猟人日記(下)
ツルゲーネフ/佐々木彰訳
目 次
タチヤーナ・ボリーソヴナとその甥
死
歌うたい
ピョートル・ペトローヴィチ・カラターエフ
あいびき
シチグロフ郡のハムレット
チェルトプハーノフとネドピュースキン
チェルトプハーノフの最後
生きているミイラ
音がする!
森と草原
解説
[#改ページ]
タチヤーナ・ボリーソヴナとその甥
親愛なる読者よ、さあお手を、馬車に乗って一しょに出かけましょう。天気はうららかである。五月の空はおだやかに澄みわたり、なめらかな柳の若葉がさながら洗い上げられたように輝いている。広い平らな道は一面に、羊の喜んで食べる茎の赤っぽい小草《おぐさ》におおわれている。右を見ても左を見ても、なだらかな丘の長い斜面を、緑のライ麦が静かにゆれている。その上を小さな雲の影が、淡い斑点《はんてん》になってするすると滑っていく。遠くに森が黒ずみ、池が光り、村々が黄色く見えている。ヒバリが数百となく舞い上がり、さえずり、まっさかさまに落ちて来たかと思うと、頸をさしのべて土くれの上にちょこなんと立っている。シロハシガラスは街道に立ちどまり、こちらを見てはしきりと何かをついばんでいるが、私たちをやり過して二度ばかりピョンピョン跳びはねてから、重々しく脇の方へ飛んでいく。谷の向うの山の上には百姓が一人いて畑を耕やしている。尻尾の短い、たてがみを振り乱した斑《ぶち》の仔馬が、たどたどしい足どりで母馬の後を追って駈けていく。仔馬の甲高《かんだか》いいななきが聞えてくる。私たちは白樺の林に馬車を乗り入れる。強い、新鮮な匂いに、胸が快《こころよ》くむせかえるようだ。やがて村はずれにさしかかる。馭者は車を降りる。馬は鼻を鳴らす。副馬《そえうま》はあたりを見まわし、中馬は尾を振って軛《くびき》に頭をもたれようとする……大きな門がギギイと開く。馭者は再び馭者台に乗る……「さあ、やれ!」村は私たちのすぐ眼の前にある。百姓家を五軒ばかり通り過ぎて、右に曲がり、窪地へ下り、さらに土手に乗り上げる。小さな池の向うに、リンゴやライラックの円みをおびた梢《こずえ》のかげから、煙突の二本ある、かつては赤い色をしていた板屋根が見えてくる。馭者は垣根に沿って左へ曲がり、三匹の老いぼれた尨犬《むくいぬ》が甲高いしゃがれ声で吠《ほ》えたてる中を、開け放してある門内に乗り入れた。厩《うまや》や納屋《なや》の傍を通って広い屋敷の中をぐるりと威勢よく乗りまわし、戸口の開いている物置の高い敷居を、身体を横にして跨《また》いでいる女中|頭《がしら》の老婆にいなせな挨拶をして、ついに、明るい窓のある小暗い家の昇降口の前に、ピタリと馬車をとめる……タチヤーナ・ボリーソヴナの家に着いたのだ。ほら、女主人が自分から通風窓を開けて、こちらを見てうなずいている……「今日《こんにち》は、おばさん!」
タチヤーナ・ボリーソヴナは年のころ五十ぐらい、大きな灰色の出目をしていて、鼻はいくらかお団子だし、頬は赤く、顎《あご》は二重顎であった。顔には愛想のよさと親切の色があふれている。結婚したこともあるが、じきに未亡人になってしまった。タチヤーナ・ボリーソヴナはなかなか立派な婦人である。どこへも出ないで自分の小さな持村で暮し、あまり近所づきあいもせずに、ただ若い人たちだけをお客に呼んで、可愛がっている。ごく貧乏な地主の家に生れたので、ろくな教育を受けなかった。つまりフランス語が話せない。また一度もモスクワヘ行ったことがない。けれどもこういう欠点があるにもかかわらず、さっぱりと気持よくふるまい、ものの感じ方が自由だし、小地主の奥様にありがちな悪い癖にほとんど染まっていないので、まったくもって驚かないわけにはいかない……実際、女が年《ねん》がら年じゅう淋しい田舎に暮していながら、蔭口もきかず、泣き言もならべず、お上手も言わず、騒ぎ立てもせず、息がつまりそうにもならず、好奇心に身をふるわせることもないときては……それこそまさに奇蹟である! 彼女はいつも鼠色の琥珀織《こはくおり》の着物を着て、うす紫色のリボンを垂らした白い室内帽をかぶっている。食べることは好きだが、度をすごすようなことはない。ジャムや、乾し果実や、塩漬けは女中頭にまかせきりである。では一日じゅう何をしてるんだろう? という問が出るかもしれない。読書? いいえ、本なんか読んでいない。それに、まったくの話が、本は何も彼女のような人のために印刷されているのではないんで……来客がなければわがタチヤーナ・ボリーソヴナは、窓の下に坐って靴下を編んでいる。もっともこれは冬のことで、夏なら庭に出て草花を植えたり、水をやったり、子猫を相手に何時間も遊んだり、鳩に餌をやったりする……家事はほとんどやらない。けれども自分が目をかけている近所の若い地主でもお客にやって来ると、タチヤーナ・ボリーソヴナはすっかり元気づく。椅子をすすめるやら、お茶をふるまうやら、話に耳を傾け、笑い興じ、時にはお客の頬をやさしくたたいたりもする。だが自分ではあまり口をきかない。不幸や悲しいことがあったりすると、慰めてやったり、親切な助言を与えてやったりする。どんなに大勢の人が、家庭の秘密や心の秘密を彼女に打ち明けたり、彼女の腕に抱かれて泣いたりしたことだろう!
よくあったことだが、客とさし向いに坐っていて、そっと片肘《かたひじ》をつきながら、さも同情にたえないといった顔つきで相手の眼を見つめ、大そう慈愛に満ちた微笑《ほほえ》みをもらすので、客は思わず、「タチヤーナ・ボリーソヴナ、あなたはなんていい方でしょう! 私の胸の中にあることを、すっかりぶちまけてお話させて下さい」という気持にもなるのだった。彼女の家の小さな居心地のよい部屋にいると、誰でもいい気持になり、ほのぼのとした温かみを感じる。彼女の家の中は、もしそういうことが言えるならば、いつも上天気なのである。タチヤーナ・ボリーソヴナは驚くべき婦人なのに、かくべつ誰も彼女に驚かない。彼女の常識や、しっかりしたところや、自由なところや、人の不幸や喜びを心から悲しんだり喜んだりすることは、言いかえれば彼女のあらゆる長所は、まったく生れながらにして備わっているものであり、彼女にとっては自分のすることが少しも骨も折れなければ、わずらわしくもない……そうとしか考えられない。何も改まって彼女に礼を言うにも当らないのである。わけても彼女は若い人たちの遊びや悪戯《いたずら》を眺めているのが好きだ。胸元《むなもと》に腕を組んで頭をうしろへそらし、眼を細くしてにこにこしながら坐っているうちに、とつぜん溜息《ためいき》をついて言う。「まあ、まあ、うちの子供たちや、可愛いい子供たちや!……」
そこで、いきなり彼女の傍へよって手を取り、こう言いたくなるのである。「ねえ、タチヤーナ・ボリーソヴナ、あなたは御自分の値打《ねうち》をご存じない、何しろあなたは質朴で、学問もおありにならないけれど、じつにすばらしい方なんですから!」彼女の名前を聞くだけでも何かしら親しみのある、懐かしい感じがわいて来るし、その名が好んで口にされ、愛想のよい微笑をさそう。たとえば、私は道で出会った百姓に、「ねえ君、グラチョーフカヘ出るにはどう行ったらいいかね?」ときいたことが何度もあるが、それに対して百姓は、「それは旦那、まずヴャーゾヴォエヘお出《い》でになり、そこからタチヤーナ・ボリーソヴナ様のお屋敷を目当てにお出でなせえ。それから先は誰でも教えてくれますだ」と答えるにきまっていた。しかもタチヤーナ・ボリーソヴナの名を口にするとき、百姓は何かしら特別な頭の振り方をするのである。彼女は身分相応にごく小人数の召使をかかえている。家の中や、物置や、台所は女中頭のアガーフィヤが管理している。これは昔タチヤーナ・ボリーソヴナの乳母《うば》をしていた、この上なく気立てのよい涙もろい女で、今では歯がすっかり抜け落ちている。アントーノフ・リンゴのようにきゅっと緊《しま》り、青みをおびた赤い頬をした、いかにも健康そうな二人の女中がその下で働いている。侍僕《じぼく》や、執事《しつじ》や、食堂係の役目は、ポリカルプという七十になる下男が勤めている。これは大変な変り者で、なかなかの物識《ものし》りで、もとはヴァイオリンひきもしたことがあり、ヴィオッチ〔一七五三―一八二四、イタリヤの提琴家、作曲家〕の崇拝者で、ナポレオンを、つまり彼の言うボナパルト野郎を目の仇《かたき》にしており、ヨウグイスの熱烈な愛好家である。いつも自分の部屋に五六羽のヨウグイスを飼っておく。早春になると何日も何日も籠《かご》の傍につきっきりで、『初音《はつね》』を待ちわびているが、待望の一声を聞くと両手で顔をおおい、「おお、かわいそうに、かわいそうに!」とうめくように言って、さめざめと泣き出すのである。
ポリカルプには手伝いとして、彼の孫である縮れ毛の、はしっこそうな眼をした、ワーシャという十二ぐらいの男の子がつけられている。ポリカルプは孫が可愛くてしようがなく、朝から晩までぶつぶつ小言《こごと》を言っている。彼はまた孫の教育にも当る。「ワーシャ、ボナパルト野郎は悪党だって言いな」と彼が言う。「言ったら何をくれるの、おじいさん?」「何をくれると? 何もやらんよ……一体お前は誰だい? お前はロシア人だろうが?」「おらアムチェンスク人だよ、おじいさん。だってアムチェンスクで生れたもん」「この馬鹿! じゃ、アムチェンスクはどこにあるだ?」「そんなこと知るもんけ?」「アムチェンスクはロシアにあるんだぞ、馬鹿」「ロシアにあるとどうなの?」「どうだと? 亡くなられたミハイロ・イラリオーノヴィチ・ゴレニシチェフ=クトゥーゾフ・スモレンスキイ〔一八一二年の役のロシア軍総司令官〕公爵閣下が、神様のお力をかりて、ロシアの国境からボナパルト野郎を追っぱらわれたのだぞ。このときに、あの『|踊り《プリヤースキ》どころかボナパルト、|靴下留め《ポドヴヤースキ》を落っことし……』って歌が出来たんじゃ。わかったか。公爵閣下がお前の祖国を解放して下さったんだよ」「それがおらに、なんの関係があるのさ?」「ええ、この馬鹿もの、とんまめ! もしも、ミハイロ・イラリオーノヴィチ公爵閣下がボナパルト野郎を追っぱらわなかったら、お前なんざ今ごろ、どこかのムッシュウに脳天をステッキでたたかれているんだぞ。こうやってお前の傍へやって来て、『|やあ、どうしたい《コマン・ヴゥ・ポルテ・ヴゥ》?』てなこと言って、コツン、コツンだ」「おら、そいつのどてっ腹に拳固《げんこ》を喰らわしてやるよ」「ところが、そいつは『|今日は、ようこそこちらへ《ボンジュール・ボンジュール・ヴェネ・ジシ》』てなこと言ってお前の前髪を引っぱるだろうよ、その前髪をな」「そんなら、おら、そいつの足を、足を、ひょろひょろの足をぶったたいてやらあ」「そりゃ、まったく、奴らの足はひょろひょろだがな……でも、お前の両手を縛りにかかったらどうする?」「おら、負けるもんか。馭者のミヘイを呼んで加勢してもらうよ」「どうだいワーシャ、フランス人でもミヘイにはかなうまいな?」「なんの、かなうもんか。ミヘイときたら、えらい強いんだから!」「で、お前たちは奴《やつ》をどうするんだい?」「背中をうんとどやしつけてやる、背中を」「そしたら奴は御免《パルドン》ってわめくだろうよ。『|御免、御免、どうぞ《パルドン・パルドン・セ・ヴゥ・プレエ》』って」「じゃ、おれたちはこう言ってやる。『|どうぞ《セ・ヴゥ・プレエ》』もくそもあるものか、フランス人の畜生め!……」「えらいぞ、ワーシャ!……さあ、そこで、『ボナパルト野郎の悪党め!』とどなってごらん」「そんなら砂糖をおくれ!」「こいつ!……」
タチヤーナ・ボリーソヴナは女地主連中とはあまり親しくしていない。女地主たちは彼女を訪ねるのが気が進まないようだし、彼女はまた彼女で、上手な取り持ちが出来ない。女たちがかしましくおしゃべりするのを聞いていると、ついうとうとと睡気《ねむけ》がさしてくる。はっと気がついて身ぶるいし、眼をあけようとつとめるけれども、またぞろ眠くなってくる。タチヤーナ・ボリーソヴナは一般に女というものを好かない。彼女の友だちに気立てのよいおとなしい青年がいたが、その男には一人の姉がいた。三十八九になる老嬢で、根がこの上なく人のいい女だったが、いささかひねこびていて、取ってつけたようなわざとらしいところがあり、ともすれば有頂天になる癖があった。彼女に弟がしばしば、近所の女地主タチヤーナのことを話して聞かせた。ある日のこと、わが老嬢はにわかに馬に鞍《くら》を置くことを命じて、タチヤーナ・ボリーソヴナのところへ出かけた。裾長《すそなが》の着物を着て、帽子をかぶり、緑色のヴェールを垂らし、髪を振り乱して彼女は玄関へ入って来た。|水の精《ルサールカ》でもやって来たのかとあっけにとられているワーシャを尻目に、彼女はあたふたと客間に駆けこんだ。タチヤーナ・ボリーソヴナはびっくりして、立ち上がろうとしたけれども、足がすくんでしまって立つことが出来なかった。「タチヤーナ・ボリーソヴナ」と女客は哀願するような声で話し出した。「ぶしつけで失礼でございますが、私はあなた様のお友だちのアレクセイ・ニコラエヴィチ・K***の姉でございますの。かねがねお噂《うわさ》を弟から伺っておりましたので、ぜひともお近づきになりたいと存じまして」「それはまあ、ようこそお越しを」女主人はびっくりして口の中でもぞもぞ言った。客は帽子を脱ぎ棄て、捲き髪をぶるっと一振《ひとふ》りすると、タチヤーナ・ボリーソヴナの傍に坐り、その手を取った……「つまり、この方なんだわ」と彼女は物思わしげな、感動したような声で言い出した。「これがあの、気立てがよくて、晴れやかで、気品のある、聖人さながらのお方なんだわ! この方なんだわ、ちっとも飾りけがなくて、しかも深みのある人というのは! 私、うれしくて、うれしくて! 私たち、お互いにどんなに好きになることでしょう! 私、これでやっと、安心出来るわ……私の想像していた通りの方」と彼女は、タチヤーナ・ボリーソヴナの眼をじっと見つめながら、ささやくように附け加えた。「もしかしたら、あなたは私のことを怒っていらっしゃるんじゃなくって、ねえ、あなた、え?」「とんでもない、とても喜んでますわ……ときに、お茶でも一ついかがですの?」客は寛容な面持で微笑んだ。「Wie wahr,wie unflectiert.〔なんて正直な、なんてざっくばらんな方でしょう〕」と彼女は独り言のようにつぶやいた。「あなたを抱擁さして下さいな!」
老嬢はのべつまくなしにしゃべりつづけて、タチヤーナ・ボリーソヴナのところに三時間も腰をすえた。彼女は自分の新しい知り合いに、彼女自身の値打を説明してやろうと努めたのである。この予期しない女客が帰るのを待って、哀れな女地主はひと風呂浴びて、菩提樹《ぼだいじゅ》の煎茶《せんちゃ》を何杯も飲み、そのまま寝床に入った。けれども次の日になると老嬢はまたやって来て、四時間も坐りこみ、これからは毎日タチヤーナ・ボリーソヴナを訪問すると約束して引き上げた。彼女は、お察しのように、御当人の言葉を借りて言えば、タチヤーナ・ボリーソヴナの持っている『豊かな天分』を完全に発達させ、育成してやろうと思いついたのである。そしてもしも、第一に、二週間ほどして自分の弟の女友だちに『すっかり』幻滅を感じなかったならば、また第二に、もしも旅の若い学生に夢中になり、すぐさま彼とまめまめしく熱烈に手紙のやりとりを始めるようなことがなかったならば、しまいには、タチヤーナ・ボリーソヴナは、まったくのびてしまったにちがいない。その手紙の中で彼女は、お定まりのように、相手の神聖な、美《うる》わしき生活を祝福し、『挙げてわが身』を犠牲にし、ただ自分を姉と呼んでもらうことのみを求め、だらだらと自然描写を始め、ゲーテ、シラー、ベッティーナ〔一七八五―一八五九、ドイツの女流詩人。『ゲーテとの往復書簡』の著者〕やドイツ哲学までも論じるという始末で――とうとう、不幸な若者を暗澹《あんたん》たる絶望に陥《おちい》らせてしまった。けれども若さはついに勝を制した。ある朝ふと目を覚ますと、自分の『姉にして最良の友』たるこの女に対して、むらむらと狂暴な憎悪の念がこみ上げてきたのである。そして腹立ちまぎれに危うく侍僕をなぐりつけるところだった。それからも長い間、気高い私心なき愛などということを、少しでもほのめかそうものなら、今にもつかみかかりそうな勢いを見せるのだった……さて、そんなことがあってからというもの、タチヤーナ・ボリーソヴナは前よりも一そう近所の女たちとつき合うのを避けるようになったのである。
ああ! けれどもこの世には移ろわぬものとてはない。気立てのやさしい女地主の生活について、私がこれまでお話ししたことはすべて、過ぎ去ったことなので。彼女の家を支配していた静寂《しじま》は永久に破られてしまったのだ。もうかれこれ一年余りにもなるが、今、彼女の家には甥が、ペテルブルグから来た画家が住んでいるのである。そのいきさつはこうである。
八年ほど前、タチヤーナ・ボリーソヴナの家に、年のころ十二ぐらいの男の子がいた。これは死んだ兄の子で、名をアンドリューシャ〔アンドレイの愛称〕と言い、よるべのないみなし児《ご》であった。アンドリューシャは澄んだ、うるおいのある大きな眼に、小さな可愛い口をして、鼻は筋が通り、額《ひたい》は美しく秀《ひい》でていた。静かな、やさしい声で話し、きちんと行儀正しくふるまい、お客に甘え、お客の用をたしてやり、孤児らしい、いじらしげな様子で叔母さんの手に接吻するのだった。お客が来ると、いち早く肘掛《ひじかけ》椅子を持って来る。悪戯《いたずら》一つするわけではなかった。カタリという物音もさせない。部屋の隅っこへ行って黙って本を読んでいるだけだが、そのつつましやかでおとなしいことといったら、椅子の背にもたれかかることさえしないくらいである。お客が入って来ると、わがアンドリューシャは立ち上がり、お上品に微笑して、顔を赤らめる。お客が出て行くと、また腰を下ろして、ポケットからブラシと懐中鏡を取り出し、髪をなでつける。ごく幼いときから彼は絵を描《か》くのが好きだった。紙の切れっぱしを手に入れると、すぐさま、女中頭のアガーフィヤに鋏《はさみ》を借りて、紙を念入りに真四角に切り、まわりに縁《ふち》どりをして仕事に取りかかる。瞳《ひとみ》の大きい眼だとか、ギリシャ風の鼻だとか、煙突から煙が螺旋形《らせんけい》に出ている家だとか、まるでベンチのようなかっこうの『|前向き《アンファス》』の犬だとか、木に鳩が二羽とまっている図だとかを描《か》いて、それに、『何年何月何日、マールイエ・ブルイキ村にて、アンドレイ・ベロヴゾーロフ画《えが》く』と署名するのである。タチヤーナ・ボリーソヴナの命名日の前の二週間ばかりというもの、彼はとりわけ熱心に精をだした。当日ともなればまっ先にやって来てお祝いの言葉を述べ、バラ色のリボンで縛った巻物を叔母さんに捧げる。タチヤーナ・ボリーソヴナは甥の額に接吻して、結び目をほどく。巻物が拡げられると、好奇心に輝いている叔母さんの眼の前に、数本の円柱が立ちならび、中央に祭壇のある神殿を描き、それに大胆な陰影を施《ほどこ》した絵が現われる。祭壇の上ノは心臓が燃えさかり、花束が載っていて、一方、上部の曲がりくねった飾り枠《わく》にはくっきりと浮き出た文字で、『叔母さんにして恩人なるタチヤーナ・ボリーソヴナ・ボグダーノワヘ、尊敬し愛する甥より、深き愛慕のしるしに』と書いてある。これを見るとタチヤーナ・ボリーソヴナはもう一度甥に接吻して、一ルーブリ銀貨を与える。けれども彼女は甥のことをそんなに可愛いいとは思わなかった。アンドリューシャの卑屈なのがあまり気に入らなかったからである。その間にもアンドリューシャはずんずん大きくなっていった。タチヤーナ・ボリーソヴナは甥の行く末を心配しだした。ところが、思いがけない事態が彼女を窮境から救い出した……
それはつまり、こういうわけである。今から八年ばかり前のある日のこと、六等文官で勲章《くんしょう》所持者であるピョートル・ミハイルイチ・ベネヴォレンスキイ氏なる人物が彼女のところへ立ち寄った。ベネヴォレンスキイ氏はかつて、すぐ近くの郡役所のある町で官吏をしていて、タチヤーナ・ボリーソヴナの家へ足繁く出入りしたものであった。その後ペテルブルグに移り、本省詰めとなり、かなり重要な地位にのし上がったが、公用でしばしば旅行をしているうちに、ふと自分の昔なじみのことを思い出し、『村の静寂《しじま》に抱《いだ》かれて』二日ばかり公務の疲れを休めようと考えて、彼女のところへ立ち寄ったのである。タチヤーナ・ボリーソヴナは例によって親切に彼を迎えた。で、ベネヴォレンスキイ氏は……けれどもこの話を進める前に、親愛なる読者よ、この新しい人物を御紹介させていただきたい。
ベネヴォレンスキイ氏は小肥りで、中背の、見たところ物柔かな人で、足は短く、手はむっちりとふくらんでいる。ゆるやかな、まことに小ざっぱりした燕尾服を身につけ、高い、幅広のネクタイをしめ、雪のように白いワイシャツを着ている。絹のチョッキには金鎖をぶら下げ、人差し指には宝石入りの指環をはめており、薄亜麻色のかつらをかぶっている。話しぶりは教えさとすようにねんごろで、おだやかで、歩くにも音を立てず、気持のよい微笑を浮かべ、気持よく眼を動かし、ネクタイに気持よく顎を埋める。つまり、概して気持のよい人物であった。その心がまた生れつきこの上なく善良であった。容易に泣いたり、有頂天になったりする。その上、芸術に対しては欲得を離れた熱情に燃えていた。それこそ本当に欲得を離れてである。というのは、ベネヴォレンスキイ氏は、正直に言って、芸術のことなどまったく何一つわからなかったからである。一体どこから、どんな神秘的な不可解な法則によって、こうした熱情が彼のところに湧いて来たのか、不思議に思われるくらいであった。見たところ、彼は実際的な、そんじょそこらにざらにいる人間のようであった……とはいえわがロシアには、このような人間がかなりたくさんいるのである。
芸術や芸術家に対する愛はこれらの人びとに、なんとも言いようのない甘ったるさを与えている。こういう連中とつき合ったり、話をしたりするのは苦痛である。何しろ彼らときたら、まるで蜂蜜を塗りたくった丸太棒のようなものだから。例えば、ラファエル〔一四八三―一五二〇、イタリヤ文芸復興期の画家〕をそのままラファエル、コレッジオ〔一四九四―一五三四、イタリヤ後期ルネッサンス時代の画家〕をそのままコレッジオとはけっして言わない。『神のごときサンツィオ、比類なきデ・アレグリス』と言い、必ず|O《オー》に力を入れて言う。お国育ちの、自惚《うぬぼ》れの強い、策を弄《ろう》する凡才を片っぱしから天才《ゲーニイ》に祭り上げる。いや、もっと正確に言えば、天才《ヘーニイ》〔「ゲーニイ」を「ヘーニイ」と言うのは西欧的な気取った発音〕に祭り上げるのだ。イタリヤの青い空とか、南国のレモンとか、ブレンタ河畔のかぐわしき風などという言葉は彼らの口癖である。「ああ、ワーニャ、ワーニャ」だの、「ああ、サーシャ、サーシャ」だのと感に堪えない様子で語り合う。「南の国へ行きたいな、南の国へ……何しろ僕たちは、心はギリシャ人なのだから、古代ギリシャ人なのだからな!」展覧会へ行くと、あるロシア画家のある作品の前あたりで、こういう人たちを見ることが出来る(これらの紳士は大部分、熱烈な愛国者であることを指摘しておかねばならない)。彼らは二歩ばかり後じさりして頭をのけぞらせるかと思うと、また画面に近よる。その眼は油のようにねっとりとしたうるおいを一ぱいにたたえている……「ふう、いや大したもんだ」とついに、興奮のあまり、つぶれたような声で言い出す。「まあ魂の、魂のこもっていることといったらどうだ! 本当に真情があふれているじゃないか! 魂が画面にみなぎっておる! おびただしい魂が!……それに構想の妙を得ていること! 実に見事な構想だて!」ところが彼らの客間に飾られている絵ときたらどうだろう! 毎晩のように彼らの家にやって来て、お茶を飲みながら彼らの話に耳を傾ける絵描き連中ときたらどうだろう! 画家連中が彼らに捧げる自分の部屋の透視画はどんなものかと言えば、右手には絵筆があって、磨《みが》き立てた床にはゴミが山とつもっている。窓辺のテーブルには黄色いサモワールがのっていて、御当人は部屋着を着て丸い頭巾をかぶり、片頬には明るい日射しを受けているといった光景である! また熱病やみのような、そのくせ人を小馬鹿にしたようなせせら笑いを浮べて彼らを訪れる長髪のミューズの子らは、なんという連中だろう! それに彼らの家でピアノに向って、金切り声を張り上げている蒼白い顔の娘たちときたらどうだろう! けだし、これぞわがルーシ〔ロシアの古称〕のおきまりなのである。人は美術だけに専心できない、なんでもやるがいい、というわけで。こんなしだいで、これらの愛好家《アマチュア》諸氏がロシア文学、わけても劇文学に有力な庇護《ひご》を与えていることは、少しも怪しむにたらない……『ジャコーブ・サナザール』の類《たぐい》は彼らのために書かれたものだ。何千遍となく書き古された認められざる天才と世人、否《いな》、全世界との闘《たたか》いは、彼らを心から感動させるのである……
ベネヴォレンスキイ氏が訪ねて来た次の日、タチヤーナ・ボリーソヴナはお茶のときに、甥に、お客様に絵をお目にかけなさいと命じた。「この子は絵を描くんですか?」とベネヴォレンスキイ氏はいささか驚いた様子で言って、これはこれは、といった面持《おももち》でアンドリューシャの方をふり向いた。「描きますとも、あなた。大好きなんですよ。先生にもつかないで、一人でやってますの」とタチヤーナ・ボリーソヴナは言った。「どれ、どれ、一つ拝見しましょう」とベネヴォレンスキイ氏が後を引き取った。アンドリューシャは顔を赤らめ、微笑を浮べて、客に自分の画帖をさし出した。ベネヴォレンスキイ氏は、いかにもその道の通《つう》らしい様子で、画帖をめくりはじめた。「うまいね、君」と彼はついに口を切った。「うまい、なかなかうまい」そして彼はアンドリューシャの頭をなでた。アンドリューシャはすかさずその手に接吻した。「本当に、大した才能ですよ!……おめでとう、タチヤーナ・ボリーソヴナ、おめでとう」「でもねえ、ピョートル・ミハイルイチ、ここでは先生を見つけてやることができませんの。町から来ていただくんじゃ高くつきますし。お隣のアルタモーノフさんのところには絵描きさんがいらして、大変お上手な方だそうですけれど、奥様がよその者に教えることをさしとめていらっしゃるんです。気品が悪くなるとか言って」「ふむ」とベネヴォレンスキイ氏は言って、じっと考えこみながら、上眼づかいにアンドリューシャを見た。「まあ、そのことはあとで御相談しましょう」と急に附け加えて彼はもみ手をした。その日のうちに彼はタチヤーナ・ボリーソヴナに、彼女と二人きりで話がしたいと申し入れた。二人は一室に閉じこもった。半時間ほどしてアンドリューシャが呼ばれた。アンドリューシャは部屋に入った。ベネヴォレンスキイは顔をぽっと赤らめ、眼を輝かせながら窓際に立っていた。タチヤーナ・ボリーソヴナは片隅に坐って涙を拭いていた。「ねえ、アンドリューシャ」と彼女はやっと言い出した。「ピョートル・ミハイルイチさんにお礼を申し上げなさい。お前の世話を見て下さるって、ペテルブルグヘ連れてって下さるって」アンドリューシャはその場で息がとまりそうになった。「一つ正直に言ってごらん」とベネヴォレンスキイ氏は威厳と寛容に満ちた声で話しはじめた。「君は絵描きになりたいかね、芸術に神聖な使命を感じているかね?」「僕、絵描きになりたいです、ピョートル・ミハイルイチ」アンドリューシャはわくわくしながら言い切った。「そういうわけなら私も大変うれしい」とベネヴォレンスキイ氏はつづけた。「もちろん、君は、大事な叔母さんに別れるのは辛《つら》いだろう。君はきっと叔母さんの御恩を身にしみて感じていることだろうから」「僕、叔母さんを尊敬しています」とアンドリューシャはさえぎって、眼をしばたたいた。「そりゃ、もちろんだとも、よくわかる、感心なことだ。しかし、考えてごらん、やがて君が成功した暁《あかつき》には……どんなにうれしいか……」「私を抱いておくれ、アンドリューシャ」と気立てのやさしい女地主は口ごもった。アンドリューシャは飛んで行って、彼女の頸筋にぶら下がった。「さあ、今度はお前の恩人にお礼を申し上げるんだよ……」アンドリューシャはベネヴォレンスキイ氏の腹に抱きつき、爪先立ちで伸びをして、彼の手を取って接吻をした。恩人はいかにもそれを受けはしたけれど、あんまり急いですませるようなことはしなかった……子供を楽しませ、満足させなくちゃならないし、そうした方が自分も甘やかせるからである。二日ほどして、ベネヴォレンスキイ氏は出立したが、そのとき自分の新しい養い子を連れ去った。
別れてから最初の三年間は、アンドリューシャはかなりまめに便りをよこしたし、時にはそれに絵を添えてくることもあった。まれにはベネヴォレンスキイ氏も二|言《こと》三|言《こと》書き添えてよこしたが、たいていは賞讃の言葉だった。それから手紙はだんだんまれになって、ついには音信がまったく途絶《とだ》えた。まる一年、甥からはなんの音沙汰もなかった。タチヤーナ・ボリーソヴナがそろそろ心配になりだしたころ、出しぬけに次のような文面の手紙が届いた。
[#ここから1字下げ]
『なつかしい叔母上様!
一昨々日、私の保護者であるピョートル・ミハイルイチさんが亡くなりました。中風の烈しい発作が、私の最後の杖とも柱とも頼む人を奪い去ってしまったのです。もちろん、私も今はもう二十歳です。七年間にずいぶんと腕も上がりました。私は自分の才能には強い自信がありますし、それで暮してゆくこともできると思います。別に気を落したりしませんが、それにしましても、もしご都合がおつきでしたら、さっそく紙幣で二百五十ルーブリお送り下さい。あなたの御手に接吻いたします。敬白』云々。
[#ここで字下げ終わり]
タチヤーナ・ボリーソヴナは甥に二百五十ルーブリ送ってやった。二ヵ月経つとまた無心をいってよこした。彼女は最後の金をかき集めてまた送ってやった。二度目の送金から六週間と経たないうちに、三度目の無心が来た。チェルチェレーシネワ公爵夫人に注文された肖像画を描く絵具代に要《い》るとかいうのであった。タチヤーナ・ボリーソヴナは拒絶した。「そういうことでしたら」と彼は叔母に書いてよこした。「私は田舎へ静養に帰りたいと思います」そして本当に、その年の五月に、アンドリューシャはマールイエ・ブルイキに帰って来た。
タチヤーナ・ボリーソヴナは初め甥だということがわからなかった。手紙から判断して病弱な、やせたアンドリューシャを期待していたのに、自分の眼の前に現われたのは、だだっぴろく血色のいい顔をした、油じみた捲き毛の、肩幅の広い、肥った若者であった。ほっそりした蒼白いアンドリューシャがいつのまにか、がっちりしたアンドレイ・イワーノフ・ベロヴゾーロフになっていた。変ったのは見かけだけではなかった。昔のこせこせした内気や、用心深さや、潔癖は、無頓着な磊落《らいらく》さや、鼻持ちならないだらしなさにかわった。歩くにも左右に身体をゆすぶり、肘掛《ひじかけ》椅子にどっかと身を投げ出し、無造作にテーブルの上にのしかかり、長々と寝そべり、大口を開けて欠伸《あくび》をした。叔母さんや召使たちに対する態度も厚かましかった。「おれは画家なんだぞ、自由人なんだぞ! 気をつけろ!」といった調子で。何日も何日も絵筆を手にしないことがあった。ひとたびいわゆるインスピレーションが湧いて来ると、まるで酔っぱらってでもいるかのように、鈍重に、ぎこちなく、うるさく御託《ごたく》をならべ立てる。頬は下卑《げび》た赤さに燃え立ち、眼はどんよりしてくる。自分の才能や、成功や、いかに自分が進歩し、前進しつつあるかを講釈し出す……ところが実際は、彼の力量は、曲がりなりにも肖像画を描くくらいがせい一ぱいとわかった。彼はまったくの無学もので、何一つ読むわけでなかった。それに画家がなんで本なんか読む必要があろう? 自然、自由、詩――それこそ彼の領分なのだ。何ごとにも頓着せずただ捲き髪を振り立てて、ウグイスのようにさえずり、ジューコフ・タバコをやみくもに吹かしておればいいのだ! ロシア人の剛胆《ごうたん》も結構だが、それも人によりけりである。無能なポレジャーエフの亜流に至っては鼻持ちがならない。わがアンドレイ・イワーヌイチはとうとう叔母さんの家に住みついてしまった。無料《ただ》の飯が彼の好みに合ったものと見える。来客は彼を見るとすっかり憂欝になってしまう。彼はよくピアノに向って(タチヤーナ・ボリーソヴナの家にはピアノもあったので)、『勇ましいトロイカ』を一本指でたどたどしく弾《ひ》きはじめる。和音を響かせ、キーをたたいて、何時間も立てつづけにワルラーモフの『淋しい一本松』とか、『いや、いや、医者《せんせい》、来ちゃだめよ』などいうロマンスを苦しそうにうなる。両の眼は脂《あぶら》ぎり、頬は太鼓のようにてらてら光りだす……そうかと思うとだしぬけに、『情欲の浪よ鎮《しず》まれ』などとわめきだす……タチヤーナ・ボリーソヴナはぞっとして思わず身ぶるいするのである。
「本当に驚いてしまいますよ」と彼女はいつか私に言った。「このごろはなんだってあんな歌ばかり作るんでしょう、なんだか捨鉢《すてばち》みたいな。私どもの若い時分とはまるで違いますよ。そりゃ、悲しい歌もありましたけど、聞いててやはり気持のいいものでした……例えば、
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野原で待っているものを、
なんでそなたは来てくれぬ。
涙のかわくひまもなく、
野原で待っているものを……
ああ、やっと野原へ来るころにゃ、
みじかい夜が明け初《そ》める!」
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タチヤーナ・ボリーソヴナは悪戯《いたずら》っぽく微笑した。
『われはなやまし、われは苦し』と隣の部屋で甥がうなりだした。
「いいかげんにおし、アンドリューシャ」
『つらき別れに心いたむ』となおも歌い手は歌いつづけた。
タチヤーナ・ボリーソヴナは困ったものだというように頭を振った。
「本当に絵描きはもうこりごりですよ!……」
それから一年経った。ベロヴゾーロフは今だに叔母さんの家に住んでいるが、なおもいつかはペテルブルグヘ行く心づもりでいる。彼は田舎へ来てから一そう横肥りになった。叔母さんは――まさかと思われようが――この甥を眼の中に入れても痛くないといった可愛がりようである。また近所の娘たちは彼を恋いしたう始末である……
昔からの知り合いの多くは、タチヤーナ・ボリーソヴナのところに行かなくなった。
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死
私の隣人に猟の好きな若い地主がいる。よく晴れた七月のある朝、私は馬に乗って彼のところに立ち寄り、一しょにエゾヤマドリを撃ちに行かないかと言った。彼は同意した。「ただしかし」と彼は言った、「うちの柴山を通って、ズーシャの方へ行きましょう。ついでにチャプルイギノを見たいので。あなたはうちの槲《かしわ》の森をご存じでしょう? 今、あすこを伐《き》らしているのです」「行きましょう」彼は馬に鞍を置くように命じ、猪《いのしし》の頭を象《かたど》った青銅《ブロンズ》のボタンのついた緑色のフロックコートを着、毛糸で縫い取りをした獲物袋と銀の水筒をぶら下げ、肩には新しいフランス製の銃をかつぎ、まんざらでもない様子で鏡の前でと見こう見した後、猟犬のエスペランス〔フランス語で「希望」の意〕を呼んだ。この犬は、大変に気立てはいいけれども頭にちっとも毛のない老嬢《オールド・ミス》の従姉《いとこ》から贈られたものである。私たちは出かけた。私の隣人がお供《とも》につれていったのは、一人は名前をアルヒープという村の小頭《こがしら》で、四角な顔をし、古代人のように頬骨の発達した、小肥りのずんぐりした百姓である。今一人はつい最近バルチック海沿岸地方から雇い入れた管理人で、ゴッドリーブ・フォン・デル・コック氏という名の、年は十九ぐらい、やせた、薄亜麻色の毛をした、近眼で、撫《な》で肩の、頸《くび》の長い若者であった。私の隣人にしてからがつい最近この領地を手に入れたばかりである。叔母さんにあたる五等文官夫人カルドン=カターエヴァから、遺産として彼の手に入ったのだが、この叔母さんたるや並はずれたふとっちょで、寝床に横になりながらも、いつまでも哀れっぽくうなっている始末だった。私たちは『柴山』へ乗り入れた。「お前たちはここの空地《あきち》で待っててくれ」とアルダリオン・ミハイルイチ(私の隣人)は伴《とも》の者に向って言った。ドイツ人はお辞儀をして、馬を下《お》り、ポケットから本を取り出して――それはヨハンナ・ショーペンハウァー〔哲学者アルトゥール・ショーペンハウアーの母。一七六六―一八三八〕の小説らしい――、藪《やぶ》かげに坐りこんだ。アルヒープは日向《ひなた》に残ったまま、一時間の間すこしも動かなかった。私たちは藪の中をしばらく歩きまわったが、雛《ひな》どり一羽みつからなかった。アルダリオン・ミハイルイチは森へ行ってみたいと言いだした。私自身もその日はなんだか、いい獲物にありつけそうもない気がしていた。そこで彼の後からぶらぶらついて行った。私たちは空地に引き返した。ドイツ人は読みさしのページにしるしをつけて、立ち上がり、本をポケットにしまいこむと、尾の短い、ちょっとでもさわるとすぐにいなないて後脚で蹴るというやくざ馬に、やっとのことでまたがった。アルヒープはぶるっと身ぶるいして、両の手綱を一度にぐいと引きしぼり、足をばたばた動かすと、ぼんやりしていた馬も、とうとう、仕方なしに歩き出した。私たちは出発した。
アルダリオン・ミハイルイチの森を、私は子供のときから知っている。私のフランス人家庭教師であるデジレ・フルーリイ氏というこの上ない善良な男(もっともこの先生は毎晩私にレルア水を飲ませたので、私の健康を危うく一生涯台なしにしてしまうところだった)につれられて、よくチャプルイギノヘ散歩に行ったものである。この森全体はおよそ二三百本の大きな槲《かしわ》の木とトネリコの木から成っていた。形のよい、頑丈な幹は、クルミやナナカマドの金色に透きとおった緑の葉の上に見事に黒々と浮き出し、梢近くでは、澄み切った青空にしなやかな輪廓を描き、そこではもはや、太い、節《ふし》くれだった枝を、テントのように張り拡げている。オオタカや、コチョウゲンや、チョウゲンボウなどが、そよともしない梢の下かげをさっと風を切って飛びまわり、シマゲラは厚い木の皮をコツコツと威勢よくつっついている。クロツグミのよく徹《とお》る鳴き声が、コウライウグイスの調子の変りやすい叫び声につづいて、思いがけなく繁った樹の葉の中から聞えてくる。下の藪ではヤブウグイスや、ヒワや、キクイタダキがさえずったり歌ったりしている。アトリが小径《こみち》をすばしこく走り歩く。白兎が用心ぶかく『ちんばをひきながら』、森の縁《へり》を忍び足で通った。赤みがかった葉色のリスが木から木へと敏捷《びんしょう》に跳び移り、頭上高々と尾を上げては、不意に立ちどまる。高く盛り上がったアリ塚のそばの、切紙細工のように美しいワラビの葉のかすかなかげになっている草の中には、スミレや鈴蘭の花が咲いており、青タケ、粟タケ、ハラタケ、槲《かしわ》タケ、赤ハエトリダケなどが生えている。広い藪の間の草地には野苺が鮮やかな紅《くれない》色を見せている……それにしても森の中の木蔭のすばらしさといったら! 昼|日中《ひなか》の暑い盛りでも、まるで夜中のようである。静寂、香気、ひやりとした涼しさ……私はチャプルイギノで楽しい時を過したものであった。そこで今、あまりにもよく知っているこの森に馬を乗り入れたとき、正直なところ、私はそぞろもの悲しい気持におそわれたのである。一八四〇年〔一八四〇年は猛烈な寒さがつづきながらも十二月の末まで雪が降らなかった。草木はみな霜枯れてしまい、多くの美しい槲の森もこの無慈悲な冬に滅ぼされた。元通りにするのはむずかしい。土地の生産力は目に見えて弱まった。『禁伐林』(聖像を持って通りすぎたところ)にも、昔のように気高い木立はなくなり、白樺やヤマナラシが勝手に伸びている。他にロシアでは植林の方法を知らない〈原註〉〕の破滅的な、雪のない冬は私の旧友――槲やトネリコをも容赦しなかった。木々は枯れ果て、裸になり、ところどころ肺病やみのように生気のない緑の葉におおわれて、『元の面影はないまでも、いつしか取って代った』若木の林の上に悲しげにそびえている……中には下の方にまだ葉を繁らせて、怨《うら》むがごとく、絶望するがごとく、生気のない折れた枝を高く上にさしのべているものもある。中には昔のように豊かでもなければ、あり余るほどでもないにせよ、なおかなりこんもりと繁った葉の間から、太い、乾《ひ》からびた、枯れ枝をつき出しているのもある。もう木の皮がすっかり落ちてしまったのもある。また、とうとう倒れてしまって、死骸のように地べたで腐りかかっているのもある。こんなことになるなんて、誰が予想できただろう――木蔭が、チャプルイギノで木蔭がどこにも見当らなくなったのだ! 私は死にかけている木々を眺めながら考えた。「どうだ、きっと、お前たちは恥かしいだろうな、悲しいだろうな?……」ふとコリツォフ〔一八〇九―四二、ロシアの詩人〕の詩が頭に浮ぶ。
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高らかな言葉、
誇りにみちた力、
王者の勇気は
どこに失《う》せたのか?
生気ある緑の色は
今いずこに?……
〔コリツォフの詩『森林』――「ア・エス・プーシキンの追想にささぐ」の一節、一八三七年作〕
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「これはどうしたわけですかね、アルダリオン・ミハイルイチ」と私は切り出した。「どうしてこの木を翌年すぐに伐ってしまわなかったのです? これじゃ、そのころの一割にも売れないでしょうに」
彼はただ肩をすくめただけだった。
「そんなことは叔母にきいて下さい。何しろ商人たちがやって来て、お金持参で、うるさくつきまとったもんですよ」
「Mein Gott! Mein Gott!(ああ、ああ!)」とフォン・デル・コックは一足ごとに叫んだ。「なんというイタツラだ! なんというイタツラだ」〔ロシア語の「ジャーロスチ」(あわれ)を「シャーロスチ」(いたずら)と、ドイツ訛《なまり》で発音したため、言葉の意味がまるで変ってしまったのである〕
「何が悪戯《いたずら》なんだね?」隣人は笑いながら言った。
「つまり、私はその、イタイタシイと言うつもりだったのです」(知っての通りロシア語をついに物にしたドイツ人『召使』はみな、奇妙な発音をするのである)
地べたに横たわっている槲《かしわ》の木はわけても彼を残念がらせた。それも無理のない話である。というのはどこかの粉屋だったら、高い買い値をつけたことであろうから。その代り小頭のアルヒープは平然と落ち着きはらって、少しも悲しみの色を見せなかった。それどころか、まんざらでもない様子で、倒れた木を跳び越えながら、鞭でピシピシたたいていた。
私たちが伐り出し場にたどりついたとき、不意にメリメリと木の倒れる音がしたかと思うと、それにつづいて、叫び声とがやがや騒ぐ人声が聞えてきた。と、やがて繁みの中から若い百姓が、まっ蒼になり、髪をふり乱してこちらへ跳び出した。
「どうした? どこへ行く?」とアルダリオン・ミハイルイチが声をかけた。
「ああ、旦那様、アルダリオン・ミハイルイチ、大変です!」
「どうしたんだ?」
「マクシムが、旦那様、木の下敷きになりました」
「そりゃまたどうしてだね?……請負師《うけおいし》のマクシムかい?」
「そうですよ、旦那様。わしらがトネリコの木を伐っているのを、親方は立って見ていたんです……しばらく立っていて、それから水を飲みに井戸の方へ歩き出しました。咽喉《のど》が乾いたとかで。と不意にトネリコがミシミシいい出して、親方の真上に倒れていくんです。わしらは、逃げろ、逃げろ、逃げろってどなりました……脇の方へ逃げ出せばよかったんですが、まっすぐ前に駈け出したもんで……おびえてしまったんです、きっと。トネリコの上枝がおっかぶさってしまっただ。どうしてこんなに早く倒れたのやら――わけがわかりません……きっと芯《しん》が腐っていたんでがしょう」
「それで、マクシムはやられたのかい?」
「そうなんで、旦那様」
「こと切れたか?」
「いいえ、まだ息はあります。でも、何しろ手足がおっぴしゃげちまったんで。わしはこれから一っ走りして、セリヴェルストイチを、医者を迎えに行くところです」
アルダリオン・ミハイルイチは小頭に、馬を飛ばして村へ戻り、セリヴェルストイチを呼んで来るように命じて、自分は大急ぎで伐り出し場に馬を走らせた……私は後につづいた。
行って見ると、かわいそうにマクシムは地べたに横たわっていた。十人ほどの百姓がその周りに立っていた。私たちは馬を下りた。彼はほとんどうなり声も立てない。ときおり眼を大きく見開いては、びっくりしたようにあたりを見まわし、紫色になった唇を噛《か》んだ……顎はぶるぶる震え、髪の毛は額にベットリと粘りつき、胸ははげしく波打っている。彼は死にかけているのであった。菩提樹の若木の淡い影が彼の顔の上を静かに動いていた。
私たちは彼の傍に屈《かが》みこんだ。彼はアルダリオン・ミハイルイチの顔を見分けた。
「旦那様」と彼はやっと聞き取れるほどの声で言い出した。「お坊さんを……迎えに……やって下せえまし……神様の……罰が当ったんです……足も、手も、すっかり砕《くだ》けちまって……今日は……日曜日だに……わしが……わしが……野郎どもに暇をやらなかったもんだから」
彼は口をつぐんだ。息が詰りそうになったのである。
「わしの金は……嬶《かかあ》に……嬶《かかあ》にやって下せえ……さっぴいて……このオニシムが知ってますだ……誰に……どれだけ借りがあるかは……」
「医者を呼びにやったからね、マクシム」と私の隣人は口を切った。「きっと、まだ死にやしないよ」
彼は眼を開けようとして、やっとのことで眉と瞼《まぶた》を吊り上げた。
「いいえ、駄目です。そら……そら、やって来る、死神が、そら……皆の衆、許しておくれ、もしおれが何か悪いことを……」
「神様は許して下さるよ、マクシム・アンドレーイチ」と百姓たちは一せいにうつろな声で言って、帽子を脱いだ。「お前さんもおれたちを許しておくれ」
彼はとつぜん絶望したように頭をふり、痛々しげに胸を突き出したが、またもやぐったりとなった。
「それにしても、ここで死なせるわけにはいかない」とアルダリオン・ミハイルイチが叫んだ。「おいみんな、あそこの馬車の上から筵《むしろ》を持って来てくれ、病院へ連れていこう」
二人ばかり馬車の方に駈け出した。
「おら……スイチョーフカ村のエフィームから……」と死にかかっている男がまわらない舌で言い出した。「昨日、馬を買って……手付けをやってある……だから馬はおれのだ……あれも……嬶《かかあ》に……」
百姓たちは彼を筵の上に移しはじめた……彼は撃たれた小鳥のように全身をピクピク震わせたが、やがて身体はまっすぐに伸びた……
「死んじまった」百姓たちはつぶやいた。
私たちは言葉もなく馬に乗って出発した。
哀れなマクシムの死は私をもの思いに沈ませた。ロシアの百姓は驚くべき死に方《かた》をする! 臨終の心境は無頓着とも、愚鈍とも言うことが出来ない。まるで儀式を行うかのように、冷やかに、あっさりと死んでゆくのである。
数年前に別の隣人の村で一人の百姓が、穀物乾燥小屋でひどいやけどをしたことがあった(もしも通りがかりの町の者が半死半生の彼を引っぱり出してやらなかったら、そのまま小屋の中で焼け死んでしまったことだろう。町の者はまず水桶にざぶりとつかってから、走った勢いで、めらめら燃えている庇《ひさし》の下の戸を突き破ったのである)。私は見舞いに彼の家へ立ち寄った。百姓屋の中は暗く、むっとして、煙っぽかった。病人はどこだね、と私はきいた。「ほら、あそこの煖炉上寝台《レジャーンカ》の上ですよ、旦那様」としょげ返った女房が歌うように言葉を長く引っぱって答えた。傍へよって見ると、百姓は、裘《かわごろも》を引っかぶって寝ており、苦しそうに息をしている。「どうだね、気分は?」病人は煖炉《だんろ》の上でごそごそ動きだして、起き上ろうとする。しかも全身やけどで、死にかけているのだ。「そのまま、そのまま、寝てなさい……で、どうだね、様子は?」「知れたこって、よくありません」と言う。「痛むかい?」黙っている。「何かほしいものはないか?」黙っている。「お茶でも届けようか?」「いりましねえ」私は傍を離れて長椅子に腰を下ろした。坐っているうちに、十五分、三十分と経つ――家の中は墓場のようにひっそりと静まり返っている。隅の聖像の下のテーブルのかげに隠れて、五つぐらいの女の子がパンを食べている。母親がときおり女の子を嚇《おど》かす。玄関で人の足音や、コツコツいう物音や、話し声がする。兄嫁がキャベツを切っているのだ。「おい、アクシーニヤ!」と、やっと病人が口を切った。「何だね?」「クワスをくれ」アクシーニヤが病人にクワスを与えた。またもや沈黙。私は小声できく。「聖餐《せいさん》はいただいたのかい?」「はい」すると、つまり、用意はすっかりできているのだ。今はただ死を待つばかりである。私はたまらなくなって外へ出た……
それからまた、思い出すが、あるときクラスノゴーリエ村の病院に、熱心な猟人で、医者の助手をしているカピトンという知人を訪れたことがある。
この病院はもとの地主屋敷の離れであった。病院を建てたのは女地主自身であって、つまり入口のドアの上に『クラスノゴーリエ病院』と白い文字で書いた空色の板を打ちつけさせ、手ずからカピトンに、患者の名前を記入する赤いアルバムを手渡したのである。このアルバムの第一ページには、情け深い女地主のおべっか者で、忠勤者の一人でもある男が、次のような詩の文句を書きつけていた。
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Dans ces beaux lieux, ou regne l'allegresse,
Ce temple fut ouvert par la Beaute;
De vos seigneurs admirez la tendresse,
Bons habitans de Krasnogorie!
(よろこびさかる美《うる》わしの地に、
佳《よ》き人ありてこの宮居を建てたもう、
みあるじの徳をたたえよ、
クラスノゴーリエの里びとたち!)
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また別の御仁《ごじん》がその下に書き添えて、
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Et moi aussi j'aime la nature!
Jean Kobyliatnikoff
(われもまた自然を愛す!
ジャン・コブイリャートニコフ)
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助手は自腹を切って寝台を六つ買いこみ、祝福しながら、神の子の治療に取りかかった。病院には彼のほかにもう二人勤めていた。頭の変な彫物師《ほりものし》のパーヴェルと、料理女の仕事をしている片手の不自由なメリキトリーサという百姓女である。この二人は薬を調合したり、薬草を乾したり水に浸《ひた》したりした。熱病患者を取り鎮めるのも彼らの仕事だった。気違いの彫物師は見るからに気むずかしそうで、口数が少い。毎晩のように『美わしきヴィーナス』の歌をうたって、通りすがりの人を見ると傍へより、マラーニヤとかいう娘と一しょにしてくれ、とせがむのである。その娘はとっくの昔に死んでしまったのに。片手の不自由な百姓女は彼を打って、七面鳥の番をさせるのであった。さて、私はある日のこと、助手のカピトンのところにいた。私たちがこの間の猟の話をはじめかけたとき、とつぜん一台の百姓馬車が外庭に乗りこんで来た。馬車には、粉屋だけにしか見られない並はずれて肥った馬がつけてある。馬車には新しい百姓外套を着て、ごま塩の顎鬚《あごひげ》を生やした、がっしりした百姓が乗っていた。「やあ、ワシーリイ・ドミートリチ、さあどうぞ……」とカピトンは窓から叫んで、「リュボーフシノの粉屋ですよ」と私に耳打ちした。百姓はうなりながら馬車を下りて、助手の部屋へ入って来たが、眼をキョロキョロさせて聖像を探すと、十字を切った。「ときにどうです、ワシーリイ・ドミートリチ、何か変ったことでもありませんか?……おや、工合が悪いようですな? 顔色がよくない」「はい、カピトン・チモフェーヴィチ、なんだか調子がよくなくって」「どうしたんです?」「まあ、こういう訳《わけ》でして、カピトン・チモフェーイチ。先だって町でひき臼《うす》を買ったんです。で、家へ持って帰って、さて馬車から下ろしにかかったときに、ちょっと無理をしたら、その、つまり腹の中で何か破《やぶ》けでもしたみたいに、急にぎゅうっとなったんです……それからというものはずっと身体の工合が悪いんでして。今日なんかはひどく調子が悪いんでさ」「ふむ」とカピトンは言って嗅《か》ぎタバコを嗅いだ。「つまり、脱腸だな。ところでそれがあったのは大分前のことですか?」「今日で十日目なんで」「十日目?」(助手は歯の間から空気を吸いこんで首を振った)「一つ見せてもらいましょう」「いや、ワシーリイ・ドミートリチ」と彼はようやく口を切った。「お気の毒だが、よくないようだ。この病気は生やさしいもんじゃない。ここへ入院しなさい。私ができるだけのことをしてあげるから。もっとも、請《う》け合うことはできないが」「そんなに悪いんで?」と粉屋は驚いてつぶやいた。「そうです、ワシーリイ・ドミートリチ、悪いですよ。ここへ来るのがもう二日早かったら、なんでもないこった、けろりとなおっただろうに。今じゃもう炎症をおこしているから、気をつけないと壊疽《えそ》になるかもしれない」「そんなことがあるもんですか、カピトン・チモフェーイチ」「嘘じゃないよ」「まさか!(助手は肩をすくめた)こんな下らないことで死ななくちゃならないんですか?」「そんなことは言ってやしない……とにかく入院しなさい」百姓はしばらくじっと考えこんで、床を見つめていたが、やがて私たちの方をちらりと見て、後頭部を掻《か》くと、帽子に手をやった。「どこへ行くんです、ワシーリイ・ドミートリチ?」「どこへって? 知れたことでさ、家へ帰りますよ、そんなに悪いんじゃ。そうと決れば、後始末もしておかなくちゃならないし」「そんなことをしたら身体に毒だよ、ワシーリイ・ドミートリチ、とんでもない。私はそれでなくても、どうしてあんたがここまでやって来られたのか、驚いているくらいだ。入院しなさい」「いや、あんた、カピトン・チモフェーイチ、どうせ死ぬんなら家で死にたい。わしがここで死んじまったら、――家の方はどうなるかわかったもんじゃないでな」「まだはっきりしたことはわからないんだよ、ワシーリイ・ドミートリチ、病気がどうなるか……もちろん、危ないことは実に危ない、議論の余地はない……それだから、つまり、入院しなくちゃならないんだ」(百姓はかぶりを振った)「いいえ、カピトン・チモフェーイチ、入院なんかしない……それよりか、処方箋《しょほうせん》だけ書いて下され」「薬だけじゃ効《き》かないよ」「入院なんかしないってば」「そんなら、好きなようにしてくれ……あとで苦情を言わないでもらうよ!」
代診は帳簿から紙を一枚やぶいて、処方を書き、さらにどうしたらいいか注意を与えた。百姓は紙きれを受取ると、カピトンに五十コペーカ銀貨を渡し、部屋を出て、馬車に乗りこんだ。「じゃ、さようなら、カピトン・チモフェーイチ、悪く思わないでおくれ、もしものことがあったら、後に残った子供らのことは何ぶん頼みますよ……」「おい、入院しなよ、ワシーリイ!」百姓はただ頭を振っただけで、手綱でピシリと馬をたたくと、庭を出て行った。私は往来に出て後を見送った。道はぬかって、でこぼこしていた。粉屋は急ぎもせずにゆっくりと、用心深く馬車を進めた。巧みに馬を御《ぎょ》し、会う人ごとに挨拶を交して……四日目に彼は死んでしまった。
ロシア人は一体に驚くべき死に方をする。多くの故人が今私の胸に浮んで来る。私は君を思い出す、私の旧友で、業|半《なか》ばにして大学を退いたアヴェニール・ソロコウーモフ君、君はすばらしい、気高い人物であった! 君の肺病やみらしい青い顔、君の亜麻色の薄い毛、君のおだやかな微笑、君の感激にみちたまなざし、君の長い手足を、私は今なお眼《ま》のあたり見るような気がする。君の弱々しい、やさしい声がこの耳に聞えるようだ。君は大ロシア人の地主グール・グルピャニコフの屋敷に住んで、フォーファとジョージャにロシア語の読み書きや、地理や歴史を教え、主人グールの気のきかないしゃれも、家令のぶしつけな親切も、悪童どもの性の悪い悪戯《いたずら》も我慢強く耐え忍んだ。苦笑しながら、しかし不平がましいことは言わずに、退屈している奥様の移り気な要求をもみたした。その代り、夜分、夕食のすんだ後では、すべての義務や仕事からやっと解放されて、どんなに君はほっとしたことであろう、幸福を楽しんだことであろう。君は窓辺に腰を下ろして、もの思わしげにタバコをくゆらせる。あるいはまた貪《むさぼ》るように、形の崩れ、脂《あぶら》じみた厚い雑誌のページをめくるのだ。それは君と同じような不幸な宿なしの測量技手が町から持って来てくれたものだ! そのときはあらゆる詩、あらゆる小説がどんなに君の気に入ったことか、君の眼にどんなにたやすく涙が宿ったことか、どんなに満足そうに笑ったことか! 子供のように清らかな君の魂は、人びとに対するどんなに真心ある愛によって、良く美しきすべてのものに対するどんなに気高い同情の念によって、満たされていたことであろう! 正直に言って、君は人並すぐれた才気の持主ではなかった。生れつき記憶力がいいわけでも、勤勉というわけでもなかった。大学ではもっとも出来の悪い学生の一人と見られていた。講義のときは居眠りをするし、試験のときには泰然自若として沈黙を守った。けれども学友の進歩や成功に喜びの眼を輝かせたのは、息をはずませたのは誰あろう? ほかならぬアヴェニールであった……友だちの高遠な使命を盲目的に信じていたのは誰だろう、誇らしげに友だちを賞讃し、むきになって友だちを擁護したのは誰だろう? 人をうらやむことも、おのれを尊しとすることも知らず、欲得をはなれて自分を犠牲にし、自分の靴の紐《ひも》をとくにも値《あたい》しない下らない連中の言うことを、喜んできいたのは誰だろう?……それはみな君、みな君だったのだ、気立てのよいアヴェニールよ! 忘れもしない、家庭教師となって都落ちをするとき、君は胸がはりさけんばかりの思いで友人と別れを告げたのだった。きっと不吉な予感がしたにちがいない……実際、田舎は君によくなかった。田舎には君がうやうやしく耳を傾ける人も、驚くべき人も、愛すべき人もいなかった……住民も、教養ある地主たちも、君をただの教師扱いをした。前者は――乱暴に、後者は――疎略《そりゃく》に君を扱った。おまけに君は風采も上がらなかった。びくびくし、顔を赤らめ、汗をかき、吃《ども》った……君の健康さえ、田舎の空気はなおすことができなかった。かわいそうに君は、ロウソクのようにやせ衰えてしまった! なるほど、君の小部屋は庭に面していた。マハレブ桜、リンゴ、菩提樹などが君の机や、インキ壺や、本の上に軽い花びらをまき散らしていた。壁には青い絹の時計入れがかかっていた。これは別れるときに、やさしい、多感なドイツ娘から、薄亜麻色の毛をした青い眼の家庭教師から贈られたものである。時折昔の友だちがモスクワから訪ねて来て、他人《ひと》の詩を、いや自分の作詩まで持ち出して、君をひどく喜ばせはした。けれども孤独は、教師という身分の堪えがたい隷属状態、そこから脱け出る見込みのないことは、はてしない秋と冬は、しつこく離れない病気は……かわいそうな、かわいそうなアヴェニール!
