オリヴァ・トゥイスト(上)
チャールズ・ディケンズ/北川悌二訳
目 次
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(一) オリヴァ・トゥイストの生まれた場所とその出産事情について
(二) オリヴァ・トゥイストの成長、教育、食事について
(三) 決して閑《ひま》とはいえぬ職業にオリヴァ・トゥイストは就職しそうになる
(四) オリヴァはべつの地位を与えられ、はじめてこの世に第一歩を踏みだす
(五) オリヴァは新しい仲間とまじわる。はじめて葬式にゆき、主人の職業をきらう気持ちにおそわれる
(六) オリヴァはノアの悪口に刺激されて行動にうつり、自らびっくりする
(七) オリヴァはがんばりつづける
(八) オリヴァは徒歩でロンドンにおもむく――途中で妙な年ゆかぬ紳士に出逢う
(九) 愉快な老紳士とその有望な弟子に関するもっとくわしい話
(十)オリヴァは新しい友だちと親しくなり大きな代償をはらって経験を積む――この物語では、短いがきわめて重要な一章
(十一)治安判事ファング氏が主題、その裁判のわずかな一例を示す
(十二)オリヴァはいままでにない手厚い看護を受ける。そして話は陽気な老紳士とその若い弟子たちにもどる
(十三)賢明な読者に新しい登場人物が紹介され、この人物に関して、この物語に関係のあるさまざまな愉快なことが語られる
(十四)ブラウンロウ家におけるオリヴァの生活の詳細、ならびに、彼が使いに出たとき、グリムウィグ氏なる人物が彼について語った予言について
(十五)例の陽気なユダヤ人とナンシー嬢がいかにオリヴァ・トゥイストに好意をいだいていたかを示す
(十六)ナンシーにつかまったあとで、オリヴァがどうなったかを語る
(十七)オリヴァの運命は不幸つづき、彼の評判を傷つけるために、偉大なる人物がロンドンにやってくる
(十八)オリヴァが評判のよい、ためになる友人たちとつきあって時をすごすいきさつ
(十九)注目すべき計画が論議され、決定される
(二十)オリヴァはウィリアム・サイクス氏の手にわたされる
(二十一)遠征
(二十二)押込み強盗
(二十三)バムブル氏とある婦人とのあいだでかわされた愉快な会話の内容、それに、教区吏員にも弱いところがあることを語る
(二十四)実につまらぬものではあるが、短く、この物語に重要な関係をもつかもしれぬ題目をあつかう
(二十五)話はフェイギン氏とその仲間にもどる
(二十六)神秘的な人物が登場。この物語には絶対必要な多くのことが実行される
(二十七)婦人を失礼にも放り出しにした前の章の非礼のつぐないをする
(二十八)オリヴァの動きを調べ、彼の冒険を語る
(二十九)オリヴァが世話になった家の住人の紹介
(三十) 新しい見舞い人のオリヴァ観を語る
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主要登場人物
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オリヴァ・トゥイスト……貧しい名無しの孤児
フェイギン……悪知恵にたけたユダヤ人。徒弟をつかって集めた盗品のさばき人
ジャック・ドーキンズ……別名「ぺてん師」。フェイギン配下のスリ師
チャーリー・ベイツ……フェイギン配下の見習いスリ師
トム・チトリング……フェイギン配下の見習いスリ師
バムブル氏……教区吏員
ファング氏……治安判事
ブラウンロウ氏……温厚な老紳士
ビル・サイクス……粗暴な盗人、押し込み強盗
トウビー・クラキット……押し込み強盗
ナンシー……フェイギン配下の泥棒
バーニー……若いユダヤ人悪漢
ライヴリー……セールスマン兼故買屋
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一 オリヴァ・トゥイストの生まれた場所とその出産事情について
さまざまの事情からその名はあげず、架空の名もつけずにおくが、ある町の公共施設には、大なり小なりたいていの町に古くから伝わる共通な施設がある。すなわち、教区貧民院である。そして、この貧民院で、ある日、この章の巻頭にその名をかかげられた人物が生まれたが、その出生日について、ここでわざわざそれを示すのは、やめることにしよう。とにかく、この話のいまの段階では、読者にとって、それが重要なものとは、思えないからである。
教区の医者の手で、嘆きと苦しみのこの世に生みだされてからずっとながいこと、この子が名前をもつようになるまで成長するかどうかは、大いに疑問を投げられていたことだったが、もし子供が死ねば、こうした伝記は、おそらく書かれなかったであろう。また、書かれたにしても、それは二ページにもならぬもの、いかなる時代・国の文学にも存在しないほどの簡潔で忠実な伝記という、この上なく貴重な価値をもつことになっただろう。
貧民院で生まれた事実そのものが、人間の身にふりかかる最大の幸福、うらやむべきことと主張する気は、さらさらないが、この話の場合には、これは、オリヴァ・トゥイストにとって、ねがってもない最高のことだった。事実、オリヴァに呼吸の仕事をさせる困難な仕事――これは面倒な習慣で、楽に暮らすにぜひ必要なことだが――があり、しばらくのあいだ、毛くずを入れた小さな布団《ふとん》の上で、あえぎながら、この世とあの世のあいだを不安定に往き来し、あやうくあの世ゆきをするところだった。さて、この短い期間に、オリヴァが気のつくお祖母《ばあ》さん、案じてくれる叔母《おば》さん、経験のある看護婦、深い知識をたくわえた医者に見守られていたら、彼が間《ま》もなく死亡したであろうことは、まちがいのないこと、疑問の余地のないことだった。しかしながら、そばにいるものといえば、ただビールをふだんよりもっとひっかけて酔眼朦朧《すいがんもうろう》とした貧民院のお婆さんと、こうした仕事をうけおいでやっている教区の医者だけだったので、オリヴァと生命力は、自分の力だけで、この生死の戦いを戦いぬいた。その結果、少しもがいたあとで、オリヴァは呼吸をはじめ、くしゃみをし、三分と十五秒よりもっとずっとながいあいだ、言葉という好都合な道具をもたぬ坊やの赤ん坊から期待し得るかぎりの大きな泣きわめきをたてて、その教区に新しい負担を増した事実を、貧民院の住民に知らせた。
オリヴァの肺臓がこの自由で適切な活動の最初の証《あか》しを立てたとき、鉄の寝台の上に無造作《むぞうさ》にかけられたつぎはぎだらけの掛け布団《ぶとん》がかすかな音をたて、若い女の青ざめた顔が枕から弱々しく上げられ、かすれた声で「死ぬ前に赤ちゃんの顔を見せて」とうつろにいっていた。
医者は暖炉に顔を向けて坐り、手のひらを炉にかざしたり、こすったりしていたが、この若い女がこういったとき、彼は立ちあがって、その枕もとにゆき、こうした場合には予想もできない親切さをこめて、こういった。
「ああ、死のことを口にするなんて、まだ早すぎるよ」
「まあ、かわいそうに、とんでもないことよ」いかにも満足気に隅で飲んでいた緑のびんを急いでポケットにしまいこみながら、看護婦は口をはさんだ。「かわいそうに、わたしくらいの長生きをし、十三人子供を生み、生き残ったのは二人だけ、しかも、その生き残りは、わたしといっしょに貧民院のお世話になるといったことになったら、そんな大さわぎはしなくなるよ。かわいそうに! ねえ、いい子だから、母さんになることがどんなことか、ちょっと考えてごらん」
母親になることのよろこびを伝えたこの慰めの言葉が、相応な効果をあげなかったことは、明らかだった。患者は頭をふり、両手を子供のほうにのばした。
医者は、赤ん坊を彼女の腕にだかせた。母親は冷たい、青ざめた唇を夢中で赤ん坊の額《ひたい》におしつけ、その顔をなで、あたりを狂気じみたようにながめまわし、身をふるわせ、最後にがっくりとして――死んでしまった。医者と看護婦は彼女の胸、手、こめかみをこすってやったが、血は永遠にとまったままだった。彼らは希望や慰めについて語ったが、それは、ずっとながいこと、彼女には無縁のものになっていたのだった。
「なんとかいう叔母《おば》さん、万事休すだね!」医者はとうとういった。
「ああ、かわいそうに、そうなりましたね!」緑のびんのコルク栓をひろいながら、看護婦はいった。これは、赤ん坊をだきあげようとして、彼女がかがんだとき、枕のところからころがり落ちたものだった。「かわいそうに!」
「看護婦さん、子供が泣いても、呼びにくる必要はないよ」念入りに手袋をはめながら、医者はいった。「うるさく泣きそうだが、そうなったら、少し|かゆ《ヽヽ》をやりなさい」彼は帽子をかぶり、扉のほうにゆきながら、寝台のところで立ちどまって、いいそえた。「きれいな女だったが、どこからやってきたんだろう?」
「民生委員の監督さんの命令で、昨日《きのう》の晩、ここに連れてこられたんです」老婆は答えた。「道で倒れてるとこを見つけられてね。そうとうながい道中をしたんでしょうね、靴がズタズタに切れてましたもんね。だけど、どこからきたんか、どこにゆこうとしてたんかは、だれにもわかっちゃいませんよ」
医者は死体の上にかがみこみ、左手をあげた。「いつもおきまりの話さ」頭をふって彼はいった、「結婚指環はないね。ああ、おやすみ!」
医者は夕食をしに立ち去った。そして看護婦は、もう一度、緑のびんから一杯ひっかけて、暖炉の前の低い椅子に腰をおろし、赤ん坊に着物を着せはじめた。
幼いオリヴァ・トゥイストは、着物の力を示すじつに好適な例だった! いままで彼のからだをくるんでいたケット姿では、彼は、貴族の子供とも乞食の子供ともいえるものだった。この赤ん坊を知らぬどんな傲慢な人でも、それがどんな社会的地位に属するものか、決めかねたことだろう。だが、着古されて黄色に変色した古キャラコの服につつまれると、彼は階級章をつけられ、世の中で打ちのめされ――みなに軽蔑され、だれにもあわれみをかけてもらえない、その本来の地位――教区の世話になる子供――貧民院の孤児になりさがっていた。
オリヴァはたくましい泣き声をたてた。教区委員と民生委員の監督の慈悲にゆだねられた孤児の身分を知ったら、彼はきっともっと大声で泣き叫んだことだろう。
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二 オリヴァ・トゥイストの成長、教育、食事について
それからの八カ月か十カ月のあいだ、オリヴァは計画的な詐欺《さぎ》と瞞着《まんちゃく》の犠牲になっていた。彼は人工栄養で育てられた。孤児の貧困欠食状態は、貧民院当局から教区当局に正しく報告された。オリヴァ・トゥイストが必要としている慰めと栄養を与えうる立場にある女性がこの貧民院にいるかどうかを、教区当局は威儀を正して貧民院当局に諮問《しもん》した。貧民院当局はかしこまって、そうした人物のいないむねを応答した。そこで教区当局は堂々と、情け深く、つぎのとおりに決定した。すなわち、オリヴァを「養育引き受け所」に出せ、言葉をかえていえば、約三マイルはなれた貧民院支部に派遣せよということだった。そこでは、二、三十人の貧民救助法未成年違反者たちが、年配の女性の親代わりの監督の下で、食事・衣料の不便な過当配給もなく、一日中床をころげまわっていた。この女は子供一人あたり週七ペンス半の値で、その金目当てで、この罪人たちを引き受けていたのである。週に七ペンス半の金額は、子供には十分な食費で、七ペンス半の金では十分ものが買え――満腹させて、苦しくさせるに十分だった。しかし、この初老の女性は賢明な、経験を積んだ女、子供にはなにがよいかを心得ていた。それに、どうしたら自分自身に都合よくなるかを、じつによく心得ていた。そこで、彼女は週ごとの費用の大部分を自分の用に当て、教区貧民院に割り当てられた額の上前をはね、それでどんな最深部にでも、それを上まわる深みがあることを発見し、自分がじつに偉大な経験派哲学者であることを証明したのだった。
馬は食べさせずともりっぱに生きてゆけると主張し、馬の食糧を一日|藁《わら》一本にまできりつめ、馬が快適な空気食料をはじめて支給される二十四時間前に死んでしまわなかったら、元気で活発な食料ぬきの馬をたしかにつくりだすところまで、その理論をみごとに証明した、これに似たべつの実験派哲学者の話は、だれでも知っている。オリヴァ・トゥイストがその保護の下にゆだねられた女性の実験派哲学にとって不幸なことに、同様の結果が、いつもこの女性の計画の実行にともなって起こっていた。というのも、子供がこの上なく粗末な食料のこの上なくわずかな分量でなんとか暮らせるようになったとたんに、意地わるくも、子供は十人中八人半まで、栄養不足と寒気で病気になり、注意ふゆきとどきで暖炉の中に落ち、偶然のことで窒息しかかるといった事件が起きた。こうしたとき、どのような場合でも、かわいそうな子供はふつうあの世ゆきになり、そこで、この世では知ったこともない父親のもとに連れてゆかれるのだった。
ときおり、寝台を片づけるときにその存在を忘れられ、入浴のあったさいに、不注意にも火傷《やけど》を負わされて死亡した貧民院の子供にたいして、ふだんにないほど興味深い検視がおこなわれるとき――後者の事件は、入浴といったことは幼児預かり所でめったにないことなので、まずまず起きはしない事件だったのだが――陪審官が厄介《やっかい》な質問をしてやろうとか、教区民が反抗的に抗議書に署名することがよく起こった。しかし、こうした出しゃばった態度は、医者の証明や教区吏員の証言でたちまち抑えられた。医者はいつも死体を解剖し、中にはなにもない(たしかにそのとおりだったろうが)ことを証明、教区吏員は、教区が希望することはなににせよ、かならず誓って証言し、非常に献身的なところを示した。その上、委員会は周期的に幼児預かり所を巡察することになっていて、いつもその日の前に教区吏員を派遣して、巡察がおこなわれることを知らせていた。委員会の連中が出向いてゆくときには、子供たちは見たところ小ぎれいでさっぱりとした恰好《かっこう》をしていた。これ以上、なにが望めよう!
この幼児預かり所の制度からとても異常な、ゆたかな収穫を期待しても、それはむりなねがいというものである。オリヴァ・トゥイストが九回目の誕生日を迎えたとき、彼は背丈《せたけ》の低い、胴まわりははっきりと細い、顔の青白い痩《や》せた子供になっていた。しかし、天性というか、遺伝というか、りっぱなたくましい精神がオリヴァの胸に植えつけられていた。そうした精神は、施設のとぼしい食事のおかげで、そのからだの中で拡がる余地を十分にもっていたのである。そして、彼が九歳の誕生日を迎えることができたのも、おそらくこの事情によるものだったのだろう。それはともあれ、今日《きょう》は彼の九歳の誕生日だった。彼はこの誕生日を地下の石炭庫の中で他の二人の優秀な若い紳士たちとともに迎えたのだが、彼らは、オリヴァといっしょにしこたまたたきのめされたあとで、横着《おうちゃく》にも空腹を訴えた罪で、ここに閉じこめられていたのだった。そしてちょうどそのとき、この家の善良なるマン夫人は、庭の小門を開けようとしている教区吏員バムブル氏の出現に、思わずぎょっとした。
「まあ! バムブルさん、あなたでしたの?」すごいうれしさをよそおって、窓から頭を出しながら、マン夫人はいった。「(スーザン、オリヴァとあの二人の餓鬼《がき》を二階に連れてゆき、すぐ手足を洗ってやっとくれ)これは、これは! バムブルさん、お会いできて、なんと、とてもうれしいことですよ」
さて、バムブル氏は太った、短気な男で、この好意をこめた挨拶に真心こめた心で応ぜず、小門をひどくゆさぶり、ついで、教区吏員の足以外からはとても出るとは思えぬ猛烈な一蹴りをその小門に与えた。
「まあ、まあ、大変」マン夫人は飛びだしていって、いった――三人の少年は、もうこのとき、二階にうつされていた――「大変だわ! だいじな子供を預かってるこの身、門の錠を内側からかけるのを忘れるなんて! さあ、おはいりください。どうか、バムブルさん、おはいりください」
この迎え入れの言葉は、教区吏員の心をやわらげるお辞儀をともなって呼びかけられたが、それは、この教区吏員の心を静めるものではなかった。
「教区の職員が教区の孤児に関する仕事でここにやってきたとき、その職員を庭の小門で待たせておくなんて、それは丁重《ていちょう》で適切な接待法といえますかな?」ステッキをつかみながら、バムブル氏はたずねた。「マン夫人、ご存じかな? あんたは、いわば、教区から委嘱と俸給を受けてる身分なんですぞ」
「すみませんでした、バムブルさん、あなたをとても好きになってる一人か二人のかわいい子供たちに、おいでになったのはあなただ、といってたとこなんです」ひどくおそれいった態度で、マン夫人は答えた。
バムブル氏は、自分の権力と貫禄《かんろく》をたいしたものに思っている人物だった。彼はその両方を示し、主張したので、その不機嫌はなおってきた。
「そう、そう、マン夫人」彼は前より静かな調子で答えた。「そうかもしれませんな、そうかも。マン夫人、家に案内してください。とにかく仕事で来て、伝えねばならんことがありますからな」
マン夫人は煉瓦敷きの小さな客間に教区吏員を招じ入れ、その座席をしつらえ、世話好きにも、その三角帽とステッキを彼の前のテーブルの上においた。バムブル氏は一歩きしてかいた汗を額《ひたい》からぬぐい、三角帽を満悦気《まんえつげ》にながめ、にっこりとした。そう、たしかににっこりとした。教区吏員とて、やはり人間であり、バムブル氏はにっこりしたのである。
「これから申しあげることで、どうか気をわるくなさらないでくださいまし」魅力満点のやさしさをこめて、マン夫人はいった。「ねえ、ながい道中をなさったのですもの、ほんとうに。さあ、バムブルさん、ほんのちょっと一杯なさいません?」
「いや、だめ、だめ」威厳はあるがおだやかな態度で右手をふりながら、バムブル氏はいった。
「召しあがってもいいでしょう」相手の拒否の語調とそれにともなう身ぶりを観察したマン夫人は応じた。「ほんのちょっと一杯、冷たい水を少しとお砂糖をそえて」
バムブル氏は咳ばらいをした。
「さあ、ほんのちょっと一杯」説きつけるようにして、マン夫人はいった。
「それは、なんですな?」教区吏員はたずねた。
「まあ、家にちょっととっておかなければならないものなんです、子供たちの具合いがよくないとき、そのお薬に入れるもんでしてね、バムブルさん」隅の戸棚を開き、びんとコップをとりだして、マン夫人は答えた。「これはお酒のジンです。嘘《うそ》は申しませんわ、バムブルさん。これはジンですことよ」
「マン夫人、あんたは子供たちに薬をやるんですかね」水とジンのまぜ具合いをおもしろそうに目で追いながら、バムブルはたずねた。
「ええ、それは、ほんとにしてますよ、高いもんですけどね」看護婦は答えた。「目の前で子供たちが苦しむのを、見てはいられませんもの、ほんと」
「そうですな」いかにもといったふうにバムブル氏はいった。「そう、マン夫人、きみにはできませんな、人情のある人だから」(ここで彼女はコップを彼の前においた)「マン夫人、いずれ近く機《おり》を見て、このことを委員会に報告してあげましょう」(彼はコップを手もとに引きよせた)「きみの心は、マン夫人、母親のようなもんですな」(彼は水を割ったジンをかきまわした)
「わしは――わしはよろこんできみの健康を祝って乾盃しますぞ、マン夫人」こういって、彼はコップの半分をグイと飲み乾した。
「さて、これで仕事の話になるが」革の紙入れをとりだしながら、教区吏員はいった。「オリヴァ・トゥイストといい加減な名をつけられた子供は、今日で満九歳になるわけですな」
「おや、そうですか!」エプロンの端《はし》で左目をこすりながら、マン夫人は口をはさんだ。
「前には十ポンドの賞金、あとではそれが二十ポンドに増額されたにもかかわらず、また教区のほうでも、最高の、途方もないともいえる努力をしたにもかかわらず」バムブルはいった、「彼の父親が何者か、母親の財産、姓名、身分はいかなるものかがわかっておらんのだ」
マン夫人はびっくりして、両手をあげたが、ちょっと考えてから、いいそえた、「でも、あの子がともかく名をもってるのは、どうしたことなんでしょう?」
教区吏員は大得意で身をそらせて、いった、「わしがそれを考えだしたのさ」
「バムブルさん、あんたがですって!」
「ああ、そうですぞ、マン夫人。われわれは子供たちをABCの順に名をつけててね。前のがSで、スワブルと名をつけてやったよ。この子はTで――トゥイストと名をつけたのさ。このつぎのやつはアンウィン、そのつぎはヴィルキンズになるよ。わしはABCの最後まで名を用意してあってね、Zまでゆけば、元にもどして、ぜんぶくりかえすわけさ」
「まあ、あんたは学者だことねえ!」マン夫人はいった。
「うん、うん」そのお世辞にはっきりと満悦しながら、教区吏員はいった。「そうかもしれんな。うん、マン夫人、そうかもしれん」彼は水割りのジンを飲み終え、いいそえた、「オリヴァはここに入れておくには大きくなりすぎたんで、委員会は彼を貧民院に呼びもどすことにしたんだ。わし自身がこうしてやってきたのは、彼をそこに連れてゆくため。だから、すぐ彼をここに連れてきてください」
「すぐに連れてきますよ」それをしようと部屋を出ながら、マン夫人はいった。オリヴァは、このときまでに一洗いで落とせるかぎり顔や手にこびりついた垢《あか》を落とされ、この慈悲深い女保護者によって、部屋に連れられてきた。
「オリヴァ、このかたにお辞儀をするのよ」マン夫人は命じた。
オリヴァはお辞儀をしたが、それはなかばは椅子に坐った教区吏員、半ばはテーブルの上の三角帽にたいするものだった。
「オリヴァ、おまえはわしといっしょにゆくかね?」いかめしい声で、バムブル氏はいった。
オリヴァは、大よろこびでだれとでもゆきます、といおうとしたが、そのとき、目を上のほうにやって、マン夫人の身ぶりに気がついた。彼女は教区吏員の椅子のうしろにまわって、すごい顔つきで、拳《こぶし》を教区吏員の頭にふっていた。彼にはその意味がすぐわかった。拳《こぶし》はじつにしばしば彼自身のからだに打ちすえられていたので、それは、彼の記憶に深く刻みつけられていたのである。
「おばさんもいっしょにゆくの?」かわいそうに、オリヴァはたずねた。
「いや、それはできん」バムブル氏は答えた。「だが、ときどき会いにきてくれるぞ」
これは、子供にはたいして慰めにならぬ言葉だった。幼いながらも、彼は別離をなげくようすを見せるくらいの才覚はもっていた。目に涙を浮かばせることくらいは、子供にとって楽《らく》なことだった。泣きたいと思えば、空腹と最近の虐待を思えば、すぐできることだった。そして、オリヴァはとてもうまくとりつくろって泣いた。マン夫人は何度も彼をだきしめ、それよりもっとオリヴァが欲しがっていたバタつきパンをくれたが、これは貧民院に着いたとき、彼があまり腹をへらしているふうに見えてはという配慮だった。手にパン切れをにぎり、頭には褐色の布の教区帽をかぶって、彼はバムブル氏によってみじめな家から連れだされていったが、この家は、彼の陰鬱な幼年時代を照らしだす光で、ただひとつのやさしい言葉、顔つきももってはいないものだった。
しかし、彼が出ていったあとで、この小屋の門が閉じられたとき、彼は子供らしい苦しみに満ちた苦悶の嗚咽《おえつ》をあげた。彼があとに残した悲惨な小さな仲間たちはみじめなものではあったが、それは、彼が知った唯一の友人たちであり、ひろい世間に放り出された天涯孤独《てんがいこどく》の感じが、はじめて、子供心に深くしみとおって沈んでいったからである。
バムブル氏は大またでズンズンと歩いていった。小さなオリヴァは、バムブル氏の金モールの袖口《そでぐち》をしっかりとつかんで、急ぎ足でちょこちょこと歩き、四分の一マイルほど歩くたびに、「もうすぐですか?」とたずねていた。こうした質問にたいして、バムブル氏はひどく短く、ガミガミ声で応答していた。水割りジンが人の胸にひき起こす一時的な温和な気分は、もうこのときまでに、消滅していたからである。彼は、ふたたび、またもとの教区吏員になっていた。
オリヴァは、貧民院にはいってからすぐ、ある老婆に預けられたが、まだ十五分もたたず、二切れめのパンをまだ平らげもしないうちに、バムブル氏がもどってきた。そして、今日《きょう》は委員会《ボード》の開かれる晩だといって、委員会の前に彼が出頭しなければならぬことを知らせた。
ボードには「委員会」と「食卓」の意味があり、オリヴァは、生き物のボードがどんなものか、余りよくわかっていなかったので、この知らせにびっくりしてしまい、笑っていいのか、泣いていいのか、見当もつかなかった。しかし、彼にはこのことを考えている時間的余裕がなかった。というのは、バムブル氏は、彼の眠気をさまそうと、ステッキで彼の頭に一撃を加え、元気づけに背中をひとたたきし、ついてこいと命じて、彼を大きなしっくい造りの部屋に連れていったからである。そこでは、八人か十人の太った紳士たちが、テーブルをかこんで坐っていた。テーブルの上座のところには、ほかの椅子より高い肘かけ椅子に坐って、とても丸い、赤ら顔の、特に太った紳士が坐っていた。
「委員会《ボード》のかたがたにご挨拶をしろ」とバムブル氏はいった。オリヴァは目に残っている二、三滴の涙をおしぬぐい、ボードといってもテーブル以外にはなにもないので、好都合に、それに向けてお辞儀をした。
「坊や、名前はなんというのかね?」高い椅子に坐っている紳士はたずねた。
オリヴァは、こんなにたくさんの紳士たちを目の前にしてすくんでしまい、からだをブルブルふるわせていた。教区吏員はもう一度彼の背に一撃を加え、これで、彼は泣きだすことになった。この二つのことで、彼はとても低い、オドオドした声しか出なくなった。そこで、白いチョッキを着たある紳士は、この子はバカだ、といった。これは彼の元気をふるい起こさせ、すっかり気楽にさせる特効薬になった。
「坊や」高い椅子の紳士はいった、「わしのいうことをよくお聞き。おまえは自分が孤児だというのを知っているのだろうね?」
「それはなんですか?」かわいそうなオリヴァはたずねた。
「あの子供はバカだ――そうだと思ってたよ」白いチョッキを着た紳士はいった。
「しっ!」最初に口を切った紳士はいった。「きみには父親も母親もないということ、教区の手で自分が育てられてきたことを、きみは知っているのだね、どうだい?」
「はい」ひどく泣きじゃくりながら、オリヴァは答えた。
「おまえはどうして泣いてるんだ?」白チョッキの紳士がたずねた。そして、たしかに、これは異常なことだった。いったい、どうして、この子供が泣く必要があるのだろう?
「おまえは、毎晩、お祈りはしているだろうね?」しわがれ声をしたべつの紳士がいった。「それに、おまえに食事を与え、おまえの世話をしている人のためにな――キリスト教徒らしく」
「はい」少年はどもっていった。最後に話しかけた紳士は、無意識ながら、当を得たことをさとしたのだった。もしオリヴァが自分に食事を与え、自分の世話をしてくれる人のために祈っていたら、それはたしかに、キリスト教徒に、すばらしい善良なキリスト教徒にとてもふさわしいことだったろう。彼はそうしたお祈りをささげてはいなかった。だれもそれを彼に教えてはくれなかったからである。
「よし! おまえをここに呼んだのは、おまえに教育を授け、ためになる仕事を教えてやるためなのだ」高い椅子に坐った赤ら顔の紳士がいった。
「そう、だから明日の朝六時から|まいはだ《ヽヽヽヽ》(古い麻綱などをほぐして麻くずのようにしたもの。船の張板などの間に詰めて漏水を防ぐ。むかし罪人、貧乏人などがやっていた仕事)作りをはじめるのだぞ」白チョッキの意地のわるい紳士がいいそえた。
こうしたありがたいことを、ただ|まいはだ《ヽヽヽヽ》作りをするだけで得られることにたいして、オリヴァは、教区吏員に命じられて、低くお辞儀をした。そのあとで、彼はさっさと大きな部屋に連れてゆかれ、そこで、ひどい、かたい寝台の上で、泣き寝入りをしてしまった。これは、イギリスの愛情深い法律をじつにりっぱに示したものといえよう! それは、貧乏人を眠らせてくれるのだから!
かわいそうなオリヴァ! 幸福に、自分のまわりのことにはなにも気づかずに寝込んでいるとき、オリヴァは、自分の将来にじつに重大な影響をおよぼす決定を委員会がくだしたことを、ぜんぜん知らないでいた。しかし、その決定はたしかにくだされ、その内容はつぎのようなものだった――
委員会の人たちはとても賢く、深みがあり、学者的だった。彼らが貧民院のことを考えるとき、ふつうの人間だったら考えもせぬこと――貧乏人がその場所を好んでいるものと思っていた。それは、貧民のための特定の公共娯楽施設、金をはらう必要のない酒場、一年中支給される公共の三度の食事とおやつ、すべてが仕事ぬきの、煉瓦としっくい作りの遊びの天国だった。「ほおっ!」委員会の人たちは、心得顔でいった。「われわれはこれを整理しなければならない。すぐにこれを停止することにしよう」そこで、彼らは規則を確立し、貧乏人には二者択一の態度でのぞみ(というのも、委員会はだれにも絶対に強制することはしないのだから)、貧民院でだんだんと餓死してゆくか、それとも、外で早いとこ死んでゆくかを選ばせた。こうした意図で、委員会は水道会社とは無制限な給水、穀物問屋とはわずかな量のオートミールの定期補給の契約を結び、日にうすい|かゆ《ヽヽ》の食事を三度、週に二回の玉ねぎ、日曜日には巻きパン半分を支給することにした。そのほか、ご婦人に関係のあるさまざまな、賢明で慈悲深い規則も設けたが、ここでそれをいちいち述べる必要はあるまい。その上親切にも、貧乏人夫婦の離婚の事務まで引き受けたが、これは、離婚訴訟には出費がかさむからという配慮だった。夫には従前やっていた家族扶養の義務を強制せずに、家族を彼の手もとから引きはなし、彼を独身者にしたのだった! もしこれが貧民院と結びつけられていなかったら、最後の二項目の条件のもとでこの世での極楽住まいをしようとする志願者がどれだけでるかわからないが、委員会とてバカではなく、そうした事態にたいする備えはかためられていた。この極楽ゆきは貧民院と|かゆ《ヽヽ》にかたく結びつけられていて、人々をふるえあがらせていたからである。
オリヴァがうつされてから半年のあいだ、この方法は完全に実施されていた。しかし、最初は、葬式屋の勘定の増大、収容者の服の寸法をぜんぶつめなければならぬことで、だいぶ出費がかさんだ。そしてそのつめた服は、一、二週間の|かゆ《ヽヽ》食のあとで、彼らの痩《や》せた、ちぢみあがったからだの上で、ゆったりとはためいていた。しかし、貧乏人が|痩せた《シン》と同様に、貧民院在住者の数も|細って《シン》ゆき、委員会は有頂天のよろこびに酔っていた。
少年たちが食事を与えられる部屋は、大きな石造りの部屋で、端《はし》には銅|がま《ヽヽ》がすえられ、そこから白エプロン姿の食事係りの男が、一、二名のおばさんの援助をかりて、食事時の|かゆ《ヽヽ》を汲《く》んでいた。それぞれの少年が与えられたものは、浅いどんぶりに一杯だけで――祭日には、それ以外に二オンスと四分の一のパンが支給されていた。どんぶりは絶対に洗う必要はなかった。少年たちはそれをさじでみがきあげてしまったからである。そして、この作業が終わると(これには時間がたいしてかかりはしなかった。さじは、どんぶりとほとんど同じくらいの大きさだったから)、彼らは、銅|がま《ヽヽ》がつくられている煉瓦さえ食べかねまじきすごいまなざしで、坐ったまま、その銅|がま《ヽヽ》をにらみつけ、そうしながら、指先についたかもしれないまぐれの|かゆ《ヽヽ》の汁をものがすまいと、せっせと指を吸っていた。少年は食欲旺盛なのが特徴である。オリヴァ・トゥイストとその仲間は、三カ月間、ゆっくりとすすむ飢餓《きが》の苦しみをなめさせられた。が、とうとう、飢えでガツガツになり、気が荒くなって、齢《とし》には似合わず背が高く、こうした扱いには馴れていなかったある少年(彼の父親はささやかな料理店を経営していた)は、一日に|かゆ《ヽヽ》をもう一杯多くしてもらわぬと、自分の横に寝ている齢《とし》のゆかぬ弱々しい少年を夜食べてしまうかもしれない、とひそかに自分の仲間にもらした。彼の目は飢えに追われ、狂暴になっていて、一同は、彼の言葉をそのまま信じこんでしまった。会議が開かれ、食事係りのところに、その日の夕方、夕食後にだれがゆき、食事をもっとくれるように要求するかが、くじできめられ、そのくじは、オリヴァ・トゥイストに当たった。
夕方がやってきた。少年たちは席についた。食事係りは、調理服を着て、銅|がま《ヽヽ》のところに陣どり、収容員の助手たちがその背後にならんで、|かゆ《ヽヽ》が支給され、ながい食前の祈りが短い食事の前にささげられた。|かゆ《ヽヽ》はたちまち姿を消した。少年たちはたがいにヒソヒソと話し、オリヴァに目くばせし、彼のとなりに坐っている者は、彼をひじでつっついた。子供ながら、彼は飢えでがむしゃらに、みじめさで向こうみずになっていた。彼はテーブルから立ちあがり、手にどんぶりとさじをもって、食事係りのところにすすんでゆき、自分の無鉄砲さに多少おびえながら、こういった――
「おねがいします、もっと欲しいんです」
この食事係りは、太った、血色のいい男だったが、さっと顔を青ざめさせた。彼は、数秒間、驚きに打たれて呆然《ぼうぜん》とこの少年の反逆者をにらみつけていたが、それから、身をささえるために、銅|がま《ヽヽ》にしがみついた。助手たちはびっくりし、少年たちは恐怖心で、身をかたくしていた。
「なんだって!」食事係りは、とうとう、かすかな声でいった。
「おねがいです」オリヴァは答えた、「もっと欲しいんです」
食事係りは、ひしゃくでオリヴァの頭をしたたかなぐり、両腕をしばり、金切り声をあげて教区吏員を呼んだ。
委員会が厳粛に開かれているとき、バムブル氏はすごい興奮状態でその部屋にとびこみ、高い椅子に坐っている紳士にこう呼びかけた――
「リムキンズさん、お許しください! オリヴァ・トゥイストがもっと食事をくれと申しております!」
一同はぎょっとした。みなの顔には恐怖の情が示された。
「もっとだって!」リムキンズ氏はいった。「バムブル、もっと落ち着いて、はっきりと返事をしたまえ。彼が規定の夕食を終えたあとで、もっと食事をよこせといったのかね?」
「そうです」とバムブルは答えた。
「あの坊主はしばり首になるぞ」白チョッキの紳士はいった。「そうなることはまちがいなしだとも」
だれも、この紳士の予言に反駁《はんばく》はしなかった。活気のある議論がそのあとにつづいた。オリヴァは、その後すぐ、監禁を命じられ、教区の手からオリヴァ・トゥイストを引きとるものにはだれにでも、五ポンドの報酬が提供されることを書いたはり紙が、翌朝、門の外にはりだされた。言葉をかえていえば、どんな職業、商売、仕事でもかまわぬ、徒弟を欲しがっている男女に、五ポンドとオリヴァ・トゥイストが提供されたのである。
「生まれてこのかた、どんなことにでも、これほど自信のもてることはなかったな」白チョッキの紳士は、翌朝、門をたたき、はり紙を読みながら、いった。「あの坊主はきっとしばり首になるぞ」
この白チョッキの紳士の言葉が当たっているかどうかは、これから先申しあげようと思っているので、いまさしあたって、オリヴァ・トゥイストの生涯が非業の死に終わるかどうかをほのめかしでもしたら、この話の興味(もしこの話にそうしたものがあればの話だが)をそいでしまうことになるだろう。
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三 決して閑《ひま》とはいえぬ職業にオリヴァ・トゥイストは就職しそうになる
食事をもっとよこせというこの神をおそれぬ兇悪犯罪をおかしてから一週間のあいだ、オリヴァ・トゥイストは暗いさびしい部屋にしっかりと監禁されていたが、それは委員会の賢明な、慈悲深い指示によるものだった。もし彼が白チョッキの紳士の予言にたいしてしかるべき尊敬の念をいだいていたら、彼は、ハンカチの片端《かたはし》を壁のかぎに結びつけ、他の端《はし》を首にしばって、この賢明な予言者の予言を一度に、そして永遠に実現したであろうと考えても、それは、一見したところ、そう理不尽《りふじん》とは思えない。ところが、この実行には、ひとつの障害があった。すなわち、ハンカチは贅沢品《ぜいたくひん》と決定されていたので、会議に集まった委員会のはっきりとした命令、その署名と捺印《なついん》のもとで厳粛に伝えられた命令によって、それは貧乏人の鼻から未来|永劫《えいごう》にとりのぞかれてしまっていた。オリヴァの若さと子供らしさに、さらにもっと重大な障害があった。彼は、昼間中ただ泣き叫び、ながい陰気な夜がおとずれたとき、夜の暗さを閉め出そうと、小さな手で目をおおい、隅にうずくまって、眠ろうと努め、ときどきギクッと身をふるわせて目をさまし、壁にだんだんと身を寄せて、まるで冷たい、かたい壁の表面にふれて、自分をつつむ陰気さとわびしさからのがれられるとでもいったようなようすをしていた。
この「方法」を敵視する人たちは、この孤独な監禁中、オリヴァが、運動、人との交際の恩恵と宗教的慰安の便宜をはばまれていたとは想像しないでいただきたい。運動はといえば、晴れた寒い日々だったのだが、彼は、バムブル氏の目の前で、石だたみの中庭で、毎朝、ポンプのもとで沐浴《もくよく》することを許され、バムブル氏は、かぜをひかないようにと、ステッキを何回かふりまわして、からだの血行のよくなるのをうながしていた。人との交際の点では、彼は一日おきに少年たちが食事をする広間に引きだされ、そこでみなへの忠告と手本になるようにと、愛想よく鞭《むち》で打たれていた。宗教的慰安の便宜ははばまれていたどころか、彼は、毎夜お祈りの時刻には、同じ部屋に蹴って放りこまれ、そこで、委員会の威光でさしいれられた特別の文句のはいっている、少年たちがそろってあげる嘆願の声に耳をかたむけ、心を慰めることを許されていた。その特別な文句では、自分たちが善良で、正しく、満足し、従順になり、オリヴァ・トゥイストの罪と悪徳から庇護《ひご》されることを祈っているもので、その祈りの言葉では、彼がはっきりと邪悪の力の完全な庇護《ひご》と保護のもとにあること、まさに悪魔自身の工場から直接送られてきた代物《しろもの》と銘打たれていた。
オリヴァの事情がこうしためでたい、快適な状態にあったとき、ある朝、大通りぞいに煙突掃除人のギャムフィールド氏が歩いていた。彼は、家主がそうとううるさくせがみはじめている家賃の支払いの方法を、あれこれと思いあぐんでいた。ギャムフィールド氏がどんなに楽天的にふところ勘定を立ててみても、希望の金額へ五ポンドは足りず、彼はこの勘定でちょっとやけになって、頭をひねり、驢馬《ろば》をひっぱたいているちょうどそのとき、貧民院のわきを通りながら、彼の目は門の上のはり紙の上に釘づけになった。
「ほうれ!」ギャムフィールド氏は驢馬《ろば》に呼びかけた。
驢馬《ろば》は深い茫然自失《ぼうぜんじしつ》の状態にあり、小さな車につまれている二袋の煤《すす》が処分されたら、キャベツの茎の一本か二本にありつけるかどうかを考えていたようだった。そこで、この停止命令にはおかまいなしに、彼はノロノロと歩きつづけていった。
ギャムフィールド氏は驢馬《ろば》すべてに、とくにその目に激しい呪いの言葉を浴びせ、あとを追いかけていって、驢馬《ろば》以外の頭だったらたたきつぶしてしまいそうな一撃を、その頭にくわせた。それから手綱をとらえて、ひとひねりをギュッとその顎《あご》に与えたが、これは、勝手な行動をとってはならぬという物静かな合図のつもりのもので、こうした手段で驢馬《ろば》に廻れ右をさせた。それから彼は、自分がもどってくるまで目をまわしておくために、もう一度|驢馬《ろば》の頭をなぐった。こうした準備をぜんぶ完了して、彼は門のところに歩いてゆき、はり紙を読みはじめた。
白チョッキの紳士は、委員会室でその深遠な意見を吐露《とろ》したあとで、手をうしろで組みながら、門のところに立っていた。ギャムフィールド氏と驢馬《ろば》とのちょっとしたやり合いをながめていたあとで、その人物がはり紙を読みにやってきたとき、彼はいかにもうれしそうに微笑した。ギャムフィールド氏こそオリヴァにはねがってもない主人だと、彼はすぐに見てとったからである。この文書を読んだとき、ギャムフィールド氏も微笑した。五ポンドの金は彼の望んでいた金額であり、つけ足しの邪魔物になっている少年はといえば、貧民院の規定の食事を知っていたので、ギャムフィールド氏は、この少年が換気調整弁つきのストーブ掃除に打ってつけのチビ公と知っていたからである。そこで彼は、はり紙の文のひろい読みをもう一度はじめから終わりまでくりかえし、それから毛皮の帽子に手をやり、敬意をあらわしてから、白チョッキの紳士に話しかけた。
「教区で徒弟奉公に出そうっちゅうこの子供のこってすがね」ギャムフィールド氏はいった。
「うん、きみ」尊大な微笑を浮かべて、白チョッキの紳士は応じた、「その子がどうしたんだね?」
「もし教区で、れっきとした煙突掃除の楽しい職をその坊主につけてやろうというんでしたらね」ギャムフィールド氏はいった、「わしのほうでも徒弟が欲しいとこ、その坊主はよろこんで引き受けますよ」
「中にはいりたまえ」白チョッキの紳士はいった。ギャムフィールド氏はあとに残り、自分の不在中|驢馬《ろば》が逃げださないようにと、その頭にもう一撃を加え、その顎《あご》をもうひとねじりして、白チョッキの紳士のあとを追い、オリヴァがはじめてこの紳士に出逢った部屋にはいっていった。
「きたならしい商売だな」ギャムフィールドがふたたび希望を述べたとき、リムキンズ氏はいった。
「いままでにも、小さな子供が煙突の中で窒息して死んだことがありますよ」別の紳士がいった。
「そりゃ、坊主どもをおろそうと藁《わら》を煙突でくべるとき、そいつをしめらしたからでさ」ギャムフィールド氏はいった。「坊主どもを殺したのは煙《けむ》でね、炎《ほのお》じゃありませんぜ。ところが、煙《けむ》となると、やつらをおろすのにはぜんぜん役にたたなくってね。そいつは、やつを眠らすだけ、それに、そいつは、やつらの望むとこなんですからな。坊主どもはとても頑固でしてな、それに、ひどいなまけ者《もん》です。早いとこ煙突からやつらをおろすのにゃ、がんがん燃した火にかぎりますね。そいつはまた、情け深いことっともいえるんです。というのも、煙突の途中でつっかかっても、足を焼かれりゃ、なんとか身をもがいて逃げだしますからな」
白チョッキの紳士はこの説明にひどく興味をおぼえているらしかったが、それは、リムキンズ氏の一瞥《いちべつ》にあって、たちまち抑えられてしまった。ついで、委員会の会議が数分間おこなわれたが、それはとても低い声でつづけられ、『費用節約』、『あらゆる点で好適』、『印刷した報告書を出して』といった言葉が聞こえてきただけだった。それは、じつにしばしば、語調を強めてくりかえされたために、そういうことになっただけのことである。
とうとう、ささやき声がとまり、委員会の連中がその座席についたとき、リムキンズ氏がいった――
「われわれはきみの提案を審議したが、それを受け入れぬことにした」
「完全にだめ」白チョッキの紳士がいった。
「はっきりとだめだ」ほかの連中がいいそえた。
ギャムフィールド氏は三、四人の少年に致命傷を与えたといった非難を浴びたことがあったので、ひょいとしたら、なにかわけのわからぬ気まぐれで、この縁のない事情が委員会の審議を動かしたのかもしれない、と彼には思われた。もしそうだとすれば、それは、委員会のふだんのやりかたとはひどくちがったものだった。だが、自分のうわさをここでべつにむしかえして話したくもなかったので、彼は手の中の帽子をひねくり、ゆっくりとテーブルからはなれていった。
「じゃ、坊主をくれないんですね、みなさん」戸口のところで足をとめて、ギャムフィールド氏はいった。
「だめだ」リムキンズ氏は応じた。「少なくともきたない商売なのだから、割増金は少なくしてもいいと思うな」
さっとテーブルのところにもどっていったとき、ギャムフィールド氏の顔は輝き、こういった――
「じゃ、いくらくれるんです? さあ! 貧乏人にはお手やわらかにねがいますよ。いくらくれるんですかね?」
「三ポンド十シリングで十分なところといいたいね」リムキンズ氏はいった。
「十シリング多すぎますな」白チョッキの紳士はいった。
「よーし!」ギャムフィールドはいった。「四ポンドといきましょうや。四ポンドはらや、もうそれであの坊主とはおさらばになるんですぜ。さあ!」
「三ポンド十シリング」断固としてリムキンズ氏はくりかえした。
「さあ、その折半といきましょうや。どうです?」ギャムフィールドはがんばった。「三ポンド十五シリングでね」
「びた一文でも増したりはできん」リムキンズ氏の断固たる応答だった。
「ずいぶんとわしにきびしく当たるもんですな」ためらいながら、ギャムフィールドはいった。
「ちぇっ! ちぇっ! ばかな!」白チョッキの紳士はいった。「割増金になにもでなくたって、あの少年は安いもんだぞ。このわけわからず、あの少年を受けとるがいい! おまえには打ってつけの子供だぞ。やつは、ときどき、ステッキでひっぱたいてやる必要がある。それは、やつのためになるんだ。それに、食費もたいしてかかりはせん。生まれてこのかた、食べすぎのしつけは、つけられておらんのだからな。はっ! はっ! はっ!」
ギャムフィールド氏は、テーブルのまわりの顔にいかにも小ずるそうなまなざしを投げ、そこの顔すべての上に微笑が浮かんでいるのを見てとり、自分もだんだんと笑い顔にほぐれていった。話はきまった。バムブル氏は、その日の午後、署名と承認を受けるために年期証文を治安判事のもとに提出するようにと、ただちに命令された。
この決定にしたがって、子供のオリヴァは、彼がひどく驚いたことに、監禁を解かれ、新しいシャツに着がえることを命じられた。手や頭を動かしてまだこの作業をほとんどし終わらぬうちに、バムブル氏がみずから、どんぶりにはいった|かゆ《ヽヽ》と二オンス四分の一の休日のパンのわけまえを少年のところにもってきた。このとてつもない光景を目にして、オリヴァはひどく泣きはじめた。もっともなことながら、委員会が、なにか有益な目的のために、自分を殺すことを決定したにちがいない、そうでなければ、委員会がこのように自分を太らせてくれるはずはない、と考えたからである。
「オリヴァ、目を赤くすることはない。自分の食事を食べて、感謝するがいい」いかめしい、もったいぶった語調で、バムブル氏はいった。「オリヴァ、おまえは徒弟になるんだからな」
「徒弟ですって!」身をふるわせながら、子供は叫んだ。
「そうだ、オリヴァ」バムブル氏はいった。「オリヴァ、おまえが親なしのときには親がわりになってくださった親切でありがたい紳士のかたがたが、おまえを徒弟に出し、立身出世させてくださり、おまえを一人前の男にしてくださるんだぞ。教区の出費として、三ポンド十シリングはらわれるんだがな!――オリヴァ、三ポンド十シリングだぞ――シリングでは七十箇――六ペンスでは百四十箇にもなり――それが、しかも、だれも愛してもくれぬわがままな孤児に出してくださるお金なんだ」
おそろしい声でこの演説をしたあとで、一息しようとバムブル氏が話をとめたとき、涙がこのあわれな少年の顔をさめざめと流れ、彼は激しく嗚咽《おえつ》した。
「さあ」前ほどもったいぶらぬ調子で、バムブル氏はいった。自分の雄弁が生みだした効果に気づいて、彼は満悦していたからである。「さあ、オリヴァ! おまえの上衣の袖《そで》で目をぬぐい、涙を|かゆ《ヽヽ》の中に流すようなことはするな。そんなことをしたら、バカなこったぞ、オリヴァ」たしかに、それはバカなことだった。|かゆ《ヽヽ》の中には水がもう十分にあったからである。
治安判事のところへゆく途中、オリヴァがしなければならぬことは、とてもうれしそうなようすをすること、徒弟に出されるのを希望するかどうかを相手の紳士からたずねられたとき、ぜひそれを希望することを、バムブル氏は少年に教えこみ、その両方の命令どおりにすることを、オリヴァは約束したのだが、それは、バムブル氏が、そのどちらでも命じたとおりにしなかったら、どんな仕打ちがオリヴァに加えられるかということを遠まわしにほのめかしたからだった。二人が役所に着いたとき、少年は小部屋に一人だけで閉じこめられ、連れにもどってくるまで、そこにいるようにと、バムブル氏に命じられた。
そこで、三十分ほど、少年は胸をドキドキさせながら待っていた。その時間が経過すると、バムブル氏は、三角帽をかぶらぬ頭を突っこみ、大声でいった――
「さあ、オリヴァ坊や、あの紳士のところにおいで」バムブル氏がこれをいったとき、彼は冷酷で脅迫的な形相《ぎょうそう》をし、低い声でいいそえた、「さっきいったことを忘れるな、この小悪党め!」
このだいぶ矛盾した応対ぶりに接して、オリヴァは無邪気にバムブル氏の顔を見つめた。だが、この紳士は、それにたいしてはなんの説明も加えずに、扉が開いているとなりの部屋に先に立って彼を連れこんだ。それは大きな窓のある大部屋だった。机の背後に髪粉をふった二人の老紳士が坐っていたが、その一人は新聞を読み、他の一人は、鼈甲《べっこう》ぶちの眼鏡で、自分の前にある小さな羊皮紙をせっせと読んでいた。リムキンズ氏は机の前の片側に立ち、ギャムフィールド氏は、その向こう側に、まだよごれの残った顔をして立っていて、二、三人の乗馬靴をはいたぶっきらぼうな顔つきをした男が、あたりを歩きまわっていた。
眼鏡をかけた老紳士は、小さな羊皮紙を読みながら、ウトウトしはじめていた。机の前のバムブル氏の横にオリヴァが坐らされたとき、ちょっと沈黙がつづいた。
「閣下、これがその少年でございます」とバムブル氏がいった。
新聞を読んでいた老人は、頭をちょっとあげ、もう一人の老人の袖《そで》をひっぱり、その老人は目をさました。
「ああ、これがその少年かね?」この老人はたずねた。
「そうでございます」バムブル氏は応じた。「治安判事さまにお辞儀をするのだよ」
オリヴァは元気をふるい起こし、最高のお辞儀をした。彼は、治安判事の髪粉に目をやりながら、委員会の全員が頭にあの白いものをつけて生まれてきて、そのために、生まれて以来委員になっているのかどうか、を考えていた。
「うん」老人はいった、「少年は煙突掃除が好きなのだな?」
「閣下、大好きでございます」オリヴァをそっとつねり、好まぬなどといわんほうがよいぞと知らせて、バムブルは答えた。
「そして彼は、掃除人になりたがっているのかね?」老人はたずねた。
「閣下、ほかのどんな仕事をさせようとしましても、すぐ逃げだしてしまうことでございましょう」バムブルは答えた。
「それに、少年の主人になるこちらの人物だが――きみ――きみは少年の待遇、食事、その他そういったすべてのことを、きちんとおこなってくれるな、どうだね?」老人はたずねた。
「するといった以上は、かならずするさ」ギャムフィールド氏は頑固《がんこ》に応じた。
「きみは乱暴な口をきく男だが、正直で率直な人らしいな」オリヴァの割増金ねらいの男のほうに眼鏡を向けて、老人はいったが、ギャムフィールドの兇悪な形相《ぎょうそう》は、まさに折紙つきのりっぱな残酷さの証文のようなものだった。だが、この判事は盲も同然、その上、子供っぽい人だったので、ほかの人にはわかることも、気がつかずにいるのは、当然のことだった。
「そうだと思うね」いやな横目をつかって、ギャムフィールド氏はいった。
「きっとそうだと思うよ」眼鏡を鼻にもっとしっかりとすえ、インク壺をあちこちとさがしながら、老人は答えた。
これは、オリヴァにとって危機一髪のところだった。もしインク壺が老人の思っていた場所にあったら、彼はペンをそこにひたし、証書に署名しただろう。そして、オリヴァはあわただしく追い立てられていったことだろう。しかし、それがたまたま彼の鼻の真下にあったので、当然のことながら、彼は目的を果たさずに机の上一面をさがしまわり、その最中に偶然自分の前方を見て、その視線がオリヴァ・トゥイストの青白い、おびえた顔に注がれることになった。オリヴァは、バムブルの脅迫的な顔つきとつねりにもかかわらず、自分の将来の主人のぞっとする顔を、嫌悪と恐怖をまじえた表情で見守り、それは、なかば盲の治安判事の目にも、それとはっきりわかるものだった。
老人は手をとめ、ペンをおき、オリヴァからリムキンズ氏へ目をうつしたが、彼は呑気《のんき》な、無頓着なふうに嗅ぎタバコをつまんでいた。
「坊や」机に身をのりだして、老人はいった。オリヴァはその物音にギクリとした。これはむりもないことで、その言葉はやさしさのこもったもの、奇妙な物音は人をおびえさせるからである。彼は激しく身をふるわせ、わっと泣きだした。
「坊や!」老人はいった。「きみは顔色がわるく、おびえているようだね。どうしたのだい?」
「教区吏員、少年から少しはなれなさい」新聞をわきにおしのけ、興味を呼びさまされたようすで身をのりだしながら、もう一人の治安判事がいった。「さあ、坊や、どうしたのか、いいなさい。こわがることはないよ」
オリヴァはガクリとひざまずき、手をしっかり組み合わせて、このおそろしい人のところへゆくくらいなら、暗い部屋に連れ帰ってくれ――食事をもらわなくとも――たたかれ――たとえ殺されてもかまわない――とたのみこんだ。
「えっ!」いかにも印象的な厳粛さをあらわして両手と目をあげながら、バムブル氏はいった。「えっ! 横着で陰険な孤児にもたくさん会ってきてるが、おまえはその中でもいちばん厚かましいやつだぞ」
「教区吏員、だまりなさい」バムブル氏がこの言葉を発したとき、第二の老人が命じた。
「はっ、なんでございましょうか?」バムブル氏は、自分の耳を疑って、たずねた。「閣下は、なにかわたしにお話しになったのでしょうか?」
「うん、口をつぐみなさい」
バムブル氏はびっくりして、身動きもできなくなっていた。教区吏員がだまれと命ぜられるなんて! これは道義上の革命だった!
