オリヴァ・トゥイスト(下)
チャールズ・ディケンズ/北川悌二訳
目 次
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(三十一)危機一髪の場面
(三十二)親切な人たちとともにオリヴァがはじめた幸福な生活
(三十三)オリヴァとその友人たちの幸福が突然障害にゆきあたる
(三十四)新しく登場する若い紳士に関する前置きの話。オリヴァの身に起きた新しい冒険
(三十五)オリヴァの冒険の不満足な結果、ハリー・メイリーとローズのあいだでかわされた重要な会話
(三十六)とても短い章で、さして重要とは思えぬものだが、後へのつづきとして、いずれ起きるものを解く鍵として、読んでおかねばならぬ章
(三十七)この章では、読者に、結婚生活でよくある対照をお目にかける
(三十八)新しく登場する若い紳士に関する前置きの話。オリヴァの身に起きた新しい冒険
(三十九)読者がすでにご存じの尊敬すべき人たちを紹介し、マンクスとユダヤ人の合議を示す
(四十)前章のつづきである奇妙な会見
(四十一)新しい発見が語られ、不幸と同じく、驚きも単独では来ないことを示す
(四十二)オリヴァの旧友が、天才ぶりを発揮して、ロンドンで有名な人物になる
(四十三)手練のぺてん師、苦境におちいる
(四十四)ローズ・メイリーにした約束を果たすときがやってくるが、ナンシーはそれに失敗する
(四十五)フェイギンによってノア・クレイポールが秘密使命につかされる
(四十六)守られた約束
(四十七)重大な結果
(四十八)サイクスの逃亡
(四十九)マンクスとブラウンロウ氏がついに出逢う――二人のあいだにかわされた話とその最中にはいった知らせ
(五十)追跡と逃亡
(五十一)いくつかの謎の説明、とりきめや結納《ゆいのう》ぬきでおこなわれる結婚申しこみの話をふくむ
(五十二)フェイギンの最後の夜
(五十三)しめくくり
訳者あとがき
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三十一 危機一髪の場面
「どなたですか?」手でろうそくの光をかくしながら、鎖をはずして扉を少し開け、外をのぞきながら、ブリトルズはたずねた。
「戸を開けてくれ」外の男は答えた。「今日《きょう》呼ばれた警察《さつ》の者だ」
この言葉でうれしくなってしまったブリトルズが戸を大開きに開くと、そこには外套《がいとう》を着込んだ太った男が立っていて、なにもいわずにズカズカと家にはいりこみ、まるで自分がこの家の主《ぬし》といったふうに落ち着きはらって、靴のほこりをぬぐいはじめた。
「若いの、仲間を助けに、ちょっとだれかをやってくれないか?」刑事はいった。「彼は馬の世話を見て、二輪馬車の中にいるよ。五分か十分のあいだ、馬車を入れる小屋がここにはないのかね?」
ブリトルズは、あると答え、その建物をさしたので、太った男は庭の門のところまでもどり、その仲間が二輪馬車を入れるのを手伝い、ブリトルズは、すごく驚嘆した模様で、彼らを燈《あか》りで案内してやった。これが終わると、彼らは家にもどり、客間にはいってから、外套《がいとう》と帽子を脱ぎすてて、彼ら本来の姿を示した。
戸をノックした男は中背の太った人物、五十くらいで、テラテラしたかなり短く刈った黒い髪、半|頬髯《ほおひげ》、丸い顔、鋭いまなざしをもった男だった。もう一人は、長靴をはいた赤毛の骨ばった男、顔はそうとう醜悪で、無気味に鼻をツンとそらせていた。
「ブラザーズとダフがきた、と主人に伝えてくれんかね?」髪をなでつけ、テーブルの上に一対の手錠をおいて、太った男がいった。「おお、ご主人、今晩は! よろしかったら、内々にそちらと話ができますかね?」
これは、そのときに姿をあらわしたロスバーン氏にかけた言葉だったが、この紳士はブリトルズに、部屋を出てゆけ、と身ぶりをし、二人の婦人を引き入れて、扉を閉めた。
「こちらがこの家の女主人公です」メイリー夫人を身ぶりでさして、ロスバーン氏はいった。
ブラザーズ氏はお辞儀をした。お坐りください、といわれて、彼は帽子を床におき、椅子に腰をおろして、ダフに、同じことをやれ、と身ぶりで合図した。このあとの紳士は、上流社会にあまり馴れていないのか、そこであまりくつろげないようすで――そのいずれかにちがいないのだが――何回か手足の筋肉を苦しそうにムズムズさせてから、坐りこみ、多少|狼狽《ろうばい》気味に、ステッキの頭をむりやり口の中に押しこんだ。
「さて、今度の泥棒についてですが」ブラザーズはいった、「いったいどんな事情だったんでしょう」
時をかせごうとしているらしいロスバーン氏は、それをながながと、まわり道をして語りたてた。ブラザーズ氏とダフ氏は、そのあいだ、いかにも物知り顔をし、ときどきうなずき合っていた。
「もちろん、手口を見るまでは、はっきりとしたことは申せませんがね」ブラザーズはいった。「だが、わしの直感は――この程度までは申してかまわんと思いますが――これはヨーケルの仕業ではないということです、なあ、ダフ?」
「たしかに、そうですな」ダフは答えた。
「ご婦人がたのためにヨーケルという言葉を翻訳すれば、きみのいわれる意味は、この仕業はいなか者のやったことじゃない、ということですな?」にっこりして、ロスバーン氏はいった。
「そうです」ブラザーズは答えた。「この侵入事件についてのお話は、それだけですな?」
「そうです」医者は答えた。
「ところで、召使いたちが話してる少年のことですが、それは何者です?」
「べつにどうということもありません」医者は答えた。「おびえた召使いの一人が、この少年のことを今度の家宅侵入事件に関係ありと考えたまでのことで、まったくバカげたこと――根も葉もないことです」
「もしそうだとすれば、この少年をじつに簡単に片づけたことになりますな」ダフがいった。
「同感です」いかにもそうだといわんばかりに頭をうなずかせ、手錠をカスタネットのように無造作《むぞうさ》にもてあそびながら、ブラザーズはいった。「その少年は何者です? 自分のことをどんなふうに述べてるんです? その子はどこからきたんです? まさか、雲から舞いおりてきたわけでもないでしょう。どうです?」
「もちろん、そうではありませんとも」神経質に二人の婦人をチラリとながめながら、医者は答えた。「子供の経歴のことは、このわたしがぜんぶ心得ていますが、そのことはいずれすぐお話しすることにしましょう。それよりまず第一に、盗賊が侵入をくわだてた場所をごらんになりたいでしょう!」
「もちろんです」ブラザーズ氏は答えた。「われわれは根拠となる事実をまず調査し、そのあとで召使いを訊問します。それが常道ですからな」
燈《あか》りがいくつかもちだされ、土地の巡査にともなわれたブラザーズ氏とダフ氏、ブリトルズ、ジャイルズ、簡単にいって、その他の全員が廊下の端《はし》の小部屋におもむき、窓から外をながめ、その後芝生をきって表にまわり、窓をのぞきこみ、それから、ろうそくをわたしてもらって鎧戸《よろいど》を調べ、それから、カンテラで足跡を調べ、さらにそのあと、熊手で藪をかきさがした。これが終わってから、見ている者が固唾《かたず》を飲んでいる中で、彼らは家の中にはいり、ジャイルズ氏とブリトルズは、前夜の冒険で彼らが演じた役割りのメロドラマ的な再演を要求されたが、二人はそれを六回も上演し、初回には一箇所以上の重要なところで二人の演出はくいちがい、六回目には十二箇所以上でくいちがってしまうはめになった。この上演が終わると、ブラザーズとダフは部屋を出てゆき、ながい会議を開いたが、この会議にくらべたら、秘密と厳粛さの点で、医学の面倒な点に関する名医の会議も児戯《じぎ》に類する感じだった。
一方、医者はとても不安げに部屋をあちらこちらと歩きまわり、メイリー夫人とローズは、心配そうな顔つきで、それをながめていた。
「まったく」何回か速足で歩きまわったあとで、足をとめて、彼はいった。「どうしたもんか、見当もつきませんな」
「きっと」ローズはいった。「あの少年のあわれな話をそのままあの人たちに話してあげたら、彼は許してもらえますことよ」
「さあ、どうでしょうかな」頭をふりながら医者はいった。「そんなことをしても、彼らや警察の上司に通じるもんではないでしょう。少年は、結局、何者だ、と彼らはいうでしょうからな。逃亡者にすぎません。世俗的な考えかたと可能性で判断すれば、少年の話はじつに眉つばものですからね」
「先生はそれを信じておいででしょう?」ローズは口をはさんだ。
「わしは信じています、奇妙な話ですがね。そして、ひょいとしたら、そんなことをして、大バカになってるのかもしれませんな」医者は答えた。「だが、その話は手練《てだれ》の刑事向きの話とは思えませんね」
「どうしてです?」ローズはたずねた。
「それというのも、かわいい反対訊問者さん」医師は答えた、「刑事の目から見れば、それにはおもしろくない点がたくさんあるからです。少年が証明できるのは、まずい話ばかり。好都合なところは証明できんのです。刑事たちはいまいましいやつで、『なぜ』、『なんのため』とばっかりいっていて、どんなことも当然のこととは考えんのです。少年自身が示すところでも、彼はしばらくのあいだ泥棒の仲間入りをし、紳士のポケットをねらったことで、警察に引っぱられているんです。彼はむりやりその紳士の家から連れだされたんですが、その場所については、彼はなにもいえず、その位置についても、ぜんぜん見当がついていません。彼は、彼にすっかり惚《ほ》れこんでいたらしい男たちの手で、否応なくチャーツェーに連れてこられ、泥棒を働くために、窓から入れられ、家人に急を知らせ、彼の立場を有利にしてくれるのに打ってつけのことをしようとしたその瞬間、あのへまばかりやらかす、しつけのわるい給仕頭がとびこんできて、彼を撃っちまったんです! まるで、少年が自分でなにかいいことをしようとするのに邪魔をするようにね! こうしたことすべてが、おわかりになりませんかね?」
「もちろん、わかりますわ」医者の性急さににっこりしながら、ローズは答えた。「でも、そうしたことに、あの子を罪人にするものは、なにもないと思いますけど……」
「ありません」医者は答えた。「もちろん、ありませんとも! あなたがた女性の輝く目はありがたいもんですな! それは、よきにつけ悪《あ》しきにつけ、どんな問題でもひとつの面しか見ない、つまり、最初に目にうつったものしか、いつも見ないのですからね」
この経験の結論を披露《ひろう》におよんで、医者は両手をポケットに突っこみ、前よりもっとはやい速度で、部屋を歩きはじめた。
「考えれば考えるほど」医者はいった、「刑事たちにあの少年の真実の話を知らせると、まずいこと、困ったことが多く起こってきます。きっと、それは信じられはせんでしょう。刑事たちが少年に結局はなにもすることができないにしても、その話を引っぱり出し、それに投げられる疑点を公表することは、彼を悲境から救ってやろうという慈悲深いあなたの計画の大きな邪魔になるでしょう」
「ああ! どうしたらよいのでしょう?」ローズは叫んだ。「まあ、まあ、どうしてあの人たちは刑事などを呼んだのかしら?」
「まったくね!」メイリー夫人は叫んだ。「あの人たちに家にきてもらうなんて、望んでもいないことだったのに!」
「わしがわかっていることといえば、ただ」一種のやけっぱちの冷静さといった態度で腰をおろして、ロスバーン氏はとうとういった、「ケロケロッとした厚かましさで、なんとかうまく切りぬけるだけですな。目的は正しいもの、それがわれわれの名分です。あの少年は熱病の徴候を強く示し、訊問を受ける状態にはありません。これはありがたい点です。われわれはなんとかこの状態をしのがなければならず、結果としてまずくいっても、その責任はわれわれにはないんです。おはいり!」
「さて」ブラザーズはその同僚にともなわれて部屋にはいり、扉をしっかり閉めてから、口を開いた。「これは八百長《やおちょう》事件ではありませんな」
「いったい、八百長《やおちょう》事件とは、どんなことなんです?」イライラして医者はたずねた。
「召使いが|ぐる《ヽヽ》になってるとき」婦人たちのほうに向き、まるで彼らの無知をあわれみ、医者のおろかさを軽蔑しているような態度で、ブラザーズはいった、「われわれはそれを八百長《やおちょう》事件というんです」
「このことでは、だれも召使いを疑ってはいませんよ」メイリー夫人がいった。
「奥さん、たぶん、そうでしょうな」ブラザーズは答えた。「だが、たとえそうだとしても、彼らは|ぐる《ヽヽ》になってたかもしれませんからな」
「だからこそ、なおくさいわけです」ダフはいった。
「これは町者の仕業です」報告をつづけて、ブラザーズはいった。「この手口は一級品ですからな」
「じつにみごとなもんです」声を低めて、ダフがいった。
「これをしたのは二人で」ブラザーズは話しつづけた。「少年を連れてました。それは、窓の大きさからはっきりとわかるこってす。いまわかってるのは、これだけです。もしよろしかったら、二階にいるその若い者《もん》とすぐ会うことにしましょう」
「それより先に、メイリー夫人、なにか一杯飲んでもらったら、どうでしょう?」なにか新しい名案でも浮かんだといったように、面《おもて》を輝かせて、医者はいった。
「まあ、ほんとうにそうですわ!」熱をこめてローズは叫んだ。「よろしかったら、すぐお出ししますことよ」
「いや、ありがとうございます。お嬢さん!」上衣の袖《そで》で口をぬぐって、ブラザーズはいった。「こうした仕事というもんは、無味乾燥なもんでしてな。なにか即席のもんで結構《けっこう》ですよ。お嬢さん。どうか、われわれのために、面倒なことはなさらんでください」
「飲むものは、なににしましょう?」若い婦人に食器棚のところまでついていって、医者はたずねた。
「同じことでしたら、ちょっと酒を」ブラザーズは答えた。「奥さん、ロンドンからの馬車は寒いもんでしてな。酒のほうが気持ちに温かくピタリとくるようですな」
このおもしろい話はメイリー夫人に話しかけられたものだったが、彼女はそれをとても愛想よく受け、それが彼女に語られているあいだに、医者は部屋からぬけだしていった。
「ああ!」ワイングラスの足をつかまず、その底を左手のおや指と人さし指のあいだにはさみ、それを胸の前におきながら、ブラザーズ氏はいった。「ご婦人がた、こうしたやり口の仕事には、いままで何回かお目にかかったことがあるんです」
「エドモントンの裏町のあの押し込み強盗のこってすな、ブラザーズさん」仲間の記憶力に助け舟を出して、ダフ氏はいった。
「あれは、ここのと、ちょっとばかし似てるじゃないか、えっ?」ブラザーズ氏は答えた。「あれはコンキー・チックウィードの仕業だったな」
「あんたはいつも、あれはやつのやったことといってるけど」ダフは答えた。「あれはファミリー・ペットの仕業ですぜ。コンキーは、このわたしと同様、あの事件には関係ありませんぜ」
「バカをいえ!」ブラザーズ氏はやりかえした。「わしのほうがもっとよく知ってるんだ。だが、コンキーが自分の金を盗まれたときのことを知ってるか? まったく、あれにはおったまげたな! 小説に出てくる話よりもっとすげえや!」
「それは、どんなことでしたの?」この好ましからぬ訪問者の上機嫌の徴候をなおつのらせようとして、ローズはたずねた。
「それは、だれも知らない泥棒話なんです」ブラザーズはいった。「このコンキー・チックウィードは――」
「コンキーというのは、鼻の大きなという意味でしてな」ダフは口をはさんだ。
「むろん、奥さんはそんなことなんて承知の助だ、そうでしょう?」ブラザーズはたずねた。「相棒、おまえはいつもおれの話の腰を折ってばかりいやがる! お嬢さん、このコンキー・チックウィードは、お嬢さん、バトルブリッジの向こうで酒場を開いてましてな、そこに地下蔵があり、そこにはたくさんの貴公子がお見えになり、闘鶏や穴熊いじめなんぞをご覧になってました。その運営ぶりはじつにみごとなもん、わたしがこの目でそれをときどき見たんですからな。彼は、そのころ、まだ泥棒の仲間にははいっていませんでした。そして、ある夜、ズックの袋に入れた百二十七ギニーの金を盗まれたんですが、それは彼の寝室から、真夜中に、片目に黒い眼帯をかけた男の手で運び去られちまったんです。この盗んだやつは、寝台の下に身をしのばせて、盗みをすませてから、一階分の高さしかない窓からさっと飛びだしちまったんです。彼はそれをとても素早くやったんですが、コンキーもまた素早いもんでした。彼はその物音で目をさまし、寝台からとびだして、そのうしろ姿にラッパ銃を撃ちかけ、近所の人を起こしちまったんです。彼らはすぐ大さわぎして盗人を追いかけはじめ、あたりを見まわして、コンキーがその盗人を撃ったことを知ったんです。そうとうはなれたとがり杭《ぐい》の柵《さく》のとこまで、血の跡があり、そこでその跡が消えてたからです。だが、盗人は現金をもって逃げだしたんですから、したがって免許もちの酒類販売業者チックウィードの名は、ほかの破産者といっしょに、官報に載せられちまいました。いろんな恩典、寄付、その他がこのあわれな男のために集められたんですが、彼はこの損失でがっくりし、すごくやけくそなふうに髪をかきむしりながら、町の通りを三日か四日歩きまわってました。彼は自殺しようとしているんじゃないか、とみんなが心配したくらいでした。ある日、あわてふためいて、彼は警察《さつ》にやってき、治安判事と人をまじえずに会い、ながいあいだ話してから、治安判事はベルを鳴らして、ジェム・スパイアーズを呼べと命じ(ジェムは当時腕っききの刑事でした)、チックウィード氏の家に押し入った男の逮捕で、チックウィード氏を援助するようにと命じたんです。『スパイアーズさん、昨日《きのう》の朝、ぼくは例の犯人がぼくの家の前をとおったのを見たんです』とチックウィードは言いました。『どうしてとんでゆき、とっつかまえなかったんだ?』スパイアーズはたずねたんです。『すっかり度肝をぬかれちまいましてね、つま楊枝《ようじ》で、頭に穴を空《あ》けられたくらいにね』あわれな男はいいました。『でも、まちがいなし、やつはつかまえられます。夜十時と十一時のあいだに、やつはまた、とおったんですから』スパイアーズはこのことを聞くとすぐ、ポケットに洗ったシャツと櫛《くし》を入れ、出かけていって、いつでも飛びだせるようにして、帽子をかぶり、小さな赤カーテンのうしろの酒場の窓のとこに、はりこんだんです。夜おそく、彼がパイプをくゆらしてると、いきなり、チックウィードが『犯人はあの男だ! 泥棒をとっつかまえろ! 人殺し!』とわめきだす。ジェム・スパイアーズはとびだす、そして目の前に、チックウィードがワイワイわめきながら通りをふっとんでく姿を見たんです。チックウィードはドンドン走る。人々はグルリと向きを変え、みんなが『泥棒だ!』とわめき、チックウィード自身はずっと、気がくるったようにして叫びつづける。スパイアーズは、彼が町角をまがったとき、ちょっと彼の姿を見失い、角をとんでまがると、人だかりが目にはいり、そこにとびこんで、『犯人はどれだ?』と叫ぶ、『畜生! またやつに逃げられちまった』とチックウィードがこぼす始末。これは大変な事件だったんですが、犯人の姿はどこにもなし、結局二人は酒場にもどってきました。翌朝、スパイアーズは例の場所にはりこみ、目がいたくなるまで、片目に黒い眼帯をかけた背の高い男が通るのを、カーテンのうしろから見はってたんです。とうとう、目をちょっと楽《らく》にするために、目を閉じなければならなくなり、それをしたちょうどその瞬間に、チックウィードが『犯人はあの男だ!』とわめくのを耳にする。もう一度、彼はとびだす、チックウィードは彼の前方、通りを半分いったとこを突っ走り、昨日《きのう》より二倍も走ったあとで、犯人をまた見失ってしまったんです! これがさらに一度か二度くりかえされ、近所の人の半分は、チックウィード氏から金をさらったのは悪魔なんだ、そして、そのあとで彼をからかってるんだ、といいだし、残り半分は、かわいそうに、チックウィード氏の頭は悲しみでくるっちまったんだ、といいだすさわぎ」
「ジェム・スパイアーズの意見はどうでした?」この話がはじまると間《ま》もなく、部屋にもどってきていた医者はたずねた。
「ジェム・スパイアーズはね」刑事はつづけた。「ながいこと一言もいわず、聞かぬふりをしながら、すべてのことを聞いてましたよ。自分の職務の要領を心得てた証拠ですがね。だが、ある朝、彼は酒場にはいってゆき、嗅ぎタバコ入れを出して、いったんです、『チックウィード、ここの店の盗人はだれだかわかったよ』『そうですか?』チックウィードは反問し、『ああ、スパイアーズさん、ぼくに復讐させてください。それができたら、心おきなく死ねます! ああ、スパイアーズさん、その悪党はどこにいるんです?』『さあ!』嗅ぎタバコをひとつまみ彼にやって、スパイアーズはいいましたね、『バカなことはやめろ! おまえ自身がそれをしたんじゃないか』たしかにそうだったんです。その上、彼はそれで、しこたま金をもうけたわけです。彼が、その上、体裁をつけようとひどくむきにならなかったら、だれも真犯人を見つけだすことはなかったでしょうな!」ワイングラスを下におき、手錠をカチンと鳴らして、ブラザーズ氏はいった。
「まったく奇妙なこってすな」医師はいった。「さて、よろしかったら、二階におあがりください」
「よろしかったら、おねがいします」ブラザーズは答えた。ロスバーン氏のピタリあとについて、二人の刑事はオリヴァの寝室にあがってゆき、ジャイルズ氏が、ろうそくを手にして、一行の先に立っていった。
オリヴァはウトウトと眠っていたが、容態はわるいらしく、前よりもっと熱になやまされているようだった。医者に助けられて、彼は、一分間かそこいら、なんとか床で起きなおり、なにが起きているのかぜんぜん見当がつかず――事実、自分がどこにいるのか、どんなことが進行中なのか思い出せぬようすで、見知らぬ男たちをジッとながめていた。
「これが」ものやわらかだが、それにもかかわらず、猛烈な激しさをこめて、ロスバーン氏はいった、「これが、裏の某々氏の敷地に少年らしいいたずらで侵入し、偶然わなの仕掛け鉄砲で負傷し、今朝助けを求めにきた少年です。彼はそこにいる、手にろうそくをもった利口な紳士にとっつかまり、ひどい虐待を受け、生命も危殆《きたい》にひんする状態に追いこまれてしまいました、これは医師として、わたしが証言できることですがね……」
こうした紹介をしたとき、ブラザーズ氏とダフ氏はジャイルズ氏のほうに目をやった。とまどった給仕頭は、恐怖と当惑をまじえたじつにこっけいなようすで、目を彼らからオリヴァのほうへ、オリヴァからロスバーン氏のほうへとうつしていった。
「きみはその事実を認めるだろうな?」オリヴァをそっと横にして、医師はいった。
「万事よかれ――よいようにと、いたしたことです」ジャイルズは答えた。「たしかに、それがあの少年だと思いこんでいたんです。そうでなかったら、わたくしが手を出すことはございませんでした。わたくしは不人情な男ではございませんからね」
「それがどんな少年だと思ったのかね?」先輩格の刑事がたずねた。
「押し込み強盗の少年だと思ったんです!」ジャイルズは答えた。「賊はたしかに少年を連れていたんです」
「ふーん、それで、いまでもそうだと思ってるのかね?」ブラザーズはたずねた。
「それは、どういうことでしょう?」ポカンとして、質問者をながめながら、ジャイルズはたずねた。
「バカだな、それが同じ少年だと考えてるか? ってえことさ」ブラザーズはイライラしてやりかえした。
「わかりません。ほんとうにわかりません」もの悲しげな顔つきをしてジャイルズはいった。「あの子がその少年だとは、宣誓して証言するわけにはまいりません」
「きみは、どう考えてるんだ?」ブラザーズ氏はたずねた。
「どう考えていいのかわかりません」あわれなジャイルズは答えた。「それがあの少年とは思いません。ほんとうに、ちがうとほとんど確信してます。そんなことは、あり得ぬことですから……」
「この男は酒を飲んでるんですか?」医者のほうにふり向いて、ブラザーズはたずねた。
「きみはじつに頭のわるい男だなあ!」最高の軽蔑をこめて、ダフはジャイルズ氏に話しかけた。
この短いやりとりのあいだ、ロスバーン氏は患者の脈をはかっていたが、彼はいま寝台のわきの椅子から立ちあがり、もし刑事たちがこの問題についてなにか疑点をもっているのだったら、となりの部屋にゆき、ブリトルズを調べたほうがいいのではないか、といった。
このすすめにしたがい、刑事たちはとなりの部屋にうつっていったが、そこで、呼びこまれたブリトルズは、彼自身と彼の尊敬する目上の者を新しい矛盾とあり得ぬことのすばらしい迷路に引きこみ、その結果、事態はとんとわからぬものになり、わかったことといえば、彼が狐《きつね》につままれた状態にあることだけになってしまった。彼が陳述したことは、じっさい、犯人の少年がいま目の前にあらわれても、それが犯人だとは見当もつかず、ジャイルズ氏がそうだといったので、オリヴァを犯人と思っただけ、五分前に、ジャイルズ氏自身が結論を出すのに少し急ぎすぎたらしいといっていた、ということだけだった。
ほかのさまざまな手のこんだ推測の中で、ジャイルズ氏がじっさいに人を撃ったかどうかという問題が起こり、彼が発砲したのと同じピストルを調べてみると、そこには火薬、褐色の包装紙以外におそろしい装填物《そうてんぶつ》はなにもないことがわかった。この発見は、医者以外の全員には深い感銘を与えたが、それというのも、弾を十分前にぬきとったのは、この医者自身だったからである。なかでも、とりわけ深い感銘を受けたのは、ジャイルズ自身だった。彼は人間に致命傷を与えたのではないか、と数時間苦慮したあげく、この新しい考えかたに飛びつき、それに最大限の肩を入れていた。最後に、刑事はオリヴァのことはあまり考えずに、チャーツェーの巡査を家に残し、翌朝もどってくることを約束して、チャーツェーで休息をとることになった。
翌朝|噂《うわさ》が伝わってきた。それによると、二人の男と一人の少年がキングズトンで拘留されていて、彼らは前夜疑わしい事情のもとで逮捕されたことがわかった。そこで、ブラザーズ氏とダフ氏はそこへ急行した。しかし、その疑わしい事情というのは、調査の結果、彼らが干《ほ》し草の山の下に眠っているところを発見されたというひとつの事実に帰着し、それは、大罪ではあるにしても、入獄だけですむこと、イギリスの慈悲深い法律と国民すべてに示されているそのひろい愛情の目から見れば、ほかの証拠がない以上、単数なり複数なりのこの眠っていた者が暴力をともなった押し込み強盗をやり、その結果、死の処罰を受けるべき十分の証拠とはならぬことがわかった。ブラザーズ氏とダフ氏は、出かけていったときと同様、なんの鍵もつかまないままで、もどってきた。
要するに、それから少しおこなわれた調査を大いに語り論じたあとで、もしオリヴァの出頭が要請される場合に、その出頭にたいしてはメイリー夫人とロスバーン氏が共同で保証金を積むということで、治安判事は納得した。そして、ブラザーズとダフは、二ギニーの礼金をもらい、この遠征の事件についてそれぞれ異なった意見をいだいたまま、ロンドンにもどっていった。ダフは、諸種の事情をよく考えた結果、この夜盗行為をファミリー・ペット創案によるものと断定し、ブラザーズは、この夜盗のなみなみならぬ腕前を偉大なるコンキー・チックウィードのなせる業だろうと考えていた。
一方、オリヴァは、メイリー夫人、ローズ、親切者のロスバーン氏の協力になる看護のもとで、しだいに元気を回復していった。感謝の気持ちがあふれるほど満たされている心から発する熱烈な祈りが、もし天国で聞きとどけられるとしたら――もしそれが聞きとどけられなかったら、どんな祈りが聞かれることだろう?――孤児の祈りによって彼らの上にもたらされた祝福の言葉は、彼らの魂に深くしみこみ、そこに平和と幸福をもたらしたのだった。
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三十二 親切な人たちとともにオリヴァがはじめた幸福な生活
オリヴァの具合いのわるいところは、軽いものでも、わずかなものでもなかった。痛めつけられた腕の痛みと手当てのおくれにつけ加えて、湿気と寒気にさらされたことが、熱と|おこり《ヽヽヽ》をひき起こし、それが何週間もとれず、彼を骨と皮にしてしまった。だが、とうとう、ゆっくりではあるが、彼は快方に向かいはじめ、涙ながらのわずかな言葉で、二人のやさしい婦人の好意をどんなに深く感謝しているか、ふたたびもっと強く元気になったら、その感謝の情をあらわすために、なにかすることができるのを、どんなに心の底から望んでいるか、を口にすることができるようになった。それは、彼の胸をいっぱいにしている愛情と敬意を彼らに示すものであり、どんなにつまらぬものであろうと、彼らのやさしい親切がむだにすてられたものではなく、彼らの慈悲によってみじめさ、あるいは死から救い出されたあわれな少年が、心すべてをこめて、彼らに奉仕したいとねがっているものだった。
「かわいそうに!」青ざめた唇に湧いてきた感謝の言葉を、ある日、オリヴァが弱々しく語ろうとしたときに、ローズはいった。「その気になれば、わたしたちに役だつ機会はいくらもありますよ。わたしたちは、いなかにゆくつもり、そして、叔母《おば》さまはあなたを連れてゆくといっておいでなの。静かな場所、きれいな空気、春の楽しみとよろこびすべてで、何日もたたないうちに、あなたはすっかりもとどおり元気になるでしょう。あなたが仕事をしても苦労にならなくなったら、いろいろとあなたに働いていただくわ」
「苦労ですって!」オリヴァは叫んだ。「おお! もしあなたのために働くことができたら、花に水をやり、鳥の世話をし、一日中かけまわって、あなたによろこんでいただけたら、ぼくはそのために、なにをすてても惜しくはありません!」
「なにもすてることはないことよ」にっこりして、メイリー嬢はいった。「というのも、前にもいったとおり、わたしたちはいろいろとあなたに働いていただくの。あなたがいま約束している半分でも、わたしたちをよろこばすために、骨を折ってくださったら、わたし、どんなにうれしいことでしょう」
「うれしいですって!」オリヴァは叫んだ。「そういってくださって、ほんとうにありがとうございます!」
「口にはいえないほど、うれしいことよ」若い婦人は答えた。「あなたは、悲しい苦しみの話をしてくださったことね。叔母《おば》さまのお蔭で、あなたをそこから救い出すことができたら、言葉に出せぬほど、わたしにはうれしいことよ。叔母《おば》さまに親切と同情をかけられた人が、それを心から感謝し、よろこんでいるとしたら、それは、あなたには想像できないくらい、わたしにうれしいことよ。わたしのいったこと、わかったこと?」オリヴァの考えこんだ顔をジッと見守りながら、彼女はたずねた。
「ええ、わかりました、わかりました!」むきになって、オリヴァは答えた。「でも、ぼくは恩知らずだ、といま考えていたのです」
「だれに?」若い婦人はたずねた。
「前にぼくの世話をとてもよくみてくださったあの親切な紳士と齢《とし》とった看護婦さんにです」オリヴァは答えた。「ぼくがどんなに幸福か、もし知ってくれたら、二人はきっとよろこんでくださるでしょう」
「きっと、そうね」オリヴァの恩人は答えた。「そして、ロスバーンさんはご親切にも、あなたが旅に出られるくらい元気になったら、あなたを連れていって、その人たちに会わせてあげる、といっておいでなのよ」
「そうですか?」よろこびで面《おもて》を輝かせて、オリヴァは叫んだ。「あの人たちのやさしい顔をもう一度見たら、うれしくって、ぼくはなにをするかわかりませんよ!」
やがてすぐ、こうした旅行に堪《た》えられるくらい、オリヴァは元気になった。そこで、ある朝、彼とロスバーン氏は、メイリー夫人の小さな馬車に乗って出発した。彼らがチャーツェーの橋にさしかかったとき、オリヴァは顔を真《ま》っ青《さお》にして、大声で叫んだ。
「どうしたんだ?」いつものとおりさわぎたてて、医者は叫んだ。「なにか見たのかい――聞いたのかい――感じたのかい――えっ?」
「あれです」馬車の窓からさして、オリヴァは叫んだ。「あの家です!」
「そうか。あれがどうしたんだ? 御者、馬車をとめろ! ここでとまれ」医者は叫んだ。「あの家がどうだというんだい、えっ?」
「泥棒です――泥棒がぼくを連れていった家です!」オリヴァは声をひそめていった。
「畜生!」医者は叫んだ。「おい、こらっ! わしを外に出してくれ!」
しかし、御者が台からまだおりないうちに、彼はなんとか馬車からとびだし、人気のない荒れ果てた小屋にかけおりていって、すごい剣幕でそこの扉を蹴りはじめた。
「おい、なんだ?」みにくい、せむしの小男がいきなり戸を開けて叫んだので、医者は最後の一蹴りの勢いがあまって、廊下につんのめるところだった。「こいつは、なにごとだ?」
「なにごとだって!」なにも考えず、相手の襟首をとっつかまえて、医者は叫んだ。「大変なことだ。強盗事件なんだぞ」
「人殺しも起きるだろうよ」冷静にせむし男は答えた。「その手をはずしてくれなけりゃあね。聞こえたかい?」
「聞こえたとも」とらえた相手をグイグイゆすりたてて、医者はいった。「畜生、あの悪党らしい名はなんだったっけ? うん、うん、サイクスだ――サイクスはどこにいる、この泥棒め?」
驚きと怒りのあまりといったふうに、せむしは、目をむき、それから、巧妙にからだをねじって医師のつかんでいる腕から逃れ、ひどい悪態《あくたい》をいっせいにはきはじめ、家の中に引っこんでしまった。が、彼がまだ戸を閉じないうちに、医者はなんの挨拶もぬきで客間にはいりこんだ。彼はせっせとあたりを見まわしたが、オリヴァが述べていた家具は、生きているものにせよ、そうでないものにせよ、ぜんぜん見当たらなかった。食器棚の位置さえ、ちがっていた!
「さあ!」彼を鋭く見ていたせむし男はいった。「人の家に勝手にふみこみやがって、どうするつもりなんだ? おれから物でもとろうってえのか、それとも、おれを殺そうってえのか? どっちだ?」
「このふざけた老いぼれの吸血鬼め、そのどっちにせよ、二頭立ての馬車にわざわざ乗って、それをしにやってきたやつなんて、おまえはいままでに、聞いたことでもあるというのか?」癇癪《かんしゃく》もちの医者はどなった。
「じゃ、なんの用があるんだ?」せむしはたずねた。「ひでえ目にあわねえうちに、退散したらどうだ? このいまいましい野郎め!」
「こっちで納得したら、帰るとも」もうひとつの客間をのぞきこんで、ロスバーン氏はいった。その部屋も、オリヴァのいっていたのとは、ぜんぜんちがっていた。「おい、いつか、おまえの本性《ほんしょう》を見すえてやるぞ」
「そうかね?」醜悪なせむしはせせら笑った。「用があるんなら、いつでも、おれはここにいるよ、こう見えてもおれは二十五年間、風変わりに一人でここにいるんだが、てめえなんぞにおどかされて、たまるもんかい。これでてめえには、いたい目を味わわせてやるぞ、いたい目をな」こういいながら、この不恰好《ぶかっこう》な小鬼は、まるで怒りで気がくるったように、叫び声をあげ、床の上で踊りはじめた。
「これは失敗だったな」医者はつぶやいた。「あの少年は、なにか勘ちがいをしたんだ。おい、これをやる! そいつをポケットにしまい、家の中にはいってろ」こういって、彼は金をせむし男に投げ、馬車にもどっていった。
この男は、馬車の戸口のところまで、途中ずっと悪態《あくたい》と悪罵《あくば》をはきちらしながら、やってきて、ロスバーン氏が御者に話をしようと、向こうを向いているとき、馬車の中をのぞきこみ、とても鋭く、猛烈な、それと同時に、怒りくるった復讐に燃える一瞥をオリヴァに投げたので、その形相《ぎょうそう》は、その後何箇月間も、オリヴァの頭にこびりついてしまった。御者がその台にもどるまで、せむし男はじつにおそろしい悪態《あくたい》をはきつづけ、一同が動きだしたときにも、この男は、ほんとうか見せかけのものかわからないが、怒りくるったようなようすで、地面を踏みつけ、髪の毛をかきむしっていた。
「わしはバカだった!」ながいことだまりこんでいたあとで、医者はいった。「オリヴァ、きみは、その前から、あの家を知ってたのかい?」
「いいえ、先生」
「じゃ、今度こそよく憶えておけよ」
「バカだった」数分間まただまりこくっていたあとで、医者はふたたびいった。「あれが少年のいうとおりの家であり、彼がいうとおりの人物がそこにいたとしても、徒手空拳《としゅくうけん》のわしに、なにができたろう? そして、援助を得たとしても、わしにはなにもできなかったわけだ。こっちの素性《すじょう》がわかり、この事件をわしがもみけしたことのしだいが、どうしても暴《ば》れてしまう以外にはな。そうなったら、まさに身から出た錆《さび》になったことだろう。わしは衝動的に行動して、いつもひどい目にあってる。それを少しは薬にしてもいいはずなんだがな……」
ところが、事実は、このすぐれた医者は、生涯を通じて、衝動以外のもので行動したことはなく、そして、これは彼を支配していた衝動的性格を結構《けっこう》ほめてしまうことになるのだが、彼がなにか特別の面倒や不幸にそれでまきこまれるどころか、それは、彼を知っているすべての人たちの熱烈な尊敬と敬意を獲得していた。事実を申しあげれば、確証的証拠を得るまさに最初の機会に、オリヴァの話からそれを得られず、それにがっかりして、彼は一、二分間ご機嫌を少し斜めにしていた。彼は間《ま》もなく機嫌をなおし、彼の質問にたいするオリヴァの応答が、前どおり、率直で矛盾せず、はっきりとわかる誠意と誠実さで語られているのを知って、これからはオリヴァの答えを全面的に信用しようと決心した。
ブラウンロウ氏の住んでいた通りの名前をオリヴァが知っていたので、彼らはまっすぐそこに乗りつけることができた。馬車がそこにまがりこんではいっていったとき、彼の心臓は激しく鼓動《こどう》し、彼は息がつけなくなった。
「さあ、坊や、どの家なんだい?」ロスバーン氏はたずねた。
「あれです! あれです!」むきになって窓から指さしながら、オリヴァは答えた。「白い家です。ああ、急いで! どうか急いで! からだがふるえてきました。死にそうです」
「うん、うん」彼の肩を軽くたたきながら、医者はいった。「きみはすぐにみんなに会え、みんなは、きみが無事で元気なのを知って、大よろこびすることだろうよ」
「おお! そうだといいんですが!」オリヴァは叫んだ。「とっても親切な人たちでした。とっても、とってもね」
馬車は走りつづけ、それからとまった。いや、家がちがっていて、もうひとつ先の家だった。馬車はちょっと進み、またとまった。オリヴァは、うれしい期待の涙を流しながら、家の窓を見あげた。
だが、問題の白い家には人は住んでいず、そこの窓には「貸し家」のはり紙がはられていた。
「となりの家をノックしてごらん」オリヴァの腕をだきこんで、ロスバーン氏は叫んだ。「このとなりの家にいつもお住みになっていたブラウンロウさんはどうなったか、ご存じでしょうか?」
相手の女中はなにも知らず、それを調べるために家にはいっていった。彼女はやがてもどり、ブラウンロウ氏が、六週間前に、この邸宅を売りはらい、西インド諸島にいったことを伝えた。オリヴァは両手を固くにぎりしめ、力なく座席のうしろによりかかった。
「そのかたの家政婦もいってしまったのでしょうか?」ちょっと間《ま》をおいて、ロスバーン氏はたずねた。
「はい、そうです」女中は答えた。「あのお年寄りの紳士のかた、家政婦、それにブラウンロウさんのお友だちの紳士のかたは、みんな、いっしょにおいでになりました」
「じゃ、車をまわして、家に帰ろう」ロスバーン氏は御者にいった。「このいまいましいロンドンを出るまで、馬に餌をやるためにもとまるなよ!」
「本屋は、先生?」オリヴァはいった。「ぼくはそこへゆく道を知っています。どうか、先生、彼に会ってください! どうか、おねがいします!」
「かわいそうな坊や、この失望は、一日に十分な失望というもんだ」医者はいった。「二人には、もう十分なもんだ。もし本屋にいったら、彼は死んでるか、家に放火してるか、夜逃げをしてるかもしれんよ。いや、すぐ家に帰ることにしよう!」そこで、医者の衝動に動かされて、二人は家へもどっていった。
この苦しい失望は、幸福の最中《さなか》にあってさえ、悲哀と苦痛をオリヴァにひき起こした。彼の病気中、ブラウンロウ氏とベドウィン夫人が自分にいうであろうことを思い、二人が自分のためにしてくれたことを考え、二人からのつらい別れを悲しんで、ながいいく日、いく夜を自分がすごしたかを彼らに伝えて、彼は心をなぐさめていたからである。結局は彼らに自分の身の潔白を証し、どんなにして自分が力ずくで連れ去られたかを説明しようとする期待が、最近の多くの苦痛のもとで、彼を元気づけ、支えてきていた。いま、彼らがとても遠くにいってしまい、彼がいかさま師で盗賊だという印象――それは、彼が死ぬまで、なんの反駁《はんばく》もなく、そのまま残ってしまう確信だが――をもっていると思うと、それは、彼にはほとんど堪《た》えられないほど苦しいものになってきた。
しかし、こうした事情は、彼の恩人たちの態度を少しも変えはしなかった。その後二週間して、温かい気候がもうかなり時期にはいり、すべての木と花が若葉と豪華な花をあらわしはじめたとき、彼らは数箇月間チャーツェーの家を去る準備をした。フェイギンの貪欲をかきたてた皿は銀行に預け、家はジャイルズともう一人の召使いにゆだねて、彼らは少しはなれたいなかの小屋に出発し、オリヴァは彼らといっしょにともなわれていった。
奥地の村のふくよかな風に当たり、緑の園と豊かな森につつまれて、この病身の少年がどんなによろこびと楽しみをおぼえ、心の安らぎと平静をとりもどしたかは、だれもとても伝えられぬほどだった。のどやかで静かな情景が密集したさわがしい地区に住む、苦しみにすりへらされた住民の心にどんなにしみこんでゆくか、その情景自身のもつ新鮮さが彼らの疲れ果てた心にどんなにしみわたっていくかは、だれも語り得ぬほどのものである。苦難の生涯を人のごみごみといる、みっしりとした町ですごし、変化を求めようともしなかった人たち、その人々にとっては、習慣は、じっさい、第二の天性になり、日々歩いているせまい限界を構成しているすべての煉瓦《れんが》、すべての石を愛好するようになっている人間――こうした人たちでさえ、死の間際《まぎわ》になると、ほんのしばらくでも自然の面《おもて》をながめたくなり、ながい苦痛と悦楽の場から遠くはなれて、いままでにない新しい境地にうつった心境を味わうことが知られている。日毎日毎《ひごとひごと》どこか陽射しのいい緑の場所にはいだしてゆき、空、岡、平地、ギラギラと輝く流れに接して、彼らはこうした思い出に目ざめ、前もって天国自身の味をこうして味わうことは、彼らが心身をぐんぐんと衰弱させてゆくわびしい状態をやわらげ、ほんの数時間前に孤独な空からその沈んでゆくのを見守っていた太陽がおぼろげな、弱い視野から消えていったように、彼らは静かにその墓に沈んでゆく。安らかないなかの情景が呼び起こす追憶は、この世的なものではなく、また、この世の思い、希望に属するものでもない。そうした思い出のもたらすおだやかな影響力は、われわれの愛した人々の墓を飾るみずみずしい花環をつくることをわれわれに教え、われわれの思いを清め、古い敵意・憎しみを忘れさせてしまうことである。しかし、どんなに考えることのない人の心にも、遠くへだたったむかしのあるときに、そうした気持ちをいだいていたという漠然とした、形をなさぬ意識がただよい流れている。その意識は遠い来世に厳粛な思いをはせさせ、おごりと世俗的な考えをその意識のもとにおしつぶしてしまうものである。
彼らがおもむいたのは、美しい場所だった。その日々をきたならしい人々のあいだですごし、さわがしさと荒々しさの中で暮らしたオリヴァは、そこで新しい生活にはいったように感じた。薔薇《ばら》とスイカズラが小屋の壁にまといつき、|つた《ヽヽ》が木の幹をつつみ、庭の花は美しい匂いで空気を染めていた。近くに小さな教会の墓地があったが、それは背の高い、不細工な墓石が密集したものではなく、みずみずしい芝生と|こけ《ヽヽ》に表面を飾られたつつましい土饅頭《どまんじゅう》におおわれ、その下では、村の老人たちが安らかに眠っていた。オリヴァはよくそこをさまよい、母親が横たわっているみじめな墓を思って、そこに腰をおろし、人目を忍んですすり泣いていた。しかし、目をあげて頭上の深い空をながめたとき、彼は母親が地下に眠っているという考えをすて、彼女のために泣いたが、それは悲しいものであったにせよ、そこには苦痛がひそんではいなかった。
それは幸福なときだった。昼は静かで、おだやか、夜は恐怖も心配ももたらさず、みじめな獄舎で苦しむこともなく、あわれな人々とまじわる必要もなく、ただ楽しく、幸福な思いだけがあふれていた。毎朝、彼は小さな教会の近くに住んでいる白髪の紳士のところにゆき、読み書きを教わり、この紳士はとても親切に彼に話しかけてくれ、それは、彼をよろこばそうとオリヴァがどんなにつとめても、およびもつかぬほどだった。それがすむと、彼はメイリー夫人とローズといっしょに散歩にでかけ、彼らが本について話すのに耳を傾けたり、木蔭で彼らのそばに坐って、若い婦人が本を読むのに聞き入り、そのままでいたら、彼は、暗くなって文字が読めぬようになるときまで、それをつづけていたことだろう。オリヴァはつぎの日の勉強の準備をしなければならなかった。そして、夕方がゆっくりとやってくるまで、庭を見おろす小さな部屋で、彼はその準備に没頭していた。夕方になると婦人たちはふたたび散歩にでかけ、彼は婦人たちと同行、彼らの言葉すべてに大よろこびで聞き入り、登ってとることができる花を彼らが欲しがったり、彼が走ってとってくることができるなにか忘れものがあると、彼は大得意になり、大急ぎでそれをとってきた。あたりがすっかり暗くなり、みなが家にもどると、若い婦人はピアノに坐り、明るい曲をかなで、低い静かな声で、叔母《おば》が好む古い歌を歌った。こうしたときには、ろうそくはともされなかった。そして、オリヴァは、美しい音楽に耳を傾けながら、うっとりとして、窓の近くに坐っていた。
それから、日曜日がやってきたとき、その日は、ふだんの日とどんなにちがい、どんなに幸福に送られたことだろう! その幸福さは、このいちばん幸福な時期のほかのすべての日々と同じだった。朝には小さな教会にいったが、そこでは緑の葉が窓のところでそよぎ、外では小鳥が歌い、香りのよい大気が低い入口からそっと流れこんできて、つつましやかな建物を芳香で満たしていた。貧乏な人たちはとてもさっぱりと、小ぎれいな恰好《かっこう》をし、敬虔に祈りにかしずき、彼らがそこに集まるのは楽しみであって、退屈な義務ではないように見えた。そして歌は、粗野なものではあったにせよ、真実なものであり、彼がそのときまでに聞いた教会のどの歌より、(少なくともオリヴァの耳には)もっと美しい音楽的なものにひびいた。それから、いつものとおり散歩があり、労働者の小ぎれいな家に何回か訪問がおこなわれた。夜には、オリヴァが一週間中調べていたバイブルの一、二章の読みかえしがおこなわれ、この義務をおこなうことに、彼は僧侶自身よりもっと誇《ほこ》らかな気持ちを味わっていた。
朝には、彼は六時までに起きだし、畠をさまよい歩き、遠くひろく生垣《いけがき》をあさって、野生の花束をつくり、それをもって家に帰り、非常な注意と配慮をはらって、それを美しくならべたて、朝食のテーブルを飾った。メイリー嬢の鳥のために、新鮮な|のぼろ《ヽヽヽ》菊の採集があったが、村役場の書記にそのことをしっかり教わっていたオリヴァは、じつに品よく鳥籠をその草で飾りたてた。鳥の一日のおめかしがすむと、村でおこなわれる小さな慈善の委員会があり、それがなければ、共有地でときどきおこなわれるすばらしいクリケット試合、それがなければ、庭ですること、植物いじりがあり、(この学問を商売が植木屋だった前の書記から教わって)オリヴァはこの庭いじりを大よろこびでやり、そのころになると、ローズがおもてに姿をあらわし、彼がしたことすべてに限りない讃辞を浴びせた。
こうして三箇月がすべり流れていった。これは、人間のうちでもっとも幸福にめぐまれた人の人生でも、まったく純粋の幸福といえたものだったろうが、オリヴァの生活では、真の福祉ともいえるものだった。一方には、この上なく清らかで、やさしさのこもった寛大さがあり、他の一方には、誠実この上ない、熱烈な、心の底からの感謝の情があったので、この短い期間の終りが近づくころに、オリヴァ・トゥイストは老婦人とその姪にすっかりなじみ、彼の若くて、感受性に富む心の激しい愛情が、女性たちの彼自身にたいする誇《ほこ》り・愛情によって報いられたのは、べつにふしぎなことではなかった。
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三十三 オリヴァとその友人たちの幸福が突然障害にゆきあたる
春は足早に飛び去り、夏がやってきた。もしこの村が最初美しかったとすれば、それはいま、その豪華の最絶頂にあった。年の早くにはちぢんで裸になっていたように見えた木々は、いまやたくましい生命と健康の状態に突入し、乾いた土地の上にその緑の腕をのばして、開けた素っ気のない場所をこころよい奥まったところに変え、そこには深い、快適な陰が投げられ、そこからは向こうにひろがっている陽光にひたされたひろい景色が望まれた。大地は輝き映《は》える緑の外衣をまとい、じつに豊かな香りをあたりにまき散らしていた。それは一年の最盛期、たくましさであり、すべてのものがよろこび、栄えていた。
それでも、小さな小屋では同じ静かな生活がつづき、同じ陽気な静けさがそこの住人を支配していた。オリヴァはとっくのむかしに元気で健康になっていたが、多くの人の場合とはちがって、健康であろうと、病気であろうと、それは、自分をとりまく人たちにたいする彼の熱烈な気持ちを少しも変えるものではなかった。彼はいつもと変わらず、やさしく、かわいい存在であり、苦痛と悩みが彼の力を衰弱させ、ちょっとした配慮、心のなぐさめにも、自分を世話してくれる人にたよらなければならなかったときと、ぜんぜん変わっていなかった。
ある美しい夜、彼らはふだんよりながく散歩をした。その日はいつになく暖かく、美しい月が出ていて、そよ風がわき起こり、それがとてもさわやかだったからである。ローズもとても元気で、一同は楽しく語りながら、ドンドンと歩いてゆき、とうとう、その足はふだんの場所をずっと越えてしまった。メイリー夫人が疲れはじめたので、彼らは足をゆるめて家にもどった。若い婦人は、飾りのない縁なし帽子をぬぎすてただけで、いつものとおり、ピアノに向かった。数分間、ただ茫然《ぼうぜん》と鍵盤の上に手を走らせてから、彼女は低い、とても厳粛な曲をひきはじめ、彼女がそれをひいているとき、泣いているような音が聞こえてきた。
「ローズ!」老婦人はいった。
ローズは返事をせず、その言葉が苦しい考えごとから彼女の目をさまさせたように、前より早くピアノをひきはじめた。
「ローズ!」急いで立ちあがり、彼女の上にかがみこんで、メイリー夫人は叫んだ。「どうしたの? 涙を流しているのね! なにが悲しいの?」
「叔母《おば》さま、なんでもありません。なんでもありません」若い婦人は答えた。「わたしにも、それがなんだか、わからないのです。それをうまくは申せませんわ。でも、わたし――」
「気分がわるいのではないのでしょうね?」メイリー夫人は口をはさんだ。
「いえ、いえ! おお、気分がわるいのではありません!」こう話しながら、おそろしい寒気がからだを走っているように、身をふるわせながら、ローズは答えた。「もうすぐよくなりますわ。どうか窓を閉めてください!」
オリヴァは急いで彼女の要求どおりにした。若い婦人は、陽気さをとりもどそうと努めながら、なにかもっと勢いのいい曲をひこうとしたが、その指は力なく鍵にふれただけだった。両手で顔をおおって、彼女はソファに沈みこみ、もう抑えることができなくなった涙を流しはじめた。
「まあ、ローズ!」腕に彼女をだきこんで、老夫人はいった。「こんなふうなあなたは、まだ見たことがありませんよ」
「できたら、叔母《おば》さまをびっくりさせたくはなかったのです」ローズは答えた。「でも、じっさい、一生けんめい努めてはいたのですが、こんなことになってしまいました。どうやら、わたし、病気らしいの」
たしかに、彼女は病気だった。ろうそくが運ばれてきたとき、家へもどってきたときから経過した短い時間のうちに、彼女の顔色が大理石のように青ざめたものになっていたからである。その表情は、美しさを少しも失ってはいなかったが、変わっていた。そのやさしい顔には、不安げな、やつれたようすが浮かび、それは、このときまでにそこには一度も見られぬものだった。それから一分たつと、その顔は真っ赤になり、重苦しいやつれが、やわらかな青い目の上にあらわれてきた。さっととおりすぎる雲の影のように、この赤らみは消え去り、彼女はもとの真《ま》っ青《さお》な顔色にもどった。
老夫人をジッと見守っていたオリヴァは、こうしたようすがあらわれたことに、彼女がおびえているのに気がついた。だが、彼女がそれを軽く考えているふりをしているのを知って、彼も同じ態度をとろうとつとめ、二人の努力が功を奏し、ローズが寝室にひきとるようにと叔母《おば》にすすめられたとき、彼女は前よりも元気が出て、具合いもよさそうになり、きっと明日の朝はすっかり元気になって起きられるでしょう、といっていた。
「具合いのわるいことが、べつになければよいのですが?」メイリー夫人がもどってきたとき、オリヴァはいった。「今日は元気がなさそうですけど――」
老夫人は身ぶりで彼に話さぬようにと合図し、部屋の暗い隅にひとりで坐って、しばらくのあいだ、だまっていた。とうとう、声をふるわせて、彼女は口を切った――
「そうだといいわね、オリヴァ。わたしは何年間かあの娘《こ》といて、とても幸福だったわ――幸福すぎたくらいよ。だからもう、不幸にあったとしても、仕方のないことかもしれないことね。でも、その不幸は、このことでなければいいのだけれど……」
「このことって、なんです?」オリヴァはたずねた。
「それはね」老夫人は答えた。「ながいこと、わたしの慰めであり、幸福の源だったあのかわいい娘《こ》を失うという大きな打撃のことよ」
「おお! とんでもないこと!」オリヴァは急いで叫んだ。
「ええ、そうであれば、いいことね、坊や!」もみ手をしながら、老夫人はいった。
「ほんとうに、そんなおそろしいことの心配はないのでしょう?」オリヴァはたずねた。「二時間前には、あんなに元気だったんですもの」
「でも、いまは、彼女の病気はとても重いのよ」メイリー夫人は応じた。「そして、きっと、もっとわるくなるでしょう。かわいい、かわいいローズ! おお、あの娘《こ》がいなくなったら、わたし、どうしよう?」
夫人がとても大きな悲しみに沈んでしまったので、オリヴァは、自分自身の気持をおし殺して、そうはならぬだろうといい、そのかわいい若い婦人のためにも、夫人がもっと心を静めるようにと熱心にたのみこんだ。
「それに、考えてもごらんなさい、叔母《おば》さま」抑えようとしても涙がこみあげてきて、オリヴァはいった。「おお! あのかたがどんなに若く、いいかたか、まわりの人にどんなによろこびと慰めを与えてくださるか、それを考えてもごらんなさい。ご自身とても親切なあなたのためにも、彼女が幸福にしてくださるすべての人のためにも、きっと命をとりとめてくださることを、ぼくはかたく信じています、信じています。神さまはあのかたをあんなに若く死なせるはずはありません」
「しっ!」オリヴァの頭に手をおいて、メイリー夫人はいった。「あなたの考えは、子供の考えなのよ。でも、わたし、それで自分のしなければならないことを教わったわ。オリヴァ、わたし、それをちょっと忘れていたけど、これは許していただけることね? わたしは齢《とし》をとった女、病気にも死にも何回かあっていて、愛する人と別れることの苦しみを十分に知っているのですからね。わたしはいろいろと経験を積んでいるので、いちばん若い人、いちばんいい人が愛している人に与えられるとはかぎらぬことを、知っているのです。でも、つぎのことは、わたしたちの悲しみに慰めを与えてくれます。神さまは正しいかたなのですからね。そして、そうしたことは、この世界よりもっと光り輝く世界があり、わたしたちがそこに早くわたってゆけることを、強く教えてくれます。神さまのご意志がおこなわれますように! わたしはローズを愛しています。どんなに愛しているかは、神さまもご存じです!」
メイリー夫人がこう話したとき、彼女がほんの一努力で自分の嘆きを抑え、語りながらきちんと態度を改め、冷静でしっかりとした物腰になったのを見て、オリヴァはびっくりした。このしっかりとした物腰がつづき、その後の看病や夜中の世話で、メイリー夫人がきりっとしていて、落ち着きを失わず、彼女の肩にかかってきたすべての仕事をてきぱきと、一見したところ、陽気なふうさえ示して、やっているのを見て、彼の驚きは、なおいっそう深いものになった。だが、彼はまだ齢《とし》ゆかぬ少年、苦しい事情の下で強い心がどんなにしっかりと行動するかは、知らないのだった。そうした強い心の持ち主自身がそれに気づかぬのに、どうして少年がそれを知ることがあろう?
不安な夜がつづいた。朝になったとき、メイリー夫人の予言は、残念ながら、的中しすぎるほど的中した。ローズは、高くて危険な高熱の第一段階にあったのである。
「オリヴァ、わたしたちはせっせと働き、なんのためにもならない悲しみに負けてはいけませんよ」彼の顔をしっかりと見すえ、唇を指で抑えながら、メイリー夫人はいった。「この手紙を、大急ぎで、ロスバーン先生に出さなければなりません。それは、畠の中を切っている小道ぞいにゆけば四マイルとははなれていない市場町に運び、そこから、馬の急行便でまっすぐチャーツェーに送らなければならないものです。宿屋の人がこのことはやってくれるでしょう。それをあなたにおねがいして大丈夫なことは、わたしが知っていますよ」
オリヴァはなにも返事ができず、ただ、すぐゆきたいという気持ちをあらわした。
「ここにもうひとつ手紙があります」考えこんで、メイリー夫人はいった。「だけど、それをいま出したものか、ローズの容態がはっきりするまで待ったものか、わたしには見当がつかないのです。万一のことが起こる場合だったらべつだけど、わたしとしては、それを出したくはないのですけど……」
「それもチャーツェーゆきのものですか、叔母《おば》さま?」自分の任務を果たそうとジリジリし、手紙を受けとろうとふるえる手をさしだしながら、オリヴァはたずねた。
「ちがうの」機械的にそれを彼にわたして老夫人は答えた。オリヴァはそれをチラリとながめ、それが彼の知らないいなかにある貴族の家に住むハリー・メイリーあてのものであることを知った。
「叔母《おば》さま、これも出しましょうか?」ジリジリしながら目をあげて、オリヴァはたずねた。
「やめましょう」その手紙をとりもどして、メイリー夫人は答えた。
こういいながら、彼女はオリヴァに自分の財布をわたし、彼はこれ以上ぐずぐずせずに全速力で出発した。
大急ぎで彼は畠を横切り、畠をわけている小さな小道を進み、両側の高い穀物のあいだに姿をかくしたかと思うと、つぎには、草刈り人や、乾草作りがせっせと仕事をしている開けた畠にあらわれ、ときおり、数秒間、息をととのえるために立ちどまる以外には足をとめることをせず、とうとう、からだをかっかとさせ、ほこりまみれになって、市場町の小さな市場に着いた。
ここで彼は足をとめ、あたりを見まわして、宿屋をさがした。白い銀行、赤い酒作り場、黄色い町役揚があり、片隅に大きな家があって、そのまわりの木はぜんぶ緑色にぬられ、その前に『ジョージ』と書いた看板が出ていた。それが目にはいると、彼は急いでそこへとんでいった。
彼は入口のところでウトウト眠っている郵便配達人に声をかけたが、相手は、彼の用件を聞いてから、馬丁に話してみろといい、馬丁は彼のいうことをもう一度聞いてから、宿屋の主人に話してみろといった。この主人は青の襟布、白い帽子、褐色のズボン、しかるべき靴をはいた背の高い紳士で、馬小屋の戸口のわきのポンプによりかかりながら、銀のつま楊枝《ようじ》で歯をほじくっていた。
この紳士はゆっくりと酒場にいって、勘定書きをこしらえたが、それをこしらえるのにながい時間がかかり、それができ、勘定がすむと、今度は馬に鞍《くら》をつけ、御者が支度をしなければならなかったが、そうしたことに、さらに十分間がついやされてしまった。そのあいだ、オリヴァは堪《た》えられぬほどの焦燥と不安にかられ、自分自身が馬に飛び乗り、フルスピードでつぎの宿場までとんでゆきたい気持ちになっていた。とうとう、すべての準備ができ、小さなつつみが、それを早く配達するようにという何度かくりかえされた命令と懇願のあとで、手わたされ、御者は馬に拍車を入れ、市場のでこぼこの舗道に高い蹄《ひずめ》の音を立てて町を出発し、二、三分のうちに、通行税とりたて道路ぞいに、まっしぐらにふっとんでいった。
救援を求める使者がたしかに出され、一刻の遅延も起きはしなかったと確信することは、多少ほっとするものだったので、オリヴァはちょっと心を軽くして、宿屋の庭を急いで歩いていった。彼が戸口を出ようとしたとき、彼は身を外套《がいとう》にすっぽりとつつんだ背の高い男にぶつかった。この男は宿屋の戸口のところから外に出ようとしていた。
「あれっ!」目をオリヴァの上に釘づけにし、急にあとにとびさがって、この男は叫んだ。「これは、いったいどうしたことだ?」
「ごめんなさい」オリヴァはいった。「ぼくは大急ぎで家に帰ろうとしていて、あなたが歩いておいでなことに、気がつかなかったのです」
「なんてこった!」大きな、黒みがかった目で少年をにらみすえて、その男はつぶやいた。「こんなことって、考えられることだろうか? やつを砕いて灰にしてしまっても、やつは石の棺からぬけだし、おれのところにあらわれてくるんだ!」
「ごめんなさい」この見知らぬ男のすごい剣幕に驚いて、オリヴァはどもりながらいった。「傷はなさらなかったでしょうか?」
「この野郎、くたばりやがれ!」すごい激怒にかられて、男は低くつぶやいた。「それをいう勇気さえあったら、おれはてめえを一夜のうちに片づけられたんだ。てめえの頭にのろいがかかり、てめえの心に黒い死が襲うがいい。この小鬼め! てめえはここでなにをしてるんだ?」
こうした言葉をとりとめなくはきながら、その男は拳《こぶし》をふった。彼は、まるでオリヴァに一撃を加えようとしているように、オリヴァのほうに進んでいったが、すごい勢いで地面にぶっ倒れ、発作状態になって、からだをよじらせ、口からあわをふきだした。
オリヴァは、一瞬、この狂人(彼は相手を狂人と思った)があがくのをジッと見守り、それから助けを求めて、家にとびこんだ。この狂人がホテルに無事連れこまれるのを見とどけてから、彼は家路につき、むだに使った時間のおくれをとりもどすために、一目散に走ったが、いま別れたばかりの男の風変わりな態度を思い出すにつけ、すごい驚きと多少の恐怖に襲われていた。
しかし、このことは、ながく彼の記憶にとどまってはいなかった。家に着いたとき、心をうばわれることが多く、とても自分のことなんて考えていられなかったからである。
ローズ・メイリーの容態は急速に悪化していった。真夜中になるまでに、彼女はうわごとをいう状態におちいっていた。この土地の医者は、彼女につきっきりだった。最初の診断を終えたとき、彼はメイリー夫人をわきに呼び、ローズの病状がとても重いことを知らせた。「事実、彼女が元気になったら」彼はいった、「奇蹟というもんでしょうな」
その夜、オリヴァは何度寝台からパッととびだし、そっと階段のところにいって、病室からかすかな物音でももれはせぬかと、耳を澄《す》ませたことだろう! 急に足を踏みならす音がし、考えただけでもおそろしいことがいま起きたのではないかと、彼は何度からだをふるわせ、恐怖の冷汗を額《ひたい》ににじませたことだろう! いま深い墓のへりでよろめいているあの親しい友の命と健康を夢中で祈り、彼が苦しみもだえつつささげた祈りは、これまでに類《たぐ》いのないほど熱烈なものだった。
おお! 愛する人の命がどちらともつかず、危険の瀬戸際《せとぎわ》にさらされているとき、そのわきになにもせずに立っていることの不安、おそろしくて、苦しい不安! おお! 心にふっとわき起こり、それが心に呼びさます映像のために胸をドキドキさせ、息をつまらせるあの苦しい思い! 苦痛を安らかにし、自身でやわらげる力をもたぬ危険を軽くするために、なにかをしたいとねがうあの切《せつ》なさ! 自己の無力を悲しく思い起こすことが生みだすあの心の滅入り! どんな考え、どんな努力が、それが高まったとき、その思いを静めることができよう!
