TITLE : 片恋・ファウスト
片恋・ファウスト   ツルゲーネフ
米川 正夫 訳
目 次
片恋
ファウスト
あとがき
片恋
そのとき私は二十五でした、――とN・N・が話し始めた。――ですから、もうずいぶん古い話です。私もやっと自由の身になって、外国旅行に出ました。が、それも当時よく云われたように『教育の完成』のためではなく、ただ世の中が見たかったからに過ぎません。健康で、年も若いし、気分も浮き浮きしているし、金に不自由もなく、心配ごとはまだ持ちあがっていなかったので、――私は右顧左眄することなく生活し、したい放題のことをしていて、要するに花の咲いたような身の上でした。その当時は私も、人間は草木とちがうから、長く花を咲かすわけに行かない、などということは頭に浮んで来ませんでした。若い時というものは、金箔を塗ったお菓子を食べて、それが日々の糧だなどと思っていますが、やがて時が来ると、本当のパンがほしくなるものです。が、こんなことを云ったって仕様がありません。
私は一切なんの目的も計画もなく旅行しました。何処でも気に入ったところに滞在し、新しい顔、――ほかならぬ人間の顔が見たくなると、早速また先へ向けて発足しました。私が興味を持ったのは、もっぱら人間でした。私は珍しい記念物とか、素晴らしい蒐集品とかを憎悪したものです。ロンライカなどは、見たばかりで憂鬱な腹立たしい気分になり、ドレスデンの『グリューネ・ゲウェルベ』では、危うく気が狂いかねないばかりでした。自然には深く感動する方でしたが、いわゆる自然美とか、並はずれた山とか、岩山とか、滝とかいうものは、好きではありませんでした。自然がひとに附き纏ったり、こっちの邪魔をしたりするのは、好きでなかったのです。その代り、顔、生きた人間の顔、人の話、動き、笑い、――こういうものは、私にとってなくて叶わないものでした。人ごみの中にいると、私は何時も特別かろやかな、楽しい気分になるのでした。私は人の行くところへ行き、人の喚く時に喚くのが楽しかったのです。と同時に、人が喚くのを見るのも好きでした。私は他人を観察するのが面白かった……いや、私は観察さえもしません。ただなにか喜ばしい、飽くことなき好奇心をもって、他人をじろじろ見るだけのことでした。しかし、私はまた横道へそれかかりました。
そういうわけで、私は二十年ばかり前、ライン河の左岸にあるZという小さな独逸町に、暫く滞在しました。私は孤独をもとめたのです。ある温泉場で近づきになった若い未亡人から、胸に痛手を受けたばかりでした。その女はとても美人で、利口で、誰にでも媚をふりまきました、――罪の深いこの私もその一人で、初めはもてたものですが、その後あるバワリヤの、赤い頬っぺたをした大尉のために犠牲にされて、ひどい手傷を負ってしまいました。正直に云いますが、その手傷は大して深くはなかったのですが、私は暫くのあいだ義務としても、悲しみと孤独に打ち沈んでいなければならぬと考えて、――若い時は何だって気やすめになります!――Zに落ちついたわけです。
この町は二つの高い丘の麓にあって、その地勢も気に入りましたが、古びた外壁や、幾つかの塔や、何百年も経ったような菩提樹や、ラインに落ちる清流にかかった反り橋や、殊に土地で出来るうまい葡萄酒のために、すっかり気に入ったのです。夕方、日が落ちるとすぐ(それは六月のことでした)、その町の狭い通りを、とても可愛い、白っぽい髪をした独逸娘が散歩して、外国人に出会うと、気持のいい声で、Guten Abend!(今晩は!)と云う。古い家々の尖った屋根の上に、月が差し昇って、鋪道の小石がじっと静まった月光の中に、くっきりと浮き出る頃まで、家へ帰らないものさえいるのです。そういう時、私は好んで町中をさ迷いました。月は澄み渡った大空から、じっと町を見おろしています。町も月の凝視を感じて、その静かな、同時に、もそろと心を波立たすような光を一面に浴びながら、平和な、しかも目ざとい感じで控えている。高いゴチック風の鐘楼の上に取りつけられてある風見の鶏は、蒼ざめた金色に光っている。それと同じような金色で、黒く滑らかな河の流もちらちらと光っています。細い蝋燭が、スレート葺きの屋根の下で、狭い窓々の中につつましくともっている。葡萄の枝は石垣の中から、くるくると巻いた蔓を差し出しています。三角広場の古井戸のあたりの物陰を、何かしらこそこそと走りぬけたと思うと、ふいに夜番の眠そうな口笛が響いて、お人好しらしい犬が低く唸る。空気は如何にも快く顔を撫で、菩提樹の花は何とも云えぬ薫を立てているので、胸は思わず知らず、次第々々に深く呼吸して、Gretchen(ドイツ女に代表的な名)という言葉が、感嘆とも疑問ともつかず、ひとりでに口から出そうになります。
Z町はラインから二露里(半里)のところにあります。私はよくその壮麗な河を見に行っては、手管の多い未亡人のことを、多少緊張した気持で空想しながら、たった一本立っている大きな秦皮《とねりこ》の根もとに据えてある石のベンチに、何時間も何時間も腰かけていたものです。殆んど子供のような顔をして、胸に何本もの剣を刺し込まれ、赤い心臓をしたマドンナの小さな像が、その枝ごしに悲しげな顔をして眺めている。河の向う岸にはL町があります。私の足をとめている町より、ほんのちょっと大きいのです。
ある日の夕方、私は気に入りのベンチに腰をかけて、時には河、時には空、時には葡萄畑などを眺めていました。目の前では、白っぽい頭をした餓鬼どもが、岸へ引き上げられ、タールを塗った腹を上向きにした舟の、両脇へ這い昇っています。幾艘もの小舟が帆にゆるく風を孕んで、のろのろと河面を走って、緑がかった波はほんの心もち膨らみ、唸るような音を立てながら、そばを掠めて流れています。突然、音楽の響が聞えて来たので、私は耳をすましました。L町でワルツを演奏しているのでした。コントラバスは千切れ千切れに唸り、ヴァイオリンは曖昧に金切り声を立て、フルートは元気よく吹き立てています。
「あれは何だね?」ふらし天のチョッキを着込み、とめ金つきの短靴を穿いて、そばへ近寄って来た老人に、私はこう訊ねました。
「あれは、」と老人は、まずパイプを口の右から左へくわえ直して、答えました。「大学生さん達がB町から、コムメルシをやりに来たんで。」
『そのコムメルシというやつを、一つ見てやろう。』と私は考え直しました。『いい序でだ、俺はまだL町へ行ったことがないから。』
私は渡し船を捜し出して、向う岸へ行きました。
恐らく、コムメルシがどんなものかということは、誰しも知っているとは限らないと思います。それは、同じ土地から出た大学生の組合(Landsmannschaft)で催す盛大な宴会なのです。このコムメルシに参加する連中はほとんどすべて、古くから制定されている独逸大学生の服装をしています。つまり、ハンガリヤ風の上衣を着て、大きな長靴を穿き、何か決った色の縁《ふち》をつけた小さなシャッポを被るのです。大抵の場合、学生たちはセニョール、即ち組合長の指導のもとに食事に集まって、終夜の宴を張り、酒を飲んだりLandesvater(国父)とかGaudeamus(いざ歓ばん)などという歌をうたったり、煙草をふかしたり、俗物を罵倒したりなどする。時には、オーケストラを雇うこともあります。
つまり、こういうコムメルシが、L町の『太陽』という看板を出した小さな旅館の、往来に面した庭で開かれていたのです。旅館の屋根にも庭の上にも、旗がひらひらしていました。大学生たちは刈り込んだ菩提樹の木立の下で、幾つもの卓を囲んでいました。とある卓の下には、大きなブルドックが臥そべっている。わきの方の常春藤《きづた》の亭の中には、楽師連が陣取って、のべつビールで元気をつけながら、一生懸命に演奏している。低い囲い外の往来には、かなり大勢の人が集まっていました。L町の善良なる市民たちは、よそからやって来た珍客を見物する機を、逸したくなかったわけです。私も同様、見物の中にまじりました。大学生を眺めていると愉快になって来ました。彼らの抱擁、叫び、若人らしい無邪気な媚態、燃えるような目、原因もない笑い(世の中にこれほど気持のいい笑いはありませんが)、すべてこう云ったような、若々しい新鮮な生命の喜ばしい沸騰、前方へ前方へ、どこであろうとただ前方へ突進しようとあせる意気込み、善良な生命力の氾濫、私は見ていても涙ぐましく、こちらまで焚きつけられるような気持になって来ました。いっそあの連中の仲間へ入ってやろうか? と私は自問したものです……
「アーシャ、もう沢山だろう?」不意にこう云う男の声が聞えました、露西亜語です。
「もうちょっと待って。」これもやはり同じ言葉で、別な女の声がそう答える。
私はくるりと振り返って見ました……目庇つきの帽子を被って、ゆったりした上衣を着た美しい青年が、私の目に入りました。青年は、あまり背の高くない娘と、腕を組んでいました。麦藁帽子が娘の顔の上の方を隠している。
「あなたは露西亜の方ですか?」と云う問が、思わず口をついて出ました。
青年はにっこり笑って、
「そうです、露西亜人です。」と云いました。
「これは実に意外ですね……こんな田舎で。」と私は云いかけましたが、相手はそれを遮って、
「こちらも意外でした。でも、その方がよかったですね。名を名のらせて頂きましょう。私はガーギンと云いまして、これは私の……」と彼はちょっと云い澱んだ。「私の妹です。ところで、あなたのお名前を伺わせて下さいませんか?」
私は自分の名を云いました。こうして、私達はすっかり話し込んでしまいましたが、ガーギンは私と同じように気随気ままな旅をしている中に、一週間ばかり前このL町へ立ち寄ったところ、すっかり腰が据わってしまった、ということが分りました。本当のところを云うと、私は外国で露西亜人と近づきになるのは、あまり気が進まない方なのです。露西亜人はその歩きぶりや、服の裁ち方や、殊に何よりも、顔の表情を見ただけで、遠くの方からでも見分けがつきます。自分に満足したような、人を馬鹿にしたような、よく命令的にさえなる表情が、とつぜん用心ぶかい臆病そうな顔つきに変るのです……急に人間ぜんたいが警戒心の塊りになって、目は不安そうにきょときょとしはじめる……『しまった! 何か馬鹿なことを云ったのではないか、人が笑っているのではあるまいか?』と、そのきょろきょろ眼《まなこ》が云っているようなのです……が、忽ちもとの豪そうな顔つきになって、時々それが鈍いけげんらしい表情と入れ変る。そういうわけで、私は露西亜人を避けていたのです。しかし、ガーギンはいきなり私の気に入りました。世の中には随分とくな顔をした人があるもので、それを見ていると、誰でもいい心持になる。まるで温められるような、撫でられるような感じなのです。ガーギンの顔も丁度そういう風で、愛嬌があって人懐っこく、大きな目は柔かみがあり、房々と渦巻いた髪も柔かいのです。その話し振りはと云うと、顔を見ないでも、声を聞いたばかりで、当人がにこにこ笑っているのが感じられる程です!
ガーギンが妹と呼んだ娘は、一目見ただけで、なかなか可愛く思われました。やや浅黒い感じの丸顔、小振な細い鼻、ほとんど子供じみるような頬、よく光る黒目、そういったものの中には、何かしら一種独自なものがありました。その体つきは優美でしたが、なんだかまだ十分に発育しきっていないような風です。兄には少しも似ていません。
「私どもへお寄りになりませんか?」とガーギンは私に云いました。「お互に独逸人は十分に見あきたようですから。成程、露西亜人なら硝子を叩き割ったり、椅子を毀したりするでしょうが、この連中はどうも余り大人しすぎますよ。お前どう思う、アーシャ、もう帰ってもいいだろう?」
娘は同意のしるしに、一つ頷きました。
「私達は郊外に宿を取っているのです。」とガーギンは言葉をつづけました。「葡萄畑の中の一軒家で、高台になっています。中々いいところですから、一つ見て下さい。主婦《か み》さんが酸っぱい牛乳を拵えてくれるって約束しました。もうやがて暗くなりますから、月が出てからラインをお渡りになった方がいいでしょう。」
私達は連れ立って行きました。低い町の門をくぐって(小石を塗りこめた古い壁が、四方から町を取り囲んでいましたが、銃眼までがまだ崩れ残ったところもありました)、私達は原中へ出ました。石の囲いに沿って百歩ばかり行った時、狭いくぐりの前に立ちどまりました。ガーギンは門を開けて、急な径を登りながら、私を案内するのでした。道の両側には、階段状になった葡萄畑がありました。太陽は今しがた沈んだばかりで、糸のように細い真赤な光線が、青い葉の上にも、長い支柱にも、大小の平ったい石にぴっしり蔽われた乾き切った地面にも、私達の登って行く丘の天辺《てつぺん》に立った小家の白壁にも、反射を投げているのでした。家には黒い横木が何本も斜《はす》に渡されて、四つの窓が明るく光っています。
「これが私どもの宿です!」私達が家に近づいた時、ガーギンはこう叫びました。「ほら、主婦さんが牛乳を持って行くとこです。Guten Abend, Madame!(今晩は、おかみさん)……さっそく食事にしますが、その前に、」と彼は附け加えるのでした。「ちょっと見てごらんなさい……この景色はどうです?」
景色は成程すばらしかった。目の前には、緑の両岸の間を、ラインが銀《しろがね》を延べたように流れて、一ところ入日を受けて、赤みがかった金色に燃えているのです。向う岸にちんまり納まった町は、家も往来も残らず見分けられ、丘や野が大きく四方へ拡がっている。下もよかったが、上はもっといいのです。透明な空気に輝く空の清らかさ深さは、はっと目を見はるばかりでした。爽かに軽々した空気が静かに揺れて、波のように寄せては返しているところは、自分だって高いところの方がのびのびする、と云ったような按配なのです。
「素晴らしい宿をお取りになったものですね。」と私は云いました。
「これはアーシャが見つけたのです。」というガーギンの返事です。「さあ、アーシャ、」と彼は言葉をつづけました。「一つ世話を頼むぜ。すっかりここへ持って来るように云いつけておくれ。夜食は外ですることにしましょう。ここの方が音楽もよく聞えますから。あなた、お気がつきましたか、」と、私の方へ向いて、こう附け加えるのでした。「ワルツの中には、傍で聞くと、俗で粗野な音がして、とてもたまらないやつがありますが、遠くから聞くと、実に素晴らしい! 我々の内部に潜んでいるロマンチックな絃《いと》を、残らず揺り動かされるような気がしますからね。」
アーシャ(彼女の名は本当のところアンナなのですが、ガーギンはアーシャと呼んでいました。ですから、私もそう呼ばせて貰います)、アーシャは家へ入って行きましたが、間もなく主婦と一緒に引っ返して来ました。大きな盆に、牛乳の壺、いくつかの皿、スプーン、砂糖、苺、パンなどを載せたのを、二人で運んでいるのです。私達はそれぞれ席について、夜食にかかりました。アーシャは帽子を取りました。男の子のように短く切って撫でつけた黒い髪が、大きく渦を巻きながら、頸筋や耳の上に垂れていました。アーシャは初め私にきまりが悪い様子でしたが、ガーギンは妹に向って、
「アーシャ、そんなにいじいじするのはよせよ! この人は噛みつきなんかなさらないから。」と云いました。
アーシャはにっこり笑って、暫くすると、自分の方から私に話しかけました。この娘のように動き廻ってばかりいる人間を、私は見たことがありません。一分間も大人しく坐っていないで、席を立ったり、家の中へ駈け込んだり、また走って帰ったり、小声で歌をうたったり、むやみに笑ったりしましたが、その笑い方が実に妙なのです。それは、聞いたことが可笑しくてわらうのでなく、自分の頭に浮ぶ考えに笑いを誘われる様子なのです。大きな目は正々堂々と、恐れげもなく、明るくものを見つめるのですが、時おり瞼を軽く閉じる。すると、その眼ざしは急に深くなり、優しくなるのでした。
私達は二時間ばかり喋りました。日はもう疾くに暮れ果てていました。夕景色は、初め一面にきらきらと火花を散らすようだったのが、次には明るく血紅色を帯び、最後にはぼっと蒼ざめて、静かに光を消して行きながら、夜景色に移って行きました。けれど、私達の話はあたりを取り巻く空気のように、穏かにつつましく続けられました。ガーギンは、ライン・ワインを一壜もって来るように命じました。私達は急がずゆっくり飲みました。音楽は相変らず私達の耳に聞えていましたが、その響は前よりもっと優しく、甘美に聞えるのでした。ともし火は町にも、河の上にも点りました。アーシャは突然、房々と渦巻いている髪が目の上に被さる程、低くこうべを垂れて、ぴったり口を噤み、ほっと吐息をつきましたが、やがて、眠くなったと云って、家の中へ入ってしまいました。それでも、長いこと蝋燭もつけず、閉め切った窓の内側に立っているのが、私の目に見えました。とうとう月が昇って、その光がラインの川面《かわも》に戯れはじめました。何もかもがぱっと照らし出され、同時に輪郭が黒ずんで、様子が変ってしまいました。私達の飲んでいた酒までが、カットグラスの杯の中で、神秘めかしい光を帯びて、きらきらして来ました。風はさながら翼でも収めたようにぱったり落ちて、ひっそりと静まり返り、香ぐわしい生暖かな夜気が、大地の中から吐き出される。
「もうお別れする時分です!」と私は叫びました。「さもないと、渡し船が見つからないかも知れません。」
「もうお別れする時分ですね。」とガーギンも繰り返す。
私達は径づたいに降りて行きました。不意に、後ろから小石がばらばらと落ちて来ました。それはアーシャが追っかけて来たのです。
「お前まだ寝なかったのかい?」と兄は訊きましたが、妹はそれには一ことも答えず、傍を駈け抜けて行きました。旅館の庭に大学生たちの点したあかりが、幾つか絶え絶えに消え残って、木々の葉を下の方から照らしていましたが、それが如何にもお祭らしい、幻想的な趣を添えているのでした。アーシャは川っぷちに立っていました。渡しの船頭と話しているのです。私は小舟に飛び乗って、新しい友達に別れを告げました。ガーギンは明日たずねて来ると約束しました。私はその手を握りしめ、アーシャにも手を差し伸べましたが、アーシャはただ私をちょっと見て、頭を振っているばかり。舟は岸を離れて、急流を進みはじめました。元気な老船頭は一生懸命に、暗い水の中で櫂を操っています。
「あなたはお月様の橋ん中にお入りになって、毀しておしまいなすったわ。」とアーシャが私の方へ声を張り上げました。
私は目を落しました。舟のまわりで、黒い川波が揺れ漂っています。
「さよなら!」と、またアーシャの声が響く。
「また明日。」とガーギンがその後から声をかける。
舟は岸につきました。私は舟から出て、うしろを振り返って見ました。向う岸にはもう誰の姿も見えません。月光の柱はまた黄金の橋のように、河幅いっぱいに伸びています。古風なランネル・ワルツの響が、さながら別れでも告げるように流れて来る。成程、ガーギンの云った通りです。私は心の琴線が一本々々慄えて、媚びるような楽の音に答えるのを感じました。香ぐわしい空気をゆっくりと吸い込みながら、私は薄暗い野を横切って、家路につきました。こうして、自分の小部屋へ入った時は、あてどもない果しらぬ期待の念に、体じゅうが甘く萎えて、とろっとするような気持でした。私は自分を幸福に感じました……しかし、なぜ幸福なのでしょう? 私は何一つ望まず、何一つ考えませんでした……ただ幸福だったのです。
快い浮き浮きした気持が溢れそうなので、私はほとんど笑い出さないばかりになって、ベッドの中へもぐり込むなり、そのまま目をつむろうとしましたが、ふと考えてみると、私は今晩ずっとあの情《つれ》ない未亡人のことを一度も思い出さないでいる……『これは一体どうしたことだろう?』しかし、自分で自分にこの問を発しながら、私はまるで揺り籠の中の子供のように、忽ち寝入ってしまったらしい様子です。
あくる朝(私はもう目をさましていましたが、まだ起き出さずにいたのです)、窓の下をステッキでこつこつ叩く音がして、
君は眠りたまうか? ギターの響に
その眠りをば覚まさなん……
と歌う声が聞えました。私はすぐそれをガーギンの声と聞き分けました。
私は急いで戸を開けました。
「こんにちは。」とガーギンは入って来ながら云いました。「少し早くお起しし過ぎたようですが、しかしご覧なさい、なんと素晴らしい朝じゃありませんか。あのすがすがしさ、あの露、そして雲雀が鳴いて……」
そういう当人も、つややかな捲髪をして、頸筋もあらわに、薔薇色の頬をしているところは、この朝と同じように爽かなのです。
私は着替して、一緒に外へ出ると、ベンチに腰を下ろして、コーヒーを持って来させ、四方山の話をはじめました。ガーギンは未来の計画を話しましたが、相当の財産があって、誰に頭を下げる必要もないところから、画の方に一生を捧げようと思っているのです。ただ思いつきようが遅くって、ずいぶん無駄に時を空費してしまったのを悔んでいました。私も同様に自分の予想を話して、ついでに例の不幸な恋愛の秘密を打ち明けました。相手は殊勝な顔をして聞いていましたが、私の観察した限りでは、ひどく同情したらしい風もありません。お附合に私の後から二度ばかり溜息をついて、ガーギンは自分のスケッチを見せるから、家へ来ないかと云い出しました。私はすぐ承知しました。
行って見ると、アーシャはいませんでした。主婦さんの話によると、『城址』へ行ったとのことです。L町から二露里ばかりのところに、封建時代の城あとがあるのです。ガーギンは自分の紙挟みをすっかり開けて見せました。そのスケッチには中々生命と真実がこもっていて、何かしら自由なゆったりしたところがありました。ところが、どれ一つとして完成されてなく、線が無造作で不正確なように思われました。
「そうなんです。そうなんです。」とガーギンは溜息をつきながら受けました。「仰しゃる通りです。これはどれもこれもひどく不出来で、未熟なものです。どうも仕方がありません! 僕はまともの勉強をしなかったんだし、それに例の忌々しいスラヴ風の投げやりに負けちまいましてね。仕事のことを空想している間は、鷲の天空を翔けるような意気込みで、大地をも動かさんばかりの勢なんですが、いざ実行となると、すぐ張がゆるんで、疲れてしまうのです。」
私は元気をつけようとしましたが、ガーギンは諦めたように片手を振って、紙挟みを一纏めにかかえて、長椅子の上へ抛り出しました。
「忍耐力さえあったら、僕もどうにかものになるでしょうが、」と彼は歯の間から押し出すように云うのでした。「もしそれが続かなければ、僕は貴族出身の若様で一生終るでしょう。それよりアーシャでも捜しに行きましょう。」
私達は外へ出ました。
城址へ行く道は、林に蔽われた狭い谷間の崖をうねうねと蜿《うね》っているのでした。谷底には一筋の小川が流れて、岩に激しては騒々しい響を立てています。それはさながら、くっきりと切り出したような暗い山並のかなたに、悠然と光っている大河に合流しようと、あせり立っているかのようです。ガーギンはあちらこちらと、光線の加減で変った趣のあるところを、私に指さして見せましたが、その言葉はたとえ画家でないまでも、確かに芸術家だということを感じさせました。やがて城址が見えて来ました。何一つ生えていない裸の大岩石の天辺に、真四角な塔が聳えています。一面に黒ずんで、縦にずっと割目みたいなものが通っているけれども、まだまだしっかりしています。苔むした城壁がその塔に接しているのです。そこここに常春藤《きづた》が這って、ひねこびれた木が古びた銃眼や、崩れかかった丸天井などから枝を垂れている。石の多い径が、崩れ残った城門の方へ通じているのですが、私達がもうその傍まで近づいた時、突然、前方に当って一人の女の姿がちらちらしたと思うと、さまざまな破片のうず高く積まれた上を、足早に走り過ぎて、深い谷底の真上に当る城壁の突出部に腰を下ろしました。
「ああ、あれはアーシャだ!」とガーギンは叫びました。「まるで気ちがいだ!」
私達は城門の中へ入って、野生の林檎や蕁麻《いらくさ》に半ば隠された小さな空地に立ちました。城壁の突出部に坐っているのは、まさしくアーシャでした。私達の方へ顔をふり向けて、きゃっきゃっと笑い出したけれど、その場を動こうとしません。ガーギンは指を一本立てて脅かす真似をするし、私は大きな声でその不注意を咎めました。
「打っちゃってお置きなさい。」とガーギンはひそひそ声で云うのでした。「いらいらさせちゃいけません。あなたはあれの性質をご存じないですけれど、あれはまだこの上、塔にさえ登りかねないんですからね。それより、ほら、この土地の人の頭のよさを感心してやって下さい。」
私は振り返って見ました。片隅にしつらえたささやかな板張の小屋に、一人の老婆が陣取って靴下を編みながら、眼鏡越しに私達の方へ横目をつかっています。これは旅客を相手にビール、生姜餅、ゼルテル水などを売っているのです。私達はベンチに腰を下ろして、重い錫の容器に入れたかなり冷たいビールを飲みにかかりました。アーシャは相変らず薄い紗の襟巻で頭を包んで、両足を敷いたままじっと坐っていました。よく整ったその顔が、晴れ渡った空にくっきりと美しく浮き出しています。私は不快な感じをいだきながら、その姿を眺めていました。もう前の晩から私はこの娘に、何か変に緊張したところ、どうも自然でないところがあるように感じたのです……『あれは俺をびっくりさせようとしているのだ。』と私は考えました。『何のためにそんなことをするのだ? 何という子供じみた悪ふざけだ!』
アーシャはまるで私の腹の中を察したように、とつぜん私の方へちらと鋭い視線を投げて、またきゃっきゃっと笑い出したと思うと、ふた跳びに城壁を飛び下りて、老婆のそばへ近寄り、水を一杯所望しました。
「これあたしが飲むのだと思って?」と兄の方へ振り向いて口を切りました。「違うのよ。あの壁の上に花が咲いてるから、どうしても水をかけてやらなくちゃならないの。」
ガーギンは何とも返事をしませんでした。アーシャはコップを手に持って、崩れた城あとを攀じ登りはじめました。時おり足をとめては、可笑しいほど物々しい顔つきで、幾しずくずつか水を垂らす。と、それがきらきらと陽にきらめく。その物ごしはとても可愛かったのですが、私は依然として、この娘が忌々しいのでした。そのくせ、アーシャの軽々とした敏捷な動作を、思わず見とれているのでしたが……一ど危いところへ来た時、彼女はわざと大きく叫んで、それからきゃっきゃっと笑い出す……私はますます忌々しくなって来ました。
「まるで山羊みたいにあんなとこへあがって。」ちょっと編物から目を放して、老婆は口の中でもぞもぞと云いました。
到頭、アーシャはコップの水を空けてしまって、ふざけたように体を揺すりながら、私達のところへ帰って来ました。奇妙な薄笑いがその眉や、小鼻や、唇を、微かにひくひくと動かし、暗色《あんしよく》の目は半ば挑むように、半ば楽しげに細められていました。
『あなたはあたしのすることを、不躾だと思っていらっしゃるでしょうが、』とその顔が云っているように思われました。『構やしないわ。あなたがあたしに見とれてらっしゃるのは、ちゃんと分っているんだから。』
「鮮かなもんだ、アーシャ、鮮かなもんだ。」とガーギンは小声で云いました。
アーシャは急になにか恥じ入ったもののように、長い睫毛を伏せて、悪いことでもしたように、私達のそばへ腰を下ろしました。私はその時はじめてその顔を見ました。今まで見た限りでは、これほど変り易い顔はまたとありますまい。暫くたつと、その顔は又もや蒼ざめて、なにか一つに凝ったような、殆んど悲しげな表情を帯びて来ました。顔の輪郭までが大きく、厳めしく、しかも単純になったように思われました。アーシャはすっかり鳴をひそめてしまいました。私達は廃墟をぐるっと一周して(アーシャもあとからついて来ました)、あちこち景色を眺めました。老婆に払を済ましてから、ガーギンはもう一杯ビールを注文し、私の方へ振り向くと、ずるそうに目を細めて叫ぶのでした。
「あなたの心を支配する女性の健康を祝して!」
「まあ、あの方には、――まあ、あなたにはそんな女性がおありになるんですの?」とアーシャが出しぬけに訊きました。
「そりゃ誰にだってあるさ。」とガーギンはやり返しました。
アーシャは一瞬、ふっと考え込みました。その顔はもう一ど変って、又もや挑むような、ほとんど不敵な薄笑いが浮びました。
帰り道には、アーシャは更に声高に笑ったり、ふざけたりしました。長い枝を折って、鉄砲のような恰好で肩にかつぎ、頭を襟巻で縛りました。忘れもしませんが、向うから白っぽい髪をした、きざな英吉利人の大人数な家族に出くわしましたが、みんなまるで号令でもかけられたように、冷やかな驚の色を浮べて、例のガラス細工のような目でアーシャを見送ったものですが、アーシャはまるで当てつけるように、大きな声で歌をうたい出しました。家へ帰ると、すぐ自分の居間へ引っ込んで、やっと食事の時に姿を現わしましたが、いい着物をきて、髪も丁寧に撫でつけ、バンドをぎゅっと締め、手袋まで嵌めている。食事の間は馬鹿に行儀がよく、ほとんど乙に澄していると云っていい位で、料理にもろくろく口をつけず、水も小さなグラスで飲むのでした。明かに私の前で新しい役割、――躾のいい上品なお嬢さんの役割を演じたくなったらしい。ガーギンはそれを邪魔しようともしませんでした。見たところ、万事につけ大目に見るのが癖になっている様子でした。ただ時おり人の好さそうな顔つきで私の方を見ては、ひょいと肩をすくめるだけですが、その様子は、『あれはねんねえなんですから、大目に見てやって下さい。』とでも云いたげでした。食事が済むが早いか、アーシャは立ちあがって、私達にKnicksen(膝折会釈)をし、帽子を被りながら、フラウ・ルイゼのところへ行ってもいいかと、ガーギンに訊ねた。
「お前がお許しを願うなんて、何時からそんなことを始めたんだい?」相も変らぬ、しかし今度は幾らか照れたような微笑を浮べて、ガーギンはそう答えました。「僕達といるのは退屈かね?」
「いいえ。でも、あたし昨日フラウ・ルイゼに、遊びに行くって約束したんですもの。それに、あなた方お二人で差向いの方がいいだろうと思って。Nさんが(彼女は私の方を指して)また何か面白い話をしてお聞かせになるでしょう。」
アーシャは出て行きました。
「フラウ・ルイゼは、」とガーギンは私の視線を避けるようにしながら、こんな風に云い出しました。「ここの前町長の後家さんでしてね、いい人ですが、頭は空っぽなんです。これがアーシャをひどく可愛がるのですが、アーシャはまた自分より低い階級の人間と附きあうのが道楽なのです。僕の観察によると、そういうことをするのは、いつでも高慢な気持がもとなんですよ。あれはご覧の通り、かなり甘やかされているものですから。」と暫く黙っていてから、こう附け加えました。「でも、どう仕様もないじゃありませんか。僕はどんな人にも余りやかましく云うことが出来ないたちですから、あれに対しては尚さらです。僕はあれを大目に見てやらなけりゃならん義務があるのですから。」
