はつ恋
ツルゲーネフ/神西 清訳
目 次
はつ恋
解説(神西 清)
[#改ページ]
はつ恋
P・V・アンネンコフに捧《ささ》げる
客はもうとうに散ってしまった。時計が零時半《れいじはん》を打った。部屋の中に残ったのは、主人と、セルゲイ・ニコラーエヴィチと、ヴラジーミル・ペトローヴィチだけである。
主人は呼鈴《よびりん》を鳴らして、夜食の残りを下げるように命じた。
「じゃ、そう決りましたね」と主人は、一層ふかぶかと肘掛《ひじかけ》椅子《いす》に身を沈めて、葉巻《はまき》に火をつけながら言った。――「めいめい、自分の初恋《はつこい》の話をするのですよ。では、まずあなたから、セルゲイ・ニコラーエヴィチ」
セルゲイ・ニコラーエヴィチというのは、まるまると肥《ふと》った男で、ぽってりした金髪《きんぱつ》・色白の顔をしていたが、まず主人の顔をちらと眺《なが》めると、眼《め》を天井《てんじょう》の方へ上げた。
「僕《ぼく》には初恋というものがありませんでしたよ」と、彼《かれ》はやがての果てに言った。――「いきなり第二の恋から始めたんです」
「それはまた、どうしてね?」
「しごく簡単ですよ。僕は十八の年に初めて、あるとても可愛《かわい》らしいお嬢《じょう》さんのあとを追い回しました。ところが、その追いまわし方というのが、こんなこと僕にはさっぱり新しくも珍《めずら》しくもない、といった風だったのですよ。ちょうど、あとになっていろんな女を口説《くど》いた時と、まるっきり同じだったわけです。実を言うと、僕が最初にして最後の恋をしたのは、六つの頃で、相手は自分の乳母《ばあや》でしたが、――なにぶんこれは大昔《おおむかし》のことです。二人の間にあったことの細《こま》かしい点は、僕の記憶《きおく》から消えうせていますし、またよしんば覚えているにしたところで、そんなことを、誰《だれ》が面白《おもしろ》がるでしょう?」
「すると、どうしたもんですかな?」と、主人が言い出した。――「わたしの初恋にしたところで、大して面白いことはないのですからね。わたしは、現在の妻、アンナ・イヴァーノヴナと知合いになるまで、誰ひとり恋した覚えはないんですし――しかも我々のことは、万事すらすらと運んだのです。それぞれ父親から縁談《えんだん》をもち出されると、我々は見る見るお互《たが》いどうし好きになって、一足とびに結婚《けっこん》してしまったというわけ。わたしの話は、ほんの二言《ふたこと》で済んでしまいますよ。いや皆《みな》さん、白状しますとね、わたしが初恋の問題をもち出したのは――むしろあなた方《がた》に期待していたのですよ、お二人とも、老人とは言えないけれど、さりとてお若いとも言えない独身者ですからな。どうです、あなたは何か面白い話をして下さるでしょうな、ヴラジーミル・ペトローヴィチ?」
「わたしの初恋は、全くのところ、あまり世間なみの部類には入らないものなんですが」と、やや言いよどみながらヴラジーミル・ペトローヴィチは答えた。これは四十がらみの、黒髪《くろかみ》に白を交えた男である。
「やあ!」と、主人もセルゲイ・ニコラーエヴィチも異口《いく》同音《どうおん》に。――「なおさら結構……話して下さい」
「お安い御用《ごよう》です……が、困りましたな。話すのはやめにしましょう。わたしは話が不得手《ふえて》なほうですから、無味《むみ》乾燥《かんそう》なあっけない話になるか、それともだらしない調子はずれな話になるか、そのどっちかです。もし宜《よろ》しかったら、思い浮《うか》ぶだけのことをすっかり手帳に書いて、読んでお聞かせしようじゃありませんか」
友人たちは初め承知しなかったが、結局ヴラジーミル・ペトローヴィチは自説を押《お》し通《とお》した。二週間ののち、彼らが再び寄り合った時、ヴラジーミル・ペトローヴィチは、その約束《やくそく》を果した。
彼の手帳には、次のようなことが書いてあった。――
その頃《ころ》わたしは十六|歳《さい》だった。一八三三年の夏のことである。
わたしはモスクワの、両親のもとに住んでいた。彼らの借り入れた別荘《べっそう》が、カルーガ関門のほとり、ネスクーチヌィ公園の前にあったのである。――わたしは大学の入学準備をしていたが、勉強といってもろくにせず、ゆっくり構えていた。
誰《だれ》一人《ひとり》わたしの自由を束縛《そくばく》するものはなかった。わたしはしたい放題に振舞《ふるま》っていたが、とりわけ最後の家庭教師と別れてからはなおさらだった。その教師はフランス人で、自分がまるで「爆弾《ばくだん》みたいに」(コム・ユヌ・ボンブ)ロシアへ落下したという考えに、いても立ってもいられず、物凄《ものすご》い表情を顔に浮べながら、幾日《いくにち》も幾日もぶっとおしに、ベッドの中でごろごろしていたものである。父のわたしに対する態度は、いわば冷淡《れいたん》な優《やさ》しさにすぎなかったし、母は母で、わたしのほかに子供がないにもかかわらず、ほとんどわたしを構ってくれなかった。ほかの心配事で母は手いっぱいだったのである。わたしの父はまだ若くて、すこぶる美男子だったが、財産を目当てに母と結婚した。母の方が十年も年うえだった。わたしの母親は、気の毒な生活をしていた。しょっちゅう興奮したり、焼餅《やきもち》をやいたり、ぷりぷりしたりしていたのだが――ただし父の面前でやったわけではない。母はひどく父をこわがっていたし、父は父で、きびしい、冷たい、よそよそしい態度を崩《くず》さなかった。……わたしは、あれほど乙《おつ》に気どり澄《す》ました、うぬぼれの強い、独《ひと》りよがりの男を、いまだかつて見たことがない。
その別荘で過した最初の二、三週間のことを、わたしは決して忘れないだろう。すばらしい天気が続いていた。我々が市内から引っ越したのは五月九日で、ちょうど聖ニコライの日であった。わたしの散歩《さんぽ》は――ときには別荘の庭、ときにはネスクーチヌィ公園、またあるときは関門の外まで足を伸《の》ばすといった風で、いつも何か本を一冊《いっさつ》――たとえばカイダノーフの万国史通《ばんこくしつう》など――を持って出るのだったが、それをめくってみることはめったになく、とてもたくさん空《そら》で覚えていた詩を、高らかに朗読する方が多かった。血潮は体内でたぎりたち、胸はうずき――いや思い出しても、むずむずするほど甘《あま》たるく、滑稽《こっけい》なほどだ。わたしは絶えず何ものかを心待ちにし、絶えず何ものかにびくびくし、見るもの聞くものに心を躍《おど》らし、全身これ待機の姿勢にあった。空想が生き生きと目ざめて、いつもいつも同じ幻《まぼろし》のまわりを素早《すばや》く駆《か》けめぐる有様《ありさま》は、朝焼けの空に燕《つばめ》の群れが、鐘楼《しょうろう》をめぐって飛ぶ姿に似ていた。わたしは物思いに沈《しず》んだり、ふさぎ込《こ》んだり、ときには涙《なみだ》さえ流した。しかし、こうして響《ひび》き高い詩句や、あるいは夕暮《ゆうぐ》れの美しい眺《なが》めによって、あるいは涙が、あるいは哀愁《あいしゅう》がそそられるにしても、その涙や哀愁のすきから、さながら春の小草《おぐさ》のように、若々しい湧《わ》きあがる生の悦《よろこ》ばしい感情が、にじみ出すのであった。
わたしには一頭の乗馬があった。わたしはそれに自分で鞍《くら》をおいて、ただ一人どこか遠乗りに出かけたものだった。馬をギャロップで走らせて、さも自分をトーナメントに出場した中世の騎士《きし》のように想像したり――ああ、わたしの耳に吹《ふ》きつける風のなんと朗《ほが》らかだったことよ! ――あるいは顔を大空へ振向けて、その輝かしい光明《こうみょう》と紺碧《こんぺき》の色を、あけひろげた魂《たましい》の底まで深く吸い込んだりした。
いま思い返してみると、女の姿とか、女の愛の面影《おもかげ》とかいうものは、ほとんど一度も、はっきりした形をとって心に浮んだことはなかった。しかも、わたしの考えることのすべて、わたしの感じることのすべてには、何かしら新しいもの、言うに言われぬ甘美《かんび》なもの、いわば女性的なもの……に対する、半ば無意識な、はじらいがちの予感が、潜《ひそ》んでいたのだった。
この予感、この期待は、わたしの骨の髄《ずい》までしみわたって、わたしはそれを呼吸し、またそれは血の一滴々々《いってきいってき》に宿って、わたしの血管を走りめぐるのだったが……実は間もなく実現される運命にあったのである。
我々の別荘は、円柱の並んだ木造の地主屋敷《じぬしやしき》と、さらに二棟《ふたむね》の平べったい傍屋《はなれ》から成っていた。左手の傍屋は、安ものの壁紙《かべがみ》を作る小《ち》っぽけな工場になっている。……わたしは二《に》、三遍《さんべん》そこをのぞきに行ったが、油じみた上《うわ》っ張《ぱ》りを着て、頬《ほお》のこけた顔をした、もじゃもじゃ髪《かみ》の痩《や》せた男の子が十人ほど、四角な印刷台木《いんさつだいぎ》を締《し》めつける木の梃子《てこ》へ、しょっちゅうとびついて、そんな風に自分たちの虚弱《ひよわ》い体の重みでもって、壁紙のまだらな色模様を捺《お》し出しているのだった。右がわの傍屋は空《あ》いていて、貸家になっていた。ある日――五月九日から三週間ほどたった日のこと――この傍屋の窓におりていた鎧戸《よろいど》があいて、女の顔がちらほらしたのは――どこかの家族が越して来たものと見えた。忘れもしない、その日の夕食のとき、母は侍僕頭《じぼくがしら》に向って、隣《となり》へ引っ越して来たのは誰かと尋《たず》ねたが、公爵夫人《こうしゃくふじん》ザセーキナという苗字《みょうじ》を耳にすると、まんざら敬意のないでもない調子で、まず「まあ! 公爵夫人……」と言ったが、やがてこう付け足した、――「きっとどこかの貧乏貴族《びんぼうきぞく》だろうよ」
「三台の辻馬車《つじばしゃ》で越していらっしゃいました」と、うやうやしく皿《さら》を差出しながら、侍僕頭がしたり顔に、――「自家用の車はお持ちでありませんし、家具もごくお粗末《そまつ》で」
「そう」と、母は答えた。――「でもまあ、ましですよ」
父が冷やかな一瞥《いちべつ》を母にくれたので、母は黙《だま》ってしまった。
全くザセーキナ公爵夫人は、裕福《ゆうふく》な婦人でありようはずがなかった。彼女《かのじょ》の借りた傍屋は、いかにも古びて手狭《てぜま》で、おまけに天井《てんじょう》の低い家なので、いくらか小金《こがね》を持った連中なら、とても住む気にはならないからである。――とはいえ、わたしはその時、そんなことは気にもとめずに聞き流した。公爵などという肩書《かたがき》は、ほとんどなんの作用もわたしに及《およ》ぼさなかった。わたしは少し前に、シルレルの『群盗《ぐんとう》』を読んだところだったのである。
わたしは毎日、夕方になると、鉄砲《てっぽう》を持ってうちの庭をぶらついて、鴉《からす》の番人をするのが習慣だった。――この油断のない、貪欲《どんよく》で悪賢《わるがしこ》い鳥に対して、わたしはずっと前から憎悪《ぞうお》をいだいていたのである。さて今しがた話に出た日も、わたしはやはり庭へ出て行って――並木道《なみきみち》という並木道をむなしく歩き回ったあげく(鴉はわたしをちゃんと知っていて、ただ遠くの方できれぎれに鳴くばかりだった)、ふと低い垣根《かきね》に近づいた。それは、右手の傍屋《はなれ》の向うへ延びて、その家に属している細い帯のような庭と、|うちの《ヽヽヽ》領分との境を成しているのだった。わたしは、うなだれて歩いていた。すると不意に、がやがやと人声がした。わたしはひょいと垣根ごしに眺《なが》めて――化石したようになってしまった。……奇妙な光景がわたしの眼に映ったのである。
わたしからほんの五、六歩|離《はな》れた所――青々したエゾ苺《いちご》の茂《しげ》みに囲まれた空地《あきち》に、すらりと背の高い少女が、縞《しま》の入ったバラ色の服を着て、白いプラトークを頭にかぶって立っていた。そのまわりには四人の青年がぎっしり寄り合って、そして少女は順ぐりに青年たちのおでこを、小さな灰色の花の束《たば》で叩《たた》いているのだった。その花の名をわたしは知らないけれど子供たちには馴染《なじみ》の深い花である。それは小さな袋の形をした花で、それで何か堅《かた》いものを叩くと、ぽんぽんはじけ返るのであった。青年たちはさも嬉《うれ》しそうに、てんでにおでこを差出す。一方少女の身振りには(わたしは横合いから見ていたのだが)、実になんとも言えず魅惑的《みわくてき》な、高飛車《たかびしゃ》な、愛撫《あいぶ》するような、あざ笑うような、しかも可愛《かわい》らしい様子があったので、わたしは驚《おどろ》きと嬉しさのあまり、あやうく声を立てんばかりになって、自分もあの天女《てんにょ》のような指で、おでこをはじいてもらえさえしたら、その場で世界じゅうのものを投げ出してもかまわないと、そんな気がした。鉄砲は草の上へすべり落ち、わたしは何もかも忘れて、そのすらりとした体つきや、ほっそりした頸《くび》の根や、奇麗《きれい》な両手や、白いプラトークの下からのぞいているやや乱れた淡色《あわいろ》の金髪《きんぱつ》や、その半ば眠《ねむ》った利口そうな眼《め》もとや、その睫毛《まつげ》や、その下にある艶《つや》やかな頬《ほお》などを、むさぼるように見つめていた。……
「君、おい君ったら」と、不意にわたしのそばで、誰《だれ》かの声がした。――「よそのお嬢《じょう》さんを、そんな風に見つめてもいいものかい?」
わたしは、ぎょっと顫《ふる》えあがって、茫然《ぼうぜん》としてしまった。……すぐそばの、垣根の向うに、黒い髪《かみ》を短く刈《か》りこんだ見知らぬ男が立っていて、皮肉な眼つきでわたしをじろじろ見ていた。ちょうどその瞬間《しゅんかん》、少女もわたしを振向《ふりむ》いた。……わたしが、くりくりとよく動く活気づいたその顔に、大きな灰色の眼を見てとったのも束《つか》の間《ま》――その顔全体が、いきなりぶるぶる顫えて、笑い出して、白い歯なみがきらめいて、眉毛《まゆげ》がさも面白《おもしろ》そうに釣《つ》りあがった。……わたしはさっと赤面すると、地べたの鉄砲を引っつかんで、よく徹《とお》る、しかし意地の悪くない高笑いに追われながら、一目散《いちもくさん》に自分の部屋へ逃《に》げ込《こ》んで、ベッドにころがり込むと、両手で顔を隠《かく》した。心臓は今にも割れそうに躍《おど》っていた。わたしはひどく恥《は》ずかしく、またひどく愉快《ゆかい》だった。わたしはまだ身に覚えのないほどの興奮を感じた。
ひと休みすると、わたしは髪を撫《な》でつけ、服を払《はら》って、お茶を飲みに下りて行った。うら若い娘《むすめ》の面影は、眼の前にちらついて、動悸《どうき》はもう落着いていたけれど、胸が何か快く締《し》めつけられる思いだった。
「どうかしたのか?」と、不意に父が訊いた。――「鴉を仕留《しと》めたのかい?」
わたしはすっかり父に話してしまおうかと思ったけれど、じっとこらえて、にやりと独《ひと》り笑《わら》いをしただけだった。寝仕度《ねじたく》をしながらわたしは、どういうつもりだか知らないが、三遍《さんべん》ほど片足でくるくる回って、髪にポマードを塗《ぬ》りたくって横になるなり、まるで死人のように、ぐっすり朝まで眠った。夜明け方にちょっと目をさまして、頭をもたげ、感きわまってあたりをぐるぐる見回したが――それなりまた寝入《ねい》ってしまった。
『なんとかして、あの人たちと知合いになりたいものだが?』というのが、あくる朝わたしが目をさますが早いか、まず頭に浮んだ考えだった。わたしはお茶の前に庭へ出てみたが、例の垣根《かきね》へはあまり近寄らず、誰《だれ》の姿も見かけなかった。お茶が済むと、わたしは二《に》、三遍《さんべん》、別荘《べっそう》の前の通りを行ったり来たりして――遠目に窓をのぞいてみた。……カーテンの陰《かげ》に、|あの人《ヽヽヽ》の顔が見えたような気がしたので、わたしはあわてて、さっさと前を行き過ぎた。『だが、どうしても知合いにならなくちゃ』と、わたしは、ネスクーチヌィ公園の前に拡《ひろ》がっている砂原を、めちゃめちゃに歩き回りながら考えた。『しかし、どうしたらいいかな?そこが問題だ』わたしは、昨日ひょいと出会った時のことを、ごく細かな点まで一々思い浮べてみた。どうしたわけだか、とりわけはっきり思い浮ぶのは、彼女《かのじょ》がわたしに浴びせたあの笑い声だった。……とはいえ、わたしがしきりに気をもんで、いろんな計画を立てているうちに、運命はちゃんとお膳立《ぜんだ》てをしてくれたのである。
わたしのいない間に、母は新しい隣人《りんじん》から、灰色の紙にしたためた手紙を受取っていた。しかもそれを封《ふう》じた黒茶色の封蝋《ふうろう》ときたら、郵便局の通知状か安葡萄酒《やすぶどうしゅ》の栓《せん》にしか使わないような代物《しろもの》だった。その手紙は、いかにも無学らしい文章に加えるに汚《きた》ならしい筆跡《ひっせき》をもって書いてあって、要するに公爵夫人《こうしゃくふじん》がわたしの母に庇護《ひご》してもらいたい旨《むね》を願い出たものだった。つまり、公爵夫人の言葉によると、わたしの母は二、三の重要な人物と相識《そうしき》の間柄《あいだがら》であるが、今や夫人はすこぶる重大な訴訟《そしょう》を起していて、彼女自身の運命もまたその子女の運命も、かかってそれら人物の手中にあるというのである。『率《そつ》事《ヽ》ながらわた|し《ヽ》こと』と、書いてあった、――『叔《ヽ》女として同じ叔《ヽ》女たるあなた様に|お《ヽ》手紙まいらせ候《そうろう》。この期《ヽ》会にめぐま|さ《ヽ》れ候こと、まことに嬉《ヽ》ばしき限りにて』しかじかといった調子で、終りに彼女は母にむかって、訪問をお許し願いたいと申出ていた。わたしが外から帰ってみると、母は御機《ごき》嫌斜《げんなな》めのていだった。父が不在なので、誰と相談しようにも相手がなかったのだ。いやしくも『叔《ヽ》女』であり、おまけに公爵夫人ともあろう人に、返事をしないわけにはゆかず、ではどう返事をするかという段になると――母は途方《とほう》に暮《く》れざるを得なかった。返事をフランス語で書くのは、場はずれのような気がするし、さりとてロシア語の綴《つづ》りにかけては母は不得手《ふえて》だったし――自分でもそれを知っていたので、みすみす恥《はじ》をさらしたくなかったのである。
母はわたしが帰って来たのを喜んで、顔を見るなり、これから公爵夫人のところへ行って、口頭《こうとう》をもって、わたしの母は力の及《およ》ぶ限りいつ何時《なんどき》でも奥様《おくさま》のお役に立ちたいと存じている旨《むね》を述べ、十二時過ぎに御《ご》光来《こうらい》をお待ちすると伝えるように言いつけた。自分のひそかな念願が、思いもかけず早速《さっそく》かなうことになったので、わたしは嬉《うれ》しくもあれば空恐《そらおそ》ろしくもあった。とはいえわたしは、自分をとらえている当惑《とうわく》を表にあらわさず――まず自分の部屋へ引取って、新しいネクタイと小さなフロックコートを着けることにした。家にいる時は、まだわたしは短い上着を着て、折《お》り襟《えり》のカラーをしていたのだが、実はそれが厭《いや》でならなかったのである。
傍屋《はなれ》の、狭《せま》くるしい薄《うす》ぎたない控《ひか》え室《しつ》へ、わたしが押《おさ》えても止らぬ武者ぶるいに総身を震《ふる》わせながら入って行くと、そこでわたしを迎《むか》えたのは、白髪《しらが》あたまの老僕《ろうぼく》だった。銅色《あかがねいろ》のすすけた顔に、豚《ぶた》のような不愛想な小さい眼《め》をしておまけに額からこめかみへかけて畳《たた》まれている皺《しわ》の深いことといったら、わたしが生れてこの方《かた》見たこともないほどだった。彼は食い荒された鰊《にしん》の背骨を一《ひと》つ皿《さら》に載《の》せていたが、奥《おく》の間《ま》へ通ずるドアを後ろ足で閉めながら、突拍子《とっぴょうし》もない声でいきなり、
「なんの御用で?」と言った。
「ザセーキナ公爵夫人《こうしゃくふじん》はおいででしょうか?」と、わたしはきいた。
「ヴォニファーチイ!」と、ドアの向うから、がらがらした女の声が呼んだ。
老僕が無言でわたしに背を向けた途端《とたん》に、お仕着《しき》せのひどくすり切れた背中が丸見えになって、そこに赤さびの出た定紋入《じょうもんい》りのボタンが、ぽつんと一つ残っているのが目についたが、彼はそのまま皿を床《ゆか》へ置くと、奥へ引《ひ》っ込《こ》んでしまった。
「警察へ行って来たかい?」と、同じ女の声がまたした。老僕が何やらぼそぼそ言うと、――「ええ?……誰《だれ》か来たって?」と、訊《き》き返して、「となりの坊《ぼっ》ちゃんかい? じゃ、お通しおし」
「どうぞ客間へお通りなすって」と、老僕はまたわたしの前に現われて、皿を床から持ち上げながら言った。わたしは身仕舞《みじまい》を正して、『客間』なるものへ入って行った。
いざ入ってみるとそこは、あまり小奇麗《こぎれい》とも言えぬ手狭な一間で、貧乏《びんぼう》くさい家具の並《なら》べ方《かた》も、まるで急場しのぎにやってのけたといった様子だった。窓ぎわの、片肘《かたひじ》の折れた肘掛《ひじかけ》椅子《いす》に坐《すわ》っているのは、年《とし》の頃《ころ》五十ほどの、髪《かみ》をむき出しにした器量のわるい婦人で、着古した緑色の服を着て、まだら色の毛糸の襟巻《えりまき》を首に巻いていた。彼女《かのじょ》の小さな黒い眼は、いきなり吸い着くように私の顔にそそがれた。
わたしはそばへ歩み寄って、一礼した。
「失礼ですが、ザセーキナ公爵夫人でいらっしゃいますか?」
「ええ、わたしがザセーキナ公爵夫人です。あなたはVさんの御子息でいらっしゃるの?」
「そのとおりです。わたしは母の使いで参りました」
「さあ、お掛けなさいな。ヴォニファーチイ! わたしの鍵《かぎ》はどこ、お前見なかったかい?」
わたしはザセーキナ夫人に、その手紙に対する母の返事を伝えた。彼女はそれを聞きながら、太い赤い指で窓がまちを軽く叩《たた》いていたが、わたしが口上を終ると、もう一遍《いっぺん》わたしをじっと見つめた。
「大層結構です、ぜひ伺《うかが》いましょう」と、やがて彼女は言った。――「でも、あなたはまだほんとにお若いのね! お幾《いく》つですの、失礼ですけれど?」
「十六です」とわたしは、思わず口ごもりながら答えた。
公爵夫人はポケットを探《さぐ》って、何やらいっぱい書き込んだ油じみた書付を取出すと、つい鼻先まで持っていって、その検分にかかった。
「結構な年頃だこと」と、彼女は、椅子の上で身をねじ曲げたり、もぞもぞしたりしながら、不意に言い出した。――「どうぞあなた、お気楽になさいましな。宅では万事無造作ですから」
『どうも無造作すぎるな』とわたしは、思わず湧《わ》き上がる嫌悪《けんお》の情をもって彼女のぶざまな様子をじろじろ眺《なが》めながら、心の中で考えた。
と、その瞬間、客間のもう一つのドアがいきなりぱっと開いて、敷居《しきい》の上に姿を現わしたのは、昨日庭で見かけたあの娘《むすめ》だった。彼女は片手を上げたが、その顔にはちらりと薄笑《うすわら》いが浮んだ。
「これがうちの娘です」と、公爵夫人は、肘で娘をさして言った。――「ジーノチカ、お隣《となり》のVさんの御子息だよ。お名前はなんておっしゃるの、失礼ですが?」
「ヴラジーミルです」と、わたしは立ち上がって、興奮のあまり舌をもつらせながら答えた。
「で御父称は?」
「ペトローヴィチです」
「まあ! わたしの知合いに警察署長をしている方がありましたが、その人もやっぱりヴラジーミル・ペトローヴィチでしたっけ。ヴォニファーチイ! 鍵は捜《さが》さなくってもいいよ。ちゃんとわたしのポケットにあったから」
少女は心もち眼を細めて、首をやや傾《かし》げたまま、相変らずにやにやしながら、わたしを見つめていた。
「あたしもう、ムッシュー・ヴォルデマールにはお目にかかったわ」と、彼女は口をきった。
(その銀の鈴《すず》を振《ふ》るような声の響《ひび》きは、何かこう甘美《かんび》な冷たい感じをなして、わたしの背筋を走った)――「ねえ、あなたをそう呼んでもいいでしょう?」
「ええ、そりゃもう」と、わたしは、ますます舌をもつらせた。
「そりゃ、どこでなの?」と、公爵夫人が訊いた。
公爵令嬢《こうしゃくれいじょう》は、母の問いには答えずに、
「あなた今、お忙《いそが》しくって?」と、彼女は、わたしから眼を放さずに言った。
「いいえ、ちっとも」
「じゃ、毛糸をほどくお手伝いをして下さらないこと? こっちへいらっしゃいな、あたしの部屋へ」
彼女はわたしに、こっくりうなずいて見せると、さっさと客間を出て行った。わたしはあとに従った。
我々の入った部屋は、家具も幾分はましで、その並べ方も、前の部屋より趣味《しゅみ》があった。もっともその瞬間《しゅんかん》、わたしはほとんど何ひとつ目に留める余裕《よゆう》がなかった。わたしは、まるで夢《ゆめ》の中にでもいるように身を運びながら、何やら馬鹿々々《ばかばか》しいほど緊張《きんちょう》した幸福感を、骨の髄《ずい》まで感じるのだった。
公爵令嬢は腰《こし》を下ろして、紅《あか》い毛糸の束《たば》を箱《はこ》から出すと、向いの椅子をわたしにさしてみせて、一生けんめい結び目を解きほぐしてから、それをわたしの両手に掛けた。そこまでする間じゅう、彼女はいっさい無言のまま、何かさも面白《おもしろ》くてたまらないといった風の緩慢《かんまん》な身振りで、相変らずの明るい狡《ずる》そうな薄笑いを、やや少しひらいた唇《くちびる》に浮べていた。彼女は毛糸を、折り曲げたカルタ札《ふだ》に巻きはじめたが、そのうち不意に、ぱっと素早《すばや》く私の顔を、なんとも言えない晴れやかな眼差《まなざ》しで射たので、わたしは思わず顔を伏《ふ》せてしまった。彼女の眼は、たいていは軽く細目になっているのだったが、それが時たまいっぱいに見開かれると――顔つきがすっかり変ってしまって、まるでその面輪《おもわ》に光がみなぎりあふれるように見えた。
