猟人日記(上)
ツルゲーネフ/佐々木彰訳
目 次
ホーリとカリーヌイチ
エルモライと粉屋の女房
苺《いちご》の泉
田舎医者
隣人ラジーロフ
郷士オフシャニコフ
リゴフ
ベージンの野
クラシーヴァヤ・メーチのカシヤン
荘園管理人
事務所
狼《ビリューク》
二人の地主
レベジャン
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ホーリとカリーヌイチ
ボルホフ郡からジーズドラ郡へ渡ったことのあるものは、オリョール県の人たちとカルーガ県の人たちの気質に、際立《きわだ》った相違のあることにきっと驚いたことであろう。オリョール県の百姓は背が大きくなく、やや猫背で、気むずかしく、額《ひたい》越しにじろりと人を眺め、ヤマナラシで造った見すぼらしい小屋に住み、地主の畑へ夫役《ぶやく》に通うだけで、商売などはせず、粗末なものを食って、樹の皮で作った草鞋《わらじ》をはいている。ところがカルーガ県の小作百姓は松の木造りのゆったりした小屋に住まい、背が高く、悪びれず陽気に人の顔を眺め、顔は小綺麗《こぎれい》で、色白で、バターやタールを商《あきな》い、日曜祭日ともなれば長靴をはいて歩きまわる。オリョール県の村は(ここではオリョール県の東部のことを言っているのだが)たいてい、すっかり耕された畑のまん中にある。その近くにはやっとのことできたない池に変えられた谷間がある。いつも畏《かしこ》まって頭を垂れている幾本かの柳の木、それにひょろひょろした二三本の白樺を除くと、一露里四方の間に一本の木も見当らない。百姓家は互いにぴったりくっついている。屋根には腐った藁が無雑作に載っている……反対にカルーガの村は多くが森に囲まれている。百姓家はのびのびとまっすぐに立っているし、屋根は板葺《いたぶき》である。門はきちんと閉まっていて、背戸の籬《まがき》が壊れてばらばらになったり、往来へのめったりしていないから、通りすがりの豚に見舞われる心配がない……猟人にとってもカルーガ県の方がましである。オリョール県だとあと五年もたてば、今わずかに残っている森や薮地《やぶち》は、すっかりなくなってしまうだろう。沼などはとっくの昔にない。これに反してカルーガ県では、木を伐《き》った跡が延々何百露里もつづき、沼地は何十露里にもわたり、あの上品な鳥であるヤマドリも今なお跡を絶たずに残っているし、お人好しのタシギも棲《す》んでいれば、気ぜわしいシャコがけたたましく飛び立って、鉄砲打ちや猟犬をうきうきさせたり、びっくりさせたりするのである。
私は猟人としてジーズドラ郡を訪れているうちに、ポルトゥイキンというカルーガ県の小地主に野原で出会い、近づきになったが、彼は熱心な猟人であり、したがって立派な人間であった。なるほど、彼にもいくつかの弱点はあった。例えば県内の裕福な年ごろの娘という娘に求婚しては、縁談はおろか、家への出入りもさしとめられて、傷心のあまり、自分の悲しみを親友知己のたれかれに打明けるのであった。そのくせ娘の両親には相変らず、自分の果樹園でとれたすっぱい桃だの、そのほかの未熟な果物を贈り届けることをやめなかった。それからまた、同じ小話《こばなし》を好んで繰返したが、それは当のポルトゥイキン氏が大変おもしろがっているにもかかわらず、ついぞ一度も人を笑わせたことがなかった。アキム・ナヒーモフ〔一七八二―一八一四、群小作家の一人。主に役人をあざ笑う諷刺詩や寓意詩を作った〕の作品と『ピンナ』〔エム・ア・マールコフという凡庸な作家の作品〕という小説を賞讃した。話をするときには吃《ども》った。自分の猟犬に天文学者《アストロノム》という名前をつけていた。≪けれども≫と言うかわりに≪けれどもが≫と言い、自宅でフランス料理なるものを始めたが、その秘訣はお抱えコックの意見によれば、一つ一つの食品の自然の味を、すっかり変えてしまうことだった。この料理の名人の手にかかると肉は魚くさく、魚は茸《きのこ》の匂いがし、マカロニーは火薬の匂いがした。そのかわり一切《ひときれ》のニンジンといえども、菱形《ひしがた》か四角形に切られずには、スープの中にほうりこまれることがなかった。しかしこうしたわずかの取るに足らない欠点をのぞけば、ポルトゥイキン氏は、前にも言った通り、立派な人物であった。
私がポルトゥイキン氏と近づきになった最初の日に、彼はさっそく、その夜自分の家へ来て泊るようにと私を招いた。
「私の家まではかれこれ五露里もありましょう」と彼は附け加えた。「歩いて行くのにはちと遠すぎます。ひとまず≪ホーリ≫(私は彼の吃《ども》った言い方を一々お伝えしないが、読者はそれを許されたい)の家へ寄りましょう」
「ホーリ〔ホーリは臭猫《くさねこ》のこと。百姓のあだ名〕って誰です?」
「うちの百姓です……ここからごく近いところにいるんです」
私たちはホーリの家に向った。森のまん中の、すっかり伐り開かれ坦《な》らされた空地に、ホーリの家が一軒だけポツンと高く立っていた。それは二三棟の松の木造りの小屋を、板囲いでつないだものだった。母屋《おもや》の前には、細い柱で支えられている庇《ひさし》がつづいている。私たちは中に入った。年のころ二十歳《はたち》ぐらいの、背の高い、きれいな若者が私たちを迎えた。
「あ、フェージャ! ホーリはいるかい?」とポルトゥイキン氏が彼にたずねた。
「いいえ、ホーリは町へ行きました」と若者はにっこり笑って、雪のようにまっ白な歯並《はなみ》を見せて答えた。「馬車の支度をしますんで?」
「そうだよ、お前、馬車だ。それからクワスをもらおうか」
私たちは小屋に入った。汚れのない丸太組の壁には安っぽい木版画一枚貼ってあるわけではない。部屋の隅の、銀の縁飾りのあるどっしりした聖像の前には、お灯明《とうみょう》がともっている。菩提樹のテーブルはつい近ごろ鉋《かんな》をかけたばかりで、きれいに洗い上げてある。丸太の間や窓の側柱の上を悪戯者《いたずらもの》のゴキブリもうろついていないし、物思わしげな油虫もかくれていない。若者はまもなく、上等のクワスをなみなみと注いだ大きな白い柄附《えつき》コップと、木の鉢に小麦パンの大きな一切と塩漬けのキュウリを一ダースほどのせて、姿をあらわした。彼はこれらの食物をテーブルの上に置くと、戸口によりかかって、にこにこしながら私たちを見まわしはじめた。私たちがこのつまみものを食べ終らないうちに、早くも馬車の音が昇降口の前に聞えだした。私たちは外へ出た。髪の毛の縮れた、頬の赤い、十五歳ぐらいの少年が馭者《ぎょしゃ》になりすまして坐っており、よく肥えたまだらの馬をやっとのことで制していた。馬車のまわりに、お互いによく似てもおれば、フェージャにもよく似ている若い大男が、六人ばかり立っている。「みんなホーリの子供たちですよ!」とポルトゥイキン氏が言った。「みんな仔臭猫《こくさねこ》です」と私たちの後について昇降口まで出てきたフェージャが、あとを引き取った。「でもまだみんなじゃありません。ポタープは森へ行ってますし、シードルは親父《おやじ》と一しょに町へ行きましたんで……ワーシャ、気をつけろよ」と馭者の方を向いて、彼は言葉をつづけた。「一息《ひといき》に飛ばすんだぞ。旦那様をお乗せするんだからな。ただ揺れるときは気をつけて、静かにやれ。でないと車も傷《いた》むし、旦那様のお腹《なか》もぶったまげるだ!」フェージャの冗談を聞いて、ほかのホーリの子たちは微笑した。「天文学者《アストロノム》を乗せてくれ!」とポルトゥイキン氏がもったいぶって叫んだ。フェージャは楽しそうに、作り笑いをしている犬を虚空《こくう》に持上げて、馬車の底に下ろした。ワーシャが馬の手綱をさばいた。馬車は走り出した。「ほら、あれが私の事務所ですよ」だしぬけにポルトゥイキン氏が、小さな低い家をさして私に言った。「寄ってみましょうか?」「そうですな」「今はもう使っていないんですが、それでも一見の価値はありますよ」と彼は中へ入りながら言った。事務所はがらんとした部屋が二つあるきりだった。そこへ番人をしている、片目の老人が裏庭から駈けてきた。「こんにちは、ミニャーイチ」とポルトゥイキン氏が言った。「ときに、水をくれないかな?」片目の老人は姿を消したが、水を入れたびんとコップを二つ持ってすぐに戻ってきた。「味をみて下さい」とポルトゥイキン氏が私に言った。「これはうちでとれる良質の湧き水ですよ」私たちはコップに一杯ずつ飲んだが、そのとき老人は私たちに、丁寧にお辞儀をしたものである。「さあ、ぼつぼつ出かけるとしますか」と私の新しい友人が言った。「この事務所で私はアリルーエフという商人《あきんど》に、四町歩の森をいい値で売ったことがありますよ」私たちは馬車に乗りこんだ。そして半時間後にはもう地主の屋敷へ乗りこんでいた。
「一つお伺いしたいんですが」と夕食のときに私はポルトゥイキン氏にたずねた。「どうしてあなたのところのホーリは、ほかの百姓たちから離れて住んでいるんでしょう?」
「それはこういうわけですよ。あれはなかなか利口な百姓なんです。かれこれ二十五年ばかり前にあれの家が焼けたことがありますがね。そのときホーリは死んだ私の親父《おやじ》のところへやって来て、『どうか、ニコライ・クジミッチ、沼地にある森に引越しをさせて下さいませ。お年貢も今までよりたんと納めますんで』と、こう言うんです。『だがなんだってお前は沼地になんぞ越したいんだい?』『別にどうってことはございません。ただ旦那様、ほかの仕事はいっさいご免こうむらして頂きたいんで。そのかわりお年貢は、旦那様の思召《おぼしめ》し通りおきめになって下さいませ』『じゃ、年に五十ルーブリだ!』『結構でございます』『だが滞《とどこお》らせたら承知しないぞ、いいか!』『むろん、滞らせなどいたしません……』と、こんなわけで沼地へ住むようになりました。で、それからというものあれには、臭猫《ホーリ》というあだ名がついたのです」
「なるほど、で、裕福になったのですか?」と私はたずねた。
「裕福になりましたよ。今では百ルーブリも年貢を納めていますが、なあに、私はもっと値上げをしてやりますとも。私は何度もあれに言ってやったんですよ。『おい、ホーリ、身代金《みのしろきん》を出して自由の身になれったら!……』ところがあれもさるもので、先立つものがないと言い張るんです。金がありませんや、などと言って……なに、そんなはずはありませんよ!」
翌日私たちはお茶をすませるとすぐに、再び猟に出かけた。村を通り過ぎるとき、ポルトゥイキン氏は一軒の低い百姓家のそばへ来ると馭者《ぎょしゃ》に命じて馬車を停めさせ、よく響く声で「カリーヌイチ!」と叫んだ。「はいただ今、旦那様、すぐ参ります」という声が裏庭の方から聞えた。「今、草鞋《わらじ》の紐《ひも》を結んでおりますで」私たちはそろそろ馬車を進めて行った。村はずれで四十がらみの、背の高い、やせた、小さな頭をのけぞらせている男が私たちに追いついた。これがカリーヌイチであった。私は一目見て、ところどころに痘痕《あばた》のある、人のよさそうな、浅黒い顔が気に入った。カリーヌイチ(とあとで知ったのだが)は毎日のように旦那のお伴《とも》をして猟に出かけ、獲物袋を持ったり、時には銃をかついだり、鳥のとまっているところを教えたり、水を汲んで来たり、苺《いちご》を摘《つ》み集めたり、仮小屋を建てたり、馬車のあとをつけて走ったりするのだった。彼がいないとポルトゥイキン氏はまるで手も足も出なかった。カリーヌイチは至って陽気な、至っておとなしい性質の男で、絶えず小声で鼻歌をうたいながら、呑気《のんき》そうにあたりを眺めていた。ものを言うときは少し鼻にかかった声で話し、微笑しながら自分の薄青い眼を細めたり、しばしば、自分の疎《まば》らな、楔形《くさびがた》の顎鬚《あごひげ》をしごく癖があった。早足ではないが大股に、細長い棒にそっともたれながら歩いた。一日のうちに彼は一再ならず私に話しかけて、私の世話をするにも卑屈な態度を見せなかったが、まるで子供を監視するように、片時も主人から眼をはなさなかった。真昼の堪えがたい暑さに閉口して私たちが逃げ場を探したとき、彼は私たちを、森の一番奥にある自分の養蜂場《ようほうじょう》につれて行った。カリーヌイチは香りの高い乾いた草の束をかけた小屋の戸を開けて、私たちをさわやかな草の上に寝かせると、自分は網《あみ》のついた嚢《ふくろ》のようなものを頭にかぶり、ナイフと、壺と、燃えさしの薪《まき》を持って、私たちのために蜂房を切りに出かけた。私たちはまだ温かい透明な蜂蜜を泉の水で飲み、単調な蜂のうなりと樹の葉のそよぐ音を聞きながら、うとうとと眠りこんだ。――そよそよ吹きだした微風で私は目がさめた……眼を開けて見ると、カリーヌイチがいた。彼は半ば開いている戸口の閾《しきい》に腰をかけて、ナイフで木匙《きさじ》を刻んでいた。私は永いこと、夕暮の空のようにおだやかで明るい彼の顔に見とれていた。ポルトゥイキン氏も目をさました。私たちはすぐには起き上らなかった。永い間歩いてから、ぐっすり寝込んだあとで、乾草の上にじっと寝ているのは気持がよかった。身体がとろけるように気《け》だるく、顔がほんのりほてって、快《こころよ》いもの憂《う》さについ目がふさがってしまう。やっと私たちは起き上って、夕方までまたぶらつきに出かけた。夕食のときに私はまたホーリとカリーヌイチのことを持ち出した。「カリーヌイチは善《よ》い百姓ですよ」とポルトゥイキン氏が私に言った。「まめで世話好きな百姓です。けれどもが、きちんと世帯を張ってゆくことができないのです。私があれをいつもひっぱりまわすもんで。何しろ毎日のように私の猟のお伴でしょう……家の切り盛りどころじゃありません――まあ、考えても見て下さい」私は彼に同感の意を表《ひょう》し、二人は床についた。
翌日ポルトゥイキン氏は、隣村のピチュコーフという地主との事件で、町へ行かなければならなかった。隣村の地主ピチュコーフがポルトゥイキン氏の土地を鋤起《すきおこ》しした上に、その地所で、ポルトゥイキン氏の百姓女を鞭《むち》で折檻《せっかん》したのである。私は一人で猟に出かけ、夕方近くホーリの家に立ち寄った。小屋の閾《しきい》の上で私を迎えたのは頭の禿げた、背の低い、肩幅の広い、がっしりした老人であったが、これがホーリだった。私は好奇心を抱いてこのホーリという男を眺めた。彼の顔立ちはソクラテスを想い起させた。ソクラテスのように高い、でこぼこの額、同じような小さな眼、同じような獅子っ鼻。私たちは一しょに小屋の中へ入った。この前と同じフェージャが牛乳と黒パンを持って来てくれた。ホーリは腰かけに腰をおろして、自分の縮れた顎鬚《あごひげ》を悠然となでながら、私と話をし始めた。彼はどうやら自分の威厳を感じているらしく、話のしぶりも動作もまことにゆったりしたもので、時折長い口髭《くちひげ》の下から薄ら笑いをもらすのであった。
私たちは播《ま》きつけや、作柄や、百姓の暮し向きのことなどを話し合った……彼は何事にまれ、私と意見が一致するようだった。ただあとになって私はいささか恥かしくなってきた。そして自分が見当違いのことを言っているような気がしてきた……そんなわけで、話はなんとなく変なことになるのだった。ホーリは時折分りにくい言い方をしたが、それは用心してのことに違いない……次に私たちの会話の一例を示そう。
「ねえ、ホーリ、どうしてお前は、旦那に身代金を払って自由にならないんだね?」と私は彼に言った。
「なんのために私が自由になりますんで? 私は今では旦那様の御気性をよく存じていますし、年貢のこともよく知っています……うちの旦那様はいいお方なんで」
「それでもやっぱり、自由の身の方がいいだろうさ」と私は言った。
ホーリは横目で私を見た。
「知れたことでさ」と彼は言った。
「じゃ、どうして身代金を払って自由の身にならないんだい?」
ホーリは首をまわした。
「そんな金が、旦那様、どこにありましょう?」
「ふん、とぼけるのはたくさんだよ、爺《じい》さん…-」
「ホーリが自由な人たちの仲間入りをしたら」と彼は独り言のように小声で言葉をつづけた。「鬚《ひげ》のない人間〔鬚を剃っている旦那たち、主として官僚をさす。当時官僚は、ニコライ一世の命令により、鬚を蓄《たくわ》えることをかたく禁じられていた〕はみんなホーリの親方になってしまいましょう」
「鬚は自分で剃ってしまうさ」
「鬚なんかなんでもありません。鬚は草みたいなものです。刈り取ることができます」
「じゃ、一体どうするというんだね?」
「つまりホーリは、商人になりますんで。商人はいい暮しをしていますが、それでいて鬚を生やしておりますでな」
「じゃ何かい、お前は商売もやっているのかね?」と私は彼にたずねた。
「ぼちぼち商《あきな》っています、バターだの、タールだの……ときに、旦那、馬車の支度をいたしますんで?」
『はて、こいつ奴《め》、なかなか口が固くて、腹黒いやつだわい。』と私は肚《はら》の中で考えた。
「いや」と私は口に出して言った。「馬車はいらないよ。明日はお前の家の近辺を歩くんだ。で、もしよかったら、お前んとこの乾草小屋に泊めてもらいたいんだが」
「どうぞお泊り下さいまし。でも納屋なぞでゆっくりおやすみになれるもんですか。女どもに言いつけて、敷布を延べさせ、枕を出させましょう……おい、女ども!」と彼は腰を上げながら、叫んだ。「おい、こっちだ!……それからお前はな、フェージャ、一しょに行って来《こ》う。なんせ女ってやつは気が利かないんだから」
十五分ほどしてフェージャは提灯《ちょうちん》をさげて私を納屋に案内した。私は香り高い乾草の上にどさっと身を投げだし、犬は私の足もとに丸くなって寝た。フェージャがおやすみなさいと言って出て行くと、戸がギイときしんで、バタンと閉った。私はかなり永いあいだ寝つかれなかった。牛が戸口に近づいて、二度ばかり騒がしく鼻息を立てた。犬がそれに向って威丈高《いたけだか》に、うう、とうなった。豚がもの思わしげにうなりながら傍を通り過ぎた。馬がどこか近くで乾草を噛《か》んでは鼻息を立てはじめた……とかくするうち、私もやっとまどろみ始めた。
明け方にフェージャが私を起した。この陽気な、元気のいい若者はすっかり私の気に入った。それにまた、私の気づいたかぎりでは、彼はホーリ老人のお気に入りでもあった。彼ら親子はとても睦《むつ》まじくお互いにからかい合っていたのである。老人が私を迎えにやって来た。私が彼フ家で一夜を過したからか、それとも何かほかにわけがあるのか、とにかく、ホーリは昨日よりはるかに愛想よく私をもてなした。
「お茶の用意ができています」と彼は微笑を浮べながら私に言った。「さあお茶を飲みに参りましょう」
私たちはテーブルのまわりに腰かけた。嫁の一人である丈夫そうな女が、牛乳を入れた壺を持ってきた。息子たちもみな順々に家の中に入って来た。
「お前んとこの連中はみな大きいんだなあ!」と私は老人に言った。
「はい」と砂糖の小さな塊《かたまり》を噛み砕ォながら彼は言った。「あいつらにも、わしや婆《ばあ》さんを悪く言う種は何もなさそうなんで」
「それでみんなお前と一しょに暮してるのかね?」
「そうです。自分たちからそうしたいてんで、こうやって暮してるんです」
「で、みんな女房がいるのかね?」
「まだ一人、あすこにいる暴れ者が嫁をもらっておりません」と彼は、相変らず戸にもたれかかっているフェージャを指さしながら答えた。「ワーシカってのもいますが、これはまだ子供なんで、嫁をもらうのはまだまだ先のことです」
「なんでおらが嫁をもらわなきゃならねえだ?」とフェージャがやり返した。「おらあ、これで結構だよ。なんのために女房なんているだね? いがみ合いでもするためかい?」
「なんだと、こいつ……おれはもうちゃんと知ってるんだぞ! 銀の指環なんぞはめやがってよ……お前はいつまでもお屋敷の女中どもと嗅《か》ぎ合っていたいんだろう……『およしよ、いけすかない!』」と老人は小間使のまねをしながら言葉をつづけた。「おれはもうちゃんと知ってるんだぞ、こののらくら者めが!」
「だって、女房のどこがいいんだい?」
「女房ってものは働き手よ」とホーリはもったいぶって言った。「女房は百姓の召使さ」
「なんのためにおらに働き手がいるだ?」
「それ、それ、お前は面倒なことはなんでも人にやらせようとするだ。お前たちのような手合の肚の中はちゃんと知りぬいてるぞ」
「ふん、そんなら嫁をもらってくれよ。え? どうしたのさ! どうして黙ってるだ?」
「いや、もうたくさんだよ、口の達者なやつだな。そら、旦那様がいい御迷惑だ。もらってやるよきっと……旦那様、お腹立ちにならないで下さい。なんせご覧の通りからっきしの子供で、物の道理がさっぱりわかりませんので」
フェージャは不服そうに首を振った……
「ホーリはいるかね?」と聞き覚えのある声が戸の外でしたと思ったら、カリーヌイチが家の中に入って来た。手に野苺の小房を持っている。それは彼が親友のホーリのために摘み取ってきたものであった。老人は愛想よく彼を迎えた。私はびっくりしてカリーヌイチを見つめた。正直なところ、百姓にこんな『やさしい心づかい』があろうとは、思いもよらなかったのである。
私はその日はいつもよりも四時間ばかり遅れて猟に出かけたが、それから三日間というものはホーリの家で過した。新しい知り合いたちが私の興味をそそったのである。なんで彼らの信用を得たのか知らないが、彼らは心《こころ》置きなく私と話しあった。私は喜んで彼らの話を聞き、彼らを観察した。二人の友人はお互いに少しも似かよったところがなかった。ホーリは積極的な、実際的な人間で、政治的な頭脳の持主であり、合理主義者であった。反対にカリーヌイチは理想家で、ロマンチストで、熱狂的な、空想好きな人間の部類に属していた。ホーリは現実というものをよく理解していた。つまり、家も建てれば、小金《こがね》もため、主人とも土地の顔役ともうまく調子を合せてやっている。カリーヌイチは樹の皮で作った草鞋《わらじ》をはいて歩き、どうにかこうにかその日暮しをしている。ホーリはおとなしく和合してゆく大家族を擁《よう》している。カリーヌイチの方はいつか女房を持ったこともあるが、女房を恐れていたし、子供はついぞできなかった。ホーリはポルトゥイキン氏の肚の中をすっかり見透《みすか》していたが、カリーヌイチは主人を敬《うやま》っていた。ホーリはカリーヌイチを愛し面倒を見てやっている。カリーヌイチはホーリを愛し尊敬している。ホーリは口数が少なく、独り笑いをして、万事を胸にたたみこんでいる。カリーヌイチは勇《いさ》み肌の職人のように気の利いたことをすらすら言うわけではなかったが、熱のこもった話し方をする……しかしカリーヌイチは生れつき、ホーリ自身が認めているようないろいろな長所を持っていた。例えばお呪《まじな》いで出血や、ひきつけや、狂気を治したり、虫を下したりする。蜜蜂を飼うのが上手だったし、何をやらせても器用であった。現にホーリが私のいる前でカリーヌイチに、新しく買入れた馬を厩《うまや》へつれて行ってくれるように頼んだ。するとカリーヌイチは、好人物のもったいぶった様子を見せながら、老懐疑家の願いを容《い》れてやった。カリーヌイチは自然に親しんでいるが、ホーリは人間や世間により親しみを持っている。カリーヌイチは議論することを好まず、あらゆることを盲目的に信じている。ホーリはお高くとまって、人生を皮肉な眼で見ているほどである。彼は見聞が広いので、私は彼からずいぶん教えられるところがあった。例えば彼の話によって私は、毎年夏の草刈り前になると、一風変った形の小さな馬車が村々にやって来ることを知った。その馬車には長上衣《カフタン》を着た男が乗っていて、草刈り用の大鎌を売りつける。現金だと一ルーブリ二十五コペーカ、紙幣なら一ルーブリ五十コペーカ取る。貸しだと三ルーブリとルーブリ銀貨一枚である。もちろん、百姓たちはみな≪かけ≫で手に入れる。二三週間するとこの男はまたやって来て、貸金の取り立てをする。何ぶん百姓は燕麦《えんばく》を刈り取ったばかりなので、払うものはあるというわけだ。百姓は商人をつれて居酒屋に行き、そこで勘定をすませる。地主の中には自分で大鎌を現金で仕入れ、同じ値段で百姓たちに≪かけ≫売りしようと考えたものもいた。ところが百姓たちはありがたがるどころか、かえってがっかりした。というのは、大鎌の刃を爪先で弾《はじ》いてみたり、その音に耳を澄ませたり、手に取ってひっくりかえしてみたり、油断のならない町の商人をつかまえて、「おい、お前さん、この大鎌はどうも大したもんじゃなさそうだな?」と二十ぺんもたずねたりする楽しみを奪われたからである。同じような悪戯《いたずら》は、小鎌を買うときにも行われる。ただ違うのは、このときには女たちも口を出すことで、時折当の商人が、小うるさい女どもに我慢できなくなって、自分の利益のために、女たちをぶんなぐる必要に駆られるに立ちいたることがある。しかし女たちが一番ひどい目にあうのは次のような場合である。製紙工場の原料請負人はボロの買入れを、一種特別な連中に委《ゆだ》ねる。郡によっては彼らを『鷲《わし》』と呼んでいるところもある。こうした『鷲』は請負人から二百ルーブリばかりの紙幣を受取って獲物を探しに行く。しかし、自分の名をもらった気高い鳥とは違って、彼は公然と大胆に襲いはしない。反対に、この『鷲』は奸策《かんさく》と狡猾《こうかつ》に訴える。彼は馬車をどこか村近くの藪《やぶ》の中に乗り棄てて、自分は行きずりの通行人か、それともただの浮浪者のようなふうをして、裏庭やお勝手口を一軒一軒まわって歩く。女たちは彼らの近づいて来るのを勘で嗅ぎつけて、こっそりと迎え出る。取引は大急ぎですまされる。わずかばかりの散銭《ばらせん》と引替えに、女はいっさいの不用なボロばかりか、亭主のシャツや自分のスカートまでも、『鷲』に売り払ってしまうことさえ珍しくない。最近では女たちは、自分の家の麻を、とくに『大麻』を盗んで、同じやり方で売り飛ばすことを有利だと思うようになった、――『鷲』どもの商売の馬鹿にならない拡張であり、発展である! だがそのかわり、亭主たちは亭主たちで敏感になり、少しでも臭《くさ》いと思ったり、遠くの村に『鷲』があらわれたといううわさを、うすうすでも小耳にはさむと、迅速《じんそく》、機敏に矯正《きょうせい》と予防の手段を構じるのである。事実、それは彼らにとって腹の立つことではなかろうか? 麻を売るのは男の仕事であって、彼らはそれを正確に売っているのだ。――町で売るのではない、町で売るには自分でわざわざ運んで行かなければならないので、村まわりの小商人《こあきんど》に売るのである。彼らは竿秤《さおばかり》を持っていないので、四十つかみを一プード(一六・三八キロ)に勘定する――ところで、ロシア人の一つかみ、ロシア人の掌《てのひら》がどんなものか、とりわけ、『精を出した』とき、それがどんなものであるかは、諸君ご存じの通りである!――私は、何ぶんにも世馴れず、村で『世故《せこ》に長《た》けた』(わがオリョール県でこういうふうな言い方をする)人間でもなかったから、こういう話を心ゆくばかり聞いたことであった。しかしホーリがいつも話し手だったわけではなく、自分でも私にいろんなことをたずねた。私が外国にいたことがあると知ると、彼の好奇心は燃え立った……カリーヌイチも彼にひけをとらなかったが、カリーヌイチを感動させたものはむしろ自然である山や、滝や、珍しい建物や、大きな都市などの話だった。ホーリは行政や国家の問題に興味を持った。彼は何事によらず筋道を立てて考えた。「どうでしょう、これはあちらでも、こっちと同じでございましょうか、それとも違いますんで?……ねえ、旦那、どうであんしょう?……」――「あ! こりゃ、おったまげただ!」とカリーヌイチは私の話しているときに叫ぶ。ところがホーリは黙って、濃い眉毛を寄せ、ただ時折、「それはこちらじゃそうは行きますまい、が、それはいいですな――理窟《りくつ》に合ってまさ」などと言うだけである彼の質問をことごとく読者諸君にお伝えすることはできないし、その必要もない。しかしこうして話しているうちに私は、おそらく読者諸君は思いもよらないであろうが、一つの確信を得ることができた。――それは、ピョートル大帝はなんといってもロシア人であった、ほかでもない自己の改革においてロシア人であったという確信である。ロシア人は自己の力量と不屈さを固く信じているので、われとわが身を滅すことさえ辞さない。彼は過去に恋々とせず、大胆に前途を見つめる。よいものだったらなんでも気に入るし、道理にかなったものならなんでも受け入れる。それがどこから来たものだろうと彼には同じことで、一向に頓着しない。ロシア人の常識は好んでドイツ人の無味乾燥《むみかんそう》な分別を嘲笑《あざわら》うが、しかしドイツ人は、ホーリに言わせると、おもしろい国民であって、彼はドイツ人に学ぶつもりでいる。ホーリは他人《ひと》と違って異例な地位にあり、事実上、独立した地位を占めているので、ほかのものからは挺子《てこ》でもひっぱり出せないような、百姓たちの表現で言えば、石臼《いしうす》にかけても搾《しぼ》り出せないような、いろいろなことを、私に話してくれた。彼は全く自分の地位をよく理解していた。ホーリと話し合って、私は初めてロシアの百姓の素朴で、賢明な言葉を聞くことができた。彼の見識は、自己流ながらもかなり広きにわたっていた。しかし彼は字が読めなかった。ところがカリーヌイチは字が読めた。「こののらくら者は読み書きが出来るんでさあ」とホーリが言った。「こいつのところじゃ蜜蜂までが一度も死んだことがないんでして」「ところで、子供たちには読み書きを習わせなかったのかい?」ホーリはしばらく黙っていた。「フェージャは知ってるだ」「ほかのものは?」「ほかの奴らは駄目でさあ」「そりゃまた、どうして?」老人はそれには答えないで、話題を変えた。とはいえ、ホーリがどんなに利口者だったにしろ、彼にも多くの先入観や偏見があった。例えば、彼は心の底から女を軽蔑していて、機嫌のいい時には女たちをからかったり、馬鹿にしたりした。彼の女房は、口喧《くちやかま》しい婆さんで、一日中ペーチカの上から降りて来ず、絶えずぶつぶつ小言をいったり、口汚く罵《ののし》ったりしていた。息子たちはてんから相手にしなかったが、嫁たちを自分に絶対服従させた。まことにロシアの民謡の中で姑が、『それでもお前はわしの子か、それでもお前は夫かい! 自分の女房《かかあ》がよう撲《う》てぬ、若い女房《かかあ》がよう撲てぬ……』と歌っているのは、宜《むべ》なるかなである。一度私は嫁をかばってやろうとして、ホーリの同情心をかきたてようと試みたことがある。しかし彼は落ち着き払って言い返した。「旦那ももの好きでがすな、こんな……つまらんことにかまうなんて、――女どもは勝手に喧嘩させておくがいいんです……仲裁なんかするとかえって悪くなりまさ。それに何も、わざわざ掛り合いになることはないじゃありませんか」時にはこの意地悪な老婆がペーチカの上から這《は》い降りてきて、入口の間《ま》から、「ポチや、ポチ、ポチ!」といって、飼犬を呼びよせておいて、犬のやせた背中を火掻き棒でしたたか殴りつけたり、あるいは軒下に立って、通りすがりのたれかれと見さかいなく、ホーリの言い草を借りると『いがみ合う』のである。それでも自分の亭主だけはこわがって、亭主に命じられると、ぺーチカの上の自分の居場所におとなしく引き返すのだった。しかし、わけてもおもしろかったのは、話がポルトゥイキン氏に及んだとき、カリーヌイチがホーリと口論するのを聞いたことである。「おい、ホーリ、おれの前であの人のことをとやかく言わないでくれ」とカリーヌイチが言った。「それにしても、なんだってお前《めえ》に長靴をこさえてくれないんだろうな?」とホーリがやり返す。「え、長靴だと!……なんのためにおらに長靴がいるだ? おらあ、百姓だ……」「おらも百姓だが、ほら……」こう言うとホーリは自分の片足をあげて、マンモスの皮で裁《た》ったみたいな長靴を、カリーヌイチに見せる。「ふん、お前《めえ》とおらじゃわけが違うだ!」とカリーヌイチが答える。「まあ、せめて草鞋代ぐらいはくれてもよかんべ。だってお前は旦那のお伴《とも》で猟に行くんだものな。一日に、草鞋一足はいるだろ」「草鞋代は下さるがな」「そうそう、去年は大枚十コペーカ玉を頂戴したっけな」カリーヌイチはいまいましそうに横を向いたが、ホーリはなおもしきりと笑いこけるので、彼の小さな眼はすっかり見えなくなってしまうのだった。
カリーヌイチはなかなか好い声で歌い、バラライカも少しは弾《ひ》けた。ホーリはじっとそれに聞き入っているうちに、突然首をかしげて、哀れっぽい声で歌い出すのであった。とりわけ彼は、『ああ悲しきはわが運命《さだめ》!』という歌が好きだった。こんなときフェージャはすかさず「何をお父っつぁん、めそめそしてるだね?」と、親父をからかって、言うのである。しかし、ホーリは頬杖をついて、両眼を閉じ、己《おの》が運命を訴えつづける……かと思えば、ほかの時には彼ほどまめな男はいなかった。いつも何かをいじくっている、――荷馬車を修理したり、柵を結《ゆわ》えたり、馬具を検《しら》べたり。もっとも、あまり綺麗好きな方とは言えず、あるとき私が注意したら、「家ってものは、人の住んでいる匂いがしなくちゃならんもんですわい」という返事だった。
「お前はそう言うが」と私は言い返した。「カリーヌイチの養蜂場なんか綺麗なもんだよ」
「そうしないと蜜蜂が住みつかないからでさ、旦那」と彼は溜息まじりに言った。
「ときに、旦那、旦那は御先祖代々の持ち村がおありですか?」とあるとき彼は私にきいた。「あるよ」「ここから遠いんでございますか?」「百露里ほどある」「すると旦那、その村でお暮しになってるんで?」「そうだ」「でも、どっちかと言や鉄砲打ちで気晴しをなさってる方が多いんでございましょう?」「正直なところ、そうだな」「結構でごぜえます、旦那。せいぜいエゾヤマドリでもお撃ちになって下さい、でも百姓頭はしょっちゅうお取りかえになるんですな」
四日目の夕方、ポルトゥイキン氏が迎えの者をよこした。私は老人と別れるのが名残《なごり》惜しかった。私はカリーヌイチと馬車に乗った。「じゃ、さよなら、ホーリ、達者でな」と私は言った……「さよなら、フェージャ」「さようなら、旦那様、さようなら、わしらのことをお忘れにならないで下せえ」馬車は動きだした。夕焼がたった今まっ赤に燃え立ったばかりである。「明日は上天気だな」と、明るい空を眺めながら、私は言った。「いいえ、雨になりますだ」とカリーヌイチが言い返した。「ほら、向うでアヒルが水をパチャパチャはねかけ合っていますし、それに草がひどくむっと匂うだで」私たちは繁《しげ》みの中へ入った。カリーヌイチは馭者台の上で跳び上るように揺れながら小声で歌をうたいだした。そしていつまでもじっと夕焼を眺めていた……
翌日私はもてなし厚きポルトゥイキン氏の家を辞した。
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エルモライと粉屋の女房
夕方、私は猟師のエルモライをつれて『渡り』を射ちに出かけた……しかし、おそらく読者の中には、渡りといってもなんのことか、ご存じない方もいるであろう。では諸君、まずそれからお聴き願いたい。
春、日の落ちる十五分ばかり前に、鉄砲をかついで、犬もつれずに林に出かける。どこか林の縁《へり》に恰好《かっこう》な場所を見つけて、あたりの様子を見まわし、ピストンをあらため、仲間と目くばせする。早くも十五分が過ぎ去る。もう日は沈んだが、林の中はまだ明るい。空気は清らかに澄みきっている。小鳥がしきりにさえずっている。若草はエメラルドのように陽気な光を放っている……こちらはじっと待っている。林の中はしだいに暗くなる。夕映《ゆうば》えの真紅《しんく》の光がおもむろに樹の根や幹の上をするするとつたって、だんだん高く昇り、まだ裸同然の下枝《しずえ》から、身動きもせずに眠っている梢《こずえ》の方に移ってゆく……やがて梢も黒ずんだ。紅《くれない》の空も青味がかってくる。林の匂いが強まって、生温かい湿り気がかすかに身体に感じられてくる。林の中へ入ってきた風も、身のまわりで静まる。小鳥は眠りにつく、――が、それは一せいにではなく、種類によって後先《あとさき》がある。まずアトリが声をひそめ、ややあってベニウグイス、それにつづいてヒワ。林の中はますます暗くなる。樹々は融け合って、大きな、黒く見える塊《かたまり》となる。蒼い空には一番星、二番星がおずおずと光りはじめる。ジョウビタキと、小さなキツツキだけが、まだ眠たげにさえずっている……やがてそれも鳴きやむ。頭の上でもう一度、タゲリのけたたましい声が聞える。どこかで悲しげにコウライ・ウグイスがわめきたて、ヨウグイスが初めてさえずる。猟人の心は待ち焦《こが》れている、と不意に――しかしそれがわかるのは猟人だけである、――不意に深い静寂《しじま》の中で、一種独特な『カアカア』という鳴き声と、シュウと鳴る音が響き渡り、調子の整ったすばやい羽ばたきが聞えてくる――そしてヤマシギが、長い嘴《くちばし》を優美に傾けて、暗い白樺の木蔭からするすると飛び出して来て射程に入る。
つまりこれを『渡りを迎える』というのである。
そこで、私はエルモライと渡りを射ちに出かけた。しかし、諸君、勝手ながら私はまず諸君に、エルモライを御紹介しなければならない。
背の高い、やせた、鼻は細長く、額は狭く、眼は灰色で、髪はぼうぼうに乱れ、厚い唇には嘲笑《あざわら》うような表情を浮べた、年のころ四十五ぐらいの男を想像していただきたい。この男は夏でも冬でも、ドイツふうに仕立てた黄色っぽい南京木綿《なんきんもめん》の長上衣《カフタン》を着て歩いているが、しめている帯はロシアふうの幅広の長いもので、青いだぶだぶのズボンをはき、羊皮のついた帽子をかぶっている。この帽子は、零落《れいらく》した地主が、機嫌のいいときに彼にくれたものである。帯には袋が二つ縛りつけてあった。前のは手ぎわよく二つに括《くく》り分けられ、半分は火薬を入れるところ、半分は散弾を入れるところになっており、また後《うしろ》のは獲物入れになっていた。填《つ》める綿屑は自分の、どうやら無尽蔵と思われる、帽子から取出していた。そんなことはしなくとも、獲物の野禽《やきん》を売って儲《もう》けた金で、弾薬盒《だんやくごう》や獲物袋を楽々と買えるはずなのに、そうした買物をしようなどとは、一度だって考えてみたこともない。相変らず自己流に鉄砲の装填《そうてん》をやっては、散弾と火薬をこぼしたり混ぜたりする危険をみごとに避ける手際《てぎわ》のよさに、見ている者を驚嘆させるのであった。彼の鉄砲は燧石《ひうちいし》つきの単発銃で、おまけに烈しく『撥《は》ね返す』悪い癖があるものだから、エルモライの右の頬はいつも左の頬よりも腫《は》れあがっていた。一体、こんな鉄砲でどうして命中するのか、器用な人間にも考えつかぬことだが、しかし命中するのである。彼にはワレートカという名のセッター種の猟犬がいたが、これなん実に驚くべき代物《しろもの》であった。エルモライは一度もこの犬に餌をやったことがない。「犬に餌なんぞやってたまるものか」と彼は考える。「なんせ、犬ってやつは利口な生き物だから、自分の食い物は自分で見つけるものだ」実際その通りで、ワレートカはひどく痩せさらばえていて、冷淡な通行人さえびっくりさせるほどだったが、結構生きていたし、しかも長生きをした。自分のみじめな境涯にもかかわらず、一度だって姿をくらましたこともなければ、主人を見棄てようというそぶりを見せたこともないくらいだった。ただ一度だけ、若いときに、恋にひかれて二日間家を留守にしたことがある。だがこの馬鹿な料簡もじきに消え失せた。ワレートカの最も著しい特性は、この世のあらゆるものに対する不可解な無関心であった……もしもこれが犬の話でなかったら、私は「幻滅」という言葉を使ったに違いない。犬はたいてい、短い尻尾を尻の下に巻きこんで坐っており、しかめ面《つら》をしていて、時折体をぶるっとふるわせるが、決して笑わない(犬に笑う能力のあること、しかもなかなか可愛らしく笑う能力のあることは周知の通りである)。度はずれにみっともない顔をしているので、暇なとき下男は誰でも、この犬のきりょうを口汚なく嘲笑《あざわら》う機会を逃さなかった。しかし、こうしてからかわれるばかりか、時にはなぐられるような目にあっても、ワレートカは驚くばかりの冷静な態度でそれを堪《た》えしのんだ。わけても彼は料理人たちを喜ばせた。なにも犬のみとは限らない弱点のために、温かい、うまそうな香気《におい》につい釣りこまれて、犬が自分のひもじそうな鼻面を、台所の半ば開いている戸口に突っこもうものなら、料理人たちはひどく喜んで、すぐさま仕事をさしおいて、大声で叫んだり、わめいたりしながら、犬を追っかけまわすのであった。猟に出たときは疲れを知らないのが特色で、嗅覚も相当鋭敏であった。が、ひょっとして手負いの兎に追いつくことでもあると、さもうまそうに最後の骨まで食ってしまう。青々とした繁みの中のどこか木蔭に入りこみ、ありとあらゆる罵《ののし》りの言葉で悪態をついているエルモライをまいておいて、ゆうゆうと御馳走を平らげるのである。
エルモライは私の隣人の一人である昔風の地主に使われていた。昔風の地主たちは『野鳥』を好まず、家禽《かきん》を愛好する。ただ特別な場合、例えば誕生日や、命名日や、選挙日などに限って、昔風の地主の料理人たちは長嘴《ながはし》ものの料理に取りかかり、何をしているのか自分でもしかとはわからないときの、ロシア人持ち前の熱中状態に陥り、とてつもない味のつけ方を工夫するので、客の多くはただもの珍しそうに、出された料理を眺めるだけで、箸《はし》をつける気にはとうていならない。エルモライは月に一度主人の台所に、エゾヤマドリとシャコを二番《ふたつがい》納めるように申しつかっていたが、それでも、どこでも好きな所で、勝手なことをして暮すことを許されていた。彼はなんの役にも立たない男――わがオリョールの言葉で言えば『やくざもん』として、人から相手にされなかった。もちろん、火薬も散弾も支給されなかった。それは彼が犬に餌をやらなかったのと、全く同じ筆法によるものである。エルモライは実に奇妙な類《たぐい》の人間であった。空飛ぶ鳥のようにのんきで、かなり口数が多く、見たところぼんやりして、不器用である。大変な酒好きで、一つところに落ち着いて暮すことができず、歩くときには小刻みにせわしなく、あちこちよろめきながら歩く――しかも小刻みにせわしなく、あちこちよろめきながら、一昼夜に五十露里も歩いてのける。この男はきわめてさまざまな冒険をしてきた。沼地の中や、樹の上や、屋根の上や、橋の下で夜を明かしたこともあれば、屋根裏や、穴倉や、納屋に閉じこめられたことも一再ならずあり、鉄砲や、犬はおろか、一番必要な着物までもなくしたことだってあるし、ひどく、それも永いことなぐられたこともあった――けれどもしばらくすると、ちゃんと着物もき、鉄砲も持ち、犬もつれてわが家へ帰って来るのであった。彼はほとんどいつもなかなかの上機嫌であったが、陽気な人間とは言えなかった。それというのも彼は一風変っていたからである。エルモライはよい相手があると、とりわけ一杯やりながら、ひとしゃべりするのが好きだった。が、それも永くはなかった。すぐに立ち上って、どこかへ行ってしまいそうになる。「おい、貴様、どこへ行くんだい? 外はもう夜だぞ」「チャープリノヘよ」「十露里も先のチャープリノヘなんぞ、なにしに行くんだ?」「あそこのソフロンて百姓の家に泊りに行くだよ」「まあ、ここへ泊んな」「いんえ、できねえ」こういって、エルモライはワレートカをつれ、暗い夜道をものともせずに出発し、藪《やぶ》をくぐり、水溜りをわたって歩いてゆく。ところが百姓のソフロンは、彼を自分の屋敷に入れないかもしれない。いやそれならまだしも、まごまごすると、「まともに暮してる者に迷惑をかけるな」とばかりにエルモライをぶんなぐるかもしれないのだ。そのかわり、春の出水のときに魚をつかまえたり、エビを手捕りにしたり、勘で野禽《やきん》を捜しだしたり、ウズラをおびきよせたり、オオタカを慣らしたり、『森の精の笛』とか、『ホトトギスの谷渡り』とかいう妙音でさえずるウグイスを捕えるわざにかけては、誰一人としてエルモライにかなわなかった……ただ一つ、彼にはできないことがあった。それは犬を仕込むことで、とうていそれだけの辛抱ができなかったからである。彼には女房もあった。週に一度は女房に会いに行った。彼女は見すぼらしい、半分くずれかかった小屋に住んでいて、どうにかこうにかその日暮しをしていたが、明日はめしが満足に食べられるかどうか、前の日には一向にわからない、およそ辛い運命を耐え忍んでいた。エルモライは、こののんきでお人好しの男は、女房を邪険に、乱暴に扱っていた。自分の家にいるときはこわい、きつい顔つきをしているので、可哀そうに彼の女房は、どうして御機嫌をとっていいやらわからなかった。ちょっとにらまれてもおろおろしながら、なけなしの金で亭主のために酒を買ってきたり、亭主が大威張りでペーチカの上にふんぞり返って、前後不覚に眠りはじめると、まるで召使のようにおろおろして、自分の裘《かわごろも》をかけてやるのであった。私自身も一再ならずこの男に、何かしら気むずかしい兇暴性がふっと現われるのに気づいたことがある。例えば、彼が、銃弾に当って傷ついた小鳥の喉《のど》を歯で食い切るときの顔の表情は、私の気に入らなかった。しかしエルモライは二日と自分の家にいることはしないで、他所《よそ》の村へとびだしてゆき、再び『エルモールカ』〔「エルモライ」と「丸帽」とにかけている〕となる。彼のこのあだ名は百露里四方に通じたし、時折は自分でもそう名乗っていた。一番下っぱの下男でも、この浮浪者に対しては優越感をもっていた。おそらくそのためであろう、彼らはエルモライを愛想よく扱った。また百姓たちは最初のうちこそ、野原で兎狩りをするように、おもしろがって彼を追い立てたり、つかまえたりしたが、後になると、勝手にしろとばかりに放っておくようになった。さて、一たん彼が変り者だということがわかると、もはや彼には手を触れず、かえって彼にパンをやったり、世間話を始めたりするようになったのである……ざっとこんな男を私は自分の猟師に雇い、彼をつれてイスタ川の岸辺にある大きな白樺林へ渡りを射ちに出かけた。
ロシアの河の多くはヴォルガ河と同じように、一方の岸は山になっており、一方の岸は草地になっている。イスタ川も同様である。この小さな川はおそろしく気紛《きまぐ》れに曲りくねって、蛇《へび》のように這いまわり、半露里とまっすぐに流れない。場所によってはけわしい丘の頂《いただき》から十露里にもわたって遠望が、堤防や、池や、水車場や、柳の木に囲まれた菜園や、こんもりと繁った果樹園が見渡される。イスタ川には魚が無数にいるが、とりわけモロコが多い(百姓たちは日ざかりに、藪の下かげにひそんでいるところを手でつかまえる)。小さなイソシギがチイチイ鳴きながら、冷たい、澄んだ湧き水が方々に湧き出てまだら模様となっている、石の多い両岸に沿って飛びわたる。ノガモが池のまん中に浮き上って、用心深くあたりを見まわす。アオサギが木蔭や、入江や、絶壁の下にいつも姿をあらわす……私たちは一時間ばかり渡りに立って、ヤマシギを二番《ふたつがい》仕止めたのち、日の出前にもう一度|運試《うんだめ》しをしたいものと思って(渡りを射つのは朝でもできるので)、近くの水車場に泊ることにした。私たちは林を出て、丘を下《くだ》った。川は蒼黒い浪を急速に運んでいた。空気は夜の湿り気をおびて、しっとりとなった。私たちは門をたたいた。庭で犬どもが吠えだした。「誰だね?」と、しわがれたねぼけ声が聞えた。「猟の者だが、泊めてもらいたいのだ」返事がない。「金は払うよ」「行って親方に話してみるべえ……しっ、畜生!……静かにしないか!」雇い人が家に入って行く物音が聞えた。まもなく彼は門口へ戻ってきた。「だめだ」と彼が言う。「親方が通しちゃなんねえってよ」「どうしていけないんだ?」「心配してんだよ。お前さんがたは猟人だから。ひょっとしたら水車場を焼かれるかもしんねえ。だってそら、弾丸《たま》をお持ちだろ」「馬鹿馬鹿しい!」「一昨年も水車場が焼けてしまっただ。馬喰《ばくろう》どもが泊ったっけが、どうしたことか火を出してしまっての」「そんなこと言ったって、お前、まさか外へ寝られやしないじゃないか!」「おらの知ったこっちゃねえ……」彼は長靴の音を立てながら行ってしまった。
エルモライは彼にさんざん悪態をついた。「村へ行きましょう」と、しまいに、溜息をつきながら、彼は言った。しかし村までは二露里ほどあった……「ここの庭で夜を明かそう」と私は言った。「今夜は暖かいから。粉屋だって金さえ出せば藁《わら》ぐらいはよこすだろう」エルモライは一も二もなく同意した。二人はまた戸をたたきはじめた。「一体なんの用だね?」と、またもや雇い人の声がした。「だめだといったのに」私たちはこちらの希望を説明してやった。彼は主人と相談しに行ったが、やがて主人をつれて戻ってきた。耳門《くぐり》がギイッと音を立てる。やがて粉屋が現われたが、見れば背の高い、脂《あぶら》ぎった顔の、牡牛のように逞《たくま》しい頸《くび》をして、丸々と肥った太鼓腹の男である。彼は私の申入れに同意した。水車場から百歩ほど離れたところに、小さな、四方明け放しになった差し掛け小屋がある。そこへ私たちのために藁や、乾草が運ばれた。雇い人は川っぷちの草の上にサモワールを据えると、しゃがみこんで、せっせと火吹きを吹きはじめる……炭火がおこって、彼の若々しい顔を明るく照らし出す。粉屋はかけだして女房を起しに行ったが、しまいには、自分から、私に家の中で寝るようにすすめた。しかし私は野天《のてん》にとどまることをえらんだ。粉屋の女房は私たちに牛乳や、卵や、馬鈴薯や、パンを持ってきてくれた。じきにサモワールが沸《たぎ》ってきたので、私たちはお茶を飲みにかかった。川面からは水蒸気が立昇っていた。風はなかった。あたりではクイナが叫んでいた。水車の車輪のあたりには弱い音が聞えていた。それは雫《しずく》が横板から落ちたり、水が堤防の水門の閂《かんぬき》をもれて滴《したた》る音であった。私たちは少しばかり火を燃やした。エルモライが灰の中で馬鈴薯を焼いている間に、私はついうとうととまどろみかけた……そっと控え目に語るささやき声に、私はふと目をさました。私は頭をもたげた。見れば、火を前に、ひっくり返した桶《おけ》の上に、粉屋の女房が腰かけて、私の猟師と話をしているのであった。私はその前から、彼女の着物や、動作や、話しぶりで、彼女が百姓女や町方の者ではなく、地主屋敷に奉公していたものとにらんでいた。けれども今はじめて彼女の顔つきをよく見定めることができた。彼女は見たところ三十歳ぐらいであった。やせた、蒼白い顔はいまだに、際《きわ》立って美しかった昔の面影をとどめている。わけても大きな、愁《うれ》いを含んだ眼が私の気に入った。彼女は両|肘《ひじ》を膝《ひざ》について、顔を両手の上にのせていた。エルモライは私に背を向けて坐り、木《こ》っ端《ぱ》を火にさしくべていた。
「ジェルトゥーヒナでは、また家畜の疫病が流行《はや》って」と粉屋の女房が言った。「イワン神父さんのところでは、牛が二頭もやられたの……本当に困ったわ!」
「で、お前さんとこの豚はどうしたね?」しばらく黙った後で、エルモライがたずねた。
「元気よ」
「仔豚の一匹くれえおらにくれてもよかりそうなもんだ」
粉屋の女房はしばらく黙っていたが、やがて溜息をついた。
「おつれの方はどなた?」
「旦那だよ――コストマーロフの」
エルモライはモミの小枝を何本か火の中にほうりこんだ。小枝はすぐさま一せいにパチパチと音を立てて、濃い、白い煙が彼の顔にまともに吹きつけた。
「どうしてお前の御亭主はおらたちを家に入れてくれなかったんだい?」
「心配なのよ」
「肥っちょの、太鼓腹め……ねえ、アリーナ・チモフェーエヴナ、おらにお酒《みき》を一杯ふるまってくれねえかよ!」
粉屋の女房は立ち上って、闇の中に姿を消した。エルモライは小声で歌いだした。
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惚《ほ》れた女子《おなご》に通いつめ、
靴がすっかりすり切れた……
[#ここで字下げ終わり]
アリーナは小さな水差とコップを持って戻ってきた。エルモライは立ち上り、十字を切ると、ぐっと一息に飲み干した。「うまい!」と彼は附け加えた。
粉屋の女房はまた桶に腰を下ろした。
「ときに、どうだね、アリーナ・チモフェーエヴナ、やっぱり病気はよくねえだか?」
「よくないよ」
「どんな具合だね?」
「夜になると咳が出て苦しくって」
「旦那はどうやらお寝《やす》みになったようだ」としばらく黙った後で、エルモライが言った。「お前、医者になんか行くなよ、アリーナ。かえって悪くなるだ」
「行ってやしないわ」
「でも、うちへは遊びに来な」
アリーナはうつむいた。
「おらあ、そしたら、うちのかかあなんぞはおん出しちまうだ」とエルモライは言葉をつづけた……「本当によ」
「旦那様を起してあげた方がいいわ、エルモライ・ペトローヴィチ。そら、おじゃがが焼けたわ」
「なあに、ぐうぐう寝かしとくだ」と私の忠実な僕《しもべ》は平然と言い放った。「さんざん駆けずりまわったので、ぐっすり眠っているのさ」
私は乾草の上で寝返りを打った。エルモライは立ち上って、私の方に近づいた。
「じゃがいもが焼けました、お上《あが》んなすって」
私は差し掛けの下から出た。粉屋の女房は桶の上から立ち上って、帰ろうとした。私は彼女に話しかけた。
「この水車場はずっと前に借りたのかね?」
「三位一体祭の日でちょうど満一年でした」
「お前の亭主はどこの人だね?」
アリーナは私の問いがよく聞きとれなかった。
「お前の亭主はどこの人だとよ」と声を高めてエルモライが繰返した。
「ベリョーフです。ベリョーフの町方の者です」
「じゃ、お前さんもやはりベリョーフかね?」
「いいえ、私はお屋敷の……あの、もとはお屋敷勤めをしていました」
「どこの?」
「ズヴェルコフ様の。今では自由の身ですけれど」
「ズヴェルコフというと?」
「アレクサンドル・シールイッチ様です」
「じゃ、お前はあの奥さんの小間使をしていたことがあるんじゃないかね?」
「どうしてご存じでございますの?――していました」
私は一そう好奇心にかられ、同情の念を抱いてアリーナを見た。
「私はお前の御主人を知っているよ」と私は言葉をつづけた。
「ご存じですの?」と彼女は小声で答えて眼を伏せた。
ここで私は、自分がなぜそんなに同情をもってアリーナの顔を見たかを、読者に語らねばならない。ペテルブルグ滞在中に私はふとしたことでズヴェルコフ氏と近づきになった。彼はかなり重要な地位にあって、その道に明るい敏腕家《びんわんか》として聞えていた。彼には細君がいたが、それはぶよぶよした、神経質な、涙もろい、そのくせ意地の悪い女で――つまりありきたりの、厄介な女であった。息子も一人いたが、それこそ本当のお坊ちゃんで、甘やかされてわがままに育った馬鹿息子だった。当のズヴェルコフ氏の容貌《ようぼう》もあまり引立たない方で、幅の広い、ほとんど四角といってもいいような顔から、鼠のように小さな眼が狡猾《こうかつ》そうにのぞいていて、鼻の穴の天井を向いた大きなとがった鼻が、でんとそびえていた。短く刈りこんだ白髪はしわの多い額の上に刷毛《はけ》のように突っ立って、薄い唇はいつもかすかにふるえながら、甘ったるい微笑を浮べていた。ズヴェルコフ氏はいつも、両足を開き、肥えた手をポケットに突っこんで立っていた。あるとき私は彼と二人で馬車を駆って郊外へ出向いたことがある。私たちは話し合った。経験豊かな敏腕家らしく、ズヴェルコフ氏は私に「真理《まこと》の道」を教えはじめた。