私が押し黙っていたので、ガーギンも話頭を転じました。私はこの男をよく知れば知るほど、いよいよ強く愛情を感じるのでした。間もなくこの男の性格を理解しました。これは全く生粋の露西亜人です。正直で、潔白で、さっぱりした人間なのですが、惜しいことには少々張がなくて、粘りもなければ、内部の熱もないのです。青春の気が泉のように湧き立たないで、静かに光っているだけです。とても愛嬌があって、頭もいいのですが、これが一人前の男になった時、どういうことになるのやら、想像することが出来ませんでした。画家になると云っても……きびしい不断の努力なしには画家にはなれないし……努力なんてことは――出来っこない! 私はこの男の優しい顔だちを見、ゆったりした話し振りを聞きながら、そう思ったわけです。『いや! 君は努力なんかしやしない、辛抱することなんか出来やしない。』しかし、この男を愛さないでいるわけには行きません、知らず知らず心が惹かれてゆくのです。
私達は四時間ばかりも二人で過しました。時には長椅子にかけたり、時には家の前を歩き廻ったりしながら、その四時間の中にすっかり意気投合してしまいました。
日が沈んだので、私も家へ帰る時刻になりました。アーシャは相変らず帰って来ません。
「本当に何てわがまま娘だろう!」とガーギンは云いました。「いかがです、お送りしましょうか? その途中、フラウ・ルイゼの家へ寄って見ませんか。やっぱりあすこにいるかどうか、訊いて見ますから。大した寄道じゃありません。」
私達は町の方へ降りて行きました。曲りくねった狭い横町へ入って、縦も横も大きな窓を二つつけた、四階建の家の前に足をとめました。二階は一階よりも余計に往来へ突き出し、三階と四階は二階よりもっと出っ張っているのです。方々に古めかしい木彫の飾をつけ、下の方は二本の太い柱で支えられ、上には尖った瓦屋根を頂き、屋根部屋のところには嘴のような恰好に、巻轆轤《まきろくろ》が長く突き出ているので、家ぜんたいが大きな鳥の蹲ったような感じです。
「アーシャ!」とガーギンは叫びました。「お前いるのかい?」
あかりのついた三階の窓が、がたんと云って開いたと思うと、アーシャの黒っぽい頭が見えました。そのうしろからは、歯の抜けた、しょぼしょぼ眼《まなこ》の、年とった独逸女の顔が覗きました。
「いるわよ。」しなを作りながら窓仕切りに肘を載せて、アーシャはこう云いました。「あたしここが大好きなんですもの。さあ、これ上げるわ、受け取って。」ガーギンに西洋葵を一枝ほうり投げて、附け加えるのでした。「あたしのことをね、自分の心を支配する女性だと思って。」
フラウ・ルイゼは笑い出しました。
「Nさんがお帰りだよ。」とガーギンは云い返しました。「お前にお別れが云いたいって。」
「ほんと?」とアーシャは云いました。「それなら、その花をあの方に上げて頂戴、あたしすぐ帰るわ。」
そう云って、窓をぱたんと閉めましたが、どうやらフラウ・ルイゼに接吻している様子です。ガーギンは黙って花を私に寄越しました。私も無言のままそれをポケットに入れ、渡場まで辿りつくと、向う岸へ渡りました。
今でも覚えていますが、私はなんにも考えることがないのに、胸に奇妙な重苦しさを感じながら、家路に向っていると、不意に馴染みのふかい、しかし独逸では滅多にない強烈な匂いが、ぷんと鼻を打ちました。歩みをとめて見ると、道ばたに小さな麻畑がありました。その曠野を思わせる匂いは、忽ち私に故郷のことを思い起させ、烈しい郷愁を胸に掻き立てました。私は露西亜の空気を呼吸し、露西亜の土を踏みたくなりました。『俺はこんなところで何をしているのだ、何のために知らぬ他国で、見ず知らずの人の間をうろつき廻っているのだ?』と私は叫びました。と、今まで心に感じていた重苦しさは、思いがけなくきびしい、焼けつくような興奮に捌《は》け口を見つけ出しました。家へ帰りついた時には、昨夜とはまるで違った気分になっていました。私はほとんどむしゃくしゃ腹で、長いあいだ落ちつくことが出来ませんでした。自分ながらわけの分らぬ忌々しさに、責め立てられるのでした。とどのつまり腰を下ろして、例の情《つれ》ない未亡人のことを思い出し(この女性のことを公式に追懐するのが、日ごと日ごとの終止符ということになっていたのです)、彼女から貰った手紙の一つを取り出しました。が、私はそれを開いて見ようともしませんでした。私の思想の流れは忽ち別の方向をとったのです。私は考えはじめました……アーシャのことを考えたのです。ガーギンが話の間に、露西亜へ帰るのに何か厄介な事情がある、というようなことを仄めかしたのを、ふと思い浮べました……
「いい加減にしろ、妹だかどうだか?」と私は大きな声で口走りました。
私は着換えをして、横になり、努めて寝入ろうとしました。が、一時間もたった頃には、またベッドの上に起き直って、枕の上に肘杖つきながら、又もやあの『わざとらしい笑い方をする気まぐれな娘』のことを考えはじめました。『あの娘はまるでラファエルの描いたファルネゼのガラテヤの小型だ。』と私は呟きました。『いや、あれはあの男の妹じゃない……』
未亡人の手紙はいとも暢気そうに、床の上に転がったまま、月光に白く浮き出していました。
次の朝、私はもうL町へ出かけました。自分ではガーギンに会いたいからだと、我とわが身に云い聞かせようとしていましたが、心の底の方では、アーシャがどんなことをするか、また昨日のように『突拍子もない』ことをするか、それが見たかったのです。行って見ると、二人とも客間にいました。が、不思議なことには、――もしかしたら、私が昨夜も今朝もさんざん露西亜のことを考えたからかも知れませんが、――アーシャは完全に露西亜風の娘に見えました。しかも、ただの小娘、殆んど小間使くらいな感じなのです。なにか古ぼけた着物をきて、髪を耳のうしろに挟み、身動きもせず窓のそばに坐って、おまけにつつましく、ひっそりと刺繍などしているところは、まるで一生これよりほかしたことがない、とでも云ったような風でした。ほとんど何一つ口をきかず、落ちつき払って自分の手仕事を見つめていましたが、その顔は如何にも変哲のない有りふれた表情をしているので、私は心にもなく露西亜生え抜きのカーチャとか、マーシャとか云ったような小娘を思い浮べた程です。その類似を更に完全にするために、アーシャは『ああ懐かしいかかさんよ』を小声で歌い出したものです。私はその黄みがかった、火の消えたような顔を眺めながら、昨夜の空想を思い起して、何か残念なような気がしました。素晴しい上天気だったので、ガーギンは今日は写生に出かけると云い出しました。私はついて行ってもいいか、邪魔にはならぬかと訊きました。
「それどころですか、」と彼は答えました。「あなたなら、きっといいことを云って下さるでしょうよ。」
ガーギンは la Van Dyck(ヴァン・ダイク風)の赤い帽子を被り、上っ張りを着込み、紙挟みを小脇にかかえて出かけました。私はその後からついて行きました。アーシャは留守番でした。出しなにガーギンは、スープが薄すぎないように、気をつけてくれと頼みましたが、アーシャはちょいちょい台所へ行って見ると約束しました。ガーギンはもう馴染みの谷間に辿りつくと、岩の上に腰を下ろして、枝を大きく拡げた、空洞《うつろ》のある樫の古木を写生にかかりました。私は草の上に臥そべって、書物を取り出したけれど、二ページも読みませんでしたし、ガーギンはただ紙を一枚よごしただけでした。私達はおもに議論ばかりしましたが、私の判断する限りでは、どんな風に仕事をしなければならないか、何を避けなければならぬか、いかなる態度を持すべきか、現代に於ける画家の意義は、果して何であるか、と云ったような問題で、かなり気の利いた、こまかな考察をしたものです。とどのつまりガーギンは、『今日は油が乗らない』と決めてしまって、私と並んで横になりました。すると、もう私達の若々しい言葉は自由に流れ出して、時には熱烈な、時には物思わしげな、時には感激に充ちた響を立てましたが、しかし殆んど始めからしまいまで、曖昧な話ばかりでした。露西亜人はこの種の話に好んで雄弁を揮うものです。腹に足りるだけ喋りまくって、まるで何か仕事でもしたような満足感で胸をふくらませながら、私達は家へ帰りました。帰って見ると、アーシャは出て行った時と同じようでした。どんなに努めて観察しても、媚態めいたものの陰もなければ、わざとらしい役割を演じているようなふしも見当りません。今度こそは、不自然だと云って非難するわけに行かないのです。
「ははあ!」とガーギンは云いました。「精進と懺悔の行をしようと決めたんだな。」
夕方になると、アーシャは幾度もわざとならぬ欠伸をして、早々に自分の居間へ引っ込んでしまいました。私もやがてガーギンに暇を告げ、家へ帰ってからも、もう何一つ空想などしませんでした。この一日は生真面目な気分の中に過ぎてしまいました。しかし、忘れもしません、床に就こうとしながら、私は思わずこんな言葉を洩らしました。
「あの娘は何というカメレオンだろう!」それから、ちょっと考えた後、こう附け加えました。「が、何と云っても、あれはガーギンの妹じゃない。」
まる二週間すぎました。私は毎日のようにガーギンの宿を訪れました。アーシャはまるで私を避けるような具合でしたが、近づきになった数日間あれほど私を驚かしたような悪戯は、もう何一つしようとしません。見たところ、心中ひそかに悲しいことでも隠しているか、それとも当惑してでもいるような風でした。笑い方も少なくなりました。私は好奇心をいだきながら、その様子を観祭していました。
アーシャはかなり上手に仏蘭西語と英語を話しましたが、あらゆる点から見て、子供の頃から女の手にかかっていず、ガーギン自身とは何の共通点もない、奇妙な、並と違った教育を受けたことが察しられました。ガーギンの方は、ヴァン・ダイク風の帽子や上っ張りにも拘らず、その体ぜんたいから物柔かな、半分にやけた大露西亜の貴族らしいものが発散していましたが、アーシャの方は少しもお嬢さまらしくないのです。すべての動作に、何か落ちつきのないものが感じられました。この野生の木はつい近頃つぎ木されたばかりで、酒ならば醗酵中というところです。生れつき含羞《はにかみ》やで臆病なのに、自分でその含羞を忌々しがって、忌々しさのあまり、無理にざっくばらんな不敵な態度を取ろうとするのですが、それは何時も巧く行くとは限りません。私は幾度かアーシャを掴まえて、彼女が露西亜にいた頃の生活や、過去のことなどについて話しかけて見ましたが、先方は私の質問に答えるのが、気の進まぬ様子でした。それでも、外国へ出るまでは長く田舎に暮していた、ということだけは訊き出しました。ある時、彼女がたった一人、本に向っているところへ行き会いました。頭を両手に載せて、指を深く髪の中へ突っ込んで、一心に目を行から行へ走らせていました。
「ブラーヴォ!」と私は傍へ寄りながら云いました、「たいへん勉強ですね!」
アーシャは頭を上げて、物々しいおごそかな目つきで私を見つめました。
「あなたはあたしのことを、笑うしか能のない女と思ってらっしゃるの。」と云って、向うへ行こうとしました。
私は本の標題をちらと見ました。それはある仏蘭西の小説でした。
「それにしても、あなたの選択は感心しかねますね。」と私は云いました。
「じゃ、何を読んだらいいんですの!」と叫ぶなり、本を卓の上へ抛り出して、附け加えるのです。「それなら、いっそ外へ出て、悪ふざけでもするわ。」と庭へ駈け出しました。
その晩、私はガーギンに『ヘルマンとドロテヤ』を読んで聞かせました。アーシャはのべつ私達のそばを行ったり来たりしていましたが、やがて不意に足をとめて、耳を傾けている中に、そっと私のわきに腰を下ろして、朗読を最後まで聞きました。
翌日、私はまたアーシャを見違える思いでしたが、その中にやっと察しがつきました。それは、ドロテヤみたいに家庭的な、どっしりした女になろうと云う気を起したのです。要するに、彼女は私の目に半ば謎のような存在として映ったわけです。極端なほど自尊心の強い彼女が、私を惹きつけたのです。こちらが腹を立てている時でさえそうなのでした。ただ一つ、私が次第々々に確信を固めたことがあります。ほかでもない、彼女がガーギンの妹ではない、ということです。ガーギンのアーシャに対する態度は、兄妹同士のようではありません。あまり優し過ぎ、あまり寛大すぎるくせに、また幾らか不自然なところがありました。
一見して奇妙な偶然が、私の疑念を裏書しました。
ある晩、ガーギンの住んでいる葡萄畑に近づいた時、私はくぐりが閉っているのに気がつきました。長くも思案しないで、私はもう前から目をつけていた囲いの破れ目まで行って、ひらりと飛び越してしまいました。そこから程遠からぬ径のわきに、アカシヤの大きな亭がありました。私がそこまで行って、もう通り過ぎてしまおうとした時……ふとアーシャの声が耳を打ちました。熱を帯びた調子で、涙ながらに、こんなことを云っているのです。
「いや、あたしあんたよりほか、誰も好きになりたくない。いや、いや、ただあんた一人だけ好きでいたいわ――何時までも。」
「沢山だよ、アーシャ、気を落ちつけなさい。」とガーギンは云うのでした。「お前だって分ってるだろう。僕はお前を信じてるんだから。」
二人の声は亭の中から聞えるのでした。あまり厚くない枝の絡み合った間から、私は二人の姿を認めました。が、向うは私に気がつかないのです。
「あんた、あんた一人だけ。」とアーシャは繰り返して、ガーギンの頸に飛びつくなり、痙攣的な歔欷の声と共に接吻して、ひしと男の胸に縋りつきました。
「いいよ、いいよ。」とガーギンは手で軽く女の髪を撫でながら、繰り返しているのでした。
やや暫く、私はじっと佇んでいましたが……突然、思わずはっとしました。二人のところへ出て行ったものか?……断じていけない! こんな考えが私の頭に閃きました。私は足早に囲いの方へ引っ返し、一飛びに往来へ出ると、ほとんど走らんばかりにして家へ帰りました。私はにやにや笑ったり、揉み手したりしながら、思いがけなく私の想像を確かめてくれた偶然に驚嘆しました(私はただの一瞬間も、その真実を疑いませんでした)。にも拘らず、私の胸の中は甚だ悲痛なものでした。『それにしても』と私は考えました。『あの二人はよくも空が使えたものだ! しかし、何のためだろう? 何だって物好きに俺の目をくらまそうとするのだろう? あの男がそんなことをしようとは思いがけなかった……それにしても、ずいぶんセンチメンタルな睦言《むつごと》だなあ!』
私はよく寝られなかったので、翌朝は早く起きて、背中にリュック・サックをしょって、主婦《おかみ》には今夜かえりを待たないでくれと云い置き、Z町のそばを流れている川を溯り、徒歩で山へ登って行きました。この山は犬の背中(Hundsr歡k)と呼ばれている山脈の分れで、地質学的に中々面白いところです。特に、規則ただしい純粋なバルザト層で注目されています。が、私は地質学の観察どころではありません。いったい自分がどうなっているのやら、我ながらわけが分りませんでした。ただ一つ、ガーギンに会いたくないと云う感情だけは、はっきりしていました。私が急にあの兄妹を厭になった原因は、畢竟かれらがずるいからだ、と自分で自分に云い聞かせたものです。いったい誰に強制されて、身内同士だなんて触れ出すのだ? 尤も、私は彼らのことを考えないようにしました。ゆっくり急がず山や谷をうろつき廻っては、田舎の小料理屋に休んで、亭主や客と呑気な世間話をしたり、さもなければ太陽に暖められた平ったい岩の上に臥そべって、雲の流れをぼんやり眺めたりしていました。丁度いい按配に、素晴らしい上天気が続いてくれました。そんなことをして三日という日を過しましたが、まんざらな気持でもありませんでした、――もっとも、心は時々ちくちくと疼きましたが。私の物思いの調子は、この地方の落ちついた自然にぴったりしていたのです。
私は静かな偶然の戯れと、その折々の印象に、すっかり身を任せてしまいました。それらはすべて、ゆっくりゆっくり入れ変りながら私の心を流れて去って、遂には一つの共通な感覚を残して行きました。その感覚というのは、私がこの三日間、見、聞き、感じた一切のもの、――森に漂う微かな樹脂《や に》の匂い、啄木鳥《きつつき》の叫びや嘴の音、底の砂に斑らな紅鱒の姿を映している清らかな小川の絶間ないお喋り、あまりどぎつくない山々の輪郭、気むずかしげな岩壁、由緒ありげな古い教会や木立の見える小ざっぱりした村、草場に下り立った鷺、水車のはしっこく廻っている粉挽小屋、愛想のいい村人の顔、彼らの着ている青いジャケツ、鼠色の長靴下、肥え太った馬、時によると牛に曳かれて、きいきい軋むのろくさい荷車、林檎や梨を両側に植えた、清潔な感じのする鋪道を行く、髪を長くした若い旅人……そうした一切が溶け合ったものでした。
その時の印象は、今おもい起しても気持がいい。単純な満足に生き、ゆっくりゆっくり、辛抱づよく勤勉な仕事のあとを、到るところに残している独逸の国のつつましい一隅、私はお前に心からの挨拶を送る……ご機嫌よう、平和に暮しておくれ!
三日目の暮れ方に宿へ帰りました。云い忘れましたが、私はガーギン兄妹が忌々しかったものですから、あの情《つれ》ない未亡人の面影を蘇らせようと努めましたが、その努力も徒労でした。今でも覚えていますが、あるとき私がその未亡人のことを空想しようとすると、丸々とした顔立に、目をあどけなく見はった五つばかりの農家の女の子が、ふと目に映りました。それが如何にも子供らしい、単純な様子で私を見ているものですから……その純真な眼ざしに会って、私は恥ずかしくなりました。その子の前では嘘をつきたくなかったので、私はすぐさま以前の恋人には綺麗さっぱり、永久に別れを告げてしまいました。
宿へ帰って見ると、ガーギンの置手紙がありました。私の思い立ちの唐突なのに一驚を吃し、なぜ一緒に誘ってくれなかったと不足を云い、帰ったらすぐ来てくれ、という文言でした。私は不満な気持でこの手紙を読みましたが、しかしすぐあくる日L町へ出かけました。
ガーギンはさも親しげに私を迎え、やさしい非難を浴せかけました。しかし、アーシャはまるでわざとのように、私を見るが早いか、何のわけもないのに、からからと高笑いをして、例の如くいきなり逃げ出してしまいました。ガーギンはもじもじして、妹のうしろから、あいつは気ちがいだと呟き、私に堪忍してくれと云うのでした。正直なところ、私はアーシャが忌々しくてたまりませんでした。もうそれでなくてさえ、機嫌のわるいところへ持って来て、あの不自然な笑い方、あの奇妙な顔つきです。とは云うものの、何にも気のつかない振りをして、自分の小旅行を詳しくガーギンに話しました。ガーギンは私の留守にあったことを話して聞かせるのでした。しかし私達の話はどうもしっくりしないのです。アーシャは部屋の中へ駈け込んだり、また駈け出したりします。とうとう私は、急ぐ仕事があるから、そろそろ帰らなければならぬと云いました。ガーギンも初めは留めようとしたけれども、じっと私の顔を見た後に、じゃお送りしましょうと云い出しました。玄関まで出ると、アーシャは出し抜けに私の傍へよって、手を差し出しました。私は軽くその指を握って、ほんの心もち会釈しました。私はガーギンと一緒にラインを渡って、マドンナの像のある私の大好きな秦皮《とねりこ》の傍を通りかかった時、二人はベンチへ腰を下ろして、景色を眺めはじめました。その時、二人の間には、世にも珍しい話が取り交されたのです。
はじめ私達は二こと三こと交した後、明るい河面を眺めながら、黙りこんでしまいました。
「ねえ、」と急にガーギンは、例の微笑を浮べながら云い出しました。「あなたはアーシャのことをどうお考えです? ねえ、きっとあなたの目には妙な娘に見えるでしょうね?」
「そうですね。」と私は幾らかけげんな気持で答えました。相手の方からアーシャのことを云い出そうとは、思いもかけなかったのです。
「あれのことを批評するには、初めまずよくあれの人となりを知らなくちゃなりません。」とガーギンは話し出しました。「あれは気立てはとてもいいのですが、どうも厄介なたちでしてね。あの娘《こ》を巧くあしらうのは骨なんです。尤も、あれを責めるわけには行きません。あなただって、もしあれの身の上をお聞きになったら……」
「あのひとの身の上ですって?」と私は遮りました。「一体あのひとはあなたの妹さんじゃないのですか……」
ガーギンは私の顔をちらと見て、
「もしやあなたは、あれが僕の妹じゃないと思ってらっしゃるんじゃありませんか?……飛んでもない。」と彼は私の狼狽には注意も向けずに、言葉を続けました。「正に妹です、あれは僕の父の娘です。まあ、僕の話を聞いて下さい。僕はあなたに信頼感をいだいてるから、何もかもお話しましょう。
「僕の父親というのはごく善良な、頭のいい、教養もある人ですが、不仕合せだったのです。運命の神は多くの人々に比べて、かくべつ父に辛《つら》く当ったわけじゃありませんが、しかし運命の最初の打撃に堪えきれなかったんですね。父は若い時に恋愛結婚しましたが、その妻、と云って僕の母ですけど、非常に早く死んでしまったのです。僕は生れて六箇月のとき、母に置いて行かれました。父は僕を田舎へつれて帰って、まる十二年の間、どこへも出ずに暮したものです。自分で僕の教育をして、そのまま僕に別れないで終ったかも知れませんが、あるとき父の兄、僕の伯父が田舎の家へやって来たのです。この伯父はいつもペテルブルグに住んでいて、かなりえらい地位を占めていました。伯父は僕を引き受けるから任してくれと、父を説き伏せたのでした。というのは、父が何と云っても田舎を出ると云わなかったからです。伯父は弟に向って、あの子のような年頃の少年が、まるで貝殻の中に閉じ籠ったような生活をしていては為にならぬ、お前のように年中くよくよして、黙りこくっている先生についてたら、きっと同年輩の子供たちより遅れるに決っているし、第一あの子の性質だって害なわれるかも知れぬ、と意見したわけです。父は長いこと兄の勧めを撥ねつけていましたが、結局、我を折ってしまいました。私は父と別れる時おいおい泣いたものです。一度も笑顔など見たことがないくせに、父が好きだったので……しかし、ペテルブルグへ出てしまうと、間もなくあの薄暗いじめじめした生みの巣など忘れてしまいました。私は士官学校へ入学し、そこから近衛の聯隊へ入りました。毎年、三四週間ずつ田舎へ帰省しましたが、父の様子は一年々々と沈んで行って、自分自身の内部に沈潜したような、臆病じみるほど物思わしそうな風になるのです。毎日、教会へ詣って、物を云うことさえ殆んど忘れてしまったようなのです。
「一ど僕が帰郷した時(それはもう二十歳《は た ち》すぎた頃です)、十ばかりの、痩せた、目の黒い女の子、つまりアーシャが家にいるのに、初めてぶっつかりました。父の言葉によると、身なし児なので、引き取って養ってやるのだ、とのことでした。全くその通りの云い方をしたのです。その子はまるで野生の獣の子みたいに、人見知りするたちで、はしっこくて、だんまりやなのです。僕が父の大好きな部屋――母の亡くなった馬鹿大きくて陰気くさい部屋で、昼でも蝋燭がともっているのです、――へ入って行くと、その子はすぐ父のかけているヴォルテール式の肘椅子の下か、書物戸棚の蔭に隠れてしまう。それから三四年の間、僕はたまたま勤務上の都合で、田舎へ行かれないようなことが続きました。父からは毎月、短い手紙を一通ずつ受け取っていましたが、アーシャのことはたまにしか書かず、しかもそれさえ筆ついでと云った風でした。父はもう五十越していたけれど、まだ若々しい様子をしていました。ところが、僕の驚きを想像して下さい。突然、何も知らずに平気でいる僕のところへ、支配人から手紙が来て、父が瀕死の病床にいるから、もし最後の別れをしたいと思ったら、一刻も早く帰ってほしいと云う知らせです。僕は無我夢中で駈けつけて見ると、やっと命のある中に間には合ったものの、もう最後の息を引き取ろうと云うところでした。父は無茶苦茶に喜んで、痩せ細った手で僕を抱きしめながら、何かしら試すような、祈るような目つきで、長いこと僕の顔を見つめているのです。そして、必ず臨終の頼みを実行すると僕に誓わせてから、年とった侍僕頭にアーシャをつれて来るように云いつけました。やがて老人はつれて来ましたが、アーシャは立っているのもやっとで、体じゅうぶるぶる慄えているのです。
「『これだ、』と父は辛うじて云いました。『わしの娘を、お前の妹を、かたみに遺して行く。万事、このヤーコフから聞いてくれ。』と侍僕頭をさしながら、そう附け加えるのでした。
「アーシャはわっと泣声を上げて、寝台に顔を伏せてしまいました。アーシャは、父がもと母の小間使だったタチヤナに生ました娘なのです。僕はそのタチヤナを今でもまざまざと覚えています。すらりとした高い背丈、品のいい、きっとした、利口そうな顔、大きな暗い目などを覚えています。タチヤナはそばへも寄りつけぬほど高慢な女で通っていました。ヤーコフの恭々しげな、言葉尻を濁しながらの話から察したところでは、父は僕の母が死んで二三年後に、この女と関係した様子です。その頃タチヤナは邸には暮していず、家畜番をしている、亭主持の姉の家にいたのです。父はひどくこの女を愛して、僕が村から出て行ってしまった後、結婚までしようと思ったほどですが、女の方が幾ら父に云われても、奥様になるのは厭だと、不承知を唱えるのでした。
「『亡くなられたタチヤナ・〓シリエヴナは、』とヤーコフはうしろ手を組んで、戸口に立ったままこう報告したものです。『万事につけて分別のある方で、大旦那さまの恥になるようなことをお望みになりませんでした。わたしが何で奥さまなもんですか? どうして貴婦人の真似が出来ましょう、とこんな風に仰しゃいました、わたくしも傍で聞いておりました。』
「タチヤナは邸へ越して来ることさえ承知しないで、アーシャと一緒に姉のところで暮していました。僕は子供の時分にちょいちょいタチヤナを見たけれど、ただ日曜祭日に教会へ行った時だけです。じみな布《きれ》で頭を縛り、黄色いショールを肩にかけて、群集にまじって窓際に立っていましたが、そのきっとした横顔が、透き通った窓ガラスにくっきりと浮き出しているのです。こうして、昔風に低く全身を屈めながら、つつましく、しかも物々しい様子でお祈りしているのでした。僕が伯父につれられて行った時、アーシャはやっと二つでしたが、数え年九つのとき母親に別れました。
「タチヤナが死ぬとすぐ、父はアーシャを邸へつれて来させました。尤も、以前から手もとへ引き取りたかったのですが、タチヤナはそれさえ拒んでいたのです。アーシャが初めて旦那様のところへ引き取られた時、あれの心にどういう変化が起ったかは、宜しく想像を願います。あれは初めて絹の着物をきせられて、みんなから小さな手を接吻された時のことを、今だに忘れることが出来ないでいます。母親が生きている間は、とても厳しく躾けられていたのですが、父のとこへ来てからは、完全な自由を与えられたのですからね。父があれの先生だったし、それに、アーシャは誰も他人に会わなかったのです。父はあれを甘やかしたわけじゃありません。つまり、ほいほいとご機嫌を取ったのじゃありませんが、心では夢中になるほど愛していたので、かつて何一つ禁止したことがありません。というのは、内心あれに対して申訳ないと思っていたからです。間もなくアーシャは、自分がこの家のご主人さまだということを悟りました。父が旦那様であることは承知していたのですが、しかし自分の位置が妙ちきりんなものだということも、同様に間もなく悟ったわけです。自尊心と、それから猜疑心も、ひどく発達しました。悪い習慣がだんだん根を下ろして、単純なところが消えてしまい、世界中の人に自分の生れを忘れさせたい、と願うようになりました(あれは一ど自分で僕にそれを白状したのです)。自分の母親を恥じると同時に、その恥じる気持を恥ずかしく思って、母親を誇りとする、といった風なのです。あなたもご覧の通り、あれはもう色んなことを知っています。あの年頃では知ってならないことまで知っています……しかしそれは一体あれのせいでしょうか? 青春の力があれの内部で躍って、血が湧き立っている。それなのに、あれを正しい方向へ指導してやるものが一人もないのですからね。あらゆることにつけて、完全な自由が与えられているのですが、そいつを背負って行くのが果して容易なわざでしょうか? あれはどこのお嬢さまにも負けまいと云う気になって、本に飛びつきました。こんなことで碌な結果になるわけがないじゃありませんか? 変則に始まった生活は、変則に固まったわけですが、しかし心は害なわれていません、頭脳《あたま》も無傷です。
「さあ、そこで、二十歳になったばかりの若造の僕が、とつぜん十三の娘をかかえて行くことになったのです! 父が死んでから四五日の間は、ちょっと僕の声を聞いただけでも、あれは熱を起すという風でした。僕が可愛がってやると、ふさぎ込んでしまうのでしたが、漸く少しずつ目立たないように、あれを馴らすことが出来ました。尤も、それから後、僕が本当にあれを妹と認め、妹として愛していることを確信すると、あれは熱情的に僕を愛するようになりました。あれの感情にはどんなことだって、中途半端なものはないのですから。
「僕はあれをつれてペテルブルグへ出ました。あれと別れるのは随分つらかったのですが、どうしても一緒に住むことが出来ませんでした。僕はあれを一番いい塾の一つへ入れました。アーシャはどうしても別れなければならないことを悟りはしたものの、いきなり病気して、危く死にかかった程です。やがて、次第に辛抱して、その塾で四年間くらしました。ところが、僕の予期に反して、あれは結局まえと殆んど変らないのです。塾長はしょっちゅう僕にあれのことをこぼしました。
「『あの子は罰を下すことも出来ないし』と塾長はよくこう云ったものです。『可愛がったってその手に乗りません。』
「アーシャは人並はずれて物分りがよく、勉強の方もよく出来て、級でも一番でした。が、どうしても一般の水準に近づこうとせず、強情ばかり張って、人間ぎらいと云った様子をしているのです……僕もあんまりあれを責めるわけに行きませんでした。あれの立場にあっては、人のご奉公を勤めるか、人を避けるか、それよりほかに仕方がないですからね。友達の中であれが親しくしたのは、器量のわるい、みんなからいじめられている、貧しい娘ただ一人でした。あれが一緒に教育されたそのほかのお嬢さん方は、たいてい良家の令嬢でしたが、みんなあれを嫌って、機会ある毎に、皮肉を云ったり、毒をさしたりしたものです。が、アーシャは一寸も譲りませんでした。あるとき、神学初歩の時間に、教師が悪徳ということを云い出した時、
