父と子
ツルゲーネフ作/佐々木彰訳
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ヴィッサリオン・グリゴーリエヴィチ・ベリンスキイの思い出にささぐ
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目 次
父と子
解説
年譜
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父と子
「どうだな、ピョートル、まだ見えないか?」一八五九年五月二十日のこと、ほこりにまみれた小さめの外套を着て、格子縞のズボンをはいた四十がらみの紳士が、***街道に面した旅館の低い玄関口に、帽子もかぶらずに出てきて、自分の下男にきいた。下男は頬のふっくらした若い男で、あごには白っぽい生毛が生えており、どんよりした小さな目をしている。
この下男のなにもかもが、つまり耳にさげたトルコ玉の耳飾りも、ポマードを塗りたくった光る髪の毛も、ていねいな物腰も、要するになにもかもが、この男が最も新しい改良された世代の人間であることを表わしていた。彼はおとなしく街道ぞいに目を走らせていたが、
「いいえ、見えません」と答えた。
「見えないか?」と旦那はくり返した。
「見えません」ともう一度、下男が答えた。
旦那はため息をついてベンチに腰をおろした。彼が両足をベンチの下におし曲げて坐り、物思わしげにあたりを見回しているうちに、読者諸君に彼をご紹介するとしよう。
彼の名はニコライ・ペトローヴィチ・キルサーノフという。この旅館から十五キロほど離れたところに、農奴が二百人もいるりっぱな領地を持っている。あるいは、彼が農民たちと境界定めをやって、『農園』を始めるようになってからの言いかたによると、二千ヘクタールの土地を持っている。彼の父は一八一二年の役(ナポレオン戦争)に参加した将軍で、ろくに読み書きもできない、むくつけき男であったが、しかし悪気のない、それこそロシヤ人らしい人間で、生涯つらい勤務に服し、はじめは旅団長を、それから師団長をやり、いつも地方回りをしていたが、官等のおかげで地方ではかなり幅を利かせていた。ニコライ・ペトローヴィチは、兄のパーヴェル(彼のことは後ほど話す)と同じように南ロシヤで生まれ、十四になるまで家庭で教育をうけた。安っぽい家庭教師や、あつかましいくせに卑屈な副官その他の司令部づきの連中に取りまかれて。母親はコリャージン家の出であり、娘のときにはアガーテと言っていたが、将軍夫人となってからはアガフォクレーヤ・クージミニシナ・キルサーノワと名乗った。彼女は『隊長の奥さん』タイプの人で、派手な室内帽をかぶり、サラサラうるさく音をたてる絹の服を着て歩いた。教会ではまつ先に十字架に近づき、大きな声でおしゃべりをし、朝は子供たちに自分の片手にキスをさせ、夜寝る前には彼らを祝福してやった。要するにしごくのん気に暮らしていた。
ニコライ・ペトローヴィチは将軍の息子として――彼はあまり勇敢でなかったばかりか、臆病者というあだ名をつけられていた――兄のパーヴェルのように、軍務につくはずであった。しかし彼は、任命の通知がきたちょうどその日に、片足を折ってしまい、二カ月入院したのち、生まれもつかない『びっこ』になってしまった。父はあきらめて彼を文官とすることにした。数えで十八になるとすぐに、父は息子をペテルブルクに連れて行き、大学に入れた。ちょうどそのころ、兄は士官となって近衛連隊に勤務し始めた。若い二人は一つ家で共同生活を始め、母方の従伯父に当たるイリヤー・コリャージンという偉い役人が、遠くから二人を監督することとなった。父は師団へ、妻のもとへ帰り、ただ時たま息子たちに、灰色の大きな四つ切り大の便箋に、書きなぐったような威勢のよい筆跡でびっしり書きつめた手紙をよこすだけであった。手紙の最後には、『ピオートル・キルサーノフ陸軍少将』という文字が、入念に書かれた『渦巻き模様』に取り囲まれて、その美を誇っていた。
一八三五年ニコライ・ペトローヴィチは学士となって大学を卒業し、同じ年にキルサーノフ将軍も、査閲の不首尾のために職を免ぜられて退き、妻とともにペテルブルクに移り住んだ。彼はタヴリーダ公園のそばに家を借り、イギリス・クラブに入会しようとしていた矢先、にわかに卒中で死んでしまった。アガフォクレーヤもじき夫のあとを追った。彼女はたずねる人もいない都の生活になじむことができなかった。隠居暮らしのわびしさにたえられなかったのである。一方、ニコライ・ペトローヴィチは、まだ両親が健在だったときに、それは彼らを大いに悲しませたことであったが、家主であるプレポロヴェンスキイという官吏の娘が好きになってしまった。それはかわいい顔をした、いわゆる頭のいい娘だった。彼女が雑誌で読むのは『学術』欄のまじめな論文だった。彼は喪があけるとすぐに彼女と結婚し、父親の口ききで入れてもらった御料地省をやめてしまい、マーシャと一しょに、初めは林業専門学校の付近にある別荘で幸福な日々を送ったが、それから市中にある小さな住み心地のよい借家に移り、最後に――田舎に移って、とうとうそこに住みつき、まもなく息子のアルカージイが生まれた。
夫婦はしごくけっこうに、静かに暮らした。彼らはほとんど別れて暮らしたことがなく、共に読書をし、連弾でピアノをひき、二重唱をした。妻は花を植えたり、鳥小屋を見回ったりした。夫は時たま猟に出かけるほかは農地経営にいそしんだ。一方、息子のアルカージイは、やはり幸福に、静かにすくすくと育っていった。こうして十年が夢のようにすぎ去った。ところが四七年にニコライの妻が亡くなった。彼はからくもこのショックにたえたが、数週問のうちに髪の毛は白髪になってしまった。彼は、せめてすこしでも気をまぎらそうと思い、外国へ行く手筈をととのえた……そのとき四八年の革命(フランスの六月革命。ニコライ一世は革命のロシアへの波及をおそれ、外国旅行を禁止した)が始まった。彼はやむなく田舎に帰り、長いあいだすることもなくぶらぶらすごしたのち、農地経営の改革に着手した。五五年に彼は息子を大学へ入れるために、息子を連れて上京した。息子と一しょにペテルブルクで三冬すごしたが、ほとんどどこへも行かずに、アルカージイの若い仲間たちとつとめて交際した。最後の冬にはペテルブルクに行かれなかった。そしてわれわれは一八五九年五月の現在、すっかり白髪頭になった、小ぶとりで、すこし背中の曲がった彼を見ているのである。彼は往年の自分のように学士となって帰ってくる息子を待っているのである。
下男は旦那への遠慮から、ことによれば、旦那の目のとどくところにいたくなかったので、門の下へ行って、パイプをふかし始めた。ニコライ・ペトローヴィチはうなだれたまま、昇降口の古ぼけた段々を眺め始めた。まだら色のひよっ子が一羽、堂々と胸をはって段々の上を歩き回っている、黄色な大きい脚で威勢よく脚音をたてながら。うす汚れた猫が一匹、すまして手すりの上にうずくまって、うさんくさそうに時々それを盗み見ている。
じりじりと太陽が照りつけていた。旅館のうす暗い玄関からはあたたかい黒パンの匂いがただよってくる。ニコライ・ペトローヴィチは空想にふけった。「息子……学士……アルカーシャ(アルカージイの愛称)……」――という考えがたえず彼の頭の中を堂々めぐりするのであった。なにかほかのことを考えようとしても、いつしかまた同じことを考えているのだった。彼は死んだ妻のことを思いだした……「あれが生きていてくれたら!」と彼はさびしそうにつぶやいた……まるまる肥った青鳩が街道の上に飛んできて、井戸のわきの水たまりへ、急いで水を飲みに行った。ニコライ・ペトローヴィチは今度は鳩を眺め始めたが、このとき耳に、近づいてくる馬車の車輪の音が聞こえてきた。
「お見えのようです」と門の下から姿を現わして、下男が注進した。
ニコライ・ペトローヴィチは跳び起きて街道沿いに目をこらした。三頭立ての駅馬をつけた旅行馬車が見えてきた。馬車の中から学生帽の鉢巻きと、かわいい息子の見なれた顔立ちがちらちら見えた……
「アルカーシャ! アルカーシャ!」とキルサーノフは大声で叫び、駆け出して、両手をふった……数分後にもう彼の唇は、若い学士のひげのない、ほこりをかぶった、日焼けした頬におしつけられていた。
「ほこりを払わせてください、お父さん」と旅行のためにすこししゃがれてはいるが、よく徹る若者らしい声でアルカージイが言った。父親の愛撫に嬉しそうにこたえながら、「すっかり汚れてしまいますよ」
「かまわん、かまわん」とニコライ・ペトローヴィチは感動して、微笑しながらくり返して言うと、息子の外套の襟と自分の外套とを二度ばかり手ではたいた。「顔を見せておくれ、顔を」と彼はうしろへ引きさがって言い足したが、すぐに「おい、こっちだ、こっちだ、急いで馬をまわしてくれ」と言いながら、急ぎ足で旅館に向かって歩きだした。
ニコライ・ペトローヴィチは自分の息子よりもずっとそわそわしているように見えた。彼はいくぶん途方にくれているようでもあれば、臆しているようでもあった。アルカージイが彼をおしとめた。
「ねえ、お父さん」と彼は言った。「友人のバザーロフ君を紹介しますよ、同君のことは手紙でちょいちょい書いてよこしたでしょう。今度うちへお客にくることを、こころよく承知してくれたんです」
ニコライ・ペトローヴィチは急いでふり向いた。そしてたった今馬車から出てきたばかりの、ふさつきの長い上っぱりを着た、背の高い男に近づくと、相手のむき出しのままの赤い手を固く握りしめた。相手はすぐには手を出そうとしなかった。
「はじめまして」と彼は言った。「よくいらっしゃいました。よもや……ええと、失礼ですがお名前とご父称は?(ロシア人のフルネームは名・父称・姓の三つから成る。たとえばバザーロフについて言えば、エヴゲーニイが名、ワシーリイチが父称、バザーロフが姓である。父称は父の名からつくられる。ワシーリイチとはワシーリイの息子の意。普通、名と父称で呼びかける)」
「エヴゲーニイ・ワシーリイチです」とバザーロフは、だるそうな、しかし男らしい声で答え、上っぱりの襟《えり》をはずして自分の顔全体をニコライ・ペトローヴィチに見せた。長い痩せた顔、秀でた額、上へゆくと平べったく下の方がとがっている鼻、大きな緑色がかった目、茶色の頬ひげ。彼の顔は落ちついた微笑で生き生きとしており、自信のほどと頭のよさをあらわしていた。
「よもや、エヴゲーニイ・ワシーリイチさん、うちで退屈なさるようなことはないと思います」と、ニコライ・ペトローヴィチが言葉をつづけた。
バザーロフの薄い唇がかすかにふるえた。しかし彼はなんとも答えず、ただ帽子を軽く持ちあげただけである。黒みをおびた、長い豊かな金髪は、広い額をおおい隠しきれなかった。
「ところでどうだね、アルカージイ」とふたたび息子の方に向きなおりながら、ニコライ・ペトローヴィチが言いだした。「今すぐ馬をつけるとするかね? それとも一休みするかい?」
「家へ帰ってから休みましょう、お父さん。馬をつけるように命じてください」
「いいとも、いいとも」と父は答えた。「おい、ピョートル、わかったかい? 早くやってくれ」
ピョートルはハイカラな下男として、若旦那のそばへよって手にキスしたりはせず、ただ遠くから彼におじぎをしただけで、また門の下に姿を消した。
「わしは幌馬車で来たんだが、お前の旅行馬車につける三頭立てだってあるよ」とニコライ・ペトローヴィチは心配して言った。一方、アルカージイは旅館のおかみさんの持ってきた鉄のひしゃくで水を飲んでいたし、バザーロフはパイプでタバコをふかしながら、御者が馬をはずしているそばによって行った。「ただ幌馬車は二人乗りなもんだから、お前の友だちをどうしたものかと……」
「あれは旅行馬車で行きますよ」とアルカージイが小声で話の腰を折った。「どうかお父さん、あの男に遠慮なんかしないでください。あの男はじつにいいやつで、さっぱりしてるんです……今にわかりますよ」
ニコライ・ペトローヴィチの御者が馬をひいてきた。
「さあ、早くしろ、ひげもじゃ!」とバザーロフが御者に向かって言った。
「聞いたかい、ミチューハ」とそこに立っていたもう一人の御者が、皮衣のうしろの切り込みに手をつっこみながら、言った。「旦那がお前のことをなんて呼んだか? ひげもじゃだとよ」
ミチューハはただ帽子を一ふりして、汗だくの中馬から手綱をはずしただけであった。
「急いだ、急いだ、手を貸してやってな」とニコライ・ペトローヴィチが大声で言った。「酒手ははずむから!」
まもなく馬は馬車につけられた。父と子は幌馬車に乗り込んだ。ピョートルは御者台によじ登った。バザーロフは旅行馬車に跳び乗って、革の枕に頭をうずめた。二台の馬車は走りだした。
「とうとう学士になって帰って来おったか」ニコライ・ペトローヴィチはアルカージイの肩だの、膝だのにさわりながら言った。「とうとうね!」
「伯父さんはどうです? 達者ですか?」とアルカージイはきいた。心の底から、ほとんど子供のような喜びにみたされていたにもかかわらず、彼は話を、興奮した気分から日常的なものに、早く持っていきたかったのである。
「元気だよ。一しょに迎えにくると言っていたんだが、なぜだか気が変わってな」
「長いこと待ちましたか?」アルカージイがきいた。
「五時間ぐらいかな」
「すまないなあ、お父さん!」
アルカージイは勢いよく父の方を向いて彼の頬に音高くキスした。ニコライ・ぺトローヴィチは静かに笑った。
「お前にすばらしい馬を用意しておいたよ!」と彼は言った。「あとでわかるが。部屋の壁紙も張りかえてある」
「バザーロフの部屋はありますか?」
「どうにかなるさ」
「おねがいだから、お父さん、親切にしてやってください。ぼくがどんなにあの男を尊敬しているか、お父さんにはお伝えできないくらいなんですから」
「最近知り合ったのかね?」
「そうです」
「道理で去年の冬は見かけなかったはずだ。なにをやってる人だね?」
「専門は自然科学です。でも、なんでも知っていますよ。来年は医師の試験を受けると言っています」
「そうかい? 医学部か」ニコライ・ペトローヴィチはそう言って、しばらく口をつぐんだ。「ピョートル」と今度は下男に言葉をかけて、「あれは、うちの百姓らしいな?」と、片手をのばして言った。
ピョートルは旦那のさしている方角を眺めた。くつわをはめていない馬をつないだ数台の荷馬車が、細い脇道を勢いよく走っていた。それぞれの荷馬車には一人か、多くても二人の百姓が、皮衣の前をはだけて乗り込んでいる。
「さようでございます」ピョートルが答えた。
「どこへ行くんだろう、町へでも行くのかね?」
「町の居酒屋へでも行くんでございましょう」と、彼はさげすむように言いそえて、この男がよく知ってますよ、とばかりに、そっと御者の方に身体を傾けた。しかし御者は身動きもしなかった。こちらは新時代の物の考え方にくみしない旧いタイプの人間だった。
「今年は百姓のことでいろいろと面倒なことが多くてな」と息子の方を向いて、ニコライ・ペトローヴィチが言葉をつづけた。「小作料を払わんのだ。お前ならどうする?」
「雇人には満足なんですか?」
「うん」とニコライ・ペトローヴィチは歯の間から押し出すように言った。「それがね、たきつけるやつがいるんで、困るよ。それに、本気で働こうという気がないんだ。馬具はだめになるし。もっとも耕作の方はぶじにすんだ。いっときのがまんさ。お前、農地経営に興味を持つようになったのかい?」
「うちには日陰がなくて、困りますね」とアルカージイは、最後の質問には答えないで、言った。
「北側のテラスに大きな日よけを取りつけたよ」とニコライ・ペトローヴィチが言った。「もう外で食事ができる」
「なんだかえらく別荘じみちゃって……でも、そんなことはどうでもいいや。そのかわりここの空気はすばらしいですね! じつにいい香りだ! まったく、この地方ほど香しいところは、世界じゅうどこにもないと思いますね! それにここの空だって……」
アルカージイはふと話をやめ、斜めうしろに目をやって、おし黙った。
「むろんさ」とニコライ・ペトローヴィチが言った。「お前はここで生まれたんだもの、当然なにもかもがとりわけ……」
「いや、お父さん、人間はどこで生まれたっておんなしですよ」
「しかしだ……」
「いいえ、まったくおんなしですよ」
ニコライ・ペトローヴィチは脇から息子を眺めやった。そのまま幌馬車が半キロほどすぎてはじめて、二人はやっとまた話しだした。
「手紙で知らせてやったかどうか覚えていないが」とニコライ・ペトローヴィチが口をきった。「お前のばあやだったエゴーロヴナが死んでしまったよ」
「本当ですか? かわいそうに! で、プロコーフィチは達者ですか?」
「達者で、ちっとも変わっていないよ。相変わらず、ぶつぶつ言っている。概してマリーノ村はあまり変わっていない」
「管理人はずっと同じですか?」
「管理人だけは取りかえた。前に屋敷づとめをしていて、あとで自由民になった農奴は家へおいとかないことにしたんだ。すくなくとも、責任のある職務にはつけないことにした」(アルカージイは目でピョートルをさした)「あれは事実上自由なんだよ」ニコライ・ペトローヴィチはフランス語を使って小声で言った。「しかし侍僕だからね。今のうちの管理人は元来が町方の者なんだ。仕事はできるらしいよ。年に二百五十ルーブリ払うことにしてある。ところで」とニコライ・ペトローヴィチは額と眉を片手でこすりながら、つけ加えた。このしぐさは、彼が内心困ったときに、いつでもやってみせるくせである。「わしは今さっきお前に、マリーノ村はあまり変わっていない、と言ったが……そいつはあまり当たっていない。あらかじめお前に断わっておかなければならないことがあって……」
彼はちょっと口ごもって、それから先はもうフランス語でつづけた。
「うるさい道学者は、わしのように率直に打ち明けることをとやかく言うか知らんが、しかし、第一に、こんなことは隠しておけるもんじゃないし、第二に、お前も知っての通り、わしは父子関係というものについて、特別な主義を持っている。といっても、もちろん、お前にはわしを非難する権利があるわけだ。この年で……要するに、その、なんだ……あの娘がだな、この話はたぶん、お前も聞いてもう知っているだろうけれども……」
「フェーネチカのことでしょう?」アルカージイがずばりときいた。
ニコライ・ペトローヴィチは顔を赤くした。
「どうか、あれの名前を大きな声で言わないでおくれ……そうだよ……あれが今わしのそばで暮らしているのだ。あれを家へ入れて……二つ小部屋があったもんだから。もっとも、これは変えたってかまわないんだよ」
「とんでもない、お父さん、なぜです?」
「お前の友だちがとまるとなると……ぐあいが悪いからな……」
「バザーロフのことなら、どうか、心配しないでください。あの男はそんなことを超越していますよ」
「それから、お前」とニコライ・ペトローヴィチが言った。「離れがまたおそまつときてるんで――困りものさ」
「なにを言うんだね、お父さん」アルカージイが急いで言葉を引き取った。「お父さんはあやまってるみたいだよ。おかしいや」
「むろん、おかしくって当然だよ」ニコライ・ペトローヴィチはますます顔を赤くしながら答えた。
「たくさんだよ、お父さん、もうたくさん!」とアルカージイは愛想よく微笑した。『なにをあやまることがあるんだろう!』と彼はひそかに思った。やさしい、柔和な父に対する寛大ないたわりの気持ちが、ひそかな優越感のようなものとまじり合って、彼の心を一ぱいにした。「どうか、やめてください」と彼はもう一度くり返して言った。自分も大きくなり、物事が自由に考えられるようになったものだ、と思うと、彼は心楽しくなるのだった。
ニコライ・ペトローヴィチは、さっきから額をこすりつづけている片手の指の下から息子を眺めた。そして胸にぐっとくるものを感じた……しかし彼はすぐに自分を責めた。
「ほら、この辺からもううちの畠だよ」長い沈黙のあとで彼は言った。
「あの前にあるのはうちの森のようですね?」アルカージイがきいた。
「そうだ、うちのだ。でも売ってしまったよ。今年じゅうには伐《き》られてしまうだろう」
「どうして売ったんです?」
「金がいったんでな。それにあの土地は百姓たちのものになるんだよ」
「小作料を払わない連中のですか?」
「それは先方の心がけしだいだが、そのうちに払うだろうよ」
「あの森は惜しいな」とアルカージイは言って、あたりを眺めだした。
彼らの通ってゆく場所は、絵のように美しいとは言いかねた。行けども行けども畠が、わずかな起伏を見せて、はるか遠くの地平線までつづいていた。あちこちに小さな森が見え、まばらな低い藪《やぶ》の点在する谷がうねっていた。それは彼らに、エカチェリーナ時代の古い地図の模様を思いださせた。岸のくずれた小川や、そまつな堤をめぐらした小さな池や、低い百姓家のつづいている部落も見えてきた。百姓家の屋根は黒ずんでいて、往々にして半分がたくずおれていた。かしいだ打穀《だっこく》小屋はそだを編んで壁にしたものであり、荒れた打穀場の入り口には門が大口をあけて立っている。教会はところどころしっくいの剥げ落ちた煉瓦造りのもあれば、十字架が傾き、墓地の荒廃した木造のもある。アルカージイはだんだん胸がしめつけられてゆくような気がした。行き会う百姓どもは、わざとのように、どれもこれもぼろを着て、痩せさらばえた馬に乗っていた。道ばたの柳の木は皮をむしり取られ、枝をへし折られて、ぼろをまとった乞食のような姿で立っていた。まるでまわりをかじり取られたようにやせっぽちで、毛並みの不揃いな牛どもが、貪るように溝のへりの草を食《は》んでいた。彼らはたった今、なにものかの恐ろしい爪から、命からがら脱出してきたかのように見えた。すると、くたびれた動物のみじめな姿にさそわれて、春の晴れた日ながに、悲しく、はてしない冬の白い幻が、吹雪や、厳寒や、雪とともに、目の前にうかんでくるのだった……『いや』とアルカージイは思った。『この地方は豊かじゃない。豊かでもないし、勤勉でもない。とてもこのままではほうっておけない、改革が必要だ……だがどうやってそれを実行したものか、なにから手を着けたものか?……」
アルカージイはこんな考えにふけっていた……しかし彼が考えにふけっているうちにも、春はそのいとなみをつづけていた。あたりのものはすべて金色をおびた緑色に輝き、すべてのものが見渡すかぎりやわらかく波立ち、暖かなそよ風のおだやかな息吹きをうけて光っていた、なにもかも木も、藪も、草も。どこでもかしこでも、片時も休まないヒバリの甲高い歌が聞こえていた。ナベケリが低い草地の上を飛びながら鳴き立てたり、丘の上を黙々と走り回ったりしていた。背丈のまだ伸びていない春まき麦のやわらかな緑のなかを、黒い姿をじまんそうに見せながら、カラスの群れがそぞろ歩いていた。そのカラスどもも、かすかに白くなってきた裸麦の中に、姿を消そうとしている。ただ時たま、煙のようにぼうっとかすんで見える穂波のあいだから、頭をのぞかせるだけだ。アルカージイはただもうじっと眺めていた。すると彼の不安な思いはすこしずつうすれてゆき、いつしか消え失せてしまった……彼は外套を脱ぎすてるとじつに嬉しそうに、少年のようにまことにあどけない表情をうかべて父を見たので、父はもう一度彼をだきしめたほどであった。
「もうすぐだ」とニコライ・ペトローヴィチが言った。「ほら、あの丘に登れば、家は見えるよ。わしらはすばらしい生活を始めようじゃないか、アルカーシャ。もしいやでなかったら、わしの農地経営の手伝いをしてもらいたい。今われわれはたがいに仲よくして、理解し合うことが必要なんだ、そうじゃないかい?」
「もちろんです」とアルカージイは言った。「それにしても今日はじつにすばらしい日ですね!」
「お前が帰って来たからだよ、アルカーシャ。そう、春たけなわってやつだ。それにしてもプーシキンはうまいことを言っているな。覚えているかね、『エヴゲーニイ・オネーギン』にこうあるだろう、
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春よ、春、恋するときよ!
ながおとずれの悲しくも
いかに……
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「アルカージイー」と旅行馬車からバザーロフの声が聞こえてきた。「マッツチをとどけてくれ、タバコに火がつけられないんだ」
ニコライ・ペトローヴィチは口をつぐんだ。ちょっとびっくりしたものの、いくらか共感を覚えながら父の言葉に聞きいっていたアルカージイは、急いでポケットからマッチの入った銀の小箱を取り出して、ピョートルに持たせてバザーロフにとどけた。
「葉巻いるかい?」とまたバザーロフが大声で言った。
「くれ」アルカージイが答えた。
ピョートルが幌馬車にもどって来て彼に、小箱と一しょに太い黒い葉巻を渡した。アルカージイはすぐそれに火をつけた。年経たタバコのひどく強烈な、すっぱいような匂いがあたりにただよったので、生まれてからタバコを吸ったことのないニコライ・ペトローヴィチは、思わず、そっと(息子が気を悪くしないように)顔をそむけたほどだった。
十五分ほどして二台の馬車は新しい木造家屋の玄関の前にとまった。灰色のペンキが塗ってあって、屋根は赤いトタンぶきだった。これがマリーノ村、一名新村で、百姓どもはボブィリー・フートル(貧乏村)と呼んでいた。
召使たちが主人たちを迎えるためにどっと玄関に出てくるというようなことはなかった。ただ一人、十二ぐらいの女の子が姿を見せただけである。そのあとからピョートルに大へんよく似た若者が出てきた。紋章入りの白いボタンのついた、灰色のお仕着せの上衣を着ている。これはパーヴェルの下男だ。彼は黙って幌馬車のドアを開け、旅行馬車の前おおいをはずした。ニコライ・ペトローヴィチとバザーロフは、薄暗い、ほとんど家具のない広間を通って(広間のドアの陰から若い女の顔がちらりと見えた)客間に向かった。そこはもう、最新の趣向で飾られてあった。
「やれやれ、やっと家に着いた」と帽子を脱いで、髪の毛をゆさぶりながら、ニコライ・ペトローヴィチが言った。「あとは晩飯を食べて休むだけだ」
「食べるのはたしかに悪くありませんね」と、のびをしながらバザーロフは言って、ソファーに腰をおろした。
「そう、そう、晩飯にしてくれ、早くな」ニコライ・ペトローヴィチはこれといった理由もないのに足踏みをした。
「ちょうどいい、プロコーフィチが来た」
年のころ六十くらいの、白髪頭で、痩せた、色の浅黒い男が入ってきた。銅のボタンのついた茶褐色の燕尾服を着て、首にはバラ色のマフラーを巻いている。彼は歯を見せて笑い、アルカージイのそばによって手にキスをした。それから客におじぎをすると、ドアのところまで下がって手を背中に組んだ。
「プロコーフィチ」と、ニコライ・ペトローヴィチが言いだした。「息子がやっと帰って来たよ……どうだい? お前の感想は?」
「ごりっぱにおなりで」と老人は言って、またもや歯を見せて笑ったが、すぐさま濃い眉毛をひそめた。「食事の仕度をいたしましょうか?」と彼は威厳をつくろって言った。
「ああ、そうしてもらおう。しかし、バザーロフさん、その前にあなたの部屋に行ってみませんか?」
「いいえ、けっこうです、その必要はありません。ただぼくのトランクをそこへ運ぶように申しつけてください、それからこれも」と、自分の上っぱりを脱ぎながら、彼はつけ加えた。
「けっこうですとも。プロコーフィチ、お客さまの外套をおあずかりしなさい(プロコーフィチはけげんそうな面持ちでバザーロフの『外套』を受け取り、それを頭上高くかかげると、爪先立ちで出て行った)。アルカージイ、お前、自分の部屋をちょっとのぞいてみるかい?」
「ええ、でもほこりをはらってこなくちゃ」アルカージイは答えて、ドアの方に行きかけたが、この瞬間、黒っぽいイギリスふうの背広を着て、流行の小さなネクタイをっけ、エナメル塗りの半長靴をはいた中背の男が客間に入ってきた。これがパーヴェル・ペトローヴィチ・キルサーノフである。見たところ四十五くらいだった。短く刈り込んだ白髪は新しい銀のように鈍い光を放っている。気短からしいが、しわのない顔は並み外れて端正で、清潔で(まるで鋭い軽やかなのみで彫り上げられたかのように)顕著な美貌の跡をとどめていた。とりわけ、澄んだ、黒い、切れ長の目が美しかった。アルカージイの伯父の顔立ち全体は優雅で気品があり、若いころの調和と、地上を遠く離れた天上へのあこがれ(それは二十代をすぎると大てい消えてしまうものなのだ)とを保持していた。
パーヴェルはズボンのポケットから手を、バラ色の長い爪をした美しい手を出して、甥にさしのべた。その手は、大きなオパールでとめたカフスの雪のような白さのために、一そう美しく見えるのだった。まずヨーロッパふうの『握手』をしてから、彼は、ロシヤふうに三度、甥とキスを交わした。つまり三度、自分の香り高い口ひげを甥のほっぺたにくっつけた。そのあとで、「やあ、お帰り」と彼は言った。
ニコライ・ペトローヴィチはバザーロフに彼を紹介した。パーヴェルはしなやかな胴を軽くかがめ、やおら微笑したが、手をさしのべることはしないで、かえってもとのポケットにしまいこんだ。
「おそいもんだから、今日はこないかと思ったよ」と彼は、愛想よく身体をゆすぶったり、肩をしゃくったり、美しい歯をのぞかせたりしながら、気持ちのいい声で言いだした。「途中でなにかあったのかい?」
「なにもあったわけじゃありません」アルカージイが答えた。「そう、すこし手間どりましたね。おかげでぼくたちは今、狼のように飢えているんです。お父さん、プロコーフィチに早くするように言ってください、ぼくはすぐもどって来ますから」
「待ってくれ、ぼくも一しょに行くよ」バザーロフが急に長椅子から身を起こして、声を張りあげて言った。二人の青年は出て行った。
「あれはなにものだね?」とパーヴェルがきいた。
「アルカージイの友だちで、あれの話だと、大へん頭のいい男だそうだ」
「泊まっていくのかい?」
「うん」
「あの毛むくじゃらが?」
「そうだ」
パーヴェルは爪でテーブルをトントンたたいた。
「わしの見たところアルカージイは人おじしなくなった」と彼は言った。「あれが帰って来て、わしも嬉しいよ」
夕食のときにはあまり話がはずまなかった。とくにバザーロフはほとんど一言も口をきかなかったが、大いに食べた。ニコライ・ペトローヴィチは彼の、いわゆる『農園』生活のさまざまなできごとを話して聞かせ、近く実行されることになっている政府の方策や、委員会や、代議員や、機械を取り入れることの必要などについて、説明した。パーヴェルは食堂の中をあちらこちら、ゆっくりと歩き回った(彼はけっして夕食をとらなかった)。時たま赤いぶどう酒を満たした杯から飲み、さらにまれに、「あ! えへ! ふむ!」といったたぐいの意見というよりもむしろ、感嘆の声をあげるのだった。アルカージイはペテルブルクのニュースをいくつか伝えたが、彼はすこしばかり気まずい感じをした。それはたった今、子供であることをやめたばかりの青年が、自分を子供として見ることになれ、子供扱いすることになれている所へもどって来たときに、大方の青年が味わうあの気まずさである。彼は必要がないのに話を長びかせたり、『お父さん』という言葉を避けたりした。一度なぞはそのかわりに『親父』という言葉を使ったほどである。もっとも、口の中でもぐもぐとではあったが。彼はわざとむぞうさに、自分が飲みたいよりも遥かに多量の酒を杯についで、ことごとく飲み干した。プロコーフィチはときどき唇をかみながら、目をそらさずに彼を見ていた。夕食がすむとみんなはすぐにちりぢりになった。
「お前の伯父貴も変わってるな」バザーロフがアルカージイに言った。バザーロフは寝間着を着てアルカージイのベッドのそばに坐り、短いパイプでタバコを吸っていた。「こんな田舎でおしゃれをしても始まらんて! あの爪は展覧会へ出しても恥ずかしくないぜ!」
「君は伯父を知らないからそんなことを言うんだ」とアルカージイが答えた。「昔は伊達男として聞こえたものなのにさ。いつか伯父の身の上話を開かしてあげるよ。なにしろあの人は美男子で、女どもをぼーっとさせたものなんだ」
「ああ、そうかい! 『スズメ百まで』ってやつだな。残念ながら、ここには見せる人なんていないだろうよ。おれはよくよく見ていたんだ。石みたいにコチコチの驚くべきカラー、あごの下はじつにきれいに剃り上げてある。アルカージイ君、こいつはこっけいじゃないかね?」
「そうかも知れない。しかし本当にいい人なんだよ」
「骨董品だな! だが親父さんはすばらしい人だ。よせばいいのに詩なんか読んで、農地経営のことはちっともわかっていないけれど、しかしいい人だ」
「親父はじつにいい人間なんだ」
「気がついたかい、親父さんはおどおどしてたね?」
アルカージイはうなずいた。まるで自分はおどおどなんかしないみたいに。
「まったく驚嘆するなあ」とバザーロフは言葉をつづけて、「年よりのロマンチストたちには! 神経組織が発達しすぎて、いつもいらいらしている……つまり、その、バランスが破れているのだ。だがそろそろ失敬しよう! おれの部屋にはイギリスふうの洗面台があるんだが、そのくせ部屋には鍵がかからないんだ。しかしどっちみち奨励すべきだね、イギリスふうの洗面台は。やっぱり進歩にはちがいないんだから!」
バザーロフが出て行くと、アルカージイは嬉しい気持ちで一ぱいになった。自分の生まれた家で、なじみの寝台で眠るのは楽しい。自分のかけているこのふとんは、愛するばあやの手で、あのやさしい、善良な、疲れることを知らない手でつくられたものなのかも知れない。アルカージイはエゴーロヴナを思いだして、ため息をつき、彼女の冥福を祈った……しかし自分のことは祈らなかった。
彼もバザーロフもすぐに寝ついたが、この家のほかの人たちはなお長いこと眠らなかった。息子が帰って来たのでニコライ・ペトローヴィチは興奮していた。彼は寝床に入ったものの、ろうそくの火も消さずに、片手を枕にしていつまでも考えごとをしていた。彼の兄は真夜中をすぎても書斎に腰をすえて、ゆったりしたハムプス製の椅子(ハムプスはフランスの家具職人で一時ペテルブルグに住んだ)に腰かけ、マントルピースと向かい合っていた。その中では石炭がとろとろと燃えていた。パーヴェルは着がえをしておらず、ただそれまで履いていたエナメル塗りの半長靴を、かかとのない中国風の赤い上靴に代えただけであった。手には『ガリニャーニ』紙(当時パリで発行されていた自由主義的な英字紙)を持っていたが、読んではいなかった。彼はじっと暖炉のなかを見つめていた。そこでは消えそうになるかと思うと、またパッと燃え上がって、青い炎がゆらめいていた……彼の思いがどこをさまよっているかはわからないが、過去のなかだけをさまよっているのではなかった。顔の表情は一点に集まり、気むずかしく見えた。それは思い出だけにふけっている人には見られないものなのだ。
一方、裏のほうの小部屋では、空色のチョッキを着て、黒い髪を白いスカーフでつつんだ若い女が、大きな長持ちの上に腰かけていた。それはフェーネチカだった。彼女は聞き耳をたてたり、まどろんだり、開け放しになっているドアの方を眺めたりしていた。ドアの向こうには子供用の小さなベッドが見え、眠っている赤ん坊の安らかな寝息が聞こえていた。
翌朝バザーロフはだれよりも先に目を覚まして家を出た。『おやおや!』と、あたりを見回して彼は思った。『みすぼらしい土地だな』ニコライ・ペトローヴィチが百姓たちと境界定めをしたとき、彼は四ヘクタールほどのまったく平らで木の生えていない土地を、新しい地主屋敷の敷地に当てることにした。彼は母屋と付属の建物を建て、農園を設け、庭を造り、池と二つの井戸を掘った。だが若木は根つきが悪く、池には水がたまらず、井戸水は塩からい味がした。ただ四阿《あずまや》のまわりに植えたライラックとアカシヤだけはよく繁ったので、時おりそこでお茶を飲んだり食事をしたりした。バザーロフは数分のうちに庭のなかの小道をすっかり歩きつくし、家畜小屋とうまやをのぞいて見た。途中で百姓の男の子二人と出会ってすぐ仲よしになり、彼らをつれて、地主屋敷から一キロほど離れたところにある小さな池に、蛙を捕りに出かけた。
「蛙を捕ってどうするの?」と一人の子がきいた。
「それはこういうわけだ」とバザーロフは彼に答えて、つぎのように言った。大体、バザーロフには、下の者を自分に心服させる独特の才能があった。そのくせ彼らを甘やかすわけではなく、むしろぞんざいに扱うのであったが。
「蛙の腹をたち割って、内部がどうなっているかを見るのさ。おれやお前たちだって蛙と同じことで、ただ足で立って歩くだけのちがいだ。だから蛙を見れば、おれたちの内部がどうなっているかもわかるわけだ」
「でもどうしてそんなことをするの?」
「もしお前が病気になって、おれがお前を治療してやらなければならなくなったとき、まちがえないためさ」
「じゃ、お前さんはお医者だね?」
「そうだ」
「ワーシカ、聞いたかい、おれたちは蛙と同じだとよ。おかしいなあ!」
「おれ、蛙こわい」とワーシカが言った。七歳ぐらいの子で、麻のように白い頭をしており、立て襟の上衣を着て、はだしである。
「なにがこわいんだい? 咬みつくわけじゃあるまいし」
「さあ、水の中へ入りたまえ、哲学者たち」バザーロフが言った。
一方、ニコライ・ペトローヴィチも目を覚ましてアルカージイのところへ行ってみると、彼はもう着物を着ていた。父と子は日よけの廂《ひさし》のあるテラスへ出た。手すりのそばのテーブルの上には、ライラックの大きな花束のあいだで、もうサモワールがたぎっていた。前の日に一行をまつ先に玄関に出迎えた少女が現われて、甲高い声でこう言った。
「フェーネチカさんは気分がすぐれないので、お見えになりません。お茶はご自分でお注《つ》ぎになりますか、それともドゥニャーシャをよこしましょうか、聞いてくるようにとのお言いつけです」
「わしが自分で注ぐよ。自分で」と急いでニコライ・ペトローヴィチが答えた。「お前は、アルカージイ、紅茶になにを入れる、クリームかい、それともレモンかね?」
「クリームです」とアルカージイは答えたが、しばらく黙っていたあとで、ものをたずねるような調子で言った。「お父さん」
ニコライ・ペトローヴィチはあわてて息子の方を見た。「なんだね?」彼は言った。
アルカージイは目を伏せた。
「ねえ、お父さん、ぶしつけなことをおたずねするようですが」と彼は言いだした。「でも、昨日お父さんからざっくばらんにおっしゃったので、わたしもざっくばらんに……お父さん、怒りませんか?」
「言ってごらん」
「そう言ってくださるんで助かりますよ……フェーネ……あの人がここへお茶を注ぎに来ないのは、ぼくがここにいるからじゃありませんか?」
ニコライ・ペトローヴィチはかすかに顔をそむけた。
「そうかも知れない」と、ついに彼は言った。「あれは気をまわして……恥ずかしいんだよ!」
アルカージイはすばやく父の顔を見た。
「恥ずかしがることなどありませんよ。第一に、ぼくの思考様式(アルカージイはこの言葉を口に出して言うのが大そういい気持ちだった)はお父さんもご承知だし、第二に、たとえ毛筋ほどもぼくがお父さんの生活や、お父さんの習慣を圧迫することを欲するでしょうか? その上、ぼくは、お父さんが悪い選択をするはずがないと確信しています。お父さんがあの人を一つ屋根の下に住まわせたからには、あの人はそれだけの値打ちのあるりっぱな人にちがいありません。とにかく、息子は父親のことをとやかく言うべきではありませんよ。ましてぼくが、ぼくの自由を一声だって圧迫したことのないりっぱなお父さんのことを、とやかく言うはずはないでしょう」
アルカージイの声は、はじめふるえていた。彼は、自分は寛大だな、と思ったが、同時に、自分は父親に向かってお説教めいたことを言ってるぞ、と思った。しかし人間は自分自身の声のひびきに強く影響されるもので、アルカージイも、最後の言葉を強く、感動をこめて言い放った。
「ありがとう、アルカーシャ」とニコライ・ペトローヴィチはうつろな声で言いだした。指がまたぞろ眉毛や額の上をさすり始めた。「まったくお前の言う通りだ。むろん、あの娘《こ》がしっかりした娘でなかったなら……これはけっして軽はずみな気まぐれじゃないんだよ。どうもお前とはこの話がしにくい。だがお前にもわかってもらえるだろうよ、あれがお前の前に出てくるのを渋ったってことは。ことに帰ってから最初の日なんだから」
「それでしたら、こちらから押しかけて行きますよ」と大声でアルカージイが言った、また寛大な気持ちがこみ上げてくるのを感じながら。そして勢いよく椅子から立ちあがった。「なにも恥ずかしがることはないって、よく説明してきますよ」
ニコライ・ペトローヴィチも立ちあがった。
「アルカージイ」と彼は言いだした。「頼むから……いくらなんでも……あちらには……お前にまだ話してないが……」
しかしアルカージイは父の言うことなど聞こうともせず、テラスの外へ駆け出した。ニコライ・ペトローヴィチはあとを見送っていたが、困惑して椅子に腰をおろした。彼は胸がどきどきしてきた……この瞬間、彼が、自分と息子とのこれからの関係が奇妙なものになることは避けがたいと思ったかどうか、息子がこの問題をそっとしておいてくれた方が自分を尊敬することになったのにと思ったかどうか、彼が自分の弱点をとがめたかどうか、それは言いがたい。こうした気持ちはどれも彼のなかにあったが、しかしあくまでも感じとしてあったにすぎず、それもはっきりとしたものではなかった。だが顔の赤みは消えやらず、胸はどきどきしていた。
あわただしい足音がして、アルカージイがテラスに入ってきた。
「ぼくらはもう近づきになりましたよ、父上!」と彼は、愛想のよい、やさしい勝ち誇ったような表情をうかべて声高く言った。「フェーネチカさんは今日、本当に気分がすぐれないので、もうすこしたってから見えるそうです。それにしても、どうしてぼくに弟がいることを教えてくれなかったんですか? 昨日のうちにどっさりキスしてあげたものを。今もどっさりキスしてきたところですよ」
ニコライ・ペトローヴィチはなにか言いたそうにして、立ちあがると両腕をひろげて息子を抱こうとした……アルカージイは父親の首に抱きついた。
「なんだ? また抱き合っているのか?」と、うしろからパーヴェルの声がした。
父と子はともにこの瞬間に彼が現われたことを喜んだ。感動的ではあるが、そこから一刻も早く逃げ出したいような、そのような状態が往々にしてあるものだ。
「なにも驚くことはないさ」とニコライ・ペトローヴィチがうきうきした調子で言いだした。「なにしろ久しぶりでアルカージイが帰って来たんだから……昨日からまだよく顔を見ていないんだよ」
「ちっとも驚いてなんかいないよ」とパーヴェルが言った。「わしだって抱き合いたいくらいだ」
アルカージイは伯父のそばによって行き、またもや自分の頬に彼の香り高い口ひげがさわるのを感じた。パーヴェルはテーブルに向かって坐った。彼はイギリス好みの上品な洋服を着ていた。頭には小さなトルコ帽が鎮座していた。このトルコ帽とむぞうさに結んであるネクタイとは、田舎暮らしの気ままさを暗示していた。しかしワイシャツ――といっても、じつは白ではなく色もので、それなりに朝の装いにふさわしいものであったが、そのワイシャツの硬いカラーが、きれいに剃り上げたあごを、いつものようにきびしく支えていた。
「お前の新しい友人はどこにいるんだね?」と彼はアルカージイにきいた。
「家にはいませんよ。いつも早起きしてどこかへ出かけるんです。でも、あれのことなんか気にかけないでください。あいつは堅苦しいことが嫌いなんです」
「うん、わかる」パーヴェルはゆっくりと、パンにバターをつけ始めた。「長いこといるのかね?」