朝がやってきたが、この小さな家はわびしく、静かだった。人々は声をひそめて語り、不安げな顔がときおり門にあらわれ、女、子供は涙を流しながら、そこを去っていった。ながい一日中、それから、暗くなってから何時間も、オリヴァは庭を歩きまわり、いつも目を病室に投げ、死がそこにからだを横たえているように見える暗い窓をながめて、からだをふるわせていた。夜おそく、ロスバーン氏が到着した。「こんなに若く、こんなに愛されているのに」目をそむけて話しながら、この善良な医者はいっていた、「こんなになるなんて、つらいことですな。回復の希望は、まずないんです」
もう一度朝がおとずれた。太陽はキラキラと輝いていた――それは、不幸も心配も知らぬげの明るいものだった。まわりのすべての葉と花は、いまは盛りになり、生命と健康、よろこびの音《ね》と景色にすっかりつつまれながら、若くて美しいローズは、グングンと痩《や》せ細ってゆきながら、寝台に横たわっていた。オリヴァはそっと古い教会の墓地に出てゆき、緑の土饅頭《どまんじゅう》に腰をおろして、だまったまますすり泣き、彼女のために祈りをささげていた。
あたりの景色には、静けさと美しさがあふれていた。陽のあたる景色は、明るさと陽気さでムンムンしていた。夏の鳥のかなでる歌は、すばらしい陽気な音楽だった。頭上に弧をえがくミヤマガラスがさっと飛んでゆく姿には自由が示され、すべてのものは、生命と楽しさに満ちあふれていた。少年が痛む目をあげてあたりを見まわしたとき、つぎの思いが本能的に彼の胸にわき起こった。いまは死のときではない。すべてのつまらぬものが、こうしてよろこび、陽気になっているとき、ローズは絶対に死ぬはずがない。墓は冷たく、陰気な冬のもの、陽光と馥郁《ふくいく》とした香りにふさわしいものではない。彼はまた、経帷子《きょうかたびら》は老いて、しわだらけになった者のためのもの、若くて美しい姿をそのおそろしいひだにつつむことは絶対にないのだ、と考えた。
教会の鐘の音が、こうした若々しい物思いの上にわびしく鳴りひびいた。またひとつ! また! それは葬式の鐘だった。つつましい会葬者の一団が、白いリボンをつけて門にはいってきた。若い人が死んだからである。彼らは、帽子をぬいで、墓のそばに立っていた。嘆き悲しんでいる人の列の中に、母親――かつて母親だった人――がいた。しかし、太陽は明るく輝き、鳥は歌いつづけていた。
オリヴァは家路につき、あの若い婦人から受けた多くの親切を思い、どんなに自分が感謝し、彼女に愛着をもっているかを示す機会がふたたびめぐってくればよいとねがっていた。彼女をないがしろにしたり、彼女に思いやりがない点で、彼にくやむところはなかった。彼は献身的に彼女に奉仕していたからである。しかし、もっと熱を入れて一生けんめいにやったらとくやまれる数多くの機会が心の中にわき起こり、それが、ひどく心残りになった。人が死んでゆくとき、生きのこったわずかな人は、しないですませてしまったものがとても多く、じっさいにしたことはほんのわずか――忘れてうちすてておいたものがとても多く、こうもできたのにと思い起こされるものがじつに多いことをくやむものだが、こうしたことがないように、われわれはまわりの人のあつかいには注意しなければならない。悔いて甲斐《かい》ないほどの苦しい悔恨《かいこん》はない。この苦しみから逃れたいと思う者は、おそくならぬうちに、このことを思い起こさなければならない。
彼が家に着いたとき、メイリー夫人は小さな客間に坐っていた。彼女の姿を見て、オリヴァの心は沈んでしまった。彼女は姪の枕もとを一刻もはなれたことがなく、どんなことが起きて、彼女がその枕辺を去ったのだろう、と考えて、彼は身をふるわせたからである。ローズが深い眠りに落ち、それから目をさましたとき、彼女が回復と生命に向かうか、それとも、みなに別れを告げて死んでしまうかが決定されることを、彼は知った。
二人は、何時間も、耳を澄《す》まし、口をきくのもおそれて、坐っていた。食事は、手をつけずに運び去られた。そして、思いはべつのところにあるといった表情を浮かべて、太陽がだんだんと西に沈んでゆき、その別れを知らせるあの輝く紅《くれない》色を空と大地に投げたとき、それをジッと見つめていた。二人のさとい耳は、近づく足音をとらえた。彼らは、ロスバーン氏がはいってきたとき、われ知らず、扉のところにとんでいった。
「ローズはどうです?」老夫人はたずねた。「すぐに教えてください! これには我慢できません。どっちつかずでいるより、どんなことでも、まだましです! おお、教えてください! おねがいです!」
「心を落ち着けてください」彼女を支えながら、医者はいった。「奥さん、どうか冷静にしていてください」
「おねがい、わたしにゆかせて! ああ、あの子が! あの子は死んだのです! 死にかけているのです!」
「いいや!」激しく医者は叫んだ。「神さまは正しく、慈悲深いかたです。彼女はこれからながいこと、生き残って、われわれを幸福にしてくれるでしょう」
夫人はがっくりとひざまずき、両手を結び合わせようとしたが、彼女をながいこと支えていた力は、最初の感謝の祈りとともに天にのぼり、彼女は彼女を受けようと差しだされた友の腕の中に、くず折れ倒れてしまった。
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三十四 新しく登場する若い紳士に関する前置きの話。オリヴァの身に起きた新しい冒険
これは堪《た》えられぬほど大きなよろこびだった。この思いもかけぬ報告に、オリヴァはびっくりし、茫然《ぼうぜん》としてしまった。彼は泣くことも、話すことも、休むこともできなかった。彼は起きたことを理解する力を失い、静かな夕空の下をながいことさまよい歩いてから、どっと涙がこみあげてきて、それが彼の気持ちを安らげ、突然目をさまして、身に起きたうれしい変化、胸からとり除かれた堪《た》えられぬ苦悶の重荷をはっきりと意識した。
病室を飾るためにとくに注意してつんだ花束をもって、彼が家路についたとき、夜のとばりはグングンとおちていた。道路を元気よく進んでいったとき、彼は自分のうしろにものすごい勢いで近づいてくる馬車の音を耳にした。ふりかえって見ると、それはスピードをあげて走ってくる駅馬車だった。馬が全速力で走り、道路はせまかったので、それがとおりすぎるまで待とうと、彼はある門のところに身を寄せて立っていた。
それがとび去ってゆくとき、オリヴァは白いナイトキャップをかぶった男をチラリとながめたが、それは、なにか彼には見おぼえのある顔だった。しかし、それをながめたのは、ほんの一瞬間のこと、彼にはそれがだれだかはわからなかった。つぎの瞬間、そのナイトキャップが駅馬車の窓から突きだされ、わめく大声が御者に停止を命じ、大急ぎで馬車はとめられた。それから、ナイトキャップがふたたびあらわれ、同じ声がオリヴァの名を呼んだ。
「おーい!」その声は叫んだ。「オリヴァ君、どんな具合いだ? ローズお嬢さまのことだ! オリヴァ君!」
「ジャイルズ、きみだったの?」駅馬車の扉のところにかけよって、オリヴァは叫んだ。
ジャイルズはふたたびナイトキャップを突きだし、なにか返事をしようとしたが、そのとき、彼は突然馬車のべつの隅に坐っていた若い紳士にひきもどされ、この若い紳士はせきこんで、具合いはどうなのだ? とたずねた。
「一言でいってくれ!」紳士は叫んだ。「いいのか、わるいのか?」
「いいです――ずっといいのです!」オリヴァは急いで答えた。
「ありがたい!」紳士は叫んだ。「まちがいはないだろうね?」
「大丈夫です」オリヴァは答えた。「これは、ほんの二、三時間前に起きたことなのです。そして、ロスバーン先生は、危機は脱した、とおっしゃっておいでです」
紳士はもうなにもいわず、馬車の戸を開いて外にとびだし、あわただしくオリヴァの腕をつかんで、彼をわきに連れていった。
「ほんとうにまちがいないね? きみが勘ちがいしていることは、ないのだろうね?」声をふるわして、紳士はたずねた。「あだな望みをもたせて、あとで失望させるようなことはしてはいけないよ」
「絶対にそんなことはありません」オリヴァは答えた。「じっさい、ぼくを信じても、大丈夫です。ロスバーン先生のお言葉でも、彼女はこれからながいこと生き残って、ぼくたちを幸福にしてくれるでしょう。ぼくもそれを聞いていました」
この大きなよろこびがはじまったあの場面のことを思うと、オリヴァの目には涙がにじみ出てきた。紳士は、数分間、顔をそむけ、だまっていた。オリヴァは何回となくこの紳士がむせび泣くのを耳にしたように思ったが、なにか新しい言葉をかけて、彼をさまたげてはと心配し――彼にはこの紳士の心境がよくわかったので――少しはなれて立ち、花束をいじっているふりをしていた。
このあいだじゅう、ジャイルズ氏は白いナイトキャップをかぶって、膝に肘を乗せたまま馬車の踏み段に坐り、白い斑点のついた木綿の青いハンカチで目をぬぐっていた。この正直者がその気持ちをいつわっていないことは、若い紳士が向きなおって彼に話しかけたとき、相手を見る彼の目が真っ赤に充血したことでも十分にわかった。
「ジャイルズ、おまえは馬車で母のところにいったらいいだろう」若い紳士はいった。「ぼくはゆっくり歩いてゆきたいのだ、母と会う前に、少し時間が欲しいのでね。ぼくはすぐにゆく、と母に伝えてもいいよ」
「失礼ですが、ハリーさま」涙でよごれた顔をハンカチですっかりふいて、ジャイルズはいった。「それを御者にいわせてくださったら、ほんとうにありがたいと思います。下女どもがこうした姿のわたしを見ることは、よろしくないことでしょう。そうしたことになれば、一生涯、彼らにたいする権威を失ってしまいますから……」
「うん」にっこりとして、ハリー・メイリーは答えた。「好きなとおりにしていいよ。もしそうしたいのなら、御者に荷物を運ばせ、おまえは、ぼくたちのあとについてくるがいい。ただ、そのナイトキャップはぬいで、なにかもっと適当なものをかぶったほうがいいな。そうしないと、われわれみんなが気ちがいと思われそうだからね」
この不恰好《ぶかっこう》な服装を注意されて、ジャイルズ氏はナイトキャップをさっとぬぎ、それをポケットにしまいこみ、そのかわりに、馬車からとりだした重々しい、地味な帽子をかぶった。これが終わると、御者は走り去り、ジャイルズ、メイリー氏、オリヴァがゆっくりとそのあとにつづいた。
みなが歩いていったとき、オリヴァはこの新しい客を、興味と好奇心をかき立てて、ときおり見ていた。彼は二十五歳くらいの中背の青年で、その顔は素直で美しく、その態度はのびのびとしていて、感じがよかった。青年と老人のちがいはあるにせよ、老夫人にそっくりだったので、彼が老夫人のことを母といわなくとも、二人の関係がオリヴァにはすぐわかるほどだった。
青年が家に着いたとき、メイリー夫人は自分の息子を迎えようと心配そうに待っていた。この母と子の出会いは、非常な感動をもっておこなわれた。
「お母さん!」若い男はささやいた。「どうして、もっと早く手紙をくださらなかったのです?」
「手紙は書いたの」メイリー夫人は答えた。「でも、考えなおして、ロスバーン先生のご意見をきくまで、それを抑えておくことにしたのよ」
「でも、どうして」青年はいった――「どうして、あやうく起きそうになったことが起きる危険をおかしたのです? もしローズが――その言葉をぼくは口にすることができません――もしこの病気がいまのとはちがった結果になったら、お母さんは自分を許すことができなくなってしまうでしょうが! そうしたら、ぼくは二度と幸福を味わえなくなったことでしょう!」
「もし、ハリー、そんなことが起こったら」メイリー夫人はいった、「あなたの幸福は、事実上、すっかり損《そこな》われ、一日早くなったにせよ、おくれたにせよ、あなたのここへの到着は、べつにたいした重要さをもたないことになっていたでしょうね」
「お母さん、もしそうなったらと考えてみる必要は、ぜんぜんありません」青年は答えた。「ぼくが『もしも』とどうしていう必要がありましょう?――それは事実なんです――事実なんです――。お母さんもご存じなのです――ご存じであるにちがいありません!」
「彼女が男の心のささげられるかぎりの最高の清い愛情に値するものであることは、わたしだって知っていますよ」メイリー夫人はいった。「彼女の献身と愛情にたいする報いがありきたりのものではなく、深くてながつづきするものでなければならないことは、わたしだって知っています。もしわたしがそれを感ぜず、彼女が愛している人の態度が変わったら、彼女の心がつぶれてしまうことを知らなかったら、自分の義務の正しい道と思われるものを歩むときでも、わたしは自分の任務を果たすのをそう困難なこととは思わず、自分の心の中でああまで苦労することはなかったでしょう」
「これは、お母さん、ひどいことです」ハリーはいった。「お母さんは、まだぼくのことを、自分の心がわからず、自分の魂の衝動をつかめない子供とお思いなんですか?」
「ハリー、わたしは考えています」手を青年の肩の上に乗せて、メイリー夫人は答えた。「青年はながつづきしない衝動をいろいろともっているものなのです。そうした衝動のうちには、それが満たされれば、それで消えていってしまうものもあります。とくに、わたしは思うのです」自分の息子の顔をジッと見つめながら、夫人はいった。「もし情熱的な、熱烈な、野心的な男の人がその名に汚点《しみ》のついている女の人と結婚したら、その汚点《しみ》は、それがその女の人の罪ではなくとも、冷酷な、心のよごれた人たちの手で、彼女自身ばかりか、子供にまで報いられ、男の人がこの世で成功すればするほど、それは、彼の顔にまともに投げつけられ、彼にたいする冷笑の的になるでしょう。彼の性格がどんなに寛大で善良であろうとも、彼は、いつか、自分が若気のいたりで結んだ縁を後悔するようになるかもしれません。女のほうでも、男が後悔しているのを知るという苦痛を味わうかもしれないのです」
「お母さん」イライラしながら、若い男はいった。「そんな行動をとる男は利己主義な野獣、男の名に値せず、いまお母さんのおっしゃった女性にも値せぬやつです」
「ハリー、おまえは、いまはそう考えているのですよ」母親は答えた。
「それに、いつまでも、そう考えます!」若い男はいった。「過去二日間味わった苦悶で、ぼくは申しあげます、ぼくは、お母さんもご存じのように、昨日《きのう》つくられたものでもなく、軽々と思い浮かんだものでもない情熱をもっているのです。やさしい、親切なローズを迎えようと、ぼくの心は決心しています。それはどんな男の愛情にもおとらぬものです。ぼくにはこの世で、彼女以外にどんな思い、どんな考え、どんな希望もありません。この大きな賭《か》けで、お母さんがぼくに反対なさったら、お母さんはぼくの心の平和と幸福を手の中ににぎり、それを風に吹きとばしてしまうことになります。お母さん、もっとよくこのことと、ぼくのことを考え、あまりお母さんが大切に思っているようにも見えない幸福を無視しないでください」
「ハリー」メイリー夫人はいった、「熱烈で敏感な心を大切に思っていればこそ、わたしはそれを傷つけたくないのですよ。でも、このことは、さしあたって、もう十分に、十分以上に、話し合ったことね」
「では、最後の決定権はローズにゆだねましょう」ハリーがさえぎった。「お母さんはこうした考えすぎた意見をおしつけて、ぼくの邪魔をなさるようなことはしませんね?」
「ええ、しませんよ」メイリー夫人は答えた。「でも、おまえに考えてもらいたいのだけど――」
「ぼくは考えました!」がイライラとした答えだった。「お母さん、ぼくは何年間も、何年間も考えぬいたんです。ものを真剣に考えられるようになって以来、ずっと考えているんです。ぼくの気持ちは変わりません、今後ともね。それを口にして、目的を達成できぬ苦しみを味わう必要がどこにありましょう? それはなんの利益も生みだしてはくれないのですからね。そうです! ぼくがここを去るまでに、ローズにぼくの考えを聞いてもらいます」
「そうなさい」メイリー夫人はいった。
「お母さんの態度には、彼女がぼくの言葉を冷淡に聞くということをほのめかしているものがなにか、ひそんでいますね」若い男はいった。
「冷淡じゃないわ」老夫人はいった。「とんでもない」
「そんなら、どんなふうだとおっしゃるのです?」若い男はたずねた。「まさか、ほかの男の人を好きになったのではないのでしょうね?」
「ええ、たしかに好きになってはいないわ」母親は答えた。「おまえは、わたしの勘ちがいでなければ、もう強すぎるほど彼女の愛情をつかんでいます。わたしのいいたいのは」息子がなにか言おうとするのを抑えて、老夫人は語りつづけた、「こういうことです。おまえがこのことにすべてを賭《か》けようとする前に、最高の期待で胸をふくらませる前に、ほんのわずかのあいだ、ローズの経歴を考え、汚点《しみ》のある自分の誕生を知ったら、それが彼女の決定にどんな影響をおよぼすかを考えてごらんなさい――彼女の気高い心すべてをこめ、また、大事・小事にかかわりなく、いつも彼女の特質になっている完全な自己犠牲で、彼女はわたしたちのことを考えていてはくれますけどね」
「というのは、どういうことです?」
「それは、おまえが見つけることよ」メイリー夫人は答えた。「わたしは彼女のところへもどらなければなりません。では」
「今晩お会いできるでしょうね?」むきになって若い男はたずねた。
「間《ま》もなくね」夫人は答えた。「ローズの看護がすんだときに……」
「ぼくがもどったことを、彼女に知らせてくださいますね?」ハリーはいった。
「もちろん」メイリー夫人は答えた。
「そして、どんなにぼくが心配していたか、どんなにぼくが苦しんだか、どんなに会いたがっているかを伝えてください。それをしてくださるのを、まさかいやだとはおっしゃらないでしょうね、お母さん?」
「ええ」老夫人はいった。「彼女にぜんぶ話しますよ」そういって、息子の手をやさしくにぎりしめて、彼女は急いで部屋を出ていった。
このあわただしい会話が進行中、ロスバーン氏とオリヴァはその部屋の向こうの端《はし》にいた。ロスバーン氏はいまハリー・メイリーに手をさしだし、心こもる挨拶が二人のあいだでかわされた。医者は、その若い友人が発するさまざまな質問に答えて、患者の容態を正確に伝え、それは、オリヴァがすでにいっていたように、心を慰め、希望にあふれるものだった。荷物の整理をせっせとやっているふりをしていたジャイルズ氏は、貪欲な耳をそばだてて、その話をすっかり聞いていた。
「最近、なにか珍しいものでも撃ったかね、ジャイルズ?」話が終わったとき、医者はたずねた。
「なにもべつに」目のあたりを赤く染めて、ジャイルズ氏は答えた。
「盗賊をとらえたり、押し込み強盗の素性《すじょう》を明かしたりすることもせんのかね?」医者はたずねた。
「いいや、ぜんぜん」いかにも重々しく、ジャイルズ氏は答えた。
「うん」医者はいった。「それを聞いて残念だ、きみのそうした方面の腕はたいしたものなんだからな。ところで、ブリトルズはどうしている?」
「坊やはとても元気です、先生」恩きせがましい彼のいつもの態度をとりもどして、ジャイルズ氏はいった。「そして、先生にもよろしくといってました」
「そいつはありがたい」医者はいった。「ここできみの顔を見て思いだしたが、ジャイルズ君、わしがあわただしく呼びだされたあの日の前の日に、メイリー夫人のたのみで、わしはきみのためになるちょっとしたことをしたんだがね。ちょっと、こっちの隅のとこにきてくれないかね?」
ジャイルズ氏は、いかにも勿体《もったい》ぶった、多少いぶかしげなようすで隅にゆき、ちょっとのあいだ、ヒソヒソと医者と打ち合わせをしていたが、それが終わると、彼はぴょこぴょこと何度か頭をさげ、ふだんにはないほど堂々とした足どりで、そこから引きあげていった。この会議の題目は客間では明らかにされなかったが、台所では、早速、それが披露《ひろう》された。それというのも、ジャイルズ氏はまっすぐそこに進んでゆき、ビールを一杯注文して、非常に効果的だったいかにも威厳のこもった態度で、あの押し込み強盗が侵入しようとしたさいの彼の勇敢な行為にたいして、奥さまがかたじけなくも、彼が一人でもっぱら楽しく使うようにと、地区の貯蓄銀行に二十五ポンドの金額をお預けくださった、と発表したからである。これを聞いて、二人の下女はその手と目をあげ、ジャイルズ氏が今度は大得意になるだろうと考えていた。それにたいして、ジャイルズ氏は、シャツのひだを引っぱりだして、「いや、いや」と答え、もし自分が目下のものにお高い態度をとっていることに気づいたら、自分にそう注意してくれたらありがたい、といった。それから彼はいろいろとさまざまのことをいったが、それは前の言葉と同様に、彼の謙虚さをあらわすものだった。それは、好意と拍手をもって迎えられ、その上、えらい人たちの言葉のように、それは独創的で、非常に当を得たものだった。
二階では、残りの宵《よい》が楽しくすごされた。医者はひどく上機嫌で、ハリー・メイリーがはじめにどんなに疲労し、物思いにふけっていようとも、彼はこのお偉方《えらがた》の医者の上機嫌には抗し得なくなってしまったからである。医者の上機嫌はさまざまな警句、医者の懐旧談、豊かなちょっとした冗談話となってあらわれ、オリヴァには、それがいままで聞いたことがないほど滑稽《こっけい》に思われ、彼に腹をかかえさせてしまった。これにたいして、医者はいかにも満悦げに笑い、ハリーも、その笑いについ誘われて、いっしょに愉快に笑ってしまった。そこで、一同はこうした事情のもとで許されるかぎり陽気になり、明るく感謝にあふれた気持ちで休息をとりに引きあげたのは、夜もおそくなってからのことだった。彼らは最近味わった不安とどっちつかずの気持ちのあとで、そうした休息をとても必要としていたのだったが……。
翌朝オリヴァはずっと明るい気分で目をさまし、この何日間か味わったこともない期待とよろこびにあふれて、朝のいつもの仕事にとびまわった。小鳥は、歌うようにと、もとの場所につりさげられ、見つけられるかぎりの野生の美しい花は、その美しさでローズの心をよろこばすために、もう一度採集された。不安にかられた少年の目に、過去何日間も、美しいすべてのものの上におおいかぶさっているように思えた憂鬱《ゆううつ》は、魔法の力で吹き飛ばされてしまった。露は緑の葉の上で、以前にもましてもっとキラキラ輝いているように思えた。大気は、前より美しい調べを立てて、葉のあいだをそよぎ、空自体も、もっと青く、輝いているように見えた。われわれ自身の考えの状態が外部的なものの装《よそお》いに与える影響は、このように強いものである。自然と人間をながめ、すべてが暗く陰鬱《いんうつ》だと叫ぶ人々の意見は正しいが、その暗い反映は、彼ら自身の黄疸《おうだん》にかかった目と心の反映といえる。真の色は繊細《せんさい》なもの、それをながめるには、もっと澄《す》んだ目を必要とするのだ。
オリヴァの朝の遠征がもはや単独のものではなくなっていたことは、注目すべきことで、オリヴァも、そのとき、このことに気がついた。ハリー・メイリーは、オリヴァが花をかかえて帰ってくるのに出逢った最初の朝以後、花にたいする強い情熱にとらわれ、花の盛《も》りかたにじつに鋭い目のあることを示し、オリヴァはその点ですっかり凌駕《りょうが》されてしまった。しかし、こうした点でおくれをとったにせよ、彼はどこにいちばんきれいな花があるかを知っていて、二人は来る朝も来る朝もその地方をいっしょにかけめぐり、いちばんきれいに咲いた花を家にもって帰った。若い婦人の部屋の窓は、いまはもう開かれていた。彼女は豊かな夏の空気が流れこみ、その新鮮さが自分を元気づけてくれるのを望んでいたからである。しかし、格子窓のちょうど内側のところに、毎朝とくに丹精してつくられた小さな花束が、水に差されて立っていた。小さな花瓶《かびん》の水はいつもとりかえられてはいたが、そこのしぼんだ花が絶対に打ちすてられないことに、オリヴァは気がつかずにはいられなかった。また彼は、医者が庭に出てきたときにはいつでも、彼がこの特別な隅に目をやり、朝の散歩に出てゆくときに、意味ありげに頭をうなずかせているのに気がつかずにはいられなかった。こうしたことを観察しているあいだに、毎日は飛ぶようにしてすぎてゆき、ローズは急速に回復していった。
若い婦人はまだ部屋を出ず、メイリー夫人との夕方の近距離の散歩もときたまにしかおこなわれていなかったが、オリヴァは時間をもてあましてはいなかった。彼は前に倍する熱心さで白髪の老紳士の授業を勉強し、とても努力を重ねたので、その急速な進歩ぶりは、彼自身も驚くほどだった。彼がじつに思いがけない事件でひどくびっくりし、困惑したのは、こうした勉強をしている最中のことだった。
彼がいつも勉強していた小部屋は、家の裏の一階にあった。それは小屋ふうの小部屋で、格子窓があり、そのまわりには、窓をはいあがり、その美しい香りで部屋を満たしているジャスミンやスイカズラの花の房が咲きみだれていた。それは庭を見わたし、そこの小門は小さな牧場用のかこい地に通じ、その向こうには、美しい牧場と森が開けていた。その方角には近くに家がなく、そこからの見晴らしはひろいものだった。
ある美しい夕方、たそがれの最初の影が地上におりはじめたころ、オリヴァは、本を熱心に読みながら、窓辺の机に坐っていた。彼は、しばらくのあいだ、本を読んでいた。その日はふだんにないほどむし暑く、とても勉強したので、彼がゆっくりと、われ知らぬうちに眠りこんでしまったといっても、オリヴァが読んでいた本の著者がだれにせよ、それは決してその著者を誹謗《ひぼう》したことにはならないだろう。
これは、よくわれわれに忍びよってくるものだが、からだをとりこにされながらも、その周辺のものの知覚ははっきりとし、心は思うがままにさまようことができる一種の眠りといったものがある。圧倒的な無気力、力がぬけていること、思考力や活動力をぜんぜん働かせないことが眠りと呼べるものだとすれば、これはたしかに眠りである。だが、われわれは自分のまわりで起きていることすべての意識を失ってはいない。もしこうしたときに夢を見たら、ほんとうに語られた言葉、その瞬間にほんとうに存在した音は、驚くべき敏速さで、われわれの幻想と一致し、あげくの果てには、現実と想像がじつに奇妙にまじり合い、その二つの現象の分離は、あとではほとんど不可能になってしまう。また、これは、こうした状態に附随するもっとも驚くべき現象とはいえない。われわれの触感・視覚が、しばらくのあいだ、死んでいても、われわれの眠っている思考や、われわれの前をとおる幻想的な光景は、ある外的物象のまったく静かな存在によって、影響、いちじるしい影響を受ける。しかも、その外的物象は、目を閉じたときには、われわれの近くになかったものかもしれないし、それが近くにいることについて、われわれははっきりとした目ざめた意識はなにももっていないのである。
オリヴァは、自分が自分の小部屋にいることを、はっきりと知っていた。本が自分の前のテーブルの上にあること、よい香りのする空気が外の蔓草《つるくさ》のあいだでそよいでいることをはっきりと知っていた。だが、彼は眠っていたのである。がらりと場面が変わった。空気は重苦しく、息苦しくなった。彼は、恐怖の情にかられて、自分はふたたびユダヤ人の家にいるように感じた。あのおそろしい老人がいつもの隅に坐って、彼をさし、面《おもて》をそむけて彼のわきに坐っているもう一人の男にささやいていた。
「しっ!」ユダヤ人がいっているのが聞こえるようだった。「たしかに、やつだ。さあ、いこう」
「やつだ!」相手の男が答えているらしかった。「おれがやつを見そこなうとでも思ってるのか? たとえたくさんの亡霊がやつと同じ姿になって、やつがその中に立っていても、やつをこれだとおれに教えてくれるものがあるんだ。やつを地下五十フィートのとこに埋め、おれをやつの墓のとこに連れてきたら、たとえそこに墓標はなくとも、やつがそこに埋められてることが、おれにはわかるだろう!」
男はひどい憎しみをこめて、これをいっているようだったので、オリヴァは恐怖心で目をさまし、とびあがった。
驚いたことだ! ドキドキと血を心臓に送りこみ、声と動く力をうばってしまうものは、なんなのだろう! そこに――そこに――窓のところに――彼の目の前に――とびのく前だったら手にもふれられたほど近くに、部屋の中をのぞきこみ、視線を彼と合わせて、あのユダヤ人が立っていたのだ! そして、ユダヤ人のわきには、激怒か恐怖か、それともその両方で顔を蒼白にさせ、宿屋で彼に声をかけたまさにあの男が眉をよせていた。
それは彼の眼の前にあらわれた一瞬、一瞥、ひらめきにすぎず、すぐに消えてしまった。しかし、彼らは彼を、彼は彼らを、認めた。そして、彼らのようすは、まるでそれが石に彫られ、彼が生まれたときから彼の目の前にすえてあるように、彼の脳裏《のうり》にきざみつけられた。彼は、一瞬、釘づけになったように立ちつくしていたが、それから、窓から庭にとびだし、大声で救いを求めた。
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三十五 オリヴァの冒険の不満足な結果、ハリー・メイリーとローズのあいだでかわされた重要な会話
オリヴァの叫びを聞きつけとびだしてきた家人が声のした場所にかけつけたとき、彼らは、彼が顔を青くして興奮し、家のうしろの牧場のほうをさし、ほとんど口に出ない言葉で「ユダヤ人! ユダヤ人!」といっているのに気がついた。
ジャイルズ氏は、この叫びがいったいどういうことか見当もつかずにとまどっていたが、頭の働きがもっと敏捷《びんしょう》で、母親からオリヴァの話を聞いていたハリー・メイリーは、それをすぐに理解した。
「どの方向にいった?」隅に立てかけてあった太い棍棒《こんぼう》を手にして、彼はたずねた。
「あちらです」その男がとった進路を示して、オリヴァは答えた。「すぐ二人の姿は消えてしまいました」
「それなら、溝の中にいるのだ!」ハリーはいった。「ついておいで! そして、できるだけ、ぼくからはなれないようにね」そういいながら、彼は生垣《いけがき》を飛び越え、ほかの者がとてもついてはゆけぬほどのスピードで、ふっとんでいった。
ジャイルズ氏は一生けんめいあとを追い、オリヴァも同様だった。そして、一、二分のうちに、散歩に出ていて、ちょうどそのときにもどってきたロスバーン氏は、彼らのあとを追って生垣でもんどり打ってひっくりかえり、彼にあるとは思われぬほどの機敏さでさっと起きあがり、無視できぬそうとうなスピードで、同じ方向に走りだし、そうしながら、とてつもない大声を張りあげて、どうしたんだ? とたずねつづけていた。
みんなは走りつづけ、途中で息つぎに立ちどまることもしなかった。とうとう、先頭のハリーがオリヴァが示した畠の角をまがって、溝とそのとなりの生垣を綿密に調べはじめ、それで残りの者が追いつけたし、オリヴァはロスバーン氏にこうした激しい追跡を起こした事情を伝えることができるようになった。
この捜索は完全にむだに終わった。最近踏みつけた足跡は見つからなかった。一同はいま、四方畠を三、四マイル見わたせる小さな岡の頂上に立っていた。左手のくぼみには村があったが、オリヴァが指摘した道をとおってそこにゆくには、ユダヤ人たちは開けた場所をぐるりとまわってゆかねばならず、この短時間中にそれをすることは不可能だった。べつの方向には、濃く生い茂った森が牧草地をつつんでいたが、同じ理由で、彼らがそこに逃げこんだことも考えられなかった。
「オリヴァ、夢だったのだよ」ハリー・メイリーはいった。
「いいえ、ほんとうに夢ではありません」ユダヤ人の顔を思い出して身をふるわせながら、オリヴァは答えた。「あんなにはっきり見たんですもの、夢であるはずはありません。いまあなたを見ているようにはっきりと、ぼくは彼らを見たのです」
「もう一人の男っていうのは、だれなんだい?」ハリーとロスバーン氏が同時にたずねた。
「前にお話したあの男、宿屋で急にぼくにぶつかってきた男です」オリヴァは答えた。「ぼくたちはしっかりと目を合わせたのです。あの男にちがいはありません」
「この道をいったのかい?」ハリーはたずねた。「まちがいないね?」
「あのユダヤ人たちが窓のところにいたのが確実なように」こういいながら、家の庭と牧場の境になっている生垣《いけがき》をさしながら、オリヴァは答えた。「背の高い男は、ちょうどそこで飛び越え、ユダヤ人は何歩か右のほうを走っていって、あの空《す》き間をとおりぬけてゆきました」
二人の紳士は、オリヴァが話しているとき、その真剣な顔を見守り、それから彼から視線をうつして顔を見合わせ、彼の言葉の正確さに満足したようだった。それにしても、どの方角にも、人があわただしく逃げ去った痕跡はなかった。草はながくなっていたが、彼ら自身が踏みつぶした箇所以外に、それはどこも踏まれてはいなかった。溝のわきとへりは湿った粘土で固められていたが、そのどこを見ても、男の靴の足跡、ここ何時間か足が踏みつけたほんのわずかな痕跡も見当たらなかった。
「おかしいな!」ハリーはいった。
「おかしい?」医者はその言葉をくりかえした。「ブラザーズとダフが調べても、これでは、なにもわからんでしょうな」
捜索してもむだなことは明らかだったが、夜になってそれ以上の捜索ができなくなるまで、彼らは捜索の手をゆるめず、そのときでさえも、それはふしょうぶしょう停止されたのだった。ジャイルズは、二人の侵入者の外見と服装をオリヴァからできるだけくわしく聞いて、村のさまざまな酒場に派遣された。二人のうち、もしユダヤ人が酒を飲んだり、歩きまわっているのを見かけられたら、彼には特徴があるので、少なくとも人の記憶からは消えるはずがなかった。しかし、ジャイルズは、この謎を消したり減らしたりする情報をなにももち帰ってはこなかった。
その翌日、新しく捜索がくりかえされ、調査がおこなわれたが、前日以上の成果はあがらなかった。そのつぎの日、オリヴァとメイリー氏は市場町に出かけ、そこでユダヤ人たちの消息をさぐろうとしたが、この努力も同じく徒労に終わった。数日後、この事件は忘れられはじめていた。これは、驚きがそれを維持する新しい材料のなくなったとき、自然に消滅してしまうのと同じことだった。
一方、ローズは急速に回復していた。彼女は病室を出て、外にゆけるようになり、一家の者とふたたびいっしょになって、みなの心によろこびを与えていた。
このうれしい変化は家族の一団にはっきりとした影響を与え、陽気で愉快な笑い声がもう一度この家で聞かれるようになったが、そこのだれかに、ローズ自身にさえ、遠慮といったものがあり、オリヴァもこのことに気づかずにはいられなかった。メイリー夫人と彼女の息子は、ときどき、ながいこといっしょの部屋にとじこもり、一度ならず、ローズの顔には涙の跡がうかがわれた。ロスバーン氏がチャーツェーにもどる日を決めてから、こうした徴候はなお増大していった。若い婦人とそのほかのだれかの心の平静を乱しているなにかあることが進行中であることは、明らかだった。
とうとう、ある朝、ローズが朝食の間《ま》でただ一人いるとき、ハリー・メイリーがはいってきて、多少もじもじしていたあとで、ほんのわずかのあいだ彼女と話をしたい、といいだした。
「ローズ、ほんのわずか――わずかの時間――で十分なのです」青年は、椅子を彼女のほうに引きよせていった。「ぼくのいうことは、きみの心にはもうわかっていることです。ぼくの心のいちばん大切に思っていることを、きみは知らないはずはありません。なるほど、ぼくの口からそれをいったことは、まだありませんけどね……」
ローズは、彼が部屋にはいってきたときから、とても青い顔をしていた。だが、それは、彼女の最近の病気のためかもしれなかった。彼女はただ頭をさげ、そばにある草の上にかがみこんで、だまったまま、彼が話しだすのを待っていた。
「ぼくは――ぼくは――以前にこの家を出ていなければならなかったんです」ハリーはいった。
「ほんとうに、そうですわ」ローズは答えた。「そんなことをいって失礼ですけど、そうなさればよかったと思っています」
「ぼくがここにやってきたのは、すべての不安のうちでいちばんおそろしい、苦しいもののためでした」青年はいった。「すべての期待と希望がかけられている愛する人を失うのではないかという不安だったのです。あなたはこの世と天国のあいだのどっちつかずで、死にかけていたのです。若い人、美しい人、善良な人が病いに襲われるとき、その清らかな魂は、それと気づかぬうちに、永遠のいこいの場所であるあの輝く家に向かうものだということを、ぼくたちは知っています。ぼくたちはほんとうに知っているのです、もっともりっぱで、もっとも美しい人は、残念なほどよく、花の盛りにしぼんでしまうものですからね」
こうした言葉が語られたとき、やさしい少女の目には涙が浮かんでいた。その一滴《ひとしずく》が彼女がかがみこんでいる花の上にこぼれ、その花びらの上でキラリと輝き、それをいっそう美しくしたとき、みずみずしい若い心からあふれ出た流れは、当然のことながら、自然界でいちばん美しいものに類を求めているようだった。
「娘」青年は熱をこめて語りつづけた、「神さまの天使のように美しく、罪を知らぬ娘が、生命と死のあいだを舞っていたのです。おお、彼女の同類である遠くの天国が半ば彼女の目に開かれたとき、彼女がこの世の悲しみと不幸にもどってくれることを、だれが期待できましょう! ローズ、ローズ、天国からの一本の光が地上に投げるやわらかな影のように、きみがこの世を去ろうとしていることを知り、ここにとどまっている者の手にきみが与えられる希望が消え去ってしまったとさとること、きみがこの世に残るべき理由がほとんどわからなくなり、もっとも美しく、もっとも善良な多くの者が若い身空で翼をはためかして飛んでゆくあの輝く場所にきみが属しているとは感じながらも、そうした心の慰めにもかかわらず、きみがきみを愛している者にもどされることをねがう気持ち――これはもう堪《た》えられぬほど大きな苦しみなのです。そうした苦しみが、昼も夜も、ぼくの心を奪い、それといっしょに、きみが死んでしまい、ぼくがどんなに献身的にきみを愛していたかが知られずじまいになるのではないかという心配・不安・利己的な後悔の激しい怒濤《どとう》がおしよせ、それはほとんど分別も理性もおし流してしまうほど強いものでした。きみは回復しました。日毎《ひごと》日毎、ほとんど一時間ごとに、健康の滴《しずく》がもどってき、以前にはきみのからだの中で緩慢な動きしか示していなかった涸《か》れ果てた、弱々しい流れとまじりあって、それは高まる強い潮にふくれあがっていったのです。その激しさと深い愛情でめくらになってしまったぼくの目は、きみが死の瀬戸際《せとぎわ》から生命にもどってくるのを、ジッと見守っていたのです。この愛情を失ってしまったほうがよかったのに、などとぼくにいわないでください。それは、すべての人間にたいして、ぼくの心をやわらげてくれたのですからね」
「そんなことをいったのではありません」泣きながら、ローズはいった。「高く気高いお仕事、あなたに十分ふさわしいお仕事におもどりになるようにと、ここを出ることをおすすめしたまでのことです」
「きみのような心を得ようと努力すること以上に、ぼくにふさわしい、いや、最高の人物にふさわしい仕事はありません」彼女の手をとって、青年はいった。「ローズ、ぼくの愛するローズ! 何年間も――何年間も――ぼくはきみを愛してきました。名声をあげ、誇《ほこ》らかに家にもどり、そうしたことをしたのも、すべてそれをきみとわかつためだったと話し、白昼夢の中では、その幸福な瞬間に、少年の愛情の無言の証しをどんなに多くきみに与えたかをきみに思い起こさせ、二人のあいだで結ばれたむかしの無言の契約のつぐないに、きみの手を求めることを考えていたのでした! そうしたときは、まだやってきてはいません。だけど、名声も得ず、少年のころの夢も実現されずに、ぼくはここで、ながいこときみのものだったぼくの心をささげ、それを受けてくれるきみの言葉の上に、すべてを賭《か》けているのです」
「あなたはいつも、親切で、気高くおふるまいでした」心に湧き立つ感動を抑えながら、ローズはいった。「わたしは感受性のない、恩知らずな女ではございません。どうかわたしの返事をお聞きください」
「それは、ぼくがきみにふさわしくなるように努めろということでしょう? どうです、ローズ?」
「それは」ローズは答えた、「あなたがわたしを忘れるように努めなければならないということです。それは、古い、親しい友としてではなく――そうなったら、それはわたしに深い傷を与えることになるでしょう――あなたの愛情の対象としてです。世間を見てごらんなさい。そこには、その心を獲《つかま》えられれば、あなたが誇らかに思うかたが、どんなにたくさんおいでか、考えてもごらんなさい。よろしかったら、なにかべつの情熱をわたしにお向けください。わたしはこの上なく誠実な、熱烈な、忠実なあなたのお友だちになるつもりです」
話がとぎれ、そのあいだに、片方の手で顔をおおっていたローズは、さめざめと涙を流した。ハリーは彼女のもう一方の手をまだにぎりしめていた。
「そして、ローズ、きみの理由は?」彼はとうとう低い声でいった。「この決定にたいするきみの理由は?」
「それを知る権利をあなたはおもちです」ローズは答えた。「わたしの決心を変える言葉を、あなたはおっしゃれないはずです。それはわたしがおこなわなければならない義務です。わたしはほかの人たちにたいしてばかりでなく、わたし自身にたいして、それをしなければならないのです」
「きみ自身にたいしてですって?」
「ええ、ハリー。友も持参金もなく、自分の名に汚点《しみ》をもっている娘のわたしは、わたしが、きたない根性から、あなたの初恋の情熱に屈し、重荷になるわたしをあなたの希望と計画にむすびつけた、とあなたのお友だちに思わせないようにするのは、わたし自身にたいする義務なのです。あなたの寛大な性格の生む情熱で、この世でのあなたのご出世のさまたげになるこの大きな障害をあなたが背負いこもうとなさっておいでになるのを防ぎとめようとするのは、あなたとあなたのご家族にたいして、わたしが負っている義務なのです」
「きみの好みがきみの義務感と一致するとしたら――」ハリーは切りだした。
「一致はいたしません」顔を真っ赤に染めて、ローズは答えた。
「そうしたら、ぼくの愛情に応《こた》えてくれるのですか?」ハリーはたずねた。「ローズ、それだけいってください。それだけいって、この苦しい失望の苦痛をやわらげてください!」
「わたしが愛していた人をひどく損《そこ》ねずに、それをすることができたら」ローズは答えた、「わたしは――」
「この愛の宣言をとてもちがったふうに受けとることができたろう、というのですか?」ハリーはいった。「ローズ、少なくともそれだけは、かくさないでください」
「そうです」ローズは答えた。「ちょっと待ってください」手を引っこめて、彼女はいいそえた。「どうしてわたしたちはこの苦しいお話をのばさなければならないのでしょう? わたしにはなによりも苦しいくせに、それは、ながくつづくよろこびを生みだしてくれます。わたしがいま占めているあなたのお心の中の高い地位をかつて占めていたことがあると将来思うことは、わたしの幸福の源《みなもと》になるでしょうし、あなたが人生で獲得なさるすべてのご成功は、新しい勇気と強さでわたしをふるいたたせることでしょう。ハリー、さようなら! 今日《きょう》お会いしたようにしてお会いするのは、もう二度とないことです。でも、この会話でわたしたちがおかれた関係以外の関係だったら、わたしたちはながく、幸福に、親しくお付き合いできるのです。そして誠実でまじめな心の祈りがすべての真実と誠意の源《みなもと》である神さまから呼びおろすことのできるすべての祝福が、あなたを元気づけ、あなたを幸福にしますように!」
「おねがいです、ローズ、もう一言」ハリーはいった。「あなたの理由をあなた自身の言葉で聞かせてください。あなた自身の口から、それを聞かせてください」
「あなたの前途は」ローズはきっぱりと答えた、「輝かしいものです。公共生活で大きな才能と有力な関係がひき起こしてくれるすべての名誉は、将来あなたのものになるのです。しかし、そうした有力な関係者は誇《ほこ》りが高く、わたしは、わたしを生んでくれた母を軽蔑し、わたしの母がわりになってくださったかたのご子息に不名誉と失敗をもたらす人たちとは、交際する気にはなれません。一言で申せば」一時の気強さが消えてしまったとき、面《おもて》をそむけて、若い婦人はいった、「わたしの名前には汚点《しみ》がついていて、世間はそれで罪のない者を責めているのです。わたしはそれを自分の血以外の者に伝えたくはありませんし、その非難はわたしだけにとどめたいのです」
「ローズ、愛《いと》しいローズ、もう一言、もう一言だけ!」彼女の前に身を投げて、ハリーは叫んだ。「もしぼくがもっと――世間でいうもっと不幸だったら、もし無名のおだやかな生活がぼくの運命だったら――もしぼくが貧乏で、病身で、よるべのないものだったら――きみはぼくを断わりましたか? あるいは、ぼくがひょいとしたら金持ちになり身分が高くなることが、そんな気懸《きがか》りを生みだしたのですか?」
「わたしにむりに返事をさせないでください」ローズは答えた。「そんな問題は起きてもいませんし、これからも起きることはありません。返事をむりにさせるなんて、いけないこと、思いやりのないことですわ」
「もしあなたの答えが、ぼくのねがっているものだったら」ハリーは答えた、「それは、ぼくのわびしい道に一筋の光を投げ、ぼくの前途を明るくしてくれるでしょう。なににもましてあなたを愛している男のために、わずか数語の言葉で、そんなことができるとしたら、それをおっしゃってくださっても、むだにはならないでしょう。おお、ローズ! ぼくの熱烈な、いつまでもつづく愛情のために、きみのためにぼくが受けたすべての苦しみ、ぼくが味わうようにきみがさせているすべてのことのために、この質問にだけは答えてください!」
「では、あなたの運命がちがったふうにつくられていたら」ローズは答えた、「もしあなたの地位がわたしの地位よりほんの少し、ちょっと上だったら、平和で世をかくれたつつましい場所でお手伝いができ、あなたをお慰めでき、野心的で身分の高い人たちのあいだで引けめになり、汚点《しみ》になるのでなかったら、この苦しみは味わわずにすんだことでしょう。わたしはきっといま幸福に、とても幸福になっていることでしょうし、そうであれば、ハリー、わたしは、いままでも、きっと幸福だったでしょう」
この告白をしているあいだに、ずっと以前に小娘としていだいていた希望の思い出があわただしくローズの心に去来した。だが、古い希望がしなびた形をとってもどってきたときよくあることだが、それとともに涙がぐっとこみあげてきて、それが彼女の気持ちをほっとさせた。
「ついこんな弱みをお見せしましたが、それで、わたしの決心はなおかたくなったのです」手をさしだして、ローズはいった。「ほんとうに、もう、わたしは失礼します」
「ひとつだけ約束してください」ハリーはいった。「一度だけ、もう一度だけ――それは一年以内、それよりもっとずっと早いかもしれません――それを最後に、この問題でもう一度話をするのを許してくださいますか?」
「わたしの正しい決心をむりやり変えようとなさるのでなければ」わびしげな微笑をもらして、ローズは答えた。「でも、それはむだなことでしょう」
「ええ」ハリーはいった。「もしきみがそういう気だったら、これを最後に、それをきみがくりかえしていうのを聞くためにも! ぼくがもっているどんな地位、どんな財産でも、ぼくはきみの足下に投げだすつもりです。それで依然としてきみがいまの決心を変えないのだったら、言葉でも行動でも、それを変えようとすることは、もうしません」
「では、そういたしましょう」ローズは答えた。「そうしても、もう一度だけ苦痛を味わうだけです。そのときまでに、もっとそれに堪《た》えられるようになっているかもしれませんわ」
彼女は、ふたたび、手をさしだした。だが、青年は彼女を胸にだきしめ、彼女の美しい額《ひたい》に一度キスをして、急いで部屋を出ていった。
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三十六 とても短い章で、さして重要とは思えぬものだが、後へのつづきとして、いずれ起きるものを解く鍵として、読んでおかねばならぬ章
「じゃ、きみは今朝、わしといっしょに旅行することに決めたのかね、えっ?」ハリー・メイリーが食卓のテーブルで彼とオリヴァといっしょになったとき、医者はたずねた。「いや、驚いた。きみは同じ決心・意図が一時間とはつづかんのだね!」
「いずれ、そうじゃないとおっしゃるようになりますよ」どうしてかそれとわからず顔を染めて、ハリーはいった。
「そうであればいいんだが」ロスバーン氏は答えた。「そんなことになるとは、思えんのだがね。昨日《きのう》の朝、きみはあわただしく決心して、ここにいて、孝行な息子らしく、女親といっしょに海にいくといっていた。昼前には、ロンドンにいくから、途中まで同行の栄をぼくにたまわるともいってたっけね。そして夜には、大きな謎をこめて、ご婦人がたがまだ起きぬうちに出発しようとわしにつめよってたね。その結果は、少年オリヴァが牧場をかけまわってあらゆる種類の植物学的現象を求めているべきときに、彼がここに釘づけになってしまったことだ。これはひどいことだね、オリヴァ、どうだい?」
「先生とメイリーさんがお出かけになるとき、ぼくがここにいなかったら、心残りになったことでしょう」オリヴァは答えた。
「おまえはいい子だな」医者はいった。「もどってきたら、わしのところにおいで。だが、これは冗談ぬきの話だが、ハリー、身分の高い貴人からなにか話があって、きみはこうして突然出発することになったのかね?」
「身分の高い貴人で」ハリーは答えた、「あなたはぼくの堂々たる叔父《おじ》のことをいっておいでなのでしょうが、ぼくがここにきて以来、彼とぼくとはまだ話をしていません。また、こんな時節に、なにかことが起きて、ぼくが彼らのご機嫌うかがいにはせ参ずることもないでしょう」
「うん」医者はいった。「きみは変な男だな。だが、もちろん、クリスマス前の選挙で、彼らはきみに応援して、きみは議院入りすることになるだろう。そうすれば、こうした変転自在さは政治家の生活にまんざらでもない準備になるわけだ。これには、なにかいわくがあるらしいな。訓練はいつも望ましいものだよ。競争が地位、賞杯、競馬の賭《か》け金目当てのものでもね」
ハリーはこの問答のあとにつづいて、医者が少なからずタジタジとしそうな二、三の言葉をいいそうな気配を見せたが、「いまにわかりますよ」とだけいって、それ以上この問題を追求しなかった。駅馬車はこの後|間《ま》もなく戸の前にとまり、ジャイルズが荷のつみこみのためにやってきたので、善良な医者は大さわぎをして出ていって、荷造りの監視をしていた。
「オリヴァ」低い声で、ハリー・メイリーはいった。「ちょっときみと話したいんだが……」
オリヴァはメイリー氏が招いた窓ぎわのくぼんだところにいったが、ハリーが悲しげなようすとうきうきした態度の入りまじったものを示しているので、びっくりした。
「きみはもう、手紙はきちんと書けるね?」オリヴァの腕に手を乗せて、ハリーはたずねた。
「書けると思います」オリヴァは答えた。
「ぼくは、たぶん、しばらくのあいだ、家にはもどらないだろう。きみに手紙を書いて欲しいのだ――そう、二週間に一回、隔週月曜日ごとにね――ロンドンの中央郵便局あてだ。どうだい?」
「ええ! もちろん。それができたら、ぼくはうれしいです」その仕事に大よろこびして、オリヴァは叫んだ。
「ぼくの知りたいことは――母とメイリー嬢がどうしているかということ」青年はいった。「それに、どんな散歩をしたか、どんなことを話したか、彼女が――彼らが幸福で元気そうに見えるかどうか、便箋《びんせん》に書いてくれればいいのだよ。わかったね?」
「おお! よくわかりました」オリヴァは答えた。
「このことは、彼らにはかくしておいてくれたまえ」せきこんで、ハリーはいった。「母が多くぼくに手紙を書くようになるかもしれないし、それは彼女に面倒でやっかいなことになるかもしれないからね。それは、きみとぼくのあいだの秘密にしておいてほしいのだ。そして、いいかね、細大もらさずぼくに伝えてくれたまえ! ぼくはきみをたよりにしているよ」
オリヴァは、自分が役に立てることにうきうきして得意になり、秘密を守り、なんでもはっきりと伝えることを確実に約束した。メイリー氏は、彼がオリヴァの世話を見、彼を守ってやることを何度も約束して、彼から別れていった。
医者は馬車に乗っていた。ジャイルズ(彼はあとに残ることになっていた)は手で戸をおし開き、女中たちは庭に出て、このようすをながめていた。ハリーはチラリと格子窓に目を投げ、馬車に飛びこんだ。
「出発だ!」彼は叫んだ。「しっかりと、早く、フルスピードだ! 今日《きょう》は、飛ぶようにしてゆく以外には、このぼくと歩調が合わないんだぞ」
「おい!」大あわてで前のガラスをおろし、御者に呼びかけて、医者は叫んだ。「飛ぶようにしていく以外のものでなければ、わしと歩調が合わんのだぞ。わかったか?」
距離が遠くなり、その速さが目にだけわかるようになるまで、リンリンガタガタと音を立てて、馬車はほこりの雲にほとんどつつまれながら、道を進んでゆき、途中の邪魔物やまがりくねった道の状況しだいで、姿をあらわしたり、かくしたりしていた。見送っていた人たちがやっと散ったのは、ほこりの雲がもう見えなくなってからだった。
だが、まだ一人見送っている人がいた。彼女は、馬車が何マイルもいってしまったあとでも、それが消えた場所にジッと目をすえたままでいた。それというのも、ハリーが目を窓にあげたとき、その視線から彼女を守っていた白いカーテンのうしろに、ローズ自身が坐っていたからである。
「彼はとても元気で、幸福そうだわ」彼女は、とうとういった。「彼がそうではないふうを見せるのではないかと、心配していたの。わたしの勘ちがいだったわ。とても、とても、うれしいわ」
涙は、悲しみばかりでなく、よろこびをあらわすものである。だが、彼女が物思いにふけって、まだ同じ方向をジッと見つめながら、窓辺に坐っていたとき、彼女の頬《ほお》を伝わって流れ落ちた涙は、よろこびより、悲しみを物語っているようだった。
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三十七 この章では、読者に、結婚生活でよくある対照をお目にかける
バムブル氏は貧民院の客間に坐り、不機嫌に陰気な炉格子をながめていたが、時は夏だったので、そこからは太陽の弱い光線の反射以外の明るい輝きはもれず、その太陽の光は炉の冷たい、テラテラした表面から照りかえされていた。紙のハエとり籠が天井からダラリとさげられ、彼は、陰気な物思いにふけりながら、ときおり、それを見あげていた。警戒心のないハエがはでな色どりの網細工のまわりを飛びまわっているとき、バムブル氏はふっと深い溜《た》め息をもらし、それと同時に、もっと暗い影が彼の顔にひろがっていった。バムブル氏は考えこんでいた。ハエが、彼自身の過去の生活中のなにか痛ましいことを思い出させたのかもしれなかった。
バムブル氏の憂鬱《ゆううつ》だけが、第三者の胸にこころよい陰鬱《いんうつ》感をひき起こしているのではなかった。ほかの姿、彼自身に密接な関係のあったものが、欠けていたわけではなく、それは、彼の事情に大変化のあったことを物語っていた。モールのついた上衣、それに三角帽、それはどこにいってしまったのだろう? 彼はまだ半ズボンをはき、黒っぽい木綿の靴下を着けていた。だが、それは|あの《ヽヽ》ズボンではなかった。上衣はひろいすそのついたもので、その点では|あの《ヽヽ》上衣だったが、おお、なんとちがったものになったことだろう! たくましい三角帽は、つつましやかな丸いものに変えられていた。バムブル氏は、もはや、教区吏員ではなかったのである。
この世の昇進のうちには、それで得られる実質的な収入とはべつに、それと縁のある上衣やチョッキから生ずる価値と威厳をそなえたものがある。陸軍元帥には軍服が、僧正には絹のエプロンが、弁護士には絹のガウンが、教区吏員には三角帽が、それぞれつきものである。僧正から絹のガウンを、教区吏員からその帽子とモールをとりあげてしまったら、彼らはどんなものになるだろう? 人間、単なる人間になるだけだ。威厳・神聖さでさえ、ときに、一部の人が想像する以上に、上衣とチョッキの問題なのだ。
バムブル氏はコーニー夫人と結婚し、貧民院長になった。べつの教区吏員が権力をふるうことになり、この人物の上に、三角帽、モールづきの上衣、ステッキの三つが下げわたされた。
「あれ以来、明日で二箇月になる!」溜《た》め息をもらしながら、バムブル氏はいった。「ひとむかし前のようだな」
バムブル氏は、幸福な生活すべてをその短い八週間に集中してしまった、ということを意味していたのかもしれない。だが、あの溜《た》め息――その溜《た》め息には大きな意味がこめられていた。
「わしは身を売ってしまったのだ」同じ考えの糸を追いながら、バムブル氏はいった。「茶さじ六つ、角砂糖ばさみ、ミルクポット、それに、わずかな古道具、二十ポンドの金と交換にな。わしもいい値段で売られたもんさ。安い、まったく安い!」
「安いだって!」バムブル氏の耳に甲高《かんだか》い声がひびいた。「どんな値をつけたって、あんたは高すぎるよ。神さまもご存じ、あたしだって、あんたをずいぶん高く買ってしまったんだからね!」
バムブル氏は向きなおり、彼の興味あるつれあいと顔を合わせたが、彼女は夫の不平をわずかしか聞きとらず、それが十分にわかってもいないのに、こうした言葉を思いきって放ったのだった。
「なあ、おまえ!」感傷的なきびしさをこめて、バムブル氏はいった。
「えっ、なに?」夫人は叫んだ。
「どうか、わしのほうを見てくれ」目を彼女に向けて、バムブル氏はいった。(『もしあれがこのわしの目に対抗できたら』バムブル氏は心中考えた、『彼女はどんなものにも対抗できるだろう。それは収容員相手に、いつも効果をあげてきた目なんだ。それがもし、彼女にうまくいかなかったら、わしの力は消えてしまったも同然だ』)
ほんのちょっと目をむいただけで、食料不足で元気とは義理にもいえない収容員を静めるのには十分だったが、かつてのコーニー夫人がこの鋭いまなざしにとくに不感症になっていたかどうかは、議論のわかれるところである。事実は、この夫人がバムブル氏の渋面にいささかもへこたれず、それとは逆に、それをぜんぜん問題にしないで、まるで本音《ほんね》ともひびく高笑いでそれに応じたことである。
この思いもかけぬ物音を耳にして、バムブル氏は、最初は信じられぬといったふうを、ついではびっくり仰天したようすを示した。それから、彼はもとの状態にもどり、彼の妻の声で注意力がふたたび呼びさまされるまで、ぼんやりとしていた。
「そこでいびきをかいて、一日じゅう坐りこんでいるつもり?」バムブル夫人はたずねた。
「わしは、自分が十分と思うまで、ここにいるよ」バムブル氏はやりかえした。「わしはいびきをかいてはいなかったが、気が向けば、いびきもかく、あくびもする、くしゃみもする、笑いもする、泣きもするさ。それはわしの特権だからね」
「あんたの特権ですって!」いいようのない軽蔑をあらわして、バムブル夫人はせせら笑った。
「たしかに、わしはそれをいったよ」バムブル氏はいった。「男の特権は、命令をくだすことだ」
「そして、女の特権は、いったい、どんなものかしら?」いまは亡きコーニー氏の未亡人は叫んだ。
「したがうことさ」バムブル氏は大喝した。「きみの故人になった不幸な夫は、それをきみに教えるべきだったんだ。そうすれば、たぶん、彼もいま生きてたことだろう。かわいそうに、そうなってればよかったのにな!」