「こんなことを申しちゃ失礼だが」と彼はしまいに甲高《かんだか》い声で弁じ立てた。「とかくあなた方のように若い人たちは、何事もよく考えずに判断したり、議論したりする癖があります。あなた方は自分自身の祖国というものをあまりよくご存じない。あなた方はロシアがわかっていないのです、そうなんですよ!……あなた方はいつもドイツ語の本ばかり読んでいなさる。現に例えば今も、あなたはああだ、こうだ、となんのことを、つまりその、屋敷勤めの百姓のことをかれこれおっしゃる……いや結構、議論はいたしますまい、それはみんな結構なことです。けれども、あなた方は彼らをご存じない、彼らがどんな連中かご存じないのです(ズヴェルコフ氏は大きな音をたてて鼻をかみ、嗅《か》ぎタバコを嗅いだ)。失礼ながら、一例としてちょっとしたエピソードをお話しましょう。きっとあなたにも興味があると思いますから(ズヴェルコフ氏は咳《せき》ばらいをした)。あなたは私の家内がどんな人間かご存じですね。あれより気立てのいい女なんておいそれと見つからないと思いますが、あなたもそれにはご異存ありますまい。あれについている小間使の暮しときたら、普通の暮しなんてものじゃなくって、それこそ眼《ま》の当《あた》り天国を見ているようなものです……けれども家内は、亭主持ちの女を小間使に置かないことにしています。全く役に立ちませんからね。やれ子供が生れるの、なんだの、かんだので、奥様の用事をきちんきちんと果して、いろいろな癖までもちゃんと呑み込んでよく気をつける、などということはできやしません。それどころじゃない、上《うわ》の空です。それが人情というものです。ところで、あるとき私たちは通りすがりに自分たちの持ち村に寄ったことがあります、ええと、何年になるかしら――嘘を言っちゃいけないから、何年といったらいいか、――たしか、十五年ほど前でしたよ。ふと見ると、百姓頭のところに女の子が、なかなか綺麗な娘がいるのです。それが物腰にも、何かしらとてもやさしいところがあります。家内が私に言うには、「ねえ、ココー」――と、つまり家内は私をこう呼んでいるのですが、――「この子をペテルブルグヘつれて行きましょうよ。私、気に入ったわ、ココー……」とこう言うんです。私も、「いいとも、つれて行こう」と言いました。百姓頭は、もちろん、手を合せて拝まんばかりです。何しろこんな幸福が訪れようとは夢にも思っていなかったのですから……そりゃ、女の子は、分別なんてありませんから、もちろん泣きましたよ。全く初めのうちは無気味ですからね。生れた家を離れるのは……誰だって……無理もありません。しかし、じき私たちになついてしまいました。最初女中部屋へやりました。で、もちろん、いろいろ教えてやったのです。ところで、どうなったと思います?……娘は驚くべき進歩ぶりを見せるのです。家内はもうすっかり惚れこんでしまって、彼女を可愛がり、他の者をさしおいて、自分のお附きの小間使に取り立てる始末……大したもんじゃありませんか!……それにしてもあの娘も認めてやらなくちゃなりません。家内はあんないい小間使を使ったことがないのです、本当の話です。まめまめしくって、ひかえ目で、従順で、――全く非の打ちどころがないのです。そのかわり家内も、正直なところ、彼女を甘やかし過ぎたくらいです。立派な身なりをさせたり、主人と同じものを食べさせたり、一しょにお茶を飲ませたり……いや、もう想像のほかでしたよ! こうして彼女は十年ほど家内に仕えたのです。ところが、突然、ある日、考えてもご覧なさい、アリーナが――その娘はアリーナという名でした――取次ぎも頼まないで私の書斎へ入ってきて――いきなり私の足もとへ身を投げ出すじゃありませんか……率直に言って、私はそうしたことには我慢がならないのです。人間はけっして自分の品位を忘れてはならないものです、そうじゃありませんか? 「一体なんの用かね?」「旦那様、アレクサンドル・シールイッチ様、お願いでございます」「どんな?」「お嫁に行かせて下さいませ」私は、正直なところ、びっくりしてしまいました。「馬鹿! お前も知っての通り、奥様にはほかに小間使がいないじゃないか?」「奥様にはこれまで通りお仕えいたします」「馬鹿を言え! 馬鹿を! 奥様は亭主持ちの小間使なんか置かないんだ」「マラーニャなら私のかわりが勤まりますけど」「指図がましいことはやめてもらおう!」「恐れ入りました。どうぞおよろしいように……」私は、正直なところ、あきれ果ててしまいました。何しろ私はこういう人間ですから、これほど癪《しゃく》にさわることはない、あえて言いますが、つまり忘恩ほどひどく癪にさわることはありません……あらためて申すまでもありませんが――家内がどんな人間かはご存じの通りです。あれは本当に天使のような女、言葉では言いつくし難いほど善良な女です……よくせきの悪人だって、あれには手を下すことができなかろう、と思われるくらいです。私はアリーナを追い返しました。いずれそのうちに目が覚めるだろうと思ったのです。私は、ねえ君、人間が忌《い》まわしい忘恩などという悪徳を持っていることを信じたくないのです。ところがどうでしょう? 半年もたつとまたまた私のところへやってきて同じことを哀願するのです。そのとき私は、正直なところ、思わずむっとして彼女を追い返し、奥様に言いつけてやるぞ、といっておどかしてやりました。私は憤慨したのです……しかし私の驚きはそれだけではありませんでした。それから少したって家内が私の部屋に入ってきましたが、眼に涙を浮べて、ひどく興奮していますので、私はぎくりとしたほどです。「どうしたんだ?」「アリーナが……」ね、おわかりでしょう……私はその先を言うことを恥じます。「よくもそんなことが!……相手は誰だ?」「下男のペトルーシカです」私は思わずかっとなった。私はこういう人間ですから……中途半端なことは嫌いです!……ペトルーシカ……が悪いんじゃない。罰したって構わぬが、しかし、私の考えでは、あれが悪いんじゃない。そもそもアリーナが……いや、どうも、いやはや、今さら何を言う必要がありましょう? 私は、もちろん、すぐさまアリーナに髪を切らせ、普段着に着かえさせて、村に送りかえすように命じました。家内は優秀な小間使をなくしましたが、それは致し方がない。家の中でふしだらを許すわけには、なんといっても、いきません。腐った手足はひと思いに切って棄てた方がましです……さあ、さあ、これでおわかりでしょう、――あなたもご存じの通り、私の家内は、あれは、あれは、あれは……全くもって、天使ですよ!……だって、家内はアリーナにすっかり愛着を感じていたのです、ところがアリーナはそれを知りながら、よくも恥かしくなく……え? 違いますか? どうです……え? 全く、これ以上説明無用ですよ! いずれにしても、他にどうしようもなかったのです。私を、とりわけ私を、この娘の忘恩は永いこと悲しませ、怒らせました。あなたがなんと言われようと……こういった連中にまごころや愛情を求めてもむだです! 狼はどんなに養ったところで、やっぱり森の中の古巣を恋しがるものです……これは将来のための、いい教訓ですよ! しかし私はただあなたに証明したかっただけで……」
ズヴェルコフ氏は話をしまいまで言いきらずに、頭をそむけ、心ならずもわき起ってきた興奮を雄々しくも抑えながら、一そうぴったりとマントに身を包んだ。
読者も今や、なぜ私が同情の念を持ってアリーナを眺めたか、おそらくおわかりのことと思う。
「お前が粉屋に嫁に来てから大分なるのかね?」とついに私はたずねた。
「二年になります」
「それにしても、旦那はお許しになったのかい?」
「身受けをしてもらいましたので」
「誰に?」
「サヴェーリイ・アレクセーヴィチに」
「というと?」
「良人《おっと》です」(エルモライはにやりと笑った――)「旦那様が私のことをお話しになったのですか?」しばらく黙ってからアリーナがこう附け加えた。
私は彼女のこの問いに、どう答えていいかわからなかった。「アリーナ!」と遠くから粉屋が叫んだ。彼女は立ち上って、去った。
「あれの亭主はいい人かね?」と私はエルモライにきいた。
「別にどうってこともねえんで」
「子供はいるのかい?」
「一人いましたが、死んでしまいました」
「何かね、粉屋はあれがすっかり気に入って、もらいでもしたのかね?……身代金はずいぶん出したんだろうか?」
「知りません。あの女は読み書きができますんで。あの商売にはそれが……その……重宝でして。つまり、気に入ったんでしょう」
「ところで、お前はあの女とは前からの知り合いかい?」
「そうなんで。あの女の主人の家へは以前よく出入りしたもんですから。お屋敷はここからあまり遠くありません」
「ペトルーシカという下男も知ってるかい?」
「ピョートル・ワシーリェヴィチですか。よく知ってましたとも」
「今どこにいるかね?」
「兵隊に行きましただ」
私たちはしばらく黙っていた。
「あの女はどうしたんだね、身体が悪いようだが?」としまいに私はエルモライにきいた。
「悪いにも、なんにも!……ところで明日は、どうやらいい猟がありそうでさ。旦那もそろそろお寝みなすったら」
ノガモの一群が私たちの頭上を、口笛のような鳴き声を立てながらとんでいったが、やがてそれが程《ほど》遠からぬ川に降り立つのを耳にした。もうすっかり暗くなって、肌寒くなりだした。林の中ではヨウグイスが、響き渡る声でさえずっていた。私たちは乾草の中にもぐりこんで、そのまま眠りに落ちた。
[#改ページ]
苺《いちご》の泉
八月の初めに、たまらない暑さのつづくことがよくある。そういう時は、十二時から三時頃までというもの、どんなにきびきびした、熱心な人でも猟などをする元気がなくなるし、どんなに忠実な犬でも、『猟人の拍車の掃除』を始める。つまり、痛々しげに眼をしばたたき、大げさに舌をつき出して、主人の後からのろのろついてくる。主人に叱られても、意気地なく尾を振って、顔に当惑そうな表情を浮べるだけで、前へ出て行こうとはしない。ちょうどこんな日に猟に出かけたことがあった。私は永いこと、ほんのちょっとでもいいから、どこか物蔭にしばらく横になりたいという誘惑と闘った。永いこと、根気のよい私の犬は藪《やぶ》の中を探しまわった。とはいうものの、犬は自分でも、この熱に浮かされたような奮闘から、大した効果を期待していないことは明らかであった。息苦しい暑さにたえられなくなり、私もとうとう音《ね》を上げて、自分たちの最後の気力と能力を大切に貯《たくわ》えておこうという気になった。寛容なる読者諸君のすでにご存じであるイスタ川まで、私はやっとのことでたどりつき、懸崖《けんがい》を下りて、黄色い、湿った砂地を、『苺の泉』という名でこの界隈《かいわい》にあまねく知られている泉をさして歩きだした。この泉は川岸の裂け目から湧き出している。岸の裂け目はしだいに、小さいが、しかし深い谷間となっており、そこから二十歩ほどのところで、泉は楽しげな、おしゃべりめいた音を立てて川に落ちこんでいる。谷の斜面にはカシワの繁みが繁茂《はんも》し、泉のほとりには短い、ビロードのような草が青々と生えている。日光は泉の冷たい、銀色の水面にほとんど触れることがない。私はやっと泉のほとりに達した。草の上には白樺の皮でつくった柄杓《ひしゃく》が置いてあった。それは通りすがりの百姓が、みんなのためを思って残していったものである。私は腹一ぱい水を飲んで、木蔭に身を横たえ、あたりを見まわした。泉の水が川に流れ落ちるところにできたため、たえず漣《さざなみ》を立てている入江のわきに、私に背を向けて二人の老人が坐っていた。一人はかなりがっしりした、背の高い老人で、こざっぱりした鉄色の長上衣《カフタン》を着、和毛《にこげ》の縁《ふち》なし帽子をかぶって、釣りをしていた。もう一人はやせた小柄な男で、つぎの当った綾《あや》織りの上衣をまとい、帽子もかぶらずに、ミミズの入った壺を膝の上にのせ、日光をさえぎろうとでもするかのように、時折白髪頭をなでていた。私はこの男をつくづくと眺めて、シュミーヒノ村のスチョープシカだと気がついた。ここに読者のお許しを得て、この人物を紹介させてもらうことにしたい。
私の持ち村から数露里のところにシュミーヒノという大きな村があり、そこにはコジマ、ダミアン両聖者のために建立された石造の教会がある。この教会の真向いに、かつては広壮な地主の屋敷が輪奐《りんかん》の美を誇っていた。それはさまざまな建増しの棟や、付属建物や、仕事場や、厩《うまや》や、作物の囲い場や、馬車小屋や、湯殿や、臨時の台所や、来客と管理人のための傍屋や、花作りの温室や、民衆用のぶらんこや、その他、程度の差はあれ有用な建物に、ぐるりと周囲を取りまかれていた。この屋敷には富裕な地主の一家が住んでいて、無事平穏にすごしていたが、ある朝にわかに火事が起り、財宝はことごとく灰燼《かいじん》に帰した。地主一家はほかの住居に移って行き、屋敷はすっかり荒廃した。広い焼跡は菜園と変り、昔の土台の名残である煉瓦の山が、そこここに積み上げられていた。焼け残った丸太でぞんざいに小屋をつくり、ゴシックふうの四阿《あずまや》をつくるために十年前に買ってあった艀板《はしけいた》で屋根を葺《ふ》いて、そこに、庭師の、ミトロファンを、女房のアクシーニヤや七人の子供と一しょに移り住ませた。ミトロファンは百五十露里も離れた主人の食卓用に、青物や野菜を届けることを命じられた。アクシーニヤはテロール種の牝牛の世話を委《ゆだ》ねられた。この牝牛は大金を出してモスクワで買ったものだが、残念ながらあらゆる生産能力を欠いており、それゆえ手に入れてから、ただの一度も乳を出したことがないという代物《しろもの》である。アクシーニヤはまた、ただ一羽の、『お屋敷の』鳥である冠毛のある灰色の雄ガモの世話も託されていた。子供たちはまだ年がいかないので、どんな決った仕事も当てがわれていなかった。もっとも、そのために彼らは、すっかり怠《なま》け者になってしまったのだが。私はこの庭師のところに二度ばかり泊ったことがある。また通りすがりにキュウリを買い求めたこともあるが、これはどうしたわけか、夏でも無暗《むやみ》と大きいばかりでまずく、水っぽい味で、皮の厚くて黄色いのが特色であった。この男のところで、私は初めてスチョープシカに会ったのである。ミトロファン一家と、片目の兵隊の女房のちっぽけな部屋にお情けでおいてもらっている、ゲラーシムという年とった、聾《つんぼ》の教会の長老のほかは、シュミーヒノには一人としてお屋敷勤めの者は残っていなかった。なぜなら、ここに私が読者に紹介しようとしているスチョープシカは、屋敷勤めの者どころか、人間の数にさえ入っていなかったからである。
どんな人間でも社会においてなんらかの地位というものをもち、またなんらかのつながりというものを持っているものである。どんな者でも屋敷勤めをしているからには、たとえ給金でなくとも、少なくとも、いわゆる『当てがい扶持《ぶち》』は支給される。ところがスチョープシカは全くなんの補助も受けず、誰とも縁つづきでなく、誰も彼という人間がいるということを知らなかった。この男には過去さえなかった。彼のことはうわさにも上《のぼ》らなかった。彼は国勢調査にもおそらく算入されなかったであろう。彼がかつて誰かの従僕をしていたことがあるとかいう、ぼんやりしたうわさはあったけれど、彼が何者で、どこから来たのか、誰の息子なのか、どうした風の吹きまわしでシュミーヒノ村の農奴となったのか、いつとも知れぬ昔から着こんでいる綾織りの長上衣《カフタン》を、どうやって手に入れたのか、どこに住み、なんで暮しているのか、――そういうことは誰にもまるで見当がつかなかったし、また、実を言うと、そんな問題は誰にも興味がなかったのである。どの召使の系譜も四代まで溯《さかのぼ》って知っているトロフィームイチ爺さんでさえ、ただ一度こんな話をしたばかりである。それによるとスチェパン〔スチョープシカの本名〕は、亡くなった先代の領主で旅団長であったアレクセイ・ロマーヌイチが、戦役から凱旋《がいせん》のときに、輜重車《しちょうしゃ》に乗せてつれて帰られたトルコ女の筋にあたるとか。よく祭りの日など、ロシアの旧い習慣にしたがって、みんなにお給金が出たり、蕎麦饅頭《そばまんじゅう》やウォートカを出して大盤ぶるまいをしたりするが、こういう日でさえスチョープシカは、並べられた食卓《テーブル》や酒樽の傍に姿も見せなければ、主人に挨拶をしたり、近づいて主人の手に接吻するようなこともないし、執事の脂《あぶら》ぎった手でなみなみと注がれた酒盃を、主人の眼の前で、主人の健康を祝して、ぐっと一息に飲み干すようなこともなかった。ただ時たま、親切な人が、通りすがりに、食べさしの饅頭の切れはしを、哀れな男に分けてやるくらいなものであった。復活祭の当日には彼とも接吻は交わされたが、しかし彼は脂じみた袖を折返しもしなければ、赤く染めた卵を後ろのポケットから取り出して、息をはずませ、眼をしばたたきながら、若主人夫婦や、時には大奥様にまで、うやうやしく捧げるようなこともしなかった。夏は鶏小舎のうしろの物置に住み、冬は湯殿の脱衣所で暮した。寒さの厳しい頃には乾草小屋に泊った。人は彼を見なれていたし、時には彼を足蹴《あしげ》にさえしたが、誰ひとり彼と口をきくものとてはなく、彼自身も生れてこの方、口を大きく開いたことがないかのように見受けられた。火事の後、この見棄てられた男は庭師のミトロファンのところに身をよせた。つまりオリョールの言葉で言えば『転げこんだ』のである。庭師は彼にいっさい構わなかった。自分のところで暮すがいいとも言わなかったが、追い出しもしなかったのである。それにスチョープシカも庭師の家に住んでいたのではない。彼は菜園に住んでいたのである。彼は歩くのにも、動くのにも、少しも音を立てなかった。口を手でふさいで、おっかなびっくりくしゃみや咳《せき》をした。いつも蟻のようにこっそりと、まめに働き、動きまわった。それというのもみんな食べものにありつくため、ただ食うためであった。全く、朝から晩まで自分の口すぎの心配をしなければ、わがスチョープシカは干乾《ひぼ》しになったに違いない。何を食べて夕方までの腹ごしらえをしたらいいのか、朝のうちにわからないとは、まことに因業《いんごう》な話である! 時には生垣の下に坐って大根をかじっていたり、あるいはニンジンをしゃぶったり、あるいは泥だらけのキャベツの玉をこまかく刻んだりしている。時には水桶をどこかへ持っていくところで、うんうんうなっている。時には壺の下に火を焚《た》いて、ふところから何かしら黒い切れはしを取りだしては、壺の中にほうりこんでいる。時には自分の小屋の中で、木切れでコツコツ音をさせながら、釘をうちこみ、パンを載せる棚をこしらえていることがある。すべてこういうことを彼は、まるで人目を盗むみたいに、黙々としてやっている。だから、人が気がついて見たときには、もういなくなっている。時によると不意に、二日ばかりいなくなることがある。もちろん、彼のいないのに誰も気づくものはない……ところが、ふと見れば、またもうそこに現われて、またもや生垣の傍のどこかで、こっそりと五徳《ごとく》の下に木《こ》っ端をくべている。彼の顔は小さく、眼は黄色味がかって、髪は眉毛のあたりまでかぶさり、鼻はとがり、耳はコウモリの耳のようにとても大きくて、透きとおっている。髯《ひげ》はいつも二週間前に剃ったようにむさくるしいが、それより決して多くも、少なくもならない。私はイスタ川のほとりで、ざっとこういったスチョープシカが、もう一人の老人と一しょにいるのに出会ったのである。
私は彼に近づいて、挨拶をかわし、彼とならんで腰を下ろした。見れば、スチョープシカのつれも私の知り合いであった。これは今では自由の身となっているが、もとはピョートル・イリイッチ***伯爵に使われていた農奴で、名前をミハイロ・サヴェーリエフといい、あだ名を霧《トウマン》という男である。彼はボルホフの肺病やみの町人のところに住んでいたが、その町人というのは旅籠屋《はたごや》の亭主で、私はかなりちょくちょくそこに泊ったことがある。オリョール街道を通りすぎる若い役人やその他の暇人たちは(縞《しま》の羽毛布団にくるまって旅をする商人などはこの限りでない)、今でも、トロイツキイの大きな村から程遠からぬところに、すっかり荒れ果てた、屋根は崩れ落ち、窓は釘づけになっている、大きな木造の二階屋が、街道にぐっとせりだしているのに気づくであろう。よく晴れた、日の照りつける真昼時に、この廃屋にもまして侘《わび》しいものとては考え出すことができない。ここにはかつて、客好きで有名な、旧き時代の富裕な貴族、ピョートル・イリイッチ伯爵が住んでいた。その昔はよく県内の名士たちが彼のところに集って、素人芸《しろうとげい》の音楽の耳を聾《ろう》せんばかりのどよめきや、打上げ花火や仕掛け花火の爆音にあわせて、心ゆくばかり踊ったり、遊び興じたものであった。そして、今この荒れ果てた地主屋敷の傍を通りかかって、溜息をもらし、過ぎし昔や去《い》にし青春の頃を追憶する老婆は、おそらく一人にとどまらないであろう。伯爵は永いあいだ饗宴を催し、卑屈な客人たちの群がる中を愛想よく微笑しながら、永いあいだ歩きまわったものである。けれども彼の財産は、不幸にして、一生涯|贅《ぜい》をつくすには足りなかった。すっかり蕩尽《とうじん》してしまい、ペテルブルグヘ働き口を探しに出かけていったが、話の決まるのを待たずにホテルの一室で死んでしまった。霧《トウマン》は彼の家令をしていたが、まだ伯爵の存命中に自由の身にしてもらった。彼は年のころ七十ばかりで、整った、人好きのする顔をしていた。ほとんど絶え間なく、今ではエカチェリーナ女帝時代の人々だけが浮べる、やさしい中にも気品のある微笑を浮べていた。人と話をするときには、おもむろに唇を開いたり閉じたりして、やさしく眼を細め、少し鼻にかけてものを言う。鼻をかんだりタバコを嗅いだりするのにも、まるで仕事でもするように、急がずに、ゆっくりとやるのだった。
「おい、どうだね、ミハイロ・サヴェーリイチ〔ミハイロ・サヴェーリイチ・サヴェーリエフが正式の姓名。上から名前・父称・苗字の順。ふつう名と父称で呼ぶ〕」と私は話しかけた。「魚はだいぶ釣れたかい?」
「まあ、魚籠《びく》の中をのぞいて下さいまし。スズキが二匹と、モロコが五匹ばかりかかりました……お目にかけな、スチョープカ〔スチェパンの卑称。スチョープシカもおなじ〕」
スチョープシカは私の方に魚籠をさしのべた。
「やあ、どうしてるかね、スチェパン?」と私はたずねた。
「け……け……け……結構でごぜえます、旦那、まあ、ぼちぼち」とスチェパンは、舌に重いものが載っているように、口ごもりながら答えた。
「ミトロファンは達者かい?」
「達者ですとも、そ……そりゃもう、旦那」
可哀そうに彼はそっぽを向いてしまった。
「どうも食いつきが悪いぞ」と霧《トウマン》が言いだした。「ひどく暑いもんで。魚のやつめみんな藪の下へもぐりこんで、昼寝をしてるんだな……ミミズをつけてくれ、スチョーパ(スチョープシカはミミズを取り出して、掌の上にのせると、二度ばかりたたきつけて釣針につけ、ペッと唾をかけて霧《トウマン》に渡した)。ありがとう、スチョーパ……ときに、旦那様」と彼は、私の方を振り向きながら言葉をつづけた。「猟においででございますか?」
「ご覧の通りだ」
「さようで……旦那様の犬は英吉利種《えげれすだね》でございますか、それともフルリャンド種《だね》とでも言いますんで?」
老人は折さえあれば自分を誇示することを好んだ。『私たちだって世間てものを知ってまさあ!』とばかりに。
「何種だか知らないが、いい犬だよ」
「さようで……して、いつも犬をつれてお出かけなさるんですかね?」
「うちには二番《ふたつがい》ほどいるよ」
霧《トウマン》はにやりと笑って、首を振った。
「いや全くです、犬好きもいれば、犬なんぞただでもいやだという人もいる、というのは本当でございますな。私なんぞは、ごくぞんざいにこう考えておりますよ。犬なんてものは、言ってみりゃ、もったいをつけるために飼っておくもんだ、と……何もかもきちんとしていることが必要なんです。馬もきちんとしていなくちゃなりませんし、猟犬番《いぬばん》もしかるべくきちんとしていなくちゃなりません、何もかもそうです。亡くなられた伯爵様は――何とぞ天国に安らわせ給え――実のところ、根っからの猟好きではございませんでしたが、それでも犬はちゃんとお飼いになって、年に二度くらいは猟にお出ましになったものです。金モールつきの赤い長上衣《カフタン》を着た猟犬番がお庭に勢ぞろいをして、角笛《つのぶえ》を吹きます。やがて御前様《ごぜんさま》がお出ましになると、馬が曳《ひ》き出されます。御前様がお乗りになると、狩猟係のお頭《かしら》がおみ足を取って鐙《あぶみ》にお通し申し、自分の帽子をとって、その上に手綱をのせて差し出します。と、御前様は長い鞭をこんなふうにピシリとお鳴らしになる。それを合図に猟犬番が鬨《とき》の声をあげて、ぞろぞろお屋敷からくり出していく。馬丁が馬に乗って伯爵様の後からついて行きますが、絹の綱《つな》に繋《つな》いだ二頭の御前様|御寵愛《ごちょうあい》の犬をば引き立てて、こんなふうに目を配っている……この馬丁がまたコサック鞍に高々と打ち跨《また》がり、頬っぺたを赤くして、大きな目玉をぎょろつかせてますんで……そりゃ、もちろん、お客様もこんなときには大勢お見えになります。お遊び事にしても、おもてなしにしても、きちんと……あっ、逃がした、畜生!」と不意に釣竿をあげて、彼は附け加えた。
「ところでどうなんだね、伯爵は生前|豪奢《ごうしゃ》な暮しをなさったそうだが?」
老人はミミズにペッと唾をはきかけて、また釣糸を垂れた。
「そりゃ偉いお方でしたから、知れたことで。ペテルブルグから、一流と申してよい高官の方々が、よくお見えになりました。空色の綬《じゅ》を帯びて、食卓におつきになり、お食事を召上っているのを、よくお見受けしたものです。それに御前様はおもてなしの名人でございましたから。よく私をお呼びつけになって、『霧《トウマン》や、』とおっしゃる。『明日までにわしは生きた蝶鮫《ちょうざめ》がほしいんじゃが、取ってくるように命じてくれ、いいかい?』『かしこまりました、御前様。』刺繍《ししゅう》をした長上衣《カフタン》だとか、鬘《かつら》だとか、ステッキだとか、香水だとか、ごく上等のオーデコロンだとか、タバコ入れだとか、こんなでかい絵だとか、パリからじきじきにお取り寄せになりました。宴会をお開きになると――そりゃもう、どえらい騒ぎでしてな! 花火がポンポンあがるし、馬車を威勢よく乗りまわす! 大砲までぷっ放す騒ぎです。楽隊だけでも総勢四十人がそろっていましたっけ。指揮者にはドイツ人を置いていたんですが、このドイツ人め、すっかり増長しちまって、御主人方と同じテーブルで食事がしたいなどと言いだすもんですから、とうとう御前様もお腹立ちになり、追い出すようにお命じになりました。あんなやつはおらんでも、うちの楽士連中は、自分のなすべきことはちゃんと心得ておる、との仰せで。それこそ御前様の御威光と申すものです。それからまた踊りがはじまると――夜が明けるまで踊りぬきますが、一番よく踊ったのはラコセーズ・マトラドゥーラで……おっとっと……かかったな、奴《やっこ》さん!(老人は小さなスズキを釣り上げた)そら、どうだ、スチョーパ。――で、御主人様はいかにも殿様らしいお方でした」と再び釣糸を垂れると、語りつづけた。「気立てもやさしいお方でしたよ。下々《しもじも》の者をなぐりつけることもありましたが、すぐにけろりと忘れておしまいになる。ただ一つ困ったことはお妾をたくさん置かれたことです。いやはや、あの妾どもときたら、本当にまっぴらでさあ! あいつらが御前様を落ちぶれさせたのです。たいていは下々からお択《よ》りになったんです。それだけでも栄耀栄華《えいようえいが》じゃありませんか? ところがそうじゃありません、なんでもヨーロッパ中で一番金目のものをもらわなければ、承知しませんので! そりゃ全くの話が、御自分のお好きに暮して悪いわけはありません、――御主人様のなさることですから……でも、だからといって、身上を潰してしまうって法はないでしょう。中でも一人、アクリーナというひどい女がいました。今はもう死んじまいましたが、――何とぞ天国に安らわせ給え!――ただの百姓上りで、シートフ村の小頭《こがしら》の娘でしたが、これがとんだあばずれなんです! 伯爵様の頬っぺたを打ったりすることがよくありました。御前様をすっかりたぶらかしてしまったのです。私の甥《おい》はこの女の仕立ておろしの着物にチョコレートをこぼしたというんで、兵隊にやられてしまいました……あの女に兵隊にやられたのは、甥ばかりじゃありません。でも、なんですねえ……なんといっても、あの頃は結構な御時世でしたよ!」と老人は深い溜息をついて附け加えると、うなだれて、口をつぐんだ。
「じゃ、お前んとこの旦那は厳しい方《かた》だったんだね?」私はしばらく黙っていたあとで、こう切りだした。
「いや何しろ、あの頃はそれが風儀でしてね、旦那」と老人はかぶりを振って、言い返した。
「今はもうそんなことはしなくなったよ」相手から眼を離さずに、私は言った。
彼は私を流し目に見た。
「そりゃもう、当節がずっといいのは知れたことです」と彼はつぶやいて、釣糸を遠くの方に投げ入れた。
私たちは木蔭に坐っていたのだが、そこさえ息苦しかった。重苦しい、炎熱の空気がそよとも動かなかった。燃えるように熱い顔は、悶《もだ》えて風を求めたが、その風がまるでなかった。太陽は黒ずんで見える青空からはげしくかっと照りつけた。真向いの岸には燕麦《えんばく》の畑が黄ばんで、ところどころにヨモギが生い繁っているが、燕麦の穂はただ一つとして動かなかった。少し下手《しもて》の方には百姓の馬が川の中に膝まで水につかって立ち、ぬれた尻尾を大儀そうに振っている。時折、水面に垂れ下っている繁みの下蔭に大きな魚が浮き上っては、ぶくぶく泡を立て、かすかな漣《さざなみ》を後に残して、静かに水底に沈んで行った。赤ちゃけた草の中ではコオロギがかまびすしく鳴き立てる。ウズラはいかにも気のりのしない声で、おっくうそうに叫んでいる。ハゲタカは野の上空をするすると飛びまわり、あわただしく羽ばたきしては、尾を扇のように拡げて、しばしば同じ所にとまる。私たちは暑さに参って、身動きもせずに坐っていた。突然、うしろの谷で物音が聞えた。誰かが泉の方に下りてくるところだ。ふり返ってみると、五十がらみの百姓で、埃《ほこり》にまみれ、ルバーシカを着、樹の皮の草鞋をはき、旅行袋と百姓外套を背負っている。彼は泉に近づいて、貪《むさぼ》るように水を飲み、それからやおら立ち上った。
「おや、ヴラスじゃないか?」と霧《トウマン》は彼の顔をしげしげと見て叫んだ。「やあ、今日は。どこから舞い戻ったんだい?」
「今日は、ミハイラ・サヴェーリイチ〔ミハイロはまたミハイラとも発音される〕」と百姓は私たちの方に近づきながら言った。「遠くからだよ」
「どこに雲がくれしてたんだ?」と霧《トウマン》が彼にきいた。
「モスクワの、旦那んとこへ行ってきたのさ」
「何しに?」
「お願えに行っただ」
「なんのお願いに?」
「年貢を負けてもらうとか、でなきゃ夫役《ぶやく》をさせてもらうとか、ほかの土地へやってもらうとかしてもらうべえと思ってな……忰《せがれ》が死んじまったで、おら一人の手には負えねえだ」
「お前の忰が死んだって?」
「うん、死んじまっただ。あれは」とちょっとばかりおし黙ってから、百姓は言い足した。「モスクワで辻馬車屋をやって暮していたのでな。実を言うと、おらのかわりに年貢を納めてくれてたのよ」
「お前たちは今でも年貢の約束かい?」
「年貢の約束だ」
「で、旦那はどうだったい?」
「どうだった? 追っ払われたよ! 『このわしにじきじき訴え出るとは出過ぎたやつだ。そのために管理人を置いてあるんだ。まず一番に管理人に申し出なくちゃならん……それにほかの土地へやってくれだなんて、一体どこにそんな土地がある?』と言われてな。『それよりもまず、お前は未納金を納めろ』とさ。さんざんなお腹立ちよ」
「それでお前は、何かね、おとなしく引きさがったというわけかい?」
「そうよ。忰が何か、がらくたでも残しゃしなかったかどうか、問い合わせてみたが、一向にわけがわからねえ。おれが忰の親方に、『おらがフィリップの親父でがす』と言ったら、『そんなことおれが知るもんか? それに手前《てめえ》の息子は何一つ残しちゃいねえ。それどころか、おれにまだ借りがあるくらいだ』って返事だ。そんでおらあ、引きさがっただ」
百姓はまるでひとごとのように、笑いながら一部始終を物語ったが、小さな、くしゃくしゃした眼には涙がたまって、唇はぴくぴく引き吊《つ》っていた。
「で、これからどうするんだい、家へ帰るのかね?」
「ほかに行くところがあんめえ。知れたことよ、家へ帰るわ。嬶《かかあ》も今ごろは、一文なしで空腹《すきばら》かかえているこったろうよ」
「じゃあ、お前いっそのこと……その……」とだしぬけにスチョープシカが言いかけたが、どぎまぎして、口をつぐみ、餌壺の中を掻きまわしはじめた。
「で、管理人のとこへは行くだか?」といくらかびっくりしたようにスチョーパの顔をのぞいて、霧《トウマン》が言葉をつづけた。
「何しにおらが行くだ?……それでなくてせえ、年貢の滞りがあるによ。忰が死ぬ前に一年ばかり患《ワズラ》ったもんで、手前の年貢も払ってやしない……だが、おらもう半分|自棄《やけ》くそだ。さかさに振ったって鼻血も出やしねえ……手前《てめえ》がなんぼ悪智慧を絞ったって、――だめの皮よ、無い袖は振れねえ!(百姓は笑い出した)あのキンチリヤン・セミョーヌイチが、どんなに利口に立ちまわったって、もう……」
ヴラスはまた笑い出した。
「なんだって? それじゃ困るじゃないか、ヴラス」と霧《トウマン》が、一語一語、間をおいて言った。
「何が困るんで? なあに……(ヴラスの声がとぎれた)なんちゅう暑さだ」と袖で顔を拭きながら彼は言葉をつづけた。
「お前たちの旦那は誰だね?」と私はたずねた。
「ワレリアン・ペトローヴィチ・***伯爵様です」
「ピョートル・イリイッチの息子だね?」
「ピョートル・イリイッチ様の御子息です」と霧《トウマン》が答えた。「亡くなられたピョートル・イリイッチ様は御存命中に、ヴラスの村を御子息にお分けになったのです」
「どうだい、達者かね?」
「お達者で、ほんに結構でございます」とヴラスが答えた。「とても血色がよくなって、まるで見違えるようです」
「ときに、旦那様」と私の方を向きながら、霧《トウマン》が言葉をつづけた。「モスクワ近辺ならいいんでしょうが、ここらじゃ年貢に苦労しますで」
「一戸あたりいくらなんだね?」
「一戸あたり九十五ルーブリで」とヴラスがつぶやいた。
「まあ、この通りですよ。地所はほんの少ししかなくって、あるのはお屋敷の森林ぐらいのものです」
「なに、あれも売ったという話で」と百姓が口を出した。
「まあ、この通りです……スチョーパ、ミミズをくれ……おい、スチョーパ? どうした、寝てるのかい、え?」
スチョープシカはびくりと身をふるわせて目を覚ました。百姓は私たちの傍に腰を下ろした。私たちはまたもやしばらく黙りこんだ。向う岸で誰かが歌をうたいだした、それもひどく沈んだ調子の歌を……ヴラスは可哀そうにしょげかえってしまった。
半時間のちに私たちは別れ別れになった。
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田舎医者
ある秋のこと、遠出の猟からの帰り道に、風邪をひいて寝込んだことがあった。運よく、熱が出たのは郡役所のある町の宿屋についてからであった。私はさっそく医者を迎えにやった。半時間ほどして田舎医者がやってきたが、背のあまり高くない、やせた、髪の毛の黒い男であった。彼はありふれた発汗剤を処方して、芥子泥《からしでい》を貼《は》るように命じると、いとも手ぎわよく謝礼の五ルーブリ紙幣を袖口の折返しに突っこんだ。もっともこのとき、えへんと空咳《からぜき》をして、そっぽを向いたものである。そしてそのまま帰ろうとしたのであったが、どうしたことかつい話しこんで、腰をすえてしまった。私は熱に悩まされていた。夜っぴて眠れそうもないと予想していたところなので、恰好な相手としばらくしゃべることができるのを喜んだ。茶が出た。医者は四方山《よもやま》の話をはじめた。彼は一ぱし気の利いた男で、話しぶりもはきはきしていて、なかなかおもしろかった。世の中には妙なことがあるもので、ある人とは永く一しょに暮して懇意にもしていながら、ただの一度も心の底から打ちとけた話をしたことがないかと思えば、ある人とは知り合いになったかならないうちに、こちらからでなければ先方から、まるで教会で懺悔《ざんげ》でもするように、秘密をすっかりしゃべってしまうことがある。私がどうしてこの新しい友人の信用を博《はく》し得たのか、それはわからない、――が、とにかく彼は、なんということもなしに、いわゆる『だしぬけに』、かなり珍しい出来事を聞かせてくれたのであった。で、私はこれからこの男の話を、寛大な読者諸君にお伝えしようと思う。私はつとめて医者の言葉でお話しすることとしよう。
「あなたはご存じありませんか」と彼はぐったりしたふるえ声で(これは混ぜ物のないベレゾフ・タバコの利き目である)、話し出した。「あなたはご存じありませんか、この町の判事をしているパーヴェル・ルキッチ・ムイロフさんを?……ご存じない……いや、どっちにしても同じことです(彼は咳払いをして眼をこすった)。さて、そのなんです、事件というのは、さあなんと申し上げたらいいか――嘘と思われるといけないから、はっきり言いますと、大斎期《たいさいき》の、雪融けのまっさいちゅうのことでした。私はその判事のところへ遊びに行って、プレフェランス〔カルタ遊びの一種〕をしていました。ここの判事はいい人で、プレフェランスをして遊ぶのが大好きなのです。すると急に(この医者は急にという言葉をしきりに使う)、私に用事のある人が見えたという話です。私が、一体なんの用かね、と言うと、手紙を持ってきているから、きっと患家からでしょうとの返事です。じゃその手紙をお見せ、と私は言いました。見ると、やはりそうでした。患家からです……いや、結構、――これはつまり、あなた、私たちの飯《めし》の種なんですから……ところで用向きというのはこうなんです。手紙をよこしたのは地主の未亡人で、それには、娘が死にかけています、どうぞ助けると思って御来診下さい、ついてはお迎えに馬車を差向けます、とあります。なに、これだけならなんでもありません……ところが彼女の住んでいるのは町から二十露里も離れたところで、おもては夜、おまけにお話にも何にもならないひどい道なんです! しかもその未亡人は貧乏暮しをしているので、ルーブリ銀貨二枚以上はとてもあてにできない。それだって怪しいもので、悪くすれば麻の反物と何か半《はん》ぱ物をお礼にもらうのが関の山かもしれない。しかし、御承知のように、義務が第一です。人間一人が死にかかっているんですからね。私は急に、常任委員のカリオピンにカルタを渡してひとまず帰宅しました。見ると昇降口の傍にみすぼらしいがた馬車が停っています。馬は百姓馬で、腹は太鼓腹を、べんべんたる太鼓腹をしており、毛は毛氈《もうせん》さながらです。馭者は遠慮して、帽子もかぶらずに腰をおろしている。そこで私は肚の中で思うに、どうやらお前のところの御主人がたは、金の食器で食事を召しあがる御身分ではないと見える……あなたは笑っていらっしゃいますね、けれども率直に申し上げますが、私どものような貧乏人は一応なんでも考慮に入れておかねばなりませんので……馭者が殿様のように昂然《こうぜん》と腰をおろして、帽子もとらず、おまけに髯《ひげ》の中から冷笑をもらし、鞭をやおら動かしているようだったら――十ルーブリ札二枚は間違いなしです! ところがこれは、そうじゃなさそうだ。しかし、どうにもしようがありません。義務が第一ですからね。私は一番必要な薬剤を持って、出かけました。本当にあなた、やっとのことでたどりついたんですよ。道のひどいことといったら。小川がある、雪がある、泥濘《でいねい》がある、水溜りがある、その先へ行くと急に堤防が切れていたり――さんざんな目にあいました! それでも、とにかく着きました。ちっぽけな家で、屋根は藁葺《わらぶ》きでしたよ。窓々には灯《あか》りが見えます。きっと私の来るのを待っていたのです。レースの部屋頭巾をかぶった、品のいいお婆さんが私を出迎えました。そして言うには、『どうか助けて下さい、死にかかっているのです。』『御心配なさらないように……御病人はどちらで?』と私は言いました。『どうぞこちらへ』と言われて、行って見ますと、そこは小綺麗な部屋で、隅にはお灯明《とうみょう》がともり、寝台の上に寝ているのは二十歳《はたち》ぐらいの娘で、昏睡状態に陥っています。身体からはむっとするような熱気が立ちこめていて、さも苦しそうな息づかいをしています。つまり熱病なのです。ほかに姉妹になる娘が二人そこにいて、おろおろしながら、涙にくれていました。『昨日は元気で少しも変ったことがなく、食事も進んでいました。今朝頭が痛いと言っていたのが、夕方になって急にこんな状態に……』とのことです。そこで私はもう一度、『御心配なさらずに。』と言ってやりました、――なんせ、これが医者の任務《つとめ》ですからね、――そして診察にかかりました。悪い血を出してやり、芥子泥を貼るように指図し、合剤を処方しました。その間にも私はしげしげと娘の顔を眺めていましたが、そのあなた、――本当の話が、私はあんな顔は見たことがありません……一言にして言えば、美人なんです! 私はすっかり可哀そうになってしまいました。魅惑的な顔立ち、眼……ところがありがたいことに、そのうち落ち着いてきました。汗も出るし、どうやら正気づいたらしく、あたりを見まわすと、にっこり笑って、手で顔をなでました……二人の姉妹は半身を屈《かが》めて、『具合はどう?』とたずねました。『なんでもないわ』と言って向きをかえました……見れば、もう寝入った様子です。私は、さあ、今度は病人をそっとしておいてあげなければなりません、と言いました。そこで私たちは皆でそっと爪先《つまさき》立ちで部屋を出ました。万一の用意に小間使だけは残りましたけれど。客間ではもうちゃんとサモワールがテーブルの上に載っていますし、ジャマイカ産のラム酒もあります。私たちの商売では、あれがなくては済まされませんからね。お茶が出て、私は泊ってもらいたいと頼まれました……私は承知しました。こんな時刻になって、どこへ行くわけにも参りませんからね! お婆さんはのべつ溜息のつき通しです。『どうなさいました? なに、元気におなりになりますよ。御心配なさいますな。それよりあなた方はお寝みになった方がよろしいでしょう。もう一時過ぎですよ』と私は言いました。『ではもし何か変った事がありましたら、私を起すようにおっしゃっていただけますか?』『言いますとも、言いますとも』お婆さんが部屋を出て行くと、娘たちも自分の部屋に引き取りました。私の寝床は客間に用意してくれました。さて横になりましたが、どうしても寝つかれません、――なんとも不思議なことで! 身体はへとへとに疲れているのですから、ぐっすり眠れるはずなのですが。いつまでも病人のことが頭から離れません。とうとう我慢できなくなって、急に起き上りました。患者がどんな様子か、行って、見てくるとしよう、とこう思ったわけで。病人の寝室は客間とならんでいます。さて、起き上って、そっと扉を開けましたが、心臓はドキドキと早鐘《はやがね》を打っております。見ると、小間使は居眠りをしています、口をあんぐり開いて、鼾《いびき》さえかいている始末、なんともしようのないやつで! 病人はこちらに顔を向けて寝ていましたが、両手をぐったり投げだしているのです、可哀そうに! 私は傍へよりました……すると急にパッと眼を開けて、じっと私を見すえました!……『誰? 誰なの?』私はどぎまぎしてしまいました。『びっくりしないで下さい、お嬢さん。私は医者ですよ、御気分がどうか、ちょっと拝見に上ったのです』『あなたはお医者さん?』『そうです、医者です……お母さまが町へ私を迎えにお使をよこされたのです。お嬢さん、さっき悪い血を取ってあげました。ですから、もうお寝《やす》みになって下さい。あと二日もすれば、きっと床上げができますよ』『ああ、本当にそうだわ、ねえ先生、私を死なさないで下さい……お願いです』『なにをおっしゃるのです、縁起でもない!』また熱が出たな、と私は心の中で思いました。脈をとって見ると、はたして熱がある。彼女はじっと私の顔を見ていましたが、急に私の手を取りました。『私、あなたに言いますわ、なぜ私が死にたくないかを、私あなたに言います、言ってしまいます……今は二人きりですもの。ただ、お願いですから、誰にも言わないで……あのねえ……』私は身を屈《かが》めました。娘は私の耳元近く唇をよせました、髪の毛が私の頬に触れます、――正直のところ、私は自分の頭がくらくらしてきました、――そこで、娘はひそひそとささやきはじめましたが……何が何やら少しもわかりません……ああ、可哀そうにそれは譫言《うわごと》なのです……ひそひそと一心にささやくのですが、それがとても早口で、まるでロシア語のようじゃないんです。やがて話し終ると、ぶるっと身ぶるいをして、頭をぐったり枕に落し、指を立てて私をおどかすまねをしました。『よくって、先生、誰にもおっしゃったら承知しませんわよ……』とばかりに。私はどうにかこうにか娘を落ち着かせて、水を飲ませ、小間使を起して、部屋を出ました」
ここで医者はまたもや猛烈に嗅ぎタバコを吸いこんで、ちょっとの間、気の遠くなったようなふうを見せた。
「ところが」と彼は話をつづけた。「翌日になっても病人は、私の予期に反して、よくなりませんでした。私は考えに考えた末、急に居残ることに肚を決めました、他の患者たちが私の帰りを待っていたのですけれど……お察しでもありましょうが、そっちの方もなおざりにはできません。そんなことをすれば、商売に差し支えますから。しかし、第一に病人は実際に危篤でした。第二に、白状しなければなりませんが、私自身もこの娘に大変好意を感じていたのです。その上、家族全体も私の気に入りました。資産家ではありませんでしたが、珍しく教養のある人々でしたので……彼らの父親というのは学者で、著述家でした。もちろん貧窮《ひんきゅう》のうちに死んでしまいましたが、子供たちには立派な教育を授けることができました。書物もたくさん後に残しました。私が熱心に病人の世話をしたせいか、それともほかになにか理由があったのか知りませんが、ただ私はこの家の中で身内の者のように大事にされました……そうこうしているうちに、雪融けはますますひどくなってしまいました。あらゆる交通は、いわば、完全に杜絶《とぜつ》してしまいました。薬品類を町から取りよせるのさえやっとのこと……病人は一向によくならない……こうしているうちに、一日一日と経っていきます……ところがこのとき……ここで……(医者はちょっと黙りこんだ)全く、どういうふうにお話ししたらいいかわかりませんが……(彼はまた嗅ぎタバコをかぎ、喉をならして、お茶を一口すすった)率直に言いますと、病人は……ええと、その……まあ、私を恋するようになった……いいえ、そうじゃありません、恋したというわけじゃない……といって……全く、これは、その……」(医者は眼を伏せて、顔を赤らめた)
「いや」と勢いこんで彼は言葉をつづけた。「恋をしたなんていうんじゃありません! それに、身のほどを知るべきです。その娘は教養もあり、頭もよく、本もよく読んでいるのですが、私ときたら、ラテン語さえ、まあすっかり忘れているのですから。では風采はどうかといえば(医者は微笑を浮べてわが身をかえりみた)、これまたどうも、自慢の種にはなりません。と言って、私も馬鹿に生れついたわけではありません。白いものを黒いと言うようなことはありませんし、多少は物の道理もわかっています。例えば、アレクサンドラ・アンドレーエヴナが、――その娘はアレクサンドラ・アンドレーエヴナという名前でした――私に感じたのは愛情ではなくて、いわば友情的な好意、尊敬とでもいうべきものであることは、よくわかっていました。もっとも娘自身はこの点で相手を間違えたのかもしれませんが、何ぶん彼女の状態が状態ですから、そこはお察し願うことにしましょう……けれども」と息もつがずに、かなりしどろもどろに、このとぎれとぎれな物語を語り終った医者は、附け加えた。「どうも少し脱線したようですね……これじゃ、あなたには何が何やらちっともおわかりにならないでしょう……では、今度は、何もかも順序を追ってすっかりお話しすることにいたしましょう」
彼はコップのお茶をぐっと飲み干して、前よりも落ち着いた声で話し出した。
「さて、こうです。病人はだんだん悪くなるばかりでした。あなたは医者じゃありませんから、患者の病気がとても自分の手に負えそうもないと気がつきだしたとき、とりわけその最初のころ、医者の胸中がどんなものか、おわかりになりますまい。常日頃《つねひごろ》の満々たる自信もどこへやらけしけとんでしまう! 急に、お話にならないほど怖気《おじけ》づいてくる。知っていたこともすっかり忘れてしまったような気がしてくる。それに病人の方でも自分を信用してくれないようだ。傍《はた》のものも医者が途方に暮れているのに気づきだし、いやいやながら症状を話してくれ、額《ひたい》越しにじろじろ医者の顔を見、互いにひそひそ話を交しているような気がしてくるのです……全く、いやな気持ですよ! この病気にきく薬があるはずだから、ただそれを見つけさえすればよいのだと考える。あれじゃないかな? と思って試してみる。駄目だ、これじゃない! 薬が効き目をあらわすまで待っていられない……あれをやってみたり、これをやってみたり。時には処方全書を取り出して……ここにある、これかな! と思ったりする。実際、時には当てずっぽうに本を開けて見ることもあります。一か八か運任せ、と……そんなことをしているうちに、病人はどんどん悪くなっていきます。ほかの医者だったら助けることができたかもしれないものを。とうとう、ほかの医者にも立ち会ってもらわねば、私一人ではとても責任が持てません、と言い出します。こんな場合の医者の馬鹿|面《づら》ったらありませんよ! でもまあ、時が経つにつれてなれてしまい、平気になりますよ。人が死んだって――なに、おれのせいじゃない。おれは規則通りにやったのだ、とすましていられます。ところがもっと辛いことがあります。それは盲目的に信頼されていながら、自分では助けてやれる見込みのないことを感じているときです。ちょうどこういった信頼の念を、アレクサンドラ・アンドレーエヴナの家中の者が私に抱いていたのです。家の者が危篤であると思うのを忘れてしまったくらいでした。私もまた私で、なに大丈夫ですよ、と請け合いはするものの、内心は気が気じゃありません。かてて加えて、雪融けがますますひどくなり、馭者が薬を取りに行って帰るまでに何日もかかるという始末です。私は病室から外に出ず、病人に附きっきりで、いろんな笑い話をして聞かせたり、カルタのお相手をつとめたりしました。夜も枕もとに附きっきりです。お婆さんは涙を流してお礼を言うのですが、私は心の中で、『何もお礼を言われるには当らない』と考えていました。率直に打ち明けますと――今さら隠し立てをするにも及びませんから――私は病人に惚《ほ》れてしまったのです。アレクサンドラ・アンドレーエヴナも私を慕うようになりました。私のほかは誰も、自分の部屋に入れないことが、よくありました。私を相手に話を始めて、私がどこで勉強したかだの、どんなふうに暮しているかだの、身内にはどんな人がいるかだの、どんな家へ往診に行くかだの、根掘り葉掘りたずねるのです。病人に話をさせてはいけないと思いながら、それをやめさせることが、つまりその、きっぱりと禁止することが――私にはできないのです。よく頭を抱えては、自分を責めてもみました。『お前は一体、何をしているのだ、この悪党め?……』ところが娘は私の手を取り、自分の掌に握ったまま、私の顔をじっと見つめる。穴のあくほど見つめてから、脇を向き、溜息をついて、『あなたはほんとにやさしい方《かた》だわ!』と言うんです。彼女の手はとても熱くて、大きな眼がもの憂《う》げにとろりとしています。『そうよ、あなたはやさしい方だわ、いい方だわ、この辺の人たちとはまるっきり違うの……いいえ、あなたはあんなじゃない……私、どうして今まであなたを知らなかったのかしら!』『アレクサンドラ・アンドレーエヴナさん、気を落ち着けて下さい』と私は言いました。『……本当に、お気持はよく胸に応えます、なんの取柄《とりえ》があって私のことをそうおっしゃるのか存じませんが……ただお願いですから、どうぞ気を静めて下さい……今に何もかもよくなりますよ、あなたもきっとお丈夫になります』ところで、おことわりしておかなければなりませんが」と医者は身体を前に乗り出し、眉をつりあげて言葉を附け加えた。「この一家は近所の人とあまり交際をしていないのです。身分の低いものを相手にするのは不似合だし、さればといって金持とつき合うのは自尊心が許さないからでしょう。とにかく並はずれて教養のある家庭でしたから、――だもんで、私も楽しかったのです。娘は私の手からでなければ薬を飲みません……娘は可哀そうに、私の手を借りて身を起し、薬を飲むと、私をじっと見つめる……私は気が気ではありません。そのうちにも病気はだんだん悪くなる一方です。この分だと死んでしまう、きっと死んでしまう、と私は思いました。全く、自分が身代りになって棺の中に入りたいくらいです。ところが母親や、姉妹たちは私のすることを見ていて、私の眼の色を窺《うかが》っている……信頼は薄らいできます。『どうですの? どんな様子ですの?』『大丈夫です、大丈夫です!』何が大丈夫なもんですか、私の頭はこんがらかっているのです。さて、ある夜のことです、私はまた一人で病人に附きそっていました。女中もいるにはいましたが、ぐうぐう高鼾《たかいびき》をかいているのです……なに、不幸な女中を咎《とが》めることはできません。あれだって疲れきっているのですから。その夜アレクサンドラ・アンドレーエヴナは、一晩中、容体が大変思わしくありませんでした。熱ですっかり参ったのです。真夜中になるまでひっきりなしに寝返りを打っていました。そのうちにやっと寝ついたようです。少なくとも身動きをしないで、じっと横になっていました。部屋の隅の聖像の前にはお灯明がともっています。私はじっと坐っているうちに、つい頭がさがって、やはりうとうととしてしまいます。と、急に、誰かに横腹を突かれたような気がしたので、はっと振り返ってみると……ああ! アレクサンドラ・アンドレーエヴナが眼を大きく見開いて私を見つめているのです……唇は開かれていますし、頬は燃え立つばかりです。『どうしたのです?』『先生、私、死ぬんじゃないでしょうか?』『とんでもない!』『いいえ、先生、いやです、どうか、助かるなんて気休めをおっしゃらないで下さい……おっしゃらないで……私の気持がわかっていただけたら……ねえ先生、後生《ごしょう》ですから私の容体を隠さないで下さい!』そして自分ではハアハアと荒い息づかいをしているのです。『私が確かに死ぬということがわかりましたら……私は何もかもお話ししますわ、何もかも!』『アレクサンドラ・アンドレーエヴナさん、何をおっしゃるんです!』『あのねえ、私ちっとも眠らなかったんだわ、ずっと前からあなたを眺めていたの……ね、一生のお願い……私はあなたを信じています、あなたは親切な方です、正直な方です、この世のありとあらゆる神聖なものにかけてお願いいたしますから、――私に本当のことを聞かせて下さい! これが私にとってどんなに大事なことか、あなたにわかって頂けたら……先生、後生ですから教えて下さい、私、危篤なんでしょうか?』『何をお教えすることがありましょう、アレクサンドラ・アンドレーエヴナさん、――何をおっしゃるんです!』『後生です、お願いです!』『こうなったらもう隠し立てはできません、アレクサンドラ・アンドレーエヴナさん、あなたは全く危篤です、でも神様はお慈悲深いのですから……』『私死ぬんだわ、私死ぬんだわ……』こう言ってまるで喜んでいるようです、顔色も晴々としてきました。私はぎょっとしました。『御心配いりませんの、御心配いりませんのよ、死ぬことなんか私ちっともこわくありませんもの』娘は不意に身を起して、片肘をつきました。『今はもう……ええ、今はもうあなたに申し上げることができますわ、私、心の底からあなたに感謝していますの、あなたは親切な、いい方ですわ、私はあなたを愛しています……』私はきょとんとして娘の顔を見つめました。気味が悪いんですものねえ……『ねえ、私あなたを愛していますの……』『アレクサンドラ・アンドレーエヴナさん、私になんの取柄があって!』『いいえ、いいえ、あなたは私の気持がおわかりにならないんです……私の気持がわからないのよ……』こう言うと急に、彼女は両手を差しのべて、私の首をとらえ、接吻したのです……全く、私はもう少しで声を立てるところでした……私はそのまま跪《ひざまず》いて、枕に顔を埋めてしまいました。彼女は口をききません。指先が私の髪の毛の中でわなわなとふるえています。聞けば泣いている様子です。私はなだめたり、すかしたりしました……実は、もう、自分で何を言ったのか、さっぱり覚えていません。『女中さんが目をさましますよ、アレクサンドラ・アンドレーエヴナさん……ありがとう……信じて下さい……気を落ち着けて下さい』『もうたくさんたら、たくさん』と彼女は繰返しました。『みんなのことなんか、どうたって構わないじゃないの。目をさまそうと、入って来ようと――どうせ同じことだわ。私、死ぬんだもの……なんだってびくびくなさるの、何をこわがってらっしゃるの? さあ、頭を上げてちょうだい……それとも、もしかしたら、あなたは私を愛していないのかしら、私間違えたのかしら……もしそうなら、ご免なさい』『アレクサンドラ・アンドレーエヴナさん、何をおっしゃるんですか?……私はあなたを愛しています、アレクサンドラ・アンドレーエヴナさん』彼女は私の眼をまともに見て、両手を大きく拡げました。『そんなら私を抱いて下さいな……』ぶちまけて申しますが、どうしてあの晩自分は気が狂わなかったのか、合点《がてん》がいきません。私は病人が我《われ》と我《わ》が身を滅ぼすようなまねをしているのに気づいていました。彼女がすっかり正気ではないのもわかっていました。それにまた、彼女が、自分はもうじき死ぬ身だと思わなかったら、私のことなど思い浮ばなかったろうということも、ちゃんと承知していました。なんせ、色恋も知らずに、二十五やそこらで死んで行くなんて情けない話ですからね。これが彼女を苦しめたのです、だからこそ彼女は絶望のあまり、私のような者にも取りすがったのです、――さあ、これでおわかりになったでしょう? で、彼女は私を自分の腕の中から離してくれません。『アレクサンドラ・アンドレーエヴナさん、もう私を離して下さい、それに御自分のお身体も大事にしなくてはなりません』と私は言いました。すると彼女は、『なぜですの、何を大切にするんですの? 私はもう死ぬことに決ってるんですもの……』って言うんです。彼女はひっきりなしにこれを繰返しました。『そりゃ、もしも私が生き永らえて、またお上品なお嬢様になるということがわかっていたら、私だって恥かしくて、本当に恥かしくて、しようがないわ……そうでしょう?』『あなたが死ぬなんて、誰が言いました?』『あら、たくさんだわ、私だまされなくってよ、あなたは嘘はつけません、御自分をご覧なさい』『あなたは元気におなおりになりますよ、アレクサンドラ・アンドレーエヴナさん、私が癒《なお》してあげます。私たちはお母さまに祝福して頂いて……夫婦《いっしょ》になりましょう、そして幸福に暮すのです』『いいえ、いいえ、私はあなたの言質《げんち》を取りました、私は死ななくちゃなりません……あなたは私に約束しました……あなたは私にはっきり申しました……』私は辛《つら》かった、いろんな理由で辛かったんです。世の中には時折こんなことが起きるものですね。なんでもないように見えて、苦痛なことが。ふと娘は私がなんて名前かきいてみたくなったのです、つまり苗字じゃなくって、名前の方ですよ。ところがあいにくと、私の名はトリフォン〔庶民的な平凡な名前〕なんです。そうなんです、そうなんです。トリフォンです、トリフォン・イワーヌイチというんです。家では私のことをみんなが先生と呼んでいましたが。私は仕方がないから、『トリフォンです、お嬢さん』と言いました。彼女は眼を細くして、首を振り、フランス語で何事かぼそぼそ言いました、――ああ、それは何かよくないことです――そのあとで笑い出しましたが、これもどうもありがたくありません。さて、こうやって私はほとんど一晩中、娘を相手にすごしてしまいました。翌朝早く、私はふらふらになって部屋を出ました。再び部屋に入ったのは、もう午後のお茶をすませた後でした。ところが、ああなんということでしょう! 娘は見分けがつかないほど、変ってしまったのです。見る影もないやつれ方です。本当に、私は今でも、どうして自分があの責め苦に堪えられたのかわかりません、全くもってわかりません。それからなお三日三晩、病人は生き永らえました……その夜な夜なの恐ろしさといったら! 彼女が私に口走る言葉といったら!……いよいよ最後という晩に、まあお察し下さい、――私は病人の傍につきそって、ただ一途《いちず》に、娘を一刻も早くお召し下さるように、ついでに私も一しょにお召し下さるように……と、神様にお願いしていました。すると急に、老母が部屋に入ってきました……私は前の晩母親に、容体が思わしくないから、とても永くは持ちますまい、坊さんをお呼びになったらいいでしょう、と言っておいたのです。病人は母親を見るが早いか、『お母さん、ちょうどよかったわ……私たちを見てちょうだい、私たちは愛し合ってるの、私たちは約束を交わしたの』と言うんです。『あの娘はどうしたんでしょう、先生、どうしたんでしょう?』私は死人のように色を失いました。『譫言《うわごと》を言っているのです、熱が高いので……』と言いますと、娘は『止して、止して、あんたはたった今まるで別のことを言ったでしょう、そして私から指環まで受取ったじゃない……何をとぼけているの? お母さんはいい人ですもの、許して下さるわ、わかって下さるわ。私は死にかけているんだもの――嘘をつく必要なんてないわ。きあ、手を貸してちょうだい……』私は跳び上って部屋の外へ駈けだしました。老婆は、言うまでもなく、様子を悟りました」