「その時しだいです。ここへ寄ったのは、家へ帰る途中なんですから」
「父親はどこに住んでいるの?」
「やはりこの県の、ここから八キロ離れたところです。そこに小さな領地があるんです。もと軍医だそうですよ」
「ああ、そうか、そうか……道理でバザーロフってのはどこかで聞いた苗字だと思ったよ……ニコライ、ほら、お父さんの師団にバザーロフという軍医がいたろう?」
「いたようだね」
「まちがいない。じゃ、あの医者があれの父親なんだな。ふむ!」パーヴェルは口ひげを動かした。「ところで、当のバザーロフ君は、一体、なに者なんだね?」と彼は、一語々々明瞭に発音しながら言った。
「バザーロフがなに者かですって?」アルカージイはうす笑いをもらした。「なら、伯父さん、バザーロフがなに者か、ずばりと申しましょうか?」
「言っておくれ、お前」
「あれはニヒリストです」
「え?」とニコライ・ペトローヴィチは聞き返し、パーヴェルは、刃先にバターの塊をつけたナイフを空中に持ち上げたままの姿で、動かなくなった。
「あれはニヒリストです」とアルカージイはくり返した。
「ニヒリストね」とニコライ・ペトローヴィチが言った。「それはラテン語の nihil《ニヒル》、つまり無《ヽ》からきてるんだな、わしの判断するところでは。したがって、この言葉の意味するのはこういう人間……つまり、なんにも認めない人間のことだね?」
「なにものも尊敬しないといった方がいいよ」とパーヴェルは言って、改めてバターに取りかかった。
「すべてのものを批判的な見地から見る人間です」アルカージイが言った。
「同じことじゃないのか?」とパーヴェルがきいた。
「いいえ、同じじゃありません。ニヒリストとはいかなる権威の前にも屈しない人間、ただ一つの原理だって信条としない人間です、どんなにその原理がまわりじゅうから尊重されていても」
「で、どうなんだい、それでいいのかね?」とパーヴェルが話の腰を折った。
「人によりけりですよ、伯父さん。良くなる人も、大へん悪くなる人もいます」
「そうかい。しかし、どうやら、われわれには縁のないことのようだね。われわれ昔の人間は、原理(パーヴェルはこの単語をフランス語ふうにやわらかく発音し、反対にアルカージイは、最初の音節にアクセントをつけて『プリーンツイプ』と発音した)なしには、お前の言う『信条』とする原理なしには、一歩も進むことも息することもできないのだ。Vous avez change tout cela(お前たちはそれをすっかり変えてしまったわけだが)、せいぜい長生きをして将軍さまにでもなっておくれ、われわれは楽しませてもらうとしよう、その連中に……ええと、なんていったっけ?」
「ニヒリストです」とアルカージイがはっきりと言った。
「そう、昔ヘーゲリスト、今ニヒリストか。空虚の中で、真空の中で、お前たちがどうやって生きてゆくか、拝見させてもらうよ。ところで、ニコライ・ペトローヴィチ、鈴を鳴らしてくれないか、わしがココアを飲む時刻だから」
ニコライ・ペトローヴィチが鈴を鳴らして「ドゥニャーシャ!」と叫んだ。しかしドゥニャーシャのかわりに、フェーネチカが自分でテラスに出てきた。二十三くらいの若い女で、色白で、おとなしそうで、髪の毛と目は黒く、子供のようにふっくらした赤い唇とほっそりした手をしていた。彼女は小ざっぱりしたサラサの服を着ていた。空色の新しいスカーフがなで肩の上にふんわりとのっていた。彼女は大きなココアの茶碗を持ってきた。そしてそれをパーヴェルの前に置くと、すっかりうろたえてしまった。熱い血が美しい顔の薄い皮膚の下で、赤い波となってみなぎった。彼女は目を伏せ、指先をそっとテーブルにもたせてそのわきに立ちつくしていた。どうやら、自分がここへ来たのが恥ずかしくもあれば、同時に自分は当然ここへ来ていいのだ、と感じているようでもあった。
パーヴェルはけわしく眉をひそめ、ニコライ・ペトローヴィチはおろおろした。
「おはよう、フェーネチカ」と彼は歯の間から押し出すように言った。
「おはようございます」と彼女は大きくはないが、ひびきのいい声で答えた。そして自分に愛想よくほほ笑みかけているアルカージイを横目でちらりと見て、静かに出て行った。歩くときは少し身体をゆすったが、それさえ彼女には似合っていた。
テラスでは数瞬間、沈黙がつづいた。パーヴェルは時おりココアをすすっていたが、急に頭を上げた。
「ほらニヒリスト君がおいでだ」と彼は小声で言った。事実、花壇をまたぎながら、バザーロフが庭をやってくる。麻のコートやズボンは泥でよごれていた。古い円い帽子のてっぺんには沼の藻がべっとりとくっついていた。右手に小さな袋を持っている。袋のなかではなにやら生きものが動いていた。彼は足早にテラスに近づくと、会釈をして言った。
「皆さん、おはようございます。お茶の時間におくれて失礼しました。すぐもどって来ます。ほら、この捕虜どもを置いてこなければなりませんので」
「それはなんですか、ヒルですか?」とパーヴェルがきいた。
「いいえ、蛙です」
「食べるんですか、それとも飼うんですか?」
「実験用です」と落ちつきはらってバザーロフは言い、家のなかへ入って行った。
「解剖するつもりだな」とパーヴェルが言った。「原理は信じなくとも、蛙は信じるんだ」
アルカージイはあわれむように伯父の方を見た。ニコライ・ペトローヴィチは一方の肩をすくめた。パーヴェルは自分でも、今の皮肉がうまくゆかなかったことを感じた。彼は経営のことや、前の晩に彼のところへやって来て、雇人のフォマーが『乱暴者』で手に負えないとこぼしていった、新しい管理人のことなどを話しだした。「なにがなにやらわけのわからん男で、どこへ行っても反抗するんです」と管理人は言いきった。「一つ所に居つかないで、ヘマをやつちゃ飛び出すしまつで」
バザーロフはもどってくるとテーブルにつき、急いでお茶を飲み始めた。二人の兄弟は黙って彼を見つめ、アルカージイはひそかに父と伯父の顔を見くらべていた。
「遠くまでいらしたんですか?」と、とうとうニコライ・ペトローヴィチがきいた。
「ヤマナラシの林のそばに沼がありますね。シギを五羽ほど追い立ててきましたよ。シギ射ちができるよ、アルカージイ」
「あなたは猟はしないんですか?」
「しません」
「専門は物理学ですか?」と、今度はパーヴェルがきいた。
「物理学、そうです。まあ、自然科学全般ですね」
「なんでもゲルマン人は最近この方面でかなり進歩をとげたとか」
「ええ、ドイツ人はこの方面ではわれわれの先生です」とバザーロフはぶっきらぼうに答えた。
パーヴェルは皮肉のつもりで、ドイツ人と言うかわりにゲルマン人という言葉を使ったのだが、だれにも通じなかった。
「あなたはドイツ人をそんなに高く評価なさるんですか?」とパーヴェルは、気取った、ていねいな調子で言った。彼はひそかにいらいらしだしていた。貴族的な性質の彼は、バザーロフの傍若無人な態度に、思わずむっとなったのである。この田舎医者のせがれは少しも臆する色を見せないばかりか、ぶっきらぼうに、面倒くさそうに答えるし、声のひびきのなかにもなにか無礼な、人を食ったようなところがあったのだ。
「ドイツの学者は有能です」
「なるほど。でも、ロシヤの学者だと、そんなにおほめにはならない?」
「まあ、そんなところでしょう」
「それはなかなか見あげたご謙遜ぶりですね」と身体をまっすぐに伸ばし、首をうしろへそらせながら、パーヴェルは言った。「でもさっきアルカージイから聞いたところでは、あなたはどんな権威も認めないそうですね? 権威というものを信じないんですか?」
「でも、なぜぼくがそんなものを認めなくちゃならないんです? ぼくになにを信じろというんです? 事実を言われればぼくは同意する、それだけのことです」
「ドイツ人はみな事実だけを言うんですか?」とパーヴニルは言った。このとき彼の顔は、まるで彼がすっかりどこか雲の彼方の高い所へでも飛び去ってしまったかのように、無関心な、ずっと遠くを見ているような表情をした。
「とはかぎりません」とバザーロフはあくびをかみ殺しながら、答えた。明らかにこの議論をつづけたくないようすだった。
パーヴェルは『まったくお前の友だちは行儀が悪いよ』と言いたそうに、アルカージイの方を見た。
「わしに言わせてもらうなら」と、それでもがまんして、彼はまた言いだした。「悪いけれども、わしはドイツ人てやつは好かんな。ロシヤにいるドイツ人のことは論外だ。どんな手合いかだれでも知っているから。しかしドイツ本国にいるドイツ人も虫が好かん。それでも昔の連中はまあまあだ。あのころはドイツにも、シラーだの、それからゲーテだの……この弟なんぞは特別ひいきでね……ところが今ではみんな、化学者だの、唯物論者だのといった連中ばかり出てきて……」
「りっぱな化学者はどんな詩人よりか、二十倍も有益ですよ」バザーロフが口をはさんだ。
「なるほど」とパーヴェルが、眠りかけているかのように、ほんのかすかに眉をつり上げて、言った。「すると、あなたは芸術を認めないんですね?」
「芸術なんて金もうけのためのもので、つまり痔病みたいなもんですよ!」とバザーロフはさげすむようなうすら笑いをうかべて、声をはりあげて言った。
「なるほど、なるほど。あなたはなかなか気の利いたことをおっしゃる。すると、あなたはなにもかも否定するんですね? では、そういうことにしましょう。つまり、あなたは科学だけを信じるんですね?」
「さっき申しあげたように、なにものも信じません。それに科学ってなんですか――科学一般って? いろんな科学ならありますよ、いろんな仕事や階級があるように。ところが科学一般なんてものは、まったくないんです」
「ひじょうにけっこうですとも。ところで、ほかの、人間生活に取り入れられているほかのいろんな規則についても、あなたはやはり否定的な方針をお取りなんですか?」
「それはなんです、訊問ですか?」バザーロフがきいた。
パーヴェルはかすかに蒼ざめた……ニコライ・ペトローヴィチは二人の話に割って入ることが必要だと考えた。
「その問題についてはいつかまたゆっくりとお話しすることにしましょう、バザーロフさん。あなたのご意見もうかがい、われわれの意見も申しあげることにして。わたしとしては、あなたが自然科学をおやりなので、大へん嬉しく思います。なんでもリービッヒ(ドイツの化学者)が畠の施肥に関して驚くべき発見をしたそうですね。わたしのやっている農業のことで助力していただけるといいんですがね。なにか有益な助言なりとお願いしますよ」
「喜んでお手つだいいたしますよ、ニコライ・ペトローヴィチさん。でもわれわれは、リービッヒどころじゃありませんよ! まずイロハを勉強して、それから本に取りかからなければならないのに、われわれはまだイの字も見たことがないんですからね」
『なるほど、こいつはニヒリストだ』とニコライ・ペトローヴィチは思った。
「それにしてもまさかの時にはよろしくお願いしますよ」と彼は口に出して、つけ加えた。「ところで、兄さん、そろそろ番頭と相談する時間ですよ」
パーヴェルは椅子から立ちあがった。
「そう」と彼は、だれの顔も見ないで、言った。「賢い人たちのいる所から遠く離れて、こんな片田舎に五年もくすぶっているなんて災難だな! まったくの大ばかになってしまう。昔習ったことを忘れまいと努力しているうちに、にわかに、それはみんなくだらないことだとわかる。今どき物のわかった人間は、もうそんなくだらんことはしていない、お前は時代おくれのまぬけだ、と言われる。どうしようもないよ! どうやら若い連中の方がわしらよりも利口らしい」
パーヴェルはゆっくりときびすを返して、ゆっくりと出て行った。ニコライ・ペトローヴィチもそのあとから出て行った。
「おい、いつもああなのかい?」とバザーロフが冷ややかに、二人の兄弟が出て行ってドアがしまるとすぐに、アルカージイにたずねた。
「ねえ、バザーロフ、伯父さんに対してあれじゃひどすぎるよ」アルカージイが言った。「気を悪くしたぜ」
「なにもおれがあの人たちを、田舎の貴族たちを甘やかすことはないさ! あれはみんなうぬぼれであり、社交界の花形の習慣であり、気取りなんだから。なに、ずっとペテルブルクで暮らしてりゃよかったんだよ、もしああいう考え方……もっとも、あの人たちなんかどうだろうと、こっちの知ったこっちゃない! ゲンゴロウの珍しい品種を見つけたよ、|Dytiscus marginatus《ディティスクス・マルギナートゥス》 というんだ、知ってるかね? あとで見せてやろう」
「いつか身の上話をしてあげるって約束したね」アルカージイが言いだした。
「カブト虫のかい?」
「いいかげんにしろ、バザーロフ。ぼくの伯父の身の上話さ。君は驚くよ、伯父は君が考えているような人じゃないんだから。嘲笑よりもむしろ同情に値する人なんだ」
「それをとやかく言うつもりはない。それにしてもえらい惚れ込みようだな」
「色眼鏡で見ちゃいけないよ、バザーロフ」
「そりゃどういうことだ?」
「まあ、聞いてくれ……」
そこでアルカージイは伯父の身の上話をバザーロフに語って聞かせた。読者はそれを、次章で読まれたい。
パーヴェルは弟ニコライと同じように、はじめは家庭で教育をうけたが、その後陸軍幼年学校に進んだ。彼は幼年時代からとびきりの美男子であった。その上自信満々、多少皮肉屋であり、おかしいほど短気なところがあったので、人に好かれた。将校になるが早いか、彼はいたる所に姿を現わすようになった。彼はみんなにちやほやされたし、自分でもそれに甘えて、ばかげたことをやらかしたり、片意地をはったりした。だがそれさえも彼には似つかわしかった。女性は彼のために夢中になり、男性は彼を伊達者と呼んでひそかに彼を羨《うらや》んだ。前にものべたように、彼は弟と一つ家に暮らし、すこしも自分に似ていないのに、弟を心から愛していた。ニコライ・ペトローヴィチはびっこをひき、顔立ちは小づくりで、よい感じを与えたが、しかしいくぶん悲しげであり、小さな黒い目と、やわらかい、薄い髪の毛をしていた。彼は怠け者だったが、読書は好きで、交際ぎらいだった。パーヴェルは一日として晩をうちですごすことなく、大胆と器用さで聞こえ(彼は上流の青年たちのあいだに詰め襟の服をはやらせかけたことがある)、終わりまで読んだ本とては五、六冊のフランス語の本にかぎられた。数えで二十八歳のとき、彼はもう大尉だった。その行く手には輝かしい前途があった。ところがとつぜん、なにもかもが変わってしまった。
そのころペテルブルクの社交界に、時たま一人の婦人が姿を現わすようになった。R公爵夫人といって、いまだに人々は彼女のことを覚えている。彼女には、りっぱな教育もあれば礼儀正しくもある、だがうすのろの夫がいて、子供はなかった。彼女は急に外国へ出かけたかと思えば、急にロシヤに帰ってくるという、概して奇妙な生活をしていた。彼女は軽はずみなコケットだという評判で、あらゆる遊びごとに熱中し、若い人たちを相手に倒れるまで踊ったり、大声で笑ったり、ふざけたりするのだった。その連中には夕食の前に客間のうす暗がりの中で面会した。ところが夜おそくになると、泣いたり、お祈りしたりして、どこにも心の安らぎを見いだすことができず、やるせない面持ちで両手を揉みしぼりながら、しばしば朝まで部屋のなかを歩き回ったり、色蒼ざめ、冷たくなって坐り、聖書の詩編を読んで夜をあかしたりした。昼間になると彼女はまた社交界の婦人にもどり、また外出し、笑い、おしゃべりをし、すこしでも自分を楽しませてくれることのできるものには、なんにでもとびつくのだった。彼女はふしぎな身体つきをしていた。金髪のおさげ髪は黄金のようにずしりと膝の下まで垂れさがっていたが、だれも彼女を美人とは呼ばなかったであろう。彼女の顔のなかですばらしかったのは目だけで、それも目そのものではなく――それは小さくて灰色だった――まなざしだった。敏捷で、深みのある、向こう見ずなまでに気楽かと思えば、憂鬱なまでに物思わしげな――謎のようなまなざしであった。彼女の舌がごくつまらないことをしゃべっているときでさえ、なにかしら常ならぬものが、まなざしのなかにひらめいていた。服装は凝っていた。パーヴェルはある舞踏会で彼女に出会い、彼女を相手にマズルカを踊った。そのあいだ、彼女は一言だってまともなことを言わなかったのに、彼は熱烈に彼女に恋してしまった。恋の勝利に慣れていた彼は、このときもじきに目的を達した。しかし容易な恋も彼の心を冷やさなかった。それどころではない。彼はいっそうせつなく、いっそう固くこの女に結びつけられたのである。女はすっかり身を任せたときでさえ、なお、他人の立ち入ることを許さない、なにか秘められた、近づきがたいものを自分のなかに持っていた。その心のなかになにが巣くっていたかはわからない! 彼女は、自分自身にもわからないなにか神秘な力に支配されているようだった。その力が思うさま彼女をもてあそんだのだ。彼女のちっぽけな知力は、その力の気まぐれを抑えつけることができなかったのだ。彼女の振舞いのすべては非常識の連続であった。たとえば、夫に疑われてもしかたのないような風変わりな手紙を、ほとんど自分の見知らぬ男にあてて書いたこともある。そのくせ彼女の情事は悲しい感じを与えるものであった。彼女は自分のえらんだ相手と笑いもしなければ、ふざけもせず、相手の話にじっと聞き入り、いぶかしげにまじまじと顔を見つめるのだった。時おり、それはとつぜんのことが多かったが、このいぶかりが冷たい恐怖となった。彼女の顔の表情は死人のような奇異なものとなる。彼女は寝室にとじこもる。彼女の小間使いは、鍵穴に耳をおしつけて、彼女が声をあげて泣いているのを聞くことができた。甘いランデブーのあとでパーヴェルは一度ならず、家へ帰る途中、心のなかで、決定的な不首尾のあとで胸中にわきあがってくる、胸も張り裂けんばかりの、あの苦いいまいましさを感じた。『この上まだなにが足りないというんだ?』と彼は自分自身に問いかけてみたが、胸のうずきは一向にやまなかった。あるとき彼は彼女に、石にスフィンクスを刻んだ指輪をプレゼントした。
「これはなんですの?」と彼女はきいた。「スフィンクス?」
「そうです」彼は答えた。「で、このスフィンクスはあなたです」
「あたし?」と彼女はきいて、謎のまなざしでゆっくりと彼を見あげた。「大した光栄ね」と彼女はかすかなうす笑いをうかべて言いそえたが、その目はあらぬ方を見つめていた。
パーヴェルは、R公爵夫人に愛されているときでさえ、鬱々として楽しまなかった。しかし彼女の愛がさめたとき、それはかなり早くきたが、彼はほとんど気も狂わんばかりであった。彼は苦しんだり、嫉妬したりして、彼女に安静を与えず、彼女のあとを追ってどこへでも行った。彼女はうるさくつきまとわれるのにうんざりして、外国へ旅立った。彼は友人たちの懇請や、上官の諌言をふりきって退職し、公爵夫人のあとを追った。彼は女のあとを追っかけたり、女の姿をわざと見失ったりして、四年ほど異郷ですごした。彼はわれとわが身を恥じ、自分の意気地のなさに腹を立てたが……なんの効き目もなかった。彼女のおもかげが、あの不可解な、ほとんど無意味な、けれども魅力的なおもかげが、あまりにも深く彼の心のなかに根をおろしてしまったのだ。バーデンで彼はふとしたことからまた彼女とよりをもどした。これまでなかったほど熱烈に、彼女は彼を愛しているようだった……しかし一月たつと一切が終わった。火はこれを最後に燃えあがって、永久に消えてしまったのである。別離のさけられないことを予感して、彼はせめて、いつまでも彼女の友だちでいたいと願った、まるでこのような女との友情が可能であるかのように……彼女はこっそりバーゲンを発って、それ以来たえずパーヴェルをさけた。彼はロシヤへ帰り、もとの生活を始めようとしたが、しかし元通りにはいかなかった。中毒患者のようになって彼は転々とうろつき歩いた。彼は世間に顔出しもしたし、社交界人士の習慣はことごとくこれを守り通した。二、三の新しい恋の勝利を誇ることもできた。しかし彼はもはや自分にも他人にも格別新しいことを期待せず、なにをしようともしなかった。彼は老いこんで、白髪頭となった。毎晩クラブへ行き、いらだちながら退屈し、独身者の仲間たちと気のない議論をすることがお定まりとなった。周知の通り、これは悪いきざしである。結婚のことなど、むろん、考えもしなかった。こうして十年が、花も咲かず、実もならずにすぎてしまった。速やかに、おそろしく速やかに。およそロシヤほど速やかに時のたつところはない。もっとも牢屋の中はもっと速いということである。ある日クラブで食事中に、パーヴェルはR公爵夫人の死を知った。彼女は狂気に近い状態で、パリで死んだのだ。彼はテーブルから立ちあがると、クラブの部屋々々を長い問歩き回った。カルタの勝負をしている人たちのそばでは、釘づけになったように立ちつくしていた。といって、いつもより早く帰宅するわけでもなかった。しばらくして彼は自分にあてられた小包みを受け取った。中には彼が公爵夫人に与えた指輪が入っていた。彼女はスフィンクスに十字形のすじをつけて、彼に言伝てを命じたのであった。「十字架――それが謎の答えです」と。
それは一八四八年の初めのことで、ちょうどそのころ、ニコライ・ペトローヴィチは妻をなくして、ペテルブルクに来ていた。パーヴェルは、弟が村へ住むようになってから、ほとんど彼と会っていなかった。ニコライ・ペトローヴィチの婚礼は、パーヴェルが公爵夫人と知り合いになった最初のころに当たった。外国から帰ってくると彼は、二月ほど弟の家のお客になるつもりで、かつまた弟の幸福な生活をまのあたり見ようと思って、ニコライのところへ出かけて行った。しかし一週間しか弟のところにいなかった。二人の兄弟の境遇のちがいがあまりにも大きかったからである。一八四八年にはこの差はちぢまっていた。ニコライ・ペトローヴィチは妻を失い、パーヴェルは思い出を失ったからである。公爵夫人の死後、彼はつとめて彼女のことを考えないようにしていたのだ。しかしニコライにはまともに送った生活の感情が残っており、息子は目の前ですくすく育っていた。反対にパーヴェルは、孤独な独身者として、不安な、黄昏どきに入ろうとしていた。青春はすぎ去ったが、老年は未だおとずれないという、希望に似た哀惜の、哀惜に似た希望の時期にさしかかっていた。
この時期はパーヴェルにとって、いつにもまして苦しい時期であった。過去を失うことによって、彼はなにもかも失ってしまったのだ。
「ぼくは兄さんをマリーノ(彼は妻の思い出に、自分の村にそういう名前をつけた)村に呼ぶつもりはないよ」と、あるときニコライ・ペトローヴィチは彼に言った。「兄さんは家内が生きていたときでさえ、田舎で退屈しちゃったんだから、今度はふさぎの虫に取りつかれてしまうにきまってる」
「あのころはまだ愚かであくせくしていたからだよ」とパーヴェルは答えた。「おれもあのころから見ると、利口にならないにしても、落ちついたからな。今じゃあべこべに、お前さえよかったら、田舎に永住させてもらうよ」
返事のかわりにニコライ・ペトローヴィチは彼を抱きしめた。しかしこの話のあとで、パーヴェルが自分のもくろみを実行する決心がつくまでには、一年半もたっていた。そのかわり、一たん村へ移ると、彼はもう、ニコライ・ペトローヴィチが息子と一しょにペテルブルクですごしたあの三冬にも、村を離れなかった。彼は読書を始めたが、その多くは英語の書物であった。彼は概してイギリスふうの暮らしかたをし、隣近所の地主たちともめったに会わず、馬車に乗って外出するのは選挙のときだけであった。選挙に行っても黙っていることが多く、ただ時たま、旧式の地主どもを、自由主義的な言動でいらだたせるぐらいのもので、新しい世代の代表者たちと親しくするわけでもなかった。どちら側の地主も彼を高慢ちきな男と見ていた。どちら側の地主も彼の堂に入った、貴族的なマナーのゆえに、彼がかつて恋の勝利者であったという噂のゆえに、彼を尊敬した。服装があかぬけしており、いつでも上等のホテルの最上の部屋に泊まるがゆえに彼は尊敬された。なかなかの食道楽であり、かつてルイ・フィリップ(フランス国王。二月革命でイギリスに亡命)のレセプションでウェリントン(イギリスの軍人)と食事を共にしたことさえあったがゆえに。どこへ行くにも本物の銀製化粧ケースと旅行用の湯ぶねを持ち歩いたがゆえに。そばへ寄ると、そんじょそこらにやたらにないような、すばらしく『上品な』匂いがするというので。ホイストの手さばきが巧みで、そのくせいつでも負けてばかりいるというので。最後に、非のうちどころのない誠実さのゆえに、彼は尊敬された。貴婦人たちは彼のことをチャーミングなメランコリックと思っていたが、しかし彼は彼女たちと交際しなかった……
「といったわけで、バザーロフ」とアルカージイは自分の物語を結んだ。「伯父に対する君の考え方は公平じゃないよ! 伯父が自分の持ち金ぜんぶを投げ出して親父を窮境から救ってくれたことなど、今さら持ち出す必要もないが――君は知らないだろうが、二人は領地を分けていないんだ――伯父はだれだって喜んで助けてやるし、とりわけ、いつでも百姓の味方なんだ。なるほど百姓と話をするときには顔をしかめ、オーデコロンを嗅ぐけどね!」
「知れたこと。神経さ」とバザーロフが話の腰を折った。
「そうかも知れないが、いたって心のやさしい人なんだ。それにけっしてばかじゃない。ぼくにいろいろとじつに有益な助言をしてくれた……とくに……とくに女性関係について」
「ははあ! 自分の牛乳で火傷をしたからって、他人の水を吹くってやつだな。わかってるぞ!」
「まあ、要するに」とアルカージイはつづけた。「ひどく不幸な人なんだよ、じっさい。軽蔑しちゃ悪いよ」
「だれも軽蔑なんかしちゃいない」とバザーロフが言葉を返した。「しかしやっぱり言わしてもらおう。自分の一生を女の愛という一枚のカルタに賭け、そのカルタが切られたからって、すっかりしょげてしまい、なんにもできなくなるほど堕落してしまったとすれは、そんなやつは――男でも、牡《おす》でもないよ。君に言わせりゃあの人は不幸だそうだ。そりゃ君のほうがよく知ってるだろうさ。しかしあの人のばかさかげんはすっかりなおっちゃいないな。まちがいなくあの人は、自分は『ガリニャーニ』紙を読んでいて、月に一回は百姓の笞刑を免除してやっているからというので、本気で自分のことを実際家だと思っているよ」
「伯父のうけた教育だの、生きた時代だのを考えてやらなくちゃ」アルカージイは言った。
「教育だと?」バザーロフが言葉尻をつかまえた。「人間はすべて自分で自分を教育しなくちゃならないんだ――たとえば、おれにしたって……それから時代がどうのと言うが――なぜおれが時代に左右されなきゃならないんだ? おれが時代を左右してやるよ。いや、君、それはやっぱり堕落だよ、ばかばかしい! それに、男女間にどんな神秘的な関係があるかね? われわれ生理学者は、それがどんな関係か知っている。まあ目の解剖でも勉強するんだな。君の言う、謎のようなまなざしってのが、どこからくるか。そいつはみんなロマンチシズム、たわごと、頽廃、芸術だよ。それよりカブト虫でも見に行こうじゃないか」
二人の友だちはバザーロフの部屋に向かった。そこにはもう、安っぽいタバコの匂いとまじって、外科医室のような匂いが一ぱいにただよっていた。
パーヴェルは弟と管理人の話し合いの席に、そんなに長く同席しなかった。管理人は背の高い、痩せた男で、甘ったるい、肺病やみのような声を出し、ずるそうな目をしていた。この男はニコライ・ペトローヴィチがなにを言っても、「めっそうな、知れたことで」と答えるだけで、百姓たちを飲んだくれの泥棒にしてやろうものと、汲々《きゅうきゅう》としていた。このほど新しいやりかたを始めた経営は、油のきれた車輪のようにきしんだり、湿った木で作った手製の家具のようにぎしぎしいうのだった。ニコライ・ペトローヴィチはへこたれなかったが、しかしひんぱんにため息をついて、考え込むのであった。彼は金がなくては仕事がうまくゆかないことを感じていたが、金は手もとにほとんどなかった。アルカージイの話は本当だった。パーヴェルは一度ならず弟を助けてやった。どうやって難境を切りぬけたものかと、弟が苦しみなやんでいるのを見て、パーヴェルはゆっくりと窓べに寄り、両手をポケットにつっこんだまま、口の中でもぐもぐと「わしの金を役立ててもいいよ」とつぶやいて、一度ならず金を出してくれたものである。しかしこの日は自分のところにもなにもなかったので、退散するにしかずと思ったのである。経営上のいざこざは彼を憂鬱にした。その上、彼はいつも、ニコライ・ペトローヴィチがなるほど熱心に勤勉にやってはいるが、どうもそのやりかたが見当ちがいのような気がしていた。もっとも、ニコライ・ペトローヴィチのどこが一体まちがっているのかを、具体的に指摘することはできなかったにちがいない。『弟はあまり実際的じゃないんだ』と彼は内心思った。『あれはだまされている』ニコライ・ペトローヴィチはその反対に、パーヴェルの実際的であることを高く買っていて、いつも助言を求めるのだった。「わたしはおとなしい、活動的じゃない人間だし、生涯田舎暮らしをしてきた」と、彼はよく言ったものである。「ところが兄さんは多くの人間の中で暮らしてきて、世間をよく知っている。兄さんは目がきく」パーヴェルはこう言われてもただ顔をそむけるだけで、弟の考えを変えさせようとはしなかった。
ニコライ・ペトローヴィチを書斎に残したまま、彼はこの家を前後二つの部分に分けている廊下づたいに歩きだしたが、低いドアの前までくると、ためらいがちに立ちどまり、ちょっとひげをひねってから、ドアをノックした。
「どなた? お入りになって」フェーネチカの声がした。
「わしだ」とパーヴェルは言って、ドアを開けた。
赤ん坊をだいて坐っていたフェーネチカは、はじかれたように椅子から跳び上がり、赤ん坊を女中に渡した。女中はすぐに赤ん坊を部屋の外に連れ出した。フェーネチカはあわてて自分のスカートをなおした。
「邪魔をして悪かったな」とパーヴェルが、彼女の顔を見ようともしないで、言いだした。「ちょっと頼みたいことがあったもんだから……たしか今日、町へ使いが出るんだったね……わしのお茶を買ってくるように言いつけてほしいのだ」
「かしこまりました」フェーネチカが答えた。「いかほどお買いになりますか?」
「半斤《はんぎん》で十分だと思うな。この部屋も変わったようだね」とあたりをすばやく見回して(彼の視線はフェーネチカの心のなかまで見透したかと思われた)彼はつけ加えた。「ほら、このカーテンだよ」と彼は、相手に自分の言うことがわかっていないのを見て、言った。
「はい、カーテンでございますか。ニコライ・ペトローヴィチさまがご心配してくださいました。でもだいぶ前からかかってございますけれど」
「しばらくこなかったからね。今度はここも大そうよくなったよ」
「ニコライ・ペトローヴィチさまのおかげで」とフェーネチカが小声で言った。
「前の傍屋《はなれ》よりもこっちの方がいいかね?」とパーヴェルはいんぎんに、しかし微笑のかげさえ見せずに、たずねた。
「むろん、けっこうでございます」
「あんたのあとにはだれが入ったのかね?」
「今は洗濯女どもが入っております」
「そうか!」
パーヴェルは口をつぐんだ。『やっとお帰りだわ』とフェーネチカは思ったが、彼は立ち去らなかった。彼女は、そっと指をまさぐりながら、釘づけにされたように彼の前に立っていた。
「なぜ赤ん坊を外へ連れ出したんです?」やっとパーヴェルは口を切った。「わしは子供が好きだ。見せてくれないかな」
フェーネチカはとまどいと嬉しさでまっ赤になった。彼女はパーヴェルを恐れていた。彼はほとんど彼女に口をきくことがなかったからである。
「ドゥニャーシャ」と彼女は大声で呼んだ。「ミーチャをつれてきてください(彼女は家じゅうのだれにでもていねいな言葉を使った)。いいえ、ちょっと待って。おべべを着せなくては」
フェーネチカは戸口の方に向かった。
「かまわんよ」とパーヴェルが言った。
「すぐに参ります」とフェーネチカは答えるとすばやく出て行った。
パーヴェルは一人残って、今度はとくに念入りにあたりを見まわした。彼女のいる小さな、天井の低い部屋は大そう清潔で、居心地がよかった。このほど塗られたばかりの床のペンキの匂いや、カミツレ草やメリッサの匂いが室内にただよっていた。壁ぎわにはハープ型のもたれのある椅子がならんでいた。これは昔、先代の将軍が遠征のときに、ポーランドで買ってきたものである。一方の隅に、モスリンのとばりを垂れた小さな寝台がすえてあって、そばに鉄帯張りの衣裳びつが置いてあった。それには円い蓋がついていた。そこと向かい合った片隅では、ニコライ聖者の黒ずんだ聖像の前に灯明がともっていた。赤いリボンで結わえてある瀬戸物の小さな卵が、後光にひっかけられて、聖者の胸にぶらさがっていた。出窓の上には、去年作ったジャムの入っている口もとを丹念にしばられたびんがいくつかならび、緑色の光をとおしていた。紙の蓋にフェーネチカが自分で、筆太の文字で『スグリ』と書いてあった。ニコライ・ペトローヴィチはこのジャムをとりわけ好んだ。天井からは長いひもにつるされて、尾の短いマヒワの入っている鳥籠がぶらさがっていた。マヒワが小やみなくさえずり、跳びはねているので、鳥籠はたえず揺れ動いていたし、麻の実が軽やかな音をたてて床の上にこぼれ落ちた。窓と窓の問の壁の、小箪笥の上に当たる箇所に、行きずりの写真師の撮った、いろんなポーズをしたニコライ・ペトローヴィチのかなり下手くそな写真が、なん枚かかかっていた。同じ所にフェーネチカその人の写真も一枚かけてあったが、それは完全な失敗作だった。目のない顔のようなものが薄黒い額ぶちの中で作り笑いをしているまではわかったが――それ以上は見分けがつかなかった。またフェーネチカの上では、エルモーロフ(ロシアの将軍・外交官)が、コーカサスふうの袖なし外套を着て、いかめしく顔をしかめ、遠いコーカサスの山々を眺めていた。その彼の額のすぐ上の所まで、ピンを入れるための小さな絹の靴下が垂れさがっていた。
五分ほどたった。隣の部屋からは絹ずれの音とひそひそ声とが聞こえてきた。パーヴェルは箪笥の上から脂じみた本を取りあげて見ると、マサーリスキイの『狙撃兵』の端本だった。彼はそれをなんページかめくってみた……ドアが開いて、フェーネチカがミーチャをだいて入ってきた。彼女はミーチャに、襟に金モールをあしらった赤いルバーシカを着せ、髪をとかしてやり、顔をふいてやったのである。ミーチャは深く息をし、全身をのけぞらせ、手を動かした、健康な赤ん坊がみんなするように。しかし粋なルバーシカがすっかり気に入ったと見え、まるまると肥った姿ぜんたいに、満足の色が現われていた。フェーネチカは自分の頭髪もととのえ、スカーフをかぶりなおしたが、しかし彼女はもとのままでもよかったのだ。事実、およそこの世に、健康な赤子をだいた若く美しい母親よりも魅力的なものが、なにかあるであろうか?
「おデブちゃん」パーヴェルはおうように言って、ミーチャの二重あごを、人指しゆびの長い爪の先でくすぐった。赤ん坊はそれまでじっとマヒワを見ていたが、笑いだした。
「伯父さんよ」と自分の顔を彼の方に傾け、そっと赤ん坊を揺さぶっていたフェーネチカは言った。その問にドゥニャーシャがろうそく型の香錠を窓の上にそっとのせ、その下に銅貨を一枚当てがった。
「なんカ月だったかな?」パーヴェルがきいた。
「六カ月です。じき七カ月になりますの、十一日で」
「八カ月目じゃありませんの、フェーネチカさん?」と多少気おくれしながら、ドゥニャーシャが横から口をだした。
「いいえ、七カ月目よ。そんなはずはないわ!」赤子はまた笑いだし、衣裳びつをじっと見ていたが、急に母親の鼻と唇を五本の指でぎゅっとつかまえた。「いたずらっ子」とフェーネチカが、赤ん坊の指から顔をひっこめようともしないで言った。
「弟に似てるね」パーヴニルが言った。
『ほかのだれに似るはずがあるもんですか?』とフェーネチカは思った。
「そうだ」と、ひとりごとのようにパーヴェルはつづけた。「疑いもなく似ている」彼はしげしげと、ほとんど悲しげにフェーネチカの方を見た。
「伯父さんよ」と彼女は言ったが、その声はもう小さかった。
「おや! 兄さん! ここにいたんですか!」だしぬけにニコライ・ペトローヴィチの声がした。
パーヴェルは急いでふり向き、顔をしかめた。しかし弟がじつに嬉しそうに、感謝の意をこめて彼を見つめているので、微笑で答えないわけにはいかなかった。
「かわいい子だね」と言って、彼は時計を見た。「お茶のことでここへ寄ったんだ……」
それから落ちつきはらった表情にかえって、パーヴェルはすぐに部屋を出て行った。
「自分から寄ったのかね?」とニコライ・ペトローヴィチがフェーネチカにたずねた。
「ご自分からでございます。ノックしてお入りになりました」
「ところで、アルカーシャはあれからここへこないかね?」
「参りません。わたし、傍屋《はなれ》へ移った方がよくありませんでしょうか、ニコライ・ペトローヴィチ?」
「そりゃまた、なぜだね?」
「初めのうちはその方がいいんじゃないかと思いますの」
「ち……ちがうよ」ニコライ・ペトローヴィチが口ごもりながら言って、自分のおでこをこすった。「そりゃ前もって……やあ、今日は、ぼうず」と急に元気よく言って、赤ん坊に近よるとその頬っぺたにキスした。それからすこし上体をかがめてフェーネチカの手に唇をおしつけた。その手はミーチャの赤いルバーシカの上で、ミルクのように白かった。
「ニコライ・ペトローヴィチ! なにをなさいますの?」と、彼女は小声で言って目を伏せ、それからまたそっと目を上げた……彼女が上目づかいのようにして見つめ、やさしく、多少おろかしく笑顔を見せるとき、彼女の目の表情は魅力的だった。
ニコライ・ペトローヴィチがフェーネチカを知るに至ったいきさつはこうである。あるとき、それは三年ばかり前のことだが、彼は遠くの田舎町で宿屋に泊まることとなった。当てがわれた部屋がきれいで、寝室用の下着が清潔なのに彼はびっくりした。『ここのおかみさんはドイツ人じゃないだろうか?』という考えが頭にうかんだ。けれどもおかみさんはロシヤ人とわかった。五十ぐらいの女で、小ざっぱりした服装をし、品のよい利口そうな顔をしており、話をさせても如才なかった。彼はお茶のときに彼女と話し込んで、すっかり相手が気に入ってしまった。そのころニコライ・ペトローヴィチは新しい屋敷に移ったばかりで、農奴を手もとに置いておくことを望まず、雇人を探していた。一方、おかみさんの方は、町を通る人の数が少なく、暮らしにくいご時勢なのをこぼしていた。彼は彼女に、家政婦として自分の所へ来る気はないか、とすすめた。彼女は承諾した。彼女の夫はとつくの昔に死んでしまい、フェーネチカという娘がただ一人いた。二週間ほどしてアリーナ・サーヴィシナ(というのが新しい家政婦の名前だった)が娘を連れてマリーノ村に到着し、傍屋に住むようになった。
ニコライ・ペトローヴィチの目に狂いはなかった。アリーナは家のなかをきちんと整えた。当時すでに数え年十七だったフェーネチカのことはだれも言うものがなく、彼女を見た人もまれだった。静かに、つつましやかに彼女は暮らしていた。ただ日曜日だけニコライ・ペトローヴィチは、教区の教会で、どこか片隅にいる彼女の白い顔を横から見るのだった。こうして一年以上たった。
ある朝アリーナが彼の書斎にやって来て、いつものようにていねいにおじぎをすると、娘を助けてやってもらえないだろうかと言った。目にペーチカの火花が入ったのである。ニコライ・ペトローヴィチは、家にくすぶっている地主たちがみなそうであるように、治療もしたし、救急薬品も備えていた。彼はアリーナにすぐ病人をつれてくるように命じた。旦那が呼んでいると聞いてフェーネチカは尻ごみをしたが、しかし母について行った。ニコライ・ペトローヴィチは彼女を、窓の方を向いて坐らせ、両手で彼女の頭をとらえた。赤くなって炎症を起こしている目をよくよく検べてから、彼は、これは湿布をした方がいい、と言った。彼はその場で自分のハンカチを引きさいて、湿布のしかたを教えてやった。フェーネチカはそれを聞いて出て行こうとした。
「旦那さまのお手にキスするんだよ、ばかだね」とアリーナが娘に言った。ニコライ・ペトローヴィチは手を出してやらないで、どぎまぎして自分の方からうつむいている彼女の頭の、髪の分け目の所にキスしてやった。フェーネチカの目はじきになおったが、彼女の与えた印象はすぐには忘れかねた。清らかな、やさしい、おずおずと見あげるあの顔が、つねに彼の目の前をちらついた。彼は手のひらの下にやわらかい髪の毛を感じた。無垢な、かすかに開いている唇を見た。唇のうしろでは真珠のような歯がしっとりとうるおって光っていた。彼は前よりも注意深く教会に来ている彼女を見つめるようになり、彼女と口をきこうとつとめた。はじめ彼女は彼をさけて、あるときなどは、それは夕方ちかくであったが、ライ麦畠のなかに通行人によってつけられたせまい小道で彼の姿を認めると、ただ彼に見られたくないために、丈高く生い繁ったライ麦のなかに身をひそめた。あたりにはニガヨモギやヤグルマギクが生えていた。たわわにみのった黄金の穂波をすかして彼女の頭が見えた。そこからは彼女は、小さな獣のように、ようすをうかがっていた。彼はやさしく彼女に声をかけた。
「今日は、フェーネチカ! わたしはお前を取って食いなどしないよ」
「今日は」と彼女は小声で答えたが、とりでから出てこようとはしなかった。
しだいに彼女は彼に馴れていったが、しかし相変わらず彼の前に出るとびくびくした。とつぜん母のアリーナがコレラで死んでしまった。フェーネチカはどこへ身を寄せたものであろう? 彼女は母親ゆずりの整頓好きで、細心で、しっかり者だった。しかし彼女は若すぎて、まったく身よりがない。ニコライ・ペトローヴィチもまた、じつにやさしく、つつましやかだ……これ以上の説明は無用であろう……
「とにかく兄はお前の部屋に入って来たんだね?」ニコライ・ペトローヴィチが彼女にきいた。「ノックして、入って来たんだね?」
「そうでございます」
「いや、それはよかった。ミーチャをだかしてくれないか」
そしてニコライ・ペトローヴィチは、赤ん坊がほとんど天井にとどかんばかりに『高い高い』を始めた。赤ん坊は大喜びだったが、母親は、高く上がるたびごとに、肘までむき出しになった腕をそちらへさしのべてハラハラしていた。
一方、パーヴェルは自分の優美な書斎にもどって来た。壁には灰色の美しい壁紙をはりつめ、色模様のペルシャじゅうたんには、さまざまな武器がつるされている。暗緑色のビロードを張ったクルミ材の家具、古い、黒いカシワの木で作ったルネサンス・スタイルの書棚、デラックスな机の上の数点のブロンズ彫刻、マントルピース……彼はソファーの上に身を投げ出して、両腕の上に頭をのせ、悲痛な面持ちで天井を見つめながら、じっと動かなくなった。顔に書いてあることを壁に知られまいためか、ほかの理由からかわからないが、彼は起きあがると、どっしりした窓のカーテンのひもを引いたのち、ふたたびソファーの上に身を投げ出した。
同じ日にバザーロフもフェーネチカと近づきになった。彼はアルカージイと一しょに庭を歩きながら、なぜある木、とりわけカシワの木が、根つきが悪かったのかを彼に説明していた。
「こういう土地にはポプラをもっとたくさん植えなくちゃならない、それにモミの木、それから多分ボダイジュもいいだろう、黒土をまぜてやるんだな。ほら、あの四阿《あずまや》のところはよくついているだろう」と彼はつけ加えた。「その理由はアカシヤだのライラックだのは丈夫な木で、手がかからないからだ。おや! あそこにだれかいるぞ」
四阿にはフェーネチカがドゥニャーシャとミーチャをつれて坐っていた。バザーロフは立ちどまり、アルカージイはとうからの知り合いのように、フェーネチカにうなずいて見せた。