鼈甲《べっこう》ぶちの眼鏡の老紳士は仲間のほうを見やり、意味ありげにうなずいた。
「この契約書の承認は不許可だ」話しながら、羊皮紙をわきに投げだして、老紳士はいった。
「そう」リムキンズ氏はどもっていった、「そう、ただの子供のつまらぬ陳述をもとにして、当局者がなにか不適切なことをおかしたものと、治安判事がたに考えていただきたくはないものですな」
「治安判事はこの件に関し意見を述べる必要はない」第二の老人は鋭く切りかえした。「少年を貧民院に連れ帰り、親切に扱ってやりなさい。それに欠けているようだからね」
その晩、白チョッキの紳士は、オリヴァが絞首刑にあうばかりか、その上に内臓をぬかれて四つ裂きになることを、この上なく強くはっきりと予言した。バムブル氏は陰気ななにかつかめぬふうに頭をふり、少年が将来幸福になれたらとねがったりしていたが、これにたいして、ギャムフィールド氏は、少年が自分のところに来ることを希望していた。彼は、たいていの場合、教区吏員と同じ意見の持ち主だったが、この幸福になるのと、彼のところにくることとは、ぜんぜん逆のねがいともいえるものだった。
翌朝、オリヴァ・トゥイストがふたたび『貸し物』に出されること、そのひきうけ人にはだれにでも五ポンドが支給されることが、もう一度公示されることになった。
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四 オリヴァはべつの地位を与えられ、はじめてこの世に第一歩を踏みだす
上流家庭で、占有、財産復帰権、残余権、将来所有権のいずれかでしっかりとした地位を得られない場合、成人しようとしている青年は、船乗りにさせられることが通例となっている。委員会は、この賢明で有益な手本を真似て、どこか健康によくない港にゆく小さな船にオリヴァ・トゥイストを乗せてしまう便法を相談していた。これは、この少年処理の最上の方法と思われたからである。それというのも、たぶん、船長は、ある日夕食後に、ふざけ半分に彼をたたき殺し、鉄棒で脳味噌をたたきだすだろう。そうした娯楽は、よく知られているとおり、船乗り仲間のあいだではだれにも好まれているものだった。委員会がこうしてこのことを考えてみればみるほど、この方法の有利さが、ますますはっきりとわかってきた。そこで、オリヴァに有効なあてがいをする唯一の方法は、すぐさま彼を船乗りにすることだという結論が出されることになった。
バムブル氏は予備調査をするために派遣されたが、これは身よりのない船の給仕を求めているだれか船長を見つけるためで、自分の調査結果を報告しようともどってきたとき、彼は、ほかならず教区の葬儀人サウアベリ氏と門のところでバッタリ出会ったのだった。
サウアベリ氏は背が高く、痩《や》せ、骨ばった男で、すりきれた黒色の服、同じ色のつくろいをした靴下を着け、それにふさわしい靴をはいていた。彼の顔つきは、そのできからいって、笑いにはふさわしからぬものだったが、職業がらの冗談を飛ばすのを好んでいた。彼がバムブル氏に近づいてきて、心のこもる握手をかわしたとき、その足どりははずみ、その顔は、心中の陽気さを物語っていた。
「バムブルさん、咋日《きのう》の晩死んだ二人の女の寸法をはかってきたとこですよ」葬儀屋はいった。
「一身上《ひとしんしょう》つくれますな、サウアベリさん」葬儀屋がさしだした嗅ぎタバコ入れにおや指と人さし指を突っこみながら、教区吏員はいったが、そのタバコ入れは、特許の棺を精巧に小さくつくったものだった。「きっと身上《しんしょう》をつくれますぞ、サウアベリさん」ステッキで葬儀屋の肩を友好的にたたきながら、バムブル氏はいった。
「そう思いますかね?」その予言の結果をなかば認め、なかば疑っているふうに、葬儀屋はたずねた。「バムブルさん、委員会で認められている値段は、とても|安い《スモール》もんなんですよ」
「棺のほうも|小さい《スモール》だからね」えらい役人としてできるだけの笑いを浮かべて、教区吏員は答えた。
これは当然のことだが、これを聞いてサウアベリ氏はおかしくなり――ひっきりなしに笑いだした。「そう、そう、新しい給食法がおこなわれるようになって以来、棺が以前よりだいぶ狭く浅くなったことは、争えぬ事実です。だけど、われわれだって利益はあげなければならんのですよ、バムブルさん。十分に乾燥した材は高く、鉄の取手《とって》はバーミンガムから運河で運ばれてくるんですからね」
「うん、うん」バムブル氏は応じた。「すべて商売にはマイナスの面もあるもんさ。公正な利潤は、もちろん、許さるべきもんだがね」
「もちろん、もちろん」葬儀屋は答えた。「それに、特定のあれやこれの品物で利益はあげなくとも、ええ、ながいあいだにはその埋め合わせはしますからね――ひっ! ひっ! ひっ!」
「そのとおりだ」バムブル氏はいった。
「なるほど、こいつは申しておかねばなりませんがね」教区吏員がさえぎった話の流れにもどって、葬儀屋はつづけた、「これは申しておかねばなりませんがね、バムブルさん、ひとつだけこちらには不便なとこがあるんです。というのは、太ったやつにかぎって、早いとこ参っちまうってことなんです。懐具合《ふところぐあ》いがよく、税金もながいあいだはらってたやつが、一度貧民院送りになると、真っ先に参っちまうんですからねえ。それに、いっときますがね、三インチか四インチ予定より大きな棺をつくると、こちらの利益には大穴があいちまうんですよ。養わにゃならん家族がいるときにはとくにね……」
虐待を受けている男のしかるべき憤懣《ふんまん》をこめてサウアベリ氏がこれを述べたとき、これは教区の名誉にたいする非難になると感じて、バムブル氏は、話題をかえるほうが得策と考えた。彼の頭にはオリヴァ・トゥイストのことがなにより強く浮かんでいたので、彼はオリヴァのことに話題を変えていった。
「ところで」とバムブル氏はいった、「少年を欲しがってるだれかを、きみは知らんかね? 教区から出す徒弟で、いまは厄介者《やっかいもの》、まあ、教区の首にかかった重荷(マタイ伝一八・六より引いたもの)といったやつなんだがね? 条件はいいんだ、サウアベリ君、条件はいいんだ!」語りながら、バムブル氏はステッキを頭上のはり紙のところにあげ、『五ポンド』と書いてあるところを、念入りに三回たたいてみせたが、これは大文字ででっかく印刷されてあった。
「いや、まったく!」バムブル氏の制服の上衣の金モールの返りえりをつかんで、葬儀屋はいった。「あんたに話したいと思ってたことは、ちょうどそれだったんですよ。ねえ――まったく、このボタンはじつに上品なもんですな、バムブルさん! いままで、これには気がついてませんでしたよ」
「そう、かなりきれいなもんだとは思ってるがね」自分の上衣をかざっている大きな真鍮《しんちゅう》のボタンを自慢そうに見おろしながら、教区吏員はいった。「極印は教区の印と同じもの――病人と負傷者をなおしてやってるサマリア人の図柄(ルカ伝一〇に示されている)ですぞ。サウアベリ君、これは新年の朝、委員会が当方にくださったもんなんだ。忘れもしないが、これをはじめて着用におよんだのは、戸口のところで真夜中に死んだ、あの零落した商人の検視に立ち会ったときのことさ」
「憶えてますよ」葬儀屋はいった。「陪審官は『寒気と生活必需品の欠乏の結果死亡す』と答申してましたな、そうでしょう?」
バムブル氏はうなずいた。
「そして、それを、特別判決にしてましたっけ」葬儀屋はいった。「こんなことをなにかいいそえてね、『もし救済に当たった役人が――』」
「ちぇっ! バカな!」教区吏員が口をはさんだ。「委員会が無知な陪審官の言葉にいちいち耳を傾けてたら、忙しくってたまらなくなっちまうな」
「そのとおり」葬儀屋はいった。「忙しくなりますな」
「陪審官は」興奮したときいつもやるとおり、ステッキをしっかりにぎりしめながら、バムブル氏はいった。「陪審官は無教育な、野卑な、あさましいやつらだ」
「そうですな」葬儀屋は応じた。
「やつらは、これっぽっちも哲学、政治、経済学をもっておらん」軽蔑したように、指をパチンと鳴らして、教区吏員はいった。
「そのとおりですな」葬儀屋は易々諾々《いいだくだく》として答えた。
「わしは、やつらを軽蔑してる」ひどく顔を赤くして、教区吏員はいった。
「こちらだって、同じですよ」葬儀屋は応じた。
「向こうっ気の強い陪審官は、一、二週間、貧民院に入れてやりたいもんさ」教区吏員はいった。「委員会の規律と規則は、すぐにやつらの根性をくじいてしまうこったろう」
「やつらはそのままにしておきなさい」と葬儀屋は答えたが、そうしながら、憤慨している教区の役人の立腹を静めるために、いかにも、いかにも、といった微笑を浮かべていた。
バムブル氏は三角帽をもちあげ、その中のてっぺんのところからハンカチをとりだし、怒りでにじみでた額《ひたい》の汗をぬぐい、三角帽をまたかぶり、葬儀屋に向かって、前よりおだやかな声でいった――
「うん、例の少年のことだが、どうだね?」
「ああ」葬儀屋は応じた。「ねえ、いいですか、バムブルさん、こっちだって、貧乏人のための税金は、ずいぶんと納めてるんですぜ」
「ふん!」バムブル氏はいった。「それで?」
「そう」葬儀屋は答えた。「貧乏人にたいして、こちらでそんなに金を出しているんだったら、こっちだって彼らからできるだけしてもらう権利もある、と考えてたんですよ、バムブルさん。だから――だから、その少年をわたし自身がもらおうと思ってるんですがね」
バムブル氏は葬儀屋の腕をとらえ、彼を建物の中に連れこんだ。サウアベリ氏は委員室に五分間はいっていたが、『試験的に』――これは、教区から出す徒弟の場合、少し使ってみて、たいして食事を与えずにいても、少年が十分に働くことがわかった場合、主人が好きなことをさせて、年期期間のあいだ、彼をやとうことなのだが――その夜、オリヴァは彼のところにゆくことになった。
小さなオリヴァが、その晩、『お偉がた』の前に連れてゆかれ、その夜、葬儀屋の家へ使い奉公に出され、彼がこの身分について文句をいい、あるいは教区にまいもどってきたら、彼は船乗りにされ、溺死するか、頭を打ち割られるか、どちらかになるだろうと知らされたとき、彼はケロリとしていたので、委員会では異議なく、彼を強情な悪党小僧ときめつけ、すぐさま彼を連れてゆくように、バムブル氏に命じた。
だれかほかのものの感情の欠如にたいし、わずかでもそれにふれると、委員会の連中が道義的な驚きと戦慄をおぼえるのはきわめて当然のことではあるが、このオリヴァの場合には、彼らは混乱していた。ありていの事実は、オリヴァが感情過少どころか、感情過多におちいり、自分の受けた虐待のために、ひどく無感覚な、すねきった状態におちこもうとしていたのだった。彼は、だまったまま奉公先の家を聞き、自分の荷物――三インチの厚さ、一フィート四方の包装紙にぜんぶつつまれていたので、運ぶのにべつに困難なものではなかったが――を手にわたされたとき、彼は帽子を目深にかぶり、もう一度バムブル氏の上衣の袖口《そでくち》をつかんで、新しい苦悩の場所へ、この高官によって連れてゆかれた。
しばらくのあいだ、バムブル氏は、注意もはらわず、言葉もかけずに、オリヴァをひきつれていった。教区吏員は頭をきちんと高くし、教区吏員のあるべき姿を示していたからである。そして、その日は風の強い日で、バムブル氏の上衣のすそが風でまくりあげられ、そのヒラヒラするチョッキと淡褐色のプラシ天の半ズボンをみごとに示したとき、小さなオリヴァは、そこにすっぽりとつつまれてしまった。しかし、ゆく先が近づいたとき、バムブル氏は下をながめ、少年が新しい主人に見られるのにふさわしい姿をしているかどうかを調べたほうがよいと思った。そこで彼は、いかにも親切そうなしかるべき態度をとって、これをおこなった。
「オリヴァ!」バムブル氏はいった。
「はい」低く、ふるえる声でオリヴァは答えた。
「かぶってる帽子をあげ、頭をまっすぐにあげろ」
オリヴァはすぐ命じられたとおりにし、あいたほうの手の甲で目をこすったが、彼が自分の案内者を見あげたとき、目にはまだ一滴《ひとしずく》の涙がのこっていた。バムブル氏がきびしい目つきで彼を見おろしたとき、その涙は彼の頬《ほお》をころげ落ち、それにつづいて、さらにもう一滴《ひとしずく》、もう一滴《ひとしずく》が流れだしていった。少年は一生けんめいがんばったのだが、その努力は成功しなかった。もう一方の手をバムブル氏の手からひいて、彼は両手で顔をおおってしゃくりあげ、涙が頬《ほお》と痩《や》せた指のあいだから流れつづけた。
「うん!」声を途中で切り、その委託物に強い悪意のこもったまなざしを投げて、バムブル氏は叫んだ。「うん! 恩知らずで性根《しょうね》のわるい小僧にはたくさん出逢ってきてるが、オリヴァ、おまえは――」
「いえ、いえ」オリヴァは泣きながらいい、あの有名なステッキをもっている手にすがりついた。「いえ、いえ、ぼくは、ほんとうにいい子になります。ええ、ほんとうになります! ぼくはまだとっても小さな子供で、それにとっても――とっても――」
「とてもなんだというんだ」びっくりして、バムブル氏はたずねた。
「とってもさびしいのです。とっても、とっても、さびしいのです」少年は叫んだ。「みな、ぼくを憎んでいます。ああ、どうかぼくにおこらないでください!」少年は胸を打ち、真の苦悶の涙を流しながら、相手の顔をのぞきこんだ。
バムブル氏は、数秒間、ちょっと驚いたふうに、オリヴァのあわれな、がっくりとしたようすをながめ、三、四度しゃがれ声で咳ばらいをし、『このうるさい咳』についてなにかブツブツといったあとで、目をぬぐい、いい子になれ、とオリヴァに命じた。それから、もう一度少年の手をとって、彼は、だまったまま、少年と歩いていった。
葬儀屋がちょうど店の鎧戸《よろいど》をおろし、そこにいかにもふさわしい陰気なろうそくの光で帳簿の記入をやっているとき、バムブル氏がはいってきた。
「ああ!」帳簿から目をあげ、言葉の途中で口をつまらせて、葬儀屋はいった。「バムブル、あんたでしたか?」
「サウアベリさん、まさにわしですぞ」教区吏員は答えた。「さあ、少年を連れてきました」オリヴァはお辞儀をした。
「ああ、これが少年ですか?」もっとよくオリヴァを見ようと、ろうそくを頭上にもちあげて、葬儀屋はいった。「おかみさん! ちょっとここにきてくれないかね?」
サウアベリのおかみは、店のうしろの小部屋から出てきて、口やかましそうな顔をした、背の低い、痩《や》せた、おしつぶされた女の姿をあらわした。
「おまえ」サウアベリ氏はうやうやしく述べた。「これがさっき話した貧民院からの少年だよ」オリヴァはまたお辞儀をした。
「まあ!」葬儀屋の妻はいった。「とっても小さいのね」
「いや、そうとう小さい」これ以上大きくなっていないのは少年の罪だといわんばかりにオリヴァをながめて、バムブル氏は応じた。「小さいことは、たしかだ。それを否定はできませんな。でも、おかみさん、子供は大きくなりますよ――大きくね」
「ええ、大きくなるでしょうよ」夫人は気むずかしく答えた。「うちの食い物と飲み物でね。ほんとだよ、教区の子供は得《とく》にならなくってね。その値打ちより、維持費のほうが高くつくんだからね。でも、男衆は自分が利口だと思ってるんだから……。さあ、この痩《や》せこけ坊主、階段をおりてゆくんだよ」こういって、葬儀屋の妻はわきの扉を開け、けわしい階段ぞいにオリヴァを突き落とし、石炭庫への入口の部屋になっている、そこでは『台所』と呼ばれていた、湿気の強い、暗い石づくりの小部屋に彼をおしこんだ。そこでは、かかとのすりへった靴をはき、ひどく手入れのしてない青い毛糸の靴下を着けた、だらしのない少女が腰をおろしていた。
「さあ、シャーロット」オリヴァについておりてきたサウアベリのおかみはいった。「犬のトリップのためにとっておいた冷えた肉切れをいくらか、この坊やにおやり。あの犬は、朝から出たっきりなんだから、肉なんてやらなくたってかまうもんかね。上品なんでそんなもんは食べられないなんぞとは、この坊主、まさかいわないはずだからね――どうだい?」
肉と聞いてオリヴァの目は輝き、それを食べたさにからだはふるえたが、彼は食べられると答え、皿に盛られた粗末なきれぎれの食事が彼の前におかれた。
肉も酒もまずい胆汁となり、血は氷、心は鉄となっている満腹の哲学者が、犬も食べずにいるこの美食をオリヴァ・トゥイストががむしゃらに食べている姿を見ることができたら、とわたしは思う。激しい空腹の勢いでオリヴァが肉を食いちぎっているこのおそろしい貪欲《どんよく》さを彼がながめたら、とわたしは思う。これ以上にわたしがねがうものといえば、ただひとつしかない。この哲学者が同じような貪欲《どんよく》さで、同じ食事を自分でつくる姿を見たいだけである。
「さあ」オリヴァが食事を終えたとき、葬儀屋のおかみはいった。彼女はこの食べぶりをだまっておそろしげに、彼の将来の食欲に危惧《きぐ》の予感をおぼえながら、観察していたのだった。
「終わったかい?」
近くに食べられるものはなにもなかったので、オリヴァは、終わった、と答えた。
「じゃ、わたしといっしょにおいで」暗くてよごれたランプをとりあげ、上り階段を先に立って、サウアベリのおかみはいった。「おまえの寝台は勘定台の下にあるよ。棺桶のあいだに寝たって平気だろうね、どうだい? だけど、好き、きらい、どっちだって、べつにどうということはないさ。それ以外の場所に寝られはしないんだからね。さあ、わたしをここに夜じゅうおかないでおくれ!」
オリヴァはそれ以上グズグズはしていないで、おとなしく新しい女主人のあとについていった。
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五 オリヴァは新しい仲間とまじわる。はじめて葬式にゆき、主人の職業をきらう気持ちにおそわれる
オリヴァは、葬儀店の店にただ一人残され、ランプを作業員の腰掛けの上におき、オズオズと、恐怖の念をまじえながら、自分のまわりを見まわした。この気持ちは、彼よりずっと齢《とし》上のものでも、すぐに理解できるはずのものである。店の中央に立っていた黒い|うま《ヽヽ》の上のまだできあがらぬ棺《ひつぎ》はじつに陰気なもので、死の香りをただよわせていたので、目をこのおそろしいものの方向に向けるたびごとに、彼はゾッと身ぶるいをした。そこからなにかおそろしいものがゆっくりと頭をあげ、自分を恐怖で気ちがいにしてしまうように思われたからである。壁には規則正しく、ながい一列にならんで、同じ形に切られた楡《にれ》の板が立てかけられていたが、それは、ぼんやりとした暗い光の中で、肩をはった亡霊がズボンのポケットに手をいれている姿を思わせた。棺の名札、楡《にれ》の材の切れっぱし、光っている釘の頭、黒の布片が床の上に散らばっていた。勘定台のうしろの壁には、大きな勝手口を守っているとてもかたい襟布をつけた二人の葬式の供人、さらに遠くから近づいてくる四頭の黒い馬に引かれた霊柩車《れいきゅうしゃ》がまざまざと画きだされている絵がかざられていた。店はむっとし、暑苦しかった。そして、あたりの雰囲気は、棺のにおいでよごされている感じだった。綿くずのつまった彼の布団《ふとん》が投げだされている勘定台の下の場所は、まるで墓のようだった。
オリヴァの気を暗くしたのは、こうした不吉な感じばかりではなかった。彼は見知らぬ場所にただ一人いるのだった。こうした立場に立てば、どんなにりっぱな人だって、ときどき、寒々とした、わびしい気分におそわれるものである。世話を受けたり、それをしてやる友だちは、だれもいなかった。最近の別離の悲しみが心にうずいているわけではなかった。忘れ得ぬ愛する人の顔が消えて、それが心に重くのしかかっているわけでもなかった。だが、それにもかかわらず、彼の心は重く、せまい寝台にはいりこんでいったとき、そこが棺で、墓地で、静かな、いつまでもつづく眠りにつき、頭上では高い草がそよぎ、教会の鐘の低い音が彼の心を慰め、眠りにさそってくれたらと、彼は望んでいた。
翌朝、オリヴァは、店の戸を外から激しく蹴る音で、目をさまされた。この音は、彼があわてて着物を着ているあいだも、おこったような激しい調子で、二十回もくりかえされた。鎖をはずしはじめたとき、その足は蹴るのをやめ、わめき声がそれにかわった。
「戸を開けないのか?」扉を蹴りつづけていた足の持ち主の声が叫んだ。
「すぐに開けます」鎖をはずし、鍵をまわして、オリヴァは答えた。
「おまえは新米の小僧だな、えっ?」鍵穴をとおして、その声がたずねた。
「そうです」オリヴァは答えた。
「おまえはいくつなんだい?」声がたずねた。
「十歳です」オリヴァは答えた。
「中にはいったら、ひっぱたいてやるからな」声はいった。「いいか、きっとやってやるぞ、この貧民院の餓鬼《がき》め!」そしてありがたいこの約束をして、その声の主は口笛を吹きはじめた。
この「ひっぱたく」という表現ゆたかな言葉がどういうことを意味するか、それをたびたび受けていたので、その声の持ち主がだれであるにせよ、それはかならず実行されるものと、オリヴァはかたく信じこんでいた。彼はふるえる手で戸締りの桟《さん》をぬき、扉を開けた。
一、二秒のあいだ、オリヴァは通りをあちらこちらと見まわし、鍵穴をとおして言葉をかけていた見知らぬ男が、からだを暖めるために、少し歩いているのだと考えていた。というのも、目にはいったのは、家の前の柱に腰をおろし、バタつきパンを食べている慈善学校の救済児童だけだったからである。彼はパンを、折り込みナイフで、自分の口にあうくさび形に切り、じつに器用にそれを平らげていた。
「失礼ですが」だれもほかに客らしいものが姿をあらわさないので、とうとうオリヴァはたずねた、「ノックをしたのは、あなたでしたか?」
「蹴ったよ」慈善学校の生徒は応じた。
「棺をお買いになるのですか?」無邪気にオリヴァはたずねた。
これを聞いて、慈善学校の生徒はすごくおこった顔つきになり、目上のものに向かってそんな冗談を飛ばすと、間《ま》もなくオリヴァがそれを必要とするようになるぞ、といった。
「おい、貧民院、おれがだれかを、おまえは知らんらしいな?」いかにも教えてやるぞといった重々しい態度で、柱のてっぺんからおりてきて、慈善学校の生徒はつづけた。
「知りません」オリヴァは応じた。
「おれはな、ノア・クレイポールさんてんだ」慈善学校の生徒はいった。「そして、おまえはおれの部下なんだぞ。このなまけ者の悪党小僧め、鎧戸《よろいど》をおろすんだ!」こういってクレイポールはオリヴァを蹴っとばし、彼をりっぱに見せた威厳ある態度で、店にはいっていった。ぶかっこうなからだつきで、生気のない顔立ちをした、大頭の、目の小さな若者がどんな事情のもとでも威厳ある態度を示すのは困難なこと、ましてや、こうしたからだの魅力に加えて、赤っ鼻と黄色い股《もも》引きをはいている場合は、とくにそうである。
オリヴァは鎧戸《よろいど》をはずし、それを昼間のあいだしまっておく家の横の小さな露路に運ぼうとしたが、その最初のものの重みでよろめいたとたん、ガラスを割ってしまい、ノアが情け深くもオリヴァを助けることになったが、それは、『やつは叱言《こごと》をくうぞ』という確信に心慰められて、それをしてくれたのだった。サウアベリ氏がすぐおりてき、その後|間《ま》もなく、サウアベリのおかみが姿をあらわした。そして、ノアの予言にたがわず、『叱言《こごと》をくって』から、オリヴァはこの若い紳士のあとについて、朝食をとりに、下に階段をおりていった。
「ノア、火のそばにおいでよ」シャーロットはいった。「旦那の朝ご飯から、あんたのために、ベイコンの小さな、おいしい一切れをとっておいたからね。オリヴァ、ノアさんのうしろのあの戸を閉め、パンなべのふたの上においといたパンくずをおあがり。そこにおまえのお茶があるから、それをあの箱のとこにもっていき、そこでお茶を飲んでんだよ。急ぐんだよ、お店には用があるんだからね。わかったかい?」
「貧民院、わかったか?」ノア・クレイポールがいった。
「まあ、ノア」シャーロットはいった。「あんたって、ほんとうに変な人ねえ! どうして、この坊やを放っておかないの?」
「放っておくだって!」ノアはいった。「その点なら、みんながもう、やつを放りだしにしてるよ。おやじだって、おふくろだって、やつのことで口出しはしないだろうからな。親類中ぜんぶ、やつのやりたいとおりに、まあ、させてるんだからな。そうだろう、シャーロット? ひっ! ひっ! ひっ!」
「まあ、あんたは変わった人だこと!」こうシャーロットはいい、陽気にわっと笑いだし、ノアがそれに調子を合わせた。それがすんで、オリヴァ・トゥイストが部屋のいちばん寒いところで身をふるわせながら坐り、彼のために特別にとっておかれていたすえた食物を食べているとき、二人は、その彼をいかにも軽蔑したふうにながめていた。
ノアは慈善学校の生徒だったが、貧民院の孤児ではなかった。彼は、私生児ではなかった。親までちゃんと系図をたどることができ、その両親は、ほんの近くに住んでいた。彼の母親は洗濯婦、父親は酔っぱらいの軍人で、木の義足と一日二ペンスなにがしの年金をもらって、軍隊をお払い箱になっていた。近くの店員たちは、大通りで、『半ズボン』、『慈善学校』とかいった綽名《あだな》をながいことこのノアにつけていて、ノアはそれを、反駁《はんばく》もせず、我慢していたのだった。が、運命がたまたま彼の目の前に、どんな身分の卑しいものでもそれを軽蔑的に指させる名もない孤児を投げ与えてくれたので、彼はその仕返しを、利息づきで、この少年にしていたのだった。この問題は、考慮に値する好適な資料を提供してくれている。これは、人間性がいかに美しいものになり得るか、同じ愛すべき性格が最高の貴族と最低のきたならしい慈善学校の生徒に、ともに、いかに平等に発達するものかを、われわれに物語っている。
オリヴァは、もう三週間か一カ月のあいだ、この葬儀屋の家にいた。サウアベリ夫妻は――店が閉まったので――夕食を裏の小さな客間でとっていたが、サウアベリ氏は、何回か敬意をこめて妻をながめたあとで――こういった――
「ねえ、おまえ――」
彼はもっとしゃべるつもりだったが、おかみがとくに機嫌のわるい顔つきで目をあげたので、彼はそれを途中で切ってしまった。
「ええっ?」おかみは鋭くいった。
「べつになんでもないよ、おまえ、べつにね」サウアベリ氏は応じた。
「まあ、ひどい人!」おかみはいった。
「そんなこと、ないさ、おまえ」ていねいにサウアベリ氏は答えた。「おまえが聞きたがってないと思ったからさ。こちらでいおうとしてたことは、ただ――」
「ああ、あんたがいおうとしてたことなんて、なにもいわないでちょうだい」口をはさんで、おかみはいった。「わたしはとるに足りない女、どうかわたしなんぞに、相談はもちかけないでちょうだい。あんたの秘密なんぞに口出ししようなんぞとは、わたし、思ってもいませんからね」おかみがこれをいったとき、彼女はヒステリックな笑い声を立てたが、これは、おそろしい結果の前触れとなるものだった。
「だけどね、おまえ」サウアベリ氏はいった、「おまえの意見を聞きたいのさ」
「だめよ、そんなことはしないでちょうだい」おかみは哀れっぽい態度でいった。「だれかほかの人に聞いてちょうだい」ここでもう一度ヒステリックな笑いが出たが、これはサウアベリ氏をひどくうろたえさせた。これは、とてもありふれた、しかも、よくおこなわれている夫婦間のやり口で、ときに大きな効果をあげるものである。それは、ただちに、おかみがなにより聞きたいと思っていたことを語るのを特別な好意で許してくれ、とサウアベリ氏が懇願する結果になった。四十五分近くの短いやりとりのあとで、その許可が慈悲深くも与えられた。
「子供のトゥイストについての話にすぎんのだがね」サウアベリ氏はいった。「あれはなかなか顔立ちのととのった少年だ」
「それは当然そうよ、よく食べるもん」夫人はいった。
「あの顔には憂鬱《ゆううつ》の表情があってね、おまえ」サウアベリ氏は語りつづけた、「それはとても味のあるもんだ。彼はきっと美しい葬式の供人になるよ」
サウアベリのおかみは、そうとう驚きの念を浮かべて、目をあげた。サウアベリ氏はそれに気づき、おかみがなにかをいいだす暇を与えずに、なお話をすすめた。
「大人の葬式に出る正規の供人のことじゃなくてね、おまえ、ただ子供用のもんなんだよ。つりあった供人を従えるなんて、これは新式考案だ。きっとえらく受けるぜ」
サウアベリのおかみは、葬儀屋のやりかたについてはそうとう目の肥えていた人だったが、この着想の斬新さにはとても心をひかれた。だが、それを素直に認めることは、彼女の威厳にとって、現在のところ、いかがかとも思われたので、すごい激しさをこめて、こんな明白な事実が夫の心にどうして思い浮かばなかったのかをたずねただけでとどまった。サウアベリ氏は、要領よく、これを自分の提案の承認と考え、すぐさま、商売の秘伝をオリヴァに伝授することにとりかかり、この目的で、つぎの葬式がおこなわれたとき、オリヴァは主人についてゆくことになった。
その機会はすぐにやってきた。つぎの朝、朝食後三十分して、バムブル氏が店にはいってき、そのステッキを勘定台に立てかけ、大きななめし皮の彼の紙入れをひっぱりだし、そこから小さな紙切れをぬきだして、それをサウアベリにわたした。
「ああ!」いきいきとした顔つきをして、それをチラリとながめてから、葬儀屋はいった。「棺の注文ですね、えっ?」
「まず最初に棺、そのあとで教区の葬式だ」なめし皮の紙入れのひもをしめながら、バムブル氏は答えた。この紙入れは、彼自身と同様、えらくまるく太っているものだった。
「ベイトンですって!」紙切れからバムブル氏に目をうつして、葬儀屋はいった。「そんな名前、聞いたこともありませんなあ」
バムブルは、つぎのように答えたとき、頭をふった、「サウアベリ君、頑固《がんこ》なやつらでね、とても頑固《がんこ》なんだ。それに傲慢らしいんだがね」
「傲慢ですって、えっ?」冷笑を浮かべて、サウアベリ氏は叫んだ。「ねえ、そいつはひどすぎますよ」
「ああ、胸がムカムカするな」教区吏員は答えた。「サウアベリ君、じょうき(道義のいいちがえ)に反することだ」
「そうですとも」葬儀屋は相槌《あいづち》を打った。
「おとといの晩、この家族のことを聞いたばっかりなんだ」教区吏員はいった。「こいつらのことは、なにも耳にしないはずだったんだが、同じ家に住んでる女が教区委員にたのみこんできてな、とても具合いのわるくなってるある女をみに、教区の医者をよこしてくれっていうわけさ。彼は晩餐に出かけてて、弟子が(とても利口な若い者《もん》だけどね)すぐ靴ずみのびんになにか薬を入れてやったんだ」
「ああ、それは素早いことでしたな」葬儀屋はいった。
「うん、まったく素早いことでね!」教区吏員は答えた。「だが、その結果なんだが、こうした反逆人の恩知らずの態度ときたら、どうだい? そう、その薬が妻の訴えにピタリのものではなく、その結果、妻には飲ませられない――そう、飲ませられないって、亭主がいいかえしてきたんだ! 二人のアイルランドの労働者、それに石炭運搬人夫には、たった一週間前に、特効をあげてたりっぱな、しっかりとした、よく効《き》く薬なんだ――靴ずみのびんに入れて、ただでやったのに――妻には飲ませられない、って返事をよこしやがったんだ!」
バムブル氏がこの兇悪さをまともに心の中で考えたとき、彼はステッキで勘定台を鋭くたたき、憤慨で顔を赤くした。
「そう」葬儀屋はいった。「そんなことは、いままでに一度も――」
「いままでに一度もだって!」教区吏員は叫んだ。「そう、だれも聞いたことはないさ。だが、その女が死んだんで、今度は埋葬してやらにゃならん。そして、これが指図書だ。それを早くすませば、それだけ好都合ってわけさ」
こういって、バムブル氏は、教区の怒りの興奮にかられて、三角帽子を前後とりちがえてかぶり、店から飛びだしていった。
「いやあ、オリヴァ、あの男、すごく憤慨して、おまえのこともきかないでいってしまったぞ!」教区吏員が大股で通りを歩いてゆく姿をながめやりながら、サウアベリ氏はいった。
「はあ、そうです」とオリヴァは答えたが、彼は、この会見中、注意深く見えぬところに姿をかくしていたのだった。彼は、ただバムブル氏の声を思い出しただけで、頭から爪先まで、身をふるわせていたのである。だが、彼はバムブル氏の視線からこうまで尻ごみしている必要はなかった。というのも、白チョッキの紳士の予言でとても強い感銘を与えられていたこの役人は、葬儀屋が試験的にオリヴァをやとった以上、この問題にはふれないでいて、七年の年期奉公の契約をしっかりとかわし、オリヴァが教区の手にもどされる危険がこうして効果的・合法的に克服されるまで待ったほうがいい、と考えていたのだった。
「うん」帽子をとりあげて、サウアベリ氏はいった。「この仕事を早くすませたほうが、好都合だな。ノア、店の番をたのむぞ。オリヴァ、おまえは帽子をかぶり、わしといっしょに来い」オリヴァはそれにしたがい、その職業がらの任務で、主人のあとについていった。
二人は、しばらくのあいだ、町でいちばんこみ、人のみっしり住んでいるところをとおっていった。それから、いままでとおってきたところよりもっときたない、みじめなせまい通りを進んで、立ちどまり、探している家を見つけようとした。両側の家は高くて大きかった。とても古いもので、最下級の貧民がそこに住みこんでいた。これは、腕を組みからだを折って、ときどきコソコソと歩いているわずかな男女によって示される証拠はなくとも、ほうりだしのままの、手入れをせぬ家の容姿でそれとはっきり示されているものだった。
貸家の多くは、正面が店になるようにつくられてあったが、それはしっかりと閉じられ、くさりかかっていて、ただ二階だけが人の住んでいる場所になっていた。年がたち、こわれて、安全でなくなった家は、しっかりと道路から壁に立てかけた丸太棒で、崩壊からまぬがれていた。だが、こうした気ちがいじみた野獣の住まいでも、家のないあわれな人たちの一夜の宿の場所になっているらしかった。扉と窓がわりになっている荒板は、多く、その場所からねじられ、人間のからだをとおすくらいの空《す》き間があけられていた。どぶはよどんで、きたならしいものになっていた。腐敗の中でそこここでくさりかけているねずみは、ぞっとする空腹そうな姿をあらわしていた。
オリヴァとその主人が立ちどまった戸口には、ノッカーもベルの取手《とって》もなかった。そこで、暗い廊下を用心深く手探りで進みながら、オリヴァには自分とはなれずにいて、こわがらぬように命じて、葬儀屋は最初の階段のてっぺんまであがっていった。踊り場にある戸口にぶつかって、彼は指の関節でその戸口をたたいた。
それは十三歳か十四歳ぐらいの若い娘によって開かれた。葬儀屋はすぐに部屋の中を見わたし、そこが目的のアパートであるのを知った。彼は中にはいり、オリヴァはそれにつづいた。
部屋には火の気がなかった。しかし男が一人、習慣的に、空のストーブの上にかがみこんでいた。老婆も低い腰掛けを冷えた炉のところにひきよせ、男のわきに坐っていた。べつの隅には、何人かぼろ着をまとった子供たちが集まっていて、戸の向かいの小さな奥まったところに、ケットでおおわれたなにかものが、地面の上に横たえられていた。オリヴァはそこに目を投げて、身をふるわせ、われ知らず、主人のほうににじりよっていった。おおわれてはいるものの、それが死体であることを、少年は感知したからである。
男の顔は痩《や》せ、ひどく青ざめていた。その髪と髯《ひげ》は灰色がかり、目は血走っていた。老婆の顔はしわだらけだった。残った二本の歯は、下くちびるの上につきだし、目はキラキラと輝き、つらぬくようだった。オリヴァは、この女も、男も、ながめるのがこわかった。それは、外で見たねずみそっくりだったからである。
「だれもその女のそばによってはならんぞ」葬儀屋がその奥まったところに近づいていったとき、この男はいった。「はなれろ! 畜生、はなれろ、命がおしかったらな!」
「きみ、バカな!」あらゆる種類のこうしたみじめさには、かなり馴れっ子になっていた葬儀屋はいった。「バカな!」
「いいか」手をかたくにぎりしめ、足で床を踏みつけて、男はいった――「いいか、あの女を地面に葬って欲しくないんだ。そこでは休めるもんか。虫が――彼女を食べずに――苦しめるこったろう――彼女はとてもやつれ果てているんだからな」
葬儀屋は、このたわ言にたいして、なにも返事をせず、ポケットから巻き尺を出して、一瞬間、死体のわきにひざまずいた。
「ああ!」わっと泣きだし、死んだ女の足もとにガクリとひざをついて、男はいった。「ひざまずけ、ひざまずけ――みんな、彼女のまわりにひざまずいて、おれの言葉を聞くんだ! いいか、彼女は餓死したんだぞ。熱病がやってくるまで、彼女がどんなにわるくなってるか、おれには見当もつかなかったんだ。そして、そのときには、肌のところに骨が突きだしてたんだ。火も、ろうそくもなかった。暗闇で――暗闇で死んだんだぞ! 子供の名をあえぐのを耳にしながら、子供の顔も見せてやれなかったんだ。彼女のために、おれは街路で物乞いをし、そのために、おれは監獄にたたきこまれた。もどってきたら、彼女はもう瀕死の状態。そしておれの心臓の血はぜんぶ乾あがってしまったんだ。みんなが彼女を餓死に追いやったんだからな。それをご存じの神さまの前で、おれはそれを誓うぞ! みんなが彼女を餓死に追いやったんだ!」彼は両手を髪の中にからませ、大声をあげ、目をすえ、口からはあわをふきながら、床の上をころげまわった。
おびえた子供たちは、激しく泣きだした。だが、いままで起こったことにまるでつんぼのような態度をとって静かにしていた老婆は、子供を叱りつけて、だまらせた。まだ地面にころがったままになっている男の襟布をゆるめてから、彼女はヨロヨロッと葬儀屋のところへ近づいていった。
「あの女はわたしの娘でした」死体のほうに頭をコクリとし、こうした場所での死の存在よりもっと人をぞっとさせる白痴的な薄笑いを浮かべて、老婆はいった。「ああ! これは奇妙な話じゃないか、あの女を生み、そのときはまだ若い女だったわたしが、いまピンピンしてて、娘のほうがそこで冷たく、かたくなって横たわってるなんてね。ああ! それを考えるとねえ! まるでお芝居だよ――お芝居だよ!」
このあわれな女がおそろしい陽気さでブツブツとしゃべり、クスクスと笑っているとき、葬儀屋はクルリと向きをかえて、帰ろうとした。
「お待ち、お待ち!」ささやき声を大きくして、老婆はいった。「あの娘が埋葬されるのは、明日かね? そのつぎの日かね? それとも、今晩なのかね? 埋葬の準備はすませてあるよ、それに、わたしは歩いていかねばならない。大きな外套《がいとう》――温かいやつをおねがいするよ。今日《きょう》はゾクゾクと寒いからね。出かける前に、お菓子と葡萄酒《ぶどうしゅ》も必要だよ! かまわないとも。パンをいくらか――パンと水一杯でいいから、よろしくたのむよ。パンはもらえるかね?」葬儀屋がもう一度戸口のほうに動きだしたとき、その上衣をとらえて、彼女はむきになってたずねた。
「ええ、ええ」葬儀屋はいった。「もちろん、好きなものはなんでもね!」彼は老婆のつかんでいる手から身をふりはなし、自分のあとにオリヴァをひっぱって、急いで逃げていった。
つぎの日(この一家のものは、バムブル氏自身の手で、二ポンドのパンと一切れのチーズを支給されていた)、オリヴァと彼の主人はこのみじめな住み家へもどっていった。そこには、運搬人になるはずの貧民院の男四人を連れて、バムブル氏がもう到着していた。老婆と男のぼろ着の上には黒い外套《がいとう》がかけられていて、ついで、飾りのない棺が階段をなんとかおろされ、運搬人の肩に乗せられて、通りに運びだされた。
「さあ、お婆さん、ズンズン歩いてくださいよ!」葬儀屋は老婆の耳にささやいた。「われわれはおくれてるんです。坊さんを待たせちゃいけませんからな。さあ、いってくれ、諸君――できるだけ早くな!」
こう指示されて、運搬人は軽い荷物をかついで小走りに歩きだし、二人の会葬者は、できるだけそのそばをはなれないようにと努めていた。バムブル氏とサウアベリは前方をそうとう早い足どりで歩き、足が主人ほどながくはないオリヴァは、そのわきを走っていった。
しかしながら、サウアベリ氏が考えていたほど急ぐ必要はなかった。|いらくさ《ヽヽヽヽ》が生えた、教区の墓が建てられる墓地の人目につかぬ隅のところに一同が到着したとき、僧侶はまだここに来ていなかったからである。祭服室の暖炉のそばに坐っていた教会事務員は、僧侶が姿をあらわすまでには、きっと一時間かそこいらはかかるだろうと考えているらしかった。そこで、一同は棺台を墓のへりのところにおき、冷たい雨がショボショボ降っているのに、二人の会葬者は、しめった土くれの中で辛棒強く待つことになった。この光景にひきよせられて墓地にはいってきたぼろ着の少年たちは、墓石のあいだで隠れん坊をしたり、棺の上をあちらこちら飛びまわって、その遊びを変えていた。サウアベリ氏とバムブルは教会事務員と知り合いだったので、彼といっしょに暖炉のそばに坐り、新聞を読んでいた。
とうとう、一時間を優に越えたころ、バムブル氏とサウアベリと教会事務員が墓のほうに走ってくる姿が見受けられた。その直後に、歩きながら白衣を着こんでいる僧侶があらわれた。ついでバムブル氏は、体裁をととのえるために、一、二の少年をピシリとたたき、僧侶は四分間につめこめられるだけの埋葬の経文を読んでから、白衣を教会事務員にわたし、さっさといってしまった。
「さあ、ビル!」サウアベリは墓掘りに命じた、「土をかけろ!」
それはべつに困難な仕事ではなかった。墓はいっぱいで、いちばん上の棺は、表面から数フィートのところにあったからである。墓掘りはシャベルで土を入れ、足でその土を適当に踏みつけ、シャベルを肩にして立ち去り、そのあとには少年たちがつづいたが、彼らは、楽しみがこんなに早く終えたことにブツブツと文句をいっていた。
「さあ、きみ!」男の背を軽くたたいて、バムブルはいった。「墓地が閉まっちまうぞ」
墓のへりに立って以来、身じろぎもしないで立ちつくしていた男は、ギクリとし、頭をあげ、自分にこうして話しかけた男を凝視し、数歩歩きだしてから、倒れて気絶してしまった。狂人の老婆は、外套《がいとう》(これは葬儀屋がもっていってしまったのだが)がなくなったことに心を奪われて嘆き、彼には注意もはらわないでいた。そこで一同は缶にはいった冷水を彼にあびせ、彼がわれにかえってから、彼を墓地の外に無事に連れだし、門に錠をおろしてから、それぞれちがった方向に散っていった。
「うん、オリヴァ」家に帰りながら、サウアベリはいった。「これは気に入ったかね?」
「まあちょっとね、ありがとうございます」ややためらいながら、オリヴァは答えた。「でも、たいして好きではありません」
「ああ、オリヴァ、いずれ馴れてくるさ」サウアベリは応じた。「馴れてしまいさえすりゃ、なんでもないとも」
サウアベリ氏が馴れるようになるまでに、とてもながい時間がかかったかどうかと、オリヴァは心中で考えていた。だが、これは質問しないほうがよいと考え、この日に見聞したことをあれこれと考えながら、彼は店にもどっていった。
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六 オリヴァはノアの悪口に刺激されて行動にうつり、自らびっくりする
一月《ひとつき》の試験期間は終わり、オリヴァは正式に徒弟として住みこむことになった。この時は、ちょうど好都合に、病気の季節だった。商業上の言葉では、棺があがりつづけ、数週間たつうちに、オリヴァはそうとうの経験をつむことになった。サウアベリ氏の精巧な計画の成功は、彼のじつに楽観的な期待を上まわるものだった。どんな老人でも、|はしか《ヽヽヽ》がこんなに流行して、子供の命取りになったときのことを知らず、少年のオリヴァが膝までとどく帽子の黒い喪章《もしょう》をさげて先頭に立ってすすんだ葬式は、何度となくおこなわれ、町の母親たちの得《え》もいえぬ驚嘆と感激をひき起こしていた。完成した葬儀屋には必要なあの冷静な、落ち着いた態度を身につけるために、オリヴァは大人の葬式にも、たいていの場合、主人に随行したので、たくましい気象の人々がその苦難と損失に堪《た》えるりっぱな諦めと勇気を観察する機会に何度か恵まれたのだった。
たとえば、サウアベリがある金持ちの老夫人や紳士の埋葬を引き受けたことがあった。彼らは数多くの甥《おい》や姪《めい》にとりかこまれ、その甥とか姪とかは、病気中には慰めようもないほどひどく悲しみ、人前に出た場合でも、その悲嘆は抑えきれぬものになっていたのだったが、自分たちだけになると――陽気で心の悲しみを忘れ去り――この上なく幸福そうなようすを示し、なにも心をかきみだすことは起きなかったように、解放され、明るくなっているのだった。夫たちもまた、じつに見上げた冷静さで、妻の損失に堪《た》えていた。妻たちのほうでも、夫のために喪服を着けたが、悲しみの衣《ころも》をまとって悲嘆にくれるどころか、その服をできるだけ似合った、魅力的なものにしようと心がけているようだった。埋葬の儀式中激しい苦悶につつまれている紳士、淑女たちが、家にもどるやいなや、元気になり、お茶が終わるまでには、すっかり落ち着いた気分にもどっていることも、観察できた。こうしたことには、ながめて楽しく、ためになるものがあり、オリヴァは、それを大きな感嘆の情に打たれて、観察していた。
こうした善良な人たちのお手本でオリヴァ・トゥイストが諦めの気持ちをもつようになったとは、彼の伝記を書いているわたしでも、自信をもっていいきれない。わたしがはっきりいえることは、何カ月ものあいだ、彼がノア・クレイポールの支配と虐待をおとなしく受けつづけていたことで、ノアは以前にもまして彼にひどい扱いを加えていた。それは、新米の少年の身分が高められて、黒いステッキと帽子に黒い喪章をつけられるようになったのに、先輩の彼は、前どおりマフィン型の帽子と革製の半ズボンをはかされていることで、嫉妬心をかきたてられたためだった。ノアに真似て、シャーロットも彼を虐待した。そして、サウアベリ氏が彼の味方になりそうになっていたので、サウアベリのおかみははっきりと彼の敵方になっていた。そこで一方ではこの敵の三人、他方では食傷気味の葬式にはさまれて、オリヴァは、誤って酒蔵の穀物部屋に閉じこめられた飢えた豚ほどの快適さを味わえないでいた。
さて、ここで、オリヴァの話ではきわめて重要な個所にはいることになる。一見したところさして重要とは思えないが、間接的には彼の将来に重大な変化をひき起こすことになったある行為を、ここで述べなければならなくなったからである。
ある日、オリヴァとノアは、いつもの夕食の時間に、台所におりてゆき、羊肉の小さな切れ――首のところのいちばんひどい切れ端《はし》一ポンド半だったが――を食べようとしていた。そのとき、シャーロットはちょっと呼ばれて座をはずし、食事までにわずかな間《ま》ができていた。腹を空かして意地が悪くなっていたノア・クレイポールは、好機ござんなれとばかり、少年のオリヴァ・トゥイストを怒らせ、じらすことにとりかかった。
この無邪気な楽しみに夢中になって、ノアは食卓布の上に両足をあげ、オリヴァの髪をひっぱり、その耳をねじって、おまえは『おべっか使い』だといい、いつでもそれをやれるありがたい時期がやってきたら、おまえの絞首刑は見にいってやるぞと述べ、いかにも意地のわるいひねくれ者の慈善学校の生徒らしく、それ以外のさまざまな悪口雑言《あっこうぞうごん》をつきはじめた。しかし、こうした罵倒《ばとう》は、オリヴァを泣かせるという期待した効果をあげなかったので、ノアはもっとふざけてやろうと決心し、こうした決心で、ノアよりはるかにもっと有名なつまらぬ数多くの才人たちが、おどけようとするときに、今日《こんにち》までやっていること、すなわち、人身攻撃をやりはじめた。
「貧民院」ノアはいった。「おまえのおふくろさんは、どうしてるんだい?」
「死んだんです」オリヴァは答えた。「母親のことは、なにもいわないでください!」
これをいったとき、オリヴァの顔は紅潮した。彼の息づかいは荒くなり、口と鼻筋のところに妙な動きが起きたが、これをクレイポール氏は、激しい嗚咽《おえつ》の直前の前兆と考えた。こうした考えをいだきながら、彼はまた攻撃にうつっていった。
「貧民院、おふくろさんは、なんで死んだんだい?」ノアはたずねた。
「心の悲しみで、と老看護婦がいっていました」ノアに答えるより、自身に語りかけているようにして、オリヴァは答えた。「それで、死ぬことがどんなに苦しいことか、ぼくにはわかるような気がします!」
「わっ、おもしれえぞ、おもしれえぞ、貧民院!」オリヴァの頬《ほお》に涙が一滴《ひとしずく》流れ落ちたとき、ノアはいった。「どうして、いまごろシクシク泣いたりなんぞするんだ?」
「きみのせいじゃないよ」急いで涙をおしぬぐって、オリヴァは答えた。「きみのせいとは考えないでおくれ」
「おれのせいじゃないんだって、えっ!」ノアはあざ笑った。
「ああ、きみのせいじゃないよ」鋭くオリヴァは答えた。「さあ、この話をするのはやめよう。お母さんのことは、これ以上ぼくになにもいわないでおくれ、だまっていたほうがいいよ!」
「だまっていたほうがいいんだと!」ノアは叫んだ。「うん! だまっていたほうがいいんだと! 貧民院、生意気なことをぬかすな。おまえのおふくろもかわいそうに! いい人だったもんな、まったく。ああ!」ここでノアはいかにも意味深《いみしん》に頭をうなずかせ、その気分を示そうと、その小さな赤っ鼻を、できるだけツンと高くそらせて見せた。
「いいか、貧民院」オリヴァがだまっているのでますますいい気になり、情けをかけたあざけりのようすで――すべての語調の中で、これがいちばんいまいましいものだが――ノアはつづけた、「いいか、貧民院、いまさらどうなるわけでもないんだぞ。もちろん、おまえは、そのとき、どうにもできなかったんだ。ほんとに気の毒、みんなおまえを気の毒に思い、おまえのおふくろさんをとてもあわれに思ってるんだ。だが、こいつは忘れちゃいかんぞ、貧民院、おまえのおふくろさんは、まったく手におえないやつだったんだ」
「なんといったのだい?」さっと顔をあげて、オリヴァはたずねた。
「貧民院、まったく手におえないやつだとね」冷静にノアは答えた。「貧民院、あのときに死んで、ずっとよかったんだ。さもなけりゃ、おまえのおふくろさんはブライドウェルの監獄で重労働で苦しむか、流刑になるか、絞首刑になってただろうからな。この最後のやつのほうが、ほかの場合より、もっと可能性はあるな、どうだい?」
激しい怒りで顔を真紅《しんく》に染めて、オリヴァはパッと立ちあがり、椅子とテーブルをひっくりかえし、ノアの喉元を抑え、その怒りの激しさで、口の中で歯がカチカチいうまで、彼をゆすりたてた。そして、からだの全力を激しい一撃にこめて、彼を床に打ちたおしてしまった。
一分前には、オリヴァは虐待でそうなった静かな、おだやかな、打ちひしがれた少年だったが、ついに、彼の心はふるいたった。死んだ母親に加えられた無情な侮辱は、彼の血を燃えあがらせた。彼の胸はふくらみ、その態度は毅然《きぜん》としたものに、目はいきいきと輝くものになった。いまは足もとにへいつくばっている卑怯者のいじめ屋をにらみつけて立っているとき、彼はまったく別人になり、自分でもこのときまで知らなかった激しさで、相手に挑戦した。
「人殺し!」ノアは泣きながら叫んだ。「シャーロット! おかみさん! 新米の小僧がぼくを殺そうとしてるんです! 助けて! 助けて! オリヴァは気がくるったんです! シャーロット!」
シャーロットから発せられた大声の悲鳴が、ノアの叫びに呼応し、サウアベリのおかみのもっと大きな悲鳴が、それに呼応した。シャーロットはわきの扉から台所に飛びこみ、おかみのほうは、それ以上降りても人命にはさしさわりはないことをはっきりとたしかめるまで、階段の上に立ちどまっていた。
「おお、このチビ公め!」シャーロットは叫んで、力まかせにオリヴァにつかみかかったが、その力は特に訓練を受けたそうとう腕力のある男の力にも匹敵するものだった。「ああ、このチビの、恩知らずの、人殺しのおそろしいやつめ!」こうした言葉の合い間、合い間に、シャーロットは、世のためになるとばかり、悲鳴をあげながら、渾身の力をこめてオリヴァをなぐりつけた。
シャーロットの拳《こぶし》は、けっして軽いものではなかった。そして、これがオリヴァの怒りを静めるのに効果あるようにと、おかみは台所に飛びこみ、彼の片手をつかまえるのを助け、残った手で彼の顔をひきむしった。こうして状況が有利になってから、ノアは床から立ちあがり、オリヴァの背後から拳固の雨を降りそそいだ。
これは激しい運動で、ながつづきするべきものではなかった。彼らが疲れはて、もうひっかくことも打つこともできなくなったとき、彼らはオリヴァを塵入れの庫に連れてゆき、そこに閉じこめてしまったが、彼はもがき大声を出して、少しもくじけたふうを示さなかった。これが終わって、サウアベリのおかみはぐったりと椅子に坐りこみ、わっと泣きだした。
「あれっ、気絶しそうだわ!」シャーロットは叫んだ。「ノア、おねがい、コップに水を一杯ちょうだい。急いで!」
「ああ、シャーロット!」息は切れながらも、ノアが彼女の頭と肩にそそいだ冷たい水のおかげで、できるかぎりの力をふりしぼりながら、サウアベリのおかみはいった。「ああ、シャーロット! 床のなかでわたしたちがみな殺しにならなかったのは、ほんとにありがたいことだよ!」
「ああ! おかみさん、ほんとにありがたいことですよ」がその答えだった。「旦那さんがこうしたおそろしい連中をもうこれ以上やとわなければと思いますよ。やつらは揺《ゆ》りかごの時代から、人殺しと泥棒になるように生まれついてるんですからね。かわいそうに! おかみさん、わたしが飛びこんできたとき、ノアは、すんでのとこで、殺されそうになってたんです」
「かわいそうに!」慈善学校の生徒をいかにもあわれむようにしてながめながら、サウアベリのおかみはいった。ノアはそのチョッキのいちばん上のボタンがオリヴァの頭のてっぺんくらいの背の高さの少年だったが、彼は、こうして同情の言葉をかけられると、手首の内側で目をこすり、涙を流してクスクスと泣くお芝居をやらかした。
「どうしたらいいんだろう!」おかみは叫んだ。「旦那は家にいないしねえ。男は家の中に一人もおらず、あの坊主は十分もすれば、あの扉を蹴破ってしまうよ」オリヴァは勢いよく問題の材木の板にぶつかっていたので、これは十分に起こりうることだった。
「まあ、まあ! おかみさん」シャーロットはいった。「巡査を呼びにやらないと、どんなことになるか、わかりませんよ」
「さもなけりゃ、兵隊をね」クレイポール氏がいった。
「だめ、だめ」オリヴァの旧友を思いだして、サウアベリのおかみはいった。「ノア、大急ぎでバムブルさんのとこにいって、一刻も早く猶予せず、すぐ来てください、とおいい。おまえの帽子なんて、どうでもいいじゃないか! 大急ぎだよっ! おまえの青くなった目には、飛んでゆくとき、ナイフを当てておおき。はれるのを静めてくれるからね」
ノアは、返事をしようと立ちどまりもせず、フルスピードでかけだした。慈善学校の生徒が帽子をかぶらず、目に折り込みナイフを当てて、しゃにむに通りを突っ走ってゆくのをながめて、外を歩いている人たちはびっくり仰天していた。
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七 オリヴァはがんばりつづける
ノア・クレイポールは、貧民院の門のところにゆくまで、フルスピードで通りをかけぬけ、立ちどまって息を入れようともしなかった。一分かそこいらのあいだ、この門のとこに休み、わっと泣きだして、人目をひく涙と恐怖の状態を示してから、彼は小門を大きな音を立ててノックし、門を開いてくれた貧民院収容者の老人にいかにもあわれっぽい顔を示したので、どんなに調子のいいときにでも沈痛な顔しか見ていないこの男も、びっくりして、飛びさがったほどだった。
「これは、どうしたんだ!」この老人の収容者はいった。
「バムブルさんです! バムブルさんです!」狼狽《ろうばい》ぶりをうまくよそおい、いかにも興奮した大声をたてて、ノアは叫んだので、それは、たまたまそのそばにいあわせたバムブル氏自身の耳をとらえたばかりでなく、彼をひどく驚ろかせ、その結果、彼は、三角帽もかぶらずに、庭に飛びだしてきた――そしてこれは、教区吏員でさえも、突然の激しい衝動にかられると、瞬間的に自制心を忘れ、自分の威厳の感覚も失うことを例証する、じつに奇妙な、注目すべき事例ということができる。
「おお、バムブルさん!」ノアは叫んだ。「オリヴァが――オリヴァが――」
「なにっ? なにっ?」その金属的な目によろこびの色を浮かべて、バムブル氏は口を突っこんだ。「逃げはしないんだろう? 逃げだしたのかね、ノア?」
「いや、いや、逃げだしはしませんが、乱暴しはじめたんです」ノアは答えた。「わたしを殺そうとし、それから、シャーロットを殺そうとしたんです、それにおかみさんもね。ああ、傷の痛むときたら! ひどい痛みなんです!」ここでノアは身をねじらせ、よじらせて、さまざまな|うなぎ《ヽヽヽ》の姿勢をして見せ、オリヴァ・トゥイストの猛烈な襲撃でひどい内部的な危害をこうむり、いまがその痛みの絶頂にあることを、バムブル氏に示そうとした。
自分の情報がバムブル氏をびっくり仰天させたことをノアがさとると、前の十倍も声高く傷の苦痛を訴えて、彼はその効果を増大させ、白チョッキの紳士が庭を横切ってやってくるのをながめると、前よりもっと悲痛な声をあげて、泣き叫んだ。これは、この紳士の注意をひき、その憤慨をかきたてたほうが得策と、彼が巧妙にも考えたからだった。
紳士はすぐこのことに気づいた。三歩も歩かないのに、怒ったように向きなおり、あの小僧のやくざ犬がなにをわめいているのか、ああして芝居で大声を出しつづけているのを、どうしてバムブル氏が本物にしてやらないのか、とたずねた。
「これは慈善学校のあわれな生徒でして」バムブル氏は答えた。「チビのトゥイストの手で――あやうく殺されそうに――ほとんど殺されそうになったんです」
「いやあ、まったく!」白チョッキの紳士は足をとめて、叫んだ。「わしにはわかってたんだ! 最初から妙な予感がしてな、あの図々しい暴れん坊がいずれ絞首刑になることは、わかってたんだ!」
「そればかりか、女中をも殺そうとしたんです」バムブル氏は、顔を灰色に青ざめさせて、いいそえた。
「それに、おかみさんも」クレイポール氏が口をさしはさんだ。
「それに、主人も、といったっけな、ノア?」バムブル氏が言葉をそえた。
「いいえ! 旦那は外出してました。そうでなけりゃ、旦那さんをやつはたたき殺したことでしょう」ノアは答えた。「殺してやるといってましたもんね」
「ああ! 殺してやるといってたんだな、おい?」白チョッキの紳士はたずねた。
「はい、そうです」ノアは答えた。「そしておかみさんがおねがいしてるんですが、すぐにバムブルさんをそこにやり、やつをふくろだたきにしてやってもらえないでしょうか?――旦那は外に出てるもんでしてね」
「いいとも、いいとも」やさしく微笑し、自分より三インチも高いノアの頭を軽くたたきながら、白チョッキの紳士はいった。「おまえはりっぱな坊やだ――とてもりっぱな坊やだぞ。さあ、一ペニーやろう。バムブル、ステッキをもってサウアベリの店にゆき、どうしたらいいか、調べてみろ。遠慮なくやっつけてしまえ、バムブル」
「はあ、そうします」教区の笞《むち》打ちの刑につかうステッキの先にまきつけた|ろう《ヽヽ》固めしたひもを直しながら、教区吏員は答えた。
「サウアベリにも、遠慮はするなと伝えておけ。笞《むち》で打ち、傷をつけてやらなけりゃ、やつはどうにもならんのだからな」白チョッキの紳士はいった。
「注意します」教区吏員は答えた。そして、このときまでに、三角帽もステッキもすっかり満足いくふうに準備できていたので、バムブル氏とノア・クレイポールは大急ぎで葬儀屋の店に向けて出発した。
ここでは、事態は一向に改善されてはいなかった。サウアベリはまだ帰っておらず、オリヴァは、前と同じ激しい勢いで、地下蔵の扉を蹴りつづけていた。サウアベリのおかみとシャーロットの口から語られた彼の狂暴ぶりは、じつにすごいものだった。そこで、バムブル氏は、扉を開く前に、話し合いをしたほうが得策と考えた。こうした考えで、まず前奏曲として、彼は外から一蹴りし、それから鍵穴に口をあてがって、太い、印象的な声でこういった――
「オリヴァ!」
「さあ、外に出してくれ!」内側からオリヴァは答えた。
「このおれの声におぼえはあるかね、オリヴァ?」バムブル氏はいった。
「ええ、覚えていますよ」オリヴァは答えた。
「それがこわくはないのかな、えっ? こうして話しているとき、おまえはからだをふるわせているんじゃないんかな、えっ?」バムブル氏はたずねた。
「ちがいます!」勇敢にオリヴァは答えた。
バムブル氏が予期し、いつも受けていたものとはぜんぜんちがう応答に接して、彼は少なからずドキリとした。彼は鍵穴からはなれ、グッと身をそらせ、無言の驚きで、残りの三人の傍観者の顔をながめまわした。
「おお、バムブルさん、やつは気がくるったにちがいありません」サウアベリのおかみはいった。「少しでもまともな男の子だったら、あんたにあんな口のききかたをするもんですか」
「おかみさん、気がちがったためではありませんぞ」しばし深い瞑想にふけってから、バムブル氏は答えた。「それは肉のせいですな」
「なんですって?」おかみは叫んだ。
「肉ですよ、おかみさん、肉ですよ」きびしい力をこめて、バムブルは答えた。「おかみさん、食べさせすぎたんです。人為的にやつの心の中に魂と精神をつくりだしてしまったんです、これは実際的な哲学者ぞろいの委員会があんたに教えてくれることでしょうがね。貧乏人が魂と精神になんの用があるというんです? 肉体を生かしておいてやりさえすれば、それでもう十分なんです。おかみさん、もしあんたがあの少年に|かゆ《ヽヽ》を食わしといたら、こんなことは絶対に起きなかったでしょうよ」
「まあ、まあ!」信心深そうな目を台所の天井にあげて、サウアベリのおかみは叫んだ。「おしみなく食べさせて、こんなことが起きるなんてねえ!」
サウアベリのおかみのオリヴァにたいする気前よさといっても、それは、ほかのだれも食べようとはしない、はんぱものの食事を彼に十分に食べさせただけだった。だから、こうして易々諾々《いいだくだく》とバムブル氏のきつい叱責を受けていることには、ふがいのなさと自己献身の態度が大いに示されているわけだったが、公平にいって、彼女は、心の中と言行の点で、バムブル氏の非難する罪はぜんぜんおかしていないのだった。
「ああ!」夫人の目がふたたび伏せられたとき、バムブル氏はいった。「わしの考えられることで、のこされたただひとつのことは、一日か二日のあいだ、地下蔵に彼を入れておき、少し腹がへってくるのを待って、外に連れだし、徒弟の年期のあいだ中ずっと|かゆ《ヽヽ》を食わせておくこってす。やつは素性のわるい一族の出でしてな。おかみさん、興奮しやすいんです! やつの母親は、気立てのやさしい女だったら何週間も前に死んでたような苦難をおしきって、この土地にやってきたんだ、と看護婦も医者もいってましたよ」
バムブル氏の話がここまで進むと、母親のことについてなにかしゃべられていると察したオリヴァは、激しい勢いで蹴りはじめ、ほかのどんな音も聞きとれないようにしてしまった。サウアベリは、ちょうどこのときにもどってきた。彼の怒りをかきたてようと女どもがたくらんだ大袈裟《おおげさ》な言葉でオリヴァの非行が説明されたあとで、彼はさっと地下蔵の扉の錠をはずし、襟首をつかまえて、自分の反抗的な弟子をひっぱりだした。
オリヴァの服は、受けた打擲《ちょうちゃく》でボロボロになり、顔は打ち傷と掻き傷だらけ、髪は額《ひたい》の上にバラバラになってさがっていた。しかし、怒りの興奮は、まだ消えてはいなかった。そして牢獄から引きだされたとき、彼はノアを勇敢にもにらみつけ、少しもうろたえた態度は示さなかった。
「おまえはほんとうに困ったやつだな、えっ?」オリヴァをひとゆすりし、頭をポカリとひっぱたいて、サウアベリはいった。
「あいつが母さんの悪口をいったからなんです」オリヴァは答えた。
「うん、この恩知らずのチビ公め、そういわれたからって、どうだというんだい?」サウアベリのおかみはいった。「いわれるだけのことはあるし、もっとひどい女なんだからね」
「ちがいます」オリヴァはいった。
「そうなんだよ」おかみはやりかえした。
「嘘《うそ》です!」オリヴァは応じた。
サウアベリのおかみは、ここで、わっと泣きだした。
こうして涙を流されては、サウアベリ氏にとってほかにとるべき手段はなくなってしまった。もし彼が、オリヴァをこの上なくきびしく罰するのを一瞬間でもためらったら、彼は、がっちりと打ち建てられた夫婦喧嘩《ふうふげんか》の先例にしたがって、けだもの、夫らしからぬ男、人をバカにするやつ、いやらしい男らしからぬ男、その他さまざま、この章の終わりまでそれを書きあげきれぬほど、さまざまとりっぱな人物になっていたことだろう。公平にいって、彼は力のおよぶかぎり――といっても、それはたいしたものではなかった――この少年にたいしてはやさしい気持ちをもっていた。それは、たぶん、そうしたほうが自分の利益になるため、また、たぶん、自分の女房が少年をきらっていたためでもあったろうが……。しかし、わっとこう涙を流されては、彼として、どうにもしようがなくなった。そこで、彼はすぐ少年をなぐりつけたが、これはおかみ自身を満足させたばかりでなく、その後バムブル氏が教区の鞭《むち》を少年に加えることをまず必要のないものにしてしまった。その日の残りのあいだ、彼はポンプと一片のパンといっしょに裏の台所に閉じこめられ、夜になってから、サウアベリのおかみは、戸口の外で、少年の母親の思い出の言葉にしてはひどい悪態《あくたい》をさんざんついてから、部屋の中をのぞきこみ、ノアとシャーロットの指《ゆび》さしとあざけりの言葉につつまれて、彼は上の陰気な寝台へとおしあげられた。
葬儀屋の陰鬱な作業室の沈黙と静けさにただ一人とり残されてからはじめて、オリヴァは、この日の扱《あつか》いが当然いたいけな少年にひき起こす感情に屈した。彼は、軽蔑の表情を浮かべて、みなのののしりの言葉を聞いていた。泣き声もあげずに、鞭《むち》打ちに堪《た》えてきた。ほこりの気持ちが胸にふくらんでくるのを感じ、たとえ生《なま》あぶりにされようと、最後まで悲鳴はあげまいといった気になっていたからである。だが、いま、自分の姿をながめ、自分の言葉を聞く人がだれもいなくなって、彼はガックリと床にひざまずき、両手で顔をおおって、人間性の名誉のためにも、子供が神の前に流す必要がない涙を、さめざめと流した。
ながいこと、オリヴァはこの姿勢で身じろぎもせずにいた。彼が立ちあがったとき、ろうそくは、受け台近くまで燃えさがっていた。あたりを注意してながめ、じっと聞き耳を立てて、彼は静かに扉の留め金をはずし外をながめた。
その日は寒い、暗い夜だった。星は、少年の目には、いままでにないほど地球から遠くはなれて輝いている感じだった。風はなく、木が大地に投げている陰気な影は、あたりが静かなだけに、墓のよう、死のようにうつった。彼はそっと扉を閉めた。消えかけているろうそくの光で、わずかな衣類をハンカチにつつんでから、彼は木のベンチに腰をおろして、夜明けを待った。
鎧戸《よろいど》の裂け目をわずかとおってくる夜明けの最初の光とともに、オリヴァは起きあがり、ふたたび扉の桟《さん》をはずした。オズオズとあたりを見まわし――一瞬ちょっとためらって――彼は外に出てから扉を閉め、街路に出ていった。
彼は、どちらに逃げたものか見当もつかなかったので、左右をながめまわした。以前出かけたとき、荷馬車が骨を折って岡を登ってゆくのを見たことを、彼は思い出した。彼はこれと同じ道を選び、原っぱを横切って小道があるところにゆきついて、それから少し歩けばまた大通りに出ることを知っていたので、その道をさっさと進んでいった。
バムブル氏が彼を幼児預かり所から貧民院に連れていったとき、この小道をバムブルにともなわれて小走りに歩いていったことを、オリヴァはよくおぼえていた。この道はその幼児預かり所のまん前をとおっているものだった。このことを思ったとき、彼の心臓はドキドキと打ち、彼はほとんど道をもどりそうになった。だが、その道をそうとう進んできていたので、もどれば、時間の損失が大きかった。その上、時刻が早かったので、自分の姿を見かけられる心配はまずなかった。そこで、彼はグングンと歩みつづけた。
彼はその家に着いた。こんなに早いときだったので、家の人が起きている気配《けはい》はなかった。オリヴァは足をとめ、庭をのぞきこんだ。子供が一人、小さな花壇で草とりをしていて、彼が足をとめたとき、その子は青い顔をあげ、それで、この子が以前の彼の仲間だったことがわかった。オリヴァは、いってしまう前に、この子に会えたのをうれしく思った。彼より年下ではあったものの、この子は彼の小さな友人、遊び友だちだったからである。二人は、何回も何回も、いっしょにたたかれ、欠食の苦しみを味わわされ、閉じこめられていたのだった。
「しっ、ディック!」彼に挨拶をしようと、この少年が門のところにかけてきて、手摺《てす》り越しに痩《や》せた手を延ばしたときに、オリヴァはいった。「だれか起きているかい?」
「ぼく以外にはだれも」子供は答えた。
「ディック、ぼくの姿を見かけたと、だれにもいってはいけないよ」オリヴァはいった。「ぼくは逃げだしたんだ。ディック、打たれ、虐待されるんだものね。そしてぼくは、どこか遠いところで、自分の運だめしをしようと思っているんだ。どこかわからないけどね。まあ、なんて青い顔をしているんだろう!」
「先生が、ぼくはだめだ、といっているのを聞きましたよ」かすかに微笑を浮かべて、この子供はいった。「きみに会えて、とてもうれしいんです。だけど、早くいって、早くいって!」
「いや、いや、きみに別れの挨拶だけはいってゆくよ」オリヴァは答えた。「ディック、また会おうね。元気で幸福になるようにね!」
「そうなりたいんだけど」子供は答えた。「でも、それは死んでからのこと、それ以前にはだめだと思うよ。オリヴァ、先生のいうとおりだと、ぼくは思っているんだ。だって、オリヴァ、ぼくは天国のこと、天使のこと、目がさめているとき見たこともない親切な顔を夢に見るんだからね。キスしておくれ」子供はこういって、低い門をよじ登り、両腕をしっかりとオリヴァの首にまきつけた。「さようなら! 神さまのみ恵みがきみに授かりますように!」
この祝福は年ゆかぬ子供の唇《くちびる》から発せられたものだったが、それは、オリヴァにはじめて与えられたものだった。そして、その後の彼の生涯の悪戦苦闘、苦しみと運命の変遷《へんせん》をとおして、それは、彼が絶対に忘れ得ぬものとなった。
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八 オリヴァは徒歩でロンドンにおもむく――途中で妙な年ゆかぬ紳士に出逢う
オリヴァは家畜を通さぬようにしてある柵《さく》のところに着いた。そこで小道は終わりになり、それは、ふたたび大通りにつながっていた。もう時刻は八時だった。彼は町から約五マイルもはなれていたのだったが、追跡され捕われるのを心配して、昼になるまで、まだ交互に走り、生垣《いけがき》の影に身をかくしたりしていた。それから、彼は休もうと里程標のわきに腰をおろし、その日はじめて、どこにいって生活を立てたらよいかを考えはじめた。