私がソロコウーモフを訪ねたのは死ぬ少し前であった。彼はもうほとんど歩けなかった。地主のグール・クルピャニコフは彼を家から追い出しもしなかったが、給料を支給することはやめて、ジョージャには別の教師を雇い入れた……フォーファは幼年学校に入れられた。アヴェニールは窓の傍の古い大型安楽椅子に腰を下ろしていた。お天気はすばらしかった。明るいなごやかな秋の空が、葉の落ちた菩提樹の暗褐色の行列の上に、青く見えていた。散り残った、鮮やかな金色の木の葉が、そこここにさらさらとそよぎ、ささやいていた。寒さに傷んだ大地は陽をうけて汗をかき、溶《と》けかかっていた。斜めにさしてくる太陽の紅《くれない》の光が、蒼白い草の上をそっと照らしている。空中に物のはぜるようなかすかな音が感じられる。庭で働いている人たちの話声が澄んで、はっきりと聞えてくる。アヴェニールは着古したブハラ織の寝間着を着ていた。緑色の頸巻はひどくやせ細った彼の顔に、死人のような陰影《かげ》を投げていた。彼は私の行ったのをひどく喜び、手をさしのべ、話しはじめたが、たちまちはげしく咳《せ》きこんだ。私は彼を落ち着かせ、その傍に坐った……アヴェニールの膝の上には、コリツォフの詩を念入りに写したノートがのっていた。彼は微笑しながらその上を軽くトントンとたたいた。「これこそ詩人だよ」とむせび出る咳をやっと抑《おさ》えながら彼はつぶやいて、ようやく聞き取れるくらいの声で朗読をはじめた。
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鷹は翼を
いましめられたのか?
行く手をすべて
封じられたのか?
〔コリツォフの詩「鷹の思い」の一節。一八四〇年作〕
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私は彼をおしとめた。医者は彼に人と話をすることを禁じていたからである。私はどうしたら彼を喜ばすことができるかを知っていた。ソロコウーモフは、いわゆる、学問の『跡をたどる』ようなことはついぞしたことがなかったが、現代の偉大な頭脳が到達したことには興味を持っていた。よく、どこかの隅で友だちをつかまえては、いろいろと聞き出すのだった。耳を傾け、驚き、相手の言葉をそのまま信じ、後で受け売りの知識を得々《とくとく》と吹聴した。とくにドイツ哲学は強く彼の関心をひいた。私は彼にヘーゲルの講釈を始めた(お察しのように、遠い昔のことである)。アヴェニールはなるほど、と感心したように頭を振り、眉を上げ、微笑して、「わかる、わかる!……ああ! すてきだ、すてきだ!……」とささやいた。死にかけている、宿なしの、見棄てられた哀れな男のまるで子供のような好奇心は、正直なところ、涙の出るほど私を感動させた。ここに断っておかなければならないのは、アヴェニールは、世のもろもろの肺病患者とちがって、自分の病気に関して少しも自分を欺《あざむ》こうとしなかったことだ……しかも、どうだろう?――彼は嘆息ももらさず、悲しみもせず、ただの一度たりとも自分の境涯について、ぐちめいたことをほのめかさなかった……
全身の力をふりしぼって、彼はモスクワのこと、友だちのこと、プーシキンのこと、演劇のこと、ロシア文学のことを語り出した。学生時代の楽しかった宴会《コンパ》や、私たちの仲間の熱烈な論争を思い出し、今は亡き二三の友人の名を大そう残念そうに口にした……
「ダーシャを憶《おぼ》えているかい?」と彼はついに附け加えた。「ずいぶんいい人だったなあ! 心の美しい人だった! あの女《ひと》はどんなに僕を愛してくれたことだろう!……あの女《ひと》は今どうしてるかね? かわいそうに、きっと、やせ衰えてしまったんだろう?」
私は病人を失望させるに忍びなかった。――事実、愛するダーシャが今では横肥りに肥り、商人のコンダチコフ兄弟と交際し、紅白粉《べにおしろい》をつけて、金切り声で話したり、罵《ののし》り合ったりしていることを、一体、なんで彼に知らせる必要があったろう。
それにしても、と私は彼の疲れきった顔を見ながら考えた。彼をここからつれ出すことはできないだろうか? ことによったら、まだなおる見込みがあるかもしれない……けれどもアヴェニールは私の申し出をしまいまで言わせなかった。
「せっかくだが、君」と彼は言った。「どこで死んでも同じことさ。何しろ僕は冬まで生きられないんだから……無用の心配を人にさせることはないだろう? 僕はこの家に住み馴れている。そりゃ、ここの人たちは……」
「意地悪だとでもいうのかい?」私はすかさずこうきいた。
「いや、意地悪じゃないよ! まあ、木で鼻をくくったようなのさ。もっとも、あの人たちに苦情を言うことはできない。近所にはいい人もいる。カサートキンという地主には娘が一人いるが、教養があって、親切で、とても気立てのいい娘で……高ぶってもいない……」
ソロコウーモフはまたしきりに咳をした。
「まあ、何もかも結構だよ」と一休みしてから彼は言葉をつづけた。「タバコを一服のましてもらえたら……このままで死ぬもんかい、きっと一服のんでやる!」と彼はずるそうに片眼をしばたたいて附け加えた。「おかげで、いいかげん生きたし、立派な人たちともつき合った……」
「でも君、せめて身内の者に手紙を書いたら」私はさえぎった。
「なんで身内の者に手紙を? 別に助けてくれるわけじゃなし。死んだことぐらいはわかるだろうさ。こんなことを話したって始まらない……それより、君が外国で見てきたことでも聞かしてくれたら?」
私は話し出した。彼は食い入るように私を見すえた。夕方近く私は出立したが、十日ほどしてグルピャニコフ氏から次のような手紙をもらった。
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拝啓 かねて拙宅に逗留しておりました御友人の大学生、アヴェニール・ソロコウーモフ氏には、一昨昨日《さきおととい》午後二時死去。本日、当教区内の教会にて、費用小生持ちで葬儀を営みましたので、御知らせ申し上げます。故人の依頼により書物およびノート此許《ここもと》お届けいたします。なお所持金二十二ルーブリ五十コペーカは、他の遺品とともに親戚の許に送り届けます。御友人は少しも取り乱すことなく、意識明瞭のままで亡くなりました。拙宅の者一同が最後のお別れをしたときでさえ、なんら心残りの気色を見せませんでした。なお愚妻クレオパトラ・アレクサンドロヴナがあなたによろしくと申しております。御友人の逝去《せいきょ》は愚妻に衝撃を与えた模様であります。もっとも小生はおかげ様にて元気ですから御安心下さい。敬具
ゲー・グルピャニコフ
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他の例がまだいくらでも頭に浮んでくるが、それを全部お話するわけにもいくまい。あと一つだけにとどめよう。
年よりの女地主が私の居合せたところで息を引き取ろうとしていた。司祭が彼女に臨終の祈祷を読みはじめたが、病人が本当に死にかけているのにふと気づいて、大急ぎで彼女に十字架を渡した。女地主は不満そうに少し身を引いた。「そんなに急がなくても、あなた」と彼女は強《こわ》ばった舌で言った。「間に合いますよ……」彼女は十字架に接吻すると、枕の下へ手を入れようとしたが、そのまま息を引き取った。枕の下には一ルーブリ銀貨があった。彼女は自分の臨終の祈祷をしてくれたお坊さんに、お布施《ふせ》を上げようと思ったのである……
いや、ロシア人ときたら実に驚くべき死に方をする!
[#改ページ]
歌うたい
コロトフカという小村《こむら》は、かつては、威勢がよくはきはきした性質のために近郷近在で『やかましや』(本名はつい知られずにしまった)とあだ名されていた女地主のものだったが、今ではペテルブルグのあるドイツ人のものになっている。村は赤裸《せきら》の丘の斜面にあるが、その丘は上から下まで恐ろしい谷によって二分されている。雨風に掘りひろげられ、洗い流された谷は、奈落のように大きく口をあきながら村の通りのまん中をうねり、川よりもたちが悪く――川ならば少なくとも橋を架《か》けることができる――、貧しい村の両側を隔てている。幾本《いくほん》かのひょろひょろの柳が、砂地から成る谷の両側におずおずと生え下がっている。乾き切って銅のように黄色い肌をした谷底には、粘土質の平たい大岩が横たわっている。言うまでもなく、見たところで一向に面白くもない眺めであるが、それでも近在の住民は誰でもコロトフカヘ行く道をよく知っている。彼らは喜んで、しばしばそこへ行くからである。
谷の頂《いただ》きのすぐそばの、谷が狭い裂け目となって始まっている地点からわずか数歩離れたところに、小さな四角い小屋が他の家から離れて、一軒だけポツンと立っている。屋根は藁葺《わらぶき》で、煙突が一本つき出ている。窓が一つ、まるで鋭い眼のように谷間の方を向いており、冬の夜など内に火がともると、どんよりとした酷寒のもやの中に遠くから望まれ、多くの通りすがりの百姓の眼に導きの星となって明滅する。小屋の戸の上方には青い板が打ちつけられている。この小屋は人呼んで『安楽軒《あんらくけん》』という居酒屋である。この居酒屋では酒をおそらく定価より安く売っているわけでもあるまいのに、ここらあたりの同じ類《たぐい》の席よりははるかに客足が多い。それというのも亭主のニコライ・イワーヌイチの人柄によるのである。
ニコライ・イワーヌイチは――かつてはすらりとした縮れ毛の紅顔の若者であったが、今では人一倍肥った、もはや白髪頭のおやじで、むくみ加減の顔と、ずるい中にもおとなしそうな小さい眼をして、脂ぎった額《ひたい》にはまるで糸のように幾筋もしわをよらせている――、もう二十年以上もコロトフカに住んでいる。ニコライ・イワーヌイチは、居酒屋の亭主の大部分がそうであるように、すばしこく、察しのよい男である。別に愛嬌《あいきょう》がいいわけでも、口数が多いわけでもないが、お客を惹《ひ》きつけて逃さないだけの腕をもっている。お客にしてみれば、落ち着きはらった亭主がちらちらと油断のない眼を配っているとはいえ、その穏やかで愛想のよい視線を浴びながら、売台《うりだい》の前に坐っているのが、なんとなく楽しいのである。彼はなかなか常識に富んでいる。地主の暮しも、百姓や町人の暮しも、実によく知っている。やっかいな事件が持上がったときなどは、かなり気のきいた助言もやればできるのだが、用心深いエゴイストだけに、なるべく係り合いになるまいとする。ただ遠まわしにほのめかして、何気なくつい口から出たといったふうに、店のお客に――それも自分の眼をかけている客にかぎる――とるべき道を教えてやる。彼はロシア人にとって重要なことや興味のあることなら、なんでも心得ている。馬やその他の家畜のこと、森林のこと、煉瓦《れんが》、食器、綿織物に革製品、歌に踊りと、なんでも知っている。客のないときには大てい、小屋の戸口の前の地面に細い脚を組んで、袋のようにちょこなんと坐り、通りがかりの者を一々つかまえては、愛想のよい言葉を投げ合う。彼は生涯のうちにいろいろなことを見てきた。彼のところへ『清酒』〔ウォートカのこと〕を買いに来た小士族で、彼に先立ってあの世へ去ったものは十人にとどまらない。百露里四方の中で起っていることならなんでも知っているが、けっしてそれを口外せず、最も炯眼《けいがん》な郡警察分署長の夢にも知らないことさえ知っているくせに、そんなそぶりさえ見せないのである。そしらぬ顔で沈黙を守り、独り笑いをしながら、コップをあちらこちら動かしている。近所の人たちは彼を尊敬している。郡内きっての位の高い地主で、文官ながら閣下と言われるシチェレペーチェンコさえ、彼の家の前を馬車で通りすぎるときにはいつでも、気さくに彼に挨拶をしてゆく。ニコライ・イワーヌイチはまた顔役でもある。名うての馬泥棒に、知り合いの家から盗んだ馬を返させたり、新しい管理人の就任を受けいれまいとする隣村の百姓どもを説きつけたり、等々。といっても、彼がそういうことをするのは、正義を愛する心や、隣人に対する真心から出たものだなどと考えてはならない。どういたしまして! 彼はただ、自分の安静を乱すおそれのあるものは、何ごとによらず予防しようとしているにすぎないのである。ニコライ・イワーヌイチは女房もいれば、子供もいる。彼の女房は、はきはきした、鼻のとがった、眼の鋭い町方の女で、このごろでは亭主と同じようにいくらか肥ったようである。亭主は何ごとにまれ女房を信頼して、金庫の鍵さえ預けてある。酔っぱらってわめく連中は彼女を怖れている。彼女がそういう連中を好かないからである。大して儲けにもならないのに、騒々しいからである。彼女はむしろ、黙りこくっている気むずかしい連中の方が好きだ。ニコライ・イワーヌイチの子供たちはまだ小さい。上の子供たちはみんな死んでしまったが、残っている者は両親にそっくりである。この丈夫な子供たちの利口そうな顔は見ていても楽しい。
堪えがたく暑い七月のある日のことであった。私はのろのろと足を引きずりながら、犬をつれてコロトフカの谷間ぞいに『安楽軒』の方へと登っていった。太陽はいよいよ猛威をふるうかのように中天に燃えさかり、しつようにじりじりと照りつけた。空気は息苦しい埃《ほこり》にみちみちている。日を受けて羽の光沢を輝かせながら、シロハシガラスや大ガラスは嘴《くちばし》をあけて、まるで憐れみを乞うかのように、道行く人をしょんぼりと眺めている。ただスズメだけはしょげもせずに、羽を拡げ、前よりも一そう元気にさえずり、垣根の上で喧嘩をしたり、埃っぽい道から一せいに飛び立って、灰色の群《む》れとなって緑の大麻畑の上を飛びまわっている。私は咽喉《のど》が渇《かわ》いてたまらなかった。近くに水はなかった。コロトフカには、草原地方の村は大ていそうだが、泉や井戸がないので、百姓たちは池から汲んで来た濁《にご》り水を飲んでいる……しかし、一体、誰がこんな胸くその悪くなるような家畜の飲み水を、水だなどと言えよう? 私はニコライ・イワーヌイチのところへ行って、ビールかクワスを一杯もらおうと思ったのである。
正直なところ、コロトフカは四季を通じて、楽しい景色を呈することなどはない。けれども、褐色の半ばくずれた屋根も、この深い谷間も、脚《あし》の長いやせた鶏が心細げにほっつき歩いている、炎熱のために枯れた埃だらけの牧場も、もとの地主屋敷の廃墟《あと》で、今はあたり一面にイラクサや、ブリヤン草や、ニガヨモギなどが生い茂り、窓のかわりに穴がいくつもあいている灰色のヤマナラシの骨組も、ガチョウの羽に表面をおおわれた黒いまるで沸いているような池も、その池の周《まわ》りの半ば乾《ひ》からびた泥土《どろつち》や横にかしいだ堤も(そのほとりのこまかく踏み潰されて灰のようになった土の上では羊の群が、暑さのために苦しそうにあえいだり、くしゃみしながら、もの悲しげに互いに身をすりよせて、しょんぼりとこらえながらできるだけ低く頭を垂れている。この堪えがたい暑さがついには過ぎ去るのを、待ちわびているかのように)、――輝く七月の太陽に容赦なく照りつけられるとき、わけてもこの村は悲哀感をそそるのである。疲れた足を引きずって、私はニコライ・イワーヌイチの家に近づいて行ったが、村の子供らは私の姿を見るといつものようにびっくりして、緊張したけげんな眼でじろじろ見つめた。犬どもは腹を立てて、内臓がすっかり裂けたかと思うばかりに、しゃがれた、敵意ある声で吠えたてたが、一しきり吠えた後でくしゃみをしたり、喘《あえ》いだりしていた。と、不意に、居酒屋の敷居口に、帽子もかぶらず、毛織《フリーズ》の外套を着て、水色の帯を低くしめた背の高い百姓が出て来た。見たところお屋敷勤めの百姓らしい。濃い白髪の毛が乾からびたしわだらけの顔の上にぼうぼうとおっ立っている。彼はせわしげに両手を振りながら誰かを呼んでいるが、その手は明らかに、自分で思っているよりもずっと大きく振りまわされている。もう大分きこし召した様子が、ありありと見える。
「おい、早くこう!」濃い眉毛を懸命に吊り上げながら、彼はまわらぬ舌で言いだした。「早く来いよ、パチクリ! なんておめえはのろまなんだ。だめじゃないか。みんなが待ってるのに、のろのろしてさ……早く来い」
「ああ、今いくよ」というじゃらじゃら声がして、小屋の右手の蔭から背の低い、肥った、跛《びっこ》の男が現われた。かなりさっぱりしたラシャの長い上衣をひっかけて、片袖だけ手を通している。目深《まぶか》にかぶった背の高い、先の尖《とが》った帽子が、この男の円い、ふっくりした顔に、ずるそうな、人を小馬鹿にしたような表情を与えている。小さな黄色い眼がさかんに動いて、薄い唇からは控え目な作り笑いが去らず、尖《とが》った長い鼻は舵《かじ》のようにずうずうしく前方に突き出ている。「今、行くよ」と彼は居酒屋に向って跛をひきながら、言葉をつづけた。「なんでおれを呼ぶんだ?……誰が待っているんだい?」
「なんで呼ぶと?」と毛織《フリーズ》の外套を着た男がとがめるように言った。「お前も唐変木《とうへんぼく》だな、パチクリ。酒屋へ来いって呼んでるのに、『なんで?』もないもんだ。旦那方がずっとお前をお待ちかねだ。トルコ人のヤーシャだの、暴れ旦那だの、ジーズドラの請負師《うけおいし》だの。ヤーシカが請負師と賭《かけ》をしたんだ、ビール一壜を賭けてよ――どっちが勝つか、つまりどっちが上手に歌うかってんだ……わかったかい?」
「ヤーシカが歌うって?」パチクリというあだ名で呼ばれた男が、急に元気づいて言った。「嘘じゃないだろうな、抜作《ぬけさく》?」
「嘘なもんか」と抜作が胸をはって答えた。「お前《めえ》こそつべこべぬかすない。賭をした以上、つまり、歌うにきまってらあな。このテントウ虫の、ペテン師の、パチクリ!」
「じゃ、行こうぜ、間抜け」とパチクリがやり返した。
「まあ、一つおらに、せめて接吻ぐれえしてくれよ、お前さん」と両手を大きく拡げて、抜作がまわらぬ舌で言った。
「とんでもない、まっぴらだ」とパチクリは肘鉄《ひじてつ》をくれながら吐き出すように答えた。それから二人は身体を屈《かが》めて、低い戸口をくぐった。
この話を聞いて私はひどく好奇心をそそられた。トルコ人のヤーシカがこの界隈《まかいわい》きっての歌い手だということは、これまでに一度ならず私の耳にも入ったが、はからずも今日、ヤーシカが他の名人と≪歌いくら≫をするのを聞く好機にぶつかったのである。私は足を早めて、居酒屋の中に入った。
読者諸君のうちで村の居酒屋をのぞいて見る機会を持った方は、おそらくあまり多くないことと思う。けれども、私たち猟人仲間は、どこといって寄らないところはない。居酒屋の構造はしごく簡単である。大ていは薄暗い入口の間《ま》と煙突付煖炉のある部屋から成っていて、煖炉のある部屋は仕切りで二分され、仕切りから奥へはどんな客でも入れないことになっている。この仕切りには、槲《かしわ》の木の広いテーブルの上あたりに、大きな口が縦に切ってある。このテーブル、つまり売台の上で酒を売るのである。切り口の真向いの棚の上には大小さまざまの封印をした角壜《かくびん》がならんでいる。客に当てがわれる部屋の手前の方には長椅子がいくつかと、二三の空樽《あきだる》や隅テーブルがある。村の居酒屋は大部分がかなり暗くて、どの店にもほとんどつきものの、丸太組の壁に貼《は》ってあるけばけばしい彩色の木版画が、ほとんど見えないくらいである。
私が居酒屋『安楽軒』に入ったとき、中にはもうかなり大勢の人が集まっていた。売台の後には、いつものように、ほとんど仕切り口を一ぱいふさぐようにして、雑色の更紗《さらさ》のシャツを着たニコライ・イワーヌイチが立っており、ふっくりとした頬にけだるそうなうす笑いを浮べながら、肥った色白の手で、今しがた入って来た二人、パチクリと抜作に酒を注いでいた。その後の窓に近い片隅には、きつい眼の女房の姿が見受けられた。部屋のまん中にはトルコ人のヤーシカが立っていた。二十三ぐらいのやせてすらりとした男で、水色の裾長な南京木綿《なんきんもめん》の長上衣《カフタン》を着ている。いなせな工場職人といったところで、どうやらあまり丈夫ではなさそうだ。こけた頬、大きなそわそわした灰色の眼、筋の通った鼻、薄い、ピクピク動く鼻の孔《あな》、勾配《こうばい》のある白い額、後へ撫で上げた淡い亜麻色の捲き毛、大きいけれども美しい、表情に富んだ唇――こうした顔立ち全体が、この男が感じやすい熱情的な人間であることを示していた。彼は大変に興奮していた。眼をしばたたき、息をはずませ、両手は熱でもあるように震えていた。いかにも、彼はまさしく熱にうかされていた。つまり、人前《ひとまえ》で話をしたり、歌ったりする人なら誰でも知っている、あの不安な、突然襲い来る熱病である。その傍には四十ぐらいの男が立っていた。広い肩幅、突き出た頬骨、狭い額、タタール人ふうの細い眼、短く平べったい鼻、四角な顎《あご》、黒光りのする髪の毛はブラシのように剛《こわ》い。鉛色を帯びた浅黒い顔の表情、わけても蒼白い唇の表情は、もしもゆったりともの思いに沈んだところがなかったならば、ほとんど兇悪といっていいくらいだった。彼はほとんど身じろぎもせず、軛《くびき》につながれた牡牛のようにのろのろとあたりを見まわすだけである。平べったい真鍮《しんちゅう》のボタンのついた、着古したフロックのようなものを着て、古びた黒い絹のハンカチを太い頸に巻いている。彼は暴れ旦那と呼ばれていた。その真向いの、聖像の下の腰掛けには、ヤーシカの競争相手になるジーズドラの請負師が坐っていた。これはあまり背の高くない、三十ぐらいのがっしりした男で、あばた面《づら》の縮れ毛で、お団子の獅子《しし》っ鼻をしていて、いきいきとした褐色の眼に、薄い顎鬚《あごひげ》を生やしている。彼は尻の下に両手を突っ込んで、じろじろとあたりを見まわし、縁飾りのある粋な長靴を履《は》いた両足を無頓着にぶらぶらさせたり、コトコトいわせたりしている。フラシ天の襟のついた鼠色のラシャの、新しい薄手の百姓外套《アルミヤーク》を着ているが、その襟もとから、頸のまわりにきっちりとボタンをかけた真紅のシャツの端が、くっきりと浮び出していた。戸口の右手に当る、反対側の隅には、肩に大きな穴のある窮屈そうな古ぼけた長上衣《スイートカ》を着たどこかの百姓が、テーブルに坐っている。日光は二つの小さな窓の埃だらけのガラスごしに、淡《あわ》い、黄色っぽい奔流となって降りそそいでいるが、この部屋のいつもの暗闇を追い払うことはできないらしい。あらゆる物が乏しい光で、点々とまるでしみのように照らされているだけである。そのかわり、部屋の中は涼しいくらいで、息苦しい暑さの感じは、ここの敷居を跨《また》ぐが早いか、まるで肩から重荷をおろしたように、けろりと消えうせた。
私がやって来たので――私はすぐにそれと気がついたが――はじめニコライ・イワーヌイチのお客たちはいくらか困惑したようだった。けれども亭主が馴染《なじみ》らしく私に会釈《えしゃく》したのを見ると、彼らは安心してもうそれ以上、私に注意を向けなかった。私はビールを頼んで、ボロボロの上衣を着た百姓のそばの、隅っこに腰を下ろした。
「さあ、どうだ!」と抜作はコップのビールを一息《ひといき》に飲み干すと、出しぬけにどなった。どなりながら彼は両手を奇妙に振りまわしたが、こんなふうに手を振りまわさずには一言も口がきけないと見える。「何をまだ待ってるんだい? やるならやれよ。え? ヤーシャ?……」
「始めた、始めた」とニコライ・イワーヌイチが相槌《あいづち》をうった。
「いいとも、始めようぜ」と冷やかに、自信ありげな微笑を浮べて請負師が言った。
「いつでも」
「おれもだ」とヤーコフが興奮して言った。
「さあ、それじゃ、始めた、始めた」とパチクリがキーキー声で言った。
けれども、みんなが口をそろえて所望しているのに、二人とも始めない。請負師は腰掛けから立ち上がりもしない。どちらも何ごとか待っているかのようである。
「始めろ!」と暴れ旦那が不愛想に、荒々しく言った。
ヤーコフはぶるっと身ぶるいした。請負師は立ち上がり、帯を引き下げ、咳《せき》払いをした。
「どっちから始めるんだね?」と彼は、かすかに声を上ずらせて暴れ旦那にきいた。暴れ旦那は太い脚を大きく拡げ、逞《たくま》しい腕をほとんど肘の辺《あた》りまでだぶだぶのズボンのポケットに突っ込んで、相変らず身じろぎもしないで部屋のまん中に突っ立っていた。
「お前だよ、お前だよ、親方」と抜作がまわらぬ舌で言った。「お前だよ、兄弟」
暴れ旦那は額越《ひたいご》しにじろりと彼を見た。抜作は何やらか細い声を立て、どぎまぎして、天井のどこやらに眼を向けて、肩を動かすと口をつぐんだ。
「くじ引きだ」と暴れ旦那が一言一言くぎりをつけて言った。「それから売台の上に壜《びん》をのっけるんだ」
ニコライ・イワーヌイチは身を屈《かが》め、ふうふう言いながら、棚の上から酒壜を取り出し、テーブルの上にのせた。
暴れ旦那はヤーコフをちらりと見て、「さあ!」と言った。
ヤーコフは方々のポケットを探して、二コペーカ銅貨を取り出すと、歯でしるしをつけた。請負師は長上衣《カフタン》の裾から新しい革の財布を引き出し、ゆうゆうと紐《ひも》をほどいて、小銭をたくさん掌《てのひら》にばら撒《ま》くと、その中から新しい二コペーカ銅貨を一枚選り出した。抜作はひさしが折れて取れかかっている古ぼけた帽子をさし出した。ヤーコフがその中へ自分の銅貨をほうりこむと、請負師も自分のを投げこんだ。
「お前が選ぶんだ」と暴れ旦那がパチクリの方を向いて言った。
パチクリはほくそ笑《え》んで、両手で帽子を取り、それを振りはじめた。
一瞬、あたりはひっそりと静まりかえった。銅貨がぶつかり合って、チャリンとかすかな音を立てる。私は注意深くあたりを見まわした。誰の顔もどうなることかと緊張の色を見せている。当の暴れ旦那は眼を細くしている。私の隣にいるボロボロの長上衣《スイートカ》のあの百姓までが、好奇心に駆られて頸をさし伸べている。パチクリが手を帽子に突っ込んで取り出したのは、請負師の銅貨だった。みんながほっと息をついた。ヤーコフはぽっと顔を赤らめ、請負師は髪の毛を撫でつけた。
「おらが言ったじゃないか、お前からやれって」と抜作が叫んだ。「おらが言ったじゃないか」
「おい、おい、ギャアギャア騒ぐな!」と暴れ旦那が吐き出すように言った。「始めろ」と請負師に一つうなずいて見せて彼は言葉をつづけた。
「どんな歌をうたったらいいかね?」と請負師が、そろそろ興奮状態に陥りながらたずねた。
「好きな歌さ」とパチクリが答えた。「なんでも思いついたのを歌うがいい」
「もちろん、好きなのをやるさ」とニコライ・イワーヌイチはおもむろに腕組みしながら附け加える。「何も人の指図を受けることはない。好きなのを歌えばいい。ただ上手に歌わなくちゃ。わしらがあとで公平に決めるんだから」
「知れたこと、公平だわな」と抜作が引き取って、空っぽのコップの縁《ふち》をなめた。
「じゃ、みんな、ちょっと咳払いをさせてもらうかな」と請負師は長上衣の襟もとを指で直しながら、言い出した。
「おい、おい、そんな気のないことを言わんと――始めろ!」と暴れ旦那はきっぱりと裁断を下《くだ》して、眼を伏せた。
請負師はちょっと考えてから、頭を一振りして、前に進み出た。ヤーコフは食い入るようにじっと彼を見つめた……
けれどもこの≪歌いくら≫の描写に取りかかる前に、この物語の登場人物のひとりびとりについて数言のべておくのも、あながち無用ではあるまいと思う。彼らの中のある者の身の上は、私が『安楽軒』で会ったときにもうわかっていたし、そうでない連中のことは私が後で聞き集めたものである。
まず抜作から始めよう。この男の本当の名はエヴグラーフ・イワノーフといった。けれどもここらあたりでは誰ひとり抜作と呼ばぬ者とてなく、自分でも抜作と称していた。それほどこのあだ名は彼にふさわしかった。まったくそれは、彼のつまらない、いつもぽかんとした顔立ちにこの上なく似つかわしかったのである。彼は身を持ち崩した独り身の下男で、とっくの昔に自分の主人たちに見放された今となっては、何一つ仕事もなく、ビタ一文給金がもらえるわけではない。それなのに、毎日のように他人の金で飲み食いする算段をする。彼には酒やお茶をふるまってくれる知り合いが大勢いたが、その連中はなんでそんなことをするのか自分でもわからなかった。なぜならば、彼は人びとを面白がらせるどころか、あべこべに、訳のわからないことをしゃべり立てたり、我慢ならないほどしつこかったり、熱病やみのような身ぶりをしたり、のべつ取ってつけたような高笑いをして、みんなをうんざりさせたからである。彼は歌うことも、踊ることもできなかった。生れてこの方《かた》、気のきいたことはおろか、辻褄《つじつま》の合ったことさえ言ったためしがない。いつも「威勢よくべらべら」と口から出まかせの嘘をついている――それこそ抜作なので! そのくせ四十露里四方が間、どんな酒の席でも、この男のひょろ長い姿が客の間をちょこまか歩きまわっていないことはない。こんなわけで、もうみんなは彼に馴れっこになってしまい、避くべからざる災厄として彼が居合わせるのを我慢している。なるほど、人々は彼を馬鹿にして附き合っていたが、しかし彼の突拍子もない発作を押えることのできるのは、暴れ旦那ただ一人きりであった。
パチクリは抜作に似ても似つかなかった。別段人よりもよけいに眼《ま》ばたきをするわけではなかったが、このパチクリという呼び名も彼にぴたりであった。周知のごとく、ロシアの民衆はあだ名をつけるのにかけては名人である。この男の過去をもっと詳しく探り出そうと私が努めたにもかかわらず、彼の生涯には私にとって、――おそらく他の多くの人びとにとっても――あいまいな点、学者たちの言う、『不明の深い闇に包まれた』個所があった。私の知り得たのはただ次のことだけである。彼はかつて、子供のいない年とった女地主のところで馭者を勤めていたが、そのうちに自分の預かっていた三頭立ての馬をつれて逃亡し、まる一年の間、行方《ゆくえ》をくらましていた。けれども放浪生活の不便なことや苦しさがよくよく身に堪《こた》えたと見えて、自分から舞い戻って来た。そしてその時はもう跛《びっこ》になっていた。彼は女主人の足もとに身を投げ出して詫《わ》びを入れ、それから数年の間というもの、人のお手本となるような奉公をつづけて前非をつぐない、だんだんと奥様に気に入られるようになり、ついにはすっかり信用されるようになって、執事に取り立てられた。やがて奥様が亡くなるに及んで、どうやってだかはわからないが、自由の身となり、町人の仲間入りをし、近所の百姓どもから瓜畑を借りはじめたのが当って、一身上《ひとしんしょう》を築き上げ、今では気楽に暮している。経験に富んだ、腹に一物ある男で、悪人だの善人だのというのではなく、むしろ打算的な人間である。人間というものを知っていて、彼らを利用することを心得ている苦労人なのだ。彼は狐のように用心深くて、同時に進取の気象に富んでいる。老婆のようにおしゃべりのくせに、自分ではけっして口を滑らせるようなことがなく、それでいて、他の者にはきっと本音をはかせる。といって、このようなずるい連中がよくやるように、お人よしのとんまのふりなどはしない。それに、しようたって彼には難しかったであろう。私はいまだかつて、この男のちっぽけな、ずるそうな『まなこ』ほどに炯眼《けいがん》な、利口そうな眼は見たことがないのである。それはただ見ているのではない――いつも、と見こう見、探《さぐ》りを入れているのである。パチクリはときおり、明らかにつまらなそうな仕事を何週間も考えこんでいることがあるかと思えば、今度は急に、やけに思い切ったことをやってのける。きっと、奴め失敗するぞ、と思って見ていると……万事がうまくいって、すらすらと事が運ぶ。彼は運のよい男で、自分の運勢を信じており、縁起を気にする。彼は一体になかなかの迷信家である。およそ他人《ひと》に用がないので、人から好かれてはいないけれども、尊敬はされている。家族といっても息子が一人いるだけだが、それこそ眼の中に入れても痛くないほどの可愛がりようである。こういった父親に育てられているからには、立身しようというものだ。『パチクリの伜《せがれ》は親父にそっくりだな』と、今からもう年よりたちは、夏の夕方など盛り土〔防寒用に百姓家の外壁に沿って盛り上げたもの〕の上に坐って、よもやま話に花を咲かせる合い間に、小声で噂《うわさ》をしているほどである。誰も彼もその意味がよくわかっているので、もうそれ以上、一言も附けたそうとしない。
トルコ人のヤーコフ〔ヤーシカの本名〕と請負人《うけおいにん》のことは何も長々と述べ立てる必要はない。実際に捕虜になったトルコ女から生れたので、トルコ人というあだ名をつけられたヤーコフは、その魂においては、言葉のすべての意味における芸術家であったが、身分から言えば、ある商人の経営している製紙工場の紙漉《かみす》きであった。では請負人はどうかといえば、この男の運命は、正直な話、私にはとうとうわからずにしまったが、手際《てぎわ》のよい、すばしこい町人らしく思われた。しかし暴れ旦那のことは、もう少し詳細に語っておくだけの値打ちがある。
この男の様子から受ける第一印象は、なんとなく粗野で、鈍重だが、しかし撃退しがたい力にあふれているという感じであった。身体つきは不恰好で、この辺で俗に言う『ずんぐり』であったが、彼からはしきりに、とうてい挫《くじ》くことのできない健康の気が発していた。そして不思議なことには、その熊のような姿には、一種特別な優雅なところがないでもなかった。それはもしかしたら、自分自身の威力を信じて、すっかり落ち着きはらっていることから来ているのかもしれない。このヘラクレス〔ギリシャ神話の英雄〕がどういう階級に属しているかを、ただの一度で決めるのは難しかった。屋敷勤めの百姓のようでもなければ、町人みたいでもなし、落ちぶれた退職の小役人のようでもなければ、小地主が零落して猟犬番《いぬばん》ややくざに成り下ったとも見えない。彼はまさしく独自な人間であった。どこからこの郡へ流れこんだものやら、誰ひとり知るものとてなかった。噂によるとなんでも郷士の出で、以前はどこかお役所に勤めていたとかいうことだが、はっきりしたことは何もわからない。それに御当人からでなくては、誰から聞き出せよう。ところがこの男ときたら、無類のだんまり屋で、気むずかしい人間だったのである。彼が何によって暮しを立てているのかも、誰ひとりとしてはっきりしたことが言えなかった。手に職があるわけじゃなし、誰のところへも出入りするじゃなし、ほとんど誰ともつき合っていないのに、金は持ち合わせていた。なるほど、大した金ではないが、それでもとにかく持ち合わせていた。身を持するにつつましいというわけではないが、――およそ彼にはつつましいところなど少しもなかった、――静かに暮していた。まるで周囲の人々のことなど眼中になく、ちっとも他人を必要としないかのように暮していた。暴れ旦那(これはあだ名で、本当の名はペレヴレーソフだった)はこの辺りで大した勢力を持っていた。彼が誰にもせよ人に命令する権利を持っていなかったばかりか、たまたま出会った人々に服従を強いるようなことはこれっぽちもなかったのに、相手は即座に喜んで、彼の言いなりになるのだった。彼が口を開くと皆が言うことをきいた。実力というやつはいつでも物を言うものである。彼はほとんど酒も飲まず、女も相手にしなかったが、無性に歌が好きだった。とかくこの男には謎めいたところが多い。彼の身内には何かしらとてつもなく大きな力が不きげんに潜《ひそ》んでいて、一度《ひとたび》それが首をもたげ、いましめの場所を離れて自由の身となったが最後、自分自身はもとより、触れるものことごとくを破壊しなければ止まないということを自分でもよく知っているので、じっとそれを抑えつけているかのように思われた。この男の生涯に、もしもそういった爆発が起ったことがなかったとすれば、またもしも、彼がこの経験に教えられ、辛《から》くも破滅を免れて、今では自分を仮借《かしゃく》なく厳しく取り扱っているのでなかったとしたら、私は大変な見込み違いをしたことになる。とりわけ私の驚いたのは、彼の中では、ある生れながらの、自然の兇暴性と、同じく生れながらの気品とが混り合っていることで、こんなことは他の誰にも私の見受けたためしのないものである。
さて、請負師は前へ進み出て、半ば眼を閉じると、思いきり高い裏声で歌い出した。少ししゃがれ気味ではあるが、かなり気持のよい、美しい声だった。彼はセキレイのようにこの声をもてあそび、しきりに声高く歌い出して高音から低音に調子を落すかと思えば、すぐに高い音調に戻って、その調子を持ちこたえ、懸命に声を引きのばす。途中でふっと切ったかと思うと、何かしら豪快な、気負った剛胆ぶりを見せて、もとの節《ふし》にかえっていく。歌いぶりの変化は時にはかなり大胆で、時にはかなりおかしかった。これはその道の通人には大いに喜ばれたことだろうが、ドイツ人ならそれを聞いて憤慨したに相違ない。それはロシアの抒情的テノールであった。彼は陽気な踊りの歌をうたった。はてしない粉飾《ふんしょく》や、附けたしの協和音や、絶叫を通して私の聞き取り得たかぎりでは、その文句は次のようなものであった。
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かあいお前のためならば
畑も打ってくりょうもの。
かあいお前のためならば
まっ赤な花も播《ま》こうもの。
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彼は歌った。みんなは注意深くそれを聞いていた。彼は明らかに、自分が歌のわかる連中を相手にしているのだと感じていたに違いない。だから、いわゆる一心不乱だった。実際、この地方の人びとは歌というものをわきまえている。オリョール街道|筋《すじ》のセールギエフスコエ村が、わけても気持のよい、よく合った歌いぶりで、ロシア中に鳴り響いているのも無理はない。請負師は聞き手に大して強い共感を呼び起すでもなく、永いこと歌った。合唱の支援がなかったからである。けれども最後に、一段と見事な節《ふし》の変り目に来たとき、暴れ旦那さえ思わず微笑《ほほえ》みをもらし、抜作はたまらなくなって快心の叫び声を立てた。みんなはぶるぶるっと身ぶるいした。抜作とパチクリは小声で後をつけ、唱和し、ときおり叫び声を上げはじめた。『すごいぞ!……もっと高くしろ、ペテン師め!……もっと高く、うんと引っぱれ、悪党め! もっと引っぱれ! もっと焼きをいれろ、この犬ころめ、畜生め!……碌《ろく》でなし!』といった工合である。ニコライ・イワーヌイチは売台の向うから、さも感心したように首を左右に振りはじめた。抜作はたまりかねて足拍子を取り出し、両足を小きざみにコトコトいわせ、一方の肩をピクピク動かしはじめた。またヤーコフの眼は炭火のように燃え出した。彼は木の葉のように全身をふるわせて、落ち着きのない微笑をもらしていた。ただ一人、暴れ旦那だけは顔色も変えず、相変らず一つ所に立ったまま動こうとしなかった。けれども請負師に向けられている彼の眼はいくぶん和らいできた。唇の表情にはまだ蔑《さげす》むような色が残ってはいたが。請負師は、みんなが感嘆しているらしい様子にすっかり勢いを得て、まるで旋風の吹きまくるように歌いはじめた。奇巧《きこう》をこらした複雑な歌いぶりで仕上げにかかり、舌を打ち、鳴らし、舌を咽喉《のど》も裂けよとはげしく声をはり上げたので、とうとうぐったりとなり、顔は蒼ざめ、熱い汗がタラタラ流れ出した。それから彼がぐっと後に身体をのけぞらせて、最後のしだいに消えていく歌声に移ったとき、期せずして一せいにわき起った感嘆の叫び声がすさまじい爆発となってそれに応えた。抜作は彼の首っ玉にぶら下り、長い、骨ばった両腕にぎゅうっと力をいれてしめつけた。ニコライ・イワーヌイチの脂《あぶら》ぎった顔はポッと紅みをおびて、まるで若返ったかのようである。ヤーコフは気違いのように、「すばらしい、すばらしい!」と大声で叫んだ。私の隣に坐っているボロボロに破けた上衣を着た百姓でさえとうとう我慢できなくなって、拳《こぶし》でテーブルをドンとたたき、「いやはや! うめえもんだ、畜生、うめえもんだ!」と叫んで、思い切りよく片わきにペッと唾《つば》を吐いたものである。
「いや、兄弟、おかげで楽しい思いをしたよ!」と抜作は、ぐったりとなった請負師を抱きしめたまま放そうとしないで、こうわめき立てた。「ほんとに楽しい思いをしたわい! お前の勝ちだぞ、兄弟、お前の勝ちだ! おめでとう――五合|壜《びん》はお前のもんだ! ヤーシカなんざ、とてもお前にはかなわねえ……かなわねえってことよ……ほんとだとも!」(そして彼はまたもや請負師を抱きしめた)
「おい、もう放してやれよ。放してやれったら、しつこいやつだな……」とパチクリがいまいましそうに言い出した。「腰掛けに坐らしてやれよ。疲れているじゃねえか……お前《めえ》みてえなとんまもねえもんだ! なんだってそううるさくつきまとうんだい?」
「じゃ、いいとも、かけさしてやろう。そんでおらあ、お祝いに一|杯《ぺえ》やるだ」と抜作は言って売台の方に近づいた。「お前《めえ》の勘定でだぜ、兄弟」と請負師の方を向いて彼は附け加えた。
相手はうなずいて、腰掛けに坐り、帽子の中から手拭《てぬぐ》いを出して、顔をふきはじめた。抜作はそそくさと貪《むさぼ》るように一杯飲み干した。そして飲んだくれによくある癖で、咽喉を鳴らしながら、もの悲しげな、憂いに沈んだ顔をした。
「いや、なかなかうまいもんだ」とニコライ・イワーヌイチが愛想よく言った。「今度はお前の番だぜ、ヤーシャ。いいかい、びくびくするなよ。どっちが勝つかおなぐさみだ……それにしても親方はうまい、たしかにうまい」
「とてもうまいわ」ニコライ・イワーヌイチの女房はこう言うと、にっこり笑ってヤーコフを見た。
「うめえもんだ、ひゃあ!」私の隣の百姓が小声で繰返した。
「ははあ、山窩《さんか》の山猿〔ボルホフ郡とジーズドラ郡の境から南に長くつづいている森林地帯の住民は山窩と呼ばれている。彼らは生活様式、風習、言語など変った点が多い。山猿と言われるのは彼らが疑い深い偏屈な性質を持っているからである〈原註〉〕だな!」と出しぬけに抜作がわめき出して、そして肩に穴のある上衣を着た百姓の傍に近づいて行き、無遠慮に彼を指さして、ピョンピョン跳びはねてみせ、ひびのいったような笑い声を立てた。「山窩! 山窩! 『ひゃあ』、『ありゃあ』『追《ぼ》ったてろい』〔山窩はほとんど一語ごとに『ひゃあ』、『ありゃあ』という感嘆詞を附け加える。『追いたてろ』と言うかわりに『追《ぼ》ったてろい』と言う〈原註〉〕、山猿! 何しにござったかの、山猿?」と彼は笑いながらはやし立てた。
かわいそうに百姓はうろたえてしまい、立ち上がってさっさと外に出ようとしたが、そのとき不意に暴れ旦那の割れ鐘のような声が響きわたった。
「なんちゅう我慢のならねえ畜生だ?」歯をギリギリきしませて彼は言った。
「おらあ何も」と抜作は口ごもった。「おらあ何も……ただ、その……」
「いいから、黙ってろい!」と暴れ旦那は彼をさえぎった。「ヤーコフ、さあ始めた!」
ヤーコフは咽喉《のど》に片手をあてた。
「何を、兄弟、その……どうも……ふむ……おれにはまったくわからんが、なんだかその……」
「いや、もうたくさんだ、びくびくするない。みっともないぞ!……何をもじもじするんだい?……なんでもいいから歌うんだ」
そして暴れ旦那は眼を伏せてヤーコフの歌い出すのを待ち受けた。
ヤーコフはしばらく黙っていたが、あたりを見まわして片手で顔をおおった。一同が、わけても請負師はじっと彼に眼を注いだ。その顔にはいつもの自信と勝ち誇った表情の蔭から、思わず湧いて来るかすかな不安の色がにじみ出ていた。彼は壁にもたれかかって、再び両手を尻の下に敷いていたが、もう足をぶらぶらさせたりするようなことはしなかった。ヤーコフがついに手をどかして顔を開けたとき、その顔は死人のように蒼ざめていた。眼は伏せたまつ毛の間からかすかに光っている。彼は深い溜息をついて歌い出した……歌声の最初の音《おん》は弱々しく不安定で、彼の胸の奥から出て来るのではなく、どこかずっと遠いところから流れて来て、ふとこの部屋に飛びこんで来たかのように思われた。この震えがちな、よく透る声は私たち一同に不思議な感銘を与えた。私たちはたがいに顔を見合わせた。ニコライ・イワーヌイチの女房はたちまち居ずまいを正した。この最初の音《おん》につづく第二の音《おん》は、前よりもしっかりした音で、息も永くつづいたけれど、強く指先ではじかれた絃《いと》が不意に鳴り渡ったのち最後の、速《すみ》やかに消え失せていく振動に打ち震えるように、なおも明らかにふるえていた。第二の音につづいて、第三の音、というふうにしだいに熱をおび幅を増しながら、もの悲しい歌声が流れ出した。『野中の道は一すじならず』と彼は歌ったが、私たちはみなうっとりした気持にもなれば、胸苦しくもなってきた。私は、実を言うと、このような声はめったに聞いたことがない。それはやや割れ気味で、少しひびがいっているように聞えた。初めは一種病的な響きさえしていた。けれどもそこには、偽りのものでない深い情熱も、若々しさも、力も、甘さも、何やら心を惹《ひ》きつける、あどけない、もの悲しい哀愁もこもっていた。ロシア人の、誠実で熱烈な魂がその中に響いており、息づいていて、聴く者の心をとらえ、ロシア人の心情をじかにとらえるのであった。歌声は高まり、あたりに溢《あふ》れ出た。ヤーコフは明らかに、今はもう夢中であった。いささかも臆する色を見せず、自分の幸福に浸《ひた》っていた。その声はもうわなないていなかった。震えてはいたが、しかしそれはやっと気がつくほどの内部的な震えで、聴く人の魂に矢のように突きささった。そして絶えずしっかりした、ゆるがぬものとなり、幅を拡げていった。忘れもしない、ある日の夕ぐれ、引潮《ひきしお》どきに、遠くですさまじく重々しくざわめいている海岸のなだらかな砂浜で、私は一羽の大きな白いカモメを見たことがある。カモメは白絹のような胸を夕映えのまっ赤な光にさらして、身動きもせずに坐り、ただときおり馴染《なじみ》深い海に向い、沈みゆく赤紫色の太陽に向って、ゆったりとその長い翼をひろげていた。ヤーコフの歌を聞いているうちに、私はこのカモメを思い出した。彼は競争相手のことも、私たち一同のこともすっかり忘れて歌っていた。けれども、どうやら、元気な泳ぎ手が浪にはげまされるように、私たちの無言の、熱心な共鳴にはげまされているように見えた。彼はなおも歌いつづける。その声の一つ一つの音からは、何かしら、身近な、かぎりなく広大なものが感じられた。さながら旧知の曠野《こうや》がパッと眼の前にうち開けて、はてしもなく遠くにつづいているかのような。私は胸がきゅっとなり、眼に涙が浮んでくるのを感じた。不意に私は低い、おしころしたようなむせび泣きの声に驚かされた……ふり返って見ると、居酒屋の女房が胸を窓におしあてて泣いているのであった。ヤーコフはすばやく彼女の方をちらりと見ると、前よりもさらに声をはり上げ、さらにきれいな声で歌い出した。ニコライ・イワーヌイチはうなだれ、パチクリは顔をそむけた。抜作はすっかり感傷的になり、馬鹿のように口をあんぐり開けて立っていた。灰色外套の百姓は悲しそうにつぶやきながら頭を振って、隅の方ですすり泣きをしていた。暴れ旦那のあらがねのような顔でさえ、すっかり八の字によってしまった眉毛の下から、大粒の涙がポロポロと転がり落ちた。請負師は握りしめた片方の拳《こぶし》を額に当てたまま身動きもしなかった……もしヤーコフが高い、並外れて甲高《かんだか》い音で不意に歌い終らなかったならば――まるで彼の声がプツリと途切れたかのように――、一座の困憊《こんぱい》は何によって片がついたかわからない。誰ひとり声を立てるものもなく、身動きさえしなかった。彼がもっと歌うのではないかと、誰もが待っているみたいだった。けれども彼は、私たちが黙っているので驚いたように眼を開けて、物問いたげな眼つきで一座を見まわし、勝利が自分のものであることをさとった……
「ヤーシャ」と暴れ旦那は言って、彼の肩に手をのせたが、それなり口をつぐんだ。
私たちはみな茫然として立っていた。請負師は静かに立ち上がってヤーコフの方に近づいた。「お前の……お前が……お前の勝ちだ」と、やっとのことでこれだけ言うと、部屋の外へ飛び出した。
そのすばやい、きびきびした動作がきっかけで、夢見心地の一座のものはわれに返った。急にみんなががやがやと喜ばしげに話し出した。抜作は跳び上がり、回らぬ舌で何やら言い、風車の翼のように両手をふりまわした。パチクリは跛《びっこ》をひきながらヤーコフの傍へ寄って彼と接吻し始めた。ニコライ・イワーヌイチはやおら体を伸ばして、自分もビールを一本附けたそうと厳《おごそ》かに宣言した。暴れ旦那は何かしら人のよい笑い声を立てて笑っていたが、彼がこんな笑顔を見せようとは夢にも思わなかった。灰色外套の百姓は両手で眼や、頬や、鼻や、顎髯をこすりながら、のべつ「うめえもんだ、ほんとにうめえ、よしんばおらが犬の仔《こ》だって、やっぱしうめえ!」と片隅で繰返していた。ニコライ・イワーヌイチの女房はすっかり顔を赤くして、すばやく立ち上がると奥へ引っこんだ。ヤーコフは子供のように自分の勝利を楽しんでいた。彼の顔は一変した。わけてもその眼はたちまち幸福に輝き出した。彼は売台の傍へ引っぱって行かれた。彼は泣き崩れた灰色外套の百姓を売台の傍に呼び寄せ、請負師を呼びに居酒屋の息子を使いに出した。が請負師は見つからなかったので酒もりが始った。「お前《めえ》、もっとおれたちに歌ってくれ、晩までおれたちに歌を聞かしてくれ」と抜作は両手を高々と上げて、繰返した。
私はもう一度ヤーコフをちらりと眺めてから店を出た。私は居残りたくなかった――せっかくのよい印象がそこなわれるのを恐れたからである。けれども暑さはさっきのように依然として堪えがたかった。それは濃厚な重い層をなして地上におおいかぶさっているかのようであった。濃い藍色の空を、小さな、明るい火のようなものがいくつも、この上なくこまかい、ほとんど黒く見える埃を通して、くるくるまわっているみたいである。あたりはひっそりと静まり返っている。弱りはてた自然のこの深い沈黙の中には、何かしら頼りない、圧《お》しつけられたようなものがあった。私は乾草小屋までたどりつき、刈り取ったばかりの、けれどももうほとんど乾き切っている草の上に横になった。永いこと私は眠れなかった。ヤーコフの魅《み》するがごとき声がいつまでも私の耳の中で響いていた……けれども、とうとう暑さと疲労には勝てずに、私はぐっすりと寝こんでしまった。目を覚ましたころは、あたりはもう暗くなっていた。そこら中に撒《ま》き散らされた草が強く匂って、ほんの少し湿り気をおびて来たようだ。半開きの屋根の細い垂木《たるき》の間から、蒼白い星が弱々しく瞬《またた》いている。私は外へ出た。夕映えはとっくに消えて、その最後の痕跡が地平線上にかすかに白んでいる。けれども、ついさっきまで赤熱されていた空気中には、夜の涼気を通してもまだむっとしたほとぼりが感じられ、胸はなおも冷やかなそよ風を渇望《かつぼう》している。風も、雨雲もなかった。空は見渡すかぎり澄み渡って、透《す》き通るような暗色を見せ、数かぎりもない、けれどもやっと眼に見えるほどの星が静かに明滅している。村には灯火《あかり》がちらほら見える。ほど遠からぬ、明々《あかあか》と灯火の輝いている居酒屋からは、がやがやと入り乱れた、大勢で騒ぐ声が聞える。その中にどうやらヤーコフの声もまじっているらしい。ときおり烈しい笑い声がどっとわき上がる。私は小窓の傍に寄ってガラスに顔を押し当てた。私の見たのは、にぎやかで威勢はいいが、面白くない光景であった。誰もかれも酔いしれていた――ヤーコフをはじめとして、誰もかも。ヤーコフはだらしなく胸をはだけて腰掛けに坐り、しゃがれ声で何か下等な踊りの曲を歌いながら、大儀そうにギターの絃《いと》をかき鳴らしていた。汗にぬれた髪の毛が、恐ろしく蒼ざめた顔の上にふさふさと垂れ下がっていた。居酒屋のまん中では抜作がすっかり『はめをはずして』、長上衣《カフタン》を脱ぎ棄て、鼠色の百姓外套を着た百姓の前で、ぴょんぴょん跳《と》びはねて踊る身ぶりをしていた。百姓は百姓で、ふらふらする足をやっとのことで踏みしめたり、足ずりしたりしている。彼はぼうぼうに生やした髯《ひげ》の間から意味もないにたにた笑いをもらしながら、「どうにでもなれ!」とでも言いたげに、ときおり片手を振っていた。何がおかしいといって、その顔よりおかしなものはなかった。どんなに彼が眉をつり上げても、重くなった瞼《まぶた》はいっかな上がろうとはせず、やっとそれとわかるくらいの、とろんとした、しかもこの上なく気持よさそうな眼の上に、ひとりでにかぶさってしまうのであった。彼は行きずりの誰もがその顔を一目見たら、「やあ、おっさん、ごきげんだな!」と言わずにはいられないような、ぐでんぐでんに酔っぱらった人の愛嬌ある状態にあった。パチクリはエビのようにまっ赤な顔をして、鼻の孔を大きくふくらまし、隅の方から毒々しく笑っていた。ただニコライ・イワーヌイチだけは、いかにも本当の居酒屋の主人らしく、いつもの冷静な態度を持していた。店には新顔もたくさん集まっていた。けれども暴れ旦那の姿は見えなかった。
私は顔をそむけて、コロトフカ村の在る丘を急ぎ足で下りはじめた。この丘の麓《ふもと》には広々とした平野がひろがっている。夕靄《ゆうもや》のぼんやりとかすんだ波にひたされて、野は一そう広漠《こうばく》として見え、さながら暮れはてた空と融け合っているかのようである。私は谷間の道を大股で下りて行った。と、不意に野のどこか遠くの方で男の子のよく徹《とお》る声が聞えた。「アントロープカ! アントロープカーアーア!……」と最後の音節を長く長く引っぱりながら、今にも泣き出しそうな声で、片意地に、やけ半分に叫んでいる。
男の子はしばらく黙っていたが、やがてまたもや叫び出した。その声は、じっと動かない、うつらうつらまどろんでいる空気の中に、はっきりと響きわたった。少なくとも三十ぺんくらいはアントロープカの名前を呼んだと思ったとき、不意に野原の反対の方角から、まるで別世界からのように、やっと聞き取れるくらいの返事が聞えて来た。
「なんだーあーあーあい?」
男の子の声がすぐさま、うれしそうな、同時に怒ったような調子で叫んだ。
「こっちさ来いよ、悪魔、森の精ーいーい!」
「なんでよーおーおーお?」としばらく経《た》ってから相手が答えた。
「おとっつぁんがおしおきするとよーおーおーお」初めの声が急いで叫んだ。
相手がもうそれに応じなかったので、男の子はまたもやアントロープカを呼びはじめた。その叫び声はだんだん間遠になり、だんだんかすかになりながらも、あたりがすっかり暗くなるまで、そして私が、私の持ち村をぐるっと取り巻いており、コロトフカから四露里も離れている森のはずれをまわるころまで、なおも私の耳に聞えて来るのだった……
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ピョートル・ペトローヴィチ・カラターエフ
五年ほど前の秋のこと、モスクワからトゥーラヘ行く途中で、替え馬がないためにほとんどまる一日、やむなく宿駅《たてば》に逗留したことがあった。私は猟の帰り道であったが、ついうっかりして自分の三頭立てを先に帰してしまったのである。駅長というのはもう老人の気むずかしそうな男で、髪を鼻の真上まで垂らし、小さいねむそうな眼をしていたが、どんなにすかしても頼んでも、そっけない返事を口の中でぶつぶつ言うばかりで、われとわが職務を呪《のろ》うかのように中っ腹でバタンと戸を閉めた。そして、上り段に飛び出しながら馭者たちを叱りつけたが、その馭者たちは、四貫目余りもありそうな軛《くびき》を両手に持って泥濘《ぬかるみ》の中をのろのろと歩いていたり、のうのうとあくびしたり、身体をボリボリ掻《か》いたりしながらベンチに腰かけていて、お頭《かしら》のどなり声などさして気にもとめなかった。私はもう三度もお茶を入れさせ、何度も昼寝をしようと思ったが寝つかれず、窓や壁に貼ってある文句をことごとく読んでしまった。私は退屈で退屈で、なんともしようがなかった。寒々とした、やるせない絶望を感じながら、私は自分の旅行馬車の仰向《あおむ》きになった轅《ながえ》を眺めていた。と、そのとき不意に鈴の音が聞えて来て、疲れ切った三頭立ての馬をつけた小さな馬車が上り段の前に停まった。新来の客は馬車から跳び下りると、「急いで馬を頼むぜ!」と叫びながら部屋の中に入って来た。「馬はいないんで」という駅長の返事を、彼はよくある奇妙なあきれ顔で聞いていた。その間に私は、退屈している人間の貪《むさぼ》るような好奇心をもって、この新しい私の仲間を、頭のてっぺんから足の先まで、じろりと眺めまわすことができた。見たところ彼はまだ三十前らしかった。かさかさした黄ばんだ顔には、天然痘の痕《あと》がありありと残っており、銅色《あかがねいろ》にてらてら光って見る人にいやな感じを与える。青味がかった黒くて長い髪の毛は、後の方は渦を巻いて襟《えり》の上にのっかり、前の方はこめかみの所でよれて勇《いさ》み肌の揉上《もみあ》げとなっている。小さな腫《は》れぼったい眼はただぼんやりと眺めているにすぎない。上唇の上にはまばらな髭が垂れ下がっている。身なりは馬市などへやって来る放埓《ほうらつ》な地主といったところで、斑《まだら》のかなり脂じみたアルハルーク〔短いアジヤふうの部屋着〕を着て、色のさめた藤色の絹のネクタイをしめ、真鍮のボタンのついたチョッキを着こみ、裾の恐ろしくひろがった鼠色のズボンをはいているが、その下からは磨《みが》いていない長靴の先がちょっぴりのぞいている。身体からはタバコとウォートカの匂いがぷんぷんにおってくる。アルハルークの袖にほとんど隠れている赤くて太い指には、銀の指環やトゥーラ〔ロシアの町の名。冶金《やきん》・金属加工業の中心地。小銃、サモワール、金具、楽器の生産で有名〕出来の指環をはめていた。こういう恰好の連中ならロシアには何十人といわず、何百人もいる。こうした手合いと近づきになるのは、正直な話、一向にありがたくない。けれども、新来者を見て私が頭からこう決めてしまったにもかかわらず、私は彼の顔の気がおけず人のよい、しかも熱情的な表情に気づかざるを得なかった。
「現にこのお方だって一時間以上もここでお待ちなんで」と駅長は私を指しながら言った。
「一時間以上もですよ!」――悪党は私のことを嘲笑《あざわら》った。
「そりゃ、この方はそれほどお急ぎじゃないかもしらんさ」と新来者が答えた。
「そういうことになりますと、手前どもにはわかりかねます」駅長は不きげんに答えた。
「じゃ、どうしても駄目なんだな? 絶対に馬はいないんだね?」
「駄目です。馬は一頭もおりません」
「ふん、じゃサモワールを持って来るように命じてくれ。仕方がない、待つとしよう」
新来の客はベンチに腰を下ろし、縁無帽子《カルトゥーズ》をテーブルの上にぽいと投げ出すと、髪の毛を撫でつけた。
「あなたはもうお茶をおあがりになりましたか?」と彼は私にきいた。
「ええ」
「お附き合いにもう一ついかがです?」
私は同意した。ずんぐりした、赤ちゃけたサモワールがテーブルの上に現われたのは、これで四度目である。私はラム酒の壜を取り出した。私がこの話相手を、土地を僅《わず》かしか持っていない士族だと見たのは、間違いでなかった。彼の名はピョートル・ペトローヴィチ・カラターエフといった。
私たちは話にふけった。着いてから三十分と経たないうちに早くも彼は、いかにも好人物らしくあけっぴろげに、自分の身の上話を私に聞かせるのだった。
「これからモスクワヘ行くところなんです」四杯目のコップを飲み干しながら彼は言った。「田舎にいても、今さらどうしようもないもんですから」
「そりゃまたどうしてです?」
「とにかくどうにもこうにもならないんです。家の経済が駄目になって、百姓をすっかりおちぶれさせてしまいましてね、正直な話が。悪い年がつづいたんです。不作だの、いろんな、その、不幸だのがあって……とはいうものの」と彼はしょんぼりと脇へ眼をそらして、「私みたいな地主もないもんです!」と附け加えた。
「どうしてですか?」
「いや、もう」と彼は私の言葉をさえぎった。「こんな地主なんてあったもんじゃありません! ねえ、あなた」と首を横にかしげて、しきりにタバコを吸いながら言葉をつづけた。「あなたはそうやって、私をご覧になりながら、お思いになるかもしれませんね、私もそのあれだと……ところが私は、白状しなければなりませんが、中どころの教育しか受けていないんです。資力がなかったもんですから。いや、失礼しました、私はあけすけな人間なもんですから、それにとうとう……」
彼は話をしまいまで言いきらずに片手を振った。私は、それはあなたの思いすごしで、自分はお会いしたことを喜んでいるなどと請け合ってから、領地を管理するのには、そんなに大した教育は必要がないと思う、と言ってやった。
「賛成です」と彼は答えた。「お説に賛成です。でもやはり、こう一種独特の気持といったものは必要なんです! 百姓から何もかも残らず取り上げて、それでなんでもない人もいます! が、私は……失礼ですが、あなたはピーテル〔ペテルブルグの俗称〕からおいでになったのですか、それともモスクワからで?」
「ペテルブルグからです」
彼は鼻の孔《あな》から煙をもうもうと吹き出した。
「ところが私はモスクワヘ勤め口を探しに行くところなんです」
「どちらへ御就職なさるおつもりで?」
「わかりません。行き当りばったりですよ。実を言うと、私は勤めるのが怖いのです。すぐに責任問題ときますからね。ずっと田舎に住んでたもんですから、つまり、馴れてしまって……でもしかたがありません……のっぴきならないんで! ほんとうにのっぴきならないんです!」
「そのかわり、都ずまいができるじゃありませんか」
「都ずまい……さあ、その都ずまいにどんないいことがありますやら。まあ、行ってみるとしましょう、もしかしたら何かいいことが……でも、田舎ほどいいところはないような気もするんですがね」
「それにしても、本当にもう田舎でお暮しになることはできないんですか?」
彼はほっと溜息をついた。
「できません。今ではもう持村は私のものでないも同然ですから」
「それはまた、どうして?」
「実はある親切な人がいて――新しく近所に越して来た人なんですが……その人が手形を……」
かわいそうにピョートル・ペトローヴィチは手で顔をさらりと撫で、しばらく考えていたが、やがてさっと首を振った。
「なに、今さらとやかく言っても始りません!……それに正直な話が」としばらく黙りこんだあとで彼は附けたした。「他人《ひと》を責めることはありません、自分が悪いんです。驕《おご》るのが好きだったもんですから!……驕るのが、ええっ糞《くそ》、好きだったもんで!」
「あなたは田舎で楽しくお暮しだったでしょう?」私は彼にたずねた。
「うちには、あなた」と一語一語区切りをつけ、私の顔をまともに見ながら彼は答えた。「うちには猟犬が十二|番《つがい》〔二十四頭〕もいました、それも、≪めえーったに≫いないようなやつですよ(彼は≪めったに≫という言葉を歌うように長くひっぱって発音した)。兎なんかすぐにへばらしてしまう、狐や狼やテンなどに立ち向ってゆくときは――蛇、まるで毒蛇でしたよ。ボルゾイ種の犬も自慢できる逸物《いちもつ》でした。今じゃもう昔の話で、嘘をついたって始りません。鉄砲をかついで猟にもいきました。コンテスカ〔伯爵夫人〕という犬がいましたよ。獲物を見つけるときの姿勢が見もので、空中を嗅ぎわけてつかまえるんです。よく沼地の傍へ行って『さがせ』と言います。ところが、あいつが探さないとなると、よしんば一ダースもの犬を引きつれて行ったところが、とても駄目で、何一つ探し出せません! けれども、あいつがいざ探しはじめたとなると、まったく死物狂いなんです!……家の中にいても大変お行儀がいいんです。左手でパンをやって、『ユダヤ人の食い残しだ』と言うと決して食おうとしませんが、右手を出して、『お嬢様のお下がりだ』と言うと、すぐに取って食べるじゃありませんか。この犬の産んだ仔犬がいて、すてきな仔犬なもんですから、モスクワヘつれていこうと思いましたが、友人が鉄砲と一しょに譲ってくれと言うんです。『モスクワヘ行ったら、君、それどころじゃないよ。事情がすっかり変ってしまうんだから』って。私は友人に仔犬をやってしまいました、ついでに鉄砲も。で、そうしたものは、つまり、みんな田舎に残っているわけなんで」
