚にもかかわらず、わたしはひとつのことで見当ちがいをしていた。もしわたしが狂人でなかったら――というのも、われわれ狂人の頭はとても鋭いものだが、われわれはときどきとまどうことがある――わたしは、あの娘が、わたしの豊かな輝く家に羨望の|的《まと》の花嫁として運びこまれるというより、むしろ堅く冷えきって、重い鉛の棺に入れられたがっていたことをさとっていたことだろう。彼女の心は、その名を不安な眠りの中で一度つぶやいたことのある黒目がちの少年と結ばれ、白髪の老人と傲慢な兄弟たちの貧乏を救うために、彼女はわたしにささげられたのだという事実を、わたしはさとっていたことだろう。
いま、わたしは彼女の姿や顔を憶えてはいないが、その娘が美しかったことは知っている。彼女がそうだったことは、たしかに知っている。というのも、月の|耿々《こうこう》と照る夜、ギクリとして眠りから目をさまし、あたりがしーんと静まっているとき、背後にたれさがったながい黒い髪が風が吹いていないのにゆれ動き、目はジッとわたしをながめながら、まばたかず開いたまま、ほっそりとした痩せた姿がジッと静かにこの監房の隅に立っているのが、目にはいってくるからだ。しっ! そのことを書くと、心臓の血が凍るようだ――あの姿が彼女の姿、顔はとても青く、目は生気なく輝いている。しかし、わたしはそれをよく知っているのだ。あの姿は絶対に動かず、この場所にときどきはいってくるほかの人間のように、眉をよせたり口をゆがめたりは絶対にしない。だが、それは何年か前にわたしを誘惑した亡霊よりもっとはるかにおそろしいものだ――それは墓から出てきたばかり、いかにも死の色の濃いものだからである。
約一年のあいだ、わたしは、あの顔が青ざめてゆくのをながめていた。約一年のあいだ、わたしは、涙が悲しげな頬を流れくだるのをながめていたが、その原因はなにも知らないでいた。しかし、わたしはとうとうそれを発見した。それをわたしからながいことかくしておくのは、不可能なことだった。彼女はわたしを好んではいなかった。彼女がわたしを好んでいるものと、わたしは考えていなかった。彼女はわたしの富を軽蔑し、自分が暮らしている豪華さを憎んでいたのだ――わたしはそうしたことを予期してはいなかった。彼女はべつの男を愛していた。これは、わたしのぜんぜん考えてもいなかったことだった。奇妙な感情がわたしに忍びより、なにかわからぬ力でわたしにおしつけられた考えが、わたしの頭の中をクルクルと舞っていた。彼女がまだ泣いて求めている少年を憎みはしたものの、わたしは彼女を憎んではいなかった。冷酷で利己主義な彼女の親兄弟たちが彼女をおとしこんだみじめな生活を、わたしはあわれに思っていた――そう、あわれに思っていた。彼女がながくは生きられぬことを、わたしは知っていた。だが、狂気を子孫に伝える運命をもった不幸な子を彼女が死ぬ前に生み落とすかもしれぬという考えが、わたしの腹を決めさせた。わたしは彼女を殺そうと決心した。
何週間ものあいだ、わたしは毒を、ついで水死を、それから火災のことを考えた。堂々たる家が炎につつまれ、狂人の妻が焼けて灰になったら、みごとな光景だろう! それに、大きな報酬といった冗談ごと、自分がおかさない罪で風の中につりさげられるだれか正気の男の冗談ごとを考えてもみたまえ、それもみんな狂人のたくらみによって起きたことなのだ! わたしはよくこの手段のことを考えたが、最後にはそれを放棄した。おお! 毎日毎日|剃刀《かみそり》を革で磨き、その鋭い刃を膚に感じ、その薄い刃のひと打ちがつくりだす切り口を考える楽しみときたら!
とうとう、以前わたしとよくいっしょにいた霊が時の来たことをわたしの耳にささやき、開いた剃刀をわたしの手に投げてよこした。わたしはそれをしっかりとにぎり、そっと寝台から起き、眠っている妻の上にかがみこんだ。彼女の顔は両手の中に埋められていた。手をそっとはずすと、手はぐったり胸の上にさげられた。彼女は泣いていたのだった。涙の跡がまだ彼女の頬にぬれてのこっていたからである。彼女の顔は静かで落ち着いたもの、わたしがそれを見ていたちょうどそのとき、静かな微笑が彼女の青ざめた顔をさっと明るくした。わたしは手をそっと彼女の肩の上にのせた。彼女はギクリとした――それは、はかないつかの間の夢だったのだ。わたしはふたたび前にかがみこんだ。彼女は悲鳴をあげ、目をさました。
わたしが手をひと動かししたら、彼女は二度と叫びも物音も立てなかったことだろう。だが、わたしはびっくりし、とびさがった。彼女の目はわたしの目の上に釘づけになっていた。どうしてそうなったのかはわからないが、彼女の目はわたしをおびえさせ、おびやかした。わたしは、その目のもとでひるんでしまった。彼女は、まだしっかりジッとわたしをにらみすえながら、寝台から起きあがった。わたしはふるえた。剃刀はわたしの手の中にあったが、わたしは動けなかった。彼女はドアのほうに進んでいった。そこに近づいたとき、彼女はグルリと向きを変え、わたしの顔から視線をはずした。|呪文《じゆもん》は解かれた。わたしはおどりでて、彼女の腕をつかんだ。何回か悲鳴をあげて、彼女は床にくずおれてしまった。
いまこそ、あがきもさせずに彼女を殺すことができたはずだったが、家中の者が悲鳴で呼び起こされた。階段には人の足音が聞こえてきた。わたしは剃刀をいつもの引き出しにもどし、ドアを開け、大声で助けを求めた。
家人がやって来て、彼女をだきあげ、寝台に|寝《やす》ませた。彼女は何時間も生気を失って横になっていた。そして生気、目の色、言葉がもどってきたとき、彼女は正気を失い、あらあらしく、すごい勢いでとりとめもないことを口走りはじめた。
医者が呼ばれた――彼らはりっぱな馬をつけたゆったりとした馬車に乗り、けばけばしい召使いたちをつれて、乗りつけてやってきたお偉方だった。彼らは何週間も彼女の枕もとにいて看病に当たった。彼らは大会議を開き、べつの部屋で低いいかめしい声で相談をしていた。彼らの中でいちばん利口で有名な医者がわたしをわきにつれだし、最悪事態を覚悟せよと言って、わたし――狂人のわたし!――に妻が狂人であることを教えた。彼はわたしの顔をのぞきこみ、片手をわたしの腕に乗せて、わたしのほんのすぐ横、開いた窓のところに立っていた。ひと動きすれば、わたしは彼を下の街路に投げ落とすこともできたろう。それをしたら、じつにすばらしい楽しみになったことだろう。だが、それはわたしの秘密にかかわる問題だったので、わたしは彼をそのままゆかせてしまった。数日後、彼らは彼女をある監視のもとにおかなければならぬと言った。わたしは、彼女のために、監視人をやとわなければならなくなった。わたしがだって! わたしはだれも自分の声を聞くことができぬ野原に出てゆき、わたしの叫びで空中が鳴りひびくまで笑いころげた!
彼女はつぎの日に死亡した。白髪の老人は墓まで彼女についてゆき、傲慢な兄弟たちは、生前その苦しみを鉄の目でしか見てやらなかった彼女の感覚を失った死体に、涙を|一滴《ひとしずく》流した。こうしたことすべては、わたしの秘密の楽しみの|糧《かて》となるもの、家に馬でもどってくるとき、わたしは自分の顔にかけた白いハンカチの背後で笑いこけ、とうとう涙がこみあげてきた。
だが、わたしは自分の目的を果たし、彼女を殺しはしたものの、気分は乱されて安らかさを失い、間もなく自分の秘密がばれるものと感じた。わたしは、自分の胸の中で湧きかえり、家にひとりでいるときには、わたしを躍りあがらせ、手を打たせ、グルグル踊りまわって大声でわめかせるあの狂乱のよろこびと楽しみをかくすわけにはいかなかった。外に出て、せかせかした群集が街路をあわただしく歩きまわっているのをながめたとき、あるいは、劇場にいって、音楽の|音《ね》を聞き、人々が踊っているのをながめたとき、わたしはひどい歓喜に酔い、彼らのあいだにとびこんでいって、彼らの手足をバラバラにし、有頂天で高笑いをしたいくらいだった。だが、わたしは歯を食いしばり、足を床に踏みつけ、鋭い釘を手に打ちこんだ。わたしはその気持ちを抑え、わたしが狂人であることは、だれにもまだ知られてはいなかった。
わたしは憶えている――それは思い出すことができる最後のもののひとつなのだが……。というのも、いまは現実と夢とがまじり合い、する仕事がとてもあり、いつもここでは|急《せ》き立てられてるので、現実と夢との奇妙な混合のために、そのふたつを分離することができないのだ――とうとう狂気を暴露してしまったいきさつを、わたしは憶えている。はっ! はっ! 彼らのおびえた顔つきがいま見えるようだ。楽々と彼らを身からふりはなし、にぎった拳で彼らの真っ青な顔をなぐりつけ、それから風のようにとびだし、はるかかなたのうしろに悲鳴をあげ叫んでいる彼らを放りだしにしたのを、いま感じるような気がする。それを考えると、巨人の力がわたしに湧いてくる。ほら――わたしのすごいひとねじりのもとで、この鉄の|棧《さん》がどんなにまがるかを見るがいい。それを小枝のように折ることもできるのだ。ただ、ここには多くのドアのついたながい回廊がいくつもあり――そこをとおってゆく道がわからないと思うのだ。たとえそれがわかったとしても、下には錠をおろし棧をつけた鉄の門があるだろう。ここの人たちは、わたしがどんなに利口な狂人かを知っていて、見せ物にするためにわたしをここに収容したのに、鼻高々なのだ。
はてな?――そう、わたしは外に出ていたのだった。夜おそくなって、わたしは家に着き、三人の傲慢な兄弟のうちでいちばん傲慢な男がわたしに会おうと待っているのを知った――さしせまった用件と彼が言っていたことは、よく憶えている。わたしは、狂人の憎しみすべてをこめて、あの男を憎んでいた。何回も何回もわたしの指は彼をひきさこうとムズムズしていた。家の者はこの彼が家に来ているのを知らせた。わたしは二階にとびあがっていった。召使いたちはひきとらせた。時刻はおそく――はじめて[#「はじめて」に傍点]――われわれはふたりだけになった。
最初、わたしは、彼から注意深く目をはずしていた。彼が考えてもいないこと、狂気の炎が目から烈火のように燃え出ていることを、わたしは知っていたからであり――その知識で大いに得意になっていた。数分間、われわれはだまって坐っていた。彼はとうとう話しだした。わたしの最近の放蕩、彼の妹の死の直後わたしの言った奇妙な言葉は、彼女の思い出にたいする侮辱だ、最初気がつかなかったさまざまな事情を結びつけてみると、わたしが彼女を親切にあつかわなかったものと思う、というわけだった。わたしが彼女の思い出に非難を投げ、彼女の一族に侮辱を投げるつもりだと考えていいのかどうか、彼は知りたがっていた。この説明を要求するのは、自分の着ている制服にたいして当然すべきこと、と彼は言った。
この男は陸軍で将校だった――わたしの金と妹の非運であがなわれた地位だった! この男はわたしを|罠《わな》にかけ、わたしの富をうばおうとした計画の主謀者だった。この男は妹をむりやりわたしと結婚させた立役者で、彼女の心があのヒーヒーと泣く少年に与えられていたことをよく知っていたのだ。彼の[#「彼の」に傍点]制服にたいして当然すべきことだって! 彼の堕落の仕着せだ! わたしの目は彼に向けられた――わたしはそうせずにはいられなかった――だが、|一言《ひとこと》も言わなかった。
わたしの凝視のもとで彼に起こった急激な変化を、わたしは見てとった。彼は勇敢な男だったが、さっと顔が青ざめ、椅子をうしろに引いた。わたしは自分の椅子を彼のほうに近づけ、わたしが笑い声を立てたとき――わたしは、そのとき、とても陽気な気分になっていた――彼が身をふるわせているのを見た。わたしは狂気が体の中にわきおこってくるのを感じた。彼はわたしをおそれていたのだ。
「妹さんが生きていたとき、あんたは彼女をとても好きだったね」――わたしは言った――「とてもね」
彼は不安そうにあたりを見まわし、彼の手が椅子の背をつかむのがわたしの目にうつった。だが、彼はなにも言わなかった。
「この悪党め」わたしは言った、「お前のことはわかっていたのだ。わたしにたいするお前のひどい陰謀はばれていたのだ。お前がむりに彼女をわたしと結婚させる前に、彼女の心はほかの男と結ばれていたのを、わたしは知っているのだぞ。知っているとも――知っているとも」
彼は突然椅子からとびあがり、それを高々とふりかざし、うしろにさがれっ、とわたしに命じた――わたしは話しながら、注意深く彼に近づいていたからである。
わたしは話すというより、むしろ金切り声をあげた。それというのも、グッと湧き立ってくる激情が血管に渦を巻いて流れ、むかしの霊が彼の心臓を引きちぎるようにとささやきなじるのを感じたからである。
「ちくしょう」パッと立ちあがり、彼にとびかかりながら、わたしは言った。「彼女を殺したのはこのわたしだ。わたしは狂人だ。きさまをやっつけてやるぞ。血だ、血だ! わたしはそれが欲しいのだ!」
彼が恐怖心にかられてわたしに投げつけた椅子を、わたしは一撃で払いのけ、彼に組みつき、ドシンという音を立てて、ふたりはいっしょに床に倒れた。
あの闘争はみごとなものだった。彼は背が高く腕力の強い男で、必死に戦い、わたしは強力な狂人で、彼を殺そうとする執念に燃え立っていたからである。わたしは、どんな力でもわたしの力におよばないことを知っていたが、そのとおりだった。狂人ではあるが、そのとおりだった! 彼の反抗はだんだんと弱まり、わたしは彼の胸の上に膝をつき、両手でしっかりと彼のたくましい喉をしめあげた。彼の顔は紫色になり、目はとびだし、舌はダラリとたれさがって、わたしをあざけっているようだった。わたしはなお強くしめあげた。
ドアは大きな音を立ててどっとおし開けられ、狂人をとらえろと大声でたがいに叫びながら、一群の人が中にとびこんできた。
わたしの秘密はばれてしまった。わたしにのこされたただひとつの闘争は、自由を獲得する闘争だった。手がわたしにかけられる前にわたしは立ちあがり、襲撃者の真っただ中に身を投げ、まるで手おのを手にもち、前方の彼らを斬り倒すように、たくましい腕で人の波を切って進んだ。わたしはドアのところにゆき、手すりをとび越えて下におり、あっという間に街路に出ていった。
まっすぐ、さっさとわたしは走り、だれもわたしをとめることができなかった。わたしは背後に足音を聞き、速度を倍にした。その足音は遠くでだんだんとかすかになり、とうとう、すっかり消えてしまった。だが、わたしはあらあらしい叫びをあげて沼と小川、生垣と壁をつっきって進んでゆき、その叫びは四方からわたしのまわりに集まってきた奇妙なものによって唱和され、大気をつんざくほどになるまで、その音はたかまっていった。わたしは悪魔どもの腕に乗せられて運ばれていたが、その悪魔は風に乗ってとんでゆき、前方の堤や生垣をおしつぶし、わたしの目をまわさせる速さでクルクルとわたしを回転させ、とうとう、すごい勢いでわたしを放りだした。わたしはズシンと大地に投げだされた。目をさましたとき、わたしはここにいた――太陽がほとんどさしこまず、あたりの暗い影とむかしながらの隅に立っているあのもの言わぬ姿を示す程度の光になって月が忍びこむこの灰色の監房のここにいた。目をさまして横になっているとき、わたしは、ときどき、この大きな家の遠くのところから奇妙な悲鳴と叫び声を聞くことができる。それがどんなものか、わたしは知らない。だが、それは、あの青ざめた姿から生じたものではなく、それは、その叫びのことを意に介してはいない。夕闇の最初の影が忍びよるときから昼間の最初の光がさすときまで、それはジッと同じ場所に立ちつくし、わたしの鉄の鎖の音楽に耳をかたむけ、|藁《わら》の床の上のわたしの踊りをジッと見守っているからである。
この原稿の終わりのところに、ちがった筆跡で、つぎの説明が書かれてあった。
そのうわ|言《ごと》がいままで書かれてある不幸な男は、若いころに精力の使い方をあやまった有害な結果と、不行跡にながくふけったために最後にはどうにも動きがとれなくなってしまったわびしいひとつの例と言うことができよう。若い時代の考えなしな放縦・放蕩・道楽が熱病と|譫妄《せんもう》状態を生み出したのだった。後者の譫妄状態の最初の結果は奇妙な|妄想《もうそう》で、それは、遺伝的な狂気が彼の一族にあったとする、一部では強く主張され、また他の一部では同じように強く反対されている有名な医学理論にもとづくものだった。この妄想が固定した憂鬱を生みだし、時がたつと、それは病的な狂乱に発展し、最後にはうわ言を発する狂気になった。彼の病める想像力によって描写の点ではゆがめられてはいるものの、彼が述べている事件はじっさいに起こったものと信ずべき理由は十分にある。理性によって抑制されなくなったとき、彼がその情熱にかられてもっとおそろしい罪をおかさなかったことが、彼の若いころの非行を知っている人たちでは、驚きの種になっている。
老牧師の原稿をピクウィック氏が読み終わったとき、ろうそくはろうそく差しの中で消えそうになっていた。予告になるチラリと燃えあがることもなく、ろうそくが突然消えたとき、それは、彼の興奮した体にそうとう強い衝撃を与えた。不安な寝台から起きあがったときに彼が着こんだ服を急いでぬぎすて、おそろしそうな一瞥をあたりに投げて、彼はさっさともう一度布団の中にもぐりこみ、すぐにぐっすりと眠りこんでしまった。
彼が目をさましたときには、太陽はキラキラと部屋にさしこみ、朝の時間はそうとうたっていた。前の晩彼の心に重くのしかかっていた憂鬱は、あたりの景色をつつんでいた暗い影とともに消滅し、彼の思いと感情は、朝そのものと同じように、明るく陽気になっていた。豊かな朝食をとってから、四人の紳士はグレイヴゼンドに向けて徒歩で出発し、そのあとに松の板の箱に入れた石をもった男がつづいた。彼らはその町に一時ごろに着き(彼らの荷物はロチェスターからシティ(ロンドンの旧市部)に回送するよう、もう指示ずみだった)、運よく駅馬車の外の座席を確保できたので、同じ日の午後元気いっぱいでロンドンに到着した。
つぎの三、四日は、イータンスウィル選挙区に旅をするのに必要な準備でついやされた。そのもっとも重要な仕事の話はべつの一章を必要とするので、この章の終わりにのこったわずかな行を使って、いとも簡単に例の考古学的発見のいきさつを語ることにしよう。
クラブの会報から察するに、ピクウィック氏は、彼らがロンドンにもどった翌日の夜に開かれた総会で、この発見について講演をし、その碑銘の意味に関してさまざまな独創的で深遠な意見を開陳したらしい。また、腕のある芸術家がこの珍しいものを克明に写しとり、それを石に彫り、その石を王立考古学協会やその他の学術団体に贈り――この問題について書かれた対抗的な論争では数知れぬねたみと嫉妬がかき立てられ――ピクウィック氏自身はこの碑文の二十七の異なった読み方を示している九十六ページの細かに印刷したパンフレットを発表したらしい。その石片の古さを疑ったことで、三人の老紳士はそれぞれの長男を一シリングやって勘当し――ひとりの情熱的な男はその意味を計り知ることができぬことに絶望して自殺し、この発見をしたことで、ピクウィック氏は国の内外の十七の協会の名誉会員に選ばれ、この十七の協会は、その意味をぜんぜん察知できず、ただ、それがとても尋常でない、という点で意見が一致していたらしい。
ブロットン氏は、じっさい――その名は神秘的で壮大なものを学ぶ人々の不滅の軽蔑を受けるように運命づけられているのだが――ブロットン氏は、たしかに、野卑な心に独得の疑念とあら捜しで、おこがましくもこのことを下劣で|滑稽《こつけい》なものと決めつけた。ブロットン氏は、ピクウィックの不滅の名をくもらそうとする卑しい下心で、じっさいにみずからコバムに旅行をし、そこからもどって来ると、自分は石を売りわたした男と会ってきた、男は石は古いものと思っているが、碑文の古いことは厳粛に否定した――いたずら気分で自分自身がいい加減にそれを彫り、その文の意味は簡単な構文――「ビル・スタンプスのしるし」(BILL STUMPS, HIS MARK)ということにすぎず、スタンプス氏は自分で文章を書いたことがほとんどなく、正しいつづり字の厳格な規則より単語の音に引かれてしまう人だったので、彼の洗礼名ビル(BILL)の最後のLをとってしまったのだ、とクラブの演説で皮肉まじりの言葉で述べ立てた。
ピクウィック・クラブは(こうした知識ある協会から当然期待できることだが)この陳述を当然の軽蔑で受けとめ、潜越で意地のわるいブロットンを除名し、その信頼と賞賛のしるしに、金縁眼鏡をピクウィック氏に贈ることを決議し、それにたいする返礼として、ピクウィック氏は自分の肖像画を描かせて、それをクラブの部屋につるすことにした。
ブロットン氏は除名されながらも屈しなかった。彼も国の内外の十七の学術協会あてにパンフレットを書き、そこですでに述べた意見をくりかえし、十七の学術協会のことを「いかさまもの」とそうとう強くほのめかしていた。そこで国の内外の十七の学術協会の義憤がかき立てられ、新しいパンフレットが何冊か書かれて、外国の学術協会が国内の学術協会に呼応した。国内の学術協会は外国の学術協会のパンフレットを英語に翻訳し、外国の学術協会は国内の学術協会のパンフレットをそれぞれの国語に翻訳し、このようにしてピクウィック論争としてすべての人に知られている有名な学術的議論の幕は切って落とされたのだった。
だが、ピクウィック氏を傷つけようとするこの卑しい試みは、その中傷的な著者の頭にはねかえっていった。十七の学術協会は声をそろえて潜越なブロットンを無知なおせっかい屋と決議、ただちに前にもます論文を書くことにとりかかった。そして|今日《こんにち》まで、その石はのこり、ピクウィック氏の偉大さをあらわす難解の記念碑、彼の敵の狭量をあらわす永続的な記念物となっている。
[#改ページ]
第十二章
[#3字下げ]ピクウィック氏の側でのきわめて重要な行為を描いているが、これはこの物語ばかりでなく、彼の生涯でも一時期を画するものになる
ゴズウェル通りのピクウィック氏の借り部屋は、せまいものであったが、小ざっぱりとして快適であったばかりでなく、彼のような天才と観察力に恵まれた人の住むのにはとくに打ってつけのものだった。彼の居間は街路に面した二階、寝室も街路に面した三階にあり、こうして、彼が客間で机に坐り、あるいは寝室で化粧鏡の前に立っておろうとも、人のこんでいるというより|人気《ひとけ》のあるあの街路で人間の性格の種々相を考察する機会を与えられていた。彼の下宿のおかみ、バーデル夫人――死亡した税関の役人の未亡人でただひとりの遺言執行者――はあわただしく動きまわる、気持ちのいい外見をした感じのよい婦人で、生まれながらの料理の天才、その才能は研究と長期の練習ですばらしい技術になっていた。子供たちも召使いも鳥もいなかった。この家のほかの住人といえば、ただ大柄な男ひとりと小柄な少年ひとりだけだった。大柄な男は下宿人、少年はバーデル夫人の生んだ子供だった。大柄の男はいつも夜十時きっかりに家にもどっていて、その時刻になると、きちんと裏の客間の小さなフランスふうの寝台にもぐりこんでいた。バーデル坊やの子供らしい遊びと運動は、もっぱら近くの舗道とみぞでおこなわれることになっていた。清潔と静けさが家を支配し、そこでは、ピクウィック氏の意志が掟になっていた。
家事の簡潔さのこうした点を知り、ピクウィック氏の心のすばらしい規則正しさを心得ている人にとって、イータンスウィルへの旅行の予定の日の前の朝の彼の外見・態度は、じつに神秘的でわけのわからぬものだったろう。彼は足をそそくささせて部屋を歩きまわり、三分くらい間をおいて窓から頭を突き出し、たえず時計をながめ、彼にはめったにないいらいらした気分の多くのほかの徴候を示していた。非常に重要ななにごとかが考えられていることは明らかだったが、それがどんなものかは、バーデル夫人自身さえ発見できなかった。
「バーデル夫人」あのやさしい婦人がながい部屋の掃除の終わりに近づいたとき、とうとうピクウィック氏は言った。
「はい」バーデル夫人は答えた。
「あなたの小さな坊やは、なかなかもどりませんな」
「まあ、バラまではずいぶんながい道のりですもの」バーデル夫人は抗議した。
「ああ」ピクウィック氏は言った、「まったく、そのとおりですな」
ピクウィック氏はふたたびだまってしまい、バーデル夫人は掃除をまたやりはじめた。
「バーデル夫人」数分すぎると、ピクウィック氏は言った。
「はい」バーデル夫人はまた答えた。
「ひとりの人間を食べさすのより、ふたりの人間を食べさすほうがずっと金がかかると思いますかね?」
「まあ、ピクウィックさん」帽子のへりのところまで顔を真っ赤に染めて、バーデル夫人は言った。彼女の下宿人の目の中に一種の結婚に結びつく輝きを見てとったように思ったからである。「まあ、ピクウィックさん、なんというご質問です!」
「うん、だけど、そう思いますか?」ピクウィック氏はたずねた。
「それはね――」はたきをテーブルの上におかれたピクウィック氏の肘のほんの近くによせて、バーデル夫人は言った――「それは、ピクウィックさん、相手の人によりけり、相手が節約家の注意深い人かどうかによりますわ」
「いかにもそのとおり」ピクウィック氏は言った、「だが、わたしが目につけている人は(ここで彼はバーデル夫人をぎゅっとにらんだ)そうした性格は備えているようです。そのうえ、バーデル夫人、そうとうの世間の知識と多くの鋭さをもっています。この鋭さは、わたしにとって、とても役に立つことでしょう」
「まあ、ピクウィックさん」真紅の色をふたたび帽子のへりまで燃え立たせて、バーデル夫人は言った。
「わたしはそう考えています」自分に関心のある問題を話すときに彼がいつもやるように、だんだん熱をこめて、ピクウィック氏は言った。「わたしは、じっさい、そう考えています。そして本当のことを申せば、バーデル夫人、わたしは決心したのです」
「まあ」バーデル夫人は叫んだ。
「このことであなたにはぜんぜん相談もせず、今朝あなたの坊やを使いに出すまで、ぜんぜんそれを口にも出さなかったことは」やさしいピクウィック氏は相手に上機嫌な一瞥を送って言った、「いま、あなたはとても奇妙なこととお思いでしょうね――えっ?」
バーデル夫人はただまなざしで答えられるだけだった。彼女は、ながいこと、遠くからピクウィック氏を崇拝していたが、いま突然、彼女は、どんなに途方もなく希望の火を燃やしても考えることができなかった高い場所に引きあげられたのだった。ピクウィック氏は結婚の申し込みをしようとしている――それに慎重な計画――じゃまにならぬようにと、坊やを使いでバラにやってしまったのだ――なんと考え深く――なんと思いやりのあることだろう!
「さて」ピクウィック氏は言った、「あなたはどう考えます?」
「おお、ピクウィックさん」興奮で身をふるわせて、バーデル夫人は言った、「本当にありがとうございます」
「それで心配もずいぶんしなくてすむでしょう、どうです?」ピクウィック氏はたずねた。
「おお、心配なんていうことは考えたこともありません」バーデル夫人は答えた。「そして、もちろん、あなたをよろこばすために、前よりもっと骨を折らねばなりません。それにしても、ピクウィックさん、わたしのさびしさをそうまで考えてくださって、本当にありがとうございます」
「ああ、たしかに」ピクウィック氏は言った。「そのことは少しも考えていなかった。わたしがロンドンにいるときには、あなたといっしょに坐るだれかがいるようにしてあげましょう。たしかに、そうしてあげますよ」
「きっと、わたしはとても幸福な女になることでしょう」
「そして、あなたの坊やは――」ピクウィック氏は言った。
「まあ!」母親としてすすり泣きながら、バーデル夫人は口をはさんだ。
「彼にも仲間をもたせてやりましょう」ピクウィック氏はつづけた、「元気な相手で、坊やが一年で習う遊びよりもっとたくさんの遊びを一週間で教えてくれるでしょう」こう言ってピクウィック氏は静かな微笑をもらした。
「おお、いとしい――」バーデル夫人は言った。
ピクウィック氏はギクリとした。
「おお、親切で、やさしく、陽気ないとしい方」バードル夫人は言い、それ以上なにも言わずに、椅子から立ちあがり、涙を滝のように流し、すすり泣きの|嗚咽《おえつ》をあげて、その両腕をピクウィック氏の首にまきつけた。
「いやあ、これは!」びっくりしたピクウィック氏は叫んだ――「バーデル夫人――いや、これはなんということだ!――どうか考えてください――バーデル夫人、いけません――だれかがやって来たら――」
「おお、だれでも来るがいいわ」狂気のようにバーデル夫人は叫んだ。「絶対にあなたとおわかれしませんよ――いとしい、親切な、やさしい人」こう言って、なおしっかりとバーデル夫人はだきついた。
「これは驚いた!」激しくもがきながら、ピクウィック氏は叫んだ、「だれかがあがって来るようです。おねがいだ、どうかやめてください、やめてください」だが懇願しても、抗議をしても、むだだった。バーデル夫人はピクウィック氏の腕の中で気が遠くなってしまったからである。そして、まだ彼が椅子の上に彼女を坐らせないうちに、バーデル坊やが部屋にはいり、タップマン氏、ウィンクル氏、スノッドグラース氏がそれにつづいてはいってきた。
ピクウィック氏はびっくりして、身動きもならず、口もきけなくなっていた。彼は愛らしい重荷を腕にだき、ぼんやりと友人たちの顔を打ちながめながら、挨拶も説明もしようとはしなかった。彼らのほうは彼らのほうで、彼をジッと見つめ、バーデル坊やは坊やで、みなの顔をジッと見つめていた。
ピクウィック・クラブ会員たちの仰天ぶりはすごいもの、ピクウィック氏のあわてぶりもひどいものだった。夫人の幼い息子が美しい、心を打つ息子としての愛情を示さなかったら、夫人の停止した活気がもどってくるまで、彼らは同じ棒立ちの状態をつづけていたことだろう。とても大きな真鍮のボタンをまき散らしたコール天のぴったりとした服を着けて、彼は最初ドアのところでびっくり仰天して、不安そうに立ちつくしていた。しかし、自分の母親がなにか危害を受けたにちがいないという印象が子供心にだんだんと強くなり、ピクウィック氏を加害者と考えて、彼はおそろしい、なかばこの世のものならぬといったうなり声をあげ、頭からつっかかっていって、彼の腕の力と激しい興奮が出せるかぎりの打撃とつねりで、あの不滅の紳士の背中と脚をおそいはじめた。
「この坊主をつれだしてくれ」ひどい目にあったピクウィック氏は叫んだ、「こいつは気ちがいだ」
「どうしたんです?」口がきけなくなっていた三人のピクウィック・クラブ会員はたずねた。
「わからん」いらいらしてピクウィック氏は答えた。「この少年をつれだしてくれ」(ここでウィンクル氏は悲鳴をあげもがいているこのおもしろい少年を部屋の隅に運んだ。)「さ、手を貸して、この女性を下につれてゆくのだ」
「おお、もう元気になりました」弱々しくバーデル夫人は言った。
「わたしがあなたを下におつれしましょう」いつも女性に親切なタップマン氏が言った。
「ありがとうございます――ありがとうございます」バーデル夫人はヒステリックに叫び、やさしい息子につきそわれて、下につれられていった。
「わからん」タップマン氏がもどってきたとき、ピクウィック氏は言った――「あの女性がどうしたのか、わからん。わたしはただ男の召使いをやとうつもりだということを彼女に話しただけなのに、彼女はご覧のとおりのひどい発作状態に落ちてしまったのだ。じつに異常なことだ」
「とてもね」三人の彼の友人は応じた。
「じつにまずい立場にわたしを立たせてしまった」ピクウィック氏はつづけた。
「とてもね」ちょっと咳払いをしながら、うさん臭そうにたがいに顔を見合わせて、彼の信奉者たちは答えた。
ピクウィック氏はこの彼らの態度に気がついていた。彼は彼らの不信の気持ちを察知していた。彼らは明らかに彼を疑っていたのである。
「廊下に男がいます」タップマン氏は言った。
「わたしがきみたちに話した男だ」ピクウィック氏は言った、「今朝、使いをバラに出して彼を呼びにやったのだ。スノッドグラース、彼をここに呼んでくれたまえ」
スノッドグラース氏はピクウィック氏の希望どおりに動き、サミュエル・ウェラー氏が姿をあらわした。
「おお――きみはわたしを憶えているだろうね?」ピクウィック氏はたずねた。
「まあね」もったいぶったウィンクをして、サムは答えた。「あれは妙な事件でしたね。だが、あいつ(ジングルのこと)はあんたより役者は上でしたね? ぬけ目がなく、一、二枚役者は上でしたよ――えっ?」
「あのことはもう、どうでもいい」急いでピクウィック氏は言った、「ほかのことできみと話したいのだからな。坐りたまえ」
「ありがとうございます」サムは言い、まず彼の白い帽子をドアの外の階段の上の床におき、それ以上なにも言われずに、腰をおろした。「あれは見た目にはあんまりぞっともしませんがね」サムは言った、「かぶるにはとてもすばらしいもんなんです。へりがとれる前に、あれは、とてもみごとなシルクハットでした。でも、へりがとれて軽くなったのは、ひとつのありがたい点。穴が風を入れてくれるんです。こいつはもうひとつのありがたい点――通風づきの帽子と呼んでるんです」こう意見を述べて、ウェラー氏は集まったピクウィック・クラブ会員たちに気持ちよくほほえみかけた。
「さて、ここにいる紳士方の賛成を得て、きみを呼びにやった用件だが……」ピクウィック氏は言った。
「それが重要な点」サムは口をはさんだ。「それを早く口に出してください、四分の一ペニーの銅貨を子供が飲みこんじゃったとき、おやじが言ったようにね」
「まず第一に知りたいことは」ピクウィック氏は言った、「きみがいまの職場に不満をもつ筋があるかどうかということだ」
「その質問に答える前に」ウェラー氏は答えた、「まず第一にこちらで知りたいことは、もっとましな職をあんたがくれようとしてるかどうかということですな?」
「わたし自身がきみをやとおうとほとんど決心したのだ」とピクウィック氏が言ったとき、静かな慈愛の陽光が彼の顔にあらわれていた。
「そうなんですか?」サムは言った。
ピクウィック氏は、そうだとうなずいた。
「賃銀は?」サムはたずねた。
「年に十二ポンドだ」ピクウィック氏は答えた。
「服は?」
「二着」
「仕事は?」
「わたしの世話を見、わたしとここにいる紳士方といっしょに旅行をすることだ」
「契約書を書いてください」力をこめてサムは言った。「主人はひとり、条件は承知しましたよ」
「この職を受けてくれるのかね?」ピクウィック氏はたずねた。
「もちろん」サムは答えた。「職の半分くらいしか服がわたしの体に合わなくても、それでいいですよ」
「もちろん、人物証明書はとれるだろうね?」ピクウィック氏はたずねた。
「そのことなら、『白雄鹿旅館』のおかみにきいてください」サムは答えた。
「今晩来れるかね?」
「制服がここにあったら、いますぐでもそれを着ますよ」素早くサムは答えた。
「今晩八時にここに来てくれ」ピクウィック氏は言った。「調査が満足いくものだったら、服は支給するよ」
助手の女中も同じように一味になっている愛すべき無分別というひとつの例外はべつにして、ウィラー氏の経歴はじつに完全無欠のものだったので、ピクウィック氏はその晩に契約を結んでも大丈夫と十分に確信をもった。この並はずれた大人物の公務ばかりではなく私事でも大きな特徴となっている敏速さとたくましさで、彼はすぐにこの新しい使用人を紳士の新しい服と古い服が売られていて、面倒で不便な寸法をはかるといったことが省かれている便利な大雑貨店に連れてゆき、夜の幕がまだおりないうちに、ウェラー氏はPC(ピクウィック・クラブの頭文字)のボタンのついた灰色の上衣、花形帽章のついた黒の帽子、ピンクの|縞《しま》のはいったチョッキ、明るい色のズボンとゲートル、あまり多いのでいちいち数えあげられないほかのさまざまな必要品を支給された。
「うん」つぎの朝、イータンスウィルの駅馬車の外の自分の座席におさまったとき、この急に姿を変えた人物は言った。「おれは従僕、馬丁、猟場の番人、種まき人のどれになるのかな? そうしたものぜんぶの混ぜ合わせのような恰好だな。かまうもんか。土地は変化する、見るものはたんとある、それに仕事はほとんどないんだ。これじゃ文句の言うところなし。まったく、ピクウィック家万々歳さ」
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第十三章
[#3字下げ]イータンスウィル、そこの党派の状態、あの古い、忠義心の厚い、愛国的な選挙区から下院議員を選挙することについての話
ピクウィック・クラブの|膨大《ぼうだい》な書類に没頭するまで、イータンスウィルなんていう名前は聞いたこともなかったことを、われわれは率直に認めよう。|今日《こんにち》そうした場所がじっさいに存在した証拠をさがしてもむだであることを、同様、|素直《すなお》に認めよう。ピクウィック氏のすべての記録に深い信頼をよせるベきことを知り、あの偉人の記録された言葉にたいして異議を立てるつもりはなかったので、われわれはできるかぎり、その問題に関する信頼すべき権威に当たってみた。目録AとBのすべての名前を調べてみたが、イータンスウィルの名前にはゆき当たらなかった。イギリスの有名な出版者によって社会のために出されているポケット用州地図の隅々までも細かに調べたが、同じ結果しか出なかった。そこでわれわれは信じなければならなくなるのだが、ピクウィック氏はだれをも不快にさせたくはないと|切《せつ》に望み、われわれの知っている彼の大きな特徴となっているあの|繊細《せんさい》な感情で、彼は自分が観察した場所に本名のかわりに故意に虚構の名称を与えたのだ。こう考えてもまちがいでないことは、それ自体は明らかにつまらぬ、とるにたりぬものだが、こうした観点から見ると、注目に値しないわけでもないあるちょっとした事情を考えてみれば、判明する。ピクウィック氏の覚え書きで、彼自身と彼の信奉者たちの座席がノリッジの駅馬車によって予約されたという事実の記入があることが判明する。ところが、問題の町がある方向さえかくそうとするかのように、この記入はあとで横線が引かれて消されている。だから、われわれはこの問題で当てずっぽうなことを言うのはつつしみ、すぐに話に進んで、そこに登場する人物がわれわれに与えてくれる資料だけで満足することにしよう。
イータンスウィルの人々は、多くのほかの小さな町の人々のように、自分自身のことをとても重要な存在と考え、イータンスウィルの各人は自分の行動に付された重要性を意識して、町を二つに分けている二大党派――|青《ブルー》と|淡黄色《パフ》のどちらかひとつに献身的に結びつかねばならないと考えていたらしい。さて、ブルー派はどんな機会でもとらえて、バフ派に対抗し、バフ派はバフ派で、どんな機会でもとらえて、ブルー派に対抗していた。その結果、ブルー派とバフ派が公開の会合、市公会堂、|市《いち》、市場でいっしょになると、いつも議論と激論が二派のあいだでかわされていた。こうした紛争で、イータンスウィルのすべてのことが党派問題になっていたことは、言うまでもない。もしバフ派が市場に新しく天窓をつけようと提案すれば、ブルー派は会合を開き、それを非難した。もしブルー派が大通りにポンプを増設しようと提案すれば、バフ派は一団となって立ちあがり、その極悪行為に|唖然《あぜん》としたのだった。ブルー派、バフ派それぞれの店と旅館があり――すべての教会にも、ブルー派の通路、バフ派の通路があった。
この強力な党派のそれぞれがその選んだ機関と代表をもつことは、絶対に必要なことだった。したがって、町には二つの新聞――イータンスウィル|新聞《ギヤゼツト》と|独立《インデイペンデント》イータンスウィル――が発行されていて、前者はブルー派の主義主張を擁護し、後者ははっきりとバフ派の立場に立って経営されていた。それはりっぱな新聞だった。すごい社説、すごく勢いのいい攻撃!――「あのくだらぬ新聞、ギャゼット」――「あの屈辱的で卑劣な新聞、インディペンデント」――「あのいかさまの下卑た印刷物、インディペンデント」――「あのいかがわしい中傷的な|誹謗者《ひぼうしや》、ギャゼット」こうした、そして、それ以外の気持ちをかき立てる非難の言葉が毎号のそれぞれの記事欄にたっぷりふりまかれ、町の人の胸に強烈なよろこびと憤慨の情をひきおこしていた。
ピクウィック氏は、彼のいつもの予見と叡知で、この町を訪問するのにとくに適切な時期を選んだ。こうした争いはかつてないことだった。スラムキー・ホールのサミュエル・スラムキー氏はブルー派の候補者、イータンスウィルの近くのフィズキン・ロッジのホレイシオ・フィズキン氏は、友人たちに説きつけられて、バフ派のために立つことになっていた。ギャゼット紙はイータンスウィルの選挙民に、イギリスばかりでなく、今文明世界の目が彼らに注がれていることを教え、インディペンデント紙は高飛車に、イータンスウィルの選挙区民がかねてからいつも考えられている堂々としたりっぱな市民か、イギリス人の名と自由の福祉に値せぬ野卑で屈従的な手先か、どうか知りたいものだと述べていた。こうしたさわぎが町をゆり動かしたのは、前代未聞のことだった。
ピクウィック氏とその仲間がサムに助けられてイータンスウィルの駅馬車の屋根席からおりたのは、夕方おそくなってからのことだった。大きな青い絹の旗が『タウン・アームズ旅館』の窓からさがり、ビラがすべてのガラス窓にはられて、大きな文字で、サミュエル・スラムキー氏の委員会が毎日そこに控えていることを知らせていた。ごたごた集まった|閑人《ひまじん》たちが道路に群らがり、声をからして叫んでいるバルコニーの人物をながめていたが、この人物はスラムキー氏のために顔を真っ赤にしてしゃべってはいるものの、彼の議論の力と要点は、フィズキン氏の委員会が町角にすえた大きなドラムが四つ、たえず打ちたたかれていることで、そうとうひどく損ねられていた。この人物のわきにせわしげな小男がいて、ときどき帽子をぬぎ、人々に采配を送るように身ぶりをし、人々は熱狂的にいつもそれに応じていた。顔の赤い紳士が前よりもっと顔が赤くなるまで話しつづけたとき、それは、まるでだれかが彼の話を聞いていたように、彼の意図に十分かなっているような感じだった。
ピクウィック・クラブ会員たちが馬車をおりるやいなや、彼らは選挙民の群集の支流にとりかこまれ、その群集は三度耳を|聾《ろう》せんばかりの喊声をあげ、主流の群集が(群集は自分たちがなぜ喊声をあげているかを知る必要はなかった)それに応じたとき、その喊声はごうごうとしたすごい勝利の叫びになり、バルコニーの赤ら顔の男まで話をやめたほどだった。
「万歳!」最後に群集は叫んだ。
「もう一度采配」バルコニーの小男の指導者が金切り声をあげ、群集はもう一度、まるで肺臓が鋼鉄仕掛けの鋳型に入れた鉄のように、大声をあげた。
「スラムキー万歳!」選挙民はどなった。
「スラムキー万歳!」帽子をぬいで、ピクウィック氏は応じた。
「フィズキンはだめだ!」群集はうなった。
「もちろん、だめだ!」ピクウィック氏は叫んだ。
「万歳!」ついでべつのわめき声が起こり、それは、象が冷たい肉を要求してベルを鳴らしたときの動物園のすべての獣のうなり声のようだった。
「スラムキーって、だれです?」タップマン氏はささやいた。
「知らんね」同じ調子でピクウィック氏は答えた。「しっ。なにもたずねないように。こうした場合、群集がしているとおりにやっていれば、まちがいないのだ」