「だれだい?」と前を通りすぎるが早いか、バザーロフがきいた。「美人だなあ!」
「だれのことだね?」
「きまってるじゃないか。美人は一人しかいない」
アルカージイはいくらかうろたえながら、手短かに、フェーネチカがなに者であるかをバザーロフに説明してやった。
「ははあ!」バザーロフは言った。「君の親父さんは、どうやら目が高いようだ。おれは君の親父さんが気に入ったよ、まったく! 隅に置けないな。それにしてもこちらから名乗りをあげなくちゃ」と言い足すと、彼は四阿の方に引き返し始めた。
「バザーロフ!」びっくりしてアルカージイが背後から叫んだ。「頼むから、気をつけてくれ!」
「心配するな」とバザーロフが言った。「山だしじゃあるまいし、都会暮らしをしていたおれたちだ」
フェーネチカのそばに寄ると、彼は帽子を脱いだ。
「はじめまして」と彼はていねいにおじぎをして、言いだした。「アルカージイ君の友人で、いたっておとなしい人間です」
フェーネチカはベンチから腰をあげて、黙って彼を見つめた。
「すばらしい赤ちゃんですね!」とバザーロフはつづけた。「ご心配なく、ぼくはまだだれも呪ったことなんかありません。おや、ほっぺたが大そう赤いんですね? 歯が生えかけているんですか?」
「はい、そうです」とフェーネチカが言った。「歯がもう四本も生えてますけど、また歯ぐきがはれましたの」
「ちょっと拝見……大丈夫です、ぼくは医者ですから」
バザーロフは赤ん坊をだき取ったが、赤ん坊は少しも抵抗もしなければ、びっくりもしなかったので、フェーネチカとドゥニャーシャは驚いた。
「なるほど、なるほど……なんでもありません、万事順調です。いい歯になりますよ。もしなんかあったら、ぼくに言ってください。あなたの方はお丈夫ですか?」
「丈夫ですわ、おかげさまで」
「おかげさまで――とは、なによりですね。じゃあなたは?」とバザーロフはドゥニャーシャに向かって言った。
ドゥニャーシャは、家にいるときは大へんお行儀がいいけれども、外へ出ると笑い上戸だったので、バザーロフにこう聞かれてただぷーっと吹き出しただけであった。
「いやけっこう。それでは豪傑さんをお返ししますよ」フェーネチカは赤ん坊を受け取った。
「まあ、おとなしくだっこしてたこと」と彼女は小声で言った。
「ぼくがだくと、赤ちゃんはみんなおとなしくなるんですよ」バザーロフが答えた。「こつを知ってるんです」
「本当ですわ」フェーネチカが相槌をうった。「この子だって、人によってはどうしてもだかれませんもの」
「ぼくにはだかれるかな?」と、しばらくのあいだ、すこし離れて立っていたアルカージイが、四阿の方に近よった。
彼はミーチャにおいでおいでをしたけれども、ミーチャは頭をうしろにのけぞらせて泣きだしたので、フェーネチカはひどく困ってしまった。
「またいつか、慣れたときにしよう」とアルカージイはおうように言った。二人の友はその場を離れた。
「なんて言ったっけな、あの人?」バザーロフがきいた。
「フェーネチカ……フェドーシャさ」とアルカージイが答えた。
「父称は? それも知ってなくっちゃ」
「ニコラエヴナ」
「Bene……(よしきた)。あの人があんまりはにかんだりしないのが気に入ったよ。もっとも、そこがいけないって言う人もいるかも知れないが。くだらんことだ。はにかむことはないさ。あの人は母親だ――あれでいいんだ」
「あの人はいいが」とアルカージイが言った。「うちの親父ときたら……」
「君の親父さんだっていいんだよ」とバザーロフが話の腰を折った。
「いや、ちがう、そうは思わん」
「相続の邪魔になるってわけかい?」
「ぼくがそんなことを考えていると思うなんて、君は恥ずかしくないのか!」とアルカージイがむきになって言い返した。「親父のことをよくないと言ったのは、そうした見地からじゃないんだ。ぼくは、親父はあの人と正式に結婚すべきだと思っているのだ」
「へえ!」バザーロフは落ちつきはらって言った。「そいつはやさしい大|御心《みこころ》だ! 君はまだ結婚なんかに意義を認めているのかね。君の口からそんなことを聞くとは思わなかったよ」
二人の友は無言のままなん歩かあるいた。
「君の親父さんの施設をすっかり見たがね」とまたバザーロフが言いだした。「馬はくたびれているし、それ以外の家畜はおそまつだ。建物はできそこないで、雇人どもは札つきの怠け者のようだ。また管理人ときたら、ばかなのか、ペテン師なのか、そこのところはおれにもまだよくわからない」
「今日はごきげんが悪いな、バザーロフ君」
「善良な百姓どもも、そのうちきっと君の親父さんをだますよ。『ロシヤの百姓には神さまだって食われてしまう』という諺を知っているだろう」
「ぼくも伯父の意見が本当かなって気がしてきたよ」アルカージイが言った。「君はロシヤ人のこととなるとこっぴどくきめつけるんだな」
「大したことじゃないよ! ロシヤ人の唯一のとりえは、自分で自分のことをしようのない碌でなしだと思っていることなんだ。大事なのは二二んが四ということで、ほかのことはみんなくだらんことさ」
「自然もくだらないかね?」とアルカージイが言った。もう落ちかけた太陽によって美しく、やわらかく照らされている、はるか遠くの色とりどりの畠を眺めながら。
「自然だって君が考えるような意味でなら、くだらないよ。自然は神殿じゃなくって、工場であり、人間はそこでの働き手なのだ」
ちょうどこのとき家のなかから、ゆるやかなセロのひびきが聞こえてきた。だれかが、あまりうまくはないが感じをこめて、シューベルトの『期待』をひいていた。甘いメロディーが蜜のように空中にただよった。
「だれだい?」びっくりしてバザーロフが言った。
「親父さ」
「君の親父はセロをひくのかい?」
「そうだ」
「親父さんはいくつだね?」
「四十四だ」
バザーロフはとつぜん大声で笑いだした。
「なにがおかしいんだい?」
「考えても見てくれ! 四十四にもなる男が、pater familas(一家の長)が、こんな田舎で――セロをひくなんて!」
バザーロフは笑いつづけた。しかしアルカージイは、どんなに彼が自分の指導者に心服しているとはいえ、このたびはにこりともしなかった。
およそ二週間ほどすぎた。マリーノ村の生活はとどこおりなく流れて行った。アルカージイはだらだら日を送り、バザーロフは仕事をした。家じゅうの者がみんな彼に慣れてしまった。彼のぞんざいな立ち居振舞いや、口数のすくない、ぶっきらぼうな話しぶりなどに慣れてしまった。わけてもフェーネチカは彼と親しくなって、ある日、夜中に彼を起こすように命じたほどだった。ミーチャがけいれんをおこしたからである。バザーロフがやって来て、例によって冗談まじり、あくびまじりに、彼女の部屋に二時間ほどいて赤ん坊の面倒をみた。
そのかわりパーヴェルは、心の真底《しんそこ》からバザーロフを憎んだ。彼はバザーロフを、傲慢《ごうまん》で、不遜で、毒舌家で、下司《げす》だと思っていた。彼はバザーロフを疑っていた。『あれはわしのことを尊敬していない、それどころかわしを、パーヴェル・キルサーノフを軽蔑しているに違いない!』と。
ニコライ・ペトローヴィチは若い『ニヒリスト』を恐れ、アルカージイにいい影響を与えるかどうかを危ぶんでいた。しかし彼は進んで彼の話に耳を傾け、彼が物理学や化学の実験をするときには、進んでその場に居合わせた。バザーロフは顕微鏡を持参しており、なん時間もそれをいじくっていた。召使たちも彼になついた。もっとも彼は彼らのことをばかにしていたのだが。彼らは、バザーロフが自分たちの仲間であって、旦那ではないことを感じていた。ドゥニャーシャは喜んで彼を相手にふざけて、『ウズラのように』そばを駆けぬけるとき、意味ありげに彼を流し目で見るのだった。ピョートルは極端なほどうぬぼれが強くて、おろかで、いつも額にしわをよせており、この男の長所と言えば、いんぎんに人の顔を見ることと、拾い読みで字が読めることと、自分のフロック・コートに手まめにブラシをかけることくらいなのだが――この男でさえ、バザーロフに見られていると知ると、うす笑いをうかべ、晴れやかな顔つきをするのだった。召使の子供たちは、犬ころのように、『ドクトル』のあとを追いかけた。プロコーフィチ老人だけは彼が嫌いで、食事の席では気むずかしい顔をして彼に給仕をし、彼のことを『皮はぎ』だとか、『ペテン師』だとか呼び、あのひげを生やしたところなぞは、藪の中の豚にそっくりだ、と言ったものである。プロコーフィチもまた彼なりに、パーヴェルに劣らない貴族主義者だった。
一年のうちで最良の日々――六月の初めがやって来た。すばらしいお天気がつづいていた。なるほど、遠くの方でまたコレラが発生したということだったが……県の住民たちはコレラの訪問にはもう慣れっこになっていた。バザーロフは大そう早く起きて、二、三キロも離れたところへ散歩に出かけるのだった。散歩にではなく――彼は目的のない散歩にはがまんできなかった――草や昆虫の採集に行くのだ。ときおり彼はアルカージイを連れて行った。帰りに二人の間には議論が始まり、相手よりもたくさんしゃべるのに、アルカージイはいつも言いまかされるのだった。
あるとき、どうしたことか二人はなかなか帰ってこなかった。ニコライ・ペトローヴィチが彼らを迎えに庭へ出て、四阿にさしかかったとき、二人の若者が急ぎ足で歩いてくる足音と話し声を聞きつけた。二人は四阿の向こう側を歩いているので、こっちの姿は見えないはずだった。
「君は親父をよく知らないんだ」とアルカージイが言った。
ニコライ・ペトローヴィチは息をひそめた。
「そりゃ君の親父さんはいい人だよ」とバザーロフが言った。「しかしもう時代おくれだな、ご用ずみさ」
ニコライ・ペトローヴィチは耳をすませた……アルカージイはなんとも答えなかった。
『時代おくれ』は二分ばかり身動きもせずに立ちつくしていたが、やがてゆっくりと家に帰った。
「一昨日、プーシキンを読んでいるのを見たぜ」と、そのあいだにバザーロフは話をつづけた。「あんなのはなんの役にも立たないってことを、よくよく説明してあげるんだな。子供じゃあるまいし。あんなばかげたものはやめてもいいころだ。物好きだよ、今どきロマンチストになるなんて! なにか実際的なものを読ませるんだな」
「なにがいいだろう?」アルカージイがきいた。
「ビュヒナー〔ドイツの唯物論哲学者・医者。一八二四〜九九〕の『Stoff und Kraft〔物質と力 〕』あたりから始めるといいよ」
「ぼくもそう思う」とアルカージイが同意した。「『Stoff und Kraft』はわかりやすい言葉で書いてあるからね」
「まあわたしや兄さんなどは」と、その日の夕食後にニコライ・ペトローヴィチは兄の居間へ来て、腰かけながら話しかけた。「時代おくれ、ご用ずみだときた。どうだね? ことによったら、バザーロフの言う通りかも知れない。しかし、正直な話、わたしは面白くないな。わたしは今度こそアルカージイと一しょに、緊密に仲よくやってゆくことを期待していたのに、結果は、わたしはあとに取り残されて、あれは先へ行ってしまった。おたがいに理解し合えないのだ」
「なぜアルカージイが先へ行ってしまったというんだね? アルカージイのどこがそんなにわれわれよりすぐれているというんだ?」と、パーヴェルがもどかしそうに声を高めて言った。「これはみんなあのセニョールが、あのニヒリストがアルカージイの頭の中にたたきこんだことなのだ。わしはあのやぶ医者が大嫌いだ。わしの考えでは、あれはただの山師だよ。蛙なんか扱っているが、あれの物理学は大したもんじゃない」
「いや、兄さん、それはちがう。バザーロフは利口で物知りだよ」
「おまけにあのうぬぼれときたら鼻持ちならない」とまたパーヴェルが口をはさんだ。
「そう」とニコライ・ペトローヴィチが言った。「あの男はうぬぼれやだ。しかしうぬぼれってやつも必要ですよ。ただ、このことだけは合点がいかない。わたしは時勢におくれないように万事やっているつもりだ。農民の暮らしが立つようにしてやったり、農園を始めたり。そのため県内じゃどこへ行ってもわたしのことを、りっぱだと言ってくれる。読書もすれば、学習もするし、概して現代求められているレベルに達するように努力しているつもりだ――それなのに若い者どもは、わたしのことをご用ずみだとおっしゃる。そう言われると、兄さん、自分でもそんな気がしてきたよ」
「なぜだね?」
「こういうわけだ、今日わたしはプーシキンを読んでいた……たしか『流浪の民』のところを開いていたと思うんだが……と、とつぜんアルカージイが入ってきて、そばにより、無言のまま、顔にじつにやさしい同情の色をうかべて、そっと、まるで子供から取りあげるように、わたしの手から本を取りあげ、わたしの前に別の、ドイツ語の本を置いて……にっこり笑って、出て行ったよ。プーシキンは持っていっちゃった」
「そうかい! どんな本を置いていったんだね?」
「これだよ」
ニコライ・ペトローヴィチはフロック・コートのうしろのポケットから、ビュヒナーの悪名高き仮綴じ本の第九版を取り出した。
パーヴェルは手の中でそれをひっくり返した。
「ふむ!」と彼はうなるように言った。「アルカージイはお前を教育してやろうというのだ。で、どうだい、読んでみたかね?」
「読んでみた」
「どうだね?」
「わたしがばかなのか、それともここに書いてあることがみんなくだらないのか、どっちかだ。きっと、わたしがばかなんだろう」
「ドイツ語を忘れちゃいないかね?」パーヴェルがきいた。
「ドイツ語はわかるよ」
パーヴェルはまたぞろ手のなかで本をひねくり回して、額越しに弟を見つめた。二人ともしばらく黙っていた。
「ところでね」とニコライ・ペトローヴィチが、あきらかに話題を代えようとして、言いだした。「コリャージンから手紙がきたよ」
「マトヴェイ・イリイッチから?」
「そう、***県へ視察に来ているのでね。あの男も今じゃ出世したもんだから、今度わたしに手紙をよこして、もともと親戚同士のことだし、われわれに会いたいから、兄さんとわたしとアルカージイに町へ来てくれ、と言ってよこした」
「お前、行くかい?」パーヴェルがきいた。
「いや、兄さんは?」
「わしも行かないよ。ゼリーを食いに五十キロも馬車に揺られて行くこともないからな。マトヴェイは羽ぶりのいいところをわしたちに見せようというのだ。知るもんかい! どうせ県の役人どもがペコペコするんだから、わしたちが行かなくてもいいよ。たかが三等官くらいで、もったいぶるじゃないか! わしだって辞《や》めないで、ばかげた勤務をつづけていたら、今ごろは侍従武官長になっていたはずだ。その上わしらは時代おくれの人間だからな」
「そうとも、兄さん。どうやら棺桶をあつらえて、手を胸の上に組み合わせるときが来たらしい」ため息まじりにニコライ・ペトローヴィチが言った。
「わしはそうやすやすと降参しないぞ」と兄が言った。「あのやぶ医者と一戦をまじえることになりそうだ。そんな気がする」
一戦は同じ日の晩のお茶のときにおこなわれた。パーヴェルは早くも戦闘気がまえで、断乎たる面持ちで客間に降りてきた。彼はただ敵に襲いかかるきっかけを待つだけであった。しかしきっかけはなかなかつかめなかった。バザーロフは『キルサーノフ家の老人たち』(と彼は二人の兄弟を呼んでいた)の前では概して口数が少なかったし、その晩はふきげんだったので、黙ってお茶を飲んでいた。パーヴェルはじりじりしながら、心を燃やしていた。望みはついにかなえられた。
話がたまたま近くのある地主のことに及んだ。「やくざな、ヘボ貴族ですよ」と、その地主にペテルブルクで会ったことのあるバザーロフが、冷ややかに言った。
「ちょっとうかがいますが」とパーヴェルが言いだした。その唇はふるえていた。「あなたのお考えでは、『やくざ』と『貴族』とは同じことを意味するんですか?」
「ぼくは『ヘボ貴族』と言いました」とバザーロフが、気のないようすでお茶を一口飲みながら、言った。
「その通りです。しかしお見うけしたところ、あなたは貴族についても、ヘボ貴族についても同じご意見のようですね。わたしはそのような意見に賛成できかねるということを、あなたに申しあげなければなりません。あえて申しますが、わたしはみんなに、自由主義者で進歩を愛する人間として知られております。しかし、それなればこそわたしは貴族――本当の貴族――を尊敬するのです。ひとつ、あなたさま」
(この言葉を聞いてバザーロフは、目を上げてパーヴェルを見た)
「ひとつ、あなたさま」――と彼は頑固にくり返した。「イギリスの貴族のことを思いだしていただきたい。あの連中は自分の権利を一歩も譲らない、だから他人の権利も尊重するのです。あの連中は自分たちに対する義務の遂行を要求する、だから進んで|自分の《ヽヽヽ》義務も遂行するんです。貴族階級はイギリスに自由を与え、それを支持しているのです」
「その話はなん度も聞かされましたよ」とバザーロフが言い返した。「でも、それであなたはなにを証明なさろうというのですか?」
「わしが|こおーれ《ヽヽヽヽ》で証明しようと思うのは、あなたさま(パーヴェルは腹を立てているとき、わざと『|こおーれ《ヽヽヽヽ》で』だの、『|こーおれ《ヽヽヽヽ》は』だのと言った。こんな言葉遣いが文法違反だということを百も承知の上で。この気まぐれのなかには、アレクサンドル時代の伝統の名残りが現われている。当時の権勢家たちは、ロシヤ語で話すまれな場合に、ある者は『こおーれ』を、またある者は『こーおれ』を使った。われわれは根っからのロシヤ人には違いないが、同時に高官だから、学校の規則などは無視してもよい、というのだった)、わしが|こおーれ《ヽヽヽヽ》で証明したいことはこうです。自己の尊厳という感情なくしては、自己に対する尊敬の念なくしては――貴族にあってはこの感情が発達しています――社会……bien public(社会福祉)……という建物の堅牢な土台がなにもなくなるということです。個性というものが、あなたさま、大事なんですよ。人間の個性は巌《いわお》のごとく堅固でなければなりません。なぜならすべてがその上に建設されるからです。例えばあなたが、わたしの習慣や、化粧や、それから身だしなみまでもこっけいなものと思っている、ということを、わたしはよく知っていますよ。しかしそれはみんな自尊の念から、義務感から発しているんです。わたしは自分のうちにある人間を尊重しているのです」
「失礼ですが、パーヴェルさん」とバザーロフが言った。「あなたは自分を尊重なさりながら、手をこまねいて坐ってらっしゃる。その結果、社会福祉にはどんな利益がおありなんですか? あなたは自分を尊重していなくたって、同じことをなさっていたでしょう」
パーヴェルは蒼ざめた。
「それはまったく別問題です。なぜわたしが、あなたの言われるところによると、手をこまねいて坐っているのか、今それをあなたに説明する必要を、わたしはまったく認めません。わたしが言いたいのはただ、貴族主義《アリストクラシズム》は原理であって、現代において原理なしで暮らせるのは、不道徳な人間か、くだらん人間だけだ、ということなんです。わたしはそのことをアルカージイには、帰って来たつぎの日に言っておいた。それで、おんなじことをあなたにも言ってるわけです。そうじゃないか、ニコライ?」
ニコライ・ペトローヴィチはうなずいた。
「アリストクラシズム、リベラリズム、プログレス、プリンシプル」と片やバザーロフは言った。「ずいぶんたくさんの外来語……しかも無益な外来語があるじゃありませんか! ロシヤ人にとってそんなものは無用の長物ですよ」
「じゃ、なにが必要だとおっしゃるんです? あなたの話を聞いていると、われわれが人類の法則のそとにいるみたいですね。とんでもない――歴史の論理の要求するところは……」
「そんな論理なんて、われわれの役に立ちませんよ。われわれはそんなものがなくてもやってゆけます」
「なんですって?」
「こういうわけですよ。あなたは、腹が減っているとき一切れのパンを口に入れるのに、論理なんか必要としないでしょう。そんな抽象論がわれわれに必要なもんですか!」
パーヴェルは両手をふり回した。
「そうなるとわしはあんたの言うことがわからなくなる。あんたはロシヤ国民を侮辱している。原理や法則を認めないでもいいなんて、理解できませんね! 一体なんのためにあなたは行動してるんですか?」
「もう先《せん》、ぼくが言ったじゃありませんか、伯父さん、われわれは権威を認めないって」とアルカージイが横から口を入れた。
「われわれは、われわれが有益であると認めるもののために行動するんです」とバザーロフが言った。「現在最も有益なのは否定です――われわれは否定します」
「なにもかも?」
「なにもかも」
「なんですって? 芸術や、詩だけでなく……さらに……恐ろしいことだ……」
「なにもかもです」と言いあらわしようもないほど落ちつきはらってバザーロフはくり返した。
パーヴェルは彼を見つめた。彼はそんな返事を予期していなかったのだ。アルカージイは満足のために顔を赤くしたほどである。
「それにしてもですね」とニコライ・ペトローヴィチが言いだした。「あなたはなにもかも否定する。もっと正確に言えば、なにもかも破壊する……でも建設することも必要じゃありませんか」
「それはもはやわれわれの仕事ではありません……まず場所をきれいにする必要があるのです」
「民衆の現状がそれを要求してるんですよ」ともったいぶってアルカージイが言いそえた。「われわれはそれらの要求を実行しなくてはなりません、われわれには個人的エゴイズムの満足にひたる権利はないんです」
この最後の文句は、たしかに、バザーロフの気に入らなかった。そこには哲学の匂いが、つまりロマンチシズムの匂いがしていたからだ。というのは、バザーロフは哲学をもロマンチシズムと呼んでいたからである。しかし彼は、自分の若き弟子に反ばくすることを必要と思わなかった。
「いや、いや!」とパーヴェルは勢いこんで、大きな声で言った。「わしは信じたくないね、君たちが、諸君が、ロシヤの民衆を正確に知っているとか、諸君が民衆の要求や期待を代表しているとかいうことを! いや、ロシヤの民衆は君たちが想像しているようなものじゃないよ。ロシヤの民は伝統を重んじ、純朴で、信仰なしでは生きてゆかれない……」
「ぼくはそれに反対しようとは思いません」とバザーロフが口を出した。「|その点《ヽヽヽ》お説の正しいことを認めてもいいぐらいです」
「もしわしの言うことが正しいなら……」
「それでもやっぱり、なんの証明にもなりませんね」
「まったくなんの証明にもなりませんよ」とアルカージイが、相手の危なっかしい次の一手を見ぬいているので、すこしもあわてない経験に富んだ棋士のように、自信たっぷりと相槌をうった。
「どうしてなんの証明にもならんのだね?」とパーヴェルがあきれて、つぶやいた。「つまり、君たちは自国の民衆に反対するわけか?」
「そうだとしてもかまいません」バザーロフは声を高めて言った。「民衆は雷が鳴ると、あれは予言者イリヤーが車に乗って大空を駆け回っているんだ、と思っていますよ。どうです? ぼくは彼らに同意しなくちゃなりませんか? その上――民衆がロシヤ人なら、ぼくだってロシヤ人なんですからね」
「いや、あなたはロシヤ人じゃありませんよ。今しがた言われたことからおして考えたって! わしはあなたをロシヤ人と認めることはできない」
「ぼくの祖父は大地を耕していました」と傲慢に見えるほど堂々とバザーロフは答えた。「お宅の百姓のだれにでもいいですから、聞いてみてください。われわれのどちらを自分の同国人と認めるか? あなたか、それともぼくか? あなたは百姓を相手に話すことさえできないでしょう」
「ところがあなたは百姓と話しながら、同時に軽蔑している」
「軽蔑に値するんなら、しかたがないでしょう! あなたはぼくの傾向を非難なさるけれども、この傾向が偶発的なものだとか、あなたがしきりに弁護なさっている民衆の精神そのものによって呼び起こされたものではない、とか言う人間がいたらお目にかかりたいものです」
「こりゃ驚いた! ニヒリストってそんなに必要なもんですか!」
「ニヒリストが必要かどうかはわれわれの決めることではありません。あなただってご自分のことを無益じゃないと考えていらっしゃるんでしょう」
「みんな、みんな、個人攻撃はやめて!」とニコライ・ペトローヴィチは大声で言って腰をあげた。
パーヴェルは微笑して、弟の肩に片手をのせ、ふたたび彼を坐らせた。
「心配しなくてもいいよ」と彼は言った。「わしはかっとなったりなんかしない、ほかでもない人間の尊厳のおかげでね。お医者さんは……そのことをさんざんひやかすけれど。失礼ながら」と彼はまたバザーロフに向かって言葉をつづけた。「あなたはご自分の説が新しいものとお考えのようですね? それはとんだ考えちがいです。あなたが宣伝なさるマテリアリズム(唯物論)は、なん度も流行しては、そのつどいつも十分な根拠を欠くものとして……」
「また外来語ですか!」とバザーロフが話の腰を折った。彼はじりじりしだして、顔は荒々しい赤がね色となった。「第一に、われわれはなにも宣伝していません。それはわれわれの習慣のなかにはないもので……」
「じゃなにをしてるんです?」
「われわれのやっていることはこうです。以前、つい最近まで、われわれは、ロシヤの官吏がわいろを取るとか、ロシヤには道路も、商業も、正しい裁判もないとか言っていました……」
「あ、そう、そう、あなたがたは摘発者――とか言うんでしたね。あなたがたの摘発の多くには、たしかにわたしも賛成です、しかし……」
「だが、それからわれわれは、しゃべるだけなら、わが国の欠陥についてしゃべるだけなら、いともやさしいことだ、だがその結果は、月なみになりさがり、空理空論に陥るばかりだ、ということに気がついたんです。わが国の利口者ども、いわゆる進歩的な連中だの、摘発だのは、なんの役にも立たない、われわれはくだらないことをやっている、やれ芸術だの、無意識的創造だの、議会制度だの、弁護人制度だの、そのほかわけのわからんことを講釈している。ところが一方では、日々のパンが問題になっており、乱暴きわまる迷信がわれわれを苦しめている。ロシヤの株式会社はどれもこれも、誠実な人間が足りないというただ一つの理由から、破産しかけている。政府が配慮している自由にしたって、われわれのためにはなりますまい。なぜってわが国の百姓は、居酒屋でへべれけになれるんだったら、喜んで丸裸になるんですから」
「なるほど」とパーヴェルが話の腰を折った。「なるほど。あなたはそれをすっかり確信するにいたったので、自分ではなにごとにもまじめに手を出さないことにしたんですね」
「なにごとにも手を出さないことにしました」とバザーロフはふきげんにくり返した。
彼は急に、なんだって自分はこんな旦那の前で、こんなにむきになってしゃべりたてているんだろう、と、自分で自分がいまいましくなったのである。
「ただ悪態をつくだけですか?」
「悪態をつくだけです」
「それがニヒリズムというものですか?」
「それがニヒリズムというものです」とバザーロフはおうむ返しに言ったが、このたびはとりわけ不敵な態度で答えた。
パーヴェルは少し目を細めた。
「おやおや、そうですか!」と彼はふしぎなほど落ちついた声で言った。「ニヒリズムはどんな悲しみの救いにもなる。で、あなたがたは、あなたがたはわれわれの解放者であり、英雄である、とね。しかしなんのために、同じ摘発者であるほかの者を、ののしるんですか? あなたがただって、みんなと同じようにおしゃべりしてるんじゃありませんか?」
「ほかの非難はともかく、そいつはぜんぜん見当はずれですな」バザーロフが吐き出すように言った。
「というと? 実際に行動しているとでも? 行動の準備をしているんですか?」
バザーロフはなにも答えなかった。パーヴェルは急に身ぶるいしたが、すぐに自分をおさえた。
「ふむ!……行動する……破壊するか……」と彼はつづけた。「しかしどうやって破壊するんですかね、理由もわからんのに?」
「われわれは破壊する、われわれは力だから」とアルカージイが言った。
パーヴェルは甥を見てうすら笑いをした。
「そうです、力に理屈なんかありません」とアルカージイは言って胸をそらした。
「かわいそうに!」とパーヴェルは絶叫し始めた。彼はこれ以上どうにもがまんできなかった。「お前がその月なみな文句で、ロシヤのなかの|なに《ヽヽ》を支持しているのか、すこしは考えて見るんだな! いや、天使だってそれにはがまんできないぞ! 力だって! 野蛮なカルムィク人や、モンゴール人にだって力はある――なんのためにわれわれにそんなものが要るんだね? われわれにとって大切なのは文明、そうです、そうですよ、あなた。われわれに大切なのはその成果なんです。その成果なんてくだらない、などと言わないでください。一番つまらないヘボ絵かき、unbarbouilleur(ヘボ絵かき)でも、一晩五コペイカでやとわれている舞踏会のピアニストだって、その連中だって君たちよりは有用なのだ。なぜなら彼らは文明の代表者であって、野蛮なモンゴールの力じゃないからだ! 君たちは自分のことを進歩的な人間だと思っているが、君たちはカルムィク人の馬車にでも乗っている方がお似合いだよ! 力だって! それからね、力のある人たち、最後にこういうことも忘れないでもらいたい。君たちの仲間は四人半だが、自分たちの神聖この上ない信仰を君たちに踏みにじらせない人たちは、なん百万人もいるということだ。その連中は君たちを圧《お》しつぶしてしまうだろうよ」
「圧しつぶされたところに道ができる」とバザーロフが言った。「ただ、はたしてそうなるか、あやしいもんですね。われわれは、あなたが考えていらっしゃるほど、少数ではありません」
「なんですって? あなたは国民全体を動かせると本気で思っているんですか?」
「千里の道も一歩から、と言いますからね」バザーロフが答えた。
「そう、そう。初めは悪魔のように傲慢なことを言っていて、あとになると人をばかにしたようなことを言う。それに、それに若い者は夢中になり、それに少年の未熟な心は参ってしまうのだ! ほら、ごらんなさい、あなたのそばに坐っているのもその一人です。なにしろあなたを崇拝してるんですから、よく見てやってください(アルカージイはそっぽを向いて顔をしかめた)。この伝染病はもうだいぶ遠くまでひろまっている。ロシヤの画家たちはローマへ行っても、ヴァチカン宮殿などへは足を向けないという話だ。ラファエルをほとんどばかもの扱いにして。その理由はそいつは権威だからだそうだ。そのくせ自分たちはけがらわしいほど技倆もなく、見るべき仕事もしていない。その空想力は『泉のほとりにたたずむ娘』くらいが関の山だ。その娘の出来栄えもからへただがね。君たちに言わせると、そうした連中が偉いということになる。そうじゃないかね?」
「ぼくに言わせりゃ」とバザーロフが言い返した。「ラファエルなんて三文の値打ちもありませんよ、もっともほかの絵かきも同然ですがね」
「ブラボー! ブラボー! 聞いたか、アルカージイ……現代の青年はああいうふうに言わなくちゃならないんだ! まったく、若い連中があなたのあとからついてゆくのももっともだ! 昔は青年は勉強しなくちゃならなかった。無学と言われたくないばかりに、嫌でも勉強したもんだ。ところが今の若い者は、『世の中のことはなにもかもくだらん!』と言えば、それで万事解決だ。若者たちはほくほくだよ。実際、彼らは昔はただのばかものだったが、今やにわかにニヒリストになったってわけだ」
「ご自身の尊厳の感情とやらが、どこかへ行ってしまいましたね」とバザーロフが冷ややかに指摘した。一方アルカージイはすっかり腹を立てて、目をギラギラ光らせていた。「議論がすっかり横道にそれてしまいました……やめた方がよさそうです。そりゃ、ぼくにしたってですね」と立ちあがりながら、彼はつけ加えた。「あなたが現代のわれわれの生活のなかで、家庭生活でも社会生活でもいいんですが、そのなかで、完全な、徹底的な否定を呼び起こさないような制度を、一つでもいいからあげてくださるなら、あなたのご意見に賛成してもいいですよ」
「そんな制度ならなん百万も見せてあげよう」とパーヴェルが声を高めて言った。「なん百万も! たとえば共同体にしてもそうだ」
冷笑がバザーロフの口もとをゆがめた。
「いや、共同体のことでしたら」と彼は言った。「ご令弟とお話になった方がよろしいでしょう。共同体だの、連帯保証だの、禁酒だのというものがどういうものか、実際にご存じだと思いますから」
「そんなら家族、家族はどうです、それはわが国の農民の間に厳として存在していますよ!」とパーヴェルが大声で叫んだ。
「その問題も、あまり立ち入らない方があなたご自身のためだと思いますね。あなたもおそらくお聞きになったことがおありでしょう、嫁と関係しているしゅうとの話を? いかがです、パーヴェルさん、二日ほど猶予なさったら。とてもすぐには思いつきませんよ。ロシヤの階級をすっかりえり分けて、それぞれのことをよく考えてみてください、その間にぼくはアルカージイ君と一しょに……」
「すべてを笑いものにするってわけですか」パーヴェルがまぜっ返した。
「いいえ、蛙を解剖します。行こうよ、アルカージイ。みなさん、お先に!」
二人の友人は出て行った。残された二人の兄弟は、しばらくはたがいに顔を見合わせるばかりだった。
「あれが」とパーヴェルがついに言いだした。「あれがこのごろの若い者だよ! あれがわれわれの後《あと》つぎなんだ」
「後つぎね」と意気消沈してため息をつきながら、ニコライ・ペトローヴィチがくり返した。彼は議論のつづいているあいだじゅう気が気でなく、おずおずとアルカージイをぬすみ見していた。「わたしがなにを思いだしたと思う? あるとき亡くなったお母さんと口論したことがある。お母さんは怒鳴りつけるばかりで、こっちの話など聞こうとしない……わたしはとうとうお母さんにこう言ってやった。お母さんたちはぼくが理解できないんだ。われわれは別の世代にぞくしている、って。お母さんはひどく怒ったけれど、わたしは心の中でこう思った。しかたがない、良薬は口に苦しだ、と。ところが今度はいよいよわれわれの番がまわってきて、われわれの後つぎどもがわれわれに向かって言うってわけだ。あんたがたはわれわれの世代の人間ではない、薬を飲んでください、とね」
「お前は人がよくておとなしすぎるよ」とパーヴェルが言い返した。「わしは、反対に、わしやお前の方があの旦那がたよりもはるかに正しいと確信している。そりゃ言いかたは少し古いかも、vieilli(古い)かも知らんし、あんな厚かましいうぬぼれは持っていないが……おまけに当節の若いやつらの高慢なことはどうだ! ぶどう酒は赤と白とどちらにする、ときくと、『ぼくは赤いぶどう酒をえらぶことを習慣としています!』とくる」と、彼はバスで言って、この瞬間全宇宙が自分を見ているかのようにもったいぶった顔をしたものである……
「もうお茶はいりませんでしょうか?」とフェーニチカがドアのなかへ首をつっこんで言った。彼女は、客間のなかで議論している声が聞こえているあいだは、中へ入るのを遠慮していたのである。
「いや、サモワールを片づけるように言っていいよ」とニコライ・ペトローヴィチは答えると、立ちあがって彼女の方に近づいた。パーヴェルは弟に、「Bon soir(おやすみ)」とぽっつり言って、自分の書斎に引きあげた。
十一
半時間後にニコライ・ペトローヴィチは庭へ出て、大好きな四阿に足を向けた。彼は暗い気持ちになっていた。彼は初めてはっきりと、自分と息子とのへだたりを意識した。そのへだたりは日ましに大きくなってゆくにちがいない、と彼は予感した。するとつまり、毎年冬になるとペテルブルクへ出かけて、なん日もなん日も新刊書を読んだのはむだだったのだ。若者たちの話に耳を傾けたのもむだだったのだ。自分も立ちあがって、彼らの熱心な議論に口をはさむことができるのを喜んだのも、むだだったのだ。『兄はわれわれの方が正しいと言う』と彼は考えた。『うぬぼれをぬきにしたって、おれ自身にも、息子たちの方がわれわれよりも真理から遠いという気がする。けれども同時に、若い連中にはわれわれにはないなにかがある、なにかわれわれにまさったものがある、という気がしてならない……若さだろうか? いや、若さだけではない。若い連中の方がわれわれよりも旦那風を吹かせないということがすぐれた点なんだろうか?』
ニコライ・ペトローヴィチはうなだれると、片手で顔をなでた。
『しかし詩を否定するということは?』と彼はまたもや考えるのだった。『芸術や自然に共鳴しないということは?……』
どうして自然に共鳴しないでいられるのか、理解しようとするかのように、彼はあたりを見まわした。もうたそがれかけていた。太陽は庭から半キロ離れた所にあるヤマナラシの林の背後に隠れてしまった。その林の影はじっと動かない畠を越えてはてもなくつづいている。百姓が一人、白い馬にまたがり、林ぞいの暗い小道を小走りに駆けて行く。その姿が肩の|つぎ《ヽヽ》まで、全身はっきりと見える。陰になった所を通って行くのにその甲斐もない。馬の脚が気持ちのいいほど鮮やかに見え隠れする。一方、日の光は林の中に射し込んで茂みを通し、ヤマナラシの幹に暖かい光を一ぱいに浴びせたので、木の肌が松の木のような色に見えていた。葉はほとんど青く見え、その上には、夕焼けのためにかすかに赤くなった淡い青空がひろがっていた。ツバメが空高く飛んでいた。風はぴたりとやんでしまった。巣に帰りおくれた蜜蜂がライラックの花のなかでものうげに、眠たそうにブンブン唸っていた。一本だけ遠く伸びた枝の上には蚊柱が立っていた。『ああ、じつにすばらしいなあ!』とニコライ・ペトローヴィチは思った。好きな詩が口もとまで出かかったが、アルカージイや『Stoff und Kraft』のことを思いだして、口をつぐんだ。けれどもさらに坐りつづけて、悲しくもあれば、楽しくもある孤独な思索にふけった。彼は空想することを好んだ。田舎暮らしが彼のなかにこの能力を発達させたのである。旅館で息子の帰りを待ちわびながら空想にふけったのは、ついこのあいだではなかったろうか? ところが早くもあのときから変化が生じて、当時まだはっきりしていなかった息子との関係がはっきりと定《き》まったのだ……おまけにその定まりかたときたら! 彼はまたもや死んだ妻を思いうかべたが、それは長年見なれた姿、家政上手なやさしい主婦の姿ではなく、若い娘の姿であった。細い身体、なんでも知りたがるあどけない目、子供っぽい首すじの上に固く巻きつけられたお下げ髪。彼ははじめて彼女に会ったときのことを思いだした。そのころ彼はまだ学生だった。住んでいるアパートの階段で彼は彼女に出会い、すれちがいざま彼女の身体に触れたので、ふり向いてわびようと思ったが、「失礼しました」としか言えなかった。彼女は頭を下げて、微笑したが、急に驚いたように駆け出し、階段の曲がり角ですばやく彼を見つめて、真顔になり、顔を赤くした。それから最初のおどおどした訪問、片言、はにかんだ微笑、ためらい、悲しみ、激情、そして最後に息づまるような喜び……あれはみんなどこへ行ってしまったんだろう? 彼女は彼の妻となり、彼は幸福だった。地上の少数の人がそうであるように……『しかし』と彼は考えた。『あの甘い、最初の瞬間が、どうしてあれが永遠の、不死の生命を生きることができないのだろう?』
彼はしいて自分の考えをつきとめようとはしなかったが、しかし、あの幸福な時代を、記憶よりも確かななにか強いもので、つなぎとめておきたいものだと思った。彼はもう一度マーリヤを自分の身近に感じたいものだと思った。彼女の暖かさや息吹きに触れたいと思った。すると彼はなんだかそんな気がしてきて、自分の頭の上で……
「ニコライ・ペトローヴィチ」とすぐそばでフェーネチカの声がした。「どこにいらっしゃるの?」
彼はびくっとした。べつに胸が痛くなったわけでも、恥ずかしくなったわけでもない……彼は妻とフェーネチカがくらべものになるなどと夢にも思わなかったが、しかし彼女が自分をさがす気をおこしたのを残念に思った。彼女の声がたちまち彼に、自分の白髪や、老齢や、現在を思いださせたからである……
彼は魔法の世界に入りかけていたのだ。魔法の世界が過去の霧の中からうかび上がろうとしていたのだ。それが一揺れしたと思ったら、かき消すようになくなってしまったのだ。
「ここだよ」と彼は答えた。「すぐ行く。先に帰ってくれ」
『これが地主根性の名残りだな』という考えが頭のなかにひらめいた。フェーネチカは無言のまま、彼のいる四阿のなかをのぞいて、姿を消した。彼は、空想にふけっているうちにいつしか夜になってしまったのに気がついて、びっくりした。あたりはすっかり暗くなり、ひっそりとしていた。フェーネチカの顔がほの白く、小さく、すべるようにそばを通りすぎた。彼は腰をあげて家へ帰ろうと思った。しかし感傷的になった心は落ちつきそうもなかったので、物思わしげに足もとを見つめたり、空を見上げたりしながら、ゆっくりと庭の中を歩きだした。空にはもう星がだいぶ出ていて、またたき合っていた。彼は長いあいだ、くたびれるまで歩きまわったが、内心の不安は、なにかを求めている漠然とした悲しい不安は、いぜんとして静まらなかった。このとき彼の心のなかでおこっていることをバザーロフが知ったならば、彼はどんなに相手を嘲笑《あざわら》ったことであろう! アルカージイだって彼をとがめたにちがいない。四十四歳にもなる男で、農業経営者で、一家の主人である彼の目に涙が、これという理由もないのに涙がにじみ出てきたのだ。それはセロより百倍も悪いことである。
ニコライ・ペトローヴィチは歩きつづけた。彼は家のなかへ、和やかな、居心地のよい巣のなかへ入って行く決心がつかなかった。灯を点じた窓という窓が愛想よく自分を見つめている家のなかへ。彼は宵闇や、庭や、顔をなでるさわやかな空気や、この悲しみや、この不安と別れるにしのびなかった……
道の曲がり角で彼はパーヴェルに会った。
「どうしたんだ!」と彼はニコライ・ペトローヴィチにきいた。「幽霊のように真っ蒼だよ。どこか悪いんじゃないか。どうして寝ないんだね!」
ニコライ・ペトローヴィチは手短かに自分の心境を説明してその場を離れた。パーヴェルは庭の外《はず》れまで行きつくと、やはり考えこんで、やはり空を見上げた。しかし彼の美しい黒い目には、星の光のほかにはなにも映っていなかった。ロマンチストに生まれついておらず、伊達者《ダンディ》らしくドライで、情熱的で、フランスふうの人間ぎらいときていたので、その魂は空想にふけるすべを知らなかった……
「ねえ、君」と同じ夜バザーロフはアルカージイに言った。「すばらしい考えを思いついたんだ。君の親父さんが今日話してたが、君の親戚の高官から招待がきているそうだ。君の親父は行かないと言っている。一つぼくらで***市へ押しかけようよ。君もその紳士に呼ばれているのだ。見ろ、すばらしいお天気になったじゃないか。行って、町を見物してこよう。四、五日もぶらぶらしたら、それでおしまいだ!」
「ここへはもどってくるかね?」
「いや、親父のところへ行かなくちゃならない。君も知っての通り、***から三十キロの所にいるんだから。ずいぶん長いあいだ会っていない、おふくろもだ。老人どもを慰めてやらなくちゃならん。二人ともいい人間だ、とくに親父の方はね。すごく面白いんだ。おれは一人っ子でね」
「長いことそっちにいるつもりかい?」
「そんなつもりはない。きっと退屈するだろうから」
「帰りには家へ寄るかね?」
「わからない……そのときしだいだ。で、どうだい? 行くか」
「よかろう」と大儀そうにアルカージイが言った。
彼は心のなかで、友人の申し出を大そう喜んだが、しかし自分の感情を表してはいけないと思ったのだ。なにしろ彼はニヒリストなのだから!