バムブル夫人は、決定的瞬間がいまや到達したこと、いずれかの側の支配権獲得の一撃が必然的に最後の断をくだすものになることを、一目で見てとり、死んだ者にたいする当てこすりを耳にするや、彼女はドンと椅子に腰をおろし、バムブル氏は冷酷な野獣だ、と金切り声で叫んで、発作状態におちいり、とっとと涙を流しだした。
だが、涙はバムブル氏の魂に応《こた》えるものではなかった。彼の心は耐水性をおびたものだったからである。雨にあってなおよくなる洗濯のきく海狸《ビーバー》の帽子のように、彼の神経は涙の驟雨《しゅうう》でますます強くしっかりしたものになった。涙は弱さの証拠であり、その点、彼自身の力を無言のうちに認めているものだったので、それは彼をよろこばせ、得意にさせた。彼は夫人をいとも満足げに打ちながめ、いかにもけしかける態度で、大いに泣け、と彼女にたのみこんだ。医者仲間では、この運動が健康に非常によいとされていたからである。
「それは肺を開き、顔を洗い、目を働かせ、気分をやわらげるもんだ」バムブル氏はいった。「だから、うんと泣くがいい」
こうした冗談をとばして、バムブル氏は帽子を釘からはずし、堂々とした態度で、自己の優越性をりっぱに主張したと思いこんでいる男がよくやるように、しゃれたふうに帽子を斜めにかぶり、両手をズボンに突っこんで、悠然としてふざけているといった態度をからだ全体にあらわしながら、ゆったりと扉のほうに歩いていった。
さて、かつてのコーニー夫人が涙の手段を用いたのは、それのほうが肉体的襲撃より楽《らく》だったからである。だが、これはバムブル氏がすぐ気づいたことだったが、彼女に後者の手段をとる心構えは十分にできていたのである。
この事実を彼が味わった最初の証拠は、うつろな物音、それにすぐつづいて、彼の帽子が部屋の向こうの端《はし》にふっとんだ事実で伝えられた。この予備行動で、まず彼の頭を裸にして、この腕ききの夫人は、片手でしっかりと相手の喉首を抑え、もうひとつの手で打撃の雨を(ふしぎな力強さと巧妙さで)彼の頭に降らした。これが終わると、彼女は彼の顔をひっかき、彼の髪の毛をむしって、いままでの仕業にちょっと変化をつけ、これで男の違反行為にたいして十分処罰を加えたものとして、彼女は男をたまたまうまくそこにあった椅子の上におし倒し、できるものなら、亭主の特権をもう一度口にしてみるがいい、とたんかを切った。
「お立ち!」命令調子でバムブル夫人はいった。「もっとひどい仕打ちにあいたくなかったら、とっととここから出ておいで」
バムブル氏はじつに沈痛な顔をして立ちあがり――もっとひどい仕打ちがどんなものかを考えていた。帽子をひろいあげ、彼は戸のほうに目をやった。
「いくのかい?」バムブル夫人はたずねた。
「ああ、いくよ、いくよ」戸のほうにさっととんでゆきながら、バムブル氏は答えた。「わしのつもりは、べつに――わしはいくよ! きみはじつに荒らっぽい女だな、ほんとうにわしは――」
このとき、この格闘でめくれたじゅうたんをなおそうと、バムブル夫人は前に歩きだし、バムブル氏は、いいかけた言葉をそのままにして、部屋からとびだしていった。かくして、あとにのこったかつてのコーニー夫人は、全戦野で勝利を獲得したのである。
バムブル氏はまったく虚をつかれ、その敗北は歴然たるものだった。彼は、たしかに弱い者いじめが好きで、つまらぬ意地わるをしては大いに楽しみ、したがって、(これはいうまでもないことだが)彼は臆病者だった。これは、彼の性格の悪口をいっているのではない。とても尊ばれ、うやまわれている多くの役人は、みな同じ欠点の持ち主だからである。この言葉は、むしろ彼をほめるために述べたものであり、官職にたいする資格を彼が十分に備えていることを、読者に伝えるためのものである。
だが、彼の屈辱は、この程度ではまだすまなかった。院内をひとまわりし、貧民救助法はじっさいひどすぎる、女房を教区の世話まかせにして、家庭から逃げだした男は、当然、処罰を受けるべきではなく、むしろ苦しみ悩む功績顕著な人物として報いられるべきだ、なんぞと生まれてはじめて考えながら、バムブル氏はある部屋にやってきたが、そこは女の収容員がいつも教区の下着などを洗濯しているところで、そこから話し声が聞こえてきた。
「えへん!」本来の威厳を示そうとしながら、バムブル氏はいった。「この女どもには、少なくとも、わしの特権を認めさせてやるぞ。おい、おい! このあばずれ女ども、いったい、このさわぎはなんだ?」
こういいながら、バムブル氏は戸を開き、猛烈な、怒ったようすで部屋の中にはいっていったが、その態度は、一瞬のうちに、じつにへいこらした、おびえた態度に急変してしまった。思いもかけず、そこに彼の夫人の姿を認めたからである。
「やあ、おまえ」バムブル氏はいった。「おまえがここにいるとは、気がつかなかったね」
「気がつかなかっただって!」バムブル夫人はくりかえした。「ここになんの用事があるの?」
「やつらがおしゃべりばかりやっていて、仕事を放りだしにしてると思ったのさ」貧民院長のへいこらしている態度に心を打たれて、ひそひそと話し合っている二人の老婆のほうをどぎまぎしながらながめて、バムブル氏は答えた。
「おしゃべりばかりしてると、|あんた《ヽヽヽ》が思ったんですって?」バムブル夫人はいった。「それがあんたにどんな関係があるの?」
「いやあ、おまえ――」へいこらした態度で、バムブル氏はいいだした。
「ここになんの用事があるの?」バムブル夫人は重ねてたずねた。
「たしかに、おまえはここの寮母だ」バムブル氏は屈服した。「だが、わしはおまえがここにいるとは、思ってもいなかったのだ」
「いいこと、バムブルさん」彼の夫人はやりかえした。「ここでは、あんたのおせっかいなんて、用はないんですよ。あんたは関係のないことに口を突っこみすぎ、陰では人の笑い草になり、一日じゅう阿呆面《あほうづら》をさらしてるんですよ。さあ、出ていきなさい!」
有頂天になってクスクスしている二人の老婆の収容員のよろこんでいるようすを、いまいましくながめながら、バムブル氏はちょっと、グズグズしていた。そうした態度に我慢ならぬバムブル夫人は、石鹸《せっけん》水のはいった鉢をとりあげ、身ぶりで戸のほうにゆけと合図をして、すぐに部屋から出ることを命じ、それをしなければ、鉢の中の石鹸水を彼の堂々としたからだにぶっかけるとおどしかけた。
こうなっては、バムブル氏になにができよう? 彼はがっくりとしてあたりを見まわし、こそこそと出ていった。彼が戸のところまでいったとき、収容員の忍び笑いは、抑えきれぬよろこびの甲高《かんだか》い笑いになった。これでもう完璧《かんぺき》だった。彼は、収容員の目の前で、面目まるつぶれの男になった。まさに収容員の目の前で、その階級と地位を失ってしまった。彼は教区吏員の高さ・威厳から格下げになって、かかあ天下のへいこら亭主の地位になりさがってしまった。
「すべてこの二箇月間のことだ!」陰鬱《いんうつ》な思いで胸をいっぱいにして、バムブル氏はいった。「二箇月だ! ほんの二箇月前には、わしは自分勝手なことができたばかりか、ほかのどんなやつも、自分の勝手にしていた、貧民院に関するかぎりではな。それがいま!――」
これはひどすぎることだった。バムブル氏は自分のために門を開いてくれた少年(彼は無我夢中で門のところへいっていた)の横っ面《つら》をはりとばし、茫然《ぼうぜん》として通りに出ていった。
彼はあの通り、この通りをとおりぬけていった。この運動で、彼の悲しみの最初の発作はおさまり、その反動として、彼は酒がひどく飲みたくなった。彼はたくさんの居酒屋の前をとおりすぎたが、とうとう、裏道にある一軒の居酒屋の前に足をとめた。その店の客間には、鎧戸《よろいど》越しにちょっと見たところから察すると、客は一人しかいないらしかった。ちょうどこのとき、雨がひどく降りだしてきた。これで彼の腹は決まった。バムブル氏は中にはいり、酒場の台の前をとおりながら、酒を注文して、前に通りからのぞきこんだ部屋にはいっていった。
そこに腰をおろしていた男は、背が高く、色浅黒く、大きな外套《がいとう》を着ていた。彼はこの土地の者ではないらしく、服についているほこりの具合い、顔のやつれから見て、そうとうの距離を旅行してきた人らしかった。彼は部屋にはいってきたバムブルを横目でにらんだが、バムブルの挨拶にたいして、うなずくこともしなかった。
この見知らぬ男がもっと親しげな態度をとったとしても、バムブル氏には、二人前の威厳が十分に備わっていた。そこで、彼はだまったまま自分の水割りジンを飲み、いかにもものものしい、威厳のある態度で新聞を読んでいた。
しかしながら、こうした事情のもとで男たちがいっしょにいるときによく起こることだが、バムブル氏は、ときおり、抑えきれぬ誘惑にかられて、相手の見知らぬ男にチラリチラリと目を流し、相手の男が、ちょうどその瞬間に、自分を見ていることを知って、多少うろたえながら、その目をひっこめた。バムブル氏の気まずさは、相手の男の特徴ある目の表情で、なお強められた。それは鋭く、キラキラ輝いていたが、不信と疑惑の渋面で暗いものになり、そのときまでに彼が見た目とはおよそかけはなれたもの、しかも、じつにいまわしいものだった。
こんなふうに二人が何回か目をかわしたとき、見知らぬ男は、しゃがれた太い声で、沈黙を破った。
「おまえさん、窓からのぞきこんだとき」彼はいった。「おれをさがしてたんかね?」
「べつにそうではなかったんだが、もしあんたが――」ここで、バムブル氏は話を切った。彼はこの男の名前を知りたくなり、話を切れば、相手が自分の名前を明かすかと、イライラしながら考えていた。
「さがしてたんじゃなかったんだな」と男はいい、静かな皮肉の表情が、その口もとに浮かんだ。「さがしてるんだったら、おれの名を知ってるはずだからな。おまえは知らないんだ。そいつは、きかないでいたほうがいいぞ」
「わしには、あんたをどうしようという気もないよ、若いの」バムブル氏は威厳をつけていった。
「それに、いままでも、べつになにもしなかったな」男はいった。
この短い問答のあとで、もう一度沈黙がつづき、それはふたたび、見知らぬ男によって破られた。
「おまえさんに会ったことがあるような気がするんだがね?」彼はいった。「そのときには、ちがった服装をしてたな。ただ通りですれちがっただけだったが、それでも、ちゃんとおぼえてるよ。おまえさんは、以前に、ここの教区吏員だったんだろう、えっ?」
「そうだ」ちょっと驚いて、バムブル氏はいった。「教区吏員だったよ」
「そうだったな」相手はうなずいて答えた。「その資格で、おまえさんにお目にかかったんだ。いまは、なにをしてるんだい?」
「貧民院の院長だ」ゆっくりと、重々しくバムブル氏は答えたが、これは、相手になれなれしい態度をとらせないためだった。「若いの、貧民院の院長だよ!」
「以前と同じように、自分の懐《ふところ》は大切にしてるんだろうな?」この質問にバムブル氏がびっくりして目をあげたとき、その目をジッと見すえて、男はつづけた。「遠慮なく返事したらいいじゃないか。おまえさんのことは、だいたい知ってるんだから」
「いいかね、女房もちだって」たしかにどぎまぎして、手を目にかざし、相手を頭から爪先《つまさき》までジロジロと見て、バムブル氏は答えた、「ひとり者《もん》と同じように、律気《りちぎ》な金はかせぎたいさ。教区の職員の手当てといったって、そんなにいいもんじゃなし、まともなふうに金がもらえるんだったら、よろこんでそれをちょうだいするよ」
見知らぬ男は、思ったとおりだといわんばかりに、ニヤリとし、またうなずき、ベルを鳴らした。
「このコップに酒をたのむ」バムブル氏の空《から》になったコップを酒場の亭主にわたして、彼はいった。「強くて熱いやつにしてくれ。そのほうがいいんだろう?」
「あまり強くしないで」慎重な咳《せき》払いをして、バムブル氏は答えた。
「おやじ、その意味はおまえにわかるだろうな!」無愛想《ぶあいそう》に見知らぬ男はいった。
亭主はニヤリとし、姿を消し、その後|間《ま》もなく、大型のコップをもってもどってきたが、それを一杯やると、バムブル氏の目には涙がにじみだしてきた。
「さて、いいかな」扉と窓を閉めてから、この見知らぬ男はいった。「おれがこの土地に今日《きょう》やってきたのは、おまえさんをみつけるためだったんだ。悪魔のみめぐみとやらで、おまえさんのことを考えていたちょうどその矢先、おまえさんがこの部屋にはいってきたんだ。おまえさんにちょっと聞きたいことがあるんだ。たいしたこともできんが、それをただで聞こうというわけじゃないよ。まず皮切りに、これを受けとっといてくれ」
こういいながら、彼は二枚のソヴリン金貨をテーブル越しに相手のほうに注意深くおしやったが、それはまるで、金貨の音が外に聞こえては困るといったようすだった。それが本物かどうかをバムブル氏が仔細《しさい》に調べ、いかにも満足げにそれをチョッキのポケットにおさめたとき、彼はつづけた――
「ずっとむかしのこと――ええと――この前の冬で十二年になるな」
「だいぶむかしのこってすな」バムブル氏はいった。「ええ、わかりましたよ」
「場面は貧民院」
「よろしい!」
「時は夜だ」
「わかった」
「場所は、どこにせよ、ガタピシしたむさくるしい家、そこではあわれな自堕落女どもが自分には与えられなかった生命と健康を生みだし――教区の世話になるピーピー泣く餓鬼《がき》を生んで、自分の恥は、畜生! 墓の中にかくしてしまうんだ」
「産室のこってすな?」相手の興奮した話についてゆけずに、バムブル氏はたずねた。
「そうだ」見知らぬ男はいった。「少年がそこで生まれたんだ」
「少年といっても、たくさんいますからな」わからぬといったふうに頭をふりながら、バムブル氏はいった。
「若い悪魔どものいまいましいことったら!」男は叫んだ。「おれが話してるのは、おとなしそうな、青白い顔をしたやつなんだ。こいつは、ここで棺桶《かんおけ》屋に奉公に出され――やつは自分の棺桶《かんおけ》をつくって、そこにもぐりこんでしまったほうがよかったんだ――どうやら、その後、ロンドンに逃げてったらしいんだ」
「いやあ、オリヴァのこってすな! あのトゥイストですな!」バムブル氏はいった。「もちろん、やつのことは憶えてますぞ。あんなに頑固《がんこ》な悪党野郎は――」
「おれの聞きたいのは、やつのことじゃない。やつのことは、もう十分に知ってる」オリヴァの欠点についてバムブル氏が長広舌をふるおうとした矢先、それを抑えて、男はいった。「聞きたいのは、女のことなんだ。その餓鬼《がき》の母親の看護をした婆さんさ。そいつは、いま、どこにいる?」
「どこにいるですって?」水割りジンで陽気になったバムブル氏はいった。「なんともいえませんな。どこにあの女がいったにせよ、そこじゃ産婆の仕事はなし、とにかく失業してるでしょうな」
「というのは、どういうことなんだ?」きびしく男はたずねた。
「この前の冬、死んじまったということでさ」バムブル氏は答えた。
彼がこれを伝えたとき、男はジッと彼を見つめ、その後しばらく、その視線を動かさなかったが、その視線はだんだんうつろで、茫然《ぼうぜん》としたものになった。彼は物思いにふけっているようすだった。しばらくのあいだ、この知らせで自分がほっとしたものか、がっかりしたものか、彼は思いまどっているふうだったが、とうとう、その息づかいは前より楽《らく》になり、目をそらせて、それはたいして重要なことではない、といった。こういって、彼は立ちあがり、そこから出てゆこうとした。
しかし、バムブル氏はぬけ目なく、彼の配偶者《つれあい》がもっている秘密をしこたまもうけて売りさばく時期が到来したことを、すぐに見破った。彼は老婆のサリーの死んだ夜のことをよく憶えていた。その日の出来事は、彼がコーニー夫人に結婚の申し込みをするきっかけを与えてくれたからである。そして、夫人は彼女がただ一人の証人になっている事情を彼に打ち明けてはいなかったものの、彼はその話を聞いて、それが、貧民院の看護婦として、例の老婆がオリヴァ・トゥイストの若い母親の世話を見たときに起こったことに関係しているという程度のことは、心得ていた。こうした事情を急いで心に思い起こし、謎めいた態度で、彼は、その老婆が死ぬ直前に、ある女が彼女といっしょにいたこと、この女なら、調査の目的になにか光を投げられるだろうと思われることを、見知らぬ男に知らせた。
「その女はどこにいる?」ほっと安心し、それと同時に、この知らせで新しい心配(それがどのようなものにせよ)が湧いてきたことをはっきりと示して、見知らぬ男はたずねた。
「わしが案内しなけりゃ、わからんさ」バムブル氏は答えた。
「いつだ?」急いで男は叫んだ。
「明日だね」バムブル氏は答えた。
「夕方の九時にしよう」紙切れを出し、その興奮を物語っている文字で、川岸のあまり知られていない宛名をそこに書きこんで、男はいった。「夕方九時に、ここにその女を連れてきてくれ。口外無用はいうまでもないぞ。おまえの得《とく》になることなんだからな」
こういって、酒代をはらうために立ちどまってから、彼は先に立って戸口のほうに歩いていった。それぞれの道がちがうことを言葉短かにいって、つぎの夜の出会いの時刻をもう一度はっきりとくりかえし、彼はさっさと出ていった。
宛名を書いた紙をチラリとながめて、教区の役人は、そこに名前が書かれていないことに気がついた。見知らぬ男はまだ遠くにはいっていなかった。そこで、彼はその男を追いかけ、それをたずねた。
「なんの用だ?」バムブル氏が彼の腕に手をやったとき、さっとふりかえって、男は叫んだ。
「ひとつ、ききたいことがあってね」例の紙切れをさしながら、バムブル氏はいった。「なんという名前の男をさがしたらいいんかね?」
「マンクスだ!」男は答え、大股で急いで去っていった。
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三十八 夜の会見で、バムブル夫妻とマンクス氏のあいだに起こったこと
どんよりと、むし暑い、雲のたれこめた夏の夜だった。一日じゅういまにも降りだしそうになっていた雨雲は、濃いのろのろとした蒸気のかたまりをひろげ、もうすでに大きな雨の滴《しずく》を落とし、ひどい雷雨のくることを知らせていた。このとき、バムブル夫妻は町の大通りをまがり、そこから一マイル半ほどはなれた、テムズ川のへりの低い、不健康な沼地の上に建てられた家のまばらな、こわれかかった家の集落のあるところに足を向けていた。
夫妻は古い、みすぼらしい外套《がいとう》をまとっていたが、これは、たぶん、雨にぬれないことと、人目に立たぬことの二重の役目をしていた。夫は光のもれていないカンテラを手にして――道がどろんこだったので――自分がしっかりと踏みしめた足跡を妻にたどらせようとしているように、数歩先に立って歩いていた。二人はだまりこくって、進んでいった。ときどきバムブル氏は歩調をゆるめ、相手が自分についてきているのをたしかめるように、ふりかえり、妻がすぐあとについていることを知って、その歩調を変え、そうとう速い歩調で、目的地に向かって進んでいった。
ここは、いかがわしいといえるどころのさわぎではない場所だった。そこは、ながいこと、下等な悪人どもの住み家として知られ、彼らは、労働で暮らしているというさまざまな外見をよそおいながら、主として強奪と犯罪で、その日その日を送っていた。それはただ小屋の集まりで――一部はとりはずした煉瓦《れんが》であわただしく建てられ、残りは虫の食った船材でつくられ――秩序も統制もなしに、ゴタゴタと集められ、大部分は川から数フィートもはなれぬところに建てられていた。泥の上に引きあげられた何艘《なんそう》かの水の漏るボートが、その泥地をかこんでいる低い壁につながれ、そこここに散らばったオールや巻いた綱は、一見したところ、このみじめな小屋の住民が川の上でなにか商売をやっているようすだった。が、そこをとおる人は、そうしたものがどんなにこわれ、役立たずの状態に打ちすてられているかを見れば、その道具がそこにおかれているのは、ただ外見上だけのこと、それを使おうとする意志がぜんぜんないことを、すぐにさとるであろう。
この集落の中心に、その二階を川の上にはりだした、大きな建物があったが、これは以前に、なにかの製造工場だったものだった。この工場が活動していたころ、それは、たぶん、あたりの住宅の住民に仕事を与えていたのだろうが、それはとっくのむかしに壊滅状態になっていた。ねずみ、虫、湿気の作用がその土台の材を弱め、くさらし、この建物のそうとう部分は、もう水の中に沈んでいた。そして、残りの箇所は、黒々とした川の上にヨタヨタとよろめきかかり、その仲間のあとを追い、同じ運命におちこむ機会を待ち望んでいるようだった。
このりっぱな夫妻が足をとめたのは、この廃屋の前で、そのとき、遠雷のはじめてのひびきが大気をゆるがし、雨が激しく降りはじめた。
「その家は、この辺のどこかなんだが」手にもっている紙切れを見て、バムブルはいった。
「おい!」上から声がひびいた。
その声のあとを追って、バムブル氏は目をあげ、二階の胸までの高さの戸口から外を見ている男を発見した。
「ちょっと待ってろ」声は叫んだ。「すぐそこへいくからな」こういって、頭は消え、戸は閉じられた。
「あれが、その男なの?」バムブル氏の善良な夫人はたずねた。
バムブル氏は、そうだ、とうなずいた。
「では、あたしのいったことに注意するんですよ」寮母はいった。「それから、できるだけ口数を少なくするのよ。さもないと、こっちの腹の中をすぐ見すかされてしまうからね」
いかにも物思わしげなふうにこの建物をながめていたバムブル氏は、これ以上この仕事を進めるのはどうかといった不安の言葉を口にしようとしたが、ちょうどそのとき、マンクスの出現によって、それはとめられてしまった。マンクスは二人がわきに立っていた小門を開き、中にはいれとさしまねいた。
「はいれ!」イライラし、地面をドンドンと踏みつけながら、彼は叫んだ。「いつまでもおれをここに立たせておくつもりか!」
最初もじもじしていた女は、これ以上なにもいわれないのに、勇敢にも中にはいってゆき、おくれをとったのを恥じたのかおそれたのか、バムブル氏は、そのあとにつづいたが、彼がとても不安な気持ちに襲われていることは明らかで、ふだん彼の特徴の中心になっているいかにも威厳ある態度は、すっかり影をひそめていた。
「いったい、なんで、雨の中なのに、あんなとこに立ってたんだ?」一同がはいったあとで戸に桟《さん》をはめ、向きなおって、マンクスはバムブルにたずねた。
「われわれは――われわれは、ちょっと涼んでただけだよ」心配そうにあたりを見まわしながら、バムブルはどもっていった。
「涼んでたんだって!」マンクスは答えた。「むかしから降ってる雨、これから先降る雨だって、人間が心にもってる因果な地獄の火を消してはくれないだろうよ。そんなに楽々《らくらく》と涼しくはなれっこないぜ、どうだい?」
この気持ちのいい言葉をはいて、マンクスはさっと寮母のほうに向きなおり、ジッと彼女を見おろしたので、容易におびえることのない彼女でさえ目をそらし、それを伏せてしまった。
「これが例の女なんだな?」マンクスはたずねた。
「えへん! そうですな」妻の注意を守って、バムブル氏は答えた。
「女は秘密を守れないとお思いなんでしょうね?」寮母は口をはさみ、こういいながら、マンクスのさぐる目つきをにらみかえした。
「秘密が暴《ば》れるまで、女はよくそれを守るもんだよ」マンクスはいった。
「それはどういうことです?」寮母はたずねた。
「世間のよい評判を失うことさ」マンクスは答えた。「だから、同じ伝で、絞首刑か流刑になる秘密に女が加わっても、その女が秘密をしゃべる心配はあるもんかね。とんでもない! おわかりかな、奥さん?」
「いいえ、わかりません」ちょっと顔を赤くして、寮母は答えた。
「もちろん、きみにはわからんだろう!」マンクスはいった。「わかるはずがないもんな」
二人を相手に微笑とも渋面ともつかぬ表情を浮かべ、自分のあとについて来いとふたたび招いて、そうとうひろいが天井の低い部屋を、男は急いで突っ切っていった。彼が二階の倉庫につながるけわしい階段というより、むしろ梯子段《はしごだん》をのぼろうとしたとき、稲妻の強い閃光《せんこう》がすき間から流れこみ、それにつづいて、雷鳴が鳴りわたり、それがこの不安定な建物を中心までゆすりあげた。
「あれはどうだ!」ひるんで、しりごみをしながら、彼は叫んだ。「あれは! 悪魔がひそんでる千の穴蔵からひびいてくるように、ゴロゴロと鳴ってやがる。あの音は大きらいなんだ!」
彼は、ちょっとのあいだ、だまっていて、それから、手を急に顔からはずし、それがひどくゆがみ、蒼白になっていることを示したが、これは、バムブル氏を得《え》もいえぬほどびっくりさせた。
「この発作は、ときどき、おれにやってくるんだが」バムブル氏がおびえているのを見て、マンクスはいった、「雷がよくそれをひき起こすんだ。もうおれのことは心配するな。今度は、これで終わりだからな」
こういって、彼は先に立って階段をあがってゆき、はいった部屋の窓の鎧戸《よろいど》を急いで閉め、天井の太い柱にとおした滑車づきのなわの端《はし》にさげてあるカンテラをおろしたが、そのカンテラは、下においてある古テーブルと三つの椅子に暗い光を投げていた。
「さて」三人がみな席についたとき、マンクスはいった。「早く仕事にとりかかったほうが、みんなに好都合だろう。この女は秘密がなにかを知ってるんだな、えっ?」
この質問はバムブル氏に向けられたものだったが、彼の妻はその返事の先まわりをし、自分がそれをすっかり心得ていると伝えた。
「彼がいったとおり、この婆さんが死んだ夜にきみがそこにいあわせ、その婆さんがきみになにか――」
「ええ、話してくれましたよ、あんたのいう子供の母親のことをね」相手の話を切って、寮母は答えた。「そうですよ」
「第一の問題は、彼女の話がどんなものか? ということだ」マンクスはいった。
「それは二番目の問題ですよ」ゆっくりと女はいった。「第一の問題は、その話がどれだけの値打ちのあるものか? ということなんですからね」
「それがどんなものかわからなくって、いったい、どうしてその値打ちがわかるんだ?」マンクスはたずねた。
「あんたがいちばんよくご存じだと思いますがね」夫のバムブルが十分に証明できるとおり、勇気にはこと欠かないバムブル夫人は答えた。
「うん!」意味深《いみしん》に、グイグイと詮索《せんさく》をする顔つきになって、マンクスはいった。「値打ちになるものが、そこにはあるのかね?」
「たぶんね」が、それにたいする冷静な答えだった。
「彼女から奪いとったもんだろう」マンクスはいった。「彼女が着けてたなんかだな。なにか――」
「値づけしたほうがいいことよ」バムブル夫人は口を突っこんだ。「いままでの話で、あんたがいちばん話をしたほうがよさそうな人だとわかったんですからね」
バムブル氏は彼がもともともっていた知識以上のことはなにも配偶者から伝えられていなかったので、首をのばし、目をかっと見開いて、この問答に聞き入っていたが、その目は、はっきりと驚きを物語り、交互に彼の妻とマンクスに向けられ――マンクスが秘密にどれだけの金が必要かをたずねたとき、驚きはいっそう深まっていった。
「それは、あんたにどれだけの値打ちのもんなの?」前どおりの落ち着きはらった態度で、女はたずねた。
「それは値打ちがないかもしれない。また二十ポンドの値打ちのもんかもしれない」マンクスは答えた。「さあ、話してもらおう、そいつは、それから決めることさ」
「あんたがいった額に五ポンド加えることね。あたしに金貨で二十五ポンドちょうだい」女はいった。「そうすりゃ、こっちの知ってることはぜんぶ、教えてあげることよ。お金をもらわないうちは、だめよ」
「二十五ポンドだって!」ぎょっとして、マンクスは叫んだ。
「あたしは、できるだけはっきりと、お伝えしたつもりなんですがね」バムブル夫人は答えた。「それはたいした金額でもないしね」
「話を聞いてみれば一文にもならんつまらん秘密にたいして、それがたいした金額でもないというんか!」イライラして、マンクスは叫んだ。「しかも、それは、過去十二年以上ものあいだ、死んだままになっていたもんなんだぞ!」
「こうしたものは、もちがよくってね、それに、よい葡萄酒《ぶどうしゅ》のように、時がたつと、その価値は倍にもなることがあるんですよ」まだ断固たる冷静さを失わずに、寮母は答えた。「死んだままになってるといえば、ひょいとすると将来一万二千年、千二百万年ものあいだ死んだままでいて、最後の審判のときには、ほんとに奇妙な話が出てくることもあるんですからね!」
「金をはらって、つまらん話だったら、どうする?」もじもじして、マンクスはたずねた。
「楽《らく》にとりもどせるじゃないの」寮母は答えた。「あたしはただ一人、だれにも守られずに、ここにいるんですからね」
「ただ一人、だれにも守られずにというのはちがうね」恐怖でふるえ声になって、バムブル氏はいった。「わしがここにいるよ。それに」話しながら、歯をガタガタいわせて、バムブル氏はいった。「マンクスさんは紳士だ、教区の役人に乱暴なんか働きはするもんか。マンクスさんは、わしが青年でないこと、まあいわば、盛りをすぎた男のこともご存じなんだ。だが、一度《ひとたび》かっとなると、わしは驚くほどの頑固《がんこ》さでがんばる一徹の役人なことも、マンクスさんは聞きおよんでおいでのはずだ――きっと聞いておいでだとも。ただ、なかなかかっとはならんだけのことさ」
こう話しながら、バムブル氏は自分のカンテラをすごい勢いでつかむわびしい仕草をして見せたが、それは、顔すべてにあらわれているおびえた表情によって、戦闘的な態度をとる前に、なかなかかっとならぬこと、それがなかなかどころじゃないことを、はっきりと物語っていた――相手が貧民院の収容員や、鍛えられて体重を減らされた人物の場合はべつだったが……。
「あんたはバカよ」それに答えて、バムブル夫人はいった。「だから、舌を動かさずに、ジッとしてなさい」
「もしもっと低い声でも話すことができないんだったら、ここにくる前に、その舌を切ってもらったほうがよかったな」おそろしい調子でマンクスはいった。「そうかい! やつがきみの亭主なんかい、えっ?」
「あれがわたしの亭主ですって!」相手の言葉をさっと受けとめて、寮母はクスクスッと笑った。
「はいってきたとき、だいたいそんなこったろうと、見当はつけてたんだ」話しているとき、彼女がその夫に投げた怒ったまなざしに気づいて、マンクスは応じた。「それだけなお結構《けっこう》ってわけさ。二人が同じ気持になってるとき、そうした二人を相手にしたほうが、おれには都合がいいんだからな。おれは本気だぜ。ほれ!」
彼はわきのポケットに手を突っこみ、ズックの袋をとりだし、テーブルの上に二十五箇のソヴリン金貨を数えてならべ、それを女のほうにおしやった。
「さあ」彼はいった。「それを受けとれ。どうやらこの家の上で鳴りだしそうないまいましい雷のひびきが消えたらしいな。さあ、おまえの話を聞くことにしよう」
事実ずっと近くにより、彼らの頭上でとどろきわたろうとしていたかに見えた雷がおさまると、マンクスは頭をテーブルからあげ、前かがみになって、女の話を聞きはじめた。二人の男が話を聞こうとむきになって小さなテーブルの上にかがみこみ、女はからだをのりだし、ささやき声の話を聞かせようとして、三人の顔はたがいにふれんばかりになっていた。つりさげられたカンテラの弱々しい光が直接この三人の男女の姿の上に投げられ、彼らの顔の青白さと不安の情をいっそうひどいものにしていたが、その顔は、まわりの深い暗闇にかこまれて、じつにおそろしい形相《ぎょうそう》になっていた。
「わたしたちが老婆のサリーと呼んでたこの女が死んだとき」寮母は話をはじめた。「彼女とわたしだけしか、そこにはいませんでした」
「ほかにだれも、そばにはいなかったのか?」前と同じうつろなささやき声で、マンクスはたずねた。「ほかの寝台には、収容者の病人や白痴《はくち》がいなかったんだな? おまえたちの話を盗み聞きし、ひょいとしたら、それをさとってしまうかもしれないだれかが、いなかったんだな?」
「だれもいませんでした」女は答えた。「わたしたち二人だけでした。死がおとずれたとき、死体のわきに、わたしだけが立ってたんです」
「よし」女のようすをこまかに見ながら、マンクスはいった。「さあ、話を進めてくれ」
「その婆さんは、若い女のことを話してましたよ」寮母はつづけた。「それは数年前に子供を生んだ女でね、しかも、彼女が息を引きとろうとしていた同じ部屋ばかりか、同じ寝台でね」
「ふーん?」唇をふるわし、肩越しにチラリとうしろをふりかえって、マンクスはいった。「血の因果だ! めぐりあわせって、おそろしいもんだな!」
「生まれた子は、あんたが昨日《きのう》の晩あの人にいってた子です」無造作《むぞうさ》に夫のほうに頭をうなずかせて、寮母はいった。「この看護婦は、その母親からものを盗んだんです」
「息のあるうちにか?」
「いいえ、死んでから」ちょっと身をふるわせて、女は答えた。「まだ死ぬか死なないかに、その母親から盗んだもんは、彼女が最後の息で、子供のためにとっといてくれ、とたのんだもんでした」
「そして、婆さんはそれを売っちまったのか?」すごい剣幕で、マンクスは叫んだ。「それを売っちまったのか? どこに? いつ? だれに? いつごろのこった?」
「とても苦しそうにこんな話をしてから」寮母はいった、「彼女はがっくりとうしろに倒れ、死んじまいました」
「話はそれだけか?」おし殺しているだけに、なお激しさを加えるように見えた声で、マンクスは叫んだ。「そいつは嘘《うそ》だ! いい加減なことはいわせはせんぞ。もっとしゃべったんだ。おまえたち二人の命をむしりとっても、ほんとうのことをいわせてやるぞ」
「それ以上一言もいいませんでしたよ」この見知らぬ男の剣幕にケロリとして(バムブル氏はそれどころではなかったが)、女はいった。「婆さんは、半分にぎりしめた手で、あたしのガウンをつかんでましたが、死んだあと、その手をむりやりはなしたところ、その手がきたない紙切れをつかんでたことがわかりました」
「そこには――」前にからだを乗りだして、マンクスが口をはさんだ。
「なにもありませんでしたよ」女は答えた。「それは質札だったんですからね」
「なんの?」マンクスはたずねた。
「いずれ、話しますよ」と女はいった。「あたしは思うんですけどね、婆さんはもっとうまく利用しようと、その飾りをしばらくのあいだ手もとにおき、それから質入れをしたのね。それからは、金をためるか、かき集めるかして質屋の利子をはらい、流れないようにしてたんです。なにか得《とく》になる話でも出たら、いつでも質受けできるようにね。ところが、うまい話はなく、手にボロボロにすり切れた質札をにぎって、死んじまったわけ。あと二日で質が流れちまうとこだったんで、いつかうまい話もあるかと思って、あたしはそれを受けだしときましたよ」
「それはいま、どこにあるんだ?」急いでマンクスはたずねた。
「ほれ」女は答えた。そして、まるでそれを手放すのをよろこんでいるように、彼女は小さな小山羊の皮の小さな袋をテーブルの上に投げだしたが、それはフランス製の時計がはいるかはいらないかの小さなものだった。マンクスはそれに飛びついて、ふるえる手でそれをおし開けた。そこには、髪の毛二本を入れた小さな金のロケットと、飾りのない金の結婚指環がおさめられてあった。
「それには、内側に、アグネスという字が彫ってありますよ」女はいった。「苗字《みょうじ》を彫りこむところが空《あ》けてあって、そのあとに日づけが彫ってあり、その日づけは、子供が生まれたときから一年とさかのぼってないもんです。これは、あたしが見つけたんですがね」
「それでぜんぶかね?」小さなつつみの中を熱心に、こまかく調べてから、マンクスはいった。
「ぜんぶです」女は答えた。
話が終わり、提供された二十五ポンドの金をとりもどす話がでないのをよろこんでいるようすで、バムブル氏はホッと一息つき、勇気をふるい起こして、いままでの話のあいだじゅう、彼の鼻越しにダラダラと流れっぱなしだった汗をぬぐった。
「あたしは、この話のことはなんにも知りませんよ、推量したことはべつにしてね」短い沈黙のあとで、彼の妻はマンクスにいった。「そして、なんにも知りたくはありません。そのほうが安全ですからね。でも、おたずねしたい問題が二つあるんですが?」
「たずねていいとも」ちょっと驚いたふうで、マンクスはいった。「だが、それに答えるか、答えんかはべつの問題だ」
「そうなると、問題は三つになりますな」おどけた態度を見せようとして、バムブル氏はいった。
「あれがあんたの欲しいと思ってたもんなんですか?」寮母はたずねた。
「そうだ」マンクスは答えた。「もうひとつの質問は?」
「それをどうしようというんです? それがあたしの困るようなことに使われるんですか?」
「いいや、絶対に」マンクスは答えた。「おれが困ることもないんだ。いいか! だが、一歩でも足を前に出すなよ。さもないと、おまえの命は葦《あし》一本の値打ちもなくなっちまうんだからな」
こういって、彼は突然テーブルをわきにおしのけ、板にはめてあった鉄の環《わ》を引きぬき、大きな跳ね戸をさっとおし開けたが、それはバムブル氏の足もと近くで開いたので、彼は大急ぎで数歩とびさがった。
「下を見てみろ」穴の中にカンテラをおろして、マンクスはいった。「心配するな。そうしようと思えば、おまえたちがその上に坐ってたとき、音も立てずに突き落とすこともできたんだからな」
こう元気づけられて、寮母はへりのところに近づき、バムブル氏でさえ、好奇心にかられて、同じ姿勢をとった。大雨で水かさを増した濁流は、滔々《とうとう》と下を流れ、緑色のヌラヌラした棒杭に突きあたり、渦《うず》をまいて流れる音は、ほかのすべての物音を消してしまっていた。この下には、かつて水車があり、くさった杭と機械の名残《なご》りの切れ端《はし》にあたってあわ立ち逆まく流れは、甲斐《かい》もなくこの激流をくいとめようとしている障害物から解放されると、新しい勢いを得て、まるで飛んで流れてゆくように見えた。
「もしそこに人間のからだを落としたら、明日の朝にそれはどこにゆくと思う?」暗い穴の中でカンテラをユラユラとさせて、マンクスはたずねた。
「十二マイル下流、しかも、こなごなになってるでしょう」それを考え、ふるえあがりながら、バムブルは答えた。
マンクスはさっき急いで突っこんだ例の小さなつつみを胸から引っぱりだし、滑車について床にころがっていた鉛のおもりをそれにつけ、それを流れの中に落としてしまった。それはまっすぐ、くるいなく落ちてゆき、聞こえぬほどの音を立てて水を割り、姿を消した。
三人は、たがいに顔をのぞきこみながら、息づかいが楽《らく》になったようだった。
「ほれ!」前の場所にズシンと音を立ててもどってきた跳ね戸を閉めながら、マンクスはいった。「本にあるように、海はその中にある死人を出しても(ヨハネ黙示録二〇・一三にある言葉)、金銀は大切にしまっておき、あのがらくたも、そこにしまわれるこったろう。もうこれ以上いうことはないな。この楽しい会は、これでお開きにしよう」
「賛成ですな」すごい素早さで、バムブル氏はいった。
「このことは口外しないだろうな?」おそろしい顔つきをして、マンクスはいった。「おまえの女房のほうは大丈夫だが……」
「若いの、わしのことは心配しなくってもいいですよ」いかにも慇懃《いんぎん》に梯子《はしご》のほうにお辞儀をしながら、バムブル氏は答えた。「若いの、みんなのためにも、わし自身のためにもね、マンクスさん」
「おまえのためにも、そいつを聞いてうれしいよ」マンクスはいった。「おまえのカンテラに火をつけろ! そして、大急ぎでここを出ていくんだ」
話がここで終わったのは、幸せなことだった。話がなおつづけば、お辞儀をしながら、梯子《はしご》のところへ六インチ以内の距離にせまっていたバムブル氏は、下の部屋にまっさかさま、まちがいなく落ちこんでいただろう。彼は、マンクス氏が|なわ《ヽヽ》からはずしたカンテラから、自分のカンテラに火をうつし、もうそれを手にもっていて、問答を延ばそうとはせず、だまって梯子《はしご》をおり、そのあとに彼の妻がつづいた。マンクスは階段の上に立ちどまり、外の雨の打ちつける音とザアザアと流れる川の音以外にはなんの音もしないのをたしかめてから、最後にそこをおりていった。
三人はそろりそろりと、用心深く、下の部屋を横切った。というのは、マンクスがどんな物影にもギクリとし、バムブル氏は、地上一フィートのところにカンテラをさげて、非常に注意深くばかりでなく、かくした跳ね戸はないかと神経質にあたりを見まわしながら、彼のような恰好《かっこう》の紳士にしてはいとも軽い慎重な足どりで、進んでいったからである。彼らがはいった門の桟《さん》は、マンクス氏によって、そっとはずされ、開かれた。そして、この謎めいた知人とただうなずきあっただけで、この夫婦は雨にぬれた外の暗闇の中に出ていった。
二人が出てゆくとすぐ、一人でいるのをとてもいやがっているふうのマンクスは、どこか下にかくしておいた少年を呼びだした。燈《あか》りをもって先にゆけ、とこの少年に命じて、彼はたったいま出てきた部屋にもどっていった。
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三十九 読者がすでにご存じの尊敬すべき人たちを紹介し、マンクスとユダヤ人の合議を示す
この前の章で述べた三人のお偉方《えらがた》がそこでお話ししたちょっとした仕事を片づけた翌日の晩、ウィリアム・サイクス氏はうたた寝からさめると、眠そうに、いま夜の何時ごろだ、とうなりだした。
サイクスがこの質問をした部屋は、彼の前の宿と同じ地区にあり、そこからはあまりはなれてはいなかったが、チャーツェー遠征以前のものとはちがっていた。それは、一見したところ、彼の以前の宿ほど好ましいものではなく、品のわるい、家具も粗末な部屋で、とてもせまく、光は傾斜した屋根のところにあるひとつの窓からはいってくるだけ、その上、その窓はせまくてきたない路地に面していた。この善良な紳士が最近落ちぶれたという徴候は、ほかにも十分にあった。家具があらかた姿を消してしまったこと、快適さのないことは、余分の服や下着といった動産の喪失とともに、極端な貧困を物語っていた。一方、そうした徴候になにかの裏付けが必要だとすれば、サイクス氏の痩《や》せおとろえた貧相な状態が、それを十分に証明していた。
この夜盗は、寝室に横になり、化粧着として白い外套にくるまり、その顔は、気味のわるい病気の蒼白さ、よごれたナイトキャップ、一週間もそらぬボウボウとした黒|髯《ひげ》姿で、少しも美しいものにはなっていなかった。犬は寝台のわきに坐り、心配そうな顔をして主人を見守っているかと思うと、聞き耳を立て、街路や下の部屋でなにか物音がすると、低いうなり声をあげていた。窓のそばに坐り、この夜盗のふだん着の一部になっていた古チョッキのつくろいをしている一人の女性がいたが、顔はひどく青ざめ、夜の寝ずの看病と貧乏ですっかりやつれ果てていたので、彼女がサイクスに答える声が聞こえなかったら、彼女をこの物語ですでに姿をあらわしているナンシーと考えることは、ちょっと困難だったろう。
「七時ちょっとすぎよ」女はいった。「ビル、今晩、気分はどうなの?」
「ぜんぜん、だめだ」自分の目や手足に悪態《あくたい》をついて、サイクス氏は答えた。「おい、手を貸して、このがたぴしいう寝台から、とにかく、おれをおろしてくれ」
病気だからといって、彼の癇癪《かんしゃく》がなおっていたわけではなく、彼女が彼を起こし、椅子のところに連れていったとき、彼は彼女の不器用さをさまざまののしり、彼女をなぐりつけていた。
「ヒーヒー泣いてるのか、えっ?」サイクスはいった。「さあ、そこに突っ立ってメソメソなんかするな。それ以外になんにもできなかったら、とっとと出てくがいい。おれのいうこと、聞いてるのか?」
「聞いてることよ」面《おもて》をそむけ、むりに笑って、女は答えた。「あんたは、いま、なにを考えてるの?」
「うん、思いなおしやがったな、えっ?」彼女の目にふるえている涙に気づいて、サイクスはうなった。「それでおまえにも好都合というやつさ」
「まあ、あんたは、今晩、あたしにつらくあたろうというつもりじゃないんでしょうね、ビル?」彼の肩に手を乗せて、女はいった。
「じゃないだって!」サイクス氏は叫んだ。「どうして、それをしなけりゃいけねえんだ?」
「いく晩も、いく晩も」彼女の声にさえいくぶんやさしさをそえる女の愛情をこめて、彼女はいった――「いく晩も、いく晩も、あたしは、まるであんたが子供のように、辛抱強くあんたを看護し、世話してきたの。そして、今日《きょう》の晩は、あんたがあんたらしくなった最初の晩なのよ。それを考えたら、いまのような仕打ちはしなかったはずでしょう。さあ、さあ、そんなつもりはない、といってちょうだい」
「うん、わかった」サイクス氏は答えた。「そんなこと、やめよう。あれっ、畜生、また泣いてやがるぞ!」
「なんでもないの」がっくりと椅子に坐って、女はいった。「気にしないふりをしててちょうだい。すぐに終わるから」
「なにが終わるんだ?」荒々しい声で、サイクス氏はたずねた。「今度はまた、どんなバカげたことをたくらんでいやがるんだ? さあ、立って、さわぎまわり、女らしいバカげたことで、おれをごまかそうなんてことはするな」
ほかの時だったら、この文句とその調子だけで十分に効果はあげられたのだったが、女はほんとうにひどく弱り疲れていたので、椅子の背越しに頭をぐったりと倒してしまい、こうした場合に、彼のおどし文句を飾っているりっぱな悪態《あくたい》をつくひまを、彼に与えなかった。このふだんとはちがった事態に、どうしたらよいか見当もつかずに――ナンシー嬢のヒステリーは、ふつう、たいした助けを借りずに、患者自身がなんとかがんばって、きりぬけていた――サイクス氏は少し悪態《あくたい》をつき、その治療法がぜんぜん効果のないことを知って、大声で援助を求めた。
「どうしたんかね?」部屋をのぞきこんで、フェイギンはいった。
「あの女に手を貸してやってくれ、早く」イライラして、サイクスは答えた。「そこに立って、べちゃべちゃしゃべり、ニヤニヤするなんて、やめにしろ!」
驚きの声をあげ、フェイギンは急いで女の救助にかけつけ、尊敬すべき友人のあとについて部屋にはいったジョン・ドーキンズ氏(またの名、手練《てだれ》のぺてん師)は、もっていたつつみを急いで床におき、彼の背後にぴったりとついてきたチャールズ・ベイツの手からびんをさっとさらい、あっという間《ま》に歯でそのコルクを開け、その中のものを患者の喉に流しこんだ。もっとも、その前に毒味として、一杯やることは忘れていなかったが……。
「チャーリー、ふいごで新しい風をふきかけてやれ」ドーキンズ氏はいった。「フェイギン、彼女の手をたたくんだ、ビルがスカートをぬがせるからな」
こうしてみんなで力を合わせて彼女の意識回復につとめ、とくにベイツは、自分に割り当てられた仕事をいままでにない楽しい仕事と考えて、必死の努力をはらったので、間《ま》もなく、その療法は所期の効果をあげはじめた。女はだんだんと意識をとりもどしはじめ、寝台のわきの椅子のところにヨロヨロッと進んでいって、顔を枕の中に埋め、サイクス氏は、新来の客が思いもかけずあらわれたのに多少度肝をぬかれて、彼らと正面に向き合って立った。
「いや、どんなわるい風が吹いて、おめえはここに舞いおりてきたんだ?」彼はフェイギンにたずねた。
「わるい風なんてえことはないさ。わるい風は、だれの役にも立たんのだからな。わしは、おまえがそれを見たらよろこぶもんをもってきたんだぜ。ぺてん師、つつみを開けて、今朝|懐《ふところ》をはたいて買ったもんをビルにわたしてやりな」
フェイギン氏の求めに応じて、ぺてん師はつつみを開いたが、それは大きなもので、古テーブル掛けでつつんであった。ぺてん師はその中の品物をひとつひとつとって、それをチャーリー・ベイツにわたし、ベイツはその珍しさ、味のよさをあれこれとほめそやして、それをテーブルの上においた。
「すごいうさぎのパイだぜ、ビル」大きな肉入りパイを出して、この若い紳士は叫んだ。「ビル、やわらかな手足をしたきゃしゃな動物さ。口に入れたら、骨もとけちまって、それをつまみだす必要もなくなるくらいだ。一ポンドが七シリング六ペンスの緑茶を半ポンド、とっても強くて、にえ湯でそれをかきまわすと、急須《きゅうす》のふたがふっ飛んじまうくらいだ。湿った砂糖一ポンド半、こんなにおいしくなる前に、黒ん坊が大働きした極上もんさ! いや、いや、そればかりじゃないぞ! 四ポンドのパン、最高の肉一ポンド、上等品のグロスターチーズ、それに、その総仕上げとして、味わったこともないほどの酒一本だ!」
こうした最後の讃辞を口にしながら、ベイツはその大きなポケットのひとつから、念入りに栓をはめた大型の酒びんをひっぱりだした。一方、ドーキンズ氏は、それと同時に、自分のもってきたびんから、生《き》の火酒をワイングラスになみなみとつぎ、病人は、それをあっという間《ま》に、飲み乾した。
「ああ!」大満悦で手をこすりながら、フェイギンはいった。「もう大丈夫だ、ビル、これでもう大丈夫だ」
「大丈夫だと!」サイクス氏は叫んだ。「おめえが助けの手を出してくれるまでに、おれは二十回もだめになるとこだったんだ。このいかさまのうろつき野郎め、三週間以上も、人をこんなふうにしておきやがって、てめえはどんなつもりでいたんだ?」
「おまえたち、あのせりふを聞いときな!」肩をすくめて、フェイギンはいった。「おれたちはこんなみごとなご馳走をもってきたのにな……」
「もらったものは、それなりにありがてえもんさ」テーブルの上にちょっと目を走らせ、少し気をやわらげて、サイクス氏はいった。「だが、おめえのいいぶんにはどんなもんがあるんだ? おれががっくりし、病人になり、金もなにもなくなっちまってるのに、このあいだじゅうずっと、あの犬同然になんのおかまいもなしってえのは、どういうこった?――チャーリー、犬を追いだしてくれ!」
「こんなにおもしれえ犬って、見たことねえぜ」たのまれたとおりにしながら、ベイツは叫んだ。「食い物を嗅ぎつけるときたら、市場にゆく婆さんそっくりだ! あの犬は舞台で一身代かせげるぜ、きっと。そして、犬芝居をもりかえすだろうよ」
「さわぐな」犬がまだおこってうなりながら、寝台の下にもぐりこんだとき、サイクスは叫んだ。「このしわくちゃの盗品買いめ、てめえは、なにかまだ弁解できるとでも思ってるのか、えっ?」
「わしはな、一週間以上ものあいだ、仕事でロンドンをはなれてたんだ」ユダヤ人は答えた。
「そして、それ以外の二週間は、どうしてたんだ?」サイクスはたずねた。「穴ん中の病気ねずみのように、おれをここに寝かせといたのこりの二週間は、どうしてたんだ?」
「ビル、どうにも仕方がなかったんだ」フェイギンは答えた。「みんなの前で、ながい説明はできないからね。だが、とにかく、どうにも仕方がなかったんだ。おれの名誉にかけてな」
「おまえのなににかけてだって?」ひどい嫌悪感を浮かべて、サイクスはうなった。「おい、だれか、そのパイをひと切れ切ってくれ。その言葉のいやな味を口からとっちまわねえと、喉がつまって死んじまうからな」
「むくれるなよ」へいこらして、フェイギンはいった。「ビル、おまえのことは、ちっとも忘れてはいなかったぜ、一度だってな」
「うん、そうだろうとも」苦笑いを浮かべて、サイクスは答えた。「おれがここでからだをふるわし、かっかと熱をだして苦しんでたとき、おめえはいつもあれこれと策略をめぐらしてたんだからな。ビルにはこれをさせよう、あれをさせよう、元気になったらすぐ、安く値切って、ビルにみんなやらせるんだ、貧乏だから、仕事はみんな引き受けるだろう、ってえわけか。あの女がいなかったら、おれは死んじまったかもしれねえんだぜ」
「そうさ、ビル」言葉尻を一生けんめいとらえて、フェイギンは抗議した。「あの女がいなかったらだって! あんな便利な女をおまえにつけてやったのは、あわれな老人のフェイギン以外のだれだというんだね?」
「ほんとうに、そのとおりよ!」急いで前に出てきて、ナンシーはいった。「あの人のことは、かまわずにおきなさい、かまわずに」
ナンシーの出現で、話はすっかり変わったものになった。少年たちは、用心深い老ユダヤ人からそっと目くばせを受けて、彼女に酒をつぎはじめたが、彼女はあまりそれを飲まないでいた。一方、フェイギンはふだんにない上機嫌をよそおいながら、サイクスの脅迫を陽気な冗談ととるふりをし、酒を何杯か飲んでから、口がほぐれて彼がようやくいいだした荒らっぽいひとつ、ふたつの冗談をいともほがらかに笑って、サイクスの機嫌をだんだんとなおしていった。
「そいつはとっても結構《けっこう》なこった」サイクス氏はいった。「だが、今晩は、おまえからちょっと現ナマをもらわなくちゃならねえぜ」
「いまは一文ももってないよ」ユダヤ人は答えた。
「それなら、家にたんとあるわけだ」サイクスはやりかえした。「そこから少し、もらわにゃならんのだ」
「たんとだって!」両手を高くあげて、フェイギンは叫んだ。「おれがもってるものって、べつに――」
「おめえがどれだけもってるか、おれは知らねえよ。おめえだって知ってねえだろう、そいつを勘定するには、ちょっくら時間がかかるだろうからな」サイクスはいった。「だが、今晩少しもらわにゃならんのだ。そいつははっきりしたことさ」
「うん、うん」溜《た》め息をもらして、フェイギンはいった。「それじゃ、すぐぺてん師を使いに出そう」
「そんなこと、しなくてもいい」サイクス氏はやりかえした。「ぺてん師はなかなかの腕ききだからな、おめえがやつにそんなことをやらしたら、ここに来るのを忘れ、道に迷い、デカにひっかかり、ここにもどれなくなったなんぞと、いくらでも言訳はつくわけだからな。おめえの家には、まちがいがないように、ナンシーが受けとりにいく。あいつが出かけてるあいだ、おれは横になって、ひと眠りするんだ」
あれこれと値切ったり口論をしたりしたあげく、フェイギンは前渡しの要求金額を五ポンドから三ポンド四シリング六ペンスまで切りさげ、それで家の維持費は十八ペンスになってしまった、と厳粛に何回かくりかえし、ぐちをこぼしていた。サイクス氏はむっとして、それ以上もらえなかったら、それで我慢しなけりゃならぬ、とあきらめたので、ナンシーはフェイギンと同行する支度をし、ぺてん師とベイツは食料を戸棚に片づけた。それからユダヤ人は、その親友と別れを告げ、ナンシーと少年たちにともなわれて、家路についたが、サイクス氏は身を寝台に投げ、若い女がもどってくるまで、眠りにつこうとしていた。
やがて一同はフェイギンの住み家に着いたが、そこでは、トウビー・クラキットとチトリング氏が熱心にクリベッジの第十五回目の勝負を争っていたが、その勝負で、少年たちがおもしろがったことに、チトリング氏が完敗を喫し、それとともに、彼の十五箇目の最後の六ペンスがとられていることが明白になった。地位も能力もじつにひどく自分よりおとっている紳士とこんな勝負をやっているところを見られて、クラキット氏は、ちょっと参った態《てい》であくびをし、サイクス氏の容態をたずね、外に出てゆこうと、帽子を手にとった。
「トウビー、だれも来なかったかい?」フェイギンはたずねた。
「いかさま師は一人も来なかったぜ」襟を立てて、クラキット氏は答えた。「水っぽいビールのように退屈だったよ。こんなにながく留守番したんだ、フェイギン、なにかすげえものでもおごってもらわにゃ、間尺《ましゃく》に合わねえってえとこさ。まったく、畜生、おれは陪審官みてえにつまらねえよ。あの若えのを楽しましてやる親切心が起きなかったら、ニューゲイトの監獄みたいに、ぐっすり眠っちまうとこだったぜ。まったく退屈だ、まったく!」
こういったあれやこれやの叫び声をあげて、トウビー氏は自分の勝ち金をさらい、傲然とした態度で、まるでこうした銀貨の小金は自分のような人物にはとるに足りないものだといったふうにその金をチョッキのポケットに突っこみ、それがすむと、いかにも悠然とした上品な物腰で、部屋からふんぞりかえって出ていったが、チトリング氏は、その姿が消えるまで、相手の足と靴に驚嘆の目をチラリチラリと投げて、この人物とつき合うのに一会見六ペンス十五箇では安いくらいだ、自分の損なんてぜんぜん問題じゃない、とみんなにいってきかせていた。
「おめえは妙な男だなあ、トム!」この宣言をとてもおもしろがって、ベイツはいった。
「とんでもない」チトリング氏は答えた。「フェイギン、おれはそうかね?」
「おまえはとても利口だよ」彼の肩を軽くたたき、ほかの弟子たちに目くばせして、フェイギンはいった。
「そして、クラキットさんはたいした偉物《えらぶつ》さ、なあ、フェイギン?」トムはたずねた。
「そうだとも」
「そして彼と知り合いなことは、名誉なことさ、なあ、フェイギン?」トムはつづけた。
「うん、うん、まったくそうだよ。トム、みんなは妬《や》いてるんだ、彼がやつらとはつき合ってやらんのだからな」
「ああ」得意然として、トムは叫んだ。「まったくそのとおりさ! あの男にはすっかりしぼられちゃったが、いつだって金はかせげるからな、どうだい、フェイギン?」
「できるとも」フェイギンは答えた。「そして、トム、それは早くやったほうがいいぞ。そして、その損はすぐにとりかえすんだ、急いだほうがいいな。ぺてん師! チャーリー! 仕事にかかる時間だぞ! さあ、もうそろそろ十時というのに、まだ仕事は少しもしてないじゃないか!」
この言葉どおりに、少年たちはナンシーにちょっと頭をさげて、帽子をとりあげ、部屋を出ていった。ぺてん師とその元気な仲間は、出かけながら、チトリング氏をさんざんこきおろして、しゃれたふざけ文句をいっていたが、チトリング氏の行動には、公平にいって、べつに目立った、変わったものはなかった。上流社会で認められるために、町の元気な洒落者《しゃれもの》たちは、たくさん、チトリング氏よりかもっと多くの金を使い、(上記の上流階級を構成している)数多くのすぐれた紳士諸君の名声の土台といえば、だいたい、手練《てだれ》のトウビー・クラキットと同じものだからである。
「さて」みんなが部屋を出ていったとき、フェイギンはいった。「ナンシー、わしはちょっといって、金をもってくるよ。これは、少年たちにやるちょっとしたものをしまっとく小さな戸棚の鍵さ。わしの金には、鍵をおろさんことにしているよ、鍵をおろそうにも、その相手の金がないんだからな――はっ! はっ! はっ!――その相手の金がないんだからな。得《とく》にもならない商売さ、ナンシー、それによろこばれることはなくってな。だが、若い者《もん》を身のまわりにおくのは、楽しいことだよ。だから、つらい商売も我慢してるんだ、我慢してるんだ。しっ!」さっと鍵を胸にかくして、彼はいった。「あれはだれだ! ほらっ!」
腕を組んでテーブルに坐っていた女は、人が来たことにぜんぜん関心をはらわず、だれにせよ、往き来する人のことを気にしていないようすだったが、とうとう、男のつぶやき声が彼女の耳に聞こえてきた。その物音を耳にするとすぐ、彼女は稲妻の早さで縁なし帽とショールをぬぎすて、それをテーブルの下におしこんだ。その後すぐユダヤ人がふり向いたとき、彼女は、いまの行動の敏捷《びんしょう》さと激しさに好対照な、いかにも気だるそうな調子で、部屋のむし暑さを訴えたが、彼女のその素早い行動には、彼女にちょうどそのとき背を向けていたフェイギンも気がついてはいなかった。
「ちぇっ!」邪魔にジリジリしたように、ユダヤ人はささやいた。「前にくるはずになっていた男だ。下にくることになってるんだ。ナンシー、その男がここにいるときには、金の話は禁物だぞ。ながくここにいることはない。十分もかからんだろう」
外の階段で男の足音がしたとたん、ユダヤ人は、しわだらけの人さし指を口に当てて、戸のところにろうそくを運んでいった。彼は来客と同時に戸のところに着き、客は急いで部屋にはいり、女に気がつかぬうちに、もうそのすぐそばまで立っていた。
それはマンクスだった。