「モスクワヘ行ったって猟はできるでしょうに」
「いや、いや、とんでもない。自分の身の始末もできなかったんですから、今となっては我慢しなくちゃなりません。それよりも一つお伺いしたいんですが、モスクワの暮しはどうなんでしょう――高いでしょうね?」
「いや、それほどでもありません」
「それほどでもない?……それからも一つお伺いしますが、モスクワにもジプシーがおりましょうな?」
「ジプシーというと?」
「ほら、あの、市《いち》なんかまわって歩く?」
「いますよ、モスクワには……」
「そうですか、そりゃ結構です。私はジプシーが好きで、好きでたまらないんです……」
ピョートル・ペトローヴイチの眼は向う見ずな陽気さにキラリと輝いた。しかし不意にベンチの上で身体をごそごそ動かしはじめ、それからもの思いに沈み、うなだれ、空《から》のコップを私の方にさしだした。
「私にもあなたのラム酒を下さいませんか」と彼は言った。
「でもお茶はすっかりなくなってしまいましたよ」
「結構です、そんなら、お茶なしで飲みますから……ああ!」
カラターエフは両手に頭をのせて、テーブルの上に肱《ひじ》をもたせかけた。私は無言で彼を見つめながら、酔った人がむやみともらす感傷的な叫びや、もしかしたら涙まで見せつけられるものと覚悟した。けれども彼が頭を上げたとき、正直な話、私は、彼の顔の表情に深い悲しみの色がたたえられているのでびっくりした。
「どうしました?」
「いや、なんでもありません……昔のことを思い出したものですから。ちょっとした出来事なんです……お聞かせしたいんですが、もしや御迷惑では……」
「とんでもない!」
「そうですか」と彼は溜息まじりに言葉をつづけた。「いろんなことがあるもんですね……早い話が、この私にしたところが。なんでしたらお話しいたしましょう。でも、どうですか……」
「ぜひ伺わせて下さい、ピョートル・ペトローヴィチ」
「いいですとも、なに、大したことじゃ……話というのは」と彼は言い出した。「しかし、本当に、どうですか……」
「いや、もうたくさんですよ、ピョートル・ペトローヴィチ」
「なら、いいですとも。こういうことが私の身の上に、言わば、持ち上がったのです。私は田舎に暮しておりました……ところがふと、ある娘を見そめてしまったのです、ああ、とてもいい娘でした……器量よしで、利口で、それに気立てのいい娘なんです! マトリョーナという名前でございました。ところがこれが平民の出で、つまり、おわかりでしょうが、農奴の娘なんでして、簡単に言えば奴隷女なんでこざいます。しかもうちの娘じゃなくて、よそので、――それがいけなかったのです。さて、私はその娘が好きになってしまいましたし、――どうも、その、なんでございますが――その娘も私を好くようになりました。そのうちにマトリョーナは、自分を女主人のところから身受けしてくれ、と言い出しました。私にしても前々からそのことは考えていたのです……ところが娘の女主人というのは金持で、怖いお婆さんなんです。私のところから十五露里ばかり離れたところに住んでいました。さあ、そこで、いわゆるある日のこと、私は三頭立ての馬車を支度するように命じて、――中馬には諾足《だくあし》の馬を使っていましたが、これはアジヤ産の名馬で、名前もそれらしくラムプルドスと呼んでいました、――よそ行きの着物を着て、マトリョーナの奥様のところに出かけました。行ってみると、大きな家で、離れもあれば、庭もあります……道の曲り角でマトリョーナが私を待っていて、何やら私に話しかけようとしましたが、ただ私の手に接吻しただけで、脇の方へ行ってしまいました。
さて、私は玄関へ入って、『御主人は御在宅で?……』とたずねました。するとのっぽの従僕が出て来て言うには、『どなた様でいらっしゃいますか?』そこで私は、『地主のカラターエフが用談で参ったと取り次いてくれ』と言いました。従僕はひき下がりました。私は待ちながら、さあ、どうなるだろう? きっと、婆《ばば》あめ、金持のくせに法外な値段をふっかけるだろうな、ひょっとしたら五百ルーブリくらい出せというかもしれない、などと考えていました。そこへやっと従僕がもどって来て、『どうぞお通り下さい』と言います。私はその後について客間に入りました。見ると、黄色っぽい顔の小柄の婆さんが安楽椅子に坐って眼をパチクリさせています。『なに御用で?』私は手始めに、お近づきになれて大変うれしい、などと言うのが至当だと思いました。ところが、『あなたは思い違いをしていらっしゃる、私はここの女主人ではございません、身内の者なので……なに御用で?』私はすぐさま、御主人とじきじき御相談申し上げたいことがあるのだと言いました。『マリヤ・イリイーニチナは今日はお目にかかれません。御気分がすぐれませんので……なに御用で?』しかたがない、と私は心の中で思い、こちらの事情をすっかり打明けました。老婆は私の話を聞き終りました。『マトリョーナですって? どのマトリョーナでしょう?』『マトリョーナ・フョードロフです、クーリクの娘の』『フョードル・クーリクの娘……でも、どうしてあれをご存じで?』『ふとしたことで』『で、あれにあなたのお気持はわかっておりますの?』『わかってます』老婆は黙ってしまいましたが、やがて、『あの悪戯者《いたずらもの》をひどい目に合わせてやる!……』と言うのです。私は、正直なところ、驚いてしまいました。『なんだってそんなことを、とんでもない!……私は金額さえおきめ頂けば、あれの身代金をお払いしようとしているんですよ』すると老いぼれ婆はたちまち色をなして、『おや、それで私たちを驚かすおつもりですの。あなたのお金なんかちっともほしかありませんよ!……あれをうんとひどい目に合わせてやるわ、うんと……馬鹿な考えを棄てさせてやります』としゃがれ声でまくし立てました。あんまり腹を立てたのでゴホンゴホン咳《せ》きこんだほどです。『あの娘はこの家が辛いとでもいうのかい?……ええ、あのふしだら女め、ああ神様、つい罪なことを口走ってしまいました、お許し下さいませ!』私は、正直なところ、思わずかっとなりました。『なんであなたはあんなかわいそうな娘をおどかすんです? 一体、あれがどんな悪いことをしたというんです?』老婆は十字を切って、『おやおや! これはこれは!〔原語では、「おお主よ! イエス・キリストよ!」という表現。それで十字を切ったのである〕私が自分の奴隷をどうしようと、私の勝手じゃございませんか?』『でも、あれはあなたのものじゃないでしょう!』『さあ、それはマリヤ・イリイーニチナがちゃんとご存じですよ。あなたなんかの知ったことではありません。とにかく私はマトリョーシカ〔マトリョーナの卑称〕に、あの娘が誰の奴隷女かということを、よくよく思い知らせてやります』
私は、実を言うと、もう少しでこの糞婆にとびかかるところでした。けれども、ふとマトリョーナのことを思い出したので、上げた手もひとりでに下がりました。私はすっかり怖気《おじけ》づいてしまいました、それはとても今お伝えできません。そこで今度は老婆に泣きついてみました。『お金はいくらでもさし上げます』と言って。『でも、一体あの娘《こ》をどうしようというのです?』『あの娘がすっかり気に入ってしまったのですよ。まあ、私の身にもなって下さい……あなたのお手に接吻させて下さい』そして本当にこの悪たれ婆の手に接吻したんですよ! 『では、』と鬼婆は口をもぐもぐさせて言いました。『私からマリヤ・イリイーニチナにお話ししておきましょう。なんて言いますか。二日ほどしたらまた来て下さい』私はひどく不安な気持で家へ帰りました。どうも事の運び方が拙《まず》かった、なにもわざわざこちらの気持を知らせることはなかったのだ、と思い当りましたが、今となってはもう後の祭りでした。二日ほど経って、私は女地主のところへ出かけていきました。今度は居間へ通されました。花がどっさりあり、部屋の飾りつけはすばらしいものでした。当の女主人はえらく手のこんだ安楽椅子に腰かけて、後のクッションに頭をもたせていました。この前の身内の老婆もそこに坐っているし、それからもう一人、髪やまつ毛の白っぽい、緑色の着物を着て、口の曲った、どうやらお話相手らしい娘がいました。老婆は鼻にかかった声で、『どうぞおかけ下さい』と言いました。私は腰を下ろしました。やれ年はいくつだの、どこに勤めていたかだの、何をするつもりかだのと根掘り葉掘りたずねました。それがみな人を見下《みくだ》したような、もったいぶった口のきき方なんです。私は詳しく答えました。老婆はテーブルの上からハンケチを取って、自分の顔をあおぎました……『あなたのお考えはカテリーナ・カールボヴナから聞きました』と言ってから、『けれども、うちでは奉公人に一さい暇《ひま》をやらないことにしております。それは不体裁でもありますし、きちんとした家にはふさわしくありません。それはふしだらですから。私はもう指図を与えました。あなたはもうこの上、御心配なさるには及びません』とこう言うのです。『心配だなんて、とんでもない……お宅ではマトリョーナ・フョードロワがお入り用なんですね?』『いいえ、入り用じゃありません』『ではなんであの娘を私に譲って下さらないんです?』『気が進まないから。気が進まない、それだけの話。私はもう指図を与えたと申し上げたでしょう。あの娘は草原の村へやられることになっています』私は雷に打たれたような気がしました。老婆は緑色の着物を着た娘にフランス語で二言ばかり何か言いました。娘は出て行きました。『私は規則をきびしく守る人間で、おまけに身体も弱いのです。心配ごとは我慢できません。あなたはまだお若いですし、私はもう年よりですから、あなたに御忠告を申し上げてもかまわないと思います。いかがです、身の振り方をお決めになって、御結婚なさったら。適当なお配偶者《つれあい》をお探しになったら。そりゃ、金持の花嫁なんてめったにいるもんじゃありませんが、貧乏でも身持のよい娘なら、見つからないこともありませんよ』私は老婆の顔を見つめたきりで、相手が何をしゃべっているのか、上《うわ》の空です。結婚の話をしているということはわかりますが、私の耳の中では草原の村という言葉がさっきから絶えず鳴り響いているのです。結婚しろだと!……なんて畜生だ……」
ここで話し手は不意に話をやめて、私をじっと見た。
「あなたはまだ結婚しておられないでしょう?」
「まだです」
「いや、もちろん、よくわかりますとも。そこで私は我慢できなくなりましてね。『とんでもない、奥さん、なんて馬鹿げたことをおっしゃるんです? 結婚しろですって? 私の知りたいのはただ、お宅の女中のマトリョーナを譲って頂けるかどうかということだけです』『ああ、人騒がせな! ああ、この人に早く帰るように言っておくれ! ああ!……』と老婆は悲痛の色を見せて嘆息しはじめました。身内の老女が傍へ駈けつけて、私のことをガミガミどなりつけました。老婆はのべつうなっています。『なんだって私はこんな目にあうんだろう?……してみると、私はもうこの家の主人じゃないのかしら? ああ、ああ!』私は帽子をひっつかむと、まるで気違いのように、外へ駈け出しました」
「もしかしたら」と話し手は言葉をつづけた。「あなたは、私が身分の低い娘にこんなに夢中になってしまったのを、おとがめになるかもしれませんね。私は、その、いいわけしようとは思いません……ただもうそうなってしまったのです!……本当になさるまいが、昼も夜も、おちおちできませんでした……私は苦しみました! 『なんだってあの不幸な娘を破滅させてしまったんだろう!』と思いましてね。あの娘が粗末なラシャの上っぱりを着てガチョウを追いまわしたり、主人の言いつけで虐待《ぎゃくたい》されたり、タールを塗った長靴をはいた百姓|頭《がしら》にさんざ毒づかれているありさまを思い浮べると、身体から冷汗がひとりでに流れてくるのでした。とうとう我慢できなくなり、娘のやられた村を探し出し、馬に乗ってその村へ出かけました。翌日の夕方近くになってやっとそこへ到着しました。まさか私がそんなことをするとは思わなかったのでしょう、私のことで何の指図もしてありませんでした。私は隣村の者のような顔をして、まっすぐに百姓頭のところへ行きました。外庭へ入って、見ると、マトリョーナが上り段に腰かけて頬杖をついています。彼女はあぶなくあっと叫び声を立てるところでしたが、私は静かにと合図をして、裏の畑の方を指し示しました。それから家の中に入って、百姓頭と一しゃべりし、嘘八百をならべたて、潮時を見はからってマトリョーナのところへ行きました。かわいそうに娘は、いきなり私の頸《くび》っ玉にぶら下がりました。あの娘は僅かの間に、顔色は蒼ざめ、すっかりやせていました。私は、あなた、あの娘にこう言ってやりましたよ。『大丈夫だよ、マトリョーナ。大丈夫だよ、泣くんじゃない』が、そう言っている自分の眼からも涙が止めどなく出てくるのです……それでも、とうとうしまいには、私もきまりが悪くなってきました。私は言いました。『マトリョーナ、泣いたって始まらないよ。それよりか、きっぱりした行動に出なくちゃならない。お前はおれと一しょに逃げるんだ。ほかにどうしようもない』マトリョーナはたちまち気も遠くならんばかり……『どうしてそんなことができましょう! そんなことをしたら私の身の破滅ですし、私はみんなに苛《いじ》め殺されてしまいます!』『馬鹿だな、お前は。誰がお前を見つけ出せるもんか?』『見つかります、きっと見つかります。お礼を申し上げますわ、ピョートル・ペトローヴィチ、御恩は一生忘れません、でも今はもう私のことなんかお構いにならないで下さい。きっと、これが私の運命なのですわ』『何を言うんだ、マトリョーナ。おれはお前のことをもっと性根《しょうね》のある娘だと思っていたのに』本当にあれは性根のある娘でした……とてもいい娘でした! 『ここに残ってどうなるというんだい! どうせ同じことじゃないか。これより悪くなりっこはないんだから。それじゃ、きくけれど、百姓頭の拳固《げんこ》の味は知ってるんだろう、え?』マトリョーナは怒りに燃えてかっと赤くなり、唇がわなわなとふるえ出しました。『でもそんなことをしたら家の暮しが立たなくなるわ』『お前の家のものが……どこかへやられるのかい?』『やられるわ。兄さんがきっとやられるわ』『じゃ、お父っつぁんは?』『さあ、お父さんはやられないでしょうよ。お屋敷でたった一人の腕ききの仕立屋なんですから』『それご覧。お前の兄さんだってそのため身の破滅になるようなことはないさ』いやもう本当に、やっとのことであれを説き伏せました。何しろ、『そんなことをしたらあなたの責任問題になってよ』などと言い出す始末で……私は、『なあに、それはお前の知ったことじゃないんだ……』と言ってやりました。けれども、とにかく私はあの娘をつれ出しました……このときでなしに、次のときに。夜、馬車で行って、――つれ出したんです」
「つれ出したんですって?」
「そうです……で、あれは家に住むようになりました。私の家は小さな家で、使用人も少ししかおりません。うちの召使たちは、率直に言って、私を尊敬していました。どんな好餌《こうじ》でつられても、私を裏切るはずはありません。私は幸福に暮すようになりました。マトリョーヌシカ〔マトリョーナの愛称〕も休養したら、元どおりになりました。私はあの娘に夢中です……それになんていい娘だったでしょう! 本当に、何でもできました。歌もうたえれば、踊りもでき、ギターも弾ける……近所の人たちにはあの娘を見せないようにしていました。うっかり口外されては大変ですから! ところで私には一人の友人が、親友がおりました。ゴルノスターエフ・パンテレイというんですが、ご存じありませんか? この男があの娘にすっかり首ったけでした。まるで奥様かなんぞのように、あの娘の手に接吻しました、本当の話ですよ。それに実を言うと、ゴルノスターエフは私とは比べ物になりません。教育のある人間で、プーシキンなどはみな読んでいました。マトリョーナや私を相手に話を始めると、私たちは耳をそば立てたものでした。この男があの娘に読み書きを教えてくれました、実に変り者で! また私があの娘にどんな着物を着せてやったかと申しますと、それこそ県知事夫人も及ばないくらいでした。毛皮の縁取りをした深紅のビロードで毛皮外套を作ってやったり……いや、その外套のよく身体に合ったことといったら! この毛皮外套はモスクワのマダムが新型で仕立てたもので、腰のところがキュッと繋《しま》っていましたよ。それにしてもこのマトリョーナという女は実にすばらしい女でした! よくあったことですが、じっと考えこんで何時間も何時間も坐ったまま、床を見つめたきり、眉毛一つ動かそうとしない。私も傍に坐ったまま、その顔を見ているのですが、いくら見ても見飽きることがないのです、まるで初めて見るような気持で……そのうちに、あれがにっこり笑うと、私の心臓は、誰かにくすぐられでもしたみたいに、たちまちぶるぶるっと震えるのです。そうかと思えば、急に笑い出したり、ふざけ出したり、踊り出したりする。そして私をとても熱烈に、とても強く抱きしめるので、私は眼がまわるほどです。朝から晩まで私の考えていることと言えばただ一つ、どうやってあの娘を喜ばしてやろうか、ということだけでした。私が物を買ってやったのは、あれが、かわいいあの娘が、私の贈り物を身体に合わせたり、新しい着物を着て私の傍へいそいそとやって来て接吻をしたりするときに、あの娘がどんなに喜ぶかを見たいばっかりにしたことでした。うれしさのあまりポッと顔を赤らめるのを見たかったからでした。そのうち、どこをどうしてか知りませんが、娘の父親のクーリクが私たちのことを嗅《か》ぎつけました。年よりはやって来て私たちの様子を見ると、いきなりオイオイ泣き出しました……うれし泣きではなかったかと思いますが、あなたはどうお思いになります? 私たちはクーリクにいろんな物をやりました。娘は、可愛いいあの娘は、帰りぎわに自分から五ルーブリ紙幣を持ち出しました――一方、父親は娘の足もとにばったり倒れるように平伏しました――まことに変な男で! こんなふうにして私たちは五ヵ月ほど暮しました。いつまでもあれと一しょにこうやって暮したかったのですが、私はよくよく運の悪い男なんです!」
ピョートル・ペトローヴィチは話を途中でやめた。
「一体、何ごとが起ったのです?」私は同情の面持《おももち》でこうたずねた。
彼は片手を振った。
「何もかも駄目になってしまったんです。私があの娘を破滅させてしまったのです。うちのマトリョーヌシカは橇《そり》を乗りまわすのが大好きで、自分でもよく手綱を取ったものでした。毛皮外套を着こみ、縫い取りのあるトルジョーク〔トルジョークはロシアの町の名。皮革工業で昔から有名〕出来の革手袋をはめて、しきりにはしゃぐのです。私たちが乗りまわしたのはいつも夕方で、それというのも人目を避けるためでした。ところがあるとき、実にすばらしい日が当たりました。寒さが小気味よく冴《さ》えわたり、晴れていて、風がありません……私たちは出かけました。マトリョーナが手綱を取りました。ふと気がついて見ると、どこへ行こうというのだろう? まさかククエフカヘ、自分の奥様の村へ行くんじゃあるまい? ところが、まさしくククエフカをさしているのです。私は、『お前、気でも狂ったのか、どこへ行くんだ?』と言いました。するとあれは、肩越しに私の方を振り向いて、にっこり笑いました。『景気よくやらしてよ』とでも言うように。『あ!』と私は思いました。『ままよ、どうともなれ!……』主人の家の前を走らせてみるのも面白いじゃありませんか? ねえ、あなた、面白いじゃありませんか? そこでどんどん走らせました。中馬はまるで飛ぶように走りますし、副馬《そえうま》はさながら旋風のような勢いで駆けるのです。そのうち早くもククエフカの教会が見えてきました。このとき、ふと見ると、街道をのろのろと古めかしい緑色の箱馬車がやって来る。馭者台には従僕がつっ立っている……奥様だ、奥様がやって来る! 私はさすがに怖気づきましたが、マトリョーナのやつは馬に手綱をピシリとくれると、いきなり箱馬車目がけてまっしぐらに馬車を駆り立てたもんです! 向うの馭者は、そのなんです、こっちを見ると、出会い頭《がしら》にどこかのとんま野郎が、飛ぶように馬車を駆り立てて来るので、とっさに片側へ避けようとしましたが、急に手綱をぐいとしぼったそのはずみで、箱馬車は吹きだまりの中にもんどりうってひっくり返りました。窓のガラスはこわれる。奥様は、『あれ、あれ、あれ! あれ、あれ、あれ!」と悲鳴を上げる。お話し相手の女は、『つかまえて、つかまえて!」と金切り声を立てる。私たちは一目散《いちもくさん》に傍を駈けぬけました。逃げて行く道すがら、私は考えました。『困ったことになるぞ、ククエフカヘなぞ来させなけりゃよかった』と。ところで、それからどうなったと思います? 奥様はマトリョーナにも気づけば、私にも気づいたもんで、婆あめ、いい年をして私を訴え出たじゃありませんか。『逃げたうちの女中が士族のカラターエフの所におります』と言って。もちろん、しかるべく袖の下を使った上でのことです。そうこうするうちに郡警察署長がうちへやって来ました。この署長というのがスチェパン・セルゲーイチ・クゾフキンという前々からの知り合いで、ものわかりのいい男、つまり本当はあまりよからぬ男なんです。それがやって来て言うには、『これこれしかじかだが、ピョートル・ペトローヴィチ、――どうしてそんなことをなさったのです?……責任は重大で、法律もこのことに関しては明白ですぞ』そこで私はこう言いました。『もちろん、そのことは後でゆっくりお話しするとして、遠いところをわざわざおいでになったんですから、食事でもなさいませんか?』食事をすることには応じながら、『法律が要求するんですからね、ピョートル・ペトローヴィチ、考えてもみて下さい』『そりゃ、もちろん、法律は、その、もちろんです……ところで聞くところによると、あなたは黒馬を一頭お持ちだそうですが、なんならうちのラムプルドスと取り換えませんか?……でもマトリョーナ・フョードロワなんて女中は、うちにはいませんよ』と私は言いました。すると相手は、『まあ、ピョートル・ペトローヴィチ、女中は確かにお宅にいますよ。何しろ私たちはスイスに住んでいるんじゃありませんから……そりゃ、うちの馬とラムプルドスと取り換えるのは構いませんよ。なんならすぐにでももらっていきますがな』けれどもこのときは、どうにかこうにかごまかしました。ところが女地主は前にもまして騒ぎはじめました。一万ルーブリかかっても惜しくないと言うんです。それというのも、初めて私に会ったとき、緑色の着物を着ていたお話し相手の娘を、私にめあわせたらとふと思いついたからなんで、――これは後でわかったことです。だからこそ、かんかんに怒ったというわけなんです。こうした奥さん方ときたら、何を考え出すかわかったもんじゃありません……退屈だからでしょうね、きっと。私は窮地に陥《おちい》りました。こちらも金目を惜しまず、マトリョーナをかくまいましたが、――駄目です! みんなに引きずりまわされ、きりきり舞いをさせられてしまいました。借金で首がまわらなくなる、身体は悪くなるという始末……ある晩、私は床《とこ》の中に横になって考えていました。『ああ、なんだって自分はこんな辛《つら》い目にあうんだろう? でも、あれのことを思い切れないとすれば、一体どうしたらいいのだ?……いや、とてもできない、できない相談だ!』と、そのとき、いきなりマトリョーナが部屋に入ってきました。私はそのころ、屋敷から二露里ばかり離れた自分の農園にあれをかくまっておいたのです。私はびっくりしました。『どうしたんだ? あすこにいても見つかったのか?』『いいえ、ピョートル・ペトローヴィチ、ブブノフにいますと誰も私をいやな目に会わせる人なんかいません。でも、いつまでもこうしていられるでしょうか? 私は、ピョートル・ペトローヴィチ、胸が張り裂けそうですの。あなたがお気の毒でならないんです。御親切は一生忘れませんわ、ピョートル・ペトローヴィチ、でも今度はお別れに参りましたの』と言うんです。『な、何を言うんだ、お前、気でも狂ったのか?……別れるって、どうするのだ? え、どうするのだ?』『どうもしないわ……私、自分から名乗って出ようと思うの』『おれはお前を、この気違いめ、屋根裏に閉じこめてくれる……それともお前はおれを破滅させてしまうつもりか? おれを殺そうというのか?』娘はじっと黙りこんだまま床を見つめています。『さあ、なんとか言え、言わないか!』『もうこれ以上、御迷惑をおかけしたくありませんの、ピョートル・ペトローヴィチ』こうなったらもう挺子《てこ》でも言うことを聞きません……『お前にはわからないのか、馬鹿、わからないのか、気……気違い……』」
ここでピョートル・ペトローヴィチは声を上げて烈しくむせび泣いた。
「それでどうなったと思います?」と彼は、テーブルを拳《こぶし》でドンとたたくと、眉をしかめようと努めながら言葉をつづけた。けれども涙はほてった頬を伝ってなおも止めどなく流れ落ちるのであった。「娘は自分で名乗って出ました、自分から出かけて行って名乗って出たのです……」
「馬の用意ができました!」駅長が部屋に入って来ながら、ものものしく叫んだ。
私たち二人は立ち上がった。
「で、マトリョーナはどうなりましたか?」と私はきいた。
カラターエフはただ手を振った。
――――――
カラターエフに会ってから一年ほどして、私はたまたまモスクワヘ行った。ある日のこと、昼食前に私は、鳥屋町《オホートヌイ・リヤード》の向うにあるコーヒー店に入った。ここは一風変ったモスクワのコーヒー店である。玉突部屋では、もうもうたるタバコの煙の間から、まっ赤になった顔や、口髭や、冠髪や、流行おくれのハンガリー式上着〔肋骨飾りのある軽騎兵の上着〕や、最新流行のスラヴ型上着などがちらついていた。質素なフロックコートを着たやせた老人たちがロシアの新聞を読んでいた。給仕が緑色の絨氈《じゅうたん》の上を柔かく踏みながら、お盆を持って足早にちらほらしていた。商人たちは心気《しんき》くさい張りつめた顔をしてお茶を飲んでいた。と、不意に玉突部屋から、少しばかり髪をふり乱した男がおぼつかない足どりでふらふら出て来た。彼は両手をポケットに突っこみ、首を垂れ、意味もなくあたりを見まわした。
「おや、これは、これは! ピョートル・ペトローヴィチ!……お変りありませんか?」
ピョートル・ペトローヴィチは私の頸にぶら下らんばかりであった。そしてよろめく足を踏みしめながら、小さな別室へ私を引っぱっていった。
「さあ、こちらへ」と気を配って私を安楽椅子にかけさせながら、彼は言った。「ここの方がよろしいでしょう。給仕、ビール! いや、違った、シャンペーンだ! でも、正直なところ、思いがけなかったですね、ほんとに思いがけない……こちらへは大分前から? しばらく御滞在で? これこそいわゆる、神様のお引合せというやつですね……」
「そうです、覚えておいでですか……」
「覚えていなくって、覚えていなくって」と彼は性急に私の言葉をさえぎった。「昔のことで……昔のことで……」
「それで、こちらでは何をしておいでですか、ピョートル・ペトローヴィチ?」
「ご覧の通りの生活ですよ。こちらの方が暮しいいですよ、この土地の人たちは親切ですから。私もここへ来て落ち着きました」
彼は溜息をついて眼を上に向けた。
「お勤めですか?」
「いいえ、まだ勤めてはおりませんが、じきに決まるだろうと思います。でも勤めなんて下らないじゃありませんか?……人間同志のつき合い――それが肝腎《かんじん》なんです。私は当地で、なかなか愉快な連中と近づきになりましたよ!……」
ボーイが黒いお盆にシャンペーンの壜をのせて入って来た。
「ほら、この子だっていい人間ですよ……お前はいい人間だろう、そうじゃないか、ワーシャ? お前の健康を祝して乾杯だ!」
ボーイはちょっと立ちどまり、お行儀よく頭を振り、にっこり笑って出て行った。
「さよう、ここの人たちはいい人たちですよ」とピョートル・ペトローヴィチは言葉をつづけた。「人情もあれば、真心もあって……なんでしたら御紹介しましょうか? とてもいい連中ですよ……みんな喜んであなたとお近づきになるでしょう。後で話しておきます……もっともボブロフは死にましたよ、かわいそうなことをしました」
「ボブロフって誰です?」
「セルゲイ・ボブロフです。とてもいい男でした。私のような無学者の、野育ちの面倒をよく見てくれました。ゴルノスターエフ・パンテレイも死にましたよ。みんな死んでしまいました、みんな!」
「あなたはずっとモスクワでお暮しでしたか? 田舎へはおいでになりませんでしたか?」
「田舎ですって……私の村は売られてしまいましたよ」
「売られてしまった?」
「競売で……あなたにでも買って頂くとよかったですね!」
「これからどうやって暮していかれるんです、ピョートル・ペトローヴィチ?」
「まさか飢え死もしないでしょうよ! 金はなくなっても、友だちがいますから。金がなんです? ――塵芥《ごみ》ですよ! 黄金だって――塵芥《ごみ》です!」
彼は眼を細くして、ポケットの中を探りまわし、掌の上に十五コペーカ銀貨二枚と十コペーカ銀貨一枚をのせて私の方にさし出した。
「これはなんです? 塵芥《ごみ》じゃないですか! (金《かね》は床の上にけし飛んだ)そんなことよりも一つおたずねしますが、あなたはポレジャーエフ〔一八〇五―一八三八、ロシアの革命詩人〕をお読みになったことがおありですか?」
「あります」
「モチャーロフ〔一八〇〇―一八四八、「ハムレット」を得意としたロシアの名優〕のハムレットをご覧になったことは?」
「いやまだ見ていません」
「ご覧になっていない、ご覧になっていない……(カラターエフの顔はさっと蒼ざめ、眼は不安げにキョロキョロ動き出した。彼はつと顔をそむけた。かすかなふるえがその唇の上を通り過ぎた)ああ、モチャーロフ、モチャーロフ! 『死ぬるは眠るに過ぎない』と彼は空《うつろ》な声で言った。
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もし眠りによって、この肉体が受けねばならぬ心の苦しみ、
悩みのかずかずを絶ち切れるものなら、
それこそ専《もっぱ》ら望ましい大願成就だ。
死ぬるは眠ること、眠るは多分夢見ること。
〔市河・松浦訳「ハムレット」〕
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「眠ること、眠ること!」と彼は何度かつぶやいた。
「ちょっと伺いますが」と私は言いかけた。けれども彼は熱心に先をつづけた。
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ただ一突きで、われとわが身を清算して、すぐ楽になれるのに、
浮世の鞭《むち》とさげすみにだれが甘んじて堪えているものか。
圧迫者の不正、おごれる者の無礼、
はねつけられた恋の痛手、裁きののろさ、役人の横柄、
立派な人物がろくでなしの足げにかけられて、
じっと我慢している憂き目、だれがそんなことを堪えるか?……娘よ、
おん身の祈りの中で、わたしの一さいの罪障消滅を、祈っておかれよ。〔同前〕
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そしてテーブルの上に頭をぐったりと垂れた。彼は吃《ども》りながら、管《くだ》をまき始めた。
「やっと一ヵ月!」と彼は新たな力をこめて言い出した。
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やっと一ヵ月。ナイオビのように全身涙にかきくれて、
お父さんのなきがらを送って行かれた時の靴がまだ古くもならない内に。
あのお母さんが、叔父さんと結婚してしまった。
ああ、理性の力を持たない獣でさえ、
もう少し長く喪に服しただろうに。〔同前〕
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彼はシャンペーンの杯を口|許《もと》へ持っていったが、飲み干《ほ》しもせずに、先をつづけた。
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ヘキュバの為か?
しかしヘキュバが、彼にとってなんだ?
ヘキュバにとって、彼がなんだ? 泣くだけのことがあるか?
しかるにおれはどうだ。≪のろま≫で≪ぐうたら≫で、――
おれは卑怯者か? おれを悪人と呼び棄てるのはだれだ?……
大嘘つきめとののしる奴はだれだ?
ハハハ……おれは甘んじて侮辱を受けるだろうよ。
おれは、おとなしくて、悪事をされても腹を立てるだけの意気地がないに違いない……〔同前〕
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カラターエフは杯を落して、両手で頭を抱えた。私は彼の気持がわかったような気がした。
「まあ、仕方がないさ」彼は最後にこう言った。「過ぎ去ったことを今さら思い出しても仕方がない……そうじゃありませんか?(ここで彼は笑い出した)あなたの御健康を祝して乾杯しましょう!」
「あなたはこれからもずっとモスクワにおいでになりますか?」私はきいた。
「モスクワの土になるつもりです!」
「カラターエフ!」という声が隣の部屋で聞えた。「ヵラターエフ、どこにいるんだい? こっちへ来ないかい、君《ちみ》!」
「呼んでいますので」と大儀そうに席から立ちながら、彼は言った。「これで失礼いたします、ご都合がおつきでしたら、遊びにいらして下さい。***にいますから」
けれども翌日、思いがけない事情のために、私はモスクワを発たなければならなかった、その後は二度と再びピョートル・ペトローヴィチ・カラターエフに会ったことがない。
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あいびき
秋は九月半ばのころ、私は白樺の林の中に坐っていた。朝早くから小雨がぱらついていたが、その合間にはときおり暖かい日も射すという、はっきりしない空模様であった。空は一面に頼りない白雲に蔽《おお》われるかと思えば、不意に束《つか》の間《ま》、ところどころ雲ぎれがして、押し分けられた雲の背後から、美しい眼のように澄み切った穏やかな青空が現われる。私は坐ってあたりを見まわし、耳を澄ましていた。つい頭の上で樹の葉がかすかにそよいでいたが、それを聞いただけでも季節は知れた。それは楽しそうに笑いささめく春のわななきでもなければ、夏の穏やかなささやきでも長話でもなく、晩秋のおどおどした寒そうなつぶやきでもなくて、ようやく聞きとれるか聞きとれないほどの眠そうなおしゃべりであった。そよ風が音もなく梢を吹きぬける。雨にぬれた林の中は、日が照ると曇るとで絶えず趣が変った。時には、そこにあるほどのものが一時に微笑《ほほえ》んだかのように、一面にパッと明るく照らし出される。さして繁《しげ》り合ってもいない白樺の細い幹がにわかに白絹のように華奢《きゃしゃ》に照り映《は》え、地面に散らばっているこまかい落葉がさっと斑《まだら》に彩《いろど》られて、金色に燃え立つ。高々と伸びうっそうと繁ったシダの美しい茎が、熟《う》れすぎたブドウのような秋の色に早くも染まり、はてしもなくもつれたり、からんだりしているのが、眼の前にいきなり透いて見える。かと思うと、またあたり一面が急に薄青くなる。鮮やかな色は瞬《またた》く間に消え失せて、白樺は光沢《つや》もなく、ただもう白く、寒々と射す冬の陽光のまだ触れぬ降りたての雪のように白く立っている。やがて糠雨《ぬかあめ》がこっそりと、忍びやかに、篩《ふるい》にかけられたようにしとしとと降り出し、ささやくような音を立てはじめた。白樺の葉は目に見えて色が褪《あ》せたものの、まだみなほとんど緑色であった。ただそこここに若木のすっかり赤くなったのや、すっかり金色になったのがまじっていて、キラキラと光っている雨にたった今洗われたばかりの細い小枝のこまかい網目ごしに、日光が不意にちらちらとすべるようにもれて来るとき、紅葉が日をうけて鮮やかに燃え上るのは見ものであった。一羽の鳥の声も聞えない。みなどこかに隠れて静まり返っている。ただときおり嘲笑《あざわら》うようなシジュウカラの声が鋼《はがね》の鈴のように響きわたるのみである。この白樺林に足を止める前に、私は犬をつれて高いヤマナラシの林を通った。私は、正直なところ、あまりこの木を、――ヤマナラシを好かない。幹は薄紫色で、灰がかった緑色の金属のような葉をしており、その葉をできるだけ高く上にあげ、ぶるぶると震える扇のように空中に拡げている。長い葉柄に無細工《ぶさいく》にくっつけられた円い小ぎたない葉が、絶えずゆらゆらと揺れているのを私は好かない。見ていていいなと思うのは、低い灌木林の中に一きわ高くそびえて、赤らむ入り日の光をまともに受け、根もとから梢まで一様に茜色《あかねいろ》に染まって輝いたりふるえたりしている夏の夕べか、さもなければ、風のある晴れた日に、ざわざわと騒がしく風になびき、青空にむかっておしゃべりをし、一枚一枚の葉が揉《も》みに揉まれて、まるでちぎれて落ちて、遠くの方へ飛んで行こうとでもしているかのように見えるときである。けれども私は大体この木を好かない。そこでヤマナラシの林に足を止めて休もうとはせずに、白樺林にたどりつき、地上をわずか離れたところに下枝《しずえ》が出ていて、したがって雨宿りには恰好《かっこう》の一本《ひともと》の樹蔭に座を占め、あたりの景色を一わたり眺めたのち、猟人だけが知っている、例の穏やかな、安らかな眠りに落ちたのである。
どのくらい眠ったかわからないが、眼をあけたときには――林の中は日が一ぱいにあたっていて、どちらを見ても、うれしそうにそよぐ樹の葉を透して、鮮やかな青空が見え、まるでキラキラと輝いているようであった。雲は急に吹きだした風に追い散らされて姿を消し、いつしかからりと晴れたお天気になり、空気中には一種特別な、乾いたさわやかさが感じられた。それは、なんとなく元気のわいて来るような感じで人の心を満たしながら、ほとんどいつも、雨もよいの日のあとにつづく、穏やかな、晴れわたった夕べを予告するものである。私は起き上がって、もう一度運試しをしてみようと思った。と、そのときふと、じっと動かない人影が眼にとまった。よくよく見ると、それは若い百姓娘であった。私から二十歩ほどのところに、もの思わしげにうなだれ、両手を膝の上にのせて坐っている。半ば開かれた片方の手には、野の花の小さな花束がのっていたが、娘が呼吸をするたびに、花束は碁盤縞《ごばんじま》のスカートの上に少しずつずり落ちていく。喉と手首のところにボタンをかけた清潔な、白いブラウスは、胴のあたりで、短い、柔かい襞《ひだ》をつくっていた。大粒の黄色い|飾り玉《ビーズ》が頸から胸元へ二重に垂れ下がっている。娘はなかなかの器量よしであった。美しい灰色をした、豊かな薄亜麻色の髪の毛は、左右に分れて二本の念入りにとかされた半円となり、象牙のように白い額のほとんど真上までかぶさっている幅のせまいまっ赤な布《きれ》の下からはみ出ていた。顔ののこりの部分は小麦色に日やけしているが、それは皮膚の薄いものだけにしか見られないことである。うつむいているので眼は見えなかった。けれども細く秀《ひい》でた眉と、長いまつ毛ははっきりと見えた。まつ毛はうるんでいて、片頬には、涙の乾いた跡が日に光って見える。頬を伝わり落ちた涙はやや蒼ざめた唇のわきにまだ残っている。娘の頭部はどこをとっても非常に愛らしかった。少しばかり肉が厚くて円みのある鼻でさえさして気にならなかった。とりわけ私の気に入ったのは顔の表情である。いかにも素朴で、おとなしそうで、いかにも悲しそうで、自分の悲しみを前にして子供のように途方にくれている様子が見える。娘はどうやら誰かを待っているらしかった。林の中で何かかすかな物音がすると、すぐに首を上げて、あたりを見まわす。眼の前の透明な樹蔭に、大きな、明るい、牝鹿のようにおどおどした眼がさっと輝く。娘は大きく見開いた眼を物音のした方からそらさずに、しばらく聞き耳を立てていたが、やがて溜息をついて、そっと頭の向きをもとにもどし、前よりも一そう低くうつむき、のろのろと花を摘みはじめた。瞼《まぶた》は赤らみ、唇は苦しそうにわなないている。濃いまつ毛の下からまた涙が一しずく流れ出て、頬のあたりで一たんとまる拍子にキラリと光った。こうしてかなりの時が経った。かわいそうに、娘は身じろぎもしなかった。ただ時折もの悲しげに両手を振って、じっと耳をすませるだけであった……また林の中で何やらざわめいた。娘はびくりと身ぶるいした。物音はやまずに、だんだんはっきりしてきて、近くなり、ついにはしっかりした、敏捷な足どりとなった。娘は身体をしゃんとさせたが、なんだか怖気《おじけ》づいたようでもある。注意深い眼差《まなざし》はおどおど震えだし、期待に燃え上がった。繁みの間から男の姿がせわしなくちらつきはじめた。娘はじっと見つめていたが、たちまち顔を赤らめて、さもうれしそうに、幸福そうににっこり笑って立ち上がろうとした。けれども、すぐまたうつむいて、色を失い、どぎまぎしてしまった。そして、男が自分の傍へ来て足をとめたときにはじめて、おどおどした、ほとんど懇願するような眼で男の顔を見上げた。
私は好奇心にかられて物かげから男をのぞいて見た。正直に言って、この男は私にいい印象を与えなかった。これは、どこからどう見ても、若い金持の旦那に使われている増長した侍僕であった。着物はおつに気取って、伊達《だて》ものらしくわざとぞんざいに見せようとしている。どうやら主人のおさがりらしい銅色《あかがねいろ》の短い外套を着て、ボタンを上まできちんとかけ、端の方を薄紫に染めたバラ色のネクタイをしめ、金モールのついた黒ビロードの縁なし帽子を目深にかぶっている。白いシャツの角の円い襟《カラー》は容赦なく耳を押しつけて、頬をちくちくさせ、糊《のり》の利いたカフスは手首を、赤い曲った指まですっかり蔽《おお》っていた。指には忘れな草を象《かたど》ったトルコ玉入りの金や銀の指環をはめている。桃色の、生き生きした、いかにもあつかましそうなその顔は、これまでの私の観察によると、ほとんどきまって男にとっては胸くそが悪くなるかわり、残念ながら女には、大てい好かれるといった、そうした類《たぐい》のものであった。彼は明らかに、自分のややお粗末な顔立ちに、人を小馬鹿にしたような、いかにも退屈したような表情を浮べようと努めていた。絶えず、それでなくてさえちっぽけな、乳色がかった鼠色の眼を細くしたり、顔をしかめたり、唇の両端を下げたり、わざとらしくあくびをしたり、見え透いているのにわざと無頓着《むとんじゃく》なふりをして、あるいはいなせに捲き上がっている赤ちゃけた揉上《もみあ》げをなでてみたり、あるいは厚い上唇の上にぴんとおっ立っている黄色い髭《ひげ》を引っぱったり――要するに鼻持ちならぬ気どり方であった。彼は自分を待っている若い百姓娘を見つけるなり、気どり出したのだった。ゆっくりと、一歩一歩踏みしめながら娘に近づき、ちょっと立ち止まり、肩をそびやかし、両手を外套のポケットに突っ込んだ。そして哀れな娘にちらりと冷淡な一瞥《いちべつ》をくれると地面に腰を下ろした。
「どうだい」と相変らずそっぽを向いたままで、片足をぶらぶらさせて、あくびしながら口をきった。「大分待ったかい?」
娘はすぐには返事ができなかった。
「ええ、大分待ってよ、ヴィクトル・アレクサンドルイチ」と彼女は、しまいに、やっと聞き取れるくらいの声で言った。
「あ、そうかい! (彼は帽子をぬぎ、ほとんど眉のすぐわきから生えている、濃い、ぎゅっと縮らせた髪の毛をもったいらしくなでつけて、大様《おおよう》にあたりを見まわしたのち、用心深く自分の大事な頭にまたかぶせた)すっかり忘れてしまうところだった。おまけに、ほら、この雨だろ! (彼はまたあくびをした)仕事は山ほどある。そう何から何まで行きとどきやしない。それなのに小言をくらうんだからな。ときに、おれたちは明日発《あしたた》つよ……」
「明日?」と娘は言って、驚いて男の顔を見る。
「明日さ……おい、おい、頼むぜ」娘がぶるぶるふるえだして、そっとうつ向いたのを見て、彼は急いで、いまいましげに言った。「頼むから、アクリーナ、泣かないでくれ。知ってのとおり、おれはそれが我慢ならないんだ(と言って彼は団子鼻にしわをよせた)。泣くならすぐに帰るぜ……馬鹿らしい――めそめそするなんて!」
「あら、泣かないわ、泣かないわ」アクリーナはやっとのことで涙をのみながら、あわてて言った。「それじゃ明日お発ちですの?」としばらく黙っていたあとで、こう附け加えた。「今度はいつお会いできるかしら、ヴィクトル・アレクサンドルイチ?」
「会えるとも、会えるとも。来年でなけりゃ、もっとあとで。旦那様はペテルブルグでお役所勤めでもなさりたい御様子だ」とぞんざいな、少し鼻にかかった声で彼は言った。「もしかしたら、外国へ行くかもしらん」
「あなたは私のことなんか、忘れてしまうでしょうね、ヴィクトル・アレクサンドルイチ」とアクリーナは悲しげに言った。
「いや、どうしてだい? 忘れやしないよ。だが、お前も利口になって、馬鹿な真似《まね》はせずに、親父の言うことをきくんだな……おれはお前のことを忘れやしないさ――そうとも」(そう言って彼は、落ち着きはらって伸びをするとまたもやあくびをした)
「忘れないでね、ヴィクトル・アレクサンドルイチ」と娘は懇願するような声で言葉をつづけた。「私、本当に、どうしてあなたが好きになったのかしら、何もかもあなたのためという気がして……あなたはお父っつぁんのいうことをきけとおっしゃるけれど、ヴィクトル・アレクサンドルイチ……お父っつぁんのいうことなんか、きけるはずがないでしょう……」
「なぜだい?」(彼は仰向けに寝ころんで、両手を頭の下にあてがうと、吐き出すようにそう言った)
「なぜって、ヴィクトル・アレクサンドルイチ、あなただってご存じでしょう……」
娘は口をつぐんだ。ヴィクトルは時計の鋼鉄の鎖をいじりだした。
「なあ、アクリーナ、お前も馬鹿じゃないんだから、そんな下らないことは言いっこなしだ」と、とうとう彼は言い出した。「おれは、お前のためを思えばこそ言ってるんだ、わかったかい? もちろん、お前は馬鹿じゃないし、いわゆるまるっきりの百姓女じゃない。お前のおふくろだってずっと百姓女だったわけじゃないしさ。けれどもやっぱり、お前は教育がないんだから、――つまり、人の言うことはきくもんだ」
「でも、怖《こわ》いんだもの、ヴィクトル・アレクサンドルイチ」
「へん、馬鹿馬鹿しい。何が怖いもんかね! なんだいそりゃ」と娘の傍へ近寄って、「花かい?」
「花よ」とアクリーナは沈みがちに答えたが、「ナナカマドを摘んできたの」と少し元気になって言葉をつづけた。「仔牛の大好物よ。それからこれがトウコギ――るいれきに利くの。ほら、ご覧なさい、なんてきれいな花でしょう。こんなきれいな花を見るのは生れて初めてだわ。これは忘れな草で、これがニオイスミレ……それからこれはあなたにあげようと思って摘んで来たの」と、黄色いナナカマドの下から細い草で結《ゆわ》えた空色の矢車菊の小束を取り出して、附け加えた。「ほしい?」
ヴィクトルは大儀そうに手をのばして、花を受け取り、無造作に匂いを嗅《か》いで、もの思わしげなもったいをつけて空を見あげながら、指先でくるくると花束をまわしはじめた。アクリーナはじっと彼を眺めている……その眼つきには、惚《ほ》れ惚《ぼ》れと男に打ち込み、なんでも意のままになろうという無私の愛情があふれていた。娘は男に気がねをして、思いきり泣くこともできず、心の中でひそかに別れを告げて、これが最後と男に見とれていた。ところが男は、まるでサルタン〔回教国君主〕のように長々と寝そべって、いやいやながら格別の慈悲をもって許して遣《つか》わすとばかりに、娘の崇敬を受けている。私は、正直なところ、男の赤ら顔を見てむらむらと腹が立った。その顔にはわざと人を軽蔑したような冷淡ぶりを見せている蔭から、いかにも満足そうな、満腹した自尊心がちらついていた。アクリーナはこのときまことに美しかった。彼女はすっかり信じきって、自分の心を男の前にさらけ出し、男に恋い憧れ、媚《こ》びているのに、男は……男は矢車菊を草の上に落してしまって、外套の脇ポケツトから青銅《ブロンズ》の縁《ふち》のついた円い眼鏡を取り出して、それを片方の眼にはめこみにかかった。けれども、いくら眉をしかめたり、片頬を持ち上げたり、鼻までも動かして眼鏡を支えようとしても――眼鏡は相変らずはずれて掌《てのひら》へ落ちて来るのであった。
「それ、なあに?」しまいにはアクリーナもびっくりしてこうきいた。
「ロールネットさ」男はもったいぶって答えた。
「どうするもの?」
「よく見えるのさ」
「見せて頂戴な」
ヴィクトルは顔をしかめたが、それでも眼鏡を渡した。
「こわさないように気をつけな」
「大丈夫、こわしゃしないわ」(娘はおずおずと眼鏡を眼にあてがった)「何にも見えなくってよ」とあどけなく言う。
「お前、眼を細くするんだよ」ときげんの悪い先生といった声で男はきめつけた(娘は眼鏡をあてがっている方の眼を細くした)。「そっちじゃない、そっちじゃない、馬鹿! こっちの眼だよ!」とヴィクトルは叫ぶと、娘が間違いを改める暇《いとま》もなく、さっさと眼鏡を取り上げてしまった。
アクリーナは顔を赤らめて、かすかに笑みをもらし、わきを向いてしまった。
「きっと、私たちの使うものじゃないんだわ」と彼女は言った。
「当り前よ!」
かわいそうに娘は口をつぐむと深い溜息をついた。
「ああ、ヴィクトル・アレクサンドルイチ、あなたがいなくなったらどうなるかしら!」だしぬけに娘が言った。
ヴィクトルは洋服の裾《すそ》で眼鏡を拭いて、再びポケットにしまいこんだ。
「そうそう」と、やっと彼は言い出した。「そりゃ、初めは辛いだろうよ、確かに(と、お情けに娘の肩を軽くたたいた。娘はそっとその手をはずして、おずおずと接吻した)。うん、そう、そう、お前は本当にいい娘《こ》だよ」とすっかり悦に入《い》って微笑しながら、言葉をつづける。「だが、しかたがないじゃないか? まあ、自分でよく考えてみな! 旦那やわしがここにいつまでも残っているわけにはいかないのさ。もうじき冬が来るけれど、田舎の冬ときたら――お前も知っての通り――まったくひどいからな。そこへいくと、ペテルブルグはすばらしいもんよ! あっちへ行きゃ、お前のような田舎者には、夢にだって見られそうもないすてきなものが、沢山あるのさ。家だって立派なもんだし、通りは広いし、社交界だの、教育だのと――大したもんだ!……(アクリーナは子供のように少し口を開けて、一心にきいていた)もっとも」と地べたで寝返りをうって、彼は附け加えた。「こんなことをお前に言って聞かしたってなんにもなりゃしない。どうせお前にゃわかりっこないんだから」
「どうしてなの、ヴィクトル・アレクサンドルイチ? 私、わかったわ。すっかりわかったわ」
「へえ、そりゃ大したもんだ!」
アクリーナは眼を伏せた。
「あなたは、もとはそんなふうにはおっしゃらなかったわ、ヴィクトル・アレクサンドルイチ」と娘は眼を上げずに言った。
「もとは?……もとはだって! これは驚いた!……もとはとな!」と男が、まるで怒ったように言う。
二人はしばらく黙っていた。
「それにしても、そろそろ行かなくちゃ」とヴィクトルは言って、肱《ひじ》をついて起き上がろうとした……
「もう少し待って頂戴」とアクリーナが哀願するような声で言った。
「何を待つんだい?……もう暇乞《いとまご》いはすんだじゃないか」
「待って」とアクリーナは繰返した。
ヴィクトルは再び横になって、口笛を吹きはじめた。アクリーナはずっと彼から眼をはなさなかった。娘がだんだん興奮していくのが私にも知れた。唇は引きつり、蒼ざめた頬がかすかに赤らんできた……
「ヴィクトル・アレクサンドルイチ」と娘は、ついに、途切れがちの声で言い出した。「あんまりだわ……あんまりだわ、ヴィクトル・アレクサンドルイチ、本当よ!」
「何があんまりだい?」と眉をしかめてたずね、少し起き上がって、女の方に首を向けた。
「あんまりだわ、ヴィクトル・アレクサンドルイチ。お別れにせめて一言なりと、やさしい言葉をかけてくれたっていいのに。これから一人ぼっちになるかわいそうな私に、せめて一言でも何か言ってくれたら……」
「じゃ、なんて言えばいいんだ?」
「私にはわからないわ。あなたがよくご存じでしょうよ、ヴィクトル・アレクサンドルイチ。もうお発《た》ちなんだから、せめて一言……私になんの落度があったというのかしら?」
「おかしな奴《やつ》だなあ! どうすりゃいいんだ?」
「せめて一言……」
「ふん、一つことばかり言ってらあ」と男はいまいましげに言って、起き上がった。
「怒らないで頂戴、ヴィクトル・アレクサンドルイチ」と、やっと涙をのんで、急いで附け加える。
「怒っちゃいないよ、ただお前がわからずやなだけさ……一体、何が不足なんだ? お前と一しょになるわけにはいかないじゃないか? え、そうだろう? さあ、そんなら何が不足だと言うんだ? 何が?」(彼は返事をうながすかのように顔を突き出し、指を拡げた)
「私は何も……何も不足なんてありません」と娘は口ごもり、ふるえる手を恐る恐る男の方にさし伸べながら答えた。「でも、せめて一言くらい、お別れに……」
涙が止めどもなく流れ出る。
「そら、やっぱりそうだ、泣き出した」ヴィクトルは帽子を目深にずり下げながら、冷たく言い放った。
「私、何も不足なんてないわ」とすすり泣きしながら、両手で顔をおおって娘はつづけた。「でも、私はこれから家の中で、どんな立場におかれるんでしょう、どんな立場に? 私は一体、どうなるでしょう、私の身にどんなことが起るんでしょう? いやな人のところへむりやりお嫁にやられるんだわ……私はそれが辛いの!」
「さあさあ、たんと並べたてるがいい」とヴィクトルはもじもじしながら、小声でつぶやいた。
「この人ったらせめて一言くらい、たった一言でいいから、やさしい言葉をかけてくれてもよさそうなもんだわ……『アクリーナ、おれも……』とかなんとか……」
急に、胸を掻《か》きむしるような号泣がこみあげて来たので、娘はしまいまで言うことができなかった。彼女は草の上につっぷしてはげしく泣き出した……身体じゅうが引きつったように波打ち、首筋がしきりに持ち上がるのだった……こらえにこらえていた悲しみが、ついにどっと迸《ほとばし》り出たのである。ヴィクトルはしばらく立って見おろしていたが、やがて肩をすぼめると、くるりと向きを変え、大股に立ち去った。
何秒か経った……娘はようやく落ち着いて、頭を上げたが、急に跳び起きて、あたりを見まわし、驚いて手を拍《う》った。後を追って駈け出そうとしたが、足がすくんで――がくりと膝をついて倒れた……私はもう見るに見かねて娘の方に突進した。けれども彼女は私の姿を見るが早いか、どこからそんな力が出たものやら――「あっ」とかすかな叫び声を立てて立ち上がり、樹陰に消えてしまった。地面には取り残された草花が散らばっていた。
私はしばらく茫然《ぼうぜん》と立っていたが、やがて矢車菊の花束を拾い上げて、林の中から野原へ出た。日は淡く澄んだ空に低くかかっている。その日射しもなんだか薄れて、寒々としてきたようだ。それは輝いているのではなく、むらのない、ほとんど水のような光をみなぎらせているにすぎなかった。日の暮れまではもう半時しかないのに、夕映《ゆうば》えはほんのかすかに色づいたばかりである。突風が刈り入れのすんだ後の黄色く乾涸《ひから》びた畑を渡って来て、まともにどっと吹きつけて来る。小さな反りかえった落葉が、風に吹かれてあたふたと舞い上がり、道を横ぎり、林の縁《へり》をつたって、私の傍を駈けて行く。壁のように野に向っている林の片側が一様に震えて、こまかくちらついているのが、きらきら光るわけではないが、はっきりと見える。赤みがかった雑草の上にも、小草の茎にも、藁の上にも、いたる所に無数の秋のクモの糸が光っており、波打っている。私は立ちどまった……私はもの悲しくなってきた。凋《しぼ》んでゆく自然の、さわやかではあるが、陽気ではない微笑《ほほえ》みの蔭から、間近い冬の陰欝な恐怖が忍びよろうとしているような気がしたからである。用心深いオオガラスが一羽、私の頭上高く、重々しく鋭く羽ばたきをして飛び過ぎたが、首をねじ曲げて私を横目に見ると、急に一そう高く舞い上がり、けたたましくカアカア鳴きながら、森のかなたに姿を消した。鳩の大群が打穀場の方から勢いよく飛んで来て、不意に棒のよじれたように舞い上がってから、そそくさと野づらに降り立った――いかにも秋らしい! 誰かが空車の音を高く響かせて、裸になった丘の向うを通り過ぎた……
私は家に帰った。けれども哀れなアクリーナの面影はいつまでも私の念頭を去らなかった。矢車菊はとっくの昔に凋《しぼ》んでしまったが、今なお私の手許にしまってある……
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シチグロフ郡のハムレット
いつか遠出の猟をしたときに、私は金持の地主で猟人である、アレクサンドル・ミハイルイチ・|G《ゲー》***という人から食事に招かれた。彼の村は、そのころ私の移り住んだ小村から、五露里ほど離れたところにあった。私は燕尾服(たとえ猟に出かけるときでさえ、これを持たずに外出することはどなたにもお勧めできない)を着て、アレクサンドル・ミハイルイチのところへ出かけた。食事は六時に始ることになっていた。私が到着したのは五時だったが、もう制服や私服、その他はっきりとは呼びがたい服装をした士族たちが夥《おびただ》しく集まっていた。主人は愛想よく私を迎えたが、すぐまた給仕部屋に駆けこんだ。彼はさる高官を待ちうけていたのでいささかそわそわしていたが、それは社会における彼の独立した地位や財産にはおよそそぐわなかった。アレクサンドル・ミハイルイチはかつて結婚したことがなく、女を愛したこともなかった。彼のところへ集まる連中は独身者ばかりであった。彼は豪勢な暮しをして、先祖伝来の大邸宅を増築したり、豪華な装飾を施したり、また年々モスクワから一万五千ルーブリもの酒を取りよせるなど、一般に絶大な尊敬をうけていた。アレクサンドル・ミハイルイチはとっくの昔に職を退いており、今さらどんな顕職にもつく気などなかった……それなのに彼がわざわざ高官の客のお出でを請《こ》い、盛大な晩餐会《ばんさんかい》の当日に朝早くからそわそわしているのはどうしたことだろう? それは、私の知人である一代言人が、あんたは好意で贈られる賄賂《わいろ》を受け取るか、ときかれたときいつも答えたように、『不明の闇』につつまれている。
主人と別れてから、私はあちこちの部屋をぶらつきはじめた。客はほとんどみな私の知らない人たちであった。二十人ばかりの人がもうカルタのテーブルに向っていた。これらのカルタ好きの中には、気品はあるけれども少し老いぼれた顔をした軍人が二人と、幅の狭い高く盛り上がったネクタイをしめ、果断な、しかし思想穏健な人びとにのみ見られる垂れ下がった、染めてある口髭の持主である文官が幾人かいた(これらの思想穏健な人びとは、いかにももったいぶってカルタを取り上げ、首をまわさずに、近よって来る人を横目でじろりと見るのであった)。それからまた、太鼓腹をつき出して、ぶよぶよした手を汗ばませ、遠慮がちに足を動かさずにいる郡役所の役人も五六人いた(この人たちは物柔らかな声で話し、四方八方へおだやかに微笑《ほほえ》みかけ、自分の持ち札をシャツの胸元近くきちんと持ち、切札を出すときにもテーブルをドンとたたいたりしないで、反対に、緑色のラシャの上に、フワッとカルタを落したし、自分の勝ち札を集めるときにも、そっと、きわめて慇懃《いんぎん》に、エチケットに反しない程度のサラリという音を立てるのであった)。その他の士族たちは長椅子に腰かけたり、戸口や窓ぎわに一団となって寄り集まっていた。もう若くはない、女のような顔つきをした地主が隅の方につっ立って、誰一人彼のことなど気にとめるものもいないのに、身ぶるいし、顔を赤らめ、もじもじしながら腹の上で、時計の飾りについている印形をいじりまわしていた。先祖代々の名人であるモスクワの仕立屋、フィルス・クリューヒンが仕立てた、円みのある燕尾服に碁盤縞《ごばんじま》のズボンをはいた別の紳士たちは、脂ぎった禿頭を気ままに振りたてながら、珍しく無遠慮に、威勢のいい議論をしていた。頭のてっぺんから足の先まで黒ずくめに身を固めた、ひどい近眼で、薄亜麻色の毛をしている二十歳ぐらいの青年は、明らかに怖気《おじけ》づいているくせに、皮肉な微笑をもらしていた……けれども私が少し退屈になってきたとき、不意に、ヴォイニーツィンなにがしという、大学を中途でやめた若い男が話しかけてきた。彼はアレクサンドル・ミハイルイチの家に住みこんでいたが、さて家庭内の地位ということになると……なんといっていいやら、はっきりと一口には、言いがたい。彼は射撃の名人で、犬を上手に仕こむことができた。私はモスクワにいたときからこの男を知っている。彼は試験のたびごとに『立往生をする』若者の一人で、つまり、教授の質問にただの一言も答えなかった。この連中はまた、面白おかしく『髯書生《ひげしょせい》』とも呼ばれていた(これはご存じのように遠い昔の話である)。それはこんな具合に行われた。たとえばヴォイニーツィンが呼ばれたとする。それまでは身動きもせずに姿勢を正して自席に坐っていたヴォイニーツィンは、足の先から頭のてっぺんまで冷汗でびっしょりになり、ゆっくりと、しかし意味もなくあたりを見まわしながら立ち上がって、制服のボタンを大急ぎで上までかけ、試験官のテーブルの方ににじり出る。「試験票をお取りなさい」と教授がほがらかに言う。ヴォイニーツィンは手をのばし、震える指先で、重ねてある試験票にさわってみる。「そんなに選ばないで」と傍に控えている癇癖《かんぺき》の強そうな老人が、がらがら声で注意する。よその科の教授なのだが、この哀れな髯書生を見て急に憎らしくなってきたのである。ヴォイニーツィンはいさぎよく己《おの》が運命に服して、試験票を一枚取り、番号を見せ、先の者が質問に答えているうちに、窓ぎわへ行って腰を下ろす。窓ぎわのヴォイニーツィンは試験票から眼をはなそうとしない。相変らず時折おもむろにあたりを見まわしはするが、手や足を一本たりとも動かさない。ところが、やがて先の者がすんで、その成績に応じて、「結構、もう行ってよろしい」などと言われる。「結構です、大変に結構です」などと、言われることさえある。いよいよヴォイニーツィンが呼び出される。ヴォイニーツィンは立ち上がり、しっかりした足取りでテーブルに近づく。「問題を読んで」と言われる。ヴォイニーツィンは両手で試験票を持って鼻先へ近づけ、おもむろに読んで、おもむろに両手を下ろす。「じゃ、答えて下さい」と同じ教授がぐっと反り身になって、腕組みをしながら、大儀そうに言う。あたりは墓場のようにしんと静まりかえる。「どうしたんですか?」ヴォイニーツィンは黙っている。立会の老教授はいらいらしだす。「さあ、なんとか言って!」ところがわがヴォイニーツィンは、気でも遠くなったかのようにおし黙っている。短く刈りこんだ、後頭部は、仲間一同の物好きな視線を浴びて、険《けわ》しく、不動のままそびえている。立会の老教授の眼が飛び出しそうになる。ヴォイニーツィンを目の敵《かたき》にしているのだ。「それにしても不思議ですね」ともう一人の試験官が口をはさむ。「なんだって唖《おし》みたいに突っ立ってるんです? わからないんですか? それならそうと言いたまえ」「別の問題をやらして下さい」とかわいそうに空《うつ》ろな声で言う。教授たちは目くばせをする。「じゃ、取りたまえ」愛想をつかしたように手を振って、主任の試験官が答える。ヴォイニーツィンはまた試験票を取り、また窓ぎわにいき、またテーブルのところへもどって来て、また死人のように黙りこくっている。立会の老教授は彼を取って食いかねまい勢いである。とうとう彼は追い返されて、零点をつけられる。さあ、今度はいくらなんでも帰るだろう、と思うかもしれない。ところがどうして! 彼は自分の席へもどると、試験がすむまで相変らずじっと身動きもせずに坐っている。で、帰りがけに、「いや、油をしぼられちゃった! 運が悪いんだ!」と叫ぶのだ。そしてその日一日じゅう、時折頭をかかえて自分の非運をつくづくと呪いながら、モスクワの町を歩きまわる。本などは、もちろん、手にもしない。翌朝になると同じことが繰返される。