「ねえ、昨日あたしのしたこと、どうお思いになって、ムッシュー・ヴォルデマール?」と、しばらくしてから彼女が訊いた。――「きっとあなたは、けしからん女だとお思いになったでしょうね?」
「いいえ、僕《ぼく》……お嬢さん……僕は何にもその……とんでもない……」わたしの答えは、しどろもどろだった。
「ね、いいこと」と、彼女は切って返した。――「あなたはまだ、あたしという女を御存じないけれど、あたし、とっても妙《みょう》な女なのよ。あたしはね、いつも本当のことだけ言ってもらいたいの。さっき伺うと、あなたは十六だそうですけれど、あたしは二十一なんですものね。あたしの方が年上でしょう、だからあなたは、あたしにいつも本当のことばかり言わなけりゃいけないのよ……そして、あたしの言うことをきかなくてはね」と、彼女は言い足して、――「さ、あたしの顔をまっすぐ見てちょうだい。なぜ見ないの?」
わたしはますます、あがってしまったが、とにかく眼を上げて、彼女の顔を見た。彼女はにっと笑ったが、それはさっきのとは違《ちが》って、好意のある微笑《びしょう》だった。
「あたしの顔を見てちょうだい」と、彼女は、優《やさ》しく声を落しながら言った。――「そうされても、あたし厭《いや》じゃないの。……あたし、あなたの顔が気に入ったわ。あなたとは、仲好《なかよ》しになれそうな気がするのよ。でもあたしは、あなたのお気に召《め》しまして?」と、抜《ぬ》け目《め》なく彼女は言い足した。
「お嬢さん……」と、わたしは言いかけた。……
「まず第一、あたしをジナイーダさんと呼んでちょうだい。それから第二に――子供のくせに――(と言って、彼女は言い直した)――青年のくせに――感じたとおりをまっすぐに言わないなんて、いけないことだわ。それは大人のすることよ。どう、あたしあなたのお気に召して?」
彼女がわたしを相手に、こんなに打解けて話してくれることは、わたしにとって実に嬉《うれ》しいことだったけれど、とは言えわたしも、少し腹が立った。わたしは、そうそう子供と見てもらいますまいという意気ごみで、できるだけ磊落《らいらく》な、しかも鹿爪《しかつめ》らしい顔つきになって、こう言ってやった。――「もちろん、とても気に入りましたよ、ジナイーダさん、僕は、それを隠そうとは思いません」
彼女は、ゆっくり句切りながら頭を振って、――「あなたは家庭教師がついているの?」と、だし抜けに尋《たず》ねた。
「いいえ、僕にはもうとっくに家庭教師なんかいません」
それは嘘《うそ》だった。例のフランス人と生き別れをしてから、まだ一月《ひとつき》にもならないのである。
「へえ! それでわかったわ――あなた、もうすっかり大人ねえ」
彼女は軽くわたしの指をはじいて、――「手をまっすぐにしてらっしゃい!」――そう言って彼女は、せっせと糸球《いとだま》を巻きだした。
しばらく彼女が眼を上げないのに乗じて、わたしは彼女をつくづく眺め始めたが、それも初めは盗《ぬす》み見《み》だったものが、やがてだんだん大胆《だいたん》になっていった。彼女の顔は、昨日より一層|魅力《みりょく》が増して見えた。目鼻だちが何から何まで、実にほっそりと磨《みが》かれて、じつに聡明《そうめい》で実に可愛《かわい》らしかった。彼女は、白い巻揚《まきあ》げカーテンを下ろした窓に、背を向けて坐っていた。日ざしは、そのカーテンを通して射《さ》し入って、柔《やわ》らかな光を、彼女のふさふさした金色の髪や、その清らかな首筋や、流れ下る肩《かた》の曲線や、優しい安らかな胸のあたりに、ふりそそいでいた。――わたしはじっと彼女を眺めているうちに、彼女がなんとも言えず大切で、親愛なものに思えてきたのだ!わたしは、もうずっと前から彼女を知っていて、彼女と知合いになるまでは、何ひとつ知りもせず、生きた甲斐《かい》もなかったような気がした。……彼女はもうだいぶ着古した地味な色合いの服を着て、エプロンを掛けていた。わたしは、その服やエプロンの襞《ひだ》を一つ一つ、いそいそと撫《な》でたいような気持がした。彼女の靴《くつ》の先が、その服の下からのぞいている。わたしはできることなら、うやうやしくその靴にぬかずきたいとさえ思った。『とうとう俺《おれ》は、こうして彼女の前に坐っているんだ』と、わたしは思った――『俺は彼女と知合いになったのだ……なんという幸福だろう、ああ!』わたしはすんでのことで、喜び勇んで椅子からとび下りそうになったが、おいしいおやつにありついた赤《あか》ん坊《ぼう》みたいに、足をちょいとばたつかせるだけで我慢《がまん》した。
わたしは、水の中の魚のようにいい気持で、一生この部屋から出て行きたくない、この場から動きたくないと思った。
彼女の目蓋《まぶた》がそっと上がって、またもやその明るい眼がわたしの前に優しく輝《かがや》き出したかと思うと、またしても彼女はにっとあざけるように笑った。
「なんであたしを見つめてらっしゃるの」と、彼女はゆっくり言って、指を立ててわたしをおどかした。
わたしは赤くなった。……『この人はなんでもわかるんだ、なんでも見えるんだ』という考えがわたしの頭をかすめた。『全く、どうしてこの人に、何もかもわからないはずがあろう、何もかも見えないはずがあろう!』
不意に隣の部屋で、何か物にぶつかる音がして――サーベルが鳴り出した。
「ジーナや」と、客間で公爵夫人が呼んだ。――「ベロヴゾーロフさんが、お前に猫《ねこ》の子を持ってきて下すったよ」
「猫の子!」と、ジナイーダは叫《さけ》ぶと、ぱっと椅子から立ち上がって、毛糸の毬《まり》をわたしの膝《ひざ》へほうり出したまま、部屋から駆《か》け出して行った。
わたしも立ち上がって、毛糸の束と毬とを窓がまちに載せると、そこを出て客間へ入ったが、途端に呆気《あっけ》にとられて棒立ちになった。部屋の真ん中には縞《しま》の入った小猫が、可愛い足をひろげて仰向《あおむ》きになっていた。ジナイーダはその前に膝をついて、そっと猫の顔を持ちあげていた。公爵夫人の横には、窓と窓の間の壁《かべ》をほとんど全部ふさいで、薄色の髪の毛を渦《うず》まかせた立派な青年の立っているのが、逆光線の中に、だんだんはっきり見えてきた。軽騎兵《けいきへい》の士官で、血色のいい紅《あか》い顔をして、眼が飛び出している。
「なんて滑稽《こっけい》なんでしょう!」と、ジナイーダは何度も言って、「眼だって灰色でなくて、緑色だし、それに耳だってなんて大きいんでしょう! ありがとう、ベロヴゾーロフさん! あなたとても親切ねえ!」
その軽騎兵は、昨日見かけた青年たちの一人であることにわたしは気づいたが、にっこり笑って一礼する拍子《ひょうし》に、拍車《はくしゃ》を打合せて、サーベルの釣輪《つりわ》をがちゃりと鳴らした。
「昨日あなたは、縞の子猫で大きな耳をしているのが欲《ほ》しいと仰《おお》せでありましたから……このとおり、手に入れたのであります。男子の一言――でありますから」と言って、また一礼した。
子猫はかぼそい鳴き声を立てると、床《ゆか》を嗅《か》ぎ始めた。
「おなかがすいてるのね!」と、ジナイーダは叫んで、――「ヴォニファーチイ、ソーニャ! 牛乳を持って来て」
小間使は、古ぼけた黄色い服に、色のさめたネッカチーフを首に巻いて、牛乳の小皿を手に入ってくると、その皿を子猫の前に置いた。子猫はぴくりと身震いして、眼を細め、ぴちゃぴちゃなめだした。
「まあ、バラ色の小《ち》っちゃな舌」と、ジナイーダは、頭が床に届かんばかりに身をかがめ、横合いから猫の鼻の下をのぞきこみながら、そう指摘《してき》した。
子猫はおなかがくちくなると、すまし返って前足をかわるがわる動かしながら、喉《のど》を鳴らし始めた。ジナイーダは立ち上がって、小間使の方を振向くと、平気な声で、「あっちへ持っておいで」と言った。
「子猫の褒美《ほうび》に――お手を」と、軽騎兵は、にやりと笑うと、新調の軍服にきっちり締め上げられた逞《たくま》しい全身を、ぐいと反り返らせた。
「両方よ」と、ジナイーダは答えて、彼に両手を差伸《さしの》べた。軽騎兵がキスしている間、彼女は肩越しにわたしを見ていた。
わたしは一《ひと》ところにじっと立ったまま――いったい笑ったものか、何か言ったものか、それともこのまま黙《だま》っていたものか、それがわからなかった。すると突然《とつぜん》、控え室のあけっぱなしのドア越《ご》しに、うちの下男のフョードルの姿が眼に映った。わたしに何かを合図している。わたしは何気《なにげ》なく出て行った。
「なんだい!」と、わたしは訊いた。
「お母様がお呼びするようにおっしゃいましたんで」と、彼はひそひそ声で、――「あなた様が返事を持ってお帰りにならないので、大層お腹立ちでございますよ」
「でも僕、そんなに長居《ながい》したかい?」
「一時間の余になります」
「一時間の余!」と、思わずわたしは鸚鵡返《おうむがえ》しに言って、客間へ引返すと、お辞儀《じぎ》したり足ずりしたりし始めた。
「どこへいらっしゃるの?」と公爵令嬢が、軽騎兵の後ろから顔をのぞかせて聞いた。
「僕、うちへ帰らなくちゃならないのです。じゃ、こう申しましょうか」と、老夫人に向って言い添《そ》えた。――「一時過ぎにお見えになりますって」
「そうね、そう申上げて下さい、坊ちゃん」
公爵夫人があわただしく煙草入《たばこい》れを出して、うるさい音を立てて嗅ぎ始めたので、わたしはぎょっとしたほどだった。――「そう申上げて下さい」と、彼女は、うるんだ眼でまばたきして、ふんふん唸《うな》りながら繰返《くりかえ》した。
わたしはもう一遍お辞儀をすると、くるりと回れ右をして部屋を出たが、照れくさい感じが背中を這《は》っていた。後ろから見られていることがわかっている時、ごく若い人が感じるあれである。
「よくって、ムッシュー・ヴォルデマール、また遊びにいらっしゃいね」と、ジナイーダは叫ぶと、また大声で笑い出した。
なぜあの人は笑ってばかりいるんだろう?と、わたしは、帰るみちみち考えた。お伴《とも》にはフョードルが、一言《ひとこと》もわたしに話しかけずに、不服らしい様子で後ろからついてくる。母はわたしを叱《しか》りつけて、あの公爵夫人なんかの所で何をいつまでしていたんだろうと、呆《あき》れ返っていた。わたしは何とも答えずに、自分の部屋へ引っ込んだ。すると突然ひどく悲しくなった。……わたしは泣くまいと懸命《けんめい》になった。……あの軽騎兵がねたましかったのである。
公爵夫人《こうしゃくふじん》は約束通《やくそくどお》り母を訪ねて来たが、母の気に入らなかった。わたしは二人の会見の場に居あわさなかったけれど夕食の時母が父に物語った言葉によると、あのザセーキナという公爵夫人は、どうもひどく|俗っぽい女《ファム・トレ・ヴュルゲール》らしく思われる。あの夫人は、どうぞ自分のためにセルギイ公爵に運動してくれとしつこくせがんで、ほとほと母をうんざりさせた。あの夫人はしょっちゅう何かしら訴訟《そしょう》や事件を起していて――それも|卑しい金銭問題《ド・ヴィレーン・ザフェール・ダルジャン》なのだから――てっきりとんでもない食わせ者に違《ちが》いない、といった散々の評判だった。それでいながら母は、あの夫人を娘《むすめ》さんと一緒《いっしょ》に明日の夕食に招いた、と言い足した(この『娘さんと一緒』という言葉を耳にすると、わたしは鼻を皿《さら》の中へ突っ込まんばかりにした)――とにかくあの夫人は隣《となり》どうしではあり、名のある人でもあるから、というのが理由だった。
これに対して父は母に、今やっとあの奥《おく》さんがどういう人かを思い出したと告げた。それによると父は若い頃《ころ》、今は亡《な》いザセーキン公爵を知っていた。立派な教育はあったけれど、薄《うす》っぺらな下らん男で、パリに長らく行っていたため、『|パリっ児《パリジャン》』と呼ばれていた。彼《かれ》は大層金持だったが、カルタで全財産をすってしまい――どういうわけだか、まあ金が目当てだったらしくも思えるが――とは言え選びさえすれば、もっといい相手はあったのに(と父は言い足して、冷たい微笑《びしょう》を漏《も》らした)――どこかの下役人の娘と結婚《けっこん》して、その結婚ののち、投機に手を出して、今度は完全に破産してしまった。
「どうぞあの夫人が、お金を貸してくれなどと言い出さなけりゃいいが」と、母はすかさず言った。
「それも大いにあり得《う》ることだね」と、父は平然として言った。――「あの奥さん、フランス語を話すかね?」
「それが成っていないの」
「ふん。まあ、そんなことはどうでもいい。君は今、あの人の娘さんも招待したとか言ったね。誰《だれ》かが言っていたっけが、とても可愛《かわい》らしい、教育のある娘だそうじゃないか」
「へえ! じゃその娘さん、お母さんに似なかったわけですのね」
「父親にもね」と、父は応じて、――「あの男は教育こそあったが、しかし頭がなかったよ」
母はほっと溜息《ためいき》をついて、考え込んでしまった。父も黙《だま》ってしまった。わたしはこの会話の間じゅう、ひどく照れくさかった。――
夕食が済《す》むと、わたしは庭へ出て行ったが、鉄砲《てっぽう》は持たなかった。わたしは、『ザセーキン家の庭』へは近寄るまいと心に誓《ちか》ったつもりだったが、うち勝ちがたい力に引かされて、ふらふらその方へ足が向いて――しかもそれが、無駄《むだ》ではなかった。わたしが垣根《かきね》のそばまで行くか行かないうちに、ジナイーダの姿が眼に入ったのだ。今度は彼女《かのじょ》一人だった。両手で小さな本をささえて、ゆっくり小径《こみち》を歩いていた。向うはわたしに気づかなかった。
わたしはあやうくやり過しそうになったが、はっと気がついて、咳払《せきばら》いをした。
彼女は振向《ふりむ》いたが、立ち止りもしないで、まるい麦わら帽子《ぼうし》についている幅《はば》の広い水色のリボンを、片手で払《はら》いのけると、ちらとわたしに眼《め》をそそぎ、軽くほほえんだなり、またもや眼を本へ落してしまった。
わたしは庇《ひさし》のついた帽子を脱《ぬ》いで、しばらくその場で迷っていたが、やがて重い物思いに沈《しず》みながら、そこを離《はな》れた。――『|あのひとにとって、わたしはなんだろう《ク・スュイ・ジュ・プール・エル》?』とわたしは、(どうした風の吹《ふ》きまわしか)フランス語で考えた。
聞き覚《おぼ》えのある足音が、後ろで響《ひび》いた。振返ってみると――こっちへ、例の速い軽快な足どりでやってくるのは、父だった。
「あれが公爵令嬢《れいじょう》かね?」と、父が尋《たず》ねた。
「お嬢《じょう》さんです」
「はて、お前あの人を知ってるのかい?」
「けさ公爵夫人の所で会ったんです」
父は立ち止ったが、急に踵《かかと》でくるりと回ると、とって返して行った。そして、垣根越しにジナイーダと肩《かた》を並《なら》べる辺まで行くと、父は丁寧《ていねい》に彼女に会釈《えしゃく》をした。彼女も会釈を返したが、幾分《いくぶん》びっくりしたような色を顔に浮べて、本を下へおろした。父の後ろ姿を見送っている彼女の様子が、わたしには見えた。わたしの父の服装《ふくそう》はいつも、とてもりゅうとして、独特の味があって、しかもさっぱりしたものだった。けれどこの時ほど父の姿がわたしに、すらりと格好《かっこう》よく見えたこともなかったし、その灰色の帽子が、こころもち薄くなりかけた捲毛《まきげ》の上に、すっきり合って見えたこともなかった。
わたしはジナイーダの方へ行こうとしたが、彼女はわたしには眼もくれず、また本を上へあげると、向うへ行ってしまった。
その晩いっぱいとあくる朝の間じゅう、わたしはなんだか鬱々《うつうつ》と沈《しず》み込《こ》んだ気持で過した。忘れもしない、わたしは勉強しようと思って、カイダノーフを読み始めたが――結局この有名な教科書のぱらりと組んだ行やページが、眼《め》の前にちらちらするばかりで、なんにもならなかった。十遍《じっぺん》も立て続けにわたしは、『ユリウス・ケーザルは武勇世にすぐれ』という文句を読み下したが――何ひとつ頭に入らないので、本を投げ出してしまった。夕飯の前になると、わたしはまたポマードを塗《ぬ》りたくって、またもやフロックコートとネクタイを着けた。
「そりゃ、どういうつもりなの?」と、母が尋《たず》ねた。――「お前はまだ大学生じゃないんですよ。それに、試験だって受かるかどうかわかりもしないのにさ。あの短い上着だって、まだついこのあいだ縫《ぬ》わせたばかりじゃないか? 勿体《もったい》ないですよ!」
「お客様が来るので」とわたしは、ほとんど必死になってささやいた。
「馬鹿《ばか》をお言い! あれがお客様なものですか!」
降参するよりほかはなかった。わたしはフロックを短い上着に着替《きか》えたが、ネクタイは取らなかった。
公爵夫人《こうしゃくふじん》は娘《むすめ》を連れて、夕食の三十分前にやって来た。老婦人は、すでにわたしにはお馴染《なじみ》の例の緑色の服の上に黄色いショールを引っかけ、火のような色のリボン飾《かざ》りのついた旧式の室内帽《しつないぼう》をかぶっていた。彼女《かのじょ》はたちまち手形の話をやり出して、溜息《ためいき》をついたり、自分の貧乏《びんぼう》を訴《うった》えたり、『おねだり』を始めたりするのだったが、礼儀《れいぎ》も作法もさっぱりお構いなしで、相変らず騒々《そうぞう》しく嗅《か》ぎ煙草《たばこ》を嗅いだり、椅子《いす》の上で気まま勝手に身をねじ曲げたり、もぞもぞしたりしていた。自分が公爵夫人だなどということは、てんで念頭に浮んでも来《こ》ないらしい。
それに引替えジナイーダは、すこぶるツンと、ほとんど傲慢《ごうまん》なほどに構えて、あっぱれ公爵|令嬢《れいじょう》であった。その顔には、冷やかな、ぴくりともしない尊大な表情が表われていたので――わたしにはまるで別人のように見え、あの眼差《まなざ》しもあの微笑《びしょう》も、てんで見当らなかったけれど、それでいてこの新しい姿になっても、わたしにはやはり素晴《すば》らしいお嬢さんと思われた。着ているのは、ふわりとした薄《うす》い紗《しゃ》の服で、淡青《うすあお》い唐草模様《からくさもよう》がついていた。髪《かみ》はイギリス風に、長い房《ふさ》をなして両の頬《ほお》に垂《た》れかかっていた。この髪かたちが、彼女の顔の冷やかな表情に、しっくり合っていた。
父は食事の間、彼女の横に席を占《し》めて、もちまえの優美で落着きはらった慇懃《いんぎん》さで、隣席《りんせき》の令嬢のお相手をつとめていた。父は時おり彼女の顔をちらりと眺《なが》めやる――彼女の方でも、時たま父を見返す。その彼女の眼つきが、じつに不思議な、ほとんど敵意をふくんだものだった。二人はフランス語で話し合っていたが、わたしは今でも思い出す、ジナイーダの発音の奇麗《きれい》さに、びっくりしたものである。公爵夫人は食事の間も、例によってちっとも遠慮《えんりょ》せずに、さかんに食べては、料理を褒《ほ》めそやした。母は、いかにもこの相手が荷《に》厄介《やっかい》らしく、なんだか滅入《めい》ったような気乗りのしない調子で、しぶしぶ受け答えをしていた。父は時たま、かすかに眉《まゆ》の根をひそめた。ジナイーダもやはり、母の気に入らなかった。
「なんだか高慢《こうまん》ちきな娘だこと」と、母はあくる日そう言った。――「よく考えてみるがいいわ――何を高慢ぶることがあるんだろう――|あんなグリゼットみたいな顔をしてさ《アヴェク・サ・ミーヌ・ド・グリゼット》!」
「君は確か、パリの下町娘《グリゼット》を見たことがないはずだが」と、父はチクリと刺《さ》した。
「ええ、ありがたいことにね!」
「もちろん、ありがたいことには違《ちが》いないが……だが、それでどうしてあれらのことを、とやかく言えるのかね?」
わたしの方へは、ジナイーダはてんで注意を向けずじまいだった。食事が済むと間もなく、公爵夫人は別れの挨拶《あいさつ》をし始めた。
「どうぞ今後とも、よろしくお力添《ちからぞ》えのほどを、奥様《おくさま》にも旦那様《だんなさま》にもお願いしますよ」と、彼女は、歌うように声を引っぱりながら母と父に言った。――「仕方ありませんわ! いい時もありましたけれど、返らぬ昔でしてねえ。これでももとは――奥方様と立てられたものですけど」と彼女は、いやな笑い声を立てて言い添えて、――「背に腹は、とやら申しましてねえ」
父はうやうやしく夫人に一礼すると、控《ひか》え室《しつ》のドアまで腕《うで》を貸して送って行った。わたしは、つんつるてんの短い上着を着たまま、じっとそこに突《つ》っ立《た》って、死刑《しけい》を言い渡《わた》された囚人《しゅうじん》よろしくのていで床《ゆか》を見つめていた。ジナイーダの冷たい態度を見て、すっかり悄気《しょげ》てしまったのである。ところが、ああなんという驚《おどろ》きだったろう。彼女はわたしの前を通り過ぎる時、例の優《やさ》しい表情を眼に浮《うか》べて、わたしにこうささやいたのだ、――「今夜八時に、うちへいらっしゃいね、よくって、きっとよ……」わたしはあまりの思いがけなさに、両手をひろげたが――それなり彼女は、白いスカーフをふわりと頭にかけると、さっさと向うへ行ってしまった。
きっかり八時に、わたしはフロックコートを一着におよび、頭の髪《かみ》を小高く盛《も》り上げて、公爵夫人《こうしゃくふじん》の住家《すみか》なる傍屋《はなれ》へ入って行った。例の老僕《ろうぼく》が、不愛想な眼《め》でわたしをじろりと見ると、しぶしぶ腰掛《こしかけ》から尻《しり》をもたげた。
客間には陽気な人声が聞えていた。わたしはそのドアをあけると、あっとばかり後ろへすさった。部屋のまん中には、椅子《いす》の上に公爵|令嬢《れいじょう》が突《つ》っ立《た》ち上がって、男の帽子《ぼうし》を眼の前に捧《ささ》げている。椅子のまわりには、五人の男がひしめき合っている。彼らは我がちに帽子の中へ手を突っ込もうとするのだが、令嬢はそれを上へ上へと持ち上げて、力いっぱい揺《ゆ》すぶっていた。わたしの姿を認めると、彼女《かのじょ》は大きな声で、「待ってよ、待ってよ! 新しいお客様だわ、あの人にも札《ふだ》をあげなくちゃ」と言うなり、ひらりと椅子から飛び下りて、わたしのフロックの袖《そで》の折返しをつかまえると、――「さあ、いらっしゃいってば」と言った。――「何をぼんやり立ってるの? |皆さん《メシュー》、御紹介《ごしょうかい》いたしますわ。この方はムッシュー・ヴォルデマール、お隣《となり》の坊《ぼっ》ちゃんです。それからこちらは」と彼女は、わたしに向って順ぐりに客を指さしながら、付け加えた。「マレーフスキイ伯爵《はくしゃく》、お医者のルーシンさん、詩人のマイダーノフさん、退職|大尉《たいい》のニルマーツキイさん、それから軽騎兵《けいきへい》のベロヴゾーロフさん、この方にはもうお会いになったわね、どうぞ皆さん、仲よくなすってね」
わたしはすっかりあがってしまって、誰《だれ》にもお辞儀《じぎ》をせずにいたほどだった。医者のルーシンというのが、あのとき庭でわたしに小っぴどく恥《はじ》をかかした例の浅黒い男であることはわかったが、あとはみんな初対面だった。
「伯爵!」と、ジナイーダはあとを続けた。――「ムッシュー・ヴォルデマールにも札を書いて上げてちょうだい」
「それは不公平ですな」と、心もちポーランドなまりのある言葉つきで、伯爵は反対した。これは頗《すこぶ》る美貌《びぼう》の、凝《こ》った身なりをした栗色《くりいろ》の髪《かみ》の男で、表情に富んだ鳶色《とびいろ》の目と、細い小ぢんまりした白い鼻をもち、小《ち》っぽけな口の上に、ちょび髭《ひげ》を生《は》やしている。――「この人、罰金《ばっきん》ごっこの仲間に入らなかったんですからねえ」
「不公平だ」と、ベロヴゾーロフと、もう一人別の男が相槌《あいづち》を打った。あとの方の男は、退職大尉と呼ばれた人物で、年は四十がらみ、みっともないほどのアバタ面《づら》で、アラビア人みたいに髪の毛が縮れて、猫背《ねこぜ》で、がに股《また》で、肩章《けんしょう》のない軍服を着て、胸のボタンをはずしている。
「札を書いて上げなさいってば」と、令嬢は繰返《くりかえ》した。――「そりゃなんの暴動なの? ムッシュー・ヴォルデマールは初めて一緒《いっしょ》になったんだから、今日はこの人特別扱《とくべつあつか》いよ。ぶつぶつ言わないで、書いてちょうだい、あたしそうしたいんだから」
伯爵は肩をすくめたが、素直《すなお》に一礼すると、宝石入りの指輪で飾《かざ》りたてた白い手にペンをとりあげ、小さな紙切れを裂《さ》き取って、それに書き始めた。
「ではせめてヴォルデマール氏に、ことの次第を説明して上げてもいいでしょう」と、嘲《あざけ》るような声でルーシンが言い出した。――「さもないと、すっかりまごついておられるようですからな。実はね、君、我々は罰金ごっこをしているんだが、令嬢が罰金を払《はら》うことになったので、幸運のくじを引当てた人は、令嬢のお手にキスする権利を得《う》るわけなんです。わかったですか、僕《ぼく》の言ったことが?」
わたしはちらりと彼《かれ》の顔を見たばかりで、相変らず茫然自失《ぼうぜんじしつ》のていで突っ立っていたが、その間に令嬢はまた椅子の上に飛び乗ると、またもや帽子を揺すぶり始めた。みんなが手を伸《の》ばしたので――わたしもそれに従った。
「マイダーノフさん」と令嬢は、背の高い青年に向って言った。これは痩《や》せこけた顔に、小さな眼をしょぼつかせて、黒い髪の毛をおそろしく長く伸ばした男である。――「あなたは詩人なんですから、気前のいいとこを発揮して、あなたの札をムッシュー・ヴォルデマールに譲《ゆず》って上げるべきだわ。するとこの方のチャンスは二つになって、一つじゃなくなるんですもの」
がマイダーノフは、首を横に振《ふ》って、長髪《ちょうはつ》をさっと揺り上げた。わたしは一番あとから手を帽子の中へ入れて、つかんで、さて札をひろげてみたが……ああ! 途端《とたん》にふらふらっとしてしまった。見よ、その札には、『キス』と書いてあるではないか!