彼が坐っていたところのわきに立っている石は、大きな文字で、ここからロンドンまでちょうど七十マイルあることを示していた。ロンドンの名は、少年の心の中に新しい一連の考えを呼びさました。ロンドン!――だれも――バムブル氏でも――そこで彼を見つけることはできないだろう! その上彼は、貧民院の老人たちが、元気のある若者だったら、だれもロンドンでは困ることがない、その大きな町では、いなかで育ったものが想像もできない暮らしの道があるものだ、と話しているのを、ときどき、聞いたことがあった。だれかが助けてくれなかったら、街路で餓死するほかはない家なき少年にとって、それこそ、まさに打ってつけの場所だった。こうしたことを思いめぐらしたとき、彼は、ふたたび、パッと立ちあがって、歩きだした。
ロンドンへの距離をこの先まだ四マイルもちぢめぬうちに、目的地に到着するまでにどんなに多くの苦労をなめねばならぬかを、彼は考えた。こうした考えが否応なく彼の頭に浮かんだとき、彼は歩調を少しゆるめ、どうしたらロンドンにゆき着けるかを思いあぐんだ。彼の持ちものといえば、つつみにいれたパンの皮、粗末なシャツ、それに二足の靴下だけだった。彼は一ペニーをポケットにもっていたが、それはふだんよりみごとに葬式でふるまったために、その葬式後にほうびとしてもらったものだった。「きれいなシャツは」とオリヴァは考えた、「とてもありがたいものだ、とても。そしてつくろいをした二足の靴下、一ペニーだってそうだ。だが、それは、冬の季節に、六十五マイル歩くには、たいして助けにならない」しかし、オリヴァの考えは、ほかのたいていの人の考えと同様に、困難を指摘することはいとも簡単にやってのけたが、それを克服する実際的な方法となると、まったく途方にくれてしまうのだった。そこで、なんの役にもたたずにあれこれと考えたあげく、彼は小さな荷物を肩の上でおきかえ、トボトボと歩きはじめた。
その日オリヴァは二十マイル歩いた。そして、そのあいだに食べたものといえば、ただ乾いたパンの皮と、路傍の小屋の戸口で求めたわずかな水だけだった。夜がやってきたとき、彼は牧場にはいりこみ、まぐさの山の下にもぐりこんで、朝までそこで横になっていることにした。彼は最初こわかった。風が人気のない原っぱの上を、おそろしいうなりを立てて、吹きとおっていったからである。寒く、ひもじく、このときまでに感じたことがないほど、孤独感をおぼえた。しかし、徒歩旅行で非常につかれていたので、彼は間《ま》もなく眠りこみ、その苦痛を忘れてしまった。
翌朝目をさましたとき、寒く、からだがこわばったように感じ、その上、とても空腹になっていたので、とおりぬけた最初の村で、一ペニーの金を小さなパンにかえなければならなくなった。夜の幕がふたたびおりたとき、まだ十二マイルしか歩いていなかった。足は痛み、弱っていたので、それはガクガクしていた。もう一夜をわびしい、湿った大気の中ですごして、彼のからだの具合いはいっそうわるくなってきた。その翌朝、彼が旅の道を歩きはじめたとき、彼はほとんどはうこともできない状態になっていた。
彼は、駅伝馬車がやってくるまで、けわしい岡のふもとで待ち、それから乗客に物乞いをした。だが、彼の存在に気づいた人はほとんどおらず、気づいた人たちでさえ、岡の頂上にゆくまで待て、半ペニーもらうために彼がどのくらい走れるかを見せろ、といった。あわれなオリヴァは、ちょっとのあいだ、馬車のスピードに歩調を合わそうとしたが、疲労といたむ足のために、それもできなくなってしまった。乗客がこれを見たとき、彼らは半ペニーをふたたびポケットにもどし、やつはなまけ者の小犬で、なにもしてやる必要はない、といいすて、馬車はガラガラッと音をたてて立ち去り、ただほこりの雲をうしろに残しただけだった。
いくつかの村には、大きなペンキを塗った板が立てられ、その地区で物乞いをするものは監獄に投げこまれることを知らせていた。これは、ひどくオリヴァをおびえさせ、彼はできるだけ早くそこを立ち去ることになった。ほかの村では、彼は旅館の庭の近くに立ち、もの悲しげに、とおる人たちをながめていたが、その揚句《あげく》はたいてい、旅館のおかみがそのあたりにブラブラしている郵便配達夫のだれかに命じて、得体《えたい》の知らぬ少年を追いはらわせることで|けり《ヽヽ》になった。というのも、おかみは、そうした少年がものを盗みにやってきたものと確信していたからである。農家で物乞いをしても、彼は、十中八九、犬をけしかけてやるぞ、とおびやかされた。そして、店にその鼻先をあらわすと、人は教区吏員のことを口にし――それはオリヴァをギクリとさせ――そうした状態はよく、その後何時間もつづいた。
事実、善良な通行税とりたて門の番人と心のやさしい老婦人の助けがなかったら、母親の苦しみに|けり《ヽヽ》をつけたのとちょうど同じ形で、オリヴァの苦しみも|けり《ヽヽ》をつけられていたことであろう。言葉をかえていえば、彼が大通りで餓死したであろうことは、ほとんどまちがいのないことだった。だが、通行税とりたて門の番人は、彼にパンとチーズの食事を与えてくれ、地球のどこか遠い場所で素足でさまよっている難破した孫をもった老婆は、この気の毒な孤児をあわれに思い、彼女としてはできるだけのものを恵んでくれたばかりか――それ以上――じつに親切でやさしい言葉、同情とあわれみの涙をかけてくれたので、それは、彼がいままでに受けたすべての苦難よりもっと深く、オリヴァの心にしみとおっていった。
生まれた土地を出発してから七日目の朝早く、オリヴァは小さなバーネットという町にびっこをひきながらはいっていった。窓の鎧戸《よろいど》はおろされ、街路には人っ子一人いなく、だれもまだ昼間の仕事に目をさましてはいなかった。太陽はすばらしい美しさで昇りかけていた。だが、その光はただ、少年が坐っているとき、踏み段に乗せた血でよごれた泥まみれの足といっしょに、彼自身のわびしさをあらわすのに役だつだけだった。
しだいに鎧戸《よろいど》は開かれ、窓のブラインドはあげられ、人々が往き来しはじめた。わずかな人たちは足をとめて、ちょっと、オリヴァをジッと見すえるか、急いでとおりすぎていってから、ふりかえって彼をながめていた。だが、だれも彼を助けてくれず、親切に、どうしてここにやってきたのか、をたずねようともしなかった。彼は物乞いをする気力も失せ、ただそこに坐っていた。
彼は、しばらくのあいだ、立ちならぶ居酒屋の多いのに驚き(バーネットでは一軒おきに大なり小なりの酒屋があった)、ぼんやりととおりすぎてゆく馬車をながめ、そうした馬車が、彼がそれをするには年にも似合わぬ勇気と決意の一週間を必要とした距離を、らくらくと数時間で越えてしまうことがどんなに奇妙なことかを考えて、階段に身をかがませていた。そのとき、数分前にさり気ないふうに彼のわきをとおっていったある少年がもどってきて、道の反対側から彼をジッとながめていることに気づいて、彼はフッとわれにかえった。最初、彼はこの少年のことにはほとんど注意をはらわないでいたが、相手の少年がじつにながいこと同じ姿勢でこちらを見つめていたので、オリヴァは頭をあげ、しっかりとにらみかえした。すると少年は道を横切って、こちらにやってきて、オリヴァに近づき、こういった――。
「よう、チビ公! どうしたんだい?」
この年若い旅行者にこう問いかけた少年は、彼とだいたい同じ年頃だったが、オリヴァがこれまで見かけたこともない奇妙な風態《ふうてい》のものだった。鼻は獅子鼻、額《ひたい》は平ら、俗っぽい少年で、この上なく薄ぎたなかった。しかし、その態度、物腰はれっきとした一人前の男だった。彼は年のわりあいには背が低く、そうとうのがにまたで、小さな鋭い、醜悪な目をもっていた。その帽子は頭のてっぺんにほんの軽く乗せられていて、いつ落ちるかもしれない状態にあり、それをかぶっている人間が頭を急にうまくひねって、帽子をもとの位置にもどす|こつ《ヽヽ》を心得ていなかったら、たしかに、それは頭から落ちていたことだろう。彼は一人前の男の上衣を着こみ、それは、ほとんどかかとのところまでとどいていた。彼は袖口《そでぐち》を腕の途中までたくしあげ、ようやく手を外に出していたが、これは、明らかに、コール天のズボンのポケットに手を突っこむためだった。そして現に、いまそうした恰好《かっこう》をしていた。彼は編上げの半長靴《はんちょうか》姿で四フィート六インチかそれより少し低かったが、そうした背で、彼はじつにすごいがなり散らす、威張りかえった若い紳士になりきっていた。
「よう、チビ公! どうしたんだい?」この見知らぬ若い紳士はオリヴァにいった。
「ぼく、とてもお腹が空いて疲れているんです」話しながら涙をためて、オリヴァは答えた。「ぼくはながい道を歩いてきたんです。この七日間、歩きつづけていたんです」
「七日間歩きつづけていたんだって!」この若い紳士は叫んだ。「ああ、わかった、ビークの命令だな、えっ? だが」オリヴァのびっくりしたようすに気づいて、彼はいいたした、「気のきいた兄貴、ビークがなんのことかを知らねえようだな?」
そうした言葉では鳥の嘴《ビーク》がいいあらわされるものと聞いている、とオリヴァはおだやかに答えた。
「いや、驚いた、なんて青くさい生《なま》なんだ!」若い紳士は叫んだ。「いいか、ビークてえのは、治安判事のことさ。そして、ビークの命令で歩くときにゃ、まっすぐ前に歩くんじゃなくって、登ってったら二度とおりてくることはねえってことさ。まだ|踏み台《ミル》(昔、監獄内で懲罰のために囚人に踏ませた)に乗ったことはねえのかね」
「どんな風車《ミル》です?」
「どんな風車《ミル》だって! うん、そのミルはな――ほとんど場所がいらなくってな、石の壺(監獄の俗称)の中でも十分に働くもん、世間で風が高いとき(景気のよいときの意)より、風が低いときのほうが、うまくゆくもんなんだ。風が高けりゃ、人手を得られねえからな。だが、来な」若い紳士はいった。「おめえ、おまんまが欲しいんだから、そいつを食わしてやろう。おれだって懐《ふところ》具合いは火の車でな――たった一シリングと半ペニーしかねえんだ。だが、そいつがつづくかぎりは、おごってやるよ。さあ、腰をあげるんだ。さあ、さあ、ゆこう!」
オリヴァの立つのに手を貸して、この若い紳士は彼を近くの雑貨屋の店に連れてゆき、そこで味つけのハムと二ポンドのパン、彼自身の表現によれば「四ペニーのぬか」を買ったが、これは、パンの皮の一部をむいてそこに穴をつくり、そこにハムをつめるという巧妙なしかけによって、ハムがほこりをかぶらずに、きれいになっているものだった。このパンをわきにかかえて、この若い紳士はある小さな居酒屋に飛びこみ、構内の奥まったところにある酒場へ先に立って進んでいった。ここで、このふしぎな若者の注文で、ビールが一杯もってこられ、新しいこの友人のすすめで、オリヴァはゆっくりと楽しい食事にとりかかったが、この食事中、ふしぎな少年は彼のことを、非常な関心をこめて、ときどき、ながめていた。
「ロンドンにゆく途中だって?」オリヴァがとうとう食事を終えたとき、このふしぎな少年はたずねた。
「ええ」
「宿はあるんかい?」
「いいえ」
「金は?」
「ありません」
奇妙な少年は口笛を吹き、両腕をグイッと大きな上衣の袖《そで》ではいるだけポケットに突っこんだ。
「あなたはロンドンに住んでいるのですか?」
「うん、家にいるときはな」少年は答えた。「おまえ、今晩、眠る場所が欲しいんだろう、えっ?」
「ええ、そうなんです」オリヴァは答えた。「いなかから出てきて以来、屋根の下で眠ったことはありません」
「だからといって、目をショボショボさせなさんな」若い紳士はいった。「おれは、今晩、ロンドンにゆかねばならんのだが、あるりっぱな老紳士を知っててな、その人はただで泊まらせてくれるし、出てゆけともいいはしない――というのは、だれか知り合いの紳士がおまえを紹介してやった場合のことだがね。そしてその人は、このおれを知らんというのかね? ああ、そう、ぜんぜん知らんね。絶対に知らんとも。もちろん、知らんさ!」
若い紳士はニヤリとしたが、それは話の後半がふざけた反語の皮肉まじりといった感じを与えるものだった。そして、そう話しながら、彼はビールを飲み乾した。
思いがけない宿の話は、抵抗できぬほど心をひくものだったが、そのあとすぐ、話に出た老紳士がすぐいい職を見つけてくれるだろうといわれたので、それは、なおいっそう魅力的なものになった。これで話は前にもまして親しさを増し、腹蔵《ふくぞう》ないものになり、そうした話から、この友人の名がジャック・ドーキンズ(ジャックはジョンの俗称または愛称)といい、前述の老人の気に入りのもの、その子分であることが、オリヴァにわかった。
ドーキンズ氏の外見から見て、彼の保護者が世話を見ている連中の生活ぶりがたいしたものではないことがわかったが、ドーキンズの話しぶりには軽はずみで放埓《ほうらつ》なところがあり、その上、親しい友人のあいだで『ぺてん師』という綽名《あだな》をつけられていることがわかったので、オリヴァは、この男が放縦でだらしのない性分のために、その庇護者の与える教訓もむだになっているのだと断定した。こうした印象のもとで、彼は心ひそかに、できるだけ早くこの老紳士の好意を獲得し、もしぺてん師が、十分に予想できることだったが、どうしてもその性根を改めなかったら、彼との交際を辞退しようと決心した。
ジョン・ドーキンズが夜になってからロンドン入りをしようとがんばったので、二人がイズリントンの通行税とりたて門に着いたのは、十一時ごろになってしまった。彼らはエンジェル旅館から聖ジョン街にぬけ、サドラズ・ウェル劇場で終わる小さな通りをとおり、エクスマウス通りからコピス通りに出、貧民院のそばをとおって、小さな広場を横切り、ホックリー・イン・ザ・ホールの名をかつてもっていた古典地区をとおり、さらにそこからリトル・サフラン・ヒルにはいり、さらにまた、サフラン・ヒル・ザ・グレイトに足を踏みこんだが、この通りを、ぺてん師は、すぐあとについてこい、とオリヴァに命じて、急ぎ足でさっさと走っていった。
案内者の姿を見失うまいとして、オリヴァは十分に気を配っていたが、そこをとおりぬけるとき、彼は道の両側に、わずかだがあわただしい視線を投げずにはいられなかった。これほどきたなく、みじめな通りを、彼は見たことがなかった。通りはとてもせまく、泥まみれで、空気はいやなにおいでよどんでいた。たくさんの小さな店がならんでいたが、ただひとつの在庫品は子供といった感じで、彼らは戸口をはって出たりはいったりし、家の中で甲高《かんだか》い声をはりあげていた。こうしてすべてがよごれきった場所で、繁盛しているように見えたただひとつの場所は居酒屋で、そこでアイルランド人の最下層の人々が声をかぎりにわめきちらしていた。大通りからそこここでわかれている屋根づきの道と小路は、小さな家の集まりを示し、そこで、酔っぱらった男女が汚物のなかでうごめいていた。そして、あちらこちらの戸口からは、いやな風態《ふうてい》をした大男が用心深く外に出ていったが、それはなにかよからぬ、危険な仕事をたくらんでいる感じだった。
オリヴァが逃げだしたほうがよくはないかと考えはじめたちょうどそのとき、二人は岡のふもとに着いた。彼の案内人は、彼の腕をとらえて、フィールド小路の近くのある家の戸をおし開け、彼を廊下に連れこんで、戸をピシャリと閉めてしまった。
「うん、どうした?」ぺてん師が口笛を吹くと、それに答えて、下から声が叫んだ。
「上々の吉だ!」がそれにたいする応答だった。
これはうまくいっているということを伝えるなにかある合図・信号のようだった。かすかなろうそくの光が廊下の奥の壁にさし、古い台所の階段がくずれ落ちているところから、男の顔がこちらをのぞいた。
「おまえたち、二人なんだな」ろうそくをもっとおしだし、目を手でかくして、その男はいった。「もう一人の男はだれだ?」
「新入りさ」オリヴァを前にひきだして、ジャック・ドーキンズは答えた。
「どこからやってきたんだ?」
「グリーンランド(グリーンには未熟の意がある)からね。フェイギンは二階にいるかい?」
「うん、ハンカチのえり分けをやってるよ。さあ、あがれ!」ろうそくはひっこめられ、その顔は消えてしまった。
オリヴァは、片手で道をさぐり、もう一方の手は相手にしっかりとつかまれて、苦労して暗い、ボロボロの階段をあがっていった。そして、この階段を彼の案内人はさっさと楽《らく》に登っていったが、それは、彼がこの階段に馴れていることを物語っていた。彼は裏の部屋の戸をパッと開き、自分のあとにオリヴァを引っぱりこんだ。
壁と天井は、古さとよごれで、真っ黒になっていた。炉の前には松板のテーブルがあり、その上にジンジャビールのびんに差しこまれたろうそく、二、三個の白鑞《はくろう》の壺、パンとバタ、それに皿が一枚のせられていた。火の上にのせられ、ひもで炉棚《ろだな》にしばりつけられたフライパンでは、ソーセージがいためられ、その上に、ながいパン焼きフォークをもって、ひどく年輩の、しわだらけのユダヤ人が立っていたが、その感じの悪い悪党|面《づら》は、濃い赤毛の髯《ひげ》ですっかりおおいかくされていた。彼は油ぎったフランネルのガウンを着こみ、胸ははだけていて、その注意を、フライパンと、たくさんの絹のハンカチがかかっている乾しもの掛けの両方に向けているようだった。古いズックの大袋でつくったいくつかの寝台が、床の上にならんでゴタゴタとおかれてあった。テーブルのまわりには四、五人の少年が坐っていて、彼らはぺてん師より年上ではなく、ながい陶製のパイプをくゆらし、いかにも中年者然《ちゅうねんものぜん》としたようすで、酒を飲んでいた。ぺてん師がユダヤ人になにかちょっとささやいているとき、この連中は彼のまわりにたかりこみ、それから向きなおって、オリヴァをニヤリニヤリ笑ってながめていた。ユダヤ人自身も、手にながいパン焼きのフォークをもって、ニヤリニヤリしていた。
「これがその男ですぜ、フェイギン」ジャック・ドーキンズはいった。「わが友オリヴァ・トゥイストです」
ユダヤ人はニヤリとし、ていねいなお辞儀をしてから、彼の手をとり、これから親しくおつきあいをねがいたい、と述べた。この挨拶が終わると、パイプをもった紳士たちが彼をとりかこみ、彼の両手――特に小さなつつみをもっている手をかたくにぎって握手をした。一人の若い紳士は、彼のために帽子をかけてやろうとえらく精を出し、べつの紳士は、親切にも彼のポケットに手を突っこんだが、これは、彼がとても疲れているので、床にはいるとき、彼自身がポケットを空《から》にする面倒をはぶいてやろうというのだった。こうした好意は、それをしてやろうとしたやさしい青年たちの頭や肩にユダヤ人のパン焼きフォークが激しくふりおろされなかったら、もっとひどいことになるところだった。
「オリヴァ、きみに会えて、われわれはとてもうれしいよ――とてもね」ユダヤ人はいった。「ぺてん師、ソーセージをフライパンからあげろ。そして、オリヴァが坐るために、炉の近くに桶《おけ》をひきよせるんだ。ああ、きみはハンカチを見てるね! うん、きみ、ずいぶんたくさんあるだろう。えっ! 洗おうとそれを調べてたとこさ。それだけのこったよ、オリヴァ、それだけのこったよ。はっ! はっ! はっ!」
この話の後半部は、この陽気な老人の将来有望なお弟子たち全員の発するさわがしい叫びによって、わっとはやしたてられ、その叫びとともに、夕食がはじまった。
オリヴァは自分の食事を食べたが、ユダヤ人は彼のために温かい水割りのジンをつくってくれ、べつの紳士がそのコップを必要としているから、すぐにその酒を飲みほすようにといった。オリヴァは命じられたとおりにし、その後|間《ま》もなく、自分のからだが袋物の寝台にそっともちあげられてゆくのを感じ、それから深い眠りに落ちこんでしまった。
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九 愉快な老紳士とその有望な弟子に関するもっとくわしい話
ながい、ぐっすりとした眠りからオリヴァが目をさましたのは、その翌朝おそくなってからのことだった。部屋には老人のユダヤ人以外にはだれもいず、彼は、朝食のためにシチューなべでコーヒーをわかし、それを鉄のスプーンでかきまわしながら、静かに口笛を吹いていた。ときどき、ちょっとでも下で物音がすると、彼は動かしている手をとめ、それがなんでもないことがわかると、以前どおり、口笛を吹きながら、コーヒーをかきまわしつづけていた。
オリヴァは眠りからさめてはいたものの、すっかり目をさましているわけではなかった。眠りと目ざめのあいだには、ねむたいといった中間的状態があり、そのときには、目をすっかり閉じて、五官が完全な無意識状態につつまれた五晩のあいだに夢みるよりもっと多くの夢を、五分のあいだに、半分目を開け、自分のまわりに起こっているすべてのことをなかば意識しながら、夢みるものである。こうしたとき、人間は自分の心がおこなっていることがちゃんとわかり、肉体の束縛から解放されたとき、心がどんなにたくましさを発揮するか、それが時間と空間を超越して、どんなに地球から飛び出してゆくかをおぼろげながら感ずるものである。
オリヴァは、まさにこうした状態にあった。彼はなかば閉じた目でユダヤ人をながめ、その低い口笛を聞き、シチューなべのへりにスプーンが当たる音を耳にしていたが、そのまさに同じ感覚は、同時に、いままでに知ったほとんどすべての人といそがしくまじわっていたのだった。
コーヒーができあがると、ユダヤ人はシチューなべを炉の台におき、それから、どうしたらよいか迷っているような態度で、モジモジしながら立ちつくし、向きを変えてオリヴァをながめ、その名を呼んだ。オリヴァはそれに答えず、一見したところ、眠りこんでいた。
このことをたしかめてから、ユダヤ人はそっと戸のところにゆき、それをしっかりと閉めた。彼は、それから、オリヴァにはねあげ戸と思われるところから、小さな箱をとりだし、それを注意深くテーブルの上においた。そのふたをとり、中をのぞきこんだとき、彼の目はギラギラと輝いた。古椅子をテーブルのところにひっぱっていって、彼は腰をおろし、そこから宝石でキラキラ輝いている堂々とした金時計をひっぱりだした。
「ああ!」肩をすくめ、おそろしい笑いで顔の形相《ぎょうそう》をくずして、ユダヤ人はいった。「利口な犬たち! 利口な犬たちだ! 最後まで忠実でな! 老いぼれ牧師にも自分の住み家は絶対にあかさなかった! 共犯の老フェイギンのことも絶対に密告しなかった! それに、どうしてそれをすることがあろう? それをしたって、絞首刑のなわの結び目がゆるむわけじゃなし、踏み台が一分間でもながくもつわけじゃないんだからな。そうはなるもんか、なるもんか、なるもんか! りっぱなやつらさ! りっぱなやつらさ!」
こうした言葉とそれと同じようなことをつぶやいて、ユダヤ人は時計をもとの安全な場所にしまいこんだ。少なくとも六個の時計が同じ箱からひきだされ、同じよろこびでながめられ、それ以外にも、じつに豪華な材料でできた贅沢《ぜいたく》なつくりの、その名さえオリヴァにはわからぬ指環、襟《えり》どめ、腕環、その他の宝石類が示された。
こうした飾り物をもとにおさめて、ユダヤ人は、さらにべつの宝物をひきだしたが、それはとても小さくて、彼の手のひらの中におさまってしまうものだった。そこには、なにかこまかな彫りものがしてあるらしく、ユダヤ人はそれをテーブルの上に乗せ、手でそれをかざして、ながいこと、熱心にそれに見入っていた。それから、彼は彫りの精巧さを見とどけるのを諦めたらしく、それを下におき、椅子にふんぞりかえって坐りながら、つぶやいた――。
「死刑とは、じつにありがたいもんだ! 死んだ人間は絶対に後悔はせん。死んだ人間はまずいことを明るみにさらけだしたりはせんからな。ああ、そこが、この商売のありがたみというもん! 五人がぜんぶ数珠《じゅず》つなぎになってつるされ、だれも生き残って裏切ったり、臆病風を吹かせたりすることはないんだからな!」
ユダヤ人がこうした言葉をつぶやいたとき、いままでぼんやりと前方をながめていた彼のキラキラ輝く黒い目は、オリヴァの顔に向けられた。少年の目は、ものいわぬ好奇心に燃えて、ユダヤ人の目の上に釘づけにされていた。そして、この認識はほんの一瞬間――この上なく短かな期間だけのことだったが、それは、老人が観察されていたことを物語るに十分なものだった。彼はガタリと大きな音をたてて箱のふたを締め、テーブルの上のパン切りナイフをつかんで、すごい勢いで飛びあがった。だが、彼はひどくからだをふるわせていた。というのも、おそろしさにつつまれながらも、オリヴァはナイフが空中でふるえているのを見ることができたからである。
「なんだ?」ユダヤ人はいった。「なんでわしを見てるんだ? どうしておまえは目をさましてるんだ? なにを見てたんだ? 返事をしろ! 命がおしかったら、早くいえ、さっ!」
「ぼくは、もう眠れなかったんです」おずおずした態度で、オリヴァは答えた。「ご心配をおかけしたとしたら、おわびします」
「一時間前に目をさましていたんじゃないんだな?」すごく少年をにらみつけて、ユダヤ人はたずねた。
「ええ、もちろん、ちがいます!」オリヴァは答えた。
「ほんとか?」前よりもっとすごい形相《ぎょうそう》をし、おどかすような態度を示して、ユダヤ人は叫んだ。
「ほんとうに、目をさましてはいませんでした」むきになって、オリヴァは答えた。「ほんとうです」
「ちぇっ、ちぇっ!」いきなり前の態度にもどり、ただふざけてナイフをとりあげたと信じこませようとしているように、下におく前にそれをいじくりまわして、ユダヤ人はいった。「もちろん、そいつはわかってるさ、おまえ。わしは、ただ、おまえをふるえあがらせてやろうとしただけなんだ。おまえは勇敢な少年だな。はっ! はっ! 勇敢な少年だよ、オリヴァ!」クスクス笑いながら、ユダヤ人は手をこすっていたが、その目は、不安そうに例の箱をながめていた。
「このきれいな品物をなにか見たかね!」ちょっと間《ま》をおいてから、手を箱に乗せて、ユダヤ人はたずねた。
「はい、見ました」オリヴァは答えた。
「ああ!」ひどく真《ま》っ青《さお》になって、ユダヤ人はいった。「これは――これはわしのもんだよ、オリヴァ、わしのささやかな財産なのだ。年をとってから、老後を養うもんなんだ。世間のものは、わしのことをけちんぼといってるがね、ただけちんぼなだけで、それだけのことさ」
あんなにたくさん時計をもっていながら、こんなきたない家に住んでいるなんて、この老人はたしかに徹底的な吝嗇漢《りんしょくかん》にちがいない、とオリヴァは思ったものの、ぺてん師やそのほかの子供の世話を見ることはそうとう金のかかることにちがいないと思いなおして、彼は敬意をこめたまなざしをユダヤ人に投げ、起きてもよいかとたずねた。
「ああ、いいとも、いいとも」老紳士は答えた。「待てよ。戸の近くの隅に水差しがあるからな、それをここにもってこい。顔を洗う金だらいを貸してやろう」
オリヴァは起きあがり、部屋の向こうにゆき、水差しをもちあげようとして、一瞬かがみこんだ。彼が向きを変えたとき、例の箱は姿を消していた。
ユダヤ人の指図にしたがって、彼が顔を洗い、金だらいの水を窓からあけて、すべてをきちんと片づけるか片づけないかに、とても元気な若い友人といっしょに、ぺてん師がもどってきた。この友人というのは、前の晩、オリヴァがタバコをふかしているのをながめた人物で、彼はいま正式にチャーリー・ベイツとしてオリヴァに紹介された。四人は朝食をしようと椅子に腰をおろし、コーヒーとぺてん師が帽子のてっぺんにかくして運んできた巻きパンとハムを食べだした。
「うん」なに食わぬ顔をしてオリヴァをチラリとながめ、ぺてん師に話をしかけて、ユダヤ人はいった。「今朝、おまえは仕事をしたんだろうな、どうだい?」
「一生けんめいね」ぺてん師は答えた。
「せっせとね」チャーリー・ベイツはいいそえた。
「でかした、でかした!」ユダヤ人は叫んだ。「なにを手にいれたね?」
「二つ紙入れをね」若い紳士は応じた。
「中味があるかな?」むきになって、ユダヤ人はたずねた。
「まあ、かなりね」青と赤の二つの紙入れをひっぱりだして、ぺてん師は答えた。
「思ったより少ないな」中を注意深く改めて、ユダヤ人はいった。「だが、つくりはみごとなもんだ。うまい細工だろう、オリヴァ、えっ?」
「まったくそうですね」オリヴァは答えたが、これを聞いて、チャーリー・ベイツ氏はわっと笑いだし、そこになにも笑うべきものはないと思っていたオリヴァをびっくり仰天させた。
「そして、おまえはなにを手に入れたんかね?」フェイギンはチャーリー・ベイツにたずねた。
「ハンカチですよ」とベイツは答え、それと同時に、何枚かのハンカチをひっぱりだした。
「うん」それをこまかに調べて、ユダヤ人はいった。「こいつはとってもりっぱなもんだ――とってもな。だが、しるしのつけかたがうまくないな。そのしるしは針でとってしまおう。その仕方は、みんなでオリヴァに教えてやることにしよう。教えてやろうか、オリヴァ、どうだい? はっ! はっ! はっ!」
「よろしかったら、どうぞ」オリヴァは答えた。
「おまえは、チャーリー・ベイツと同じくらい楽《らく》に、ハンカチをつくりたいだろう。どうだね、おまえ?」ユダヤ人はたずねた。
「はあ、教えていただければ、とてもつくってみたいです」オリヴァは答えた。
ベイツは、この答えになにかいうにいわれぬおかしさを感じて、もう一度、プッと吹きだした。そして、この笑いで飲んでいたコーヒーを喉《のど》につまらせ、彼は時ならぬ窒息死であやうく命を落としそうになった。
「ひどくしろうとくさいな!」息がつまったのがなおってから、みなにこの不作法のわびのしるしにと、チャーリーはいった。
ぺてん師はなにもいわず、オリヴァの髪を目の上になでつけて、やがて彼だってもっと利口になるさ、と応じた。ここで老人は、オリヴァの顔が赤らんできたのを見て、話題を変え、その朝おこなわれた死刑執行にたくさんの人出があったかどうか、をたずねた。これで、オリヴァの狐《きつね》につままれた気持ちは、ますますつのっていった。というのは、この二人の少年の答えから、彼らが二人ともそこにいっていたことは明らかで、オリヴァは、当然のことながら、二人がどうして、そうせっせと仕事をする時間を見つけられたのか、ふしぎに思ったからだった。
食事が片づけられたとき、陽気な老紳士と二人の少年は、じつにふしぎな、めったにない遊びをしはじめたが、それはこうしたものだった。陽気な紳士はかぎタバコ入れを、ズボンのポケットの一方に、紙入れをべつのほうに入れ、留め鎖を首にまきつけた時計をチョッキのポケットに入れ、シャツにはにせダイヤのピンを刺し、上衣にはしっかりとボタンをかけ、眼鏡入れとハンカチをポケットにはさんで、老人たちがいつでも街路でやっているとおりに、部屋の中をあちらこちらと歩きだした。ときどき、彼は炉のところや戸のところに足をとめ、店先の飾り窓をむきになってのぞきこんでいるふりをした。こうしたとき、彼は掏摸《すり》を心配して、たえずあたりを見まわし、なにも失くしてはいないかをたしかめようと、じつにおかしな、そっくりのうまいやりかたで、ポケットを順々にたたいたので、オリヴァは、顔に涙が流れるほど笑いこけてしまった。このあいだ中、二人の少年はぴたりと彼のうしろにつき、老人がふりかえると、いとも素早く姿をかくし、それは目にもとまらぬ早業だった。最後にとうとう、ぺてん師が老人のかかとをふみ、偶然その靴にぶつかり、チャーリー・ベイツが背後からヨロヨロッと彼に倒れかかり、その一瞬のうちに、二人は驚くべき早業で老人のかぎタバコ入れ、紙入れ、留め鎖、鎖、シャツのピン、ハンカチ――眼鏡入れさえ、奪ってしまった。もし老人がそのポケットのどこにでも手を感知したら、彼はそれがどこかを叫び、そうなると、この遊びはふりだしにもどるのだった。
この遊びが何回かくりかえされてから、二人の婦人が若い紳士たちに会いにやってきたが、その一人はベッツィーといい、他はナンシーという名の娘だった。二人はゆたかな髪をしていたが、それはうしろがたいしてきれいに結《ゆ》いあげられているものではなく、靴も靴下もだいぶよごれていた。二人はそれほどきれいというわけではなかったが、顔にはかなり赤味がさし、丈夫で元気そうだった。その態度はとてもくだけて感じがよく、オリヴァは、彼らをとても好ましい少女と考えた。そして、たしかに、それはそうだった。
この訪問者はゆっくりとしていた。この若いご婦人のうちの一人が、身内がゾクゾク寒くてならない、といったので、酒が出され、話はとても楽しい、ためになるものになっていった。とうとう、チャーリーは、もう|てくる《ヽヽヽ》時間だ、といいだした。これは外出することをあらわすフランス語じゃないか、とオリヴァには思われた。というのも、その直後、ぺてん師とチャーリーと二人の若い婦人は、やさしい老ユダヤ人から親切にも小遣いをわたされ、連れだって外に出ていったからである。
「ほうれ、おまえ」フェイギンはいった。「これは楽しい生活だろうが、どうだい? みんなは、昼間のあいだ、外出したんだぞ」
「もう仕事を終わったのですか?」オリヴァはたずねた。
「そうだよ」ユダヤ人は答えた。「というのは、外出中になにか仕事にゆきあたらなければな。それに当たれば、まちがいなく、彼らはそれを放ってはおかないからね。彼らを手本にしたらいい、手本にな」自分の言葉に力を入れようと、炉の十能《じゅうのう》をたたいて、ユダヤ人はつづけた。「彼らの命じたことは、なんでもするんだぞ、そしてすべてのことで、彼らの注意をよく聞くんだ――特にぺてん師のはな。やつはえらい人間になるぞ、そして彼をよく見習えば、おまえだってえらい人間になれるんだ。――わしのハンカチはポケットから出ているかね、おまえ?」話を途中でやめて、ユダヤ人はたずねた。
「ええ」オリヴァは答えた。
「わしが気がつかぬうちに、それをとれるかどうか、やってみろ、今朝遊びをやってたとき、彼らがみんなやってたようにな」
オリヴァは、ぺてん師のやっていたとおり、片手でポケットの底をもちあげ、もう一方の手でそこから軽くハンカチを引きぬいてしまった。
「あれっ、なくなっちまったのかい?」ユダヤ人は叫んだ。
「ここにありますよ」ハンカチを手の中に示して、オリヴァは答えた。
「おまえは利口|者《もん》だぞ」冗談好きの老紳士はいい、ほめるようにして、オリヴァの頭をたたいた。「おまえほど抜け目のないやつはいないな。さあ、一シリングやろう。こんな調子で進んだら、おまえは当代いちばんの偉物《えらぶつ》になるぞ。さあ、ここに来な、どうしたらハンカチからしるしをとるか、教えてやろう」
オリヴァは、老紳士のポケットから冗談でものを抜きとることが、偉物《えらぶつ》になる見通しとどんな関係をもっているのか、ふしぎでならなかった。だが、自分よりずっと年輩のユダヤ人はなんでもよく心得ているものと考えて、彼は静かに、老人のあとについてテーブルのところにゆき、新しい仕事の勉強に没頭した。
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十 オリヴァは新しい友だちと親しくなり大きな代償をはらって経験を積む――この物語では、短いがきわめて重要な一章
何日間もながいあいだ、オリヴァはユダヤ人の部屋にいて、ハンカチのしるしを抜きとり(ハンカチはたくさん家にもちこまれていた)、ときどき、すでに述べた遊びに加わったりしていた。この遊びは、毎朝規則正しく、二人の少年とユダヤ人がいつもやっていることだった。とうとう、オリヴァは新鮮な空気がたまらなく欲しくなり、二人の仲間といっしょに外に仕事にでかけることを、何回か熱心にたのみこんだ。
オリヴァは、老紳士の性格のもっているきびしい道徳的傾向を見るにつけ、なおいっそう仕事をしたい気持ちに追いたてられていた。ぺてん師やチャーリー・ベイツが手ぶらで夜もどってきたときにはいつも、彼は、すごい剣幕で、なまけてグズグズしている習慣のもたらすみじめさについてながながと説教し、夕食も食べさせずに眠らせ、活動的な生活の必要を主張していた。あるときには、じっさい、彼は彼らを階段から突き落としさえもしたが、これは、その道徳的説教を極端にまで実行にうつした結果だった。
とうとう、ある朝、彼は熱心に志願していた許可を獲得した。二、三日間、仕事をしようにもハンカチはなく、夕食も、たいそうみすぼらしいものになっていた。こうしたことが、おそらく、老紳士が承諾を与えた理由だったのだろう。だが、理由はともかく、彼はオリヴァにいってもいいと伝え、彼をチャーリー・ベイツとその友ぺてん師の共同監視のもとにおいた。
三人の少年は外に飛びだし、ぺてん師はいつものとおり上衣の袖《そで》をたくしあげ、帽子をあみだにかぶり、ベイツはポケットに手を突っこんでブラブラと歩き、二人にはさまれたオリヴァは、彼らがどこにゆくのだろう、どんな製造の仕事を最初に教わるのだろう、と考えていた。
彼らの歩きぶりは、じつにだらけた、不様《ぶざま》なそぞろ歩きで、オリヴァはすぐに、彼らが仕事にはとりかからないで、老紳士をあざむいている、と考えはじめた。ぺてん師はひどい癖の持ち主で、小さな少年の帽子をはぎとり、それを地下の勝手口に投げこみ、一方、チャーリー・ベイツは所有権に関するいい加減な観念を示して、溝《みぞ》のそばにある店からりんごや玉ねぎをかっさらい、それをすごく大きなポケットに投げこみ、それがあらゆる面で、服の恰好《かっこう》をくずしている感じだった。こうしたことは、いかにもひどいこととオリヴァの目にはうつったので、彼はなんとかして、自分だけ家に帰る、といおうとしたのだったが、そのとたん、ぺてん師の態度が妙に変わってきたために、彼の考えは、べつの方向に向けられることになった。
彼らはクラークンウェルの開けた広場からあまりへだたらぬせまい小路――それは、いまでも、言葉の妙なひねくりで「牧草地」と呼ばれているのだが――から出ようとしていたが、そのとき、ぺてん師が、突然、足をとめ、唇に手を当て、とても用心深く、仲間の連中をうしろにおしもどした。
「どうしたんだい!」オリヴァはたずねた。
「しっ!」ぺてん師は答えた。「本屋のとこにいる老いぼれ、見えるかい?」
「道の向こうにいる老紳士かい?」オリヴァはたずねた。「ああ、見えるよ」
「やつならうまくゆきそうだ」ぺてん師はいった。
「いい|かも《ヽヽ》だ」チャーリー・ベイツは応じた。
オリヴァは、ひどくびっくりして、仲間の顔をながめまわしたが、あれこれとたずねることは、許されなかった。二人の少年はそっと道路を切って進み、彼の注意がそそがれている老紳士のピッタリうしろに忍びよったからである。オリヴァは、彼らのあと数歩のところを歩き、進むも引くもならぬ状態で、だまったままびっくり仰天して、立ちつくして彼らを見守っていた。
相手の老人は、とてもしっかりとした感じの人物で、髪粉をふりつけ、金ぶち眼鏡をかけていた。彼は暗緑色の上衣姿で、黒いビロードのカラーを着け、白いズボンをはき、小脇にはハイカラな竹のステッキをかかえていた。彼は店の棚から一冊の本をとりだし、そこに立って、自分の書斎で自分の肘掛け椅子に坐っているように、熱心にその本を読みふけっていた。じっさい、いかにも書斎にいると考えているようなようすだった。それというのも、彼が夢中になっている状態からみて、彼の目には本屋の店、街路、少年たち、簡単にいって、本以外のどんなものも目にはいらぬふうで、ページの下のところまで読みとおすと、ページをめくり、つぎのページのてっぺんから読みはじめ、いかにも興味深そうな、熱心な物腰でそれを規則的にくりかえし、ドンドンと読み飛ばしていた。
数歩はなれたところに立ち、目をパッと大きく見開いて、ぺてん師がその紳士のポケットに手を突っこみ、そこからハンカチを抜きとるのを目にしたとき、オリヴァの恐怖と驚きは、じつに大きなものだった! 彼がそれをチャーリー・ベイツにわたし、最後に二人が全速力で角をまがって逃げ去ってゆくのをながめたときは!
一瞬のうちに、ハンカチ、時計、宝石、ユダヤ人に関する一切の秘密が少年の心に明らかになった。彼は、一瞬間、血を全血管の中にたぎらせて立ちつくし、それは、まるで自分が燃えている火の中にいるような感じだった。ついで、とまどい、おびえて、彼は逃げだし、自分のしていることもわからずに、ただ足をできるだけ早く動かして、そこを立ち去っていった。
これはすべて、一瞬のできごとだった。オリヴァが逃げだしたちょうどその瞬間に、老紳士は手をポケットの上に乗せ、ハンカチがないのに気がついて、さっとからだの向きを変えた。オリヴァがすごい勢いで飛んでゆくのをながめて、彼はきわめて当然のことながら、オリヴァを犯人ときめつけ、声をかぎりに「泥棒、待てっ!」と叫んで、手に本をかかえて、彼のあとを追いはじめた。
だが、追跡の叫びをあげたのは、この老紳士ばかりではなかった。ぺてん師とベイツは、大通りをふっ飛んでいってその人の注意をひきたくはなかったので、角をまがった最初の戸口のところにひそんでいた。紳士の叫びを耳にし、オリヴァが逃げてゆくのをながめて、彼らは、事態がどうなっているかを正確に判断して、さっとそこから飛びだし、「泥棒、待てっ!」といっしょに叫んで、いかにも善良な市民らしく、追跡に加わった。
オリヴァは、哲学者たちといっしょに育てられてはきたものの、身の安全が自然界の第一原則という美しい格言を理論的に心得ていなかった。もし彼がそれを知っていたら、彼はこの事態にたいする構えを固めたことだろう。しかし、それができていなかったので、彼はなおあわててしまい、まるでつむじ風のような勢いで逃げだし、一方、老紳士と二人の少年は、ワイワイとわめきながら、彼のあとを追いだした。
「泥棒、待てっ! 泥棒、待てっ!」この音色には魔力がひそんでいた。商人は勘定台を、荷馬車の御者は荷馬車を放りだしてしまった。肉屋は皿を、パン焼きは籠を、乳しぼりは桶《おけ》を、使い走りの少年は荷物を、学童はおはじきの石を、舗装工はつるはしを、子供は羽子板を、投げすててしまった。彼らはあわてふためき、向こう見ずに、むきになり、悲鳴と喚声をあげ、町角をまがるときには通行人を打ち倒し、犬とにわとりをびっくりさせて飛んでゆき、街路、広場、小路はその物音で鳴りひびいた。
「泥棒、待てっ! 泥棒、待てっ!」この叫びに百人の声が唱和し、町角ごとに群集は増大していった。彼らは、どろをはねかし、舗道にそってワイワイとしゃべり立て、ふっ飛んでいった。窓は開かれ、人々はかけだし、群集はわっしょ、わっしょとおし進み、パンチの芝居を見ていた観衆は、筋のクライマックスのところでそれをすて、飛んでゆく群集に合流して、「泥棒、待てっ! 泥棒、待てっ!」の叫びをふくらませ、その怒号に新しい力をそえた。
「泥棒、待てっ! 泥棒、待てっ!」人間の心には、なにかを追いまわす本能が深く植えつけられている。一人の息せき切ったみじめな子供が、疲労で息をはずませ、顔と目に恐怖と苦悶の色を浮かべ、顔からは大粒の汗をしたたらせて、追跡者からのがれようと、一生けんめいになっている。群集はそのあとを追い、刻一刻それに追いついてゆくと、子供の弱ってゆく脚力に前にもます大きな歓声をあげ、喜びで、大きな喚声をあげる。「泥棒、待てっ!」そう、どうか彼をとめてやってくれ、ただ慈悲の点から考えても!
とうとう、とめられてしまった。あざやかな一撃だった! 彼は舗道に倒れ、群集はヒシヒシとそのまわりに集まった。新しくはせ参じたものは、彼を一目でも見ようとして、ほかの群集とつきあたり、あがいた。「わきによれ!」「少しは息をさせてやれ!」「バカな! そんな必要はあるもんか!」「問題の紳士はどこにいる?」「ほーれ、通りをこっちにやってくるぞ」「その紳士のために道をあけろ!」「これが犯人の少年かね、えっ!」「そうだとも!」
オリヴァがどろとほこりまみれになり、口から血を流し、自分をとりかこむ顔・顔・顔を狂気のようにながめまわして倒れているとき、老紳士は、追跡の真っ先を切っていた連中におせっかいにもひきだされ、人垣の中におし入れられた。
「うん」紳士はいった。「どうやらあの少年らしいな」
「どうやらだって!」群集はつぶやいた。「これは、すごい文句だぞ!」
「かわいそうに!」紳士はいった。「負傷しているじゃないか」
「あっしがそれをやったんです、へえ」大きな、ぶこつな男が前に出てきていった。「やつの口をぶんなぐり、こっちの指の関節もひどくやられちまってね。やつをとっつかまえたのは、あっしですぜ」
この男は、その骨折りにたいしてなにがしかの報酬をもらおうと、ニヤリと笑って、帽子に手をやった。しかし老人は、この彼を嫌悪の表情でジロジロとながめ、自身が逃げだそうとしているように、あたりを心配そうにながめ、巡査が(巡査はこうした場面にはいつも最後にあらわれることになっているのだが)その瞬間に群集をかきわけて前に進んできて、オリヴァの襟首をとらえなかったら、彼はじっさいに逃げ出そうとし、また追跡さわぎをひき起こしたかもしれなかった。
「おい、起きろ」巡査は荒々しくいった。
「ほんとうに、ぼくじゃないんです。ほんとうに、ほんとうに、それは、ほかの二人の子供なんです」オリヴァは手をしっかりとにぎり合わせ、あたりを見まわしていった。「彼らはここのどこかにいるはずです」
「ああ、ちがう、いるもんか」と巡査はいった。彼はこの言葉を皮肉のつもりでいったのだったが、それは事実でもあった。ぺてん師とチャーリー・ベイツは来合わせた最初の好都合な小路から逃げていってしまっていたからである。
「さあ、起きろ!」
「傷をつけないようにな」老紳士はやさしく命じた。
「ああ、傷なんかつけるもんですか」その証拠に彼のジャケットを背中からほとんどひっぱいで、巡査は答えた。「おい、おまえのことは、こっちでも知ってるんだぞ。そんなことをいったってだめだ。この小僧の悪魔め、ちゃんと立たんか?」
ほとんど立てなくなっていたオリヴァは、なんとかやっとのことで立ちあがり、襟首をつかまれて、グイグイと街路ぞいにひきたてられていった。紳士は、巡査のわきに立って、二人といっしょに歩き、この逮捕に参加した多くの群集は、その少し前を行進し、ときどきふりかえって、オリヴァをにらみつけていた。少年たちは勝ちどきをあげ、一同はズンズンと進んでいった。
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十一 治安判事ファング氏が主題、その裁判のわずかな一例を示す
この犯罪は、悪名高いロンドンの警察署の管轄《かんかつ》地区のほんの近くでおこなわれた。群集が味わった満足感は、ただ二、三の街路とマトン・ヒルという通りをオリヴァと歩いただけで、そこをとおると、彼は低いアーチの道、きたない小路をぬけて、裏道から即決裁判執行所に連れてゆかれた。一同が道を折れてはいったのは、小さな舗装をした中庭、ここで頬髯《ほおひげ》をぼうぼうと生やし、手には鍵の束をもったたくましい男に出逢った。
「どうしたんだ?」無造作《むぞうさ》にこの男はたずねた。
「少年のハンカチ泥棒です」オリヴァをつかまえていた巡査は答えた。
「あなたが被害者ですかね?」鍵をもった男はたずねた。
「そうです」老紳士は答えた。「だが、この少年がじっさいにハンカチをとったかどうか、はっきりとはいいきれんのです。わしは――わしは、どうかというと、この犯罪をあまりいいはりたくはないのです」
「こうなった以上、治安判事の前に出ていただかなければなりませんな」男は答えた。「判事閣下はいますぐお手|空《あ》きになりますからな。おい、この小僧の悪党め!」
これは、この男がしゃべりながら開けた戸にオリヴァがはいれという合図で、その戸は石の監房に通じていた。ここで彼は身体検査を受け、なにも所有物は発見されなかったので、彼はそこに閉じこめられた。
この監房は、その恰好《かっこう》と大きさの点で、ちょっと地下勝手口の近くにある地下室に似ていたが、それほど明るいものではなかった。そこは、我慢ならぬほどよごれていた。その日は月曜日で、ほかの場所で豚箱入りした六人の酔っぱらいが、土曜日の夜以来、そこの住人になっていたものだった。だが、このよごれは、べつにたいしたことではない。イギリスの警察署では、男女がほんのつまらぬ嫌疑――この言葉は注目に値する――で毎夜地下の牢獄につながれているが、彼らがはいる場所にくらべたら、裁判にかけられ、有罪と認められ、死刑の判決をくだされた兇悪犯人のはいっているニューゲイトの監獄だって宮殿ともいえるものなのだ。この言葉を疑うかたは、どなたでも、その両者をおくらべになってみるがいい。
鍵が錠の中できしったとき、老紳士はオリヴァと同じくらい憂鬱《ゆううつ》になっていた。彼は溜《た》め息をもらして、このさわぎの罪なき張本人となった本を読みはじめた。
「あの少年の顔には、なにか面影《おもかげ》がある」考えこみ、本の表紙で頬《ほお》をたたきながら、ゆっくりと歩きだしたとき、この老人は考えていた。「わしの心にふれ、わしの関心をそそるなにか面影《おもかげ》がな。あの子は無罪なのじゃないかな? 彼のようすはいかにも――ところで」急にこの老紳士は立ちどまり、ピョンと高く飛びあがって、いった。「あれ、あれっ! あの顔と似た顔を、以前どこかで見かけたのかな?」
数分間考えていたあとで、老紳士は、同じ考えこんだ顔つきをしながら、内庭につづいている裏の待合室にはいり、そこで隅に坐りこんで、ながい年月のあいだに薄暗いカーテンが張られてしまったさまざまな顔・顔・顔を心の中で思い起こしていた。「心当たりはない」頭をふって、老紳士はつぶやいた。「きっと気のせいだろう」
彼はまた歩きだした。彼はそうした顔・顔・顔を心に描いてみたが、それをながいことおおいかくしていた経帷子《きょうかたびら》をとりのぞくことは、容易ならぬことだった。友人の顔、敵の顔、そうした顔の群れの中にすっと面《おもて》を出すほとんど見知らぬ人々の顔があった。いまは老婆になってしまっている若い妙麗な娘の顔もあった。墓がその容姿を変えて土でおおいはしたものの、その目の輝き、晴れやかな微笑、土くれの仮面を通して見た魂の魅力、変わってはしまったものの、それはただ高揚されただけ、大地より召されて光として打ちたてられ、天国への道にやわらかでおだやかな光を投げることになった、墓を超越した美のささやきを思い起こして、墓の力よりたくましい心の力がまだ以前のみずみずしい美しさに装っている顔があった。
だが、老紳士は、オリヴァの顔形が多少なりとも似通っているどんな顔も思い起こすことができなかった。そこで彼は思い出した回想に溜《た》め息をつき、彼にとって幸いなことに、あまり深く考えこまぬ人だったので、その回想をかびくさい本のページの中に埋めてしまった。
彼は肩をふれられてハッとし、鍵をもった男から、裁判所に来るように、と求められた。彼は急いで本を閉じ、有名な裁判官のファングがふんぞりかえっているところに連れてゆかれた。
その事務所は正面の客間で、壁には羽目板がはりつけられてあった。ファング氏は上座の手すりの背後に坐っていた。そして、戸口のかたわらには一種の囲いといったものがあり、おそろしい情景にからだをワナワナとふるえさせながら、あわれな少年オリヴァがそこにもう閉じこめられていた。
ファング氏は痩《や》せた、背中のひょろながい、首のがっしりした中年男で、頭の髪はたいしてなく、それは、頭の背後と脇に生えていた。顔はいかつく、ひどく赤らんでいた。彼がほんとうに健康によくないほどの飲酒癖にふけっているのでなかったら、彼は名誉|毀損《きそん》の罪で自分の顔にたいして訴訟を起こし、そうとうな損害賠償金を獲得できたことだろう。
老紳士はうやうやしくお辞儀をし、治安判事の机のところに進んでいって、名刺をさしだしながら、その行動を話しぶりと一致させて、「これがわたしの住所氏名です」と述べた。それから彼は一、二歩しりぞき、もう一度紳士にふさわしい慇懃《いんぎん》なお辞儀をして、訊問を待っていた。
さて、ファング氏は、たまたまその瞬間、その朝の新聞の社説を読んでいたが、それは、最近彼がくだした判決に言及し、これで三百五十回目になるのだが、彼にたいして内務大臣の格別な注意を喚起しているものだった。彼は不機嫌で、怒ったしかめっ面《つら》をして、目をあげた。
「おまえはだれだ?」
老紳士はいささか驚いて、自分の名刺をさした。
「係り官!」軽蔑しきった態度で新聞といっしょに名刺を投げやって、ファング氏はいった。「あの男はだれだ?」
「わたしの名は」紳士らしい態度を失わずに、老紳士はいった。「わたしの名はブラウンロウです。裁判官の面をかぶって、れっきとした人間にいわれのない侮辱を加える治安判事のお名前をうけたまわりたい」こういって、ブラウンロウ氏は裁判所をながめまわし、その返事をしてくれるだれか人をさがしているような態度を示した。
「係り官!」ファング氏は書類をかたわらに放りだしていった。「あの男はどんな罪で告発されたんだ?」
「閣下、彼は告発されたのではありません」係り官は答えた。「閣下、彼はあの少年を告発しているのです」
閣下はこのことはよく心得ていたのだった。しかし、それはおもしろいいやがらせ、しかも、安全ないやがらせだった。
「少年の告発に出頭したのか、えっ?」軽蔑しきった態度でブラウンロウ氏を頭の先から爪先までジロジロとながめまわして、ファングはたずねた。「彼に宣誓させろ!」
「その宣誓をする前に、一言当方にいわせていただきたい」ブラウンロウ氏はいった。「そして、それは、じっさいに身をもってこうして体験しなかったら、当方は絶対に信じることができんことですが――」
「だまりたまえ!」ファング氏は高飛車に命じた。
「だまりませんぞ!」老紳士は応じた。
「即刻だまりたまえ、さもなければ、ここから退場を命じますぞ!」ファング氏は叫んだ。「きみはおこがましい、生意気な男だ。治安判事に盾《たて》つくつもりなのか?」
「なんということだ!」興奮して顔を赤らめながら、老紳士は叫んだ。
「この人物に宣誓をさせろ!」ファングは事務員に命じた。「もうこれ以上一言も聞きたくはない。彼に宣誓をさせろ」
ブラウンロウ氏の怒りはひどくつのっていったが、怒りをつのらせれば少年の不利を招くだけ、と思いなおして、彼は自分の気持ちをなだめ、すぐに宣誓の要求に応じた。
「さて」ファングはいった、「少年を告発した罪はなんだ? きみのいい分はどういうことなんだ?」
「わたしは本屋で立ち読みをしていて――」ブラウンロウ氏は語りはじめた。
「だまりたまえ」ファング氏はいった。「警官! 警官はどこにいるんだ? おい、その警官に宣誓させろ。さて、警官、これはどうしたことなんだ?」
巡査は、身分にふさわしい謙虚な態度で、オリヴァを預かったいきさつ、その身体検査をしたこと、そこにはなにもなかったこと、それ以上なにも知らぬことを報告した。
「証人が何人かいたのか?」ファング氏はたずねた。
「閣下、だれもおりません」巡査は答えた。
ファング氏はしばらくだまって坐っていて、それから告発者のほうに向きなおり、すごく憤慨した態度でいった――
「きみは自分の告発事項がどういうものかを陳述するつもりか、その意志はないのか? きみは宣誓したのだぞ。さて、きみがそこに立っていて、証言をこばんだら、わしはきみを裁判官侮辱の罪で処罰してやるぞ、いいか、――にかけ断じてそれをしてやるぞ」
なににかけ、だれにかけて断じてなのかは、だれにも見当がつかなかった。ちょうどその瞬間に、事務員と牢番が声高《こわだか》に咳をし、その上、事務員が重い本を床に落としてその言葉が――もちろん、偶然なのだが――聞こえなくなってしまったからである。
何回か邪魔をされ、くりかえし侮辱を加えられながら、ブラウンロウ氏は自分の主張を述べ、とっさの驚きで、少年が逃げてゆくので、そのあとを追ったことを陳述し、少年がたとえじっさいには泥棒ではないにせよ、それに関連ありと嫌疑をかけられるのだったら、治安判事は法の許すかぎり、この少年を寛大にあつかってやっていただきたいと要望した。
「少年はもう傷を受けています」最後に老紳士は述べた。「そして、心配なのですが」手すりのほうを見て、力をこめて彼はいいそえた。「ほんとうに心配なのですが、少年は病気なのではないでしょうか?」
「ああ、そうだ、たぶんな!」冷笑を浮かべて、ファング氏は応じた。「さあ、この小僧の浮浪者め、ここでは、いい加減なことをいってはならんぞ。そんなことをしても、だめなんだからな。おまえの名前は?」
オリヴァは答えようとしたが、舌が動かなかった。彼は真《ま》っ青《さお》になり、あたりの情景がグルグルと回転しているような感じだった。
「この強情な悪党め、おまえの名はなんというんだ?」ファング氏はたずねた。「係り官、やつの名はなんというんだ?」
これは、手すりのそばに立っていた縞のチョッキの無骨な男に問いかけた言葉だった。彼はオリヴァのところにかがみこみ、その訊問をくりかえしたが、少年がその質問の意味をほんとうに理解していないことをさとり、その返事をしないことが治安判事をなお立腹させ、その判決の厳しさを増大させるものと思ったので、この男はいい加減な見当の返事をした。
「閣下、名前はトム・ホワイトだと申しております」親切な犯人捜査官(下層民ややくざ者と交際して、そこから犯罪人を検挙する役人)は答えた。
「おお、やつは返事をしようとしないんだな、どうだ?」ファング氏はいった。「よし、よし。どこに住んでいるんだ?」
「閣下、住所不定です」ふたたびオリヴァの返事を聞いたふりをして、係り官は答えた。
「両親はいるのか?」ファング氏はたずねた。
「閣下、両親とは幼いとき死別したそうです」これは前回と同じ、当て推量のものだった。
訊問のこの段階で、オリヴァは頭をあげ、哀願的なまなざしであたりを見まわし、水を一杯飲みたい、と弱々しくつぶやいた。
「世迷い言をいってるぞ!」ファング氏はいった。「わしをバカにしようとはするな」
「閣下、ほんとうに病気のようです」係り官は抗議した。
「わしのほうがよくわかってる。そんなことで胡魔化《ごまか》されはせんぞ」ファング氏は答えた。
「係り官、その少年の世話をみてやってください」われ知らず両手をあげて、老紳士はいった。「倒れてしまうでしょう」
「係り官、そばへよるな」ファング氏は叫んだ。「倒れたけりゃ、勝手に倒れさせてやれ」
オリヴァはこの親切な許可に応じて、ボーッと気が遠くなり、床に倒れた。事務所の連中は、たがいに顔を見合わせ、だれも動こうとはしなかった。
「芝居なことは、わかってるんだ」この言葉が反論の余地のない事実の証拠といったふうに、ファングは述べた。「そこに倒れたままにしとけ。それにすぐあきてしまうだろうからな」
「この事件をどうあつかおうというおつもりなのですか?」低い声で事務員はたずねた。
「即決裁判だ」ファング氏は答えた。「三カ月の禁錮に処す――もちろん、重労働だ。退場!」
オリヴァを退場させるために、扉は開かれ、二人の男が気絶した少年を監房に連れてゆこうとしたとき、きちんとはしているものの貧乏くさい、黒い服をまとった年配の男が、急いで裁判所に飛びこんできて、裁判長席に向かって進んでいった。
「待ってください、待ってください。その少年を連れてゆかないでください! おねがいです、ちょっと待ってください!」この闖入者《ちんにゅうしゃ》は息をはずませて叫んだ。
こうした裁判所で長になっている悪鬼どもは、女王陛下の臣民、とくに貧民階級の自由、名誉、人格、ほとんど生命にたいして、即決的な、専横な権力を濫用《らんよう》し、こうした壁の中では、じつに奇妙ないかさまが日々おこなわれ、天使を涙で盲にしているのだが、そうした不法行為は、日々の新聞を通じて以外には(当時は、事実上、知らされていなかった)、大衆に知らされてはいない。招かれざる客がこうして無礼なさわがしい態度で飛びこんできたとき、ファング氏は、したがって、少なからず憤慨した。
「これは何事だ? この男は何者だ? この男を追いだせ。閉会だ!」ファングは叫んだ。
「わたしはだまっておりませんぞ」その男は叫んだ。「追いだされはしませんぞ。わたしは事件をぜんぶ見ていたんです。わたしは問題の本屋です。宣誓させてください。だまってはおりませんぞ。ファングさん、あんたには聞いていただかなければなりません。それをこばんではならんのです」
この男のいうとおりだった。彼の態度は決然たるもの、事実は非常に重大で、もみ消しは困難だった。
「その男に宣誓させろ」ファング氏はいやな顔をしてうなった。「さあ、おい、おまえはなにをいいたいんだ?」
「以下のとおりです」この男は答えた。「わたしは三人の少年――ほかの二人とここに捕われている少年のことですが――が、この紳士が本を読んでるとき、道の反対側をブラブラしてるのを見ました。抜きとりはべつの少年によっておこなわれたんです。わたしは、それをしたのを、この目で見たんです。そして、この少年がびっくりし、茫然《ぼうぜん》としてるのも見ました」このときまでに少し息が楽《らく》になって、このりっぱな本屋は、もっと筋のとおったふうに、この抜きとりの正確な精細を語りだした。
「どうして、いままで、ここに姿をあらわさなかったんだ?」少し間《ま》をおいて、ファングはたずねた。
「店を見てくれる人がいなかったんです」男は答えた。「わたしを助けてくれるような人はみんな、追跡に参加しちまいました。五分前まで、だれにもたのみようはなかったんです。それから、道中ずーっとかけつづけてきました」
「告発人は本を読んでいたんだな、えっ?」もう一度|間《ま》をおいてから、ファングはたずねた。
「はあ」男は答えた。「いま手にもっているあの本です」
「おお、あの本だって、えっ?」ファングはいった。「支払いはすんでるのか?」
「いいえ、それはすんでません」ニヤリと笑って、男は答えた。
「いや、いや、これは! そのことはすっかり忘れていましたぞ!」ぼんやり者の老紳士は無邪気に叫んだ。
「あわれな少年を告発するには、まさに打ってつけの人物だな!」人情味のあるところを見せようとおかしな努力をして、ファングはいった。「きみ、きみはじつにいかがわしい、恥ずべき事情のもとで、その本の所有権を獲得したものと、当方では考えますぞ。そして、その物件の所有者が告発を拒否するとは、きみは自身を幸福|者《もん》と考えていいわけですぞ。これを教訓にするがいい。さもなくば、法律がきみを捕えますぞ。少年は放免だ。退廷!」
「畜生!」ながいことおし殺していた激しい怒りをほとばしらせて、老紳士は叫んだ。
「畜生、わしは――」
「退廷!」治安判事はいった。「係り官、いいか、退廷だぞ!」
その命令は実行され、憤慨したブラウンロウ氏は片手に例の本をもち、片手に竹のステッキをにぎり、カンカンの激怒と挑戦状態で、その部屋から連れだされた。彼が内庭に着いたとき、彼の怒りはさっと消えた。少年オリヴァ・トゥイストは舗装の上にあお向けに倒れ、シャツのボタンをはずされ、そのこめかみは水にひたされていた。彼の顔は真《ま》っ青《さお》で、寒気の痙攣《けいれん》がからだじゅうをふるわせていた。
「かわいそうに、かわいそうに!」彼の上にかがみこみながら、ブラウンロウ氏はいった。「どうか、だれか、馬車を呼んでください。すぐにね!」
馬車が呼びこまれ、オリヴァはそっと片方の坐席に寝かされ、老紳士は車に乗りこんで、べつの坐席に坐った。
「お供できましょうか?」本屋の主人はのぞきこんでたずねた。
「おっと、これは大変、さあ、どうぞ」ブラウンロウ氏はすぐにいった。「きみのことを忘れていました。やれ、やれ! わたしはこの不幸な本をまだもっている! 中に飛びこんでください。かわいそうに! 一刻の猶予もならんのです」
本屋の主人は馬車に乗りこみ、馬車は走りだした。
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十二 オリヴァはいままでにない手厚い看護を受ける。そして話は陽気な老紳士とその若い弟子たちにもどる
馬車は、オリヴァがはじめてぺてん師にともなわれてロンドンにはいった道を進んでいったが、イズリントンのエンジェル旅館のところでちがった道をとり、とうとうペントンヴィルの近くの静かな、小暗い街路でとまった。ここで時をうつさず寝台がととのえられ、そこへブラウンロウ氏は預かった少年を注意深く、気持ちよく寝かしつけ、ここで、彼はかぎりない親切と心づかいで看護されることになった。
しかし、何日間ものあいだ、オリヴァはその新しい友人たちの好意すべてに気がつかなかった。太陽は昇り沈み、ふたたび昇り沈み、その後何回となく、それはくりかえされたが、少年はその安らかでない寝台の上に寝たっきりで、からだを乾あがらせ疲れさせる熱のために、衰弱の度をましていった。生きたからだにおよぼすこの歩みのおそい熱の影響は、死体をついばむ虫の力より強いものだった。
衰弱し、痩《や》せおとろえ、青ざめた顔をして、ながい苦しい夢と思われた眠りから、彼は目をさました。床の中でぐったりとして身を起こし、頭をふるえる腕の上にささえて、彼は不安気にあたりを見まわした。
「これはどんな部屋なのです? ぼくは、どこに連れてこられたのです?」オリヴァはたずねた。「これは、ぼくの眠っていた部屋ではありません」
彼は、とてもフラフラし、弱っていたので、こうした言葉を力のぬけた声でいったのだったが、家の人はそれをすぐに聞きつけた。寝台の頭のところのカーテンは急いで開かれ、小ぎれいなさっぱりとした服装の、母親のようにやさしい老婦人が、そばの肘掛け椅子から立ちあがったからである。婦人はこの椅子に坐って、針仕事をしていた。
「坊や、しっ」老婦人はおだやかにいった。「静かに、静かにしていなければいけませんよ。さもないと、また病気になってしまいますからね。そしてあなたの病気はとても重かったのよ、この上ないほどね、だめと思うほどだったわ。いい子だから、横になってね!」こうした言葉をかけて、老婦人はとてもやさしくオリヴァの頭を枕の上に横たえ、髪の毛を額《ひたい》からうしろになでつけて、とてもやさしく愛情をこめて彼の顔を見おろしたので、彼はその痩《や》せてしなびた手を彼女の手の中に入れ、それを自分の首にまきつけずにはいられないほどだった。
「まあ、まあ!」この老婦人は目に涙を浮かべていった。「なんという気持ちのいい坊やでしょう! かわいい子だわ! わたしのようにお母さんがそばに坐り、この子をいま見ることができたら、その胸の中はどうでしょう!」
「たぶん、ぼくを見てくださっているでしょう」手を組み合わせて、オリヴァはささやいた。「きっとぼくのそばに坐っていたのですよ。坐っているような感じがしたんだもの」
「それは熱のせいですよ、坊や」老婦人はやさしくいった。
「そうかもしれませんね」オリヴァは答えた。「というのも、天国は遠くにあり、そこでは人がとても幸福なので、あわれな少年の寝台のところになんか、とてもおりてきはしませんものね。でも、お母さんがぼくの病気なことを知ったら、天国にいても、ぼくをあわれんでくれるでしょう。お母さん自身も、死ぬ前には、重い病気にかかっていたのですからね。でも、ぼくのことなんか、知っていないかもしれません」ちょっとだまっていたあとで、オリヴァはいいそえた。「ぼくが傷ついているのを見たら、お母さんは悲しむでしょう。そして、お母さんの顔は、ぼくがお母さんの夢を見るとき、いつも幸福そうで、とてもやさしいものでした」
老婦人はこれにたいしてなにも答えなかったが、まず目をふき、それから、それと切っても切れぬ縁のあるもののように、掛け布団《ぶとん》の上にあった眼鏡をふいて、オリヴァのために冷たい飲み物をもってき、それから、その頬《ほお》を軽くたたいて、静かに寝ていなければいけませんよ、さもないと、また病気になってしまいますからね、と述べた。
そこで、オリヴァはじっと横になっていたが、これはひとつには、この親切な老婦人のいうことはなんでもきこうとしていたためでもあり、またひとつには、じつをいうと、彼がいままでしゃべった言葉のために、すっかり疲れ果てていたためでもあった。彼は間《ま》もなくウトウトとした静かな眠りにおちいり、やがて、ろうそくの光によって、その眠りから目をさまされた。そのろうそくは、彼のほんのそばまでもってこられ、大きなカチカチいう金時計をもった紳士の姿を照らしだし、その紳士は彼の脈をはかり、少年の容態はずっとよくなったと話した。
「きみはとてもよくなったな、どうだい?」紳士はたずねた。
「ええ、ありがとうございます」オリヴァは答えた。
「うん、わしにはわかっているのだ」紳士はいった。「きみはお腹が空いてるだろう、どうだい?」
「いいえ、空いてはいません」オリヴァは答えた。
「うん」紳士はいった。「そう、空いていないことは、わしにはわかってるんだ。ベドウィンさん、子供はお腹を空かしてはいませんぞ」心得顔をして、紳士はいった。
老婦人はうやうやしく頭をさげたが、彼女はこの医者をすごい賢人と思っているふうだった。医者自身も自分のことをそう考えているふうだった。
「きみは眠いんだろう、どうだい?」医者はたずねた。
「いいえ、眠くはありません」オリヴァは答えた。
「そう、眠くはないな」抜け目なく、いかにも満足げに医者はいった。「喉も乾いていないな、どうだい?」
「いいえ、とても喉が乾いているんです」オリヴァは答えた。
「ベドウィンさん、わしの思ってたこと、図星ですぞ」医者は応じた。「少年が喉を乾かすのは、当然なこと。少しお茶とバタをぬらないパンを与えてもいいですよ。彼を温めすぎてはいけませんぞ。だが、あまり寒くもしないように注意してください。いいですかね?」
老婦人はそれに応じて、お辞儀をした。医者は冷たい飲み物を飲み、まあこれならいいだろうといった態度を示して、あわただしく出てゆき、その靴は、彼が下におりてゆくとき、いかにも重々しそうな、金持ちを思わすふうに、きしんでいた。
オリヴァは、この後|間《ま》もなく、ウトウトしはじめ、ふたたび目をさましたときには、もう十二時近くになっていた。それからすぐ、老婦人はやさしく彼におやすみなさいをいい、そのときに来合わせた太ったお婆さんに彼を預けた。この女は、小さなつつみに小さな祈祷書と大きなナイトキャップを持参し、寝ずの番にきたのですよ、とオリヴァに伝えてから、ナイトキャップをかぶり、祈祷書を机の上におき、自分の椅子を炉のところにひきよせ、ときどき前にコクリと倒れ、うめいたり息をつまらせたりしながら、短いうたたねをはじめたが、彼女は、そうした眠りの障害にあっても、ただ鼻をひどくこするだけ、それをすますと、また眠りこんでしまった。
こうして夜はゆっくりと進んでいった。オリヴァは、しばらくのあいだ、目をさましていて、灯芯《とうしん》の影が天井に投げる光の小さな円の数を勘定《かんじょう》し、壁紙の複雑な図柄のあとを、ものうげな目で追っていた。部屋の暗さと深い静けさは、いかにも重々しいものだった。そしてそれは、ここ何日間ものながい日夜、死の神がそこをさまよい、陰気なおそろしいその存在は、今後この部屋を満たしてしまうかもしれないことを、少年に思わせ、彼は、枕の上に顔をうつぶせにして、熱心に神へ祈りをささげた。
しだいに彼は、最近の苦悩からの解放だけがもたらしてくれるあの深い静かな眠り、そこから目をさますことは苦痛ともいえるあの落ち着いたなごやかな眠りにさそわれていった。もしこの眠りが死だったら、そこから起こされて、生活の闘争とさわぎ、現在の悩み、将来の心配、それにもまして、過去のたまらなくつらい回想に目をさますことを、だれも望みはしないであろう!