ほかでもないこのヴォイニーツィンが、私に話しかけてきたのである。私たちはモスクワのことや、猟のことを話した。
「なんでしたら」と彼はだしぬけにささやいた。「このあたりで一番の皮肉屋に御紹介いたしましょうか?」
「どうぞ」
ヴォイニーツィンは私を、額の上に髪の毛を高く盛り上がらせ、口髭を生やした、肉桂《にっけい》色の燕尾服を着て、雑色のネクタイをしている小柄な男のところへつれていった。彼の気短そうな、落ち着きのない顔立ちはたしかに機智と皮肉を感じさせた。ちらと浮べる辛辣《しんらつ》な微笑に唇は絶えずゆがんだ。黒い、細目にあけている眼が、不揃いなまつ毛の下から不敵にのぞいている。彼の傍には一人の地主が立っていた。横幅の広い、物柔らかな、甘ったるい、それこそ本当の砂糖屋蜜兵衛《サーハル・メドーヴィチ》といった男で、めっかちである。彼は小柄な男が洒落《しやれ》をとばさないうちから笑っていて、満足のあまり身もとろけんばかりである。ヴォイニーツィンは私を皮肉屋に紹介したが、彼の名はピョートル・ペトローヴィチ・ルピーヒンといった。私たちは名乗り合って、初対面の挨拶を交《かわ》した。
「ときに私の親友を御紹介いたしましょう」と不意にルピーヒンが、甘ったるい地主の腕をとらえて、鋭い声で言い出した。「まあ、そう頑張りなさんな、キリーラ・セリファーヌイチ」と附け加えて、「誰もあんたに噛みつきゃしないから。ええ、これが」と言葉をつづける。一方、キリーラ・セリファーヌイチの方はすっかりどぎまぎして、まるで腹がくびれたような不器用なお辞儀をしている。「ええ、御紹介いたします。こちらは飛切り上等の士族でして。五十の齢《よわい》を重ねるまではすばらしく健康でしたが、にわかに眼の治療を思い立たれ、その結果めっかちとなられました。それ以来、自分のところの百姓どもを治療してやっていますが、これまた同様の首尾……さて、百姓どもは、もちろん、それにふさわしいご心服ぶりでして……」
「いや、これはこれは」とキリーラ・セリファーヌイチは後は口の中でもぐもぐ言って笑い出した。
「しまいまで言いたまえ、さあ君、しまいまで言いたまえ」とルピーヒンはすかさず言った。「何しろあんたは、ひょっとしたら、裁判官に選ばれるかもしれないんだから。いや、きっと選ばれるから見たまえ。そりゃ、もちろん、陪審員の連中があんたの代りに考えてくれるだろうさ。でも万一に備えて、たとえ他人《ひと》さまの意見にもせよ、一言しゃべれるようにしておかなくちゃなるまい。ひょっとして知事でもやって来て、『どうしてこの裁判官はどもるんだね?』ときかれる。そこで、『中風にかかりましたんで』と答えるとするね。『では古血を取ってやるといい』と言われるぜ。だがそんなことは、あんたの地位からいって、自分だってそう思うだろうが、みっともないだろうよ」
甘ったるい地主はたちまち腹をかかえて笑い出した。
「ほら、あんなに笑っている」とルピーヒンは、波うっているキリーラ・セリファーヌイチの腹を、わざと憎々しげに眺めながら言葉をつづけた。「でも笑わずにゃいられませんよ」と私の方をふり向いて彼は附け加えた。「腹一ぱい食っているし、健康だし、子供はなし、百姓たちは抵当になんか入っていない――自分で百姓たちの治療までしてやってるんですよ――それに細君は少々たりないときてるんですから(キリーラ・セリファーヌイチはよく聞き取れなかったふりをして、脇の方を向いたが、なおも声を立てて笑いつづけた)。私も笑っていますが、うちの女房は測量士と一しょに駈け落ちしたんです(彼は歯を見せてにやりと笑った)。あなたはご存じなかったのですか? いや、ごもっともです! とにかく男をつれて駈け落ちし、私には置手紙をしていきました。『おやさしいピョートル・ペトローヴィチ様、お許し下さい。情にほだされて好きな人と遠くへ参ります……』測量士に見返られたのは、ただそいつが爪を切らないで、きっちり身体に合ったズボンをはいていたからなんです。あなたはあきれていらっしゃるんでしょう? 『なんてあけすけなやつだろう』と思って。いやはや、とんでもない! 私ども野育ちはありのままをざっくばらんに言ってしまうもんだから。それにしても脇へどきましょう……何も未来の裁判官の傍にわざわざ突っ立っていることも……」
彼は私の腕を取って、窓の方につれていった。
「私はこの土地で皮肉屋という評判をとっていますが」と話をしているうちに彼は言った。「それは本当になさらないで下さい。私はただ怒りっぽい人間で、口に出して悪態をつくにすぎません。だからこんなに無遠慮にふるまえるんです。事実、何も格式ばることはないじゃありませんか? 私は他人の意見なんざなんの価値も認めていませんし、何も手に入れようなどと思っていません。私が意地悪だと――それがどうだって言うんです? 意地悪な人間は少なくとも知恵を必要としない。でもそれがどんなにさばさばしたものか、あなたにはとても信じられないでしょう……まあ、早い話が、ほら、この家の主人をご覧なさい! なんであんなに駆けずりまわっているんですかね、とんでもない。のべつ時計を眺めたり、にこにこ笑ったり、汗をかいたり、もったいぶった顔つきをしたりして、おかげでこちらは腹ペコだ。へん、ちっとも珍しくなんかありゃしない――何が高官だい! そら、そら、また駈け出した! おまけに跛《びっこ》をひいて。ご覧なさい」
そしてルピーヒンは甲高《かんだか》い声で笑い出した。
「惜しいことには、御婦人方がいなくて」と深い溜息をしながら彼はつづけた。「独身者《ひとりもの》の宴会だということです、――といっても、われわれのような手合いにはめっけものですが。おや、ご覧なさい、ご覧なさい」と彼は不意に叫んだ。「コゼーリスキイ公爵がやって来ました。――ほら、あの背の高い、顎髯《あごひげ》を生やした、黄色い手袋をはめた人です。外国に行ってたってことがすぐにわかるでしょう……いつもこんなに遅くやって来るんですよ。なあに、正直に言っちまえば、馬鹿も馬鹿、大馬鹿なんですが、まあ、よくご覧になって下さい。われわれのような者と話をするのにもずいぶんと謙遜ですし、物欲しそうな母親や娘たちのお世辞にも大変|大様《おおよう》ににこにこなさるんですから!……ここにはほんの通りすがりの滞在だというのに、自分でも時折は洒落をとばしますよ。その代り、その洒落ときたら! なんのことはない、なまくら刀で細引を挽《ひ》くようなもんです。あの人は私を好かない……それにしても、一つ御挨拶に行って来るか」
そう言ってルピーヒンは、駈け出して公爵をお出迎えに行った。
「そら、私の個人的敵がやって来ましたよ」と、すぐに私のところへひっ返して来て、彼は言った。「ほら、赤ら顔の、髪の毛のごわごわした肥った男がいるでしょう、帽子を鷲《わし》づかみにして、狼のように四方八方を見まわしながら、壁ぎわを忍び足でやって来る男が? 私はあいつに、千ルーブリもする馬を四百ルーブリで売ってやったのに、あん畜生、このごろじゃ私を頭から馬鹿にしてやがる。そのくせ分別も何もなくって、とりわけ朝お茶を飲む前だの、昼飯のすぐ後などときたら、『今日は』と、言うと、『なんでございますか?』と答える始末です。おや、閣下がやって来た」とルピーヒンは言葉をつづけた。「退職した文官の閣下で、落ちぶれ閣下です。甜菜糖《てんさいとう》で出来ているみたいな娘が一人いて、るいれきに罹《かか》ったような工場を一つ持っています……いや、失礼、これは言い間違い……でも、まあ、わかって下さるでしょう。あ! 建築家もここへ来ている! ドイツ人のくせに、髭なんか生やしてますが、自分の仕事のことは一向にわからない、いや、不思議なことがあるもんです!……もっとも、何も自分の仕事なんかわからなくともいいんですよ。ただ賄賂《わいろ》をとって、円柱を、つまり柱を、わが国の柱石と頼むべき士族連中のために、出来るだけたくさん、立ててやればいいんです!」
ルピーヒンはまたからからと笑い出した……けれども急に、あわただしいざわめきが家中にひろがった。高官がお着きになったのである。主人はあたふたと玄関に駈け出した。それにつづいて数人の忠僕と熱心なお客が突進した……今までの騒々しい話し声は、春、生れた巣箱の中で蜜蜂がブンブンいっているのにも似た、物柔らかな、快《こころよ》いささやきに変った。ただうるさい黄蜂のルピーヒンと、威風堂々たる雄蜂のコゼーリスキイだけは声を低めなかった……さて、いよいよ女王蜂――つまり高官が御入来になった。人びとの胸は歓迎にときめき、坐っている人びとは立ち上がった。ルピーヒンから馬を安く買った地主さえ、あの地主さえも顎を胸に埋めてお辞儀をした。高官はこの上なく見事に己《おの》が威厳を保った。まるで会釈《えしゃく》をするかのように頭を後にふりながら、二言三言お愛想を言ったが、その言葉はどれも、長めに引っぱって、鼻にかけて発音される『あ』の字で始まっていた。コゼーリスキイ公爵の顎髯を胡散《うさん》くさそうにじろりと眺め、工場と娘を持つ落ちぶれた勅任文官には左手の人差指だけをさし出した。それから数分の後に(その間に高官は、晩餐会に遅刻しなかったのは甚だ欣快《きんかい》である、と二度までも言った)、一同はお歴々を先頭に食堂に向った。
ことのしだいを、ここにくどくどと述べ立てる必要もあるまいが、まず高官が一番上座の勅任文官と県の士族団長の間に据えられた。士族団長というのはおおらかな立派な顔つきの人で、糊の利いたワイシャツの胸や、偉大なチョッキや、フランス・タバコを入れた円いタバコ入れなどにぴったりの表情をしていた。主人は気をくばり、駆けずりまわり、あくせくし、客人たちに御馳走をすすめ、通りすがりに高官の背中に微笑みかけ、小学生のように部屋の隅に突っ立ったまま、スープや牛肉の入った皿をすばやくボーイの手からひったくるのだった。家令が長さ一アルシン半〔一アルシンは七一センチ〕もの、口に花束をくわえさせた魚を食卓に配った。お仕着せを着た、見たところ荒っぽそうな下男たちは、マラガ産の葡萄酒やドライ・マデーラ酒を持って、ひとりひとりの客に不愛想につきまとっていた。士族たちは大てい誰も、わけても年輩の連中は、いやいやながらおつき合いでするといったように、一杯一杯飲み干していた。最後にシャンペーン酒の壜がポンポン開けられて、乾杯が提言された。おそらくこんなことはみな、読者のあまりにもよく知っていることであろう。けれども一同が喜ばしげに謹聴《きんちょう》している中で、高官自身によって語られた逸話は、わけても注目すべきものに私には思われた。誰だったか、――たしか例の落ちぶれ閣下だったと思うが、――最近の文学に通じている人が、一般に女性の影響について、とくに青年に及ぼす女性の影響について言及した。「そう、そう、その通りだ」と高官は後を引き取って、「しかし若い連中は厳重に服従するようにしとかなきゃならん。さもないと、女さえ見れば現《うつつ》をぬかしてしまう」(子供じみた陽気な微笑が並居る客人たちの顔をさっと通りすぎた。ある地主などはとっさに感謝の色を眼に浮べさえしたくらいである)「なーぜならば若い連中は馬鹿だからである」(高官は、たぶんもったいをつけるためだろう、時折、一般に用いられている単語のアクセントを変えた)「例えばわしの息子のイワンにしたところが」と彼は言葉をつづけた。「この馬鹿者はとって二十歳じゃが、だしぬけにわしの所へやって来て、『お父さん、結婚させて下さい』と言うんです。そこでわしは、『馬鹿め、まず勤めにでも出ろ……』と言ってやりました。さあ、すっかり絶望して、泣き出す始末です……しかし、わしは……そのう……」(高官は『そのう』という言葉を唇でというよりもむしろ、腹から出して言った。それからしばらく口をつぐんで、隣に坐っている勅任文官を厳《おご》そかに見やったが、そのさい突拍子もなく眉を吊り上げたものである。勅任文官は気持よさそうに首をちょっと横に傾《かし》げ、高官の方を向いている片眼を非常な速さでパチクリさせた)「それがどうでしょう」と高官は再び話しはじめた。「今では自分から、お父さん、至らぬ私を教えて下さってありがとう、と書いてよこしますよ……つまり、こんなふうに扱わなくちゃならんです」もちろん、客たちはみな話し手に同意して、自分たちの得た満足と教訓のために元気づいたかのようであった……食事がすんで、一同は立ち上がり、前よりは騒がしいけれども、やはり礼儀正しい、さながらこうした場合に限って許されるようなざわめきとともに客間に移った……カルタが始まった。
そのうちどうやら寝る時刻となったので、私は馭者に、明朝五時に馬車の支度をしてくれ、と頼んでから、当てがわれた寝部屋に向った。けれども私はその日のうちに、もう一人の注目すべき人物と近づきになるめぐり合わせになっていた。来客が多かったので誰も一人で眠るわけにはいかなかった。アレクサンドル・ミハイルイチの家令が私を案内した小さな、緑色がかった、湿っぽい部屋には、すっかり着物を脱いでしまった先客が一人いた。彼は私を見るとすばやく毛布の下にもぐりこんで、鼻先まで顔をかくした。それから柔らかい羽根ぶとんの上でしばらくごそごそやったのち、やっと静かになって、木綿の夜帽子《ナイト・キャップ》の円い縁《ヘり》の下から私の様子をじろじろうかがっていた。私はもう一つの寝台に近づき(部屋には寝台が二つしかなかった)、着物を脱いで、湿っぽい敷布の上に身を横たえた。私の隣の男は自分の寝床の中でしきりに寝返りを打ちはじめた……私は「お休みなさい」と彼に声をかけた。
半時間ほど経《た》った。いろいろと苦心したけれども、私はどうしても寝つかれなかった。無用のあとぼんやりした考えが、まるで揚水機の桶のように、執拗《しつよう》に、単調に、後から後からと果てしもなくつづいた。
「あなたはどうやら、お休みになれないようですね?」と隣の男が言った。
「ご覧の通りです」と私は答えた。「あなたもお休みになれないようで?」
「私はいつでもこうなんです」
「それはまたどうして?」
「どうもこうもありません。どうしてだかわからないうちに眠ってしまいます。じっと横になっているうちに、いつのまにか眠るんですから」
「でも、なぜ眠くなる前に床にお入りになるんですか?」
「じゃ、どうしろとおっしゃるんです?」
私はその問に答えなかった。
「不思議ですね」としばらく黙ってから彼は言葉をつづけた。「どうしてここには蚤《のみ》がいないんでしょう。ここに蚤がいないんじゃ、ほかにいる所がなかろうに?」
「あなたは蚤のいないのが残念みたいですね」と私は言った。
「いいえ、残念なわけじゃありません。でも私は何事によらず首尾一貫しているのが好きなんです」
『おやおや、』と私は考えた。『一ぷう変った言い方をするわい』
隣の男はまたしばらく黙りこんだ。
「一つ私と賭けをしませんか?」と不意に、いいかげん大きな声で彼は言い出した。
「なんの賭けです?」
私は隣の男が面白くなってきた。
「ふむ……なんの賭けですって? いやなに、こうですよ。私の確信するところでは、あなたは私を馬鹿だと思ってらっしゃる」
「とんでもない」私は驚いて口ごもった。
「野育ちの、無学ものだとね……さあ、白状なさい……」
「私はあなたを存じ上げない」と私は言い返した。「どこからそんな結論が……」
「どこからですって! そりゃ、あなたの声を聞いただけでわかりますよ。あなたは生《なま》返事をしていらっしゃる……ところが私は、あなたが考えていられるような人間とはまったく違うんで……」
「失礼ですが……」
「いや、まあお聞き下さい。第一に、私はあなたに負けないくらいフランス語が話せますし、ドイツ語ならあなたよりうまいくらいです。第二に、私は外国に三年もいました。ベルリンだけでも八ヵ月いました。私はヘーゲルを研究しましたし、あなた、ゲーテなどはそらで憶《おぼ》えています。それどころか、ドイツの教授の娘を永年恋いこがれ、国へ帰ってからは、頭は禿げているけれどなかなかしっかりものの、肺病やみの令嬢と結婚しました。ですから、私はあなた方と同類です。あなたが考えておいでのような野育ちじゃありません……私も反省に悩まされている人間で、衝動的なところがちっともないんです」
私は頭を上げ、前よりも一そう注意してこの変人を眺めた。常夜灯のぼんやりした光では、彼の顔立ちをはっきり見定めることがほとんどできなかった。
「そら、あなたは今、私を見てますね」と彼は、夜帽子《ナイト・キャップ》を直して、言葉をつづけた。「そして、たぶん、『どうして今日この男に気がつかなかったんだろう?』と不思議に思ってらっしゃるでしょう。なぜあなたが私に気がつかなかったか、私からお聞かせいたしましょう。なぜなら、私が声を高めないからです。なぜなら、私が人蔭にかくれて、戸口の外に立っていて、誰とも話をしないからです。なぜなら、家令がお盆を持って私の傍を通るとき、前もって自分の片肱を私の胸と同じ高さに上げるからです……ではどうしてこんなことになるのでしょう? それには二つ理由があります。第一に私が貧乏だということ、第二に私がおとなしくなったからです……本当の話が、あなたは私に気がつかなかったでしょう?」
「ついお見それしまして……」
「なに、なに」と彼は私をさえぎった。「ちゃんとわかってますよ」
彼は起きなおって腕組みをした。夜帽子の長い影が壁から天井にかけて折れ曲がった。
「正直におっしゃって下さい」と不意に横目で私をちらりと見て、彼は附け加えた。「私はきっとあなたの眼には大した変り者、いわゆる変人、あるいは、ことによると、何かもっと悪いものに見えるでしょう。ことによると、私がわざと変人のふりをしている、とあなたはお思いになるかもしれませんね?」
「また同じことを申さねばなりませんが、私はあなたを存じ上げませんので……」
彼は一瞬、眼を伏せた。
「どうして私があなたと、まったく見ず知らずのお方と、こんなに思いがけなく話しこんでしまったのか――本当に不思議でなりません!(彼はほっと溜息をついた)私たち二人が気が合ったからというのでもありませんし! あなたも、私も、どちらも立派な人間、つまりエゴイストです。あなたも私に用がないし、私もあなたにちっとも用がありません。そうじゃありませんか? ところが二人とも眠れない……それなら、どうしておしゃべりしていけないことがありましょう? 私は話に身が入っていますが、こんなことはめったにないんです。私は、何しろ、内気なもんですから。それも自分が田舎者だからとか、官等もない貧乏人だからっていうんじゃなくって、おそろしく自尊心が強いからなんです。けれども時折、たまたま間《ま》がよく調子のよいときには、といってもそれがいつ、どんな時とはっきりは言いかねますし、予《あらかじ》め見通しもつきませんが、そんな時には私の日頃の内気がすっかり消し飛んでしまうのです、例えばちょうど今夜のように。今ならダライ・ラーマと面と向っても平気です、――ダライ・ラーマに嗅ぎタバコを一服ねだってやりますよ。けれども、あなたはもうお休みになりたいのかもしれませんね?」
「それどころか」と私は急いで打消した。「お話をうかがうのは大変愉快です」
「つまり私の話が気散《きさん》じになる、とおっしゃりたいんでしょう……なおさら結構ですとも……そこでと、申し上げておきますが、私は当地で変人と呼ばれています。つまり、下らない世間話の間にひょっこり私の名前を口の端に上《のぼ》らせる連中が、私のことをそう言っているのです。『わが運命を心にかくる人もなし』〔レールモントフの詩『遺言』一八四〇年作からの引用〕ですよ。やつらは私を辱《はずかし》めようというんで……ああ! もしあの連中が知っていたら……私が破滅しようとしているのはほかでもない、私に変ったところがちっともないからだということを。そりゃ、現に今あなたと話しているような、こんな突飛なことはありますけれど、そのほかにはちっともありません。でもこんなふるまいはビタ一文の値打もないじゃありませんか。こんなのは一番安っぽい、一番低級な変り方なんですから」
彼は私の方に顔を向けて両手を振った。
「あなた!」と彼は叫んだ。「私は、この世の生活は概して言えば変人だけに与えられている、変人のみが生きる権利を有している、という意見を持っているんです。Mon verre n'est pas grand, mais je bois dans mon verre.〔わが杯は大きからず、されどわれはわが杯より飲まん〕と誰かが言いました。ほらね」と彼は小声で附け加えた。「私のフランス語の発音は綺麗なものでしょう。頭が大きくてかさばっていても、なんでもわかり、いろんなことを知っており、時代の成り行きを見守ることができても、――自分のもの、独特な、自分自身のものがなかったら、一体なんの値打があるんでしょう! 陳腐な意見の貯蔵所がこの世に一つふえただけです、――誰がそんなことを喜ぶもんですか? いや、愚かなりとも汝自身であれです! 自分の匂い、自分自身の匂い、それが大切ですよ! でもこの匂いについての私の要求が大きなものだなどとは思わないで下さい……とんでもない! この程度の変人なら無数にいますよ。どこを見ても――変人ばかりです。生きた人間はことごとく変人なんです。ところが私はその中に入っておりません!」
「それにしても」としばらく黙ってから彼は言葉をつづけた。「若いころは私も華々しい抱負をいだいていたものでした! 外国へ行く前やら、帰朝したてのころ、私は自分をうんと買いかぶっていたものです! で、外国では何事も聞きもらさじと耳をそばだて、いつも一人ぼっちで切り抜けてきました。われわれ仲間によくあるように、自分ではなんでもわかったつもりでいながら、終り近くなってみると、――いろはの≪い≫の字もわかっていないというやつです!」
「変人、変人!」と非難するように頭を振りながら、彼は言葉をついだ……「私のことを変人だという……ところが事実は、小生ほど尋常な人間なんておよそ世の中におりませんよ。私は、きっと、誰かのまねをして生れたに違いありません……そうですとも! 私の生き方にしても、これまで自分の学んだいろいろな著述家のまねみたいなもので、額に汗して暮しているのです。勉強もすれば、恋愛もし、ついには結婚までもしましたが、それがまるで自分の意志からやるのではなく、まるで何か義務を果すみたいな気持から出ていると言ったらいいか、宿題をやるみたいだと言ったらいいか、――いや、わかったもんじゃありません!」
彼は夜帽子を頭からもぎ取って、寝床の上にほうり出した。
「なんでしたら、私の身の上話をお聞かせいたしましょうか」と彼は途切れがちな声で私にたずねた。「それよりも、いっそのこと、私の身の上話の中から、二三変ったところを?」
「ええ、どうぞ」
「いや、それよりも、私が結婚したてんまつをお話ししましょう。何しろ結婚は大事なことで、その人全体の試金石ですから。鏡のように人となりが映るというわけで……でもこの比較はあんまり陳腐《ちんぷ》ですね……ちょっと失礼、嗅ぎタバコを一服やりますから」
彼は枕の下から嗅ぎタバコ入れを取り出して、蓋《ふた》を開けると、蓋を開けたまんまのタバコ入れを振りまわしながら、また話し出した。
「どうぞ、あなた、一つ私の身になって下さい……まあ、御自分で考えてもご覧なきい、私がヘーゲルの百科全書から、一体どんな、ねえ、どんな利益を引き出すことができたでしょうか? この百科全書とロシア人の生活との間に、どんな共通点があるでしょう? また、それをわれわれの日常生活に、どう適用しろとおっしゃるんです? いや、百科全書だけでなく、一般にドイツ哲学というものを……さらに一歩すすめて言えば――科学というものを?」
彼は寝床の上でぴょんと跳ね上がってみせて、小声でつぶやきはじめた、毒々しげに歯を食いしばりながら。
「ええ、そうですとも、そうですとも!……そんなら、なぜお前は外国へなんぞのこのこ出かけて行ったんだ? なぜ家にじっとしていて、自分の周囲の生活をその場で研究しなかったんだ? そうすれば実生活の要求も、その将来も知ることができたろうし、自分の、いわば使命といったものだって、明白になっただろうに……こうおっしゃるかもしれません。いや、とんでもないことで」とまるで弁解をするかのようにびくびくしながら、またもや声音《こわね》を変えて言葉をつづけた。「これまでどんな才人も本に書かなかったことを、われわれ風情《ふぜい》が研究なんてできるもんですか! 私は喜んでロシアの実生活に教えを受けたかったのです、――でも彼女は〔ロシアの実生活〕、私の愛人は黙っている。さあ、私をつかまえなさい、とばかりに。ところがそれは私の手に負えません。私は帰結を与えてもらいたいのです、結論を示してもらいたいのです……結論だって? では、そら、結論を与えてやろう。モスクワの人たちの話を聴くがいい――彼らはまるでヨウグイスのようにいい声でさえずっているではないか? でも困ったことに、彼らはクールスクのヨウグイスのようにさえずりはするが、人間の言葉では語らないのです……そこで私は考えに考えました――学問はどこへ行っても一つだろうし、真理も一つだ、――それで、たちまち思い立って、ままよとばかり外国に、人でなしの国に出かけました……なんともいたしかたありません!――若さが、高慢が理性を失わせたのです。齢《とし》でもないのに、あなた、私は脂《あぶら》ぎりたくなかったんですよ、世間ではその方が健康だと言いますけれど。もっとも、自然に肉がつかなければ、身体に脂肪ののるはずもありませんが!」
「それはそうと」と彼は、しばらく考えてから附け加えた。「私はあなたに、私がどんなふうに結婚したか、それをお話しすると約束したんでしたね。では聞いて下さい。第一に、申し上げておきますが、妻はもうこの世におりません、第二に……第二に、私はあなたに私の青春時代をお話ししなければならないだろうと思います、さもないとさっぱりおわかりにならないでしょうから……でも本当にあなたは眠くないんですか?」
「いいえ、眠くありません」
「それなら結構です。ではお聞き下さい……ほら、隣の部屋でカンタグリューヒン氏が、下品ないびきをかいていることったら! 私はあまり裕《ゆた》かでない両親から生れました――ここで両親と言うのは、言い伝えによれば、私には母のほかに、父がいたということだからです。私は父を覚えていません。なんでもあまり利口な人間じゃなくて、鼻が大きく、そばかすがあって、赤っ毛で、片方の鼻孔で嗅ぎタバコを嗅いでいたって話です。母の寝室に肖像画がかけてありましたが、黒い襟を耳まで立てた赤い制服を着ており、ずいぶんと醜い顔をしていました。私はよくその傍へつれていかれて、おしおきされましたが、そんなとき母はいつも肖像画を指さして、『お父さんが生きていらしたら、とてもこれくらいじゃすまなかったろうよ』と言ったものです。それがどんなに私を励ましたか、御想像がつくでしょう。私には兄弟も姉妹もいませんでした。いや、実を言うと下らない弟ってやつが一人いましたが、後頭部クル病というのを患《わずら》っていて、なんだかむしょうに早く死んじまいました……それにしてもなんだって、元来がイギリスの病気であるクル病なんてものが、クールスク県はシチグロフ郡くんだりまで入りこんだものでしょう? しかしこれはさしあたり問題じゃありません。私の教育に当ったのは母で、草原の女地主らしいひたむきな熱情をこめて、私が生れ落ちたその日から、十六の年まで見てくれました……あなたは私の話をずっと聞いて下さいますか?」
「もちろんです、つづけて下さい」
「いや、それなら結構です。で、私が十六になると、母は待ってましたとばかりに、すぐさま、私のフランス語の家庭教師である、ネージンのギリシャ区から来たフィリッポヴィチというドイツ人を追ん出してしまいました。それから私をモスクワヘつれていき、大学に入れたと思ったら、やがて伯父の手に私を残してあの世へ行ってしまいました。伯父の名はコルトゥン=バブーラと言い、代言人で、シチグロフ郡ばかりか遠くまで名を知られた代物《しろもの》でした。この親身の伯父が、代言人のコルトゥン=バブーラが、よくあるやつで、私の財産をきれいさっぱり横領してしまったのです……いや、また横道に外《そ》れました。大学へ入ったときは――これも母親のおかけですが――成績はかなりいい方でした。しかし独創力の欠けていることは、その時分からわかっていました。私の少年時代は他の青年たちの少年時代とくらべて、少しも変っていませんでした。私もやっぱり羽ぶとんにくるまって育てられた者のように、ぼんやりと無気力に大きくなって、人並みに早くから詩などを暗誦しはじめ、しかめつらをするようになりました。自分は空想するのが好きだなどと言って……何をですって?――そうですね、美なるものとか……そういったものをです。大学でも人と違った道を取りませんでした。すぐにサークルに入ったのです。そのころは今と時代が違っていました……でも、あなたはたぶん、サークルってなんのことか、ご存じないでしょう? たしかシラーがどこかでこんなことを言っていたと思います。
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Gefahrlich ist's den Leu zu wecken,
Und shrecklich ist des Tigers Zahn,
Doch das shrecklichste der Schrecken―
Das ist der Mensch in seinem Wahn!
ライオンを目覚めさせるのは危険で
虎の歯はおそろしい
けれども何にもましてこわいのは
気の狂った人間!
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シラーは、私は断言しますが、こう言うつもりじゃなく、Das ist ein≪Krujok≫…in der Stadt Moskau!〔おそろしきはモスクワのサークル〕と言いたかったのです」
「でも、サークルの何がそんなにおそろしいんです?」私はたずねた。
わが隣人は夜帽子をひっつかんで、鼻の上まで引き下ろした。
「何がおそろしいかって?」彼は叫んだ。「そりゃこうですよ。サークルってやつはあらゆる独創的な発達を破滅させるからです。サークルは社会や、女性や、生活の醜悪な代用品です。サークルは……ああ、ちょっとお待ち下さい。サークルってどんなものか、一つお話ししましょう! サークルは怠惰《たいだ》で無気力な連中の寄り合い世帯で、それをいかにも意義のある、道理にかなった仕事のように見せかけているのです。サークルは普通の会話を議論に代えて、無益なおしゃべりに慣れさせ、独り静かに有益な仕事をするのを妨《さまた》げ、文学的|芥癬《かいせん》を人に伝染させます。そしてついには、魂の清新さや、純潔な強さを奪ってしまうのです。サークル――それは親睦や友情の美名にかくれた低俗や倦怠であり、率直や同情にかこつけて、思い違いと身勝手な主張とを結びつけたものです。サークルでは、各人がいつ何時《なんどき》でも自分の穢《きた》ない指を、無遠慮に仲間の心の内側につっこむ権利を持っているため、誰一人として心に、きれいな、他人の手にさわられていない個所のあるものはいません。サークルでは、下らないおしゃべりや、うぬぼれの強い利口者や、若いくせに老成ぶった人間などが崇拝され、才能はなくとも、『秘められた』思想を持っている詩人が持てはやされるんです。サークルでは若い、十七やそこらの青二才が、やれ女がどうの、恋がどうのと、利《き》いたふうな口をきいているくせに、いざ女の前へ出ると黙りこんでしまうか、まるで本でも読んでいるみたいに固くなる、――しかもその話題の下らないことったら! サークルでは要領のいい雄弁が盛《さか》え、お互い同志が警官のように探り合いをする……ああ、サークルよ! お前はサークルじゃない。お前は立派な人間を一再ならず破滅させた魔法の輪だ!」
「まあ、それは少し大げさでしょうよ、失礼ですが」と私は相手をさえぎった。
隣人は黙って私を見つめた。
「そうかもしれません、もしかしたら、そうかもしれません。でもわれわれのような者に残されたただ一つの楽しみは――大げさに言うことですからね。そこでと、こんなふうにして私はモスクワで四年間暮しました。この年月がどんなに早く、あっと思うまに過ぎてしまったか、それはあなた、私にはとてもうまく言いあらわせません。思い出すと悲しくもなれば、いまいましくもなります。朝早く起きると、まるで橇《そり》に乗って山の上からすべるように……ふと気がつくと、もう麓《ふもと》に向って走っている。そのうちに早くも日暮れとなる。寝ぼけ顔の下男がフロックコートを着せる――それを着て友人のところへ行き、タバコをぷかぷか吹かし、薄いお茶をがぶがぶ飲み、ドイツ哲学だの、愛だの、精神の永遠の光だの、そのほか浮世ばなれのしたいろいろな問題を論じたものです。しかし、そこでも私は、独創的な、自主的な人たちに会いました。他の人はどんなに自分を痛めつけても、どんなに自分を迫害しても、持って生れた性質がおのずとあらわれます。ところがひとり私だけは、不幸なことに、柔らかな蝋《ろう》のように自分自身をこねまわしてみても、憐れむべき私の本性はちっとも反撥《はんぱつ》をしないのです! そのうちに私は二十一になりました。私は遺産を相続しました。つまり、正確に言えば、後見人がお情けで私に残してくれた遺産の一部を手に入れたのです。私はこの全世襲財産の管理を、農奴上りの召使であるワシーリイ・クドリャーシェフに任せて、外国は、ベルリンヘと出かけました。外国には、さっきも申し上げたように、三年いました。ところがどうでしょう? あちらへ行っても、外国でも、私はやっぱり独創力のない人間で終ってしまいました。第一に、言うまでもありませんが、そもそもヨーロッパとは何か、ヨーロッパの生活とはどんなものかを、私は少しもわからずにしまったのです。ただ本場でドイツ人教授の講義を聞き、ドイツ語の本を読んだというだけのことです……それだけの違いでした。私は修道院の坊さんのように孤独な生活を送りました。多少つき合っていたのは退職の陸軍中尉といったところで、この男は私のように知識欲に苦しんでいました。もっとも、すこぶる物覚えが悪くて、弁舌の才には恵まれていませんでした。それから親しくしていたのは、ペンザ県だの、そのほか肥沃な県から来ていた愚鈍な家族といったところです。コーヒー店に出入りしたり、雑誌を読んだり、晩になると芝居を見に行ったりしました。土地の人たちともほとんど交際しませんでした。話をするのにもなんとなく気骨《きぼね》が折れるし、誰もうちへ来ませんでした。ただ二三人のユダヤ系のしつこい若者だけは例外で、しょっちゅう私のところへやって来ては金を借りて行きました。der Russe〔ロシア人〕が信じやすいのをいいことにして。そのうちに不思議な偶然の戯《たわむ》れから、ある教授の家に出入りするようになりました。それはこういうわけです。私が講義の申告にその先生のところへ行きましたら、先生は思いがけなく私を自宅へ晩飯に招んでくれました。この教授には娘が二人いましたが、年はどちらも二十七前後で、とてもずんぐりした――いやはや――見事な鼻を持ち、髪の毛はカールをしており、眼は薄青くて、赤い手には白い爪が生えていました。一人をリンヘンといい、もう一人はミンヘンといいました。私は教授の家へ出入りするようになりました。お断りしておかなければならないのは、この教授は馬鹿とまではいきませんが、頓馬といったところでした。講壇に立つとかなり筋の通った話をするんですが、家では舌たらずな口の利き方をして、眼鏡をいつも額に上げていました。それでいて大した学者でした……ところがどうでしょう? 私は急に、リンヘンに恋をしているような気がしてきました。まる六ヵ月というもの、ずっとそんな気がしていたんです。その娘と話をすることなど、あまりなくって、顔を見てる方が多かったのは事実です。けれども、いろいろな感動的な作品を声を出して読んでやったり、こっそり手を握ったりしましたし、晩になると一しょにならんで空想に耽《ふけ》ったりしました。いつまでもじっと月を眺めながら、月が出ていなければただの空を眺めながら。おまけに娘のコーヒーのいれかたが上手なことといったら!……この上、なんの不足がありましょう? ただ一つ私を困惑させたものがありました。いわゆる、言いようもない幸福の瞬間に、いつもみずおちのあたりがなんだかしくしくと痛んできて、気を滅入らせる悪寒《おかん》が胃の中を通りすぎるのです。私はとうとう、このような幸福に堪えきれなくなって逃げ出しました。その後もなお、まる二年間、私は外国で暮しました。イタリヤヘ行ってローマの『キリスト変容』の前にたたずみ、フローレンスでは『ヴィーナス』の前にたたずみましたが、たちまち法外な歓喜にとらわれ、まるで物の怪《け》にでも取りつかれたようにぞくぞくしました。毎晩のように詩を書き、日記もつけはじめました。一言で言えば、ここでもみんなと同じようなことをやっていたわけです。それにしても、独創的な人間になるなんてことは朝飯前ですよ。早い話が、私は絵も、彫刻もさっぱりわかりません……そんならそうと、あっさり言ってしまえばいいんですが……まさか、そうもいきません! そこで案内人を雇って、あたふたと壁画を見に行くというわけで……」
彼はまた眼を伏せて、また夜帽子《ナイト・キャップ》を脱ぎすてた。
「そのうち、やっと故国に帰ることになり」と疲れた声で彼はつづけた。「モスクワヘ着きました。モスクワでは私の身の上に驚くべき変化が起りました。外国では黙っていることが多かったのですが、帰って来ると急に、思いがけなく威勢よくしゃべるようになり、同時にとんでもない自惚《うぬぼ》れを抱くようになりました。私を天才扱いにしないばかりの寛容な人たちもあらわれました。婦人たちは私の無駄話を感心して聴いていました。けれども私はいつまでもこの高い名声を持ちこたえることができませんでした。あるとき私のことを悪く言う噂《うわさ》がパッとたったのです(誰がそれを世間にひろめたのかはわかりません。きっと、女の腐ったようなやつのしわざでしょう、――そういう連中がモスクワにはうようよするほどいるんですから)。一たん噂がたつと、まるでオランダ苺《いちご》のように、側芽や蔓《つる》を出してどんどんはびこっていきました。私はそれに足をとられたので、駈け出して、からみついた糸を断ち切ろうとしましたが、――だめでした……私はモスクワを立ち去りました。ここでも私はやっぱり下らない人間だということが確かめられたのです。私はおとなしくこの災難の通りすぎるのを待てばよかったのです、じんましんのなおるのを待っているように。そうすれば例の寛容な人たちがまた手をひろげて私を抱いてくれ、例の婦人たちが私の話を聞いてまた微笑《ほほえ》みかけてくれたに違いありません……ところが悪いことに、私は独創的な人間じゃない。お察しのように、急に私のまごころが目覚めたのです。しゃべるのが、休む間もなくしゃべるのがなんだか恥かしくなってきたのです、――昨日はアルバート町で、今日はトゥルバー町で、明日はシフツェフ・ウラジョーク町で、相も変らず同じことをしゃべるのが……でも、もし世間がそれを要求するんだったら? まあ、この方面の本当の強者《つわもの》をご覧になって下さい。連中にとっちゃ平気の平左です。いや、それどころかおしゃべりだけが、連中にとっちゃ必要なんです。なかには二十年一日のごとく舌を動かしてるのがいますよ、いつも同じことをしゃべって……自己に対する確信と自負心というやつは大したもんで! 私にもそれは、自負心はありましたし、今だってまるっきり影をひそめてしまったわけじゃありません……でも、いけないのは、もう一度言いますが、私が独創的な人間じゃなくて、中途半端でやめてしまったことなんです。生れつきうんと自負心を持っているか、そうでなかったらいっそのこと、自負心なんてちっともない方がいいんです。とはいうものの、初めのうちは実際、私もつらい目にあいました。おまけに外国へ行ったりしたので身上《しんしょう》をすっかり使い果してしまいました。さればとて、年が若いのにもうゼリーのようにぶよぶよした身体つきの商人の後家《ごけ》さんと結婚する気にもなれませんし、――とどのつまりが自分の持村へ引っこみました。――どうでしょう」と隣人はまたも私を横目でちらと見て、附け加えた。「田舎の生活の最初の印象だとか、自然美の暗示だの、独居の静かな魅力だのといったものは端折《はしょ》ってもいいでしょうね……」
「いいですとも、いいですとも」と私は答えた。
「それに」と話し手はつづけた。「そんなことはみな下らんことですからね、少なくとも私に関するかぎりでは。私は田舎では、まるで閉じこめられた小犬のように退屈しました。とはいうものの、正直なところ、春はじめて田舎へ帰る途中、なじみの深い白樺林を通ったときには、漠然とした甘い期待のために頭がぐらぐらし、心臓がドキドキと激しくうったのは事実です。けれどもこういう漠然とした期待は、ご存じのように、けっして実現するものじゃありませんし、あべこべに、思いもかけなかったような別のことが起るものなんです。たとえば家畜の病気だの、年貢の滞納だの、競売だの、なんだかだと。私は荘園管理人のヤーコフに手伝ってもらって、どうにかこうにか一日一日を暮していました。この男を私は前の支配人と取りかえたのですが、後《あと》になって、前のよりひどくはないにしても、やはり同じくらいの泥坊だとわかりました。おまけにタールを塗りたくった長靴をプンプン匂わせて、私の生活を堪えがたいものにしたのです。そうこうしているうちに、私はある日ふと、近所に知り合いの家があったのを思い出しました。それは退職陸軍大佐の未亡人で、娘が二人いました。私は馬車の用意を命じてこの家を訪問に出かけました。この日は私にとって永久に記念すべき日となりました。六ヵ月後に私は、この大佐未亡人の二番目の娘と結婚したのです!……」
話し手は頭を垂れて両手を空《くう》に上げた。
「それにしても」と彼は熱心につづけた。「私は死んだ妻が悪妻だったなどとあなたに思わせたくありません。いや、とんでもない! あれはこの上なく高尚な、やさしい女で、愛情こまやかな、どんな犠牲をもいとわない人間でした。もっとも、実を言うと、もし私があれを失《な》くすような不幸な目にあっていなかったら、おそらく、今日あなたにお目にかかってお話しすることなんかできなかったでしょう。というのは、私が何度も首をくくろうと思った納屋《なや》の梁《はり》が、未《いま》だにそっくりそのまま残っているんですから!」
「西洋梨には」としばらく黙りこんでからまた彼は言い出した。「いわゆる『風味』を出すために、しばらく土をかぶせて室《むろ》にかこっておかなければならないものがあります。私の妻もそういった性情《たち》の女でした。今になって私はあれの良かったところが本当にわかります。今になってはじめて、たとえば結婚前に一しょにすごした夜な夜なを思い出すにつけても、少しも悲痛な気持にならないばかりか、かえって、涙が出るほど感動させられるのです。妻の家の人たちは裕福ではありませんでした。家はまことに古風で、木造でしたが、住み心地はよく、荒れはてた庭と草木の生い繁った外庭の間の、小高い丘の上に立っていました。丘の麓《ふもと》を川が流れていて、うっそうと繁った樹の葉の間からかすかに見えていました。大きなテラスが家から庭に通じており、テラスの前にはバラの花で一面におおわれた細長い花壇がその美を誇っていました。花壇の両端には螺旋形《らせんけい》に枝をからませたアカシヤの樹が二本植えてありましたが、それは亡くなった主人が、まだ若木のときにやったことなので。もう少し先へ行くと、打ち棄てられ、荒れるにまかされたエゾ苺の繁みのまん中に、四阿《あずまや》が立っていました。内側は数奇《すき》をこらして塗り上げてあるのですが、外側は見ていると気味が悪くなるほど古びて、ガタガタなんです。テラスにはガラス戸があって客間に通じていました。客間へ入ると、見る人の物珍しそうな眼に映《えい》ずるものは、四隅に据えられた化粧煉瓦の煖炉、右手にある調子の狂ったピアノ、その上に積み上げてある手書きの楽譜、白っぽい花模様のある色|褪《あ》せた空色の緞子《どんす》を張った長椅子《ソファー》、円いテーブル、エカチェリーナ朝時代の磁器や南京玉《ビーズ》でつくった玩具をならべた二つの飾り棚、壁には胸に鳩を抱き、上眼使いをしている薄亜麻色の毛の少女を描いたありふれた肖像画、テーブルの上にはみずみずしいバラの花を数輪さした花瓶……ほら、ずいぶんと詳しく描写できるでしょう。実はこの客間で、このテラスで、私の恋の悲喜劇がことごとく演じられたのです。当の未亡人は意地の悪い婆さんで、いつも憎たらしげにのどをぜいぜいいわせている、思いやりのない、口やかましい女でした。娘は一人をヴェーラといい、一向変ったところもないありふれた田舎娘でしたが、もう一人はソフィヤといって、私はこのソフィヤが好きになってしまったのです。二人の姉妹には別に小部屋が当てがわれていて、それが共通の寝室になっていました。いかにも娘にふさわしい木造りの寝台が二つ据えてあり、黄色に古ぼけたアルバムや、木犀《もくせい》や、鉛筆でかなり下手くそに描いた男女の友だちの肖像画などもありました(その中で並々ならず精力的《エネルギッシュ》な顔つきの、さらにそれ以上|精力的《エネルギッシュ》な署名をしている一人の紳士が目立っていました。若いときには大いに未来を嘱望《しょくぼう》されていましたが、とどのつまりはわれわれ同様、ものにならずにしまった男です)。それからゲーテやシラーの胸像、ドイツ語の本、乾からびた花環、そのほか記念に残された品々がありました。けれども私はこの部屋へめったに出入りしませんでしたし、気もすすみませんでした。なんだか息がつまりそうな気がしたからです。おまけに――奇妙じゃありませんか! ソフィヤを一番好ましく思ったのは、私がソフィヤに背を向けて坐っているとき、あるいはさらに、私が彼女《あれ》のことを考えているときでした。いや、というよりもむしろあれのことを空想しているときでした。わけても晩方、テラスで。私はそのとき、夕映えや、樹立《こだち》や、もう黒ずんではいるけれど、なおくっきりとバラ色の空に浮き出している、緑のこまかな葉などを眺めていました。客間ではソフィヤがピアノに向って、ベートーヴェンの曲の中から、何か自分の好きな、情熱のこもった一節を繰返し繰返しひいています。意地の悪い婆さんは長椅子に腰を下ろして安らかに鼾《いびき》をかいております。夕焼けの赤い光が一ぱいにさしこんでいる食堂では、ヴェーラがお茶の支度をしています。サモワールは何かうれしいことでもあるかのように、面白おかしくシューシューと音を立てています。クレンデリ〔B字型ビスケット〕はポリポリと陽気な音を立てて砕《くだ》け、スプーンの茶碗にあたる音がカチンと冴えた音を出す。日がな一日、ペチャクチャかしましく鳴きたてたカナリヤは、にわかに静かになって、ただ時折何か物問いたげな調子でさえずるばかり。透き通るような、軽い雲の中から、通り雨がパラパラと落ちてくる……私はじっと坐ったまま、ひたすら耳をすまして、あたりを眺めている。心が広々となってまたもや、自分は恋をしているのだという気がしてくる。
ちょうどこのような夕方の夢心地に誘われて、私はある日のこと老婦人に娘をもらいたいと申し入れ、それから二月ほどして結婚しました。私はあれを愛していると思っていたのです……今ではもうわかっていい時分なんですが、本当のところ、自分はソフィヤを愛していたのかどうか、今でもはっきりわかりません。あれは気立てのいい、利口な、口数の少ない、心の温かい女でした。けれども、どういうわけだかわかりませんが、田舎で永らく暮したせいか、それとも何か別の原因があるのかわかりませんが、あれの心の底には(もし心に底があるとすればですが)、傷口がひそんでいました。それとも、傷口から血がにじみ出ていたと言った方がいいかもしれません。その傷はなおす手だてもなく、あれにしても私にしても、どうとも名づけることのできないものでした。この傷のあるのに気づいたのは、もちろん、結婚してからのことです。いろいろと手をつくしましたが――効き目はありませんでした! 私は子供のころマヒワを飼ったことがありますが、それがあるとき猫に爪をたてられてしまいました。すぐに救い出して、治療してやりましたが、かわいそうなマヒワはなおりきることができませんでした。元気がなくなり、やせ細って、歌わなくなりました……とどのつまりが、ある晩、閉め忘れた鳥籠に鼠がしのびこんでくちばしを噛み切ってしまい、それがもとで、とうとう死んでしまいました。どんな猫に爪をたてられたのかわかりませんが、あれも不幸なマヒワと同じように、元気がなくなり、やせ細っていきました。時折は自分でも、すがすがしい戸外で、日の光を浴びて、心ゆくばかり羽ばたきをしたり、躍《おど》ったりしたかったようです。試しにやってみるのですが――すぐにまた縮こまってしまうのです。あれは私を愛していました。もうこれ以上何も望むことはない、と何度も何度も私に断言しました、それなのに――ええ、くそ!――そういう口の下からあれの眼はくもって来るのです。私は思いました、過去に何かあったんじゃないか? いろいろと調べてみましたが何一つわかりません。さあ、ここいらで、一つお考えになって下さい。独創的な人間ならばちょっと肩をすくめて、溜息の二度もすれば、自分なりに暮しはじめるでしょう。ところが私は独創的な人間じゃないもんですから、梁《はり》にちょいちょい眼をやるようになったのです。妻はオールドミス時代の習慣が――ベートーヴェンだの、夜の散歩だの、木犀《もくせい》だの、友だちとの文通だの、アルバムだのといった――すっかり習い性《しょう》となって、ほかのどんな暮し方にも、とりわけ一家の主婦の生活というものに、どうしてもなじめませんでした。それかといって、人妻が名づけようもない愁いに沈んで、毎晩のように『ああ君よ、あかつきの夢を乱さで』〔ワルラーモフのロマンスの少し変えられた呼び名。フェートの原詩による〕などと歌うのもおかしなもんでしょう」
「まあ、ざっとこんなふうに、私たちは三年間幸福に暮しました。そして四年目にソフィヤは初めてのお産で死んでしまったのです。しかも不思議なことですが――私は前からうすうすそんな気がしていました。あれは私に娘や息子を授けてくれそうもない、この地上に新しい住民を生み出してくれそうもない、と。私は未だに葬式のときのことを覚えています。それは春のことでした。私たちの教区の教会は小さな古ぼけた教会で、聖壇前の帷《とばり》〔聖像で飾られている〕は黒ずみ、壁は剥げ落ち、煉瓦の床はところどころでこぼこになっていました。両側の唱歌隊席には古めかしい大きな聖像がかかっていました。柩《ひつぎ》が持ちこまれて、聖門の前の中央に据えられ、色|褪《あ》せた蔽《おお》いをかけられて、まわりに三つの燭台が置かれました。そのうちに勤行《ごんぎょう》が始りました。小さな下げ髪を後《うしろ》に垂らし、緑色の帯を低く締めたよぼよぼの伴僧が、読経台《どきょうだい》の前でムニャムニャ言っています。これもやはり年とった、人のよさそうなしょぼしょぼ眼《まなこ》の司祭が、黄色い花模様を散らした薄紫色の法衣を着て、司祭の分と助祭の分と一人二役のお勤めをしていました。一ぱいに開け放された窓の外では、しだれた白樺のみずみずしい若葉がそよぎ、ささやきかわしていました。庭からは草の香りがただよって来ます。蝋燭の赤い焔が春の日の陽気な光の中で白々と見えました。スズメのしきりにチュンチュンさえずる声が教会中に聞え、時には堂内へ飛びこんで来るツバメのよく徹《とお》る叫び声が円天井の下でひびき渡ります。日射しをうけて金色にちらつく埃の中で、ひたすら故人の冥福を祈る数多からぬ百姓たちの亜麻色の頭が、忙しげに上がったり下がったりする。細い、青みがかった流れとなって、煙が香炉の孔《あな》からゆらゆらと立ちのぼる。私は妻の死顔を眺めました……ああ! 死さえも、死そのものさえも、あれを自由にしてやることができなかったのです、あれの傷をなおしてやることができなかったのです。生前と変らない病的な、おどおどした、唖《おし》のような表情――柩《ひつぎ》の中にいてさえ居心地がよくないといった……私は悲痛な思いに身体じゅうの血がかっとなりました。やさしい、気立てのよい女でしたが、死んだのはあれにとってかえってよかったのです!」
話し手の頬は紅潮し、眼はくもってきた。
「妻が死んでからというもの」と彼はまた話しだした。「私はすっかりふさぎこんでしまいましたが、そのうちやっと気を取りなおして、いわゆる『仕事』に取りかかろうと思い立ちました。私は県庁のある町へ出て役所づとめを始めました。けれども役所のだだっ広い部屋にいると頭はひどく痛みだし、眼もかすんできます。それにいろんな事情も重なって……私は辞《や》めてしまいました。モスクワヘ行こうかとも思いましたが、第一に金はなし、第二に……さっきも申し上げたように、私はもうあきらめていました。私があきらめたのは、急にだったとも、そうでないとも言えます。そりゃ気持の上ではもうずっと前からあきらめていましたが、頭はまだまだ下げたくなかったのです。私は自分の感情や思想がつつましくなったのは、田舎の生活や、一身上の不幸のせいだと思っていました……その反面、近所の地主たちが老いも若きも、初めのうちこそ私の学識や、外国留学や、教養の余徳などにびっくりしたものの、そのうちすっかり馴れっこになってしまったばかりか、なんだかぞんざいに、軽々しく私を扱うようになり、話をしまいまで聞かなくなって、私と話すときにももう『さようでございます』などという丁寧な言葉を使わなくなったことに、私はもう大分前から気がついていました。申しおくれましたが、結婚した最初の一年間、私は退屈のあまり文学を始めようと思い、雑誌に原稿を送ったことさえあります、確か中篇小説だったと思いますが。けれどもしばらくして編集者から丁寧な手紙をもらいました。手紙には、貴下が聡明な方であるということは拒むわけにはいきませんが、しかし才能があるとは申しがたい、ところが文学で必要なのは才能だけなのです、とありました。その上、モスクワから来たある男が、といってこの上なく善良な若者でしたが、この男が県知事邸の夜会でふと私のことを、気の抜けた、頭の空っぽな人間だと批評したという噂が私の耳に入りました。しかし私の半ば自発的な盲目ぶりはなおもつづいていました。つまり、自分の『横っ面《つら》を張る』のがおっくうだったのです。けれども、ある日のこと、とうとう私ははっきりと眼を開きました。それはこういうわけです。私の家へ郡警察署長がやって来て、領地内にある壊れた橋のことで注意を与えました。その橋を修理する工面が私にはどうしてもつかなかったのです。ウォートカの口直しにチョウザメを食べながら、この鷹揚《おうよう》なおまわりさんは、私の不行届きを父親のようにじゅんじゅんと説き聞かせました。とはいうものの私の立場にも同情したと見えて、百姓どもに命じて不用な材木でもちょっと渡しておいたらよかろうと教えてくれました。それからやおらタバコに火をつけ、間近に迫った選挙の話を始めました。そのころ県士族団長の名誉ある称号をねらっていたのは、オルバッサーノフなにがしという、つまらない口先だけの人間で、おまけに賄賂《わいろ》まで取る男でした。その上、とくに資産があるわけでも、家柄がいいわけでもなかったんです。私はこの男について自分の意見をのべました、しかもかなり無頓着な意見をです。私は、正直な話、オルバッサーノフ氏を高い所から見下ろしていたのです。署長はじっと私の顔を見て、愛想よく私の肩をたたくと、親切に言いました。『いや、ワシーリイ・ワシーリエヴィチ、われわれ風情《ふぜい》はああいう方のことをとやかく言うべきではありませんよ、――とても、あなた?……身のほどを知らなくちゃなりません』『とんでもない』と私はむっとして言い返しました。『私とオルバッサーノフ氏とどこが違うんです?』署長は口からパイプを出して、眼を円くし、――いきなり吹き出しました。『いや、これは面白い』と、しまいには涙まで浮かべて言いました。『とてつもないことをおっしゃる、え! どうです?』時折私の脇腹をひじでつっついたり、さっそく私のことを『君』呼ばわりしながら、帰っていくまぎわまで私をからかうことをやめませんでした。やっと署長は帰って行きました。これまでこの一滴が足りなかったのです。盃はついにこぼれてしまいました。私は何度も部屋の中を歩きまわった末、鏡の前に立ちどまり、自分のうろたえた顔を、いつまでもいつまでも見つめていました。それからおもむろに舌を出し、苦笑しながら頭を振りました。私はたちまち目が覚めました。私ははっきりと、鏡に写っている自分の顔よりもはっきりと、見てとることができたのです、自分がどんなにつまらない、下らない、役に立たない、独創力のない人間であるかを!」
話し手は口をつぐんだ。
「ヴォルテールのある悲劇の中で」と沈痛な調子で彼は話をつづけた。「一人の紳士が不幸の限界に達したのを喜んでいますね。私の運命には悲劇的なところなんかちっともありませんが、私も、実を言うと、それに似たものを味わいました。私は冷ややかな絶望の毒を含んだ喜びを知りました。私は、午前中、ゆうゆうと寝床に身を横たえながら、自分の生れた日と時刻を呪うのがどんなに楽しいものかを経験しました、――私はすぐにはあきらめきれなかったので。それに実際のところ、まあ、察してもみて下さい。金がないものですから私は憎むべき田舎にしばりつけられていたのです。領地の経営も、役所づとめも、文学も――何一つ私の身につきませんでした。私は地主たちを避けるようになり、本を読むのも厭わしくなりました。捲き毛をふり立てて、熱病におかされたように『人生』という言葉を繰返している、水ぶくれのした、病的に敏感な令嬢たちは、私がおしゃべりをしたり、有頂天になったりしなくなってから、私に一向関心を示さなくなりました。そうかといってまったく孤独になんぞなれるもんじゃありませんし、なりもしませんでした。そこで私はとうとう、――何を始めたとお思いになりますか? 近所の地主たちの家に出入りするようになったのです。まるで自分自身を軽蔑することに酔ったように、私はわざとあらゆるちっぽけな屈辱に身をさらしました。テーブルについては料理の皿を抜きにされ、冷淡に横柄にあしらわれ、ついには見向きもされなくなりました。みんなの話の仲間にも入れてもらえず、やむなく部屋の隅っこから、この上もなく阿呆なおしゃべりに、われからすすんで相槌を打つ始末です。ところでその阿呆たるや私が昔モスクワにいたころには、喜んで私の足の塵《ちり》をなめ、外套の端に接吻しかねないほど、私を尊敬していた男なんです……私は自分自身に、自分は皮肉の苦い満足に耽《ふけ》っているのだと考えることを、許しもしませんでした……とんでもない、独りぼっちの皮肉なんてあるもんですか! こうやって私は何年か暮してきましたし、今でもそうやっているのです……」
「けしからんにも程がある」と隣の部屋からカンタグリューヒン氏が寝ぼけ声でぶつぶつ言うのが聞えた。「夜の夜中にごそごそ話をするなんて、どこの馬鹿野郎だろう?」
話し手は大急ぎで毛布の中へもぐりこんで、おずおずと外をのぞきながら、指を立てて私をおどす真似をした。
「しっ……しっ……」とささやいて、謝るかのようにカンタグリューヒンの声のする方にお辞儀をしながら、うやうやしく言った。「畏《かしこ》まりました、畏まりました、相済みませんでした……あの男だって眠ってかまわないんです、眠らなくちゃなりません」とまたひそひそ声で言葉をつづけた。「あの男も英気を養わなければならないんです、せめて朝飯をおいしく食べるためにも。私たちにあの男の邪魔をする権利はありませんからね。それに私もどうやら、言いたいことはすっかりお話ししたような気がします。きっと、あなただって眠いでしょう。おやすみなさい」
話し手は熱病やみのようにすばやく向うをむいて、枕に頭を埋めた。
「せめてあなたの」と私はたずねた。「お名前だけでもお聞かせねがいたいのですが……」
彼は急いで頭を上げた。
「いや、後生《ごしょう》ですから」と彼は私の言葉をさえぎった。「私の名は聞かないで下さい、この私にも、ほかの人にも。運命に打ちのめされた、ワシーリイ・ワシーリエヴィチなる無名の男ということにしておいて下さい。おまけに私は、独創的な人間じゃないので、特別な名前を持つだけの値打がありません……でも、どうしても私に何か呼び名をつけたいというんでしたら、そうですね……シチグロフ郡のハムレットと呼んで下さい。私みたいなハムレットはどこの郡にもたくさんいます、でも、ことによるとあなたは、私以外の者にはお会いになったことがないかもしれませんが……ではお先に」
彼はまた羽ぶとんの中にもぐりこんだ。翌朝、人が来て私を起したとき、彼はもう部屋にいなかった。夜明け前に発《た》ったのである。
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チェルトプハーノフとネドピュースキン
ある夏の暑い日に、私は馬車に乗って猟から帰るところであった。エルモライは私の傍に坐ってうつらうつら、しきりに舟をこいでいた。ぐっすりと眠りこんだ犬どもは、まるで死んだみたいに、車の揺れるたびに私たちの足もとで跳び上がるのだった。馭者は馬にたかる虻《あぶ》をのべつ鞭《むち》で追っていた。白い埃が軽い雲のように馬車の後に舞い上がる。私たちは繁みの中に入った。道はでこぼこがひどくなり、車輪に小枝がひっかかるようになった。エルモライはびくっと身ぶるいをして、あたりを見まわした……「おや!」と彼は言い出した。「ここらにゃヤマドリがいるに違えねえ。降りてみましょう」私たちは馬車を停めて『広場』に入った。犬が一群の雛鳥《ひなどり》に行き当った。私は一発射って、また銃に装填《そうてん》しにかかった。とそのとき不意に背後でガサガサという音がして、馬に乗った男が両手で繁みを押し分けながら、私の方に近づいて来た。「ちょっと伺いますが」と彼は横柄な声で言い出した。「あなたはどんな権利があってここで猟をなさるんですか、え?」見知らぬ男は非常な早口で、途切れがちに、鼻にかかる声で言った。私は彼の顔を見た。生れてこのかた、およそこんな顔は見たことがない。親愛なる読者諸君、薄亜麻色の髪の毛をして、赤い鼻が天井を向き、人参《にんじん》色の恐ろしく長い口髭を生やした小柄な男を想像していただきたい。てっぺんにまっ赤なラシャのついた先の尖《とが》ったペルシャ帽が、眉のすぐ上のところまで額にかぶさっている。着ているものは黄色いくたびれた上着で、胸には黒いフラシテンの弾薬筒をくくりつけ、縫目という縫目には色のあせた銀モールがついていた。一方の肩からは角笛《つのぶえ》がぶら下がっており、腰には一振りの短剣をぶちこんでいる。やせ衰えた段鼻の栗毛の馬が、気でも狂ったかのように、主人を乗せてよろめき、やせさらばえて足の曲がった二匹の猟犬が、馬の足もとをちょこちょこ駈けまわっている。顔といい、眼つきといい、声といい、一つ一つの動作といい、この見知らぬ男の全体が、気違いじみた大胆さと、類のない、異常な傲慢さを表わしていた。薄青い、ガラスのような眼は酔《よ》いどれのようにきょろきょろと動き、横目で物を見る。首をぐっと後に反らせ、頬をふくらまし、荒々しく鼻息を立て、はちきれそうな威厳を示すかのように全身をぶるぶるふるわせているところは、――七面鳥そっくりであった。彼は繰返して同じことをきいた。
「ここで撃っていけないということを知らなかったものですから」と私は答えた。
「ここはあなた」と彼は言葉をつづけた。「私の地所ですよ」
「これはどうも、さっそく引き上げます」
「失礼ですが」と彼は言った。「あなたは士族ではございませんか?」
私は名を名乗った。
「それでしたらどうぞ猟をなすって下さい。私も士族ですから、士族のお役に立つのは甚だうれしいことで……ときに私の名はパンテレイ・チェルトプハーアノフ〔普通チェルトプハーノフと発音するところを、わざと「チェルトプハーアノフ」とのばして発音したのである〕と申します」