「キス!」と、わたしは思わず大声を上げた。
「ブラヴォー! この人に当ったわ」と、令嬢がすかさず引取って――「まあ嬉《うれ》しい!」――そして椅子を下りると、なんともいえず晴れやかな甘《あま》い眼つきで、じっとわたしの眼をのぞきこんだので、わたしの心臓はワッとばかり躍《おど》り立った。
「あなたは嬉しくって?」と、彼女はわたしに訊《き》いた。
「僕?……」うまく舌が回らなかった。
「その札は僕に売ってくれたまえ」と、突然《とつぜん》わたしの耳のすぐ上で、ベロヴゾーロフのがらがら声がした。――「百ルーブル出すぜ」
わたしが軽騎兵への返事に、非常な憤慨《ふんがい》の一瞥《いちべつ》をくれたので、ジナイーダは手をたたくし、ルーシンは「でかした!」と絶叫《ぜっきょう》する騒《さわ》ぎだった。
「それはそうと」と、ルーシンは続けた。――「わたしは式部官として、すべてが規定通り行われるよう宰領《さいりょう》せねばなりません。ムッシュー・ヴォルデマール、片膝《かたひざ》をおつきなさい。そういう決りになっているのです」
ジナイーダはわたしの前に立つと、わたしを一層よく見ようとするかのように首を少し横にかしげ、いとも荘重《そうちょう》に片手を差伸《さしの》べた。わたしは眼の中が暗くなった。片膝をつこうとしたが、べったり両膝ついてしまって、おそろしく不器用に唇《くちびる》をジナイーダの指に触《ふ》れたので、むこうの爪《つめ》で自分の鼻さきに、かるい引っかき疵《きず》をこしらえてしまったほどだった。
「よろしい!」とルーシンは叫《さけ》んで、わたしを助け起した。
罰金ごっこは続いていった。ジナイーダはわたしを自分のそばの席に着かせた。手を変え品を変え、実にいろんな罰金を彼女は思いついたものである! そのうちに彼女は、『立像』をやって見せることになったが――すると彼女は自分の台座に、醜男《ぶおとこ》のニルマーツキイを選び出して、うつ伏《ぶ》せに寝《ね》るように命じたばかりか、顔を胸へたくし込《こ》ませさえしたものである。笑い声は小やみもなしに続いた。
四角四面の地主《じぬし》屋敷に生《お》い立って、一人ぼっちの生真面目《きまじめ》な教育を受けてきた少年のわたしは、こうしたらんちき騒ぎや、ほとんど狂暴《きょうぼう》ともいうべき無《ぶ》遠慮《えんりょ》な浮かれ気分や、見ず知らずの連中との臍《へそ》の緒《お》切って初めての交際やのお陰《かげ》で、たちまち頭がカーッとなった。わたしは酒でも飲んだように手もなく酔《よ》っぱらってしまった。わたしがほかの誰《だれ》よりも大きな声で、笑ったり喋《しゃべ》ったりし始めたので、隣の部屋にいた老夫人までが、わざわざわたしを見に出てきたほどだった。夫人は、相談ごとのために呼び寄せたイヴェールスキイ門あたりの小役人と、何やら話し込んでいたのである。しかしわたしは、すっかりもう幸福感に酔いしれていたので、誰が冷笑しようが誰が白い眼でにらもうが、下世話《げせわ》に言うとおり、どこ吹《ふ》く風で、一文の価値も認めなかった。
ジナイーダは相変らず、わたしをひいきにして、寸時もそばから離《はな》さなかった。ある罰金に当った時、わたしは彼女と並《なら》んで、ひとつ絹のプラトークにくるまる羽目になったことがある。つまりわたしは、|自分の秘密《ヽヽヽヽヽ》を彼女に打明けなければならないのであった。忘れもしない。わたしたち二人の頭が、突然もやもやした、半透明《はんとうめい》の匂《にお》やかな靄《もや》に包まれたかと思うと、その靄の中で、近々と柔《やわ》らかに彼女の眼が光って、ひらたい唇が熱っぽく息づき、歯がだんだん見えてきて、ほつれ毛が焼けつくようにわたしの頬《ほお》をくすぐった。わたしは黙《だま》っていた。彼女は神秘《しんぴ》めいた狡《ずる》そうな微笑《びしょう》を浮《うか》べていたが、やがて、「ね、どうしたの?」とささやいた。わたしは赤くなって、ふふと笑っただけで、顔をそむけ、じっと息を殺していた。
罰金ごっこに飽《あ》きると、――こんどは縄《なわ》まわしが始まった。ああ! わたしがついポカンとして、鬼《おに》になった彼女から、したたかピシャリと指をぶたれたとき、なんという法悦《ほうえつ》をわたしは感じたことだろう! そのあとで、わざとわたしがポカンとした振りをしていると、彼女はわたしをじらそうとして、差伸べた両手に触れようともしないのだった!
我々がその晩のうちにやったことは、まだまだそれだけではなかった! ピアノも弾《ひ》けば、歌もうたい、踊《おど》りもおどれば、ジプシーの群れの真似《まね》もした。ニルマーツキイは熊《くま》の縫《ぬ》いぐるみを着せられて、塩の入った水を飲まされた。マレーフスキイ伯爵は、トランプの手品を次から次へと披露《ひろう》したが、あげくの果てにカードをよく切ってから、札を四人に配る時、切札を全部わが手に収めてしまったので、ルーシンは『僭越《せんえつ》ながら祝辞を述べる』ことになった。マイダーノフは自作の『人殺し』という長詩の一節を朗読したが、(それはロマンティシズムの全盛期《ぜんせいき》に取材してあった)、彼はこの作品を、黒い表紙に血色の題字で、出版するつもりだと言っていた。イヴェールスキイ門からやって来た小役人の膝から、こっそり帽子を取ってきて、その身代金《みのしろきん》としてカザーク踊りをおどらせたり、老僕ヴォニファーチイに女の室内帽をかぶせたり、――そうかと思うと、公爵令嬢が男の帽子をかぶったり……とても一々数えきれない。ただベロヴゾーロフだけは、眉間《みけん》に八の字を寄せて腹立たしげな様子で、だんだん隅《すみ》っこへ引っ込みがちになった。……時たま彼の眼は、さっと血ばしって、満面に朱《しゅ》をそそぎ、今にもみんなに躍りかかって、わたしたちを木《こ》っ端《ぱ》みじんに八方へ投げ飛ばしそうな剣幕《けんまく》を見せたが、令嬢がちらりと彼を見て、指を立てておどかすと、彼はまたこそこそ隅っこへ引き下がるのだった。
しまいに、さすがのわたしたちも精も根《こん》も尽き果ててしまった。公爵夫人は、御自身の言い草を借りると、そんなことには一向平気な性分《しょうぶん》で――どんなに騒がれようがビクともしないたちだったが――それでもやはり疲労《ひろう》を覚えて、ちょっと一休み横になると言い出した。夜の十一時過ぎに夜食が出て、古いひからびたチーズの切《き》れっ端《ぱし》と、ハムを刻み込《こ》んだ妙《みょう》に冷たい肉饅頭《にくまんじゅう》とだけだったが、それがわたしには、どんなパイよりもおいしく思われた。葡《ぶ》萄酒《どうしゅ》は一壜《ひとびん》きりで、それも怪《あや》しげな、頸《くび》のところがふくれ返ったどす黒い代物《しろもの》で、中身はプーンと桃色《ももいろ》のペンキの臭《にお》いがした。もっとも、誰一人それは飲まなかった。
疲労と幸福感とでへとへとになって、わたしは傍屋《はなれ》から表へ出た。別れにのぞんで、ジナイーダはぎゅっとわたしの手を握《にぎ》りしめ、またもや謎《なぞ》めいた微笑を浮べた。
夜気がしっとりと重く、わたしの火照《ほて》った顔へ匂《にお》いを吹きつけるのだった。どうやら雷雨《らいう》が来そうな模様で、黒い雨雲が湧《わ》きだして空を這《は》い、しきりにそのもやもやした輪郭《りんかく》を変えていた。そよ風が暗い木立《こだち》の中でざわざわと身震《みぶる》いして、どこか地平のはるかな彼方《かなた》では、まるで独《ひと》り言《ごと》のように、雷《かみなり》が腹立たしげな鈍《にぶ》い声でぶつぶつ言っていた。
裏口からこっそり、わたしは自分の部屋へもぐり込んだ。守役《もりやく》の爺《じい》やが、床《ゆか》べたで眠《ねむ》っていたので、わたしはそれをまたぎ越《こ》さなければならなかった。爺やは目をさまして、わたしを見るなり、母がまたぞろわたしに腹を立てて、またも迎《むか》えに人を出そうとしたが、父が止めたのだ、と報告した。(わたしは寝床《ねどこ》に入る前には、必ず母にお休みを言い、祝福してもらうことにしていた)が、こうなってはもう仕方がない!
わたしは爺やに、自分で着替《きか》えをして寝るからいい、と言って――蝋燭《ろうそく》を吹き消した。だがわたしは、着替えもしなければ、横になりもしなかった。
わたしはちょっと椅子に掛けたが、それなり魔法《まほう》にでもかかったように、長いこと坐《すわ》ったままでいた。その間に感じたことは、実に目新しい、実に甘美《かんび》なものだった。……わたしはほんの少しあたりへ眼を配りながら、じっと身じろぎもせずに坐って、ゆっくりと息をついていた。そしてただ時々、声を立てずに思い出し笑いをしたり、そうかと思うと、『俺《おれ》は恋《こい》しているのだ、これがそれなのだ、これが恋なのだ』という想念に突《つ》き当って、胸の底がひやりとするのだった。ジナイーダの顔が眼の前の闇《やみ》の中を静かに漂《ただよ》っていた――漂ってはいたが、漂い去りはしなかった。その唇は相変らず謎めいた微笑を浮べ、眼は少し横合いから物問いたげに、考え深そうに、優《やさ》しげにわたしを見まもっていた……あの別れた瞬間《しゅんかん》とそっくりそのままの眼差《まなざ》しだった。やがてとうとうわたしは立ち上がって、爪先《つまさき》だちでベッドに歩み寄り、着替えもせずに、そっと頭を枕《まくら》にのせた。激《はげ》しい動作によって、身うちに充《み》ち満ちているものを驚《おどろ》かしはせぬかと、それが心配でならなかったように……。
わたしは横になったが、眼もつぶらずにいた。まもなくわたしは、何かしら微《かす》かな照返しが、わたしのいる部屋の中へ、絶えず射《さ》しては消え射しては消えするのに気がついた。……わたしは身をもたげて、窓をながめた。神秘めいてぼんやり白んでいるガラスの上に、窓の桟《さん》がくっきりと描《えが》き出されている。雷雨だな――とわたしは思った。確かに雷雨には違《ちが》いなかったが、とても遠方を通っているので、雷鳴も聞えないほどだった。ただ、光の鈍い、長々と尾《お》を引いた、枝《えだ》に分れたような稲妻《いなずま》が、空にひらめいているだけで、それもひらめくというよりはむしろ死にかけている鳥の翼《つばさ》のように、ぴくぴく震《ふる》えているのだった。わたしは起き上がって、窓のそばへ行き、朝までそこに立ち尽《つく》した。……稲妻はほんの束《つか》の間《ま》もやまなかった。俗にいう|雀の夜《ヽヽヽ》――つまり夏至頃《げしごろ》の短か夜である。わたしは、ひっそり静まった砂原や、ネスクーチヌィ公園の黒々とした森陰《もりかげ》や、鈍く稲妻がひらめくたびにやはり震えるように見える遠い家々の黄いろっぽい正面やを、じっと見つめていた。……見つめたまま――眼を離すことができなかった。そのひっそりした稲妻、その遠慮《えんりょ》がちのひらめきが、同じくわたしの身うちにもひらめいている無言のひそやかな衝動《しょうどう》に、ちょうど相応ずるもののように思われた。夜が明け始めた。朝焼けがそこここに真紅《しんく》のまだらを散らした。日の出が近づくにつれて、稲妻はだんだん淡《あわ》く、短くなっていった。そのわななきはいよいよ間遠《まどお》になって、ついに、はっきり明けはなれた一日の、もの皆《みな》の夢《ゆめ》をさます疑いもない光にひたされて消えてしまった。
わたしの胸の中でも、やはり稲妻は消えてしまった。わたしは非常な疲《つか》れと静けさを感じたが……ジナイーダの面影《おもかげ》は相変らず飛びめぐって、わたしの魂《たましい》の上に凱歌《がいか》を奏していた。ただしその面影も、いつかひとりでに安らいできたように見えた。さながら白鳥が、沼《ぬま》の草むらから飛び立ったように、その面影もまた、それを取巻いているさまざまな醜《みにく》い物陰から、離れ去ったもののようだった。そしてわたしはうとうと寝入りながら、これを名残《なご》りにもう一遍《いっぺん》、信頼をこめた崇拝《すうはい》の念をもって、その面影にひしとばかりとりすがった。……
おお、めざまされた魂の、つつましい情感よ、その優しい響《ひび》きよ、そのめでたさと静もりよ。恋の初めての感動の、とろけるばかりの悦《よろこ》びよ。――汝《いまし》らはそも、今いずこ、今いずこ?
あくる朝、わたしがお茶に下りてゆくと、母はわたしを叱《しか》ったけれど――思ったほどのことはなく、ゆうべどんな風にして過したかを、わたしに話をさせた。わたしは言葉少なに応答しながら、細かな点はどしどしはぶいて、全体として大いに無邪気《むじゃき》な感じを与《あた》えるようにつとめた。
「とにかくあの人たちは、|まともな連中《コム・イル・フォー》じゃありません」と、母は釘《くぎ》をさした。――「だからお前も、あんなところへ出入りする代りに、ちゃんと勉強して、試験の準備をするんですよ」
わたしの勉強に対する母の配慮《はいりょ》が、わずかこの数語に尽《つ》きていることは、わたしも心得ているから、別に口答えをする必要はないと思った。ところがお茶が済《す》むと、父はわたしと腕《うで》を組んで、一緒《いっしょ》に庭へ出て行きながら、わたしがザセーキン家で見たことを、逐一《ちくいち》わたしに物語らせた。
父はわたしに、奇妙《きみょう》な影響力《えいきょうりょく》を持っていたし、そう言えば、互《たが》いの関係にしたところで、やはり奇妙なものだった。父はわたしの教育のことには、ほとんど風馬牛《ふうばぎゅう》だったが、さりとてわたしを馬鹿《ばか》にするような真似《まね》は、ついぞしたことがない。父はわたしの自由を尊重していたばかりか、更《さら》に進んで、ちょっと妙な言い方だが、わたしに対して慇懃《いんぎん》でさえあった。……ただし、近くへは寄せつけてくれないのである。わたしは父を愛し、父に見とれて、これこそ男性というものの典型だと思っていた。だから、実際の話が、わたしはもっと強く強く、父になついたはずなのだが、ただ父の手が私を押《お》しのけているような感じが、しょっちゅうあって、それが邪魔《じゃま》になったのだ! その代り、父さえその気になれば、ほとんど一瞬《いっしゅん》にして、ただの一言《ひとこと》、ただの一動きでもって、父に対する無限の信頼感を、わたしの胸に呼びさますことができた。わたしは心をあけひろげて、まるで相手が聡明《そうめい》な友達か、親切な先生でもあるように、父とおしゃべりを始めるのだが……やがてまた不意に、父はわたしをほうり出してしまう。――またしてもその手がわたしを押しのける。いかにも愛想のいい、もの柔《やわ》らかな手つきだが、とにかく押しのけるのである。
父も時には、浮《う》き浮《う》きした気分になることがあって、そうなると私を相手に、まるで子供のように、ふざけたり、はねたりするのをいとわなかった(父は、激《はげ》しい肉体の運動なら、なんでも好きだった)。一度――あとにも先にも唯《ただ》の一度きりだが! ――父がとても優《やさ》しくわたしを可愛《かわい》がってくれて、そのため危《あや》うくわたしが泣き出しそうになったことがある。……しかし、その浮き浮きした気分も、優しさも、すぐまた跡《あと》かたもなく消えて、――現に二人の間に起った事柄《ことがら》から、何かしら今後の期待を引出すなどということは、とてもできない相談だった。まあ何もかも、夢《ゆめ》で見たようなものだったのだ。よくわたしは、父の賢《かしこ》そうな、美しい、澄《す》みきった顔を、じっと見ているうちに……胸がどきどきしてきて、身も心も父の方へ吸い寄せられるような気がした。……すると父は、そういう私の気持に感づきでもしたようにひょいと通りすがりに私の頬《ほお》をかるく叩《たた》いて、――それなり向うへ行ってしまうか、何か仕事をやり出すか、さもなければ、いきなり頭から足の先まで、凍《こお》りついたように冷たくなってしまう。その冷たくなりようときたら、ほかの人には見られない父独特のもので、それを見せられると私はたちまち縮み上がって、やはり寒々とした気持になるのだった。
ごく稀《まれ》に、父は発作的《ほっさてき》にわたしに好意を示しはしたが、それは決して、口にこそ出さないが一目でそれと察せられる私の哀願《あいがん》によって、ひき起されたものではない。それは、いつも決って、不意に起るのだった。あとになって、父の性格をいろいろ考えてみたあげく、わたしの達した結論は、父としては私や家庭生活なんぞを、顧《かえり》みるひまがなかったということである。父は、ある別のものを愛していて、その別のもので、すっかり堪能《たんのう》していたのである。
『取れるだけ自分の手でつかめ。人の手にあやつられるな。自分が自分みずからのものであること――人生の妙趣《みょうしゅ》はつまりそこだよ』と、ある時父はわたしに語った。また別の時、わたしは若き民主主義者として、父の面前で、とうとうと自由を論じ始めたことがある(父はその日は、わたしの当時の言い方でいうと「優し」かった。そんな時には、どんな話を持ち出そうと勝手だった)。
「自由か」と、父は引取って、「だがね、人間に自由を与えてくれるものは何か、お前それを知っているかね?」
「なんです?」
「意志だよ、自分自身の意志だよ。これは、権力までも与えてくれる。自由よりもっと貴《とうと》い権力をね。欲《ほっ》する――ということができたら、自由にもなれるし、上に立つこともできるのだ」
父は、何よりもまず、そして何にも増して、生活することを欲した。そして実際、生活したのだ。……ひょっとすると父は、自分が人生の「妙趣」をあまり永く享楽《きょうらく》できないことを予感していたのかもしれない。四十二で死んだのである。
わたしは、ザセーキン家を訪問した時の一部始終を、詳《くわ》しく父に話して聞かせた。父はベンチに腰掛《こしか》けて、鞭《むち》の先で砂に何やら書きながら、半ばは注意ぶかく、半ばは放心のていで、わたしの話を聴《き》いていた。父は時々笑い声を立てて、一種こう晴れやかな、面白《おもしろ》そうな眼《め》つきで私の顔をちらりと見たり、ちょっとした質問やまぜっ返しで、わたしを焚《た》きつけたりした。初めのうちは私は、ジナイーダの名前をさえ口にする勇気が出なかったが、やがて我慢《がまん》がならなくなって、しきりに彼女《かのじょ》のことを褒《ほ》めちぎりだした。父は相変らず笑い続けていたが、そのうちにふと考え込んだかと思うと伸《の》びをして、立ち上がった。
わたしは、父が家から出しなに、馬に鞍《くら》を置くように命じたのを思い出した。父の馬術はなかなか大したもので、レーリ氏などよりずっと早くから、どんな荒馬《あらうま》をも馴《な》らすのに妙を得ていた。
「僕《ぼく》も一緒に行っていい、パパ?」と、わたしは父に訊いた。
「いいや」と父は答えた。その顔には、例の素《そ》っ気《け》ない愛想のいい表情が浮《うか》んだ。――「乗りたけりゃ、一人でお行き。そして、わたしは行かないからって、別当《べっとう》にそう言っとくれ」
父はわたしに背を向け、足ばやに立ち去った。わたしが見送っていると、父の姿は門の外へ消えた。垣根《かきね》に沿って、帽子《ぼうし》の動いて行くのが見える。父はザセーキン家へ入って行った。
父は、一時間以上はそこにいなかったが、それからすぐさま町へ出かけ、夕方やっと帰って来た。
夕食のあとで、今度は私がザセーキン家へ行った。客間に入ってみると、老公爵夫人《ろうこうしゃくふじん》きりしかいなかった。わたしの姿を見た夫人は、室内帽子をかぶった頭を、編《あ》み針《ばり》の先で掻《か》くと、いきなりわたしに向って、請願書《せいがんしょ》を一通清書してもらえまいかと問いかけた。
「おやすい御用《ごよう》ですとも」と、わたしは答えて、椅子の端に腰を下ろした。
「ただね、字をなるべく大きくお願いしますよ」と公爵夫人は、べったり書き汚《よご》した紙を一枚わたしながら言った。――「で、今日じゅうにやって下さらなくて、坊《ぼっ》ちゃん?」
「やりますとも、今日じゅうに」
隣《となり》の部屋のドアがほんのちょっぴり開いて、その隙間《すきま》に、ジナイーダの顔が現われた。――蒼《あお》ざめた、もの思わしげな顔つきをして、髪《かみ》は無造作に後ろへはね返してある。大きな冷やかな両眼で、わたしをじっと見ると、またそっとドアを閉めた。
「ジーナ、これ、ジーナや!」と、老夫人が呼んだ。ジナイーダは返事をしなかった。わたしは老夫人の請願書を持って帰って、一晩じゅうそれにかかりきりだった。
わたしの「情熱」は、その日から始まった。忘れもしない、――その時わたしは、初めて就職した人が感じるはずの、あの一種の気持と同じものを味わった。つまりわたしは、もはやただの子供でも少年でもなくて、恋《こい》する人になったのだ。今わたしは、その日からわたしの情熱が始まったと言ったが、も一つその上に、わたしの悩《なや》みもその日から始まったと、言い添《そ》えてもいいだろう。
ジナイーダがいないと、わたしは気が滅入《めい》った。何ひとつ頭に浮《うか》んでこず、何ごとも手につかなかった。わたしは何日もぶっつづけに、明けても暮れても、しきりに彼女《かのじょ》のことを思っていた。わたしは気が滅入った……とはいえ、彼女がいる時でも、別に気が楽になったわけではない。わたしは嫉妬《しっと》したり、自分の小《ち》っぽけさ加減に愛想をつかしたり、馬鹿《ばか》みたいにすねてみたり、馬鹿みたいに平《へい》つくばったり、――そのくせ、どうにもならない引力で彼女の方へ引きつけられて、彼女の居間の敷居をまたぐ都度《つど》、わたしは思わず知らず、幸福のおののきに総身《そうみ》が震《ふる》えるのだった。ジナイーダはすぐさま、わたしが彼女に恋していることを見抜《みぬ》いたし、わたしの方でも、別にそれを匿《かく》そうとも思わなかった。彼女は、わたしの情熱を面白《おもしろ》がって、わたしをからかったり、甘《あま》やかしたり、いじめたりした。いったい、他人のために、その最大の喜びや、その底知れぬ悲しみの、唯一《ゆいいつ》無二《むに》の源泉になったり、またはそれらの、絶対至上にして無責任な原因になったりするのは、快いものであるが、全く私は、ジナイーダの手にかかったが最後、まるでぐにゃぐにゃな蝋《ろう》みたいなものだったのだ。
とはいえ、何もわたしだけが、彼女に恋していたわけではなかった。彼女の家にやってくる男という男は、みんな彼女にのぼせあがっていたし、彼女の方では、それをみんな鎖《くさり》につないで、自分の足もとに飼《か》っていたわけなのだ。そうした男たちの胸に、あるいは希望を、あるいは不安を呼びおこしたり、こっちの気の向きよう一つで、彼らをきりきり舞《ま》いさせたりするのが(それを彼女は、人間のぶつけ合い、と呼んでいた)、彼女には面白くてならなかったのである。しかも男たちの方では、それに抗議《こうぎ》を申し立てるどころか、喜んで彼女の言いなりになっていたのだ。溌剌《はつらつ》として美しい彼女という人間のなかには、狡《ずる》さと暢気《のんき》さ、技巧《ぎこう》と素朴《そぼく》、おとなしさとやんちゃさ、といったようなものが、一種特別な魅力《みりょく》ある混り合いをしていた。彼女の言うことなすこと、彼女の身ぶり物ごしのはしはしにも、微妙《びみょう》な、ふわふわした魅力が漂《ただよ》って、その隅々《すみずみ》にまで、他人には真似《まね》のできぬ、ぴちぴちした力が溢《あふ》れていた。彼女の顔つきも、しょっちゅう変って、やはりぴちぴちしていた。それはほとんど同時に、冷笑を表わしもすれば、物思いを表わしもし、情熱の表情にもなるのであった。まるで晴れた風のある日の雲の陰《かげ》のように、軽いすばしこい色とりどりの情感が、絶えず彼女の眼《め》や唇《くちびる》のほとりに、ちらついているのだった。
彼女にとって、自分の崇拝者《すうはいしゃ》は誰《だれ》もかれも、みんな入用な人物だった。ベロヴゾーロフは、彼女から時によっては、『わたしの猛獣《もうじゅう》さん』と呼ばれたり、時によっては簡単に、『わたしの』と呼ばれたりしていたが、彼女のためとあらば火の中へも飛び込《こ》みかねない男である。自分の頭の働きにも自信はなし、ほかにこれといった取柄《とりえ》もないとあきらめている彼《かれ》は、しょっちゅう彼女に結婚《けっこん》を申込んで、ほかの男の言うことは、要するに空念仏《からねんぶつ》に過ぎないと、ほのめかすのであった。
マイダーノフは、彼女の魂《たましい》のなかにある詩的な素質のお相手をつとめていた。ほとんどすべての文士の多分に漏《も》れず、彼もかなり冷たい人間だったが、それでいて自分がジナイーダを崇拝しているものと、遮二《しゃに》無二《むに》相手に思い込ませようとしていたのみか、どうやら自分でも、そう思い込もうとしているらしかった。無《む》尽蔵《じんぞう》ともいうべき詩句に、彼女への讃美《さんび》の情を託《たく》しては、それを、どこかしら不自然でもあれば真剣《しんけん》でもある感激《かんげき》をもって、彼女に朗読して聞かせる。彼女の方では、この男に共鳴する面もあり、いささかおひゃらかし気味でもあった。あまりこの男を信用していない彼女は、彼の真情の吐露《とろ》もいい加減聞き飽《あ》きると、プーシキンを朗読させるのだった。それは、彼女の言い草に従えば、空気を清めるためだった。
次にルーシンは、皮肉屋で、露骨《ろこつ》な毒舌《どくぜつ》をふるう医者だが、彼女というものを一番よく見ており、また誰より深く彼女を愛してもいながら、そのくせ陰でも面前でも、彼女の悪口ばかり言っていた。彼女は、この男を尊敬してはいたものの、さりとて決して容赦《ようしゃ》はせず、時々、一種特別な、さも小気味よげな満足の面持《おももち》で、彼だってやはり自分の手中にあるのだということを、彼に感づかせるように仕向けるのだった。
「わたし、コケットなのよ。人情なんかないわ。まあ、役者向きの水性《みずしょう》なんだわ」と、彼女はある日、わたしのいる前で、彼に言ったことがある。――「あ、いいことがある! さ、手を出しなさい。ピンを突《つ》っ刺《さ》してあげるから。するとあなたは、この坊《ぼっ》ちゃんの手前|恥《は》ずかしいでしょうし、それに痛くもあるでしょう。でもね、あなたは笑って見せてちょうだい。いいこと、君子《くんし》さん」
ルーシンは赤くなって、顔をそむけ、唇をかみしめたが、結局その手を差出した。彼女がピンを突っ刺すと、まさしく彼は笑い出した。……彼女も声を立てて笑いながら、そのピンをかなり深く刺しこんで、むなしくあちこち外《そ》らそうとする彼の眼を、じっと覗《のぞ》き込むのだった。……