「わしの弟子の一人さ」見知らぬ女を見てマンクスがぎょっとしているのに気づいて、フェイギンはいった。「動かなくていいよ、ナンシー」
女はテーブルに身をよせ、無造作《むぞうさ》な軽っぽい態度でマンクスをチラリとながめてから、その目をはずした。だが、マンクスがフェイギンのほうに向きなおったとき、彼女は鋭い、さぐるような、なにか一物《いちもつ》ありげなまなざしを彼に投げたので、そばにだれか人がいて、この彼女の変化を見ていたら、その人は、そうした二つのちがった態度が同一人物から出たものとは、とても信じなかったことであろう。
「なにか変わったことでもあるかね?」フェイギンはたずねた。
「うん、大ありだ」
「そして――そして――いい話かね?」あまり楽観的になりすぎて、相手をおこらせてはと気を配っているようにして、フェイギンはたずねた。
「とにかく、まずい話じゃないな」ニヤリとして、マンクスは答えた。「今度は素早く動いたんだ。そこで、おめえにちょっと相談しなけりゃならんのだが……」
マンクスが自分のことをさしているのはわかっていたが、女はなおいっそうテーブルににじりより、部屋を出てゆく気配を示さなかった。追いはらおうとすると、女が金のことをいうかもしれないと考えたのだろう、ユダヤ人は上をさし、マンクスを部屋から連れだした。
「この前はいったあのたまらない部屋は真《ま》っ平《ぴら》だぜ」上にあがってゆきながら、男がこういうのを、彼女は耳にした。フェイギンは笑い、彼女には聞こえなかったなにかを答え、床板のきしむ音からみて、相手の男を三階に連れていったようすだった。
彼らの足音が家中にひびいているのがまだ鳴りやまないうちに、女は靴をぬぎ、ガウンをゆったりと頭の上にかぶり、腕もその中につつんで、戸のところに立ち、息もつかぬ興味をこめて、聞き耳を立てていた。物音がやんだ瞬間、彼女は部屋からすべるようにして出てゆき、信じられぬほどのそっと静かな足どりで階段をのぼり、上の暗闇の中に姿をかくした。
この部屋は、十五分かそれ以上ものあいだ、人気がなく、女は、以前と同様のこの世のものならぬ足どりで、部屋にそっともどり、その後すぐ、二人の男が降りてくる足音が聞こえてきた。マンクスはすぐ街路に出てゆき、ユダヤ人は、金をとりに、階上にふたたびはいあがっていった。彼がもどってきたとき、女はすぐにでも出てゆきそうな気配で、ショールと縁無し帽の具合いをなおしていた。
「あれっ、ナンシー」ろうそくを下においたとき、ぎょっとして、ユダヤ人は叫んだ。「顔が真《ま》っ青《さお》だよ!」
「真《ま》っ青《さお》ですって!」相手をしっかり見すえようとしているかのように、両手で目をかざして、女はくりかえした。
「まったく、ひどいぞ。いったい、なにをしてたんだい?」
「どのくらいの時間かわかんないけど、このむっとした部屋の中にただ坐ってただけよ」無造作《むぞうさ》に女は答えた。「さあ、もう帰ってもいいでしょう?」
ひとつ金をわたすごとに溜《た》め息をもらしながら、フェイギンは彼女に必要な金額をわたした。二人はこれ以上なにも話さず、ただ「おやすみ」だけをいって、わかれた。
通りに出ると、女はどこかの家の戸口の階段のところに腰をおろし、しばらくのあいだ、すっかりとまどって、歩いてはゆけないふうだった。急に彼女は立ちあがり、サイクスが彼女の帰ってくるのを待っているところとは逆の方向に、急いで足を進め、それはだんだんとものすごい駆け足になっていった。それですっかり疲れ果ててから、彼女は息をするために足をとめ、まるで急にわれにかえり、自分がしようと思っていることができないのを嘆くといったふうに、手をもみ、わっと泣きだした。
涙で気分が晴れたのかもしれず、また、彼女が自分の状態の絶望的なのをさとったのかもしれない。とにかく、彼女は足をもどし、ひとつには、つぶした時間の穴埋めのために、またひとつには、自分自身の心の中の激しい流れと歩調を合わせるために、逆方向に前と同じ急ぎ足でもどり、間《ま》もなく夜盗がひそんでいる例の家に帰ってきた。
サイクス氏の前に姿をあらわしたとき、彼女が多少興奮した態度を示したとしても、彼はそれに気づかずにいた。彼はただ金をもらってきたかをたずね、もらってきたという答えを受けとっただけで、満足そうなうなり声を立て、枕の上に頭をおいて、彼女の到着によって乱された眠りにもどっていった。
金を手に入れて、彼が翌日飲み食いにいそがしく、その上、彼の癇癪《かんしゃく》を静めるのにそれが大いに役だち、彼女の態度・ふるまいにたいして彼が難癖をつける気分も暇もなかったことは、彼女にとって幸せなことだった。腹を決めるのになみなみならぬ努力を必要とするなにか思いきった、危険なことをしようとたくらんでいる人が示す茫然《ぼうぜん》とした、神経質な態度を彼女がもっていることを、目の鋭いフェイギンだったら気がつき、すぐにそれにたいする警戒態勢をしいたことだろう。だが、サイクス氏は、ものを見わけるこまかな目はなく、危険を感じたらすぐにすべての人にひどい乱暴な態度をとる以外に、心こまかに動く猜疑心《さいぎしん》をもち合わせてはいなかった。その上、前にもお知らせしたように、ふだんにないほど上機嫌な状態にあったので、彼は彼女の態度に変わったところがあることに気づかず、彼女のことはぜんぜん気にもとめていなかったので、彼女の興奮がもっとずっと目立ったものだったとしても、それは、たぶん、彼の猜疑心《さいぎしん》をひき起こすまでにはならなかったであろう。
その日の暮れがたになると、女の興奮はたかまっていった。夜になって、彼女がわきに坐り、夜盗が酒を飲んで眠ろうとしているのをジッと見守っていたとき、彼女の頬《ほお》は異常なほどに青く、その目は燃えていたので、鈍感なサイクスさえ、びっくりしてしまった。
サイクス氏は、熱でからだが弱っていて、寝台の上に横になり、ジンを弱めるために、それといっしょに湯を飲み、三杯目か四杯目の湯をついでもらうために、自分のコップをナンシーのほうにおしやっていた。彼が彼女の徴候にはじめて気づいたのは、このときのことだった。
「いや、おどろいた!」女の顔を見すえながら、前に手をついて、男はいった。「おめえのようすは、死体がよみがえってきたようだぞ。どうしたんだ?」
「どうした!」女は答えた。「べつに。どうして、そんなにあたしをジッとながめてるの?」
「どんなバカなことをしようとしてるんだ?」彼女の腕をつかみ、荒々しく彼女をゆすって、サイクスはたずねた。「なんなんだ? なにをするつもりなんだ? なにを考えてるんだ?」
「いろんなことよ、ビル」からだをふるわせ、そうしながら、両手を目におしあてて、女は答えた。「でも、まあ! そんなことをする見込みは、まずないことね」
最後の言葉が語られた、むりに陽気ぶったところがかえって、すごく、こわばった前のようすより、強い印象をサイクスに与えたらしかった。
「それがなんだか、おれが教えてやろう」サイクスはいった。「おめえに熱病がうつり、いまそれが起きてこようとしてるんでなかったら、なにかふつうと変わったこと、それといっしょになにか危険なことが起きようとしてるんだ。おめえはまさか――。ちぇっ、そんなこと、あるもんか! そんなことは、しねえもんな!」
「そんなことって、なにを?」
「うん」彼女の上に目をすえ、彼は独り言のようにブツブツといった――「これほどしっかりした女はいるもんか。そうでなかったら、三月《みつき》前にこいつの喉をたたっ切ってやったろう。熱にかかろうとしてるんだ。そうさ」
こういって自分を安心させ、サイクスはコップの酒を飲みほし、ブツブツといろいろな悪態《あくたい》をついて、薬をとってくれとたのんだ。女はさっととびあがり、彼に背を向けたままで薬をつぎ、彼がその薬を飲んでいるあいだ、その容器を彼の口にあてがっていた。
「さあ」盗人はいった。「ここにきて、おれのわきに坐り、ふだんの顔になるんだ。さもないと、おれがそいつを変えて、元どおりにしたくても、そいつがわからなくなっちゃうようにしてやるぞ」
女は男のいうとおりになった。サイクスは彼女の手をしっかりとにぎり、枕の上に倒れかかり、目を彼女の顔の上にすえた。その目は閉じられ、ふたたび開かれた。もう一度閉じられ、ふたたび開かれた。彼は落ち着かぬふうにそわそわとその姿勢を変え、二、三分のあいだ、何回かウトウトし、そのたびに、恐怖の表情を浮かべてはっと飛び起き、うつろな目をしてあたりを見まわし、起きあがろうとしたちょうどその瞬間に、突然まるでものに打たれたように、深い眠りにおちこんでしまった。にぎっていた彼の手はゆるみ、あげた腕はぐんなりとわきに倒れ、彼は、深い昏睡状態に落ちた人のようになって、横たわっていた。
「阿片《あへん》がとうとう効《き》いてきたようね」寝台のわきから立ちあがりながら、女はつぶやいた。「いまからだと、おそすぎるかもしれないわ」
彼女は、ときおり、おそろしそうにあたりを見まわしながら、縁無し帽子をかぶり、ショールをつけたが、それはまるで、催眠剤を飲ませたにもかかわらず、いつでもサイクスの重い手が彼女の肩に延ばされるのを予期しているような態度だった。それから、彼女は寝台の上にそっとかがみこみ、盗人の唇にキスをし、ついで音を立てずに部屋の戸を開き、そしてそれをふたたび閉めて、急いで家からとびだしていった。
大通りに出るのにとおらねばならない暗い通路のところで、夜まわり番が九時半を伝えていた。
「九時半をずっとまわったこと?」女はたずねた。
「もう十五分もすると、十時を打つよ」カンテラを彼女の顔にあげて、夜まわり番は答えた。
「一時間かそこら以内では着けないわ」さっと男のわきをとおりぬけ、通りをとっとと進んでゆきながら、ナンシーはつぶやいた。
スピトルフィールドからロンドンの西の端《はし》にゆくのに、彼女がとおった裏通りでは、多くの店がもう戸をおろそうとしていた。十時が鳴り、ますます彼女の焦燥をかりたてた。彼女はせまい舗道をさっさと走ってとおり、グイグイと通行人をおしのけ、ほとんど馬の頭の下までかいくぐるようにして、人の群れが彼女と同じことをしようと待ちかまえている込んだ通りを突っ切って進んでいった。
「あの女は気ちがいだぞ!」彼女が勢いよくとおっていったとき、人々はその姿をふりかえって見ながらいった。
彼女が金持ちの住んでいる地区に着いたとき、人通りは比較的少なくなった。ここで彼女の急ぎ足は、彼女が追いぬいていった散歩をしている人々に、前にもます強い好奇心をかき起こした。何人かの人は、彼女がこんなに急いでどこにゆくのかを調べようとするように、足を早めた。また何人かは彼女を追いぬき、ふりかえって、そのおとろえぬ歩調にびっくりしていた。しかし、そうした人はしだいに影をひそめ、彼女がその目的地に近づいたころには、まわりにはだれもいなくなった。
そこは、ハイド・パークの近くの、静かだが美しい通りに面した家族用のホテルだった。その扉の前で燃えているランプの明るい光に引きよせられて、彼女がそこにやってきたとき、時計は十一時を報じた。彼女は数歩ウロウロして歩いていたが、それは決心がつきかね、腹を決めようとしているといったふうのものだった。だが、時計の音は彼女に決心を固めさせ、彼女は玄関の間にはいっていった。玄関番の場所には、だれもいなかった。彼女はおずおずとあたりをながめまわし、階段のほうに進んでいった。
「あのう、若いかた!」しゃれた服装をした女が彼女のうしろの扉のところから、声をかけた。「どなたにご用です?」
「ここに泊まっているご婦人ですけど」女は答えた。
「ご婦人ですって!」相手はいかにも軽蔑したような顔をしていった。「どのご婦人?」
「メイリーさんです」ナンシーはいった。
このときまでに彼女のようすを見てとっていたこの若い女は、けがらわしいといった態度で答えただけで、男を呼んで、ナンシーに答えをさせた。この男に、ナンシーは口上をまたくりかえした。
「どなたからといえばいいんです?」給仕はたずねた。
「だれからとも、いわなくっていいんです」ナンシーは答えた。
「用件もですか?」男はいった。
「ええ、それもいらないわ」女は答えた。「ただそのご婦人に会えば、いいんです」
「さあ!」彼女を扉のほうにおして、男はいった。「そんなこといったって、だめだよ。出てゆけ」
「むりやり追い出されなけりゃ、出てゆかないことよ!」激しい勢いで、女はいった。「その追い出しは、おまえさんたち二人がかりでも楽《らく》じゃないことは、覚悟だろうね。だれかここにいないのかしら?」あたりを見まわして、彼女はいった。「あたしのようなあわれな者のために、ほんのちょっとした伝言を伝えてくれる人が?」
この言葉は、ほかの召使いたちといっしょにこれをながめていた人のよさそうな男の料理番の心を動かし、彼は彼女のとりなしをしようと進みでてきた。
「ジョー、それを伝えてやれよ、どうだい?」この男はいった。
「それで、どうなるんだい?」前の男は答えた。「まさか、あのお嬢さんがこんな女とは会いはしまい、どうだ?」
ナンシーのいかがわしい素性《すじょう》にあてつけたこの言葉は、四人の女中の胸に義憤の念を湧き立たせ、この女は女性の恥、こんな女は容赦なくどぶに投げこんでしまえばいいのだ、と彼女たちは強硬にいいはった。
「あたしなら、好きなようにしておくれ」男たちにまた向きなおって、女はいった。「でも、あたしが最初にたのんだことは、しておくれ。おねがいだよ、この伝言を伝えておくれ」
心のやさしい料理番はさらにとりなしをし、結局、最初に姿をあらわした男が伝言役を引き受けることになった。
「その伝言って、どんなことだい?」片足を階段にかけて、男はいった。
「若い女が、ぜひメイリーお嬢さんと二人だけで話したがっているっていうこと」ナンシーはいった、「その最初の一言を聞きさえすれば、お嬢さんはわたしの用件を聞いたらいいか、わたしをいかさま師として追いだしたらいいかがおわかりになる、ということよ」
「いやあ」男はいった。「これは大仰《おおぎょう》な言葉だな!」
「伝言をたのむことよ」きりっとして、女はいった。「そして、返事をもってきてちょうだい」
男は二階にかけあがっていった。ナンシーは、青ざめた顔をし、ほとんど息を殺して、唇をワナワナさせながら、女中たちが遠慮なく口からはきだすあなどりの言葉を聞いていたが、男がもどってきて、ナンシーに二階にあがるように伝えると、その悪口はいっそう口ぎたないものになっていった。
「この世で、まともにしていたって、つまんないことね」最初の女中がいった。
「火に堪えてきた黄金より、真鍮《しんちゅう》のほうが得《とく》ということよ」つぎの女中がいった。
三番目の下女は、「貴婦人って、どんなものなのかしら?」だけで満足し、四番目の下女は、これらダイアナ(ローマ神話で、月の世界。処女性と狩猟の守護神)のような純潔な娘たちが、結びの言葉として叫んだ四部合唱の「けがらわしい!」の音頭とりをつとめた。
心に重要な任務をおびているナンシーは、そうした罵言にとりあわず、手足をふるわしながら、男のあとについてゆき、天井からつるされたランプで照らされている小さな控えの間にはいっていった。給仕は彼女をそこにおき、ひきさがった。
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四十 前章のつづきである奇妙な会見
この女の一生は、ロンドンの街路とさわがしい売春宿や魔窟《まくつ》で意味なく使いつぶされていたが、それでもまだ、女らしさは多少のこっていた。そして、彼女がはいった扉と向かい合わせの扉に軽い足どりが近づいてくるのを耳にし、間《ま》もなくこの小部屋で示される二人の女の大きなちがいを思ったとき、彼女は深い屈辱感で気が重くなり、自分が求めた会見の相手の目の前に自分の姿をさらすことができないといったふうに、ちぢみあがってしまった。
だが、こうした正しい気持ちと戦っているのは傲慢心で――それは、身分が高くて自信満々の人ばかりではなく、身分が低くて賤《いや》しめられている人ももつ悪徳である。盗人や悪人のみじめな同僚、低俗ないかがわしい家に住んでいる堕落した追放者、絞首台そのものの影の下でうごめく牢獄と牢獄船のかすの仲間――この転落した女でさえ、強い誇りに動かされて、自分の弱点と彼女が考えていた女らしさのわずかな影をも示すまいとしていたが、これこそ彼女を人間らしさに結びつけているもので、その人間らしさの痕跡は、彼女がまだ小さな子供のときに、すさんだ生活で、もうぬぐいとられてしまっていたものだった。
彼女は目をあげ、そこにあらわれた姿がほっそりとした美しい娘であることだけは見てとった。それから、その目を伏せ、無造作《むぞうさ》を気どって、頭をグイと引きあげ、こういった――
「貴婦人に会うって、とても大変なことなのね。たいていの人がしたかもしれないように、あたしが気をわるくしていってしまったら、あんたはそれをいつか後悔したでしょうよ、後悔する筋は十分あるんですからね」
「だれかが失礼なことをしたら、わたしがそのおわびをします」ローズは答えた。「そのことは、どうかお忘れになってください。どうしてわたしとお会いになりたいのか、お話しください。あなたがおたずねになったのは、このわたしです」
この返事に示されたおだやかな調子、やさしい声、しとやかな態度、思いあがった態度や腹をたてているようすがぜんぜん示されていないことは、彼女の虚をつき、彼女はわっと泣きだした。
「ああ、お嬢さま! お嬢さま!」顔の前でしっかりと手をにぎりしめて、彼女はいった。「あなたのようなかたがもっとおいでになったら、わたしのような者ももっと少なくなることでしょう――きっと――きっと!」
「どうかお坐りください」ローズは熱心にすすめた。「もしあなたが貧乏かなにかでお苦しみなら、わたしでできることなら、よろこんでお助けしますことよ――ほんとうに。どうかお坐りください」
「お嬢さま、わたしは立たせておいでください」まだ泣きながら、女はいった。「そして、わたしの素性《すじょう》がわかるまで、そんなに親切な言葉はかけないでください。もう夜はおそいのです。戸は――戸は――閉まっているでしょうか?」
「ええ」ローズはいい、もし助けが必要だったら、そちらに近づこうといったようすで、数歩後ずさりした。「どうしてなの?」
「というのは」女はいった、「わたしは自分とほかの人の命をあなたの手にお預けしようとしているからです。ペントンヴィルの家からオリヴァが出かけたとき、あの坊やを連れていったのは、このあたしだったのです」
「まあ!」ローズ・メイリーはいった。
「お嬢さま、このあたしだったのです。あたしはお聞きおよびの自堕落女、盗人たちのあいだで暮らし、ロンドンの町を見聞《みき》きした最初のときから、それ以外の暮らしを知らず、仲間がかける以外の親切な言葉は聞いたことがありません。遠慮なく、あたしのところから身をはなしてください。あたしは、あたしをごらんになってお考えになるより、もっと若いのです。でも、もうそういうことには馴《な》れっ子になってます。人ごみの通りをあたしがとおってゆくと、どんな貧乏な女の人だって、わたしをよけてしまうんです」
「まあ、おそろしいこと!」思わずこの見知らぬ女から身を引いて、ローズはいった。
「お嬢さま、神さまに膝をついてお礼なさらなければいけませんよ」女は叫んだ、「子供のときに世話を見て養ってくれた親切な友があり、あたしが揺り籠から味わってきた寒さと飢え、飲んだくれたどんちゃんさわぎ――それに――それよりもっとひどいことを味わったことがないことをね、あたしは揺り籠という言葉を使ってもいいでしょう。裏町と溝《みぞ》はあたしの仲間だったし、それはいずれ、あたしの墓場にもなることでしょうからね」
「かわいそうに!」声をつまらせて、ローズはいった。「あなたのお話を聞いていると、胸が痛くなりますわ」
「そのご親切、ほんとうに身にしみます!」女は答えた。「あたしが、ときどき、どんなことを味わってるかをおわかりになったら、きっとかわいそうにと思ってくださることでしょう。でも、あたしは忍び出してきたのです。そっと聞いた話をお話ししようと、あたしがここにやってきたことがあの人たちの耳にはいったら、あたしはきっと殺されることでしょう。マンクスという男を、あなたはご存じですか?」
「いいえ」ローズはいった。
「彼は、あなたのことを知っています」女は答えた。「そして、あなたがここにおいでなことも知っているのです。あたしがあなたとこうしてお話ししているのも、彼がこの場所を話すのを耳にしたからです」
「マンクスという名は、一度も聞いたことがありませんわ」ローズはいった。
「では、彼は、あたしたちの中で、べつの名をかたってるのです」女は答えた。「前から、そんなことだろうと思ってました。だいぶ前、あの盗難事件の夜に、オリヴァがあなたの家におしこめられてからすぐ、あたしは――この男がくさいと思って――彼がフェイギンと暗闇の中で密談するのを、聞いてしまいました。その話から、あたしは知ったのです、マンクス――あたしがあなたにおたずねした男は――」
「ええ」ローズはいった。「わかりますわ」
「オリヴァが最初|行方《ゆくえ》不明になった日に」女は話をつづけた、「マンクスは、あたしのとこにいるほかの二人の子供といっしょに、あの子の姿を偶然に見かけ、あたしにはわけがわかりませんが、それが彼のさがしている少年だとわかったんです。オリヴァを連れもどしたら、なにがしかのお金をフェイギンにはらう話がまとまり、オリヴァを盗賊に仕立てたら、フェイギンはもっとお金をもらうことになってます。マンクスは、なにか彼自身の目的のために、それを望んでるんです」
「それは、どんな目的?」ローズはたずねた。
「それを調べようとあたしが聞いているとき、あの男は壁にうつったあたしの姿に気がついたんです」女はいった。「早く逃げだすことにかけては、あたし、たいていの人に負けないでしょう。あたしは逃げだしてしまったんです。そして、昨日《きのう》の夜まで、彼の姿を見かけませんでした」
「そのとき、どんなことが起きたの?」
「お嬢さん、お話ししますよ。昨夜彼はまたやってきて、二人はまた二階にあがってゆきました。あたしは、影で見破られないようにと、からだをつつみ、また戸のところで聞いてしまいました。マンクスが最初にいった言葉はこうでした。『だから、あの少年の素性《すじょう》を語る証拠は川の底、彼の母親からそれをもらった婆《ばばあ》は棺桶《かんおけ》の中でくさりかけてるんだ』二人は笑い、ことがうまくいったことを話し合ってました。マンクスは、少年のことを語りつづけて、気ちがいじみたふうになり、『あの餓鬼《がき》の財産はちゃんとこっちで手に入れてあるが、同じ財産をもつにしても、そんなもちかたはしたくない。オリヴァをロンドンじゅうの監獄につぎからつぎへとぶちこみ、フェイギン、やつをうんと利用したあとで、おまえが楽々《らくらく》とたくらむことができるなにかの極悪罪でやつにかたをつけ、やつのおやじの遺言状の法螺《ほら》に鼻をあかしてやれたら、どんなに愉快なこったろう』といってました」
「それはどういうことなのでしょう?」ローズはいった。
「お嬢さま、あたしのような女の口から出た言葉ですけど、それはほんとうのことです」女は答えた。「それから、あたしの耳には馴れっ子になってますが、お嬢さまの耳にはめずらしい悪態《あくたい》をついて、自分の首を危険にさらさずに、あの少年の命をうばって、憎しみを晴らすことができたら、もちろん、それはやる、だが、それはできないことなんで、少年の人生の転機ごとに、彼と出逢うように監視をしてるんだ、もし少年が自分の生まれと来歴に乗じるようなことをしても、それでもまだ危害を加えることができる、といってました。『要するにだな、フェイギン』彼はいいました、『なるほどおまえはユダヤ人だが、おまえだって、おれが弟のオリヴァにかける罠《わな》ほど巧妙なものは、たくらんだことがないはずだぞ』」
「弟ですって!」ローズは叫んだ。
「彼の言葉はそういってました」彼女が話をはじめてから、ひっきりなしにやっていたことだったが、不安そうにあたりを見まわして、ナンシーはいった。というのも、サイクスの姿が、たえず彼女にまといついていたのだった。「それに、まだもっといってましたよ。彼はあなたともう一人のご婦人のことを話し、オリヴァがあなたがたの手にはいったのは、神か悪魔の仕業、自分には困ったことに見えるといって笑い、それにもちょっと楽しみがないわけではない、あの二本足の狆公《ちんこう》の素性《すじょう》を知るためだったら、あなたがたは、いくらでもある金はぜんぶはたくだろうから、ともいってました」
「まさか」ローズは真《ま》っ青《さお》になっていった。「それが本気の言葉だとおっしゃるのではないのでしょうね?」
「彼は冷酷に、おこりながら、本気でいってました」頭をふりながら、女は答えた。「あの人は、憎しみが湧きたってるときには、本気でものをいうんです。もっといけないことをする人は、たくさんいます。でも、そんな人のひどい言葉をぜんぶ十回聞いたほうがまだましだわ、あのマンクスの言葉を一度聞くよりはね。もう夜もおそくなりました。こんな用事で出かけたことをさとられずに、家に帰らなければなりません。急いで帰らなければなりません」
「でも、わたし、どうしたらいいのでしょう?」ローズはいった。「こんなお知らせを受けても、あなたがいらっしゃらなかったら、どうにもなりませんわ。帰るのですって! あんなにおそろしい人々だといっておいでの人のところに、どうして帰りたいのです? わたしがすぐとなりの部屋から呼び出せる紳士のかたに、いまのお話をもう一度くりかえしてくださったら、三十分もしないうちに、あなたはどこか安全な場所にかくれられるのですよ」
「あたしは帰りたいんです」女はいった。「あたしは帰らなければなりません、というのも――あなたのような心のきれいなかたに、こんなことをどう説明したらいいでしょう――あたしがお話しした男たちの中に、一人――中でもいちばん荒らっぽい男がいて――その人は、あたし、すててはおけないんです。そう、たとえあたしがいまの生活から救いだされてもね」
「あなたが前にあの子をかばってくださったこと」ローズはいった、「大きな危険をおかしてまで、聞いたことを知らせにここにきてくださったこと、あなたの言葉がほんとうなことを裏書きするあなたの態度、はっきりとわかる後悔の情と恥ずかしく思っているようす、そうしたことすべてを思い合わせてみると、あなたがまだ立ちなおれることは確実です。おお!」涙が頬《ほお》を流れ落ちているのに、それにかまわず、腕を組みながら、この生《き》まじめな娘はいった。「同じ女性の仲間からの懇願に耳をかさないようなことは、どうかしないでください――これは、あわれみと同情の声であなたにかけられた最初の――最初の言葉でしょう。どうかわたしの言葉を聞いて、わたしにあなたを救わせてください。きっともっと幸せになれますよ」
「お嬢さま」倒れひざまずいて、女は叫んだ。「天使のようなやさしいお嬢さま、そんなにやさしい言葉をかけてくださったかたは、いままでにありません。むかしそれを聞いていたら、わたしは罪と悲しみの生活から立ちなおっていたことでしょう。でも、いまはもうだめです――いまはもうだめです!」
「だめなことはありません」ローズはいった、「悔いて、つぐないをするためにはね」
「だめなんです」心の苦しみに身もだえしながら、女は叫んだ。「もういまは、彼をすてられません! あの人を殺すことはできません」
「どうして殺すことになるのです?」ローズはたずねた。
「どうしても、あの人は助からないんです」女は叫んだ。「もしあたしが、あなたにしたお話を他人に話して、彼らがつかまってしまったら、彼はきっと死んでしまうことでしょう。あの人は仲間でいちばんの向こう見ず、とても冷酷な人なんです!」
「まあ」ローズは叫んだ。「そんな男の人のために、あなたが将来の希望をすて、すぐ確実に救われるのをあきらめるのですか? そんなことをしたら、それこそ狂気の沙汰《さた》だわ」
「それがどうしてかは、あたし、わかりません」女は答えた。「でも、とにかく、そうなんです。それはあたしばかりでなく、あたしと同じようにわるいことをし、みじめになっている何百もの女だって、そうなんです。あたしは帰らなければなりません。それがあたしのわるいおこないにたいする神さまのお怒りかどうかは知りませんが、ひどい苦しみや虐待を受けながら、あたしは彼のとこにひきもどされてしまうんです。最後に彼の手にかかってあたしが死ぬことがわかってても、きっとひきもどされることでしょう」
「わたし、どうしたらいいのかしら?」ローズはいった。「こんなふうにお帰ししてはいけないのだけど……」
「それでいいんです、きっとあなたは、あたしを帰してくださいますわ」立ちあがりながら、女は答えた。「あたしはあなたのおやさしい心を信じ、帰してくださるという約束もとらずに、お話ししたんですもの。あなたは、あたしの帰るのをとめたりはなさいませんわ」
「それでは、あなたが話してくださったお話、どんな役にたつのでしょう?」ローズはいった。「このふしぎな話は、調査しなければなりません。そうでなく、ただわたしがお話を聞いただけでは、どうしてそれがオリヴァに――あなたが助けてやろうとお思いのオリヴァに、役だちましょう?」
「あなたにはだれか親切な紳士のかたがついておいでです。そのかたがこの話を秘密として聞き、どうしたらいいかを教えてくださるでしょう」女は答えた。
「でも、あなたとお会いしなければならなくなったとき、あなたはどこにおいでかしら?」ローズはたずねた。「そのおそろしい人たちが住んでいるところを、知りたくはありません。でも、これから先、ある定めた時間に、あなたはどこを歩いておいでかしら?」
「あたしの秘密を絶対にもらさず、おいでになるときには、ただ一人か、秘密を知ってる連れのかただけ、あたしが監視されたり、あとをつけられたりはしないと約束してくださること?」女はたずねた。
「ええ、ほんとうにお約束しますわ」
「毎日曜日の夜、十一時から時計が十二時を報じるまで」相手の言葉を信じこんで、すらすらと女はいった、「あたしはロンドン橋の上を歩いてます、もし生きてれば……」
「ちょっと待ってください」女が急いで扉のほうにゆこうとしたとき、ローズは叫んだ。「あなたご自身のいまの状態、それから逃げられるこのチャンスのことを、もう一度考えてくださらない? わたしはあなたをお救いしなければならないのです、あなたが自発的にこのことを教えてくださったことばかりでなく、もうほとんど救いの手の絶たれた女のかたとしてね。たった一言であなたの身が救われるのに、あなたはその泥棒の群れ、その男のところに帰ってゆくのですか? あなたがもどってゆき、わるい行為とみじめな立場をすてないなんて、そこにどんな魅力があるのかしら? おお、あなたの心には、わたしがふれられる一筋の糸もないのかしら! このおそろしい魔力からあなたをなんとか救いだす方法は、なにかのこされてはいないのかしら?」
「お嬢さまのように若く、やさしく、美しいかたでも恋をなされば」女はしっかりと答えた、「その恋はあなたをどんな遠いとこにでも運んでゆくものです――心を満たす家、友、ほかの礼讃者、すべてがそろっておいでのあなたでもね。屋根といえば棺のふたしかなく、病気になって死んでも、慈善病院の看護婦しか友だちのないあたしのような女が、そのだめになった心をだれか男にささげ、みじめな生涯じゅう空白だった場所をその人が満たしてくれたら、もうだれも、あたしたちを救いだすことはできないんです。お嬢さま、あたしたちをあわれんでください――女の気持ちはただひとつしかのこっておらず、おそろしい裁きのために、それは、楽しみと誇らかな気持ちから、新しい暴力と苦しみの手段に変えられてしまったんです」
「いくらかお金をわたしのところからもっていってください」しばらくして、ローズはいった。「それであなたは、わるいことをせずに暮らせるでしょう――とにかく、またお会いするときまではね」
「一文だって、いただきません」手をふって、女は答えた。
「あなたをお助けしようとしているわたしの気持ちにたいして、どうか心を閉ざさないでください」やさしく歩みよって、ローズはいった。「わたし、ほんとうにあなたのお役にたちたいの」
「お嬢さま、あなたがあたしに役にたってくださるいちばんいい方法は」手をふりしぼりながら女は答えた、「いますぐに、あたしの命をうばってくださることでしょう。というのも、いままでにないほど、今晩は、このあたしという身がいやになっているからです。いままで暮らしてきたあの地獄で死なずにすむことは、心のなぐさめになりますものね。さようなら、やさしいお嬢さま、あたしとはちがって、どうか幸福にお暮らしください!」
こういって、声を出してすすり泣きながら、この不幸な女は外に出ていった。ローズ・メイリーは、現実に起こったことというより、一瞬見た夢にも似たこの異常な会見に圧倒されて、倒れるようにして椅子に腰をおろし、その乱れた心を静めようとしていた。
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四十一 新しい発見が語られ、不幸と同じく、驚きも単独では来ないことを示す
彼女の立場は、じっさい、なみなみならぬ苦しい、困難なものだった。オリヴァの来歴がつつまれている神秘を見ぬこうとする彼女の気持ちは強く、燃え立ってはいたが、たったいままで彼女が話していたあのあわれな女が、若い罪のない女として、彼女に託した信頼を神聖なものと思わずにはいられなかった。ナンシーの言葉と態度は、ローズ・メイリーの心を打ち、ローズが預かった少年にたいする彼女の愛情にまじって、そして、誠実さと情熱の点ではそれにほとんどおとらぬものとして、あのあわれな、世間からすてられた女を悔いと希望にとりもどしたいという念がひそんでいた。
彼らはロンドンに三日しか滞在せず、その後数週間、遠くの海岸にゆくことになっていた。いまは第一日目の真夜中だった。四十八時間以内にとれるどんな手段がのこっているだろうか? どうしたら、疑惑をひき起こさずに、その旅行を延ばすことができるだろうか?
ロスバーン氏は彼らといっしょにいて、もう二日間、ここに滞在するはずだった。しかし、ローズはこのすぐれた紳士の性急さを知りすぎるほどよく知り、激怒の最初の爆発で、オリヴァがふたたびつかまってしまったときの道具となった女をどんな怒りの目でながめるかがよくわかっていた。彼女のナンシー弁護論が世故《せこ》にたけた人の援助を得ていないことを考えて、彼にはその秘密を打ち明ける気になれなかった。それをメイリー夫人に伝えることも、夫人の最初の衝動がその問題であのりっぱな医師と相談をしようとすることにまちがいなかったので、最大の用心と周到な態度を要することだった。法律顧問に相談することも、たとえそれが彼女にできても、同じ理由で、ほとんど考えられないことだった。一度ハリーの援助をあおごうという考えが起きたが、これは最後の別れのことを彼女に思い出させた。こうして考えてくると、彼女の目には涙が浮かんできたが、彼がいまごろは彼女のことを忘れ、もっと幸福になっているかもしれないときに、彼を呼びもどすなんて、いかにもはしたないことに思われるのだった。
こうしたさまざまの思いに心乱され、あれこれと思いが相ついで思い浮かぶにつれ、こうしようと考えては、つぎにはああしようと考え、さらにそうした考えすべてをすてて、ローズは気がかりな眠れぬ一夜を送った。その翌日、考えあぐんだあげく、彼女は思いきってハリーに相談することにした。
「ここにもどってくることが彼につらいことだったら」彼女は考えた、「それは、わたしにとって、どんなにつらいことでしょう! でも、たぶん、彼は来ないでしょう。彼は手紙をくださるかもしれない。それとも、自身ここにきて、わざとわたしに会うのを避けるかもしれない――彼が出てゆくとき、そうしたように……。あんなことをなさるとは、思ってもいなかったわ。だけれど、あのほうが、二人にとってよかったのだわ」ここでローズはペンを落とし、彼女の使者となる紙が彼女の泣き顔を見ないようにと、面《おもて》をそむけた。
彼女はまたペンをとりあげ、それをおき、そうしたことを五十回もくりかえし、一言もまだ書かずに、手紙の最初の行をあれこれと考えているとき、護衛としてジャイルズを連れて町へいっていたオリヴァが、なにか新しい不安の種でも起きたように、息せき切ってあわただしく、ひどく興奮して、部屋に飛びこんできた。
「どうして、そんなにあわてているの?」彼のほうに歩みよって、ローズはたずねた。
「ぼくには、どうしてだかわかりません。息がつまりそうなんです」少年は答えた。「ああ! あの人ととうとう会えて、ぼくがいっていたことが、ぜんぶ、ほんとうなことを、あなたに知っていただけるなんて!」
「あなたが話したことは、みんな、ほんとうだと、わたしは信じていましたよ」オリヴァの心を静めて、ローズはいった。「でも、その話はどんな話なの?――だれのことを話しているの?」
「ぼく、あの紳士に会ったんです」口もきけぬふうで、オリヴァはいった。「とても親切にしてくださったあの紳士――よくぼくたちが話していたあのブラウンロウさんです」
「どこで?」ローズはたずねた。
「馬車からおりて」よろこびの涙を流しながら、オリヴァは答えた、「家にはいるところでした。ぼくはあの人に話しかけませんでした――話すことはできなかったのです。彼はぼくに気がつかず、ぼくはからだがふるえて、彼のところにはゆけませんでした。でも、ジャイルズが、ぼくにかわって、その紳士がそこに住んでいるかどうかをたずねてくれ、そうだという返事を受けました。ほらっ」――紙切れを開いて、オリヴァはいった。「ここに書いてあります。これが彼の住所です――ぼくはすぐそこにゆきます! ああ、ああ! あの人と会い、あの人の声を聞いたら、ぼくはどうしたらいいのでしょう!」
こうした、またそれ以外のとりとめもないよろこびの叫びに少なからず注意力を乱されながら、ローズはその宛名を読んだが、そこには、ストランド街のクレイヴン通りと書いてあり、間《ま》もなく、彼女はこの発見を利用しようと心を決めた。
「さあ、早く!」彼女はいった。「馬車を呼ぶようにいいつけ、わたしといっしょにゆく準備をするのですよ。すぐ、一刻の猶予もせずに、あなたをそこに連れていってあげますからね。叔母さまには、ただ一時間ほど外出するといっておきます。あなたに負けないくらい早く、わたしも準備をしましょう」
オリヴァは急《せ》かされる必要はなく、五分ほどすると、二人はクレイヴン通りに向かっていた。そこに着くと、ローズは、老紳士にオリヴァを迎える心構えをさせるという口実で、彼を馬車にのこし、召使いに名刺をわたして、差し迫った急用で、ブラウンロウ氏にお会いしたいと申しこんだ。召使いはすぐにもどり、彼女に、二階へどうぞ、といった。彼について二階にあがってゆくと、メイリー嬢は暗緑色の上衣を着た、人のよさそうな初老の紳士にひきあわされた。この紳士からあまりはなれぬところに、ナンキン木綿のズボンにゲートルを着けたべつの老紳士が坐り、両手でステッキの頭をおさえ、その上に顎《あご》を乗せていた。
「いや、これは」暗緑色の上衣を着た紳士は、とても慇懃《いんぎん》な態度で急いで立ちあがって、いった。「お嬢さん、これは失礼しました――わたしはあるうるさくせがんでいる男と勘ちがいをしたのです――どうかお許しください。どうぞお坐りください」
「ブラウンロウさんでございますことね?」べつの紳士からいま話した紳士のほうに目をうつして、ローズはいった。
「それがわたしの名です」老紳士はいった。「これはわたしの友人のグリムウィグ氏です。グリムウィグ、ちょっと座をはずしてくれないか?」
「いまは」メイリー嬢は口をはさんだ、「そんなご面倒をいただかなくても結構《けっこう》と思います。わたしが聞きましたことにまちがいがなければ、あのかたは、わたしがいまあなたにお話ししたいと思っている用件をご存じなのです」
ブラウンロウ氏は頭をかしげた。ひどくかたいお辞儀をして椅子から立ちあがったグリムウィグ氏は、もう一度ひどくかたいお辞儀をし、ドカリと椅子に腰をおろした。
「きっと、びっくりなさることでしょう」当然のことながら、どぎまぎして、ローズはいった。「でも、あなたはかつて、わたしのとても親しい友人に大きな慈悲と親切をかけてくださったのです。その人のことを聞きたいと、きっとお思いでしょうね?」
「もちろん!」ブラウンロウ氏はいった。
「あなたはその人をオリヴァ・トゥイストとしてご存じでした」ローズはいった。
この言葉が彼女の口から出るとすぐ、テーブルの上にあった大きな本を夢中で読んでいるふりをしていたグリムウィグ氏は、大きな音を立ててそれをひっくりかえし、椅子に深々とよりかかって、それこそまごうかたない驚きの色を示し、ジッとながいこと、うつろな目をすえつけていた。それから、まるでそうした大きな感動をあらわしたことを恥じているように、彼は、いわばピンとはねかえるようにして、もとの姿勢にもどり、自分の前方をジッと見つめて、ながい深い口笛を吹きはじめた。その口笛は、最後には、外の空気にはもれず、彼の腹のいちばん奥底に消えてゆくような感じになっていた。
ブラウンロウ氏の驚きは、そんな風変わりなふうには示されなかったが、それに劣るものではなかった。彼はメイリー嬢のほうに椅子を引きよせていった――
「お嬢さん、あなたがおっしゃっておいでの親切と慈悲のことは、どうか問題からはずしてください。それは、ほかのだれにも知られてはいないことなのですから……。もしあなたがあのあわれな子にたいしてわたしがもつようになった好ましくない印象を変える証拠でもおもちでしたら、おねがいです、どうか、それをわたしに知らせてください」
「わるいやつさ! あいつがわるいやつでなかったら、わしは自分の頭を食ってみせるぞ」顔の筋肉ひとつ動かさず、なにか腹話術的な技法を使って話しながら、グリムウィグ氏はうなった。
「あの子は、気高い性格とあたたかい心をもった少年です」さっと顔を赤くして、ローズはいった。「そして、あの子に齢《とし》に似合わぬ苦労を与えたほうがいいとお考えになった神さまは、彼の胸に、彼の六倍もの年輩者《ねんぱいしゃ》にでも名誉になるような愛情と感情をお与えになりました」
「わしはまだ六十一だ」前と同じかたい顔をして、グリムウィグ氏はいった。「そして、まちがいなし、オリヴァは十二になっているから、いまの言葉がだれのことをいったものか、わしにはわかりませんぞ」
「メイリー嬢、彼のいうことは気になさらんでください」ブラウンロウ氏はいった。「彼は本気であんなことをいっているのではないのですから……」
「いや、本気だぞ」グリムウィグ氏はうなった。
「いや、ちがう」話しながら、明らかに怒りがこみあげてきたように、ブラウンロウ氏はいった。
「そうだったら、頭を食ってもいいぞ」グリムウィグ氏はうなった。
「もしそうだったら、頭をふっとばされても仕方がないな」ブラウンロウ氏はいった。
「だれかがそれをしようとするのを、ぜひ見たいもんだな」ステッキで床をたたいて、グリムウィグ氏が応じた。
ここまでやりあって、二人の老紳士はそれぞれ嗅ぎタバコを嗅いでいたが、その後、いつもの習慣どおりに、握手をした。
「さて、メイリー嬢」ブラウンロウ氏はいった、「あなたのやさしい気持ちに大いに関係のある問題にもどりましょう。あのあわれな少年がどうなったか、わたしに教えてください。わたしが力のかぎり、あらゆる手段をつくして、彼を発見しようとし、いままで国外に出ていたために、彼が以前の仲間にそそのかされて、わたしをあざむいたという印象は、そうとう影の薄いものになっていることは、前もって申しあげておきます」
このときまでに心を静めることができたローズは、むりのないわずかな言葉で、ブラウンロウ氏の家を出て以来、オリヴァの身に起きたすべてのことをすぐに話したが、ナンシーの話は、あとでこの紳士の耳にだけ伝えることにしてとっておき、少年がただひとつ残念がっていることは、彼の以前の恩人であり友人であった人に会えないでいることだけだ、と述べて言葉を結んだ。
「ありがたい!」老紳士はいった。「これはわしにとって、とてもうれしいこと――とてもうれしいことです。だが、メイリー嬢、彼がいまどこにいるか、まだ教えてくださってはいませんね。文句をいってはすまぬことですが――どうして彼を連れてきてくださらなかったのです?」
「彼は入口のところの馬車の中にいます」ローズは答えた。
「入口のところですって!」老紳士は叫んだ。こういって、それ以上なにもいわずに、彼は急いで部屋から出てゆき、階段をおり、馬車の踏み段にのぼって、馬車に飛びこんだ。
ブラウンロウ氏が部屋を出ていって、そのあと戸が閉ざされると、グリムウィグ氏は頭をあげ、椅子のうしろ足を軸にし、ステッキとテーブルを使って、座に坐ったまま、三回弧をえがいて回転した。この回転がすむと、彼は立ちあがり、びっこ足でできるだけ早く部屋をグルグル歩きだし、それを少なくとも十二回すませてから、ローズの前に立ち、なんの前ぶれもぬきにして、いきなり彼女にキスをした。
「しっ!」この風変わりな態度にびっくりして、若い婦人が立ちあがると、彼はいった。「こわがることはない。わしはあんたのおじいさんになるくらいの年輩なのだからな。きみはいい娘《こ》だ。わしはきみが好きだよ。あっ、彼らが来たぞ!」
事実、電光石火の早業で、彼が自分のもとの坐席にもどったとき、ブラウンロウ氏は、オリヴァをともなってもどり、グリムウィグ氏は彼をとてもやさしく迎えた。もしその瞬間のよろこびが、オリヴァのために彼女が味わった心配と配慮の唯一の報いであったとしても、ローズ・メイリーは十分に報いられたものと感じたことであろう。
「ところで、ここで忘れてはならん人が一人いる」ベルを鳴らして、ブラウンロウ氏はいった。「ベドウィン夫人をここに呼んでくれたまえ」
老家政婦はすぐにやってき、戸口のところでお辞儀をして、命令を待っていた。
「いやあ、ベドウィン、きみは日ごとに目がわるくなっているようだな」そうとうジリジリして、ブラウンロウ氏はいった。
「ええ、そうです」老夫人はいった。「人の目は、わたしくらいの齢《とし》になると、年ごとによくなることはありませんのでね」
「そのくらいのことは、わしでもわかっているよ」ブラウンロウ氏は答えた。「だが、眼鏡をかけ、なぜおまえがここに呼ばれたかがわかるかどうか、調べてごらん」
老夫人はポケットの眼鏡をさがしはじめたが、オリヴァはこの新しい苦痛に我慢ならず、最初の衝動につき動かされて、彼女の腕にとびこんでしまった。
「まあ、驚いたこと!」彼をだきしめて、老夫人は叫んだ。「あのかわいい坊やじゃないの!」
「ああ、おばさん!」オリヴァは叫んだ。
「きっと帰ってくる――そのことは、わたし、知っていましたよ」腕に彼をしっかりとだきしめて、老夫人はいった。「なんてりっぱだこと! もとどおり、紳士の坊ちゃんのような服装ね! このながい、ながいあいだ、どこにいっていたの? ああ、むかしと同じやさしい顔だけど、あんなに青くはなし、むかしと同じやわらかな目をしているけど、あんなに悲しそうじゃないことね! それに、静かな笑いも、忘れたことはありませんよ、まだ若い元気な女のころになくしたわたしの子供たちの顔といっしょにならべてね」こうして語りつづけ、どれだけオリヴァが大きくなったかを見ようと、彼をはなすかと思うと、今度は彼をだきしめ、やさしくその髪をなでたりして、この親切な老婆は、彼の首の上で、かわるがわる笑ったり泣いたりしていた。
彼女とオリヴァにはいろいろと語らせておいて、ブラウンロウ氏は先に立ってべつの部屋にはいり、そこでローズからナンシーとの出逢いの話を聞いたが、それは少なからず彼を驚かせ、狼狽《ろうばい》させた。ローズはまた、最初になぜロスバーン氏にこの話を打ち明けなかったかを説明した。老紳士はこの彼女の行動を慎重なものと考え、彼自身がその重要人物である医師と厳粛な会議を開くことを、こころよく承諾した。この計画を早く実行にうつすために、老紳士がその夜八時にホテルを訪問し、そのあいだに、いままで起こったことを注意深くメイリー夫人に伝えることがとりきめられた。こうした準備の話がきまって、ローズとオリヴァは家にひきあげていった。
ローズは医者がおこるだろうと見とおしていたが、それは決して大げさなものではなかった。ナンシーの話が彼に語られるとすぐ、彼は威嚇とのろいの雨を降らせはじめ、彼女をまずあの巧妙な探偵ブラザーズ氏とダフ氏にひきわたしてやるぞとわめき、この二人のお偉方《えらがた》の援助を得にとびだしてゆこうとして、じっさい、帽子までかぶったのだった。もし自身も癇癪《かんしゃく》もちのブラウンロウ氏がそれにおとらぬ猛烈さで彼を抑えず、彼のかっとしてやろうとしたことをとめるのに好都合と思われた議論や言葉でそれを思いとどまらせなかったら、彼はきっと、先行きのことはいっさいおかまいなしに、自分の意図を実行にうつしたことだろう。
「じゃ、いったい、どうしたらいいんです?」彼らが二人の婦人といっしょになったとき、短兵急な医者はいった。「われわれは男女問わずにあの浮浪者どもにたいして感謝の決議をまとめ、われわれの敬意のささやかなしるし、オリヴァに与えた彼らの親切にたいするつまらぬお礼として、それぞれ各人に百ポンドかそこいら贈呈すべきだ、ということになるんですか?」
「そういうわけではありませんよ」笑いながら、ブラウンロウ氏は答えた。「だが、われわれは、おだやかに、慎重にことを進めなければなりません」
「おだやかに慎重にか!」医者は叫んだ。「そんなものは、ぜんぶ投げすてて――」
「それは、どこにすててもかまいませんよ」ブラウンロウ氏は口をはさんだ。「だが、それをどこかに投げすててしまうことが、われわれの目的の達成にかなうかどうか、そこをひとつ考えてください」
「それはどんな目的?」医者はたずねた。
「ただ、オリヴァの素性《すじょう》を発見し、この話が事実としたら、彼がいかさまでうばわれている相続権を彼にとりもどしてやることだけです」
「ああ!」ハンカチで汗をぬぐって、ロスバーン氏はいった。「そいつは、すっかり忘れてた!」
「ねえ」ブラウンロウ氏はつづけた、「このあわれな娘のことはまったく論外にして、彼女の身の安全をおびやかさずに、この悪人どもを法律の裁きにかけることができたとしても、それでどんな利益がありますかね?」
「たぶん、そいつらのうちの幾人かを、絞首刑にすることはできるでしょう」医者はいった。「それに、のこりの者は流刑にね」
「とても結構《けっこう》」ニヤリとして、ブラウンロウ氏は答えた。「しかし、いずれ時がくれば、彼らはきっと身から出た錆《さび》式に、それをひき起こすことでしょう。もしわれわれが踏みこんで、その先手を打つとすれば、それは、われわれの利益――結局同じことになりますが、少なくとも、オリヴァの利益とは正反対の、ドンキホーテ式のことをやることになりそうですがね……」
「どうして?」医者はたずねた。
「こうです。このマンクスという男を参らさなかったら、この事件の真相を見きわめるのがとても困難になることは、至極《しごく》明瞭です。それをするためには、ただ策略により、彼がそうした悪党どもにつつまれていないとき、彼をとらえてしまうより、ほかに方法はありません。というのも、彼が逮捕されたとしても、彼の立場を不利にする証拠は、こちらにはないからです。彼が(われわれの知っているかぎりでは、そして、事実からわれわれにはそう見えるのですが)悪人どもとかかりあって、泥棒をしているようすは、ぜんぜんありません。もし放免されないにしても、ごろつき、浮浪者として牢に放りこまれる以上の罰を受けることは、まずないでしょう。そして、もちろん、その後、彼の口はかたく閉ざされ、われわれの目的からいえば、彼がつんぼ、おし、めくら、白痴になったのと同じ結果になるでしょう」
「すると」性急に医者はたずねた、「もう一度おたずねしますけれどね、その女にたいするこの約束が拘束力あるものと考えたほうがいい、とあなたはお思いなのですか? 最高の善意と親切から発した約束にはちがいないが、しかし――」
「お嬢さん、どうかこの問題は議論なさらないでください」ローズが話しだそうとしたとき、それを抑えて、ブラウンロウ氏はいった。「約束は守ることにします。それは、われわれのやることには、ぜんぜん邪魔にならないでしょう。しかし、われわれの行動の正確な方針をきめる前に、その娘に会うことが必要です。これは、彼を法律の力によらず、われわれの手で処理するという諒解のもとに、彼女からマンクスを教えてもらうためです。そして、それをする意志も能力も彼女になかった場合、彼の出入りする場所や彼の人柄を彼女から教えてもらって、彼の存在をそれとわかるようにするためです。つぎの日曜日の夜まで、彼女と会うことはできません。今日は火曜日です。そのあいだ、われわれはジッとしていて、このことはオリヴァ自身にも知らせないでおきましょう」
まるまる五日間もグズグズしていることを示しているこの提案を、ロスバーン氏は顔をひんまげて聞いていたが、彼は、そのとき、それにまさる案が思いつかないことを認めないわけにはいかず、ローズもメイリー夫人も強くブラウンロウ氏案を支持したので、提案は、満場一致で承認された。
「わたしは」彼はいった。「わたしの友のグリムウィグ氏の援助を求めたいと考えています。彼は変わり者ですが、なかなかぬけ目のない男、われわれをとても助けてくれるかもしれません。彼は弁護士の教育を受けたのですが、二十年間にひとつの訴訟事件摘要書と裁定申請しか受けなかったので、いや気がさして、やめてしまったのです。それが推薦の言葉になるかどうかは、みなさんにきめていただかなければなりませんがね……」
「わしの友人も入れていいなら、あんたがそちらの友人を入れることには、異議ありませんぞ」医者はいった。
「それは、みんなで投票してきめなければなりませんな」ブラウンロウ氏はいった。「その人はだれです?」
「あのご婦人の息子さんで、この若いご婦人の――親友です」メイリー夫人のほうをさし、最後に意味ありげな一瞥をその姪《めい》に投げて、医者はいった。
ローズは顔を真っ赤にほてらせたが、この動議にたいしてはっきりと異議は述べず(おそらく、それをしても、ぜんぜんむだと思ったのであろう)、そこで、ハリー・メイリーとグリムウィグ氏が委員の中に加えられることになった。
「この調査をうまく進めることができる見込みが少しでものこっているかぎり」メイリー夫人はいった、「わたしたちは、もちろん、ロンドンにいます。わたしたちがとても深い関係をもっているこの目的を達成するためなら、わたしは苦労も出費も気にかけないつもりです。あなたが少しでも希望がのこっているとおっしゃってくだされば、たとえ一年でも、わたしはよろこんでここにいます」
「わかりました!」ブラウンロウ氏は答えた。「そして、みなさんのお顔を拝見したところ、オリヴァの話を裏書きするために、なぜわたしがこの国におらず、突然そこを出てしまったかをおたずねになりたがっているようですが、わたしのほうから先まわりしてそのお話をしたほうが好都合と思うときまで、そのことはなにも、わたしにはたずねないことをお約束ください。こうしたおねがいをするのにも、それ相応の理由はあるのです。そうしないと、実現の可能性がない希望をひき起こすことにもなりましょうし、いままででもうたくさんな困難と失望の数をますことにもなるからです。さあ、夕食の準備ができました。となりの部屋にひとりでいるオリヴァは、いまごろ、われわれが彼といっしょにいるのがいやになり、彼を世間に放りだしてしまおうとなにか共同謀議をめぐらしていると、考えはじめているかもしれませんよ」
こういって、老紳士は手をメイリー夫人にさしのべ、彼女を食堂に案内していった。ロスバーン氏は、ローズを連れて、そのあとにつづいた。そして、会議は、さしあたり、事実上の散会となった。
[#改ページ]
四十二 オリヴァの旧友が、天才ぶりを発揮して、ロンドンで有名な人物になる
ナンシーがサイクス氏を寝かしつけ、ローズ・メイリーのところに自発的任務でおもむいた夜に、グレイト・ノース路ぞいにロンドンに向かっている二人の人物がいたが、彼らにちょっと注意をはらってみることは、この物語に好都合かと思われる。
彼らは男と女だったが、これは単に男性と女性といったほうがよいかもしれない。男は手足がながく、脚が内側にまがり、ヒョロヒョロと歩く、骨ばった類《たぐ》いの一人で、その正確な年齢は当てにくく――まだ少年のころには、伸び足りない一人前の男に見え、一人前の男になったときには、大きくなりすぎた少年に思われるものだった。女は若かったが、がっちりとしたたくましいつくりで、背中にくくりつけた重い荷物を背負うのは、事実、そうでなければできないことだった。彼女の相棒はそれほどの荷物は背負わず、それはただ、肩にしたステッキからぶらさがっている一見して軽い、ありきたりのハンカチにつつんだ小さなつつみだけだった。なみはずれてながい彼の脚のながさに加えて、こうした事情まであったので、彼は自分の道連れの数歩先のところを楽々と歩き、まるで彼女ののろさを責め、もっと早く歩けといわんばかりに、彼はときどきイライラしながら、彼女のほうに頭で合図を送っていた。
こうして、二人はほこりっぽい道ぞいにノロノロと進み、町からとびだしてゆく駅馬車をよけようとわきによる以外に、あたりの景色にはほとんど注意をはらわず、とうとう、二人はハイゲイトの屋根づきの道をとおりすぎた。
「早く来い! シャーロット、おまえはなんてグズなんだ」
「荷物がとても重いのよ」疲労で息を切って、追いつきながら、女はいった。
「重いだって! なにをいってるんだ? おまえはなんのために生きてるんだい?」自分の小さなつつみをべつの肩にうつして、男の旅行者はやりかえした。「おお、また休んでやがる! まったく、おまえほど人をイライラさせるやつはないぞ!」
「もっとずっと遠いの?」土堤に背をよりかからせ、顔から汗をしたたらせて、目をあげながら、女はたずねた。
「ずっと遠いかだって! もう着いたも同然さ」自分の前をさして、脚のながい浮浪者はいった。「ほれ、あそこを見ろ。あれがロンドンの燈《あか》りだ」
「少なくとも二マイルはたっぷりあることね」がっくりして、女はいった。
「二マイルだって、二十マイルだって、気にすることはないさ」ノア・クレイポールはいった。というのも、この男は彼だったからである。「だが、立って、歩くんだ。さもなけりゃ、蹴っとばすぞ、前もって注意しておくがな……」
ノアの鼻が怒りで赤さをまし、まるでそのおどしを実行にうつそうとしているように、こう話しながら道を横切ってきたので、女はそれ以上なにもいわずに立ちあがり、ノアの横にならんで、トボトボと歩きだした。
「ノア、今夜どこで泊まるの?」数百ヤード歩いてから、彼女はたずねた。
「おれにわかるもんかい」こうして歩いて、その機嫌がそうとう損《そこ》ねられていたノアは答えた。
「近けりゃいいんだけど」シャーロットはいった。
「いや、近くはないぞ」クレイポール氏は答えた。「ほら! 近くなんぞあるもんか。だから、そんなことは考えないほうがいいんだ」
「どうして?」
「おれがなにかをしないといったら、それで十分、どうしてとか、こうだからだとか、つべこべいう必要はないんだ」威厳をこめて、クレイポール氏は答えた。
「わかったけど、そんなに怒ることはないじゃないの」相手はいった。
「町の外の最初の居酒屋で泊まり、サウアベリーが追っかけてきて、そこに鼻を突っこみ、おれたちに手錠をかけ、荷馬車で連れもどしたら、りっぱなことさ、どうだい?」せせら笑うようにして、クレイポール氏はいった。「そんなことはするもんか。おれはもっともっと歩いていって、いちばんせまい道にもぐりこみ、人の来そうもない家のとこにゆくまで、足はとめないぞ。まったく、おまえはおれの頭がきくのをありがたく思っても、いいんだぞ。もしおれたちがわざとまちがった道を進んで、いなか道を切ってもどって来なかったら、一週間前に、おまえさんはしっかり、がっちりと錠をかけられているとこなんだ。そいつも、バカの身から出た錆《さび》というところかな」