オリヴァが目をさましたときには、もう夜が明けてから何時間もたっていて、彼はとても気分がウキウキとし、さわやかだった。病気の峠《とうげ》はもう無事に越え、彼はこの世の一員になっていた。
三日たつと、彼はしっかりと枕を入れた安楽椅子に坐れるようになり、まだ弱くて歩けなかったので、ベドウィン夫人は、彼女の部屋である家政婦の小部屋に、彼をだいておりてきた。そこで彼を炉のそばにおろしてから、この善良な夫人は腰をおろし、彼が元気になったのをとてもよろこんでいたので、すぐさまわっと泣きだした。
「坊や、わたしのことは気にかけないで」老婦人はいった。「おきまりのうれし泣きをしているんですからね。さあ、もう終わったでしょう。もう、わたしは元気よ」
「おばさん、ほんとうに、ほんとうにありがとう」オリヴァはいった。
「ええ、坊や、そんなことは気にしなくともいいのよ」老婦人はいった。「それは、あなたのスープとはなんの関係もありませんからね。もうそれを飲む時間よ。先生は、ブラウンロウさんがあなたに会いに、今朝お見えになるかもしれない、とおっしゃっておいででしたからね。それで、わたしたちもできるだけ、機嫌のいい顔をしていましょうね。元気そうにしていれば、それだけあのかたはおよろこびになるのだから」こういって、老婦人は小さなシチューなべで水盤一杯のスープを温めはじめたが、それは、オリヴァの目には、とてもこってりとした濃いもの、規定の濃さに薄めたら、どう低く見積もっても、貧民院で三百五十人分くらいになるほどだった。
「坊や、あなたは絵が好きなの?」オリヴァの椅子の向かい側の壁にかけられた肖像画を彼が熱心に見つめているのに気づいて、老婦人はたずねた。
「さあ、ぜんぜんわかりません」絵から目をはなさずに、オリヴァは答えた。「絵は、いままでに、ほとんど見たことがないのです。あの婦人は、なんという美しい、おだやかな顔をしていることでしょう!」
「ああ!」老婦人はいった。「絵描きは、いつも、実物より美しく婦人を描くものですよ。そうしなけりゃ、お客さんが来てくれませんからね。そっくりの姿を生みだす機械を発明した人は、それが成功しないのを知っていたらよかったのにね。それはありのままになりすぎているんですものね、ありのままに」自分がうまくズバリといったことを陽気に笑って、老婦人はいった。
「あれ――あれは似顔絵なんですか?」オリヴァはたずねた。
「ええ、そう」スープからちょっと目をあげて、老婦人は答えた。「あれは肖像画なのよ」
「だれの肖像画です?」オリヴァはたずねた。
「まあ、坊や、わたしも知らないの」上機嫌で、老婦人は答えた。「それは肖像画でもね、坊やもわたしも知らない人のものなの。気に入ったらしいわね」
「とてもきれいですからね」オリヴァは答えた。
「まあ、あれがこわいのじゃないのでしょうね?」少年が畏怖の念に打たれてそれをながめている姿にひどくびっくりして、老婦人はたずねた。
「おお、そんなことはありません」急いでオリヴァは答えた。「でも、あの目はとても悲しそう、そして、ここにぼくが坐っていると、それがぼくの上に釘づけになっているような感じです。心臓がドキドキしてしまいます」低い声で、オリヴァはいいそえた。「まるでそれが生きているよう、ぼくに話しかけたがっていながら、それができないようにね」
「まあ!」ギクリとして、老婦人は叫んだ。「そんな話をしてはいけませんよ。坊や。あなたは病気のあとで、まだ衰弱して、神経質になっているのです。あなたの椅子を反対側に向けてあげましょう。そうすれば、それが見えないでしょうからね。さあ!」言葉どおりに動いて、老婦人はいった。「これで、とにかく、絵は見えないことね」
オリヴァは、心の中で、まるで椅子の位置を変えなかったように、その絵を見ていた。だが、親切な老婦人を心配させてはいけないと思ったので、彼女が自分のほうをながめたとき、やさしく微笑し、ベドウィン夫人はこれでオリヴァの気持ちが楽《らく》になったと思って、厳粛な料理にふさわしいあわただしさで、スープに塩をふり、焼きパンの切れを投げこんだ。オリヴァは驚くほどの早さでこの食事を食べてしまった。最後の一さじを終えるとすぐ、扉に静かなノックの音が聞こえてきた。老婦人は「おはいりください」といい、ブラウンロウ氏が部屋に足を踏み入れた。
さて、この老紳士はとても元気な足取りでここにはいってきたが、オリヴァの姿をよく見ようと、眼鏡を額《ひたい》の上におしあげ、両手を化粧着のすそのうしろに突っこんだとき、その顔は、得《え》もいえぬさまざまなふうに、ゆがんでしまった。オリヴァは病後で痩《や》せ衰え、陰鬱《いんうつ》そうだったし、恩人にたいする感謝の念から、立ちあがろうとして、それができず、ふたたびぐったりと椅子に倒れてしまった。ここでもし真実を語るとすれば、ふつうの老人の六人分も同情心をたたえていたブラウンロウ氏の心は打たれて、われわれの理論ではまだ説明もできぬある水力の圧力の加減で、ぐっと涙がその目にこみあげてきた。
「かわいそうに、かわいそうに!」咳払いをして、ブラウンロウ氏はいった。「ベドウィンさん、わしの喉は、今朝、だいぶおかしいな。風邪《かぜ》をひいたのかな」
「そんなことはないと思いますが」ベドウィン夫人はいった。「お着物はぜんぶ、よく乾してありますもの」
「さあ、わからん、わからんな、ベドウィン」ブラウンロウ氏は答えた。「昨日《きのう》夕食のときのナプキンが湿っていたんだな。だが、かまわん。坊や、気分はどうかね?」
「とてもいいです」オリヴァは答えた。「それにご親切にたいしては、とても感謝しています」
「いい坊やだ」ブラウンロウ氏はしっかりといい切った。「ベドウィン、なにか栄養物を坊やにやったのかね? なにか|かゆ《スロップ》を?」
「濃い|スープ《ブロス》を鉢に一杯飲ませました」グッと身をそらせ、ブロスという言葉に力を入れて、スロップとよく混ぜたブロスとは大ちがいだということを示して、ベドウィン夫人は答えた。
「うわっ、これは!」ちょっと身ぶるいして、ブラウンロウ氏はいった。「ポートワインを二杯も飲ませたら、もっとよかったろうに。そうじゃないかね、トム・ホワイト、えっ?」
「ぼくの名はオリヴァです」ひどくびっくりして、子供の病人は答えた。
「オリヴァとね」ブラウンロウ氏はいった。「オリヴァなんというのかい? オリヴァ・ホワイトかね、えっ?」
「いいえ、トゥイストです――オリヴァ・トゥイストです」
「妙な名だな!」老紳士はいった。「きみの名はホワイトだと治安判事にいっていたが、あれは、どういうわけなのだろう?」
「そんなことは絶対にいいませんでした」びっくりして、オリヴァはいいかえした。
これはいかにもいい加減な言葉のようにひびいたので、老紳士はちょっときびしくオリヴァの顔を見つめた。オリヴァを疑おうとしても、それは不可能だった。その痩《や》せた、とがった顔のどこにも、誠実さがあふれていたからである。
「なにかのまちがいだな」ブラウンロウ氏はいった。しかし、オリヴァの顔をジッと見すえるべき理由はもう消滅してしまっていたのだったが、彼の顔つきとだれか知っている人の顔が似ているという以前の考えが、ふたたび強く彼の心に浮かび、そのために、彼はそこから視線をはなすことができなくなっていた。
「ぼくのことを怒っておいでではないのでしょうね?」目を哀願的にあげて、オリヴァはたずねた。
「いや、いや」老紳士は答えた。「あれっ! これはどうだ? ベドウィン、あの絵を見てごらん!」
こういいながら、彼は急いでオリヴァの頭上の絵をさし、ついで、少年の顔をさした。それはまさに瓜《うり》ふたつだった。目、顔、口、すべての形が同じものだった。表情も、一瞬間、じつに似かよい、どんなこまかな線も、驚くほどの正確さで写しとられたように思えた。
オリヴァには、この急な叫びの原因がわからなかった。それが与えた驚きに堪《た》えられるほどまだ丈夫にはなっていなかったので、彼は気絶してしまった。こうして彼の気が遠くなったことは、読者の不安を軽くし、例の陽気な老紳士の二人の若い弟子のことに話をもどし、彼らのことをここに書く機会を与えてくれることになる。
これはもう読者にお伝えずみのことだが、ブラウンロウ氏の所持品をぺてん師とその腕達者な仲間ベイツがかっぱらった結果、オリヴァ追跡の叫びがあがり、それに彼らが加わったとき、彼らを動かしたのは、いかにもふさわしく、賞讃すべき御身《おんみ》お大切といった動機であった。国民と個人の自由が真のイギリス人の第一の、もっともほこるべき自慢の種である以上、自己保存と身の安全の配慮のこのたくましい証拠は、深遠で判断力のしっかりとした一部哲学者が、自然界の行為と活動の主要な源泉としているささやかな掟《おきて》を確証することになる。同じく、この彼らのとった行動は、すべての公共の愛国的な人々の考えによれば、彼らの地位を高めることになることは、諸君に申しあげる必要もないであろう。この哲学者たちは、賢明にも、自然という女性の行動を格言と理論に変え、その高い知識と理解力をほめたたえ、心の配慮と寛大な衝動・感情といったものは、一切考慮の外においている。こうした心の問題は、女性といっても、ひろく一般女性のもつ数多くのささやかな欠点からははるかに超然としていると世間では一般に考えられているこの女性、すなわち、自然が考慮すべきものではないとされているからである。
この危機一髪の窮地にあって、この若い二人の紳士のとった行動の純粋に哲学的性格の証拠をさらにもちだそうとすれば、それは、大衆の関心がオリヴァの上に釘づけになっていたとき、この二人が追跡をやめ、その後すぐ最短の近道で家路についた事実(これも、もうこれまでに伝えたところだが)をすぐに指摘することができる。偉大な結論への道をちぢめるのが有名で学識のある賢人の常套手段だと申すつもりはないが(彼ら一流のやりかたで、さまざまないいまわしや漫然とした態度によって、その距離をながくしようとしているのは、酔っ払いが頭中想念で一杯になってグズグズとしゃべりちらすのにだいぶ似ている)、それでもわたしは申しあげる、はっきりと申しあげる、強力な哲学者がその理論を実行にうつす場合、その才智を傾けて、自分の身に影響ありと思われるすべての万一の場合に備えるのが、彼らのいつものきまりきったやりかたなのだ。こうして、大きな正義をおこなうために、小さな悪をおかし、達成する目的が正当なものとなれば、どんな手段をとってもよいことになる。正義の量、悪事の量、その善悪の区別は、まったくそれに関係する哲学者の考えにゆだねられる。そこで彼自身の特定な場合についての彼の明晰で綜合的、そして公平な見解によって、決定がくだされてしまうのだ。
この二人の少年が低い、暗いおおいのある道の下で思い切って立ちどまったのは、複雑なせまい迷路を大急ぎで疾走したあとのことだった。そこで口をきかずに立ちつくし、呼吸の乱れが回復してしゃべれるようになったとき、ベイツは興奮とよろこびの叫びを発し、抑えきれぬ笑いの発作におそわれて、身を入口の階段のところに投げ、いかにも愉快そうに、夢中になってころげまわった。
「どうしたんだい?」ぺてん師はたずねた。
「はっ! はっ! はっ!」チャーリー・ベイツはわめいた。
「静かにしろ」用心深くあたりを見まわして、ぺてん師は抗議した。「このバカ、つかまりたいんか?」
「笑わずにいられるかい」チャーリーはいった。「笑わずにいられるかい! やつがあそこから逃げだし、町角をまがり、あちらの柱、こちらの柱にぶつかり、自分が鉄でできてるようにまた突っ走り、このおれは、盗んだハンカチをポケットにおさめ、わーわーとやつのあとを追っかけるなんて――ああ、ほんとうにたまらないや!」ベイツのまざまざとした想像力は、彼には強すぎる色彩で、その情景をその心の中に展開した。最後に「たまらないや!」といったとき、彼はふたたび戸口の階段の上にころがり、前より大きな声を出して笑いはじめた。
「フェイギンはどういうかな?」ぺてん師は、相手の息が切れてしまった合い間を利用して、こう質問を発した。
「どういうかなだって?」チャーリー・ベイツは相手の言葉をくりかえした。
「ああ、どういうかな?」ぺてん師はいった。
「いや、なにをいうことがある?」笑うのを突然やめて、チャーリーはたずねた。ぺてん師の態度が印象的に深刻なものだったからである。「なにをいうことがあるんだい?」
ドーキンズ氏は、二分間ほど、口笛を吹いていた。それから帽子をぬぎ、頭をひっかき、三回うなずいた。
「どういうことなんだい?」チャーリーはたずねた。
「ピーツクピー、ぺてんにいかさま、それにポリ公はまっぴらだ!」ぺてん師は、その利口そうな顔に冷笑を浮かべて、歌っていた。
これは説明の暗示だったが、よくわかるものではなかった。ベイツはそう感じた。そして「どういうことなんだい?」をふたたびくりかえした。
ぺてん師はなにも答えず、帽子をふたたびかぶり、ながいしっぽのついた上衣のへりを腕の下にかかえこんで、舌で頬《ほお》をふくらませ、いかにもなれなれしげな、しかも意味深《いみしん》なふうに五、六回鼻の頭を軽くたたいて、くるりと回れ右をし、小路をコソコソと歩いていった。ベイツは深刻な顔をして、そのあとにつづいた。
この会話のあと数分して、陽気な老紳士が右手には塩豚ソーセージと小さなパン切れを、左手にはポケットナイフをもち、五徳《ごとく》には白鑞《びゃくろう》のなべをかけて炉に向かって坐っているとき、きしる階段の上の足音が彼をハッとさせた。彼がふりむき、その濃い赤いまつ毛の下から鋭い視線を投げ、戸口のほうに耳を傾け、ジッと聞き入っているとき、その青い顔には悪党らしい微笑が浮かんでいた。
「いや、これはどうしたこった?」表情を変えて、ユダヤ人はつぶやいた。「二人だけかな? 三人目のやつは、どうしたんだ? やっかいなことになったはずはなしな。ほれっ!」
足音が近づいてきた。それは踊り場のところまでやってきた。戸はゆっくりと開かれ、ぺてん師とチャーリー・ベイツがはいってきて、戸を閉めた。
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十三 賢明な読者に新しい登場人物が紹介され、この人物に関して、この物語に関係のあるさまざまな愉快なことが語られる
「オリヴァはどこにいる?」すごい剣幕で立ちあがって、ユダヤ人はいった。「あの少年はどこにいる?」
若い盗人たちは、その剣幕におびえたように、この説教者のほうをながめ、不安そうにたがいに顔を見合わせた。だが、二人はなんの返事もしなかった。
「あの少年はどうなったんだ?」ぺてん師の襟首をとらえ、おそろしいのろいで彼をおびやかして、ユダヤ人はたずねた。「さあ、いえ。いわんと、首をしめちまうぞ」
フェイギン氏はすごくむきになっているふうだったので、いつも安全策をとり、首をしめつけられる順番が今度は自分にまわってくるものと十分に見越したチャーリー・ベイツは、がっくりとひざまずき、高い、調子のゆるまぬ、継続的なうなり声――気のくるった牡牛と拡声器の合いの子のような声をはりあげた。
「話さんのか?」はげしい勢いでぺてん師をゆすって、ユダヤ人はどなったが、その勢いで、ぺてん師の上衣が脱げてしまわなかったことは、まさに奇蹟ともいえることだった。
「いやあ、やつがポリ公にとっつかまっただけのことさ」ぺてん師は、むっとして答えた。「さあ、放してくれ、えっ!」こういって、ぺてん師はひとふりからだをふり、上衣をユダヤ人の手にのこしたまま、大きな上衣からすっぽりと抜けだし、パンの焼きフォークをさっと手にして、陽気な老紳士のチョッキに一突きをくれた。もしこのねらいがくるわなかったら、これは、もうとりかえしのつかぬほど、陽気な血を流しだしたことであろう。
ユダヤ人は、一見こうした老いぼれの老人には期待できぬほどの素早さで、さっと身をひき、なべをとりあげて、襲撃者の頭にそれを投げつけようとした。しかし、チャーリー・ベイツは、この瞬間に、すごいうなり声をあげて、ユダヤ人の注意をそちらにひきつけたので、老紳士は投げる方向を変え、それをまともにこの若い紳士のところに投げつけた。
「えっ、なにを、いったい全体、さわいでやがるんだ!」太い声がうなった。「これをおれに投げたやつはだれだ? おれに投げつけたものがなべじゃなくって、ビールだったのは、もっけの幸い。さもなけりゃ、だれかがやっつけられてしまったはずだぞ。極悪非道の、金持ちの、強欲な、がなりたてるユダヤ人の老いぼれじゃなかったら、だれだって水以外のものは投げられねえはずだ。水だって投げられはしねえや、毎期の勘定日に水道会社に支払いをしなけりゃな。フェイギン、こいつはどうしたことなんだ? ひでえこった、おれの首に巻いたハンカチは、ビールでグショグショになっちまったぜ! このこそ泥の虫けら野郎、こっちへはいってこい。なんで外でモサモサしてやがるんだ、まるで自分の主人を恥かきの種だといってるように? こっちへはいってこい!」
こうした言葉をうなった男は、がっちりとした三十五がらみの男、黒いビロードの上衣、とてもよごれた褐色の半ズボンを着こみ、編上げの半長靴と灰色の靴下をはいた男だったが、その靴下は大きな、ふくらんだふくらはぎのある太い足――こうした恰好《かっこう》では、その飾りとして足かせがなくてはどうしてもなにか物足りぬ感じのする足をつつんでいた。彼は頭に茶色の帽子をかぶり、首のまわりには、きたないハンカチを巻きつけていた。このハンカチのながいほぐれた端《はし》で、彼は話しながら、ビールを顔からぬぐいとった。彼がそれをすませたとき、そこにあらわれたのは、三日もそらぬ髯《ひげ》とおそろしい目のついただだっぴろい、陰鬱《いんうつ》な顔だった。そして一方の目は、最近一撃をくったことをあらわす、さまざまな色に変化した証拠を示していた。
「こら、はいらんのか?」この愛嬌のある悪党はうなった。
顔を何箇所もひっかかれている毛深い白犬が、コソコソと部屋の中にはいってきた。
「どうして、前にはいってこなかったんだ?」この男はいった。「おめえは鼻が高くなって、人さまの前でおれを主人とはいえねえのか、どうだ? 寝てろ!」
この命令は一蹴りを加えてくだされ、犬は部屋の向こう側に飛んでいった。だが、彼はこの扱いにとても馴れているようだった。犬はキャンともいわず、そのまま静かにからだを巻き、一分間に二十回もそのきたない目をしょぼつかせて、その部屋のようすを見ているふうだった。
「おまえさん、なにをしようってんだい? この貪欲な、欲深な、因業《いんごう》な盗品故買の老いぼれ野郎め、子供を虐待しやがって?」ゆっくりと腰をおろして、この男はいった。「よくもやつらにてめえは殺されねえもんだな! おれがやつらだったら、きっとやるぜ。おれがおめえの弟子だったら、とっくのむかしにそいつをやらかしてらあな。そして――いや、てめえときたら、醜悪の標本にしてガラスのびんにとっとく以外に、なんの効能もねえやつなんだからな。だが、そいつを入れるだけのびんは、きっとねえこったろうよ」
「しっ! しっ! サイクスさん」ユダヤ人はからだをふるわせながらいった。「そんなに大声を出すもんじゃないよ」
「さんづけはまっぴらだぜ」悪党は答えた。「さんづけになるときにゃ、きっと胸に一物《いちもつ》があるときまってんだからな。おめえ、おれの名を知ってるじゃねえか。そいつでたのむぜ! いざといやあ、その名に恥はかかせねえんだからな」
「うん、うん、わかった、そんなら――ビル・サイクス」いやにへいこらして、ユダヤ人はいった。「ビル、おまえはご機嫌斜めのようだな」
「たぶんね」サイクスは答えた。「おめえだって、だいぶ機嫌がわるかったんじゃねえか、白鑞《びゃくろう》のなべを放り投げて、おしゃべりしてるときと同じに悪気がないというんならべつだがな――」
「おまえ、頭がおかしいんじゃないか?」この男の袖《そで》をとらえ、少年たちをさして、ユダヤ人はいった。
サイクス氏は左の耳の下で首をしばられ、右肩に頭をがっくりさせる恰好《かっこう》をまねるだけでここをすませたが、この無言の仕草の意味を、ユダヤ人は十分に理解しているようだった。彼はそれから隠語で(彼の会話は一面にそれでいろどられ、ここでそれを伝えても、読者にはまったくわからなくなってしまうだろう)酒を要求した。
「それに毒を盛ることだけは、お断わりだぜ」帽子をテーブルの上に乗せて、サイクス氏はいった。
これは冗談でいったことだが、戸棚のほうに向いたとき、ユダヤ人が青ざめた唇を噛んで浮かべた兇悪な横目づかいをサイクスがながめることができたら、彼は、この注意がかならずしも不必要なものとは思わず、酒つくりの技術の上にさらに手を加えようとする(少なくとも)意志がこの老紳士の陽気な心からそう遠くへだたったものではないのを、さとったことだったろう。
二、三杯酒をあおったあとで、サイクス氏はようやく若い紳士たちのことに気づきはじめ、その情け深い行為はそこに会話をひき起こすことになったが、その会話で、オリヴァが警察の手にとらわれたいきさつが、ぺてん師がその場でもっとも適当と考えた手心を真相に加えられて、詳細に語られた。
「心配なんだよ」ユダヤ人はいった。「やつがこっちにまずいことをしゃべりはせんかとね」
「そいつは、いかにもありそうなこったな」意地のわるい笑いを浮かべて、サイクスはやりかえした。「フェイギン、おめえはすっぱ抜かれちまうぞ」
「それにねえ、心配なんだよ」話を切られたことに気づかぬ語りかたで、相手をジッとみながら、ユダヤ人はいいそえた――「心配だよ、こちらにことがまずくなったら、その被害を受けるやつはもっと出るだろうし、このわしより、おまえさんにもっとまずいことになりはせんかとね」
男はギクリとし、ユダヤ人のほうにふり向いた。だが、老紳士は耳のところまで肩をすくめ、その目は、うつろに向こう側の壁を見つめているだけだった。
ながい沈黙がつづいた。このりっぱな一座の全員がそれぞれ瞑想にふけっている感じだった。犬もその例外ではなく、なにか意地わるげに舌なめずりをして、外に出たとき最初に出逢った紳士なり淑女なりの足にどう飛びかかろうか、と考えこんでいるようすだった。
「警察《さつ》でどんなことが起こったか、だれかが調べにゃならんな」いままでにないほどグッと声を低くして、サイクス氏がいった。
ユダヤ人は、そうだといったふうに、うなずいた。
「やつが放りこまれても、泥をはかなかったら、出てくるまで、べつに心配はねえわけだ」サイクス氏はいった。「それから、こっちで、やつの世話は見てやるさ。とにかく、やつはおさえておかにゃならん」
ふたたびユダヤ人はうなずいた。
こうした行動方針が慎重なものであることは、たしかだった。だが、不幸なことに、それを実行するのに、ひとつの重大な障害があった。それは、ぺてん師、チャーリー・ベイツ、フェイギン、ウィリアム・サイクス氏らは、いずれもそろって、どんな口実にせよ、警察の近くにゆくことには激しい、根強い反感をもっていたということだった。
かならずしも愉快なものとはいえない不安定な状態で、どれほど彼らが、たがいに顔を見合わせて、坐っていたかは、想像に困難なことである。しかし、この問題をあれこれと推測する必要はない。この前の場合にオリヴァが見かけた二人の若いご婦人が、この会話を新規まきなおしのものにしたからである。
「ちょうどいい!」ユダヤ人はいった。「ベッツィーがいってくれるよ。ねえ、おい、いってくれるだろう?」
「どこへ?」若い婦人はたずねた。
「ちょっと警察《さつ》までさ」ご機嫌をとりながら、ユダヤ人はいった。
これはこの若いご婦人にたいして当然はらうべきこととして申しあげなければならないが、彼女はズバリと、いきたくはない、といったわけではなく、いくなんてとんでもない、と強くしっかりと述べただけのこと、それは、この申し出にたいして慇懃丁重《いんぎんていちょう》なるいい逃れをしたわけで、このことは、仲間の者の要求を直接あからさまに拒否するに忍びないという生まれつきの育ちのよさを物語っているものだった。
ユダヤ人はがっくりした。このご婦人は赤いガウン、緑の編上げ靴、黄色の毛巻き紙をつけて、豪華なことはいうまでもなく、なかなか陽気な装いをしていたが、ユダヤ人は、この彼女からもう一人の女性のほうに向きなおった。
「ナンシー」機嫌をとりながら、ユダヤ人はいった。「きみの意見はどうだね?」
「だめよ、フェイギン、そんなこと、しようたって、意味ないわ」ナンシーは答えた。
「というのは、どういうことなんだ?」むっとして目をあげ、サイクス氏はいった。
「あたしのいったとおりのことだけよ、ビル」平然としてこの婦人は答えた。
「いや、おめえがこの仕事にはうってつけなんだ」サイクス氏は説きつけた。「この辺ではだれも、おめえのことを知ってないからな」
「知ってもらいたくもないわ」前と同様、落ち着きはらった態度で、ナンシーは答えた。「ビル、あたしはね、承知するより、いやだといいたいとこね」
「フェイギン、ナンシーはいくよ」サイクスはいった。
「いいえ、フェイギン、ナンシーはいきませんよ」ナンシーはいった。
「いや、いくとも、フェイギン」サイクスはいった。
そして、サイクスのいったとおりだった。脅迫したり、約束したり、金をやるとつぎからつぎへと責めたてられて、問題の婦人は最後に説きふせられ、その仕事を引き受けることになった。じっさい、彼女は、彼女の親しい友ベッツィーと同じ理由で、それをこばむ筋はなかった。遠くにある上品な郊外のラトクリフ地区から最近このフィールド小路の近くにうつってきたので、ベッツィーのように、友だちからそれと認められる心配はなかったからである。
そこで、ガウンの上にきれいな白いエプロンをまとい、巻き毛紙をわら帽子の下にたくしあげて――この二つの品物はユダヤ人の限りない蔵品のなかから支給されたのだったが――ナンシー嬢はこの用件で出かけようとしていた。
「ちょっとお待ち」ふたのついた小さな籠を示して、ユダヤ人はいった。「これを片手にもっていきな。それのほうがりっぱに見えるからな」
「フェイギン、残りの手にもつ戸口の鍵をわたしてやれ」サイクスはいった。「それでまことしやかになるからな」
「うん、うん、そうだよ」この婦人の右手の人さし指に街路の戸の大きな鍵をかけてやって、ユダヤ人はいった。「さあ、これでうまく似合うぞ! まったく、よく似合うな!」手をこすりながら、ユダヤ人は言葉をそえた。
「ああ、あたしの弟! あたしのかわいそうな、かわいい、無邪気な弟!」わっと泣きだし、悲嘆のあまり小さな籠と鍵をひきねじって、ナンシーは叫んだ。「弟はどうなったんでしょう! どこに連れていかれたんです! ああ、わたしをあわれに思い、みなさん、あのかわいい坊やがどうなったかを教えてください。おねがいします、みなさん、おねがいします!」
いかにも物悲しげな調子でこの言葉を語り、みなをひどく楽しませて、ナンシー嬢はちょっと立ちどまり、みなにウィンクし、ニコニコと一同にうなずいて、姿を消した。
「ああ、あれは利口な娘だよ」若い友人たちのほうに向き、いま見たりっぱなお手本を見習えといわんばかりに頭を重々しくふって、ユダヤ人はいった。
「やつは女の鑑《かがみ》だな」コップに酒をつぎ、大きな拳《こぶし》でテーブルをドンとたたいて、サイクス氏はいった。「さあ、彼女の健康を祝い、みんなが彼女にならうように祈って、乾杯だ!」
このすぐれたナンシーにたいして、こうした称讃、それ以外の礼讃《らいさん》がくりかえされているあいだに、その若い婦人は大急ぎで警察署に向けて足を運んでいた。街路を友もなくただ一人で歩いていったために多少ビクビクはしていたものの、彼女は、その後|間《ま》もなく、無事に警察署に到着した。
裏道に進んでいって、彼女は、監房の戸をひとつ、鍵で静かにたたき、耳を澄《す》ませた。部屋の中では、なんの音もしなかった。そこで彼女は咳ばらいをし、ふたたび耳を澄《す》ませた。でも、なんの返事もなかった。そこで彼女はしゃべりはじめた。
「ノリー、いること?」やさしい声でナンシーはささやいた。「ノリー?」
その中にはみすぼらしい、靴をはいていない犯罪人のほかにはだれもおらず、彼は、笛を吹いたために拘留され、社会にたいする罪がはっきりと証明されたので、ファング氏によって一カ月間の折檻院入りを命じられ、笛についやす呼吸力があるくらいなら、それを楽器よりもっと有益に踏み車に使ったほうがよいという適切で興味ある判決を受けたのだった。州で利用するために没収されてしまった笛の損失を心中嘆いていたので、彼はなんの返事もしなかった。そこでナンシーはつぎの監房にうつってゆき、そこでまた、ノックをした。
「なんだね?」かすかな、弱々しい声が叫んだ。
「そこにまだ小さな少年がいますか?」泣きだしそうな声でナンシーはたずねた。
「いいや」その声は答えた。「とんでもない!」
これは六十五歳の浮浪者、笛を吹かないことで、すなわち、街路で乞食をして、生計のためになにも努力をしていないことで、監獄送りになりそうになっている男だった。つぎの監房には、許可なしで錫《すず》のシチューなべを売り歩き、税務署にはおかまいなしに生計を立てていた罪で、同じ監獄に送られる予定のべつの男がいた。
だが、こうした男たちはオリヴァの名を呼ばれても、それに答えず、彼のことについてはなにも知っていなかったので、ナンシーはすぐ縞《しま》のチョッキを着た不愛想な職員のところにゆき、じつにあわれな嘆声をあげ、戸の鍵と小さな籠を手早くたくみに操作して、そのあわれさをつのらせ、自分のなつかしい弟をかえしてくれ、と要求した。
「あいつは、ここにはいないよ」その老人は答えた。
「あの子はどこにいるの?」狂乱状態になって、ナンシーは金切り声をあげた。
「うん、あの紳士が連れてったよ」役人は答えた。
「紳士って、どの紳士? ああ、おねがい! どの紳士なの?」ナンシーは叫んだ。
このとりとめもない質問に答えて、老人は深く動揺しているこの姉に、オリヴァは警察署で病気になり、盗みはべつの拘留されていない少年によっておこなわれたことが証人によって証明された結果、放免され、告発人が意識を失ったその少年を自身の家に連れ去ったこと、その家に関してこの職員の知っていることは、馬車の御者に与えた言葉を耳にしたところでは、それがペントンヴィルのどこかにある家だ、ということを伝えた。
疑惑と不安のおそろしい状態につつまれて、この苦しみもだえる若い婦人は門のところまでよろめいて歩いてゆき、それから、フラフラした足取りをしっかりとした早い駈け足にかえて、この上なく曲りくねった複雑な道を縫って走りぬけ、ユダヤ人の家に到着した。
ビル・サイクス氏はこの探検報告の話を聞くとすぐ、急いで白犬を呼び、帽子をかぶって、一座の連中に別れの挨拶もしないで、さっさとそこを飛びだした。
「やつがどこにいるかを調べにゃならん。そう、それを発見しなけりゃならん」ユダヤ人はひどく興奮して叫んだ。「チャーリー、町を歩きまわって、やつの情報をなにかききだしてこい! ナンシー、やつを見つけださにゃならんのだ。万事は、おまえとぺてん師にたのまなけりゃならん! 待て、待てっ!」ふるえる手で引きだしの錠をはずして、ユダヤ人はいいそえた。「ここに金がある。今晩、この店は閉めちまうからな。わしがどこにいるか、いずれ知らすことにする! ここには一刻もグズグズしてるな。一刻もいかんぞ、えっ!」
こういって、彼はみなを部屋から追いだし、彼らが出たあとで、用心深く戸に二重の錠をかけ、桟《さん》をはめて、隠し場所から、彼がうっかりオリヴァに示してしまった例の箱を引っぱりだした。それから彼は急いで時計や宝石を服の下にしまいはじめた。
これをしている最中、彼は戸をたたく音でギクリとした。「だれだね?」甲高《かんだか》い声で彼は叫んだ。
「おれだよ!」鍵の穴をとおしてぺてん師の声が答えた。
「なんだ、いまごろ?」イライラしてユダヤ人は叫んだ。
「ナンシーが、オリヴァをどこかほかの場所にさらってくのかっていってましたがね?」ぺてん師はたずねた。
「そうだ」ユダヤ人は答えた。「彼女がどこでやつをつかまえてもな。やつを見つけろ、見つけろ、見つけりゃいいんだ! つぎにどうするかは、わしが考える。そんなことは心配せんでもいい」
少年はわかったという返事をつぶやき、仲間のあとを追って、あわただしく階段をおりていった。
「いままでのところ、あの少年は密告をしてない」ユダヤ人は自分の仕事をつづけながらいった。「新しい友だちにやつがわれわれのことをしゃべるつもりなら、その口をつぐませる手段もあるんだぞ」
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十四 ブラウンロウ家におけるオリヴァの生活の詳細、ならびに、彼が使いに出たとき、グリムウィグ氏なる人物が彼について語った予言について
ブラウンロウ氏の唐突な叫び声でおちいった気絶の発作からオリヴァは間《ま》もなく回復したが、例の絵の話は、この老紳士とベドウィン夫人の二人によって、つぎに起きた会話からは用心深くとりのぞかれていた。その話は、じっさい、オリヴァの来歴や将来の見通しに関するものではなく、彼を興奮させずにただ楽しませる話題にかぎられていた。彼の体力はまだ弱っていて、朝食には起きあがれなかった。が、つぎの朝、家政婦の部屋におりていったとき、彼が最初にしたことは、そこに美しい婦人の顔を見られるものと思って、壁を熱心に見あげたことだった。しかし、その期待は裏切られた。絵はとりはずされていたからである。
「ああ!」オリヴァの目の方向に気づいて、家政婦はいった。「あれははずしてしまいましたよ」
「ええ、わかっています」オリヴァは答えた。「どうして、はずしてしまったの?」
「それがあなたの気をいらだたせるようだから、とブラウンロウさんがおっしゃったので、とりはずしてしまったのです。あれは、あなたが元気になるのに邪魔物になるかもしれませんからね」老婦人は応じた。
「いや、そんなことはありません。ぼくの気をいらだたせはしませんよ」オリヴァはいった。「ぼくは、あれを見るのが好きなんです。あれが大好きなんです」
「えーえ、えーえ!」上機嫌に老婦人はいった。「早く、早く元気におなりなさい。そうしたら、それをまたかけてあげますよ、さあ、そのことはお約束しますよ! さあ、なにかほかの話をしましょう」
以上が、そのときオリヴァが例の絵について得た情報のすべてだった。老婦人は彼の病気中とても親切にしてくれていたので、そのときさしあたって、このことはもう思うまいと彼は考えた。そこで、この老婦人が語ってくれた多くの話、やさしく美しい男と縁組みし、いまはいなかに住んでいるやさしく美しい彼女の娘の話、西インド諸島の商社につとめ、これもまた善良で、年に四回やさしい手紙を彼女に送り、その手紙のことを話しただけでもう涙が出てくる彼女の息子の話に、彼は注意深く耳を傾けた。
老婦人が息子と娘、それに、二十六年前に悲しくも死んでしまった自分のやさしい善良な夫の美点をながながと述べたて終わったとき、もうお茶の時間になっていた。お茶のあとで、彼女はオリヴァにトランプのクリベッジ遊びを教えはじめたが、彼は教わるとすぐ、その要領を会得《えとく》し、その遊びは、とてもおもしろく慎重につづけられたが、とうとう、時刻は少年が温めた葡萄酒《ぶどうしゅ》の飲み物を焼きパンといっしょに飲み、それから安らかに床にはいる時間になった。
オリヴァの回復期は、幸福な時期だった。すべてのものはとても静かで、きちんとし、秩序立っていて、すべての人はとても親切でやさしく、彼がそのときまで暮らしていた物音と騒がしさのあとで、それは、まるで天国そのものといった感じだった。彼が服を着られるくらい丈夫になるとすぐ、ブラウンロウ氏は新しい服一揃い、新しい帽子、新しい靴を彼に与えた。オリヴァは、古い服は自分の好きなようにしてよいといわれたので、とても親切にしてくれた下女にそれを与え、ユダヤ人にそれを売って、そのお金を自分にとっておくように、と伝えた。彼女はすぐこの処分をおこなった。オリヴァが客間の窓から外を見、ユダヤ人がそれを巻いて袋に納め、家を出てゆくのをながめたとき、その服が無事に消えてしまったこと、それを二度と着る可能性がないことを思って、彼はとてもうれしくなった。その服は、じっさい、悲しみのぼろ服、オリヴァはそのときまで、新しい服を着たことがなかったのだった。
絵の事件があってから一週間ほどたったある日の夕方、彼がベドウィン夫人に話をしていたとき、階下のブラウンロウ氏から伝言があり、もしオリヴァ・トゥイストの気分がよかったら、自分の書斎でオリヴァと会い、少し話をしたいと伝えてきた。
「まあ、まあ、大変! 手をお洗いなさい。髪はわたしがきれいにわけてあげますよ」ベドウィン夫人はいった。
「まあ、ほんとうに! このことが前からわかってたら、服にきれいなカラーをつけ、あなたをとてもきれいにしてあげられたのにね!」
オリヴァは老婦人の命じたとおりにした。そして、彼女は、そのあいだ中、シャツの襟のひだをきちんとする時間がないことをひどく嘆いていたが、この重大な飾りの欠点にもかかわらず、彼はいかにもきちんと美しく見え、彼女は、いかにも満足したようすで、彼を頭の上から爪先までながめまわし、どんなに前からこのことを知らされていても、彼をこのとき以上にもっと美しく見せることは不可能だろう、といった。
こう元気づけられて、オリヴァは書斎の扉をトントンとたたいた。ブラウンロウ氏からはいるようにと声をかけられてから、彼は自分が美しい庭を見おろしている窓のついた、本のいっぱいある小さな裏の部屋にいることがわかった。窓のところには引きよせたテーブルがあり、ブラウンロウ氏は、そこで本を読みながら坐っていた。オリヴァの姿を見ると、彼は本をおしのけ、テーブルの近くにきて坐るように、と伝えた。オリヴァはいわれたとおりにしたが、彼は心中、世界をもっと賢明にするために書かれたと思われるこんなにたくさんの本を読む人がどこにいるのだろう、と考えていた。この驚きは、オリヴァ・トゥイストよりもっと経験をつんだ人にとっても、その生涯の毎日の驚きなのではあるが……。
「坊や、ずいぶんたくさん本があるだろう?」床から天井に達する本棚をオリヴァが好奇心を燃やしてジロジロとながめているのを見て、ブラウンロウ氏はいった。
「すごくたくさんありますね」オリヴァは答えた。「こんなにたくさんの本、見たこともありません」
「お行儀をよくしたら読ませてあげるよ」老紳士はやさしくいった。「そうすれば、外見よりそれがもっと好きになるはずだよ――それというのも、場合によってはね。背と表紙が中身よりずっとりっぱな本もあるのだから」
「その背と表紙の美しい本というのは、あそこにならんでいるずっしりとした本なのですね」背に金の飾りがたくさんついている大きな何冊かの四折判をさして、オリヴァはいった。
「かならずしも、そうとはかぎらんね」オリヴァの頭を軽くたたき、そうしながら微笑を浮かべて、老紳士はいった。「形こそもっとずっと小さいが、同じようにずっしりとした本もあるのだからね。きみは大きくなって利口な人間になり、本を書きたいとは思わんかな」
「書くより、読んだほうが楽しいでしょう」オリヴァは答えた。
「あれっ! きみは著述家になりたくはないのかい?」老紳士はたずねた。
オリヴァはしばらく考えこみ、本の販売人になったほうがずっといいと思う、と最後にいった。すると老紳士は陽気に笑いだし、なかなかうまいことをいう、とその言葉を批評してくれた。オリヴァにはそれがなんだかわからないながらも、それをいったことがうれしかった。
「うん、うん」老紳士は真顔になっていった。「心配することはないよ! きみを著者にすることはないからな。身につけるまともな商売、煉瓦《れんが》作りといったこともあるのだからね」
「ありがとうございます」オリヴァはいった。その真剣な答えかたに、老人はまた笑いだし、奇妙な本能についてなにか述べたが、これはオリヴァにはわからぬことだったので、彼はその言葉にたいして注意をはらわずにいた。
「さて」オリヴァがいままで知っていたよりもっとやさしいが、それと同時に、もっとずっと真剣な態度になって、ブラウンロウ氏はいった。「坊や、わしがこれからいおうとしていることを、よく注意して聞いてもらいたいのだ。遠慮はぬきにして、きみに話そう。ほかのもっと齢上《としうえ》の人と同じくらい、きみだってわしのいうことがわかるはずなのだからね」
「おお、ぼくをすててしまうなんぞとは、どうかいわないでください!」老紳士がこう語りだした調子の真剣さにおびえて、オリヴァは叫んだ。「ぼくをこの家から追いだし、浮浪児にしないでください。ぼくをここにおいて、召使いにしてください。ぼくが来たあのみじめな場所には、かえさないでください。あわれな少年を気の毒に思ってください!」
「坊や」オリヴァがこうして急にたのみこんだその激しさに心を動かされて、老紳士はいった。「わしがきみをすてることなんぞ、心配せんでもいいよ、わるいことさえしなければね」
「わるいことは絶対に、絶対にしません」オリヴァはさえぎっていった。
「うん、そうあって欲しいもの」老紳士は答えた。「わるいことはせんと、わしだって信じているよ。以前、わしは助けてやろうと思った者から期待はずれの仕打ちを受けたこともある。だが、きみを信頼しようとするわしの気持ちは、とても強いのだ。そして、自分の心にも説明がつかんのだが、きみのためを考えている。わしのこの上ない愛情をささげた人々は、墓の中に深く休んでいる。わしの生活の幸福とよろこびも、そこに埋められてはいるのだが、わしは自分の心を石の棺にし、親愛の情の上に永遠の封印をおしてしまったわけではないのだ。深刻な苦悩はそうした愛情をただ強め、もっと高めるものなのだからね」
老紳士はこの言葉をオリヴァにというより自分自身にいって聞かせるように低い声で語り、その後しばらくのあいだ、だまったままでいたので、オリヴァも静かにして坐っていた。
「よし、よし!」前よりもっと明るい調子で、とうとう老紳士は口を切った。「わしがこうしたことをいったのは、ただきみが若い心の持ち主だからなんだよ。わしが大きな苦痛と悲哀を味わったと知れば、きみだって、たぶん、またわしの心を傷つけることがないようにと、もっと注意してくれるだろうからね。きみは、世界に友一人いない天涯《てんがい》の孤児だといっているね。わしもいろいろと調査をしたが、たしかにそのとおりだ。わしにきみの来歴――どこの出身か、だれに育てられたか、わしが知っているあの連中とどうして仲間になったのか、を話してくれんかね? 事実ありのままを話すのだ。そうすれば、わしの生きているかぎり、きみにはちゃんと友がついていることになるのだからね」
オリヴァのすすり泣きは、数分間、彼の話をとめてしまった。幼児預かり所でどんなふうに育てられたか、その後バムブル氏によって貧民院に連れてゆかれたいきさつを彼が話しだそうとしたとき、表の戸に妙にイライラとした小さな二重のノックの音が聞こえ、召使いが二階にかけあがってきて、グリムウィグ氏の来訪を告げた。
「二階にあがろうとしているのかね」ブラウンロウ氏はたずねた。
「はい、そうです」女中は答えた。「あの方はマフィン(小さな円形の軽焼きパン。お茶のときに食べる)がここにあるかとおたずねになり、ございますとお答えしますと、茶をご馳走《ちそう》になりにきた、とおっしゃいました」
ブラウンロウ氏はにっこりした。そして、オリヴァのほうを向いて、グリムウィグ氏は自分のながらくつきあっている友人、態度に少し粗野なところはあるが、気にすることはない、自分は知っているのだが、ほんとうはなかなかりっぱな人物なのだから、と説明した。
「ぼくは下にいっていましょうか?」オリヴァはたずねた。
「いいや」ブラウンロウ氏は答えた。「むしろ、きみにはここにいてもらいたいのだ」
このとき、太いステッキに身をささえ、片足がそうとうひどいびっこになっている老紳士が部屋にはいってきた。彼は青い上衣、縞《しま》のチョッキ、ナンキン木綿のズボンとゲートルを着け、わきがそりかえって緑の色地を見せている幅広の白い帽子をかぶっていた。とてもこまかに編んだシャツのひだがチョッキから突き出し、端《はし》に鍵しかついていないとてもながい鉄の時計の鎖がその下にダラリとさがり、白いネッカチーフの端《はし》はねじられて、オレンジくらいの大きな玉になっていた。彼の顔がねじられてつくりだされるさまざまな形相《ぎょうそう》は、得《え》もいわれぬたぐいのものだった。彼は話すときに頭を一方にねじる癖をもっていたが、それと同時に横目で人をながめ、その恰好《かっこう》は人に|おうむ《ヽヽヽ》を思わせるものだった。彼が姿をあらわした瞬間、彼はしばらくこうした姿勢をしたままでいて、オレンジの皮の小さな切れをグイッと前に突き出し、いかにも不満げなうなり声で、こう叫んだ――
「ほれ! これを見ろ! 人の家を訪問すれば、かならずそこの階段にはこのつまらぬ医者の友人がひかえてるということは、じつに妙な、とてつもないことじゃないかね? わしはオレンジの皮でびっこにされた。きっといまに、これはわしの命とりになるぞ。それがまちがいだったら、このわしの頭を食ってもいいですぞ!」
この最後の言葉は、彼がなにかを主張するたびに、かならず出てくるきまり文句だった。議論の便宜上、科学が進歩して、紳士がその気になったら、自分の頭を食べることができるようになったとしても、これは、彼の場合、さらに奇妙なものになっていた。グリムウィグ氏の頭は特大のもの、厚くかけた髪粉はべつにしても、どんな楽天家でも、一回の食事でそれを平らげられるとは、とても考えられぬことだった。
「このわしの頭を食ってもいいですぞ」床に太いステッキをドシンと突いて、グリムウィグ氏はくりかえした。「いやっ! これは何者だ!」オリヴァに気づき、一、二歩さがって、彼は叫んだ。
オリヴァはお辞儀をした。
「あれは、まさか、熱を出した少年だというのではあるまいね?」もう少しさがって、グリムウィグ氏はいった。
「ちょっと待て! なにもいうな! 待て――」大発見で有頂天になり、熱の感染の懸念を急に消してしまって、グリムウィグ氏はつづけた。「あれはオレンジをもっていた少年だ! それがオレンジの持ち主で、皮の切れを階段に投げた少年でなかったら、わしはこの頭とあの坊主の頭を食ってもいいですぞ」
「いや、いや、彼はオレンジの持ち主ではない」ブラウンロウ氏は笑いながらいった。
「さあ! 帽子をおき、この少年の友人と話をしたまえ」
「この問題は重大ですぞ」癇癪《かんしゃく》もちの老紳士は手袋をぬいでいった。「通りにはかならずオレンジの皮が投げすててある。そして、それは、町角にある医者のところの小僧の仕業《しわざ》なんだ。昨日の晩、ある若い女性がそれを踏んでころび、わしの家の庭のかきねにぶつかったんだが、起きあがるとすぐ、彼女は手をふって呼んでいる医者のいまいましい赤ランプのほうを見ていた。『あの医者のところにはゆきなさんな』わしは窓からどなったね、『やつは暗殺者だ! 人|捕《と》りわなだ』医者なんてそんなもんさ。もし医者がそうでなかったら――」ここで癇癪《かんしゃく》もちの老紳士はステッキで床をドンとやったが、これはそれで、言葉で表示されない場合には、彼の友人たちによって、例の癖の言葉をあらわすものといつも理解されていた。それから、まだステッキを手放さずに、彼は腰をおろし、幅のある黒いリボンを結びつけた折りたたみの眼鏡を開き、オリヴァを観察しはじめたが、相手のオリヴァは、自分が検閲の対象になっていることを知って、顔をさっと赤らめ、ふたたびお辞儀をくりかえした。
「あれが例の少年かね、えっ?」とうとうグリムウィグ氏は口を切った。
「うん、そうだよ」ブラウンロウ氏は答えた。
「気分はどうかね?」グリムウィグ氏はたずねた。
「ありがとうございます。とてもいいです」オリヴァは答えた。
ブラウンロウ氏は、この風変わりな老人がなにか不愉快なことをいおうとしていると見てとって、オリヴァに下におり、お茶はいつでも出してよい、とベドウィン夫人に告げるようにと命じた。オリヴァは、この客の態度があまりおもしろくなかったので、よろこんでそれに応じた。
「かわいい子だろうが、どうだい?」ブラウンロウ氏はたずねた。
「わからんな」気むずかしげにグリムウィグ氏は応じた。
「わからん?」
「そう。わからんな。わしの目から見れば、少年はみんな同じさ。少年には、二つの型しかないのだ。青っ白《ちろ》い坊主と頬《ほっ》ぺたのふくれた坊主だ」
「オリヴァはどちらかね?」
「青っ白《ちろ》いほうだな。頬《ほっ》ぺたをふくらませた子をもってる友人を知ってるがね、世間ではきれいな少年といってるようだが、頭は丸く、頬《ほお》は真っ赤、目はギラギラしてて、じつに鼻持ちならん少年だ。そのからだと手足は服の縫目をはじきとばしそうにふくらみ、声は水先案内の声、食いっ気は狼《おおかみ》よろしくだな。わかってるさ! いやな子だとも!」
「ねえ」ブラウンロウ氏はいった。「オリヴァ・トゥイストは、それとはちがうよ。だから、彼のことを怒る必要はないわけだ」
「それは、たしかにそのとおり」グリムウィグ氏は応じた。「もっとひどいものかもしれんぞ」
ここで、ブラウンロウ氏はいかにもじれったそうに咳払いをしたが、これはグリムウィグ氏を非常によろこばせたようだった。
「もっとひどいものかもしれんぞ」グリムウィグ氏はくりかえした。「どこの生まれかね? 素性《すじょう》は? 身分は? 熱病にかかったんだな。それはどう解釈したらいい? 熱病は善良な人間ばかりがかかるもんではない、そうだろう? 悪人だって、熱病にはよくかかるもんだ。そうだろう? ジャマイカで主人殺しの罪で絞首刑になった男を知ってるが、その男は六回も熱病にかかったぞ。だからといって、そのためにお情けは授からなかったがね。ふん! バカな!」
さて、事実は、グリムウィグ氏が心の奥底でオリヴァの容姿と態度をすごく気に入っていたのだったが、彼は反対することがとても好きで、この場合には、オレンジの皮を見つけたことで、それはなお強められていた。少年がかわいいか、かわいくないかの問題で他人の指図は受けまいと心中かたく決心して、彼は最初から友人に反対するつもりになっていた。彼が質問したどの点に関してもブラウンロウ氏が満足のいく返事をすることができぬこと、オリヴァが元気になるまで、その経歴の調査は延期することになったことを知って、グリムウィグ氏は意地わるくクスクスッと笑った。そして彼は、冷笑を浮かべて、家政婦が、いつも夜、皿の数を勘定しているかとたずねた。というのは、彼女が、陽のさすある朝、スプーンが一、二本消えているのに気づかなかったら、うん、おれは……云々《うんぬん》というわけだった。
ブラウンロウ氏は自身多少激しい気質の紳士だったが、その友人の癖は心得ていたので、これを上機嫌に我慢し、お茶でグリムウィグ氏は大よろこびでマフィンをほめたてたので、事態はとてもなめらかに進行してゆき、このお茶に加わったオリヴァも、この気性の激しい老紳士の前でいままで感じたことがないほど、気楽な気持ちになった。
「ところで、オリヴァ・トゥイストの波瀾に富む生涯の詳細な話を、いつ聞くつもりなのかね?」お茶が終わったとき、話をもとにもどし、オリヴァを横目でにらみながら、グリムウィグはブラウンロウ氏にたずねた。
「明日の朝にね」ブラウンロウ氏は答えた。「そのときは、二人だけで話そうと思っているよ。坊や、明日の朝十時にわしのところに来なさい」
「はい」オリヴァは答えたが、そこには多少とまどいの色がまじっていた。グリムウィグ氏があまりジッと自分を見つめているのにどきどきしてしまったからである。
「いいかね」この紳士はブラウンロウ氏にささやいた。「明日の朝、彼はきみのところに来はせんよ。彼はなにかもじもじしてたな。きみ、きみはあの少年のぺてんにかかってるのだぞ」
「誓ってもいい、そんなことはないさ」むっとしてブラウンロウ氏は答えた。
「そうでなかったら」グリムウィグ氏は応じた。「わしは――」そして、彼はステッキで床をドンとたたいた。
「あの少年の誠実なことはわしの命をかけて保証してもいい!」テーブルをたたいてブラウンロウ氏は主張した。
「それなら、彼のいかさまに、わしの頭を賭《か》けよう!」これまたテーブルをたたいて、グリムウィグ氏が応じた。
「いずれわかるさ」こみあげてくる怒りを抑えて、ブラウンロウ氏はいった。
「そうだ」いまいましい笑いを浮かべて、グリムウィグは応じた。「そうだとも」
ここで運わるくも、ベドウィン夫人が本の小さな包みをもちこんできたが、これは、この話にすでにあらわれたあの本屋の主人から、ブラウンロウ氏がその朝買ったものだった。それをテーブルの上にのせて、彼女は部屋を出てゆこうとした。
「ベドウィンさん、使いの子供を呼んでくれないかね」ブラウンロウ氏はいった。「かえさなければならない本があるのでね」
「もう、いってしまいました」ベドウィン夫人は答えた。
「彼を大声で呼びもどしなさい」ブラウンロウ氏は命じた。「これは特に必要なことでね。なにしろ、本屋の主人は貧乏な男、まだ本の代金ははらっていないのだ。かえさなければならない何冊かの本があるのだから」
通りに面する戸が開かれ、オリヴァと女中はそれぞれちがった方向に走り、ベドウィン夫人は入口の階段のところで甲高《かんだか》い声で少年を呼んだが、少年はどこにも見当たらなかった。オリヴァと女中は息せき切ってもどり、その少年がどこにいってしまったかわからない、と報告した。
「いや、まったく残念なことだった」ブラウンロウ氏は叫んだ。「わしはあの本を今晩特にかえしたかったのだ」
「オリヴァを使いに出して、それをかえしたらいいだろう」皮肉な微笑を浮かべて、グリムウィグ氏はいった。「彼なら確実にそれをわたすともさ」
「ええ、よろしかったら、ぼくにそれをさせてください」オリヴァはいった。「とっとと走って用を足してきますから」
老紳士は、絶対にオリヴァはやれない、といおうとしたが、そのときグリムウィグ氏のじつに皮肉な咳払いが聞こえてきて、老紳士の決心は急に逆転、少年に仕事を早く片づけさせ、少なくともその点に関しては、相手の疑惑が不当のものであることをすぐに証明してやろうと決心した。
「ゆかせてあげるよ、坊や」老紳士はいった。「その本はわしのテーブルのわきの椅子の上にある。それをもってゆきなさい」
オリヴァは自分が役にたてるのをよろこんで、大さわぎをしてその本をかかえてき、帽子を手にして、どんな伝言をしたらよいのか聞こうと待っていた。
「こう伝えてほしいのだ」グリムウィグをグッとにらみつけて、ブラウンロウ氏はいった。「きみがこの本をかえしにきた、彼にわしが借りている四ポンド十シリングを支払う、と伝えてくれたまえ。五ポンドの紙幣をきみにわたすから、おつりは十シリングになるわけだね」
「十分もかかりません」オリヴァは熱心に答えた。その紙幣をジャケットのポケットに入れ、それにボタンをかけ、注意深く本を小脇にかかえて、彼は丁寧《ていねい》にお辞儀をし、部屋を出ていった。ベドウィン夫人は戸口のところまで彼についてゆき、いちばん近い道、本屋の名、通りの名についていろいろと指示を与え、オリヴァはこれをぜんぶはっきりと知っていると答え、さらに老婦人は、風邪《かぜ》をひかぬように注意するのですよ、といいそえて、とうとう、家を出ることを彼に許した。
「あの子がどうか無事でありますように!」彼のうしろ姿を見送って、この老婦人はいった。「なんだか、あの子を目からはなすのが、とても心配でたまらないわ」
この瞬間、オリヴァは陽気にあとをふりかえり、街角をまがる前に、コックリとうなずいて見せた。老婦人はこの挨拶に微笑をかえし、戸を閉めて、自分の部屋にもどっていった。
「さてと、少年はどんなにかかっても、二十分もすれば、もどってくるだろう」懐中時計を引きだし、それをテーブルの上において、ブラウンロウ氏はいった。「そのときまでには暗くなってしまうな」
「おお! きみはほんとうに彼が帰ってくると思ってるのかい?」グリムウィグ氏はたずねた。
「そうは思わんのかね?」にっこりして、ブラウンロウ氏はたずねた。
この瞬間、反抗精神がグリムウィグ氏の心に強くわき起こったが、それは、友人の自信満々な微笑によって、さらに強くあおりたてられていった。
「思わんね」拳《こぶし》でテーブルをたたいて彼はがんばった。「思わんとも。あの少年は新しい服を着こみ、わきには貴重な本を何冊もかかえ、ポケットには五ポンド紙幣をおさめてもってる。彼はむかしのなじみの盗人どものとこにもどって、きみをあざ笑うことだろうよ。もしあの少年がこの家にもどったら、わしは自分の頭を食ってしまってもいいぞ」
こういって、彼は椅子をテーブルにもっと引きよせた。かくして、この二人の友人は、時計を真ん中にすえ、だまったまま結果を待って坐っていた。
われわれが自身の判断にたいしてどんなに重きをおくか、それに、こうした軽率であわただしいひどい結論を、どんなに誇《ほこ》らしげに示すかの例として、つぎのことを一言申しておいても、むだではないだろう。すなわち、グリムウィグ氏は決して性《たち》のわるい人間ではなかったし、自分の尊敬している友人がひっかけられ、だまされているのを見たら、彼はうそかくしなくそれを気の毒に思ったことだろうが、オリヴァがもどって来ないことを、彼は、このときには、ほんとうに心の底から望んでいた。
あたりは暗くなり、時計の文字盤の上の数字はほとんど見わけがつかなくなっていた。だが、そこで二人の紳士は、懐中時計を中にはさんで、だまって坐りつづけていた。
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十五 例の陽気なユダヤ人とナンシー嬢がいかにオリヴァ・トゥイストに好意をいだいていたかを示す
リトル・サフラン・ヒルのこの上なく不潔な地区にある天井の低い居酒屋の薄暗い客間――冬のあいだ、一日中ユラユラとガス燈が燃え、夏には、太陽の光がぜんぜんさしこんでこない暗い陰気な小部屋で、小さな白鑞《びゃくろう》の桝《ます》と小柄なコップをジッとながめ、酒のにおいをプンプンさせ、ビロードの上衣、茶色の半ズボン、半長靴と靴下を着けた一人の男が坐っていた。この男は、経験のある警察官だったら躊躇《ちゅうちょ》なくそれと認めるウィリアム・サイクス氏その人だった。彼の足下には白毛の、赤い目をした犬が坐り、両方の目で同時に主人のほうに目ばたきしたり、最近の喧嘩《けんか》の成果と思われる口の端《はし》の大きな、なまなましい傷をなめたりしていた。
「虫けらめ、静かにしてろ! 静かにするんだ!」急に沈黙を破って、サイクス氏はいった。彼の瞑想が深刻で、それが犬の目ばたきで邪魔されるのか、あるいは、彼の思考が彼に強烈な影響を与え、それを静めるのに罪もない犬を蹴るのが救いになるかどうかは、議論と考慮の結果を待たねばならない。その原因はいかなるものにせよ、結果は犬が蹴られ、同時にののしられることになった。
犬というものは、主人が加えた危害にふつう復讐をしないものである。だが、サイクス氏の犬は、主人と同じ性格の欠陥をもっていたのであろうか、それとも、このとき、強い危害意識に悩まされていたのであろうか、迷いもせず即座に一方の半長靴に噛みつき、それからそれを勢いよくひとふりし、うなりながらベンチの下にもぐりこんで、サイクス氏がその頭に投げつけた白鑞《びゃくろう》の桝《ます》をあやうくかわしたのだった。
「やる気か?」片手に火かき棒をもち、もう一方の手でゆっくりとポケットから出した折りたたみナイフを開いて、サイクスはいった。「出てこい、この生まれながらの悪党め! 出てこい! 聞こえるのか?」
犬はたしかに聞いていた。サイクス氏は耳ざわりといってもその最高の声をはりあげてしゃべっていたからである。だが、わけはわからずとも喉を切られるのはいやらしく、犬ははいった場所にうずくまりつづけ、前よりもっと猛烈にうなり、それと同時に、火かき棒の端《はし》をくわえ、それを野獣のように噛みくだこうとしていた。
この抵抗はサイクス氏の怒りに油をそそいだ結果になり、彼はひざまずいて、激しくこの犬を攻撃しはじめた。犬は右から左、左から右へとからだをかわし――噛みつき、うなり、吠えまくった。男のほうは火かき棒でさし、ののしり、打ち、悪態《あくたい》をついた。そして、この闘争がいずれかの側に重大な結果をもたらしそうになったとき、戸が急に開かれ、犬は、ビル・サイクスの手に火かき捧と折りたたみナイフをにぎらせたまま、そこから飛びだしていった。
古い格言でもいっているが、一人では喧嘩《けんか》にならない。サイクス氏は相手の犬をなくして、喧嘩《けんか》の怒りをこの新来の客にうつしていった。
「いったいどうして、おれと犬のあいだに飛びこみやがったんだ?」すごい剣幕でサイクス氏はいった。
「知らなかったんだよ、知らなかったんだよ」おとなしくフェイギンは答えた。というのも、この新来の客というのは、ユダヤ人だったからである。
「知らなかったんだって、この腰抜けの泥棒野郎め!」サイクス氏はうなった。「あの音が聞こえなかったんか?」
「ビル、ぜんぜん聞こえなかったよ、ほんとうに」ユダヤ人は答えた。
「うん、そうか! おめえには聞こえなかったとも、聞こえなかったともさ」はげしい冷笑を浮かべて、サイクスはやりかえした。「コソコソ出はいりして、だれもおめえの足音には気がつかんのだからな! フェイギン、ちょっと前に、おめえがあの犬だったらよかったのにな」
「どうしてだね?」つくり笑いをして、ユダヤ人はたずねた。
「やくざ犬の半分の勇気もないてめえのようなやつの命を大切にしてくれる政府が、犬なら、好きなように殺させてくれるからな」意味ありげな表情をしてナイフをたたみこみながら、サイクスは答えた。「わけは、そういったもんさ」
ユダヤ人は手をこすって、テーブルに坐り、この友人のおどけ話を笑っているふりをしていたが、内心不安な気持ちに襲われていることは明らかだった。
「ニヤニヤしてるがいい」火かき棒をもとにかえし、ひどい軽蔑の表情を浮かべて相手をジロジロと見ながら、サイクスはいった。「ニヤニヤしてるがいい。だが、おれのことを笑うことはできねえぞ、てめえのかぶってるナイトキャップのうしろでならいざ知らずな。フェイギン、てめえにはいままでも負けていなかったし、畜生、今後も負けはしねえぞ。さあ! 死なばもろともなんだ。だから、おれのことは大切にしなよ」
「わかったよ、よし、よし」ユダヤ人はいった。「みんな、よくわかってるよ。ビル、おれたちは――おれたちは一蓮托生《いちれんたくしょう》――一蓮托生《いちれんたくしょう》なんだからな」
「ふん」サイクスは自分のほうには割りがあわないといったふうにいった。「ところで、おめえはおれにどんな用事があるんだい?」
「品物はぜんぶ現金に替えたよ」フェイギンは答えた。「これがおまえさんの分け前さ。おまえさんの分は水増ししてあるよ。だが、いずれ役にたってくれるだろう、それに――」
「でたらめ、ほざくな」この盗賊はイライラしながら口をはさんだ。「金はどこにある? 早くわたせ!」
「わかったよ、わかったよ、ビル。ちょっと、ちょっと待っておくれ」機嫌をとるようにして、ユダヤ人はいった。「さあ、これだ! ぜんぶそっくりな!」こういいながら、彼は木綿の古ハンカチを胸から引きだし、隅の大きな結びをほどいて、小さな褐色の包みを出した。サイクスはこれを彼からうばいとり、急いでそれを開け、そこにあるポンド金貨を勘定しはじめた。
「これでぜんぶか、えっ?」サイクスはたずねた。
「ああ、そうだよ」ユダヤ人は答えた。
「おめえ、ここにやってくる途中、包みを開いて、一、二箇ちょろまかしたんじゃあるめえな?」うさんくさそうに、サイクスはたずねた。「気をわるくしたような顔なんてするな。おめえ、その点では前科者なんだからな。チンとやりな」
このチンとやれというのは、ベルを鳴らせということだった。ベルで呼ばれてあらわれたのは、フェイギンより若いが、顔つきはそれに劣らず下品でいやな感じのするユダヤ人だった。
ビル・サイクスは、ただ空《から》の桝《ます》をさしただけだった。このユダヤ人は、その意味をよくのみこんで、酒をとりに引きさがったが、その前にフェイギンとすごい目くばせをした。フェイギンは、それを予期したように、一瞬目をあげ、答えとして頭を横にふったが、その動作はほんのかすかで、注意深い第三者がいても、それと気づかぬほどのものだった。それはサイクスには気づかれなかった。彼はそのとき犬に噛み切られた靴ひもを結ぼうと、腰をかがめていたからである。このちょっとした合図を見たら、彼はそれを自分によからぬ前兆と考えたことであろう。
「バーニー、ここにだれかいるかい?」いまはもうサイクスが見ているので、床からは目をあげずに、フェイギンはたずねた。
「人《ひと》はだれもいませんよ」バーニーは答えたが、その言葉は、本心から出たものにせよ、そうでないにせよ、鼻から素通しのものだった。
「だれもいない?」驚いたといった口調でフェイギンはたずねたが、この口調はバーニーに、事実を伝えてもよい、という合図だったのかもしれなかった。
「ナンシーさん以外には、だれもね」バーニーは答えた。
「ナンシーだって!」サイクスは叫んだ。「どこにいるんだ? まったく、あの女はたいしたもんだぞ、あの頭はな」
「酒場で牛肉を食ってましたよ」バーニーは答えた。
「ここに呼べ」酒をコップについで、サイクスはいった。「ここに呼べ」
バーニーは、許しを求める仕草で、フェイギンのほうをおずおずしてながめた。ユダヤ人はだまったまま、床から目をあげずにいたので、彼は引きさがり、ナンシーをともなって、やがてもどってきた。彼女は縁なし帽、エプロン、籠、戸の鍵ですっかり身づくろいをしていた。
「ナンシー、やつのあとをかいでるんだな、どうだい?」コップをさしだして、サイクスはたずねた。
「そうよ、ビル」コップの中を空《から》にして、この若い婦人は答えた。「それに、もううんざりよ。あの若い餓鬼《がき》は病気になり、あの家にひきこもりよ。それに――」
「ああ、ナンシー!」目をあげて、フェイギンはいった。
さて、ユダヤ人がその赤い眉を特別にひそめ、くぼんだ目をなかば閉じたことが、ナンシー嬢にしゃべりすぎるのを注意したのかどうかは、ここでさして重要な問題ではない。われわれは、ここで、事実に注目すればよいのであって、その事実とは、彼女が急に話すのをやめ、何回か鷹揚《おうよう》にサイクス氏にほほえみかけ、話をほかのことに変えてしまったことだった。十分ほどたつと、フェイギン氏は咳の発作に襲われ、それを機会《しお》に、ナンシーはショールを肩にまきつけ、もうゆかなければ、といいだした。サイクス氏は自分も途中までゆくことに気がついて、彼女といっしょにゆこうといい、二人は連れだって出ていったが、そのあとに、少し距離をおいて、主人の姿が消えると同時に裏庭からこっそりと姿をあらわした例の犬がついていった。
サイクスが出ていってから、ユダヤ人は部屋の戸から頭を突きだし、暗い通路を去ってゆくその後姿をながめ、しっかりにぎった拳《こぶし》をふり、ひどいののしりの言葉をつぶやき、それから、ぞっとするおそろしい笑いを浮かべて、テーブルにふたたび腰をおろし、夢中になって犯罪公報のおもしろい記事を読みはじめた。
話変わって、オリヴァ・トゥイストは、自分が例の陽気な紳士のそんな近くにいるとは露知らず、本屋の店にゆこうとしていた。クラークンウェルにはいると、彼は偶然自分の道とはちがう小道にはいりこんでしまい、途中にゆくまでそのあやまちに気づかず、それが正しい方向に向いているものと考えて、彼はもどる必要はないと思い、本を小脇にかかえて、道を大急ぎで進んでいった。
彼は歩いてゆきながら、あのあわれな子供のディックに一目あえたら、どんなにうれしく、心が満たされるか、そのためなら、なにをすてても惜しくはないと考えていた。あの少年は、いまこの瞬間、食事を与えられず、打擲《ちょうちゃく》を受けて、ひどく泣いているのかもしれない。そうしたことを考えていたちょうどそのとき、彼は大声をあげて「まあ、弟だわ!」と叫ぶ若い女に出逢って、びっくりした。なにごとだろうと目をあげるかあげないかに、彼は自分の首にまきつけられた二本の腕におさえられていた。
「よして」もがきながら、オリヴァは叫んだ。「はなしてください。だれです? どうして、ぼくをとめるんです?」
これにたいする唯一の答えは、彼をだきしめた若い女から発せられた大声のおびただしい悲嘆の叫びだけだったが、その女は手に小さな籠と戸の鍵をもっていた。
「ああ、ありがたい!」この若い婦人はいった。「見つけたわ! おお! オリヴァ! オリヴァ! おお、この腕白《わんぱく》坊や! あんたのことで、あたしをこんなに苦しめるなんて! さあ、家へ帰りなさい、さあ。おお、見つけたわ。ほんとうにありがたい、ようやく見つけたわ!」こうしたとりとめもない叫びをあげて、この若い婦人はわっと泣きだし、ひどくヒステリックになってきたので、このときそこにやってきた二人の婦人は、これもその情景をながめていた、脂《あぶら》で頭をテラテラさせている肉屋の小僧に、医者を呼びにいったらよいのじゃないか、とたずねたくらいだった。これにたいして、なまけ性とまではいえないにしても、のらくら好きの肉屋の小僧は、その必要はないと思う、と答えた。
「おお、そう、そう、心配はいりませんよ」オリヴァの手をつかんで、若い婦人はいった。「もう気分はいいんですから。さあ、すぐに家にもどりなさい、このひどい子ったら! さあ!」
「どうしたんです!」女の一人がたずねた。
「おお、あなた」若い婦人は答えた。「あの子はきちんと働き、りっぱな暮らしをしてる親のところから、一カ月前に、逃げだしちまい、泥棒、悪人の群れに仲間入りし、母親の心をおしつぶしちまったんです」
「ひどい子供ね!」一人の女がいった。
「ひどい坊や、さあ、家に帰るんですよ」他の女がいった。
「ぼくはちがいます」ひどくおびえて、オリヴァは答えた。「この女の人は知らない人です。姉も父も母もありません。ぼくは孤児です。ペントンヴィルに住んでいます」
「よくもあんなことをいってる、ちょいと聞いてください」若い婦人はいった。
「あっ、ナンシーだね!」オリヴァは叫んだが、彼は、いまはじめて、彼女の顔を見たのだった。彼はひどくびっくりして、後退《あとずさ》りした。