「しかし、もうこれ以上あなたを悩ますのはやめましょう、私にしても、正直なところ、こういうことを何から何まで思い出すのは辛い話ですから。病人はその次の日に亡くなりました。何とぞ天国に安らい給え!(と医者は早口に附け加えて、溜息をついた)息を引きとる前に彼女は、みんなが座をはずして、私一人を自分の傍に残してくれるようにと頼みました。『勘忍して下さいね』と彼女は言いました。『私、あなたにすまないことをしたかもしれませんわ……病気が……でも、本当に私、あなたのほかは誰も愛したことがなくってよ……私を忘れないで下さいね……あの指環を大切にしてちょうだい……』」
医者はつと顔をそむけた。私は彼の手を取った。
「いや!」と彼は言った、「何かほかの話をしようじゃありませんか、それとも小銭を賭けてプレフェランスでもやりませんか? なにせ、こんな高尚な感情に耽《ふ》けるのは、われわれ風情《ふぜい》の柄じゃありませんからね。子供がピイピイ泣かないように、女房ががみがみ言わないようにと、それだけ考えてりゃいいんでさあ。何しろその後私も、正式の結婚てやつをしましたので……もちろん……商人の娘をもらいました。持参金七千ルーブリです。アクリーナ〔庶民的な平凡な名前〕という名前ですから、トリフォンとは似合いですよ。実をいうと、悪妻なんですが、一日中寝てばかりいるのがもっけの幸いです……ときにプレフェランスはいかがです?」
私たちは一コペーカずつ賭けてプレフェランスを始めた。トリフォン・イワーヌイチは私から大枚二ルーブリ五十コペーカをせしめ、――自分の勝利にいたく満足して、夜おそく帰っていった。
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隣人ラジーロフ
秋になるとヤマシギはよく古い菩提樹の庭に棲《す》む。こうした庭がわがオリョール県にはかなり多い。私たちの祖先は、安住の地を選ぶに当り、かならず二町歩ばかりの良地を割《さ》いて、菩提樹の並木のある果樹園にしたものである。ところが五十年か、たかだか七十年も経つうちに、これらの地主の屋敷、つまり『貴族の巣』はしだいしだいに地表から消えていった。家は腐ったり、売り渡されて取りこわされたりした。石造りの附属建物は廃墟の堆積と化し、リンゴは枯れて薪《たきぎ》にされ、塀や籬《まがき》は跡かたもなくなった。ただ菩提樹ばかりが昔のままに見事に生い繁り、今は一面に耕された畑に取り巻かれ、私たち軽薄な子孫に、『その上《かみ》まかりし父祖や同胞《はらから》どち』のことを物語っている。こういう年|古《ふ》りた菩提樹はまことに美しい……ロシアの百姓の無慈悲な斧《おの》でさえ、こうした樹には刃をあてかねるのだ。葉は小さく、逞《たく》ましい枝が広く四方に延びて、下には不断の蔭をつくっている。
あるとき、エルモライを連れてシャコを追いながら、野原をうろつきまわっているうちに、向うの方に荒れはてた庭が見えたので、私はその方へ歩いていった。木立の中へ入るが早いか、一羽のヤマシギがあわただしい羽音を立てて藪の中から飛び立った。私は発砲した。とたんに数歩離れたところで人の悲鳴が聞えた。若い娘のびっくりした顔が木立の間からのぞいたと思うと、すぐにまた隠れてしまった。エルモライが私の傍《そば》へ駈けよって来て、「なんだってこんなところで撃ちなさる。ここは地主の住居じゃありませんか」
これに答える暇もなく、また犬が乙《おつ》にもったいぶって射とめた鳥を私のところまでくわえてくる暇もなく、素早く駈けつける足音が聞え、髭《ひげ》を生やした背の高い男が繁みの中から出て来て、不満そうな顔つきで私の前に立ちどまった。私は平あやまりにあやまり、自分の名前を名のって、彼の領地で撃った鳥を返そうと申し出た。
「よろしい」と彼は微笑しながら言った。「あなたの獲物はいただいておきましょう。が、それには条件がありますよ。あなたに宅で食事をして頂きたいのです」
実をいうと、この申し出はあまりうれしくなかった。けれども、むげに断るわけにもいかなかった。
「私はここの地主で、あなたとはお隣同士になるラジーロフという者です、お聞き及びでもありましょうが」と新しい知り合いは言葉をつづけた。「今日は日曜ですから、かなりの御馳走もできるかと存じます。もっとも、そうでもなかったらお招きなどしませんが」
私はこういう場合に誰もが言うありきたりの返事をして、主人の後からついて行った。近ごろ掃除したばかりの小径《こみち》を通って行くと、まもなく菩提樹の林を出た。私たちは菜園に入った。リンゴの老樹と勢よく繁ったスグリの叢《くさむら》との間には、キャベツの円い淡緑の結球がまだら模様を描いていた。ホップは高い棒にうねうねとからみついていた。畝《うね》には乾《ひ》からびたエンドウのからみついた、褐色の桿《さお》が所狭く立ちならんでいる。大きな平たいカボチャが地べたに転がっている。キュウリが、埃にまみれた刺々《とげとげ》しい葉蔭から、黄色く見えている。籬《まがき》に沿って背の高いイラクサが揺れている。韃靼《だったん》スイカズラ、ニワトコ、ノイバラなど、昔の『花壇』の名残が、二三カ所に塊《かた》まって生えている。赤ちゃけた、粘り気のある水をたたえた小さな生簀《いけす》の傍には井戸が見えていて、その周囲には水溜りがある。この水溜りの中を、気ぜわしく水をはねとばしながら、アヒルがよちよち歩きまわっている。一匹の犬が全身をふるわせ、眼を細くしながら、空地で骨をかじっている。そこではまた斑《ぶち》の牝牛がもの憂げに草をむしっている、時折尾をふってはやせた背中をたたきながら。やがて小径は片脇へ折れた。太い柳や白樺のかげから、屋根が板葺きで、玄関の階段がまわり段になっている、古ぼけた、灰色の小さな家が見えてきた。ラジーロフは立ちどまった。
「もっとも」と好人物らしく、私の顔をまともに見ながら彼は言った。「よく考えて見ると、あなたは私の家へなんか、ちっともお寄りしたくないのかもしれませんね。そうだとすれば……」
私は彼に最後まで言わせないで、とんでもない、お宅で御馳走になるなんて実に愉快なことですと断言した。
「それではどうぞ」
私たちは家の中に入った。青い厚地のラシャの長い長上衣《カフタン》を着た若者が、昇降口のところで私たちを出迎えた。ラジーロフはさっそくこの男に、エルモライのところヘウオートカを持ってきてやるように命じた。私の猟師は気前のいいこの家の主《あるじ》の後姿にうやうやしくお辞儀をした。色とりどりのさまざまな絵を貼りつけ、鳥籠がいくつもぶら下っている前室を通りぬけて、私たちは小さな部屋――ラジーロフの書斎に入った。私は猟具をはずして、鉄砲を片隅に立てかけた。長裾のフロックを着た若者が、まめまめしく私の服の埃を払ってくれた。
「さあ、それでは客間へまいりましょう」とラジーロフが愛想よく言った。「うちの母を御紹介いたします」
私は彼の後について行った。客間に入ると、まん中のソファに、褐色の洋服を着て、白いレースの頭巾をかぶったあまり背の大きくないお婆さんが、腰かけていた。人のよさそうな、やせた顔をして、おどおどした、悲しそうな眼つきをしている。
「お母さん、御紹介します。この方は隣村の***さんです」
お婆さんはちょっと腰を上げて私に会釈《えしゃく》をした、袋のような形の厚い毛糸の手提《てさげ》を、やせさらばえた手から離そうともしないで。
「もう大分前にこちらへいらしたのですか?」と眼をしばたたきながら、弱々しい静かな声で彼女はたずねた。
「いいえ、つい近頃です」
「永くこちらに御滞在のおつもりで?」
「冬までいようと思っています」
お婆さんはそれっきり黙りこんだ。
「ところで、こちらは」とラジーロフは、さっき客間へ入るときには私の気づかなかった、背の高い、やせた男を指してすかさずこう言った。「こちらはフョードル・ミヘーイチ……さあ、フェージャ〔フョードルの愛称〕、お客様にお前の十八番《おはこ》をご覧に入れるがいい。なんだって、そんな隅っこに小さくなっているんだ?」
フョードル・ミへーイチはすぐさま椅子から立ち上ると、窓の上からお粗末なヴァイオリンを取り出し、弓を手に取った――もっとも普通みんながするように端を持つのでなく、まん中を持ったものである。それからヴァイオリンを胸に当て、眼をつむると、歌をうたいながら、絃《いと》をキイキイ弾きながら踊り出した。彼は見たところ七十ぐらいで、長い南京木綿のフロックが、かさかさ骨ばった手足の上でもの悲しげにだぶついていた。時には威勢よく小さな禿頭を振り立てるかと思えば、時には息も絶えんばかりにかすかに頭を動かしたり、筋《すじ》ばった頸《くび》をのばしてみたり、一ところを踏みならしたり、また時には、いかにも難儀そうに両膝を曲げたりして踊るのであった。ラジーロフは私の顔色を見て、フェージャの『十八番』があまり私のお気に召さなかったのを察したに違いない。
「いや、結構、もういいよ、爺さん」と彼は言った。「あっちへ行って、御褒美にありつくがいい」
フョードル・ミヘーイチはすぐにヴァイオリンを窓の上にのせ、まず客分の私に、次にお婆さんに、それからラジーロフにお辞儀をして出て行った。
「あれも元は地主でしたがね」と新しい知人は言葉をつづけた。「しかも裕福な地主だったんですが、すっかり落ちぶれちまって――今では私のところに居候をしている始末です……かつては県内きっての発展家として鳴らしたもんでしたが。よその女房を二人もつれて逃げたり、歌うたいを抱えておいたり、自分でも上手に歌ったり、踊ったり……ところでウォートカを一ついかがです? もう食事の用意ができていますよ」
若い娘、さきほど私が庭でちらりと見たあの娘が、部屋に入ってきた。
「ああ、これがオーリャです!」とちょっと顔をのけぞらして、ラジーロフが言った。「どうぞよろしく……さあ、食事にまいりましょう」
私たちは食堂へ行って、席に着いた。私たちが客間から出たり、席に着いたりしている間に、『御褒美』を一杯きこしめして眼を輝かし、鼻をほんのり赤くしたフョードル・ミヘーイチが、『勝利のどよめき鳴り渡れ!』を歌っていた。彼のためには隅の、卓布もかけていない小さなテーブルに別に食事の用意がしてあった。この哀れな老人はどう見ても清潔とはいえなかったので、いつもみんなから少し離れたところにおかれていた。彼は十字を切って、溜息をつくと、フカのようにがつがつ食べはじめた。食事は実際にかなり上等で、それに日曜でもあったからして、プルプルふるえるゼリーやスペインの|薫り《かおケーキ》までちゃんとついていた。食事の席で、十年も地方の歩兵連隊に勤め、トルコ戦役にも従軍したというラジーロフがいろいろな話を始めた。私は注意深く彼の話を聞きながらも、そっとオリガの様子を見ていた。彼女は飛び切りの美人というわけではなかった。だが、きっぱりした、落ち着いた顔の表情、色白の額、房々した髪の毛、とりわけ、大きくはないが、悧発《りはつ》そうな、澄んだ、いきいきとした眼には、私ならずとも誰でも動かされたことであろう。彼女はラジーロフの一言一句に耳を傾けているかのようであった。ただの関心ではなく、熱心な注意が彼女の顔に現われていた。ラジーロフは年からいえば、彼女の父親といっていいくらいであった。オリガに『お前』と言っていたが、彼女が彼の娘でないことはすぐと察しがついた。話しているうちに彼は亡くなった妻のことに触れたが、オリガを指して『家内の妹です』と附け加えた。彼女はさっと顔を赤らめて、眼を伏せた。ラジーロフはしばらく黙っていたが、やがて話題を変えた。お婆さんは食事の間じゅう一言も口をきかず、自分もほとんど何も食べなかったし、私にもすすめなかった。彼女の容貌には何かしらおどおどした、はかない望み、見る人の心を痛ましく緊めつけるあの老いの悲しみがただよっていた。食事も終り近くなったとき、フョードル・ミヘーイチが主人と客に『祝辞』を呈しかけたが、ラジーロフは私の顔をのぞきこんで、黙るようにと言った。老人は片手で唇をこすり、眼をパチクリさせ、お辞儀をして、また腰を下ろしたが、こんどはもう椅子の一番端っこに坐った。食事がすんでから、私はラジーロフと一しょに書斎へ行った。
いつもある考えや、ある熱情に、強く捕えられている人々には、彼らの性質や、才能や、社会的地位や、教育がどんなに違っていようとも、つき合ってみるとどこか共通なところがあり、表面上どこか似たところがあるものである。ラジーロフをつくづく観察すればするほど、彼もそういった人間の一人だという気がするのであった。彼は家計のこと、作柄のこと、草刈りのこと、戦争のこと、郡内の噂話、さし迫っている選挙のことなどを話したが、その話しぶりはわざとらしくなく、かなり身を入れているようでさえあったのに、不意に溜息をついて、辛い仕事でくたびれきった人のように、ぐったりと肘かけ椅子に腰を下ろし、顔をなでまわすのであった。彼の善良で、暖かい心はすっかり、ただ一つの感情に満たされ、一ぱいになっているかのように思われた。食べることにも、飲むことにも、猟にも、クールスクのヨウグイスにも、癲癇《てんかん》もちのハトにも、ロシア文学にも、諾足《だくあし》の馬にも、ハンガリー舞踊にも、カルタ遊びや球突きにも、舞踊会の夕べにも、県市や首都への旅行にも、製紙工場や甜菜糖《てんさいとう》工場にも、美しく塗りたてた四阿《あずまや》にも、お茶にも、放埓《ほうらつ》なまでに甘やかされて飼い馴らされた副馬《そえうま》にも、さては腋の真下へ帯を締めた肥っちょの馭者、どうしたわけか頸を動かすたびに眼が横目になって、今にも飛びだしそうになるあのすばらしい馭者にも、いっかな彼が興味を示さないのに、早くも私は驚かされた……『とどのつまり、この地主はどういう男なんだろう!』と私は考えた。といって彼はけっして憂欝な、自分の運命にあきたらない人間をよそおっているわけでもなかった。それどころか、彼からは相手かまわぬ好意、親切、それに誰とでも親しくなりたがる、ほとんどいまいましいほどの心構えが感じられた。もっとも、それと同時に、この男は誰とも心から親しむことはできまい、誰とも本当に懇意になることはできまい、という気がしたのであるけれども。そう感じるのは彼が一般に他人を必要としないからではなく、彼の全生命が一時《いっとき》内部にさっと退いてしまうからである。ラジーロフをつくづく見つめていると、私は現在にしても、将来にしても、彼の幸福な姿をどうしても想像することができなかった。彼はまた美男子でもなかった。しかし彼の眼つきや、微笑や、人間全体の中には、何かしら非常に人を惹《ひ》きつけるものがひそんでいた、まさしくひそんでいた。それだから、彼をもっとよく知りたく、愛したく思うのであろう。もちろん、彼には時折草原地方の地主の風貌があらわれたが、しかしそれでもなお彼はすばらしい人物であった。
私たちが新任の郡士族団長の話を始めかけたとき、不意に戸口で、「お茶の用意ができました」というオリガの声が聞えた。私たちは客間へ行った。フョードル・ミヘーイチは依然として、小窓と扉の間の隅っこに、両足を殊勝らしく縮こめながら腰かけていた。ラジーロフの母親は靴下を編んでいた。開け放した窓を通って、庭からは秋のさわやかさとリンゴの香りがただよってきた。オリガはかいがいしくお茶をついでいた。私は食事のときよりも気をつけて彼女を眺めた。彼女は田舎娘のご多分にもれず至って口数が少なかったが、私は少なくとも彼女に、何か気のきいたいいことを言いたがっているそぶりや、そのくせ自分のつまらなさや無力に心を痛めているといった様子は認められなかった。彼女は、まるで言い表わしがたい気持が胸にあふれてもらすような溜息もつかなければ、思わせぶりで上目使いをするようなこともしないし、夢見るように、あいまいに微笑みをもらすこともしなかった。彼女は大きな幸福か大きな不安ののちに一息入れている人のように、穏やかに、冷静に眺めていた。彼女の歩きぶり、動作はきびきびしていて、自在であった。私はこの娘がすっかり気に入ってしまった。
私はまたラジーロフと話しこんだ。どうしたはずみだったか今ではもう覚えていないが、話がたまたま、ごくつまらないことが、きわめて重要なことがらにもまして、かえって大きな印象を人に与えることがよくあるものだ、というわかりきったことに及んだ。
「さよう」とラジーロフが言った。「私は自分でそれを体験しましたよ。私は、御承知の通り、家内を持っていました。永いことじゃありません……たった三年です。家内はお産で死にましたので。家内に先立たれて、私はこの先とても生きてゆけそうもないと思いましたよ。恐ろしい悲しみに打ちひしがれて、死んだようになっていましたが、それでいて泣けないのです――ただもう気違いのように歩きまわりました。家内の亡骸《なきがら》は型のごとく着物をきせられて、テーブルの上に安置されました――そら、ちょうどこの部屋でしたよ。やがて司祭が来、伴僧たちが来て、歌をうたったり、お祈りをしたり、香を焚《た》いたりしはじめました。私は床に額《ぬか》ずいて礼拝しましたが、涙一つ出てきません。心がまるで石と化したみたいですし、頭だって同じことです――全身ぐったりと重くなったような気がしました。こうして最初の日が過ぎてしまいました。ところがどうでしょう? その晩はぐっすり眠れたのです。翌朝、私が家内のところへ入って行きますと、――ちょうど、夏のことで、死体の頭のてっぺんから足の先までかんかん陽があたっているのです。――ふと見ると……(ここでラジーロフは思わず身ぶるいした)なんだとお思いになります? 片方の眼がすっかり閉じきらないでいて、その眼の上をハエが歩いているのです……私はそのまま棒のように倒れてしまいましたが、やがて正気づくが早いか、さめざめと泣き出して――止め度なく泣きつづけました……」
ラジーロフは口をつぐんだ。私は彼を見、それからオリガを見た……そのときの彼女の顔の表情は生涯忘れることができない。お婆さんは編みさしの靴下を膝の上に置いて、手提げからハンカチを取り出し、そっと涙を拭いた。フョードル・ミヘーイチは急に立ち上って、ヴァイオリンをひっつかみ、しゃがれた奇声を発して歌をうたいだした。彼は、大方、私たちの気を浮き立たせるつもりだったろうが、私たち一同は彼の発する最初の音を聞くなり、思わずびくりと身ぶるいした。ラジーロフは静かにしてくれと頼んだ。
「もっとも」と彼は言葉をつづけた。「過ぎたことは過ぎたことですからね。今さら取り返しがつくわけじゃないし、つまるところは……この世のことは、すべてだんだんよくなっていくのです、ヴォルテールだかが言ったように」と急いで附け足した。
「そうです」と私は相槌《あいづち》を打った。「もちろんです。その上どんな不幸だって辛抱できるものですし、どうしても逃れられない逆境なんてものはありません」
「そうお思いになりますか?」とラジーロフは言った。「いや、たぶんお説の通りでしょう。忘れもしません、トルコ戦役に従軍したとき、私は半死半生の状態で野戦病院に寝ていたことがあります。なに、創傷熱《そうしょうねつ》にかかったのです。そりゃ、設備も何もお粗末なもんですよ、――何しろ戦場のことですから、――しかし、それでもありがたいこってす! そこへまた不意に傷病兵が担《かつ》ぎこまれて来ます、――どこへ寝かしたらいいか? 軍医があちこち駈けまわるのですが――場所がありません。そこで私の傍へやってきて看護兵に、『生きとるか?』とききます。すると看護兵が『今朝は生きておりました』と答える。軍医は屈《かが》みこんで、耳を当てると、私がまだ息をしているのが聞える。奴さん、とうとう我慢ならなくなって言うことには、『なんて始末の悪い野郎だ。こいつは死んじまうんだぜ、どうせ死ぬに決ってるものを、いつまでも虫の息で、ぐずぐずしやがって、ただ場所ふさぎをして、ほかの者の邪魔をしとるばかりだ』そこで私は肚の中で、『さあ、ミハイロ・ミハイルイチ、お前もいよいよ駄目らしいぞ……』と自分に言い聞かせたものです。ところがよくなって、ご覧の通り、今日まで達者でいるんです。つまり、あなたのおっしゃる通りですよ」
「どっちにしても私の申した通りですよ」と私は答えた。「たとえそのときあなたが亡くなられたにしても、やっぱり窮境から逃れたことになるわけですから」
「そうですとも、そうですとも」片手でどんと強くテーブルをたたいて、彼は附け加えた……「ただ決心さえすりゃいいんです……窮境などというものに、なんの意味がありましょう?……なんのためにぐずぐずと、永引かせる必要がありましょう……」
オリガはつと席を立って、庭へ出て行った。
「さあ、フェージャ、舞踊曲をやってくれ!」とラジーロフが叫んだ。
フェージャは跳び上って、見世物の熊のまわりではやしたてる、あの『山羊《やぎ》』という道化のように、乙に気取った、一種特別な足取りで部屋の中を歩きだした。そして『わが家の門《かど》に……』を歌いだした。
このとき車寄せのあたりに馬車の音が聞えた。と思うと、まもなく背の高い、肩幅の広い、がっしりした老人が部屋の中に入って来た。見れば郷士のオフシャニコフである……ところでオフシャニコフは至って非凡な、風変りな人物であるから、読者のお許しを得て、彼の話は次章に譲るとしよう。今はただ、翌日未明にエルモライと一しょに猟に出かけ、猟からまっすぐに帰宅したこと、一週間後に再びラジーロフの家へ寄ったところ、主人もオリガも不在だったことだけを附け加えておこう。二週間後に私は、ラジーロフが急に姿を消し、母親を置き去りにして、義妹と手を携《たずさ》えてどこかへ行ってしまったという話を聞かされた。県下こぞって湧き立ち、この事件を話題にしたが、私はこのときになって初めて、ラジーロフが身の上話をしていたときのオリガの顔の表情をはっきりと理解することができた。あのとき彼女の顔にあらわれていたのは同情の色だけではなかった。嫉妬の炎も燃えていたのである。
いよいよ田舎を引き上げようというとき、私はラジーロフの老母を訪ねた。彼女は客間にいて、フョードル・ミヘーイチとカルタ遊びをしていた。
「御子息から何か便りがありますか?」私はとうとうたずねた。
お婆さんはしくしく泣き出した。私はもうそれ以上、ラジーロフのことを根掘り葉掘りきかなかった。
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郷士オフシャニコフ
親愛なる読者諸君、肥っていて、背が高く、年のころは七十ばかり、どこかしらクルイロフ〔一七六九―一八四四。ロシアの寓話作家〕に似た顔をして、垂れさがった眉毛の下には澄んだ賢《かしこ》そうな眼があり、威厳をそなえ、話しぶりには落ち着きがあり、足取りのいかにもゆったりとしている人物を想像して頂きたい。これがつまり郷士《ごうし》オフシャニコフなのである。彼は袖の長いゆったりした青いフロックコートを着て、上まできちんとボタンをかけ、藤色の絹のハンカチを頸《くび》に巻き、てかてかに磨きあげた房つきの長靴をはいていて、外見はまず裕福な商人というところであった。柔らかくて白い綺麗な手をしていて、よく話の間に上着のボタンをいじる癖があった。オフシャニコフはもったいぶって、どっしり構えた態度といい、賢明で不精なところといい、また正直で頑固なところといい、私に、ピョートル大帝以前の時代のロシア貴族を想い起させるのであった……彼が襟無《えりなし》宮廷服をきたらさぞかし似合ったことであろう。彼は旧時代の最後の人の一人であった。隣人たちはみな彼を一方《ひとかた》ならず尊敬して、彼と交際することを名誉と心得ていた。仲間の郷士たちは彼らを崇《あが》めんばかりで、彼に会うと遠くからうやうやしくお辞儀をし、彼を誇りとしていた。概していえば、私たちの地方では今日に至るも郷士と百姓との区別はつけにくい。暮し向きも百姓と大差なく、仔牛はみじめなほど小さいし、馬はやっとこさ生きているばかりで、馬具は縄で作ったのを使っていた。オフシャニコフは金持として聞えてはいなかったが、一般原則の例外であった。妻君と二人きりで、居心地のよいこざっぱりした家に住み、少しばかりの召使を置き、ロシアふうの着物をきせて働き手と呼んでいた。この召使たちが彼のところでは畑仕事もしていた。彼は自分を士族に見せかけもしなければ、地主顔もせず、一度としていわゆる『身のほどを忘れる』ようなことがなく、進められてもすぐに腰をおろそうとしなかった。新しい客が入って来ると必ず一応は席を立つが、それがいかにも威厳があり、愛想のいい中にも堂々としているので、客の方でも思わず慇懃《いんぎん》に会釈《えしゃく》をかえすのであった。オフシャニコフは昔からの慣例を守っていたが、それも迷信からではなく(彼はかなり自由な精神の持主であった)、習慣によるものであった。例えば、ばねつきの馬車を乗心地が悪いといって好まず、競争用の馬車か、でなければ革のクッションをつけた小型の綺麗な四輪荷馬車で方々を乗りまわし、栗毛の立派な競争馬を自分で御《ぎょ》した(彼は栗毛の馬しか飼わなかった)。馭者はお河童頭《かっぱあたま》の赤い頬っぺたをした若者で、青っぽい百姓外套を着て、羊皮の低い帽子をかぶり、革帯をしめ、うやうやしく主人の傍に坐っている。オフシャニコフはいつも昼食の後で一寝入りし、土曜日ごとに風呂屋へ出かけ、宗教書ばかり読んで(読むときには、もったいぶって鼻に円い銀|縁《ぶち》の眼鏡をかけた)、早寝、早起きだった。けれども顎鬚《あごひげ》は剃り落していたし、髪はドイツふうに刈り込んでいた。客が来ると愛想よく、親切に迎えたが、平身低頭したり、騒ぎたてたり、ありったけの乾燥果実や漬物で御馳走したりするようなことはなかった。「おい!」と席から立ち上りもせずに、妻君の方へわずかに頭をめぐらして、おもむろに言うのであった。「お客さま方《がた》に何か御馳走を持っておいで」穀物を売ることは、それが神さまの授《さず》かりものであるからして、罪悪とみなしていた。で、一八四〇年の大飢饉で、穀物が恐ろしい高値を呼んだときにも、近辺の地主や百姓たちに自分の貯えをすっかりわけてやった。彼らは翌年自分の負債をありがたく現物で返済したものである。オフシャニコフのところへはよく近所の者が、裁《さば》いてくれの、仲裁してくれのと頼みに来たが、たいてい彼の裁きに服し、その助言に従った。多くの者が彼のおかげで境界をはっきりと決めることができた……しかし女地主たちの件で二三度しくじってからは、御婦人がたの仲裁をするのはいっさいお断りだと申し立てた。落ち着きのないことや、あわててせっつくことや、下らないおしゃべりや、『虚栄』に我慢できなかったのである。あるとき彼の家から小火《ぼや》が出たことがある。働き手が「火事だ! 火事だ!」と叫びながら、大急ぎで主人の部屋へ駈けこんだ。「おい、何をわめいてるんだ?」とオフシャニコフは落ち着き払って言った。「おれの帽子と杖を持って来い……」彼は自分で馬を調教するのが好きだった。あるとき駻《かん》の強い馬が彼を乗せたまま、坂道をまっしぐらに谷に向って駈けだした。「こら、およし、およし、若い馬ってのはしようがないな、怪我をするぞ」とオフシャニコフはやさしく馬に言って聞かせたが、あっという間に彼は、馬車や、後に乗っていた少年や、馬もろとも谷間に雪崩《なだ》れ落ちてしまった。幸いと谷底には砂が一ぱいたまっていた。誰も怪我をしたものはなく、馬が脚を一本、脱臼《だっきゅう》しただけだった。「そうれ、見ろ」とオフシャニコフは地べたから起き上りながら、落ち着き払った声で言葉をつづけた。「だから、言わないこっちゃない」彼は妻も自分に合ったのをもらいあてた。タチヤーナ・イリイーニチナ・オフシャニコワは背の高い、重々しい、口数の少ない女で、いつも褐色の絹のスカーフで頭を包んでいた。誰も彼女がやかましすぎるなどと苦情を言うものがなかったばかりか、あべこべに、多くの貧乏人におばさんとか、恩人とか呼ばれて慕われていたのに、彼女はどことなく冷たい感じがした。輪郭の整った顔立ち、大きな黒い眼、薄い唇は今なお、かつては評判の美人であったことを物語っている。オフシャニコフには子供がなかった。
読者がすでに御承知の通り、私は彼とラジーロフの家で知り合いになったのだが、それから二日ほどして彼のところに行って見た。折よく在宅であった。彼は大きな革の肘掛け椅子に腰をおろして、殉教者伝を読んでいた。灰色の猫が彼の肩にのって咽喉《のど》をゴロゴロ鳴らしていた。例によって、愛想はいいが、さも重々しい態度で私を迎えた。私たちは四方山《よもやま》話を始めた。
「本当のところを言って、ルカー・ペトローヴィチ」と私は話のついでに言った。「以前あなた方のお若かった時代の方が、今よりよかったんでしょうね?」
「そりゃたしかに、いいこともありましたよ」とオフシャニコフが答えた。「全く、暮しがおだやかでしたし、ゆったりしてましたから……しかし、とはいっても、やっぱり今の方がいいですな。あなた方の子供の代になれば、もっとよくなりますよ、きっと」
「私はあなたが、ルカー・ペトローヴィチ、昔の自慢をなさるだろうと思ってましたよ」
「いや、昔のことは別に取りたてて自慢するものはありません。まあ、早い話が、あなたは現に、亡くなられたお祖父さんと同じように、れっきとした地主でいらっしゃるが、もうあれだけの威勢は持てますまい! それにあなた御自身、まるでお人柄がちがいます。そりゃ、私たちは今でもほかの地主たちに圧迫されていますよ。しかしそれはどうにも仕方がないことでしょう。今は苦しくっても、なあに、どうにかなりますよ。いや、私が若いときにさんざん見てきたようなことは、今どきはもう見られやしません」
「例えば、どんなことでしょう?」
「それでは一例として、またお祖父さんの話をしましょう。実に強勢《ごうせい》なお方でしたな! 私たち郷士仲間は、ずいぶんといじめつけられたものですよ。そら、たぶんご存じでしょうが、――いや、ご自分の地所をご存じないはずはありません、――チェプルイギノからマリーニノにかけて、楔形《くさびがた》に食い込んでいる地所がありましょう?……今はお宅で燕麦を作ってらっしゃるが……実は、あの土地はうちのものなんですよ、――そっくりうちのものなんで。それをお宅のお祖父さんが取りあげてしまわれたのです。あるとき馬に乗ってお出かけになり、あの地所を手で示して、『これはわしの所有地だ』とおっしゃって、それなり自分のものにしてしまわれたのです。死んだうちの親父がまた(なにとぞ天国に安らわせたまえ!)、曲ったことの嫌いな、癇癪《かんしゃく》持ちなもんですから、我慢しきれなくなって、――それに誰にしたって、自分の財産を人に取られて喜ぶやつもないもんでしょう?――裁判所に訴えて出たのです。ところが訴えたのは親父ひとりで、他の連中は行かなかったんです――後の祟《たた》りを恐れて。すると、お宅のお祖父さんに告げ口をする者がいて、ピョートル・オフシャニコフが、あなたに土地を取りあげられたといって訴訟を起しました、と注進したんです……お宅のお祖父さんはすぐさま狩猟頭のバウーシに手下のものをつけておよこしになった……で、親父は捕えられて、御領地に引き立てられました。私はそのころまだ頑是《がんぜ》ない子供でしたが、はだしで親父のあとを追ったものです。ところがどうでしょう? 親父はお屋敷の傍へつれて行かれて、窓の下で鞭で打たれたのです。お宅のお祖父さんはといえば、バルコンに立って見ていらっしゃる。お祖母さんもやはり窓の下に腰かけて眺めておいでです。親父は、『奥さま、マーリヤ・ワシーリエヴナさま、どうぞお取りなし下さいまし、せめてあなただけでも可哀そうと思召《おぼしめ》し下さいまし!」と叫ぶのです。けれどお祖母さんはただ首を伸ばして、じろじろ眺めているだけです。こうして親父はむりやり地所を手放すという約束をさせられ、おまけに生きて帰らしてもらったお礼まで言わされたものですよ。それであの地所はお宅のものになったんです。まあ、あの土地をなんと呼んでいるか、お宅の百姓どもに聞いてごらんなさい。棒畑《ぼうばたけ》と呼んでいますが、それというのも棒でぶんなぐって取りあげたからなんで。まあ、こういったようなわけで、われわれ下っぱの者は、昔のしきたりをそんなに懐かしがるわけにゃいきませんね」
私はオフシャニコフになんと返事をしていいやらわからなかったし、彼の顔をまともに見る勇気さえなかった。
「やはりそのころ、も一人、スチェパン・ニクトポリオーヌイチ・コモフという地主が近所におりました。これには親父がさんざん悩まされたものです。あの手、この手で。ひどい飲んべえで、人を御馳走するのが大好きでしたが、酔いがまわってくるとフランス語で『セ・ボン』などと言って、舌なめずりをする――みっともないったらありません! 隣近所の地主という地主に、どうぞおいで願いたいと使いを出す。ちゃんとトロイカの用意をして待っているのです。もし行かずにいようものなら――すぐと自分で押しかけて来る……実に変った男でしてね! 『素面《しらふ》』のときは嘘はつかないんですが、一杯やると、とうとうと始めるんです。やれペテルブルグのフォンタンカに家を三軒持っている、一軒は煙突が一本の赤い家で、いま一軒は二本煙突の黄色い家、あとの一軒は煙突のない青い家だとか、やれ息子が三人いて(実は結婚したこともないくせに)、一人は歩兵、一人は騎兵で、あとの一人は自営だとか……それから、言うことには、三軒の家には息子が一人ずつ住んでいて、長男のところへは海軍の将官連中が、次男のところへは陸軍の将官連中が、また三男のところへはイギリス人が始終馬車で乗りつける、とこうなんです! そうこうするうちに立ち上って、『長男の健康を祝して乾杯、うちではあれが一番親孝行だ!』と言って、めそめそ泣きだす。誰かが乾杯をいやがりでもしようものなら、それこそ大変。『射ち殺してやる! 葬式も出させないぞ!……』と、えらい剣幕です。かと思うと、今度は躍《おど》り上って、どなる。『さあ踊れ、皆の衆、自分も楽しみ、わしも楽しませてくれ!』こうなったら踊らないわけにはいかない、どんなことがあっても踊らないわけにはいかない。自分のところの農奴の娘たちを、それこそくたくたになるまで踊らせる。よく、夜通し、朝までみんなに歌わせて、一番よく声のつづいた者には御褒美が出たものでした。娘たちが疲れてくると、彼は頭をかかえて嘆きはじめる。『ああ、よるべない身なし児《ご》とはわしのことだ! 誰もこのわしを構ってくれんわ!』すると馬丁どもがさっそく娘たちに活をいれる、というわけです。うちの親父がこのコモフにすっかり気に入られてしまいました。どうにも始末におえません! 親父はもう少しで棺桶へ突っこまれるところでした、全くまごまごしていると殺されてしまったかもしれません、が、ありがたいことには、御当人の方が一足先に死んでくれました。酔っぱらってハト小舎から落ちたのです……うちの隣近所の地主連中ときたら、昔はこんなもんでしたよ!」
「ずいぶん時勢が変ったもんですね!」と私は言った。
「そうですとも、そうですとも」とオフシャニコフは同意した。「いや、全くです。昔の士族の暮しはもっと豪奢なものでしたよ。まして貴族のことなどは言うに及びません。私はモスクワで、そういう人たちをあきあきするほど見ましたんで。今じゃあちらでも、ああいう人たちは絶えてしまったといううわさですね」
「モスクワにいらしたことがあるんですか?」
「ええ、あります、昔も昔、ずいぶん前のことです。私は今七十三ですが、モスクワヘ行ったのは十六のときですから」
オフシャニコフは溜息をついた。
「あちらではどんな人にお会いになりましたか?」
「いろんな貴族を見ましたが、そのころは誰でも見ることができたものなんです。開けっぴろげに、派手に、みんなが驚くような暮しをしていましたよ。ただ亡くなられたアレクセイ・グリゴーリエヴィチ・オルロフ=チェスメンスキイ伯爵には、どなたも及ぶものがありませんでした。そのアレクセイ・グリゴーリエヴィチには私もよくお目にかかりました。うちの伯父が家令をしていたものですから。伯爵様はカルーガ門に近い、シャボロフカにお住いになっていました。それこそ本当の貴族でしたよ! あのような威風堂々たる御態度、あのようなお情け深いお言葉は想像することもできませんし、お伝えすることもできません。お身丈《みたけ》だけでも大したものですが、それにお力の強いこと、眼差《まなざ》しの涼しさ! お人柄をのみこまないうちは、お傍近くへよることもできません――本当にこわくって、気後《きおく》れがするのです。ところが一たんお傍へ参りますと――お天道《てんとう》様に暖められているみたいで、すっかりうきうきしてくるのです。どなたにもお目通りを許されましたし、何事にまれお好きでした。競馬では御自身馬を御《ぎょ》され、みんなと競走なさいました。けっして一気に抜いてしまって、相手に恥をかかせたり、しゅんとさせたりなさらずに、ゴール近くで初めて追い越しになるのです。とてもやさしいお方でしたよ――相手を慰めたり、相手の馬を賞めたり。宙返りをするハトの飛切り上等のも飼っていらした。よく庭へお出ましになって、肘掛け椅子に腰をおろされ、ハトを飛ばしてみろとお言いつけになったものです。まわりの屋根の上には、下男どもが鉄砲を持って立っており、オオタカに襲われないように警戒しています。伯爵様の足もとには水を満々とたたえた大きな銀の盥《たらい》をおいておく。水に映るハトの影をご覧になるのです。貧乏人や乞食が何百人も、伯爵様から食《く》い扶持《ぶち》をいただいていました……お金をどれだけおやりになったことやら! ところが一たんお腹立ちになると――まるで雷様でも落ちたようです。それはそれは恐ろしいことでしたが、ちっとも嘆くには及びません。その場限りで、じきに、にこにこ笑っておいでなのですから。酒盛りの催しがあると――モスクワ中の者に大盤ふるまいですよ!……それにまたなんという賢い人だったでしょう! トルコ人を征伐したのもこのお方でした。相撲も大好きで、ツーラや、ハーリコフや、タムボフや、所々方々から力士をお呼び寄せになりました。伯爵様に負けた者にも御褒美を賜《たま》わりますが、伯爵様を打ち負かそうものなら引出物をどっさり賜わり、唇に接吻までしなさる……それからまた、これも私のモスクワ逗留中のことですが、ロシアに前例のなかったような大がかりな狩りをお催しになりました。国中の狩猟家という狩猟家はもれなく招待しましたが、期日を定めて、三ヵ月の猶予を置かれました。やがてその日が来て一同勢ぞろいしました。犬や、お抱えの猟師をぞろぞろ引きつれてやって来ました――まるで、軍隊が乗りこんだような騒ぎです、全く、軍隊さながらです! 初めにしかるべく酒盛りがあって、それからカルーガ門外に繰りだしました。それを見ようとて馳《は》せ集まった群衆は、雲霞《うんか》のごときありさまでしたよ!……ところで、どうでしょう?……お宅のお祖父さんの犬が一番駈けでしたよ」
「|眉目よし《ミロヴィートカ》じゃありませんか?」と私はたずねた。
「そうそう、|眉目よし《ミロヴィートカ》です、|眉目よし《ミロヴィートカ》です……そこで伯爵様はお祖父さんに御所望になったものです。『君の犬を売ってくれんか、なんでもやるから』『いや、伯爵、私は商人じゃありませぬ。たとえ不要のボロ一つだって売るわけには参りません。そりゃ、あなたに敬意を表するため、女房を差上げるくらいの覚悟はありますが、|眉目よし《ミロヴィートカ》だけは平《ひら》に御容赦……いっそこの身が虜《とりこ》になった方がましなくらいです』するとアレクセイ・グリゴーリエヴィチはお祖父さんをお賞めになって、『あっぱれなやつじゃ。』とおっしゃいました。こうしてお祖父さんは意気揚々と、犬を馬車に乗せておつれ帰りになりました。で、|眉目よし《ミロヴィートカ》が死んだときは、楽隊つきで庭に葬むりました――たかが牝犬一匹を手厚く埋葬し、その上に銘《めい》を刻んだ石碑を建ててやりましたよ」
「それご覧なさい、アレクセイ・グリゴーリエヴィチは、誰もいじめはなさらなかったじゃありませんか?」と私は口を入れた。
「まあ、それが世の常です。雑魚《ざこ》にかぎっていばりたがるものなんです」
「で、バウーシというのはどんな男でしたか?」としばらく黙ってから私はきいてみた。
「|眉目よし《ミロヴィートカ》のことをお聞き及びなのに、どうしてまたバウーシのことはご存じないんでしょう?……あれはお祖父さまの猟師頭で、猟犬番《いぬばん》もしていました。お祖父さまは|眉目よし《ミロヴィートカ》に劣らず彼《あれ》を可愛がっておりましたよ。命知らずで、お祖父さまのお言いつけなら――即座にやってのけて、たとえ火の中、水の中でもあえて辞さない……あの男が猟犬《いぬ》をけしかけると――猟犬の吠え声が森中にこだましたものです。ところが不意に強情を張りだすと、馬をおりて、ごろりと横になる……犬にバウーシの声が聞えなくなるが早いか――もう万事休すです! なまなましい獣の足跡を打っちゃらかしにして、どんな好餌で釣っても獲物を追っかけようとしない。さあ、お祖父さまはもうかんかんです!『わしの命に代えてもあの碌《ろく》でなしを縊《しば》り首にせい! 極道者め、皮をひんむいてやる! やつの踵《かかと》を喉からひっぱり出してやるぞ、奴畜生《どちくしょう》!』でも、とどのつまりは使いをやって、何が不足なのか、なぜ猟犬をけしかけないのか、とききにやります。するとバウーシはこんな場合たいてい酒をねだり、一杯飲むと、のこのこ起き上って、また威勢よくホイホイと声をかけはじめるのです」
「あなたもやはり、猟はお好きのようですね、ルカー・ペトローヴィチ?」
「好きは好きです……たしかに、――が今の話じゃありません。今はもう私などの出る幕じゃありませんが、若い時分は……しかしその、どうも具合《ぐあい》が悪いんですよ、私たちの身分じゃ。われわれ風情《ふぜい》は士族がたのまねなんぞすべきではありません。そりゃ、われわれの仲間でも、飲んだくれの能なしのくせに、地主たちの仲間入りをするものがいましたよ……でも、そんなことをして何が楽しいんでしょう!……ただ自分の面汚しです。やくざな、よろよろした馬を当てがわれる、しょっちゅう帽子は地べたに放り出される、馬に当てるふりをして、ふり上げられた鞭の先を、したたか食らわさせる。それでもなお御当人はえへらえへら笑って、他人《ひと》さまのお笑い草になっていなくちゃならない。いや、全くのところ、身分が低ければ低いほど、身を慎まなければならないんです。さもないとそれこそ身の恥をまねくばかりですから」
「さよう」とオフシャニコフは溜息まじりで言葉をつづけた。「私が世渡りを始めてからでも、ずいぶんと年月が経ちました。とんと時世が変ってしまいましたよ。とりわけ士族の変りようといったら大変なもんです。地所をあまりお持ちでない士族は、お役所に勤めるとか、そうでなくても自分の土地に落ち着いちゃいませんし、大所になるとまるで昔の面影もありません。ちょうど境界定めがあったさいに、私はこの連中、つまり大地主連中をつくづく眺めることができました。で、正直なところ、大地主連中が慇懃《いんぎん》で、丁寧なのを見て、うれしく思いましたよ。ただ私が驚いたのは、あの人たちはいろんな学問を修め、すらすらと淀《よど》みなくお話がおできになり、聞いていてうっとりするほどなのに、実際問題となると一向にわからず、自分の得になることさえ気づかないことです。人もあろうに、自分たちの農奴である番頭|風情《ふぜい》に、勝手にあしらわれているんですからね。現に、ご存じでもありましょうが、アレクサンドル・ウラジーミロヴィチ・コロリョフなど、立派な士族じゃありませんか? 男ぶりはよし、金は持っているし、『大学校』で勉強もしたし、それに、外国へもおいでになったようだし、弁舌さわやかで、謙遜で、私たちにも一々握手して下さる。ご存じですか?……じゃ、お聞き下さい。先週、私たちは仲介人のニキーフォル・イリイッチに招《よ》ばれて、ベレーゾフカに集まりました。さて、仲介人のニキーフォル・イリイッチが私たちに言うには、『皆さん、土地の境界を決めなければなりません。当区だけがおくれているのは恥辱です。ではさっそく、仕事にかかりましょう』そこできっそく、仕事にかかりました。ところが例によって、議論や口論が始まりました。私たちの代理人なんかは頑として言うことをきかない始末です。しかしまっ先に騒ぎたてたのはオフチンニコフ・ポルフィーリイなんです……ところで一体、この男はなんだって騒ぐんでしょう?……なに、自分じゃこれっぽちも地面を持っちゃいませんので。兄貴に頼まれて管理しているのです。で、この男がわめき立てるには、『駄目だぞ! 欺《だま》されるもんか! いや、見そこなっちゃもらうまい! 図面をよこせ! 測量師を出してくれ、ペテン師をここへ出せ!』『つまり、どうしてほしいというわけです?』『人を馬鹿にするない! へん! わしがこの場ですぐに、自分の要求はこれこれこうだと説明するとでも思っているのかい?……どっこい、とにかく図面をこっちへ貸してもらおうぜ!』と言って、拳固《げんこ》で図面の上をたたくのです。マルファ・ドミートリエヴナなどは、ひどく恥をかかされました。彼女は『どうしてあんたは私の評判を落すようなまねをなさるの?』とわめき立てる。すると『おれは、お前さんの評判なんぞ、うちの栗毛にだってほしかないよ』と言い返す。やっとこさ、白葡萄酒《マデーラ》を飲ませてとりおさめました。この男を落ち着かせたと思ったら、今度は別のが≪ごて≫はじめたのです。アレクサンドル・ウラジーミロヴィチ・コロリョフはといえば、先生、隅っこの方に腰をおろして、ステッキの握りを時々噛みながら、頭をふっているだけです。私は恥かしくなって、とてもいたたまらない、逃げ出したいくらいでしたよ。一体この人は私たちのことをどう考えているんだろう、と思いましてね。ところが見ると、アレクサンドル・ウラジーミロヴィチが不意に立ち上って、発言したい様子です。仲介人が躍起《やっき》となって、『皆さん、皆さん、アレクサンドル・ウラジーミロヴィチがお話があるそうです』と言うと、さすがに士族がたは見上げたもので、すぐに一同|鎮《しず》まりかえりました。そこでアレクサンドル・ウラジーミロヴィチが話を始めました。われわれは、自分たちがなんのために集まったのか忘れているようだ。地割りが地主連中のためになることは明白だが、本質的にはなんのためにこんなことが始まったかといえば――百姓の負担を軽くし、夫役《ぶやく》を果すのに働きよくしてやろうというのだ。今のありさまでは百姓は自分の土地さえ知らず、五露里も先へ野良仕事に出かけることも珍しくない。――これじゃ百姓から取り立てるわけにはいかない。それからアレクサンドル・ウラジーミロヴィチはこうも言われました。地主が百姓の福利を考えてやらないのはよろしくない、また合理的に判断すれば、百姓の利益も、われわれの利益も、結局は一つのものだ。あっちがよければこっちもよし、先方が困ればこちらも困る……従って、つまらんことを楯《たて》にとって折り合いがつかないのは、よくないことだし、無分別だ……といったふうに、次から次へ諄々《じゅんじゅん》とお話しになりました……そのお話しぶりの巧みなことといったら! 全く肝《きも》に銘じました……士族方はといえば、みなしゅんとなってしまいました。こういう私なぞも、涙をこぼさんばかりでしたよ。本当に、昔の本にだってああした立派な話はめったにあるもんじゃありません……ところで結末はどうなったとお思いになります? 御当人からして四町歩あまりの苔《こけ》の生えた沼地を譲ろうとしないし、売りたくもないというのです。その言い草に、『私は自分の家の者どもを使って沼地を乾《かわ》かして、そこに設備の整ったラシャ工場を建てようと思っている。もうあの地所は選定ずみだし、そのつもりでいろいろ考えてある……』というんです。それも本当のことならともかく、裏話を聞くと、アレクサンドル・ウラジーミロヴィチの隣村の地主で、アントン・カラシコフというのが、コロリョフ家の番頭を買収するのに、紙幣で百ルーブリを出し渋ったからだというんです。こんなわけで、何一つしでかさないで、私たちは散会しました。アレクサンドル・ウラジーミロヴィチは今でも自分の言い分は正しいと思っていますし、始終ラシャ工場の話をしておりますが、沼地の干拓《かんたく》にはまだ手を着けようとしていません」
「それで自分の領地では、どんな経営ぶりをしていますか?」
「新しい方式をどしどしとりいれています。百姓どもはよく言いませんが、――何も百姓のいうことを聞く必要はありませんて。アレクサンドル・ウラジーミロヴィチのやり方は立派ですよ」
「そりゃまた、どうしてですか、ルカー・ペトローヴィチ? 私は、あなたはてっきり、昔風を守っていらっしゃるものと思っていましたが?」
「私は別問題ですよ、士族でも、地主でもないんですから。経営などというほどのものじゃありません……それに、私には他のやり方をする才能がないんですから。ただもう、道理にかない、掟《おきて》にはずれないようにやりたいものと心がけていますが――それだって、できたらありがたいと思っていますよ! 若い地主たちは昔からのしきたりを好みませんが、それも結構でしょう……頭を働かす時代でしょうから。ただ困ったことは、若い地主たちがやけに理窟をこねることですね。百姓を人形みたいに扱って、さんざんひねりまわしたあげくに、こわしておっぽり出すんです。で、百姓上りの番頭や、ドイツ生れの支配人が、もともとどおり百姓を自分の思い通りにすることになるんです。若い地主たちのうち、ただの一人でもいいから、ほら、領地の経営はこういうふうにやるもんだ、というお手本を見せてもらいたいもんです……一体どうなるんでしょう? 私なんぞは新しいやり方を見ないうちに死んでしまうんじゃないでしょうか?……全くわけがわかりません。古いものが滅びてしまったのに、新しいものがまだ生れないなんて!」
私はオフシャニコフになんと答えていいかわからなかった。彼はあたりを見まわすと、私の方に身を近づけて、ひそひそ声で話をつづけた。
「ときに、ワシーリイ・ニコラーイッチ・リュボズヴォーノフの話をお聞きになったことがありますか?」
「いいえ、ありません」
「実に奇態なことで、一体どういうわけなのか、説明して頂きたいものです。私にはとんと合点《がてん》がいきませんので。あの人のところの百姓どもが話してくれたんですが、その話が私には理解できません。あの人は御承知のようにまだ若い方で、つい近ごろ、亡くなられたお母さんの遺産相続をなさったばかりです。それで自分の領地へやって来ました。百姓どもは新しい旦那にお目通りをするために集まりました。やがてワシーリイ・ニコラーイッチさんがお出ましになる。百姓たちが見ると――驚いたのなんの!――旦那様が、まるで馭者みたいに、フラシ天のズボンをはいておいでで、長靴は縁飾りのあるのをはいていらっしゃる。赤いシャツを着て、その上にこれも馭者ふうの長上衣《カフタン》といういでたち。顎鬚《あごひげ》は長く伸ばして、頭には妙ちきりんな帽子《シャッポ》をかぶっているが、顔もまた妙ちきりんで、――酔っているかというに、そうでもないが、正気じゃなさそうだ。『やあ今日《こんにち》は、皆の衆! 御苦労さま』と声をかけなさる。百姓たちは平身低頭したまま黙りこくっています。つまり気おくれがしたのです。旦那の方もびくびくしている様子。やがて百姓たちに向って演説を始められた。『私はロシア人だし、お前たちもロシア人である。私はロシアのものならなんでも好きだ……私はロシア魂を持っているし、身体の中を脈打って流れている血もロシア人の血だ……』と言ったかと思うと、不意に、『さあ、みんな、ロシアの民謡を一つ歌ってくれ!』と号令をかけたもんです。百姓たちは膝頭ががくがくとふるえだしました。すっかり呆気《あっけ》にとられてしまったので。一人だけ度胸のいいのがいて歌いかけましたが、すぐに地べたに腰をおろして、人かげに隠れてしまいました……ところで、驚くべきことというのは、こういうことなんです。ここいら辺《あた》りにも、こういったしようのない地主連中、手に負えない連中、札つきの道楽者が、たしかにいることはいました。馭者みたいな服装《なり》をして、自分でロシアふうの踊りを踊ったり、ギターをひいたり、歌をうたったり、下男どもと酒を飲んだり、百姓相手に酒盛りをしたり。ところがこのワシーリイ・ニコラーイッチときたら、まるでおぼこ娘のようにおとなしいんです。いつも本を読むとか、書きものをしている、でなければ、声をだして讃美歌をうたうといったふうで、――誰とも話をせず、人を避けて、ただもうしきりに庭などを散歩していられる。まるでさびしがっているか、悲しんでいるかのよう。前々からいる番頭なんかは、最初のうちはすっかり怖気《おじけ》づいたもので、ワシーリイ・ニコラーイッチが村へお着きになる前には、百姓たちの家を一軒一軒駈けずり歩いて、みんなにぺこぺこお辞儀をしてまわる始末でしたよ。脛《すね》に傷もつ身というわけで! そこで百姓たちは新しい旦那を頼みにして、『その手に乗るもんかい! 今度こそ貴様も年貢の納め時だわ。きりきり舞いをして、ぎゅっという目にあわされるんだぞ、このかたりめが!……』と思っていたのです。ところが案外なことになりました――さあ、なんと申しあげたらいいか? あんなことになろうとは、神様だってご存じなかったでしょう! ワシーリイ・ニコラーイッチは番頭を自分のところへ呼びつけて、こうおっしゃるんです。自分の方が顔を赤くして、息をはずませながら。『わしのところでは公平にやってくれ、誰も迫害してはならん、いいか?』それ以来ついぞ一度だって番頭をお召しになったことがない! 自分の領地に暮しているというのに、借り物の猫同然で。で、番頭の方はほっとしましたし、百姓たちはワシーリイ・ニコラーイッチに寄りつこうとしません。おっかながっているのです。それからもう一つ驚いたことがあります。それは旦那様が百姓たちへお辞儀もすれば、愛想のいい顔つきもなさるのに、百姓どもは恐ろしさに身もそぞろなのです。なんと不思議なことでは、ございませんか?……それとも年をとって、私が馬鹿になりでもしたのでしょうか、――とんと合点がいきません」
私はオフシャニコフに、おそらくリュボズヴォーノフ氏は病気なのだろうと答えた。
「何が病気なもんですか! 縦より横が肥っていて、顔も、若いくせに、しようのない髭もじゃですよ……もっとも、そんなことはどうでもかまいませんが!」(と言ってオフシャニコフは深い溜息をついた)
「まあ、士族の話はこれくらいにして」と私は言いだした。「郷士についての御意見を聞かして下さいませんか、ルカー・ペトローヴィチさん?」
「いや、それはかんべんして下さい」と彼はせきこんで言った。「そりゃ……お話しすることもあるには……いや、止《よ》しましょう!(オフシャニコフは手を振った)それよりお茶でも飲みましょう……百姓はやっぱり百姓ですからな。とはいうものの、正直なところ、どうしていいか私どもも迷っておりますよ」
彼は口をつぐんだ。そこへお茶が出た。タチヤーナ・イリイーニチナが席を立って、私たちの傍に腰をおろした。この晩、彼女は何度も、音のしないようにそっと部屋を出て行っては、また静かに戻って来た。部屋の中には静けさがみなぎっていた。オフシャニコフはもったいらしい様子で、ゆっくりと、何杯もお茶を飲んだ。
「ミーチャが今日来ましたわ」とタチヤーナ・イリイーニチナが小声で言った。
オフシャニコフは眉をひそめた。
「なんの用で?」
「お詫《わ》びに来ましたの」
オフシャニコフは頭を振った。
「いや、全くの話が、あなた」と彼は、私の方に振り向きながら、言葉をつづけた。「身内の者ってのはどう扱ったらいいんでしょうね? まるっきり放っておくわけにもいきませんし……現に私にも、甥《おい》が一人おります。頭もいいし、元気な若者であることは議論の余地がありません。学問もあり、申し分ないのですが、どうも将来がおぼつかないんです。しばらく役所に勤めていましたが、辞めてしまいました。何しろ出世の道が塞《ふさ》がっていますので……もともと士族とは違いますからね。その士族だって、いきなり閣下にはなれやしません。そんな訳《わけ》で、今は職がなくてぶらぶらしています……それだけならまだしものこと、――とうとう三百代言になってしまいましたよ! 百姓たちに願書を作ってやったり、報告書を書いてやったり、百人長に入れ智慧をしたり、測量士の罪科を暴露したり、飲み屋に出入りしたり、旅籠屋《はたごや》で町の町人や門番風情と交際したり。これじゃ間違いもあろうというものです。警察分署長や警察署長さんから叱られたことも、一度や二度じゃありません。ところが幸い、あれは軽口がうまいときています。警察の人たちをさんざん笑わせたあげく、すっかり話を混乱させてしまうんです……それはそうと、あれは今お前の部屋にいるんじゃないかな?」と、妻の方を振り向いて、彼が附け加えた。「ちゃんとわかっているよ。お前は情け深いから、あれをかばっているのさ」
タチヤーナ・イリイーニチナは眼を伏せると、にっこり笑って、顔を赧《あか》らめた。
「ああ、やっぱりそうだ」とオフシャニコフは言葉をつづけた……「やれやれ、お前は甘くてしようがない! じゃ、ここへ来るように言っておくれ、――仕方がない、お客様に免じて馬鹿者を赦《ゆる》してやるか……じゃ、言っておくれ、言っておくれ……」
タチヤーナ・イリイーニチナは戸口に近づいて、「ミーチャ!」と呼んだ。
ミーチャは背の高い、すらりとした、縮《ちぢ》れ髪の、二十八ぐらいの若者で、部屋に入って来て私の姿を認めると、閾《しきい》ぎわに立ちどまった。着ている洋服はドイツふうであったが、やけに大きい肩の襞《ひだ》を見ただけで、これを仕立てた洋服屋がただのロシア人でなくて、生《は》えぬきのロシア人だということが一目で知れた。
「さあ、おいで、おいで」と老人は口をきった。「何を恥かしがってるんだ? 伯母さんにお礼を言うがいい、許してもらったんだから……ちょっと、御紹介いたしますが」とミーチャを指し示しながら、言葉をつづけた。「親身の甥ですが、始末に負えないやつです。全く世も末です!(私たちは会釈を交わした)今度は何をやらかしたんだ? なんだって苦情を持ちこまれたんだね、わけを話してごらん」
ミーチャは私の前で、説明したり、言いわけしたりすることを、好まないようであった。
「あとでお話ししますよ、伯父さん」と彼は口ごもった。