「だが、群集がふたつあった場合には、どうします?」スノッドグラース氏がたずねた。
「大きいほうといっしょに叫ぶのだ」ピクウィック氏は答えた。
どんなにたくさんの本でも、これ以上のことは言われなかったろう。
群集は左右に道を開けて大声で叫び、彼らは宿屋にはいっていった。第一に考えねばならぬのは、一夜の雨露をしのぐことだったからである。
「ここで一晩休めるかね?」給仕を呼んで、ピクウィック氏はたずねた。
「わかりません」男は答えた。「いっぱいだと思うんですが――きいてきましょう」そのために男は去っていったが、間もなくもどって来て、一行がブルー派かどうかをたずねた。
ピクウィック氏も彼の仲間も、いずれの候補者の立場にも重大関心はもっていなかったので、この質問はそうとう答えにくいものだった。この苦境に立って、ピクウィック氏は自分の新しい友人のパーカー氏のことを思いついた。
「パーカーという名前の紳士を知っているかね?」ピクウィック氏はたずねた。
「もちろん、知ってます。サミュエル・スラムキーさんの世話役をしている方です」
「彼はブルー派なんだろうね」
「そうです」
「それなら、われわれも[#「われわれも」に傍点]ブルー派だ」ピクウィック氏は言った。だが、この融通のきいた言葉にたいして給仕がそうとううさん臭そうな顔をしていることに気づいて、彼はその男に名刺をわたし、もしパーカー氏がこの家にいたら、すぐそれを彼にわたすように言いつけた。給仕はしりぞき、あっという間にふたたび姿をあらわして、ピクウィック氏についてくるようにと要求し、先に立って二階の大きな部屋に進んでいった。そこで、本と書類にうずまったながいテーブルに、パーカー氏が坐っていた。
「ああ――ああ」彼をむかえようと前に出てきて、小男は言った。「あなたにお会いできて、とてもうれしいです、とてもね。どうかお坐りください。こうしてあなたの意図を実現なさったわけですな。ここにおいでになったのは、選挙を見るためでしょう――えっ?」
ピクウィック氏はそうだと答えた。
「威勢のいい選挙戦です」小男は言った。
「それをお聞きして、うれしいですよ」もみ手をしながら、ピクウィック氏は答えた。「それがどちらの側にせよ、たくましい愛国心をながめるのは楽しいことです――すると、これは威勢のいい選挙戦というわけですな?」
「おお、そうです」小男は言った、「まったく激しいものです。この町の居酒屋(旅館でもある)はぜんぶわれわれが開き、敵にのこされたものといえば、ただビール店にすぎんのです――こいつは策略のみごとな一撃ではありませんかね、えっ?」小男は満足そうにほほえみ、かぎタバコを一服大きくつまんだ。
「この選挙戦の見とおしはどうです?」ピクウィック氏はたずねた。
「いやあ、見当がつきません。まだ少しも見当がつきませんな」小男は答えた。「フィズキン側では『白雄鹿旅館』の閉じた馬車置場に三十三名の有権者をもってますからな」
「馬車置場に!」策略のこの第二弾にそうとうびっくりして、ピクウィック氏は言った。
「用があるまで彼らをそこに閉じこめてあるんです」小男はつづけた。「そのねらいは、いいですか、こちらが彼らに会うのを阻止することにあるんです。たとえ会えても、なんの役にも立たんでしょう。故意に彼らを酔っ払わせてるんですからな。フィズキンの世話人はぬけ目のない男――まったくぬけ目のない男ですよ!」
ピクウィック氏は目をむいていたが、なにも言わなかった。
「しかし、われわれはかなり自信をもってます」声をほとんどささやき声にして、パーカー氏は言った。「きのうの晩、ここでささやかなお茶の会を開きましてな――参加者は四十五人の女性――そして、帰るとき、みんなに緑のパラソルを贈ったんです」
「パラソルですって!」ピクウィック氏は言った。
「まったくの事実、事実です。それぞれ七シリング六ペンスで、四十五の緑のパラソルです。女というものはだれでも、美しい装飾品を好むもの――このパラソルの効果はたいしたもんです。その亭主はぜんぶ、兄弟も半分は確保しましたよ――靴下やフランネルやそうしたものは、これでさんざんの敗北。まったく、これはわたしの創意によるもんです。|雹《ひよう》が降ろうが、雨が降ろうが、天気がよかろうが、町を六ヤードも歩けば、六つの緑のパラソルにぶつかるんですからな」
ここで小男は腹をかかえて笑いだしたが、それは第三の人間の登場によってようやくとめられた。
これは|禿《は》げそうになった薄茶色の頭をした、厳粛な重々しさが計り知れぬ深遠さと入りまじっている顔をした、背の高い、痩せた男だった。彼はながい褐色の外套、黒いラシャのチョッキ、茶色のズボンを着けていた。二重の鼻眼鏡がチョッキにさがり、頭には幅のひろいへりのついたとても低い帽子をかぶっていた。この新来の客はピクウィック氏にイータンスウィル・ギャゼット紙の編集者、ポット氏として紹介された。二、三前おきの言葉を述べてから、ポット氏はピクウィック氏のほうに向きなおり、重々しく言った――
「この選挙戦はロンドンでも大きな興味を呼び起こしているでしょうな?」
「そうだと思いますね」ピクウィック氏は答えた。
「わかってるんです」その確認を求めてパーカー氏のほうを見ながら、ポット氏は言った――「この前の土曜日のわたしの論文がそれに、ある程度、あずかって力があったということは、わかってるんです」
「もちろん、そうですとも」小男は言った。
「新聞は強力な兵器です」ポット氏は言った。
ピクウィック氏はこの言葉に十分な賛意をあらわした。
「だが、わたしは信じてます」ポット氏は言った、「わたしがふるってる|膨大《ぼうだい》な力を絶対に濫用はしなかったことをね。わたしの手の中にゆだねられた気高い武器を、個人生活の神聖な胸、あるいは、個人の名誉のやわらかな胸に向けたことは絶対にないものと信じてます――わたしが自分の精力を傾けたのは――努力に――それはつまらんものかもしれません、つまらんものであることを知ってますよ――あの原理を注ぎこむ努力――それは――」
ここでイータンスウィル・ギャゼットの編集者はだらだらまとまりなくしゃべりはじめたようだったので、ピクウィック氏が救いの手をさしだして、言った――
「もちろんね」
「そして、どうです」――ポット氏は言った――「インディペンデントにたいするわたしの闘争について、ロンドンの大衆の心理状態はどのようなものか、公平な人物としてあなたのご意見をおたずねしたいんです」
「もちろん、大いに興奮していますとも」いかにも|狡猾《こうかつ》そうな顔つきをしてパーカー氏は口をはさんだが、その顔つきは偶然のものだったのかもしれない。
「この闘争は」ポット氏は言った、「わたしの健康と力、わたしに与えられているあの才能がつづくかぎり、つづけられることでしょう。あの闘争から、それは人心をゆり動かして、彼らの感情を刺激し、ふだんの生活の日常義務を遂行することを彼らに不可能にしてしまうかもしれませんが、あの闘争から、わたしは絶対に尻ごみするつもりはありませんよ、イータンスウィル・インディペンデントを足の下に踏みつけるまではね。わたしはロンドンの市民とこの国の国民に、わたしを信頼しても大丈夫――彼らをすてることはない、最後まで彼らの味方になろうと決心してることを知ってもらいたいんです」
「あなたの行為はじつに崇高なもの」ピクウィック氏はこう言い、高潔なポット氏の手をにぎった。
「どうやらあなたは分別と才能のある方ですな」自分の激しい愛国的宣言で息をはあはあさせて、ポット氏は言った。「そのような人物とお近づきになれて、とてもうれしいです」
「そのようなご意見を耳にして」ピクウィック氏は言った、「とても名誉なことです。失礼ですが、わたしが創設したのを誇りに思っているクラブのほかの通信会員をあなたに紹介させてください」
「よろこんで」ポット氏は答えた。
ピクウィック氏は引きさがり、友人をつれてもどってきて、彼らをきちんとイータンスウィル・ギャゼットの編集者に紹介した。
「さて、ポットさん」小男のパーカー氏は言った、「問題は、われわれの友人をここでどうしたらいいか? ということです」
「ここの旅館に泊まれるでしょう」ピクウィック氏は言った。
「ここに空いてる寝台はひとつもありませんよ――ひとつもね」
「これは困ったことだ」ピクウィック氏は言った。
「とてもね」彼の仲間は|相槌《あいづち》を打った。
「この問題に関して、ひとつ考えがある」ポット氏は言った、「そのとおりにやったら、きっとうまくいくでしょう。『|孔雀《くじやく》旅館』にはふたつの寝台があり、もしふたりの方と召使いがなんとか『孔雀旅館』に移られるのにご異議がなかったら、妻のためにもはっきりと申しあげます、彼女はきっと大よろこびでピクウィックさんともうひとりのお友だちをお泊めするでしょう」
ポット氏の側で何回もすすめ、ピクウィック氏の側でポット氏の奥さんに迷惑をかけたり心配かけたりするのは忍びないことだと申し立てたあとで、それがただひとつの実行可能なやり方だと決定された。そこでそのとり決めが決定、『タウン・アームズ旅館』でいっしょに夕食をとったあとで、友人たちはわかれわかれになり、タップマン氏とスノッドグラース氏は『|孔雀《くじやく》旅館』におもむき、ピクウィック氏とウィンクル氏はポット氏の屋敷にゆくことになり、翌朝『タウン・アームズ旅館』に全員が集合、サミュエル・スラムキー氏の行列に加わって候補者推薦の場所にゆくことが前もってとり決められた。
ポット氏の家庭には、ポット氏と彼の妻しかいなかった。この世でたくましい天才のおかげで誇りやかな高い地位にのぼった人は、たいていある小さな弱点をもっていて、それが他の一般的な性格と対比して与える対照の激しさから、その弱点はなお目立ったものになる。もしポット氏が弱点をもっているとしたら、それは、妻のそうとう見くだした統制と支配にたいして彼の腰があまりにも低すぎることであったろう。この事実をとくに強調するのは、不当なことに思われる。この場合、ふたりの紳士を収容するために、ポット夫人の魅力的な処理がすべて必要とされていたからである。
「ねえ、お前」ポット氏は言った、「この方はピクウィックさん――ロンドンのピクウィックさんだよ」
ポット夫人はピクウィック氏の父親のような手のにぎりをじつに魅力的にやさしく受け、紹介をぜんぜん受けなかったウィンクル氏は、気づかれずに、暗い隅にじりじりとしりぞき、お辞儀をした。
「ねえ、P――」ポット夫人は言った。
「なんだい?」ポット氏は答えた。
「どうかもうひとりの紳士の方を紹介してちょうだい」
「いや、あやまる、あやまる」ポット氏は言った。「許しておくれ。こちらは――」
「ウィンクル」ピクウィック氏は言った。
「ウィンクルさんだよ」ポット氏はおうむがえしに言い、これで紹介の儀式はすべて完了した。
「奥さん、何回もおわびしなければなりません」ピクウィック氏は言った、「こんなにいきなり、ここにおしかけて来たりなどしましてね……」
「どうかそんなことはおっしゃらないでください」陽気にポット夫人は答えた。「ほんと、どなたでも新しいお客さまにお会いするのは、とても楽しいことですわ。毎日毎日、毎週毎週、こんなつまらない場所に住み、だれにもお会いしないでいるんですもの」
「だれにもだって、お前!」茶目っ気たっぷりに、ポット氏は叫んだ。
「あなた[#「あなた」に傍点]以外にだれにもね」きびしくポット夫人はやりかえした。
「ねえ、ピクウィックさん」妻の嘆きを説明して主人は言った、「事情がちがってたらわれわれが味わえるような多くの楽しみや娯楽から、われわれは、ある程度、切りはなされているんです。イータンスウィル・ギャゼットの編集者としてのわたしの公的な地位、あの新聞がイギリスで保持している立場、わたしがいつも政治の渦にまきこまれていること――」
「ねえ、P」ポット夫人は口をはさんだ。
「なんだい?」編集者は答えた。
「このおふたりの紳士の方が当然おもしろがってくださるようななにか話題を見つけてくだされば、と思っているの」
「だけど、お前」いかにも遠慮して、ポット氏は言った、「ピクウィックさんはそれに興味をおもちなんだよ」
「もし興味をおもちになれたら結構よ」力をこめてポット夫人は言った。「わたしはあなたの政治談義、インディペンデントとの喧嘩話、そのほかのつまらない話で、もううんざりよ。あなたが自分の愚かさをそんなに見せびらかしたりするなんて、本当にびっくりしてしまうわ」
「だけど、お前――」ポット氏は言った。
「ああ、バカらしい、わたしに話をしないでちょうだい」ポット夫人は言った。「あなたはエカルテ(三十二枚の札を使ってふたりで遊ぶトランプ)をなさいますこと?」
「あなたに教えていただけたら、とてもうれしいです」ウィンクル氏は答えた。
「ええ、それなら、あの小さなテーブルをここの窓のところによせ、あのつまらない政治談義が聞こえないようにしてください」
「ジェイン」ろうそくをもってきた下女にポット氏は言った、「下の事務所にゆき、一八二八年のギャゼットのとじこみをもってきてくれ。わたしはあなたに読んであげましょう――」ピクウィック氏のほうに向きなおって、編集者は言った、「ここの通行税取り立て門に新しい税金取り立て人を任命したバフ派のやり口について、その当時わたしが書いた社説をいくつか、ちょっとあなたに読んであげましょう。きっとおもしろいとお思いになりますよ」
「じっさい、ぜひそれを聞かせていただきたいものですな」ピクウィック氏は言った。
とじこみが運びあげられ、ピクウィック氏のわきのところに、編集者が腰をおろした。
その美しい論文の要約が書かれてあるものと期待して、ピクウィック氏の覚え書きを目を皿のようにして読んでみたが、それはむだな努力に終わってしまった。その文体の力強さと新鮮さに彼が恍惚としたと信ずべき筋は十分にある。論文を読んでいたあいだ中ずっと、まるでよろこびに酔ったように、ピクウィック氏の目は閉じられていた、とウィンクル氏はじっさい記録している。
食事ができたという伝言がエカルテの遊びとイータンスウィル・ギャゼットの美文の要約に終止符を打たせた。ポット夫人は最高に上機嫌、じつに愛想がよくなっていた。ウィンクル氏はもう彼女のおぼし召しにそうとうかなった人物になっていて、彼女は、そっと、ピクウィック氏は「本当に感じのいいご老人」、とずばりウィンクル氏に伝えていた。こうした言葉はなれなれしさを伝えるものだが、それは、あの巨大な心の持ち主であるピクウィック氏と親しくしている者でもなかなかなじめぬ言葉であろう。それにもかかわらず、われわれがそれをここに記録したのは、彼が社会のあらゆる階級の人たちにどんなふうに考えられていたか、彼がどんなに楽々と人の心・感情をつかんだかを示す、心を打つ有力な証拠を与えてくれるからである。
ふたりの友人が寝所に引きあげたのは、夜おそくなってからのこと――タップマン氏とスノッドグラース氏が『|孔雀《くじやく》旅館』の奥まった部屋でぐっすりと寝こんでからずっとたってからのことだった。眠りがすぐウィンクル氏の感覚をとらえてしまったが、彼の感情は刺激され、彼の感嘆の情はかき立てられていて、眠りがこの世のものにたいして彼を無感覚にしたあと何時間も、感じのよいポット夫人の顔と姿が、再三再四、彼のさまよう空想の中にあらわれていた。
朝をみちびき入れた物音と雑踏は、このうえなくロマンチックな空想家の心から、ぐんぐんと近づいてくる選挙と直接関係のある連想以外のどんなものをも排除してしまう力をもっていた。ドラムを打つ音、角笛とらっぱを吹く音、人の叫び声、馬の足音は、朝っぱら早くから街路に鳴りわたっていた。そして、ときおり起きる両派の小ぜり合いは、選挙の準備を活気づけ、その性格に快いいろどりを与えていた。
「うん、サム」身じたくが終わり、自分の寝室にサムがあらわれたとき、ピクウィック氏は言った。「みんなきょうは元気だろうな?」
「ええ、元気ですとも」ウェラー氏は言った。「『タウン・アームズ旅館』に味方が集まり、もう声がかれるほどどなってます」
「ああ」ピクウィック氏は言った、「彼らは自分の党に献身的かね、サム?」
「こんな献身ぶりは、いままで見たこともありませんね」
「たくましいかね、えっ?」ピクウィック氏はたずねた。
「すごいもんです」サムは答えた。「あんなに人が食べたり飲んだりするのを、見たことはありません。体が破裂するのが心配にならんもんでしょうかね?」
「それがここの紳士たちのあやまった親切というもんさ」ピクウィック氏は言った。
「そうでしょうな」簡単にサムは答えた。
「彼らは気持ちのいい、元気で、陽気な連中らしいな」窓から外をチラリと見て、ピクウィック氏は言った。
「とても元気ですね」サムは答えた。「わたしと『孔雀旅館』のふたりの給仕は、そこで夕食を食べてた|それぞれの《インデイベンデント》投票者にポンプから水を浴びせてたんです」
「インディペンデントの投票者にポンプから水を浴びせただって!」ピクウィック氏は叫んだ。
「そうです」彼の従者は言った、「彼らは全員、倒れたとこで眠っちまいました。今朝ひとりひとりそいつを引っぱりだし、ポンプの下につれてったんですが、いまはもうとても元気ですよ。委員会はこの仕事にひとり当たり一シリング払ってくれました」
「そんなことがあるものだろうか!」びっくりしたピクウィック氏は叫んだ。
「おや、おや」サムは言った、「人は、たいてい、どこで洗礼を受けるもんなんですかね?――そんなことは問題じゃありませんよ、なんでもないこってす」
「なんでもない?」ピクウィック氏は反問した。
「なんでもありませんとも」彼の従者は答えた。「この町でこの前の選挙の最後の日の前の晩、反対党が『タウン・アームズ旅館』のバーの女を買収して、そこに泊まってる十四人の投票がまだ終わってない通挙人の水割りブランデーに薬を盛らせたんです」
「水割りブランデーに薬を盛るって、それはどういうことだね?」ピクウィック氏はたずねた。
「そこに|阿片《アヘン》剤を入れるこってすよ」サムは答えた。「まったく、彼女は、選挙が終わって十二時間たつまで、彼ら全員を眠らせちまいました。試験的に、ぐっすり眠ってるひとりの男を運搬車で選挙場につれてったんですが、だめでした――投票場には入れられず、そこで彼をつれて帰り、また床に入れちまったんです」
「これはどうも妙なやり口だな」独り言とも、サムに話しかけるともつかずに、ピクウィック氏は言った。
「ちょうどこの町で、ある選挙のとき、わたし自身のおやじの身に起きたすごいことにくらべたら、べつにたいしたことじゃありませんよ」サムは答えた。
「それはどういうことだったのだね?」ピクウィック氏はたずねた。
「いや、いつかおやじは駅伝馬車をここに走らしたことがありましてね」サムは言った。「選挙の時期がやってきて、投票者をロンドンからつれてくるようにと、一方の党の者からたのまれたんです。彼がロンドンにいこうとする前の晩、反対党の委員会がそっと彼を呼びにき、案内人の使いの者といっしょに彼は出かけていきました――大部屋――たくさんの紳士――書類、ペンとインキなんてものがどっさり。『ああ、ウェラーさん』椅子に坐ってたある紳士が言いました。『お会いしてうれしいですな。ご機嫌いかがです?』――『ありがとうございます、まあ、かなり元気。あんたも、まあまあお元気でしょうな?』おやじは言いました――『ありがとう、まあ元気ですよ』紳士は言いました。『ウェラーさん、お坐りなさい――どうかお坐りなさい』そこでおやじは腰をおろし、彼と紳士はしっかりと目をかわし合いました。『あんたは、わたしを憶えてないんだね?』紳士は言いました――『知ってるとは申せませんな』おやじは言いました――『おお、ぼくはきみを知ってるよ。きみが少年のころを知ってるんだ』紳士は言いました――『うん、こちらは憶えてはいませんな』おやじは言いました――『そいつはじつに奇妙なこった』紳士は言いました――『じつにね』おやじは答えました――『ウェラーさん、きみの記憶力はわるいんだろうね』紳士は言いました――『うん、そいつはとてもわるくてね』おやじは答えたんです――『そう思ってたよ』紳士は言いました。そこでおやじにぶどう酒が一杯つがれ、彼の御者ぶりについていい加減なことが語られ、おやじはすっかり上機嫌、とうとう手に二十ポンドの札をにぎらされちまったんです。『こことロンドンのあいだの道はとてもひどいもんだ』紳士は言いました――『ここもあそこも、ひどい道路でね』おやじは言いました――『とくに運河の近くはね』紳士は言いました――『あそこはひでえとこだ』おやじは答えました――『ところで、ウェラーさん』紳士は言ったんです、『きみはじつにすばらしい御者で、馬は好きなようにあつかえることを、われわれは知ってるよ。われわれはみんなきみにとても好意をもってるんだ、ウェラーさん、だから、あの投票人たちをここにつれてくるとき、なにか事故を起こし、傷をつけずに彼らを運河に放りこんでくれたら、この金はきみにあげよう』紳士は言いました――『そいつはご親切さま』おやじは答えました、『そして、もう一杯のぶどう酒であんたの健康を祝いましょう』彼はこう言い、乾杯し、それから金をきちんとポケットにおさめ、お辞儀をして出ていきました。あなたはまさかお信じにはならないでしょうね」得も言えぬ厚かましい顔を主人に投げて、サムはつづけた、「その日、投票人といっしょにここに来るとき、ちょうどその場所で彼の馬車はひっくりかえり、だれもかれもが運河に投げ出されちまったんです」
「そして引きあげられたんだろうね?」急いでピクウィック氏はたずねた。
「いやあ」とてもゆっくりとサムは答えた、「ひとりの老紳士は行方不明になったと思いますよ。彼の帽子が見つかったことは知ってますが、そこに彼の頭がはいってたかどうかは、よく憶えてません。だけど、わたしが考えてることは、あのとてつもない、すごい偶然の一致、あの紳士が言った話のあとで、ちょうどその場所、ちょうどその日におやじの馬車がひっくりかえったこってす」
「まったく、じつにとてつもない話だな」ピクウィック氏は言った。「だが、サム、わしの帽子に刷毛をかけてくれ。ウィンクルさんがわしを朝食に呼んでいるのが聞こえているからな」
こう言ってピクウィック氏は客間におりていったが、そこには朝食がもうならべられ、家族の者が集まっていた。食事はあわただしく終わり、ポット夫人自身の美しい手でつくられた大きな青の記章でそれぞれの紳士の帽子は飾られていた。ウィンクル氏が政見発表所のすぐそばの屋根にポット夫人を護衛してゆくことになったので、ピクウィック氏とポット氏は『タウン・アームズ旅館』におもむいたが、その裏窓からスラムキー氏の委員会のひとりが六人の小さな少年とひとりの少女に演説をし、二言目には彼らに「イータンスウィルの方々」と呼びかけて、相手の尊厳を高め、その度に、六人の小さな少年は、すごい歓声をあげていた。
うまやのある内庭はイータンスウィルのブルー党員の栄誉とたくましさのまぎれもない証しを示していた。青い旗の正規軍がひかえ、一部はひとつの柄のついたもの、一部はふたつの柄がついていて、四フィートの高さ、釣り合いもしっかりとれた金文字でしかるべき標語が示されていた。らっぱ、バスーン(二重の舌のある低音大縦笛)、ドラムの大演奏団があり、彼らは四列にならんで、それぞれ賃銀をもらい、とくに筋骨たくましいドラム打ちは、大金をかせいでいた。青い棒をもった巡査のいくつかのかたまり、青いスカーフをつけた二十人の委員、青い花形帽章をかぶった投票者の群れがいた。馬に乗った投票者あり、徒歩の投票者ありだった。サミュエル・スラムキーのための無蓋の四頭立ての馬車があり、彼の友人と支持者のためには、四台の四頭立ての馬車があり、旗ははためき、演奏団は演奏し、巡査は大声でののしり、二十人の委員は口論をし、群集は叫び、馬はあとすざりし、御者は汗を流していた。そのときそこに集まったすべての人とすべてのものは、イギリス下院議会でイータンスウィル選挙区の代表者候補のひとり、スラムキー・ホールのサミュエル・スラムキー氏のために特別に役立ち、その名誉と名声を高めるためにはせ参じたものだった。
ポット氏の薄茶色の頭がある窓のところで下の群集の目にはいったとき、喝采は大声でながくつづき、「新聞の自由」と染めぬかれた青い旗のはためきは、力強いものだった。そして、乗馬用の長靴をはき、青いネッカーチーフをつけたサミュエル・スラムキー氏自身が進み出てこのポット氏の手をつかみ、群集への身ぶりでイータンスウィル・ギャゼットにたいする言いようのない感謝を芝居気たっぷりに示すと、熱気はぐんぐんとものすごく高まっていった。
「ぜんぶ準備はできたかね?」サミュエル・スラムキー氏はパーカー氏にたずねた。
「ええ、ぜんぶ」が小男の返事だった。
「ぜんぶ手抜かりはないだろうね?」サミュエル・スラムキー氏は言った。
「ぜんぶのこらずやりました――ぜんぶすっかり。あなたが握手する二十人の洗い浄めた男が表の戸口にひかえ、あなたが頭をなで、|齢《とし》をたずねる六人の武装した子供たちが待っています。子供にはとくに注意してください――そういったことは大きな効果をあげるもんですからね」
「注意することにしよう」サミュエル・スラムキー氏は言った。
「そして、たぶん――」用心深い小男は言った、「もしできたら――それが絶対必要と言うつもりはありませんが――しかし、もし彼らのひとりにキスしていただけたら、それは群集に大きな印象を与えるでしょう」
「提案者か後援者がそれをやっても、同じ効果をあげんかね」サミュエル・スラムキー氏はたずねた。
「いやあ、残念ながら、だめでしょう」世話人は答えた。「もしそれをあなた自身でやっていただけたら、それはあなたをすごい人気者にしてくれるでしょう」
「よくわかった」あきらめたようにサミュエル・スラムキー氏は言った、「それなら、それはしなければならん。仕方がない」
「行列の用意!」二十人の委員が叫んだ。集まった群集の喝采につつまれて、演奏隊、巡査、委員、投票人、騎馬の人、馬車がそれぞれの場所につき――二頭立ての馬車は、それぞれ、まっすぐに立った乗せられるかぎりの紳士を乗せ、パーカー氏の馬車には、ピクウィック氏、タップマン氏、スノッドグラース氏、それ以外に数人の委員たちが乗りこんでいた。
行列がサミュエル・スラムキー氏の馬車に乗るのを待っているあいだ、一瞬、おそろしい沈黙があたりを支配した。突然、群集は大喊声をあげた。
「出てきたぞ」ひどく興奮して、小男のパーカー氏は言った。パーカー氏たちがいた場所からは進行中のことが見えなかったので、彼はそれだけなお興奮していた。
前よりずっと大きなもうひとつの喊声。
「投票人たちと握手をしてるんだ」小男の世話人は叫んだ。
はるかにもっと強烈な喊声。
「子供たちの頭をなでたんだ」不安にふるえながら、パーカー氏は言った。
大気をさく賞賛のうなり声。
「子供のひとりにキスをしたんだ!」小男はよろこんで叫んだ。
第二のうなり声。
「もうひとりの子供にキスをしたんだ」興奮した世話人はあえいだ。
第三のうなり声。
「子供みんなにキスをしてるんだ!」熱狂的な小男の紳士は金切り声をあげた。そして、群集の耳を|聾《ろう》せんばかりの叫びに送られて、行列は進んでいった。
どうして、どんな方法で、この行列がべつの行列と合流してしまったのか、つづいて起こった混乱からどうしてそれがぬけだせたのかは、ピクウィック氏の帽子がそのはじめにバフ派の旗の棒で打たれて、目・鼻・口にかぶさってしまったので、なんとも言えない。その場景をチラリとでもながめられるようになったとき、彼は、自分が怒った兇悪な顔々、大きなほこりの渦巻き、ぎっしりとつめかけた闘士の群れに四方つつまれていた、と描写している。彼は、自分が目に見えぬある力によって車から引きだされ、みずから拳闘試合に参加した、と述べているが、だれを相手に、どんなふうに、どうしてかは、ぜんぜんわかっていなかった。それから、彼はうしろから何人かの人によって木の階段を引きあげられたように感じ、帽子をとってみると、選挙場の左手の側の最前列のところで、友人たちにかこまれていたのだった。右側はバフ派のために、中央は市長とその職員のために、とってあった。その職員のひとりが――イータンスウィルの太った|触《ふ》れ役――が静粛を命じるために大きな鐘を鳴らし、ホレイシオ・フィズキン氏とサミュエル・スラムキー氏は、胸に手を当て、前面の開けた場所にあふれている頭の動く波にじつに愛想よくお辞儀をし、その動く波からは、うめき、叫び、喊声、やじのあらしがわきおこり、その猛烈さは、どんな地震にも恥ずかしからぬもののように見えた。
「あそこにウィンクルがいますよ」ピクウィック氏の|袖《そで》を引っぱって、タップマン氏が言った。
「どこに?」幸いこのときまでポケットにおさめてあった眼鏡をかけて、ピクウィック氏は言った。
「あそこ」タップマン氏は言った、「あの家の屋根の上です」
たしかに、タイルの屋根のといのところに、ウィンクル氏とポット夫人がふたつの椅子に気持ちよさそうに坐り、こちらの存在がわかったという証拠に、それぞれのハンカチをふっていた――そしてピクウィック氏は投げキスをして、その挨拶に答えた。
選挙の行事はまだはじまらず、なにもしないで立っている群集はふざけたがるものであるから、このじつに無邪気な行動は、彼らのふざけ気分の目をさまさせた。
「おお、腹黒い老人の悪党め」ある声が叫んだ、「女を見てるのか、えっ?」
「おお、|乙《おつ》にすました|罪人《つみびと》め」ほかの声が叫んだ。
「夫のある女を見ようと、眼鏡をかけてるぞ!」第三の声が叫んだ。
「あの腹黒い老いぼれまなこで、やつはあの女にウィンクしてるぞ」第四の声が叫んだ。「ポット、お前の女房に用心しろよ」第五の声が叫び――わっという笑い声がわきおこった。
こうしたあざけりには、ピクウィック氏と|齢《とし》をとった雄羊との意地のわるい比較や、それと同類のひやかしがともない、そのうえ、それは清純な夫人の名誉に非難を浴びせようとしているものだったので、ピクウィック氏の激怒は強烈なものだった。しかし、ちょうどそのとき、沈黙が命じられたので、群集のあやまった考えにたいする憐憫の|面持《おもも》ちを彼らにたたきつけるだけで、彼は我慢していたが、それを見ると群集は前よりもっとゲラゲラと笑いだした。
「静粛!」市長の職員はわめいた。
「ウィフィン、沈黙を命じろ」市長の高い地位にふさわしい堂々とした態度で、市長は命じた。この命令にしたがって、|触《ふ》れ役はもう一度鐘を鳴らし、そこで群集の中の一紳士が「マフィン」(小さな円形の丸焼きパン、前のウィフィンにもじってからかったもの)と叫び、それがまた、笑いをひきおこした。
「諸君」できるかぎりの大声をはりあげて、市長は叫んだ、「諸君。イータンスウィル選挙区の仲間の選挙人諸君。われわれがきょうここに集まったのは、代表者をひとり選んで、故――」
ここで市長は群集の一声にはばまれた。
「市長万歳!」その声は叫んだ、「彼が金をもうけてる釘とシチューなべの商売をやめないように!」
演説者の職業にたいするこの当てつけは、あらしの歓喜でむかえられ、それは、鐘の伴奏とともに、のこりの彼の演説を聞こえなくし、ただ聞こえたのは結びの言葉だけ、そこで彼は自分の話を終始聞いてくれた忍耐強い聴衆の関心に感謝したのだったが、これは、また十五分ほどつづいた一連の笑いをひきおこしてしまった。
つぎにとてもかたい白いネッカーチーフを着けた背の高い痩せた男が、「使いを家に出せ。声を枕の下に忘れてきたんじゃないか、きいてみろ」と群集に何度もせがまれたあとで、議会に代表を送るにふさわしい適切な人物を指名することを要求した。そして彼が、それはイータンスウィルの近くのフィズキン・ロッジのホレイシオ・フィズキン氏である、と述べたとき、フィズキン派の者は拍手喝采し、スラムキー派の者はわめき、その声は大声でながくつづいたので、この人物と後援者が話すかわりに喜劇的な歌を歌ったとしても、だれもそれには気がつかなかったであろう。
ホレイシオ・フィズキン氏の友党の活躍が終わり、小柄な、激しやすい、ピンクの顔色をした男が進み出て、議会でイータンスウィルの選挙人を代表すべきもうひとりのふさわしい適切な人を推薦しはじめたが、彼が激しやすい人物ではなく、群集の冗談を十分理解できる人物だったら、このピンクの顔色をした男はとんとん拍子に演説をすることができたであろう。だが、比喩的な雄弁を数言放ったあとで、ピンクの顔色をした男は、群集の中で自分の邪魔をした人たちをののしることから、選挙場にいる紳士たちと激しい口論をかわすことになり、そこで喚声がわきあがり、それで彼は自分の感情を真剣な無言劇であらわさなければならなくなり、それをすませてから、舞台を後援者にゆずった。この後援者は三十分ほどのながさの書きものを読みあげ、それをイータンスウィル・ギャゼットに送り、イータンスウィル・ギャゼットがそれをぜんぶ一語もあますことなくもう印刷してあったので、途中でやめようとはしなかった。
ついで、イータンスウィルの近くのフィズキン・ロッジのホレイシオ・フィズキン氏が選挙人に呼びかけるために演壇に姿をあらわし、彼があらわれるやいなや、サミュエル・スラムキー氏にやとわれていた演奏隊が、朝の演奏とはくらべものにならぬほどの力強さで、演奏をはじめた。それに対抗して、バフ派の群集はブルー派の群集の頭と肩をひどくなぐり、これにたいして、ブルー派の群集は自分たちのじつに不愉快な隣人のバフ派の群集を追い払おうとし、ついで闘争、突き押し、喧嘩の場面が展開されたが、その描写は、市長と同様、われわれにはとても不可能なことである。市長は|首魁《しゆかい》はとらえるようにと十二人の巡査に厳命をくだしたが、その首魁の数は二百五十人かそこいらにのぼったことであろう。こうした紛争が起きると、フィズキン・ロッジのホレイシオ・フィズキンとその一派はすごい勢いで怒りだし、とうとうフィズキン・ロッジのホレイシオ・フィズキンは、敵のスラムキー・ホールのサミュエル・スラムキーに、あの演奏隊は彼の承諾を得て演奏をしているのかどうかをたずね、サミュエル・スラムキーはその質問に答えるのを拒否したので、フィズキン・ロッジのホレイシオ・フィズキン氏は、スラムキー・ホールのサミュエル・スラムキー氏の面前で拳をふりまわし、サミュエル・スラムキー氏は、血がかっとのぼっていたので、ホレイシオ・フィズキン氏に決闘を申しこんだ。秩序の規則と先例を破るこの言動に接して、市長は鐘の幻想曲をもう一度鳴らすことを命じ、フィズキン・ロッジのホレイシオ・フィズキン氏とスラムキー・ホールのサミュエル・スラムキー氏両名を自分の前に引きだして、秩序の維持を厳命すると言いだした。この威嚇宣言にふたりの候補者の支持者がとりなしをし、四十五分ほどそれぞれの党派の者がとっ組み合いをして争ったあとで、ホレイシオ・フィズキン氏はサミュエル・スラムキー氏に帽子をぬいで挨拶し、サミュエル・スラムキー氏はホレイシオ・フィズキン氏に帽子をぬいで挨拶した。演奏隊はとめられ、群集は一部静まり、ホレイシオ・フィズキン氏が演説することを許された。
ふたりの候補者の演説は、ほかの点ではすべてちがってはいたものの、イータンスウィルの選挙人の長所と高い価値に美しい賛辞を呈していた。双方とも、自分に投票を約束してくれた選挙人以上にもっと独立心の強い、もっと啓発された、もっと公共心をもった、もっと気高い、もっと公正な人はこの世に存在したことはないと述べ、反対党の投票者は、自分たちに求められている重要な義務を行使するのにふさわしくないように彼らをしてしまっている下品でふしだらな欠陥をもっているのではないかという疑惑をそれとなくほのめかしていた。フィズキンは、求められることはなんでもする決意を表明し、スラムキーは、自分に要求されたことはなにもしない決意を表明した。双方ともイータンスウィルの商業・製造業・繁栄がこの世のどんなものより自分たちの心には大切であると述べ、それぞれが、自信満々、自分こそ結局選出される人物だと断言することができた。
賛否の挙手がおこなわれ、市長はスラムキー・ホールのサミュエル・スラムキー氏有利と判定した。フィズキン・ロッジのホレイシオ・フィズキンが投票を要求し、その結果、投票が決定された。ついで、|議長《イン・チエア》としての有能な行為にたいして、市長への感謝投票の動議が出され、市長は自分の有能な行為を示すべき|椅子《チエア》があったらと心中強く考えながら(というのも、この行事のあいだ、彼はずっと立ちっぱなしでいた)、感謝の辞を述べた。行列はふたたび組まれ、馬車はゆっくりと群集のあいだをとおりぬけ、群集はその感情、気まぐれのおもむくままに、馬車に向けて金切り声を発し、大声をあげていた。
投票のあいだ中ずっと、町は興奮の渦につつまれていた。すべてのことが、気前よく、感じがいいふうにおこなわれていた。物品税(酒、タバコなどに課する税)を課することができるものはすべての酒場でとても安く、ばねつき大型馬車は町をねり歩き、一時的に頭がフラフラしている選挙人を収容していたが、この流行病は選挙戦中驚くほど投票人のあいだで流行し、それにかかった彼らが完全に意識を失い舗道にころがっているのが、よく見受けられた。選挙人のある小さな団体が最後のとことんの日まで投票をしないでいた。彼らはたがいによく会議はしていたものの、両派の議論にまだ納得していない計算高い、思慮深い連中だった。投票が終わる一時間前に、パーカー氏はこの知的な、気高い、愛国的な人々と私的会見を申しこみ、それが許された。彼の議論は簡潔だったが、満足のゆくものだった。彼らは一団となって投票所にゆき、彼らが|もどって《リターン》きたとき、スラムキー・ホールのサミュエル・スラムキー氏も議会に|選出《リターン》された。
[#改ページ]
第十四章
[#3字下げ]『|孔雀《くじやく》旅館』に集まった人々の簡単な描写と旅商人の話
政治方面の闘争とさわぎから目を転じて、個人生活のやすらぎある落ち着きをながめるのは、楽しいことである。じっさいにはどちらの側にもたいして熱を入れているわけではなかったが、ピクウィック氏はポット氏の情熱で燃え立たされ、そのすべての時間と注意を選挙に集中し、前の章で示したその描写は、彼自身の覚え書きから編纂したものである。こうしたことを彼がしているあいだに、ウィンクル氏もぼんやりしていたわけではなく、彼のすべての時間はポット夫人といっしょにゆく楽しい散歩やいなかへの小旅行にささげられていた。彼女は、こういう機会があればいつもそれをのがさず、彼女がいつもこぼしていた退屈な単調さからのがれようとしていた。ふたりの紳士がこのようにして編集者の家ですっかり飼い馴らされてしまっていたので、タップマン氏とスノッドグラース氏はなんとか自力で打開策を講じなければならなくなった。政治にはほとんど関心がなかったので、彼らは『|孔雀《くじやく》旅館』がもっている遊びで時間をまぎらわしていたが、それは二階のバガテル(一種の玉突き)と裏庭の人気のない九柱戯場だけにかぎられていた。ふつうの人が考えているよりはるかに深みのあるこうした遊びの精妙なところを、ふたりはだんだんとウェラー氏によって教えこまれた。ウェラー氏はこの遊びをよく心得ていたからである。こうして、彼らはピクウィック氏といっしょにいる快適さと利点は大いにうばわれながらも、なんとか時間つぶしをすることができ、あまり退屈を味わわずにすんだのだった。
つまらなくはあっても、才能のあるポット氏の招待さえも断わる力をこのふたりの友人に与えた魅力を『孔雀旅館』が示したのは、夕方のことだった。旅館の「商人用の部屋」が社交的な一団でいっぱいになるのは夕方のこと、そうした人の性格や態度をながめるのはタップマン氏のよろこび、その言動を書きしるすのはスノッドグラース氏の習慣になっていた。
商人用の部屋がどんなものか、たいていの人は知っている。『|孔雀《くじやく》旅館』の商人用の部屋は、重要な点で、一般のこうした部屋とちがってはいなかった。というのは、それは大きなガランとした感じの部屋、そこの家具は新しいときにはもっとよかったろうといった具合い、真ん中にはだだっぴろいテーブルがあり、隅々にはもっと小さなテーブル、さまざまな形をした椅子が多くとりそろえてあって、部屋の大きさに比較しての古いトルコじゅうたんの大きさは、番兵小屋の床にしいた婦人のハンカチといったものだった。壁はひとつかふたつの大きな地図で飾られ、いくつかの雨風に打たれた粗末な外套が、複雑な肩マントを着けて、隅のながい一列にならんだ木釘にぶらさがっていた。炉だなを飾っているのは、ペンの残骸と半切れの封緘紙を入れてあるインクスタンド、道路案内と商工人名録、表紙のとれた州の歴史の本、ガラスの棺におさめられた|鱒《ます》の剥製だった。そこでは、タバコのにおいが強く鼻をつき、そのいきれは、部屋ぜんたいに、とくに窓をかくしているほこりっぽい赤いカーテンにきたならしい色合いを与えていた。食器だなの上には、さまざまな雑多な品物がゴタゴタとならべられ、そこでもっとも目立つものは、魚の肉にかけるソースを入れた薬味入れ、ふたつの御者台、二、三の鞭、それと同数の旅行用のショール、ナイフとフォークのある盆、それにからし[#「からし」に傍点]だった。
この旅館の何人かの泊まり客といっしょに、タバコをふかし酒を飲みながら、選挙が終わった晩にタップマン氏とスノッドグラース氏が坐っていたのは、こうした部屋だった。
「さて、みなさん」太った、元気な、片目だけの四十くらいの人物が言ったが――その目は、とてもキラキラ輝く黒い目、おどけと上機嫌のいたずらっぽい表情で輝いていた。「みなさん、われわれの尊い自身、わたしはいつも人にはこの乾杯の言葉を使い、自分自身にはメアリーと言って酒を飲むんです。おい、メアリー!」
「このひどい人ったら、やめて!」このお世辞でたしかにあまりご機嫌ななめでもない女中は言った。
「いくなよ、メアリー」黒目の男は言った。
「ほっといてちょうだい、この厚かましい人ったら」若い女は言った。
「気にすることはないよ」女が部屋を出ていったとき彼女に叫びかけて、片目の男は言った。「メアリー、おれもすぐ出ていくよ。がっかりしちゃいけないよ、ねえ」ここで彼は片目で一座の人にウィンクをするというあまりむずかしくもない芸をやり、きたない顔をし、陶製のパイプをくわえた初老の男を大いによろこばせた。
「女って妙なもんさ」少し間をおいてから、きたない顔をした男が言った。
「ああ! たしかにそうだね」葉巻きの影のうしろから、顔のとても赤い男が言った。
こんな理屈をひとこねしてから、またちょっと沈黙がつづいた。
「だけど、女よりもっと妙なもんがこの世にはありますな」とても大きな火皿のついたでっかいオランダ・パイプにゆっくりとタバコをつめながら、黒目の男が言った。
「お前は女房もちなんかね?」きたない顔をした男がたずねた。
「そうとは言えんね」
「そうとにらんでたよ」ここで、きたない顔をした男が自分の返事をおもしろがって笑いの発作におちいり、その笑いに感じのいい声とおだやかな顔をした男が加わったが、この男は、いつもだれにでも|相槌《あいづち》を打っている男だった。
「みなさん、女性とは、結局」情熱的なスノッドグラース氏が言った、「われわれの存在の大きな支え、それに楽しみなんです」
「そうですね」おだやかな紳士は言った。
「女の機嫌のいいときにはね」きたない顔をした男が口をはさんだ。
「うん、それもたしかに事実」おだやかな顔が言った。