ジナイーダとマレーフスキイ伯爵《はくしゃく》の関係が、一番わたしにはわかりにくかった。なかなか美男子で、如才《じょさい》なく頭のはたらく男なのだが、しかし、ほんの十六|歳《さい》の少年にすぎないわたしでさえ、この男には何かしら油断のならぬ、うさん臭《くさ》いところがあるような気がした。しかもジナイーダが、それに気づいていないのが、わたしは不思議でならなかった。ひょっとすると彼女は、そのうさん臭さに気づいていながら、別にそれが厭《いや》でなかったのかもしれない。なにしろ教育も変則なら、つきあいや習慣も風変りだし、しょっちゅう母親はそばにいるし、家の内情は貧乏《びんぼう》で乱脈だし、かてて加えて、若い娘《むすめ》の身で気まま勝手はしたい放題、それに、ぐるりの連中より一段も二段も上だという意識もあるし――というわけで、そうした一切合財《いっさいがっさい》があわさって、彼女のうちに、一種こう人を小馬鹿にしたような無頓着《むとんじゃく》さや投げやりな態度を、養ったのである。何事がもちあがろうが――よしんばヴォニファーチイが入って来て「砂糖がきれました」と言上《ごんじょう》に及《およ》ぼうが、何か忌《いま》わしい世間の陰口が耳に入ろうが、客の中で喧嘩《けんか》が始まろうが――彼女はただ、豊かな捲髪《まきげ》を一振《ひとふ》りして、「くだらない」と言うだけで、けろりとしていた。
お陰でわたしは、全身の血がカッと燃え立つような思いをすることが、よくあった。たとえばマレーフスキイが、まるで狐《きつね》みたいに狡そうに肩を揺《ゆ》すりながら、彼女のそばへ寄って行って、彼女の掛けている椅子《いす》の背に、伊達《だて》な格好《かっこう》をしてもたれかかり、さも得意げな、追従《ついしょう》たらたらの薄笑《うすわら》いを浮《うか》べながら、彼女の耳に何かささやきだす。すると彼女は、両手を胸に組んで、まじまじと彼を見つめながら、やがて自分も微笑を浮べ、首を振ったりするのである。
「あなたは、どこが好《よ》くて、マレーフスキイさんなんかを家へ入れるのです?」と、ある時わたしは彼女に訊《き》いてみた。
「だって、あの人の髭《ひげ》、すてきじゃなくて!」と、彼女は答えた。――「でもそんなこと、あなたの知ったことじゃないわ」
また別の時、彼女はわたしに、こう言ったことがあった。
「わたしがあの人を愛してると、あなた思っているのじゃない? 違《ちが》うわ。わたし、こっちで上から見下ろさなくちゃならないような人は、好きになれないの。わたしの欲《ほ》しいのは、向うでこっちを征服《せいふく》してくれるような人。……でもね、そんな人にぶつかりっこはないわ、ありがたいことにね! わたし、誰の手にもひっかかりはしないわ、イイーだ」
「すると、決して恋をしないというわけですね」
「じゃ、あなたをどうするの? わたし、あなたを愛していなくって?」そう言うと彼女は、手袋《てぶくろ》の先で、わたしの鼻をたたいた。
全くジナイーダは、さんざんわたしを慰《なぐさ》み物《もの》にした。三週間の間、わたしは毎日彼女に会っていたが、その間に彼女がわたしに向ってやらなかったことは、何一つ、全く何一つなかった、と言っていいほどだ! 彼女の方でわたしの家へ来ることは、あまりなかったが、それはわたしにとって痛事ではなかった。うちへ来ると、彼女はたちまち、令嬢《れいじょう》――つまり公爵《こうしゃく》令嬢に、早変りしてしまうし、こっちでも彼女を敬遠していた。わたしは、母に見破られるのが怖《こわ》かったのだ。母はジナイーダに頗《すこぶ》る悪意をいだいて、まるで仇《かたき》のようにわたしたちを見張っていた。父の方は、大して怖くなかった。父は、わたしには気がつかない様子だったし、彼女ともあまり話をしなかったが、いざ話す時には、何か特別に気の利《き》いた、もっともらしい話しぶりをしていた。
わたしは、勉強も読書もやめてしまった。郊外《こうがい》散歩や乗馬までも、やめてしまった。まるで足に糸をつけられたカブト虫みたいに、わたしはなつかしい傍屋《はなれ》のまわりを、絶えずぐるぐる回っていた。いいと言われれば、いつまでだってそこにいたはずだが……そうはいかなかった。母の小言《こごと》もうるさいし、時には当のジナイーダから、追っ立てを食う始末だった。するとわたしは、自分の部屋へ引っこもるか、それとも庭のいちばん端まで行って、石造りの高い温室の崩《くず》れ残りへよじ登って、道路に面した壁《かべ》から両足をぶらさげ、何時間も坐《すわ》ったなりで、一心に眺《なが》めに眺めるのだったが、そのくせ何ひとつ目に入らなかった。わたしのそばには、埃《ほこり》をかぶったイラクサの上を、ものうげに白い蝶々《ちょうちょう》が飛びかわしていた。元気な雀《すずめ》が一羽《いちわ》、少し先の、半ば割れた赤煉瓦《あかれんが》の上に止って、絶えず全身をくるくる回し、尾《お》をひろげて、癇《かん》にさわる鳴き声を立てていた。相変らず疑ぐりぶかい鴉《からす》の群《む》れが、すっかり葉の落ちた白樺《しらかば》の高い高いてっぺんに止って、思い出したようにカアカア鳴いていた。太陽と風が、そのまばらな枝《えだ》の間に、静かにたわむれていた。ドン修道院の鐘《かね》の音《ね》が、時おり、穏《おだ》やかに陰気《いんき》に響《ひび》いてきた。――わたしはじっと坐って、見つめたり聞き入ったりしているうちに、何かしら名状しがたい感じで、胸がいっぱいになるのだった。その中には、悲しみも、喜びも、未来の予感も、希望も、生の恐《おそ》れも、何から何までが含《ふく》まっていた。けれど当時のわたしは、そんなものは何一つわかりもせず、また、自分の中に沸々《ふつふつ》とたぎっているすべてのもののうち、どの一つだって、それと名ざすだけの力はなかったろう。いや、いっそ、その一切をあげて、ただ一つの名――ジナイーダという名でもって、呼んだかもしれない。
ところがジナイーダは、猫《ねこ》が鼠《ねずみ》をおもちゃにするように、相変らずわたしを弄《もてあそ》んでいた。急にじゃれついてきて、わたしを興奮させたり、うっとりさせたかと思うと、こんどは手の裏を返すように、わたしを突《つ》っぱなして、彼女に近寄ることも、その顔を眺めることも、できないような羽目に落してしまう。
忘れもしないが、彼女が二、三日ぶっ続けに、とても冷たい態度をわたしに見せたことがある。わたしはすっかり怖気《おじけ》づいて、こそこそ彼女たちの傍屋《はなれ》へ這《は》いこんでは、なるべく老夫人のそばに、くっついているようにしたものである。しかも折りも折り、夫人はひどく怒《おこ》りっぽくなっていて、がなり散らしてばかりいたのだ。というのは、何か手形の件がうまくゆかないので、もう二度も、区の署長さんと掛け合ったところだったのである。
ある日、わたしが庭へ出て、例の垣根《かきね》のそばを通りかかると、ジナイーダの姿が目にとまった。彼女は両手をわきについて、草の上に坐ったまま、身じろぎもせずにいる。わたしが、そっと遠ざかろうとすると、彼女はいきなり首を上げてさも命令するような合図をした。わたしは、その場に立ちすくんだ。どういうつもりなのか、一度では呑《の》みこめなかったのだ。彼女は、もう一遍《いっぺん》合図をした。わたしは、すぐさま垣根を飛びこえて、いそいそと彼女のそばへ駆《か》け寄った。ところが彼女は、目でわたしを制して、彼女から二歩ほどのところにある小径《こみち》を、指さして見せた。どうしたらいいのかわからず、当惑《とうわく》して、わたしは小径の縁《ふち》にひざまずいた。見ると彼女の顔は真《ま》っ蒼《さお》で、なんとも言えず痛ましい悲哀《ひあい》と、深い疲《つか》れの色が、目鼻だちのくまぐまに刻まれているので、わたしは心臓が締《し》めつけられるような気がして、思わずこう口走った。「どうかしたのですか?」
ジナイーダは片手を伸《の》ばして、何か草の葉をむしると、歯で噛《か》んで、ぽいと向うへ投げた。
「あなた、わたしがとても好き?」と、やがての果てに、彼女は訊《き》いた。――「そう?」
わたしは、なんとも答えなかった。いまさら、なんの返事をすることがあろう。
「そう」と、彼女はなおもわたしを見つめながら、繰返《くりかえ》した。――「そりゃ、そうだわね。まるで同じ眼《め》だもの」そう言い足して、じっと考えこみ、両手で顔を隠《かく》した。やがて、「わたし、何もかも厭になった」とささやくように言った。――「いっそ、世界の涯《はて》へ行ってしまいたい。こんなこと、こらえきれないわ、とてもやってゆけないわ。……それに、行末《ゆくすえ》はどうなるんだろう! ……ああ、つらい。……ほんとに、つらい!」
「なぜですか?」と、わたしは、おずおず尋《たず》ねた。
ジナイーダは返事をせずに、ただ肩《かた》をすくめただけだった。わたしは膝《ひざ》をついたまま、すっかり悄気《しょげ》かえって、彼女を見まもっていた。彼女の一言一句は、鋭《するど》くわたしの胸に突き刺さった。わたしはその瞬間《しゅんかん》、もし彼女の悲しみが消えるものなら、喜んで命を投げ出しもしたろう。わたしは、彼女を見つめているうちに、なぜそう辛《つら》いのか合点《がてん》がゆかぬながらも、それでいて、彼女がにわかに堪《た》えがたい悲哀の発作《ほっさ》に襲《おそ》われて、庭へ出てきて、ばったり地面に倒《たお》れた有様《ありさま》を、まざまざと心に描《えが》いていた。――あたりは青々と、光に満ちていた。風は木々の葉なみをそよがせ、時おり木莓《きいちご》の長い枝《えだ》を、ジナイーダの頭上で揺《ゆ》すっていた。どこかで鳩《はと》が、ふくみ声で鳴き、蜜蜂《みつばち》はうなりながら、まばらな草の上を低く飛びかっていた。上には空が、優《やさ》しく青みわたっているが、でもわたしは、なんとも言えずわびしかった。……
「何か、詩を読んでちょうだい」と、ジナイーダは小声で言って、片肘《かたひじ》をついた。――「わたし、あなたが詩を読むところが好きなの。あなたのは、まるで歌うみたいだけれど、それで結構よ、若々しくっていいわ。あの、『グルジヤの丘の上』を読んで。――でも、まずお坐りなさいな」
わたしは腰を下ろして、『グルジヤの丘の上』(訳注 プーシキンがカフカーズをさまよいながら、遠い恋人を思って作った抒情詩。その大意は、「グルジヤの丘の上、夜霧かかり、アラグヴァの流れ、わが前にざわめく。われはわびしく楽しく、わが悲しみは明るし。わが悲しみは、ただひとり君の姿にみたされて……このわびごころ、何ものの乱し騒がすものもなし。かくて胸は、またも燃え、恋いわたる……愛さでやまぬ胸なれば。」)を朗読した。
「≪愛さでやまぬ胸なれば≫」とジナイーダは繰返した。――「そこが、詩のいいところなのね。つまり、この世にないことを、言ってくれる。しかも、実際あるものよりより立派なばかりでなく、ずっと真実に近いことをまで、言ってくれるのだもの。……愛さでやまぬ胸なれば――ほんとに、しまいと思っても、せずにはいられないんだわ!」彼女はまた黙《だま》り込《こ》んだが、突然《とつぜん》ぶるんと身を震《ふる》わして立ち上がって、「さ、行きましょう。お母さんのところに、マイダーノフが坐り込んでいるのよ。わたしにって、自分で作った叙《じょ》事詩《じし》を持って来てくれたのに、ほっぽらかして来てしまったの。あの人も今頃《いまごろ》は、きっと悄気てるわ。……でも、仕方がないのよ! やがてあなただって、わかる時が来るわ……ただね、わたしのこと、怒《おこ》らないでちょうだいね!」
ジナイーダは、せかせかとわたしの手を握《にぎ》ると、先に立って駆け出した。二人は傍屋《はなれ》に帰った。マイダーノフは、やっと印刷になったばかりの自作の詩『人殺し』を朗読しだしたが、わたしはろくに聞いていなかった。彼は四脚《しきゃく》の短長格《ヤンブ》を思いっきり声を引き引きがなり立てて、韻《いん》が入れかわり立ちかわり、まるで小鈴《こすず》のような空《うつ》ろで騒々《そうぞう》しい音を立てたけれど、わたしはじっとジナイーダの顔を見たまま、彼女がついさっき言った言葉の意味を、しきりに考えていた。
さらずば、見知らぬ恋がたきが
にわかに君を奪《うば》いゆきしや?
と、いきなりマイダーノフが鼻声でわめいた時、わたしの眼とジナイーダの眼がぶつかった。彼女は伏眼《ふしめ》になって、顔を赤らめた。彼女が赤くなったのを見ると、わたしはびっくりして、五体が冷えわたった。わたしは、もう前々から彼女のことで妬《や》いていたのだが、じっさい彼女が誰かに恋しているという考えは、やっとこの瞬間、わたしの頭にひらめいたのである。
『さあ大変だ! 彼女は恋をしている!』
わたしの本当の責苦《せめく》は、その瞬間《しゅんかん》から始まった。わたしは頭が痛くなるほど考えつめたり、思案を重ねたり、考え直したりしながら、勿論《もちろん》できるだけこっそりと、執念ぶかくジナイーダを見張っていた。彼女《かのじょ》に或《あ》る変化が生じたことはもはや明白だった。彼女は一人で散歩に出かけて、長いこと歩き回っていた。時によると、客たちに顔を見せずに、何時間も自分の部屋に引っこもっていた。それまでは、ついぞなかったことである。わたしは突然《とつぜん》、ひどく目が見えだした。少なくも、見えだしたような気がした。
『あいつじゃないかしら? それとも、いっそあいつかな?』
とわたしは、彼女の崇拝者《すうはいしゃ》の一人からまた一人へ、せわしなく思いを馳《は》せながら、胸の中で自問するのだった。なかんずくマレーフスキイ伯爵《はくしゃく》は、(もっとも、こんなことを認めるのは、ジナイーダのため心外の至りだったが)ほかの誰《だれ》よりも危険人物のように、ひそかにわたしは思っていた。
わたしの炯眼《けいがん》は、残念ながら自分の鼻の先までしか届かず、また折角のわたしの密計も、誰ひとり瞞《だま》しおおせることはできなかったらしい。少なくともドクトル・ルーシンは、じきにわたしの腹を見抜《みぬ》いた。とはいえ彼《かれ》だって、近頃《ちかごろ》は様子が変って、めっきり痩《や》せもしたし、相変らず笑い上戸《じょうご》ではあったものの、その笑い声は妙《みょう》に鈍《にぶ》く、毒を含《ふく》んで、短くなったし、平生の軽い皮肉や、とってつけたような冷笑癖《れいしょうへき》は、我にもない神経質ないらだちに変っていた。
「ねえ君、なんだってそうしょっちゅう、ここへやって来るんです」と彼は、ある日ザセーキン家の客間で二人きりになった時、わたしに言った。(令嬢《れいじょう》はまだ散歩から帰って来《こ》なかったし、夫人のがみがみ声が中二階でしていた。小間使と喧嘩《けんか》していたのだ)――「若いうちにせっせと勉強しとかにゃならんのに、どうしたことです?」
「僕《ぼく》が家で勉強してるかどうか、あなたにはわからないでしょう」とわたしは、いささか高飛車《たかびしゃ》に言い返したが、たじたじの気味もないことはなかった。
「何が勉強なものですか? そんなこと、君の頭にありはしませんよ。だがまあ、これ以上何も言いますまい……君の年頃では、まあ無理もないからな。ただし君の見当は、大いに狂《くる》っているですよ。この家がどういう家か、それが君には見えんのですか?」
「なんのことだか、わかりませんね」と、わたしは空とぼけた。
「わからないって? そりゃますますいかん。僕は義務として、一言《いちごん》君に注意します。我々|甲羅《こうら》をへた独身ものは、ここへ来ても、さしつかえない。なんのことがあるものですか?我々は鍛練《たんれん》ができてるからびくともしないです。ところが君は、まだ皮膚《ひふ》が弱い。ここの空気は、君には毒ですよ――ほんとですとも、うっかりすると伝染《でんせん》しますぞ?」
「どうしてです?」
「どうもこうもあったものですか。いったい君は、いま健康ですか? 果してノーマルな状態にありますか? 君がいま感じていることは、君のためになりますか、いいことですか?」
「でも、僕が何を感じてるというんです?」と、わたしは言ったが、心の中では、なるほど医者の言う通りだと思った。
「いやいや、君は若い、まだ若い」と医者は、さもこの二つの言葉の中に、わたしに対する何かひどく侮蔑的《ぶべつてき》な感じが籠《こ》めてありでもするような、そんな言いぶりで言葉を続けた。――「ごまかそうたって駄目《だめ》ですよ。だってまだまだ、君の心にあることは、ちゃんと顔に出ているもの、ありがたいことにね。だがしかし、こんな話をしたって始まらない。第一この僕にしたって、こんな所へ来るはずはないんですよ、もしも……(医者は歯をくいしばった)……もしも、僕がこんな唐変木《とうへんぼく》でなかったらね。ただ一つ、僕が不思議でならんのは、君のような頭のいい人が、自分のすぐそばで起っていることに、どうして気がつかないんだろうな?」
「でも、何が起っているんです」と、わたしは素早く相手を受けて、すっかり緊張《きんちょう》した。
医者は、妙《みょう》に嘲《あざけ》るような同情の色を浮《うか》べて、わたしをじろりと見た。
「なるほど、僕も大したものだ」と彼は、ひとり言のように言った。――「頗《すこぶ》るもって、この人の耳に入れとく必要のあることだて。……まあ要するに」と、そこで声を高めて、「もう一遍《いっぺん》言いますが、ここの雰囲気《ふんいき》は君にはよくない。君はここで、いい気持になっているが、油断大敵ですぞ! そりゃ温室のなかだって、やはりいい匂《にお》いはするが、そこで暮すわけにはゆかんですからね。ねえ! 悪いことは言わないから、またあのカイダーノフ先生に戻《もど》りたまえ」
公爵夫人が入って来て、歯が痛いと医者にこぼしだした。やがてジナイーダが現われた。
「そうそう」と、夫人は言い足した。――「ねえドクトル、この子を叱《しか》ってやって下さいな。一日《いちにち》じゅう、氷水ばかり飲んでいるんですよ。それが、体にいいことでしょうかねえ、胸が弱いくせに」
「なぜ、そんなことをなさるんです?」と、ルーシンが訊《き》いた。
「やったら、どうなるとおっしゃるの?」
「なんですって? 風邪《かぜ》を引いて、死ぬかもしれませんよ」
「ほんと? まさか? でも、かまやしない――それが当然だわ!」
「おやおや!」と、医者はうなった。夫人は出て行った。
「おやおや」と、ジナイーダは口《くち》真似《まね》をして、「生きることが、そんなに面白《おもしろ》いかしら? ぐるりを見回して御覧《ごらん》なさい。……どう、よくって? それともあなたは、わたしがそれさえわからない、感の鈍《にぶ》い女だと思ってらっしゃるの? わたしは、氷水を飲むといい気持なの。だのにあなたはこんな人生が、束《つか》のまの満足のために危険を冒《おか》してはならないほど大事なものだと、真顔《まがお》でわたしに説教なさるおつもりね。――わたし、もう幸福なんかどうでもいいの」
「つまり、その」と、ルーシンが皮肉った。――「気まぐれと自分勝手。……この二語にあなたは尽きるんですな。あなたという人は、全部この二語のうちにありますよ」
ジナイーダは、神経質に笑い出した。
「証文の出しおくれよ、ドクトル先生。案外、目が利《き》かないのねえ。だいぶ手おくれだわ。眼鏡でも、おかけになったら? わたし今、気まぐれどころじゃないの。あなた方をからかったり、自分を笑いものにしたり……そんなこと、何が面白いものですか? 自分勝手だとおっしゃるけれど……ね、ヴォルデマールさん」と、そこで突然ジナイーダは方角を変えて、小さな足をトンと鳴らした。――「そんな憂鬱《ゆううつ》な顔をしないでよ。わたし、人に同情されることなんか大嫌《だいきら》い」
彼女は足早に出て行った。
「君には毒だ。全く毒だよ、ここの空気は、ねえ君」と、またルーシンはわたしに言った。
十一
その晩、ザセーキン家には常連が集まった。わたしもその中にいた。
話がマイダーノフの例の詩のことになると、ジナイーダはしんからそれを褒《ほ》めちぎった。
「でも、よくって?」と、彼女《かのじょ》はマイダーノフに言った。――「もし、わたしが詩人だったら、もっとほかのテーマでゆくわ。こんなこと、馬鹿《ばか》げた話かもしれないけれど、でもわたし時々、妙《みょう》な考えが頭に浮《うか》ぶのよ。ことに夜明け方、空がバラ色や灰色になってくる頃《ころ》、眠《ねむ》れずにいるような時にね。わたしなら、そうねえ……。こんなこと言って、あなた方《がた》笑わないこと?」
「いいや、とんでもない!」と、わたしたちは異口《いく》同音《どうおん》に叫《さけ》んだ。
「わたしならね」と彼女は、両手を胸に組んで、眼《め》をわきの方へそそぎながら、言葉を続けた。――「若い娘《むすめ》が大勢《おおぜい》、夜中に、大きな舟《ふね》に乗って――静かな河に浮んでいるところ、それを書くわ。月が冴《さ》えている。そして娘たちは、みんな白い着物を着て、白い花の冠《かんむり》をかぶって、歌っているの。そうね、何か聖歌のようなものを」
「わかります、わかります。それから?」と、思わせぶりな空想的な調子で、マイダーノフが言った。
「すると不意に――岸の上に、ざわめきや、高笑いや、松明《たいまつ》や、手太鼓《てだいこ》があらわれるの。……それは、バッカスの巫子《みこ》が群《む》れをなして、歌ったり叫んだりして走ってくるのよ。まあ、この光景を写すのは、あなたにお任せするわ、詩人さん。……ただわたしの注文は、松明は真っ赤で、しかももうもうと煙《けむり》をふいていること。それから、巫女たちの眼が、花の冠の陰《かげ》でキラキラ光って、花の冠は黒っぽくしたいわ。虎《とら》の皮や、杯《さかずき》も、忘れないでちょうだい。――それに金《きん》だわ、金をどっさりね」
「その金は、いったいどこに使うのです?」と、マイダーノフは、平べったい髪《かみ》の毛《け》を後ろへ払《はら》いながら、鼻の穴をひろげて訊《き》いた。
「どこにですって? 肩《かた》にも、腕《うで》にも、足にも、どこもかしこもよ。古代の女は、くるぶしに金の輪をはめていたというじゃありませんか。そこで巫女たちは舟の娘たちを呼ぶの。娘たちの歌ごえが、ぱったりやまる。――もう聖歌どころじゃありませんものね。でも娘たちは、そのままじっと身じろぎもしないの。河の流れに押《お》されて、舟はだんだん岸へ寄って来ます。すると突然《とつぜん》一人の娘が、そっと立ち上がるのよ。……ここのところは、よく描写《びょうしゃ》しなければいけないわ。月の光を浴びて、その娘が静かに立ち上がるところや、ほかの友達がびっくりする有様をね。……で、その娘が舟ばたをまたぐと、巫女たちはワッとそれを取りかこんで、真っ暗な夜闇《よやみ》の中へ、さらって行ってしまうの。……ここは、煙が渦《うず》を巻いて、何もかもごっちゃになってしまうところを書くのよ。聞えるのは、巫女たちのキャッキャッいう声ばかり。そして、その娘の花の冠が、ぽつんと岸に残っているの」
ジナイーダは口をつぐんだ。(『ああ! 彼女は恋に落ちたのだ』と、わたしはまた考えた)
「それだけですか?」と、マイダーノフが訊いた。
「それだけよ」と、彼女は答えた。
「それだと、大がかりな、叙事詩《じょじし》のテーマにはなりかねますな」と、さも勿体《もったい》らしく彼《かれ》は指摘《してき》した。――「しかし、抒情詩《じょじょうし》の材料として、あなたのイデーを頂くとしましょう」
「ロマンティクなものですか?」と、マレーフスキイが訊いた。
「もちろん、ロマンティクなものです。バイロン風のね」
「が、僕《ぼく》に言わせると、ユーゴーはバイロンよりもいいですね」と、若い伯爵《はくしゃく》は何気《なにげ》なく口ばしった。――「面白《おもしろ》い点でも上です」
「ユーゴーは第一流の作家です」と、マイダーノフは答えた。――「で、僕の友人のトンコシェーエフも、自作のイスパニア物語『エル・トロバドール』のなかで……」
「ああ、それ、あの疑問符《ぎもんふ》が逆立ちしている本なのね?」とジナイーダが遮《さえぎ》った。
「そうです。イスパニアでは、ああ書くことになっているんですよ。そこで僕の言いかけたのは、トンコシェーエフが……」
「おやおや! またあなた方の、古典主義だ浪漫《ろうまん》主義だという議論が、始まるのね」と、またもやジナイーダは彼を遮った。――
「それより、何かして遊ばない?……」
「罰金《ばっきん》ごっこですか?」と、ルーシンが受けた。
「いやだわ、罰金ごっこは退屈《たいくつ》よ。比べごっこがいいわ」(この遊びは、ジナイーダが自分で考え出したものだった。何か一つ物を決めておいて、みんなでそれに似た何か別のものを考える。いちばんうまい比較《ひかく》を考えついたものが、褒美《ほうび》をもらうのである)
彼女は窓へ歩み寄った。日は沈《しず》んだばかりだった。空には、はるか高く、細長い赤い雲が幾筋《いくすじ》も浮んでいた。
「あの雲は何に似ていて?」と、ジナイーダは訊いて、わたしたちの答えを待たずに、自分で、
「わたし、あの雲は、クレオパトラがアントニーを迎えに行ったとき、その金塗《きんぬ》りの船に張ってあった緋色《ひいろ》の帆《ほ》に似ていると思うわ。ねえ、マイダーノフさん、あなたこの間、その話をして下すったわね?」
わたしたちはみんな、『ハムレット』の中のポローニアスよろしく、いかにもあの雲はその帆に似ている、これ以上うまい比較は誰《だれ》にも見つかるまい、と決めてしまった。
「でもその時、アントニーは幾つだったのかしら?」と、ジナイーダが訊いた。
「そりゃ、きっと青年だったに違《ちが》いないですよ」と、マレーフスキイが口を入れた。
「そう、若かったですな」と、自信たっぷりでマイダーノフが裏書きした。
「失礼ですが」と、ルーシンが大きな声を出した。――「もう四十を越《こ》していましたよ」
「四十を越して」とジナイーダは、すばやく一瞥《いちべつ》を彼にくれて、鸚鵡返《おうむがえ》しに言った。
わたしは、まもなく家に帰った。
『彼女は恋に落ちた』と、我ともなく、わたしの唇《くちびる》はささやいた。……『だが、いったい誰に?』
十二
日がたつにつれて、ジナイーダは、いよいよますます奇妙《きみょう》な、えたいの知れない娘《むすめ》になっていった。ある日、わたしが彼女《かのじょ》の部屋へ入って行くと、彼女は籐《とう》椅子《いす》にかけて、頭をぎゅっと、テーブルのとがった縁《ふち》に押《お》しつけていた。はっと彼女は身を起したが……見れば顔じゅうべったり、涙《なみだ》にぬれていた。
「まあ、あなただったの?」と、彼女は薄情《はくじょう》な薄笑《うすわら》いを浮《うか》べて言った。――「こっちへいらっしゃい」
わたしがそばへ行くと、彼女は片手をわたしの頭にのせて、いきなり髪《かみ》の毛《け》をつかむと、ぎりぎり捻《ね》じ回し始めた。
「痛い……」と、やがてわたしは音《ね》をあげた。
「おや! 痛いって! じゃ、わたしは痛くないの? 痛くないって言うの?」と、彼女は鸚鵡返《おうむがえ》しに言った。