「いや、あとでなく、今がいい」と老人は言葉をつづけた……「おれにはちゃんとわかっているよ、この旦那の手前、お前は恥かしいのだろう。なに、ますますよろしい――いい見せしめになるからな。さあ、さあ、話してごらん……聞いてやるから」
「私は何も恥かしいことなんかありませんよ」とミーチャは威勢よく話しだして、首を振った。「まあ、伯父さん、御自分で考えてもみて下さい。私のところヘレシェチーロヴォの郷士連中がやって来て、『どうか加勢してくれ』と言うんです。『どうしたんだ?』ときくと、『実はこういうわけだ。わしらの村の穀倉は整然としていて、あれ以上きちんとはできないくらいだ。ところがお役人がひょっこりやって来て、お上《かみ》の命令で倉を検査しに来たと言う。検査をしてから、『お前たちの倉は乱雑だ、重大な手抜かりがあるから、当局に報告せにゃならん』と言うのだ。『どこが手抜かりなんで?』とたずねると、『それはわしだけの知ったことだ。』と言う……わしらは寄り合いをして、役人にしかるべく、袖の下をつかませることに決めかけた。ところがプローホルイチ爺さんが邪魔を入れて、それではやつらを増長させるだけだ。本当に、なんたることだ? 一体わしらには裁判を受ける権利がないのか?……と言いだしたので、わしらが老人の言う通りにしたら、役人はかんかんに怒って訴え出て、報告書を提出した。そこで今わしらは、申し開きをしなければならないことになった』と言います。そこで私が、『本当にお前さん方の倉はきちんとなっているのかね?』ときいたら、『きちんとなっていることは神様もご存じだし、法律に決められただけの殻高《こくだか》も間違いなく入っている……』『そんなら何もびくびくすることはないさ』と言って、私は連中に書類を書いてやりました……どっちが勝訴になるかまだわかりません……なぜこの事件のことで、伯父さんのところへ私の苦情を持ちこんだかは、――わかりきったことですよ。身程可愛いものはないってやつです」
「誰だってそうだが、どうやら、お前だけは違うらしいな」と老人は小声で言った……「ところで、シュトローモヴォの百姓たちと一しょになって、なんの計略をめぐらしているんだい?」
「どうしてご存じで?」
「なに、ちゃんと知ってるさ」
「それだって私の方に理があるんです、――これも考えてみて下さい。シュトローモヴォ村の百姓たちが借りている土地へ、隣村の地主のベスパンジンが四町歩余り鋤《すき》を入れたんです。これはわしの地所だ、と言って。シュトローモヴォ村の百姓たちは年貢を払って借りていたのですが、肝腎《かんじん》の地主が外国へ出立してしまいましたので、誰も百姓たちの肩を持つ者がおりません、そうでしょう? 土地は、もちろん、昔からその百姓たちが作っているものです。そこで私のところへやって来て、嘆願書を書いてくれ、と言うものですから、私は書いてやりました。ところがベスパンジンがそれを聞きこんで、おどし文句をならべ出したんです。『ミーチャの若僧の両足を腿《もも》の附け根から引き抜いてくれる、さもなきゃ首っ玉をへし折ってやる……』どうやってへし折ってくれるか、拝見したいものです。まあ、今のところ、ちゃんとくっついていますが」
「まあ、そんなに自慢することはないさ。お前の首はそのうち、きっとひどい目に合うぜ」と老人は言った。「お前は本当に気違いみたいなやつだ!」
「だって、伯父さん、あなたが御自分でおっしゃったじゃありませんか……」
「わかってる、わかってる、お前の言おうとすることは」とオフシャニコフが甥の話をさえぎった。「そりゃその通りさ。人間は正直に暮して隣人を助けてやらなくちゃならん、というのは。身を殺して仁をなさなければならないこともある……だが、お前はいつもそんなふうにやっているかい? お前はしょっちゅう居酒屋へひっぱりこまれやしないかい? 酒をふるまわれて、拝み倒されたりしないかい? 『ドミートリイ・アレクセーイチ、力になって下さい、お礼は前もっていたします』などと言って、一ルーブリ銀貨や五ルーブリ紙幣を、お前の手にそっと握らせやしないかい? え? そういうことはないかな? どうだ、ないかい?」
「その点は私も悪いと思います」とミーチャが眼を伏せて答えた。「でも貧乏人からは金を取りませんし、曲ったことはいたしません」
「今は取らなくても、自分の都合が悪くなると――取るようになるさ。曲ったことはしないって……よくも言ったね、お前! いつも聖人の味方ばかりしていると見えるな!……ボリカ・ペレホードフのことは忘れたのかい?……あいつのために尽力したのは誰だっけ? あいつをかばってやったのは誰だい? え?」
「そりゃ、たしかにペレホードフは身から出た錆《さび》ですけれど……」
「公金を使いこんだのだ……冗談じゃない!」
「でも、伯父さん、察してもみて下さい。貧乏暮しで、女房子供はあるし……」
「貧乏暮し、貧乏暮しだって……飲んだくれの博奕《ばくち》打ちじゃないか――そうだとも!」
「あれは自棄酒《やけざけ》から始まったんです」とミーチャは声を落して言った。
「自棄酒だって! ふん、お前にそんな親切気があるなら、助けてやりゃいいものを。飲んだくれと一しょに居酒屋に坐りこんだりしないでな。口先が達者だからって――そんなのは珍しいもんか!」
「あれはこの上ない善人で……」
「お前に言わせると誰でもみんな善人とくる……ときに」とオフシャニコフは妻君の方へ振り向きながら、言葉をつづけた。「あれに送ってやったろうな……ほら、あれだよ……」
タチヤーナ・イリイーニチナはうなずいてみせた。
「この二三日、お前はどこに雲隠れしていたんだい?」
「町にいました」
「いずれ玉を突いたり、お茶を飲んだり、ギターを鳴らしたり、方々の役所を駆けずりまわったり、奥の部屋で願書の文句を綴ったり、商人の小倅《こせがれ》どもとぶらついたりしたんだろう? そうだろう?……さあ、どうだ!」
「まあ、そんなところですね」と微笑しながらミーチャが言った……「ああ、そうだ! あぶなく忘れるところでした。アントン・パルフェーヌイチ・フンチコフが、日曜日にお食事においで下さいと言っていました」
「あの太鼓腹のところへなんか行くもんか。一山いくらの安魚を御馳走に出して、バタは腐った匂いのするのを食わすんだからな。まっぴらだよ!」
「それからフェドーシヤ・ミハイロヴナに会いました」
「フェドーシヤって誰だい?」
「ミクーリノ村を競《せ》り落した、あのガルペンチェンコのお妾《めかけ》ですよ。ミクーリノ出身のフェドーシヤです。モスクワの仕立屋に住みこんでいて、年貢は金で払うことにしていました。そして年に百八十二ルーブリ五十コペーカの年貢を几帳面《きちょうめん》に納めてきました……しっかりした腕を持っているので、モスクワでもいい注文を受けていました。ところが今度ガルペンチェンコがフェドーシヤを呼び戻して、そのままずるずると引きとめておいて、別にきまった仕事をさせるでもありません。フェドーシヤは身代金を払って自由の身になりたい気があるので、旦那にもその話をしてみたんですが、旦那ははっきりしたことは何も言わないんです。あなたは、伯父さん、ガルペンチェンコと知り合いなんですから、一言おっしゃって下さいませんか?……フェドーシヤはかなり身代金を出すでしょうよ」
「お前の金じゃなかろうな? え? いや、いいとも、言ってやろう。しかしわかりゃしないぞ」と老人は不機嫌な顔をして言葉をつづけた。「あのガルペンチェンコという男は、こう言っちゃ悪いが、けちん坊だからな。手形を買い占めたり、金貸しをしたり、競売に出た領地をうまいこと手に入れたり……誰があんなやつをこの土地へつれてきたんだろう? いや、わしはあんな他所者《よそもの》はまっぴらご免だ! 話したっておいそれと埒《らち》があくまい。が、とにかく当ってみようよ」
「一骨折って下さい、伯父さん」
「いいとも、やってみよう。だがお前も十分に気をつけたがいいぞ! まあ、まあ、言いわけなんかしなくてもよい……構わん、構わん!……ただ先々のことには気をつけるがいい、さもないと、ミーチャ、お前ひどい目に会うぞ――本当に身の破滅になるよ。わしだって、いつまでもお前の面倒を見きれるもんじゃない……このわしにしてからが、別に羽ぶりのいい人間じゃないんだから。じゃ、もう行っていいよ」
ミーチャは出て行った。タチヤーナ・イリイーニチナがその後を追った。
「お茶でも飲ましておあげ、甘ちゃんの伯母さんや」と後《うしろ》からオフシャニコフが声をかけた。……「あれも馬鹿じゃないし」と彼は言葉をつづけた。「気立てもいい若者なんですが、どうも心配です……いや、どうも失礼しました、下らんことを長々とお耳に入れまして」
このとき、控え室の戸が開いた。入って来たのはビロードのフロックコートを着た、背の低い、白髪頭の男である。
「や、フランツ・イワーヌイチ!」とオフシャニコフが金切り声で叫んだ。「今日《こんにち》は、御機嫌いかがです?」
親愛なる読者諸君、この紳士をも紹介させて頂きたい。
私の隣人で、オリョール県の地主である、フランツ・イワーヌイチ・レジョン(Lejeune)は、並々ならぬいきさつで、光栄あるロシア士族の身分を得た人である。彼はオルレアンの町にフランス人を両親として生れ、ナポレオンのロシア侵略の際に、鼓手として従軍した。最初は万事がとんとん拍子にすすみ、このフランス人は昂然と頭を上げてモスクワに乗りこんだ。ところが退却の途中で哀れにもムッシュウ・レジョンは、半ば凍えて、太鼓をも失い、スモレンスクの百姓どもの手に落ちた。スモレンスクの百姓たちは、空っぽのラシャ工場に彼を一晩中閉じこめておき、翌朝になると堤のほとりの氷孔のそばに連れて行き、この de la grrrrande armee(偉大《いいだーい》な軍隊)の鼓手に向って、自分たちの願いをかなえてくれ、とせがみだした。それはほかでもない、氷の下へ潜《もぐ》りこんでほしいというのである。さすがにムッシュウ・レジョンはおいそれと、この申し出に応じることができなかったので、あべこべに、フランス語で、どうかオルレアンヘ帰らせてくれと説得しはじめた。「あちらには、messieurs(皆さん)」と彼は言った。「私の母が住んでいるのです、une tendre mere(やさしい母)が」けれども百姓たちは、たぶんオルレアン市の地理的位置を知らなかったからだろう、曲りくねったグニロチョールカの流れを下る水中旅行をしつこく彼にすすめ、頸筋《くびすじ》や背骨をこづいて、実行をせき立てるようになった。と、このとき不意に、レジョンが言いようもなく喜んだことには、鈴の音が聞えてきた。見れば、堤の上に大きな橇《そり》が登ってくる。大げさに高くしつらえた背部には派手な毛氈《もうせん》をかけて、三頭立ての葦毛《あしげ》の駒に曳かせている。橇の上には狼の毛皮の外套を着た、肥った赤ら顔の地主が乗っていた。
「お前たちはそこで何をしているのだ?」と彼は百姓たちにたずねた。
「フランスの野郎を沈めようてんでがす、旦那」
「あ!」地主は冷然と答えて、そっぽを向いた。
「Monsieur! Monsieur!(もしあなた! もしあなた!)と哀れな男は叫び立てた。
「おい、おい!」と狼の毛皮の外套はなじるように言った。「十二ヵ国もの軍勢〔一八一二年のナポレオン軍のロシア侵入を、ロシア人はこう言った。十二ヵ国は多くの国の意〕を率いてロシアに攻め寄せ、モスクワを焼きはらい、この外道《げどう》めが! イワン大帝鐘楼の十字架まで曳きずりおろしておいて、今さらムッシュウ、ムッシュウもないもんだ! 今になって尻尾を捲《ま》いたって後の祭りだぞ! 悪党にそれくらいの罰は当り前だ……さあ、やれ、フィーリカア!」
橇は動きだした。
「だが、待てよ!」と地主は言い足した……「おい、ムッシュウ、お前は音楽はできるかい?」
「Sauvez moi, sauvez moi, mon bon monsieur!(お助け下さい、お助け下さい、お情け深い旦那様!)」とレジョンは繰返した。
「なんちゅう、けちなやつらだ! 一人としてロシア語を知ってるやつがおらん! ミュージック、ミュージック、サヴェ、ミュージック、ヴー? サヴェ?(音楽だよ、音楽だよ、お前、音楽を知ってるか? 知ってる?) さあ、返事をしろ! コンプレネ?(わかるかい?) サヴェ、ミュージック、ヴー? ピアノを、ジゥエ、サヴェ?(弾けるかい?)」
レジョンは地主の言わんとすることがやっとわかったので、うなずいて見せた。
「Oui, monsieur, oui, oui, je suis musicien; je joue tous les instruments possibles! Oui, monsieur…Sauvez moi, monsieur!(できますよ、旦那様、できます、できます、私は音楽家なんです。楽器ならなんでもできます! はい、旦那様……どうぞお助けになって下さい!)」
「いや、お前は運のいいやつだな」と地主は答えた……「皆の衆、そいつを放してやれ。ほら、これが酒手の二十コペーカだ」
「ありがとうございます、旦那様、ありがとうございます。さあどうぞお引き取り下さい」
レジョンは橇《そり》に乗せられた。彼はうれしさのあまり息をつまらせ、泣きだし、身をふるわせ、お辞儀をして、地主や馭者や百姓たちに礼を言った。着ているものはバラ色のリボンのついた緑色のジャケツ一枚きりで、沍寒《ごかん》は膚《はだ》をつんざかんばかりであった。地主は無言のまま、青みを帯びてかじかんだ彼の手足をじろりと眺めると、この不幸な男を自分の毛皮外套にくるんでやり、わが家へつれ帰った。召使どもが馳《は》せ集まった。フランス人は大急ぎで温めてもらった上、食事を当てがわれ、着物を着せてもらった。地主は彼を自分の娘たちのところへひっぱって行った。
「さあ、お前たち」と彼は娘たちに向って言った。「お前たちの先生が見つかったぞ。しょっちゅうやれ音楽を教えてくれの、フランス語を教えてくれのと、うるさくねだられたが、ほら、この人がフランス人の先生だ、ピアノも弾ける……さあ、ムッシュウ」と彼は、猶太人《ジュー》から、といってもオーデコロンを商《あきな》うのが本業なのだが、その猶太人から五年前に買い入れたろくでもないピアノを指さしながら、言葉をつづけた。「一つ腕前を見せてもらおう。ジゥエ!(弾きたまえ!)」
レジョンは生きた心地もなく椅子に腰かけた。生れてからピアノにさわったこともないのである。
「さあ、さあ、ジゥエ、ジゥエ!(弾きたまえ、弾きたまえ!)」と地主は繰返した。
哀れな男は、まるで太鼓でもたたくように、やけに鍵盤《キー》をたたいて、でたら目に弾きだした……「私は即座に観念しましたよ」と彼は後でよく言ったものである。「私の思人がむんずと私の襟髪《えりがみ》をつかまえて、お屋敷から追い出してしまうだろうと」ところが、心ならずも即席音楽家にされたレジョンがきわめて驚いたことには、地主はしばらくしてから、さも感にたえた様子で彼の肩をそっとたたいて、「結構、結構、かなり弾けるらしいな。ではあちらへ行ってお休み」と言ったものである。
二週間ほどしてレジョンはこの地主の許《もと》を去り、金持で教養のある別の地主のところへ移ったが、陽気でおとなしい性質のためにすっかり気に入られ、地主の養女と結婚し、官職について士族に進み、退職竜騎兵で詩人でもあるオリョールの地主ロブィザーニエフに娘をかたづけ、自分もオリョールの町に引っ越して来たのである。
つまりこのレジョン、あるいは今の通り名でいえばフランツ・イワーヌイチが、私のいるときに、オフシャニコフの部屋に入って来たのである。二人はかねて親しい間柄であった……
それにしても、おそらく読者諸君は、私のお相伴をして、郷士オフシャニコフのところにいつまでも長居をすることには、もはやうんざりされたであろう。よって私は雄弁に口をつぐむこととする。
[#改ページ]
リゴフ
「リゴフヘ参りましょう」と、読者諸君にはもうおなじみのエルモライが、あるとき私に言った。「あすこなら思う存分カモが撃てますから」
本当の猟人にとってはノガモごときは別にこれといった魅力があるわけではないが、さしずめほかの獲物がないので(それは九月初めのことであった。ヤマシギはまだ渡来していないし、シャコを追って野原を駈けまわるのも、いいかげん倦《あ》きていた)、私は猟師の言うことをきいて、リゴフヘ出かけた。
リゴフは草原地方にある大きな村で、円屋根一つの至って古い石造りの教会があり、泥っぽいロソタ川のほとりには水車場が二軒たっている。この川は、リゴフから五露里ばかり先へ行くと、広々とした池となっており、池の周りばかりか、ところによってはまん中の方まで、オリョール地方で俗に≪よし≫と呼んでいる葦《あし》が一ぱいに生い繁っている。この池の入江や、葦間《あしま》の蔭になったところには、マガモ、アオクビ、オナガガモ、シマアジ、コガモなど、ありとあらゆる種類のカモが数限りなく繁殖し、棲《す》んでいる。僅かばかりの群れはひっきりなしに水の上を、あちらこちら飛び移ったり、飛びまわったりしているが、ひとたび銃声が響こうものなら、雲霞《うんか》のごとき大群が飛び立って、狩猟家も思わず片手で帽子をおさえ、「うわあ!」と言葉尻を長くひいて嘆声を発するほどである。私はエルモライと二人で池の縁《ふち》に沿って歩きだしかけたが、第一、カモは用心深い鳥だから岸のすぐ傍には棲んでいないし、第二に、仲間にはぐれた、世馴れていないコガモなどが、よしんばわれわれに撃たれて生命を落すようなことがあっても、それを一面に繁った葦の中から取り出してくることは、私たちの犬にはできなかった。この上なく立派な精神にもかかわらず、犬は泳ぐことも、底を踏んで渉《わた》ることもできず、ただ徒《いたず》らに大事な鼻先を葦の葉末で切るくらいが落ちである。
「だめだ」とついに、エルモライが言った。「うまくないです。小舟を手に入れなくちゃ……ひとまずリゴフに引っ返しましょう」
私たちは引っ返した。数歩と歩かないうちに、向うのこんもりした柳の木の蔭から、かなりみすぼらしい猟犬《セッター》が飛びだしてきたが、その後から中背の男があらわれた。青い、ひどく擦《す》り切れたフロックコートを着、黄色っぽいチョッキを身につけ、亜麻《グリ・デ・レン》色だか、浅葱《ブリョー・ダムール》色だかのズボンをはいて、そのズボンを穴だらけの長靴にぞんざいに押しこんである。赤いハンケチを首に巻きつけ、単発銃を肩に背負っている。こちらの犬どもが、いつものように、持ち前の中国流の礼法で、新顔の犬とたがいに嗅ぎ合っているうちに、――先方の犬は怖気《おじけ》づいたと見えて、尻尾を捲《ま》き、耳を立て、膝も曲げずに歯をむきだして、くるくると目まぐるしくまわっている、――見知らぬ男は私たちの方に近づいて、たいへん丁寧にお辞儀をした。見たところ年は二十五ぐらいである。クワス〔びん附け油の代用〕の匂いのぷんぷんにおう長い亜麻色の髪がぴんとおっ立っており、小さな鳶色《とびいろ》の眼が愛想よくまばたきしていた。歯でも痛むのか、黒い布で頤《おとがい》を縛ってある顔じゅうに、いかにも楽しそうな微笑を浮べていた。
「失礼ですが、自己紹介をさせていただきます」と彼はもの柔らかな猫なで声で言いだした。「私はこの土地の猟師で、ウラジーミルと申します……あなたさまが当地へ見えられて、この池の岸辺に向われたと伺いましたので、もし御異存ございませんでしたら、お役に立たせていただきたいと存じまして」
猟師のウラジーミルは、主役の二枚目をやる田舎の若い役者そっくりの言葉づかいをした。私は彼の申し出を承諾したが、リゴフヘ行き着かないうちに、彼の身の上話をそっくり知ることができた。彼は自由の身にしてもらった屋敷勤めの農奴だった。年少のころには音楽を学び、それから侍僕をつとめ、読み書きができて、私の見たところでは、多少は物の本も読んだことがあるらしかった。そして今では、ロシアに住んでいる多くの者がそうであるように、一文の貯《たくわ》えもなければ、一定の職業もなしに暮しており、辛《から》くも飢えをしのいでいるばかりであった。彼は珍しく優雅な物の言い方をし、明らかに、自分の物腰をひけらかしているらしかった。それにまた、きっとひどい女たらしで、彼のやる色事は十中八九、うまくいったに違いない。何しろロシアの娘たちは口説上手《くどきじょうず》が好きだからである。中でも彼は、自分が時折近隣の地主たちを訪ねることや、町へお客に行きもすれば、プレファレンスの相手もし、都の人たちとも交際があることなどを、私に匂わすのであった。彼は笑顔の名人で、いろいろと使いわけた。とりわけ彼に似つかわしかったのは、他人《ひと》の話に耳を傾けているとき彼の口もとに浮ぶ、しとやかな、控え目な微笑であった。他人の話を聞いて一から十まで相槌《あいづち》をうちながらも、自分自身の尊厳の意識を失わず、折さえあれば、自分だって、とうとうと意見が述べられることを、相手に知らせたがっているようである。エルモライはあまり教育もないし、『微妙な』ところなど薬にしたくもない男ときているので、彼を相手になれなれしく『おめえ』で話そうとした。それに答えてウラジーミルがエルモライに向って、『あなた……』と言うときの微笑みかたは、それこそ見ものであった。
「なぜ君は頤《おとがい》を縛っているんです?」と私はきいてみた。「歯が痛いのかね?」
「いいえ、違います」と彼は打ち消した。「これはもっと危険な不注意の結果なのでございます。私には友達が一人いまして、いい男なんですが、よくある話で、猟にかけては全くの素人なんです。ところである日のこと私に、『ねえ君、猟につれていってくれないか。どういうものか知りたいから』と言うんです。私は、申すまでもなく、友達にむげに断りたくありませんでしたので、わざわざ鉄砲のことまで世話してやり、猟に連れていきました。さて、私たちはしばらくの間しかるべく猟をしたのち、疲れたので一休みしようということになりました。私は木蔭に腰を下ろしました。ところが友達は、それどころか、銃の操法の練習などをやりだして、私を的《まと》にするのです。私は止してくれと頼んだのですが、相手は経験がないもんですから、こっちの言うことをてんでききません。そのうちにズドン、ときて、私は顎《あご》と右手の人さし指を無くしてしまったのです」
私たちはリゴフに着いた。ウラジーミルも、エルモライも、二人とも、小舟がなくては猟ができないということだった。
「小枝《スチョーク》が平底舟を持っていますが」とウラジーミルが言った。「どこへしまってあるのか、存じませんので。一走りして小枝《スチョーク》のところへ行って来なくちゃ」
「誰のところだって?」
「この村に、小枝《スチョーク》というあだ名の男が住んでいるのでございます」
ウラジーミルはエルモライを連れて小枝《スチョーク》のところへ出かけた。私は教会の傍で待っているからと言った。墓地へ行って墓石を見てまわっているうちに、次のような銘のある、黒ずんだ、四角い石碑に出っくわした。その一面にはフランス語で、Ci git Theophile Henri, vicomte de Blangy〔テオフィール・アンリイ・ブランジイ伯爵の墓〕とある。次の面には『フランス臣民ブランジイ伯爵この石の下に眠る。一七三七年生、一七九九年歿、享年六十二歳、』とある。第三面には『御霊《みたま》に安らいあれ。』とあり、第四面には次のように誌《しる》されてあった。
[#ここから1字下げ]
墓石のもと横たうは、フランスの亡命者、
名門に生を享《う》け、才《ざえ》の誉れも高けれど、
妻と族《うから》を殺されし、嘆きにたえず、
あと乱賊に蹂躙《ふみにじ》られし、母国を後《あと》に、
ロシアの岸辺にたどり着き、
年老いて、もてなし厚き住処《すみか》を得、
子らを教え、両親《ふたおや》に安らいを与えぬ……
いまここに神のまにまに安らけく眠る。
[#ここで字下げ終わり]
エルモライ、ウラジーミル、それに小枝《スチョーク》という妙なあだ名の男が近づいて来たので、私の冥想は中断された。
はだしで、ぼろぼろの着物を着て、髪をおどろに振り乱した小枝《スチョーク》は、年のころ六十くらいで、見たところ、お暇をいただいた屋敷勤めの召使といったふうであった。
「お前のところに舟はあるかね?」と私はきいた。
「舟は、ございますが」と彼はうつろな、つぶれた声で答えた。「とてもひどい代物《しろもの》でして」
「どんなに?」
「継ぎ目が剥《は》がれちまいましたんで。それに鋲留《びょうど》めも抜けていますし」
「大したことはないさ!」とエルモライが引き取った。「麻屑を詰めたらいい」
「むろん、いいとも」と小枝《スチョーク》が相槌をうった。
「一体、お前は何を仕事にしてるんだ?」
「お屋敷の漁師でさ」
「おかしいじゃないか、漁師のくせに舟をそんなに粗末にしておくなんて?」
「でも、ここの川には魚がいないもんで」
「魚は沼の浮渣《うきかす》を好かないからな」と私の連れの猟師がもったいぶって口を入れた。
「じゃ」と私はエルモライに言った。「どこかへ行って麻屑をもらってきて、舟を直してくれ、急いでな」
エルモライは出かけた。
「こんな様子じゃ、ことによると、沈没するんじゃないかね?」と私はウラジーミルに言った。
「まさかそんなこともないでしょうけれど」と彼は答えた。「どっちにしても、池は大して深くないと見てよろしいでしょう」
「そうです、深かありません」と小枝《スチョーク》が口を入れたが、彼は、寝ぼけているみたいな、なんとなく奇妙な口のきき方をした。「底は泥と草で、草が一面に生えています。もっとも、ところどころに深い穴もありますが」
「それにしても、草がそうひどくちゃ」とウラジーミルが言った。「漕《こ》げないだろうが」
「平底舟に乗って漕ぐ人もいないもんだ。竿《さお》で押さなくっちゃ。わっしがお伴いたしましょう。うちには竿がありますが、なに、鋤《すき》だってもかまいません」
「鋤じゃ具合が悪かろうが。場所によっちゃ、きっと、底まで届かないだろうよ」とウラジーミルが言った。
「違えねえ、具合が悪いて」
私は墓石に腰をおろしてエルモライの帰りを待った。ウラジーミルは遠慮して、少しばかり脇へ離れて、同じように腰をおろした。小枝《スチョーク》は首を垂れ、昔からの習慣で両手を背後《うしろ》に組み、一つ場所にじっと立ちつづけた。
「ときに、どうだね」と私は話の口をきった。「お前は永いことここで漁師をしているのかい?」
「七年目です」と、ぶるっと身ぶるいして彼は答えた。
「前には何をしていたんだね?」
「前には馭者をしておりました」
「誰が馭者をやめさせたんだ?」
「新しい奥様で」
「奥様というと?」
「わしらをお買いになった方で。ご存じありませんか、アリョーナ・チモフェーヴナといって、たいへん肥った……もう若くはないお方です」
「どうしてまた、お前を漁師にしようなんて気をおこしたんだろう?」
「わかりません。タムボフの御領地からこちらへおいでになり、召使を全部集めるようにお命じになって、わしらの前に出てこられました。わしらはまず奥様のお手に接吻して御挨拶申し上げましたが、これといって別に変った様子もありません。怒ってもおりません……それから順々に、わしら一人一人に、お前は何をしていたか、どんな役目を当てがわれていたか、とおききになりました。そのうちわしの順番がまわってきました。『お前は何をしていたの?』とおたずねになりますから、『馭者でございます』と申し上げると、『馭者だって? ふん、お前がなんで馭者なもんか。自分の顔を見るがいい。それでも馭者かい? お前は馭者なんかする柄じゃないから、漁師になって髯《ひげ》をお剃り。私がここへ来たとき、お台所へ魚を用達《ようた》しするんだよ、いいかい?……』とおっしゃいました。それからというもの私は漁師と見なされているんで。『で、うちの池をいつもきちんとしておくように気をつけるんだよ……』と言われましたが、どうしてあれをきちんとなど、しておかれるものですかね?」
「お前たちは、前にはどなたの農奴だったんだね?」
「セルゲイ・セルゲーイッチ・ペーフチェレフ様のです。遺産相続であの方の手に渡りましたので。それもあの方の持ち物だったのは永いことじゃなくて、たった六年きりでした。で、つまり、この人の馭者を私は勤めてましたんで……なに、町じゃございません――町には別の馭者がいましたから、私の馭者をしたのは村だけです」
「それじゃ、若い時からずっと馭者だったんだね?」
「なんの、ずっと馭者をしていたんじゃありません! わしが馭者になったのは、セルゲイ・セルゲーイッチ様の代で、その前には料理人でした。それも町じゃなくって、やっぱり田舎です」
「誰の料理人をしていたんだい?」
「前の旦那のアファナーシイ・ネフョードイッチ様、つまりセルゲイ・セルゲーイッチ様の伯父さんに当る方です。リゴフをお買いになったのはこの方、つまりアファナーシイ・ネフョードイッチ様なんですが、遺産相続で、セルゲイ・セルゲーイッチ様のものになったのでございます」
「誰から買ったのかね?」
「タチヤーナ・ワシーリエヴナ様からで」
「タチヤーナ・ワシーリェヴナというと?」
「ほら、一昨年《おととし》、ボールホヴォ在で……ええと、そうじゃない、カラチョーヴォ在で、一生独身のままで亡くなられたお方……一度もお嫁に行かずじまいでした。ご存じありませんか? わしらはあの人のお父さんのワシーリイ・セミョーヌイチ様から、あの人の手に渡ったんです。あの方はずいぶん永い間、わしらを抱えておられましたよ……かれこれ二十年ほど」
「それで何かね、お前はその人のところで料理人をしていたのかい?」
「初めはたしかに料理人をしていましたが、それからコーヒー係にされました」
「なんだって?」
「コーヒー係です」
「そりゃまた、どんな役目だね?」
「わしにもわかりません、旦那様。食堂に勤めていて、クジマーでなしに、アントンと呼ばれていました。奥様がそうお命じになりましたので」
「お前の本当の名前はクジマーかい?」
「クジマーで」
「で、ずっとコーヒー係をしてたんだね?」
「いいえ、ずっとじゃありません。役者もしました」
「まさか?」
「本当ですとも……ちゃんと舞台《ぶてえ》でやりました。奥様が舞台《ぶてえ》をお屋敷にこしらえましてな」
「それでお前はどんな役を演《や》ったんだい?」
「なんで、ございます?」
「舞台でどんなことをしたんだい?」
「おや、ご存じないんですか? まず、みんながわしをつかまえて、衣裳をつけてくれます。わしは衣裳を着けて、歩くとか、立っているとか、坐っているとか、きめられた通りにやるのです。こう言え、と言われれば、その通りに言いますんで。一度は盲人《めくら》をやりました……両方の眼瞼《まぶた》の下にエンドウまめを一つずつくっつけましてな……本当ですとも!」
「それからなんになったね?」
「それから、また料理人になりました」
「なんだってまた、料理人などに下げられたんだい?」
「弟が逃げましたので」
「じゃ、初めの奥様のお父さんの代には、何をしてたんだい?」
「いろんな役を勤めました。初めはボーイでしたが、馭者の助手をしたり、庭師をしたり、それから猟犬番もやりました」
「猟犬番に?……じゃ、犬をつれて乗りまわしたかい?」
「犬をつれて乗りまわしもしましたが、とうとう怪我をしてしまいました。なんせ、馬ごと倒れて、馬が怪我をする始末で。大旦那はとても厳しい方でした。それで、わしを鞭でぶってから、モスクワの靴屋へ徒弟奉公にやるようにお命じになりました」
「どうして徒弟奉公なんかに? だって、まさかお前は、子供のときに猟犬番になったわけでもあるまい?」
「ええと、二十歳《はたち》を過ぎていましたっけ」
「二十歳にもなって、徒弟奉公もないもんだ」
「旦那様のお言いつけですから、つまり、平気なんで、別にかまやしません。でも、ありがたいことに、旦那様はまもなく亡くなられて、――わしは村へ呼び戻されました」
「じゃ料理はいつ習ったんだね?」
小枝《スチョーク》はやせて黄ばんだ顔を上げて、にたりと笑った。
「誰があんなことを習うもんですか?……煮焚《にた》きは女にだってできまさあ!」
「すると」と私は言った。「クジマー、お前は一生の間に、いろいろ世間を見てきたんだな! じゃ今は、魚もいないのに、漁師になんかなって、何をしてるんだね?」
「なに、旦那様、わしは苦情など申しません。漁師にしてもらったのだって、ありがたいくらいです。何しろもう一人の、ちょうどわしと同じくらいの老人なんかは、――アンドレイ・ププイリてんですが、――紙工場の水汲みをやるように、奥様がお命じになったんですから。遊んで食っているのはよくない、とおっしゃって……ププイリのやつはもっと楽な仕事が当てがわれるだろうと、お慈悲をあてにしてましたんです。なんせ、甥にあたるのがお屋敷の帳場で手代をしてまして、そのうち折を見て奥様にお願いしてやると約束してたもんですから。それがこんな始末なんで!……それでもププイリはわしの眼の前で、甥の足もとに頭をなすりつけてお辞儀をしてましたよ」
「お前、家族はいるのかい? 女房を持ったことがあるかね?」
「いいえ、旦那様、ありません。亡くなられたタチヤーナ・ワシーリエヴナ様は――何とぞ天国に安らわせたまえ!――女房を持つことを誰にもお許しになりませんでした。いや、とんでもないことで! 『私だってこの通り独りで暮しているのに、わがままを言うんじゃないよ! なんであれたちに、そんな必要があるもんですか?』と、よくおっしゃいましたもので」
「今はなんで暮しているんだ? 給金はもらってるのかい?」
「なんの、旦那、給金だなんて!……食べさせてもらうだけでも、ほんとにありがたいことで、わしは満足してますよ。どうか奥様が長生きなさいますように!」
エルモライが帰ってきた。
「舟の修理は済んだ」と彼はぶっきらぼうに言った。「竿を取って来な、――お前!……」
小枝《スチョーク》は竿を取りに駈けだした。私が哀れな老人と話している間じゅう、猟師のウラジーミルは馬鹿にしたような微笑を浮べながら、じろじろと老人を眺めていた。
「馬鹿なやつです」老人が行ってしまうと、彼は言った。「まるっきり教育のない、ほんとの土百姓というやつです、ただあれだけのつまらない男なんです。お屋敷に奉公する人間とも言われません……法螺《ほら》ばかり吹いて……あれに役者が勤まってたまるもんですか、まあ、考えてもごらんなさいまし! 無駄な御心配をなさいましたね、あんなやつを相手にお話しなさって!」
十五分ほどして、私たちは小枝《スチョーク》の平底舟に乗っていた(犬は小屋に残して、馭者のイェグジイールに番をさせた)。あまり乗心地はよくなかったが、猟をする人間はもともと気さくである。うしろの船尾《とも》の方には小枝《スチョーク》が立って、竿で『押して』いた。私とウラジーミルは舟の横木に腰かけていたし、エルモライは前部の、舳先《へさき》のすぐ傍に陣取った。麻屑を詰めてあるのに、水はじきに足もとに流れこんできた。幸いと天気はおだやかで、池はまるでまどろんでいるかのようであった。
舟足はかなりのろかった。老人は、青い糸のような水草にすっかりからみつかれた長い竿を、大難儀をして粘《ねば》っこい泥の中から引き抜くのだった。池一面に生い繁っているスイレンの円葉も舟の行く手をはばんだ。やっと葦の生えているところまでたどりついて、いよいよお慰みが始まった。カモは自分たちの領分に不意に人間が現われたのに驚いて、羽音騒がしく舞い上がる、つまり急に池を『離れる』のだった。それを追って一せいに銃声が鳴りひびいた。あの尾の短い鳥どもが上空でくるりと宙返りをして、水面にどさりとたたきつけられるのを見るのは、なかなか楽しかった。もちろん、撃って傷つけたカモを残らず拾うことはできなかった。浅手のは水にもぐってしまうし、一撃ちに殺されたものでも、あの密生した≪よし≫の中に落ちると、エルモライの山猫のような鋭い目でさえ見つけだすことができなかった。それでも昼頃までには、私たちの舟は、舟縁を越えるほど獲物で一ぱいになった。
ウラジーミルは、エルモライがすこぶる痛快がったことに、射撃がからっきし下手で、一発射ち損じるたびごとにいぶかり、鉄砲をあらためたり、吹いてみたりして、小首をかしげ、最後になぜ自分がやりそこなったか、その理由をわれわれに説明して聞かせるのであった。エルモライはいつものようにみごとな手なみを見せ、私は例によってあまり上手と言えなかった。小枝《スチョーク》は、若いときから旦那方の世話をしなれた者の眼で私たちの様子を眺めながら、時折、「ほら、ほら、あそこにもカモが!」と叫んだ。そしてしょっちゅう背中を掻《か》いた――それも手で掻くのでなしに、肩をもぞもぞ動かして掻くのであった。天気は引きつづき快晴だった。白い巻雲が頭上高く静かに流れていった、はっきりと水に影を映しながら。あたりでは葦がさらさら音を立てていた。池は日を受けて、ところどころ、はがねのようにきらきら光っていた。私たちがそろそろ村へ帰ろうとしていたとき、思いがけなく、かなり不愉快な事件が持ち上った。
私たちは大分前から、乗っている平底舟に水がだんだん溜まってくるのに気がついていた。その水を柄杓《ひしゃく》で掻《か》い出すことはウラジーミルに委ねられてあった。この柄杓は先見の明ある私の猟師が万一にそなえて、ぼんやりしていた百姓女のところからかっぱらってきたものである。ウラジーミルが自分の役目を忘れないでいるうちは、何事もなかった。ところが猟も終りに近い頃、カモが別れを惜しむかのように、おびただしい群をなして飛び立ったので、私たちは弾丸《たま》をこめる暇もないくらいだった。つづけて次々と撃つのに熱中して、つい私たちは、乗っている平底舟の様子に注意をはらわなかった。――と、不意にエルモライが激しく動いたので(彼は射《い》とめたカモを取ろうとして舟べりに全身をのしかけたのである)、私たちのぼろ舟はぐいと傾き、水が入り、悠々と沈没しはじめた。ただ仕合せなことには深いところではなかった。私たちは叫び声を上げたが、もう手遅れだった。一瞬後に私たちは、ぷかぷか浮んでいるカモの死骸にとりかこまれて、頸《くび》まで水につかって立っていた。驚いて蒼くなった仲間の顔をいま思い出すと、私は声を立てて笑わずにはいられない(おそらく私の顔にしたところで、そのときは色を失っていたことだろう)。しかしあのときは、正直なところ、笑うことなど思いもよらなかった。私たちはめいめいが自分の鉄砲を頭上にささえていたが、それを見て小枝《スチョーク》も、きっと主人たちのまねをするのが癖になっていたからであろう、自分の竿を高々と上にさしあげたものである。最初に沈黙を破ったのはエルモライであった。
「しまった!」と、水にペッと唾を吐きかけて彼は言った。「なんちゅうことだ! これもみんな貴様のせいだぞ、老いぼれめ!」と小枝《スチョーク》に向って、彼は腹を立てて附け加えた。「お前の舟はなんちゅうぼろ舟なんでえ?」
「申しわけありません」としどろもどろに老人が言った。
「それにお前もお前だ」と私の猟師は、今度はウラジーミルの方に頭を向けて言葉をつづけた。「何をぼんやりしてんだ? なんだって水を掻いださなかったんだい? 全く、お前ときたら……」
しかしウラジーミルは言葉を返すどころじゃなかった。彼は木の葉のようにふるえて、歯の根も合わず、全く無意味ににやにや笑っていた。彼の雄弁だの、洗練された礼儀作法や自分の尊厳を意識する感情だのは、どこへけしとんだのだろう!
いまいましい平底舟は私たちの足もとで弱々しく揺れていた……難船した瞬間には水が非常に冷たく思われたが、じきに馴れて苦にならなくなった。最初の恐怖が過ぎ去ったとき、私はあたりを見まわした。十歩ばかり離れた辺《あた》り一面には葦が生い繁っていた。遠く、葦の葉末の上方に岸が見えている。『こりゃまずい!』と私は思った。
「どうしたものだろう?」私はエルモライにきいた。
「まあなんとかしましょう。ここで夜明かしもできますまい」と彼は答えた。「さあ、お前、鉄砲を持っててくれ」と彼はウラジーミルに言った。
ウラジーミルは一も二もなく服従した。
「行って浅瀬を見つけてきます」とエルモライは、自信たっぷり言葉をつづけた。どんな池にもきっと浅瀬があるにきまっているかのように。そして小枝《スチョーク》から竿を取ると、用心深く足で底を探りながら、岸の方に向って歩きだした。
「お前は泳げるのかい?」私は彼にきいた。
「いいえ、泳げねえんで」という声が葦の葉かげから聞えてきた。
「じゃ、溺《おぼ》れて死んじまうだ」と小枝《スチョーク》が落ち着きはらって言った。彼が前にびっくりしたのも危険を恐れたからではなく、私たちに怒られるのを恐れたからのことであったが、今はすっかり落ち着きを取り戻して、ただ時折ふっと深い溜息をつくばかりで、現に自分の置かれている状態を変える必要など、すこしも感じていないようだった。
「骨折り損のくたびれ儲けですよ」とウラジーミルが哀れっぽく附け加えた。
エルモライは一時間以上も帰って来なかった。この一時間が私たちには永遠のように思われた。初めのうちはずいぶんと根気よく呼び交わしていたが、やがて私たちの叫び声に答えるエルモライの返事が間遠になり、しまいには全く聞えなくなった。村中《むらなか》では夕べの祈りの鐘が鳴り出した。私たちは互いに話しもしなかった。それどころか互いの顔さえ見まいとした。カモが頭上を飛びまわっていた。中には私たちの近くへ止まろうとするのもいたが、急にいわゆる『さお』になって舞い上がり、けたたましく叫んで飛び去るのであった。私たちは身体がしびれてきた。小枝《スチョーク》は眠そうにとろんとなって、眼をぱちくりさせていた。
そこへやっとエルモライが帰って来たので、私たちの喜んだことといったらなかった。
「おい、どうだった?」
「岸まで行って来ました。浅瀬が見つかりましたので……さあ参《めえ》りましょう」
私たちはすぐにも出かけようとしたが、エルモライはまず水の中でポケットから縄を取り出し、射止めたカモの足をしばり、両端を口にくわえると、先頭に立って歩き出した。ウラジーミルがそれにつづき、私はウラジーミルにつづいた。小枝《スチョーク》が殿《しんが》りをつとめた。岸までは二百歩ほどあったが、エルモライはずんずんと足も止めずに進んだ(よくも道を覚えたものである)。ただ時折、「左へよった、右には穴があるぞ!」とか、「右へよった、左へ行くとはまりこむぞ……」とかどなりながら。時には水が喉まで来ることがあったが、可哀そうに小枝《スチョーク》はみんなより背が低いので、二度ばかり水を呑んで、あっぷあっぷ泡をふいた。「やい、やい!」――と、それを見てエルモライがおどかすようにどなりつけると、小枝《スチョーク》はもがいたり、あがいたり、跳びはねたりして、どうやらもっと浅いところへ出るのであったが、せっぱ詰まったときでさえ、私のフロックコートの裾につかまろうとはしなかった。へとへとになり、泥だらけになり、ずぶぬれになって、私たちはやっと岸にたどり着いた。
二時間ほどして、私たちはみな、できるだけ着物を乾かして、大きな乾草小屋に陣取り、夕餉《ゆうげ》の支度を待っていた。馭者のイェグジイールは並はずれてのろまで、尻が重く、用心深い、寝ぼけ面《づら》の男だが、門口に立って一生懸命|小枝《スチョーク》に嗅ぎタバコをふるまっていた(私はロシアの馭者同士がたちまち仲良しになるのを知っている)。小枝《スチョーク》はもの狂おしく、嘔気《はきけ》を催すほどタバコを嗅いでいた。唾を吐いたり、咳《せ》きこんだりして、どうやら大満悦の態《てい》であった。ウラジーミルはものうげな様子で、首を横にかしげたまま、あまり口をきかなかった。エルモライは鉄砲の手入れをしていた。犬どもはオートミールを待ちかねて、大げさなほど盛んに尾を振っている。馬は軒下で蹄を鳴らしたり、いなないたりしている……日は沈もうとしている。最後の光線が茜色《あかねいろ》の縞模様となって四散するところだ。金色の雲が空に拡がっていよいよ細かくなっていく。さながら洗い浄《きよ》められ、梳《す》き上げられた羊の毛のようである……村中《むらなか》で歌声が聞える。
[#改ページ]
ベージンの野
それは天気がながくつづいたときでなければ見られないような、七月のよく晴れた日のことだった。朝早くから空は晴れわたっている。朝焼けも火事のようにパッと燃え立たず、柔らかな紅《くれない》を漲《みなぎ》らせているだけ。太陽は(それは炎熱の旱天《ひでり》のころのように、火の塊のようでもなければ、赤熱しているのでもなく、また嵐の前のように冴えない茜色《あかねいろ》でもなくて、明るく、愛想よく光を放っている)細長い雲の下からいそいそと浮びあがって、さわやかに輝き、やがて薄紫色の靄《もや》の中に没してしまう。長く延びた雲の薄い上端が小蛇のように輝きはじめる。その輝きは鍛《きた》え上げた銀の輝きにも似ている……けれど、またもやゆらめく光がさっとほとばしり出る、――力強い日輪が、さながら舞い上がるかのように、ぐんぐんと昇るさまは、楽しくもあれば、おごそかでもある。正午ごろになるとたいてい、円い雲がいくつともなく高空にあらわれる。それは金色がかった灰色の雲で、雲の青空に接するところはおだやかな白色をおびている。かぎりなく氾濫《はんらん》した河の面《おもて》に、深く透明な、むらなく青い流れにかこまれて点在している島のように、雲はほとんど動こうとしない。ただ、遠く離れた地平線のあたりでは雲は動き、ひしめいていて、その間にはもう青空が見られない。だが雲そのものが空のようにるり色で、光と熱を一ぱいにふくんでいる。ほのかな、薄紫の地平線の色は終日変ることなく、あたりも一様である。どこも黒ずんでもいなければ、夕立のけしきもない。ただどこかしらに、青みがかった縞《しま》が上から垂れ下っているばかりである。それは見えるか見えないほどのこまかな雨が篩《ふる》い落されているのだ。夕方近くなるとこの雲も消える。黒みがかった、煙のようにおぼつかない残りの雲が、入り日に向ってバラ色の玉のように浮んでいる。昇るときと同じように静かに日の沈んだところには、緋色《ひいろ》の夕映えが、たそがれそめた地上にただよったのち、夕べの星が、用心深く運ばれる蝋燭の火のように、静かにまたたきながら、空にともる。こういう日はどの色もやわらかい。明るいけれども、あざやかではない。あらゆるものの上に、何かしら人の心を動かすなごやかなもののしるしが横たわっている。こういう日はともすれば暑さがきびしく、時折、野原の斜面が『いきれる』ことさえある。しかし、やがて風が起って欝積《うっせき》した炎熱を追い散らし、吹き払うと、埃《ほこり》の渦巻が――それはお天気がつづく間違いのない徴候だ――白い柱となって高く舞い上がり、街道を伝い、畑を越えて行き過ぎる。乾ききった、澄んだ空気中には、ニガヨモギや、刈り取られた裸麦や、蕎麦《そば》の匂いがただよっている。夜になる一時間前でさえ、湿気は感じられない。こういう日和《ひより》を農夫は、穀物の取り入れの日に望むのである……
ちょうどこんな日に、私はトゥーラ県のチュルン郡ヘエゾヤマドリを討ちに行ったことがある。私はかなりたくさんの獲物を見つけて射とめた。一ぱいになった獲物袋は容赦なく肩に食いこんだ。けれども、もう夕映えの色もあせかけて、入り日の光こそ射していないがまだ明るい大気中には、ひえびえとした影がしだいに濃さをまし拡がりだしていたので、私もやっと家へ帰ることにした。長々とつづく灌木《かんぼく》の『広場』を足早に通り過ぎて、私は丘に登った。右手にカシワの木立があって、遠くに低い白壁づくりの教会のある、いつも見なれた平地が見えることと思っていたのに、意外にもまるっきり別の、見覚えのない場所が眼の前にあらわれた。足もとには狭い谷が連なっていて、真向うにはヤマナラシの密林がけわしい壁のように聳《そび》えている。私は腑《ふ》に落ちないままに立ちどまって、あたりを見まわした……『おや!』と私は考えた。『すっかり道を間違えたぞ。右へ右へと寄り過ぎたのだ。』そして自分で自分のうかつさにあきれながら、大急ぎで丘をおりた。するとたちまち、不愉快な、澱《よど》んだ湿気に包まれた。まるで穴倉の中にでも入ったようである。谷底に生い繁った丈の高い草は、すっかりぬれていて、一面に布でも拡げたように白く見える。その中を歩くのはなんとなく気味が悪い。私は急いで向う岸へ這《は》い上ると、道を左にとって、ヤマナラシの林に沿って歩きだした。早くもコウモリが眠りについた梢《こずえ》の上を飛びまわっている。薄暗い空にあやしげな輪を描いて、身体をばたばた震わせながら。帰り遅れた一羽のタカが、塒《ねぐら》をさして急ぎながら、勢いよくまっしぐらに空の高みを飛んで行った。『あの林のはずれに出たら、』と私は心の中で考えた。『すぐにも道があるだろう。それにしても一露里ほどもまわり道をしてしまった!』
やっと林のはずれまでたどりついたが、道らしいものは一向にない。何か刈り残しらしい低い灌木が眼の前に広々と拡がり、その先は荒涼とした野原がはるか遠くまで見渡される。私はまたもや立ちどまった。『どうしたというんだろう?……ここは一体どこだろう?』この日一日、どこをどう歩いたか、私は記憶の糸をたぐりはじめた……『やっ! ここはパラーヒンの藪《やぶ》だな!』私はついにこう叫んだ。『てっきりそうだ! あそこに見えているのがシンジェーエフの森に相違ない……だがなんだってこんな所へ来てしまったんだろう? こんな遠くへ?……おかしい! さあ、今度はまた右へ取らなくちゃならない。』
私は灌木の中を右に歩きだした。そのうちに夜が夕立雲のように迫って来て、しだいに濃くひろがっていった。闇は夕べの水気《すいき》とともに、いたるところから立ちのぼるばかりか、高いところからさえ降りそそぐように思われた。そのうち、踏み均《な》らされていない、草ぼうぼうの小径《こみち》に出た。私は用心深く前方を見透かしながら、この小径をたよりに歩きだした。あたりのものは何もかも、見る見るうちに黒いとばりに包まれ、静まりかえっていく。ただ時折ウズラの鳴く声が聞えるばかりである。小さな夜の鳥が、柔らかな翼をひろげて、音もなく、低く飛んできたが、あぶなく私に衝突しそうになったので、おびえたようにわきへそれて姿を消した。私は藪の縁《へり》に出て、畦道《あぜみち》づたいに畑の中をとぼとぼと歩きだした。もう遠くのものを見分けるのには骨が折れる。まわりの畑がほの白く見える。その向うには刻々、大きな丸い塊《かたまり》となってのしかかりながら、陰欝《いんうつ》な闇がふくらんでいく。冷えてゆく空気の中に、足音がうつろに聞える。ほの暗くなった空が再び青くなりはじめた。しかし、それはもう夜の青さであった。空に星が閃《またた》きはじめ、揺れ動きはじめた。
私が森と思ったのは暗い、円い丘であった。『一体、ここはどこなんだろう?』と私はまた声に出して同じことを繰返し、三たび足をとめて、相談でも持ちかけるように、イギリス種の赤ぶちの猟犬ディアンカを見やった。これはあらゆる四つ足の中でも間違いなく最も利口なやつである。けれども四つ足の中で最も利口なこの犬も、ただ申しわけに尻尾を振り、疲れた眼をもの憂《う》げにしばたたくだけで、適切な助言を何も与えてくれなかった。私はディアンカに対してきまりが悪くなったので、やけ半分にずんずん先へ歩きだした。まるで急に自分の行くべき道がわかったかのように。丘のすそをまわると、まわりがすっかり耕地になっている浅い窪地《くぼち》に出た。私はとっさに妙な気持におそわれた。この窪地はお釜そっくりの形をしていて、側面は傾斜になっている。底には大きな白い石が幾つか突っ立っている。――まるで秘密の相談をするために、ここまで這いおりたかのようである、――で、窪地の中がそれほどひっそりと静まりかえり、その上には空があまりにも平べったく、あまりにもわびしげに垂れ下っているので、私の心は縮み上る思いであった。何やら小さな獣《けだもの》が石と石の間で弱々しく、哀れっぽく鳴き声を立てた。私は急いで丘の上に引き返した。それまではまだ、帰り道を探しあてる望みを失っていなかったが、今は全く道に迷ったものと観念した。そして、もうほとんど靄《もや》の中に没し去ったあたりの地形を見きわめようという気もなく、星をたよりに、当てずっぽうに、ずんずん歩きだした……やっと足を引きずりながら、私は三十分ばかりこうして歩きつづけた。生れてこの方《かた》、こんな荒涼としたところへは一度も来たことがないように思われた。どこを見ても灯火一つちらつかず、物音一つ聞えなかった。なだらかな丘が次々と入れかわり、野ははてしなく野に連なり、藪《やぶ》は突然地べたからわきだしたかのように、私の鼻先にとび出してくるのだった。私はなおも歩きつづけたすえ、もうどこかで朝まで野宿しようという気になりかけたとき、ふと気がつけばいつのまにか恐ろしい淵《ふち》の上に来ていた。
私は踏み出した足をすかさず後にひいた。かすかに透けて見える夜の闇を通して、はるか足もとに広い平野が見える。広い川が私の足もとから半円形をなして平野をめぐって流れている。鋼鉄《はがね》色の水の反射が、時折にぶく光るので、川筋がそれと知れる。私の立っている丘は、急にほとんど垂直な断崖となって切り立っており、その巨大な輪郭が、蒼《あお》みがかった虚空《こくう》を背景に、くっきりと黒く浮きだしている。まっすぐ下を見おろすと、懸崖の真下、断崖と平野とが交叉《こうさ》している一隅《いちぐう》の、このあたりでは動かない暗い鏡のようにじっと澱《よど》んでいる川のほとりに、火が二つならんで、赤い焔をあげて燃えたり、煙《けむ》ったりしている。そのまわりを人びとがうごめいており、影がゆれている。時折小さな捲き毛の頭の前面がぱっと明るく照らし出される……
私はやっと、自分の迷いこんだところがわかった。この野は私たちの地方でベージンの野と呼ばれて、有名なところである……しかし、ことに夜分でもあり、家に帰れる見込みはとうていなかった。足は疲労のためともすればすくみがちである。私は焚火《たきび》をしているところに近づいて、家畜商人と思われる人たちの仲間に入れてもらい、夜明けを待つことに決心した。私は無事に下へ降りたが、つかんでいた最後の小枝をまだ放しきらないうちに、やにわに二匹の大きな白い尨犬《むくいぬ》がとびだし、敵意ある吠え声をあげて私に飛びかかった。子供の甲高《かんだか》い声が火のまわりで響いた。二三人の少年が地べたから立ち上った。誰だ、と叫ぶ子供らの声に私は応《こた》えた。子供らは私の傍へ駈けよって、すぐに犬を呼び戻した。犬はわがディアンカの出現にことさらびっくりしたのである。私は子供らの方に近づいた。
火のまわりに坐っている人たちを馬飼いと見たのは、私の間違いであった。これはなんのことはない、近隣の村の百姓の子供らで、馬の群れの番をしているのだった。この地方では夏の暑いころになると、夜分馬を追い出して、野原で草を食べさせる。昼間はハエやアブがうるさいからである。馬の群れを夕刻前に追い出して、翌朝夜明けに追いかえす、――これが百姓の子供らにとっては非常な楽しみなのである。帽子をかぶらずに、古ぼけた半外套を着て、ひどく威勢《いせい》のいいやくざ馬に跨《また》がり、楽しそうな鬨《とき》の声や、叫び声を上げたり、手や足を振りながら疾駆《しっく》しては、高く跳び上ったり、声高く笑ったりする。軽い埃が黄色い柱のように舞い上って街道にただよう。そろった蹄《ひづめ》の音が遠くの方まで響きわたり、馬は耳をぴんと立てて駈けて行く。先頭を栗毛の尨毛《むくげ》とでもいったような馬が、尾を高々とふり上げ、絶えず歩調を変えながら駈けて行く。振り乱したたてがみにゴボウの実をつけて。
私は道に迷ったことを子供らに話して、傍に腰をおろした。子供らは私にどこから来たのかとたずね、しばらく口をつぐんで、わきへ寄ってくれた。私たちは少しばかり話をした。私はぐるりを馬にかじられた灌木の下に横になって、あたりを見まわしはじめた。それは実にすばらしい光景であった。焚火のまわりを円い赤みがかった光の反射がふるえては、闇にさまたげられて消えてゆくかのようである。焔《ほのお》は、ぱっと燃えあがるきわに、時折光の環《わ》の外までも急速な反射を投げかける。光のかぼそい舌は葉のない柳の小枝を一舐《ひとなめ》めして、すぐに消え失せてしまう。とっさに尖《とが》った、長い影が割りこんできて、今度は自分の方から火のまぎわまでおしよせる。闇が光とたたかっているのだ。時として、焔の勢いが弱くなり、光の環が狭《せば》められると、襲いかかってくる闇の中から、だしぬけに馬の首がぬっとつきだされる。鼻面《はなづら》の白い栗毛や、まっ白い首の馬が、すばやく長い草を噛みながら、まじまじと、またぼんやりと私たちを眺めるかと思うと、再び首を下げて、すぐに見えなくなる。あとにはただ相変らず草を噛む音と鼻を鳴らす音が聞えるだけである。焚火に照らされているところからは、闇の中でしていることが、見分けがつきにくい。だからすぐ傍のものまで、何もかもが黒い帳《とばり》につつまれているかに見える。けれども、はるかに遠く地平線のあたりには、丘や森が長く連なってぼんやりと見えている。暗いながらも澄みわたった空は、神秘的な壮麗さをたたえながら、私たちの頭上に、厳《おごそ》かに、無限に高くかかっている。この一種特別な、悩ましいまでにさわやかな香り――ロシアの夏の夜の香りを吸いこむと、胸がこころよく緊《し》めつけられるような気がする。あたりは物音一つ聞えない……ただ時たま、近くの川で大きな魚が不意に飛び跳ねて水音を立てるのと、岸辺の葦が寄せ来る波にかすかに揺れて、そよそよとそよぐばかりである……焚火だけが静かにパチパチと爆《は》ぜている。
少年たちは火のまわりに坐っていた。そこにはさっき私に噛みつこうとした二匹の犬も坐っていた。犬はなおも永い間、私が傍にいるのに我慢できず、眠そうに眼を細くし、横目で焚火を見ながらも、いかにも自分の威厳を示すかのように、時折うなり声を立てた。最初はうなるだけであったが、後になると、自分の思い通りにならないのを悲しむかのように、かすかな泣き声を立てるようになった。少年はみんなで五人だった。つまりフェージャ、パヴルーシャ、イリューシャ、コースチャ、ワーニャであった(私は話を聞いているうちに彼らの名前を知ったのであり、これからこの少年たちを読者諸君に御紹介しようと思う)。