「ほうら、あたしを知ってるでしょう!」わきで見ている人たちに訴えかけて、ナンシーは叫んだ。「やっぱり白状しちまったのね。おねがいです、この子を家に帰させてください。さもないと、父親も母親もこの子に殺され、あたしの心もおしつぶされちまいます!」
「いったい全体、なにごとだ?」白い犬を連れた男が、ビールの売店から飛びだしてきて、いった。「オリヴァ坊主だな! 母さんのとこへ帰るんだ、このちび犬め! すぐに家に帰るんだ」
「ぼくはあの人たちに関係はありません。知らない人です。助けて! 助けて!」この男にしっかりとつかまえられて、もがきながら、オリヴァは叫んだ。
「助けてだって!」男は真似していった。「うん、この悪党め、おめえを助けてやるぞ! これはなんの本だ! 盗んできたのか、えっ? さあ、それをわたせ」こういって、男は彼がしっかりとつかんでいた本をうばいさり、彼の頭をひっぱたいた。
「うまいぞ!」天井裏の窓からこれを見ていた男が叫んだ。「やつをまともにするには、なぐるよりほかに途《て》はないんだ」
「なるほどね!」天井裏の窓に感心した目つきを投げて、眠そうな顔をした大工が叫んだ。
「それで薬がきくことよ!」二人の女はいった。
「もうひとつ食《くら》わしてやろう!」もう一撃し、オリヴァの襟首をつかんで、男は応じた。「注意しろ、この悪たれ小僧め! おい、ブルズ・アイ(犬の名)、こいつをよく監視しろ! 注意するんだぞ!」
最近の病気のためにぐったりとなり、なぐられたこととその突然さに茫然《ぼうぜん》となり、犬の激しいうなり声と男の残忍さにおびえ、自分が伝えられたような子供の悪人だとそばにいる人たちに信じこまれているのに度肝をぬかれて、このあわれな少年はなにもすることができなかった。あたりは暗くなっていた。そこのあたりは低俗な地区だった。助けは来ず、抵抗してもむだだった。つぎの瞬間に、彼は暗い、せまい小道の迷路にひきずりこまれ、わずかにあげる時おりの叫びもわからぬものにしてしまう早い歩調でひったてられていった。その叫びがわかろうとわかるまいと、それは、さして重大なことではなかった。それがどんなにはっきりしたものであろうと、それを気にする人はだれもいなかったからである。
* * * *
ガス燈はもうつけられていた。ベドウィン夫人は心配そうに開いた戸のところで待っていた。女中は街路を二十回も走りまわって、オリヴァの姿が見えぬかを調べていた。そして、相も変わらず二人の老紳士は、あいだに懐中時計をおいたままの姿で、暗い客間にがんばって坐りつづけていた。
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十六 ナンシーにつかまったあとで、オリヴァがどうなったかを語る
せまい街路と小路は、最後に、開けた場所になっていた。そこのあちらこちらに、獣の檻《おり》、その他、家畜の市場の痕跡が残っていた。ここに着いたとき、若い女のほうがいままでの早い歩調にとても追いつけなくなったので、サイクスはその歩調をゆるめた。オリヴァのほうに向きなおり、彼は荒々しく、ナンシーの手をとれ、と命じた。
「聞こえたのか?」オリヴァがもじもじし、あたりを見まわしているのを見て、サイクスはうなった。
彼らは、暗い町角、まったく人通りのないところにいた。抵抗しても役にたたぬことを、オリヴァは、はっきりしすぎるほど、さとった。彼は自分の手を出し、ナンシーはそれをしっかりと自分の手ににぎった。
「残りの手をこっちによこせ」オリヴァのもう一方の手をとって、サイクスはいった。「こら、ブルズ・アイ!」
犬は目をあげ、ううっとうなった。
「おい、いいか!」一方の手をオリヴァの喉にあてがって、サイクスはいった。「ちっとでもこいつが声を立てたら、ガブリとやっちまえ! いいか!」
犬はふたたびうなり、その唇をなめ、即刻彼の喉首に噛みつきたいといった気配で、彼をジロジロと見ていた。
「あの犬は人間のようによくいうことをきくやつだ、まったくな!」すごい、兇悪なふうに感心したようすで、犬をながめながら、サイクスはいった。「さあ、坊主、どう覚悟したらいいか、わかったわけだな。だから、どんなにでも、どなってみろ、あの犬がすぐそれをとめてくれるんだぞ。さあ、坊主、いくんだ!」
ブルズ・アイは、こうしたふだんにないやさしい言葉がわかったといわんばかりに、尾をふり、オリヴァのためにもう一度警告のうなり声をあげて、先頭に立って進んでいった。
彼らのとおっていたのはスミスフィールドだったが、それはオリヴァの目から見れば、グロウヴナ・スクウェアも同じだった(スミスフィールドは下層民の住むところ。これに反してグロウヴナ・スクウェアは上流階級の住む地区)。その夜は暗く、霧がたれこめていた。店の燈りは濃い霧にさまたげられ、それは刻一刻濃さをまし、街路と家々を暗闇の中につつみ、オリヴァの目には、この縁のない土地をさらに縁のないものにし、彼の不安な気持ちをいっそう暗くし、気の滅入るものにした。
彼らが数歩あわただしく歩いていったとき、教会の太い鐘の音が時を伝えた。それが打ちだされると、彼の護送者二人は足をとめ、その音がひびいてきた方向に面《おもて》を向けた。
「ビル、八時よ!」鐘が鳴り終わったとき、ナンシーはいった。
「そういったからって、なんの役にたつんだ? おれの耳にだって、あれは聞こえてるんだ!」サイクスは答えた。
「ねえ、|あの人たち《ヽヽヽヽヽ》、あれを聞いてるのかしら!」ナンシーはいった。
「むろんだ」サイクスは答えた。「おれがぶちこまれたときには、聖バルトロメオ祭の日(八月二十四日)でな、その祭の市《いち》で鳴らすおもちゃのラッパのピーピーいう音がみんな耳にひびいてきやがった。一晩そこですごしたら、外のさわぎであのえらく古い監獄もシーンとした感じ、おれは頭を戸の鉄板にたたきつけてやりたくなったぜ」
「かわいそうな人たち!」鐘が鳴った方向にまだ顔を向けたまま、ナンシーはいった。「おお、ビル、あんなにかわいい若い人たちがねえ!」
「うん、女どもが考えるのは、そのくらいのもんさ」サイクスは答えた。「かわいい若い人たちだって! うん、やつらはもう死んだも同然、だから、どうでもいいじゃねえか」
こうした慰めの言葉で、サイクス氏はむかむかと湧きおこってくる嫉妬《しっと》の情をおし殺しているようすだった。それから、前よりもっとしっかりオリヴァの腕首を押さえて、彼に歩けと命じた。
「ちょっと待って!」若い婦人はいった。「八時の鐘がつぎに鳴ったとき、絞首刑を受けに引きだされるのがあんたの番だったら、あたし、さっさとそこをとおってはゆけないことよ。雪がどんなに深く地面に積もり、ショール一枚着けていなくったって、あたし、倒れるまで、そこを歩きまわることよ」
「そして、それが、なんの役にたつっていうんだ?」感傷の気分はいささかもないサイクスはたずねた。「鑢《やすり》一本、それに二十ヤードのしっかりとしたなわを放りこまなけりゃ、五十マイル歩いたって、一歩も歩かなくったって、おれの身には変わりはないんだ。さあ、いこう。そこで立って、説教なんかするな」
若い女は急に笑いだし、ショールをしっかり身にまとい、一同はそこを立ち去っていった。だが、オリヴァは彼女の手にふるえを感じ、ガス燈の下をとおったとき、彼女の顔をのぞきあげて、それが真《ま》っ青《さお》になっているのに気がついた。
三人は人通りのほとんどない、きたない道を約三十分も進んだが、人とはほとんどゆきあわず、出逢った人は、その様相から、サイクスと同じ社会的立場に立っている者のように見えた。とうとう、一同はとても不潔なせまい道にまがっていったが、そこの店は、ほとんど古着屋ばかりだった。犬は、もう警戒する必要のないことをさとったとみえて、一見して借家人のいない、閉じられたある店の戸の前にとまった。家はいまにも崩れそうで、戸には板が打ちつけてあり、貸し家であることを示していたが、その板は、もう何年間も、そこにさげられているようだった。
「ようし」あたりを用心深く見まわして、サイクスが叫んだ。
ナンシーは鎧戸《よろいど》の下に身をかがめ、オリヴァはベルが鳴るのを耳にした。彼らは通りの反対側にゆき、しばらくランプの下に立っていた。ガラスの上げ下げ窓がそっとあげられるような音がし、間《ま》もなく戸が静かに開かれた。それからサイクス氏は手荒らくおびえた少年の襟首をつかみ、一同三人は、さっと家の中にはいりこんだ。
廊下は真っ暗で、いれてくれた人が戸に鎖と桟《さん》をかけるまで、彼らは待っていた。
「だれかいるのか?」サイクスはたずねた。
「いいや」オリヴァが聞いたことがあるような声が答えた。
「老人はここにいるか?」盗人はたずねた。
「うん」声は答えた。「そして、えらくがっくりしてたぜ。おまえと会って、よろこぶかな? うん、そんなことはあるまいよ!」
この返事をした声ばかりか、その返事の仕方が、なにか、オリヴァには聞きおぼえのある感じだった。が、暗闇の中では、その話し手の姿をとらえることすら不可能だった。
「燈《あか》りをつけろ」サイクスはいった。「そうしねえと、首の骨をたたき折るか、犬を踏んづけるか、どっちかだ。踏んだら、足にガップリくいつかれるまでのこったぞ!」
「ちょっと静かにしてくれ、そいつをもってくるからな」声が答え、それが奥にはいってゆく音がしてから、一分ほどすると、別の名ぺてん師のジョン・ドーキンズ氏の姿があらわれた。彼は右手に、割れた棒きれにさした獣脂《じゅうし》ろうそくをもっていた。
この若い紳士は、ニヤリとふざけた笑いをした以外には、オリヴァを認めたようすを示さず、クルリと向きを変えて、階段をついておりてくるようにとさしまねいた。一同は、ガランとした台所をとおりぬけ、小さな裏庭に建てられたように思われる低い、土くさい部屋の戸を開くと、わっという哄笑で迎えられた。
「ああ、これはしたり! これはしたり!」チャールズ・ベイツは叫び、その胸からは、笑いの声がほとばしり出てきた。「いるぞ、これは、これは、いるぞっ! おお、フェイギン、彼の姿を見なよ! フェイギン、あの姿を見なよ! こりゃたまらん。じつにおもしれえぞ、こりゃたまらん。だれか、おれを抑えてくれ、腹の皮をよじりぬくまでな」
この抑えられぬおかしさの爆発で、ベイツは床の上に倒れこみ、こっけいなよろこびで有頂天になって、五分間ほど、痙攣《けいれん》的に足をバタバタさせていた。それから、彼は飛びあがって立ち、ぺてん師から割った棒きれをうばいとり、オリヴァのところに近づき、グルリグルリとまわりをめぐって、彼の姿を調べはじめた。一方、ユダヤ人は、ナイトキャップをぬぎ、あっけにとられているオリヴァに何回も何回も丁重《ていちょう》なお辞儀をくりかえした。陰気な性分で、仕事となるとめったに笑うことのないぺてん師は、せっせとオリヴァのポケットをさぐっていた。
「フェイギン、あの服を見ろよ!」オリヴァに火傷《やけど》をさせるほど新しいジャケットのそばに燈《あか》りをよせて、チャーリーはいった。「あの服を見なよ! 極上の服地、すごく気取った裁《た》ち方だ! おお、大変、こいつはおもしれえぞ! それに本までもってらあ! まったく紳士さまさまだね、フェイギン!」
「坊ちゃま、りっぱなお姿になったのを拝見して、ご同慶に存じます」わざとヘコヘコお辞儀をして、ユダヤ人はいった。「その晴れ着をよごすといけませんから、ぺてん師からべつの服をおわたしするようにいたしましょう。どうしてお出でくださることを、一本手紙でお知らせねがえなかったのでしょう? なにか温かい夕食でも準備いたすところでしたのに……」
これを聞いて、ふたたびベイツはわっと笑いこけ、その声があまり大きかったので、フェイギンの顔までほころび、ぺてん師さえニヤリとしたほどだった。が、この瞬間に、ぺてん師は五ポンドの紙幣を引っぱりだしたので、彼の笑いを起こしたのは、その冗談か、あるいはこの発見かをきめるのは、ちょっと困難だった。
「おい! それはなんだ?」ユダヤ人がその紙幣をつかんだとき、サイクスはさっと出てきてたずねた。「フェイギン、それはおれのもんだぞ」
「ちがう、ちがう」ユダヤ人は応じた。「わしのもんさ、ビル、わしのもんさ。おまえには本をやろう」
「それがおれのもんじゃないんだって!」きっとした態度で帽子をかぶって、ビル・サイクスはいった。「そいつはおれとナンシーのもんさ。さもなけりゃ、この坊主は連れ帰してしまうからな」
ユダヤ人ははっとした。それとはとてもちがった理由からではあったが、オリヴァもはっとした。このあらそいで、最後は自分が連れもどされることになるかもしれない、と彼は考えたからである。
「さあ! わたせ、どうだ?」サイクスはいった。
「これはひどいな。ひどいよ。そうじゃないかい、ナンシー?」ユダヤ人はたずねた。
「ひどかろうが、ひどくあるめいが」サイクスはやりかえした、「とにかく、それをわたせ! おめえがとっつかまえる餓鬼《がき》を追いまわし、そいつをさらうこと以外に、この大切な時間のつぶしようがないとでも、ナンシーとおれのことを思ってるのか? さあ、この強欲《ごうよく》な老いぼれの骸骨《がいこつ》め、そいつをわたせ。さあ、ここによこせ!」
こうしたおだやかな抗議をして、サイクス氏はユダヤ人の人さし指とおや指のあいだからその紙幣をとり、老人の顔をまともに冷静に見すえながら、それをこまかにたたみ、ネッカチーフの中にしまいこんだ。
「これは、おれたちの骨折り賃さ」サイクスはいった。「その半分にもたりねえくらいだ。もし本を読みたかったら、その本はそっちにとっときな。その気がなかったら、売りとばすんだな」
「とてもきれいな本だな」チャーリー・ベイツはこういったが、彼はしかめっ面《つら》をいろいろにつくって、問題の本のうちの一冊を読むふりをしていたのだった。「オリヴァ、美しい本じゃねえか?」自分を苦しめている人たちをオリヴァがながめている当惑した表情をながめて、敏感な滑稽《こっけい》感の持ち主のベイツは、前よりもっとさわがしい有頂天の発作におちいった。
「それは、あの老紳士のものです」手をしぼりながら、オリヴァはいった。「熱で死にそうになったとき、ぼくを自分の家に入れてくれ、ぼくを看護させた、あの人のよい、親切な老紳士のものです。おお、おねがいです、その本をあの人に送りかえしてください。本とお金をかえしてください。ぼくは、生涯ここにおかれてもかまいません。でも、どうか、どうか、それはかえしてください。老紳士は、ぼくがそれを盗んだと思うでしょう。あの老婦人――ぼくにとても親切にしてくれたみんな――は、ぼくがそれを盗んだと思うでしょう。おお、後生《ごしょう》だから、それを送りかえしてください!」
激しい悲しみをこめて語られたこうした言葉とともに、オリヴァはユダヤ人の足下にひざまずき、すっかり絶望感に打たれて、手を打ち合わせていた。
「この少年のいうとおりだ」まわりをそっと見まわし、もしゃもしゃ毛の生えた眉をかたい結び目のようによせて、フェイギンはいった。「オリヴァ、おまえのいうとおりだぞ、そのとおりだ。彼らはおまえが盗んだと思うだろう。はっ! はっ!」手をすりあわせて、ユダヤ人はクスクスッと笑った。「時機をねらったにしても、これほどうまくはいかなかったろうな」
「むろん、そうさ」サイクスは答えた。「本をかかえてやつがクラークンウェルをやってきたときすぐ、おれはそう考えたんだ。うん、うまくいったのさ。やつらは心のやさしい信心家、さもなけりゃ、やつを家に入れるわけはねえからな。それに、やつをさがしまわることも、しねえだろうよ、告発して、やつを監獄にたたきこむことになるのもいやだろうからな。やつのことは、もう心配ねえさ」
こうした言葉が語られているとき、まるで自分が混乱し、まわりで起こっていることがわからぬようなようすで、オリヴァは、みなの顔をつぎからつぎへと見わたした。だが、ビル・サイクスの話が終わったとき、彼は急にパッと立ちあがり、ガランとした陋屋《ろうおく》の屋根までひびく、助けてえ、という悲鳴をあげ、部屋からすごい勢いで走りだした。
「ビル、犬をつかまえて!」ユダヤ人とその二人の弟子が追跡に飛びだしたとき、扉の前に走りより、それを閉めて、ナンシーは叫んだ。「犬を外に出さないで! あの犬はあの坊やを噛みくだいてしまうことよ」
「当然の罰というもんさ」だきつく女から身をはなそうともがきながら、サイクスは叫んだ。「おれにさわるな。さもなけりゃ、てめえの頭を壁にたたきつけてやるぞ」
「そんなこと、かまわないわ、ビル、かまわないことよ」男と激しくあらそって、女は金切り声で叫んだ。「あの子を犬にズタズタにさせるんなら、それより先に、あたしを殺してちょうだい」
「それをしてはいけないだって!」歯がみをしながら、サイクスはいった。「おれをはなさなけりゃ、それをしてやるぞ」
この盗人が女をふりはなして部屋の向こうに放りだしたとき、ユダヤ人と二人の少年がオリヴァを引きずりながら、もどってきた。
「これは、どうしたことだい?」あたりを見まわして、フェイギンはたずねた。
「あの女、どうやら気がくるったらしいんだ」サイクスは激しい調子で答えた。
「いいえ、そんなことはありませんよ」つかみあいで息を切らせ、青くなって、ナンシーはいった。「いいえ、そんなことはありませんよ、フェイギン。そうは考えないでちょうだい」
「そんなら、だまってたらどうだ?」おそろしい剣幕で、ユダヤ人はいった。
「いいえ、だまってもいませんよ」声を大きくして、ナンシーは答えた。「さあ、声を大きくしたけど、これをどう思う?」
フェイギン氏はナンシーが属しているあの女性という特殊な種族の風俗習慣を十分に心得ていて、彼女相手の話をこれ以上ながびかせたら危険、と感じていた。一座の人たちの注意をそらそうと、彼はオリヴァのほうにからだを向きなおらせた。
「するとおまえは逃げだしたかったわけだな?」炉の隅にあったこぶだらけの棍棒《こんぼう》をとりあげて、ユダヤ人はいった。「そうかい?」
オリヴァはなんの返事もせず、ユダヤ人の仕草をただジッと見守り、激しい息づかいをしていた。
「助けを求め、警察を呼ぼうとしたんだろうな?」少年の腕をとらえて、ユダヤ人はせせら笑った。「この坊主め、わしがそいつをなおしてやろう」
ユダヤ人は棍棒《こんぼう》でしたたかオリヴァの肩を打ちすえ、ついで第二撃を加えようとしたとき、例の若い女が飛びだしてきて、棍棒《こんぼう》を彼の手からうばってしまった。彼女はそれを炉の中に投げこんだが、その勢いはそうとう激しく、燃えた石炭の粉が部屋に舞いあがるほどだった。
「あたしがわきにいて、そんなことはさせるもんか、フェイギン」この女は叫んだ。「あの子供をつかまえたのに、それ以上、なにを望むの?――手を出しちゃだめ――手をだしちゃだめ――さもないと、この若さであたしが絞首台送りになるひどいしるしをだれかにつけてやるからね」
こうして脅《おど》しをきかしたとき、この女は激しく床を踏みしめ、唇をかたく結び、両手をにぎりしめて、ユダヤ人ともう一人の盗人を交互ににらみつけたが、その顔はしだいにたかまっていく怒りの興奮で真《ま》っ青《さお》になっていた。
「いやあ、驚いた、ナンシー!」ちょっと間《ま》をおいたあとで――そのあいだに、彼とサイクス氏はいかにも狼狽《ろうばい》したふうに顔を見合わせていたのだが――機嫌とりの口調で、ユダヤ人はいった。「おまえは――今日の晩は、ふだんよりもっとみごとな演技ぶりだったよ。はっ! はっ! おまえの演技はみごとなもんだよ」
「そう?」女はいった。「その演技をあたしがやりすぎないように、注意したほうがいいことよ。それをすれば、フェイギン、損をするのは、おまえさんのほうなんだからね。だから、早いとこ、あたしから注意してあげとこう、あたしにはさわらないほうがいいんだよ」
どんな男にも、いきり立つ女をそそのかそうとはせぬあるものがひそんでいるが、その怒りに向こうみずと絶望の激しい衝動がそえられたとき、それは特にそうである。ナンシー嬢の怒りの原因についてこれ以上誤解をよそおっても、それがむだなことを、ユダヤ人はさとり、われ知らず数歩後ずさりして、話をこの先つづけるのはサイクスが最適といわんばかりに、半ば懇願的、半ば臆病そうなまなざしで彼をながめた。
サイクス氏は、こうたのみこまれ、自分の誇りと権威がナンシー嬢をとり静めることにあり、とおそらく感じたのであろう、何回も何回もののしりと強迫の叫びをあげたが、こうしてすみやかにそうした言葉をはいたことは、いかに彼が発明の才に恵まれているかを物語るものだった。しかし、そうしたののしりが相手になんの効果もあげなかったので、彼はもっと確実な議論の方法をとることになった。
「こんなことして、そいつはなんのつもりなんでえ?」とサイクスはたずねたが、この言葉の応援として、人間の顔形のうちでもっとも美しい目についてののろいの言葉がそえられていた。ついでながら、もしこの言葉が地上で語られる五万回のうち一回でも天にとどいたら、盲目は|はしか《ヽヽヽ》と同じようにふつうの病気になったことだろう。「そいつはなんのつもりなんでえ? こん畜生! おめえがだれか、どんな立場にある女か、おめえは知ってるのか?」
「ええ、ええ、みんな知ってることよ」ヒステリックに笑い、無関心をへたによそおって、頭を横にふりながら、女は答えた。
「うん、そんなら、静かにしてろ」犬にいつも使っているうなり声を立てて、サイクスはやりかえした。「さもなけりゃ、これから先ながいこと、おめえをだまらせてやるからな」
女は前よりもっと落ち着きを失って、ふたたび笑い、ソワソワしたまなざしをサイクスに投げ、面《おもて》をそむけ、血がにじむほど下唇をかたく噛んだ。
「おめえは感心なやつさ」軽蔑したように彼女をジロジロながめて、サイクスはいいそえた。「やさしくお上品な側に味方するとはな! おめえのいうあの子が味方にするには、打ってつけの代物《しろもの》さ!」
「まったく、そのとおりよ!」女は激しく叫んだ。「あの子をここに連れてくるのに手を貸すくらいなら、自分自身が道で打ち殺されるか、さもなけりゃ、今日《きょう》の晩その近くをとおったあの人たちにかわったほうがいいくらいよ。あの子は今晩から泥棒、うそつき、悪魔、すべてのわる者《もん》になるのよ。それでもう、あの老いぼれには十分じゃないのかしら、べつになぐらなくってもさ」
「さあ、さあ、サイクス」ユダヤ人は、いかにも困るといった態度で彼に訴え、できごと一切を熱心に見守っていた少年たちのほうに身ぶりをして、いった。「わしたちは丁寧《ていねい》な言葉を使わにゃならんのだよ――丁寧《ていねい》な言葉をな、ビル」
「丁寧《ていねい》な言葉だって!」はた目にもおそろしいふうに怒りたって、女はいった。「丁寧《ていねい》な言葉だって、この悪党め! そう、おまえはあたしからそうした言葉を受けてもいいわけね。この子の半分の齢《とし》にもならないときから、あたしはおまえのために盗みをしたんだからね」彼女はオリヴァをさしていった。「それから十二年間、あたしの商売は少しも変わらず、同じ主人づとめをしていたわね。それを知らないのかい? さあ、お答え! それを知らないのかい?」
「わかった、わかった」なだめようとして、ユダヤ人は答えた。「だが、そうだとしても、それは、おまえの暮らしの道なんだぜ!」
「ええ、そうよ!」話すというより、激しい叫びの連続で言葉をはきちらすようにして、女はやりかえした。「それがあたしの暮らしの道よ、それに、寒い、ジメジメした、きたない通りが自分の家になってね。そして、ながいこと、昼も夜も、昼も夜も、あたしが死ぬまで、あたしをずっとそこに追いたてる当人は、おまえ自身なんだよ!」
「ひどい目にあわせるぞ!」こうした非難にむっとして、ユダヤ人は言葉をさえぎった。「これ以上そんなことをいうと、もっとひどい目にあわしてやるぞ!」
若い女は、もうなにもいわず、狂乱状態で髪と服をむしりながら、すごい勢いでユダヤ人に飛びかかっていった。もし彼女の腕首が、ちょうど間《ま》に合って、サイクスにつかまれなかったら、これはきっと、ユダヤ人に復讐のひどいあざをつくりだしたことだろう。彼に腕首を抑えられると、彼女はなんの効《かい》もなくちょっと身もだえし、それから気を失ってしまった。
「これで、この女は大丈夫だ」彼女を隅に寝かせて、サイクスはいった。「ああして飛びかかると、あの女の腕っ節《ぷし》、すごく強いもんだな」
ユダヤ人は額《ひたい》をぬぐい、さわぎが終わってやれやれといったようすで、ニヤリとした。だが、彼も、サイクスも、犬も、少年たちも、これを商売につきものの、べつに珍らしくもない事件と考えているようすだった。
「こいつが、女を相手にするとき、いちばん厄介《やっかい》なことなんだ」棍棒《こんぼう》をもとにかえして、ユダヤ人はいった。「だが、女どもは利口なもんでな、女がいなけりゃ、商売はやってけねえんだ。チャーリー、オリヴァを寝台に案内してやれ」
「明日、あの晴れ着は着ないほうがいいんじゃないかい、フェイギン?」チャーリー・ベイツはたずねた。
「むろん、そうだ」チャーリーがニヤリと笑ってした質問に、同じようにニヤリと笑って答えて、ユダヤ人は応じた。
この役目をひどくよろこんでいるふうのベイツは、割った捧切れをとりあげ、オリヴァをとなりの台所に連れていったが、そこには、彼が前に眠ったことのある二、三台の寝台があり、ベイツは抑え切れぬ笑い声を立てて、オリヴァがブラウンロウ氏の家でそれから逃れたのをとてもよろこんでいた例のぼろ服を引っぱりだしてきた。このぼろ服が、偶然それを買いとったユダヤ人によってフェイギンに示され、それがオリヴァの所在を知る最初のきっかけになったのだった。
「そのハイカラな服は脱ぎな」チャーリーはいった。「フェイギンにわたして、大切にしまっといてもらおう。まったく、こいつはおもしれえぞ!」
あわれなオリヴァは、いやいやながら、これに応じた。ベイツはその服をまいて小脇にかかえこみ、オリヴァを暗闇に残して、戸の錠をかけ、部屋を出ていった。
チャーリーのひどく大きな笑い声、それに、たまたま好都合に帰ってきて、ナンシーの回復のために、その顔に水をかけたり、そのほかの女らしい世話をしていたベッツィー嬢の声は、オリヴァよりもっと恵まれた環境にある人々を眠らせはしなかったであろう。だが、彼は病気でつかれていたので、ぐっすりと眠りこんでしまった。
[#改ページ]
十七 オリヴァの運命は不幸つづき、彼の評判を傷つけるために、偉大なる人物がロンドンにやってくる
縞《しま》のついたベーコンの側面に赤と白の層があるように、悲劇と喜劇がきちんと入れかわりになって示されることが、血なまぐさいメロドラマの傑作では、舞台上の慣習になっている。主人公は足かせと不幸の重荷でぐったりとし、わらの床にくずおれ倒れる。つぎの場面では、それを知らぬ忠実な家来が喜劇的な歌で観客を大いに楽します。傲慢で無情な男爵にとらえられた女主人公がその貞操も生命も危くなって、命を代償に操を守ろうと短剣を抜くところを、われわれは胸をワナワナさせながら見ている。観客の期待が最高潮に達したとき、笛が一吹き吹き鳴らされ、われわれはすぐに城の大広間にうつされる。そこでは灰色の頭をした家老が、奇妙なコーラスを、それよりもっと奇妙な家臣の一団と歌いだす。この家臣たちは、教会の納骨堂から宮殿まで、どこにでも自由に出没し、たえず楽しげに歌を歌い、群れをなしてさまよい歩く。
こうした変化はバカらしく見えるが、事実は、一見してそう思うほど不自然なものではない。盛りだくさんな食卓から死の床へ、葬儀の服から祭りの晴れ着へと現実生活でうつってゆくのは、いささかも驚くべきことではなく、ただそこで、われわれは、受動的な観客の立場からいそがしい役者に変わるまでのこと、そして、この変化がじつに大きな相違をきたすことになる。物まね芝居の役者は情熱、あるいは感情の激しい変転・唐突な衝動に盲目で、単なる観察者の目の前にうつしだされると、それは、ただちにひどい、途方もないものとして、非難を受けることになる。
場面の急激な移り変わり、時と場所の急速な変化は、本の場合に、ながい慣習によって認められているばかりでなく、著者の腕の見せどころと考えられているが――こうした批評家によれば、作者の腕は、章の終わりに作者が登場人物をおとしこむ苦境によって、主として判断されるのだが――そうした事情に関するこの章の簡単な前置きは不必要と思われるかもしれない。もしそうだとすれば、読者は、オリヴァ・トゥイストが生まれた町へまっすぐ連れてゆかれることを、この物語の語り手がそこはかとなくお知らせしたものとして、ご解釈ねがいたい。読者は、そうした旅をするりっぱな筋が当然あるものと考えるべきである。そうでなかったら、こうした旅行に読者をさそうことは起こり得ないのだから。
ある朝早く、バムブル氏は貧民院の門から飛びだし、威厳ある態度と堂々とした足どりで大通りをノッシノッシと進んでいった。彼は教区吏員の身分の最高潮の華かさを示していた。彼の三角帽と上衣は陽光にギラギラと輝き、健康と権力のたくましさで、ステッキをにぎりこんでいた。バムブル氏はいつも頭《ず》を高くしている人物だったが、今朝、それはいつもよりもっと高くなっていた。目には茫然《ぼうぜん》とした気配、態度には昂然としたところがあって、観察力のある見知らぬ人がこれを見たら、この教区吏員の心中に言葉ではいいつくせぬ偉大な考えがわき起こっていることを知らせたであろう。
バムブル氏は、進んでゆく途中、立ちどまって、うやうやしく話しかけてきたつまらぬ店主やその他の人と話すようなことはしなかった。彼はただ手をふって彼らの挨拶に答えただけ、その堂々たる歩調は変わらず、ついに彼は、マン夫人が教区の配慮で貧乏人の子供たちを預かっている幼児預かり所に到着した。
「いやな教区吏員のやつ!」よく知っている庭の門をゆする例の物音を耳にして、マン夫人はいった。「朝っぱら、こんなときにやってくるのは、あの男にきまってるよ! まあ、バムブルさん、おいでくださったのが、あなただなんて! まあ、まあ、ほんとうにうれしいことですわ! さあ、どうぞ客間におはいりください」
この最初の言葉はスーザンに話したもの、そして、よろこびの間投詞の連続は、マン夫人が庭の門の錠をはずし、細心の注意をはらってうやうやしく彼を家の中に連れこんだとき、バムブル氏に語られたものだった。
「マン夫人」つまらぬきざなしゃれ男が坐席にドシンと腰を落とすのとはことちがい、暫時《ざんじ》ゆっくりと椅子に身を沈めて、バムブル氏はいった。「マン夫人、お早う」
「まあ、お早うございます」ニコニコ満面|笑《え》みをたたえて、マン夫人は答えた。「あなたはお元気でしょうね?」
「まあ、まあね、マン夫人」教区吏員は答えた。「教区の生活は薔薇《ばら》の床とは申せませんからな、マン夫人」
「ああ、まったくそのとおりですわ、バムブルさん」夫人は応じた。もし子供の収容者たちがこの返事を聞いたら、彼らはそれに声を合わせたことだったろう。
「夫人、教区の生活は」テーブルをステッキでたたいて、バムブル氏はつづけた。「悩み、焦燥、苦難の生活でしてなあ。だが、公務にたずさわる者はみな、まあ、迫害に苦しめられねばならんのです」
マン夫人は教区吏員がいおうとしていることがわからず、いかにも同情したふうに両手をあげ、溜《た》め息をもらした。
「ああ、あんたが溜《た》め息をもらすのも、当然のこってすな、マン夫人!」教区吏員はいった。
偶然ながら的ははずさなかったとさとって、マン夫人はまた溜《た》め息をもらしたが、これは明らかに、公務にたずさわる者にとっては満足のゆくことだった。この公務員は、三角帽をきびしくにらみつけることでわき起こる満悦の微笑をグッと抑えて、こういった――
「マン夫人、わしはロンドンへいってきますぞ」
「まあ、バムブルさん!」びっくりして、マン夫人は叫んだ。
「ええ、ロンドンへね」剛直な教区吏員はつづけた。「駅馬車で。わたしと収容者二人でね、マン夫人! 貧民の定住期間について、裁判が開かれるんですが、委員会はわし――わしですぞ、マン夫人――を任命して、クラークンウェルで開かれる四季裁判でそのことを証言させることになったんです。そして、たぶん」グイッと身をそらせて、バムブル氏はいいそえた。「クラークンウェルの四季裁判所は、わしの証言が終わらぬうちに、大変なまちがいをしでかしたと思うことでしょうよ」
「おお、裁判所にあまり強く当たってはいけませんよ」なだめるようにして、マン夫人はいった。
「それも、クラークンウェルの四季裁判所の身から出た錆《さび》というもんですな、夫人」バムブル氏は答えた。「そして、クラークンウェルの四季裁判所が思ったほどうまくゆかんと気がついても、クラークンウェルの四季裁判所は、お礼を言おうにも自分しかないといった仕儀ですわ」
バムブル氏がこうした言葉を語ったいかめしい態度には、多大の決意と意図の深さがひめられていたので、マン夫人はそれに完全に圧倒されたようだった。とうとう彼女はいった――
「駅馬車でお出でになるんですね。収容員は荷馬車で送るのがふつうかと思ってましたけど……」
「マン夫人、それは病気のときのこってす」教区吏員はいった。「雨の日には収容員はおおいのない荷馬車に乗せるんです、風邪《かぜ》をひかんようにとね……」
「まあ!」マン夫人はいった。
「競争相手の駅馬車がこの二人の契約をしてくれましてな、安く乗せてくれるんです」バムブル氏は説明した。
「彼らは健康状態が非常にわるく、それを埋葬するより移管したほうが二ポンド安あがりになるんです――というのは、われわれへの仕返しに、やつらが道中死んだら話はべつで、他の教区にやつらを放りだした場合には、ということなんですがね。そして、この移管はきっとうまくいくと、わしは思ってるんです。はっ! はっ! はっ!」
しばらくのあいだ、バムブル氏が笑っていたとき、彼の目はふたたび三角帽にゆき当たり、重々しい態度に彼はひきもどされた。
「仕事のことを忘れてましたな、夫人」教区吏員はいった。「これが今月のあんたの俸給です」
バムブル氏は、紙入れから紙にまるめたいくらかの銀貨を引きだし、受領書を請求し、マン夫人はそれを書いた。
「ずいぶんきたなくなっちまいましたけど」幼児預かり人のマン夫人はいった、「でも、型どおりのもんだとは思います。バムブルさん、ありがとう、お礼を申しますよ」
バムブル氏は、マン夫人のお辞儀をそれと認めて、おだやかにうなずき、子供たちはどうか、とたずねた。
「ありがたいことです!」マン夫人は感動をこめていった。「とっても元気です! もちろん、先週死んだ二人の子供と、それにディック坊やはべつですけどね」
「あの少年はよくなってはいないのかね?」バムブル氏はたずねた。
マン夫人は頭をふった。
「やつは性根《しょうね》のわるい、悪意のある、いけない教区の子供だ、あいつは」怒ってバムブル氏はいった。「やつは、どこにいる?」
「すぐにお連れしますよ」マン夫人は答えた。「さあ、ディック!」
しばらく呼んだあとで、ディックが見つかった。ポンプの下で顔を洗い、マン夫人のガウンでそれをふかれて、彼はおそろしい教区吏員バムブル氏の面前に引きだされてきた。
少年は顔を青ざめさせ、痩《や》せていた。その頬《ほお》はくぼみ、目は大きく輝いていた。自分の貧困を物語るお仕着せの教区支給の服は、彼の弱々しいからだにダラリとさがっていた。そして、彼の若い肢体は、老人のように、やつれ果てていた。
バムブル氏の視線のもとでふるえ、床から目をあげることもできず、教区吏員の声を聞くことさえこわがってふるえていた子供の状態は、こうしたものだった。
「この意怙地《いこじ》者、おまえはあの紳士のかたを見ることもできないのかえ?」マン夫人はたずねた。
子供はオズオズと目をあげ、バムブル氏の目と出会った。
「教区《パローキァル》(パローキァルには「偏狭な」の意がひそんでいる)の子供のディック、具合いはどうだね?」じつに間のいい冗談をとばして、バムブル氏はたずねた。
「べつにどうでも」かすかに子供は答えた。
「そうでしょうとも」もちろん、バムブル氏のしゃれに声を立てて笑っていたマン夫人はいった。「なにも不足はさせてませんからね」
「ぼくはおねがいしたいんですが――」どもりながら、子供はいった。
「まあ!」マン夫人は口を突っこんだ。「あんたはいま、なにか欲しいといおうとしたのね。まあ、この餓鬼《がき》が――」
「やめっ、マン夫人、やめなさい!」権威あるふうに手をあげて、教区吏員はいった。「なにが欲しいのかい、えっ?」
「ぼくはおねがいしたいんですが」子供はどもっていった、「だれかものを書ける人に、ぼくのために、ほんのちょっとした言葉を紙に書いてもらい、それをたたみ、封印をし、ぼくが埋められたあと、ぼくのために、それをとっておいてほしいんです」
「いや、これはなんのこった?」バムブル氏は叫んだが、この子供の真剣な態度と青ざめた顔は、それに馴れていたとはいえ、彼に強い印象を与えずにはいなかった。「それはなんのこったね?」
「ぼくは、あのかわいそうなオリヴァ・トゥイストにぼくからの挨拶の言葉を残したいんです」子供はいった。「だれも友だちがいなくて彼が暗い夜の中をさまよい歩いているのを考え、ぼくが一人で坐ってどんなに泣いたか、彼に知らせてやりたいんです。それに、知らせてやりたいんです」その小さな手をしっかりと結び、ひどく熱をこめて話しながら、子供はつづけた、「とても幼いときに死ぬのを、ぼくはよろこんでいると、知らせたいんです。だって、もしぼくが大人になるまで生き、年よりになったら、天国にいるぼくの妹はぼくを忘れてしまうか、ぼくに似ないものになってしまうでしょう。それに、二人とも子供でいっしょに天国にいたほうが、ずっと幸福でしょうからね」
バムブル氏は、得《え》もいえぬ驚きで、この子供の語り手を頭の上から足の先までながめまわし、マン夫人のほうに向いていった。「やつらはみんな同じ手合いですな、マン夫人。あの図々しいオリヴァが、彼ら全員を堕落させちまったんです!」
「この話を聞かなかったら、信じられないことですわ!」両手をあげ、悪意をこめてディックをにらみつけながら、マン夫人はいった。「こんなに意怙地《いこじ》な餓鬼《がき》って、見たことがありませんよ!」
「夫人、この子を向こうに連れてゆきなさい」バムブル氏は高飛車な調子で命じた。「これは、マン夫人、委員会に報告せねばなりませんな」
「わたしに落度《おちど》はないことを、みなさんはわかってくださるでしょうね?」悲しげに鼻をシクシクいわせて、マン夫人はたずねた。
「委員会にわかってもらうようにしてあげますよ。委員会にはことの実情を知らせねばなりませんからな」バムブル氏はいった。「さあ、彼を連れてゆきなさい。こんなやつの姿は見てもおれんからね」
ディックはすぐに連れだされ、石炭小屋に閉じこめられた。バムブル氏は、その後|間《ま》もなく、旅行の準備をするために、ここを立ち去った。
翌朝六時にバムブル氏は三角帽をまるい帽子に替え、肩マントのついた青い大|外套《がいとう》を着け、その定住地が紛争の種になっている二人の犯罪人をともなって、駅伝馬車の階上の所定の席におさまり、やがてロンドンに到着した。彼は、道中、この二人の貧民の片意地な態度から発する妨害以外には、なんの妨害も受けなかった。というのも、彼らは、これはバムブル氏がいっていたのだが、大|外套《がいとう》を着ていながらも彼に歯を鳴らさせ、気持ちをわるくするようないやな態度で、身をふるわせ、寒さを訴えつづけていたからであった。
こうした兇悪な者たちをやすませてから、バムブル氏は駅馬車がとまった宿屋で腰をおろし、ビフテキ、かきソース、黒ビールといったささやかな夕食をとった。熱くした水割りジンを一杯炉かざりの上に乗せて、彼は椅子を火のところに引きよせ、不満・不平のおびただしいこの世の罪についてさまざまの教訓的な想いをこらして、新聞を静かに読みはじめた。
バムブル氏の目が最初にとまった言葉はつぎのような広告記事だった。
賞金五ギニー
木曜日夕刻、名はオリヴァ・トゥイストなる少年、ペントンヴィルの家より失踪、あるいは誘拐《ゆうかい》され、その後、消息不明。このオリヴァ・トゥイストの発見の端緒《たんちょ》になり、あるいは、広告人が多大の関心をいだくその前歴に関し、多少とも光を投げる情報をもたらした人には、何人にせよ、右の金額を贈呈する。
そのうしろに、オリヴァの服、からだつき、外貌、その出現、失踪の顛末《てんまつ》の一切が記され、ブラウンロウ氏の住所氏名がはっきりとそえられてあった。
バムブル氏は目をかっと開き、この広告をゆっくりと注意深く三回読み、それから五分少しして、興奮のあまり、熱くした水割りジンを飲むのも忘れて、ペントンヴィルに向けて出発した。
「ブラウンロウ氏は家においでですか?」戸を開いた少女にバムブル氏はたずねた。
この質問にたいし、その少女は、「知りません。どこからおいでです?」というよくある、つかみどころのない返事をした。
バムブル氏が、自分の用事の説明のために、オリヴァの名を口にするかしないかに、客間の戸のところで耳を澄《す》ませていたベドウィン夫人は、息もつけない状態になって、廊下に急いで出てきた。
「おはいりなさい――おはいりなさい」老婦人はいった。「なにか彼の消息はあるものと思っていました。かわいそうに! 消息はあるものと思っていましたよ。それを確信していました。あの子に祝福が授かりますように! わたしはずーっといつもそれを口にしていたのです」
こういって、このりっぱな老婦人はあわただしく客間にもどり、ソファの上に腰をおろして、わっと泣きだした。それほど感受性の強くない女中は、そのあいだに、二階にかけあがり、バムブル氏を案内せよという命令を受けてもどり、バムブル氏は彼女についていった。
彼は小さな裏の書斎に案内されたが、そこには、ブラウンロウ氏とその友人グリムウィグ氏が、前に葡萄酒《ぶどうしゅ》のびんとコップをおいて坐っていた。グリムウィグ氏はすぐ大声で叫びはじめた――
「教区吏員だ! 教区吏員だ! そうじゃなかったら、わしは自分の頭を食ってしまうぞ」
「どうか、いま邪魔をせんでくれたまえ」ブラウンロウ氏はいった。「どうぞお坐りください」
バムブル氏は、グリムウィグ氏の態度の奇怪さに度肝をぬかれて、腰をおろした。ブラウンロウ氏は、はっきりとこの教区吏員の顔を見すえるために、ろうそくを移動させ、それから、ちょっとイライラしながら、こういった――
「さて、新聞の広告を読んでおいでになったのですな?」
「はあ」バムブル氏はいった。
「そして、おまえは教区吏員だな、そうだろう?」グリムウィグ氏はたずねた。
「みなさん、わたしは教区の吏員です」傲然としてバムブル氏は応じた。
「もちろん」グリムウィグ氏は、友人にそっといった、「わしはそうと知っていたんだ。どこからどこまで、教区吏員だからな」
ブラウンロウ氏は静かに頭をふって友人に沈黙を命じ、話をつづけた――
「あのかわいそうな少年がどこにいるかをご存じですか?」
「ぜんぜん知りません」バムブル氏は答えた。
「では、彼について、どんなことをご存じなんです?」老紳士はたずねた。「なにか話していただけることがあったら、どうかお話しください。彼について、どんなことをご存じなのです?」
「彼のよいことは、なにも知らんのだろう、どうだい?」バムブル氏の顔をためつすかしつながめてから、グリムウィグ氏は辛辣《しんらつ》にいった。
バムブル氏はその質問をさっととらえ、不吉な重々しさをこめて、頭をふった。
「どうだ、わかったろう?」誇《ほこ》らしげにブラウンロウ氏をながめて、グリムウィグ氏はいった。
ブラウンロウ氏は心配そうにバムブル氏のしかめた顔をながめ、オリヴァに関して知っていることを、できるだけ簡単に伝えるように、彼にたのんだ。
バムブル氏は帽子をおき、上衣のボタンをはずし、腕組みをし、むかしを思い出すしぐさで頭をかたむけ、しばらく考えこんだあげく、その話をしはじめた。
この教区吏員の話は、話すのに約二十分もかかったのだから、彼の言葉をそのままここに伝えたら、退屈なものになるだろう。だが、その要点はつぎのとおりになる。オリヴァはいやしい、腹の黒い両親から生まれ、生まれたとき以来、いかさま、忘恩、悪意以上のよい性格を示したことはない。罪のない若者を狂暴、卑怯にも襲い、主人の家から夜逃げだして、その出生地での短い経歴に終止符を打った。バムブル氏は、彼自身の述べている身分の証しにと、彼がロンドンに持参した書類をテーブルの上にならべ、また腕組みをして、ブラウンロウ氏の発言を待った。
「その話は、真実すぎるほど真実の話でしょう」書類を見とおしてから、老紳士は悲しげにいった。「このお礼は、あなたのお知らせにたいして、わずかなものです。それがあの少年に好都合のものだったら、この金額は三倍にしても惜しくはないのですがねえ」
この会見のもっと早い時期にバムブル氏がこのことを知っていたら、オリヴァの物語はもっと色彩のちがったものになっていただろうというのは、十分に考えられることである。しかし、それをするには、時期がもうおそすぎた。そこで彼は重々しく頭をふり、五ギニーの金をふところにして、退去していった。
ブラウンロウ氏は、数分間、部屋をあちらこちら歩きまわっていたが、この教区吏員の話でひどく驚いていることは明らかで、グリムウィグ氏さえ、彼をこれ以上いらだたせるのを差しひかえていた。
とうとう、彼は足をとめ、荒々しくベルを鳴らした。
「ベドウィン夫人」家政婦が姿をあらわしたとき、ブラウンロウ氏はいった。「あのオリヴァという少年は、いかさま師だよ」
「そんなはずはありません。そんなはずはありません」老婦人はきっぱりといいきった。
「いや、そうなのだ」老紳士はやりかえした。「はずはないときみはいっているが、それはどういうことなのかね? われわれはたったいま、彼の誕生以来の話を十分に聞いたのだが、彼はずっと徹底的な小悪党だったのだ」
「わたしは絶対にそれを信じませんよ、旦那さま」老婦人はしっかりと答えた。「絶対に信じません!」
「きみたち、お婆さん連は、藪《やぶ》医者と嘘《うそ》っぱちの物語以外にはなにも信じないんだな」グリムウィグ氏はうなった。「そいつは、よーくわかってるさ。どうして最初にわしの忠告どおりにしなかったんだい? 熱病にかかってなかったら、忠告どおりにした、と言うんだろう、えっ? やつはなかなかおもしろい少年だったよ、そうじゃなかったかい? おもしろいだって! バカな!」こういって、グリムウィグ氏は、手をふりまわして、炉の火をかきほじった。
「あの子はかわいい、感謝の気持ちの強い、やさしい子でしたよ」ベドウィン夫人はプリプリしてやりかえした。「わたしは、子供がどういうものか、知っています、この四十年間もね。そして、それをいえない人は、子供についてなにもいう資格はないのですよ。わたしはそう考えています!」
これは、グリムウィグ氏にとって、つらい一打ちだった。彼は独身だったからである。こういっても、相手の紳士がだまりこくっているばかりなので、老婦人はツンと頭をそらせ、もう一言いってやろうと、エプロンのしわをのばしたとき、彼女はブラウンロウ氏にそれをとめられてしまった。
「だまりなさい!」心に感じてもいない怒りをよそおって、老紳士はいった。「これから先、あの少年の名前は一切口にせぬように。わしがベルを鳴らしたのは、それを伝えるためだったのだ。どんなことがあっても、絶対に、絶対にいかん、いいかね! ベドウィン夫人、もうかえってもよろしい。このことは忘れないようにな! わしは本気でいっているのだよ」
その夜、ブラウンロウ氏の家では、みなが悲しい心をいだいていた。
親切な自分の友人たちのことを思ったとき、オリヴァの心も沈んでいた。彼らがどんな情報を耳にしたかを彼が知らなかったことは、好都合なことだった。知れば、その場で彼の心は打ちくだかれてしまったことだろうから。
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十八 オリヴァが評判のよい、ためになる友人たちとつきあって時をすごすいきさつ
つぎの日の昼ごろ、ぺてん師とベイツがいつものおきまりの仕事をしに出かけたとき、フェイギン氏はその機会をとらえて、忘恩の大罪について、オリヴァにながい説教をしはじめた。オリヴァが心づかいをしてくれる友人たちの仲間をすて、さらにもっとひどいことに、彼をとりもどすのに多大の労力と出費をかけたのに、なお逃げだそうとしている点で、彼が大それた罪をおかしていることを、彼ははっきりと証明した。
彼は、自分がちょうど間《ま》にあって助けてやらなかったら、オリヴァが空腹で死亡してしまったかもしれないときに、彼を引きとり、彼の世話をみてやった事実を大いに強調した。そしてさらに、同じ事情のもとにある、ある若い子供を救ってやったが、彼の信頼を裏切って警察に密告をくわだて、不幸にも、ある朝、オールド・ベイリーで絞首刑になった者のおそろしい、あわれな物語を話して聞かせた。フェイギン氏は、その悲劇的な結果に自分も関係があることをかくそうとはしなかったが、問題の子供が要領わるく不実を働き、そのために、彼は裁判所のある証言の犠牲になってしまったいきさつを、目に涙を浮かべて、嘆いた。その証言は、かならずしも真実のものではなかったが、彼《フェイギン》とそのすぐれた友人たちの身の安全のためには、どうしても必要なものだった。フェイギン氏は、結びの言葉として、絞首刑の不快さについて、とてもいやな感じの言葉で、それを描写し、じつに親切で丁寧《ていねい》な態度で、この不愉快な処刑にオリヴァ・トゥイストをどうしてもかけたくはない、と述べ立てた。
ユダヤ人のこの話を聞いたとき、子供のオリヴァの血は凍り、その言葉で伝えられたおそろしい脅迫を漠然と諒解した。罪のない者が罪のある者と偶然いっしょになっているとき、裁判所自身も黒白を混同してしまうことを、彼はもうすでに心得ていた。事情を不都合にも知り、あるいは、口が軽すぎる人間を殺してしまう陰険な計画がいままでに何回となくこの老ユダヤ人によってたくらまれ、実行にうつされていたことは、このユダヤ人の紳士とサイクス氏のあいだでかわされ、以前のなにか陰謀とかかわりあいのある口論の全般的な調子からみても、十分あり得ることのように、オリヴァには思われた。彼がおずおずとして目をあげ、ユダヤ人のさぐるようなまなざしに出逢ったとき、この用心深い老紳士が彼の青ざめた顔とふるえる手足にちゃんと気づき、それを楽しんでいることが、彼にはわかった。
ユダヤ人は、ニヤリと恐ろしい笑いを浮かべた。そして、オリヴァの頭を軽くたたいて、彼が静かにし、仕事に精を出せば、仲間もきっと仲よしになるだろう、と彼に伝えた。それから、帽子をとり、古いつぎはぎだらけの大|外套《がいとう》でからだをつつんで、外に出てゆき、そのあと扉の鍵をかけてしまった。
こうしてオリヴァは、その日一日中、それからの何日かの日々の大部分、家にいることになったが、それは、朝から真夜中まで人っ子一人に会わず、このながい時間をただ物思いに暮れてすごすだけだった。そして、その思いは、かならず親切な友達たち、それに、彼らが自分についてとっくのむかしにいだいているにちがいない意見にもどり、それは、彼をすっかり悲しくさせた。
一週間かそのくらいたってから、ユダヤ人は部屋の鍵をかけなくなり、彼は自由に家の中を歩けるようになった。
その家はとてもきたなかった。二階の部屋には高い木造の炉かざりと大きな扉があり、壁には羽目板がはられ、天井には蛇腹《じゃばら》がつけられていて、それは、手入れもされず、塵《ほこり》をあびて黒くなってはいたものの、さまざまに飾りたてられていた。こうした特徴から、これはずっと以前、老ユダヤ人が生まれる前には、もっとりっぱな人の住み家であり、いまは陰気でわびしいものではあっても、かつては華かで美しいものであったのだろうと、オリヴァには思われた。
蜘蛛《くも》が壁と天井の隅に巣をつくり、オリヴァがそっと部屋にはいってゆくと、ときどき、ねずみが床の上をさっと走り、おびえて、穴にかけもどっていった。こうしたものは例外で、それをのぞけば、ここには生きたものの姿も物音もなく、暗くなって、部屋から部屋へ歩いてゆくのにあきてしまったとき、彼は、ときどき、街路のそばの廊下の隅にうずくまり、できるだけ生きている人のそばによろうとし、ユダヤ人と少年たちがもどってくるまで、時を報ずる鐘の音に、その音を数えて、耳を傾け、じっとしていた。
どの部屋でも、くずれかけた鎧戸《よろいど》がしっかりと閉ざされ、それを抑えていた桟《さん》は、きちんと木枠にねじこまれていた。上のまるい穴越しにはいってくるほんのわずかな光は、部屋をいっそう陰気にし、そこを奇妙な物陰でいっぱいにしていた。外に錆《さ》びた桟《さん》のついた裏の屋根裏部屋の窓だけは、そこに鎧戸《よろいど》がなく、ここからオリヴァは、わびしげな顔をして、何時間も外をながめていた。だが、そこから見えるものは、入りくんでゴタゴタとした屋根、黒ずんだ煙突、切妻《きりづま》の端《はし》だけだった。ときおり、たしかに、灰色の頭が遠くの家の手すりの壁越しに外をながめているのが見かけられたが、それはすぐにさっと引っこめられた。オリヴァの観測所の窓は釘で打ちつけられ、長年の雨と煙でくもっていたので、こちらが見られたり聞かれたりもせずに彼ができることといえば、外のさまざまなものの形を見きわめることだけだった――といっても、彼の姿が見られたり、彼の声が聞かれたりするチャンスは、彼が聖ポール寺院の円屋根にとじこめられた場合と同様、ほとんど起こり得ぬことだった。
ある午後、ぺてん師とベイツは、その晩、外でやる仕事があったので、ぺてん師は自分の身づくろいに少し配慮を示そうという気になり(これは、公正にいって、彼の欠点では決してなかったのだが)、この意図をもって、彼は、親切にも、すぐ身づくろいの手伝いをするように、とオリヴァに命じた。
オリヴァは自分がなにか役に立てるのを大よろこびし、どんなにひどい顔でも、だれかながめる顔のあるのがとてもうれしく、道をはずさずにできることなら、自分のまわりの人たちの機嫌をどんなにしてでもとりたく思っていたので、この提案に異議なく応じた。そこで、彼はすぐその仕事にとりかかり、ぺてん師がテーブルに坐っているとき、床にひざまずいて、その足を膝にかかえようとし、ドーキンズ氏が「足の入れ物をピカにする」といっていた仕事をやりはじめた。このドーキンズ氏の言葉をふつうの言葉に変えれば、「靴をみがく」ということになるのだった。
人がテーブルの上にパイプをくゆらせながら楽々《らくらく》と坐りこみ、足を無造作《むぞうさ》にユラユラとさせ、靴をぬぐ面倒もなく、それをはく先々の心配もぬきで、まったく気持ちを乱されずに、それを掃除してもらうとき、理性をもった動物が感ずるかもしれない自由と独立の気分のためか、あるいは、ぺてん師の気持ちをやわらげたタバコのありがたみのせいか、さらにまた、彼の気分をなごやかにしたおだやかなビールの霊験あらたかなためかはわからぬが、彼はこのとき、明らかに、しばらくのあいだ、彼には珍らしいロマンスと情熱の気分にうっとりとしていた。彼は、考えこんだ顔つきをして、ややしばしオリヴァを見おろし、それから頭をあげ、やさしく溜《た》め息をついて、半ば茫然《ぼうぜん》と、半ばベイツに向かって、こういった――
「やつが|やら《プリッグ》なくって残念なこったなあ!」
「ああ!」チャールズ・ベイツは答えた。「やつは自分のためになることを知ってないのさ」
ぺてん師はふたたび溜《た》め息をもらし、チャーリー・ベイツと同様、パイプをまたすいはじめた。二人は数秒間だまってタバコをすっていた。
「|やる《プリッグ》ってなんだか、そいつは、おまえにはわからんだろうな?」悲しそうにぺてん師はいった。
「知っていると思います」目をあげて、オリヴァは答えた。「それはどろ――。あなたはそれなんでしょう、えっ?」言葉を途中で抑えて、オリヴァはたずねた。
「そうだよ」ぺてん師は答えた。「それ以外のものなんて、まっぴらさ」ドーキンズ氏は、その意見を述べてから、グイッと帽子をあみだにし、ベイツがなにか反対意見でももちだしてくれれば感謝感激といったようすで、彼のほうに目をやった。
「そうだよ」ぺてん師はくりかえした。「チャーリーもそう、フェイギンもそう、サイクスもそう、ナンシーもそう、ベッツィーもそうなんだ。みんなそうなんだ、犬までな。あの犬はいちばんの腕達者だからな」
「それに、密告の心配はいちばんないしな」チャーリーがいいそえた。
「言質《げんち》をとられちゃ大変と、やつは証人台でワンともいわんさ。そこにしばりつけ、二週間も食いものをやらなくったって、しゃべりはするもんか」ぺてん師はいった。
「ぜんぜんいいっこなしだね」チャーリーは応じた。
「やつはおかしな犬さ。仲間といっしょにいると、どんな知らぬ男が笑ったって歌ったって、おっかない顔もしないんだからな!」ぺてん師は語りつづけた。「バイオリンの音を聞いたって、うなりもせん! 自分とはちがう犬も憎みもせずにな! うん、まったくそうなんだ!」
「やつは徹底した紳士さ」チャーリーはいった。
この言葉は、単にこの犬の讃辞のつもりでいわれたものだったが、ベイツがそれと気づいていたら、べつの意味でも、それは適切な言葉だった。徹底的な紳士淑女と称しているりっぱな紳士淑女が世の中にはたくさんいて、この彼らとサイクス氏の犬とのあいだには、じつに驚くべき相似点がいくつかあったからである。
「うん、うん」こうぺてん師はいい、彼の行動すべてを動かしている職業意識で、わき道にそれた話をもとにもどしていった。「そんな話は、この青小僧とは関係のないこった」
「そうさ」チャーリーはいった。「どうして、オリヴァ、おまえはフェイギンの子分にならないんだい?」
「そしてすぐに身上《しんしょう》をつくるってえわけか?」ニヤリと笑って、ぺてん師はいいそえた。
「そして、これはおれもするつもりなんだけど、その財産をもとにして引退し、四年向こうのつぎの閏《うるう》の年か、四十二回目の聖霊降臨祭の火曜日には、お上品な暮らしをおっぱじめることもできるんだぜ」
「ぼくは、いやなんです」おずおずしながら、オリヴァは答えた。「ぼくを放してくれたらいいのになあ。ぼくは――ぼくは――ここから出たいんです」
「ところが、フェイギンは出したがらないとな!」チャーリーはこれに応じた。
オリヴァはこれを知りすぎるほどよく知っていたが、自分の気持ちをこれ以上はっきり述べるのは危険と感じて、ただふっと溜《た》め息をもらし、靴をみがきにかかった。
「出たいだって!」ぺてん師は叫んだ。「あれっ、元気はどこへいっちまったんだ? おまえは自分に誇《ほこ》りはもっていねえのかよ? おまえは逃げだして、自分の友だちにたよりてえのか?」
「ちぇっ、バカらしい!」ポケットから二、三枚の絹ハンカチをとりだし、それを戸棚の中に役げこんで、ベイツはいった。「そいつは下劣《げれつ》なこったぜ、下劣《げれつ》な」
「おれはそんなこと、できねえな」昂然とした嫌悪の態度で、ぺてん師はいった。
「だけど、きみは友人をすて」ちょっと薄笑いを浮かべて、オリヴァはいった、「自分のしたことで、その友人が罰せられても平気なんですね?」
「そいつは」パイプをひとふりして、ぺてん師は応じた――「そいつは、フェイギンのためをはからってのことさ。ポリ公はおれたちが|ぐる《ヽヽ》なのを知ってて、おれたちがずらからなけりゃ、あいつがとっつかまっちまうとこだったんだからな。あれは策略だったんだ、なあ、チャーリー?」
ベイツは賛成してうなずき、それからベラベラとしゃべるところだったが、オリヴァが逃げだしたことをいきなりふっと思い出し、その結果、吸いこみかけていた煙が笑いといっしょくたにからまり、それが頭にツンとき、ついで喉をくだっていって、約五分間、咳とじたばたする発作がひき起こされることになった。
「おい、いいか!」手に一杯シリングと半ペニーの金をつかんで、ぺてん師はいった。「こいつは楽しい暮らしだぜ! さあ、とりな。この金があったとこには、もっともっとあるんだぜ。とらねえんかい、えっ? おお、このひどいあほうめ!」
「そいつはいけねえこったよ、なあ、オリヴァ?」チャーリー・ベイツはたずねた。「やつは、ダラリンになるんだからなあ?」
「その意味がぼくにはわからないんですが……」オリヴァは答えた。
「おい、こんなことになるってえことさ」チャーリーはいった。こういいながら、彼はハンカチの端《はし》をとりあげ、それをまっすぐに空中に立て、頭を肩に落とし、歯のあいだから妙な音をもらしていたが、彼は、この無言劇の演技によって、ダラリンと絞首刑がまったく同一物であることを示した。
「これが、その意味さ」チャーリーはいった。「ジャック、見ろよ、やつは目をむいてるぜ! この餓鬼《がき》ほどりっぱな仲間は見たことねえぜ。きっと、こいつのお蔭で、おれは死ぬことになるだろうよ、きっとな」チャールズ・ベイツはふたたび陽気に笑って、目に涙を浮かべながら、タバコをすいだした。
「おまえの育ちがわるいんだ」オリヴァが靴をみがきあげたとき、それをいとも満足げにながめて、ぺてん師はいった。「だが、フェイギンがおまえを一人前の者にしてくれるだろうよ。さもなけりゃ、やつが骨を折って損をした見当ちがいの最初の男に、おまえがなるわけだ。すぐに、やりはじめたほうがいいぜ。あっという間《ま》に商売にとりかかることになるからな。オリヴァ、おまえは時間を損してるだけなんだぞ」
ベイツは、自分自身の説教的な教訓で、この忠告の応援をした。その話の種がつきてから、彼とその友人のドーキンズ氏は、自分たちが送っている生活にともなう数多くの楽しみを美しく説明して、ここでオリヴァがすべき最上のことは、これ以上ぐずぐずせずに、彼ら自身がやった手段でフェイギンの好意を獲得することではないか、といろいろとほのめかした。
「それに、こいつはいつも頭に入れといたほうがいいぜ、オリヴァ」ユダヤ人が上の戸の錠を開けているのが聞こえてきたとき、ぺてん師はいった。「もしおまえがハンやチクタクをかっぱらわねえと――」
「そんな話の仕方をしたって、通じねえよ」ベイツがさえぎった。「やつには、おまえのいってることが、わかってねえんだからな」
「おまえがハンカチや時計をかっぱらわなくたって」オリヴァに話がわかるようにして、ぺてん師はいった。「だれかほかのやつが、かっぱらっちまうんだ。そして、そいつをぱくられたやつは、それでひでえ目にあい、おまえもひでえ目にあう。そいつをぱくったやつ以外には、だれも得《とく》をしねえことになる――しかも、おまえにだって、それをとる権利はちゃんとあるんだからな」
「そうだ、そうだ!」オリヴァには気づかれずにはいってきたユダヤ人はいった。「それが煮《に》つめたとこさ。煮《に》つめたところ、ぺてん師のいうとおりさ。はっ! はっ! はっ! やつは商売の理論をちゃんと心得てるんだ」
老人がこうした言葉でぺてん師の理論を確証したとき、彼はうれしそうにもみ手をし、自分の弟子の熟練ぶりに悦に入って、クスクスと笑っていた。
この話は、このとき、これ以上進まなかった。ユダヤ人がベッツィー嬢と、それにオリヴァがそのときまで会ったことはないが、ぺてん師がトム・チトリングと呼んでいた紳士をともなって帰ってきたからである。この紳士は、ベッツィーとちょっと艶《つや》のある話を階段の上でかわしてから、いまその姿をあらわしたのだった。
チトリング氏はぺてん師より齢上《としうえ》で、たぶん十八歳くらいだったろう。しかし若い紳士にたいする彼の態度には、ある程度敬意がこめられていて、これは商売上の天才、技能の点で自分がいささかおとっているのを、彼が意識しているのを物語っていた。目は小さく、キラキラと輝き、その顔はあばた面《づら》、毛皮の帽子、黒みの勝ったコール天のジャケット、油でよごれたファッシャン織りのズボン、それにエプロンを着けていた。服は、事実、修理がよくゆきとどいているとはお世辞にもいえなかったが、この言い訳に、自分が一時間前に釈放されたこと、過去六週間軍服を着せられていたので、自分の私服にはかまってなどいられなかったことを、彼はみんなに説明した。チトリング氏は、いかにもイライラしたふうに、あそこでの新式の服の消毒法はひどく憲法を軽視したもの、服に焼け穴はつくるし、州に損害賠償を訴えることもできない、とつけ加えていた。髪を規定の形にかることにも、同じことがいえると、彼は考えていたが、それを、彼ははっきりと違法と断定していた。チトリング氏の最後の言葉は、四十二日間の重労働中、自分は酒一滴にもふれなかった、まったく石灰の籠のように喉はカラカラに乾あがっているということだった。
「オリヴァ、あの紳士はどこからきたと思うかね?」ほかの少年たちがテーブルの上に酒のびんをおいたとき、ニヤリとしてユダヤ人はたずねた。
「ぼくには――ぼくには、わかりません」オリヴァは答えた。
「あいつはだれだい?」軽蔑したようなふうにオリヴァを見て、トム・チトリングはたずねた。
「わしの若い友だちさ」ユダヤ人は答えた。
「そんなら、やつは幸福者だよ」意味深《いみしん》な一瞥をフェイギンに送って、この若い男はいった。「若いの、おれがどっからきたか、気にすることはねえぜ。一クラウン賭《か》けてもいい、おめえもすぐそこにゆくことになるだろうからな!」
この皮肉に、少年たちは声を立てて笑った。それから、同じことで何回か冗談を重ねたあとで、彼らはフェイギンとちょっとささやきをかわし、そこから引きしりぞいていった。
最後にやってきた男とフェイギンが、少しはなれたところで、数語話し合ったあとで、みんなは椅子を炉に引きよせ、ユダヤ人はオリヴァにそばにきて坐るように命じ、聞くものの興味をそそりたてるふうにうまくたくらんだ話を語りはじめた。その話題は、この商売の大きな利点、ぺてん師の腕達者ぶり、チャーリー・ベイツの愛嬌ぶり、それに、このユダヤ人自身の気前のよさといったものだった。とうとう、こうした話題も種がつきた徴候を見せはじめ、チトリング氏も同じ徴候を示しだした。矯正院の生活を一、二週間もつづけることは、なかなか疲れるものだからである。そこでベッツィー嬢は引きとり、残った連中も休むことになった。
この日以後、オリヴァは一人でいることはほとんどなくなり、例の二人の少年といつもいっしょにいることになった。そして彼らはおきまりの遊びを、毎日、ユダヤ人を相手にしてやっていたが、それが彼ら自身の身のためか、オリヴァのためかは、フェイギン氏だけがいちばんよく知っていることだった。それ以外のときには、老人は自分が若いころにおこなった窃盗《せっとう》の話をし、それにじつに愉快で奇妙な話を織りまぜて語ったので、オリヴァは心から笑い、自分の良心の問題はべつにして、その話を興味深く思っていることを示さずにはいられなかった。
要するに、この陰険なユダヤ人は少年を網にかけ、孤独と陰鬱の力によって、こうしたわびしい場所で一人悲しい思いに沈んでいるより、人といっしょにいるほうがよいと思わせ、彼の魂を真っ黒にして、その色を永遠に変えてしまう毒を、いまゆっくりと、オリヴァの魂の中にそそぎこんでいたのである。
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十九 注目すべき計画が論議され、決定される
ある寒々とした、湿りっ気の強い、風の吹きまくっている夜、ユダヤ人はしなびたからだに大|外套《がいとう》をしっかりとまきつけてボタンをかけ、顔の下半分をかくそうと、襟を耳のところまですっぽりと立てて、その隠れ家から出てきた。戸に錠をかけ、出たあとに鎖を入れながら、彼は階段に立ちどまり、少年たちがしっかりと戸を閉め、奥にはいってゆく足音が聞こえなくなるまで耳を澄《す》ませてから、コソコソと大急ぎで通りを去っていった。オリヴァが連れこまれた家は、ホワイトチャペルの近くにあった。ユダヤ人はそこの町角にちょっと足をとめ、心配そうにあたりを見まわして、道路を横切り、スピタルフィールズの方向に進んでいった。
泥が濃く道の石の上に積まれ、黒い霧が街路におおいかぶさっていた。雨はジトジトと降り、すべてのものがふれるとひんやり、じっとりしていた。その夜は、このユダヤ人のようなものが外に出るのに、いかにもふさわしい夜だった。壁と戸口に身をかくして、彼が忍び足でコソコソと道を進んでいったとき、このおそろしい老人は、なにかある無気味な爬虫《はちゅう》類のように見え、そのうごめいている泥と暗黒の中に生まれ、夜に、なにか獲物をとろうと、こってりとしたくず肉をさがし求めているようだった。
いくつかまがりくねった、せまい道をとおりぬけて、彼はベスナル・グリーンに到着し、そこから急に左にまがって、そのびっしりと家のたてこんだ地区によくある低俗な、きたない迷路のように入りくんだ街路に吸いこまれていった。
ユダヤ人は自分のとおっている場所をよく心得ていて、夜の暗さ、道の複雑さにとまどいはしなかった。彼はいくつかの小道・街路を急いでとおりぬけ、とうとう、ずっと先のところに燈《あか》りがひとつしかついていない街路にはいっていった。この通りのある一軒の家の戸口のところで、彼はノックをし、それを開いてくれた男となにかブツブツとわずかな言葉をかわしたあとで、二階にあがっていった。
彼が部屋の戸のハンドルに手をふれたとき、犬がうなり、男の声が、だれだ? と叫んだ。
「ビル、おれさ。おれなんだよ」中をのぞきこみながら、ユダヤ人はいった。
「そんなら、中にへえれ」サイクスはいった。「このバカ犬め、寝ておれ! 大|外套《がいとう》を着てるときにゃ、おめえにはあの悪魔がわからねえのか?」
犬がフェイギン氏の大|外套《がいとう》でごまかされていたことは、とにかく、明らかだった。ユダヤ人がボタンをはずし、それを椅子の背に投げかけたとき、犬は自分が起きあがってきた隅のところにもどり、十分に納得したところを示そうと、もどる途中、尻尾をふっていたからである。
「うん、なんの用だね?」サイクスはいった。
「うん、ビル」ユダヤ人は答えた――「あっ、ナンシーかい?」