彼は身を屈《かが》めて、一声高く呼ばわり、馬の頸筋に鞭をくれた。馬は頭を振り立てて、後脚で立ち上がり、脇の方へ身を躍らせた拍子に犬の足を踏みつけた。犬はけたたましい悲鳴をあげた。チェルトプハーノフは思わずかっとなり、色をなして、馬の頭の両耳の間を拳固でなぐりつけ、稲妻よりも速く地べたに降り立ち、犬の足をしらべて見て、傷口に唾を吐きかけ、うるさいぞ、黙れとばかりに犬の横腹をポンと蹴り、馬のたてがみをひっつかんで、鐙《あぶみ》に片足を通した。馬は鼻面を持ち上げ、尻尾を立て、横ざまに繁みの中に身を躍らせた。チェルトプハーノフは片足で跳びはねながら馬の後を追いかけたが、最後にはとうとう鞍《くら》の上の人となり、夢中で鞭を振りまわし、角笛を吹いて駈け去った。思いがけないチェルトプハーノフの出現にすっかり面くらった私が、われに返る暇《いとま》もなく、不意に、ほとんど物音も立てずに、年のころ四十ぐらいのでっぷりした男が、小さな黒馬に乗って繁みの中から出て来た。彼は馬をとめると、緑色の革の縁無帽子《カルトゥーズ》をとり、甲高いが温和な声で、栗毛の馬に乗った人を見なかったかとたずねた。私は見たと答えた。
「その方はどちらへいらっしゃいましたか?」と彼は同じ調子で、帽子を脱いだまま言葉をつづけた。
「あちらです」
「大きにありがとうございました」
彼は唇をならし、馬の脇腹に両足を当てると、小走りに――パカパカと――教えられた方角さして走り去った。角のように両端の尖った縁無帽子が枝の蔭に隠れるまで、私はその後姿を見送った。この新しい見知らぬ男の容貌は、さっきの男のそれとは少しも似たところがなかった。むっちりと肥った、球《たま》のようにまん円い顔は、この男が内気で、お人好しで、おとなしく謙遜な人物であることを表わしていた。やはりむっちりとした、まん円い、青筋の透《す》けて見える鼻は、この男が好色であることを証明していた。頭の前の方には髪の毛が一本も残っておらず、後には亜麻色の薄い毛が幾房かおっ立っていた。スゲの葉ででも切ったような切れ長の眼はやさしく瞬《またた》いていた。赤い潤《うるお》いのある唇が甘ったるく微笑《ほほえ》んでいた。着ているのは立襟に真鍮ボタンのフロックコートで、かなり着古したものだが、小ざっぱりしている。ラシャのズボンは上の方にすり上がって、長靴の黄色い縁飾りの上から脂《あぶら》ぎったふくらはぎが見えていた。
「あれは誰だね?」私はエルモライにきいた。
「あれですか? チホン・イワーヌイチ・ネドピュースキンですよ。チェルトプハーノフの家にいますんで」
「どんな男だね、貧乏人かい?」
「金持じゃありません。でもチェルトプハーノフのとこにだって、ビタ一文あるわけじゃねえんで」
「それじゃ、なんだってそんな家へ居ついたんだね?」
「そりゃ仲がいいからですよ。どこへ行くにも二人づれで……本当に、牛は牛づれってやつでさあ……」
私たちは繁みを出た。と、不意にすぐ傍で二匹の猟犬が『切れ切れに吠え出し』、大きな白兎がもうかなり伸びている燕麦畑を走って行くのが見えた。その後を追って繁みの縁《へり》から猟犬《ゴンチイ》やボルゾイ犬が躍り出し、犬の後からチェルトプハーノフ自身も飛び出した。彼は叫びも、狩り立ても、『捕えろ!』と犬に命じもしなかった。ハアハア息を切らして、むせかえっている。とぎれとぎれの、意味もない音が時折、大きく開いた口からもれた。彼は眼をむき出して疾駆《しっく》し、哀れな馬を鞭で自棄《やけ》にひっぱたいた。ボルゾイ犬が『あわやという所まで追いつめた』……白兎はちょっとうずくまったと思うと、くるりとまわれ右をし、エルモライの傍を通って繁みの中に駆けこんだ……猟犬は先へ行きすぎた。「走《はしー》れ、走《はしー》れ!」と息も絶え絶えになった猟人が犬に向って、吃《ども》りのように、まわらぬ舌でようやく言った。「さあ、しっかりたのむぞ!」エルモライがズドンと撃った……手傷を負った白兎は滑らかな枯草の上に独楽《こま》のように転がり、ひょいと宙に跳んだと思ったら、駈けつけた犬の口にくわえられて哀れっぽい悲鳴を上げた。猟犬の群がすぐさまそこにおしよせた。
チェルトプハーノフはひらりと馬からとび降り、短剣をひっつかむと、大股に犬どもの傍に駈けより、激しい勢いでどなりつけながら、引き裂かれた兎を引ったくり、顔じゅうをひん曲げて、兎の咽喉《のど》へ柄も通れとばかりに短剣を突き刺した……突き刺して「ほうほう」と叫び出した。チホン・イワーヌイチが繁みの縁に現われた。「ほうーほうーほうーほうーほうーほうーほうーほう!」とチェルトプハーノフはもう一度叫び出した……「ほうーほうーほうーほう」と相手は落ち着きはらって繰返した。
「でも、本当の話が、夏に猟をしてはいけないんじゃありませんか」と言って私は、踏みつけられた燕麦をチェルトプハーノフに指さした。
「なに、私の畑ですから」と、やっと息をつきながら、チェルトプハーノフは答えた。
彼は兎の脚を切り取り、胴体は紐で鞍に結びつけ、脚は犬どもに分けてやった。
「弾丸《たま》は借りておくぜ」彼は猟師の掟《おきて》にしたがい、エルモライに向って言った。「それから、あなたには」とやはり切れ切れな、乱暴な調子で附け加えた。「お礼を申します」
彼は馬にまたがった。
「失礼ですが……忘れてしまいましたので……お名前はなんとおっしゃるんでしたっけ?」
私は再び名を名乗った。
「お近づきになれて仕合わせです。折がありましたら、どうぞお訪ね下さい……ところでフォームカはどこにいるんだね、チホン・イワーヌイチ?」と彼は腹を立てて言葉をつづけた。「あいつが来ないうちに兎を獲《と》ってしまったじゃないか」
「乗っている馬がのびてしまったんですよ」とにこにこ笑いながらチホン・イワーヌイチは答えた。
「のびてしまった? オルバッサンがのびた? ちぇっ、いまいましい!……どこにいるんだね、どこに?」
「あの森の向うです」
チェルトプハーノフは馬の鼻面に一鞭くれて、まっしぐらに駈け出した。チホン・イワーヌイチは私に二度お辞儀をして――私と私の仲間の分と――、また小走りに繁みの中に馬を乗り入れた。この二人の紳士はひどく私の好奇心をそそった……一体何が、こんなに肌合いの違った二人を、断ちがたい友情の絆《きずな》で結びつけたのだろう? 私は調べてみた。その結果わかったのは次のようなことである。
パンテレイ・エレメーイチ・チェルトプハーノフはこの界隈《かいわい》で、険呑《けんのん》な気違いじみた男で、高慢ちきで、この上ない喧嘩好きだという評判をとっていた。ほんのしばらくの間、軍隊に勤めていたことがあるが、『面白からぬ事情』があって、『電信柱に花が咲く』、と世に言われている官等で、職を退いた。彼の生れた家柄はかつては裕福だった旧家である。先祖たちは派手に、いかにも草原地方の地主らしく暮していた。つまり、招いた客はもとより、招かなかった客もこころよく款待《かんたい》し、御馳走ぜめにし、お客のお伴《とも》をしてきた馭者には馬三頭分の飼料《かいば》として燕麦を一斗ずつも与え、家には楽師や、歌うたいや、道化や犬をおき、祝祭日には百姓に酒やビールをふるまい、冬になると自分の馬に大型の重たい馬車をひかせてモスクワヘ出かけた。そうかと思えば、時には何ヵ月も一文なしで暮して、ありあわせのものを食べていることもあった。領地がパンテレイ・エレメーイチの父の手に入ったころには、身上《しんしょう》がもう大分傾きかけていた。ところが彼は彼で、さんざ『面白おかしく暮した』ので、臨終のときに一人息子のパンテレイに残したものとては、男三十五人、女七十六人の百姓が地附きになっている、ベスソーノヴォという抵当に入っている小村と、コロブロードワの荒地にある役にも立たない十六町三段歩の土地だけであった。もっとも、それに関するどんな証書も、故人の書類の中に見当らなかった。実を言うと、先代はすこぶる奇妙なやり方で身上を潰したのだった。『独立会計』が彼を破滅させたのである。彼の考えによれば、士族は商人や、町人や、その他これと同類の、彼のいわゆる『強盗ども』に依存すべきではない。そこで彼は自分の領地内でありとあらゆる手工業を始め、仕事場を作った。『独立会計の方が体裁もいいし、安上がりだ!』と彼はよく言ったものである。この破滅的な考えを彼は死ぬまで棄てることができなかった。それがつまり彼を落ちぶれさせてしまったのである。そのかわりさんざん楽しい思いもしたので! どんな気まぐれなこともやってみた。いろいろな思いつきの中にも、あるとき自分でいろいろと考えたあげく、巨大な自家用の箱馬車を造らせたことがある。ところがあまり馬車が大きすぎたので、村中からかき集められた馬とその持主たちが、力を合わせて一生懸命努力したにもかかわらず、坂道にさしかかるが早いか、ひっくり返ってばらばらになってしまった。エレメイ・ルキッチ(パンテレイの父親はエレメイ・ルキッチと言った)はこの坂道に記念碑を建てることを命じたが、こんなことで少しも動じなかった。彼はまた教会を建てることを思いついた。もちろん、建築家の手を借りずに独力でである。そこで森一つをまるまる焼きはらって煉瓦をつくり、県の中央寺院の土台にだって間に合いそうなどえらく大きな土台を据え、壁をめぐらし、円屋根をのせにかかった。ところが円屋根は落ちてしまった。再びやり直したが――再び崩れ落ちた。三度やってみたが――円屋根は三度崩れ落ちた。さすがのエレメイ・ルキッチもこれには考えこんでしまった。どうもうまくいかないぞ……これはきっと、誰かが魔法を使って邪魔しているに違いない……そこでいきなり、村中の年とった百姓女を一人残らず鞭《むち》でうつように命じた。百姓女はことごとく鞭でうたれたが――円屋根はやっぱりのっからなかった。それから新しい設計による百姓家の建て直しを始めたが、これもみな独立会計から出たことだった。まず三軒の家を三角形に置き、そのまん中に柱を立て、その柱に彩色したムクドリの巣箱と旗をとりつけた。何しろ毎日のように、新しい計画を考え出したものである。ゴボウのスープをつくってみたり、下男たちの帽子を作るためだといって馬の尻尾を切ってみたり、イラクサを亜麻の代用品にしようとしたり、豚に茸《きのこ》を食わせてみようとしたり……とはいうものの、経済的な思いつきだけが彼の頭に浮んだわけではない。彼は農民の幸福のことも心配した。あるとき『モスクワ報知』で、ハリコフの地主フリャーク=フルピョールスキイの書いた、農民生活における道徳の必要という論文を読んで、さっそくその翌日にお布令《ふれ》を出した。百姓一同はハリコフの地主の論文をすぐに諳記《あんき》するように、と。百姓たちは論文を諳記した。そこで旦那は、そこに書いてあることがわかるか、とたずねた。執事がそれに答えて言った。『どうしてわからないことがございましょう!』それと同じころ、秩序を保つためと、独立会計から割り出して、家来の一人ひとりに一連番号をつけることを命じ、その番号を襟に縫いつけさせた。旦那に会ったときは誰でもが大きな声で、『第何番であります!』とどなると、旦那はやさしい声で、『よろしい!』と答えるのであった。
ところが、秩序が保たれ、独立会計が実行されたにもかかわらず、エレメイ・ルキッチはしだいしだいに大変な窮境に追いこまれた。まず手始めに持村を抵当に入れるようになり、やがてはそれを売りに出すようになった。最後の先祖伝来の巣、つまり建ちかけの教会のある村は、もはや個人でなく、お上《かみ》の手で競売に附されたが、それはさいわいとエレメイ・ルキッチの存命中ではなく、――彼はこの打撃には堪えられなかったに違いない、――彼の死後二週間してのことだった。彼は自分の家の、自分の寝床の中で、身内の者に取りまかれ、お抱えの医者にみとられて死ぬことができた。けれどもかわいそうにパンテレイの手に入ったのは、ベスソーノヴォだけであった。
パンテレイが父の病気を知ったのはもう軍務についてからで、先にのべた『面白からぬ出来事』の持ち上がっているまっさい中であった。彼はやっと数え年十九になったばかりだった。彼は子供のころから生れた家を離れたことがなく、ごく人はいいけれども、まるで愚鈍な女である母親のワシリーサ・ワシーリエヴナの手で、駄々っ子の坊ちゃんとして大きくなった。母親一人が息子の教育にたずさわった。エレメイ・ルキッチは経済計画に没頭していたので、それどころではなかった。なるほど、彼はあるとき、息子がRの字を『ルツィ』と言わないで『アルツィ』と言ったからとて、自ら手を下しておしおきしたことがあるが、しかしその日エレメイ・ルキッチは人知れず深い悲しみに沈んでいたのだ。というのは、秘蔵の犬が樹に頭をぶっつけて死んでしまったからである。もっとも、ワシリーサ・ワシーリエヴナがパンチューシャ〔パンテレイの愛称〕の教育のことで苦労したといっても、ただやきもきしただけのことであった。彼女は大難儀をして、アルザス生れの退職兵士ビルコッフとやらを家庭教師に雇い入れたが、死ぬまでこの男の前へ出るとビクビクものであった。『この人に辞められたら――もうおしまいだ! 私はどこへ身を隠したらよかろう? どこで代りの先生を見つけよう? この先生だって、やっとのことで近所のお宅から引っこぬいてきたんだから!』と思っていたからである。ところでビルコッフは抜け目のない男だったから、たちまち自分の独占的な地位につけこんで、大酒をくらい、朝から晩まで寝てばかりいた。『学科課程」を終ってから、パンテレイは軍務についた。ワシリーサ・ワシーリエヴナはもはやこの世にいなかった。彼女はこの重大な出来事の半年前に、恐怖のあまり亡くなっていた。彼女は、熊に乗った白い人を夢に見たが、その人の胸には『反キリスト』と書いてあったのである。エレメイ・ルキッチもやがて連れあいの後を追った。
パンテレイは父が病気だという知らせをきくとすぐに、取るものも取りあえず駈けつけたが、父の死目にあえなかった。けれども莫大な財産の相続人のつもりでいたところ、裸一貫の貧乏人にすぎなかったと知ったとき、この孝行息子の驚きはいかばかりであったろう! 大ていの人ならこのような急変に堪えられるものではない。パンテレイは粗暴になり、荒々しくなった。気まぐれで、短気ではあっても、誠実で、気前がよくて、親切だった男が、傲慢《ごうまん》な、喧嘩好きな男となり、近所の者ともつき合わなくなった、――金持にはひけ目を感じたし、貧乏人とつき合うのは沽券《こけん》にかかわると思ったのである。そして誰に向っても、話に聞いたこともないほど横柄にふるまい、土地の官憲に対してさえはばかるところがなかった。「わしは生え抜きの士族だぞ」というわけで。あるときなどは、帽子をかぶったまま自分の部屋の中に入ってきたというので、もう少しで郡警察分署長を射ち殺すところであった。もちろん、当局の方でも彼に容赦をしないで、機会あるごとに彼に思い知らせた。それでもやはり彼はこわがられた。なにしろ恐ろしい癇癪《かんしゃく》持ちで、二言目には斬り殺してやるぞとわめき立てるからである。ちょっとでも反対されようものなら、チェルトプハーノフの眼は血走って、声が途切れ途切れになる……「あ、わ、わ、わ、わ、わ」と彼は口ごもる。「どうなっても構うもんか!」……そして気違いのようになるのだ! その上、彼は元来が生一本《きいっぽん》な人間で、どんないかがわしい事件にもかかり合ったことがなかった。もちろん、彼のところへは誰も訪ねて行かなかった……けれども、こうしたいろいろなことがあるにもかかわらず、彼には善良な心があり、それはそれなりに偉大でさえあった。不公平や圧制は他人事《ひとごと》でも我慢できなかった。自分の百姓のこととなると全力をあげて守ってやった。「なんだと?」と自分の頭を狂暴にたたきながら言う。「うちの者に手を触れると、うちの者に? このおれがチェルトプハーノフでなけりゃ、いざ知らず……」
チホン・イワーヌイ・ネドピュースキンは、パンテレイ・エレメーイチのように自分の素姓を誇ることができなかった。父は郷士の出で、四十年勤め上げてやっと士族になれたのである。父のネドピュースキン氏は、不幸によって個人的憎悪にも似た冷酷さで追いまわされている人々の一人であった。生れ落ちてから死ぬまで、まる六十年もの間、この哀れな男は、つまらない人間につきものの、あらゆる窮乏、疾患《しっかん》、災難とたたかった。氷の上に抛《ほう》り出された魚のようにもがき、腹一ぱい食べもせず、十分に眠りもせず、お辞儀をし、駆けずりまわり、気を落し、へとへとになり、一文の金も出し渋り、勤めの上ではまったく『罪なくして』苦しみ、ついには屋根裏とも穴蔵ともつかないところで、自分はもとより子供たちの日々の糧《かて》さえもかせぎ出せずに、死んでしまった。運命は彼を、まるで狩場の兎のように、へとへとになるまで追いつめたのである。彼は気立てのよい、正直な人間で、取った賄賂《わいろ》も『官等なみ』――たかだか十コペーカから二ルーブリまでの間であった。ネドピュースキンにはやせた肺病やみの妻君がいた。子供たちもいた。だが、仕合わせなことに、チーホンと娘のミトロドーラをのぞいて、子供たちはみな早死をした。ミトロドーラはあだ名を『商人《あきんど》のおしゃれ』と言って、いろいろと悲しい事件やおかしい事件があった後、廃業した代言人のところへお嫁にいった。父のネドピュースキン氏はまだ存命中に、息子のチーホンを役所の臨時雇いに就職させてやることができた。けれども父親が死ぬとすぐにチーホンは退職してしまった。絶え間のない不安、寒さや飢えとの苦しい闘争《たたかい》、母親の憂欝な気落ち、父親のあくせくとした落胆ぶり、家主や小商人《こあきんど》のぶしつけな迫害、すべてこうした毎日の絶え間のない悲哀がチーホンを、異常な臆病者にしてしまったのである。彼は上役の姿を見ただけで、捕まえられた兎のようにふるえおののき、気絶しそうになるのだった。彼は仕事を辞めてしまった。冷静な、いや、もしかしたら嘲笑好きかもしれない自然は、人々に、御当人の社会的地位や資産などには少しも関係なく、さまざまな能力や性癖を植えつける。自然は持前の世話好きと愛情とで、貧乏な官吏の息子チーホンを、感じやすい、怠惰な、物柔らかな、感受性の鋭い人間に――もっぱら享楽向きの、並はずれてデリケートな嗅覚と味覚に恵まれた人間に形づくり……形づくって念入りに仕上げをしたのちに――自分の作品を、酸っぱいキャベツと腐った魚を食べて成長していくにまかせた。
さてそれが、この作品がいよいよ大きくなって、いわゆる『生活』しはじめたのである。お慰みが始まった。父のネドピュースキンを執拗に苦しめた運命は、今度は息子に手をつけた。親父で味をしめたものと見える。けれども運命のチーホンに対するやり口は違っていた。運命は彼を苦しめずに――彼を慰《なぐさ》みものにしたのである。運命は一度も彼を絶望に追いやったり、恥ずべき飢えの苦しみを味わわせたりしないで、そのかわりヴェリーキイ・ウースチュグ〔ロシア社会主義共和国ヴォログダ州の町〕からツァレヴォ・コシャイスク〔マリースキイ自治州の首府。現在のヨシカール・オラア市〕にいたるまで、ロシアの国中をひきまわし、卑しい役目から滑稽な役目を、それからそれへと勤めさせた。時には喧嘩好きで、癇癪持ちの慈善家の奥さまのところに『家令』として住みこませ、時には金持のくせに吝《けち》んぼな商人の家に居候をさせ、時にはイギリスふうに髪を刈りこんだ出目金の旦那の帳場頭に任命し、時には犬好きの狩猟家のところで、半分家令のような、半分道化のような役に登用した……一言でいえば、運命は哀れなチーホンに、寄生生活の苦い、毒の入った飲料を、ちびりちびりと残らず飲み干させたのである。彼は生涯を無為《ひま》な旦那たちの不快な気まぐれや、寝ぼけ気分の意地悪な退屈しのぎのためにつくした……さんざん満座の客になぐさみものにされたあげく、『もう行ってもいいよ』と言われて自分の部屋にひき下がり、ただ独りきりで、恥かしさに全身をかっと火照《ほて》らせ、眼には冷たい絶望の涙を浮べて、明日にもこの家を抜け出して、町で運試しをしてみよう、たとえ書記の口なりとも見つけ出そう、それともいっそひと思いに路頭で飢え死をしてやるか、と何度誓ったかわからない。しかし第一に、神さまは彼にそんな力をお与えにならなかった。第二に、臆病に勝てなかったし、第三に、結局、どうやって働き口を見つけるのか、誰に頼んだらいいのか? 『駄目だ、』と、不幸な男は寝床の上で寝返りをうちながらつぶやくのであった。『とても見つかるまい!』そして次の日になるとまたもや辛い仕事を始めるのである。
その上、そんなにもよく気のつく自然が、おどけ者の商売にほとんどなくてはかなわない能力や才能を、芥子粒《けしつぶ》ほども彼に授けてやろうとしなかったからには、彼の立場はなおさら惨《みじ》めなものであった。彼は、たとえば、熊の毛皮外套を裏返しに着て倒れるほど踊ることも、耳もとで長い鞭がピシピシと鳴るのを聞きながら、平気で軽口をたたいたり、お愛想を言ったりすることもできなかった。零下二十度の寒さに素裸でさらされて、風邪をひいたことも間々《まま》あった。彼の胃の腑《ふ》は、インキその他のいかがわしいものをまぜた酒や、こまかく刻んで酢をかけたハエトリダケやヒラタケを消化することができなかった。もしも彼の最後の恩人となった成金の買占め商人が、上機嫌のときにふと思い立って自分の遺言状に、「ジョージャ(チーホンのこと)・ネドピュースキンに我輩の正当に取得せるベスセレンジェーエフカ村および一さいの付属を永久に譲渡するものなり」と書きこまなかったならば、チーホンはどうなったかわからない。それから数日後に恩人は、チョウザメのスープを食べている最中に、卒中を起して死んでしまった。大騒ぎになった。さっそく裁判所から役人がやって来て、しかるべく財産に封印をした。親類の者が集まり、遺言状が開かれた。遺言状を読んで、ネドピュースキンを呼べということになった。ネドピュースキンがやって来た。集まった人たちの大部分はチーホン・イワーヌイチが恩人のところでどんなお役目を勤めていたかを知っていた。そこで彼が現われると、出会いがしらに耳を聾《ろう》せんばかりの叫び声と、嘲笑的な祝辞が浴びせられた。「地主様だ、ほら、あの方が、新しい地主様だ!」と他の相続人たちが叫んだ。「いや、こりゃ……」と有名なひょうきん者で皮肉屋である相続人の一人が口をはさんだ。「いや、こりゃまったくもって……まぎれもない……それ……いわゆる……その……大そうご立派な相続人だよ」一同はたちまちどっと笑い出した。ネドピュースキンはしばらくの間、この幸福を信じようとしなかった。遺言状を見せられると――まっ赤になって、眼を半ばとじ、両手を振ったかと思うと、男泣きに泣き出した。一座の笑い声はたちまちガヤガヤというどよめきに変った。ベスセレンジェーエフカ村は、みんなでわずか二十一人の農奴しか附いていなかったので、誰も大して惜しがらなかった。してみれば、このさい、しばらく楽しまずにいられようか? ただ一人ペテルブルグからやって来た相続人で、ギリシャふうの鼻をし、きわめて上品な顔つきをしたロスチスラフ・アダームイチ・シュトッペリという尊大な男は、とうとう我慢できなくなって、横歩きにネドピュースキンの傍へ寄り、肩越しに傲然《ごうぜん》と彼を見おろした。「お見うけしたところあなたさまは」と彼は馬鹿にしたようにぞんざいに言い出した。「尊敬するフョードル・フョードルイチのところで、気晴らし役の、つまり召使をしておられたようですな?」ペテルブルグから来た紳士は堪えがたいほどきれいな、はきはきした、正確な言葉でこう言った。取り乱して、興奮していたのでネドピュースキンは、自分の見知らぬ紳士の言葉がよく聞き取れなかったが、他の連中は一時に鳴りをしずめてしまった。皮肉屋はしたり顔でにやりと笑った。シュトッペリ氏は揉《も》み手をして同じ問を繰返した。ネドピュースキンはびっくりして眼を上げ、あんぐりと口を開いた。ロスチスラフ・アダームイチは毒を含んだ表情で眼を細めた。
「おめでとう、あなた、おめでとう」と彼はつづけた。「そりゃね、誰もがそんなやり方で、その日その日の糧《かて》をかーせぎだそうて訳《わけ》じゃなかろうけれどもね。しかし de gustibus non est disputandum、つまり、人さまざまですからな……そうじゃありませんか?」
誰かが後の方で、早口に、けれどもお上品に、驚嘆と喜びの金切声を上げた。
「それにしても」とシュトッペリ氏は一座の微笑に大いに力を得て、口を出した。「一体、どんな才能のおかげでこの幸福をつかんだのですか? いいえ、何も恥かしがることはありません、どうぞ教えて下さい。私たちはみな、いわば身内の者、en famille なんですから。そうでしょう、みなさん、ここにいるのはみな en famille でしょう?」
ロスチスラフ・アダームイチが偶然こうたずねた相続人は、あいにくとフランス語を知らなかったので、賛成の意を表してかすかにうなり声を出しただけであった。そのかわり他の相続人が、それは額に黄色い斑点《はんてん》のある青年だったが、それが急いで、「ウイ、ウイ〔ええ、ええ〕、もちろんですとも」と相槌を打った。
「たぶん」とまたもやシュトッペリ氏が言い出した。「あなたは逆立ちをして歩けるでしょうな、つまり足を天井へ向けて?」
ネドピュースキンは悲しげにあたりを見まわした――どの顔も意地悪い微笑を浮べ、誰の眼も満足にうるんでいた。
「それとも雄鶏《おんどり》の鳴きまねがお出来なんで?」
あたりはどっと笑い崩れたが、すぐまた静まりかえって、どうなることかと固唾《かたず》をのんだ。
「それとも鼻の上に……」
「やめろ!」と不意に鋭い大音声がロスチスラフ・アダームイチをさえぎった。「弱い者いじめをして恥かしくないのか!」
一同はふり返った。戸口のところにチェルトプハーノフが立っていた。亡くなった買い占め商人の四等親の甥《おい》に当るところから、彼も親族会議の招待状をもらったのである。遺言状を読んでいる間は、彼はいつものように尊大にかまえて、一座から離れていたのである。
「やめろ!」昂然と頭をのけ反《ぞ》らせて、彼は繰返した。
シュトッペリ氏がすばやくふり返って見ると、みすぼらしい身なりをした、みっともない男が立っているので、小声で隣の人にきいてみた(大事を取るにこしたことはないので)。
「あれは誰ですか?」
「チェルトプハーノフといって、大した男じゃありません」ときかれた方が耳打ちした。
ロスチスラフ・アダームイチは横柄にかまえた。
「そういう指図がましい口をきくあなたは誰です?」と彼は鼻にかかった声で言って、眼を細くした。「一体どこの椋鳥《むくどり》か、きかしてもらいましょう」
チェルトプハーノフは火のついた火薬のように燃えあがった。憤怒《ふんぬ》のあまり彼は息がとまりそうになった。
「ず、ず、ず、ず」と首でもしめられているような異様な音を出したと思ったら、不意に雷のような声でわめき立てた。「おれが誰だと? おれが誰だと? おれはパンテレイ・チェルトプハーノフだ、親代々の士族だ、おれの御先祖は皇帝陛下にお仕えしたんだぞ。貴様こそ何者だ?」
ロスチスラフ・アダームイチは蒼くなって一歩引き下がった。こんな反撃をくらおうとは思わなかったのである。
「わしはその、わしは、わしはその……」
チェルトプハーノフは恐ろしいけんまくで前に飛び出した。シュトッペリは肝《きも》をつぶして跳びのき、客たちはいきり立った地主をなだめに突進した。
「決闘だ、決闘だ、今すぐ刺し違えの決闘だ!」と激怒したパンテレイはわめきたてた。「それがいやならおれに謝れ、それからあれにもだ……」
「謝りなさい、謝っておしまいなさい」と驚いた相続人たちがシュトッペリを取り巻いてささやいた。「何しろあれは気違いのような男で、本当に殺しかねないんですから」
「失礼しました、失礼しました、ついお見それしまして」とシュトッペリはしどろもどろに言った。「ついお見それしまして……」
「あれにも謝れ!」とパンテレイはまだ腹の虫がおさまらず叫びたてた。
「あなたにも失礼しました」とロスチスラフ・アダームイチは、自分の方がかえって熱病にでもかかっているかのようにふるえているネドピュースキンの方を向いて附け加えた。
チェルトプハーノフはこれでようやく落ち着いて、チーホン・イワーヌイチの傍に近づき、彼の手を取って、不敵にあたりを見まわしたが、誰一人として彼をまともに見る者がなかったので、深い沈黙の中を意気揚々と、正当に手に入れたベスセレンジェーエフカの新しい地主とともに部屋を出た。
その日から二人はもはや二度と離れなかった(ベスセレンジェーエフカ村はベスソーノヴォからわずか八露里しか離れていなかった)。ネドピュースキンの限りない感謝の気持はまもなく、なんでも言いなりになる敬虔《けいけん》の念に変った。弱気で、柔和だけれどもさして高潔とは言いかねるチーホンは、物に動ぜず清廉潔白なパンテレイの言うことをなんでもきいた。「大したもんだ!」と彼は時折心の中で考える。「知事さんと話をするんでも、顔をまともに見るんだから……いや、もう、そのじっと見つめることったら!」
彼はいぶかしいほど、頭がぼうーっとなるくらいパンテレイに驚嘆し、彼を世にも珍しい、賢い、学のある人間だと思いこんでいた。まったくの話が、チェルトプハーノフの教育がどんなにお粗末なものであったにせよ、それでもやはり、チーホンの教育に較べれば、すばらしいものに思われたであろう。いかにも、チェルトプハーノフはロシア語で書いたものをあまり読まなかったし、フランス語も怪しいものだった。たとえば、あるときスイス人の家庭教師に「Vous parlez francais, monsieur?〔あなたはフランス語をお話しになりますか?〕」ときかれて、「|私わかりま《ジュ・ネ・ラズウメーユ》」と答え、しばらく考えてから、「|せん《パ》」と附け加えたほどである。が、とにもかくにも、ヴォルテールという機智に富んだ作者がかつてこの世にいたということや、プロシャのフリードリッヒ大王が武人として秀でていたということは覚えていた。ロシアの作家ではデルジャーヴィンを尊敬していたし、またマルリンスキイ〔一七九七―一八三七、本名ベストージェフ。ロシアの作家、デカブリスト〕が好きで、秘蔵の牡犬をアマラート・ベーク〔マルリンスキイの同名の作品の主人公の名。一八三二年作〕と名づけていた……
この二人の友人に初めて会ってから四五日して、私はベスソーノヴォ村のパンテレイ・エレメーイチのところへ出かけた。彼の小さな家は遠くから見えた。それは村から半露里ほど離れた、露《む》き出しの場所に、いわゆる『吹きさらしの高地』に、ちょうど畑におりたハゲタカのように立っていた。チェルトプハーノフの屋敷といっても大きさの違う老朽したあばらやが四棟あるきりだった。つまり離れと、厩《うまや》と、納屋《なや》と、湯殿である。それがめいめい自分勝手に、てんでんばらばらに立っていた。まわりに垣根もなければ、門も見当らなかった。私の馭者はけげんな顔をして、半ば腐って塵芥《じんかい》に埋まっている井戸の傍に馬車を停めた。納屋の傍ではやせた尨毛《むくげ》のボルゾイ犬の仔犬が数匹、死んだ馬を食い裂いている。きっとオルバッサンの死骸であろう。その一匹が血まみれの鼻面を上げて、気ぜわしく吠えたてたが、すぐまたあらわになった肋骨にかじりついた。馬のわきに年のころ十七ぐらいの、ふくれて黄色い顔をした若者が、コサックふうの上着を着て、裸足で立っていた。彼は監視を委ねられた犬どもを、もったいらしい様子で見守りながら、あまり食い意地の張ったやつに時折ピシリと鞭をくらわせていた。
「旦那はおいでかね?」私はたずねた。
「わかんねえ!」と若者が答えた。「戸をたたいてみなせえ」
私は馬車を跳び下りて、離れの昇降口に近づいた。
チェルトプハーノフ氏の住居はきわめてみじめな様子を見せていた。丸太は黒ずんで、『腹』を前方に突き出しているし、煙突は崩れ落ち、家の隅々は蒸《む》れ腐って、損《いた》んでいる。くすんだ藍色の小窓が、毛ばだち、垂れ下がった藁屋根の下から、言いようもないしかめ面をしてのぞいている。年とったいたずら女などが、よくこんな眼つきをしているものである。私は戸をたたいた。誰も返事をする者がいない。けれども戸の向うで鋭い調子でものを言っているのが聞える。
「アーズ、ブーキ、ヴェージ〔ロシア・アルファベットの古称。以下同じ〕。ええ、こいつ、馬鹿め」としゃがれ声が言った。「アーズ、ブーキ、ヴェージ、グラゴーリ……違う! グラゴーリ、ドブロー、お上がり! お上がり!……ええい、馬鹿め!」
私はもう一度、戸をたたいた。
すると同じ声が叫んだ。「お入り、誰だね?」
私はがらんとした小さな前室に入った。開け放してある扉の向うに、当のチェルトプハーノフの姿が見える。脂《あぶら》じみたブハラ織の部屋着を着て、ゆるいだぶだぶのズボンをはき、赤い丸帽をかぶって椅子に腰かけ、片手で幼い尨犬の鼻面を締めつけ、片手にパンを一きれ持って犬の鼻の真上にさしのべている。
「あ!」と威厳を保って、席から立ち上がろうともせずに彼は言った。「よくおいで下さいました。どうぞおかけ下さい。今、ヴェンゾールを仕込んでますんで……チーホン・イワーヌイチ」と彼は声を高めて言い足した。「こっちへ来てくれないか。お客さまがいらしたんだ」
「ただいま、ただいま」と隣の部屋からチーホン・イワーヌイチが答えた。「マーシャ、ネクタイを出しておくれ」
チェルトプハーノフはまたヴェンゾールの方を向いて、鼻の上にパン切れを載せた。私はあたりを見まわした。部屋の中には、長さがまちまちの脚が十三本ある繰り出しテーブルと、ぺしゃんこになった四つの籐椅子のほかには、何一つ家具がなかった。ずっと前に白く塗られた壁は、星のような形の青い汚点《しみ》ができ、あちこち剥げ落ちている。窓と窓の間にはマホガニーまがいの大きな枠《わく》にはまった、ひびの入った、曇った鏡がかかっていた。部屋の隅々には煙管《きせる》や鉄砲が立てかけてある。天井からは太い、黒々とした蜘蛛の糸が下がっていた。
「アーズ、ブーキ、ヴェージ、グラゴーリ、ドブロー」とチェルトプハーノフはゆっくり言ったが、不意に猛烈な声で叫んだ。「お上がり! お上がり! お上がり!……なんて馬鹿なやつだ!……お上がり!……」
けれども御難な犬はただぶるぶるふるえるばかりで、口を開けようとしなかった。しょんぼりと尻尾をまきこんで、相変らずじっと坐っている。そして、鼻面をゆがめて、うんざりしたように眼を細めたり、しばたたいたりしていた。ちょうど、『そりゃ、あなたの御勝手で!』と独り言を言っているみたいに。
「さあ、お上がり! かかれ!」と地主は屈することなく繰返した。
「おびえてるんですよ」と私は口を入れた。
「じゃ、追っぱらいましょう!」
彼は足で軽く犬を蹴《け》った。哀れな犬はそっと起き上がり、鼻の上からパンをふり落して、爪先だちでもして歩くように、すごすごと前室の方へ行ってしまった。それも無理はない。何しろ初対面の客の前で、こんな取扱《あしら》いをうけたのだから。
隣の部屋へ通じる扉が用心深くきしんで、ネドピュースキン氏が、愛想よく会釈しながらにこにこ顔で入ってきた。
私は立ち上がってお辞儀をした。
「どうぞそのまま、どうぞそのまま」と彼は口ごもった。
私たちは腰を下ろした。チェルトプハーノフは隣の部屋へ出て行った。
「ずっと前からこちらへおいででございますか?」とネドピュースキンは、つつましやかに手を口に当てがってオホンと咳をし、礼儀を重んじて唇の前に手をかざしながら、物柔らかな声で言い出した。
「足かけ二ヵ月になります」
「さようでございますか」
私たちはしばらく黙りこんだ。
「このところいいお天気がつづきまして」とネドピュースキンはとだえた話の穂をつぎながら、ありがたそうに私を見た。まるでお天気のいいのが私のおかげででもあるかのように。「穀類はすばらしい出来だそうでございますな」
私は同感のしるしにうなずいて見せた。またしばらく沈黙がつづく。
「バンテレイ・エレメーイチは咋日兎を二匹お仕とめになりましたよ」とネドピュースキンは、明らかに話を引き立たせようとして、やっとのことで口を切った。「さよう、とても大きな兎でございましたよ」
「チェルトプハーノフさんはいい犬をお持ちですか?」
「すばらしい犬をお持ちでございます!」我が意を得たりとばかりにネドピェースキンは答えた。「まず県内でも指折りでございましよう(彼は身体を乗り出してきた)。いや、無理もありません、パンテレイ・エレメーイチはそういうお方なんですから! お望みにさえなれば、こうしようとお考えになりさえすれば――もうちゃんと用意が出来て、何もかもずんずんはかどるんでございますよ。パンテレイ・エレメーイチは、その……」
チェルトプハーノフが部屋に入ってきた。ネドピュースキンはにっこり笑って、口をつぐみ、私に目くばせをした。『そら、いま御自分でおわかりになりますよ』とばかりに。私たちは猟の話を始めた。
「なんでしたら、うちの犬をお目にかけましょうか?」とチェルトプハーノフは私にたずねたが、返事を待たずに、カルプを呼んだ。
空色の襟に定紋《じょうもん》入りのボタンのついた、緑色の南京木綿《なんきんもめん》の長上衣《カフタン》を着た頑丈な若者が入って来た。
「フォームカに命じて」とチェルトプハーノフはとぎれとぎれに言った。「アマラートとサイガを連れて来させろ。きちんとさせてな、わかったか?」
カルプは大口を開いてにたりと笑い、なんともつかない声を出すと出て行った。髪をきれいになでつけ、身体にぴたりと合った着物を着て、長靴をはいたフォームカが犬をつれて現われた。私は体裁上、この馬鹿な動物に見惚れるふりをした(ボルゾイ種の犬はどれもこれもひどく馬鹿である)。チェルトプハーノフはアマラートの鼻の孔を目がけてペッと唾《つば》をかけてやったが、犬はちっともうれしそうじゃなかった。ネドピュースキンもアマラートを背後からなでてやった。私たちはまたしゃべり始めた。チェルトプハーノフは話しているうちにすっかりうちとけて、喧嘩腰になったり、鼻息を荒くしたりすることをやめた。彼の顔の表情は一変した。彼は私とネドピュースキンの顔をちらりと見た……
「なに!」と彼は出しぬけに叫んだ。「彼女《あれ》を独りぼっちにしておくことはない。マーシャ! おい、マーシャ! こっちへ来ないか」
誰か隣の部屋で動く気配がしたが、返事はなかった。
「マァーシャ」とチェルトプハーノフはやさしい声で繰返した。「こっちへおいで。なんでもないよ、怖《こわ》がらなくたって」
扉が静かに開いた。見れば年のころ二十ぐらいの女で、背が高く、すんなりしていて、ジプシー特有の浅黒い顔をしており、黄ばんだ鳶色《とびいろ》の眼に、タールのようにまっ黒な下げ髪をしている。大きな白い歯が豊かな赤い唇のかげで輝いている。彼女は白い着物を着ていた。襟もとを金色のピンで留めてある空色のショールが、か細い、生粋《きっすい》のジプシーらしい腕を半ばおおっている。彼女はいかにも野育ちの女らしく、おずおずと、きまり悪そうに二歩ばかり足を踏み出したと思うと、立ちどまって、下を向いた。
「では、御紹介します」とパンテレイ・エレメーイチは言った。「女房というわけでもありませんが、まあ女房と思って下さい」
マーシャはぽっと顔を赤らめて、当惑したように微笑《ほほえ》んだ。私はそっと頭を下げた。彼女は非常に私の気に入った。ほっそりとした高い鼻、開きかげんの半ば透き通っているような小鼻、秀でた眉のきりりとした輪廓、蒼白い、心持ち落ちくぼんでいる頬――こういった彼女の顔立ちはすべて、気ままな情熱と、こせこせしない大胆さを表わしている。括《くく》られた下げ髪の下から広い頸筋を、二筋の艶やかな後《おく》れ毛が生え下がっているのは――ジプシーの血と力を思わせる。
彼女は窓ぎわへ行って、腰を下ろした。私は彼女をこれ以上どぎまぎさせたくなかったので、チェルトプハーノフと話を始めた。マーシャはそっと首をねじ曲げて、上眼づかいに私を眺め始めた。こっそりと、野獣のように、すばやく。彼女の視線はまるで蛇の舌のようにしきりにちらちらした。ネドピュースキンが彼女の傍に坐って、何やら耳打ちをした。彼女は再び微笑《ほほえ》んだ。微笑みながら、そっと鼻にしわをよせて上唇を持ち上げたので、彼女の顔は猫とも、ライオンともつかない表情になった……
『ああ、「触れなば落ちん」風情だ』と今度はこっちが、彼女のしなやかな身体つきや、やせた胸や、ぎくしゃくしながらも、すばしこい身ぶりをそっと偸《ぬす》み見しながら考えた。
「どうだね、マーシャ」とチェルトプハーノフがきいた。「お客さまに何か御馳走しなくちゃなるまいが、え?」
「ジャムがありますわ」と彼女が答えた。
「それじゃ、ジャムを出してくれ、それからついでにウォートカもな。それからね、マーシャ」と後から追っかけて叫んだ。「ギターも持って来な」
「ギターをどうして? 私、歌わないわ」
「なぜ?」
「歌いたくないんですもの」
「ちぇっ、下らない、歌いたくなるだろうよ、もしも……」
「なんですって?」とマーシャは急に眉をひそめてきき返した。
「所望されたらさ」とチェルトプハーノフはいささかたじたじの態《てい》で言い足した。
「そう!」
彼女は出て行ったが、ジャムとウォートカを持ってすぐに戻って来ると、また窓ぎわに腰を下ろした。額にはまだしわが見えていた。左右の眉毛が黄蜂のひげのように上がったり、下がったりしている……あなたは、親愛なる読者よ、黄蜂がどんなに意地の悪い顔をしているかをご存じですか? 『さあ、一荒れ来るぞ』と私は思ったことである。話ははずまなかった。ネドピュースキンはすっかりおし黙って、作り笑いをしている。チェルトプハーノフは息をはずませ、まっ赤になり、眼をむき出している。私はそろそろ暇乞《いとまご》いをしようと思っていた……と、マーシャが急に立ち上がって、いきなり窓を開け、頭を外につき出して、憤然たる面持で通りすがりの百姓女に「アクシーニャ!」と呼びかけた。百姓女はびくっとして、ふり向こうとしたとたんに、思わず足をすべらせて、地べたにどうと倒れた。マーシャは後にそりかえって声高らかに笑い出した。チェルトプハーノフもまた笑い出し、ネドピュースキンは歓喜のあまり金切声を立てた。私たちは一せいに夢から覚めた思いだった。電光一閃にして嵐は過ぎ去り……空気は清められた。
半時間後の私たちは別人の観があった。私たちは子供のようにおしゃべりをしたり、ふざけたりした。マーシャが誰よりもはしゃいだ。チュルトプハーノフは食いいるようにじっと彼女を見つめていた。マーシャの顔は蒼ざめ、鼻の孔はひろがり、眸《ひとみ》は同時に燃え立ったり、暗くなったりした。野育ちの女が激しい気性を表わしたのだ。ネドピュースキンは雄ガモが雌ガモを追いかけるように、太くて短い足でよちよちと、びっこをひきひきマーシャの後をついていく。ヴェンゾールさえも前室の台の下から這い出して来て、しきいの上に立って、しばらく私たちを見ていたが、急に躍り上がって吠えだした。マーシャは急に隣の部屋へ跳び出して行ったが、ギターを持ってくると、ショールを肩からかなぐり捨て、すばやく腰を下ろし、頭を上げて、ジプシーの歌を歌いだした。その声は少しひびの入《い》ったガラスの鈴のようにキンキン響き、うちふるえ、急に燃え上がっては、しだいに消えていく……心は楽しくもあれば、不気味でもある。『ああ、燃えよ、語れよ!』チェルトプハーノフはとうとう踊りだした。ネドピュースキンは足踏みをはじめ、せかせかと小刻みに歩きだした。マーシャは火にくべたニレの木の皮のように、身体をすっかりくねらせる。細い指が非常な速さでギターの上を駈けまわり、浅黒い喉は二重にまきつけた琥珀《こはく》の頸飾りの下でおもむろにふくらむ。時には急に歌うのをやめて、ぐったりと腰を下ろし、いやいやながら弾いているように絃《いと》をつまびく。するとチェルトプハーノフは踊るのをやめて、一方の肩だけ軽く動かしながら、一つ所で足踏みをする。ネドピュースキンは瀬戸ものの中国人形のように首をふる。かと思うと彼女は再び気違いのように歌いはじめ、身体をしゃんと起こして、胸をはる。するとチェルトプハーノフはまたもや地べたに低くしゃがんだり、天井までも届けとばかりに跳び上がったり、独楽《こま》のようにくるくるまわったりして、「速く!」と叫ぶ……「速く、速く、速く、速く!」とネドピュースキンが相槌《あいづち》を打つ。
その晩おそく私はベスソーノヴォを引き上げた……
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チェルトプハーノフの最後
一
私がパンテレイ・エレメーイチを訪ねてから二年ほどして、彼の身に災難が――まさしく災難が始まった。それまでも彼の身には、不如意、失敗さては不運さえも何度か起こった。しかし彼はそんなことは気にもとめないで、相変らず『王者のごとくふるまっていた』。ところが彼に深刻な衝撃を与えた最初の災難は、何よりも身にこたえるものであった。マーシャが彼のもとを去ったのである。
あんなによく慣れているみたいだった彼の家を、どうして彼女が見捨てる気になったのかは――一言にしては言い難い。チェルトプハーノフは生涯の最後の日まで、ヤッフというあだ名の近所の若い退職|槍騎兵《そうきへい》大尉が、マーシャの変心の原因だと思いこんでいた。パンテレイ・エレメーイチに言わせるとヤッフは、絶えず口髭をひねったり、ポマードをごてごてとつけたり、意味ありげに『ふん』と言ったりすることだけで、マーシャの気に入ったのだという。しかし、この場合はむしろ、マーシャの血管を流れているジプシーの放浪性の血が作用したものと考えるべきであろう。何はともあれ、ある夏の晩、マーシャは身のまわりのものを小さな風呂敷に包んで、チェルトプハーノフの家を出て行ったのである。
その前の三日ばかりというものマーシャは、手負いの狐のように身を縮め、壁にぴたりと身をよせて、部屋の隅に坐っていた。そして誰にも一言も口をきかないで、ただしじゅう眼をキョトキョトさせたり、物思いに沈んだり、眉をピクピクさせたり、そっと歯を剥《む》き出したり、着物でも身にまとうかのように両手をすばやく上下に動かしたりしていた。こんな『気分』におそわれることは前にもあったが、けっして永くつづくことはなかった。チェルトプハーノフはそれを知っていたので、自分も心配をしなかったし、マーシャの邪魔もしなかった。ところが、猟犬番《いぬばん》の言葉によると、最後まで生き残った二匹の猟犬が『往生した』犬小屋から帰って来ると、女中にばったり出会った。女中はふるえ声で、マリヤ・アキンフィエヴナ様が旦那様にくれぐれもよろしく申してくれとお言いつけになり、どうぞ御機嫌よくお暮しなさいますよう、自分はもうここへ帰って来ないからとそう申し上げておくれ、と言い残して家を出て行ったと上申した。それを聞いてチェルトプハーノフはその場で二度ほどぐるぐるまわって、しゃがれたうなり声を上げたかと思うと、すぐさま家出をした女の後を追いかけた――それもついでにピストルを持って行くことを忘れなかった。
彼は自分の家から二露里ほど離れた、郡役所のある町へ通じる街道すじの、白樺林のわきで彼女に追いついた。折しも太陽は地平線の上に低くかかっていたが、――そのときあたり一面はにわかにぱっと茜《あかね》色に染め出された。樹も、車も、大地も。
「ヤッフのところへ行くんだな! ヤッフのところへ!」とチェルトプハーノフはマーシャの姿を認めるが早いか、うめくように言った。「ヤッフのところだな!」と彼女を追いかけながら、一足ごとにあぶなく前にのめりそうになって彼は繰返した。
マーシャは立ちどまって、彼の方をふり向いた。彼女は光を背にして立っているので――黒い木で彫刻されたもののように、全身まっ黒に見えた。ただ白眼だけが銀色のアーモンドのようにくっきりと浮き出していたが、眼そのもの――眸《ひとみ》――はなお一そう黒ずんで見えた。
彼女は風呂敷包みをわきの方に放り出して腕組みをした。
「ヤッフのところへ行く気だな、この浮気もの!」とチェルトプハーノフは繰返して、女の肩をつかまえようとしたが、女と視線がかち合うと、思わずたじたじとなってその場に立ちすくんでしまった。
「ヤッフさんのところへなんか行くんじゃありませんわ、パンテレイ・エレメーイチ」と彼女は落ち着きはらって静かに答えた。「ただあなたとはもう一しょにいられなくなったの」
「どうしていられないんだ? どうしてだ? おれが何かお前の気に障《さわ》ることでもしたというのか?」
マーシャは首を振った。
「あなたは私の気に障ることなんか何もなさらなくってよ、パンテレイ・エレメーイチ。ただ私、あなたのところにいるのが退屈になったの……これまでのことはお礼を申しますが、残ることはできないわ――どうしても!」
チェルトプハーノフはびっくりした。彼は両手で股《もも》をピシャリとたたいて、跳び上ったほどである。
「そりゃまたどうしてだ? ずっと一しょに暮してきて、何一つ不自由な目も、心配もさせなかったものを――今さら急に退屈になったも、愛想をつかしたもないもんだ! いきなりスカーフをかぶって――家をとび出すなんて。奥様にも負けないくらい大事にしてやったのに……」
「そんなことはしてもらわなくてもいいんだわ」とマーシャはさえぎった。
「なに、してもらわなくてもいいんだと? 宿なしのジプシー女から奥様に取り立ててもらったくせに――してもらわなくていいとな? よくも言ったな、このげす女め! そんなことを誰が本当にするものか? 心変りしたのを隠してるんだ。そうだ心変りだとも!」
彼はまたもやシューシュー言いはじめた。
「心変りだなんてこれまで考えたこともないし、今だって考えてやしないわ」とマーシャは歌うようなはきはきした声で言った。「私、あなたに言ったでしょ、お宅にいるのがいやになったんだって」
「マーシャ!」とチェルトプハーノフは叫んで、自分の胸を拳固でどんと打った。「さあ、もう止《や》めてくれ、たくさんだ、身にしみたよ……いや、もう結構だとも! まったく! チーシャ〔チーホンの愛称〕がなんて言うか、考えてみておくれ。あれだってかわいそうじゃないか!」
「チーホン・イワーヌイチにはどうかよろしく、それからあの人にこう伝えて下さい……」
チェルトプハーノフは両手を振り上げた。
「いや、嘘だ――行かせるもんか! 手前《てめえ》のヤッフになんかおめおめと渡さんぞ!」
「ヤッフさんは」とマーシャが言いかける……
「へん、何が≪ヤッフさん≫だい」とチェルトプハーノフは口まねをして、「あいつはまったくの海千山千だ、ずるいやつだ、面《つら》さえ猿みたいじゃないか!」
まる半時間もチェルトプハーノフはマーシャと押し問答をした。女の傍へ寄りそったり、跳びのいたり、手を振り上げたり、低く頭を下げたり、泣いたり、罵《ののし》ったりした……
「駄目だわ」とマーシャは繰返した。「私、とても憂欝なの……気がくさくさしてしようがないわ」しだいに彼女の顔が、一向に気のない、ほとんど寝ぼけたような表情になってきたので、チェルトプハーノフは彼女に、マンダラゲでも飲まされたんじゃないか、ときいたくらいだった。
「ふさいでいるのよ」彼女は十ぺんも繰返した。
「じゃ、おれがお前を殺したらどうする?」と彼は不意に叫んでポケットからピストルをつかみ出した。
マーシャはにっこり笑った。その顔は急に生き生きとしてきた。
「いいじゃない? 殺してちょうだい、パンテレイ・エレメーイチ。どうぞ御随意に。でも私、帰れったって帰りゃしないわ」
「帰らないと?」とチェルトプハーノフは撃鉄《ひきがね》を上げた。
「帰りませんよ、あなた。命にかけても帰らないわ。一たん言い出したからには、後へひきやしないから」
チェルトプハーノフはいきなり彼女の手にピストルを握らせて、地べたに坐った。
「さあ、そんなら≪お前が≫おれを殺してくれ! お前がいなくては生きているかいがない。お前に愛想をつかされたんで――何もかもいやになったんだ」
マーシャは身をかがめ、自分の風呂敷包みを取り上げ、銃口をチェルトプハーノフのいない方に向けてピストルを草の上におき、彼の傍へ寄った。
「しようのない人ね、何をそんなにくよくよするの? 私たちジプシー女がどんなものかご存じなくって? これがジプシー気質《かたぎ》よ、私たちの習慣よ。二人の仲を割《さ》くふさぎの虫が取りついて、どこか遠い国へ心を誘い出すようになると――じっとしていられるもんですか? マーシャを忘れないでちょうだい、――私みたいにいい女はほかにいなくってよ――私もあなたを忘れやしないわ。でも私とあなたとの暮しはこれでおしまいよ!」
「おれはお前を可愛がってやったよ、マーシャ」とチェルトプハーノフは、顔をおおっている指の中でつぶやいた……
「私だってあなたを可愛がって上げたわ、パンテレイ・エレメーイチ!」
「おれはお前を可愛がったし、今でも夢中で、首ったけで愛している――それだのにお前がこうして、いわれ因縁《いんねん》もなしに、おれを棄てて世間を渡り歩こうとしていることを考えると――このおれがみじめな素寒貧《すかんぴん》でなかったら、お前もおれを見棄てやしなかったろうという気になるよ!」
これを聞いてマーシャはただにやりと笑っただけであった。
「何さ、私のことを慾のない女だなんて言ったくせに!」そう言って彼女は、力一ぱいチェルトプハーノフの肩をたたいた。
彼は急に跳び上がった。
「まあ、せめて金だけでも持ってってくれ――まさか一文なしでも困るだろう? しかしそれよりも、おれを殺してくれ! はっきり言う、ひと思いにおれを殺してくれ!」
マーシャはまたかぶりを振った。
「あなたを殺せって? シベリヤヘは、あなた、何をすると流されるんでしたっけ?」
チェルトプハーノフはびくりと身ぶるいした。
「それじゃお前は、ただそれだけで、流刑がこわいだけで……」
彼はまたもや草の上に倒れた。
マーシャは彼を見下ろしながら、黙って立っていた。「私、あなたがかわいそうだわ、パンテレイ・エレメーイチ」と彼女は溜息をつきながら言った。「あなたはいい人だもの……でも仕方がないわ。さようなら!」
彼女は身をひるがえして二足《ふたあし》ばかり歩いた。もう夜が訪れて、ほの暗い影がどこからもここからも忍びよっていた。チェルトプハーノフはすばやく起き上がって、後からマーシャの両肱をつかまえた。
「じゃ、どうしてもお前は行くんだな、蛇《へび》め? ヤッフのところへ!」
「さようなら!」とマーシャは感情をこめて、きっぱりと繰返すと、身をふりほどいて、歩き出した。
チェルトプハーノフは彼女の後姿を見送っていたが、ピストルの置いてあったところへ走りよって、それをひっつかみ、狙いを定めて、ぶっ放した……けれども撃鉄《げきてつ》のバネを握りしめないうちに、手が上に引きつってしまった。弾丸《たま》はマーシャの頭上をうなりをあげて飛びすぎた。彼女は歩きながらふり返って彼を見たが、まるでからかうかのように、身体をよたよたゆすぶりながら、ずんずん歩いて行った。
彼は顔をおおった――そして一目散に駈けだした。
けれども五十歩と走らないうちに、不意に、釘づけにされたように立ちどまった。聞き馴れた、あまりにもよく聞き馴れた声が耳に聞えてきたのである。マーシャが歌を歌っている。『うるわしの若き日よ』と彼女は歌っていた。一つ一つの歌の響きが流れるように夕空にひろがっていった――訴えるかのように、切々の情をこめて。チェルトプハーノフはじっと耳を傾けた。声はしだいに遠ざかって行く。やっと聞き取れるぐらいのかすかな声が、消えたかと思うとまた聞えてくる、燃えるような情熱をなおもただよわせながら……
『おれに面《つら》当てにやっている』とチェルトプハーノフは思ったが、すぐにまたうめくように言った。『ああ、そうじゃない。あれはおれに永久の別れを告げているのだ』そしてはらはらと涙を流した。
――――――
翌日彼はヤッフ氏の住居にやって来た。ヤッフ氏は正真正銘の社交界人士なので、田舎の淋しい独身生活をいとい、彼の言葉をかりると『少しでも令嬢たちの傍がよい』とて、郡役所のある町に住んでいた。チェルトプハーノフはヤッフに会えなかった。侍僕《じぼく》の言うところでは、前日モスクワに発《た》ったとのことである。
「やっぱりそうだ!」チェルトプハーノフは憤然として叫んだ。「しめし合わしていたんだ。二人で駈け落ちしたのだ……だが待てよ!」
彼は侍僕のとめるのも聞かないで、若い騎兵大尉の居間に押し入った。居間の長椅子の上には、槍騎兵の制服を着た主《あるじ》の、油絵の肖像画がかかっていた。「ああ、貴様はここにいやがったのか、尾なし猿め!」とチェルトプハーノフは大声でわめいて、長椅子の上に跳び上がり――ぴんと張ってある画布《キャンヴァス》に拳固を一つくらわせて、大きな穴をあけてしまった。
「貴様ののらくら旦那にそう言え」と彼は侍僕に向って言った。「御当人のしゃっ面《つら》が見当らないので、士族のチェルトプハーノフが、絵に描いた面《つら》をおっぴしゃげていったとな。もし決闘を申しこもうというんだったら、チェルトプハーノフの居所は知っているはずだ! 知らなきゃこっちが教えてやらあ! 海の底へ逃げ隠れたって卑劣な猿めを探しだしてやるぞ!」
チェルトプハーノフはこう言うと、長椅子から跳び下りて、意気揚々と引きあげた。
しかし、騎兵大尉ヤッフは一向に決闘なんか申しこまなかったし――彼とチェルトプハーノフはどこへ行っても顔が合わなかった――、チュルトプハーノフも強いて自分の敵を探しだそうとは思わなかったので、ついに何事も起らずにすんだ。その後まもなくマーシャは行方《ゆくえ》知れずになった。チェルトプハーノフは自棄酒《やけざけ》を飲み出したが、やがて『われに返った』。ところがこのとき、彼は第二の災難におそわれた。
二
それはほかでもない。彼の親友チーホン・イワーノヴィチ・ネドピュースキンが亡くなったのである。亡くなる二年ほど前から身体がいうことをきかなくなっていた。喘息《ぜんそく》に悩まされるようになり、たえず眠りこんで、目を覚ましても、すぐにはわれに返ることができなかった。郡の医者は『中風』のなりかけだと言っていた。マーシャが家出をする前の三日間、つまりマーシャが『ふさぎの虫に取りつかれた』あの三日間というもの、ネドピュースキンは自分の持ち村のベスセレンジェーエフカで寝ていた。彼はひどい風邪をひきこんだのである。それだけにマーシャの仕打ちは一そう思いがけなく彼をびっくりさせた。当のチェルトプハーノフと同じぐらい深刻なショックを受けたのである。彼はおとなしい臆病な性格だったので、自分の友だちに対するやさしい同情と病的な疑惑のほかは、何一つ表わさなかった……けれども彼の内部で何もかもが破られてしまい、弱りはててしまったのである。「彼女《あれ》は私の魂をぬき取ってしまった」と彼はわれとわが耳にささやいた。自分の好きな油布製《オイル・スキン》の長椅子に腰かけて、指をいじりまわしながら。チェルトプハーノフが元通りになったときでさえ、ネドピュースキンは元通りになることができず――『心の中が空っぽ』だという感じを持ちつづけた。「ほら、ここのところが」と、胸のまん中ほどの、胃の少し上のところを指さして彼は言ったものである。こんな具合で冬まで持ちこたえた。霜の降りるころになって喘息は楽になったが、そのかわりに今度は軽い中風でなく、本ものの中風に見舞われた。もっとも、すぐに意識を失ったわけではなかった。彼はまだチェルトプハーノフの顔の見さかいもつき、「本当に、どうしたんだね、チーシャ、許しもしないのにおれに先立つつもりかい、それじゃマーシャよりもひどいじゃないか?」という親友の絶望的な叫びに答えて、「でも、わしは、パ……ア……セ……イ・エ……エ……イチ、い……つ……も……ああたの……いうこと……き……いた……だ」とこわばった舌で返事をしたくらいである。といっても、それは、彼が郡の医者の来るのを待たず、その日のうちに死んでしまうことを妨げなかった。医者はまだ冷たくなりきらない身体を見て、すべて地上のもののはかないのに身をつまされて、ただ『チョウザメの燻製《くんせい》にウォートカ』を所望するほかに仕方がなかった。チーホン・イワーノヴィチは遺言によって自分の領地を、当然予期されていたように、自分の最も尊敬する恩人であり、大様な保護者であった『パンテレイ・エレメーイチ・チェルトプハーノフ殿』に譲った。しかしそれは最も尊敬する恩人に大きな利益をもたらさなかった。というのは、領地がまもなく競売に附されたからで、その一部は墓石だとか、チェルトプハーノフが(彼は明らかに父親の気質を受けついだらしい!)亡友の亡骸《なきがら》の上に建てようと思いついた彫像の費用に当てられたからである。祈れる天使を表わすべきこの彫像を、彼はモスクワに注文した。ところが彼に紹介されたブローカーは、どうせ田舎には彫刻のわかる者などたんとはおるまいと考えて、天使のかわりにフローラの女神を送ってよこした。これはエカチェリナ朝時代の、今は見るかげもないモスクワ近郊の庭園の一つを多年飾っていたものである。といっても、幸いとこの彫像は、むっちりした腕、ふわりとふくれた捲き毛、あらわな胸の上にあるバラの花環、くねらせた身体つき、といったロココふうのきわめて優美なものであったが、それがただでブローカーの手に入ったのである。そんなわけで今なおこの神話の女神は、片足をしとやかに持ち上げて、チーホン・イワーノヴィチの墓の上に立っている。そしていかにもあだっぽい身ぶりで、あたりをさまよい歩く仔牛や羊の群れを、これら村の墓場の御常連を見守っている。
三
親友を失ってから、チェルトプハーノフはまた酒を飲みだしたが、今度は前よりもずっと始末が悪かった。事態はまったく下り坂になった。猟をするにも獲物はなし、なけなしの金はすってしまうし、最後まで残っていた召使たちもちりぢりに逃げだした。パンテレイ・エレメーイチはまったく独りぼっちになってしまった。自分の胸の中を打明けるはおろか、話し合う者さえいなくなったのである。ただ自負心だけは少しも衰えなかった。それどころか、事態が悪くなればなるほど、ますます傲慢になり、横柄になって、傍へもよりつけないようになっていった。彼はしまいにはまったく野人《やじん》となってしまった。ただ一つの慰め、ただ一つの喜びだけが残っていた。それはドン種の、灰色の毛並みをしたすばらしい乗用馬で、彼はこの馬にマレク=アデリという名をつけていたが、実際に見事な馬であった。
この馬が彼の手に入ったしだいはこうである。
あるときチュルトプハーノフが馬に乗って隣村を通りかかると、居酒屋のあたりに百姓が多勢集まって、大きな声をはり上げて、わめき立てているのが聞えた。この人ごみのまん中では、同じ場所を、頑丈な腕が絶えず上がったり、下がったりしていた。
「あれは一体、何事だ?」とチェルトプハーノフは、持ち前の命令するような調子で、自分の家の敷居の傍に立っている百姓婆さんにたずねた。
婆さんは入口の柱にもたれて、居眠りでもしているかのように、時折居酒屋の方を眺めていた。更紗《さらさ》のルバーシカを着て、糸杉で作った十字架をむき出しの胸にぶらさげた、白っぽい頭の男の子が、両足を拡げ、小さな拳をにぎりしめて、婆さんの草鞋《わらじ》の間に坐っていた。すぐ傍では雛《ひよ》っ子が一羽、コチコチになった黒パンの皮に孔をあけていた。
「知りませんよ、旦那様」と婆さんは答えた、――それから、前|屈《かが》みになって、自分のしわだらけの黒い手を男の子の頭の上に載せた。「なんでも、村の若い者《もん》がユダヤ人をなぐってるだとか」
「ユダヤ人だって? どこのユダヤ人だい?」
「知りませんがな、旦那様。どこかのユダヤ人がこの村へひょっこり現われたんで。どこから来たか――わかるもんですか? ワーシャ、お前、おっ母あのところへ行くだ。しっ、しっ、ちきしょう!」
婆さんは雛《ひよ》っ子をおどかして追っぱらった。ワーシャは婆さんの手織のスカートにつかまった。
「そういうわけでなぐられていますんで、旦那様」
「どうしてなぐられているんだ? 何をしたというんだ?」
「知りましねえ、旦那様。つまり、何かしたんでしょう。でも、どうしてぶっちゃいけないんで? ユダヤ人は、旦那様、キリスト様を礫刑《はりつけ》にしたじゃありませんか!」
チェルトプハーノフは一声高く叫んで、馬の頸筋に一鞭くれると、群集目がけてまっしぐらに馬を飛ばした――そして、その中に割って入ると、同じ鞭で左右の百姓たちを誰彼の見さかいなしに打ちのめし、切れ切れの声でこう言った。「勝手なことを……しちゃいかん! 勝手なことを……しちゃいかん! 処罰するのは法律がやるんだ、個人のやる……ことじゃ……ないぞ! 法律だ! 法律だ! 法…律…だ!」
二分と経たないうちに、早くも群集は四方八方に散らばった――そして居酒屋の戸口の前の地べたには、南京木綿の長上衣《カフタン》を着た小さな、やせぎすの、浅黒い顔の男が、髪をばらばらに振り乱し、精魂つきはててのびている……蒼ざめた顔、ぎょろりとなった眼、開いた口……どうしたのだろう? 恐怖で気絶したのか、それとももう死んでしまったのか?