まず五人の中で一番年上のフェージャは、十四ぐらいかと思われる。背恰好のすらりとした少年で、きれいな、きゃしゃな、少し小づくりの顔立ちで、捲き毛の薄亜麻色の髪をしており、眼は晴れやかで、いつも半ば楽しそうな、半ば呑気《のんき》な微笑を浮べている。様子を見るに裕福な家庭の子らしく、この野原へも、暮し向きの必要からでなく、慰み半分で来ているものらしい。黄色い縁を取った派手なラシャのシャツを着ている。軽く羽織った、新しい小さな百姓外套が、細い肩に、今にもずり落ちそうに載っかっている。浅黄色の帯には小さな櫛《くし》がぶら下っている。胴の浅い長靴は確かに自分のもので、親父のお古ではなかった。次のパヴルーシャという少年は、もつれた黒い髪の毛に、灰色の眼をし、頬骨が広く、顔は蒼白くて、痘痕面《あばたづら》だし、口は大きいが締まりがあって、頭は俗に言うビール釜のように大きく、体はずんぐりとして不恰好である。この少年はどう見ても器量よしとは言えなかったが、――言わずもがな!――それでも私はこの子が気に入ってしまった。まことに利口そうに、悪びれることなく人の顔を見つめ、その声音《こわね》には力がこもっていたからである。着ているものは人前で自慢できるようなものじゃなかった。身につけているものとては、粗末な麻のシャツとつぎはぎだらけの股引《ももひき》だけである。三番目のイリューシャの顔は、はなはだふるわなかった。鉤鼻《かぎばな》で、間のびがしていて、弱視で、つまりその顔はどことなく愚鈍な、病的な懸念《けねん》といったものを現わしていた。固く結んだ唇は動かず、寄せた眉は離れない――まるでいつも焚火がまぶしいので顔をしかめているようだ。黄色といってもほとんど白に近い髪の毛が、低いフェルト帽の下からピンとはみ出している。この帽子をイリューシャはしょっちゅう、両手で耳の上までひっぱり下ろしていた。彼は新しい草鞋《わらじ》と脚絆《きゃはん》をはいていた。胴のまわりを三重に巻いている太い縄が、こざっぱりした黒の長シャツをきっちり締めつけている。この子もパヴルーシャも、見たところ十二を越してはいない。四番目のコースチャは十歳《とお》ぐらいだが、もの思わしげな、悲しそうな眼つきが私の好奇心をそそった。顔全体が大きくなく、やせていて、雀斑《そばかす》だらけで、リスのように顎《あご》がとがっている。唇はやっと見分けがつくくらいだ。けれども彼の大きな、黒い、みずみずしい光をたたえて輝く眼は、不思議な印象を与える。その眼は、言葉では――少なくとも彼の言葉では――言い現わせない、何事かを語りたがっているように思われた。彼は背が低く、弱そうな体格で、身なりもかなりみすぼらしかった。最後のワーニャには、初め気がつかなかった。この子はごわごわした蓆《むしろ》をひっかぶっておとなしく身体を丸め、地べたに寝ころんでいて、ただ時たま蓆の下から亜麻色の捲き毛をのぞかせるだけだった。この子はせいぜい七つぐらいであった。
こうして私はわきの灌木の下に横になって、子供たちの様子を眺めていた。一方の焚火には小さな鍋《なべ》がかけてある。中では『じゃがいも』が煮えている。パヴルーシャが番をしていて、膝をつきながら、煮え立ちだした湯の中に木切《きぎれ》を突っこんでいる。フェージャは片肱をつき、自分の外套の裾を拡げて寝そべっている。イリューシャはコースチャと並んで坐り、相変らず一生懸命に眼を細めている。コースチャは少しうなだれて、どこか遠くの方を見ている。ワーニャは蓆の下で身動きもしない。私は眠ったふりをした。子供たちはまたぼつりぼつり話を始めた。
初めのうちはあれやこれや、明日の仕事のことや、馬のことなどをとりとめもなく話していたが、急にフェージャがイリューシャに向って、中断された話のよりを戻すかのように、こうたずねた。
「すると、何かい、お前はほんとに家魔《ドモヴォイ》を見たことがあるのかい?」
「ううん、見たことはないよ、家魔は見えないんだもの」とイリューシャが、しゃがれた、弱々しい声で答えたが、その響きは彼の顔の表情にこの上なくふさわしかった。「声を聞いたんだよ……それもおれ一人じゃないんだ」
「どこに出るんだい?」とパヴルーシャがきいた。
「古い方の紙漉場《かみすきば》だよ」
「おめえたち、工場さ行ってるの?」
「行ってるとも。アヴジューシカ兄《あん》ちゃんと艶出《つやだ》しをやってるんだ」
「へえ、おめえは職人をやってるのかい!……」
「それで、どうやって家魔の声を聞いたんだい?」とフェージャがきいた。
「つまりこうさ。おれとアヴジューシカ兄《あん》ちゃんと、それからフョードル・ミヘーエフスキイと、それからイワーシカ・コソイと、|赤い丘《クラースヌイ・ホルムイ》から来たも一人のイワーシカと、それからイワーシカ・スホルーコフと、それからまだほかにも仲間がいたっけ。みんなで十人ぐらいだった――ちょうどみんな出番だったもんで。ところが紙漉場に泊ることになったんだ。つまりその、本当の泊りというんじゃないけど、監督のナザーロフが足止めをくわしたのさ。『わざわざ家へ帰るには及ばない。明日は仕事がうんとあるんだから、家へ帰らないでくれ』って。それでおれたちは居残って、みんなで一しょにごろ寝をしていると、アヴジューシカがこう言いだした、おいみんな、家魔が出たらどうする?……アヴジューシカがしまいまで言いきらないうちに、急に誰だかおれたちの頭の上を歩きだした。おれたちが下で寝ているのに、そいつは上の水車のあたりを歩き出した。聞いていると、歩くたんびに踏み板がしなって、ミシリ、ミシリと音がする。それからおれたちの頭の上を通りすぎた。と急に水がザアザアと水車に落ちこむ音がして、水車がギイコットン、ギイコットンと音を立ててまわり出した。樋《とい》の口ははずしてあったのにさ。誰がそれを持ち上げたのか、どうして水が流れだしたのか、おれたちは不思議に思った。でも水車はしばらくまわったら、止まって動かなくなった。やがて足音はまた上の戸口の方へ歩き出し、それから梯子段《はしごだん》をつたっておりて来る、急がずにゆっくりゆっくりおりて来る。足の重みで梯子段がうめくようにミシリ、ミシリという……そのうちにおれたちの部屋の戸口に近づいて、しばらくじっと様子をうかがっているようだったが――いきなりさっと戸が開け放された。おれたちは、肝《きも》をつぶしたけれど、見ても――何もいない……ところが、ひょいと見ると、桶《おけ》の傍の濾《こ》し網《あみ》がのこのこ動きだして、ひょいと持ち上った。それが水に一度|浸《つか》ったかと思うと、まるで誰かが揺《ゆす》ってるみたいに、空中をこうやって行ったり来たりして、それからまた元の場所に納まった。すると今度は別の桶の鉤《かぎ》が一たん釘からはずれて、また元の釘にかかった。それから誰かが戸口の方へ行ったようだと思ったら、だしぬけに咳をしはじめた、羊かなんかみたいに、大きな声でゴホン、ゴホンと……おれたちはみんな一かたまりになってどっと倒れると、われがちに他人《ひと》の下にもぐりこもうとした……あのときはほんとにおったまげたなあ!」
「へえ、そうかい!」とパヴルーシャが言った。「なんだってそんなに咳こんだんだろう?」
「知らないよ。湿っぽいからじゃないかな」
みんながしばらく黙った。
「どうした、じゃがいもは煮えたかい?」とフェージャがきいた。
「いや、まだ生だよ……ほら、跳ねたぞ」と川の方へ顔を向けて、彼は附け足した。「きっとカマスだ……あ、流れ星だ」
「おい、みんな、今度はおれが話すよ」とコースチャが甲高《かんだか》い声で言い出した。「いいかい、ついこの間父ちゃんに聞いた話さ」
「よし、聞こう」とフェージャが兄貴顔で言った。
「ガヴリーラを知ってるだろうな、村の大工のよ?」
「うん、知ってるとも」
「あの男がどうして、いつも陰気な顔をして、いつも黙りこくっているか、そのわけを知ってるかい? あいつが陰気なのはこういうわけなんだ。父ちゃんが話してくれたけれど、あるとき森ヘクルミを拾いに行ったんだとさ。クルミを拾いに行ったところが道に迷っちゃったんだって。どこだかわからないところに迷いこんでしまったんだ。一生懸命にあちこち歩きまわったけれども――駄目なんだ! どうしても道が見つからない。そのうちに外はもう夜になった。そこで仕方がないから、樹の下に腰をおろして、夜の明けるのを待とうと思った。――で、腰をおろしているうちに、居眠りを始めた。うとうとしかけたと思ったら、急に誰だか自分のことを呼ぶ声がする。眼を開けて見ても、誰もいない。またうとうとしかけると、また呼ぶ声が聞える。もう一度よくよく見ると、前の樹の枝に|水の精《ルサールカ》が腰かけていて、身体をゆすぶりながら、ガヴリーラにおいで、おいでをしている。で、自分じゃさんざ笑って、お腹をかかえて笑いこけている……お月さまがまっ昼間のように、とても明るく照らしているので、何から何までよく見える。で、水の精はさっきからしきりにガヴリーラを呼んでいる。見れば、身体中が透き通るように白くて、枝に腰かけているところは、ちょうどコイか、ペスカーリ(コイの一種)みたい、でなけりゃ、ほら、フナみたいに白っぽくて、銀色なんだ……大工のガヴリーラはひとりでにぼおっとなってしまったのに、水の精は平気で大声を立てて笑っては、おいでおいでをしている。ガヴリーラはすんでのことに起ち上って、水の精の言いなりになろうとしたが、神様が教えて下すったんだな、思わず胸に十字を切ったんだって……その十字を切るのにとっても骨が折れたんだと。手が石のように重くって、思うように動かないんだ……恐ろしいこんでねえだか!……そんで、やっとこさ十字を切ったら、水の精は笑うのをやめて、急に泣きだしたって……泣きながら、髪の毛で眼を拭くんだけれど、その髪の毛が大麻《たいま》のように青いんだとよ。ガヴリーラがつくづくこのありさまを眺めて、水の精にきいてみた。『おい、森の魔物、なんだって泣くんだ?』すると水の精がな、こう答えたそうだ。『お前が十字を切らなかったら、私と一しょに生涯楽しく暮せたのに。私が泣いてるのは、嘆いているのは、お前が十字を切ったからだよ。けれど、私一人が嘆くようなことはしないさ。お前も生涯嘆くようにしてやるから』こう言うとすうっと姿が消えてしまったと。するとたちまちガヴリーラはわかったそうだ、そのどうしたら森の中から出られるかが……それからだよ、いつもああやって、陰気な顔をして歩いてるのは」
「へえっ!」としばらく黙っていたあとでフェージャが言った。「しかし、どうしてそんな森の悪魔がキリスト教徒の魂を台なしにすることができるのかな、だってガヴリーラはそいつの言いなりにならなかったんだろう?」
「それなんだよ、不思議なのは!」とコースチャが言った。「なんでもガヴリーラの話じゃ、水の精の声はガマみたいに甲高くて、哀れっぽい声だったとさ」
「お前のお父っつぁんが自分で話して聞かせたのかい?」とフェージャが言葉をつづけた。
「そうよ。おれ、天井床《ポラーチ》に寝てて、すっかり聞いたんだもん」
「奇態な話だなあ! それにしてもガヴリーラが、くよくよすることはないだろうに……してみると、水の精は、ガヴリーラが気に入ったんで、それで呼んだんだな」
「うん、気に入ったんだよ!」とイリューシャが相槌をうった。「そうだとも! 水の精はガヴリーラをくすぐってやろうと思ったのさ、きっとそうだ。それがあいつらの、水の精のお得意なんだから」
「けんど、ここいらにも、きっと水の精がいるよ」とフェージャが言った。
「いや」とコースチャが答えた。「ここはきれいで、明けっ放しな所だもの。ただ近くに川があるけど」
みんな話しをやめた。と突然、どこか遠くの方で、うめくような物音が、長く尾をひいて、キンキンと響きわたった。それは時折深い静寂の中から起って、上へ上へと昇って行き、しばらく空中にただよったのち、ゆっくりと拡がりながらついには消えていく、あの不可思議な夜の物音の一つである。耳をすませると、別に何も聞えないようだけれど、そのくせ何かが鳴っている。誰かが地平線の真下で長い長い叫び声をあげると、もう一人誰か他の者が森の中から甲高い、鋭い笑い声で応《こた》え、弱々しい、シュウという風音が川の面を走ってゆくように思われた。少年たちは顔を見合せて、身ぶるいした……
「桑原《くわばら》桑原!」とイリューシャが小声で言った。
「おい、みんな臆病だな!」とパヴルーシャが叫んだ。「なにをびくびくしてるんだ? 見ろ、じゃがいもが煮えたぞ」(一同は鍋の傍に近寄って、湯気の立つ馬鈴薯を食べ始めたが、ワーニャだけは身動きもしなかった)「どうしたんだ、ワーニャ?」とパヴルーシャが声をかけた。
けれどもワーニャは蓆《むしろ》の下から這い出して来なかった。鍋はたちまち空っぽになった。
「おい、みんな、聞いたかい」とイリューシャが言い出した。「この間おら方のワルナーヴィツイであったことを?」
「あの土手《どて》の上でかい?」とフェージャがきいた。
「うん、うん、土手の上で、切れた土手の上であったことよ。そりゃもうあそこは気味の悪い場所でさ、とっても気味の悪い、とってもさびしいとこなんだ。まわりは一面に窪地や谷ばかりで、谷の中にはいつだって蛇がいる」
「そんで、何があったんだい? 聞かせろよ……」
「こんなことがあったんだ。フェージャ、お前《めえ》は知らないだろうが、おら方のあすこには土左衛門《どざえもん》が埋めてあるんだぞ。ずっと昔、池がまだ深かった時分に身投げしたんだ。今は墓があるだけで、それもやっとわかるくらいだ。こんな土饅頭があって……それで、つい四五日前にお屋敷の番頭が猟犬番《いぬばん》のエルミールを呼んで、『エルミール、駅へ行って来い』って言ったんだ。エルミールはいつも駅へ行くのが仕事になっている。自分の預かっていた犬をみんな死なしちゃったもんだから。なぜだかエルミールの手にかかると犬が育たない、生きていたことがない。そのくせ当人は立派な猟犬番で、なんだってできるんだけど。それでエルミールが馬に乗って郵便を取りに行って、町でぐずぐずしていて、帰りにはもういい加減酔っていた。もう夜になっていたが、明るい晩で月が出ている……さて、エルミールは土手にさしかかった。何ぶん通り道なもんだから。エルミールが馬に乗ってやって来て、見れば、土左衛門の墓の上を、まっ白な、縮れっ毛の、可愛いい小羊がぶらぶら歩きまわっている。そこでエルミールが、『よしきた、つかまえてやろう、みすみす見逃すことはない』と思って、馬をおりて両手で抱き上げた……ところが羊のやつは平気だ。エルミールが小羊を抱いて馬のそばに来ると、馬は眼をむき、鼻を鳴らして、しきりに首を振る。それでも、どうどうと言って馬をなだめ、小羊を抱いて馬に乗り、先へ進んだ。小羊を胸に抱いてよ。エルミールが小羊を見ると、小羊もじっとまともにエルミールの顔を見つめる。猟犬番のエルミールは薄気味悪くなった。羊がこんなにしげしげと人の顔を見るなんて、聞いたこともない話だ、と思ったが、といって別に変ったこともない。で、羊の毛をこんなふうになでて、『|羊や《ビャーシャ》、|羊や《ビャーシャ》!』と言ったら、羊のやつもいきなり歯をむきだして、『|羊や《ビャーシャ》、|羊や《ビャーシャ》』と言ったそうだ……」
話し手が最後の言葉を言いきらないうちに、突然二匹の犬が一せいに跳び起き、けたたましい声で吠え立てながら、火の傍から駈け出して、たちまち闇の中に姿を消した。少年たちはみなぎょっとした。ワーニャは蓆の下から跳び出した。パヴルーシャは大声をあげながら犬の後から飛んで行った。犬の吠え声がたちまち遠ざかって行く……おびえた馬の群れが右往左往するあわただしい蹄《ひづめ》の音が聞える。パヴルーシャが大声で『白《セールイ》!』『黒《ジューチカ》!』と叫んでいる……やがて犬の吠え声は静まった。パヴルーシャの声が遠くから聞えてくる……またしばらく経《た》った。子供たちはけげんそうに顔を見合せる。何かが起るのを予期しているかのように……不意に、馬を飛ばして来る蹄の音がする。馬が焚火のすぐ傍にぴたりととまった。バヴルーシャはたて髪をしっかりにぎると、ひらりと馬から飛びおりた。二匹の犬も光の輪の中に跳びこんで、赤い舌を出しながら、すぐそこに坐った。
「何がいたの? どうしたの?」と子供たちがきく。
「なんでもないよ」と手で馬を追いのけて、パヴルーシャが答えた。「犬が何か嗅ぎつけたらしいんだよ。おれ、狼かと思った」はあはあとせわしく胸全体で息をしながら、平気な声でこう附け加えた。
私は思わずパヴルーシャに見とれた。この瞬間の彼は本当に美しかった。馬を走らせたためにいきいきとなった不器量な顔は、剛胆《ごうたん》と固い決意に燃えていた。棒きれ一つ持たず、夜中に、少しもためらうことなく、たった一人で狼を目ざして馬を飛ばしたのだ……『なんというすばらしい子だろう!』と私は彼を眺めながら考えた。
「お前《めえ》たちは、何かい、狼を見たことがあるのかい?」と臆病者のコースチャがたずねた。
「ここらにゃいつだってたくさんいるよ」とパヴルーシャが答えた。「でも暴れるのは冬だけさ」
彼はまた焚火の前にしゃがんだ。地べたに坐るときに、一匹の犬の尨毛《むくげ》の頸筋に手をのせた。犬はうれしそうにいつまでも首を動かさずに、感謝と得意の表情を浮べて、横目でパヴルーシャを見ていた。
ワーニャはまた蓆の下にもぐりこんだ。
「イリューシャ、さっきの話はこわかったなあ」とフェージャが話し出した。裕福な百姓の息子なので、自然、音頭を取ることになる(もっとも自分はあまり口数をきかない、まるで自分の品格を落すのを恐れるかのように)。「それに、さっき犬が吠え出したのも悪魔の仕業《しわざ》だよ……お前《めえ》たちのあそこが気味の悪いところだってのは、おれも確かに聞いたことがある」
「ワァルナーヴィツイかい? そうだともよ! とっても気味の悪いところだ! あすこじゃ、何度も、大旦那様を、――死んだ旦那様を見た人があるって話だ。裾の長い長上衣《カフタン》を着てあっちこっち歩きまわって、のべつこうやってうんうんいって、地べたの上をなんだか探してるって。トロフィームイチ爺さんも一度出会ったことがあるそうだ。そのとき、『旦那様、イワン・イワーヌイチ様、そんなに地べたをご覧になって、何を探していらっしゃるんで?』ときいたそうだ」
「爺さんがきいたのかい?」とフェージャがびっくりして口をはさんだ。
「うん、きいたんだ」
「ほう、それがほんとなら、トロフィームイチ爺さんも偉いもんだ……そしたら旦那はなんだって?」
「錠切《じょうき》り草〔錠前や閂《かんぬき》を断ち切る力のある、おとぎ噺《ばなし》に出てくる草の名〕を探している、と言ったそうだ。しかも空《うつろ》な声でこんなふうに、錠切り草、って。でも旦那様、錠切り草なんかなんになさるんで、とたずねると、墓石が重いんでな、トロフィームイチ。わしは外へ脱け出したいんじゃ、と言ったそうだ……」
「こりゃおったまげた!」とフェージャが言った。「つまり、この世に未練があったんだな」
「そいつは不思議だなあ!」とコースチャが言った。「おれはまた先祖の日じゃないと、死人は見られないもんだと思っていたけれど」
「死人なんていつだって見られるさ」とイリューシャが自信たっぷり話を引き取った。彼は私の見たかぎりでは、誰よりも村の迷信に通じていた……「でも、先祖の日だと、生きてる人でも、その年に死ぬ番に当っているものはちゃんとわかるんだ。それには夜、教会の入口に立って、じっと街道を見てりゃいいのさ。するとその年に死ぬものが教会のわきの街道を通るそうだ。去年はおれたちの村のウリヤーナ婆さんが、教会の入口へ見に行ったぜ」
「で、誰かを見たのかい?」とコースチャが好奇心にかられてきいた。
「見たとも。初めのうちはずいぶん永いことじっと坐って待ってたけれど、誰一人姿も見えなければ、足音も聞えない……ただ犬がしきりに吠えているような気がする、どこやらで吠えている……そのうちに、ひょいと見ると、シャツ一枚の男の子が街道を歩いてくる。よくよく見ると、イワーシカ・フェドセーエフがやって来るんだ……」
「この春死んだ、あの子かい?」とフェージャがさえぎる。
「あの子だ。頭も上げずにとぼとぼと歩いて来る……それでもウリヤーナ婆さんにはあの子だってことがわかった……ところがまた見ていると、今度は婆さんがやって来る。誰だろうと思って、つくづく見たら――驚いたのなんの!――自分が街道を歩いて来るんだよ、ウリヤーナ姿さんがよ」
「本当かい?」とフェージャがきいた。
「本当だとも」
「でも、変だな、あの婆さんはまだ生きてるじゃないか?」
「そりゃ、まだ一年たっていないもの。見ろよ、あの婆さんを。虫の息だぜ」
みんなはまたひっそりとなった。パヴルーシャが枯枝を一つかみ火の中にくべた。枯枝は急にパッと燃え上った焔の上にくっきりと黒く浮き出し、パチパチと音を立て、煙をあげ、火のついた端をやおら持ち上げながら、反《そ》り出した。光の反射は、はげしくふるえながら、四方八方へ、わけても上の方へ延びた。不意にどこからとも知れず一羽の白いハトが、この反射をめざしてまっしぐらに飛んでき、燃えさかる光を一ぱいに浴びながら、おびえてひとところをしばらくぐるぐるまわっていたが、やがて羽音とともに消え失せた。
「きっと家をはぐれたんだろう」とパヴルーシャが言った。「今度は何かにぶつかるまで飛んで行くんだろうよ、で、ぶつかったら、そこで夜明かしをするのさ」
「パヴルーシャ、ひょっとしたら、あれは正直な人間の魂が天へ昇って行ったんじゃないだろうか?」とコースチャがおずおずと言った。
パヴルーシャは枯枝をもう一つかみ火にくべる。
「そうかもしれない」とようやく彼が言う。
「ところで聞かしてもらいたいんだけどな、パヴルーシャ」とフェージャが言い出した。「お前《めえ》がたのシャラーモヴォ村でも、天のお知らせ〔日蝕のことをこの土地の百姓はこう呼んでいる〈原註〉〕が見えたかい?」
「お天道さまが見えなくなったのかい? そりゃ見えたとも」
「きっと、お前《めえ》らもたまげたろうな?」
「なに、おれたちだけなもんか。おれたちの旦那様だって、かねがね、今度お知らせがあるぞって、おれたちに話してくれていたくせに、暗くなりだしたら、自分がすっかり怖気《おじけ》づいてしまって、どうにも始末におえなかったという話だ。それから女中部屋では料理人の婆さんがな、暗くなり始めたら、お前《めえ》、さっそくありったけの壺を持ち出すと、かまどの中にぶちこみ、火箸で粉微塵にたたきこわしてしまったんだ。『世の終りがやって来たんだから、今さら物を食う人もいなかろう』って。それで、お汁がそこらじゅうに流れ出すさわぎさ。それからおれたちの村じゃ、お前、こんな噂があったっけ。白い狼が地上を駆けまわるようになって人間を取って食うだの、恐ろしい鳥が飛んで来るだの、やれ、トリーシカ〔「トリーシカ」俗信には反キリスト伝説の影響があるものと思われる〈原註〉〕が現われるだろうだのと」
「そのトリーシカってのはなんだい?」とコースチャがきいた。
「お前、知らねえのか?」とイリューシャが熱烈な口調で話を引き取った。「トリーシカを知らねえなんて、お前、どこの者《もん》だい? お前たちの村のもんは、世間知らずよ! トリーシカってのはな、いつかはこの世へやって来る恐ろしい人間なんだ。とても恐ろしい人間で、つかまえることも、どうすることもなんねえ。そういう恐ろしいやつなのさ。たとえば百姓たちがつかまえようとして、棍棒を持ってかかって行って、取り巻いても、百姓の眼をくらましてしまう――すっかり眼をくらましてしまうもんだから、百姓たちは同士打ちをやらかすことになる。また、例えば牢屋へぶちこんでみるとする――と、水が飲みたいから柄杓《ひしゃく》に入れて持って来てくれと言う。そこで柄杓を持って行ってやると、柄杓の中へもぐり込んで、姿をかき消してしまう。鎖で縛っても、ぽんと手をたたくと、鎖は即座に解けてしまう。まあ、ざっとこういったトリーシカが、町や村を歩きまわるのだ。このトリーシカは悪智慧の働くやつだから、キリスト教徒を迷わすだろうよ……それでも、どうすることもできねえのさ……本当に悪智慧のある恐ろしいやつだからな」
「まあ、そういうやつさ」とパヴルーシャが、持ち前のゆったりした声で話をつづける。「そいつが来るというんで、おれたちの村じゃ待ってたんだ。年寄りたちは、天のお知らせが始まるとすぐに、トリーシカがやって来るぞ、と言っていた。そのうちお知らせが始まった。村中の者はみんな、往来や、畑にどっと飛び出していって、どんなことになるかと待っていた。おれたちの村は、みんなも知っているように、見晴らしのきく、広々としたところだ。みんなが見ていると、急に大村の方から、変な男が坂道をおりて来る、とても恐ろしい頭をしたのがよ……みんなはいきなり、『おーい、トリーシカが来たぞ! おーい、トリーシカが来たぞ!』とわめいて、てんでに逃げ出したことよ! 百姓頭は溝《どぶ》の中へ這いこむ。百姓頭の≪おかか≫は門の下をくぐるとき扉にひっかかって動けなくなり、大声で叫んだもんだから、飼い犬がびっくりして鎖を切り、ませをとびこえて森の中へ逃げこんでしまった。それからクジカの親父のドロフェーイチは、燕麦《えんばく》畑の中へ駈けこんでうずくまり、ウズラの鳴きまねを始めたっけ。『いくら人殺しの悪党でも、小鳥ぐらいは見逃してくれべえ』と言って。こんなふうでみんなが大騒ぎだったよ!……ところがその男は、村の桶屋のワヴィーラだったのさ。新しい木壺を買って、空の壺を頭にかぶって来たのだったんだよ」
子供たちはみんなどっと笑い出したが、また一しきり黙りこんだ。これは人々が野天で話すときにはよくあることである。私はあたりを見まわした。夜はいかめしく王者のごとくあたりを領している。宵のうちの湿っぽい涼気は夜半の乾いた温かさに変った。この温かさは、深い眠りにおちている野原の上に、やわらかな帳《とばり》のように、なおしばしとどまっていることであろう。朝の最初のそよぎ、最初のささやきや、ひそめきが聞えるまでは、暁の最初の露がおりるまでは、大分|間《ま》があった。空に月は出ていなかった。そのころは月の出が晩《おそ》かったからである。数限りもない金色の星が、競ってきらきらとまたたきながら、絶えず銀河の方に流れてゆくような気がする。それを見ていると、まことに、猛烈な勢いで止《と》め度なく動いている地球の運行がほのかに感じられる……突然、川の上で奇妙な、けたたましい、痛々しい叫び声が、つづけて二度聞えたと思ったら、しばらくすると、今度はもっと遠くの方で繰返された……
コースチャは身ぶるいした。「なんだろう?」
「アオサギが鳴いてるんだよ」とパヴルーシャが落ち着いて答えた。
「アオサギか」とコースチャが繰返した……「じゃ、パヴルーシャ、昨日の晩おれが聞いたのはなんだろう」としばらく黙ってから、言いそえた。「お前なら、知ってるかもしれねえ……」
「何を聞いたんだ?」
「こうよ。おれは石山からシャーシキノ村へ行くところだった。初めの間はずっとおらの村のクルミ林を通って、それから草っぱらにさしかかった――ほら、あの谷の険しい曲り角で、春から水溜りになっているところよ。ほら、一面に葦が生えているだろう。それで、水溜りの傍へさしかかると、なあ、みんな、いきなりあの水溜りの中から、誰かのうめく声が聞えるんだ。とても哀れっぽく、情けなく、『うう……うう……うう!』ってうめくのだ。おらこわくって、ぞっとしたぞ、みんな。もう時間が遅いのに、あんな苦しそうな声でうめくんだもの。だもんで、自分でも泣き出したいくらいだった……あれは一体なんだろうな? え?」
「一昨年《おととし》、あの水溜りで追剥《おいは》ぎどもが、森番のアキームを溺れ死にさせたからよ」とパヴルーシャが言った。「それで、アキームの魂が泣いてるのかもしれない」
「ほんとにそうかもしれないな」と、それでなくても大きな眼を一そう大きく見開いて、コースチャが答えた……「おれはな、アキームがあの水溜りに沈められたなんて知らなかったよ。知ってたら、あんなにびっくりしなかったろうに」
「それとも、こんなちっちゃな蛙《かえる》がいるって話だから、それかもしれない」とパヴルーシャが言葉をつづけた。「なんでも、とても哀れっぽく鳴くそうだ」
「蛙だって? いや、そうじゃないよ、あれは蛙じゃない……なんであれが……(アオサギがまた川の上で鳴いた)ちぇっ、ちきしょう!」コースチャは思わず口走った。「まるで森の精が叫んでいるようだ」
「森の精は叫ばねえよ、唖《おし》だもん」とイリューシャが口をはさんだ。「手をたたいて、木の枝をパチパチ鳴らすだけだよ……」
「じゃ、お前《めえ》、森の精を見たことでもあるのかい?」と馬鹿にしたようにフェージャが遮《さえぎ》った。
「ううん、見たことはないよ。そんなの見るのはまっぴらだ。でも見たって人がいるもの。ついこの間も、おら方《ほう》の村の百姓がだまされたよ。森の中をさんざひっぱりまわされて、いつまでたっても同じ森の草っ原をぐるぐるまわっているんだそうだ……東の白むころやっと家へ帰れたんだと」
「それで、森の精を見たのかい?」
「見たとも。その百姓の話だと、おっそろしく大きい、黒いものが立っていたそうだ。なんだか樹のかげにいるらしくて、はっきりは見分けがつかない。お月さんに照らされないようにだろうよ。それで、大きな眼で、じろっ、じろっと見つめては、まばたきするんだって……」
「おい、やめてくれよ!」フェージャは軽く身ぶるいすると、肩をすくめて叫んだ。「ちぇっ!」
「でも、なんだってそんな汚《けが》らわしいものが、この世の中にはびこったんだろう?」とパヴルーシャが言う。「ほんとに!」
「悪口を言うなよ。聞えるといけないから」とイリューシャが注意した。
またもや沈黙が始まった。
「ごらんよ、ごらんよ、みんな」不意にワーニャの子供らしい声が響いた。「あのお星さまをごらんよ、ほら、蜜蜂がたかってるみたいだ!」
彼は蓆の下からあどけない顔をつき出して、小さな拳《こぶし》で頬杖をつき、大きな、おとなしそうな眼を静かに上に向けた。子供たちの眼は一せいに空にそそがれて、すぐには伏せられなかった。
「どうだい、ワーニャ、お前の姉《あね》えのアニュートカは元気かい?」とフェージャがやさしく声をかけた。
「元気だい」と少し舌たらずに、ワーニャが答えた。
「お前、姉《あね》えに言ってくれよ――どうしておれたちの方へ遊びに来ないんだって……」
「おら、どうしてだか知らね」
「遊びに来るように言ってくれ」
「ああ」
「いい物をやるから、ってな」
「おれにもくれる?」
「お前にもやるよ」
ワーニャはほっと溜息をついた。
「でも、おら、いらねえ。それよか姉えにやってくれ。姉えはとてもいい人なんだから」
ワーニャはまた頭を地べたにのせた。パヴルーシャが立ち上って、空の鍋を手にした。
「どこへ行くんだ?」フェージャがきいた。
「川へ水汲みに行って来る。水が飲みたくなったから」
二匹の犬も起き上って、あとをついて行く。
「川に落ちないように気をつけろ!」イリューシャが後《うしろ》から声をかけた。
「なんで落ちるもんか? あれは用心がいいんだから」フェージャが言った。
「そりや、用心はするだろうよ。でも何が起るかわからないものな。屈《かが》んで、水を汲もうとする拍子に、河童が手をつかんで、水の中へひっぱりこむかもしれない。後になってみんなが、あの子は誤って水の中へ落ちたんだ、なんて言いだすけれど……なんの、誤って落ちたもんかい?……ほうら、葦の中へはいっていったぞ」と彼は耳をすませながら、附け加えた。
なるほど葦が押し分けられて、この地方で言う『さやさや』という音を立てた。
「馬鹿のアクリーナは、水の中に落ちてから気が狂ったというのは、本当かい?」とコースチャがたずねた。
「あの時からだよ……今じゃあんなざまになって! でも、もとは美人だったそうだ。河童に呪いをかけられたんだよ。きっと、河童は、アクリーナがすぐに水の中から助け出されるなんて思っていなかったんだ。そこで、水の底でアクリーナに呪いをかけたのさ」
(私もこのアクリーナには何度も出会ったことがある。ぼろをまとい、恐ろしくやせ細って、炭のようにまっ黒な顔をし、どんよりした眼つきをして、いつも歯をむき出しながら、骨ばった両手をぎゅうっと胸におし当て、檻《おり》の中の野獣のように、のろのろとよろめきながら、どこか街道の一つところを何時間も何時間も足踏みしている。何を言われても一向わからず、ただ時折引き吊《つ》ったように声を立てて笑うばかりである)
「なんでもアクリーナは」とコースチャが話をつづける。「男にだまされて川に身投げしたんだって」
「その通りだ」
「じゃ、ワーシャのことを覚えてるかい?」とコースチャが悲しげに附け加えた。
「どこのワーシャだい?」とフェージャがきく。
「ほら、この川へ落ちて死んだワーシャだよ。いい子だったのになあ! ほんとにいい子だった! おっ母さんのフェクリスタはとてもあれを可愛がっていたよ、ワーシャのことを! フェクリスタは、ワーシャが水で死ぬってことを、虫の知らせで感じていたらしいんだ。夏、ワーシャがおれたちと一しょに川へ水浴びに行こうとすると、ふるえ上って心配したものよ。ほかの女たちはなんでもない、桶を持っておれたちの傍をえっちらおっちら歩いて行くのに、フェクリスタときたら桶を地べたにおいて、『お帰り、お帰り、坊や! いい子だから、帰っておくれ!』って、大声で呼ぶんだからな。それがどうして溺れたのか、わからないんだ。川っぷちで遊んでいて、おっ母さんもすぐ傍で乾草を掻き寄せていたんだ。不意に、誰か水の中であっぷあっぷいっているような音がするもんだから、見れば、ワーシャの帽子だけが水に浮いて流れて行く。その時からフェクリスタは気が狂ってしまったのだ。川っぷちへ行っては、ワーシャの溺れ死んだ場所にごろりと横になる。横になって、歌をうたい出す、――覚えてるだろう、ほら、ワーシャがいつも歌ってたじゃないか、――あの歌をうたい出すのだ。それから今度はさめざめと泣きながら、神様にうらみ言を言う……」
「あ、パヴルーシャが帰って来た」とフェージャが言う。
パヴルーシャが水を一杯入れた鍋を持って、焚火に近づいた。
「おい、みんな」と、しばらく黙っていたあとで、彼はこう言い出した。「変なことがあったぞ」
「なんだい?」コースチャが急《せ》きこんでたずねる。
「ワーシャの声がしたんだ」
みんなは一せいに身ぶるいした。
「な、なんだって?」コースチャが舌をもつらせて言った。
「ほんとだよ。おれが水を汲もうと思って、屈んだら、いきなりワーシャの声で、水の底から聞えてくるみたいに、『パヴルーシャ、パヴルーシャ、こっちへおいで。』って、おれを呼ぶ声が聞えるんだ。おらぞっとして飛びのいた。でも、水だけは汲んで来たよ」
「ああ、こわい! ああ、こわい!」と子供たちは十字を切りながら言った。
「パヴルーシャ、そりゃ河童が呼んだんじゃないか」とフェージャが附け足した……「おれたちは、たった今、ワーシャのことを話してたんだ」
「ああ、そいつは縁起が悪いな」とイリューシャが一語一語句切りをつけて言う。
「なあに、大丈夫だ、かまうもんか!」パヴルーシャはきっぱり言い放って、また腰をおろした。「前世の約束ごとはのがれっこないんだものな」
子供たちはしーんとなった。どうやらパヴルーシャの言葉が深い感銘を与えたものと見える。彼らは焚火の前に横になりはじめた。いよいよ、これから眠るらしい。
「ありゃなんだろう?」不意にコースチャが頭をもたげてきいた。
パヴルーシャは耳をすました。
「あれはヤマシギが鳴きながら飛んで行くところだよ」
「どこへ飛んでいくんだろう?」
「冬がないとかいう国へさ」
「そんな国、あるのか?」
「あるとも」
「遠くにか?」
「遠い、遠い、暖かい海の向うだよ」
コースチャはほっと溜息をついて、眼をとじた。
私が子供たちの仲間入りをしてから、もう三時間あまりになる。月はようやく昇ったが、すぐには目につかなかった。それほど小さくて、細かったからである。この月の光のおぼつかない夜は、前と同じようにやはりすばらしく思われた……しかし、つい今しがたまで空高くかかっていた多くの星は、もはや暗い地平線近くに傾いていた。あたりのものは何もかもが、ひっそりと静まりかえっている。それはいつも明け方近くにだけ見られる静けさだ。何もかもが深い、静かな、夜明け前の眠りに沈んでいる。空気中にはもうさほど強い匂いはしなくなって、また湿気が拡がっていくように思われる……夏の夜は短い!……子供たちの話は焚火とともに消えていく……犬さえまどろんでいる。ほの白く、おぼつかない星あかりに透かして見れば、馬も首をたれて、横になっている……そのうちに私もうつらうつらとなる。それがいつしかまどろみと変る。
さわやかな風が顔を撫でた。私は眼を開けた。朝が始まりかけている。暁の紅《くれない》はまだどこにもさしていないが、東の空はもう白みかけている。ぼんやりながらも、あたりのものが何もかも見えるようになった。淡い灰色の空が明るくなり、冷たくなり、青くなっていく。星は弱い光を放ってまたたいたり、消えたりする。大地はしめり、葉はうるおい、そこここに生き物の音や声が聞え出し、淡い朝の微風《そよかぜ》がもう地上をさまよい、飛びかいはじめた。私の身体がそれに応えて、軽く、こころよくふるえる。私はすばやく起き上って、子供たちの方に近づいた。子供たちは、とろとろと燃えている焚火のまわりに、どれもこれも死んだように眠っている。ただパヴルーシャだけが上半身を起して、じっと私を見つめた。
私は彼にうなずいて見せて、湯気の立ちはじめた川沿いに家路に向った。まだ二露里と歩かないうちに、もう私のまわりには、露にぬれた広い草原にも、行く手に緑色に見えてきた丘にも、森から森へも、後に長々とつづく埃《ほこり》だらけの道にも、朱《あけ》に染まって輝く繁みにも、薄れゆく霧の下から恥かしそうに青い色を見せている川にも、――最初は鮮紅、次には赤や、金色の、若々しい、燃えるような光が、奔流のようにふり注いだ……すべてのものが動き出し、眼を覚まし、歌い、ざわめき、話し始めた。どこにもかしこにも、大きな露のしずくが、光を放つダイヤモンドのようにきらきらと赤く輝いている。これも朝の涼気に洗い清められたような、清らかに澄んだ鐘の音《ね》が、私の行く手から伝わってきた。この時不意に、充分に休息を取った馬の群れが、昨夜の子供たちに追い立てられて、まっしぐらに傍を駈けぬけた……
残念ながらここに附け加えておかなければならないことがある。それはパヴルーシャがその年に亡くなったことである。彼は溺れたのではなく、馬から落ちて死んだ。とてもいい子だったのに、惜しいことをしたものだ!
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クラシーヴァヤ・メーチのカシヤン
私はがた馬車に乗って猟から帰るところであった。夏の曇り日の息苦しい暑さにぐったりとなって(御承知の通り、こういう日の暑さはどうかすると、晴れた日よりもかえって堪えがたい。風のないときはなおさらである)、私はうつらうつら夢心地でゆられていった。干割《ひわ》れてギイギイ軋《きし》む車輪の下から、でこぼこ道に絶え間なく舞い上るこまかな白い埃が、容赦なく全身におそいかかるのを、いやな気持でじっと我慢しながら。――と不意に、それまで私よりも本式にこくりこくりと居眠りをしていた馭者が、いつもに似合わず不安な様子を見せ、あわてた身ぶりをするので、私はおや、と思った。彼は手綱をしぼると、馭者台の上でうろたえだし、馬をどなりはじめたが、その間にもしょっちゅうどこか脇の方を眺めていた。私はあたりを見まわした。私たちは広々とした耕地を通っていた。同じようにきれいに耕やされたいくつもの低い丘が、波のようにごくゆるやかな傾斜をなして、平地にすそをひいていた。およそ五露里ばかりの人気《ひとけ》のない空間が一目に見える。遠くに見える小さな白樺林だけが、円みをおびた鋸《のこぎり》の歯のような梢によって、ほとんど直線といってよい地平線を乱していた。いくつかの細い小径が野面を走り、窪《くぼ》みにかくれ、丘をうねっている。その一つ、五百歩ばかり先で私たちの道を横切っている小径の上に、私は何か行列のようなものを見分けた。馭者はそれを見ていたのである。
それは葬式であった。先頭の一頭立ての百姓馬車には司祭が乗り、のろのろと進んでいく。その傍に伴僧が腰かけて、馬を御《ぎょ》している。馬車の後から素頭《すあたま》の四人の百姓が、白布でおおわれた棺をかついでいく。棺の後から二人の百姓女がついていく。その一人の甲高い、悲しげな声がふと私の耳まで聞えて来た。耳をすませて聞けば、挽歌をうたっているのであった。微《かす》かな相違はあるが一本調子の、やるせなく侘《わび》しい調べが、淋しい野面《のづら》にもの悲しく響く。この行列の先を越そうとして、馭者は馬をせきたてた。途中で死人に出会うのは縁起が悪いからである。馭者は、棺が街道に出ないうちに、首尾よくそこを駈けぬけた。けれども、そこを百歩と離れないうちに、馬車は突然がくんとゆれて一方に傾き、危く横倒しになろうとした。馭者ははずみをくらってよろめいた馬を引き止めると、片手を振って、ペッと唾を吐いた。
「どうしたんだね?」と私はきいた。
馭者は黙ったまま、急ぎもせずに馬車から下りた。
「一体、どうしたんだい?」
「心棒が折れちまったんですよ……焼け切れて」と馭者は不機嫌そうに答えて、腹立ちまぎれに、いきなり副馬《そえうま》の尻帯をぐっと直したので、馬ははげしく横にゆれたが、それでも持ちこたえて、鼻を一つ鳴らし、ぶるぶるっと身ぶるいしたのち、落ち着き払って前足の膝の下を歯で掻きはじめた。
私は車を下りて、しばらくの間道路の上に立っていた。不愉快なもどかしい気持に漠然と浸りながら。右側の輪はほとんど完全に馬車の下敷きになってしまい、口のきけない絶望の色を見せて、≪こしき≫を上に持ち上げているように見えた。
「さあ、どうしたもんかね?」とうとう私はこうたずねた。
「あいつのせいですよ!」もう街道に出てこちらへ近づいて来る行列を鞭で指さしながら、馭者は言った。「いつも気をつけていますが」と言葉をつづけて、「まったく縁起でもありませんよ――死人に出っくわすなんて……そうですとも」
それから彼はまたもや副馬にあたった。馬は親方が不機嫌でじゃけんなのを見ると、じっと動かずにいることに肚《はら》を決めて、ただ時折つつましやかに尾を振っている。私はしばらくそこらを行きつ戻りつしたが、再び車輪の前に立ちどまった。
そのうちに棺は私たちに追いついた。そっと街道をそれて道ばたの草の上を通り、もの悲しい行列は私たちの馬車の傍をゆっくりと練っていく。私と馭者は帽子を脱いで司祭に挨拶し、棺をかついで行く人々と目を交わした。彼らは広い胸をはげしく波打たせながら、重そうによたよたと歩いていく。棺の後から歩いて行く二人の女のうち、一人はずいぶんの年寄りで蒼ざめている。じっと動かない顔立ちは、悲しみにはげしくゆがんではいるが、きびしく、荘重な表情をくずしていない。やせ細った手を時折、薄い、落ちこんだ唇に持って行きながら、黙々と歩いていく。もう一人のまだ若い、年のころ二十五くらいの女は、眼が赤く涙に濡れ、顔はすっかり泣き脹《は》らしている。私たちの傍まで来たとき、彼女は挽歌をうたうのをやめて、顔を袖でおおった……けれども棺が私たちの傍を通りぬけて、また街道に出たとき、彼女のもの悲しい、胸をかきむしるような歌声が、またもや聞えて来た。規則正しくゆらゆら揺れてゆく棺を黙って見送ってから、馭者は私の方をふり向いた。
「あれは大工のマルティンの葬式ですよ。ほら、あのリャバーヤ村の」と彼は言い出した。
「どうしてわかるんだい?」
「あの女どもでわかりましたよ。年取った方がおふくろで、若い方は女房です」
「病気でもしてたのかね?」
「はい……熱病でした……一昨日《おととい》管理人が医者を呼びにやりましたが、あいにくと医者が留守でした……いい大工でしたよ。そりゃちっとは飲みましたが、なんせ腕の立つ大工でした。そら、女房があんなに悲しんでいるでしょう……でも、女が涙もろいってことは、誰だって知っていますからな。女の涙は水みたいなもんで……全くの話が」
こう言って馭者は身を屈《かが》め、副馬の手綱の下をくぐって、両手で軛《くびき》をつかんだ。
「それにしても、どうしたもんだろう?」と私は言った。
馭者はまず片膝で中馬の肩をおさえ、二度ばかり軛《くびき》をゆすぶり、鞍敷《くらしき》を直し、それからまた副馬の手綱の下をくぐりぬけると、ついでに馬の鼻面に一ぱつくらわせておいて、車輪の傍に寄った。傍に寄って、車輪から目を離さずに、長上衣《カフタン》の裾をまくり上げ、楡《にれ》細工のタバコ入れをゆうゆうと取り出し、ゆうゆうと革紐をつかんで蓋《ふた》をあけ、二本の太い指をゆうゆうとタバコ入れにつっこみ(その二本もやっとのことで中に入った)、嗅ぎタバコをやおらもみほぐし、前もって鼻をひん曲げ、とぎれとぎれに匂いを嗅いだが、そのたびごとに長いうめき声を発した。そして、痛々しげに眼を細め、涙のにじんだ眼をしばたたいて、深い物思いに沈んだ。
「おい、どうした?」私はとうとう、こう言った。
馭者はさも大事そうにタバコ入れをポケットにおさめ、手を使わずに、頭を動かしただけで帽子を目深にかぶり、物思わしげに馭者台に上った。
「どこへ行くんだい?」私はいささか驚いてたずねた。
「お乗りになって下さい」彼は落ち着き払って答えると、手綱を握った。
「どうやって行くんだね?」
「とにかく参りましょう」
「でも心棒が……」
「お乗りになって下さい」
「でも心棒が折れたんだろう……」
「折れるにゃ折れましたが、なに、出村《でむら》までは行きつけまさあ……その、ゆっくり行けば。ほら、あの林を越すと右手に出村があるんです。ユージヌイってあだ名の」
「行きつけると思うかね?」
馭者は返事もしなかった。
「いっそ歩いた方がいいよ」と私は言った。
「どうなりと……」
こう言って彼は鞭をピシリと振りあげた。馬は歩き出した。
右の前車輪がようやく持ちこたえ、まことに奇妙なまわり方をしたものの、とにかく出村までたどりついた。ある小山にさしかかったときには、もう少しで車輪が飛ぶところだった。けれども馭者が怒声をはり上げて馬を叱りつけたので、私たちは無事に小山を下ることができた。
ユージヌイの出村は、おそらく建ててからまだ間がないらしいのに、もう横に傾いてしまった六軒の低い小さな百姓家から成っていた。中には籬《まがき》をめぐらしていない家もあった。この出村に乗りこんだとき、私たちは人っ子一人に出会わなかった。往来に鶏も遊んでいなければ、犬も見当らなかった。ただ一匹だけ、尻尾を短く切られた黒犬が、私たちの姿を見ると、からからに乾いた飼槽の中からあわただしく飛び出した。きっと、喉が渇いてたまらないので、その中へはいりこんだに相違ない。そしてすぐに、吠えもしないで、すばやく門の下に駆けこんだ。私はとっつきの百姓家へ立ち寄って、入口の戸を開け、主人を呼んでみたが――誰も答える者がない。もう一度呼んでみた。すると猫のひもじそうなニャーオという鳴き声が、別の戸のかげで聞えた。足で戸を押し開けると、やせ猫が緑色の眼を暗闇に光らせて、私の傍をすばやく駈けぬけた。私は部屋の中に首をつっこんで、様子を見た。暗く、煙っぽく、人気《ひとけ》がない。外庭へ行ってみたが、そこにも誰もいなかった……囲いの中で仔牛が鳴いている。灰色をしたびっこのガチョウが、よたよたと歩いて少しわきの方へ逃げた。二軒目の家へ行ってみたが、二軒目の家にも人一人いない。私は外庭へまわった……
日がかんかん照っている庭のまん中、俗にいう日溜りに、顔を地面におしつけ、百姓外套を頭からひっかぶって、男の子らしいものが寝ている。そこから数歩はなれた藁葺《わらぶ》きの庇《ひさし》の下に、ぼろぼろの馬具をつけたやせた馬が、みすぼらしい荷馬車のそばに立っている。日光が、古ぼけた屋根の細い隙間《すきま》を通って流れのようにさしこみ、もじゃもじゃした焦茶色《こげちゃいろ》の馬の毛なみに、小さな明るい斑点をつくっている。すぐ傍の、高いところにあるムクドリの巣箱では、ムクドリどもが空中の住家《すみか》から、落ち着き払った好奇の眼で下界を見おろしながらおしゃべりをしている。私は寝ている人のそばに近づいて、起しにかかった……
彼は頭を上げて、私の姿を認めると、すぐさま飛び起きた……「な、なんの御用で? 一体、何事なんで?」と、彼は夢からすっかり覚めきれずにつぶやいた。
私はすぐには返事ができなかった。彼の容貌はそれほど私をびっくりさせたのである。年のころは五十がらみの小人《こびと》で、小さな浅黒いしわだらけの顔、とがった鼻、やっとわかるくらいのぽっちりした茶色の眼、ちっぽけな頭の上に、茸《きのこ》の笠のようにでんと載っかっている縮れ毛の濃い黒い髪――まずこういった人間を想像していただきたい。身体全体がひどく弱々しくやせていて、眼つきの珍妙なことといったら、とても言葉では伝えることができない。
「なに御用で?」彼は再びきいた。
私は彼に事情を話した。彼はゆっくりまばたきする眼を私から離さずに、話を聞いていた。
「こういうわけだが新しい心棒を譲ってもらえまいか?」と私は最後に言った。「代は文句なしに払うが」
「お前さんはどういう人なんで? 猟でもなさるのかね?」じろりと私を頭のてっぺんから足の先まで眺めて、彼はこうきいた。
「猟をする者だ」
「大方、罪科《つみとが》のない空とぶ鳥を撃つんでしょう?……森の獣《けだもの》だの?……神様のお造りになった鳥を殺したり、罪もないものの血を流したりして、いいもんですかね?」
奇妙な爺さんは実にのんびりと話した。その声音《こわね》もまた私を驚かした。老いぼれたところが少しもなかったばかりか、――おやっ、と思うほど聞いていて快く、若々しく、ほとんど女のようにやさしかった。
「おれのところには心棒はねえだ」しばらく黙っていた後で、彼は附け加えた。「あれじゃ役に立つまい(彼は自分の馬車を指さした)、お前さん方のは、きっと大きな馬車だろうから」
「この村で手に入るだろうか?」
「ここが村なもんかね!……ここじゃ誰も持っていねえ……なんせみんな仕事に出てるだで、誰も家にいないがな。じゃ、まっぴらごめん」だしぬけにこう言うと、また地べたへ寝てしまった。
よもやこういう結末になろうとは、思いもよらなかった。
「ねえ爺さん」と彼の肩にさわって私は言いだした。「お願いだから一肌ぬいでくれ」
「まっぴらごめんなせえ! おれはくたびれているのさ。町へ行って来たもんだから」と言って、頭から百姓外套をかぶってしまった。
「まあ、そう言わずに、頼むよ」と私は言葉をつづけた。「私は……私はお礼は出すよ」
「お前さんにお礼なんかもらいたくないよ」
「頼むよ、爺さん……」
彼は上半身を起して、細い足を組んで坐った。
「なら、森の中の伐《き》り出し場へでもつれて行くかな。商人どもがあそこの森を買って、――罰当りなことに、森を伐り倒して、事務所をおっ建てただ。ほんに罰当りなことよ。お前さん、そこへ行って、心棒をあつらえるなり、出来合いを買うなりしたらいい」
「結構だ!」と私は喜んで叫んだ。「そいつは結構だ!……さあ行こう」
「カシワの木の、上等の心棒をな」彼は起きあがりもせずに、言葉をつづける。
「その伐り出し場までは遠いのかね?」
「三露里だ」
「いや、かまわない! お前の馬車で行けるんだろう」
「いいや……」
「さあ、行こう」と私は言った。「行こう、爺さん! 馭者が通りで待っているんだから」
老人は不承不承立ち上って、私について通りへ出た。馭者は、ごきげん斜めだった。馬に水をやろうとしたが、井戸の水がとても少なく、味もよくなかったからである。ところで馬に水をやることは、馭者たちの言い分だと、一番大事なことなのだ……けれども老人を見ると、彼は歯を見せてにやりと笑い、うなずいて叫んだ。
「やあ、カシャーヌシカじゃないか! 今日《こんにち》は!」
「今日は、律義者《りちぎもの》のエロフェイ!」とカシヤンが気のない声で答えた。
私はさっそく馭者にカシヤンの申し出を伝えた。エロフェイはそれに同意して馬車を外庭に乗り入れた。馭者が慎重に気を配りながら馬を馬車からはずしている間、老人は門にもたれかかって、浮かぬ顔で、馭者と私を見くらべていた。彼は途方にくれている様子で、察するところ、私たちの突然の来訪が、彼にとってはあまりありがたくなかったと見える。
「お前もここへ移されたのかい?」と馬の軛をはずしながら、だしぬけにエロフェイがきいた。
「そうよ」
「へえ!」と馭者は侮蔑《ぶべつ》の色を見せて言った。「おい、大工のマルトゥインがな……お前、リャバーヤのマルトゥインを知ってるだろう?……」
「知ってる」
「あれが死んじまったよ。今さっき葬式の行列に出会った」
カシヤンはびくっと身をふるわせた。
「死んだって?」と言って彼は目を伏せた。
「うん、死んだ。お前どうして治してやらなかったんだい、え? なんでも人の話じゃ、お前は人の病気を治してやることができる、お前は治療師だっていうじゃねえか?」
馭者は明らかに、おもしろがって老人をからかっていた。
「で、あれはお前の馬車なのかい?」と、肩で馬車の方をさしながら、彼は言い足した。
「おれのだ」
「ふん、馬車か……これが馬車だとな!」と彼は繰返して言い、轅《ながえ》をつかむと、ほとんど馬車をひっくり返さないばかりにした……「これが馬車かい!……ところで一体、なんに曳かせて伐り出し場まで行くんだ?……この轅じゃ、うちの馬はつけられねえ。うちの馬は大きいのに、この轅はなんてざまかよ?」
「知らねえよ、なんに曳かせて行くのか」とカシヤンは答えた。「あんちくしょうにでも曳かせるか」と溜息まじりに附け加えた。
「こいつにかい」とエロフェイが話を引き取った。そしてカシヤンのやくざ馬の傍へ寄って、右手の中指で軽蔑したように馬の頸をつっついた。「ちぇっ」ととがめるように彼は附け加えた。「眠ってやがる、このとんちきめ!」
私はできるだけ早く馬車の用意をするようエロフェイに頼んだ。私は自分でカシヤンと一しょに伐り出し場へ行って見たくなった。そんな所にはよくエゾヤマドリがいるものだからである。もうすっかり馬車の用意ができたので、私が犬をつれて、そりかえった木の皮張りの車の底にともかくも坐り、またカシヤンが小さく身を縮め、相変らず浮かぬ顔つきをして、同じように前の横木に腰かけていたとき、――エロフェイが私の傍へ来て、秘密めいた様子でささやいた。
「とにかく、旦那様、こいつがご一しょでようございました。あいつはあんな、神がかりみたいなやつで、あだ名を蚤《のみ》と言いますんで。それにしても、よくもあいつの話がおわかりになりましたな……」
私はエロフェイに、これまでのところ、カシヤンはなかなか分別のある男のように思われる、と言おうとしたが、馭者はすぐさま同じ調子で言葉をつづけた。
「ただ、あいつが旦那様をちゃんとおつれ申すかどうか、お気をつけなさいまし。それから心棒は御自分でおえりなさるがいいです。なるべく丈夫そうなのをえらんで……おい、どうだな蚤公《のみこう》」と声を大きくして附け足した。「お前の家でパン切れにありつけるかね?」
「捜してみてくれ、あるかもしれねえ」とカシヤンは答えて、手綱をぎゅっと引くと、馬車は動きだした。
私が真底《しんそこ》から驚いたことに、彼の馬はなかなかよく走った。道中ずっとカシヤンは頑固に沈黙を守り、私がものをきいてもぶっきらぼうに、しぶしぶ答えるのであった。私たちは間もなく伐り出し場に到着し、それからさんざ骨折って事務所にたどりついた。それは高い小屋で、手っ取り早く土手をめぐらして池にしつらえられた小さな谷の上に、ぽつんと一軒だけ建っていた。事務所には、雪のように歯が白く、甘ったるい眼つきをした、甘ったるい臆面もない口のきき方をする、ずるそうな笑いを浮べた二人の若い番頭がいた。私は彼らを相手に心棒の値段をきめると、伐り出し場に向った。私はてっきり、カシヤンが馬の傍に残って、私の帰りを待つものと思っていたが、不意にこっちへやって来た。
「なんですか、鳥を撃ちに行くんで? え?」と彼は言いだした。
「うん、もしいたらね」
「お伴《とも》をしましょう……かまいませんか?」
「いいとも、いいとも」
二人は出かけた。伐り払われた場所は全部で一露里ばかりある。私は、正直なところ、自分の犬よりもカシヤンの方を多く見ていた。蚤とあだ名をつけられたのも無理はない。黒い、何一つかぶっていない頭が(とはいえ、その髪の毛はどんな帽子のかわりにもなることができた)、藪《やぶ》の中をはげしくちらついた。彼は非常に足が速くて、歩きながらいつもぴょんぴょん跳びはねるみたいである。のべつ腰を曲げては、何か草を摘んで懐《ふところ》へねじこみ、ぶつぶつ独り言を言い、絶えず私と犬をじろじろ眺める。それもいかにも人を探るような、変な眼つきで。低い灌木の中や、『下草』の中や、伐り出し場には、よくちっちゃな灰色の小鳥がいて、ひっきりなしに樹から樹へと飛び移り、そのさい不意に急降下しながら、キイキイ鳴き立てる。カシヤンはその鳴き声をまねて、小鳥どもと呼び交わした。若いウズラが一羽、チッチッと鳴きながら彼の足もとから飛び立った――と、彼はそのあとを追ってチッチッと鳴きまねをする。ヒバリが羽をふるわせ、よく徹《とお》る声でピイピイ歌いながら彼の頭上に降りかかると、――カシヤンはその歌のあとをつける。私には相変らず口をきかない……
天気はすばらしくよくて、前よりもっといいくらいだった。けれども暑さはいぜんとしてやわらがなかった。晴れ渡った空にはごくまれに、消え残った春の雪のように黄色味をおびた白雲が、おろされた帆のように平たい楕円形をなして、高く浮び、動くともなく動いている。綿毛のようにふんわりした軽やかな雪の縁《へり》はゆっくりと、だが刻々と変っていく。これらの雲はやがて大空に溶けこんでいき、地上に影も落さない。私はカシヤンと一しょに永いあいだ伐り出し場をぶらついた。まだ三尺と伸びていないヒコバエが、黒ずんだ低い切株を、細い滑らかな茎で取り巻いている。鼠色の縁をした円いカイメンゴケが、引火奴《ほくち》はこれを煮てつくるのだが、それらの切株にぴたりと貼りついている。野苺がその上にバラ色の蔓《つる》を這わせている。同じ場所に茸の一族がところ狭しと並んでいる。足は強烈な日光を思う存分吸いこんだ長い草にしょっちゅうからまりもつれた。どこを見ても、赤味がかった若葉のどぎつい金属性の光に眼がちかちかする。ノエンドウの青い房や、リュウキンカの金盃に似た花や、半分は藤色で、半分は黄色いママコグサの花が、そこにも、ここにも見られる。轍《わだち》の跡が赤い小さな草の上にくっきりと残っている荒れた小径のほとりのそこここに、風雨に黒ずんだ薪の山が高々と積み上げられてある。薪からはゆがんだ四角形の薄い影が落ちている、――ほかにはどこにも影一つない。そよ風が起っては、またおさまる。にわかに顔へまともに吹きつけるので、風が出たかなと思う、――あらゆるものが楽しげにざわめきだし、うなずきはじめ、あたりが動きだし、しなやかなワラビの葉末がなよなよとゆれはじめる、――やれうれしや、と思えば……早くも風は止み、何もかもが再び静まりかえる。ただキリギリスだけが、怒ったもののように、声をそろえて鳴き立てる。この絶え間ない、すっぱいような、乾ききった鳴き声にはうんざりする。この声は真昼の執拗《しつよう》な暑さにふさわしい。それはまるで暑さによって生れ、暑さによって、赤熱した大地の中から呼び出されたかのようである。
ただ一羽の雛《ひな》にも行き当たらないままに、私たちはとうとう別の新しい伐り出し場まで来てしまった。そこにはつい近ごろ伐り倒されたばかりのヤマナラシが何本も、草や小さな灌木を押しつけて、悲しげな姿を地面に横たえている。中には葉がまだ青いのに生命を失い、動かない枝から垂れ下っているのもあり、また中には、葉がすっかり枯れてしまい、そっくり返ってしまったのもある。鮮やかなみずみずしい色の切り株の周りに、うず高く積っているなまなましい金色がかった白い木っ端からは、とても気持のよい、苦味をおびた香りがただよっている。遠くの、林に近いあたりでは、斧《おの》の音が鈍くひびいている。そして時折、まるでお辞儀をし、両手を拡げるかのように、欝蒼《うっそう》たる樹木がおごそかに静かに倒れて行く……