「その条件を、わたしは拒否します」エミリー・ウォードルに思いをはせていたスノッドグラース氏は言った、「わたしは軽蔑――怒りをもってそれを拒否します。女性としての女性になにか文句をつける男がいたら、その男にお目にかかりたいものですな。わたしは遠慮なく、その男は男でない、と言ってやります」こう言って、スノッドグラース氏は葉巻きを口からとり、固めた拳で激しくテーブルをドンとたたいた。
「それはりっぱな、非の打ちどころのない議論ですな」おだやかな男は言った。
「そこには、こちらに承服できない考えがあるようですな」きたない顔をした男が口をつっこんだ。
「たしかに、あなたの言うことにも、大いに真理はありますよ」おだやかな紳士は言った。
「あなたの健康を祝います!」スノッドグラース氏にたいして賛成のうなずきを与えながら、ひとつ目の旅商人は言った。
スノッドグラース氏はその言葉に感謝した。
「わたしはりっぱな議論を聞くのがいつも好きなんです」旅商人はつづけた、「このような激しい議論をね。それは、とてもためになるもんです。だが、このちょっとした女に関する議論を聞いて、わたしは自分の|齢《とし》をとった叔父が話してくれたある話を思い出しましたよ。たったいまそれを思い出して、わたしはこの世には、ときどき、女以上に奇妙なものがあると言ったんです」
「その話を聞きたいもんですな」葉巻きをくわえた赤ら顔の男が言った。
「聞きたいんですか?」だけが旅商人の答えで、彼は激しくタバコをすいつづけていた。
「わたしも聞きたいですな」はじめて口を聞いて、タップマン氏が言った。彼はいつも経験を積み重ねたいものとねがっているのだった。
「聞きたいのですか? ええ、それなら話してあげましょう。いや、やめよう。信じてはもらえないでしょうからね」いたずらっぽい目をした男が、その目を前よりもっといたずらっぽくして、言った。
「それが本当だとあなたがおっしゃったら、わたしはそれを信じますよ」タップマン氏は言った。
「ええ、その諒解でお話ししましょう」旅行者は答えた。「『ビルソンとスラム』という大きな商人宿のことをお聞きになったことがありますかね? だけど、お聞きになろうとなるまいと、それはどうだっていいんです。とっくのむかしに商売はやめてしまったんですからね。これは八十年前の話。というのも、話はその宿屋の旅行者の身に起きたことだったんです。だが、彼は叔父の親友で、叔父がその話をわたしにしてくれたんです。妙な名前ですが、叔父はそれをいつも『旅商人の話』と呼び、ちょっとこんなふうに話してくれました。
旅商人の話
ある冬の日の夕方、五時ごろに、ちょうど暗くなりはじめたときに、一頭引き二輪馬車に乗った男がモールバラの岡を切ってブリストルに通じる道路ぞいに疲れた馬を走らせている姿が見れば見られるとこでした。見れば見られるとこと言うのは、めくら以外のだれかがそこをとおり合わせたら、きっと見られたろうということです。だが、天気はとてもわるく、夜は寒くて湿気模様、目にはいるものといえばもう水だけ、その結果、旅行者はひとりわびしく道の真ん中を馬車にゆられて進んでいきました。粘土色の車体と赤い車輪をもった小さな危っかしい二輪馬車と、肉屋の馬か安っぽい郵便局の小馬かのどっちつかずといった、雌狐のような、気むずかしい、足の早い栗毛の雌馬を当時の旅商人が見たら、彼はきっとすぐに、この旅行者がほかならぬシティ(ロンドンの旧市部)のキャティートン通りにある『ビルソンとスラム旅館』のトム・スマートであったことに気づいたことでしょう。そして、トム・スマートと赤い車輪のついた粘土色の二輪馬車と足の早い雌狐のような雌馬は、その秘密を伏せたままにしてどんどん進み、だれも彼らの存在には気がつかないでいました。
このわびしい世の中にだって、風の吹き荒れたモールバラの岡以上に気持ちのいい場所はいくらでもありますよ。それに陰気な冬の夕方、泥まみれの水たまりのある道、たたきつけるようにして降りつけるひどい雨を加え、ものはためしに、それがどんなものかあなた自身がそれを味わってみたら、この言葉の十分な意味があなたにもおわかりになるでしょう。
風が吹いてました――道路ぞいにではなく――それもいやなもんですが――真横から吹きつけて、雨を、学校の習字帳で生徒の字をちゃんと傾かせるために引いてある斜線のように、吹っとばしてました。一瞬、それはさっと吹きやみ、旅行者はそれにあざむかれ、前の激しい勢いに疲れて風もひと休みしたのだろうと考えはじめると、ヒューッとそれが遠くでうなるのが聞こえ、ついで岡の頂上におそいかかり、平らな場所をとんできながら近づいてきて音と力をまし、最後にすごい突風になって馬と人間にぶつかり、鋭い雨を耳に流しこみ、その冷たい湿った息を骨の中にまでしみこませ、まるで彼らの弱さをあざけり、自分自身のたくましさと力強さを勝ち誇って意識しているように、ものすごいうなり声をあげて、はるか、はるかかなたにとんでいきました。
栗毛の馬は耳を垂らし、泥と水を切って進み、ときどき、この雨と風の紳士らしからぬやり方に憤慨しているように頭をグイッとあげながらも、歩調をゆるめずにとんでゆきましたが、前に彼らをおそったよりもっと激しい突風が吹きつけてきて、雌馬はとうとう足をとめ、風に吹きとばされまいと、四つの脚をしっかりと構えました。馬がこれをしたのは、じつに好都合なことでした。もし馬が吹きとばされたら、雌狐のような雌馬はとても軽く、馬車も軽く、トム・スマートもそのうえとても軽い男だったので、地の果てにゆき着くか、風がやむまで、彼らはきっとコロコロと転がっていったことでしょう。いずれの場合にせよ、雌狐のような雌馬も、赤い車輪のついた粘土色の馬車も、トム・スマートも、二度と仕事にはつけなかったことでしょう。
「うん、ちくしょう、おれの革ひもと|頬髯《ほおひげ》め!」トムは言いました(トムは悪態をつくいやな癖をもっていました)、「ちくしょう、おれの革ひもと頬髯め」トムは言いました、「|まったく感じ《ブロー・ミー》がわるいな!」
トム・スマートがもうかなり強く風に|吹《ブロー》きつけられていたので、同じことをもう一度味わいたいとなぜ言ったのかと、あなたは、たぶん、おたずねになることでしょうね。わたしにはなんとも答えられません――わたしの知ってることといえばただ、トム・スマートがそう言ったということだけ――さもなければ、少なくとも彼はいつも叔父にそう言ったと話してたことだけで、結局それは同じことになるわけです。
「|ちくしょう《ブロー・ミー》」トム・スマートは言い、雌馬も、まさにそれと同意見といったふうに、いななきました。
「婆さん、元気を出しな」鞭の端で栗毛の雌馬の首を軽くたたいて、トムは言いました。「こんな夜に、どんどん進んでいったってだめさ、最初にいきついた宿で泊めてもらうことにしよう。だから、早くいけばいくほど、仕事は早く終わるわけだよ。どう、どう――静かに――静かに」
雌狐のような雌馬がトムの声の調子をよく理解して彼の意図をさとっていたのか、それとも、立っているのが動いてるより寒いと思ったのか、これは、もちろん、わたしにはなんとも言えません。だが、トムがそう言い終えるやいなや、雌馬が耳を立て、車の赤い|輻《や》がぜんぶモールバラの岡の草原にふっとんでしまうかと思うほど粘土色の馬車をガタガタさせる速度でとびだしたのはたしかなことでした。御者であるトムも馬の歩調をとめたり抑えたりすることはできず、最後に、岡の終わったところから約八分の一マイルほどはなれた道の右側にある路傍の旅館の前に、馬は自分でとまりました。
トムは馬丁に手綱をわたし、鞭を御者台に入れながら、宿屋の上部をさっとながめました。それは奇妙な古い建物で、いわば大ばりではめこまれた一種のこけら板づくり、小道の上にすっかりとびだしている切妻屋根のついた窓と暗い玄関のある低いドアがあり、五、六段のあまり高くない階段をあがって家にはいるといった近代的なものではなく、階段を二段さがって家にはいれるようになっていました。だが、そこは快適な感じのする家でした。酒場(イギリスの旅館には必ず酒場がついていた)の窓には強い陽気な|灯《あか》りが見え、それは明るい光を道路越しに投げ、向こう側の生垣を照らし出していました。反対側の窓には赤いチラチラする灯りがあり、それは、一瞬のことでしたが、かすかに見わけることができ、つぎの瞬間には、引かれたカーテンをとおしてはっきりと輝いていて、中に燃え立った火があることを示していました。経験を積んだ旅行者の目でこうしたちょっとした証拠を見てとって、トムは大急ぎで馬車からおり、家にはいっていきました。
五分もたたないうちに、トムは酒場の反対側の部屋――火が燃えていると彼が見当をつけたちょうどその部屋――で、一ブッシェル(二二一九立方インチ)に少したりないほどの石炭と煙突の中途までつみあげられたすぐり[#「すぐり」に傍点]の木六本分ほどの木を|薪《たきぎ》にし、どんな人の心でもそれだけで温めてしまうようなごうごうパチパチと音を立てて燃えている、がっちりとした変哲もない炉の前におさまっていました。これは快適なことでしたが、こればかりではありませんでした。というのも、小ぎれいな服装をした、明るい目をし、気持ちのよい足首をした娘がテーブルの上にとてもきれいな白い布を敷こうとしていました。トムがスリッパをつっかけた足を炉格子にかけ、開いたドアに背を向けて坐ってたとき、彼は炉作りの上にかけられた鏡にうつしだされた感じのいい酒場の姿を見ました。そこには、漬け物と砂糖煮のつぼ、チーズとゆでたハム、牛のもも肉が棚の上にいかにも感じよく、食慾をそそるふうにならべられ、それといっしょに、心楽しい幾列かの青いびんと黄金のレッテルがズラリならべられてありました。そう、これも快適でしたが、そればかりではありませんでした――というのも、酒場では、キラキラ輝く小さな火の近くに引きよせられたじつにきれいな小さなテーブルでお茶を飲みながら、酒場と同じように感じのいい顔をした|齢《とし》はまあ四十八といった丸ぽちゃで美しい未亡人が坐っていたんです。彼女は明らかにこの旅館のおかみさんで、こうした気持ちのいいすべてのものの最高の支配者でした。こうしたすべての美しい絵にはひとつ欠点があり、それは、籠の模様のあるキラキラする金属ボタンのついた褐色の上衣を着こみ、黒い|頬髯《ほおひげ》をつけ、黒い髪の毛は波を打った背の高い男――とても背の高い男でした。彼は未亡人といっしょにお茶の座に坐り、これはべつに強い洞察力を必要としたわけではありませんでしたが、彼女に未亡人であることはもうやめ、彼ののこりの生涯のあいだ中ずっとその酒場に坐る特権を彼に与えるようにと、そうとう説得が進んでいるようすでした。
トム・スマートは絶対に怒りっぽいとか嫉妬深いとかいった男ではありませんでしたが、とにかく、籠の模様のあるキラキラする金属ボタンのついた褐色の上衣を着こんだ背の高い男は、彼が性格の中にもっているわずかないらいらとした気持ちを刺激し、彼をひどく憤慨させました。ときおり、鏡の前の席から、ちょっとした愛情こもったなれなれしい仕草が背の高い男と未亡人のあいだでかわされているのを見ることができたので、トムのそうした気持ちは、なおいっそう強くなっていきました。そして、ふたりのそうした仕草は、背の高い男が背が高いばかりでなく、未亡人に高く買われていることを、はっきり物語っていました。トムは熱いポンス(ぶどう酒や火酒に牛乳、水などをまぜ、砂糖、レモン、香料で味つけをした飲料)が好きでした――とても好きだったと言っていいでしょう――そして、雌狐のような雌馬が十分に飼料と寝|藁《わら》を与えられたのを見定め、未亡人が彼女自身の手で急いで料理してくれたおいしいわずかな熱い夕食をぜんぶ食べ終わったとき、ものは試しと、大コップ一杯の熱いポンスを注文しました。さて、料理のひろい領域でこの未亡人が他のものよりうまくつくれる料理がひとつあったとしたら、それはこの熱いポンスでした。最初の一杯はいかにもトム・スマートの好みに合ったので、彼はさっさと二杯目を注文しました。熱いポンスは快適な飲み物――いかなる事情のもとでも、じつに快適な飲み物です。しかし、あの快い古い客間で、ごうごうと燃えている炉の前で、風が外で吹き荒れ、古い家のすべての材がキーキーときしっているとき、トム・スマートはそれを非の打ちどころなくおいしいものと思いました。彼はもう一杯、さらにもう一杯注文しました――彼がそのあと、さらにもう一杯を注文しなかったかどうかは、よくわかってません。とにかく、熱いポンスを飲めば飲むほど、彼はなお強く、背の高い男のことが気になってきました。
「ちくしょう、あいつの厚かましさときたら!」トムは独り言を言いました、「あの気持ちのいい酒場で、なんの用事があるんだ? しかも、ひどくきたない悪党なのに!」トムは言いました。「もしあの後家さんに目があったら、もっとましな男を選ぶだろうに」ここでトムの視線は炉作りの上の鏡からテーブルの上の鏡にうつり、だんだん感傷的になるにつれて、彼は四杯目のポンスを飲みほし、五杯目を注文しました。
みなさん、トム・スマートは人前に出るのを、いつもとても好んでいました。緑の上衣を着こみ、膝ひもを結び、乗馬靴をはいて、自分自身の酒場に立つことが、彼の野心だったのです。彼は、宴会の晩餐で司会者をつとめることをたいしたことと思い、話す方面では自分の部屋でどんなにうまく主人役をつとめ、飲むほうでも客にどんなすばらしい手本を示すことができるかを、よく考えていました。ごうごうと鳴って燃えている炉のそばで熱いポンスを飲みながら坐ってるとき、こうしたすべての考えが急速に彼の頭をとおりぬけ、あの背の高い男がこんなりっぱな宿屋をわがものとしようとしてるのに、トム・スマートは依然としてそれにはおよそ縁のない立場に立っているのを憤慨しても当然、至極もっともなことと感じてました。そこで、丸ぽちゃで美しい未亡人のお気に入りになろうとたくらんだ点で、自分があの背の高い男に挑戦する完全な権利をもっているかどうかを、最後の二杯のポンスを飲みながら慎重に考えたあとで、自分はとてもひどい仕打ちを受けてる迫害された人物、早く寝たほうがいい、という満足のいく結論に達しました。
ひろい古びた階段を例の小ぎれいな娘がトムの先に立って、手で部屋のろうそくを風からかばいながら、あがっていきました。風は、こうしたダラダラと延びた古い家では、ろうそくを消さずにたわむれる隙間を見つけるものですが、この場合には、それを吹き消してしまいました。こうしてトムの敵だった連中に、ろうそくを消したのは風ではなく、彼だったのだ、彼がそれに火をつけようとするふりをしているあいだに、彼はじっさいにはその娘にキスをしていたのだ、と主張する好機を与えたわけです。それはどうともあれ、べつの|灯《あか》りがつけられ、トムは部屋と廊下の迷路をとおって、彼のために準備された部屋に案内され、そこで娘は彼にお|寝《やす》みなさいの挨拶をし、彼はひとりになりました。
そこはりっぱな大きな部屋で、小さな軍隊のこうりをおさめられるほどのふたつの|樫《かし》の衣装だんすはもちろんのこと、大きな戸棚と、寄宿学校の全員を収容できるほどの大きな寝台がありました。だが、トムをいちばん驚かせたのは、奇妙な、気味のわるいよりかかりの高い椅子で、じつに妙なふうに彫刻がほどこされ、花のどんすのクッションがつき、脚の下の丸いこぶは、まるで足の指に痛風でも起きたように、赤いきれで注意深くしばられてました。ほかの妙な椅子だったら、トムはただ妙な椅子だなと思っただけで、それっきりになったでしょうが、この椅子には、彼にはそれがなんであるかを言うことができないじつに奇妙な、ほかの家具とはじつにちがったあるものがあり、彼はそれに魅せられたような感じになってしまいました。彼は炉の前に坐り、三十分ほどその古い椅子をにらんでました――まったく、それは奇妙な古物で、彼はそれから目をはなすことができなくなりました。
「うん」ゆっくりと着物をぬぎながら、そのあいだ中ずっと、神秘的なようすを浮かべて炉のわきに立ってる古い椅子をにらんで、「あんな妙なもんは、見たことないぞ。じつに奇妙なもんだ」と熱いポンスでそうとう思慮深くなっていたトムは言いました、「じつに奇妙なもんだ」トムはいかにも深遠な賢人といったふうに頭をふり、また椅子をながめました。しかし、それでどうという考えも浮かばず、そこで、彼は寝台にもぐりこみ、掛け布団で温かく体をつつんで、眠りこんでしまいました。
約三十分して、トムはギクリとして、背の高い男たちとポンスのコップの入りまじった夢から目をさましました。彼の目をさました空想力になによりも先に思い浮かんだのは、例の奇妙な椅子でした。
「もうこれ以上、あれは見まい」トムは独り言を言い、目を固く結んで、自分は眠ろうとしているんだと考えようとしましたが、それは無益なことでした。彼の目の前で踊ってるのは奇妙な椅子、椅子、椅子で、それは脚を高く蹴あげ、たがいに背とびをし、ありとあらゆるおどけた身ぶりを示していました。
「いい加減な二、三組の椅子を見るより、本当のひとつの椅子を見たほうがいいだろう」掛け布団の下から頭を出して、トムは言いました。目の前そこに、炉の光ではっきりと照らし出されて、前どおりの挑発的な椅子が鎮座していたのです。
トムはその椅子をジッと見つめました。そして、彼がそれをながめた瞬間、突然、じつにふしぎな変化がそれに起こってきたようでした。よりかかりの彫刻はだんだんとしわだらけな老人の顔の線と表情になり、どんすのクッションは古い、垂れさがったチョッキに、丸いこぶは赤い布のスリッパをつっかけた二本の足になりました。古椅子は、両手を腰に当てて肘をつっぱった前世紀のとてもみにくい老人の様相をおびてきました。トムは寝台で起きあがり、この幻想を追い払おうと、目をこすりましたが、だめ、椅子はみにくい老紳士になって、そのうえ、トム・スマートにウィンクをしていました。
トムは生来向こう見ずの、むとんじゃくなやつで、そのうえ、熱いポンスを五杯も飲んでいたんです。そこで、最初はちょっと驚きはしたものの、老紳士がいかにも厚かましいふうにウィンクをしたり流し目でながめたりしてるのを見ると、彼はだいぶむかむかしてきました。とうとう、彼はこれ以上我慢はしまいと決心し、老人の顔が前どおり彼にパチパチとウィンクを送ってるとき、トムはいかにも腹が立ってならないといった調子で言いました――
「なんで、いったい、おれにウィンクしてるんだ?」
「それが好きだからさ、トム・スマート」どう呼んでもいいのですが、椅子なり老紳士なりが答えました。が、トムが話しだしたとき、彼はウィンクをするのをやめ、ひどく|齢《とし》をとった猿のように、歯をむいてニヤニヤと笑いはじめました。
「|顎《あご》と鼻のくっついた(老人で歯がぬけているため)この老いぼれ|面《づら》め、どうしておれの名を知ってるんだ!」なんでもないぞといったようすを示しながらも、そうとうびっくりして、トム・スマートはたずねました。
「さあ、さあ、トム」老紳士は言いました、「それはしっかりとしたスペインのマホガニー材(椅子がつくられている材)に話しかける話し方ではないぞ、わしが張り板づくりの椅子でも、そんな人をバカにした態度はとれんはずだぜ」老紳士がこれを言ったとき、彼の顔つきは激しいものになり、トムはおそろしくなってきました。
「あなたをぞんざいにあつかうつもりはなかったんですよ」最初の話しっぷりとはずっと遠慮がちな調子になって、トムは言いました。
「うん、うん」老人は言いました、「たぶん、そうだろうよ――たぶん、そうだろうよ、トム――」
「はっ?」
「わしはきみについては、なんでも知ってるんだよ、トム、なんでもだ。トム、きみはとても貧乏だな」
「たしかにそうです」トム・スマートは言いました。「だけど、どうしてそれがわかったんです?」
「それはどうでもいい」老紳士は言いました。「きみはポンスを好みすぎるな、トム」
生まれてこの方、そんなものは一|滴《しずく》だって飲んだことはない、とトム・スマートは言おうとしましたが、彼の目が老人の目と出逢ったとき、老人はいかにもさとり顔をし、その結果、トムは顔を赤らめて、だまってしまいました。
「トム」老紳士は言いました、「あの未亡人はいい女だ――とてもいい女だ――えっ、トム?」ここで老人は目をつりあげ、痩せおとろえた小さな片脚をピンとあげ、いかにも好色そうな不愉快な態度を示したので、その軽薄さにトムはすっかりむかむかしてしまいました――しかもこんな|齢《とし》になって!
「トム、わしは彼女の保護者だったんだ」老紳士は言いました。
「そうですか?」トム・スマートはたずねました。
「トム、わしは彼女の母親と知り合いだったんだ」老人は言いました。「そして彼女の祖母ともな。彼女はとてもわしを好んでくれて――このチョッキをつくってくれたんだよ、トム」
「そうですか?」トム・スマートは言いました。
「それにこの靴もな」赤いきれのマフラーをひとつもちあげて、老人は言いました。「だが、トム、そのことは他言しないでくれ。彼女がそんなにわしに愛情をよせていたとは、知られたくはないんだからな、それはあの一家になにか不愉快なことをひきおこすことになるかもしれんからね」老人のならず者がこれを言ったとき、彼はいかにも差し出がましく見え、自分はあの老人をおしつぶしてその上に乗っても後悔はしなかったろう、とトム・スマートはあとで言ってました。
「若いころ、わしは女のあいだで大の人気者だったよ」老人の放蕩な道楽者は言いました。「何百という美しい女が何時間もわしの膝の上に坐っててな。お前はそれをどう思う、えっ!」老紳士は若いころのほかの手柄話をしはじめましたが、そのとき、彼は激しいきしみの発作におそわれ、それ以上話をつづけることができなくなりました。
「ざまあ見ろ、この老いぼれめ」トム・スマートは心中思いましたが、口ではなにも言いませんでした。
「ああ!」老人は言いました、「わしはいま、これにとても悩まされてるんだ。トム、わしは老人になり、横|框《かまち》はほとんどすっかり失ってしまった。手術も受けてな――小さな切れっ端が背中に入れられ――それはつらいことだったよ、トム」
「たぶん、そうだったでしょうね」トム・スマートは言いました。
「だが」老紳士は言いました、「それは問題じゃないんだ、トム! わしはお前にあの未亡人といっしょになってもらいたいんだ」
「わたしがですって!」トムは言いました。
「きみさ」老紳士は答えました。
「これはまた」トムは言いました、「これはまた、彼女はわたしを亭主にはしてくれないでしょう」そして、トムは酒場のことを考えて、われ知らずふっと溜め息をもらしました。
「してはくれないかね?」老紳士はしっかりとした調子で言いました。
「だめです、だめです」トムは言いました。「動いてる男がいるんです。背の高い男――とてつもなく背の高い男で――黒い|頬髯《ほおひげ》をつけてます」
「トム」老紳士は言いました。「彼女はあの男を絶対に亭主にはしないよ」
「そうでしょうか?」トムは言いました。「あなたが酒場に立ってたら、話はちがってくるでしょうよ」
「バカな、バカな」老紳士は言いました。「そのことは、ぜんぶ知ってるよ」
「そのことって、なんのことです?」トムはたずねました。
「ドアのうしろでキスするとか、そういったことさ、トム」老紳士は言いました。ここで紳士はまた厚かましい顔をし、トムを非常に怒らせました。みなさん、これはご存じのことでしょうが、もっと分別をもってしかるべき老人がこうしたことについてしゃべるのを耳にするのは、とても不愉快なこと――なににもまして不愉快なことだからです。
「そんなことについては、みんな知ってるよ、トム」老紳士は言いました。「きみには言いたくはないほどたくさんの人のあいだで、それがされてるのを、若いころは、何回も見たことがあるんだからね。だが、そうしたことは、結局、なんの実も結ばなかったよ」
「妙なことをいろいろとご覧になったでしょうね」さぐる目つきをして、トムは言いました。
「まあ、そういったところかね」とても複雑なウィンクをして、老人は答えました。「わしは自分の兄弟で最後の者なんだ」憂鬱そうに溜め息をもらして、老紳士は言いました。
「それはたくさんいた兄弟だったんですか?」トム・スマートはたずねました。
「十二人いたよ、トム」老紳士は言いました。「このうえなく美しい、背のしゃんとしたりっぱな連中だった。最近のかたわ者とはぜんぜんちがってな――みんな腕をもち、わしの口から言うのもどうかと思うが、見ただけで気持ちがよくなる磨きのかかったものだった」
「それで、ほかの連中はどうなったんです?」トム・スマートはたずねました。
それに答えたとき、老紳士は肘を目にあてがいました、「死んじまったんだ、トム、死んじまったんだ。われわれは、トム、つらい勤めをしてね、彼らはみんな、わしのような体質をもっていなかったんだ。脚や腕にリューマチが起き、台所とかほかの病院にいってしまった。そのうちのひとりは、ながい勤めとひどいあつかいで、正気をすっかり失い――ひどい気ちがいになったんで、焼かれてしまったよ。ひどいことさ、そいつは、なあ、トム」
「おそろしいこってすね!」トム・スマートは答えました。
老人は数分間だまっていましたが、たしかに悲しみの情と戦っていたのでしょう。それから言いました――
「だが、トム、わしは話の的をはずしているようだね。あの背の高い男は、トム、悪党の山師なんだ。あの未亡人といっしょになるとすぐ、やつは家財ぜんぶを売り払い、ドロンを決めこむことだろうよ。その結果はどういうことになるだろう? 彼女はすてられ、身を滅ぼし、わしはどこかの古物屋の店で寒さで凍え死んじまうだろう」
「ええ、でも――」
「話を切らんでくれたまえ」老紳士は言いました。「きみについては、トム、わしはぜんぜんちがった意見をもってるのだ。お前が一度宿屋で身を固めたら、そこに飲むものがなにかあるあいだは、お前は絶対にそこを出てゆくことはないだろう」
「そう考えていただいて、とてもありがたいです」トム・スマートは答えました。
「だから」高圧的な調子で、老紳士はつづけました。「きみが彼女を妻にし、あの男にはそれを許さんのだ」
「どうしたら、それをすることができます?」熱をおびてきて、トム・スマートはたずねました。
「これを暴露することさ」老紳士は答えました。「あの男はもう妻をもってるのだ」
「それをどう証明できます?」寝台からほとんどとびだしそうになって、トムはたずねました。
老紳士は片腕を腰からはずし、|樫《かし》の衣装だんすのひとつをゆびさしてから、すぐにその腕をもとにもどしました。
「彼は忘れてるのだ」老紳士は言いました、「あのたんすの中にあるズボンの右ポケットに手紙を入れたことをね。その手紙は、やるせない妻のところにもどってきてくれという依頼状さ。六人――いいかね、トム――六人も子供がいて、それもみんな小さな子供ばかりなんだ」
老紳士が重々しくこうした言葉をしゃべったとき、彼の顔はだんだんとぼやけ、姿もぼんやりとしたものになりました。トム・スマートの目には膜がかかり、老紳士はだんだんと椅子に融けこんでゆくような感じ、どんすのチョッキはクッションに、赤いスリッパはちぢんで小さな赤い布の袋になってゆきました。|灯《あか》りは静かに消えてゆき、トム・スマートは枕に頭を乗せて、眠りこんでしまいました。
朝が来て、トムは昏睡状態の眠りから目をさましました。老人が姿を消すと、彼はそうした眠りにおちこんだのでした。彼は寝台に坐り、数分間、きのうの夜起きたことを思い出そうとしましたが、だめでした。急にそれが頭の中にわきおこってきました。彼は例の椅子をながめました。それは奇妙で気味のわるい家具ではあったものの、それと老人のあいだになにか相似点を発見するとは、じつに思いつきのいい活気のある想像力というものでしょう。
「どうだい、きみ?」トムは言いました。昼になって彼は元気が出てきたのです――たいていの人はそうなんですがね……。
椅子はジッと動かず、一言も話しませんでした。
「いやな朝だね」トムは言いました。だめ、椅子は会話に引きこまれようとはしませんでした。
「どのたんすのことをきみは言ったんだっけ?――それは言えるだろう」トムは言いました。みなさん、椅子は一言だって語ろうとはしませんでした。
「とにかく、それを開くのはたいして面倒なことではない」寝台からゆっくりと出てきて、トムは言いました。彼は衣装だんすのひとつに近づいてゆき、錠の中に鍵がはめられていたので、それをまわし、たんすを開けました。そこにはズボンがあったんです。彼はポケットに手をつっこみ、老紳士が言っていたまさにその手紙を引っぱりだしました。
「奇妙なこった、こいつは」最初に椅子をながめ、それからたんす、それから手紙、それからふたたび椅子に目をやって、トムは言いました。「じつに奇妙なこった」トムは言いました。だが、その奇妙さを説明するものはどこにも見当たらなかったので、このわびしさから脱するために、すぐ服を着こんで、背の高い男の問題を片づけてしまったほうがいいと考えました。
トムは下におりてゆく途中、自分のとおりすぎた部屋部屋を、宿屋の亭主のもつ鋭い目で調べ、間もなくそれとそこの中のものが自分の持ち物になるかもしれないのだぞと考えてました。背の高い男は、すっかりくつろいで、両手をうしろにまわし、気持ちのいい小さな酒場に立ってました。彼は歯をむいて|虚《うつ》ろな笑いをトムに投げかけました。それをたまたま見ている人がいたら、彼がそれをしたのは、ただ自分の白い歯を見せるため、と思ったことでしょう。だが、トムは、この背の高い男の心がかけられているこの家中に、勝利感の意識がみなぎっていると感じました、もちろん、背の高い男に心があればの話ですが……。トムは、公然とこれを無視してかかり、おかみを呼びました。
「奥さん、お早よう」未亡人がはいって来たとき、客間のドアを閉めて、トム・スマートは言いました。
「お早ようございます」未亡人は言いました。「朝ご飯は、なにになさいますかしら?」
トムはどう話を切り出したものかと考えてたので、その返事はしませんでした。
「とてもおいしいハムがありますよ」未亡人は言いました、「それにラードを塗った美しい冷えた鳥がね。それをさしあげましょうか?」
こうした言葉は考えごとをしてるトムをはっとさせました。未亡人が話すにつれて、彼女に打たれる彼の気持ちは、つのっていきました。考えのある女だ! おいしいものを食わせてくれる女だ!
「奥さん、酒場にいるあの男はだれです?」トムはたずねました。
「名前はジンキンズとおっしゃる方です」ちょっと顔を染めて、未亡人は答えました。
「背の高い人ですな」トムは言いました。
「とてもいい方です」未亡人は答えました、「それに、とても親切な方です」
「ああ!」トムは言いました。
「なにかほかにご用事でもありましょうか?」トムの態度にどぎまぎして、未亡人はたずねました。
「いやあ、あります」トムは言いました。「ちょっとしばらく、ここに坐っていただけませんか?」
未亡人はひどくびっくりしたふうでしたが、とにかく坐り、トムも彼女の横にぴったりとついて坐りました。みなさん、それがどうして起きたのかは、わたしにはわかりません――じっさい、トム・スマート自身が、どうしてそれが起きたのかはわからない、と言っていたと、叔父はいつも話していました――とにかくトムの手のひらは未亡人の手の背に乗せられ、話のあいだ中、この姿勢はつづいてたんです。
「親愛な奥さん」トム・スマートは言いました――彼はやさしい言葉を相手にかけるのをとても大切なことといつも考えてる男でした――「親愛な奥さん、あんたはとてもりっぱな夫をむかえてもいい人なんです――じっさい、そうなんですよ」
「まあ!」未亡人は言いましたが、彼女がそう叫ぶのもむりのないことでした。前の晩以前にトムが彼女を見たことは一度もなかったことを考慮に入れれば、トムの話の切り出し方はぎょっとするものとまでは言えないにしても、とても異常だったからです。「まあ!」
「親愛な奥さん、わたしはおべっかをつかうのは大きらいです」トム・スマートは言いました。「あなたはとてもすばらしい夫をむかえてもいい人なんです。そして、その男がだれであろうと、その男はとても運のいい男ですね」トムがこう言ったとき、彼の目は、われ知らず未亡人の顔からはなれ、自分のまわりにある快適な道具類にうつっていきました。
未亡人は前よりもっとびっくりしたようすで、立ちあがろうとしました。トムは、まるで彼女を抑えておこうとするように、彼女の手をやさしくにぎりしめ、彼女はそのまま坐りつづけました。みなさん、これは叔父がいつも口癖のように言ってたことですが、未亡人というものは、いつも必ずしも小心者とはかぎらないんです。
「そう考えていただけて、本当にありがたく思います」なかば笑いながら、丸ぽちゃの美しいおかみは言いました。「そして、もしわたしが再婚したら」――
「もし[#「もし」に傍点]」左目の右隅からぬけ目なく見守りながら、トム・スマートは言いました。「もし[#「もし」に傍点]」――
「ええ」今度は遠慮なく笑って、未亡人は言いました。「結婚するときには、あなたがおっしゃるようなりっぱな夫をむかえたいものですわ」
「というのは、ジンキンズのことですね」トムは言いました。
「まあ!」未亡人は叫びました。
「いやあ、本当とは思えませんな」トムは言いました。「わたしはあの男を知ってるんです」
「彼のことを知っている人はだれでも、彼のわるいところはなにも知らないものと思います」トムが話したなにかつかめぬ態度を鼻先であしらって、未亡人は言いました。
「えへん!」トムは咳払いをしました。
未亡人はもう大声を出してもいいときだと考えはじめ、ハンカチをとりだし、あなたはわたしを侮辱したいのですか? ほかの人の悪口をその人のいないところでしゃべるのを、紳士として恥ずかしくない行為と思っているのですか? もしなにか言うことがあったら、あわれな弱い女をそんなふうにおびやかしたりはせず、どうしてそれをその人の面前で言わないのですか? 等々とたずねました。
「それを彼にすぐ言いますよ」トムは言いました、「ただ、あなたに最初、それを聞かせたかったんです」
「それはどういうこと?」トムの顔をジッとにらみつけて、未亡人は言いました。
「あなたはびっくりしますよ」ポケットに手をつっこんで、トムは言いました。
「もしそれが、彼がお金をもっていないということでしたら」未亡人は言いました、「それはもうわたしの知っていることですし、あなたにご心配いただかなくても結構なことですわ」
「ふん、バカな、そんなことはなんでもないこと」トム・スマートは言いました。「わたしだって、金はもってはいませんよ。そんなことじゃないんです」
「まあ、それならなんでしょう?」あわれな未亡人は叫びました。
「おどろいてはいけませんよ」とトム・スマートは言い、ゆっくりと手紙をとりだし、それを開きました。「悲鳴はあげないでしょうね?」心配そうにトムは言いました。
「あげません、あげません」未亡人は答えました。「それを見せてください」
「気を失ったり、そんなバカなことはしないでしょうね?」トムはたずねました。
「しません、しません」あわただしく未亡人は答えました。
「それに、とびだしていって、彼にかみついてはいけませんよ」トムは言いました、「そうしたことは、あなたにかわって、わたしがみんなしてあげますからね。あなたは動かんほうがいいのです」
「わかりました、わかりました」未亡人は言いました、「それをわたしに見せてください」
「ええ、お見せしますよ」トムは答え、こう言いながら、手紙を未亡人の手にわたしました。
この秘密を知ったときの未亡人の嘆きは、石の心をもつらぬくほどのものだった、とトム・スマートが語ったと、叔父が言ったのをわたしは憶えています。トムはたしかにやさしい気立ての男でしたが、その嘆きは彼の心の奥底までさしつらぬいたのです。未亡人は体を前後にゆすり、もみ手をしていました。
「ああ、男のいかさまとひどい仕打ち!」未亡人は言いました。
「親愛なる奥さん、ひどいことです。でも、気を静めてください」トム・スマートは言いました。
「ああ、気を静めるわけにはゆきません」未亡人は金切り声を出しました。「あんなに愛することができる人は、ほかにはもう絶対にいないことでしょう!」
「いや、いますとも」未亡人の不幸をあわれんで、大粒の涙の雨を流しながら、トム・スマートは言いました。トム・スマートは、同情のあまり、未亡人の腰に片腕をまわし、未亡人は、悲しみにかられて、トムの手をかたくにぎりしめていました。彼女はトムの顔を見あげ、涙ながらににっこりとし、トムは彼女の顔を見おろして、涙ながらににっこりとしました。
その瞬間にトムが未亡人にキスしたかどうかは、みなさん、わたしにはどうしてもわかりませんでした。そんなことはしなかった、と彼は叔父にいつも言ってましたが、わたしはそれを臭いと思ってます。ここだけの話ですが、みなさん、どうもそれをしたらしい、とわたしはにらんでいるんです。
とにかく、トムはその背のとても高い男を三十分後に家の正面の戸口から追いだし、一月後その未亡人と結婚しました。そして、ずっと何年かたって商売をやめ、妻といっしょにフランスにわたったときまで、彼はいつも足の早い雌狐のような雌馬をつけた赤い車輪の粘土色の馬車でその辺を乗りまわしていました。それからその古い宿屋はとりこわされたんです。
「おたずねしてもいいですかね?」せんさく好きな老紳士は言った、「椅子はどうなったんです?」
「いやあ」片目の旅商人は答えた、「結婚の日に、それはとてもキーキー鳴ってました。しかし、それがよろこびのためか、肉体的な病気のためか、トム・スマートにははっきりとつかめませんでした。でも、病気のためではないか、と彼はちょっと考えてました。椅子はその後一言も話をしなかったんですからね」
「みんなその話を信じてたんでしょう、そうじゃないですかね?」パイプのタバコをつめかえながら、きたない顔をした男はたずねた。
「トムの敵以外の人はね」旅商人は答えた。「一部の者は、それはぜんぶトムのでっちあげだ、と言ってました。べつの者は、トムが酔っ払い、それを空想し、床にはいる前に、あやまってちがった人のズボンをはいてしまったんだ、と言ってました。でも、その人たちの言ってることを、だれも気にはとめませんでしたよ」
「それがぜんぶ本当だ、とトムは言ってたんですね?」
「ぜんぶ一言あまさずね」
「そして、きみの叔父さんは?」
「ぜんぶはじめっから終わりまでね」
「彼らはふたりとも、とても親切な人だったにちがいない」きたない顔をした男が言った。
「ええ、そうですよ」旅商人は答えた。「まったく親切な人でしたよ」
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第十五章
[#3字下げ]ふたりの有名な人物の忠実な描写と彼らの家での公開の朝食会の正確な模様が伝えられ、その朝食会で古い知人と偶然会い、べつの章をひきおこすことになる
『|孔雀《くじやく》旅館』のふたりの友人を最近放りだしにしておいたことで、ピクウィック氏の気が多少とがめ、選挙が終わってから三日目の朝、彼らに会おうと出かけようとしていたちょうどそのとき、彼の忠実な召使いが彼の手に一枚の名刺をわたした。その上には、つぎのように書かれてあった――
レオ・ハンター夫人
イータンスウィル・デン(デンは親しい者の集まる場所の意)
「人がお待ちです」謎めいたふうにサムは言った。
「その人はわしに用事なのかね、サム?」ピクウィック氏はたずねた。
「彼は旦那さまにとくに用事があるんです。ほかの人はだめです、フォースタス博士(一四八八―一五四一年ごろドイツを放浪していた魔法使い。その後伝説にとり入れられ、イギリスではマーロウ(一五六四―九三)の劇で有名になった)を悪魔の秘書がさらってったとき言ったようにね」ウェラー氏は答えた。
「彼だって! それは紳士の方かね?」ピクウィック氏はたずねた。
「そうでなかったら、じつにりっぱな紳士のまがいといったもんでしょう」サムは答えた。
「だが、これは婦人の名刺じゃないか」ピクウィック氏は言った。
「だけど、紳士がそれをわたしてくれたんです」サムは答えた。「彼は応接間で待ってます。お会いできなかったら、一日でも待ってると言ってます」
この決意を聞いて、ピクウィック氏は下の応接間におりていったが、そこには重々しい人物が坐っていて、彼がはいってゆくとパッと立ちあがり、深い敬意の表情で、こう言った――
「ピクウィックさんでございましょう?」
「そうです」
「あなたの手をにぎる名誉をお与えください。それと握手することをお許しください」重々しい人物は言った。
「もちろん」ピクウィック氏は言った。
この見知らぬ男はピクウィック氏のさしだした手と握手し、つづいて言った――
「あなたのお名前はもう聞きおよんでいます。あなたの考古学の討論のさわぎは、わたしの妻――レオ・ハンター夫人――わたしは夫のレオ・ハンターです――の耳にもうはいってます」――こう話せば、きっとピクウィック氏がびっくりするといったように、見知らぬ男は話をちょっと途切らせたが、彼が少しも動じないのを見て、話をつづけた。
「わたしの妻――レオ・ハンター夫人――は、その業績と才能によって有名になったすべての人とお近づきになるのを誇りにしています。そうした人物表の重要なところにピクウィック氏の名前と彼の名にちなんで名をつけられたクラブのほかの会員の方々を入れることを、どうかお許しください」
「そうしたご夫人と知り合いになることは、とてもうれしいことです」ピクウィック氏は答えた。
「知り合いにしてあげますとも」重々しい男は言った。「明日の朝、われわれはその業績と才能によって有名になったたくさんの人々をお招きして、公開の朝食会――|野外大園遊会《フエト・シヤンペトル》――をもよおします。デンであなたにお会いできるよろこびを、レオ・ハンター夫人にお与えください」
「大よろこびで」ピクウィック氏は答えた。
「レオ・ハンター夫人はこうした朝食会を何回ももよおしています」新しい知人は語りつづけた――「レオ・ハンター夫人の朝食会について彼女にソネット詩(イタリアで起こった十四行詩)をささげたある人物は、感動的、独創的に、この会のことを『理性の|宴《うたげ》』とか『魂の流れ』と呼んでました」
「その人物は彼の業績と才能で有名なのですか?」ピクウィック氏はたずねた。
「有名でした」重々しい男は答えた、「レオ・ハンター夫人の知人はぜんぶ、有名な人です。それ以外の知人をもたないことが、彼女のねがいなのです」
「じつに崇高なねがいですな」ピクウィック氏は言った。
「そのお言葉があなたのお口からもれたと彼女に知らせれば、彼女は本当に誇りやかに思うことでしょう」重々しい男は言った。「あなたのお仲間のひとりに、いくつか美しい小さな詩を書いた方がおいでのようですね」
「わたしの友人スノッドグラースは詩がとても好きです」ピクウィック氏は答えた。
「レオ・ハンター夫人も詩が好きなんです。詩には夢中で、それを熱愛し、彼女の心と魂はそれですっかりしばられ、結びつけられてると言ってもいいでしょう。彼女自身、いくつか美しい詩を書きました。彼女の『息たえだえの蛙によせる悲歌』をお読みになったことがあるかもしれませんが……」
「読んだことはないようです」ピクウィック氏は言った。
「いや、これは驚きましたな」レオ・ハンター氏は言った。「それは、すごいセンセイションをまき起こしたものでした。作者の名はLと八つの星で示され、もともとは、ある婦人雑誌に掲載されたものです。そのはじまりは、
[#ここから2字下げ]
お前があえいでうつぶせになっているのを
溜め息をつかずに見られようか?