「お前たちはなんだってユダヤ人を殺したんだ?」とチェルトプハーノフは、おどしつけるように鞭を振りまわしながら、大音声で叫んだ。
群集はそれに応じてぶつぶつ言いはじめた。ある百姓は肩を、ある者は脇腹を、ある者は鼻をさすっていた。
「喧嘩は身体の薬よ!」と後《うしろ》の方で言う声がした。
「鞭を持ってるんだもん! あれなら誰だってできらあ!」と別の声が言った。
「ユダヤ人をなぜ殺したときいてるんだ、この物知らずのアジヤ人ども!」チェルトプハーノフはもう一度繰返した。
ところがこのとき、地べたに横たわっていた生き物がひょっくり跳び起きて、チェルトプハーノフの後に駈けより、死物狂いで鞍《くら》の端にしがみついた。
群集の間にどっという笑い声が起った。
「生きてやがる!」とまた後の列で声がした。「まるで猫よ!」
「旦那様、どうかかばって下さい、お助け下さいまし!」とその間に哀れなユダヤ人は、チェルトプハーノフの片足に自分の胸をぴたりとくっつけて、まわらない舌で言った。「さもないとあの連中は殺してしまいます、あっしを殺してしまいます、旦那様!」
「なんでお前を殺すんだ?」とチェルトプハーノフはたずねた。
「それが、まったく、わからないんです!――なんでもこの村の家畜が死にだしたとかで……それであっしが怪しいってんです……けれども、あっしは……」
「いや、そんなことは後で調べる!」とチェルトプハーノフはさえぎった。「今は鞍につかまって、わしの後からついて来い。おい、貴様ら!」と彼は群集の方に向って附け加えた。「貴様らはおれを知っているか?――おれは地主のパンテレイ・チェルトプハーノフだ、ベスソーノヴォに住んでいる、――さあ、それで、訴えたきゃ、訴えろ、ついでにユダヤ人もな!」
「なんで訴え出ることがありましょう」と白い顎髯を生やした、落ち着きのある、昔の長老そっくりの百姓がうやうやしく頭を下げながら言った(そのくせ彼はユダヤ人を、他の連中に負けないくらいぶん殴ったのであった)。私どもは、パンテレイ・エレメーイチ様、あなた様をよく存じ上げております。お教えいただきまして、御親切まことにありがとう存じます!」
「なんで訴え出ることがありましょう!」と他の連中も相槌を打った。「でも、あの人でなしに貸してある分は、いずれ片をつけまさあ! 逃がすもんか! おらたちはあいつを、野っ原の兎みてえに……」
チェルトプハーノフは口髭をひくひく動かして、鼻を鳴らした――そして、いつかチーホン・ネドピュースキンを救い出したときと同じやり口で、迫害者の手から無事に救い出してやったユダヤ人を引き連れて、ゆうゆうと自分の村に引きあげた。
四
それから数日経って、チェルトプハーノフの家にただ一人だけ残っているボーイが、誰やら馬に乗った人がやって来て、旦那様とお話ししたいと言っています、と取り次いだ。チェルトプハーノフが昇降口に出て見ると、それはこの前のユダヤ人で、すばらしいドン種の馬に跨《またが》がっていた。馬は身動きもせず、誇らかに庭のまん中に立っていた。ユダヤ人は帽子をかぶっていなかった。彼は帽子を小脇にかかえ、足も鐙《あぶみ》にかけないで、鐙の吊り革に通している。ぼろぼろに破れた長上衣《カフタン》の裾が鞍の両側から垂れ下がっていた。チェルトプハーノフの姿を見ると、チュッと舌打ちをして、両肱を張り、足をぶらぶらさせた。けれどもチェルトプハーノフは彼の挨拶に答えなかったばかりではない、かえって腹を立てた。彼は急にまっ赤になって怒りだしたのである。穢《けが》らわしいユダヤ人が臆面もなくこんな立派な馬に乗っているなんて……無礼千万だ!
「やい、こら、エチオピヤのしゃっ面め!」と彼はどなった。「泥の中に引きずり下ろされたくなかったら、さっさと下りるがいい!」
ユダヤ人はさっそく言われた通りに、袋のようなかっこうで鞍から転げ落ちた。そして片手で手綱を取ったまま、にこにことお辞儀をしながらチェルトプハーノフの傍へよった。
「なんの用だ?」とパンテレイ・エレメーイチはもったいぶってたずねた。
「旦那様、ご覧下さいまし、この馬はどうでしょう?」とのべつぺこぺこしながらユダヤ人は言った。
「ん……なるほど……いい馬だ。貴様、どこから手に入れた? きっと、盗んだんだろう?」
「とんでもない、旦那様! あっしは正直なユダヤ人ですもの、盗んだんじゃありません、旦那様のために手に入れたんでございますよ、ほんとに! そりゃ、ずいぶんと骨を折りました! そのかわり、どうです、この馬は! ドン地方じゅう探したって、こんな馬は見つかりませんよ。ご覧下さい、旦那様、なんてすばらしい馬でがしょう! さあ、どうぞこちらへ! どうどう……どうどう……さあ、向きを変えて、横になった! 鞍をはずしてみましょうか。どうです! え、旦那様?」
「いい馬だ」とチェルトプハーノフはわざと平静を装って繰返したが、胸の中ではたちまち心臓が早鐘《はやがね》を打ちだした。彼は熱心な『馬匹』愛好家だったので、馬のよしあしを知っていた。
「まあ、旦那様、一つなでてみなされ! 頸筋をなでてみなされ、ひ、ひ、ひ! こんなふうに」
チェルトプハーノフはあまり気の進まないような顔をして、馬の頸に片手を載《の》せ、トントンと二度ばかり軽くたたき、それから指で≪き甲≫〔馬の肩骨間の隆起〕から背中の方をなでていき、腎臓の上の急所まで来ると、いかにも通人らしく、そっとそこをおさえた。馬はすかさず背骨を湾曲させ、高慢ちきな黒い眼でチェルトプハーノフを横目でふり向き、鼻を鳴らして、前足を踏みかえた。
ユダヤ人は笑い出して軽く手をたたいた。
「御主人だってことがわかるんですよ、旦那様、御主人だってことが!」
「ふん、嘘をつけ」とチェルトプハーノフはいまいましげにさえぎった。「貴様からこの馬を買おうにも……金はなし、ただの贈り物はユダヤ人はおろか、神様からだってもらったことがないんだ!」
「あっしが旦那にただでさし上げるなんて、とんでもない!」とユダヤ人は叫んだ。「旦那様、お買いになって下さい……お金はお待ちしますから」
チェルトプハーノフは考えこんだ。
「いくらだ?」と、とうとう、歯の間から押し出すような口調で言った。
ユダヤ人は肩をすくめた。
「買い値で結構です。二百ルーブリ」
馬は言い値の二倍――もしかしたら三倍の値打があった。
チェルトプハーノフは脇を向いて、熱病やみのような欠伸《あくび》をした。
「で、金は……いつだ?」と無理に眉をしかめて、ユダヤ人の方を見ないようにして彼はきいた。
「旦那様の御都合のおよろしいときに」
チェルトプハーノフは頭を後にそらしたが、眼は上げなかった。
「それじゃ返事にならんわい。貴様、はっきり言わんか、ヘロデ王〔キリスト誕生時代のユダヤ王、暴君〕の子孫め!――おれが貴様に、借金することにでもなるのかい?」
「では、こうしましょう」と急いでユダヤ人が言った。「六ヵ月後……よろしゅうございますか?」
チェルトプハーノフはなんとも答えなかった。
ユダヤ人は彼の顔色を読もうとした。「それでよろしいんで? 厩《うまや》にお入れしましょうか?」
「鞍はいらん」とチェルトプハーノフがぶっきらぼうに言った。「鞍は持っていけ――わかったか?」
「もちろん、もちろん、持って行きますとも、持って行きますとも」と喜んだユダヤ人はまわらぬ舌で言って、鞍を肩にかついだ。
「で、金は」とチェルトプハーノフはつづけた。「六ヵ月後だ。それも二百ルーブリじゃなしに、二百五十ルーブリ払うぞ。黙ってろ。二百五十ルーブリだといったら! それだけおれの借りだ」
チェルトプハーノフはなおも眼をあげる決心がつかなかった。自負心がこんなに強く悩んだことは一度もなかった。『ただでくれるつもりなのは、見え透いている』と彼は思った。『お礼のつもりで、畜生、持って来たんだ!』そして彼はこのユダヤ人を抱きしめてやりたくも思えば、ぶんなぐってやりたくも思った……
「旦那様」とユダヤ人は元気づいて、歯を見せて笑いながら言いだした。「ロシア流に裾から裾へとお渡ししなくては……」
「こりゃまた、何を言いだすかと思えば? ユダヤ人のくせに……ロシア流だと! おい! 誰かおらんか? 馬を受取って、厩へ連れて行け。それから燕麦《えんばく》をやってな。今すぐおれが行って、見るから。それから、いいか、馬の名前はマレク・アデリだぞ!」
チェルトプハーノフは昇降口を登りかけたが、くるりとまわれ右をして、ユダヤ人の傍へ駈けより、彼の手をきゅっと握りしめた。ユダヤ人は身を屈《かが》めて、さっそく唇をつき出したが、チェルトプハーノフはやにわに後へ跳びのいて、小声で言った。『誰にも言うな!』そして戸のかげに姿を消した。
五
その日からというもの、チェルトプハーノフの生活における主な仕事、主な心遣いや喜びとなったのはマレク・アデリであった。あのマーシャでさえそんなには愛さなかったほど、この馬にぞっこん打ちこみ、ネドピュースキン以上にこの馬に愛着を感じるにいたった。それにこの馬のすばらしいことといったら! 火、まさしく火であり、火薬であるというほかはない――しかもその堂々として落ち着いている様《さま》は、昔の貴族さながらであった! どこを引きまわしても、疲れを知らず、根気強く、従順である。飼うにも金がかからない。ほかに何も食うものがないと、足もとの土でもかじっている。並足で行くときは両手に抱かれているようだ。諾足《だくあし》だと――揺りかごでゆられているようだし、疾駆すれば、風も追いつけないほどである! 息切れなどはすることがない。なぜなら――通気口が多いからで。足は――鋼鉄だ。つまずいたことなど――一度だってそのためしがありゃしない! 壕《ほり》にせよ、柵《さく》にせよ、跳び越すのは平気である。それに利口なことといったら! 主人の声を聞くと、頭を持ち上げて駈けて来る。じっと立っているように命じて、主人が傍を離れても、勝手に動きだすようなことがない。主人が引き返して来るが早いか、『私はここにおりますよ』とばかりに、かすかに嘶《いなな》きはじめる。それに何ものも恐れない。まっ暗闇でも、吹雪でもちゃんと道を見つけ出す。ところが他人《ひと》の言うままにはけっしてならないで、歯をむいて噛《か》みつこうとする。犬さえ傍に寄せつけない。うっかり寄ろうものなら、すぐに前足で額に――ポカリ! たちまち絶命とくる。気位の高い馬で、鞭をお体裁に振って見せるのはいいが、身体に触れようものなら大変だ! いや、もう長々と説明するには及ぶまい。これこそまったく宝物であって、ありきたりの馬ではない!
チェルトプハーノフがマレク・アデリの自慢話を始めようものなら、話は滔々《とうとう》として尽きるところを知らなかった! それにしても彼の世話のやき方、可愛がりようといったら! 毛並みは銀色を――それも古い銀色ではなく、黒ずんだ光沢のある、新しい銀色を帯《お》びていた。掌でなでてみると、それこそビロードのようだ! 鞍、鞍褥《あんじょく》、くつわ――馬具一式が馬の身体にピタリと合い、整備され、きれいに掃除されているので、鉛筆を取り出して、絵姿を残しておきたいほどである! チェルトプハーノフは――この上何ができよう?――手ずから愛馬の総毛《ふさげ》も編んでやれば、たてがみや尻尾をビールで洗ってやりもし、蹄にさえも一度ならず軟膏《なんこう》を塗ってやった……
彼はよくマレク・アデリに跨《また》がって遠出をして――近所の地主たちをまわるのではない、彼は相変らずその連中と付き合っていなかった――よその畑を通り、屋敷の傍を通りすぎる……『さあ、遠くから見惚《みと》れるがいいぜ、馬鹿者ども!』というわけだ。もしまた、どこかに猟の一隊が現われた――富裕な地主が遠出の猟に出かけるところだ――などいうことを聞きこもうものなら、――さっそくそこへ出かけて行き、遠い地平線のあたりで手並み鮮やかに馬を走らせ、馬の美しさと速さとで、見る人ことごとくを驚嘆させるけれども、誰も傍へは近寄らせない。あるときどこかの猟人が、供の者一同を従えて彼の後を追跡した。チェルトプハーノフが遠ざかって行くのを見て、彼は全速力で飛ばしながら、声をふりしぼって呼びかけた。「おーい、君! 聞いてくれ! 幾らでも出すから、その馬を譲ってくれ! 千ルーブリ出してもよい! 女房も、子供もくれてやる! かまどの灰までもくれてやる!」
チェルトプハーノフは急にマレク・アデリをピタリととめた。猟人が傍に乗りつけた。
「ねえ、君!」と大きな声で言う。「何がほしいか言ってくれ。頼む!」
「もし君が王様で」とチェルトプハーノフはおもむろに言った(ところが彼は生れてこのかた、シェークスピヤの話など聞いたこともないのである)。「この馬のかわりに王国全部をおれにくれると言ったって――この話はお断りだ!」〔シェークスピヤの『リチャード三世』に、リチャード王が、『馬を! 馬を! 余の玉座を馬と代えよう!』と叫ぶ場面がある〈第五幕、第四場〉〕こう言うと、声をあげて笑いだし、マレク・アデリを棒立ちに立たせ、まるで独楽《こま》のように後足だけで空中をぐるりと旋回させ――前へ進めと下知《げじ》をする! たちまち馬は刈り入れのすんだ畑の上を矢のように飛んで行く。猟人(なんでも、大金持の公爵だったとか)は帽子を地べたにたたきつけ――どうと倒れて帽子の中に顔を埋めた! 半時間ばかりというもの、こうして横たわっていた。
チェルトプハーノフがどうしてこのような馬を大事にせずにいられよう? 近所の地主の誰彼に彼が再び鼻高々と、最後の誇りを示すことのできたのは、まったくこの馬のおかげではなかったか?
六
その間にも時は経って、支払いの期限が迫って来るというのに、チェルトプハーノフのところには、二百五十ルーブリはおろか、五十ルーブリの金さえもなかった。どうしたらよかろう、何かてだてはないものか? 『よし!』と彼はついに決心をした。『もしもユダヤ人が寛大な取り計らいをしてくれず、待ってくれなかったならば、おれはやつに家も地所もくれてやって、自分は馬に乗ってどこへなりとも出かけよう! たとえ飢え死しようとも、マレク・アデリは手放すまい!』彼はひどく興奮して考えこんだほどである。けれどもこのとき運命が――後にも先にもただ一度――彼を憐れみ、彼に微笑みかけた。というのは、どこかにいる遠縁のおばさんで、チェルトプハーノフの名前も知らなかった人が、彼の見たところでは莫大な金額である二千ルーブリもの金を、彼に残して死んだからである! 彼がこの金を受け取ったのは、それこそちょうど折も折、ユダヤ人の来る前の日であった。チェルトプハーノフはうれしさのあまり気も狂わんばかりであったが、ウォートカのことは考えもしなかった。マレク・アデリが手に入ったその日から、彼は一滴も口にしなかったのである。彼は厩《うまや》に駈けつけて、親友の鼻面をとらえ、その両側から、鼻孔の上の皮膚が柔らかくなっている箇所に接吻をした。「もう別れることはないぞ」マレク・アデリの頸筋や、梳《くしけず》ったたてがみの下を軽くたたきながら、彼はこう叫んだ。家へ帰ると彼は、二百五十ルーブリの金を勘定し、状袋に入れて封をした。それから仰向けに寝転んで、タバコをふかしながら、残りの金をどう使ったものか、空想にふけった、――つまり、どんな犬を手に入れようか、ということである。生粋《きっすい》のコストロマ犬で、ぜひとも赤ぶちでなくっちゃ! ペルフィーシカとさえしばらく話をし、縫い目という縫い目にはことごとく黄色いモールのついた、新しい上衣を買ってやると約束して、この上もなく幸福な気分で眠りについた。
彼はよくない夢を見た。猟に出かけたのだが、乗っているのはマレク・アデリでなく、ラクダのような奇妙な獣であった。と、向うから、白い、白い、雪のように白い狐が走って来る……彼は狩猟用の長靴を振り上げようとする、犬をけしかけようとする。が、ふと見れば、手に握っているのは鞭ではなくて、垢《あか》すりのヘチマである。狐は彼の前を駈けまわり、舌を出してからかっている。彼はラクダから飛び下りたが、つまずいて、倒れる……倒れたのが憲兵の腕の中で、憲兵は彼を総督のもとに引き立てる。その総督というのがヤッフである……
チェルトプハーノフは目が醒《さ》めた。部屋の中は暗かった。たった今二番|鶏《どり》が鳴いたばかりである……
どこか、遠い遠いところで馬が嘶《いなな》いた。
チェルトプハーノフは頭を上げた……もう一度かぼそい嘶きが聞えた。
『あれはマレク・アデリが嘶いているのだ!』と彼は思った。『あれの声だ! だが、なんだってあんな遠くで? あ、そうだ……もしかしたら……』
チェルトプハーノフはたちまち全身が冷たくなった。彼はやにわに寝床から跳び下りると、手探りで長靴や着物を探りあて、身仕度をし、枕もとにあった厩の鍵を引っつかんで、庭へ跳び出した。
七
厩は屋敷の一番はずれにあって、一方の壁は野原に面している。チェルトプハーノフはなかなか錠前に鍵をさしこむことができなかったし――手がふるえていたので――、すぐには鍵がまわせなかった……彼は身動きもせずに、息を殺して立っていた。戸の向うでせめてコトリという物音でもしてくれたら! 「マーレシカ! マーレツ〔マレク・アデリの愛称〕!」と彼は小声で呼んでみた。けれどもひっそりと静まり返っている! チェルトプハーノフは思わず鍵を引き抜いた。戸がギイときしんで、開いた……つまり、錠がかかってなかったと見える。彼は敷居を跨《また》いで、もう一度馬の名を、今度ははっきり『マレク・アデリ!』と呼んだ。けれども忠実なる友の返事はなく、ただ鼠が藁の中でかさこそ音を立てただけであった。そこでチェルトプハーノフは、厩の三つの仕切りの一つ、マリク・アデリが入っている仕切りの方へ飛んで行った。あたりは鼻をつままれてもわからないようなまっ暗闇であるのに、彼は一度でこの仕切りに入りこむことができた……空《から》だ! チェルトプハーノフは頭がぐらぐらしてきた。まるで頭の中で鐘がガンガン鳴り出したようである。彼は何か言おうとしたけれど、出るのはただシューシューという音ばかりで、あえぎながら、膝をがくがくさせながら、上から下、右から左と手さぐりで進み、仕切りから仕切りへと移っていき……やがて天井につくぐらい乾草を積み上げてある三番目の仕切りに入りこんだ。そしてあっちの壁、こっちの壁につき当り、ばったり倒れてでんぐり返しをしたが、起き上がると、いきなりあわてふためいて半開きの戸口から庭に飛び出した……
「盗まれた! ペルフィーシカ! ペルフィーシカ! 盗まれた!」と彼は力の限りわめき立てた。
ボーイのペルフィーシカは、着のみ着のまま、寝ていた物置きから転がり出た……
まるで酔いどれのように二人は――旦那も、たった一人のその下男も――庭のまん中でぶつかった。彼らはまるで狂人のようにぐるぐると相手の前でまわりはじめた。主人も何事が起ったのか説明することができず、下男も自分にどうしろというのか理解できなかった。「大変だ! 大変だ!」とチェルトプハーノフがしどろもどろに口走った。「大変だ! 大変だ!」とボーイが主人の後から繰返した。「提灯《ちょうちん》だ! 提灯を持って来て、火をつけろ! 明りだ! 明りだ!」チェルトプハーノフの息も絶え絶えの胸の中から、やっと、これだけの言葉が出た。ペルフィーシカは家の中に駆けこんだ。
けれども提灯をつけたり、火をともしたりするのは生やさしいことではなかった。硫黄《いおう》マッチは当時ロシアでは貴重品とされていた。台所では最後のおきがとっくに消えてしまっていた――火打道具はなかなか見つからず、うまく火がつかなかった。チェルトプハーノフは歯ぎしりをしながら、あっけにとられているペルフィーシカの手から火打道具をひったくり、自分で火を鑽《き》り出しにかかった。火花がおびただしく飛び散り、さらにおびただしく悪態が、さてはうめき声までが降り注いだ、――けれども火口《ほくち》には火がつかなかったり、ついてもすぐに消えてしまった。四つの頬や唇をふくらまし、力を合せて懸命に吹き立てたにもかかわらず! やっと五分ほどたって(それより早くはなかった)、ひしゃげた提灯の底で脂ろうそくの燃えさしに火がついた。チェルトプハーノフはペルフィーシカを連れて厩の中に駆けこみ、提灯を頭の上にかかげて、あたりを見まわした……
やっぱり空だ!
彼は庭へ跳び出して、四方八方駈けまわったが――馬はどこにもいない! パンテレイ・エレメーイチの屋敷を取り巻いている垣根は、とっくの昔に腐りはて、ところどころ傾いて地べたにくっついている……厩のわきのところは、幅二尺あまりにわたって、すっかり倒れている。ペルフィーシカはそこをチェルトプハーノフに指さして見せた。
「旦那様! ここをご覧になって下さい。昼間はこんなじゃありませんでした。ほら、杭《くい》が地面から突き出ていますよ。つまり、誰かが引っこ抜いたんで」
チェルトプハーノフは提灯を持って駈けつけ、地面を照らした……
「馬の足跡だ、馬の足跡だ、蹄鉄《かなぐつ》の跡だ、生々《なまなま》しい足跡だ!」と彼は早口に口走った。「ここからつれ出したんだ、ここだ、ここだ!」
彼はすかさず垣根を跳び越えて、「マレク・アデリ! マレク・アデリ!」と叫びながら、まっすぐ野原の方に駈け出した。
ペルフィーシカはあきれ顔で垣根の傍に立っていた。提灯の火の光の環がやがて見えなくなって、星も月もない夜の濃い闇に呑みこまれてしまった。
チェルトプハーノフの絶望した叫び声がだんだんかすかになってゆく……
八
彼が家へ戻って来たときには、もう夜が明けかけていた。その姿は見る影もなく変りはて、着物はどろまみれになり、粗暴な、恐ろしい顔をして、眼は気むずかしく、どんよりとにごっていた。彼はしゃがれ声でペルフィーシカを追い立てると自室に閉じこもった。彼はすっかり疲れはててやっとのことで立っていたが、それでも床に入ろうとしないで、戸口の傍の椅子に腰を下ろして、頭をかかえた。
「盗まれた!……盗まれた!」
それにしても、どうやって泥坊は夜中に、錠の下りている厩から、マレク・アデリを盗み出すことを思いついたのだろう? 昼|日中《ひなか》でも見知らぬ者は傍へ寄せつけないマレク・アデリを、騒がせもせず、物音も立てさせないで盗み出すとは? それから番犬が一匹も吠えなかったのは、どう解釈したものだろう? なるほど犬は全部で、二匹しかいなかった。その二匹は幼い仔犬で、それも寒いのと飢《ひも》じいのとで土の中に身体を埋めていたが――それにしてもである!
『マレク・アデリを盗まれて、おれはこれからどうしたらいいのだ?』とチェルトプハーノフは考えた。『おれは今や、最後に残ったたった一つの楽しみをなくしてしまった――いよいよ死ぬ時が来たのだ。ちょうど金が手に入ったから、代りの馬を買うとしようか? だが、あれに代るだけの立派な馬を、どこで見つけることができよう?』
「パンテレイ・エレメーイチ! パンテレイ・エレメーイチ!」と戸の外でおずおずと呼ぶ声が聞えた。
チェルトプハーノフは跳《は》ね起きた。
「誰だ?」と彼は上ずった声で叫んだ。
「私です、ボーイのペルフィーシカです」
「なんの用だ? 見つかったのか、家へ帰って来たのか?」
「いいえ、そうじゃございません、パンテレイ・エレメーイチ。あの馬を売ったユダヤ人が………」
「どうした?」
「やって来ました」
「ほう、ほう、ほう、ほう、ほう!」とチェルトプハーノフは言って、いきなり戸をさっと開けた。「ここへやつを引っぱって来い! 引っぱって来い! 引っぱって来い!」
髪をぼうぼうに振り乱し、狂気じみた風体をした『恩人』が、突如として目の前に姿を現わしたのを見て、ペルフィーシカの後に立っていたユダヤ人は逃げ出そうとした。けれどもチェルトプハーノフは二跳びで追いついて、虎のように、彼の咽喉輪《のどわ》をつかまえた。
「あ! 金を取りに来たんだな! 金を取りに!」と彼は、咽喉を締めつけているのが自分でなく、自分が咽喉を締めつけられているかのように、しゃがれ声で叫び立てた。「夜中に盗んでおいて、昼になったら金を取りに来たのか? あ? あ?」
「めっそうな、だ、旦那……様」とユダヤ人はうめき声を上げようとした。
「白状しろ、おれの馬はどこにいる? どこへ隠した? 誰に売った? 白状しろ、白状しろ、白状しろーい!」
ユダヤ人はもううめき声を上げることもできなかった。蒼ざめた顔からは驚愕の表情さえ消え失せた。両手が下へさがり、だらんと垂れた。全身が、チェルトプハーノフに猛烈に揺ぶられて、葦《あし》のように前後に揺れた。
「金は貴様に払ってやる、一文残らず耳をそろえて払ってやる」とチェルトプハーノフはどなった。「今すぐ本当のことを言わんと、生れたばかりの雛《ひよ》っ子同然、絞め殺してくれるぞ……」
「もう絞めておしまいになりましたよ、旦那様」とボーイのペルフィーシカが遠慮勝ちに言った。
そう言われてやっと、チェルトプハーノフは我に返った。
彼はユダヤ人の頸を離した。ユダヤ人はそのままばったり床の上に倒れた。チェルトプハーノフは彼を引き起こし、ベンチに坐らせ、咽喉ヘウォートカを一杯注ぎこんで――正気に返らせた。そして、彼が正気になったところで、話をはじめた。
マレク・アデリの盗難を、ユダヤ人が夢にも知らなかったことが判明した。それに自分でわざわざ『尊敬おくあたわざるパンテレイ・エレメーイチ』のために手に入れた馬を、盗み出すわけがないではないか?
そこでチェルトプハーノフは彼を厩へつれて行った。
二人で厩の仕切りや、まぐさ槽《おけ》や、戸の錠前を調べ、乾草や藁を掻きまわして見て、それから庭へ移った。チェルトプハーノフはユダヤ人に垣根の傍の蹄の跡を指さして見せたが――、いきなり自分の太腿《ふともも》をたたいた。
「待て!」と彼は叫んだ。「貴様はどこであの馬を買った?」
「マロアルハンゲリスク郡の、ヴェルホセンスクの馬市で」とユダヤ人が答えた。
「誰から?」
「コサックから」
「待て! そのコサックは若いやつか、年寄りか?」
「中年の、落ち着いた男です」
「どんなやつだった? 見かけは? きっと、一癖も二癖もあるペテン師だろう?」
「ペテン師に違いありません、旦那様」
「で、どうだった、そいつは、そのペテン師めは貴様になんと言った、――ずっと前からあの馬を持っていたって?」
「たしか、ずっと前から持っていた、と言っていたようで」
「さあ、それじゃ、そいつが盗んだにきまっている! なあ、おい、考えても見ろ、そうだろ……貴様の名前はなんてんだ?」
ユダヤ人はびくっと身ぶるいして、黒い小っぽけな眼でチェルトプハーノフを見た。
「≪あっし≫の名前ですって?」
「うん、そうだ。なんて名だ?」
「モシェリ・レイバです」
「いいかい、レイバ、考えてみろ、――貴様は話のわかるやつだ。マレク・アデリが言いなりになるのは、元の飼主のほかにいるものか! 元の飼主が鞍も置けば、くつわもはめて、馬衣も取ってやったのだ――ほら馬衣が乾草の上にあるだろう!……まるで自分の家のような手馴れたやり口だ! 元の飼主でなかったら誰だって、マレク・アデリが踏み殺したこったろうよ! 村じゅうびっくりするほどの騒動をおっぱじめたに違いない! 貴様もそう思わんか?」
「思うことは思いますが、旦那様……」
「そうすると、つまり、まず第一にそのコサックを探し出さねばならん!」
「でも、どうして探し出せましょう、旦那様? あっしはただの一ぺん見たきりなんで――今どこにいるやら――それになんて名前なのやら? ああ、やれ、やれ!」とユダヤ人は悲しげに垂れ毛を振りながら附け加えた。
「レイバ!」と不意にチェルトプハーノフが叫んだ。「レイバ、おれの顔を見てくれ! おれは分別をなくしたんだ、おれは気が顛倒《てんとう》してるんだ!……貴様が力を借してくれなかったら、おれは自殺しちまうぞ!」
「でも、どうやってあっしが……」
「おれと一しょに出かけて行って、あの馬泥坊を探し出そう!」
「でも、どこへ参りますんで?」
「馬市やら、本街道から裏街道、馬泥坊の寄りそうなところ、町も、村も、部落も――どこもかしこもだ! 金のことなら心配するな。おれは、貴様、遺産が手に入ったんだ! 最後の一文をはたいても――大事な馬は探し出してやる! あのコサックの悪党め、逃がしはせんぞ! どこへでも追っかけていくぞ! やつが地下へもぐったら――おれたちももぐってやる! やつが悪魔のところへ行くんなら――こっちは魔王のところへ掛け合いに行ってやる!」
「まあ、なんだって魔王のところへなんぞ行きますんで」とユダヤ人が注意した。「そんなところへは行かなくて結構です」
「レイバ!」とチェルトプハーノフが相手の言葉を抑えた。「レイバ、貴様はユダヤ人で、穢《けが》らわしい信仰を持っているとはいうものの、貴様の魂はなまじキリスト教徒よりも立派だ! おれを不憫《ふびん》だと思ってくれ! おれ一人で出かけてもしようがない、一人じゃこの仕事は手に負えないんだ。おれは癇癪持ちだが――貴様は『知恵者』だ、大した『知恵者』だ! お前たちの人種は大したもんだ。学問しなくてもなんでもわかっている! 貴様は、きっと、金はどうするつもりだろうと凝ってるんだろう? おれの部屋へ来い、有り金全部見せてやる。お前にそれをやるから、もし嘘だったらおれの頸から十字架をはずしてもいい――ただマレク・アデリを取り返してくれ、取り返してくれ、取り返してくれ!」
チェルトプハーノフは熱病にかかったようにふるえていた。顔から汗がだらだらと流れ、涙とまじり合って口髭の中に消え失せた。彼はレイバの両手を握りしめて、拝むように頼み、今にも接吻せんばかりであった……彼はすっかり逆上していた。ユダヤ人は、それに反対して、自分はどうしても行くことができない、自分には仕事があるから、と言って相手を説き伏せようとしたが……どっこい! チェルトプハーノフは聞く耳を持たなかった。哀れなレイバは仕方なく同意した。
翌日チェルトプハーノフはレイバとともに、百姓馬車に乗ってベスソーノヴォ村を出発した。ユダヤ人はいくぶん当惑そうな顔つきをして、片手で馬車の横木につかまり、ガタガタ揺れる座席の上でぶよぶよの身体を躍り上がらせていた。片手はしっかりと懐中をおさえていたが、そこには新聞紙につつんだ紙幣束《さつたば》が入っているのだった。チェルトプハーノフは彫像のように泰然と腰を据えていた。ただあたりには眼をくばって、胸一ぱい息をしている。腰には短剣をさしていた。
「さあ、おれと馬の仲を割《さ》いた悪党め、そろそろ用心するがいいぞ!」と街道にさしかかったとき、彼はつぶやいた。
家のことはボーイのペルフィーシカと、彼が同情して自分の家に引き取ってやったつんぼの飯焚《めした》き婆さんに託した。
「おれはマレク・アデリに乗って帰って来るぞ」と出がけに彼は二人に言った。「そうでなかったら、もう二度とふたたび帰って来ん!」
「そうなったらよお前《めえ》、おれんとこへ嫁にでも来るか!」と飯焚き婆さんの脇腹を肱でこずいて、ペルフィーシカが冗談をとばした。「どうせ旦那はいくら待ったって帰って来やしないんだからよ、そうでもしなくちゃ退屈で参ってしまうがな!」
九
一年……まる一年たった。パンテレイ・エレメーイチについてはなんの消息もなかった。飯焚き婆さんは死んでしまった。ペルフィーシカにしてからが、もうこの家を捨てて町へ出ようとしていた。床屋に年季奉公をしているいとこに、前々から町へ出て来ないかと誘われていたので。と、突然、旦那が帰って来るという噂《うわさ》がパッと拡まった! 教区の補祭がパンテレイ・エレメーイチから手紙を受取ったが、その中で、自分はやがてベスソーノヴォに帰るつもりだということを知らせてよこし、ついては家の召使に、用意万端を整えて待っているように伝えてほしいと依頼してあった。この言葉をペルフィーシカは、せめて埃ぐらいははらっておかなくちゃなるまい、という意味に理解した――といって、この知らせに大して信用をおかなかった。けれども数日たって、紛《まぎ》れもないパンテレイ・エレメーイチが、マレク・アデリに跨って屋敷の庭に現われたとき、補祭の言ったことが本当であったことを、得心しなければならなかった。
ペルフィーシカは主人の傍へ飛んで行った――そして、鐙《あぶみ》をおさえて主人が馬から下りるのを手伝おうとした。けれども相手は独りで跳び下りて、勝ち誇った眼差《まなざ》しであたりをちらりと眺め、大声で叫んだ。「おれはマレク・アデリをきっと探し出すと言ったが、――ほら、この通り探し出したぞ、敵と運命への面当てにな!」ペルフィーシカは傍へ寄って手に接吻したが、チェルトプハーノフは下男の忠義だてに目もくれなかった。マレク・アデリの手綱をひいて、彼は大股に厩の方に歩いて行った。ペルフィーシカはじっとその後姿を見守ったが――急におじ気づいた。「ああ、この一年間になんてまあやせて、年とったことだろう――それに顔もなんと厳しく、荒々しくなったことだろう!」パンテレイ・エレメーイチにしても、自分の目的を達したのだから、当然喜んでもよかりそうなものである。そりゃ、いかにも彼は喜んではいた……それでも、やっぱりペルフィーシカはおじ気づき、不気味にさえなった。チェルトプハーノフは馬を元の仕切りに入れると、馬の尻を軽くたたいて、こう言った。「さあ、やっと家へ帰ったぞ! 今度は気をつけろよ!……」その日のうちに彼は水呑百姓の中から信頼のおけそうな番人を一人やとい入れ、ふたたび自分の家に落ち着いて、もと通りに暮しはじめた……
もっとも、何もかもがもと通りというわけではなかった……しかしそれは先の話である。
帰って来た次の日、パンテレイ・エレメーイチはペルフィーシカを呼びよせた。そして他に話相手もいないところから、一体どのようにしてマレク・アデリを探し出すことができたかを――もちろん、自分自身の威厳を失するようなことをせずに、低音で――物語りはじめた。話をしている間じゅう、チェルトプハーノフは窓の方に顔を向けて坐り、長いきせるでタバコをふかしていた。一方ペルフィーシカは、両手を後に組んで戸口の敷居の上に立ち、主人の後頭部をうやうやしく眺めながら、その物語りを聞いていた。話によればパンテレイ・エレメーイチは、いろいろと無駄骨を折ったりあちこち乗りまわしたあげく、とうとうロームヌイの馬市にたどり着いた。そのときはもうたった一人で、ユダヤ人のレイバはいなかった。彼は意志薄弱なので辛抱できなくなり、逃げ出したのである。それから五日目に、もうこの土地を離れるつもりで、これが名残《なごり》とずらりと並んだ馬車の間を歩いていると、ふと、三頭の馬の間に、轅《ながえ》に餌袋をぶら下げたマレク・アデリがいるのを見つけたのだ! マレク・アデリだ、ということがすぐにわかったし、馬の方でももとの主人に気がついて嘶《いなな》きはじめ、身を振り切ろうとし、蹄《ひずめ》で地面を掻き出した。
「それがコサックのところにいたんじゃなくって」とチェルトプハーノフは、相変らず振り向こうともせずに、同じ低音で話しつづけた。「ジプシーの博労《ばくろう》のところにいたんだ。おれは、もちろん、すぐさま、それは自分の馬だと言って、しゃにむに取り戻そうとした。ところがジプシーの悪党め、煮え湯でもかぶったみたいに、広場じゅうに聞えるような声でわめきたてて、この馬は神かけてほかのジプシーから買ったものだ、なんだったら証人を立ててもいいと言うのだ……おれはペッと唾を吐いて――金を払ってやったよ。ええ、面倒くさいと思ってな! おれにとって大事なことは、とうとう自分の愛馬を見つけ出して、心の落ち着きを得たということなのだ。それからいつかはカラチェフ郡で、ユダヤ人のレイバの言葉を真《ま》にうけて、コサックに言いがかりをつけたことがある――てっきり馬泥坊だと思ったので、やつの面をさんざん殴りつけてやった。ところがコサックだと思ったのは坊さんの息子だったので、百二十ルーブリも慰籍料をふんだくられたよ。なあに、金なんてものは貯めることのできるもんで、肝腎なことは、マレク・アデリがふたたびおれの手に戻って来たということなんだ! 今おれは幸福だ――おれは心の安らかさを楽しむことができるだろう。ところでペルフィーシカ、お前に一つ言いつけておくことがある。もし万が一この界隈《かいわい》でコサックの姿を見かけたら、即刻、一|言《こと》も言わずに家へ飛んで帰って、おれに鉄砲を渡すんだぞ。おれが適当に処置するから」
パンテレイ・エレメーイチはペルフィーシカにこう言った。口ではこう言ったものの胸の中は、彼がきっぱりと言い切ったほど安らかではなかった。
ああ! 彼は心の奥底では、連れ帰った馬が確かにマレク・アデリであるということを、すっかり信じ切ってはいなかったのだ!
十
パンテレイ・エレメーイチに苦しい時が来た。ほかならぬ心の安らかさを、彼ほど楽しむことのできない者はいなかった。なるほど、いい日もあるにはあった。そういう日には常日ごろの疑惑が馬鹿げたことに思われた。彼はこの馬鹿げた考えをうるさい蝿《はえ》のように追いはらい、自分自身を嘲笑《あざわら》った。けれどもまた悪い日もあった。執念深い考えがまたもやこっそりと、床下の鼠のように忍びよって、彼の心に穴をあけたり、引っ掻いたりした。――そして彼は人知れず悩み苦しんだ。マレク・アデリを見つけ出した、あの記憶すべき日には、チェルトプハーノフはただ幸福な喜びを感じたのみであった……けれども翌朝、旅籠屋の低い檐下《のきした》で、一晩じゅう傍ですごしたこの掘出し物に鞍を置きにかかったとき、初めて何かが彼の心をチクリと刺した……彼はただ、はてな、と頭を横に振っただけであった――けれども種子はすでに播《ま》かれたのである。帰りの旅の間は(それは一週間ほどつづいた)疑惑の念はめったに起らなかった。ところがベスソーノヴォに帰るや否や、以前の、正真正銘のマレク・アデリの棲《す》んでいた土地に現われるや否や、疑惑はいよいよ強くなり、鮮明になってきた……道中は主に並足で、ゆらりゆらりと馬を進め、あたりの景色を眺めながら、短い煙管《きせる》でタバコをふかし、何事も考えなかった。ただ時折心の中で、『チェルトプハーノフ一族はしようと思えば――かならずやってのけるのだ! 冗談じゃない!』と考えてほくそ笑《え》むくらいであった。ところが家へ帰りつくと、話は別になってきた。こうしたことはみな、もちろん、自分の胸の中にしまいこんでいた。自尊心だけから言っても、自分の内心の不安を外に表わすわけにはいかなかったであろう。誰にもせよ、今度の新しいマレク・アデリは元のとは違うようだ、などということを遠まわしにでもほのめかそうものなら、彼はその者を『まっ二つに引き裂いた』に違いない。彼はたまたま顔を合わせた二三の人から『失《う》せ物が無事に戻った』お祝いの言葉を述べられた。けれども彼はこのようなお祝いの言葉を人に述べてもらいたくなかった。彼は前にもまして人と顔を合わせることを避けた――これは凶兆《きょうちょう》である! 彼は絶えずマレク・アデリを、もしもそう言ってよければ、試験した。どこか遠くの野原へ連れ出して、いろいろなことをやらせて見た。あるいはこっそり厩に入って後《うしろ》の戸を閉め、馬の鼻先につっ立って、じっと眼をのぞきこみ、小声できいてみる。「本当にお前かい? お前かい? お前かい?」――そうかと思えば何時間も、何時間も、無言のままじっと馬を見ていて、時にはうれしそうに、「そうだ! あれだ! もちろん、あれだとも!」とつぶやくかと思えば、時には首をかしげ、当惑して立ちつくすことさえあった。
チェルトプハーノフを当惑させたのは≪この≫マレク・アデリと、≪あの≫マレク・アデリとの肉体的な相違だけではない……もっとも、その相違はいくらもなかった。≪あれ≫は尾とたてがみがもう少し薄く、耳がもっととがっていて、膝関節がもちっと短く、眼はもっと明るかった――けれども、これはみな、ただそんな気がするだけかもしれない。チェルトプハーノフを当惑させたのは、いわば精神的な相違である。≪あれ≫の習慣は≪これ≫と違い、癖がまるで別だった。たとえば、≪あの≫マレク・アデリはチェルトプハーノフが厩に入って来るや否や、きまってあたりを見まわして軽く嘶いたものであった。ところが≪これ≫は何事もなかったかのように乾草をむしゃむしゃ噛んでいるか、そうでなければ首を垂れて居眠りをしている。主人が鞍から跳び下りるときには、どちらも動かずにしゃんと立っている。ところが≪あれ≫は呼ばれるとすぐに、声のする方によって来たのに、≪これ≫はぼんやりといつまでもつっ立ったままである。≪あれ≫も速く駆けたが、しかしもっと高く、もっと遠くへ跳ぶことができた。≪これ≫は並足のときは自由にのびのびと歩くが、諾足《だくあし》になるとぐらぐらして、時折蹄鉄を『がちゃつかせた』――つまり、後足と前足をぶつけるのである。≪あれ≫はけっしてこんなみっともないことはやらなかった――とんでもないこと! ≪これ≫は、とチェルトプハーノフは思った。いつも耳をピクピクと愚かしく動かしているが――≪あれ≫は反対だった。片耳だけを後に寝かして、じっとそのままにして――主人を注視している! ≪あれ≫は自分のまわりが穢《きた》ないと見ると、――すぐに後足で仕切りの壁をコツコツいわせたものである。ところが≪これ≫は、腹につきそうなほど糞が積もっても平気である。≪あれ≫は、たとえば、もしも向い風に立たせると、――すぐに胸一ぱい呼吸して、身体をゆすぶったのに、≪これ≫はただ鼻を鳴らすことだけしか知らない。≪あれ≫は雨が降って湿《し》けると嫌がったのに、≪これ≫は知らん顔である……≪これ≫の方ががさつだ、がさつだ! そして≪あれ≫のような気持のいいところがなくって、手綱《たづな》さばきに鈍感なことは――言わずもがなである! ≪あれ≫は可愛いい馬だったが――≪これ≫は……
チェルトプハーノフは時折こんなふうに思ったが、このような考えはひどく辛《つら》いものであった。そのかわりあるときは、耕されたばかりの畑の上を全速力で馬を走らせたり、雨に洗い流された谷底に駈け下りさせては、懸崖《けんがい》づたいに再び駈け上らせる。彼の心は歓喜のあまりしびれそうになり、声高い鬨《とき》の声が思わず口をついて出る。そして彼ははっきりと、自分が今乗っているのは本物の、正真正銘のマレク・アデリだと思いこむのである。なぜなら、これと同じような芸当をやってのけられる馬が、一体ほかにいるだろうか?
けれども、そういったときでも、不幸や災難なしではすまなかった。永い間マレク・アデリを探しまわったので、チェルトプハーノフはたくさんの金を使ってしまった。コストロマ種の猟犬のことなどはもう考えもせず、以前のようにたった一人で、近郊を乗りまわしていた。ある朝チェルトプハーノフは、ベスソーノヴォから五露里ばかりのところで、一年半ばかり前に見事な乗馬ぶりを見せてやった、あの公爵の狩猟隊にばったり出っくわした。そしてちょうど前と同じ妙なめぐりあわせになった。あの日と同じように今度も――不意に野兎が一匹、斜面の地境から犬どもの前に飛び出して来たのである! 「それ、つかまえろ、つかまえろ!」すわ、とばかりに狩猟隊はその後を追って駈け出し、チェルトプハーノフも駈け出したが、ただ狩猟隊と一しょになってではなく、二百歩ばかり脇へ離れたところをである、――ちょうどあのときのように。出水でできた大きな窪みが勾配《こうばい》を斜めにたちきり、だんだん高くなるにつれて、しだいに狭くなり、チェルトプハーノフの行く手をさえぎっていた。今跳び越さなければならないところ――そして一年半前に彼が実際に跳び越したところ――は、なおも幅が八歩ばかり、深さは一丈四尺ほどもあった。勝利を、見事に繰返されるべき勝利を予感して、――チェルトプハーノフは勝ち誇ったように叫び声を上げ、鞭を振りまわした――猟人たちは馬を走らせながらも、この勇ましい騎手から眼を離さなかった、――彼の馬は矢のように飛んでいく、いよいよ窪みは鼻先に迫った――さあ、さあ、あのときのように一《ひと》跳びで!
けれどもマレク・アデリははたと立ち止まり、くるりと左に向きを変え、断崖に沿って走り出した。どんなにチェルトプハーノフが馬の首を脇に、窪みの方に向けようとしても言うことを聞かずに……
怖気《おじけ》づいたのだ、つまり、自信がなかったのだ!
そのとき、チェルトプハーノフは恥かしさと怒りに燃えて、ほとんど泣かんばかりであった、彼は手綱をゆるめ、山上さしてまっすぐ馬を駆り、猟人たちから遠ざかろうとした。ただ彼らの嘲笑を聞きたくないばかりに、ただできるだけ早く彼らのいまいましい眼から逃れたいばかりに!