「『おべっかと臆病が、一番いけない悪徳です。』とアーシャは大きな声で云いました。
「要するに、あれは相変らず今まで通りにやっていたわけですが、ただ行状だけはよくなりました。尤も、この点でも大した進歩をしたわけではありません。
「到頭、あれは満十七になりました。もう塾に残っているわけにも行かないので、僕はひどく困ってしまいました。ところが、突然、大した考えが浮びました。つまり、一年か二年外国旅行に出、アーシャも一緒につれて行くことなのです。その思いつきを実行して、いま僕らはライン河のほとりに滞在しながら、僕は努めて画の勉強をしているし、あれは……相変らずいたずらをしたり、気紛れをやったりしている次第です。しかし、今ではあなたもあんまり厳しく、あれを批判なさらないことと思います。あれは、何だって平っちゃらだというような振りこそしていますが、みんなの意見、ことにあなたの意見を気にしているのですよ。」
こう云って、ガーギンは例の静かな笑い方でにっこりしました。私はしっかりとその手を握りました。
「それはみんなその通りです。」とガーギンはまた云い出した。「しかし、あれには困ってしまいますよ。全く火薬のような娘ですからね。今までは誰も好きな人がなかったけれど、もし誰かが好きになったら、それこそ事です! 僕は時おり、あれをどうしたらいいか、分らないことがあります。ついこの間も、何てことを考え出したものでしょう。あれは出しぬけに、兄さんは前よかあたしに冷淡におなんなすったけど、あたしは兄さんだけが好き、一生涯、兄さん一人だけが好きと云って、誓まで立てるんです……しかも、そう云いながら、わっと泣き出すんですからね……」
「ははあ、成程……」と私は云いかけたが、ぐっと舌を噛みしめました。
「ねえ、どうでしょう。」と私はガーギンに問いかけました。「もうこうした打明け話になった以上お訊ねしますが――一体あのひとは今まで誰も好きにならなかったんですか? ペテルブルグでは、いろいろの青年にお会いになったでしょうが。」
「その連中は概してあれの気に入らなかったんです。いや、アーシャの望んでいるのは、英雄か非凡人か、さもなくば山の峡《はざま》にいる画に描いたような牧夫かですよ。尤も、僕はすっかりお喋りをして、あなたを引き留めてしまいました。」と彼は腰を持ち上げながら、こう付け加えました。
「どうです、」と私は云い出しました。「あなたのとこへ行こうじゃありませんか。僕は家へ帰りたくないんです。」
「でも、お仕事は?」
私は何にも返事をしませんでした。ガーギンはにっと人の好い微笑を浮べました。こうして、私達はL町へ引っ返しました。馴染みの深い葡萄畑と、丘の上の白い小家を見ると、私は一種の甘さ、――正に心の甘さを感じました。まるで私の心の中へ、そっと蜜が注ぎ込まれたような按配でした。ガーギンの話を聞いてから、私は胸が軽くなりました。
アーシャは家の閾ぎわで私達を出迎えました。今度も笑い出すだろうと思っていたところ、案のほか、真蒼な顔をして、目を伏せ、無言のまま出て来たのです。
「ほら、またいらしたよ。」とガーギンは云いました。「しかも、どうだい、自分の方から引っ返そうと仰しゃったんだからね。」
アーシャは物問いたげに私を見つめました。私は私で、アーシャに手を差し伸べると、今度は、その冷たい指をぎゅっと握りしめました。私は彼女が可哀そうになったのです。前に私を間誤つかせた色々なこと、――内部に秘めた不安もちゃんと行儀作法の出来ないのも、気取りたがる傾向も、今でははっきり分ったからです。私はこの娘の魂を眺めることが出来たのです。秘められた心の圧迫が、絶えず彼女の胸を押えつけるので、世馴れない自尊心が不安の中に戸まどいしたり、もがいたりしているのですが、全体としては彼女は真実を憧れ求めているのです。この奇妙な娘になぜ心を惹かれたのか、私はやっと分りました。彼女のしなやかな体ぜんたいに流れている、半ば野性的な美しさ、ただそれのみが私を惹きつけたのではありません。私は彼女の魂が好きになったのです。
ガーギンは自分のスケッチを掻き廻し始めました。私はアーシャに、葡萄畑を散歩しようと誘いました。彼女は楽しげに、殆んど従順なほど、さっそく承知しました。私達は丘を半分がた降って、大きな平ったい石に腰を下ろしました。
「あなたはご旅行の間、あたし達がいなくても、淋しくはございませんでした?」とアーシャが口を切った。
「じゃ、あなたは僕がいなくて淋しかったですか?」と私は訊ねました。
アーシャは横目に私を見て、
「ええ。」と答え、「山はよろしゅうございました?」とすぐ続けました。「高い山ですの? 雲よりも高いのでしょうか? どうかご覧になったことを、聞かせて下さいまし。兄にはお話しになりましたけど、あたし何にも伺いませんでしたから。」
「だって、あなたは勝手によそへ行っておしまいになったんですもの。」と私は云いました。
「あたしがよそへ行ったのは……それは……でも今は、ほらこの通り、どこへも行きませんわ。」さも信じ切ったような優しみを声に響かせて、彼女はそう付け加えました。「あなたは今日おこりっぽくていらっしゃるのね。」
「僕が?」
「ええ。」
「どういうわけで、飛んでもない……」
「分りませんわ。でも、あなたは今日おこりっぽくて、腹を立てたままお帰りになったんですもの。あなたがそんな風でお帰りになったものですから、あたしとても口惜しゅうございましたわ。でも、帰って下すったので、本当に嬉しい。」
「僕も帰って来たのを嬉しく思っています。」と私は口を切りました。
アーシャはひょいと肩を動かしましたが、それは小さな子供が、いい気持の時にするような仕草でした。
「あのね、あたしは人の気持を察しるのが、とても上手なのよ。」と彼女は言葉をつづけました。
「前もね、パパの咳払いを次の間で聞いただけで、パパがあたしのことを良く思ってるか、悪く思ってるかが分ったものですわ。」
その日まで、アーシャは自分の父親のことを、一度も私に云ったことがないので、私はこれを聞いてびっくりしました。
「あなたはお父さんが好きでしたか?」と私は口を切りましたが、我ながら顔が赤くなるのを感じて、忌々しくてたまりませんでした。
アーシャは何とも返事しないで、同じように顔を赤らめました。私達は二人とも口をつぐみました。遥かかなたのライン河を、一隻の汽船が煙を上げながら走っています。私達はじっとそれを眺めはじめました。
「どうしてお話して下さいませんの?」とアーシャは囁いた。
「どうしてあなたは、きょう僕の顔を見るなり笑い出したんです?」と私は問い返しました。
「自分でもわかりませんの。あたしどうかすると、泣きたいのに笑うことがありますから……あなたね、あたしのすることで、あたしってものをお裁きになってはいけませんよ。あっ、そう、あのローレライの物語、ほんとに素敵ですわね! だって、あそこに見えるのがその岩でしょう? 何でも、ローレライは初めみんなを溺らしていたけれど、人を恋するようになってから、自分で身を投げてしまったんですってね。あたしこのお話が好きなんですの。フラウ・ルイゼはあたしに色んなお話をして聞かせますのよ。フラウ・ルイゼのとこには、黄色い目をした黒猫がいますの……」
アーシャは頭を反らし、房々とした毛をふるいのけて、
「ああ、いい気持だわ。」と云いました。
丁度その時、単調な響が千切れ千切れに聞えて来ました。幾百人かの声が一斉に、規則ただしく間隔を置きながら、祈祷歌をくり返しているのでした。巡礼者の群れが十字架を持ち聖旗を掲げて、街道を河しもへ下って行く……
「ああ、あの人達と一緒に行きたいわ。」次第々々に遠ざかり行く人声に耳を傾けながら、アーシャはこう云うのでした。
「おや、あなたはそんなに信心家なんですか?」
「どこか遠いところへ行きたいの、巡礼になり、難行をしになり。」と彼女は続けました。「そうでもしないと、毎日々々が過ぎて行って、一生が済んでしまっても、なんにもしずじまいになりますもの。」
「あなたは名誉心が強いんですね。」と私は云いました。「あなたは一生をただで過したくないんですね、何かあとに残したいんですね……」
「一体それは出来ないことなんでしょうか?」
『出来ないことです。』と私は危く鸚鵡返しに云いかけたが……相手の明るい目をちらと見ると、ただ、
「やってごらんなさい。」とだけ云いました。
「ねえ、」とアーシャは暫く黙っていた後に(その沈黙の間、早くも蒼ざめて来た顔を何かの影が掠めました)、こんなことを云い出したものです。「あなたはその女の方がとてもお好きでしたの?……ほら、覚えてらして、あたし達がお近づきになった翌日、兄があの城址でその方の健康を祝して乾杯したでしょう?」
私は笑い出しました。
「あれは兄さんが冗談を云ったんですよ。僕はどんな女も好きだったことはありません。少なくとも、今はどんな女も好きじゃありません。」
「あなたは女のどんなところがお好きですの?」とアーシャは顔を振り上げて、無邪気な好奇心を浮べながら訊ねました。
「なんて奇妙な質問だろう!」
と私が叫び声を立てると、アーシャはちょっとどぎまぎして、
「あたし、あんなことお訊ねしちゃいけなかったのね、そうでしょう? ご免なさいね。あたし、何でも思いついたことを喋ってしまう癖がついたもんですから。だから、あたしものを云うのが怖いんだわ。」
「後生だから、何でも云って下さい、怖がることはありません。」と私は押えました。「あなたがやっとのことで、妙に遠慮なさらなくなったので、僕はとても嬉しいんですから。」
アーシャは目を伏せて、そっと軽く笑い出しました。彼女がこんな笑い方をするのを見たのは、私も初めてでした。
「ねえ、話して下さいましな。」まだ長いことこうして腰かけていそうな風に、服の裾を引っ張って脚を包みながら、彼女は言葉をつづけるのでした。「お話して下さいな。でなければ、何か朗読して下さるだけでも結構ですわ。ほら、覚えてらして、いつか『オネーギン』の一節を朗読して下すったでしょう……」
と急に考え深い様子になって、
わたしの不幸な母の墳墓《おくつき》
その上に建てられた十字のしるしと
木々の枝の繁み、それは今どこにあるでしょう!
と小声に口ずさむのでした。
「プーシキンのは、それと違いますよ。」と私が注意すると、
「あたしタチヤナになりたいんですの。」とアーシャは相変らず物思わしげに、言葉をつづけました。「何かお話して頂戴。」と、生き生きした調子で、自分で自分の言葉を引き取りました。
しかし、私は話どころではありませんでした。ただじっと彼女を眺めるばかり、――赤々とした太陽の光を一面に浴びて、すっかり安心しきった、つつましやかな彼女の姿を。私たちの周りも、私達の下も、私達の上も――空も、大地も、水も、すべてが悦びに輝いていました。空気までが光に飽満しているかのよう。
「ごらんなさい、何ていい景色でしょう!」と私は思わず声を低めて、そう云いました。
「ええ、いい景色ですわ!」とアーシャは私の方を見ないで、同じように小さな声で応じました。
「もしあたし達が鳥だったら、思う存分、大空たかく舞いあがって、飛び廻るんですけれどね……あの空の青みの中に消えてしまうのに……でも、あたしたち鳥じゃないから。」
「でも、僕たちにも翼が生えるかも知れませんよ。」と私は云い返しました。
「それはどうして?」
「まあ、暫く生活してごらんなさい、分りますよ。我々をこの地上から持ち上げてくれる、そうした感情もあるものです。心配は要りません、僕らにも翼が出来ますから。」
「あなたは、翼を持ったことがおありになって?」
「なんて云ったらいいでしょう……僕はどうも、今まで飛んだことがないようです。」
アーシャはまた考え込みました。私が軽くその方へ屈み込んだ時、
「あなたワルツがお出来になって?」と彼女は出しぬけに訊くのです。
「出来ますよ。」と私は些か面くらって答えました。
「じゃ、行きましょう、行きましょう……あたし兄さんにワルツを弾くように頼みますわ……ねえ、あたしたち翼が出来て、空を飛んでる気持になりましょうよ。」
アーシャはわが家へ駈け出しました。私もその後から駈け出して、――暫くすると、二人は狭い部屋の中で、ランネル・ワルツの甘い響につれて、くるくる踊り廻っていました。アーシャは上手に、しかも夢中になってワルツを踊りました。急に、何かしら柔かい女性的なものが、その娘々したおごそかな顔立を透して、にじみ出る思いでした。その後も長い間、私の手は彼女のしなやかな体の接触を感じ、耳には彼女の忙しくなった息づかいが、いつまでも近々と聞え、房々とした髪がさっと乱れかかった、蒼ざめてはいるけれども、生き生きとした顔に、じっと動かぬ、ほとんど閉じられたような暗い目が、それから後も長いこと、目さきにちらついてやまないのでした。
一〇
この日は一んち、この上もなく愉快に過ぎました。私達は子供のように浮れ騒ぎました。アーシャは如何にもあどけなく、単純そのものでした。ガーギンはその様子を眺めて、さも嬉しそうでした。私は夜おそく辞し去りました。ラインの中流まで出た時、私は渡守に向って、船を流れのままに任してくれと頼みました。老船頭が櫂を引き上げると、帝王の如く威厳に充ちた河は、私達をぐんぐん押し流して行きました。あたりを見廻し、耳を澄まし、思い出にふけっている中に、私は突然こころの中に、何とも知れぬ不安を感じました……目を空へ上げると、空にも落ちつきというものがありません。一面に星が鏤《ちりば》められて、全体がうようよぞよぞよと揺れ動いているよう。河面に身を屈めると、そこでも、この暗く冷たい深みでも、やはり星が揺れたり震えたりしています。不安を帯びた生気が到るところに感じられる――こうして、私自身の内部にも不安が刻々と生長して行くのでした。私は船ばたに肘づきしました……耳をくすぐる風の囁き、艫《とも》を洗うかすかな水のせせらぎが、私の心をいら立たせ、涼しい河の息吹きも頭を冷ましてはくれません。夜鶯が一羽、岸で鳴きはじめましたが、その響は甘い毒のように滲み込むのでした。涙が覚えずはらはらとこぼれましたが、それは故しらぬ感激の涙ではありませんでした。そのとき私が感じたのは、つい近頃まで経験していたすべてのものを抱擁しようとする、漠然とした感覚ではありません。心が打ちひらけて、胸の琴線が鳴りひびき、すべてのものを理解し、すべてのものを愛しているような気持……そんな時に感じるものとは違うのです。いや! 私の内部には幸福の渇望が燃え立ったのでした。私はまだ敢てはっきり名ざして云うことが出来なかったけれども、幸福、――飽き足りるまでの幸福、それを私は望んでいたのです、それに私は憧れ渡っていたのです……船は絶えず流されて行き、老船頭は櫂に凭れて居眠りしているのでした。
一一
次の日、ガーギンの住いをさして行きながらも、俺はアーシャに恋しているのかどうか、などと自問しませんでした。が、私は彼女のことを色々と考え続けました。彼女の運命が私の興味をそそったのです。二人が思いがけなく接近したのを、私は嬉しく思いました。やっと昨日になって、俺はあの娘が分ったのだ、と私はそう感じました。それまでというもの、彼女は私を避けて、そっぽを向いてばかりいたのですが、こうして彼女が私に全心を打ち開いて見せると、その面影は更に魅力に充ちた輝きを帯び、彼女そのものが私の目に新鮮なものとして映り、何とも云われぬ不思議な魅惑がおずおずと滲透して来る……
遥かに白く見えている例の小家を、絶えず眺めやりながら、私は歩み馴れた道を元気よく進みました。もう未来のことどころか、明日の日のことも考えませんでした。ただ実にいい気持なのです。
私が部屋へ入って行った時、アーシャはさっと顔を赤らめました。今日もちょっとお洒落をしているのに、私は気がつきましたけれど、その表情がけばけばしい衣裳にうつらないのです。悲しそうな顔をしているのでした。私があんなに浮き浮きした気分で来たのに! どうやら私の見たところでは、アーシャは例によって、いきなり逃げ出そうとしたのを、我とわが身を抑えるようにして、じっとしているらしいのです。ガーギンは丁度その時、芸術家らしい熱に襲われて、気負い立っていました。それはディレッタントが、彼らのいわゆる『自然の尻尾を掴んだ』と思い込んだ時、ままやって来る一種の発作みたいなものでした。頭を蓬々に振り乱して、体じゅう絵具だらけにして、枠に張ったカンヴァスに向い、大きく絵筆を揮いながら、ほとんど物凄い剣幕で私に頤を一つしゃくり、ちょっと絵からさがって、目を細めて眺めたかと思うと、またもや絵に取りかかるのでした。私はその邪魔をしようとせず、アーシャのそばへ腰を下ろしました。その暗い目は、しずかに私の方へ向きました。
「あなたは昨日と様子がちがいますね。」相手の唇に微笑を呼び出そうと試みても、一向にかいがないので、私はこう口を切りました。
「ええ、ちがいますの。」とアーシャはゆっくりゆっくりした、響のない声で答えました「でも、そんなこと何でもありませんわ。昨夜よく寝られなかったものですから。夜っぴて考えてばかりいましたの。」
「何を考えたんです?」
「ああ、色んなこと考えましたわ。それはね、子供の時分からの癖なんですの。まだお母さんと一緒に暮していた時分から……」
彼女は努力している様子でこの一ことを口に出しましたが、それからもう一度くり返すのでした。
「お母さんと一緒に暮していた頃……あたしこんなこと考えましたわ。どうして人間は自分の先のことが分らないんだろう。また時おり災難が降りかかるのが見えていても、どうしてそれを遁れることが出来ないのだろう、又どうして本当のことをすっかり云ってはならないのだろう?……なんてね。それから、あたしは何にも知らないから、勉強しなくちゃいけないとも考えましたわ。あたしは教育し直して貰わなくちゃなりません。とてもお粗末な教育を受けたんですもの。ピアノも弾けないし、画も描けないし、刺繍だって下手なんですもの。あたしには何の才能もないから、あたしなんか相手になさるのは、きっと退屈でたまらないでしょう。」
「あなたはあまり不当に自己批判をしていらっしゃる。」と私は言葉を返しました。「あなたはずいぶん読んでいらっしゃるから、あなた位の頭があれば……」
「あたしに頭があるんですって?」とアーシャは如何にも無邪気な好奇心を浮べて訊ねたので、私は思わず笑い出しました。「兄さん、あたし頭があるかしら?」と彼女はガーギンに問いかけました。
ガーギンはそれには何とも返事しないで、のべつ絵筆を取り替えては、手を高々と上げながらせっせと仕事を続けていました。
「あたし自分の頭ん中にどういうことがあるのか、自分でもわかりませんのよ。」とアーシャは相変らず物思わしげな様子で、言葉をつづけました。「あたしどうかすると、自分で自分が怖くなりますのよ、本当に。ああ、そう、あたしお訊きしたいんですけど……女はあまり本を読んじゃいけないって、ほんとでしょうか?」
「そうやたらに読む必要はないでしょうが、しかし……」
「ねえ、教えて頂戴、あたし一体なにを読んだらいいのでしょう? 何をしたらいいのでしょう、云って下さいましな。あなたの仰しゃることなら、あたし何でもしますわ。」とアーシャはあどけない、信頼しきった様子で、私に問いかけるのでした。
私は即座に何と云っていいか、思案が浮びませんでした。
「でも、あたしと一緒にいらしても、お退屈じゃないでしょうか?」
「とんでもない。」と私は云いかけました……
「まあ、有難う!」とアーシャは答えました。「あたしまた、さぞお退屈だろうと思って。」
彼女の小さな熱した手が、しっかりと私の手を握りしめました。
「N君、」その時、ガーギンが大きな声で呼びかけました。「この背景はあまり暗すぎはしないだろうか?」
私はその方へ行き、アーシャは立って、出て行きました。
一二
一時間ばかりすると帰って来て、戸口に立ちどまり、私を小手招きしました。
「ねえ、」と云うのです。「もしあたしが死んだら、あなたあたしを可哀そうと思って下すって?」
「今日あなたは何てことを考え出すんでしょう!」と私は叫びました。
「あたし自分が間もなく死ぬような気がするんですの。どうかすると、周りのものが何もかも、あたしに別れを告げているように思われて。こんな風にして生きてるよか、死んでしまった方がましですもの……ああ! そんなにあたしを見ないで頂戴、あたし全く空《そら》をつかってるんじゃありませんの。そんなになさると、またあなたを怖がるようになりますわ。」
「一体あなたは僕を恐れていたんですか?」
「あたしがこんなに風変りな娘だからって、それはあたしのせいじゃありませんわ、全く。」と彼女は答えました。「ごらんなさい、あたしもう笑うことも出来ないんですもの……」
こうして、アーシャはずっと晩まで、沈み込んで心配そうな様子でした。彼女の心の中で何か変化が起っているのだけれど、何かということは私にも分りませんでした。その眼ざしは、しょっちゅう私の上にそそがれました。その謎めいた視線を受けると、私の心臓はじいっと締めつけられるのです。彼女は落ちついているような風でしたが、私はその顔を見る度に、どうか興奮しないようにと、云いたくて仕様がないのでした。じっと見とれている中に、私はその蒼ざめた顔つきや、思い切りのわるいのろのろした仕草の中に、何かいじらしいような美しさを見いだしました、――ところが、アーシャの目から見ると、なぜかしら、私が不機嫌なように思われるのでした。
「ねえ、」別れるちょっと前に、彼女は私に云いました。「あたしね、あなたがあたしのことを軽はずみな女だと思ってらっしゃるのが、つらくて仕様がないんですの……これからは、いつでもあたしの云うことを本当にして頂戴。ただね、あなたもあたしに隠し立てなさらないで。あたしは何時も本当のことばかり云いますから、誓って……」
この「誓って」が、また私を笑わせた。
「あら、笑わないで。」とアーシャは勢い込んで云いました。「そんなになさると、あたしも昨日あなたがあたしに仰しゃった通りを云いますわよ。『なんだってお笑いになるんです?』って。」それから暫く黙っていて、またこう附け加えるのでした。「覚えてらして、あなた昨日、翼のことを仰しゃったでしょう……あたし翼が生えましたのよ――ところが、何処も飛んで行くとこがないんですの。」
「飛んでもない。」と私は答えました。「あなたの行く手には、あらゆる道が開けてるじゃありませんか……」
アーシャはまともにひたと私の目を見つめました。
「あなたは今日あたしのことを、悪く思ってらっしゃるのね。」と眉をひそめて云うのです。
「僕が? 悪く思うって? あなたのことを!……」
「何だって君達は、まるで水にでも浸けられたように、しょんぼりしてるんだね。」とガーギンが二人の話を遮りました。「もし何なら、昨日のようにワルツを弾いて上げようか?」
「いや、いや。」とアーシャは答えて、両手を握りしめました。「今日はどんなことがあったって、いや!」
「何も無理にとは云やしないよ、安心おし……」
「どんなことがあったって。」とアーシャは真蒼になって繰り返すのでした。
…………………………………………………………………………………………………………………
『一体あの娘は俺を愛しているのだろうか?』暗い河波の激しく流れているラインの傍まで来ると、私はそう心に思いました。
一三
『一体あの娘は俺を愛してるのだろうか?』
あくる朝、目をさますや否や、私はこう自問しました。私は自分の心の中を覗いて見たくなかったのです。彼女の面影、『わざとらしい笑い方をする娘』の面影が、私の魂へ闖入して来て、中々もぎ放せそうもないのを感じました。私はL町へ出かけて、一んちガーギンの宿で暮しましたが、アーシャの姿はほんのちらと見たばかりです。加減が悪い、頭が痛い、と云うことでした。ほんのちょっと、頭を縛って、階下《し た》へおりて来ましたが、その顔は蒼ざめて、おもやつれがし、目はほとんど閉じていました。にっと弱々しく笑って、
「すぐ直りますわ、何でもありませんの、何だってそのうちに直りますわねえ、そうでしょう?」と云って、出て行きました。
私はつまらなくて、妙にからっぽな、佗しい気持がしました。そのくせ、長いこと帰る気がしなくて、夜おそく帰宅しましたが、それっきりアーシャの顔は見ませんでした。
あくる日は朝じゅう、半分夢のような意識状態で過ぎてしまいました。仕事にかかろうとしても巧く行かないので、いっそなんにもせず、なんにも考えまいという気になってしまいましたが……これは巧く行きました。私は町をぶらついて、いったん宿へ帰りましたが、また外へ出かけました。
「あなたがNさんですか?」という子供らしい声が、不意にうしろから聞えました。振り返ってみると、一人の小僧が前に立っています。「これ、フロイライン・アンネットが、あなたに渡してくれって。」と一通の手紙を突きつけながら、こう附け加えるのでした。
開けて見ると、不確かな走書、これはアーシャの手だと気がつきました。
『わたくし、是非ともあなたにお目にかからなくてはなりません。』と彼女は書いているのでした。『どうか今日の四時に、あの城址に近い道ばたにある石造りの礼拝堂までいらして下さいまし。わたくし、今日たいへん不注意なことを致しましたの……お願いですから、いらして下さいまし、すっかり様子をお知らせしますから……使のものに、承知したと仰しゃって。』
「ご返事は?」と小僧は訊ねました。
「承知しました、と云ってくれ。」と私が答えると、小僧はさっさと駈け出して行きました。
一四
私は自分の部屋へかえると、腰を下ろして、考え込みました。心臓は烈しく鼓動しているのです。私は幾度もアーシャの手紙を読み返しました。時計を見ると、まだ十二時にもなっていません。
戸があいて、――ガーギンが入って来ました。
その顔は陰気くさいのです。ガーギンは私の手を取って、しっかり握りしめました。その様子はひどく興奮しているらしい。
「どうしたんです?」と私は訊きました。
ガーギンは椅子を取って、私と向い合わせに腰を下ろすと、
「さきおととい、」無理な笑い方をして、吃りがちに口を切りました。「あんな話をして、あなたをびっくりさせましたが、今日はもっとびっくりさせることがあるんです。これがもしほかの人だったら、恐らく思い切って……こんな風に向きつけて……お話する勇気がなかったでしょうが……しかし、あなたは潔白な人だし、それに僕の親友ですから、――そうでしょう? 実は、妹のアーシャがあなたに恋してるんです。」
私は全身ぴくりと慄わして、腰を持ち上げました……
「お妹さんが、ですって……」
「そうなんです、そうなんです。」とガーギンは遮りました。「敢て申しますが、あれは気ちがいです。そして、僕まで気ちがいにしてしまいます。しかし、いい按配に、あれは嘘をつくことが出来ないで、何でも僕に打ち明けてくれますから。ああ、あれは何て美しい心を持った娘でしょう……でも、あれは我とわが身を滅してしまいます、必ず。」
「でも、それはあなたの考え違いでしょう。」と私は云いかけました。
「いや、考え違いじゃありません。どうでしょう、あれは昨日いちんち臥てばかりいて、なんにも食べないのです。そのくせ、何処が悪いとも云わない……尤も、あれは何時もそうなんですがね。夕方になると、熱が出て来ましたが、僕はべつに心配しませんでした。ところが、夜中の二時頃になって、宿のかみさんに起されました。『お妹さんのところへ行ってご覧なさい、何だか様子が変ですから。』と云うのです。飛んで行って見ると、アーシャは着換もせず、熱に全身をふるわせ、目には涙を一杯うかべているのです。額は燃えるようで、歯はがちがち鳴っています。『どうしたの? 病気なの?』と訊くと、あれはいきなり僕の頸にかじりついて、もし兄さんがあたしを殺したくなかったら、一刻も早くつれて立ってくれ、と云うじゃありませんか……僕はなんにも分らないまま、何とかして落ちつかせようとしていました……妹のしゃくり泣きはいよいよ烈しくなる……と、不意にそのしゃくり泣きの間から、一体なにを僕は聞いたでしょう……まあ一口に云えば、妹はあなたに恋していると云うのです。全くのところ、僕やあなたのような分別の出来た人間には、想像も出来ないことですが、あれは物ごとを実に深く感じるたちで、しかもその感情が想像もつかないような力で表現されるんですからね。おまけに、それが雷雨か何ぞのように、突然、否応のない力であれを掴んでしまうのです。あなたは実に感じのいい人です。」とガーギンは続けるのでした。「しかし、どうしてあれがこうまであなたを恋してしまったのか、それが正直なところ、僕には合点が行かないのです。あれの云うところに依ると、一目みるとあなたが好きになってしまったんだそうです。それで、妹は四五日まえに、僕のほかには誰ひとり好きになりたくない、と云って泣いたのです。あれはね、あなたに軽蔑されてる、僕があれの身の上をあなたに話した、と思っているのです。僕はもちろん、そんなことはない、と云いましたがね。でも、あれの勘のよさと云ったら、恐ろしい位です。ただもう立ってしまおう、すぐ立ってしまおうと、そればかり願っているのです。僕は夜が明けるまであれの傍についていました。明日にも早速ここを立つということを僕に約束させると、妹はすぐさま眠ってしまいました。僕は考えに考えた挙句、あなたにお話して見ようと決心したのです。僕の考では、アーシャの云うことは尤もで、一番いいのは僕ら二人がここを立って行くことです。だから、今日にもあれを連れて立ちのく筈だったんですが、ひょいとある考えが頭に浮んで、それに引き留められました。もしかすると……あなたも妹が気に入っていられるのかも知れない、それは何とも云えないぞ! というわけで、もし本当にそうだったら、僕は何のためにあれを連れて立ちのく必要があるのだろう。まあ、こう云った次第で、恥も外聞も棄ててしまって、腹を決めたわけです……それに、自分でも何かと気のついたことがありますので……あなたの気持を聞かして貰おう……と腹を決めた次第です……」可哀そうに、ガーギンはすっかり照れてしまいました。「どうぞ失礼はおゆるしを、」と附け加えるのでした。「僕はこうしたごったくさには経験がないものだから。」
私は彼の手を取って、
「あなたは、」としっかりした声で切り出しました。「僕がお妹さんを好きかどうか、それが知りたいと仰しゃるんですね? そうです、僕は好きなんです……」
ガーギンはちらと私を見て、