「たしかに、あたしはあんたほど賢《かしこ》しくはないよ」シャーロットは答えた。「でも、あたしばっかりがわるくって、あたしだけが錠をかけられるなんて、いわないどいとくれ。とにかく、あたしがつかまりゃ、あんただってつかまるんだからね」
「銭箱《ぜにばこ》から金をとったのは、おまえなんだぜ。そいつを忘れないようにな」クレイポールはいった。
「あんたのために、とったんだよ、ノア」シャーロットはやりかえした。
「おれがその銭《ぜに》、もってるかい?」クレイポール氏はたずねた。
「いいえ、あんたはあたしを信用したわ。そして、あたしがそれを恋人のようにだいてるのよ。あんただって、それと同じよ」女はクスクスと笑って、彼の顎《あご》の下を突っつき、彼と腕を組んだ。
事態の進展は、事実、こうしたものだった。しかし、盲目的でバカな信頼をだれにもよせぬことが、クレイポール氏の習慣になっていた。この紳士に公正な評価を加えれば、彼がこの程度までシャーロットを信頼していたのは、もし二人が追跡されたら、問題の金は彼女のからだに見つかることを当てにしていたため、ということを申しあげなければならない。そうなれば、彼はどんな金も盗んだおぼえはないといいはれるし、うまく逃れてしまう公算は大いに増大するわけだったからである。もちろん、このときに、彼は自分の動機などは説明せず、二人はいとも愛情こまやかに歩いていった。
この用心深い計画を遂行するために、クレイポール氏は休息もとらずに進んでゆき、とうとう、イズリングトンのエンジェル旅館に着いたが、ここで彼は賢明にも、通行人の群れと車の数から、いよいよロンドンがはじまったものと判断した。ちょっと立ちどまって、どの通りがいちばんこんでい、したがって、避けなければならないかを見てとり、道を横切って聖ジョン通りにはいり、間《ま》もなく、グレイズ・イン小路とスミスフィールドのあいだにあって、その地区を、改善が手をつかねて、ロンドンの最中《さなか》でもっとも低級俗悪なものとしているこみ入った、きたない暗い場所に深くはいりこんでいった。
こうした街路を、ノア・クレイポールは、シャーロットをあとにひっぱって、歩いてゆき、あるときは、どぶの中に踏みこんでいって、小さな居酒屋《パブリック・ハウス》の外観をチラリとながめ、その姿が彼の目的にはあまり|開けっぴろげ《パブリック》すぎると判断して、つぎの瞬間には、またそこからノロノロと去っていった。とうとう、彼はいままで見たうちでいちばんみすぼらしく、きたない居酒屋の前で足をとめ、道の向こう側にいって、反対側の舗道からそれをながめてから、今晩ここに泊まる意志を鷹揚《おうよう》に伝えた。
「そのつつみをこちらにわたせ」女の肩からそれをはずし、自分の肩にひっかけて、ノアはいった。「そして、話しかけられたとき以外には、話をするなよ。この家の名はなにかな――三つのなんだ?」
「ちんばだよ」シャーロットはいった。
「三人のちんばか」ノアはくりかえした。「なかなかりっぱな看板だ。さてと! おれのあとにぴったりとついて来い」こう命令をくだして、彼はガタガタいう戸を肩で押し、家の中にはいり、女はそのあとについていった。
酒場には若いユダヤ人以外にはだれもおらず、彼は勘定台に両肘をついて、きたない新聞を読んでいた。彼はノアをきつい目でにらみ、ノアも同様に相手をにらみかえした。
もしノアが慈善学校の生徒の服を着ていたら、このユダヤ人がこうして目を見開いて見たことには、多少の理由はあったろう。だが、彼は慈善学校の上衣もバッジもすて、乗馬用の半ズボンの上に短い野良着《のらぎ》を着ていたので、彼の出現が居酒屋でこうまで人の目を引く特別ないわれはないようだった。
「ここは『三人のちんば』かね?」ノアはたずねた。
「それがこの家の屋号だよ」
「いなかからやって来る途中であったある紳士が、ここを紹介してくれたんだ」こういって、ノアはシャーロットをつついたが、これは、たぶん、尊敬心をかきたてるこの巧妙なやりかたに彼女の注意をひき、彼女にびっくりした態度を示すなと注意したものだった。「今晩、ここに泊まりたいんだ」
「それができるかどうか、よくわかりませんがね」店員の身分でしかないバーニーはいった。「とにかく、きいてきましょう」
「酒場に案内し、おまえがきいてるあいだに、冷たい肉とビールを一杯出してくれ、どうだい?」ノアはいった。
バーニーはこれに応じて、二人を小さな裏部屋に案内し、注文の飲食物を彼らの前にならべた。それが終わってから、彼は客に、その夜泊まってもいいことを伝え、食事をしている二人のところを去っていった。
さて、この裏部屋は酒場のすぐうしろ、数段階段をさがったところにあったので、この家の関係者はだれも、酒場の壁にはめこんだ、床から五フィートぐらいのところにあるガラス板をかくしている小さなカーテンを引けば、気づかれる心配はなく、この裏部屋にいる客を見おろせたばかりでなく(ガラス板は壁の暗い隅にあり、観察者はその壁と大きなまっすぐに立った梁《はり》のあいだに身を押しこまねばならなかった)、仕切りのところに耳をつければ、かなりはっきりと、彼らの話の内容をききとることができた。宿屋の亭主は、五分間ものあいだ、こののぞき見の場所から目をはなさず、バーニーが前述の伝言からもどってきたちょうどそのとき、フェイギンが、その夕方の仕事の途中で、酒場にはいってきて、その弟子たちのようすをたずねた。
「しっ!」バーニーはいった。「客がとなりの部屋に来てるよ」
「客だって!」老人は声を低めて、くりかえした。
「ああ! 妙ちくりんなやつですよ」バーニーはいいそえた。「田舎から来たらしいんだが、こちらの目にくるいがなかったら、あんたと同業者だね」
フェイギンは、この話にえらく興味をそそられたらしかった。腰掛けに乗って、彼は用心深く目をガラス板にくっつけていたが、その秘密の場所から、クレイポール氏が皿から冷たい牛肉、壺から黒ビールを思うぞんぶん飲み食いし、その両方の薬物のほんのちょっぴりを、そばに辛抱強く坐っているシャーロットに分けてやっているのが見えた。
「ああ!」ふりかえってバーニーを見ながら、彼はささやいた。「あいつの顔つきが気に入ったぞ。役に立つだろう。女の操縦法も、もうちゃんと心得ているわい。ジッと静かにしてろ。やつらが話すのを聞くんだからな――やつらが話すのを」
彼はふたたび目をガラス窓につけ、仕切りに耳をあてがい、老悪魔を思わせる狡猾《こうかつ》でひたむきな表情を顔に浮かべながら、ジッと聞き入っていた。
「だから、おれは紳士になるつもりなんだ」クレイポール氏は脚を投げだし、話をつづけていったが、そのはじめのところは、おくれて来たので、フェイギンには聞こえなかった。「もう、シャーロット、棺桶屋なんぞ廃業さ。おれは紳士の暮らしをはじめるんだ。おまえも、望みだったら、貴婦人にしてやるぞ」
「ええ、それになりたいわ」シャーロットは答えた。「でも、銭箱《ぜにばこ》を毎日かっぱらって、逃げだすわけにもいかないことね」
「銭箱《ぜにばこ》なんて、くそくらえだ!」クレイポール氏はいった。「からにするのは、銭箱《ぜにばこ》とかぎったわけじゃねえからな」
「というのは、どういうこと?」相棒はたずねた。
「ポケット、女の手さげ袋、家、郵便馬車、銀行、なんでもあらあ!」ビールの壺をもって立ちあがりながら、クレイポール氏はいった。
「でも、そんなことぜんぶ、できっこないわ」シャーロットはいった。
「それができる連中の仲間入りをするのさ」ノアは答えた。「そんな仲間の中なら、なんか働くことはできるからな。いや、おまえだって、五十人分の値打ちはあるぜ。おれが仕込んでやったら、おまえみたいにずるっ賢い、うそのうめえやつは、いはしねえんだからな」
「まあ、そういわれると、うれしいわ!」ノアの醜悪な顔にキスをおしつけて、シャーロットは叫んだ。
「さあ、もう結構《けっこう》、結構《けっこう》。あんまりしつっこくすると、ご機嫌がわるくなるぞ」いかにも尊大ぶって身をふりはなしながら、ノアはいった。「おれはいく人かの手下をもつ隊長になり、手下を鞭《むち》でひっぱたき、こっそりやつらのあとをつけるようなことをしたいんだ。利益になりゃ、そいつがおれの適役さ。もしそんな紳士と仲間になれたら、おまえのもってる二十ポンドの手形をわたしたって、安いもんだぜ――その上、あの手形の処分は、こっちにはよくわからねえんだからな」
この意見の開陳《かいちん》があってから、クレイポール氏は深い知恵《ちえ》をたたえた表情をして、黒ビールの壺をのぞきこみ、その中身をよくふって、いかにも鷹揚《おうよう》にシャーロットにうなずき、一杯グイッと飲んだが、彼はそれでとても元気づいたようだった。彼がもう一杯やろうかと考えていたとき、戸が急に開き、見知らぬ男が姿をあらわして、その考えをさえぎった。
その見知らぬ男はフェイギン氏だった。彼の態度は、いかにも愛想よく、前に進んでゆきながら、低い丁寧《ていねい》なお辞儀をし、手近なテーブルのところに腰をおろして、ニヤニヤしているバーニーに酒を注文した。
「いい晩ですが、季節のわりに冷えこみますな」もみ手をしながら、フェイギンはいった。「田舎から見えたんですな?」
「どうして、それがわかりますかね?」ノア・クレイポールはたずねた。
「ロンドンではそんなに塵《ちり》はたまりませんよ」ノアの靴、シャーロットの靴、二つのつつみを順々にさして、フェイギンは答えた。
「あんたは、なかなか目の鋭い人だね」ノアはいった。「はっ! はっ! シャーロット、いまのせりふを聞いたかね?」
「うん、この町では、目を鋭くしなけりゃ、生きてはいけませんよ」ヒソヒソ話に声を変えて、ユダヤ人は答えた。「いや、まったく」
フェイギンはこういってから、自分の鼻のわきを右手の人さし指でたたきはじめた――ノアはこの真似をしようとしたが、彼の鼻がそれほど高くはなかったので、なかなかそれがうまくはいかなかった。しかし、フェイギン氏は相手のその努力を完全な諒解が成立したものと考え、いかにも友好的な態度で、バーニーがもってきた酒を彼のほうにまわした。
「うまい酒ですな」クレイポール氏は舌を鳴らしていった。
「高いもんですぜ!」フェイギンはいった。「それを毎日飲むためには、銭箱《ぜにばこ》、婦人の手さげ袋、家、駅馬車、銀行をいつも|から《ヽヽ》にしなけりゃね……」
クレイポール氏がこの彼の言葉の要約を耳にすると、彼は椅子にのけぞり、顔を真《ま》っ青《さお》にし、いかにも恐怖にかられた表情を浮かべて、ユダヤ人からシャーロットへと目をうつした。
「わしのことは、心配しなくたっていいのさ」椅子をもっとひきつけて、フェイギンはいった。「はっ! はっ! きみの言葉を偶然聞いたのがこのわしで、運がよかったな。わしだけが聞いたんだから、まったく運がよかったよ」
「おれがとったんじゃないよ」れっきとした紳士らしく脚をのばすことはもはやせず、椅子の下にできるだけそれを丸めて、どもりながら、ノアはいった。「みんな、あの女がやったことさ。シャーロット、おまえはそれをもってるな、えっ?」
「だれがそれをもち、だれがそれをしようと、かまいはしないよ!」言葉とは裏腹に、鋭い目で女と二つのつつみを見ながら、フェイギンは答えた。「わしだって同じことをやってるのさ。だからおまえが好きなんだ」
「同じことって?」少し元気をとりもどして、クレイポール氏はたずねた。
「同じ商売をしてるのさ」フェイギンは答えた。「この店の者《もん》もそうだよ。おまえさんのねらいは、まさに図星、ここでは、完全に心配はいらないよ。『ちんば亭』ほど安全な場所は、ロンドンじゅうにもないんだからね。というのは、わしがそう計ってやればの話だがね……。そして、わしは、おまえさんとそこの娘さんに惚れちまったんだ。わしがそういったんだから、おまえさんはもう気を楽にしていいよ」
ノア・クレイポールの心は、この保証のあとで、くつろいだかもしれなかったが、からだはたしかにそうはいかなかった。彼は足をモジモジさせ、からだをひねって、さまざまに妙な姿勢をとり、恐怖と疑惑をまじえた表情で、そのあいだじゅう、この新しい友人をジッと見つめていた。
「もっと話してやろう」親しげにうなずき、元気づけの言葉をつぶやいて、女を安心させてから、フェイギンはいった。「わしには一人友だちがいてな、その男なら、おまえさんのかわいい望みを満たしてくれるだろうし、おまえさんをしっかりさせて、まず最初には、自分にいちばん適した仕事をもたせてくれ、つぎには、ほかのどんなことでも、教えてくれるだろうよ」
「その話っしぷり、まるで本気のようですね」ノアは答えた。
「本気じゃなくって、わしにどんな得《とく》がいくんだね?」肩をすくめて、フェイギンはたずねた。「さあ! 外で一言、おまえさんと話をしよう」
「わざわざ動いて、出てゆかなくったって、いいでしょう」だんだんと脚をのばしはじめて、ノアはいった。「そのあいだに、あの女には荷物を二階にもってゆかせましょう。シャーロット、つつみの世話をたのむぞ」
大いに威厳をこめて伝達されたこの命令は、ただちに実行にうつされた。そして、シャーロットは、ノアが戸を開け、見守っているあいだに、大急ぎで荷物を運びだした。
「まあ、まあ、うまく抑えつけてあるでしょう、どうですね?」坐席にもどったとき、野獣でも飼いならした飼い主のような調子で、彼はたずねた。
「文句なしだね」彼の肩をたたいて、フェイギンは応じた。「きみは天才だな」
「うん。そうじゃなかったら、ここには来れなかったと思いますね」ノアは答えた。「だけど、ねえ、グズグズしてると、あの女がもどって来ますぜ」
「さて、どう思うね?」フェイギンはいった。「もしおまえさんのほうで、わしの友人が気に入ったら、彼と仲間になったら、いちばんいいと思うんだがね?」
「その男は商売が達者なのかね? そこが問題なんだ!」小さな片方の目をウィンクさせながら、ノアは答えた。
「だれにも負けん腕だね」フェイギンはいった。「それに手下がうんといるんだ。その方面では、最高の仲間だよ」
「生粋《きっすい》のロンドンっ子かね?」クレイポール氏はたずねた。
「いなか者は一人もいないよ。助手の手が不足してるんじゃなかったら、たとえわしが紹介しても、彼はおまえさんを受けとらんだろうな」フェイギンは答えた。
「いくらかやらなきゃならないかね?」ズボンのポケットをたたいて、ノアはいった。
「金を出さなきゃ、たぶんだめだね」じつに断固たる態度でフェイギンはいった。
「だけど、二十ポンドの大金だぜ!」
「だが、手形が処分できんとなると、大金とはいえんね」フェイギンはやりかえした。「番号と日付けがとられてるんだろう? 支払いは銀行で停止だろう? ああ、それじゃ、彼にはたいしたもんじゃないさ。国外までもってゆかにゃならず、市場で高い値では売られんからね」
「いつ、その男と会うことができる?」疑わしげにノアはたずねた。
「明日の朝だ」
「どこで?」
「ここだ」
「うん!」ノアはいった。「賃銀は、いくらくれるんだい?」
「紳士の生活――食事と宿、タバコと酒はただ――おまえさんとあの娘のかせぎ半分を出すんだ」フェイギン氏はいった。
その貪婪《どんらん》ぶりはおよそひどいものだったノア・クレイポールが、もし完全に自由な立場にあったら、このりっぱな条件を受け入れたかどうかは、すこぶるあやしいものである。だが、彼が断わったら、司直の手に彼をすぐわたすのは、彼の新しい友には楽《らく》なことと思いめぐらして(じっさい、もっと思いがけないことが起こっていた)、彼はだんだんと気持ちを折り、それでいいと承諾した。
「だが、いいかい」ノアはいった。「女のほうがうんとかせげるんだから、おれの仕事は楽《らく》なもんにして欲しいな」
「女のほうは、身売り商売はどうだね?」フェイギンは誘《さそ》い水をかけた。
「ああ、そんなとこだな」ノアは答えた。「ところで、どんな仕事がおれに合うと思うね? あんまりひどい力仕事でなく、危険も少ない仕事なんだ。それがおれに合う仕事さ!」
「おまえさんが他人のことをさぐるような仕事の話をしてるのを耳にしたけどね」フェイギンはいった。「わしの友だちはそれのうまいやつをとても欲しがってるんだ」
「うん、たしかにいったよ。ときどきそんなことに手を出すのは平気さ」ゆっくりとクレイポール氏は答えた。「だが、そいつはそれだけで得《とく》にはならんからね」
「そりゃそうだ!」考えこみ、あるいは考えこんだふりをして、ユダヤ人はいった。「そう、それは得《とく》にはならんかもしれないな」
「それじゃ、どうだろう?」心配そうに相手を見ながら、ノアはたずねた。「こそどろのほうはどうだい? 仕事は堅いし、家にいるのと同じくらい安全なんだからね」
「婆さん連相手はどうかね?」フェイギンはたずねた。「やつらの袋やつつみをかっさらい、町角を逃げちまえば、ずいぶん金になるぜ」
「ひどいわめき声を立て、ときどきひっかいたりするだろう?」頭をふってノアはたずねた。「そいつは、おれの思ったものじゃねえな。ほかの方面の仕事はないかな?」
「待った!」手をノアの膝に乗せて、フェイギンはいった。「子供からのさらいだ」
「というのは?」クレイポール氏はたずねた。
「六ペンスや一シリングの小銭を母親からもらって使いに出された子供から、金をさらいあげることさ。子供はいつも金を手ににぎってるんだから――やつらを溝にたたきこんで、悠々とそこを去っていくのさ、子供がころげ落ち、怪我をする以外には何にも変わったことはない、といったふうにな。はっ! はっ! はっ!」
「はっ! はっ!」有頂天になり、両脚を蹴あげて、クレイポール氏はわめいた。「うん、そいつはねがったりかなったりの仕事だ!」
「まったく、そうだ」フェイギンは答えた。「キャムデン・タウンやバトル・ブリッジ、そういったこの近くにいくつかいい猟場があるよ。そこでは子供がいつも使いに出されてな、一日じゅういつでも、すきなだけ子供をひっくりかえせるんだ。はっ! はっ! はっ!」
こういって、フェイギンはクレイポール氏の脇《わき》をつっつき、二人ともながいこと、大声で笑いこけていた。
「よし、そいつはわかった!」われにかえり、シャーロットがもどってから、ノアはいった。「明日は何時にするかね?」
「十時でいいかね?」フェイギンはたずね、クレイポール氏が賛成してうなずいたとき、さらにいいそえた。「わしの友だちに、おまえさんの名をなんと伝えたらいいんかね?」
「ボルターだよ」こうした急場にたいする備えのできていたノアは答えた。「モリス・ボルターってんだ。こいつがボルター夫人さ」
「奥さん、よろしくおねがいします」途方もなく慇懃《いんぎん》にお辞儀をしながら、フェイギンはいった。「やがて、もっとお近づきになれたらいいんですが……」
「この紳士がおっしゃってることを、聞いてるのか?」クレイポール氏は雷を落とした。
「ええ、ノア!」手をのばして、ボルター夫人は答えた。
「この女は、親しい呼び名といったもので、おれのことをノアと呼んでるのさ」フェイギンのほうに向きなおり、以前のクレイポール、いまのモリス・ボルター氏はいった。「わかったかね?」
「ああ、わかったよ――完全にね」今度だけはほんとうのことをいって、フェイギンは答えた。「おやすみ! おやすみ!」
何回もおやすみとほかの挨拶をかわして、フェイギン氏は去っていった。ノア・クレイポールは、夫人の注意をうながしてから、このときまでに彼のした取り決めのいきさつを、いかにも傲然と相手を見くだす態度で語ったが、その態度は、男性にふさわしいといえるばかりでなく、ロンドンとその周辺で子供からのさらい役をとくに任命された権威をありがたく思っている紳士にはいかにもふさわしいものだった。
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四十三 手練のぺてん師、苦境におちいる
「そうすると、あんた自身の友だちってえのは、あんた自身だったんだね?」契約にもとづいて、翌日フェイギンの家にうつっていったとき、クレイポール、またの名ボルター氏はたずねた。「昨日《きのう》の晩、そんなことだろうとは思ってたんだがね!」
「だれだって、自分の友だちだからね」相手の機嫌をとろうとニヤニヤしながら、フェイギンは答えた。「どこにも、そんなに親しい友だちはおりゃせんよ」
「だが、ときには」世間通《せけんつう》ぶって、モリス・ボルターはいった、「人によっては、だれの敵にもならずに、自分自身の敵になることもあるね」
「そんなこと、あるもんか」フェイギンはいった。「人が自分自身の敵になるというのは、自分と親友になりすぎた場合のことだけさ。自分以外のすべての人に注意したためじゃないさ。バカな! バカな! そんなこと、この世にあって、たまるもんかね」
「たとえあったにしても、いけないことにはちがいないな」
「それは当然のことさ」フェイギンはいった。「魔術師のうちには、三という数が魔法の数だといい、七がそれだという者《もん》もいるよ。そんなことは、あるもんか。それは一という数さ」
「はっ! はっ!」ボルター氏は叫んだ。「永遠に一か!」
「わしたちのような小さな団体では」この提案に多少の修正を加えねばならぬと感じたフェイギンはいった、「一般的な一という数があるんだよ。というのは、おまえさんだって、わしのこと、ほかの若い連中のことを一と数えなけりゃ、自分を一とは考えられんのだからな」
「ちぇっ、そんなこと、あるもんか!」ボルター氏は叫んだ。
「ねえ」この邪魔に気がつかぬふりをして、フェイギンはつづけた。「わしたちはすっかり一体になり、利害も結びあってるんだ。だから、そうならなくちゃならんのさ。たとえば、一――おまえさん自身のことだがね――に注意することが、おまえさんの目的さ」
「そう」ボルター氏は答えた。「そこは、だいたい、まちがいないようだね」
「うん! おまえさんは、一のわしのことをぬきにして、一の自分のことばかり気にしてはいられないんだよ」
「おまえさんは二だろう」利己心のとても強いボルター氏はいった。
「いいや、ちがう」フェイギンはやりかえした。「おまえさんが自分自身にたいしてと同じように、わしは重要な存在なんだ」
「ねえ」ボルター氏は相手をさえぎった。「あんたはとても親切な男、おれはあんたをとても好きだよ。だけど、あんたがいうほどそんなに、二人はまだ親しくはしてないんだぜ」
「ちょっと考えてごらん」肩をすくめ、両手を前にのばして、フェイギンはいった。「ちょっと考えてごらん。おまえさんはじつにみごとなこと、わしが気に入っちまったことをやってのけた。だが、そいつは、それと同時に、とてもしめやすい、そしてとても解きにくいネクタイ――はっきりいっちまえば、首しばりのなわをおまえさんの首にしばりつけたわけなんだ」
ボルター氏は、ネッカチーフが堅すぎるといったように、そこに手をやり、調子はともあれ、内容的にはそれにすっかり賛成の意をあらわした。
「絞首台は」フェイギンはつづけた――「絞首台はきたない道しるべでな、大道で活躍したたくさんの勇敢な男の生涯を終わらせることになった短い、急カーブのまがり道を示してるもんなんだ。楽《らく》な道を歩き、そこからは遠くはなれてるのが、おまえさんの場合には、第一の目的だろうが」
「もちろん、そうさ」ボルター氏は答えた。「そんなこと、どうしていうんだい?」
「ただ、わしのいってることをはっきりとさせるためさ」眉をあげて、ユダヤ人はいった。「それをすることができるように、おまえさんはわしにたよってるわけだ。わしの小さな商売がうまくゆくように、わしはおまえさんにたよってるわけだ。第一はおまえさんの一、第二はわしの一なんだよ。おまえさんが自分の第一を大切にすればするほど、おまえさんはますますわしの第一にも注意しなけりゃならなくなる。そして、最後には、わしが最初にいったこと――第一のものにたいする注意がわしたちを結束させることになるんだ。そして、そいつは、ぜひしなけりゃならんことさ、もし仲間のあいだでバラバラになりたくなかったらな」
「なるほど」考えこんで、ボルター氏は答えた。「ああ、おまえさんはなかなかぬけ目のないおやじさんだね!」
フェイギン氏は、この彼の力にたいする讃辞が単に口だけのお世辞ではなく、この新弟子に彼の天才的な狡猾《こうかつ》さの感じをほんとうに強くきざみつけたことを知って、よろこんだ。二人のつき合いの皮切りに、弟子にそうした感銘を与えるのがいちばん重要なことだったからである。この望ましい有益な印象をなお強めるために、彼は、この一撃にひきつづいて、そうとうことこまかに、しかも、じつにたくみに、自分の仕事の大きさや範囲を、虚実おりまぜ、それを辻つまが合うようにして、彼の意図にいちばんうまくかなうように、述べたて、その結果、ボルター氏の敬意はいちじるしく増大され、それと同時に、そこに、とても望ましい有益な恐怖の念が入りまじるようになってきた。
「ひどい損害を受けても、わしの心をなぐさめてくれるのは、この相互の信頼の情さ」フェイギンはいった。「わしの右手ともいうべき男が、昨日《きのう》の朝つかまってね」
「まさか、死んだんじゃないんでしょうな」ボルターは叫んだ。
「いや、いや」フェイギンはいった。「それほどのことではない。そんなにひどいことじゃない」
「えっ、では彼は――」
「呼ばれたんだよ」フェイギンが口を入れた。「そう、呼ばれたんだ」
「なにか特別なことで?」ボルター氏はたずねた。
「いや」フェイギンは答えた。「たいしたことはない。掏摸《すり》をしようとしたことで告発を受け、からだに銀の嗅ぎタバコ入れをもってたことがわかったのさ――彼のもんだよ、彼のもんだよ。彼は自身嗅ぎタバコをのみ、それがとても好きだったんだからね。彼はまだ拘留されてるよ、警察《さつ》では、そのタバコ入れの主がわかると思ってるんだ。ああ、あの男はタバコ入れ五十くらいの値打ちはあるし、彼をとりもどすためだったら、そのくらいの金は出したって惜しくはないんだがな。ぺてん師は、おまえだって、会っといたほうがよかったな。ほんとうだよ」
「うん。でも、いずれ会うでしょう。そうじゃないんですかね?」ボルターはいった。
「さあ、どうだかね」溜《た》め息をもらして、フェイギンは答えた。「もし新しい証拠がなにも出なかったら、即決裁判だけですみ、六週間かそこいらすれば、もどってくるだろう。だが、証拠が出たとなると、|島送り《ラギング》になるな。向こうは、あいつがどんなに利口なやつかを知ってるんだ。終身刑《ライファー》になるだろうよ。ぺてん師が終身刑以下になることはまずないな」
「ラギングとかライファーとかって、どんなこってす?」ボルターはたずねた。「そんなことを話して、このおれにどんな役に立つんです? どうして、おれにわかるように話してくれないんです?」
フェイギンはこの神秘的な言葉をふつうの言葉で説明しようとしていた。その説明を受けたらば、ボルター氏はその二つの言葉の結び合わせで「生涯の流刑」を意味することがわかったことだったろうが、そのとき、この話は中断され、両手をズボンのポケットに突っこみ、顔がひんまがって半喜劇的な悲嘆の情をあらわしているベイツがはいってきた。
「フェイギン、もうだめだ」チャーリーと新しい仲間の紹介がすむと、彼はいった。
「それは、どういうことだい?」
「嗅ぎタバコ入れの主がわかっちまったんだ。面通《めんとお》しにくるやつも、二、三人いるよ。そして、ぺてん師は島送りの名簿に載っちまったんだ」ベイツは答えた。「フェイギン、やつが旅に出る前に、おれはやつと面会にいくが、喪服と帽子の黒い喪章が必要だな。ジャック・ドーキンズ――一級品のジャック――ぺてん師――腕達者なぺてん師が、ありきたりの二ペニー半の嗅ぎタバコ入れで、島送りになるなんて! どんなにわるくったって、金時計、鎖、印形より安いものには手は出さねえと思ってたんだがなあ。やつはどうして、だれか金持ちの老紳士の貴重品をかっぱらい、国を同じ出るにしても、名誉も栄光もなく、ありきたりのこそ泥としてじゃなくって、りっぱな紳士として出ていかなかったんだろうな!」
不幸な友人にたいし、こうして痛恨の情をあらわして、ベイツは、いかにも残念そうに、がっくりしたようすで、近くの椅子に腰をおろした。
「あいつが名誉も栄光もないなんて、どうしていうんだ?」弟子に怒りの表情を投げて、フェイギンは叫んだ。「やつは、いつも、おまえたちの中でずばぬけていたんだぞ! 嗅ぎつける鼻の点で、やつにおよぶやつ、やつの足もとに近づけるやつが、だれかいるとでも思ってるのか! えっ?」
「一人もいねえよ」くやしさで声がしわがれ、ベイツは答えた。「一人もいねえよ」
「じゃ、おまえはなにをしゃべってるんだ?」腹立たしそうに、フェイギンはやりかえした。「なんで泣き言をほざくんだ?」
「そいつが記録には載せられないからじゃないかね?」くやしまぎれに、尊敬すべき友人に真《ま》っ向《こう》から挑戦して、チャーリーはいった。「起訴状にも書かれず、あの男がどんな人物だったかは、だれにもわかりはしないからね。ニューゲイト監獄の一覧表には、どう書かれるんだろうね? たぶん、名も載らないだろう。いや、大変、大変、こいつはひどい打撃だぞ!」
「はっ! はっ!」右手をのばし、まるで卒中にかかったように、クスクス笑いながらからだをゆすぶって、フェイギンは叫んだ。「ほれ、あの連中が自分の職業をどんなに誇らしく思ってるか、見るがいい。美しいだろうが?」
ボルター氏はそうだとうなずき、フェイギンは、いかにも満足げに、ベイツの悲嘆のさまを数秒間見守っていたあとで、この若い紳士のそばに近づき、その肩を軽くたたいた。
「気にするな、チャーリー」なぐさめ顔で、フェイギンはいった。「そいつはわかるようになるさ。やつの値打ちは、まちがいなし、わかるとも。どんなに利口な男だったか、やつらもわかるさ。あいつは自分でそいつを示し、むかしの仲間、師匠《ししょう》の顔をよごすことはするもんかね。あいつがどんなに若いかを、考えてもごらん! チャーリー、あんな若い齢《とし》で島送りになるなんて、じつに名誉なこっちゃないか!」
「うん、たしかに名誉なこったよ!」少し気分が晴れて、チャーリーはいった。
「あいつに、事欠かせるようなことはさせんとも」ユダヤ人は話しつづけた。「石の監獄の中にいてもな、チャーリー、紳士らしく暮らさせてやるんだ。紳士らしくな! 毎日ビールをのみ、使えなくとも、投げ銭《ぜに》の金をポケットにたんともたせてやるんだ」
「だめだろうな。だけど、もたせてはやるんかい?」チャーリー・ベイツは叫んだ。
「うん、もちろん」フェイギンは答えた。「そして、チャーリー、あいつの弁護に、おれたちはお偉方《えらがた》――口がうんと立つ男をたのみ、その気になれば、やつに自分でもしゃべらせてやるさ。どんな新聞にも、そいつは載るだろうよ――『達者なぺてん師――哄笑――ここで法廷はどっと湧く』とな、どうだい、チャーリー、えっ?」
「はっ! はっ!」ベイツは笑った。「そうなったら、おもしろいだろうな、えっ、フェイギン? ねえ、ぺてん師はやつらの悩みの種になるだろう、どうだい?」
「だろうだって!」フェイギンは叫んだ。「そうさせるさ――そうなるとも!」
「ああ、たしかに、そうなるとも!」もみ手をしながら、チャーリーはくりかえした。
「あいつの姿が目にうつるな」弟子のほうを見やって、ユダヤ人は叫んだ。
「おれもそうだよ」チャーリー・ベイツは叫んだ。「はっ! はっ! はっ! おれもそうだよ。その姿がすっかりおれの目に浮かぶね。まったく、そうさ、フェイギン。こいつはおもしれえぞ。すごくおもしろいや! お偉方《えらがた》がみんな、えらそうな顔をしようとし、ジャック・ドーキンズは、自分が裁判官のせがれのような面《つら》をして、やつらになれなれしく話しかけるんだ、まるで夕食のあと、演説でもぶつような調子でな――はっ! はっ! はっ!」
事実、フェイギン氏はその若い仲間の風変わりな性格をうまくあやつっていったので、最初投獄されたぺてん師のことを犠牲者と考えようとしていたベイツは、もう、彼のことをめったにない、すごくおかしい場面の立役者と考え、自分のむかしの仲間がその能力を発揮する絶好の機会が早くやってくるようにと、もうイライラして待ちわびはじめていた。
「なんかうまい方法で、あいつが今日《きょう》どうしてるかを、調べにゃならん」フェイギンはいった。「さて、どうしたもんだ?」
「おれがいこうか?」チャーリーはたずねた。
「とんでもない」フェイギンは答えた。「おまえは気ちがい――まったくの気ちがいかい、いくとこにことかいて――だめだ、チャーリー、だめだよ。一人失っただけで、もう十分なんだからな」
「おやじが自分でいくんじゃないんだろうな?」ふざけた横目をつかって、チャーリーはいった。
「そんなことは、いかん」頭をふって、フェイギンは答えた。
「じゃ、この新しいのにいってもらったらいいじゃねえか?」ノアの腕に手を乗せて、ベイツはたずねた。「だれも知ってやしねえからな」
「うん、あれがかまわなけりゃ――」フェイギンはいった。
「かまわなけりゃだって!」チャーリーは口をはさんだ。「かまうことって、なにがあるんだい?」
「まったく、なにもないな」ボルター氏のほうに向いて、フェイギンはいった。「まったく、なにもないな」
「おお、そのことなら、たぶん、いいかい」戸のほうにあとずさりし、いかにもおびえたふうに頭をふって、ノアはいった。「だめ、だめ――そいつはだめだ。それはおれの専門じゃないんだからな、そうじゃないとも」
「こいつの専門は、なんだっていうんだい、フェイギン?」いかにもムカムカしたふうにノアのほっそりした姿をながめまわして、ベイツはいった。「なにかまずくいったときには逃げだし、トントン拍子のときには、腹いっぱい食いやがる――それが、やつの専門かね?」
「こっちのことは心配するな」ボルター氏はやりかえした。「この小僧、目上の者に向かって勝手なことをいうな。さもないと、大変なことになるぞ」
ベイツはこの堂々としたおどかしにすごい勢いで笑いこけたので、フェイギンが口をはさんでとりなしをするのにも、だいぶ時間がかかってしまった。フェイギンはボルター氏に、警察にいっても、べつに危険はない、彼がしたちょっとした商売の話も、彼の人相書きも、まだロンドンにはまわされていないのだから、逃げだしてロンドンにやってきたことも疑われはしないだろう、うまく変装していったら、そこはロンドンのどこよりも安全な場所だ、あらゆる場所のうちで、そこが彼の自由意志でいちばんゆきそうにもないとこなのだから、ということをいって聞かせた。
ひとつにはこの説得に負け、それよりもっとフェイギンを恐れる気持ちに圧倒されて、ボルター氏は、とうとう、しぶしぶながら、この探索を引き受けることになった。フェイギンの指図で、彼はすぐ自分の服をぬぎ、ユダヤ人がもっていた荷馬車ひきの服、別珍《べっちん》のズボン、革の脚絆《きゃはん》を着こんだ。彼は同時に、通行税とりたて門のきっぷをたくさんはさんだフェルト帽と馬車ひきの鞭《むち》を与えられた。こうした道具立てをして、コヴェント・ガーデンの市場からフラリとやってきたいなか者が、物珍らしさで、ブラリと警察にはいっていったというふうに、ことを運ぶことになったが、彼は不細工で、あかぬけせず、痩《や》せこけた点ではだれにも負けないような男だったので、フェイギン氏は、彼こそまさに打ってつけの適役、とかたく信じていた。
こう話がついて、彼は、ぺてん師を見わける特徴を教えてもらい、ボウ通りのほんの近くまで、暗いまがりくねった道をとおって、ベイツに案内されていった。警察署の正確な場所を教わり、廊下をまっすぐに歩いてゆき、中庭にはいったら、右手の階段のところにある扉をぬけ、部屋にはいるときには帽子をぬげなどといろいろこまごまと指示を与えてから、チャーリー・ベイツは、急いで一人でゆけと命じ、わかれた場所で彼のもどってくるのを待っていると約束した。
ノア・クレイポール、あるいはモリス・ボルターは――そのいずれでもよいのだが――彼の受けた指示どおりに動き――ベイツはこの地区をかなりよく知っていた――その指示がとても正確なものだったので、彼はものをたずねたり、途中で邪魔されたりはせずに、治安判事の前にゆくことができた。彼はきたない、むっとする部屋で、そこにおしこめられた、おもに女の人込みの中で、もみくちゃにされたが、この部屋の奥の端《はし》に、手すりで区切られた高い壇があり、壁を背にして左手には囚人を入れる被告席、中央には証人席、右手には治安判事用の椅子がすえられていた。最後に述べた治安判事用の椅子は、一般大衆の目から判事の姿をかくすようにと、区切りでおおわれていて、つまらぬ大衆が(もしできたら)司法官の尊厳を想像するように仕組まれてあった。
被告席には二人の女しかいず、彼らはその恋人の知人たちにうなずいていたが、書記は二人の巡査と机によりかかった平服の男になにか宣誓証書を読んで聞かせていた。看守が、被告席の手すりによりかかりながら、鍵でものうげに鼻をたたいて立っていたが、鼻をたたくのをやめたのは、話ずきのブラブラしている連中に「静粛!」と声をかけるとき、母親のショールの中にほとんどおしかくされて、痩《や》せこけた子供が立てるかすかな泣き声で裁判所の威厳がそこなわれようとしたとき、「その赤ん坊を連れだせ」とだれかが女にきびしく命じたりするときだけだった。
部屋はむっとし、不健康なにおいがただよっていた。壁はどろでよごれ、天井は黒ずんでいた。炉棚には煙でくすんだ古い半身像、被告席の上にはほこりだらけの時計があったが――この時計は、ここで、きちんと動いているただひとつのもののような感じだった。堕落と貧困、そのいずれにもながく染まっていたことが、そこのすべての生物の上に汚点《しみ》をのこし、それは、それをしかめ面《つら》してながめているすべての無生物につけられた|かす《ヽヽ》と同じくらい、不愉快なものだった。
ノアは一生けんめいにあたりを見まわし、ぺてん師の姿を求めたが、あのすぐれた人物の母か姉にいかにもふさわしい数人の女、彼の父親によく似ていると思われる何人かの男はいたものの、彼に伝えられたドーキンズ氏の特徴をもった男は、だれもいなかった。彼はひどく不安な、落ち着かぬ気分で待っていたが、裁判のために逮捕された女たちがこれ見よがしに出てゆき、べつの囚人がはいってきたとき、すぐこれこそここにやって来たお目当ての人物だと知って、ほっとした。
それは、たしかに、ドーキンズ氏だった。彼は、いつものとおり、大きな上衣の袖《そで》をたくしあげ、左手をポケットに突っこみ、右手には帽子をもち、看守の先に立って、得《え》もいえぬふうにからだをゆさぶる歩きっぷりで、足をひきずりながら法廷にはいり、被告席に腰をおろして、こんな不名誉な場所にどうして連れてこられたのだ、と大きな声でわめいた。
「だまっておれ」看守はいった。
「おれはイギリス人だよ」ぺてん師は答えた。「おれの特権はどうなったんだ?」
「おまえにはすぐ特権を与えてやるよ」看守はやりかえした。「それといっしょに胡椒《こしょう》もきかしてな」
「おれがその特権をもらわなかったら、内務大臣が裁判官になんというか、ひとつ見てえもんさ」ドーキンズ氏は答えた。「おい、こいつはどういうことなんだ? 書類なんか読んで、おれをここにとめておかずに、このちっぽけな事件を早く片づけてくれたら、おれは治安判事に礼をいうぜ。というのも、おれにはシティ(ロンドン市内にある経済の中心地)のある紳士と会う約束があるんだ。おれは約束はかたく守る男、仕事では時間を守る男なんだから、時間どおりそこにゆかねえと、相手は帰っちまうんだ、そうすりゃ、おれをひきとめたやつらにたいして、損害賠償の裁判をおこしてやるからな。うん、おこしてやるとも!」
こういって、ぺてん師は、今後とるべき処置に関して、いかにもことこまかにうるさくやるといった仕草をよそおいながら、裁判席にいる二人の男の名前を教えてくれ、と看守にたのんだ。これは傍聴者たちをとてもよろこばせ、ベイツがこの要求を聞いたら立てるかと思われるくらいの大笑いを、彼らのあいだにひき起こした。
「おい、静粛に!」看守は叫んだ。
「これはどんな男なのだ?」治安判事の一人がたずねた。
「閣下、掏摸《すり》であります」
「あの少年は前科があるのか?」
「何回も来たことがあるにちがいありません」看守は答えた。「あの男はたいていの裁判所に姿をあらわしております。閣下、このわたしも、あの男をよく存じております」
「へえ! おまえがおれを知ってるだって?」この看守の言葉を書きとめて、ぺてん師は叫んだ。「よし、よし。これは名誉|毀損《きそん》の訴えになるぞ」
ここでふたたび笑い声が湧き、ふたたび「静粛!」の声がかかった。
「ところで、証人はどこにいる?」書記はいった。
「うん、そうだ!」ぺてん師が口ぞえした。「そいつらは、どこにいる? そいつらの面《つら》を見てえもんだな」
その希望はすぐ満たされた。ぺてん師が見知らぬ紳士のふところをねらい、そこからハンカチをすりとり、それが古いものだったので、それで自分の顔をふいてから、ゆっくりとそれをもとの場所にかえしたのを見ていた巡査が歩み出てきたからである。この理由で、巡査は彼に近づくとすぐ彼を検挙し、ぺてん師の身体検査をすると、ふたに所有者の名が彫りこんである銀の嗅ぎタバコ入れが見つかった。この紳士は紳士録で見つけだされ、彼もここに出頭していたので、この嗅ぎタバコ入れが自分のものであること、前の日、前にもいった人込みからはなれたときに、なくなったのがわかったことを宣誓した。彼はまた、とくに目立って群集の中を早く歩いていた若い紳士に気がついたが、その若い紳士こそ、いまとらえられて自分の前に立っている男だ、と証言した。
「この証人になにかききたいことがあるか?」治安判事はたずねた。
「あんな男と話をして、こっちの体面を落としたくはないや」ぺてん師は答えた。
「なにかいいたいことがあるか?」
「なにかいいたいことがあるか、と閣下がおたずねなんだぞ。わからんか?」だまっているぺてん師を肘でつついて、看守はたずねた。
「これは失礼」気がつかなかったというようすで顔をあげて、ぺてん師はいった。「おまえさん、おれに話をしたんかね?」
「閣下、こんなにひどい若造の浮浪者は見たこともございません」書記はニヤリとしていった。「おい若いの、おまえはなにかいいたいことがあるかね?」
「いいや」ぺてん師は答えた。「ここじゃ、ないね。ここは裁判の場所じゃないからな。その上、おれの弁護士は、いま、下院の副議長といっしょに、朝飯《あさめし》を食ってるんだ。だが、ここ以外の場所ではいうことはあるし、弁護士も、れっきとしたたくさんのほかの人も、それをやってくれるぜ。裁判官たちは、自分が生まれなかったらよかったのにとくやむだろうし、おれをバカにするのを給仕に許すくらいなら、そいつらを帽子かけの釘につるしちまったほうがよかったと思うだろうよ。おれは――」
「おい、こいつは拘禁だ!」書記は口を入れた。「やつを向こうに連れてゆけ」
「来い」看守はいった。
「ああ、ああ、いくよ」手のひらで帽子をこすって、ぺてん師は答えた。「ああ!(裁判席に)おびえた面《つら》をしたってだめだぜ。慈悲はかけてやらんからな、これっぱしも。なあ、おまえたち、この報いは受けることになるぜ。ちょっとやそっとのものをもらったって、おまえの身がわりは真《ま》っ平《ぴら》だぜ! たとえおまえたちがひざまずいてたのんだって、おれはもう釈放なんかお断わりだ。さあ、おれを監獄に連れてゆけ! さあ、連れてゆけ!」
こうしたすてぜりふを吐きながら、ぺてん師は襟首をとられて外に連れだされ、中庭に出るまで、この事件を議会の問題にしてやるとわめきちらし、それから、いかにもいい気になったうれしそうなようすをして、看守の顔にニヤリと笑顔を投げた。
ぺてん師が自分で小さな監房にはいってゆく姿を見とどけてから、ノアは、ベイツが自分を待っている場所に大急ぎでいった。しばらく待っていると、例の若い紳士が姿をあらわしたが、彼はかくれ場所から注意深く外を見張り、自分の新しい友人がつけられていないのをたしかめてから、おもてに出てきたのだった。
二人は、ぺてん師がその育ちに恥じず、輝かしい名声を博しているというすばらしい知らせをフェイギン氏に伝えるために、帰路を急いだ。
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四十四 ローズ・メイリーにした約束を果たすときがやってくるが、ナンシーはそれに失敗する
ずるく立ちまわったり、いい加減な態度を見せたりする点で、ナンシーはなかなかぬけ目のない女だったが、彼女は自分のとった手段が自分の心におよぼす影響をすっかりかくしきるわけにはいかなかった。あの狡猾《こうかつ》なユダヤ人と残忍なサイクスが、彼女のことは信頼でき、疑う余地はないものとしてすっかり信用し、ほかの連中にはかくしていた計画を、彼女には打ち明けていたことを、彼女は思い出した。
こうした計画は兇悪なもの、それを考えだした者は向こう見ずのおそれ知らず、一歩一歩と深く彼女を犯罪とみじめさのどん底へひきずりこみ、そこからのがれでることができないようにしてしまったフェイギンにたいする彼女の気持ちは怨み重なるものだったが、しかし、こうした彼にたいしてさえ、彼女の心はゆるみ、今度の秘密暴露で彼がながいことのがれていた鉄の掟《おきて》につかまえられ、彼女の手で――それはきわめて当然な運命なのだが――倒されてしまうことがないようにとねがうときもあった。
しかし、こうした気持ちは、しっかりとある目的に心を定め、どんな考えにも心を乱されまいと決心しながらも、古い仲間・同僚からすっかり気持ちをそらしてしまうことのできない心の迷いにすぎなかった。サイクスにたいする彼女の恐怖心は、まだ時間的に思いかえす余裕のあるときだったら、そのことをやめようとするもっと強い動機になったことだろう。しかし、彼女は、秘密をかたく守ることを条件にし、サイクスの所在を明かすどんな手がかりものこさず、自分をつつんでいる罪とみじめさから救い出されることも、サイクスのために、こばんだのだった――これ以上、彼女になにができたろう! 彼女は腹をきめていた。
彼女の苦悶は最後にはこうした結論に落ちていったが、それは再三再四彼女の心を襲い、その痕跡を残していった。彼女は、何日もたたぬうちに、痩《や》せおとろえ、顔は青ざめていった。ときおり、彼女は自分の目の前で起きていることに気がつかず、以前ならいちばん大声でしゃべりたてたような話にも、参加しなくなってしまった。べつのときには、彼女は陽気なふうをぬきにして大声で笑い、理由も意味もなく、ワイワイとさわぎたてた。またときには――よくその直後に起きることだったが――彼女はだまりこくって、がっくりと坐りこみ、頬杖《ほおづえ》をついて考えにふけり、元気をふるい起こそうとする努力そのものが、こうした徴候よりもっとはっきりと、彼女が不安にかられ、仲間が話し合っていることとはまったくかけ離れた事柄を彼女が心中考えこんでいるということを物語っていた。
日曜日の夜で、いちばん近くの教会の時を報ずる音が聞こえてきた。サイクスとユダヤ人は話していたが、その音を聞こうとして、話をやめた。女も坐っていた低い坐席から目をあげ、耳を澄《す》ませた。十一時だった。
「真夜中までにまだ一時間あるな」鎧戸《よろいど》をあげて外をながめ、自分の坐席にもどってきて、サイクスはいった。「暗くて、どんよりした天気だ。仕事をするにはもってこいの晩だな」
「ああ!」フェイギンは答えた。「ビル、すぐとりかかる仕事がないなんて、まったく残念なこったよ」
「今度だけは、おめえのいうことはほんとうだ」ぶっきらぼうにサイクスは答えた。「残念なことさ、おれもそれをやりたい気分になってるんだからな」
フェイギンは溜《た》め息をもらし、がっかりしたように頭をふった。
「うまい具合いにいくようになったら、この遅れはとりかえさなけりゃならんな。おれのわかってるのは、それだけのことさ」サイクスはいった。
「なかなかうまいことをいうね」おずおずしながら、彼の肩をたたいて、フェイギンは答えた。「おまえの話を聞いてると、こっちまで、元気が出てくるよ」
「おめえに元気が出るだって!」サイクスは叫んだ。「うん、まあ、それでもいいや」
「はっ! はっ! はっ!」こんな譲歩でもホッとしたように、フェイギンは笑った。「ビル、今晩は、おまえはいかにもおまえらしいぞ! まったくおまえらしいぞ」
「おめえの老いぼれた、しわだらけの手を肩にかけられると、おれはふだんのおれになれねえんだ、だから、そいつをはずしてくれ」ユダヤ人の手をはらって、サイクスはいった。
「それがおまえを神経質にするんだな、ビル――とっつかまったことを思い出させるんかい、えっ?」腹を立てまいとして、フェイギンはいった。
「悪魔にとっつかまったように思うんだ」サイクスはやりかえした。「おめえのおやじならどうか知らねえが、おめえみてえな顔をしたやつは、ほかにはいねえぞ。こいつは十分に考えられるこったが、おめえがおやじをぬきにして、悪魔から直接生まれてきたんならいざ知らず、おやじは、いまごろきっと、地獄の火で白髪まじりの赤髭を焼かれてるこったろうよ」
このお世辞にたいして、なんの返事もせず、フェイギンは、サイクスの袖《そで》を引っぱって、ナンシーのほうをさした。彼女はいままでの話をいい潮とばかり、縁なし帽をかぶって、部屋から外に出てゆこうとしていた。
「おい!」サイクスは叫んだ。「ナンシー、夜こんなときに、どこへゆこうとしてるんだ?」
「そんなに遠くはないとこよ」
「そんな返事って、あるか?」サイクスはやりかえした。「おめえはどこにゆこうとしてるんだ?」
「いいこと、そんなに遠くはないとこよ」
「だから、どこだっていってるんだ」サイクスは答えた。「おれのいうこと、聞いてるんか?」
「どこだか、わかんないわ」女は答えた。
「じゃ、おれが知ってるんだ」女がすきなところにゆくのにほんとうに反対しているというより、むしろ意地になって、サイクスはいった。「どこへもゆくな。そこに坐れ」
「気分がわるいの。前にもいったでしょう」女はやりかえした。「あたし、風に当たりたいのよ」
「窓から頭を出しゃいいだろう」サイクスは答えた。
「それじゃ、だめだわ」女はいった。「通りで風に当たりたいのよ」
「そんなら、だめだ」サイクスは答えた。こうしっかりといいわたして、彼は立ちあがり、戸に錠をおろし、鍵をぬきとり、彼女から縁なし帽をはぎとって、それを古い印刷機の上に投げすてた。
「さあ」盗賊はいった、「いまいるとこに静かにしてるんだ、わかったか?」
「縁なし帽をとられたって、あたし、出ていくことよ」真《ま》っ青《さお》になって、女はいった。「ビル、これはどういうこと? 自分がなにをしてるか、知ってるの?」
「自分がなにをやってるかだって――おお!」フェイギンのほうに向きなおって、サイクスは叫んだ。「あいつは頭がおかしくなったんだぜ。さもなけりゃ、あんなこと、おれにいうはずはねえもんな」
「おまえさん、こんなことをしてると、あたしに無鉄砲なことをさせることになるよ」なにか激しい発作をむりやり抑えているように、胸の上に両手をおいて、女は低い声でいった。「あたしをゆかせておくれ、おねがい――いま――すぐにね」
「だめだ!」サイクスはいった。
「フェイギン、あたしをゆかせるように、話してやってちょうだい。あの人、そうしたほうがいいのよ。あの人にも、それのほうがいいの。あたしのいうのを聞いてるの?」地面を踏みつけながら、ナンシーは叫んだ。
「おめえのいうことを聞いてるかだって!」椅子でクルリと向きなおり、彼女と正面向きあって、サイクスは相手の言葉をくりかえした。「うん! これから先、三十秒でもてめえのいうのを聞いてたら、犬がおまえの喉笛《のどぶえ》にくらいつき、その悲鳴を少なくしちまうぞ。このあばずれ女め、いったい、おめえはどうしたんだ? なにが起きたんだ?」
「あたしをゆかせて」すごく真剣になって、女はいった。それから、戸の前の床の上に坐りこんで、彼女はいった。「ビル、あたしにゆかせて。あんたは自分のしてることを知らないのよ。ほんとう、知らないんだわ。たった一時間のあいだ――おねがい――おねがい!」
「こいつはまちがいなし」荒々しく女の腕をとらえて、サイクスは叫んだ。「やつは気がくるって、うわ言をいってるんだ。立て」
「ゆかしてくれるまで、だめよ――ゆかしてくれるまで……。絶対に――絶対にだめよ!」女は金切り声をあげていった。サイクスは、一分間ほど、機会をうかがいながら、それを見ていて、急に彼女の両手を羽交締《はがいじ》めにすると、もがきあがく彼女をとなりの部屋に引っぱってゆき、ベンチの上に坐って、彼女を椅子に放りこみ、そこで彼女を力まかせに抑えこんだ。彼女は交互にもがき、嘆願したが、とうとう十二時の鐘が鳴り、それが鳴り終わると、彼女は疲労|困憊《こんぱい》して、もうそれ以上争おうとはしなくなった。今夜はもうこれ以上出ようとはするな、と多くのおどしまじりの注意を与えて、サイクスは彼女を放りだし、ゆっくりと彼女に元気を回復させ、またフェイギンといっしょになった。
「ふーっ!」顔から汗をぬぐって、夜盗はいった。「あの女、まったく妙なやつだなあ!」
「まったく、そのとおりだよ、ビル」考えこんで、フェイギンは答えた。「まったく、そのとおりだよ」
「今晩どうして出かけようとするんだろう、どうだい?」サイクスはたずねた。「さあ、おめえはおれよりあの女を知ってるはずだ。こいつは、どういうことなんだ?」
「意地、女の意地だと思うな」
「うん、そうだろうな」サイクスはうなった。「もう馴らしたと思ってたんだが、まだ前と変わらずだな」
「前よりわるくなってるよ」考えこんでフェイギンはいった。「こんなつまらんことで、あの女があんなになるなんて、見たこともないね」
「おれだってそうだ」サイクスはいった。「血の中にこの前の熱病のあとがのこってて、それがまだぬけてないんだろう――どうだい?」
「そうかもしれんね」
「もう一度あんなことになったら、医者にはたのまず、おれが血を少しとってやろう」サイクスはいった。
この治療法にいかにも賛成といったふうに、フェイギンはうなずいた。
「おれが床でのびてたとき、そしておめえが、いかにも腹黒い狼《おおかみ》らしく、おれんとこへ近よろうともしなかったとき、あの女は夜も昼もおれのそばにまといついてたんだ」サイクスはいった。「そのあいだじゅう、おれたちはすってんてんになり、それが、いずれにしても、あの女をイライラ、ジリジリさせたんだろう。それに、ここにながいこと閉じこめられてたことも、あいつの落ち着きをなくさせたにちがいない――どうだい?」
「そうだよ」ユダヤ人はささやき声で答えた。「しっ!」
彼がこういったとき、女は姿をあらわし、もとの席に腰をおろした。彼女の目はぽってりとふくれあがって赤く、彼女はからだを前後にゆすり、頭をグイッとそらし、しばらくして、わっと笑いだした。
「あれっ、今度は風向きがちがったようだぞ!」仲間にひどい驚きの目を向けて、サイクスは叫んだ。
フェイギンは、さし当たって気にしないようにと、彼にうなずき、数分たつと、女はいつもの態度にもどっていった。彼女の病気がぶりかえす心配はもうない、とサイクスにささやいて、フェイギンは帽子をとりあげ、別れの挨拶を述べた。部屋の戸口のところにいったとき、彼は立ちどまり、あたりを見まわして、だれか暗い階段を燈《あか》りで案内してくれないか、とたのんだ。
「燈《あか》りで案内してやれ」パイプにタバコをつめていたサイクスはいった。「やつが首を折り、絞首刑の見物人をがっかりさせたら、残念だからな。燈《あか》りを見せてやれ」
ナンシーは、ろうそくをもって、階下まで老人のあとについていった。廊下のところまで二人がいったときに、彼は自分の唇に指を当て、女に近づいて、ひそひそ声でいった――
「あれはなんだい、ナンシー?」
「というのは、どういうこと?」同じ調子で、女は答えた。
「あのさわぎのわけさ」フェイギンは答えた。「もしやつが」――ここで、彼は骨と皮ばかりといった指で階段の上のほうをさした――「あんなにおまえをいじめるんなら(やつは、ナンシー、野獣、ひどい野獣だよ)、おまえはどうして――」
「えっ?」彼女の耳に口をつけんばかりにし、その目は彼女の目をのぞきこまんばかりにして、彼が話を切ったとき、女はいった。
「いまは、まあ、いいや」フェイギンはいった。「このことは、いずれ話すことにしよう。おれはおまえの友だちなんだよ、ナンシー、しっかりとした友だちなんだ。おれはすぐ、静かに、人知れず、そっと手段をとれるんだよ。おまえを犬のようにあつかうやつらに――犬のようにだって! 犬よりひどいぞ。やつは、ときどき、犬のご機嫌をとってるんだからな!――仕返しをしたくなったら、わしのとこに来な。えっ、来るんだぞ。やつは一日かぎりのつまんないやつだが、ナンシー、おまえは、むかしからわしのことを知ってるんだからな」
「あんたのことは、よく知ってることよ」少しも感情を外にあらわさずに、女は答えた。「おやすみ」
フェイギンが手を彼女の手の上に乗せようとしたとき、彼女はひるんだが、しっかりとした声で、「おやすみ」の挨拶をくりかえし、彼の別れのまなざしに、いかにもわかったといったうなずきをかえして、戸を閉めた。
フェイギンは、頭の中で働いている考えにすっかり心をうばわれて、家のほうに歩いていった。彼は――いま起こったことからではなく(もちろん、それは彼の考えを裏書きするものではあったが)、ゆっくりと、しだいに――ナンシーがあの夜盗の荒らっぽさにうんざりし、だれか新しい友人に心をよせるようになったものと考えていた。彼女の態度が変わったこと、何回となくひとりで家をはなれていること、かつては熱心だった一味の利益に、いまは前ほどの熱を示さなくなったこと。こうしたことに加えて、今夜特定の時間にしゃにむに家を出ようとしたこと――こうしたことすべては、そうした推定を裏書きし、少なくとも彼には、それをまちがいのない、ほとんど確実なものにしたのだった。この新しい愛情の相手は彼のおかかえの手下のうちにはおらず、そうした男は、彼女のような助手がひかえていたら、貴重なひろい物になり、(フェイギンの論法では)ぜひともすぐ獲得しなければならぬ筋合いのものだった。
もうひとつ、もっと暗い目的があった。サイクスは事情に通じすぎ、彼の悪党式の悪罵は、さり気ないふうをよそおいながらも、フェイギンにはこたえるものだった。もし女が彼を袖《そで》にしたら、彼女は彼の激怒からはのがれることができず、その仕返しは――手足がかたわになるか、ひょっとすれば命にかかわる程度まで――彼女の新しい愛人の上におよぶだろう。(ちょっと話してやれば)フェイギンは考えた、(あの女はすぐにやすやすと男の毒殺に賛成するとも。女は、そうした目的を果たすために、何度もこうしたこと、もっとひどいこともやってるんだ。そうすれば、危険な悪党――わしが憎んでいる男――が消えちまうことにもなる。ほかの男があいつのかわりになる。そして、あの女にたいするわしの支配力は、この犯罪のことを知ってるという彼女の弱味をにぎってるんだから、かぎりないほど大きなものになるだろう)
フェイギンが夜盗の部屋でただ一人坐っていたとき、彼の心をとおりすぎたものは、こうしたもので、こうした考えを頭において、彼は、そのあとのチャンスをとらえて、別れのときに投げかけたとぎれとぎれのほのめかし文句で、女の心の中をはかったのだった。女には驚きの色、彼の意味を理解しかねるといったようすはなかった。女は明らかにそれを理解していたのだ。別れぎわの彼女の一瞥がそれを物語っていた。
だが、たぶん、サイクスの命をとろうとする計画には、彼女はひるみの色を見せるだろう。そして、それが達成しなければならぬ主要目的となった。(どうしたら)ノロノロと家路を歩きながら、フェイギンは考えた、(わしの彼女にたいする支配力を、どうしたら大きくすることができるだろう? そうなれば、どんなに大きな力を、わしはにぎることだろう?)
彼のような頭には、いろいろと便法は浮かぶものである。もし、彼女自身からその告白を引きださなくとも、彼が看視をつづけ、彼女の新しい愛人を見つけだし、自分の計画に賛成しなかったら、その愛人の話を逐一《ちくいち》サイクス(このサイクスを彼女はなみなみならずおそれていた)にぶちまけるとおどかせば、彼女の承諾を得られないだろうか?