「あら!」彼女は、わたしの頭から、ほんの一ふさ、髪の毛をむしり取ったのに気がつくと、いきなり大声をあげた。――「大変なことをしてしまったわ! 許してね、ヴォルデマールさん!」
彼女は、むしり取った髪の毛を丁寧《ていねい》にそろえると、自分の指に巻きつけて、小《ち》っちゃな輪に編《あ》んだ。
「わたし、あなたの髪の毛をロケットに入れて、いつも身につけているわね」そう言った彼女の眼《め》には、相変らず涙が光っていた。――「それで少しは、あなたの気も慰《なぐさ》むかもしれないわ。……じゃ、今日はこれでね」
わたしが家に帰ってみると、不愉快なことが待ち構えていた。母が父を相手に言い合いをしていたのである。母が何やらしきりに父をなじると、父の方は例の調子で、冷やかで慇懃《いんぎん》な沈黙《ちんもく》をまもっていたが、まもなく外へ出て行った。わたしには、母が何をまくし立てていたのか、聞えなかったし、それに、そんな心のゆとりもありはしなかった。ただ一つ覚えているのは、言い合いが済《す》んだあとで母がわたしを居間へ呼びつけて、わたしがしげしげと公爵夫人《こうしゃくふじん》のところに出入りすることについて、大いに不満の意を表し、あれは|どんな卑しいこともしかねない女《ユヌ・ファム・カパーブル・ド・トゥー》だと、罵《ののし》ったことである。わたしは母のそばへ寄って、身をかがめてその手にキスすると(これは会話を打切ろうと思う時の、わたしの常套《じょうとう》手段だった)、そのまま自分の部屋へ戻《もど》った。
ジナイーダの涙で、わたしはすっかり動転してしまった。わたしは、いったいどう考えたらいいものか途方《とほう》に暮れて、こっちが泣き出さんばかりだった。年こそ十六になっていたけれど、わたしはまだほんの赤《あか》ん坊《ぼう》だったのである。もうマレーフスキイのことなどは、念頭になかった。ただしベロヴゾーロフは、日増しにだんだん殺気だっていって、この油断のならない伯爵を、まるで狼《おおかみ》が羊をねらうような目つきで睨《にら》んでいたが、わたしときたらもう、何事も、誰《だれ》の事も、てんで考えなかった。わたしは、ただぼんやりと空想にふけって、人目のない寂《さび》しい場所ばかり求めていた。とりわけ気に入ったのは、あの崩《くず》れ落ちた温室だった。わたしはよく、そこの高い塀《へい》へよじ登って、腰《こし》を下ろし、いつまでもじっと坐《すわ》っていた。その自分の姿が、いかにも不幸で孤独《こどく》で侘《わび》しげな一個の若者といった格好《かっこう》なので、しまいには、我と我が身がいじらしくなってくるのだった。そして、そうした悲哀《ひあい》に満ちた感覚が、なんとも言えず嬉《うれ》しかったのだ。わたしはそれに夢中《むちゅう》になっていたのだ! ……
さて、ある日、わたしは塀の上に坐って、遥《はる》かかなたに眺《なが》め入りながら、鐘《かね》の響《ひび》きに耳をすましていたが……その時不意に、何ものか、わたしの身をかすめて過ぎたものがあった。そよ風かと思えば、そよ風でもない。さりとて、身震《みぶる》いでもなく、いわばそれは何かの息吹《いぶ》きか、それとも誰かが近づいてくる気配とでも言うか、そんな感じであった。……わたしは視線を落した。すぐ下の道を、軽《かろ》やかな灰色がかった服を着て、バラ色のパラソルを肩《かた》にして、急ぎ足でジナイーダが歩いていた。彼女はわたしに気がつくと、立ち止って、麦藁帽子《むぎわらぼうし》の縁を押し上げ、ビロウドのような眼でわたしを見上げた。
「そんな高いところで、何をしてるの?」彼女はなんだか異様な微笑《びしょう》を浮べて訊《き》いた。「そうそう」と、すぐまた言葉を続けて、「あなたはいつも、わたしを愛しているとおっしゃるわね。――そんならここまで、この道まで、飛び下りてごらんなさい。もし、本当にわたしを愛しているのなら」
ジナイーダが、終りまで言い切らぬうちに、わたしは後ろから誰かに小突《こづ》かれでもしたように、早くも下へ身をおどらしていた。塀の高さは三、四メートルほどあった。わたしは両足が地面に届いた拍子《ひょうし》に、はずみがあんまり強すぎたので、体を支えきれなかった。わたしはどさりと倒《たお》れて、一瞬間、気が遠くなった。やがて我に返ったわたしは、眼をあけないのに、すぐそばにジナイーダのいることがわかった。
「可愛《かわい》いわたしの坊《ぼう》や」と彼女は、わたしの上にかがみ込みながら言っていた。その声には千々に乱れた情愛の響きがあった。――「どうしてあんたは、こんなことができたの、どうしてわたしの言うことなんか、きく気になったの。……わたしだって、こんなに愛してるのに。……さ、お起き」
彼女の胸は、わたしの胸のすぐそばで息づき、その両手は、わたしの頭を撫《な》でていた。すると、突然《とつぜん》――その時なんということが、わたしの身に起ったのだろう! 彼女の柔《やわ》らかなすがすがしい唇《くちびる》が、わたしの顔じゅうを、キスでおおい始めたのだ。……やがては、わたしの唇にも触《ふ》れたのだ。……だが、そこでジナイーダは、わたしの顔の表情からして、相変らず眼を上げずにはいるものの、もうわたしが意識を取戻《とりもど》したことを察したものと見えて、素早《すばや》く身を起すと、こう言い放った。――
「さ、起きるのよ、向う見ずなお茶目さん。こんな埃《ほこり》の中に、いつまで寝《ね》ているつもり?」
わたしは起き上がった。
「パラソルを取ってちょうだい」と、ジナイーダは言って、――「まあわたし、あんな所へ放《ほう》り出してしまったわ。だめ、そんなにわたしの顔を見ちゃ。……なんてお馬鹿《ばか》さんなの、あなたは? どこか怪我《けが》しなかったこと? イラクサに刺《さ》されて、ちくちくしやしなくって? そう言っているのよ、わたしの顔を見ちゃいけないって。……まあ、この人ったら、なんにもわからないんだわ、返事ひとつしやしない」と彼女は、ひとり言のように言い添《そ》えた。――「早くうちへお帰りなさい。ヴォルデマールさん。そして、奇麗《きれい》にしなさい。わたしのあとから、のこのこついて来たりしたら、承知しないわよ。そんなことをしたら、もう二度と再び……」
彼女は、終りまで言いきらずに、さっさと向うへ行ってしまい、わたしは道に坐りこんだ。……足がいうことをきかないのだ。イラクサに刺された手がひりついて、背中はずきずきするし、頭はくらくらしていた。でも、その時わたしが味わったような至福の感じは、わたしの生涯《しょうがい》にもはや二度と再び繰返《くりかえ》されなかった。それは甘美《かんび》な苦痛をなして、わたしの五体に宿っていたが、やがて法悦《ほうえつ》はついに堰《せき》を切って、わたしは躍《おど》り上がったり、わめき立てたりした。全く、わたしはまだほんの赤ん坊だったのだ。
十三
その日は一日《いちんち》じゅう、わたしは堪《たま》らないほど浮《う》き浮《う》きと誇《ほこ》らかな気持だった。のみならず、ジナイーダのキスの感触《かんしょく》も、顔一面にありありと残っていたので、わたしは興奮に身震《みぶる》いしながら彼女の言葉を一つ一つ思い浮べたり、自分の思いがけない幸福を、胸の底で愛《め》でいつくしんだりしていた。それで、現にそうした新しい感覚の源をなした当の彼女《かのじょ》に会うのが、むしろ怖《おそ》ろしくなって、できることなら会いたくない、と思ったほどであった。もうこの上、何ひとつ運命から求めてはいけない、今こそ『思いっきり、心ゆくまで最後の息をついて、そのまま死んでしまえばいいのだ』と、そんな気持がした。
そのむくいは、てきめんで、あくる日わたしは傍屋《はなれ》へ出かける道々、ひどい当惑《とうわく》を感じた。それは、自分こそ秘密を守れますぞと、他人に見せつけたがっている人間に通有の、控《ひか》え目《め》な磊落《らいらく》の仮面などでは、とても匿《かく》しおおせるものではなかった。ジナイーダはいささかの心の乱れも見せず、すこぶる無造作にわたしを迎えたが、ただ指を一本立てて脅《おど》かす真似《まね》をして、どこか青あざはできなかったかと訊《き》いた。わたしの折角の控え目な磊落さも、ものものしい態度も、その瞬間《しゅんかん》に消しとんでしまったばかりか、それと一緒《いっしょ》に、うじうじした当惑の感じもなくなった。勿論《もちろん》わたしは、何も特別なことを期待していたわけではないが、とにかくジナイーダの落着きはらった態度にぶつかって、まるで頭から冷水を浴びせかけられたような体《てい》たらくだった。自分は、この人の目から見ればほんの赤《あか》ん坊《ぼう》なのだ――と、わたしはしみじみ思い知って、ひどく辛《つら》い気持がしてきたのだ! ジナイーダは部屋のなかを行ったり来たりしていたが、わたしの顔を見るたびごとに、素早《すばや》い微笑《びしょう》を浮べてみせた。とはいえ、彼女の思いがどこか遠くにあることは、わたしにはありありと見て取られた。……
『いっそ、自分の方から、昨日の話を持ち出してみようか』と、わたしは考えた。――『あんなに急いで、いったいどこへ行ったのか、それを訊いて、すっかり泥《どろ》を吐《は》かせてしまおうか。……』とは思ったものの、わたしはただ片手を振《ふ》っただけで、隅《すみ》の方に腰《こし》を下ろした。
ベロヴゾーロフが入って来た。彼が来たので、わたしは嬉《うれ》しかった。
「実は、あなたの御用《ごよう》に立つようなおとなしい馬が、まだ見つかりませんでね」と彼《かれ》は、つっけんどんな声で言った。――「フライタークのやつが、きっと一頭だけ受けあったと言うのですが、どうも信用できません。危ないものですよ」
「なぜ危ないなんて、お思いになるの」と、ジナイーダは訊いた。――「伺《うかが》いたいもんだわ」
「なぜですって? だってあなたは、馬の心得がないじゃないですか。ひょっとして、どんなことがもちあがるか、わかりませんからねえ! だがそれにしても、急に馬に乗ろうなんて、えらい気まぐれを起されたものですねえ」
「ふふ、それはわたしの勝手よ、親愛なる猛獣《もうじゅう》さん。そんなわけでしたら、わたし、ピョートル・ヴァシーリエヴィチにお願いするわ。……」(わたしの父は、ピョートル・ヴァシーリエヴィチという名だった。わたしは、彼女が父の名をさも気軽に、楽々と口にするのにびっくりした。まるで父ならば、いつでも彼女の御用命に応ずるように、響《ひび》いたからである)
「おやおや」と、ベロヴゾーロフがやり返した。――「あなたは、あの人と一緒に遠乗りなさるおつもりでしたか」
「あの人とだろうと、ほかの人とだろうと、あなたの知ったことじゃなくてよ。ただ、あなたとではないことは、はっきりしているわ」
「僕《ぼく》とではない」と、ベロヴゾーロフは鸚鵡返《おうむがえ》しに――「どうぞ御随意《ごずいい》に。まあいいです。とにかく馬は、手に入れて差上げますよ」
「でも、よくって、牛みたいなのろくさしたのだったら、願い下げよ。よく申上げときますけど、わたしはギャロップで飛ばしたいのよ」
「ギャロップも結構でしょう。……でもそれは、マレーフスキイとですか? え、誰《だれ》となんですか?」
「おや、あの人とじゃいけなくって、軍人さん? まあ安心してちょうだい」と、彼女は言い添《そ》えた。――「あんまり目に角《かど》を立てないでね。あなたとも一緒に行くつもりよ。あなただって知ってるでしょう、――マレーフスキイなんて、今じゃわたしにゃ、ぴ、ぴーだわ!」そう言って、彼女はかぶりを振った。
「そんなことをおっしゃるのは、僕の気休めのためですね」と、ベロヴゾーロフはふてくさった。
ジナイーダは眼《め》を細めた。
「そんなことが気休めになるの? おやまあ、あきれた軍人さんだこと!」と、彼女はやがての果てに、ほかの言葉が見当らないような調子で、そう言った。――「で、ヴォルデマールさん、あなた、わたしたちと一緒にいらっしゃる?」
「僕は苦手なんです……大勢《おおぜい》の人前へ出るのは……」とわたしは、眼を上げずにつぶやいた。
「あなたは、|差向い《テータ・テート》の方がいいのね……いいわ。自由な者には自由を、救われた者には……天国を与えよだわ」と彼女は、ほっと溜息《ためいき》をついて言った。――「よくって、ベロヴゾーロフさん、一肌脱《ひとはだぬ》いでちょうだいね。わたし馬は、明日要《い》るんですから」
「でもね、お金はどこから入るの?」と、公爵夫人《こうしゃくふじん》が、口を入れた。
ジナイーダは眉《まゆ》をしかめた。
「お母様に出して頂こうとは言やしないわ。ベロヴゾーロフさんが一時立《た》て替《か》えて下さるわよ」
「立て替えて下さる、立て替えて……」と、公爵夫人はぼそぼそ言ったが、突然《とつぜん》、声を限りにわめき立てた。――「ドゥニャーシカや!」
「ママ、呼鈴《よびりん》があげてあるじゃないの」と、令嬢《れいじょう》が注意した。
「ドゥニャーシカや!」と、老夫人はまたどなった。
ベロヴゾーロフは別れを告げた。わたしも一緒に帰った。ジナイーダは、わたしを引留めなかった。
十四
あくる朝、わたしは早く起きて、庭の木で杖《つえ》を一本作ると、城門の外へ出て行った。ちょっと散歩をして、うさ晴らしをしてやれ、と思ったのである。からりと晴れた日で、日ざしは明るかったが、暑いほどではなかった。快いさわやかな風が、地上をさまよって、あらゆるものをそよがせながら、しかもざわつかせるほどではなく、適度にさやさやと戯《たわむ》れていた。わたしは長いこと、山や森を歩き回った。わたしは自分を、幸福だと思っていたわけではない。現に家を出た時も、思うさま憂愁《ゆうしゅう》にひたりに行くつもりだったのである。――ところがやがて、青春や、ほがらかな天気や、さわやかな空気や、さっさと歩く快さや、茂《しげ》った草の上にひとり身を横たえる酔《よ》い心地《ごこち》や――そうしたものの方が勝ちを占めてしまった。あの忘れられぬ言葉のふしぶしや、あのキスの雨の思い出が、またもやわたしの胸にこみあげて来た。とにかくジナイーダは、わたしの思い切った勇敢《ゆうかん》な振舞《ふるま》いを正当に認めずにはいられないのだ――と、そう思うと愉快《ゆかい》だった。……
『あの人の目には、ほかのやつらの方が、立派に見えるのだ』と、わたしは考えた。――『なあに、かまうもんか! その代り、やつらはただ、やりますと言うだけだが、僕《ぼく》は、見事やってのけたんだからな! それにあの人のためなら、まだまだどえらいことをやって見せられるんだからな』
いろんな空想が、働き始めた。わたしは、自分が彼女《かのじょ》を敵の手中から救い出す有様《ありさま》や、血まみれになった自分が彼女を牢屋《ろうや》から奪《うば》い出す光景や、そしてとうとう彼女の足もとで死ぬ場面を、次々に心に描《えが》き出した。わたしは、うちの客間にかかっている絵を思い出した。それは、マレク・アデルがマティルダを奪い去るところだったが、――ちょうどその途端《とたん》に、まだらな大きなキツツキが現われて、ほっそりした白樺《しらかば》の幹をせかせかと登り始めたので、すっかりそのほうに気を取られてしまった。キツツキが幹の陰《かげ》から、心配そうな顔を右に左にのぞかせる格好《かっこう》は、コントラバスの首の陰から楽師が首をのぞかせる様子にそっくりだった。
それからわたしは、『白き雪にはあらねども』を歌い出したが、それがやがて、その頃《ころ》はやっていた『そよ風ふけば、われ君を待つ』という歌謡《かよう》にかわり、しばらくするとわたしは大声で、ホミャコーフの悲劇のなかの、星に呼びかけるエルマークの言葉を朗読し出した。そうかと思うとまた、多情多感な一編の詩を作ろうと野心を起して、全編の結句になるべき一行をさえ思いついた。それは、『おお、ジナイーダ! ジナイーダ!』という句だったが、結局ものにならなかった。
そうこうするうちに、そろそろ昼飯の時刻になった。わたしは谷間へ下りて行った。細い砂の小道が、谷間をうねって、町へみちびいていた。わたしは、その小道を歩き出した。……ふと、何匹《なんびき》か馬の蹄《ひづめ》の音が、後ろから鈍《にぶ》く響《ひび》いてきた。わたしは振返ると、思わず立ち止って、ひさしのついた帽子《ぼうし》をぬいだ。父とジナイーダの姿を、みとめたからである。二人は並《なら》んで馬を歩ませていた。父は何やらしきりに彼女に話しかけながら、胴体《どうたい》をすっかり彼女の方へ傾《かたむ》け、片手を馬の首についていた。父は微笑《びしょう》を浮《うか》べていた。ジナイーダは、きっと眼《め》を伏《ふ》せ、唇《くちびる》を噛《か》みしめて、黙《だま》って父の言葉に耳を傾けていた。わたしがまず目にしたのは、この二人だけだったが、やがてすぐその後を追って、谷の曲り角から、ベロヴゾーロフの姿がぬっと現われた。外套《がいとう》のついた軽騎兵《けいきへい》の軍服を着て、泡《あわ》をふいた黒馬に乗っている。駿馬《しゅんめ》は首を振り振り、鼻息を立てて、躍《おど》りはねている。乗り手は、手綱《たづな》を引いたり、拍車《はくしゃ》を当てたり、大騒《おおさわ》ぎだ。わたしは、わきへよけた。父は手綱を引いて、ジナイーダから身を離《はな》し、彼女は静かに父を見上げた。――そのまま二人は、駆《か》け去ってしまった。……ベロヴゾーロフは、サーベルをがちゃつかせて、まっしぐらにそのあとを追った。
『あいつ、蝦《えび》みたいに赤くなってる』と、わたしは心に思った。――『それにひきかえ、なぜ彼女はあんなに青いんだろう? 朝いっぱい馬を乗りまわしたくせに――青い顔をしているとは?』
わたしは歩みを二倍ほども早めて、やっと昼飯のまにあった。父はもう服を改め、顔を洗ったあとのさっぱりした気色《きしょく》で、母の肘掛《ひじかけ》椅子《いす》のそばに腰《こし》を下ろして、持ち前のなだらかな響きのいい声で、『討論新聞《ジュルナル・デ・デパ》』の雑録欄《ざつろくらん》を読んでやっていた。母の方は、あまり身を入れずに聞いていて、わたしの姿を見ると、一日《いちんち》どこへ雲隠《くもがく》れしていたのかと尋《たず》ねた。かてて加えて、どこの馬の骨だか知れないような相手と、わけのわからない場所をうろつくのは、だい嫌《きら》いだよと言い足した。でも僕は、一人で散歩していたのですよ――と、わたしは答えようとしたが、ふと父の顔をうかがうと、なぜか黙ってしまった。
十五
それから五、六日というもの、わたしはほとんどジナイーダに会わなかった。彼女《かのじょ》は、体のぐあいが悪いと言っていたが、それでも傍屋《はなれ》の常連が入れ代り立ち代り、彼《かれ》らのいわゆる『当直』にやってくるのは、一向さしつかえなかった。ただ一人例外はマイダーノフで、彼は感激《かんげき》する機会がなくなると、たちまち気落ちがして、悄気返《しょげかえ》ってしまった。ベロヴゾーロフは、軍服のボタンをきちんとかけて、真っ赤な顔をして、不機嫌《ふきげん》に隅《すみ》の方に坐《すわ》っていた。マレーフスキイ伯爵《はくしゃく》の華奢《きゃしゃ》な顔には、なんだか不気味な微笑《びしょう》が、絶えず漂《ただよ》っていた。彼は今や、まさしくジナイーダの寵愛《ちょうあい》を失ったので、老夫人に取入ろうと格別の勉励《べんれい》ぶりを示し、貸馬車で夫人のお伴《とも》をして、総督《そうとく》の所へ出かけさえした。もっとも、この遠征《えんせい》は失敗に終ったのみならず、マレーフスキイは厭《いや》な目にまであわされた。総督は逆手《さかて》をとって、彼がいつぞや土木局の連中を相手にもちあげたさる醜聞《しゅうぶん》を、わざわざ言い出したので、彼は弁明これ努めて、何分《なにぶん》にもあの頃《ころ》はまだ未経験だったので――と、かぶとを脱《ぬ》がざるを得なかった。
ルーシンは、日に二度ぐらいやって来たけれど、長居はしなかった。わたしは、この間の言い合い以来、この男がいささか煙《けむ》たくなったと同時に、しん底から彼に惹《ひ》きつけられるような気持もしていた。彼はある日、わたしと一緒《いっしょ》にネスクーチヌィ公園へ散歩に出かけたが、その時はひどく親切で愛想がよく、いろんな草や花の名前や特性を教えてくれたりしていたが、やがて突然《とつぜん》、それこそ藪《やぶ》から棒に――額をぴしゃりと叩《たた》いて、こう叫《さけ》んだ。
「ああ、俺《おれ》は馬鹿《ばか》だよ。あの人のことを、ただのコケットだと思ってたのだからなあ? どうやらこの世の中には、自分を犠牲《ぎせい》にすることが楽しいような連中も、あるものと見えるなあ」
「それは、なんのことですか」と、わたしは訊《き》き返した。
「いや、君には何も話したくないですよ」と、吐《は》き出すようにルーシンは答えた。
ジナイーダは、わたしを避《さ》けていた。わたしの顔が見えると――これはわたし自身、いやでも気づかざるを得なかったのだが――彼女は厭な気持がするらしかった。彼女は無意識に、わたしから顔をそむけた……無意識にである。それがわたしには実に辛《つら》く、身を切られるような思いだった! しかし、どうにも仕方がないので、わたしはなるべく彼女の目に触《ふ》れないようにして、ただ遠くから彼女を見張っていることにしたが、これまた、いつもうまくゆくとは限らなかった。彼女には相も変らず、何やら不可解なことが起りつつあった。すっかり面変《おもがわ》りがして、何から何まで、まるで別人のようになってしまった。
なかでも、彼女に生じた変化が格別わたしの胸を打ったのは、ある暖かい、静かな日暮れのことであった。わたしは、枝《えだ》をひろげた一叢《ひとむら》のニワトコの陰《かげ》の、低いベンチに腰掛《こしか》けていた。わたしは、この場所が好きだった。ジナイーダの部屋の窓が、そこから見えたからである。わたしが坐《すわ》っていると、頭の上の、すっかり暗くなった茂《しげ》みの中で、小鳥が一羽《いちわ》しきりにかさこそいわせていた。灰色の小猫《こねこ》が、背中をまっすぐ伸《の》ばして、そっと庭へ忍《しの》び込《こ》んだ。すでに明るくはないけれど、まだ透《す》いて見える空気のなかを、先陣《せんじん》のカブト虫たちが、重々しい唸《うな》りを立てて飛んでいた。わたしは坐ったまま窓を眺《なが》め、いつか開きはしまいかと待ち受けていた。果して、窓は開いて、ジナイーダが姿を見せた。白い服を着ていたが、彼女自身も、顔から肩《かた》、そして両手まで、真っ白なほど青ざめていた。彼女は長いこと、身じろぎもせずに、ひそめた眉《まゆ》の下から、じっとまっすぐ前を、いつまでも見つめていた。そんな目つきをする彼女を、わたしはついぞ見たこともなかった。やがて彼女は、両手をかたくかたく握《にぎ》りしめ、それをまず唇《くちびる》へ、それから額へ持っていったが――そこで、突然ぱっと指をひろげると、両の耳から髪《かみ》の毛を払《はら》いのけ、さっと一振《ひとふ》り髪を振上げたかと思うと、何か決心がついたといったふうに、頭を上から下へ大きくうなずかせ、ぱたんと窓を閉めた。
三日ほどしてから、わたしは庭で彼女に出会った。わたしがわきへ避けようとすると、彼女の方で引止めた。
「手を貸してちょうだい」と、彼女は、以前の情愛のこもった調子で言った。――「わたしたち、長いことおしゃべりをしなかったことね」
わたしは彼女の顔をうかがった。その眼は静かに光って、顔は、まるで靄《もや》をとおして見るように、ほほ笑《え》んでいた。
「まだずっと、お加減が悪いのですか」と、わたしは尋《たず》ねた。
「いいえ、もうすっかりいいの」と彼女は答えて、小さな紅《あか》いバラを一輪摘《つ》み取った。――「すこし疲《つか》れているけれど、これもじきに直るわ」
「で、また元通りのあなたになって下さるんですね?」と、わたしは訊いた。
ジナイーダは、バラを顔へ近づけた。すると、あざやかな花びらの照返しが、彼女の頬《ほお》を染《そ》めたように思われた。
「ほんとに、わたし変ったかしら?」と、彼女は訊き返した。
「ええ、変りました」と、わたしは小声で答えた。
「わたし、あなたに冷たくしたわ――それは自分でもわかっているの」と、ジナイーダは言い始めた。――「けれど、あなたがそれを気にすることなんか、なかったのよ。……わたし、外に仕方がなかったんだもの。……でも、こんな話をしても始まらないわ!」
「あなたは、僕《ぼく》があなたを愛するのが厭なんです――それなんです!」と、わたしは思わずカッとなって、陰気《いんき》な調子で叫んだ。
「いいえ、愛してちょうだい。けれど、前のようにではなしにね」
「というと?」
「お友達になりましょうね――それがいいのよ!」ジナイーダは、わたしにバラの花を嗅《か》がせて、――「ね、よくって、わたしあなたよりずっと年上なんだから――叔母《おば》さんにだってなれるはずよ、ほんとに。また、叔母さんでないまでも、姉さんになら立派になれるわ。そこであなたは……」
「僕は、どうせ赤《あか》ん坊《ぼう》ですよ」と、わたしは遮《さえぎ》った。
「ええ、そう、赤ちゃんね。けれど、可愛《かわい》らしい、おとなしい、利口な子だから、わたし大好きなのよ。ああ、そうそう、こうしたらいいわ。わたし、今日からあなたを、わたしのお小姓《こしょう》に取立ててあげるわ。そこで、お小姓というものは、御主人《ごしゅじん》のそばを離《はな》れてはいけないということを、忘れてはいけませんよ。さ、これが、あなたの新しい位のしるし」と、彼女は言い足して、わたしの短い上着のボタンに、バラの花を挿《さ》してくれた。――「わたしの御寵愛のしるしよ」
「僕は前には、もっと別の寵愛を受けていましたよ」と、わたしは口をとがらした。
「まあ!」と、ジナイーダは言って、横合いからわたしの顔をちらりと見た。――「この人の覚えのいいこと! いいわ、今だってかまやしないわ。……」
そう言って、わたしの方へ身をかがめると、わたしの額に、清らかな静かなキスを、一つしてくれた。
わたしはそういう彼女の顔を、ほんのちらりと見上げただけだが、彼女はくるりとそっぽを向いて、「あとからついて来るのよ、お小姓さん」と言い捨てると、さっさと傍屋《はなれ》の方へ歩き出した。
わたしは、続いて歩き出したが、心の中で絶えず疑いまどっていた。『いったい』と、わたしは考えるのだった、――『このしとやかな、思慮《しりょ》ぶかい娘《むすめ》が、これまでわたしの知っていたあのジナイーダなのかしら?』思いなしか、彼女の歩きつきまでが、前よりも静かになったような気がした。その姿もおしなべて、一層立派になって、すらりとしてきたような気がした。……
そして、我ながらいじらしいことだが、わたしの胸の恋情《れんじょう》は、なんという新しい力をもって、燃え立ったことだろう!