永い間、私はどんな獲物にも会わなかった。そのうちついに、若ガシワの広い繁みの中から、あたりに生えているニガヨモギを通り抜けて、クイナが一羽飛び出した。私は撃った。鳥は空中にもんどり打って落ちて来た。射撃の音を聞くとカシヤンは、すばやく片手で眼を蔽《おお》い、私が銃に装填《そうてん》しクイナを拾いあげるまで、身じろぎもしなかった。私が先へ歩き出したとき、彼は撃たれた鳥の落ちた場所に近づいて、血の滴《したた》りが数滴跳ねかえった草の上に身を屈《かが》め、頭を振って、おずおずと私を眺めた……あとで彼が、『罪なことを!……ああ、本当に罪なこった!』とつぶやくのが聞えた。
暑さがひどくてやりきれないので、私たちはとうとう林の中に入った。私はクルミの木の高い繁みの蔭に身を投げ出した。繁みの上には若いすんなりしたカエデが、軽やかな枝を美しく拡げている。カシヤンは伐り倒された白樺の根方に腰をかけた。私は彼を眺める。梢で木の葉がさらさらとゆれて、その淡い緑色の影が、黒っぽい百姓外套につつまれた彼のやせた身体や小さな顔の上を、滑《すべ》るように静かに行ったり来たりする。彼は頭を上げようとしない。私は彼が黙りこくっているのにうんざりして、仰向けにひっくり返り、遠くの明るい空を背景に、もつれ合う木の葉が和やかに戯れるのに見とれはじめた。森の中で仰向けに寝ころんで天上を眺めているのは、すばらしく愉快なことである! 底知れぬ海の中をのぞいているような気がする。その海は自分の眼の≪下に≫ひろびろと拡がっているみたいだ。樹木は地面から生えているのではなく、まるで巨大な植物の根が、ガラスのように澄みきった波の中に降下していくように、垂直に落ちていくように見える。木の葉はエメラルドのように透きとおるかと思えば、濃くなって金色をおび、ほとんど黒ずんで見えるほどになる。どこか遠くに細い小枝が出ていて、その先のただ一枚の葉が、透明な一片の青空を背にそよとも動かない。それと並んでいるもう一枚の別の葉は、動くたびに魚のひれの戯れを思わせながら、ひらひらと揺れる。それは風に吹かれて動いているのでなく、自分で気ままに動いているかのようである。円い白雲が魔法の島のように静かに流れて来ては、静かに通りすぎる――と、不意に、あの海全体が、あのまばゆい大気が、日光を浴びたあの枝や葉が、――何もかもが流れはじめ、あわただしい輝きにふるえだして、にわかに押し寄せた小波《さざなみ》のはてしない小さな波音にも似た、さわやかな、ふるえるような、さらさらいう葉ずれの音が起る。身動きもせずに、じっと眺めている。そうすれば心がどんなにうれしく、和やかに、楽しくなってくることか、とても言葉では言いつくすことができない。じっと眺めていると、あの深く澄んだるり色が、そのるり色にも似た、また空ゆく雲にも似た、あどけない微笑を唇にさそう。そして流れゆく雲とともに、楽しい思い出の数々が、それからそれへゆっくりと心の中を通りすぎるような気がする。視線はますます遠ざかって行き、いつしか人はあの安らかな、輝いている深淵の中に引き入れられる。あの高い空から、あの空の深みから、離れることができないように思われる……
「旦那、もし旦那!」不意にカシヤンが例のよく徹《とお》る声で呼びかけた。私はびっくりして身体を起した。これまで私が問いかけてもろくろく返事をしなかったのに、今度は急に自分から話しかけてきたのである。
「なんの用だね?」私はたずねた。
「その、なんのためにお前さん、鳥を殺しなすった?」私の顔をまともに見つめながら、言いだした。
「なんのためって?……クイナは野鳥で、食べられるじゃないか」
「食べるために殺したんじゃねえでしょうが、旦那。旦那があれを召し上るもんですか! ただ慰みに殺したんでしょう」
「でもお前だって、たぶん、たとえばガチョウだの、鶏だのを食うだろう?」
「ああいう鳥は神様が、人間が食べるようにとおきめなすったものだが、クイナは自由に森の中を飛びまわっている鳥だ。何もクイナだけじゃない。まだほかにもたくさんいる。森の生きものはみんなそうだし、野の生きものやら、川の生きものやら、沼や草っ原の生きものやら、高い所にいるのやら、低い所にいるのやらたくさんいるだ――それを殺すのは罪なこった。寿命のあるうちは生かしておくがいいだ……人間にはちゃんときまったほかの食いものがある。食べものも、飲みものも人間のは別にあるのだ。穀類は神様の授かりもんだし、それに天から降って来る水もあれば、大昔の御先祖から伝わって来た家畜もあるだ」
私は驚いてカシヤンを眺めた。彼の言葉はすらすらと淀《よど》みなく流れ出た。別に言葉を探すでもなく、時折眼をつむりながら、静かな感興とおだやかな威厳をおびた調子で話した。
「それじゃ、お前の考えでは、魚を殺すのも罪なんだな?」と私はきいた。
「魚の血は冷てえだ」と、きっぱりと言い返した。「魚は唖《おし》の生きものだに。魚はこわがりもしねえし、うれしがりもしねえ。口の利けねえ生きものだ。魚は感じもしねえ、血が生きちゃいねえだから……血ってものは」としばらく黙ってから、また言葉をつづけた。「血ってものは神聖なもんだ! 血にお天道さまを見せちゃならねえだ。血は光から隠すもんだ……光に血を見せるのは大それた罪だ、大それた罪で恐ろしいこった……ああ、大それたこった!」
彼は溜息をつくと眼を伏せた。私は、正直なところ、すっかり度胆《どぎも》を抜かれてこの不思議な老人を見つめた。彼の言葉は百姓の言葉のようでなく響いた。普通の百姓はこんな話し方はしないし、いわゆる口達者な連中の話しぶりともちがう。この言葉はよくよく考えたあげくの、荘重で風変りなものである……私は今までにこんな話は聞いたことがない。
「ちょっとききたいがな、カシヤン」かすかに赤味をおびてきた彼の顔から眼を離さずに、私はきりだした。「お前の商売はなんだね?」
彼はすぐには私の問に答えなかった。彼の眼は一瞬、不安そうにきょろきょろした。
「ただ神様の御心《みこころ》どおりに暮していますよ」と、彼はようやく口をきいた。「商売といっても、別にその、何もしちゃいません。子供の時から、とても鈍《どん》なたちでして。働ける間は働きますが、ろくな仕事はできません……このわしになにができましょう! 身体は丈夫じゃないし、手は無器用だし。そう、春になると、ウグイスを捕りますがな」
「ウグイスを捕るって?……それじゃ、お前、森や、野や、そのほかのところにいるどんな生きものにも、触っちゃいけないなんて、どうして言ったんだ?」
「そりゃ、たしかに、殺しちゃなんねえ。時が来りゃ、どうせ死ぬもんだから。早い話が、あの大工のマルトゥインにしてもそうよ。大工のマルトゥインは生きてはいたけれど、長生きもしねえで死んじまった。女房は今ごろ、亭主のことや子供のことを考えて嘆えてることよ……人間だって、畜生だって、死ぬことだけはどうにもならねえ。死神は別に駈け足でやって来るわけでもねえが、死神から逃れるわけにはいかねえだ。なにも死神に手をかすことはねえもんだ……おらあウグイスを殺すようなことはしねえ、――まっぴらだ! いじめたり、生命を取ったりするために捕るんじゃなくて、人を喜ばせるために、慰めたり、楽しませたりするために捕るのさ」
「クールスクヘも捕りに行くのかね?」
「クールスクヘも行けば、時と場合によっちゃ、もっと遠くへも行きまさあ。沼地で夜明かしもすれば、森かげの空き地だの、野原だの、人里離れた所で、たった一人で夜明かしもする。そこらにヤマシギが鳴いていたり、兎が叫んだり、カモがギャアギャアいったり……夕方目星をつけておいて、夜明けに鳴き声を聞いて確かめておき、東が白むころ藪の上に網を張る……ウグイスの中にもとても哀れっぽい声で鳴くのがいまさあ、いい声で……ふびんになるくらいですよ」
「で、お前はそれを売るのかね?」
「親切な人に譲るんで」
「ほかには何をしている?」
「というと?」
「どんな仕事をしているかというのさ」
老人はしばらく黙っていた。
「この通り何もしちゃいねえんで……ろくな仕事ができねえから。それでも、読み書きはできます」
「読み書きができるって?」
「読み書きはできるんでがす。神様と親切な人たちのおかげで」
「どうだね、お前、女房子供はあるのかい?」
「いいえ、ねえんです」
「そりゃまた、どうして?……死に絶えでもしたのかい?」
「そういうわけでもねえが、そうなんで。まわり合せですよ。でも、そんなことはみんな神様の思召《おぼしめ》しで、人間はみな神様の御意のままに生きてゆくものなんです。一方、人間は正直でなくちゃなんねえ、――そうだとも! それがつまり、神様の御意にそうことでさ」
「お前にゃ身寄りもいないのかね?」
「あります……ええ……まあ……」
老人は口ごもった。
「それからもう一つききたいが」と私は口をきった。「うちの馭者がさっきお前に、どうしてマルトゥインを治してやらなかったかってきいてたようだね。お前、ほんとに病気が治せるのかい?」
「お前さんとこの馭者は律義者《りちぎもん》だけんど」と考えこんでカシヤンが私に答える。「それでもやっぱり、悪いところがある。おれのことを治療師って言うけんど……なんでおらが治療師なもんかの!……一体、誰に病気が治せるだ? そんなことはみんな神様しだいだによ。そりゃ、あるにはあるよ……草だの、花だの。たしかに効き目がある。ほら、例えば、トウコギなんかも人間の役に立つ草だ。それからオオバコだってそうだ。その話をしたって恥にはならねえ。汚《けが》れのない草は神様のもんだからな。ところがそうでないのもある。効くには効いても、使うことはなんねえ。話をするさえ罪なことだ。そりゃお祈りをしてからなら……むろん、そうした言葉がちゃんとあるだ……でも、信じる者は救われるだ」と声を落して、彼は附け加えた。
「で、お前は、マルトゥインには何もやらなかったのかい?」と私はきいた。
「聞いたのが遅かったもんで」と老人は答えた。「どうにもならねえ! 持って生れたその人の運なんだから。大工のマルトゥインは寿命が短かったんでさ、寿命がなかったんでさ。仕方のねえこってすよ。この世に長生きできねえ人間は、お天道さまでもほかの者みてえには暖めちゃ下さらないし、パンも身体のためにはならねえ。――何かに呼ばれてるようなもんで……おお、神様、マルトゥインの魂をお鎮《しず》め下せえまし!」
「お前たちがこっちへ移されたのは大分前かね?」少し黙ったあとで、私はきいた。
カシヤンはびくっと身をふるわせた。
「いいえ、最近のことで。四年ほど前でがす。大旦那の時にはずっともとからの所に住んでいたもんですが、後見人が世話を見るようになってから移されました。大旦那はおだやかな柔和な人でした。何とぞ天国に安らわせたまえ! でも、後見人だって、むろん、公平にお決めになったことに違いありません。もう、こうなる因縁だったと見えます」
「で、お前たちは、前にはどこに住んでいたんだね?」
「クラシーヴァヤ・メーチから越して来ました」
「ここから遠いのかい?」
「百露里ばかりのところです」
「どうだね、向うの方がよかったかい?」
「そりゃ、いいにも……なんにも。ひろびろとした、川のある土地でしたよ、わしらの古巣は。ところが、ここはせせっこましくて、ぱさぱさに乾いた土地で……ここへ来たら孤児になったみたいです。おれたちのクラシーヴァヤ・メーチじゃ、ちょっと丘へ登ってみりゃ――いや、もう、その景色のすばらしいことといったら!……川もあり、草っ原もあれば、森もある。その先に教会があって、その先にはまた草っ原がある。その先の先まで見晴しがきく。ずっと遠くまで見える……全く、眺めても、眺めても見飽きねえ! それに、土地も確かによい。ねば土で、百姓どもの言う、上等のねば土でなあ。おらのとこからだって、穀類がどこからでもしこたまとれたもんよ」
「それじゃ爺さん、正直な話が、お前も生れ故郷へ帰りたいだろうな?」
「そりゃ、一目見てえわな。もっとも、どこにいたって結構でさ。おれは女房子供のいねえ気楽な身なんだから。それにお前さん! いつまでも家にくすぶっていられるもんですかい? ところがどんどん歩いて行くと、歩いて行くと」彼は声を一段と高めて言葉をつづけた。「実際、気が軽くなってくる。お天道さまも照らして下さるし、神さまの目もよく行き届くし、歌も一そう調子づく。あたりを見れば美しい草が生えている。で、目にとまったのを摘む。そこを例えば、湧き水が、泉が、ありがたいお水が流れている。これにも目をとめてたらふく飲む。鳴いている小鳥は天の小鳥だ……それからまた、クールスクの向うにはとてもだだっ広い草っ原がつづいている。ほんにそのすばらしい眺めは、見るからに楽しくなる。あの何一つさえぎる物もない広野ときたら、本当に神様のお授けもんだ! 人の話によればこの草っ原は、一番暖かい海までつづいていて、そこにはガマユン鳥という好い声の鳥がおり、冬も秋も樹から葉っぱが落ちることなく、金のリンゴが銀の枝になっていて、人間は何不足なく、正直に暮しているって話だ……おれもそういう所へ行ってみてえだ……おれもいろんな所へ行ったもんよ! ロミョーンヘも行ったし、栄《はえ》あるシンビルスクにも、金の円屋根のみごとなモスクワにも行った。乳母なるオカ河にも、いとしのツナ河にも、母なるヴォルガヘも行ったし、多くの人たちに、親切なキリスト教信者にも会えば、立派な町でも暮した……おれもそういう所へ行って見てえ……それこそ……ほんとに……でも、罪深いのはおれ一人じゃねえ……ほかにもキリスト教徒が多勢、草鞋《わらじ》をはいて歩き、乞食をしてまわっている、真理《まこと》を求めて……そうとも!……家にじっとしていてなんになるかね? え? 人間に正直というものがない、それが問題よ……」
この最後の言葉をカシヤンは、ほとんど聞き取れないくらい早口に言った。それからまだ何か言ったが、私にはまるで聞き取れなかった。ところで彼の顔は実に奇妙な表情をしたので、私は思わず『神がかり』という呼び名を思い出した。彼は目を伏せて、咳ばらいを一つすると、われに返ったようであった。
「やれ、このお天道様はどうだ!」と彼は小声で言った。「ああ、なんてありがたいこった! 森の中の暖かいことったら!」
彼は両肩をゆすぶり、しばらく黙っていたが、ぼんやりとあたりを見まわしてから、そっと歌い出した。長くひっぱる歌の文句はみなまで聞き取れなかったが、次のような文句が耳に入った。
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おれの名前はカシヤンで
蚤《のみ》というのがそのあだ名……
[#ここで字下げ終わり]
「おや!」と私は思った。「自分の作った歌だわい。……」不意に彼は身ぶるいをして歌をやめた、森の繁みの中をじっと見定めながら。ふりかえって見ると、八つぐらいの小さな百姓娘が、浅黄の袖なしを着て、碁盤縞《ごばんじま》のスカーフをかぶり、日にやけたむき出しの手に編籠を持って立っていた。娘は私たちに出会おうとは夢にも思わなかったらしく、いわば私たちに出っくわしたのであった。緑のクルミの繁みが蔭を落している草地にじっと立ったまま、黒い瞳でおずおずと私を見ている。私がその姿をよくよく見定める暇もなく、娘は樹のかげにかくれてしまった。
「アンヌシカ! アンヌシカ! こっちへおいで、おっかなくねえよ」老人はやさしく声をかけた。
「おっかねえもの」と甲《かん》高い声が聞えた。
「おっかなくねえ、おっかなくねえ、こっちへおいで」
アンヌシカは無言のまま隠れ場所を後にして、静かにまわり道をし、――子供の足が繁った草の中を通ってかすかな音を立てた、――老人のすぐ傍の繁みから出て来た。背が小さいので、最初は八つぐらいの娘かと思ったが、本当はそうではなくて、十三か十四の娘だった。身体全体が小づくりでやせてはいるが、なかなかすんなりしていて、敏捷《びんしょう》で、美しい小さな顔はカシヤンの顔に、びっくりするほどよく似ていた。といって、カシヤンは一向に美男子じゃなかったけれども。同じようなとがった顔立ち、同じような奇妙な眼つき、ずるそうでいて、無邪気な、もの思わしげなくせに、人を射《い》るような眼つき、身ぶりもそっくり……カシヤンはちらと娘を見た。娘は横向きにカシヤンの前に立っていた。
「何かい、茸をとっていたのかい?」と彼がきいた。
「うん、茸」と彼女は臆病な微笑を浮べて答えた。
「たくさんめっけたかい?」
「ああ、たくさん」(彼女はすばやく老人を見てまた微笑した)
「白茸もあるかい?」
「白茸もある」
「どれどれ、お見せ……(娘は編籠を手からおろして、茸にかぶせてある大きなゴボウの葉を半分ばかり持ち上げた)ほう!」とカシヤンは、籠の上にかがみこんで言った。「こりゃすばらしい! えらいぞ、アンヌシカ!」
「カシヤン、これはお前の娘なのかい?」と私はきいた(アンヌシカの顔がぽっと赧《あか》らんだ)。
「いいえ、その、身内の者で」とカシヤンはわざとぞんざいなふりをして言った。「さあ、アンヌシカ、お帰り」と彼はすぐに附け足した。「さっさとお帰り。気をつけてな……」
「なんだって歩いて帰らせるんだね!」と私は口をはさんだ。「一しょに乗せて帰ったらいい……」
アンヌシカはケシの花のようにまっ赤になって、両手で編籠の紐《ひも》をつかみ、心配そうに老人の顔を見た。
「いいえ、歩いて帰れますよ」と彼は相変らず、無頓着な大儀そうな声で答えた。「何もわざわざこの娘を……歩いたって帰れますよ……さあお帰り」
アンヌシカは急いで森の中へ立ち去った。カシヤンは後を見送っていたが、やがて目を伏せて、微笑《ほほえ》んだ。この長い微笑の中にも、アンヌシカに言ったわずかな言葉の中にも、彼女と話をしているときの彼の声の響きそのものの中にも、言い表わしがたい、熱情的な愛情と、やさしさがこもっていた。彼は娘の行った方をもう一度眺め、もう一度微笑んだ。そして顔をなでながら、何度もひとりでうなずいた。
「なんだってあんなに急いで帰したんだい?」私は彼にたずねた。「茸を買ってやったのに……」
「なに、同じことですよ、あなた、御所望なら家で買ったって」と彼は初めて『あなた』という言葉を使った。
「あの子はなかなかきりょうよしだね」
「いいえ……なんの……その……」と彼はいかにも気乗りのしない様子で答えたが、それっきり前と同じように無口になってしまった。
もう一度話をさせようといろいろ手を尽してみたが無駄だったので、私は伐り出し場に向った。それに暑さもいくらかしのぎよくなった。けれども私の不首尾、俗に言う『へま』がずっとつづいたので、私はクイナ一羽と新しい心棒だけを持って出村に戻った。馬車がもう背戸の傍まで来たとき、カシヤンが不意に私の方を振り返った。
「旦那、もし旦那」と彼が声をかけた。「おら、旦那に済まねえことをした。実は、おらが鳥をみんな逃がしてやったのだ」
「というと?」
「そりゃ、ちゃんと知ってますがな。お前さんの犬はよく仕込んであるいい犬だけれど、なんにもできなかった。まあ考えてみなされ、人間てなんですか、人間って、え? この犬だって、こんなにしてしまったじゃねえですか?」
私は、空飛ぶ鳥に『おまじないをする』ことなどできるはずがない、とカシヤンに言ってきかせても無益だと思ったから、なんとも答えなかった。その上、馬車はすぐに向きを変えて門内に入った。
アンヌシカは家にいなかった。彼女はもうとっくに帰って、茸の入った籠を置いてどこかへ行ったあとだった。エロフェイは新しい心棒を、まずこっぴどく不当にこきおろしてから、車に取りつけた。それから一時間して私たちは出発した。立ち際《ぎわ》にカシヤンに少しばかり金をやると、最初は受け取らなかったが、やがてちょっと思案した後、掌《てのひら》の上にしばらく載せてから、懐《ふところ》にしまいこんだ。この一時間の間、老人はほとんど一言も口をきかなかった。彼は相変らず門にもたれたまま、馭者に小言を言われても答えもせず、私にも甚《はなは》だ冷淡に別れた。
私は帰って来たときすぐに、エロフェイがまたもや不機嫌でくさくさしているのに気がついた……実際、この村で彼は何一つ食べ物を見つけることができなかったし、馬の水飼い場も悪かったのである。私たちは出発した。エロフェイは、項《うなじ》にさえはっきりとあらわれている不満の色を見せて馭者台に腰かけ、私に話しかけたくてむずむずしていた。けれども私の方から問いかけるのを待って、小さい声でぶつぶつ独り言を言ったり、馬に向って、言いきかせるような言葉をかけたり、時には毒舌を吐いたりするにとどめていた。「村だって!」と彼はぶつくさ言った。「あれで村もねえもんだ! クワスをくれると言えば、――クワスもありゃしねえ……あきれたもんだ! それに水ときたら、ちぇっ!(彼は聞えるように唾を吐いた)キュウリも、クワスも、――なんにもねえ。おい、こら」と右の副馬に向って、大声で附け加えた。「ちゃんと知ってるぞ、この横着者! 甘ったれるのが好きなんだろう……(そう言って一鞭《ひとむち》くらわした)すっかりずるけちめやがって、畜生、もとはとてもよく言うことをきくやつだったのに……ほい、ほい、気をつけろい!……」
「なあ、エロフェイ、カシヤンてのはどんな男だい?」と私は話しかけた。
エロフェイはすぐには答えなかった。一体にこの男は考え深い、あわてない男である。けれども、私がこうきいたのでエロフェイが陽気になり、心が和らいだのに、私はすぐと気づいた。
「蚤のこってすか?」手綱をきゅっと引いて、やっと彼は話し出した。「変り者ですよ。間違いなく神がかりで、ああいう変り者はそうざらにいるもんじゃありません。まあ、たとえてみると、この葦毛《あしげ》の馬と丁度《ちょうど》同じですよ。すっかり手に負えなくなっちまったんですよ……つまり、仕事が。そりゃ、むろん、手間取りなんてできやしません、――やっと生きている始末ですから、――でも、やっぱり……何しろ≪がき≫のときからあの通りなんで。最初は自分の伯父貴《おじき》たちと一しょに馬力をやってました、――三頭立ての馬車を使ってましたっけ、――でも、そのうちに、つまり、倦《あ》きがきて、――止《や》めちめえました。それから家で暮すようになった、けれども、家にもじっとしていられねえんで。まことに落ち着きのねえ野郎で――いや、全く蚤でさあ。運よく、やさしい旦那に当ったもんだから――無理に働かせるようなことはしませんでしたよ。で、それからというものは、放し飼いの羊みてえに、のべつぶらぶらしてるんです。何しろ得体の知れない不思議なやつでして、切株みたいに黙りこくっているかと思えば、急にべらべらしゃべり出したり、――ところが何をしゃべってるのやら、ちっともわからねえ。一体、あんな流儀ってあるもんですか? ありゃ流儀じゃねえでしょう。全くの阿呆ですよ。それでも歌は上手でさあ。こんなふうにもったいつけて――なかなかうまいもんです」
「それで、病気を治すってのは、本当かね?」
「病気を治すって! へん、あれにそんなことができるもんかね! あれは見た通りの男ですよ。そりゃ、おらの≪るいれき≫は治してくれたけんど……あれにそんなことができるもんですかい! あれは根っからの馬鹿者ですよ」としばらく黙ってから附け加えた。
「お前はあの男をずっと前から知ってるのかい?」
「ずっと前から知ってますとも。クラシーヴァヤ・メーチのスイチョーフカにいたとき、隣同士だったもんで」
「森の中でアンヌシカって娘に出会ったが、あの娘はなんだい、あれの身内かね?」
エロフェイは後をふり向いて肩越しに私を見、大口を開けて笑った。
「へへ!……そうです、身内です。あれは孤児《みなしご》でして、母親もいなけりゃ、誰が母親だかそれさえわからねえんです。まあ、きっと身内なんでしょうよ。あれにひどくよく似てますから……とにかく、あいつの家に住んでいます。利発な娘で、申し分ありません。いい娘なもんで、老爺《じじい》め、眼の中に入れても痛くねえといったところですよ。ほんにいい娘でさ。それに、何しろあれは、本当になさるめえが、自分とこのアンヌシカに読み書きを教えようと思ってるらしいんで。たしかに、あれならやりかねませんよ。あの通りの妙ちきりんな男ですから。とても移り気な、突拍子もない野郎で……どう、どう、どう!」馭者は突然自分で自分の話を中断して、馬をとどめ、身体を横に曲げて、匂いを嗅ぎはじめた。「焦《こ》げくさいぞ? やっぱりそうだ! どうも新しい心棒ってやつは……その用心に、油はたっぷり塗っておいたと思うんだが……水を汲んで来なくちゃ。あ、丁度いい、池がある」
エロフェィはゆっくり馭者台から降りると、手桶をはずして、池の方に出かけてゆき、帰って来ると、車の軸套が不意に水をかけられてシューシュー鳴るのを、まんざらでもなさそうな顔をして聞いていた……たかだか十露里もの道のりを行くのに、彼は過熱した心棒に六ぺんも水をかけなければならなかった。こうして私たちが家へ帰りついたときには、日はもうとっぷり暮れていた。
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荘園管理人
私の持ち村から十五露里ほど離れたところに、若い地主で、退職した近衛《じくとうこのえ》の将校である、アルカージイ・パーヴルイチ・ペーノチキンという一人の知人が住んでいる。彼の領地には野鳥が多く、邸宅はフランス人建築家の設計によって建てられたものだし、召使たちはイギリスふうの服装をしていて、素晴らしい食事が出るし、客のもてなし方は親切である。が、それなのにどうも、彼のところへ行くのは気がすすまない。彼は分別のある実際的な男で、ご多分にもれず立派な教育を受けているし、軍隊勤めの経験はあり、上流社会にも交わってきたのだが、今ではなかなか上首尾に領地の経営をおこなっている。アルカージイ・パーヴルイチは、彼自身の言葉をかりて言えば、厳しいけれども公平で、領地内の百姓の幸福に気を配り、百姓たちを処罰するのも、彼らのためを思えばこそであった。こんな場合に彼は、「百姓は子供のように取り扱わなければなりません。彼らは無智であるということを、mon cher; il faut prendre cela en consideration.(あなた、考慮に入れなければなりません)」と言うのである。彼自身はといえば、いわゆる悲しむべき必要の生じたさい、激しい、突発的な動作をさけて、声を荒げることを好まず、それよりか直接に手でつっ突いて、落ちつきはらって言って聞かせる。「わしがお前に頼んだろうが、ねえ君」とか、「どうしたんだね、君、思い直してくれたまえ」とか。そのさい、ただちょっと歯を食いしばったり、口をゆがめたりするだけである。背は高くないが、身体つきは粋《いき》で、男ぶりもなかなかよく、手や爪はいつも小ざっぱりと手入れがしてある。紅い唇や頬はつやつやとして、いかにも健康そうである。高く響く、くったくのない笑い声を立てて、明るい褐色の眼を愛想よく細める。身なりは満点で、好みもよい。フランスの書物や、画や、新聞を取りよせているが、読書は大して好きな方じゃない。『永遠の猶太人《ジュー》』〔フランスの作家エヴゲーニイ・シュー(一八〇四―一八五七)の長篇小説〕をやっと征服した程度である。カルタ遊びはなかなかうまい。概して言えば、アルカージイ・パーヴルイチは、わが県内でももっとも教養ある士族の一人、もっとも羨望の的《まと》たる花婿候補者の一人とみなされている。婦人たちは彼に夢中であり、わけても彼の物腰をほめそやす。彼は驚くほどみごとに身を処し、猫のように用心深く、生まれてこの方《かた》、どんな事件にも巻きこまれたことがない。そのくせ折があれば目にもの見せてやり、臆病な人間をまごつかせたり、話に半畳《はんじょう》を入れたりするのが好きである。悪い仲間と交際するのは絶対に忌《い》み嫌う。――つまり自分の名前にかかわるのが心配なのである。そのかわり、機嫌のよいときには、自分のことをエピクロス〔古代ギリシャの哲学者・唯物論者(前三四一―二七〇)〕の崇拝者と称している。もっとも概して哲学のことは悪《あ》しざまに言い、哲学はドイツ人の頭脳の食べる霧のようなものだと言い、また時には、ただのたわ言にすぎないさ、ときめつけることもある。音楽も好きである。カルタ遊びをしながら、鼻歌ではあるが、感情をこめて歌う。「ラムメルモーアのルチア」〔イタリヤの作曲家ドニゼッティ(一七九七―一八四八)のオペラ〕だの「ソムナーンブラ」〔イタリヤの作曲家ベルリーニ(一八〇二―一八三五)のオペラ〕だのの一節も覚えているが、しかしどうもとかく調子が高くなるきらいがある。毎年冬になるとペテルブルグヘ行く。屋敷は珍しいほどきちんと片づいている。馭者どもさえその感化を受けて、毎日のように馬具を磨き、百姓外套の塵《ちり》をはらうばかりか、自分の顔さえもちゃんと洗うのである。アルカージイ・パーヴルイチの召使たちは、なるほど、なんだか上眼づかいに人の顔色をうかがう。けれども、わがロシアの国では、不機嬢な顔と寝ぼけた顔とは見分けがつかない。アルカージイ・パーヴルイチはおだやかな、気持のよい声で話し、ゆっくり間《ま》をおきながら、香水をふりかけた美しい口髭の間から一語一語をもらす。またフランス語の表現を多く用いる。例えば、『Mais c'est impayable!(それは面白い!)』だの、『Mais comment donc!(むろん!)』だのと。それでもなお、少なくとも私は、彼を訪問するのはあまりうれしいことではなく、もしもエゾヤマドリやシャコがいなかったら、おそらく彼とは行き来しなかったに相違ない。彼の家にいるとなんだか奇妙な不安にとらえられる。生活上の便宜《べんぎ》さえもさしてありがたいとは思われない。そして夕方、髪を縮らせた侍僕が、紋章入りのボタンのついた空色のお仕着せをきて姿をあらわし、うやうやしくかしこまって長靴を脱がせはじめるたびごとに、もしもこの蒼白い顔をしたやせた男のかわりに、ついこのほど旦那によって野良《のら》から取り立てられたばかりなのに、最近拝領したばかりの南京木綿《なんきんもめん》の長上衣《カフタン》を、もう十ヵ所もほころびさせてしまった屈強の若者の、驚くほどだだっ広い頬骨とあきれるようなだんご鼻が、だしぬけにぬっと眼の前につき出されたら、――それこそ言いようもなく喜んで、長靴と一しょに自分の足も、腿《もも》のつけ根から引っこぬかれる危険に、喜んでわが身をさらしたことであろう……
このように私はアルカージイ・パーヴルイチが嫌いだったにもかかわらず、あるとき彼の家で一夜を過さなければならないことになった。翌日、私は朝早く、自分の幌馬車に馬をつけるように命じたが、しかし彼は、イギリスふうの朝食をすませないうちは私を帰したがらないで、自分の書斎へ招じ入れた。お茶と一しょにカツレツや、半熟たまごや、バターや、蜂蜜や、チーズなどが出た。純白の手袋をはめた二人の侍僕が、てきぱきと無言のままで、こちらから一々言わないうちに、用事を足してくれる。私たちはペルシャふうのソファに腰かけていた。アルカージイ・パーヴルイチはだぶだぶの絹のペルシャ式ズボンをはき、黒いビロードのジャケツを着、青いふさのついたトルコ帽をかぶり、かかとのない、中国ふうの黄色いスリッパをはいていた。彼はお茶を飲んだり、笑ったり、自分の爪をしげしげと眺めたり、タバコを吸ったり、脇腹にクッションをあてがったりして、概してなかなかの上機嫌であった。朝食を腹一ぱい詰めて、満足した様子のアルカージイ・パーヴルイチは、自分で赤葡萄酒をグラスに注《つ》いで唇の傍まで持って行ったが、急に眉をしかめた。
「なぜこの葡萄酒は温めてないんだ?」と彼はかなり鋭い声で侍僕の一人にきいた。
侍僕はどぎまぎして、釘づけにされたように立ちどまり、真っ蒼になった。
「おい、お前に訊《き》いてるじゃないか?」と侍僕から眼を離さずに、アルカージイ・パーヴルイチは落ち着いて言葉をつづけた。
不運な侍僕はその場でもじもじして、ナプキンをひねくりまわしたが、一言も言わなかった。アルカージイ・パーヴルイチは頭を垂れて、もの思わしげに侍僕をじろりと眺めた。
「Pardon, mon cher.(失礼いたしました、あなた)」と彼は親しげに私の膝に手を触れて、気持のよい微笑を浮べながら言うと、またもや侍僕を見つめた。「いや、行っていい」しばらく黙っていたあとで、こう附け加えると、眉をあげ、呼鈴を鳴らした。
肥った、色の浅黒い、髪が黒くて、額の狭い、肥った顔の中に埋もれているようなぽっちりした眼の男が入って来た。
「フョードルのことは……適当にな」とアルカージイ・パーヴルイチは小声で、いかにも落ち着きはらった様子で言った。
「かしこまりました」と肥った男は答えると出て行った。
「Voila, mon cher, les desagrements de la campagne.(これが、あなた、田舎暮しの嫌なところですよ)」とアルカージイ・パーヴルイチは愉快そうに言った。「おや、あなた、どちらへ? まあ、いいじゃありませんか、もう少しごゆっくりなすっても」
「いいえ、もうお暇《いとま》しなくちゃ」と私は答えた。
「また猟ですか! ああ、本当に鉄砲打ちってしようのないもんですね! でも、これからどちらへお出かけなんで?」
「ここから四十露里ばかり離れた、リャーボウォです」
「リャーボウォヘ? ああ、丁度いい、それでしたら私もお伴いたしましょう。リャーボウォは私の持ち村のシュピーロフカから、五露里しか離れていませんし、このところしばらくシュピーロフカに行ったことがないのです。いつも暇《ひま》がなくて。こりゃ丁度いい折です。あなたは今日はリャーボウォでお撃ちになって、晩にはうちへおいで下さい。Ce sera charmant.(こりゃいいですとも)ご一しょに夕食を食べましょう、――料理人《コック》をつれて行きますから、――うちへお泊り下さい。すてき! すてき!」と彼は、私の返事も待たずに附け加えた。「C'est arrange……(それにきまった、と……)おい、誰かおらぬか? 馬車の用意をさせてくれ、急いでな。あなたはシュピーロフカヘおいでになったことはありませんか? うちの管理人の小屋へお泊り願うのはどうかと存じますが、あなたは、私の存じているところでは、そんなことをやかましくおっしゃる方じゃなし、リャーボウォヘ行かれても、乾草小屋へお泊りになるんでしょうから……行きましょう、行きましょう!」
そしてアルカージイ・パーヴルイチは何かフランス語のロマンスを歌い出した。
「ときに、あなたはご存じないかもしれませんが」と立ったまま身体をぶらぶらさせながら、彼は言葉をつづけた。「私はあそこの百姓どもを小作料制度にしています。それがきまりでして――どうにも仕方がありません。もっとも小作料はきちんきちんと納めていますがね。私は、正直なところ、ずっと前から夫役《ぶやく》にしたかったんですが、土地が少ないもんで! 私は今のままでも、百姓どもがどうして帳尻を合わして行くのか、不思議なくらいですよ。とはいうものの、c'est leur affaire.(それは私の知ったことじゃありません)、あそこの管理人はなかなかのやり手です、une forte tete,(頭のいい奴《やつ》です)、政治屋なんです!……いずれお会いになればわかりますが……でも、本当に、いい折ですよ!」
どうにも仕方がなかった。朝の九時というのが午後の二時になって、私たちはやっと出発した。狩猟家は私のじれったさがおわかりであろう。アルカージイ・パーヴルイチは、彼自身の言いぐさを借りると、時折自分を甘やかすのが好きで、下着や、着がえや、洋服や、香水や、クッションや化粧道具など、倹約で自制心のあるドイツ人なら、優に一年は足りようというほどふんだんに携《たずさ》えた。坂道を下るたびにアルカージイ・パーヴルイチが、短いながらも力のこもった注意をあたえるので、私は、この知り合いはよほどの臆病者に違いないと思った。とはいえ、道中は事もなくすんだ。ただ最近修繕したばかりの小さな橋の上で、料理人を乗せた馬車が横倒しになり、料理人が車の後輪で腹をおしつけられたばかりであった。
アルカージイ・パーヴルイチはお家育ちのカレーム〔有名なフランスの料理人(一七八四―一八三三)。料理に関する著書が数冊ある〕が落ちたのを見て、真剣になって驚き、すぐさま、腕に別条はないかどうか、ききにやった。無事だという返事があったのですぐに安心した。それやこれやで道中はかなり長くかかった。私はアルカージイ・パーヴルイチと同乗していたが、道中も終りに近づくころには、退屈でどうにもやりきれなくなった。最後の数時間になると、私の道づれがすっかりくたびれきってしまい、自由主義者めいたことを言い出したからにはなおさらである。やっと私たちは到着したが、ただ着いたのはリャーボウォでなく、まっすぐシュピーロフカに着いたのであった。なぜだか、そういうことになってしまったのである。その日私はそれでなくてさえ、もう猟などできなかったので、やむを得ず自分の運命に従った。
料理人は私たちよりも少し早目についたので、もうちゃんと手はずをととのえ、しかるべき人たちに前触れもしたものと見えて、私たちが村はずれまで来ると百姓頭(管理人の息子)が迎えに出ていた。頑丈な、赤毛の、身の丈が七尺近くもあろうという大男で、馬に乗り、帽子もかぶらず、新しい百姓外套をボタンもかけないで着ている。「ソフロンはどこにいるんだ?」とアルカージイ・パーヴルイチが彼にきいた。百姓頭はまず、ひらりと馬から飛びおりて、旦那にうやうやしくお辞儀をして言った。「ようこそお越しなされました、アルカージイ・パーヴルイチ様」それから頭を上げ、身体を一ゆすりして、ソフロンはペローフヘ出かけたが、もう迎えの者を使いに出したと報告した。「じゃ、後からついて来い」とアルカージイ・パーヴルイチが言った。百姓頭はかしこまって、馬を脇の方へよせて、ひょいと跨《また》がり、帽子を握ったまま、馬車の後から小走りについて来た。私たちは村中にさしかかった。数人の百姓が空《から》の荷馬車に乗って向うからやって来る。彼らは穀打場からの帰りで、全身を跳《おど》らせながら、足をぶらぶらさせながら歌をうたっていた。けれども私たちの馬車と百姓頭の姿を見ると、急にぴたりと歌をやめて、かぶっていた冬の帽子(それは夏のことであった)を脱いで、命令でも待つかのように、やおら腰をあげた。アルカージイ・パーヴルイチは寛大に会釈《えしゃく》をした。不安な動揺が村中に拡がったらしい。碁盤縞《ごばんじま》のスカートをはいた百姓女たちは、察しの悪い、つまり忠義立てに吠える犬に、木ぎれを投げつける。眼のすぐ下から始まって顔中|髭《ひげ》もじゃの、びっこの老人が、まだ水を飲み終らない馬を井戸ばたから無理に引き離して、なぜか知らないが、馬の横っ腹にどんと一発くれて、さてそれからお辞儀をした。だぶだぶの長いシャツを着た子供たちは泣きわめきながら家の中に駆けこみ、高い閾《しきい》の上に腹ばいになり、頭を下げ、両足を宙に泳がせると、あっという間にドアの向うの暗い玄関に転がりこんで、それっきり出て来なかった。鶏でさえも一目散に門の下へ逃げこんだ。ただ一羽、繻子《しゅす》のチョッキに似た黒い胸毛をした、赤い尻尾がとさかのすぐ上まで捲きあがっている勇敢な雄鶏《おんどり》が、なおも往来に踏みとどまって、まさに時をつくろうとしたが、急にあわてふためいて同じように逃げ出した。管理人の家は他の家から離れて、青々と繁った大麻《たいま》畑の中にあった。私たちは門の前に馬をとめた。ぺーノチキン氏は立ち上って、さっそうとマントを脱ぎすて、愛想よくあたりを見まわしながら馬車を出た。管理人の女房がうやうやしくお辞儀をして私たちを迎え、御主人の手に接吻するために近づいた。アルカージイ・パーヴルイチは彼女に思う存分接吻させて、昇降階段をのぼった。玄関のうす暗い片隅に百姓頭の女房が立っていて、やはり同じようにお辞儀をしたが、しかし御主人の手には遠慮して近づこうとしなかった。いわゆる夏小屋――玄関の右手にあたる部屋――にはもう、他の百姓女が二人|甲斐甲斐《かいがい》しく働いていた。そこからいろいろながらくたを、空《から》の蓋附《ふたつき》木壺や、こちこちに硬くなった裘《かわごろも》や、油で汚れた壺や、ぼろを一ぱいつめて、おできだらけの赤ん坊を入れた揺藍《ゆりかご》などを運び出しては、風呂|箒《ほうき》で塵芥《ごみ》を掃き出している。アルカージイ・パーヴルイチは女どもを追い出して、聖像の下の作りつけの腰かけに腰をおろした。馭者どもはトランクや、箱や、その他の調度を家の中に運びこみはじめた。重い長靴の音をなるべく立てまいと、いろいろ気を使いながら。
その間にアルカージイ・パーヴルイチは百姓頭に、とり入れのことや、種まきのことや、そのほか農事のことを何やかやきいていた。百姓頭は得心のいく返事をしていたが、なんだか元気がなく、ぎこちなく、まるでかじかんだ指で長上衣《カフタン》のボタンをかけようとしているみたいだった。彼は戸口に立っていて、絶えず気を配り、あたりを見まわしては、敏捷な侍僕に道をあけてやるのだった。この男の逞《たく》ましい肩越しに私は、支配人の女房が玄関でこっそりと、誰かほかの百姓女を打っているのを目にとめた。突然、馬車の音がして昇降階段の前にとまった。管理人が入って来た。
この、アルカージイ・パーヴルイチのいわゆる『政治屋』は、背丈こそ大きくはないが、肩幅が広くて、白髪頭で、頑丈で、鼻が赤く、小さな青い眼をして、扇形の髯《ひげ》を生やしていた。ついでに言っておくと、ロシアの国はじまってこのかた、でっぷり肥って、金持になった人間で、顔一面にもじゃもじゃと髭の生えていなかったためしはない。ある者はそれまでずっと薄い、楔形《くさびがた》の髯を生やしていたのに、金がたまると不意に、まるで後光のように髭が顔のまわりを取り巻いてしまう。いったい、どこからこんなに急に毛が現われるものだろう! ところで支配人は、ペローフで一杯飲んできたに相違ない。顔もしかるべくてらてらに光り、酒の匂いがぷんぷんしていた。
「ああ、これはこれは、父にも等しいお情けぶかい御前様」と彼は歌でもうたうように、今にも涙がこぼれそうな感激の色を顔に浮べて言い出した。「やっとおいでいただきまして!……お手を、どうか、お手を」ともう手まわしよく唇をつき出しながら、彼は附け加えた。
アルカージイ・パーヴルイチは彼の望みをかなえてやった。
「で、どうだね、ソフロン、仕事の方はうまくいってるかね?」と彼はやさしい声でたずねた。
「ああ、御前様!」とソフロンは叫んだ。「どうしてその仕事が、うまくいかないわけがございましょう! 何しろ父ともお慕い申すお情けぶかい御前様においでいただいて、この村がパッと明るくなりました、ほんに生涯の仕合せでございます。まことにありがたいことで、アルカージイ・パーヴルイチ様、まことにありがたいことでございます! お慈悲をもちまして何もかも無事でございます」
ここでソフロンはちょっと口をつぐんで、主人の顔を見つめたが、またもや感きわまったように(おまけに酒の酔いも手伝って)、もう一度お手をと願って、前よりもなお一そう歌うような調子で言い出した。
「ああ、父ともお慕い申すお情けぶかい御前様、……今さらこんなことを申し上げても! 本当に、うれしさのあまり頭がボーッとなってしまいました……本当に、自分の眼が信じられないくらいです……ああ、父ともお慕い申す御前様!……」
アルカージイ・パーヴルイチは私の顔をちらと見て、微笑し、「N'est-ce pas que c'est touchant?(いじらしいじゃありませんか?)」と言った。
「でも、アルカージイ・パーヴルイチ様」と管理人は止め度なくまくし立てる。「一体どうなさいましたので? 全く私の立つ瀬がございません。前触れもなしにおいでなさるものですから。今夜はどこへお泊りになります? 何しろここは穢《きた》なくて、塵芥《ごみ》だらけで……」
「かまわんよ、ソフロン、かまわんよ。ここで結構だ」とアルカージイ・パーヴルイチはにこにこしながら答えた。
「ですが、父にも等しい御前様、――誰が結構なんでございましょう? そりゃ、われわれ百姓|風情《ふぜい》なら結構です。でも御前様が……ああ、父ともお慕い申す御前様が、お情けぶかい御前様としたことが、ああ、あなた様が!……どうかこの馬鹿者をお許し下さいまし、うれしさのあまり気が違ってしまいました、本当にすっかり馬鹿になってしまいました」
そのうちに夕食が出た。アルカージイ・パーヴルイチは食べはじめた。老人は伜《せがれ》の百姓頭を、お前がいると臭い、と言って追っぱらった。
「時に、どうだね、爺さん、境界定《さかいぎ》めはすんだかね?」とペーノチキン氏がたずねた。御当人は百姓言葉をまねたつもりで、私に目配せをした。
「すみました、御前様、おかげさまで。一昨日《おとつい》台帳に記入しました。フルイノフカの連中は初めは不服でした……不服でしたよ、全く。いろいろと注文をつけました……ああしろの、こうしろのと……途方もない注文をつけるんで。何しろ、馬鹿の寄り合いでして、御前様、おろかなやつらですから。ところで私たちは、御前様、おかげさまで、調停人のミコライ・ミコラーイチにお礼を申しあげて、御満足のいくようにいたしました。万事お指図どおりにやりましたので、御前様。かねてのお指図どおりに、そのとおりにやりました。エゴール・ドミートリチにお含みを願って万事いたしました」
「エゴールから報告があったよ」とアルカージイ・パーヴルイチがもったいらしく言った。
「そうでしょうとも、御前様、エゴール・ドミートリチならそうでしょうとも」
「してみると、お前たちも、もうこれで満足だろうな?」
それこそソフロンの待っていた問いかけだった。
「ああ、父とも慕う、お情けぶかい御前様!」と彼はまたもや歌いはじめた……「お慈悲をお垂れ下さいませ……私たちは、父とも慕う御前様のために、夜も昼も神様にお祈りしております……むろん、土地は少のうございますが……」
ペーノチキンは彼の話の腰を折った。
「いや、いいとも、いいとも、ソフロン、お前が一生懸命つくしてくれていることは、よくわかってるよ……ときに麦の出来高はどうだね?」
ソフロンは溜息をついた。
「はい、父ともお慕い申す御前様、出来高はあまりよくありません。したが、アルカージイ・パーヴルイチ様、御報告申し上げますが、この前とんでもないことが持ちあがりました(ここで彼は、両手を拡げながらペーノチキン氏に近づいて、身を屈《かが》めると、片方の眼を細めた)。私どもの地面に死骸が見つかりましたので」
「え、なんだって?」
「自分でもとんと合点がいきませぬ、父ともお慕い申す御前様。てっきり悪魔がたぶらかしたものと見えます。でも、仕合せと、土地の境目の近くで見つかりました。そりゃ正直に申しあげますと、こちらの地所に違いありませんが。私はさっそくそれを、早くのうちによその畑へ引きずっていくように命じ、見張りをつけて、百姓どもには黙っているように申しつけました。で、警察分署長にはまさかの場合のために、これこれ、しかじかでして、と説明した上、ちょっと御馳走をして、いくらか握らせておきました……御前様、どうお思いになります? まんまと邪魔ものをよそへおしつけちまいましたが。何しろ死骸一つの始末には、間違いなく二百ルーブリはかかりますんで」
ペーノチキン氏は管理人の計略に大笑いをして、顎で彼を指しながら、何度も私に言ったものである。「Quel gaillard, ah?(相当なもんでしょう、え?)」
そのうちに外はすっかり暗くなった。アルカージイ・パーヴルイチは食卓を片づけて、乾草を持ちこむように言いつけた。侍僕が私たちのためにシーツをしき、枕をならべた。私たちは横になった。ソフロンは翌日の指図を受けて、自分の部屋に下った。アルカージイ・パーヴルイチは、眠りかけながら、なおもロシアの百姓のすぐれた性質について一くさり論じたが、そのさい私に、ソフロンが管理をするようになってからは、シュピーロフカの百姓たちが一文の滞納もしなくなったと言った……夜まわりが拍子木《ひょうしぎ》を打ちはじめた。地主様がおいでだから遠慮をしよう、という気持にまだなりきれないと見えて、赤ん坊が小屋のどこかでピーピー泣き出した……やがて私たちは眠りに落ちた。
翌日、私たちはかなり早く起きた。私はリャーボウォヘ行くつもりだったが、アルカージイ・パーヴルイチが私に自分の領地を見せたがるので、とうとう残ることにした。それに自分でも、やり手であるソフロンのすぐれた性質を、実地に確かめてみるのも悪くはなかろうと思ったからである。そのうちに管理人が現われた。青い百姓外套を着て、赤い帯を締めている。昨日にくらべるとはるかに口数が少なく、鋭い眼で、じっと主人の眼を見つめ、すらすらと要領よく答える。私たちは彼と一しょに穀打場へ出かけた。ソフロンの息子で、のっぽの百姓頭は、どこから見てもかなり足りない男だが、これも私たちの後からついて来た。それから管理人のもとで書記をしているフェドセーイチも私たちに加わった。これは退職した兵隊で、恐ろしく大きな口髭を生やし、ずいぶんと珍妙な顔をしている。まさしく、大分前に何かに一方《ひとかた》ならずびっくりして、それ以来というもの正気に返らない、といった顔つきである。私たちは穀打場や、乾燥納屋や、乾場や、納屋や、風車や、家畜小屋や、野菜畑や大麻畑を次々と見てまわった。実際、何もかも秩序整然としていた。ただ百姓たちの浮かぬ顔だけが、いささか私に不審をいだかせた。ソフロンは実用だけでなく、風情にも気を配っていた。みぞのふちにはすっかり柳を植えつけ、穀打場の≪にお≫の間には小径をつけ、砂をまき、風車小屋の上には口を開けて赤い舌を出した熊の形の風見《かざみ》を備え、煉瓦造りの家畜小屋にはギリシャふうの破風《はふ》のようなものを取りつけ、その破風の下に『壱千八百四拾年シュピーロフカ村に当家畜小屋を建つ』と、誤字だらけの白い字で書いてあった。アルカージイ・パーヴルイチはすっかり感傷的になって、私にフランス語で小作料制度の利益を述べたてはじめたが、そのさい、とはいうものの、夫役《ぶやく》の方が地主にとっては有利だ、と言ったものである、――まあ、そういったことがいくらでもあった!……また管理人に向って、馬鈴薯の栽培法や、家畜の飼料の作り方などの助言を与え出した。ソフロンは注意ぶかく彼の話に耳を傾け、時には異議もさしはさんだが、もはやアルカージイ・パーヴルイチを父とも、情けぶかいお方とも讃《たた》えず、ただ地面が狭くて困るから、もっと買い足しても悪くはないだろう、とそのことばかりを強調した。「なに、わしの名儀で買ったらいい、かまわんよ」とアルカージイ・パーヴルイチが言った。それに対してソフロンはなんとも答えないで、ただ髭《ひげ》をなでただけである。「それにしても、これから森へ行って見るのも悪くはないな」とペーノチキン氏が言い出した。すぐに私たちのところへ乗馬が曳いて来られた。私たちは森、ここらで言う『禁伐林』に出かけた。この『禁伐林』には樹木のうっそうと繁った場所があり、そこにはおびただしい野鳥がいたので、アルカージイ・パーヴルイチはソフロンを賞めそやし、軽くその肩をたたいた。ペーノチキン氏は植林に関してはロシア的な考えを持していた。そしてそのとき、彼の言葉によれば、非常におもしろい出来事を話してくれた。それはある剽軽《ひょうきん》な地主が自分の森番にお説教するのに、髭を半分ばかりむしり取って、森も同じことで、この通り樹を伐ってしまっては、とても繁るものではないということを証明して見せた、というのである……ただし、ほかの点ではソフロンも、アルカージイ・パーヴルイチも――二人とも新しいやり方を避けはしなかった。村に帰ってから管理人は、近ごろモスクワから取りよせた籾摺機《もみすりき》を見せに私たちを案内した。籾摺機はなるほど調子よくまわっていた。けれども、もしもソフロンが、この最後の見まわりで、どんなに不愉快なことが彼や旦那を待ち受けているかがわかっていたなら、おそらく彼は、私たちと一しょに家に残っていたに違いない。
ほかでもない、こんなことが起ったのである。納屋から出て来ると、私たちは次のような光景を見た。戸口から数歩離れたところに汚ない水溜りがあって、その中でアヒルが三羽、無心に水をはねかえしていたが、その水溜りの傍に百姓が二人立っていた。一人は六十ぐらいの老人、もう一人は二十歳《はたち》ぐらいの若者だが、二人ともつぎはぎだらけの麻のルバーシカを着て、はだしで、縄の帯をしめていた。書記のフェドセーイチがその傍でやっきとなって話している。もし私たちが納屋でもっと手間どっていたら、おそらく彼らを説き伏せて、うまく追い返すことが出来たであろう。ところが私たちの姿が見えたので、彼は直立不動の姿勢をとり、その場に立ちすくんでしまった。そこにはまた、百姓頭がぽかんと口を開けて、げんこのやり場に困っていた。アルカージイ・パーヴルイチは顔をしかめ、唇を噛んで、請願者に近づいた。二人は黙って彼にうやうやしくお辞儀をした。
「なんの用だ? 願いごとはなんだ?」と彼はいくらか鼻にかかったいかめしい声でたずねた(百姓どもは互いに顔を見合せて、一言も口をきかず、ただ眩《まぶ》しそうに眼を細めて、息をはずませるばかりであった)。
「おい、どうしたんだ?」とアルカージイ・パーヴルイチは言葉をつづけたが、すぐにソフロンの方を向いて、「どこの家の者だ?」
「トボレーエフの家の者で」と管理人はゆっくりと答えた。
「おい、どうしたんだ?」とまたもやペーノチキン氏が言った。「お前は舌がないのか? なんの用か言わんか?」と彼は老人に顎《あご》をしゃくって見せて、附け加えた。「こわがることはないよ、馬鹿」
老人は赤銅色《しゃくどういろ》に日やけしたしわだらけの頸を伸ばし、紫色になった唇をひん曲げて、しゃがれ声で、「御前様、お助け下せえまし!」と言うと、またもや地べたに額をなすりつけた。若い方の百姓も同じようにお辞儀をした。アルカージイ・パーヴルイチはもったいぶった様子で二人の頸筋《くびすじ》をじろりと見おろし、頭をのけぞらせ、少しばかり足を踏み開いた。
「何事だ? 誰を訴えに来たのだ?」
「御前様、お慈悲でございます! ひと息つかせて下さいまし……さんざんいじめつけられてしまいました」(老人はやっとのことでこう言った)
「誰がお前をいじめたんだ?」
「ソフロン・ヤーコヴリチで、旦那様」
アルカージイ・パーヴルイチはしばらく黙っていた。
「お前の名は?」
「アンチープと申します、旦那様」
「で、そっちは誰か?」
「伜でございます、旦那様」
アルカージイ・パーヴルイチはまたしばらく黙って、口髭をひねった。
「ふん、それでどんなふうにいじめたのだ?」と髭越しに老人を見おろしながら、彼は口を切った。
「旦那様、家はすっかり落ちぶれてしまいました。二人の伜を、旦那様、順番も来ねえのに兵隊にやった上、今度は三番目の伜まで取り上げようとしております。昨日は、旦那様、たった一匹残った牝牛まで取り上げられて、うちの婆《ばばあ》がさんざんにぶちのめされました――ほら、この人に」(彼は百姓頭を指さした)
「ふん!」とアルカージイ・パーヴルイチが言った。
「お願いですから、すっかり落ちぶれさせないで下さいまし、旦那様」
ペーノチキン氏は顔をしかめた。
「それにしても、これはどういうわけなんだ?」彼は声を低めて、不機嫌な様子で管理人にきいた。
「飲んだくれなのでございます」と管理人は、初めて『ございます』という言葉を使って答えた。「怠け者でして。もう今年で五年も小作料を滞《とどこお》らせているのでございます」
「ソフロン・ヤーコヴリチが私の代りに滞納金を納めて下さいましたが、旦那様」と老人は言葉をつづけた。「納めてもらってからもう五年になりますが、それからというものは、ただでこき使われて、旦那様、それに……」
「どうしてまた滞納金などこさえたんだ?」とペーノチキン氏はこわい顔をしてたずねた(老人はうなだれた)。「きっと、飲んだくれて、居酒屋をぶらつきまわるのが好きなんだろう?(老人は口を開こうとした)お前たちのやり口はちゃんとわかっている」とアルカージイ・パーヴルイチは性急に言葉をつづけた。「酒を飲んでペーチカの上にごろごろしているのがお前たちの仕事なんだ。おかげでまじめな百姓がその尻拭いをさせられるのだ」
「それに無礼者でして」と支配人が主人の言葉に口を入れた。
「なに、それは言わずと知れている。いつもそうなんだ。わしは再三見て知っている。年がら年中|放埓《ほうらつ》な暮しをしていて、乱暴な口をきいているくせに、今さら足もとに平つくばるなんて」
「旦那様、アルカージイ・パーヴルイチ様」と老人は死にもの狂いになって言い出した。「お願いです、お助け下さいまし。なんで私が乱暴な口などききましょう? 神様の前に出たつもりで本当のことを申しますが、これではとてもやりきれません。ソフロン・ヤーコヴリチは私のことを目の敵《かたき》にしています。なんでそうなったのか、とんと合点がいきません! すっかり落ちぶれさせようてんです、旦那様……たった一人残ったこの伜まで……これまで……(老人の黄色い、しわだらけの眼に涙がきらりと光った)お願いです、御前様、どうかお助けを……」
「それもわしらばかりじゃねえんで……」と若い方の百姓が言いかけた。
アルカージイ・パーヴルイチは急にかっとなった。
「誰が貴様にきいてる、あ? 貴様にきいてるんじゃない、黙ってろ……一体、なんということだ? 黙れと言ったら、黙らんか!……全くあきれたもんだ! まるで一揆《いっき》だ。いや、わしのところでは、そんなまねは許さんぞ……わしのところではな……」(アルカージイ・パーヴルイチは一歩踏み出したが、たぶん、私が傍にいることを思い出したのだろう、くるりと脇を向いて、両手をポケットに突っこんだ)……「Je vous demande bien pardon, mon cher.(失礼しました、あなた)」と作り笑いをしながら、意味ありげに声を低めて彼は言った。「C'est le mauvais cote de la medaille……(これは悪《あ》しき半面ですよ……)いや、いいとも、いいとも」と彼は百姓たちには眼もくれずに言葉をつづけた。「わしがよく言っておこう……もういい、帰れ(百姓たちは立ち上ろうとしなかった)。さあさあ、わしがいいと言ったじゃないか……帰れと言ったら、帰らんか」
アルカージイ・パーヴルイチはくるりと彼らに背を向けた。「いつも文句ばかり言いよる」と彼は歯の間から押し出すように言って、大股に家の方に歩き出した。ソフロンがその後につづいた。書記は、まるでどこか非常に遠くへ跳ぼうとしているかのように、円く眼を見はった。百姓頭はアヒルをおどかして、水溜りから追い出した。請願者はなおもしばらくその場に立ちつくして、互いに顔を見合せていたが、やがて後《あと》をふりかえりもせず、とぼとぼと家路についた。