「できるとも」ほとんど大声になって、フェイギンはいった。「そうなったら、断われるもんか。絶対に、そんなことはあるもんか! 万事はおれの胸の中にある。手はずはととのってて、すぐにやれるんだ。おまえをまだ逃がしたりはせんぞ!」
彼は、いま自分を上まわる悪党とわかれてきたその住み家のほうに向かって、陰険な一瞥を投げかえし、手をふっておどすような態度をしてみせ、道をすすんでゆきながら、せっせとボロボロの服のひだをさぐり、それをひどい勢いでねじりあげていたが、それはまるで、指のひとねじりごとに、憎らしい敵をひねりつぶしているようだった。
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四十五 フェイギンによってノア・クレイポールが秘密使命につかされる
老人は翌朝早く起きて、ジリジリしながら、彼の新しい友人の出現を待ちわびていた。その相手は、果てしなくながくつづくと思われるほどおそくなって、とうとう姿をあらわし、朝食をせっせとつめこみはじめた。
「ボルター」椅子を近くによせ、モリス・ボルターの真向かいに坐って、フェイギンはいった。
「うん、おれはここにいるよ」ノアは答えた。「どうしたんだい? 朝飯《あさめし》がすむまで、仕事はぬきだぜ。そいつがここの大きな欠点さ。飯を食うひまもないんだからな」
「食いながら話すことはできるだろう。えっ?」腹の底からこの新しい友人の貪欲《どんよく》ぶりをいまいましく思いながら、フェイギンはいった。
「ああ、話すことはできるとも。話をすれば、もっと食えるようになるからな」とてつもなく大きなパンの切れを切りとって、ノアはいった。「シャーロットはどこにいるんだ?」
「出てるよ」フェイギンはいった。「今朝ほかの若い女といっしょに、あの女も外に出しちまったんだ。おまえと二人だけになりたかったんでね」
「おお!」ノアはいった。「最初にバタトーストをつくるように、いいつけたらよかったのに。さあ、話してくれ。話しをされても、邪魔にはならんよ」
じっさい、なにかが彼の重大な邪魔になりそうはなかった。大事業をやらかして、腹にいっぱいつめこもうと覚悟して、彼はそこに坐っていたからである。
「おまえのきのうの働きは、りっぱなもんだったぞ」フェイギンはいった。「みごとなもんだ! 初日に六シリング九ペンス半をかせいだんだからな! 子供の銭《ぜに》のかっさらいで一身代できるぜ」
「それに一パイント入りの酒びんを三つ、ミルクのかんをつけるのを忘れちゃだめだぜ」ボルター氏はいった。
「ああ、ああ、忘れはせんよ。あの酒びんは天才的手腕というやつだ。だが、ミルクのかんは最大傑作だったな」
「かけだし者にしては、まあかなりの働きだろう」いい気分になって、ボルター氏はいった。「あの酒びんは地下勝手口の手すりのとこからかっさらい、ミルクのかんは、酒場の外にあれだけが立ってたんだ。あんなふうにしとくと、雨で錆《さび》ちまう、さもなけりゃ、風邪をひいちゃうと心配したのさ。どうだい? はっ! はっ! はっ!」
フェイギンも陽気に笑うふりをし、ボルター氏は笑うだけ笑って、ひとつづき、大口を開いてパクパクと食べはじめ、それで、最初のバタつきパンはたいらげ、もう二枚目にかかっていた。
「ボルター、おまえにたのみたいんだがね」テーブルの上に身を乗りだして、フェイギンはいった、「とても用心して、注意深くやってもらいたい仕事があるんだ」
「いいかい」ボルターは答えた、「危《やば》いことにつっこまれたり、これ以上|警察《さつ》にゆかされたりするのは、もう真《ま》っ平《ぴら》だぜ。あれはおれの性《しょう》に合わねえよ、まったくね。だから、そいつははっきりとおまえさんにいっとくぜ」
「危《やば》いことは、ぜんぜんないんだ――ほんのこれっぽっちもな」ユダヤ人はいった。「ただ女をつけるだけなんだからな」
「婆さんかい?」ボルター氏はたずねた。
「若い女だ」フェイギン氏は答えた。
「そいつは、まあ、かなりうまくやれるぜ」ボルターはいった。「学校にいたとき、コソコソあとをつけるのは、もうまったくうまかったんだからな。どうして女のあとをつけるんだい? まさか――」
「なんのことはない、ただ、どこに彼女がいったか、だれと会ったか、それにできたら、彼女がなにをいったかを教えてくれりゃいいんだ。もし通りだったら、その通りをおぼえ、もし家だったら、その家をおぼえこんで、できるだけの情報をもちかえってくれりゃいいんだ」
「その報酬はなんだい?」コップを下におき、自分の主人の顔をきっと見つめて、ノアはたずねた。
「そいつをうまくやりとげたら、一ポンドやろう。一ポンドだぜ」できるだけこの仕事に熱をもたそうとして、フェイギンはいった。「よっぽど大切な仕事でなけりゃ、こんな大金は出さんもんだよ」
「女はだれだ?」ノアはたずねた。
「仲間の一人だ」
「いや、驚いた!」鼻をツンとそらせて、ノアは叫んだ。「そいつがくさいと思ってるのかい?」
「女はだれか新しい友だちを見つけたんだ。その相手がだれかを、調べなけりゃならなくてな」フェイギンは答えた。
「わかった」ノアはいった。「それがりっぱな人だったら、ご面識の栄に浴そうというわけかね、えっ? はっ! はっ! はっ! よし、わかったよ」
「承知してくれると思ってたよ」話がうまく運んだので、うきうきしながらフェイギンは叫んだ。
「もちろん、もちろん」ノアは答えた。「その女はどこにいるんだい? どこで彼女を待ったらいいんだい? どこにいったらいいんだい?」
「それは、いまわしが話してやる。しかるべきときに、その女を指でさして教えてやるよ」フェイギンはいった。「おまえはちゃんと用意してりゃいいんだ。のこりはわしがやってやるからな」
その晩、つぎの晩、またそのつぎの晩、この密偵は、フェイギンから言葉がかかりしだいすぐ出ようと用意して、靴をはき、荷車ひきの服を着けて、待機していた。六晩が――ながい退屈な六晩がすぎ、毎晩フェイギンはがっかりした顔をして家にもどり、言葉少なに、まだ時期が到来していないことを知らせた。七日目の晩に、彼はいつもより早く帰ったが、よろこびの色はおおいかくすべくもなく、その顔にあらわれていた。その日は日曜日だった。
「今晩は出かけるぞ」フェイギンはいった、「そしてわしの見込みのとおりの用件でな。というのも、あの女は一日中一人でいたし、女がおそれている男は、夜明け近くまで帰っては来んだろうからね。わしといっしょに来い。急いで」
ノアは一言もいわずに、パッと飛び起きた。ユダヤ人がすごい興奮状態にあり、それが彼に感染していったからである。二人はそっと家を出てゆき、迷路のような道をとおりぬけて、とうとうある居酒屋の前に着いたが、ノアはこの家が、彼がロンドンにやってきた晩に泊まった家であることに気がついた。
もう十一時をすぎていて、戸は閉まっていた。フェイギンが低い口笛をふいたとき、その蝶番《ちょうつがい》がそっと開かれ、二人は音も立てずにそこをはいり、戸はそのあとで、また閉められた。
ささやき声も出さず、言葉を身ぶりにかえて、フェイギンと二人を入れた若いユダヤ人は、ノアにガラス板の窓をさし、そこに登り、となりの部屋にいる人物を見ろ、と合図した。
「あれが問題の女かい?」吐く息もおよばないくらいの低い声で、ノアはたずねた。
フェイギンは、そうだとうなずいた。
「女の顔がよく見えないんだ」ノアはささやいた。「あの女、目を伏せてて、ろうそくがそのうしろにあるんだ」
「ここにいろ」フェイギンはささやいた。彼はバーニーに合図を送り、バーニーはひきさがっていった。すぐにこの若いユダヤ人はとなりの部屋にはいり、ろうそくの芯《しん》をきるふりをして、それを必要な場所にうつし、女に話をしかけて、顔をあげさせた。
「もうわかったぞ」密偵は叫んだ。
「はっきりとかね?」
「千人の中にいようとも、わかるさ」
その部屋の戸が開き、女が外に出てきたので、彼は急いで窓のところからおりた。フェイギンはカーテンでさえぎられている小さな仕切りのところに彼を連れこみ、そのかくれ場所から数フィートもはなれぬところを彼女がとおって、彼らがはいってきた戸口から出ていったとき、二人はジッと息を殺していた。
「しっ!」戸を抑えていた若いユダヤ人は叫んだ。「成功を祈ってるぜ」
ノアはフェイギンと目くばせし、矢のような勢いでとびだした。
「左へ」若いユダヤ人はささやいた。「左へゆき、反対側を歩くんだ」
彼はそのとおりにし、ランプの光で、もうすでにそうとうはなれたところに、ズンズンと去ってゆく女の姿を認めた。彼は適当と思われる距離だけ近づき、彼女の動きをよくとらえるために、道の反対側を歩いていった。彼女は神経質に、二度か三度、あたりを見まわし、一度は足をとめて、すぐあとについてくる二人の男をやりすごした。進むにつれ、彼女は元気づき、ますますしっかりとした足どりで歩いていった。密偵は前と同じ距離をたもち、目を彼女の上に釘づけにして、彼女のあとを追っていった。
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四十六 守られた約束
二人の人影がロンドン橋の上にあらわれたとき、教会の時計は十一時四十五分を報じた。スタスタと早足で歩いていったのは女の人影で、彼女は、まるでなにか予期しているものをさがしているように、あたりを見まわしていた。もうひとつは男の姿で、まわりのいちばん深い物蔭ぞいにそっと歩き、ある距離をおいて、女の歩調に自分の歩調を合わせ――彼女がとまれば足をとめ、彼女がふたたび動きだすと、そっと進んでいったが――追跡欲にかられて、彼女の真うしろにつくことは絶対にしないでいた。こうして、二人はミドルセックス岸からサリー岸へと橋をわたったとき、通行人をこまかに調べていた女は、あきらめたふうにがっかりしたようすで、もとの道をひきかえした。この動きは急なものだったが、彼女を監視していた男は、それで監視の目をゆるめることはなかった。橋台の上にある待避所に身を引き、自分の姿をいっそううまくかくすために、欄干《らんかん》によりかかって、彼は反対側の舗道の上に女をやりすごした。女が前と同じくらいはなれると、男はそっと忍び出て、ふたたび彼女をつけはじめた。橋のほぼ中央のところで、彼女は足をとめた。男も足をとめた。
とても暗い夜だった。その日は天気がわるく、その場所、その時刻に、そこを歩いている人はほとんどいなかった。そこを歩いている人たちの足どりは早く、おそらく、彼らは、この女や彼女を監視している男の姿を見てもいず、たしかに、それには気づいてもいなかっただろう。二人の姿は、ねぐらとなる寒々とした拱廊《きょうろう》や戸のはずれた小屋を求めてたまたま橋の上をとおりすぎてゆく尾羽打ち枯らしたロンドンの住民のしつこい視線をひきつけるものではなかった。二人は橋の上にだまって立ち、そこをとおるだれにも話しかけもせず、話しかけられもしなかった。
霧が橋の上にかぶさり、いろいろな波止場に繋留されている小舟の上に燃えている火の赤みを深め、土堤の上の暗い建物をもっと暗く、ぼやけたものにしていた。両側の煙にすすけた古い倉庫は、屋根と破風の濃いかたまりの上に、ずっしりと重苦しくそびえ、そのごたごたとした形をうつしだすこともできぬほどの黒々とした水面を、にらみつけるようにして見おろしていた。ながいことこの古い橋を守ってきた巨人の保護者の聖セイヴィア教会の塔、聖マグナスの尖塔は、暗闇の中で姿をあらわしていたが、橋の下で森のようにマストを立てている船と、みっしりとあちらこちらに立っている教会の尖塔は、ほとんどみな、視界からさえぎられていた。
女は――かくれた監視者からきびしく見守られて――なにか落ち着かぬふうに何回か往きつもどりつしていたが、そのとき、聖ポール寺院の重苦しい鐘の音が、その日の去ったことを報じた。真夜中が人のむらがっている町に訪れた。宮殿、地下居酒屋、監獄、精神病院、誕生と死の部屋、健康と病気の部屋、死体のこわばった顔、みどり児の安らかな眠り――すべてのものの上に、真夜中が訪れた。
この鐘が鳴ってから二分もたたぬうちに、灰色の髪をした紳士にともなわれた若い婦人が橋の近くで貸し馬車からおり、馬車をゆかせてから、橋のほうにまっすぐ歩いていった。二人が橋の舗道に着くか着かないかに、例の女はギクリとし、すぐに彼らに近づいていった。
二人はズンズンと歩き、実現する見込みはまずないなにかはかない期待をいだいている人のようにあたりを見まわしていたが、そのとき突然、例の女が彼らといっしょになった。二人は驚きの叫びをあげて足をとめたが、すぐにその叫び声をおし殺した。というのは、いなか者のような服装をした男が、ちょうどそのとき、そばをとおり――じっさい、からだがふれ合わんばかりにしてそばをとおりすぎたからである。
「ここでは、いけないわ」急いでナンシーがいった。「ここでお話をするのはこわいの。向こうにいって――大通りからはなれ――あの階段の下にゆきましょう!」
彼女がこうした言葉を話し、手で彼らにゆきたい場所の方向を示したとき、いまとおりすぎたいなか者はふりかえり、なんで舗道に立ちふさがってるんだ、と荒々しくたずね、そのままゆきすぎていった。
彼女がさした階段は、橋の聖セイヴィア教会側にあるサリー河岸の荷揚げ場の階段だった。この場所に、いなか者ふうの男は気づかれずにさっと歩いてゆき、そこをちょっと見まわしてから、階段をおりはじめた。
この階段は橋の一部をなし、三つの階段でできている。おりていって二番目の階段の終わるところのちょうど真下で、左手の石壁は、テムズ川に向かって立っている飾りのつけ柱になっている。ここで、それから下の階段はひろがり、その結果、壁のその角をまがった人は、たとえ一歩でもこの階段の上に立っている人からは、ぜんぜん姿が見えなくなってしまう。いなか者は、ここに着いたとき、せわしげにあたりを見まわし、それ以上|恰好《かっこう》の場所はないように思われ、潮が引いていたため、十分に場所は開けていたので、彼は飾りのつけ柱に背をつけてわきにそっとさがり、三人がそんなに下までおりてくるはずはなし、彼らの話を聞けなくとも、心配なく彼らのあとをつけることはできると確信して、そこで待ちうけていた。
このわびしい場所で時の歩みはとてもおそく、期待とはひどくかけちがったこの会見の動機を調べあげようとする密偵の気持はひどくジリジリしていたので、彼は何回かそれをだめとあきらめ、三人がずっと上のほうで足をとめたか、そのふしぎな打ち合わせをするのに、どこかまるっきりべつの場所にいってしまったものと考えようとしていた。彼がそのかくれ場所から出て、上の道路に登っていこうとしたちょうどそのとき、彼は足音を耳にし、その直後に、耳のほんの近くで、人声がひびいた。
彼は壁に身をよせ、息を殺して、聞き耳を立てた。
「ここまで来れば、もう十分だ」明らかに紳士の声がいった。「若いご婦人にこれ以上遠くにはゆかせられはせん。だれだって、きみを信用して、ここまで来たりはしませんからな。だが、いいかね、わしはきみの気持ちを立てているんですぞ」
「あたしの気持ちを立てるんですって!」密偵があとをつけてきた女の声が叫んだ。「それはほんとにご親切さま。あたしの気持ちを立ててるんですって! わかりました。わかりました。そんなこと、どうでもいいわ」
「いや、なんで」前よりやさしい調子になって、紳士はいった、「どういう目的で、きみはわれわれをこの奇妙な場所に連れてきたのだね? こんな暗い陰気なせまい場所に連れては来ずに、明るく人もいるあそこの上のところで、どうしてきみはわしに話をさせてはくれなかったのかね?」
「前にもいったでしょう」ナンシーは答えた、「あそこであなたとお話することは、あたし、こわいんです。それがどうしてかは、わかりません」身をふるわせながら、女はいった、「でも、あたし、今晩はとてもこわく、とてもおそろしいの。立ってもいられないくらいだわ」
「なにがこわいのかね?」彼女をあわれんでいるらしい紳士はたずねた。
「なんだか、わかんないわ」女は答えた。「わかってたらいいんだけど! 死のおそろしい思い、血だらけの経帷子《きょうかたびら》、まるで火であぶられているように、あたしの身を焼きつくすおそろしさが、今日《きょう》は一日じゅう、あたしにまといついてるの。今晩、時間つぶしに本を読んでたんだけど、それと同じものがページの上に浮かんできたわ」
「気のせいさ」なだめるようにして、紳士はいった。
「気のせいじゃないわ」しわがれた声で、女は答えた。「ほんと、本のどこを開いても、『棺』という字が大きな黒文字で書かれてあったわ――そう、今晩通りで、あたしのほんの近くを、棺がとおっていったことよ」
「そんなこと、べつにどうっていうこともないさ」紳士はいった。「棺は、わしのそばだって、よくとおるからね」
「それはほんとの棺よ」女は答えた。「あたしのは、ちがうの」
彼女の態度にはなにか異常なものがあり、かくれていた男がこの言葉を聞いたとき、その肌は粟《あわ》立ち、からだの血は凍りついてしまった。若い婦人が女に、心を落ち着け、そんなにおそろしい空想にとらわれないようにといったとき、そのやさしい声は、ほんとうに彼の心をほっとさせた。
「あのかたにやさしく話してあげてください」若い婦人は、連れそいの紳士にいった。「かわいそうに! やさしくしてあげねばいけませんことよ」
「宗教心の厚い、高慢ちきな人たちは、今日《きょう》のようなあたしの姿を見て、頭を高くそらし、地獄の炎と復讐のことをお説教するでしょう」女は叫んだ。「おお、お嬢さま、自分こそ神さまのしもべだといってる人たちが、あたしたち、あわれな人間にたいして、どうしてお嬢さまのようにやさしく、親切にならないんでしょう? お嬢さまは若くもあり、美しくもあって、その人たちが失ってしまったすべてのものをおもちなんですから、そんなに腰を低くなさらずに、もう少し威張った態度をおとりになってもいいはずですのにね」
「ああ!」紳士はいった。「トルコ人は、その祈りをささげるときに、顔をよく洗ってから、東に向かいます。いま娘さんのいった善良な人々は、ほほえみが顔から消えてしまうほど俗世間と顔をこすり合わせてから、トルコ人と同じように規則正しく、天のいちばん暗いところに面《おもて》を向けるのです。回教徒とパリサイ人のどちらを選ぶかといえば、わたしは回教徒のほうを選びますな」
こうした言葉は若い婦人に向けて話されたらしく、おそらく、その目的は、ナンシーに落ち着きをとりもどす時間的余裕を与えるためだったのであろう。その後すぐ、紳士はナンシーに話しかけた。
「この前の日曜日の夜、きみはここに来なかったね」彼はいった。
「来られなかったの」ナンシーは答えた。「むりやり抑えられていたんです」
「だれに?」
「お嬢さまにこの前お話しした男に」
「われわれが今晩ここにやってきた問題について、きみがだれかと連絡をとっているとは思われていないのだろうね」老紳士はたずねた。
「疑われてはいないわ」頭をふって、女は答えた。「わけをいわずにあの人のとこを出てくるのは、とても困難なの。出てくる前に阿片《あへん》を飲まさなかったら、この前だって、お嬢さまとは会えなかったことでしょう」
「もどる前に、男は目をさましたかい?」紳士はたずねた。
「いいえ、彼も仲間のだれも、わたしを疑ってはいないことよ」
「よし」紳士はいった。「さて、わしのいうことを、よく聞くんですぞ」
「ええ」彼がちょっと話を切ったときに、女は答えた。
「このお嬢さんは」紳士は話しだした、「きみが二週間ほど前にお嬢さんに話したことを、このわしと心配なく信用できるほかの何人かの友人にお伝えになったのだ。きみが無条件に信用できる女かどうか、たしかにわしは、最初、疑っていたが、いまは、もう絶対に信用できると思っているよ」
「あたしを信用して大丈夫よ」むきになって、女は答えた。
「くりかえしていうが、わしはきみのいうことをすっかり信用しているよ。そうした気持ちになっていることの証拠に、腹蔵なくお伝えするが、このマンクスという男をおどかして、その秘密がどういうものにせよ、それをあの男から聞きだそうと、われわれは考えているのだ。だが、もし、もし」紳士はいった。「彼をとらえることができなかったら、あるいは、たとえとらえても、こちらの期待どおり、泥を吐かせることができなかったら、きみにあのユダヤ人をひきわたしてもらわなければならない」
「フェイギンを!」たじろいで、女は叫んだ。
「その男をわたしてもらわなければならんのだ」紳士はいった。
「そんなこと、しないわ! 絶対にしないわ!」女は叫んだ。「あの男は悪魔、それよりもっとわるい男だけど、そんなこと、あたしは絶対にしないことよ」
「しない?」この返事を十分に予期していたらしい紳士はいった。
「絶対にね!」女はやりかえした。
「どうしてなのだろう?」
「ひとつには」女はしっかりと答えた――「お嬢さまがご存じで、あたしの味方をしてくださる理由のためよ。きっと味方してくださるわ。あのかたと約束したんですもの。もうひとつの理由は、あの男はわるいことをしてはきましたけど、あたしだって、わるいことをしてきました。いっしょに同じ道を進んできた人は、たくさんいます。その人たちは、わるい人ですけど――だれでも――あたしを裏切ることもできたのに、それをしませんでした。だから、あたし、あの人たちを裏切りたくはないんです」
「では」これが最初からねらっていた目的のように、紳士はさっといった。「マンクスをわれわれにわたし、彼のあつかいは、わたしにまかせてくれるね」
「あの男がほかの人を裏切ったら、どうします?」
「約束しますよ、その場合、彼から事実が引きだされたら、それ以上の追求はやめることにしよう。オリヴァのささやかな来歴のうちには、それを大衆の目の前にさらすことが苦痛となるような事情がひそんでいるにちがいない。事実さえひきだすことができたら、フェイギンたちはそのまま放免にしましょう」
「そして、もし事実がひきだせなかったら?」女はたずねた。
「そうであっても」紳士はつづけた、「きみの承諾なしに、このフェイギンを警察の手にわたすことはしないことにしましょう。わたす場合には、きみも承認する理由を、わしはきみに示せると思うのだが……」
「その点、お嬢さまの約束をいただけますかしら?」女はたずねた。
「ええ」ローズは答えた。「わたしの真実の誓いにかけて」
「あなたがたがご存じのことをどうして知ったか、マンクスには決してわかりはしないでしょうね」少し間《ま》をおいて、女はいった。
「絶対に」紳士は答えた。「その情報は、彼が絶対にさとることができぬように、彼にたいして使いますからな」
「あたしは嘘《うそ》つき、子供のころから、嘘《うそ》つきの中で育ってきました」もう一度しばらく口をつぐんでから、女はいった。「でも、あなたがたのお言葉は信用しましょう」
二人から、心配はないという約束を与えられてから、彼女は、ときどき彼女のいおうとしてることが聞きとりにくくなるほどの低い声で、彼女がそこからその夜つけられてきた居酒屋の名前と場所を伝えはじめた。彼女がときどき話をやめていたことから、どうやら、紳士は彼女が伝えた情報を急いで書きとめているらしかった。その場所、人の注意をひかずにそこを監視できるもっとも好都合な場所、マンクスがよくここにやってくる夜と時間をすっかり説明してから、彼女は、彼の顔つきとようすをもっとよく思い出そうとして、しばらく考えこんでいるふうだった。
「彼は背が高く」女はいった、「がっちりしていますが、太ってはいません。コソコソと歩き、歩きながら、最初は右、つぎは左といったふうに、いつもうしろをふりかえって見てます。彼の目はだれの目より深くくぼんでて、それだけでも彼がわかるということを、どうか忘れないでください。顔の色は浅黒く、髪と目の色も、それと同じです。そして、齢《とし》は二十六か八をぬけてるはずはありませんが、しわだらけで、痩《や》せおとろえてます。唇は、歯でかんだあとで色が変わり、形がくずれてます。彼がひどい発作をおこし、ときには手を噛み、それを傷だらけにするからなんです。――どうして、ギクリとなさるんです」急に話をやめて、女はたずねた。
紳士はあわてて、そんなことをしたおぼえはないと答え、話をすすめてくれとたのんだ。
「こうした話の一部は」女はいった。「あたしがいまお話してる家で、ほかの人からひきだしたもんです。というのも、その人には二度しか会ったことがなく、その二度とも、彼は外套《がいとう》でからだをすっぽりとつつんでたからです。彼を知る方法として、これしかお二人にお伝えすることはできませんよ。でも、ちょっと待ってください」彼女はいいそえた。「彼の喉のとこに、それもとっても上のとこにあるんで、彼が顔を向けたとき、ネッカチーフの下にその一部しか見えませんが――」
「火か湯での火傷《やけど》のような、ひろい赤い|あざ《ヽヽ》ですか?」紳士は叫んだ。
「まあ、どうしたことでしょう?」女はいった。「彼をご存じなんですね!」
若い婦人は驚きの叫びを発し、しばらくのあいだ、彼らはとても静かにしていたので、盗み聞きをしていた男にも、彼らの息の音が聞こえてきた。
「知っているようです」沈黙を破って、紳士はいった。「あなたの話を聞いていると、どうもそんな気がします。いずれわかることでしょう。ふしぎなほどよく似ている人って、世間には数多くいますからな。それは同一人物でないかもしれませんよ」
だいたいこうしたことを、さりげないふうにいったあとで、紳士はかくれた密偵のところに一、二歩近づき――これは紳士のつぶやき声で密偵にそれとわかったのだが――「あの男にちがいない!」とささやいた。
「さて」これも音でわかったのだが、前に立っていたところにもどっていって、彼はいった。「あなたからはじつに貴重な援助をいただきましたな。そこで、なにかあなたにお返しをしてあげたいのだが……。それをするのに、どうしたらいいでしょうな?」
「なにもいりません」ナンシーは答えた。
「そんなかたくなにいわなくとも、いいでしょう」もっと固い、もっと頑固《がんこ》な心でも動かさずにはおかないやさしさのこもった声で、紳士は答えた。「さあ、考えて、わたしにいってください」
「なにもいりません」泣きながら、女は応じた。「あたしを助けるのに、あなたはなにもできないんです。あたし、ほんとうに、もうだめなんです」
「きみは、自分で自分のことをだめだと思っているのだ」紳士はいった。「きみの過去は、あやまってついやされた若さの浪費、造物主の神さまが一度はくださるが、二度とは絶対に与えてくださらぬ貴重な宝のむだ使いだった。だが、将来のことは、きみも希望をもてるはずだ。われわれが心の平和をきみに与えられると、わしはいうのではない。それは、それをきみ自身が求めたときに、来るべきものだからね。だが、静かな避難所なら、それがイギリス国内であろうと、もしきみがここにいるのが不安なら、どこかよその国であろうと、それを得ることは、われわれのできることばかりでなく、それをぜひしてあげたいと思っているのだ。夜の明けぬうちに、テムズ川が夜明けの最初の光に目をさまさぬうちに、きみを前の仲間の手の完全にとどかぬところに連れていってあげ、そのあとにはぜんぜん痕跡をのこさぬようにしてあげることもできるのだよ、まるで、この瞬間に、きみが地上から姿を消してしまったようにね。さあ、わしは、きみを古巣に帰し、以前の仲間と一語でも言葉をかわし、きみにとってわずらいと死の種になっているあの空気を吸わせたくはないのだ。時間と機会が与えられているあいだに、あんなものはぜんぶすててしまいなさい!」
「もう、こちらのいうとおりになってくださいますことよ」若い婦人は叫んだ。「どっちにしようかと迷っておいでなのですから」
「そうならんかもしれませんよ」紳士はいった。
「いいえ、あたし、それはできません」少し思いなやんだあとで、女は答えた。「あたしはいままでの生活に鎖でしばりつけられてるんです。あたしはその生活を、いまはきらい、憎んでます。でも、それは、すてられないもんです。深入りしすぎて、もうもどれなくなってるんでしょう――でも、わからないわ。少し前にそんなことをあなたがおっしゃってくださったら、あたし、それをきっと笑い飛ばしてしまったことでしょうからね。でも」セカセカとあたりを見まわして、彼女はいった。「そのおそろしさが、また、襲ってきました。あたしは家に帰らなければなりません」
「家にですって!」家にという言葉にとくに力を入れて、若い婦人はくりかえした。
「ええ、お嬢さま、家に帰るんです」女は答えた。「あたしの命すべてをかけて、自分でつくりあげた家へね。おわかれしましょう。あたしの姿が見つかってしまうかもしれません。さあ、帰ってください! 帰ってください! もしあたしがなにか役立ったとすれば、そのお礼としておねがいしたいことは、ただ、あなたがあたしとわかれ、あたしをひとりでゆかせてくださることだけです」
「むだですな」溜《た》め息をもらして、紳士はいった。「われわれがここにいると、彼女を危険な立場に追い込むようなことになるかもしれません。予定よりながく、彼女をここにひきとめていたのかもしれませんからね」
「そう、そうよ」女は強くいった。「そのとおりよ」
「ああ!」若い婦人はいった。「かわいそうな人! 最後はどうなることかしら!」
「どうなるですって!」女はくりかえした。「お嬢さま、前をごらんなさい。あの黒々とした水をごらんなさい。あの水の中に身を投げ、心配し嘆いてくれる人をこの世に一人ものこさずに死んでゆくあたしのような者の物語りを、あなたは何度お読みになることでしょう。何年先か、何カ月先のことかわかりませんが、あたしも、いずれはそういう最後になるんです」
「そんなこと、おっしゃってはいけませんわ」すすり泣きながら、若い婦人は答えた。
「お嬢さま、それはあなたの耳に絶対にとどかぬことでしょう。とんでもない、そんなおそろしいこと、お耳に入れたくはありませんわ!」女は答えた。「おやすみなさい! おやすみなさい!」
紳士は面《おもて》をそむけた。
「この財布ですが」若い婦人は叫んだ、「どうか、わたしのために、これをとっておいてください。困った苦しいときに、それを使うようにね……」
「いいえ」女は答えた。「あたしがこのことをしたのは、お金のためではありません。そのことは、あたしの思い出の種にしてください。でも、お嬢さま――あなたがお着けになっているなにかをいただきたいわ――なにかをいただきたいわ――いけません、いけません、指環はだめです――手袋かハンカチ――あなたのものだったとして、記念に大切にとっとけるなにかを……。ああ、それでいいです。ありがとう! ありがとう! おやすみなさい! おやすみなさい!」
女の激しい昂奮状態を見、彼女が虐待と暴力を受けるようになるかもしれないなにかが暴露されることをおそれて、紳士は、彼女の要求どおり、彼女とわかれることを決心したらしかった。遠くに消えてゆく足音が聞こえ、人声はやんだ。
若い婦人とそのつれそいの二人の姿は、その後|間《ま》もなく、橋の上にあらわれた。二人は階段の上のところで足をとめた。
「あらっ!」若い婦人は耳を澄《す》ませて叫んだ。「あの人、叫んだのかしら! あの人の声を聞いたような気がするのですけど……」
「いいや、お嬢さん」悲しげにふりかえって、ブラウンロウ氏は答えた。「彼女は動いてはいませんよ。われわれがいってしまうまで、動かんでしょう」
ローズ・メイリーはまだ立ち去りかねているふうだったが、老紳士は彼女の腕をとり、やさしく、しかもグングンと、彼女を連れ去っていった。二人の姿が消えたとき、女は石の階段の上に身を投げるようにしてかがみこみ、心の苦悶のはけ口を苦しい涙に求めていた。
しばらくして彼女は立ちあがり、よろめく弱々しい足どりで、街路にあがっていった。度肝をぬかれていた聞き手の密偵は、その後、数分間、身じろぎもせず、その場に立ちつくしていたが、何回か用心深くあたりを見まわしてから、自分がひとりになったのをたしかめて、ゆっくりとそのかくれ場所からはいだし、そっと壁の陰ぞいに、おりてきたのと同じふうに、階段をのぼっていった。
階段の上に着くと、何回かあたりを見まわして、自分が人目についていないのをたしかめてから、ノア・クレイポールはフルスピードで走りだし、足の力をふりしぼって、ユダヤ人の家に突進していった。
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四十七 重大な結果
時刻は、夜明けのほぼ二時間前だった。それは秋の季節には真夜中ともいえるもので、街路は静まりかえって、人どおりもなく、物音さえ眠ってしまったように見え、放蕩者や酒飲みは家によろめきながら帰って、夢をむさぼるときである。フェイギンが、青ざめた顔をひどくゆがませ、目を赤く血走らせて、人間というより、墓から湿気をおびて出てきた、悪霊になやまされているなにかおそろしい幽霊といった姿で、その古巣で寝もやらず坐りこんでいたのは、こうしたしんと静まりかえった時刻だった。
彼はボロボロの布団《ふとん》をまとって、冷たい炉の上にかがみこみ、わきのテーブルの上に立てたくずれかけたろうそくに、その顔を向けていた。彼は右手を唇のところにあげ、物思いにふけって、ながい黒い爪をかんでいたが、歯のぬけた歯ぐきのあいだからは、犬かねずみの牙《きば》かと思われるようなわずかの歯が露出していた。
床の上の布団《ふとん》の上には、ぐっすりと眠ったノア・クレイポールがながながとのびていた。この男のほうに、老人は、ときどき、ちょっと目を投げていたが、すぐにそれを、ふたたび、ろうそくにもどした。ながいあいだ燃えていたろうそくの芯《しん》はほとんど二つ折りになって垂れさがり、脂《あぶら》が流れ落ちてテーブルの上にかたまっていることは、彼の心がほかのことをとつおいつ考えていることを、はっきりと物語っていた。
じっさい、そのとおりだった。自分のすばらしい計画がすっかりくずれてしまった苦悶、図々しくも見知らぬ他人と取り引きをした女にたいする憎悪、彼をひきわたすことをこばんだ女の誠意を疑う気持ち、サイクスに復讐することができなくなったいまいましさ、暴露、破滅、死の恐怖、そうしたものすべてで燃えあがる激しいおそろしい怒りの情、こういったものが、絶え間のない急速な渦《うず》になって、あいついで彼の頭に去来し、兇悪な考えやこの上なく腹黒い計画が彼の心の中で動いていた。
彼は姿勢を少しも変えず、時の経過にはいっこう無頓着《むとんちゃく》なようすで、坐りつづけていたが、彼のさとい耳は、とうとう、街路の人の足音を聞きつけたようだった。
「とうとう」熱で乾《ひ》あがった口をぬぐって、彼はつぶやいた。「とうとう来たな!」
こういったとき、静かに呼び鈴が鳴った。彼は階段をのぼって戸口のところにそっとゆき、顎《あご》まですっぽりとくるまっている男を連れてもどってきたが、この男は小脇につつみをかかえていた。腰をおろし、外衣をぬぎすてると、それは、たくましいからだつきを示しているサイクスに変わった。
「ほれ!」つつみをテーブルの上において、彼はいった。「こいつを預かって、できるだけいい値をつけてくれ、手に入れるのに、骨を折ったぜ。三時間前にもってこれると思ってたんだがな……」
フェイギンはそのつつみをつかみ、それを戸棚にしまいこんで、なにもいわずに、ふたたび坐った。しかし、こうして動いているあいだ、彼の目は一刻もこの夜盗からはなれず、いま面と向かって坐りあったとき、彼はジッと相手をにらみつけていたが、彼の唇は激しくふるえ、その形相《ぎょうそう》は、心を支配している激情のためにすっかり変わってしまっていたので、夜盗は思わず椅子をひき、心の底からびくっとしたようすで、フェイギンをながめた。
「どうしたんだ!」サイクスは叫んだ。「なんで、人をそんなにながめてるんだ?」
フェイギンは右手をあげ、ふるえる人さし指を高くふった。だが、心の中で荒れくるっている怒濤《どとう》の勢いはとても強く、その結果、しばらくのあいだ、彼は口をきく力を失っていた。
「畜生!」おびえたようすで、胸をさぐりながら、サイクスはいった。「やつは気がくるったんだ。用心しなけりゃならんぞ」
「ちがう、ちがう」ようやく声が出るようになって、フェイギンは答えた。「ちがうんだ。ビル、おまえがその人間じゃないんだ。おまえに――文句をつけてるんじゃないんだ」
「おお、文句がねえんだって、えっ?」きびしく相手を見すえ、これ見よがしにピストルを出すのに都合のいいポケットに手をうつして、サイクスはいった。「そいつは運のいいこった――おれたちのどっちかにとってな。それがどっちは、問題じゃねえよ」
「ビル、話があるんだ」椅子を近くにひきよせて、フェイギンはいった。「その話は、わしよりもっと、おまえさんのほうの気分をわるくするもんだぜ」
「えっ?」信じられないといったふうに、盗賊はやりかえした。「さっさといいやがれ! 早くいうんだ。さもないと、ナンシーはおれがとっつかまったと思うじゃねえか」
「とっつかまった!」フェイギンは叫んだ。「あいつはもう、そのことでは腹をしっかりきめてるんだ」
サイクスは、ひどく狼狽《ろうばい》したようすで、ユダヤ人の顔をジッとにらみつけ、そこにこの謎のはっきりとした答えを読みとることができなかったので、ユダヤ人の上衣の襟を大きな手でつかみ、相手のからだをグイグイとゆさぶった。
「いえ、さあ!」彼はいった。「もししゃべらねえと、息がつまってしゃべれねえようにしてやるからな。さあ、口を開いて、はっきりいうんだ。さあ、いえ、この老いぼれのやくざ犬め、さあ、いえ!」
「そこにころがってる若い者《もん》が――」フェイギンは語りはじめた。
サイクスは、まるで、そのときまで、この男の存在に気がつかなかったように、ノアが眠っているほうにふり向いた。「それで?」前の姿勢にもどって、彼はいった。
「あの若い者《もん》が」フェイギンはつづけた、「おれたちを裏切り――暴《ば》らし――そのために都合のいい相手をさがし、やつらと通りで落ち合って、こっちの人相書きを伝え、どうしたらこっちがわかるかをこまかに話し、おれたちのいちばんつかまりやすい古巣を筒抜《つつぬ》けに教えたとしよう。やつがこうしたことぜんぶをやり、その上、おれたちが計画してた盗みの模様を多少なりともあばき――それも自分の気まぐれでな――つかまったんでもない、わなにひっかかったんでもない、裁判を受けたわけでもない。牧師にくどかれたんでもない、食いつめてそうしたんでもなく――まったく自分の気まぐれ、自分の気ままからそれをし、夜そっと出かけてって、こっちのいちばんおそろしい敵に会い、密告したとしよう。わしのいうこと、聞いてるかい?」目を怒りで輝かして、ユダヤ人は叫んだ。「やつがこうしたことをしやがったとすると、どうなるね!」
「どうなるかだって!」ひどいののしり声をあげて、サイクスは答えた。「おれがやってくるまで生きてやがったら、おれはやつの頭を靴の鉄のかかとでこなごなにしてやるぞ、頭の髪の数ほどこなごなにな」
「もしわしがそれをしたら、どうする!」わめき声といってもいい声をあげて、フェイギンは叫んだ。「なんでも知ってて、わし以外の仲間をうんと絞首刑にできるこのわしが!」
「おれにわかるけえ」それだけいわれただけで、もう歯がみをし、顔を青ざめさせて、サイクスは答えた。「監獄で手かせ足かせをかけられるようにしてやるさ。そして、おめえといっしょに裁判を受けたら、その手かせ足かせのままでおめえにとびかかり、みんなの面前でてめえの脳|味噌《みそ》たたきわってやるとも。おれにはそのくらいの力はあるんだ」そのたくましい腕をかまえて、盗賊はつぶやいた、「まるで荷を積んだ馬車のように、てめえの頭なんか、こなごなにしてやるぞ」
「そうするかい?」
「するかだって!」夜盗はいった。「ためしてみろ」
「もしそれがチャーリー、ぺてん師、ベッツィーか、さもなけりゃ――」
「だれだって、かまうもんけえ」ジリジリして、サイクスは答えた。「相手はだれだって、おれにゃ同じさ」
フェイギンはジッと盗賊をにらみすえ、身ぶりでなにもいうなと合図して、床の上の布団《ふとん》の上にかがみこみ、眠っている男をゆり起こした。サイクスは椅子で前かがみになり、両手を膝に乗せて、この質問や前おきがどんな顛末《てんまつ》になるかと、固唾《かたず》を飲んでいるふうだった。
「ボルター、ボルター、かわいそうに!」なにか期待している悪魔の形相《ぎょうそう》を浮かべて目をあげ、ゆっくりと強い語調で話しながら、フェイギンはいった。「やつは疲れてるんだ――ながいことあの女を監視してて――あの女を監視しててな、ビル」
「そいつは、なんのこった?」身を引きながら、サイクスはたずねた。
フェイギンはなにも答えず、眠っている男の上にふたたびかがみこんで、彼をひきおこして、坐らせた。彼の偽名が何回かくりかえされると、ノアは目をこすり、大きなあくびをして、眠そうにあたりを見まわした。
「あの話、もう一度してくれ――もう一度な、この男に聞いてもらうためにな」話しながら、サイクスのほうをさして、ユダヤ人はいった。
「なにをいうんだい?」眠そうなノアは、不機嫌にからだをゆすって、たずねた。
「あの話――|ナンシー《ヽヽヽヽ》の話さ」話を十分聞かないでサイクスが出ていってしまうのを抑えるように、彼の腕首をつかんで、フェイギンはいった。「おまえがあとをつけたんだな?」
「うん」
「ロンドン橋へか?」
「うん」
「そこで、あの女は二人の人間に会ったんだな?」
「会ったよ」
「あの女が自分から会いに出かけていった紳士と娘で、そいつらは仲間を裏切れといい、まず手はじめにマンクスを裏切れとすすめ、やつはそれをした――それから、マンクスの人相書き、それもやつは伝えた――それから、おれたちが落ち合ってる家のことをたずね、そいつもやつはしゃべり――どこからその家を見張ったらいちばんいいかも伝え――何時に人がそこにいくかも暴《ば》らしたわけだ。あの女はそれをぜんぶやり、しかも、おどかされもせず、文句もいわずに、それをやったんだ――そうだな――どうだい?」怒りで半狂乱になって、フェイギンは叫んだ。
「そうだよ」頭をかきながら、ノアは答えた。「そのとおりだよ!」
「この前の日曜日のこと、やつらはなんといってたね?」
「この前の日曜日のことだって!」考えこんで、ノアは答えた。「いや、そいつはもう話したじゃねえか」
「もう一度話すんだ。もう一度な!」口からあわをとばしながら、サイクスをしっかりと抑え、もう一方の手を高くかざして、フェイギンは叫んだ。
「やつらはナンシーにたずねたよ」ノアは答えたが、目がさめてくるにつれ、彼はだんだんとサイクスが何者かに気づいたようすだった――「やつらはたずねたよ、約束どおり、その前の日曜日に、どうして来なかったのかとね。ナンシーは、来れなかった、と答えてたよ」
「どうしてなんだ――どうしてなんだ? そいつを話してやれ」
「前にも彼女が話してたビルという男に、むりやりに家に抑えられてたためさ」ノアは答えた。
「ビルについて、もっとどんなことを言ってた?」フェイギンは叫んだ。「あの女が前に話してた男について、ほかにどんなことを話してたかね? そいつを話してやるんだ、話してやるんだ」
「うん、ゆく先を知らせなけりゃ、なかなか出にくいっていってたよ」ノアはいった。「だから、最初娘に会いにいったときにゃ――はっ! はっ! はっ! そいつをあの女がしゃべったとき、おれ、吹きだしちまったよ、まったく――あの女、彼に阿片《あへん》を飲ませたんだ」
「畜生!」激しい勢いでフェイギンから身をふりちぎって、サイクスは叫んだ。「放せ!」
老人をふりはなして、彼は部屋からとびだし、すごい剣幕で階段をあがっていった。
「ビル、ビル!」急いで彼のあとを追いながら、フェイギンは叫んだ。「ちょっと一言、ほんの一言、話したいんだ」
夜盗が戸を楽《らく》に開けられたら、なんの話も起こらなかっただろうが、それができず、彼はその戸に悪態《あくたい》をつき、むりやりそれを開けようとしていたが、そのとき、ユダヤ人は息せき切って彼に追いついた。
「おれを出せ」サイクスはいった。「おれになにもいうな。てめえの身があぶなくなるぞ。いいか、おれを出すんだ!」
「わしの言葉を、一言だけ、聞いてくれ」錠を抑えて、フェイギンは答えた。「まさか、おまえは――」
「なにっ?」相手は答えた。
「まさかおまえは――あんまり――手荒らなことをするんじゃあるまいな、ビル」
夜は明けかけていて、二人は、たがいの顔を見ることができた。彼らは短い一瞥をかわしたが、その二人の目に燃えあがっている火のあることは、明らかだった。
「というのは」表面をとりつくろっても意味のないのをさとったふうに、フェイギンはいった。「あまり手荒らなことをして、こっちの身を危《やば》くするなってえことさ。うまくやるんだ、ビル、無鉄砲なことはいかんよ」
サイクスはなにも返事をせず、フェイギンが錠をまわしてくれた戸をおし開けて、静まった街路に飛びだしていった。
一瞬も足をとめず、一刻も考えず、右や左に頭をまわすことを一度もせず、目をあげもさげもせず、すごい形相《ぎょうそう》で自分の前をまっすぐにらみつけ、顎《あご》が頬《ほお》から飛びだしそうになるほど、歯をしっかりと結んで、この盗賊はグングンと突き進み、彼自身の家の戸口のところに来るまで、一言もしゃべらず、筋肉も動かさなかった。彼は戸を鍵でそっと開け、軽々と大股で階段をあがってゆき、自分の部屋にはいると、戸に二重の錠をおろし、重いテーブルをそれに立てかけてから、寝台のカーテンを引き開けた。
女は、いい加減な服装をして、寝台の上に横になっていた。彼の物音で、彼女はもう目をさましていた。彼女は、あわて、ぎょっとしたようすで、からだを起こしたからである。
「起きろ!」男はいった。
「まあ、ビル、あんただったのね!」彼がもどってきたのをいかにもよろこんでいるふうに、女はいった。
「そうだ」が答えだった。「起きろ」
ろうそくが燃えていたが、男は急いでそれをろうそく台からとり、それを炉格子の下に投げこんだ。早朝の戸外のかすかな光に気がついて、女は立って、カーテンを開けようとした。
「そのままにしておけ」彼女の前に手を出して、サイクスはいった。「おれのしようと思ってることには、この光で十分だからな」
「ビル」おびえた低い声で、女はいった。「どうして、そんなにあたしを見つめてるの?」
盗賊は、数秒間、鼻の孔をふくらませ、激しい息使いをして、彼女をながめていたが、ついで彼女の頭と喉をつかんで、彼女を部屋の真ん中に引きだし、一度戸のほうをながめてから、そのがっしりとした手で女の口を抑えた。
「ビル、ビル!」死の恐怖と戦いながら、女はあえいだ。「あたし――あたし、大声も悲鳴もあげないことよ――一度だってね――あたしのいうこと、聞いて――あたしに話して――なにをあたしがしたというの!」
「この牝《めす》悪魔め! てめえ、自分で知ってるはずだぞ」息を抑えて、盗賊はやりかえした。「今晩、おめえは見はられてたんだ。てめえのしゃべった言葉はぜんぶ、聞かれてるんだ」
「じゃ、あたしがあんたの命を助けてあげたように、おねがい、あたしの命も助けてちょうだい」彼にすがりついて、女は答えた。「ビル、ビル、あんたには、あたしを殺す心なんてないはずよ。ああ! 考えてみてちょうだい、あんたのために、この晩だけでも、あたしがどんなに多くのものをすててしまったかをね。あんたはゆっくりと考え、この罪をおかさないようにしなければいけないわ。あたしはこの手を放しはしない。あたしを放りだすことはできないことよ。ビル、ビル、神さまのためにも、あんたとあたしのためにも、あたしの血を流さないでちょうだい! この罪深いあたしの魂にかけ、あたしはあんたを裏切りはしなかったことよ!」
男は自分の腕を引きはなそうと激しくもがいたが、女の腕が彼の腕をしっかりと抑え、どんなにもがいても、その腕をふり切ることができなかった。
「ビル」その頭を彼の胸に乗せようとつとめながら、女は叫んだ、「あの紳士とお嬢さんは、今晩あたしに、ただ一人で静かにのこりの生涯をすごすことができる、どこか外国の土地にある家のことを話してくださったわ。あの人たちともう一度会い、同じ慈悲と親切をあんたにも授けてくださるようにひざまずいてたのむことを、あたしにさせてちょうだい。あたしたち二人は、このおそろしい場所をすて、遠くはなれたとこで、もっとりっぱな生活を送り、お祈りのとき以外には、過去にどんな暮らしをしてきたかを忘れ、おたがいに二度と会うことがないようにしましょう。悔いるのにおそいときはないことよ。世間でもそういっているし――あたしも、いま、それがわかるわ――でも、あたしたちには時――ほんのわずかな、わずかな時が必要だわ!」
夜盗は片腕をふりはなし、ピストルをにぎりしめた。発砲すればすぐに暴《ば》れるということが、この激怒の最中《さなか》にも、彼の心にひらめき、彼は、自分の顔にふれんばかりになっていた上向きの顔を、力まかせに二度、ピストルでなぐりつけた。
彼女はヨロヨロッとし、額《ひたい》の深い切り傷からどっと流れでる血でほとんど目が見えなくなって倒れた。だが、ようやくのことでひざまずいて立ち、胸から白いハンカチ――ローズ・メイリーのハンカチ――をとりだし、弱った力ながらも、それをにぎりしめて両手を高く天にかざし、造り主に慈悲を求めて、最後の祈りをかすかにささげた。
それは見るもおそろしい光景だった。人殺しは、うしろの壁のほうによろめき、それを見まいと、手で目を抑えたまま、太い棍棒《こんぼう》を手にして、彼女を打ち倒した。
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四十八 サイクスの逃亡
夜の幕がロンドンの町におりて以来、暗黒のおおいのもとで、そこでおこなわれたすべての犯罪のうちで、それが最悪のものだった。悪臭を放って朝の大気の中に出てきたおそろしいことのうちで、それはもっとも兇悪、残忍なものだった。
太陽――人間に光ばかりではなく、新しい生命、希望、新鮮さをふたたびもたらす輝く太陽――は、澄《す》んだ光り輝く陽光をごみごみしたこの町の上に投げていた。高価な彩色ガラス、紙をはってつくろいをした窓、大伽藍《だいがらん》の丸屋根、くさった割れ目をとおして、太陽は同じ光を降りそそいでいた。それは殺された女が倒れている部屋をも、たしかに、明るく照らしだした。彼は光をさえぎろうとしたが、その流れはさえぎるべくもなかった。どんよりとした朝にこの光景がおそろしいものだったとすれば、あのキラキラと輝く光の中で、それはどのようにおそろしいものになっただろう!
彼はからだを動かしていなかった。彼は動くのがこわかった。うめき声がひびき、手はピクピクと動き、激怒に恐怖が加えられて、彼は彼女を何回かめった打ちに打った。一度彼はぼろ切れを死体にかぶせたが、女の目を空想し、それが自分のほうに向けられている姿を想像することは、太陽の光の中で、天井でふるえ踊っている血のたまりの反射を見守っているようにかっと見開いて上をにらみつけている目を見るより、もっと苦しいことだった。彼はぼろ切れをまたまたはぎとってしまった。そして、目の前には死体――ただの肉と血がころがっていた――それにしても、大きな肉のかたまりとおびただしい血!
彼は火打ち石を打ち、火をおこし、棍棒《こんぼう》をその中に投げこんだ。その端《はし》に毛がまといついていたが、それは、燃えあがり、チリチリッと焼けて、軽い灰になり、流れる空気に乗って、煙突をまいあがっていった。彼はたくましい男だったが、そんなことにもおびえていた。しかし、彼は棍棒《こんぼう》を、それが焼けくずれるまでもちつづけ、最後には、石炭の上にそれをおいて、それが焼け、灰になるのを待っていた。それから彼はからだを洗い、服をこすった。血痕がとれないところがあったが、彼はそれを切りとり、焼いてしまった。血の斑点がなんと部屋に飛び散っていたことだろう! 犬の足まで、血だらけだった。
こうしたあいだじゅう、彼は一度も、一瞬間も、背を死体に向けたことはなかった。こうした準備が終わると、後ずさりして扉のほうにゆき、犬の足を新しくよごして、犯罪の新しい証拠を街路にもちだすことのないようにと、犬を自分といっしょにひっぱっていった。彼は戸をそっと閉め、それに錠をおろし、鍵をぬいて、家から出ていった。
彼は道の向こう側にゆき、窓を見上げて、外からはなにも見えていないことをたしかめた。二度と仰ぐことのなかった光を部屋に入れようとして、彼女が開こうとしたあのカーテンは、まだ引かれたままになっていた。死体はそのほとんど真下に転がっていた。彼はその事実を知っていた。まったく、あの場所に、光がなんとそそがれていることだろう!