十六
夕食のあとで、また常連が傍屋《はなれ》に集まって、令嬢《れいじょう》もその席へ出てきた。わたしにとって終生わすれがたいあの最初の晩のように、そこには全員が、一人も欠けずにそろっていた。ニルマーツキイまでが、のこのこやって来ていた。マイダーノフは、その晩イの一番にやって来たが、つまり新作の詩を持参に及《およ》んだわけだった。またもや罰金《ばっきん》ごっこが始まったけれど、もう以前のような突飛《とっぴ》な振舞《ふるま》いも、悪ふざけも、馬鹿騒《ばかさわ》ぎもなくて、――ジプシーめいた要素は消えうせていた。
ジナイーダが、わたしたちの一座を、新しい気分のものに切り替《か》えたのだ。わたしは小姓《こしょう》の役目がら、彼女《かのじょ》のそばに席を占《し》めた。そうこうするうちに、やがて彼女は罰金に当った人が自分のみた夢《ゆめ》の話をすることを提案したけれど、これはうまくゆかなかった。さっぱり面白《おもしろ》くもない夢だったり(たとえばベロヴゾーロフは、愛馬にフナを食わせたが、その馬の首が木になっていた――という夢を見た)、あるいは不自然な、わざとでっちあげた夢だったりした。マイダーノフは、一編の小説をもって、我々をもてなした。そこには、アーチ形の古めかしい墓穴《ぼけつ》が出てきたり、竪琴《たてごと》を抱《だ》いた天使が現われたり、物を言う花だの、はるかに漂《ただよ》ってくる楽《がく》の音《ね》だの、たいした道具だてだった。ジナイーダは、終りまで話させなかった。
「一旦《いったん》もう、作り話になったからには」と、彼女は言った。――「こんどはみんな、何か話をすることにしましょう。自分で考えた話でなくちゃ駄目《だめ》よ」
さて、まず第一に話をする番にあたったのは、またもベロヴゾーロフだった。
若い軽騎兵《けいきへい》は閉口して、
「僕《ぼく》は、話なんか考え出せませんよ!」と、わめいた。
「また、そんなつまらないことを!」と、ジナイーダは引取って、――「じゃ、たとえば、あなたがお嫁《よめ》さんをもらったと考えてみるのよ。そこであなたが、お嫁さんと一緒《いっしょ》にどんな風に暮《くら》すか、それを話してみるといいわ。あなたなら、お嫁さんを閉じ込《こ》めてしまうでしょうね?」
「閉じ込めるです」
「で、ご自分も一緒にいるんでしょうね?」
「自分も、必ず一緒にいます」
「結構だわ。でももし、お嫁さんがそれに飽《あ》きて、あなたを裏切るようなことをしたら?」
「殺してしまうです」
「でも、お嫁さんが逃《に》げだしたら?」
「追っかけて捕《つか》まえて、やはり殺してしまうです」
「そう。でもね、かりにこのわたしが、あなたのお嫁さんだったとしたら、どうなすって?」ベロヴゾーロフは、ちょっと絶句してから、
「そしたら、僕は自殺します……」
ジナイーダは笑い出した。
「どうもあなたの歌は、ぽつんと切れてしまうわねえ」
二番目の罰金は、ジナイーダに当った。彼女は、眼《め》を天井《てんじょう》へ上げて考え込んだ。
「じゃ、いいこと」と、彼女はやがて話し出した。――「私の考え出した話なのよ。……まず、立派な御殿《ごてん》を想像してちょうだい。夏の夜で、すばらしい舞踏会《ぶとうかい》があるの。その舞踏会は、若い女王のお催《もよお》しなのよ。どこもかしこも、金《きん》や、大理石や、水晶《すいしょう》や、絹や、灯火《ともしび》や、ダイヤモンドや、花や、お香《こう》や、あらんかぎりの贅沢《ぜいたく》なもので、いっぱいなの」
「あなたは、贅沢がお好きですか?」と、ルーシンが遮《さえぎ》った。
「贅沢って、奇麗《きれい》ですものね」と、彼女は答えた。――「わたしなんでも奇麗なのが好き」
「立派なものよりもですか」と、彼が訊《き》いた。
「なんだか、ひねくった言いようね。よくわからないわ。まあ、邪魔《じゃま》しないでちょうだい。とにかく、すばらしい舞踏会なの。お客も大勢《おおぜい》いて、それがみんな若くて、立派で、勇敢《ゆうかん》で、みんな夢中《むちゅう》で女王様に恋《こい》しているの」
「客の中に、女性はいないのですか?」と、マレーフスキイが訊いた。
「いないの。でも、ちょっと待って――やっぱり、いるわ」
「みんな不器量なんですね?」
「すばらしい美人ぞろい。でもね、男はみんな、女王に恋してるの。女王は背が高くて、すらりといい姿で、真っ黒な髪《かみ》のうえに、小さな金《きん》の王冠《おうかん》を載《の》せているの」
わたしは、ジナイーダをちらと見た。と、その瞬間《しゅんかん》、彼女は我々みんなよりも、ずっと高貴な存在に思われ、その白い額からも、じっと動かない眉《まゆ》からも、なんとも言えない明るい知恵《ちえ》や威力《いりょく》が、匂《にお》ってくるような気がして、わたしは思わず、『あなたこそ、その女王だ!』と、心に叫《さけ》んだほどだった。
「みんな、女王様のまわりに、ひしめき合ってね」と、ジナイーダは話を続けた。――「あらん限りのお追従《ついしょう》を奉《たてまつ》るの」
「ほう。女王様は、お追従が好きなんですね?」と、ルーシンが聞きとがめた。
「やりきれないわね、この人は! まぜっ返してばかりいて。……お追従の嫌《きら》いな人が、どこの世界にあって?」
「もう一つだけ、最後に伺《うかが》いたいですが」と、マレーフスキイが口を出した。――「その女王には、夫があるのですか」
「わたし、そんなこと考えもしなかったわ。いいえ、夫なんて要《い》るもんですか」
「そうですとも」と、マレーフスキイは相槌《あいづち》を打った。――「夫なんて、要るものですか」
「|静かに《シランス》!」とフランス語のからっ下手《ぺた》なマイダーノフが、フランス語で叫んだ。
「|ありがとう《メルシ》」と、ジナイーダは彼《かれ》に酬《むく》いて、――「さて女王は、そんなお追従に耳をかしたり、音楽を聴《き》いたりしているけれど、その実お客の誰《だれ》一人にだって、目もくれないの。六つの大窓が、上から下まで、天井から床《ゆか》まで、すっかりあけ放たれて、その外には、大きな星くずをちりばめた暗い夜空や、大きな木々の茂《しげ》った暗い庭があります。女王は、その庭に見入っているの。そこには、木立《こだち》のそばに噴水《ふんすい》があって、闇《やみ》の中でも白々《しらじら》と、長く長く、まるで幻《まぼろし》のように見えています。女王の耳には、人声や音楽の合間々々に、静かな水音が聞えるのです。女王は、闇に見入りながら、こんなことを考えるの――皆《みな》さん、あなた方はみんな、貴《とうと》い生れで、賢《かしこ》くて、お金持です。あなた方は、わたしを取巻いて、わたしの一言一句を重んじて、わたしの足もとで死ぬ覚悟《かくご》でいらっしゃる。つまりわたしは、あなた方の生死を、わたしの手に握《にぎ》っているわけです。……ところが、あの噴水のそばには、あのさわさわと鳴る水のそばには、わたしの愛する人、わたしの生死をその手に握っている人が、たたずんで、わたしを待っているのよ。その人は、おごった衣裳《いしょう》も着ていないし、宝石もつけてはいず、誰もその名を知る人はありません。けれど、その人はわたしを待ち受けているし、また、わたしがきっと行くものと信じきっています。――ええ、わたしは行きますとも。一旦わたしが、その人のところへ行って、一緒になろうと思ったら最後、わたしを引留めるほどの力は、この世のどこにもありはしない。そこでわたしは、あの人と一緒に、あの庭の暗がりへ、木立のそよぐもとへ、噴水のさわさわ鳴る陰《かげ》へ、姿を消してしまうの……とね」
ジナイーダは口をつぐんだ。
「それは作り話ですか」と、マレーフスキイが鎌《かま》をかけた。
ジナイーダは、見向きもしなかった。
「だが諸君、いったいどんなものでしょうな」と、出《だ》し抜《ぬ》けにルーシンが言い出した。――
「かりにもし、我々もそのお客さんの中にいて、しかもその噴水のほとりの仕合せ者のことを知っているとしたら、我々は果して、どうするだろうか」
「待って、ちょっと待って」と、ジナイーダが遮った。――「あなた方が一人々々どうなさるか、わたし自分で言ってみるわ。あなたはね、ベロヴゾーロフさん、その人に決闘《けっとう》を申込むわね。マイダーノフさん、あなたは、その人に当てつけた諷刺詩《ふうしし》を書くわ。……でも、そうじゃないわ――あなたは諷刺詩が書けないから、バルビエ風の短長格の長詩でも作って、その力作を『テレグラフ』誌に発表なさるわ。それから、ニルマーツキイさん、あなたはその人から、お金を借り出すわ……じゃない、あべこべにお金を貸して、利息を取るわね。ところで、あなたは、ドクトル……」彼女は言いよどんだ。「そうねえ、あなたのことはわからないわ、どうなさるか」
「僕は侍医《じい》の役目として」と、ルーシンは答えた。――「その女王を諫《いさ》めますな。お客どころでない非常時に、舞踏会なんか催さないようにね。……」
「なるほど、おっしゃるとおりかもしれないわね。ところで伯爵《はくしゃく》、あなたは?……」
「わたしは?」と、例の不気味な微笑《びしょう》を浮べて、マレーフスキイが鸚鵡返《おうむがえ》しに言った。
「あなたなら、毒の入ったお菓子を、その人にすすめるわね」
マレーフスキイの顔は、かすかに引きつって、一瞬間ユダヤ人のような表情を帯びたが、すぐ高笑いにまぎらしてしまった。
「さてそこで、ヴォルデマールさん、あなたはどうするかと言うと……」と、ジナイーダは続けたが、――「でも、もうたくさんだわ。何かほかのことをして遊びましょう」
「ヴォルデマール君は、お小姓の資格で、女王様が庭へ駆《か》け出す時、その裳裾《もすそ》を捧持《ほうじ》するでしょうな」と、毒々しい口調でマレーフスキイが一矢《いっし》をむくいた。
わたしはカッとなった。しかしジナイーダは、素早《すばや》くわたしの肩《かた》に手を置くと、半ば身を起しながら、やや顫《ふる》えを帯びた声で、こう言い放った。
「わたし、無礼な口をきく権利なんか、差上げた覚えはございません、伯爵。ですから、このまま御《ご》退席《たいせき》を願います」そう言って、ドアをさして見せた。
「とんだことです。お嬢《じょう》さん」と、マレーフスキイはつぶやいて、真っ青になってしまった。
「令嬢の言われるとおりだ」と、ベロヴゾーロフはわめいて、やはり立ち上がった。
「わたしは、誓《ちか》って言いますが、こんなこととは思いもかけなかったのです」と、マレーフスキイが続けた。――「わたしの言葉には、別にこれといったことも、ないようですし……第一、お気を悪くさせようなどという考えは、毛頭なかったのです。……許して下さい」
ジナイーダは、冷たい一瞥《いちべつ》を彼に投げると、冷やかな薄笑《うすわら》いを漏《も》らした。
「じゃ、いいわ、いらしても」と彼女は、無造作に手を一振《ひとふ》りして言った。――「わたしもヴォルデマールさんも、つまらない向《むか》っ腹《ぱら》を立てたものだわ。あなたは、皮肉を言うのが楽しみなのね……たんとおっしゃるがいいわ」
「許して下さい」と、もう一遍《いっぺん》マレーフスキイは繰返《くりかえ》した。
一方わたしは、今しがたのジナイーダの手の振りようを思い浮《うか》べながら、本当の女王様でも、あれ以上の威厳《いげん》をもって、無礼者にドアをさして見せることはできまいと、改めてまた心に思った。
この小さな一幕のあったあとは、罰金ごっこも長続きしなかった。みんないささか気詰《きづま》りになってきたが、それは当のその一幕のためというより、もっと別の、あまりはっきりしないが何かしら重苦しい、ある感情のためであった。誰もそのことを口に出しこそしなかったけれど、みんなそれぞれ、自分の胸にも仲間の胸にも、そんな感情がわだかまっていることを意識していたのだ。やがて、マイダーノフが自作の詩を朗読すると、マレーフスキイは大げさな熱狂《ねっきょう》ぶりでもって褒《ほ》めそやした。
「こんどは先生、善良に見られたがってるんですな」と、ルーシンがわたしに耳打ちした。
わたしたちは、まもなく散会した。ジナイーダは急に物思いに沈《しず》んでしまうし、公爵夫人は頭痛がすると言いによこすし、ニルマーツキイはリューマチが痛むと言い出す――といった始末だったからである。
わたしは、長いこと寝《ね》つかれなかった。ジナイーダのした話で、激《はげ》しく心を打たれたのだ。
『ほんとにあの話には、何か暗示があるのだろうか?』と、わたしは自分に尋《たず》ねた。――『そしていったい誰を、そして何事を、彼女は仄《ほの》めかそうとしたのだろうか? それにしても、暗示すべき事がちゃんとあるとすれば……思い切って言い出すことが、できるものかしら? いやいや、そんなはずはない』
わたしは、火照《ほて》った頬《ほお》を代る代る枕《まくら》へ当て変えながら、そうささやいた。……とはいえわたしは、さっきあの話をした時のジナイーダの顔の表情を思い出し……それから、ネスクーチヌィ公園でルーシンが思わず発したあの叫び声や、彼女のわたしに対する態度が急に変ったことまでも思い出して――すっかり訳がわからなくなるのだった。「その男は誰か?」これだけの言葉が、闇のなかにくっきりと印されて、わたしの眼《め》の前に立っていた。まるでそれは、低い不吉な雲が頭上に垂《た》れこめたみたいな気持で、わたしはその重圧をひしひしと感じながら、それが爆発《ばくはつ》する時を、今か今かと待ち構えていた。近頃《ちかごろ》になってわたしは、いろんなことに慣れもしたし、ことにザセーキン家では、やっとこさいろんなことを見せつけられた。彼らのふしだらさや、あぶら蝋燭《ろうそく》の燃えさし、欠けたナイフやフォーク、陰気《いんき》くさいヴォニファーチイ、尾羽《おは》うち枯《か》らした小間使たち、当の公爵夫人の立居振舞い――そんな奇怪《きかい》千万な暮しぶりなんかには、もうビクともしなくなっていた。……だが、今ジナイーダの身に漠然《ばくぜん》と感じられる或《あ》ること、――それには何としても馴染《なじ》むことができなかった。……「男たらし」と、わたしの母はいつぞや彼女のことを罵《ののし》った。その「男たらし」である彼女が、わたしの偶像《ぐうぞう》であり、わたしの神とあがめる存在なのだ!その悪罵《あくば》が、わたしの胸を焼き焦《こ》がした。わたしはそれから逃《のが》れようと、枕に顔を埋《う》めた。わたしは無性《むしょう》に腹が立ったが、同時にまた、噴水のほとりのあの仕合せ者になれさえしたら、どんなことでも承知してみせるどんな犠牲《ぎせい》でも払《はら》ってみせる、と思った。……
体じゅうの血が燃えたぎった。『庭……噴水……』と、わたしは思った。……『よし、ひとつ庭へ出てみよう』わたしは手早く服を着けて、家から抜け出した。
闇の夜で、木々はかすかにそよいでいた。空からは、静かな冷気が下りてきて、野菜ばたけからは、茴香《ういきょう》の香《かお》りが漂ってきた。わたしは、何本かの並木道《なみきみち》をすっかり歩いてしまった。自分の軽い足音が、わたしを当惑《とうわく》させもすれば、励《はげ》ましてもくれた。わたしは時々立ち止って、何ものかを待ち受けながら、自分の心臓が早鐘《はやがね》のように高鳴るのに耳をすました。やがての果てに、わたしは垣根《かきね》のそばへ行って細い棒ぐいに倚《よ》りかかった。と不意に――あるいは、そら耳だったろうか――わたしからつい五、六歩のところを、さっと女の姿がひらめいて過ぎた。……わたしは、闇のなかへひたと眼をこらし、息をひそめた。これは何だろう? 聞えたのは、誰かの足音だったろうか、――それとも自分の心臓の高鳴りだったろうか? 「誰だ、そこにいるのは?」と、わたしは言ったが、舌がもつれて、ほとんど聞き取れない声だった。また何か物音がした。あれは何だろう? 押《お》し殺した笑い声か?……それとも、そよぐ木の葉か?……それとも、耳のすぐそばで漏《も》らされた溜息《ためいき》か? わたしは、こわくなった。……「誰だ、そこにいるのは?」と、わたしは声を低めて、また言った。
空気は、ほんの一瞬間、さっと流れた。空には、一筋、火のような筋がきらめいた。星が流れたのだ。
『ジナイーダ?』と、わたしは訊こうとしたが、音はわたしの唇《くちびる》で空《むな》しく消えた。そして突然《とつぜん》、あたりのものみな、深い沈黙《ちんもく》に沈んでしまった。真夜中にはよくあることである。……木陰のコオロギまでが鳴りをひそめて――ただどこかの窓が、かたりといっただけだった。わたしは、帰ろうとしては佇《たたず》み、帰ろうとしては佇みしていたが、やがて自分の部屋へ、自分の冷えはてた寝床《ねどこ》へ帰った。わたしは、異常な興奮を感じていた。さながら逢引《あいびき》に出かけて行って、結局ひとりぼっちで、他人の幸福のそばを指をくわえて通ったような。
十七
そのあくる日、わたしはジナイーダを、ほんのちらりと見ただけだった。彼女《かのじょ》は公爵夫人《こうしゃくふじん》と一緒《いっしょ》に辻馬車《つじばしゃ》に乗って、どこかへ出かけるところであった。そのかわりわたしは、ルーシンに会った。もっとも彼《かれ》は、ろくろくわたしに挨拶《あいさつ》もしなかったが。それからまた、マレーフスキイにも出会った。若い伯爵《はくしゃく》は、にやにや作り笑いをしながら、さも親しげに話しかけた。傍屋《はなれ》の常連の中で、どうしたわけかこの伯爵だけは、わたしの家にうまく取り入って、母のお気に入りだったのである。もっとも父は、この伯爵を毛嫌《けぎら》いして、無礼なほどの丁重さであしらっていた。
「おや、お小姓君《パージュ》」と、マレーフスキイは口を切った。――「お目にかかれて、じつに嬉《うれ》しいです。あなたの美しい女王様は、何をしておられますか」
彼のすがすがしい秀麗《しゅうれい》な顔が、その瞬間《しゅんかん》わたしには、虫酸《むしず》が走るほど厭《いや》だったし、おまけに彼が、人を馬鹿《ばか》にしたようなふざけた眼《め》つきで、じっとわたしを見ているので、こっちは返事もしてやらなかった。
「君はまだ、おこっているのですか」と、彼は続けた。――「つまらんことですよ。第一、君にお小姓《こしょう》という名をつけたのは、僕《ぼく》じゃないんだし、それにまたお小姓というものは、まずもって女王様の付き物ですからねえ。だがしかし、失礼ながら一言《いちごん》御注意《ごちゅうい》しますが、どうも君は職務|怠慢《たいまん》ですな」
「どうしてです?」
「お小姓というものは、女王様のそばを離《はな》れてはいけないのですよ。お小姓は、女王様の一挙一動をみんな知っているべきだし、いっそ女王様の見張りをさえ勤めるべきものなんですよ」そこで声を低めて、彼は言い添《そ》えた、――「昼も、夜もね」
「それは、どういう意味です?」
「どういう意味? 僕は、はっきり言っているはずですがね。昼も――夜も、ですよ。昼間はまあ、なんとかなるでしょう。日の目はあるし、人目もありますからね。ところが夜というやつは、とかく災《わざわ》いの起りがちなものでね。まあ悪いことは言わないから、夜ぐうぐう寝《ね》てないで、一生けんめい大きな眼をあけて、見張りをするんですね。ほら、覚えているでしょう――庭、夜なか、噴水《ふんすい》のほとり――そういう場所で待ち伏《ぶ》せるんですな。いまに君は、僕にありがとうを言うでしょうよ」
マレーフスキイは高笑いをして、くるりとわたしに背を向けた。彼はおそらく、自分の言ったことを、特に重大とも思っていなかったろう。何しろ彼は、人をかつぐ名人として通っていたし、仮装舞踏会《かそうぶとうかい》などで、まんまといっぱいくわせる妙技《みょうぎ》を謳《うた》われていたからである。これには、彼という人間全体にしみとおっている無意識な嘘《うそ》つき癖《ぐせ》が、あずかって大いに力があったのだ。……彼はただ、わたしをちょいとからかおうと思っただけのことだろうが、その一言一句は猛烈《もうれつ》な毒となって、わたしの血脈《けつみゃく》という血脈を走り回った。血がどっとばかり、頭へ押しよせた。
『ああ! そうだったのか!』と、わたしはひとりごちた。――『よし! するとつまり、僕がなんとなく庭へ惹《ひ》かされていたのも、やはり意味のないことじゃなかったのだ! いやいや、そんなことがあるもんか!」と、わたしは大声でわめいて、握《にぎ》りこぶしで胸をどんと叩《たた》いたが、そのくせ、何があってはならないのかという点になると、自分でも見当がつかなかったのである。
『マレーフスキイ御自身、庭へ出馬なさるわけかな』と、わたしは考えた。(彼がひょいと、口をすべらしたのかもしれない。そのくらいの鉄面皮《てつめんぴ》さなら、ありあまっている彼のことだから)――『それとも、誰《だれ》かほかのやつが現われるかな。(うちの庭の垣根《かきね》は、とても低かったから、乗り越《こ》えるにはなんの造作《ぞうさ》もなかった)――だがとにかく、僕に取っつかまったやつは、百年目だぞ! 誰にもせよ、僕にぶつからないように用心するがいい! 僕は、僕だって復讐《ふくしゅう》する力があることを、世間のやつらにも、裏切り者のあの女にも(とわたしは、ずばりと彼女を裏切り者と呼んだ)――思いしらせてやるぞ!』
わたしは、自分の部屋へ戻ると、デスクの引出しから、この間買ったばかりの、イギリス製のナイフを取出して、その切れ味をためしてみた。それから眉《まゆ》の根を寄せて、一点に集中した冷やかな決意をもって、それをポケットに収めた。そんなことは、別に驚《おどろ》くほどのことはないし、またこれが最初でもない――といった調子であった。わたしの心臓は、毒々しくたけり立って、石のようにコチコチになった。わたしは夜がふけるまで、眉をしかめたまま、唇《くちびる》をキッと噛《か》みしめて、絶えず部屋の中を行きつ戻《もど》りつしながら、熱しきったナイフをポケットのなかで握りしめ、何かしら凄《すさま》じい出来事にたいする心構えを、あらかじめ整えていた。この新しい、ついぞ味わったこともない感覚は、わたしを酔《よ》わせたばかりか、陽気にさえしたので、肝心《かんじん》のジナイーダのことは、ほとんど考えに上らないほどだった。わたしの念頭には、絶えずこんな文句がちらついていた。
――アレーコ、若いジプシー。――「どこへ行く、この色男め? そのまま寝ていろ……」それから、「まあ、あなた血だらけじゃないの! ……なんてことをしたの?」……「なんにも、しやしない!」
なんという残忍《ざんにん》な微笑《びしょう》を浮《うか》べながら、わたしはこの『なんにも』という句を、繰返《くりかえ》したことだろう!