二時間ほど後には、私はもうリャーボウォに着いていて、なじみの百姓のアンパジストをつれて猟に行く支度をしていた。私の出立する間際まで、ペーノチキンはソフロンに腹を立てていた。私はアンパジストを相手にシュピーロフカの百姓たちのことや、ペーノチキン氏のことを話しはじめ、あそこの管理人を知らないか、ときいてみた。
「ソフロン・ヤーコヴリチを?……もちろん、知ってまさあ!」
「どんな男だね?」
「犬ですよ、人間じゃありません。あんな畜生はクールスクまで探しに行ったって、見つかりゃしませんよ」
「そりゃまた、どうして?」
「そりゃシュピーロフカは名儀だけは、ええと、なんと言ったっけな、その、ペンキンだったかのものになっているけれど、実権はあの人が握ってるんじゃありません。ソフロンが握ってるんです」
「まさか?」
「自分の財産みたいに勝手に扱ってますよ。百姓どもはあいつに借金だらけで、まるで作男みたいに、あいつのために働いてます。馬車ひきにやられる者もあれば、どこへ行けの、そこへ行けのと……すっかりひどい目に合わされてまさあ」
「地面が少ししかないようだが?」
「少しですって? あいつがフルイノフカ村から借りてる分だけで八十町歩、それにこの村からは百二十町歩借りてますよ。それから自分の村のが、まるまる百五十町歩もあるんです。おまけに耕作だけ商売にしてるんじゃありません。馬も商売にしてますし、やれ家畜だ、やれタールだ、やれバターだ、やれ麻だ、やれなんだ、かんだと……利口なことは、えらく利口で、金もしこたまあるんですよ、あの畜生は! おまけに百姓のことを、よくぶんなぐりますんで。あいつは獣《けだもの》で、人間じゃありません。さっきも言った通り、犬ですよ、畜生ですよ、全くの畜生ですよ」
「じゃ、どうしてあの男を訴えて出ないんだ?」
「とんでもない! 旦那にとっちゃ、余計なことでさあ! 滞納金さえなけりゃ、旦那はどうだっていいじゃありませんか? それに、まあためしに」としばらく黙りこんだあとで、彼は附け加えた。「訴え出てみなさい。いや、あいつに……その、なんだ……いや、もう、ぎゅうぎゅういうほどひどい目に合わされますから……」
私はアンチープのことを思い出して、見たままを話して聞かせた。
「それじゃ、あいつは今度はあの爺さんをかみ殺してしまいますよ。人間一匹をすっかりかみ殺してしまいます。百姓頭は今度はあの爺さんをびしびしぶんなぐるこってしょう。なんて運の悪いやつなんでしょうな! それもなんでそんな目に合うかといえば……寄り合いであいつと、管理人と口論をしたんです、つまり、我慢ならなかったんでしょう……大したことでもあるまいに! それを根に持ってあいつは、爺さんを、アンチープを、つっ突き出したんです。今度は食いつくしてしまいますよ。なんせあいつは畜生です、犬です、――神様、悪態をお許し下さいませ、――襲いかかる相手をちゃんと心得ているんです。少しでも金があって、家族の多い年寄りには、あの古狸《ふるだぬき》め、手出しをしないくせに、今度はひどく向っ腹を立てたもんだ! アンチープの倅どもを、順番も来ないのに、兵隊にやっちまってよ、恥知らずのぺてん師め、奴《ど》畜生、おお神様、私の悪態をお許し下せえ!」
私たちは猟に出かけた。
シレジア、ザルツブルン
一八四七年七月
[#改ページ]
事務所
秋のことであった。私はもう何時間も鉄砲を持って野原をぶらついていた。お天気さえよければ、三頭立ての馬車が私を待っている。クールスク街道の旅籠屋《はたごや》に、夕方前には帰らなかったに違いない。けれども冷たい小糠雨《こぬかあめ》が朝早くから、婚期を逸した娘にも劣らず、こやみなく、しつこくつきまとうので、私はとうとう、どこか近所に雨宿りをしなければならなくなった。どっちへ足を向けたものかと思案しているうちに、ふとエンドウ畑の傍に立っている低い掘立小屋が眼に入った。掘立小屋の傍へ行って、藁庇《わらびさし》の下をのぞきこむと、よぼよぼの爺さんが一人いた。私はすぐに、ロビンソン・クルーソーが無人島の洞窟の中で見つけたという、死にかかっているヤギを思い出した。老人はうずくまって、霞《かすみ》のかかった小さな眼を半ば閉じ、兎のようにせかせかと、けれども用心深く(可愛そうに歯が一本もなかったので)、しなびた堅いエンドウの粒を、口の中をのべつあちこちと転がしながら、もぐもぐ噛《か》んでいる。老人はあんまりそれに気を取られて、私の来たのにも気がつかないほどであった。
「爺さん! おい、爺さん!」私は声をかけた。
老人は噛むのをやめて、眉を高くつり上げ、ようやく眼をあけた。
「なんだね?」としゃがれ声で、もぐもぐ言う。
「この近くに村があるかね?」と私はきいた。
老人はまた噛みはじめた。私の言ったことが聴き取れなかったと見える。そこで前よりも大きな声でもう一度きいてみた。
「村だって?……なんの用で?」
「ほかでもないが、雨宿りをしたいのだ」
「なんだね?」
「雨宿りだよ」
「ああ!(老人は日やけした頸筋《くびすじ》をポリポリ掻いた)なら、お前さん、こう行きなされ」とだらしなく両手を振りながら、急に言い出した。「ほら……そこの、林について行くと、こう行くと――道に出る。その道にかまわずに、どこまでも、右へ右へと、右へ右へと行きなされ……そうすると、アナーニエヴォという村に出るだ。でなけりゃ、シートフカにも出られる」
老人の言葉は聴き取りにくかった。口髭が邪魔な上に、舌がよくまわらなかったからである。
「お前は一体どこの者だね?」私は彼にたずねた。
「なんだね?」
「お前はどこの者だい?」
「アナーニエヴォの者だ」
「ここで何をしてるのかね?」
「なんだね?」
「ここで何をしてるんだい?」
「番をしてるよ」
「でも、なんの番をしてるのかね?」
「エンドウのよ」
私はふき出さずにはいられなかった。
「とんでもない、年はいくつだな?」
「知らねえ」
「どうやら、眼がよく見えないようだな?」
「なんだね?」
「眼がよく見えないだろうってことさ」
「うん。なんにも聞えねえことがあるだ」
「それじゃ番人が出来るはずはないじゃないか? とんでもない」
「そんなこたあ、目上の人の知ったことで」
『目上の人!』と考えて、そぞろふびんに思いながら、私は哀れな老人を眺めた。彼はふところをまさぐり、こちこちに硬くなったパンの切れはしを取り出すと、それでなくても落ち窪《くぼ》んだ頬をしきりに窪ませながら、子供のようにしゃぶりはじめた。
私は老人の教えてくれた通り、林の方向に歩き出し、右へまがり、なおも右へ右へととって、ついにとある大きな村にたどり着いた。村には新しい好みの、つまり円柱のある石造りの教会と、同じく円柱のある地主屋敷があった。まだ遠くから、網の目のように細い雨を透《とお》して、板葺《いたぶき》の、二本煙突の家が見えた。それはほかの家よりも一段高く、てっきり百姓頭の住居と見うけられた。私はそっちへ足を向けた。そこへ行けば、サモワールも、お茶も、砂糖も、あまりすっぱくないクリームもあるだろうと期待しながら。私は寒さにふるえている犬をつれて、昇降階段を上がり、玄関に入って、戸をあけた。けれども、そこには、百姓家に普通あるような道具類はなくて、書類を積み上げたいくつかのテーブル、赤い二つの戸棚、汚れたインク壺、重さ一プードもあろうかと思われる錫《すず》製の吸取砂入れ〔インクで書いた紙の上に撒《ま》いて、インクを吸取らせるのに使った。一プードは一六・三八キログラム、四貫三六八匁〕、途方もなく長い鵞《が》ペンなどが眼に入った。一つのテーブルの上に、年のころ二十歳ぐらいの、脹《は》れぼったい病人のような顔をした、眼の小さい、額の脂《あぶら》ぎった、もみあげのやたらに長い若者が腰かけていた。型のごとく、襟や腹のあたりをてかてか光らせた、鼠色の南京木綿の長上衣《カフタン》を着ている。
「なんの御用で?」思いがけなくむんずと鼻面をつかまえられた馬のように、ぐいと頭を上にのけ反《ぞ》らせて、若者はこうたずねた。
「ここは番頭さんのお住居《すまい》ですか……それとも……」
「ここはお屋敷の事務局です」と彼は私の言葉をさえぎった。「私は今当番なんでして……看板をご覧になりませんでしたか? そのために看板をかけてあるんですがね」
「どこか、ここで着物を乾かすところはありませんか? 村にサモワールのある家はありませんか?」
「サモワールがなくてどうしましょう」と鼠色の長上衣の若者はもったいぶって異議を申し立てた。「チモフェイ神父のところか、でなければお屋敷の召使部屋か、でなければナザール・ターラスイチのところか、でなければ鳥番のアグラフェーナのところへおいでなさい」
「お前、誰としゃべってるんだい、この馬鹿野郎。眠れやしないじゃないか、馬鹿!」という声が隣の部屋から聞えてきた。
「今、どこかの旦那が見えて、どこか着物を乾かすところはないだろうかって、たずねていらっしゃるんで」
「どこの旦那だい?」
「知りませんよ。犬をつれて、鉄砲をしょった方だ」
隣の部屋で寝台のきしむ音がする。ドアが開いて、五十ぐらいの、肥った、背の低い男が入って来た。牡牛のような頑丈な頸《くび》をして、どんぐり眼で、頬がおそろしく円く、顔じゅうてらてら光っている。
「どんな御用で?」と彼は私にきいた。
「着物を乾かしたいんです」
「ここはそんな場所じゃありませんがな」
「ここが事務所だとは、つい知らなかったもんで。でも入費はお払いする用意が……」
「いや、なに、ここだって出来ないことはありませんよ」と肥っちょは答えた。「まあ、こちらへお入りになりませんか(こう言って彼は私を次の部屋へ案内したが、それは彼の出て来た部屋とは違う部屋であった)。ここでよろしいですか?」
「結構……ところで、クリーム入りのお茶をお願い出来ませんか?」
「かしこまりました、ただ今。着物をお脱ぎになって、ひと休みなすって下さいませ、すぐにお茶の用意が出来ますから」
「ここはどなたの持ち村で?」
「エレーナ・ニコラエヴナ・ロスニャコーワ様のもので」
彼は出て行った。私はあたりを見まわした。私のいる部屋と事務所とを隔てている仕切り壁に沿って、大きな革張りの長椅子が置いてある。やはり革張りの、おそろしく背の高い椅子が二つ、通りに面したたった一つの窓の両側に置いてあった。バラの花模様のある緑色の壁紙を張った壁には、大きな油絵が三枚かかっている。一枚のには青い首輪をはめたセッター種の犬が描かれていて、『これぞわが楽しみ』という題銘をしるしてある。犬の足もとには川が流れ、川の向う岸の松の木の下には、なみはずれて大きな兎が片耳を立ててうずくまっている。次の絵には二人の老人がスイカを食べているのが描かれている。スイカの背後のずっと遠くに、『満足の殿堂』と刻まれたギリシャふうの柱廊が見えている。三枚目の絵には en raccourci(足を縮めた)のポーズで横たわっている、膝がしらの赤い、踵《かかと》のひどく太い半裸体の女が描かれてあった。私の犬は少しもためらわずに、超自然的な努力をして長椅子の下にもぐりこんだが、むやみとくしゃみをしていたところを見ると、そこにはきっと、ひどく埃がたまっていたに違いない。私は窓ぎわへ行ってみた。地主の家から事務所まで、通りを横切って斜交《はすかい》に板を敷いてある。なんせ、あたりは、この地方特有の黒土の土壌と長雨のために、おそろしいぬかるみになっていたから、まことに有益な用心ぶりである。通りを背にして立っている地主屋敷の附近には、地主屋敷につきものの光景が見られる。色|褪《あ》せた更紗《さらさ》の着物をきた女中たちがあちこち駆けずりまわっている。下男たちはぬかるみの中をのろのろ歩きながら、時々立ちどまっては、思案顔に背中を掻いている。繋《つな》がれている小頭《こがしら》の馬が大儀そうに尻尾を振り、鼻面を高くさしあげて籬《まがき》をかじっている。牝鶏《めんどり》がココと鳴きたてる。肺病やみのような七面鳥は絶えず呼び合っている。湯殿とおぼしい薄暗い腐れかかった建物の昇降口に、ギターを持ったがっしりした若者が腰をおろして、いなせな調子で、
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ええ――花の都をあとにして
わたしゃなります荒野の草に……
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などと、流行の小唄をうたっていた。
肥っちょが私の部屋に入って来た。
「さあどうぞ、お茶を持って参りました」と気持のよい微笑をうかべながら私に言った。
鼠色の長上衣《カフタン》を着た事務所当番の若者が、古ぼけたカルタ卓《づくえ》の上にサモワールや、急須《きゅうす》や、欠けた受け皿に載せたコップや、クリームの壺や、石のように硬い環形パンを一束ならべた。肥っちょは出て行った。
「あれはなんだい、番頭かね?」私は当番にきいた。
「いいえ、そうではございません。もとは会計主任でごさいましたが、今度、事務長に昇進しましたので」
「するとここには、番頭というものはいないのかね?」
「はい、おりませんです。管理人のミハイラ・ヴィクーロフというのはいますが、番頭はおりません」
「では支配人がいるのかね?」
「むろん、おります。ドイツ人で、カルロ・カールルイチ・リンダマンドルといいます。でも指図《さしず》はしておりません」
「では、誰が指図しているんだい?」
「奥様が御自分で」
「へえ、そうかね!……ところで、事務所には人が大勢いるのかな?」
若者は考えこんだ。
「六人います」
「誰と誰?」私はたずねる。
「それはこうです。まず会計主任のワシーリイ・ニコラエヴィチ、それから事務員のピョートル、ピョートルの弟のイワン、これも事務員、もう一人のイワン、これも事務員、ヨスケンキン・ナルキーゾフ、これまた事務員、それからこの私と――なかなか数えきれませんよ」
「きっと、こちらの奥さんは、召使を大勢かかえておいでだろうね?」
「いいえ、大勢というほどでは……」
「それにしてもどのくらい?」
「たぶん、百五十人くらいでしょう」
私たちはしばらく黙りこんだ。
「ときに、どうだね、君は書く方は上手かい?」私はまた話しはじめる。
若者は相好《そうこう》をくずして笑い、こっくりうなずいてみせると事務所へ行って、字の一ぱい書いてある紙片を持って来た。
「これが私の書いたものです」相変らずにこにこしながら、彼は言った。
見ると、灰色の全紙四つ折りの紙に、綺麗な筆太の筆跡で次のように書いてあった。
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命令
アナーニエヴォ本屋敷事務局より
管理人ミハイラ・ヴィクーロフ宛、第二〇九号
本状受領後ただちに次の件を取り調べることを命ずる。昨夜|酩酊《めいてい》し、いかがわしき歌をうたいながら、イギリス庭園に侵入し、フランス人家庭教師アンジェーヌ夫人の安眠を妨害したのは誰か? 守衛どもは何を見ていたのか、また当夜庭園の守衛に当たり、このような失態を見逃したのは誰か? 右の件、詳細取り調べの上ただちに事務所に報告するよう命ずる。
事務長 ニコライ・フヴォストフ
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命令には『アナーニエヴォ屋敷事務局之印』という大きな定紋《じょうもん》入りの印章がおしてある。その下には『正確に実行のこと。エレーナ・ロスニャコーワ』という但し書きがしてあった。
「これは奥さんが御自分でお書きになったのかね?」私はきいた。
「むろん、御自分でお書きになったものです。いつも御自分でお書きになるんで。そうじゃないと命令は有効になりません」
「それで、何かね、この命令を管理人に送るのかい?」
「いいえ、違います。自分でやって来て読むんです。つまり、読んで聞かせるんで。何しろうちの管理人は字が読めませんから(当番はまたすこし黙りこんだ)。で、どうでしょう、上手に書けておりますでしょうが?」
「上手だ」
「実は、私が文を作ったんじゃありません。その方《ほう》はヨスケンキンが名人なんです」
「え?……ここで初め命令の下書きを作るのかね?」
「でなくて、どういたしますんで? ぶっつけに清書なんざできません」
「で、君はいくら給料をもらっている?」私は彼にたずねた。
「三十五ルーブリと、別に靴代として五ルーブリです」
「それで君は満足しているのかね?」
「そりゃ、満足してますとも。事務所へは誰もが入れるわけじゃありません。私など、正直なところ、運がよかったのです。伯父がこちらの家令をしてるものですから」
「君にもよくしてくれるかい?」
「よくしてくれますとも。でも本当のことを申しますと」と溜息をつきながら彼は言葉をつづけた。「例えば、商人のところに勤めた方が、つまりその、私たち仲間にとってはましなんです。商人のところにいる私たち仲間はとてもいいんですよ。現に昨晩もヴェニョフから商人が参りまして、――その手代が話してましたが……いいんですよ、とても較べものになりません」
「すると、何かね、商人の方がたくさん給料を出すのかね?」
「とんでもない! 商人に給料なんかねだったら、すぐにお払い箱ですよ。いいえ、商人のところでは主人を信用して、絶対服従して暮さなくちゃなりません。そうすれば、食べさせも、飲ませもするし、着せてもくれ、なんでもしてくれます。気に入ればもっとたくさんくれます……給料なんて問題じゃありません! そんなものは全く不要です……それに商人はロシアふうに、われわれ風情《ふぜい》と同じように、ざっくばらんに暮しています。一しょに旅に出ても、主人がお茶を飲めば、こちらも飲む。主人の食べものと、同じものを食べる。商人は……いや、とても。商人は旦那衆とは違いますんで。商人はわがままを言うようなことはありません。まあ、怒ったところで、一つ二つぶんなぐれば、それでおしまいです。じわりじわりといじめたり、当てこすりを言うようなことはしません……ところが旦那衆が相手だと災難ですよ! 何をしてもお気に召さない。あれもいけない、これも駄目ときます。水を入れたコップや食べ物を持って行くと――『ああ、この水は臭い! この食べ物は臭い!』と言う。そこで一たんそれを下げて、ドアの外にしばらく立っていてから、またそのまま持って行くと――『いや、今度はいい、今度は臭くない』とくるんで。それから、奥様方ときたら、いやほんとに困ったもので!……それからまたお嬢様方ときたら!……」
「フェージュシカ!」と事務所で肥っちょの呼ぶ声がする。
当番は足早に出て行った。私はお茶を一杯飲み干して、長椅子の上に横になると、そのまま寝こんだ。私は二時間ばかり眠った。
眼が覚めたので、起き上ろうと思ったが、身体がだるくてたまらない。眼を閉じたが、もう眠れなかった。仕切り壁の向うの事務所でひそひそと話している声が聞える。私は何げなく耳を傾けた。
「そうですとも、そうですとも、ニコライ・エレメーイチ」と一人が言う。「そうですとも。それは勘定に入れないわけには行きませんとも。行きませんとも、全く……ふむ!」(話し手は咳ばらいをした)
「わしを信用してもらいたいね、ガヴリーラ・アントーヌイチ」と肥っちょが言い返した。「わしがここのしきたりを知らないはずがあるかどうか、まあ考えてもみて下さい」
「そりゃ、あんたが知らんで誰が知っていましょう、ニコライ・エレメーイチ。あんたはここでは、いわば、頭株なんだから。さあ、それでどうしましょう?」と聞き覚えのない声の主《ぬし》が言葉をつづける。「どう決めましょう、ニコライ・エレメーイチ? それを聞きたいもんで」
「どう決めるって、ガヴリーラ・アントーヌイチ? つまり、あんた次第ですよ。でもあなたは、どうやら気乗りがしないようですな」
「とんでもない、ニコライ・エレメーイチ、何をおっしゃる? 商売するのが、商《あきな》いするのがわしらの仕事でさ。買うのはわしらの仕事ですよ。いわばわしらは、ニコライ・エレメーイチ、それで立ってるんですよ」
「じゃ、一プード八ルーブリ」と肥っちょが句切りをつけて言った。
溜息が聞えた。
「ニコライ・エレメーイチ、そりゃあんまり酷《こく》じゃありませんか」
「ガヴリーラ・アントーヌイチ、そうでなかったらお断りだよ。神様の前に出たつもりで言うが、お断りだ」
沈黙がはじまった。
私はそっと身を起して、仕切り壁の隙間からのぞいて見た。肥っちょはこちらに背を向けて坐っている。それと向い合って、四十がらみの、やせぎすで、蒼白い、まるで精進油《しょうじんあぶら》でも塗ったような顔をした商人が坐っていた。彼は絶えず顎鬚《あごひげ》をぴくぴく動かし、せわしなくまたたきをしては、唇をひきつらせる。
「今年の穀物の出来|栄《ば》えは、ほんとに、すばらしいもんですな」と彼はまた言い出した。「こちらへ来る途々《みちみち》ずっと見とれていましたよ。ヴォローネジからこっちはすばらしいもので、全く極上物ですて」
「たしかに、出来は悪くない」と事務長は答えた。「でも、知っての通り、ガヴリーラ・アントーヌイチ、秋の満作も春しだいって言うからね」
「実際そうですとも、ニコライ・エレメーイチ。何事も神様の御心一つですて。本当にあなたのおっしゃる通りです……ときに、お客様が眼を覚ましたらしゅうございますな」
肥っちょは振り向いて……聞き耳をたてた……
「いや、眠っている。もっとも、もしかすると、その……」
彼は戸口に近づいた。
「いや、眠っている」と繰返して、もとの席にかえった。
「さあ、それでどうしたもんでしょう、ニコライ・エレメーイチ?」とまた商人が話しはじめた。「仕事の方を片づけなくっちゃ……では、おっしゃる通りにしましょう、ニコライ・エレメーイチ、おっしゃる通りにしましょう」と絶えず目ばたきしながら彼は言葉をつづけた。「鼠色紙幣〔五十ルーブリ紙幣〕二枚と白紙幣〔二十五ルーブリ紙幣〕一枚をあんたにお納め願って、あちらへは(と彼は地主屋敷の方を顎《あご》でしゃくってみせた)六ルーブリ半ということにしましょう。これで手打ちということにして、どうでしょう?」
「鼠色四枚だ」と番頭が言った。
「では、三枚!」
「白なしの鼠色四枚だ」
「三枚にして下さいよ、ニコライ・エレメーイチ」
「三枚半、もう一コペーカも引きなし」
「三枚ですよ、ニコライ・エレメーイチ」
「もう言いっこなし、ガヴリーラ・アントーヌイチ」
「なんて頑固なんだろう」と商人はつぶやいた。「いっそ奥様とじきじき話をつけるとしよう」
「勝手になさるがいい」と肥っちょが答えた。「初めからそうすりゃよかったのだ。本当に、なんだってそんなに気をつかうことがあるんだね?……その方がずっといい!」
「いやもうたくさん、たくさんですよ、ニコライ・エレメーイチ。すぐ腹を立ててしまって! なに、ただちょっと言ってみただけですよ」
「いや、本当の話がだ……」
「もうたくさんだってば……冗談だって言うのに。さあ、三枚半取って下さい、お前さんにゃかなわない」
「四枚もらうべきだったのに、つい急いで、馬鹿をみたわい」と肥っちょはつぶやいた。
「それで、あちらへは、お屋敷へは六ルーブリ半でがすよ、ニコライ・エレメーイチ、――六ルーブリ半で麦を売ってもらえるんですな?」
「六ルーブリ半てことはもうさっき言った」
「さあ、それじゃ手打ちだ、ニコライ・エレメーイチ(商人は指を拡げた手で事務長の掌を打った)。御機嫌よう!(商人は立ち上がった)では、ニコライ・エレメーイチ、わしはこれから奥様のところへ行って、お取次ぎをお願いし、ニコライ・エレメーイチが六ルーブリ半とお決めになりました、と申しあげるからね」
「そう言うがいい、ガヴリーラ・アントーヌイチ」
「それではお取りなさって」
商人は厚からぬ札束を番頭に手渡し、お辞儀をして、首を振り、二本指で帽子をつまみあげ、肩をすくめ、全身をくねらせて、長靴をお上品にキュッキュッときしませながら出て行った。ニコライ・エレメーイチは壁際へ行って、どうやら商人から受け取った札を改め出したらしい。向うの戸のかげから、頬髭の濃い、赤毛の頭がぬっと出た。
「おい、どうした?」と頭《あたま》がきいた。「万事うまく行ったかい?」
「万事うまく行った」
「いくらだ?」
肥っちょはいまいましげに片手を振って、私のいる部屋を指さした。
「あ、そりゃよかった!」頭はそう言ってまたかくれた。
肥っちょはテーブルの傍へ行って、腰をおろし、帳簿をひろげ、算盤《そろばん》を取り出してパチパチ珠《たま》をはじきだしたが、人さし指を使わずに中指を使った。その方が体裁がいいからなんで。
当番が入って来た。
「なんの用だい?」
「ゴロプリョーキからシードルが参りました」
「あ! じゃ、呼んでおくれ。ちょっと待った、待った……その前に隣の部屋へ行って、よその旦那がまだおやすみか、それとももうお眼覚めになっているか、見てきてくれ」
当番は用心ぶかく私の部屋に入ってきた。私は枕代りの獲物袋の上に頭をのせて、眼を閉じた。
「おやすみです」と事務所にひっ返して、当番がささやいた。
肥っちょはぶつぶつ言った。
「じゃ、シードルを呼んでくれ」とやっと彼は言った。
私はまた身を起した。背の高い、三十ぐらいの、丈夫そうな、頬の赤い百姓が入ってきた。髪の毛が亜麻色で、短い縮れた顎鬚《あごひげ》を生やしている。彼は聖像にお祈りをあげ、事務長にお辞儀をすると、帽子を両手に持って、腰をのばした。
「今日は、シードル」と算盤をパチパチはじきながら、肥っちょが言った。
「今日は、ニコライ・エレメーイチ」
「ところで、どうだね、道のぐあいは?」
「道はいいですよ、ニコライ・エレメーイチ。ぬかるみもほんの少しで」(百姓はゆっくりと、あまり高くない声で話した)
「おかみさんは達者かね?」
「そりゃ達者ですとも!」
百姓は溜息をついて片足を前に出した。ニコライ・エレメーイチは鵞《が》ペンを耳にはさんで鼻をかんだ。
「それで、なんの用で来たんだい?」碁盤縞のハンカチをポケットにしまいながら、彼は質問をつづけた。
「実は、ニコライ・エレメーイチ、わしらの方から大工を出せとおっしゃるもんで」
「それで、何かい、お前の方には大工がいないとでも言うのかね?」
「大工がいないなんてことはありゃしません、ニコライ・エレメーイチ。わしらの所は森ばかりの土地だから――知れたことで。けんど、今は忙しい時だもんで、ニコライ・エレメーイチ」
「忙しい時だと! つまり、お前たちは他人様《ひとさま》の仕事は喜んでするが、自分とこの奥様の仕事をするのは好まないってわけだな……どっちにしたって同じじゃないか!」
「そりゃたしかに、仕事は同じですよ、ニコライ・エレメーイチ……でも、その……」
「なんだい?」
「手間賃がまことに……その……」
「それがどうしたと言うんだい! いや、すっかり増長しやがって。聞いてあきれるよ!」
「それに、全くの話が、ニコライ・エレメーイチ、仕事はしめて一週間分しかないのに、一月《ひとつき》も引っぱられるんだから。やれ材料が足りないだの、やれ庭の掃除をしろだのと」
「それがどうしたってよ! 奥様が御自分でそうお言いつけになったのだ、おれやお前がとやかく言う筋合いじゃない」
シードルは黙りこんで、足を踏みかえ、踏みかえしはじめた。
ニコライ・エレメーイチは首を横にかしげて、せっせと算盤をはじき出した。
「村の……百姓どもが……ニコライ・エレメーイチ……」とシードルが、一語一語、口ごもりながら、やっと口を切った。「お前様によろしくとのことで……ほら、これを……その……」(彼は大きな手を百姓外套の内ぶところにつっこみ、くるくる巻いてある赤い花模様のハンカチを取り出しにかかった)
「何をするんだ、お前は、この馬鹿、気でも狂ったのか?」肥っちょはあわてて彼の話をさえぎった。「おれの家へ行くんだよ」と呆気《あっけ》にとられている百姓をほとんど押し出さんばかりにして、彼は言葉をつづけた。「あっちで家内に案内を乞うがいい……お茶ぐらい出すだろう。おれはすぐ行くから、先に行っててくれ。まあ、いいから、行ってろってことよ」
シードルは出て行った。
「なんちゅう……熊みたいな野郎だ!」と彼の後姿に事務長はつぶやいて、頭を振り、またもや算盤に取りかかった。
突然、「クープリャ! クープリャ! クープリャは負けないぞ!」というわめき声が往来や昇降口で聞えたと思ったら、少し経って、背の低い、見たところ肺病やみらしい男が事務所に入ってきた。並はずれて長い鼻をし、大きな眼をじっと見すえ、ひどく高慢ちきな様子をしている。アデライド色の、つまりここらで言うオデロイド色の、古ぼけた、ぼろぼろのフロックコートを着ている。襟はフラシ天で、ちっぽけなボタンがついている。彼は薪《たきぎ》の束をかついできたのである。下男が五人ほどその周りに群がって、口々に「クープリャ! クープリャは負けないぞ! クープリャがペーチカ焚《た》き、ペーチカ焚きに出世した!」と叫んでいる。けれどもフラシ天の襟のフロックコートを着た男は、仲間の大騒ぎなど見向きもせず、顔色一つ変えなかった。彼は足取り正しくペーチカの傍まで行って、肩の荷をほうり出し、腰をのばすと、うしろのポケットからタバコ入れを取り出し、大きく眼を見はって、燃えさしの混った金花菜《ドンニク》〔嗅ぎタバコの代用品〕を鼻に詰めはじめた。
この騒々しい一隊が入ってきたとき、肥っちょは眉をひそめかけて、席から立ち上った。けれども事の次第がわかると、にやりと笑って、ただ、隣の部屋に猟をなさる方が休んでおられるから、大きな声でわめかないように、と命じただけだった。
「猟をなさる方っていうと?」二人ばかりの者が声をそろえてきいた。
「地主様だ」
「へえ!」
「勝手に騒ぐがいい」とフラシ天の襟を着けた男が、両手を拡げて見せて、口を切った。「おらにとっちゃなんでもねえよ! ただおらにかまわないでくれ。おれはペーチカ焚きに出世したんだ……」
「ペーチカ焚きだ! ペーチカ焚きだ!」と一同は喜んではやしたてた。
「奥様のお言いつけだ」と彼は肩をすくめて言葉をつづけた。「今に見ろ……お前たちは豚飼いに出世するから。ところがおれは仕立屋で、それも腕のいい仕立屋なんだ、モスクワで一流の親方に習って、将軍様の服まで縫ったんだ……こればっかりはおれから取り上げるわけにはいくめえよ。お前たちは何が威張れるんだい?……何が? 元はお屋敷に勤めてましたってことかい? お前たちは穀《ごく》つぶしだ、居候だ、それだけのことよ。おれなんか暇を出されたって、飢え死《じに》も、のたれ死《じに》もしやしねえ。おれに旅行免状をくれてみろ、立派に年貢をおさめて、奥様方を御満足させらあ。ところがお前たちはどうだい? 広い世間に出りゃ、ハエみてえに、のたれ死するのが関の山よ!」
「よくもそんな駄法螺《だぼら》が吹けたもんだ!」とあばた面《づら》で、淡色の髪の毛をし、赤いネクタイを締め、両肘の破れた着物をきた若者が話に口を入れた。「てめえは旅行免状をもらって行ったくせに、奥様に一コペーカだって年貢をお目にかけたことはないし、半コペーカだって自分で稼ぎ出せなかったじゃないか。やっとこさ、足を引きずって帰ってきて、それからというものずっと着たきり雀だがな」
「だって仕方がねえよ、コンスタンチン・ナルキーズイチ!」とクプリヤンが言い返した。「男一匹、女に迷って――台なしになったんだ、滅びてしまったんだ。まずおれのしただけのことをしてみて、コンスタンチン・ナルキーズイチ、それからおれのことをとやかく言うがいいぜ」
「それも、どんなやつに惚れたってんだ! ひどい≪すべた≫じゃないか!」
「いや、そんなことは言うもんでねえよ、コンスタンチン・ナルキーズイチ」
「誰が本当にするもんか? だって、おれはあの女を見たもんな。去年、モスクワで、この眼でちゃんと見たんだぜ」
「去年は実際、ちっとばかりきりょうが落ちてたんだ」とクプリヤンが言った。
「いやさ、みんな」と人を小馬鹿にしたような、いけぞんざいな声で、背の高い、やせぎすの男が言い出した。にきびだらけの顔で、毛を縮らせ、油をてかてかつけているところを見ると、侍僕に違いない。「一つクプリヤン・アファナーシエヴィチに例の歌をうたってもらおうじゃないか。さあ、始めてくれ、クプリヤン・アファナーシエヴィチ!」
「そうだ、そうだ!」と他の連中も尻馬《しりうま》に乗って言う。「よう、よう、アレクサンドラ! クープリャにはうってつけだ、申し分ねえ……さあ歌ったり、クープリャ!……頼むぞ、アレクサンドラ!(屋敷勤めの召使たちは、男性のことを言うのにも、一そうやさしみをそえるために、しばしば女性名詞の語尾aを用いる)さあ歌ったり!」
「ここは歌なんかうたう所じゃねえよ」とクプリヤンはきっぱりとはねつけた。「ここはお屋敷の事務所だ」
「それがどうしたってんだ? ははん、てめえは事務員をねらってるんだな、きっと! それに違いない!」とコンスタンチンが下卑《げび》た笑い声を立てながら答えた。
「何もかも御主人様のお心次第だ」と哀れな男が言う。
「そうれ見ろ、とんでもねえところをねらってやがって、ちぇっ、なんて太《ふて》え野郎だ? やい、やい!」
一同はどっと笑い出した。中にはぴょんぴょん跳び上るものもいた。一番大きな声で笑ったのは十五ぐらいの少年で、どうやら召使仲間の貴族格の忰《せがれ》らしい。ブロンズのボタンのついたチョッキを着こみ、薄紫色のネクタイを締めて、小さいながら一ぱしお腹をつき出している。
「ねえ、本当の話が、クープリャ、ぺーチカ焚きなんていやだろうな? 一向につまらん仕事だろう?」と、見受けたところ、おもしろくなって気がやさしくなったらしいニコライ・エレメーイチが、いい気になって言葉をかけた。
「なんですって、ニコライ・エレメーイチ」とクプリヤンが言い出した。「そりゃ、いかにもあなたは今じゃ屋敷の事務長をしていなさる。いかにもそれに違いありません。でもあなただってお咎《とが》めをうけて、百姓小屋で暮したことがあるじゃありませんか」
「おい、言葉に気をつけろ、つけあがるんじゃないぞ」と肥っちょはむっとして遮《さえぎ》った。「馬鹿だと思って冗談に言葉をかければ。お前のような馬鹿は、自分みたいな馬鹿を、人が相手にしてくれるだけでもありがたいと思うのが本当じゃないか」
「つい思い出したもんで、ニコライ・エレメーイチ、かんべんして下せえ……」
「その、ついってやつがいけないんだ」
戸が開いて、小姓《こしょう》が駆けこんできた。
「ニコライ・エレメーイチ、奥様がお呼びです」
「奥様のところには誰が来ているんだい?」と彼は小姓にきいた。
「アクシーニャ・ニキーチシナとヴェニョフから来た商人です」
「すぐ行く。それからな、お前たち」と説き伏せるような声で彼は言葉をつづけた。「新任のペーチカ焚きをつれて、ここから引き上げた方がいいぜ。万一、ドイツ人でも来ると、それこそ言いつけられるからな」
肥っちょは髪の毛をなでつけ、フロックの袖にほとんどかくれている手を口にあてて、オホンと咳ばらいをし、ボタンをきちんとかけると、大股に歩いて奥様のところに出かけて行った。ほどなく例の一隊もクープリャともども、後からぞろぞろとついて行った。私の旧知である当番一人が後に残った。彼は鵞《が》ペンを削りにかかったが、椅子に坐ったまま眠ってしまった。何匹かのハエがすぐさまこの好機会に乗じて、彼の口のまわりにたかった。蚊が一匹、額にとまって、きちんと肢《あし》をひろげ、おもむろにその針全部を柔らかな肉にさしこんだ。さっきの頬髯《ほおひげ》のある赤毛の頭が、またもや戸の背後から現われて、しきりに中をのぞいていたが、やがて事務所に入ってきた。見れば顔ばかりか、身体つきもかなりぶざまな男である。
「フェージュシカ! おい、フェージュシカ! いつも寝てやがる!」と頭《あたま》が言う。
当番は眼を開けて、椅子から立ち上った。
「ニコライ・エレメーイチは奥様のところへ行ったのかい?」
「奥様のところへ行きました、ワシーリイ・ニコライチ」
『ははあ! これが会計主任なんだな』と私は考えた。会計主任は部屋の中を歩き出した。もっとも、ただ歩くというよりは、むしろ忍び足で歩くといった方が正確で、総じて猫に似ている。肩の辺りでは、裾のずいぶんと狭い、古ぼけた黒の燕尾服がだぶついている。片手は胸にあて、もう一方の手で、馬の毛製の高く盛りあがった窮屈そうなネクタイをのべついじっては、しきりに首を振っている。音のしないヤギ皮の長靴をはいて、いとも軽やかに足を運ぶ。
「今日、地主のヤグーシキンさんがあなたをたずねて見えましたよ」と当番が言いそえた。
「ふむ、たずねてきた? で、どんなことを言っていた?」
「今晩チュチューレフの家で、あなたをお待ちしているということでした。ワシーリイ・ニコライチに話があるとのことでしたが、どんな用事かはおっしゃいませんでした。ワシーリイ・ニコライチはご存じだとかで」
「ふむ!」と会計主任は答えて窓の傍によった。
「どうだ、ニコライ・エレメーイチは事務所かね?」と玄関で大声がしたと思ったら、背の高い、どうやら怒っているらしい男が閾《しきい》をまたいで入ってきた。不細工ながら、表情に富んだ、元気のいい顔つきで、かなりこざっぱりした服装をしている。
「いないのかね?」と、彼はすばやくあたりを見まわしてたずねた。
「ニコライ・エレメーイチは奥様のところだ」と会計主任が答えた。「なんの用だね、パーヴェル・アンドレーイチ。わしが聞いておこう……一体、どんな用事だね?」
「どんな用事だと? わしがどんな用事できたか、お前さん知りたいのかい? (会計主任は痛々しげにうなずいた)おれはあいつに思い知らせてやりたいんだ、ろくでなしの布袋腹《ほていばら》め、卑怯者の告げ口野郎、おれはあいつにせいぜい告げ口の種をつくってやるんだ!」
パーヴェルは椅子にどっかと腰をおろした。
「何を、何を言うんだね、パーヴェル・アンドレーイチ? 気をしずめなさい……みっともないじゃないか? 相手が誰だか忘れちゃいけないよ、パーヴェル・アンドレーイチ!」と会計主任はおろおろして言った。
「相手が誰だかって? あいつが事務長に取り立てられたからって、おれの知ったことかい! とんでもないやつを取り立てたもんだ、あきれるよ! 全く、なんのこたあねえ、野菜畑ヘヤギを放したようなもんだわな!」
「もうたくさん、もうたくさん、パーヴエル・アンドレーイチ、もうたくさんだよ! やめなさい……なんだってそんな下らないことを言うんだね?」
「これは、小狐コン吉どん、尻尾を振りはじめたな!……あいつが来るまで待ってるぞ」とパーヴェルはぷりぷりしながら言うと、テーブルの上をどんと一つたたいた。「あ、やって来たわい」と窓の外を見て、彼は附け加えた。「うわさをすれば影とやら。ようこそ御入来だ!」(彼は立ち上った)
ニコライ・エレメーイチが事務所に入ってきた。彼の顔は満足にかがやいていたが、パーヴェルを見ると少しばかりうろたえた。
「今日《こんにち》は、ニコライ・エレメーイチ」とゆっくりと彼の方に近づいて行きながら、パーヴェルは意味ありげに言った。「今日は」
事務長はなんとも答えなかった。戸口に商人の顔が見えた。
「どうして返事をなさらんのですかね?」とパーヴェルはつづけた。「もっとも、いや……よそう」と彼は言い足した。「これじゃ話にならない。どなったり、悪態をついたりしてもなんにもならねえ。いや、それよりも、ニコライ・エレメーイチ、おだやかに話してくれた方がいいよ。なんでお前さんはわしをいじめるのかね? なんでわしを破滅させようとするんだね? さあ、そのわけを聞かしてもらおう、聞かしてもらおう」
「ここはお前さんと話し合う場所じゃないよ」と、いささか興奮の色を見せて事務長は答えた。「それにそんな場合でもない。ただ一つ、正直な話が、わしは不思議でならないよ。わしがお前さんを破滅させようとしてるだの、いじめるだのってのは、どっから出て来たんだ? 第一、わしがお前さんを、どうやっていじめられるもんか? お前さんがこの事務所でわしの下に勤めているわけでもあるまいし」
「知れたことよ、この上そんな目にあってたまるもんかい」パーヴェルは答えた。「だが、なんだってとぼけるんだね、ニコライ・エレメーイチ?……おれの話はわかっているくせに」
「いや、わからん」
「いや、わかっている」
「いや、神かけて、わからん」
「神かけてだと! よし、そんなら聞くが、お前さんは神様を恐れないんだな! さあ、なんだってお前さんは可哀そうな小娘に、生きたそらもないような思いをさせるんだ? あの娘《こ》をどうしようてんだ?」
「誰のことを言ってるんだね、パーヴェル・アンドレーイチ?」と、いかにも驚いたふりをして肥っちょがたずねる。
「なんだって! きっと、知らないとな? おれはタチヤーナのことを言ってるんだ。ちったあ神様を恐れるがいい、――なんの恨みがあってあんなことをするんだ? 恥を知るがいいよ。お前さんはれっきとした女房のある身で、子供衆はもう大きくて背丈がおれと同じくらいもあるじゃねえか。が、おれはほかでもねえ……晴れて夫婦になろうというんだ、やましいことはこれっぽちもない」
「それでわしのどこが悪いと言うんだね、パーヴェル・アンドレーイチ? 奥様がお前さん方の一しょになるのをお許しにならないんだよ。御主人様の思召《おぼしめ》しじゃないか! わしになんのかかわりがある?」
「お前さんになんのかかわりがある? じゃ、お前さんは、あの女中頭の鬼婆としめし合わしていなかったというのかい、きっと? 告げ口はしなかったとな、あ? 一つ聞かしてもらいたいが、頼りのない小娘に無実の罪をきせるようなことはしないかい? あの娘が洗濯係から皿洗いにされたのは、たぶんお前さんのせいじゃなかろうな! 打たれたり、棒縞《ぼうじま》の着物を着せられたりするのもお前さんのせいじゃないと?……恥を知るがいい、恥を、いい年をしてさ! いつ中気で身体の自由がきかなくなるかわからんくせして……神様のお裁きを受けなくちゃならねえだ」
「たんと悪態をつくがいいぜ、パーヴェル・アンドレーイチ……永いことはない、もうじきに年貢のおさめどきだ」
パーヴェルはかっとなった。
「なんだと? おれを脅《おど》かす気か?」と彼はかんかんになって言い出した。「おれが貴様をこわがっているとでも思ってるのかい? いやさ、お前さん、人を見てものを言うがいい! おれにこわいものがあるかい?……はばかりながらおれはな、どこへ行っても食いはぐれはないんだ。貴様なんぞとは――訳《わけ》がちがわあ! 貴様なんざここにへばりついていて、告げ口したり、泥坊したりするよりほかに、能がなかろう……」
「よくも増長したもんだな」と、これまた我慢しきれなくなった事務長が相手をさえぎった。「代診のくせに、たかが代診の、藪《やぶ》医者じゃないか。話だけ聞いてりゃ――へん、ご大そうなお方だよ!」
「おう、代診だとも。だがその代診がいなかったら、あなた様はいま時分、墓場の中で腐っていたことだろうよ……お前さんを治療してやったのは魔がさしたんだ」と歯をくいしばって附け加えた。
「貴様がおれを治療したと?……いや、貴様はおれに毒を飲ませて殺そうとしたんだ。貴様はおれに≪ろかい≫を飲ませたくせに」と事務長が引き取った。
「≪ろかい≫のほかに、貴様に効くものが何もなかったんだから、仕方がなかろう?」
「≪ろかい≫は医師法で禁止されている」とニコライはつづける。「わしの方が貴様を訴えたいくらいだ。貴様はわしを毒殺しようとしたんだ――そうだとも! けれども神様がお見逃しにならなかったのだ」
「もうたくさんだよ、たくさんだよ、二人とも……」と会計主任が口を出しかけた。
「うるさい!」と事務長はどなった。「こいつはわしを毒殺しようとしたんだぞ! お前だってわかるだろう?」
「そんなことはどうだっていいよ……ねえ、ニコライ・エレメーエフ」とパーヴェルはがっくりして言い出した。「最後にもう一ぺんお願いするが……お前があんまりなもんだから――おれも我慢が出来なくなったんだ。おれたち二人を放っといてくれ、いいかい? でないと、きっと、おれたちのどっちかがひどい目に会うから、とお前に言ってるんだよ」
肥っちょはいきり立った。
「わしは貴様なんぞ恐れやしない」彼はどなり立てる。「わかったか、この青二才! わしは貴様の親父もこらしめてやったんだ、やつの鼻っ柱をくじいてやったんだ、――いい見せしめだ、気をつけろ!」
「親父のことなんざ言わないでくれ、ニコライ・エレメーエフ、言わないでくれ!」
「こりゃ驚いた! わしに指図をする気か?」
「言わないでくれってのに!」
「ところがわしは、身のほどを忘れるな、と言ってるんだ……どんなに貴様が奥様のお気に入りだとうぬぼれていても、おれたち二人のうちどちらをお残しになるかってことになれば、――貴様なんか置いてもらえないよ、先生! 上の者に楯《たて》つくことは、誰だって御法度《ごはっと》なんだ、気をつけるがいい!(パーヴェルは憤怒《ふんぬ》のあまりわなわなとふるえていた)娘っ子のタチヤーナは身から出た錆《さび》さ……まあ、見ているがいい、あれくらいじゃすまないから!」
パーヴェルは両手を振りあげて飛びかかった。事務長はどうとばかりに床の上に転がった。
「懲役《ちょうえき》にやるぞ、懲役に」とニコライ・エレメーエフはうめき立てた……
この場面の結末をくどくどと述べようとは思わない。それでなくても私は、読者の感情を傷つけはしなかったかを恐れているのである。
その日のうちに私は家に帰った。それから一週間ほど後に聞いたところでは、ロスニャコーヴァ夫人はパーヴェルもニコライも屋敷に残して、女中のタチヤーナだけを追い出したとのことである。たぶん、この女には用がなくなったのだろう。
[#改ページ]
狼《ビリューク》
私はある晩、競争馬車《ドローシキ》に乗ってひとりで猟から帰るところであった。家まではまだ八露里ほどあった。足の速い私の牝馬は時折鼻を鳴らしたり、耳をぴくぴく動かしたりしながら、埃《ほこり》っぽい道を元気よく走っていた。疲れた犬はまるで縛りつけられているかのように、車の後輪《あとわ》から一歩もおくれずについて来た。雷雨がやって来そうだった。行く手を見れば、薄紫色の大きな夕立雲が森かげからむくむくと湧きあがって来る。長い灰色の雲が足早にやって来ては頭上を通りすぎる。柳の木が不安げに動いて、ざわざわと音を立てる。息苦しい暑さは急に湿り気をおびた冷気に変る。物蔭《ものかげ》は見る見るうちに濃くなって行く。私は手綱《たづな》で馬をピシリとたたいて、谷へ下り、柳林の生い繁った涸《か》れた谷川をわたって山に登り、森の中へ入った。行く手の道は、早くも闇につつまれたうっそうたるクルミ林の間をうねっている。私はやっとのことで馬を進めた。馬車は深い縦溝《たてみぞ》――百姓馬車の轍《わだち》――をのべつ横切っているカシや菩提樹の固い根っこに乗りあげては、がたんと跳《おど》りあがる。馬はつまずきがちになって来た。強い風がにわかに梢《こずえ》でゴウとうなり、樹々がざわめき出し、大粒の雨がバラバラとはげしい音を立てて木の葉を打ちはじめ、稲妻がぴかりと閃《ひらめ》いたと思ったら、たちまちすさまじい雷雨になった。雨は滝のように降り出した。私はゆっくりと馬車を進めたが、まもなく立ち止まらなければならなかった。馬はぬかるみにはまりこむし、一寸《いっすん》先も見えなくなったからである。私はやっとのことで大きな繁みに身を寄せた。背中を丸くし、顔をおおって、辛抱づよく災難の終るのを待っていた。と、不意に、稲妻がぴかりと閃いたとき、背の高い人影が道の上に立っているような気がした。私はじっと眼を凝《こ》らしてその方向を見透《みすか》した、――その人影は私の馬車の傍の地面から、まるで湧いて出たかのようであった。
「誰だ?」とよく徹《とお》る声でたずねる。
「お前は誰だ?」
「おれはここの森番だ」
私は自分の名を名のった。
「あ、存じています! お帰りの途中で?」
「そうだ。だが、何しろこの夕立で……」
「はい、ひどい夕立で」と声が答える。
白い稲妻が森番を頭から足の先までさっと照らし、それにつづいて耳をつんざくばかりの短い雷鳴が鳴り渡った。雨は一そうはげしく降り出した。
「すぐには止みませんな」と森番が言葉をつづける。
「どうしようもない!」
「なんでしたら、わしの小屋へ御案内いたしましょう」と彼はぶっきらぼうに言った。
「よろしく頼む」
「お乗りなさいまし」
彼は馬の頭の方に近づき、轡《くつわ》を取って引き立てた。馬車は動き出した。私は、『大海にただよう丸木舟のように』揺れる馬車のクッションにつかまって、大声で犬を呼んでいた。哀れな馬は難儀そうに泥濘《でいねい》に足をつっこみながら、すべったり、つまずいたりした。森番はまるで幻のように、轅《ながえ》の前を右や左によろめいた。私たちはかなり永い間道中をつづけた。やっと私の案内人は足をとめた。「さあ、着きましたよ、旦那」と彼は落ち着いた声で言った。木戸がギイときしむと、幾匹かの仔犬が一せいに吠え出した。頭を上げて、稲妻の光に見ると、籬《まがき》をめぐらした広い外庭のまん中に小さな百姓家があった。一つの小窓からぼんやりと火影がもれている。森番は馬を昇降口のところまで曳《ひ》いて行って、戸をたたいた。「ただ今、ただ今!」と言う甲高《かんだか》い声が聞え、パタパタとはだしの足音がして、閂《かんぬき》がきしむと、粗末なシャツを着て、布《きれ》の耳を帯にした十二ぐらいの女の子が、提灯《ちょうちん》を下げて、閾ぎわに現われた。
「旦那に明りをお見せしな」と彼は娘に言った。「私は旦那、馬車を庇《ひさし》の下に入れて来ましょう」
女の子は私の顔をちらりと見て家に入る。私はその後からついて行った。
森番の小屋は煤《すす》けた、低い、がらんとした一間きりで、天井床も仕切りもなかった。壁にはぼろぼろの裘《かわごろも》がかかっている。腰かけの上には単発銃が置いてあって、片隅にはボロ切れの山が転がっている。ペーチカの傍には大きな壺が二つ置いてあった。テーブルの上では木片《こっぱ》〔ロシアの田舎で十九世紀の後半まで照明用に用いられた〕が燃えていて、もの悲しげに燃え立ったり、消えかかったりする。小屋のまん中には、長い竿《さお》の先にくくりつけられた揺藍《ゆりかご》がぶら下っていた。女の子は提灯を消して、小さなベンチに腰をおろすと、右手で揺藍をゆすり、左手で木片を直しはじめた。私はあたりを見まわした、――私の心は疼《うず》き出した。夜、百姓の家へ入って来るのは楽しいものではない。揺藍の中の赤ん坊は苦しそうに、せかせかと息をしている。
「お前、ここに一人っきりかい?」私は女の子にきいた。
「はい」とやっと聞き取れる声で言う。
「お前は森番の娘かい?」
「はい」とささやくような声で答える。
戸がきしんで、森番が頭をかがめながら、閾《しきい》をまたいで入って来た。彼は床の上から提灯を取り上げるとテーブルに近づき、灯心をかき立てた。
「大方、木片《こっぱ》なんざお珍しいでしょうな?」と言って、捲き毛の頭を振った。
私は彼を眺めた。こんな立派な男はめったに見られやしない。背が高く、肩幅が広くて、みごとな体格をしている。ぬれた手織りのシャツの下から、たくましい筋肉がむくむくと盛り上っている。黒い縮れた鬚髯《ひげ》が、いかめしく男性的な顔の半ばをおおっている。生えつづいて両方一しょになった太い眉毛のかげからは、あまり大きくない鳶色《とびいろ》の眼が大胆に見つめている。彼は両手を軽く腰に当てて、私の前に立ち止まった。
私は礼を言って、名前をきいた。
「フォーマーって名ですが、あだ名は狼《ビリューク》〔オリョール県では孤独の気難しい人間を狼と言う〈原註〉〕と言います」と彼は答えた。
「あ、お前が狼《ビリューク》なのか?」
私は一そう好奇心をそそられて彼を眺めた。近郷近在の百姓たちから火のように恐れられている森番の狼《ビリューク》のことを、私はエルモライや他の人たちからしばしば聞いていた。彼らの言葉によると、およそこの世に彼のようにもののみごとに自分の仕事をやってのける者はいたことがない、とのことである。『枯枝一束だって持って行かせやしない。どんな時だって、たとえ真夜中だろうと、ひょっこり現われる。手向うなんてことはもってのほかで、悪魔のように力が強くて、すばしこいとくる……どんなにしたって抱きこむことが出来ない。酒も、金も効き目がない。どんな好餌《こうじ》にも釣られないのだ。これまでも村の連中が、あいつを娑婆《しゃば》から追い出そうとしたのは一度や二度じゃない、ところが駄目なんだ、――とんとその手に乗らないのさ』
近所の百姓たちは狼《ビリューク》のことをこう取沙汰していた。
「それじゃ、お前が狼《ビリューク》なのかね」私は繰返した。「わしも、お前のうわさは聞いたことがあるよ。なんでも、お前は誰にも容赦をしないということだが」
「自分の役目をきちんと果しているだけでさ」と彼は不愛想に答えた。「ただで御主人様に食べさしてもらうわけにゃいきませんでな」
彼は腰にさしてある斧《おの》を取って、床の上に坐り、木片《こっぱ》を割りはじめた。
「お前のところには女儀《かみ》さんはいないのかね?」私は彼にきいてみた。
「はい」と答えて力一ぱい斧を振る。
「してみると、死んだんだね?」
「いえ……はい……死にました」と彼は附け加えて、顔をそむけた。
私は口をつぐんだ。彼は眼を上げて私を見た。
「通りすがりの町方の者と駈落ちをしたんですよ」と彼は冷酷な微笑を浮べて言った。女の子はうなだれた。赤ん坊が眼を覚まして泣き出した。女の子は揺藍の傍へ行った。「ほら、これをやんな」と、汚れた哺乳《ほにゅう》びんを娘の手にそそくさと渡して、狼《ビリューク》は言った。「ほれ、あいつまで置き去りにしていきましたでな」と赤ん坊を指さしながら、小声で言葉をつづけた。彼は戸口に近づいて、立ちどまり、こちらを振り向いた。
「旦那は、なんでしょうな」と彼は言い出した。「わしらのパンなぞはおあがりならんでしょうな、と言って、家にはパンのほかには……」
「わしは腹なんかへってないよ」
「それでは、およろしいように。サモワールの支度ぐらいしてさしあげたいんですが、あいにくとお茶が切れてますんで……どれ、旦那の馬がどうしているか見てまいりましょう」
彼は出て行って、戸をバタンとしめた。私はもう一度あたりを見まわした。小屋は前よりも一そうもの悲しく見えた。冷たくなった煙のいがらっぽい匂いが不快に私の息をつまらせた。女の子はその場を動かず、眼も上げなかった。時たま揺藍をおしたり、ずりさがるシャツをおずおずと肩へ引き上げたりする。あらわな足は少しも動かないで、だらりと垂れていた。
「お前の名はなんて言うの?」私はたずねた。
「ウリータ」もの悲しげな顔を一そう下にうつむかせて、女の子は言った。
森番が入って来て、腰かけに腰をおろした。
「夕立は止みかけましたよ」しばらく黙っていた後で、彼はこう言った。「なんでしたら森の出口までお送りしましょう」
私は立ち上った。狼《ビリューク》は鉄砲を取り上げると薬池《やくとう》をあらためた。
「それをどうするんだね?」私はたずねた。
「森の中でわるさをしてますんで……牝馬ヶ谷で盗伐《とうばつ》しているやつがいるんですよ」私の不審そうな眼つきに答えて、彼はこう附け加えた。
「へえ、それがここから聞えるのかね?」
「そとへ出れば聞えます」
私たちは一しょにそとへ出た。雨はやんでいた。遠くの方にはまだ重苦しい雨雲の層が群がっていて、時折長い稲妻が閃《ひらめ》いた。けれども頭上にはもう、ところどころ藍色の空が見え、薄い、足の速い雲を透して星がきらきらまたたいていた。雨にぬれ、風にゆすぶられた樹の輪郭が、闇の中から浮き出して来た。私たちは耳をすませた。森番は帽子を脱いでうつむいた。「あ……あれです」彼は急にこう言って、片手をさしのべた。「こんな晩を選んで来たんですよ」私には木の葉のざわめきのほかは何も聞えなかった。狼《ビリューク》は檐下《のきした》から馬を引き出した。「こんなことをしてちゃ、ひょっとすると」と声に出して附け加えた。「取り逃すかもしれん」「私も一しょに行こう……いいかね?」「結構です」と答えて馬をおしもどした。「すぐにやつをつかまえて、それから旦那をお送り申します。さあ、参りましょう」
私たちは出かけた。狼《ビリューク》が先に立って、私はその後《あと》から行く。彼がどうやって道を見分けたのかはわからない。けれども彼はほんの時たま立ちどまるだけで、それも斧《おの》の音に耳を傾けるためだった。「ほら」と彼は歯の間から押し出すように言った。「聞えるでしょう? 聞えるでしょう?」「どこにだい?」狼《ビリューク》は肩をすくめた。私たちは谷へおりた。一瞬、風が静まり、規則正しい斧の音が私の耳にも聞えて来た。狼《ビリューク》は私を見て頭を振った。私たちはぬれたシダやイラクサを分けて先へ進んだ。うつろな、うなるような音が聞えて長く尾をひいた……
「ぶっ倒したな……」狼《ビリューク》はつぶやいた。
そのうち空はずんずん晴れて行った。森の中がほんのり明るくなってきた。とうとう私たちは谷を出た。「ここでちょっと待ってて下せえ」と私にささやいて、森番は身をかがめ、鉄砲を上にさし上げて、繁みの中に姿を消した。私は緊張して耳をすませた。絶え間のない風のざわめきを通して、程《ほど》遠からぬ所にかすかな物音が聞えるような気がした。用心深く斧で枝を払う音や、車輪のきしむのや、馬の鼻を鳴らすのが……「どこへ行くんだ? 待て!」と不意に狼《ビリューク》の破《わ》れ鐘《がね》のよう声が響き渡る。別の声が兎のように哀れっぽく叫び立てる……組打ちが始まった。「うそーをつけ、うそーを」と狼《ビリューク》は息をはずませながら繰返した。「逃すもんか……」私は物音のする方角へ飛んで行き、一足ごとにつまずきながら、組打ちの現場へ駈けつけた。伐り倒された樹の傍の、地べたの上で、森番がうごめいていた。彼は泥坊を組み敷いて、紐《ひも》で後手《うしろで》に縛り上げるところだった。私は傍へ寄った。狼《ビリューク》は起き上って泥坊を引き立てた。見ればぬれねずみ、ぼろを身にまとい、長い顎鬚を振り乱した百姓である。ごつごつした蓆《むしろ》で半身おおわれたやくざ馬が、車台だけの荷馬車をつけられてそこに立っていた。森番は一言も言わなかった。百姓もやはり黙りこんで、ただ頭を振っているばかりである。
「放してやれよ、樹の代金はわしが払うから」と私は狼《ビリューク》に耳打ちをした。
狼《ビリューク》は無言のまま左手で馬のたてがみをつかみ、右手で泥坊の帯をとらえた。「さあ、急げ、このとんまめ!」と彼は荒々しく言った。「そら、あの斧を取ってくんねえ」と百姓はつぶやいた。「なんでこのまま置いてくかよ?」森番はこう言って、斧を拾い上げた。私たちは歩き出した。私は一番後からついて行った……雨がまたバラバラ降り出して、まもなく土砂降《どしゃぶ》りになった。私たちはやっとのことで小屋にたどり着いた。狼《ビリューク》は捕えた馬を庭のまん中にうっちゃらかして、百姓を部屋につれこみ、紐の結び目をゆるめて、片隅に坐らせた。ペーチカの傍でうとうとしかけていた女の子は、むっくり跳び起きると、驚いてものも言わずに私たちをみつめはじめた。私は腰かけに坐った。