こうして見上げたのは、ほんの一瞬のことにすぎなかった。部屋から出てきて、彼はほっとしていた。彼は口笛を吹いて犬を呼び、さっさと歩き去っていった。
彼はイズリングトンをとおりぬけ、その上にウィッティングトン(イギリスの商人で博愛家、ロンドンの市長にもなった)を讃えて石碑が立っているハイゲイトでは、大股で岡を登り、目的もこれといってもたず、意図もはっきりしないままに、ハイゲイト・ヒルにおりてゆき、おりはじめるとすぐ、ふたたび右にまがり、畠の小道ぞいに進んで、カーンの森のまわりをまわり、ハムステッド・ヒースに出てきた。ヘルス溪谷のそばの窪地《くぼち》をとおりぬけて、彼は反対側の土堤に登り、ハムステッドとハイゲイトの村を結ぶ道を突っ切って、荒地ののこっているところをノース・エンドの畠のところまで進み、横切った畠のひとつの生垣の下で、からだを投げだして、眠りこんでしまった。
間《ま》もなく彼は起きあがり、そこを立ち去っていったが――今度はいなかのほうにではなく、逆に大通りをとおってロンドンに向かい――それから、また折りかえして――彼がすでに横切ってとおった同じ場所をべつの個所でぬけ――ついで、畠をあちらこちらとさまよって、休むために溝のへりに横になり、また飛び起きて、べつのところにゆき、何回かこうしたことをくりかえして、あたりを歩きまわっていた。
食事と酒をとるのに、近くてあまり人目につかぬところといって、彼はどこにゆくことができたろう? ヘンドンだ。そこはあまり遠くなく、人もそうゆかないので、恰好《かっこう》の場所だった。そちらのほうに、彼は足を向けた――ときには走り、ときには、奇妙な気まぐれで、かたつむりのようにノロノロと歩くかと思うと、すっかり足をとめ、自分のステッキで意味なく、生垣《いけがき》を打ちこわしたりしていた。だが、ヘンドンに着くと、彼が出逢ったすべての人――家の戸口にいる子供さえも――彼をうさんくさそうにながめているようだった。何時間も食物を口にしていなかったが、彼は、食物と酒を買う勇気はぜんぜん出ず、道を引きかえし、もう一度、どこにゆくあてもなく、荒地の上をさまよっていた。
彼は何マイルというながい距離をさまよっていたが、結局もとの場所にもどってきた。朝と昼はすぎ、日暮れがせまってきたが、まだ彼はあちらこちらとうろつきまわり、まだ同じ場所のあたりにぐずぐずしていた。とうとう彼はそこを去り、ハットフィールドに向けて道を進んでいった。
まったく疲れきった男と、馴れぬ運動でびっこをひいている犬が、静かな村の教会のわきの岡をおり、小さな通りをトボトボと歩き、小さな居酒屋にはいっていったときには、夜九時になっていた。彼らがそこにひかれていったのは、そこからもれるわずかな光のためだった。酒場には火が燃えていて、その前で、何人かのいなかの労働者が酒を飲んでいた。彼らは見知らぬ男に場所をあけてやったが、彼はいちばん奥の隅に坐り、ひとりというより犬といっしょに飲み食いし、ときどき食べ物を犬に投げてやっていた。
ここに集まった男たちの話は、近くの土地や農夫のことになった。こうした話題がつきると、つぎの話は、前の日曜日に埋葬されたある老人の年齢のことになり、そこにいた若い連中は彼を高齢の老人と考え、そこにいた老人連は、彼はまだ若く――ある白髪のじいさんは、彼は自分より年かさではないといっていた――注意さえしたら、まだ少なくとも十年や十五年は生きのびられたろう、といっていた。
このことに、彼の注意をひき、あるいは、彼の恐怖心をかき立てるものは、なにもなかった。盗賊は、勘定の払いをすませたあとで、隅に無言のまま目立たずに坐り、ウトウトと眠りはじめようとしたとき、新しい客がさわがしくはいってきて、その眠りをほとんどさましてしまった。
これは、砥石《といし》、革砥《かわと》、かみそり、石鹸、馬具の磨き粉、犬や馬の薬、安香水、化粧品といった品物を背負った箱に入れて、徒歩で歩きまわり、それをいなかの人たちに売りつけているなかば行商人、なかば香師《やし》といった奇妙な人物だった。彼の登場は、いなかの人たちがさまざまのつつましい冗談をとばすきっかけになり、その冗談は、彼が食事を終え、宝物を入れた箱を開いて、たくみに商売と楽しみを結びつけようとするときまで、さかんにつづけられた。
「ところで、ハリー、そいつはなんだい? おいしいもんかね?」隅にある合成物の固まりをさして、一人のいなかの人が、ニヤニヤしながらたずねた。
「これは」それをとりだして、男はいった。「これは、ありとあらゆるよごれ、錆《さび》、しみ、かび、斑点《しみ》を絹、しゅす、リンネル、亜麻布、織物、クレープ、反物、じゅうたん、メリノ、モスリン、ボンバジーン、毛織物からぬきとってくれるまちがいのない、貴重この上もない代物《しろもの》だよ。酒のしみ、果物のしみ、ビールのしみ、水のしみ、ペンキのしみ、ピッチのしみ、どんなしみでも、このまちがいのない、貴重この上もない代物《しろもの》をひとなですれば、ぬけてしまうよ。もしご婦人の操《オナー》にしみができたら、この薬を一服のみさえすりゃあ、即座に回復――とにかく、そいつは毒なんだからね。もし紳士が自分の名誉《オナー》を証明しようと思えば、この四角なやつをごくりとひとつ飲めばいい。たちまち疑念解消っていうわけだ――というのも、その効能はピストルの弾丸にもおとらず、その味ときたら、またべら棒にまずいもん、だから、そいつを呑めばいっそう名誉になるというもんさ。四角なやつ一個が一ペニー。こんなに効能がそろって、四角なやつ一個が一ペニーだぜ」
すぐに二人の買い手があらわれ、聞き手の多くは、明らかにためらっていた。売り手はこれを見て、ますます雄弁になった。
「こいつは製造すると、片っ端《ぱし》から売れてゆくんだ」この男はいった。「これをせっせとつくってる水車が十四台、蒸気機関が六台、電池がひとつあるが、とても売れゆきには追いつきようもない。職人はせっせと働きすぎて死んじまう、後家さんは、子供一人年二十ポンドの割りで、すぐ年金をもらう、双子には五十ポンドの賞与金つきだ。さあ、四角なやつ一個が一ペニーだ! 半ペニー二個でも同じこった! ファージングなら四個で、よろこんでいただくよ。四角なやつ一個で一ペニーだ! 酒のしみ、果物のしみ、ビールのしみ、水のしみ、ペンキのしみ、ピッチのしみ、どろのしみ、血のしみだよ! ここの紳士のかたの帽子の上にもしみがある。ビール一パインを注文してくださるまでに、そいつをぬきとってお目にかけよう」
「ああ!」ビクッとしてとびあがって、サイクスは叫んだ。「それをかえせ!」
「旦那、こいつをすっかりぬいてあげますぜ」聞き手一同にウィンクをして、男は答えた。「それをとりに、部屋を横切ってこちらにおいでになるまでにね。みなさん、この紳士の帽子の上の薄黒いしみをごらんあれ。そいつは一シリング玉より大きくはなく、半クラウン玉より厚いもんだ。たとえそいつが酒のしみ、果物のしみ、ビールのしみ、水のしみ、ペンキのしみ、どろのしみ、あるいは血のしみ――」
男の雄弁はこれ以上進まなかった。サイクスがすごいののしり声をあげて、テーブルをひっくりかえし、帽子をさっと彼から奪って、店からとびだしていったからである。
われにもあらず、一日じゅう、彼にこびりついていた意地とにえきらない気持ちで、この人殺しは、自分があとをつけられず、自分が、たいてい、酔っぱらいのすね者と思われているだろうくらいに考えて、足をかえして町にゆき、街路に立っている駅伝馬車のランプのギラギラした光りをさけて、そこをとおりすぎようとした。そのとき、彼は、ロンドンからの郵便馬車が小さな郵便局の前にとまっているのに気がついた。そこからどんなことが起きるかは、彼にはほとんど見当がついていたが、彼は道路を横切ってそこにゆき、耳を澄《す》ませた。
車掌が戸口のところに立って、郵便袋を待っていた。そのとき、猟場番人の服装をした男が近づいてきて、舗道にもう用意しておいてあった籠を車掌は彼に手わたした。
「これはおまえのとこのもんだよ」車掌はいった。「おい、そこの奥の連中、さっさと仕事をたのむぜ。この袋のいまいましいったら! おとといの晩も用意ができてなかったんだからな。おい、こいつはだめだぜ!」
「ベン、ロンドンでなにか新しいことが起こったかい?」猟場番人は、馬をもっとよく見ようと、窓の鎧戸《よろいど》のほうにさがってゆきながら、たずねた。
「いや、おれが知ってるものは、なにもないね」手袋をはめながら、男は答えた。「穀類が少しあがったよ。スピトルフィーズのほうで起きた人殺しの話も聞いたがね。でも、そいつは、あんまりほんとうとも思えねえな」
「いやあ、それは、まったくほんとうのことだぞ」窓から外をながめていた中の紳士がいった。「おそろしい殺人事件だ」
「へえ、そうですか?」帽子に手をあげて、車掌がいった。「男ですかね、女ですかね?」
「女だ」紳士は答えた。「どうやら――」
「さあ、ベン」ジリジリして、御者が口をはさんだ。
「この袋のいまいましいったら」車掌はいった。「そこの奥の連中、寝てしまったのかい?」
「すぐゆくよ」郵便局長がかけだしてきていった。
「すぐに来るだって」車掌はうなった。「ああ、おれに惚《ほ》れこんでる物持ちの若い女のせりふはいつもそうなんだが、それがいつかは、わかったもんじゃねえよ。さあ、よこしな。よーし!」
角笛は陽気な音をひびかせ、馬車は走り去っていった。
サイクスは街路に立っていたが、一見したところ、いま聞いた話に心を動かされたようすもなく、どこへゆこうかというためらい以上に強い感情を味わっていないらしかった。とうとう、彼は足をふたたびもどし、ハットフィールドから聖オールバンにつづく道を進んでいった。
彼はグングンと歩いていったが、町をあとにして、わびしくて暗い道路を進んでゆくと、恐怖・畏怖の念が心に忍びより、それが心の底まで彼をゆり動かした。物にせよ、影にせよ、静止しているにせよ、動いているにせよ、彼の前にあるすべての物事がなにかおそろしい物の形をとっていたが、そうしたものは、彼のあとを追ってつきまとってはなれないあの朝のものすごくおそろしい姿にくらべたら、ものの数ではなかった。彼は暗闇の中でも、その影のあとをたどり、その輪郭《りんかく》のどんな小さなところでも思い出し、それがかたい足どりで重々しく歩いているのを想像することができた。その服が木の葉のあいだでそよぐのが聞こえ、風のすべての息吹《いぶ》きには、あの最後の低い叫びがこもっていた。彼が足をとめると、それは足をとめた。もし走りだすと、それはついてきた――走ってくれたら、多少彼の心は軽くなったろうが、走ってくるのではなく、生命の機械的な動きが与えられているだけで、強まりも弱まりもしないゆっくりとしたわびしい風に乗せられ、運ばれてくるのだった。
ときどき、その目にぶつかって自分が殺されてもかまわない、その幻を追いはらってやろうと、しゃにむに決心して、彼はふりかえったが、それはただ、髪が逆立ち、血が凍りつくだけのことになった。それは彼といっしょに向きをかえ、彼のうしろにまわってしまったからである。その朝、それは彼の目の前に横たわっていたが、それはいま、うしろについていた――いつも。彼は土堤であおむけになったが、今度は、それは頭上にあり、寒い夜空を背景にして、その姿をはっきりとあらわしていた。彼は身を道路の上に投げだし――道路上であおむけになった。彼の頭のところに、それは静かに、直立し、身じろぎもせず、立っていた――それは碑文を血で染めた生きた墓石になっていた。
殺人者は、裁きをのがれ、神が眠っていると考えてはいけない。あの恐怖の苦悶のながい一分間のなかには、非業の死四百に値する苦しみがひそんでいるのだ。
彼がとおった畠には一軒の小屋があり、彼に一夜の露しのぎの宿を提供した。戸の前に三本のポプラの木があり、それは奥のところをとても暗くし、おそろしいうめき声を立てて、風がそこを吹きとおっていた。昼の明るさがふたたび訪れるまで、歩きつづけることはできなくなった。ここで、彼は壁にぴたりそって、からだをのばし――新しい拷問《ごうもん》の苦しみを受けることになった。
それというのも、彼がそのときまで逃避してきた幻と同じように、いつも、それよりもっとおそろしい幻が、いま、彼の目の前にあらわれたからである。彼が想像するよりじっさいに見たほうがまだましだと思ったあのどんよりとした、つやのないかっと見開かれた目が、暗闇の最中《さなか》にあらわれた――それ自体は光なのだが、どんなものにも光を投げてはいなかった。それは二つだけだったが、どこにも見られるものだった。もしその光景に目を閉ざすと、よく知っている品物がすべてその定めた場所にあるあの部屋があらわれ――そうした品物は、記憶からその内容を考えようとすると、忘れてしまうようなものだった。死骸はもとの場所にあり、その目は、彼が部屋を逃げだしていったときに見たとおりのものだった。彼は起きあがり、外の畠にとびだしていった。あの姿は彼のあとについてきた。彼はふたたび小屋にかえり、身をちぢませて、かがみこんだ。彼が身をまだ横たえないうちに、例の目は目の前にもどってきていた。
そしてここに、彼しか知らぬ恐怖につつまれ、手足をワナワナとふるわせ、毛穴という毛穴から冷汗をしたたらせて、彼はジッとしていたが、そのとき、急に、夜風に乗って、叫びの遠い音がひびき、おびえと驚きの入りまじったさわがしい人声が聞こえてきた。このわびしい場所での人声は、たとえそれがほんとうにおそろしい原因から発せられたものであろうとも、彼にはありがたいものだった。彼は身の危険を感じて、元気と気力をとりもどし、さっと起きて、戸外にとびだしていった。
大空は燃えあがっているようだった。火の粉《こ》といっしょに空にまいあがり、重なりあった渦《うず》になって、火の海はひろがり、何マイル四方の空を染め、彼が立っている方向に、煙の雲を吹き流していた。新しい人声がどよめきを大きくするにつれて、叫びは、いっそう大声になり、警鐘のひびき、重いものの倒れる音、新しい障害物をつつみ、新しい獲物で元気づいたように高く吹きあげる炎のはぜる音にまじって、火事だ! という叫びが聞こえてきた。見ている間《ま》に、そのさわぎは大きくなっていった。そこには人の群れ――男と女――燈《あか》り、雑踏があった。それは、彼にとって、新しい生命のようだった。彼は前進した――まっすぐ、しゃにむに――|いばら《ヽヽヽ》や茂みを突きぬけ、木戸の生垣《いけがき》を飛び越え、大きく、よくひびく声を立てて前を吠えながら走っていく彼の犬のように、しゃにむに彼は突き進んでいった。
彼は現場に近づいた。半裸の人の姿が右往左往し、うまやからおびえた馬を引きだそうとしている人あり、内庭やら納屋《なや》から家畜を追いだし、降りそそぐ火の粉《こ》の中で燃えている家や倒れかかる灼熱した梁《はり》から荷物を背負って出ようとしている人ありだった。一時間前には戸や窓が立っていた隙間《すきま》は、荒れくるう火のかたまりをあらわしていた。壁はゆらぎ、燃える火の海に倒れこみ、とけた鉛や鉄は、白熱して、大地の上に流れ落ちていた。女と子供は悲鳴をあげ、男は、さわがしい叫びとかけ声で、たがいに元気をつけあっていた。エンジンポンプの動く音、水が燃えている木材にざあざあとかけられてシューシューいう音が、そのすごいさわぎをいっそうかきたてていた。彼も声がかれてしまうまで叫び、追憶と自己からのがれて、人込みのいちばんはげしいところにとびこんでいった。
その夜、彼はあちらこちらととびまわった。いまポンプを動かしているかと思うと、つぎの瞬間には、煙と炎の中をくぐりぬけ、さわぎと人がいちばん雑踏しているところでは、どこでも、せっせと活躍していた。梯子《はしご》を登ったりくだったりし、建物の屋根の上にあがり、彼の重みでユラユラとゆれている床に棒立ちになり、くずれ落ちてくる煉瓦や石の下にがんばって、その大火のあるところどこにでも姿をあらわしていた。しかし、彼は魔力をおびた力の持ち主で、かき傷も打ち傷も受けず、夜がふたたび明け、煙と黒々とした廃墟だけがのこっている朝になるまで、疲れも知らず、考えごともしないで、働きつづけた。
この狂気の興奮がおさまると、前の十倍もの力で、罪のおそろしい意識がもどってきた。彼は、うさんくさそうに、あたりを見まわした。人々がいくつかかたまりになって話し合い、彼は自分がその話題の主になるのをおそれていたからである。犬は彼の指が意味深に動く合図にしたがい、彼らはそっと現場をはなれていった。火消しポンプのわきをとおりすぎたが、そこでは何人かの男たちが腰をおろし、いっしょに食べてゆけと、彼に声をかけた。彼はパンと肉をもらい、ビールを飲んでいるとき、ロンドンからやってきた火消したちが例の殺人事件のことを話しているのを耳にした。「犯人はバーミンガムに逃げたそうだぜ」一人がいった。「だが、とっつかまるさ。というのも、捜索隊は出されたし、明日の夜までには、国中におふれが出るだろうからな」
彼は急いでそこを立ち去り、ほとんど地面に倒れそうになるまで、歩きつづけた。それから、彼と犬は小道に身を横たえ、ながいあいだ、とぎれとぎれの不安な眠りをむさぼった。彼はふんぎりがつかず、どうといった目的もなく、もう一夜、夜をすごさねばならぬ恐怖にさいなまれて、ふたたびブラブラと歩きだした。
いきなり、彼はロンドンにもどってゆこうという無謀な決心を固めた。
「とにかく、あそこには話をすることができる人間がいる」彼は考えた。「その上、かくれ家としては、上々だ。こうしていなかに姿をあらわしたあとで、まさかおれがロンドンでとっつかまるとは思うまい。一週間ほどジッともぐり、フェイギンから金をしぼりだして、フランスへ逃げだすことだって、当然できるわけだ。畜生、いちかばち、そいつをやってみよう」
彼はただちにこの衝動にもとづいて行動をおこし、人通りのいちばん少ない道をえらんで、ロンドンへの旅をはじめ、首都の近くに身をかくし、まわり道をして夜そこにはいり、彼がゆく先と定めたところに直行しようと決心した。
だが、問題は犬だった。彼の人相書きがまわされていたら、犬が姿を消していることが注意をひかないわけはなく、彼についていったものと考えられるだろう。街路をとおってゆくとき、これが彼の逮捕のきっかけになるかもしれない。彼は犬を水に投げこもうと決心し、歩いてゆきながら、池をさがし、重い石をひろいあげて、それをハンカチに結びつけた。
こうした準備が進行中、犬は目をあげて、主人の顔をのぞきこんでいた。犬が本能的にそうした準備の目的を多少さとったか、あるいは盗賊が犬に投げる横流しの目がふだんよりきびしいものだったか、そのいずれにせよ、犬はいつもより少しはなれて、主人のあとをコソコソと進み、歩みをゆるめて、おびえていた。主人が水たまりのへりで足をとめ、ふりかえって犬を呼んだとき、犬はすぐにピタリと足をとめた。
「おれが呼んでるのが聞こえねえのか? ここに来い!」サイクスは叫んだ。
犬は習慣の力で近づいてきたが、サイクスがかがんでハンカチを犬の首につけようとすると、犬は低いうなり声をあげて、パッとうしろにとびさがった。
「ここへ来い?」盗賊はいった。
犬は尻っ尾をふったが、動かなかった。サイクスは輪なわをつくり、犬をまた呼んだ。
犬は前に進み、ひきかえし、ちょっととまってから、フルスピードで走り去ってしまった。
男は何回も何回も口笛を吹き、犬がもどってくるものと思って、腰をおろして待っていた。だが、犬は姿をあらわさず、とうとう、彼はふたたび歩きだした。
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四十九 マンクスとブラウンロウ氏がついに出逢う――二人のあいだにかわされた話とその最中にはいった知らせ
宵闇《よいやみ》のせまるころ、ブラウンロウ氏は自分の家の戸口のところで貸し馬車からおり、そっと戸をたたいた。戸は開かれ、がっちりとした男が馬車から出てきて、踏み台のわきに立ち、御者台に乗っていたもう一人の男もおりてきて、その反対側に立った。ブラウンロウ氏の合図を受けて、二人は第三の男をひきだし、彼を真ん中にはさんで、さっさと家の中にはいっていった。この真ん中の男はマンクスだった。
彼らは、同じ態度で、一言もしゃべらず、入口の階段を登り、ブラウンロウ氏が先頭に立って、彼らを裏の部屋に連れこんだ。この部屋の戸口のところで、いままでも気が進まぬようすで歩いていたマンクス氏は、足をとめた。二人の男は、ブラウンロウ氏の指示を仰ぐように、老紳士のほうを見た。
「どちらを選ぶか、その道は知っているはずだ」ブラウンロウ氏はいった。「もし彼がもじもじし、あるいは、命令とちがったふうに指一本でも動かしたら、彼を道路に引きずり出し、警察を呼んで、わしの名で、兇悪犯としてわたしてしまうがいい」
「どうして、ぼくのことをそんなふうにいうんです?」マンクスはたずねた。
「若いの、どうして、きみはわしにそんなことをさせるのだね?」しっかりとした態度で、彼と向かい合って、ブラウンロウ氏は答えた。「きみはこの家を出てゆくほど頭がおかしくなっているのかい? 手を放してやりなさい。さあ、きみ、きみは自由にゆけるのだ。そして、われわれは自由にきみのあとを追えるのだ。だが、わしがもっとも重大・神聖なものと考えているすべてのものにかけ、注意しておくが、きみが街路に出た瞬間、わしはきみを詐欺《さぎ》と窃盗《せっとう》の罪で逮捕させるぞ。わしのこの決意は動かぬものだ。もしきみが出てゆこうというのなら、きみの血がきみ自身の頭に流されることになるのだ!」
「ぼくが街路でかどわかされ、こいつらにここへ連れてこられたのは、どんな権限によるものなんです?」自分のわきに立っている男を交互にながめながら、マンクスはたずねた。
「わしの権限によるものだ」ブラウンロウ氏は答えた。「この人たちの法律的責任は、このわしが引き受けている。もしきみが自分の自由が奪われたことに文句をつけたいのだったら――ここに来る途中でも、きみはそれをとりもどす力も機会もあったわけ、しかも、きみはだまって静かにしていることを得策と考えたのだ――もう一度、わしはいおう、法律に保護を求めたまえ。わしも法律の施行を求めることにしよう。だが、やりすぎて、とりかえしがつかなくなったとき、わしに慈悲を求めることはせぬがよい。そのときには、そうした力はわしの手の外にうつっているのだからな。そして、自分がとびこんでいった深淵《しんえん》の中に、わしがきみを投げこんだなどといってもらいたくはないものだな」
マンクスは明らかにとまどい、その上、おびえていた。彼はもじもじした。
「さあ、早く決めてくれ」ブラウンロウ氏は、一分《いちぶ》のすきもないしっかりした態度と落ち着きを見せていった。「もしきみがわしの公開の告発のほうを望み、予想しただけでも身がふるえる刑罰に身をゆだねたいのだったら、わしとしてはどうとも仕方がない。もう一度くりかえすが、ここを出てゆきたまえ。もしそうでなく、わしの寛大をねがい、きみがひどい傷を与えた人々に慈悲を求めるのだったら、なにもいわず、あの椅子に腰をおろしなさい。この二日間、あれはきみを待っていたのだ」
マンクスはなにかわけのわからぬ言葉をつぶやき、まだ、ためらっていた。
「早くしてくれたまえ」ブラウンロウ氏はいった。「これ以上一言でもわしにものをいわせると、この選択権は永遠に消えてしまうのだよ」
マンクスは、まだためらっていた。
「わしは妥協の話し合いをしようとは思っていないのだ」ブラウンロウ氏はいった。「わしはほかの人のもっとも大切な利益を弁護しているのだから、そんなことを話し合う権利はもっていないのだ」
「ええ」口ごもりながら、マンクスはたずねた――「ええ、妥協の道は、ぜんぜんないのでしょうか?」
「ない」
マンクスは心配そうなまなざしで老紳士をながめたが、その顔には峻厳《しゅんげん》さと断固たる決意以外にはなにもうかがえなかったので、彼は部屋にはいり、肩をすくめて、腰をおろした。
「外から錠をおろし」ブラウンロウ氏は従者たちにいいつけた、「そして、鐘を鳴らしたら、ここに来てくれたまえ」
男たちは彼の命令どおりに動き、二人だけがあとにのこされた。
「これはりっぱな待遇ですな」帽子と外套《がいとう》を投げだして、マンクスはいった。「ぼくの父の親友から受けるものとしてはね」
「それは、わしがきみのお父さんの親友ならばこそなのだ、きみ」ブラウンロウ氏はやりかえした。「それは、若くて幸福な時代の希望とねがいがきみのお父さんと結びつき、若くして神さまに召され、わしを孤独なわびしい男にしてしまったお父さんの血つづきの、あの美しい娘と結びついているからこそなのだ。それは、神さまのご意志とはかけちがってしまったが、彼女がわしの若い妻になるところだったあの朝、まだ少年だったきみのお父さんが、わしといっしょに、ただ一人の姉の臨終の床に、ひざまずいたためなのだ。それは、わしの乾あがってしまった心が、そのときから、彼の苦しみ・あやまちすべてをとおして、死にいたるまで、きみのお父さんからはなれなかったためなのだ。それは、古い追憶・連想がわしの心を満たし、きみを見てさえ、むかしのきみのお父さんのことを思い出させるからだ。こうしたことすべてがあればこそ、わしは心動かされて、いま、きみをやさしくあつかい――そう、エドワード・リーフォード、いまでさえも――その名を名乗る資格のないきみのことで顔を赤くしようとしているのだ」
「名前がそれとどんな関係があるんです?」なかばおしだまり、なかばひどく驚いたようすで、相手の興奮をジッとながめていたあとで、マンクスはたずねた。「名前が、ぼくにとって、どうだというんです?」
「なんでもない」ブラウンロウ氏は答えた――「きみにとっては、なんでもない。だが、それは彼女のものだったのだ。そして、こうして時をへだてたいまでも、見知らぬ者の口にそれが語られるのを聞いても、老人であるこのわしに、かつてわしが感じた栄光・感激を思い出させるのだ。わしはきみがそれを変えてくれたことを、とてもうれしく思っている――とても――とてもな」
「それはとても結構《けっこう》なことですな」ながいあいだだまっていて、そのあいだ、ふてくされて、からだを前後にゆすっていたマンクスはいい、ブラウンロウ氏は、片手で顔をかくしながら、坐っていた。「だが、ぼくにどんな用事があるんです?」
「きみには弟がある」元気をふるいおこして、ブラウンロウ氏はいった。「弟があるのだ。通りできみのあとにわしがついていったとき、その名をきみの耳にささやいただけで、きみは驚きと恐怖につつまれ、わしについてきたのだ」
「ぼくに弟はいませんよ」マンクスは答えた。「ぼくがただ一人の子供だったということは、あなたもご存じです。あなたはどうして弟たちのことをいうのです? そのことは、ぼくと同じように、あなただってご存じでしょうが?」
「きみは知らぬかもしれんが、わしのよく知っていることを、注意して聞きたまえ」ブラウンロウ氏はいった。「すぐにきみも興味をもつようになるからな。わしは知っているが、きみの父親は、まだほんの小さな少年のとき、家の誇りとじつに下劣で根性のせまい野心のために、みじめな結婚を強《し》いられ、それから生まれたただ一人の、じつに異常な子供がきみだったのだ」
「悪口をいわれても、ぼくは平気ですよ」嘲笑的に笑って、マンクスはさえぎった。「あなたは事実をご存じ、それでぼくには十分ですからね」
「だが、わしはまた知っている」老紳士は話をつづけた。「あの不釣り合いな結婚のもたらしたみじめさ、だんだんと深まる苦悩、長期の苦悶をな。どんなにわびしく、満ちたりぬ思いで、あのみじめな夫妻のそれぞれが、彼らの目にはもう毒されてしまったこの世を、重い鎖を引きずって進んでいったか、わしは知っているのだ。冷たい型にとらわれたもののあとにあからさまな嘲笑がつづき、冷淡が嫌悪の情、嫌悪の情が憎しみ、憎しみがいみきらう心に変わってゆき、ついに二人がその鳴りひびく鉄のきずなを断ち切り、遠くはなれて暮らして、それぞれが苦しい鉄のきずなの半分をひきずり、その鉄の鎖の鋲《びょう》を断ち切ってくれるのは死のみ、それを、新しい社会で、よそおえるかぎりの華やかなようすでかくそうとしたことを、わしは知っているのだ。きみのお母さんはうまくやった。彼女はすぐそれを忘れてしまった。だが、それは、ながい年月のあいだ、きみのお父さんの心に錆《さび》のようにこびりつき、それをすっかり破壊してしまったのだ」
「ええ、二人はわかれましたよ」マンクスはいった。「そして、それがどうだというんです」
「わかれてから、しばらくして」ブラウンロウ氏は切りかえした。「きみの母親が大陸でふわついた生活におぼれ、自分より十歳|齢下《としした》の若い夫のことをすっかり忘れてしまったとき、彼は、将来の見とおしが真っ暗になったまま、イギリスにフラフラしていて、新しい友だちと知り合いになった。この事情は、少なくとも、きみはもう知っているね?」
「いいや」目をそらし、足で地面をたたきながら、マンクスは答えたが、それは、どんなことでも否定しぬこうと腹をきめている態度だった。
「きみの行動ばかりか、きみの態度は、きみがそれを忘れず、いつもにがにがしい思いでそれを思い出していることを物語っている」ブラウンロウ氏はいった。「わしは十五年前のことを話しているのだ。そのとき、きみはまだ十一歳、きみのお父さんは三十一でしかなかった――くりかえしていうが、彼の父親の手で、彼がむりやり結婚させられたとき、彼はまだほんの子供だったのだからね。わしはきみの父親の思い出に暗い影を投げる事実にもどらねばならんのかね? それとも、それをはぶいて、わしに真実を話してくれるかね?」
「話すことって、べつにありませんよ」マンクスは答えた。「あんたのほうで話したけりゃ、話しつづけていいですよ」
「それじゃいうが、その新しい友だちというのは」ブラウンロウ氏はいった。「退役した海軍の将校で、その奥さんは半年ほど前に亡くなり、二人の子供がのこされ――もっと子供がいたが、そのうち、幸いなことに、二人だけのこったのだ。この二人の子供は、どちらも娘で、一人は十九歳の美しい乙女《おとめ》、もう一人は二、三歳のまだ小さな子供だった」
「それがぼくに、どうだというんです?」マンクスはたずねた。
「彼らが住んでいた場所は」相手の言葉は耳にもはいらぬといったようすで、ブラウンロウ氏はつづけた、「きみの父親が放浪していった地方にあり、彼はそこに住むことになった。交際、親しみ、友情と親密さは急速に進展していった。きみの父親はなかなかの才人だった。彼は姉の魂とからだを受けついでいた。老将校は、この彼のことを知るにつけ、彼を好きになっていった。それだけですめばよかったのだが、彼の娘も同じ気持ちになったのだった」
老紳士はここで一息入れた。マンクスは、ジッと目を伏せて、唇をかんでいた。このようすを見て、老紳士はすぐ話をつづけた――
「一年の終わりには、彼はその娘と婚約し、厳粛に婚約し、純真な娘の初恋の、誠実で熱烈な愛情の対象になった」
「あなたの話は、じつにながいもんですな」椅子で落ち着かぬふうに身を動かして、マンクスはいった。
「きみ、これは悲しみ、苦悶、嘆きの実話なのだ」ブラウンロウ氏は答えた。「こうした話はそういうものなのだ。それが純粋のよろこびと幸福の話だったら、とても短いものになるところだがね。とうとう、その利益と世間態《せけんてい》のためにきみの父親が犠牲になった親類――これはよくあることで、べつに珍しいことではないが――の一人が死亡し、自分が動いてひき起こした不幸のつぐないにと、あらゆる悲しみの万能薬――金をきみの父親にのこした。この親戚の人は保養のためにローマにゆき、そこで死亡し、家の事情はひどい混乱状態にあったので、きみの父親はローマに急行しなければならなくなった。彼は出かけていったが、そこで死病にかかり、その知らせがパリに着くや、きみの母親は、きみを連れて、そこにいった。彼は、彼女の到着の翌日、死んでしまったが、遺言状――遺言状はなにものこさず、したがって、財産はぜんぶ彼女ときみの手にわたったのだ」
話のここのところで、目を語り手に向けてはいなかったが、マンクスは息を殺し、ひたむきな表情を顔に浮かべて、ジッと聞き入っていた。ブラウンロウ氏は話を切ったが、マンクスは急にほっとしたといった態度で、姿勢を変え、ほてった顔と手をぬぐった。
「きみの父親が海外にゆくまえ、ロンドンをとおったとき」ゆっくりと、目を相手の顔にすえて、ブラウンロウ氏はいった。「彼はわしのところに立ち寄った」
「その話は聞いたことがありませんね」信じられぬといった気持ちをあらわそうとしたが、それよりむしろ、不愉快な驚きを暗示した語調で、マンクスは口をはさんだ。
「彼はわしのところに立ち寄り、いろいろのものをおいていったが、一枚の絵――彼自身が描いた肖像画――このあわれな娘の似顔絵――をわしにのこしていった。それは、彼が留守宅にのこしておきたくはなし、さりとて、あわただしい旅行にもってゆくこともできなかったのだ。彼は心配と悔恨で影のように痩《や》せ細り、自分でしでかした破滅と不名誉を、激しい勢いで気がくるったように話し、どんなに損をしても、自分の財産すべてを現金に変え、奥さんときみに新しく得た財産の一部を贈り、イギリスをとびだし――彼が一人でとびだしてゆくつもりがないことは、わしも十分に見当をつけていた――二度と帰ってくる意志のないことを、わしに打ち明けた。このわし、その強い愛情は二人にいちばんなつかしい人を埋めている大地に根ざしている彼の親しい、幼なじみのわしにさえ、彼はそれ以上なにも打ち明けず、あとの手紙ですべてを伝え、その後この世で最後にもう一度会おうと約束したのだ。ああ! それが最後になってしまった。わしは手紙を受けとらず、彼とももう会えなかった」
「わしは出かけていった」少し間《ま》をおいて、ブラウンロウ氏はいった――「すべてが終わったとき、わしは彼の――わしは世間でよく使っている言葉を使うことにしよう。世間の冷酷も好意も、いまの彼には同じことなのだから――罪深い恋愛の場面に出かけてゆき、もし懸念していたとおりの事態になっていたら、その身をあやまった娘さんに、彼女の身を守り同情を与える家と心を提供しようと決心していた。一家の者は一週間前にそこを引きはらっていた。彼らは未払いのまま放っておいたわずかな負債をはらい、夜そこを出ていったのだった。そうして、どこへいったか、だれにもわからなかった」
マンクスはほっとしたようすで一息つき、勝ちほこった微笑を浮かべて、あたりを見まわした。
「きみの弟が」相手の椅子に身をよせながら、ブラウンロウ氏はいった――「きみの弟――弱々しい、ボロボロ服姿の、放りだされたままの子供だったが――が偶然とはとてもいえぬ強い神のみ手によってわしにわたされ、悪事と不名誉の生活から救い出されたとき――」
「なんですって?」マンクスが叫んだ。
「わしの手でな」ブラウンロウ氏はいった。「わしは前に、おもしろい話をしてあげるといっていたろう。そう、わしの手でな――きみの抜け目のない仲間は、わしの名を伏せたままにしていたらしいな。そんな名はきみの耳には聞き知らぬ名だと思っていたのだろうが……。きみの弟がわしに救われ、わしの家で病気の身を横たえて、回復を待っていたとき、わしがいま話した絵に彼がとても似ていることで、わしはびっくりした。泥によごれた、みじめな彼の姿をはじめて見たときでさえ、まざまざとした夢でさっと思い出す旧友の姿といった、どことなく名残《なご》りをとどめているある表情が彼の顔にあらわれていた。彼の来歴をきく前に彼がかどわかされたことは、きみに話す必要もないことだが――」
「どうしてです?」マンクスは急《せ》きこんでたずねた。
「きみがそれをよく知っているからだ」
「ぼくが!」
「わしに知らぬといったって、むだなことさ」ブラウンロウ氏は答えた。「きみに教えてあげよう、わしはそれ以上のことを知っているのだ」
「あなたは――あなたは――ぼくに不利になることは、なにも証明できませんよ」マンクスはどもっていった。「それができるものなら、やってごらんなさい!」
「いずれわかるさ」さぐるような目つきで、老紳士はやりかえした。「わしはその少年を失い、どうさがしてみても、見つけることができなかった。きみの母親はもう死んでいるので、その秘密を解く者がだれかいるとすれば、それはきみだ、ということが、わしにはわかっていた。そして、きみのうわさを調べた最後の情報では、きみが西インド諸島のきみ自身の所有地にいることがわかっていたので――きみが知っているとおり、きみの母親が死んだとき、きみはそこへ引っこみ、ロンドンでの悪業の結果をのがれようとしたのだ――わしはそこへ航海していった。きみは、何か月か前、そこを出てゆき、ロンドンにいっているものと考えられてはいたものの、まったく行方不明になっていた。わしはイギリスにもどったが、きみの財産管理人も、きみの住所の手がかりは、ぜんぜんつかんでいなかった。彼らの話では、いままでと変わらず、きみは出没していて、ときに何日間もぶっつづけにあらわれるかと思うと、今度は何か月もあらわれず、どうやら、手に負えぬ激しい少年であったころと同じ低級な場所に出入りし、同じいかがわしい仲間と交際しているらしかった。わしは、いろいろとうるさいほど管理人にたのんだ。わしは、夜も昼も、街路を歩きまわった。だが、二時間前までは、わしの努力は空しく消えてしまい、きみの姿をチラリとでも見かけることができなかった」
「でも、いまはぼくの姿を見てるんですね」ぬけぬけと立ちあがって、マンクスはいった。「それで、どうだというんです? 詐欺《さぎ》と窃盗《せっとう》とは、おそれいった言葉ですな――どこかの餓鬼《がき》が死んだ男のつまらぬ絵にどこか似ているからといってね。弟ですって! あんたは、この涙っぽい夫婦のあいだに、子供が生まれたことさえ、知らないんでしょう? あんたはそのことさえ、知らないんです」
「|知らなかった《ヽヽヽヽヽヽ》よ」ブラウンロウ氏も立ちあがっていった。「だが、過去二週間のうちに、わしはそうしたことすべてを知ったのだ。きみには弟があるのだ。きみはそのことを知っているし、彼のことも知っているのだ。遺言状があり、きみの母親はそれを破りすて、彼女が死んだとき、その秘密と利益をきみにのこしたのだ。そこには、この悲しい縁組みから生じそうな子供についての言葉があった。その子は、事実、生まれ、偶然きみがその子に会ったとき、父親に似ていることが、はじめてきみの疑惑をひき起こした。きみはその子が生まれた場所にいった。彼の誕生と血統を物語る証拠――ながいあいだかくされていた証拠があった。こうした証拠はきみの手で破棄され、仲間のあのユダヤ人にいったきみの言葉では、『だから、あの少年の素性《すじょう》を語る証拠は川の底、彼の母親からそれをもらった婆《ばばあ》は、棺桶の中でくさりかけてるんだ』というわけだ。不肖《ふしょう》の子、卑怯者、嘘《うそ》つき――夜暗い部屋で、盗賊や人殺しと隠密の会議をもよおし――その陰謀と策略は、おまえの何百万倍も価値のある人物の頭の上に非業の死をもたらし――ゆりかごの幼児のころから、きみ自身の父親の心の苦しみと悩みの種になり、すべての兇悪な情熱、悪事、放蕩《ほうとう》がうみくさっていって、そのはけ口がおそろしい病疫となり、それがきみの顔を変えて、きみの性格を物語る形相《ぎょうそう》にしてしまったのだ――エドワード・リーフォード、きみはそうした人間なんだが、まだおこがましくも、このわしに反抗するのか?」
「いや、いや、いや!」こうしてズバリ、ズバリときめつけられて、卑怯者はたじろいだ。
「すべての言葉!」老紳士は叫んだ――「きみとこのいまわしい悪党のあいだでかわされたすべての言葉を、わしはちゃんと心得ているのだぞ。壁にうつった影がきみのささやきをとらえ、それをわしの耳に伝えてきたのだ。しいたげられた子供を見て、悪人も気が変わり、勇気をふるいたたせて、善人と同じ働きをしたのだ。殺人がおこなわれたが、事実上はともかく、その道義的な責任はきみにあるのだぞ」
「いや、いや」マンクスは口を入れた。「ぼくは――ぼくは――そんなことはなにも知りませんよ。その真相を調べようと出かけたとたん、あんたにつかまったんです。その原因がわからなかったんです。ありきたりの喧嘩とは思ってたんですがね……」
「きみの秘密を一部もらしたためなのだ」ブラウンロウ氏は答えた。「秘密をぜんぶ、打ち明けるかね?」
「ええ、打ち明けます」
「真実と事実の陳述書に署名し、証人の前でそれをくりかえし陳述するかね?」
「それも約束しましょう」
「その書類ができるまで、ここにジッとしていて、その立証にわしがいちばん好都合と思うところに、わしと同行するかね?」
「ぜひにとおっしゃるなら、それもしますよ」マンクスは答えた。
「きみのすることは、それだけではない」ブラウンロウ氏はいった。「純真で、なんの罪もおかしていない子供にたいして、つぐないをしてやりたまえ。道ならぬ、じつにみじめな恋愛から生まれた子にせよ、彼はそうした少年なのだ。きみは遺言状の条項を忘れてはいないな。きみの弟に関するかぎり、その条項を履行し、それがすんだら、どこへなりと、好きなところにゆくがよい。きみたち二人は、この世で二度と会う必要はないのだ」
マンクスが、一方では恐怖に、他方では憎悪にさいなまれながら、部屋をゆききし、暗い兇悪な顔つきをして、この譲渡の問題とそれを避ける方法を思いめぐらしているあいだに、扉があわただしく開けられ、紳士(ロスバーン氏)がひどく興奮してはいってきた。
「あいつがつかまりますぞ」彼は叫んだ。「今晩つかまるでしょう!」
「殺人犯人ですか?」ブラウンロウ氏はたずねた。
「そう、そう」相手は答えた。「彼の犬がどこかもとの古巣の近くをうろつきまわっているのが発見され、その主人が、夜陰に乗じて、そこにもう来ているか、あるいは、近く来るものと、だいたい目星をつけられているのです。密偵は八方に歩きまわっています。やつの逮捕を担当している刑事と話したんですがね、やつは絶対にのがれられない、といってましたよ。政府は、今夜、百ポンドの賞金を出しました」
「もう五十ポンド、わしが出しましょう」ブラウンロウ氏はいった。「もし現場にゆけたら、その場でわしが自身の口から、それを伝えることにしましょう。メイリー氏はどこにいます?」
「ハリーですか? 馬車で、あなたといっしょに、あなたのここの友人を送りとどけるとすぐ、いまの話の場所に大急ぎでゆきました」医者は答えた。「そして、馬に乗り、郊外のどこか打ち合わせのできている場所で、最初の逮捕隊と合流するために、とびだしてゆきました」
「フェイギンだが」ブラウンロウ氏はいった、「やつはどうなりました?」
「わたしが耳にした最後の情報では、まだとらえられてはいませんでした。が、いずれつかまるか、もういまごろは、つかまっているでしょう。警察のほうでは、やつは大丈夫といっていました」
「決心がついたかね?」ブラウンロウ氏は低い声でマンクスにたずねた。
「ええ」彼は答えた。「あなたは――あなたは――ぼくのことは秘密にしてくださいますね?」
「秘密にする。わしがもどってくるまで、ここにいたまえ。それが、きみの身の安全の唯一の方法なのだからな」
ブラウンロウ氏とロスバーン氏は部屋を出てゆき、扉にはふたたび錠がおろされた。
「あなたはどんな手を打ったんです?」声をひそめて、医者はたずねた。
「わたしのしたいと思っていたことをぜんぶ、いや、それ以上のことをしました。あのあわれな女の情報、わたしが前もって知っていた事実、それに、われわれの親切な友人が現場で調べてくれた結果を結び合わせて、彼にはもう有無《うむ》をいわせず、こうした光によって白日のようにはっきりとしてきた悪事すべてを暴露してやりました。手紙を出し、会合の時刻をあさっての夕方七時と指定してやってください。われわれは数時間前にそこにゆくでしょうが、休まなければなりません。とくにあの若いご婦人はね。彼女にはあなたやわたしがいま予想している以上に、しっかりとした態度を示してもらわなければならんのですからな。だが、あの殺されたあわれな女の復讐をしようと、わたしの血は燃え立っています。彼らはどっちにゆきました?」
「すぐに警察においでなさい。そうすれば、まだ間《ま》にあいますよ」ロスバーン氏は答えた。「わたしはここにのこりましょう」
二人の紳士は、それぞれ抑えきれぬ興奮につつまれて、あわただしくわかれていった。
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五十 追跡と逃亡
ロザハイズの教会が境を接しているテムズ河畔の地区は、土堤の上に立っている建物がこの上なくきたなく、川に浮かぶ船は石炭船のほこりとみっしり建てられた屋根の低い家のはきだす煙で真っ黒になっているところだが、その近くに、ロンドンの住民の大部分にはその名もまったく知られていない、じつにきたない、じつに奇妙な、じつに異常な場所がひそんでいる。
この場所にゆきつくには、人は荒らっぽい、最低の貧乏生活をしている河岸の住民が群れ集まり、そうした人たちがはじめたかと思われる独特の商売をせっせとやっている家の密集した、せまい、泥だらけの迷路の道をとおりぬけてゆかなければならない。最低に安い、じつにまずい食料品が店につみあげられ、もっとも粗末な、ありきたりの衣料品が売店の戸口にぶらさがり、家の手すりや窓から風にたなびいて流れている。最下級の失業労働者、底荷仲仕、石炭陸揚げ人夫、あつかましい女たち、ぼろ着をつけた子供、川から打ちあげられたがらくたやくずと肩をつきあわせ、右や左にこまかに分かれているせまい裏道からのひどい光景と悪臭に襲われ、いたるところに立っている倉庫の群れからうず高くつまれた商品を運びだす大きな荷車の立てるすごい物音に耳をつんぼにされて、人はようやくのことで進んでゆく。
彼がとおりすぎた街路よりもっとはなれ、人どおりの少ないところにとうとうゆきつくと、舗道の上につきだしているいまにも倒れんばかりの家の正面、とおってゆくとくずれ落ちそうなボロボロの壁、なかばこわれ、崩壊しそうになっている煙突、時とほこりがほとんどむしばんでしまった錆《さび》だらけの鉄桟のついた窓、ありとあらゆる荒廃と放置の徴候の下を、とおりぬけることになる。
こうした地区で、サザック市のドックヘッドの向こうに、ジェイコブ島があるが、それは、潮がさしてくると深さ六フィートから八フィート、広さ十五フィートから二十フィートになり、かつてはミル・ポンド、この話の当時はフォリー・ディッチとして知られていたどぶ溝でかこまれていた。それはテムズ川からわかれたクリーク、あるいは入江といったもので、そのむかしの名のいわれになった鉛製造所の水車小屋の水門を開けば、満潮時にはいつも水がいっぱいになるものだった。こうしたとき、ミル小路のところで、そこにかけられた木造の橋の上からながめると、人は両岸の家の住民が戸や窓から、水を引きあげるために、バケツ、桶《おけ》、その他の道具類をおろしているのを見ることができ、目をそうした仕事から家そのものに転じると、目の前に展開した光景で度肝をぬかれる。
五、六軒の家の裏で同じようにつきだされ、下の泥がのぞけるほどの大きな穴のあいたひどいガタガタの木造のベランダ、洗い物を乾すためのものだが、そうした洗い物が一向に姿を見せぬ竿《さお》がつきだされている破れつくろった窓、小さく、むさくるしく、せまいので、空気はすっかりよどみ、そこにあるよごれや泥も息がつけぬほどに見える部屋、泥の上につきだし――じっさい、落ちてしまったものもある――いまにも落ちそうになっている木造の部屋、塵芥《じんかい》でよごれた壁とくずれかかった土台、貧困のいまわしいあらゆる姿、汚物、腐敗物、ごみのあらわす胸のむかつく表示、こうしたすべてのものが、フォリー・ディッチの両岸を飾り立てている。
ジェイコブ島では、倉庫には屋根がなく、うつろになっている。壁はくずれかかり、窓は窓の面影をとどめず、戸は街路に倒れかかり、煙突は黒く染められているが、煙をはいてはいない。三十年か四十年前、大法官庁の訴訟事件が起きる前には、そこは活気のある場所だったが、いまは、まったくの廃墟の島になっている。家の所有者は姿を消し、向こう見ずの連中が戸をおし開け、そこにはいりこみ、そこで生活し、そこで死んでゆく。ジェイコブ島にかくれ家を求めている人たちは、そうして世を忍んで暮らす強い動機があるか、あるいは、じっさい、そうした困窮状態に追いこまれているのだ。
こうした家並みのうちの一軒――かなりの大きさで、扉と窓はしっかり装備されているが、その他の点では廃屋も同然、裏からはいま述べたどぶ溝が見わたせる家の二階の部屋に、三人の男が集まっていたが、彼らは、狼狽《ろうばい》と期待をあらわした表情でときおりたがいに相手をながめながら、しばらくのあいだ、深い陰鬱な沈黙につつまれて、坐っていた。一人はトウビー・クラキット、もう一人はチトリング氏、第三の男は五十歳になった盗人で、その鼻は、なにかあるむかしの喧嘩で打たれてへこみ、顔は、たぶんそれと同じときに受けたかと思われるおそろしい傷痕《きずあと》をもっていた。この男は流刑帰りの男で、名前はキャッグズといった。
「おれは思うんだがな」チトリング氏のほうに向いて、トウビーはいった。「あの二つの古巣の住み心地がよくなくなったとき、おめえはどっかほかの場所にうつり、ここに来ないほうがよかったんだ」
「このとんまめ、どうしてそうしなかったんだ?」キャッグズがいった。
「うん、おれと会って、少しはよろこんでくれるかと思ってたんだがな」しょんぼりして、チトリング氏は答えた。
「おい、いいか、若い旦那さん」トウビーはいった。「人間がおれのように交際を少なくし、それでだれにものぞかれず、嗅《か》ぎまわられもせずに、おっとりと家にかまえていられるようになると、おめえのような立場にある若い旦那のご来訪を受ければ(その男が好きなときにカルタの相手になってくれる、どんなにれっきとした、おもしろい男でも)、ちょいとあわててしまうんだ」
「とくに、その交際ぎらいな若い男んとこに、思ったより早く外国からもどって来て、まだ裁判官さまとはお目にかかりたいとは思ってねえ遠慮っぽい男がお客さまになってるときにはな」キャッグズ氏がいいそえた。
短い沈黙がつづき、そのあとで、トウビー・クラキットは、もうこれ以上ふだんのどうにでもなれといったいばりかえった態度をとってもむだだとさとったらしく、チトリングのほうに向いて、こういった――
「すると、フェイギンはいつつかまったんだ?」
「ちょうど飯時《めしどき》――午後二時さ。チャーリーとおれは、運よく洗濯屋の煙突にとびこんだ。ボルターは空《から》の水涌《みずおけ》にさかさになっておどりこんだが、やつの脚はとてもながいだろう、だから、そいつが上につきだしてて、やつも、とっつかまっちまったんだ」
「ベッツィーは?」
「かわいそうに、ベッツィーのやつ! あいつは死体確認に出かけたんだが」しだいに顔を伏せて、チトリングは答えた。「気がくるい、泣く、わめく、板壁に頭をぶっつけるといったさわぎ、とうとう拘束服(狂人・狂暴な囚人などに着せて、両手をきかなくする一種の上着)を着せられて、病院送りになっちまい――いま、そこにいるよ」
「ベイツはどうなった?」キャッグズはたずねた。
「やつはうろつきまわってるが、暗くなるまでは、ここに来ないだろう。もうすぐ来るはずだがね」チトリングは答えた。「もう、ほかにゆくとこはねえからな。『ちんば』の連中はみんなとっつかまっちまったし、そこの酒場には――おれはそこにゆき、この目で見てきたんだ――デカがうようよしてるよ」
「根こそぎやられちまったんだ」唇をかんで、トウビーはいった。「これで、あの世送りも一人じゃすまねえな」
「裁判は開かれてるが」キャッグズはいった、「検視がすみ、ボルターの口裏からすると、もちろんやるだろうが、もしやつが共犯証言でもしたら、フェイギンの犯行前の共犯事実があがり、金曜日には裁判が開かれて、今日《きょう》から六日もすると、やつはダラリと下げられちまうんだ、まちがいなしにな」
「町のさわぎったら、ひでえもんだったぜ」チトリングはいった。「警官はしゃにむにがんばってたよ。さもなけりゃ、フェイギンはばらばらにされちゃったぜ。やつは一度ぶっ倒されたが、警官がやつのまわりに人垣をつくり、やっとのことで、やつを外に連れだしたんだ。まったく、やつは全身泥だらけ、血まみれになってあたりをキョロキョロ見まわし、警官にしがみついてたぜ、この上ない親友のようにな。いまでも目にのこってるが、群集の圧力でやつらはちゃんと立っていられず、フェイギンを真ん中に入れてひきずってったんだ。群集は人のうしろでとびあがり、歯をむいてうなりながら、やつに襲いかかろうとしてたよ。やつの髪も髯《ひげ》も血だらけだった。女どもは、町角で、大声をあげて群集の真ん中にわりこみ、やつの心臓をちぎりとってやるとわめいてたな」
この光景を見て恐怖心にかられたチトリングは、耳を手で抑え、目をつぶって、立ちあがり、まるで狂人のように、激しく部屋を歩きまわりだした。
彼がこうして歩きまわり、ほかの二人が、床に目を伏せて、だまって坐っていたとき、階段でパタパタという音が聞こえ、サイクスの犬が部屋にとびこんできた。一同は、窓、階下、街路に飛び出していった。犬は窓からとびこんできて、三人の男のあとを追おうともせず、犬の主人の姿は見られなかった。
「これはどういうこった?」みながもどってきたとき、トウビーはいった。「あの男がここに来るはずはねえ。来なけりゃいいんだが……」
「やつがここに来ようとしてんのなら、犬といっしょに来たはずだ」床の上で息をぜいぜいさせて倒れている犬のようすを調べようとかがみこみながら、キャッグズはいった。「おい、この犬に水をやってくれ。走ったんで、気が遠くなりそうになってるぜ」
「水をぜんぶ飲んじまったぞ」だまってしばらくのあいだ犬を見ていたあとで、チトリングはいった。「泥だらけで――びっこ――片目がつぶれてる――ながい道中をしたにちがいねえな」
「いったい、どこからやって来たんだろう!」トウビーは叫んだ。「この犬はほかの巣にもゆき、そこに知らねえやつばっかりいるんで、ここに来たんだ。やつはここに何回も来たことがあるからな。だが、最初、どこからやって来たんだろう? どうして主人といっしょに来ないんだろうな?」
「やつが」(だれも殺人犯サイクスの名を口にしなかった)――「やつが自殺するはずはねえしな。おめえ、どう思う?」チトリングはいった。
トウビーは頭をふった。
「もしやつが自殺したら」キャッグズはいった。「犬はその場所におれたちを連れてゆこうとするだろう。いや、やつはこの国からずらかって、犬をすてたんだと思うな。なんとか犬をうまくまいたんだろう。そうじゃなけりゃ、犬がこんなにのんびりしてるわけがねえからな」
この答えは、いちばん可能性の強いものと思われたので、みなに承認された。犬は椅子の下にはいこみ、これ以上みなから関心をはらわれずに、からだをまるめて寝てしまった。
もうあたりは暗くなっていたので、鎧戸《よろいど》は閉じられ、ろうそくはともされ、テーブルの上におかれた。過去二日間のおそろしい事件は、自分の身にふりかかる危険と不安のために拍車をかけられて、三人の男すべてに深い感銘を与えていた。彼らは、コトリと音がしても、それにおびえながら、椅子をよせあって坐り、ほとんど話もしないでいたが、たまたま話すときには、それをひそひそ声でし、まるで殺された女の遺体がとなりの部屋にあるように、無言で、畏怖の感に打たれていた。
彼らがこうしてしばらく坐っていたとき、突然、下の戸口のところで、あわただしいノックの音がひびいてきた。
「ベイツだ」あたりを見まわしながら、自分の心中の恐怖心をおし殺そうとして、キャッグズはいった。
ノックの音がまた聞こえてきた。いいや、彼ではない。彼は絶対にあんなノックの仕方はしない。
クラキットが窓のところにゆき、からだじゅうワナワナさせて、頭をひっこめた。来たのがだれか、それをいう必要はなかった。彼の青ざめた顔がそれを十分に物語っていた。犬もすぐ気がつき、ヒンヒン鳴きながら、戸のところへ走っていった。
「やつを入れなくちゃならねえな」ろうそくをとりあげながら、クラキットはいった。
「なんとかならんもんかな?」しわがれた声で、べつの男がいった。
「ならんな。やつは入れなきゃならん」
「あとを真っ暗にされちゃ、困るぜ」炉棚からろうそくをとり、それに火をつけて、キャッグズがいったが、その手はひどくふるえ、彼がまだ火をつけ終わらぬうちに、ノックの音は二度くりかえされた。
クラキットは戸までおりてゆき、もどってきたときに、あとに一人の男がついてきたが、その男の顔の下半分はハンカチにつつまれ、のこりの上の部分は、帽子の下で頭ごとごっそりつつまれていた。彼はゆっくりとそれをはずした。青ざめた顔、くぼんだ目、こけた頬《ほお》、三日ものびたままの髯《ひげ》、やつれたからだ、短いひっきりなしの息づかい、それはまさにサイクスの亡霊だった。
彼は部屋の真ん中に立っていた椅子に手をかけ、身をふるわして、そこにがっくり坐りこもうとしたが、肩越しにうしろをふりかえる仕草をして、それを壁の近くまで――寄せられるだけ近く――引っぱってゆき――壁にピタリとそれをおしつけて――腰をおろした。
言葉は一言も交わされなかった。彼は、だまったまま、つぎからつぎへと顔を見わたした。目がそっとあげられ、彼の目に逢うと、それはすぐはずされてしまった。彼のうつろな声が沈黙を破ったとき、三人はみなはっとした。彼らのようすは、いままでそんな調子の声を聞いたことがないといっているようだった。
「あの犬は、どうしてここに来たんだ?」
「ひとりで来たよ。三時間前にね」
「今夜の新聞では、フェイギンがつかまったそうだな。そいつは、ほんとうなのか、嘘《うそ》なのか?」
「ほんとうだよ」
話はまた、とぎれてしまった。
「畜生!」額《ひたい》をなでながら、サイクスはいった。「おれにいうことは、なにもねえのかい?」
三人はなにか落ち着かないふうに身をもじもじさせたが、だれも口をきこうとはしなかった。
「この家のおやじのおめえにきくが」クラキットのほうに顔を向けて、サイクスはいった。「おめえ、おれを売る気か? それとも、このさわぎが静まるまで、おれをここにかくまってくれるか?」
「安全と思ったら、ここにいてもいいよ」ちょっともじもじしてから、相手は答えた。
サイクスはゆっくりと目をあげ、自分のうしろの壁をながめていたが、それは、ながめるというより、頭をまわそうとしたといった態度だった。それから、彼はいった。「あれ――死体は――あれは埋められたのか?」
三人は頭《かぶり》をふった。
「どうして埋められねえんだ?」同じようにうしろをチラリチラリと見ながら、彼はやりかえした。「なんで、あんなきたねえものを埋めねえでおくんだろう?――ノックをしてるのは、だれだ?」
クラキットは、部屋を出てゆくときの手の仕草で、心配することはないと伝え、すぐにチャーリー・ベイツをともなってもどってきた。サイクスは扉と向かい合わせに坐っていたので、少年ベイツが部屋にはいってきたとたん、その姿はこの少年の真正面にあらわれた。
「トウビー」サイクスが目を少年に向けると、うしろにジリジリとさがって、ベイツはいった。「このことを、どうして下でいってくれなかったんだ?」
いままで、三人の男がジリジリと身を引いてゆく態度には、なにかじつにおそろしいものがひそんでいたので、みじめなサイクスは、この少年の機嫌をとろうという気にさえなっていた。そこで彼はうなずき、少年と握手をしようとする態度を示した。
「どこかほかの部屋におれをいかしてくれ」前よりもっとあとずさりして、少年はいった。
「チャーリー!」歩み出て、サイクスはいった。「おめえは――おめえはおれがわからねえんか?」
「そばに来ちゃいけない」もっとさがり、目に恐怖の色を浮かべながら、殺人犯の顔をながめて、少年は答えた。「怪物だ!」
サイクスは途中で足をとめ、二人はにらみあって立っていたが、サイクスの目は、しだいに伏せられた。
「三人とも見てくれ」にぎった拳《こぶし》をふり、話すにつれて興奮して、少年は叫んだ。「三人とも見てくれ――おれはこわくないぞ――もしやつがここに追われてきたんなら、おれはやつをわたしてやるぞ。わたすとも。ちゃんといまいっとくぞ。おれを殺したかったら、殺す勇気があったら、殺すがいい。だが、おれがここにいるかぎり、おれはわたしてやるぞ。たとえあの男が釜《かま》ゆでになろうとも、わたしてやる。人殺し! 助けてくれ! おまえたち三人のうち、だれか一人でも男の勇気をもってたら、おれを助けてくれ。人殺し! 助けてくれ! やつをやっつけろ!」
こうしてわめきながら、それに荒々しい身ぶりをそえて、少年は、単身、あのたくましい男にとびかかり、その勢いの激しさと襲撃の不意打ちで、相手をズシンと地面に打ち倒してしまった。
三人の目撃者は、まったくあっけにとられたようだった。彼らは二人をとめようともせず、少年と男は、いっしょに床を転げまわり、少年は自分に降るようにそそがれる拳《こぶし》をものともせず、殺人犯の胸のあたりで服をグイグイとしめあげ、声をかぎりに救いを求めつづけた。
しかしながら、力がちがいすぎているので、この争いはながくはつづかなかった。サイクスは少年をねじ伏せ、その膝を彼の喉に乗せたが、そのとき、クラキットはおびえた顔つきで彼をうしろに引き、窓をさした。下には輝く燈《あか》りが見え、大声でむきになって語りあっている人声、いちばん近くの木の橋をわたってくる――それこそ無数の――あわただしい足音が聞こえてきた。馬に乗った男が一人、群集の中にいるらしかった。でこぼこの舗道の上に鳴りひびく蹄《ひずめ》の音がしていたからである。燈《あか》りの輝きはましていった。足音は、みっしりと、さわがしく迫ってきた。扉のところで大きなノックの音が聞こえ、どんな勇者をもたじろがさずにはおかぬ群集の怒りの声といったものから湧いて出てくるしわがれたつぶやきがひびいてきた。
「助けてくれ!」空気をひきちぎる声をはりあげて、少年は金切り声をあげた。「やつはここにいるぞ! 戸をぶっこわせ!」
「神妙にしろ!」外の人声はどなり、しわがれた叫びはまた、前より大きく湧きあがっていった。
「戸をぶっこわせ!」少年は甲高《かんだか》い声をあげた。「戸を開けてはくれないぞ。燈《あか》りがある部屋にまっすぐいくんだ。戸をぶっこわせ!」
少年の声がとまると、ドシンドシンという音が戸と下の窓の鎧戸《よろいど》にひびき、大きな歓声が群集からどよめいて、それを聞いている者に、その群集がどんなに大きなものかを伝えた。
「このキーキーいうくそ餓鬼《がき》をおしこめるんだ。どこか戸を開けろ」あちこちと走りまわり、いまは空《から》袋のように楽々《らくらく》と少年をひきずって、サイクスは激しく叫んだ。「あの戸だ! 早くしろ!」彼は少年を投げこみ、そこに|かんぬき《ヽヽヽヽ》をかけ、鍵をまわした。「下の戸は大丈夫か?」
「二重の錠がかけられ、鎖がついてるよ」クラキットは答えたが、彼は、ほかの二人と同様に、なにもできずにとまどっていた。
「羽目板はしっかりしてるか?」
「鉄板で裏打ちしてあるよ」
「窓も同じか?」
「うん、それに窓もな」
「野郎!」窓をおしあげ、群集を威嚇して、向こう見ずの悪党は叫んだ。「勝手にしてえことをしやがるがいい! 裏をかいてやるからな!」
人間の耳にひびく怒号のうちで、激昂した群集の叫びほどおそろしいものはなかった。ある者は近くにいる者に、火をつけろ! と叫んだ。ほかの者は巡査に、彼を射殺してしまえ! とどなった。そうした中で、いちばん激しい怒りを示していたのは馬上の男で、彼は鞍《くら》からとびおりると、まるで水をおし分けるようにして群集のあいだを突っ切り、窓の下で、だれよりも高い声で叫んだ。「梯子《はしご》をもってこい! 二十ギニーが賞金だ!」
近くの者がその叫びをとりあげ、何百の人がそれをくりかえした。ある者は梯子《はしご》を、またある者は大ハンマーを求め、ほかの者は、それをさがしているように、かがり火をもって右往左往し、またもどってきて、喚声をあげた。ある者はつまらぬののしりと悪態《あくたい》をついて息を切らし、ほかの者は、狂人のように夢中になって、前に出ようとのりだし、こうして、下にいる者の前進をとめてしまった。とびきり勇敢な連中のうちには、|たてどい《ヽヽヽヽ》と壁の割れめを利用して、登ってゆこうとする者もあった。こうして、下の暗闇では、群集すべてがユラユラとゆれ、それは、怒りくるう風に動かされている麦畠のよう、そして、ときどき、声を合わせて、怒りの喚声をあげていた。
「潮だ」殺人犯は、よろめきながら部屋にもどり、戸を閉めて群集の顔が見えぬようにして、叫んだ――「おれが来たときは、潮はさしてきてた。|なわ《ヽヽ》、ながい|なわ《ヽヽ》をくれ。やつらはみんな、正面にいる。フォリー・ディッチにとびおり、そこから逃げられるかもしれねえぞ。|なわ《ヽヽ》をよこせ。よこさねえと、もう三つ人殺しをかさねて、おれも死んじまうぞ」
恐怖に襲われた男たちは、そうした品物がしまってある場所をさし、殺人犯は、いちばんながくて強い|なわ《ヽヽ》をえらんで、屋根にかけあがっていった。
家のうしろの窓という窓は、とっくのむかしに、煉瓦で口をふさがれ、少年が閉じこめられている部屋に小さなはねあげ戸があるだけだったが、それは、少年のからだもとおらぬほどせまいものだった。だが、この隙間から、少年は絶えず外の人に、うしろを警戒するように呼びかけ、こうして、殺人犯が戸のところからとうとう屋根の上に姿をあらわしたとき、大きな叫びがその事実を正面の連中に伝え、その連中はすぐに、おしあいへしあい、滔々《とうとう》と流れる川のように、ぐるりと家をまわりはじめた。
彼はそのつもりでもってきた板をしっかりと戸にあてがったので、内側からそれを開けるのはひどく困難になった。それから、彼は瓦の上をはいながら登ってゆき、低い胸壁越しに下をながめた。
水は引いていて、溝は泥の床になっていた。
群集は、数瞬間、ジッとおしだまり、彼の動きを見守って、彼の意図をうかがっていたが、それをさとり、その意図がまんまとはずされたのを知ると、彼らは勝ちほこった悪罵の大歓声をあげ、それにくらべたら、いままでの叫びは蚊の鳴くようなものだった。何回となく、この歓声はあげられた。遠くにいてその意味がのみこめぬ人々は、その叫びに応え、それが何度もひびきわたった。町中のすべての人が流れだしてきて、彼をののしっているような感じだった。
正面から群集はどんどんとおしよせてきた――そこここでギラギラと輝く松明《たいまつ》に照らし出された憤怒《ふんぬ》の形相《ぎょうそう》のたくましいさかまく流れとなって、それはグングンとおしよせてきた。松明《たいまつ》は、その顔が怒りと激情に燃え立っていることを示していた。溝の反対側の家々には、群集がもうはいりこんでいて、窓は上げられたり、そのままひきちぎられていた。窓という窓には幾重にもかさなった顔がならび、人の群れが、いくつもいくつも、すべての家の屋根にしがみついていた。小さな橋(目に見えるところでは、それは三つあった)はすべて、その上の群集の重みでしなっていた。それでも、人の波はグングンと流れ、叫びをあげ、一刻なりとも犯人の姿を見ようとして、どこかの片隅や物蔭を見つけだそうとしていた。
「こんどはつかまるぞ」いちばん近い橋の上の男が叫んだ。「万才!」
群集は帽子をぬいで陽気になり、ふたたび歓声があげられた。
「やつを生《いけ》どりにした者には」同じ方向から、一人の老紳士が叫んだ。「賞金五十ポンドを出す。その金をとりに来るまで、わしはここに立っているぞ」
もう一度歓声が湧き起こった。このとき、群集のあいだに、戸がとうとうおし開かれ、最初に梯子《はしご》を要求した男が部屋に登っていったことが伝えられた。この知らせが口から口へと伝わったとき、人の流れは急に変わり、窓にいた人は、橋の上の人たちがもどってゆくのを見て、その場所をすて、街路に走りだして、しゃにむに彼らがもといた場所にゆこうとする人の流れに加わり、各人がとなりの人とおしあいへしあいし、みなが、息せき切って、戸のそばにより、巡査が犯人を連れだすとき、その顔を一目でも見ようとした。おされて息がつまりそうになった人、ごったがえしで倒され踏みつけられた人のたてる悲鳴や金切り声は、すさまじいものだった。せまい道は人の波で完全に埋まってしまった。このとき、一部の人々は家の正面にもどろうと突進し、ほかの者は人ごみから身をふりはなそうとむだなもがきをしたので、一般の犯人逮捕に関する関心はたかまってはいたものの、直接の注意は、殺人犯からはずされていた。
サイクスは群集のものすごい勢いにのまれて、逃亡が不可能になったことでがっくり倒れていたが、群集のこの急激な変化を見てとるやいなや、パッとはね起き、溝に飛びおり、窒息する危険はあろうとも、夜陰と混乱にまぎれて、そこから逃れだし、命が助かる最後の一努力をしてみようと決心した。
新しい力と元気をふるいおこし、部屋への侵入がおこなわれたことを知らせる家の中での物音に刺激されて、彼は煙突が群れて立っているところに足をかけ、あっという間《ま》に、|なわ《ヽヽ》の一端をしっかりと煙突に結びつけ、他の端《はし》を、両手と歯で、輪|なわ《ヽヽ》の形にした。|なわ《ヽヽ》を伝わっておりてゆけば、地面から自分の背丈《せたけ》以下のところにとどき、口にくわえたナイフで|なわ《ヽヽ》を切ってすてれば、下におりることができるわけだった。
輪を両脇下にもってゆく前、彼がそれを頭のところにかけようとした瞬間、前にも言及した老紳士(群集のおす力に抵抗し、自分の場所からはなれまいとして、彼は橋の手すりにしっかりとしがみついていたが)がサイクスの下におりようとしているのを、あたりの人にむきになって知らせているとき――ちょうどその瞬間、屋根の上でうしろをふりかえった殺人犯は、両腕をさっと頭上にあげ、恐怖の叫び声を発した。
「また、あの目だ!」この世のものならぬ悲鳴をあげて、彼は叫んだ。
稲妻に打たれたようにしてよろめきながら、彼はからだの均《つ》り合いを失い、胸壁越しに転げ落ちた。輪|なわ《ヽヽ》は、彼の首にかかっていた。それは彼のからだの重みで、弓づるのようにしっかりと、矢のように早くしまっていった。彼は三十五フィート落ちていった。それは急にグイととまった。四肢におそろしい痙攣《けいれん》が走り、彼のこわばってゆく手に開いたナイフがしっかりとにぎられたままで、彼はそこにつりさげられていた。