父は家にいなかった。しかし、この間からほとんどしょっちゅう、内攻《ないこう》したいらだちの状態でいる母は、わたしのただ事でない様子に目をつけて、夜食の時、わたしにこう言った。
「何をお前、そうふくれ返っているんだね?まるでネズミが、ひきわり麦をねらってるみたいにさ」
わたしは返事の代りに、ほんのお付合いににやりと笑ってみせて、『この気持を、親が知ったらなあ!』と考えた。十一時が打った。わたしは自分の部屋へ引きとったが、服は脱《ぬ》がずにいた。わたしは、真夜中を待っていた。やがて、十二時が打った。『さあ、潮時だ!』と、わたしは歯を食いしばりながらささやいて、上着のボタンを上まで掛け、御《ご》丁寧《ていねい》に両の袖《そで》をたくし上げて、庭へ出かけて行った。
わたしはあらかじめ、見張りの場所を決めていた。わたしたちの領分とザセーキン家の領分との地境《じざかい》を成している垣根が、共同の塀《へい》にぶつかっている庭のはずれに、樅《もみ》の木が一本、ぽつんと立っていた。その低く茂《しげ》った枝の下に立っていれば、夜の闇《やみ》がゆるす限りは、あたりで起ることの一切《いっさい》が、よく見えるのだった。そこには、一筋の小道がうねっていて、それがいつも、へんに神秘めいてわたしには見えた。というのはその小道が、ちょうどその場所で人が乗り越えたらしい足跡《あしあと》の残っている垣根の下を、蛇《へび》のように這《は》い抜《ぬ》けて、アカシアばかりでできている円い四阿《あずまや》へ、通じていたからである。わたしは樅の木へたどり着くと、その幹に倚《よ》りかかって、見張りを始めた。
前の晩と同じく、静かな夜だった。しかし、空には雨雲が減って、灌木《かんぼく》の茂みの形のみならず、背の高い草花の影《かげ》までが、一層はっきり浮んでいた。待ち構える身にとって、最初の幾瞬間《いくしゅんかん》は辛《つら》かった。ほとんど恐《おそ》ろしいくらいだった。覚悟《かくご》はすっかりできていたけれど、さてどういう行動に出たものか、それだけが心がかりだった。『どこへ行くのだ? 止れ! 白状しないと、殺しちまうぞ!』と、どなりつけてやろうか。それとも、ひと思いに斬《き》りつけてやろうか。……ちょっと音がしても、枝《えだ》や葉がカサリと鳴っても、さやいでも、それが一々わたしには何か意味ありげに、ただ事でないように聞えた。……だんだん覚悟ができてきた。……わたしは上体を前へ乗り出した。……ところが、半時間たち、一時間たつうちに、わたしの血潮はしだいに静まり、冷めていった。こんなことをしたって無駄骨《むだぼね》だ、我ながらいささか滑稽《こっけい》なくらいだ、これはてっきりマレーフスキイのやつがいっぱい食わしたのだ――という意識が、じりじりと胸の中へ忍《しの》び込《こ》んで来た。わたしは待ち伏せの場所を離れて、庭をぐるり一回りしてみた。まるでわざとのように、ほんの葉ずれほどの音さえ、どこにもしなかった。何もかも、しんと静まり返って、うちの犬までが、木戸のそばに丸くなって眠《ねむ》っていた。わたしは、温室の崩《くず》れ残りによじ登った。遠い野原が眼《め》の前にひらけ、この間ジナイーダに出会った時のことが思い出されて、わたしは物思いに沈《しず》み始めた。……
わたしは、ぎくりとした。……どこかでギイと戸のあく音がして、それから小枝の折れる音が、かすかにしたような気がしたのだ。わたしは、ふた跳《と》びで崩れ残りから跳びおりると、――その場に立ちすくんでしまった。すばやい、軽《かろ》やかな、それでいて用心ぶかい足音が、はっきりと庭の中に響《ひび》いていた。だんだんわたしの方へ近づいてくる。『さあ、来た。……いよいよやって来たぞ!』という考えが、わたしの心臓をかすめた。わたしは、引っつったようにナイフをポケットから抜き出すと、ぐいとそれを開いた。――何か赤い火花のようなものが、眼のなかでくるくる回りだし、恐ろしさと憎《にく》さとで、頭の毛がもずもずうごめいた。……足音は、まっすぐわたしの方へ進んで来る。わたしは、そろそろ腰《こし》を落して、足音に向って身構えた。……男の姿が現われた。……南無三《なむさん》! それはわたしの父だった。
わたしは咄嗟《とっさ》に見分けがついた。父は全身すっぽり黒マントにくるまり、帽子《ぼうし》を目深におろしていたが、それでは包み匿《かく》せなかった。彼は爪先立《つまさきだ》ちで、そばを通り過ぎた。わたしには気がつかなかった。わたしは、何に身をかくしていたわけでもないけれど、地面に這《は》いつくばらんばかりに小さく縮こまっていたのである。嫉妬《しっと》にかられて、人殺しの覚悟までしていたオセロは、突如《とつじょ》として小学生に化してしまった。……思いもかけぬ父の出現に、わたしはびっくり仰天《ぎょうてん》のあまり、彼がどこからやって来て、どこへ姿を消したのか、初めは気がつかなかったほどであった。わたしがやっと身を伸《の》ばして、『なんだってお父さんは、よる夜中に庭なんぞ歩くんだろう』と考えたのは、再びあたりが、しんと静まり返った時であった。恐ろしさのあまり、わたしはナイフを草むらに落してしまったが、それを捜《さが》すどころではなかった。恥《は》ずかしくてならなかったのだ。
わたしは一遍《いっぺん》に酔いがさめた。とはいえ、家へ戻《もど》る途中《とちゅう》で、わたしはやはり、ニワトコの陰《かげ》の例のベンチのそばへ行って、ジナイーダの寝室《しんしつ》の小窓を見上げた。すこし反り返っている何枚かの窓ガラスは、夜空から落ちるかすかな光を受けて、ぼうっと青みを帯びていた。と不意に、その色が変り始めた。……内側から、――そう、わたしは見たのだ、この眼ではっきり見たのだ――白っぽい巻きカーテンが、そっと用心ぶかく下ろされて、窓がまちのところまで下りきってしまうと、そのままじっと動かなくなった。
「これはいったい何事だろう?」と、いつのまにか自分の部屋に舞《ま》い戻っていたわたしは、ほとんど無意識に、そう声に出して言った。――「夢《ゆめ》なのか、偶然《ぐうぜん》なのか、それとも……」
そこで突然《とつぜん》あたまに浮んだ或《あ》る臆測《おくそく》は、あまりにも生々しく、あまりにも異様なものだったので、わたしはどだい受付ける勇気もなかった。
十八
あくる朝わたしは、頭痛をおさえながら起き出した。ゆうべの興奮は消えていた。その代り、重くるしい疑惑《ぎわく》と、まだ身に覚えたこともない――まるでわたしの中で何ものかが息を引き取ろうとしているような、一種異様なわびしさが、わだかまっていた。
「なんだって君は、脳みそを半分抜《ぬ》き取られた兎《うさぎ》みたいな顔をしているのですね?」と、出会いがしらにルーシンが言った。
朝飯のとき、わたしは父の様子や母の顔色を、こっそり窺《うかが》った。父は、いつものとおり落着きはらっていたが、母は例によって、内心いらいらしていた。わたしは、父が時々出す癖《くせ》で、打解けてわたしに話しかけはしまいかと心待ちにしていた。……けれど父は、つね日頃《ひごろ》の例の冷たいお愛想をすら、言ってはくれなかった。
『すっかりジナイーダに話してしまおうか?』と、わたしは考えた。……『こうなったからには、どっちみち同じじゃないか――どうせ二人の間は、きれいにお仕舞《しま》いなんだもの』
わたしは彼女《かのじょ》のところへ出かけて行ったが、肝心《かんじん》の話を切り出すどころか、雑談さえ思うようにできない始末だった。公爵夫人《こうしゃくふじん》の生みの息子《むすこ》が、ペテルブルグから帰省して来たのである。幼年学校の生徒で、十二ぐらいの子だった。ジナイーダはこの弟を、早速《さっそく》わたしの手にあずけた。
「さあ、よくって」と、彼女は言った。――「わたしの可愛《かわい》いヴォロージャ(彼女がわたしを愛称で呼んだのは、これが初めてだった)、あなたのいい仲間ができたわ。この子もやっぱり、ヴォロージャっていうのよ。どうぞ、可愛がってやってちょうだい。まだ野育ちだけれど、気だてはいいのよ。ネスクーチヌィ公園でも見せてやって、一緒《いっしょ》に散歩して、目をかけてやって下さいね。ね、いいでしょう、そうして下さるわね? あなたも、ほんとにいい人なんですもの!」
と言って、彼女が両手を優《やさ》しくわたしの肩《かた》にかけたので、わたしはすっかりまごついてしまった。この少年が来たおかげで、わたしまでが子供に成り下がったわけである。わたしは黙《だま》って、幼年学校の生徒を眺《なが》めた。向うもやはり無言のままわたしを見つめた。ジナイーダは、ホホホと笑い出して、わたしたち二人を、どすんとぶつけ合わした。
「さ、抱《だ》き合うのよ、いい子だから!」
我々は抱き合った。
「どうです、庭を案内しましょうか?」と、わたしは幼年学校の生徒に訊《き》いた。
「は、どうぞ」と彼《かれ》は、いかにも幼年学校の生徒らしい、しゃがれ声で答えた。
ジナイーダはまた笑い出した。……そのひまにわたしは、彼女の顔にこれほど艶麗《えんれい》な紅《あか》らみのさしたことは、ついぞなかったことに気がついた。
わたしは、幼年学校の生徒と一緒に出かけた。うちの庭には、古いブランコがあった。わたしは彼を細い板ぎれに坐《すわ》らせて、揺《ゆ》すぶってやり始めた。彼は、幅《はば》の広い金モールのついた、新調らしい厚地のラシャの制服を着て、身じろぎもせず坐ったまま、しっかり綱《つな》につかまっていた。
「襟《えり》のボタンでもはずしたらどうです」と、わたしは言ってやった。
「いいであります、慣れていますから」と彼は言って、咳払《せきばら》いをした。
彼は姉さんに似ていた。とりわけ眼《め》がそっくりだった。わたしは、この少年の面倒《めんどう》を見てやるのが楽しくもあったけれど、同時にまた、相も変らぬうずくような侘《わび》しさが、そっとわたしの胸を噛《か》むのであった。『さあ、これでもう、僕《ぼく》はすっかり赤《あか》ん坊《ぼう》だ』と、わたしは思った。――『ところが昨日は……』
わたしは、ゆうべナイフを落した場所を思い出したので、そこへ行って拾い上げた。幼年学校生は、それをねだり取って、ウドの太い茎《くき》を折ると、それで笛《ふえ》を削《けず》りあげ、ぴゅうぴゅう吹《ふ》き出した。オセロもやはり、ちょっと吹いてみた。
だがその代り、その夕方になると、この同じオセロが、ジナイーダの胸に抱かれて、どんなに泣いたことだろう! それは彼女が、庭の隅《すみ》でオセロを見つけ出して、なぜそんなに悲しそうにしているのかと、尋《たず》ねた時のことである。するとわたしの涙《なみだ》が、おそろしい勢いでほとばしり出たので、彼女はびっくりしてしまった。
「どうしたの? いったいどうしたの、ヴォロージャ?」と、ジナイーダは繰返《くりかえ》したが、わたしが返事もしないし泣きやみもしないのを見て、わたしのびしょ濡《ぬ》れの頬《ほお》にキスしようとした。が、わたしは顔をそむけて、むせび泣きのひまから、こうささやいた。――
「僕は、すっかり知っています。なぜあなたは、僕をおもちゃにしたんです?……なんのために、僕の愛が入り用だったんです?」
「申し訳ないわ、ヴォロージャ……」と、ジナイーダは言った。――「ああ、ほんとに申し訳ないわ……」と続けて、両手をぎゅっと握《にぎ》り合せた。――「わたしの中には、悪い、後ろ暗い、罪ぶかいものが、なんていっぱいあるんでしょう。……でも今はわたし、あなたをおもちゃになんかしていないわ、あなたを愛しているの、――それが、なぜ、どういうふうにかっていうことは、あなたには夢《ゆめ》にも想像がつかないわ。……それはそうと、何をいったいあなたは知ってらっしゃるの?」
何をわたしが彼女に言えたろう? 彼女はわたしの前に立って、じっとわたしを見つめていた。そしてわたしは、彼女に見つめられるが早いか、たちまち頭から足の先まで、すっかり彼女の俘《とりこ》になってしまうのだ。……それから十五分すると、わたしはもう幼年学校生やジナイーダと、鬼《おに》ごっこをしていた。わたしは泣かずに、笑っていたけれど、泣きはらした目蓋《まぶた》は、笑うたんびに涙をこぼすのだった。わたしの首っ玉には、ネクタイの代りに、ジナイーダのリボンが結んであった。そしてわたしは、首尾《しゅび》よく彼女の胴をつかまえるたびに、歓喜の叫《さけ》びをあげるのだった。彼女はわたしを、思うままにあやつっていたのだ。
十九
例の失敗におわった夜中の遠征《えんせい》から、一週間の間にわたしの経験したことを、詳《くわ》しく話してみろと言われたら、わたしは頗《すこぶ》る閉口するに違いない。それは、まるで熱病にでもかかったような異様な時期で、えたいの知れぬ混沌《こんとん》を成しており、この上もなく矛盾《むじゅん》した感情や、想念や、疑惑《ぎわく》や、希望や、喜びや、悩《なや》みが、つむじ風のように渦《うず》まいていた。わたしは、自分の心の中を覗《のぞ》いて見るのが怖《こわ》かった。(ただし、十六|歳《さい》の少年にも、自分の心の中が覗きこめるものとすればだが)何事にもせよ、はっきり突《つ》き止めるのが怖かった。わたしはただ、手っとり早く一日を晩まで暮《くら》そうと、あせっていた。その代り、夜はぐっすり眠《ねむ》った。……子供っぽい無分別も、この際だいぶ役に立った。わたしは、自分が人から愛されているかどうか、知ろうともしなかったし、人から愛されていないと、はっきり自認《じにん》するのも厭《いや》だった。わたしは父を避《さ》けていたが、ジナイーダを避けることは、わたしにはできなかった。……彼女《かのじょ》の前へ出ると、まるで火に焼かれるような思いがするのだったが……わたしを燃やし熔《と》かしてゆくその火が、いったいどういう火かということを、別に突き止めたいとも思わなかったのは、ただそうして熔けて燃えてゆくのが、わたしにはなんとも言えずいい気持だったからである。わたしは刻々の印象に、身を任せっぱなしにした。そして自分に対して狡《ずる》く立ち回って、思い出から顔をそむけたり、前途《ぜんと》に予感されることに目をつぶったりした。……こうした責苦《せめく》は、ほうっておいてもおそらく長くは続かなかったろうが……そこへ降ってわいた出来事が、まるで落雷《らくらい》のように一挙にすべてに落着《らくちゃく》をつけ、わたしの道を切り換《か》えてくれたのである。
ある日のこと、かなり長い散歩から、昼飯に帰ってみると、驚《おどろ》いたことには、わたしは一人きりで食事をしなければならぬことがわかった。父は外出しているし、母は気分が悪いから何も食べたくないと言って、寝室《しんしつ》にとじこもっていたのだ。従僕《じゅうぼく》たちの顔色から、わたしは何かしら変ったことが起きたなと察した。……従僕たちに問いただしてみる勇気は出なかったが、幸いわたしには、食堂係の若者でフィリップという仲好《なかよ》しがいた。これは熱烈《ねつれつ》な詩の愛好者で、またギターの名人だ。――わたしは、この男に訊《き》いてみることにした。さて彼《かれ》の話によると、父と母の間には、すさまじい一場が演ぜられたのだった。(それは一言《ひとこと》残さず女中部屋へ筒抜《つつぬ》けに聞えた。フランス語をだいぶ使っていたが、小間使のマーシャというのが、パリから来た裁縫師《さいほうし》のところに五年もいたので、全部わかったのである)母は父の不実を責め、隣《となり》の令嬢《れいじょう》との交際をなじった。父は最初、なにかと弁解していたが、やがてカッとなって、しっぺ返しに、『どうやら奥様《おくさま》のお年のことで』むごい言葉を投げつけたので、母は泣き出してしまった。母はまた、公爵夫人《こうしゃくふじん》にやったとかいう手形のことを持ち出して、さんざん老夫人をこきおろし、ついでに令嬢の悪口まで並《なら》べたてたので、父はそこで何やら脅《おど》かし文句を叩《たた》きつけたそうだ。
「こんな騒動《そうどう》になりましたのも」と、フィリップは言葉を続けた――「もとはと言えば、無名の手紙からでございます。誰《だれ》が書いたものやら、それはわかりませんが、それさえなければ、こんな事柄《ことがら》が表沙汰《おもてざた》になるわけは、少しもありませんですよ」
「じゃ、やっぱり、何か事柄があったんだね」とわたしは、やっとのことで言ったが、その間《ま》にわたしの手足は冷たくなり、胸のずっと奥の方で何かわななき出したものがあった。
フィリップは意味ありげに目配せして、「ありましたです。こういう事は、隠《かく》しおおせるものじゃございません。旦那様《だんなさま》も今度という今度は、ずいぶん用心ぶかくやんなさいましたけれど、――やはりまあ早い話が、馬車を雇《やと》うとか何とか……とにかく人手なしでは済《す》まないわけでしてね」
わたしは、フィリップを下がらせると、ベッドの上にころがった。わたしは、咽《むせ》び泣《な》きに泣きもしなかったし、絶望の俘《とりこ》にもならなかった。また、そんな事がいったいいつ、どんな風に起ったのかと自問してみるでもなかった。どうして自分があらかじめ、もっとずっと前に察しがつかなかったものかと、それを不審《ふしん》に思うでもなかった。父を怨《うら》めしいとさえ思わなかった。……わたしの知った事実は、とうていわたしの力の及《およ》ばないことであった。この思いがけない発見は、わたしを押《お》しつぶしてしまったのである。……一切《いっさい》は終りを告げた。わたしの心の花々は、一時《いちどき》に残らずもぎ取られて、わたしのまわりに散り敷いていた。――投げ散らされ、踏《ふ》みにじられて。
二十
あくる日になると母は、町へ引揚《ひきあ》げると言い出した。その朝、父は母の寝室《しんしつ》へ入って、長いこと二人きりでいた。父が何を言ったか、誰《だれ》も聞いた者はないけれど、とにかく母はもう泣かなくなった。母は気持が落着いて、食事を命じたりしたが、とはいえやはり姿を見せず、決心を変えもしなかった。忘れもしない――わたしはその日は一日《いちんち》じゅう散歩ばかりしていた。もっとも庭へは足を入れず、傍屋《はなれ》を一度だって振向《ふりむ》きもしなかった。ところがその晩になって、わたしは驚《おどろ》くべき出来事をこの眼《め》で見ることになった。父がマレーフスキイ伯爵《はくしゃく》の腕《うで》をとって、広間を横ぎって玄関《げんかん》の方へ連れ出し、従僕《じゅうぼく》のいる前で、冷やかにこう言い渡したのである。――
「二、三日まえ、ある家であなたは、ドアをさして見せられたことがありましたな、伯爵。ところで今わたしは、あなたと別に話し合いをしようとは思いませんが、恐縮《きょうしゅく》ながらこれだけは申上げておきます――もしあなたが、この上また宅へお見え下さるようなことがあったら、わたしはあなたを窓からほうり出しますよ。わたしには、あなたの筆跡《ひっせき》が気にくわんのです」
伯爵は頭を下げて、歯をくいしばると、小さくなって姿を消した。
モスクワへ引揚げる準備が始まった。アルバート街にわたしたちの家があったのである。おそらく父自身にしても、今ではもう別荘《べっそう》に残っていたくはなかったろう。ただし、父は、この際になってまた一悶着《ひともんちゃく》もちあげないように、首尾《しゅび》よく母を説きつけたらしかった。万事は穏《おだ》やかに、ゆっくりと運んだ。母は公爵夫人にわざわざ人をやって、健康がすぐれぬため出発まえにお目にかかれず、まことに残念に思いますと挨拶《あいさつ》させた。わたしは狂人《きょうじん》のように、ふらふら表を歩き回って、一刻も早くこんな騒《さわ》ぎがおしまいになってくれればいいと、そればかり待ち望んでいた。ただ一つだけ、わたしの念頭にこびりついて離《はな》れぬ想念があった。それは彼女《かのじょ》が、あの若い娘《むすめ》が――しかも、とにもかくにも公爵令嬢《れいじょう》ともあろう人が、現にわたしの父が独《ひと》り身《み》でないことは承知でいながら、また、よしんばあのベロヴゾーロフにしろ誰にしろ、結婚《けっこん》の相手にこと欠かない身でありながら、どうしてあんな思い切ったまねをしたのだろう――ということであった。いったい何をあてにしていたのだろう? みすみす自分の前途《ぜんと》を台なしにするのが、どうして怖《おそ》ろしくなかったのだろう? そうだ、とわたしは思った、――これが恋《こい》なのだ、これが情熱というものなのだ、これが身も心も捧《ささ》げ尽《つく》すということなのだ。……そこでふと思い出されたのは、いつかルーシンの言ったことである――『自分を犠牲《ぎせい》にすることを、快く感じる人もあるものだ』
ひょいとわたしは、傍屋《はなれ》の窓の一つに、青白いものがぽつんと浮《うか》んでいるのを目にした。……
『あれはジナイーダの顔じゃないかしら』と、わたしはふっと思ったが……果してそれは彼女の顔だった。わたしは、もう我慢《がまん》がならなかった。わたしは彼女に最後のいとまも言わずに、このまま別れてしまうに忍《しの》びなかった。わたしは折りをうかがって、傍屋へ出かけて行った。
客間にはいると、公爵夫人が例によって歯ぎれの悪い、だらしのない挨拶でわたしを迎えた。
「どうしたことなの、坊《ぼっ》ちゃん、お宅がこんなに早く引揚げなさるなんて?」と夫人は、両方の鼻の穴へ嗅《か》ぎ煙草《たばこ》を詰《つ》め込《こ》みながら言った。わたしはその顔を見て、ほっと胸が軽くなった。あのフィリップの言った手形という言葉が、ひどく気になっていたのである。ところが彼女は、そんなことは鵜《う》の毛《け》ほども考えてはいない……少なくともわたしには、その時そんなふうに見えたのだ。ジナイーダが、隣《となり》の部屋から姿を現わした。黒い服を着て、髪《かみ》を梳《す》きだして、青い顔をしている。彼女は無言のまま、わたしの手をとると、自分の部屋へ連れて行った。
「あなたの声がしたので」と、彼女は口をきった。――「すぐ出て行ったのよ。あなたはこんなに簡単に、わたしたちを捨てて行けるのね、意地悪な子!」
「僕《ぼく》は、お別れに来たんです、お嬢《じょう》さん」と、わたしは答えた。――「たぶん、もうお目にかかる時はないでしょう。お聞きおよびのことでしょうが、わたしたちは引揚げるのです」
ジナイーダは、じっとわたしを見つめた。
「ええ、聞いたわ。来て下すってありがとう。もうお目にかかれないんじゃないかと思っていたのよ。わたしのこと、悪く思わないでね。時々あなたを、いじめたけれど、でもわたし、あなたの思ってらっしゃるほどの女でもないのよ」
彼女はくるりと向うをむいて、窓にもたれた。
「ほんとに、わたし、そんな女じゃないの。わたし知っててよ、あなたがわたしのことを、悪く思ってらっしゃることぐらい」
「僕が?」
「そう、あなたが……あなたがよ」
「僕が?」と、わたしは悲しげに繰返《くりかえ》した。そしてわたしの胸は、うち克《か》つことのできない名状すべからざる陶酔《とうすい》にいざなわれて、あやしく震《ふる》え始めた。「この僕が? いいえ信じて下さい、ジナイーダ・アレクサンドロヴナ、あなたがたとえ、どんなことをなさろうと、たとえどんなに僕がいじめられたろうと、僕は一生涯《いっしょうがい》あなたを愛します、崇拝《すうはい》します」
彼女はすばやくわたしの方へ向き直って、両手を大きくひろげると、わたしの頭を抱《だ》きしめて、熱いキスをわたしに与《あた》えた。その長い長い別れのキスが、誰を心あてにしたものか、神ならぬ身の知るよしもなかったけれど、わたしはむさぼるように、その甘《あま》さを味わった。わたしはそれが、もはや二度と返らぬことを知っていたのだ。「さよなら、さよなら」と、わたしは繰返した。……
彼女は、わたしを振《ふ》りもぎって出て行った。わたしも外へ出た。外へ出ながら、自分の胸中を去来した感情を、わたしは筆に伝えるだけの力がない。わたしは、またいつかそれが繰返されることを望みはしなかった。とはいえ、もしついぞ一度もそのキスの味わいを知らなかったら、わたしは自分をよくよくの不仕合せ者と思ったことだろう。
わたしたち一家は、町へ引揚げた。わたしは、なかなか過去と縁《えん》を切ることができなかったし、そう手っとり早く勉強にかかることもできなかった。心の傷手《いたで》が癒《い》えるまでには相当の時間が要《い》ったのである。とはいえ、父その人に対しては、わたしは少しも悪い感情を抱《いだ》いていなかった。むしろ逆に、父はわたしの目に、一層大きな人物として映ずるふしもあったのである。……この矛盾《むじゅん》は、心理学者どもが、なんとでも勝手に解釈するがいいのだ。
ある日、わたしは並木道《なみきみち》を歩いていると、ひょっくりルーシンにぶつかったので、とびあがるほど嬉《うれ》しかった。わたしは彼《かれ》のまっすぐな、飾《かざ》り気《け》のない性質が好きだったし、かてて加えて、この久しぶりの面会が、わたしの胸に呼びさましてくれた追憶《ついおく》のおかげで、いやが上にも彼はなつかしい人物だったわけである。わたしは、その前へ飛んで行った。
「よう、これは!」と、彼は言って、眉《まゆ》の根を寄せた。――「なるほど、君だったんですね! まあちょいと、顔を見せて下さいよ。相変らずの黄いろい顔だが、さすがに眼《め》の中に、一頃《ひところ》の無分別さだけはなくなりましたね。やっと愛玩用《あいがんよう》の小犬じゃなくて、一人前の男に見えますよ。いや結構、そこでどうです、勉強していますか?」
わたしは、溜息《ためいき》をついた。嘘《うそ》をつくのはいやだったし、さりとて本音をはくのは恥《は》ずかしかった。
「なあに、いいですよ」と、ルーシンは言葉を続けた。――「びくびくすることはないです。肝心《かんじん》なのは、しゃんとした生活をして何事によらず夢中《むちゅう》にならないことですよ。夢中になったところで、なんの役に立ちます? 波が打ちあげてくれるところは、ろくでもない場所に決ってますよ。人間というものは、たとえ岩の上に立っているにしても、やはり立つのは自分の両足ですからなあ。僕はこのとおり、どうも咳《せき》が出ていかんです。……ところでベロヴゾーロフは――あなた、何か噂《うわさ》を聞きましたか?」
「なんですか? 聞きませんが」
「ゆくえ不明なんです。カフカーズへ行ったという話だが、君みたいな若い人には、全くいい教訓ですな。要するに、潮時を見て引揚げること、網《あみ》を破って抜《ぬ》け出すことが、できないからですよ。君はどうやら、無事に逃《に》げ出したらしいが、また網に引っかからないように用心しなさいよ。じゃ、さようなら」
『引っかかるもんか』と、わたしは思った。……『もう二度と再び、あの人には会わないんだ』
ところがわたしは、もう一度ジナイーダを見かける運命にあったのだ。
二十一
父は毎日、馬に乗って外へ出かけた。彼《かれ》は赤栗毛《あかくりげ》の、すばらしいイギリス馬を持っていた。すらりと細長い首をして、よく伸《の》びた脚《あし》をして、疲《つか》れを知らぬ荒馬《あらうま》だった。その名を、「いなずま《エレクトリーク》」といって、父のほかには誰《だれ》一人《ひとり》、乗りこなす人はなかった。
ある日のこと、父は久方ぶりの上機嫌《じょうきげん》で、わたしの部屋へ入ってきた。彼はこれから馬で出かけるところで、ちゃんと拍車《はくしゃ》をつけていた。わたしは、一緒《いっしょ》に連れて行って下さいとせがんだ。