翌日彼はバザーロフと一しょに***へ出かけた。マリーノ村の若い連中は二人の出発にさいして名残りを惜しんだ。ドゥニャーシャは涙さえうかべた……しかし老人たちはやれやれと胸をなでおろした。
十二
二人の友の出かけて行った***市はある若手知事の管轄にぞくしていた。彼は、ロシヤではざらにあることだが、進歩主義者であるとともに専制君主であった。着任して一年とたたないうちに早くも、退職近衛騎兵二等大尉で、種馬所の持ち主で、客好きな県の貴族団長とばかりか、部下の役人とも衝突してしまった。このために生じたいざこざがだんだん大きくなり、とうとうペテルブルクの本省も、現地で事情を調査するために特別委員を派遣することが必要であると考えるにいたった。その結果、当局に白羽の矢を立てられたのがマトヴェイ・イリイッチ・コリャージンで、かつてキルサーノフ兄弟の面倒を見てくれたあのコリャージンの息子にあたっている。
彼も『若手』の一人で、つまり最近四十歳になったばかりなのだが、もう将来の大政治家をねらっており、胸の左右に星形勲章を一つずつさげていた。もっとも一つは外国の勲章で、あまり値打ちのないものだった。彼は取り調べを受ける知事と同じように進歩主義者と見られていた。だから、もう名士なのに大かたの名士とはちがっていた。彼は自分をずいぶん偉い人間と思っていて、その虚栄心にはきりがなかったが、しかし気取った態度をさらさら見せず、いかにもといったようすで相手を見、謙虚に人の話を聞き、まことに温良な笑顔を見せるのものだから、はじめのころは『利《き》け物《もの》』という評判さえとった。とはいえ肝心なときには、いわゆる煙にまくという手を心得ていた。「エネルギーが必要だね」とそんなときに彼は言うのであった。「I'energie est la premiere qualite d'un homme d'etat(エネルギーは政治家の第一の資格だよ)」そのくせだまされてばかを見るのは毎度のことだったし、多少でも経験のある役人なら、だれでも彼を思いのままにすることができた。
マトヴェイはギゾー〔フランスの政治家・歴史家〕を大へん尊敬していて、みんなに、自分は頑固者や時代おくれの官僚主義者とはちがう、自分は社会生活の重要な現象は一つとして見逃さない、といったようなことをほのめかそうとした……とにかく、そういった類《たぐ》いの言葉を彼はよく知っていた。いいかげんな、ひとりよがりのものではあったにしても、現代文学の動向にさえ、彼は注意をはらっていた。ちょうどこのように大人は、街で子供たちがぞろぞろ歩いているのを見ると、時々自分もそれに加わるものなのだ。本質においてはマトヴェイは、アレクサンドル時代の為政家と五十歩百歩であった。あのころの為政家どもは、当時ペテルブルクに住んでいたスヴェーチナ夫人〔神秘的女流作家〕邸の夜会へ出るときには、朝がたコンディヤック〔フランスの哲学者。百科全書派の一人〕の著書を一ページ読んだものである。ただそのやりかたが別の、もっと現代的なものになっただけの話なのだ。彼はぬけ目のない廷臣であり、なかなか狡賢《ずるがしこ》い男だったが、それ以上のなに者でもなかった。仕事がわかっていたわけでも、頭があったわけでもないのに、自分のやるべきこと仕事をやるすべだけは心得ていた。この点になるともうだれも彼にかなう者がいなかったが、じつはそれが大事なことなのである。
マトヴェイはアルカージイに、開けた高官特有の打ちとけた、というよりむしろ、ばかに陽気な態度で会った。とはいえ彼は、自分の招待客が田舎から出てこないと知って、驚いた。
「昔から君のお父さんは変わっていたよ」と彼は、ビロードの豪華な部屋着の房をいじりながら言った。そしてとつぜん、きちんとボタンをかけて通常制服を着用している若い官吏に向かって、心配そうな顔つきで、「なんだね?」と声をはりあげて言った。あまり長いあいだ黙っていたため唇のひっついてしまった若い男は、中腰になって、けげんそうな面持ちで長官を見つめた。しかし一たん部下をまごつかせてしまうと、マトヴェイはもう彼には注意を向けなかった。ロシヤの高官たちは一般に部下をまごつかせるのが好きである。この目的を達するために彼らの使う手はいろいろだ。わけてもつぎの手はよく使われる。イギリス人のいわゆる『is quite a favorite(おはこ)』である。高官がとつぜんごく普通の単語がわからなくなるのだ、つんぼになるのだ。たとえば彼が、今日はなに曜日か、ときく。
「今日は金曜日でございます……か……か……閣下」
「え? なに? なんだって? 今なんて言った?」と高官が緊張した顔でくり返す。
「今日は金曜日でございます、閣……下」
「え? なに? 金曜日ってなんだね? なんの金曜日だ?」
「金曜日は、か……か……か……閣下、週のなかの曜日でございます」
「おい、君はわしにそんなことを教えようというのか?」
自由主義者と見られていたとはいえ、マトヴェイもやはり高官だったのだ。
「君、知事のところへ顔を出しておいた方がいいと思うな」と彼はアルカージイに言った。「君もわかっているだろうが、わしがこう言うのは、偉い人のところへは挨拶に行かなければならないといった、古い考え方を守っているからじゃないんだ、ただ知事がりっぱな人物だからだよ。それに君だって当地の社交界を知りたかろう……君はまさか熊じゃあるまい? 明後日、知事主催の舞踏会があるのだ」
「あなたもその舞踏会にいらっしゃるんですか?」アルカージイがきいた。
「わしのために舞踏会を開いてくれるんだよ」とマトヴェイは哀れむように言った。「君、踊れるかい?」
「踊れますが、へたくそです」
「そりゃいかんな。この町には美人が多いし、それに若い者が踊れないなんて恥だよ。これもまた旧式な考え方で言うんじゃない。わしは知恵が足に宿っているなどとは毛頭思っていないが、しかしバイロン主義はこっけいだよ、il a fait son temps(そんな時代はすぎてしまった)」
「ぼくは、おじさん、けっしてバイロン主義がどうのと……」
「この町のお嬢さん方に引き合わせてあげよう、わしが君をこの羽の下に引き取って」と、マトヴェイは相手の言葉をさえぎり、自己満足の色を見せて笑いだした。「そうすれば君はあたたかくなる、どうだね?」
ボーイが入ってきて、税務監督局長の来訪を伝えた。口もとがしわだらけの、甘ったるい目をした老人だった。彼は自然を極度に愛した。とくに、彼の言葉を借りると、『めいめいの蜜蜂が一つ一つの花からわいろを取る』夏の日の自然を……アルカージイは場をはずした。
泊っている旅館に帰ってバザーロフの顔を見ると、アルカージイは長いことかかって彼を説得し、知事のところへ行くことを承諾させた。
「しかたがない」と、とうとうバザーロフは言った。「乗りかかった船だ! 地主どもを見にきたんだから、見せてもらおうか!」
知事は若者たちを愛想よく迎えたが、彼らを坐らせもしなければ、自分も坐らなかった。彼は絶えずそわそわと忙しそうだった。朝からきゅうくつな制服を着用して、すこぶるごわごわしたネクタイをつけ、落ちついて飲み食いするひまもなく、指し図していた。県内で彼はブルダールウというあだ名をつけられていたが、それは有名なフランスの伝道者〔ブルダールウ・ルイ。一六三二〜一七〇四〕からきているのではなく、『|ちんぷん《ブルダー》かんぷん』をほのめかすものであった。彼はキルサーノフとバザーロフを舞踏会に招待しておきながら、二分もたつとまた同じことをくり返して言った。しかも二人を兄弟だと思って、カイサーロフと呼んだのものである。
知事邸から宿へ帰る途中、いきなり、そばを走っている軽四輪馬車《ドローシキ》の中から、スラヴ主義者のようにハンガリーふうの上衣を着た男が跳び出して、「エヴゲーニイ・ワシーリエヴィチ!」と叫びながらバザーロフの方に駆け出してきた。
「あ! シートニコフ君かい」とバザーロフは歩道を歩きつづけながら、言った。「どうした風の吹き回しかね?」
「それがね、まったく偶然なんですよ」と相手は答えて、軽四輪馬車の方をふり向くと、五度ばかり片手をふり、大声で言った。「あとからついて来い、ついて来い! この町に親父の仕事があってね」と溝をとび越えながら彼はつづけた。「ぜひにって頼まれたもんだから……ぼくは今日あんたが来てるってことがわかったもんだから、宿へ行ったんだ……(本当に、二人が宿へ帰って見ると、隅を折り曲げた名刺があり、シートニコフの名前が片方にはフランス語で、片方にはスラヴふうの組み合わせ文字で書かれていた)まさか知事邸から出て来たんじゃないでしょうね!」
「お気の毒ながら、知事邸から出て来たところさ」
「あ! そんならぼくも知事のところへ行こう……バザーロフさん、ぼくにあんたの……連れの人を……紹介してくれませんか」
「こちらシートニコフ、こちらキルサーノフ」と立ちどまりもせずにバザーロフが言った。
「よろしく」とシートニコフは脇へ出て、にこにこ顔で、粋な手袋を急いで脱ぎながら、言いだした。「お噂はいろいろとうけたまわっております……ぼくはバザーロフさんの旧知で――まあ弟子みたいなもんです。この人のおかげで生まれかわりました……」
アルカージイはバザーロフの弟子を見た。小づくりながら気持ちのよいのっぺりした顔には、おどおどした、鈍い表情が現われていた。小さな、まるではめこまれたような目がじっと、不安そうに見つめていたし、笑い声も落ちつきのないものだった。それはなんだか短い、表情に乏しい笑いであった。
「まったく」と彼はつづけた。「バザーロフさんがぼくの前ではじめて、権威を認めるべきではない、と言ったとき、ぼくは感激しましたよ……まるで急に大人になったみたいでした!『なんてすばらしい人に出会ったんだろう!』とぼくは思いましたよ。それはともかく、バザーロフさん、あなたはぜひともこの町のある婦人のところへ行ってこなくちゃなりません。あの女《ひと》は完全にあなたを理解できますし、あの女にとってあなたの訪問はきっと楽しい行事になりますよ。たぶん、噂を聞いたことがあるでしょう?」
「なんて女だい?」と気乗りのしないバザーロフが言った。
「クークシナ、Eudoxie《エウドクシイ》、エヴドークシヤ・クークシナという人です。注目すべき女で、本当の意味での emancipee(解放された女)、進歩的な女性です。どうです? これからみんなで押しかけませんか。ここから目と鼻の先の所に住んでいるんです。そこで食事しましょう。まだ食事前なんでしょう?」
「そうだ」
「ちょうどよかった。あの女《ひと》はねえ、ご亭主と別居していて、だれにも気がねがいらないんですよ」
「美人かい?」とバザーロフがまぜっかえした。
「い……いや、そうは言えないな」
「じゃ君はなんのためにぼくらをそんな所につれて行こうというんだ?」
「いや、相変わらずだなあ……シャンペーンを出してくれますよ」
「そうかい! 実際的な人間だってことがすぐわかるな。ところで、親父さんは相変わらず一手販売かね?」
「一手販売です」とシートニコフは急いで言うと、甲高い声で笑いだした。「どうです? 行きますか?」
「どうしようかな、まったく」
「君は人間どもを見たいと言ったじゃないか、行きたまえ」とアルカージイが小声で言った。
「あなたはいかがですか、キルサーノフさん?」とシートニコフがすかさず言った。「あなたもどうぞ、あなたがいらっしゃらなくちゃだめです」
「みんなで押しかけて行くわけにもいくまい?」
「かまいませんよ! クークシナはすばらしい人なんですから」
「シャンペーン一びんは大丈夫かい?」バザーロフがきいた。
「三本!」とシートニコフが叫んだ。「ぼくが保証する」
「なんに賭けてだ?」
「この首にかける」
「親父さんの財布の方がいいな。ともかく、行くとしよう」
十三
アヴドーチヤ・ニキーチシナ(あるいはエヴドークシヤ)・クークシナの住むモスクワふうの小さな貴族屋敷は、***市の最近焼けた通りの一つにあった。周知のようにロシヤの県庁所在地は五年ごとに火事にあっているのだ。戸口の、斜めに打ちつけてある名刺の上に、呼び鈴の引き手が見えていた。来訪者たちを玄関に迎えたのは女中とも、お話し相手ともつかない女で、室内帽をかぶっていた。それは女主人が進歩的傾向のある人であるという明白なしるしである。シートニコフが、アヴドーチヤさんは在宅ですか、ときいた。
「Victor《ヴィークトル》 じゃなくって?」と隣室から甲高い声がした。「お入りなさい」
「ぼく一人じゃないんですよ」とハンガリーふうの上衣を脱ぎすてながら――下にはチョッキかサック外套といったようなものを着こんでいた――アルカージイとバザーロフを見やりながら、シートニコフが遠慮がちに言った。
「おんなじことよ」と声の主が答えた。「Entrez(お入りなさい)」
若者たちは入った。その部屋は客間というよりもむしろ仕事部屋みたいだった。書類、手紙、分厚なロシヤの雑誌(大部分ページを切っていなかった)が、ほこりだらけのテーブルの上に乱雑にのっていた。そこら一ぱい、手当たりしだいにタバコの吸いがらが捨ててあった。革の長椅子の上に一人の婦人が半ば身を横たえていた。まだ若くて、ブロンドで、少しぞんざいな身なりをしており、あまり清潔とはいえない絹のドレスを着て、短い腕には大きな腕輪をはめ、頭にはレースのスカーフをのせていた。彼女は長椅子から起き上がると、黄色くなったテンの毛皮裏のビロードの外套をむぞうさに羽織りながら、だるそうな調子で、「いらっしゃい、Victor《ヴィークトル》」と言って、シートニコフの手を握った。
「バザーロフ君に、キルサーノフ君」と彼は、バザーロフの真似をして、ぶっきらぼうに言ってのけた。
「よくいらっしゃいました」とクークシナは答えた。そして円い目(目と目の間には上向きの小さな鼻がさみしそうに赤らんでいた)でバザーロフを見つめ、「あなたのことは存じておりますわ」とつけ加えて、彼の手も握った。
バザーロフは顔をしかめた。この解放された女の小がらな、風采のあがらない姿には、醜いものはなにもなかった。しかし彼女の顔の表情は人に不快な感じを与えた。思わず彼女に、「どうしました、お腹でもすいてるんですか? それともご退屈で? それともびくびくしていらっしゃるので? なんだってくねくねしてるんですか?」とききたくなるのだった。
彼女もシートニコフのようにいつも心が不安で落ちつかなかった。彼女は話しぶりも動作も大へんくだけていたが、同時にぎこちなかった。彼女はどうやら、自分のことを親切な、さっぱりした人間だと思っているらしかったが、そのくせ彼女がなにをしても、彼女がそれだけはしたくないと思っているように見えるのだった。彼女がやるとなんでも、子供たちの言う、わざとらしいふるまいとなってしまい、あっさりと自然にしたことのようには見えないのだった。
「ええ、ええ、わたしはあなたを存じていますわ、バザーロフさん」と彼女はくり返して言った。(彼女には、地方やモスクワの多くの婦人たちに特有のくせ――初対面のときから男性の名を苗字で呼ぶくせ――があった)「葉巻はいかが?」
「葉巻は葉巻として」と、さっそく肘かけ椅子にふんぞり返って片足をあげたシートニコフが言った。「飯にしてくださいませんか、ぼくたちは腹ペコなんです。それからシャンペーンを一本ご寄進ねがいたいですね」
「奢侈逸楽の徒ね」とエヴドークシヤは言って笑いだした(彼女が笑うと上の歯ぐきがむき出しになった)「そうじゃなくって、バザーロフさん、この二人は奢侈逸楽の徒でしょう?」
「ぼくは生活の安楽を愛します」ともったいぶってシートニコフが言った。「それはぼくが自由主義者であることを妨げませんですからね」
「いいえ、妨げになってよ、なってよ!」とエヴドークシヤは叫んだが、しかし女中に食事とシャンペーンの用意をするように命じた。「あなたはどうお思いになります?」とバザーロフの方を向いて、彼女はつけ加えた。「きっと、あなたもわたしの意見に賛成してくださると思うわ」
「いや、ちがいます」バザーロフは言い返した。「一切れの肉は一切れのパンにまさりますよ、化学的見地からしても」
「あなたは化学をやってらっしゃるの? わたしも大好き。接着剤を考案したくらいですの」
「接着剤を? あなたが?」
「ええ、わたしが。ねえ、なんのためだと思います? 人形をつくるためですわ、頭がこわれないように。わたしって実際的な人間ですもの。でもまだつくっていません。リービッヒも読んで見なくちゃ。ところで、『モスクワ報知』に出ていたキスリャコーフの婦人労働論をお読みになりました? どうぞお読みなさいまし。婦人問題に関心をお持ちなんでしょう? 学校のことも? あなたのお友だちはなにをやってらっしゃるの? お名前は?」
クークシナ夫人は甘えたような気さくな態度でつぎつぎと質問を|浴びせた《ヽヽヽヽ》が、返事を待つでもなかった。甘やかされた子供はばあやを相手にこんな口をきくものだ。
「ぼくはアルカージイ・ニコライチ・キルサーノフと言います」とアルカージイが言った。「なにもしていません」
エヴドークシヤは笑いだした。
「まあすてき、どう、タバコは吸いますの? ねえ、ヴィークトル、わたし、あなたのこと怒ってますよ」
「どうして?」
「あなたはまたジョルジュ・サンド〔フランスの女流作家〕のことをほめだしたんですってね。あれは時代おくれの女、それだけのことよ! エマソン〔アメリカの思想家・文人〕となんか比較になるもんですか! 教育のことだって、生理学のことだって、なんのことだって、まるで主張というものを持ち合わせていないんですもの。あの人はきっと、胎生学なんて聞いたこともないんだわ。でも今どき、胎生学も知らずにすまされまして?(エヴドークシヤは両手をひろげた)ああ、この問題ではエリセーヴィチがじつにすばらしい論文を書きましたわ! 天才的な紳士です!(エヴドークシヤはいつも、『人』と言わずに『紳士』という言葉を使った)バザーロフさん、ここに、わたしのそばにおかけなさいな。あなたはご存じないかも知れませんが、わたしはあなたが怖くって」
「どうしてですか? 面白いですね」
「あなたは危険な紳士ですもの。あなたは怖い批評家です。あらまあ! おかしいわ、草原の女地主みたいな口をきいちゃって。もっとも、わたしは本当に女地主ですの。わたし、自分で領地を管理していますが、うちにエロフェイという百姓頭がいます。驚くべきタイプなんですの。まるでクーパー〔アメリカの小説家。海洋、開拓小説を得意とす〕のパスファインダーそっくり。じつに自然児的なところがありましてね! わたし、すっかりここに居ついてしまいましたわ。嫌な町、そうじゃありません? でもしかたないわ」
「町ってこんなもんですよ」とバザーロフが冷ややかに言った。
「みんながちっぽけなことにばかり興味を持っていて、ほんとにたまらないわ! 前にはわたし、モスクワで冬をすごしましたの……でも今あちらにはうちの人が、クークシン氏が住んでいます。モスクワもこのごろでは……よくわかりませんが、やっぱりもとのようじゃないでしょう。わたし、外国へ行ってこようと思ってます。昨年は出かけるばかりになってましたわ」
「むろん、パリへでしょう?」とバザーロフがきいた。
「パリとハイデルベルクですの」
「なぜハイデルベルクへ?」
「あら、ブンゼン〔ドイツの化学者〕がいますわ」
バザーロフはなんと答えていいやらわからなかった。
「ピエール・サポージュニコフ……ご存じ?」
「いいえ、知りません」
「あら、ピエール・サポージュニコフよ……相変わらずしょっちゅうリージヤ・ホスタートワのところへ出入りしてますわ」
「その女《ひと》も知りませんね」
「で、ピエール・サポージュニコフがわたしを案内してくれることになっていますの。ありがたいことに、わたしは自由で、子供がいませんし……あら、わたしおかしなことを言っちゃったわ、|ありがたい《ヽヽヽヽヽ》だなんて! でも、どうでもいいわ、そんなこと」
エヴドークシヤはタバコのやにで黄色くなった指でシガレットを巻き、舌先でなめて、ちょっと吸ってみてから、火をつけた。女中がお盆を持って入ってきた。
「ほら、食事がきたわ! お一ついかが? ヴィークトル、びんをあけてね。それはあなたの受け持ちよ」
「ぼくのです、ぼくのです」とシートニコフはつぶやいてまたもや金切り声で笑いだした。
「この町には美人がいますか?」とバザーロフが、三杯目のコップを飲み干しながら言った。
「います」とエヴドークシヤが答えた。「でも、頭のからっぽな人たちなの。たとえば、mon amie(わたしのお友だち)のオジンツォーヴァなんか美人ですわ。残念なことに、なにかと評判が悪くて……そりゃ、人の噂なんかどうでもいいんですけど、自由な見解を持っているわけでも、広い識見があるわけでもないし、そんなものが……なにもないんです。教育体系をすっかり変えることがぜひとも必要ですわ。そのことはずっと前から考えてますの。ロシヤの女の教育はなっちゃいませんもの」
「むだなことですよ」とシートニコフが言葉を引き取った。「女は軽蔑すべきです、でぼくは彼らを軽蔑していますね、完全に、申し分なく!(人を軽蔑でき、また軽蔑の念をあらわすことができるということは、シートニコフにとって最も愉快な感覚であった。彼はとりわけ女性を攻撃した。まさか数カ月後には自分の妻の前にへいこらするなどとは夢にも思っていなかったのだ。それもただ、彼女がドルドレオーソフ公爵の令嬢だからというだけの理由で)女どもの一人としてわれわれの話を理解できるやつはいないんだ。彼らの一人として、われわれまじめな男性の話の対象となるものはいない!」
「なにも連中がぼくらの話を理解する必要はちっともないよ」とバザーロフが言った。
「だれのことですの?」エヴドークシヤが口をだした。
「美人のことです」
「なんですって! するとつまり、あなたはプルードン〔フランスの社会主義者〕と同じ意見ですのね?」
バザーロフは悠然と胸をはった。
「ぼくはだれの意見とも同じじゃありません。ぼくは自分の意見を持っているんですから」
「権威者どもを打ち倒せ!」とシートニコフが叫んだ。彼は自分の心服をしている人の前で、過激な言葉を使うチャンスがきたのを喜んだ。
「でもマコーリ〔イギリスの政治家・歴史家〕は」とクークシナが言いだした。
「マコーリをやっつけろ!」とシートニコフがわめいた。「あなたはあんな女どもの味方をするんですか?」
「女どもではなく、婦人の権利を守るためよ。わたし、血の最後の一滴にいたるまで守ることを誓いましたの」
「やっつけろ!」と言ったものの、シートニコフは途中でやめてしまった。「ぼくも否定しないや」と彼は小声で言った。
「いいえ、わかってるわ、あなたはスラヴ主義者だわ!」
「いや、ぼくはスラヴ主義者じゃありません、そりゃ、むろん……」
「いいえ、いいえ! あなたはスラヴ主義者です。あなたは『ドモストローイ』〔「女大学」的な十六世紀ロシヤの家庭訓〕の支持者だわ。あなたは手に鞭を持っているほうが似合ってよ!」
「鞭っていいもんです」とバザーロフが言った。「ただほら、ぼくらはとうとう最後の一滴になってしまいました……」
「なんの?」とエヴドークシヤがきいた。
「シャンペーンのですよ、こよなく尊敬するアヴドーチヤさん、シャンペーンので、あなたの血のではありません」
「女性が攻撃されるとき、わたしは冷静に聞いていることができませんの」とエヴドークシヤがつづけた。「たまらないわ、たまらないわ。女性の攻撃なんかやめて、ミシュレ〔フランスの民主的共和主義者〕の『恋愛論』でも読んだ方がよくってよ。じつにすてき! みなさん、恋愛論をやりましょう」とエヴドークシヤは、長椅子のしわくちゃなクッションの上にだるそうに片手をついて、言いそえた。
急にみんな黙りこんでしまった。
「いや、恋愛論なんかよしましょう」とバザーロフが声を低めて言った。「あなたはさっきおっしゃいましたね、オジンツォーヴァのことを……ええと、たしか、そういう名前でしたね? その奥さん、どんな人ですか?」
「美人ですよ! 美人ですよ!」とシートニコフが金切り声で言いだした。「ぼくが紹介してあげます。頭がよくって、金持ちで、未亡人ですよ。残念ながら、まだあまり進歩的じゃない。あの人はわがエヴドークシヤと親密にならなくちゃ。あなたの健康のために、Eudoxie《エヴドークシイ》! 杯を合わせましょう! コツ、コツ、チン・チン・チン!……」
「Victor《ヴィークトル》、あなたひょうきん者ね」
食事は長びいた。シャンペーンが最初のびんにつづいて、二本目、三本目、四本目までも出た……エヴドークシヤはひっきりなしにおしゃべりをし、シートニコフがその相槌を打った。二人はいろんなことをたくさん話し合った。結婚とはなにか――偏見か、それとも犯罪か、どんな人間が生まれるか――似たような人間か、そうじゃないか? 個性とはつまり、なにか? とうとうおしまいに、エヴドークシヤは飲んだ酒のためにまっ赤になり、調子の狂ったピアノのキイを平べったい爪でたたきながら、しゃがれ声で歌いだした。初めはジプシーの歌を、それからセイムール・シフ〔ピアニスト・作曲家〕のロマンス『グラナダはまどろむ』を歌いだした。一方シートニコフは頭を襟巻きでしばって、
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汝《な》が唇は わが唇と
熱きくちづけに融け合いぬ
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と言いながら、死んでゆく恋人の役を演じてみせた。
アルカージイはとうとうがまんできなくなった。「みなさん、これじゃまるで精神病院みたいですね」と彼は声に出して言った。
バザーロフは時おり二人の話に皮肉な言葉をさしはさむだけであったが――彼はむしろシャンペーンを飲むほうで忙しかった――大声であくびをし、立ち上がると、女主人に暇乞いもしないで、アルカージイと一しょに外へ出た。シートニコフがあとを追って跳び出してきた。
「どうでした、え、どうでした?」と彼は、右から、あるいは左から先回りして、ごきげんを取るようにきいた。
「ぼくが言った通りでしょう、注目すべき人物だって! ああいう女性がわが国にもっといるといいんですがね! あの女《ひと》は、あれなりに、高潔な現象ですよ!」
「君《ヽ》の親父さんのこうした施設もやはり道徳的現象かい?」とバザーロフが、指で、ちょうどこのとき前を通りかかった居酒屋を指して、言った。
シートニコフはまたもや金切り声を立てて笑いだした。彼は自分の素性をすこぶる恥じていたので、思いがけなくバザーロフに君呼ばわりされたことを、喜んでいいやら、怒っていいやらわからなかった。
十四
数日後に知事邸で舞踏会が催された。マトヴェイはまさしく、『この催しの主人公』だった。貴族団長はみんなに、まためいめいに、自分が来たのはほかでもない、主賓に敬意を表するためだと言い、知事は舞踏会の席上でも、しゃちこばったまんま、『指し図』をつづけた。マトヴェイの物腰のやわらかさは、彼の威厳とのみ比肩できるものであった。人によって多少いやな顔をしたり、尊敬の色を見せたりはしたが、彼はだれにも愛想がよかった。婦人たちの前では、『en vrai chevalier francais(本当のフランスの騎士のように)』おせじをふりまき、いかにも高官らしく高らかな、ひびきのよい、くったくのない笑い声を立てるのだった。彼はアルカージイの背中を軽くたたいて、大声で彼を『甥』と呼び、古めかしい燕尾服を着こんだバザーロフには、気のない流し目をくれてやって、あいまいながらも口の中でムニャムニャとお愛想を言った。もっとも、聞き取れたのは、「わしは……」というのと、「すこぶる」という言葉だけだった。シートニコフには指を一本握らせて、笑顔を見せたが、すぐにそっぽを向いてしまった。例のクークシナにさえ、彼女は舞踏会に、たが入りのスカートもはかず、汚ない手袋をして、そのくせ頭には極楽鳥の羽を一本さして現われたが、そのクークシナにさえ、「Enchante(うっとりしましたよ)」と言ったのである。
大ぜいの人が来ていて、男の数には不足がなかった。文官はどっちかといえば壁ぎわでひしめき合っていたが、軍人たちは熱心に踊った。なかでも一人ずばぬけたのがいた。彼は六週間ばかりパリへ行ってきて、『Zut(ちぇっ)』、『Ah fichtrrre(ちきしょう)』、『Pst, pst, mon bibi(おい、おい、ねえちゃん)』といった類いの、威勢のいいフランス語の間投詞を覚えてきたのだ。彼はそれらの言葉を完ぺきに、本物のパリっ子のようにシックに発音したが、そのくせ『si j'avais(いかす)』のかわりに『si j'aurais』と言い、『きっと』の意味で、『absolument(ぜったいに)』と言った。要するに、フランス人たちがわれわれ同胞に、天使のように(『Comme des anges』)フランス語がお上手ですね、などとおせじを言う必要のないときに、さんざん笑いものにする、あのロシヤなまりのフランス語を使っていた。
アルカージイは、われわれがすでに知っているように、ダンスは下手だったし、バザーロフはまったく踊らなかった。二人とも隅に坐りこんでいた。シートニコフがそれに加わった。顔にさげすむようなあざけりをうかべ、毒を含んだ言葉を吐きながら、彼はじろじろあたりを見まわしていた。そのくせ心の底ではいかにも楽しんでいるらしかった。とつぜん彼の顔が一変した。彼はアルカージイの方をふり向くと、うろたえたようなようすで言った。
「オジンツォーヴァが来ましたよ」
アルカージイがふり返って見ると、黒のドレスを着た背の高い女がホールの入り口に立っていた。彼女の堂々とした悪びれない態度にアルカージイは驚いた。あらわな腕はすらりとした身体の脇に美しく垂れ、輝いている髪にさしたツリウキソウの軽い小枝が、なで肩の上に美しくもたれていた。落ちつきはらって、いかにも賢そうに(まさしく落ちつきはらってであって、物思わしげにではない)、薄色の目が、少しおでこである白い額の下から見つめていた。唇もかすかな微笑をもらしていた。彼女の顔からは一種のやさしさと、おだやかな力とが感じられた。
「あなたはあの人とお知り合いなんですか?」アルカージイがシートニコフにきいた。
「よく知っています。なんでしたら、ご紹介しましょうか?」
「ええ……このカドリールがすんでから」
バザーロフもオジンツォーヴァに注意を向けた。
「あれはいかなる人物だね?」と彼は言った。「ほかの女どもとは桁《けた》ちがいだ」
カドリールの終わるのを待って、シートニコフはアルカージイをオジンツォーヴァのところへつれて行った。しかし彼は彼女と親しい知り合いどころじゃなかった。彼は自分が話をするのさえしどろもどろであった。彼女はいくらかびっくりして彼を見つめた。けれどもアルカージイの姓を聞いたとき、彼女の顔は嬉しそうな表情になった。彼女は、アルカージイがニコライ・ペトローヴィチの息子ではないか、ときいた。
「その通りです」
「お父さまには二度お目にかかったことがございますし、お噂はいろいろうかがっております」と彼女はつづけて、「お近づきになれて大そう嬉しく存じます」
このとき彼女のそばへどこかの副官がとんできて、彼女をカドリールにさそった。彼女は同意した。
「お踊りになるんですか?」といんぎんにアルカージイがたずねた。
「踊りますわ。でも、どうしてわたしが踊らないとお思いになって? わたしがあんまり年よりに見えるせいかしら?」
「とんでもありません、まさか……でも、それでしたらマズルカのときお相手をさせていただきたいんですが」
オジンツォーヴァはおうように笑みをうかべた。
「どうぞ」と彼女は言って、アルカージイを、見くだすというわけではないが、お嫁にいった姉さんがまだ幼い弟を見るように、見つめた。
オジンツォーヴァはアルカージイよりもすこし年上で、数えで二十九だったが、彼女の前に出ると、彼は、自分が生徒が学生みたいで、年齢のへだたりが実際よりもはるかに大きいような気がした。マトヴェイは堂々たる態度で彼女に近づき、お追従を言った。アルカージイは脇へさがって、彼女の観察をつづけた。彼は、カドリールのときも、彼女から目を離さなかった。彼女は自分の踊りの相手と話すにも、高官と話すにもとらわれない調子で話し、しとやかに首や目を動かし、二度ほどそっと笑顔を見せた。鼻は大ていのロシヤ人と同じように少し肉太で、皮膚の色も申し分なくきれいとは言えなかった。それにもかかわらずアルカージイは、自分はこれまでついぞ一度だって、こんな魅惑的な女性は見たことがない、ときめてしまった。彼女の声がいつまでも耳について離れなかった。ドレスのひださえも、ほかの人とはちがって、もっとかっこうがよく、ゆったりしているような気がしたし、動作も、とりわけ軽快で、同時に自然であるように思われた。
マズルカの最初の奏音が始まって、相手のオジンツォーヴァのそばに座を占めたとき、アルカージイは心がおじ気づくのをおぼえた。そして話しかけようとするけれども、ただ自分の髪の毛を手でなでるだけで、一言も適当な文句が思いつかなかった。しかしいつまでもびくびくしたり、興奮したりはしていなかった。オジンツォーヴァの落ちつきが彼にも伝わってきた。十五分とたたないうちに、もう彼は父や伯父のことだの、ペテルブルクや田舎の暮らしのことだのを、自由な気持ちで話していた。オジンツォーヴァは彼の話を、そっと扇子を開いたり閉じたりしながら、行儀よく身を入れて聞いていた。彼のおしゃべりは、彼女が男性から踊りを申しこまれるたびに中断された。シートニコフのごときは二回も彼女にお相手を申しこんだ。彼女はもどってくると、また腰をおろして、扇子を取りあげるのだったが、別に息をはずませているわけでもなかった。アルカージイはまたおしゃべりを始める。すると彼は、自分は彼女のそばにいる、彼女の目や美しい額や、美しくて威厳のある利口そうな顔全体を眺めながら、彼女と話ができる、という幸福感で一ぱいになるのであった。彼女は口数が少なかったが、人生を知っていることが言葉のはしばしに現われていた。彼女の意見のいくつかを聞いてアルカージイは、この若い女性はすでにいろいろなことを体験もすれば考えもしてきたにちがいない、と結論した……
「シートニコフさんがあなたをわたしのところへつれてきたとき、あなたのそばにいたのはどなた?」と彼女は逆にきいた。
「お気づきだったんですか?」とアルカージイが彼女に聞き返した。「りっぱな顔をしてますでしょう? あれはバザーロフといって、ぼくの友人です」
アルカージイは『自分の友人』の話を始めた。
彼がバザーロフのことをじつに詳しく、感激して語ったので、オジンツォーヴァは彼の方をふり向いて、しげしげと彼を眺めた。やがてマズルカが終わりに近づいた。アルカージイは自分の相手と別れるのが名残り惜しかった。彼女と一しょに一時間ほどもじつに楽しくすごしたのだもの! なるほど、彼はそのあいだじゅうずっと、この人は自分を大目に見てくれているらしい、自分はこの人に感謝しなければならない、という気はしていた……がしかし、若者たちの心はあまりそんなことなど気にしないものなのだ。
音楽がやんだ。
「Merci(ありがとう)」とオジンツォーヴァが立ちあがりながら言った。「家へいらしてくださるというお約束でしたわね。あなたのお友だちもご一しょにおつれになってください。わたし、なにも信じないといった勇気をお持ちの方にお目にかかるのは、大そう興味があると思いますの」
知事が彼女のそばにやって来て、夜食の用意のできたことを知らせ、配慮にみちた面持ちで彼女に腕をさしだした。去りがけに彼女は、もう一度アルカージイに笑顔を送り、うなずいてみせるためにふり向いた。彼はうやうやしく頭をさげて彼女のうしろ姿を(黒い絹の鼠色がかった光につつまれた彼女の身体が、彼にはじつにすんなりと見えた!)見守ったが、『今はもうあの人は、ぼくの存在など忘れてしまっただろうな』と思うと、胸中になにやら優美なあきらめのようなものを感じた……
アルカージイがバザーロフのいる隅にもどってくると、「おい、どうだった?」とバザーロフがきいた。「満足したかね? さっきどこかの旦那が、あの奥さんは『どうして、どうして』だと言っていたよ。もっともその男はどうやらばかものらしいがね。ところで、君はどう思うんだい、あの女は本当に、『どうして、どうして』かい?」
「ぼくにはその定義の意味がよくわからないな」とアルカージイが答えた。
「そうかい! 君は無邪気だからな!」
「そういうことなら、ぼくにはその旦那の言うことがわからないよ。オジンツォーヴァは大した美人だ――たしかにね。しかしあの人の動作はじつに冷静で、端然としていて……」
「静かな淵には〔「静かな淵には魔がひそむ」というロシヤの諺〕……ってやつだよ!」とバザーロフがまぜっ返した。「あの女は冷静だ、と君は言ったね。そこにつまり趣《おもむき》があるのさ。君だってアイスクリームが好きだろう?」
「そうかもしれない」とアルカージイが言った。「ぼくはそれをとやかく言いたくないよ。あの人は君と近づきになりたがっていて、ぼくに君をつれてくるようにと言ったよ」
「きっと、君がいろいろとならべたてたんだろう! とはいうものの、よかったぜ。ぼくをつれてってくれ。あの女がなに者にせよ――ただの県下の牝獅子にせよ、クークシナみたいな『解放された女』にせよ、久しくお目にかかったことのないような、すばらしい肩をしているからな」
アルカージイはバザーロフの口の悪いのに嫌な気がしたが、しかし――そんなことはちょいちょいあったことだ――バザーロフにある自分の気にくわない点ではなく、別のことで、彼を非難した……
「どうして君は女に思想の自由を認めようとしないのかなあ!」と彼は小声で言った。
「なぜって、君、ぼくの考えでは、女で自由に考えることのできるのは、片輪者だけだよ」
話はそれでとぎれた。二人の若い友人は夜食がすむとすぐに引きあげた。クークシナは神経的に、憎悪をこめて、だが心のなかではいくぶんびくびくしながら、彼らのうしろ姿を嘲笑した。二人のどちらも彼女に関心を示さなかったことで、彼女はひどく自尊心を傷つけられたのだ。彼女は舞踏会に最後までがんばり、真夜中の三時すぎにシートニコフを相手にパリふうのポルカ・マズルカを踊った。この教訓的な光景でもって、知事の催しは終わりをつげた。
十五
「あの婦人が哺乳類のなに科にぞくするか、見てやろうじゃないか」と翌日バザーロフは、アルカージイと二人でオジンツォーヴァの泊まっているホテルの階段をのぼって行きながら、彼に言った。「ぼくの鼻はなにかよからぬものを感じるぞ」
「こいつは驚いた!」とアルカージイが大声で言った。「どういうわけなんだ? 君が、バザーロフともあろうものが、狭い道徳観にしがみついているなんて、そんな……」
「君もおかしなやつだな!」と、バザーロフはあっさりと相手をさえぎって、「君は知らないのかい、われわれの仲間では、『よくない』ってのは、『よい』ってことなんだ。つまり収穫があるぞってことさ。君は今日、自分で言ったじゃないか、あの女は奇妙な結婚をしたって。もっともぼくの考えじゃ、金持ちのじいさんのところへお嫁に行くのは、ちっとも奇妙なことじゃない。反対に、賢明なことだ。ぼくは町の噂なんか信じないが、教養ある当県知事が言っているように、噂というものには根も葉もある、と思いたいな」
アルカージイはなんとも答えないで部屋のドアをノックした。おしきせを着た若い下僕が二人の友人を大きな部屋に案内した。そこはロシヤのホテルのつねとして、おそまつな家具がならべてあったが、それでも花だけはちゃんと置いてあった。まもなくオジンツォーヴァが簡単な朝の服を着て現われた。春の日ざしのもとで彼女は一そう若く見えた。アルカージイは彼女にバザーロフを紹介したが、バザーロフがどぎまぎしているのを見て、心ひそかに驚いた。一方オジンツォーヴァは昨日のように、まったく落ちつきはらっていた。
バザーロフは自分でも、どぎまぎしているな、と思うと、いまいましくなった。『お前はだらしがないぞ! 女を怖がったりして!』と彼は思った。そしてシートニコフにおとらず行儀悪く肘かけ椅子にふんぞり返って、わざと無遠慮にしゃべりだしたが、オジンツォーヴァは自分の明るい目を彼から離さなかった。
アンナ・セルゲーエヴナ・オジンツォーヴァの父親はセルゲイ・ニコラーエヴィチ・ロークチェフといい、有名な美男子で、山師で、賭博者であった。彼は十五年ほどペテルブルクやモスクワに居て、騒がしく暮らしたのち、最後にはカルタに負けてすってんてんになり、田舎に移り住まねばならなかった。だが、二人の娘――二十になるアンナと十二になるカテリーナになけなしの財産を残して、まもなく田舎で死んでしまった。二人の母親は落ちぶれたX……公爵の出であったが、夫がまだ盛りを誇っていたころ、ペテルブルクで亡くなった。父の死んだあとのアンナの境遇は大そう苦しかった。ペテルブルクでうけた華やかな教育は、農地経営や家政のきりもりをするには、彼女をしつけなかった。近郷近在にだれ一人知るものとてなく、相談相手がだれもいなかった。父は隣人との交際をつとめてさけた。彼は隣人たちを軽蔑していたし、彼らは彼らで彼の父を軽蔑していたのである。しかし彼女は途方に暮れるようなことはことはなかった。すぐに母の姉である公爵令嬢アヴドーチヤ・スチェパーノヴナ・X……に自分の家に来てもらった。これは意地悪ないばりやの老婦人で、姪の家へ越してくるといい部屋はみんな自分で取り、朝から晩までぶつぶつと小言をいい、庭を散歩するときにはかならずたった一人しかいない農奴の下僕につれてゆくのだった。この下僕は気むずかしい男で、空色のモールのついた、着古したエンドウ色のおしきせを着て、三角帽をかぶっていた。アンナは伯母のわがままをがまん強くこらえ、妹の教育にしたがい、あきらめて片田舎に埋もれる気持ちになったかと思われた……しかし運命の裁きは別様であった。オジンツォーフという四十六ほどになる大金持ちがたまたま彼女を一目見たのだ。彼は変人で、ヒポコンデリーで、肥っていて、鈍重で、気むずかしい顔をしていたが、ばかでも意地悪でもなかった。この男が彼女に惚れこんで求婚をしたのである。彼女は彼の妻となることに同意した。男は彼女と一しょに六年暮らしたが、臨終のときに全財産を彼女に与えた。アンナは夫の死後一年ほどは村から出なかった。その後、妹をつれて外国に出かけたが、ドイツにしばらく滞在しただけであった。すっかり退屈してしまって、***市から四十キロほど離れたニコーリスコエ村に住むために帰って来たのである。そこには見事な装飾を施した豪華な邸宅や、温室を備えたすばらしい庭園があった。死んだオジンツォーフはなんでも自分の思いどおりにしたのだった。
アンナが町へ出かけるのは珍しく、大てい用件のためであり、それも長くはなかった。彼女は県内では人に好かれておらず、彼女とオジンツォーフとの結婚のことではひどくののしられ、あることないこと吹聴され、彼女が父親のペテン仕事の手助けをしたとか、外国へ行ったのも漫然とではなく、不幸な結末をおおい隠すことが必要だったからだ、などと、まことしやかに噂された……「どうです、おわかりでしょう?」と話し手は憤慨して語り終わるのだった。『水火の中をくぐりぬけてきた』女だ、と彼女は言われた。また県内のさる有名な皮肉屋はきまってこうつけ加えた。『なに海千山千さね』と。こういった噂は彼女のところまで聞こえてきたが、彼女は取りあわなかった。彼女の性格はものごとにせこせこしない、かなりさっぱりしたものだったからである。
オジンツォーヴァは肘かけ椅子の背にもたれ、両手を重ねて、バザーロフの話を聞いていた。彼はいつもとちがってかなり口数が多く、あきらかに相手の心をひきつけようと努めていたので、またもやアルカージイは驚いた。彼はバザーロフが目的を達しつつあるのかどうか、決めかねた。彼女の顔からは、彼女がどんな印象をうけているのか、推しはかることがむずかしかった。彼女の顔は相変わらず愛想のよい、神経の行きとどいた表情をくずさなかった。その美しい目は注意ぶかく光っていたが、しかしそれはおだやかな注意であった。はじめバザーロフのとった無作法な態度は、悪臭か鋭い音のように彼女を不愉快にさせた。しかし彼女はすぐに、これは相手がどきまぎしているからだとさとったので、かえって好感を持つようになった。彼女は俗悪なものだけはがまんできなかったが、だれにせよ、バザーロフを俗悪だといって非難する者はいないはずである。
アルカージイはこの日たえず驚かされっぱなしだった。彼はバザーロフがオジンツォーヴァと、相手が賢い女性だから、自分の日ごろの信念や見解について話しだすものと思っていた。彼女が自分から、「なにごとも信じない勇気のある人」の話を聞きたいと言ったからである。けれどもそういう話のかわりに、バザーロフは医学や、同種療法や、植物学の話をしたのだ。オジンツォーヴァが孤独のなかで時間をむだに費やしていないということがわかった。彼女はなん冊か良書を読んでいたし、正確なロシヤ語で意見をのべることができた。彼女は音楽の話を始めたが、バザーロフが芸術を認めないとわかると、アルカージイが民衆のメロディーの意義について話しかけたのに、話題をそっと植物学にもどした。オジンツォーヴァはアルカージイを弟のように扱った。彼女は彼がいかにも青年らしく善良で、すなおであることを心よく思っているようだったが、ただそれだけのことであった。三時間あまりもくつろいだ、ヴァラエティに富んだ、活発な談話がつづいた。
友人たちはやっと立ちあがって暇乞いをはじめた。アンナ・セルゲーエヴナは二人をやさしく見つめ、二人に白い美しい手をさしのべ、ちょっと考えてから、ためらうような、しかし気持ちのよい微笑をうかべて、こう言った。
「お二人とも、もし退屈なさってかまわないんでしたら、わたしのニコーリスコエ村の方へいらしてください」
「とんでもない、オジンツォーヴァさん」とアルカージイが大声で言った。「それこそ光栄のいたりで……」
「あなたは、バザーロフさん?」
バザーロフはただおじぎをしただけだった。アルカージイはこれを最後にもう一度びっくりさせられた。彼は自分の友が顔を赤らめたのに気がついたからである。
「どう?」と通りへ出たときアルカージイはバザーロフに言った。「君はやっぱり、あの人が『どうして、どうして』だという意見かね?」
「わかるもんか! どうだい、あの冷ややかなおすましぶりは!」とバザーロフは言い返したが、少しおし黙ってから、こう言いそえた。「公妃《プリンセス》だ、おえら方だ。長い裾をうしろに曳いて、頭に冠をかぶったほうがお似合いだ」
「ロシヤの公妃はロシヤ語があんなに上手じゃないよ」とアルカージイが言った。
「田舎暮らしをされたので、君、われわれのパンの味もご存じさ」
「それにしてもきれいな人だね」とアルカージイが言った。
「じつに豊満な身体だよ!」とバザーロフがつづけた。「今すぐにでも解剖室へ持って行きたいくらいだ」
「たのむから、やめてくれ、エヴゲーニイ!」
「まあ、怒りなさんな、お坊ちゃん。一級品だと言ったのさ。あの人のところへ行かなくちゃなるまいね」
「いつ?」
「明後日にも。この町じゃなにもすることなんてありゃしない! クークシナを相手にシャンペーンでも飲むかい? それとも君の親戚のリベラリストの高官の話でも聞こうってのかい?……明後日おさらばといこうや。ちょうど親父の家もあそこからなら、そんなに遠くない。あのニコーリスコエ村ってのは***街道沿いなんだろう?」
「そうだ」
「Optime(すてきだ)……ぐずぐずすることはない。ぐずぐずするのはばかと利口者だけだ。なにしろ、豊かな身体だからな!」
三日後に二人の友はニコーリスコエ村に向かう街道ぞいに馬車を走らせていた。その日は晴れていたがあまり暑くなく、まるまる肥った駅逓馬は、ねじり編みにされたしっぽをふりたてながら、足なみそろえて走った。アルカージイは街道を見つめながら、なぜともなく微笑していた。
「ぼくを祝ってくれ」と、とつぜんバザーロフが大きな声で言った。「今日は六月二十二日で、ぼくの名の日なのだ。ぼくの守護天使がどうぼくの面倒を見てくれるか、みものだな。今日、うちではぼくの帰るのを待っているだろう」それから声を低めて、彼はこう言いそえた。「なに、待たせておくさ、大したこっちゃない」
十六
オジンツォーヴァの住んでいる地主屋敷はなだらかな、四方の開けた丘の上にあり、あまり遠くないところに黄色な石造りの教会があった。教会は屋根が緑色で、白い円柱が立ちならび、正面の入り口の上には、『イタリア』ふうに『キリストの復活』をあらわした al fresco(壁画)が飾られていた。前面に立ちはだかっている色の浅黒いヘルメット姿の武士は、その円い輪郭によってとりわけ人目をひいた。教会のうしろには村が細長く二列につづいていて、藁屋根の上にところどころ煙突が見え隠れしていた。地主の家は教会と同じ様式に建てられた。わが国でアレクサンドル様式という名で知られているところのものである。建物はやはり黄色いペンキ塗りで、屋根は緑で、円柱は白く、破風《はふ》には紋章がついていた。どちらの建物も県内の建築家が、今は亡きオジンツォーフの同意を得て建てたものである。故人はどんなものにせよ、彼の言うところによると、くだらない気ままな新式にはがまんできなかったのである。家の両側には年経た庭園のこんもりとした木立ちが接しており、刈りこみをしたモミの並み木道が玄関に通じていた。
二人の友人を玄関に迎えたのは、おしきせを着た背の高い二人の下僕であった。一人はすぐに執事を呼びに駆け出した。執事は黒い燕尾服を着た肥った男で、すぐに姿を現わすと客たちを、じゅうたんを敷きつめた階段を通って別室に案内した。そこには化粧道具を備えつけた二つの寝台があった。家のなかはきちんと整理が行きとどいていた。なにもかも清潔で、ちょうど大臣の応接間のように、なにやら品のよい香りがいたるところにただよっていた。
「オジンツォーヴァさまは、三十分後にお目にかかりたいとのことでございます」と執事が取り次いだ。「なにかお申しつけいただくことはございませんでしょうか?」
「申しつけることなどはなにもありませんがね、執事さん」とバザーロフが答えた。「ウォッカを一杯ごちそうしていただけませんか」
「かしこまりました」と執事が、いくぶんけげんそうな面持ちで言い、長靴の音をきしらせながら、立ち去った。
「まったく、グラン・ジャンルだ!」とバザーロフが言った。「たしか君たちはこんなのをそう言うんだっけな? 公妃さまだよ、まったく」
「けっこうな公妃さまだよ」とアルカージイが言い返した。「初めて会ったというのに、君やぼくみたいな有力な貴族主義者を自宅に招待したんだからな」
「わけてもぼくなんかは、医者の卵で、医者のせがれで、下僧の孫とくるからね……君、知ってるんだろう、ぼくが下僧の孫だということを?……」