両の脇腹を傷だらけにし、全身汗みずくになってマレク・アデリは家に駈け戻った。チェルトプハーノフはすぐさま居間に閉じこもった。
『いや、これはあれじゃない、これはおれの愛馬じゃない! あれなら頸の骨を折ったって、おれに恥をかかせるようなことはしないはずだ!』
十一
やがて次のような出来事が、とうとうチェルトプハーノフを決定的に、いわゆる『参らせて』しまった。ある日彼はマレク・アデリに乗って、ベスソーノヴォ村が所属している教区の教会をかこむ寺領の裏庭を通りかかった。コーカサス帽を目深にかぶり、背中をまるめ、両手を鞍の前橋に落して、彼はゆったりと進んで行った。気が一向に晴れ晴れとしないで、ぼんやりしていた。と、不意に誰かに呼びとめられた。
彼が馬をとめ、顔を上げて見ると、いつか手紙で留守宅への伝言を託した補祭であった。お下げに編んだ赤毛の上に狐色の頭巾《ずきん》をかぶり、黄色っぽい南京木綿の長上衣《カフタン》をまとい、空色の切れっぱしを腰よりもずっと下に締めて、この祭壇の奉仕者は『稲積《にお》』を見に出て来たのであった――そして、パンテレイ・エレメーイチを見かけたので、彼に敬意を表して、ついでに何かねだるのが自分の義務だと考えたのである。こういった下心がなければ僧侶というものは、周知のごとく、俗人に話しかけたりしないものである。
しかしチェルトプハーノフは補祭どころではなかった。彼は相手のお辞儀にほんの申し訳《わけ》に答えただけで、口の中で何やらぶつぶつ言うと、早くも鞭を振り上げた……
「ときに、あなたの馬は実にすばらしいですな!」と補祭は急いで附け加えた。「いや、まったく御自慢なさる値打がありますて。本当にあなたはすぐれた知恵者じゃ。なんのことはない、まるで獅子ですわい!」補祭はかねがね雄弁家として聞えており、それが司祭には癪《しゃく》の種であった。というのは司祭はからっきし口下手で、ウォートカを飲んでも舌のまわりがよくならなかったからである。「悪人どものたくらみによって、生きものを一頭なくされたが」と補祭は言葉をつづけた。「すこしも落胆することなく、かえって神様の摂理に頼みをかけて、また別の、少しも劣ることなき、いや、たぶん、まさっているやもしれぬ立派なのをお手に入れられた……それというのも……」
「何をぬかす?」とチェルトプハーノフは不機嫌にさえぎった。「別の馬とはなんだ? これは同じ馬だ。これはマレク・アデリだ……おれが探し出したんだ。つべこべ言うな……」
「え! え! え! え!」と補祭は髯《ひげ》を指でしごきながら、明るい眼でチェルトプハーノフをしげしげと見つめて、引き延ばすようにゆっくりと、言った。「はて、これは異《い》なことを? あなたの馬は、たしか、去年の聖母祭〔旧十月一日〕の二週間ほど後に盗まれたと思ったが、今は十一月もそろそろ終るところですからな」
「うむ、それがどうしたというんだ?」
補祭は相変らず髯をしごいていた。
「つまり、あれから一年余りたっているのに、あのころ連銭葦毛《れんぜんあしげ》だったあなたの馬は、今でも毛色がおんなじだ。かえって濃くなったくらいじゃ。おかしいじゃありませんか? 葦毛の馬というやつは一年もたてばずっと白くなるもんだでの」
チェルトプハーノフはぎょっとした……誰かに猟槍で心臓をぐさりと突かれたかのよう。本当にそうだ。葦毛の馬は毛並みの色が変るものだ! こんなわかりきったことが、どうしてこれまで思いつかなかったのだろう?
「碌《ろく》でなしのお下げ髪め! どきゃがれ!」と彼は物狂おしく眼を光らせて、いきなり大声で叫ぶと、たちまちのうちに、呆気《あっけ》にとられている補祭の眼の前から姿を消した。
「さあ! 何もかもおしまいだ!」
このとき本当に何もかもおしまいになり、何もかも駄目になり、最後の切札が切られたのだ!
『白くなる』という一言《ひとこと》で、何もかもが一度に瓦解《がかい》したのだ!
葦毛の馬は白くなる!
走れ、走れ、こん畜生! だがいくら走っても、この一言からは逃げきれないのだ!
チェルトプハーノフはわが家に馳《は》せ帰ると、またもや鍵をかけて閉じこもった。
十二
このやくざ馬がマレク・アデリではないこと、これとマレク・アデリの間には似たところが少しもないこと、ちょっとでも分別のある人間ならば一目でそれがわかったはずであるということ、彼が、パンテレイ・チェルトプハーノフが、はなはだありきたりな手でだまされたということ――いや! わざと、前からそのつもりでわれとわが身をあざむき、自分の眼をくらましたのだということ、――すべてこうしたことが今となってはもはや、いささかの疑う余地もなかった! チェルトプハーノフは部屋の中を行ったり来たりしていた。檻《おり》の中の獣のように、壁ぎわまで行っては、くるりと向きを変えてまた歩くのであった。彼の自尊心は堪えられないほど苦しんでいた。けれども傷つけられた自尊心の痛みだけが彼を苦しめているのではなかった。絶望にとらえられ、憤怒《ふんぬ》に息がつまりそうになり、復讐の渇望《かつぼう》が燃え上がった。しかし誰に対して? 誰に復讐をするのか? ユダヤ人にか、ヤッフにか、マーシャにか、補祭にか、コサックの泥坊にか、近所の地主連中にか、世界じゅうにか、とどのつまりが自分自身にか? 彼は頭がこんがらかった。最後の切札が切られたのだ!(この比喩は彼の気に入った) そしてまたもや彼は、人びとの中で最もつまらない、最も軽蔑すべき人間、みんなの笑い草、道化者、大馬鹿者、補祭には恰好《かっこう》のなぶり者になってしまったのだ!……彼は想像した、彼ははっきりと心に思い浮べた、あの忌《いま》わしいお下げ髪の坊主が、葦毛の馬のことや、おめでたい旦那のことを得々《とくとく》として話しはじめるありさまを……畜生め! チェルトプハーノフはむらむらとわいてくる癇癪をおさえようとしたが、無駄であった。この……馬は、マレク・アデリじゃないにしても、それでも、やっぱり……いい馬には違いないし、これからも永年役に立つかもしれない、と自分に言い聞かせようとしたが無駄だった。彼はすぐさま憤然としてこの考えを押しのけた。そんなことを考えるのは、≪あの≫マレク・アデリに新しい侮辱を加えることになるのだ、それでなくてさえあれにはすまないと思っているのに……そうだとも! この駑馬《どば》を、このやくざ馬を、自分はまるで盲人《めくら》のように、あほうのように、あれと、マレク・アデリと、同等に扱ったのだ! また、このやくざ馬がまだまだ役に立つにしたところが……もうこんな馬になんか乗ってやるものか? 金輪際《こんりんざい》! けっして! 韃靼人《タタール》にくれてやるか、犬の餌食《えじき》だ――それくらいの値打しかないんだ……そうだ! それが一番いい!
二時間あまりもチェルトプハーノフは部屋の中をうろついた。
「ペルフィーシカ!」と彼はいきなり命じた。「今すぐに酒屋へ行って、ウォートカを三升ほど持って来い! わかったか? 三升、大至急だ! このテーブルの上に、すぐにウォートカの壜《びん》を載せるようにな」
ウォートカは時を移さずパンテレイ・エレメーイチのテーブルの上に現われ、彼は飲みはじめた。
十三
もしこのときチェルトプハーノフを見た者がいたら、痛恨《つうこん》やる方《かた》ないといったふきげんな顔で、つぎつぎと杯を飲み干している彼を目撃した者がいたら、――その者は、きっと、思わず恐怖を感じたに違いない。そのうち夜になった。脂《あぶら》ろうそくがテーブルの上にぼんやりとともっていた。チェルトプハーノフは部屋の中をあちらこちらぶらつくのをやめた。彼は顔をまっ赤にし、どんよりと濁った眼をして坐っていた。時には眼を伏せて床を見つめ、時には暗い窓をじっと見つめていた。立ち上がって、ウォートカを注《つ》ぎ、ぐっとあおって、また腰を下ろし、また一点を見つめて、身じろぎだにしない――ただ息づかいが荒くなり、顔がますます赤くなっただけである。どうやら、胸の中で何か決心が熟しかけているらしく、その決心が彼の心を乱しているのだが、それにもだんだんと慣れていった。さっきから同じ考えが執拗《しつよう》に、絶え間なく、じりじりと押し寄せ、同じ光景がいよいよはっきりと眼の前に描き出される。また心の中では、乱酔の強烈な圧迫を受けて、いらだたしい憤怒が今はもう残忍な感情に変ろうとし、不気味な薄笑いが口もとに浮んでいた……
「さあ、ところで、そろそろ時間だ!」と彼は何やら事務的に、ほとんど退屈したような調子で言った。「ぐずぐずするのはたくさんだ!」
彼は最後の一杯を飲み干すと、寝台の上にかけてあったピストル――いつかマーシャを撃《う》ったあのピストル――を取り上げ、弾丸をこめ、『万一の用意』に幾つかの信管をポケットに入れて――それから厩に向った。
戸を開けにかかったとき番人が駈けつけたが、彼は「おれだ! わからんのか? 向うへ行け!」とどなりつけた。番人は少し脇へ下がった。「行って寝ろ!」とチェルトプハーノフはまたどなりつけた。「こんなものは番をしなくたっていい! 何が珍しいもんか、何が宝なもんか!」彼は厩に入った。マレク・アデリは……贋《にせ》もののマレク・アデリは敷藁の上に寝ていた。チェルトプハーノフは「起きろ、この薄のろ!」と言って、足で馬を蹴とばした。それから端綱《はづな》をまぐさ槽からはずし、馬衣を剥《は》いで地べたにほうり投げた――そして、従順な馬を仕切りの中で手荒く引きまわして、庭へつれ出し、魂消《たまげ》ている番人を尻目に、庭から野原へとつれ出した。番人は旦那が夜中に、馬勒《ばろく》もつけていない馬をどこへ連れていくつもりなのか、とんと合点がいかなかった。旦那にきいてみることは、もちろん、こわくてできなかったので、旦那の姿が近くの森に通じる道の曲り角で見えなくなるまで、じっと後を見送っただけであった。
十四
チェルトプハーノフは立ちどまりもしなければ、後をふり返りもせずに、大股に歩いて行った。マレク・アデリは――最後までこの名で呼ぶことにしよう――おとなしく後をついて来た。夜はかなり明るかった。チェルトプハーノフは、行く手に黒々と汚点《おてん》のようにつらなっている、森のギザギザした輪廓を見分けることができた。夜風が身にしみるとはいえ、彼は、きっと、今しがた飲んだウォートカのために酔を発したに違いない、もしも……もしもそれとは違った、もっと強烈な酔が彼をすっかりとらえていなかったならば。頭は重くなり、血は咽喉《のど》や耳をズキンズキンと鳴らしたが、彼の足取りはしっかりしていたし、自分の足が今どっちへ向いているかも知っていた。
彼はマレク・アデリを殺そうと決心したのである。一日じゅう彼はそのことだけを考えていた……そして今、やっと覚悟がきまったのだ!
彼はこの仕事に対して、平気でというわけではないが、義務の観念にしたがって事をなす人のように自信を持って、断乎として立ち向っていた。彼にはこの『こと』はきわめて『簡単』に思われた。贋《にせ》ものの名馬を無きものにしてしまえば、一度で『何もかも』片がつく。自分の愚かしさを罰することにもなれば、本物の愛馬にも申し訳が立ち、世間全体(チェルトプハーノフは『世間全体』を大変気にした)に、あれにはふざけたまねができんぞ、ということを証明できる……が、肝腎なのは、われとわが身を贋ものの名馬と一しょに滅ぼしてしまうことだ。まったく、この上生き永らえてなんになろう? どのようにしてすべてこうした考えが彼の頭に浮んだのか、なぜこれがそんなに簡単に思われたのか――それを説明するのは、まったく不可能ではないにしても、容易ではない。辱《はずか》しめられ、孤独で、親しい身内の者も、ビタ一文の金も持たず、おまけに酒で血潮を湧きたたされた男が、精神錯乱に近い状態にあったのだ。ところで狂人の最も不合理な行動の中にも、当人の眼から見れば、自己流の論理があり、権利さえもあるということは疑う余地がない。とにかくチェルトプハーノフは、自分にその権利があるということを信じきっていた。彼は躊躇《ちゅうちょ》することなく、罪あるものに対する宣告の執行を急いだ。とはいうものの、罪あるものとは一体誰のことなのか、はっきりした答を与えることができなかった……実を言えば、彼は自分が何をしようとしているのかあまり考えなかった。「始末をつけなくちゃならん、始末を」これが、愚かしく、また厳然と、繰返し繰返し自分に言い聞かせた言葉である。「始末をつけなくちゃならん!」
無実の罪をきせられた馬は、彼の後からおとなしく小走りについて行った……けれどもチェルトプハーノフの胸には、それを不憫《ふびん》と思う心などなかった。
十五
馬を連れて来た森の外《はず》れから程遠からぬところに、若い槲《かしわ》の繁みに半ばおおわれた小さな谷間が延びていた。チェルトプハーノフはそこへ下りて行く……マレク・アデリはつまずいて、危く彼の上に倒れるところだった。
「おれを圧しつぶす気だな、こん畜生!」とチェルトプハーノフは叫んで、身を守ろうとするかのように、ポケットからピストルをつかみ出した。彼が味わっているのはもはや残酷な気持ではなく、人が犯罪を犯す前におそわれるという、一種特別な感情の硬化状態であった。しかし彼は自分で自分の声にびっくりした。――ひさしのようにおおいかぶさっている暗い木の枝の下で、木の多い谷間のじめじめした、むっとする湿気の中で、彼の声はそれほど奇怪に響いたのである! おまけに彼の叫び声に応じて、何かしら大きな鳥が一羽、頭の上の木の梢で不意に羽ばたきをした……チェルトプハーノフは思わず身ぶるいをした。まさしく自分の仕事の証人を起したようなものである――しかも、どこで? ただ一匹の生き物にも会うべきではないこのひっそりした場所で……
「さあ、どこへなりと勝手に失《う》せやがれ、こん畜生!」と彼は歯の間から押し出すように言った。そしてマレク・アデリの手綱を放すと、ピストルの台尻で馬の肩を力一ぱい殴りつけた。マレク・アデリはすかさずくるりと後に向きを変えて、谷間をよじ登って……駈けだした。けれども蹄の音は永くは聞えなかった。吹き起った風があらゆる物音をかきまぜ、おおってしまったからである。
一方チェルトプハーノフはゆっくりと谷間をよじ登って、森の外れに出ると、家路をさしてとぼとぼと歩きはじめた。彼は自分に不満であった。頭や胸に感じていた重苦しさが手足にまで拡がった。彼は腹立たしい、暗澹《あんたん》とした、満たされない気持を抱き、空腹をかかえて歩いていた。さながら誰かに辱められ、自分の獲物や、食物を奪われたかのように……
自殺を計り人に妨げられてできなかった人は、こういう感じをよく知っているであろう。
不意に何か後から両肩の間を突いたものがある。彼はふり返って見ると……マレク・アデリが道のまん中に立っている。馬は主人の後をついて来て、鼻面でさわり……自分がいることを知らせたのである……
「あ!」とチェルトプハーノフは叫んだ。「貴様は自分から、自分から殺されに来たんだな! そんなら、ほら!」
瞬《またた》くうちに彼はピストルを取り出し、撃鉄を上げ、銃口をマレク・アデリの額に押しあてて、発射した……
哀れな馬は脇へ跳び退《の》いて、後足で立ち、十歩ばかり駈けだしたが、急にどさりと倒れると、地べたをのたうちまわって、苦しそうにあえぎはじめた……
チェルトプハーノフは両手で耳をふきいで駈けだした。膝ががくがくした。酒の酔いも、憤怒も、愚かしい自信も――何もかも一時にけし飛んだ。後に残ったものはただ差恥《しゅうち》と醜悪《しゅうあく》の感情――それに意識、これで自分自身もおしまいだという、疑いもない意識であった。
十六
それから六週間ほどのちのこと、ボーイのペルフィーシカは、ベスソーノヴォの屋敷の傍を通りかかった郡警察分署長を呼びとめることを、自分の義務と心得た。
「なんの用だ?」とおまわりさんがたずねた。
「どうぞ、旦那様、うちへお寄りになって下さい」とボーイはうやうやしくお辞儀をして答えた。「パンテレイ・エレメーイチがなんだか死にそうなんで。それで実は心配してますんで」
「なに? 死ぬと?」
「さようでございます。初めの間は毎日ウォートカを上がってましたが、今度はその、寝たっきりで、大変におやせになりました。どうやら、旦那は何もおわかりにならないようで。まるっきり口を利きません」
署長は馬車から下りた。
「ところで、いくらなんでも坊さんぐらいは呼びに行ったろうな? 旦那は懺悔《ざんげ》をすませたかい? 聖餐《せいさん》はうけたか?」
「いいえ、まだでございます」
署長は眉をひそめた。
「そりゃまた、どうしたんだね、お前。そんなことってあるもんか、あ? それともお前は知らんのか、そんなことをしたら……重大な責任問題になるってことを、あ?」
「そりゃもう、一昨日も昨日も旦那におたずねしたんで」と怖気《おじけ》づいたボーイはすかさず答えた。「『パンテレイ・エレメーイチ、坊さんを迎えに一っ走り行って参りましょうか?』と申し上げると、『黙れ、馬鹿者。余計なおせっかいをするな』とおっしゃるんで。また今日はお話し申し上げても、――ただおらの顔を見て、髭をひくひくさせるばかりなんで」
「ウォートカはたくさん飲んだか?」と署長がきいた。
「すごくたくさん飲みました! まあ、どうか旦那様、家へ入ってご覧になって下さい」
「じゃ、案内しろ!」と署長はつぶやいて、ペルフィーシカの後からついて行った。
驚くべき光景が彼を待ち受けていた。
湿っぽい、暗い裏部屋で、馬衣をかけたみすぼらしい寝台の上に、けば立った袖無《そでなし》外套を枕の代りに当てがって、チェルトプハーノフが寝ている。顔色はもう蒼白いなどといったものではなく、死人に見られる黄ばんだ緑色で、眼は光沢のある瞼の下に落ち窪《くぼ》み、蓬々《ぼうぼう》とのびた口髭の上には、細く尖《とが》った、がしかし相変らず赤味をおびた鼻が見える。いつものように胸に弾《たま》入れのついたアジヤふうの短上着を着て、チェルケスふうの青いだぶだぶのズボンをはいている。てっぺんのまっ赤な毛皮帽が眉毛の生えぎわまで額を隠している。チェルトプハーノフは片手に狩猟用の鞭を握り、片手にはマーシャの最後の贈り物である刺繍をしたタバコ入れを持っていた。寝台の脇にあるテーブルの上には空《から》の酒壜がのっていて、枕元の壁には二枚の水彩画がピンでとめてある。一枚は、見てわかる限りでは、ギターを手にした肥った男が描かれている――おそらく、ネドピュースキンであろう。もう一枚は馬を飛ばしている騎手が描かれている……馬は子供たちが壁や塀に楽書きする童話の動物に似ていた。けれども念入りに影をつけた毛並みの円い斑点や、騎手の胸についている弾《たま》入れや、長靴の尖った爪先や、すばらしく大きい口髭などを見ると、この絵はマレク・アデリに跨《また》がったパンテレイ・エレメーイチを描いたものに違いなかった。
呆《あっけ》気に取られた署長はどうしていいかわからなかった。死のような静寂が部屋の中にこもっていた。『こりゃもう死んでいる』と心の中で思ったが、声を張り上げて呼びかけた。「パンテレイ・エレメーイチ! パンテレイ・エレメーイチ!」
そのときただならぬことが起った。チェルトプハーノフの眼が静かに開いて、生気のない眸《ひとみ》がまず右から左へ、次に左から右に動いて、来訪者の上にピタリととまり、彼を見た……何かがどんよりした白眼の中にちらつきだして、視線のようなものが現われた。紫色の唇がしだいにはがれて、しゃがれた、それこそ棺桶の中から話しかけているような声が聞えてきた。
「先祖代々の士族パンテレイ・チェルトプハーノフの臨終だ。邪魔できる者はいなかろう? 誰にも借りもなければ、貸しもないんだから……放っといてくれ、みんな! 出て行ってくれ!」
鞭を持った手を上に上げようとした……だが、空《むな》しかった! 唇はふたたびピタリとはりつき、眼はとざされた――チェルトプハーノフは前と同じように、仰向けに身を伸ばし、両の踵《かかと》を引きよせて、硬い寝台の上に横たわっていた。
「息を引き取ったら知らせてくれ」と部屋を出がけに署長はペルフィーシカにささやいた。「それから坊さんは、今から呼びに行ってもいいと思う。しきたりは守らなきゃならんし、聖油礼もしてやらなくちゃ」
ペルフィーシカはその日のうちに坊さんを呼びに行った。そして翌朝は署長に知らせなければならなかった。パンテレイ・エレメーイチがその晩息を引き取ったのである。
葬式のとき彼の柩《ひつぎ》を見送ったのは、ボーイのペルフィーシカとモシェリ・レイバの二人きりであった。チェルトプハーノフが死んだという噂がふとユダヤ人の耳に入ったので、彼は恩人に対する最後の義務を怠らなかったのである。
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生きているミイラ
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忍耐づよき故国よ、おお、ロシアの民の国よ!
エフ・チュッチェフ
〔詩は一八五五年の作。第一節冒頭「貧しき村里よ、やせたる自然よ――」の後につづく〕
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フランスの諺《ことわざ》に『乾いた漁師と濡れた猟人は見るも哀れだ』というのがある。私は漁に趣味を持っていないので、晴れたいいお天気の日に漁師がどんな気持なのか、またお天気の悪い日に大漁によってもたらされる喜びが、濡れ鼠《ねずみ》になる不愉快さを、どれだけ上まわるものなのか、見当がつかない。けれども猟人にとって雨降りは、まことに災難である。私がエルモライと一しょにエゾヤマドリを撃ちにベーレフ郡へ行ったとき、ちょうどこのような災難にあった。夜の明けるころから雨はやまずに降りつづけた。この災難から身を避けるために、ありとあらゆる手は打った! ゴムひきの合羽《かっぱ》を頭からすっぽりかぶりもすれば、なるべく雨の滴《しずく》にあたらないように、木蔭にたたずんでもみた……防水外套は射撃の邪魔になるはさておき、臆面《おくめん》もなく水をとおした。また木蔭は初めのうちこそ、なるほど、雨の滴が落ちてこないみたいだったが、やがて葉にたまった雨水が急にこぼれだして、それが枝という枝から、雨樋《あまどい》から流れるように私たちの頭上に降りかかった。冷たい水がネクタイの下に入りこみ、背筋をつたって流れる……これはエルモライの言う通り、『お手あげ』だった。
「いけません、ピョートル・ペトローヴィチ」と彼はとうとう音《ね》を上げた。「これじゃしようがありません!……今日は猟なんぞできましねえ。犬の鼻は濡れて利《き》かなくなるし、鉄砲は火がつかないし……ちぇっ! てんで駄目だ!」
「どうしたもんかね?」と私はたずねた。
「こうしましょう。アレクセーエフカヘ参りましょう。旦那はご存じないでしょうが――そういう名の農園があって、旦那のお母さんの持ちものになっていますんで。ここから八露里ほど離れております。今夜は向うへ泊って、明日《あした》……」
「ここへ引っ返すのかい?」
「いいえ、ここじゃありません……アレクセーエフカの先には、わしのよく知ってるところがありますんで……エゾヤマドリを撃つには、ここよりかずっとましでさあ!」
私はこの忠実な道づれに、そんならなぜまっすぐそこに案内しなかったのかと、うるさくきこうとはしなかった。そしてその日のうちに、私たちは母の農園にたどり着いた。実を言うと私はこれまで、そんなものがあろうなどとは、夢にも知らなかった。この農園には離れがついていて、かなり古びてはいたけれども、誰も住んでいないので綺麗《きれい》だった。私はここでかなり穏やかな一夜をすごした。
翌日私は非常に早く眼を覚ました。日は今しがたのぼったばかりで、空には雲一つなかった。清新な朝の光が昨日の豪雨の名残《なごり》に照り映えて、あたり一面は一きわ強烈に輝いていた。二輪荷馬車の仕度をしている間、かつては果樹園であったが、今はすっかり荒れはてている小さな庭をぶらつきに出かけた。庭は離れを四方から、香り高い、水気の多い繁みで取り巻いている。ああ、晴れた空を仰いで、野天にいるのはなんとこころよいことだろう。空にはヒバリがさえずり、よく徹《とお》る声が銀の南京玉のように頭上に降り注ぐ! 彼らは、きっと、露の滴を翼に載せて持って行ったに違いない。それで彼らの歌は露に濡れたような気がするのだ。私は帽子まで脱いで、気も晴れ晴れと胸一ぱいに呼吸をした……深くない谷間の斜面の、籬《まがき》のすぐ傍に養蜂場が見えている。そこへ通う狭い小径《こみち》が、ブリヤン草やイラクサが壁のように立ちはだかっている間を、蛇のようにくねっている。ブリヤン草やイラクサの上には、どこから種子が運ばれたものか、暗緑色の大麻《たいま》の、先の尖《とが》った茎がそびえていた。
私はこの小径に沿って歩き出す。やがて養蜂場に着いた。その傍に編枝づくりの納屋がある。これはいわゆる『冬小屋』であって、冬の間はこの中に蜜蜂の巣箱を入れておくのである。私は半開きの戸口からのぞいて見た。中は暗く、ひっそりとして、すっかり乾ききっている。ハッカやメリッサの匂いがする。片隅は板張がしてあり、その上に、何やら小さな形のものが蒲団にくるまっている……私は立ち去ろうとした……
「旦那様、もし旦那様! ピョートル・ペトローヴィチ様!」と、沼のスゲがサラサラそよぐ音のように弱々しい、ゆったりした、しゃがれ声が聞えてきた。
私は立ちどまった。
「ピョートル・ペトローヴィチ様! どうぞ、お入り下さいまし!」と同じ声が繰返した。その声は片隅の、さっき私が目をつけた板張の上から聞えてきた。
私は傍へ寄って――びっくりして立ちすくんだ。私の前には生きた人間が寝ていた。しかしこれは一体、何ものであろう?
頭はすっかり老いさらばえて、一様に青銅色で――古風な描き方の聖像にそっくりである。鼻は剃刀《かみそり》の刃のように細い。唇はほとんど見分けがつかず、ただ歯と眼だけが白く目立ち、頭巾《ずきん》の下からは黄色い髪の毛の薄い房が額《ひたい》にはみ出ている。顎《あご》を埋めた蒲団の襞《ひだ》の上を、やはり青銅色の小さな両手が動いている、箸《はし》のようにか細い指をゆるゆると爪《つま》ぐりながら。私はじっと眼をこらす。顔は醜くないばかりか、美しくさえある、――けれども、ぞっとするような、異様な顔である。この顔がひとしお私に恐ろしく思われたのは、顔に、金属のような感じのする両頬に、懸命になって笑いを浮べようとしているのに、いっかな顔がほころばないのに気づいたからである。
「私がおわかりになりませんか、旦那様?」とまた同じ声がささやいた。その声は辛うじて動いている唇からまるで蒸発して出てくるかのようであった。「無理もございません! 私はルケリヤでございますよ……覚えていらっしゃいますか、スパッスコエのお母様のところで、円舞の音頭取《おんどと》りをしてましたのを……覚えていらっしゃいますか、ほかに合唱の音頭取りもつとめていましたが?」
「ルケリヤ!」と私は叫んだ。「お前だったのかい? まさか、こんなところにいるなんて?」
「私でございます、旦那様、私で。私、ルケリヤでございます」
私はなんと言っていいかわからず、薄色の死人のような眼をこちらに向けている、すすけた、じっと動かない顔を、ただ呆然と眺めていた。こんなことがあるだろうか? このミイラが――屋敷じゅう第一の美人で、背が高く、肉づきのよい、色白の、頬の赤い、笑い上戸《じょうご》で、踊りの名手で、歌のうまかったルケリヤだとは! ルケリヤ、村中の若い衆がみなその後を追っかけまわし、十六歳の少年であった私にしてからが、心ひそかにあこがれた利口者のルケリヤ!
「本当に、ルケリヤ」と私はようやく言った。「どうしたんだね、お前?」
「とんでもない災難がふりかかりましたので! まあ、おいやでも、旦那様、私の不幸な身の上話を聞いてやって下さいまし、――ほら、その桶にお掛けになって下さい、もっと傍へ。でないと私の話がお聞き取れになりませんから……この通り、みっともない声になってしまいましたので!……でも、お目にかかれて、本当にうれしゅうございます! どうしてこのアレクセーエフカになんぞ、いらっしゃいましたので?」
ルケリヤは非常に低い声で、力なく話したが、話はすらすらとよどみがなかった。
「猟師のエルモライがここへつれて来たのだ。だが、それよりもお前の話を聞かせておくれ……」
「私の災難の話でございますか? よろしゅうございますとも、旦那様。もう大分前、六年か七年前のことでございます。そのころ私はワシーリイ・ポリャーコフと結婚の約束ができたばかりでした――覚えてらっしゃいますか、押し出しのよい、捲き毛の男で、当時はまだお母様の食堂係をつとめていましたが? でも、あなたはあのころはもう、田舎にはいらっしゃいませんでしたわね。モスクワヘ勉強にいらして。私とワシーリイはとても愛し合っていました。私は片ときだってあの人のことが頭を離れませんでした。ところで、事の起ったのは春でございました。ある晩のこと……もう夜明けも間もないというのに……どうしても眠れません。庭ではヨウグイスが、うっとりするほどいい声で鳴いているのです!……私はたまらなくなって、起きだすと、それを聞きに昇降口に出ました。ヨウグイスはしきりにさえずっています……そのとき、ふと、誰かワシーリイのような声で、私を呼んでいるような気がしました。こんなふうにそっと、『ルーシヤ〔ルケリヤの愛称〕!……』って。私は声のした方をふり向きました。そのとたんに、きっと寝ぼけていたのでしょう、足を踏みはずして、段々の上からまっすぐ下に落ちてしまい――地べたにどさりとたたきつけられました! それでも、そんなにひどい怪我ではないような気がしたものですから、すぐに起き上がって、自分の部屋に帰りました。ただ何かが中で――腹の中で――裂けたみたいでした……ちょっと……息をつかして下さいまし……旦那様」
ルケリヤは口をつぐんだが、私は驚いて彼女を見つめていた。私が驚いたのはほかでもない、彼女は嘆声も溜息ももらさず、またぐちをこぼしたり、同情を求めたりするようなことがちっともなくて、ほとんど楽しそうに話をしたことである。
「それからというもの」とルケリヤは話をつづけた。「私はやせ衰えてきました。肌の色はすっかり黒くなってしまいました。歩くのが難儀になり、それから先はもう――足がまるで利かなくなるし、立っていることも、坐っていることもできないのです。しじゅう、横になっていたくって。飲みたくも、食べたくもありません。病気はだんだん悪くなる一方です。あなたのお母様はおやさしい方ですから、医者にも見せて下さいましたし、病院にもやって下さいました。けれども少しもよくなりません。それに医者は一人として、私の病気が何なのかはっきり言うことさえできませんでした。私はいろんなことをしてもらいました。まっ赤に焼けた鉄で背中を焼いたり、割った氷の中に漬《つ》けられたりしましたが――やっぱりなんの効き目もありません。おしまいには私はこちこちに硬くなってしまいました……そこでお屋敷でも、この上は治療をしてもしようがないとお決めになりましたが、さりとて片輪者をお屋敷においておくわけにもゆかないし……それで、まあ、ここへ移されたのでございます――ここには身寄りの者もおりますので。こんなわけで、ご覧の通りの暮しをしております」
ルケリヤはまた口をつぐんで、また無理に笑顔をつくろうとした。
「それにしても、お前の境遇は恐ろしいね!」と私は叫んだ……そして、どう附け加えていいかわからないので、こうきいた。「それで、ポリャーコフ・ワシーリイはどうしたんだね?」この問ははなはだ愚問だった。
ルケリヤは少し眼を脇へそらせた。
「ポリャーコフがどうしたかですって? 当座は悲しみましたけれど――ほかの娘と、グリンノエ村から来た娘と結婚しました。グリンノエをご存じですか? ここからそう遠くありません。娘はアグラフェーナと申しました。あの人は非常に私を愛していましたが、何しろ若い身ですし――独り身で通すわけにもいきません。それに私がなんであの人のつれ合いになんかなれましょう? あの人は結構な、気立てのやさしい嫁ごを見つけて、今では子供たちもいます。あの人は今お隣の地主さんのところで執事をしていますよ。あなたのお母様が証明書をつけて暇《ひま》をおやりになったお蔭で、あの人は大へんに助かりました」
「するとお前はじっと寝たきりかい?」
「はい、旦那様、足かけ七年もこうやって寝ています。夏はこの小屋に寝ておりますが、寒くなりますと――風呂場の脱衣所に移されますんで。あちらに寝ています」
「お前の世話は誰がするんだね? 誰か見てくれるのかい?」
「はい、ここにも親切な人たちがいますので。放っておかれるようなことはありません。それに世話といっても大したことはないのです。食べ物といっても、ほとんど食べないようなものですし、また水は――ほら、そこの湯呑の中にありますよ。いつでもきれいな清水が入っていますので。湯呑は自分で手が届くんです。片手はまだ自由が利きますから。それからここには、女の子が、身寄りのない子がいて、それが時折見舞いに来てくれますの、ありがたいことに。今さっきここにいましたが……お会いになりませんでしたか? 色白の、とてもいい子です。その子が花を持って来てくれるのです。私、花が大好きなものですから。でも、ここには植えた花はありません、――もとはありましたが、すっかり絶えてしまいました。でも、野の花もいいものですわ、植えた花よりも匂いがよくて。たとえば、スズランにしても……どんなに気持がいいか!」
「それでお前は淋しくないかい、気味が悪くないかい、かわいそうなルケリヤ?」
「でも、しかたがないじゃありませんか? そりゃ、正直なところ――初めはすいぶん苦しみました。でも、そのうちに慣れてしまい、我慢しつけてみると――なんでもなくなりました。世の中にはもっと悪い人だっているんですから」
「そりゃまたどういうことだい?」
「中には身を寄せる家のない人もいますもの! それから――盲人《めくら》や聾《つんぼ》もいますし! でも私は、ありがたいことに、眼もよく見えますし、耳は耳で何でもよく聞えます、なんでも。モグラが土の中で穴を掘っているのさえ――ちゃんと聞えるんです。また、どんな匂いだって、どんなにかすかな匂いでも、わかりますもの! 畑でソバの花が咲いたのでも、庭で菩提樹《ぼだいじゅ》の花が開いたのでも――教えてもらう必要はありません。私は誰よりも先に、すぐにわかるんですから。ただそっちの方から、そよ風が吹いてきさえすれば。いいえ、なんで神様を恨むことがありましょう?――私よりずっと悪い人だっているんですから。それにこういうことだってございます。達者な人ですとやすやすと罪をおかし勝ちですが、私だと罪の方から逃げていきます。この間もお坊さんが、アレクセイ神父様が、私に聖餐《せいさん》をお授けになるときに、こうおっしゃいました。『お前には懺悔《ざんげ》をさせる必要がないよ。まさかこんな状態では罪もおかせまい?』けれども私は、こうお答えしました。『でも、心の中の罪はどうなりましょう、神父様?』『なに、それは大した罪じゃないよ』とおっしゃって、御自分でお笑いになりました」
「それに私は、きっと、この心の中の罪も大しておかしていないと思います」とルケリヤは、言葉をつづけた。「物事を考えないように、わけても――昔のことを思い出さないように自分を慣らしましたから。その方が月日が早くたちますもの」
私は、実を言うと、驚いてしまった。
「お前はいつも一人ぼっちでいるのに、ね、ルケリヤ。どうして考えごとをしないでいられるんだい? それともしじゅう眠っているのかね?」
「まさか、そんなことはございませんよ、旦那様! いつも眠れるとはかぎりません。大した痛みはありませんが、ここが、お腹の中がしくしく痛みますので。それから骨のふしぶしも。とても安眠はできません。どういたしまして……で、私はこうやって、横になって寝ているばかりで――考えごとなんかいたしません。自分は生きて、呼吸《いき》をしていると感じるだけで――どうにも仕方がありませんので。ただ見たり、聞いたりしているだけです。蜜蜂が養蜂場でブンブンうなっている。鳩が屋根の上にとまってククウと鳴いている。巣ごもり中の雌鶏《めんどり》が雛《ひよ》っ子をつれてパン屑をつっつきに入って来る。そうかと思えばスズメや蝶が飛びこんできたり――楽しくてなりません。一昨年なんかはツバメまでもやって来て、あそこの隅に巣をつくり、雛《ひな》までかえしました。それはもう面白うございましたよ! 一羽が巣に帰って来て、胸をすり寄せて、雛に餌をやると――また外へ飛んでいきます。が、ふと見れば、もう別のツバメが代りに来ているじゃありませんか。時には中へ飛びこまずに、開いた戸口の傍を飛びすぎてゆくことがあります。ところが、子供たちはすぐに――チイチイ鳴いて、嘴《くちばし》をあけているのです……私は次の年もツバメの来るのを待っていましたのに、この土地の猟人が鉄砲で撃《う》ってしまったとか。あんなものを撃ってなんになるんでしょう? あの鳥は、ツバメは、甲虫《かぶとむし》ぐらいの大きさしかないものを……あなた方、猟をする方は、なんて意地悪なんでしょう!」
「私はツバメなんか撃たないよ」と私は急いで言った。
「また、あるときは」とルケリヤがまた話しはじめた。「それはおかしなことがありました! 兎が飛びこんで来たんですよ、本当に! 犬に追いかけられでもしたのでしょう、いきなり戸口から転げこんで来たのです!……すぐ傍にちょこなんとうずくまり、いつまでもじっと坐っていて、たえず鼻をうごめかし、口髭をピクピク動かしていました――それこそ軍人みたいに! そして私をじっと見つめているのです。つまり、私がこわくないってことが、わかったんですね。そのうちにやっと立ち上がって、戸口の方ヘピョンピョン跳ねていき、敷居の上で一ぺん後をふり返り――そのまま行ってしまいました! そのおかしいことといったら!」
ルケリヤは私を見た……『どう、おかしくありませんか?』と言うように。私は彼女の気に入るように笑ってみせた。彼女は渇いた唇を噛んだ。
「そりゃ、冬は、もちろん、私にとっちゃよくありません。なぜって――暗いんですから。ろうそくをつけるのはもったいないし、なんになりましょう? 私は読み書きを知っていますし、いつだっても本を読みたい気持はありましたが、一体、何を読みましょう? ここには本なんかまるでありませんし、あったところが、どうやってそれを、本を、手に持っていることができましょう? アレクセイ神父さんが、気散《きさん》じに、暦《こよみ》を持って来て下さいましたが、役に立たないことがわかると、また持ってお帰りになりました。けれども暗くたって、やっぱり音を聞くことはできます。コオロギが鳴くとか、鼠がどこかをガリガリ噛《かじ》るとか。何も考えないってことは、こんなに楽しいんですよ!」
「それからお祈りもいたします」少し休んでから、ルケリヤは言葉をつづけた。「ただ私はそれを、お祈りの文句を少ししか知りません。それにまた、神様をうんざりさせるにも当りませんでしょう? 私に何をお祈りすることがあって? 私に何が必要であるかは、神様の方がよくご存じなんですもの。神様は私に十字架をお授《さず》けになった――つまり私を愛していらっしゃるのです。私たちはそう理解するように教えられています。『われらが父よ』とか、『聖母よ』とか、『悩める者への讃歌』などをとなえてしまうと――また横になって何も考えないで寝ているのです。それでなんでもありませんよ!」
二分ほどたった。私は沈黙を破らずに、腰掛けがわりの窮屈な桶の上で身動きもしなかった。私の前に横たわっている不幸な生き物の残酷な、石のような不動の状態が、私にも伝わってきたのである。私も身体が麻痺《まひ》したみたいであった。
「ねえ、ルケリヤ」と私はとうとう口をきった。「お前に一つ相談があるんだがね。もしよかったら、お前を病院へ、町の立派な病院へつれて行くように言いつけるんだが? もしかしたら、なおるかもしれない。どっちにしても、独りぼっちじゃなくなる……」
ルケリヤはかすかに眉を動かした。
「おお、いけませんわ、旦那様」と彼女は不安そうにささやき声で言った。「私を病院に移さないで下さい、そっとしておいて下さいまし。そんなところへ行っても、よけい苦しい目に会うだけですから、私の病気がなおるもんですか!……現にいつかも医者がここへ来たことがありました。私を診《み》たいと言うので。私は医者に、『後生ですから、そっとしておいて下さい』と頼みました。ところが、どうして! 私をあっちへ向けたり、こっちへ向けたりし、手や足を揉《も》んだり、曲げたりして、言うことには、『わしは学問のためにやっているのだ。わしは学問のために働いている人間、つまり学者なんだ! そしてお前はわしに反対などできん。なぜって、わしは自分の業績に対して勲章までもらっているのに、お前たちのような馬鹿者のためにつくしているのだからな』さんざん私をいじりまわしたあげく、病名を言って――なんだか難しい名前でした――そのまま帰ってしまいました。ところが、それからまる一週間というもの、私は身体じゅうのふしぶしが痛んで困りました。あなたは私が独りでいる、いつも独りぼっちだとおっしゃる。いいえ、いつも独りぼっちではありません。いろんな人が来てくれます。私はおとなしくしていて――人の邪魔なんかいたしません。百姓娘たちが寄っては、話しこんでいきますし、巡礼女がふと立ち寄っては、エルサレムや、キエフや、聖なる町々の話をしてくれます。それに一人でいてもこわくなんかありません。かえってその方がいいくらいです、本当ですとも!……旦那様、私にかまわないで下さい、病院になんかつれて行かないで下さい……御親切はありがとうございますが、かまわずにおいて下さいまし」
「そんなら、好きなようにおし、ルケリヤ。私はお前のためを思って言っただけのことで……」
「存じています、旦那様、私のためを思って下さるってことは。でも、旦那様、誰が他人を助けることができましょう? 誰が他人の心の中に立ち入ることができましょう? 人は自分で自分の始末をしなくちゃなりません! 旦那様は本当になさらないでしょうが――こうして一人で寝ていますと時折……なんだかこの世の中に、自分のほかは誰もいないような気がしてきます。私一人だけが――生きている! そして私はどうやらわかるような気がするんです……私は物思いにふけるのです――本当に不思議なくらいです!」
「そんなとき、お前は何を考えているのかね、ルケリヤ?」
「それは、旦那様、とてもお話できません。うまく説明できないのです。それに後になると忘れてしまうもんですから。それがやって来ると、まるで雲が雨を降らせたように、とてもさわやかになり、気持がよくなるのですが、さてそれがなんだったかと言われても――さっぱりわかりませんので! ただ私はこう思うのですよ。私の傍に人がいたら――そんなことはちっともなくって、自分が不幸だということ以外、何も感じないだろうと」
ルケリヤは苦しそうに溜息をついた。胸も手足と同じように彼女のいうことを聞かなかったのである。
「お見受けしたところ、旦那様」と彼女はまた話しはじめた。「旦那様は私のことを大そうかわいそうだと思っていらっしゃる御様子です。でも、私のことをあまりかわいそうだなどとお思いにならないで下さい、本当に! たとえば、私は今でも時折……あなたは覚えていらっしゃるでしょう、私が昔どんなに陽気だったかを? おてんばでした!……ねえ、そうでしょう? 私は今でも歌を歌いますよ」
「歌を?……お前が?」
「はい、歌を、古い歌を。輪舞の歌、皿|占《うらな》いの歌、クリスマス季節の歌など、いろんな歌を! 私は何しろ歌をたくさん知っていましたので、今でも忘れていません。ただ舞踊曲だけは歌いません。今の私の容体では向きませんから」
「どんなふうに歌うんだね……心の中でかい?」
「心の中でも歌えば、声を出しても歌います。大きな声は出ませんが――それでもわかるようには歌えます。さっきあなたにお話ししたでしょう――女の子がここへ来るって。みなし児《ご》ですけれど、とても物わかりがいいんです。それで私はあの子に教えてやりました。あれは歌をもう四つも覚えてしまいましたよ。本当になさいませんか? ちょっとお待ちになって下さい、今私が……」
ルケリヤは元気をふりしぼった……この半ば死にかかっている生き物が、歌を歌いだそうとしているのだと思うと、私は思わずぞっとした。けれども私が一言も言いださないうちに――長く尾をひいた、やっと聞き取れるくらいの、しかも澄みきった正確な音が私の耳の中でふるえだした……それにつづいて第二、第三の音が聞えた。ルケリヤは『草野の中で』を歌っているのだった。彼女は自分の硬《こわ》ばった顔の表情を変えずに、じっと眼さえ据《す》えて歌っていた。しかしこの哀れな、精一ぱいの、かぼそい煙のようにゆらめく声の響きには、まことに人の心を打つものがあった。彼女は魂を残らず注《そそ》ぎ出してしまいたかったのだ……私はもう恐ろしいとは思わなかった。言いようもない不憫《ふびん》な気持が、私の胸をギュッと緊《し》めつけた。
「ああ、もう駄目です!」と不意に彼女は言った。「力がつづきません……お目にかかれてあんまりうれしかったもんですから」
彼女は眼を閉じた。
私は彼女の小さな冷たい指の上に片手を載せた……彼女は私の顔をちらりと見上げた――それから、古代の彫刻にあるような、金色の睫毛《まつげ》におおわれた暗い瞼《まぶた》は、ふたたび閉じられてしまった。が、すぐにそれは薄暗がりの中で輝きはじめた……眼は涙に濡れていた。
私は相変らず身じろぎもしなかった。
「まあ、私ったら!」とルケリヤは思いがけない力強い調子で急に言うと、眼を大きく見開き、眼をしばたたいて涙をふり払おうとした。「すっかり取り乱してしまって。どうしたというんでしょう? しばらくこんなことはなかったのに……去年の春、ポリャーコフ・ワーシャ〔ワシーリイの愛称〕がここへ訪ねて来た日以来のことです。あの人がそこに腰かけて私と話をしている間は――まあ、なんでもなかったんです。でも、あの人が行ってしまって――独りぼっちになると、とたんにわっと泣きだしてしまいました。涙なんてものはどこから出てくるのでしょう!……でも私たち女は涙もろいものなんでございますから。旦那様」とルケリヤは附け加えた。「旦那様はきっと、ハンケチをお持ちでございましょうね……どうぞ、私の眼を拭《ふ》いて下さいませ」
私は急いでルケリヤの望みをかなえてやり――ハンケチはそのまま彼女にやった。彼女は初めのうちは辞退した……「なんだって私にこんな立派なものを」と言って。ハンケチはごく粗末なものではあったが、清潔でまっ白だった。それから彼女は弱々しい指でそれをつかむと、もう放そうとしなかった。そのうちに私たち二人のいる暗がりに馴れると、彼女の顔つきをはっきりと見分けることができた。青銅色の顔にほんのりさしている薄紅《うすくれない》にさえ気がついた。私はこの顔に――少なくとも私にはそう思われた――往年の美人の面影を見出すことができた。
「あなたはさっき、旦那様、『いつも眠っているのか?』と私におたずねでございましたね。私は本当はたまにしか眠ることはありませんが、眠るといつもきまったように夢を、見るんでございます、いい夢を! 夢の中だと私はいつも病気じゃありません。いつだって丈夫で、若いのです……ただ一つ悲しいのは、目が覚めて、楽々と手足を伸ばそうとすると――どっこい私は、全身≪かせ≫にはめられたような身体じゃありませんか。いつかこんなすばらしい夢を見たことがありましたっけ! なんでしたら、お話しいたしましょうか?――では、お聞き下さい。――見れば、私は野原のまん中に立っていて、あたり一面にはライ麦が生えています、背の高い、よく熟《う》れた、黄金色のライ麦が!……なんでも私の傍には赤い犬がいましたが、意地悪な、とても意地悪な犬で――しょっちゅう私に噛みつこう、噛みつこうとしているのです。私は手に鎌《かま》を持っていました。それもただの鎌ではなく、ほら、お月様が鎌のような形になるときの、あのお月様なんでございますよ。このお月様で、私は、ライ麦をすっかり刈り取ってしまわなければなりません。ただ私は暑いのでぐったりしていました。それにお月様がまぶしくもあるし、なんだかおっくうでもあります。ところがまわりには矢車菊が生えているのです、とても大きなのが! それが一せいに私の方に頭を向けました。私はそこで、この矢車菊を摘んでやろうと考えました。ワーシャが来るって約束でしたから――まず花環をつくろう、ライ麦を刈るのはそれからでも間に合う、と思ったのです。私は矢車菊を摘みはじめましたが、矢車菊は私の指の間から消えてなくなってしまうのです、どうしても駄目です! 花環をつくることができません。そのうちに誰かがこちらへやって来る音がしました。すぐ傍までやって来て、『ルーシャ! ルーシャ!』と呼ぶのでございます……ああ、困った、間に合わなかったわ! と私は思いました。どうせ同じことだ、矢車菊のかわりにこのお月様を頭にかぶるとしよう。私がちょうど頭飾りのようにお月様をかぶりますと、急に身体じゅうが光りだして、あたりの野原が明るくなりました。見れば――麦の穂先をつたって私の方へどんどん走って来るものがあります――ただそれはワーシャじゃなくって、キリスト様御自身なのでございます! どうしてそれがキリスト様だとわかったかは、言えません、――よく絵に描いてあるのとは違いますが、キリスト様だということだけは間違いないのです! 髯《ひげ》のない、背の高い、若い方で、まっ白な着物を着ておいででしたが、――ただ帯だけが金色でした――私に片手をさし伸べると、こうおっしゃいました。『こわがることはない、着飾った私の花嫁よ、後からついておいで。お前は私の天国で、輪舞の音頭取りをして天国の歌を歌うがよい』私はすぐとキリスト様のお手に接吻をしました! 犬は今にも私の足に噛みつきそうになりました……けれども私たちはこのときサッと舞い上がったのです! キリスト様が先に立って……キリスト様の翼が、鴎《かもめ》のように長い翼が、空一ぱいに拡がりました、――私はその後からついて行きます! それで犬は後に残らねばなりませんでした。そのとき私は初めて、この犬は私の病気であること、天国にはもうこの犬の居場所がないのだ、ということがわかったのです」
ルケリヤはちょっとの間おし黙った。
「それからこんな夢も見ました」と彼女はまた話し出した。「でも、もしかしたら幻《まぼろし》だったかもしれません――よくわかりませんが。私はこの小屋の中に寝ているようでした。すると亡くなった両親が――お父さんとお母さんが――やって来て、私に丁寧にお辞儀をしましたが、二人ともなんとも言いません。そこで私は、『どうしてあなた方は、お父さんにお母さん、私にお辞儀なんかなさるんです?』とききました。すると、『なぜって、お前はこの世で大へん苦しんでいるからだ。それはお前の魂を和《やわ》らげたばかりでなく、わしらの重荷も取り去ってくれたのだ。それでわしらはあの世で楽ができるんだよ。お前は自分の罪はもうすっかり償《つぐな》ってしまい、今はわしらの罪ほろぼしをしてくれているんだよ』こう言って、両親はもう一度私にお辞儀をすると――姿を消してしまいました。見えるのは壁ばかり。その後で、これは一体どうしたことだろうと不思議でなりませんでした。懺悔のとき坊さんにお話ししたくらいです。もっとも坊さんは、それは幻じゃあるまい、幻というものは坊さんにだけ見えるものだ、とおっしゃいました」
「それからこんな夢もありました」とルケリヤは話をつづけた。「なんでも私は、大きな街道のハコヤナギの下に腰を下ろしていました。削《けず》った杖を手に持って、旅行袋を背負い、頭を布《きれ》で包んで――巡礼女そっくりなのです! 私はどこか遠い遠いところへお詣《まい》りに行かなければならないのです。私の傍をひっきりなしに巡礼が通って行きます。いやいやながら仕方なしに行くみたいに、のろのろと、みんなが同じ方向に歩いて行くのです。どの顔もぐったりと疲れきって、お互いに似通《にかよ》っています。ふと見れば、その間を一人の女がぐるぐるまわって、あちこち跳び歩いています。他の者より首だけ背が高くて、着物も一ぷう変っており、ロシアふうではありません。顔も変っていて、陰気な、いかつい顔をしています。他の者はみんなその女の傍をよけるようにしています。と、その女は急に身をひるがえして――まっすぐ私の方に飛んで来ました。私の傍に立ちどまって、じっと私を見つめています。その眼はタカのように黄色で、大きくて、澄み切っています。そこで私は『どなたでしょう?』とききますと、その女は『私はお前の死神だよ』と答えました。私はびっくりするどころか、あべこべに、うれしくてたまらなくなり――十字を切りました! するとその女は、私の死神は言いました。『ルケリヤ、私はお前がかわいそうだけれど、一しょにつれて行くことはできないよ。さようなら!』ああ、そのとき私はどんなに悲しく思ったでしょう!……『私をつれてって下さい、お願いですから、どうか、つれてって下さいまし!』と私は頼みました。すると死神は私の方をふり返り、何やら言いはじめました……私の死期を教えているのだということはわかりますが、あまりよくわからないし、はっきりしません……なんでも、ペトローフキ〔聖ペトロ祭(六月二十九日)前の精進期〕がすんでから、と言ったようでした……そのとたんに私は目が覚めました。私はこんな不思議な夢を見るのでございます!」
ルケリヤは眼を上に向けて……考えこんだ……
「ただ一つ困ったことに、まる一週間も、少しも眠れないことがあります。去年ある奥様が通りすがりに、私をご覧になり、眠り薬を一壜《ひとびん》下さいました。十滴ずつ飲むようにと申されて。大そうよく効いて、ぐっすり眠れました。でも、もうとっくに薬がなくなってしまいました……あれがどんな薬かご存じありませんか、どうしたら手に入れることができましょう?」
どうやら通りすがりの奥様は、ルケリヤにアヘンを与えたものと見える。私はそのような小壜を手に入れてやることを約束したが、彼女の我慢強さに感嘆の声を上げないわけにはいかなかった。
「まあ、旦那様!」と彼女は言い返した。「何をおっしゃいますの! これがなんで我慢なもんですか? そりゃ、柱頭苦行者《ちゅうとうくぎょうしゃ》シメオン様の我慢なら本当に大したものでございます、三十年も柱の上におとどまりになったんですもの! また別の聖者は自分を胸まで土の中に埋めさせて、アリに顔を食われました……それからこれは村のある物知りに聞いた話ですが、なんとかいう国があって、その国をサラセン人が取ってしまい、国中の者をみないじめたり、殺したりしたそうです。住民はいろいろとやってみましたが、どうしても敵から逃れることができません。そのとき住民の間に聖女が現われました。大きな剣を手に持ち、二プード〔一プードは一六・三八キロ。四貫三六八匁〕もの甲冑《かっちゅう》を身にまとい、サラセン人を征伐に出かけて、海の向うに一人残らず追っぱらってしまいました。さて敵を追っぱらってしまってから、敵に向って言うには、『さあ、今度は私を火焙《ひあぶ》りにしておくれ。自分は国民のために火焙りにされて死ぬと誓ったのだから』そこでサラセン人たちは聖女を捕えて火焙りにしてしまいましたが、そのときからこの国の人たちは永久に自由の身になったそうです! これこそ本当の手柄と申すべきでしょう! 私なんかとても!」〔ロシア語のイギリス人〈アングリチャーネ〉とサラセン人〈アガリチャーネ〉とは発音が似ているところから、ジャンヌ・ダルクの敵がいつのまにか、キリスト教徒のイギリス人から回教徒のサラセン人にすり変ったのである〕
この話を聞いて私は、こんな田舎へ、こんな形でジャンヌ・ダルク伝説が入りこんでいるのに、心ひそかに驚いた。そしてしばらく黙っていた後で、ルケリヤに、『その聖女はいくつだったの?』ときいてみた。
「二十八か……九……三十にはなっていなかったと思います。でも、年なんか勘定してもしようがないじゃありませんか! それよりもう一つお話しいたしましょう……」
ルケリヤは不意にむせるような咳《せき》をして、苦しがった……
「お前は話をしすぎるんだよ」と私は彼女に注意した。「身体に悪いかもしれない」
「本当です」と彼女はやっと聞き取れるくらいの声でささやいた。「これで話はやめにいたします。でも、構やしません! あなたはもうすぐお帰りになるでしょうし、そしたら思う存分黙っていられますから。とにかく、これで胸がすうっとしました……」
私は彼女に暇乞《いとまご》いをして、薬を送り届けるという約束をさらに繰返し、何か要《い》るものがないか、もう一度よく考えてみるがよい、と言った。
「何もほしくありません。おかげ様で、何もかも十分です」とずいぶん骨を折って、けれども感動した様子で彼女は言った。「皆さんがお達者でいられますように! ときに旦那様、お母様におっしゃっていただけませんでしょうか――この土地の百姓は貧乏でございますから、ほんの少しでもお年貢を減らしていただくように! 土地も十分じゃなし、森などもありませんから……そうして下さったら、どんなにありがたく思うことでしょう……私は何もほしいものなんてありません、何もかも十分でございます」
私はルケリヤに彼女の願いをかなえてやることを約束し、もう戸口の傍まで近づいたとき……彼女はまた私を呼び戻した。
「覚えていらっしゃいますか、旦那様」と彼女は言ったが、そのときに何かしら絶妙なものが彼女の眼や唇にひらめいた。「私がどんなお下げ髪をしていたかを? 覚えていらっしゃいますか――膝につくほどでした! 私は永い間決心がつきませんでした……あんな見事な髪ですもの!……でも、どうやって髪が梳《と》かせましょう? こんな境遇で!……それで私はとうとう切ってしまいました……そうですとも……では、さようなら、旦那様! もうお話できません……」
その日、猟に出かける前に、私は農園の小頭《こがしら》とルケリヤの話をした。私は彼から、ルケリヤは村では『生きているミイラ』と呼ばれていること、けれども村の者に何も迷惑をかけるようなことはないこと、彼女の口から不平も泣きごとも絶えて聞かないことを知った。「自分からは何をしてくれとも言いません。それどころか、なんでもありがたがっています。穏《おだ》やかな女、まったく穏やかな女と言わなくちゃなりません。そりゃ神様に片輪にされた女ですから」と小頭は話を結んだ。「つまり、それだけの罪があったのでしょう。でも私たちは、そのせんさくなどはいたしません。たとえば、あの女を悪く言うなど――いいえ、私たちはあれを悪く言うようなことはありません。そっとしておいてやることです!」
――――――
それから数週間たって、私はルケリヤが亡くなったということを聞いた。死神が彼女を迎えに来たのである……しかも『ペトローフキがすんでから』。なんでも人の話によれば臨終の日、ルケリヤの耳には絶えず鐘の音が聞えたそうである。ところがアレクセーエフカから教会までは五露里余りもあるし、その日は日曜でも祭日でもなかったのだ。もっともルケリヤは、鐘の音は教会から聞えてくるのではなく、『上の方から』聞えてくると言ったという。おそらく、『天上から』と言いたいのを遠慮したものであろう。
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音がする!