このあとの叫びはいかにも当惑したようにあげられ、その存在が好ましくないことを暗に示していた。彼女がオリヴァのためにとりなしをして以来、フェイギンとこの若い女は出逢ってはいなかったからである。この問題に関する疑念を彼がもっていたとすれば、それはすぐ、この若い女性の態度によってとりのぞかれた。彼女は炉格子《ろごうし》から足を引き、自分の椅子をさげ、なにもいわずに、フェイギンに椅子を前に出すようにすすめたからである。たしかに、その夜は寒い夜だった。
「ナンシー、冷えこむね」しわだらけの手を炉にかざしながら、ユダヤ人はいった。「寒さがからだを突きぬけるようだ」脇腹を押さえて、老人はいいそえた。
「それがおめえの心臓を突きぬけたら、まさに|きり《ヽヽ》といえるんだがな」サイクス氏はいった。「ナンシー、なんか飲み物をやつにやれ。大急ぎでな! あの老いぼれの痩《や》せたからだが、墓からまい出てきたきたならしい幽霊のように、あんなにふるえてるのを見ると、まったく胸糞《むなくそ》がわるくなるからな」
ナンシーは素早く、たくさんのびんがならんでいる戸棚から、一本のびんをとりだした。その戸棚には、びんの姿が種々さまざまなところから判断して、いろいろな酒がぎっしりとつめこまれているようすだった。サイクスはブランデーをコップについでから、ユダヤ人にそれを飲めといった。
「もう十分だ、もう、ありがとう、ビル」唇をちょっとコップにつけただけで、それを下におき、ユダヤ人は答えた。
「なんだって! おれたちにやられるとでも心配してんのかよ、えっ?」ユダヤ人の上に目をすえて、サイクスはたずねた。「ちぇっ!」
しゃがれ声を立て、いかにも軽蔑的にうなって、サイクス氏はそのコップをとりあげ、残った酒を灰の上にまきちらしたが、これは自分用にとそれに酒をつごうとする前準備、彼はそれをすぐにやってのけた。
二杯目の酒を相手があおっているとき、ユダヤ人は部屋を見まわしたが、これは好奇心からではなく、彼の習慣になっている落ち着かぬ疑い深さのためだった。というのも、彼はこの部屋をもう何回か見ていたからである。そこは粗末な設備をした部屋で、押し入れの品物はべつにして、そこにあるものはすべて、その住民が労働者であることを示し、見えるところにあるいかがわしいものといえば、ただ二、三本の重くて短い棍棒《こんぼう》、それに炉かざりにかけられた先に分銅をつけた革ひもだけだった。
「さあ」舌を鳴らして、サイクスはいった。「話を聞かせてもらおう」
「商売のかい?」ユダヤ人はたずねた。
「商売のだ」サイクスは答えた。「だから、おめえの用件をいいな」
「チャーツェーの家のことかい、ビル?」椅子を前に引きだし、声をグッと低くして、ユダヤ人はいった。
「うん、それがどうだっていうんだ?」サイクスはたずねた。
「あれっ、おまえはわしのいってることを、わかってるくせに」ユダヤ人はいった。「なあ、ナンシー、あの男はわしのいってることがわかってるんだ、どうだい?」
「いや、わからんよ」サイクス氏はせせら笑った。「さもなけりゃ、わかろうとしてない、といっても同じこったな。はっきりと話し、ちゃんと名をあげて、ものをいうんだ。この盗みについて考えてたのはてめえじゃござんせんといった面《つら》をして、目をパチパチ、キョトキョトさせ、遠まわしにものをいったりして、そこに座ってたりはせずにな。さあ、なんのことなんだ?」
「しっ、ビル、しっ!」相手の怒りの発作を抑え切れなくなったユダヤ人はいった。「だれかに聞こえちまうじゃないか。だれかに聞こえちまうじゃないか」
「聞かせてやれば、いいじゃねえか!」サイクスはいった。「おれはかまわねえよ」とはいうものの、考えてみれば、かまわないどころじゃなかったので、彼は声を落としてしゃべりだし、前より静かになった。
「そう、そう」機嫌をとるようにして、ユダヤ人はいった。「ただ用心のためだけさ。さて、チャーツェーのあの家のこったが、いつ例のことはやるんだい、えっ? いつやるんだい? すげえ金・銀の食器類、すげえもんがあるんだぜ!」手をこすり、期待で有頂天になり、眉をあげて、ユダヤ人はいった。
「ぜんぜんだめだな」冷たくサイクスは答えた。
「ぜんぜんだめだって!」椅子にのけぞりかえって、ユダヤ人は相手の言葉をくりかえした。
「うん、ぜんぜんだめ」サイクスは応じた。「少なくとも、期待したとおりにうまくゆく仕事じゃねえな」
「じゃ、やりかたがわるいんだ」怒りで青ざめて、ユダヤ人はいった。「つべこべいう必要はない!」
「だが、おれはいうぞ」サイクスはやりかえした。「いう必要がないなんて、大きなことをぬかすてめえは、いったい、だれだ? いいか、二週間のあいだ、トウビー・クラキットがその家のまわりをうろつきまわり、召使いのだれとも話がつかねえ始末なんだ」
「じゃ、こういうつもりなんかい、ビル?」相手がむくれてくると、ユダヤ人のほうがおだやかになって、いった。「あの家の二人の使用人のどっちも、だきこめねえんかい?」
「そう、そのとおりだ」サイクスは答えた。「老婦人はその二人をこの二十年間やとってて、あの二人に五百ポンドくれてやったって、まずやつらは落とせねえな」
「だが、女のほうもだめだとは、まさか、いうんじゃないんだろう?」ユダヤ人がやりかえした。
「ぜんぜんだめさ」サイクスは答えた。
「達者なトウビー・クラキットでもかい?」信じられぬといったふうに、ユダヤ人はたずねた。「ビル、女がどんなもんか、考えてもみなよ」
「いや、達者なトウビー・クラキットでもだめなんだ」サイクスは答えた。「やつの話では、そこをうろついてるあいだじゅうずっと、まがいの頬髯《ほおひげ》をつけ、カナリア色のチョッキを一着におよんでいたそうだが、結局だめだったんだ」
「口髯《くちひげ》と軍服のズボンを着けてたらよかったのにな」ユダヤ人はいった。
「そいつもしたさ」サイクスは応じた。「だが、それも、ほかの策略と同じこと、だめだったとよ」
こう知らされて、ユダヤ人はポカンとしてしまった。顎《あご》を胸にうずめて数分間考えこんでいたあとで、彼は頭をあげ、深い溜《た》め息をもらし、もしあの達者なトウビー・クラキットの報告に誤りがなければ、もうこの計画は処置なしだな、といった。
「だが、しかし」手を膝に落として、老人はいった。「せっかくねらいをつけたのに、あんな宝物が手にはいらないなんて、まったく残念なこったな」
「まったくな」サイクス氏はいった。「運がついてねえのさ」
ながい沈黙がつづいたが、そのあいだに、ユダヤ人は深い物思いに沈み、その顔はしわだらけで、完全に悪魔のすごい形相《ぎょうそう》に変わっていた。サイクスは、ときどき、そっとこの彼をながめていた。ナンシーは、明らかに、この盗人の気持ちをいらだたせまいとして、まるでいままでの話につんぼになったように、火の上に目を釘づけにして坐っていた。
「フェイギン」そこを支配していた沈黙を破って、サイクスはいった。「外からこの仕事をうまくやってのけたら、金貨五十個を余計に出すかな?」
「うん」急に身を起こして、ユダヤ人はいった。
「それで手を打つかい?」サイクスはたずねた。
「うん、いいともさ、サイクス」この質問がひき起こした興奮で、目をギラギラさせ、顔のすべての筋肉を動かして、ユダヤ人は答えた。
「そんなら」軽蔑したふうに、ユダヤ人の手をはらいのけて、サイクスはいった。「できるだけ早く、それをやるんだ。トウビーとおれは、おとといの晩、庭の壁を乗り越え、戸と鎧戸《よろいど》の羽目板を調べてあるんだ。あの家は、夜には、監獄のようにしっかり戸締りをおろしてあるが、安全にそっと破れる箇所は、ひとつしかねえんだ」
「それはどこだい、ビル?」ユダヤ人はむきになってたずねた。
「うーん」サイクスは耳打ちした。「芝生を切って進むと――」
「そう、そう」頭を前に出し、目をそこから飛びださんばかりにして、ユダヤ人はいった。
「ふふん!」若い女が、頭をほとんど動かさずに、目をグルリとまわし、一瞬間ユダヤ人の顔をさすようにしてながめたので、話を途中で切って、サイクスは叫んだ。「それがどこだって、いいじゃねえか。おれがいなかったら、それはおめえにできっこねえんだからな。おめえを相手にするときにゃ、安全第一でいくのがいちばんの上策と決まってるんだ」
「いいようにしな、いいようにしな」ユダヤ人は答えた。「おまえとトウビーだけで、ほかに助けはいらんのかね?」
「いらん」サイクスはいった。「回し切りと子供一人以外にはな。回し切りはこっちでもってる。残りのほうは、おめえに見つけてもらわにゃならんな」
「子供だって!」ユダヤ人は叫んだ。「うん、そんなら羽目板だな、えっ?」
「それがなんだって、いいじゃねえか!」サイクスは答えた。「子供が一人いるんだ。大きなやつは困るぜ。ああ!」サイクス氏はジッと考えこんでいった。「あの煙突掃除人のネッドのとこの小僧がいたらいいのになあ! やつはその小僧をわざと小さくしておき、賃貸しで貸しだしをしてたんだ。だが、おやじはたたきこまれちまい、ついで、少年犯罪協会の連中がやってきて、もうけになる商売からやつを切りはなし、読み書きを仕込み、やがてやつを徒弟奉公に出しちまったんだ。協会のやつらは、そんなことをしてやがるんだ」自分が受けた虐待を考えて怒りをつのらせながら、サイクス氏はいった。「そんなことをしてやがるんだ。そして、もしやつらに十分の金があったら(それがないのが、もっけの幸いというもんだが)、一年か二年もすると、この商売に使える子供は五、六人を割っちまうことになるんだぜ」
「そんなもんだな」相手が話しているあいだじゅうジッと考えこみ、最後の言葉しか聞きとっていなかったユダヤ人は易々諾々《いいだくだく》としていった。「ビル!」
「なんだい?」サイクスはたずねた。
ユダヤ人はまだ火をジッと見つめているナンシーのほうに頭をコクリとさせ、その合図で、この女性を部屋から去らせたほうがよいと知らせた。サイクス氏は、その用心は不必要といったふうに、イライラしたようすで肩をすくめたが、ナンシー嬢にビールのジョッキをもってきてくれとたのんで、ユダヤ人の要求に応じた。
「ビールに用はないじゃないの」腕組みをし、落ち着きはらって坐りつづけて、ナンシーはいった。
「用があるといってるんだ!」サイクスはやりかえした。
「バカな!」冷静に若い女は応じた。「話をおつづけ、フェイギン。ビル、あたし、あの男がなにをいおうとしてるのか、知ってるよ。あたしのことなんか、気にすることはないじゃないの」
ユダヤ人はまだもじもじしていた。サイクスは、ちょっと驚いて、二人の顔を見くらべた。
「いや、フェイギン、おめえはあの女のことを気にしてるんじゃあるまいな、どうだい?」彼はとうとうたずねた。「あの女のことは十分にながく知ってて、信頼もできるはずなんだぞ。ひでえ話だ。やつはしゃべる女じゃない。ナンシー、どうだい?」
「まあ、話さないことね!」椅子をテーブルに引きよせ、そこに肘をついて、若い婦人は答えた。
「うん、うん、おまえがそんな女じゃないことは知ってるさ」ユダヤ人はいった。「だが――」こういって、老人は話を途切らせた。
「だがどうだというんだ?」サイクスはたずねた。
「この前の晩のように、あれの具合いがわるくなりゃせんかと心配してただけのことさ」ユダヤ人は答えた。
この告白を聞いて、ナンシー嬢は大声で笑いだし、ブランデーを一杯グイッとあおって、いかにも挑戦的態度で頭をふり、「さあ、話をつづけて!」とか、「弱音をはいてはだめ!」とか、いろいろとわめきだした。こうした言葉は、二人の紳士を安心させる効果をあげた。ユダヤ人は満足気に頭をうなずかせて、坐りなおし、サイクス氏も同様の仕草をしたからである。
「さあ、フェイギン」笑いながら、ナンシーはいった。「オリヴァのことを、すぐビルに話してちょうだい!」
「えっ! おまえは利口な女だな。いままで会ったこともないほどのすごい女だ!」彼女の首を軽くたたいて、ユダヤ人はいった。「わしがいおうとしてたのは、たしかに、オリヴァのことさ。はっ! はっ! はっ!」
「やつがどうだというんだ?」サイクスはたずねた。
「やつはおまえ向きの小僧だということさ」手を鼻の片側に当て、おそろしい笑いをニヤリと浮かべ、しゃがれたささやき声で、ユダヤ人は答えた。
「やつだって!」サイクスは叫んだ。
「ビル、あの子を使いなさいよ!」ナンシーはいった。「もしあたしがあんただったら、あの子を使うことね。ほかの子のようには使えないかもしれないけど、戸を開けるだけだったら、使える、使えないは問題じゃないでしょう。そう、たしかに、あの子なら安全だわ、ビル」
「たしかに、そうだな」フェイギンは答えた。「ここ何週間も、やつはりっぱな訓練を受けてるし、自分の食い扶持《ぶち》かせぎに、もう仕事をはじめてもいい時期なんだ。それに、ほかの連中は、でかすぎるよ」
「そう、やつはちょうどいいでかさだな」考えこんで、サイクス氏はいった。
「それに、ビル、おまえの望むことは、なんでもしてくれるよ」ユダヤ人は口をはさんだ。「そうせずにはおれんのだ。というのは、しっかりやつをおどかしてやればのこったが……」
「おどかすだって!」サイクスは相手の言葉をくりかえした。「いいか、いい加減なおどかしかたじゃねえんだぞ。仕事をおっぱじめてやつが妙な素振《そぶ》りでも見せたら、毒食らわば皿までということになるんだぜ。フェイギン、やつとは二度と生きてお目にかかれなくなるんだぞ。やつを出す前に、そのことをじっくり考えるんだな。よーくおれの言葉に注意しろよ!」寝台の下から引きだした|かなてこ《ヽヽヽヽ》をもちあげて、盗賊はいった。
「うん、よく考えてるさ」強くユダヤ人はいい切った。「わしはな、わしはな、あの小僧に目をかけてきたんだ、注意深く――注意深くな。一度やつがおれたちの仲間になったと感じたら、自分が盗人だという考えで頭がいっぱいになったら、やつはおれたちのもんさ! 生涯おれたちのもんさ。こんなにうまい話って、ないだろう」老人は腕を組み合わせ、頭と肩をひとつにまとめて、文字どおり、よろこびで自分のからだをだきしめた。
「おれたちのもんだって!」サイクスはいった。「おめえのもんってえことなんだろう」
「たぶん、そうだね」甲高《かんだか》くクスクスッと笑って、ユダヤ人はいった。「もしよかったら、ビル、わしのもんだよ」
「ところで、どうして」愛想のいい友にたいしてすごい渋面をつくって、サイクスはいった。「選《え》りどり見どり五十人の子供たちが毎夜公園でグズグズ遊んでるのに、どうしてあの顔の青っ白《ちろ》い餓鬼《がき》の世話をそうまでやくんだね」
「やつらは、わしにはなんの役にもたたんからね」いささか狼狽《ろうばい》して、ユダヤ人は答えた。「世話をみる値打ちがないもんな。やつらは、とっつかまったら、その面相だけで罪をおかしてることがわかっちまう。そして、こっちは丸損になるわけだ。あの子供の場合、うまく使えば、くだらん餓鬼《がき》ら二十人使ってもできんことを、わしはやれるだろう。その上」冷静をとりもどして、ユダヤ人はいった。「もしやつがわしたちのとこからまたずらかるようなことでもあったら、やつはわしたちをとっちめるにちげえねえ。だから、やつを一蓮托生《いちれんたくしょう》の立場に追いこまなければならんのさ。どうしたらそうなるかは、問題じゃない。あいつが泥捧の仲間になりさえすりゃ、わしはやつを自由に使えるようになるんだ。そうなりさえすりゃ、こっちに文句はなくなるよ。さて、あの小さな坊主をやっつけてしまわにゃならんことになるより――こいつは危険をともなうし、その上、損にもなるこったからな――これのほうがずっと得《とく》になることじゃないかな?」
「これはいつするの?」フェイギンが人情家ぶったところを示そうとしたことをひどくきらって、サイクスが発したさわがしい叫びを抑えて、ナンシーはたずねた。
「ああ、そのとおり」ユダヤ人はいった。「ビル、そいつをいつやることになるんだい?」
「トウビーと相談したんだが、あさっての晩だ」むくれた声で、サイクスは答えた。「おれのほうから変更の連絡をしなければな」
「うまいな」ユダヤ人はいった。「月も出ないし」
「そうだ」サイクスは応じた。
「獲物の運びこみの手はずはできてるんだろうな、えっ?」ユダヤ人はたずねた。
サイクスはうなずいた。
「そして、それから――」
「おお、ぜんぶ計画は立ててあるんだ」相手をさえぎって、サイクスは答えた。「こまかなことは心配するな。明日の晩、餓鬼《がき》を連れてきたほうがいいぞ。おまえは口をつぐんで、|るつぼ《ヽヽヽ》(盗品を売りさばくこと)の用意をしさえすりゃいいんだ」
三人がそれぞれ活発な意見を出した議論のあとで、つぎの晩、夜の幕がおりたときに、ナンシーがユダヤ人の家にゆき、オリヴァを連れてくることが決められ、フェイギンは狡猾《こうかつ》に、もしオリヴァがこの仕事を好まぬようすだったとしても、最近自分をかばってくれたナンシーとならば、だれよりよろこんでいっしょにゆくだろう、と述べた。さらに、この計画された遠征の目的のために、あわれなオリヴァの身柄は無条件にウィリアム・サイクス氏の配慮・保管にゆだねられること、このサイクスが適当と思われるふうに少年をあつかってもよいこと、その身に起きるかもしれぬ災害・不幸、あるいは、彼に加えねばならなくなる処罰にたいして、ユダヤ人によってその責任を問われることは一切ない事実が、厳粛にとりきめられた。そして、この最後の項目に関する契約を有効にするために、帰還のさいにサイクス氏が申し述べた陳述は、重要なすべての点で、トウビー・クラキットの証言によって確証されることが必要であることが諒解された。
こうした予備的な話がきめられると、サイクス氏はすごい勢いでブランデーを飲みはじめ、おそろしいふうに|かなてこ《ヽヽヽヽ》をふりまわしだし、同時に荒々しいののしりの言葉をまぜて、すごい調子はずれの歌を歌いだした。とうとう、職業的な情熱の発作にかられて、彼は家におしこむ道具のはいった箱をもちだすといいはじめ、それをヨロヨロッともちこみ、そこに入れてあるさまざまな道具の特性・能力とその構造の特別な美しさを説明しようと、それを開いたとたん、彼は床の上の箱に倒れこみ、倒れたまんま、そこに寝こんでしまった。
「ナンシー、おやすみ」前どおりしっかりとからだをつつんで、ユダヤ人はいった。
「おやすみ」
二人の目はあい、ユダヤ人は彼女をしげしげとながめた。若い女は少しもひるんだようすを示さなかった。彼女はこのことで、トウビー・クラキットに劣らず、誠実で真剣だったからである。
ユダヤ人はふたたびおやすみの挨拶をいい、彼女の背が向けられているときに、サイクス氏の倒れた姿に陰険にも一蹴りを加えて、手探りで階下におりていった。
「いつも同じこった!」家路についたとき、ユダヤ人はひとりでつぶやいた。「こうした女のいちばん困る点は、ほんのちょっとしたことで、ながいこと忘れてたことをふっと思い出すこと、そして、いちばんありがたい点は、それが絶対にながつづきしないこった。はっ! はっ! 一袋の金をとろうと、一人前の男と子供が争うわけか!」
こうした愉快な回想で心をまぎらわせながら、フェイギン氏は、泥とぬかるみの道をとおって、自分の陰気な家へもどっていったが、そこではぺてん師が、彼の帰りをイライラしながら待って、まだ起きていた。
「オリヴァは寝てるのか? わしはやつと話をしたいんだ」彼らが階段をおりていったとき、これが彼の最初に言った言葉だった。
「何時間も前にね」扉をパッと開けて、ぺてん師は答えた。「ここにいますぜ!」
床の粗末な寝台の上に、少年はぐっすりと眠っていた。不安と悲痛とこの牢獄の息苦しさで、その顔は真《ま》っ青《さお》、死んだようなようすだったが、その死は、経帷子《きょうかたびら》と棺の中で示されている死ではなく、生命がたったいま消えたときの姿、若くてやさしい魂が一瞬天国に飛び去り、この世のよごれた空気がその清めた亡骸《なきがら》に息をはきかける暇《いとま》がないときの姿だった。
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二十 オリヴァはウィリアム・サイクス氏の手にわたされる
オリヴァが翌朝目をさましたとき、しっかりとした厚い靴底がはられた新しい靴が自分の寝台のわきにおかれてあり、自分の古靴の姿が消えているのに気がついて、彼はひどくびっくりした。これに気づいたとき、彼は最初よろこんだ。それを自分の釈放の予報と考えたからである。しかし、ユダヤ人といっしょに朝食の食卓についたとき、こうしたあまい考えは、もう消えていた。ユダヤ人が、彼の恐怖心を増大させる語調と態度で、彼がその夜ビル・サイクスの家に連れてゆかれることを知らせたからである。
「そこに――ながく――泊まるのですか?」心配そうにオリヴァはたずねた。
「いや、いや、そこにながく泊まらせはせんよ」ユダヤ人は答えた。「おまえを失いたくはないからな。心配することはない、オリヴァ、いずれここにもどってくるんだからな。はっ! はっ! はっ! わしたちは、おまえをここから放りだしちまうほど、そんなに情けなしじゃないんだ。おお、とんでもない、とんでもない!」
パンを焼きながら炉の上にかがみこんでいた老人は、こうしてオリヴァをからかったとき、あたりを見まわし、相手がまだ、できたらここから逃げだしたく思っていることを、こちらも承知といったふうに、クスクスッと笑った。
「わしは思うんだがな」目をオリヴァの上にすえて、ユダヤ人はいった、「おまえはどんな用件でビルんとこにゆくのか、知りたいんだろう――えっ、どうだい?」
オリヴァは、老盗人が自分の心中を見破っているのを知って、われ知らず顔を赤くしたが、思いきって、ええ、それを知りたい、と答えた。
「なんのためだと、おまえは思う?」相手の言葉をさらりとかわして、フェイギンはたずねた。
「ほんとうに、わからないんです」オリヴァは答えた。
「ふん!」少年の顔をジッとにらみつけていた視線をそらし、がっかりとした表情でそっぽを向いて、ユダヤ人はいった。「そんなら、ビルに教えてもらうまで、待つさ」
オリヴァがこの問題にこれ以上たいして好奇心を示さぬので、ユダヤ人はイライラしているらしかったが、事実は、オリヴァにはそうした気持ちが強くはありながらも、彼は熱をこめた狡猾《こうかつ》そうなフェイギンの顔つきと自分の頭の中の考えにすっかり狼狽《ろうばい》し、それ以上なにも質問などできぬ状態にあった。彼には、その夜、それ以上質問をするチャンスがめぐってはこなかった。ユダヤ人がひどく不機嫌で、むっとだまりこんでいたからである。そして、彼は外に出てゆこうとした。
「ろうそくを燃してもいいぞ」ろうそくをテーブルの上において、ユダヤ人はいった。「それに、ここにおまえの読む本があるから、それを読んで、みんながここにくるまで、待ってるんだ。さあ、おやすみ!」
「おやすみなさい!」オリヴァはおだやかに答えた。
ユダヤ人は、歩きながら肩越しに少年をながめて、扉のところまでゆき、そこで急に足をとめて、彼の名を呼んだ。
オリヴァが目をあげると、ユダヤ人はろうそくをさして、それに火をつけろと、身ぶりで伝えた。彼は命じられたとおりにした。彼がろうそく台をテーブルの上においたとき、ユダヤ人が眉をよせ、しかめ面《つら》をして、部屋の暗いところから、彼をジッと見つめているのに気がついた。
「用心しろよ、オリヴァ! 用心しろよ!」なにかの前兆のように、彼の目の前で右手をふって、老人はいった。「やつは荒らっぽい男だぞ。自分の血がのぼってるとき、血を流すことなんか、なんとも思わん男なんだ。どんなことが起きても、なんにもいわず、命じられたとおりしていればいいんだ。いいか!」最後の言葉を強くいってから、彼の顔はだんだんとほぐれて、おそろしいニヤリとした薄笑いになり、頭をひとつコクリとやって、部屋を出ていった。
オリヴァは、老人の姿が消えたとき、頬杖《ほおづえ》をつき、胸をドキドキさせて、自分がたったいま聞いた言葉のことを考えた。ユダヤ人の注意について考えてみればみるほど、そのほんとうの意図と意味がわからなくなった。自分をサイクスのところにやって、なにかわるい目的が達成できるものとは考えられなかった。フェイギンのところにいても、それは不可能だったからである。そして、ながいこと考えこんでいたあげく、あの盗賊のためになにかつまらぬ仕事をするのに自分が選ばれ、もっと目的にふさわしいべつの少年がやとわれれば、それは終わるのだときめてしまった。彼は苦痛に馴れっ子になり、自分がいまいるところでも非常に苦しんでいたので、変化の予想をひどく嘆き悲しむ心のゆとりはなかった。彼は数分間物思いに沈み、それから、ふっと深い溜《た》め息をもらして、ろうそくの芯《しん》を切りなおし、ユダヤ人がわたしてくれた本をとりあげて、それを読みはじめた。
最初彼は無造作《むぞうさ》に本のページをめくっていたが、彼の注意をひく箇所にゆきあたって、彼は間《ま》もなく熱心にそれに読みふけっていった。それは有名な犯罪人の生涯と裁判をあつかった話で、ページは、何回も読んだために、よごれ、いたんでいた。ここで彼は血を凍らせるおそろしい犯罪、人通りのないわびしい路傍でおこなわれた秘密の犯罪、深い穴や井戸の中に入れられて人目からはかくされていた死体、それがいかに深かろうと、死体はそのままではいずに、何年かたってそれがあばきだされ、その光景に接して殺害者たちは狂乱状態におちいり、恐怖にかられて罪を白状し、自分たちの胸の苦しみを絶つために、絞首台送りを叫び求めるといった話を読んだ。この本で、彼はまた、真夜中に寝台で横になっていたとき、自分の兇悪な考えに誘惑され、それにつき動かされて、思っただけでも鳥肌がたち、手足がすくんでしまうおそろしい流血犯罪をおかすことになった男の話を読んだ。そのおそろしい描写は、真に迫り、なまなましく、浅黄色の本のページは血のかたまりで赤くなったよう、そこに書いてある言葉は、死者の霊によって、うつろなボソボソ声で語られる低いささやきのように、彼には思えた。
恐怖の激しい発作で、少年は本を閉じ、それをわきに投げだした。それから、ひざまずいて、こうした行為から自分を救ってくれるよう、生きながらえてそうしたぎょっとするおそろしい犯罪をおかすくらいなら、いますぐ死んでしまったほうがよいことを、神に祈った。しだいに彼は冷静をとりもどし、低いとぎれとぎれな声で、さしあたっての危険から自分が救われること、友人や親類の愛情を味わったことのないあわれな、打ちすてられた少年のために、なにか援助が与えられるものとしたら、わびしく、人からはかえりみられずに、悪事と犯罪の最中《さなか》にただ一人で立っているいまこそ、その援助を欲しいものと、神にねがった。
彼は祈りを終え、まだ顔を手に埋めていたとき、サラサラという衣《きぬ》ずれの音が彼をびっくりさせた。
「あれはなんだろう!」パッと起きあがり、扉のそばに立っている人の姿に気づいて、彼は叫んだ。「だれです、そこにいるのは?」
「あたしよ、あたしなのよ」ふるえる声が答えた。
オリヴァは頭上に高くろうそくをかざし、扉のほうを見た。それはナンシーだった。
「燈《あか》りを下におきなさい」面《おもて》をそむけて、この若い女はいった。「目がいたいから」
オリヴァは彼女の顔が真《ま》っ青《さお》なのに気がつき、おだやかに、具合いでもわるいのではないか、とたずねた。この女は、背を彼のほうに向けて、ドカリと椅子に坐りこみ、手をふりしぼっていたが、なんの返事もしなかった。
「ああ、ごめん!」しばらくして、彼女は叫んだ。「こんなことって、思ってもいなかったわ」
「なにか起きたんですか?」オリヴァはたずねた。「ぼくの助けで十分でしょうか? ぼくでできることなら、それをしますよ。ほんとうに、しますよ」
彼女はからだを前後にゆさぶり、喉元を押さえ、ゼイゼイいってあえいだ。
「ナンシー!」オリヴァは叫んだ。「どうしたんです?」
女は手で膝を、足で床をたたき、それから、急にそれをするのをやめて、ショールをからだにしっかりとまきつけ、寒さでからだをガタガタいわせた。
オリヴァは火をかきたてた。椅子を炉のそばすぐのところに引きよせ、彼女はなにもいわずに、しばらくのあいだ、ジッとそこに坐っていたが、とうとう頭をあげて、あたりを見まわした。
「ときどき、自分のからだに襲ってくるもんがなんだか、わからなくなっちまうことがあるのよ」せっせと服の乱れをなおすといった仕草をして、彼女はいった。「それは、どうやら、この湿りっ気の多い、よごれた部屋のためらしいわね。さあ、オリヴァ、あんた、準備できてること?」
「ぼくはあなたといっしょにゆくんですか?」オリヴァはたずねた。
「そうよ。あたし、ビルのとこからきたの」女は答えた。「あんたは、あたしといっしょにいくのよ」
「なんのために?」飛びさがって、オリヴァはたずねた。
「なんのためですって?」目をあげ、それが少年の顔とあったとき、ふたたび目をそらせて、女は相手の言葉をくりかえしていった。「おお! べつに心配することはないのよ」
「ぼくは信じません」彼女をこまかに見ていたオリヴァはいった。
「じゃ、勝手にお考え」笑うふりをして、女は答えた。「でも、なんのためにもならないことよ」
オリヴァは、自分がこの女の良心にたいして働きかける力をもっていることを感じ、一瞬、自分のあわれな立場にたいして、彼女の同情を求めようかと考えた。しかし、まだ時刻が十一時にもなっていないこと、多くの人がまだ街路に出ていて、彼の話を信じてくれる人もだれかいるだろうという考えが、彼の心を走った。この考えが胸に浮かんだとき、彼は前に歩みだし、ちょっとせきこんで、自分の用意はできていると伝えた。
このちょっとした考えも、その目的も、相手にははっきりとつかまれていた。彼女は、彼が話しているあいだ、彼をジロジロとながめまわし、頭の中で考えてることはわかってるよ、といったいかにもさとりすましたまなざしを彼に投げた。
「しっ!」彼の上にかがみこみ、あたりを用心深く見まわしながら、扉をさして、女はいった。「あんたは、自分をどうにもできないのよ。あたしだって、あんたのためにずいぶんやってみたけど、結局だめだったの。あんたがここから逃げだすことがあるとしても、いまはそのときじゃないことよ」
そのむきな態度に打たれ、オリヴァはびっくりして彼女の顔を見あげた。彼女は真実を語っているようだった。彼女の顔は青く、興奮し、真剣さで、からだはふるえていた。
「あんたが虐待されるのを、一度あたしは助けてあげたことがあるし、これからも助けてあげるわ。いまもそれをしてるのよ」女は大声でつづけた。「というのも、あたしが連れに来なかったら、かわりに来た人は、きっとあたしよりもっともっとあんたを荒らっぽくあつかったことよ。あんたが静かにおとなしくすると、あたし、約束したの。もしそうならなかったら、あんたは自分ばかりか、あたしにも迷惑をかけ、たぶん、あたしを殺すことにもなるのよ。いいこと! 神さまがごらんになったっていいわ、もうあたしは、あんたのために、こんな傷まで受けてるのよ」
彼女は、急いで、首と腕の鉛色の傷痕を示し、ひどい早口で、こうつづけた――
「いいこと! いまはもうこれ以上、あんたのためにあたしを苦しめないでちょうだい。あんたを助けてあげることができれば、それをしてあげることよ。でも、あたしには、その力がないの。なにをあんたがさせられても、それはあんたがわるいからじゃないわ。しっ、あんたがどんなことをいわれても、あたしには、自分が打たれてるように思えるのよ。さあ、手をこっちにちょうだい。急いで! あんたの手よ!」
オリヴァが本能的にさしだした手を彼女はつかみ、燈《あか》りを消して、彼を階段の上に引きあげていった。戸は暗闇につつまれた何者かの手でさっと開かれ、彼らがとおったあと、同じようにさっと閉められた。一頭立て二輪の貸し馬車が待っていて、女は、前に彼に話しかけたのと同じ猛烈さで、彼をそこに引き入れ、カーテンをしっかりと閉めてしまった。御者は指図を受けずに馬に鞭《むち》をあて、すぐ全速力で走りだした。
女はまだ彼の手をしっかりとにぎり、彼女がもう伝えた注意と保証をくりかえして伝えた。すべてが目まぐるしく、あわただしかったので、彼は自分がいまどこにいるのか、どこに着いたのかを考える時間の余裕もなかったが、馬車は前夜ユダヤ人の足が向けられた家の前で急にとまった。
ほんの一瞬間、オリヴァはあわただしく人気のない通りをながめまわし、救いを求める叫びが喉に出かかってきた。しかし、女の声が彼の耳にひびき、それはいかにも苦しげに彼女のことを忘れぬようにと求め、その結果、彼は救いを求める声が出せなくなってしまった。彼がもじもじしているあいだに、そのチャンスは消えていった。彼はもう家の中にあり、扉は閉ざされていたからである。
「こっちよ」はじめてにぎっていた手を放して、女はいった。「ビル!」
「やあ!」ろうそくをもって、階段の上のところに姿をあらわして、サイクスは答えた。「うん、うまくやったな。あがって来い!」
これは、サイクス氏のような気質の人間から発せられたにしてはとても強い称讃の言葉、めったにない心のこもった歓迎の挨拶だった。ナンシーは、いかにもうれしそうに、彼にやさしく挨拶をした。
「ブルズ・アイはトムといっしょに帰ったぞ」彼が燈《あか》りで彼らを二階に案内したとき、彼はいった。「あいつは邪魔になるからな」
「わかったわ」ナンシーは答えた。
「すると、おめえは餓鬼《がき》を連れてきたんだな」みなが部屋にはいったとき、話しながら戸を閉めて、サイクスはいった。
「ええ、ここにいるわ」ナンシーは答えた。
「おとなしくきたかい?」サイクスはたずねた。
「羊のようにね」ナンシーは応じた。
「そいつはありがてえ」オリヴァをぐっとにらみつけて、サイクスはいった。「やつの若いからだのためにもな。いうことをきかなけりゃ、ひでえ目にあうことになるんだからな。若いの、ここに来な。おまえにひとつ説教をしてやろう、そいつは、すぐにやっちまったほうがいいからな」
こうして新弟子に話しかけて、サイクス氏はオリヴァの帽子を剥ぎとり、それを部屋の隅に投げ、それから彼の肩を押さえ、自分はテーブルのわきに腰をおろして、少年を自分の前に立たせた。
「さて、まず第一に、おめえはこれがなにか知ってるか?」テーブルの上にあった小型ピストルをとりあげて、サイクス氏はたずねた。
オリヴァは、知っている、と答えた。
「うん、そんなら、ここを見な」サイクスはつづけた。「これは火薬、こいつは弾、それに、これは、火薬のおくりに入れる古帽子の切れっ端《ぱし》だ」
オリヴァは示されたいろいろのものを自分が理解していることをつぶやき、サイクス氏はじつにたくみに、慎重に、そのピストルの装弾をはじめた。
「さあ、弾はつまったぞ」それが終わると、サイクス氏はいった。
「はあ、わかります」オリヴァは答えた。
「さて」オリヴァの腕首をしっかりととらえ、銃身をオリヴァにふれるほどこめかみに近づけて、この盗賊はいったが、オリヴァは、その瞬間、ギクリとせずにはいられなかった。「おれといっしょに外に出てから、おれが話しかけたとき以外に、たった一言でも余計なことをいったら、この弾がいきなりてめえの頭に飛びこむことになるんだぞ。だから、許可なしで話そうというんなら、その前にお祈りの言葉でもいっといたほうがいいくらいだ」
その効果を増大させるため、この注意を与えた相手に苦虫をかみつぶしたような顔をしてみせて、サイクス氏は語りつづけた――
「おれの知ってるとこでは、おめえが片づけられたって、特におめえをうるさくさがしまわるやつはいねえんだ。てめえの身のためを思わなかったら、こんなつまらねえ面倒は、する必要のねえことさ。わかったか?」
「おまえさんのいうことをかいつまんでいゃあ」とても力をこめて語り、よく聞けといわんばかりに、オリヴァのほうにちょっと渋面をつくって、ナンシーはいった。「もしあんたが、いまかかろうとしている仕事で、あの子に邪魔をされたら、あの子の頭をぶちぬき、あとで勝手なことをいう舌根っ子を抑えちまい、その結果、ブランコになってもかまわないというわけなのね、生まれてこのかた毎月のこと、仕事でブランコになるようなことは、たんとしでかしてはいるけどね」
「そのとおりだ!」意を得たといわんばかりに、サイクス氏はいった。「女というものは、いつもことを簡単にしゃべりやがるもんだな――文句をいうときはべつで、そのときにゃ、ながながとしゃべりまくるがな。さあ、やつがすっかりのみこんだんだから、飯にしようや。出かける前に一眠りしてえしな」
この要求に応じて、ナンシーは食卓をならべ、数分間姿を消してから、やがて黒ビールのびんと料理した羊の頭をもってもどってきた。この料理はサイクス氏に愉快なしゃれをひき起こすことになったが、それは、ジェミーという言葉が羊の頭の料理と共通の流行語であり、しかも、奇妙な偶然で、それが、彼の商売で使う精巧な道具にも通じるということだった。じっさい、このりっぱな紳士は、たぶん、これから仕事にとりかかるということで刺激されていたのだろうが、すごく元気がよく、上機嫌で、その証拠に、これはここでいってもいいだろうが、彼はふざけてビールぜんぶを一息で飲み、食事の進行中に、大まかに計算したところ、ののしり言葉は八十語を上まわることはなかった。
食事が終わると――オリヴァがたいして食欲を感じなかったことは容易に想像つくが――サイクス氏は二杯水を割った酒をあおり、五時に起こせ、それをしなかったらひどい目にあわすぞ、とナンシーにさんざん悪態《あくたい》をついて、床にからだを投げだした。オリヴァは、同じ筋の命令で、床の上の布団《ふとん》の上に服を着たままころがり、若い女は、炉の火の手入れをして、定められた時間に一同を起こすようにと、炉の前に坐っていた。
ながいこと、オリヴァは目をさましたまま床の上に横になり、ナンシーがこの機会を利用して、さらに注意をささやいてくれるかもしれないと考えていた。だが、この若い女は、ときおり火の手入れをする以外には、ジッと動かず、火をながめて、考えこんでいた。こうして目をさましていることと不安で疲れ果てて、彼はとうとう寝込んでしまった。
彼が目をさましたとき、テーブルは茶道具で飾られ、サイクスは、椅子にかかっていたさまざまな道具を大|外套《がいとう》のポケットに突っこみ、ナンシーは、せっせと朝食の準備をしていた。まだ夜は明けていず、ろうそくは燃えていて、外は真っ暗だった。その上、強い風が窓ガラスを打ち、空は黒々と曇り摸様になっていた。
「さあ!」オリヴァが飛び起きたとき、サイクスはうなった。「もう五時半だぞ! 急げ、さもなけりゃ、朝飯にありつけねえぞ。もう、いまのまんまでも、おそいんだからな」
オリヴァは身づくろいに時間はかからず、少し食事をとってから、サイクスからの不機嫌な質問にたいして、もうすっかり用意ができました、と答えた。
ナンシーは、少年のほうにはほとんどふり向かずに、首にまきつけるハンカチを彼に投げつけ、サイクスは、肩につける大きな、粗末な肩マントを与えてくれた。こうしたいでたちで、彼は盗賊のほうに手をさしだし、盗賊はただ立ちどまって、彼に脅迫的な身ぶりをして見せ、自分の大|外套《がいとう》のわきのポケットにはさっきのピストルがあるのを示し、少年の手をしっかりとにぎり、ナンシーと別れの挨拶をかわして、彼を外に連れだした。
戸口のところにいったとき、若い女からの一瞥を期待して、オリヴァは一瞬ふりかえったが、彼女は火の前のもとの坐席にもどって、身じろぎもせず、その前に坐りつくしていた。
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二十一 遠征
二人が通りに出たとき、雨と風は強く、雲はどんよりとして嵐模様、わびしい朝だった。夜半の雨は強いものだった。大きな水|溜《た》まりが道にたまり、どぶはあふれていた。空にはおとずれる昼間のかすかなきざしがあらわれていたが、それはあたりの景色の暗さを救うより、それをいっそうひどいものにしていた。陰鬱《いんうつ》な光は、街路燈が与えていた光をただ青白くし、ぬれた家の屋根やわびしい街路に温かい、明るい光を投げなかったからである。町のこの地区では、だれもまだ動きだしてはいないようで、家々の窓はかたく閉ざされ、二人がとおった街路は音もなく静まりかえっていた。
彼らがベスナル・グリーン道路にまがってはいるときまでに、朝はかすかに明けはじめていた。多くのランプはもう消され、わずかながらいなかからの荷車がゆっくりとロンドンに向けて進み、ときおり、泥をかぶった駅馬車がガラガラと音をたてて勢いよく走りぬけ、御者が鈍感な荷車ひきに注意の一鞭《ひとむち》をくれていた。荷車ひきが道のまちがった側を進み、時間より十五分もおくれて事務所に着こうとしていたからである。
ガス燈を中で燃やしている居酒屋は、もう店を開いていた。しだいにほかの店の戸も開かれはじめ、何人かのまばらな人影に彼らは出逢った。ついで、仕事にゆこうとバラバラに進んでくる労務者の群れがあらわれ、そのあとには、頭に魚の籠を乗せた男女、野菜を積んだ馬車、生きた家畜や屠殺《とさつ》した家畜を満載した軽装馬車、桶《おけ》をもった乳しぼりの女が姿を見せ、それがさまざまな食料をもってロンドンの東郊外に向けて歩いてゆく途切れのない人の流れになっていた。
彼らがシティに近づくと、交通のさわがしさは、しだいに増大していった。ショーディッチとスミスフィールドの街路を彼らが縫うようにしてとおっていったとき、それは、音と雑踏の轟音にふくれあがった。夜がふたたびやってくるまで、あたりはもうすっかり明るくなり、ロンドンの人口の半分のあわただしい朝が、もうはじまっていた。
サン通り、クラウン通りをまがり、フィンズベリ広場を横切って、サイクス氏はチズウェル通りを経由して、バービカンにはいり、そこからロング小路とスミスフィールドにはいっていったが、このスミスフィールドからは、オリヴァ・トゥイストの度肝をぬいたすごい耳ざわりなさわぎがわき起こっていた。
その日は、市《いち》の立つ朝だった。地面は、ほとんど膝まで、汚物と泥でおおわれ、湯気を立てている家畜のからだからたえず立ちのぼり、煙突のてっぺんに停止している感じの霧と入りまじっている濃い厚い蒸気は、頭の上にずっしりと垂れこめていた。広い場所の中にあるかこい、それに空地という空地に建てられた一時的なかこいは、羊で満たされ、溝のほうの柱には三、四列のながい列になった獣類、牛がしばりつけられてあった。いなかの人、肉屋、家畜を市場に追ってくる人、呼び売り商人、少年、盗人、のらくら者、あらゆる階層の浮浪者が一団になってまじりあっていた。家畜追いの口笛、犬の吠え声、牛の鳴き声と飛び跳ねる音、羊の嗚き声、豚がうなりキーキーいう声、呼び売り商人の叫び、四方八方で起こる叫び、ののしり声、喧嘩《けんか》、すべての居酒屋から発せられる鐘の音やうなり声、おしあいへしあい、家畜を追い、打ちたたき、わめき、どなる物音、市場のあらゆる隅から湧いてくるおそろしい不協和音、不潔で、髯《ひげ》もそらず、たえずかけまわるよごれた人の姿は、感覚をすっかり麻痺《まひ》させてしまう驚くべきすごい光景を現出していた。
サイクス氏はオリヴァをひきつれ、いちばん人の込んだところをかきわけて進み、少年の肝をつぶした数多くの情景・物音には、ほとんどなんの注意もはらわないでいた。彼はゆきずりの友人に、二度か三度、うなずいて挨拶し、朝酒を一杯という招待も断わって、ずんずんと進んでゆき、とうとう、このさわぎの場所をとおりぬけ、ホウジア小路をとおって、ホウバンにはいろうとしていた。
「おい、チビ公!」聖アンドルー教会の時計を見あげて、サイクスはいった。「もうすぐ七時だぞ! とっとと歩け。さあ、なまけ者め、グズグズおくれて歩くな!」
サイクス氏は、この言葉とともに、その小さな同伴者の腕首をグイと引っぱり、オリヴァは、足を早めて早足とかけ足をまぜた一種の速足歩調で、できるだけ盗賊の早い大股の歩きと調子を合わせた。
二人はこの歩調で進んでゆき、とうとうハイドパークの隅をとおりすぎ、ケンシントンにさしかかろうとしていたとき、サイクスは歩調をゆるめ、少しおくれてついてきた空荷馬車が、やがて彼らに追いついた。その上に書かれてあるハウンズロウの文字を見て、彼は、できるだけ慇懃《いんぎん》な態度で、アイズルワスまで乗せてくれないか、と御者にたのんだ。
「乗りな」男はいった。「あれは、おまえの子かい?」
「うん、そうだ」オリヴァをにらみつけ、ピストルがはいっているポケットになに気ない態度で手を突っこんで、サイクスは答えた。
「おやじの足は、おまえには早すぎるだろう、どうだい?」オリヴァが息を切らせているのを見て、御者はいった。
「そんなこと、あるもんか」口をはさんで、サイクスは答えた。「やつは馴れてるんだ。さあ、ネッド、おれの手をつかめ。ほれ、乗れ!」
こうオリヴァに呼びかけ、彼は手をかして少年を車に乗せたが、御者は、袋の山をさして、そこに横になり、休むように、といってくれた。
いくつか里程標をとおりすぎていったとき、相手が自分をどこへ連れてゆこうとしているのだろう、という気持ちが、オリヴァの心にだんだんとつのっていった。ケンシントン、ハマースミス、チジック、キュー橋、ブレントフォードはぜんぶとおりぬけたが、まだ二人は、まるでいま旅行がはじまったといわんばかりに、ずんずんと進んでいった。とうとう、馬車は『駅馬車と馬』という居酒屋にやってき、そこを少しいったところで、べつの道がわかれているようだった。ここで荷馬車はとまった。
サイクスはさっと素早く車からおりたが、そのあいだじゅう、オリヴァの手は放さなかった。そして、すぐ彼をだきおろして、すごい勢いで彼をにらみ、意味ありげに、拳《こぶし》でわきのポケットをたたいた。
「坊や、あばよ」御者はいった。
「こいつは機嫌がわるくてね」オリヴァをひとゆすりして、サイクスは答えた。「機嫌がわるくてね。このチビ犬は! こいつのことは、かまわんでくれ」
「うん、わかったよ!」荷馬車に乗りこんで、御者は答えた。「なんといっても、天気は上々だしな」こういって、彼は荷馬車を走らせて去った。
サイクスはこの車がかなりゆきすぎるまで待ち、それから、あたりを見まわしたければ見てもいいぞ、とオリヴァにいい、ふたたび彼を連れて歩きだした。
二人は、居酒屋を少しいったところで、左にまがり、ついで右手の道をとって、ながいあいだ歩きつづけ、道の両側にある多くの庭や紳士の家をとおりすぎ、立ちどまったのはちょっとビールを飲むためだけで、とうとうある町に到着した。ここで、ある一軒の家の壁に、大きな字で『ハムプトン』と書かれてあるのに、オリヴァは気がついた。二人は、何時間も、畠のところでぐずぐずしていた。最後に彼らは町にもどり、きたない看板のついた古い居酒屋にはいり、台所の火のそばで、夕食を注文した。
この台所は古い、天井の低い部屋で、天井の中央に一本の大きな|けた《ヽヽ》がとおり、高いよりかかりのついたベンチがいくつか炉のそばにあって、酒を飲み、タバコをくゆらしながら、何人かの野良着《のらぎ》姿の荒らくれ男がそこに坐っていた。彼らはオリヴァにはぜんぜん、サイクスにもほとんど、注意をはらわず、サイクスのほうでも彼らを気にしていなかったので、二人は他人にわずらわされず、隅に坐っていた。
彼らは夕食に冷肉を食べ、その後ながいことそこに坐り、サイクス氏はパイプを三、四服くゆらせていたので、オリヴァはこれ以上先へはゆかぬものと考えていた。朝早く起き、そのうえ歩いたためにひどくつかれていたので、彼は最初ウトウトし、ついで疲労とタバコの煙に我慢できなくなって、ぐっすりと寝こんでしまった。
サイクスにひと突きされて目をさましたときには、あたりはもう真っ暗になっていた。しっかりと目をさまし、坐りなおしてあたりを見ると、彼と同行のあのお偉方《えらがた》の人物は、ビールを飲みかわして、一人の労働者と仲よくなり、盛んに話をしていた。
「じゃ、おめえはロウァ・ハリフォードにゆくんだな、えっ」サイクスはたずねた。
「うん、そうだ」男は答えたが、彼は酒を飲んでちょっと気分をわるく――あるいは、ひょっとしたら、気分をよく――しているらしかった。「それも、ぐずぐずせずにな。馬には、朝とちがって、もどりの荷はついていねえんだからね。だから、そこにゆくのに、手間暇はかからねえよ。さあ、あの馬に乾杯だ! まったく、あいつはいい馬だからな」
「そこまで、坊主とおれを車に乗せてってくれるかい?」ビールを新しいこの友人のほうにさしだして、サイクスはたずねた。
「すぐなら、かまわねえぜ」ビールの壺からサイクスのほうを見て、男は答えた。「ハリフォードにゆくんかい?」
「シェパートンにゆくんだ」サイクスは応じた。
「ああ、おれがゆくとこまでは、かまわねえぜ」相手は答えた。「ベッキー、勘定はすんだんかね?」
「ええ、あの方がおはらいです」女は答えた。
「いやあ!」酔った真顔になって、男はいった。「そいつはいけねえな」
「どうして、いけねえんだ?」サイクスは応じた。「おめえはおれたちを乗せてくれるんだろう。そうしたら、その礼に、一パイントやそこらおごったって、どうだというんだい?」
この見知らぬ男は、えらく深刻な顔をして、この抗弁に考えこみ、それがすんでから、サイクスの手をとって、おめえはほんとうにいい男だなあ、といった。これにたいして、サイクス氏は、冗談いうな、と答えたが、相手が|しらふ《ヽヽヽ》だったら、それはたしかに冗談ともいえるものだった。
さらに少し挨拶をかわしてから、サイクスとこの男は一座の人たちに別れの挨拶を告げて出発し、給仕の少女は、彼らがそうしているあいだに、壺やコップを集め、手にものを一杯もって、一行の見送りにと、ゆっくり扉のところまで出てきた。
不在中にその健康を乾杯されていた馬は、馬車につけられて、すぐにも出発できるようになっていた。オリヴァとサイクスは遠慮なく車の中にはいりこみ、馬の持ち主の男は、さらに一、二分つぶして、自分の馬を「ほめあげ」、酒場の馬丁と人々に、この馬にかなう馬があったら出してみろ、と挑戦していた。それから馬丁が馬を放すことを命じられ、こうして放されると、馬はその許可を不快なふうに利用し、いかにも傲然と頭を高くあげ、道を切って客間に走りこみ、こうした放れ業をやりながら、後ろ足でしばらくのあいだ立ちあがり、それがすむと、すごいスピードで飛び出し、いかにも華やかに町から姿を消していった。
その夜はとても暗かった。しっとりとした霧が川とあたりの沼地からわき起こり、わびしい畠の上にひろがっていた。その上、身をつんざくほどの寒さで、あたりは陰気で真っ暗だった。御者は眠くなっていたし、サイクスは相手を話にひきこむつもりになっていなかったので、一語も語られなかった。オリヴァは、恐怖と心配で度を失って車の隅にうずくまって坐り、このわびしい景色を奇妙に楽しんでいるかのように枝をユラユラとおそろしくあちらこちらに揺らしている痩《や》せこけた木の中に、ふしぎな姿を想像していた。
サンベリ教会をすぎたとき、時計は七時を報じた。向こう側の渡し舟の小屋の窓には燈《あか》りがついていたが、その光は道路を切って流れ、墓の上に立っている黒々としたイチイの木を、さらに陰気な物蔭にしていた。ほど遠からぬところに水の落ちる鈍い音がひびき、老木の葉は、夜風にゆられて、ゆっくりと動いていた。それは、まるで、死者の安息のためにかなでられている静かな音楽のようだった。
サンベリの町をとおりすぎ、二人はふたたびさびしい道路に出た。さらに二、三マイル進んで、荷馬車はとまった。サイクスは車からおり、手をとってオリヴァをおろし、二人はふたたび歩きだした。
つかれた少年の予期に反して、二人はシェパートンのどの家にもはいらず、泥と暗闇の中を、小道をとおり、寒々とした開けた荒野を切って歩きつづけ、とうとう、ほど遠からぬところに町の燈《あか》りが見える場所にやってきた。じっと目をこらして前をながめると、川が彼らのすぐ下を流れ、自分たちが橋のふもとに進んでいっていることが、オリヴァにはわかった。
サイクスはずんずんとまっすぐに進み、やがて、彼らは橋のたもとにやってきたが、彼は急に方向を変えて、左手の堤をおりていった。
「水だ!」恐怖で胸をむかつかせながら、オリヴァは考えた。「彼がこのさびしい場所にぼくを連れてきたのは、ぼくをここで殺すためなんだ!」
彼は地面にからだを投げ、幼い命を助けてくれるようにたのもうとしたが、そのとき、自分たちが荒涼とした一軒家の前に立っていることに気がついた。こわれかけた入口の両側に窓があり、二階があったが、光はぜんぜん見えなかった。この建物は暗く、装具はとりはずされ、見たところ、人が住んでいる気配はなかった。
サイクスは、まだオリヴァの手をにぎったままで、そっと低い玄関に近づき、掛け金をひきあげた。扉はおすとそのまま開き、二人はいっしょに中にはいっていった。
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二十二 押込み強盗
「おい!」彼らが廊下に足を踏みこむとすぐ、大きなしゃがれ声が叫んだ。
「そんなに大きな声をたてるな」扉に桟《さん》をして、サイクスはいった。「トウビー、ろうそくをくんな」
「ああ! 仲間だ!」同じ声が叫んだ。「バーニー、燈《あか》りだ、燈《あか》りだ! バーニー、その紳士をご案内しろ。できたら、まず目をさますんだな」
この話し手は、相手の眠りこんでいるのを起こすために、靴脱ぎ器か、なにかそういったものを投げたらしかった。なにか木製のものが、激しい勢いで投げだされるのが聞こえ、半ば眠り半ば起きている男がむにゃむにゃいっている声が聞こえてきたからである。
「聞こえたのか?」同じ声が叫んだ。「ビル・サイクスが廊下においでだというのに、だれもご挨拶もせず、おめえは、まるで阿片《あへん》を飲み、かまうもんかといったふうに、そこに眠ってるのか? さあ、少しは頭がはっきりしたか? それとも、しっかり目をさますのに、鉄のろうそく立てでも要《い》るというのか?」
こうした質問を浴びせられたとき、だらしなく引きずる足音が敷物のない部屋の床にひびき、右手の戸口のところから、最初にほの暗いろうそく、ついで、鼻からぬけて話す癖に悩んでいるといままで伝えられ、サフラン・ヒルの居酒屋で給仕の役をしていたあの人物が姿をあらわした。
「サイクスふん」ほんとうかうそかわからぬが、いかにもうれしそうに、バーニーが叫んだ。「おへえり、おへえり」
「おい、おめえが先にはいれ」オリヴァを前に突きだして、サイクスはいった。「もっと急ぐんだ! さもねえと、てめえのかかとを踏んづけちゃうじゃねえか」
ブツブツとオリヴァのおそいのをののしって、サイクスは彼を前におしだし、二人はくすんで燃えている火、二、三のこわれた椅子、テーブル、とても古びた長椅子のある低い、暗い部屋にはいっていった。長椅子の上には、ながい土製のパイプをくゆらしながら、一人の男がながながと寝そべっていた。彼は大きな真鍮のボタンのついたスマートな型の黄褐色の上衣、オレンジ色のネッカーチーフ、粗末な、けばけばしいショール模様のついたチョッキ、それにくすんだ鳶《とび》色の半ズボンを着こんでいた。クラキット氏(これがこの人物の名前だった)は、髪もひげも薄く、赤味がかった残りの毛をながいせん抜き型にカールさせ、その髪を、大きな、下品な指環でかざられたとてもきたない指で、ときどきしごいていた。彼は中背より少し背が高く、足がそうとう弱っていることは明らかだったが、足が弱いからといって、自分の長靴の美しさに打たれる彼の気持ちは、少しも鈍ってはいずに、足を高いところに乗せて、いかにも満足げに自分の長靴に見入っていた。
「ビルだな!」戸のほうに頭を向けて、男はいった。「よく来てくれた。おめえがこの計画をすてちまったんじゃねえかと、心配してたぜ。おめえがやめたら、おれ一人でもやるとこだったんだけどな。あれっ!」
彼の目がオリヴァの上にとまったとき、ひどくびっくりしたふうにこの叫び声を発し、トウビー・クラキット氏は姿勢をあらため、坐りなおし、それがだれかをたずねた。
「餓鬼《がき》さ。餓鬼《がき》にすぎんよ!」椅子を火に近づけて、サイクスは答えた。
「フェイギンさんとこの弟子《でし》のひとりだね」ニヤリとして、バーニーは叫んだ。
「フェイギンのだって、えっ!」オリヴァをながめて、トウビーは叫んだ。「礼拝堂のお婆ちゃん専門にしたら、やつはすげえもんになるぜ! あの面《つら》はやつの身上《しんしょう》になるだろうからな」
「そんな話――そんな話はやめにしろ」イライラして、サイクスは口を突っこみ、横になっている友人の上にかがみこんで、その耳に数語ささやいた。するとクラキット氏はすぐに笑いだし、名誉なことに、ひどくびっくりした目つきで、ジッとオリヴァをにらみつけていた。
「さて」自分の席にもどって、サイクスはいった。「待ってるあいだに、なにか食い物と飲み物を出してもれえたら、おれたち――とにかく、おれ――の元気は出るんだがな。おい、小僧、火のそばに坐って、からだを休めろ。あんまり遠くもないが、今晩また、おめえは出掛けなくっちゃならねえんだからな」
無言の、おずおずした驚きで、オリヴァはサイクスをながめ、腰掛けを火のところにもってゆき、痛む頭をかかえて、そこに坐ったが、彼は、自分がどこにいるのか、なにが身のまわりで起きているのかは、ほとんどわかっていなかった。
「さあ」若いユダヤ人が食事の切れ端《はし》とびんをテーブルの上におくと、トウビーはいった。「こんどの計画の成功を祈って乾杯!」彼はこの乾杯に敬意を表して立ちあがり、注意深く空《から》のパイプを隅において、テーブルのところに進み、酒をコップに満たし、グイッと一杯あおり、サイクス氏もそれにつづいた。
「あの坊主のためにも乾杯だ」コップに半分酒をついで、トウビーはいった。「無邪気な坊や、そいつを飲みな」
「ほんとうに」がっくりとした様子で男の顔を見あげながら、オリヴァはいった。「ほんとうに、ぼくは――」
「飲むんだ!」トウビーはくりかえした。「おめえのためになるものを、おれが知らんとでも思ってるのか? ビル、やつに飲めと言ってくれ」
「やつは飲んだほうがいいんだ!」ポケットにパッと手を当てて、サイクスはいった。
「まったく、やつは、ぺてん師一族よりもっとやっかい者《もん》だ。飲め、この片意地な餓鬼《がき》め、飲め!」
二人の男の脅迫的な態度におびえて、オリヴァは急いでコップの中のものを呑み乾したが、すぐにひどい咳の発作にむせてしまった。これはトウビー・クラキットとバーニーをよろこばせ、むっとしていたサイクス氏さえ、つい微笑をもらしたくらいだった。
これが終わり、サイクス氏は食べたいものを食べて(オリヴァは彼らが呑みこませたパンの小さな皮しか食べられなかったが)、二人の男は、少しウトウトするために、椅子の上にからだを横にした。オリヴァは火のそばに自分の腰掛けをおきつづけ、バーニーは、ケットに身をつつんで、炉格子《ろごうし》のすぐそばのところで床の上にゴロリと横になった。
一同は、しばらくのあいだ、眠り、あるいは、眠っているふうに見えた。一度か二度炉に石炭をくべるために起きたバーニー以外には、だれもからだを動かさなかった。オリヴァは重苦しい眠りに落ち、自分が陰気な小道をさまよい歩き、暗い教会の墓地を歩きまわり、あるいは、過去のあれやこれやの場所にもどっていったように思ったが、やがて彼は、もう一時半だぞ、と叫んだトウビー・クラキットの声に起こされた。
すぐにほかの二人も立ちあがり、全員あわただしく準備にとりかかった。サイクスとその相手は、首と顎《あご》を大きな、薄黒いショールに埋め、大|外套《がいとう》を着こんだ。一方、バーニーは戸棚を開き、いくつか道具を引っぱり出し、それを急いでポケットの中に詰めこんだ。
「バーニー、おれのピストルをたのむぞ」トウビー・クラキットはいった。
「ほれ、ここにあるよ」一対のピストルを出し、バーニーは答えた。「弾込めは、あんた自身がすませたね」
「よし!」ピストルをしまいこんで、トウビーは答えた。「ピストルは?」
「おれはもってる」サイクスは答えた。
「肩掛け、鍵、回し切り、カンテラ――なにも忘れた物はねえか?」小さな|かなてこ《ヽヽヽヽ》を上衣のすその内側にある輪穴にむすびつけて、トウビーはたずねた。
「大丈夫だ」相手は答えた。「バーニー、あの棍棒《こんぼう》の切れをもってきてくれ。これですっかり仕あがりだ」
こういって、彼はバーニーの手から太い棍棒《こんぼう》を受けとり、バーニーは、もう一本それをトウビーにわたしてから、せっせとオリヴァに肩掛けをつけはじめた。
「さあ、ゆこう!」手を出して、サイクスはいった。
馴れぬ動き、あたりの空気、むりに飲まされた酒ですっかりポーッとなっていたオリヴァは、サイクスが差し出した手に、機械的に自分の手をわたした。
「トウビー、残りの手をとれ」サイクスはいった。「バーニー、外を見てくれ」
バーニーは戸口のところにゆき、もどってきて、あたりは静かだ、と報告した。二人の盗賊は、オリヴァをあいだにおいて、飛びだした。バーニーはしっかりと戸締まりをして、前どおりケットでからだをくるみ、すぐにふたたび寝こんでしまった。
いまはもう、あたりは真っ暗だった。霧は宵《よい》の口よりずっと濃くなり、空気はひどく湿り、雨こそ降っていなかったが、オリヴァの髪と眉は、家から出て数分もしないうちに、あたりにただよい流れている半分凍った湿気のために固くなった。一同は橋をわたり、彼が以前に見たことがある光のほうに向けて進んでいった。その光は、そう遠いところにはなく、かなりさっさと歩いていったので、彼らは間《ま》もなくチャーツェーに到着した。
「町を突っ切っちまうんだ」サイクスはささやいた。「今晩、道でおれたちの姿を見るやつは、だれもいないだろう」
トウビーはだまって、それにしたがい、一同は急いでこの小さな町の大通りをとおっていったが、そこでは、このおそい時刻に、人っ子一人とおってはいなかった。薄暗い燈《あか》りが、間《ま》をおいて、寝室の窓から輝き、しゃがれた犬の吠え声が、ときおり、夜の静けさを破った。だが、外を歩いている人はいなかった。教会の鐘が二時を報じたとき、彼らは町をとおりぬけた。
歩調をはやくし、三人は道を左手にまがった。約四分の一マイルほど歩いたあとで、彼らは壁にかこまれた一軒家の前にとまり、トウビー・クラキットは、ほとんど一休みもせずに、あっという間《ま》に、その壁のてっぺんによじ登っていった。
「つぎは小僧だ」トウビーはいった。「やつをもちあげろ。おれがつかむからな」
オリヴァがまだあたりを見まわしもしないうちに、サイクスは彼を腕にだきかかえ、三、四秒もすると、彼とトウビーは壁の反対側の草の上にころがっていた。サイクスはすぐにこのあとを追い、彼らは用心深く家のほうに忍び足で進んでいった。
さて、このときはじめて、オリヴァは悲しみと恐怖で半狂乱になり、家に侵入し、人殺しとまではいかなくとも、盗みを働くのが、この遠征の目的であることをさとった。彼は手を固くにぎりしめ、われ知らず、おし殺した恐怖の叫びを発した。霧が目の前にあらわれ、冷汗が灰色の顔ににじみ出し、手足は動かなくなり、彼はがっくりと膝をついた。
「立てっ!」怒りでからだをふるわし、ポケットからピストルをぬき出してサイクスはささやいた。「立てっ。さもないと、手前の脳味噌、草の上にまき散らしてやるぞ」
「おお、おねがいです、ぼくを放してください!」オリヴァは叫んだ。「ぼくを逃がし、野原で死なせてください。ぼくはロンドンには決して近づきません。決して、決して! おお! どうかぼくをあわれみ、ぼくに盗みをさせないでください。天においでになる輝くすべての天使の愛情にかけ、どうかぼくをあわれんでください!」
この訴えがおこなわれた当の相手の男は、おそろしいののしり声を発し、ピストルの打ち金をひきおこしたが、ちょうどそのとき、トウビーはそれを彼の手からひったくり、手を少年の口にあてがって、彼を家のところに引っぱっていった。
「しっ!」この男は叫んだ。「ここじゃ、そんなことをしたってだめだ。もう一言でもしゃべりやがったら、おれがおまえにかわって、やつの頭をたたき割ってやる。それをしたって、音は立たず、同じようにまちがいがなくて、もっとお上品ときてるんだからな。ここだ、ビル、鎧戸《よろいど》をこじあけろ。小僧は、大丈夫、もう元気だ。もっと手馴れたやつでも、寒い夜、一、二分間こんなになったのを、おれは見たことがあるからな」
サイクスは、こんな用件にオリヴァを出したことにたいして、フェイギンにすごいののしりを浴びせ、音はほとんど立てずに、|かなてこ《ヽヽヽヽ》をグングンと動かした。少したち、トウビーの援助も借りて、彼がとりかかっていた鎧戸《よろいど》の蝶番《ちょうつがい》はパッと開いた。
それは家のうしろの小さな格子窓で、地上五フィート半くらいのところにあり、その窓は流し場か醸造場のもので、廊下の端《はし》にあった。割《さ》け目はほんのわずかで、家の人は、おそらく、そこをもっと堅牢にする必要はないと考えたのであろう。だが、それはオリヴァくらいの大きさの少年なら、優にとおれるものだった。格子の戸締まりをはずすには、サイクス氏の技術をちょっとふるえば十分で、それは、間《ま》もなく、ひろく開かれた。
「さあ、よく聞け、このきかん坊主め」暗いランプをポケットから引きだし、その光をまともにオリヴァの顔に向けて、サイクスはささやいた。「おめえをここから入れるんだ。この燈《あか》りをもってけ、おめえの真ん前の階段をそっとあがり、小さな玄関の間をとおって、表の通り扉のとこにゆけ。その戸をはずして、おれたちを入れるようにするんだ」
「上のところに差し金がある。おめえはそこにとどかないだろう」トウビーが口をはさんだ。「玄関の間の椅子に乗っかれ。ビル、そこには椅子が三つあってな、すごく大きな青の一角獣と金の熊手がついてて、それが婆さんの紋章なんだ」
「静かにせんか?」おそろしい顔をしてサイクスは答えた。「部屋の扉は開いてるんだな?」
「ああ、ひろくね」念のためにのぞきこんで、トウビーは答えた。「そこでおもしれえことは、家の中に寝てる犬が、眠れないときにはいつも廊下を歩きまわれるようにと、留め金で扉はいつも開けてあるんだ。はっ! はっ! 今晩は、バーニーが犬を連れだしてあるよ。鮮やかなもんさ!」
クラキット氏はほとんど聞こえぬほどの低い声で話し、声も立てずに笑ったのだが、サイクスはきびしく沈黙を命じ、仕事にとりかかれ、といった。トウビーは、まずカンテラを出し、それを地面において、その命令に応じ、ついで、窓の下で、壁に頭をつけ、手を膝にのせて、自分の背を踏み段にするようにしっかりと身をかまえた。この用意がすむとすぐ、サイクスは彼の上に乗り、足を先にしてそっとオリヴァを窓越しに中に入れ、襟をしっかりつかんだままで、彼を内側の床の上に無事におろした。
「このカンテラをもってけ」部屋をのぞきこんで、サイクスはいった。「前に階段が見えるだろうな?」
オリヴァは、生きているより死んだような気持ちで「ええ」と答え、サイクスはピストルの銃身で表の扉のほうをさして、そこにゆくまでずっと、おめえは撃ち殺せるのだから用心しろ、グズグズしたら、その瞬間に撃ち倒してやる、と彼に簡単に注意を与えた。
「すぐにすんじまうんだ」同じ低いささやき声で、サイクスはいった。「おめえを放してやったらすぐ、仕事にかかれ。いいか!」
「あれはなんだ?」トウビーがささやいた。
二人はジッと聞き耳を立てた。
「なんでもねえ」オリヴァを放して、サイクスはいった。「さあ、やれ!」
気を落ち着ける短い時間のあいだに、生死はともあれ、なんとか玄関の間から二階にかけあがり、家の人に急を報じよう、と彼は固く決心した。こうした考えで頭を一杯にして、彼はすぐに、そっと進んでいった。
「もどれ!」突然大声でサイクスは叫んだ。「早く! 早く!」
その場所の静けさが急に破られ、それにつづいて大きな叫びがあげられたので、オリヴァはびっくりして、カンテラを落とし、進むべきか退くべきか、わからなくなった。
その叫びはくりかえされ――燈《あか》りが目にうつり――階段の上で、おびえた二人の男の半裸の姿がオリヴァの目の前にゆらぎ――閃光――轟然《ごうぜん》たる銃声――煙――どこかわからぬが、ガチャンという物音――そして、彼はよろめいて、もどっていった。
サイクスは、一瞬間、姿を消したが、ふたたび窓のところによじ登り、煙のまだ消えぬうちに、オリヴァの襟首をつかんだ。彼は男たちに自分のピストルを発射し、相手が逃げてゆくあいだに、少年のからだを引きあげた。
「もっとしっかりとつかまれ」少年を窓から引きあげながら、サイクスはいった。「そこのショールをこっちによこせ。やつは射たれたんだ。早く! 畜生、ひどく血が流れてやがる!」
それから鐘の大きく鳴りひびく音が聞こえ、鉄砲の音、人の叫び声、すごい速さででこぼこした地面を運ばれてゆく感じがつづいた。それから、そうした物音は遠くの混乱したさわぎになり、ひえびえとした、おそろしい感じが少年の心に忍びより、彼は見る力も、聞く力も失ってしまった。
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二十三 バムブル氏とある婦人とのあいだでかわされた愉快な会話の内容、それに、教区吏員にも弱いところがあることを語る
ひどく寒い夜だった。雪は地面に積もり、凍って堅い厚い層になり、その結果、外をうなって吹きとおる鋭い風で吹きとばされるのは、小道や街角に吹きよせられた雪だけになっていた。そして、風はその見つけた獲物につのる激しい勢いをたたきつけるように、雲のようになった雪を荒々しくとらえ、それを無数の濛々《もうもう》としたうずにまきこんで、空中に飛び散らせていた。吹きさらしで、暗く、肌を刺すような寒さで、その夜は、衣食に足りた人は、明るく燃える炉のまわりに集まり、家にいることを神に感謝する夜、家がなく、腹を空かせているあわれな人間は、倒れて死んでゆく夜だった。多くの飢えにやつれた放浪者は、こうしたときに、なにもない通りで目を閉じ、その罪がいかなるものにせよ、これ以上につらい世で目を開くことはまずなかった。