「スペランスキイ〔ロシヤの政治家〕のようにね」とバザーロフが、しばらく黙っていてから、口もとをゆがめて言いそえた。「それにしてもあの人はわがままだよ。わがままもいいところだ、あの奥さんは! ぼくらも燕尾服でも着てこなくちゃいけないんじゃなかったのかな?」
アルカージイは一方の肩をすぼめてみせただけだった……がしかし、彼も少し戸惑いを感じていた。
半時間後にバザーロフとアルカージイは客間へおりて行った。それはひろびろとした、天井の高い部屋で、豪奢に飾りたててあったが、とくに数奇をこらしたというわけではなかった。どっしりとした高価な家具が、金の唐草模様のある褐色の壁紙をはった壁ぎわに、よくあるような、型どおりの配列でならべてあった。この家具は亡くなったオジンツォーフが、自分の友人でブローカーである酒屋を通じて、モスクワから取りよせたものである。まん中の長椅子の上には、皮膚のたるんだ、薄色の髪をした男の肖像がかかっていたが、それは無愛想に客たちを眺めているように見えた。「きっと亭主《ヽヽ》にちがいないぜ」とバザーロフがアルカージイにささやいて、鼻をしかめて言い足した。「逃げ出そうか?」
だがこのとき女主人が入ってきた。彼女は軽い紗《しゃ》の服を着ていた。耳のうしろにきちんとなでつけた髪は、彼女の清潔でさわやかな顔に、小娘のような表情を与えていた。
「お約束どおりいらしてくださって、ありがとう存じます」と彼女は言いだした。「どうぞゆっくりなすって。ここは、本当に、いい所ですのよ。わたし、あとでみなさんにうちの妹をご紹介しますわ、ピアノが上手ですの、こんなこと、あなたには、バザーロフさん、どうでもいいことですけれど。でもあなたは、キルサーノフさん、音楽がお好きのようですね。うちには妹のほかに、年とった伯母がいますし、それに近所の人が一人、ときおりカルタをしに参ります。わたしたちの仲間はこれで全部です。どうぞおかけになって」
オジンツォーヴァはこの小スピーチ全部を、まるでそらで覚えているかのように、すらすらとやってのけた。それから彼女はアルカージイに話しかけた。その結果、彼女の母はアルカージイの母を知っていたこと、そればかりかアルカージイの母がニコライ・ペトローヴィチと恋愛していたころには、その恋愛の相談相手でさえあったことが判明した。アルカージイは亡くなった母のことを熱心に話し始めた。そのあいだバザーロフはアルバムをめくっていた。『おれもおとなしくなったものだ』と彼は心のなかでひそかに思った。
空色の首輪をした美しいボルゾイ犬が床に爪の音を立てながら客間に入ってき、そのあとから十八くらいの娘が入ってきた。髪の毛は黒く、円顔で、色は浅黒いが気持ちのいい顔立ちをしていて、あまり大きくない黒ずんだ目をしている。彼女は花を一ぱい入れた籠を両手にかかえていた。
「うちのカーチャ〔カテリーナの愛称〕ですの」と頭を動かして彼女をさし、オジンツォーヴァが言った。
カーチャはそっとしゃがんで、姉のそばに陣取り、花をえり分けにかかった。ボルゾイ犬が(名前をフィフィーといった)尾をふりながらそばへやって来て、つぎつぎに二人の客のめいめいの手のなかに自分の冷たい鼻先をつっこんだ。
「これ、みんなあんたが自分でつんだの?」とオジンツォーヴァがきいた。
「ええ」とカーチャが答えた。
「伯母さまはお茶にいらっしゃるかしら?」
「いらっしゃるわ」
カーチャはものを言うとき、はにかんだような、うちとけたような、ひじょうにかわいい微笑をうかべた。そしておかしいほど固い表情で上目づかいに見るのだった。彼女はまだなにもかもあどけなかった。声も、顔のうぶ毛も、バラ色の手も(手のひらには白っぽい丸が模様のようについていた)かすかな怒り肩も……彼女はたえず顔を赤らめ、はあはあ息をついていた。
オジンツォーヴァがバザーロフの方を向いた。
「あなたはお義理でアルバムを見てらっしゃるんでしょう、バザーロフさん」と彼女は言いだした。「あなたにそんなものが面白いはずはありませんわ。それよりもこちらへいらして、なにか議論でもなさったらいいわ」
バザーロフはそばへよった。
「なんの話をいたしましょう?」と彼は言った。
「なんでも、お断りしておきますけれど、議論が大好きですから」
「あなたが?」
「そうよ。びっくりなさったようですね。なぜですの?」
「なぜって、お見うけしたところ、あなたは落ちついた冷静な方のように思われます。でも議論するのには熱中が必要ですからね」
「あら、そんなにはやばやとわたしを見ぬいてしまうことがおできになって? わたしは、まず第一に、せっかちで強情ですの、カーチャにおききになればわかります。第二に、わたしはすぐのぼせあがるほうです」
バザーロフはオジンツォーヴァを見つめた。
「そりゃ、あなたの方がよくご存じかも知れませんね。議論なさろうというんでしたら、始めましょう。ぼくはあなたのアルバムにあるサクソニヤ・スイスの景色を拝見していましたが、あなたはそんなものはぼくに面白いはずがないと言われました。そう言われたのは、ぼくに芸術的理解力がないと思われたからでしょう。いかにもぼくは、事実、そんなものはありません。しかしその景色は地質学的な見地から、たとえば山形の見地からぼくの興味をひいたかも知れないのです」
「失礼ですが、地質学者としてなら、絵よりもむしろ専門書に当たられた方がよろしいでしょう」
「絵はぼくに、本がまる十ページにもわたって記述していることを、一目で見せてくれます」
オジンツォーヴァは黙った。
「ではあなたは、芸術的理解力をただの一滴ほどもお持ちじゃありませんの?」と、テーブルに肘をついて、彼女は小声で言った。そのため彼女の顔はバザーロフの顔に近づいた。「でも、どうして芸術なしですまされるんでしょう?」
「じゃ、おたずねしますが、そんなものはなんの役に立つんです?」
「人間というものを知ったり研究したりするためにだって必要ですわ」
バザーロフはうすら笑いをもらした。
「第一に、そのためには人生の経験というものがありますよ。第二に、申しあげておきますが、個々の人間を研究するなんてむだ骨折りです。人間はみな、身体も心も似かよったものです。われわれにはめいめい脳や、脾臓や、心臓があり、肺は同じような構造をしています。いわゆる精神的素質だってだれでもみな同じです。わずかな変種なぞなんの意味もありません。人間の標本は一つあれば十分なんで、ほかの全部の人間についても判断できるんです。人間だって森の木と同じですよ。植物学者だってシラカバを一本一本研究したりしませんからね」
カーチャはゆっくりと花を一つ一つえり分けていたが、いぶかしげにバザーロフを見あげた――そして、彼のすばやい、無頓着な視線とかち合って、耳のつけ根までまっ赤になった。オジンツォーヴァはかぶりをふった。
「森の木ね」と彼女は相手の言葉をくり返した。「つまり、あなたの考えでは、おろかな人と賢い人、善人と悪人の差別がないってことですの?」
「いいえ、ありますよ。病人と健康な人間のように。結核患者の肺は、ぼくやあなたの肺とはちがった状態にあります、構造は同じでも。われわれには、肉体の病気がなぜおきるか、ほぼわかっています。また精神の病気は、悪い教育だの、子供のときから頭に詰めこまれるあらゆるくだらないことが原因で、要するに、社会のぶざまな状態が原因でおきるんです。社会を直せば、病気もなくなりますよ」
こう言っているあいだじゅうバザーロフは、『ぼくの言うことを信じようと信じまいと、ぼくにとっては同じことだ!』と心のなかで思っているような顔つきをしていた。彼は自分の長い指であごひげをゆっくりとなで回していたが、目はきょろきょろと落ちつかなかった。
「それであなたのお考えでは」とオジンツォーヴァが低い声で言った。「社会が良くなれば、おろかな人も、悪い人もいなくなりますの?」
「すくなくとも、正しい社会体制のもとでは、人はばかだろうが利口だろうが、悪人だろうが善人だろうが、まったく同じことになるでしょう」
「ええ、わかります。だれでも同じ脾臓を持っているというわけですね」
「その通りですとも、奥さま」
オジンツォーヴァがアルカージイに話しかけた。
「あなたのご意見はどうですの、アルカージイさん?」
「バザーロフ君と同じです」と彼は答えた。
カーチャがひたい越しに彼を見た。
「驚きましたわね、みなさんには」とオジンツォーヴァは低い声で言った。「でもあとでまたお話するとしましょう。伯母が今、お茶を飲みにやってきますの。わたしたちあの人の耳をいたわってやらなければなりません」
オジンツォーヴァの伯母であるX……公爵令嬢は、痩せた、小がらな、握りこぶしのような顔をした女で、灰色のかつらの下には、動きのない、意地悪い目があった。彼女は入ってくると客人たちにほとんど会釈もせずに、ビロードの大きな肘かけ椅子に腰をおろした。この椅子には彼女のほかにはだれも坐る権利がなかった。カーチャが彼女の足の下に台を置いてやった。老婆は彼女にお礼も言わなければ、目もくれなかった。ただ、彼女の痩せ衰えた身体をほとんどすっぽりとおおっている黄色いショールの下で、両手をもぞもぞ動かしただけである。公爵令嬢は黄色が好きだった。帽子にも鮮やかな黄色いリボンがついていた。
「よくお休みになれまして、伯母さま?」とオジンツォーヴァが声を高めてきいた。
「またこの犬がきている」と、返事のかわりに老婆は言い、フィフィーがおずおずと相手の顔色をうかがいながら、二歩ばかり彼女の方によってきたのを見ると、大声をあげて言った。「しっ、しっ!」
カーチャがフィフィーを呼んでドアを開けてやった。
フィフィーは散歩に連れ出してもらえるのかと思って、喜んで外へ駆け出したが、自分だけドアの外に取り残されたので、爪でひっかいてキャンキャン鳴き始めた。公爵令嬢は眉をひそめた。カーチャは出て行こうとした……
「お茶の用意ができたかしら?」とオジンツォーヴァが言った。「みなさん、参りましょう。伯母さま、お茶にいらしてください」
公爵令嬢は黙って肘かけ椅子から立ちあがり、まっさきに客間を出た。みんながそのあとから食堂に向かった。おしきせを着たボーイが、クッションをいくつも敷いてあるやはり愛用の肘かけ椅子を、音を立ててテーブルから引き離した。公爵令嬢はそれに腰をおろした。お茶をついでいたカーチャが、まっさきに彼女に、彩色の紋章のついた茶碗をさしあげた。老婆は茶碗に蜜を入れると(彼女の考えでは紅茶に砂糖を入れて飲むのは罰当たりであり、高くつく、というのだった。もっとも自分では一文だってその代金を払ったわけではない)、だしぬけにしゃがれ声でこうきいた。
「イワン公爵はなんて書いてよこしたんだね?」
だれも彼女に答えなかった。バザーロフとアルカージイは、彼女がいんぎんに取り扱われているとはいえ、少しも関心をはらわれていないのだ、とわかった。『もったいを|つけるために《ヽヽヽヽヽヽ》養っているのだ、なんせ公爵家の出だからな』バザーロフはそう思った……お茶のあとでアンナ・セルゲーエヴナは散歩に行こうと言いだしたが、雨がぱらつきだしたので、みんなは、公爵令嬢をのぞいて、客間へ引き返した。カルタの好きなポルフィーリイ・プラトーヌイチという名の隣人がやってきた。そがれたような短い足の、肥った、白髪頭の男で、大そうていねいで、笑い上戸だった。オジンツォーヴァは主にバザーロフを相手に話していたが、ひとつ昔ふうに、プレフェランス〔カルタ遊びの名〕をやってみませんか、と言った。バザーロフは、自分はどうせそのうち田舎医者になるのだから、今からその準備をしておく必要がありますね、と言って、それに同意した。
「ご用心なさい」とオジンツォーヴァが言った。「わたしとポルフィーリイ・プラトーヌイチさんとで、あなたを負かしてしまいますから。あなたは、カーチャ」と彼女は言いそえた。「アルカージイさんになにかひいてあげなさい。こちらは音楽が好きですし、ついでにわたしたちも聞かせてもらいますから」
カーチャはしぶしぶピアノのそばへ行った。アルカージイも、たしかに音楽好きではあったけれど、ふしょうぶしょう彼女のあとにつづいた。彼は、オジンツォーヴァが自分を遠ざけようとしているのだ、と思った。ところが彼の胸のうちでは、この年ごろの青年のご多分にもれず、恋の予感にも似た、なにかそこはかとない、切ない気持ちが早くもわきたっていたのである。カーチャはピアノの蓋をあけると、アルカージイの顔は見ないで、小声で言った。
「なにをひきましょうか?」
「なんでも」とアルカージイは無関心に答えた。
「どんな音楽がお好きですの?」と同じ姿勢のままカーチャがくり返した。
「クラシックです」と同じ調子でアルカージイは答えた。
「モーツァルトお好き?」
「モーツァルトは好きです」
カーチャはモーツァルトのハ短調ソナタ幻想曲を取り出した。すこしきつく、うるおいがなかったが、彼女は大そう上手にひいた。彼女は楽譜から目をそらさず、唇をギュッと結んで、ほとんど身体を動かさず、背中をまっすぐのばして坐っていた。それでも曲が終わり近くなると彼女の顔は燃え立ち、ほつれた髪の毛が黒い眉の上に落ちかかった。
アルカージイはソナタの最後の部分にとくに感動した。のどかな旋律の魅惑的な楽しさのさなかに、沈痛な、ほとんど悲劇的といっていい哀愁の激情が、突如としてほとばしり出るあの部分である……しかしモーツァルトの音楽によってかきたてられた想念は、カーチャに関係することではなかった。彼女の顔を見て彼はただ、『このお嬢さんはピアノが上手だな、それにご本人もきりょうよしだ』と思っただけである。
ソナタが終わるとカーチャは、鍵盤の上に手をのせたまま、「もうけっこうですか?」ときいた。アルカージイは、これ以上あなたをわずらわすのは悪いからと言って、彼女を相手にモーツァルトの話を始めた。このソナタは彼女が自分でえらんだのか、それともだれかにすすめられたのか、と彼はきいた。けれどもカーチャは口数少なく答えるだけだった。彼女は|うちとけなかった《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》、彼女は自分の中にとじこもってしまった。こんなとき彼女はすぐには気を取りなおさなかった。顔にしてからが強情な、ほとんど愚鈍といっていいような表情になるのだった。彼女は臆病というわけではなかったが、疑いぶかく、自分を育ててくれた姉を少し恐れていた。むろん姉の方は、そんなこととは夢にも思っていなかった。結局、アルカージイはもどってきたフィフィーを呼びよせ、|てれかくし《コンテナンス》にお愛想笑いをうかべて、犬の頭をなで始めた。カーチャはまた花に取りかかった。
そのあいだバザーロフは負ける一方だった。オジンツォーヴァのカルタの腕前は見事だったし、ポルフィーリイ・プラトーヌイチも持ちこたえることができた。結局バザーロフは負けた。といってもわずかではあったが、それにしてもやっぱりあんまり愉快ではなかった。夜食のときにオジンツォーヴァはまた植物学の話を始めた。
「明日の朝早く散歩に参りましょう」と彼女はバザーロフに言った。「あなたに、野草のラテン名や特性を教えていただきたいんですの」
「ラテン名なんかきいてどうするんです?」とバザーロフがきいた。
「なにごともきちんとさせておかなくちゃなりませんわ」と彼女は答えた。
「オジンツォーヴァさんてすばらしい人だな」と、二人に当てがわれた部屋に、バザーロフと二人残ったとき、アルカージイが大声で言った。
「うん」とバザーロフが答えた。「頭のいい人だ。それにいろんな経験をつんでいる」
「それどういう意味、バザーロフ君?」
「いい意味、いい意味だよ、君、アルカージイ君! きっとあの人は領地の管理もりっぱにやっていると思うな。しかしすばらしいのは姉じゃなくて、妹の方だ」
「え? あの色の黒いのがかい?」
「そう、色の黒いのだ。あの方が清新で、生娘で、内気で、無口で、まだいくらでも言えるがね。ああいうのを相手にすべきだよ。あの娘ならまだどうでも思うように仕上げることができる。姉の方は――すれっからしさ」
アルカージイはバザーロフになんとも答えなかった。二人はめいめい頭のなかで別のことを考えながら床についた。
オジンツォーヴァはかなり変わった女であった。どんな先入観も持たず、どんな強い信仰も持っていなかったが、彼女はなにものにも屈せず、自分の道を踏みはずすことをしなかった。彼女にはいろんなことがはっきり見えたし、いろんなことに興味を持ったが、なにごとも彼女をすっかり満足させるようなことがなかった。それに彼女自身も完全な満足などを望んでいなかった。彼女の頭は探求好きであると同時に、冷静であった。疑いを持つとけっしてそれを忘れてしまうようなことはなかったが、さりとてその疑いが不安になるほど成長することもなかった。もしも彼女が金持ちでも、独立した身の上でもなかったならば、彼女はたたかいの中に身を投じ、情熱というものを知り得たかもしれない……しかし彼女は、ときどき退屈することがあったとはいえ、安泰に暮らしていたので、急ぐこともなく、たまに心の波立つことがあるだけで、その日その日をすごしていた。時おり彼女の目の前を虹のような色彩がパッと華やかに燃え立つことがあったが、しかし彼女はそれが消えてゆくとき、かえってほっとした気持ちになり、それを惜しいとも思わなかった。彼女の想像が通常の道徳律の許容範囲を超えることもあった。しかしそんなときでも彼女の血は相変わらず、彼女の魅惑的な、すらりとした、おだやかな身体のなかをめぐっているのであった。よくあったことだが、芳香のする湯ぶねから出てくると、全身が温まり、ぐったりして、彼女は人生の無意味なことや、その悲しみや、苦労や、罪悪などについて考えにふけるのだった……彼女の心は急に勇気にみちて、高潔なあこがれにわきたつ。しかしすきま風が、半開きの窓から吹きこむと、オジンツォーヴァは全身を縮めて、小言をいったり、腹を立てたりして、この瞬間に彼女に必要なことはただ一つ、この嫌な風に当たらないことだけであった。
恋することのできなかった女性のつねとして、彼女はなにかを欲していた。しかしそれがなんであるかは自分でもわからなかった。じつは、彼女にはしたいことなどなにもなかったのである。ただなんでもしたいような気がしただけだったのだ。オジンツォーヴァは亡夫をやっとのことでがまんしていたのだったし(彼女は打算から彼のところへお嫁に行ったのだった。とはいえ、彼女が彼を善良な人間と思わなかったならば、彼女は彼の妻となることをおそらく承知しなかったであろう)そのため男性といえばだれにも嫌悪の念をいだくようになったのである。彼女は男性を、不潔な、鈍重な、生気のない、意気地のないくせにしつこいものとしか考えることができなかった。一度、彼女は外国で、若くて美しいスウェーデン人に会ったことがある。騎士のような顔つきをしており、秀でた額の下には清浄な青い目があった。彼は彼女に強い印象を与えたが、しかしそれは彼女がロシヤに帰国することを妨げなかった。
『あの医者は変わった男だわ!』と彼女は、レースのついた枕の上に頭をのせ、豪華なベッドのなかに身を横たえながら、軽い絹のかけぶとんの下で考えた……オジンツォーヴァは父親譲りでぜいたくを好んだ。彼女は欠点はあるけれどもやさしい父親をひじょうに愛していたし、父親は父親で彼女をあがめ、自分と対等に扱ってなごやかな冗談を言い、彼女をすっかり信用し、彼女に相談を持ちかけた。母親のことはほとんど覚えていなかった。
『あの医者は変わっている!』と彼女は心のなかでくり返した。彼女はのびをして、微笑し、両手を頭の下に当てがい、それからくだらないフランスの小説に二ページばかり目を走らせたと思ったら、本が手からぬけ落ちて――そのまま寝入ってしまった、全身清らかに、冷たいまんまで、清らかな、香しい肌着に身をつつんだまま。
翌朝オジンツォーヴァは朝食をすませるとすぐに、バザーロフと一しょに植物採集に出かけ、ちょうど昼飯前に帰ってきた。アルカージイはどこへも行かないで、一時間ばかりカーチャと一しょにすごした。彼はカーチャといて退屈しなかったし、彼女の方から昨日のソナタをまたひきましょうかと言いだした。けれどもやっとオジンツォーヴァが帰ってきたとき、その姿を見ると――彼はたちまち胸がしめつけられるような気がした……彼女は少し疲れたような足どりで庭を歩いてきた。頬はまっ赤になり、目は円い麦藁帽子の下でいつもより明るく輝いていた。彼女は指先で野花の細い茎を回していた。軽いマンチリヤは肘の上までずり落ちて、帽子の幅広い鼠色のリボンが胸にひっついていた。バザーロフがそのあとから、例によって自信にみちたむぞうさな足取りで、歩いてくる。けれども彼の顔の表情は陽気で、愛想よくさえあった。それがアルカージイには気に入らなかった。「今日は!」と吐き出すように言うと、バザーロフは自分の部屋に向かった。オジンツォーヴァはうわのそらでアルカージイの手を握ると、これまた彼のそばを通りすぎて行った。
『「今日は」だって……』とアルカージイは思った……
『今日《きょう》はじめて会ったとでもいうのかい?』
十七
時間は(わかりきったことだが)ときとして鳥の飛ぶように速くすぎ去り、ときとして虫の這うようにゆっくりとすぎ去る。しかし人間にとって幸福なのは、時間のたつのが速いのか、おそいのか、それさえ気づかないようなときである。アルカージイとバザーロフはちょうどそのように、十五日ほどオジンツォーヴァの家ですごした。それは一部分、彼女が家のなかや生活のなかにうちたてていた規律のせいでもある。彼女はその規律を厳重に守り、ほかの者もそれに従わせた。
一日じゅう、なにごとも一定の時刻におこなわれた。朝は八時になるとみんながお茶に集まった。お茶からお昼まではめいめいがしたいことをし、女主人自身は管理人(領地は年貢制にしていた)や執事や女中頭に指し図を与えた。夕食の前にはまたみんなが集まって話をしたり、読書をしたりした。晩は散歩や、カルタや、音楽についやされた。十時半にオジンツォーヴァは自室に引き取り、翌日の指し図を与えて、就寝する。
バザーロフは毎日のこうした、計画どおりのものものしい規則正しさが気にくわなかった。『レールの上を走っているようだ』と彼は言った。おしきせを着た下僕や、とりすました執事が彼の民主的な感情を傷つけた。どうせこんなふうにやるんだったら、いっそのこと食事のときでもイギリス風に、燕尾服を着て、白いネクタイをつけた方がいい、と彼は思った。あるとき彼はそのことで、オジンツォーヴァと話し合ったことがある。彼女はだれでもためらわずに自分の前で意見がのべられるようにしていたのである。彼女は彼の話を聞き終わるとこう言った。
「あなたのような物の見方をするなら、お説のとおりです。この場合、わたしは貴婦人ぶっているのかも知れません。でも田舎ではだらしのない生活をするわけにはいきません、退屈に負けてしまいます」そして彼女はこれまでのやり方を変えなかった。バザーロフは不平を言ったが、彼やアルカージイがオジンツォーヴァの家で暮らしよかったのは、家じゅうのすべてが、『レールの上を走っているよう』だったからである。
それにもかかわらず二人の青年には、ニコーリスコエ村に滞在の最初のころから、早くも変化が見られるようになった。オジンツォーヴァはあきらかにバザーロフに好意をよせていたが(もっとも二人の意見はめったに一致しなかった)そのバザーロフが、これまでなかったようにそわそわ落ちつかなくなったのである。彼はいらだちやすくなり、口をきくのも面倒くさそうで、怒ったような顔をしてじろじろ眺め、一つところにじっと坐っていることができなかった。まるで、いても立ってもいられないみたいだった。またアルカージイは、自分はオジンツォーヴァに恋しているものと、勝手に決めてしまい、ひそかに憂いに沈みはじめた。とはいえこの憂いは彼がカーチャと親しくすることを妨げなかった。かえって彼女となごやかな友だちづきあいに入ることを助けたくらいである。『あの人はぼくの価値をまるで認めてくれない! かまうんもんか!……ところがこのやさしい人はぼくをはねつけるようなことはしない』と彼は思った。すると彼の心はまた寛大な気持ちの甘さを味わうのだった。カーチャは漠然と、アルカージイが自分との交際のなかになにかなぐさめを求めていることを理解し、相手にも自分にも、なかば恥じらいをふくんだ、なかばうちとけた友情の満足感を与えることを拒まなかった。オジンツォーヴァの前では二人は話し合わなかった。カーチャは姉の目ざとい視線にさらされるとちぢこまっていたし、アルカージイは恋する者のつねとして、自分の対象がそばにいると、ほかのものには注意を向けることができなかった。そのくせ、カーチャといる方が彼は楽しかった。彼は、自分にはオジンツォーヴァをひきつける力がないということを感じていた。彼女と二人だけで残されたときには、彼はおじ気づいて、どぎまぎしてしまった。彼女も彼になんと言っていいやらわからなかった。彼女にとって彼はあんまり若すぎたからである。反対に、アルカージイは、カーチャと一しょにいるとまったく気楽であった。彼は彼女を寛大に扱い、彼女が音楽や、小説や、詩や、またそのほかのつまらないことによって呼びおこされた印象を語ることを妨げなかった。彼は、そんな|つまらないこと《ヽヽヽヽヽヽヽ》に自分も興味を持っている、ということに、自分では気がついていないか、あるいは意識していなかった。
アルカージイはカーチャといる方が、またオジンツォーヴァはバザーロフといる方が楽しかったので、大ていつぎのようになるのだった。二組みの男女が一しょにいるのはしばらくのあいだで、やがてめいめいの組みにわかれるのである。とくに散歩のときはそうだった。カーチャは自然を熱愛したし、アルカージイも、自分では認めようとしなかったが、自然が好きであった。オジンツォーヴァはバザーロフと同じように、自然に対してはかなり冷淡だった。友人がほとんどいつも離れているということは、なんらかの結果を残さずにはおかなかった。二人の関係は変わりだした。バザーロフはアルカージイにオジンツォーヴァの話をしなくなったし、彼女の『貴族主義的因習』をののしることさえやめた。なるほど、彼は以前のようにカーチャをほめて、ただ、彼女にあるセンチメンタルな傾向だけは抑制した方がよいと助言はしたが、その賛辞はいかにも性急であり、助言はそっけなかった。彼はアルカージイと話をすることが前よりはるかに少なくなった……彼はまるでアルカージイをさけているようであり、彼に遠慮しているようであった……
アルカージイはそうしたことにはなにもかも気づいていたが、そのまま腹にしまっておいた。
この『新現象』全体の本当の要因は、オジンツォーヴァがバザーロフに焚《た》きつけた感情であった。その感情が彼を苦しめ、狂わせたのだ。もしもだれかが遠回しになりと、今彼の心のなかにはこんなことがおきているのではないか、などと言ったならば、彼はすぐさま嘲るように哄笑し、無遠慮にののしって、そんなことがあるものか、と否定したにちがいない。バザーロフは女性や女性美の大の愛好家であったが、しかし理想的な、つまり彼の言い方によればロマンチックな意味での恋となると、彼はナンセンスと呼び、ゆるしがたいくだらぬことと称したのであった。騎士的な感情は奇形か病気のようなものとみなして、なぜトッゲンブルグ〔シラーの同名のバラードの主人公〕を中世ドイツの恋愛詩人や中世南仏の遍歴詩人と一しょに精神病院に入れてしまわなかったのか、と再三再四ほざいたものである。「女が気に入ったら」と彼は言うのだった。「要領を得るように努めるんだな。だめなら手を引くさ。人間いたるところ青山ありだ」
彼はオジンツォーヴァが気に入った。世間にひろまっている彼女の噂、彼女の物の考え方の自由さと自主性、彼女が彼に対して疑いもなく好意をよせていること――こういったことはみんな、彼に有利であるように思われた。しかし彼はすぐに彼女を相手には『要領を得られない』ことがわかったし、彼女から手を引くことなど、驚いたことには、できなかったのだ。彼女のことを思いだすが早いか、彼の血は燃え立った。彼は容易に自分の血をおさえることができたはずだが、なにか別のものが彼のなかに巣くってしまったのだ。それは彼としてはどうしてもゆるせないものであり、いつも嘲笑の対象にしてきたものであり、彼の誇りをすっかり傷つけてしまうようなものであった。オジンツォーヴァとの話の中で彼は以前にもまして、あらゆるロマンチックなものに対する自分の冷淡な軽蔑を示した。だが一人きりになると、彼は自分自身のなかにロマンチストを見いだして、憤りを感じるのだった。そんなとき彼は森へ出かけて、出会いがしらに枝を折り、小声で彼女と自分をののしりながら、森のなかを大またで歩き回るのだった。あるいは干し草置き場や物置きに入りこんで、かたくなに目をとじ、無理に眠ろうとしたが、むろん、いつもうまくゆくとは限らなかった。彼はふとこんなことを想像する。あの貞淑な腕がいつか自分の首にまつわりつく、あの高慢な唇が彼のキスにこたえる。あの利口そうな目がやさしく――そうだ、やさしく彼の目を見つめてくれる。とたんに彼は頭がぐらぐらっとなって、一瞬間、われを忘れてしまう。だが、やがてふたたび心のなかに怒りがこみあげてくる。まるで悪魔にからかわれているかのように、彼はありとあらゆる類いの『恥ずべき』妄想にふけっている自分の姿に気づく。ときどき彼は、オジンツォーヴァにも変化がおきているように、彼女の顔の表情になにか特別なものが現われたように思う。もしかしたら、あれは……しかしここで彼は大てい足踏みをするか歯ぎしりをして、げんこで自分を脅かすのだった。
とはいえバザーロフがまんざらちがっているわけでもなかった。彼はオジンツォーヴァの想像を刺激した。彼は彼女の心をひき、彼女はいろいろと彼のことを考えた。彼がいると彼女は退屈しなかったし、彼の来るのを待っていたわけではないけれども、彼が現われるとすぐに、彼女は生き生きとなるのだった。彼女は喜んで彼と二人でいたし、喜んで彼を相手に話をした。バザーロフが彼女を怒らせたり、彼女の好みや優美な習慣をけなしたりするようなときでさえ、彼女は彼をためしてみたくもあれば、相手の意見を聞いて自分を知りたくもあるみたいだった。
ある日彼は彼女と庭を散歩しながら、とつぜん、自分はじき田舎の父親のもとに帰るつもりだ、と沈んだ声で言った……彼女はまるで心臓をぐさりと突きさされたかのように蒼ざめた。それもひどく驚いて、それから長いあいだ、これはどういうことなのかしら、とあれやこれや思いめぐらしたほど、ひどく胸にこたえたのだった。バザーロフが自分の出発のことを彼女に話したのは、彼女をためそうと思って、どうなるか見ようと思ってしたことではなかった。彼はけっして『小細工』をしなかった。その朝彼は父親の番頭をしている(彼のもとのじいや)チモフェーイチと会ったのである。チモフェーイチは、少々くたびれてはいるが、すばしこい老人で、色あせた黄色い髪の毛をしており、風雪にたえた赤ら顔をし、しなびた目に小粒の涙をためていた。それが不意にバザーロフの前に現われたのだ。彼は厚地の青みがかった鼠色のラシャでつくった短めの外套をきて、バンドがわりに革帯のきれっぱしをしめ、タールを塗った長靴をはいていた。
「やあ、じいさんかい、今日は!」とバザーロフが大声で言った。
「今日は、エヴゲーニイさま」と老人は口をきいて、嬉しそうに微笑した。そのため顔じゅうがしわだらけになった。
「なんの用で来たんだね? おれを迎えによこされたのかい?」
「とんでもない、若旦那、そんなことはございません!」とチモフェーイチがまわらない舌で言った(彼は出発のときに大旦那から言い渡された厳命を思い出した)「旦那さまのご用件で町へ行きましたら、若旦那の噂を耳にしたもんで、通りすがりによってみました。つまり――若旦那のお顔が見たくなりまして……そうでもなかったらお邪魔いたしません!」
「おい、嘘をつけ」とバザーロフがさえぎった。「町へ行く街道がここを通っているもんかい?」
チモフェーイチはもじもじしてなんとも答えなかった。
「おやじさんは達者かい?」
「おかげさまで」
「おふくろは?」
「おかげさまで奥さまもお達者で」
「おれの帰るのを待っているんだろうな?」
老人は小さな首を横にかしげた。
「ああ、バザーロフさま、どうしてお待ちにならずにいられましょう! 罰当たりなこってす、お二人のごようすを見ていると、胸がふさがる思いです」
「なに、いいよ、いいよ! 大げさに言わなくてもいいさ。じき帰るから、と言っておくれ」
「かしこまりました」とため息をしながらチモフェーイチは答えた。
家の外へ出ると、彼は両手で帽子をまぶかにかぶり、門の脇にとめてあったみすぼらしい競走用馬車によじ登ると、小刻みな|だく《ヽヽ》でよたよたと馬を走らせた。ただし行き先は町の方角ではなかった。
その晩にオジンツォーヴァは自分の居間にバザーロフと一しょにいた。アルカージイは広間を行ったり来たりしながらカーチャのピアノを聞いていた。公爵令嬢は二階の自室に引きさがった。彼女は一般にお客にがまんできなかった。この二人のような、彼女の言い方によれば『向こう見ずな連中』ときてはなおさらだった。人前では彼女はただ腹を立てるだけだったが、そのかわり自分の部屋へもどってくると、小間使いの前で、時おりひどい罵詈雑言《ばりぞうごん》をぶちまけ、そのため頭にかぶっている室内帽が縁飾りごと跳びはねる始末だった。オジンツォーヴァはこうしたことをすっかり知っていた。
「どうしてお発《た》ちになりますの?」と彼女は言いだした。「お約束はどうなさるおつもり?」
バザーロフはぶるっと身ぶるいした。
「約束と申しますと?」
「お忘れになった? 化学を教えてくださるとおっしゃったわ」
「しかたがありません! 父はぼくを待っているんです。もうこれ以上ぐずぐずしているわけにはいきません。そうですね。Pelouse et Fremy(ペルーズとフレミ)の『Notions generales de Chimie(化学の一般的基礎)』をお読みになったらいいでしょう。いい本で、わかりやすく書いてあります。必要なことはみな、この本にでていますよ」
「でも覚えてらっしゃる? あなたはわたしに言われましたね、本はかわりにはならないって……あなたがどんな言い方をしたかは忘れてしまいましたけれど、おわかりでしょう、わたしの言いたいことが……覚えてらっしゃる?」
「しかたがありません!」とバザーロフはくり返した。
「なぜお発ちになりますの?」と声を低めて、オジンツォーヴァは言った。
彼は彼女の方を見た。彼女は椅子の背に頭をもたせ、肘までむき出しになっている両腕を胸の上に組んだ。網模様に切りぬいた紙の笠をかけた、一つきりのランプの光に照らされて、彼女はいつもより蒼白く見えた。ゆったりとした白い服が彼女の身体全体をやわらかなひだで包んでいた。やはり組んである両足の先がわずかに見えていた。
「なぜ残るんですか?」とバザーロフが反問した。
オジンツォーヴァは心もち首の向きを変えた。
「なぜですって? あなたはうちがつまらないんですの? それともだれもあなたを名残り惜しいと思わないとお考えですの?」
「ぼくはそう確信しています」
オジンツォーヴァはしばらく黙っていた。
「あなたがそうお考えになるのはいわれのないことです。もっとも、わたしはお言葉を信じませんけど。本気でそうおっしゃるはずはありませんもの」バザーロフは身動きもしないでずっと坐っていた。「バザーロフさん、どうして黙ってらっしゃるの?」
「でも、あなたになにを言うことがありましょう? 一般に人間のことなど悲しく思うにあたりませんし、ぼくのことならなおさらです」
「そりゃまたどうして?」
「ぼくは実際的な、いっこうに面白味のない人間です。うまく話すことができません」
「あなたはやさしい言葉をかけてもらいたいんですのね、バザーロフさん」
「ぼくはそんなことに慣れていません。あなたは先刻ご存じじゃありませんか? 生活の美的な面、あなたが大そう大切に思ってらっしゃる面は、ぼくには無縁だということを」
オジンツォーヴァはハンカチのすみをかんだ。
「あなたがどうお考えになろうと自由ですけれど、あなたが行ってしまったら、わたしさびしくなるわ」
「アルカージイ君が残りますよ」とバザーロフが言った。
オジンツォーヴァはそっと一方の肩をすぼめた。
「わたしさびしくなるわ」と彼女はくり返した。
「本当ですか? どっちみち、そんなにいつまでも退屈するようなことはありませんよ」
「どうしてそうお思いになりますの?」
「なぜって、あなたがいつかご自分でぼくに言ったでしょう、退屈するのはあなたの規律が破られるときだけだって。あなたは非の打ちどころのないほど、じつに規則正しい生活をしてらっしゃるから、生活のなかに退屈や、憂いや、重苦しい感情の入りこむ余地はあり得ないのです……」
「するとあなたは、わたしは非の打ちどころがない、つまり大そう規則正しい生活をしている、とお考えですの?」
「むろんですとも! たとえばですね、あとなん分かしたら十時を打ちます。するとぼくにはもう、あなたがぼくを追い出すってことがわかってるんです」
「いいえ、追い出しませんよ、バザーロフさん。残っていてかまいませんわ。この窓をあけてください……なんだか息苦しいわ」
バザーロフは立ちあがって窓をついた。窓は音をたてていきなり大きく開いた……彼は窓がこんなにやすやすと開くとは思っていなかった。そのとき彼の両腕はふるえていた。暗い、なごやかな夜が、ほとんどまっ黒な空を見せて室内をのぞきこんだ。木々はかすかにそよいでいた。よどみのないきれいな空気のさわやかな香りがただよってきた。
「カーテンをおろして、おかけになって」とオジンツォーヴァが言った。「お発ちの前に少しお話がしたいのです。ご自分のことをなにか話して聞かせてください、あなたはご自分のことはけっしてお話しになりませんのね」
「ぼくはあなたと、有益なお話をするように努めているのですよ、オジンツォーヴァさん」
「あなたはずいぶん慎みぶかいんですね……でも、わたしは、あなたのことを知りたいんです、あなたのご家族のことだの、お父さまのことだのを。あなたはお父さまのためにわたしたちを捨てて行ってしまうんだわ」
『なんだってこの人はこんなことを言うんだろう?』とバザーロフは思った。
「そんなことはちっとも面白くなんかありませんよ」と彼は声に出して言った。「とくにあなたにとっては。ぼくらは卑しい人間ですから……」
「でわたしは貴族主義者ってわけね?」
バザーロフは目をあげてオジンツォーヴァを見た。
「そうです」と彼はわざとつっけんどんに言った。
彼女は苦笑した。
「どうやらあなたはわたしをよくご存じないようだわ。人はみな似たりよったりで、一人々々研究するにはあたらないってあなたはおっしゃるけれど。いつかあなたにわたしの身の上話をお聞かせしましょう……でもその前にご自分の身の上話をわたしに聞かせてください」
「ぼくはあなたをよく知らない」とバザーロフはおうむ返しに言って、「おっしゃる通りかも知れません。まったく、もしかしたら人間はみな謎なのかも知れません。たとえばあなたにしてもそうです。あなたは交際をさけてらっしゃる、おっくうがってらっしゃる――それなのに学生を二人も呼んで泊めてやっている。なぜあなたは、それだけの頭脳、それだけのきりょうをお持ちなのに、田舎住まいをしてらっしゃるんです?」
「え? なんておっしゃいました?」とすかさずオジンツォーヴァが言った。「わたしの……きりょうですって?」
バザーロフは眉をしかめた。
「それはどうだっていいことですよ」と彼はつぶやいた。
「ぼくが言いたかったのは、なぜあなたが田舎に住んでいるのか、よくわからない、ということです」
「あなたはそれがわからない……でもご自分ではなにか説明がついていらっしゃるんでしょう?」
「ええ……ぼくはこう思いますね、あなたがいつも一つ所にいるのは、自分を甘やかしてしまったからで、それがまたどうしてかと言えば、あなたは安楽や、生活の便宜が大好きで、ほかのことにはいっさい無頓着だからなんです」
オジンツォーヴァがまたもや苦笑した。
「あなたは頭っから信じようとしないんですのね、わたしだって夢中になることがあるということを?」
バザーロフは上目づかいに彼女を見た。
「好奇心というやつですよ――おそらく。それ以外ではありません」
「本当? あら、それでわかったわ、なぜわたしたちが意気投合したか。あなたもわたしと同じような人間なんだわ」
「意気投合したとね……」バザーロフがうつろな声で言った。
「そうそう!……すっかり忘れていたわ、あなたはお帰りになるんでしたわね」
バザーロフは立ちあがった。小暗い、芳香を発する、さびしい部屋の中で、ランプがぼんやりともっていた。時たまゆれるカーテンを通して、人の気持ちをいらだたせる夜の冷気が流れこみ、夜の神秘なささやきが聞こえた。オジンツォーヴァは手も足も動かさなかったが、少しずつ興奮した気持ちになっていった……その興奮がバザーロフにも伝わった。彼は急に、自分が若い美しい女と二人きりでいることを感じた……
「どこへいらっしゃるの?」と彼女はゆっくりと言った。
彼はなんとも答えないで椅子に腰をおろした。
「するとあなたはわたしのことを、落ちつきはらった、甘やかされた、わがままな女と思ってらっしゃるのね」と彼女は同じ声で、窓から目をそらさずにつづけた。「でもわたしは、自分のことはよく知っています。わたしは大そう不幸な女なのです」
「あなたが不幸ですって! どうしてですか? あなたはくだらない陰口なんかを気になさるんですか?」
オジンツォーヴァは眉をひそめた。彼女はバザーロフが自分の言葉をそのように取ったのがちょっと癇《かん》にさわった。
「わたしはあんな陰口なんかを笑う気にもなれませんよ、バザーロフさん。それにあんな陰口を気にするなんて、わたしのプライドが許しません。わたしが不幸なのはなぜかというと……わたしには希望が、生きる欲望がないからなのです。あなたは疑わしそうにわたしを見ていますね。あなたは、レースの服に身を包み、ビロード張りの肘かけ椅子に腰かけている『貴族主義者』があんなことを言っている、と思ってらっしゃるんでしょう。わたしは隠しだていたしません。わたしはあなたが『安楽』と呼んでいるものが好きですけれど、同時にそんなに生きたいとも思っていません。この矛盾を調和させていただきたいもんですわ。もっともあなたに言わせたら、こんなことはみんなロマンチシズムですわね」
バザーロフは首をふった。
「あなたは健康で、気がねのいらないご身分で、お金持ちです。その上なにがいるというんです? なにをお望みなんですか?」
「わたしがなにを望んでいるかですって?」とオジンツォーヴァはおうむ返しに言って、ため息をついた。「わたしはひどく疲れて、年をとってしまいました。ずいぶん長く生きてきたような気がします。そう、わたしは年をとりました」と彼女は言いそえて、自分のむき出しになった腕の上に、そっとマンチリヤのすそを引っぱった。彼女の目がバザーロフの目とかち合って、彼女はかすかに頬を染めた。
「わたしのうしろにはいろいろな思い出が一ぱいあります。ペテルブルクの生活、金持ち、それから貧乏、それから父の死、結婚、それからお定まりの外国旅行……思い出はたくさんあるのに、思いだしたいことはなにもありません、そして行く手には――長い道があるのに、目的がないのです……歩いて行く気がしませんの」
「あなたはそんなに幻滅を感じていられるんですか?」バザーロフがきいた。
「いいえ」とオジンツォーヴァがゆっくりと言った。「でも満足していません。もしもなにか、強く心をひかれるものがあったら……」
「あなたは恋がしたいのですよ」とバザーロフが言葉をさえぎった。「ところがあなたは恋ができない。そこにあなたの不幸があるのです」
オジンツォーヴァはマンチリヤの袖を見はじめた。
「わたしに恋ができないんですって?」
「おそらく! ただぼくがそれを不幸といったのは当たりませんね。反対に、そんなことになった人こそ、同情されるべきです」
「どんなことになった人ですって?」
「恋するようになった人です」
「どうしてあなたにそれがわかりますの?」
「話のもようでです」とバザーロフは怒ったように答えた。
『よくもぬけぬけと』と彼は思った。『することがないもんだから、退屈してて、人をからかっているが、おれは……』彼は本当に胸がはり裂けそうだった。
「その上あなたは、選り好みしすぎるのかもしれません」と彼は、身体を前に乗り出して、肘かけ椅子の房をいじりながら小声で言った。
「そうかもしれません。すべてか、無か、というのがわたしの考え方なのです。命と命のひきかえなのです。わたしの命を取ったからには、自分の命もくれる、そうなったらもう、悔やむこともないし、取り返しもきかない。でなかったら、ない方がましです」
「それでいいじゃありませんか?」とバザーロフが言った。「それは公平な条件ですから。それにしてもふしぎですね、どうしてあなたがこれまで……お望みのものに会われなかったのか」
「なにごとにまれ、すっかり身を入れることがそんなに生やさしいことだと思います?」
「いろいろと思案したり、向こうからくるのを待っていたり、自分で自分に値段をつける、つまり自分を高く売りつけようとしたりする人なら、生やさしいことじゃないでしょう。考えないで身を入れるなら、しごくやさしいことです」
「自分を高く売りつけないでいられるでしょうか? もしわたしになんの値打ちもないのなら、わたしが一身をささげることを必要とする人なんかいないでしょう」
「それはこっちの知ったこっちゃありません。値打ちを決めるのは、他人のやることですよ。大事なのは身を入れることです」
オジンツォーヴァは肘かけ椅子の背から身体を離した。
「あなたはまるで」と彼女は言いだした。「なにもかも経験ずみのような言い方をなさるのね」
「お話をうかがっているうちに、言いたくなったんですよ、オジンツォーヴァさん。こういったことはすべて、ご承知のように、ぼくの領分じゃありませんからね」
「でもあなたは身を投げ出すことがおできになれて?」
「わかりません、自慢なんかしたくありませんから」
オジンツォーヴァはなにも言わず、バザーロフも口をつぐんだ。ピアノの音が客間から二人のところまで聞こえてきた。
「どうしてカーチャはこんなにおそくまでひいているのかしら?」オジンツォーヴァが言った。
バザーロフは立ちあがった。
「ええ、本当にもうおそいですね。お休みになる時刻です」
「お待ちになって、よろしいじゃありません……一言あなたに申しあげなくちゃ」
「どんなことでしょう?」
「お待ちになって」とオジンツォーヴァがささやくように言った。
彼女の目がバザーロフを見つめた。彼女は注意ぶかく彼を見ているようだった。
彼は部屋の中を歩き回った。それからいきなり彼女のそばによると、あわただしく「さようなら」と言って、彼女がもう少しで悲鳴をあげそうになったほど、ぎゅーうっと固く彼女の手を握りしめて、部屋を出て行った。彼女はくっついてしまった指を唇に持ってゆき、息を吹きかけると、とつぜん、はじかれたように肘かけ椅子から立ちあがり、足早に戸口の方へ歩きだした、バザーロフを呼びもどそうとするかのように……と、小間使いが銀の盆にガラスびんをのせて部屋のなかに入ってきた。オジンツォーヴァは立ちどまり、出て行くように命じて、ふたたび腰をおろし、ふたたび物思いに沈んだ。編んだ髪がほどけて、黒い蛇のように彼女の肩に垂れさがった。ランプがいつまでもオジンツォーヴァの部屋にともっていたし、彼女は長いあいだじっと身動きもせずに坐っていた。ただ時たま、夜の冷気にさらされた腕を、そっと指でさすっていた。
バザーロフは二時間たってから、長靴を夜露でぬらし、髪をふり乱し、気むずかしい顔をして寝室へもどってきた。アルカージイは本を手にし、フロックコートのボタンを上まできちんとかけて、机に向かって坐っていた。
「まだ起きていたのかい?」とまるでいまいましそうに彼は言った。
「ずいぶん長いことオジンツォーヴァさんと話しこんでいたじゃないか」と、その問いには答えないで、アルカージイが低い声で言った。
「うん、君がカテリーナさんとピアノをひいているあいだじゅう、ぼくはあの人の部屋にいたよ」
「ぼくはひかなかったよ……」とアルカージイは言いかけたが、途中で口をつぐんだ。彼は目に涙がうかんでくるのを感じたが、嘲笑好きな友人の前では泣きたくなかったのである。
十八
翌日、オジンツォーヴァがお茶に現われたとき、バザーロフは長いこと自分の茶碗の上にかがみこんでいたが、急に顔をあげて彼女を見た……彼女はまるで彼に突かれたみたいに彼の方をふり向いた。バザーロフは、彼女の顔が一晩のうちに心持ち蒼ざめたような気がした。彼女はじき自分の部屋に引きさがり、昼食のときにやっと姿を見せた。朝から雨降りのお天気で、散歩には出られなかった。みんなは客間に集まった。アルカージイは新刊の雑誌を取り出して読み始めた。例によって公爵令嬢は、無作法なことを思いついたもんだとばかりに、まず顔に驚きの色をうかべ、それから憎々しげに彼をねめつけたが、アルカージイはてんで気にもとめなかった。
「バザーロフさん」とオジンツォーヴァが言った。「わたしの部屋に参りましょう……おききしたいことがあります……昨日あなたの教えてくださった参考書のことで……」
彼女は立ち上がって戸口に向かった。公爵令嬢はまるで『ごらんよ、ごらんよ、呆れたもんだね!』と言わんばかりの表情をうかべて、あたりを見まわし、ふたたびアルカージイに目をすえたが、アルカージイは声を高め、そばに坐っているカーチャと目を見交わして、なおも読みつづけた。
オジンツォーヴァは足早に自分の居間に向かった。バザーロフも急いでそのあとを追った。彼は目をあげずに歩いて行った。自分の前をすべるように進んで行く絹の洋服の、サラサラというかすかな衣ずれの音だけが耳に聞こえた。オジンツォーヴァは前の晩と同じ肘かけ椅子に腰をおろし、バザーロフも昨日と同じ席を占めた。
「それで、その本の名はなんというんでしたかしら?」
「Pelouse et Fremyの『Notions generales』……」とバザーロフは答えた。「しかし Ganot《ガノー》 の『Traite elementaire de physique experimentale(実験物理学初歩)』もおすすめできますね。この方が図版がはっきりしていますし、概してこの教科書は……」
オジンツォーヴァは片手をさしのべた。
「バザーロフさん、申しわけありませんが、あなたをお呼びしたのは、教科書の話をするためではありませんの。昨日の話のつづきをしたいと思ったのです。あなたはあんなに急に出て行ってしまわれるし……こんな話、退屈じゃありません?」