「しかし、」と口ごもりながら云いました。「あれと結婚はなさらんでしょうね?」
「え、そんな質問に対して、返事をしろと仰しゃるんですか? まあ、考えても見て下さい、いったい僕が今すぐ……」
「分っています、分っています。」とガーギンは遮りました。「僕はあなたから返事を要求する何の権利も持っていません。それに僕の質問は不躾の頂上です……しかし、一体どうしたらいいんでしょう? 火遊びというやつはけんのんなものです。あなたはアーシャをご存じないけれども、あれは病気になったり、家出したり、あなたに逢曳きを申し出たりしかねない女なんですよ……ほかの女なら、上手に隠して、時期を待つことも出来るでしょうが、あれは駄目です。これはあれに取って初めてのことなんで、――こいつに困るんです! 今朝あれが僕の足もとで、しゃくり上げて泣いた様子をご覧になったら、僕の心配するわけも合点して下さるでしょうよ。」
私は考え込んでしまいました。『逢曳きを申し出す』というガーギンの言葉が、私の胸をちくりと刺したのです。相手の真正直な打ち明けた態度に、おなじ正直さで答えないのは、恥ずべきことに思われたのです。
「そうです。」と私は遂にこう云いました。「あなたの云われる通りです。僕はお妹さんから手紙を貰いました。これがそうです。」
ガーギンは手紙を受け取って、ざっと目を通すと、両手を膝の上へ落しました。その顔にあらわれた驚きの表情は、いささか滑稽だったけれども、その時の私は、笑うどころの話ではありません。
「繰り返して申しますが、あなたは潔白な人です。」とガーギンは云い出しました。「しかし、いま一体どうしたらいいのでしょう? どうしたって云うのだろう? あれは自分でここを立ってしまいたいと云いながら、あなたにこんな手紙をよこして、自分で自分の不注意を責めてるんですからね……いったい何時の間にこんな手紙を書いたんだろう? 一体あれはあなたに何を望んでいるのでしょう?」
私は相手の気持を落ちつけて、出来るだけ冷静に、これからどうしたらいいかを、二人で相談しはじめました。
とどのつまり、私達はこういう風に話を決めました。私は逢曳きに出かけて行って、正々堂々と話合いをつけるし、ガーギンは家にじっとしていて、手紙のことを知っているような素振りは毛ほども見せぬこと、それから晩になってまた二人で落ち合う、とこんな風に決めたのでした。
「僕はあなたを心から頼りにしています。」とガーギンは云って、私の手を握りしめました。「あの娘《こ》も僕も容赦して下さい。が、それにしても僕らはやはりあす出発します。」と彼は立ちあがりながら附け加えるのでした。「だって、あなたはアーシャと結婚なさらないでしょう。」
「まあ、晩まで待って下さい。」と私は答えました。
「そりゃいいですが、でも結婚はなさるまい。」
ガーギンは帰って行きました。私は長椅子に身を投げて、目を閉じました。あまり多くの印象がどっとばかり流れ込んだので、頭がくらくらする思いでした。私はガーギンの正直なのも忌々しかったけれど、アーシャも忌々しい気がしました。彼女の恋は私を悦ばせもしたけれど、当惑させもしたのです。一体どうして兄に何もかも云ってしまったのか、そのわけが分らない。やがて間もなく一気に決定しなければならぬ、その退っぴきならぬ立場が私を悩ますのでした……『やっと十七やそこいらの、おまけにああ云う気分の小娘と結婚する、そんなことが出来るものか!』と私は起きあがりながら、独りごちました。
一五
約束の時間に、私はラインを渡りました。向う岸でまず一番に出会った人間は、今朝うちへ来たのと同じ小僧で、明らかに私を待っていた様子です。
「フロイライン・アンネットから。」と小僧は小声で云って、また手紙を差し出しました。
アーシャは、逢曳きの場所を変更したことを、知らせて寄越したのです。一時間半ばかり経ってから、礼拝堂ではなく、フラウ・ルイゼの家を訪ねて、階下《し た》の戸を叩き、三階へ通ってくれと云うのでした。
「また、承知、ですか?」と小僧は訊ねた。
「承知だ。」と私は鸚鵡返しに云って、ラインの岸づたいに歩き出しました。もう宿まで帰る暇はなかったので、街々をさ迷う気になったのです。町を囲む高い壁の外に小さな遊園地があって、庇の下に九柱戯《ケーグリ》をして遊ぶ場所もあれば、ビール党のための卓も幾つかある。私はそこへ入って行きました。年配の独逸人がいくたりか、九柱戯を闘わしていました。木の玉がごろごろと転がって行くと、折々賞讃の叫びが起る。目を泣き腫らした渋皮のむけた女中が、私にビールのジョッキを持って来ました。私がその顔を見ると、女はつと横を向いて、あっちへ行ってしまいました。
「そう、そうなんだ。」すぐそこに腰かけていた、頬っぺたの赤い、よく肥えた町の男がこう云いました。「ハンヘンは今日とても愁傷なんだよ。いい人が兵隊に行っちまったんでな。」
私は女の方を見やりました。女は片隅にすっ込んで、片手を〓に当てていましたが、涙の玉が後から後からと、その指を伝って流れるのでした。誰やらビールを注文したので、女はそちらへジョッキを持って行くと、またもとの場所へ帰りました。この女の悲しみは、私にまで感染《う つ》ってしまいました。私は目前に控えた逢曳きのことを考え始めたのですが、頭に浮ぶのは何かしら気づかわしい、浮き浮きしない考えばかりでした。私は重い心をいだいて、その逢曳きに出かけました。私の前に控えているのは、恋し合った同士の喜びではなくて、約束した言葉を守ること、困難な義務を果すことでした。
『あの娘《こ》には冗談など云えません。』といったガーギンの言葉が、矢のように私の胸にささりました。ついさきおとといは、あの河波に押し流される船の中で、幸福を渇望する思いに悩んだではないか? それが叶ったのに――俺は動揺している、その幸福を押しのけようとしている、押しのけなければならないのだ……
その幸福があまり思いがけなかった、それが私を当惑さすのでした。当のアーシャ、ああいう火のような頭をした、ああいう過去を持った、ああいう教育を受けたアーシャ、ああいう魅惑に富んだ、しかし風変りな娘、――それが私を脅かすのでした。私の内部では長い間、二つの感情が戦っていました。指定の時刻が迫って来ました。
『俺はあの娘と結婚するわけには行かない。』とうとう私は腹をきめました。『あの娘は、俺がこっちでも好きになったことに、気がつきはすまい。』
私は立ちあがって――哀れなハンヘンの手に一ターレル握らせ(女は私にお礼も云いませんでした)、フラウ・ルイゼの家をさして歩き出しました。夕影は早くも大気の中に拡がって、暗い通りの上に覗かれる一幅の狭い空は、夕焼けの反射に燃えるようでした。私が弱々しくノックすると、戸はすぐにあきました。閾を跨ぐと、中は真暗でした。
「こちらへ。」という老婆らしい声が聞えました。「お待ちかねですよ。」
手さぐりで二足ばかり歩くと、誰かの骨ばった手が、私の手を掴みました。
「あなた、フラウ・ルイゼですか?」と私は訊きました。
「そうですよ。」と同じ声が答えました。「わたくしですよ、若い綺麗なお方。」と云って、老婆は急な階段づたいに、私を上の方へ案内して行き、三階の踊場で足をとめました。
小さな窓から洩れる弱々しい光で、前町長未亡人の皺だらけな顔が見えました。甘ったるい、ずるそうなにたにた笑いが、その唇を押し拡げ、どんよりした目を細めていました。老婆が小さな戸口をさして見せたので、私は痙攣する手つきでその戸を開け、中へ入ると、ぱたんと閉めました。
一六
私の入っていったささやかな部屋は、かなり薄暗かったので、すぐにはアーシャの姿が見えませんでした。長いショールにくるまって、まるで慴《おび》やかされた小鳥のように、顔をそむける、というより、殆んど隠すようにして、窓ぎわの椅子に腰かけていました。息づかいが早くて、全身わなわなと慄えているのです。私は言葉に尽きせぬほど可哀そうになりました。傍へ寄ると、アーシャは更に顔をそむけるのでした……
「アンナ・ニコラエヴナ。」と私は云いました。
アーシャは不意にきっと身を反らして、私の方を見ようとしましたが、それが出来ないのです。私はその手を取りましたが、それは冷たい手で、死んだもののように、私の掌でじっとしている。
「あたし……」とアーシャはにっこり笑おうと努力しながら、こう云いかけましたが、蒼ざめた唇は云うことを聞かないのでした。「あたし、実は……いえ、駄目ですわ。」と云って、口をつぐんでしまいました。全く、その声は一語々々に途切れるのでした。
私はその傍に腰を下ろしました。
「アンナ・ニコラエヴナ。」と私は繰り返したけれど、やはり何一つ附け加えることが出来ません。
沈黙が襲って来ました。私はやはりアーシャの手を取ったまま、その顔を見ていました。アーシャは相変らず身を縮めて、息も苦しく、泣き出すまい、せぐり来る涙を押えようと、下唇をきっと食いしばっている……私はじっと見ていましたが、そのおずおずと鳴りを潜めた様子には、何かいじらしい程たよりなげなものがあるのです。まるでへとへとに疲れて、やっとこの椅子まで辿りつくと、そのままへばり込んだ、そういう風に見えるのです。私は心臓が溶けて行くような思いでした。
「アーシャ。」と私は聞えるか聞えないかの声で云いました……
アーシャはゆっくり、ゆっくりと目を上げました……ああ、恋する女の目つきというものは、とても形容の出来るものではない! それは、その目は祈っているのです、頼り切っているのです、問いかけているのです、身も心も任せ切っているのです……私はその魅力に抗《あらが》うことが出来ませんでした。一筋の細い火が私の体じゅうの血管を、熱い針のように流れて、私は身を屈め、女の手に唇をつけました……
引っ千切った吐息のような、わななくような響がしたと思うと、私は木の葉のように弱々しく慄える手が、自分の髪に触るのを感じました。私は頭を上げて、アーシャの顔を見ました。それはまあ、何という急な変りようでしょう! 恐怖の表情は消え失せて、眼ざしは何処か遠い方へさ迷いながら、私まで一緒に引っ張って行く。唇は心もち開いて、額は大理石のように蒼ざめ、髪はさながら風に吹き払われたように、うしろにさっと靡いている。私は何もかも忘れて、女を引き寄せました。その手は大人しく云うことを聞いて、体ぜんたいがその手について来るのです。ショールは肩からずれて、頭はそっと私の胸にもたれるのです。私の熱した唇の下に……
「あなたのものよ……」とアーシャは聞えるか聞えないかの声で囁きました。
もう私の手は女の体に沿って滑っていましたが……突然ガーギンのことが稲妻のように浮んで来て、私の胸を打ちました。
「僕達はいったい何をしているのだ!」と私は叫ぶなり、痙攣したような身振りで後へすさりました。「兄さん……兄さんは何もかも知っていらっしゃるんですよ……僕らがここで会うってことを、知ってらっしゃるんです。」
アーシャはぐったりと椅子に腰を落しました。
「そうなんです。」と私は立ちあがって、部屋の反対の隅へ行きながら、言葉をつづけました。「兄さんは何もかもご存じなんです……僕あの人にすっかり云ってしまわずにはいられませんでした……」
「いられなかったんですって?」とアーシャはぼやけたような声で云った。どうやら、いまだに我に返ることが出来ず、私の云うこともろくに分らない様子なのです。
「そうです、そうです。」と私は何かむきになったように繰り返すのでした。「しかも、それもただあなたのせいなんですよ、あなただけの。何だってあなたは兄さんに、ご自身の秘密を打ち明けたのです? 何もかも兄さんに云ってしまうなんて、誰もそんなことを強いた人はないじゃありませんか。あの人はきょう僕のとこへ来て、あなたと話したことを僕に聞かせてくれました。」私はアーシャの方を見ないように努めながら、大股に部屋の中を歩き廻っていました。「今では何もかもおしまいになっちまいました、何もかも、何もかも。」
アーシャは椅子から身を起そうとしました。
「じっとしてて下さい。」と私は叫びました。「じっとしてて、お願いです。私は潔白な人間なのですから――ええ、潔白な人間ですとも。しかし、後生だから聞かせて下さい、なんだってあなたはああ興奮したんです? 一体あなたは僕に何かしら変ったところでも見つけたんですか? ところで、きょう兄さんが宿へ見えた時、僕はあの人に対して、包み隠しをするわけに行かなかったのです。」
『俺は何を云ってるんだ?』と私は心の中で思いました。そして、自分は道にはずれた嘘つきだ、ガーギンはこの逢曳きのことを知っている、何もかも駄目になってしまった、ばれてしまった、などという考えが、頭の中でじんじんと鳴り響いているのです。
「あたし兄さんを呼んだんじゃありませんわ。」というアーシャの慴えたような声が聞えました。「兄さんが自分で来たんですもの。」
「まあ、考えてもご覧なさい、あなたは何てことをしてしまったんでしょう。」と私は言葉をつづけるのでした。「これからあなた方は立って行くおつもりですか……」
「ええ、あたし立たなくてはなりません。」と彼女は依然として小さな声で云いました。「あたしがここへおいでを願いましたのも、ただお別れのご挨拶をするためなんですの。」
「一体あなたは、」と私は云い返しました。「僕が平気であなたとお別れ出来ると思ってらっしゃるんですか?」
「でも、何故あなたは兄に云っておしまいになりましたの?」とアーシャは不審そうに訊ねるのでした。
「僕は敢て云いますが、あれよりほかの行動は取れなかったんです。もしあなたがご自分の方で、心の中を打ち明けたりなさらなかったら……」
「あたし自分の部屋に鍵をかけてたんですけど、」とアーシャはあどけない調子で答えました。「おかみさんが合鍵を持ってるってこと知らなかったもんですから……」
こういう場合、当人の口からこういう罪のない告白を聞かされたので、私はその時ほとんど向っ腹を立てないばかりでした……が、今では感動の情なしには追懐することが出来ません。可哀そうに、正直で真剣な子供!
「そういうわけで、今となっては何もかもおしまいです!」と私は更に云い出しました。「何もかも。今はお互に別れなくちゃなりません。」私はそっとアーシャを盗み見すると……その顔には見る見るくれないが射して来るのです。恥ずかしくもあれば、恐ろしくもなって来たのでしょう。私にはそれが感じられました。私自身も、まるで熱病にでもかかったように、歩き廻りながら喋りつづけるのでした。「あなたは、せっかく芽をふき始めた感情を生長させなかったのです。あなたは自分で僕たちの関係を断ち切ってしまったのです。あなたは僕を信頼して下さらなかったのです。あなたは僕を疑ったのです……」
私がこんなことを云っている間に、アーシャはだんだんと前の方へ屈んで行ったが、不意にばったり床の上に倒れ、両手の上に頭を落して、慟哭しはじめました。私はその傍へ駈け寄って、抱き起そうとしましたが、アーシャはそうはさせないのです。私は女の涙を平気で見ていられないたちでした。女の涙を見ると、私はすぐ途方に暮れてしまうのです。
「アンナ・ニコラエヴナ、アーシャ。」と私は繰り返しました。「どうかお願いです。後生です、やめて下さい……」と私は再び女の手を取りました。
けれど、私の驚き入ったことに、アーシャは突然ぱっと跳ね起きて、稲妻のような早さで戸口へ飛んで行ったかと思うと、そのまま姿を消してしまいました……
暫くたって、フラウ・ルイゼが部屋へ入って来た時、私は依然として雷にでも打たれたように、部屋のまん中に突っ立っていました。この逢曳きがどうしてこんなにあっけなく、こんなに愚かしく終を告げたのか、とんと合点が行きませんでした。私は自分の云わなければならぬことを百分の一も云ってしまわず、このいきさつがどう解決するやら、私自身にもまだよく分らなかったのに、あのまま終を告げるとは……
「フロイライン(お嬢さん)はお帰りになりましたか?」とフラウ・ルイゼは、黄色い眉毛を額の附髷のとこまで吊り上げながら、こう訊ねたものです。
私は馬鹿のように、その顔をぽかんと見ていたが、――そのままぷいと出てしまいました。
一七
私は郊外へ出て、いきなり野の方へ飛んで行きました。忌々しさ、気ちがいじみる程の忌々しさが、私の胸を噛むのでした……私は自分で自分にありったけの非難を浴せました。アーシャが余儀なく逢曳きの場所を変えなければならなくなった原因を、どうして俺は察しようともせず、有難いとも思わずにいられたのだろう? 彼女があの老婆のとこへ行くには、どれだけの勇気と決心が要ったことだろう? なぜ俺はアーシャを引き留めなかったのだろう!
彼女と二人、あのがらんとした、覚束ない光に照らされた部屋の中にいる時は、彼女を突きのけた上に、咎め立てさえする力も勇気もあったけれど……今は彼女の面影が私のあとを追って来るのです。私は彼女に赦しを乞うのでした。あの蒼ざめた顔、あの潤みを帯びた臆病そうな眼ざし、うな垂れた頸筋にこぼれた髪の毛、軽く私の胸に凭れた彼女の頭の感触などを思い起すと、私は胸を焼かれる思でした。『あなたのものよ……』という彼女の囁きが聞える。
『俺は良心の命ずる通りに行動したのだ。』と私は自分で自分を説き伏せようとしました……『嘘だ! いったい俺は本当にああいう大団円を望んでいただろうか? いったい俺は彼女と別れることが出来るだろうか? 彼女なしに生きて行かれるだろうか? 気ちがい! 気ちがい!』と私は憤然として心に繰り返すのでした。
とかくする中に、夜が来ました。私はアーシャの住んでいた家をさして、大股に歩き出しました。
一八
ガーギンが迎いに出て来ました。
「妹に会いましたか?」とまだ遠くの方から叫ぶのでした。
「おや、うちじゃないんですか?」と私は訊ねました。
「そうじゃないんです。」
「帰って見えませんでしたか?」
「帰って来ません。僕、まことに済まんことですが、」とガーギンは言葉をつづけました。「つい我慢し切れないで、二人の申し合せには背きますが、礼拝堂まで行って見た。ところが、あれはいないじゃありませんか。してみると、妹は来なかったわけですね?」
「お妹さんは礼拝堂へは行かれなかったのです。」
「じゃ、あなたは妹に会わなかったんですか?」
私は会ったと、白状しないわけに行きませんでした。
「どこで?」
「フラウ・ルイゼのとこです。僕達は一時間まえに別れたんだから、」と私は附け加えました。「あのひとはもう家へ帰っておられるものとばかり思っていました。」
「じゃ、待って見ましょう。」とガーギンは云いました。
私達は家の中へ入って、差し向いに腰を下ろして、だんまりでいました。二人ともばつが悪くて仕様がないのでした。私達はのべつ振り返っては、戸口の方を見て、耳を澄ましていました。遂にガーギンは立ちあがって、
「こんなことってあるもんじゃない!」と叫びました。「僕は気が気じゃない。あれには手こずってしまいますよ、全く!……一緒に捜しに行きましょう。」
私達は外へ出ました。あたりはもうすっかり暗くなっています。
「あなたは妹とどんな話をしました?」とガーギンは帽子をま深に被りながら訊ねました。
「僕があのひとと話したのは、たった五分間ほどでした。」と私は答えました。「僕は申し合せた通りの話をしたのです。」
「どうでしょう?」とガーギンは云い出しました。「二人わかれわかれになろうじゃありませんか。その方が早く捜し当てられます。いずれにしても、一時間たったら、またここへ来て下さい。」
一九
私は早足に葡萄畑を降りて、町へ飛んで行きました。忽ち街という街を廻りつくし、到るところ、フラウ・ルイゼの窓まで覗いてみて、ライン河のところまで引っ返すと、河岸づたいに駈け出しました……時おり女の姿が見当りましたが、アーシャは何処にもいないのです。もう忌々しさの念どころでなく、内心の恐怖が私を責めさいなむようになりました。しかし、私が感じたのは恐怖ばかりではありません……いや、私は後悔の念と、焼きつくような哀憐と、そして愛情を感じました。そうです! 限りなくやさしい愛情なのです。私は我とわが手を捩じ上げながら、迫って来る夜の闇の中で、アーシャを呼びました。初めは小声でしたが、やがて次第に声を高めながら、俺は彼女を愛していると、ものの百度もくり返し、俺は決して彼女と別れはせぬと、自分で自分に誓うのでした。私はもう一ど彼女の冷たい手を取り、もう一度あの小さな声を聞き、もう一度あの姿を目の前に見るためには、世界中のものを投げ出しても惜しくない位でした……彼女はあれほど近々と立っていたのだ、彼女は純潔無垢な心情を傾けて、断乎たる決心をいだいて、俺のところへやって来たのだ、まだ誰の手にも穢されぬ青春を、俺に捧げに来たのだ……それだのに、俺は彼女を自分の胸に抱きしめもしないで、あの愛らしい顔が悦びと、静かな歓喜に開花するさまが眺められたのに、その幸福をみずから失ったのだ……そう考えると、私は気が狂いそうでした。
『いったい何処へ行くところがあるんだろう、一体どうしたんだろう?』と私は力ない絶望にかられて、悩ましく叫ぶのでした……何かしら白いものが、突然、河岸のすぐ水際に閃きました。私はその場所を知っていたのです。そこは、十七年まえに水死した人の墓があって、その上に古風な碑銘を彫った石の十字架が、半ば土中に埋れて立っている所なのです、私は心臓がとまる思いでした……十字架のそばまで駈けつけてみると、白い姿は消えてしまいました。私は「アーシャ!」と叫びましたが、そのけうとい声は私自身をぞっとさせたばかりで、誰も応えるものはありません……
ガーギンが見つけたかどうか訊こうと思って、私は引っ返すことに決めました。
二〇
葡萄畑の径を足早に登って行く時、アーシャの部屋にあかりが射しているのが見えたので……それが幾らか私の心を落ちつけてくれました。
家へ近寄って見ると、階下《し た》の戸は閉まっていました。ノックすると、階下の暗い小窓が用心ぶかくあいて、ガーギンの首が覗きました。
「見つかりましたか?」と私は訊ねました。
「自分で帰って来ました。」とガーギンは小声で答えました。「いま自分の部屋で着換しています。何も変りなしです。」
「まあ、よかった!」何とも云えない嬉しさがどっと溢れて、私はこう叫びました。「いい按配でした! 今では何もかも結構です。でも、何でしょう、僕達はまだよく話し合わなくちゃなりませんね。」
「また日を変えましょう。」とガーギンはそっと鎧戸を引っぱりながら答えました。「また日を変えましょう。今はさようならということにして。」
「また明日。」と私は云いました。「明日はすっかり話が決まるんです。」
「さようなら。」とガーギンは繰り返し、窓はぱたんと閉まりました。
私は危く窓を叩きかけた程です。その時すぐガーギンに、お妹さんを貰いたいと云いたかったのです。しかし、こんな時刻に縁談も……『明日まで待とう。』と私は考えました。『明日こそ俺は幸福になるのだ……』
明日こそ俺は幸福になる! しかし、幸福には明日という日はないのです、昨日という日もありません。幸福は過去のことも考えなければ、未来も考えません。幸福には現在、と云っても今日ではなく、ただ目前の瞬間があるばかりなのです。
どんな風にしてZ町まで帰ったのか、私はなんにも覚えがありません。足が私を運んだのでもなければ、船が渡してくれたのでもありません。何かしら大きな力強い翼が、私を大空へ持ち上げたのです。夜鶯の歌っている茂みの傍を通りかかった時、私は足をとめて、長いこと聞き入りました。それはさながら私の愛と、私の幸福を歌ってでもいるかのようでした。
二一
翌朝、私が馴染みの深い小家に近づいて行った時、一つの光景が私をはっとさせました。窓という窓がすっかり開け放されて、入口の戸までが一杯にひらかれているではありませんか。閾の辺には何かの紙きれが転がっています。箒を持った女中が、戸の外へ現われました。
私がその傍へ寄って行くと……
「立ってしまわれました!」私が『ガーギンさんは家か?』と訊ねる間もなく、女中は叩きつけるようにこう云いました。
「立ってしまわれた?……」と私は鸚鵡返しに云いました……「立ってしまったとは、どうしたことだね? 一体どこへ?」
「今朝、六時に立たれましたが、何処へとも仰しゃいませんでした。ちょっとお待ちになって、あなたはNさんのようですね?」
「ああ、Nだ。」
「あなたに宛てたお手紙が、おかみさんのとこにありますよ。」女中は中へ入って行くと、やがて一通の手紙を持って帰りました。「これでございます、どうぞ。」
「そんな筈がない……どうしてそんなことが?……」と私は云いかけたが、女中は鈍い目つきでじっと私の顔を見て、やがて掃除にかかりました。
私は封を切って見ました。これはガーギンが私に寄越したもので、アーシャからは一行の書きのこしもありません。ガーギンはまず第一に、どうかこの唐突な出発に腹を立てないでほしい、がよくよく考えて下すったら、貴兄も自分の決心に賛成して下さることと確信する。困難危険なものとなる惧れの多いこの状態を脱するために、これよりほかの手段を見いだし得なかった旨を述べ、『昨晩、貴兄と共に無言の中にアーシャを待っている間、小生は袂別の絶対に必要なことを確信しました。世には、小生とても認めざるを得ないような先入見もあるものです。従って、貴兄がアーシャと結婚するわけに行かぬと云うことも納得する次第です。妹は小生に一切を話してくれました。妹の安静のためには、小生も彼女の執拗にくり返してやまぬ乞いに譲歩せざるを得ませんでした。』と書き、最後に、お互の交遊がかくも果敢なく中絶したことに哀惜の意を表し、貴兄の幸福を祈りつつ、親友としての握手をするが、どうか我々を捜し出そうなどとしないでほしいと結んでいました。
「先入見とは何だ?」と、まるで相手に自分の声が聞えるものかなんぞのように、私は呶鳴りました。「なんて馬鹿な! あれを俺の手から奪って行くなんて、いったい誰がそんな権利を授けたのだ……」私は我とわが頭を掻きむしりました。
女中が大声にお主婦さんを呼びはじめたので、その頓狂な声に私は我に帰りました。ただ一つの想像が私の心に燃え立って来ました。それはほかでもない、あの兄妹を捜すことです、是が非でも捜し出すことです。このような打撃を甘受すること、このような結果と妥協することは、とても出来ません。私はお主婦さんの口から、二人が朝の六時に汽船《ふ ね》に乗り込んで、ライン河を下って行ったことを知りました。汽船の事務所へ出かけて聞いたところ、二人はケルンまでの切符を買ったとのことです。私はさっそく支度をととのえ、二人のあとを追って汽船に乗ろうと決心し、宿へ足をむけましたが、その道筋がフラウ・ルイゼの家の前を通るようになっていたのです……不意に誰か私を呼ぶ声が耳に入りました。頭を上げて見ると、前の晩アーシャと会ったあの部屋の窓に、前町長の未亡人が顔を出して、例のいやらしいにたにた笑いをしながら、私を呼んでいるのです。私は顔をそむけて、そのまま通り抜けようとしましたが、老婆は私に渡すものがあると、後ろから喚くのです。この言葉に足をとめられて、私は家の中へ入りました。再びこの部屋を見た時の私の感慨は、何と伝えていいでしょう……
「本当のことを云うと、」と老婆は小さな書きつけを見せながら、こんなことを云い出しました。「あなたがご自分の方からおいでになったのでなければ、これをお渡ししちゃならない筈だったのですが、あなたが余りお立派な方だから、差し上げますよ。」
私は書きつけを受け取りました。
小っぽけな紙きれには、鉛筆の走り書で、次のような言葉が読まれたのです。
『さようなら、もう二度とお目にかかることはございますまい。わたくしが出発しますのは、高ぶった気持のためではありません。いいえ、わたくしとしては、それよりほかに仕方がなかったからでございます。昨日わたくしがあなたの前で泣いた時、もしあなたが何か一こと云って下すったら、たった一こと云って下すったら、わたくしも当地に残ったのでございますが、あなたは何とも仰しゃって下さいませんでした。どうやら、その方がよかったようでございます……では、永久にさようなら!』
たった一こと……ああ、俺は何という空呆《うつけ》ものだ! その一ことを、俺は前の晩、何度も涙ながらに繰り返して、惜しげもなく風に撒き散らしたではないか、がらんとした原中で幾度となく云ったではないか……しかし、俺は彼女に向ってそれを云わなかった。『僕はあなたを愛している』と云わなかった……また、そのとき私はその一ことを口にすることが出来なかったのです。あの宿命的な一室で逢った時、私の内部にははっきりした愛の意識がなかったのです。兄と二人で無意味な、重苦しい沈黙の中に対坐していた時でさえも、それはまだ目をさましていなかったのです……それからちょっと経った後、もしや不吉なことでも起りはせぬかという疑念に愕然として、彼女の名を呼びながら捜し歩いた時……その愛がやむにやまれぬ力をもって燃えあがった……が、その時はもう遅かったのです。『いや、そんなことはあり得ない!』と人は恐らく云うでしょう。あり得るか得ないか、私は知りませんが、それが本当だということだけは分っています。もしアーシャに影ほどでも媚態を弄する気持があり、それに彼女の身の上が尻くすぐったいものでなかったら、彼女は立って行きはしなかったでしょう。ほかの女なら誰でも辛抱しそうなことが、彼女には辛抱しきれなかった。私はそれが分らなかったのです。私のよくない根性が、あの暗い窓の前で最後にガーギンと会った時、口に出かかった告白を押しとめたのです。こうして、掴まえれば掴まえられる最後の糸が、私の手から滑りぬけてしまったのです。
その日すぐ、私は鞄の荷造りをしてL町へ引っ返し、汽船《ふ ね》でケルンへ赴きました。今でも覚えていますが、もう汽船が岸を離れようとした時、私がもはや決して忘れてはならないこれらの街々、一つ一つの場所に向って、心ひそかに別れを告げていると、あのハンヘンの姿が目に入りました。河岸のとある石の上に腰を下ろしているのです。その顔は蒼ざめてはいたものの、若いいい男が傍に立って、笑いながら何やら話して聞かせていました。ラインの向う岸には、私の好きな小さいマドンナが、古い秦皮《とねりこ》の暗い緑の蔭から、依然として悲しげな顔を覗けているのでした。
二二
ケルンでガーギン兄妹の手がかりがつきました。二人がロンドンへ行ったと聞いたので、私はすぐその後を追いました。しかし、ロンドンでどんなに手を尽してみても、すべては徒労に終りました。私は長いこと諦めようとせず、ずいぶん強情をはりましたが、挙句の果、あの兄妹を見つけようと云う希望を放擲せざるを得なくなりました。