戸外の事態がこうなっていたとき、オリヴァ・トゥイストが生まれた場所として、もう読者には紹介ずみの貧民院の寮母であるコーニー夫人は、自室の小部屋の陽気な炉の火の前に坐り、小さな、まるいテーブルをいかにも満足げにながめていたが、そのテーブルの上には、寮母たちが楽しむおいしい食事の材料がしかるべき盆の上に乗せられてあった。事実、コーニー夫人は、一杯お茶を飲んで元気をつけようとしているところだった。彼女がテーブルからとても小さな薬罐《やかん》が小さな歌声を立てている炉の火にチラリと目をうつしたとき、彼女の心の中の満足感は、大きくふくらんでゆき――つい微笑をもらしてしまうほどになった。
「そう!」テーブルの上に肘をつき、考えこんで火をながめながら、寮母はいった。「ほんとうに、わたしたちには感謝しなければならないものがたくさんあることね! それとわかったら、感謝しなければならないものがね。ああ!」
それを知らないでいる貧民の心の盲目を嘆くような素振《そぶ》りで、コーニー夫人は悲しげに頭をふった。そして、二オンス入りの茶筒のいちばん奥のところに銀のさじを突っこんで、お茶の準備をはじめた。
ほんのちょっとしたことでも、われわれのもろい心の平静を乱すものだ! とても小さくてすぐ一杯になる黒い急須《きゅうす》は、コーニー夫人がこうして道徳的な瞑想にふけっているあいだに、ふきこぼれ、コーニー夫人の手をちょっと火傷《やけど》させた。
「まあ、この急須《きゅうす》ときたら!」急いでそれを炉の台に乗せて、このりっぱな寮母はいった。「バカな急須《きゅうす》だよ、二杯のお茶しかはいらないくせに! だれが使ったって、役にも立たないくせに! 使ってあげるのは」一息して、コーニー夫人はいった。「貧乏人の、さびしいこのわたしくらいのもんだよ。おお、まあ!」
こういって、寮母は倒れるようにして椅子に坐りこみ、またテーブルに肘をついて、自分のわびしい運命を考えだした。小さな急須《きゅうす》と一杯の茶が彼女に夫コーニー氏の悲しい追憶を思い浮かばせ(彼が死んでから二十五年以上にはなっていないのだが)、彼女の心をしぼませたのである。
「もう二度と迎えられないわ!」コーニー夫人はイライラしていった。「もう二度と迎えられないわ――あのような人はね」
この言葉が夫に関係あったものか、急須《きゅうす》関係のものかは、はっきりとしない。それは急須のことかもしれなかった。コーニー夫人はそうしゃべりながら、急須をながめ、その後それをとりあげたからである。最初の一すすりを味わったとき、部屋の戸をそっとたたく音で、彼女はギクリとした。
「おお、おはいり!」コーニー夫人は鋭い調子でいった。「だれかお婆さんがまた死にかけてるんだわ。わたしがものを食べてるとき、きっと死ぬんだからね。そこに立っていないでちょうだい、冷たい風がはいるじゃないの……。どうしたの、えっ?」
「なんでもありません、なんでもありませんよ」男の声が答えた。
「まあ!」もっとずっとやさしい声になって、寮母は叫んだ。「バムブルさんですの?」
「はあ、わたしです」バムブル氏は答えた。彼は外にいて靴をきれいにこすり、上衣から雪をはらい落として、片手に三角帽、残りの手にはつつみをもって、姿をあらわした。「奥さん、戸を閉めましょうかね?」
夫人はその答えに、つつましくもとまどいの色を見せた。戸を閉めてバムブル氏と話したりしてはいかがか、と配慮したからである。バムブル氏はそのとまどいをいいことにし、自身とても寒かったので、許可も得ずに戸を閉めてしまった。
「バムブルさん、ひどい天気ですことね」寮母はいった。
「奥さん、まったくひどいもんですな」教区吏員はいった。「教区にもひどい天気ですよ、これは。今日の午後、五ポンドのパン二十人分とチーズを一本半出してやったんですが、あの収容者どもは満足せんのです」
「もちろん、そうでしょうとも。満足したことって、ありますかしら?」茶をすすりながら、寮母はいった。
「あるかですって、奥さん!」バムブル氏は応じた。「いやあ、ある男がいましてな、妻もいる、子供も多くかかえてるんで、四ポンドのパンと一ポンドのチーズをたっぷりやったんです。やつは感謝したでしょうか、奥さん? 感謝したでしょうか? ぜんぜん感謝してはおらんのです! やつのしたことといえば、ただ少し石炭を要求しただけ。ハンカチ一杯だけでも、とやつはいってました! 石炭ですって! やつが石炭になんの用があるんです? それでチーズを焼き、それから、もっとくれともどってくるだけです。奥さん、これがやつらのやりかたなんです。エプロンに一杯の石炭を今日《きょう》やれば、あさってには、もう一杯くれともどってくるんです、鉄面皮にもね」
寮母はこのわかりやすい比喩に全面的な賛意をあらわし、教区吏員は話をつづけた。
「こんなにひどいことになったのは」バムブル氏はいった。「まだ一度も見たことはありませんぞ。おとといも、ある男が――奥さん、あんたは結婚した女性、これはあなたには申せることですが――ほとんど素っ裸の男が(ここでコーニー夫人は床に目を伏せた)、監督のとこで晩餐のお客さんがあるときに、姿をあらわし、救済してくれっていってきたんです、奥さん。やつは立ち去ろうとはせず、客たちをひどくびくつかせたんで、監督は一ポンドのジャガイモと半パイントのオートミールをわたしてやったんですが、恩知らずの悪党の答えは、『いや、これは! これがわしになんの役にたつんです? これじゃ、鉄の眼鏡をもらうのと同じこってさ!』なんです。そこで監督は、やったものをとりもどして、いってやったんです、『よし、よし。ここでは、ほかになにもやらんよ』とね。この浮浪者は『じゃ、わしは通りで餓死してしまいますぞ!』といい、監督は『いいや、ちがう、餓死するもんか』と応じたわけです」
「はっ! はっ! それはおみごと! いかにもグラネットさんらしいわ、そうでしょう?」寮母は口をはさんだ。「そして、どうなったの、バムブルさん?」
「そう、奥さん」教区吏員は応じた。「彼は出てゆき、通りで餓死しちまいましたよ。まったく強情な貧民ですわ!」
「とても信じられないことだわ」言葉に力をこめて、寮母はいった。「でも、とにかく、バムブルさん、貧民院の外での救済は、とてもいけないこととお思いになりません? あなたは経験のある紳士、それをご存じのはずですわね。どうでしょう?」
「コーニー夫人」優越した知識を意識している人がもらす微笑を浮かべて、教区吏員はいった。「戸外救済は、もし適切におこなわれれば――奥さん、適切におこなわれればですぞ――教区の防衛策となるもんです。戸外救済の大原則は、貧民が望んでないもんを与えてやることなんです。そうすれば、やつらはやって来ることにあきちまいますからな」
「まあ!」コーニー夫人は叫んだ。「ええ、それはうまい方法ですことね」
「そうなんです。奥さん、ここだけの話ですが」バムブル氏は答えた、「それが大原則で、それだからこそ、厚かましい新聞の種になっている事件でもおわかりのとおり、病人家族の救済はチーズの切れっ端《ぱし》でおこなわれてるんです。コーニー夫人、これは、いまでは、イギリスじゅうできまったやりかたになってます」
「だが、しかし」つつみを開くために、話を切って、教区吏員はいった。「こうしたことは役所の秘密、口外は無用ですぞ。われわれ自身のように、まあ、教区の職員のあいだではべつの話ですがね。これは、奥さん、委員会が病人のために注文したポートワイン、本物で、新しく、まじりもんのないポートワイン、ほんの今朝、箱から出されたもんで、すごく澄《す》んでて、|おり《ヽヽ》がぜんぜんないもんなんです!」
最初のびんを光にかざし、その優れたところを調べるために、びんをよくゆすってから、バムブル氏は二本のびんをひきだしの箱のてっぺんにおき、それがつつまれていたハンカチをたたみ、注意深くそれをポケットにおさめて、まるで出てゆきそうな態度で、帽子をとりあげた。
「バムブルさん、ここから歩いておいでになるなんて、ずいぶんと寒いことでしょうね」寮母はいった。
「風が吹いてますからな、奥さん」上衣の襟を立て、バムブル氏は答えた。「耳がちぎれそうですよ」
寮母は小さな薬罐《やかん》から戸のほうに歩きかけている教区吏員へと目をうつした。そして、教区吏員が咳払いをし、おやすみをいおうとしたとき、いかにも恥ずかしそうに、お茶を――お茶を一杯飲みませんか? とたずねた。
バムブル氏はただちに襟をもとにもどし、帽子とステッキを椅子にのせ、べつの椅子をテーブルにひきよせた。ゆっくりと腰をおろしたとき、彼は夫人のほうを見やった。彼女は、視線を小さな急須《きゅうす》の上に釘づけにしていた。バムブル氏はふたたび咳払いをし、かすかにニヤリとした。
コーニー夫人は、押入れからべつの茶碗と碗皿をとるために、立ちあがった。彼女がふたたび腰をおろしたとき、その視線は、ふたたび、この色男の教区吏員の視線とぶつかった。彼女は顔を赤くし、彼のお茶をいれる準備にとりかかった。ふたたびバムブル氏は――今度はいままでにないほど高く――咳払いをした。
「あまいでしょうか? バムブルさん?」砂糖入れをとって、寮母はたずねた。
「奥さん、とてもあまいです」バムブル氏は答えた。これをいったとき、彼はコーニー夫人をジッと見つめ、教区吏員がやさしくみえるときがあったとしたら、バムブル氏は、その瞬間、そうした教区吏員になっていた。
茶は入れられ、無言でわたされた。バムブル氏は、パン屑で美しい半ズボンをよごさぬようにと、膝にハンカチをひろげ、飲んだり食べたりをしはじめ、こうした楽しみに、ときどき深い溜《た》め息をついて、変化をつけていたが、そうした溜《た》め息をついても、食欲が衰えるわけではなく、それとは逆に、それは、お茶や焼きパンの部門での彼の活躍ぶりを促進しているようだった。
「あなたは猫を飼っておいでですね」一族の真ん中に坐って、火の前でからだを温めている猫を見やって、バムブル氏はいった。「いや、それに子猫まで!」
「わたしは猫がとても好きなんです、バムブルさん、あなたには想像もつかないくらいにね」寮母は答えた。「とても幸福そうで、ふざけまわり、陽気で、わたしのいい相手ですことよ」
「奥さん、とても結構《けっこう》な獣です」いかにも賛成といったふうに、バムブル氏はいった。「とても家庭的ですな」
「ええ、そうですとも」熱をこめて、寮母は応じた。「とても自分の家を大切にし、ほんとうに、見ていても楽しいものですわ」
「コーニー夫人」ゆっくりと、茶さじで調子をとりながら、バムブル氏はいった。「あなたといっしょに住み、その家庭が好きにならない猫や子猫がいたら、それはきっとバカにちがいありませんな、奥さん」
「まあ、バムブルさん!」コーニー夫人は抗議をした。
「奥さん、事実をとりつくろったって、意味のないこってすよ」彼の姿を倍にも印象的にした一種の色っぽい重々しさで茶さじをゆっくりとふりまわしながら、バムブル氏はいった。「そんなやつだったら、わし自身、よろこんでそいつを川にすてちまいますな」
「そうなると、あなたは残酷なかたよ」教区吏員の茶碗を受けとろうと手を出しながら、寮母は陽気にいった。「それに、とても冷酷なかたよ」
「奥さん、冷酷ですって?」バムブル氏はいった。「冷酷ですって?」バムブル氏はそれ以上なにもいわずに、自分の茶碗をわたし、彼女がそれを受けとったとき、彼女の小指をつねり、それから、手を開いたまま、レースでかざった自分のチョッキを二度たたき、フッと深い溜《た》め息をもらし、炉のところからほんの少し椅子をさげた。
テーブルはまるく、コーニー夫人とバムブル氏はあまりはなれず、向き合いになって火に面して坐っていたので、炉からしりぞき、まだテーブルのそばからはなれずにいるバムブル氏が、自分とコーニー夫人のあいだの距離を大きくしてしまったことは、おわかりになるだろう。そして、このやりかたを、慎重な読者がたは驚嘆し、バムブル氏の例の偉大な英雄的行為とお考えになることだろう。事実、彼は時・場所・チャンスに誘惑され、つまらぬ痴話も語りたいところだったが、それは、軽っぽい、考えなしな男の口にいかに似合いのものにせよ、一国の判事、議員、大臣、市長、そのほかのえらい公務にたずさわっている人の権威にはどうみてもつり合わぬもの、ましてや、そうしたお偉方《えらがた》の中にあって、(これはよく知られていることだが)もっともきびしく、もっともゆるがぬものであるべき教区吏員の威厳と重々しさにはつり合わぬものだった。
しかしながら、バムブル氏の意図がいかなるものにせよ(疑いもなく、それは最高のものだったのだが)、これは前にも二度申しあげたことだが、そこのテーブルはたまたままるいものであり、したがって、バムブル氏はその椅子を少しずつ動かして、すぐ彼自身と寮母のあいだの距離をちぢめることになり、円の外をグルリとまわりつづけて、やがて、寮母が坐っている椅子の近くに自分の椅子をもってゆくことになった。じっさい、二つの椅子はふれ合い、そうなったとき、バムブル氏の進行ははじめてとまった。
さて、もし寮母が自分の椅子を右に動かしたら、彼女は自分のからだを焦がしてしまったことだろう。もし左に動かしたら、バムブル氏の腕の中に飛びこんでしまったことだろう。そこで(慎重な寮母であり、疑いもなく、一目でこうした結果は予想していたので)、彼女は自分のいたところを動かず、バムブル氏にもう一杯のお茶を手わたした。
「コーニー夫人、冷酷ですって?」茶をかきまわし、寮母の顔を見あげて、バムブル氏はいった。「コーニー夫人、あなたは冷酷ですかね?」
「まあ!」寮母は叫んだ。「これはまた、独身のかたからの質問として、とても変な質問をなさいますことね! バムブルさん、どうして、それをお知りになりたいんです?」
教区吏員は最後の一滴《ひとしずく》まで茶を飲み、一切れの焼きパンを食べ終え、膝からパン屑をはらいのけ、口をふき、ゆっくりと寮母にキスをした。
「まあ、バムブルさん!」ささやき声でこの慎重な夫人は叫んだ。恐怖心にすっかり圧倒され、彼女の声はぜんぜん出なくなっていたからである――「バムブルさん、わたし、悲鳴をあげますことよ!」バムブル氏はなにも返事をせず、片腕を寮母の腰にまわした。
この夫人はもうすでに悲鳴をあげる意図は宣言ずみなのだから、こうしてさらに図々しい態度をとられて、まさに悲鳴をあげるところだったのだが、その努力は、あわただしく扉がノックされたことによって、無用のものになった。それが耳にはいるや、すごい迅速さでバムブル氏は葡萄酒《ぶどうしゅ》のびんのところに飛んでゆき、激しくそのびんの塵《ほこり》をはらいはじめ、一方、寮母は、きびしい声で、そこにいるのはだれです、と追及した。彼女の声がその役職がらのきびしさをすっかり完全にとりもどした事実は、極端な恐怖心の影響を打ちくだく点で、急激な驚きの情がいかに効果のあるものかを示す奇妙な肉体的一例として、ここで一言申しあげておく価値があろう。
「すみませんが、寮母さん」ひどくきたない、しわだらけの老婆の収容者が、扉のところから頭を突っこんで、いった。「サリーが死にそうなんですけど……」
「ええ、それがわたしにどうだというの?」腹立たしげに、寮母はたずねた。「わたしは、まさか、あの女を生かすようにはできないしね、どう?」
「ええ、そうですとも、寮母さん」老婆は答えた。「だれだって、そんなことはできませんよ。あの人は、助かりっこはありませんからね。あたしだって、たくさんの人が死んでくのを見てますからね、小さな赤ん坊も、元気な大男もね。だから、死がやってきたときには、あたしにわかるんです、よーくね。だけど、あの女には心に悩みごとがあってね、発作にかかってないとき――とっとと死にかけてるんで、それはめったにないことですけどね――あんたに聞いてもらわにゃならんなにか話したいことを、あの女はもってるんです。寮母さん、あんたが来てくれなかったら、あの女は静かには死んではいけないんです」
この知らせに接して、りっぱなコーニー夫人は、目上の者を故意に悩まさずには死んでゆけない老婆たちにたいするさまざまなののしりをつぶやき、あわただしくとりあげた厚いショールにからだをつつみ、留守中なにか起きないようにと、自分がもどってくるまで部屋にいることを、言葉短かにバムブル氏に依頼した。そして、使いの者に早く歩き、びっこをひきひき夜じゅう、階段を歩きまわらないように命じて、彼女は、いかにも不機嫌に、道中ずっと文句をいいつづけながら、この老女のあとについていった。
ひとりになったバムブル氏の行動は、ちょっと不可解なものだった。彼は戸棚をあけ、茶さじの数を勘定し、角砂糖ばさみの重さを調べ、銀の牛乳入れをこまかに点検して、それが純銀のものであることをたしかめ、こうした点についての彼の好奇心を満足させてから、三角帽を斜《しゃ》にかぶり、荘重な足どりで、三回、テーブルのまわりを踊りまわった。このじつに異様な演技をすませてから、彼はふたたび三角帽をぬぎ、炉に背を向けて、その前に坐り、家具の精密な目録作成にとりかかったようだった。
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二十四 実につまらぬものではあるが、短く、この物語に重要な関係をもつかもしれぬ題目をあつかう
寮母の部屋の静けさを破ったのは、死の使者としてはなかなかふさわしい女だった。彼女のからだは老齢でまがり、その手足は中風でふるえ、口をモグモグさせながら横目をつかうゆがんだその顔は、造化の神のつくりたもうたものというより、なにか向こうみずな鉛筆でなぐり書きしたグロテスクな絵のようだった。
ああ、造化の神のつくりたもうた顔は、そのまま放りだしておくと、その美しさでわれわれをよろこばせてくれることが、なんと少ないことか! この世の憂い、悲しみ、欲望が、心の中が変わるのといっしょに、顔も変えてしまうのだ。こうした悩みの雲が消え去り、天国の面《おもて》が澄《す》んだものになるのは、ただこうした情熱が眠りにつき、その力を永遠に失ったときだけなのだ。死者の顔が、あの硬直状態にあるときですら、ながく忘れられていた眠っている幼児の表情にもどり、幼いころの顔形をもつようになるのは、よくあることである。その顔は、ふたたび、静かなやすらぎをもったものになり、幸福な子供時代にそれを知っていた人たちは、畏怖の念に打たれて、棺の横にひざまずき、この地上にも天使の姿を見るのだ。
例の老婆は、自分といっしょに歩いてくる女の文句になにか聞きとれぬ返事をつぶやきながら、ヨロヨロと廊下をとおり、階段をあがってゆき、とうとう息が切れて、それ以上は歩けなくなり、燈《あか》りを相手の手にわたし、そこに残って、いずれそのあとを追うことになった。この老婆より身のこなしの早い寮母は、病気の女がやすんでいる部屋に進んでいった。
それは、向こうの隅に暗い燈《あか》りがついている、ガランとした天井裏の部屋だった。寝台のそばで看護をしているもう一人の老婆がいた。教区の医者の弟子が炉のそばに立ち、鳥の羽根でつま楊枝《ようじ》をこしらえていた。
「寒い晩ですね、コーニーさん」寮母がはいっていったとき、この若い紳士はいった。
「ほんとに、とても寒いことですね」とても丁寧《ていねい》に、話しながらお辞儀をして、寮母は答えた。
「あんたんとこの契約人から、もっといい石炭をもらうべきですよ」火のてっぺんにあるかたまりを錆《さび》だらけの火かき棒でくだきながら、医師の代理はいった。「こんなものなんて、寒い夜に役だつもんではありませんからな」
「これは委員会で選んでくださったものです」寮母はやりかえした。「委員会がどんなにしてくれなくったって、少なくとも、ちょっとわたしたちを温かくしてもらわなければね。ここはなかなか住みにくいとこですからね」
この話は病気の女のうめき声によって中断された。
「おお!」この患者のことはいままで忘れていたように、顔を寝台に向けて、若い男はいった。「コーニーさん、もう終わりですな」
「そうですか、えっ?」寮母はたずねた。
「二時間もったら、意外というとこでしょう」つま楊枝《ようじ》の先を一生けんめいとがらしながら、医者の代理はいった。「もう、からだがすっかりだめになってますからね。お婆さん、患者は寝てるのかね?」
老婆は、たしかめるために、寝台の上にかがみこみ、そうだとうなずいた。
「じゃ、さわぎたてなかったら、そんな調子でお陀仏《だぶつ》になるな」若い男はいった。「燈《あか》りは床におろしなさい。そうしたら、患者に光が当たらなくてすむからね」
老婆は命じたとおりしたが、それをしながら頭をふり、女はそう簡単には参らないことをほのめかしていた。それを終えて、彼女は、このときまでにもどってきていたもう一人の看護人のわきの自分の席に腰をおろした。寮母は、イライラした表情を浮かべて、からだをショールにつつみ、寝台の足のところに坐った。
医者の代理は、つま楊枝《ようじ》をつくり終わって、炉の前に突っ立ち、十分ほど暖をとっていたが、そのうちにすっかり退屈になって、コーニー夫人に別れの挨拶を述べ、忍び足でここから逃げだしていった。
しばらくのあいだだまって坐っていてから、二人の老婆は寝台から立ちあがり、炉にかがみこんで、暖をとろうと、そのしわだらけの手を前に突きだした。炎が彼らのしわくちゃの顔の上に無気味な光を投げ、この姿勢で彼らがボソボソと話をはじめたとき、その醜悪さはおそろしいものになっていた。
「アニー、あたしの留守ちゅう、なにかあの女はしゃべったかい?」使いをした女がたずねた。
「一言もいわなかったよ」相手は答えた。「ちょっとのあいだ、腕をひっかいてたけどね。だけど、あたしがあの人の手を抑えてやったら、間《ま》もなく静かになったよ。もう力はぬけてるんだから、静かにしとくのは楽《らく》なもんさ。教区の世話になってるけど、年寄りにしては、あたしゃ弱いほうじゃないんだからね。とんでもない!」
「お医者さんが飲ませろといってた熱い葡萄酒《ぶどうしゅ》、彼女、飲んだかい?」最初の老婆がたずねた。
「飲まそうとやってみたんだけどね」相手は答えた。「でも、歯を強く喰いしばっててね、茶碗をあんまり堅くにぎりこんでいるんで、それをとりもどすのに、ほんとうに一苦労しちまったよ。だから、それは、あたしが飲んじゃったけど、おかげで元気になったよ!」
ほかの人には聞かれないようにと、用心深くあたりを見まわして、二人の老婆はもっと火の近くに寄り、陽気にクスクスと笑いだした。
「あたしゃ憶えてるよ」最初の老婆はいった、「あの女が同じことをやり、それをえらくおもしろがってたときのことをね」
「うん、そうだったね」相手は答えた。「あれは陽気な女だったよ。うんとたくさんの死体を、あの人は蝋人形《ろうにんぎょう》のようにきれいに飾りたててたっけ。あたしの老いたこの目がそれをながめ――そう、この老いた手がそれにさわったんだからね。というのも、あたしは、何十回も、あの人の助手をしてたんだから」
そういいながら、この老婆はふるえる指をのばし、それを得意げに顔の前でふり、ポケットをさぐって、時代がかった錫《すず》の嗅ぎタバコ入れを引っぱりだし、それをふって、わずかのタバコの粉を相手のひろげた手のひらに、それより少し多くを自分の手のひらに落とした。二人がこうしたことをしているとき、死にかけた女が昏睡状態からさめるのをイライラしながら待っていた寮母は、火のそばの老婆たちといっしょになり、どのくらい自分が待たなければならないか? と、つっけんどんにたずねた。
「寮母さん、ながくはかかりませんよ」第二の老婆が、彼女の顔を見あげながら、答えた。「ながいこと、死神さまを待つことはありませんとも。もうしばらく、もうしばらく! あたしたちのために、死神さまはすぐここにおいでになりますよ」
「おだまり、この老いぼれの阿呆め!」きびしく寮母はいった。「マーサ、おまえが話してちょうだい。この女は前にもこうだったのかい?」
「ええ、ときどきね」第一の女が答えた。
「だけど、もう二度とそうなることはないね」第二の女がいいそえた。「というのも、一回だけで、そのあとは、もう目をさましはしないんだからね、その一回も短いもんだろうけど!」
「ながかろうと、短かろうと」寮母はきびきびといってのけた。「この女が目をさましたときには、わたしはここにいないよ。二人とも、なんの用事もなくてわたしを使うつぎのときには、用心しなさいよ。この家の婆さんたちが死んでくとき、その見送りをするのなんて、わたしの役目じゃないんだからね――その上――わたしはそんなこと、いやなんだよ。この厚かましい鬼婆どもめ、そのことは忘れちゃいけないよ。今度わたしをバカにしたら、すぐに折檻《せっかん》してやるから、ほんとうだよ」
彼女がとっとと出てゆこうとしたとき、寝台のほうに向いていた二人の老婆の叫びが、彼女をふりかえらせた。患者がしっかりと身を起こし、両腕を彼らのほうにさしのばしていた。
「あれはだれ?」うつろな声で、彼女は叫んだ。
「しっ、しっ!」彼女の上にかがんで、老婆の一人がいった。「横になるのよ、横になるのよ!」
「生きて二度と横にはなれないんだよ!」もがきながら、女はいった。「あたしはあの人にいうつもりだよ! ここに来て! もっと近くに! あんたの耳に小声でいいたいことがあるんだからね」
彼女は寮母の腕をとらえ、相手を寝台のわきの椅子にむりやり坐らせ、話をはじめようとしたが、あたりを見まわし、二人の老婆が聞き耳を立て、身をのりだしているのに気がついた。
「あの二人を追い出して!」眠そうに女はいった。「早く、早く!」
二人の老婆は、調子を合わせて、このあわれな女がもうだめになり、いちばんの仲よしがわからなくなってしまった、と悲痛な嘆きを何回かあげ、その枕もとを去りはするものか、といろいろかきくどいていたが、寮母は彼らを部屋から追い出し、扉を閉め、寝台のわきにもどってきた。追い出されると、老婆たちはその調子を変え、サリーは酔っぱらってるのだ、と鍵穴から叫んだが、これは十分にあり得ることだった。医師によって与えられたわずかな阿片《あへん》以外に、そっと老婆たちから気前よく飲まされた最後の水割りジンの影響が、彼女にあらわれていたからである。
「さあ、あたしのいうことを聞いとくれ」からだに残った最後の力をふりしぼるようにして、この臨終の女は声を大きくしていった。「ちょうどこの部屋で――ちょうどこの部屋で――あたしはかわいい若い女の子の看護をしたんだよ。その女は、歩いて旅行したんで、足は切り傷、打ち傷だらけ、からだは塵《ほこり》と血でよごれきってたっけ。その女は、男の子を生み、死んじまったよ。ええと――あの年は何年だったっけ!」
「年はどうでもいいじゃないか」イライラして、寮母はいった。「その女がどうだというんだい?」
「うん」もとの眠そうな状態にもどって、病気の女はつぶやいた。「その女がどうだったっけ?――どうだったっけ――ああ、わかった!」顔を赤くし、目をむき、激しい勢いで飛び起きて、彼女は叫んだ――「あたしはその女から盗んだんだよ、そうだよ! 盗んだときに、女のからだはまだ冷えきってはいなかった――そう、冷えきってはいなかったよ!」
「盗んだって、なにを? 早く教えておくれ!」まるで助けを呼ぶような仕草をして、寮母は叫んだ。
「あれをさ!」手で相手の口を抑えて、女は答えた。「あの女のもってたただひとつのもんだよ。あの女には、着るもん、食うもん、なにもなかった。だけど、それを大切にしまっててね、胸にもってたんだよ。それは金だったよ、ほんとうに! 自分の命も救えた純金だったんだよ!」
「金だって!」倒れかかった女の上にむきになってかがみこみながら、寮母はくりかえした。「さあ、さあ、話して――うん――それをどうしたんだい? その母親はだれだったんだい? それはいつのこと?」
「あたしはね、それを大切にしまっとけといわれたよ」うめきながら、女は答えた。「そして、そばにほかに女はいなかったんで、あたしにたのんだのさ。首にさがってるそれを最初に見せられたとき、あたし、心の中で、もうそれを盗んでたんだ。その上、たぶん、子供は死ぬもんと思ってたんだ! そのことがわかってたら、あの子のあつかいも、もっとよかっただろうにね!」
「わかってたって、なにが?」相手はたずねた。「さあ、お話し!」
「坊やは大きくなると、母親そっくりになったよ」質問にはおかまいなしに、話をわき道にそらして、女は語りつづけた。「だから、あの坊やの顔を見ると、あたし、あのことを思い出しちまうんだ。かわいそうに! かわいそうに! あの女はまだとても若い身空だったよ! とてもおとなしい女でね! ちょっと待って。もっと話したいことがあるんだから。まだぜんぶ話しはしなかったね、どうだい?」
「そうよ、まだよ」弱々しい言葉がこの臨終の女の口からもれてくるとき、それをとらえようと頭を横にかたむけながら、寮母はいった。「さあ、急いで。さもなけりゃ、おそくなっちまうよ!」
「母親は」前よりもっと激しくからだの力をふりしぼって、女はいった――「母親は、死の苦しみがはじめて襲ってきたとき、あたしの耳にささやいたよ、もし赤ん坊がりっぱに大きくなったら、この若いあわれな母親の名を口にするのをそう恥ずかしくは思わない時がやってくるかもしれないとね。『それに、おお、恵み深い神さま!』その痩《や》せた手を組み合わせて、女はいってたよ、『生まれる子供が男であろうと女であろうと、この悩みの多い世の中で、その子のためになる友をおつくりになり、神さまのご慈悲にゆだねられたさびしい、孤独なその子供に、どうかあわれみをおかけください!』ってね」
「その坊やの名は?」寮母はたずねた。
「オリヴァと呼んでたよ」声が弱くなって、女は答えた。「あたしが盗んだ金は――」
「うん、うん――どうしたの?」相手は叫んだ。
返事を聞こうと、彼女はむきになって女の上にかがみこんだ。相手は、もう一度ゆっくりとからだをこわばらせて起きあがり、坐った姿勢になって、両方の手でしっかりと掛け布団《ぶとん》をつかみ、喉からなにかわけのわからぬ音を出しながら絶命して床の上に倒れた。寮母は本能的にさっと身をひいた。
***
「すっかりいかれちまったね!」扉が開かれるとすぐ飛びこんできて、老婆の一人がいった。
「そして、結局、いい残すことは、なにもなかったのさ」無造作《むぞうさ》にそこから歩み去って、寮母はいった。
二人の老婆はおそろしい仕事の準備ですっかり心をうばわれ、なんの返事もせず、そのまま放りだされて、死体のまわりを歩きまわっていた。
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二十五 話はフェイギン氏とその仲間にもどる
こうしたことがいなかの貧民院で起こっているとき、フェイギン氏は、鈍い、煙の出る炉の火をジッと見つめながら、その古い住まい――オリヴァが若い女によって連れだされたあの家――で坐っていた。彼は膝に|ふいご《ヽヽヽ》を乗せていたが、これで、彼は明らかに炉の火をもっと活発なものにしようとしていたのだった。だが、彼は深い物思いにふけり、|ふいご《ヽヽヽ》の上に腕を組み、顎《あご》をおや指の上に乗せて、ぼーっと、錆《さ》びついた炉格子《ろごうし》を見つめていた。
彼の背後のテーブルでは、ぺてん師、チャールズ・ベイツ、それにチトリングが坐っていて、ホイストの試合に熱中し、ぺてん師は空席(ホイストは四人でする遊び)と|ぐる《ヽヽ》になり、ベイツとチトリング氏を敵にまわして、がんばっていた。ぺてん師の顔はいつも特別利口そうに見えるものだったが、彼が試合の進行を注意深く見守り、チトリング氏の手をよく読んでいるところから、その魅力はいっそう増大していた。彼は、ときおり、機会あるごとに、チトリング氏の手を真剣になってチラリとのぞきこみ、その隣人の札を見た結果に合わせて、自分の手を調整していた。その夜は寒かったので、ぺてん師は、いつもの習慣どおり、室内でも帽子をかぶっていた。彼はまた、土のパイプを口にくわえ、テーブルの上にある一座の楽しみのための水割りジンを一杯入れてある一クォートの壺から一杯やるとき以外には、そのパイプを口からはなさなかった。
ベイツもこの試合に身を入れていたが、腕達者な友人よりもっと興奮しやすい人物だったので、彼のほうがもっと水割りジンに手を出し、科学的な三番勝負にひどくふさわしくない冗談やら筋ちがいの言葉をはきちらしていた。じっさい、ぺてん師は、親しい間柄であるだけに、何回となく、こうしたふさわしからぬ態度について、ベイツに強く注意し、こうした抗議を、ベイツは少しも悪意をいだかずに受けとり、ただその友人に、畜生! とか、袋に頭を突っこんでいやがれ! とか、その他あざやかな当意即妙の答えで応じていたが、その巧妙な言葉ぶりは、えらくチトリング氏の心に感動を呼び起こしているものだった。ベイツとその仲間がいつも負けているのは、注目すべき事実であり、それはベイツを怒らすどころか、彼に最高の楽しみを与えているらしかった。勝負の終わるごとに、彼はわっと笑いだし、生まれてこのかた、こんなにおもしろい勝負はしたことがない、なんぞといっていた。
「これでダブル(ホイストで相手が三点とる前に五点をとってしまうこと)二回と今度の三番勝負だ」チョッキのポケットから半クラウン金貨を引っぱりだしながら、浮かぬ顔をして、チトリング氏はいった。「ジャック、おまえみてえにすげえやつは、見たこともねえぞ。なんでも勝っちまうんだからな。こっちでいい札をそろえてるときでも、チャーリーとおれは、そいつをむだにしちまうんだ」
いかにも残念そうにいったこの言葉の内容と、そのいいかたがチャーリー・ベイツをとてもよろこばし、その結果叫んだ彼の笑い声が、ユダヤ人を物思いからさまし、どうしたんだ、と彼にたずねさせた。
「どうしたんだって、フェイギン!」チャーリーは叫んだ。「この試合を見てたらよかったに! トミー・チトリングは一点もとれず、おれは、ぺてん師と空席を相手にして、彼と組んでいるんだよ」
「そうかい、そうかい!」その理由はちゃんとわかっていることを思わせるニヤリとした笑いを浮かべて、ユダヤ人はいった。「トム、もう一度やってみな、もう一度やってみな」
「いや、わるいけど、もう真《ま》っ平《ぴら》だ、フェイギン」チトリング氏は答えた。「もうたくさんだ。このぺてん師のやつ、えらく運がついてて、どうしてもかなわねえんだ」
「はっ! はっ!」ユダヤ人は答えた。「ぺてん師に勝つにはね、朝早起きをしなけりゃだめなんだ」
「朝だよ!」チャーリー・ベイツはいった。「彼に勝とうというんなら、前の晩から靴をはき、それぞれの目に望遠鏡をつけ、肩にはオペラグラスをかけてなくちゃ、だめなんだよ」
ドーキンズ氏は落ち着きはらってこのしゃれたお世辞を受け、一回一シリングで、最初の絵札当てをしようといいだした。だれもこの挑戦を受けて立たなかった。このときまでに彼のパイプは吸いきって消えていたので、彼は、独特の甲高《かんだか》い音をひびかせる口笛を吹きながら、点とりを書くのに使った白墨の端《はし》で、テーブルの上にニューゲイト監獄の見取り図を描いて楽しみはじめた。
「トミー、おまえはじつに鈍感だなあ!」ながい沈黙がつづいたあとで、絵を描く手をとめ、チトリング氏に話しかけて、ぺてん師はいった。「フェイギン、やつはなにを考えてると思う!」
「おれにわかるもんかね」|ふいご《ヽヽヽ》を動かしながら、あたりを見まわして、ユダヤ人は答えた。「たぶん、自分の損害か、さもなけりゃ、出てきたばかしの自分のいなかの小さな家のことだろうよ。はっ! はっ! そうかね、おまえ?」
「とんでもない」チトリング氏が答えようとしたとき、その話を抑えて、ぺてん師はいった。「チャーリー、おまえはどう思う?」
「おれはね」ニヤリとして、ベイツが答えた。「やつはベッツィーにぞっこんだと思うな。ほら、やつは顔を赤くしてるぞ! いやぁ、こいつは驚いた! こりゃおもしれえや! トミー・チトリングがぞっこんだって! おお、フェイギン! フェイギン! なんておもしれえんだ!」
チトリング氏が愛慕の情の犠牲《いけにえ》になっているという考えにすっかり圧倒され、すごい勢いで身を投げだしたので、ベイツは均衡感を失い、床の上に放りだされ、そこで(この投げだされたことで、いささかも愉快さを失わずに)、笑いがとまるまで、身をながながと寝そべらせていた。それから彼は自分の場所にもどり、また笑いだした。
「やつのことは気にするなよ」ドーキンズ氏には目くばせをし、ベイツを叱るように|ふいご《ヽヽヽ》の先でたたきながら、ユダヤ人はいった。「ベッツィーはいい娘《こ》だよ。トム、あの娘《こ》にはくっついていなよ。くっついていなよ」
「おれのいいてえことは、フェイギン」顔を真っ赤にして、チトリング氏は答えた。「そいつは、ここのだれにも関係のねえこったということさ」
「そうともさ」ユダヤ人は答えた。「チャーリーはしゃべりたてるだろうが、そいつは、気にすることはない。ベッツィーはいい娘《こ》だな。あの娘《こ》のいうとおりにしていな、トム。そうすりゃ、一身上《ひとしんしょう》かせげるからな」
「だから、あの娘《こ》のいってるとおり、やってるよ。彼女の忠告がなかったら(忠告があったらのつもりでチトリングはいっている)、あんな踏み車の刑はくわなかったことだろうよ。だが、あれはおまえには得《とく》な仕事になったな、そうじゃないかね、フェイギン? だが、六週間くらいくらったって、どうだというんだい? いずれそいつは来るもんだし、おまえがたいして出歩きたくねえ冬のあいだにそいつが来たって、わるかあねえもんな。どうだい、フェイギン?」
「うん、たしかにそのとおりだな」ユダヤ人は答えた。
「トム、ベッツィーが賛成だったら」チャーリーとユダヤ人に目くばせして、ぺてん師はたずねた。「おまえは二度くらっても、平気だろうな?」
「うん、そうだとも」怒ってトムは答えた。「さあ、みんな、だれがそれだけのことをいえるか、ひとつ知りてえもんだ、なあ、フェイギン?」
「だれもいえんよ」ユダヤ人は答えた。「だれ一人だってな。おまえ以外にそれをする人間は、いるもんかね。一人だっていやしないよ」
「あの女のことを密告したら、おれは出所もできたんだ、なあ、フェイギン?」知能の足りないこのあわれなうすのろは、憤慨しながら、語りつづけた。「おれが一言でももらしゃ、そうなったんだぜ。そうだろう、フェイギン?」
「たしかに、そうさ」ユダヤ人は答えた。
「だが、おれはしゃべらなかったぜ。しゃべったかい、フェイギン?」ベラベラとつぎからつぎへと矢つぎ早に質問を浴びせて、トムはたずねた。
「いや、いや、しゃべりはするもんか」ユダヤ人は答えた。「おまえは根性がしっかりしてるから、そんなことはするもんかね。まったくしっかりしてるんだからな!」
「たぶん、そうだったんだ」あたりを見まわして、トムは応じた。「そうだったとしたら、それになんの笑うことがあるんだい、えっ、フェイギン?」
ユダヤ人は、チトリング氏がそうとう憤慨しているのをさとって、急いでだれも笑っていないことを彼に保証し、みなの真剣さを証明するために、主犯であるベイツに同意を求めた。だが、不幸なことに、チャーリーが、いままでこんなに真剣な気分になったことはないと断言しようとして、口を開くと、すごい哄笑が抑えられなくなり、ひどい目にあったチトリング氏は、いきなり、部屋をふっ飛んでいって、この違反者に一撃を加えようとし、相手は追跡を逃れる名人のこと、それを避けようと身を沈め、それがいかにもいい機会をとらえたので、その一撃は陽気な老紳士の胸の上に加えられ、老紳士はヨロヨロッと壁のところまでいって、息をゼイゼイさせながら、そこに立ちつくし、一方、チトリング氏は、ひどくあわてて、その状況を見守っていた。
「おい!」このときに、ぺてん師は叫んだ。「ベルの音がするぞ」燈《あか》りをとりあげて、彼はそっと階上にあがっていった。
みんなが暗闇の中にいたとき、鐘は、いかにもあせっているように、ふたたび鳴らされた。少し間《ま》をおいてから、ぺてん師がふたたび姿をあらわし、わけのわからぬふうに、フェイギンにささやいた。
「えっ!」ユダヤ人は叫んだ。「一人で?」
ぺてん師はそうだとうなずき、手でろうそくの炎をおおい、無言の仕草で、ここのところ、ふざけないほうがいいぞ、とそっとベイツに知らせた。この好意的な任務を果たしてから、彼はユダヤ人の顔をジッと見つめ、彼の指示を待っていた。
老人は黄色の指を噛み、数秒間考えこんでいたが、まるでなにかをおそれ、最悪事態を心配しているように、その顔は興奮でピクピクしていた。とうとう、彼は頭をあげた。
「彼はどこにいる?」彼はたずねた。
ぺてん師は階上をさし、部屋を出てゆく身ぶりをした。
「うん、そうだ」この無言の質問に答えて、ユダヤ人はいった。「彼をここに連れおろしてこい。しっ! 静かにしろ、チャーリー! おとなしくしろ、トム! じっとしてるんだ、じっとな」
チャーリー・ベイツとついいましがたまで敵だった男は、すぐ、おだやかにその命令にしたがった。ぺてん師が手にろうそくをもって階段をくだってゆき、そのあとに粗末な上っ張りを着た男がついていったとき、彼らはどこにいるのかわからないほど静かになっていた。はいってきた男は、セカセカと部屋を見まわしてから、彼の顔の下半分をかくしていた大きなショールをぬぎすて、やつれ果てた、顔も洗わぬ、髯《ひげ》もそらぬあのトウビー・クラキットの顔をあらわした。
「やあ、フェイギン」ユダヤ人にうなずいて、このお偉方《えらがた》の人物はいった。「おい、ぺてん師、このショールをおれの帽子ん中に突っこんどいてくれ。こっから出るとき、それがどこにあるかが、わかるからな。うまい! おめえはあの老|掏摸《すり》よりもっと凄腕の巾着切《きんちゃくき》りになれるぞ」
こういいながら上っ張りを引きあげ、それを腹のまわりにまきつけて、彼は椅子を火のところに引きよせ、炉棚の上に足を乗せた。
「フェイギン、そこを見ろ」気が滅入ったふうに自分の長靴をさして、彼はいった。「あのとき以来、デイとマーチン薬(靴墨のメーカーの名)は一滴《ひとしずく》もつけてねえよ。まったく、靴墨のこれっぽっちもな! だが、そうジロジロとおれを見るな。いずれ話してやるからな。食い物《もん》と酒にありつくまでは、おれは話もできねえんだ。だから、腹のたしになるものを出して、この三日間ではじめての静かなめしにありつかせてくれ!」
ユダヤ人は、身ぶりで、食べられるものはすべてテーブルの上におくようにと、ぺてん師に命じ、自分はこの夜盗の向かい側に坐って、相手が話しだすのを待っていた。
外見から察するところ、トウビーには急いで話をはじめようとする気配はなかった。最初、ユダヤ人はジッと相手の顔を見つめ、その表情から彼がもたらす情報の鍵となるものを見つけだせばよいと考えていたが、それはむだに終わった。トウビーには疲れ果てたふうはあったが、彼の顔がいつももっている満足げな落ち着きは失わず、泥・顎髯《あごひげ》・頬髯《ほおひげ》をとおして、まだ損われずに、あの達者なトウビー・クラキットがもつ自己満足のニヤニヤ笑いが輝いていた。それからユダヤ人は、ジッとしていられなくなり、抑えきれぬ興奮につつまれて、部屋をゆききしながら、相手が食べる一口一口をジッと見ていた。だが、それはなんの役にもたたなかった。トウビーは、もう食べられなくなるまで、一見じつにケロリとして、食べつづけ、それからぺてん師を外に出し、戸を閉め、水割りの酒をコップでまぜ、おもむろに話にとりかかった。
「まず第一に、フェイギン――」トウビーはいった。
「うん、うん!」椅子を近づけて、ユダヤ人は口をはさんだ。
クラキット氏は話を切って、水割りの酒を飲み、ジンはすばらしいといい、ついで、両脚を低い炉かざりの上に乗せて、自分の靴を目の高さまでもちあげてから、静かに話をつづけた――
「まず第一に、フェイギン」夜盗はいった。「ビルはどうなったね?」
「えっ!」自分の椅子から飛びあがって、ユダヤ人は金切り声をあげた。
「まさか、おめえはいうつもりじゃあるめえな――」顔を青くして、トウビーははじめた。
「つもりだって!」激しく床を踏みつけながら、ユダヤ人は叫んだ。「二人はどこにいるんだ? サイクスとあの餓鬼《がき》は! 二人はどこにいるんだ? どこにいたんだ? どこにかくれてるんだ? どうしてここにやってこないんだ?」
「あの押しこみは、失敗したんだ」力なくトウビーはいった。
「知ってるとも」ポケットからさっと新聞を引っぱりだし、その箇所をさして、ユダヤ人は答えた。「それ以上、どんな知らせがある?」
「家のものが鉄砲を撃ち、あの餓鬼《がき》がやられたんだ。やつをあいだにかかえて、おれたちは、まっすぐ烏《からす》が飛ぶように、裏の原っぱを突っ切った――生垣《いけがき》や溝を突きぬけてな。やつらは追っかけてきたんだ。畜生! そこいらじゅうのやつがみんな目をさまし、犬まで、おれたちのあとを追ってきやがった」
「少年は?」ユダヤ人はあえいだ。
「ビルはやつを背に負い、風のように突っ走った。おれたちは立ちどまって、やつをあいだにはさんだんだ。やつの頭はがっくりとし、からだは冷えきってたよ。やつらはすぐあとから追いかけてきてな、各人バラバラ、絞首台はクワバラクワバラというわけさ! おれたちはわかれわかれになり、あの小僧は溝に倒れたまんまだ。生きていようと死んでいようと、あの小僧については、それしか知らんね」
ユダヤ人はこれ以上ジッと話を聞いてはいずに、大声で一声わめき、両手で髪をかきむしり、部屋から、ついで家から、飛びだしていった。
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二十六 神秘的な人物が登場。この物語には絶対必要な多くのことが実行される
街角についてから、老人はようやくトウビー・クラキットの知らせで受けたショックから立ち直りはじめた。彼はふだんとちがった速い歩調をぜんぜんゆるめず、同じ無鉄砲でとり乱した態度でぐんぐんと歩いていたが、ちょうどそのとき、いきなり馬車がわきをとおりぬけ、その危険をさとった通行人からの大きな叫び声が彼を歩道にひきもどした。できるだけ大通りはさけ、小道や裏道だけをコソコソとおりぬけて、彼はとうとうスノウ・ヒルにその姿をあらわした。ここで彼の歩調は前より早くなり、ふたたびある小路にはいるまで、その歩調はゆるむことなく、そこにゆきついてから、やっと自分の領域にはいったのを意識したように、彼はいつもの足をひきずる歩きかたにもどり、ふっと気が楽《らく》になったようだった。
スノウ・ヒルとホウバンが合流する地点近くで、ロンドンから出て右手に、サフラン・ヒルに通じるせまくて陰気な小路がある。そこのきたない店には、中古の絹ハンカチの大きな束が売りに出されている。ここには掏摸《すり》からそうした盗品のハンカチを買う商売人が住んでいるからである。何百ものこうしたハンカチが窓の外の釘からさがり、扉の柱の上にひるがえり、店の中の棚には、それがうず高く積まれている。フィールド小路はせまいものだったが、そこには理髪店、コーヒー店、ビールの売店、魚フライの店が開かれていた。そこは、それ自体の集団部落――朝早く、あるいは、夕闇がせまると、暗い裏部屋で取り引きをし、来たと同じようにコソコソと消えてゆく無言の商人たちがおとずれるコソ泥の商店街である。ここで、古着屋、靴直し、ボロ屋がコソ泥への看板としてその商品を示し、ここで、古い鉄や古い骨、うず高くつんだかびだらけの毛織物や亜麻布の切れ端《はし》がきたない地下室で錆《さ》びてくさってゆく。
ユダヤ人がはいっていったのは、こうした地区だった。彼はこの小路の血色のわるい住人とは顔なじみだった。売買の見張りをしている連中は、彼がとおったとき、親しげに頭をうなずかせていた。彼はこうした挨拶に同じような返しの挨拶をしていたが、この小路の奥の端《はし》にゆくまで、それ以上の親しげな態度はあらわさなかった。そこで彼は足をとめ、子供の椅子にできるだけからだをおしこみ、倉庫の戸口のところでパイプをくゆらしている小柄な店員に話しかけた。
「いやあ、フェイギンさん、あんたにお目にかかると、目の保養になるね」ユダヤ人が元気かどうかと挨拶したのに答えて、このりっぱな商人はいった。
「ライヴリー、この辺はちょっと危《やば》いようだな」眉をあげ、肩に手を十字に当てて、フェイギンはいった。
「そう、そんな文句は、前に一度か二度、聞いたことがあるね」商人は答えた。「だが、そいつはすぐおさまるよ。いつもそうだろうが……」
フェイギンはそうだとうなずき、サフラン・ヒルのほうをさして、そこに今夜だれかがあらわれたか、とたずねた。
「『ちんば』でかね?」男は聞きかえした。
ユダヤ人はうなずいた。
「さあてと」考えこんで、商人はつづけた。「そう、おれが知ってる五、六人の者がはいってったぜ。おまえさんの知り合いは、いなかったようだけどね」
「サイクスはいなかっただろうな?」がっかりした顔つきで、ユダヤ人はたずねた。
「弁護士の言葉じゃないが、『本人所在不明』というやつだね」頭をふり、驚くべき狡猾《こうかつ》さをあらわして、この小男は答えた。「今晩は、なにかおれの商売のほうの品物でももっているのかね?」
「今晩はないな」向きを変えて、ユダヤ人はいった。
「フェイギン、おまえさん、『ちんば』にゆくんかね?」立ち去る彼に呼びかけて、小男は叫んだ。「ちょっと待っとくれ! おまえとそこでいっしょに一杯やってもいいんだからな!」
だが、ユダヤ人はふりかえって手をふり、一人でいたいのだということを示し、その上、この男は容易に椅子からからだをぬけなかったので、『ちんば』の看板は、ここしばらく、ライヴリー氏の顔を拝めぬことになった。彼が立ちあがったときには、もうユダヤ人の姿は消えていた。そこでライヴリー氏は、ユダヤ人の姿が見つかるかと、むだに爪先立ちをしていたあとで、ふたたびからだを小さな椅子におしこみ、疑惑と不信がはっきりとそこにまざっている頭のひとふりを向こう側の店の婦人とかわしあって、いかにも深刻げな態度で、パイプをまたふかしはじめた。
客によく知られている看板が『三人ちんば』、いやむしろ『ちんば』としてとおっているこの店は、サイクス氏とその犬がもう姿をあらわしたことがある居酒屋だった。売り場の男にちょっと合図をしただけで、フェイギンはまっすぐ二階にあがってゆき、ある部屋の扉を開け、そこへそっとはいりこんで、だれか特定の人をさがしているように、手を目にかざしながら、心配そうにあたりを見まわした。
その部屋には二つのガス燈がつけられていたが、そのギラギラとした光は、鎧戸《よろいど》をしっかりとおろし、色あせた赤のカーテンをすっかり張りめぐらして、外にもれないようにしてあった。天井は黒くぬられていたが、これはランプの炎に当たっても色が変わらないため、部屋にはもうもうとしたタバコの煙がたちこめ、そこにはいったばかりでは、なにも見わけられないほどだった。しかし、開いた扉のところから煙が一部流れだしたとき、しだいに人の頭の集まり――これは耳を襲う騒音と同じに入りみだれたものだったが――がはっきりと見られるようになり、さらに、目がもっとその光景に馴れてくると、観察者は、ながいテーブルのまわりに群らがった多くの男女の存在にだんだんと気づくようになった。そして、テーブルの上座には、手に職務用の木槌《きづち》をもった司会者が坐り、奥の隅では、青みがかった鼻をし、歯痛のために顔に繃帯《ほうたい》をまきつけた音楽家がガンガンと鳴るピアノを担当していた。
フェイギンがそっと中にはいったとき、音楽家は前奏曲として鍵盤いっぱいにピアノをかき鳴らし、その結果、歌を所望する声がひろく客のあいだに湧きおこった。それが静まったとき、一人の若い婦人が進み出て、四節でできている民謡を歌って、その求めに応じたが、その節の終わりごとに、伴奏者ができるだけ音を高くして、メロディーを演奏した。これが終わったとき、司会者は意見を開陳し、その後、司会者の左右にひかえた音楽家たちが自発的に二重奏を歌おうといいだし、大喝采を受けて、それを歌った。
このグループの中に、特に目立つ幾人かの顔があったことは、奇妙な事実だった。そうした中に司会者自身(これはこの店のおやじだった)がいたが、彼は粗野な、がさつな、がっちりとした男、歌が進行中、あちらこちらに目をぎょろつかせ、一見この楽しみに夢中になっているようだったが、そこで起こったどんなことでも見つける目をもち、そこで語られたどんなことでも聞きつける耳をそなえていた。そして、それは、いずれもなかなか機敏なものだった。彼のそばには歌い手たちがいて、いかにも歌手らしい無関心ぶりで、一同の讃辞を受け、さわがしい礼讃者たちからさしだされた十杯あまりの水割りの酒を、つぎからつぎへと飲んでいた。この礼讃者たちの顔ときたら、ほとんどありとあらゆるたぐいの悪事をあらわしていて、そのいまわしさで、否応なく人の注意をひきつけてしまうものだった。狡猾《こうかつ》、狂暴、あらゆる段階の泥酔ぶりが、じつにはっきりとそこに示されていた。いまはほとんど消滅している若さの名残《なご》りをほんの少しあらわしている女、女性らしさをすっかり消し去り、ただ身のもちくずしと犯罪のいまわしい空白を示している女、一部はほんの小娘、他はまだ若い女、いずれも人生の盛りはすぎていない女たちが、この陰惨な絵図のいちばん暗く、物悲しい部分になっていた。
フェイギンは、こうしたことが進行している最中、そうした深刻な感情には動かされずに、つぎからつぎへと顔を熱心に見まわしていたが、さがしている顔がそこになかったことは明白だった。とうとう、例の椅子に坐っている男の目をとらえると、彼はこの男を軽い手招きで呼び、はいってきたのと同じようにそっと、部屋を出ていった。
「フェイギンさん、なんかご用ですか?」踊り場まであとをついていったとき、男はたずねた。「参加なさらんのですかね? みんな、きっとよろこぶこってしょうがね」
ユダヤ人はイライラしながら頭をふり、声を低くしていった。「|やつ《ヽヽ》はここに来てるかね?」
「いいや」男は答えた。
「それに、バーニーの知らせは、なんにもないのか?」フェイギンはたずねた。
「ありませんな」『ちんば』の男は答えた。というのも、この男はこの酒場の亭主だったのである。「ぜんぶ心配の種がなくなるまで、やつは動きませんぜ。まったく、やつらは嗅《か》ぎまわってるんですからな。そして、やつが動いたら、すぐ万事が暴《ば》れちまいますよ。バーニーは心配ありませんとも、大丈夫でさ。そうじゃなかったら、なにかやつの情報は、この耳にはいってるはずですからな。まちがいなし、バーニーはうまくやってますよ。その点は、やつにまかしときなさい」
「|あの男《ヽヽヽ》は今晩ここに来るだろうか?」|あの男《ヽヽヽ》に前のと同じ力をこめて、ユダヤ人はたずねた。
「マンクスのことですかい?」主人はもじもじしてたずねた。
「しっ!」ユダヤ人は命じた。「そうだ」
「きっときますね」時計入れのポケットから金の懐中時計を引っぱりだして、男は答えた。「もうきてもいいと思ってたんですがねえ。十分待ってくださったら、彼は――」
「いや、いや、だめだ」ユダヤ人は急いでいった。そのようすは、まるで、自分がどんなに問題の男と会いたくとも、その不在でかえってほっとしている、といったふうだった。「わしがやつに会いにここにやってきた、と伝えてくれ。それに、今晩わしのとこにこなけりゃいかんともな。いや、明日にしよう。いまやつがここにいないんだから、明日にしたら十分|間《ま》にあうわけだろう」
「わかりましたよ!」男はいった。「ほかになにか用は?」
「いまは一言もいうなよ」階段をおりながら、ユダヤ人は命じた。
「ねえ」手すり越しに見おろし、しゃがれたささやき声で、相手はいった。「売りこみにはまったくいいチャンスだったのにねえ! ここには、えらく酔っ払ったフィル・バーカーがいますよ。あんな態《てい》たらくなら、子供だってとっつかまえちまうんですがね」
「へえ! だが、いまはフィル・バーカーの出る幕じゃない」見上げて、ユダヤ人がいった。「フィルとわかれるまでには、まだして欲しいことがちっとあるんだからな。だから、みんなのとこにもどってって、陽気にやってくれと伝えてくれ――|命があるあいだはな《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。はっ! はっ! はっ!」
亭主は老人の笑いに声を合わせ、客のところへもどっていった。ユダヤ人は、一人だけになるとすぐ、その顔はもとの不安と物思いの表情にもどっていった。少しのあいだ考えこんでいたあとで、彼は貸し馬車を呼び、御者にベスナル・グリーンにゆけと命じた。彼はサイクスの家から四分の一マイルもはなれていないところでこの馬車をすて、残りの短い距離は、徒歩で歩いていった。
「さて」そこの戸をノックしたとき、ユダヤ人はつぶやいた。「もしここになにか深いたくらみがあったら、女め、おまえがどんなにうまく立ちまわろうとも、それをおまえから引きだしてやるぞ」
そこの女は、彼女が部屋にいることを伝えた。フェイギンはそっと二階にはいあがり、なんの挨拶もなく、いきなりその部屋にはいっていった。女はひとりっきりで、テーブルに頭をのせ、髪をふりみだして、横になっていた。
「飲んでたんだな」冷やかにユダヤ人は推量した。「それとも、たださびしくなってるんかもしれんぞ」
こう考えながら、老人はうしろ向きのままで扉を閉め、その物音で女は起きた。彼女はなにか知らせがあるかとたずね、トウビー・クラキットの話をユダヤ人が話すのを聞いているあいだ、彼の陰険な顔をジッと見守っていた。その話が終わったとき、彼女はぐったりとまたもとの姿勢にかえったが、話は一言もしなかった。彼女はイライラしながら、ろうそくをおしのけ、一度か二度、熱にうなされたように、その姿勢を変え、足で床をこすったが、彼女の動きはそれだけだった。
この沈黙のあいだ、ユダヤ人は、まるでサイクスがそっともどってきた形跡がないことをたしかめるように、部屋を落ち着かぬふうにながめまわしていた。そして、どうやらそれに納得したらしく、彼は二度か三度咳をし、話をなんとかはじめようと、これも二度か三度、努力してみたが、女は、相手がまるで石であるかのように、彼にはぜんぜん注意をはらっていなかった。とうとう、彼はもう一度勇気をふるいおこし、揉《も》み手をしながら、いかにも相手の機嫌をとろうとするような態度で、話しだした。
「なあ、ビルはいま、どこにいると思うね?」
女はなかば聞きとれぬ言葉で、わからぬ、とうめき、彼女からもれたおし殺した声からして、どうやら彼女は泣いているようだった。
「それに、あの少年もな」彼女の顔をちょっとでも見ようと、目を大きく見開いて、ユダヤ人はいった。「かわいそうな子供だ! ナンシー、考えてもごらん、溝にすてられたんだとさ!」
「あの子は」急に目をあげて、女はいった。「あたしたちん中にいるより、そのほうがいいのよ。それでビルが危害をこうむらなけりゃ、あの坊やは溝で死んじまい、あの若い骨はそこで朽《く》ち果てたらいいのよ」
「えっ!」びっくりして、ユダヤ人は叫んだ。
「ええ、そうよ」彼と視線をまじえて、女はいった。「あの子があたしの目の前から消え、最悪のことがもう終わったと知ったほうが楽《らく》なの。あの子が近くにいるのは、たまらないことよ。あの子を見てると、あたし、自分やあんたたちみんなのためにならないことをしそうになるの」
「ちぇっ!」あざけるようにユダヤ人はいった。「おまえは酔ってるんだな」
「あたしが?」辛辣《しんらつ》に女はいった。「酔ってなくたって、あんたのせいじゃないことよ! いまはべつだけど、あんたはいつでも、自分の思ったとおりにしようとすると、あたしを酔っぱらわせるんだからね――こんなことをいって、あんたにわるいかしら?」
「そう!」猛《たけ》り狂った調子でユダヤ人はそれに応じた。「わるいとも」
「じゃ、その気分を変えてちょうだい!」高笑いをして、女は答えた。
「変えろだって!」相手の思いがけぬ強情とこの夜の不安な思いで我慢ならぬほどムカムカしてきて、ユダヤ人は叫んだ。「わしが気分を変えるんだって! いいか、この自堕落女め。わしのいうことを聞け。わしは、ほんの六つもしゃべりゃあ、あのサイクスの息の根をとめられるんだぞ、あの牛のような喉笛をこのわしの指の中ににぎってるようにな。もしやつが帰ってきて、あの少年をすててきたら、もしやつがうまく逃れて、生きているにせよ死んでるにせよ、あの少年をわしに返さなかったら、おまえ自身がやつを殺しちまったほうがいいぞ、やつを縛《しば》り首の役人の手にかけたくないならな。そして、やつがこの部屋に足を入れたら、すぐそれをやるんだ。いいか、それをぬかったら、時すでにおそし、ということになるんだからな!」
「このさわぎは、いったい、どういうことなの!」女は、われ知らず、たずねた。
「どうしたことだって?」怒りで狂乱状態になって、フェイギンは語りつづけた。「あの小憎がおれに何百ポンドもの値打ちがあるとき、運が向いてそれが心配なくおれの手にはいるとき、おれの口笛ひとつで命が飛ぶようなつまらん飲んだくれどものために、そいつを失ってしまってたまるもんかな? しかも、おれが、力はあってもその意志がない生まれながらの悪魔にしばりつけられ――」
息をつまらせ、老人はつぎの一言をどもっていおうとしたが、その瞬間に、彼はその怒りの波をおしとめ、態度をすっかり変えてしまった。一瞬前に彼の両手は虚空《こくう》をつかみ、目をかっと見開き、その顔は激怒で青ざめていたが、いま彼はコソコソと小さくなって椅子に坐り、すっかりおびえて、なにかあるかくしていた悪事を自分であばいたという心配で、身をふるわせていた。しばらくだまっていたあとで、彼は思いきってあたりを見まわし、相手をながめた。彼がそこからひき起こした以前の無関心な態度に女がもどっているのを見て、彼はいくらか安心したようだった。
「ナンシー!」ユダヤ人はいつもの声でブツブツといった。「おれのことを気にしてるんかい?」
「フェイギン、あたしのことは心配しないでちょうだい!」けだるそうに頭をもちあげ、女は答えた。「ビルが今度それをやらなくったって、いつかはやることよ。彼はあんたのためにりっぱな仕事をたくさんやってきたし、これからも、できるだけのことをすることよ。それができなくなったら、それまで。だから、その話はやめましょう」
「あの小僧については、どうだろう?」神経質に手のひらをこすり合わせながら、ユダヤ人はいった。
「あの子は、ほかの人と同じに、自分の運まかせね」ナンシーは急いで相手の言葉をさえぎった。「もう一度いっとくけど、あの子は死んじまい、不幸にも、あんたの手にかからなくなってしまったほうがいいのよ――というのは、もしビルが危害に見舞われなければのこったけど……。そして、トウビーがうまくずらかったとすれば、ビルが安全なことも、まず確実よ。ビルはいつだって、トウビーの倍もしっかりしてるんだから」
「そして、いまおれがいってたことは、どうなんだい?」ユダヤ人は、そのギラリと輝く目をしっかりと彼女の上にすえて、たずねた。
「もしあたしになにかしてほしかったら、もう一度それをいってちょうだい」ナンシーはやりかえした。「そして、もしそんな用事があるんなら、明日まで待ったほうがいいことね。あんたはちょっとあたしの頭をはっきりさせてくれたけど、あたしはまたもとのバカに逆もどりなんだから」
フェイギンはいくつか質問をかさねて浴びせたが、それは、彼がうっかりしてもらした言葉を女がさとったかどうかたしかめるためのものだった。だが、女はスラスラと答え、その上、彼のさぐる顔つきにもすっかりケロリとしたふうだったので、女がそうとう酔っているという彼のもともとの印象が裏づけられた。ナンシーは、じっさい、このユダヤ人の女弟子たちに共通の飲酒癖からまぬがれてはおらず、まだ齢《とし》もゆかないのに、それを抑えられるどころか、すすめられていたのだった。彼女のとり乱した態度と部屋にたちこめているオランダ・ジンのにおいは、ユダヤ人の想像がくるっていないことを、しっかりと証明した。そして、前に示した狂乱状態に一時おちいったあとで、彼女の興奮はおさまって、まず痴呆《ちほう》状態になり、ついで、さまざまの感情が入りまじったものになっていった。その影響を受けて、彼女は一瞬涙を流していたかと思うと、つぎの瞬間には、『死ぬなんていっちゃだめよ!』とか、あれこれと叫び声を立てていた。そこで、かつてはこうしたことにそうとうの経験をつんだことのあるフェイギン氏は、すっかり満悦して、彼女がすっかり酔っぱらっていることをさとったのだった。
この発見で安心し、その夜自分が耳にしたことを女に伝え、自身の目でサイクスがもどっていないことをたしかめるという二重の目的を果たして、フェイギン氏はふたたび家に足を向けたが、若い彼の友人である女は、頭をテーブルに乗せて、ぐっすりと眠っていた。
時刻はもうすぐ真夜中になるところだった。空は暗く、身をつんざく寒さのために、彼はブラブラと歩きまわる気にもなれなかった。街路を吹きとおる疾風は、塵《ほこり》と泥ばかりでなく、通行人をも街路から追いはらった感じだった。外を歩いている人はほとんどおらず、彼らは家路に急いでいるふうだった。しかし、風はまうしろからユダヤ人に吹きつけ、彼は、それに乗せられ、突風が荒々しく彼を突き動かすたびにガタガタと身をふるわせながら、進んでいった。
彼が自分の街の角に着き、もう戸の鍵を出そうとポケットをさぐっているとき、暗い物陰にある突きだした入口から、黒い人影が飛びだし、街路を突っ切って、それと知らぬ間《ま》に彼のところに忍びよっていた。
「フェイギン!」彼の耳の近くで、声がささやいた。
「ああ!」さっとふりむいて、ユダヤ人はいった。「その声は――」
「そうだよ!」見知らぬ男は口をはさんだ。「ここに二時間もジッとしてたんだ。おまえは、いったい、どこにいってたんだい?」
「おまえの用事でな」相手を不安そうにチラリチラリとながめ、話しながら歩調をゆるめて、ユダヤ人は答えた。「おまえの用で一晩中な」
「うん、むろん、そうだろうともさ!」冷笑を浮かべて、見知らぬ男はいった。「うん、それでどうなった?」
「いいことは、ちっともない」ユダヤ人はいった。
「わるいことも、なかったんじゃないかね?」途中で足をとめ、相手にびっくりした顔を向けて、見知らぬ男はいった。
ユダヤ人が頭をふり、それに答えようとしたとき、見知らぬ男は、相手をさえぎって、もうその前に着いている家のほうに身ぶりをして見せ、風の吹きつけない場所で話をしたほうがいいだろう、といった。ながいこと立っていたので、彼の血は凍え、風がからだを吹きぬけていたからだった。
フェイギンは、こんな時ならぬときに客を家に連れこむのは、できたら避けたいといったようすで、炉に火のはいっていないことをなにかブツブツいっていたが、相手が高飛車な態度でその要求をくりかえして述べたので、彼は戸の錠をはずし、燈《あか》りを彼がつけているあいだに、戸をそっと閉めるように、相手に要求した。
「墓のように暗えな」手さぐりで数歩歩いてから、男はいった。「急げ!」
「戸を閉めるんだ」廊下の端《はし》からフェイギンがささやいた。彼がこういったとき、戸はバタンと大きな音を立てて閉められた。
「おれのせいじゃねえぜ」道をさぐりさぐり進みながら、相手はいった。「風がそれを閉めちまったか、それが自分で閉まっちまったか、どっちかだ。燈《あか》りをしっかりたのむぜ。さもないと、このすげえ穴蔵で、おれは頭をなにかにぶちあててしまうからな」
フェイギンはそっと台所の階段をおりていった。ちょっと間《ま》をおいてから、彼は燈《あか》りをつけたろうそくをもってもどり、トウビー・クラキットが下の裏部屋で、少年たちが表部屋で寝ていることを知らせた。自分のあとについてくるように男に手招きして、彼は二階へ先に立って歩いていった。
「ここで用事のわずかな話はできるわけだ」二階の戸をパッと開いて、ユダヤ人はいった。「鎧戸《よろいど》には穴がうんとあいてるし、近所には絶対に燈《あか》りを見せないことになってるんだから、燈《あか》りは階段の上におくよ。さあ!」
こういって、ユダヤ人はかがみこみ、部屋の戸の真向かいの階段の上のところにろうそくをおいた。これが終わってから、彼は先に立ってその部屋にはいっていったが、そこには、こわれた肘かけ椅子と戸のうしろにある覆《おお》いのない古い長椅子かソファー以外には、なにも道具類はおかれてなかった。この椅子に、この見知らぬ男はいかにも疲れたようすで腰をおろし、ユダヤ人は、向かい側の肘かけ椅子を引きよせ、彼と向かい合いになって坐った。そこは真っ暗というわけではなかった。戸が少し開き、外のろうそくは向かい側の壁に弱い反射光を投げていたからである。
二人は、しばらくのあいだ、ひそひそ声で話をしていた。ときどき耳にはいるつながりのない言葉以上に、この会話はなにも聞こえてこなかったが、聞いている者は容易に、フェイギンが見知らぬ男の言葉にたいして弁解し、後者がそうとうジリジリしているのをさとったことだろう。十五分かそこいら、二人はこうして話していたのかもしれぬが、そのときマンクスは――二人の会話中、ユダヤ人はこの名で見知らぬ男を何回か呼んでいた――声を少し高くしていった――
「も一度いっとくけどな、その計画はうまくなかったな。どうして、やつをほかのやつらといっしょにここにおき、やつをすぐにちんぴら掏摸《すり》に仕立ててしまわなかったんだい?」
「あの小僧の話しっぷりを聞いたら、わかるさ!」肩をすくめて、ユダヤ人は叫んだ。
「こいつは驚いた! おまえがやろうとして、それができなかったっていうのかね?」きびしくマンクスはたずねた。「ほかの餓鬼《がき》の場合、おまえはそれを何回だってやってきてるじゃねえか。せいぜい一年我慢してたら、やつに犯罪の判決を受けさせ、無事に、たぶん生涯のあいだ、お国払いにすることだってできただろうにな」
「それをしたって、だれの役にたつというんだい?」へいこらした態度になって、ユダヤ人はたずねた。
「おれの役にたつな」マンクスは答えた。
「だが、わしの役にはたたんね」素直にユダヤ人はいった。「あの小僧はわしの役に立ったかもしれんのだ。取り引きに二人の人間がかかりあった場合、両方の利益をうまく考えるのが、当然のこったろう、どうだい、おまえ?」
「だから、どうだというんだ?」マンクスはたずねた。
「やつを仕込んで仕事につかせるのは容易なこっちゃねえと、わしはにらんだんだ」ユダヤ人は答えた。「やつは同じ事情のほかのやつらとはちがうんだ」