「どうぞ、オジンツォーヴァさん。でも、昨日のぼくたちの話って、なんのことでしたっけ?」
オジンツォーヴァはバザーロフを横目で見た。
「幸福の話をしましたわ。わたし、あなたに自分のことを申しあげました。ちょうどそのときに『幸福』という言葉を使いました。でもねえ、どうしてでしょう? たとえばわたしたちが音楽だの、楽しい夕べだの、気の合った人たちとの会話だのを楽しんでいるときでさえも、そうしたことがみんな、実際の幸福、つまり現実にわたしたちの持っている幸福なのだ、などと思わないで、むしろ、なにか並み外れた、どこかに存在しているもっと大きな幸福を暗示するものにすぎないような気がするのはなぜでしょう? それともあなたは、ぜんぜんそんなことはお感じになりませんか?」
「あなたは『他人の花は紅い』という諺をご存じでしょう」とバザーロフは言い返した。「それにあなたは、昨日ご自分で、満足していない、とおっしゃったじゃありませんか。ぼくの頭にはそんな考えなんかうかんできませんね」
「あなたにはおかしく思われるかも知れませんわね?」
「いいえ、しかしそんな考えはぼくの頭にはうかんできません」
「本当ですの? ねえ、バザーロフさん、わたし、|あなた《ヽヽヽ》がなにを考えてらっしゃるのか、知りたくてなりませんの」
「え? おっしゃることがわかりませんが」
「こういうことです。わたしは先《せん》からあなたと話し合ってみたいと思っていました。あなたにとって言わずもがなのことで――あなたはご自分でよくご承知のことですけれど――あなたは平凡な人間ではありません。あなたはまだお若い――あなたの人生はこれからです。あなたはなにになるおつもりですの? どんな将来があなたを待っているのでしょう? わたしの言いたいのは――どんな目標にあなたは達しようとしておられるのか、どこを目ざして進んでいるのか、胸になにを考えておいでなのか、ということです。要するに、あなたはどんな人間なのか、なに者なのか、ということですわ」
「驚きましたね、オジンツォーヴァさん。ぼくが自然科学をやっているということは先刻ご承知ですし、またぼくがなに者かということは……」
「そう、あなたはなに者なんです?」
「なんども申しあげたように、将来の田舎医者ですよ」
オジンツォーヴァはじれったそうな身ぶりをした。
「なぜそんなことをおっしゃるの? ご自分でもそんなことは思っていないくせに。アルカージイさんならともかく、あなたがそんな答えをなさるなんてことがあるもんですか」
「なんでアルカージイ君が……」
「おやめになって! あなたがそんな地味な仕事に満足するはずはありません。それにご自分でいつも、自分にとって医学なんて存在しない、と断言なさってるじゃありませんか。あなたが、自尊心の強いあなたが、田舎医者だなんて! あなたがそんなお返事をなさるのは、わたしから離れようと思ってのことなんですわ。なぜってあなたはわたしのことをちっとも信用しておられないから。でもねえ、バザーロフさん、わたしだってあなたを理解できるかも知れないんですよ。あなたのように貧乏で、自尊心が強かったんですから。わたしも、おそらくあなたのような、苦しい経験をしてきていると思うのです」
「それは大そうけっこうなことです、オジンツォーヴァさん。でも失礼ながら……ぼくは大体自分の考えを上手に述べることに慣れていませんし、あなたとぼくのあいだにはへだたりが……」
「どんなへだたりですの? あなたはまた、わたしが貴族主義者だ、と言うんでしょう? もうたくさんよ、バザーロフさん。どうやら、これであなたに証明したようね……」
「そのほかにもですね」とバザーロフがさえぎった。「大部分がわれわれの思い通りにならない将来のことなんか話しても始まらないでしょう? なにかする機会がくれば――けっこうですが、こなくたって、すくなくとも――あらかじめ余計なおしゃべりをしなかったことで、心をなぐさめられますからね」
「親しい人間同士の話を、あなたはおしゃべりだとおっしゃる……それとも、あなたは、わたしが女だから、信頼するにたりないと思ってらっしゃるのかも知れませんわね? なにしろあなたは、わたしたち女をみんな軽蔑してるんですから」
「あなたを軽蔑してなんかいませんよ、オジンツォーヴァさん。ご存じのように」
「いいえ、なんにも知りません……でもかりに、あなたが将来の活動について話したくないというのはわかるとしても、あなたのなかで今おきていることは……」
「おきているですって!」とバザーロフはおうむ返しに言って、「まるでぼくが国家か社会みたいですね! どっちみち、そんなことはちっとも興味あることじゃありません。それに一体、人間てやつは、自分のなかに『おきている』ことをなにもかも大声で言えるものなのでしょうか?」
「わたしにはわからないわ、心のなかにあることすべてを、なぜ言ってはいけないのかしら?」
「|あなた《ヽヽヽ》はできますか?」とバザーロフがきいた。
「|できます《ヽヽヽヽ》」とオジンツォーヴァが、少しためらってから、答えた。
バザーロフは頭をさげた。
「あなたはぼくより幸福です」
オジンツォーヴァはさぐるような目で彼を見た。
「なんとでもおっしゃい」と彼女はつづけた。「でもなにかがわたしに、わたしたちが親密になったのはそれなりに理由があったからだ、わたしたちは良いお友だちになれる、と呼びかけているような気がします。あなたの、その、なんと言ったらいいか、固さだの、遠慮ぶかさだのといったものが、そのうちに消えてしまうだろう、とわたしは確信していますわ」
「あなたはぼくが遠慮ぶかくて……それからまたなんとか言いましたね……固くなっている、でしたっけ?」
「ええ」
バザーロフは立ちあがって窓のそばによった。
「それであなたは、その遠慮ぶかさの原因が知りたい、ぼくのなかになにがおきているのか知りたい、とおっしゃるんですか?」
「ええ」と自分でもなにやらよくわからないが驚いて、オジンツォーヴァはくり返した。
「言っても怒りませんか?」
「ええ」
「ええ、ですって?」バザーロフは彼女に背を向けて立っていた。「そんなら言いましょう、ぼくはあなたを愛しています、おろかにも、無分別にも……とうとうあなたは言わせてしまいましたね」
オジンツォーヴァは両手を前にさしのべた。バザーロフは額を窓ガラスにくっつけた。彼はあえいでいた。全身があきらかにふるえていた。しかしそれは青年の臆病からくるふるえでもなく、最初の告白の甘い恐れにとらえられたのでもなかった。それは熱情が彼の身うちでふるえているのだった。強い、苦しい、憎悪にも似た、ことによったらそれに近い熱情が……オジンツォーヴァは怖くもなれば、かわいそうにもなった。
「バザーロフさん」と彼女は言った。その声音には思わずやさしいひびきがこもっていた。
彼はすばやくふり向き、穴のあくほど彼女を見つめた。そして、彼女の両手を取ると、とつぜん彼女を自分の胸もとに引きよせた。
彼女はすぐには彼の抱擁から身をほどくことができなかった。しかし一瞬後にはもうそばを離れて隅に立ち、そこからバザーロフを見ていた。彼は彼女に向かって身をおどらした……
「あなたはわたしの言うことがわからなかったんだわ」と彼女はにわかに不安を覚えて、ささやくような声で言った。彼がもう一度踏みこもうものなら、叫び声をたてそうな気配だった……バザーロフは唇をかんで、出て行った。
三十分後には女中がオジンツォーヴァのところに、バザーロフの手紙を持ってきた。それはたった一行のものだった。『ぼくは今日お暇しなければならないでしょうか――それとも明日までいてもよろしいでしょうか?』『なぜお暇しなければなりませんの? わたしにはあなたの気持ちがわかっていなかったのです』と、オジンツォーヴァは彼に返事をしたが、自分では心ひそかに、『わたしは自分のこともわかっていなかったのだ』と思った。
彼女は夕食のときまで姿を見せず、両手をうしろに組んで、ずっと自分の居間のなかを、あちらこちら歩きまわっていた。ときどき窓や鏡の前に立ちどまって、ゆっくりとハンカチで首を拭いた。そこに熱いキスのあとが残っているような気がしてならなかったのである。彼女は、一体なにが、バザーロフの言い方によると、彼に『言わせ』てしまったのだろう、自分ではそんなことになるなどと夢にも思っていなかったのだろうか、と自分の胸にきいてみるのだった……「わたしが悪かった」と彼女は声に出して言った。「でも、ああなるとは思わなかった」彼女は物思いにふけった。そして、自分にとびかかってきたときの、バザーロフの獣めいた顔を思いだして顔を赤らめた……
「それとも?」と彼女はとつぜん言って、立ちどまり、巻き毛をさっとゆさぶった……彼女は鏡に映っている自分の姿を見た。半ば開き半ばとじられた目と唇に神秘的な微笑をうかべてのけぞらした頭は、この瞬間彼女に、自分でも当惑するようななにごとかを語りかけていた……
『いや』と、彼女はついに心にきめた。『このままではどういうことになるかわかったものじゃない。本当に、笑いごとじゃないわ。この世にはなんといっても安静ほどいいものはないんだから』
彼女の安静は乱されなかった。けれども彼女は悲しい気持ちになった。一度などはなぜともなく涙ぐんだほどであった。しかしそれは侮辱されたからではなかった。彼女はむしろ自分が悪いのだと感じていたからである。もろもろの漠然とした気持ち、去りゆく人生の意識、新しいもの見たさの願望などに影響されて、彼女は無理に自分をある一線までつれて行き、その向こうをしゃにむにのぞかせたのだ――その向こうに見えたものは、深淵どころか空虚……あるいは醜悪であった。
十九
オジンツォーヴァがどんなに自制心に富んでいたにせよ、あらゆる先入観を超越していたにせよ、夕食に食堂に現われたときは気まずい思いをした。とはいえ、食事はぶじにすんだ。ポルフィーリイがやってきて、いろいろな笑い話を聞かせた。彼はちょうど町から帰ってきたばかりだった。なかでも、知事のブルダールが部下の嘱託官吏たちに拍車をつけるように命じた話をした。急ぎの用事があって彼らを馬で派遣する場合を考えてのことである。アルカージイはひそひそ声でカーチャと話しており、如才なく老公爵令嬢のごきげんを取り結ぶことも忘れなかった。バザーロフはかたくなに、ふきげんな顔をして黙りこくっていた。オジンツォーヴァは二度ほど――こっそりとではなく、正面きって――彼の顔を見た。その顔はいかつく、怒っているようであり、目は伏し目がちで、顔のどこにも、さげすむような決意の色をうかべていた。それを見て彼女は、『いけない……いけない……いけない……』と思った。食事のあとで彼女はみんなとつれだって庭へ出たが、バザーロフが自分と話したがっているようすを見て、二、三歩片脇により、立ちどまった。彼はそばへよってきたが、そのときにも目をあげないで、うつろな声でこう言った。
「ぼくはあなたにおわびしなければなりません、オジンツォーヴァさん。あなたはきっと、ぼくのことを怒ってらっしゃるんでしょう」
「いいえ、怒ってなんかいませんわ、バザーロフさん」とオジンツォーヴァは答えた。「でも悲しく思いました」
「ますますいけません。とにかく、ぼくは十分罰をうけました。ぼくの立場は、あなたもたぶん同意なさるでしょうが、この上なくばかげたものです。あなたのさっきのお手紙には、なぜ行ってしまうのか、とありましたね。ぼくは残ることはできませんし、残ろうとも思いません。明日|発《た》ちます」
「バザーロフさん、なぜあなたは……」
「なぜ発つか、とおっしゃるんですか?」
「いいえ、わたしが言おうとしたのは、そんなことではありません」
「あとの祭りですよ、オジンツォーヴァさん……おそかれ早かれ、こうなったにちがいありません。したがってぼくは行かなくちゃなりません。たった一つ残れる条件があるということはわかっています。しかしその条件がかなえられることはけっしてありませんからね。なにしろあなたは、こんなことを申しちゃぶしつけですが、ぼくを現に愛してませんし、この先だってけっして愛してくれないでしょうから」
一瞬、バザーロフの目が黒い眉毛の下でキラリと光った。
オジンツォーヴァは彼に答えなかった。『この人は怖い人だわ』という考えが彼女の頭のなかにひらめいた。
「失礼します」と彼女の考えを見ぬいたかのようにバザーロフは言った。そして家の方に向かって歩きだした。
オジンツォーヴァはそのあとから静かに歩きだして、カーチャを呼びよせると、彼女の腕をとった。彼女は晩まで妹と離れなかった。カルタもしないで、ますます笑い興じるのだったが、それは彼女の蒼ざめた、取り乱した顔にはまったく似つかわしくなかった。アルカージイは不審に思って彼女を、一般に青年が観察するように、じっと観察していた。つまりたえず自分に、『これはどういうことなんだろう?』と問いかけていた。バザーロフは自室にとじこもっていた。けれどもお茶のときにはやってきた。オジンツォーヴァは彼になにかやさしい言葉をかけてやりたいと思ったが、どう話しかけていいやらわからなかった……
思いがけないできごとが彼女を窮境から救い出した。執事がシートニコフの訪問を告げたのである。
この若い進歩主義者がウズラのように部屋の中に飛びこんできたときのありさまは、言葉では伝えがたい。もちまえのあつかましさで、たずねる本人をほとんど知ってもいなければ、招待された覚えもないのに、集まった情報によれば、自分の親しくしている賢い人たちがお客にきていると知って、決心して彼女の村へやってきたものの、骨の髄までおじ気づいてしまったので、あらかじめ暗記してきた言いわけの言葉と挨拶のかわりに、なにやらばかげたことをぼそぼそと言いだしたのである。エヴドークシヤがオジンツォーヴァのごきげん伺いに自分をよこしたとか、アルカージイがいつも彼に、彼女のことをほめちぎっているとか……ここまで言うと言葉につまって度を失い、自分の帽子の上に坐りこんでしまった。しかしだれも彼を追い出さず、それどころかオジンツォーヴァは彼を伯母や妹に紹介したものだから、彼はすぐに立ち直って見事におしゃべりを始めた。低俗なるものの出現は生活においてしばしば有益なことがある。それはあまりにも強く張られた弦をゆるめ、思いあがった気持ちや身のほどを忘れた感情をやわらげてくれる。自分も彼らの同類であることを思い知らされるのだ。シートニコフの到来とともになにもかもが鈍く、単純になった。みんなはいつもより多く夜食をとり、いつもより三十分も早く寝た。
「ぼくは今、いつか君に言われたと同じことを、君に言うことができるよ」とアルカージイは寝床の中で横になりながら、やはり着がえをすませたバザーロフに向かって、言った。「『なぜそんな陰気な顔をしてるんだい? きっと、なにか神聖な義務でも果たしたんだろう?』」
二人の青年のあいだにはいつのまにかぞんざいな調子で相手をひやかすくせができた。それはきまって、ひそかな不満や口に出してそれとは言わない疑惑のしるしである。
「ぼくは明日、親父のところへ帰るよ」とバザーロフが言った。
アルカージイは身を起こして片肘をついた。彼は驚きもしたが、なぜだか嬉しくもあった。
「ははあ!」と彼は低い声で言った。「それでそんな陰気な顔をしているのかい?」
バザーロフはあくびをした。
「あんまり余計なことを知ると、早く年をとると言うぜ」
「それでオジンツォーヴァはどうなの?」とアルカージイはつづけた。
「オジンツォーヴァがどうしたというんだね?」
「ぼくの言いたいのは、あの人が君を放さないだろうということさ」
「ぼくはあの人にやとわれてるわけじゃない」
アルカージイは考えこんだ。バザーロフは横になって壁の方に顔を向けた。
沈黙のうちに数分すぎた。
「バザーロフ君!」と不意にアルカージイが大声で言った。
「え?」
「ぼくも明日、君と一しょに出かけるよ」
バザーロフはなんとも答えなかった。
「もっともぼくは家へ帰るんだ」とアルカージイはつづけた。「ぼくたちは一しょにホフローフスコエの出村まで行こう。君はそこでフェドートから馬をやとうといい。ぼくも君の家の人たちと知り合いになりたいんだが、みんなに窮屈な思いをさせちゃ悪いからな。だって君はあとでまたうちへくるんだろう?」
「荷物を置いてきたからな」とふり向きもしないで、バザーロフは答えた。
『どうしてバザーロフは、ぼくが発つ理由をきかないんだろう? それも彼のようにとつぜん発ってしまうというのに?』とアルカージイは考えた。『まったく、なぜぼくは発つんだろう、なぜ彼は発つんだろう?』と彼は思案しつづけた。彼は自分の出した問題に満足のいく答えができなかったし、すっかり慣れてしまったここの生活と別れるのは、なんてつらいことだろうと思った。といって一人だけ残るわけにもいかなかった。『二人のあいだになにかあったのだ』と彼は思った。『バザーロフが発ったあとまで、あの人の前をうろうろすることはない。すっかり愛想をつかされてしまうだろう。ぼくは最後のものまで失うことになる』彼はオジンツォーヴァの姿を思いうかべたが、やがて別の目鼻立ちが、若い未亡人の美しい姿をしだいにおおい隠してしまった。
『カーチャもかわいそうだ!』とアルカージイは枕に向かってささやいた。枕の上にはもう涙がこぼれていた……彼はいきなり髪をうしろへふりあげると大声で言った。
「あのシートニコフのばかは、なんだって来やがったんだろう?」
バザーロフは寝床の中でごそごそ動いてから、こう言った。
「君の方が、アルカージイ、もっとばかだよ。シートニコフのような手合いがぼくらには必要なのだ。ぼくには、わからないかな、ああいった阿呆が必要なんだよ。たかが壷を焼くのに、一々神さまをわずわらすことはないさ」
『へえ!』と、それを聞いてアルカージイは腹のなかで思った。このとき、バザーロフの自尊心の底知れぬ深淵が、すっかり彼の目の前に開けて見えたような気がした。『するとおれとお前は神さまってわけか? いや、お前が神さまで、おれは阿呆ってわけかい?』
「そう」とバザーロフは気むずかしげにくり返した。「君はまだばかだよ」
翌日、アルカージイがオジンツォーヴァに、自分もバザーロフと一しょに出発すると言ったとき、彼女はさして驚いたふうでもなかった。彼女はぼんやりして、疲れているようすだった。カーチャは黙って、真顔で彼を見た。老公爵令嬢はショールの下で十字を切ったくらいである。それでアルカージイも気がつかないわけにはいかなかった。そのかわりシートニコフはすっかりあわてふためいた。彼はたった今、新しい、しゃれた、このたびはスラヴ主義ふうのでない、身なりをして、朝食におりてきたばかりであった。前の晩に彼は、肌着をどっさり持ってきたことで、自分につけられた下僕をびっくりさせたばかりだというのに、とつぜん彼の仲間は彼を置きざりにして行ってしまうのだ! 彼は森のはずれに追いつめられたウサギのように、小刻みに歩いたり、うろうろしたりしていたが、――急に、驚いたように、叫びたてんばかりに、自分も発つ、と宣言した。オジンツォーヴァは彼を引きとめようとはしなかった。
「ぼくの馬車はしごく乗り心地がよくってね」と不幸な青年はアルカージイに向かって話しかけた。「なんならあなたをお送りしてもいいんですよ。バザーロフさんはあなたの旅行馬車に乗って行かれるから、その方がかえっていいでしょうよ」
「とんでもない、あなたとはまるで道がちがいますよ。うちも遠くなるし」
「いいえ、かまいませんよ。ぼくは時間がたっぷりあるし、あっちの方に用事もあるんだから」
「一手販売ですか?」とアルカージイが今度はいいかげんに軽蔑するような調子できいた。
けれどもシートニコフはひどくしょげ返っていたので、いつもとちがって、笑い声もたてなかった。
「本当に、しごく乗り心地のいい馬車ですよ」と彼はつぶやいた。「座席もたっぷりあるし」
「お断りになったら、ムッシュー・シートニコフががっかりなさいますわよ」とオジンツォーヴァが言った。
客人たちは朝食のあとで出発した。バザーロフと別れるとき、オジンツォーヴァは彼に手をさしのべて言った。
「またお目にかかりましょう、そうじゃございません?」
「御意のままに」とバザーロフは答えた。
「それではまたお目にかかりましょう」
アルカージイがまっ先に昇降口に出た。彼はシートニコフの馬車に乗りこんだ。執事がうやうやしく手伝ったが、アルカージイは彼を思いっきりひっぱたいてやるか、泣きだしたい気持ちだった。バザーロフはアルカージイの旅行馬車に乗った。ホフローフスコエの出村に着いたとき、アルカージイは旅籠屋の亭主のフェドートが馬をつけるのを待っていたが、旅行馬車に近づくと、以前のような微笑をうかべてバザーロフに言った。
「バザーロフ君、一しょに乗せてってくれ。君んちへ行きたくなったのだ」
「乗れよ」とバザーロフは吐きだすように言った。
元気よく口笛を吹きながら、自分の馬車のまわりを歩き回っていたシートニコフは、この言葉をきいてただもうあっけにとられていた。アルカージイは落ちつきはらって、シートニコフの馬車から自分の荷物を取り出すと、バザーロフのそばに坐り、さっきまでの道づれにいんぎんに会釈をしたのち、「出せ!」と叫んだ。旅行馬車は走りだして、まもなく見えなくなった……シートニコフはすっかりまごついてしまって、自分の御者を見た。しかし御者は副馬の尻尾の上で鞭をもてあそんでいた。やむなくシートニコフは馬車に跳び乗り、たまたまそばを通りかかった二人の百姓に向かって、「帽子をかぶれ、ばかもの!」とののしったのち、町に向かってのろのろと馬車を走らせた。町へ着いたのはかなりおそかった。翌日、彼はクークシナの家で、二人の『生意気な礼儀知らず』をこっぴどくやっつけた。
馬車に乗りこんでバザーロフのそばに坐ったとき、アルカージイは彼の手を固く握りしめて、長い間なにも言わずにいた。バザーロフはこの握手の意味も、沈黙の意味もわかって、心のなかで感謝しているようであった。前の晩、彼は夜通しまんじりともしなかったし、タバコも吸わなかった。このなん日かというものはほとんどなにも食べていなかった。彼の痩せた横顔が、まぶかにかぶった縁なし帽の下から、陰気に、くっきりとつき出ていた。
「おい、君」と彼はやっと口をきいた。「葉巻を一本くれないか……それからちょっと見てくれ、ぼくの舌は黄色いだろう?」
「黄色だ」とアルカージイは答えた。
「そうか……道理で葉巻もうまくない。エンジンが弱ってしまったのだ」
「君は最近、本当に変わってしまったよ」とアルカージイが言った。
「なんでもない! じきなおる。ただ一つ閉口なのは、うちのおふくろだよ。親ばかで、ズボンから腹がつき出ていて、日に十回も食べるようじゃないと、ひどく心配するのだ。そりゃ、親父は平気さ。自分でも方々へ行ったことがあるし、苦労人だからな。いや、タバコはいかん」と彼は言いそえて、葉巻を道ばたのほこりのなかにポイと投げすてた。
「君の領地まで二十五キロだって?」とアルカージイがきいた。
「二十五キロだ。なに、この物知りにきいてくれ」
彼は御者台に坐っている百姓を、つまりフェドートの雇人を指さした。
しかし物知りは、「おらがなに知ってるだね――ここらじゃ道のりなんて勘定しねえだ」と答えて、相変わらず小声で中馬をののしるのだった。というのは、馬が『どたまをひょこつかせる』つまり頭をぴくぴく動かしたからである。
「そうそう」とバザーロフは言いだした。「これは君、君たち若い者への教訓だよ。ためになる実例だ。ばかばかしくて話にもならん! 人間てやつはだれでも一本の糸にぶらさがっていて、いつなんどき奈落がその下にぽっかり口を開けるかも知れないのだ。それなのにわざわざ自分からいろんな不愉快なことを考えだして、自分の生活をだめにしているのだ」
「なんのことを謎かけているんだね?」とアルカージイがきいた。
「ぼくはなにも謎なんかかけていない。われわれ二人はずいぶんばかなふるまいをしたもんだ、と率直に言っているんだよ。ぼやいても始まらんな! しかしもう以前に大学病院で気がついたことだが、自分の苦痛に腹をたてる者は、きっとそれに打ち勝つのだ」
「君の言うことがよくわからないな」とアルカージイは小声で言った。「不平を言うことなんかなにもなかったと思うが」
「よくわからなきゃ、言って聞かせよう。こうだよ。ぼくの考えでは――舗道で石を砕くほうがましだ、たとえ指の先でも女に自由にさせるよりはな。これはみんな……」バザーロフはもう少しで『ロマンチシズム』と言うところだったが、ぐっとこらえてこう言った。「くだらんことさ。君は今ぼくの言葉を信じないだろうが、言っておこう。ぼくと君とは女の仲間へ入って、楽しかった。しかしこうした仲間をふりすてるのは、暑い日に冷たい水を浴びるのとまったく同じことだ。男性は猛《たけ》くあらねばならぬ、とイスパニアの格言は言っている。なあ、おい」と彼は、御者台に坐っている百姓に向かって言いだした。「物知りや、お前はかみさんがいるかね?」
百姓は二人に、自分の平べったい、小さな目の顔を見せた。
「かかあですか? いますよ。かかあがいないなんてこたあ、あるもんですか?」
「お前はかみさんをぶんなぐるかい?」
「かかあをですか? いろんなことがあらあね。でも、わけもなくなぐりはしねえ」
「そいつはりっぱだ。ところで、かみさんはお前をなぐるかね?」
百姓は手綱をしぼった。
「なにを言うだね、だんな。ご冗談を……」彼はあきらかに腹をたてた。
「聞いたかい、アルカージイ! ところがぼくと君はなぐられたのだ……教養のある人間ということは、こういうことなのさ」
アルカージイは苦笑いをした。バザーロフはそっぽを向いて、道中ずっともう口をきかなかった。
二十五キロがアルカージイにはたっぷり五十キロはあるかと思われた。だがやがてなだらかな丘の斜面に、やっと小さな村が見えてきた。そこにバザーロフの両親が住んでいるのだった。その小村とならんで、若木のシラカバの林の中に、藁屋根の小さな地主屋敷が見えた。とっつきの百姓家の前に帽子をかぶった百姓が二人立っていて、ののしり合いをしていた。「てめえは大豚だが、小豚にもおとるよ」と一人が相手に言った。「そう言うてめえのかかあは鬼婆だ」と相手がやり返した。
「ああいったなごやかな応酬や、言葉使いのひょうきんなところから察すると」とバザーロフはアルカージイに言った。「うちの親父の百姓どもは、あんまり痛めつけられていないようだな。おや、親父が自分で家の昇降口に出ているぞ。きっと、鈴の音を聞きつけたんだな。親父だ、親父だ――あのかっこうでわかる。おや、おや! 頭がずいぶん白くなったな、かわいそうに!」
二十
バザーロフは旅行馬車から身を乗り出した。アルカージイが友人の背後から首をつき出して見ると、地主の家の昇降口に、背の高いやせぎすの男が立っていた。髪の毛をぼさぼさにし、細いわしっ鼻で、古い軍服をボタンをかけずに着ていた。彼は両足をふんばって立ち、長いパイプをふかしながら、日光がまぶしいので目を細くしていた。
馬車がとまった。
「やっと帰ってきたな」とバザーロフの父は、パイプが指のあいだでおどっているのに、なおもタバコを吸いつづけながら言った。「さあ、出ておいで、出ておいで、だきあおう」
彼は息子をだき始めた。……「エニューシャ〔バザーロフの名エヴゲーニイの愛称〕、エニューシャ」という女のふるえ声が聞こえてきた。ドアが開いて、しきいの上に、白い室内帽をかぶり、色模様の上衣を着たまるまると肥った、背の低い老婆が現われた。彼女はあっと言ってよろめいたが、もしもバザーロフが支えてやらなかったら、きっと倒れてしまったにちがいない。ふっくらした両手がたちまち息子の首にまきつき、頭は息子の胸におしつけられた。一切のものが静まり返った。聞こえるものとてはただ彼女のとぎれがちなすすり泣きだけであった。
バザーロフ老人は深く息をして、前よりももっと目を細めていた。
「さあ、もうたくさんだよ、アリーシャ〔バザーロフの母アリーナの愛称〕! よしなさい」と彼は、アルカージイと視線がかちあうと言いだした。アルカージイは旅行馬車のそばにじっと立ちつくしていた。また、御者台の上の百姓は顔をそむけたほどだった。「みっともないよ! もう、よしなさい」
「まあ、あなた、ずいぶん長いあいだこの息子を、かわいい息子を、エニューシェンカを……」と老婆はまわらぬ舌で言った。そして、手をゆるめないで、涙にぬれた、しわくちゃの、感動した顔をバザーロフから離し、なんだか幸福そうな、愛嬌のある目で彼を眺めたが、ふたたび息子にすがりつくのだった。
「そりゃまあ、むろん、無理もないが」と老バザーロフはつぶやいた。「もう家へ入った方がよくないかね。お客さんもエヴゲーニイと一しょに見えているのだし。お許しください」と彼は、アルカージイの方を向きながらつけ加えて、軽く踵と踵をうち当てた。「おわかりでしょうが女の弱点でして。それに母親の心は……」
ところがそう言うご当人も唇や眉毛をひきつらせていたし、顎はふるえていた……しかし彼は、自分の気持ちをおさえようとしていたし、つとめて平静を装っていた。アルカージイは頭を下げた。
「お母さん、本当に家へ入りましょうよ」とバザーロフは言って、ぐったりとなった老婆をつれて家に入った。母を快適な肘かけ椅子に坐らせると、彼はもう一度急いで父とだき合ってから、彼にアルカージイを紹介した。
「はじめまして」と老バザーロフは言った。「おかまいもできませんがごゆっくり。うちは万事簡素で、軍隊式です。アリーナや、頼むから、落ちついておくれ。はしたない、お客様に笑われるよ」
「あなた」と老婆は涙声で言った。「お名前を存じあげませんが……」
「アルカージイ・ニコライチさんだよ」ともったいをつけて、小声で、老バザーロフがわきから言った。
「失礼いたしました、なにぶんばかな年よりなもんで」老婆は鼻をかんだ。そして首を左右に曲げながら、念入りに両方の目をぬぐった。「許してくださいませ。なにしろ、うちのむ……む……息子の帰りを待ちきれずに、死ぬんじゃないかと思っていたもんですから」
「ところがとうとう帰ってきたんだよ、おまえ」と老バザーロフが言葉を引き取った。「ターニュシカや」と彼は十二くらいのはだしの女の子に向かって言った。その子はまっ赤なさらさの服を着て、おずおずとドアのかげからのぞいていた。「奥さんに水を一杯持っておいで――お盆にのせてな、いいかい? それからこちらの旦那がたは」と彼は昔ふうのひょうきんな調子でつけ加えた。「退職老兵の書斎の方へお運びください」
「せめてもう一度でいいからお前をだかせておくれ」とアリーナはうめくように言った。バザーロフは彼女の方に身をかがめた。
「お前ずいぶん美男子におなりだこと!」
「さあ、美男子かどうか知らんが」と老バザーロフが言った。「大人になったよ。いわゆるオム・フェ〔本当の男性〕というやつさ。ところで、アリーナ、親心を十分満足させたからには、今度は、大事なお客さんを満腹させるように取り計らってもらいたいね。知っての通り、腹が減ってはなにもできぬでな」
老婆は肘かけ椅子から立ちあがった。
「すぐ食事の用意ができますよ、ワシーリイ。私が台所へとんでいって、サモワールの用意をするように言いつけましょう。一切そろいますよ、一切。なにしろ三年も息子の顔を見ないし、食べさせることも、飲ませてあげることもできなかったんですから、つらいことで」
「じゃ、ばあさんや、よく気をつけて世話をやいておくれ、腕によりをかけてな。みなさんがたはどうぞこちらへ。ほら、チモフェーイチもお前に挨拶にきたぞ、エヴゲーニイ。あれも、じいさんも、きっと喜んでいるよ。どうだね? 嬉しいかい、じいさん? どうぞこちらへ」
老バザーロフは忙しそうに先に立って歩きだした、履き古した上靴を引きずって、バタバタ音を立てながら。
彼の家には小さな部屋が六つあった。あるじは若者たちをそのうちの一つに案内していったが、そこは書斎と呼ばれていた。長年のほこりのために、まるでいぶしたかのように黒ずんだ書類で埋まっている脚の太いテーブルが、二つの窓の間を一ぱいに占めていた。壁にはトルコ銃、革鞭、サーベル、二枚の地図、なにかの解剖図、フーフェラント〔ドイツの医者〕の肖像、黒い額ぶち入りの毛髪の組み合わせ文字、ガラスの額ぶち入りの免状がかかっていた。ところどころへこんで穴のあいた革のソファーが、カレリヤ産のシラカバで作った二つの巨大な戸棚のあいだに据えられていた。棚の上には本や、小箱や、鳥の剥製、壷や、ガラスびんが乱雑にごたごたのっていた。また片方の隅にはこわれた電気機械が置いてあった。
「さきほどもお断りしましたが、あなた」と老バザーロフが始めた。「わたしたちのここでの生活は、言わば野営も同然というところで……」
「やめてください、なんだって言いわけなんかなさるんです?」とバザーロフがさえぎった。「アルカージイ君は、ぼくやお父さんが大富豪じゃないし、ここの家が宮殿じゃないってことをよく知ってるんです。アルカージイ君にどの部屋をあてがうか、それが問題なんですよ」
「なにを言うんだね、エヴゲーニイ。うちの離れにはりっぱな部屋がある。あそこなら申し分ないだろうよ」
「じゃ家には離れもできたんですか?」
「むろんですとも。風呂場のところにできましたんで」とチモフェーイチが口を挟《はさ》んだ。
「つまり風呂場のとなりだ」と急いで老バザーロフが言いそえた。「今は夏だから……わしが今そこへ行って、指し図をしてくるよ。お前はな、チモフェーイチ、差し当たりお客さんの荷物を運んであげるといい。お前にはな、エヴゲーニイ、わしは、むろん、自分の書斎を提供する。Suum cuique(めいめい一室)ってわけだ」
「驚いたな! しごく面白いじいさんで、この上なく善良なんだ」とバザーロフは、父親が出て行くとすぐに、そう言った。「君の親父さんのような変人だが、ただ種類がちがうんだ。おしゃべりでな」
「君のお母さんもすてきな人らしいね」とアルカージイは言った。
「うん、おふくろは取りつくろったようなところがないんだ。どんな食事が出てくるか見ものだぜ」
「今日お帰りになるとは思わなかったもんで、若旦那、牛肉は買ってありませんが」とチモフェーイチが言った。彼はたった今バザーロフのトランクを部屋にひきずり入れたところだった。
「なに、牛肉なんかなくたってもすまされる、ない袖はふれない。『貧乏は罪にあらず』と言うからな」
「君のうちにはなん人農奴がいるんだね?」とだしぬけにアルカージイがきいた。
「領地は親父のものじゃなくって、おふくろのさ。農奴はたしか十五人くらいだと思ったな」
「みんなで二十二人ですよ」と不満そうにチモフェーイチが言った。
上靴のバタバタという音がして、ふたたび老バザーロフが姿を現わした。
「あと数分したらお部屋の用意ができますよ」と彼は勝ち誇ったように、大声で言った。「アルカージイ……ニコライチさんと、たしか、さよう申されましたな? この子があなたのご用を承ります」と彼は、一しょに入ってきた男の子を指さした。男の子は頭の毛を短く刈りこみ、青い、肘の破れたカフタン〔裾の長い農民外套〕を着て、借りものらしい長靴をはいていた。「フェージカと言います。せがれがよせと言いますが、またまたくり返して申しておきます。どうぞ大目に見てやってください。もっとも、パイプにタバコをつめるぐらいのことはやりますよ、タバコはお吸いになるんでしょうか?」
「大てい葉巻です」アルカージイが答えた。
「それは大そうけっこうなことで。じつはわしも葉巻が好きですが、こんな片田舎ではきわめて入手困難なもんですから」
「こぼすのはたくさんだよ、お父さん」とまたバザーロフがさえぎった。「それよりもここのソファーに坐って、お父さんの顔を見せてくれませんか」
老バザーロフは笑って腰をかけた。彼は息子によく似ていたが、ただ額がせまく、口が少し大きかった。彼は絶えず身動きをして、まるで洋服の腋の下がきゅうくつであるかのように、両方の肩をそびやかしたり、目をしばたたいたり、咳をしたり、指を動かしたりした。ところが息子の方ときたら、ふてぶてしいくらいに落ちつきはらっているのだった。
「こぼすだって!」老バザーロフが言った。「お前、エヴゲーニイ、われわれはこんな片田舎に暮らしているんですよ、などと言ってわしが、お客さまの同情を買おうとしているんだ、などと思わないでおくれ。わしはその反対で、物を考える人間にとっては、片田舎などというものはない、という考えなのだ。すくなくともわしは、できるだけ努力しているつもりだ、いわゆる苔《こけ》が生えないように、時勢におくれないようにな」
老バザーロフはポケットから新品の黄色い絹のハンカチを引っぱり出した。それはさっきアルカージイをとめる部屋にかけこんだときに、素早くひっつかんできたものである。彼はハンカチを空中にふりながら言葉をつづけた。
「自分の口からこう言うのもなんだが、たとえば、わしはかなりの犠牲をしのんで、百姓たちを小作料制度にしてやったり、収穫の半分ということで自分の土地を貸しつけてやったよ。わしはそれを義務と考えたからだし、このさいそれが上分別だと思ったのだ。もっともほかの地主どもには思いも及ばないことなのだが。今わしが言っているのは学問や、教育のことだよ」
「なるほど、それでお父さんのところに、一八五五年の『健康の友』〔ペテルブルクで発行されていた医事新聞〕があるんですね」とバザーロフが言った。
「あれは旧友が昔のよしみで送ってくれるのだよ」老バザーロフは急いで言った。「しかしわれわれは、たとえば、骨相学がどんなものかということも知っている」と彼は言い足したが、しかし、それはむしろアルカージイに向かってであった。彼は戸棚の上にのっている石膏製の小さな頭部を指さした。それは四つの四辺形にわかれていて、その一つ一つに番号がつけてあった。「われわれはシェンライン〔ドイツの医者・教授〕だって知らないわけではありません――それからラーデマッハー〔ドイツの学者・医師〕も」
「***県ではラーデマッハーをまだありがたがっているんですか?」とバザーロフがきいた。
老バザーロフは咳ばらいをした。
「この県じゃ……むろん、お前たちの方がよく知っているだろうさ。われわれは毛頭お前たちと競争するつもりなんかないよ。なにしろお前たちはわれわれに取ってかわるんだから。われわれの時代にも体液説のホフマン〔ドイツの学者・医者〕だの、活力説《ヴァイタリズム》のブラウン〔イギリスの医者〕などはしごくこっけいに思われたものだが、一時はやっぱり天下に鳴りひびいたもんだ。だれか新しい人間がお前たちの時代にラーデマッハーに取ってかわり、お前たちはその男におじぎをしているが、あと二十年もしたら、その男だって笑われるようになるだろうよ」
「ご安心くださいお父さん」とバザーロフは言った。「われわれは今、医学全般を笑っているのであって、だれも尊敬なんかしていません」
「え、なんだって? でもお前は医者になろうと思っているんだろう?」
「思っていますが、そのこととは矛盾しませんよ」
老バザーロフは中指を、まだ熱い灰がすこし残っているパイプの中につっこんだ。
「うん、そうかもしれん、そうかもしれん。それを議論するつもりはないよ。わしがなんだというのだ? 一介の退職軍医にすぎん。今じゃこの通り農事経営者のなかま入りだ。わしはあなたのおじいさまの旅団に勤務してましてな」と彼はまたもやアルカージイの方を向いて、「そうですとも、そうですとも。いろんな社会に顔を出して、いろんな人とつきあいましたよ! わしが、今あなたがたの前にいるこのわしが、ウィトゲンシュタイン公爵〔ナポレオン戦争に参加したロシヤの元帥〕やジュコーフスキイ〔ロシヤの詩人〕の脈を取ったことがあるんですからね! 例の十四日の事件〔一八二五年十二月十四日のデカブリストの乱〕で、おわかりでしょうな(とここで老バザーロフは意味ありげに唇をギュッと結んだ)、南軍に属していた人たち〔チェルニーゴフの連隊の反乱に加担したデカブリスト南方結社員〕は、ことごとく知っていました。しかし、わしの仕事は――それとは無縁です。ランセットの使い方さえ知っておれば、たくさんだ、というわけで。ところであなたのおじいさんはごりっぱな方で、真の軍人でした」
「本当はかなりのとんまだったんでしょう」とバザーロフがものうげに言った。
「これエヴゲーニイ、お前なんて口をきくんだね! とんでもないことを……むろん、キルサーノフ将軍はいかにも……」
「まあその話はやめときましょう」とバザーロフはさえぎった。「家が近くなったとき、あのシラカバ林を見てぼくは嬉しくなりましたよ。すばらしく伸びましたね」
老バザーロフは元気づいた。
「一つお前に見てもらいたいな、家の庭がどんなにすてきになったか! 一本々々自分で植えたんだ。果樹もあれば、イチゴ類もあり、いろんな薬草もある。お前たちがどんなにうまいことを言おうと、パラケルスス〔スイスの医師・化学者〕の言ったことは真理だよ。in herbis, verbis et lapidibus……(草や木や石の中に……)なにしろわしはもう、知っての通り、医者はやめてしまったが、週に二度は昔のことを思い出して腕をふるわなくちゃならん、相談に来る者をつまみ出すわけにはいかんからな。ちょいちょい貧乏な連中が見てもらいにくるのだ。それにこの土地には医者が皆目《かいもく》いない。近所に退職陸軍少佐の地主がいて、やっぱり治療をやっている。その男は医学を勉強したことがあるのか、ときいたら、ないということなんだ。医学を勉強したことはない、その男はむしろ博愛の念から診てやってるんだそうだ……は、は、博愛だってさ! え? どうだい! は、は! は、は!」
「フェージカ! パイプにタバコをつめてくれ!」とバザーロフが荒々しい調子で言った。
「それから当地の別の医者が、病人のところへやってくると」と老バザーロフは一種絶望の色をうかべてつづけた。「病人はもう ad patres だ(あの世に召されている)。下男は医者を家の中へ入れてくれない。もう医者には用はない、というのだ。医者はそんなことは予期していなかったので、うろたえて、こうきいた。『で、どうだ、旦那は死ぬ前にしゃっくりをされたか?』『たくさんしました』『それならよろしい』と言ってすたこら引き返したそうだ。は、は、は!」
老人はひとりで笑いだした。アルカージイは顔に微笑をうかべた。バザーロフはのびをしただけだった。談話はこんなふうに一時間ばかりつづいた。アルカージイは自分の部屋へ行って見た。そこはもともと脱衣室だったところだが、大そう居心地のよい、清潔な部屋だった。そのうちタニューシャが入って来て、食事の用意のできたことを告げた。
老バザーロフがまっ先に立ちあがった。
「参りましょう、みなさん! ご退屈させたようでしたら、どうかおゆるしください。多分うちのかみさんが、あなたがたを、わしより満足させてくれるでしょう」
食事は急につくったものだったのに大そうおいしくて、おまけにどっさりあった。ただ酒はすこしばかり、いわゆる『いかさなかった』。チモフェーイチが町で知り合いの商人から買ってきた、ほとんどまっ黒なシェリー酒は、銅とも、松やにともつかない匂いがするのだった。ハエもまたうるさかった。いつもだと屋敷づとめの少年が緑の葉のついた大きな枝で追いはらうのだが、このたびは老バザーロフが若い世代からの非難を恐れて少年を追いやったのである。アリーナはもう着飾っていた。彼女は絹のリボンのついた高い頭巾をかぶり、花模様のついた青いショールをしていた。彼女は息子の姿を見るや否やまたもや泣きだしたが、しかし夫が彼女をたしなめる必要はなかった。ショールを汚さないように、彼女が自分ですばやく涙を拭き取ったからである。
食事をしたのは二人の若者たちだけだった。主人夫婦はとっくにすませていたからである。フェージカが給仕をしたが、はきなれない長靴をもてあましていた。それから、男のような顔をした目っかちの女がフェージカを手伝っていた。名前はアンフィースシュカといって、女中頭でもあれば、鳥番でもあり、洗濯女でもあった。
老バザーロフは食事のあいだじゅう室内を歩きまわり、いかにもしあわせそうな、幸福この上ないといった顔つきで、ナポレオンの政策やイタリア問題のもつれが彼に与える重大な懸念について語った。アリーナはアルカージイなど目に入らず、ご馳走をすすめることもしなかった。自分の円い顔を片方のこぶしの上にのせて(さくらんぼ色のぼってりした唇や、頬だの、眉毛の上だのにあるホクロが大そうおうような表情を彼女の顔に与えていた)、彼女は息子から目を離さずにため息ばかりしていた。彼女は息子がいつまで滞在するのかを知りたくてたまらなかったけれども、息子にきくのがこわかったのだ。『二日だなんて言われたら、どうしよう』それを思うと彼女は心臓がとまりそうになるのだった。焼き肉のあとで老バザーロフがちょっと席をはずし、栓をぬいたシャンペーンの小びんを持ってもどってきた。
「ほら」と彼は大きな声で言った。「田舎ずまいをしていても、おめでたいときに、楽しく時をすごすのには事欠かないよ!」彼は三つのシャンペーングラスと一つの小さなワイングラスになみなみと注ぎ、『この上なく大切な客人たち』の健康を祝って、軍隊式に一気に杯を飲み干すと、アリーナにも小杯を、最後の一滴まで飲み干させた。ジャムの番になったとき、アルカージイは、元来甘いものはがまんできないたちだったけれども、つくりたての四つの種類の異なったジャムの味見をすることを自分の義務と考えた。バザーロフがそっけなくそれをことわって葉巻を吸い出したからにはなおさらである。それからクリームや、バターや、ビスケットと一しょにお茶が登場した。そのあとで老バザーロフがみんなを庭につれ出して、夕べの美しさを愛《め》でることになった。ベンチの前にさしかかったとき彼はアルカージイにささやいた。
「わたしはここで日没を見ながら哲学的瞑想にふけるのが好きなんです。わたしのような世捨て人にはふさわしいことですから。すこし先の方に、わたしはホラティウス〔ローマの詩人〕の好んだ木を数本植えましたよ」
「なんの木ですか?」とそれを聞きとめてバザーロフがきいた。
「むろん……アカシヤだよ」
バザーロフはあくびをし始めた。
「どうやら、もうそろそろ旅人たちがモルフェウス〔眠りの神〕の腕に抱かれるころのようだ」と老バザーロフが言った。
「つまり寝る時刻ってわけ!」とバザーロフが引き取って言った。「それは公平な判断です。まさしくその時刻ですとも」
母に別れの挨拶をするとき、彼は彼女の顔にキスをした。一方、母は彼をだきしめて、その背後から、ひそかに、三度彼を祝福してやった。老バザーロフはアルカージイを部屋に案内して、『わたしが幸福な若いころに味わったような、あのような幸多き休息』をなされるように祈りますよ、と彼に言った。事実アルカージイは風呂場の脱衣室でぐっすり眠ることができた。そこではハッカのにおいがして、コオロギが二匹ひときわ高く、眠気を誘うような声で鳴いていた。老バザーロフはアルカージイのところから自分の書斎に向かい、息子の足もとのソファーに横になると、息子を相手におしゃべりをしようとしたが、バザーロフは眠いからといってすぐに彼を追い出してしまった。そのくせ彼は朝まで寝つかれなかった。大きな目を見開いたまま、彼は憎々しげにくらやみを見つめていた。幼年時代の思い出は彼に対して威力を持っていなかったし、その上彼はまだ最近の痛ましい印象から脱することができすにいた。アリーナはまず心ゆくまでお祈りをして、それからいつまでもアンフィースシュカと話し合っていた。こちらは釘づけにされたように奥さまの前に立ち、ただ一つしかない目をじっと彼女に注ぎ、秘密めいたささやいた声で、バザーロフについての自分の観察や考えを伝えるのだった。老婆は嬉しいのや、酒を飲んだのや、葉巻の煙のためにすっかりのぼせてしまった。夫が彼女に話しかけようとしたが、このありさまを見て断念した。
アリーナは往年見られたきっすいのロシヤ貴族の婦人であった。彼女は二百年も前の、旧《ふる》きモスクワ時代に生きてしかるべき人物であった。彼女は大そう信心ぶかく、感じやすい性質であり、ありとあらゆる前兆や、占いや、おまじないや、夢判断を信じていた。神がかりや、荒神さまや、森の精や、不吉な出会いや、呪いや、民間療法や、神聖週間木曜日の塩や、世界の終わりの切迫などを信じていた。もしも復活祭の終夜祈祷式にろうそくが消えなければソバがよくみのることだの、人目にふれるとキノコはもう大きくならないことだのを信じていた。悪魔は水のあるところを好むことだの、ユダヤ人はだれでも胸に赤あざがあるものだと信じていた。ハツカネズミや、ヤマカガシや、蛙や、雀や、ヒルや、雷や、冷水や、すきま風や、馬や、山羊や、赤毛の人間や、黒猫を恐れ、コオロギや、犬は不浄な動物だと思っていた。牛肉も、ハトも、エビも、チーズも、アスパラガスも、キクイモも、ウサギも、西瓜も食べなかった。西瓜を食べないわけは、切った西瓜が洗礼者ヨハネの首を思い出させるからだった。カキは話をしても身ぶるいするほどだった。食べることは好きだったが、きびしく精進を守った。一昼夜に十時間も眠ったが、夫の頭が痛くなったりすると、一晩じゅう起きていた。本といっては、『アレクシス、別名森の小部屋』〔フランスの作家デュクレ・デュミニールの教訓小説〕以外、ただの一冊も読了したことがなかったし、書くといっては年に一、二通手紙をしたためるのが関の山であったが、家政のことや、果実を乾したり、ジャムをつくったりすることにかけては物知りであった。もっとも自分ではなに一つ手をだすわけではなかったし、一般に腰の軽い方ではなかった。アリーナは大そう気立てがよく、それなりに、けっして愚かな女ではなかった。彼女は、世のなかには命令をくだすべき旦那衆と、それに仕えるべき庶民とがいることを知っていた。だから、卑屈な態度も、うやうやしいお辞儀も軽蔑しなかった。しかし雇人はやさしく、おだやかに扱い、一人の乞食にだって施しをやらずに帰したことはなく、一度だってひとのことを悪しざまに非難したことはなかった。もっともちょっとしたかげ口ぐらいはきいたけれども。若いころは大へんなきりょうよしで、クラヴィコルド〔ピアノの前身〕もひけば、フランス語も少しは話したものだが、気のすすまぬ結婚をして、長年夫と各地を経めぐっているうちに(彼女は自分の意志に反して彼のところへお嫁に行ったのである)、すっかり肥ってしまい、音楽も、フランス語も忘れてしまったのである。彼女は息子を愛していたが、そのくせ言いようもなく怖がっていた。領地の管理は夫のワシーリイに任せきりで、まったく口だしをしなかった。彼女はつれあいが、もうじき改革が始まるから、そのときはこうしようなどと自分の計画を話し始めるが早いか、「おお」と言って、払いのけるようにハンカチをふり、おびえたように眉毛をますます高くつり上げるのであった。彼女は苦労性で、いつもなにか大きな不幸を待ちうけており、なにか悲しいことを思いだすと、すぐに泣いた……こうした婦人は今はもういなくなろうとしている。喜んでいいことかどうか――それはわからない!