それきり私は二人に会いませんでした、――アーシャを見ませんでした。ガーギンの噂は、風のたよりに私の耳に入りましたが、アーシャは私にとって永久に消え失せたのです。生きているかどうか、それさえ知れぬ有様です。ある時、もう何年もたってから、私は外国のとある汽車の中で、ちらと一人の婦人を見ましたが、その顔が忘れることの出来ない面影に生き写しなのです……が、それは恐らく偶然の類似にだまされたのでしょう。アーシャは私の記憶の中で、まだ私が幸福だった頃に知っていた小娘のままで、――低い木造りの椅子の背に凭れていた、あの最後の姿のままで残っています。
尤も、白状しなければなりませんが、私はあまり長くアーシャのことを思ってくよくよしませんでした。それどころか、運命が私とアーシャを結び合せなかったのは、よい取り捌きだった、とさえ思った位です。ああいう妻をめとったら、恐らく幸福にはなれなかったろうと考えて、それを慰めにしていました。なにぶん、私はそのとき若かったものですから、未来、――あの短い電光のごとき未来が、限りないもののように思われたのです。前にあったのと同じこと、それどころか、あれよりもっといいこと、もっと素晴らしいことが、また繰り返されぬということはあるまい……そう考えたものです。私は色々の女を知りましたが、アーシャに呼びさまされたような、焼きつくばかりの、しかも優しい、深い感情は、もはや再び経験しませんでした。それどころか、目だけ取って見ても、かつて愛情を湛えて私にそそがれたあの目に代り得るようなものもなかったし、誰の心臓が私の胸に押し当てられても、私の心臓があれほど喜ばしい、甘美な、痺れるばかりの気持で共鳴したことはありません! 家庭を持たぬ淋しい独りものという運命を背負わされた私は、味気ない晩年を送っていますが、アーシャの手紙と、萎《しお》れ果てた西洋葵、――いつか彼女が窓から投げてくれた花は、神聖なものとして保存されています。花は今だに微かな香りを残していますが、それを私に投げてくれた手、私がたった一度くちづけすることの出来た手は、もうとくの昔に墓の中で朽ちているかも知れません……また私自身も、――私はまあ何ということになったものでしょう? 私という人間、あの幸福で落ちつきのなかった時代、さながら翼にでも乗ったようなあの希望や憧れ、それらのものから、一体なにが残っているでしょう? こうした果敢ない草花のあるかなきかの香りでも、人間のあらゆる喜びや悲しみより寿命が長い――人間自身より寿命が長いものです。
ファウスト
Entbehren sollst du, sollst entbehren
『ファウスト』第一部
BよりVへ
M村にて、一八五〇年六月六日
一昨々日、僕はここへ着いた。そして、約束通りペンを取って、君に手紙を書くことにした。朝から小雨が降っているので、外へ出るわけにもゆかないし、それに僕もちょうど君と一と喋りしたい気持ちがするのだ。さて、僕はまたもや元の古巣に落ち着いたが、ここには――口に出すのも恐ろしい――まる九年足踏みしなかったのだからね。全く考えてみると、僕はまるで別人になったようだ。いや、本当に人がちがったのだ。君も覚えているだろう、客間にどんより曇った小さな鏡がかかっている。曽祖母《ひいばば》時代からのもので、四隅になんだか妙な唐草めいた飾りがある――君は以前よくこの鏡を見て、百年前にはどんなことを見て来たのだろう? などと空想していたものだが――僕は着くといきなりその傍へ寄って、思わず忸怩《じくじ》とした。僕は思いがけなく、自分が最近めっきり年を取って、様子が変ってしまったのを発見したのだ。もっとも、年を取ったのは僕ばかりでもない。もう前から古びきっていた僕の家は、歪み傾いて、やっと倒れないでいるというばかり、殆んど地の中へめり込んでいる。人のいい女中頭の〓シーリエヴナ(君もきっとこの女を忘れはしないだろう。よく君に素晴らしいジャムを振舞ったものだからね)、すっかり萎びて、腰が曲ってしまった。僕の顔を見ても、叫び声を立てることも出来なければ、泣き出しもしないで、ただおお、おおと嘆声を発して、咳をしながら、ぐったりと椅子に腰を落し、手を左右に振るばかりなのだ。チェレンチイ老人はまだ元気で、相変らず背中を真っすぐに延ばし歩く時に足をひょいと一と捻り捻る。その足はやはり、例の黄色い南京木綿のズボンで包まれ、ぎいぎいと鳴る、甲の高いリボン付の山羊皮の編上靴を履いている。これは一度ならず君を感心させた代物なのだが……悲しい哉! 今はこのズボンが瘠せた足にだぶだぶからまっているではないか! そして頭髪《あたま》の白くなったこと! 顔はすっかり窄まって、握り拳くらいの大きさしかない。この老人が僕に話しかけたり、隣の部屋で指図したり、命令したりするのを聞くと、僕はおかしくもあれば、可哀そうにもなって来る。歯という歯は抜けてしまって、口をもぐもぐさせながらものを云うと、笛のような響きや、しゅっしゅっという音が洩れて出るのだ。
そのかわり、庭は驚くばかりよくなった。紫《むらさき》丁香花《はしどい》や、アカシヤや、すいかずら等の貧弱な株が(僕たちがこんなものを一緒に植えたのを、覚えているだろうね)、びっしり隙間もないほど、見事な茂みになっているし、白樺も楓も、すべて思う存分のび拡がっている。殊に菩提樹の並木が立派になったこと、僕はこの並木が大好きだ。灰色がかった緑のしとやかな色調と、その丸天井の下に漂うほのかな香りが好きだ。黒土の上に印せられた、明るい、レースのような編目模様が好きだ――君も知っての通り、僕の庭には砂というものがないのだ。僕の秘蔵の樫の苗木はもう立派な若木になってしまった。昨日の昼間、僕はその木蔭のベンチで一時間以上もぼんやりと時を過ごした。それは実にいい気持ちだった。あたりには草がさも楽しげに花咲き乱れて、ものみなの上に強弱さまざまな黄金色《こんじき》の光がさしている。木蔭にさえもさし込んで来るのだ……そして、鳥の囀りのふんだんに聞えること! 君は恐らく僕が小鳥きちがいなのを忘れてくれはしないだろうね。しらこ鳩がひっきりなしに、含み声でくっくっ鳴いていると、高麗鶯がときどき口笛を鳴らし、あとりが優しい一と節を巧みに歌う。つぐみがやたらに腹を立てて、騒々しく喚き立てると、遠くで郭公がこれに応じる。と、急に啄木鳥が気ちがいのように、けたたましい叫び声を上げる。僕はこれらの声の渾然と溶け合った柔かな響きを、飽きもせずにじっと聞き入って、身動きさえしたくなくなってしまう。そして心の中は、物憂さとも感激ともつかない気持ちで一杯になる。
生長したのは庭ばかりではない。がっしりした肉付のいい若者たちが、しじゅう僕の眼に入るけれど、それが昔なじみの腕白どもだとは、どうしても受け取れないのだ。君のお気に入りのチェーシャ(チモフェイの愛称)が、今ではもうすっかり立派なチモフェイになり済まして、君には想像も出来ないくらいだ。君は当時あれの健康を心配して、やがて肺病になるなどと云ったものだが、いま窮屈な南京木綿の上着の袖から大きな赤い腕がにゅっと突き出し、逞ましい丸々とした力瘤が到るところに盛り上っている様子を、一と目君に見せたいようだ! 頸筋はまるで牡牛のようで、頭には堅く巻いた白っぽい薄色の毛がおっ被さっている――まるでファルネーゼ劇場(一六一八年イタリヤのパルマに建築された額縁舞台を有する最初の劇場)のヘルクレス像そのままだ! 尤も、顔は他の連中より変り方が少ない。容積から云っても、余り大きくなっていないくらいだ。そして、君の所謂「欠伸しているような」愉快らしい微笑は、相変らず元のままだ。僕はこの男を従僕に取り立ててやった。ペテルブルグで使っていたのは、モスクワに置いて来た。余り都会風の取りまわしで、自己の優越を示したがり、僕をたしなめる癖がひどくなったからだ。
僕の犬は一匹もいなかった。みんな死んでしまったのだ。ただネフカだけは一ばん永く生きていたが、それさえアルゴスがウリッスを最後まで待ったように、僕の帰りを待ってはくれなかった。こうして自分の旧主人であり猟仲間である僕を、かすんだ眼で見るべき運が廻って来なかったのだ。シャーフカは無事で、相変らずしゃ嗄れ声で吠え立てている。片耳は昔に変らず破れたままで、尻尾には定式通り、牛蒡の実がくっついている。
僕は昔の君の部屋に落ちつくこととした。正直なところ、この部屋は日がさし過ぎて、蠅がやたらにいるけれど、その代り、ほかの部屋ほど古屋敷の匂いがしない。妙なことには、この古くさい、少し酸っぱいような弛んだ匂いが、ひどく僕の想像に働きかけるのだ。それは不快というわけではなく、むしろその反対なのだが、僕の心に憂愁の念を呼び醒まして、ついには意気銷沈の境に追い落してしまう。僕は君と同様に、真鍮の金具の付いた古い武骨な箪笥や、倚っかかりが楕円の形になっていて、足の曲った白塗りの安楽椅子や、真中に紫色の金具で出来た大きな卵が飾りに付いている、蠅の糞だらけな硝子のシャンデリヤ――すべてこういった先祖代々の家具類が大好きなのだけれども、始終こういうものばかり見てはいられない。何かしら不安な倦怠(全くそうなのだ!)が僕の心を領してゆく。僕の落ちついた部屋に飾られている家具類は、ごくありふれた邸の手製物だが、僕は片隅に細長い戸棚を残して置くことにした。その棚の上には、緑や青の硝子で作った旧式な器が、埃りを透かしてほの見えている。壁には黒縁の額を懸けさせた。それは覚えているだろう、君がマノン・レスコオ(アベ・ブレヴオ(フランス人)の小説、近代恋愛小説の先駆といわれる)の肖像だと云っていた婦人像だ。この九年間に少々黒ずんでは来たが、眼は依然として物思わしげに、しかも狡い感じのする優しさで、じっと見つめているし、唇は依然として軽はずみな、そのくせ物淋しい微笑を浮べているし、半ばむしられた薔薇の花は、依然として華奢な指の間から静かにこぼれている。
僕の部屋に懸かっているブラインドは、実に愉快なものだ。それはかつて緑色だったのが、日に焼けて黄ばんでいる。その上にはダルランクールの『隠者』から取った場景が、いくつか墨で描いてある。一枚のブラインドには物凄い頤鬚を生やして、大きな眼をむき出し、サンダルを履いたこの隠者が、誰かしら髪をおどろに振り乱した処女を、山の中へ引っ張って行くところが描いてあるし、もう一つには、頭にベレエ帽を被り、ブッフを肩に掛けた、四人の武士の命がけの格闘が描かれている。一人は、手短かに云えば《ア ン ラ ク ー ル シ》、こと切れてそこに倒れているのだ――こういった調子で、ありとあらゆる恐ろしい光景が演じられているのだが、あたりを占めているのは闃然《げきぜん》たる静寂で、そのブラインドは実につつましやかな反射を天井に投げている……
僕がここに落ちついて以来、何かこう特別な心静けさが、僕の全幅を領してしまった。何もしたくないし、誰も見たくない。空想の種もないし、思索も億劫だ。けれど、考えるのは決して億劫ではない。この二つは、君自身もよく知っている通り、まるっきり別々なものなのだ。まず少年時代の追憶が、洪水のように僕を襲って来た。どこへ行っても、何を見ても、到る処からくっきりと、鮮かな追憶が湧き起るのだ。細かいデテールまではっきりして、まるでその鮮かな輪郭のままに固まっているような感じだ……やがてこれが他の追憶に変って、それから……それから僕はそっと過去に背中を向けた。すると胸には何かしら混沌とした、一種の重荷が残ったに過ぎない。まあ、どうだろう! 僕は池の堤の楊の下に坐っているうちに、突然思いがけなく泣き出したではないか。もし傍を通りかかった百姓女の手前を思わなかったら、この年をも恥じずに、まだまだ長く泣き続けたに相違ない。百姓女は物珍しそうに、ちょっと僕の顔を眺めたが、やがて僕の方へ顔を向けないで、真正面に恭々しく一礼してそのまま傍らを通り過ぎてしまった。僕はここを出発するまで、つまり九月まで、こういう気持ちでいたいと思う(もっとも、これからはもう涙など流さないのは勿論だ)。だから、もし近在の知人が、誰か僕を訪問しようなどという考えを起したら、それこそがっかりしてしまうに相違ない。だが、そんな心配はなさそうだ、僕には親しい隣人などはないのだから、君は僕の気持ちを分ってくれると思う。孤独が人間に稔り多き結果を齎す場合が、いかにしばしば起り得るかという事は、君も自分の経験で知っている筈だ……今の僕には、ありとあらゆる流転を重ねて来た僕には、この孤独が全く必要なのだ。
ところで、退屈などはしないですむ。僕は数巻の書を携えて来たし、ここにも相当な図書室の設けがあるからだ。きのう僕はありたけの戸棚をみんな開けて、黴くさくなった本を長い間かき廻して、前には気のつかなかった面白いものを、沢山見つけ出した。一七七〇年代に手写本で出た『カンディード』(ヴォールテールの小説、数奇な恋物語に仮託した哲学的寓意小説)の翻訳や、同じ頃の報告書や雑誌、それから勝ち誇れるカメレオン(といって、つまりミラボオ(フランスの政治家(1740-1791))のことだ)の『邪しまなる田舎人《ルペイザン・ペレヴエルテイ》』といったような類だ。子供の本も出て来た。僕自身のもあれば、僕の父のもあり、また祖母のものもあった。それどころか、どうだろう、曽祖母の本さえ現われたではないか。けばけばしい装幀をした、一冊の古い古い仏蘭西文法書に、大きな字で、"Ce livre appartient m-lle Eudoxie de Lavrine"(本書はエウドクシヤ・ラーヴリナ嬢に属す)と書いて、年月日が入れてあるのだが、それが一七四一年なのだ。
それから、かつて僕が外国から持って帰った本も見つけたが、その中にゲーテの『ファウスト』が交じっている。君は承知していないかも知れないが、僕は一時『ファウスト』を一字一句洩らさず暗記していたものだ(第一部だけなのは云うまでもない)。いくら読んでも、読み飽きるということがなかった。しかし、時代が変ると夢も変って来る。で、この九年間、僕は殆んどゲーテを手にする機会がなかった。僕が余りにも思い出多い昔なじみの書物を見た時(それは一八二八年版の粗末な本なのだ)、どんな気持ちがしたか、とても言葉に云い尽せるものではない。僕はその本を持ってベッドにはいり、寝ながら読みはじめた。あの壮大な第一場がどんなに僕を感動させたことだろう! 地霊の出現とその言葉――君も覚えているだろう、「人生の波の上、創造の嵐の中に」云々の言葉は僕の心に、久しく味わなかった歓喜の戦慄と冷気を呼び醒ましたものだ。僕は何もかもすっかり思い出した、伯林《ベルリン》も、当時の学生生活も、クララ・シュチッヒ嬢も、メフィストを演じたザイデルマンも、ラヂヴィールの音楽も、何もかも一つ残らず……僕は長いあいだ寝つかれなかった。青春が再び蘇って、幻の如く僕の眼の前に立ち現れた。それは火の如くまた毒の如く、僕の血管を伝わって流れた。心臓は拡がって、収縮しようとしない。何かしら胸の琴線を打って、様々な欲望が煮えかえるのだ……
もう殆んど四十になんなんとする君の友人は、淋しい家の中で孤独に浸りながら、こういう空想に身を委ねていたのだ! もし誰かが隙見していたら、どうだろう? いや、別にどうもしはしない。僕は些かもそれを恥じとしなかったろう。恥じるということは、それも若さの兆候なのだ。ところで僕は自分の老いてゆくのに、どうして気がついたと思う? ほかでもない、こういう訳だ。僕はいま自分自身に対して、自分の楽しい感覚を誇張して見せ、わびしい気持ちを押しのけようと努力しているが、若い時には全然それと正反対なことをしたものだ、よく自分の憂愁を掌中の玉の如く愛でいつくしんで、楽しい感じの爆発を自分で気兼ねしたものだっけ……
が、わが友ホレーシオよ、(「ハムレット」の登場人物ハムレットの呼びかけの言葉)それにも拘らず――今まで積んで来た人生体験にも拘らず、僕はこの世に自分の体験しないものが、まだ何かあるような気がしてならない。しかもこの「あるもの」が、殆んど一ばん肝腎なことのように思われるのだ。
ああ、思わず筆がすべって、飛んだことまで書いてしまった! では、さようなら! またこの次にしよう。君はペテルブルグで何をしている? ついでに、料理番のサヴェーリイが君によろしくと申し出た。あれも年を取ったが、しかし大したことはない。少しばかり肉が付いて、少々でぶでぶして来たばかりだ。相変らず煮込みの葱を入れた鳥のスープや、縁飾りを付けた凝乳《トヴオローク》や酸汁《ピーグス》などを上手にこしらえる。例の有名な曠野《ステツプ》料理――君の舌を真白にして、まる一昼夜棒のようにしゃちこばらせたあの酸汁《ピーグス》だ。その代り、焼肉は相変らずこちこちに乾して、皿の縁を叩いても音がしそうなほどにしてしまう――まがいもないボール紙だ。だが、もう左様ならだ!
君のP・Bより
同じ人より同じ人へ
M村にて、一八五〇年六月十二日
親愛なる友よ、今日は君にかなり重大な報知を伝えたいと思う。――まずこういう次第だ! きのう食事の前に、ちょっと散歩したくなった、それも庭のそぞろ歩きでは満足出来なかったので、町へ通ずる街道づたいに歩き出した。長い真直ぐな道を、いっさい何の当てもなしに、ずんずん歩いて行くのは、実に気持ちのいいものだよ。まるでどこかへ急いで行っているような、用事でもしているような按配でね。――ふと見ると、向うから一台の幌馬車がやって来る。俺のところへ訪ねて来るのではないかな? と僕は秘かに恐れをいだきながら考えた……けれど、それは思い違いだった。馬車の中には、まるで見覚えのない、口髭の紳士が乗っているので、僕はほっと安堵の息をついた。しかし、馬車が僕の傍まで来た時、紳士は突然馭者に馬を停めさせ、恭恭しく帽子を持ち上げながら、更に恭々しい調子で、あなたは誰それさんではありませんかと僕の名を云って問いかけるのだ。僕も仕方なしに立ちどまって、訊問に引かれて行く被告よろしくの勇気を振いながら、「わたしは誰それです」と答えた。そして、まるで羊のような眼つきで髭の紳士を見つめながら、心の中で、「なんだか、この男は、どこかで見たことがあるようだぞ!」と考えた。
「わたしのお見分けがつきませんか?」そのあいだに馬車から降りて来ながら、彼はこう口を切った。
「いや、どうも。」
「ところが、わたしはすぐあなたを見分けましたよ。」
こう一問一答している間に、この紳士はプリイームコフだと分った。君、覚えているかい? 我々の大学時代の同窓なのだ。『これがどうしてそんなに重大な報告なのだ?』と君はこの瞬間考えるだろう。『プリイームコフは、僕の覚えている限り、かなり空っぽな男だった筈だ。もっとも人は善くて、まんざらの馬鹿でもなかったが』それは正にその通りだ、わが親愛なるセミョーン・ニコラーイッチ、しかし二人の会話の続きを聞いてくれ給え。
「わたしはあなたがご自分の村へ、我々の近在へ帰って来られたと聞いて、実に愉快でしたよ。」とプリイームコフは云った。「もっとも、愉快に思ったのは、わたしだけじゃありませんがね。」
「失礼ですが、」と僕は訊ねた。「一体ほかに誰がそんな厚意を持って下さるんでしょう……」
「妻です。」
「奥さんが?」
「そうです、わたしの家内です。あなたとは昔馴染ですからね。」
「失礼ですが、奥さんのお名は何とおっしゃるのです?」
「妻の名はヴェーラ・ニコラーエヴナ。里の姓はエリツォー〓です……」
「ヴェーラ・ニコラーエヴナですって!」と僕は思わず叫んだ……
つまり、これが手紙のはじめに断わって置いた、重大な報知なのだ。
しかしこう云っても、君は何も重大な点を認めないかも知れない……そこで、僕は自分の過去……遠い過去の出来事を、少しばかり物語らなければならない。
我々が一八三…年に大学を出たとき、僕はまだ二十三だった。君はすぐ官界にはいるし、僕はご承知の通り、伯林へ留学することに決めた。しかし伯林では、十月まで何にもすることがないので、僕は夏中露西亜で暮らすことにした。お名残りに田舎で思う存分なまけた上、秋になったら、それこそ真剣に仕事にかかろう、とこういう腹だったのだ。この最後の計画がどれだけ実現されたか、そんなことは今さら喋々するまでもない……『しかし、何処でこの夏を送ったものかな?』と僕は自問した。自分の村へは行きたくなかった。というのは、父が歿して間もないころで、近しい身内という者もなかったから、孤独と無聊を恐れたのだ……そこで、僕は一人の親戚の勧めに従って、T県の領地に逗留に行くことにした。それは裕福な、人のいい、ざっくばらんな人間で、貴族然とした邸宅を構え、豪奢な暮らしをしていた。僕はそこへ腰を据えたわけだ。その家はなかなかの大家族で、息子が二人に、娘が五人もいた上、家の中にはいつもいろんな人間がうようよしていたし、客はのべつ押しかけて来るのだが――それでも大して愉快ではなかった。来る日も来る日も、騒々しく流れ過ぎて、静かに引き籠っていることなどは、まるで出来ない。何もかも協同でやって、みんなが何かで気をまぎらそう、何か考えつこうと一生懸命になるので、一日の終る頃には、みんなくたくたに疲れてしまうのであった。この生活には、どことなく俗っぽい匂いが感じられた。僕はもうそろそろ逃げ出すことを考えはじめ、ただ主人公の命名日の来るのばかりを待っていた。けれど、丁度この命名日の舞踏会に、僕はヴェーラ・ニコラーエヴナ・エリツォー〓を見たのだ――そして、そのままずるずるべったりになった。
彼女はそのとき十六だった。母親と二人で、伯父の家から五露里ほどの小さな領地に暮らしていた。彼女の父親は、人の話によると、なかなか素晴らしい人物で、僅かの間に大佐まで漕ぎつけ、それから先もどんどん出世しそうな勢いだったが、遊猟で友達の外れ弾に当って、まだ若い身空で死んでしまった。こうして、ヴェーラはほんの赤ん坊時分に、父なし児となった。母親もやはり並外れた女で、数カ国語を自由に操り、しかも中々の物識りであった。彼女は夫より七つか八つ年上だったが、恋愛結婚で一緒になった。男が彼女を親の家からそっと連れ出したのだ。彼女は夫の変死を深く悲しんで、最後の日まで(プリイームコフの言葉によると、彼女は娘の結婚後まもなく死んだそうだ)、黒い喪服のほかは一さい身につけなかった。僕は彼女の顔をまざまざと覚えている。表情に富んだ浅黒い顔で、白いものが混ってはいたけれど、房々とした厚い髪の毛をして、火の消えたような感じのする大きな厳つい眼ざしに、筋の通った細い鼻をしていた。彼女の父親はラーダノフと云って、伊太利に十五年ばかり暮らしていた。彼女はアルバノの百姓娘の腹から生まれたが、この女はヴェーラの母を生んだ翌日、前から許婚だったトランステヴェリヤ人に惨殺されてしまった。ラーダノフに女を横取りされた、その無念晴らしなのだ……この事件は、当時かなり世間を騒がしたものである。露西亜へ帰ってから後、ラーダノフは、自分の家は云うまでもなく、書斎からさえ一足も外へ出ないで、化学や、解剖学や、神秘哲学などの研究をして、人間の命数を延ばそうと企てた。そして、霊魂と交流したり、死者を呼び出したり、そういうことが出来ると空想するようになった……近隣の人は彼を魔法使のように見ていた。彼は娘を真底から可愛がって、自分で一切の教育に従ったが、エリツォーフとの家出ばかりはいつかな赦そうとはせず、娘も婿も眼の前へ寄せつけないで、二人に不幸な生涯を予言し、ひとり淋しく死んで行った。エリツォー〓夫人は寡婦になると、一切の余暇を娘の教育に捧げ、殆んど客というものに接しなかった。僕がヴェーラ・ニコラーエヴナと近づきになった時、まあどうだろう、彼女は生まれてこの方どこの町にも、いちばん手近な郡役所のある町にさえ、行ったことがないとのことだった。
ヴェーラ・ニコラーエヴナは普通の露西亜令嬢にまるで似たところがなかった。彼女には何か特別な影が印せられてあった。僕はまず最初から、彼女の身振りや言葉遣いに現われている、驚くばかり静かな、落ちついた調子に一驚を喫した。彼女は何事にも気を揉んだり、心配したりしないらしく、僕の問いに率直で聡明な返事をし、注意ぶかく人の話を聞くばかりだった。その顔の表情は子供のように正直で、誠意に充ちていたけれども、しかしやや冷たい単調な感じだった。もっとも、考え深い顔というのでもない。彼女が快活になるのはほんの時たまで、しかもほかの女の快活さとは違っていた。つまり快活というよりも、もっと喜ばしい無垢な魂の明朗さが彼女の全存在に輝き渡るのであった。余り背が高くないけれど、極めて釣り合いよく整った体で心持ち痩せぎすの方だった。顔の輪郭は華奢で、正しく整っていた。美しい平らな額、金色がかった薄色の髪、母親に似て筋の通った鼻、かなり厚ぼったい唇――黒味を帯びた灰色の眼は、上へ反った濃い睫毛の蔭から、何だか余りまともに見据え過ぎるような感じがした。手は大きくはないけれど、さして美しくなかった。才能を持った人は、こういう手をしていないものだが……全くヴェーラ・ニコラーエヴナには、別にこれという才能が認められなかった。彼女の声は、まるで七つくらいの女の児のように、甲高く響いた。僕は親戚の舞踏会で、その母親に紹介され、それから二三日たった後、はじめて親子の住まいを訪ねて行った。
エリツォー〓夫人はかなり風変りな女で、気性のしっかりした、我執の強い、気持ちの一つに凝った人である。僕は彼女から強烈な印象を受けて、彼女を尊敬もすれば、幾らか恐れもした。彼女はすべて、物事を一定のシステムでやって行くので、自分の娘もシステムに従って教育したが、自由を束縛するような事は毛頭なかった。娘は母を愛して、盲目的に信頼していた。エリツォー〓夫人が彼女に本を渡して、この頁を読んではいけないと、ただ一口いえば、彼女は前の頁を飛ばしこそすれ、禁制の頁を覗くなどという事は、夢にもしなかった、しかし、エリツォー〓夫人にも自分の固定観念《イデエフイツクス》があり、自分の癖があった。例えば、彼女はすべて空想に作用する虞れのあることを火のように恐れていた。で、娘は十七の年になるまで、一篇の小説も詩も読んだことがない。その代り地理、歴史はおろか、自然科学にかけても、新学士の僕をよくまごつかせたものだ。君も覚えていてくれるだろうか、僕の卒業成績はそう悪くはなかったのだからね。僕は或る時エリツォー〓夫人に、彼女の癖を指摘しようと試みたことがある。もっとも、彼女はひどく無口な性質なので、彼女を会話へ引き入れるのは、なかなか骨の折れる仕事だった。そのとき彼女は、ただ首を振るばかりだった。
「あなた、文学の本を読むのは、有益でもあれば、愉快でもある、とおっしゃるんですね……ところが、わたしはこう思いますの――この世のことは、有益な方か、愉快な方か、どちらか一つ前もって選ばなくちゃなりません。それから、永久にきっぱり決めてしまうのです。わたしも以前、その両方を結び合わせようとしたことがありますけれど……それは不可能です。そして、滅亡でなければ、俗悪に陥るばかりです。」
実際、この婦人は驚嘆に値する存在だった。一種の狂信《フアナチズム》と迷信とはあったものの、潔白で誇りの高い人だった。「わたしは生活を恐れます。」と彼女は、いつか僕に云った事がある。――全くその通り、彼女は人生を恐れていた。生活の根柢となっている神秘の力、ときどき思いがけなく表面に現われて来る不思議な力を、恐れているのであった。この力が頭上に崩れかかって来た人は禍である。エリツォー〓夫人にはこの神秘な力が、恐ろしいほど明瞭に示現されたのである。母の死、夫の死、父の死、それを思い起しただけで十分である……それにはどんな人でも畏怖を感ぜずにはいられまい。僕はかつて彼女が微笑したのを見た事がない。それはまるで、錠をかけた房の中に閉じ籠って、その鍵を水の中へ投げ棄てたような風であった。彼女は一生の間に多くの不幸を経験したに相違ないが、かつて誰にもその悲しみを頒ったことがない。すべてを心一つに秘めているのだ。彼女は自分の感情に負かされぬ修練を重ねたので、娘に対する熱烈な愛を表白することさえ、恥じるようになった。彼女は一度も僕の前で娘を接吻したことがなく、愛称で呼びかけるようなこともしないで、いつもただヴェーラ、ヴェーラであった。今でも、彼女の云った或る言葉を覚えている。僕は或るとき彼女に向って、われわれ現代人はすべて傷ついた人間だ、と云った事がある。すると彼女は、「自分を傷つけるなんて、無意味なことです。すっかり自己の全存在を屈折させてしまうか、それとも、まるで始めからそっとして置くかですね……」と云った。
エリツォー〓夫人のところへ出入する人はごく少なかった。けれども、僕はしょっちゅう訪ねて行き、夫人が僕に厚意を持っていてくれるものと、心ひそかに自惚れていた。それに、ヴェーラ・ニコラーエヴナがすっかり僕の気に入ったのだ。僕らは二人でよく話をしたり散歩をしたりした……母親は別に僕らの邪魔にならなかった。ヴェーラ自身も母親と離れているのを好まなかったし、また僕にしても同様、さし向いで話さなければならぬ要求を感じなかった……ヴェーラ・ニコラーエヴナは声に出して考え事をする奇妙な癖を持っていた。夜、寝ながら大きな声ではっきりと、その日のうちに受けた最も強烈な印象を話すのであった。――或る時じっと僕の顔を瞶めながら、いつもの癖で軽く頬杖をついたまま、「Bさんはいい人らしいけれど、あの人を頼りにする訳にはゆかないわ。」と云ったことがある。われわれ二人の関係は極めて親しい、むらのないものだったけれども、ただ或る時どこか遠く遥かに、彼女の明るい眼の深い奥底に、何か奇妙なものを認めたような気がした。それは一種甘い悩ましさとでもいうか、幽婉な物思いとでもいうか……しかし、あるいは僕の考え違いかも知れない。
そうこうしているうちに時が経って、もう出発の用意をしなければならなくなった。が、僕は相変らずぐずぐずしていた。やがて間もなくこの愛すべき乙女を、自分がこれほどまでに心惹かれた乙女を見ることが出来なくなると思うと、そのことを考え出しただけで、息づまるような気持ちになって来るのであった……伯林は次第に以前の引力を失って来た。僕は自分の心中に生じていることを、我と進んで認める勇気がなかったし、それに自分の心中がどうなっているのか、はっきり分りもしなかった――それはまるで、胸の中で霧が渦巻いているような工合だったのだ。到頭ある朝、急に何もかもはっきりした。『このうえ何を求めようというのだ?』と僕は考えた。『どこへ慌てて進もうとしているのだ? 真理なんてものは、どうせ、手に掴めるものじゃない。一層ここに残って、結婚した方がいいのじゃないか?』どうだろう、君、この結婚という想念も、そのとき一向に僕をおびやかさなかった。それどころか、僕はそれを喜び迎えたくらいだった。で、その日すぐさま自分の意向を打ち明けた。けれど君の想像するように、直接ヴェーラ・ニコラーエヴナに向ってではなく、母のエリツォー〓夫人に申し入れたのだ。老夫人はじっと僕の顔を見つめていたが、
「いけません、あなた。」と彼女は云った。「伯林へ行って、もう少し傷ついていらっしゃい。あなたはいい方だけれど、ヴェーラに必要なのはそういうお婿さんじゃありません。」