お前が丸太の上で死んでゆくのを心動かさず
ながめられようか?
おお、息たえだえの蛙よ!」
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「美しいですな!」ピクウィック氏は言った。
「きれいで」レオ・ハンター氏は言った、「じつに簡素なものです」
「とてもね」ピクウィック氏は応じた。
「そのつぎの詩はもっと感動的です。それをご紹介しましょうか?」
「よろしかったら」ピクウィック氏は答えた。
「それはこうです」さらにもっと重々しくなって、重々しい男は言った。
[#ここから2字下げ]
「少年の形をとった悪魔が
ひどい喊声、残忍な叫びをあげて
犬といっしょにお前を沼のよろこびから
追い出したのか?
おお、息たえだえの蛙よ!」
[#ここで字下げ終わり]
「みごとな表現ですな」ピクウィック氏は言った。
「まったくね」レオ・ハンター氏は言った、「でも、レオ・ハンター夫人がそれを読むのを聞かせてあげましょう。彼女こそ[#「彼女こそ」に傍点]、それを正当に朗読できるのです。彼女はそれを、明日の朝、役にぴったりの姿で読むでしょう」
「役にぴったりの姿でですって!」
「ミネルヴァ(ローマ神話で、工芸、芸術、戦術、知恵の女神)になってね。だが、忘れてました――明日の会は仮装服の朝食会なのです」
「これは驚いた」自分の姿をチラリとながめながら、ピクウィック氏は言った――「わたしはまったくだめで――」
「まったくだめ、まったくだめですって!」レオ・ハンター氏は叫んだ。「大通りに住んでるユダヤ人のソロモン・ルーカスは何千という仮装服をもってます。どんなに多くの適切な役をあなたが選べるか、考えてみてごらんなさい。プラトー、ゼノー、エピクルス、ピタゴラス――いずれもみな、クラブの創設者です」
「それはわかっていますがね」ピクウィック氏は言った、「そんな偉い人物と競争するわけにはいかんのですから、彼らの服を着るなんて、とんでもないことです」
重々しい男は数秒間考えていて、それから言った――
「考えてみると、レオ・ハンターのところに来た客があなたのような有名な方を仮装服よりその本来の服でながめたほうが、彼女をもっとよろこばすことになるでしょう。思いきって、あなたの場合には例外をお約束しましょう――そう、レオ・ハンター夫人のために、わたしがそうお約束をしても大丈夫でしょう」
「そうだったら」ピクウィック氏は言った、「大よろこびでうかがいますよ」
「だが、わたしはあなたの時間を空費しています」まるで急に思いついたといった調子で、重々しい男は言った。「あなたの時間の重要さはわかってます。あなたを引きとめることはいたしますまい。すると、あなたとあなたの有名なご友人方にお出でいただけるものと、レオ・ハンター夫人に伝えていいわけですな? さようなら、こんなにすぐれた人物とお会いできて、わたしも誇りやかな気分になってます――どうか一歩もお歩きにならず、一言もお話しにならぬように」こう言って、ピクウィック氏に抗議も拒否もする暇を与えずに、レオ・ハンター氏は重々しくもったいぶった態度で歩み去った。
ピクウィック氏は帽子をとりあげ、『孔雀旅館』にいったが、彼より前に、ウィンクル氏がそこの仮装舞踏会のことをもう伝えていた。
「ポット夫人はゆきます」が、自分の指導者に彼が挨拶した最初の言葉だった。
「そうかい?」ピクウィック氏は言った。
「アポロ(古代ギリシャ、ローマの美しい青年の神で、詩歌、音楽、予言、医術をつかさどる)としてね」ウィンクル氏は答えた。「ただ、シャツのような服装(古代ギリシャ、ローマの男女が用いた)にポットが反対しているんです」
「当然だよ。まったく当然だよ」力を入れてピクウィック氏は言った。
「そうです――そこで、彼女は金のピカピカ光る飾りのついた白いしゅすのガウンを着ようとしています」
「そうなると、彼女がなにをあらわそうとしてるのか、わからなくなるだろう、どうだい?」スノッドグラース氏はたずねた。
「もちろん、わかるとも」腹立たしげにウィンクル氏は答えた。「彼女のもっているライヤ(古代ギリシャの七弦の竪琴)が見えるわけだ、そうじゃないかい?」
「そうだ。そいつは忘れてた」スノッドグラース氏は言った。
「わたしは山賊としてゆくよ」タップマン氏が話をさえぎった。
「えっ!」急にギクリとして、ピクウィック氏は言った。
「山賊としてですよ」おだやかにタップマン氏はくりかえした。
「まさか言うつもりはないんだろうね」厳粛なきびしさをこめて友人をジッと見ながら、ピクウィック氏は言った、「タップマン君、二インチの尻尾をつけて、緑のビロードのジャケットを着るつもりだなんて、まさか言うつもりはないんだろうね?」
「それがわたしの意図です」熱をおびてタップマン氏は答えた。「どうしていけないんです?」
「というのは」そうとう興奮して、ピクウィック氏は答えた、「というのは、きみが齢をとりすぎているからだ」
「齢をとりすぎてる!」タップマン氏は叫んだ。
「そして、それ以上にもっと反対の理由が欲しいのなら」ピクウィック氏はつづけた、「きみは太りすぎているよ」
「いや」顔を真っ赤にさせて、タップマン氏は言った。「これは侮辱ですぞ」
「きみ」同じ調子でピクウィック氏は答えた、「二インチの尻尾をつけ、緑のビロードのジャケットを着こんでわしの面前にきみがあらわれるのが、わしにとってどんなに侮辱かにくらべたら、それは半分もきみにとっては侮辱ではありませんぞ」
「いや」タップマン氏は言った、「あんたはくだらん男です」
「きみ」ピクウィック氏は応じた、「きみはもうひとりのくだらん男だ!」
タップマン氏は一、二歩進み出て、ピクウィック氏をカッとにらみつけた。ピクウィック氏は眼鏡で焦点を合わせてにらみかえし、思いきった挑戦的な言葉を口にした。こうしたふたりの人物のあいだのこうした光景に接して石のように身を固くして、スノッドグラース氏とウィンクル氏はそれをながめていた。
「ピクウィックさん」少し間をおいたあとで、タップマン氏は低い太い声で言った、「あなたはわたしを齢をとってると言った」
「そうだ」ピクウィック氏は言った。
「それに、太ってるともね」
「それはくりかえしても言うよ」
「それに、くだらん男だともね」
「たしかにきみはそうだ!」
おそろしい沈黙がつづいた。
「あなたにたいするわたしの愛情は」怒りで声をふるわせながら、一方そのあいだに袖口をたくしあげながら、タップマン氏は言った、「大きなもの――とても大きなものです――だが、その人にたいして、わたしは即刻復讐をしなければならなくなりましたぞ」
「さあ、来い!」ピクウィック氏は答えた。こうした刺激的な言葉につき動かされて、この英雄的な人物は中風病患者のような身構えをしたが、わきに立ってそれをながめているふたりの者は、それを守備態勢のつもりのものと確信していた。
「どうしたんです!」びっくり仰天していままで出なくなっていた声を急に出し、それぞれから額に一撃を食う覚悟をして、ふたりのあいだにとびこんで、スノッドグラース氏は叫んだ、「どうしたんです! ピクウィックさん、世間の人も見ているのに! タップマン君! われわれみんなといっしょに、彼の不滅の名声から光栄を与えられているきみなのに! ふたりとも、みっともないことですぞ、みっともないことですぞ」
ピクウィック氏の大きくきれいな額に瞬間的な怒りが描きだしていたふだんにない線は、スノッドグラース氏が語るにつれて、ゴムで消されていく鉛筆の跡のように、だんだんと融け去っていった。スノッドグラース氏の言葉が終わらないうちに、ピクウィック氏の顔はもうふだんのやさしい表情をとりもどしていた。
「わたしが気早だった」ピクウィック氏は言った、「あまり気早すぎた。タップマン、握手しよう」
タップマン氏がその友人の手をしっかりとにぎったとき、彼の顔から暗い影は消えてしまった。
「わたしも気早だったんです」彼は言った。
「いや、いや」ピクウィック氏は口をはさんだ、「わるいのはわしだ。きみは緑のビロードのジャケットを着るだろうね?」
「いや、いや」タップマン氏は答えた。
「たのむ、着てくれたまえ」ピクウィック氏はつづけた。
「わかりました、わかりました、着ることにしましょう」タップマン氏は言った。
そこで、タップマン氏、ウィンクル氏、スノッドグラース氏がそれぞれ仮装をつけることになった。こうして、ピクウィック氏は友情の熱意のあまり、冷静な判断力をもっていたら当然ちゅうちょするようなことに、賛成をする破目になった――この本に記録されているさまざまな事件がまったく空想的なものだったとしても、彼のやさしい性格を示すもっとすばらしい実例は、これ以外にほとんど考えられないことだろう。
レオ・ハンター氏の言葉は、ソロモン・ルーカス氏のもちものを決して誇大に|吹聴《ふいちよう》しているのではなかった。彼のもち衣装はおびただしく――じつにおびただしく――たぶん厳密には古典的、あるいはまったく新型のものではなく、そこには、ある特定の時代の型そのままにつくった衣装はひとつもなかったけれど、すべてのものに多少なりともピカピカ光る金具がついていた。そうした金具以上に美しいものがあるだろうか! それは昼間には向かないと反対されるかもしれない。だが、ランプがあったら、それがキラキラ光ることは、だれでも知っている。人が仮装舞踏会を昼に開き、衣装が夜の場合ほど|映《は》えないとしても、いけないのは仮装舞踏会を開いた人にあるので、金具にはべつに罪はないわけである。ソロモン・ルーカスの人を納得させる理論はこうしたもので、そうした議論に動かされて、タップマン氏、ウィンクル氏、スノッドグラース氏は、ソロモンの好みと経験でこの場合にとてもふさわしいと彼がすすめた衣装で、身を飾ることになった。
ピクウィック・クラブ会員たちを乗せるために馬車が『タウン・アームズ旅館』から借りだされ、四輪軽装馬車が、ポット夫妻をレオ・ハンター夫人の屋敷に運ぶために、同じ旅館から注文されていた。招待を受けたことにたいする遠まわしな感謝のしるしとして、ポット氏はこの仮装舞踏会のことをもうイータンスウィル・ギャゼットに大胆に載せ、「変化あり、楽しい魅力をもった場景――美と才能の驚くべききらめき――惜しみなく豊かに与えられる歓待――なににもまして、じつにすぐれた好みによって柔らげられたある種の豪華さ、完全な調和とこのうえなく清純な眼識で洗練された飾りが示されるであろう――これにくらべたら、東洋の妖精の国の話に聞く豪華さも、気むずかしい、男らしからぬ男の心のように、暗い陰気な色につつまれたように映ることだろう。そうした男は、高潔でじつにすぐれた夫人によっておこなわれているその会の準備を、おこがましくも嫉妬の毒でけがそうとしている。この驚嘆のつまらぬ賛辞はこの夫人の聖堂にささげられるものである」この最後の言葉は、インディペンデントにたいする痛烈な諷刺で、この新聞は、ぜんぜん招かれないでいたために、このところ四回ぶっつづけに、形容詞にはすべて大文字を使い、最大の字型を使用して、この舞踏会を冷笑する態度をとりつづけていたのだった。
その朝がやってきた。針差しを背と肩につけたように身にぴったりとついたジャケットを着こみ、山賊姿満点のタップマン氏をながめるのは、楽しいことだった。彼の脚の上部はビロードの短ズボンにつつまれ、そこの下半分は、すべての山賊がとくにお好みの複雑な巻き布でおおわれていた。十分にひねりあげた口髯づきの率直で無邪気な彼の顔が開いたシャツのカラーからのぞいているのをながめ、いろいろな色のリボンで飾られた円錐形の帽子を見るのは愉快なことだった。屋根のある乗り物ならどんな乗り物でも、人がその帽子をかぶってそこに乗りこむことを絶対に許さなかったので、彼は否応なくそれを膝に乗せざるを得なくなっていた。青しゅすのパンツと外套、白絹の肉じゅばんと靴をつけ、ギリシャのヘルメットをかぶったスノッドグラース氏のようすも同じようにおもしろく、愉快なものだった。それが、その初期の時代から姿を地表より消してしまう最後のときまで、|吟遊詩人《トルーバドール》(十一―三世紀ごろフランス南部・スペイン東部・イタリア北部で活躍した叙情詩人)のれっきとした日常の服装だったことはだれでも知っていた(もし人が知らなくても、ソロモン・ルーカス氏は知っていた)。こうしたことすべては愉快なことだったが、これは、ポット氏の四輪軽装馬車につづいて彼らの馬車がとまったときの人々の叫びにくらべたら、物の数ではなかった。ポット氏の馬車はポット氏の家の戸口にとまり、その戸口は開かれて、おそろしい革で編んだ鞭(むかしのロシヤの刑具)――イータンスウィル・ギャゼットのきびしくたくましい力とそれが公共の違犯者に加えるおそろしい鞭打ちをたくみにあらわしたもの――を手にしたロシアの裁判官姿の偉大なるポット氏があらわれた。
「万歳!」この生きている比喩をながめたとき、タップマン氏とスノッドグラース氏は廊下から叫んだ。
「万歳!」廊下からピクウィック氏が叫ぶのが聞こえた。
「万――歳、ポット!」人々は叫んだ。こうした挨拶の言葉につつまれて、ポット氏は温和な微笑を浮かべて馬車に乗りこんだが、その微笑は、彼が自分の力を感じ、それをどう行使したらいいかを心得ていることを証していた。
ついで家からポット夫人が出てきたが、もしガウンを着ていなかったら、彼女はとてもアポロふうに見えたことだったろう。彼女はウィンクル氏の先導を受けていたが、彼は明るい赤の上衣を着こみ、郵便配達夫に似かようところがなかったら、おそらくきっと、スポーツマン(主として狩りをする人)と考えられたことだろう。最後にあらわれたのがピクウィック氏、少年たちがとくに大声を出して彼をむかえたが、これはおそらく彼の肉じゅばんとゲートルを暗黒時代のなにか遺物と勘ちがいしたためだったのだろう。ついで二台の馬車がレオ・ハンター夫人の家に向けて出発し、ウェラー氏(彼は給仕の手助けをすることになっていた)は主人が乗りこんだ馬車の御者台に坐っていた。
ピクウィック氏が両脇に山賊と吟遊詩人をひきつれて、静々と入口にはいっていったとき、仮装をした来客をながめようと集まったすべての男女、少年少女、赤ん坊たちはよろこびで有頂天になり、キーキーとはやし立てた。堂々と庭園にはいってゆこうとして、タップマン氏がむきになって円錐形の帽子をかぶろうとしたとき、いままでにないすごい叫びがわきおこった。
舞踏会の準備はじつに楽しい大がかりなもので、東洋の妖精の国の豪華さに関する予言的なポットの期待に十分応え、それと同時に、爬虫類的なインディペンデントの悪意に満ちた言葉にしっかりと反駁しているものだった。庭園は一エーカー四分の一以上のひろさがあり、人でいっぱいになっていた! 美と流行と文学のこうした輝きは、かつてないものだった。|回教国王妃《サルターナ》の服をまとったイータンスウィル・ギャゼットで詩を担当している若い婦人があり、彼女は、靴はべつにして陸軍元帥の制服を着けてちゃんとその立場を示している批評部門担当の若い紳士の片腕によりかかっていた。こうした天賦の才能を備えた人々が雲霞と数かぎりなく集まり、まともな人間だったら、彼らと会うのを名誉なことと考えたであろう。そのうえ、ロンドンからやってきた六人ほどの獅子――著者、本を完全に書きそれを出版した真の著者がいたが、ここでは彼らがふつうの人のように歩きまわり、微笑し、話し――そう、かなりバカげた話をしゃべっているのをながめることができたが、それは、あたりにいる一般の人間に自分たちのことをわかりやすくしてやろうという慈愛ある意図にもとづいているのは明らかなことだった。さらに、ボール紙の帽子をかぶった楽隊、それぞれの国の服装をした四人の歌い手といった人物、それぞれの国の服装――とてもきたない服装だったが――をした十二人のやといの給仕がいた。そして、中でも、ミネルヴァになりすましたレオ・ハンター夫人がいて、彼女はやってきた客をむかえ、こうしたすぐれた名士をここに呼び集めた誇りと満足であふれんばかりになっていた。
「奥さま、ピクウィックさんでございます」彼が帽子を手にもち、両脇に山賊と吟遊詩人をしたがえて、この主人役をつとめている女神に近づいていったときに、召使いは言った。
「まあ! どこに!」有頂天の驚きをよそおって、ギクリとしながら、レオ・ハンター夫人は叫んだ。
「ここにいますよ」ピクウィック氏は言った。
「ピクウィックさんご自身とお会いできるよろこびを味わうことができるなんて、本当のことかしら!」レオ・ハンター夫人は叫んだ。「まさに、その人物です、奥さん」とても低く頭をさげて、ピクウィック氏は答えた。「わたしの友人たちを『息たえだえの蛙』の作者に紹介させてください――タップマンさん――ウィンクルさん――スノッドグラースさんです」
緑のビロードのズボンと肌にピッタリついたジャケットと高い帽子、青しゅすのパンツと白い絹の服、あるいは膝につけたひもと乗馬用の長靴、しかも、その靴がはく人を考えてつくられたものではなく、はく者とはき物の比較的な大きさにはいっさいおかまいなしでそれをおしつけられてしまった場合、お辞儀をするのがどんなに困難なことかは、それを経験した者でなければ、まずわからぬことだろう。のびのびと優雅に見せようとするタップマン氏の努力で、彼の体は、ひどくゆがめられてしまった――彼の仮装した友人たちが示したたくみな姿勢は、前代未聞のものだった。
「ピクウィックさん」レオ・ハンター夫人は言った、「きょう一日中、わたくしの脇をおはなれにならぬことを、約束していただかなければなりませんことよ。本当に、あなたを紹介いたさなければならない何百人もの人がいるのですからね」
「奥さん、ありがとうございます」ピクウィック氏は言った。
「まず第一に、これはわたしの娘たちです。彼らのことを、もう忘れていましたわ」すっかり大きくなっているふたりの若い婦人を無造作にゆびさして、ミネルヴァの女神は言った。そのひとりは二十歳くらいの娘さん、もうひとりはそれより一、二歳年上の娘さんで、彼らはとても子供っぽい服装をしていた――彼らを若く見せるためか、それとも彼らの母親を若く見せるためかは、ピクウィック氏ははっきりとわれわれに伝えていない。
「とても美しいお嬢さんたちですね」紹介されたあと、娘さんたちが向こうへいってから、ピクウィック氏は言った。
「あのふたりはお母さんにそっくりです」ポット氏は重々しく言った。
「まあ、冗談をおっしゃる方だこと!」ふざけて編集者の腕を扇でたたき、レオ・ハンター夫人は叫んだ(扇をもったミネルヴァの女神だなんて!)。
「いやあ、ハンター奥さん」このデンでは常任のたいこもち役をつとめているポット氏は言った、「あなたの絵が昨年王立美術院の展覧会に出されたとき、それがあなたの絵か、いちばん下のお嬢さんの絵か、みんながたずねたもんです。というのも、おふたりはとてもよく似ていて、どうちがうかは、ちょっと言えないほどですからね」
「そう、もしみなさんがそんなことをおたずねだったとしても、見知らぬここのみなさんの前で、どうしてそれをくりかえす必要がありますの?」イータンスウィル・ギャゼットの眠れる獅子を扇でもう一度たたきながら、レオ・ハンター夫人は言った。
「伯爵さま、伯爵さま」そばをとおろうとしていた外国の制服を着た豊かな頬髯をつけた人物に、レオ・ハンター夫人は大声で呼びかけた。
「ああ! ご用事ですか?」ふりかえって伯爵は言った。
「ふたりのとても賢い方をお引き合わせしたいのです」レオ・ハンター夫人は言った。「ピクウィックさん、あなたをスモールトーク伯爵にご紹介できて、とてもうれしく思います」彼女は声を低くして急いで言いそえた――「有名な外国人――イギリスに関する彼のすばらしい著作の資料を集めておいでなんです――えへん!――スモールトーク伯爵さま、こちらはピクウィックさんです」
ピクウィック氏はそうした地位の高い人にたいして払うべきすべての敬意をこめて伯爵に挨拶し、伯爵ははぎとり便箋をとりだした。
「なんとおっしゃった、ハント奥さん?」満悦のレオ・ハンター夫人に愛想よくほほ笑みかけて、伯爵はたずねた、「ピッグ・ウィグ、それとも、|大かつら《ビツク・ウイグ》――いわゆる――弁護士――ですかね、えっ? わかりました――そうなんですな? |大かつら《ビツク・ウイダ》」――そう言って、伯爵はピクウィック氏のことをその職業から名前をとった長衣の紳士としてその便箋に書きとめはじめたとき、レオ・ハンター夫人が口をはさんだ。
「伯爵さま、ちがいます、ちがいます」夫人は言った、「ピク=ウィックです」
「ああ、ああ、わかりました」伯爵は答えた。「ピーク――洗礼名。ウィークス――姓名。わかりました、よくわかりました。ピーク・ウィークス。ご機嫌いかがです、ウィークスさん?」
「ありがとうございます、とても元気です」いつもの愛想よさで、ピクウィック氏は答えた。「イギリスにながくおいでですか?」
「ながい――とてもながい――二週間――それ以上」
「ここにながくご滞在ですか?」
「一週間」
「その時間で必要な資料すべてを集めるのには」微笑しながらピクウィック氏は言った、「ずいぶんおいそがしいことでしょう」
「ああ、集まりましたよ」伯爵は言った。
「ほーっ!」ピクウィック氏は言った。
「それはここにおさまってます」額を意味深にたたいて、伯爵は言いそえた。「国には大きな本――書きこみでいっぱい――音楽、絵、科学、詩、政治、すべてのものです」
「政治だけでも」ピクウィック氏は言った、「それ自身、そうとう大変で困難な仕事を|ふくんでいます《コムプライズ》ね」
「ああ!」便箋をまた引きだして、伯爵は言った、「とても結構――章を書きはじめるのに美しい言葉。第四十七章。政治です。政治だけでも、|驚きます《サプライズ》、それ自身――」こうして、伯爵の豊かな想像力が示したり、彼の不完全な英語がひきおこした変化と付加物をそえて、ピクウィック氏の言葉はスモールトーク伯爵の便箋に書きこまれた。
「伯爵さま」レオ・ハンター夫人は言った。
「なんです?」伯爵は答えた。
「こちらはピクウィックさんのご友人、スノッドグラースさんで、詩人でいらっしゃいます」
「ちょっと待って!」もう一度便箋を引き出して、伯爵は叫んだ。「項目は詩――章は文学的友人――名前はスノーグラース。よくわかりました。スノーグラースに紹介――偉大な詩人で、ピーク・ウィークスの友人――ハント夫人の紹介による、これはほかの美しい詩の作者――あの詩の名はなんでしたっけ? ――かえり――汗かきかきの(息たえだえ(エクスパイアリング)を汗かきかき(バースパイアリング)とあやまったもの)かえり――よくわかりました、じっさい、よくわかりました」伯爵は便箋をしまい、あちらこちらお辞儀をし、礼の言葉を述べて、自分の知識の貯えにこうしたきわめて重要で貴重なものをそえたことにすっかり満悦して、歩き去った。
「スモールトーク伯爵さまはすばらしい方です」レオ・ハンター夫人は言った。
「非の打ちどころのない哲学者です」ポット氏は言った。
「頭の明晰な、心のしっかりした方ですな」スノッドグラース氏は言いそえた。
まわりの人がみんな、スモールトーク伯爵礼賛の言葉をとりあげ、いかにも物知りぶったふうに頭をふり、声をそろえて「とても!」と叫んだ。
四人の歌い手といった人物が美しく見せるために小さなりんごの木の前にならび、彼らの国歌を歌いはじめなかったら、スモールトーク伯爵礼賛の熱は非常に高まっていたので、その言葉はこの会の終わりまでつづいたことだろう。彼らの国歌は歌うのにそう困難なようには見えなかった。その大きな秘密は三人の歌い手がうなり、四番目の者が尾を引いてどなればよかったからである。この興味深い歌が全員の高らかな賞賛につつまれて終わったとき、少年がすぐに椅子の|框《かまち》に体をまきつけ、それをとび越え、その下をくぐり、それといっしょに倒れ、そこに坐る以外のすべてのことをやりはじめ、ついで自分の脚をネクタイがわりにし、それを首のまわりにしばりつけ、どんなに楽に人間が大きながま[#「がま」に傍点]のようになれるかを示したが――そうした放れ業は集まった観客によろこびと満足を与えた。それが終わってから、ポット夫人がかすかな声でなにかをうなっているのが聞こえたが、それをみなは礼儀上歌と解釈したが、それはとても古典的なもので、いかにも役にピッタリのものだった。というのも、アポロ自身は作曲家で、作曲家は自分自身の歌も他人の歌もほとんどうまくは歌えないものだからである。このあとにレオ・ハンター夫人の有名な『息たえだえの蛙によせる悲歌』の朗読がおこなわれ、それは一度アンコールされ、なにか食べ物をとってもよい時刻と考えていた大部分の客が、ハンター夫人の人の好さにつけこむのはひどい仕打ちだと主張しなかったら、それは二度アンコールされたことだったろう。そこで、レオ・ハンター夫人自身はその悲歌をふたたび朗読する気は十分に示したものの、彼女の親切で思いやりのある友人たちはそれを聞き入れようとはせず、食堂がさっと開かれたので、そこにいあわせた人々は大急ぎでそこにはいりこんでいった。レオ・ハンター夫人のいつものやり方は、百人に招待状を出し、五十人に朝食を食べさせる、言葉を変えて言えば、特定の獅子にだけ飼料を与え、他の群小の獣には勝手に自分の世話を見させるといったものだったからである。
「ポットさんはどこに?」前にも述べた獅子たちを自分のまわりに坐らせたとき、レオ・ハンター夫人は言った。
「ここにいますよ」部屋のずっと端のところから、編集者は叫んだ。そこは、女主人がなにか手を打たなかったら、食事にはとてもありつけない場所だった。
「ここに来てくださいません?」
「おお、彼のことはどうか気になさらないでください」いかにも恩着せがましい声でポット夫人は言った――「ハンター奥さん、あの人のことをかまってくださるなんて、必要のないことです。あなた――そこでいいことね、どう?」
「もちろん――お前」おそろしい微笑を浮かべて、気の毒なポット氏は言った。革を編んでつくった鞭のかわいそうなこと! 公の人物にたいしては巨大な力でそれをふるっていた筋骨たくましい腕は、高飛車なポット夫人の一瞥にあって、力をすっかり失ってしまったのである。
レオ・ハンター夫人は意気揚々とあたりを見まわした。スモールトーク伯爵はせっせと料理の内容のメモをとり、タップマン氏は山賊が示したことのない優雅さで|海老《えび》のサラダの賛辞を何人かの雌獅子たちに述べ、イータンスウィル・ギャゼットのためにいくつか本をさんざんにやっつけていた若い紳士にかわって、スノッドグラース氏は詩をやっている若い婦人を相手に熱弁をふるっていた。そして、ピクウィック氏はだれにも愛想よくふるまっていた。この選ばれた一団を完全なものにするのに、なにひとつ不足はないようだったが、そのときレオ・ハンター氏――こうした場合の彼の役目は戸口のあたりに立ち、あまり重要でない人物と話をすることだった――が急に叫びだした――
「お前、チャールズ・フィッツ=マーシャルさんがおいでだよ」
「まあ」レオ・ハンター夫人は言った、「本当にあの方をお待ちしていましたのよ。フィッツ=マーシャルさんをおとおしするために、どうか道を開いてあげてください。あなた、すぐにこちらにおいでになるように、フィッツ=マーシャルさんにお伝えしてね。こんなにおそくおいでになるなんて、叱ってあげますわ」
「奥さん、ゆきます」声が叫んだ、「できるだけ早くね――人の群れ――部屋には人がいっぱい――つらいこと――とてもね」
ピクウィック氏のナイフとフォークは彼の手から落ちた。彼はテーブル越しにタップマン氏をジッとながめたが、タップマン氏はナイフとフォークを落とし、いままでのことだけでもう地面に沈みこみそうなふうだった。
「ああ!」声の主が彼とそのテーブルのあいだにいる最後の二十五人のトルコ人、軍人、騎士、チャールズ二世たちをおしわけて進んでゆくとき、声は叫んだ、「まったくのしわ伸ばし機――ベイカーの特許――こうしておしわけてとおると、上衣にはしわひとつなくなる――進んでいくうちに、『身なりがととのう』っていうこと――はっ! はっ! こいつはまんざらのことではありませんな――だけど、着こんだままでしわを伸ばしてもらうなんて奇妙なこと――苦しいやり方――とてもね」
こうしたとぎれとぎれの言葉をはきながら、海軍将校の扮装をした若い男がテーブルに向かって進み、びっくりしているピクウィック・クラブ会員たちにアルフレッド・ジングル氏のまさにあの姿、あの顔を示した。
この犯罪人がレオ・ハンター夫人のさしだした手をとるかとらないかに、彼の目はピクウィック氏の怒った目に出逢った。
「おやっ!」ジングルは言った。「すっかり忘れてた――御者に指示をしてなかった――すぐにそれを与えなけりゃ――すぐにもどってきます」
「フィッツ=マーシャルさん、召使いか夫のハンターがそんなことはしてくれます」レオ・ハンター夫人は言った。
「だめ、だめ――ぼくがします――ながくはかかりません――すぐもどってきますよ」ジングルは答えた。こう言って、彼は人の群れの中に姿をかくしてしまった。
「奥さん、おたずねしたいんですが」座席から立ちあがって、興奮したピクウィック氏は言った、「あの若い男はだれで、どこに住んでいるんです?」
「ピクウィックさん、彼は財産家で」レオ・ハンター夫人は答えた、「あなたをご紹介したいととても思っていた人物です。伯爵さまも彼と会えばおよろこびになることでしょう」
「そうです、そうです」急きこんでピクウィック氏は言った。「彼の住所は――」
「いま、ベリーの『|天使《エインジエル》旅館』にいます」
「ベリーの?」
「ここから何マイルもはなれていないベリー・聖エドマンズです。でも、まあ、ピクウィックさん、まさかいま出発なさるんじゃないのでしょうね? 本当に、ピクウィックさん、そんなにすぐご出発なさるなんて、考えられないことですわ」
だが、レオ・ハンター夫人の話がまだ終わらぬずっと前に、ピクウィック氏は群集の中にとびこみ、庭のところにいっていたが、その後間もなく、彼のあとにピタリとついてきたタップマン氏といっしょになった。
「だめですよ」タップマン氏は言った。「やつは消えてしまいました」
「それはわかっている」ピクウィック氏は言った、「でも、わたしは彼のあとを追いかけるんだ」
「追いかける! どこに?」タップマン氏はたずねた。「ベリーの『|天使《エインジエル》旅館』までね」早口にしゃべりながら、ピクウィック氏は答えた。「そこであの男がだれをだましているか、わかったもんじゃないだろう。かつて彼はりっぱな人物をあざむき、われわれはひっかけられた側の人間になったのだ。できるものなら、やつにそんなことは二度とさせたくない。やつの素性をばらしてやる! わたしの召使いはどこにいるかね?」
「ここにいますよ」人気のない場所からとびだしてきて、ウェラー氏は言ったが、彼はそこで、一時間か二時間前朝食のテーブルからぬきとってきたマデーラ(アフリカ北西岸沖にある島、そこからマデーラぶどう酒および果物を輸出する)ぶどう酒のびんのことを論じていたのだった。「あなたの召使いはここにいますよ。紹介されたとき、リヴィング・スケリントン(精細については不明)が言ったように、その称号を誇りやかに思ってね」
「わしとすぐいっしょにいってくれ」ピクウィック氏は言った。「タップマン、もしわしがベリーに滞在することになったら、手紙を出せば、きみはそこでわたしといっしょになれるわけだ。そのときまで、さようなら」
反対してもむだだった。ピクウィック氏の気持ちはかき立てられ、彼はもう決心していた。タップマン氏は仲間のところにもどり、それから一時間もすると、アルフレッド・ジングル、すなわち、チャールズ・フィッツ=マーシャルの思い出すべてを、陽気なカドリル踊り(二人または四人が相対して踊る舞踏、とくに十九世紀におこなわれた)とシャンペンのびんにおぼれさせてしまった。そのときまでに、ピクウィック氏とサム・ウェラーは、刻一刻、自分たちと美しい古い町ベリー・聖エドマンズとのあいだの距離をちぢめていた。
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第十六章
[#3字下げ]簡単には伝えられぬほど冒険にあふれた章
一年を通じて、八月の月より自然がもっと美しいたたずまいを見せる月はない。春には多くの美しさがあり、五月は新鮮で花の咲き乱れる月であるが、この時期の魅力は冬の季節との対照によって高められている。八月にはこうした利点はない。われわれが晴れた空、緑の野、かぐわしい花しか憶えていないときに――雪、氷、身を刺す風が地上からすっかり消え去ったように、われわれの記憶からも消滅したときに、それはやってくる――それにしても、それはなんという楽しい時だろう! 果樹園と麦畑は労働の低い歌声で鳴りひびき、木々は豊かな実りの重い|房《ふさ》のもとでまがり、枝を地面までさげている。麦は美しい束に積みあげられ、吹きとおる微風にまるで鎌を求めているようにゆらいで、|黄金《こがね》の色にあたりの景色を染めあげている。甘美な物柔らかさが、大地におおいかぶさっているように思われる。この季節の影響は荷車にまでひろがっているように思え、美しくかりとられた畠を切って進んでゆくその緩慢な動きは、目にだけうつるもので、いやなひびきで耳を打つことがない。
駅伝馬車が道路をとりまく畠や果樹園の横をとぶようにして走ってゆくと、ふるいに果物を積み重ねたり、麦の散った穂を集めたりしている女・子供の群れが、一時仕事の手を休め、陽に焼けた顔にもっと陽に焼けた手をかざして、好奇の目で乗客をジッとながめ、まだ小さすぎて働けないが、いたずらなので家にのこしておくことができない元気者の腕白坊主は、安全のために入れられていた籠のわきをよじ登り、よろこびで足を蹴ったりキーキー叫び声をあげたりしている。刈り手は仕事の手をやすめ、腕組みをして立って、馬車が風のようにとんでゆくとき、それをながめ、粗野な荷馬車馬は美しい駅伝馬車の馬のひと組にねむたそうな一瞥を送り、その目は、馬としてできるだけはっきりと、「それはながめてはとても美しいものだが、ねばつく畠の上をゆっくりと進んでいくほうが、結局、ほこりっぽい道路の上をああしてせっせと走るより、ずっと楽なことだ」と言っている。道路の角をまがるとき、人は背後をふりかえって見る。女や子供たちはもうふたたび仕事にとりかかり、刈り手はまたかがみこんで、仕事をつづける。荷馬車馬はもう動きだし、すべてはふたたび活動状態にはいる。
こうした場景はピクウィック氏のしっかりとした心に影響を与えずにはいなかった。いかさまのたくらみをやっているどんな場所ででも兇悪なジングルの素性を暴露してやろうと決心を固めていたので、彼は最初口をほとんどきかず、考えこんで、自分の目的がどうしたらいちばんよく達成できるかを思いめぐらしていた。しだいしだいに彼の注意はまわりのものにひかれるようになり、とうとう、楽しいことで旅行をしているように、この旅行から多くの楽しみを味わうことができるようになった。
「楽しい景色だな、サム」ピクウィック氏は言った。
「煙突の上の通風管も顔負けですね」帽子をちょっともちあげて、ウェラー氏は答えた。
「サム、きみは、生まれてこの方、煙突の上の通風管と煉瓦としっくい以外になにも見たことはないのだろう」にっこりしながら、ピクウィック氏は言った。
「いつも旅館の靴磨きばかりしていたんじゃありませんよ」頭をふりながら、ウェラー氏は言った。「以前は大型荷馬車の御者の給仕だったんですからね」
「それはいつのことだ?」ピクウィック氏はたずねた。
「はじめて世の中にほっぽりだされ、世の荒波と戦うことになったときです」サムは答えた。「最初運送人の給仕、つぎは大型荷馬車の御者の給仕、つぎは助手、それから旅館の靴磨きになり、いまは紳士の召使いなんです。いつかわたし自身も紳士になり、口にパイプをくわえ、裏庭にはあずまやをもつことになるかもしれませんよ。わかるもんですか。わたしだって、べつに驚きはしませんね」
「サム、お前はまったく哲学者だな」ピクウィック氏は言った。
「それは、わたしの一家に流れてるもんらしいんです」ウェラー氏は答えた。「わたしのおやじは、いま、とてもそんなふうになってます。わたしの義理の母が文句を言ったって、おやじは口笛を吹くだけ。彼女が怒りだし、おやじのパイプをたたき割ってしまうと、おやじは外に出かけて、べつのパイプを買ってきます。それから彼女は大声で金切り声をあげ、ヒステリーになるんですが、おやじはゆったりとタバコをふかし、彼女が正気になるのを待ってるんです。あれは哲学というもんじゃないでしょうかね?」
「とにかく、それにかわるりっぱなものであることはたしかだね」笑いながら、ピクウィック氏は答えた。「お前の放浪生活で、サム、それはとても役に立ったことだろうね」
「役に立ちました」サムは叫んだ。「まったくそのとおりです。運送屋から逃げ出してから大型荷馬車の御者といっしょになるまで、わたしは二週間家具のない宿に泊まってたんですからね」
「家具のない宿だって?」ピクウィック氏は言った。
「そうです――ウォータールー橋のガランとしたアーチです。いい眠り場所です――すべての役所から十分以内のとこにあってね――文句を言いたいとこがあるとすれば、ガランとしすぎてるということだけですね。そこでいくつか奇妙な光景に出逢いましたよ」
「ああ、そうだろうと思うな」いかにも興味をもっているといった態度で、ピクウィック氏は言った。
「光景なんです」ウェラー氏は言った、「あなたの慈悲深い心をつらぬき、その先が向こうに出ちまう光景です。そこには、れっきとした浮浪者はいません。まったく、彼らはそんなバカじゃありませんからね。商売がうまくいかなかった若い男女の乞食がときどきそこに寝泊まりはしますが、そのわびしい場所の暗い隅にころがってるのは、ふつうは、やつれ、飢えた家のない連中――二ペニーのなわ(宿料が二ペンスの安宿のこと)にも手がとどかない連中なんです」
「だが、サム、その二ペニーのなわって、どんなものなんだい?」
「二ペニーのなわとは」ウェラー氏は答えた、「安宿のことで、そこで宿料は一晩二ペンスなんです」
「どうして寝台をなわと呼ぶのかね?」ピクウィック氏はたずねた。
「いやあ、なにもご存じないんですね。そうじゃないんです」サムは答えた。「ホテルを経営しているおかみと亭主が商売をはじめるときには、床の上に寝台をおくもんです。でも、これは代金なしじゃ、なりたちません。泊まるほうではほんのわずかな眠りをとるんじゃなくて、半日は寝こんでたんですからね。そこでいまは、宿のほうでは、六フィートくらいはなれ、床から三フィートくらいの高さのなわを二本手に入れ、部屋にはってあるんです。寝台はなわの上にずっとはりめぐらした粗麻布のきれでできてます」
「そうか」ピクウィック氏は言った。
「そうです」ウェラー氏は言った、「このやり方の利点は明瞭。朝六時になわの端がはずされ、下宿人は全員ズドンと落とされるわけです。その結果は、すっかり目をさましてるんで、彼らはとても静かに起きあがり、そこを去っていくことになります! 失礼ですが」雄弁なおしゃべりを急にやめて、サムは言った。「ここはベリー・聖エドマンズですか?」
「そうだよ」ピクウィック氏は答えた。
駅伝馬車は清潔な姿の、繁栄を思わせる美しい小さな町のしっかりと舗装をした通りをゴロゴロと進み、古い僧院のほとんど真っ正面にある、ひろい開けた道に面する大きな宿屋の前にとまった。
「これが」目をあげてながめながら、ピクウィック氏は言った、「『|天使《エインジエル》旅館』だ! われわれはここでおりるのだよ、サム。だが、いくらか用心しなければならん。私室を注文し、わしの名前は明かさんようにしてな。わかっているだろう」
「よーくわかってます」心得たといったふうにウィンクして、ウェラー氏は答え、イータンスウィルで馬車に乗りこんだとき大急ぎで投げこんだピクウィック氏の旅行カバンをうしろの荷物入れから引きだして、ウェラー氏は命じられた用件のために姿を消した。私室はすぐに契約され、即刻ピクウィック氏はそこに案内された。
「さて、サム」ピクウィック氏は言った、「最初にしなければならんことは――」
「夕食を注文することです」ウェラー氏は口をはさんだ。「もうとてもおそいですからね」