二十一
寝床から起きだしてアルカージイが窓を一ぱいに開けると――まず第一に彼の目に入ったのは老バザーロフであった。老人はブハラ織りの部屋着をきて、ハンカチを腰に巻きつけ、せっせと野菜畠を掘り返していた。彼は若い客人に気がつくと、シャベルに身体をもたせて、大声で言った。
「おはよう! よく眠れましたか?」
「ぐっすりと」とアルカージイは答えた。
「わたしはここで、ごらんの通り、あのシンシナトゥス〔古代ローマの賢人〕のように、おそまきのかぶを植えようと思って、あぜをつくっているところです。今や時代は――ありがたいことに! ――めいめいが自《みずか》らの手で自らの食糧を得なければならなくなりました。ひとを当てにすることはありません。ジャン=ジャック・ルソーの言ったことは正しかったわけです。半時間前でしたら、アルカージイさん、あなたに、わたしがまったくちがった方面で働いているのをお目にかけられたんですがね。ある百姓女が『赤腹』だといってきたもんですから――ええ、これは百姓言葉でして、われわれのいわゆる『赤痢』なんですが、わたしは……なんと言ったらいいか……阿片をのませてやりました。それからもう一人の女は歯をぬいてやりました。こちらの女には麻酔剤をすすめたんですが……承知しませんでな。これをみんな gratis(無料)で、道楽半分《アナマチョール》にやっているんですよ。もっともこんなことはわたしには当たり前のことなんです。なにしろわたしは平民、homo novus(新しい人間)なんで――うちの家内などとちがって、由緒ある家柄の貴族の出なんかじゃありませんから……こちらの陰になったところへいらっしゃいませんか? お茶の前に朝のさわやかな空気を吸うのもいいもんですよ」
アルカージイは外へ出た。
「もう一度、よくいらっしゃいました!」と老バザーロフは、自分のかぶっている脂じみた円形帽子へ、軍人ふうに片手をあてて、言った。「あなたがぜいたくや豊かな生活になれていらっしゃることはわたしも存じていますが、この世の偉人たちもあばら屋の屋根の下で片時をすごすことをいとわれないものです」
「とんでもありません」とアルカージイは大声で言った。「なんでぼくがこの世の偉人なもんですか? ぜいたくにだってなれていません」
「まあ、まあ」と愛想よく顔をしかめながら、老バザーロフが言い返した。「わたしは今じゃ廃物ですが、やはり世間でなみなみならぬ苦労をしてきました。鳥は飛びかたで見分けがつくもんです。わたしも自己流の心理学者で、人相学者なんですよ。わたしにこういった、言わば才能がなかったなら、わたしはとっくの昔にだめになっていたでしょう。わたしのようなちっぽけな人間は踏み潰されてしまったにちがいありません。おせじぬきで申しあげましょう。うちの伜と仲よくしていただいて、心から嬉しく思っています。わたしは今、息子に会ってきました。あれは、いつものくせで、多分あなたもご存じでしょうが、朝早くとび起きて、この近辺を駆け回りに行きましたよ。ちょっとおうかがいしますが――あなたはうちの息子をずっと以前からご存じなんですか?」
「この冬からです」
「そうですか。もう一つおうかがいしたいんですが――でも腰をおろした方がよくありませんか?――父親としてもう一つおうかがいしたいんですが、腹蔵《ふくぞう》のないところを。あなたはうちのエヴゲーニイのことをどうお思いですか?」
「ご子息は――ぼくがこれまで会った人のなかで、最もすぐれた人物の一人です」と勢いよくアルカージイは答えた。
老バザーロフの目は急に大きく見開かれ、頬にはかすかに赤みがさした。シャベルが手もとを離れて転がった。
「すると、あなたのお考えでは……」と彼は言いだした。
「ぼくは確信しています」とアルカージイが急いで言葉を引き取った。「ご令息を待ちうけているのは偉大な将来です。あなたのお名前を世間にひろめるにちがいありません。ぼくははじめて会ったときから、それを確信しているんです」
「それは。……それはどんなふうだったんでしょう?」老バザーロフはやっとのことでそう言った。喜びの微笑が彼の大きな唇をほころばせ、もはや消え去らなかった。
「ぼくたちが会ったときのことをお話ししましょうか?」
「ええ……ほかのいろいろなことも……」
アルカージイはバザーロフの話を、オジンツォーヴァとマズルカを踊った、あの晩以上に熱心に、夢中になって語りだし、話し始めた。
老バザーロフは一心にそれを聞いていた。彼は鼻をかんだり、手のなかでハンカチをまるめたり、咳をしたり、髪をかき乱したりしていたが――とうとうがまんできなくなって、アルカージイの方にかがみこんで、彼の肩にキスをした。
「おかげですっかり幸福な気持ちになりました」と相変わらず微笑をうかべたまま、彼は言った。「わたしは実を言うと……息子を熱愛しています。うちの婆さんのことは申すまでもありません。なにしろ母親ですから! でもわたしは、息子の前で自分の感情をあらわすようなことはしません、息子が嫌がりますから。あれは感情を表にあらわすことが大嫌いなんです。多くの人は彼の性質のこうしたかたくなさを非難さえしますし、高慢だとか、冷酷だとかいうふうにとります。しかし息子のような人間は普通の尺度ではかるべきではありません。そうでしょう? たとえば、ほかの者だったら親からさんざん捲きあげるにちがいありません。ところがうちの息子ときたら、どうでしょう、一文だって余分の金をもらったことがありません、本当ですとも!」
「エヴゲーニイ君は私欲のない、誠実な人です」とアルカージイが言った。
「まさしく私欲のないやつです。わたしはですね、アルカージイさん、息子を熱愛しているだけでなしに、誇りに思っています。わたしの野心といったらただ一つ、やがて息子の伝記にこういう言葉が書かれることなんですよ。『平凡な軍医の息子。父は、しかしながら、早くから息子の今日あるを予測し、その教育のためにはなにものをも惜しまなかった……』」老人の声はとぎれた。
アルカージイは彼の手を握りしめた。
「あなたのお考えはどうでしょう」と老バザーロフが、しばらく沈黙したあとできいた。「あなたが予言されるようにあれが有名になるとすれば、それは医学の方面じゃないでしょうね?」
「むろん、医学のほうじゃありません。もっともその方面でも一流の学者になるでしょうが」
「どんな方向でしょうか、アルカージイさん?」
「今それを言うことはむずかしいですね、しかし有名になりますよ」
「息子が有名になる!」と老人はおうむ返しに言うと、考えこんでしまった。
「奥さまが、お茶をどうぞと申しております」とアンフィースシュカが、大きな皿によく熟れたイチゴをのせて前を通りしなに、言った。
老バザーロフはびくっとした。
「イチゴにかける冷たいクリームは出るかね?」
「はい」
「冷たいのだよ、いいかい! ご遠慮なさらずに、アルカージイさん、たくさんお取りください。エヴゲーニイはどこへ行ったんだろう?」
「ここにいますよ」というバザーロフの声が、アルカージイの部屋から聞こえてきた。
老バザーロフがすばやくふり返った。
「ああ! お客さんを訪ねようと思ったのか。だが、おそかったな、amice(お前)。われわれはさんざん長話をしたところだ。もうそろそろお茶を飲みに行かなくちゃ。お母さんが呼んでいる。ときに、お前に相談があるんだが」
「なんですか?」
「ここの百姓頭が、疸血《たんけつ》病にかかって……」
「つまり黄疸《おうだん》ですね?」
「そうだ、慢性の、なかなか頑固な疸血病なんだ。わたしはヤグルマギクとオトギ草を処方してやり、人参を食べさせたり、ソーダをやったりしている。しかしこれはみんな|一時おさえ《ヽヽヽヽヽ》の方法なのだ。なにかもっと思いきったことをやらなくちゃならない。お前は医学を笑っているけれども、きっとわたしに、なにか実際的な助言を与えてくれることができるんだろう。しかしその話はあとだ。今はお茶を飲みに行くとしよう」
老バザーロフは元気よくベンチから立ちあがって、『鬼のロベール』〔ドイツのマイアーベーアのオペラ〕の一節を歌いだした。
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おきて おきて おきてを決めよう
よろ……よろ……よろこびに生きるため!
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「大した元気だなあ!」と窓のそばを離れながら、バザーロフが言った。
正午になった。太陽が、空一ぱいにひろがった白っぽい雲のうすいカーテンを通して、じりじりと照りつけた。万物が静まり返っていた。ただ雄鶏だけがそれに挑戦するように、村なかでときをつくっていた。その声を聞くとだれでも、眠いような、わびしいような、奇妙な感じに誘われるのだった。それから木の梢のどこか高いところで、若鷹が片時も休まずピーピー鳴く声が、哀れっぽい呼びかけのようにひびいていた。アルカージイとバザーロフは、乾いてさらさら音のする、けれどもまだ緑色をしていて香りの高い草を、二かかえほど下に敷きつめて、小さな稲むらの陰に寝転んでいた。
「あのヤマナラシを見ていると」とバザーロフは言いだした。「子供のころを思いだすよ。あの木は煉瓦小屋の跡にできた穴の縁《へり》に生えているのだ。そのころぼくは、あの穴とヤマナラシは特別な魔力を持っているものと信じていた。あのそばにいるとぼくはけっして退屈しなかったものだよ。当時は、自分が退屈しないのは子供だからなのだ、ということがわからなかったんだ。ところが今は大人になったものだから、魔力は効かなくなった」
「ここにはなん年ぐらいいたの?」とアルカージイがきいた。
「二年ほどだな。それから方々をまわった。ぼくらは放浪生活を送ったのだ。おもに町から町へ渡り歩いたよ」
「この家はだいぶ前からあったの?」
「だいぶ前からだ。おじいさんが、つまり母の父が建てたんだ」
「なんだったんだね、君のおじいさんは?」
「知るもんかい。大尉かなんかだよ。スヴォーロフ〔ロシヤの元帥〕の部下で、いつもアルプス越えの話をしていたっけ。きっと、嘘だよ」
「それで君んとこの応接間にスヴォーロフの肖像画がかかっているんだな。ぼくは君のうちみたいな、古風な、ほのぼのとした感じの家が好きなんだよ。家の中の匂いもなんだか特別だね」
「灯油とクローバーの匂いがするんだよ」とあくびをしながら、バザーロフが言った。「それにしてもこの愛すべき家にハエの多いのはどうだい……へっ!」
「ねえ君」としばらく黙っていてからアルカージイが言いだした。「君は子供のときにうるさく言われなかったかい?」
「ぼくの両親の人となりはごらんの通りだ。そんなに厳しい人たちじゃないよ」
「君は両親を愛しているかね、エヴゲーニイ?」
「愛しているよ、アルカージイ!」
「ご両親も大そう君を愛しているね!」
バザーロフはしばらく黙っていた。
「ぼくがなにを考えているか、わかるかい?」両手を頭のうしろに当てがいながら、とうとう彼が言った。
「わからない、なんだね?」
「ぼくは思うんだ。ぼくの親たちはこの世に生きているのがじつに楽しいんだな、と。親父は六十にもなるのに、忙しそうに駆けずり回って、『一時おさえ』の薬の講釈をし、みんなの治療をしてやり、農民たちを相手におうようにかまえている。要するに気晴らしをしているのだ。おふくろも幸福だ。一日があらゆる仕事や、感嘆や、ため息で一ぱいつまっているもんだから、われに返る暇もないくらいだ。ところがぼくは……」
「君は?」
「ところがぼくはこんなことを考えているのだ。ぼくは今こうして稲むらの陰に寝そべっている……ぼくが占めているこの狭い場所は、ぼくのいない、ぼくとなんのかかわりもないほかの空間に比べれば、取るに足らないほどちっぽけだ。それからまた、ぼくの生きられるわずかな時間は、ぼくのいなかった、またぼくがいなくなったあとの永遠の前では、無にもひとしい……が、この原子のなかでこの数学的な一点のなかで、血がめぐり、脳髄が働き、なにかを欲しているのだ……みっともないったらありやしない! じつにくだらないなあ!」
「君はそんなことを言うが、君の言っていることは一般にどんな人間にも当てはまることで……」
「その通り」とすかさずバザーロフが言った。「ぼくが言いたかったのは、あの連中が、つまりぼくの両親が、忙しくて、自分が取るに足らない存在だなどということなんか考えていない、なんとも思っちゃいない、ということなんだ……ところがぼくは……ぼくは倦怠と憎悪を感じているのだ」
「憎悪だって? なぜ憎悪を感じるんだね?」
「なぜだと? なぜとはなんだ? 君は忘れてしまったのか?」
「忘れるもんかい。しかし、それでもやっぱり君に腹をたてる権利があるとは思わないな。君は不幸だ、それには異論がない、しかし……」
「え! 君は、アルカージイ君、恋愛というものを近ごろの若い連中のように理解しているのだ。ト、ト、ト、ト、と雌鳥を呼んでおいて、雌鳥がそばへよってくると、一目散に逃げ出すんだからな! ぼくはちがう。しかしその話はたくさんだ。どうにもならないことを口にするのは恥だからな(彼は寝返りをうった)。おや! ほら、感心なアリが死にかかったハエをひっぱってゆく。ひっぱれ、偉いぞ、ひっぱれ! ハエがつっぱっても、ものともするな、お前は動物だから、思いやりの感情なんか認めなくたっていいんだぞ、自ら傷つくおれたち人間とはちがうのだ!」
「君らしくもないよ、エヴゲーニイ。いつ君は自分を傷つけたんだい?」
バザーロフは顔をあげた。
「ぼくの誇れるのはそれだけだよ。自分で自分を傷つけたことなんかないんだから。くだらない女にぼくが傷つけられることなんてあるものか。アーメン! もうおしまいだ! 二度とこんなこと口にしないぞ」
二人の友はしばらく無言のまま横になっていた。
「そう」とバザーロフは言いだした。「人間ておかしな存在だな。ここで『親父たち』が営んでいるわびしい生活を、はたから、遠く離れて見ていると、これ以上の暮らしはなさそうに見える。存分に飲んだり、食ったりして、この上なく正しい、この上なく分別のある行ないをしているのだから。ところがちがうんだな。退屈でやりきれなくなるのだ。人間どもを相手にしたくなる。ののしるためでもいいから、人間どもを相手にしたくなるのだ」
「生活のなかの一瞬一瞬に意義があるように、生活をたてなくちゃならないのだ」とアルカージイが物思いに沈みながら言った。
「そりゃそうだよ! 意義があるってことは、よしんばそれが偽りのものだろうと、気持ちがいいからな。しかし意義のないこととだって妥協できるよ……ところがいろんなわずらわしい気苦労……こいつが困りもんだ」
「気苦労なんてものは、それを認めようとしない人間にとっては存在しないよ」
「ふん……それは|逆の月なみな真理《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》を言っただけだ」
「え? それはなんのことだい?」
「こういうことさ。たとえば、啓蒙は有益だ、と言うと、それは月なみな真理だ。ところが啓蒙は有害だ、と言うと、それは逆の月なみな真理ということになる。その方が気がきいているみたいだが、本質は同じさ」
「じゃ真理はどこに、どちらの側《かわ》にあるんだい?」
「どこに? こだまのように『どこに?』と言うほかないな」
「君は今日ふきげんだね、エヴゲーニイ」
「そうかい? きっと日に当たりすぎたのと、イチゴの食いすぎだよ」
「そんなら一眠りするのも悪くないよ」とアルカージイが言った。
「いいね。ただぼくの顔を見ないでくれ。寝ているときはだれだってばか面をしているからな」
「人がどう思おうが、君にとっちゃ同じことじゃないのか?」
「なんて言ったらいいかな。本当の人間はそんなことを気にすべきではない。本当の人間というのは、その人のことを考える必要はないが、服従するか憎悪するかしなければならない、そういった人間のことだよ」
「おかしいな! ぼくはだれも憎んでなんかいないよ」と、ちょっと考えてから、アルカージイが言った。
「ぼくにはたくさんいる。君はやさしい心の持ち主で、優柔不断だから、憎めやしないよ! ……君はびくびくしていて、自信がないのだ……」
「じゃ君は」とアルカージイがさえぎった。「自信があるかい? 自分を高く買っているかね?」
バザーロフはしばらく黙っていた。
「ぼくに負けないような人間に出っくわしたら」と彼は一語々々はっきりと言ってのけた。「そのときは、自分についての考えを変えるさ。憎むことだ! たとえば今日、君は、百姓頭をしているフィリップの家――白い、なかなかすてきな家だ――の前を通りしなに、こう言ったろう、『一番貧乏な百姓がこのくらいの家に住むようになったら、ロシヤは完成の域に達するだろう。われわれはだれでもそのために協力しなければならない……』って。ところがぼくはフィリップだかシドールだか知らんが、その一番貧乏な百姓が憎らしくなったね。そいつのためにぼくがさんざ骨折らなくちゃならないのに、そいつはぼくにありがとうとも言わないのだ……それにありがとうと言われてみても始まらんしな。そりゃ、いつかは白い家に住むだろうが、そのころぼくの身体からは山ゴボウが生えているだろうよ。それから先、なにがあるってんだい?」
「たくさんだよ、エヴゲーニイ……今日は君の話を聞いていると、原理がないと言ってわれわれをとがめる人たちに、つい同意したくなるよ」
「君の伯父さんみたいなことを言うね。原理一般なんてものはないんだぜ――君はこれまでそれに気がつかなかったのかい! ――あるのは感覚だけだ。なにもかも感覚しだいさ」
「どうして?」
「そりゃこうだ。たとえばぼくが否定的な傾向を持っているのは――感覚のせいだ。ぼくは否定するのが楽しい、ぼくの脳髄がそのようにできている――それだけのことだ! なぜぼくは化学が好きか? なぜ君はリンゴが好きか? ――やっぱり感覚のせいだ。これはみな同じことだよ。これ以上奥へは人間はけっして入ることができない。だれもが君にこんなことを言うわけじゃない、それにぼくだってつぎの機会には君にこんなことは言わないよ」
「へえ? すると誠実ということも感覚かね?」
「むろん!」
「エヴゲーニイ!」とアルカージイが悲しげな声で言いだした。
「え? なんだい? 気に入らないのかい?」とバザーロフが出鼻をくじいた。「だめだよ、君! なにもかもなぎ倒そうと決めたからには、自分の足もとも払わなくちゃ! ……しかしぼくらはもういいかげん理屈をこねたね。『自然は眠りの沈黙をもたらす』とプーシキンは言った」
「プーシキンは一度もそんなこと言ってないぜ」
「なに、言わなかったとしても、詩人として言いそうなことだし、言ったにちがいない。ところでプーシキンは、軍隊に勤めていたことがあるにちがいないね」
「プーシキンは一度も軍人だったことはないよ!」
「とんでもない、彼は一ページごとに、『戦闘へ、戦闘へ! ロシヤの名誉のために!』と言ってるぜ」
「なんだって君はそんなでたらめを思いつくんだい! そこまでいっちゃ中傷だよ」
「中傷だって? 大それたことを言うね! そんな言葉でおどかそうってのかい! ある人間をどんなに中傷したところが、そいつは実際は二十倍も悪いことをしてるんだぜ」
「それより眠るとしよう!」とアルカージイはいまいましそうに言った。
「大賛成だ!」とバザーロフが答えた。
しかしどちらも眠れなかった。なにかしら敵意のような感情が二人の青年の心をとらえていた。五分ほどすると二人は目をあいて、黙って見交わした。
「見たまえ」と急にアルカージイが言った。「カエデの木の枯れ葉が枝を離れて地面に落ちてくる。そのさまがチョウの飛ぶのとそっくりだ。ふしぎじゃないか? 最も悲しい死んだものと、最も快活な生きているものとが似てるなんて」
「ねえ、君、アルカージイ君!」とバザーロフが大きな声で言った。「一つお願いがある。美文口調はやめておくれ」
「ぼくは自分にできる言い方をしているだけだ……それに、そんなことを言うのは専制主義だよ。ぼくの頭のなかにうかんだを言うのが、どうしていけないんだ?」
「そうだとも。しかしぼくだって自分の考えをのべていけないって法はあるまい? 美文口調で話すのはみっともない、とぼくは思っているのだ」
「じゃ、なにがみっともなくないんだ? 悪口を言い合うことかね?」
「おい、おい! 君は伯父さんのまねをしようというんだな。君の今の話しぶりを聞いたら、あの阿呆はよろこぶぜ!」
「君は今、パーヴェル伯父のことをなんて言った?」
「しごく当たり前に阿呆といっただけだ」
「それはしかし、聞きずてならんぞ!」とアルカージイは叫んだ。
「おや、おや! 肉親の感情がものを言いだしたんだな」とバザーロフは落ちつきはらって言った。「ぼくは気がついていたよ。その感情はきわめてしつように人間のなかにこびりついているんだ。人間はなんでも棄てることができるし、あらゆる偏見と手を切ることだってできる。しかし、たとえば、他人のハンカチを盗んだ兄弟を泥棒と認めることは――自分の力にあまることなのだ。それに実際、|おれ《ヽヽ》の兄弟が、天才でもなんでもないのに、|おれ《ヽヽ》の兄弟が……まさか、というわけさ」
「ぼくのなかにある公平という普通の感情がものを言ってるんで、けっして肉親の感情でものを言ってるんじゃないよ」とアルカージイは興奮して言い返した。「しかし君にはこの感情が理解できないんだから、君にはその感覚《ヽヽ》がないんだから、君はそれをとやかく言うことができないよ」
「言いかえれば、アルカージイ・キルサーノフは高尚すぎて、ぼくには理解できないってことだろう――ぼくは頭をさげて、沈黙するよ」
「もうやめてくれ、エヴゲーニイ、しまいに喧嘩になるぜ」
「ああ、アルカージイ! 一度思いきり喧嘩してみようじゃないか――徹底的に、へとへとになるまで」
「この調子だと最後は本当に……」
「取っ組み合いかね?」とバザーロフが引き取った。「いいじゃないか? ここで、干し草の上で、こんな牧歌的な道具立てのなかで、世間や人目のとどかぬところで――悪くないな。しかしぼくは君の手に負えまい。ぼくはいきなり君の喉をつかまえて……」
バザーロフは自分の長い、ごつごつした指をパッとひろげた……アルカージイは身をかわして、ふざけながら、抵抗の身がまえをした……しかし相手の顔はひどく不気味で、口もとのゆがんだうすら笑いにも、燃えるような目のなかにも、ふざけているとは思えない威嚇を感じたので、彼は思わずひるんだ……
「ああ! こんな所に忍びこんでいたのか!」と、その瞬間老バザーロフの声がひびいて、老軍医が若者たちの前に現われた。ホームスパンの麻の背広を着て、やはり手づくりの麦藁帽をかぶっていた。「ずいぶん探したよ……それにしてもいい場所をえらんで、すてきな仕事に身を任せたものだ。『大地』に横たわって、『大空』を仰ぐ……ねえ君たち――そこにはなにかしら特別な意味があるじゃないか!」
「ぼくが大空を仰ぐのは、くしゃみが出そうなときだけですよ」とバザーロフは言うと、アルカージイに向かって小声で言いそえた。「惜しいことをしたな、邪魔されて」
「もうたくさんだ」とアルカージイはささやいて、そっと友の手を握りしめた。「こう角突き合っていたんじゃ、どんな友情だって長持ちしないよ」
「君たち若い者を見ていると」と、一方老バザーロフは、首をふりながら、かつ両手を交叉させてステッキに身をもたせながら、言った。そのステッキは巧妙にねじって作った手製のもので、握りのところはトルコ人の首の彫刻になっていた。「君たちを見ていると、うっとりするね。君たちは力や、花咲く青春や、能力や、才気にみちている! まるでもう……カストルとポルックス〔ゼウスとレダのふたご〕といったところだ!」
「おやおや――今度は神話ときましたね!」バザーロフは言った。「昔、ラテン語が得意だったということがすぐにわかりますよ! お父さんはたしか、ラテン語の作文が優秀なので銀メダルをもらったんでしたね、そうでしょう!」
「ディオスクロイ〔カストルとポルックスをさす〕だ、ディオスクロイだ!」と老バザーロフはくり返した。
「しかしもうたくさんですよ、お父さん、おだてないでください」
「めったにこんな機会はあるもんじゃないよ」と老人はつぶやいた。「もっとも、わしが君たちを探しにきたのはおせじを言うためじゃない。第一に、まもなく食事になるということを知らせにきたのだ。第二に、お前に前もって断わっておこうと思ってな、エヴゲーニイ……お前はものわかりのいい人間で、人間というもの、女というものを知っているから、とがめだてはしないだろうと思うが……母さんが、お前が帰ってきたのを機会にご祈祷してもらいたいと言ってな。しかし、なにもわしがお前をその祈祷式に引っぱりだそうというんじゃないんだよ。もう終わったんだから。ただアレクセイ神父が……」
「坊主ですか?」
「そう、司祭だ。その方がうちで食事していかれる……そんなことを予期しなかったし、すすめたわけでもないが……つい、そういうことになってしまったのだ……わしの話がわからなかったもので……まあ、それに、アリーナも……それにその方は大そうりっぱな、もののわかった人なんだよ」
「まさかその人が食事のときに、ぼくの分まで食っちゃうわけじゃないでしょう?」とバザーロフがきいた。
老バザーロフは笑いだした。
「とんでもない、なにを言うんだね、お前!」
「それ以上になにも要りませんよ。ぼくはだれとだって食事を共にする用意があります」
老バザーロフは帽子をなおした。
「お前がどんな先入観をも超越しているということは」と彼は言った。「わしには前からわかっていたよ。このわしなんぞ六十二にもなる年よりだが、そんなものは持っておらん(老バザーロフは、自分が祈祷を望んだのだということを言いだしかねた……彼は妻におとらず信心ぶかかった)。きっとお前もあの方が好きになるよ、今にわかる。カルタだってまんざら嫌いじゃないほうだし、それどころか……これは内しょだが……タバコだって吸うんだ」
「いいじゃありませんか。食事後に一勝負やりましょう、ぼくが坊さんを負かしてやりますよ」
「へ、へ、へ、どうだか! わかったもんじゃないよ」
「どうです? お父さんも昔に返ってやってみたら?」とバザーロフがとくに力をこめて言った。
老バザーロフのからかね色の頬がかすかに赤みをおびた。
「はしたないことを言うんじゃない、エヴゲーニイ……昔のことはすんだことだ。そりゃね、わしは|この方《ヽヽヽ》の前ではっきりと、若い時分には本当にカルタに熱中したもんだいうことを認める用意があるよ――しかしその償いはしたからな! それにしてもなんて暑いんだろう。そばにかけさしてください。お邪魔じゃありませんか?」
「ちっとも」とアルカージイは答えた。
老バザーロフはうめくような声をたてながら腰をおろした。
「君たちの寝床はわしに」と彼は話し始めた。「わしの軍隊時代の野営生活や、包帯所を思いださせるよ。やっぱりこんなふうに、そばに稲むらなんかあってな。でも、稲むらでもあればましな方だった」彼はため息をついた。
「一生の間にはずいぶんといろんなことがあった。なんでしたら、ベッサラビヤでペストが流行《はや》ったときの話をお聞かせしましょうか?」
「お父さんがウラジーミル勲章をもらったときの、あれでしょう?」とバザーロフが引き取った。「知ってますよ、知ってますよ……ところで、今日はどうしてあれをつけていないんですか?」
「わしは先入観を持たんと言ったろうが」と老バザーロフはつぶやいて(彼はつい前の晩にフロックコートから勲章の赤い綬《じゅ》を外しておくように言いつけたのだった)ペストのエピソードを語りだした。「あれは寝こんでしまいましたよ」と彼はとつぜんバザーロフを指してアルカージイにささやいた。好人物らしく目くばせしながら。「エヴゲーニイ! 起きろ!」と彼は大声でつけ加えた。「食事に行こう……」
アレクセイ神父は堂々とした肥った男で、濃い髪の毛に丹念に櫛を入れ、フジ色の絹の衣に縫い取りのあるバンドをしていた。彼はなかなか如才ない、気転のきく人とわかった。彼はまず急いでアルカージイとバザーロフの手を握った。二人が自分の祝福を必要としないことを予め理解しているかのように。そして彼は一般にさりげない態度をとった。自分の正体もあらわさなければ、ひとの癇どころにもさわらなかった。ことのついでに神学校の生徒のラテン語のできないのを笑い、自分の管区の主教の味方をした。酒を二杯飲んで、三杯目は辞退した。アルカージイのさし出した葉巻を受け取ったが、家へ持って帰ると言って、その場では吸わなかった。ただあまり感じのよくなかったのは、いつも手をゆっくりと用心ぶかく持っていき、顔にとまっているハエをつかまえ、時おりそれを圧しつぶしたことである。彼はおだやかな満足の色をうかべて緑色のテーブル〔カルタ用〕に坐り、とどのつまり、バザーロフから紙幣で二ルーブリ五十コペイカをせしめた。アリーナの家では、気転をきかして銀貨で支払う〔当時は銀貨と紙幣の価値がちがっていた〕ことなど思いもつかなかったのである……彼女は相変わらず息子のそばに坐り(彼女はカルタをしなかった)、相変わらず片手で頬杖をつき、立ちあがるのはきまって、なにか新しい食べ物を言いつけるためであった。彼女はバザーロフにやさしい言葉をかけてやるのを恐れた。息子もまた彼女につけ入る隙を与えなかった。その上、老バザーロフも、あまり『うるさく』しない方がいい、と彼女に注意したからである。「若い者はそれを嫌がるのだ」と彼はくり返し彼女に言ったのだ。
(断わるまでもなく、その日の食事はすばらしかった。チモフェーイチが自分から、朝まだきに家をとび出して、チェルカッスイ産の特上の牛肉を買いに行った。百姓頭は別の方面へ川メンタイ、スズキ、エビを買いに出かけた。キノコ代だけでも銅貨で四十二コペイカを百姓女たちに支払った)しかし片時も目を離さずにバザーロフを見ているアリーナの目は、服従と柔和だけをあらわしているのではなかった。そのなかには好奇心や恐怖とまじり合った悲しみもまたうかがわれたし、なにかしらつつましやかな非難もうかがわれた。
しかしバザーロフは、母の目が一体なにをあらわしているのかをせんさくするどころではなかった。彼はめったに母の方を向かなかったし、向いても短い問いを発するだけだった。一度、彼は彼女に『幸運』のおまじないを頼んだ。彼女は自分のやわらかい手をそっと、息子のごつごつした大きな手のひらの上にのせた。
「どうだい、効き目はなかったかね?」と、しばらくたってから彼女はきいた。
「一そう悪くなりましたよ」と無遠慮なうすら笑いをうかべて彼は答えた。
「どうも冒険がすぎますな」と哀れむかのようにアレクセイ神父は言って、自分の美髯《びぜん》をなでた。
「ナポレオンの戦術といきますよ、神父さん、ナポレオンの」と老バザーロフは応酬して、ポイントから始めた。
「その結果はセント・ヘレナに島流しというやつで」とアレクセイ神父は言って、切り札でポイントを切った。
「すぐり水はいらないかい、エニューシェチカ?」とアリーナがきいた。
バザーロフは両肩をすぼめただけであった。
「だめだ!」と彼は次の日アルカージイに言った。「あした出発するよ。退屈だもの。勉強したくてもここじゃできない。また君の村へ行こう。ぼくは実験道具をそっくりあそこに置いてきちゃったんだ。君の家なら少なくとも閉じこもっていられるからな。ところがここだと、親父はくり返しくり返し、『わしの書斎を使ってくれ――だれも邪魔しないよ』と言うくせに、一歩もぼくのそばを離れないのだ。それに親父を敬遠して閉じこもるのもなんだか悪くってな。おふくろだってそうだ。壁の向こうでため息をついているのが聞こえるもんだから、出て行ってみると、おふくろにはなにも話すことなんてないんだ」
「お母さんはがっかりするよ」とアルカージイは言った。「それにお父さんだって」
「もう一度帰ってくるよ」
「いつ?」
「ペテルブルクへ発つときだ」
「ぼくはとくにお母さんが気の毒だな」
「どうして? イチゴをご馳走してくれたからかい?」
アルカージイは目を伏せた。
「君は自分のお母さんを知らないんだよ、エヴゲーニイ。君のお母さんはりっぱな婦人というだけでなく、大そう賢い人だよ、本当に。今朝ぼくと半時間ほど話したけれど、じつに要領を得ていて、面白かった」
「きっとぼくのことをしゃべりたてたんだろう?」
「君の話ばかりでもなかったさ」
「そうかも知れない。はたから見ている方がよくわかるだろう。女が三十分も対談できるなら、それはいい徴候だ。でもやっぱりぼくは出かけるよ」
「ご両親に言い出すのは気苦労だぜ。二人はぼくたちが二週間後にどうするのか、いつもそれを話し合っているんだから」
「つらいね。今日は魔がさして親父をからかってしまった。親父は二、三日前、ある雇人を鞭でたたくように命じたのだ。それはしごくけっこうなことだったんだ。そう、そうなんだよ、おい、そんなに怖い顔をしてぼくを見ないでくれ。しごくけっこうなことだったのだ。なぜならそいつは泥棒で、手のつけられない飲んだくれなんだから。ただ親父は、まさかそれがぼくに露顕するとは思わなかったのさ。ひどくあわてていたが、今度はそれどころか、親父を悲しませなくちゃならない……かまやしない! じきなおるさ」
バザーロフは「かまやしない」と言ったが、自分の予定を父親に知らせる決心がつかないまま、一日がすぎてしまった。ようやく、書斎でお休みなさいを言うだんになって、彼はわざとらしいあくびをしながら言った。
「そうだ……もう少しで忘れるところだった……明日、うちの馬をフェドートのところへ替え馬に出すように言いつけてくれませんか」
老バザーロフはびっくりした。
「キルサーノフさんがお発ちになるのかい?」
「ええ。ぼくも一しょに行きます」
老バザーロフはその場でよろめいた。
「お前が行くのかい?」
「ええ……行かなくちゃなりません。どうか、馬の手配をしてください」
「いいとも……」と老人はつぶやくように言って、「替え馬をね……いいとも……ただ……ただ……ずいぶんだしぬけだね?」
「ぼくはしばらくのあいだアルカージイの家へ行ってこなければならないんです。あとで、もどってきますよ」
「そうか! しばらくのあいだか……いいとも」老バザーロフはハンカチを取り出し、はなをかみながら、しゃがみこんだ。「いいよ……ちゃんと……用意させておくよ。わしはまた、お前が……もう少し長くうちにいると思ったよ。三日……三年ぶりにしちゃ、もの足りないな。もの足りないよ、エヴゲーニイ!」
「だから、すぐもどってくる、と言ってるでしょう。ぜひとも行かなくちゃならないんですよ」
「ぜひともね……いいじゃないか。業務を果たすことが第一だ……じゃ、馬を出すんだね? よろしい。むろん、わたしやアリーナはそんなことを予期していなかったよ。あれは今日もお隣の奥さんに、花をわけてくれるように頼んでいた。お前の部屋を飾ろうと思ってな(老バザーロフは、毎朝夜が明けるが早いか、素足に上靴をつっかけたまま、チモフェーイチと相談をして、ふるえる指で破れた紙幣を一枚一枚取り出し、彼にいろんな買い物を頼んだことには触れなかった。買い物のなかでもとりわけ食料品と赤ぶどう酒には気をくばった。赤ぶどう酒は、気がついたかぎりでは、若者たちに大へん気に入ったのだった)。大事なのは自由だ。それがわしのモットーでな……おしつけはいかん……いかん……」
彼は急に口をつぐんで、戸口に向かった。
「またすぐに会えますよ、お父さん、本当です」
しかし老バザーロフはふり返りもせずに、片手をふっただけで出て行った。寝室へ帰ってみると、妻はもう寝床に入っていた。彼は妻が目を覚まさないように小声でお祈りを始めた。けれども彼女は目を覚ましてしまった。
「あんたなの、ワシーリイ・イワーヌイチ?」と彼女がきいた。
「わしだよ、お前!」
「エニューシャのところへ行ってたんでしょう? ねえあなた、わたし心配なの。ソファーの上で安眠できるかしら? わたしアンフィースシュカに命じて、あんたの行軍用のふとんと新しいクッションを敷かせましたの。わたしたちの羽ぶとんをやってもいいんだけど、あの子はたしか、やわらかい寝床が嫌いだったでしょう」
「大丈夫だよ、お前、心配しなくていい。あれでけっこうなんだ。神よ、われら罪びとをあわれみたまえ」と彼は小声でお祈りをつづけた。老バザーロフは老妻を哀れに思った。彼は、夜を前にして、どんな悲しみが彼女を待ちうけているかを、彼女に知らせたくなかったのである。
バザーロフとアルカージイはつぎの日に出発した。朝のうちから家じゅうがふさぎこんでしまった。アンフィースシュカは皿を取り落とした。フェージカでさえ変に思って、とうとう長靴を脱いでしまった。老バザーロフはいつもより一そう忙しそうに駆けずり回った。彼はから元気を出して、大声で話し、足を踏み鳴らしたが、顔は急に痩せこけて、視線はたえず息子をさけていた。アリーナはそっと泣いていた。もし夫が朝早くまる二時間もかけて彼女を説得しなかったなら、彼女はすっかり取り乱して、われを忘れてしまったにちがいない。バザーロフは、一月とたたないうちにかならず帰ってくるとなん度も約束したのち、自分を引きとめている抱擁からやっと身をふりほどいて旅行馬車に乗りこんだ。
馬が動きだした。鈴が鳴って車輪がまわり始めた。馬車の立ち去ったあとを見てももうなにも見えなくなり、ほこりもしずまった。チモフェーイチがすっかり背中を丸めて、よろめきながら、のろのろと自分の小部屋へもどって行った。老人夫婦だけが、やはり急にちぢこまって老いさらばえてしまったようなわが家のなかに取り残された。ついさっきまで昇降口の上で元気よくハンカチを握っていた老バザーロフは、ぐったりと椅子に腰をおろして、頭を胸にうずめた。
「わしらを捨てて、行ってしまった」と彼はつぶやくように言った。「行ってしまった。わしらと一しょにいるのが退屈になったのだ。今はもうこの指みたいにひとりぼっち、ひとりぼっちだ!」と彼はなん度かくり返して言い、そのつど人|指《さ》し指をおったてた片手を前に突き出すのだった。そのときアリーナがそばへやってきて、自分の白髪頭を夫の白髪頭にもたせかけて、こう言った。
「しかたがありませんよ、あなた! あの子だって一人前ですもの。あれはタカとおんなじです。来たくなったので、飛んで来て、行きたくなったので、飛んで行ったのです。ところがわたしたちは、うろのなかのキノコみたいに、ならんで坐ったきり、場所を動こうともしません。わたしだけはいつまでも変わることなくあなたのために残っていますよ。ちょうどあなたがわたしのためにいつまでも残ってくださるように」
老バザーロフは顔から手を離して妻を、おのが伴侶を、若いときでさえしたことがないほど強く抱きしめた。彼女は彼が悲しみにくれているのを慰めてやることができたのだ。
二十二
ただ時おり意味のない言葉を交わすだけで、ほとんど口もきかずに、二人の友はフェドートのところまで乗って行った。バザーロフはあまり自分に満足していなかった。アルカージイは彼に不満だった。その上、彼は心のなかで、ごく若い人たちの知っている、あのいわれのない悲しみを感じていた。御者は馬をつけかえて、御者台にあがると、右か左かときいた。
アルカージイは身ぶるいした。右の道は町からわが家に通じていた。左の道はオジンツォーヴァの村に通じていた。
彼はバザーロフを見やった。
「エヴゲーニイ」と彼はきいた。「左かい?」
バザーロフはそっぽを向いた。
「ばかばかしい」と彼はつぶやいた。
「ばからしいってことは、ぼくも知ってるよ」とアルカージイは答えた。「でも別に大したことでもあるまい。はじめてじゃないんだし」
バザーロフは帽子をまぶかにかぶった。
「適当にやってくれ」と、とうとう彼は言った。
「左だ!」とアルカージイが叫んだ。
旅行馬車はニコーリスコエ村をさして走りだした。しかし|ばかげたこと《ヽヽヽヽヽヽ》を決めてしまうと、二人はさっきよりも一そうかたくなに黙りこくって、腹を立てているように見えたほどだった。
オジンツォーヴァ邸の玄関で執事が二人を迎えたときのようすで、彼らは、このとつぜん思いついた気まぐれな行動が、軽率だったことに気づいた。まさか彼らがやってこようとは思っていなかったのだ。彼らは客間にかなり長いあいだばかげた顔つきをして坐っていた。やっとオジンツォーヴァが現われた。彼女はいつものように愛想よく彼らを迎えた。けれども彼らがこんなに早く帰ってきたのに驚いていたし、のろのろした動作や言葉つきから察するところでは、あまり訪問を喜んでいなかった。彼らは急いで、自分たちはただ寄り道をしただけで、あと四時間もすればこの先の町へ出かけるのだ、と言いわけをした。彼女はわずかに感嘆の声をもらしただけで、アルカージイに向かってお父さまによろしくと言い、自分の伯母を呼びにやった。老公爵令嬢はねむそうな顔をしてやってきたが、そのため彼女のしわだらけの年とった顔の表情は、いっそう意地悪そうに見えた。カーチャは気分がすぐれず、自分の部屋から出て来なかった。アルカージイはふと、自分は、すくなくともオジンツォーヴァに会いたいのと同じくらいに、カーチャに会うことを望んでいる、と感じた。あれこれとつまらない話をしているうちに四時間はたってしまった。オジンツォーヴァは人の話を聞いているときも、自分で話しているときも笑顔を見せなかった。別れぎわにやっと、以前の友情が彼女の心のなかにおこったようであった。
「わたしはいま、憂うつ病なのです」と彼女は言った。「でもあなたがたはそれを気にしないでください。しばらくしてから、これはお二人に申しあげるんですが、またいらしてください」
バザーロフも、アルカージイも彼女に黙礼すると、馬車に乗り、もうどこへもとまらずにマリーノ村へ向かった。そしてそこに、つぎの日の夕がた無事に到着した。道中ずっと二人とも、オジンツォーヴァの名前すら口にしなかった。とくにバザーロフはほとんど口を開《ひら》かず、なにかしら激して、はりつめた表情で、街道を離れた脇の方をいつまでも見ていた。
マリーノ村ではみんなが二人の帰りをひじょうに喜んだ。息子たちがなかなか帰ってこないのでニコライ・ペトローヴィチはそろそろ心配になりだしたところだった。フェーネチカが目を輝かせて彼のところへ駆けつけて、『若だんなたち』の到着を告げたとき、彼は喜びの叫び声をあげ、両足をバタバタさせ、ソファーの上で跳びはねた。パーヴェルさえ、帰ってきた放蕩者たちの手をゆすぶりながら、多少こころよい興奮を覚え、おうように微笑をうかべた。
よもやま話や質問が始まった。話したのはおもにアルカージイであった。ま夜中すぎまでつづいた夜食のときにはとりわけそうだった。ニコライ・ペトローヴィチはモスクワから取りよせたばかりのポーター〔英国産黒ビール〕を五、六本出すように命じ、自分も一しょになって羽目を外して飲んだものだから、しまいにとうとう彼の頬は桜色になった。彼はその間ずっと子供のような笑いとも、神秘的な笑いともつかない笑い声をたてるのだった。うきうきしたみんなの気分は召使たちにも伝わった。ドゥニャーシャは炭火にあたったようにあちらこちら駆け回り、しょっちゅうドアをバタンとしめるのだった。ピョートルは夜中の二時をすぎているのになおも、ギターでコサック・ワルツをひこうと試みた。弦はよどんだ空気のなかで哀れっぽく気持ちよくひびいたが、しかし、最初の装飾音の小部分をのぞいて、この教養ある侍僕の音楽はてんでものにならなかった。自然は彼に、ほかのあらゆる才能と同じく、音楽の才能をも与えてくれなかったのである。
ところでマリーノ村の生活はあんまりはかばかしくなく、かわいそうにニコライ・ペトローヴィチは四苦八苦だった。農園の苦労は日ましにふえるばかりだった――面白くもない、無意味な苦労が。雇人どものいざこざはがまんのならないものとなっていった。賃金の清算や増額を要求するものがあるかと思うと、手付け金を取って逃げる者もいた。馬が病気にかかるし、馬具はだめになるし、仕事はいいかげんにやられた。モスクワから取りよせた打穀機は重すぎて役に立たなかった。もう一つの方は一度でこわれてしまった。家畜小屋が半焼した。その原因というのは、召使の盲の婆さんが、自分の手の病気をいぶしてなおそうと思い、風のある日に燃えさしを持ちこんだからである……もっともその老婆の断言するところによると、こうした災難はみな、旦那が、なにかしらこれまであったこともないチーズや乳製品をつくろうと考え出したからなのであった。支配人は急に怠けだして、肥り始めさえした(ロシヤ人はだれでも『気楽に飯が食える』ようになると、肥りだすのだ)。遠くからニコライ・ペトローヴィチの姿を見かけると、彼は、自分の精励を見せるために、そばを駆けぬける豚の仔に木ぎれを投げつけたり、半裸の男の子をおどかしたりするのだったが、しかし、どっちかといえば寝ているときの方が多かった。小作人たちは期限内に金を納めず、森の木を盗伐した。ほとんど毎晩のように番人は『農園』の草地で百姓たちの馬をつかまえた。ときには腕ずくで取り上げることもあった。ニコライ・ペトローヴィチは損害に対して罰金を取ることはしたが、事件は大てい、一日か二日地主のもとでかいばをやったのち、馬を持ち主に帰してやることで終わりをつげた。かてて加えて、百姓たちが仲間同士で喧嘩を始めた。兄弟が財産の分割を要求したり、よめ同士が一つ家内でなかよく暮らすことができなかったりして、不意につかみあいが始まる。すると号令でもかけられたかのように、みんなで事務所の玄関口におしかけ、旦那にうるさくつきまとい、しばしばぶちのめされた顔をして、酔いどれ姿で裁きと処罰を要求した。さわぎが始まり、大声で泣きだし、わめき、女の泣き叫ぶ金切り声と男の罵声とが入りまじった。反目している両者の言い分を聞き、どうせまともな決定は下せないとあらかじめわかっていながら、自分でも声がかれるまで怒鳴らなければならなかった。取り入れをするのには手不足だった。近所の小地主が、なにくわぬ顔をして、一ヘクタール当たり二ルーブリで刈り手を世話してやると言って、この上なく恥知らずなやり口で彼をだましたこともあった。自分の村の百姓女たちは途方もない手間賃をふっかけてきた。そうこうするうちに穀物は畠にこぼれてしまうし、刈りいれはなかなかうまくすすまない。一方、後見会議院は利子をすぐ全額納めるようにときびしく催促する……
「とてもだめだ!」と、ニコライ・ペトローヴィチは一度ならず絶望して叫んだ。「自分でつかみあいをやるわけにもいかないし、警察署長を呼びにやるのは――主義がゆるさない。ところが罰するぞとおどかさないことには、どうにもならないのだ!」
「Du calme, du calm(落ちついて、落ちついて)」とパーヴェルはそれに答えて言うのだったが、そういうご当人はただのどを鳴らして、顔をしかめ、口ひげをひねるだけであった。
バザーロフはこうした『わずらわしさ』から遠ざかっていた。それに客である彼としては、ひとの事件にくちばしをいれるわけにいかなかった。マリーノ村へ着いた翌日から彼は蛙や、滴虫類や、化学成分の研究をはじめ、ずっとかかりきりだった。反対にアルカージイは、父の手助けはできなくとも、すくなくとも、手助けをする用意があるというようすを見せることを、自分の義務と考えた。彼はしんぼう強く父の話を聞いてやり、あるときなどは助言まで与えたが、父がその通りにすることを期待したからではなく、自分も関心を持っていることを表明するためであった。彼は農事経営が嫌いではなかった。彼はむしろ喜んで農事活動を空想していたが、しかしそのころ彼の頭のなかには別の考えがうかびだした。アルカージイは、われながら驚いたことには、たえずニコーリスコエ村のことを考えていた。以前なら、もしもだれかに、バザーロフと一つ屋根の下に――しかもほかならぬ自分の両親の家の屋根の下に住んでいるんじゃ退屈だろう、と言われたら、彼はただ肩をすぼめたことであろう。しかし彼は本当に退屈で、遠くに心をひかれるのだった。彼は疲れるまで散歩することを思いついたが、それも効き目がなかった。
あるとき父と話しているうちに、彼はふと、父親のところに、かつてオジンツォーヴァの母が彼の亡き母に宛てて書いたかなり興味ある手紙が数通あることを知り、うるさくねだったあげく、とうとうその手紙をもらうことになった。そのためニコライ・ペトローヴィチは二十ものいろいろな箱やトランクの中をかきまわさなければならなかった。これらの半ば腐りかけた紙きれを自分のものにしたとき、アルカージイは心が落ちついたみたいだった。ちょうど目の前に自分の向かって進むべき目標を見出だしたかのように。「『これはあなた方お二人に申しあげるのですが』」とたえず彼は小声でひそひそ言った。『と、あの女はつけ加えて言ったっけ。行ってやるぞ、行ってやるぞ、畜生め!』しかし彼はこの間の訪問を、冷ややかな応接とはじめのころの窮屈さを思い出して、心がひるんだ。若者らしい『なんとかなる』という気持ちと、自分の幸運をためしてやろう、だれの保護もうけないでひとりで自分の力をためしてみたいという願望――がとうとう勝ちを制した。マリーノ村へ帰ってきてから十日とたたないうちに、彼はふたたび、日曜学校の制度を調べるということを口実にして、町へ馬車を駆り、そこからニコーリスコエ村に向かった。たえず御者をせきたてながら、彼は同地へ、戦場に赴く若い将校のように急いだ。恐ろしくもあれば、楽しくもあり、もどかしさに息がつまりそうだった。『大事なのは、くよくよ考えてはいけないことだ』と彼は、くり返し自分に言い聞かせた。御者はいなせな男だった。酒場の前にさしかかるたびに、『いっちょうやるかね?』とか、『どうだね、一ぱい?』とか言って馬車をとめた。その代わり、|一ぱいやった《ヽヽヽヽヽヽ》あとでは、馬を思いっきりひっぱたいた。とうとう見覚えのある家の高い屋根が見えてきた……『おれはなんてことをしてるんだろう?』という考えが頭のなかにひらめいた。『でも引っ返すわけにはいかないんだ!』三頭立ては足なみをそろえてひた走りに駆けた。御者はかん声をあげ、口笛を吹いた。ほら、もう、橋板がひづめと車輪の下でとどろいた。ほらもう、刈りこまれたモミの木の並み木がのしかかってくる……バラ色の婦人服が暗緑色の中に見え隠れした。若い女の顔がパラソルの軽やかな房の下からのぞいた……それはカーチャであった。彼女も彼に気がついた。アルカージイは御者に命じて勢いよくかけている馬をとめさせ、馬車から跳びおりてそばによった。「まあ、あなたですの!」と彼女は言って、しだいに顔を赤らめた。「姉さんのところへ行きましょう、そこに、庭にいますの、あなたを見たら喜ぶわ」