僕は眼を伏せて、真っ赤になった。そして、君はなお驚くだろうが、さっそく心の中で、エリツォー〓夫人の言葉に同意してしまった。一週間の後、僕はその地を去って、以来もう夫人にもヴェーラ・ニコラーエヴナにも会わなかった。
僕は古いローマンスを簡単に述べた。君が一さい「冗長」なものが嫌いなのを知っているからだ。伯林へ着いてから、僕はかなりあっさりと、ヴェーラ・ニコラーエヴナのことを忘れてしまった……しかし白状するが、思いがけないプリイームコフの知らせは、僕の心を波だたせた。彼女がこんな近いところにいて、殆んど僕の隣人となって居り、しかも近日かの女に会えると思うと、僕は深いショックを感じないではいられなかった。過去はまるで土の中から生えて出たように、とつぜん僕の前に立ち塞がり、頭の上へおっかぶさって来た。プリイームコフは旧交を暖める目的で僕を訪ねて来たので、近日中に自宅へ来駕の栄を得たいと申し出た。その報告するところによると、彼は騎兵隊に勤務していたが、中尉になってから退職して、僕の住まいから八露里程へだてた所に領地を買い求め、これから農村経営に従うつもりでいるとのことだった。彼は三人の子供を儲けたが、そのうち二人は死んで、いま残っているのは五つになる女の児ばかりだった。
「奥さんも僕を覚えておいででしょうか?」と僕は尋ねた。
「そりゃ覚えていますとも。」彼はちょっと吃り気味に答えた。「勿論、妻はあの当時いわばほんの赤ん坊でしたが、妻の母はいつも君のことを褒めそやしていました。ところで、君もご承知の通り、妻は母親の一言一句をも、疎かにしないという風ですからね。」
そのとき僕の記憶にエリツォー〓夫人の言葉――あなたはヴェーラのお婿さんに不向きです、という言葉が浮んで来た……『して見るとこの先生は向いたのだな。』と僕はプリイームコフを横眼に見ながら、ちょっとこう考えた。彼は僕の家で二三時間話して行った。彼は極めて善良な愛すべき人物で、そのつつましやかな話し振りと云い、人の善さそうな表情と云い、誰でも好きにならずにはいられないくらいだけれど、智的才能の点に至っては、われわれがお互いに知り合っていた時以来、少しも進歩していないのだ。僕は必ず彼の家へ出かけて行く。ことによったら、明日にもすぐ行くかも知れない。ヴェーラ・ニコラーエヴナがどんなになったか、一眼見るのが楽しみで堪らない。
君は例の意地わるだから、いまごろ、課長室のテーブルに向いながら、僕のことを笑っているに相違ない。が、僕はそれでも、彼女がどんな印象を与えるか、必ず君に知らせるよ。では失敬! いずれ後便で。
君のP・Bより
同じ人より同じ人へ
M村にて、一八五〇年六月十六日
君、いよいよ彼女のところへ行って来た。彼女に会って来た。まず第一に、驚くべき事実を報道しなければならない。君は本当にするかどうか分らないが、彼女は顔も姿も、殆んど少しも変っていないのだ。彼女が出迎えた時、僕は思わずあっと叫ばないばかりだった。十七娘、まったく形容でなしにそうなのだ! ただ眼だけが少女の眼と違うけれども、彼女は若い時から子供らしくない眼つきをしていた。余り明る過ぎるのだ。しかし依然たる落ちつき、依然たる明朗さ、それに声もまるで同じだし、額に一筋の皺もない。まるでこの十何年間、どこか雪の中にでも蔵ってあったようだ。ところが、彼女はいま二十八で、三人も子供を持ったのだからね……実に不思議だ! 君、どうかお願いだから、僕が先入見のために誇張しているのだなぞと考えないでほしい。それどころか、彼女のこうした「不変性」が、僕にはまるで気に入らなかったのだ。
人の妻であり母である二十八の婦人が、少女に似るというのはあるまじき事だ。生活が無意味に過ぎ去る筈はないのだから。彼女は極めて愛想よく僕を迎えてくれた。プリイームコフに取っては、僕の来訪はただもう歓喜そのものだった。この好人物は、どうかして愛着の対象をつくろうと、ただそればかり考えているのだ。邸は居心地よくさっぱりしていた。ヴェーラ・ニコラーエヴナは、つくりまで子供らしいのだ。全身まっ白な着物に水色の帯をしめて、細い金鎖を首にかけている。女の児は実に可愛くて、母親にはちっとも似ていない、むしろ祖母さん似の方だ。客間の長椅子の上には、この風変りな婦人の肖像画が懸かっていたが、それが素晴らしくよく似ているのだ。僕ははいるといきなり、この絵が眼についた。画中の婦人はいかつい眼で、注意ぶかく僕を眺めたような気がした。僕らはそれぞれ座に着いて、昔ばなしなどしているうちに、幾らか話に身が入って来た。僕は殆んど無意識に、エリツォー〓夫人の陰気くさい肖像画を、のべつ見あげるのだった。ヴェーラ・ニコラーエヴナは丁度その真下に坐っていた。それが彼女の気に入りの場所なのだ。君、僕の驚きを想像してくれ、ヴェーラ・ニコラーエヴナはこれまで、一冊の小説も、一篇の詩も読んだ事がないのだ――一口に云えば、彼女自身のいわゆる「空想の産物」を、一つとして読んだ事がないのだ! もっとも、高尚な智的満足に対するこの不可解な無関心は、僕に憤怒の念を起させた。聡明な、しかも僕の判断する限りでは、繊細な感性を有する婦人に取って、これは全く赦し難いことだ。
「何ですか、」と僕は尋ねた。「あなたそういう本を読まないという、自律でもお立てになったのですか?」
「偶然そうなったんですの。」と彼女は答えた。「ひまがなかったものですから。」
「ひまがない! 驚きますね! せめて君でも、」と、僕はプリイームコフの方へ振り向きながら、言葉を続けた。「奥さんにそういう習慣をつけたらいいでしょう。」
「僕は喜んで……」とプリイームコフは云いかけたが、ヴェーラ・ニコラーエヴナはそれを遮った。
「空っとぼけるのはおよしなさい。ご自分だって余り詩はお好きな方じゃない癖に。」
「詩は確かにそうだが、」と彼はまた云い出した。「しかし小説などは……」
「じゃ、あなたは何をしていらっしゃいます。夜などどうしてお過ごしになります?」と僕は訊ねた。「カルタでもなさいますか?」
「ときにはカルタもいたしますが。」と彼女は答えた。「それに、することはいくらもありますわ。読書だっていたします。詩のほかにいい本もございますものね。」
「なぜ、あなたはそんなに詩を攻撃なさるんでしょう?」
「攻撃なんかしませんわ。わたし子供の時分から、そういう空想の産物を読まない癖がついてしまったんですの。それが母の望みだったんですもの。わたし世の中に生きて行けば行くほど、だんだん余計に確信を深めますの――母のしたことでも、云ったことでも、すべて何から何まで真理でした。神聖な真理でした。」
「まあ、それはお心まかせとしても、僕はどうしてもあなたに同意できません。あなたは人生に於いても最も純な、最も当然な快楽を、好んで無意味に失っていらっしゃるのだと、こう僕は確信します。だって、あなたは音楽や絵を斥《しりぞ》けはなさらないでしょう。だのに、なぜ詩を斥けなさるのです?」
「わたし斥けなんかしませんわ。わたしこれまで詩に親しまなかったばかり――それだけのことですわ。」
「それじゃ、僕がその仕事を引き受けましょう! 実際あなたのお母さんだって、一生涯あなたが文芸作品に親しむのを禁止なすった訳じゃないでしょう?」
「ええ、わたしが結婚した時、母は一切の禁制を解いてくれました。ただわたし自身その……あなた何とおっしゃいましたかしら……まあ、一口に云えば、小説類を読もうという気を、起さなかったのでございます。」
僕は怪訝の念をもって、彼女の言葉を聞いていた。それは僕に取って意外なものであった。
彼女は落ちついた眼つきで僕を見つめていた。小鳥は人を恐れない時に、こういった眼つきをするものだ。
「こんどは本を持って来ましょう!」と僕は叫んだ(僕の頭の中に、最近読んだ『ファウスト』が閃めいたのだ)。
ヴェーラ・ニコラーエヴナは軽く吐息を洩らした。
「それは……それはジョルジュ・サンド(フランスの著名な女流作家(1804-1876)因襲に抗し個人の正しい情熱を高調した)じゃありませんか?」と、幾らか臆した調子で彼女は訊ねた。
「ああ! して見ると、あなたもサンドの名前をお聞きになったのですね? なに、よしんばサンドにしたところで、別に困ることはありませんよ……が、違います。僕はほかの作家を持って来ますよ。あなたは独逸語を忘れていらっしゃらないでしょう?」
「ええ、忘れてはいませんわ。」
「妻は独逸人と同じに話が出来るんですよ。」とプリイームコフが口を入れた。
「いや、結構です! 僕もって来ますよ!……まあ、見ていらっしゃい、どんなに素晴らしいものを持って来るか。」
「ええ、よござんすわ、見てみましょう。ですけど、そろそろ庭へ出ようじゃありませんか。ほらナターシャったら、外に出たくてうずうずしているんですの。」
彼女は円い麦藁帽を冠った。それは娘が冠ったのと全く同じ子供っぽいもので、ただ少し形が大きいばかりであった。一同は庭へ出た。僕は彼女と並んで歩いた。爽かな空気の中で、高い菩提樹の蔭に包まれた彼女の顔は、一しお愛くるしく思われた。殊に、帽子の蔭から僕を見ようとして、心もち体をねじ向け、頭を後ろへそらした時などは、何とも云えなかった。もし後からついて来るプリイームコフと、前で跳ねまわる女の児がなかったら、僕は自分がいま三十五でなしに、二十三の青年だと考えたかもしれない。僕は全くやっと伯林留学の準備をしているような気がした。殊に僕たちの歩いていた庭が、エリツォー〓夫人の邸の庭に、不思議なほどよく似ていたから、なおさらである。僕は我慢し切れないで、自分の印象を、ヴェーラ・ニコラーエヴナに話した。
「みんながそう云いますの、わたしの見かけは余り変らないって。」と彼女が答えた。「もっとも、気持ちだってやっぱり昔のままですわ。」
やがて、一同は小さな支那風の離れに辿り着いた。
「ね、こんな離れは、うちのオシッポフカ村にありませんでしたわね。」と彼女は云った。「こんなに崩れてしまって、色がさめているからって、お気に留めないで下さいまし。中はとても気持ちがよくて、涼しいんですの。」
中へ入ると、僕はあたりを見廻した。
「ねえ、ヴェーラ・ニコラーエヴナ。」と口を切った。「こんど僕の来るまでに、ここへテーブルを一つと、椅子を幾つか運ばせて下さい。ここは全く素晴らしい。僕、ここで読んでお聞かせしますよ……ゲーテの『ファウスト』を……これなんですよ、僕があなたにお聞かせしようと思ったのは。」
「ええ、ここには蠅がいませんから。」と彼女は何気ない調子で云った。「いつ、おいで下さいまして?」
「あさって。」
「ようございます。」と彼女は答えた。「そう申しつけましょう。」
僕らと一緒に離れにはいったナターシャは、急にきゃっと叫んで、真っ蒼になりながら飛び退いた。
「なあに?」とヴェーラ・ニコラーエヴナは訊ねた。
「ああ、ママ」と、少女は指で片隅をさしながら云った。「ごらんなさい、あんなおそろしい蜘蛛が!……」
ヴェーラ・ニコラーエヴナは片隅に目をやった。大きな女郎蜘蛛が静かに壁を這い登っている。
「なにも怖がることはありません。」と彼女は云った。「噛みもどうもしやしないから、ごらんなさい。」
こう云って、僕が止めるひまもなく、彼女は醜い蜘蛛を手に取って、掌をちょろちょろ走らせた後、ぽんと外へ投げ棄てた。
「まあ、あなたは何て勇敢な人でしょう!」と僕は叫んだ。
「これがなぜ勇敢なんですの。この蜘蛛は有毒類じゃないんですもの。」
「お見受けしたところ、あなたは相変らず、自然科学に通暁していらっしゃるようですね。僕は手にも取り兼ねますが。」
「あんなもの、ちっとも怖かありませんわ。」と彼女は繰り返した。
ナターシャは黙って僕ら二人を見比べながら、にやりと薄笑いを洩らした。
「このお児さんは、あなたのお母さんに恐ろしく似ていらっしゃる!」と僕は云った。
「そうですの。」ヴェーラは満足の微笑を浮かべながら答えた。「わたしそれが本当に嬉しゅうございますわ。どうかその似かたが、ただ顔ばかりでなければと思いますの!」
そのとき、食事の知らせがあった。食事がすむと、僕はこの家を辞した。N・B・(Nota Beneの略、註の義)食事はなかなか素晴らしいもので、実にうまかった――これは食道楽の君のために、特に括弧という形で書き添えて置くのだ! 明日はヴェーラ・ニコラーエヴナのところへ『ファウスト』を持って行く。僕は老ゲーテと共に、まんまとあそこで落第しはしないかと、それが心配だ。その模様はすっかり詳しく君に知らせる。
さて、いま君は「これらの出来事」全体を、どんなに思っているだろう? 恐らく、彼女が僕に強烈なる印象を与えて、僕が今にも首ったけになり兼ねない、云々、云々、といったようなことじゃないか? 馬鹿げた話だよ、君、それは! もうそろそろ作法をわきまえる時だ。かなり馬鹿もし尽したからね。沢山だ! 僕の年でまた生活をし直す訳にはゆかない。それに、僕は昔だって、ああいった風の女は好きじゃなかった……尤も、どんな女が僕の気に入ったのだろう!
われはおののき心いたむ
わが数々の偶像を今ぞわれ恥ず
いずれにしても、僕はこの隣人関係を心から歓迎する。そしてあの聡明で、単純で、明朗な婦人と相まみゆる可能を喜ぶ。これから先どうなるか、それは君も時と共に知るだろう。
君のP・Bより
同じ人より同じ人へ
M村にて、一八五〇年六月二十日
君、きのう朗読をやった。その時の模様は順次に話すこととして、まず第一に云わなければならないのは、それが思いがけない大成功だったことだ……しかし「成功」というのは適当な言葉でない……まあ、聞いてくれ。僕は食事どきに向うへ着いた。食卓に向ったのはみんなで六人――彼女、プリイームコフ、その娘、女の家庭教師(これは余り目に立たない存在で、ただぼっと白いという印象しかない)、僕、それにどこかの年取った独逸人、とこれだけである。この独逸人は、思い切って正直らしい、つつましやかな、綺麗に剃りあげた顔に、歯なし独特の微笑を浮かべ、短い茶色の燕尾服を着込んだ、菊ちさ入りの珈琲の匂いをぷんぷんさせている(年取った独逸人はすべてこんな匂いを持っている)、かなり手擦れのした人物だ。僕はこの老人に紹介された。それはシムメルとか云って、プリイームコフとは隣人関係になるX公爵家の独逸語教師だった。ヴェーラ・ニコラーエヴナはこの老人に好意を寄せているらしく、朗読の席へ彼を招いた。僕達が食事をすませたのは、だいぶ晩かったけれども、永い間テーブルを離れなかった。暫くして庭へ散歩に出た。外は素晴らしく気持ちのいい天気だった。朝のうちは雨が降って、風が騒いでいたけれど、夕方にはすっかり静まったのである。僕とヴェーラ・ニコラーエヴナは、木立の間に小広く開いたところへ出た。ちょうど頭の上に大きな薔薇色の雲が軽々と高くかかって、その腹に鼠色の縞が幾筋か、煙のようにすうっと棚引いており、いちばん外れのところには、小さな星が見えつ隠れつ震えていた。その少し先には、やや赤みがかった夕空を背景に、白い新月の利鎌が浮かんでいる。僕はヴェーラ・ニコラーエヴナにその雲を指さした。
「そう、」と彼女は云った。「本当に綺麗ですわね。だけど、ちょっとこちらをご覧なさいな。」
僕は振り返って見た。巨大な青黒い夕立雲が、入り日を隠しながら、大空にそそり立っているのだ。その姿は火を噴く山にも譬えたい趣きで、頂きは噴煙のように、さっと大きく空に拡がっている。不気味などす赤い光が、縁飾りのようにくっきりと周囲を取り巻いていたが、一トところ、ちょうど真中辺で、さながら灼熱した火口から噴き出るように、このどす赤い光が雲の重々しい巨体を突き破っている……
「夕立が来るな。」とプリイームコフが云った。
だが、僕は本題からそれて行くようだ。前の手紙に書き忘れたが、プリイームコフのもとを辞して家へ帰ったとき、僕は『ファウスト』を名ざしたのを後悔したものだ。手始めとしては、シラーの方がずっと向いていると思った(もし、独逸作家と云うことになったとすれば、だ)。殊に僕を心配させたのは、グレーチェンと相識になるまでの、最初の数場面だった。メフィストに関しても、やはり心が穏かでなかった。けれど僕はそのとき『ファウスト』の魅力に掴まれていたので、ほかのものは何一つ進んで読む気にならなかったのだ。
もうすっかり暗くなりきったとき、僕たちは支那風の離れへ赴いた。そこは前の日にすっかり片附けられて、扉の真正面にある小さな長椅子の前には、絨毯をかけた円テーブルが置かれ、まわりには幾つかの椅子が並べてあった。テーブルの上にはラムプが点いていた。僕は長椅子に腰をおろして本を取り出した。ヴェーラ・ニコラーエヴナはやや離れて戸口に近く、肘椅子に体を埋めた。戸外の闇の中から、青々としたアカシヤの枝が微かに揺れながら、ラムプの光に照らされて、浮き出している。ときどき爽かな夜の空気が、水のように部屋の中へ流れ込んで来た。プリイームコフは僕のテーブルに近く、独逸人はその傍に腰をおろした。家庭教師はナターシャを連れて家に残った。僕はちょっとした前置きと云った形で、ファウスト博士に関する古い伝説や、メフィストの意義や、ゲーテ自身のことに関して一言した後、もし何かわからないことがあったら、朗読を遮ってほしいと頼んだ。さて、それから僕は一つ咳払いをした……プリイームコフは、砂糖水はいらないかと訊ねたが、この質問を発した自分自身にひどく満足しているらしいのが、あらゆる点から察しられた。僕は辞退した。深い沈黙が一座を領した。
僕は眼をあげないで読みはじめた。何だかばつが悪くて、心臓は動悸を打ち、声は震えた。まず最初、同感の叫びが老独逸人の口から洩れた。そして朗読の間じゅう、彼は一人で静寂を破るのであった……「素晴らしい! 高遠無比だ!」と繰り返しながら、時には、「いや、これは実に深刻だ。」と附け足す。プリイームコフは、僕の認めた限り、退屈らしかった。独逸語はあまりわからないし、詩は嫌いだと自分で告白している!……しかし勝手に、好きで仲間入りしたのだから仕方がない!――僕は食事のとき、彼の列席は必ずしも朗読に必要でない、と仄めかしかけたけれども、さすがにそれは憚られた。ヴェーラは身動きもしなかった。二度ばかり僕は彼女を盗み見したが、その眼は注意ぶかく、ひたと僕の方へ注がれ、顔は蒼白いように思われた。ファウストが始めてグレーチェンに出会ったとき、彼女は椅子の背から身を起して、両手を組み合せたが、そのままの姿勢で最後まで身動きもしなかった。僕はプリイームコフが閉口しているなと感じたので、それがはじめ些か僕の気持ちに水をさしたが、暫くすると、この男のことなど忘れてしまい、熱心にわれを忘れて読み進んだ……僕はただヴェーラだけのために読んだ。『ファウスト』が彼女に深い印象を与えているのを、内部の声が僕に囁いて聞かせたのだ。遂に朗読を終ったとき(間狂言《インテルメツオ》は省略した。これは作風から云って、もはや第二部に属すべきものだ。それに『ブロッケンの夜』も多少端折った)……僕が朗読を終って、あの最後の「ハインリッヒ」という叫びが響き終ったとき、老独逸人は感きわまったように、「ああ! 実に素晴らしい!」と云った。プリイームコフはさも嬉しそうに(可哀そうな男!)席から飛び上って、ほっと溜息を洩らしながら、朗読によって与えられた愉楽を感謝しはじめた……けれども、僕はそれにろくすっぽ返事しなかった。僕はじっとヴェーラを見つめていた……彼女が何と云うか、聞きたかったのである。彼女は立ち上って、思い切りの悪い足取りで戸口に近寄り、暫く閾のうえに立っていたが、そっと静かに庭へ出た。僕はその後を追って飛び出した。彼女は早くも五六歩ばかり離れていた。その着物が濃い闇の中に、ぼっと白く浮き出している。
「いかがでした?」と僕は叫んだ。「お気に入りませんか?」
彼女は歩みを止めた。
「あの本を置いて行って頂けますかしら?」という彼女の声が響いた。
「あれはあなたに進呈しますよ、ヴェーラ・ニコラーエヴナ、もし、持っていたいとお思いでしたら。」
「有難うございます!」と答えて、彼女は姿を消した。
プリイームコフと独逸人が僕の傍へ寄って来た。
「何という暖かさでしょう!」とプリイームコフが声をかけた。「蒸し暑いくらいですな。ですが、妻はどこへ行きました?」
「家へお帰りになったようです。」と僕は答えた。
「もう間もなく夜食の時分らしい。」と彼はまた云った。「君は朗読がうまいですね。」少したって彼はこう附け足した。
「奧さんは『ファウスト』がお気に入ったようですね。」と僕は口を切った。
「そりゃ無論ですとも!」とプリイームコフは叫んだ。
「おお、勿論です!」とシムメルが受けた。
一同は邸へ帰った。
「奥さんはどこにいらっしゃる?」迎えに出た小間使を捉まえて、プリイームコフはこう訊ねた。
「寝室へおいでになりました。」
プリイームコフは寝室へ行った。
僕はシムメルと二人でテラスへ出た。老人は眼を空へ向けた。
「何という星の数でしょう!」煙草を一嗅ぎかいで、彼はゆっくりとこう云った。「あれがみんなそれぞれの世界なんですからね。」と云い足して、彼はもう一ど煙草をかいだ。
僕はそれに答える必要を認めなかったので、ただ無言に空をふり仰いだ。秘めやかな疑惑が僕の心にのしかかっていたのである……星は真面目に二人を眺めているような気がした。五分ばかり経って、プリイームコフが再び姿を現わしながら、二人を食堂へ呼んだ。やがてヴェーラもやって来た。一同は席に着いた。
「まあ、ヴェーロチカを見て下さい。」とプリイームコフは僕に云った。
僕は彼女を見やった。
「どうです? 別に気がつきませんか?」
僕は全く彼女の顔に変化を認めたけれど、なぜか、
「いや、別に。」と答えた。
「眼が赤いでしょう。」とプリイームコフは言葉を続けた。
僕は黙っていた。
「まあどうでしょう、僕が二階の寝室へあがって見ると、これは泣いているじゃありませんか。こんな事はついぞ久しくなかったことなんです。これが泣いたのは、サーシャ(女の子)が死んでから以来のことです、全くですよ。ね、君はあの『ファウスト』でこういう騒ぎを惹き起したんですよ!」と彼は微笑を浮かべながら云い足した。
「ですからつまり、ヴェーラ・ニコラーエヴナ、」と僕は云い出した。「僕の云った通りだってことが、今こそお分りになったでしょう。あの時……」
「わたしこんなこと思いがけませんでしたわ。」と彼女は遮った。「でも、あなたのおっしゃった通りかどうか、まだ分りませんわ。ことによったら、お母様があんな本を読むのをわたしに禁じなすったのも、つまりちゃんと分ってらしったからかも……」
ヴェーラは言葉を止めた。
「何が分ってらしったんです?」と僕は追求した。「聞かして下さい。」
「申し上げたって仕様がありませんわ! それでなくても、わたし何をあんなに泣いたのやら、自分でも気がさすくらいですもの。もっとも、またいずれゆっくりお話しましょう。いろいろはっきり分らないことがありましたから。」
「じゃ、なぜ朗読を止めてくださらなかったんです?」
「言葉はみんな分りましたわ。それに意味だって。でも……」
彼女は言葉を云いさしにして、考え込んでしまった。この瞬間、庭の木の葉が、急に襲って来た一陣の風に揺り動かされて、ざわざわと響きを立てた。ヴェーラはぴくりと身を震わせ、開け放した窓の方へ顔を振り向けた。
「僕そう言ったでしょう、夕立がやって来るって!」とプリイームコフが叫んだ。「ヴェーロチカ、何だってお前はそう身震いするんだね?」
彼女は無言のまま夫を見やった。弱々しく閃いた遠稲妻が、彼女のじっと動かぬ顔に、神秘めかしく反射した。
「みんな『ファウスト』のお蔭だ。」とプリイームコフは続けた。「夜食をすましたら、さっそく寝ることにしよう……そうじゃありませんか、シムメルさん?」
「精神的満足の後の生理的休息は、有益でもあれば、天恵でもありますて。」と善良な独逸人は相槌を打ち、ヴォートカの杯を乾した。
食事がすむと直ぐ、一同は別れを告げた。僕はヴェーラに夜の挨拶をしながら、握手した。その手は冷たかった。僕は自分に当てられた部屋へはいったが、着換えをして床へ入る前に、暫く窓際に立っていた。プリイームコフの予言はあたった。雷雨はいよいよ間近に迫って、やがて物凄く大地に崩れ落ちた。僕は風の咆哮と、雨の乱れうつ響きを聞きながら、湖畔に建てられた教会が稲妻の閃めくたびに、あるいは白地に黒く、あるいは黒地に白く、忽然と浮かび出したかと思うと、また闇の中に呑まれてしまうのを、じっと眺めていた……けれど、心は遠くあらぬ方をさまよっていた。僕はヴェーラのことを考えていた。彼女が自分で『ファウスト』を読んだ時、どう云うだろうと想像したり、彼女の涙のことを考えたり、彼女が朗読を聞いていた時の姿を追想したりしていたのだ。
夕立はもうとくに過ぎてしまった――星が輝いて、あたりはしんと静まりかえった。何か聞いたこともないような小鳥が、さまざまに声の調子を変えながら、同じ節を幾度も続けざまに囀っている。その朗かな、しかも孤独な感じのする声が、深い静寂の中で奇妙に響くのであった。僕はいつまでも眠りにつこうとしなかった……
翌朝、僕は誰よりも一番に客間におりて、エリツォー〓夫人の肖像の前に立ち止まった。『どうです?』秘かに冷笑的な勝利感をいだきながら、僕は心の中で考えた。『到頭あなたの娘さんに、禁制の本を読んで聞かせましたよ!』と、不意に僕はこんな気がした……君も恐らく気のついたことだろうが、真向い《アンフアス》の眼はいつも見る人の方へ、真っ直ぐに注がれているように思われるものだが、その時は全くのところ、老婦人が譴責の表情で、その眼を僕の方へ振り向けたように感じられた。
僕は思わず顔をそむけて、窓の傍へ近寄った。すると、ヴェーラの姿が眼に入った。パラソルを肩に、三角に折った小さい白いショールを軽く頭にかけたヴェーラは、庭をそぞろ歩きしているのであった。僕は直ぐさま家を出て、彼女に挨拶した。
「わたし夜っぴて寝られませんでしたわ。」と彼女は云った。「頭が痛いんですの。外の空気にあたったらよくなるかと思って、それでちょっと出て見ましたの。」
「それは一たい昨日の朗読のせいですか?」と僕は訊ねた。
「勿論ですわ。わたしああいうものに慣れないものですから。あのあなたの本の中には、どうしてもいい加減にして置けないようなものがありますのね。わたし頭を焼きつけられるような気がします。」と額に手を当てながら、彼女は云い添えた。
「それは結構じゃありませんか。」と僕は云った。「しかし、ただ一ついけないのは、その苦しさと頭痛が、以後こうした本を読みたいという、あなたの気持ちの出鼻を挫きやしないかと、それが何だか心配ですね。」
「そうお思いになりまして?」と彼女は問い返し、歩きながら、野生の素馨《ジヤスミン》の枝を折り取った。
「さあ、どうでしょう! 一たんこの道へ踏み込んだ者は、もうあと帰り出来ないような気がしますわ。」
彼女は不意に折り取った枝を、ぽんと脇の方へ投げ棄てた。
「あの東屋《あずまや》へ行って、腰をかけましょう。」と彼女は言葉を続けた。「そして、後生ですから、わたしが自分の方から言い出すまで……あの本のことを口に出さないで下さいまし。」
(彼女は『ファウスト』の名を口にするのを、恐れているような風であった)。
二人は東屋へはいって、腰をおろした。
「私は『ファウスト』の話をしませんよ。」と僕は口を切った。「しかし、ただあなたにお祝いを云わせて頂きたい。私はあなたが羨ましいのです。」
「わたしが羨ましいのですって?」
「そうです。今はあなたという方がすっかり分ったから、申し上げるんですが、あなたのような純な魂を持っていらっしゃる方は、これから先どれだけ精神的享楽を恵まれていらっしゃるか、分らないくらいです! ゲーテのほかに、まだまだ偉大な詩人が沢山あります。シェークスピア、シラー……それにわがプーシキン……そうです、あなたはプーシキンもお読みにならなくちゃなりません。」
彼女は無言のまま、パラソルで砂に字を書いていた。
おお、わが友、セミョーン・ニコラーイッチ! この瞬間の彼女がどんなに美しかったか、もし君が、一と目で見ることが出来たら! 殆んどすき通るほど蒼白い顔を、心持ち前へ屈めた彼女、内部の均整を乱されてぐったりしていながら――しかも青空のように澄んだ彼女! 僕は永いあいだ話し続けたが、やがて口をつぐんでしまった――こうして無言で坐ったまま、じっと彼女を眺めていた……
彼女は瞳をあげないで、相かわらずパラソルで字を書いたり、書いたのをまた消したりしていた。不意にはしっこい子供の足音が聞えたと思うと、ナターシャが東屋へ駈け込んだ。ヴェーラはきっと身をそらして立ちあがると、僕のびっくりするほど、思いがけない突発的な愛情を現わしながら、自分の娘をしっかり抱き締めた……これは彼女として普段ないことである。それから、プリイームコフが姿を現わした。頭に霜をおいてはいるが几帳面な赤ん坊ともいうべきシムメルは、課業を怠らないために、まだ夜のひき明けに帰ったのである。僕たちはうち揃って茶を飲みに引き返した。
だが、僕は疲れた。もうこの手紙もおしまいにしていい頃だ。これは君の眼にさぞ馬鹿々々しく取りとめがないように思われるだろう。僕自身も自分を取りとめなく感じているのだ。僕はそわそわして、気持ちが落ちつかない。自分ながらどうしたのか分らない。ひっきりなしに壁紙を貼らぬ小部屋と、テーブルの上のラムプと、開け放した扉と、夜の爽かな匂いと、少し離れた戸の傍に浮かんでいる注意深い若々しい顔と、軽やかな白い着物と……こんなものが眼先にちらついて仕様がない。僕はなぜ彼女と結婚する気になったのか、いまその訳が分って来た。どうやら伯林留学前の僕は、今まで自分で考えていたほど馬鹿でもなかったようだ。そうだ、セミョーン・ニコラーイッチ、君の親友は奇妙な心の状態になっている。しかし、僕は自分でも分っているが、こういうことはやがて過ぎ去ってしまう……だが、もし過ぎ去ってしまわなかったら――いや、それも仕方がない。過ぎ去らぬものは過ぎ去らぬのだ。しかしそうは云うものの、僕は自分に満足している。第一に、僕は素晴らしい一夜を過ごしたのだし、第二に、僕があの魂を呼び醒ましたとしても、そのために誰が僕を咎めることが出来るのだ。老エリツォー〓夫人は壁へ釘附けにされているから、沈黙を守らざるを得ない。エリツォー〓夫人!……彼女の生涯の経緯はすっかり知り尽している訳ではないが、彼女が父の家から出奔したことだけは分っている。して見ると、彼女が伊太利女の腹から生まれたのも、これあるかなと云うべきだ。彼女は自分の娘に対して、保険をつけようと思ったのだろうが……その成否は今に分るだろうよ。
いよいよペンを置く。君は冷笑家だから、心の中で僕のことを何と思おうと随意だが、手紙で僕を嘲弄するのは止めて貰いたい。われわれは古い友達同士なのだから、お互いに容赦しなくちゃならない。では失敬!