「ああ、おそいね」時計を見ながら、ピクウィック氏は言った。「サム、お前の言うとおりだ」
「そして、もしわたしが口を出してよければ」ウェラー氏は言いそえた、「その後ぐっすりと寝み、明日の朝までこの陰険な男の調査はやめにします。眠りほど元気をつけてくれるものはありませんからね、下女がゆで卵用のコップ一杯の|阿片《アヘン》を飲む前に言ったようにね」
「サム、そのとおりだと思うよ」ピクウィック氏は言った。「だが、わしはあの男がこの宿にいて、出てゆくことはないということを、まずたしかめたいのだ」
「それはわたしにまかせておいてください」サムは言った。「わたしがあなたのおいしい夕食を注文し、それがつくられてるあいだに、その調査をしてみましょう。五分もすれば靴磨きの腹の中からどんな秘密だって引っぱり出せますからね」
「そうしてくれ」ピクウィック氏は言い、ウェラー氏はすぐ引きさがった。
三十分すると、ピクウィック氏は非常においしい夕食の座につき、四十五分すると、ウェラー氏が、チャールズ・フィッツ=マーシャル氏が自分の私室を、いずれなんとか知らせがあるまで、自分のためにとっておくように命じているという情報をもって、もどってきた。フィッツ=マーシャルは近所のある私宅でその夜をすごそうとしていて、靴磨きに彼がもどってくるまで眠らぬように命じ、自分の召使いはつれていっていた。
「さて、旦那さま」報告を終えたとき、ウェラー氏は言った、「明日の朝その召使いとなんとか話ができるようになったら、主人のことはすべてわたしに話してくれるんでしょうがね……」
「どうしてそれがわかる?」ピクウィック氏は口を入れた。
「いやあ、召使いというものは、いつもそういうもんなんです」ウェラー氏は答えた。
「おお、ああ、そのことは忘れていた」ピクウィック氏は言った。「わかったよ」
「それから、どうしたらいちばんいいかをそちらに決めていただき、われわれはそれにしたがって行動できるわけです」
それがいちばんいいやり方のように思えたので、最後にそうしようと決定された。ウェラー氏は、主人の許しを得て、しりぞき、好きなようにその夜をすごすことになったが、彼は間もなく集まった人たちの一致した声により酒場の座長役に選ばれ、その名誉ある立場でそこにやってきた客たちがいかにも満足するようにふるまったので、彼らの笑いと賞賛の叫び声はピクウィック氏の寝室までひびいてきて、彼の休息の時間を少なくとも三時間はちぢめてしまった。
つぎの朝早く、ウェラー氏は前夜の宴会の二日酔いの気分を半ペンスのシャワー装置(うまやの若い男に半ペンスやって、すっかり正気にもどるまで、彼の頭と顔に井戸の水をかけさせたので)でさましていたが、そのとき、濃い赤紫色の仕着せを着た若い男の出現が彼の注意をひくことになった。彼は宿屋の内庭のベンチに坐って、賛美歌の本といったものをいかにも一生けんめいに読んでいたが、それにもかかわらず、ときどきポンプの下に立っている男をチラリチラリと盗み見し、そのやっていることに多少興味をもっていることを示していた。
「お前は、見たとこ、妙な男だな!」濃い赤紫色の服を着た見知らぬ男の一瞥と目が最初に出逢ったとき、ウェラー氏は考えた。この見知らぬ男は大きな、血色のわるい、きたない顔をし、目は深くくぼみ、その巨大な頭からは、たくさんのちぢれていない黒い髪がたれさがっていた。「お前は妙な男だな!」ウェラー氏は考え、こう考えながら、彼は水浴をつづけ、それ以上この見知らぬ男のことは考えていなかった。
それでも相手の男は賛美歌の本からサムへ、サムから賛美歌の本へ、まるで話をしたいといったように、視線を流しつづけていた。そこでとうとう、サムは、相手にその機会を与えてやろうとして、親しげにひとうなずきして言った――
「どうだね、大将?」
「ありがたいことに、とても元気です」とてもゆっくりと話し、本を閉じて、男は言った。「あなたもそうでしょう?」
「いやあ、もう少しブランデーのびんのような感じがしてなかったら、今朝、こんなにフラフラはしてないんだがね」サムは答えた。「きみはこの宿に泊まってるのかね?」
赤紫色の男はそうだと答えた。
「きみはおれたちの仲間になってなかったが、どうしてなんだね?」タオルで顔をゴシゴシこすりながら、サムはたずねた。「きみは陽気な男らしいな――しな[#「しな」に傍点]の木の籠の中の生きた|鱒《ます》のように陽気なふうじゃないか」声を低くして、ウェラー氏は言いそえた。
「きのうの晩は、主人といっしょに外出してました」見知らぬ男は答えた。
「その主人の名前は、なんていうんだい?」急な興奮とタオルでこすったために顔を真っ赤に染めて、ウェラー氏はたずねた。
「フィッツ=マーシャルです」赤紫色の男は答えた。
「握手をしよう」前に歩みだして、ウェラー氏は言った。「おれはきみと知り合いになりたいんだ。きみのようすが気に入ったよ」
「うん、これはとても奇妙なこってすね」いかにも素朴な態度で、赤紫色の男は言った。「こちらはあなたのようすがすっかり気に入って、ポンプの下に立ってるあなたの姿を見た最初のときから、あなたと話をしたいなあと思ってたんです」
「本当かね?」
「本当ですとも。だけど、妙なことですねえ?」
「じつに奇妙だ」見知らぬ男のうすバカさを心中よろこびながら、サムは言った。「ところで、親方、きみの名はなんていうんだね?」
「ジョッブです」
「とてもいい名だ――それに|綽名《あだな》がつけられてないやつは、ひとりしか知らんからね。もうひとつの名は?」
「トロッターです」見知らぬ男は答えた。「あなたの名前は?」
サムは主人の注意を思い出し、答えた――
「おれの名はウォーカー、主人の名はウィルキンズっていうんだ。ところで、トロッター君、一杯やらんかね?」
トロッター氏はこの楽しい提案にすぐ賛成し、上衣のポケットに自分の本を入れて、ウェラー氏といっしょに酒場にゆき、そこで二人は間もなくしろめ[#「しろめ」に傍点](錫、鉛、真鍮、または銅の合金)の容器でイギリス製のオランダジンと丁子香《ちようじこう》のいいにおいのする精分をまぜたおいしい合成酒のことを議論しはじめていた。
「ところで、きみの仕事はどういうもんなんだい?」二杯目の酒を相手の杯に注ぎながら、サムはたずねた。
「いやな仕事です」舌打ちをしながら、ジョッブは言った、「とてもいやな仕事なんです」
「まさか?」サムは言った。
「いや、本当なんですよ。それに輪をかけて、主人は結婚しようとしてるんです」
「そんなことはないさ」
「いや、そうなんです。それに輪をかけて、寄宿舎学校からすごい金持ちの女相続人と駈け落ちしようとしてるんです」
「なんてひでえやつだ!」相手の杯に酒をまた注ぎながら、サムは言った。「それはこの町のどこかの寄宿舎学校だろうな、どうだい?」
さて、この質問はじつにさりげないふうにかけられたものだったが、ジョッブ・トロッター氏は身ぶりで、自分の新しい友人がその答えを引きだそうとしているのがわかっていることを、はっきりと示した。彼は杯を乾し、なにかつかめぬふうに相手をながめ、つぎからつぎへと交互に小さな目をパチパチさせ、最後には、まるで想像上のポンプの柄を動かしているように、片腕を動かしはじめたが、これは彼(トロッター氏)がサミュエル・ウェラー氏によってポンプじかけで水をくみだされているのを知らせたものだった。
「だめ、だめ」最後にトロッター氏は言った、「それはだれにも言えないこってす。それは秘密――大きな秘密なんですからね、ウォーカーさん」
赤紫色の男がこれを言ったとき、彼は自分の杯をさかさにし、それで相手に、自分の喉の乾きをいやすものがもうなくなったのを知らせた。サムはそのヒントを感じとり、それが伝えられたうまい遠まわしな方法に打たれながら、しろめ[#「しろめ」に傍点]の容器に酒を注ぐことを命じ、その声を聞くと、赤紫色の男の小さな目はギラリと輝いた。
「そうすると、それは秘密なんだね?」サムは言った。
「まあ、そういったとこだったんでしょうね」いかにも満悦といった顔をして酒をすすりながら、赤紫色の男は言った。
「きみの主人はとても金持ちなんだろうな?」サムは言った。
トロッター氏はニヤリとし、盃を左手にもって、右手で自分の赤紫色のズボンのポケットを四度はっきりとたたき、自分の主人なら、金貨のひびきでだれもたいして驚かさずにそれができるといったようすを示した。
「ああ」サムは言った、「それがやり方なんだね?」
赤紫色の男は意味深にうなずいた。
「うん、きみは考えんのかね」ウェラー氏はやりかえした、「きみの主人にその若い女の人をうばわせたら、きみもひどい悪党になるってえことをね?」
「そいつはわかってます」沈痛な悔恨を浮かべた顔を相手に向け、ちょっとうめいて、ジョッブ・トロッター氏は言った。「そいつはわかってます。自分の心を苦しめてるのは、それなんです。だけど、どうしたらいいんでしょう?」
「どうしたらだって!」サムは言った。「相手の女にそれをばらし、主人をすてちまうんだね」
「だれがわたしの言うことを信じてくれます?」ジョッブ・トロッターは答えた。「相手の若いお嬢さんは純潔と思慮分別の鏡と考えられてる人です。彼女はそれを否定するでしょうし、主人だってそうでしょう。だれがわたしの言うことを信じてくれます? 職を失ううえに、陰謀の罪とかそういったもので告発されることでしょう。こっちが動いて手にはいるものといえば、そのくらいのもんですよ」
「なるほど、それに一理はあるな」考えこんでサムは言った。「それに一理はある」
「そのことをとりあげてくれるだれかしっかりとした紳士を知ってたら」トロッター氏はつづけた、「その駈け落ちを抑える希望も湧くというもんですがね。でも、同じ難点、ウォーカーさん、ちょうど同じ難点があるんです。わたしはこの見知らぬ土地で紳士をだれも知らず、万一知ってたとしても、その人がこっちの話を信じてくれるかどうか、わかったもんじゃありませんからね」
「こっちへ来いよ」急にとびあがり、赤紫色の男の腕をつかんで、サムは言った。「おれの主人がきみの望んでる打ってつけの人物だよ」そして、ジョッブ・トロッターから少し抵抗を受けたあとで、サムはこの新しく見つけた友人をピクウィック氏の部屋につれてゆき、ピクウィック氏に彼を紹介し、それといっしょに、いままでお伝えした話のやりとりの簡単な要約を伝えた。
「主人を裏切って、とてもわるいと思ってます」六インチ平方くらいのピンク色の市松のポケット用ハンカチを目に当てながら、ジョッブ・トロッターは言った。
「その気持ちだけでも、りっぱなことだ」ピクウィック氏は答えた。「だが、それにしても、それはきみの義務だよ」
「それが義務なことは、わかってます」大きな悲しみをこめて、ジョッブは答えた。「われわれは自分の義務を果たそうとしなければならず、わたしも、ささやかながら、自分の義務を果たそうとしてるんです。でも、たとえ悪党であろうとも、その制服を身につけ、そのパンを食べていた主人を裏切るのは、とてもつらいことです」
「きみはとても善良な男だね」ひどく打たれて、ピクウィック氏は言った、「正直者だね」
「さあ、さあ」ひどくいらいらしながらトロッター氏の涙をながめていたサムが口をはさんだ、「この水まき車の仕事なんて糞っくらえだ! そんなことをしたって、なんの役にも立たんのだからね」
「サム」なじるようにしてピクウィック氏は言った、「お前がこの青年の気持ちをそんなに考えてやらないなんて、わしには悲しいことだよ」
「彼の気持ちは、とても結構なもんです」ウェラー氏は答えた。「それがとてもりっぱで、それをむだに使ってしまうのは残念なことなんで、それを熱い湯にして蒸発させるより、自分の胸にちゃんとしまっといたほうがいいと考えたんです、とくに、そうしたってどうにもならんのですからね。涙を流したって、時計は巻けず、蒸気機関だって動きはしないんですからね。若いの、つぎに喫煙会にいくときにゃ、この考えをパイプにつめといたほうがいいぜ。そして、さし当たっては、そのピンクのギンガムのハンカチをポケットにおさめるんだな。それはべつに美しいもんでもなし、まるで綱わたりの芸人のように、それをふりまわしてる必要はないんだからね」
「あの男の言うとおりだよ」ジョッブに話しかけて、ピクウィック氏は言った、「彼の言い方はちょっと荒っぽく、ときにわからんところもあるけどね」
「本当に彼の言うとおりです」トロッター氏は言った、「もう泣いたりはしません」
「よーし」ピクウィック氏は言った。「さて、その寄宿舎学校はどこにあるのかね?」
「それは町の真向かいの大きな、古い、赤煉瓦の建物です」ジョッブ・トロッターは答えた。
「そしていつ」ピクウィック氏は言った、「いつこの兇悪な計画は実行にうつされるのかね?――いつこの駈け落ちは起きるのかね?」
「今晩です」ジョッブは答えた。
「今晩だって!」ピクウィック氏は叫んだ。
「本当に今晩です」ジョッブ・トロッターは答えた。「だから、わたしはとても気をもんでるんです」
「即刻手段を講じなければならないな」ピクウィック氏は言った。「その施設を管理している婦人にすぐ会うことにしよう」
「失礼ですが」ジョッブは言った、「そうしたことをしても、だめでしょう」
「どうしてだめなのかね?」ピクウィック氏はたずねた。
「わたしの主人は一筋なわではいかない人物です」
「それは知っている」ピクウィック氏は言った。
「そのうえ、彼は老夫人の心をしっかりつかみ」ジョッブはつづけた、「たとえあなたがひざまずき、それを誓っても、彼に不利なことは絶対に信じはしないでしょう。とくにあなたの証拠といっても召使いの言葉しかなく、その男は、彼女の知っているとこでは(主人がそう言うのは、もう決まったことです)、なにかいけないことがあって暇を出され、その復讐にこれをしたことになるのですからね」
「そうすると、どうしたらいいだろう?」ピクウィック氏は言った。
「駈け落ちの現行犯で彼をつかまえることしか、あの老夫人を納得させないでしょう」ジョッブは答えた。
「そこにいる老いぼれ猫どもはみんな、里程標の石に頭をぶっつけることでしょうな」口をさしはさんで、ウェラー氏が言った。
「だが、駈け落ちの現行犯でやつをとらえるのは、なかなか実行困難なことではないかな」ピクウィック氏は言った。
「そうでしょうか?」ちょっと考えていたあとで、トロッター氏は言った。「それは楽にできると思います」
「どうしたらいいのかね?」がピクウィック氏の質問だった。
「いやあ」トロッター氏は答えた、「主人とわたしは、ふたりの下男と腹を合わせて、十時には台所にかくされることになってます。一家の者が寝こんだら、われわれは台所から出ていき、お嬢さんは寝室から忍び出ます。馬車が外で待ってて、われわれは逃げだすんです」
「それで?」ピクウィック氏は言った。
「それで、わたしは考えてたんですが、もしあなたがうしろの庭でひとりで待っててくださったら――」
「ひとりでだって!」ピクウィック氏は言った。「どうしてひとりになるんだね?」
「当然のことと思うんですが」ジョッブは答えた、「こうした不愉快な発見は、老夫人とすれば、できるだけ人目をはばかりたいでしょう。お嬢さんのほうだって、そうです――彼女の気持ちを考えてごらんなさい」
「きみの言うとおりだ」ピクウィック氏は言った。「その考慮はきみの心の細かさをあらわしているね。さあ、話してくれたまえ。まったくきみの言うとおりだ」
「はあ、わたしは考えてたんですが、もしあなたがうしろの庭でひとりで待っててくださったら、そして十一時半きっかりに、庭に開いてるドアで廊下の端のとこからあなたを中にお入れしたら、この悪人の計画を破ることでわたしに手を貸してくださるのにちょうどいい時機になるでしょう。あの男のために、不幸なわたしは|罠《わな》にかけられたんです」ここでトロッター氏は深い溜め息をもらした。
「そんなことを苦にしなくてもよい」ピクウィック氏は言った、「もしあの男が、身分は低くとも、きみの特質になっている繊細な感情をほんの少しでももっていたら、多少なりとも彼に希望をもてるのだがね」
ジョッブ・トロッター氏は低くお辞儀をし、ウェラー氏の前の注意にもかかわらず、涙が目にこみあげてきた。
「こんなやつは見たこともないぞ」サムは言った。「きっとやつの頭には、いつもポンプがかかってる水道管がついてるんだろう」
「サム」非常にきびしくピクウィック氏は言った。「つまらんことを言うな」
「よくわかりました」ウェラー氏は答えた。
「この計画はどうも気に染まん」深い瞑想のあとで、ピクウィック氏は言った。「どうして若い婦人の身内の人と連絡がとれんのだろう?」
「彼らはここから百マイルもはなれたとこに住んでるからです」ジョッブ・トロッター氏は答えた。
「それじゃどうにもならないな」そっとウェラー氏は言った。
「そうなると、庭のことになるが」ピクウィック氏はつづけた。「どうしたらそこにはいれるかね?」
「へいはとても低く、あなたの召使いがあなたをもちあげてくれるでしょう」
「わしの召使いがわしをもちあげてくれると」機械的にピクウィック氏は相手の言葉をくりかえした。「きみはまちがいなく、きみの言っているそのドアの近くにいてくれるね?」
「それを勘ちがいすることはありません。庭に通じるただひとつのドアなんですから。時計が鳴ったとき、そこをコツンコツンとたたいてください。そうすればすぐ、わたしが開けます」
「この計画はどうも気に染まん」ピクウィック氏は言った。「しかしほかにとるべき手段はなし、この若い女性の一生の幸福がかかっているのだから、その計画どおりにすることにしよう。かならずそこにゆくよ」
こうして、ピクウィック氏は、ふたたび、人のよさにかられて、あまり気の進まぬ仕事に係り合いになることになった。
「その寄宿舎の名前はなんというんだね?」ピクウィック氏はたずねた。
「ウェストゲイト学寮です。町のはずれに出たら、ちょっと右にまがってください。それは大通りから少しはなれた一軒家で、門の真鍮の板にその名が書いてあります」
「それは知っているよ」ピクウィック氏は言った。「この前この町に来たとき、それを見たことがあるからね。大丈夫、わかったよ」
トロッター氏はまたお辞儀をし、まわれ右をして立ち去ろうとしたが、そのとき、ピクウィック氏は彼の手に一ギニーの金貨をわたした。
「きみはりっぱな男だ」ピクウィック氏は言った、「きみの心の善良さには打たれたよ。礼なんか言う必要はない。いいかね――十一時だよ」
「それを忘れる心配はございません」ジョッブ・トロッターは答えた。こう言って、彼は部屋を出てゆき、そのあとにサムがつづいた。
「なあ」サムは言った、「ああして泣くことも、まんざらでもないね。こんなにいい条件だったら、おれだって大雨のときの雨どいの口のように泣いてみせるぜ。あの秘訣はどういうもんなんだい?」
「ウォーカーさん、それは心から生まれてくるんです」厳粛にジョッブは答えた。「さようなら」
「お前は頭がたりんよ、お前は――とにかく、話はぜんぶお前から聞いてしまったんだからな」ジョッブが去っていったとき、ウェラー氏は考えていた。
トロッター氏の心に起こった考えがどんなものだったか、われわれははっきりと述べることができない。それがどんなものだったか、わからないからである。
その日はゆっくりと進み、夕方になり、十時少し前に、ジングル氏とジョッブがつれだって出かけたこと、彼らの荷造りはでき、馬車がやとわれていることが、サム・ウェラーによって報告された。トロッター氏が言っていたとおり、計画は明らかに実行にうつされているのだった。
十時半になり、このむずかしい仕事にピクウィック氏が出発する時刻になった。外套をサムが着せようとしたが、へいをよじ登るのにそれが邪魔になるというわけで、それを断わっって、彼は出発し、サムがあとにつづいた。
月が|耿々《こうこう》と輝いていたが、それは雲にかくれた。気持ちのいいさらりとした夜だったが、異常なほどひどく暗い夜だった。小道・生垣・野畠・家・木は黒一色につつまれていた。空気はむし暑く、夏の稲妻が地平線のはるかかなたにかすかにひらめいて、すべてのものがつつまれている暗い闇に変化をそえているただひとつのものになっていた――眠っていないどこかの番犬のはるかな吠え声以外に、あたりには物音ひとつしていなかった。
ふたりは寄宿舎を見つけ、真鍮の門札を読み、へいのまわりをまわり、庭の奥と彼らのあいだに立っているへいのところで足をとめた。
「わしに手を貸してへいを越えさせたら、サム、お前は旅館に帰っていろ」ピクウィック氏は言った。
「承知しました」
「わたしがもどるまで、起きていてくれ」
「もちろん」
「わたしの脚をおさえ、『よし』と言ったら、そっとわたしをもちあげてくれ」
「わかりました」
こうしたことを前もって決めておいて、ピクウィック氏はへいの上部に手をかけ、「よし」と声をかけ、それがそのまま実行された。彼の体に心のはずみが多少うつっていたのか、そっともちあげるという言葉にたいするウェラー氏の考えがピクウィック氏の考えより多少荒っぽいものだったのか、彼の援助の直接の結果は、あの不滅の紳士をへい越しに下の花壇に放りだすことになり、三本のすぐり[#「すぐり」に傍点]の木と一本の|薔薇《ばら》の木を折ったあとで、彼は大の字になってそこに落ちこむことになった。
「体を痛めはしなかったでしょうね?」主人が|摩訶《まか》ふかしぎにも姿を消したあとの驚きから回復するとすぐ、サムは大きなささやき声でたずねた。
「たしかに、わしは自分自身[#「自分自身」に傍点]を痛めはせんよ、サム」へいの向こう側からピクウィック氏は答えた、「だが、お前に[#「お前に」に傍点]痛められたようだな」
「そんなことがなければいいんですが」サムは言った。
「心配することはない」立ちあがりながら、ピクウィック氏は言った、「ちょっとひっかいたまでのことさ。さあ、帰れ。さもないと、聞きつけられてしまうからな」
「さようなら、旦那さま」
「さようなら」
ぬき足さし足でサム・ウェラーは去り、ピクウィック氏はひとり庭にのこされた。
光がときどき寄宿舎のさまざまな窓や階段から流れ、中の人たちが寝室にひきあげてゆくようすだった。約束の時間までドアのあまり近くによるまいとして、ピクウィック氏はへいの隅のところにもぐりこみ、時の来るのを待っていた。
これは多くの人の気持ちをがっくりさせても当然といった情勢だった。しかし、ピクウィック氏はがっくりもせず、疑惑も感じていなかった。彼は自分の目的がだいたい正しいものであることを知っていて、高潔なジョッブに絶対の信頼をよせていた。それはわびしいばかりでなく、退屈なことだった。しかし、思索的な人間はいつでも瞑想にふけることができるものである。瞑想にふけってウトウトとしはじめたとき、ピクウィック氏は時間――十一時半を報ずる付近の教会の鐘の音にはっと呼び起こされた。
「あれは時刻を知らせる鐘の音だ」そっと立ちあがりながら、ピクウィック氏は考えた。彼は建物を見あげた。光は消え、|鎧戸《よろいど》はおろされ――全員たしかに眠りこんでいた。彼は忍び足でドアのところにゆき、静かにそこをたたいた。なんの返事もなく二、三分すぎたので、彼は前よりそうとう大きな音を立ててドアをたたき、ついで、それよりずっと大きく戸をたたいた。
とうとう足音が階段に聞こえ、ついでろうそくの光がドアの鍵穴をとおしてきらめいた。鎖やかんぬきをはずす面倒が終わってから、ドアがゆっくりと開かれた。
さて、ドアは外側に開かれ、ドアがひろく開かれれば開かれるほど、ピクウィック氏はそのうしろにだんだんはいっていった。用心のためちょっとのぞいてみたとき、ドアを開いた人物が――ジョッブ・トロッターではなく、手にろうそくをもった下女だと知ったとき、彼の驚きはどんなものだったろう! ピクウィック氏はさっと頭をひっこめたが、その速さは、ブリキのオルゴールをもった頭の平らな喜劇役者を待ちかまえているあのすばらしいメロドラマの役者パンチ(イギリスの盛り場でむかしから人気を集めているこっけいなあやつり人形。パンチというせむしで鼻がながくまがって奇怪な恰好をした主人公が子供を絞殺したり、妻ジューディを打ち殺したりする)の示す素速さといったものだった。
「サラー、猫だったんだよ」家の中にいるだれかに話しかけて、下女は言った。「猫、猫、猫――ちび、ちび、ちび」
だが、どんな獣だってこんな|手管《てくだ》にはのらなかったので、女はゆっくりとドアを閉め、そこをしっかりと閉めてしまい、ピクウィック氏はへいにしっかりと身をよせて立ちつくしていた。
「これはじつに奇妙なことだ」ピクウィック氏は考えた。「どうやら、いつもの時刻よりおそくまで起きているらしいぞ。とりわけこの晩にいつもよりおそくまで起きているなんて、まったく運のわるいことだ――まったく」こう考えながら、ピクウィック氏は用心深く以前にひそんでいたへいの隅のところにしりぞき、信号をくりかえしても安全と思うときまで待っていた。
彼がここに五分もいないうちに、稲妻がさっと明るくひとひらめきし、遠くでものすごい音を立ててガン、ゴロゴロッと鳴りだした雷の大きな音がつづき――ついで、前よりもっと明るい稲妻のひらめき、前よりもっと大きな雷鳴がとどろき、それから、なんでもおし流してしまう勢いと激しさで、雨が降ってきた。
雷雨の中で木は非常に危険な隣人であることを、ピクウィック氏はよく知っていた。左手にも右手にも、前にも後にも、木が立っていた。もし彼がそこにいたら、彼は事故の犠牲者になるかもしれなかった。もし庭の真ん中に姿をあらわしたら、巡査にひきわたされてしまうかもしれなかった――一度か二度彼はへいによじ登ろうとしたが、造化の神が彼に与えた脚以外に今度はどんな脚ももっていなかったので、そのもがきの結果はただ、膝と|脛《すね》にとても不愉快なさまざまのすり傷を与え、ひどく汗をかいた状態に彼をおとしいれただけだった。
「まったく困ったな」この運動のあとで額の汗をぬぐうために手を休めて、ピクウィック氏は言った。彼は建物をあおいで見た――ぜんぶ真っ暗になっていた。もうみんな眠ったにちがいない。合図をもう一度くりかえしてみよう。
彼はぬれた砂利を忍び足で進み、ドアをトントンとたたいた。息を殺し、鍵穴のところで耳を澄ませた。返事はなかった。じつに奇妙なことだ。もう一度ノック。彼はまた聞き耳を立てた。中で低いささやき声がし、ついで声が叫んだ――
「そこにいるのはだれ?」
「あれはジョッブではないな」急いでふたたびへいにピタリと身をよせて、ピクウィック氏は考えた。「あれは女だ」この結論を出すか出さないかに、階段の上の窓がさっと開かれ、三、四人の女性の声が質問をくりかえした――「そこにいるのはだれ?」
ピクウィック氏は手も足も動かせなくなった。寄宿舎の全員が起きているのは明らかだった。みなの驚きが静まるまで、自分がいまいるところにジッとしてい、それから超人的の努力を払ってへいを乗りこえるか、その努力で命の代償を支払うかしようと、彼は決心した。
ピクウィック氏のすべての決心と同じように、この決心もこうした事情のもとで考えられる最善のものだった。だが、不幸なことに、それはドアが二度と開かれないという仮定のもとに立てられたものだった。鎖とかんぬきがはずされるのを耳にし、ドアがゆっくりとだんだん開かれるのを目にしたときの彼の|狼狽《ろうばい》はどんなものだっただろう! 彼は隅のほうに一歩一歩さがっていった。だが、彼がどうしようとも、彼の体がはさまれていることがドアのずっと開かれるのを抑えてしまった。
「そこにいるのはだれ?」中の階段のところから|甲高《かんだか》い声のいっせいコーラスが叫んだが、そのコーラスはこの寄宿舎の独身の婦人、三人の教師、五人の女中、三十人の寄宿生からつくりあげられているもので、彼女らはみんなしどけない姿で、毛巻き用のカールペーパーをつけていた。
もちろん、ピクウィック氏はそこにいるのはだれかを答えはしなかった。それからコーラスの折り返しの文句は「まあ、こわい!」に変わっていった。
「お料理係りの人」女学寮長は言ったが、彼女は用心して階段のいちばん上、この一団のどん尻にひかえていた――「お料理係りの人、どうしてもう少し庭のほうに出てゆかないの?」
「わるいですが、気が進まないので」料理係りの女は答えた。
「まあ、あの料理係り、とてもバカな女ね!」三十人の寄宿生は言った。
「お料理係りの人」威厳を大いにこめて、女学寮長は言った。「どうかわたしに返事をしないでちょうだい。わたしはあなたに、庭をすぐ見なさい、と言っているのよ」
ここで料理係りの女は泣きだし、下女は「まあ、ひどいこと!」と言い、そう同情したことで、彼女はその場でひと月後に暇を出されることになった。
「お料理係りの人、聞いているの?」いらいらし足をじたばたと踏みしめて、女学寮長は言った。
「学寮長さんのおっしゃっていることを、あんた、聞いているの?」三人の教師はたずねた。
「あの料理係りの人ったら、なんて厚かましいんでしょう!」三十人の寄宿生は言った。
不幸な料理番は、こう強くうながされて、一歩か二歩前に進み、なにもすっかり見えなくなる場所でろうそくをかかげて、なにもそこにはない、風だったにちがいない、と言った。その結果、ドアが閉められようとしたとき、|蝶番《ちようつがい》のあいだからのぞいていたせんさく好きな寄宿生がおそろしい悲鳴をあげ、それはあっという間に料理番の女、下女、勇敢な女たちを家の中に引きあげさせてしまった。
「スミザーズさん、どうしたの?」四人の女の力でようやくとり静めることができるほどのヒステリー状態に前記のスミザーズ嬢が落ちこんだとき、女学寮長はたずねた。
「まあ、スミザーズさん」のこりの二十九人の寄宿生は叫んだ。
「おお、男の人――男の人――ドアのうしろに!」スミザーズ嬢は金切り声をあげた。
女学寮長はこのおそろしい叫びを聞くや、彼女の寝室にもどって、ドアに二重の錠をおろし、快適な失神状態に落ちこんでしまった。寄宿生、教師、下女たちは重なり合って階段のところにさがり、こうした悲鳴・気絶・もがきはかつて見られぬほどのものとなった。そうしたさわぎの最中で、ピクウィック氏は自分のかくれ場所から姿をあらわし、彼らの中にはいっていった。
「ご婦人方――やさしいご婦人方」ピクウィック氏は言った。
「まあ、わたしたちのことをやさしいなんて言ってるわ」いちばん年上の、いちばんご面相がわるい教師が叫んだ。「まあ、ひどい人!」
「ご婦人方」自分の危険な立場にやけになって、ピクウィック氏は大声をはりあげた。「わたしの言うことを聞いてください。わたしは泥棒ではありません。わたしはこの学寮長の方とお会いしたいのです」
「おお、なんておそろしい怪物!」べつの教師が金切り声をあげた。「トムキンズさんと会いたがっているのだわ」
ここでみんなが金切り声をあげだした。
「だれか、警鐘を鳴らしなさい!」十二人の声が叫んだ。
「やめてください――やめてください」ピクウィック氏は叫んだ。「わたしを見てください。泥棒のように見えますか? もしよろしかったら、わたしの手足をしばってもいい、あるいは、わたしを小部屋にとじこめてもいいです。ただわたしの言うことを聞いてください――ただわたしの言うことを聞いてください」
「どうしてここの庭にはいってきたの?」下女がどもりながらたずねた。
「ここの学寮長を呼んでください。そうしたら、その方にぜんぶお話しします」肺臓を最大限に働かせて、ピクウィック氏は言った。「彼女を呼んでください――ただ静かにたのみます、そして彼女を呼んでくだされば、ぜんぶお話ししますよ」
この寄宿舎の比較的理性的な人たち(約四人ほど)をまあ静かな状態にしたのは、ピクウィック氏の外貌だったのかもしれない。またそれは、彼の態度だったかもしれない。それとも、それは、いま謎につつまれているなにものかを聞きだしたいという誘惑――女心には抵抗しがたい誘惑だったのかもしれない。彼女らによって、ピクウィック氏の誠意の証しとして、彼がすぐに身柄の拘束に服するように提案され、通学生がボネット帽と弁当袋をかけている小部屋の中からトムキンズ学寮長と話をすることに、ピクウィック氏は賛成したので、彼はすぐに自分からその部屋の中にはいってゆき、しっかりと錠をおろされて閉じこめられた。これがほかの者たちの元気を回復させ、トムキンズ学寮長は意識を回復し、階下につれてこられたので、話し合いがはじまった。
「庭でなにをしていたんです?」かすかな声でトムキンズ学寮長はたずねた。
「あなたのとこの寄宿生のうちのひとりが今晩駈け落ちしようとしていることをお知らせしにやって来たんです」小部屋の奥から、ピクウィック氏は答えた。
「駈け落ちですって!」トムキンズ学寮長、三人の教師、三十人の寄宿生、五人の下女がいっせいに叫んだ。「だれといっしょに?」
「あなたのお友だちのチャールズ・フィッツ=マーシャル氏です」
「わたしの[#「わたしの」に傍点]お友だちですって! そんな人は知りませんよ」
「ええ、それじゃ、ジングル氏です」
「生まれてこの方、そんな名前は聞いたこともありません」
「じゃ、わたしはだまされ、ひっかけられたんです」ピクウィック氏は言った。「わたしは陰謀の手玉にとられたんです。わたしの言うことを信じていただけなかったら、学寮長さん、『|天使《エインジエル》旅館』に使いを出してください。『|天使《エインジエル》旅館』にいるピクウィックの召使いを呼んでください、おねがいします」
「りっぱな人よ――召使いを|やとって《キープ》いるなんて」トムキンズ学寮長は習字と数学の教師に言った。
「トムキンズ先生、わたしの考えでは」習字と数学の教師は言った、「彼の召使いが彼を|管理《キープ》しているのです。彼は気ちがいで、もうひとりの男は彼の管理人だとわたしは[#「わたしは」に傍点]思いますよ」
「グウィンさん、まったくそのとおりよ」トムキンズ学寮長は答えた。「ふたりの女中を『|天使《エインジエル》旅館』にやり、ほかの三人は、わたしたちの保護のために、ここにのこしておいてちょうだい」
そこで、ふたりの女中はサミュエル・ウェラー氏をさがしに『|天使《エインジエル》旅館』に派遣され、ほかの三人はのこって、トムキンズ学寮長、三人の教師、三十人の寄宿生の保護に当たることになった。そしてピクウィック氏は小部屋で弁当袋の列の下に坐り、根かぎりのあきらめと勇気をふるいおこして、使者の帰ってくるのを待つことになった。
彼らがもどってくるまでに一時間半が経過し、彼らがやって来たとき、ピクウィック氏はサミュエル・ウェラー氏の声に加えて、ふたりのべつの声を聞いたが、その調子は親しみあるものとして彼の耳にひびいたが、それがだれのものかは、彼はどうしても思い起こすことができなかった。
とても簡単な話がつづいて起こった。ドアの錠ははずされ、ピクウィック氏は小部屋の外に歩み出し、自分がウェストゲイト学寮の全員、サミュエル・ウェラー氏、それに――老ウォードル氏、彼の将来の義理の息子、トランドル氏の前に立っていることを知った。
「きみ」前に走りだし、ウォードル氏の手をつかんで、ピクウィック氏は言った、「きみ、おねがいだ、この婦人にわたしがおかれている不幸なおそろしい状態を説明してくれたまえ。わたしの召使いからそれは聞いているにちがいないのだからね。とにかく、きみ、わたしが泥棒でも狂人でもないことだけは言ってくれたまえ」
「それは言いましたよ。もうそれは言いましたよ」友人の右手をつかみながら、ウォードル氏は答え、一方トランドル氏は彼の左手をつかんだ。
「旦那さまが気ちがいだと言ったり言ったことがある人はだれでも」前に歩みだして、ウェラー氏は口をはさんだ、「本当のことではなく、逆に本当のことと大ちがいな、まったく逆なことを言ってるんです。ここの屋敷の中にそう言う男が何人おろうとも、ここにいるりっぱなご婦人方がこの部屋から引きあげ、みんないっしょにそういう連中をここに呼んでくださったら、この部屋で彼らがまちがってることを、よろこんでしっかりと証明してやりますぞ」この挑戦をベラベラッとしゃべり立て、ウェラー氏は手のひらをにぎった拳で強くたたき、トムキンズ学寮長に陽気にウィンクを送ったが、若い婦人のためのウェストゲイト学寮の敷地の中に何人かの男がいるかもしれないと彼が考えているのを聞いた学寮長の深刻な恐怖は、とても筆では描きつくせぬほど強いものだった。
ピクウィック氏の説明はもう一部すんでいたので、それはすぐ終わった。しかし、友人たちと家に歩いて帰る途中も、その後、彼が非常に必要としている夕食を食べながら燃える火の前に坐っているときでも、彼は一語もしゃべろうとはしなかった。彼はとまどい、びっくりしているようだった。一度、たった一度だけ、彼はウォードル氏のほうに向きなおって言った――
「どうしてここに来たんです?」
「トランドルとわたしはここにやってきたんです、九月一日のしゃこ[#「しゃこ」に傍点]猟開始日になにかいい猟をしたいと思ってね」ウォードル氏は答えた。「われわれは今晩到着、あなたの召使いから、あなたもここにおいでと聞いて、びっくりしていたんです。でも、あなたがここにおいでなのはうれしいこと」相手の背をぴしゃりとたたいて、老人は言った。「あなたがここにおいでなのはうれしいことですよ。|一日《ついたち》には楽しい会を開き、ウィンクルにもう一度、腕のほどを示すチャンスを与えてやりましょう――どうです、きみ?」
ピクウィック氏はなんの返事もしなかった。彼はディングリー・デルの友人たちのこともたずねず、間もなく、鐘を鳴らしたらろうそくをもってくるようにサムに命じて、寝室に引きあげていった。
やがて鐘が鳴り、ウェラー氏が姿をあらわした。
「サム」掛け布団の下から目を出して、ピクウィック氏は言った。
「はい」ウェラー氏は答えた。
ピクウィック氏はだまってしまい、ウェラー氏はろうそくの芯を切った。
「サム」まるでしゃにむにの努力で叫んでいるように、ピクウィック氏はふたたび呼んだ。
「はい」ウェラー氏はふたたび答えた。
「あのトロッターはどこにいるのだろう?」
「ジョッブのことですか?」
「そうだ」
「いってしまいましたよ」
「やつの主人といっしょにだろうな?」
「友人なり主人なり、たとえどんな者であろうと、やつはあいつといっしょにいっちまいましたよ」ウェラー氏は答えた。「ふたりはぐるだったんです」
「ジングルはわしの計画を察知し、あの話をでっちあげて、あの男をお前におしつけたのだろうな?」なかば息をつまらせながら、ピクウィック氏は言った。
「まさにそうです」ウェラー氏は答えた。
「もちろん、話はぜんぶいかさまだね?」
「ぜんぶそうです」ウェラー氏は答えた。「れっきとしたいかさま、陰険なぺてんです」
「サム、このつぎにはそうやすやすとわれわれの手をのがれることはないと思うのだが?」ピクウィック氏は言った。
「のがれられるとは思いませんね」
「いつあのジングルのやつに会おうとも、それがどこであろうとも」寝台で体を起こし、枕を強くひとたたきして、ピクウィック氏は言った、「やつが当然受けるべき暴露に加えて、やつをひとつ|折檻《せつかん》してやろう。それはやるぞ。そうでなければ、わしの名はピクウィックではないのだ」
「めそめそしたあの黒い髪の男をいつつかまえようと」サムは言った、「わたしが、そのときにかぎり、やつの目に本当の水を流させなかったら、わたしの名前はウェラーではありません。旦那さま、おやすみなさい!」
[#改ページ]
第十七章
[#3字下げ]リューマチにおそわれることが、場合によっては、発明的才能の促進剤になることを示す
ピクウィック氏の体はそうとう骨の折れる仕事や疲労にも平気なものだったが、前の章で述べた受難の連続には堪えられなかった。夜気の中で雨に洗われ、小部屋の中で乾されたことは、それが特別なものであるばかりでなく、危険なことでもあった。ピクウィック氏はリューマチにおそわれてふせってしまった。