「まあそれより、馬とびでもして遊んだらいいだろう」と、父は答えた。――「おまえの痩《や》せ馬《うま》じゃ、とてもついて来《こ》られまいからな」
「ついて行けますよ。僕も拍車をつけるから」
「ふむ、まあいいだろう」
わたしたちは出発した。わたしの馬は、むく毛の若い黒馬で、脚も丈夫《じょうぶ》だし、悍《かん》も相当つよかった。もっとも、エレクトリークが早足《トロット》いっぱいに走り出すと、わたしの馬は全速力を出さなければならなかったが、とにかくわたしは食い下がって行った。わたしは、父ほどの乗り手を見たことがない。その馬上の姿は実に美しく、無造作に楽々と乗りこなしているところは、鞍《くら》の下の馬までが感じ入って、乗り手を誇《ほこ》りとしているように見えた。わたしたちは、並木通《なみきどお》りを片っぱしから乗り尽《つく》して、処女《おとめ》が原《はら》もしばらく乗り回し、垣根《かきね》も幾《いく》つか跳《と》び越《こ》して(初めは跳び越すのが怖《こわ》かったけれど、父が臆病者《おくびょうもの》を軽蔑《けいべつ》するので、やがてわたしも怖がらなくなった)、モスクワ川を二度も渡《わた》った。それでわたしは、もうそろそろ帰るのだろうと思った。ましてや当の父が、わたしの馬の疲れたことに目をとめたからには、なおさらのことだった。ところが父は、いきなりわたしのそばから馬首を転じると、クリミア浅瀬《あさせ》からわきへそれて、河岸《かし》づたいにまっしぐらに飛ばし始めた。わたしは懸命《けんめい》にあとを追った。古丸太が山のように積み上げてある所までくると、父はひらりとエレクトリークからとび下りて、わたしにも下りるように命じた。そして、自分の馬の手綱《たづな》をわたしにあずけると、しばらくその丸太積みのそばで待っているように言いつけて、自分は細い横町へ折れるなり、姿を消してしまった。
わたしは、二頭の馬を引っぱって、エレクトリークを叱《しか》りつけながら、河岸を行ったり来たりし始めた。エレクトリークは歩きながら、ひっきりなしに頭を振《ふ》りもぎったり、胴《どう》ぶるいをしたり、鼻を鳴らしたり、いなないたりした。わたしが立ち止まると、左右の蹄《ひづめ》でかわるがわる土を掘《ほ》ったり、けたたましい声を立てて、わたしの痩せ馬の首ったまに噛《か》みついたりした。要するにまあ、甘《あま》やかされ放題の純血種《ピュール・サン》らしく振舞《ふるま》ったわけである。父はなかなか戻《もど》って来なかった。川からは、いやに湿《しめ》っぽい風が吹《ふ》いてきた。ぬか雨が音もなく降り出して、さっきからわたしがさんざんそばをぶらついて、今ではもう飽《あ》き飽《あ》きしてしまった馬鹿《ばか》げた灰色の丸太の山に、べた一面ちっぽけな黒ずんだ点々をつけた。わたしは心細くなってきたが、父はやっぱり戻って来ない。フィンランド人のお巡《まわ》りさんが一人、上から下までやはり灰色の服を着け、壺《つぼ》みたいな格好《かっこう》の、おそろしく大きな古くさい筒形帽子《つつがたぼうし》をかぶり、ほこ形の警棒を小脇《こわき》にして、(それにしても、なんだって巡査《じゅんさ》がモスクワ川の岸になんぞいるのだろう!)わたしに近づいてきた。そして、婆《ばあ》さんじみた皺《しわ》だらけの顔をわたしに向けると、こう言った。――
「あんた馬なんか連れてこんな所で、何してるんですね、ええ、坊《ぼっ》ちゃん? およこしなさい、持っていてあげるから」
わたしは返事をしなかった。彼は煙草《たばこ》をねだった。この男からのがれたさに(それにまた、待ち遠しさに耐《た》えかねもして)、わたしは父の立ち去った方角へ五、六歩あるいた。それから、その横町をはずれまで行って、角を曲ると、はたと立ち止った。そこの往来を、ものの四十歩ほど行った先の所に、木造の小さな家のあけはなされた窓に向って、背中をこちらへ向けながら、父が立っていたのである。父は胸を窓がまちにもたせていた。家の中には、カーテンに半ば隠《かく》れながら、黒っぽい服を着た女が坐《すわ》って、父と話をしている。この女が、ジナイーダだった。
わたしは立ちすくんでしまった。全くのところ、そんなことは思いもかけなかったのである。わたしのしかけた最初の動作は、逃《に》げ出すことだった。『父は振返《ふりかえ》るかもしれない』と、わたしは考えた。――『そしたら、もう万事休すだ』……けれど、不思議な感情が――好奇心《こうきしん》よりも強く、嫉妬《しっと》などよりまだ強く、恐怖《きょうふ》よりも強い感情が、わたしを引止めた。わたしは、じっと目をこらし始めた。一生けんめい聴《き》き耳《みみ》を立てた。父は、しきりに何やら言い張っているらしかった。ジナイーダは、いっかな承知しない。その彼女《かのじょ》の顔を、今なおわたしは目の前に見る思いがする。――悲しげな、真剣《しんけん》な、美しい顔で、そこには心からの献身《けんしん》と、嘆《なげ》きと、愛と、一種異様な絶望との、なんとも言いようのない影《かげ》がやどっていた。そうとでも言うほかには、わたしは言葉を考えつかない。彼女は、「ええ」とか「いいえ」とかいったたぐいの、短い言葉で受け答えしていて、眼《め》を上げずに、ただほほ笑《え》んでいた。――従順な、しかも頑《かたく》なな微笑《びしょう》である。この微笑を見ただけでもわたしは、ああ、もとのジナイーダだなと思った。
父はひょいと肩《かた》をすくめて、帽子をかぶり直した。それはいつも決って父がいらいらし出したしるしであった。……それから「|あなたは思い切らなくちゃだめです、そんな無理な《ヴー・ドヴェー・ヴー・セパレー・ド・セット》……」という父の声がした。ジナイーダは、きっと身を起して、片手をさし伸《の》べた。……その途端《とたん》に、わたしの見ている前で、あり得《う》べからざることが起った。父がいきなり、今まで長上着《フロック》の裾《すそ》の埃《ほこり》をはらっていた鞭《むち》を、さっと振上げたかと思うと――肘《ひじ》までむきだしになっていたあの白い腕《うで》を、ぴしりと打ちすえる音がしたのである。わたしは思わず叫《さけ》び声《ごえ》を立てようとして、あやうく自分を押《おさ》えた。ジナイーダは、ぴくりと体を震《ふる》わしたが、無言のままちらと父を見ると、その腕をゆっくり唇《くちびる》へ当てがって、一筋真っ赤になった鞭のあとに接吻《せっぷん》した。父は、鞭をわきへほうりだして、あわてて玄関《げんかん》の段々を駆《か》けあがると、家の中へとび込《こ》んだ。……ジナイーダは後ろを振返ると、さっと両手をひろげ、頭をのけぞらせて、やはり窓から消えてしまった。
驚《おどろ》きのあまり気が遠くなって、おそろしい疑惑《ぎわく》に胸を締《し》めつけられながら、わたしはもと来た方へ駆け出して、横町を走り抜ける拍子《ひょうし》に、すんでのことでエレクトリークの手綱を離《はな》すところだったが、とにかく河岸へとって返した。あたまがこんぐらかって、全然まとまりがつかなかった。わたしは、冷静で自制力の強い父が、時々|発作的《ほっさてき》な狂暴《きょうぼう》さを見せることは知っていたが、それにしても今しがた見た光景は、なんとしても合点《がてん》がゆかなかった。――とはいえ、わたしは同時にまた、このさき自分がどれほど生きるにせよ、ジナイーダのあの身の動き、あの眼差《まなざ》し、あの微笑を忘れることは、終生とてもできまい、――今まで見たこともないあの姿、思いがけなく今日わたしの眼に映ったあの姿は、永遠にわたしの記憶《きおく》に焼きつけられたのだ――とも感じた。わたしは、ぼんやり川に見入りながら、涙《なみだ》のながれているのに気がつかずにいた。『あのひとが、ぶたれるのだ』と、わたしは思った。『……ぶたれるのだ……ぴしり……ぴしり……』
「おい、どうしたね、――馬をおよこし!」と、後ろで父の声がした。
わたしは、うわの空で手綱をわたした。父はひらりと、エレクトリークにまたがったが、凍《こご》えきった馬はいきなり後脚で突《つ》っ立《た》って、一丈あまりも前へはねた。……だが父は、じきに馬をしずまらせた。ぐいと拍車を両の脇腹《わきばら》へ入れて、握《にぎ》りこぶしで首に一撃《いちげき》を加えたのである。……
「ちえっ、鞭がない」と、父はつぶやいた。
わたしは、ついさっきの風を切る唸《うな》りと、その鞭がぴしりと鳴った音を思い出して、おもわず震え上がった。
「どこへやったんですか?」と、しばらくしてからわたしは訊《き》いた。
父は答えずに、ずんずん前へ飛ばした。わたしは追いついた。どうしても父の顔が見たかったのだ。
「わたしのいない間、退屈《たいくつ》だったろうな、お前?」と父は、へんにもぐもぐした声で言った。
「ええ、少しね。でも、一体どこへ鞭を落したんです?」と、わたしはまた訊いた。
「落したのじゃない」と、父は言い放った。――「捨てたのさ」
彼は急に考え込んで、うなだれた。……わたしはその時初めて、そして多分これを最後に、父のきびしい顔だちがどれほどの優《やさ》しさと同情の思いを、表わすことができるかを見たのである。
父はまた馬を飛ばし出した。もうわたしは追いつけなかった。わたしは十五分ほど遅《おく》れて、家に帰りついた。
『これが恋《こい》なのだ』とわたしは、その夜がふけてから、デスクの前に坐って、またもやひとりごちた。そのデスクの上には、すでにノートや参考書がそろそろ並《なら》び出していた。――『これが情熱というものなのだ! ……ちょっと考えると、たとえ誰《だれ》の手であろうと……よしんばどんな可愛《かわい》らしい手であろうと、それでぴしりとやられたら、とても我慢《がまん》はなるまい、憤慨《ふんがい》せずにはいられまい! ところが、一旦《いったん》恋する身になると、どうやら平気でいられるものらしい。……それを俺《おれ》は……それを俺は……今の今まで思い違《ちが》えて……」
この一月《ひとつき》の間に、わたしは大層年をとってしまった。そして自分の恋も、それに伴《ともな》ういろんな興奮や悩《なや》みも、いま新たに出現した未知の何ものかの前へ出すと、我ながらひどく小《ち》っぽけな、子供じみた、みすぼらしいものに見えた。とはいえ、その未知の何ものかの正体は、わたしにはほとんど推察することができなかった。それはただ、自分が一生けんめい薄闇《うすやみ》の中で見きわめようと空《むな》しい努力をしている、見知らぬ、美しい、しかも物凄《ものすご》い顔のように、わたしをおびえさせるだけであった。
ちょうどその夜、わたしは奇妙《きみょう》な恐《おそ》ろしい夢《ゆめ》をみた。わたしは、天井《てんじょう》の低い暗い部屋へ入って行くところだった。……と父が、鞭を手に仁王立《におうだ》ちになって、足を踏《ふ》み鳴らしていた。隅《すみ》の方には、ジナイーダが身を縮めていたが、その腕にではなしに、その額に、紅《あか》い一筋がついている。……そこへ、二人の後ろから、体じゅう血だらけのベロヴゾーロフが、むくむく起き上がって、青ざめた唇を開くと、忿怒《ふんぬ》にわななきながら、父を脅《おど》かすのだった。
ふた月すると、わたしは大学に入った。それから半年後に、父は(脳溢血《のういっけつ》のため)ペテルブルグで亡《な》くなった。母やわたしを連れて、そこへ引移ったばかりのところだった。死ぬ二、三日前に、父はモスクワから一通の手紙を受取ったが、それを見て父は非常に興奮した。……彼は母のところへ行って、何やら頼《たの》み込《こ》んだ。そして聞くところによると、泣き出しさえしたそうである。あの、わたしの父がである! 発作の起る日の朝のこと、父はわたしに宛《あ》てて、フランス語の手紙を書き始めていた。『わが息子よ』と、父は書いていた、――『女の愛を恐れよ。かの幸《さち》を、かの毒を恐れよ』……
母は、父が亡くなったのち、かなりまとまった金額をモスクワへ送った。
二十二
四年ほど過ぎた。わたしは大学を出たばかりで、何を始めたものか、どんな扉《とびら》をたたいたらいいのか、まだよくわからず、さし当ってぶらぶら遊んでいた。ある晩のこと、わたしは劇場で、マイダーノフに出会った。彼《かれ》はめでたく妻帯して、役所に勤めていたが、わたしの目には少しの変化も見当らなかった。相変らず、要《い》りもせぬのに感激《かんげき》したり、例によって、いきなり悄気《しょげ》かえったりした。
「君は知ってるでしょうね」と、話のついでに彼は言った。――「ドーリスカヤ夫人が、ここに来ていることは」
「ドーリスカヤ夫人というと?」
「おや、君は忘れたんですか? もとのザセーキナ公爵令嬢《こうしゃくれいじょう》ですよ。みんなでてんでに恋《こい》していた……いや、君だってそうでしたね。覚えてるでしょう、あのネスクーチヌィ公園のそばの別荘《べっそう》で、ね?」
「あのひとが、ドーリスキイとやらの奥《おく》さんになったんですか?」
「そう」
「で、あの人がここに来てるんですか、この劇場に?」
「いや、ペテルブルグに来てるんですよ。二、三日前にやって来たんです。外国へ発《た》つつもりらしい」
「夫というのは、どんな人なんです?」と、わたしは尋《たず》ねた。
「なかなかいい男ですよ、財産もあるし。僕《ぼく》とはモスクワの役所の同僚《どうりょう》でしてね。あなたにもお察しがつくはずだが――例の一件以来……もちろんあれは、よく御存《ごぞん》じでしょうね……(マイダーノフは、意味ありげににやりとして)あの人は配偶《はいぐう》を求めるのが、なかなか容易じゃなかったんです。いろいろ、あとを引く問題もありましたからね。……だが、あの人の才智《さいち》をもってすれば、どんなことでも可能ですよ。まあひとつ行って御覧なさい。君の顔を見たら、とても喜ぶでしょうよ。あの人は、前よりもっと奇麗《きれい》になりましたよ」
マイダーノフは、ジナイーダの宿所を教えてくれた。彼女《かのじょ》はデムート館というホテルに泊《とま》っていたのである。昔《むかし》の思い出が、わたしの胸の中でうごめき始めた。……わたしは、あくる日すぐにも、かつての『|想いびと《パッシア》』を訪ねようと心に誓《ちか》った。ところが、何かと用事ができて、一週間たち、二週間たってしまった。ようやくわたしが、デムート館へ出かけて、ドーリスカヤ夫人に面会を申し入れると、――彼女は四日前に死んだ、と聞かされた。産のための、ほとんどあっという間もない死に方だった。
わたしは、何かしら心臓へぐっと、突《つ》き上げるものを感じた。わたしは彼女に会えたはずなのに、つい会わずにしまった、しかももう永久に会えないのだ……という想念――このにがにがしい想念が、ひしとわたしの心に食い入って、うちしりぞけることのできない呵責《かしゃく》の鞭《むち》を、力いっぱいふるうのだった。『死んだ!』とわたしは、入口番の顔をぼんやり見つめながら、鸚鵡返《おうむがえ》しに言った。そして、そっと往来へ出ると、どこへとて当てもなしに歩き出した。過去の一切《いっさい》が、いちどきに浮《うか》び出て、わたしの眼《め》の前に立ち上がった。そうか、これがその解決だったのか! あの若々しい、燃えるような、きららかな生命《いのち》が、わくわくと胸をおどらしながら、いっさんに突き進んで行った先は、つまりこれだったのか! わたしはそれを思いながら、あのなつかしい顔だちや、あのつぶらな眼や、あのふさふさと巻いた髪《かみ》が、あの狭《せま》くるしい箱の中に納められて、じめじめした地下の闇《やみ》のなかに眠《ねむ》っているところを心に描《えが》いた。――それは、まだこうして生きているわたしから、そう遠くない場所なのだ。そしてひょっとすると、わたしの父のいる場所からは、ほんの五、六歩しかないかもしれないのだ。……わたしは、そんなことを考えながら、想像のつばさを張りきらせているうちに、ふと、
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情け知らずな人の口から、わたしは聞いた、死の知らせを。
そしてわたしも、情け知らずな顔をして、耳を澄《す》ました。
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という詩の文句が、わたしの胸に響《ひび》いた。
ああ、青春よ! 青春よ! お前はどんなことにも、かかずらわない。お前はまるで、この宇宙のあらゆる財宝を、ひとり占《じ》めにしているかのようだ。憂愁《ゆうしゅう》でさえ、お前にとっては慰《なぐさ》めだ。悲哀《ひあい》でさえ、お前には似つかわしい。お前は思い上がって傲慢《ごうまん》で、「われは、ひとり生きる――まあ見ているがいい!」などと言うけれど、その言葉のはしから、お前の日々はかけり去って、跡《あと》かたもなく帳じりもなく、消えていってしまうのだ。さながら、日なたの蝋《ろう》のように、雪のように。……ひょっとすると、お前の魅力《みりょく》の秘密はつまるところ、一切を成しうることにあるのではなくて、一切を成しうると考えることができるところに、あるのかもしれない。ありあまる力を、ほかにどうにも使いようがないので、ただ風のまにまに吹《ふ》き散らしてしまうところに、あるのかもしれない。我々の一人々々が、大まじめで自分を放蕩者《ほうとうもの》と思い込《こ》んで、「ああ、もし無駄《むだ》に時を浪費《ろうひ》さえしなかったら、えらいことができたのになあ!」と、立派な口をきく資格があるものと、大まじめで信じているところに、あるのかもしれない。
さて、わたしもそうだったのだ。……ほんの束《つか》の間《ま》たち現われたわたしの初恋《はつこい》のまぼろしを、溜息《ためいき》の一吐《ひとつ》き、うら悲しい感触《かんしょく》の一息吹《ひといぶ》きをもって、見送るか見送らないかのあの頃《ころ》は、わたしはなんという希望に満ちていただろう! 何を待ちもうけていたことだろう! なんという豊かな未来を、心に描いていたことだろう!
しかも、わたしの期待したことのなかで、いったい何が実現しただろうか? 今、わたしの人生に夕べの影《かげ》がすでに射《さ》し始めた時になってみると、あのみるみるうちに過ぎてしまった朝まだきの春の雷雨《らいう》の思い出ほどに、すがすがしくも懐《なつか》しいものが、ほかに何か残っているだろうか?
だがわたしは、いささか自分につらく当り過ぎているようだ。その頃――つまりあの無分別な青春の頃にも、わたしはあながち、わたしに呼びかける悲しげな声や、墓穴《ぼけつ》の中からつたわってくる荘厳《そうごん》な物音に、耳をふさいでいたわけではない。忘れもしないが、ジナイーダの死を知った日から四、五日して、わたしは自分でどうしてもそうせずにはいられなくなって、わたしたちと一つ屋根の下に住んでいたある貧しい老婆《ろうば》の、臨終《りんじゅう》に立ち会ったことがあった。ぼろに身を包み、こちこちの板の上に横たわり、袋《ふくろ》を枕代《まくらがわ》りにした老婆は、苦しみもがきながら息を引取った。彼女の一生は、その日その日の乏《とぼ》しい暮しに、あくせく追われ通しで過ぎたのだ。喜びというものをついぞ知らず、幸福の甘《あま》い味わいも知らない彼女としては、まさに死をこそ、――そのもたらす自由を、そのもたらす憩《いこ》いをこそ、喜び迎《むか》えるべきではなかったか? ところが、彼女の老《お》いさらばえた肉体がまだ保《も》っているうちは、その上に置かれた氷のように冷え果てた片手のもとで胸がまだ苦しげに波うっているうちは、まだその身から最後の力が抜《ぬ》けきらないうちは、老婆はひっきりなしに十字を切り続けて、「主よ、わが罪を許させたまえ」とささやき続けるのであった。――そして、これを名残《なご》りの意識のひらめきが、すっと消えると共に、彼女の眼の中でも、末期《まつご》の恐《おそ》れやおびえの色が、やっと消えたのである。忘れもしない、そのとき、その貧しい老婆のいまわの床《とこ》に付き添《そ》いながら、わたしは思わずジナイーダの身になって、そら恐ろしくなってきた。そしてわたしは、ジナイーダのためにも、父のためにも、そしてまた、自分のためにも、しみじみ祈《いの》りたくなったのである。
[#改ページ]
解説
[#地付き]神西 清
静かな深い憂愁《ゆうしゅう》が、ロシア十九世紀文学の特質を成していることは、今さら言うまでもなく周知の事実です。しかしその憂愁のあらわれは、それぞれの作家において、本質的にも色合いの上からも、微妙《びみょう》な差異を示しています。デンマークの文芸批評家ゲオルグ・ブランデスは、その点に触《ふ》れて、次のような簡明ではあるが味わいの深い評語を、のこしています。――「ツルゲーネフの悲哀《ひあい》は、その柔《やわ》らかみと悲劇性のすがたにおいて、本質的にスラヴ民族の憂愁であり、スラヴ民謡《みんよう》のあの憂愁に、じかにつながっている。……ゴーゴリの憂愁は、絶望に根ざしている。ドストエーフスキイが同じ感情を表白するのは、虐《しいた》げられた人々、とりわけ大いなる罪びとに対する同情の念が、彼《かれ》の胸にみなぎる時である。トルストイの憂愁は、宗教的な宿命観にもとづいている。そのなかにあって、ツルゲーネフのみが哲人《てつじん》である。……彼は人間を愛する。よしんばそれが、あまり感服できぬ人間で、たいして信用のおけぬ場合でも、やはり彼は人間を愛するのだ」
つまり、ツルゲーネフの憂愁は、「哲人的な」憂愁であったということで、そこから、彼の一見ひややかにさえ見える詩的なリアリズムも、滅《ほろ》び交替《こうたい》しゆく者にたいする抒情的《じょじょうてき》な愛も、おのずから説明がつくわけです。そういう点から言うと、ツルゲーネフに最も近いロシア作家は、十九世紀末に現われたチェーホフであると言えるのですが、この比較《ひかく》は一応それとして、彼らの憂愁が一体どこに根ざし、どういうところから特異な形成を遂《と》げたかが、ここでは問題になるでしょう。
チェーホフの場合は、一口に言って、その深い信条であった生物進化論に、説明の第一《だいいち》根拠《こんきょ》が見いだせるように私は思うのですが、ツルゲーネフの場合はどうでしょう。彼はもちろん医者でもなく、自然科学者でもなかったが、その思想的な立場から言えば、青年時代から晩年に至るまで、終始かわらぬ西ヨーロッパ的知性の確固たる信奉者《しんぽうしゃ》――いわゆる西欧派《せいおうは》であったのです。彼はこの西欧派的な開かれた眼《め》をもって、ロシアの現実の蒙昧《もうまい》と暗愚《あんぐ》と暴圧とを、残る隈《くま》なく見きわめ見通し、そこに絶望と期待とが微妙に混り合った彼独特の詩的リアリズムの世界が展開されたのでした。
こういうふうに眺《なが》めてくると、ツルゲーネフの憂愁なるものの性質も、またその憂愁にもかかわらず彼が終生変らぬ毅然《きぜん》たる進歩的信念の持主であった所以《ゆえん》も、ほぼうなずかれるはずですが、なおその上にもう一つ、彼の詩的人生観に一層の深まりや柔軟《じゅうなん》な屈折《くっせつ》を与《あた》えたものとして、彼の生れや育ちの事情も忘れてはなりますまい。イヴァン・セルゲーヴィチ・ツルゲーネフ(I.S.Turgenev)は、一八一八年の秋、モスクワ南方の母方の領地で生れました。つまりロシア社会史の推移の上から見ると、あたかも地主貴族文化がようやく崩壊《ほうかい》し始めた時期に、彼は最も大切な精神の形成期を、ほかならぬ貴族の子弟として迎えたことになります。その運命的な契合《けいごう》は、ツルゲーネフの人生観の上にも作風の上にも、消しがたい烙印《らくいん》を押《お》しています。彼が、崩《くず》れゆく、荘園《しょうえん》貴族文化の最後の典型的な歌い手と呼ばれる所以は、じつにそこにあります。このことは、『猟人日記《りょうじんにっき》』(一八四七―五二)に始まって、『ルージン』(一八五五)、『貴族の巣《す》』(一八五八)、『その前夜』(一八五九)、『父と子』(一八六一)、『けむり』(一八六七)、『処女地』(一八七一)と続く彼の代表作の系列の中にも、もちろんその時代々々のニュアンスによる心境の推移からくる種々転調はあるものの、一貫《いっかん》して感じとられる重要な一筋の脈を成しています。
しかも、更《さら》に立ち入って眺めると、一口に没落期《ぼつらくき》の貴族文化の最後の歌い手とは言っても、ツルゲーネフ個人にとっての生家の事情は、すこぶる特異でもあり奇怪《きかい》でもあるものでした。母親ヴァルヴァーラは三十五|歳《さい》で初めて結婚《けっこん》した、気丈《きじょう》でヒステリックで野性的な、いわば典型的なロシアの女地主でした。これに反して父セルゲイ・ツルゲーネフは、貴族とは名ばかりの、ほとんど破産に瀕《ひん》した一騎兵大佐《いちきへいたいさ》にすぎず、母よりも六つも年下であるばかりか、その性格も冷やかで、弱気で優柔《ゆうじゅう》で、おまけに頗《すこぶ》る女好きな伊達者《だてしゃ》であったと伝えられています。この女暴君と伊達者との間に生れたのが、イヴァン・ツルゲーネフだったのです。
そうした血統上の痕跡《こんせき》は、何よりも雄弁《ゆうべん》にツルゲーネフの生活(彼は一生涯《いっしょうがい》独身で押し通しました)が物語っているのですが、文芸作品の面から言うと、ここに訳出した短編『はつ恋』に、最もあざやかに現われていると言えます。これは一八六〇年の作で、すなわち『その前夜』と『父と子』の間に位し、ツルゲーネフ中期の円熟した筆で書かれた作品ですが、そこにあざやかに描《えが》き出された一少年の不思議な「はつ恋」の体験のいきさつは、その底に作者自身の一生を支配した宿命的な呪《のろ》いの裏づけがあることを知るに及《およ》んで、一層不気味な迫力《はくりょく》を帯びてくるのを感じずにはいられません。いわばそこには、不気味な美があります。「男は弱く、女は強い。そして偶然《ぐうぜん》が、全能の力をもっている」とは、晩年近い作『けむり』の中に見える言葉ですが、このような苦渋《くじゅう》な哲学が早くも少年時代の彼の中に芽ばえなければならなかったことを、『はつ恋』一編はありありと示しています。そこにこの作品の最も大きな特色があると言えましょう。
ツルゲーネフは一八八三年の夏、パリの郊外《こうがい》で亡《な》くなりました。その死後やがて七十周年になるわけです。
[#地付き](一九五二年晩秋)
1 カイダノーフ……ロシアの歴史学者。一七八二―一八四三年。『万国史通《ばんこくしつう》』は一世を風靡《ふうび》した。
2 シルレル……ドイツの詩人、劇作家。一七五九―一八〇五年。『群盗』はその代表作。
3 父称……ロシアでは名と姓の間に、父の名の語尾を変化させたものをさしはさむ。
4 縄《なわ》まわし……輪にした縄の真中に鬼が入り、縄を手に持って鬼のまわりをまわる。鬼は機を見て誰かの手を打ち、打たれた者が次の鬼になるという遊び。
5 ホミャコーフ……ロシアの作家、詩人。一八〇四―六〇年。韻文《いんぶん》の戯曲『エルマーク』はその代表作。
6 エルマーク……十六世紀後半のドン・コサック首長で、シベリア征服者として名高い。
7 討論新聞……フランスの政治新聞。
8 バルビエ……フランスの政治的|諷刺《ふうし》詩人。一八〇五―八二年。