君のP・Bより
同じ人より同じ人へ
M村にて、一八五〇年七月二十六日
親愛なるセミョーン・ニコラーイッチ、もう長く君に手紙を書かなかった。どうやら一カ月以上になるらしい。書くべきことはあったのだが、無精の方が勝ってしまったのだ。正直なところを云うと、僕はこのひと月の間、殆んど君のことを思い出さなかったのだ。君がくれた最近の手紙から推察すると、君は僕に関して不公平な、と云って、つまり全然公平でない臆測をしているらしい。君は僕がヴェーラに夢中になっていると思うか知らないが(僕は彼女をヴェーラ・ニコラーエヴナなどと改まって呼ぶのが、何だか気がさして来た)、それは君の考え違いだ。もちろん僕は始終彼女に会っているし、彼女が好きでたまらないのは事実だ……それは誰だって、彼女を好きにならずにはいられないだろう。一つ君を僕の位置に立たして見たいくらいだ。何という驚くべき女だろう! 刹那にものの本質を見透す直観力と隣りあっている子供らしい無経験、すみ切った健全な判断力と、生まれながらに備えている美の感覚、真実なるもの高遠なるものに対する不断の努力追求、不正滑稽さえも呑む一切の事物に対する理解――これらすべての上に、あたかも天使の白い翼の如く、なごやかな女性美が漂っているのだ……いや、何もくどく云う必要はない! 僕と彼女はこの一カ月間に多くの書物を読み、多くの事物について語り合った。彼女と本を読むのは、僕に取って未だ嘗って体験したことのない喜びで、まるで新しい世界でも発見するような気持ちだ。彼女は何を読んでも、決して夢中になって喜ぶようなことがない。すべて騒々しいことは彼女に縁がないのだ。彼女は何か気に入ると、全身静かな光に輝き、何とも云えない上品な、そして善良な……全く善良な表情を帯びて来る。
ヴェーラはごく幼い時分から、嘘とはどういうものか知らなかった。彼女は真実に慣れ、かつ真実を呼吸しているので、芸術でも、ただ真実のみが自然に感じられるのだ。彼女は何の努力も緊張もなく、まるで見馴れた顔のように、直ぐさま真実を見分けるのだ……実に偉大な美点でありかつ幸福ではないか! これについては彼女の亡き母に感謝せざるを得ない。僕はヴェーラの顔を見ながら、何度そう思ったか知れない――そうだ、ゲーテの云った通りだ。「善良な人間は漠とした意向の中でも、真の道がどこにあるのかを、常に直観するのである。」(註 『ファウスト』第一部プロローグ)
ただ一ついまいましいのは、亭主がいつもその辺をちょこちょこしていることだ(どうか愚かしい笑いで冷笑しないでくれ。たとえ単なる想念だけでも、僕等の純な友情を涜《けが》さないでほしい)。彼の芸術を理解する能力は、僕がフリュートを吹こうと思うくらいな程度に過ぎない癖に、細君に後れるのが厭なのだ。やはり文化に浴したいものと見える。どうかすると彼女自身で、僕に堪忍の緒を切らすことがある。不意に何か妙な気分に襲われると、読書も話もいやになって、刺繍をいじくったり、ナターシャや女中頭を相手にしたり、だしぬけに勝手の方へ走って行ったり、時には腕組みをしてじっと坐ったまま、ぼんやり窓の外を眺めているばかり、かと思うと、婆やを相手に子供じみたカルタ遊びを始めたりする……こういう時はうるさく附き纏わないで、彼女が自分から傍へ寄って話しかけるか、本を手に取るのを待った方がいい、ということに僕は気が附いた。彼女はなかなか独立心に富んでいる。そして僕はそれを嬉しく思っている。君も覚えがあるだろう。われわれの青年時代に、よく小さな女の児などが、たとえば君の言葉をまわらぬ舌で繰り返す。すると、君はその谺に感激して、時としてはその前に跪きたいほどに思うが、やがてそのうちに事の真相が分って来る――つまり、女の児は人の言葉を鸚鵡返しに繰り返しているのではなくて、自分自身の云いたいことを云っているのだ。こういう訳で、彼女は何一つ盲信的に受け入れるようなことをしない。権威をかさに着て嚇かす訳にゆかない。彼女は別に云い争おうとしないけれど、決して兜を脱がないのだ。
『ファウスト』については、一度や二度でなく所感を述べ合ったが、不思議なことには、グレーチェンについては彼女自身決して何一つ云わないで、ただ僕の意見だけを聞くようにしている。メフィストは、悪魔としてでなく、「すべての人の中にひそんでいる或るもの」として恐れている……これは彼女自身の言葉なのだ。僕は彼女に向って、この「或るもの」はわれわれのレフレクション(反影)と呼んでいるものだ、とこう説明したけれど、彼女は独逸語の意味に於ける「レフレクション」なる言葉を解しなかった。彼女はただ仏蘭西語のr伺lexion(反省)しか知らないので、それを有益なものと考える癖がついていた。
僕たち二人の関係は実に不思議なものだ! 或る点から見ると、僕は彼女に大きな感化を与えて、一種の薫陶を授けているとも云えるのだが、しかし彼女も、自分でそれと気づかぬままで、多くの点に於て僕をいい方へ鍛え直してくれるのだ。例えば、彼女のお蔭で僕はやっとこの頃、多くの有名な立派な文芸作品の中に、どれだけ夥しい約束的な修辞学的な分子が含まれているかを発見した。彼女が無感動でいるような作品は、もう僕の眼には迂散臭く思われるのだ。そうだ、僕は前よりもよくなり、明澄になった。彼女と親しくなって、始終彼女の顔を見ながら、元のままの人間でいるのは、有り得べからざることなのだ。
一体それはどうなるのだ? と君は訊ねるだろう。いや、全くのところ、どうもならない、と僕は思う。僕は九月まで極めて愉快に日を送ったら、それからここを立ってしまうのだ。始めの二三カ月は、生活が光のない、わびしいものに感じられるだろうが……なに、そのうちに慣れて来るさ。たとえどんな性質のものだろうと、男と女の関係がいかに危険なものかということも、また一つの感情がいつとはなく別の感情に入れ代るということも、僕はちゃんと心得ている……もし僕らが二人とも完全に平静でいると意識しなかったら、僕は綺麗にここから足を抜いてしまった筈だ。
もっとも、一度ぼくらの間にちょっと妙なことが起った。どうして、何がもとだったか知らないが――確か二人で『オネーギン』を読んでいた時と記憶する――僕は彼女の手に接吻した。彼女は軽く身をひいて、じっと僕に視線を注いだと思うと(僕は彼女以外の誰にも、こういう眼つきを見たことがない。そこには考え深さと、注意と、そして一種の厳しさがあった)……と、不意にぱっと顔を赤らめながら立ちあがって、そのまま行ってしまった。その日は、もう彼女と差し向いになることが出来なかった。彼女は僕を避けるようにして、まる四時間というもの、主人と婆やと家庭教師を相手に、ノー・トランプの勝負を続けた! 翌る朝、彼女は僕を庭へ誘った。二人は庭をすっかり通り抜けて、湖のところまで来てしまった。彼女はとつぜん僕の方へ振り向いて、「どうか今後あんなことをなさらないで!」と小さな声で囁くと、すぐに何かほかの話をはじめた……僕はすっかり恥じ入ってしまった。
僕は白状しなくちゃならない。彼女の面影は寸時も僕の頭を去らないのだ。で、君にこの手紙を書きはじめたのも、彼女のことを考えたり、語ったりする可能のためでないと、云い切ることは出来ないくらいだ。今そとで、馬の鼻を鳴らす声や足音が聞える。これは馬車の用意をしているのだ。僕はこれからあそこへ出かける。僕が馬車に乗ると、馭者はもう行く先を訊ねもしないで、いきなりプリイームコフのところへ馬を走らせるようになった。プリイームコフの村へはいる二露里ばかり手前、道が急角度で曲っているところへ来ると、彼らの邸が白樺林の蔭から急に姿をあらわす……そして、彼女の部屋の窓が遥かにきらりと閃めくや否や、いつも僕の心は喜びに満ち渡るのだ。シムメル(この毒のない老人は、ときどき彼等のところへやって来た。X公爵の家族は、彼等としても有難いことに、たった一度見たばかりだ)……シムメルはヴェーラの住んでいる家を指さしながら、持ち前のつつましやかな荘重な語調で、「これは平和の棲み家です!」と云ったが、それはまさに真理である。この家の中には、平和の天使が居を定めているのだ……
その翼もてわれを被い
波立つ胸を静めてよ――
魅せられしわが心には
その影さえも嬉しきを……
だが、しかし沢山だ。さもないと、君がどんな事を考えるかも知れないからね。では後便に。その後便に、僕はまたどんなことを書くだろう?――これで、いよいよ左様ならだ!――ついでに思い出したが、彼女は決して「左様なら」と云わないで、いつも「では、さようなら」と云う。――僕はこれが好きでたまらないのだ。
君のP・Bより
二伸、僕は君に書いてやったかどうか覚えていないが、彼女は僕が求婚したことを知っているのだ。
同じ人より同じ人へ
M村にて、一八五〇年八月十日
白状し給え、君は僕から自暴自棄的な調子か、それとも歓喜に溢れた手紙を期待しているのだろう……ところが、それはお門ちがい、僕の手紙はありふれた世間並みの手紙なのだ。新しい事件は何も起らないし、また起り得ないような気がする。二三日前、僕らはボートで湖水を漕ぎ廻った。この舟遊びの始終を君に報告しよう。一行は三人、彼女とシムメルと僕なのだ。一体どんな物好きで、彼女はああしょっちゅうこの老人を呼ぶのか、僕は訳が分らない。X公爵家では、老人が授業をおろそかにし出したと云って、機嫌が悪いそうだ。もっとも、その日は老人もなかなか愛嬌になった。プリイームコフは一緒に行かなかった。頭痛がしたのだ。それは気持ちの浮き浮きするような、素晴らしい好天気だった。青々とした空には、まるで引きちぎったような大きな白雲が、ぽかりぽかりと浮かんで、到るところに光がみなぎり、木立はざわめき、岸に近い水はひたひたと寄せては軽くはねあがり、波頭には可愛い白蛇金蛇が躍っている――爽かな空気と、そして太陽! はじめ僕は独逸人と二人で漕いでいたが、やがて帆をあげて、水面を走り出した。舳は始終水の中へもぐりそうになり、艫には水尾が白く泡立ちながら、ざわざわと騒いでいる。彼女は舵を握って方向を取った。頭は布で縛った。帽子を冠ったら、持って行かれてしまいそうなのだ。房々と渦巻いた髪の毛が布の下からはみ出して、しなやかに空中を翻っている。彼女は日焼けのした手で、しっかり舵を握ったまま、ときどき顔へかかる沫《しぶき》を笑い興じていた。僕はその足もとに近い舟底に胡坐をかき、独逸人はパイプを取り出して、例の安刻煙草《クナステル》を吹かしながら――まあ、どうだ――かなり、気持ちのいいバスで唄い出すじゃないか、はじめ彼は"Freut'euch des Lebens"(生きの命を楽しめよ)という古い歌を唄い出したが、それから『魔笛』のアリアに移り、やがて『恋のアルファベット』と呼ばれるロマンスを歌った。このロマンスでは、それぞれ適当の小唄を挿むのは勿論だが、アルファベットをすっかり云ってしまう仕組みになっているのだ。先ずA・B・C・D――ヴェン・イッヒ・ディッヒ・ゼー(もしもお前に会おうなら)からはじめて、U・V・W・X――マッハ・アイネン・クニックス!(さあさお辞儀だ)に終るのだ! シムメルはこういった小唄を、感傷的な表情ですっかり唄い尽したが、しかし彼が「クニックス」というところで、狡猾そうに左の眼を細めた、その表情が見ものだった。ヴェーラは笑いながら、指を一本立てて嚇かす真似をした。僕は老人に向かって、シムメル氏も僕の見たところでは、昔は相当さかんにやったものらしい、と云うと、老人は、「ええ、そりゃそうですとも、私だって誰にもひけを取りゃしませんかったよ!」としかつめらしい調子で答えると、掌の上へパイプの灰をたたき出して、指先を煙草入れへつっ込みながら、さも伊達者らしくパイプの吸口を横っちょに咥えた。「私が大学にいた時分と来たら、いや、なっかなか、どうして!」と云い添えたきり、そのまま口をつぐんでしまった。けれどこの「なっかなか、どうして!」の調子が実に素敵だった。ヴェーラは、何か学生歌を聞かしてくれと頼んだ。で、彼は"Knaster, den gelben"(黄な色した安煙草)を唄ったが、最後の節で調子をはずしてしまった。老人、あまり羽目をはずし過ぎたのだ。
そのうちに風が強くなって、かなり大きな波が立ちはじめ、ボートが幾らか傾いて来た。燕が私達のまわりを低く飛びめぐった。そこで僕達は帆の位置を変えて、いろいろに操りはじめた。と、不意に風がどっと襲って、どうする暇もないうちに、波が舟端を越えてうち込んで来た。ボートはかなりひどく水をかぶってしまった。が、その時も独逸人は勇敢な働きぶりを示した。彼は僕の手から綱をひったくって、帆の位置をうまく直すと、「クックスハーフェンでは、まあこんな風にやりますよ!」と云ったものだ――"So macht man's in Kuxhafen !"
ヴェーラはびっくりしたらしく、ちょっと顔色を蒼くしたが、いつもの癖で一と口もものを云わずに、スカートを軽くつまみあげて、靴の爪先をボートの横木に乗せた。僕は急にゲーテの詩を思い浮かべた(僕はいつの頃からか、すっかりゲーテ熱に浮かされているのだ)……覚えているかい――「幾千よろずの星の数、波間に揺れてきらめける」というのだ。僕はこれを高々と朗吟した。朗読が、「わが眼《まなこ》、何の故にや汝等《いましら》はしかく伏するぞ!」という一節まで来たとき、彼女は微かに瞳をあげた(僕はその足元に坐っていたので、彼女の視線は上から僕に落ちていたのだ)。そして風に眼を細めながら、永い間はるか彼方を見つめていた……軽い通り雨がさっと襲って、水面に白い玉を躍らしはじめた。僕は彼女に自分の外套をすすめた。彼女はそれを肩にはおった。われわれは岸に着いて――それは桟橋ではなかった――家まで歩いて帰った。僕は彼女に腕を貸した。何か彼女に云いたいような気が絶えずしたけれど、僕は沈黙を守っていた。とはいえ、今でも覚えているが、ただ一つこういう質問を発した――なぜ彼女は家にいる時、まるで雛が母鳥の翼の下に隠れるようにいつもエリツォー〓夫人の肖像の下に坐っているのか? と僕は云った。「あなたの比喩は大変よく当っていますわ。」と彼女は答えた。「わたし、決してあの翼の下から出たいと思いませんの。」「自由の境地へ出たいとお思いになりませんか?」と僕は重ねて問いかけた。彼女は何とも答えなかった。
僕はなぜこの舟遊びを、こんなに詳しく君に語ったのか、自分ながら訳が分らない――強いて理由を求めれば、それが僕の過去に於ける最も楽しい出来事の一つとして、記憶に刻み込まれたからだろう。もっとも実際のところ、別に出来事などとは云えないのだが……僕は何とも云えないほど喜ばしい、静かな愉悦を感じたのだ。そして涙が――軽やかな幸福の涙が、とめどなしに双の眼から溢れそうになる。
そうだ! まあ想像して見てくれ、その翌日僕が庭を散歩しながら、東屋の傍を通り過ぎようとすると、不意に誰かしら気持ちのいい朗かな女の声で"Freut' euch des Lebens"を唄っているのが耳にはいった……僕は東屋の中をのぞいて見ると――それはヴェーラなのだった。「ブラーヴォ!」と僕は叫んだ。「あなたがそんな素晴らしい声をしていらっしゃるなんて、夢にも知りませんでしたよ!」すると、彼女は恥かしそうにして、歌いやめてしまった。冗談は抜きにして、彼女は力のはいった、立派なソプラノを持っているのだ。ところで彼女自身も、僕の想像するところでは、自分にそんな美声があるとは、今まで思いがけなかったに相違ない。まだどれだけ未知の精神的な富が、彼女の内部に秘められているやら、測り知れないくらいだ! 彼女も自分で自分を知らないでいるのだ。現代でこんな女性は珍しい現象と云わなければならない、そうじゃないか?
八月十二日
きのう僕たちは実に妙な話をした。話題は初め亡霊の問題に触れたのだ。君、どうだろう、彼女は亡霊の存在を信じ切って、それには相当の理由があるというのだ。その座にいたプリイームコフは眼を伏せて、妻の言葉を裏書でもするように、ちょっと頭を振って見せた。僕は根掘り葉掘りしはじめたが、すぐこの会話が彼女に不快らしいのに気が付いた。そこで僕らは、想像ということ、想像の力ということを話し出した。僕は若い時分に、さんざん幸福を空想したものだが(それは実生活に不運だった人、もしくは不運である人間に取って、紋切り型の仕事なんだ)、その中でも、愛する女と一緒に、幾週間かヴェニスで暮らしたら、どんなに幸福だろうと空想を逞しゅうした――その頃の気持ちをみんなに話した。青年時代の僕は終始こんな空想に耽っていたので(殊に夜寝た時にそうだった)、知らず識らず一つの情景が頭の中に出来あがって、いつでも望み次第ちょっと眼を瞑りさえすれば、その情景を眼前に呼び出せるようになった。僕の空想裡に描かれた画面というのは、こうなのだ――夜、月、白く優しい月光、えならぬ香り……君はレモンの匂いと思うだろうが、違う。〓ニラの香りなのだ。サボテンの香りなのだ。それに一めん鏡のような水の面、その上に浮かぶ橄欖の生い茂った平坦な島、その島の殆んど水際に近い岸に、小さな大理石づくりの家が建っていて、窓はすっかり開け放されているのだ。どこからともなく楽の音が聞えて来る。家の中には葉の小ぐらく茂った鉢植えの木が見すかされ、半ば蔽われたラムプの光が流れている。一つの窓からは、金の房の付いた重い天鵞絨の袍《マント》が垂れさがって、下の端は水の中につかっている。その袍に肘づきしながら、彼と彼女とが並んで坐って、遠くヴェニスの方を眺めている。こうした光景が、まるで自分の眼で見たもののように、はっきりと想像に浮かぶのであった。
彼女は僕の囈語《うわごと》を聞き終った後、自分もよく空想するけれど、自分の空想はまるっきり種類の違うものだ、と云った。彼女はどこかの旅行者と一緒に、アフリカの沙漠にいる自分自身を想像するか、でなければ、北氷洋でフランクリン(サア・ジョン、英国の著名な北極探検家)の足跡を探し求めているところを空想する。しかも自分の堪えなければならない一切の欠乏や、自分の戦わなければならない一切の困難を、まざまざと心に描くというのであった……
「お前は旅行記を余り読み過ぎたんだよ。」と夫は注意した。
「そうかも知れませんわ。」と彼女は云い返した。「でも空想するくらいなら、出来もしないことを空想したって、仕方がないじゃありませんか?」
「なぜそれがいけません?」と僕はその言葉尻を抑えた。「出来もしないことなんて、可哀そうになぜ悪いんです?」
「わたしの云い方が間違っていたんですわ。」と彼女は云った。「わたしが云おうと思ったのは、自分自身のことを空想するなんて、自分の幸福を空想するなんて、つまらないじゃありませんか、という意味だったんですの。自分の幸福など考えることはいりませんわ。そんなものはやって来やしません――そんなもの追い求めたって、つまらないじゃありませんか! それは健康と同じようなもので、自分で気が付かないでいる時は、つまりそれがあるっていう証拠なんですわ。」
この言葉は僕を驚嘆させた。この女性の中には偉大な魂がある。全くだ、僕を信じてくれ……ヴェニスのことから、会話は伊太利と、伊太利人に移った。プリイームコフは部屋を出て、僕とヴェーラと二人だけ取り残された。
「あなたの体には伊太利の血が流れてる訳ですね。」と僕は云った。
「ええ。」と彼女は答えた。「もし何でしたら、お祖母さまの肖像をお目にかけましょうか?」
「是非どうぞ。」
彼女は自分の居間へ行ったが、やがてそこからかなり大きな金の牌《メダリオン》を持って来た、この牌を開いたとき、僕はエリツォー〓夫人の父とその妻――かのアルバノ生まれの百姓女の、見事な細描肖像《ミニアチユーア》を見いだした。ヴェーラの祖父は、エリツォー〓夫人と驚くほどよく似ていた。ただ髪粉で白い雲のような髪に縁取られた顔の輪郭は、なお一層いかめしく、鋭い尖った感じを持っている上に、小さい黄色な眼には一種気むずかしい、頑な気持ちがすいて見えた。しかし伊太利娘の顔の素晴らしさはどうだろう! 大きな霑《うる》みのある眼はやや出めの方で、真紅な唇は自足の笑みを浮かべ、顔ぜんたいは咲き誇る薔薇のようにあけっ放しで、肉感的なものが溢れているのだ! 薄い肉感的な小鼻は、つい今しがた接吻した後のように、震えながら拡がっているように思われた。そして浅黒い双の頬からは、蒸し暑いほどの情熱と、健康と青春と、女性的な力の豊かさを放散していた……彼女の額はかつて思索したことがない。しかもそれに対しては、神を讃うべきなのだ! 彼女は故郷のアルバノ風俗で描かれていたが、画家は(ああ、名匠なるかな!)鮮かな灰色の艶を帯びた、漆のように黒い彼女の髪に、葡萄の枝を付けていたが、この酒神《バツカス》めいた飾りが、この上もなく彼女の顔の表情にふさわしいのだ。この顔が僕に誰を聯想させたか、君わかるかい? あの黒い額縁にはめたマノン・レスコオだ。が、何よりも驚くべきことには、この肖像を見ているうち、僕はふとこんな感じがしたのだ――顔の輪郭はまるっきり違っているにも拘らず、ヴェーラにもときどき何かしらこの微笑、この眼ざしに似たものが、瞬間的に閃めくことがある……
そうだ、繰り返して云うが、彼女自身も、世界中の誰一人も、彼女の内部に潜んでいるすべてを、まだ知り尽したものがないのだ……
ああ、そうだ! ついでに書いて置くが、エリツォー〓夫人は娘の結婚前に、自分の生涯や母の横死や、その他いっさい残らず彼女に話したのだ。それは恐らく教訓の目的だったろうと想像される。ヴェーラは自分の祖父、即ちあの神秘的なラーダノフの話を聞いて、特に強い印象を受けた。彼女が亡霊を信じるのも、つまりこのためではなかろうか? ああいう輝かしい清浄な女性でありながら、暗い地下の世界を恐れて、しかもそれを信じるとは、何という不思議なことだろう!……
しかし、もう沢山。こんなことをこまごま書いて何にするのだ? が、もう書けてしまったのだから、このまま君のところへ送るとしよう。
君のP・Bより
同じ人より同じ人へ
M村にて、一八五〇年八月二十二日
最後の手紙から十日を隔てて、またペンを取りあげる……ああ、君、僕はもう隠すことが出来ない……何という苦しさ! 僕は彼女に恋いこがれているのだ! この運命的な言葉を、いかに悲痛な胸の戦慄をもって書いているか、よろしく君の推察に任せる。僕は子供でもなければ、青年でさえもないのだから、他人を欺くのが殆んど不可能で、自ら欺くのに何の努力をも要しない、そういう時期はもう過ぎているのだ。僕は一切を自覚し、一切を明瞭に見定めている。自分がもう齢四十に近いという事も、彼女が他人の妻であり、かつ夫を愛しているという事も、僕はすべて承知しているのだ。また僕の全身を領したこの不幸な感情からは、秘められたる心の呵責と、完全な生活力の浪費よりほか、何一つ期待できない、それも分っている、こういう事がすっかり分っていて、何にも望みをかけないし、また何物をも欲しないのだけれど、しかしそれだからと云って、少しも心は軽くならないのだ。もう一と月ばかり前から、彼女に対する僕の関心が次第に強くなって行くのに気が付いた。それはいくぶん僕を当惑させもしたけれど、幾分はまた喜ばせてもくれた……しかし、過ぎ去った青春と同様に、二度と帰らぬものと思われたすべての事が再び僕の身の上に繰り返されようとは、夢にも思いがけなかった。いや、僕は何を云っているのだ! こんな恋はかつて一度もした事がない。そうとも、決して一度も! マノン・レスコオ、フレチリオン――これがかつて僕の偶像だった。こういう偶像を叩き壊すのは容易《やさし》かったが、さて今は……僕は今はじめて、女を恋するということがどんなものか、本当にわかった。こんな事を云うのは恥かしい訳だが、しかしその通りなのだ。僕は恥かしい……恋は何といってもエゴイズムだが、僕の年でエゴイストになるのは、赦すべからざることだ。三十七にもなって、自分自身のために生きてはいけない、有益な生き方をしなければならない。一定の目的を抱きながらこの地上で自己の本務、自己の事業を履行しなければならない。僕も仕事にかかりかけたのだが……それがまた旋風に襲われたように、すっかり吹き散らされてしまった。
今にして思えば、僕が最初の手紙で君に書き送ったことの意味が、分るような気がする。まだまだ僕の前途にどんな試煉が必要だったか、それが今わかって来た。この試煉がとつぜん僕の頭上に崩れ落ちたのだ! 僕はぼんやり突っ立って、無意味に前途を見つめているが、すぐ眼の前に黒い帷が懸かって、胸の中は重苦しく、悩ましい! 僕は心の手綱を引き締めることが出来る。うわべは他人の前ばかりでなく、差し向いの時でさえ、平静を保っていられるのだ。実際若い小僧っ子のように、気違いじみた真似をする訳にゆかないからね! しかし毒虫が僕の心へ這い込んで、昼夜をわかたず血を吸っているのだ。一体これはどういう結末になるのか? 今までは彼女から離れると、悩んだり、興奮したりしても、会えばすぐに治まったものだが……今では彼女の傍にいても心が穏かでない――これが僕には恐ろしいのだ。ああ、君、われとわが涙を恥じて、これを隠さなければならぬとは、何という苦しいことだろう!……泣くことは若人にのみ許されている。涙は彼らにのみふさわしいのだ……
僕はこの手紙を読み返すことが出来ない。これは呻吟の声のように、思わず胸から迸り出たのだ。僕はもう何一つ付け加えることも、物語ることも出来ない……やがてそのうちにわれに返って、心の手綱を取り直したら、男らしく自分で君に一切を語ろう。けれども、今は君の胸に自分の頭をもたせて、そうして……
おお、メフィスト! お前も俺を助けてくれないのか? 僕が途中で筆を止めたのは、考えあってのことなのだ。つまり、わざと僕の内部に潜んでいる皮肉な本能を掻き立てて、こうした愬えや泣き言が、一年か半年たった時、どんなに滑稽な、甘ったるいものに感じられるかということを、自分自身に注意してやったのだが……駄目だ、メフィストも無力だ。彼の牙も鈍ってしまった……さらば!
君のP・Bより
同じ人より同じ人へ
M村にて、一八五〇年九月八日
親愛なる友セミョーン・ニコラーイッチ!