しかし、この偉大な人物の肉体的な力はこうして損ねられはしたものの、彼の精神的なエネルギーは本来のたくましさを維持しつづけていた。彼の気分は弾力性を失わず、彼の上機嫌は回復された。最近の冒険にともなういらだちも彼の心からは消滅し、それにたいするそれとない言及がウォードル氏にひきおこした陽気な笑いにも、怒りとか|狼狽《ろうばい》といったものもなく、加わることができた。いや、そればかりではなかった。ピクウィック氏が床についていた二日のあいだ、サムはいつも彼のそばにつきそっていた。一日目に、彼は逸話や話で主人を楽しまそうとし、二日目には、ピクウィック氏は書き物机とペンとインクをもって来させ、一日中一生けんめいものを書いていた。三日目に、寝室で坐れるようになったので、彼は召使いをウォードル氏とトランドル氏のところにやり、その夜彼の寝室にぶどう酒を飲みに来てもらえたら、とてもうれしいのだが、という言葉を伝えさせた。この招待は大よろこびで受け入れられ、ぶどう酒を飲みながら彼らが坐っているとき、ピクウィック氏は、顔を赤らめながら、自分の最近の病気中、ウェラー氏の素朴な話を書きとめたものから「編集した」ものとして、つぎのささやかな話を紹介した。
教区教会の庶務役員 真の恋の物語
むかしむかし、ロンドンからそうとうはなれたあるとても小さないなかの町に、ナサニエル・ピプキンという小さな男が住んでいました。彼はこの小さな町の教区教会の庶務をあつかっている役員で、小さな教会から十分もかからない町の小さな目抜き通りの小さな家に住んでいました。彼は毎日九時から四時まで小さな子供たちにちょっとした勉強を教えていました。ナサニエル・ピプキンは悪気のない、目立たぬ、善良な男で、鼻が上を向き、脚が内側にまがり、目はやぶにらみ、脚はびっこでした。彼は自分の時間を教会と学校にわけ、この地上で、副牧師ほど利口な人はなく、聖具室(祭服のほか聖餐用器物が蔵され、また登録などの教区事務がとりおこなわれる)ほど堂々とした部屋はなく、自分の学校ほどきちんとした学校はないと、心の底から信じていました。生涯のうちで一度、たった一度だけ、ナサニエル・ピプキンは主教――ローン(きわめて薄地の上等綿、またはリンネル)の袖で腕をつつみ、頭にはかつらをかぶった本当の主教を見たことがありました。彼は堅信礼(キリスト教で通常幼児洗礼を受けた者が、成人してその信仰を告白して教会員となる儀式)で主教が歩くのをながめ、話すのを聞き、この重大な場合にナサニエル・ピプキンは、前に述べた主教がその手を彼の頭の上においたとき、すっかり敬虔な気持ちと畏敬の念に打たれて、完全に失神状態におちいり、教区吏員の手で教会から運びだされました。
これはナサニエル・ピプキンの生涯での大事件、すばらしい時代で、彼の静かな生活のなめらかな流れをかき乱したただひとつの事件でした。ある天気のいい日の午後、あるいたずら坊主に課してやろうと諸等数の加法のむずかしい問題を考えていた石板からポーッとした気持ちで目をあげると、その目は急にマライア・ロッブズ、道の向こう側にいる大きな馬具製造人の老ロッブズのひとり娘の花のように美しい顔にゆき当たりました。さて、ピプキン氏の目は、教会やその他の場所で、マライア・ロッブズの美しい顔にいままで何回となく出逢ったことはあるのですが、このときほど、マライア・ロッブズの目が輝き、マライア・ロッブズの頬が赤らんでいたことは絶対にありませんでした。彼の目がロッブズ嬢の顔からはなれなくなったのも、べつにふしぎなことではありません。若い男に自分がジッと見られているのに気づいて、ロッブズ嬢が外をのぞいていた窓から頭を引っこめ、窓を閉め、鎧戸をおろしてしまったのも、べつにふしぎなことではありません。ナサニエル・ピプキンが、その後すぐ、前にわるさをしたいたずら坊主におそいかかり、心ゆくまでその少年をなぐりぶっとばしたのも、べつにふしぎなことではありません。こうしたことすべてはきわめて当然なこと、それをふしぎに思う筋はぜんぜんないのです。
しかし、ナサニエル・ピプキンのように引っこみ思案な、神経質な、じつに収入の少ない人物がその日からあの怒りっぽい老ロッブズのひとり娘の手と心をねらうようになったというのは、たしかにふしぎなことです。この老ロッブズは大きな馬具製造人で、ペンのひと書きで村ぜんぶを買いとり、なにも|痛痒《つうよう》を感じないといった人物――市場のある近くの町の銀行にたくさんの金を預けていることがよく知られている人物――裏の居間の炉造りの上に乗せた大きな鍵穴のある小さな鉄の金庫の中に無数のおびただしい宝物をもっているとうわさされている老ロッブズ――祭の日には食卓を銀のきゅうす、クリーム差し、砂糖入れで飾り、得意気に、彼女が意にかなう男を見つけたら、それをぜんぶ娘にくれてやると自慢していることがよく知られている老ロッブズだったんです。ナサニエル・ピプキンが無鉄砲にも目をその方向に|向ける《カースト》なんて、じつに驚くべきこと、じつにふしぎなことだと、わたしはここでくりかえして申しあげます。だが、恋は盲目です。そしてナサニエルの目は|やぶにらみ《カースト》でした。こうしたふたつの事情を考え合わせてみると、彼がこのことをまともにながめられなくなったのも、むりからぬことになります。
さて、ナサニエル・ピプキンの気持ちがどんなになっているかを老ロッブズがほんの少しでも勘づいていたら、彼は教室をたたきつぶし、そこの先生を地上から抹殺し、あるいはそれと同じひどい強烈なほかの乱暴をしたでしょう。彼の誇りが傷つけられ、血がのぼっているときには、彼はじつにおそろしい老人になったからです。口ぎたなくののしるのなんのって! 痩せた脚をした骨ばった徒弟のなまけ根性をしかりつけているとき、すごいひとつづきの|罵詈讒謗《ばりざんぼう》が彼の口からすごいひびきを立てて流れ出し、それを聞いたら、ナサニエル・ピプキンは恐怖で身をふるわし、彼の生徒の頭の髪はおそろしさで逆立ったことでしょう。
そう! 毎日毎日、学校が終わり、生徒たちが帰ったとき、道に面した窓のところにナサニエル・ピプキンは坐り、本を読んでいるふりをしながら、マライア・ロッブズの輝く目を求め、道の向こうに流し目を送っていました。彼がまだそこに何日も坐っていないうちに、輝く目が二階の窓にあらわれ、それもまた読書にすっかり打ちこんでいるようでした。これは、ナサニエル・ピプキンの心にうれしい、楽しいことでした。そこに何時間も坐りつづけ、目が下に投げられたとき、あの美しい顔をながめるのは、たしかにうれしいことでした。そして、マライア・ロッブズが本から目をあげ、その視線をナサニエル・ピプキンのほうに向けはじめたとき、彼のよろこびと驚嘆の情は、じっさい、かぎりなくひろがっていきました。とうとうある日、老ロッブズが外出しているのを知っていたとき、ナサニエル・ピプキンは大胆不敵にもマライア・ロッブズに投げキスをし、マライア・ロッブズは、窓を閉じたり鎧戸をおろしたりはせずに、彼に投げキスをかえし、にっこりしたのでした。そこで、ナサニエル・ピプキンは、どんなことが起ころうと、早速自分の気持ちをもっと強くおし進めふるい立たせようと決心しました。
老馬具製造人の娘、マライア・ロッブズの足よりもっと美しい足、もっと陽気な心、もっとえくぼのある顔、もっといい恰好の姿は絶対にこの世にはないものでした。彼女の輝く目にはいたずらっぽい光がひそみ、それはナサニエル・ピプキンの胸よりもっとはるかに鈍感な胸でもさしつらぬくものでした。そのうえ、彼女の陽気な笑いにはじつに楽しいひびきがこもっていたので、それを聞けば、どんなきびしい人間嫌いもついほほ笑むほどでした。老ロッブズ自身も、カンカンに怒っているときでも、自分の美しい娘の機嫌とりの言葉にさからうことはできませんでした。彼女と彼女のいとこのケイト――いたずらっぽい、生意気な感じの、魅力的な小娘――がいっしょになってなにかねらって彼におそいかかると――これは、じっさい、彼女らがよくしていたことでしたが――鉄の金庫に光に当たらないようにしてしまってある無数のおびただしい宝物の一部をねらっても、彼はなにも抵抗はできなかったことでしょう。
彼が何回か夜になるまで歩きまわり、マライア・ロッブズの美しさを思っていた野原で、ある夏の夕方、自分の前方数百ヤードのところにこの心をひくふたりの娘の姿を見たとき、ナサニエル・ピプキンの心は高鳴りました。もし自分がマライア・ロッブズに会えたら、すぐ彼女のそばに歩いてゆき、自分の心を彼女に打ち明けてやろう、と彼はよく考えていましたが、いま思いもかけず、彼女に目の前に立たれると、彼の体の血はぜんぶ顔にのぼり、脚はフラフラになり、いつもの均り合いをうばわれて、それが体の下でガタガタとふるえているのを感じました。ふたりが足をとめて生垣の花をつみ、鳥の歌声に耳を傾けたとき、ナサニエル・ピプキンも足をとめ、彼がじっさいにもそうだったのですが、瞑想にふけっているようなふりをしました。いずれそうなるにちがいないことだったのですが、彼女らが足をもどし、彼と正面対して出逢ったら、いったい自分はどうしたらいいのだろう、と彼は考えていたからです。しかし、彼女らに近づくことをおそれてはいたものの、彼女らの姿を見失うのはつらいことでした。だから、ふたりが早く歩きだすと、彼は足を早め、彼女らがぐずぐずすると、彼はぐずぐずし、彼女らが足をとめると、彼は足をとめました。もしケイトがいたずらっぽくあとをふりかえり、いかにもそそのかすようにナサニエルに前に進むよう合図をしなかったら、彼らは夜になって歩けなくなるまで、そうした状態をつづけていたことでしょう。ケイトの態度にはなにか抵抗できぬものがあり、そこでナサニエル・ピプキンはその招きに応じました。そして、彼のほうでとても顔を赤らめ、意地のわるい小さないとこのほうでは遠慮なく笑ったあとで、ナサニエル・ピプキンは露をおびた草の上にひざまずき、マライア・ロッブズの認められた恋人として立ちあがるのを許されなかったら、いつまでも膝をついたままでいるという決心を宣言しました。これを聞くと、マライア・ロッブズの陽気な笑い声は静かな夕空に鳴りひびきましたが、それをかき乱したようには思えませんでした。そこにはいかにも明るいひびきがこもり――意地悪の小娘のいとこは、前よりもっと遠慮なく笑い、ナサニエル・ピプキンは、前よりいっそう赤くなりました。とうとう、愛にやつれた小男に前よりもっと強くうながされて、マライア・ロッブズは頭を向こうにまわし、ピプキンさんの求婚をとてもありがたく思っていること、自分の手も心も父親の意志のままであること、だれもピプキンさんの才能に気がつかないでいるわけにはゆかぬことを彼女のいとこに言えとささやき、とにかく、ケイトはたしかにそれを言いました。このことすべては非常に厳粛に語られ、マライア・ロッブズといっしょにナサニエル・ピプキンは家に帰り、別れのときに、一生けんめいキスを求めたのでしたが、とにかく、彼は幸福な男になって寝につき、夜中じゅうずっと、老ロッブズの心をやわらげ、彼の金庫を開き、マライアと結婚する夢を見つづけていました。
その翌日、ナサニエル・ピプキンは老ロッブズが老いた灰色の小馬に乗るのをながめ、その目的と意味が彼にはどうしてもわからなかった意地のわるい小娘のいとこから送られた窓辺でのいろいろな合図のあとで、痩せた脚の骨っぽい徒弟がやって来て、自分の主人が夜中帰っては来ないこと、娘たちが六時きっかりにピプキン氏をお茶に待っていることを告げました。その日学校の授業をどうやったか、ナサニエル・ピプキンも彼の生徒も、われわれと同様に、憶えていませんでした。だが、ともかく授業は終わり、生徒たちが引きあげたあとで、ナサニエル・ピプキンは満足ゆくまで服をきちんと着こむのに、六時までたっぷりかかってしまいました。彼が着ていく服を選ぶのに時間がかかったわけではありませんでした。そのことでは選択の余地がなかったからです。だが、それをもっともうまく着こむこと、前もってその仕上げをすることは、少なからぬ困難、あるいは重要性をおびた仕事でした。
会はマライア・ロッブズ、彼女のいとこのケイト、三、四人のいたずらっぽい、上機嫌な、|薔薇《ばら》色の頬をした娘たちのとても気持ちのいいささやかな会でした。老ロッブズの宝物のうわさが決して大げさなものではないことを、ナサニエル・ピプキンははっきりと目で知りました。テーブルの上には純銀のきゅうす、クリーム差し、砂糖入れ、茶をかきまわす純銀のスプーン、それを飲む本物の陶器の茶碗、菓子と焼きパンを入れる本物の陶器の皿がありました。集まった人の中でただひとつの目のさわりは、マライア・ロッブズのいとこに当たるケイトの兄弟で、マライアはこの男を「ヘンリー」と呼び、テーブルの隅で彼はマライア・ロッブズを独占している感じでした。一族の中での愛情をながめるのは楽しいことですが、それは度がすぎることがあります。もしマライア・ロッブズがこのいとこにたいするのと同じ心づかいを親戚全員に払っているものとしたら、彼女は親戚の者をとくに愛好しているにちがいない、とナサニエル・ピプキンは考えずにいられませんでした。そのうえ、お茶のあとで、意地のわるい小さないとこが目かくし遊びを提案したとき、とにかくナサニエル・ピプキンはほとんどいつもめくら役に当たり、あの男のいとこをつかまえたときにはいつも、マライア・ロッブズがそこからあまりはなれてないとこにいました。そして、意地のわるい小娘のいとこやほかの娘たちはピプキンをつねり、髪を引っぱり、彼のとおるところに椅子をおいたり、そういったいろいろなことをしましたが、マライア・ロッブズは絶対に彼のそばによって来ないようでした。一度――一度だけ――ナサニエル・ピプキンはたしかにキスの音を聞いたように思い、そのあとにマライア・ロッブズのかすかな文句、彼女の女友だちが発するなかばおし殺した笑いがつづきました。こうしたことすべては奇妙なことでした――とても奇妙なことでした。もし彼の考えが新しい方向に向けられなかったら、ナサニエル・ピプキンはなにをしたか、あるいはなにをしなかったか、わかりませんでした。
彼の考えを新しい方向にむけたのは、街路に面する戸口をどんどんと激しくたたく音で、この激しい街路の戸口の音を立てている人物は、ほかならず老ロッブズ自身、彼は思いがけず早くもどり、まるで棺づくりの職人のようにバンバンと戸をたたいているのでした。というのも、彼は早く夕食をとろうとしているのでした。このおそろしい知らせが痩せた脚をした骨っぽい徒弟から伝えられるやいなや、娘たちは二階のマライア・ロッブズの寝室にさっとかけあがり、男のいとことナサニエル・ピプキンはほかにかくれ場所がなかったので、居間のふたつのおし入れに入れられてしまいました。マライア・ロッブズと意地わるの小娘のいとこが彼らふたりをかくし終わり、部屋をきちんと片づけると、彼女らは戸を開け、そのときまでずっと戸をたたきつづけていた老ロッブズを中に入れました。
さて、ここで不幸なことに、老ロッブズはとても腹を空かしていたので、ひどく機嫌がわるかったのです。彼が喉を痛めた老マスティフ犬(古いイギリス種の大きな猛犬)のようにガミガミうなり立てるのを、ナサニエル・ピプキンは聞くことができました。そして痩せた脚をした気の毒な徒弟が部屋にはいってきたときにはいつも、老ロッブズはじつにサラセン人式の残忍なやり方で、彼に罵言を浴びせはじめました、少し余計な悪態をついて自分の胸を安めようとする以外になんの目的・意図があったわけではないのですが……。とうとうそのときまでに温まった夕食がテーブルの上に出され、老ロッブズはいつものとおりに食事をはじめ、すぐそれをすっかり食べ終わって、娘にキスをし、パイプを要求しました。
造化の神はナサニエル・ピプキンの膝が非常にくっついているようにつくってありましたが、老ロッブズがパイプを求めているのを耳にしたとき、それはまるでたがいに打ち合って粉とくだけてしまうように、ガタガタぶつかり合いました。彼が立っているそのおし入れのふたつの釘に、この五年間、毎日の午後と夕方にいつも老ロッブズの口にくわえられているのを彼自身がながめていたあの大きな褐色の柄のついた、銀の火皿のパイプがぶらさがっていたからです。ふたりの娘はパイプをさがしに下にゆき、二階にあがり、パイプがあると知っている以外のすべての場所にゆき、老ロッブズは、そのあいだ中、じつにすごいふうにわめきちらしていました。とうとう、彼は問題のおし入れのことを思い出し、そこに近づいてゆきました。老ロッブズのような力のある男が戸を開けようとするとき、ナサニエル・ピプキンのような小男がそれを閉めておこうとしても、それはむだでした。老ロッブズはそれをグイッとひと引きし、それをさっと開け、中でまっすぐに突っ立ち、頭から爪先まで恐怖でガタガタと体をふるわせているナサニエル・ピプキンをさらけだしました。いや、まったく、老ロッブズが彼の襟首をつかんで引きだし、腕の先に彼をおさえつけたとき、なんというすごいひとにらみを老人は彼に与えたことでしょう!
「いやあ、お前は、いったい、ここになんの用事があるんだ?」おそろしい声で、老ロッブズはたずねました。
ナサニエル・ピプキンはなんの返事もできなかったので、彼の頭をしっかりさせようとして、老ロッブズは彼を、二、三分間、前後に激しくゆすぶりました。
「お前はここになんの用事があるんだ?」ロッブズはどなりました、「お前は娘をねらって来たんだろう?」
老ロッブズはこの言葉をただあざけりとして言ったのでした。というのも、どんなに思いあがっても、ナサニエル・ピプキンがそんな大それたことを考えるはずはない、と彼は信じていたからです。このあわれな男がつぎのように答えたとき、老人の怒りはどんなものだったでしょう!
「ええ、そうです、ロッブズさん。わたしはあなたのお嬢さんを欲しくて来ました。わたしは彼女を愛しているのです、ロッブズさん」
「いやあ、このめそめそ泣く、しかめっつらの、ちっぽけな悪党め」このひどい告白で体がしびれ身動きならなくなって、老ロッブズはあえいで言いました。「それはどういうことなんだ? はっきりわしの面前で言え! ちくしょう、きさまの首をしめ殺してやるぞ!」
もし彼の腕がじつに思いがけない出現物、すなわち、男のいとこによって抑えられなかったら、怒りにまかせて老ロッブズがこのおどかしを実行にうつしたであろうことは、十分に考えられることです。この男のいとこはおし入れから出てきて、老ロッブズのそばに近づいて、言いました――
「娘らしいふざけ心でここに呼んだこのなんの罪はない人に、じつに気高いふうに、ぼく自身がおかし、よろこんで告白する罪(もしそれが罪だったら)をかぶらせておくわけにはいきません。ぼくこそ[#「ぼくこそ」に傍点]あなたの娘を愛しているんです。ぼくこそ[#「ぼくこそ」に傍点]彼女に会うためにここに来ているんです」
老ロッブズはこれを聞いて目を皿のようにしましたが、それは、ナサニエル・ピプキンの目にはおよびもつかぬものでした。
「お前が愛しただって?」ようやく話せるようになって、ロッブズは言いました。
「そうです」
「とっくのむかしに、お前にはこの家に来るのを禁じてあるじゃないか」
「そうです。そうでなかったら、今晩人目忍んでここには来てはいなかったでしょう」
老ロッブズについてこのことを記録するのは残念なことですが、彼の美しい娘が、目にいっぱい涙をためて、彼の腕にすがりつかなかったら、彼はこのいとこを打ちのめしてしまったことでしょう。
「マライア、彼をとめないでくれ」若い男は言いました。「彼がぼくを打とうとするのなら、彼に打たせてくれ。この世のどんな財宝をもらっても、彼の灰色の髪一本だって、ぼくは手にかけないよ」
こう責められて、老人は目を伏せ、それは彼の娘の目と出逢いました。いままでに一、二度それはとても輝く目だったと述べましたが、涙でくもってはいても、その力は少しもおとろえてはいませんでした。老ロッブズは、それに説得されまいとするように、頭をそらしましたが、ちょうど運のいいことに、彼はあの意地わるな小娘のいとこの顔をながめることになりました。彼女はなかば兄弟のことを心配し、なかばナサニエル・ピプキンのことを笑って、老いも若きも男がながめたくなるような、羞じらい気味のじつに魅力的な顔の表情を示していました。彼女はなだめすかすようにして老人の腕に彼女の腕をとおし、彼の耳になにかをささやきました。そしてどうあがこうとも、老ロッブズはにっこりとせずにはいられなくなり、それと同時に、涙が一筋、彼の頬に流れました。
この後五分して、娘たちが二階の寝室からクスクス笑い、いかにもしとやかにつれおろされ、若い連中がすっかりくつろいで安心しているあいだに、老ロッブズは自分のパイプをとりだし、それをくゆらせていました。それが彼のいままで吸ったうちでいちばん気持ちを静めてくれる楽しい一服であったということは、このパイプに関して注目すべき事実でした。
ナサニエル・ピプキンは自分の秘密を胸に秘めておいたほうがいちばんだと考え、そうしていることで、だんだん老ロッブズに気に入られ、やがて老人にタバコを吸うのを教わるようになりました。そして彼らは、その後何年間も、悠々としてタバコを吸い酒を汲みかわして美しい夕方を庭で送っていました。彼は間もなく自分の愛情の痛手から回復しました。マライア・ロッブズがいとこと結婚したときに、その証人として、教区の記録に彼の名がとどめられているからです。また、他の文書によると、その結婚の夜に、彼はひどく酔っ払って街路でさまざまな乱暴をはたらいたために、村の監獄に入れられたらしいのですが、そうしたすべての乱暴は、あの痩せた脚をした骨ばった徒弟に助けられ、そそのかされてしたことでした。
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第十八章
[#3字下げ]ふたつの点――第一はヒステリーの力、第二に環境の影響力――について簡単に説明する
ハンター夫人の家での朝食会のあと二日間、ピクウィック・クラブ会員たちはイータンスウィルにとどまり、彼らの尊敬する指導者からの知らせを、気をもみながら待っていた。タップマン氏とスノッドグラース氏は、ふたたび、自分たちでなんとか時をまぎらわさねばならなくなった。ウィンクル氏は、たっての招待に応じて、ポット氏の家に滞在しつづけ、彼の愛すべき夫人に時間をすべてささげなければならなくなったからである。ポット氏自身もときどきふたりといっしょになり、その幸福をいやがうえにも高まらせていた。公共福祉とインディペンデント紙撃滅に深く心をくだいていたので、彼の精神的高みから通常の人間の心の水準までおりてくることは、この偉人のめったにしないことだった。しかしながら、この場合には、まるでピクウィック氏の追随者にはっきりと敬意をあらわすように、彼はくつろぎ、気をゆったりとさせ、高い台座からおり、地面の上を歩き、自分の言葉を優しく大衆にわかるようにさせ、精神的にはともかく、外見的には大衆の一員となっているふうだった。
ウィンクル氏にたいするこの有名な公共的人物の態度はこうしたものだったので、ウィンクル氏が朝食の間にただひとりで坐っていたとき、ドアがさっとあわただしく開けられ、同じようにあわただしく閉じられてポット氏が登場し、彼のところに堂々と近づき、出された相手の握手の手を払いのけ、その言おうとしている言葉をいっそう鋭くさせようとしているかのように歯がみをし、のこぎりのような声でつぎの言葉を叫んだとき、ウィンクル氏の顔に描きだされた大きな驚きは容易に想像できるであろう。
「蛇!」
「えっ!」椅子からパッととびあがって、ウィンクル氏は叫んだ。
「蛇ですぞ」声を高めてポット氏はくりかえし、それから急に声を低くして言った、「蛇と言ったんですぞ――それをよーく考えなさい」
人が朝二時にじつに親しい仲である男とわかれ、同じ日の朝九時半に会ったときに蛇と挨拶されたら、そのあいだの時間になにか不愉快なことが起きたものと考えても当然なことであろう。ウィンクル氏もそう考えた。彼はポット氏の石の凝視をにらみかえし、ポット氏の要求に応じて、「蛇」のことをよーく考えはじめた。しかし、それをいくら考えても、どうにもならなかった。そこで数分の深い沈黙のあとで、彼は言った――
「蛇ですって! 蛇ですって、ポットさん! これはどういうことです?――冗談なんですな」
「冗談ですと!」いかにもブリタニア・メタル(錫、アンチモニー、銅および少量の亜鉛の合金、銀に似ている)のきゅうすを客の頭に投げつけてやりたいといったようすで手をさっとふって、ポット氏は叫んだ。「冗談ですと!――だが、いや、わたしは冷静になりましょう、冷静になりましょう」その冷静の証拠に、ポット氏は身を椅子に投げ、口からあわを吹いた。
「親愛なるポットさん」ウィンクル氏は口をはさんだ。
「親愛なる[#「親愛なる」に傍点]ポットさんだって!」ポット氏は答えた。「親愛なるポットさんなんて、どうして呼ぶんです? わたしの顔をまともに見すえて、どうしてそんなことが言えるんです?」
「ええ、もしあなたがそういうことまでおっしゃるのだったら」ウィンクル氏は答えた、「わたしの顔をまともに見すえ、あなたはどうしてわたしを蛇と呼んだりするんです?」
「蛇だからさ」ポット氏は答えた。
「それを証明してください」熱をおびてウィンクル氏は言った。「それを証明してください」
ポット氏がその朝のインディペンデント紙をポケットから引きだし、ある特定の欄の上に指をおいて、その新聞をテーブル越しにウィンクル氏のほうに投げたとき、悪意のこもった渋面がこの編集者の深遠な顔にあらわれた。
ウィンクル氏はそれをとりあげ、つぎの文を読んだ――
[#ここから1字下げ]
「名も知れない卑劣なわれわれの同業紙は、この町の最近の選挙に関するあるいまわしい言葉の中で、おこがましくも個人生活の清い神聖さを踏みにじり、誤解しようもないれっきとしたやり方で、われわれの以前の候補者――そう、その屈辱的敗北にもかかわらず、われわれははっきりと言おう、われわれの将来の国会議員、フィズキン氏の私事にまで口をはさんできた。われわれの下劣な同業紙は、なんのつもりでいるのだろうか? それと同じく、われわれも社交上の礼儀をかなぐりすて、幸いにも世間の憎悪ばかりか世間の嘲笑から彼の[#「彼の」に傍点]個人生活をかくしているカーテンを開くとしたら、あの悪人はなんと言うであろうか? 世間にひろく知れわたり、もぐらの目をした同業紙以外のすべての者が見ている事実と環境を指摘し、説明したら、どういうことになるだろうか?――社説を書きはじめたとき、有能な仲間の市民であり通信員である人物からわれわれが受けとったつぎの詩を印刷に付したら、どういうことになるだろうか?
[#ここで字下げ終わり]
真鍮の|壺《ポツト》によせる歌
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おお、|壺《ポツト》よ! 婚礼の鐘が鳴るのを耳にしたとき、
どんな不実女に彼女がなったか
お前が知っていたら、
わたしはちかってもいい、
お前はもう流れに身をまかし、
彼女をW×××××にわたしてしまうだろう」
[#ここで字下げ終わり]
「この悪党め」ポット氏は厳粛に言った、「W×××××は、いったい、なにをさすことになるのですかね?」
「W×××××はなにをさすことになるんですって?」ポット夫人は言ったが、彼女がはいって来て、ウィンクル氏にたいするポット氏の返事は抑えられてしまった。「W×××××はなにをさすことになるんですって? もちろん、ウィンクルよ」こう言いながら、ポット夫人はどぎまぎしているウィンクル氏にやさしくほほ笑みかけ、彼のほうに手をさしだした。ポット氏が憤激して口をはさまなかったら、興奮した若いウィンクル氏はどぎまぎしてその手を受けとったことだろう。
「さがりたまえ、きみ――さがりたまえ!」編集者は言った。「わたしの面前であんな男の手をにぎるなんて!」
「まあ、P!」驚いた夫人は言った。
「あわれな女、これを見るがいい」夫は叫んだ。「これを見るがいい――『真鍮の|壺《ポツト》によせる歌』だ。『真鍮の|壺《ポツト》』――それはわたしだ。『どんな不実女に彼女が[#「彼女が」に傍点]なったか』――それはきみのことだ」夫人の顔の表情を見て多少ふるえをきたしながら、怒りをこうしてぶちまけて、ポット氏は彼女の足もとにその日のイータンスウィル・インディペンデント紙を投げつけた。
「まあ!」新聞をひろおうとかがみこみながら、驚いたポット夫人は言った。「まあ!」
ポット氏は、妻の軽蔑的な凝視のもとで、ひるみを見せた。彼は勇気をふるい立たせようとしゃにむに努力したが、その勇気はたちまちぐんにゃりしたものになってしまった。
読んだだけでは、この「まあ!」という言葉には、べつにたいしておそろしいものがないように思われる。だが、それが語られた声の調子とそれにともなった顔つきには、その後ポット氏の頭上に加えらるべきある復讐にからむものがあるふうに見えたので、それは、彼に十分な圧力をおよぼすことになった。どんな目の鈍い観察者であっても、彼の困った顔つきの中に、いま自分にとってかわってくれる有能な人があらわれたら、彼はよろこんでその立場をゆずりわたしてしまう気になっているのを読みとったことだろう。
ポット夫人はその歌を読み、大きな悲鳴をあげ、キーキーと叫びながら炉の前の敷物の上に大の字になって身をのばし、靴のかかとでその敷物をたたいていたが、そのようすは、彼女の気持ちがこのさいどのように動いているかをはっきりと物語っていた。
「お前」石のように身を固くして、ポット氏は言った――「それを信じていると言ったんじゃないのだよ。――わたしは――」しかし、この不幸な男の声は妻のキーキーいうわめき声におしつぶされた。
「ポット奥さん、どうか気を静めてください」ウィンクル氏は言ったが、彼女の悲鳴とかかとの打ちたたきは、さらに大きくその激しさを加えていった。
「お前」ポット氏は言った、「本当にわるかった。お前自身の健康を考えないにしても、わたしの健康を考えておくれ。家のまわりに人だかりがしてくるよ」だが、ポット氏が熱心にたのめばたのむほど、悲鳴の激しさは増大していった。
しかしながら、ここで非常に幸いなことに、ポット夫人には護衛役をしているひとりの若い婦人がついていた。その表面上の仕事は夫人の化粧の世話をすることになっていたが、彼女はさまざまな面で役に立っている人物、とくに不幸なポット氏の願望と対立する夫人のすべてのねがい、好みを助けかき立てるのに役立っていた。悲鳴はやがてこの若い婦人の耳に達し、帽子をとばし巻き毛を乱してしまうほどのあわてふためきぶりで、彼女は部屋にやってきた。
「おお、奥さま!」倒れたポット夫人のわきに気がくるったようにひざまずいて、この護衛は言った。「おお、奥さま、どうなさったんです?」
「あなたの主人――むごたらしい主人」と夫人はつぶやいた。
ポット氏は明らかに降参しそうになっていた。
「ひどいことですわ」なじるようにして護衛は言った。「あなたがゆくゆくあの人に殺されてしまうことは、わかっています。おかわいそうに!」
ポット氏はさらにいっそう降参しそうになった。敵は追撃の手をゆるめなかった。
「おお、グッドウィン、ここにいてちょうだい――ここにいてちょうだい」ポット夫人は言い、ヒステリックにグイッとこのグッドウィンという女の手首をにぎった。「グッドウィン、あなたはただひとりの親切な人よ」
この感動的な訴えを耳にして、グッドウィンは自作のちょっとした家庭悲劇を上演し、涙をさめざめと流した。
「ええ、いますとも、奥さま――いますとも」グッドウィンは言った。「おお、旦那さま、注意なさらなければいけませんよ――本当に注意なさらなければいけませんよ。奥さまにどんな危害をお加えになるか、あなたはご存じないのです。わかってます、いつかこのことを後悔なさいますよ――わたしはいつもそう言っているのです」
気の毒なポット氏はおずおずとこれをながめていたが、なにも言わなかった。
「グッドウィン」ポット夫人はおだやかな声で言った。
「奥さま」グッドウィンは答えた。
「わたしがあの人をどんなに愛してきたかをあなたが知っていたら――」
「奥さま、そんなことを思い出して、心を苦しめてはいけません」護衛は言った。
ポット氏はひどくおびえているふうだった。彼をやっつける時がせまってきていた。
「そしていま」ポット夫人は鼻をすすった、「いま、結局、こんなふうにあつかわれ、人の前、それもほんとに赤の他人の人の前で、責められ、恥をかかされるなんて! だけど、わたしは負けはしませんよ! グッドウィン」従者の腕にだきあげられて、ポット夫人はつづけた、「わたしの兄弟、あの中尉が口をきいてくれるでしょう。グッドウィン、わたしは離縁しますよ!」
「たしかに、身から出た錆ですわ」グッドウィンは言った。
離縁のおどかしがポット氏の胸にどんな思いをひきおこしたにせよ、彼はそれを口にすることはひかえ、ただひどくおずおずして、こう言っただけで満足していた――
「お前、わたしの言うことを聞いてくれるかい?」
ポット夫人のヒステリーがつのるにつれ、新しい一連のすすり泣きがそれにたいする唯一の返事になった。そして彼女はどうして自分が生まれたのかとか、それと同じようなさまざまな質問をくりかえした。
「お前」ポット氏は注意した、「そうした神経の細かな気持ちに負けてはだめだよ。あの歌になにか根があるものとは、ぜんぜん思ってもいないのだからね、お前――考えられないことだ。わたしが怒ったのは、お前――カンカンになったと言ってもいいが――インディペンデントの連中がそれを掲載したことだけなのだよ。それだけさ」ポット氏は、まるで蛇に関することはなにも言わないでくれといったように、この不幸のいわれなき原因となったウィンクル氏のほうに懇願的なまなざしを投げた。
「このつぐないにどんな手段をとるつもりですか?」ポット氏が元気を失うのを見るにつれて、元気が増大してきて、ウィンクル氏はたずねた。
「おお、グッドウィン」ポット夫人は言った。「あの人はインディペンデントの編集者をさんざんにやっつけるつもりなのかしら――どうかしら、グッドウィン?」
「しっ、しっ、奥さま。どうか静かになさって」護衛は答えた。「あなたがお望みなら、たぶん、してくださいますよ、奥さま」
「もちろん」妻がはっきりとふたたび失神しそうなふうを示したとき、ポット氏は言った。「もちろん、するとも」
「いつ、グッドウィン――いつなの?」失神についてはまだ未定の状態で、ポット夫人はたずねた。
「もちろん、すぐ」ポット氏は言った。「きょう中に」
「おお、グッドウィン」ポット夫人はつづけた、「それが悪口に対抗し、世間でわたしが面目を立てるただひとつの方法よ」
「もちろんです、奥さま」グッドウィンは答えた。「それをするのをいやだなんて言う人は、奥さま、男ではありません」
そこで、ヒステリーがまだチラチラとあらわれていたので、ポット氏はそれをすることをもう一度約束した。しかし、疑われたのを考えただけですっかりショックを受けていたので、ポット夫人は何回かヒステリーをぶりかえしそうになり、熱心なグッドウィンの不屈の努力と、征服されたポット氏からくりかえし述べられた許しの懇願がなかったら、彼女はきっと失神してしまったことだろう。そして最後に、この不幸な男がおびやかされ頭ごなしにやっつけられて、彼の本来の水準にまで引きさげられたときにはじめて、ポット夫人の気分は回復し、一同は朝食をとりにいった。
「ウィンクルさん、あの卑劣な新聞が悪口を書いたからといって、あなたのご滞在を早く切りあげるようなことはなさいませんことね?」涙の跡をとどめながらも、にっこりして、ポット夫人はたずねた。
「そんなことはしないでください」話しながら、ちょうどそのとき口にもっていったバターのついていない焼きパンで客の息がつまり、効果的に彼の滞在に終止符を打ってくれたらと考えながら、ポット氏は言った。
「そんなことはなさらないでくださいな」
「本当にありがとうございます」ウィンクル氏は言った。「しかし、手紙がピクウィック氏からまいり――今朝わたしの寝室の戸口に送られてきたタップマン氏の書きつけで、それを知ったのですが――それで彼は、きょうベリーで彼と合流するようにと言ってきているそうです。だから、正午の駅伝馬車でわれわれは出発しなければなりません」
「でも、おもどりにはなるのでしょうね?」ポット夫人はたずねた。
「ええ、もちろん」ウィンクル氏は答えた。
「本当におもどりになること?」客をやさしくチラリとながめて、ポット夫人はたずねた。
「本当です」ウィンクル氏は答えた。
朝食は沈黙につつまれてすすめられた。そこに集まった人それぞれは、彼なり彼女なりに各自の不満を考えこんでいたからである。ポット夫人は自分のいい相手役の損失を、ポット氏はインディペンデントをさんざんにやっつけると軽率にも約束したことを、ウィンクル氏はなにも悪気はないのに自分が気まずい立場に追いこまれてしまったことを、それぞれ残念に思っていた。正午が近づき、何回か別れの挨拶ともどって来る約束をしたあとで、ウィンクル氏はそこから走り去っていった。
「もしもどってきたら、彼を毒殺してやろう」雷撃の記事を作製している裏の小さな事務所にはいっていったとき、ポット氏は考えた。
「もし自分がここにもどって来て、あの人たちとまたつき合うようになったら」『孔雀旅館』にゆきながら、ウィンクル氏は考えていた、「ぼく自身さんざんにたたかれても仕方がないだろう――それだけのことさ」
友人たちの準備は完了、馬車の準備もほとんど終わっていて、三十分すると、彼らは旅路についていたが、その道はピクウィック氏とサムが最近旅した道、それについてはもう多少のことを話してあるのだから、スノッドグラース氏の詩的で美しい描写をここに引用する必要はあるまい。
彼らをむかえようと、ウェラー氏は『|天使《エインジエル》旅館』の戸口に待っていて、この人の手で彼らはピクウィック氏の部屋に案内されたが、そこに、ウィンクル氏とスノッドグラース氏が少なからず驚き、タップマン氏が少なからずとまどったことに、彼らは老ウォードル氏とトランドルを発見した。
「やあ、お元気ですか?」タップマン氏の手をにぎって、老紳士は言った。「ためらったり、くよくよしてはいけませんぞ。どうにもしようのないことなんですからな、きみ。彼女のためには、きみが彼女を妻にしてくれたらとわたしは思ってます。きみのためには、そうならなかったことをとてもよろこんでます。きみのような若い人は、いずれ近く、もっといい目に会うんですからな――えっ?」こうしたなぐさめの言葉をかけて、ウォードルはタップマン氏の背中をピシャリとたたき、陽気に笑った。
「やあ、きみたち、お元気ですか?」ウィンクル氏とスノッドグラース氏に同時に握手をしながら、老紳士は言った。「クリスマスにはみなさんに来ていただかなければ、とたったいまピクウィックに言ってたとこなんです。家では結婚――今度は本当の結婚があるんですからな」
「結婚ですって!」真っ青になって、スノッドグラース氏は叫んだ。
「うん、結婚です。でも、心配することはありませんぞ」上機嫌の老人は言った。「それはそこにいるトランドルとベラだけのことですからな」
「おお、それだけのことですか!」胸に重くおおいかぶさっていた苦しい疑惑から解放されて、スノッドグラース氏は言った。「おめでとうございます。ジョーはどうしてます?」
「とても元気ですよ」老紳士は答えた。「いつものとおり眠そうです」
「それにあなたのお母さん、牧師さん、みなさんはどうしてます?」
「まったく元気」
「どこ」勇気をふるい起こして、タップマン氏はたずねた――「どこに――彼女は[#「彼女は」に傍点]います?」こう言って彼は|面《おもて》をそむけ、手を目に当てた。
「彼女[#「彼女」に傍点]ですって!」いかにもさとりすましたように頭をふって、老紳士は言った。「というのは、わたしの独身の近親者のことですかね――えっ?」
タップマン氏はコクリと頭をうなずかせ、彼の質問は失意のレイチェルに関することだ、ということを知らせた。
「おお、彼女はいってしまいましたよ」老紳士は言った。「彼女は親類の家に住んでます、とても遠いとこですがね。娘たちの姿を見ていられなくなり、そこで、わたしが彼女をいかせてやったのです。だが、さあ! もう夕食ができてきましたぞ。旅のあとで腹が空いたことでしょう。わたしは[#「わたしは」に傍点]腹が空きました、旅をぜんぜんしなくともね。だから、食べはじめることにしましょう」
食事は十分に楽しまれた。食後一同がテーブルのまわりに坐ったとき、ピクウィック氏は、自分の信奉者たちをひどくふるえあがらせ怒らせて、彼がやった冒険、悪辣なジングルの卑劣なたくらみの成功の話を伝えた。