「くそっ! そうなんだ!」男はつぶやいた。「さもなけりゃ、やつは、とっくのむかしに、一人前の泥的《どろてき》になってるわけだからな」
「わしには、あの餓鬼《がき》をもっと性悪《しょうわる》にする力はない」相手の顔を心配そうに見守りながら、ユダヤ人はつづけた。「やつの手は、うまくできてない。わしには、やつをふるえあがらせるなんにもないんだ。これは、最初にはいつも必要なことさ。それがなけりゃ、わしたちの苦労もむだになっちまうんだからな。わしになにができたろう? やつをぺてん師とチャーリーといっしょに外に出すのかね? それは、最初の計画でもうこりごりだ。みんなのことが心配になって、わしのからだのふるえがとまらなかったよ」
「それは、おれのせいじゃねえよ」マンクスがいった。
「そう、そう、そうじゃないよ!」ユダヤ人はあらためていった。「そのことで、いまさら、わしは喧嘩《けんか》したりはしないよ。それが起きなかったら、おまえさんがあの餓鬼《がき》に気がつき、おまえのさがしてるのがあいつだ、ということもわからなかったろうからな。うん! わしは、あの若い女を使って、あいつをおまえのためにとりもどしてやった。すると、あの娘があいつに|ひいき《ヽヽヽ》しはじめたんだ」
「あんな女なんて、絞め殺しちまえ!」イライラしてマンクスはいった。
「とんでもない。さしあたっていま、そんなことはしてられないよ」ニヤリとしてユダヤ人は答えた。「それに、その上、そんなこと、おれたちはしねえことにしてるんだ。さもなけりゃ、近くいつか、あの娘を殺しちまうとこなんだがね。ああした女がどんなもんか、マンクス、わしはよく知ってるつもりだ。あの小僧がこすっからくなりはじめりゃ、あの女もあの小僧に、棒切れ同様、関心をもたなくなるさ。おまえはやつを泥棒に仕立てたいんだな。もしやつが生きてたら、いまからでも、わしはやつをそうしたもんにすることができるよ。それに、もし――もし――」相手にだんだん近づいていって、ユダヤ人はいった――「それは起こりそうもないことだがな――もし最悪事態っていうことになり、やつが死んでたら――」
「やつが死んでたって、おれのせいじゃねえぞ!」恐怖の表情を浮かべ、ふるえる手でユダヤ人の腕をつかんで、相手は口をはさんだ。「そいつは忘れるなよ、フェイギン! おれはなんにもしてねえんだからな。殺すことだけはするなって、おれは最初からおまえにいってたんだぞ。おれは血を流すのがきらいなんだ。そいつはいつか暴《ば》れるし、心にまといつきやがるもんだからな。もしやつらがあいつを撃ち殺しても、そいつは、おれのせいじゃないんだぜ。わかったか? こんないやな古巣なんて燃えちまえだ! あれはなんだ?」
「なんだって?」この臆病者がパッと立ちあがったとき、両腕でそのからだを抑えて、ユダヤ人は叫んだ。「どこに?」
「向こうだ!」向かい側の壁をにらみつけて、男は答えた。「影だ! 外套《がいとう》と縁なし帽をかぶった女の影が、すーっと風のように、羽目板のとこをとおってくのを見たんだ!」
ユダヤ人は抑えていた手をはなし、二人はドカドカッと部屋から飛びだした。風で細くなったろうそくは、それがおかれたところに立っていた。それは、ただ、人気のない階段と青ざめた彼ら自身の顔を示しただけだった。彼らはジッと聞き耳を立てたが、深い静けさが家中を支配しているだけだった。
「おまえの気のせいだよ」燈《あか》りをとりあげ、仲間のほうに向いて、ユダヤ人はいった。
「誓ってもいい、たしかにそれを見たんだ!」身をふるわせながら、マンクスは答えた。「最初それを見たとき、それは前にかがみ、おれが話しをしたとき、そいつはさっと消えちまったんだ」
ユダヤ人は軽蔑したように相手の青ざめた顔をチラリとながめ、よかったらあとについてこい、といって、階段を登っていった。二人は部屋という部屋をのぞきこんでみたが、それは寒々とし、ガランとして、人気がなかった。彼らは廊下におりてゆき、そこから下の地下蔵にはいっていった。緑色の湿気が低い壁にこびりつき、かたつむりとなめくじのとおった跡が、ろうそくの光の中でギラリと輝いていたが、あたりには、死のような静けさがおりていた。
「さあ、おまえはどう思う?」廊下にもどったとき、ユダヤ人はいった。「わしたち以外には、トウビーと少年たちはべつにして、この家にはだれもいないんだ。それに、トウビーたちは心配はない。ここを見てごらん!」
この事実の証拠として、ユダヤ人はポケットから二つの鍵をとりだし、彼が最初階下におりていったとき、話し合いの邪魔がはいらぬようにと、その二つの鍵をかけたのだ、と説明した。
こうしたいくつかの証拠を示されて、マンクス氏は明らかにたじろいだ。なんの発見もせずに彼らの調査が進むにつれ、マンクス氏の主張の叫びは、しだいにその激しさを失い、いまはもう、何度かじつに無気味な笑い声を立てて、想像力が刺激されて、そんなことになったんだろう、と認めるようになっていた。しかしながら、彼は、その夜、これ以上話をつづけることは断わり、急に、もう一時をまわっていることを思い出した。そこで、この二人の親友は別れを告げた。
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二十七 婦人を失礼にも放り出しにした前の章の非礼のつぐないをする
身分卑しき著者風情が教区吏員といった高官に、炉に背を向け、上衣のすそを両腕にたくしあげたままにして、彼を救出することが適当と思うときまで待たせておくなんて、じつに不都合なこと、この教区吏員がやさしさと愛情をこめた目で打ちながめ、それがこうした高官から出たものだけに、どのような乙女・主婦の胸をもときめかさずにはおかない艶なる言葉を彼がその耳にささやきかけたご婦人を教区吏員と同様に放りだしておくことは、著者の地位、婦人にたいする礼儀にさからうことである。したがって、こうした言葉を書いている物語作者は――自分は己の地位を知っているものと考え、高く重要なる権威がゆだねられている地上の高官にたいする当然の尊敬の念をいだいているものとして――急いで彼らの地位が求めている敬意をあらわし、彼らの高い地位、(したがって)その偉大なる徳が絶対的に著者に要求する慇懃《いんぎん》なる礼儀をはらうしだいである。この目的にふさわしいように、じっさい、著者はここに教区吏員が過《あやま》ちを絶対的におかさずとする教区吏員の神権、その地位の説明を紹介しようとし、それは、かならずや、心根正しき読者に楽しきものであると同時に有益なものとなったのであろうが、時間と余白がないため、残念ながら、もっと好都合な、しかるべき機会に、それをゆずることにする。そうした機会が到来の暁には、著者はよろこんで、正統に任命された教区官吏――というのは、教区貧民院付属で、その職権上教区教会に出席する教区吏員のことだが――は、その職業柄の権利と資格上、人間のすべての優秀さと最善の質を具備し、こうした優秀性にたいしては、団体の下級官吏、法廷の下級官吏、分会堂の下級官吏(最後のものはべつではあるが、それはじつに低い劣った程度のもの)はほんのわずかなりともその権利を要求する資格はないことを証すつもりである。
バムブル氏は茶さじの数をふたたび勘定し、砂糖挾みの重さをふたたびはかり、ミルク入れをさらにもっと精密にしらべ、椅子の馬の毛をつめた座席まで、家具の正確な状態を微に入り細をうがってたしかめ、コーニー夫人がもどってくる時がきたと彼が思いはじめるまで、この過程を数回くりかえしおこなった。考えは考えを生むものであり、コーニー夫人が近づいてくるなんの物音もしなかったので、コーニー夫人の|たんす《ヽヽヽ》の内部をちょっと拝見して自分の好奇心を静めても、それは無邪気な、徳をけがすことのない時間つぶしにすぎなかろう、ということがバムブル氏の胸に思い浮かんだ。
鍵穴のところで耳を澄《す》ませ、だれも部屋には近づいてこないことを確信して、バムブル氏は、下の引き出しからはじめて、三つの引き出しの中におさめてあるものを、十分に点検しはじめた。それは、古新聞の二つの層のあいだに注意深くはさまれ、乾したラベンダーをまきちらされた仕立ても生地も上等なさまざまな衣服で満たされていて、彼をひどく満悦させたようだった。やがて、右手の隅の引き出し(そこに鍵がはいっていたが)に到達し、そこに、振ると貨幣の音のような快適なひびきを発する小さなナンキン錠のかかった小箱を見て、バムブル氏は悠然たる足どりで炉のところに帰り、以前の姿勢にもどって、重々しく決然たる態度で、「わしはするぞ!」といい放った。彼は、この注目すべき宣言のあとで、いかにもふざけたふうに、十分間も頭をふりつづけていたが、それは、彼がこうした愉快な犬であることにたいして、われとわが心に抗議をしているといった感じだった。ついで、彼は横からながめた自分の足の姿をいかにも楽しそうに、興味深げに見やっていた。
彼がまだ冷静な態度でこの足の検分をしているとき、コーニー夫人があわただしく部屋にはいり、はあはあしながら、炉のそばの椅子に身を投げ、一方の手で目をおおい、残りの手で心臓を抑えながら、息をつこうとあえぎはじめた。
「コーニー夫人」寮母の上にかがみこんで、バムブル氏はいった。「これはどうしたこってす? なにか起きたんですか? どうか答えてください。わしはもう――」うろたえたバムブル氏は『|張りわくの釘《テンターフック》』(気をもむ、気がかりの意がある)という言葉をとっさに思い出すことができず、その結果、『割ったびん』に乗った感じ、といってしまった。
「おお、バムブルさん!」夫人は叫んだ。「もうほんとうに、とまどってしまいましたわ!」
「とまどったですって、奥さん」バムブル氏は叫んだ。「だれがおこがましくも――。わかりましたぞ!」生まれながらの威厳ある態度で自制して、バムブル氏はいった。「これは、あの兇悪なる収容員どもですな!」
「考えても、ぞっとするわ!」身ぶるいして、夫人は答えた。
「じゃ、奥さん、それを考えんこってす」バムブル氏が応じた。
「考えずにはいられませんことよ」夫人は泣き声でいった。
「では、奥さん、なにかをお飲みなさい」なだめるようにバムブル氏はいった。「少し葡萄酒《ぶどうしゅ》は?」
「とんでもない!」コーニー夫人は答えた。「そんなこと、できませんわ――おお! 右手の隅の上の棚に――おお!」こうした言葉を発して、この善良な婦人は半狂乱で戸棚をさし、からだの内部から起こってくる痙攣《けいれん》で身ぶるいした。バムブル氏は戸棚に飛んでゆき、このようにとりみだして示された棚から緑のガラスびんをさっととり、それを茶碗にそそぎ、夫人の唇にその茶碗をあてがった。
「もう気分がよくなりましたわ」それを半分飲み、ぐったりと椅子によりかかって、コーニー夫人はいった。
バムブル氏は敬虔な感謝のまなざしを天井にあげ、目をふたたび茶碗のへりにおろして、それを自分の鼻先にもっていった。
「ペパーミントですの」話しながらやさしく教区吏員にほほえみかけて、かすかな声でコーニー夫人は教えた。「飲んでごらんなさい! 少しだけど――ほんの少し、ほかのものもまじっているのよ」
バムブル氏は、けげんそうなようすで、その薬を味わい、舌打ちをし、もう一度味わい、ついにその茶碗を空《から》にして、下においた。
「とても元気がつきますわ」コーニー夫人はいった。
「まったくそうですな、奥さん」教区吏員はあいづちを打った。こういいながら、彼は椅子を寮母のわきによせ、彼女の心を乱すどんなことが起きたのか、とやさしくたずねた。
「いえ、べつに」コーニー夫人は答えた。「わたしはバカな、興奮しやすい、弱い女です」
「奥さん、弱くはありませんよ」椅子をもう少し近づけて、バムブル氏は反駁《はんばく》した。「あんたは弱い女ですかね?」
「わたしたちはみんな、弱い女です」一般的な原則を決定して、コーニー夫人はいった。
「われわれ男だって、そうですとも」教区吏員はいった。
その後一、二分間、いずれもだまったままでいた。その時間がすぎると、バムブル氏は左腕をそれがいままであったコーニー夫人の椅子の背からコーニー夫人のエプロンのひもにうつし、そこからだんだんと、それを夫人のからだにまきつけることによって、事態の説明にとりかかった。
「われわれはみんな、弱い人間ですよ」バムブル氏はいった。
コーニー夫人は溜《た》め息をもらした。
「コーニー夫人、溜《た》め息をつかないでください」バムブル氏は要求した。
「溜《た》め息をせずにはいられませんわ」コーニー夫人はいった。そして、また溜《た》め息をもらした。
「奥さん、この部屋はなかなか快適ですな」あたりを見まわして、バムブル氏はいった。「奥さん、この部屋にもう一部屋、もう文句のつけようはありませんな」
「一人ではひろすぎますわ」夫人はつぶやいた。
「だが、奥さん、二人ではひろすぎませんぞ」やさしい語調になって、バムブル氏は答えた。「えっ、そうでしょう、コーニー夫人?」
教区吏員がこういったとき、コーニー夫人は頭をうなだれた。教区吏員も頭をうなだれたが、これはコーニー夫人の顔をのぞきこむためだった。コーニー夫人は、いかにもつつましく、頭をそむけ、ハンカチをとるために手をふりほどいたものの、それと知らぬ間《ま》に、それは、バムブル氏の手の中にふたたびおさめられていた。
「委員会はあんたに石炭を支給してくれているんでしょう、どうです、コーニー夫人?」やさしく彼女の手をにぎりしめて、教区吏員はたずねた。
「それに、ろうそくもね」そっと手をにぎりかえして、コーニー夫人は答えた。
「石炭に、ろうそくに、ただの家賃」バムブル氏はいった。「ああ、コーニー夫人、あんたはなんという天使だ!」
夫人はこの感情の激発に抵抗し得なかった。彼女はバムブル氏の両腕の中にしなだれかかり、かの紳士は、興奮して、彼女の清純な鼻に熱烈なキスをした。
「これは教区の絶品だ!」恍惚として、バムブル氏は絶叫した。「わが心を魅する人よ、スラウト氏が今晩だいぶ具合いがわるくなってるのをご存じですな?」
「ええ」はにかみながら、コーニー夫人は答えた。
「医者の話では、一週間はもたんそうですよ」バムブル氏は語りつづけた。「あの人はこの施設の長です。彼が死ねば、それは空席になるわけです。そしてその空席には、人を充《あ》てねばならんのです。おお、コーニー夫人、これはなんという前途を開いてくれることでしょう! 心を合わせ、家庭をひとつにするのに、なんといういいチャンスでしょう!」
コーニー夫人はすすり泣きはじめた。
「かわいい一言は?」はにかむ美女の上にかがみこんで、バムブル氏はいった。「コーニー、かわいい、かわいい、かわいい一言は?」
「え――ええ、いいです!」寮母は溜《た》め息をはくようにしていった。
「もうひとつだけたずねたいが」教区吏員はつづけた、「心を落ち着けて、もうひとつの質問に答えてください。結婚式はいつにしましょう?」
コーニー夫人は二度返事をしようとして、二度ともそれができなかった。とうとう、勇気をふるいおこして、彼女は両腕をバムブル氏の首にまきつけ、それはあなたの都合しだい、いつでもいい、あなたは『すごい魅力の持ち主』よ、と告白した。
事態はこうして円満、満足のゆくように進捗したので、もう一杯茶碗にペパーミントのまぜ酒を入れて、この契約は批准された。こうした酒は、夫人の心がときめき、興奮したことによって、なおいっそう必要なものになったのだった。それを飲んでいるあいだに、彼女は例の老婆の死をバムブル氏に伝えた。
「よくわかりましたよ」ペパーミントをチビチビやりながら、この紳士はいった。「家に帰る途中、サウアベリのところに寄り、明日の朝、棺を送るようにいっときましょう。あんたがおびえてたのは、そのためだったんですかね?」
「べつに、とりたててどうということではありませんわ」話をまぎらわせて、夫人はいった。
「なにかがあったにちがいない」バムブル氏はねばってきいた。「あんた自身のバムブルにも、それはいってくれんのですか?」
「いまはいけません」夫人は答えた。「いずれ近くにね。結婚してから、お伝えしますわ」
「結婚してからだって!」バムブル氏は叫んだ。「男の収容員がなにか厚かましいことをして――」
「いいえ、いいえ ちがいます!」夫人は急いで口を入れた。
「もしそうだとしたら」バムブル氏はつづけた、「このかわいい顔に、やつらのだれかが厚かましくもその下劣な目をあげ――」
「あの人たちには、そんなことはできませんよ」夫人は応じた。
「そんなことは、せんほうがいい!」拳《こぶし》をかたくつかんで、バムブル氏はいった。「おこがましくも、そういうことをするやつは、教区の者《もん》であろうとなかろうと、わしの目の前にあらわれてくるがいい。二度とそんなことをせんよう、わしがはっきりといってやるから!」
激越な身ぶりに飾りたてられていなかったら、この言葉は夫人の魅力にたいするたいした讃辞とは見えなかったかもしれなかったのだが、この脅迫の言葉にバムブル氏は戦闘的な身ぶりをもそえたので、彼女は彼の献身のこの証しにすっかり打たれ、ひどく感動して、あなたはかわいいかたよ、といったのだった。
このかわいいかたは、ついで、上衣の襟をたくしあげ、三角帽をかぶり、自分の将来の伴侶《はんりょ》とながいこと熱烈な抱擁をかわしてから、もう一度勇気をふるいおこして、夜の冷たい風に立ち向かっていった。彼が途中で足をとめたのは、ただ数分間、男の収容所のところでだけ、それは、必要なむごさで自分も貧民院長の地位を維持できることを自分に納得させようと、ちょっとそこの収容員をののしるためだった。自分がその資格を備えていることを確信し、彼は足どりも軽く、自分の将来の明るい昇進を夢みて、そこを出ていったが、この明るい夢は、彼が葬儀屋の店にゆくまでつづいていた。
さて、サウアベリ夫妻はお茶と晩餐のために外出し、ノア・クレイポールは、飲み食いという二つの機能の便宜な遂行に必要な運動以外にからだを動かすことはいつもあまり好んでいなかったので、いつもの閉店時間がすぎたいまでも、店はまだ閉じられてはいなかった。バムブル氏は勘定台をステッキで何回かたたいたが、なんの返事もなく、店の裏の客間のガラス窓越しに燈《あか》りが輝いているのを見て、彼は大胆にもそこをのぞきこみ、そこでおこなわれていることをさとってしまった。そして、それをさとったとき、彼は少なからずびっくりした。
テーブルでは夕食の準備ができていた。テーブルの上には、バタつきパン・皿・コップ・黒ビールの壺《つぼ》・葡萄酒《ぶどうしゅ》のびんがならべられてあった。テーブルの上座には、ノア・クレイポール氏が肘かけ椅子にだらしない恰好《かっこう》で坐り、両脚は椅子の肘にかけ、片手に開いた折りたたみナイフをもち、残りの手にはバターをぬったパン切れをもっていた。彼のすぐわきにシャーロットが立ち、樽《たる》から引きだした牡蠣《かき》を開き、それをクレイポール氏が、すごい食欲で、どんどんさらいこんでいた。この若い紳士の鼻の周辺がふだんより赤味をおびていること、彼の右目がなかば恒久的にウィンクをしていることは、彼がいささか酩酊《めいてい》状態にあることを物語っていた。こうした徴候は、彼がいかにもおいしそうに牡蠣《かき》を食べているようすで、裏書きされていた。体内が熱病でおかされているとき、牡蠣《かき》の冷却性がじつに高く評価されるものだからである。
「これは、ノア、おいしそうな大きな牡蠣《かき》よ!」シャーロットはいった。「食べてごらん。これだけはね」
「牡蠣《かき》って、ほんとにおいしいもんだなあ!」クレイポール氏は、それを飲みこんでからいった。「それを食べすぎて気分がわるくなってるなんて、おまえもほんとうに気の毒なもんだ。そうだろう、シャーロット?」
「まったく、つらいことよ」シャーロットはいった。
「そうだね」クレイポール氏はそれを承認した。「おまえさん、牡蠣《かき》は好きじゃないんかい?」
「たいしてはね」シャーロットは答えた。「ノア、あたしは、それを自分で食べるより、あんたが食べてるのを見るのが好きなの」
「驚いた!」考えこんで、ノアはいった。「妙なこったなあ!」
「もうひとつ食べなさいよ」シャーロットはすすめた。「これには美しい、細い髯《ひげ》が生えてることよ!」
「もう腹いっぱいで、だめだ」ノアはいった。「わるいけどね。シャーロット、ここにきな、キスしてやろう」
「なんだって!」部屋に飛びこんで、バムブル氏はどなった。「もう一度、いまのせりふをいってみろ」
シャーロットは悲鳴をあげ、エプロンに顔をかくした。クレイポール氏は、脚を地面にうつしただけで、それ以上姿勢は変えず、酩酊《めいてい》の恐怖状態におちいって、教区吏員をジッと見つめていた。
「この性悪《しょうわる》な、厚かましい男め、もう一度いってみろ!」バムブル氏はいった。「どうして、そんなおこがましいことをいうんだ? それに、この図々しいあばずれ女め、どうしてあいつをそそのかすんだ? キスするだって!」激怒にかられて、バムブル氏は叫んだ。「胸糞《むなくそ》わるい!」
「そんなこと、するつもりはなかったんです!」泣きながら、ノアはいった。「こっちが好こうと好くまいと、女のほうで、いつもぼくにキスをしてるんです」
「まあ、ノア」ひどいといったふうに、シャーロットは叫んだ。
「そうじゃないか。そんなことは、おまえだって知ってるはずだぞ!」ノアはやりかえした。「彼女はいつも、それをしてるんです。バムブルさん、彼女はぼくの顎《あご》を突っつくんです。いろいろいやらしいことをするんです!」
「だまれ!」バムブル氏はきびしく叫んだ。「シャーロット、おまえは下におりてゆけ。ノア、おまえは店を閉めろ。おまえの主人が帰るまで、一言でもいってみろ、ひどい目にあわせてやるからな。主人が帰ってきたら、明日の朝、朝食後に老婆の棺を送るように、バムブルさんがいってたといえ。わかったか? キスだって!」両手をあげて、バムブル氏はいった。「この教区の下層民の罪と腹黒さはじつにおそろしいことだ! このいまわしい風習が議会の論議の的にならなかったら、この国はほろび、農民の醇風《じゅんぷう》は永遠に消えちまうだろう!」こういって、教区吏員は、高潔で陰気そうな物腰で、葬儀屋の店から大股で出ていった。
さて、われわれは彼が家路につくこの点まで彼に同行し、老婆の葬式の用意万端はととのえたのであるから、ここで幼いオリヴァ・トゥイストについてちょっと探索をおこない、彼がトウビー・クラキットに投げだされた溝にそのまま倒れているかどうかを、調べてみよう。
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二十八 オリヴァの動きを調べ、彼の冒険を語る
「狼《おおかみ》がてめえたちの喉《のど》をくいちぎればいいんだ!」歯がみをしながら、サイクスはつぶやいた。「おれがてめえたちの中にいたら、てめえたちのわめき声をもっとひでえもんにしてやがるんだがな」
サイクスの無茶な性格としてできるかぎりの無茶なすごさでこのののしり声を発したとき、彼は傷ついた少年のからだを自分のまげた膝の上に乗せ、自分の追跡者のほうを見るために、一瞬、うしろをふりかえった。
霧と暗闇の中で、ほとんどなにも見分けられなかったが、人々の大きな叫び声が大気の中に鳴りひびき、非常警報で起こされた近くの犬の吠え声は、四方八方にこだましていた。
「この臆病犬め、とまれっ!」ながい脚を有利に生かして、もう先のほうを走っていたトウビー・クラキットに呼びかけて、この盗賊は叫んだ。「とまれっ!」
こう叫びを二度くりかえされて、トウビーはピタリと足をとめた。というのも、彼は自分がサイクスの射程距離外に出たとは確信できず、しかも、サイクスの気分は、いい加減にあつかうわけにもいかなかったからである。
「この餓鬼《がき》に手を貸せ」激しい勢いで仲間に手招きして、サイクスは叫んだ。「もどれっ!」
トウビーはもどるようすは一応したものの、ゆっくり歩いてきながら、息切れのためにとぎれとぎれになった低い声で、あまりもどりたくない自分の意向を思いきってもらした。
「もっと早く!」足もとの水の乾あがっている溝に少年をおき、ポケットからピストルを引きだして、サイクスは叫んだ。「そうやって、おれを裏切るつもりか?」
この瞬間、さわぎは大きくなった。サイクスは、ふたたびあたりを見まわし、追跡してきた男たちが、彼が立っている畠の門にもうよじ登りかけ、二匹の犬が彼らの数歩前を進んでいることを、見分けることができた。
「ビル、もう万事休すだ!」トウビーは叫んだ。「その餓鬼《がき》はすてて、逃げだすんだ」この別れの忠告を叫んで、クラキットは、確実に敵にとらわれるより、味方に撃たれるかもしれぬ見込みのほうをえらんで、くるりと向きなおり、一目散に飛んでいってしまった。サイクスは歯をかみならし、あたりを見まわしてから、倒れているオリヴァの上に彼をあわただしくくるんできたケープを投げかけ、追ってきた連中の注意を少年が倒れている場所からそらそうとするように、生垣《いけがき》の正面ぞいに走り、その生垣と直角になっているべつの生垣の前に一瞬立ちどまり、それから、空中に高くピストルを投げあげて、生垣を一跳びで飛び越え、姿をくらましてしまった。
「おい、おい、そこだ!」うしろでふるえ声が叫んだ。「ピンチャー! ネプチューン! ここに来い、ここに来い!」
犬は、主人たちと同じく、いま彼らがかり出されているスポーツに特別興味をもってはいないらしかったが、彼らはすぐにこの命令にしたがった。このときまでに畠のほうにもうそうとう進んでいっていた三人の男は、足をとめて、打ち合わせをはじめた。
「わしの意見は、いや、少なくともそれは命令とも言えるもんだが」一行のうちでいちばん太った男がいった。「われわれはただちに帰宅することですな」
「ジャイルズさんのお気に召すことなら、なんでもわたしは賛成ですな」背の低い男はいった。この男は、いかにもおびえたふうにとても顔を青ざめさせ、じつに慇懃《いんぎん》な態度を示していた。
「わたしとしては、諸君、失礼な態度はとりたくないと思っとりますな」犬を呼びもどした第三の男がいった。「ジャイルズさんが万事、事情は心得ておいでなんですから」
「そうですとも」背の低い男はいった。「ジャイルズさんがなんといわれようと、それに反対するなんて、とんでもないこと。そうですとも、わたしは自分の立場はちゃんと心得てますぞ! ありがたいことに、それは心得てるんです」じつをいうと、小柄の男は、じっさい、彼の立場を心得ているらしく、それが決して好ましいものでないことを百も承知のようだった。これを話しながら、彼の歯はガタガタ鳴っていたからである。
「ブリトルズ、きみはこわいんだな?」ジャイルズ氏はいった。
「いや、ちがいます」ブリトルズ氏はやりかえした。
「そうだとも」ジャイルズ氏はいった。
「ジャイルズさん、それは嘘《うそ》だ」ブリトルズはいった。
「ブリトルズ、きみこそ嘘《うそ》をいってるぞ」ジャイルズ氏はいった。
さて、この四つ言葉のやりとりは、ジャイルズ氏がののしったことから起き、ジャイルズ氏のののしりは、家に帰る責任が、表面は賛辞をよそおいながら、ぜんぶ自分にかぶせられたことにたいする憤概から起きているものだった。第三の男はこの紛争をじつに道理にかなったふうに終結させた。
「みなさん、わたしはじっさいのとこを申しましょう」彼はいった。「われわれは、みんなこわいんです」
「自分のことをいえばいいんだ」一行のうちで顔色をいちばん青くしているジャイルズ氏がいった。
「そうしてますよ」その男は答えた。「こうした事情のもとで、こわがるのは自然で当然のこと。わたしはこわいんです」
「わたしも、そうですな」ブリトルズはいった。「ただ、ふんぞりかえって、自分はこわいぞ、という必要はありませんからな」
こうした率直な告白はジャイルズ氏の気持ちをやわらげ、彼自身もすぐに、自分もこわいのだ、と認めた。そこで三人はグルリと向きを変え、一糸乱れず呼吸を合わせて逃げだしはじめたが、とうとうジャイルズ氏が(彼は仲間のうちでいちばん息が切れやすく、熊手で行動をさまたげられていた)いとも男らしく足をとめることを主張し、自分の言葉が性急にすぎたことのいいわけをしはじめた。
「だが、かっとして頭に血がのぼったとき」いいわけが終わってから、ジャイルズ氏はいった。「どんなことを人間がするかは、じつに驚嘆に値することですな。わしだって、人殺しくらいやったかもしれませんぞ――そうですとも――あの悪党のうちの一人をとっつかまえたらね」
ほかの二人も同感であり、彼らの血は、ジャイルズ氏の血と同様、いまはふたたび落ち着いてきていたので、この気質の急激な変化の原因について、推測がおこなわれはじめた。
「わしにはわかってる」ジャイルズはいった。「それは門だったのだ」
「そうであっても、ふしぎはありませんな」その考えに飛びついて、ブリトルズは叫んだ。
「まちがいなし」ジャイルズはいった、「あの門が興奮の血の流れをとめちまったんだ。あの門をよじ登っていったとき、わしは自分の血が急に消えてゆくのを感じた」
驚くべき偶然の一致によって、他の二人もちょうどその瞬間に、同じ不愉快な感じに襲われていた。特に、その変化が起きた時刻に関しては、もうまちがいはなかった。それが起きたとき、三人そろって、自分たちが盗賊の姿を見かけたのを憶えていたからである。
この話は、夜盗の不意を襲った二人の男とはちがった家で眠っていて、二匹の雑種の犬といっしょに、追跡のために起こされた旅の鋳掛《いか》け屋のあいだでかわされていた。ジャイルズ氏は、屋敷の老夫人に家令と召使い頭として働き、ブリトルズはなんでも屋の若者で、子供のときから老夫人に仕えていたので、三十は少し越していながらも、将来有望な青年としてまだあつかわれていた。
こうした話のやりとりでたがいに元気をつけあったが、まだそれでも、ピタリとからだを寄せ合い、板のあいだを新しい風が音を立てて吹きとおるときは、いつも不安そうにあたりを見まわして、三人の男は、そこのうしろにカンテラをおいていった木のところへ急ぎ足で進んでいった。カンテラをそこにおいたのは、カンテラが盗賊たちの射撃の目標になってはという配慮があったからである。その燈《あか》りをとりあげて、彼らはそうとうの速足で家路をとっととたどっていった。そして、彼らの黒い姿がもう見えなくなってからもずっと、燈《あか》りは、それがとおってゆく湿った陰気な大気から発する鬼火のように、遠くでチラチラと踊っているのが見かけられた。
明け方がゆっくり近づいてきたとき、寒気は、いっそうきびしくなり、霧は、濃い煙の雲のように、地面にはって動いていた。草はしめり、小道と低い場所はぬかるみと水ばかり、健康によくない風の湿った息吹《いぶ》きは、うつろなうめき声を立てて、ものうげにとおりすぎていった。それでもまだ、オリヴァはサイクスが放りだした場所に身じろぎもせずに、気を失って倒れていた。
朝がドンドンと近づいてきた。その鈍い最初の色――それは、昼の誕生というより、夜の死といったものだったが――がかすかに空を染めたとき、空気はもっと鋭く、もっと肌をつんざくものになった。闇の中でぼんやりと、おそろしく見えていたものは、しだいに形をととのえ、目に馴れた形をとるようになった。雨は濃く、激しく降り、葉の落ちた木のやぶのあいだで音を立てていた。が、雨がからだに打ちつけても、オリヴァはそれを感じてはいなかった。彼はまだ土の床の上に、力なく、意識を失って、倒れていたからである。
とうとう、苦痛の低いうめきがあたりの静けさを破り、その声で、少年ははっとわれにかえった。ショールで荒らっぽく結びつけられた右腕は、わきにダラリと重くさがり、その繃帯《ほうたい》は血だらけになっていた。彼の力はすっかり弱っていて、坐る姿勢もとれないほどだったが、ようやく起きあがったとき、彼は、助けを求めようと、弱々しくあたりを見まわし、苦痛のうめきを発した。寒さと疲労で関節という関節をガタガタとふるわせて、彼はまっすぐに立ちあがろうとしたが、からだ一面にふるえがきて、地面の上に倒れてしまった。
ながいこと彼が落ちこんでいた放心状態にふたたびちょっともどったあとで、このままでいれば確実に死んでしまうということを知らせているように思われた胸のむかつきにつき動かされて、オリヴァは立ちあがり、歩こうとした。頭はフラフラして、彼は、泥酔した人のように、ヨロヨロとあちらこちらによろめいた。だが、彼はがんばり、頭を前にぐったりと垂らし、どこともわからず、けつまずきながら、進んでいった。
このとき、無数のとてつもない、混乱した考えが、彼の心に群らがり起こってきた。彼はまだ、怒っていい争っているサイクスとクラキットのあいだにはさまれて歩いているように感じた。彼らがいった言葉そのままが、彼の耳にひびいていたからである。そして、倒れまいと猛然とがんばってハッとわれにかえったとき、彼は、自分が彼らに話しかけているのに気がついた。ついで、サイクスと二人だけになり、前日と同様に、トボトボと歩き、影のような人物がわきをとおりすぎていったとき、彼はあの盗賊が自分の腕首をにぎったのを感じた。突然、銃声を耳にして、ハッとした。空中に大きな叫び、物音がわき起こり、光がいくつか目の前にきらめき、すべてが騒音と騒動、目に見えぬ手があわただしく彼を連れ去っていった。こうしたクルクルとめぐるすべての幻想をとおして、得《え》もいえぬ不安な苦痛の感じが走り、それは、絶え間なく、彼を疲れさせ、悩ましていた。
こうして彼はヨロヨロとはうようにして、ほとんど機械になって、木戸の横木やゆきあたった生垣《いけがき》のすき間をとおりぬけ、とうとう道路に出た。ここで雨がひどく降りはじめ、それが彼の気持ちをしゃんとさせた。
彼はあたりを見まわし、ほど遠からぬところに一軒の家があるのに気づき、たぶんそこへはたどりつけるだろう、と思った。彼の状態をあわれんで、家の人は彼に同情してくれるだろう。また、たとえ同情してくれなくとも、わびしい、開けた畠で死ぬより、人のいるところの近くで死んだほうがまだよい、と考えた。彼は、最後の一努力のために、渾身の力をふりしぼり、よろめく足を家のほうに向けた。
この家にだんだんと近づいていったとき、その家を以前見たことがあるといった感じが強くなってきた。こまかなことはなにも思い出せなかったが、その家の形、ようすがなにか彼になじみのあるもののように思えた。
あの庭の壁! 昨夜、彼は中側の草の上に膝をついて倒れこみ、二人の男に慈悲をねがったのだった。それは、彼らが押しいろうとしたまさにその家だった。
彼がこの場所をそうしたものと気づいたとき、ひどい恐怖心がオリヴァを襲い、一瞬間、彼は傷の痛みを忘れ、逃げだすことだけを考えていた。逃げだす! 彼はほとんど立つこともできず、また、たとえそのほっそりとした若々しいからだの最高の力をもっていたとしても、どこへ逃げられただろう? 彼は庭の門をおし、それは、錠がかかっていなかったので、蝶番《ちょうつがい》の上でさっと開いた。彼はヨロヨロとした足どりで芝生を横切り、入口の階段を登り、力なく戸をノックしたが、彼のからだの力はもうぜんぶ使い果たされ、ぐったりと小さな玄関の柱によりかかって、倒れてしまった。
ちょうどこのとき、ジャイルズ氏、ブリトルズ、鋳掛《いか》け屋が、台所で、前夜の疲労と恐怖のあとで、お茶をのみ、いろいろなものを食べながら、体力の回復をはかっていた。下々《しもじも》の召使いたちとなれなれしくすることは、ジャイルズ氏の習慣ではなく、彼らにたいして、彼はいつもお高くとまった感じの愛想のよさを示し、これは相手をよろこばすと同時に、かならず、彼が社会的に優越していることを、彼らに知らせていた。だが、死・銃火・盗賊はすべての人間を平等にするものである。そこで、ジャイルズ氏は、台所の炉格子の前に脚をのばして坐り、左腕をテーブルに乗せ、右腕で押しこみ強盗のくわしい微に入り細をうがった説明をし、それに聞き手は(特に料理女と下女、彼らはこの一座に加わっていた)息をこらして聞き入っていた。
「二時半ごろだったかな」ジャイルズ氏はいった。「三時近くだったかもしれん。わしは目をさまし、こんなふうに床で寝がえりを打ったとき(ここでジャイルズ氏は椅子で向きを変え、敷布がわりに、テーブル掛けの隅を引っぱった)、なにか物音を聞いたような気がしたんだ」
話がそこまで進むと、料理女は真《ま》っ青《さお》になり、下女に戸を閉めるようにとたのんだが、下女はそれをブリトルズにたのみ、ブリトルズはそれを鋳掛《いか》け屋にたのみ、鋳掛《いか》け屋は聞かぬふりをしていた。
「物音を聞いたんだ」ジャイルズ氏はつづけた。「わしは最初『これは気のせいだ』と考え、また寝こもうとしたんだが、そのとき、また、はっきりとその音を聞いたんだ」
「どんな音だったんです?」料理女はたずねた。
「ちょっとはじけるような音だったな」あたりを見まわして、ジャイルズ氏は答えた。
「それより、|にくずく《ヽヽヽヽ》(堅くて芳香のある種子、香味料や薬用に用いる)のおろし金で、鉄の捧をこすったような音だったな」ブリトルズは意見を述べた。
「おまえが聞いたときは、そうだったんだ」ジャイルズ氏は応じた。「だが、そのときには、はじけるような音だった。わしは、掛け布団《ぶとん》をはねのけ」テーブル掛けの布をもとにまきもどして、ジャイルズ氏はつづけた、「寝台に起きあがり、聞き耳を澄《す》ませた」
料理女と下女は同時に「まあ!」と叫び、その椅子を前よりもっと近づけ合った。
「わしには、それがもうじつにはっきりと聞こえたんだ」ジャイルズ氏はなおも語りつづけた。「『だれかが戸か窓をこじ開けようとしてるな。どうしたらいいだろう? かわいそうなあの青年ブリトルズを起こし、床の中でむざむざと殺されるのを助けてやろう』わしは考えたんだ、『さもないと、やつの喉は、それと気がつかんうちに、ばっくりと切られてしまうかもしれん』とな」
ここで、一同の目はブリトルズのほうに向けられたが、ブリトルズのほうは、口を大きくあけ、顔にはまぎれもない恐怖の情をあらわして、語り手の上に目をすえ、そこをにらみつけていた。
「わしは掛け布団《ぶとん》をパッとはねのけ」テーブル掛けをさっと向こうに押しやり、ジッと料理女と下女を見すえて、ジャイルズ氏はいった。「床からそっと忍び出し、ズボ――」
「ジャイルズさん、淑女がいるんですぞ」鋳掛《いか》け屋がつぶやいた。
「靴をはき」鋳掛《いか》け屋に向きなおり、靴という言葉に力を入れて、ジャイルズ氏はいった。「皿かごといっしょにいつも二階にもってく弾をこめたピストルをとりだし、忍び足で彼の部屋に歩いていった。『ブリトルズ』彼を起こしたときに、わしはいったんだ、『おびえては絶対にいかんぞ!』」
「たしかに、そういったね」低い声でブリトルズが口をはさんだ。
「『わしたちは殺されるかもしれん、ブリトルズ』わしはいったんだ」ジャイルズはつづけた。「『だが、こわがってはいかんぞ』」
「ブリトルズはこわがったこと?」料理女がたずねた。
「いや、ぜんぜん」ジャイルズ氏は答えた。「彼はわしと同様――ああ! わしとだいたい同じくらい――しっかりしてたよ」
「あたしだったら、きっと、その場で死んじまったことね」下女がいった。
「おまえは女だからな」ちょっと勇気をふるい起こして、ブリトルズは答えた。
「ブリトルズのいうとおりだ」賛成というふうに頭をうなずかせて、ジャイルズ氏はいった。「女なら、そうなるのも、むりはないな。われわれは、男だから、ブリトルズの炉の中の台に立てかけてあった黒いカンテラをとりあげ、真っ暗闇の中を手さぐりで下におりていった――まあ、こんな具合いにといったところか」
ジャイルズ氏はその座から立ち、しかるべき動作づきで自分の話を進めるために、目を閉じて、二歩歩み出したとき、彼は一座の人たちといっしょに、すごい勢いでぎょっとし、あわただしく、座席にもどっていった。料理女と下女とは、悲鳴をあげた。
「あれはノックの音だったな」ケロリとした態度をうまくよそおって、ジャイルズ氏はいった。「だれか、戸を開けろ」
だれも動こうとはしなかった。
「朝っぱら、こんな時刻にノックの音がするなんて、どうも妙なことらしいな」自分のまわりの青ざめた顔を見わたし、自身もとても元気のないようすで、ジャイルズ氏はいった。「だが、戸は開けねばならん。聞こえるのか、だれか戸を開けろ!」
こういいながら、ジャイルズ氏はブリトルズをながめたが、この若者は、生まれながら、遠慮深い人間だったので、たぶん自分をとるに足りぬ者と考えたのだろう、その質問が自分にかかるはずはないと思いこんで、返事をしなかった。ジャイルズ氏は信頼の一瞥を鋳掛《いか》け屋に投げたが、彼は急に寝こんでしまった。女たちは問題外だった。
「もしブリトルズが証人の前で戸を開けたいと思うなら」短い沈黙のあとで、ジャイルズ氏はいった、「わしはその証人になってやってもいいんだがな」
「おれだって証人になりますぜ」眠りこんだのと同じふうに、突然目をさまして、鋳掛《いか》け屋がいった。
ブリトルズはこの条件で降伏した。そこで一同は、いまはもう真昼間だということを発見し(鎧戸《よろいど》を開いて気づいたことだったが)、それで多少勇気をふるい立たせて、犬を先頭に立て、下にいるのがおそろしいと言いだした二人の女性を殿軍《しんがり》に仕立て、階段をあがっていった。ジャイルズ氏の意見により、一同は大声で話したが、これは、外の不逞《ふてい》の族《やから》に、こちらの軍勢は多いのだぞ、ということを知らせるためだった。同じ明敏な頭脳の持ち主である紳士の発想になる策略によって、犬をすごく吠えさせるために、その尻尾は玄関の間でしっかりとつねられた。
こうした策略を講じてから、ジャイルズ氏は鋳掛《いか》け屋の腕をしっかりとつかみ、戸を開けと命令をくだした。ブリトルズはその命にしたがい、この一団の人々がおずおずとおたがいの肩越しにのぞきこんでながめたものは、疲労|困憊《こんぱい》その極に達し、口もきけなくなっているあわれな少年オリヴァ・トゥイストにすぎなかった。彼は生気の失せた目をあげ、だまったまま、みなの同情を求めていた。
「子供だ!」勇敢にも鋳掛《いか》け屋をうしろに押しのけて、ジャイルズ氏は叫んだ。「どうしたんだ――えっ?――どうして――ブリトルズ――これを見ろ――おまえは知らんのか?」
戸を開けようとその背後にからだをおしやられていたブリトルズは、オリヴァを見るや、大きな叫び声をあげた。ジャイルズ氏は少年の片脚片腕をとらえて(幸いにも傷を受けていないほうだった)、すぐ彼を玄関の間に引きずってゆき、そこの床の上に彼を投げだした。
「さあ、つかまえましたぞ!」すごい興奮状態になって、ジャイルズは二階に向かってわめいた。「奥さま、泥棒の片割れをつかまえました! お嬢さま、泥棒をつかまえました! お嬢さま、負傷してます! お嬢さま、わたしが撃ったんです。そして、ブリトルズが燈《あか》りをもっていたんです」
「お嬢さま、カンテラの燈《あか》りをね」声がよくひびくようにと、片手を口にあてがって、ブリトルズは叫んだ。
二人の下女は、ジャイルズ氏が賊をとらえたことを報告するために、二階にかけあがり、鋳掛《いか》け屋は、絞首刑になる前にオリヴァを死なせまいと、彼の意識をひきもどしにかかった。この物音とさわぎの中で、それをすぐ静めてしまったやさしい女性の声が聞こえてきた。
「ジャイルズ!」階段の上のところから、声がささやいた。
「お嬢さま、わたしはここにおります」ジャイルズ氏は答えた。「お嬢さま、こわがる必要はございません。わたくしが傷を負ったのではございませんから。お嬢さま、彼はたいしたひどい抵抗はしませんでした! 賊はすぐ、わたくしに参ってしまったんです」
「しっ、静かに!」若い婦人は答えた。「賊が叔母《おば》さまをおびえさせたように、おまえも叔母《おば》さまをおびえさせてしまいますよ。かわいそうな子供は大きな傷をしているの?」
「お嬢さま、ひどい傷です」得《え》もいえぬ満足げなようすで、ジャイルズは答えた。
「お嬢さま、もう死にそうです」前と前じように、口に手を当てて、ブリトルズはわめいた。「お嬢さま、こちらにおりておいでになって、死ぬ前に一目ご覧になりませんか?」
「しっ、静かに! おねがいよ」婦人は答えた。「叔母《おば》さまにお話ししてくるから、ちょっと静かにして、待っていてちょうだい」
声と同じようにやさしく、静かな足音を立てて、婦人は歩いていった。彼女はすぐにもどってきて、負傷者を丁寧《ていねい》に階上のジャイルズ氏の部屋に運びあげるように命じ、さらにブリトルズは小馬に鞍《くら》をつけ、チャーツェーにおもむき、大急ぎで巡査と医者を呼ぶように、といいつけた。
「でも、お嬢さま、それより先に、一目、賊をご覧になりませんか?」オリヴァが巧みに撃ち落とした名鳥でもあるかのように、得意満面なおももちで、ジャイルズはたずねた。
「いいえ、いまはやめます」若い婦人は答えた。「かわいそうに! ああ! ジャイルズ、わたしからもたのむから、親切にしてあげてね!」
年老いた召使いは、この語り手が自分自身の娘であるかのように誇らかに、感に打たれたようすで、彼女を見あげた。それから、彼はオリヴァの上に身をかがませ、女性のような配慮と懸念をはらって、彼を二階に連れてゆく手伝いをした。
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二十九 オリヴァが世話になった家の住人の紹介
家具は近代的な優雅さより古めかしい快適さを示していた美しい部屋で、十分に料理がならべられた朝食に、二人の婦人が坐っていた。綿密な注意をはらって黒服を着こんだジャイルズ氏が、このご婦人がたの給仕役をつとめていた。彼は食器棚と朝食のテーブルのあいだのほぼ真ん中に陣どり、グッと背をのばし、頭はそらせて、ちょっと横にかしげ、左足を前に踏みだし、右手をチョッキに突っこみ、盆をにぎった左手をダラリとさげた彼の姿は、自分の能力と重要性をじつにこころよく意識している人物のようだった。
二人の婦人のうちの一人は、そうとうの年配だった。しかし、彼女のしゃんとした姿は、彼女の坐っているよりかかりの高い樫《かし》の椅子にも劣らないほどだった。すぎ去ったむかしの衣裳に現在の流行をちょっとあしらって、古い衣裳の効果を損《そこ》ねるより、そのよさをいっそう引きたてるといった新旧混合の美しい服をじつにうまく、きちんと着こなして、彼女は組んだ両手をテーブルに乗せ、いかにも威厳のある物腰で、椅子に腰をおろしていた。彼女の目(年齢はその輝きをほとんどくもらせてはいなかった)は、注意深くその若い相手に注がれていた。
若い婦人は美しい花ざかり、女性としての春を歌い、神のよきご意図のために天使が人間のからだに宿るとしたら、彼女の年配に宿るものと、冒涜《ぼうとく》の罪をおかさずに考えられる年頃だった。
彼女はまだ十七をすぎてはいず、じつにほっそりとした美しい姿、おだやかでやさしく、清らかで美しく、その本質はこの世のものとは思われず、粗暴な人間は彼女にはふさわしからずと思われる風情《ふぜい》だった。彼女の濃い青い目に輝き、その気高い頭にはっきりと示されている知性は、とても十七歳のもの、この俗世のものとは思われなかった。しかし、美しさと上機嫌を物語るうつりゆく表情、彼女の顔に輝き、そこに陰を残さぬ数知れぬ光、なかんずく微笑、陽気で幸福げな微笑は、家庭のため、炉辺のやすらぎと幸福のためにつくられたものだった。
彼女はせっせとテーブルのこまかな仕事をしていた。老婦人が彼女を見つめていたとき、彼女は、たまたま目をあげて、ふざけたようになにげなく額《ひたい》の上の編んだ髪をうしろに押しあげ、その輝く顔に愛情とあどけないかわいらしさをこめた表情を浮かべたが、それは、天使が彼女をながめても、ほほえまれるだろうと思われるほどのものだった。
「ブリトルズが出かけてから、もう一時間以上になることね、どう?」少し間《ま》をおいて、老婦人がたずねた。
「一時間と十二分でございます、奥さま」黒いリボンをひっぱって出した銀の懐中時計を見て、ジャイルズ氏は答えた。
「あの人はいつものろいことね」老婦人はいった。
「ブリトルズはいつも、のろい子供でございました、奥さま」従者は答えた。ところで、ついでながら、ブリトルズが三十年以上ものあいだのろい子供であったことを考えると、彼が素早い子供になる大きな可能性はまずない感じだった。
「あの人はよくなるより、わるくなった感じね」老婦人はいった。
「道草してほかの子供と遊んでいるとしたら、これは許せぬことですわね」ほほえみながら、若い婦人はいった。
ジャイルズ氏が、自分も敬意をこめた微笑を浮かべたほうがよいかな、と考えていたとき、一頭引きの二輪馬車が庭の門のところに走りより、そこから太った紳士が飛びだし、戸口へまっすぐ駈けあがり、なにか神秘的な方法で素早く家にはいったかと思うと、いきなりこの部屋に突入し、ジャイルズ氏と朝食のテーブルをあやうくひっくりかえしそうになった。
「こんな話って、聞いたこともありませんぞ!」太った紳士は叫んだ。「メイリー夫人――いや、驚いた――しかも、静まりかえった真夜中に――こんな話って、聞いたこともありませんぞ!」
こうした悔《くや》みの言葉を述べると、太った紳士は二人の婦人と握手し、椅子を引きよせ、具合いはいかが? とたずねた。
「あなたは死ぬとこでしたぞ、ほんとうに、恐怖心で死ぬとこでしたぞ」太った紳士はいった。「どうして使いをよこさなかったんです? まったく、わしの召使いはすぐにきたのに……。わしもきましたぞ。それに、わしの助手だって、よろこんできましたぞ。ああした事情では、だれだって、きっと、きたでしょう。いや、まったく! じつに思いがけないことでしたな! しかも、静まりかえった真夜中に!」
この医者がとくに苦にしていることは、この押しこみ強盗が思いがけないものであった事実、そしてそれが夜間におこなわれようとした事実にあるようだった。それは、まるで、強盗商売を昼間におこない、一日か二日前に郵便でその契約を結ぶことが、押しこみ強盗をするさいの紳士のしっかりとした掟《おきて》でもあるような話ぶりだった。
「そして、きみ、ローズさん」若い婦人のほうに向いて、医師はいった。「わしは――」
「まあ! ほんとうに驚きましたわ」医師の話を切って、ローズはいった。「でも、叔母《おば》があなたに見ていただきたがっている、かわいそうな少年が二階にいますの」
「ああ! そう」医師は答えた。「そうでしたな。ジャイルズ、それはおまえのしたことだという話だな」
ひどく興奮して茶碗を片づけていたジャイルズ氏は、顔をとても赤らめ、名誉なことにそのとおりです、と答えた。
「名誉だって、えっ?」医師はいった。「うん、そいつはどうかな。たぶん、裏の台所で泥棒を撃つのは名誉なことだろうな、十二歩はなれて敵を撃つようにな。相手が空に向けて鉄砲を放っても、おまえは決闘をしたことになるんだからな、ジャイルズ」
ジャイルズ氏は、この問題をこうして軽くあしらうことは、自分の名誉を損ねるものと考え、そうしたことを判断するのは、自分のような者のすべきことではないが、敵にとっても、それは冗談ごとではなかったものと確信する、とうやうやしく答えた。
「なるほど、そのとおりだ!」医師はいった。「その盗賊はどこにいる? わしをそこに案内してくれ。メイリー夫人、二階からおりてきたとき、またお会いしましょう。あの小さな窓が、彼のはいりこんだ口なのかね? うん、まったく信じられん小さな穴だな」
ずっと話しながら、医師はジャイルズ氏に案内されて、二階にあがっていった。そして彼が二階にあがっていった暇を利用して、この近くの十マイル四方の地方では「先生」として知られている医師ロスバーン氏は、美食よりむしろ上機嫌で太ってしまった人物、その五倍のひろさの地区をさがしてもちょっと見当たらぬほどの親切で陽気な独身男、しかも風変わりな男であったことを、読者にご報告しておこう。
彼は、当人とご婦人がたが予期していたほど手早には、二階からおりてこなかった。大きな平たい箱が一頭立て二輪馬車から運びだされ、寝室の鐘がときどき鳴らされ、召使いたちがたえず階段を登りおりし、なにか重要なことが進行中であることを思わせた。とうとう医師はもどってきた。患者の容態はどうかという心配そうな質問にたいして、彼はなにかつかめぬ態度をとり、用心深く扉を閉めた。
「これは、じつにとてつもないことですな、メイリー夫人」扉を閉めておこうといったように背をそこにおしつけたまま、医師はいった。
「危篤だというのではないのでしょうね?」老夫人はたずねた。
「いやあ、そんなことになっても、こうした事情のもとでは、意外とはいえませんな」医師は答えた。「もちろん、彼は危篤とは思いませんけどね。この泥棒をご覧になりましたか?」
「いいえ」老夫人は答えた。
「彼については、なにもお聞きになっていないんですね?」
「ええ」
「失礼でございますが、奥さま」ジャイルズ氏が口をはさんだ、「彼についてわたくしがお話申しあげようとしましたとき、ちょうどロスバーン先生がおいでになりまして……」
ジャイルズ氏が、最初自分が撃ったのは少年にすぎなかった、と白状しかねていたというのが、事実のところだった。自分の勇気をひどくほめあげられてしまったので、彼は説明を数分間延期せざるを得ない立場に追いこまれ、そのあいだに、不屈の豪勇で得たはかなき名声の絶頂にあって、彼は大いにいいところを見せてしまったのである。
「ローズはその泥棒と会いたがっていました」メイリー夫人はいった。「でも、わたしがそれを承知しなかったのです」
「ふふん!」医師は応じた。「彼のようすには、べつにおそろしいものはありませんぞ。わしといっしょにお会いになっては、いかがです?」
「それが必要なら」老夫人は答えた。「もちろん、かまいませんわ」
「じゃ、わしは必要だと考えますな」医師はいった。「とにかく、彼と会うのをのばしていたら、あなたはきっと、それを深く後悔なさいますぞ。彼はいま、すっかり静かで、気分がよくなっています。ご案内しましょう――ローズお嬢さん――おいでになりませんか? 約束してもかまいませんよ。こわがることは、ぜんぜんないんです!」
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三十 新しい見舞い人のオリヴァ観を語る
ご婦人たちがこの泥棒の形相《ぎょうそう》を見たら、きっと愉快な驚きの念に襲われるだろうと何回も念をおして、医師は若い婦人の腕を自分の腕にとおし、もう一方の空《あ》いた手をメイリー夫人のほうに差しだして、いかにも威儀を正し、もったいぶった態度で、先に立って進んでいった。
「さあ」寝室の取手《とって》をそっとまわしながら、声をひそめて、医師はいった。「あなたがたのご意見をうかがわせていただきましょう。泥棒は髯《ひげ》をそってはいませんぞ。しかし、兇悪な形相《ぎょうそう》はしていません。だが、ここで待っててください! 彼が人と会えるようにきちんとした身なりをしてるかどうか、わしが先にたしかめてきましょう」
彼らの先に立って、彼は部屋をのぞきこんだ。彼らにはいれと身ぶりで知らせ、彼らが部屋にはいったとき、彼は扉を閉め、そっと寝台のカーテンを引いた。そこの床の上には、彼らがながめねばならぬと覚悟していた頑強な、黒い顔をした悪党の代わりに、苦痛と疲労でやつれ、ぐっすりと深い眠りに落ちている一人の子が横たわっていた。繃帯《ほうたい》をし副木《そえぎ》を当てられた負傷した腕は、胸の上におかれ、もう一方の腕に頭が乗せられていたが、その顔は、枕の上にかかっているながい髪の毛でなかばかくされていた。
正直者の紳士は、だまって一、二分のあいだ、手にカーテンをもったまま、それをながめていた。彼がこうして患者を見守っていたとき、若い婦人はすっと彼のわきをとおりぬけ、寝台のそばにあった椅子に腰をおろして、オリヴァの髪をのけてやった。彼女が少年の上にかがみこんだとき、彼女の流した涙が彼の額《ひたい》にかかった。
少年はからだを動かし、眠りながらほほえんだが、それは、まるでこうしたあわれみと同情のしるしが、彼の味わったこともない愛情と親愛のこころよい夢をひき起こしたような感じだった。このようにして、おだやかな音楽の曲、静かな場所での水の波紋、親しみのこもった言葉の語らいが、突如としてときどき、この世で起こったこともない情景の漠然とした記憶を呼びさまし、一息の息吹《いぶ》きのように、さっと消えてゆく。とっくのむかしに消滅したあるはかない幸福な暮らしの思い出がそれを目ざめさせる感じで、心が、どうあがこうとも、絶対に思い出せないものである。
「これは、どうしたことなのでしょう?」年配の婦人は叫んだ。「このかわいそうな子供が、盗人の手先であったはずはありませんわ」
「悪事というものは」カーテンをもとにもどして、医者は溜《た》め息とともにいった。「さまざまな額《ひたい》に宿るものです。美しい外見がそれを中に宿していないとは、だれが断言できましょう?」
「でも、こんなにいたいけな齢《とし》で!」ローズが強くいった。
「お嬢さん」悲しげに頭をふって、医者は答えた。「犯罪は、死と同じく、齢《とし》をとったしわだらけの者だけにかぎられているわけではないんです。いちばん若く、いちばん美しい者でも、じつにしばしば、その犠牲になりますからな」
「でも、まさか――ああ! このほっそりとした子供が、自分からすすんで、性悪《しょうわる》の無法者の仲間になることなんて、あるでしょうか?」ローズはいった。
医者は頭をふったが、その態度は、そうしたこともあり得ると考えているふうだった。そして彼は、患者の眠りをさまたげてはいけないからといって、先に立ってとなりの部屋にはいっていった。
「でも、たとえ性悪《しょうわる》だったとしても」ローズは話しつづけた、「あの子がどんなに齢《とし》ゆかぬかを考えてごらんなさい。母親の愛情、家庭の楽しさを一度も味わったことがないのかもしれませんよ。虐待と打擲《ちょうちゃく》、食べ物のないことがこの子をつき動かし、彼にいけないことをさせた者の仲間入りをするようにしたのかもしれませんよ。叔母《おば》さま、おねがいです、この病気の子を牢獄に投げこませる前に、どうかこのことを考えてください。そんなことをしたら、それは、あの子が心を改める機会を葬るお墓になってしまいます。ああ! 叔母《おば》さまはわたしを愛してくださり、あなたのご親切と愛情で、わたしは両親のいないさびしさを感じたことは一度もありません。でも、このあわれな子と同じように、わたしもそうしたさびしさを感じ、よるべのなさを考え、わびしい思いをする身分になっていたのかもしれないのです。どうか、手おくれにならないうちに、この子をあわれんでやってください!」
「おまえ」老夫人は、泣いている娘を胸にだきしめて、いった。「わたしがあの子の髪の毛一本でも傷つけると思うこと?」
「おお、そうは思いませんわ!」ローズはむきになっていった。
「たしかに、そうよ」老夫人はいった。「わたしの生涯は終わりに近づいています。わたしが他人に示したように、慈悲がわたしにも授けられますように! あの子を助けるために、どうしたらいいのかしら?」
「それは、わしに考えさせてください」医者はいった。「わしに考えさせてください」
ロスバーン氏は両手をポケットに突っこみ、何回か部屋を往き来し、そのあいだに、ときどき足をとめ、爪先立ちになってからだの均《つ》り合いをとり、ひどく顔をしかめていた。「わかった」「いや、わからん」とかいったさまざまな叫びを発し、同じようにしばしば歩きだしたり顔をしかめたりしたあと、彼はとうとうピタリと足をとめ、つぎのようにいった――。
「もしジャイルズとあのチビ公ブリトルズをおどしつける完全、無条件な権限をわたしに与えてくださったら、それはなんとかやれるでしょう。ジャイルズは忠実な男で、ここでながいこと勤めた召使いです。だが、あなたはさまざまなやりかたで彼に穴埋めをし、ああした名射手であったことにたいして、報いはできるはずです。それにご異議はありませんな?」
「あの子を助けてやるのに、なにかほかの方法がなければ……」メイリー夫人は答えた。
「ほかにはありませんな」医者はいった。「ほんとうです。ほかにはありませんとも」
「では、叔母《おば》さまは先生にその全権をおゆだねです」泣きながらも、にっこりとほほえんで、ローズはいった。「でも、どうか、どうしてもやむを得ない以外には、あの人たちをいじめないでください」
「ローズお嬢さん」医者はやりかえした、「あなたは、自分以外の人間はみんな人をいじめたがってる、とお考えのようですな。わしは若い世代の男性のために望むだけですよ、あなたの愛を求める最初の好ましい青年が、今度の場合と同じようにあなたが傷つきやすく、やさしい心根の持ち主であることを知るようにとね。青年になりたいもんですな、そうしたら、いまの好機に乗じて、その目的を果たすこともできるでしょうからね」
「先生は、ブリトルズと同じように、大きな坊やですことね」顔を赤らめながら、ローズは答えた。
「そう」ほがらかに笑いながら、医者はいった。「子供になるのは、そんなにむずかしいことではありませんぞ。だが、あの子供のことに話をもどしましょう。われわれの協定の重大な点は、これから先の話にあるのです。少年は、たぶん、一時間かそこいらすれば、目をさますでしょう。そして、下にいるあの頭の鈍い巡査には、少年は動かすことも話しかけることもならん、さもないと命が危い、といってありますが、彼となら、心配なく、われわれは話すことができます。さて、わしはつぎの協定を提案します――わしがあなたがたの目の前で彼を調べ、彼の言葉から、これは十分にあり得ることですが、彼がほんとうに真の徹底した悪人だと判断したら――それは、あなたがたの冷静な理性が十分に納得されるまで、わしが説明しますが――彼のことは彼の運命にゆだね、とにかくわしは、それ以上、いっさい口を出さんということです」
「おお、それはいけません!」ローズがたのみこんだ。
「おお、それでいいです、叔母《おば》さま! ですな」医者はいった。「さあ、そういうことにしてくださいますかね?」
「あの子が悪事で心を固くしているわけがありません」ローズはいった。「そんなこと、あり得ないことです」
「よくわかりましたよ」医者はやりかえした。「それなら、わしの提案になお賛成してもいいわけでしょう」
最後に条約が結ばれ、協定者は、多少イライラしながら、腰をおろして、オリヴァが目をさますのを待っていた。
二人の婦人の忍耐力は、ロスバーン氏がいっていたよりもっと長期の苦しみを味わうように運命づけられていた。というのも、時間はどんどんたっていったが、オリヴァはまだぐっすりと眠りつづけていたからである。じっさい、やさしい医者が、オリヴァはもう十分に元気を回復して、話すこともできるようになった、と彼らに伝えたのは、もう夕方になってからだった。少年の具合いは、まだとてもよくない、そして血を流したために弱っている、だが、彼の心はなにかを語りたがって悩んでいる、翌朝まで彼を静かにしておこうと思えば、それもできるが、それより彼に話す機会を与えてやったほうがよいだろう、と彼は意見を述べた。
会議はながくつづいた。オリヴァは、苦痛と疲労で話をとぎらせながら、自分の簡単な来歴を語った。暗い部屋で、病気の子供の弱々しい声が、冷酷な人々が彼に与えた不幸と災害の話をボソボソと語るのを聞くことは、厳粛感をひき起こすものだった。ああ、仲間の人間をおしつぶし苦しめるとき、われわれの頭上に死後の復讐を求める人間の罪悪の黒々とした証拠が、濃いたれこめた雲のように、ゆっくりではあるが確実に、神のみもとに立ちのぼっている事実を少しでも考えたら、もしわれわれが想像をめぐらして、どんな権力もおしつぶすことができず、どんな傲慢も消滅させることができない死者の声の深い証言をちょっとでも耳にしたら、日々の生活のもたらす不正、苦悩、みじめさ、残忍、非行はたちまち消え去ってしまうことだろう!
その夜、オリヴァの枕はやさしい手で形をなおされ、彼が眠っているとき、やさしさと徳が彼の姿を見守っていた。彼は心が静まり、幸福になって、不平もいわずに死んでゆけそうな気持ちになっていた。
この重大な会見が終わり、オリヴァがふたたびトロトロしはじめたとき、医者は目をぬぐい、突然自分の目の弱さを非難してから、階下におりていって、ジャイルズに砲火を開いた。客間にはだれもいなかったので、この戦闘を台所で開始したほうがいっそう効果をあげることが、ふっと彼の頭にひらめいた。そこで、彼は台所に乗りこんでいった。
家庭議会の下院には、女の召使いたち、ブリトルズ氏、ジャイルズ氏、鋳掛《いか》け屋(彼の功績を考えて、彼はその日一日ご馳走にあずかるべく招待されていた)、それに巡査が参集していた。この最後の紳士は大きな棒、大きな頭、大きな顔、大きな半長靴を備えた人物で、そうとうビールをきこしめしているふう――じっさい、たしかにそうだったのだが――だった。
前夜の冒険がまだ論議の的になっていた。というのも、医者がとびこんできたとき、ジャイルズ氏は自分の沈着についてながながと述べたて、ブリトルズ氏は、手にビールの壺をもって、自分の目上のジャイルズ氏がなにかものをいう前にもう、そうだ、そうだといっていた。
「そのまま坐ったままで!」手をふって、医者はいった。
「ありがとうございます」ジャイルズ氏はいった。「奥さまがビールをふるまってくださるとのことで、わたし自身の小さな部屋ではそれをやる気になれず、仲間を欲しく思いましたので、みんなといっしょに、ここでそのビールをちょうだいしているわけでございます」
ブリトルズが先陣をうけたまわって、なにかブツブツとつぶやき、それで、紳士淑女がジャイルズ氏の好意にたいしてもっている感謝の情が表明されたものと解釈された。ジャイルズ氏は鷹揚《おうよう》にあたりをながめまわし、彼らが礼儀をわきまえているかぎり、自分は彼らを見すてはせぬといわんばかりのようすだった。
「患者の具合いは、今晩、どうでございます?」ジャイルズはたずねた。
「あまりパッとせんな」医者は答えた。「おまえはその点で、大変なことになったぞ、ジャイルズ君」
「まさか」ガタガタ身をふるわしながら、ジャイルズ氏はいった、「彼が死ぬのではございませんでしょうね? そうだとすると、もう二度と幸福にはなれません。国中の貴重な皿ぜんぶをいただいたって、子供を殺してしまうことなんて、わたしはいたしませんからね――そう、ここのブリトルズでさえ、そんなことはいたしませんとも」
「問題はそんなことじゃないんだ」謎めいて医者はいった。「ジャイルズ君、きみは新教徒かね?」
「はあ、そうだと思います」真《ま》っ青《さお》になったジャイルズ氏はどもりどもり答えた。
「おい、坊主、おまえはどうだ?」さっとブリトルズのほうに向きなおって、医者はいった。
「いや、これは!」ひどくギクリとして、ブリトルズ氏は答えた。「わたしは――ジャイルズさんと同じでございます」
「じゃ、このことを返事してくれ」医者はいった。「二人とも――二人ともな。おまえたちは誓言にかけて、二階の少年が、昨日《きのう》の晩、小窓から入れられた少年だというのかね? さあ、返事してくれ! さあ! わしたちはその返事を待ってるのだぞ!」
この地上でもっとも機嫌のいい人物とひろく世間で知られているこの医者は、ひどく怒りをこめた調子でこの質問をしたので、ビールと興奮でかなり酩酊《めいてい》していたジャイルズとブリトルズは、茫然《ぼうぜん》自失の状態で、たがいに顔を見合わせていた。
「巡査君、この答えには、よく注意をはらってくださいよ」いかにも威厳をこめた態度で人さし指をふり、このお偉方《えらがた》の最大の注意を喚起するために、その指で鼻の横をコツコツとたたきながら、医者はいった。「この答えから、間《ま》もなく、ある重大なことが生じるかもしれんのですからな」
巡査はいかにも利口ぶった悟り顔をし、煙突の隅のところに放りだされてあった職務をあらわす棒をとりあげた。
「おわかりだろうが、これは同一人物か否かという簡単な問題です」医者はいった。
「まさにそのとおりですな」ひどく咳こみながら、巡査は答えた。それというのも、彼は急いで自分のビールを飲みほし、その一部が喉をとおらず、ほかのところへはいってしまったからである。
「ここに賊の侵入を受けた家がある」医者はいった、「そして、二人の男が銃火の煙の中で、恐怖と暗黒の狂乱状態で、一瞬間少年の姿を垣間《かいま》見る。ここに翌朝、まさに同じ家にやってきた少年がいて、たまたま腕を繃帯《ほうたい》されていたという理由で、この二人の人物は荒々しく彼を逮捕し――それをして、二人は、少年を生命の危機に追いこんだわけだが――少年が盗賊だと誓言する。さて、ここで問題は、この二人が事実をちゃんとにぎっているかどうかだ。もし事実をつかんでいなかったら、彼らはどのような立場に立つことになるだろうか?」
巡査は心得顔にうなずいた。彼は、おっしゃるとおり、それが法律というもん、もしそうでなかったら、法律とはどんなもんか知りたいもんだ、と述べた。
「ふたたびおまえたちにたずねるが」医者は大声をはりあげた、「おまえたちは、厳粛なる誓いの言葉にかけ、あの少年が例の少年と同一人物だと述べることができるのか?」
ブリトルズは自信なさそうにジャイルズ氏をながめ、ジャイルズ氏も自信なさそうにブリトルズをながめた。巡査は、応答をしっかりつかもうと、手を耳のうしろにあてがった。二人の女と鋳掛《いか》け屋は身をのりだして、耳を澄《す》ませ、医者はあたりを鋭く見まわしていた。そのとき、門のところで鐘の音がひびき、それと同時に、車のガラガラッという音が聞こえてきた。
「刑事さんだ!」見たところいかにもほっとしたふうに、ブリトルズは叫んだ。
「なんだって?」今度は医者のほうがびっくり仰天して叫んだ。
「刑事さんです」ろうそくをとりあげて、ブリトルズは答えた。「わたしとジャイルズさんが、今朝刑事さんを呼んだんです」
「なにをだって!」医者は大声をはりあげた。
「ええ、そうです」ブリトルズは答えた。「わたしが駅馬車の御者をとおして伝言を送ってあり、ここにあらわれないのをふしぎに思ってたんです」
「おまえが伝言を、そんなことをしたのか? 畜生、この――ここでは駅馬車がのろいのだな。それだけだ」そこを出てゆきながら、医者はいった。(つづく)