君は僕の最後の手紙を余り気にし過ぎる。僕がいつも感情を誇張する癖があるのは、君も知っている筈じゃないか。それは何かこう自然にそうなってしまうのだ――女々しい性格! 無論それは年とともに消えてゆくことだが、今のところ、まだ依然として矯正されていないのを、嘆息とともに自白しなければならない。だから安心してくれ。ヴェーラが僕に与えた印象は、敢て否定しないけれど、繰り返して云うが、この事実の中には、何も異常な分子を含んではいない。君が書いているように、わざわざここへ来てくれるなんて、ぜんぜん必要のないことだ。千露里の道をわざわざ駈けつける。しかも、くだらない事情のために――いや、それはもう狂気の沙汰だ! しかし、君の友情の新しき証明として、僕は心から君に感謝する。そして、生涯これを忘れないということを、どうか信じてほしい。それに僕自身も、近々ペテルブルグへ向けて出発するつもりだから、君がここへ出向いてくれるというのは、尚さら当を得ない訳だ。僕は君の長椅子に腰掛けて、いろいろ詳しく話して聞かそう。が、今は全くその気にならない。またうっかり口が滑って、混乱を惹き起さないとも限らないからね。出発前に、またあらためて書こう。ではさようなら。大いに健康と快活を保って、余り友の運命に心を痛めないでくれ。
心服せる友P・Bより
同じ人より同じ人へ
M村にて、一八五三年三月十日
永く君の手紙に返事を書かなかった。実はこの四五日あの手紙のことばかり考えていたのだ。君があれを書く気になったのは、単なる物好きな気持ちからではなく、親身な友情だということは僕も直感したのだが、君の忠言に従って、君の希望を入れたものかどうか、その点で僕は躊躇したのだ。しかしいよいよ決心した、僕はすっかり君に話してしまう。君の想像どおりに、この告白が僕の気持ちを軽くしてくれるかどうかは知らないけれども、しかし永久に僕の生活を一変してしまった事情を、君に隠して置く権利がないように思われるのだ。それどころか、そんなことをしたら、僕は君に対して生涯罪人になりそうな気持ちさえする……その上にわれわれの悲しい秘密を、自分の敬愛する唯一人の人に打ち明けなかったら、ああ! かの永遠に忘れ難い懐しき人の影に対して、なおさら罪人とならなければならぬのだ。君はこの地上に於いて、ヴェーラを記憶するただ一人かも知れないのに、その君が彼女に対して、軽々しい虚妄な判断を下している。これは僕として我慢が出来ないのだ。どうか一切の事情を知ってくれ! ああ、これはほんの一ことで伝えられる話なのだ。僕ら二人の間にあったことは、稲妻のようにただ一転瞬の閃めきで、またその稲妻の如く、死と滅亡を齎したのだ……
彼女が亡くなってからこのかた、生涯の終りまで離れぬつもりで、僕がこのわびしい片田舎へ移ってからこのかた、二年あまりの月日が過ぎてしまった。しかも、すべては余りにもまざまざと僕の記憶に残り、僕の痛手は依然としてあまりにも生々しく、僕の悲しみはあまりにも痛烈なのだ……
僕は哀訴などしようと思わない。哀訴は心の傷をかき立てながら、悲しみを癒やしてくれるものだが、しかし僕の悲しみは癒やせない。とにかく物語に移ろう。
君は僕の最後の手紙を覚えている事と思う――それは僕が君の心配を吹き散らそうと考えて、君のペテルブルグ出発を中止させた、あの手紙だ。君はあの手紙のわざとらしく磊落な調子を怪しく思って、僕ら二人が近々一緒に落ち合うようになるという言葉を、本当にしてくれなかったが、それは君の察し通りだった。あの手紙を書いた前日、僕は自分が愛されていることを知ったのだ。
この言葉を書いた時、僕は最後まで物語を続けて行くのが、いかに困難な仕事であるかを悟った。僕の頭にこびりついている彼女の死を思う心が、前にも倍する力で僕を悩ますに相違ない、この思い出が僕を焼き尽すに相違ない……けれど僕は努めて自分の気持ちに手綱を締めよう。そしてひと思いにペンを投げてしまうか、それとも不用なことは一口も云わないことにしよう。
ヴェーラが僕を愛していると知ったのは、次のような事情なのだ。第一に断わって置かねばならないが(また君も信じてくれるだろう)その日まで僕はそんな事など、まるで夢にも考えていなかったのだ。もっとも、彼女は時々妙に考え込むようになった。そういう事などはかつて見られなかったのだ。僕はどうしてそんな風になったのか、合点が行かなかった。ところが、到頭ある日のこと、それは九月の七日で、僕に取って永久に記憶すべき日なのだが――こういうことが持ち上った。君も知っている通り、僕は彼女を思う心が一杯で、苦しくて堪らなかったものだから影のようにあちこちと歩いて、身の置き場所が分らないような気がしていた。その日も、家にいようと思ったのだが、我慢しきれなくなって、彼女のところへ出かけて行った。行って見ると、彼女はただひとり居間に籠っていた。プリイームコフは猟に出かけて留守だった。僕がはいって行った時、ヴェーラはじっと僕の顔を見つめたまま、僕の会釈に答えようともしなかった。彼女は窓際に坐っていたが、その膝には本が一冊のっていた。僕は直ぐに気がついた。それは僕の贈った『ファウスト』なのだ。彼女の顔は、ぐったりしたような表情をしていた。僕は向き合って腰をおろした。彼女は、ファウストとグレーチェンの対話を読んで聞かせてくれと、僕に頼んだ。それは彼女がファウストに向って、神を信じるか、と聞く場面である。僕は本を取りあげて読みにかかった。読み終ると、僕は眼をあげて彼女を見た。ヴェーラは肘椅子に頭をもたせ、両腕を胸に組んだまま、やっぱりいつまでも穴のあくほど僕を見つめている。
なぜか知らないが、僕の心臓は不意に高鳴りはじめた。
「あなたはわたしに何ていう事をなすったのでしょう?」と彼女はゆっくりした声で云い出した。
「何ですって?」と僕はまごつき気味で問い返した。
「本当にあなたは、わたしに何ていうことをなすったのでしょう?」彼女は繰り返した。
「というと、」僕は云い出した。「なぜ、こんな本を読むようにしつけたか、とおっしゃるんですね?」
彼女は言葉もなく立ち上って、いきなり部屋を出て行った。僕はその後を見送った。
戸口の閾で、彼女は不意に歩みを止めると、くるりと僕の方を振り返った。
「わたし、あなたを愛していますの。」と云った。「あなたはわたしをこんな事にしておしまいになったんですわ。」
全身の血がさっと僕の頭にのぼった……
「わたし、あなたを愛していますの、わたしあなたが恋しい。」とヴェーラは繰り返した。
彼女はそのまま外へ出て、戸をぴったり締め切った。そのおり僕の心に生じたことを、改めて書き立てるのは止そう。僕は自分が庭へ出て、木立の奥へわけ入りながら、一本の幹に身をもたせた――それだけは覚えているが、それからどれだけそこに立ち尽したか、その辺はもうわからない。僕はまるで体じゅうしびれたような工合だった。恍惚たる幸福感が、ときどき波のように胸を走り流れた……いや、こういうことを書くのは止めにしよう。プリイームコフの声が、僕をこの恍惚境から呼び醒ました。僕の訪問を知らせに使いが行ったので、彼は猟から帰って、僕を捜していたのだ。僕が帽子も冠らないで、庭に一人ぽっちでいるのを見ると、びっくりした様子で家へ伴なって帰った。
「妻は客間に居ますよ。」と彼は云った。「そちらへ行って見ましょう。」
僕がどんな気持ちを抱いて、客間の閾を跨いだか、それは君の想像に任せよう。ヴェーラは片隅で刺繍枠に向っていた。僕はそっと姿を盗み見したばかりで、暫く眼をあげなかった。驚いたことに、彼女の様子は落ちついていた。彼女の話すことにも、その声の響きにも、不安の影は感じられなかった。やがて僕は到頭おもい切って、彼女を見あげた。と、二人の視線がぴったり出会った……彼女はほんの心持ち顔を赤らめて、刺繍の上に屈み込んだ。僕は彼女の様子を観察しはじめた。彼女は何となく、思いまどっているように見えた。浮かぬ微笑が、時々その唇を掠めるのであった。
プリイームコフは出て行った。彼女はとつぜん頭を上げて、かなり高い声で僕に訊ねた。
「これから、あなたどうなさるおつもり?」
僕はまごまごしながら、籠った声でせき込み調子に、自分は潔白な人間としての義務を履行する。つまり身を引いてしまうつもりだ、と答えた。「だって、僕はあなたを愛しているんですもの、ヴェーラ・ニコラーエヴナ。あなたもたぶん前から気がついておいでになったでしょう。」と云い足した。彼女は再び刺繍の方へ頭を屈めて、考え込んでしまった。
「わたし、あなたとお話を決めなくちゃなりませんわ。」やがて彼女はこう続けた。「今夜お茶の後で、庭の離れへいらして下さいな……おわかりでしょう、あなたが『ファウスト』をお読みになった……」
彼女はかなりはっきり、これだけのことを云ったので、丁度その瞬間部屋へはいって来たプリイームコフが、どうして何も耳に入れなかったのか、今でも合点がゆかないくらいだ。
その日は静かに、悩ましいほど静かに暮れて行った。ヴェーラの顔は時折「これは夢じゃないかしら?」と自問するような表情に、ぱっと照らし出されたが、それと同時に、堅い決心の色が眉宇に溢れていた。ところで、僕は……僕はなかなかわれに返ることが出来なかった。ヴェーラが自分を愛してくれる! この言葉が絶えず頭の中でくるくる渦巻いていたが、自分でもその意味がわからなかった――それに、自分というものも分らなければ、彼女のことも分らなかったのだ。僕はこうした思いがけない、全存在を震撼するような幸福を、信ずることが出来なかったのだ。僕はやっとのことで過去を思い起しながら、同じく夢見るような眼つきをし、話し振りをしていた……
茶の後で、僕がどうかして目立たぬように家から滑り出ようと、そろそろ心の中で考えはじめた時、彼女は不意に自分の方から、散歩に出たくなったと触れ出して、僕について行ってくれと頼んだ。僕は立ち上って帽子を取り、ふらふらと彼女の後からついて行った。僕は話しかける勇気がなかった。息をするのもやっとの思いで、彼女の最初の一ことを待ち受けていた。けれど彼女は黙っていた。二人は無言のまま支那風の離れへ辿り着き、無言のままその中へはいった。するとその時――僕は未だにどうしてそうなったのか、まるで合点がゆかない――二人は思いがけなく互いの体を抱擁に包んでいた。何か眼に見えぬ力が二人を突き動かしたのだ。消え行く夕映えの光の中で、波打つ髪をうしろへ払いのけた彼女の顔が、忘我と愛の微笑に照らし出された。こうして二人の唇は接吻に溶け合った。
この接吻は最初のものでもあれば、最後のものでもあった。
ヴェーラはとつぜん僕の腕から身を振りほどいて、大きく開いた眼に恐怖の表情を浮かべながら、一歩うしろへよろめいた。
「うしろを見てごらんなさい。」と彼女は震える声で云った。「あなたの眼には何も見えません?」
僕は素早く振り返って見た。
「なんにも。一体あなたは何かお見えになるんですか?」
「今は何も見えません。でも、見えたんですの。」
彼女は深く間遠に息をついていた。
「誰を? 何を?」
「わたしの母を。」と彼女は静かに云って、全身をわなわなと震わせはじめた。
僕も冷水を浴びせかけられたように、思わず身震いした。と、急に自分が罪でも犯しているもののように、息づまる思いがした。全く僕はこの瞬間罪人《つみびと》でなかったと云えるだろうか?
「そんなつまらないこと沢山ですよ!」と僕は云い出した。「何だってそんなことを? それよりいっそ……」
「いいえ、後生ですからよして頂戴!」と彼女は遮って、われとわが頭を掴んだ。「これは気違いめいている……わたしは気が狂いそうだ……これは冗談に出来ることじゃありません――これは命にかかわることです……さようなら……」
僕は彼女の方へ両手をさしのべた。
「お願いですから、ちょっと待って下さい。」僕は思わず声をつつ抜けさせた。もう自分で何を云っているか分らないし、体を足で支えているのもやっとであった。「後生です……それは残酷じゃありませんか!」
彼女はちらと僕を見た。
「明日、明日の晩。」と彼女は云った。「今日はいけません、お願いです……今日は帰って下さい……明日の晩、庭の木戸のところへ来て下さいな、湖水の傍の……わたしそこへ参ります、きっと行きます……誓って行きますわ。」と彼女は夢中になって云い添えた。その眼はぎらぎらと輝いた。「誰がとめたって。わたし誓って! 何もかも話してしまうわ! だけど今日は帰して頂戴。」
こう云うなり、僕が一語も発する暇もないうちに、彼女は姿を消してしまった。
僕は魂の底まで激しい震撼を受けて、その場に取り残された。眼がまわって、頭がふらふらしていた。僕の全存在を満たしたもの狂わしい歓喜の隙間から、悩ましい感情が忍び込むのであった……僕はあたりを見まわした。いま自分の立っている部屋――低い円天井に壁の薄暗い、がらんとした湿っぽい部屋が、僕の眼には物凄く思われた。
僕はいきなりそこを飛び出し、重い足取りで家の方へ行った。ヴェーラはテラスで僕を待っていたが、僕が近づくが早いか、すぐ家の中へはいって、そのまま寝室へ引き籠ってしまった。
僕はこの家を辞し去った。
その夜ひと晩と次の日の夕方までをどんなに過ごしたかは、とても口で伝えられるものではない。ただ覚えているのは、自分が両手で顔を隠したまま、じっとうつ向きに突っ伏しながら、接吻まえのヴェーラの微笑を思い起して、「ああ、到頭……」と囁いたことだけである。
僕はまた、ヴェーラから聞いたエリツォー〓夫人の言葉を思い出した。夫人は或るとき彼女にこう云ったそうである。「お前は氷と同じことで、溶けるまでは石のように堅いけれど、いったん溶けてしまったら、もう跡かたも残らないよ。」
それからまた、こういうことも頭に浮かんだ。いつだったか僕はヴェーラと二人で、才能――タレントとは何か、という問題を論じたことがある。
「わたしの才能はたった一つしかありません。」と彼女は云った。「それは最後の瞬間まで黙っていることですの。」
僕はそのとき、何のことか少しも分らなかった。
『しかし、ヴェーラがあの時あんなにおびえたのは、一体どういう訳だろう?』と僕は自問した……『本当にエリツォー〓夫人が見えたのだろうか? なに、ただそんな気がしただけだ!』と僕は考え、またもや期待の情に身を委せてしまった。
丁度この日、僕は君に最後の手紙を書いたのだ。あの狡い手紙を書いたのだ。しかもその時、どんな考えを頭に持っていたことだろう、思い出しても息がつまるようだ。
夕方――日はまだ沈んでいなかったが――僕はもう庭の耳門から五十歩ばかり距てた、湖畔の小高い灌木の茂みに身を潜めていた。僕は家から歩いて来たのだ。恥かしい話だけれども、白状するが、恐怖――実に意気地のない恐怖の念が胸一杯になって、僕は絶えずびくびく震え通していた……が後悔などはしなかった。枝と枝の間に隠れながら、僕は少しも眼を放さずに、じっと耳門を見つめていた。けれど耳門は開かなかった。やがて日が沈んで、次第にあたりは黄昏れて来た。やがてもう星が現われ、空も黒ずんで来た。が、それでも人影は見えなかった。僕は熱病やみのように悩み震えていた。もうすっかり夜になってしまった。僕はもうこれ以上がまんし切れないで、用心ぶかく茂みの中から出ると、木戸の方へ忍び寄った。庭内はひっそり静まり返っていた。僕は小声にヴェーラの名を呼んだ。もう一度、それから更にもう一度……けれど、答える声はなかった。それからまた三十分たち、一時間たった。あたりはもう真の闇になって、僕は期待の念に萎え衰えてしまった。僕は木戸をぐっと引いて手早く開けると、さながら盗人の如く爪立ちで母家の方へ進んだ。そして菩提樹の蔭に足を止めた。
家の窓は、ほとんど全部あかりがついていた。召使いたちが部屋々々をあちこち歩き廻っている。この様子はちょっと僕を驚かした。微かな星あかりに透かして見たところでは、僕の時計は十一時半をさしている。不意に家の向うで、騒がしい物音が響き渡った。馬車が邸から出て行ったのである。
「どうやら来客らしい。」と僕は考えた。ヴェーラに会える望みを完全に失ったので、僕は庭から外へ出て、わが家をさして急ぎ足に歩き出した。それは九月の暗い夜だったが、暖かで風もなかった。いまいましさというより悲しみの情が僕の全幅を領していたが、それも次第に散じて行った。家へ辿り着いた時には、急いで歩いたために、少々疲れてはいたけれど、夜の静寂に心を鎮められて、幸福な、殆んど楽しい気持ちになっていた。僕は寝室へはいると、従僕のチモフェイをさがらせて、着がえもせずにベッドへ身を投げ出し、そのまま空想に没頭した。
始めのあいだ、僕の空想は喜ばしいものだったが、間もなく僕は、自分の内部に起った奇妙な変化に気がついた。何かしら秘かに心を噛むような憂愁と、一種の深い内部の不安を感じはじめたのだ。僕はその原因こそ分らなかったけれど、まるで、目前に迫った不幸におびやかされているような――誰か懐かしい人が丁度この瞬間に苦しみ悶えて、僕に助けを求めているような、不吉な悩ましい気持ちになるのであった。テーブルの上には、一本の蝋燭が小さな焔を立てて瞬きもせずに燃え、時計の振子は重々しい調子で、規則ただしく鳴っている。僕は片手で頭を支えながら、わびしい部屋のがらんとした薄闇に、じっと見入りはじめた。僕はヴェーラのことを思った。と、心が急にうずいて来た。僕にあれほど喜びを感じさせたすべてのものが(当然なことながら)、大きな不幸のように、救いのない破滅のように思われて来た。憂愁の情は次第に拡がっていった。僕はもう寝ていられなかった。不意にまたもや誰かが哀訴めいた声で、僕を呼んでいるような気がした……僕は頭を持ちあげてぴくりとした。果して、それは気のせいばかりではなかった。物哀れげな叫びが遠くの方から流れて来て、弱々しい顫音を立てながら、黒い窓硝子にぴたりとこびりついた。僕は恐ろしくなって、いきなりベッドから跳ね起きると、さっと窓を押し開いた。まがいもない呻吟の声が部屋の中へ流れ込んで、僕の頭上を渦巻いたように思われた。恐怖の余り全身に冷気を感じながら、僕は消え行く最後の余韻に耳を傾けた。それはどこか遠くで誰か薄命な人が斬り殺されようとしながら空しく助命を乞うている、そういったような感じだった。それは梟が森で啼き出したのか、それとも何か他の動物がこの呻きを発したのか、その時は何とも考えつかなかったけれども、僕はかのコチュベイに答えたマゼッパ(共に十八世紀、小ロシヤの貴族、プーシキンは両者の確執を題材として叙事詩「ポルタ〓」を作る)のように、この不吉な響きに叫びをもって応じたのである。
「ヴェーラ、ヴェーラ!」と僕は叫んだ。「これは一体、お前が僕を呼んでいるのか?」
寝ぼけ眼のチモフェイが、びっくりした顔つきで、僕の前へ姿を現わした。
僕はわれに返って、コップに一ぱい水を飲み乾すと、別の部屋へ移った。しかし眠りは訪れて来なかった。心臓はさほど激しくはないけれど、病的に鼓動するのであった。僕はもう幸福の夢に身を委ねることが出来なかった。もはや幸福などを信じるのが憚られたのだ。
翌日食事の前に、プリイームコフの家へ出かけて行った。彼は心配そうな顔つきで僕を出迎えた。
「妻は病気なんです。」と彼は云い出した。「床についています。僕は医者を迎えに使いをやりました。」
「どうなすったんです?」
「わかりません。昨晩あれは庭へ出て行きましたが、急におびえ上ったような風で、夢中になって引っ返しました。小間使が呼びに来たので、僕はさっそく行って、どうしたのかと聞きましたが、妻はなんにも返事をしないで、そのまま床についてしまいました。夜になると囈言がはじまって、何だか訳のわからないことを口走るのです。あなたのことも云っておりましたよ。小間使の話を聞いて見ると、実に大変なことなんです。何でも庭で亡くなった母親の亡霊が、ヴェーロチカの眼の前に現われて、しかも両手を拡げながら、あれの方へ寄って来るような気がしたんだそうです。」
この言葉を聞いたとき、僕の気持ちがどんなだったか、君も察してくれるだろう。
「無論それは馬鹿げた話です。」とプリイームコフは言葉を続けた。「しかし白状しなければなりませんが、妻にはそういった風な並はずれたことが、これまでも時々あったんですよ。」
「で、どうなんです、ヴェーラ・ニコラーエヴナは非常に悪いんですか?」
「そうです、よくないんです。昨夜はかなり心配しました。今は昏睡状態でいますよ。」
「医者は何と云いました?」
「医者はまだ病名がはっきりしないって云うのです……」
三月十二日
君、僕はもうこの手紙をはじめのような調子で、書き続けることは出来ない。それは僕に取って、余りに大きな努力を要求し、余りに激しく僕の傷口を掻き立てるのだ。医者の言葉をかりると、病名はついに決定して、ヴェーラはその病気のために死んでしまった。二人が束の間のあいびきをぬすんだ運命的な日から数えて、彼女は二週間と生き延びなかった。僕は臨終まぎわに、もう一度彼女に会った。僕に取ってこれ以上残酷な記憶はない。そのとき僕は既に医者の口から、望みはないと聞いていた。夜おそく、家じゅうの人がみんな眠りについた時、僕は彼女の寝室の戸口に忍び寄って、そっと中をのぞいて見た。ヴェーラは眼を閉じたまま、ベッドの上に横たわっていたが、体は痩せて小さくなり、双の頬には熱病性の紅《くれない》が燃えていた。僕は化石したように、じっと彼女を見つめた。不意に彼女は両眼をぱっちりあけて、視線を僕の方へ注ぎながら、ひたと見入った。と、痩せ細った手を差し延べて――
この聖なるところに彼はそも何を求むる
われを……このわれをこそ……
ファウスト第一部「牢屋の場」
と彼女は云ったが、その声が何とも云えないほど恐ろしかったので、僕は思わずそこを逃げ出してしまった。彼女は病気の間ほとんどひっきりなしに、『ファウスト』と母親のことばかり囈言に云っていた。母親のことを、彼女はマルタと呼んだり、グレーチェンの母と呼んだりしていた。
ヴェーラは死んだ。僕はその野辺おくりに列した。それ以来、僕は一切を投げうって、永久にここへ居を定めたのだ。
さて今こそ、僕の君に物語ったことを考えて見てくれ。彼女のことを――かくまで早く滅びた女性のことを考えてみてくれ。どうしてこういうことになったのか、生者のことに対する死者のかかる不可解な干渉を何と解釈したらいいのか、それは僕に分りもしなければ、また永久に分る事もないだろう。けれど僕が世の中から退いたのは、決して君の云うように気紛れなヒコポンデリイの発作のためではない。それだけは認めて貰わなければならない。僕は君の知っていた昔の僕ではない。以前信じていなかった多くのことを、僕はいま心から信じるようになった。この間じゅうから、僕はあの薄命な婦人(僕は危うく娘と呼ぶところだった)のことや、彼女の生い立ちや、われわれ盲者が盲目な偶然と称している運命の秘密な戯れや、そういうことについて、いろいろ考えた。この世に住む一人々々の人間が、どれだけの種を地上に残して行くか、測り知れないくらいだ。しかもその種は、当人の死後はじめて発芽すべき運命を担っているのだ。人間の運命がいかなる神秘の鎖で、その子や孫の運命に結びつけられているか、またその努力や翹望がどんなに子孫の上に反映するか、その過失がいかに子孫に報いられるか、それはただ神様にしか分らない。われわれはただ諦めて、「未知」の前に頭を垂れなければならない。
そうだ、ヴェーラは死んでしまった、そして僕は命を全うしているのだ。僕にはこんな記憶がある。僕がまだごく小さかった時、透き通った雪花石膏でつくった美しい花瓶が僕の家にあった。その処女の如き純白の肌は、一点の汚点にも穢されていなかった。或る時のこと、一人きりになった時、僕はそれを載せてある台を揺すぶりにかかった……花瓶は不意に轟然と落ちて、こな微塵に壊れてしまった。僕は恐ろしさの余り麻痺したようになって、破片の前に身動きもせず立っていた。父がはいって来て、僕を見るとこう云った。「それごらん、お前は何ということをしでかしたのだ。もう家にはあの美しい花瓶がなくなってしまったんだよ。もうどうしたって取り返しはつきやしない。」僕はしゃくりあげて泣いた。僕は自分が大きな罪を犯したように感じた。
僕は成長して、一人前の男になった――そして軽はずみな心持ちから、それより千倍も貴重な器を壊してしまったのだ……
僕は、こうした夢のようにはかない結末を思いも設けなかったとか、その意外さに激しい震撼を受けたとか、ヴェーラの本質を夢にも考え及ばなかったとか――そんなことを云っても、要するに返らぬ繰り言である。彼女はまさしく、最後の瞬間まで沈黙する術を知っていた。僕は彼女を愛している、人妻を愛していると感じた時、直ぐにも遠ざかるべき筈だったのに、依然としてなお踏み止まっていた――こうして、美しい自然の創造物はこな微塵に砕けてしまった。そして僕は無言の絶望を胸に抱きながら、自分のしでかした結果をじっと眺めているのだ。
そうだ、エリツォー〓夫人は懸命に自分の娘を守り続けた。彼女はヴェーラを最後まで守り終せて、最初の蹉跌を見るとひとしく、彼女を冥府へ伴ない去ったのだ。
もはや筆をおくべき時だ……僕は云うべきことの百分の一も、君に伝えることが出来なかったが、僕にしてはこれだけでも沢山なのだ。僕の胸に湧き立ったすべてのものよ、再び底に沈んでしまえ!……擱筆するに当って、これだけのことを君に云って置こう、ほかでもない、この数年来の経験から、僕は一つの確信を掴んだのだ――生活は冗談でもなければ、慰みでもない。またそれは享楽でさえもない……生活は苦しい労働なのだ。欲望の拒否、不断の拒否、これこそ人生の秘められたる意味であり、その謎を解くべき鍵である。たとえいかに崇高なものであろうとも己れの好む想念や空想の実行ではなく、ただ義務の履行――これこそ人間の心に懸けなければならぬことである。自分の体に鎖をかけなかったら、義務という鉄鎖をまとわなかったら、人間は生涯の行程を最後まで倒れることなしに行き着くことは出来ない。誰でも若い時には、人間は自由なほど有難い、自由であればあるほど、それだけ発展することが出来る、とこんな風に考え勝ちなものである。若い時には、そういう考え方も許されるが、峻厳な真実の顔が、ついに自分を真面《まとも》に見つめるようになった時、偽りの観念で自ら慰めるのは恥ずべきことだ。
さようなら! 以前の僕なら、幸福なれ、と附け加えるところだが、今は君にこう云おう――生活に努力したまえ、それは見かけほど楽なものではない。僕のことを思い出してくれ、しかし悲しみの時でなしに、瞑想の時が望ましい。そして、ヴェーラの面影を清浄無垢な姿のまま、君の心に永くおさめていてほしい……では、もう一度さようなら!
君のP・Bより
あとがき
『片恋』は原名を『アーシャ』という。なぜ私がこの改題をあえてしたかと云うと、それは今から五十五年まえ、長谷川二葉亭がこの題のもとに、初めて当時としては驚嘆すべき名訳を発表したからである。私はそれから約三十年たって、二葉亭の訳業に心酔し、わけてもこの『片恋』はさながらライン・ワインの如き芳醇な香りで、少年の私を陶酔させた。私はその最も優れた部分部分を、ほとんどそらで口ずさんだ程で、その思い出が貴いために、敢て原名を避けて、この題名を冠するゆえんである。
それほどの名訳を、私がなぜ僭越にも新しく改訳したか? それはほかでもなく、ひとえに時代のなす業である。それは当時の読者と、今のインテリ読書層の相違を考えただけでも、思いなかばに過ぐるものがあろう。時代感覚、当時と現代の言葉や表現の相違……のみならず、二葉亭は江戸の戯作者たちの文学に養われて来た人であったため、露西亜文学とはおよそ縁のないこの世界の影響を、完全に脱しきれなかったのは、当然すぎるほど当然である。その上、多少の考え違いも全くないとは云われない。右の理由で、私はこんど新潮社の乞いによって、この新訳に手を染めた次第である。
『アーシャ』は、一八五七年に書かれた作品である。恐らく『初恋』とならんで、ツルゲーネフの中篇の双璧をなすものであろう。そして、私のひそかに忖度するところに依ると、これはある程度、作者自身の独逸遊学時代の体験を小説化したものと思われる。その中に溢れている感情、自然に対する見方、すべてツルゲーネフ独自のものである。彼は既に執筆当時、〓アルドー夫人に恋していたが、そのころからもう自分の晩年を予感していたに相違ない。なぜなら、この小説の最後に、「家庭を持たぬ淋しい独りものという運命を背負わされた私は、味気ない晩年を送っています。」と書いているが、ツルゲーネフが齢ようやく三十九歳にして、早くも老いらくの心境に入ったとは、何という痛ましい生涯であったことか!
この小説の中でも、アーシャの兄ガーギンに於いて、余計者の一典型を示しているが、これは社会的に何らかの意義を持つ余計者ではなく、単に貴族出のディレッタントに過ぎない。それよりも、主人公のアーシャは、ツルゲーネフの数多い作品の中でも、異彩を放つ存在として独自の光を放っている。
彼女は純真で、火のような熱情に燃え、男性の思い切り悪さに反して、一旦こうと思い込んだら、火の中でも水の中でも飛び込む烈しさを持っている。そういう点は、彼の他の作品にも見られるが、アーシャの特異性は、彼女が賤しい妾腹の子であるため、その意識が絶えず彼女を苛立たせ、その行動をいびつにしている点であって、ツルゲーネフはその細かい陰影を、心憎いほどいみじく描破している。
この作品の風景描写も素晴らしい。『猟人日記』時代の精密描写から一歩すすんで、単純な筆致のうちに多くのものを感知せしめる、印象派的な筆致に変っていることは、注目に価する。
『ファウスト』は一八五五年に書かれた中篇であるが、形式の完備していること、人生観照の目の落ちついていること、性格解剖の深刻で精緻を極めていること、作者の洗練された芸術的エモーションが優れた音楽のごとく全篇に浸透していること、その他多くの点に於いて、ツルゲーネフの全作品中でも、最高水準を形づくるものの一つである。
女主人公のヴェーラは祖母から熱烈な伊太利の血を受けついで、量り知れぬ情慾の力を内部に蔵していると同時に、祖父からは神秘的、超自然的な心的傾向を遺伝している。いわば異常型の女性であるが、それと同時に、彼女はすぐれた頭脳と洗練された感受性を賦与されたインテリゲントである。母親の不自然な人工的教育法によって、烈しい南国的な熱情を内部へ深く埋没されてしまったため、単純で無邪気な少女のように明るい心を保ったまま、人の妻となり母となった。こうして、二十七の年まで、完全な自我の本質を自分でも意識せず、まして他人にもかつて示すことなく、一個の中間的存在として過して来た。こういう不自然な状態が悲劇を招かずに終るはずはない。たまたま芸術に対する目を開かれ、人間の愛慾の赤裸々な姿と、その人生に於ける深い意義と、甘美なまよわしを知った時、彼女の内部に深く蔵されていた情慾は、忽然として長い眠りからさめた。そして、否応のない暴君のごとき猛威を揮って、彼女を恋人の胸へ投じたのである。しかし、祖父の遺伝として彼女の内部に潜む神秘的傾向のために、彼女は幼い頃からしみ込んだ母の謬《あやま》れる教育を、振り払うことが出来なかったのである。温室の花のように、人工的な条件のもとに育てられたヴェーラには、この矛盾相剋に対する抵抗力が全くなかった。彼女は人生に於けるこの最初の試煉のもとに、空しく斃れてしまったのである。
ツルゲーネフはこの作の根本において、ゲーテの『ファウスト』のモチーフを、異なる時代、異なる環境の中に、新しく生かそうと試みたらしい。ただファウストの代りにヴェーラなる一個の女性を置いて、ファウストが情慾の蠱惑と秘密のために、自分の魂をメフィストに売り渡したように、愛と幸福の幻に身を亡ぼした女の悲劇を描いたのである。しかし、ヴェーラの場合にあっては、メフィストは嘲笑と卑俗化の悪魔でなく、情慾を恐ろしい運命的な暗黒の力と信じ込ませた母の幻影であって、云い換えれば、明るい生の力に対立する冷たい不吉な冥府《よ み》の力なのである。この冷たい神秘的な力は、物語の説話者にもその手を伸した。彼は最後に現実生活の縡を断って、淋しい諦めの生活に入るが、このペシミスチックな気分が、同時に作者ツルゲーネフのものであることは、"Entbehren sollst du, sollst entbehren"(お前はあきらめねばならぬ、あきらめねば)という題名から見ても明らかである。
訳 者
この作品は昭和二十七年六月新潮文庫版が刊行された。
Shincho Online Books for T-Time
片恋・ファウスト
発行  2001年10月5日
著者  ツルゲーネフ(米川 正夫 訳)
発行者 佐藤隆信
発行所 株式会社新潮社
〒162-8711 東京都新宿区矢来町71
e-mail: old-info@shinchosha.co.jp
URL: http://www.webshincho.com
ISBN4-10-861133-0 C0897
(C)Tetsuo Yonekawa 1952, Coded in Japan