「そしてあの庭で起こしたリューマチで」最後にピクウィック氏は言った、「わたしはいまびっこになっているのですぞ」
「わたしも、ちょっと冒険といったものを味わいましたよ」にっこりしてウィンクル氏は言い、ピクウィック氏の求めに応じて、イータンスウィル・インディペンデントの悪意こもった中傷文とその結果起こった彼らの友人の編集者の怒りの話をした。
この話のあいだに、ピクウィック氏の額は暗くくもり、彼の友人たちはそれに気づき、ウィンクル氏が話を終えたとき、みんなはジッとだまっていた。ピクウィック氏は固めた拳で強くテーブルをたたき、つぎのように語りだした。
「われわれはだれの家にはいっていっても」ピクウィック氏は言った、「その人になにか厄介をひきおこすように運命づけられているらしいが、これは驚くべき事実ではないだろうか? だれの家の屋根の下に宿っても、信じきっている女性の心の平和と幸福をかき乱すとは、わたしはたずねるが、わたしについてきている人たちの無思慮、いや、それよりもっとひどい、彼らの心黒さを物語っているのではないだろうか? わたしは言うが、それは――」
サムが手紙をもって登場し、ピクウィック氏の雄弁をとめなかったら、彼は、たぶん、そうとうながいこと、その話をつづけていただろう。彼はハンカチで額をぬぐい、眼鏡をはずし、それのくもりをとり、ふたたびそれをかけた。つぎのように言ったとき、彼の声はふだんの物柔らかな調子をとりもどしていた――
「サム、なにをそこにもっているのだね?」
「たったいま郵便局にいき、この手紙を見つけました、そこに二日間おいてあったもんなんですがね」ウェラー氏は答えた。「それは封緘紙で封印され、宛名は丸っこい字で書かれてます」
「この筆跡は知らんね」手紙を開きながら、ピクウィック氏は言った。「いや、これは驚いた! なんだ、これは? 冗談にちがいない。そんなこと――そんなこと――本当であるはずがない」
「どうしたんです?」みながたずねた。
「だれも死んだんじゃないのでしょうな?」ピクウィック氏の顔に浮かんだ恐怖の情におびえて、ウォードル氏は言った。
ピクウィック氏はなにも答えず、テーブル越しにその手紙をおしやり、声を出してそれを読んでくれとタップマン氏にたのみ、見るもおそろしいうつろな驚愕の表情を浮かべて、椅子にのけぞりかえった。
タップマン氏はふるえる声でその手紙を読んだが、つぎのものがその写しである――
一八三〇年八月二十九日
コーンヒル、フリーマン小路
バーデル対ピクウィック
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拝啓
婚約破棄にかかわる貴下にたいする訴訟を提起し、損害賠償として千五百ポンドを貴下に要求するマーサ・バーデル夫人より依頼を受けたるにつき、民事訴訟裁判所のこの訴訟にて令状が貴下にさしだされたることを通報す。折りかえし返信にて、この業務にたずさわるべき貴下のロンドンの弁護士名を通報ありたし。
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[#地付き]敬具
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[#地付き]ドッドソンとフォッグ
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サミュエル・ピクウィック殿
それぞれがとなりの人を、そしてすべての人がピクウィック氏をながめた無言の驚愕の中に、なにかひどく印象的なものがあり、全員が口をきくのをおそれているようだった。この沈黙はとうとう、タップマン氏によって破られた。
「ドットソンとフォッグ」彼は機械的にくりかえした。
「バーデルとピクウィック」考えこんでスノッドグラース氏は言った。
「信じきっている女性の心の平和と幸福」ボーッとしたようすで、ウィンクル氏はつぶやいた。
「これは陰謀だ」とうとう口がきけるようになって、ピクウィック氏は言った。「このふたりの貪欲な弁護士、ドッドソンとフォッグの卑しい陰謀だ。バーデル夫人だったら、絶対にそんなことはしないだろう――彼女にはそんなことをする勇気はなく――そんなことをする言い分はないわけだ。こっけいなこと――こっけいなこと」
「彼女の心は」ニヤリとして、ウォードル氏は言った、「たしかにあなたがいちばんよくご存じでしょうな。あなたをがっかりはさせたくないんですが、彼女の言い分は、われわれのだれより、ドッドソンとフォッグがずっとよく知ってますよ」
「それは金をうばいとろうとするひどいやり方だ」ピクウィック氏は言った。
「そうであればいいのだが」短い、乾あがった咳をして、ウォードル氏は言った。
「下宿人がそこのおかみさんに話しかける以外の話し方で、わたしが彼女に話しているのを、だれが聞いたことがあるだろうか?」すごく熱をこめてピクウィック氏はつづけた。「わたしが彼女といっしょにいるのを、だれが見た? ここの友人たちだって――」
「一回の場合はべつにしてね」タップマン氏は言った。
ピクウィック氏の顔色はさっと変わった。
「ああ」ウォードル氏は言った。「そう、それは重要なことですぞ。そのときには、なにかうろんなことはなかったんでしょうな?」
タップマン氏はおずおずしてチラリと指導者のほうをながめた。「いやあ」彼は言った、「なにもうろんなことはありませんでした。しかし――いいですか、それがどうして起きたのかは知らんのですが――彼女がたしかに彼の腕にだかれて倒れそうになってました」
「いや、驚いたこった!」問題の場景の思い出がまざまざと彼の心に思い浮かんだとき、ピクウィック氏は叫んだ。「これは環境の力強さをよく物語っているおそろしい一例だ! たしかに彼女はそうだった――そうだった」
「そして、ピクウィックさんは彼女の苦悶をなぐさめていたんです」そうとう意地わるくウィンクル氏は言った。
「たしかにそうだった」ピクウィック氏は言った。「それは否定しない。そうだったのだ」
「おやっ!」ウォードル氏は言った。「うろんなことはなにもないものとしては、これはちょっと奇妙なこと――そうじゃないかね、ピクウィック? ああ、ずるいやつだ――ずるいやつだ!」こう言って、食器だなのコップが鳴るほどの声を出して、彼は笑いだした。
「なんという外見のおそろしい結びつきだろう!」両手に顎を乗せて、ピクウィック氏は叫んだ。「ウィンクル――タップマン――たったいまわたしの言ったことは、わびるよ。われわれはみんな環境の犠牲者、そして、わたしは最大の犠牲者なのだ」こう言いわけを言って、ピクウィック氏は頭を両手にかかえた。一方ウォードル氏は、一座のほかの連中に呼びかけたうなずきとウィンクをあたりにずっとふりまいていた。
「だが、わたしはそれを説明してもらうぞ」頭をあげ、テーブルをたたいて、ピクウィック氏は言った。「このドッドソンとフォッグという男に会おう! 明日ロンドンにゆくことにしよう」
「明日はだめだ」ウォードル氏は言った。「きみは足がわるいからな」
「そう、それなら明後日にしよう」
「そのつぎの日は九月一日。とにかくジェフリー・マニングの庭園までわれわれといっしょに車でゆき、狩りに参加しなくとも、昼食でわれわれに出会うと約束してあるんだよ」
「そう、それならその翌日だ」ピクウィック氏は言った。「木曜日だ――サム!」
「はっ」ウェラー氏は答えた。
「木曜日の朝に、ロンドンゆきのふたつの外の座席をとってくれ、きみのとわしの座席だ」
「よくわかりました」
ウェラー氏は部屋を出てゆき、両手をポケットにつっこみ、目を地面に伏せて、ゆっくりと使いに出かけていった。
「奇妙な男だな、親方は」ゆっくりと通りを歩いてゆきながら、ウェラー氏は言った。
「彼があのバーデルおかみに言いよるなんて――しかも小さな男の子がいるのになあ! だが、見たとこしっかりしたこうした老人にはよくあるこった。だけど、こんなことはまさかと思ってたよ――こんなことはまさかとね!」こんな理窟をこねながら、サミュエル・ウェラー氏は切符発売所のほうに道をまがっていった。
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第十九章
[#3字下げ]愉快な一日と不愉快な終結
鳥は、自分自身の心の平和と安楽のためには幸福なことなのだが、自分たちを驚かそうとして進められている準備のことはなにもさとらず、九月一日の朝をこの季節のいちばん爽快な朝としてむかえていたにちがいない。若者のいかにも凝った気取りぶりで刈り株のあいだを満悦げにそりかえって歩いている多くの若いしゃこ[#「しゃこ」に傍点]、知識と経験をつんだ鳥のもつ軽蔑的な態度で若い鳥の浮かれ気分を小さな目でジッと見つめている多くの齢をとったしゃこ[#「しゃこ」に傍点]は、ともに近づく運命のことはぜんぜんさとらずに、いきいきとした陽気な気分で、朝の新鮮な空気を快く味わい、数時間後には、大地にその体を横たえていた。しかし、これは感傷的な話、話をすすめることにしよう。
ありきたりのあっさりした言葉で言えば、その朝は晴れた朝――とても晴れていて、わずか三、四か月のイギリスの夏がもうとびすぎていったと、ほとんど信じられないほどだった。生垣・野原・木々・岡・沼地は深い豊かな緑のたえず変化している色合いを目にうつしだし、葉は一枚もまだ落ちず、黄色は夏の色にまだまじらず、秋のはじまったことを人に知らせてはいなかった。空には雲ひとつなく、太陽はキラキラと温かく輝き、鳥の歌声、何百万という夏の虫の低い歌声が大気を満たしていた。豊かで美しい色合いの花が群れ咲いている小屋の庭は、しっとりとおりた露の中で、キラキラする宝石の花壇のように、きらめいていた。すべてのものは、まだ夏の気配をおび、その美しい色彩は、おとろえをぜんぜん示してはいなかった。
こうした朝、三人のピクウィック・クラブ会員(スノッドグラース氏は外出しようとはしなかった)、ウォードル氏、トランドル氏、それに御者のわきの御者台に乗ったサム・ウェラーを乗せたほろ型の馬車が路傍のある門の前にとまったが、その前には背の高い、痩せこけた猟場の番人となめし革のきゃはんをつけた少年が立ち、それぞれ大きな袋をもち、二匹のポインター犬をつれていた。
「ねえ」猟場の番人が車の踏み段をおろしたとき、ウィンクル氏はウォードル氏にささやいた、「われわれがあの袋をいっぱいにするほど獲物をとるとは、まさか思ってもいないんでしょうね?」
「袋をいっぱいにするだって!」老ウォードル氏は叫んだ。「いやあ、そうだとも! きみが一方の袋をいっぱいにし、わたしがべつの袋をいっぱいにする。そして袋にはいらなくなったら、われわれの狩猟服のポケットにも、それと同じくらいははいるだろう」
ウィンクル氏はこれにはなにも答えずに車をおりたが、自分が袋をいっぱいにするまでみんなが外に立って待っていたら、まずまず風邪を引く見こみは十分、と心中考えていた。
「おい、ジューノー、この雌犬め――おい、お前。とびかかっちゃいけない、ダフ、とびかかっちゃいけない」犬たちを愛撫しながら、ウォードル氏は言った。「サー・ジェフリーは、もちろん、まだスコットランドにいるんだろうな、マーチン?」
背の高い猟場の番人はそうだと答え、いかにもびっくりしたようすで、上衣のポケットに手をつっこんだまま引き金を引かずにすんだらといったふうに鉄砲をもっているウィンクル氏から、まるで鉄砲をおそれているように――たしかに彼はそれをおそれていたんだが――それをもっているタップマン氏に目をうつした。
「わしの友人たちは、こういったことにはまだたいして馴れていないんだ、マーチン」その顔つきに気づいて、ウォードル氏は言った。「長生きすれば、いろいろのことを見聞するというやつでな、いずれ近い将来、彼らはりっぱな射手になるだろう。だが、ウィンクルさんにはおわびを言わなければならん、彼には多少の腕はあるのだからね」
ウィンクル氏はこの賛辞に応じて、青いネッカーチーフの上でかすかにほほえみ、つつましく狼狽して、なにか妙なふうに鉄砲にからみつき、もし鉄砲に弾がこめられていたら、彼はその場で自分を撃ち殺してしまっていたことだろう。
「弾を入れたら、鉄砲をそんなふうにあつかっちゃいけませんよ」背の高い猟場の番人は素っ気なく言った、「そうしなけりゃ、ここのだれかが冷たくなっちまいますからね」
ウィンクル氏はこう注意されて、鉄砲のもち方を急に変え、変えながら、鉄砲の筒でウェラー氏の頭をしたたか打ちのめした。
「やあ!」投げだされた帽子をひろい、額をこすりながら、サムは言った。「やあ、ウィンクルさん! こんなふうにパッパとやったら、一発で袋はいっぱい、おつりが出ますよ」
ここでなめし革のきゃはんをつけた少年が大声で笑い、ついで、それはだれかほかの人のことといったものと素知らぬ顔をしようとしたウィンクル氏は、眉をしかめてそれを重々しくにらみつけていた。
「給仕には、われわれの昼食をどこにもってくるようにと言ったのかね?」ウォードル氏はたずねた。
「十二時に一本木の岡のわきに来るようにと言ってあります」
「そこはサー・ジェフリーの土地ではないだろう?」
「ええ、でも、そのすぐそばです。それはボールドウィッグ大尉の土地ですが、われわれの邪魔をする者はだれもなく、しかも、そこにはきれいな芝生があるんです」
「よくわかった」老ウォードル氏は言った。「早く出かけたほうがいいな。じゃ、ピクウィック、きみは十二時にわれわれといっしょになるんだね?」
ピクウィック氏はこの狩りをとくに見たく思っていた。ウィンクル氏の生命と体のことをそうとう心配していたので、その気持ちはいっそうつのっていた。こんなに天気のいい心を誘う朝に、そこからもどり、友人たちを楽しませておくのは、どうにもじりじりと苦しいことだった。そこで、いかにも残念そうに彼は答えた。
「うーん、そうしなければならんと思うね」
「あの方は射手じゃないんですか?」背の高い猟場の番人はたずねた。
「ちがうよ」ウォードル氏は答えた。「その上、足がわるくてね」
「とてもゆきたいな」ピクウィック氏は言った、「とってもね」
ちょっと同情の沈黙がつづいた。
「生垣の向こうに手押し車がありますよ」少年は言った。「もしあの方のおつきの者が小道ぞいにそれをおしていったら、わたしたちのそばにいられるし、階段(牧場などの垣やへいなどを乗り越えるように設けた階段)とかそういったとこに来たら、わたしたちがそれをもちあげて越えることもできますよ」
「そいつは名案」ウェラー氏は言ったが、狩りをとても見たく思っていたので、彼はそれに関心をもっていたのだった。「そいつは名案。ちびさん、よく言ってくれた。すぐそいつを引っぱりだすよ」
だが、ここで厄介なことが起こった。背の高い猟場の番人が射撃のメンバーの中に手押し車に乗った紳士を入れるのに、むかしからの規則と前例をひどく破るものとして、強硬に反対したからである。
それは大きな障害だったが、どうしても乗り越えられないものではなかった。猟場の番人はうまく説きつけられ、心づけをもらい、そのうえ、手押し車の使用を最初に言いだした工夫力のある少年の頭を「ぶんなぐって」気分をまぎらわしたので、ピクウィック氏は手押し車に乗せられ、一同は出発し、ウォードル氏と背の高い猟場の番人が先頭を切り、サムにおされた手押し車のピクウィック氏はしんがり役をつとめていた。
「サム、とまれ」最初の原の途中までいったとき、ピクウィック氏は声をかけた。
「どうしたんです?」ウォードル氏はたずねた。
「この手押し車は一歩も進ませんよ」断固としてピクウィック氏は言った、「ウィンクルがいまとはちがったふうに鉄砲を運んでくれなければね」
「どう運んだらいいんです?」みじめなウィンクルはたずねた。
「銃口を地面に向けて運んでくれ」ピクウィック氏は答えた。
「それはいかにもスポーツマンらしくない恰好ですよ」ウィンクルは理窟をこねた。
「それがスポーツマンらしかろうとらしかるまいと、どっちだっていい」ピクウィック氏は答えた。「だれかをよろこばそうとして、体裁のために、手押し車の中で殺されたくはないからね」
「きっとあの方は、まだ撃たないうちに、弾をだれかの体にぶちこんじまいますよ」背の高い男がうなった。
「わかった、わかった――いいよ」銃床を上にして、あわれなウィンクルは言った。――「さあ」
「おだやかな生活のためならどんな犠牲でもというとこですね」とウェラー氏は言い、一同はふたたび歩きだした。
「とまれ!」数ヤード前進したとき、ピクウィック氏は叫んだ。
「こんどはなんだね?」ウォードル氏はたずねた。
「タップマンの鉄砲が安全でない。安全でないことはわかっている」ピクウィック氏は言った。
「えっ? なんですって! 安全でない?」ひどくおびえた調子で、タップマン氏はたずねた。
「そんな運び方をしていては、安全でないよ」ピクウィック氏は言った。「こんなに文句をつけてはわるいんだが、ウィンクルのようにきみも鉄砲を運んでくれなかったら、これ以上進むことはできないね」
「そうしたほうがいいですよ」背の高い猟場の番人は言った、「さもないと、他人ばかりか、あんた自身も弾をかぶりそうになってるんですからね」
タップマン氏は、気持ちよくさっさと、要求されたふうに銃をもちかえ、一行はふたたび行進をはじめ、ふたりの狩猟の|素人《しろうと》は、まるで王さまの葬儀のときのふたりの兵隊のように、銃をさかさにして行進していった。
犬が急に足をとめ、一行もそっと一歩だけ前進して、足をとめた。
「犬の脚がどうしたんです?」ウィンクル氏はささやいた。「妙な恰好をして立ってますね」
「しっ、静かにして!」そっとウォードル氏は答えた。「犬が獲物を見つけて身構えをしてるのがわからんのかね?」
「身構えですって!」利口な犬たちが特別な注意を要求している特別な美しさを景色の中に見つけようといったようにあたりを見まわして、ウィンクルは言った。
「目をしっかり開けてなさい」そのときの興奮でウィンクルの質問にはお構いなしに、ウォードル氏は言った。「さあ」
ウィンクル氏を、まるで彼自身が撃たれたように、うしろにとびさがらせた鋭いすごい物音がした。バン、バンと二挺の鉄砲が発射され――煙がさっと野原にひろがり、うねって空にまいあがっていった。
「獲物はどこにいるんです?」四方八方グルグルとまわりながら、ひどく興奮して、ウィンクル氏はたずねた。「どこにいるんです? いつ発射したらいいか、教えてください。どこにいるんです?――どこにいるんです?」
「どこにいるかだって?」犬が彼の足もとにおいた二羽の鳥をとりあげて、ウォードル氏は言った。「ああ、ここにいるよ」
「いや、いや、ほかの鳥のことです」とまどったウィンクルは言った。
「いまごろは、遠く、遠くにいってるよ」冷静に弾を新しくこめながら、ウォードル氏は答えた。
「五分もすると、またべつのしゃこ[#「しゃこ」に傍点]の群れにぶつかりそうです」背の高い猟場の番人は言った。「あの方がいま撃ちはじめたら、鳥がとび立つまでに、たぶん、弾を銃身からとびださせることができるでしょうよ」
「はっ! はっ! はっ!」ウェラー氏は大声を出した。
「サム」ウィンクル氏の狼狽と困惑に同情して、ピクウィック氏は言った。
「はい」
「笑ってはいかん」
「はい、笑いません」そこで、そのつぐないとして、きゃはんをはいた少年だけが楽しむようにと、ウェラー氏は手押し車のうしろから顔をグッとゆがめたので、少年はわっわっと笑いだし、手っとり早くすぐ、背の高い猟場の番人になぐられてしまったが、この猟場の番人も、自分のおかしさをかくすために、グルリと背を向ける口実を見つけているところだった。
「よくやったね、きみ!」ウォードル氏はタップマン氏に言った。「とにかく、きみはあのとき発射したんだからね」
「ああ、そうです」誇りやかな気持ちを意識して、タップマン氏は答えた。「発射しましたよ」
「よくやったね。よく見ていたら、今度はなにかに当たるだろう。とても簡単だろ、どうだい?」
「ええ、とても簡単です」タップマン氏は言った。「でも、なんて肩がいたいんでしょうね。危くひっくりかえるところでしたよ。こんな小さな鉄砲にあんなに強い反動があるなんて、思ってもいないことでした」
「ああ」にっこりして、老紳士は言った。「いずれそれに馴れてくるさ、さあ――みんないいかね――そこの手押し車のほうもいいかね?」
「いいです」ウェラー氏は答えた。
「じゃ、ゆこう」
「しっかりつかまっててくださいよ」手押し車をもちあげて、サムが言った。
「わかった、わかった」ピクウィック氏は答え、一同はいとも元気に進んでいった。
「さあ、その手押し車はうしろにさげて」それが階段越しにべつの野原にもちこまれ、ピクウィック氏がそこにふたたび入れられたとき、ウォードル氏は叫んだ。
「わかりました」立ちどまって、ウェラー氏は答えた。
「さあ、ウィンクル」老紳士は言った、「そっとわたしについてき、今度はおくれをとりなさんなよ」
「心配はありませんとも」ウィンクル氏は言った。「犬が立ちどまって獲物のほうを見てますか?」
「いや、ちがう。まだだ。いまは静かに、静かに」彼らははって前進し、ウィンクル氏が、鉄砲をもってのとても複雑な行動中、いざという重大なときに当たって、少年の頭越しに偶然発砲しなかったら、彼らは非常に静かに前進したことだったろう。背の高い男が少年のところにいたら、たしかに弾はこの男の頭をぶちぬいていたことだったろう。
「いやあ、どうして発砲なんかしたんだ?」鳥が傷も受けずにとび散ったとき、老ウォードル氏はたずねた。
「こんな鉄砲は見たこともありませんね」まるでそれでどうにかなるといったように銃をながめながら、あわれなウィンクル氏は言った。「自分でバンといってしまったんですからね。自分の意志でそうしたんです」
「自分の意志でだって!」ちょっといらいらっとしたようすを見せ、ウォードル氏はおうむがえしに言った。「自分でなにかを殺してしまったらいいのにな」
「いまにそれをしますよ」低い予言的な声で、背の高い男は言った。
「というのは、どういうことだね?」むっとしてウィンクル氏はたずねた。
「かまいませんよ、かまいませんよ」背の高い猟場の番人は答えた。「こちらには家族はなし、少年がこの土地で殺されたら、あいつのおふくろはサー・ジェフリーの旦那からたんまりもらえますからね。さあ、弾をこめてください、弾を」
「彼の鉄砲をとってしまえ」背の高い男のおそろしい暗示におびえて、手押し車からピクウィック氏は叫んだ。「彼の鉄砲をとってしまえ、聞こえたのかね、だれか?」
しかし、だれもその命令にはしたがおうとはせず、ウィンクル氏は、反抗的な一瞥をピクウィック氏に投げたあとで、自分の鉄砲に弾をこめなおし、ほかの者といっしょに前進していった。
ピクウィック氏の記録によれば、タップマン氏のやり方のほうがウィンクル氏のものよりはるかにもっと慎重さと思慮分別を示していたと申さなければならない。しかし、このことは、狩猟に関するすべてのことで、タップマン氏の権威を損ねることには絶対にならない。ピクウィック氏が美しい言葉で述べているように、太古のむかしから、理論の点では科学の完全な光ともなった多くの最高の有能な哲学者たちは、それを実行にうつす段になると、ぜんぜんだめになってしまったからである。
タップマン氏のやり方は、じつに多くのりっぱな発見のように、きわめて簡単なものだった。天才のもつ素早さと洞察力で、しなければならないふたつの重要な点は――第一に、自分の身に危害を加えずに鉄砲を発射すること、第二に、わきにいる人々に危険を与えぬことであることを、彼はすぐにさとってしまった。発射の困難を克服するのが最高のこと、ついですべき最善のことは、明らかに、目をしっかりとつぶり、空中に向けて発射することだった。
ある場合に、この放れ業をしたあとで、目を開くと、タップマン氏は丸々と太ったしゃこ[#「しゃこ」に傍点]が傷ついて地面に落ちてくるのをながめた。このれっきとした成功で、彼がウォードル氏の腕を祝おうとしたとき、ウォードル氏が彼のほうにやって来て、彼の手をぎゅっとにぎりしめた。
「タップマン」老紳士は言った、「きみはあの鳥をとくにねらったのだね?」
「いや」タップマン氏は言った――「いや」
「いや、そうだ」ウォードル氏は言った。「きみがそうするのを見ていたよ――きみがあの鳥をねらってるのを見たんだ――ねらいをつけようと鉄砲をあげたとき、きみを見ていたんだ。これは言っておくよ、どんなにりっぱな射手だって、あれ以上みごとにはできるもんではないとね。タップマン、きみは思ったより|手練《てだ》れの射手だね。今度がはじめてというはずはないよ」
自制の微笑を浮かべて、タップマン氏がそんなことはないと言っても、むだだった。その微笑自体が逆の証拠ととられ、そのときから以後、彼の名声はゆるがぬものになった。こうして容易に獲得されるのは、名声ばかりでなく、また、しゃこ[#「しゃこ」に傍点]猟にかぎられたこうした運のいいことばかりではない。
一方、ウィンクル氏は、記録に値する大きな成果はなにもあげずに、火薬をパッと発火させ、燃えあがらせ、煙をたなびかせ、ときに中空に弾を放ったかと思うと、べつのときには、地面すれすれにそれをとばし、二匹の犬の命を不安定で危険な状態にさらしていた。気まぐれ射撃の展示として、それは非常に変化あり奇妙なものだったが、なにかしっかりとした目的をもって射撃するということになると、それは、概して失敗だった。「弾に当たるも当たらぬも運命しだい」というのは、世の中に通用している|諺《ことわざ》である。もしそれが同じように射撃に適用されることになると、ウィンクル氏の撃った弾は自然の権利をうばわれた不幸なすて子、世の中に放りだされながら、宿る(当たるの意にもなる)ところはどこにもないものだった。
「さて」手押し車のそばにゆき、その陽気な赤い顔から汗の流れをぬぐいとって、ウォードル氏は言った。「汗の出る日だね、どうだい?」
「そうだね」ピクウィック氏は答えた。「このわたしにとっても、太陽はすごく暑いですからな。あんたにとっては、さぞ暑いことでしょう」
「いやあ」老紳士は言った、「かなり暑い。だが、もう十二時すぎだ。あそこに緑の岡が見えるだろうが?」
「うん」
「あれが昼食をとる場所。うん、たしかに、あそこに籠をもった少年がいるぞ、きちんと時間を守ってな!」
「そうですな」明るくなって、ピクウィック氏は言った。「いい子ですね、あの子は。すぐ一シリングやることにしましょう。さあ、サム、車をおしてくれ」
「しっかりつかまっててくださいよ」食事にありつける見とおしで元気づいて、ウェラー氏は言った。「きゃはんの若い衆、そこをどいとくれ。わしの命を大切に思ったら、わしをひっくりかえさないでくれ、タイバーン(ロンドンにあった死刑執行場)に車で運ばれてくとき、紳士が言ったようにな」こう言って、歩調をかけ足に早めて、ウェラー氏は車で自分の主人を緑の岡まで送りこみ、たくみに彼を食事籠のわきにつれだして、すごい速さで籠の荷づくりを解きはじめた。
「子牛の肉のパイ」草の上に食べ物をならべながら、独り言でウェラー氏は言った。「それをつくった女を知ってて、そいつが子猫でないのがはっきりとわかってたら、子牛の肉のパイは上々のもんさ。だが、結局、子猫の肉が子牛の肉そっくりで、パイをつくる人自身がそのちがいに気がつかなかったら、どうってこともないじゃないか?」
「そうなのかい、サム?」ピクウィック氏はたずねた。
「そうですよ」帽子をちょっともちあげて、ウェラー氏は答えた。「前にパイをつくる男と同じ家に住んでたことがありますがね、そいつはなかなか達者なやつで――そのうえ、利口な男――どんなものからもパイをつくりました。『ブルックスさん、ずいぶんたくさん猫を飼ってるね』親しくなってから、わたしは言いました。『ああ、飼ってるよ――たくさんね』彼は答えました。『きっと猫が好きなんだね』わたしは言いました。『ほかの人たちがね』わたしに目をパチパチさせて、彼は言いました。『だが、冬になるまでは、季節はずれだよ』彼は言ったんです。『季節はずれだって!』わたしは言いました。『そうだよ』彼は答えました、『果物がはいってきて、猫ははずされちまうのさ』『いやあ、それはどういうこってす?』わたしはたずねました。『どういうことだって?』彼は言いました。『肉の値をあげとくために、肉屋とぐるにはならんということさ』彼は言ったんです。『ウェラーさん』わたしの手をとても強くぎゅっとにぎり、耳にそっと彼はささやきました――『このことは他言無用ですぞ――だが、問題は、ただ味つけだけのこと。パイはぜんぶ、あのりっぱな獣でつくられてるんですからね』小さなとてもかわいいとら猫をゆびさして、彼は言いました、『好みに応じて、それを牛肉、子牛の肉、腎臓に味つけをするんです。そのうえ』彼は言いました、『需要が変わり、好みがちがってくるにつれて、ちょっと前に言ってもらえば、子牛の肉を牛肉に、牛肉を腎臓に、そのどれでも羊の肉にすることができるんですよ!』」
「その男はじつに器用な青年だったにちがいないな、サム」ちょっと身ぶるいして、ピクウィック氏は言った。
「まったくそうです」籠を空ける仕事の手を休めずに、ウェラー氏は答えた、「そしてそのパイはみごとなもんでした。こいつは舌の肉(くん製または塩づけにした牛・羊などの舌肉)だな。女の舌でなけりゃ、絶好のもんだ。パン――ハムの膝肉、まったくきれいなもんだな――こまかに切った冷たい牛肉、とてもうまいもんだ。その石の壺にはなにがはいってるんだい、若いせかせかしたの?」
「これにはビール」革ひもでしばりつけられたふたつの大きな石のびんを肩からはずして、少年は答えた――「もうひとつには冷たいポンスがはいってます」
「だいたいのところ、じつにうまそうな昼飯だな」大満悦で自分の食事の配列をながめて、ウェラー氏は言った。「さあ、みなさん、『かかれ』ですよ、銃剣をつけたとき、イギリス人がフランス人に言ったようにね」
二度の催促を待たずに、一同は食事にとりかかり、同じように、ウェラー氏、背の高い猟場の番人、ふたりの少年は少しはなれた草の上に坐り、そうとうたくさんの食料をさっさと片づけはじめた。この一団に古い|樫《かし》の木が快い陽かげを与え、繁茂する生垣が横切り、森が豪華な飾りを与えている耕作地と牧草地の美しいながめが、彼らの眼前に展開していた。
「これは楽しい――まったく楽しい!」ピクウィック氏は言ったが、その表情豊かな顔の肌は、太陽にさらされて、どんどんむけかけていた。
「きみ、そのとおりだ。そのとおりだ」ウォードル氏は答えた。「さあ、ポンスを一杯!」
「大よろこびで」ピクウィック氏は答えたが、酒を飲んだあとの彼の満足げな顔つきは、その答えの真実さを物語っていた。
「おいしい」舌つづみを打って、ピクウィック氏は言った。「とてもおいしい。もう一杯やることにしよう。冷たい。とても冷たい。さあ、諸君」まだ壺を抑えたままで、ピクウィック氏はつづけた。「乾杯だ。ディングリー・デルにいるわれわれの友人たちのために」
大喝采でこの乾杯は飲み乾された。
「射撃を再開するために、自分がなにをするかを教えてあげよう」ポケットナイフでパンとハムを食べていたウィンクル氏は言った。「柱の上に剥製のしゃこをおき、短い距離からはじめて、それをだんだんながくし、それを撃つんです。それはすばらしい練習になると思いますね」
「わたしはある紳士を知っていますがね」ウェラー氏は言った、「それをやり、二ヤードからはじめたんです。だが、それは二度とうまくいきませんでしたよ。最初の射撃で鳥をすっかりふっとばしてしまい、その後羽根一枚見えなくなっちまったんですからね」
「サム」ピクウィック氏は言った。
「はい」ウェラー氏は答えた。
「どうかきみの逸話は、こっちでたのむまで、しまっておいてくれないか?」
「よくわかりました」
ここでウェラー氏は目をパチパチとさせたが、その表情は、そのとき彼がたくみに口にもっていったビールのかんでかくすことができず、ふたりの少年は自然に腹をかかえはじめ、背の高い男までニヤリとしてしまった。
「うん、これはたしかにじつにすばらしい冷えたポンスだ」石のびんを真剣になって見つめながら、ピクウィック氏は言った。そして、「きょうはとても暑い日だ。それに――タップマン、きみは一杯どうだね?」
「大よろこびで」タップマン氏は答えた。盃を乾してから、そのポンスにオレンジの皮がはいっているかどうかを調べるために、ピクウィック氏はもう一杯飲んだ。オレンジの皮は彼の口にはどうしても合わなかったからである。そして、オレンジの皮がないのを知って、彼らの不在の友人(スノッドグラースのこと)の健康のために、ピクウィック氏はさらに一杯盃を重ね、未知のポンス調合者の名誉のために、もうひとつの乾杯をどうしても提案しなければならないと感じた。
こうしてたえず盃を重ねたことは、ピクウィック氏にそうとう影響を与えずにはいなかった。彼の顔はじつに陽気な微笑で輝き、笑いは彼の口のあたりにたわむれ、上機嫌の陽気さが目にキラキラと光っていた。しだいに刺激的な液体の影響に屈し、暑気でその状態はもっと強められて、ピクウィック氏は自分の子供時代に聞いたことがある歌をとても思い出したくなり、それがうまくいかなかったので、もっとポンス酒を飲んで自分の記憶力を刺激しようとしたが、それはまったく逆の効果を生んでしまったらしかった。というのも、歌の言葉を忘れることから、彼はどんな言葉でも発音するのを忘れはじめ、最後には、雄弁をふるって一同に話しかけようと立ちあがったあとで、彼は手押し車の中にくずおれ倒れ、同時にぐっすりと眠りこんでしまったからである。
籠の荷づくりが終わり、麻痺状態からピクウィック氏を呼びさますことは完全に不可能とわかったので、ウェラー氏がその主人を車でつれもどすべきか、彼らがみんな帰るときまでそこにおいておくべきかが、ちょっと議論され、あとの案が採択されることになった。そして、のこりの遠征も一時間以上かかるものではなく、ウェラー氏は一行にとても加わりたがっていたので、ピクウィック氏を眠ったまま手押し車の中におき、帰りに彼をつれてゆくことが決定された。そこで一同はそこを立ち去り、ピクウィック氏は木陰に快くいびきをかきながらのこされることになった。
友人たちがもどってくるまで、そうでなかったら、夕闇があたりの景色にまいおりるまで、ピクウィック氏が木陰でいびきをかきつづけていたであろうことは、彼が安らかにそこにおかれていたものとすれば、疑うべき筋はべつにないように思われる。だが、彼は安らかにそこにおかれてはいなかった[#「いなかった」に傍点]。以下が彼をそうさせなかった事情である。
ボールドウィッグ大尉はかたい黒いネッカーチーフと青い外套に身をつつんだ気性の激しい小男だった。彼がわざわざ自分の家屋敷のまわりを歩きまわるときには、真鍮のはめ輪をつけたとうのステッキ、おだやかな顔をした植木屋とその下働きをお供につれ、彼らに(ステッキではなく植木屋たち)いかにも身分にふさわしい堂々とした狂暴な態度で、ボールドウィッグ大尉は命令をくだしていた。それというのも、ボールドウィッグ大尉の奥さんの姉妹はある侯爵のところに嫁入りをし、大尉の家は格式あるいなかの邸宅、彼の土地は「庭園」といったものになっていて、それはすべて高く、たくましく、堂々としたものだったからである。
ピクウィック氏が眠ってまだ三十分もしないうちに、小男のボールドウィッグ大尉は、ふたりの植木屋を供につれて、彼の体と要人ぶりが許すかぎりの足の速さで、大股でのっしのっしとやって来た。樫の木のそばに来たとき、ボールドウィッグ大尉は立ちどまり、ふーっとひとつ大息をつき、彼のながめたことをあたりの景色が大いに名誉と思うべきだといったふうに、あたりの景色をながめまわし、ステッキで強く地面をたたいて、植木屋の|頭《かしら》を呼んだ。
「ハント」ボールドウィッグ大尉は言った。
「はい」植木屋は答えた。
「ここを、明日の朝、ローラーでならすんだ――わかったな、ハント?」
「わかりました」
「そして、ここをきちんとしておくように注意するんだぞ――わかったな、ハント?」
「わかりました」
「一般の俗人を締め出すために、侵入者に関する掲示板やばね銃(なわばりの地域内に侵入する人や動物がそのなわにふれると引き金が落ちて自動的に発射されるように仕掛けた鉄砲)やそういったものを備えつけるのを忘れないようにするんだぞ。わかったな、ハント。わかったな?」
「忘れません」
「失礼ですが」帽子に手をやって前に出てきながら、もうひとりの男が言った。
「うん、ウィルキンズ、どうしたんだ?」ボールドウィッグ大尉はたずねた。
「失礼ですが――きょうここに侵入者がいたらしいです」
「えっ!」あたりに渋面を投げて、大尉は言った。
「そうです――どうやら、ここで食事をしたらしいんです」
「いやあ、厚かましいことだ、そうらしいぞ」草の上にまきちらされたパン屑やのこりものが目にはいったとき、ボールドウィッグ大尉は言った。「たしかにここで食べ物をガツガツやっていたんだ。浮浪者どもがここにいたらいいんだが!」太いステッキをギュッとにぎって、大尉は言った。
「浮浪者どもがここにいればいいんだが」怒気満々で、大尉は言った。
「失礼ですが」ウィルキンズは言った、「しかし――」
「しかしなんだと言うんだ? えっ?」大尉はどなり、ウィルキンズのおずおずとした目につられて、彼の目は手押し車とピクウィック氏のほうに向けられた。
「この悪党め、お前はだれだ?」太いステッキでピクウィック氏の体をいく度かつっついて、大尉は言った。「お前の名前はなんて言うのだ?」
「冷えたポンス」ふたたび眠りこみながら、ピクウィック氏はつぶやいた。
「なんだって?」ボールドウィッグ大尉はたずねた。
返事なし。
「こいつは自分の名前をなんて言ったんだ?」大尉はたずねた。
「ポンスだと思います」ウィルキンズは答えた。
「それはやつの厚かましさ、いまいましい厚かましさだ」ボールドウィッグ大尉は言った。「やつはいま眠ったふりをしているのだ」憤激して、大尉は言った。「やつは飲んだくれ、飲んだくれの平民だ。ウィルキンズ、やつを車で運んでしまえ、すぐに運んでしまえ」
「どこに運んだらいいんでしょう?」ひどくビクビクして、ウィルキンズはたずねた。
「悪魔のとこにでも運んでしまえ」ボールドウィッグ大尉は答えた。
「よくわかりました」ウィルキンズは言った。
「待て」大尉は言った。
そこでウィルキンズは足をとめた。
「その男を運べ」大尉は言った、「獣の囲い場に運べ。われにかえったとき、やつが自分のことをポンスと呼ぶかどうか、ひとつ見てやろう。やつにいばりちらすようなことはさせんぞ、そんなことはさせるもんか。やつを運んでゆけ」
この尊大な命令にしたがって、ピクウィック氏は車で運び去られ、偉大なるボールドウィッグ大尉は、怒りでふくれあがりながら、歩みを進めていった。
一同がもどって来て、ピクウィック氏が姿を消し、手押し車もいっしょにもってゆかれたことがわかったとき、このわずかな一行の驚きは口に言いあらわせぬほど大きなものだった。これはまだ聞いたこともない|摩訶《まか》ふかしぎな、説明のつかぬことだった。びっこの人がなんの予告もなしに立ちあがって姿を消すだけでもじつにおかしなことだったろうが、それが楽しみに重い手押し車をおしていったとなると、これはひどくおかしなことになった。一同は、いっしょに、バラバラになって、あたり一面のこすところなくさがしまわった。彼らは叫び、口笛を吹き、笑い、呼んだが――すべては同じ結果に終わった。ピクウィック氏の姿は発見できなかったからである。何時間か無益の捜査をしたあとで、彼をつれずに家にもどらなければならぬという好ましからざる結論に到達した。
一方、ピクウィック氏は囲い場に手押し車で運ばれ、そこに無事に安置され、車の中でぐっすり眠っていたが、彼が目をさましたらどうなるだろうと、まわりに集まった村の少年全員ばかりでなく、村の人口の四分の三までの人が計り知れぬ楽しみと満足に|固唾《かたず》をのんでいた。彼が運びこまれたことで強いよろこびの気持ちがひきおこされたとすれば、「サム!」と何回か寝ぼけ声で叫んだあとで、彼が手押し車の中でむっくりと起きあがり、自分の目の前の顔・顔・顔を言いようのない驚きで見つめたとき、彼らのよろこびは何百倍かに増大していった!