「ちょっと申し上げておきますが」とエルモライが私のいる小屋の中に入って来ながら言った。私は食事を終えたばかりで、かなり獲物はあったけれどそのかわりには骨も折れたエゾヤマドリ猟の後で、一休みしようと思いキャンプ用寝台に横になったところだった――ちょうど七月の中旬で、猛暑がつづいていた……「ちょっと申し上げておきますが、霰弾《たま》がすっかりなくなってしまいました」
私はベットから跳ね起きた。
「霰弾《たま》がなくなった! そんなことがあるもんか、村を出るときはかれこれ三十フント〔一フントは四〇九・五グラム〕も持ってきたじゃないか! 一袋《ひとふくろ》も!」
「そりゃそうですとも。それに大きな袋でしたから、二週間分はたっぷりありました。でも、どうしたわけだかわかりません、綻《ほころ》びでもできたのか、とにかく本当に霰弾《たま》がないんで……それで、十発分ぐらいしか残っちゃいません」
「さて、どうしたもんかな? 一番いい場所を目の前にして――明日は一腹仔《ひとはらご》を六組も仕止《しと》めること間違いなしだったのに……」
「じゃ、わしをトゥーラヘやって下さい。ここからそんなに遠くはありません、たかだか四十五露里です。なに、一息《ひといき》に飛んで行って、なんでしたらまるまる一プード〔一プードは一六・三八キログラム〕も霰弾《たま》を持ってきまさあ」
「いつ出かけるんだね?」
「今すぐにでも。ぐずぐずしてるこたあ、ありません。ただ、なんですね、馬をやとわなくちゃならんでしょう」
「馬をやとうんだって! うちの馬じゃいけないのか?」
「うちの馬じゃ駄目です。中馬が跛《びっこ》をひきだしたんです……ひどく!」
「いつから?」
「そら、この間、――馭者が蹄鉄《かなぐつ》を打ちにつれて行きましたろう。それで蹄鉄は打ちましただ。ところが鍛冶屋が、きっと、下手くそなのに当ったんでさあ。今じゃ足を踏み出しもできません。前足が一本悪いんで。こうやって持ち上げてますよ……犬みてえに」
「それで何かい? せめて蹄鉄だけははずしてやったろうな?」
「いいえ、まだはずしてません。どうしたってはずしてやらなくちゃ。釘が、きっと、肉の中に打ちこまれてるんで」
私は馭者を呼んでくるように命じた。エルモライの話がでたらめじゃないことがわかった。中馬はじっさいに歩くことができなかった。私はすぐさま、馬の蹄鉄をはずして湿った粘土の上に立たせておくように指図をした。
「どうしたもんでしょう? トゥーラヘ行く馬をやといましょうか?」とエルモライが食い下がる。
「こんな辺鄙《へんぴ》なところで馬がやとえるものか?」私はいまいましくなって思わずどなりつけた……
私たちのいた村は、人目につかない、片田舎であった。村の住民はどれもこれも素寒貧《すかんぴん》らしかった。私たちは一軒の――煙突があるとまではいかないが、多少ともゆったりした小屋を、やっとのことで見つけ出したのである。
「やとえますよ」といつものように平然としてエルモライが答えた。「この村はたしかに旦那の言われた通りです。ところがほかでもない、この土地に一人の百姓が住んでましたんで。利口者で、金持でしたよ! 馬を九頭も持っていて。御本尊は死んじまって、今は長男が管理しています。こいつは馬鹿も馬鹿、大馬鹿なんですが、まだ親父の残した財産をなくしてしまうまではいってません。馬はあいつのところで借りられますよ。なんでしたら、あいつをつれて参りましょう。あいつの弟どもは、聞くところによると、抜け目のないやつだそうですが……なんといってもあいつが頭《かしら》なんで」
「そりゃまたなぜだい?」
「なぜって――総領だからでさあ! つまり、年下の者は――言うことを聞かなくちゃならないんで!」ここでエルモライは力強く、みだらな言葉をまじえて、一般に弟なるものを批評した。「あいつをつれて来ましょう。あいつはおめでたいんでがす。あいつとなら――話がつかないことがあるもんですか?」
エルモライが『おめでたい』人間を呼びに行っている間、いっそのこと自分でトゥーラへ行って来た方がよくないかしら、という考えが頭に浮んだ。第一に、私は今までの経験に徴して、エルモライを信用していなかった。私はあるとき彼を町へ買い物にやったことがある。彼は私に頼まれた用事を一日のうちにちゃんと果すことを約束した――ところがまる一週間行方をくらまし、あり金残らず飲んでしまい、行きには馬車で出かけたものが、とぼとぼ歩いて帰って来た。第二に、トゥーラには私の知り合いの博労《ばくろう》がいた。跛《びっこ》をひき出した中馬の代りの馬をこの男から買うこともできる。
『それに決めた!』と私は考えた。自分で行ってこよう。道中だって眠れる――幸いと旅行馬車は乗り心地がよい』
――――――
「つれて来ましたで!」十五分ほどたって、エルモライは小屋に駆けこみながら叫んだ。その後から白いシャツを着て、青いズボンと草鞋《わらじ》をはいたのっぽの百姓が入って来た。髪の毛や眉や睫毛が白っぽく、弱視で、楔形《くさびがた》の赤髯《あかひげ》に、長いぶよぶよの鼻をしており、口をポカンと開いている。彼はまったく『おめでたい人』に見えた。
「ほら、どうぞ旦那」とエルモライは言った。「馬はこの男が持っていますし、承知したと言っています」
「つまり、その、わしは……」と百姓は少ししゃがれた声で、口ごもりながら、言い出した。まばらな髪の毛を振り立て、手に持った帽子の縁《へり》を指で爪《つま》ぐりながら……「わしは、その……」
「お前の名はなんというんだね?」私はたずねた。
百姓は下を向いて、考えこんでいるみたいだった。
「わしの名前でございますか?」
「そうだ。なんという名だね?」
「わしの名なら――フィロフェイてんで」
「ところで、話というのはこうなんだよ、フィロフェイ。お前は馬を持っているそうだね。三頭立てをここへひいて来てくれないか、私の馬車につけるんだから。――馬車は軽いやつだ――そしてトゥーラまでつれて行ってもらいたいんだ。今は月夜で明るいし、乗って行くんだって涼しい。ここらあたりの道はどうだね?」
「道ですって? 道は――どうってこともねえです。本街道までは二十露里もありますべえかな――みんなで。ただ一ヵ所ありまさあ……具合の悪いところが。ほかには別に何もありましねえ」
「具合の悪いところというと?」
「浅瀬を渡らなくちゃなんねえだ」
「じゃ、旦那は御自分でトゥーラへいらっしゃるんで?」とエルモライがたずねた。
「ああ、そうだよ」
「へえ!」と私の忠僕は言って、頭を振った。「へええ!」と彼はもう一度繰返して、ペッと唾を吐き、外へ跳び出した。
トゥーラ行きがもはや、エルモライにとってなんの魅力もなくなったことが、明らかであった。それは彼にとって、つまらない、面白くもないことになってしまったのである。
「お前、道をよく知ってるだろうな?」私はフィロフェイに話しかけた。
「道を知らなくってどうしましょう! ただわしは、その、そりゃまあ、旦那の御随意ですが、できません……何分話があまり急なもんで……」
エルモライはフィロフェイをやとうのに、「馬鹿、金は払うから心配するな……」と言っただけでほかに何も言わなかったのである! フィロフェイは、エルモライに言わせれば馬鹿だけれども、――ただそれだけの話では納得しなかった。彼は紙幣で五十ルーブリという法外な値段を吹っかけた。私はもっと安い値段――十ルーブリを申し出た。私たちは値段の駈け引きを始めた。フィロフェイは初めは頑強だったが、やがてしぶしぶと譲歩しだした。ちょっと入って来たエルモライが私に請合《うけあ》いはじめた。「この馬鹿は(『そら、また十八番《おはこ》が始まった!』とフィロフェイが小声でつぶやいた)、まるで銭《ぜに》勘定を知んねえだよ」と言って、ついでにこういう話を私に聞かせた。二十年ほど前、私の母が二つの街道の交叉点にあたる人通りの多い場所に旅籠屋《はたご》を建てたことがあるが、それがすっかり営業不振に陥ってしまった。それはなぜかと言えば、番頭になった年寄りの召使がまるで金の勘定を知らずに、数さえ多ければいいと思っていたからである。つまり、例えば、五コペイカ銅貨六枚の代りに二十五コペイカ銀貨一枚を払って、しかもさんざん悪態をつくという始末だったのである。〔当時銀貨は銅貨の三・三倍に通用したから、番頭は銅貨で五十コペイカ以上も損をしたことになる〕
「おい、こら、フィロフェイ、お前はほんとにフィロフェイだな!」と最後にエルモライは大声で叫んで、出がけに中っ腹でバタンと戸を閉めた。
フィロフェイはなんとも言葉を返さなかった。フィロフェイなどとまぬけな名前で呼ばれるのは、いかにもあまり具合のいいことじゃない、こんな名前の人間は悪く言われても仕方があるまい、と観念しているかのように。もっとも本当に悪いのは、洗礼のときに人並みの名前をつけてくれなかったお坊さんなのである。
それでも、とうとう、二十ルーブリということで話がついた。フィロフェイは馬をつれに帰り、一時間後には、選《よ》り取りができるようにと五頭つれて来た。馬はかなりの代物《しろもの》であった。たてがみや尾がもつれており、腹部は――大きくて、太鼓のように張っていたが。フィロフェイと一しょに弟が二人やって来たが、兄貴には少しも似ていなかった。小柄で、眼が黒く、鼻が尖《とが》っていて、たしかに、『抜け目のない』連中だという印象を与えた。早口で、よくしゃべった。つまり、エルモライの表現によれば――『ほざいた』が、しかし兄の言うことはよくきいた。
彼らは軒下から馬車を引き出して、一時間半も馬車や馬のことでかけまわっていた。縄のひき綱をゆるめてみたり、ぎゅうぎゅう締めつけてみたり。二人の弟はぜひとも『葦毛』を中馬につけたがった。なぜなら『下り坂が得意だ』から。けれどもフィロフェイは、『むく毛がいい!』と決めた。そこでむく毛を中馬につけた。
馬車には乾草をぎっしり詰めて、腰掛けの下には跛《びっこ》になった中馬の頸圏《くびわ》をつっこんだ――トゥーラで新しく買う馬につける必要がある場合を考えてである……家へ駈け戻って、長くて白い、親父ゆずりの上衣《バラホン》〔ゆるやかなオーバーオール〕を着て、高い麦藁帽子をかぶり、油を塗った長靴をはいて帰って来たフィロフェイは、意気揚々と馭者台によじ登った。私は時計を見て席に着いた。十時十五分である。エルモライは私にごきげんようとも言わないで、飼犬のワレートカをぶちにかかった。フィロフェイは手綱をしぼって、甲高《かんだか》い声で、「えい、こら、畜生!」と叫んだ。弟たちが両側から駈けよって、副馬《そえうま》の腹の下に鞭をくれた。馬車は動き出し、門をぐるりと曲って往来へ出た。むく毛はわが家の庭に飛んで帰ろうとしたが、フィロフェイが鞭で二三度ひっぱたいて思い知らせた。――やがて私たちは早くも村を出はずれて、繁ったクルミ林が両側につづいている、かなりなだらかな街道を走りだした。
静かな、すばらしい、馬車で旅をするにはうってつけの夜であった。風は藪《やぶ》の中でサラサラ音を立て、小枝を揺《ゆさ》ぶるかと思えば、すっかり静まりかえる。空のあちこちにはじっと動かない銀色の雲が見えている。月は高くかかり、あたりを皎々《こうこう》と照らしている。私は乾草の上に身体をのばして、うとうととまどろみかけた……が、ふと『具合の悪い場所』のことを思い出して、ぶるっと身ぶるいした。
「どうだね、フィロフェイ? 浅瀬まではまだ遠いかい?」
「浅瀬までかね? 八露里もありましょう」
『八露里、』と私は考えた。『あと一時間もしなくちゃ着くまい。すると、一寝入りできるわけだ』
「お前は、フィロフェイ、道をよく知ってるだろうな?」と私はまたきいた。
「なんで、≪それ≫がわからなくってよ、道がさ? 始めてじゃあるまいし……」
彼はまだ何やら言っていたが、私はもうよく聞き取ろうとしなかった……私はいつしか眠っていた。
――――――
私が目を覚ましたのは、よくあるように、一時間したら起きようと思って目が覚めたのではなく、かすかではあるが、何かしら奇妙な、ピチャピチャ、ゴウゴウという音が私のすぐ耳の下で聞えたからである。私は頭を持ち上げた……
なんという不思議なことだろう? 私は相変らず馬車の中に寝ているのに、馬車のまわりは――縁から一尺あまりのところまで(それ以上ではないが)水につかり、水面は月の光に照らされて、こまかな、夜眼にもはっきりと知れるさざなみに砕《くだ》け、うちふるえていた。私は前を見た。馭者台には、頭を垂れ、背中を曲げて、フィロフェイがぼんやりと坐っているし、その少し先には――さらさらとせせらぐ水の上に――軛《くびき》の弧線と馬の頭や背中が見える。そして何もかもが、じっと動かず、音も立てない、まるで魔法の国か、夢の中か、おとぎ話の夢の中のように……一体どうしたというんだろう? 私は――馬車の蓋《おお》いの下から後をふり向いた……私たちは河のまん中にいる……岸までは、三十歩もある!
「フィロフェイ!」と私は叫んだ。
「なんだね?」
「『なんだね?』もないもんだ? 冗談じゃないよ! ここはどこだい?」
「河の中で」
「河の中だってことはわかるさ。だが、こんなことをしてたら、すぐにも沈んじまうぜ。こうやってお前は浅瀬を渡るのかい? え? お前、寝てるのかい、フィロフェイ! 返事をしないか!」
「ちょっくら間違えました」と私の馭者は言った。「脇へ寄りすぎたのが、つまり、悪かったんで、今度はちっと待たなくちゃならねえ」
「待たなくちゃ≪ならない≫って? 一体、何を待つんだ?」
「なに、むく毛のやつに見定めさせるんでさ。やつの動いた方へ、そっちの方へ、つまり、行かなくちゃなんねえ」
私は乾草の上に起きなおった。水の上の中馬の頭は動こうともしなかった。明るい月の光のもとで、片方の耳がかすかに動いているのだけが見えた。
「お前のむく毛も眠っているんじゃないのかい!」
「いいえ」とフィロフェイは答えた。「あれは水の匂いを嗅《か》いでるんで」
また何もかも静まりかえった。ただ相変らずせせらぎの音がかすかに聞えるばかりだ。私もしびれたようになった。
月の光と、夜と、川と、その中にいる私たち……
「あのしゃがれ声はなんだね?」私はフィロフェイにきいた。
「あれかね? 葦《あし》の中にいる仔《こ》ガモか……そうでなければ蛇でさ」
急に中馬の頭が大きく揺れ、両耳がぴんと立った。馬は鼻を鳴らしてもぞもぞ動きだした。
「はい、はい、どう、どう!」と不意にフィロフェイが声を限りにわめき立て、やおら身体を起して鞭を振りはじめた。馬車はすぐさまその場を離れ、川波を横切って前に進んだ――そしてガタガタいわせたり、揺れたりしながら動きだした……初めのうちはだんだん深いところへ沈んで行くような気がしたが、二三度ガタついたり、水へもぐりそうになったりした後では、水面が急に低くなったように思われた……水面はだんだん低くなり、水の中から馬車がしだいに姿を現わしてきた、――そら、もう車輪や馬の尻尾が見えてきた。やがて、今度は威勢よく大きなしぶきを、ダイヤモンドの、いや、ダイヤモンドではない――サファイヤの光束のように、おぼろげな月の光の中に飛び散らせて、馬は楽しげに、力を合わせて私たちを砂地の岸に引き上げ、濡れて光る足を先を争って運びながら、坂道を駈け出した。
『さて、フィロフェイはなんと言うかしら?』私はふとこう思った。『「わしの言った通りでがしょう!」とかなんとか言うかな?』けれども彼はなんとも言わなかった。そこで私も彼の不注意をとがめ立てするにも及ぶまいと考えて、乾草の上に横になり、また一寝入りしようと試みた。
――――――
けれども私は眠れなかった、――といってもそれは、猟で疲れなかったからでもなければ、今しがた経験した不安な気持が眠気を追い払ってしまったからでもなく、道中の景色がまことに美しかったからである。それは豊かな、広々とした、水を冠《かぶ》った草原で、小さな草場や、沼や、小川や入江が数多く点在し、その縁にはヤナギや蔓草《つるくさ》が生えているといった、いかにもロシアらしい、ロシア人好みの場所で、わが国の古代英雄叙事詩に出てくる勇士たちが、まっ白な白鳥や灰色のカモを撃ちに出かけた場所にも似ている。踏みならされた道は黄色いリボンのようにうねっており、馬は足並みかるく走る――私は眼を閉じることができず、景色にうっとりと見惚《みと》れていた! しかも、こうしたものすべてが、やさしい月の光に照らされながら、穏やかに、整然と、傍に浮かんでは過ぎていく。さすがのフィロフェイも感に堪えない様子だった。
「ここらは聖《スヴャト》イェゴリの野って言いますだ」と彼は私に話しかけた。「で、この先には――大公の野ってのがありまさあ。こんな野はロシアじゅう探したってほかにありません……まあ、なんていい景色でしょうな!」中馬は鼻を鳴らして、身体をぶるっとふるわせた……「驚くことはねえ!……」フィロフェイは重々しく、小声で言った。「いい景色だなあ!」と彼は繰返して言って、溜息をつき、それから長々と咽喉《のど》をならした。「じきに草刈りが始まるだが、この乾草を掻き集めるんじゃ――大変だ! 入江には魚がうんといるだ。こんなウグイがよ!」と彼は歌うような声で附け足した。「要するに、食いっぱぐれがねえんでさ」
彼は不意に片手を上げた。
「ほう、ご覧なせえ! 沼の上に……あすこに立っているのはアオサギかな? あれは夜でも魚を取るもんですかい? あれ、まあ! あれは木の枝だ――アオサギじゃねえ。こりゃ間違えたわい! どうもお月様にはいつもだまされる」
こんなふうにして私たちは先へ先へと進んだ……けれどもやっと野原もつきようとして、小さな森や、耕された畑が見えてきた。脇の方では村の灯が二つ三つちらちら瞬《またた》いている、――本街道まではもう五露里しかない。私は眠りこんだ。
私はまたもや夢を破られた。今度私を起したのはフィロフェイの声だった。
「旦那……もし、旦那!」
私は起き直った。馬車は本街道のまん中の平らなところに停っていた。馭者台の上から私の方に顔をふり向け、眼を大きく見開いて(私はびっくりしたほどである。彼がこんな大きな眼をしているとは夢にも思ってなかったので)、フィロフェイは意味ありげに、いかにも秘密らしくささやいた。
「音がする! ……音がする!」
「なんだって?」
「音がするってんですよ! 屈《かが》んで聞いてみなせえ。聞えるでしょうが?」
私は馬車から首を出して、息を殺した――すると本当に、私たちの後のどこかしらずっとずっと遠くの方で、車輪の音らしい、かすかな途切れ途切れの音が聞える。
「聞えるでしょう?」とフィロフェイが繰返した。
「うん、聞える」私は答えた。「馬車か何か来るようだ」
「でも、あれが聞えねえんですか……ほら! あの……鈴の音……口笛も……聞えるでしょう? じゃ、帽子を取って見なせえ……もっとよく聞えるだ」
私は帽子は取らなかったが、耳をすませた。
「なるほど、……そうかもしれない。だが、あれがどうしたっていうんだ?」
フィロフェイは馬の方に顔を向けた。
「馬車が来る……空荷《からに》で、車輪《くるま》は鉄の輪だな」と彼は言って手綱を取り上げた。「あれは、旦那、悪者どもがやって来るんでがす。なんせ、ここいら辺り、トゥーラの近くは、悪さをする者が……たくさんいるんで」
「馬鹿馬鹿しい! どうしてあれが悪者にきまってると思うんだい?」
「間違いねえだ。鈴をつけて……空っぽの馬車で……あいつらでなくて、誰なもんですか?」
「それでどうだい――トゥーラまではまだ遠いのかい?」
「まだ十五露里はありましょうが、ここいらにゃ家が一軒もねえんで」
「ふん、それじゃ、もっと早くやれ、ぐずぐずしてることはない」
ソィロフェイが鞭を振り上げた。馬車は再び走り出した。
――――――
フィロフェイの言葉を信用したわけではないが、もう寝つかれなかった。もし本当だったら、どうしよう? いやな感じが私の心の中で動いた。私は馬車の中に坐って――それまで横になっていた――左右を見まわしはじめた。私が眠っている間に薄い霧が立ちこめていた――地上にではなく、中空に。霧が高く立ちこめているので、月は煙につつまれたように白っぽくおぼろにかかっている。地面に近いところはよく見えるが、少し上の方は何もかもがぼんやりとして、入り混っている。あたりは――なだらかな、陰気な場所である。行けども行けども、畑また畑で、ところどころに繁みがあったり、谷間があったり――そしてまたもや畑が始まるのだが、多くは休耕地で、まばらに雑草が生えているばかり。空虚……生気というものがない! せめてどこかでウズラでも、一声鳴いてくれればよいのに!
私たちは半時間ほど進んで行った。フィロフェイは絶えず鞭を振り、唇を鳴らしたが、私も、彼も、一言も口をきかなかった。やがて馬車は小山によじ登った……フィロフェイは三頭の馬をとめて、すぐに言った。
「音がする……音がするう、旦那!」
私はまた馬車から首を出した。けれども蓋《おお》いのひさしの下にじっとしていてもよかったのだ。今はもうそれほどはっきりと、まだ遠くからではあるが、荷馬車の車輪の音《おと》や、人の口笛や、鈴の音《ね》や、馬の蹄の音《おと》までも私の耳に聞えてきた。歌や笑い声さえも聞えるような気がする。風は、なるほど、向うから吹いてはいるが、誰とも知れぬ旅人がまる一露里、ことによれば二露里も、こちらに近づいたことは疑いなかった。
私はフィロフェイと目配せをした――彼はあみだにかぶっていた帽子を目深にかぶり直しただけで、すぐさま、手綱の上にのしかかるようにして、馬を鞭打ちはじめた。馬は駆け足で走り出したが、永つづきはせず、また諾足《だくあし》になってしまう。フィロフェイはなおも鞭打つことをやめない。逃げなくては!
初め私はフィロフェイの心配をまさかと笑っていたのに、今度はなぜ急に、後からやって来るのはたしかに悪者だと思いこんでしまったのかわからない……私は何も新しい物音を聞いたわけではない。同じ鈴の音、同じ空車の響き、同じ口笛、同じようなガヤガヤという騒ぎ声……けれどももう今は私は疑いを持たなかった。フィロフェイが間違えるはずがない!
そのうち、またもや二十分ほど経った……この二十分も終りごろになると、私たちの馬車のガタガタ、ゴトゴトという音の合の手に、別のガタガタ、ゴトゴトという音が早くも聞えてきた……
「停めろ、フィロフェイ」と私は言った。「どっちみち同じことだ――なるようにしかならないんだ!」
フィロフェイはおっかなびっくり、「どう、どう」と言う。馬は一休みできるのを喜ぶかのように、たちまちぴたりと立ちどまった。
さあ大変だ! 鈴は私たちのすぐ後でけたたましく鳴り響き、馬車はガラガラすさまじい音を立て、人は口笛をふき、叫び、歌い、馬は鼻を鳴らして、蹄でしたたか地面を打つ……
追いつかれた!
「しーまーった」とフィロフェイはあせりもせずに、低い声で言って、思い切り悪く唇を鳴らし、馬を駆け立てはじめた。けれどもこの瞬間、不意に何かが鎖を離れ、わめき声を上げ、物すごい音を立てて突進して来たようであった――と思う間もなく、とてつもなく大きいガタ馬車が、肉のしまった三頭の馬に曳《ひ》かれて、さっと旋風のように私たちを追い越し、前の方に駈けぬけたが、すぐに並足になって、こちらの行く手を塞《ふさ》いだ。
「てっきり追剥《おいは》ぎのやり口だ」とフィロフェイがつぶやいた。
正直な話、私はひやりとした……私は緊張して、霧に蔽《おお》われた月光の薄明りの中をのぞいた。前を行く馬車の中には、ルバーシカを着て、百姓外套の胸をはだけた男が六人ばかり、坐っているとも横になっているともつかぬ恰好で乗っている。二人は帽子をかぶっていない。長靴をはいた大きな足が、馬車の横木ごしに外に垂れてぶらぶらしているし、手はやたらに上下している……身体はぐらぐら揺れている、明らかに酔っぱらいどもだ。何人かが口から出任《でまか》せをわめきちらしているかと思えば、耳をつんざくように澄んだ口笛をふいている者もおり、悪態をついている者もいる。馭者台には半外套を着た大男が坐って、手綱を取っている。彼らは私たちには目もくれないかのように並足で進んで行く。
どうしたもんだろう? 私たちも後から並足でついて行った……仕方なしに。
二町ばかりこのようにして進んで行った。今か今かと気が気でない……逃げたり、身を護《まも》ったりすることは……とてもできそうもない! 相手は六人もいるのに、こちらにはステッキ一本もない! 轅《ながえ》を転じて引っ返そうか? しかし彼らはすぐに追いつくだろう。私はふとジニコーフスキイ〔一七八三―一八五二、ロシアの詩人〕の詩(カーメンスキイ元帥の死を悼《いた》んだ)を思い出した。
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卑むべき強盗の斧は……〔一八〇九年作『元帥カーメンスキイ伯爵の死によせて』の一節〕
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さもないと――汚れた縄で咽喉を絞められ……溝《どぶ》に投げこまれる……まるで罠《わな》にかかった兎のように、そこでしゃがれ声を上げたり、もがいたりしなければならない……
ええ、胸くそが悪い!
ところが彼らは相変らず並足で馬車を進め、私たちには目もくれない。
「フィロフェイ」と私はささやいた。「一つ右へ寄せて、傍を通りぬけられるかどうか、やってみてくれ」
フィロフェイはやってみた――右へ寄せた……けれども相手もすぐに右へ寄せた……通りぬけることができなくなった。
フィロフェイはもう一度やってみた。今度は左へ寄せた……けれども、今度も相手はこっちの車を通さない。おまけに笑いだした。つまり、通してくれないのだ。
「追剥《おいは》ぎに違えねえ」とフィロフェイは肩越しに私にささやいた。
「それにしても、あいつらは何を待ってるんだろう?」と私もひそひそ声でたずねた。
「この先へ行くと、窪地があって、川に、橋がかかっている……あすこでわしらを襲うだ! あいつらは、いつもこの手でやるだからな……橋の傍をねらって。わしらの成り行きは、旦那、明白でさ!」と彼は溜息まじりに附け加えた。「とても生きたままじゃ返してくれめえ。なんせ、やつらにしてみりゃ、闇に葬《ほうむ》っちまうのが一番なんで。ただ一つ残念なのは、旦那。この三頭の馬をやつらにふんだくられて、弟たちの手に渡らねえてこってす」
これを聞いて私は驚いた。フィロフェイときたら、こんな切羽つまったときに、よくも馬の心配などしておられるもんだ、と。それに、白状すると私は、フィロフェイどころじゃなかったのだ……『本当に殺されるんだろうか?』と私は心の中で繰返した。『なんのために? 自分の持っているものは、残らずやろうというのに』
橋はしだいに近くなり、ますますはっきり見えてきた。
突然、わっという烈しい鬨《とき》の声が聞えて、前を行く三頭立てはまるで空に舞上がるような勢いで駈け出し、橋のところまで行くと、少しばかり道に片寄せて、釘づけにされたようにぴたりととまった。私は怖気《おじけ》をふるった。
「ああ、フィロフェイや」と私は言った。「二人はもう死ぬにきまった。許してくれ、私のせいでこんなになって」
「何がお前さんのせいなもんですか、旦那! 持って生れた運は逃《のが》れられっこねえんで! さあ、むく毛や、お前は忠義者だから」とフィロフェイは中馬に言い聞かせた。「一っ走り頼むぞ! 最後の御奉公をしてくれ! どうせ同じこった……どうなろうと、ままよ!」
と言って彼は三頭立を小走りに駆けさせた。
私たちはいよいよ橋に接近する、停ったままじっと動かない、あの恐ろしい馬車に……馬車の中はことさららしく静まりかえっている。うんとも、すんとも言わない! カマスや、ハゲタカや、その他あらゆる猛獣は、獲物が近づいて来るとき、こうやって息を殺しているものだ。ちょうど私たちの馬車が相手の馬車と肩をならべたとき……急に半外套の大男がひらりと馬車から跳び下りて――つかつかと私たちの方へやって来た!
この男がフィロフェイに一言も言ったわけではないが、フィロフェイはすぐに自分から進んで手綱を引き緊めた……馬車は停った。
大男は馬車の扉に両手をかけ、毛むくじゃらの頭を前に傾け、歯を見せて笑いながら、静かなよどみのない声で職人風の口の利き方をして、次のように言った。
「もし旦那、あっしどもはまっとうな酒盛りからの、祝言からの帰《けえ》りでござんす。つまり、仲間の若い者に嫁を取ってやりましたんで。ちゃんと床入りさしてやりやしたよ。あっしどもは、どいつもこいつも若え、向う見ずな野郎ばかりであんすが――酒はたんまり飲んできたものの、迎え酒の酒手がねえってわけなんで。ついては、旦那、おあしをちょっぴり恵んでいただけませんでしょうかな?――その、一人にウオートカ半瓶もふるまって下さりゃ結構なんで。そうすりゃ旦那の御健康を祝って乾杯しますし、旦那の御恩は忘れるこっちゃねえ。けど、いやだとおっしゃるなら――まあ、怒ってもらいますめえ!」
『これは一体、なんだろう?』と私は考えた……『あざ笑っているのか?……からかっているのか?』
大男は頭を垂れてじっと立っていた。ちょうどこのとき、月が霧の中から現われて、彼の顔を照らした。それは、この顔は、ほくそ笑んでいた――眼も、唇も。別に脅迫がましいところはない……ただ顔じゅうに警戒の色を浮べているようだ……歯がまっ白で、大きい……
「お安い御用だ……上げよう……」と私は急いで言って、ポケットから財布を出し、その中から一ルーブリ銀貨を二枚抜き取った。そのころは銀貨がまだロシアで通用していた。「さあ、これでよかったら」
「大きにありがとうござんした!」と大男は兵隊のように大声で叫んだ。太った指がとっさに私の手から――財布ぐるみでなく、二ルーブリだけを取り上げた。「大きにありがとうござんした!」彼は髪の毛をさっとゆすって、自分の馬車の方に駈けよった。
「おい、みんな」と彼は叫んだ。「旅の旦那が銀貨を二ルーブリ恵んで下さったぞ!」一同は急に声を立てて笑いだした……大男は馭者台に乗りこんだ……
「旦那、お先に!」
と言ったかと思うと、たちまち人の姿は見えなくなった! 馬が勢いよく駈け出せば、馬車はガラガラ音を立てて山を登り、空と地を劃している暗い線の上でもう一度ちらりと動いたと思ったら、早くも下り坂になって見えなくなった。
まもなく車輪の音も、叫び声も、鈴の音も聞えなくなった……
あたりはひっそり静まった。
――――――
私もフィロフェイも、すぐには我に返ることができなかった。
「ああ、ふざけた野郎だ!」と、やっと、フィロフェイが口を切った。そして帽子を脱いで十字を切りだした。「まったく、ふざけたやつだ」と彼は言い足して、いかにもうれしそうに私の方をふり向いた。「でも、いい男に違えねえ、ほんに。ほい、ほい、ほい、お前たち! さあ、急げ! 無事に帰れるぞい! みんなそろってな! あいつが通せんぼうしたんだ。あいつが手綱を取ってたんだ。まったくふざけたやつよ。ほい、ほい、ほい、ほーい! さっさと走った!」
私は黙っていた。けれども私はうれしい気持になった。『無事に帰れる!』と私は胸の中で繰返して乾草の上に寝そべった。『安くてすんだわい!』
なんだってジュコーフスキイの詩など思い出したんだろうと、私は少しばかり恥かしくさえなってきた。
ふと、ある考えが頭に浮んだ。
「フィロフェイ!」
「なんだね?」
「お前のところには女房はいるのかい?」
「いますがな」
「子供もいるだろうな?」
「子供もいます」
「どうしてお前は女房子供のことを思い出さなかったんだい? 馬のことは悲しんだくせに、女房や子供のことはどうしたのさ?」
「なんでまた女房や子供のことを悲しまなきゃなんねえだ? 泥坊に取っつかまるわけでもあんめえし。そりゃ、頭の中ではずっと思ってただ、今だって思ってる……そりゃもう」フィロフェイはちょっと黙りこんだ。「もしかしたら……神様があれらをかわいそうだと思って、わしらを助けて下すったかもしんねえだ」
「だが、あれが追剥ぎじゃなかったら?」
「わかるもんですかね? 他人《ひと》の心の中に入れめえし? 他人《ひと》の心は闇だって、言うだ。いずれにせよ、いつでも神様を信心してるにこしたことはねえ。いくらわしでも、いつも家の者を……ほい、ほい、ほい、こら、さっさと走った!」
私たちがトゥーラの町近くまで来たころには、もうほとんど夜が明けていた。私は横になってうつらうつらしていた……
「旦那」と急にフィロフェイが私に言った。「ご覧なせえ、ほら、やつらは居酒屋におりますだ……馬車が待ってますでな」
私は頭を上げた……確かに彼らだ。馬車も、馬も見覚えがある。酒屋の敷居の上に、例の半外套の大男が、思いがけなく姿を現わした。
「旦那!」と帽子を振って彼は大きな声で呼びかけた。「おふるまいの金で飲んでるとこでさ! おい、どうだい、馭者」とフィロフェイに頭を振って見せて、彼は附け加えた。「えらい、びくびくものだったじゃねえかよ、おい?」
「本当に面白いやつだな」と居酒屋から二十間ばかり離れたとき、フィロフェイは言った。
私たちはやっとトゥーラに着いた。私は霰弾を買い、ついでにお茶や酒も買い、おまけに博労から馬まで買った。正午、私たちは帰路についた。初めて後《うしろ》に馬車の音を聞いた場所にさしかかったとき、フィロフェイは、トゥーラで一杯ひっかけて、すこぶる能弁になっていたのだが、――彼は私におとぎ話さえ聞かせたほどである、――例の場所にさしかかったとき、フィロフェイは急に笑いだした。
「覚えておいでですか、旦那、わしはのべつ言ったでしょうが。音がする……音がする、音がするって!」
彼は二三度、強く手を振った……この言葉が彼には非常に面白く思われたのである。
その晩、私たちは村へ帰った。
私はエルモライに前夜のできごとを話して聞かせた。素面《しらふ》だったので、彼は一向に同情の意を示さず、ただ『ふむ』と言ったきりだった。――それが感心したのか、それとも非難したものなのか、それは、どうやら、彼自身にもわからなかったようだ。しかし二日ほどして彼は喜んで、私とフィロフェイがトゥーラヘ行ったちょうどあの晩、しかも同じ街道で、どこかの商人が追剥ぎにあって殺されたという噂《うわさ》を私に知らせた。私は初めこの噂を本当にしなかったが、やがて本当にしないわけにはいかなくなった。それが本当だということは、馬を飛ばして事件の審理にやって来た郡警察分署長によって証明された。あの向う見ずの連中は、この『祝言』の帰り途ではなかったろうか? また、あのおどけ者の大男の言葉を借りると、床入りをした『若者』というのは、その商人ではなかったろうか? 私はそれからまだ五日ばかりフィロフェイの村に居残った。彼に会うと、私はきまってこう言ったものである、「おい? 音がするかい?」
「面白いやつでさ」と彼はいつもそう答えて、自分から笑いだすのだった。
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森と草原
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…いつしかふるさとの村の小暗い庭に
心をひかれるようになった
菩提樹の大木が蔭をつくり
鈴蘭の花は清らにも香《かぐ》わしく、
撫で肩の柳の木が堤のほとりに立ちならび
水の上に枝を垂れている
豊かな畑の上に豊かな槲《かしわ》の木が生い立ち
タイマとイラクサの匂いがする……
ああ、そこには広々とした野原があり
土はビロードのように黒ずみ
見渡すかぎりライ麦が
やわらかな穂並みを静かに波打たせている
透きとおった、白い、円みをおびた雲間から、
重々しい黄色な光が落ちてくる
なつかしきふるさとよ。……………………
(火中に投ぜられた詩篇から)
[#ここで字下げ終わり]
読者はおそらく、私の手記にもううんざりされたことであろう。そこで私は取りあえず、これまで発表された断片にとどめることを約束して、読者の御安心を請《こ》うしだいである。けれども読者と別れるにあたり、なお僅かばかり猟のことを話さないわけにはいかない。
鉄砲をかつぎ犬をつれて猟に出かけるということは、それ自体、昔よく言われた言葉を使うと fur sich〔独立して〕に、すばらしいものである。しかし今かりに、読者が猟人に生れなかったものとしても、それでもやはり自然や自由は愛されるであろう。してみれば、われわれ猟人仲間を羨まずにはいられないのである……では聞いていただきたい。
たとえば諸君は、春の夜明け前に猟に出かけるのが、どんなに楽しいものかご存じだろうか? まず表の階段に出てみる……暗い灰色の空には、そこここに星が瞬《またた》いている。しっとりとしたそよかぜが時折軽やかな波のように吹いてくる。控え目な、はっきりしない夜のささやきが聞える。蔭につつまれた樹木がかすかにそよぐ。さて、馬車に毛氈《もうせん》が敷かれ、サモワールを入れた箱が足もとに置かれる。副馬《そえうま》が身を縮め、鼻を鳴らし、気取って足を踏みかえる。今しがた眼を覚ましたばかりの白いガチョウが二羽、声も立てずにのろのろと道を横切る。籬《まがき》の向うの庭の中では、番人が穏やかに鼾《いびき》をかいている。一つ一つの物音が凍りついた空気の中に、まるでじっと停っているようだ、停っていてあたりに拡がろうとしない。やがて馬車に乗りこむ。馬はすぐに動き出し、高らかに轍《わだち》の音を立てる……馬車は行く――教会の傍を通り、山を下りて右へ曲り、堤を渡る……池はかすかに湯気が立ちはじめている。うすら寒くなり、外套の襟を立てて顔を隠す。そのうちに、うとうと眠くなる。馬はパシャパシャ音を立てて水溜りを渡っていく。馭者《ぎょしゃ》が口笛を吹く。ふと気がつけば、もう四露里ほど遠くへ来ている……天涯が赤らんでいる。白樺の木立の中でシラハシガラスが眼を覚まし、ぶざまな恰好《かっこう》で飛び渡る。スズメは黒ずんだ稲叢《いなむら》のあたりでさえずっている。空間が明るくなり、道ははっきりしてき、空は澄み、雲は白く、野は青くなる。百姓家では木片《こっぱ》の赤い火がともり、門の向うでは眠そうな声がしている。そのうちに朝焼けが燃えはじめる。早くも金色の縞が空に長く延び、谷間には霧が舞い上がる。ヒバリがよく徹《とお》る声で歌い、夜明け前の風が吹きだす――紅《くれない》の太陽がしずしずと浮び上がる。たちまち光が急流のようにほとばしる。わが胸は小鳥のように羽ばたく。すがすがしく、楽しく、こころよい! あたりはずっと遠くまで見える。ほら、林の向うに村があるだろう。その少し先には白い教会のあるもう一つの村があり、白樺林の山が見える。その蔭に目指す沼があるのだ……馬よ、もっと早く、もっと早く!……伸張速歩《ラウンド・トロット》でやってくれ!……あますところ約三露里、それより以上はない。太陽がぐんぐん昇る。空は澄み切っている……すばらしい天気になるだろう。家畜の群れがぞろぞろと村中からこちらへやって来る。馬車は山に登る……なんという眺めだろう! 川は霧の間にぼんやりと青みながら、十露里も曲りくねっている。川の向うは淡緑色の草地である。その向うはなだらかな丘になっている。遠くの沼の上をタゲリが鳴きながら飛んでいる。空中にみなぎっているしっとりとした光沢を通して、遠くの方がはっきりと見える……夏のようではないけれど。新鮮な春の息吹《いぶ》きにつつまれて、胸がどんなにのびのびと呼吸することだろう、手足がどんなに軽快に動くことだろう、全身にどんなに力がわいてくることだろう!……
それから夏は七月の朝! 暁《あかつき》に繁みの中をさまよい歩くことがどんなに楽しいものかを、猟人のほかに味わったものがいるだろうか? 露が降《お》りて白くなった草の上に足跡が緑の線を引く。濡れた繁みを押し分けると――一晩じゅう貯えられた温かい夜の匂いを強く吹きかけられる。空気はニガヨモギの新鮮な苦味《にがみ》や、ソバや『ウマゴヤシ』の甘味にみちみちている。遠くに槲《かしわ》の森が城壁のようにそそり立ち、日射しを浴びて輝き、まっ赤になっている。まださわやかではあるが、もう暑さの近づいて来るのが感じられる。芳香があんまり強くてぼっと目まいがするほどである。繁みははてしがない……遠くところどころに熟《う》れたライ麦が黄ばんでいるのと、ソバの細い畝《うね》の赤らんでいるのが見えるだけである。ふと馬車のギギイという音が聞えてくる。百姓がゆっくりと傍を通りぬけ、暑くならないうちにと手まわしよく馬を木蔭に引き入れる……百姓に挨拶をして、歩きだすと――背後で大鎌のチャリンという音が聞える。日はいよいよ高くなる。草の乾きが早い。もう暑くなってきた。一時間、二時間と過ぎていく……空の地平線に近いところが黒ずんでくる。じっと動かない空気は、刺すような炎熱に燃えている。
「おい、どこか、この辺に、水を飲むところはないかね?」と草刈りにたずねる。
「向うの、谷間に、井戸がありまさあ」
蔓草《つるくさ》の這いからまった、こんもりしたクルミ林を通り抜けて谷底に下りていく。いかにも、断崖の真下に泉が隠れている。槲の繁みがその上にのしかかるように獣の足のような枝を拡げている。銀色の大粒の泡が、ビロードのようにこまかな苔《こけ》に蔽われた底から、ぶくぶくと湧き上がってくる。地べたに腹這いになってがぶがぶと水を飲んだはいいが、動くのが億劫《おっくう》になってくる。木蔭に入って、香《かぐ》わしい湿った空気を吸う。いい気持だ。ところが眼の前の繁みは日に燃え立って、黄ばんで見える。しかし、どうしたことだろう? 突然、風が吹いてきて、さっと通りすぎる。あたりの空気が一揺れする。雷ではなかろうか? 谷間を出る……地平線上の鉛色の筋はなんだろう? 暑さがひどくなるのか? 夕立雲が近づいて来るのか?……だがこのとき稲妻がかすかにひらめいた……ああ、やっぱり夕立だ! あたりはまだあかあかと日が照っている。まだ猟はできる。けれども夕立雲はむくむくと大きくなっていく。先端は袖のように伸びて、円天井のように蔽いかぶさって来る。車も、繁みも、何もかも、にわかに暗くなる……急げ! 向うに見えるのは、どうやら、乾草小屋のようだ……急げ……駈けつけて、中に入る……雨のひどいことといったら? 稲妻のすさまじさといったら? 藁屋根を通してところどころ、雨滴《あまだれ》が香《かん》ばしい乾草の上に落ちてきはじめる……けれども、やがて日がまた照りだした。夕立は去った。小屋を出る。ああ、あたりのものみながなんと楽しそうに輝いていることだろう、空気がなんと新鮮でさわやかなことだろう、苺《いちご》や茸《きのこ》の香《こう》ばしい匂いときたら!……
けれども、やがて夕方がやって来る。夕焼けは火事のように燃え立って、空の半ばをおおいつくす。日が沈もうとしている。近くの空気はまるでガラスのように、一種特別に透《す》き通っている。遠くでは、見たところ温かそうな靄《もや》が立ちこめている。ついさっきまで淡い黄金の流れを浴びていた草地に、露とともに真紅《しんく》の光が降りて来る。木や、繁みや、乾草の高い山から長い影が落ちる……日はついに沈んだ。星が一つともって、日没の火の海の中でふるえている……やがて火の海も色あせて、空は青みがかる。個々の影が消え失せて、空気は夕闇にとざされる。今夜泊る村の小屋に帰る時刻だ。鉄砲を肩に背負い、疲労をもいとわず、足早に歩いて行く……そのうちに夜がやって来る。二十歩先はもう見えない。犬どもが闇の中にほの白く見える。向うの黒い繁みの上を見ると、天の一角がぼうっと明るくなっている……あれはなんだろう? 火事だろうか?……いや、あれは月の出だ。下を見ると、右手の方に、もう村の灯火がちらちらしている……さあ、やっと小屋に着いた。窓越しに白いテーブル・クロスをかけた食卓や、ともっているろうそくが見える、夕食だ……
ときには競争馬車を仕立てさせて、エゾヤマドリを撃ちに森へ出かける。両側に高いライ麦が壁のように連なっている間を、細い小径《こみち》づたいに通って行くのは楽しいものだ。麦の穂がそっと顔を打ち、矢車菊が足にからまる。あたりではウズラが鳴き、馬はのろのろと諾足《だくあし》で走る。やがて森に着く。木蔭と静寂。頭の上ではすらりとしたヤマナラシが高々とつぶやいている。白樺の長く垂れた枝はほとんど動かない。たくましい槲《かしわ》の木は、美しい菩提樹の傍《かたわ》らに、戦士のように立っている。影が映って斑《まだら》模様となっている緑蔭の小径を馬車は進む。大きな金蝿が金色の空気の中で、上から吊り下がっているようにじっとしているかと思うと、ひょいとわきの方に飛んで行く。羽虫が柱になって群がり舞っているが、蔭に入れば光り、日向《ひなた》に出ると黒く見える。小鳥がのどかに歌っている。コマドリの鈴を振るような声は、あどけない、いかにもおしゃべりらしい喜びを響かせている。その声はスズランの香りにふさわしい。さらに森の奥へ、ずんずん入って行く……森はうつろである……言いようもない静けさが胸にくい入る。それにあたりもまどろんでいるかのように、ひっそりと静まりかえっている。けれどもこのとき、さっと風が吹いてきて、梢が打ち寄せる波のようにざわめきだす。褐色《かっしょく》をした去年の落葉の間から、あちこちに丈の高い草が生えている。笠をかぶった茸《きのこ》がぽつんぽつんと立っている。急に白兎が跳び出す、犬がけたたましく吠えながらその後を追う……
ヤマシギが飛んで来る晩秋ともなれば、この森の美しさはまた格別である! ヤマシギは森の奥には棲《す》まないので、森の縁《ふち》にそって探さなければならない。風もなく、陽の目も見えず、光も、影もなく、動きもなければ、物音もしない。柔らかな空気の中には、葡萄酒の匂いのような秋の香りがみなぎっている。淡い霧が遠くの黄色い畑の上にかかっている。葉の落ちた鳶色《とびいろ》の木の枝を透《すか》して、じっと動かない空がなごやかに白んでいる。菩提樹の枝にはところどころ、散り残った金色の葉がぶら下がっている。湿った地面は踏めば跳《は》ねかえすように弾力性がある。丈の高い枯草はそよとも動かない。長いクモの糸が生気を失った草の上にキラリと光っている。胸は穏やかに息づいているのに、心は不思議な不安におそわれる。森の縁にそって歩きながら、犬のあとを見守っているうちに、なつかしい人の姿、なつかしい顔、今は亡き人びと、今なお生きている人びとの面影がふと思い出されて、とっくの昔に眠りについた印象が思いがけなく目を覚ます。想像が小鳥のように羽ばたいて翔《か》けめぐり、何もかもが非常にはっきりと動き出し、眼の前にぴたりと立ちどまる。心臓が急に震えだして鼓動を高め、はげしく前に跳び出そうとするかと思えば、思い出の中にいつまでもひたっている。これまでの全生涯が巻物のように、さらさらと容易に繰り拡げられる。過去のすべて、あらゆる感情、力、自分の魂のことごとくがわがものである。あたりには何一つ自分の妨げとなるものがない――太陽も、風も、物音も……
また秋のよく晴れた、薄ら寒い、朝ごとに霜を置く日ともなれば、白樺はおとぎ噺《ばなし》の中の木のようにすっかり金色となり、水浅黄《みずあさぎ》の空に美しく輪郭を描きだす。低い太陽はもう暖めはしないけれど、夏よりも明るく光っている。ヤマナラシの小さな林は、裸で立っているのが楽しくて身軽ででもあるかのように、一帯に透き通ってキラキラ輝いている。霜はまだ谷底に白々と残っており、ひんやりとした風が乾反《ひぞ》った落葉を静かにサラサラ動かしては追いまくる。――青い波が喜ばしげに川の上を走っていく、のんきもののガチョウやアヒルをヒョコリヒョコリと持ち上げながら。遠くの方では柳の木立に半ば隠された水車場がコトコト音を立て、その上を鳩の群が、明るい空中に斑《まだら》模様を描きながら、すばやく飛びまわっている……
猟人たちは好まないが、夏の霧の深い日もまたよい。こういう日には鉄砲は撃《う》てない。鳥はすぐ足もとから飛び立って、すぐさまじっと動かない霧のほの白い靄《もや》の中に消えてしまう。けれども、あたりのものは何もかも、じつに静かだ、言いようもなく静かだ! すべてのものが目覚めているのに、すべてのものが沈黙している。木の傍を通っても――こゆるぎだにしない。安らかさを楽しんでいるのだ。空中にむらなくみなぎっている淡い靄を通して、長い筋が眼の前に黒く見える。これはてっきり近くに森があるのだな、と思って近づいて見ると――森は地境に高く積み上げられたニガヨモギに変る。頭の上も、まわりじゅうも――どこもかしこも霧である……けれども、やがて風がそよそよ吹き出すと――水浅黄の空の一片が、薄れゆく煙のような靄の間から、ぼんやりと現われる。金色がかった黄色い日射しがにわかにさっとさしこんできて、長い奔流となって流れ出し、畑をおそい、林にもたれかかる――と思う間もなく、またもや何もかも霧につつまれる。この闘いは永くつづく。けれども、ついに光が勝利を占めて、温められた霧の最後の波が流れ落ち、平らな平面となって拡がるとき、あるいは霧が柔らかに輝く奥深い空の高みにのたうちながら消えていくとき、それは、まことに言いようもなく壮麗で、晴れやかな一日が始ろうとしているのである……
だがさて、今度は人里を遠く離れた野原へ、草原へ行こうと思い立つ。およそ十露里ほどは村道づたいに進むと――やがて、ついに本街道に出る。はてしなくつづく荷馬車の行列の傍を通り、檐下《のきした》ではシュッシュッとサモワールがたぎっており、門を開けっ放しにして井戸までものぞかせている旅籠屋《はたごや》の前を通りすぎて、村から村へ、はてしもない野原を越え、緑の大麻畑に沿って、どこまでも、どこまでも馬車を進める。カササギが柳から柳へと飛び移っている。百姓女たちが、長い熊手を手に持って、畑の中をのろのろ歩いている。着古した南京木綿の上着を着て、袋を肩に背負った旅人が、疲れた足を引きずっていく。どっしりとした地主の箱馬車が、丈は高いが、くたびれた六頭立ての馬に曳《ひ》かせて、向うからやって来る。窓からはクッションの端がはみ出しており、後の馬丁台の叺《かます》の上には、外套を着て、眉毛のあたりまで泥をはねかした下男が、細引につかまりながら横向きに坐っている。やがて郡役所のある小さな町に着く。木造の歪《ゆが》んだ家、はてしもなくつづいている柵、石造りの無人の商館、深い谷にかかっている古風な橋……もっと先へ、もっと先へ!……そろそろ草原地方が始まる。山の上から眺めると――なんというすばらしい景色であろう! 頂上まで耕され、種を播《ま》きつけられた円みをおびた低い丘が、大きな波のうねりのように四方に起伏している。その間を灌木の生い繁った谷間がうねっている。小さな林が細長い島のように点在している。村から村へと狭い道が通じている。村々の教会堂が白く見える。柳並木の間に川がキラキラ光って見える。川は四ヵ所ばかり堤でせきとめられている。遠くの野では野雁《のがん》が一列にならんでいる。納屋《なや》や、果樹園や、打穀場などのある古い地主屋敷が、小さな池の傍に身を寄せている。しかし、もっと先へ、もっと先へと馬車を進める。丘はますます小さくなり、木はほとんど見えなくなる。さあ、とうとうやって来たぞ、――限りなくはてしない草原に!……
さてまた冬の日には、兎を追って高い雪の吹きだまりの上を歩きまわり、刺すような厳寒の空気を吸い、柔らかな雪のチカチカするまぶしい輝きに思わず眼を細くし、赤みがかった森の上の大空の緑の色に見惚《みと》れる!……また早春のころともなれば、あたりのものはすべて輝き、崩れ落ちて、とけた雪の重々しい蒸気を通して、早くも温められた土の匂いがただよう。雪のとけたところでは、斜めにさす日射しを浴びながら、ヒバリが心置きなく歌っている。また陽気なざわめきを立て、うなり声を上げながら、谷から谷へと雪どけの奔流《ほんりゅう》は渦を巻く……
それにしても――もう終るときがきた。ちょうどいい――私は春の話を始めたところだ。春の別れはいともたやすい、春は幸福な者でさえ気がそぞろになるもの……さようなら、読者諸君。請い願わくはいつまでも幸福ならんことを。
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解説
イワン・セルゲーヴィチ・ツルゲーネフ(一八一八〜八三)は、ヨーロッパ・ロシアの中央部にあるオリョール市に生れた。軍職にあった父が二年後に退職すると、一家はオリョール県下の母の領地に移り住んだ。母は権勢欲の強い、わがままで、ヒステリックな婦人で、農奴にたいする仕打ちは苛酷《かこく》であった。元来、彼女は孤児としてみじめな青春をすごしたのであったが、すでに老嬢となってから、はからずも莫大な資産の相続人となったのである。そこへ、古い家柄の出ではあるが、零落した士族であるツルゲーネフの父があらわれて、二人は結婚をした。夫から見て、いわば金が目当てであるこの結婚は、妻にとって幸福であり得なかった。二人の間にはとかく風波が絶えず、その家庭生活がどんなに味気ないものであったかは、ツルゲーネフの自伝的短篇小説『初恋』(一八六〇)に描かれているところである。父は早死をするが、やもめになった母はますます頑固に、矯激《きょうげき》になっていき、晩年は短篇『ムムー』(一八五四)の女地主さながらの横暴な生活を送るようになった(たとえば、お辞儀のしかたが悪いというだけの理由で、二人の農奴をシベリヤ送りにしたことさえあった)。このような環境の中でツルゲーネフは幼時から、農奴制度というものを深く憎むようになった。そしてその反面、ロシアの自然を愛し、民衆に同情する気持をはぐくまれたのである。
一八三三年、ツルゲーネフは十五歳未満でモスクワ大学文学部に入学したが、翌三四年にはペテルブルグ大学に転じた。一八三六年に大学を卒業すると、当時の習慣にしたがって外国へ留学におもむいた(一八三八年)。ドイツのベルリン大学で、哲学――とくにヘーゲル哲学――や、歴史や、古代語を学び、グラノーフスキイ、スタンケーヴィチ、バクーニンなど、後年ロシアの思想界を代表するようになった人びとと知り合った。一八四一年ロシアに帰り、一時は学者になろうとも思ったが、やがてベリンスキイを知り、文学を志すようになる。一八四三年には長詩『パラーシャ』を発表して、詩人として知られるようになった。
この年の秋、有名な歌姫ボリーナ・ヴィアルドー(一八二一〜一九一〇)と知り合いになった。このことはツルゲーネフの個人的運命において重要な役割を演じた。彼は生涯を通じてヴィアルドー夫人に純愛をささげた。ツルゲーネフはその後ほとんど外国で暮すことになるが、それというのもヴィアルドー一家と行を共にしたからである。一生独身で押し通したのもそのためであった。
一八四七年一月、彼はベルリンに向った。五月には同地にベリンスキイがやって来た。二人は一しょにドイツ国内を旅行し、ザルツブルン(ベリンスキイが療養していた土地)で暮した。この年の夏以来、ツルゲーネフはパリおよびヴィアルドー夫人の別荘クルタヴネルに住むようになった。一八四八年のフランス二月革命のときにはその目撃者となり、たまたまパリに亡命中のゲルツェンと近づきになった。
このころ、母との不和がますます悪化し送金が中止されたので、ツルゲーネフは文筆で生活の資を得なければならなくなった。彼は『同時代人』や『祖国の記録』に熱心に寄稿するようになった。
一八五〇年夏、ロシアに帰国し、十一月に母ワルワーラ・ペトローヴナの死にあった。ツルゲーネフは遺産を相続して豊かな、独立した人間となった。彼はときにはスパースコエ村に、ときにはモスクワに、ときにはペテルブルグに居住した。彼の戯曲は上演されて好評を博した。
一八五二年にゴーゴリが死んだとき、ツルゲーネフは追悼文を書いて『モスクワ報知』に載せた。これが当局の忌諱《きい》に触れて逮捕され、一月後には自分の領地スパースコエに送られた。この流刑の本当の理由は、『同時代人』に連載され(一八四七〜五二)、一八五二年の夏に単行本として発行された『猟人日記』であった――と後年ツルゲーネフは回想している。
この流刑は一八五三年十一月までつづいた。ツルゲーネフは村里生活の無聊《ぶりょう》を、読書や、執筆や、音楽や、チェス(彼はチェスの名人であった)や、来客の応接や、狩猟でなぐさめた。
一八五六年七月、ツルゲーネフはまた外国におもむく。そしてほとんど毎年のようにロシアを訪れはしたものの、六十年代の初め以降はずっと外国で暮すこととなった。彼はコーカサスヘも、クリミヤヘも行ったことがなかった。そのかわり中部ロシアは非常によく知っていた。晩年の十余年(六十年代末〜八十年代初頭)というものは外国で暮した。フランス、イタリヤ、ドイツに住み、イギリス、スコットランドを訪問した。一番永く住んだのはバーデン・バーデン(一八六三〜七〇)とパリである。フランス生活が永かっただけに、メリメ、ゴンクール兄弟、ドーデ、ゾラ、モーパッサン、フローベールなどと親交があった。ロシア文学を西欧に普及させることにおいて、ツルゲーネフの果した功績は大きい。もっともロシア作家との折合いはあまりよくなく、トルストイ、ドストエフスキイ、ゴンチャロフ、ゲルツェン、ネクラーソフなどと仲違いをした。『父と子』の出版以後は、チェルヌイシェーフスキイ、ドブロリューボフ、ピーサレフなど、進歩陣営の批評家との間にも確執《かくしつ》を生じた。
一八七九年の春に久しぶりにロシアに帰ったツルゲーネフは、ペテルブルグでも、モスクワでも熱烈な歓迎を受けた。翌一八八○年には、モスクワのプーシキン銅像除幕式にあたり、公衆を前にして記念演説を行ったが、このたびの帰国はツルゲーネフにとって最後のものとなった。
ツルゲーネフはそれまでもしばしば永わずらいをしたことがあったが、一八八二年三月の末に脊髄ガンの最初の症状があらわれ、翌一八八三年八月二十二日、パリに客死した。
ツルゲーネフの文学には何よりもまずリリシズムがある。散文の中には豊かな詩情がただよっている。彼はロシア作家の中でもまれに見るスタイリストである。自然描写のすばらしさは他に類を見ない。しかし彼のリリシズムはロシア国民にたいする限りない愛や、その精神力や、英知や、才能にたいする深い信仰と一体のものである。またツルゲーネフの長篇小説の主人公はいずれも、五〇〜七〇年代ロシア社会の典型、「歴史を創造するタイプ」であった。
ツルゲーネフの代表作には『猟人日記』のほかに、『ルーチン』(うき草)(一八五六)、『貴族の巣』(一八五八)、『その前夜』(一八六〇)、『父と子』(一八六二)、『処女地』(一八七七)などの長篇小説、『アーシャ』(一八五八)、『初恋」(一八六〇)などの中短篇小説や『散文詩』(一八七八―八二)がある。また戯曲に『村のひと月』(一八五五)などがあり、文学論としては『ハムレットとドン・キホーテ』(一八六〇)が有名である。
『猟人日記』の第一作『ホーリとカリーヌイチ』が、『猟人の日記より』という副題をつけられて雑誌『同時代人』にのったのは一八四七年、今から百年以上も前のことである。それも創作欄にのったのではなくて、いわば穴埋めのために雑報欄に取り上げられたのだった。ツルゲーネフによるとこの副題を考えついたのは、パナーエフ〔作家で当時『同時代人』の編集者であった。著書に『文学的回想』がある〕だとのことであるが、とまれ、『ホーリとカリーヌイチ』の成功にはげまされて、作者はつぎつぎと狩猟家の農村スケッチを書き上げることになる。
同じ一八四七年のうちに、『ピョートル・ペトローヴィチ・カラターエフ』『エルモライと粉屋の女房』『隣人ラジーロフ』『郷士オフシャニコフ』『リゴフ』『荘園管理人』『事務所』が『同時代人』誌に掲載された(最後の二篇は作者が批評家ベリンスキイにもっとも接近した時代、つまり二人が共にザルツブルンやパリに滞在したころに書かれた。ところで『猟人日記』二十五篇のうち末尾に創作年月のあるのは、『荘園管理人』一篇だけで、「ジレジァ、ザルツブルン一八四七年七月」とはっきり書いてある。一八四七年七月といえば、ちょうどこの月の十五日に、ベリンスキイはあの有名な『ゴーゴリヘの手紙』を書いている。『猟人日記』のなかでももっとも農奴制度に批判的であるとされる『荘園管理人』、『事務所』の二篇がベリンスキイの影響のもとに書かれたのは疑いない)。〔ベリンスキイは『一八四七年のロシア文学観』で『猟人日記』を批評している。ベリンスキイ『ロシア文学評論集』参照〕
ツルゲーネフは猟人ものの成功に勇気を得て、『同時代人』にその後の作品をつぎつぎと発表していった。一八四八年に発表されたものには、『苺の泉』『田舎医者』『狼』『レベジャン』『タチヤーナ・ボリーソヴナとその甥』『死』があり、一八四九年には『シチグロフ郡のハムレット』『チェルトプハーノフとネドピュースキン』『森と草原』が、一八五〇年には『歌うたい』『あいびき』が、そして一八五一年には『ベージンの野』『クラシーヴァヤ・メーチのカシヤン』が掲載された。
『猟人日記』が最初に単行本として出たのは一八五二年である。この版ではこれまでに発表された二十一篇が、雑誌に出たときとは少し順序を変えて配列され、新たに『二人の地主』一篇が加えられた。
ベリンスキイは『ゴーゴリヘの手紙』(一八四七)のなかで、「ロシアにおけるもっとも急を要する、当面の国民的問題」は「農奴制度の絶滅、体刑の廃止」であるとしているが、『猟人日記』はこの急を要する問題にこたえるものであった。反対に、支配階級にとって『猟人日記』は好ましからぬ書であった。たとえば検閲官ヴォルコフは同書の『審査』結果を、一八五二年八月の報告書の中で次のようにのべている。「これら農民が迫害されていること、作者が俗悪な野蛮人や狂人のように取り出して嘲笑っている地主たちが、無作法な、法に違反したふるまいをしていること、村の僧侶が地主の前では卑屈であること、警察署長その他の官憲が賄賂《わいろ》を取っていること、あるいは、最後に、農民は自由に暮した方が気楽で良いことを証明すること……は、はたして有益であろうか」
けれども『猟人日記』のすぐれた点は、言うまでもなく、このような農奴制度への抗議(農奴制度は一八六一年に廃止された)にのみあるのではない。作者は現実的《リアル》であると同時に詩的な美しい言葉で、『百姓』のうちにある高貴な品性や民衆の芸術について、民間伝説の詩的世界について、あるいはロシアの自然美について語っているのである。
一八五四年には仏訳『猟人日記』の初版が出た。作者ツルゲーネフのもとへは、ジョルジュ・サンド、モーパッサン、ドーデ、メリメらの讃辞が寄せられた。(この仏訳をめぐる経緯については雑誌『文庫』(一九五八・五)にのった河盛好蔵氏の興味ある一文を参照されたい)
七〇年代になると、ツルゲーネフはふたたび『猟人日記』に取りかかった。一八七二年に『チェルトプハーノフの最後』(『ヨーロッパ報知』誌)を、一八七四年に『生きているミイラ』(選集『共同出資』)と『音がする!』(作品集第一部)を発表した。そして、この三篇を含めた決定版『猟人日記』が一八八〇年に刊行された。
ツルゲーネフはもっとも早く日本に知られたロシア作家の一人である。とりわけ『あいびき』は二葉亭四迷の名訳によりいち早く紹介され(一八八一年〈明治二一年〉)、そのすばらしい自然描写は当時の若い世代に大きな衝撃を与えた。国木田独歩の『武蔵野』(一九〇一年〈明治三四年〉)をはじめ、その影響を受けた作品が少なくない。
翻訳のテキストには一九五四年版ツルゲーネフ全集を用いた。これは検閲で削除された箇所を精密に復原した、現在もっとも信頼のおけるテキストである。
また岩波文庫旧版の中山省三郎氏訳、および米川正夫氏訳からは教えられるところがはなはだ多かった。ここに附記して敬意を表したい。(訳者)