古い煙突はその衝撃でユラユラ動いたが、ちゃんともちこたえていた。殺人犯は、壁を背にし、息絶えてゆれていた。そしてベイツは、目先をふさいでしまったダラリさがった死体をおしのけながら、早く自分を救いだしてくれ、と群集に叫びかけた。
このときまで姿をかくしていた犬は、不吉なうなり声をあげながら、胸壁の上をあちらこちらと走りまわり、勇気をふるいおこして、死体の肩めがけて飛びおりた。そのねらいははずれ、犬はまっさかさまに溝へ落ち、したたか頭を石に打ちつけて、その脳味噌をあたりにまき散らした。
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五十一 いくつかの謎の説明、とりきめや結納《ゆいのう》ぬきでおこなわれる結婚申しこみの話をふくむ
前の章で話した事件が起きてからまだ二日にしかならないのに、オリヴァは、午後三時に、彼の生まれた町に突っ走っている旅行馬車に乗っていた。メイリー夫人とローズ、ベドウィン夫人と親切な医者が彼と同行していた。ブラウンロウ氏は彼のあとを駅馬車で追っていたが、彼には、いままでその名を明かしていない一人の人物が同伴者になっていた。
道中、たいして話ははずまなかった。オリヴァは興奮と不安のワクワクした状態にあり、そのために、心を落ち着け、話をする余裕もなく、それが同じ作用を同行者におよぼし、彼らも、オリヴァにおとらず、そうした気分に支配されていたからである。オリヴァと二人の婦人は、ブラウンロウ氏の口から、細心の注意をはらって、マンクスの自白内容を知らされていた。このすべり出しのよい仕事の結着をつけるのが今度の旅行の目的だということを、彼らは知っていたが、その事件の全貌はまだ疑問と謎につつまれていて、三人とも、ひどく不安な気持ちに襲われていた。
親切なブラウンロウ氏は、ロスバーン氏の援助を借りて、最近起こったおそろしい事件の話が彼らに伝わる情報網を用心深く抑えていた。「たしかに」彼はいった。「彼らは間《ま》もなくこの事件のことを知るでしょう。しかし、それは、いまよりもっとよい時にしたいものです。いまがいちばんまずい時ですからな」
そこで、彼らは沈黙につつまれて旅行し、それぞれがこうしていっしょにゆく目的のことを思いめぐらし、だれも、自分の胸に群らがり起こってくる思いを口に出す気になれないでいた。
だが、オリヴァは、こうした影響のもとで、まだ見たこともない道路にそってその誕生の地に旅行しているあいだじゅうずっとだまりつづけていたにせよ、彼が助けてくれる友もなく、雨露をしのぐ家もないあわれな家なしの浮浪児としてとおったことのある場所にさしかかったとき、追憶のすべての流れが過去にどっとさかのぼり、群らがりおこる激しい感情がその胸をいっぱいにしてしまった。
「あそこ、あそこをごらんなさい!」ローズの手をむきになってにぎり、馬車の窓から外をさして、オリヴァは叫んだ。「あれがぼくが乗り越えた生垣《いけがき》の階段です。だれかが追いかけてきて、ぼくを連れもどしはしないかと、ぼくがそのうしろにかくれた生垣《いけがき》はあれです! 向こうには、畠を横切って小道があり、その先には、ぼくがまだ小さな子供だったころいた古い家があります! おお、あのなつかしいディック、ディック、いまきみと会えたらなあ!」
「すぐに会えますよ」彼の組み合わされた手を自分の手の中にやさしくとって、ローズはいった。「あなたがどんなに幸福か、どんなにお金持ちになったか、それに、どんな幸福があろうとも、ディックを幸福にしてあげるためにもどってくるほど幸福なことはないということを、彼に話してあげられますよ」
「そう、そう」オリヴァはいった。「ぼくたちは――ぼくたちは彼をここから連れだし、彼に着物を着せ、勉強もさせてあげて、彼がしっかりと丈夫になれるどこかいなかの土地にうつしてあげましょう――ねえ?」
ローズはただうなずいて、賛成しただけだった。少年がよろこびの涙を流しながら微笑したので、彼女の胸がつかえてしまったからである。
「あなたはだれにでも親切なのですから、ディックにも親切にしてくださるでしょう」オリヴァはいった。「彼の話を聞いたら、あなたはきっと泣いてしまいますよ。でも、大丈夫、大丈夫、そうしたことはすぐ終わり、彼がどんなに変わったかをお考えになれば――ぼくにはそれもわかっているのです――あなたはまたほほえんでくださいますよ。ぼくが逃げだしていったとき、彼は『神さまのみ恵みがきみにさずかりますように!』といってくれました」親愛の情を急に激しく爆発させて、少年は叫んだ。「そして、今度はぼくが『神さまのみ恵みがきみにさずかりますように!』と彼にいい、あの言葉でぼくがどんなに彼を好きになったのかを、彼に示してあげるつもりです!」
一同が町に近づき、とうとうせまい街路をとおるようになると、少年を抑えて落ち着かせておくことは、なかなか困難になった。葬儀屋サウアベリの店があり、むかしのままの姿だったが、それは彼の記憶より小さく、見すぼらしいものになっていた――よく知っている店や家があり、そのほとんどすべてが、なにか彼にかかわりあいのある事件をもっていた――ギャムフィールドがいつも乗っていた荷馬車、いつもの荷馬車が古い居酒屋の戸口のところに立っていた――彼の幼いころのわびしい牢獄であった貧民院があり、そこの陰気な窓は渋い顔をして、通りをにらみつけていた――門のところには、以前と変わらぬ痩《や》せた門番がいて、その姿を見ると、オリヴァはふるえあがり、それから自分の愚かさを笑い、それから泣き、またふたたび笑った――戸口と窓のところには、彼がよく知っているたくさんの顔が見え――すべてのものが、まるで彼が昨日《きのう》そこを去り、彼の最近の生活が幸福な夢でしかないようにうつった。
しかし、それはまぎれもない、まともな、うれしい現実だった。彼らはまっすぐ車を町で一流のホテル(オリヴァがいつも畏怖《いふ》の念をもって驚いて見あげ、りっぱな宮殿と思っていたものだったが、その豪華さと大きさは多少消えていた)に走らせた。そして、ここに、みなをむかえようとすっかり用意をととのえて、グリムウィグ氏が待ちかまえ、婦人たちが車からおりると、ニコニコして親切そのもの、ローズとメイリー夫人にキスを与え、まるで自分がみなの祖父にでもなったような応対ぶり、そして、自分の頭を食ってしまうとはいわなかった――そう、一度もいわなかった。ロンドンへのいちばん近い道のことで彼がとても齢《とし》をとった御者と議論をかわし、彼がその道を来たことは一度しかなく、そのときにはぐっすりと眠っていたのに、自分がその道をいちばんよく知っているとがんばったときにさえ、その文句は、ついぞ彼の口からは出なかった。夕食が準備され、寝室の用意もできていて、すべてが魔法のようにきちんとととのっていた。
こうしたことすべてにかかわらず、最初のあわただしい三十分がすぎたとき、今度の旅行の特徴になっていた沈黙とぎごちなさが支配的になっていった。ブラウンロウ氏は夕食をみなといっしょにとらず、別室にいた。ほかの二人の紳士は、心配そうな顔をして、あわただしく部屋を出入りし、彼らが落ち着いていたわずかのあいだも、二人だけで話をしていた。一度メイリー夫人が外に呼びだされ、ほぼ一時間してもどってきたときには、泣いたために、目がはれていた。こうしたことすべては、新しい秘密をぜんぜん知らされていないオリヴァとローズの気持ちを神経質にし、気分わるいものにしてしまった。二人はいぶかしさにつつまれて、だまって坐り、わずかな言葉をかわしたときには、自分自身の声を聞くのをこわがっているように、ささやき声で話し合っていた。
とうとう、九時になり、その晩はもうこれ以上なんの話もないものと考えだしていたとき、ロスバーン氏とグリムウィグ氏が部屋にはいってき、そのあとに、ブラウンロウ氏と、その顔を見たとき、オリヴァがあやうく悲鳴をあげそうになった男がはいってきた。というのも、彼らは、この男のことを彼の兄だといい、その人物は、彼が市場町で出逢い、彼の小さな窓のところで、フェイギンといっしょに、中をのぞきこんでいるのを見たことがあるあの男だったからである。マンクスは、そのときでさえ、かくすことのできぬ憎しみのまなざしをびっくりしている少年に投げ、扉の近くに腰をおろした。手に書類をもったブラウンロウ氏は、ローズとオリヴァが近くに坐っているテーブルのほうに歩いていった。
「これはつらい仕事だ」彼はいった。「しかし、多くの紳士がたの面前で、ロンドンで署名されたこうした宣言は、その要旨を、ここでふたたびくりかえす必要がある。こうした不面目な思いをきみに味わわせたくはないが、われわれがわかれる前に、それはきみ自身の口から述べてもらわねばならない。そして、その理由は、きみだって心得ているだろう」
「さあ、ドンドン話してください」面《おもて》をそむけて、相手の男はいった。「早く! もうすべきことはしたでしょうが……。ぼくをここから放してください」
「この子供は」オリヴァを自分のそばにひきよせ、頭に手を乗せて、ブラウンロウ氏はいった。「きみの腹ちがいの弟、きみの父、わしの親友、エドウィン・リーフォードとこの子を生んで死亡した若いあわれな女、アグネス・フレミングとのあいだに生まれた私生児だ」
「そうだ」ふるえている少年をにらみつけて、マンクスはいった。オリヴァの心臓は、その音が相手に聞こえるくらい、ドキドキしていた。「あれが彼らの不義の子だ」
「きみが使った言葉は」ブラウンロウ氏はきびしくいった、「とっくのむかしにこの世のつまらぬ非難のかなたにいってしまった人たちに加えるののしりの言葉だ。その恥辱は、生きているだれのものでもなく、それを使うきみの頭上にそそがれるだけだ。それはともかくとして、あの子はこの町で生まれた」
「この町の貧民院でね」が、ぶっきら棒な答えだった。「そのことはそこに書いてあるでしょう」こういいながら、イライラしたようすで、彼は書類をさした。
「ここでも、もう一度、その話をしてもらわねばならん」聞いている者をグルリと見まわして、ブラウンロウ氏はいった。
「じゃ、お聞きなさい!」マンクスは答えた。「あの子の父がローマで病気になったとき、わたしの母である彼の妻がそこにゆきました。彼女と彼とは、ながいこと別居していて、母は、わたしを同道、パリにいってました。ローマに母がいったのは、たぶん、財産の管理をするためだったのでしょう。彼女は彼に、彼のほうでも彼女に、あまり強い愛情をもってはいなかったからです。父は昏睡状態におちていたんで、われわれのことはなにも知らず、そのまま翌日まで眠りつづけて、死んじまいました。机の中にあった書類のうち、あなたあてのものが二通あり、それは、病気になった最初の晩に書かれたもんでした」彼はブラウンロウ氏に話しかけた。「そこにはわずかな短い言葉があなたに書かれてあり、父の死後それを発送するように、と封筒にただし書きがついてました。こうした書類の中の一通は、アグネスあての手紙で、もうひとつは、遺言状でした」
「その手紙はどういうものだった?」ブラウンロウ氏はたずねた。
「手紙ですって?――何回も何回も、悔いの告白と神の庇護が彼女に与えられるようにと祈る言葉が書きつらねてありました。ある秘密の事情――いずれいつか話すことになる――があって、さし当たっては彼女と結婚できない、といった話を、彼は女にうまくおしつけてたんです。そこで、彼女は辛抱強く彼に信頼の気持ちをかけ、だんだん深い関係に落ちこみ、とりかえしのつかぬ破目になっちまいました。彼女は、そのとき、出産を数か月後にひかえた身重でした。父は、女の恥を世間にひろめないために、自分がとろうとしている処置をすべて女に明かし、もし自分が死ぬようなことになったら、自分のことはわるく思わないでくれ、二人の罪の因果が彼女と生まれる子に報いられるとは思わないでくれ、わるいのは自分だけなのだから、としきりにたのんでいました。彼は自分が彼女に小さなロケットと、彼女の洗礼名を彫りこみ、いずれ彼が彼女に与える姓を彫りこむ場所を空白にしてある指環を与えた日を彼女に思い起こさせ――それを大切にしまっておき、いままでどおり、肌身はなさずそれを着けるようにとたのみ、――まるで気がくるったように、同じ言葉を、何回も何回も、やたらに書きつづけていました。まったく、くるっていたのだと思いますね」
「遺言状は?」オリヴァがさめざめと泣いているとき、ブラウンロウ氏はたずねた。
マンクスはだまっていた。
「遺言状は」マンクスにかわって、ブラウンロウ氏はいった。「手紙と同じ気持ちを伝えている。彼は妻が自分にもたらした不幸のこと、彼を憎むようにと教えこまれて育った一人息子のきみの反抗心、悪業、悪意、早熟の欲情にかられた情熱のことを語り、きみときみの母親に、それぞれ、八百ポンドの年金をのこした。財産の大部分を彼は二等分し――一部はアグネス・フレミングに、のこりは無事生まれて丁年に達したならば、二人のあいだの子に贈ることになっていた。もし子供が女であった場合、その子は無条件にその金を相続することになり、男の子の場合には、子供のとき不名誉な、いやしい、卑怯な、あるいは、まちがったおこないを人前に示して、その名をけがすことがなければ、という条件がつけられていた。この条件をつけたのは、母親にたいする彼の信頼と、子供が母親のやさしい心を、気高い性格を受けつぐにちがいないという彼の確信――死が近づくにつれてますます強くなっていった確信――をあらわすためだ、と彼は述べている。もし子供がこの期待にそむいたら、その金はきみのものになるはずだった。二人の子供がともに期待はずれになったら、そのときはじめて、父親の財産にたいするきみの優先権がみとめられることになっていた。きみは父親の愛情を獲得することはなにもせず、子供のころから、父親をいみきらって、冷やかにしりぞけていたのだからな」
「ぼくの母は」声を大きくして、マンクスはいった。「女なら当然すべきことをしたにすぎません。彼女はこの遺言状を焼いてしまいました。手紙はその宛て名の主のとこにはとどきませんでした。彼女はそれとほかの証拠を保管してましたが、それは、相手がその汚名をなんとかごまかそうとした場合に備えるためのもんでした。母はその激しい憎しみ――その点で、ぼくはいまも母を愛してます――が大きくできるかぎりの大げさな言葉で、真実を女の父親に伝えました。恥辱と不名誉に苦しめられて、その父親は子供といっしょにウェールズの片いなかにのがれ、友人たちにそのかくれ家が知れぬようにと、名まで変え、その後|間《ま》もなく、床の中で眠ったまま死んじまいました。女は、数週間前、人知れず家を出てて、父親は近くの町や村をのこらず徒歩で捜索してたのです。彼の心臓が悲しみで打ちくだかれたのは、自分の恥と父親の恥をかくすために、彼女が自殺したもんと思いこんで、彼が家にもどってきたその晩のことでした」
ここでしばらく沈黙がつづき、やがてブラウンロウ氏がふたたび話の筋をとりあげた。
「その後何年かして」彼はいった。「この男――エドワード・リーフォード――の母がわしのところにやってきた。エドワードは、まだ十八歳のとき、母親の家をとびだし、彼女から宝石と金をうばい、賭博《とばく》にふけり、大金を使い、偽造の罪をおかして、ロンドンに逃亡し、そこで二年のあいだ、最下層の浮浪者たちの仲間にはいっていた。彼女は苦痛のはげしい不治の病にかかり、死ぬ前に、彼を救い出したいものと考えていた。探索がはじまり、きびしい捜査がおこなわれた。その努力はながいこと報いられぬままだったが、ついに成功し、彼は母親といっしょにフランスにわたっていった」
「そこで、ながわずらいのあとで」マンクスはいった。「彼女は死にました。死の床で、彼女はこうした秘密をぼくに伝え、それといっしょに、この秘密に関係のあるすべての人にたいする彼女の消すことのできぬ激しい憎悪の念をのこしてゆきました――ぼくは、もう、そうした気持ちになってたんですから、彼女はそんなことをする必要はなかったわけなんですがね……。彼女は、女が自殺し、子供をともづれにしたとは考えようとせず、男の子が生まれ、それが生きてるものと確信してました。ぼくは、もしその子供と出逢うことがあったら、その子を追跡してとらえ、安らかな気持ちなんかにはさせずに、激しい情け容赦のない憎しみでそいつを追求し、ぼくが心の底から感じてる憎悪の念をそいつに浴びせかけ、できたら、そいつを絞首台の真下に引きずってって、あの人をバカにした遺言の高慢ちきな言葉に唾《つば》をはきかけてやることを誓いました。母の予想どおりでした。あいつは、とうとう、ぼくの前にあらわれたんです。出足は好調でした。あのおしゃべりの売女《ばいた》さえいなかったら、最後までうまくいくとこだったんですがね!」
この悪人が固く腕を組み、悪事の計画が失敗したことで、自分自身にブツブツと悪罵《あくば》の声を浴びせているとき、ブラウンロウ氏は近くのおびえた人たちのほうに向き、むかしの古い仲間で腹心だったユダヤ人が、オリヴァを抑えていることで多額の報酬を受けていたこと、少年を逃がした場合には、その礼金が減ること、この点に関する争いで、オリヴァが当の本人かどうかをたしかめるために、いなかの家に二人が出向いたことが説明された。
「ロケットと指環は?」マンクスのほうに向いて、ブラウンロウ氏はたずねた。
「前にも話した男と女から、それを買いました。二人はそれを看護婦からうばい、看護婦はそれを死体からうばったんです」目を伏せたまま、マンクスは答えた。「それがどうなったかは、あなたも知ってるはずです」
ブラウンロウ氏はグリムウィグ氏にたいしてちょっとうなずいただけだったが、グリムウィグ氏は素早く姿を消し、すぐにもどってきて、バムブル夫人を部屋におし入れ、はいりたがっていない彼女の夫を引っぱりこんだ。
「これはほんとうのことかな!」熱っぽくよろこんでいるふうをよそおって、バムブル氏は叫んだ。「それとも、あれはかわいいオリヴァかな? おお、|オーリーヴァ《ヽヽヽヽヽヽ》! きみのことをわしがどんなに嘆いてたかを、きみが知ってたら――」
「だまっておいで、このバカ」バムブル夫人はつぶやいた。
「人の気持ちはどうにもならんよ、なあ、おまえ」貧民院の院長はやりかえした。「あの子がここでじつに好ましい紳士淑女のあいだに坐ってるのを見たら、わし――あの子を教区で育てたこのわし――が感激しないもんと思ってんのかい! わしはいつもあの子を愛してた、まるであの子がわしの――わしの――おじいさんみたいにな」適当なたとえを見つけるためにどもりながら、バムブル氏はいった。「オリヴァ君、きみは白チョッキのあのりっぱな紳士のことをおぼえてるかね? ああ、あの人は鍍金《メッキ》の柄のついた槲《かし》の棺に入れられて、先週天に登っちまったよ、オリヴァ」
「さあ、きみ」ビシリとグリムウィグ氏はいった。「その感激は静めるんだ」
「できるだけ、やってみましょう」バムブル氏は答えた。「やあ、こんにちは。お元気ですか?」
この挨拶はブラウンロウ氏に向けられたものだったが、ブラウンロウ氏はこの尊敬すべき夫妻のすぐそばまで進んでいった。彼は、マンクスをさして、こうたずねた――
「あの人を知っているかね?」
「いいえ」にべもなくバムブル夫人は答えた。
「たぶん、きみは知らんね?」ブラウンロウ氏は夫のほうにたずねた。
「いままで一度も会ったことがありませんな」バムブル氏は答えた。
「それに、彼になにか売ったことも、たぶん、ないね?」
「ええ」バムブル氏は答えた。
「きみは、たぶん、金のロケットと指環をもっていたことはないだろうね?」ブラウンロウ氏はいった。
「もちろん、ありませんとも」寮母は答えた。「どうしてわたしたちをここに連れてきて、こんなにバカげた質問をするんです?」
ふたたび、ブラウンロウ氏はグリムウィグ氏にたいして、うなずいた。そして、ふたたび、この紳士は驚くべき迅速さで、びっこをひきながら、部屋を出ていった。しかし、今度彼が連れてきたのはたくましい夫妻ではなく、歩きながらからだをふるわし、ヨタヨタと歩いている中風にかかった二人の老婆だった。
「サリー婆さんが死んだ晩、戸を閉めたのは、おまえさんだよ」先に立った女が、しわだらけの手をあげて、いった。「だけど、音と隙間は、ふさぐことができなかったよ」
「そうだよ、そうだよ」あたりを見まわし、歯のぬけた顎《あご》をふって、もう一人の女がいった。「そう、そう、そうだとも」
「あのサリー婆さんが自分のしたことをいおうとしてたのを、あたしたちは聞いたし、あんたが婆さんから紙きれを受けとるのを見たし、つぎの日、あんたが質屋にいくのも見てたんだよ」最初の女がいった。
「そう」第二の女がいいそえた。「そいつは『ロケットと金の指環』だったよ。あたしたちはそいつをちゃんと見つけ、それがあんたにわたされるのを目にしてたんだよ。あたしたちは、ほんのすぐそば、ほんのすぐそばにいたんだからね」
「いや、それよりもっと知ってるよ」第一の女がつづけた。「あのサリー婆さんは、ずっとむかし、よくいってたっけね、あの若い母親は、お産がとうてい無事にはすまないと感じて、彼女が病気になったとき、子供の父親の墓の近くで死のうと思って、そこに出かける途中だったんだと、あの婆さんに打ち明けたという話をね」
「その質屋に会いたいですかね?」扉のほうにゆこうとする仕草を見せて、グリムウィグ氏はたずねた。
「いいえ」バムブル夫人は答えた。「もし彼が」――彼女はマンクスをさした――「卑怯者で、わたしにはわかりますが、白状をしてしまい、あの婆《ばばあ》たちをしらべて、事実をすっかりさぐったんだったら、わたしには、もうなにもいうことはありませんよ。わたしはあの品物を売りましたがね、それを手に入れようとしても、むだですよ。それから、なにをききたいの?」
「なにもありませんな」ブラウンロウ氏は答えた。「夫妻のどちらも、責任ある立場にふたたびつかないように、われわれが配慮すること以外にはね。部屋をさがってよろしい」
「わたしは期待してますが」グリムウィグ氏が二人の老婆を連れて姿を消したとき、いかにも物悲しげにあたりを見まわして、バムブル氏はいった――「この不幸なつまらん事件のために、わたしが教区の職を追われることはないんでしょうな?」
「いや、そうなるでしょう」ブラウンロウ氏は答えた。「きみはそのことを覚悟し、それだけですんだのを幸いと思うべきですな」
「あれをしたのは、みんな家内です。それをどうしてもしようとしたんです」まずあたりを見まわして、自分のつれあいが部屋を出たのをたしかめてから、バムブル氏は主張した。
「それはいいわけにはならん」ブラウンロウ氏は答えた。「あの装身具をだめにしてしまったとき、きみはその場に立ち会い、法律の目から見れば、夫妻のうちで、きみの罪のほうが重いのだ。法律は、きみの指示のもとで奥さんが行動したと考えるのだからね」
「もし法律がそんなことを考えるんだったら」ぎゅっと両手で帽子をしぼりながら、バムブル氏はいった。「法律はバカ――阿呆《あほう》だ。もしそれが法律の目なら、法律なんて独身者《ちょんが》と同じだね。最小限、法律にねがいたいのは、その目を経験によって――経験によって――開くことですな」
経験によってという言葉にバカに力を入れながら、バムブル氏はしっかりと帽子をかぶり、手をポケットにつっこんで、そのつれ合いのあとを追い、階段をおりていった。
「お嬢さん」ローズに向かってブラウンロウ氏はいった。「手をおかしなさい。ふるえることはありません。わたしがいうのこりのわずかな言葉を聞くのを、おそれる必要はありませんよ」
「もしその言葉が――そんなはずはないと思いますが、もしその言葉が――なにかわたしに関係のあることでしたら」ローズはいった。「べつのときにそれを聞かせてください。わたしには、いま、その体力も元気もありませんから」
「いや」自分の腕に彼女の腕をとおして、老紳士は答えた。「あなたがそんな弱虫であるはずはありません。きみはこの若いご婦人を知っているかね?」
「ええ」マンクスは答えた。
「あなたとお会いしたことは、一度もありませんわ」ローズはかすかにいった。
「ぼくは何度もあんたを見たことがありますよ」マンクスはやりかえした。
「かわいそうなアグネスの父親には、二人の娘があった」ブラウンロウ氏はいった。「もう一人の子供――娘の運命はどうなったのかね?」
「その子は」マンクスは答えた。「彼女の父親が見知らぬ土地で、妙な名前になり、友人の親類をさぐる手がかりになる手紙・本・紙切れ一枚ものこさずに死んじまったとき、その子はある貧しい小作農夫の家にひきとられ、そこでその家の娘として育てられました」
「さあ、つづけて」メイリー夫人に近づくように合図をして、ブラウンロウ氏はいった。「さあ、つづけて」
「あの一家がいった場所を、あなたは見つけだすことができませんでした」マンクスはいった。「だが、友情が失敗したところで、憎悪はよく成功するもんです。巧妙な捜索を一年つづけて、ぼくの母はそれをみつけだし――そう、子供をみつけだしたんです」
「彼女がその子を引きとったのだな、えっ?」
「いや。その一家は貧しく、自分たちがした人情味のある行為を――少なくとも亭主は――後悔しはじめてました。そこで、母はながくはつづかぬほどのわずかな金をやって、その子を彼らのとこにおき、あとで金を送ると約束したんですが、それを実行する気は、さらさらありませんでした。彼女は、彼らの不満と貧乏が原因になって、その娘が不幸になるもんと期待はしてませんでしたが、適当な粉飾を加えて、その姉の身の不始末のてんまつを語り、悪い血から生まれたんだから、その子のことはよくよく注意するようにとさとし、彼女が私生児であると吹きこみ、いずれはふしだら女になるだろうといいました。その子の環境はそうした話すべてを裏書きしてたんで、家の人たちはそれを信用してしまいました。そこで、その娘は、われわれには満足のいくみじめな日々を送ってましたが、そのときチェスターに住んでたある未亡人が偶然この娘を見かけ、それをあわれに思い、家に引きとったんです。なにかのろわしい魔力がわれわれの敵になってたんです。というのも、われわれの必死の努力にもかかわらず、彼女はそこにいつづけ、幸福になってたからです。二、三年前、ぼくは彼女の姿を見失い、数か月前まで、彼女の姿を見ることができませんでした」
「いま、それを見ているかね?」
「ええ、あなたの腕によりかかってますよ」
「それでも、やっぱりわたしの姪《めい》よ」気を失いかけている少女を両腕にだいて、メイリー夫人は叫んだ。「それでも、わたしのいちばんかわいい子供よ。世界中の財産をもらっても、わたしはあの子を手放しはしませんよ。わたしのかわいい伴侶《はんりょ》、わたしの愛する娘!」
「わたしのただ一人のお友だち」彼女にすがりついて、ローズは叫んだ。「いちばん親切で、やさしいお友だち。わたしの心、はり裂けそうだわ。こうしたことには、もう堪《た》えられません」
「あなたはそれ以上のことを堪《た》え、すべてをとおして、自分の知っているどんな人にもいつも幸福を与えてきたいちばん親切な、いちばんやさしい娘ですよ」やさしく彼女をだいて、メイリー夫人はいった。「さあ、さあ、この腕にあなたをだきかかえようと待っている人がだれかを、考えてごらんなさい! ここをごらんなさい――さあ、さあ!」
「叔母さんではありません!」両腕を彼女の首にまきつけて、オリヴァは叫んだ。「ぼくは、どうしても、叔母さんなんて呼べません――姉さん、最初から好きに思っていた姉さんです。ローズ、いとしいローズ!」
あふれる涙、孤児たちがしっかりとながいことたがいにだきしめあってかわしたとぎれとぎれの言葉は神聖なものであれ! 父親、姉、母親が、あの一瞬間のうちに、得られ、失われたのだった。その盃《さかずき》の中には、よろこびと悲哀がまじりあっていたが、そこには悲痛の涙はなかった。悲しみそのものさえ、とてもやわらげられ、やさしい愛情のこもった追憶の衣《ころも》をまとって、湧き起こってきたので、それは厳粛なよろこびになり、苦痛といった性格はすべて消滅してしまっていたからである。
二人は、ながいあいだ、二人だけでいた。とうとう、扉をそっとノックする音が、だれかが外で待っていることを知らせた。オリヴァは扉を開き、そっと出ていって、ハリー・メイリーといれかわった。
「ぼくはぜんぶ知っています」美しい娘のわきに坐って、彼はいった。「ローズ、ぼくはぜんぶ知っているのです」
「ぼくは偶然ここに来たのではありません」ながい沈黙のあとで、彼はいいそえた。「このことすべてを、今晩聞いたのではありません。昨日《きのう》、それを知ったのですからね――ほんの昨日《きのう》なんです。ぼくがやってきたのは、ある約束をきみに思い出させるため、ということがわかりますか?」
「待ってください」ローズはいった。「あなたはすべての事情をご存じなのですね?」
「ぜんぶ知っています。この前二人で話し合った話題を、一年以内のいつでも、またもちだしてよい、とあなたはおっしゃっていましたね?」
「ええ」
「むりやりあのときの決心を変えていただくためではなく」青年はつづけた。「もしよかったら、それをもう一度くりかえしてくださるのを聞くためなのです。ぼくがもつかもしれぬ地位・財産をすべてあなたの足下に役げだすことになっていましたね。それでもまだ、あなたがあのときの決心を変えないのだったら、ぼくは言葉でも、行動でも、それを変えようとはしないことを誓いました」
「あのときわたしの決心を固めさせた同じ力が、いまでも、わたしの心を固めると思います」ローズはしっかりとした態度でいった。「ご親切にも、貧乏と苦しみの生活からわたしを救ってくださったあのかたにたいして、わたしがきびしい恩義を感じなければならないとしたら、今夜こそ、それを感じなければならないときです。それは苦しいことですわ」ローズはいった。「でも、それを味わうことは誇ってもいいことですし、わたしの心はそれに堪《た》えられると思います」
「今晩わかったことは――」ハリーは切りだした。
「今晩わかったことは」やさしくローズは答えた。「あなたに関するかぎり、わたしの立場は前と変わらぬということです」
「ローズ、きみは、ぼくにたいして、ずいぶんかたくなになっているのですね」彼女の恋人はいった。
「おお、ハリー、ハリー」わっと泣きだして、若い婦人はいった。「それができ、この苦しみを味わわずにいられたら、いいのですけど……」
「では、どうして自分を苦しめるのです?」彼女の手をとって、ハリーはいった。「考えてください、ローズ、今夜きみが聞いた話を考えてください」
「わたしが聞いたって、なにをでしょう? なにを、わたしは聞いたのでしょう?」ローズは叫んだ。「深い屈辱感が父の胸を襲い、すべてをすてて――もう、それで十分ですわ、ハリー、それで十分ですわ」
「いいや、まだ、まだ」彼女が立ちあがったとき、それを抑えて、青年はいった。「ぼくの望み、期待、将来の見通し、感情――きみにたいする愛情以外のすべての人生観――は、すっかり変わってしまいました。ぼくがいまきみにささげるのは、ひしめきあう群集の中での出世、悪意と誹謗《ひぼう》の世界、真の不名誉と恥辱で頬《ほお》を赤らめることをせぬ世界ではなく、ただ家庭――真心と家庭です――そう、ローズ、それ、それだけが、ぼくのささげるものなのです」
「それは、どういうことなのでしょう?」ローズは口ごもっていった。
「こういうことです――この前あなたとおわかれしたとき、ぼくは、あなたがあなた自身とぼくのあいだの障害と考えておいでのものすべてを、とりのぞいてしまおうと決心したのです。ぼくの世界がきみの世界になれないのだったら、きみの世界をぼくのものにして、誇らかな家柄には背を向け、そうしたものがあなたを見くだすようなことはさせまいと決心したのです。ぼくはこの決心を実行しました。これでぼくを避けた人は、きみをも避けたし、その点できみが正しかったことを証《あか》しました。あの当時ぼくににこやかな微笑を投げていた有力者や庇護者、勢力があり地位が高い親類は冷たい態度を示しています。でも、イギリスの豊かな州にはほほえみかける野原と手をふっている樹木があり、ある村の教会――ぼくのもの、ローズ、ぼく自身の教会です!――のそばに――いなかふうの建物があり、それは、ぼくがすてさった希望より千倍も誇らかに感ずるようにきみがつくり変えることができるものなのです。これが、いま、ぼくの地位と階級です。そして、それをきみの足下にささげます!」
* * *
「恋人たちのために、夕食をのばされるのは、つらいことですな」はっと目をさまし、頭の上のハンカチをとって、グリムウィグ氏はいった。
じっさいのところ、夕食は、とてつもないほどながいあいだ、のびていた。メイリー夫人、ハリー、ローズ(彼らはいっしょに部屋にはいってきた)はいずれも、いいわけのしようもなかった。
「今夜は、自分の頭を食ってしまうことを、真剣に考えてましたよ」グリムウィグ氏はいった。「ほかになにも食べられそうもない、と考えはじめていたんですからな。ひとつ許していただいて、未来の花嫁にご挨拶をいわせてもらいましょう」
グリムウィグ氏は、時をうつさず、顔を赤らめている乙女《おとめ》にこの前おきを実行した。これは感染力が強いものだったので、医者もブラウンロウ氏も、それにならった。ハリー・メイリーが、独自の立場から、となりの暗い部屋でその先鞭をつけたと主張するむきもあるが、最高の権威筋は、彼は青年牧師であるからして、それはまったくのひどいうわさにすぎない、と断定している。
「わたしの子供のオリヴァ」メイリー夫人はいった。「どこにいたの? どうしてそんなに悲しそうにしているの? 目から涙が流れていますよ? どうしたの?」
この世は失望の世界――われわれがなにより大切にして胸にいだいている希望、われわれの性格に最高の名誉を与えてくれる希望を裏切る世界である。
かわいそうに、ディックは死んでしまっていた!
[#改ページ]
五十二 フェイギンの最後の夜
法廷は、床から天井まで、人の顔で埋まっていた。穿鑿《せんさく》好きで好奇心の強い目が、どんな小さな隙間からものぞいていた。被告席の前の手すりから、傍聴席のせまい隅のどんな小さな角度のところからも、すべての凝視は、一人の男――フェイギンの上に釘づけにされていた。彼の前とうしろ――上も下も、右も左も――彼はギラギラする目で一面に輝いている空にとりかこまれて立っている感じだった。
彼はこうした生きた光がねめつけている中に立ち、一方の手を自分の前の平板の上におき、もうひとつの手を耳にあてがい、頭を前につきだして、陪審官に論告をしている裁判長の発する言葉を一語でも聞きのがすまいとしていた。ときどき、彼は鋭い目を陪審官たちに投げ、自分に少しでも有利な点の効果をはかろうとし、自分に不利な点がおそろしい明確さで述べられると、弁護士のほうをながめて、このときになっても、まだなにか自分のためにいってもらいたいことを、無言で訴えていた。こうした不安の表示以外には、彼は手も足も動かさなかった。裁判がはじまってから、彼はからだをほとんど動かさず、裁判官の言葉が終わったいまも、まるでまだなにか聞き入っているように、視線を裁判官の上にそそぎ、注意集中の同じ緊張した姿勢で、立ちつくしていた。
法廷のかすかなざわめきが、彼をわれにかえらせた。あたりを見まわして、陪審官がその判決を合議するために集まったことを、彼は知った。彼の目が傍聴席のほうに流れていったとき、彼は人々が自分の顔を見ようとかさなりあっているのをさとった――ある人たちはあわただしく眼鏡をつけ――ほかの人々は、嫌悪の情をあらわした表情で、となりの人にささやいていた。フェイギンのことには注意をはらわず、ただ陪審官たちだけをながめ、どうして彼らがグズグズしているのかと、イライラしながら考えている少数の人がいた。しかし、どの顔にも――そこにいたたくさんの女性の中にさえ――彼に同情をよせているわずかな表示、彼が有罪の判決を受けるのをひたむきに待っている気持ち以外のものを読みとることはできなかった。
とまどった一瞥で彼がこうしたことすべてを知ったとき、死のような沈黙がふたたび襲い、ふりむくと、陪審官たちが裁判官のほうに向いているのを、彼は見た。静粛!
陪審官たちは退席を求めただけだった。
彼らが退場してゆくとき、多数派がどちらに傾くかを見きわめようといったようすで、彼はその顔をいちいちジーッとのぞきこんでいたが、それは甲斐《かい》のないことだった。看守が手を彼の肩にふれ、彼は機械的にそのあとについて被告席の端《はし》のところにゆき、椅子に腰をおろした。看守が椅子を教えてやったが、それがなければ、彼はそれに気がつかなかったであろう。
彼はふたたび傍聴席のほうに目をあげた。一部の人はなにか食べ、ハンカチで顔をあおいでいる人もいた。人込みでぎっしりのこの場所は、とても暑くなっていたからである。小さな帳面にフェイギンの似顔を画いている青年がいた。フェイギンはそれがそっくりなものかどうかを考え、その画家が鉛筆の先を折り、ナイフでそれをとがらせているときにも、ただボンヤリとながめている見物人のように、そこをジッと見つめていた。
これと同じふうに、彼が目を裁判官のほうにうつしたときにも、彼の心はせわしく動いて、その服の型、値段、その着つけかたを考えていた。判事席に一人の太った老紳士がいたが、彼は三十分ほど前に出てゆき、いまもどってきた。この男は食事をしにいったのだろうか、なにを食べたのだろう、どこで食べたのだろう、とフェイギンは心の中で考えはじめ、こうした無頓着な考えごとにふけったあげく、べつのなにか新しいものが目にはいると、またべつの考えごとにふけっていた。
このあいだじゅうずっと、彼の心は、一瞬間でも、自分の足下に開いている墓の重苦しい圧倒的な意識から解放されてはいなかった。それはいつも彼の心に浮かんでいたが、漠然として特徴のないもので、彼はそこに自分の注意を集中することができないでいた。こうして、彼が身をふるわせ、すぐに死なねばならぬと思って、心が焼けつくように熱くなったときでさえ、彼は目の前の釘の数を勘定しはじめ、そのうちの一本の頭がどうして折れたのだろう、それが修理されるかどうかを考えていた。それから、彼は絞首台とその足場のもつすべてのおそろしさを考え――考えをとめて、冷却用にと男が床に水をまいているのを注視し――それが終わると、また考えこみはじめた。
ついに、「静粛!」の声がひびきわたり、固唾《かたず》をのんだすべての人の目が、扉のほうに向けられた。陪審官たちはもどり、彼のそばをとおりぬけていった。彼はその顔からなにも読みとることができなかった。それはまるで石の顔だった。ついで、あたりは水を打ったような静けさにつつまれ――衣《きぬ》ずれの音ひとつ――はく息ひとつ――聞こえず――有罪の判決が下された。何回かつづいて起こったものすごい叫びが建物に鳴りひびき、その叫びは、それが大きくなるにつれて、力強いものになっていった。それは外の人々からのよろこびのどよめきで、フェイギンが月曜日に処刑されるという知らせに答えたものだった。
そのさわぎは静まり、死罪判決が不当と思うなにか筋があるかどうかを、彼はたずねられた。彼はまたジッと聞き入っている態度にもどり、その訊問がおこなわれているあいだじゅう、訊問者をにらみつけていた。しかし、それが二度くりかえされてから、やっと彼はそれを耳にしたらしく、ただ、自分は老人だ――老人だ――老人だとつぶやき、声はだんだんささやき声になって、ふたたびだまりこんでしまった。
裁判官は黒い帽子をかぶり、囚人はまだ同じ態度、同じ身ぶりで立っていた。傍聴席のある婦人がなにか叫び声を立てたが、それはこの場のおそろしい厳粛さに打たれたものだった。彼は、その邪魔を怒っているように、上を見あげた。判決のいいわたしは厳粛で感銘を与え、判決は聞くもおそろしいものだった。しかし彼は、眉の毛一本も動かさず、石の像のように立ちつくしていた。彼のやつれた顔はまだ前につきだされ、下顎《したあご》はダラリとさがり、目は前方を見すえていたが、そのとき看守が彼の腕に手をかけ、彼に退場を合図した。彼は一瞬うつけたようにあたりを見まわし、その命令にしたがった。
彼は法廷の下の石をしいた部屋をとおって連れられていったが、そこでは何人かの囚人が自分の番のくるのを待ち、ほかの者は開けた内庭に面する格子窓のまわりに群らがり集まっている友人たちに話しかけていた。彼に話しかける者は、だれもいなかった。彼がとおると、囚人たちは身を引き、桟《さん》にすがりついている人々が彼をもっとはっきりと見られるようにし、彼らは悪口を彼に浴びせかけ、ののしり声をあげた。彼は拳《こぶし》をふり、彼らに唾をはきかけようとしたが、彼の護衛は彼をせきたて、わずかな薄暗いランプで照らされている陰気な通路をとおり、監獄の奥のほうに彼を連れ去っていった。
ここで、法の執行の先手を打つ道具をもっていないかと、彼は身体検査を受け、これがすむと、死刑囚の監房に連れてゆかれ、そこに入れられた――ただ一人で……。
彼は扉の向かい側にある石のベンチに坐ったが、そのベンチは坐席用と寝台用をかねたものだった。彼は血走った目を伏せ、心を落ち着けようとした。しばらくすると、裁判官がいった言葉が、裁判のときには一語も耳にはいらぬように思えたのだが、ちぎれちぎれのわずかな断片になって、思い出されてきた。こうした言葉はしだいにその妥当な場所におさまり、意味がだんだんにはっきりとしてきて、やがて、申しわたされたままの全文が彼にわかってきた。絞首で死刑に処す――それが判決の末尾の言葉だった。絞首で死刑に処す。
あたりがとても暗くなったとき、彼は絞首台で死んだ知人のことを考えはじめた。そのうちには、彼の手でそこに登ることになった者もいた。その姿はあいついで彼の心に浮かび、ほとんど数えられぬほどだった。彼は彼らの死ぬのを見て――冗談をとばしたこともあった。彼らが祈りながら死んだからである。なんといういやな音を立てて、踏み台は落ちていったことか! たくましい男からただダラリとぶらさがった衣服のかたまりに、なんと早く彼らは変わっていったことか!
彼らのうちには、この同じ監房にはいり――この同じ場所に坐った者もいるかもしれない。そこはとても暗かった。どうして燈《あか》りをもってこないのだろう? 数多くの人がその最後の時間をここですごしたにちがいない。死体のころがっている地下納骨堂に坐っているような感じだった――帽子、輪型になった|なわ《ヽヽ》、くくりあげられた両腕、あの気味のわるいおおいの下でさえ、彼にそれとわかった顔々――燈《あか》りだ、燈《あか》りだ!
とうとう、重い扉と壁をたたいて彼の手の皮がむけてしまったころになって、二人の男が姿をあらわし、一人はろうそくをもっていて、壁にとりつけた鉄の燭台にそれをさしこみ、もう一人は、一夜をすごすために、布団《ふとん》を中にひきずりこんだ。囚人をそこに一人に放ってはおけなかったからである。
それから夜――暗くて、おそろしい、静かな夜がやってきた。ほかの夜眠らずにいる人は、教会の時を報ずる鐘の音をよろこぶものである。それは生命と来るべき日を知らせてくれるからだ。彼には、それは絶望をもたらした。毎時聞こえてくる鉄の鐘のひびきには、同じ、太い、うつろな音――死――がこもっていた。こんな奥にもひびいてくる陽気な朝の物音とざわめきが、彼にはなんの役に立つのだろう。それは予告に嘲笑を加えた葬式の鐘ともいえるものではないだろうか?
その日の昼はすぎていった――昼だって! それは日とはとてもいえないものだった。来るとすぐ、すぎさってしまった――そして、ふたたび夜が――とてもながくはあっても、じつに短い夜、おそろしい沈黙ではながく、消えてゆく時間では短い夜が――やってきた。彼はあるときはわめき、神をののしり、また、あるときはうなり、髪をかきむしった。彼と同じ宗旨の牧師がやってきて、彼のそばで祈ったが、彼はのろいの声をあげて、彼らを追いだした。彼らはその慈悲深い努力をくりかえしたが、彼はそれをたたきだした。
土曜日の夜になった。彼はもう一晩しか生きられなかった。彼がこう考えたとき、もう夜が明けて――日曜日になった。
この最後のおそろしい日の夜になってはじめて、どうしようもない、絶望的な状態にたいする心身を細らす自覚が、彼のむしばまれた魂に強烈に襲いかかってきた。彼が慈悲にたいしてなにかしっかりとした強い期待をもっていたわけではなかったが、彼が考えていたのは、ただ間《ま》もなく死ぬという漠然とした可能性だけだった。彼は二人の男にはほとんど口をきかず、彼らは彼につきそいの勤務を交替にやっていた。彼らのほうでも、彼をそのまま放りだしにしておいた。彼はそこに目をさまして坐っていたが、心の中では夢をみていた。いま彼はひっきりなしにとびあがり、口を開いて息をあえがせ、肌が燃え立っているように、恐怖と憤怒のはげしい発作であわただしく右往左往し、こうした光景に馴れている二人の男でさえ、そのおそろしさに打たれて、彼に近づこうとはしなかった。ついに良心の苛責《かしゃく》の苦しみに責めたてられて、彼の形相《ぎょうそう》はすさまじいものになったので、看視人は一人でその姿を見ながら坐っていられなくなり、その結果、二人がいっしょに看視をつづけることになった。
彼は石の寝台の上にかがみこんで、自分の過去を考えた。逮捕の日、群集から投げつけられて彼は負傷し、頭にはリンネルの繃帯《ほうたい》がまかれていた。赤い髪は青ざめた顔にかかり、髯《ひげ》はむしられ、よじれてかたまりになり、目はおそろしいふうにギラギラと輝いていた。彼のよごれたからだは、体内で燃えている熱のために、カサカサになっていた。八時――九時――十時。この時の進行が、彼をおびやかすための策略ではなく、あいついでやってくるほんとうの時間だったら、それがひとまわりしたときに、彼はどこにいるだろう! 十一時だ! 前の時間の報ずる鐘のひびきがまだ消えてはいないのに、もうつぎの時間が報じられた。八時には、自分自身の葬式の列の中で、彼はただ一人の会葬者になるだろう。十一時には――
ニューゲイト監獄のあのおそろしい壁は、人の目から、そしてあまりにもしばしば、あまりにもながいあいだ、人の心から、人間の大きなみじめさと得《え》もいえぬ苦痛をおしかくしてきたが、このようなおそろしい光景は類のないものだった。そこをとおりかかり、足をとめて、明日絞首刑になる男がいまなにをしているだろうと考えた人は、もし彼の姿を見たら、その夜は決して安眠できなかったであろう。
宵《よい》の口からほぼ真夜中まで、二人、三人と連れだった人々が門衛の詰め所をおとずれ、心配そうな顔をして、死刑執行延期命令が出されはしなかったかとたずねた。出されぬという返事を受けて、彼らはそのよろこばしい情報を通りでかたまって集まっている人たちに伝え、その人たちはフェイギンが出てくるにちがいない戸口をたがいに指で示しあい、絞首台がどこにつくられるかを語り、気がすすまぬようすでそこを立ち去りながら、あとをふりかえって、処刑の光景を思い描いていた。こうした人たちは、一人また一人と、そこから姿を消し、真夜中の一時間のあいだは、監獄の前の通りは、わびしさと暗闇につつまれていた。
監獄の前の場所は清掃され、黒くぬられたしっかりとした柵《さく》が、予想される群集のおしよせるのを抑えるために、道路を横切って設けられたが、そのとき、ブラウンロウ氏とオリヴァが小門のところに姿をあらわし、州長官の署名のついた面会許可証を示した。二人はすぐ詰め所に入れられた。
「この坊ちゃんもいっしょですか?」二人の案内人になった守衛がたずねた。「子供に見せるべきものではありませんがね……」
「まったく、そのとおり」ブラウンロウ氏は答えた。「だが、囚人に関するわしの用件は、この子と密接な関係があるのです。この子供は悪事でときめいていたあの男の姿を見てきたのだから、いまの彼のようすを――たとえ多少の苦痛と恐怖の代償をはらっても――見ておいたほうがいいでしょう」
こうした短かな言葉は、オリヴァの耳にはいらぬようにと、少しはなれたところでかわされていた。守衛は帽子に手をやって挨拶し、チラリと好奇の目をオリヴァに流し、二人がはいった門の向こう側にあるべつの門を開き、クネクネとまがった暗い通路をとおって、二人を監房のほうに案内していった。
「これが」二人の作業員がだまりこくってなにかの準備をしている暗い通路で足をとめて、守衛はいった――「これがあの男がとおる道です。もしこっちにおいでになれば、彼が出てくる戸口が見えますよ」
彼は囚人用の食事をつくる銅の釜《かま》のある石づくりの調理室に彼らを連れこみ、扉をさした。その上には格子戸があり、それをとおして、槌《つち》を打ちおろし、板を投げだす音にまじって、人の声が聞こえてきた。彼らは絞首台をつくっているのだった。
ここから、彼らはいくつかがっちりとした、内側から看守によって開けられる門をとおりぬけ、開けた内庭を横切ってから、せまい階段を登り、左手に一列のがっちりとした扉のある通路にはいっていった。入り口のところで待つように彼らに合図してから、看守は鍵のたばで扉のひとつをノックした。二人のつきそいの男は、ちょっと低い声で話し合ったのち、この一時の休息をよろこんでいるふうに背伸びをしながら通路に出てきて、守衛について監房にはいるようにと、二人に合図をした。二人はそのとおり行動した。
死刑囚は寝台の上に坐り、人間の顔というより|わな《ヽヽ》にかかった野獣の顔といった顔つきをして、からだを左右にゆさぶっていた。彼の心がむかしの生活をいろいろと考えていることは明らかだった。彼はブツブツと語りつづけ、二人の存在をただ自分の幻想の一部としか考えていないようだったからである。
「いい子だ、チャーリー、うまくやったぞ」彼はつぶやいた。「オリヴァもそうだ、はっ! はっ! はっ! オリヴァもそうだ――もうまったく紳士らしくなったな――まったく紳――あの子を寝台に連れていけ!」
看守はオリヴァのあいた手をとり、心配することはないと彼にささやいてから、口をつぐんでその光景をながめつづけた。
「あの子を寝台に連れていけ!」フェイギンは叫んだ。「聞いてるのか! やつが、ともかく、このことすべての原因なんだ。やつをそんなふうに育てりゃ、金になるんだ――ビル、ボルターの喉だ――あの女のことはかまうな――ボルターの喉をできるだけ深くぐっさりやるんだ。やつの頭をのこぎりで切っちまえ!」
「フェイギン」守衛はいった。
「そいつは、おれだ!」裁判のときの聞き耳を立てていた態度に即座にかえって、フェイギンは叫んだ。「裁判長閣下、年老いた老人なんです。とても老いた、老いた老人なんです!」
「おい」彼を静めるために、胸に手をおいて、看守はいった。「おまえに面会の人が来てるぞ。なにかおまえにたずねたいそうだ。フェイギン、フェイギン! おまえはそれでも男なのか?」
「男であるのも、もうしばらくのあいだだけだ」憤怒と恐怖以外の人間らしい表情をとどめていない顔をあげて、彼は答えた。「やつらをみんな、たたき殺してしまえ! おれを殺す権利が、どこにあるんだ?」
こういいながら、彼はオリヴァとブラウンロウ氏の姿に気がついた。坐席のいちばんはなれた隅のところまでとびさがって、なんの用があるんだ、と彼はたずねた。
「しっかりしろ」まだ彼を抑えつけたままで、看守はいった。「さあ、ご用件をおっしゃってください。できたら早くおねがいします。時がたつにつれて、こいつは荒れてきますからね」
「おまえは書類をもっているな」前に進み出て、ブラウンロウ氏はいった。「それはマンクスという男が、安全のために、おまえに預けたものなのだ」
「そいつは真っ赤な嘘《うそ》だ」フェイギンは答えた。「そんなもん、もってないぞ――そんなもん」
「たのむ」ブラウンロウ氏は厳粛にいった。「死にのぞんで、そんなことをいうものではない。それがどこにあるかを教えてくれたまえ。サイクスが死んだことは知っているだろう。マンクスは白状し、これ以上、利益の望みはもうないのだ。あの書類はどこにある?」
「オリヴァ」彼をまねいて、フェイギンは叫んだ。「ここだ、ここだ! おまえにそっと教えてやろう」
「ぼくはこわくはありません」ブラウンロウ氏の手をはなしながら、低い声でオリヴァはいった。
「書類はな」オリヴァを手もとに引きよせて、フェイギンはいった。「二階のおもての部屋の煙突のちょっと上んとこに穴があるが、そこのズックの袋に入れてある。わしはおまえと話をしたいんだ。わしはおまえと話をしたいんだ」
「ええ、ええ」オリヴァは答えた。「ぼくにお祈りをいわせてください。おねがいです! お祈りをひとついわせてください。ぼくといっしょにあなたもひざまずいて、お祈りをひとつだけいってください。それがすんだら、二人で朝まで話しましょう」
「外へ、外へゆけ」少年を扉のほうにおし、その頭越しにぼんやりと向こうを見ながら、フェイギンは答えた。「わしは眠っちまったといえ――おまえのいうことなら、信用するだろう。そのやりかたで、おまえはわしを外に連れだせるぞ。さあ、さあ!」
「おお、神さま、このあわれな男をお救いください!」わっと泣きだして、少年は叫んだ。
「そうだ、そうだ」フェイギンはいった。「それでうまくいくぞ。最初にこの扉だ。絞首台のわきをとおるとき、わしがどんなにふるえても、気にせず、さっさと歩いていくんだ。さあ、さあ、さあ!」
「ほかにあの男にきくことはありませんか?」看守はたずねた。
「もうありません」ブラウンロウ氏は答えた。「あの男に自分の立場を理解するようにさせてやれたら――」
「それはむりです」頭をふりながら、看守は答えた。「ここをお出になったほうがいいでしょう」
監房の扉は開かれ、つきそい人たちがもどってきた。
「グイグイゆくんだ、グイグイとな」フェイギンは叫んだ。「そっとだが、足はゆるめるな。もっと早く、もっと早く!」
つきそいの男たちはフェイギンをつかまえ、オリヴァを手からはなさせて、彼を抑えつけた。彼は、一瞬間、夢中になって、もがき、それから、つづけて大きな叫びをあげたが、それはあの厚い壁をもつらぬき、オリヴァたちがひろびろとした内庭のところに着くまで、鳴りひびいていた。
二人が監獄を出るまでに、ちょっと時間がかかった。このおそろしい光景のあとで、オリヴァは気が遠くなりそうになり、一時間かそこいら、ひどく弱って、歩けなくなったからである。
二人がふたたび外に出たとき、夜が明けそうになっていた。大群集はもう集まっていて、窓辺は時間つぶしにタバコをのんだり、トランプをしたりしている人でいっぱいになっていた。群集はおしあい、喧嘩をし、冗談をとばしていた。すべては生命と活気を物語っていたが、その中央にくろぐろとかためておかれてあるのは――黒い台、|なわ《ヽヽ》、おそろしい死の装置だった。
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五十三 しめくくり
この物語に姿をあらわした人たちの運命については、もうほとんど語りつくした。語り手が話さなければならぬのこったわずかなことは、短い簡単な言葉でお伝えすることにしよう。
三月《みつき》とたたぬうちに、ローズ・フレミングとハリー・メイリーは、若い牧師の活動舞台となるべき村の教会で結ばれ、その日に、幸福な新家庭生活にはいった。
メイリー夫人は自分の息子とその嫁といっしょに住み、その静かな余生のあいだ、りっぱな人柄の老人が味わうことのできる最大の幸福――生涯をみごとに送ってきた人のもつこの上ない愛情といつくしみの配慮が絶え間なくそそがれている人々の幸福をながめながら暮らすというよろこびを味わうことになった。
念入りによく調査した結果、マンクスが勝手に使って手もとにのこしている財産(それは彼の手にあっても、その母親の手にあっても、ふえたことはないものだったが)は、もしそれが彼自身とオリヴァのあいだで平等にわけられたとしたら、それぞれに三千ポンドくらいにしかならぬことがわかった。彼の父親の遺言状の規定によれば、それはすべてオリヴァに与えられることになっていた。だが、ブラウンロウ氏は、この兄から前非を悔い、まともな生活をおくる機会をうばってしまうことにあまり気がすすまず、この折半の分配法を提案したが、若いオリヴァはよろこんでそれに賛成した。
マンクスは、まだその偽名を使ったままで、自分の分け前の金をもって新世界《アメリカ》の奥地にいったが、そこで金を湯水のように使い果たして、またもとの道にまいもどり、新しく偽造と悪事の罪をかさねて、長期監禁の刑を受け、とうとう彼の持病が再発して、監獄で死亡した。彼の友人であるフェイギンの一味の主だった残党たちも、同じように故国を遠くはなれたところで死んでいった。
ブラウンロウ氏はオリヴァを養子にした。彼は、親しい友だちが住んでいる牧師の家から一マイルとはなれていないところに、オリヴァと老家政婦といっしょにうつっていって、オリヴァの熱烈で真剣なただひとつのねがいをかなえてやり、こうして小さな仲間をつくったが、その状態は、このうつろいやすい世の中で期待し得るかぎり、完全な幸福に近づいたものだった。
若い人たちの結婚式後|間《ま》もなく、あのりっぱな医者はチャーツェーにもどったが、自分の古い友だちがもういなくなって、彼の気性が不満といったものを感ずるとしたら、彼はそうした気分を味わい、不満をはきだす方法がわかっていたら、すっかり怒りっぽい人間になっていたことだろう。二、三か月のあいだ、彼は空気が合わないのではないかとほのめかすだけで、それ以上のことはなにもいわなかったが、ついで、その場所が彼にとってもとの場所とはちがっていることに気がつき、助手にその仕事をゆずり、彼の若い友だちが牧師をしている村のはずれにある独身者の小屋を借りたが、病気は即座になおってしまった。ここで、彼は庭つくり、植樹、魚釣り、大工仕事、その他そういったさまざまな仕事をはじめたが、そうしたことはすべて彼一流の性急さで処理され、そうしたすべての分野で、彼はその後、最高権威として、その近所で名士になった。
転居の前に、彼はグリムウィグ氏と深い友情で結ばれていたが、あの風変わりな紳士は心からその友情にこたえた。そこで、一年じゅう何回となく、彼はグリムウィグ氏の訪問を受けることになった。こうしたときに、グリムウィグ氏は熱心に木を植え、魚を釣り、大工仕事をし、すべてのことをじつに奇妙な前例のないやりかたでやっていたが、例の得意な主張(「頭を食う」という言葉)とともに、当人は、そのやりかたが正しいものだ、といつもくりかえしていた。日曜日には、彼はかならず若い牧師の面前でその説教のことをあれこれと批判し、その後、他言はかたく禁じて、あれはりっぱな説教だったが、そうだといわないほうがいいだろう、といつもロスバーン氏に伝えていた。オリヴァに関する彼のむかしの予言で彼をからかい、オリヴァが帰ってくるのを待って、二人が時計を真ん中において坐っていた夜のことを彼に思い出させるのが、ブラウンロウ氏の大好きなおきまりの冗談になっている。それにたいして、グリムウィグ氏は自分がだいたいのところ正しかったのだと抗弁し、その証拠に、結局オリヴァはもどって来なかったではないかといっている。そして、そうした言葉をいって、彼はいつも自分のほうから笑いだし、ますます上機嫌になるのだった。
ノア・クレイポール氏は、フェイギンにたいする共犯証人(減刑をねらい、共犯の犯罪を証言する人)になったために特赦を受け、自分の職業が思ったほど安全でないことをさとって、しばらくのあいだ、せっせと仕事をしないで、どう生計を立てたものかととまどっていた。あれこれとだいぶ考えたあとで、密偵として職業をはじめ、その商売で、彼はそうとうの収入をあげている。彼の計画は、教会の時間ちゅうに、週に一回、きちんとした服装をしたシャーロットをともなって、散歩に出かけることである。夫人は慈悲深い酒屋の入り口のところで気絶し、紳士が彼女の元気回復薬にと三ペニーほどのブランデーをそこでゆずってもらって、それを翌日告発、罰金の半分を手中におさめることになる。ときどき、クレイポール氏自身も気絶するが、同じ成果をあげている。
バムブル夫妻はその地位を奪われて、しだいにその貧乏とみじめさをまし、最後には、二人がもとわがもの顔にいばっていたあの貧民院に収容されることになった。バムブル氏は、こうして逆境に立ち、すっかり尾羽打ち枯らして、妻とわかれるようになったことを感謝する勇気も出ない、ともらしているそうである。
ジャイルズ氏とブリトルズはといえば、ジャイルズ氏ははげ頭になり、坊やのブリトルズ氏はすっかり白髪《しらが》まじりの老人になったが、依然としてもとの職についている。彼らは牧師館で寝起きしているが、そこの夫妻、オリヴァ、ブラウンロウ氏とロスバーン氏にいずれもまったく同じ配慮をはらい、今日《こんにち》にいたるまで、二人がどの世帯に属するものか、村の人には判明していない。
チャールズ・ベイツは、サイクスの犯罪でふるえあがり、まともな生活のほうが、結局、いちばんいい生活ではないか、と考えはじめた。たしかにそうだという結論に達して、彼は過去に背を向け、なにか新しい活動の分野でそのつぐないをしようと決心した。しばらくのあいだ、はげしくがんばり、多くの苦労もなめたが、不満家ではなく、りっぱな意図をもっていたので、彼は最後には成功し、農家であくせく働くやとい人と運送屋の若者の身分から立身出世して、いまでは全ノーサムプトンシャーきっての陽気な若い牧畜業者になっている。
さて、こうした言葉を書いてきた手は、物語が終わりに近づくにつれ、とどこおりがちになるが、もうしばらくのあいだ、この冒険談の糸をつづってみたい。
わたしは自分がながいこといっしょに行動してきたわずかの人たちのところにもうしばらく滞在し、その幸福な生活ぶりを描いて、それに与《あずか》りたいと思っている。わたしは若い女の花の盛り、美しさの絶頂にあるローズ・メイリーが、人里はなれた彼女の小道にやわらかでおだやかな光を投げかけ、それが彼女といっしょにその小道を歩むすべての人の上にそそがれ、その心を明るくしていることを申しあげたい。彼女が炉辺と元気な夏の一団の花形の中心人物になっていることを、お伝えしたい。昼さがりのむし暑い野原を彼女のあとについてさまよい、月の照る宵《よい》の散歩での彼女の美しい声の調べに耳を傾けたい。外では、親切と慈悲深さを示している彼女をながめ、家では、家事のつとめを笑顔を浮かべながらせっせとやっている姿を見守りたい。彼女とその死んだ姉の子供がたがいの愛情で幸福に酔い、彼らが悲しくも失ってしまった友人たちのことを心に思い出してながい時をすごしている姿を描きだしたい。彼女の膝のまわりにまといついたあの陽気な小さな顔々を、もう一度、心に思い浮かべ、彼らの愉快な片言を耳にしたい。あの澄《す》んだ笑いの調子を思い出し、あのやさしい青い目にキラリと輝く共感の涙を心に呼びだしてみたい。こうしたこと、それに千もの面《おも》ざしと微笑、それに考えかたや話しかた――そうしたことをいずれもみな、わたしは、もう一度思い起こしてみたいのである。
ブラウンロウ氏が、毎日毎日、多くの知識でその養子の子供の心を満たし、子供の性格が伸びていって、彼が望んでいるとおりのすぐれた素質を見せてくるにつれ、彼の子供にたいする愛情がますます深まっていったこと――わびしいものだが、心を静めてくれる甘美なむかしの思い出を彼自身の胸の中に目ざめさせる古い友の新しい面影をこの子供の中に見つけだしたこと――逆境で苦しみを味わった二人の孤児がその教訓を忘れずにいて、他人に慈悲をほどこし、たがいに愛し合って、二人を保護し守ってくださった神に熱烈な感謝をささげたこと――こうしたことは、ここでいう必要のないことがらである。彼らがほんとうに幸福であることは、もうすでにお伝えした。そして、強い愛情と心のやさしさ、その掟《おきて》が慈悲であり、その偉大な属性が生きとしいけるあらゆるものにたいする仁愛である神への感謝の念がなければ、幸福は絶対に獲ちとり得ぬものである。
村の古い教会の祭壇の中に、白い大理石の板が立っていて、そこにはただ一語「アグネス」という言葉が刻まれている。その墓には棺がおさめられておらず、そこにべつの名が刻みつけられるときまでに、ながいながい歳月の経過があるように! だが、もし死者の霊が地上にもどり、生前彼らが知っていた人々の愛情――墓を超越した愛情――によって清められている場所をおとずれるものとしたら、アグネスの亡霊はときどきこの神聖な片隅のまわりをさまようことであろう。その片隅が教会にあり、彼女が弱く、あやまちを犯した女であろうとも、やはりそれはそうなるであろうと、わたしはかたく信じている。(完)
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訳者あとがき
チャールズ・ディケンズ(一八一二〜七〇)は貧しい役人の子供として生まれ、父親が負債のためにマーシャルシー監獄に投ぜられたりしたので、幼いころ、『デイヴィッド・コパーフィールド』に描写されているのとほぼ同様な経験――家族ともども獄舎生活を送るといった経験――を味わい、したがって、まともな教育はほとんど受けていなかった。成人してから、一八三五年「モーニング・クロニクル」誌の記者となり、下院の討論を報告する仕事を引き受け、雑誌に寄稿などしていたが、それは、のちに『ボズの報告』(一八三六―七)という著作の材料になった。一八三六年四月から二十回にわたって毎月雑誌に、『ピクウィック・ペイパーズ』を連載したが、この作品で彼は作家として急速な成長をとげ、ユーモア作家としての地位を固め、経済的にも余裕のある生活ができるようになった。つづいて書かれたのが、本書『オリヴァ・トゥイスト』(一八三七〜八)で、「ベントリー雑録」という雑誌に一八三七年二月から連載された。このあと、一八七〇年の彼の死にいたるまでの膨大な作品がつづくことになるが、日本でひろく知られている作品といえば、『クリスマス・キャロル』(一八四三)、先にあげた『デイヴィッド・コパーフィールド』(一八四九〜五〇)、『二都物語』(一八五九)などをあげることができる。
彼は一八四二年にアメリカにわたり、出版権の国際化・奴隷制度の廃止を叫び、一八五八年には自作の公開朗読をはじめ、これは一八六七〜八年の再度のアメリカ訪問ちゅうもつづけられ、その過労のため死を早めたと伝えられている。『オリヴァ・トゥイスト』のうち、ナンシー虐殺の場面も、そうした公開朗読の対象として、彼に好んで選ばれたものといわれている。
『オリヴァ・トゥイスト』は、いまはただふつうの小説として読まれているのだが、これは一八三四年に新しく制定された「貧民救済法」についての議論・不安・批判の最中《さなか》に書かれたものであることを忘れてはならない。ユーモア作家として一応成功した二十五歳の作家ディケンズが、一転して、ジャーナリスト的立場からトピカルな話題をとりあげ、本式の小説に取り組もうと試みた最初の作品だったのである。一八三四年の「貧民救済法」で、教区は、従前どおり、救済の基礎的団体であり、教区の施設である貧民院がその救済に当たることになっていた。そして、教区の保護委員会に救済可否の決定権が与えられていた。貧民院は貧民をおびえさせ、おそれさせる一種の妨害物として設けられたもので、そこで与えられる食事は粗末でわずか、収容される夫婦は別居を命じられ、収容員は特別な制服を着せられていた。そして、ディケンズはその皮肉な怒りを貧民院で生じるゆがんだ人間関係に向けている。貧民をことなった階級に分け、それぞれにことなった待遇を与えるべきことが、貧民法の元来の意図で、老人、虚弱者、病人、狂人は社会が当然その救済に当たるべきもの、身体健全でありながら職をもたないでなまけている者とは、当然区別されることになっていた。子供、とくに孤児はまったくべつのもので、貧民院での処置は受けるべきものではないとされていたが、こうした法律の施行にあたっての実際的な困難・無能さによって、この妥当な区別は、ふつう、守られていなかった。その結果、老若男女、さまざまにことなった肉体的・精神的条件をもつ男女が同じ貧民院に無差別に収容され、とぼしい食事を与えられて、反抗的ななまけ者と同じあつかいを受けていた。児童がその最悪の被害者であったことは、いうまでもない。
ディケンズは、その幼少時代に、さまざまな下層社会の苦難にあい、安定感や人の愛情といったものはほとんど味わわず、マーシャルシー監獄を家庭とする苦しみをもなめ、六ヵ月間靴墨工場であくせく働く職人としての経験までつんでいた。この小説の前半における虐待を受ける孤児オリヴァ、それにノア・クレイポールはそうした経験の反映と考えることができ、社会から烙印をおされた子供の身にどうしたことが起きるかを物語っている。
フェイギン、サイクス、ナンシー、ぺてん師が、作中の他の登場人物より深い理解と関心をもって描かれていることは、一度この小説を読んだ人なら、だれでも感ずることであろう。彼らは強い共感力をもって描かれている。ディケンズは彼らの心理の動きを追い、その策略・動機をさぐることに、異常なほどの努力を傾けている。マンクスという風変わりな悪人には、いささかの同情も示されていないが、フェイギンとかサイクスといった中心的な悪人の心の中には、その主要なところで、作者自身が乗りうつっている。そして、この二人の人物の重大な危機的場面では、ディケンズにありがちな説教調はほとんど示されていない。法廷における敵意につつまれたフェイギンは、おそろしい孤独さをあらわした人物、被告席での心のうつろなさまよいは、ナンシー殺害後のサイクスの荒野のさまよいと好対照をなしている。
オリヴァの悲境は、紳士ブラウンロウ、グリムウィグ、医師、メイリー夫人などの力で最後には救われるが、社会悪の結果が個人的な人間の単独な善意によってだけで救われるという解釈・解決は、現代の作家だったらとらぬところであろう。
この作品執筆ちゅうに、ディケンズとその妻といっしょに暮らしていた義妹、十七歳の少女であったメアリ・ホガースが、彼の膝にだかれたまま、死亡したことをつけ加えておこう。彼はこの妹にロマンチックな愛情を寄せていたが、その死にあって、悲しみのあまり、当時連載中の小説『ピクウィック・ペイパーズ』と『オリヴァ・トゥイスト』の執筆が一ヵ月不可能になるほどだった。メアリの理想化された像がローズ・メイリーのそれになったこと、ローズの病気の描写はメアリのそれであることは、いうまでもない。
本書に載せられた挿し絵はその当時のもので、ディケンズと同時代の有名な風刺漫画家で挿し絵画家でもあったジョージ・クルックシャンク(一七九二〜一八七八)の筆になるものであり、オクスフォード版のディケンズ全集よりとった。
一九六八年四月 訳者