「なんてまあ、ひでえ降りだ」と森番は言った。「雨の上がるのをお待ちにならなくちゃ。横におなりになりませんか?」
「ありがとう」
「旦那様のお目ざわりですから、物置にでも閉じこめておきたいんですが」と百姓をさしながら森番は言葉をつづけた。「何ぶん、その、閂《かんぬき》が……」
「ここへ置いておくがいい、そっとしてやれ」私は狼《ビリューク》をさえぎった。
百姓は額越《ひたいご》しに私を見た。私は心の中で、どんなことがあろうとこの哀れな男を放免してやろうと誓った。彼は身動きもせずに腰かけに坐っていた。提灯の明りで私は、彼のやつれた、しわだらけの顔や、垂れ下がった黄色い眉毛や、きょときょと落ち着かない眼や、やせ細った手足などを見分けることができた……女の子は百姓のすぐ足もとの床の上に横になると、また寝入ってしまった。狼《ビリューク》はテーブルの傍に坐って、両肘《りょうひじ》ついて頭をささえている。キリギリスが隅の方で鳴いている……雨がバラバラと屋根を打っては、窓を伝わって流れ落ちる。私たちはみんなおし黙っていた。
「フォマー・クジミッチ」不意に百姓がうつろな、疲れ切ったような声で言い出した。「なあ、フォマー・クジミッチ」
「なんだ?」
「見逃してくれ」
狼《ビリューク》は答えなかった。
「見逃してくれ……食うに困ってのことだに……見逃してくれ」
「てめえらのことはわかってるんだ」と森番は不愛想に言い返した。「てめえらの村はみんなそうだ――どいつもこいつも泥坊よ」
「見逃してくれ」と百姓は繰返して言った。「お屋敷の番頭が……おれたちゃ、すっかり落ちぶれちまっただ、ほんとに……見逃してくれ!」
「落ちぶれちまった!……それだからって盗みを働くことはなかろう」
「見逃してくれ、フォマー・クジミッチ……破滅させないでくれ。あの番頭ときたら、知っての通り、ほんとにおれたちをいじめ殺してしまうだ」
狼《ビリューク》はそっぽを向いた。百姓は熱病にでも取りつかれたようにぶるぶるふるえている。頭をゆすぶって、息づかいも平らでない。
「見逃してくれ」と彼はすっかりしょげ返り、絶望して繰返した。「見逃してくれ、後生《ごしょう》だから見逃してくれ! おら、きっと弁償するよ。嘘じゃねえ、食うに困ってのことだ……餓鬼《がき》どもがピーピー言うんでな、お前《めえ》だって身に覚えがあるだろうさ。にっちもさっちも行かなくなってな」
「それだからって盗みに来ていいって法があんめえ」
「馬をよ、あの馬をよ」と百姓はつづけた。「せめて、あの馬だけでも……なんせ、たった一匹の畜生だから……見逃してくれろ!」
「だめだ、と言ってるじゃねえか。このおれだって人様に使われている身だ。そんなことをしたら、こっちがお咎《とが》めを受けらあ。てめえたちを甘やかすわけにはいかねえよ」
「見逃してくれ! 困ったからなんだよ、フォマー・クジミッチ、本当に困ったからなんだ……見逃してくれ!」
「わかっているぞ!」
「見逃してくれろよ!」
「なに、てめえなんぞと言い合ってもしようがねえ。おとなしく坐ってろ、でないと、いいか? ここに旦那様のいらっしゃるのが見えねえってのか?」
哀れな男はうなだれてしまった……狼《ビリューク》はあくびをして、テーブルの上に頭をのせた。雨はなおも降りやまない。私はどうなることかと待っていた。
百姓はいきなり反《そ》り身になった。眼はぎらぎらと燃え立ち、顔はさっとまっ赤になった。「やい、やい、さあ、焼いて食おうと、煮て食おうとどうにでもするがいい」と、眼を釣り上げ、口もとを引きつらせて彼は言い出した。「さあ、この鬼畜生、キリスト教徒の生血を飲むがいい、飲んで見ろ……」
森番はくるりと向き直った。
「貴様に言って聞かしてるんだぞ、貴様に、この外道《げどう》、人非人《にんぴにん》、貴様に言ってるんだ!」
「悪態なんかつきやがって、てめえ酔っぱらってでもいるのか?」と森番は驚いて言い出した。「気でも狂ったのかい?」
「酔っぱらってると!……酔おうと、酔うまいと貴様の金じゃあるめえ、この鬼畜生、畜生、畜生、畜生!」
「なんだと……この野郎!……」
「おれがこわがるもんかい? おなじこった、――どうせ、だめになるんだ。馬を取られてこの先どうやって食ってゆけるだ? さあ、たたき殺せ――どっちみち、おなじことなんだ。飢え死しようと、ここで殺されようと――おなじこった。どいつも、こいつも死んじまえ。女房も、餓鬼も――みんなくたばれ……で、貴様には、今に報いがあるから覚えてろ!」
狼《ビリューク》は立ち上った。
「殺せ、さあ殺せ」と百姓は殺気だった声で応じた。「殺せ、さあ、さあ、殺せ……(女の子はあたふたと床の上から跳び起きて百姓を見つめた)殺せ! 殺せ!」
「黙れ!」と森番はどなって、二足前へ踏み出した。
「たくさんだよ、もうたくさんだよ、フォマー」と私は叫んだ。「手を出すな……かまうな」
「おらあ黙らねえ」と不幸な男は言葉をつづけた。「どうせ一度はくたばるんだ。鬼畜生、けだもの、貴様だっていつかは死ぬぞ……覚えてろ、貴様が威張りくさるのも長いことじゃねえんだ! 今に見ろ、貴様の息の根もとまっちまうときが来る!」
狼《ビリューク》は百姓の肩をぐいとつかんだ……私は飛び出して行って、百姓を助けようとした……
「手出しをしないで下せえ、旦那!」森番は私をどなりつけた。
私はそんなおどかしなど恐れずに、もう手をさし伸べた。けれども、私が事の意外にまったく驚いたことには、彼はぐいとひっぱって百姓の肘をくくってあった紐をばらりとほどき、えりがみをむんずとつかみ、帽子を目深にかぶせると、戸を開けて、彼を外へつき出したのである。
「てめえの馬をつれて、とっとと失《う》せやがれ!」と彼は百姓の後姿にどなりつけた。「だが、気をつけろ、二度とおれのところへ……」
彼は小屋へひっ返して来て、隅の方で何やらごそごそしはじめた。
「おい、狼《ビリューク》」私はついに言った。「お前にはびっくりしたよ。お前はなかなかすばらしいやつだな」
「なに、よして下せえ、旦那」と彼はいまいましそうに私の言葉をさえぎった。「ただほかの者にはおっしゃらないで下せえまし。それよりか、旦那、お送りしましょう」と彼は附け加えた。
「これくらいの小降《こぶ》りならお待ちすることもねえでしょうから……」
庭では百姓馬車の車輪がガラガラいう音を立てはじめた。
「ふむ、出かけやがった!」と彼はつぶやいた。「あの野郎!……」
半時間後に彼は森の出口で私に別れを告げた。
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二人の地主
寛大なる読者諸君、私はすでに幾人かの隣人諸氏を諸君に紹介する光栄を有したが、今またついでに(私たち作家仲間にとっては何もかもついでだが)、さらに二人の地主を紹介させていただきたい。この人たちのところへ私はよく猟に行ったものだが、二人ともきわめて立派な、思想穏健な人物で、数郡の人たちからあまねく尊敬されていた。
初めに退職陸軍少将ヴャチェスラフ・イラリオーノヴィチ・フヴァルィンスキイのことを述べようと思う。背の高い、昔はすんなりとしていたが、今ではいくぶん皮膚のたるんだ、けれども少しも老いぼれてはおらず、年寄りらしくさえない、円熟した、いわば男盛りの人物を想像していただきたい。なるほど、かつては整っており、今でもなお気持のよい顔立ちが、多少とも変ったことは確かである。頬は垂れ下がり、眼のまわりには小じわが出来、プーシキンの確信によればかのサジイの言ったように〔『エヴゲーニイ・オネーギン』第八章をさす。サジイは十三世紀イランの詩人〕、歯のあるものはすでになくなっている。亜麻色の髪の毛も、少なくとも残っているものはみな、薄紫色に変ってしまった。これはロミョーヌイの馬市で、アルメニヤ人と自称する猶太人《ジュー》から買った調合薬のおかげである。しかしヴャチェスラフ・イラリオーノヴィチは歩きぶりも元気がよく、よく響く声で朗《ほがら》かに笑い、拍車を鳴らし、口髭をひねり、あまつさえ自ら老騎兵と名乗っている。けれども衆知のごとく、本当の老人というものは、けっして自分から老人などと言わないものである。いつもフロックコートを着て、上まできちんとボタンをかけ、糊《のり》のきいたカラーにネクタイを高く盛り上がらせ、赤っぽい、ぽつぽつのある鼠色の軍隊式ズボンをはいている。帽子はといえば額の上にかぶさるように目深《まぶか》にかぶり、後頭部をまる出しにしている。きわめて善良な人物ではあるが、しかしかなり変った考え方や癖を持っている。例えば、彼は、金持でない士族や官等の高くない士族を、自分と同等の人間として扱うことがどうしても出来ない。こういう連中と話をするときには、いつも、堅い白のカラーにぎゅっと片頬をおし当てながら、横目で相手をじろじろ眺めたり、またどうかすると、不意に向き直って、澄んだ、じっと動かない視線を相手に浴びせ、むっつり黙りこんだまま、髪の毛の下に透《す》けて見える地肌をそこらじゅう動かすのである。使う言葉さえ発音を違えて、例えば、「ありがとう、パーヴェル・ワシーリイチ」とか、「どうぞこちらへ、ミハイロ・イワーヌイチ」などと言わないで、「ありんがとう、パール・アシーリチ」とか、「どんぞこちらへ、ミハール・ワーヌイチ」などと言う。社会の下層に位する人々の扱い方は一そう変っている。こういった連中には目もくれず、彼らに自分の希望を説明したり、命じたりするに先立って、何か気がかりなことがあって考えごとでもしているような様子で、つづけざまに何度も、「なんちゅう名だな、お前は?……なんちゅう名だな、お前は?」と繰返すのである。それが最初の「なんちゅう」という語にひどく力をいれて言い、あとの残りをずいぶんと早口に言い切ってしまうので、発音全体がウズラの雄《おす》の鳴き声にかなり似通《にかよ》ったものとなる。彼は世話やきで大変なしみったれであったが、領地の経営はまずかった。退職騎兵曹長を管理人に召抱《めしかか》えたが、この小ロシア人たるや、並はずれて愚鈍な男であった。とはいうものの、領地経営の事業においてさるペテルブルグの顕官《けんかん》にまさるものは、このあたりには誰もいない。この顕官は番頭の報告で、領地内の穀物乾燥小屋がしばしば火事になり、そのために多くの穀物が駄目になったと聞くと、今後は火の気がすっかりなくなるまで、穀物乾燥小屋に穀束を入れてはならぬ、と厳命したものである。やはり同じ大官が、自分の畑という畑にケシを播《ま》こうとしかけた。それというのも、ケシはハダカムギよりも値がよい、従ってケシを播く方が有利だ、という、明らかに、きわめて単純な算盤《そろばん》ずくに出たものであった。彼はまた、自分のところの百姓女どもに、ペテルブルグから送られた見本通りの|頭飾り《ココーシニキ》をかぶるように命じた。で、実際、今でも彼の領地の百姓女はその頭飾りをかぶっている……ただし昔からの頭巾《キーチカ》の上に……けれども話をヴャチェスラフ・イラリオーノヴィチにもどそう。ヴャチェスラフ・イラリオーノヴィチは大変な女好きで、郡の町の並木道などで美人を見かけようものなら、すぐさま後を追っかけて行くが、たちまちびっこをひきはじめる、――それこそ注目すべき状況なので。カルタ遊びは好きであるが、相手は身分の低い連中に限る。この連中なら『閣下』と崇《あが》めてくれるし、こちらは思う存分、相手を罵《ののし》ったり、叱りつけたりすることが出来るからである。ところがたまたま知事だの、どこかの高官だのと勝負をするようなことがあると、驚くべき変化が生じる。にこにこ笑ったり、お調子を合せてうなずいたり、相手の眼の色をうかがったり、おべっかたらたらである……勝負に負けても泣き言一つこぼさない。ヴャチェスラフ・イラリオーノヴィチはあまり本を読まないが、本を読むときには絶えず口髭や眉毛を動かしている。まるで顔を下から上へ波立たせるかのように。ヴャチェスラフ・イラリオーノヴィチの顔に現われるこの波状運動は、時たま(もちろん、客のいるところで)、『Journal des Debats(『時論』)』〔フランスの保守的な新聞〕の紙面を走り読みするようなとき、特に著しい。選挙の際にはかなり重要な役割を演じるが、士族団長のような名誉職は、元来が吝《けち》なもんだから、固辞して受けない。「諸君、この光栄を深く感謝いたします」と、彼は自分に就任を懇望《こんもう》する士族たちに向って言うのだが、その声は長老らしい響きがあり、自尊心にみちている。「ただ、何ぶんにもわたしは、余暇を隠棲《いんせい》に捧げることに決めたものですから」で、このように言って、頭を何度か左右に振り、それからもったいぶって、顎と頬をネクタイの上におしつける。若いときにはさる大官の副官をしていたとのことで、その大官のことをいつもなれなれしく名前と父称で呼んでいる。なんでも人のうわさでは、副官の役目を負っていたばかりでなく、例えば、大礼服を着てホックまでかけた上、自分の長官を風呂屋で蒸《む》してやったとかいうことである。もっとも世間のうわさを一々|真《ま》に受けるわけにはいかないが。しかし、フヴァルィンスキイ将軍自身も、自分の軍務上の活動舞台の話をすることを好まない。これもおよそ、ずいぶんと妙な話である。戦争に行ったこともないらしい。フヴァルィンスキイ将軍はあまり大きくない家に独り住まいをしている。結婚生活の幸福をこれまで味わったことがないので、いまだに花婿の候補者、しかも条件の有利な候補者とみなされている。そのかわり彼の家には三十五歳ぐらいの家政婦がいる。眼と眉毛が黒く、肥っていて、みずみずしく、鼻の下に薄黒い髭が生えているが、普通の日でも糊《のり》のきいた着物を着て歩き、日曜日ともなればモスリンの袖のついたのまで着て歩く。ヴャチェスラフ・イラリオーノヴィチは、地主連中が知事その他のお歴々を招待して催す盛大な宴会の席では≪そつ≫がない。こういうところでは、すっかり御機嫌であると言ってよい。こんなときはいつも、知事の隣ではないまでも、あまり知事から遠くない所に坐る。宴会の初めには、自己の威厳を持するのに気をかけ、後《うしろ》に反《そ》りかえったまま、首をまわさずに、一座の客の丸い後頭部や立襟などを横目で見おろしている。そのかわり食事の終るころには陽気になって、四方八方へ微笑みかけるし(知事の方には初めから笑顔を見せている)、時には女性に敬意を表して乾杯を提案することさえある。女性は、彼の言葉をかりると、地球の飾りなのである。フヴァルィンスキイ将軍は、すべて荘重な公《おおやけ》の儀式とか、試験とか、教会の開会式とか、いろいろな会合や展覧会に出ても、堂々としている。祝福の受け方なども、まことにお手に入ったものだ。芝居のはねるときとか、渡し場とか、その他こうした混雑する場所で、ヴャチェスラフ・イラリオーノヴィチの従僕たちは騒いだり、わめいたりするようなことはない。それどころか、人ごみを押しのけたり、馬車を呼んだりするとき、気持のよい、錆《さび》のきいたバリトンで、「ごめん、ごめん、フヴァルィンスキイ将軍をお通し下さい」とか、「フヴァルィンスキイ将軍のお車を……」とか言う。なるほど、フヴァルィンスキイ将軍の馬車はかなり旧式だし、下男どものお仕着せは相当にすり切れている(それが赤い縁《へり》つきの灰色のお仕着せであることは、ほとんど述べる必要もあるまいと思う)。馬もまたかなり年をとっているし、永年お役に立って来た代物《しろもの》である。けれどもヴャチェスラフ・イラリオーノヴィチは、粋《いき》に見せかけようなどという気持はさらさらないし威容を誇って人目を驚かせるのが、自分の身分にふさわしいことだとさえ考えていない。フヴァルィンスキイはとくに弁舌の才に恵まれているというわけではない。あるいは、自分の雄弁を示す機会を持たないのかもしれないのだが。というのは議論はもとよりのこと、一体に人に反対されるのが我慢ならず、あらゆる長談義を、とりわけ若い人々との長談義を極力さけているからである。実際、その方が確かというものである。さもなくて、当節の連中を相手にしようものなら災難である。それこそすぐに服従ということを忘れ、尊敬の念を失ってしまうからである。フヴァルィンスキイは目上の人の前ではたいてい黙りこんでいるが、明らかに軽蔑していながら、とにかく交際だけはしている目下の者に対しては、ぶっきらぼうに辛辣《しんらつ》な口をきく。「しかし、あんたも下らーんことを言うね」とか、「こうなると、あんた、わしもあんたに注意しとかなきゃならんが」とか、「しかし、もういい加減、人を見てものを言うがよかろうよ」などといった表現をのべつ使うのである。郵便局長や、区裁判所長や、駅長などは、彼をとくにこわがっている。自宅では誰にも面会をせず、話によれば、しみったれた暮しをしているということである。それにもかかわらず彼は立派な地主である。『老軍人で、清廉で、規則正しい、vieux grognard(老不平家)だ』と近隣の人たちは彼のことを言っている。ただ一人、県の検事だけは、彼の眼の前で人々がフヴァルィンスキイ将軍のすぐれた、しっかりした性質をほめそやすと、ふふんとせせら笑うのである。どうも嫉妬というやつはしようのないもので!……
が、まあこのくらいにして、今度はもう一人の地主の話に移ろう。
マルダーリイ・アポローヌイチ・スチェグノーフは、フヴァルィンスキイとは似てもつかない。おそらくどこへも勤めたことはないだろうし、ついぞ美男などと言われたこともない。マルダーリイ・アポローヌイチは背の低い、ぽってりした、禿《はげ》頭の小老人で、二重|顎《あご》であり、柔らかい手をしていて、したたかお腹が突き出ている。大の客好きで、軽口《かるくち》やで、いわゆるおもしろおかしく暮している。夏冬、綿入れの縞の部屋着を着て歩く。ただ一つフヴァルィンスキイ将軍と共通しているのは、彼も独り者だということである。彼は五百人の農奴を所有している。マルダーリイ・アポローヌイチの領地経営はかなり上っ調子である。十年ほど昔のことだが、時勢におくれまいと、モスクワのブテノープ商会から脱穀機《だっこくき》を買いこんだまではよかったが、それを納屋にしまいこむと、それでてっきり事がすんだ気になって、すっかり安心してしまったものである。時折夏の晴れた日など、競争馬車の支度を命じて畑へ出かけるが、作物の出来を見たり、ヤグルマギクを摘んだりするくらいのものである。マルダーリイ・アポローヌイチは全く昔風に暮している。家も昔の建て方《かた》で、前室へ入ると、型のごとく、クワスや、脂蝋燭《あぶらろうそく》や、革の匂いがする。右手にはパイプや手拭《てぬぐい》をのせた脇棚がある。食堂には先祖代々の肖像画、ハエ、ゼラニュウムの大きな鉢、調子の狂ったピアノ。客間にはソファが三つ、テーブルが三つ、鏡が二つ、それにエナメルが黒ずみ、青銅の針には彫刻がしてあるしゃがれ声の時計。書斎には書類ののっているテーブル、前世紀のいろいろな著書から切り抜いた絵を貼りつけた青っぽい色の衝立《ついたて》、かび臭い本が並んでいるクモの巣や黒い埃《ほこり》だらけの書棚、ふわふわした安楽椅子、イタリヤふうの窓、それからぴったり釘づけにされた庭へ出る扉……要するに、何もかもがしきたり通りである。マルダーリイ・アポローヌイチのところには召使が大勢いるが、みんな昔風の服装をしている。高い襟のついた長い青色の長上衣《カフタン》を着、どんよりした色のズボンをはき、短い黄色っぽいチョッキを着ている。彼らはお客に向って『お前さま』と言う。領地の経営を管理しているのは百姓上がりの管理人で、裘《かわごろも》の裾まで届きそうな長い顎鬚《あごひげ》を生やしている。家政を切り盛りしているのは、肉桂《にっけい》色のスカーフで頭を縛っている、皺《しわ》くちゃの、けちんぼな老婆である。マルダーリイ・アポローヌイチの厩《うまや》には、大小さまざまな馬が三十頭もいる。外出するときには、重さ百五十プードもある自家製の幌馬車を用いる。彼はきわめて親切に客を迎え、すばらしい御馳走をする。つまり、ロシア料理につきものの頭をぼんやりさせる特質のおかげで、夕方に至るまで、カルタでもやる以外には、何も出来ないようにしてしまうのである。御当人はといえば何一つするわけでない。『夢占い』さえ読まなくなった。けれども、わがルーシには、このような地主がまだかなりたくさんいるのである。一体どういうわけで、なぜ、こんな男の話をはじめたのか?……ときかれるかもしれない。それに答えるかわりに、私がある日マルダーリイ・アポローヌイチを訪問したときの話をさせていただきたい。
彼の家へ着いたのは夏の晩方七時ごろであった。たった今、晩のお祈りがすんだばかりで、見たところまことに内気そうな、最近神学校を出たばかりと思われる若い坊さんが、客間の戸口に近い椅子の端っこに腰かけていた。マルダーリイ・アポローヌイチはいつものように、きわめて愛想よく私を迎えた。彼はどんな客が来ても心から喜んだ。が、実際、概してこの上なく善良な人物でもあった。坊さんは立ち上って帽子を取った。
「まあ、まあ、待ちなさい、あんた」とマルダーリイ・アポローヌイチは、私の手を握ったまま、言い出した。「帰っちゃいけないよ……ウォートカを持って来るように言っといたから」
「私は不調法でして」と坊さんはうろたえながら小声で言うと、耳のつけ根までまっ赤になった。
「何をつまらんことを! 坊さんのくせに飲まないなんてことがあるもんかね!」とマルダーリイ・アポローヌイチが答えた。「ミーシカ! ユーシカ! お坊さんにウォートカを持っておいで!」
ユーシカという、背の高い、八十ぐらいのやせた老人が、肉色の斑点だらけの黒っぽい塗りのお盆に、ウォートカのコップをのせて入って来た。
坊さんは辞退しはじめた。
「飲みなさいな、あんた、もったいぶることはない、いけないこった」と地主はたしなめるように言った。
可哀そうに若い坊さんは言いなりになった。
「さあ、あんた、もう帰ってもいいよ」
坊さんはお辞儀をはじめた。
「いや、結構、結構、行きなさい……立派な男ですよ」と後姿を見送りながら、マルダーリイ・アポローヌイチは言葉をつづけた。「私はあれにとても満足していますよ。ただ一つだけ欠点をあげますとな、まだ若いでさ。いつも説教をぶつばかりで、こいつを嗜《たしな》まないんです。したが、あんたはどうですかな? え?……だめですって? まあ、何をおっしゃる? じゃ、バルコンヘでも出てみましょう――なんせ、すばらしい夕方ですからな」
私たちはバルコンヘ出て、腰をおろし、よもやま話をはじめた。マルダーリイ・アポローヌイチはふと下を見おろしたが、急にひどく興奮しだした。
「あれはどこの鶏《とり》だ? どこの鶏だ?」彼は叫び出した。「庭を歩きまわっているのはどこの鶏だ?……ユーシカ! ユーシカ! すぐに行って見て来い、庭を歩いているのはどこの鶏だ? どこの鶏だ? 何度もいかんと言ったろうが、何度もわしが言ったろうが!」
ユーシカが駈け出した。
「なんちゅうだらしのないこった!」とマルダーリイ・アポローヌイチは繰返した。「実にたまらん!」
不運な鶏は、私は今でも覚えているが、ぽつぽつのあるのが二羽と、冠毛《とさか》のある白いのが一羽で、落ち着きはらってリンゴの木の下を歩きつづけながら、時折長々と≪とき≫をつくって自分の感情を吐露《とろ》していた。そのとき不意に、帽子もかぶらずに棒きれを手にしたユーシカと、三人の大の男が、いっせいに鶏めがけて突進した。止めるにも止めようがなかった。雌鶏《めんどり》どもは叫び声をあげ、羽ばたきをし、跳びあがり、耳を聾《ろう》せんばかりに鳴き立てた。下男どもは駈けまわるうちに、つまずいたり、倒れたりした。主人はバルコンの上から、熱狂してどなった。「つかまえろ、つかまえろ! つかまえろ、つかまえろ! つかまえろ、つかまえろ、つかまえろ!……どこの鶏だ? どこの鶏だ?」やっと下男の一人が冠毛のある鶏をつかまえて、胸で地べたへ押しつけた。と、ちょうどそのとき、往来から、庭の籬《まがき》を跳び越して、十一ぐらいの女の子が、髪をすっかり振り乱し、手に長い枯枝を持って入って来た。
「あ、あれの家《うち》の鶏だな!」と勝ち誇ったように地主は叫んだ。「馭者のエルミールの家の鶏だ! あいつ、ナタールカをよこして、鶏を追いこませたんだ……さては、パラーシャはよこさなかったと見える」と地主は小声で言い添えると、意味ありげににやりと笑った。「おい、ユーシカ! 鶏をつかまえるのはやめだ。ナタールカをつかまえて来い」
けれどもユーシカが息せき切って、ひどくびっくりしている小娘のところへ駈けつける前に、どこからともなく女中頭が現われて、いきなり女の子の手をつかまえ、つづけざまにピシャピシャ背中をどやした……
「その調子、その調子」と地主ははやしたてた。「テ、テ、テ! テ、テ、テ!……それから鶏も没収しちまえ、アヴドーチヤ」と彼は大声で附け加えると、晴々した顔をして私の方をふり向いた。「どうでしたね、あんた、今の狩り出しは、え? わしは見ていて汗までかきましたよ、ご覧なさい」
こう言ってマルダーリイ・アポローヌイチはからからと笑った。
私たちはバルコンに残った。その晩は実際、珍しくいい晩だった。
お茶が出た。
「ちょっと伺いますがね、マルダーリイ・アポローヌイチ」と私は口をきった。「ほら、あの、谷間の向うの街道ばたに引越しさせられたのは、あれはあなたの百姓なんですか?」
「うちの百姓で……それがどうしました?」
「どうしてあんなことをなさるんです、マルダーリイ・アポローヌイチ? 罪じゃありませんか。百姓たちにあてがった小屋といえば、汚くって、狭くって、まわりに木が一本あるじゃなし、麻をつける水溜りもない。井戸は一つきりで、おまけになんの役にも立ちやしません。全体、ほかに土地が見つからなかったんですか?……それに、聞くところによると、古くからの大麻畑を百姓から取り上げてしまったとか?」
「地割の関係でどうしようもないんですよ」とマルダーリイ・アポローヌイチは答えた。「全く地割ときたら頭痛の種でして(彼は自分の後頭部を指さした)。地割なんかやったって、なんの利益もないとわしはにらんでますがな。それからわしが百姓から大麻畑を取り上げたとか、水溜りか何かをあそこに掘ってやらなかったとか――そういうことは、あんた、自分でもちゃんと知ってますよ。私はただの人間で、万事昔風にやってますのでな。私の考えでは、地主なら地主らしく、百姓は百姓らしくするがいいんで……そうですとも」
このようにはっきりした、確かな論拠に対しては、むろん、返事のしようがなかった。
「それになんですよ」と彼は言葉をつづけた。「あそこの百姓どもがまた悪いやつらで、私の勘気《かんき》を受けた連中なんです。とりわけひどいのが二軒ありましてな。死んだ親父が――何とぞ天国に安らいたまえ――まだ達者だったころに、不興をこうむったんです、ひどく不興をこうむったんです。私はまた私で、こういうことを信じているんです。つまり、親父が泥坊なら息子も泥坊だ、と。あなたはどうおっしゃるか知らないが……いや、血統ってやつは大切ですよ! 私は、打ち明けて申し上げると、あの二軒の家の者を、順番が来ないのに兵隊にやったり、いろんなところへ押しこんだりしましたよ。それでも根絶《ねだ》やしにならないんですから、仕方がないじゃありませんか? 雑草ははびこるってやつで」
そのうちに辺りはすっかり静まりかえった。ただ時折風が流れのように吹きよせて来ては、最後は家の附近ではたと止《や》む。その風に乗って規則正しく、しきりに何かをたたいている音が、厩《うまや》の方角から聞えて来る。マルダーリイ・アポローヌイチは茶を注いだ受け皿を、今しがた唇の傍へ持って行き、やおら鼻の孔をひろげかけたが――御承知のように、生え抜きのロシア人は誰でも、こうやってからでないとお茶を飲まない――、ふとその手を止めて、耳を傾け、うなずいて見せてから、茶をすすった。それから受け皿をテーブルの上にのせながら、いかにも善良そうな微笑を浮べて、思わず厩の物音に合せるかのように、「チューキ・チューキ・チュク! チューキ・チュク! チューキ・チュク!」と言った。
「あれはなんですか?」私は驚いてたずねた。
「なに、私の言いつけで、いたずら者をおしおきしてるんで……食堂番のワーシャをご存じでしょう?」
「ワーシャというと?」
「ほら、この前、食事のときに給仕をしたあの男ですよ。顔中にこんな長い頬髯を生やしている」
どんなに烈しい憤《いきどお》りも、マルダーリイ・アポローヌイチの晴れやかな、やさしい眼つきを見たら、たじたじとなったことであろう。
「どうなすった、あなた、どうなすったんです?」と彼は頭《かぶり》をふりながら言い出した。「私が悪党だとでもいうんですか、そんなに私の顔をしげしげと眺めて? 『愛すればこそ、懲《こ》らしもする』というじゃありませんか」
それから十五分ほどして、私はマルダーリイ・アポローヌイチに別れを告げた。馬車で村中を通って行く途中、食堂番のワーシャが眼にとまった。彼は往来を歩きながら、クルミをかじっていた。私は馭者に命じて馬を停めさせ、彼を傍に呼んだ。
「なんだって、お前、今日おしおきされたんだい?」私は彼にきいた。
「どうしてそれをご存じで?」
「旦那に聞いたのさ」
「旦那が御自分から?」
「なんでまた旦那はおしおきなんか命じたんだね?」
「自業自得ですよ、旦那、自業自得なんで。うちじゃ、つまらんことではおしおきなんかしません。そういう仕きたりはうちにはありませんので、ええ。うちの旦那はそんな方じゃありませんよ。うちの旦那は……あんな立派な旦那は県じゅう探したって見つかりやしませんとも」
「さあ、やれ」私は馭者に言った。『これがそうだ、これが昔ながらのロシアなのだ!』帰る途々、私はこう考えたことであった。
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レベジャン
親愛なる読者諸君、猟の主要な目的の一つは、絶えずあちこち渡り歩くことにあって、これは閑人《ひまじん》にとってはきわめて愉快なことである。なるほど、時折(わけても雨のよく降るころに)田舎道をうろついたり、『道なき野原』を通ったり、会う百姓ごとに足を止めさせて、『おい、君! モルドフカヘ抜けるにはどう行ったらいいかね?』とたずねたり、またモルドフカでは、うすのろな百姓女に(働き手はみな野良へ出ているので)、街道筋の旅籠屋《はたごや》までは遠いかとか、どう行ったらそこまで行けるかとか聞き出したり、それから十露里ほど行って、旅籠屋のかわりに、地主の持ち村であるフドブブノフというひどく荒れはてた小村に出て、往来のまん中の暗褐色の泥の中に耳までつかっていて、よもや驚かされようとは夢にも思っていなかった豚の一群を、びっくり仰天させるというようなことは、あんまり面白いことではない。それから、危なっかしい橋を渡り、谷へ下り、じめじめした小川の浅瀬を渉《わた》ったりするのも楽しいことではない。馬車に乗って行く、青草の大海原の中の街道をまる一昼夜も乗って行く、あるいは、そんなことはまっぴらだが、一方に22、一方に23という数字の書いてある黒白|染分《そめわ》けの里程標の前で立往生をして、何時間も泥まみれになっているのは楽しいことではない。何週間も卵や、牛乳や、賞めそやされているライムギのパンを食べるのは、楽しいことではない……けれどもこんな不便や失敗はすべて、別種の利益と満足によって償われるものである。それはそうとして、本筋の話を始めるとしよう。
これだけお話ししたからには、五年ほど前に、私がどうして馬市の雑踏《ざっとう》のただ中にレベジャンに行き合せたかを、読者に説明する必要はあるまい。私たち猟人は、ある朝とにもかくにも祖先伝来の持ち村を、翌る日の夕方には帰るつもりで、出かけることがある。ところがシギを射っているうちにだんだんと足をのばして、とうとうしまいには、ペチョーラ河の幸《さち》多き岸辺に出てしまったりする。のみならず、鉄砲や犬の好きな人はみな、この世で最も高尚な動物とされている馬の熱烈なファンである。さて、私はレベジャンに着き、旅館に泊ると、着物をきかえて市へ出かけた。(給仕人は二十歳ぐらいの、ひょろ長くやせっぽちの若者で、鼻にかかった甘ったるいテノールで物を言う男だったが、***連隊の馬匹補充官であるN公爵閣下がこの宿屋に泊っていることや、他にも旦那方がたくさん来ていることや、毎晩のようにジプシーが歌をうたい、劇場ではトヴァルドーフスキイ一座の興業があることや、馬の相場はかなりいいということだ――が、それにしても良い馬が出ている、などということをさっそく私に聞かしてくれた)
馬市の広場には車がずらりとはてしもなく立ちならんでいて、その後にはありとあらゆる種類の馬がいる。競争馬、種馬、駄馬、輓馬《ばんば》、馬車馬、それにただの百姓馬というふうに。中に、肥えて艶のよい馬の、毛色で分けられ、色とりどりの馬衣《うまぎぬ》をまとい、高い杭《くい》に綱短かに結びつけられたのが、背後の、自分らの持ち主である博労《ばくろう》の、あまりにもおなじみの鞭《むち》をおずおずと横目で見ているのがある。百露里、二百露里のかなたから草原《そうげん》の士族が、よぼよぼの馭者や二三人の石頭《いしあたま》の馬丁に監督させて送り出した地主の持ち馬は、長い頸を振ったり、足踏みをしたり、退屈まぎれに手すりをかじったりしている。葦毛《あしげ》のヴャトカ馬は互いにぴったりとよりそっている。うねうねした尻尾を持ち、毛むくじゃらの足をした尻の大きい競争馬、連銭葦毛《れんぜんあしげ》や、青毛や、栗毛は、まるでライオンのように、身じろぎもせずに厳然として立っている。目の肥えた人たちはその前に来ると敬意を表して立ち止まる。車の列で出来た往来はあらゆる身分・年齢・風采の人々でごった返している。青い長上衣《カフタン》を着て、高帽子をかぶった博労は、抜け目なく眼を光らせて買手を待ち受けている。どんぐり眼をした縮れ毛のジプシーたちは、狂人《きちがい》のようにあちこち走りまわり、馬の歯を調べたり、足や尻尾を持ち上げたり、わめいたり、罵《ののし》り合ったり、仲介役を勤めたり、籤《くじ》を引いたり、あるいはまた、軍帽をかぶり、海狸《うみだぬき》の襟のついた軍人外套を着た、どこやらの馬匹補充官にまとわりついたりしている。頑強そうな一人のコサック人が、鹿のような頸をしたやせた去勢馬に高々と跨《また》がって、馬を『そっくり』、つまり鞍と馬勒《ばろく》つきで売りに出している。腋《わき》の下の破れた裘《かわごろも》を着ている百姓たちは、人ごみの中を無鉄砲に押し分けて通り、『試して見る』べき一頭の馬に曳かせた荷馬車へ何十人も襲いかかる。そうかと思えば、どこかわきの方では、巧く逃げを張るジプシーの取り持ちで、へとへとになるまで駈引をし、めいめい自分の言い値を主張して、百ぺんもつづけざまに手をたたき合っているのがいる。ところが押し問答の対象になっているやくざ馬たるや、反りかえった筵《むしろ》を着せられて、どこ吹く風と眼をぱちくりさせている……実際の話が、誰に打たれようとも馬にとっては同じことなので! 口髭を染めて、顔にいかめしい表情を浮べ、ポーランドふうの房附帽子《コンフェデラートカ》をかぶり、呉絽《ごろ》の長上衣《チュイカ》〔カフタンの一種〕を片袖だけ通した額の広い地主たちは、羽毛帽子をかぶって緑の手袋をはめた太鼓腹の商人たちと、大様に話をしはじめる。方々の連隊の将校たちもそこをぶらついている。ドイツ系の並はずれて背の高い胸甲騎兵が、跛《びっこ》の博労をつかまえて、「その栗毛をいくらで売りたいというんだ?」と冷ややかにきいている。年のころは十九ぐらいの薄亜麻色の髪の毛をした軽騎兵は、やせた飽足《だくあし》の馬に組合せる副馬《そえうま》を物色している。孔雀《くじゃく》の羽を捲いた山の低い帽子をかぶり、茶色の百姓外套を着て、細い緑色の帯に革の手袋をさしこんでいる駅逓《えきてい》馬車の馭者は中馬をさがしている。馭者たちは馬の尻尾を編んでみたり、たてがみをぬらしたり、主人にうやうやしく助言を与えたりしている。契約をすませた連中は、身分に応じて、料理屋なり、居酒屋なりへ急ぐ……これがみな一しょくたになって、騒ぎまわったり、どなったり、うようよしたり、口論をしたり仲直りをしたり、罵り合ったり笑ったりしている、膝まで泥につかりながら。私は幌馬車につける手ごろの三頭立てを一組買おうと思っていた。持ち馬がそろそろだめになりかけていたからである。二頭は見つかったが、あとの一頭はなかなか見当らなかった。食事をすませてから(それはここに述べまいと思う。けだし、過ぎし悲しみを思い出すことがどんなに不愉快かはアエネアス〔ローマの詩人ヴェルギリゥス(前七〇―前一九)の長篇叙事詩『アエネイス』の主人公〕のつとに知るところであった)、私はいわゆるコーヒー店へ出かけた。そこへは毎晩のように馬匹補充官や種馬所技手や、その他の他所者《よそもの》が集まっていた。タバコの煙が鉛色の波をなしてこもっている玉突き部屋には、二十人ほどの人がいた。そこには肋骨飾りのあるハンガリーふうの短上衣《ジャケット》を着て、鼠色のズボンをはき、もみ上げを長くし、口髭に油をつけた気楽な若い地主連中がいて、上品に、おめず臆《おく》せずあたりを眺めている。コサックふうの寛《ひろ》い上衣を着た、並はずれて頸の短い、肥った顔の中に埋もれているような細い眼をした他の士族たちが、そのすぐそばで苦しそうに荒い鼻息を立てている。小商人たちは俗に言う、『へっぴり腰で、』わきの方に坐っている。将校たちは互いに打ち解けて話し合っている。玉突きをしているのはN公爵で、年のころは二十二くらいの若い男、快活な、いくらか人を蔑《さげす》むような顔つきをし、ボタンをかけずにフロックを着用して、下から赤い絹のルバーシカをのぞかせ、ビロードのだぶだぶのズボンをはいている。お相手をしているのは退職陸軍中尉ヴィクトル・フロパコフである。
退職陸軍中尉ヴィクトル・フロパコフは三十前後の小柄な、色の浅黒い、やせぎすの男で、髪の毛が黒く、眼は茶色で、ひしゃげた獅子鼻をしているが、選挙や定期市には足まめに出かけて行く。彼は歩きながらぴょんぴょん跳びはね、円まっちい手を勇《いさ》み肌に拡げて見せ、帽子をあみだにかぶり、青黒いキャラコの裏のついた軍服の袖をまくっている。フロパコフ氏は、ペテルブルグからやって来る金持の道楽者に取り入る術《すべ》を心得ており、一しょにタバコも喫《の》めば、酒も飲み、カルタもやって、なれなれしく『君』と言う。どこがよくてひいきにするものやら、その辺のところはどうも解りにくい。利口でないばかりか、こっけいでさえもない。道化者の役にも立たない。なるほど、気立てはいいが少し足りないやつと思って一応友達づきあいはしてくれる。ところが二三週間親しくつきあうと、急に向うでは彼を見ても挨拶をしなくなり、こっちはこっちでもう知らん顔をしている。フロパコフ中尉の変っているのは、一年中、時としては二年もの間、ちょうどよい折であろうとなかろうと、いつも同じ言いまわしを用いることで、その言いまわしたるや一向におもしろくもないのに、どうしたことか、みんながそれを聞くと笑うのである。八年ほど前には絶えず、『恐れいりやの、かたじけなや』と言っていた。そのころの彼のひいき筋はいつも笑いこけて、わざわざ彼に『恐れいりやの』を繰返させたものである。その次には、『いや、これは、その、あなた、|なんですて《ケスケセ》、こうなることになったんで』というなかなかこみ入った言いまわしを用いはじめたが、これもまた輝かしい成功をおさめた。二年ほど経って、『怒りたもうな、神のごとき人よ、羊の皮をば身にまとえる』などという新しい警句を考え出した。ところがどうだろう! こんな、ご覧のとおり、奇抜でもなんでもない文句によって、彼は食うことも、飲むことも、着ることも出来るのである(自分の財産はとっくの昔に蕩尽《とうじん》してしまい、今はもっぱら友達のふところを当てにして暮している)。とにかく彼には、ほかになんの取柄《とりえ》もないのである。いかにも、一日にジュウコフのタバコをパイプに百服もふかし、玉突きをするときには右足を頭よりも高く上げ、狙いをつけながら、片手の中で棒《キー》を猛烈にしごくようなことはする。けれどもこのような美点には誰もが惚れこむわけではない。彼はよく飲みもする……だがロシアで酒飲みとして人にぬきん出ることは難しい……要するに彼の成功は――私にとっては全く謎である……ただ一つ例外がある。それは彼が慎重で、内輪の恥を外へさらけ出さないこと、人の悪口を一言も言わないことである……
『さあ、』と私はフロパコフを見て考えた。『あの男のこのごろのきまり文句はなんだろう?』
公爵は白球をついた。
「三十対|零《ゼロ》」と黒ずんだ顔の、眼の下にくまのある、肺病やみらしいゲーム取りが金切り声で言った。
公爵は一つきで黄球を一番端のポケットに入れた。
「あれ!」と、隅の方で一本脚のぐらぐらする小テーブルに向って坐っていた、小肥りの商人が感心して腹からしぼるような声を出したが、声を出してしまってから、ふと気がついてどぎまぎした。けれども、幸いなことに、誰もそれに気づかなかった。彼はほっとして顎鬚《あごひげ》をなでた。
「三十六対零!」ゲーム取りが鼻声で叫んだ。
「おい、どんなもんだい、君」と公爵がフロパコフにたずねる。
「どんなもんですと? もちろん、ルルルラカリオオオンだな、全然ルルルラカリオオオンだ」
公爵はふき出した。
「おい、なんだって? もう一度言え!」
「ルルルラカリオオオン!」と退職陸軍中尉は得意げに繰返した。
『これがきまり文句なんだな!』と私は思った。
公爵は赤球をポケットヘ送った。
「おや! 違いますよ、公爵、違いますよ」と不意に、眼を赤くしている、鼻の小さい、あどけない寝ぼけ顔をした、薄亜麻色の髪の毛の士官が言い出した。「やり方が違います……こうなさらなくちゃ……違いますよ!」
「どうして?」公爵は肩ごしに彼にたずねた。
「こうなさらなくちゃ……その……|三つ球《トリプレット》で」
「そうかしら?」公爵はつぶやいた。
「で、いかがでしょう、公爵、今晩ジプシーを聞きにいらしては?」と若い男は、うろたえて早口に後をつけた。「スチョーシカが歌います……イリューシカも……」
公爵は答えなかった。
「ルルルラカリオオオンだよ、君」と左の眼をずるそうに細めて、フロパコフが言った。すると公爵は大笑いをした。
「三十九対零」ゲーム取りが高々と読み上げた。
「零……よし、見ていたまえ、あの黄球をあててやるから……」
フロパコフは手の中で棒《キー》をしごき出し、狙いを定めて、キックした。
「や、ルラカリオオンだ」彼はいまいましそうに叫んだ。
公爵はまた笑い出した。
「何、何、なんだって?」
しかしフロパコフは自分の言葉を繰返そうとしなかった。時には相手を焦《じ》らさなければならない。
「おはずしなさいましたね」ゲーム取りは言った。「白墨《チョーク》をお塗りしましょう……四十対零!」
「そうだ、諸君」と公爵は一同に向って、けれども、特に誰の顔を見るともなしに言い出した。
「ねえ君たち、今日はヴェルジェムビーツカヤを舞台へ呼び出そうじゃないか」
「もちろんです、もちろんです」と何人かが、公爵のお言葉に答えることの出来るのを身の光栄とばかりに喜んで、先を争って叫んだ。「ぜひともヴェルジェムビーツカヤを……」
「ヴェルジェムビーツカヤはすぐれた女優です、ソプニャコーワよりもずっと上手ですな」と隅の方から、口髭を生やして眼鏡をかけた醜い男が細い声で言った。可哀そうに! 彼は心ひそかにソプニャコーワをひどく慕っていたのだが、公爵は彼に眼もくれなかった。
「おい、給仕、パイプだ!」と背の高い、容貌の整った、威風堂々たるどこかの紳士が襟元から声を出した。これはどう見てもぺてん師に違いない。
給仕はパイプを取りに駈け出したが、戻って来ると公爵に、駅逓馬車の馭者バクラーガが閣下にお目にかかりたいと申しております、と申し上げた。
「あ! では、しばらく待たしておけ。それからウォートカを出してやれ」
「かしこまりました」
後で聞くところによると、バクラーガと呼ばれているのは若い美男子で、ひどく甘やかされ、わがままになった馭者であった。公爵は彼を可愛がり、馬をくれてやったり、彼をお伴に馬車を駆ったり、一しょに幾晩も過したりした……あの公爵その人が、もとは道楽者で金づかいも荒かったなんて、今では思いもよらないだろう……あんなにおおらかな、謹厳な、荘重な人が! あんなに仕事熱心で、それに、何よりも第一に――あんなに思慮深い人が!
けれども私はタバコの煙で眼が痛くなり出した。フロパコフのきまり文句と公爵の大笑いを最後にもう一度聞いて、私は自分の部屋に戻った。帰って見ると、高い彎曲《わんきょく》した背のついた、獣毛製の、幅の狭い、中のへこんだソファの上に、係りのボーイがもう寝床を作ってくれていた。
翌日、私は小屋へ馬を見に出かけ、まず手始めに有名なシートニコフという博労の小屋をのぞいた。木戸を通って砂をまいてある庭に入る。開け放した厩の戸の前に当の主《あるじ》が立っていたが、もう若くはない、背の高い、肥った男で、立襟の折り返った兎の裘《かわごろも》を着ている。私を見ると、おもむろにこっちへ歩いて来て、両手で頭上の帽子をつまみ上げ、言葉を長くひっぱって言った。
「あ、いらっしゃいまし。馬をご覧になるんでございましょうな?」
「うん、馬を見に来た」
「失礼ですが、どういう馬をお求めになるんで?」
「まあ、一応見せてもらおう」
「どうぞ」
私たちは厩舎《きゅうしゃ》に入った。白い尨犬《むくいぬ》の仔犬が数匹、秣《まぐさ》の中から起き上って、尻尾をふりながら私たちの方へ駈けよって来た。長い鬚の年とった牡ヤギが不満げに向うへ行った。丈夫そうな、だが脂《あぶら》じみた裘《かわごろも》を着た厩《うまや》番が三人、黙って私たちにお辞儀をした。左右の、一段と高くしつらえた仕切りには、大事に飼われ、申し分なく手入れの行き届いている馬が三十頭ばかりいる。ハトが横木から横木へと飛び移っては、ククウと鳴いている。
「旦那は、つまり、どんな馬がお入用なんですか。馬車馬になさるんで、それとも種馬になさるんで?」とシートニコフがきいた。
「馬車馬にも、種馬にもだ」
「いや、ごもっともで、ごもっともで、ごもっともで」と博労は一々句切りをつけながら言った。「べーチャ、旦那に『鼬《ゴルノスタイ》』をお目にかけな」
私たちは庭へ出た。
「なんでしたら家からソファを持って来させましょうか?……いりませんか?……どうなりとおよろしいように」
板を踏む蹄《ひづめ》の音が聞え、ピシッと鞭が鳴って、ぺーチャという四十くらいの、色の浅黒い痘痕《あばた》面の男が、灰色の、かなり恰好のよい牡馬をひいて厩からとび出したが、まず後足で立たせて見て、それから庭のまわりを馬と一しょに二度ばかり駈け、ちょうど見よい場所に手際よくぴたりと止めた。『鼬《ゴルノスタイ》』は首をのばして、ぶるっと鼻を鳴らし、尻尾をふり上げ、鼻面を軽くふって、私たちを流し目に見た。
『手馴れたやつだわい!』と私は思った。
「もうよし、もうよし」とシートニコフは声をかけて、私を見つめた。
「さあ、いかがなもんでしょう?」と彼はとうとうきいた。
「悪くないな、――前足が少し頼りないようだが」
「いい足ですよ!」とシートニコフは自信たっぷり言い返した。「それにあの腰ときたら……まあご覧になって下さい……ペーチカぐらいありますよ、楽に寝られるくらいですがな」
「外踝《くるぶし》が長いな」
「なんで長いことがありましょう――とんでもない! 曳いてみろ、ぺーチャ、曳いてみろ、諾足《だく》で、諾足で、諾足で……駆けさせないで」
ペーチャがまたもや『鼬《ゴルノスタイ》』を曳いて庭を一まわりした。私たちはみなしばらく黙っていた。
「では、それを帰して、『鷹《ソコル》』をつれて来な」とシートニコフが言った。
『鷹《ソコル》』は甲虫のように黒いオランダ種の牡馬で、腰が垂れ下ってやせており、『鼬《ゴルノスタイ》』よりは少しばかり勝《まさ》っていた。これは馬好きの連中が、『あいつは切ったり、刻んだり、生捕りにする』と言っている部類の馬に属する。つまり、歩くときに前足をねじり、左右に投げ出すようにして、前にはあまり進まないのである。中年の商人たちはこんな馬の方を好む。こういう馬の歩調は敏捷な給仕人の威勢のよい歩きぶりを思い出させる。こうした馬は食後の散歩に、一頭立てで曳《ひ》かせるのによい。こんな馬は、乙《おつ》にすました小刻みな足取りで、頸《くび》をねじって、一生懸命に、痺《しび》れるほど食い過ぎた馭者や、胸やけになやんでいる元気のない商人や、青い絹の外套《サロープ》を着て、藤色のスカーフをかぶったぶよぶよの商人の女房などをのせて、不細工な四輪馬車《ドローシキ》を曳いているものである。私は『鷹《ソコル》』もことわった。シートニコフはさらに何頭かの馬を私に見せた……最後に、ただ一頭だけ、ヴォエイコフ種の連銭《れんぜん》葦毛が私の気に入った。私はうれしくてたまらなくなり、≪き甲≫〔馬の肩骨間の隆起〕をとんとんと軽くたたいた。シートニコフはすぐに何食わぬ顔をした。
「どうだね、うまく乗って行けるかな?」私はきいた(諾足《だくあし》の馬は『走る』とは言わない)。
「行けます」と博労は落ち着きはらって答えた。
「見せてもらえないか?……」
「そりゃ、よろしゅうございますとも。おい、クージャ、『|追い附き《ドゴニャーイ》』を馬車につけろ」
その道の達人である調馬師のクージャが、私たちを前にして、往来を三度ばかり通って見せた。馬はよく走る。歩調を乱さず、尻も上げず、ゆったりと足を運んで、尻尾をふり分け『高々とあげたまま』という逸物である。
「いくらで売るのかね?」
シートニコフは法外な値段を吹っかけた。私たちはそのまま往来で交渉を始めた。すると不意に町角から、みごとに立派な馬を取りそろえた三頭立の駅逓馬車が、けたたましく飛び出して来て、シートニコフの家の門前でぴたりと停まった。狩猟用の粋《いき》な馬車にはN公爵が乗っている。そばに高々と坐っているのはフロパコフだ。バクラーガが馬を馭《ぎょ》している……その手綱さばきの巧みなことといったら! 馬車を駆って耳環《みみわ》の中でもくぐりぬけられようという好漢だ! 栗毛の副馬《そえうま》はなりの小さい、元気のよい、眼と足の黒い馬で、しきりに逸《はや》り立って、しきりにあがいている。ぴしりと一鞭ならせば、たちまち見えなくなろうというもの! 黒栗毛の中馬は頸を白鳥のように曲げ、胸をつき出し、足を矢のようにそろえて、しゃんと立ち、絶えず頭をふっては誇らしげに眼を細めている……すばらしい! イワン雷帝が復活祭に駆っても、よもや恥かしからぬしろものである!
「閣下! どうぞお入り下さいまし!」とシートニコフが叫んだ。
公爵は馬車から跳びおりた。フロパコフは反対側から悠々と下り立った。「やあ、今日《こんにち》は……いい馬があるかい?」
「御前様のお気に入るような馬がなくてどうしましょう! どうぞ、お入り下さいまし……ペーチャ、『孔雀《パヴリーン》』をつれて来い! それから『|誉れ《ポフヴァーリヌイ》』も用意するようにな。それから旦那とは」と彼は私の方を向いて言葉をついだ。「いずれ時を改めてお決めしましょう……フォームカ、御前様に腰かけを持っておいで」
私が最初に気がつかなかった特別の厩から『孔雀』を曳いて来た。逞《たくま》しい、黒みがかった栗毛の馬はしきりに逸《はや》って、足が虚空《こくう》を躍る。シートニコフは悦に入って首をねじ曲げ、眼を細くしている。
「おお、ルラカリオン!」フロパコフが声高らかに言った。「ジェムサア!」
公爵は笑い出した。
『孔雀』を引き止めるのがまた一苦労だった。馬は厩番を引きずって庭を走り出したが、とうとう終いには壁ぎわに押しつけられた。それでも鼻嵐を吹き、身をふるわせて、あがいている。一方シートニコフは馬に鞭をふり上げて、一そう焦《じ》らしている。
「どこを見ている? そうら一発くれるぞ! う!」と博労は思わず自分の馬に見とれながら、やさしくおどかして言った。
「いくらだ?」と公爵がたずねた。
「御前様のことですから五千ルーブリで」
「三千だ」
「そりゃいけません、御前様、御冗談を……」
「なに、三千だ、ルラカリオン」とフロパコフが口を入れた。
私はこの取引の結末を待たずに立ち去った。途中で通りの一番端の角まで来ると、灰色がかった小さな家があって、門に大きな貼り紙のしてあるのが眼にとまった。上の方にはペンで、筒のような尻尾をし、頸のむやみと長い馬の絵が描《か》いてあり、馬の蹄の下には古風な書体で次のような文句が書いてある。
[#ここから1字下げ]
『色とりどりの毛色の売馬あり。タムボフの地主アナスタセイ・イワーヌイチ・チェルノバイの有名なる草原育馬場より、当レベジャンの馬市につれ来《きた》れるもの。体格優秀、調教完全、性質温順。購買者諸賢は直接アナスタセイ・イワーヌイチに御照会|請《こ》う。アナスタセイ・イワーヌイチ不在の節は、馭者ナザール・クブィシキンにお問合せのこと。購買者諸賢、何とぞ老齢に免じて御来駕《ごらいが》の栄を賜らんことを!』
[#ここで字下げ終わり]
私は立ち止まった。有名なる草原育馬場主チェルノバイ氏の馬でも見てやるとしよう、と私は考えた。
私は耳門《くぐり》の中へ入ろうとしたが、見れば、例になく、錠がかかっている。私はとんとんとたたいた。
「どなた?……お客様?」と女の細い声が言った。
「そうだ」
「ただ今、旦那様、ただ今」
耳門《くぐり》が開いた。見れば五十ぐらいの百姓女で、頭には何もかぶらず、長靴をはいて、裘《かわごろも》をつっかけている。
「どうぞお入りなさいまし、旦那様、今アナスタセイ・イワーヌイチのところへ行って、申し上げて来ますから……ナザールや、ナザールってば!」
「なんだね?」と七十|年寄《としよ》りのもぐもぐ言う声が厩の方から聞えて来た。
「馬の用意をおし、お客様がいらしったんだよ」
老婆は家の中に駆けこんだ。
「お客様、お客様とな」とナザールがぶつぶつ答えた。「まだ馬の尻尾が全部洗い終っていねえのによ」
『ああ、ここはまるで桃源境だな!』と私は思った。
「今日は、旦那、いらっしゃいまし」という潤《うるお》いのある、気持のよい声が、私の背後《うしろ》で聞えた。私はふりかえった。青い裾長の外套を着た、白髪の中背の老人が、愛想のよい微笑を浮かべ、きれいな青い眼を向けて私の前に立っている。
「馬がお入用で? よろしゅうがす、あなた、よろしゅうがす……が、まずうちへ寄って、お茶でもあがりませんかな?」
私は厚意を謝して、それをことわった。
「それなら、御随意に。あんた、まあ許してつかわせ。何ぶん、わしは昔もんだでな(チェルノバイ氏はゆっくりと、そしてアクセントのない|O《オー》をそのままOと発音する)。わしはつまり、なんでも率直ですのじゃ……ナザール、おい、ナザール」と彼は、言葉尻を長くのばして附け加えた。別段声を高めるでもない。
鉤鼻《かぎばな》と楔形《くさびがた》の顎鬚のあるしわくちゃ爺《じじい》のナザールが、厩の閾《しきい》ぎわに姿を現わした。
「あんたは、どんな馬がお入用なんじゃな?」とチェルノバイ氏は話をつづける。
「あまり高くない、乗り馴らした馬で、幌馬車につけるやつを」
「よろしゅうがす……そういうのもあります、よろしゅうがす……ナザール、ナザール、旦那にあの葦毛の去勢馬をお目にかけな、一番向うのやつだ。それから星のある栗毛も。なかったら別の栗毛をお見せしろ、そら『別嬪《クラソートカ》』の子をな、いいかい?」
ナザールは厩へ引き返した。
「端綱《はづな》をつけたまま曳いて来るんだぞ!」とその後からチェルノバイ氏は叫んだ。「うちは、あんた」と澄んだおだやかな眼で私の顔を見ながら彼はつづける。「博労相手と違って、だまされる心配はありませんよ! あいつらのところでは、いろんなショウガだの、塩だの、酒糟《さけかす》だのを使うんで、いや、全く、ひどいもんでさ!……ところがうちじゃ、ご覧の通り、何もかも明けっぴろげで、ずるいことなんざしません」
馬をつれて来た。どれも私の気に入らなかった。
「さあ、馬を元へ戻しな」とアナスタセイ・イワーヌイチは言った。「別のをお目にかけろ」
他の馬が引き出された。私は、やっと、安いのを一頭えらび出した。私たちは値段の駈引きを始めた。チェルノバイ氏は腹も立てず、しかつめらしく神様を証人に立てるものだから、私もとうとう『老齢に免じ』ざるを得なかった。私は手金を渡した。
「あ、それでは」とアナスタセイ・イワーヌイチは言った。「昔風に馬を裾から裾へ渡させていただきましょう……あとでこのわしに感謝なさいますよ……なんせ、生きのいいやつですからな! クルミみたいで……手つかずの……原っ子でさあ! どんな馬具をつけても大丈夫」
彼は十字を切って、自分の外套の裾を手の上にのせ、その手で端綱を取って私に馬を渡した。
「さあどうぞお受け取りなすって……ところで、お茶はやはりほしくありませんか?」
「いや、大きにありがとう。もう帰る時刻なもんで」
「では御随意に……では、うちの馭者に馬を曳かしてお伴をさせましょうか?」
「そうだな、そう願えたらありがたい」
「よろしゅうがす、あんた、よろしゅうがす……ワシーリイ、おい、ワシーリイ、旦那のお伴をしな。馬をつれていって、お金をいただいて来るんだよ。では、さようなら、あんた、御機嫌よう」
「さようなら、アナスタセイ・イワーヌイチ」
馬は宿へ届けられた。次の日になって見ると、それは乗り潰《つぶ》した馬で、跛《びっこ》であることがわかった。私は馬を馬車につけてみようとした。ところが馬は尻ごみして、鞭をくれると頑固になるは、蹴るは、さては臥《ね》てしまうというありさま。私はさっそくチェルノバイ氏のところへ出向いた。私はたずねる。
「在宅ですか?」
「いかにも」
「一体、これはどうしたというんです」と私は言う。「あなたは私に乗り潰した馬を売りつけたじゃありませんか」
「乗りつぶした?……とんでもない!」
「おまけに跛《びっこ》で、その上じゃじゃ馬だ」
「跛? 知らんね、大方、お前さんとこの馭者が傷めたんだろ……わしは、神様の前へ出ても……」
「本当の話が、アナスタセイ・イワーヌイチ、あなたは馬を引き取るべきです」
「いや、あんた、そんなに怒らんでくれ。一たん庭から出したからには、話は済んだものじゃ。前によく見ればよかったのだ」
私は事の次第がわかったので、これも運だといさぎよくあきらめ、笑って引き上げた。仕合せと、私はあまり高い金を払わずに教訓を得たのであった。
それから二日ほどして、私はレベジャンを去ったが、一週間後に帰る道すがら、またレベジャンに立ち寄った。コーヒー店をのぞいて見ると、ほとんど同じような顔ぶれで、N公爵がまたもや玉をついていた。しかしフロパコフ氏の運命にはいつもの変化が生じていた。薄亜麻色の若い士官が彼のかわりに公爵のお気に入りになっていた。哀れな退職陸軍中尉は私のいるときに、試しにもう一度自分のきまり文句を言ってみたが――ひょっとしたら、前のように気に入るかしらん、と思って、――公爵は笑うどころか、苦い顔をして、肩をすくめた。フロパコフ氏は下を向いて、小さくなり、こそこそと隅に隠れ、そっとパイプにタバコを詰め出した……