いっせいの叫び声は、もちろん、彼が目をさました合図となった。彼がわれ知らず「どうしたんだ?」とたずねたことは、まあ、前にますほどのと言っていいほどの大きな叫びを呼び起こした。
「これはおもしろいぞ!」人々はどなった。
「わたしはどこにいるのだ?」ピクウィック氏は叫んだ。
「囲い場の中だよ」群集は答えた。
「どうしてここに来たんだ? なにをわしはしていたんだ? どこからここにつれてこられたんだ?」
「ボールドウィッグ! ボールドウィッグ大尉だよ!」が、ただひとつの答えだった。
「わしを外に出してくれ」ピクウィック氏は叫んだ。「わしの召使いはどこにいるんだ? 友人たちはどこにいるんだ?」
「友だちなんかいないよ。万歳!」それからかぶら[#「かぶら」に傍点]、ついでじゃがいも[#「じゃがいも」に傍点]、ついで卵が、大衆のふざけ気分をあらわすほかのわずかな小物といっしょに、とんできた。
そのわきを大急ぎでとおりぬけようとしていた馬車が急にとまらなかったら、どのくらいこの場景がつづいたか、どれだけピクウィック氏が苦しめられたか、だれにもわからない。その馬車から老ウォードル氏とサム・ウェラーがおり、ウォードル氏は、この文を読むよりとまではゆかずとも、それを書くより速いスピードで、ピクウィック氏のわきに進んでゆき、サム・ウェラーが町の教区吏員との一騎打ちの最後の第三ラウンドを終えたちょうどそのとき、彼を馬車の中に入れた。
「治安判事のとこへ走っていけ!」何人かの声が叫んだ。
「ああ、走っていくがいいぞ」御者台にとびあがって、ウェラー氏は言った。「治安判事におれからよろしく――ウェラーさんからよろしく――言ってくれ。おれが彼の教区吏員をやっつけた、もし治安判事が新しい教区吏員を就任させたら、明日もどってきて、そいつもやっつけてやると伝えてくれ。さあ、馬車をふっとばすんだ」
「ロンドンに着いたらすぐ、このボールドウィッグ大尉相手に、いかさま監禁の罪で裁判を起こすように手配をしよう」馬車が町から出るとすぐ、ピクウィック氏は言った。
「われわれは他人の土地に侵入していたらしいんですぞ」ウォードル氏は言った。
「かまいはせん」ピクウィック氏は言った、「裁判を起こしてやる」
「いや、そんなことはせんほうがいいですぞ」ウォードル氏は言った。
「やるとも、誓って――」だが、ウォードル氏の顔におかしそうな表情があらわれていたので、ピクウィック氏ははやる心を抑えて、言った――「どうしていけないんです?」
「というのは」なかば噴きだしながら、老ウォードル氏は言った、「というのは、相手のほうだってわれわれの一部の者に歯向かってきて、冷えたポンスを飲みすぎたと言い立てるかもしれませんからな」
どんなに抑えつけようとしても、微笑がピクウィック氏の顔に浮かんできてしまった。微笑はつのって哄笑になり、哄笑は大きなわめき声に変わり、それはみんなにひろがっていった。そこでこの上機嫌を維持するために、彼らはゆき合わせた最初の路傍の居酒屋の前に車をとめ、水割りブランデーをみなに注文し、サミュエル・ウェラー氏のためには特別強い大酒びんが注文された。
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第二十章
[#3字下げ]ドッドソンとフォッグが実務家、その書記が遊び人であること、感動的な会見がウェラー氏とながいあいだ行方不明だった父親のあいだで起きたいきさつを示す。さらに、どんなにすばらしい人たちが『かささぎ[#「かささぎ」に傍点]と切り株旅館』に集まり、つぎの章がどんなにすばらしい章になるかを示す
コーンヒルのフリーマン小路のいちばん端のきたない家の一階の道に面した部屋では、ウェストミンスターの王座部(高等法院の一部門)、民事訴訟裁判所と大法官庁のふたりの弁護士ドッドソンとフォッグのところにいる四人の書記が坐っていた。これらの書記は、その昼間の仕事中、そうとう深い井戸の中にいる人のように太陽の恵みに浴さず、井戸の中にいる人とはちがって、昼間に星をあおぐこともできないでいる。
ドッドソンとフォッグの書記の事務所は暗い、かび臭い、じめじめしたにおいのする部屋で、書記を俗人の目から守るために高い板ばりの仕切りが設けられ、ふたつの古い木製の椅子、カチカチととても高い音を立てている時計、暦、傘立て、一列にならんだ帽子掛けといくつかの棚、はり紙のついたいくつかの古い松板の箱、さまざまな形と大きさの古びた石のインク壺があり、棚の上にはきたなくよごれた書類の札をつけた束が乗せられていた。法廷への入口になっている廊下につながるガラスばりの戸があり、その戸の外に、サム・ウェラーをピタリうしろにしたがえたピクウィック氏が、この前の章でありのままに語られた事件の直後の金曜日の朝に、姿をあらわした。
「さあ、おはいり!」ピクウィック氏が静かにドアをたたいたのに答えて、仕切りのうしろから声が叫んだ。そう声をかけられて、ピクウィック氏とサムは中にはいっていった。
「ドッドソンさんか、フォッグさんが、いまおいでですか?」帽子を手にもち、仕切りのほうに進んでいって、ピクウィック氏はおだやかにたずねた。
「ドッドソンさんは不在、フォッグさんは特別おいそがしくってね」その声が答え、それと同時に声の主の耳にペンをはさんだ頭が、仕切り越しにピクウィック氏をのぞきこんだ。
それはお粗末な頭で、その薄茶色の髪の毛は注意深く片側にわけられ、ポマードで平らにされて、平らな顔のまわりに小さな半円形の尻尾となってまきつけられ、その平らな顔は一対の小さな目、とてもきたないシャツのカラー、ようかん色になった黒い幅広の襟飾り(むかし用いたカラーとネクタイを兼用したようなもの)に飾られていた。
「ドッドソンさんは不在、フォッグさんは特別おいそがしくってね」この頭の持ち主の男が言った。
「いつドッドソンさんはおもどりです?」ピクウィック氏はたずねた。
「わからんね」
「フォッグさんのご用がすむまでに、ながく時間がかかりますか?」
「わからんね」
ここでその男はひどく慎重にペンをとがらしにかかり、一方自分の机のふたの下でセドリッツ沸騰散(酒石酸・酒石酸カリ・重炭酸ソーダをまぜてつくる沸騰性緩下剤・ボヘミアのセドリッツの鉱泉)をまぜていたべつの書記が、いかにも賛成といったふうに、笑い声を立てた。
「待つことにしましょう」ピクウィック氏は言ったが、返事はなく、そこでピクウィック氏はべつにすすめられもしないのに腰をおろし、時計の大きなカチカチという音と書記たちのヒソヒソ話に耳を傾けていた。
「それはおもしろかったな、そうじゃないかい?」前夜の聞きとれぬ冒険談がすむと、真鍮のボタンのついた褐色の上衣、インクによごれた茶色のズボン、編上げ半長靴をつけた書記のひとりが言った。
「とてもすごかったぞ――とてもすごかったぞ」セドリッツ沸騰散の男が言った。
「トム・カミンズが、座長になってな」褐色の上衣を着ていた男が言った。「ぼくがサマーズ・タウンに着いたのは、四時半だった。そのときひどく酔っ払ってたんで、掛け金の鍵をさしこむ場所がわからず、婆さんを起こさなければならなくなったんだ。このことを知ったら、老フォッグはなんというだろうな? 首になっちまうことだろうよ――えっ?」
このおもしろい考えを聞いて、書記たちはみんないっせいに笑いだした。
「今朝、ここで、フォッグのことでとっても愉快なことがあったんだ」褐色の上衣を着た男が言った、「ジャックが二階にあがって書類の分類をし、きみたちふたりが印紙屋にいってるあいだにね。フォッグは階下のここにいて、手紙を開いてたんだが、われわれが令状を出したキャンバーウェルにいるあの男がはいってきたんだ――あの男の名前、なんてったっけな?」
「ラムジーだよ」ピクウィック氏と話をした男が言った。
「ああ、ラムジー――ひどくみすぼらしい感じの男だったな。『うん、きみ』彼をすごい勢いでにらみつけて、老フォッグは言ったんだ――あのフォッグのやり方でね――『うん、きみ、話をつけにきたんですかね?』『ええ、そうです』ポケットに手をつっこみ、金を引きだして、ラムジーは言ったんだ、『負債は二ポンド十シリング、訴訟費用は三ポンド五シリング、これがそのお金です』吸取り紙につつんだその金を引っぱり出して、彼はふっと溜め息をもらしてたっけ。老フォッグは最初に金を、ついで彼をながめ、あの妙な咳をしたんだ。そこでなにかが起きるなと、こっちにはわかったわけだ。『請求趣旨申し立て書が提出されたのを知らんのですな、それは、訴訟費用をとてもふくらましてるものなんですがね?』フォッグは言ったよ。『まさか!』ぎょっとしてラムジーは答えたね。『期限はほんのきのうの晩切れたばかしなんです』。『だが、そうなんです』フォッグは言った、『わたしの書記がそれを提出しにたったいま出かけたばかしなんです。ウィックス君、ジャックソン君がブルマンとラムジー事件で請求趣旨申し立て書を提出しにいまいったんじゃないのかね?』もちろん、ぼくはそうだと言ったよ。するとフォッグはまた咳をし、ラムジーをジッと見たんだ。『いや、驚いた!』ラムジーは言った。『もう気がくるいそうな勢いでこの金をかき集めてきたんだが、すっかりむだなことになってしまった』。『そんなことはありませんよ』冷静にフォッグは言ったね、『だから、きみは家にもどり、もう少しの金をかき集め、間に合うようにそれをここにもってきたほうがいいでしょうよ』。『まったく、そんなことはできないこってすよ!』拳で机をたたきながら、ラムジーは言ったよ。『脅迫はやめなさい』わざとかっとしたようすをして、フォッグは言ったんだ。『脅迫なんかしていませんよ』ラムジーは言った。『いや、脅迫ですぞ』フォッグは言った。『出てゆきなさい、きみ、この事務所から出てゆきなさい。礼儀作法をわきまえてから、ここにもどってきなさい』そう、ラムジーはなにかしゃべろうとしたが、フォッグはそれを許さず、そこで彼は金をポケットにしまい、コソコソと出ていったよ。ドアが閉まるか閉まらないかに、老フォッグは顔にやさしい微笑を浮かべてこちらに向きなおり、上衣のポケットから請求趣旨申し立て書を引っぱりだしたんだ。『さあ、ウィックス』フォッグは言ったね、『辻馬車に乗り、できるだけ早く聖堂騎士団の殿堂(ここに法学院の一部がある)にゆき、これを提出してくるんだ。訴訟費用のことは心配ない。彼は大きな家族をかかえたしっかりした男、週給は二十五シリングで、結局はそうなるだろうが、彼がわれわれに委任状をわたすとなれば、彼のやとい主がそれを払うようにとりはからってくれるだろう。だから、ウィックス君、できるだけ彼からはしぼりとったほうがいいんだ。家族は大きくて収入は少ないんだから、借金をしないよう、これでこりたほうがいいだろう――そうじゃないかね――ウィックス君――そうじゃないかね?』――彼はここを出てゆくとき、いかにも人の好さそうな微笑をもらし、彼の姿をながめてるのが楽しくなるくらいだったよ。彼はじつにすばらしい実務家」いかにも驚嘆したような語調で、ウィックスは言った、「すばらしい実務家ではないかね?」
他の三人の書記は心からこの意見に賛成し、この逸話はかぎりない満足感を与えた。
「ここにいる人たちは、りっぱな人ですね」ウェラー氏は主人にささやいた。「ふざけ心は満点ですよ」
ピクウィック氏はそうだとうなずき、仕切りの向こうにいる若い紳士たちの注意をひくために、咳払いをした。彼らは、仲間のあいだでちょっとひと話をしたので、気がなごみ、見知らぬ男にも多少注意を払う気持ちになっていた。
「フォッグはもう暇になったかな?」ジャックソンは言った。
「見てこよう」ゆっくりと椅子からおりて、ウィックスは言った。「フォッグさんにお名前はなんとお伝えしたらいいんです?」
「ピクウィック」この追憶記の偉大なる主人公は答えた。
ジャックソンはこの用件で二階にあがり、すぐもどって来て、五分したらフォッグ氏がピクウィック氏にお会いするという伝言を伝え、それをすませてから、自分の机にもどっていった。
「あの男の名前、なんてったっけ?」ウィックスはささやいた。
「ピクウィックだよ」ジャックソンは答えた。「バーデルとピクウィック事件での被告さ」
急におし殺した笑い声にまじって足をする音が仕切りの向こうから聞こえてきた。
「やつらはあなたを|見て《トウイツグ》ますよ」ウェラー氏はささやいた。
「わしをトウィッグしてるだって、サム!」ピクウィック氏は答えた。「わしをトウィッグするって、どういうことなんだい?」
ウェラー氏は、肩越しに親指でさすことで、それに答え、ピクウィック氏が目をあげると、四人の書記全員がいかにもおもしろそうな顔をし、木の仕切りの上に頭をつきだして、女性の心をもてあそびものにし、女性の幸福をかき乱したと考えられている人物の姿・外貌を細かに観察しているという興味深い事実に気がついた。彼が目をあげると、一列にならんだ頭は急に消えてなくなり、すごい勢いで紙の上を走るペンの音が聞こえてきた。
事務所にかけられている鐘が急に鳴らされ、ジャックソンはフォッグの部屋に呼ばれ、そこからもどってきて、二階にあがったら、彼(フォッグ)はすぐにお会いする、と伝えた。
そこでピクウィック氏は、サム・ウェラーを下にのこして、二階にあがっていった。二階の裏部屋のドアには、はっきりとした字で、「フォッグ」という堂々とした文字が書かれ、そこにノックし、はいりなさいと言われて、ジャックソンはピクウィック氏を中につれこんだ。
「ドッドソンさんは奥においでかね?」フォッグ氏はたずねた。
「たったいま、おいでです」ジャックソンは答えた。
「ここに来るようにおねがいしてくれ」
「はい」ジャックソンは退場した。
「お坐りください」フォッグは言った。「書類はここにあります。わたしの仲間もすぐにここに来るでしょう。そうすれば、このことについてお話ができるわけです」
ピクウィック氏は座席につき、書類をとりあげたが、それを読まずに、その上からのぞき見をして、この実務家をひと調べした。相手は黒い上衣、薄黒い混ぜ色織りのズボン、小さな黒いゲートルを着けた初老の、にきび|面《づら》の、菜食主義者といった感じの男、彼が書き物をしている机の必要欠くべからざる一部で、思考力と感情の点では、机と同様に、皆無といったふうの人物だった。
数分間だまっていたあとで、太った、堂々とした、きびしそうな、大声の男のドッドソン氏があらわれ、話がはじまった。
「こちらがピクウィックさんです」フォッグが言った。
「ああ! あんたがバーデルとピクウィック事件の被告ですな?」ドッドソンはたずねた。
「そうです」ピクウィック氏は答えた。
「わかりました」ドッドソンは言った、「ところで、そちらのご提案はどんなものです?」
「ああ!」手をズボンのポケットにつっこみ、椅子に体をのけぞらせて、フォッグは言った、「そちらのご提案はどんなものです、ピクウィックさん?」
「しっ、フォッグ」ドッドソンは言った、「ピクウィックさんの言い分を聞くことにしよう」
「みなさん、わたしがここに来たのは」ふたりの仲間を静かに見つめて、ピクウィック氏は言った、「みなさん、わたしがここに来たのは、先日のあなた方のお便りを受けとったときのわたしの驚きをお伝えし、わたしにたいしてどんな訴訟理由をおもちなのか、おたずねするためです」
「訴訟理――」フォッグがここまで叫んだとき、ドッドソンは彼を抑えた。
「フォッグさん」ドッドソンは言った、「わたしが話そうとしているのですぞ」
「これは失礼しました、ドッドソンさん」フォッグは言った。
「訴訟理由については」その態度に道徳的昴揚を示して、ドッドソンはつづけた、「きみは自分自身の良心と自分自身の感情にたずねてみたらいいでしょう。われわれは、いいですか、われわれは依頼人の陳述にもとづいて行動しているだけです。その陳述は真実かもしれん、あるいは、偽りのものかもしれん。それは信用できるものかもしれん、あるいは、信用できんものかもしれん。だが、もしそれが真実であり、もしそれが信用できるものであったら、われわれの訴訟理由は強く、ゆるがしがたいものであると、わたしはちゅうちょせず断言できます。あなたは不幸な人かもしれん、あるいは、たくらみのある人かもしれん。だが、宣誓した陪審として、あなたの行為に関する意見を発表せよと求められたとしたら、わたしはちゅうちょせず、それに関する意見はひとつしかないことを主張しますぞ」ここでドッドソンは義憤を感じている人といったふうに胸をはって威厳を示し、フォッグをながめたが、フォッグはポケットの中に両手をさらに深くつっこみ、いかにもさとりすましたふうに頭をうなずかせ、心から賛成といった語調で「もちろん、そうです」と言った。
「わかりました」顔に苦痛の色をそうとう濃く浮かべて、ピクウィック氏は言った、「こう申すことは許してくださるでしょう、この事件に関するかぎり、わたしはじつに不幸な人間です」
「そうであればと思いますよ」ドッドソンは答えた。「そうかもしれぬと考えてます。もし告訴を受けてる罪をおかしてないとしたら、あなたはこの世のどんな人より不幸な人です。フォッグさん、あなたの意見はどうです?」
「まったくあなたと同意見ですな」疑い深そうな微笑を浮かべて、フォッグは答えた。
「この訴訟を開始した令状は」ドッドソンはつづけた、「規則にもとづいて発行されたものです。フォッグさん、令状申請書の本はどこにありますかな?」
「ここにありますよ」羊皮紙のおおいのついた四角な本をわたして、フォッグは言った。
「ここに記載があります」ドッドソンはつづけた。「『ミドルセックス、サミュエル・ピクウィックにたいする未亡人マーサ・バーデルの令状。損害賠償金、千五百ポンド。原告の代理人、ドッドソンとフォッグ、一八三〇年八月二十八日』ぜんぶ規則にもとづき、完全なものです」ドッドソンは咳払いをし、フォッグをながめたが、フォッグも「完全なものです」と|相槌《あいづち》を打った。そう言って、ふたりともピクウィック氏のほうをながめた。
「すると」ピクウィック氏は言った、「この訴訟をつづけようとなさるのがそちらのご意図と、当方は理解すべきなのですね?」
「理解するですって? ええ、たしかにそう理解して結構ですぞ」威厳が許すかぎりの微笑といったものを浮かべて、ドッドソンは答えた。
「そして、損害賠償金はじっさい千五百ポンドとなっていると理解しても?」ピクウィック氏はたずねた。
「その理解につぎのわたしの保証をつけ加えてもいいですぞ。すなわち、依頼人をこちらで説得できたら、その金額は三倍になっただろうということもね」ドッドソンは答えた。
「しかし、バーデル夫人はとくに言ってたと思いますがね」ドッドソンをチラリ見ながら、フォッグは言った、「びた一文だって妥協はしないとね」
「もちろん、そうだ」きびしくドッドソンは言った。というのも、訴訟はたったいまはじまったばかり、たとえピクウィック氏がその気になっても、彼に妥協さすのは意味のないことだったからである。
「あなたのほうで条件を提示されないのですから」右手に一枚の羊皮紙を示し、左手でその紙の写しをやさしくピクウィック氏におしつけて、ドッドソンは言った、「この令状の写しをあなたにあげておいたほうがいいでしょう。原文はここにあります」
「よくわかりました、みなさん、よくわかりましたよ」怒り立つと同時に体も立ちあがらせて、ピクウィック氏は言った。「いずれ当方の弁護士からこちらになんとか連絡をとることにしましょう」
「そうしていただければ幸いですな」両手をこすりながら、フォッグは言った。
「とてもね」ドアを開いて、ドッドソンは言った。
「そしてわたしが失礼する前に、みなさん」踊り場でグルリと向きなおって、興奮したピクウィック氏は言った、「一言言わせてもらいましょう、すべての恥ずかしい、さもしいやり方のうちで――」
「ちょっと待ってください、ちょっと」とても|慇懃《いんぎん》にドッドソンは口をはさんだ。「ジャックソン君! ウィックス君」
「はい」階段の下に姿をあらわして、ふたりの書記は答えた。
「ただ、きみたちにこの紳士のおっしゃることを聞いて欲しいだけだ」ドッドソンは答えた。「さあ、どうぞおつづけください――すべての恥ずかしい、さもしいやり方と言っておいででしたな?」
「そうですとも」カンカンになって、ピクウィック氏は言った。「すべての恥ずかしい、さもしいやり方のうちで、これがいちばんひどいものだ、と言ったんです。わたしはそれをくりかえして申しますぞ」
「ウィックス君、聞いたね?」ドッドソンは言った。
「この言葉は忘れないだろうね、ジャックソン君?」フォッグは言った。
「たぶん、あなたはわれわれをいかさま師と呼びたいんでしょうな」ドッドソンは言った。「もしそうなら、どうぞそう呼んでください。さあ、どうぞ」
「呼びますとも」ピクウィック氏は言った。「あなたがたはいかさま師ですぞ」
「よくわかりました」ドッドソンは言った。「下のそこで聞こえるだろうね、ウィックス君?」
「はい、聞こえます」ウィックスは答えた。
「聞こえなかったら、もう一歩か二歩あがったほうがいいよ」フォッグ氏は言った。「さあ、どうぞつづけてください、つづけてください。あなたはわれわれを泥棒と呼んだほうがいいでしょう。さもなければ、われわれに乱暴したいのでしょう。もしよろしかったら、どうぞそれをしてください。こちらではほんの少しの抵抗もしませんよ。さあ、それをしてください」
フォッグがいかにも挑発的にピクウィック氏の固めた拳のとどくところに体をさしだしたので、サムがそれをとり抑えなかったら、ピクウィック氏は相手のこの熱心な懇望に応じるところだった。サムはこのやり合いを耳にして、事務所から姿をあらわし、階段をのぼり、主人の腕をつかんだ。
「こっちに来てください」ウェラー氏は言った。「羽根つきはとってもおもしろい遊びですよ、あなたが羽根、ふたりの弁護士が羽子板でないときにはね。しかし、そうなると、その遊びは刺激的、楽しくなくなっちまいます。さあ、こっちへ来てください。だれかをやっつけて気を晴らしたいんでしたら、小路に出ていって、わたしをやっつけたらいいでしょう。だが、ここでそれをやると、大損をするだけのことになりますよ」
こう言って、相手には一向おかまいなし、ウェラー氏は主人を階段から引きおろし、小路をとおりぬけ、無事にコーンヒルに彼をつれだしてから、彼のあとにつづき、どこにでも主人のあとについてゆく態勢を示した。
ピクウィック氏は呆然として歩きつづけ、マンション・ハウス(ロンドン市長の官邸)の向こう側を突っ切り、足をチープサイドに向けた。サムがどこにゆくのだろうと考えはじめていたとき、彼の主人はうしろをふりかえって言った――
「サム、わしはすぐにパーカーさんのところにゆくつもりだ」
「きのうの晩、おいでになったらよかった場所ですね」ウェラー氏は答えた。
「そのとおりだと思うよ、サム」ピクウィック氏は言った。
「そのとおりだと知ってますよ[#「知ってますよ」に傍点]」ウェラー氏は言った。
「うん、うん、サム」ピクウィック氏は答えた、「すぐにそこにゆくことにするが、まず最初に、そうとういらいらしたので、温かい水割りブランデーを一杯飲みたいんだ、サム。どこでそれを飲めるかね、サム?」
ウェラー氏のもっているロンドンの知識は広範囲のものであり、独得のものだった。彼は思案もせずにすぐ答えた――
「右側の二番目の小路――道の同じ側の最後から二番目の家です――最初の炉のとこにあるボックスをとってください。テーブルの真ん中に脚がなく、ほかのテーブルにはそれがついてるんです。脚があるのは、まったく不便ですからね」
ピクウィック氏は自分の召使いの指示に文句なくしたがい、サムについてくるように命じて、サムが教えた居酒屋にはいり、温かい水割りブランデーがすぐにもってこられた。一方、主人と同じテーブルではありながらも、ウェラー氏はしかるべき距離をおいたところに腰をおろし、黒ビール一パイントを与えられた。
部屋はじつに粗末なもの、駅伝馬車の御者たちがとくにひいきをしているものらしかった。このひろい知識を必要とする職業に属していることをはっきりと物語っている何人かの紳士が、それぞれちがったボックスで、酒を飲み、タバコをふかしていたからである。そうした人の中に太った、赤ら顔の、初老の男がいて、向こう側のボックスに坐り、ピクウィック氏の注意をひいていた。この太った男はすごい勢いでタバコをプカプカやっていたが、五、六回それをふかすと、口からパイプをはずし、最初にウェラー氏を、ついでピクウィック氏をながめていた。それから彼は一クォート入りの壺にしゃにむに顔を埋め、またサムとピクウィック氏をながめた。それから彼はまた、いかにも考えこんだふうで、五、六回タバコをふかし、彼らのほうにふたたび目を投げた。とうとう、この太った男は座席の上に両脚を乗せ、壁によりかかって、絶え間なくパイプをふかし、まるで新しい客をしっかりと調べてやろうと決心したように、煙をとおしてふたりをジッと見つめはじめた。
最初、この太った男の変わってゆく態度にウェラー氏は気づかなかったが、しだいに、ピクウィック氏の目がそちらにときおり向けられるのを見て、彼の視線は同じ方向に向けられはじめ、目に手をかざして、自分の目の前にいる者が一部はそれとわかるが、なんとかその素性をしっかりと見定めたいといったようすをしていた。しかし、彼の疑惑はすぐ解消した。太った男がパイプから濃い煙をはきだし、しゃがれ声が、なにか奇妙に腹話術でもしようとしているように、喉と胸をつつんでいた大きなショールの下から出てきて、ゆっくりと「いやあ、サミー!」と言ったからである。
「あれはだれだい、サム?」ピクウィック氏はたずねた。
「いやあ、これが本当のこととは思えないくらいです」びっくりした目をして、ウェラー氏は答えた。「あれはじいさんです」
「じいさん」ピクウィック氏は言った。「じいさんて、どんな?」
「わたしのおやじです」ウェラー氏は答えた。「やあ、ご老人、ご機嫌いかがです?」こう孝行の心を美しく発露させて、ウェラー氏は太った男のために自分の横に座席を空け、太った男はパイプをくわえ、壺を手にもって、彼に挨拶するために進んできた。
「いやあ、サミー」父親は言った、「二年以上もお前とは会ってないね」
「まったくそのとおりですよ、父さん」せがれは答えた。「義理の母さんはどうしてます?」
「うーん、いいかね、サミー」いかにも重々しい態度で父親のウェラー氏は言った。「後家さんとしたら、あのおれの第二の冒険の相手よりいい女はなかったんだがね――サミー、まったくやさしい女だったよ。おれがあの女についていま言えることは、あんなに愉快な後家さんだったんだから、身分を変えちまったのはとても残念ということだけさ。女房としてはだめなんだよ、サミー」
「だけど、そうですかね?」むすこのウェラー氏はたずねた。
溜め息をつきながら、父親のウェラー氏は頭をふりふり答えた、「おれは結婚を一度だけ多くやりすぎたよ、サミー。一度だけ多くね。お前はおやじの例にこりて、これからも後家さんにはよく注意しろよ、とくに酒場を開いてる連中にはな」この親としての注意をいかにもあわれっぽく与えてから、父親のウェラー氏はポケットにもっていたかんの箱からパイプにタバコをつめなおし、古いタバコの灰で新しいパイプに火をつけて、ぐんぐんとすごい勢いでそれを吸いはじめた。
「失礼ですが」そうとう間をおいてから、話題をむしかえし、ピクウィック氏に呼びかけて、彼は言った、「これはこちとらだけのこととは、かぎらんようですよ。後家さんはむかえないようにしてください」
「わたしはしませんよ」笑いながらピクウィック氏は答えた。ピクウィック氏がこうして笑っているあいだに、サム・ウェラーは父親にひそひそ声で、この紳士にたいする自分の関係を伝えた。
「これは失礼しました」帽子をぬいで、父親のウェラー氏は言った、「サミーになにか不都合なことでもなければいいんですがね?」
「なにもありませんよ」ピクウィック氏は言った。
「それを聞いてとてもうれしいです」老人は答えた。「せがれの教育には、ずいぶん骨を折りましたよ。まだ齢もいかないときから世間に放りだし、自分でやりくりさせたんですからな。坊主をしっかりさせるには、これにかぎりますよ」
「そうとう危険なやり方とは思いますがね」にっこりして、ピクウィック氏は言った。
「それに、たいして確実な方法とも言えませんよ」ウェラー氏は口を入れた。「こないだ、ひどい目にあいましたからね」
「まさか!」父親は言った。
「いや、そうなんです」せがれは答え、できるだけ簡単に、ジョッブ・トロッターの策略にむざむざとひっかかってしまったいきさつを語りはじめた。
父親のウェラー氏はその話をジッと注意して聞き、話が終わると、言った――
「そのうちのひとりはほっそりして背が高く、髪の毛はながくて、話し方はべらべらじゃないかね?」
ピクウィック氏はこの描写の後半はよくわからなかったが、前半だけはわかったので、あてずっぽうに「そうだ」と答えた。
「もうひとりは赤紫色の仕着せを着た黒い髪の、頭のえらくでっかいやつだろう?」
「そうです、そうです、そのとおりです」ひどくむきになって、ピクウィック氏とサムは答えた。
「じゃ、やつらがどこにいるか、こっちはちゃんと知ってるよ」ウェラー氏は言った。「やつらはふたりとも、ちゃあんと、イプスウィッチにいるよ」
「まさか!」ピクウィック氏は言った。
「まったくの事実」ウェラー氏は言った、「そのことを知ったいきさつを話してあげましょう。わたしは友人のためにときどきイプスウィッチの駅伝馬車に乗ってます。あなたがリューマチにかかった夜のちょうどつぎの日、そこにいき、チェルムズフォードの『ブラック・ボーイ旅館』――やつらがちょうどやって来た場所――で彼らを馬車に乗せてイプスウィッチまでいき、そこで召使いの男――赤紫色の着物を着た男――が、そこにながく滞在するつもりだ、って言ってましたよ」
「やつのあとを追おう」ピクウィック氏は言った、「ほかの場所よりイプスウィッチを調べてみたほうがいいだろう。やつのあとを追うことにしよう」
「おやじさん、それがやつらだっていうのは、たしかなことなんだね?」むすこのウェラー氏はたずねた。
「大丈夫、サミー、大丈夫さ」父親は答えた、「やつらの外見はとても奇妙なもんだったからね。そのうえ、あの紳士がえらく召使いとなれなれしくしてるのを、おれは妙に思ってたんだ。それに加えて、ふたりは御者台の真うしろ、前のほうに坐ってたんで、ふたりが笑い、老人の花火をやっつけた話をしてるのを耳にしたんだ」
「老人のだれですって?」ピクウィック氏はたずねた。
「老人の花火ですよ。それでやつらは、きっとあなたのことを言ってたんでしょう」
「老人の花火」という名称はべつにひどくも、兇悪なものでもない。しかし、それにしても、それは敬意のこもった、あるいは、心うれしい名称とは絶対に言えるものではない。ウェラー氏が話をはじめたとき、ジングルから受けたひどい仕打ちの思い出が、ピクウィック氏の心にわっとわきおこってきた。局面を転換するまでいま一息というところだったのだが、「老人の花火」がその転換をしてしまった。
「やつのあとを追おう」テーブルを強くたたいて、ピクウィック氏は言った。
「あさって、わたしはイプスウィッチにくだりますよ」父親のウェラー氏は言った、「ホワイトチャペルの『雄牛旅館』からね。もし本当においでになるつもりだったら、わたしといっしょにいったほうがいいでしょう」
「そのほうがいいですな」ピクウィック氏は言った。「そのとおり。ベリーに手紙を出し、イプスウィッチでわたしと出逢うように彼らに告げることもできるわけ。あなたといっしょにゆくことにしましょう。だが、ウェラーさん、べつに急ぐことはないでしょう。なにか飲みませんか?」
「ありがとうございます」途中で足をとめて、ウェラー氏は言った。「たぶん、小さなコップのブランデーであなたの健康とサミーの成功を祈っても、いけないことはありますまい」
「もちろん、そうですとも」ピクウィック氏は答えた。「ブランデーを一杯たのむ!」ブランデーがもって来られた。ウェラー氏は、ピクウィック氏のほうに髪を引っぱり、サムにうなずいたあとで、まるでほんのわずかなものといったように、それをさっと大きな喉に流しこんだ。
「父さん、みごとですね」サムは言った、「でも、用心しなけりゃいけませんよ。さもないと、むかしからの病気の中風が出ますからね」
「それの特効薬を見つけたんだよ、サム」コップを下におきながら、ウェラー氏は言った。
「中風の特効薬ですって」急いで帳面を出して、ピクウィック氏は言った――「それはなんです?」
「中風は」ウェラー氏は答えた、「中風は、あまり楽をし、ゆったりとしてると起きてくる病気です。中風におそわれたら、大声の主で、それをはりあげる気持ち十分の後家さんといっしょになんなさい。そうすりゃ、中風には二度とかかりませんよ。これはじつによく効く処方薬でしてね、わたしはそれをいつも服用してます。それはたしかにどんな病気でも追っ払っちまいますよ、あまり陽気にしていて起きた病気はどんなものでもね」この貴重な秘伝を伝えてから、ウェラー氏はいま一度コップを飲み乾し、ぎごちなくウィンクをし、深い溜め息をもらし、ゆっくりと去っていった。
「うん、きみのおやじさんの言ったことを、きみはどう思うね、サム?」ニヤリとしてピクウィック氏はたずねた。
「思うかですって!」ウェラー氏は答えた。「青髯男の家つきの牧師が、埋葬されたとき、あわれみの涙を浮かべながら言ったように、おやじは結婚生活の犠牲者だと思いますね」
このじつに適切な結論にたいしてどうとも答えようがなかったので、ピクウィック氏は勘定をすませたあとで、グレイ・イン(ロンドンにある法廷弁護士の協会は四つの建物にわかれているが、これはそのひとつ)に向けて歩きだした。しかし、そこの人気のない木立ちに着くまでに、時計は八時を報じ、泥だらけの編上げ靴、よごれた白い帽子、ようかん色になった服を着た紳士たちの途切れのない流れはそれぞれちがった出口の並木道のほうに流れ出し、事務所の大部分は、その日、もう閉じられていることを、彼に知らせた。
勾配が急でよごれた階段をふたつのぼっていったあとで、彼は自分の予想が正しかったことを知った。パーカー氏の事務所の「外のドア」は閉じられ、ウェラー氏がそこを何回か蹴とばしたあとにつづいたおそろしい沈黙は、そこの職員がもう帰っていることを伝えていた。
「これはいかにも楽しいことだな、サム」ピクウィック氏は言った。「一時間の猶予もなく、彼と会わなければならんのだからね。このことを専門家に打ち明けたという満足感がなかったら、今晩は一睡もできないことだろう」
「婆さんが階段をあがってきます」ウェラー氏は答えた。「だれかを見つける場所を、たぶん、知ってるでしょう。やあ、お婆さん、パーカーさんのとこの人は、どこにいますかね?」
「パーカーさんのとこの人は」階段をのぼったあとで息をつこうと立ちどまって、痩せた、みじめな感じの老婆が言った、「パーカーさんとこの人は帰っちまいましたよ。わたしはいま、事務所の掃除をするとこでね」
「きみはパーカーさんにやとわれている人かね?」ピクウィック氏はたずねた。
「わたしはパーカーさんとこの洗濯女ですよ」老婆は答えた。
「ああ」なかばサムにだけにといったふうに、ピクウィック氏は言った、「サム、これは奇妙なことだね、ここのあたりでは老婆のことをみんな洗濯女と言うんだよ。それはどうしてなのかな?」
「なんでも洗うことは大きらいのためでしょうよ」ウェラー氏は答えた。
「きっとそうなんだろうな」このときまでに老婆が開いていた事務所の状態のみならず、彼女のようすも、石鹸と水の利用にたいする根強い反感を示しているのをながめて、ピクウィック氏は言った。「お婆さん、パーカーさんをどこでさがしたらいいか、知っていますかね?」
「知りませんよ」つっけんどんに老婆は答えた。「いま、ロンドンにはおいでじゃないんですからね」
「それは残念なこと」ピクウィック氏は言った。「彼の書記はどこにいます? 知ってますか?」
「ええ、知ってますよ。でも、それをしゃべっても、礼は言われないことね」洗濯女は言った。
「彼にとくに折り入っての話があるんですがね」ピクウィック氏は言った。
「明日の朝じゃいけないんですかね?」女は言った。
「ちょっと具合いがわるくてね」ピクウィック氏は答えた。
「ええ、いいですよ」老婆は言った、「とくに折り入ってということだったら、彼の居場所を教えてあげなければね。それを言っても、べつにどうということもないだろうからね。『かささぎ[#「かささぎ」に傍点]と切り株』という旅館にいき、酒台のとこでラウテンという人をたずねたら、きっと彼に紹介してもらえますよ。その人はパーカーさんの書記なんだからね」
こう指示を受け、問題の旅館はある小路にあり、二重に恵まれたことに、それがクレア・マーケットのそばにあり、さらにニュー・インの裏のほんの近くにあることを知らされて、ピクウィック氏とサムはあぶなっかしい階段を無事におり、『かささぎ[#「かささぎ」に傍点]と切り株旅館』をさがしに出かけた。
ラウテン氏とその仲間のどんちゃんさわぎに献げられていたこのひいきの酒場は、ふつうの人だったら、大衆酒場と呼ぶようなものだった。そこの主人が金づくりのうまい男だということは、大きさと形の点では椅子かごに似ていないわけではない酒場の窓の下の小さな売り場が靴の修理人に貸し出されていることだけでも、よくわかった。そして彼が博愛心の持ち主であることは、入口のところで邪魔の心配もなく食物を売っていたパイ売り商人に彼が与えている庇護ぶりで、はっきりと証明されていた。サフラン色のカーテンで飾られていた低い窓辺には、二、三枚の印刷した紙切れがさがり、デヴォンシャーのサイダーやダンチッヒのスプルース飲料(とうひの枝や葉を入れて、糖蜜を発酵させてつくった飲料)を広告し、白い文字でそこの人々にここの酒場の地下蔵には五十万たるの強い黒ビールがおさめてあることを知らせている黒板は、このすごい洞窟がひろがっているかと思われる地下の正確な方向に関するまんざらでもない疑問とあいまいさの気分をかき立てていた。雨風に打たれた看板には、なかば消えかけたかささぎ[#「かささぎ」に傍点]らしき鳥が褐色のペンキで描かれたまがった線をジッとにらみ、この線は近所の人が子供のときから「切り株」と考えるようにと教わっていた事実をつけ加えれば、この建物の外観に関して言うべきことはぜんぶ言いつくしたことになるだろう。
酒台のところにピクウィック氏が姿をあらわしたとき、初老の女性がそこの仕切りから出てきて、彼の前に立った。
「ラウテンさんはここにおいでかね?」ピクウィック氏はたずねた。
「ええ、おいでですよ」おかみは答えた。「ちょっと、チャーリー、この方を奥のラウテンさんにご案内して」
「いまはだめですよ」赤毛のヒョロヒョロとした足どりの給仕の少年は言った。「ラウテンさんは喜劇の歌を歌ってて、そんな人なんか追いだしちまいますからね。すぐにそれは終わりますよ」
赤毛の給仕の少年の言葉が終わるか終わらないかに、いっせいにテーブルをたたく音とコップの鳴る音が、その瞬間にその歌が終わったことを伝えた。そしてピクウィック氏は、酒場でゆっくりやるようにとサムに言って、ラウテン氏のところに案内されていった。
「紳士の方があなたにご用があるんですがね」と言うと、テーブルの上座で椅子に坐っていた太った顔をした若い男が、ちょっとびっくりして、声がかかった方向を見た。彼の目がまだ見たこともない人の上にとまったとき、彼の驚きは減るどころではなかった。
「失礼ですが」ピクウィック氏は言った、「それにほかの紳士の方々をおさわがせして恐縮ですが、わたしは特別な用件で来たのです。部屋のこの隅で五分あなたとお話をすることができたら、とてもありがたく思います」
太った顔をした若い男は立ちあがり、部屋の目立たぬ片隅でピクウィック氏のそばに椅子を引いてきて、彼の苦情話にジッと耳を傾けてた。
「ああ」ピクウィック氏の話が終わったとき、彼は言った。「ドッドソンとフォッグ――やつらの商売はいんちき――すごい商売人ですよ、ドッドソンとフォッグはね」
ピクウィック氏はドッドソンとフォッグのいんちきを認め、ラウテンは話をつづけた。
「パーカーはロンドンにはいません。来週の末まで帰って来ないでしょう。でも、訴訟の弁護をご希望で、書類の写しをわたしにおわたしくださったら、彼が帰ってくるまでに必要なことはぜんぶしておきましょう」
「それこそ、わたしがここにやって来た用件なのです」書類を手わたしながら、ピクウィック氏は言った。「なにか特別な用事でも起きたら、イプスウィッチの郵便局あてにお便りをください」
「よくわかりました」パーカーの書記は答えた。それから、ピクウィック氏の目がジロジロとテーブルのほうに流されているのを見て、彼は言いそえた、「三十分かそこいら、われわれといっしょにやりませんか? 今晩ここには、すばらしい連中が集まっているんです。サムキンとグリーンのところの書記長、スミザーズとプライスのところのおえら方、ピムキンとトマスのところの外交員――これはすばらしい歌を歌う男――それにジャック・バムバー、そのほか、たくさんの人がいます。あなたはいなかからおいでになったんでしょう。われわれといっしょになりませんか?」
ピクウィック氏は、人間性の研究をするこの絶好の機会に抵抗することはできなかった。彼はテーブルのところにつれてゆかれ、そこできちんとみなに紹介されてから、座長の近くの座席を与えられ、彼の好きな飲み物を一杯注文した。
ピクウィック氏の予想とはまったく逆に、深い沈黙がつづいた。
「こういったことはあなたには不愉快ではないでしょうね?」市松模様のシャツとモザイク模様の飾りボタンを着けた彼の右手の紳士が、口に葉巻きをくわえて、言った。
「いや、ぜんぜん」ピクウィック氏は言った、「わたしは自身タバコをやりませんが、これはとても好きです」
「タバコのみでなかったら、わたしはとてもさびしいでしょうな」テーブルの向こう側の紳士が口をはさんだ。「タバコは、わたしにとって、食事つきの下宿みたいなもんですからな」
ピクウィック氏はチラリとその話し手をながめ、それが洗濯づきでもあったら、なおよかったろうに、と思った。
ここで話がまた途切れた。ピクウィック氏はここでは見知らぬ男、彼がはいってきたことは、一座の話題をしめらせてしまったのだった。
「グランディさんがみなさんに歌を披露してくださいます」座長は言った。
「いや、だめだよ」グランディ氏は言った。
「どうしてだめなんです?」座長はたずねた。
「歌えないからさ」グランディ氏は答えた。
「歌うつもりはないと言ったほうがいいですな」座長は応じた。
「うん、じゃ、歌うつもりはないよ」グランディ氏はやりかえした。グランディ氏が一座の要望を強く拒否したことは、また沈黙をひきおこした。
「だれもみんなの元気をつけてくれないんですか?」がっくりして座長はたずねた。
「座長、きみがどうしてみんなの元気をつけてくれないんだね?」テーブルの下座のところから、頬髯をつけ、やぶにらみの、胸の開けたシャツの(きたない)カラーを着けた若い男が言った。
「ヒヤ! ヒヤ!」モザイク模様の飾りボタンの紳士が叫んだ。
「ぼくの知ってる歌はひとつだけ、それはもう歌ったし、一晩で同じ歌を二度歌うのは、『盃をまわせ』の最後のときだけなんだよ」座長は答えた。
これはぐうの音も出ぬ返事で、沈黙がふたたび一座を支配した。
「わたしが今晩いったところは」みなが議論に参加できる話題を見つけたいと思って、ピクウィック氏は言った、「わたしが今晩いったところは、みなさんがきっとよくご存じの場所、しかし、わたしは何年間かいったことがなく、ほとんどなにも知らない場所です。というのは、グレイ・インのこと。あの古めかしい四法学院(ロンドンにある法廷弁護士の協会で、インナー・テムプル、ミドル・テムプル、リンカン・インとグレイ・インの四つの建物にわかれている)はロンドンのような大都市ではじつに奇妙な一隅ですからね」
「まったく」テーブル越しにピクウィック氏にささやいて、座長は言った、「あなたはわれわれのうちのだれかがいつまでも語りつづけるような話題をもちだしてくださいましたね。老ジャック・バムバーがきっと話し出しますよ。彼の話すことといえば、四法学院のことばかり、ほとんど気ちがいになるまで、彼はずっとそこにひとりで住んでいたんです」
ラウテンが言った人物は小さな、黄色の、肩を張った男で、だまっているときには前かがみになる癖をもっているために、ピクウィック氏はその顔に気がついていなかった男だった。この老人がしわだらけの顔をあげ、いかにももの問いたげに、灰色の目を彼のほうに向けたとき、彼はどうしてこんなに特徴のある顔にいままで少しも気がつかなかったのだろうと思った。その顔にはいつも不気味な微笑がまといつき、異常なほどながい爪を生やしたながい、しわだらけの手に顎を乗せていた。頭を傾け、ぼうぼうに生えた灰色の眉毛の下から鋭い目を投げたとき、その流し目には奇妙な、あらあらしい狡猾さがひそみ、それは見るもいまわしいものだった。
いま前にとびだし、勢いよく滔々としゃべりだしたのは、この人物だった。しかし、この章はながいものになり、この老人は注目すべき人物なので、新しい章で彼にひとりで語らせたほうが、彼にたいして敬意を払うことになり、われわれにとっても便利であろう。
[#改ページ]
C.ディケンズ (Charles Dickens)
(一八一二――一八七〇)イギリスを代表する作家の一人。法律事務所勤務、新聞の通信員などを経て作家の道に入る。『ディヴィッド・コッパーフィールド』『二都物語』『オリヴァー・トゥイスト』『クリスマス・キャロル』など多数の名作がある。
北川悌二(きたがわ・ていじ)
(一九一四――一九八四)東京に生まれる。東京大学卒業。東京大学教授を経て独協大学教授。訳書に『クリスマス・キャロル』他、ディケンズの作品多数がある。
本作品は一九七一年一一月、三笠書房より刊行され、一九九〇年二月、ちくま文庫に収録された。