カーチャはアルカージイを庭へ案内した。彼女とばったり出会うなんて、なんと幸先がいいんだろうと彼は思った。彼は彼女に会って、恋人に出会ったように喜んだ。なにもかもじつにすらすらうまくいった。執事も、取りつぎもいらなかったのだ。道の曲がり角まで行くと、オジンツォーヴァの姿が見えた。彼女は彼に背中を向けて立っていた。足音を聞きつけて彼女はそっとふり向いた。
アルカージイははじめどぎまぎしたが、しかし彼女の言った最初の言葉がすぐに彼の気を落ちつかせた。「いらっしゃい、逃げてきたのね!」と彼女は、おだやかな、愛想のいい声で言うと、微笑をうかべ、目を細くして日光と風をよけながら、彼の方に歩いてきた。「どこかでお会いしたの、カーチャ?」
「ぼくはあなたに、オジンツォーヴァさん」と彼は言いだした。「思いがけないものを持って参りましたよ……」
「あなたはご自分を持っていらしたでしょ。それがなによりですよ」
二十三
嘲笑的な同情の色をうかべてアルカージイを見送り、旅行の本当の目的のことで自分はすこしもだまされていないのだ、ということを彼にさとらせたのち、バザーロフは完全に孤独になった。彼は夢中で仕事を始めた。パーヴェルとはもう議論しなかった。まして先方が彼のいるところでは、きわめて紳士的な態度をとり、自分の意見をのべるときには言葉というよりも、むしろ音声によったからには、なおさらのことであった。ただ一度だけパーヴェルは、その当時|流行《はや》っていたバルト海沿岸諸州の貴族たちの権利問題で、|ニヒリスト《ヽヽヽヽヽ》と議論しかけたことがある。けれども、冷ややかないんぎんさでつぎのように言って急に自分からやめてしまった。
「しかしわたしたちはお互いに理解し合うことができませんね。すくなくともわたしは、あなたを理解する光栄を有しておりません」
「もちろんですとも!」とバザーロフは声を高めて言った。「人間はなんだって理解できます――エーテルがどのように振動するかということも、太陽でなにがおきているかということも。しかしほかの人間が、どうして自分とちがった鼻のかみかたをするのか、なんてことは理解できませんからね」
「なんですって、それは皮肉ですか?」とパーヴェルは問いただすように言うと、わきへ離れてしまった。
とはいえ、彼は時おり、バザーロフの実験のときに居合わせる許しを請うたし、ある時などは上等の化粧水で磨きたてた、香水の匂いのぷんぷんする顔を顕微鏡に近づけて、透明な滴虫類がみどりの微粒子をのみこんだり、のどのところにあるひじょうに敏捷な触手のようなものでせわしげに噛みくだいているのを見たこともあった。ニコライ・ペトローヴィチは兄よりもずっとひんぱんにバザーロフをおとずれた。もしも農事経営のわずらわしさにさまたげられなかったならば、彼は毎日のように、彼の言葉によれば、『勉強』に来たことであろう。彼は若き自然科学者のじゃまをするようなことをしなかった。どこか部屋のすみに腰をおろして、注意ぶかく見ており、時おり慎重な質問をするだけであった。夕食や夜食のとき、彼は話を物理学や、地質学や、化学に向けようとつとめた。というのは、ほかの話題はすべて、政治上の話はもとより、農事経営の話でさえ、衝突とまではいかなくても、おたがいを不愉快にさせるおそれがあったからである。
ニコライ・ペトローヴィチはバザーロフに対する兄の憎しみがすこしも減っていないのを、うすうす感づいていた。多くのいろいろなできごとのなかで、ある些細なできごとが、彼の推測の当たっていることを示した。近在のあちらこちらにコレラが発生して、当のマリーノ村からも、百姓が二人『持っていかれた』。ある晩パーヴェルはかなり強烈な発作を起こした。彼は朝まで苦しみ通したが、バザーロフに診てもらおうとはしなかった。翌日バザーロフと顔を合わせたとき、「なぜぼくを呼びによこさなかったんですか?」という問いに答えて、まだまっ青な顔をしながら、それでももう念入りに髪をなでつけ、ひげを剃っていたが、こう答えたものである。「でも、あなたは、たしか、医学を信じていない、といつかご自分で言われたでしょう?」こうして日々がすぎていった。バザーロフは頑強に、気むずかしい顔で仕事をした……ところでニコライ・ペトローヴィチの家に、心のなかを打ちあけて話せるとまではゆかなくとも、気持ちよく話せる人間が一人いた……それはフェーネチカであった。
バザーロフが彼女と顔を合わせるのは大てい朝で、庭園か戸外《そと》であった。彼女の部屋にたちよるようなことはなかったし、彼女も一度だけ彼の部屋の戸口まできて、ミーチャにお湯を使わせたものかどうかきいたことがあるだけだった。彼女は彼を信用していて、彼を怖がらなかったばかりでなく、彼の前では、あのニコライ・ペトローヴィチの前でよりも、一そう気ままに自由に、うちとけたようすでふるまった。どうしてそういうことになったのかは言いにくい。おそらく、彼女は無意識のうちに、バザーロフには貴族的なところが、自分をひきつけもするが、おびやかしもする、あの高尚なものがない、ということを感じたからであろう。彼女の見るところでは彼はすぐれた医者でもあれば普通の人間でもあった。彼女は彼がいても遠慮せずに赤ん坊の世話をしたし、あるときなどは急に目まいがして、頭が痛くなったので、彼の手から一さじ薬をのませてもらったことさえあった。ニコライ・ペトローヴィチの前では彼女はバザーロフによそよそしい態度をとった。彼女がそうしたのはずるい考えからではなく、たしなみといった気持ちからだった。彼女はこれまでになくパーヴェルを恐れていた。彼はいつごろからか彼女を監視するようになり、まるで地中からわいて出たように不意に彼女の背後に立っているのだった。例の背広姿《ヽヽヽ》で、動きのない鋭い顔つきをして、両手をポケットにつっこんだまま。「冷水でも浴びせられたようにぞっとするわ」とフェーネチカはドゥニャーシャに訴えたが、ドゥニャーシャはそれに答えてため息をつきほかの『冷たい』男のことを考えていた。バザーロフは、自分ではそんなこととは夢にも知らないうちに、彼女の心の|残忍な暴君《ヽヽヽヽヽ》となっていた。
フェーネチカはバザーロフが好きだった。しかしバザーロフもフェーネチカが好きだった。バザーロフがフェーネチカと話しているときには、彼の顔つきが変わった。その顔は明るい、ほとんどやさしいといってよい表情となり、いつものむぞうさな態度に、おどけたやさしさのようなものが加わった。フェーネチカは日ましに美しくなっていった。若い女の生活には、夏のバラのように、急に花が咲き、開き始める時期がある。そうした時期がフェーネチカにもやってきたのだ。なにもかもが、そのころつづいていた七月の炎熱さえもが、それを助長した。軽やかな白い服を着ていると、当人までが、白く、軽やかに見えた。日にやける方ではなかったが、さすがに暑熱はしのぎがたく、頬や耳は赤く染まり、身体じゅうがけだるくて、美しい目は眠そうにとろんとしていた。彼女はほとんど働くことができなかった。両腕がひとりでに膝の上にすべり落ちた。彼女は歩くのもやっとのことで、たえずため息をしたり、おかしいほどぐったりとしたようすで暑さを訴えていた。「ちょいちょい水浴びをした方がいいよ」とニコライ・ペトローヴィチが彼女に言った。
彼はまだすっかり水の干上《ひあ》がっていない池の一つに、麻布で囲《かこ》った大きな水浴び場をつくったのだ。
「まあ、ニコライ・ペトローヴィチ! 池まで行きつかないうちに死んでしまいますわ。また帰ってくるときも死ぬような思いをしなければなりません。庭には陰がないんですもの」
「まったくだ、陰がない」とニコライ・ペトローヴィチは答えて、自分の眉毛をこすった。
ある日、朝六時すぎに、バザーロフは散歩から帰る途中、花こそとっくに散ってしまったが、まだ青々と繁っているライラックの四阿《あずまや》でフェーネチカに会った。彼女はいつものように顔に白いスカーフをかぶって、ベンチに腰かけていた。そばにはまだ露でぬれている赤や白のバラの花束が置かれていた。彼は彼女に挨拶をした。
「あら! バザーロフさん!」と彼女は言って、彼の方を見るためにスカーフの端をすこし持ちあげた。そのはずみに片腕が肘のあたりまであらわになった。
「なにをしてらっしゃるんです?」と彼女のそばに腰をおろしながら、バザーロフは言った。「花束をつくっているんですか?」
「ええ。朝食のテーブルに飾ろうと思って。ニコライ・ペトローヴィチがお好きなんです」
「でも朝食まではまだ時間がありますよ。ずいぶんたくさんの花ですね!」
「今つんできたところですの。でないと暑くなって、外へ出られなくなりますもの。息がつけるのも今ごろだけ。この暑さで、わたしすっかり弱ってしまいました。病気になりやしないかと心配ですの」
「気のせいですよ! 脈をみせてごらんなさい」バザーロフは彼女の手を取り、平らにうっている脈を探り当てたが、脈搏を数え始めることもしなかった。「百年も生きますよ」と彼は言って、彼女の手を放した。
「あら、いやだ!」と彼女は大声で言った。
「どうしてです? あなたは長生きしたくないんですか?」
「でも百年だなんて! うちのおばあさんは八十五まで生きてましたけど――そりゃひどく苦しんで死んだの! 色が黒くなって、耳が聞えなくなって、腰が曲がって、いつも咳をしていたわ。自分が苦しむだけよ。あんなにして生きているなんて!」
「じゃ若い方がいいんですか?」
「むろんですわ」
「なぜいいんですか? 教えてください!」
「なぜですって? ほら、わたしは今若いでしょ、なんでもできるわ――行ったり、来たり持って来たり、だれにも頼む必要がありません……これ以上のことがあって?」
「ところがぼくなんか、若くても年よりでも同じことですね」
「どうして、同じだ、などとおっしゃるんでしょう? そんなはずありませんわ、おっしゃるようなことは」
「でも考えてみてください、フェーネチカさん、ぼくに若さがなんの役に立つでしょう? ぼくはひとりで、貧乏ぐらしを……」
「それはつねにあなたしだいですわ」
「ところがぼくしだいなんかじゃないんです! だれかぼくのことをかわいそうだと思ってくれる人がいなくちゃ」
フェーネチカは横合いからバザーロフの方を眺めたがなんとも言わなかった。
「それはなんの本ですの?」としばらくして彼女はきいた。
「これですか? これは学術書、むずかしい本ですよ」
「あなたはいつもご勉強ですの? 退屈じゃありません? あなたはきっと、もうなんでもご存じなんでしょうに」
「なんでもというわけにはいきませんね、すこし読んでごらんなさい」
「でもなんにもわからないことよ。ロシヤ語の本ですの?」とフェーネチカがきいた。製本してある重い本を両手で受け取りながら。
「厚い本ですこと!」
「ロシヤ語ですよ」
「どっちみちわたしにはなんにもわからないわ」
「ぼくが本をあげたのはなにもあなたにもわかってもらおうと思ったからじゃありません。ぼくはあなたの読むところが見たいんです。あなたが読んでいるとき、鼻の先がじつに愛らしく動くんです」
フェーネチカはたまたま本を開いたところにあった『クレオソートについて』という論文を小声で読みにかかったが、笑いだして読むのをやめた……本はベンチから地面にすべりおちた。
「あなたが笑うときもぼくは好きだな」とバザーロフが言った。
「もうたくさん!」
「話をするときもぼくは好きだな。小川のせせらぎのようだ」
フェーネチカはそっぽを向いた。
「ひどい人!」と花をえりわけながら、彼女は言った。「わたしの話なんか聞いてもしようがないんでしょう? 賢い貴婦人たちをお相手に話しつけていらっしゃるんだから」
「フェーネチカさん! 本当です。聡明な貴婦人たちなんてどれもこれも、あなたの片肘ほどの値打ちもありませんよ」
「まあ、とんでもないことをおっしゃるわ!」とフェーネチカは低い声で言って、両手をおしつけた。
バザーロフは本を地べたから拾いあげた。
「これは医者の本ですよ、どうしてあなたは放り出すんです?」
「医者の?」とフェーネチカはくり返すように言い、彼の方を向いた。「ねえ、バザーロフさん、あなたに滴剤をいただいてから、おぼえてらっしゃる? ミーチャはぐっすり眠るようになりましたの? あなたになんとお礼申しあげていいやら、わからないほどですわ、あなたは親切な方だわ、まったく」
「本当は医者にはお礼をするもんですよ」とバザーロフがうす笑いをうかべながら言った。「ご承知のように、医者は欲ばりですから」
フェーネチカは目をあげてバザーロフを見た。彼女の目は、顔の上の部分に落ちている白っぽい反射のために、一そう黒く見えていた。彼女は、相手がふざけているのか本気なのか、わからなかった。
「およろしかったら、喜んで……でもニコライ・ペトローヴィチにおききしないと……」
「ぼくが金を欲しがっているとお考えですか?」とバザーロフは彼女をさえぎった。「いや、ぼくはあなたからお金をもらおうとは思ってません」
「じゃなんですの?」とフェーネチカが言った。
「なんでしょう?」とバザーロフがくり返した。「当ててごらんなさい」
「わかるもんですか!」
「なら申しあげましょう。ぼくは……そのバラが一つ欲しいんです」
フェーネチカはまた笑いだして、手を打ち合わせさえした。彼女にはバザーロフの望みがそれほどおかしく思われたのである。彼女は笑いながらも同時にくすぐったい思いがした。バザーロフはじっと彼女の方を眺めていた。
「どうぞ、どうぞ」と彼女はしまいにこう言い、ベンチの上に身をかがめて、花をえらびにかかった。「どっちにしましょう赤、それとも白?」
「赤、あんまり大きくないの」
彼女は背をのばした。
「ほら、これをお取りなさいな」と彼女は言ったが、すぐにさしのべた手をひっこめた。そして唇をかみしめると四阿の入り口の方を眺めて、耳をすませた。
「どうしました?」とバザーロフがきいた。「ニコライ・ペトローヴィチさんですか?」
「いいえ……旦那さまは野良へお出かけになってます……それに旦那さまならべつに怖くありません……でもパーヴェルさんだと……そんな気がしたもんですから……」
「どんな?」
「|あの方《ヽヽヽ》がそこを歩いていらっしゃるような気がしましたの。いいえ……だれもいないわ。どうぞ」フェーネチカはバザーロフにバラの花を一輪渡した。
「なんだってパーヴェルさんが怖いんですか?」
「いつもわたしをびっくりさせるんですもの。べつになんともおっしゃらないけれど、変な目つきでごらんになるのです。あなただってあの方をお好きじゃないんでしょう。せんにはいつもあの方と議論してらしたわ、なんのお話かわかりませんけれど、あなたがあの方をさんざんやりこめてらしたのは、わかってよ……」
フェーネチカは両手で、バザーロフがパーヴェルを、彼女の考えによれば、やりこめたさまを示した。
バザーロフは微笑した。
「もしもぼくがあの人に負けそうになったとしたら」と彼はきいた。「あなたはぼくの味方になってくれたでしょうか?」
「わたしがあなたの味方をするなんて。いいえ、あなたを負かせるはずがないわ」
「そう思ってますか? ところがぼくは、その気になれば、指一本でぼくを倒すことのできる手を知っていますよ」
「どんな手ですの?」
「わかりませんか? かいでごらんなさい、あなたのくれたバラはじつにいい匂いがしますよ」
フェーネチカは頭をのばして花に顔を近づけた……スカーフが頭から肩にずり落ちて、豊かでやわらかな、黒い、つやのよい、僅かにみだれた髪の毛があらわになった。
「待ってください、一しょに匂いをかがせてくださいませんか」とバザーロフは言って、上体をかがめ、大きく開いている彼女の唇に強くキスした。
彼女は身をふるわせて、両手で彼の胸をつっぱったが、しかし手には力がこもっていなかったので、彼はもう一度やりなおして、キスをつづけることができた。
ライラックのかげで空咳《からせき》をするのが聞こえた。フェーネチカはとっさにベンチの端に身をひいた。パーヴェルが姿を現わした。彼は軽く会釈すると、敵意のこもった陰気な声で、「あんたがたかね」と言って、立ち去った。フェーネチカはすぐさまバラの花をみんな拾いあげて、四阿を出て行った。去りぎわに、「いけませんわ、バザーロフさん」と彼女はささやき声で言った。そのささやきのなかにはえんきょくな非難の調子がひびいていた。
バザーロフは最近演じられたもう一つの場面を思い出した。すると恥ずかしくもなれば、唾棄したいほどいまいましい気持ちにもなった。しかし彼はすぐにかぶりをふって、自分が『本格的な色事師になったこと』を心のなかで皮肉に祝い、自分の部屋に向かった。
一方、パーヴェルは庭を出ると、ゆっくり歩いて、森まで辿りついた。彼はかなり長いあいだ、そこにいた。朝食にもどってきたとき、ニコライ・ペトローヴィチは心配そうに彼に、「どこか悪いんじゃないか?」ときいた。それほど彼は暗い顔をしていた。
「お前も知っての通り、わしは時おり黄疸で苦しむのでね」とパーヴェルは彼に答えた。
二十四
二時間ほどたって彼はバザーロフのドアをノックしていた。
「ご勉強のところをお邪魔いたして申しわけありません」と彼は、窓ぎわの椅子に腰をおろし、象牙の握りのついた見事なステッキに両手をのせて(彼はいつもステッキを持たずに歩いた)切りだした。「しかしわたしはあなたのお時間のうち五分だけわたしにお割《さ》きくださるようお願いせねばなりません……それ以上とは申しませぬ」
「どうぞなん時間でも」とバザーロフは答えた。パーヴェルが彼のドアのしきいをまたぐやいなや、バザーロフの顔の上をなにものかがさっと走りすぎたのだった。
「五分間でじゅうぶんです。わたしは一つ質問したいことがあって参ったのです」
「質問? なんでしょう?」
「まあ、終わりまでお聞きになってください。あなたが弟の家にこられたはじめのころ、わたしは多くの事柄についてあなたのご意見を承《うけたまわ》る機会を得ました。しかし、わたしの記憶する限りでは、わたしたち二人のあいだでも、わたしの居合わせた席でも、決闘について、決闘一般については一度も話が出なかったように思います。そこで、この事柄についてあなたがどんなお考えをお持ちなのか、それをお伺いしたいのです」
パーヴェルを出迎えるために立ちあがりかけたバザーロフは、テーブルの端に腰をおろして腕ぐみをした。
「ぼくの意見はこうです」と彼は言った。「理論的見地からすれば、決闘はばかげたことです。でも、実際的見地からなら――別問題ですね」
「つまりあなたのおっしゃりたいのは、もしもわたしがあなたの言われることを正確に理解したならばの話ですが、決闘に対するあなたの理論的見解はどうあろうとも、実際問題としては人から侮辱された場合、満足を要求せずにはおかない、ということですね」
「まったくおっしゃる通りです」
「大変にけっこうです。あなたからそれがうかがえてわたしは大変愉快です。おことばはわたしを不明からひき出してくれました……」
「不決断から、とおっしゃりたいんでしょう」
「どちらでもおんなじことですよ。わたしは自分の言うことをわかっていただくために、そう言っているのです。わたしは……神学校のネズミじゃありません。お言葉はわたしを、ある悲しむべき必要からまぬかれさせてくれました。わたしはあなたとたたかう決心をしたのです」
バザーロフは目を見はった。
「ぼくと?」
「ぜひともあなたと」
「でもなんのために? とんでもない」
「わたしはあなたにその理由を説明することができます」とパーヴェルは始めた。
「でもそれは申しあげない方がよいとわたしは思います。あなたは、わたしの趣味から言うと、ここの家では余計な人間です。わたしはあなたががまんできない、わたしはあなたを軽蔑する、これでもまだじゅうぶんでないならば……」
パーヴェルの目がギラギラ光りだした……バザーロフの目も燃え立った。
「ひじょうにけっこうです」と彼は言った。「それ以上のご説明は必要ありません。あなたはぼくをだしにしてご自分の騎士道的精神をためしてみようという妄想を思いつかれたのです。ぼくはあなたにそのようなお楽しみを与えることを拒もうと思えば拒めるのですが、なにどうなろうとかまやしません!」
「大きにありがとう」とパーヴェルは答えた。「それではあなたがわたしの挑戦をうけてくださるものと思っていいわけですな。おかげでわたしは強圧的な手段に訴えなくてすむというものです」
「つまり、はっきり言うと、そのステッキに訴えなくもですか?」と冷ややかにバザーロフが言った。「まったくお説の通りです。あなたはすこしもぼくを侮辱なさる必要はありません。おまけにその方法はあまり安全とはいえませんからね。あなたはゼントルマンでいられますよ……ぼくもまたゼントルマンらしくあなたの挑戦に応じるものです」
「けっこうなことです」とパーヴェルは言うと、ステッキを隅においた。「今度はわれわれの決闘の条件について二、三話し合うとしましょう。しかしまずもって承知しておきたいのは、わたしの挑戦の口実となり得るような、ちょっとしたいさかいの形式をとることを、あなたが必要とお考えかどうかということです」
「いや、そんな形式はぬきにした方がいいでしょうな」
「わたしもそう思います。それから、われわれの衝突の本当の原因に立ち入ることも不適当だと思いますが。われわれはたがいにがまんできない。それ以上になにがいるでしょう?」
「なにがいるでしょうね?」とバザーロフが皮肉な調子でくり返した。
「決闘の条件そのものについては、われわれには介添え人がいませんので……まったく、どこにそんな人がいるんでしょう?」
「まったくどこにいますかね?」
「そこでわたしはつぎのことを提案いたします。決闘は明日の朝早く、まあ六時ということにして、場所は林の向こうで、武器はピストル。距離は十歩……」
「十歩? そうですか。その距離でわれわれは憎み合うわけですね」
「八歩でもけっこうです」とパーヴェルが言った。
「むろん、けっこうですとも!」
「射撃は二回、万一の場合に備えてめいめいは自分のポケットに手紙を入れておく。それには自分の死の責任は自分にあることを書いておく」
「それにはあまり賛成できませんね」とバザーロフが言った。「いささかフランスの小説めいていて、なんだか本当らしくありません」
「そうかも知れません。しかし役人の嫌疑をうけることは不愉快でしょう?」
「それはそうです。しかしそのような情けない非難をさける方法があります。介添え人はいませんが、証人ならいてもいいでしょう」
「それはだれです、伺いたいもので?」
「ピョートルですよ」
「ピョートルというと?」
「ご令弟の侍僕です。あれは現代教育の水準にある男ですから、自分の役割を、このような場合にぜひ必要なように、いとも|優雅に《ヽヽヽ》果たすことができます」
「あなたはどうやらご冗談をおっしゃっているようですね」
「ちっとも。ぼくの提案をよくよく考えてくださるなら、それが常識と率直にみちていることを得心なさるでしょう。『英才は自《おのずか》ら現わる』とやら、ぼくがしかるべくピョートルに言いふくめて、決闘の場所へつれてゆくことにします」
「相変わらずご冗談を」と椅子から立ちあがりながら、パーヴェルは言った。「しかしあなたにご快諾いただいたからには、とやかく申しません……では、万事ととのったわけですね……ときに、ピストルはお持ち合わせじゃないでしょうね?」
「なんでピストルなんか持っているもんですか、パーヴェルさん? ぼくは軍人じゃありません」
「それでしたらわたしのをお使いください。わたしがピストルをやらなくなってからもう五年もたちます。その点はご信用のほどを」
「それは大そうご親切なことで」
パーヴェルはステッキを取りあげた……
「これで、あとはあなたにお礼申しあげて、あなたをご勉強にお返しするばかりです。ではご免ください」
「さようなら」と客を送りながら、バザーロフは言った。
パーヴェルは出て行った。バザーロフはしばらくドアの前に立っていたが、いきなり声をはりあげて言った。「ちえっ、ちきしょう! なんてお上品で、ばかげたこった! とんだ茶番劇をやらかしたもんだ! おしえこまれた犬が後脚で踊るってやつだ。しかしことわるわけにはいかなかった。なにしろあいつはおれをぶんなぐったかも知れないし、そうすれば……(バザーロフはそう思っただけでもまっ青になった。彼の自尊心《プライド》がたちまち燃えあがった)そうすればおれはあいつを、猫の仔のようにしめ殺してただろう」彼は顕微鏡のそばにもどったが、心が乱れて、観察に必要な平静が失われていた。『あいつは今日われわれを見たのだ』と彼は考えた。『しかし弟のためにあんなにやっきになるもんだろうか? それにキスしたぐらいなんだというのだ? なにかほかの理由があるぞ。あ、そうだ! あいつは自分で惚れているんじゃないかな? むろん、ほれているとも。それは明々白々だ、なんて、こんがらかってるんだろう! ……それにしても、まずいな!』と、最後に彼は判定した。『どっちから見てもまずい、第一に、飛んで来るたまに額をさらさなきゃならないし、どっちにしてもここを出てゆかなくちゃならない。ところがここにはアルカージイもおれば……お人好しのニコライ・ペトローヴィチもいる。まずい、まずい』
その日はなぜかしらとりわけ静かにぼんやりとすぎた。フェーネチカはまるでこの世から消え失せたかのようであった。彼女は穴のなかのネズミのように、自室にひきこもっていた。ニコライ・ペトローヴィチははなはだうかぬ顔をしていた。彼は、とりわけ望みをかけていた小麦畑に、黒穂病が出たという報告をうけたのである。パーヴェルはみんなを、プロコーフィチをさえ、自分の氷のように冷たいいんぎんさで唖然とさせた。バザーロフは父親あてに手紙を書きかけたが、破いて机の下に棄てた。『死ねばどうせわかることだ。それにおれは死にやしない。いや、もっと長いこと、この世で苦労することだろう』と彼は考えた。彼はピョートルに、重要な用件があるから明日夜が明けたらすぐ自分のところへ来るように、と言いつけた。ピョートルはバザーロフが自分をペテルブルクへつれていってくれるものと想像した。
バザーロフが寝たのはおそかった。彼は一晩じゅうとりとめもない夢になやまされた……オジンツォーヴァが目の前をぐるぐると回っているかと思うと、それが自分の母親だったり、そのうしろから黒いひげを生やした仔猫がついてゆくかと思うと、それがフェーネチカだったりした。パーヴェルは大きな森となって現われたが、彼はどうしてもこの森とたたかわなければならなかった。ピョートルが四時に彼を起こした。彼はすぐ着物をきて、彼をつれて外に出た。
すばらしい、さわやかな朝であった。小さなまだら色の雲がいくつも、うす青い空に小羊の群れのように浮かんでいた。細かい露が木の葉や草の上におりていて、クモの巣の上では銀色に光っていた。しっとりとした黒い土は、くれないのあかつきの名残りをまだとどめているように思われた。空じゅうからヒバリの歌が降りそそいでいた。バザーロフは森に行きつくと、森のはずれの木陰に腰をおろし、そのときはじめてピョートルに、その果たすべき役割を打ち明けた。教養ある下男は死ぬほどびっくりした。しかしバザーロフは、お前はただ遠く離れたところに立って見ているだけで、ほかのことはなにもしなくていいのだし、どんな責任も問われることがないのだ、と言って、彼を決心させた。「しかしだ」と彼はつけ加えて言った。「いいか、お前はひじょうに大事な役割をつとめるんだぞ!」ピョートルは両手をひろげて、目を伏せ、まっ青になって、シラカバの木によりかかった。
マリーノ村から通じている街道はこの森を迂回していた。昨日からまだ車輪にも、人の足にも触れていない路上にはうっすらとほこりがのっていた。バザーロフは時どき、思わずその道に沿って目を走らせ、草をぬいては噛んでいたが、心のなかではたえず、『なんてばかげたことだろう!』とくり返していた。朝の冷気に二度ばかり彼はぶるっと身をふるわせた……ピョートルがしょんぼりして彼の方を見たが、バザーロフはうす笑いをうかべただけだった。彼はおじ気づいてはいなかった。
馬のひづめの音が街道に聞こえてきた……百姓が一人木立ちのかげからあらわれた。彼は馬を二頭追っ立ててきたが、バザーロフの前を通るとき、帽子も脱がずに、なんだか変な目つきで彼を見た。そのことは不吉な前ぶれとして、ピョートルをうろたえさせたようだった。『あの男も早起きしたんだな』とバザーロフは思った。『が、すくなくともなにか用件があってのことだ。ところがおれたちはどうだろう?』
「お見えになったようです」と急にピョートルがささやくように言った。
バザーロフが頭を上げてみると、パーヴェルの姿が目に入った。格子縞の軽快な背広に、雪のようにまっ白なズボンをはき、足早に街道を歩いてくるところだった。小わきには緑色のラシャにくるんだ箱をかかえている。
「失礼しました。お待たせしたようですね」と彼は、まずバザーロフに、それからピョートルに会釈して言った。彼はこの瞬間、ピョートルを介添え人に似たものとして敬意を表したのである。「召使を起こしたくなかったものですから」
「なんでもありません」とバザーロフは言った。「われわれも今来たばかりなんです」
「あ! それはなによりでした!」パーヴェルはあたりを見まわした。「だれも見えない、だれも邪魔する者はいません……始めますかな?」
「始めましょう」
「別にあらためて話し合うこともないと思いますが?」
「ありません」
「ご自分でたまをこめますか?」とパーヴェルは、箱からピストルを取り出しながら、きいた。
「いいえ、あなたがたまをこめてください。ぼくは歩数をはかりましょう。ぼくの足の方が長いんですから」とうす笑いをしながら、バザーロフはつけ加えた。「一、二、三……」
「バザーロフさま」としどろもどろでピョートルがまわらぬ舌で言った(彼は熱病にかかったようにふるえていた)「どうなろうとご随意ですが、わたしはあちらへ参ります」
「四……五……行っていいよ、お前、行っていいよ、木のかげに立って、耳をふさいでいてもかまわないが、ただ目だけは開いていておくれ。もしだれか倒れたら、駆けて行って起こしてやるんだな。六……七……八……」バザーロフは立ちどまった。「これでいいですか?」と、パーヴェルに向かって彼は言った。「それとももう二歩ましておきますか?」
「どちらでも」と相手は、二発目のたまをこめながら、言った。
「じゃ、もう二歩ましておきましょう」バザーロフは靴の爪先で地面に線を引いた。「これが境界線。ところでわれわれはめいめい境界線からなん歩はなれるんですか? これも重要な問題ですね。昨日はその点を論議しませんでしたが」
「十歩でいいと思います」とバザーロフに両方のピストルを渡しながら、パーヴェルは答えた。「おえらびになってください」
「そうしましょう。それにしてもパーヴェルさん、われわれの決闘の変なことといったら、おかしくなりますね。まあわれわれの介添え人の面《つら》がまえを見てください」
「あなたはなんでも茶化そうとなさる」とパーヴェルが答えた。「われわれの介添え人の異様なことは否定しませんが、しかしわたしはまじめに決闘するつもりであることを、あなたにあらかじめ警告することを自分の義務と考えるものです。『A bon entendeur, salut!(耳あるものをして聞かしめよ)』と言いますからね」
「おお! われわれが殺し合う決心をしたことを、ぼくは疑っていません。でもなぜ笑ったり、utile(有益なもの)とdulci(楽しいもの)を結びつけたりしてはいけないのでしょう? あなたがフランス語でおっしゃったから、こちらはラテン語であなたに申しあげるしだいです」
「わたしはまじめにたたかうつもりです」とパーヴェルはくり返して言い、自分の位置に向かった。バザーロフはバザーロフで、境界線から十歩はかって立ちどまった。
「用意はできましたか?」とパーヴェルがきいた。
「完全に」
「歩みよってよろしいです」
バザーロフは静かに前へ動き出した。パーヴェルは左手をポケットにいれ、しだいにピストルの銃口を上げながら、彼に向かって進んできた……『まっすぐおれの鼻を狙ってやがるな』とバザーロフは考えた。『それも一生懸命目を細くしてだ、ちきしょう! それにしてもいやな感じだな。あいつの時計のくさりを見ているとしよう……』なにかがバザーロフの耳もとを鋭い音を立ててかすめ去り、その瞬間に射撃の音が響いた。『ちゃんと聞こえたところを見ると、なんでもないんだな』という考えが頭のなかにひらめいた。彼は一歩踏み出して、狙いもつけずにひきがねをひいた。
パーヴェルがかすかによろめいて、片手でももをおさえた。一すじの血が彼の白いズボンの上を流れ出した。
バザーロフはピストルをわきへ投げすてて相手のそばによった。
「けがをしましたか?」彼は言った。
「あなたはわたしを境界線まで呼びよせる権利があったのです」とパーヴェルは言った。「しかしそれはくだらんことです。取り決めによれば、各人はもう一発ずつ射てることになっています」
「失礼ですが、それは次回にゆずりましょう」とバザーロフは答えて、蒼ざめてきたパーヴェルをだきかかえた。
「ぼくはもう決闘者じゃなくて、ドクターです。それに第一にあなたの傷を診察しなくちゃなりません。ピョートル! こっちへ来い、ピョートル! どこへかくれたんだ?」
「みんななにもかもばかげている……わたしは、だれの、助けも、必要と、しません」とパーヴェルはきれぎれに言った。「また……ぜひとも……」彼は口ひげをひねろうとしたが、手の力がぬけ、目がひきつって、気を失った。
「こいつは驚いた! 気絶だ! なんだってまた!」バザーロフはパーヴェルを草の上におろしながら、思わず叫んだ。「どうなっているか見てやろう」彼はハンカチを取り出し、血を拭って、傷のまわりにさわってみた。「骨に異常はない」と彼は吐き出すようにつぶやいた。「たまは外側皮膚に近いところを通りぬけている。筋肉がやられているだけだ。三週間もすればダンスができらあ! ……それを気絶ときた! やれやれまったく神経過敏な連中には困ったもんさ! なんてまあ、うすい皮膚だろう」
「死んでおしまいなんですか?」と背後でピョートルのかぼそいふるえ声が聞こえた。
バザーロフはふり返った。
「行って早く水を持ってこい。なにこの旦那はおれやお前なんかよりも長生きするよ」
しかしこの下男はバザーロフの言ったことがわからなかったらしく、その場を動こうとしなかった。パーヴェルがおもむろに目を開けた。「ご臨終だ!」とピョートルはささやいて十字を切り始めた。
「あなたの言った通りです……なんというばか面《づら》だろう!」とむりに微笑をうかべて、傷ついた紳士は言った。
「水を持ってこいったら、こんちきしょう!」とバザーロフは怒鳴りつけた。
「要《い》りません……ちょっと vertige(目まい)がしただけです……坐らせてください……それでけっこう……こんなかすり傷はなんかでしばっておけばいいんです、わたしは歩いて家に帰りますよ。でなければ馬車をよこしてもらってもいい。決闘は、なんでしたら、これきりにしましょう。あなたの態度はごりっぱでした……今日は、いいですか、今日はですよ」
「過ぎ去ったことを思い出す必要なんかありません」とバザーロフは言い返した。「また将来のことをとやかく考えるのは取越し苦労というものです。なぜって、ぼくはすぐにここを逃げ出すつもりですから。まあ、あなたの足をしばらせてください。あなたの傷は――危険ではありませんが、それにしても血を止めるにこしたことはありません。しかしまずこのどうてんした男を正気に帰さなくちゃ」
バザーロフはピョートルのえりがみをつかまえてゆさぶり、馬車を迎えにやった。
「弟をびっくりさせないようにな」とパーヴェルが彼に言った。
ピョートルは駆け出した。彼が馬車を呼びにいっているあいだ、二人の敵手は地べたに坐って黙りこくっていた。パーヴェルはバザーロフの方を見ないようにしていた。和解する気にはやはりなれなかった。彼は自分の不遜や、失敗を恥じ、自分の企てた事件のすべてを恥じていた。もっともこの事件のように好都合に決着したのはもっけの幸いだったと感じていたが。『すくなくとも、もうここにはいられまいて』と彼は自分をなぐさめていた。『それだけでもありがたい話だ』。重苦しい、気まずい沈黙がつづいた。二人ともばつが悪かった。どちらも相手に腹のなかを見すかされているのを意識していた。この意識は友人同士だったら気持ちのよいものであるが、敵同士だときわめて不愉快なものなのだ。とくに打ちあけて話し合うことも、別れることもできないときには。
「包帯はきつくありませんか?」とたまりかねてバザーロフがきいた。
「いや、なんともありません。けっこうです」とパーヴェルは答えたが、しばらくしてつけ加えた。「弟をだますことはできません。わたしたちが政治のことからいさかいを始めた、とでも言わなくちゃなりますまい」
「けっこうですとも」とバザーロフが言った。「ぼくがイギリス心酔者をだれかれとなく罵ったとおっしゃってもよろしいです」
「いかにも。ところでどうです、今あの男はわたしたちのことをどう思っているでしょうか?」とパーヴェルは、決闘の始まる数分前にバザーロフの前を駆り立てて行った百姓が、街道を引き返してくるのを指さして言った。百姓は『旦那方』を見ると『脇へよって』帽子を脱いだ。
「わかりませんね!」とバザーロフは答えた。「なにも考えていない、というのが一番当たっているでしょう。ロシヤの百姓ってやつは――かつてラトクリフ夫人〔イギリスの女流作家〕がいろいろと書きたてたように、もっとも神秘的な、正体の不明な人間ですからね。だれにわかりましょう? ロシヤ人の百姓は自分でも自分のことがわかっていないんですから」
「ああ! なるほど」とパーヴェルが言い出したが、急に大声で言った。「ごらんなさい、ピョートルのばかめがよけいなことをしくさって! 弟がこちらへ馬車をとばしてきますよ!」
バザーロフはふり返って、馬車に乗っているニコライ・ペトローヴィチの蒼白い顔を認めた。彼は馬車がとまらないうちに跳びおりて、兄の方をめがけて突進した。
「どういうことなんですか、これは?」と彼は上ずった声で言った。「バザーロフさん、とんでもない、これはなんのまねなんですか?」
「なんでもないよ」とパーヴェルが答えた。「心配させて悪かったな。わしはバザーロフ氏と少々行きちがいがあって、そのため少々報いをうけたところだ」
「ですからなにからおこったことなんです、本当に?」
「なんと言ったらいいかな? バザーロフ氏がロバート・ピール卿〔イギリスの政治家〕のことを悪しざまに言ったからだよ。ことわっておくが、このことは万事わしが悪いんで、バザーロフ氏の態度はすこぶるりっぱだった。わしが決闘を申しこんだのだ」
「それにしても血が流れている。冗談じゃない!」
「お前はわしの血管の中を水が流れていると思っていたのかい? しかしこの放血はわしには有益なくらいだ。そうでしょう、ドクター? 手を貸して馬車に乗せておくれ、メランコリイにならないでおくれ。明日はもう元気になっているだろうよ。そうそう。それでいい。さあ、御者、馬車を出してくれ」
ニコライ・ペトローヴィチは馬車のあとから歩きだした。バザーロフはあとに残ろうとした……
「あなたに兄を見ていただくようにおねがいしなければなりません」とニコライ・ペトローヴィチが彼に言った。「町からほかの医者を呼んでくるまでのあいだ」
バザーロフは黙って頭を下げた。
一時間後にパーヴェルはもう足にきちんと包帯をして寝床のなかに横たわっていた。家じゅう大騒ぎをして、フェーネチカは気分が悪くなるしまつだった。ニコライ・ペトローヴィチはひそかに手をもみしぼっていたが、パーヴェルはとりわけバザーロフを相手に笑い声をたてたり、冗談を言ったりした。うすい半ば透きとおった麻のシャツにしゃれた朝着のジャケツを着こみ、トルコ帽をかぶっていた。彼は窓のカーテンをおろすことを許さなかった。そして食事をひかえなければならないことに対して、おどけた調子で苦情を言った。
けれども夜になると熱が出て、頭痛が始まった。町から医者がきた。(ニコライ・ペトローヴィチは兄の言うことをきかなかったし、それにバザーロフ自身もそのことを希望したのである。バザーロフは蒼白い険しい顔をして、一日じゅう自分の部屋にとじこもっていた。そしてただごく短時間病人のところへ容態を見にゆくだけだった。二度ばかり彼はフェーネチカと出会ったが、彼女は恐ろしそうに彼からわきへとびのいた)新しい医者は冷たい飲み物をとるようにすすめはしたが、この先どんな危険もないというバザーロフの断言を確認した。ニコライ・ペトローヴィチは自分で彼に、兄が不注意から自分で自分を傷つけたのだ、と言った。それに対して医者は「ふむ!」と答えたが、しかし即座に銀貨で二十ルーブリをにぎらせると、こう言ったものである。「いや、まったく! そういうことはよくあるもんですよ、本当に」
家のなかではだれも寝なかったし、着物を脱がなかった。ニコライ・ペトローヴィチはたえず爪先立ちで兄の部屋へ入ってきては、また爪先立ちで出ていった。こちらはときどき意識不明になり、そっとうなり声をたてたり、弟に向かってフランス語で、『Couchez-vous(おやすみ)』と言ったりして――喉のかわきを訴えた。一度ニコライ・ペトローヴィチがフェーネチカにコップ一杯のレモン水を持ってゆかせた。パーヴェルはじっと彼女を見つめてから、コップを底まで飲みほした。明けがたに熱がすこし高くなって、軽いうわ言を言うようになった。はじめパーヴェルはとりとめのないことを口走っていたが、それから不意に目を開いて、ベッドのそばに心配そうに彼の上にかがみこんでいる弟がいるのを見ると、こう言った。
「フェーネチカにはね、どこかネルリと似たところがある。そうじゃないか、ニコライ?」
「ネルリってだれだね、兄さん?」
「きまっているじゃないか。R公爵夫人だよ……ことに顔の上の方が。C'est de la meme famille(おなじ系統だ)」
ニコライ・ペトローヴィチはなんとも答えなかったが、心ひそかに人間における古い感情の根強さにおどろいたのだった。
『とんだときにあらわれたもんだ』と彼は思った。
「ああ、おれはあのつまらない女が忘れられない!」とパーヴェルはうめくように言った。やるせなげに両手の上に頭をのせて、「わしはがまんできない、どこかのずうずうしいやつが手を出すなんて……」としばらくしてから彼はつぶやいた。
ニコライ・ペトローヴィチはただため息をついただけだった。彼はこの言葉がだれをさして言っているのか、あやしみもしなかった。
バザーロフが翌日の八時ごろ彼のところに現われた。彼はもうすっかり出発の仕度をすませ、蛙や、昆虫や、小鳥を逃がしてやったあとだった。
「お別れにいらしたんですか?」と彼を出迎えるために立ちあがりながら、ニコライ・ペトローヴィチは言った。
「その通りです」
「わかりますとも。無理もありません。もちろん、兄が悪いのです。それで報いをうけたのです。兄は自分からわたしに、あなたはあれ以外に行動できないように仕向けたのだ、と言ってました。あなたには、あの決闘がさけられなかったものとわたしは信じています……あれはある程度、あなたがた二人の意見がいつも対立していたということだけでも説明がつきます(ニコライ・ペトローヴィチは言葉に窮した)。兄は昔ふうの人間で、怒りっぽくて、がんこなんです。……あの程度で終わってくれて、もっけのさいわいでした。わたしはうわさのひろがるのをさけるために、必要な手段をすべて取っておきました……」
「もしなにか事件がおきたときの用意に、わたしの所書きをおいていきます」とむぞうさにバザーロフが言った。
「たぶん、どんな事件もおきないでしょうよ、バザーロフさん……拙宅でのご滞在が……こんなことになってしまって、残念です。まして悪いことに今アルカージイが……」
「アルカージイ君とはきっと会えると思います」とバザーロフは答えた。(バザーロフにあってはあらゆる種類の『弁明』や『表明』はきまってやりきれない感情をひきおこすのだった)「もしも会えなかったときにはよろしくお伝えください。それからぼくが遺憾だと言っていたことも」
「こちらこそどうぞ……」とニコライ・ペトローヴィチはおじぎをしながら答えた。しかしバザーロフは相手の言葉の終わるのを待たずに跳び出した。
バザーロフの出発を知ると、パーヴェルは彼に会いたいと望んで、その手を握りしめた。しかしバザーロフはそのときにも氷のようにつめたかった。彼にはパーヴェルが寛大な態度を示そうとしたのであることがわかっていた。フェーネチカには別れのあいさつができなかった。窓から彼女と目を見交わしただけである。彼女が悲しそうな顔をしていると彼は思った。「彼女はおそらくだめになってしまうだろう!」そのかわりピョートルは、彼の肩の上に顔をうずめて泣いたほど、大いに感動して彼に同情を示した。とうとうたまりかねたバザーロフは彼に、「お前は泣き虫なんだろう」と言って、その熱を冷やしてやったほどである。またドゥニャーシャは、自分の興奮をかくすために森のなかに逃げこまなければならなかった。こうした悲しみのすべての張本人は馬車にのりこむと、ゆうゆうと葉巻を吹かしはじめた。四キロほど行って、馬車が街道の曲がり角にさしかかり、最後に、キルサーノフ家の屋敷の新しい母屋などが一線にならんで見えたとき、彼はただぺっとつばを吐いただけであった。そして「いまいましいぼっちゃんどもめ」とつぶやくと一そうぴったりと外套にくるまった。
パーヴェルはじき快方に向かった。しかし約一週間、彼は寝床のなかにいなければならなかった。彼は自分のいわゆる捕虜生活《ヽヽヽヽ》をかなり忍耐づよくたえしのんだ。ただ身づくろいはすこぶる念入りで、いつもオーデコロンをふりかけるのを命じるのだった。ニコライ・ペトローヴィチは彼に雑誌を読んでやり、フェーネチカはこれまでとおなじように彼の身のまわりの世話をし、肉汁や、レモン水や、半熟の卵や、紅茶を運んだ。けれども彼の部屋へ入ってゆくたびごとに、彼女はひそかな恐怖の念におそわれるのであった。パーヴェルの思いがけない行為に家じゅうの者はびっくりしたが、だれよりもびっくりしたのは彼女だった。プロコーフィイチだけはあわてることなく、昔も旦那方は決闘をしたものだが、『りっぱな旦那がた同士のすることで、ああいったいんちき野郎が無礼なことをしたら、うまやでひっぱたくように命じられたものだ』と講釈した。
フェーネチカはほとんど良心にやましさを感じなかった。しかしいさかいの本当の原因を考えると時おり胸が苦しくなった。それにまたパーヴェルがじつに変な目で彼女を見るので……彼女は、彼に背中を向いていても、自分に注がれている彼の目を感じた。彼女はたえまない内心の不安のためにすこしやせて、よくあることだが、そのため一そう愛らしくなった。
あるとき――それは朝のことだった――パーヴェル・ペトローヴィチは気分がよかったので、寝台から長椅子に移り、ニコライ・ペトローヴィチは彼の容態をきいたのち、打穀場へ出かけた。フェーネチカは紅茶を持ってきて、それを小卓の上におくと、帰ろうとした。パーヴェルが彼女を引きとめた。
「どこへそんなに急ぐんです、フェーネチカさん?」と彼は話しかけた。「用事がおありなんですか?」
「いいえ……はい……お茶を注がなければなりませんので」
「それならあんたでなくたってドゥニャーシャがやりますよ。まあここにかけて、あんたにお話ししたいことがある」
フェーネチカは黙って肘かけ椅子にあさく腰をおろした。
「あのね」とパーヴェルは言って、口ひげを引っぱった。
「ずっと前からあんたにきこうと思っていたのだが、あんたはわしをこわがっているようだね?」
「わたしが?……」
「そう、あんただ、あんたはけっしてわしの方をまともに見ようとしない、まるで良心にやましいことがあるみたいだ」
フェーネチカは顔を赤くしたが、しかしパーヴェルをみつめた。彼がなんだか変に思われて、彼女の胸はかすかにふるえだした。
「あんたの良心はやましくないだろうね?」と彼は彼女にきいた。
「どうしてやましいことがあるんですの?」とささやくような声で彼女は言った。
「理由はいくらでもあるさ! しかし、だれに対してあんたはすまないってことになるのかな? わしに対して? まさかね。この家のなかの他の人に対して? それも事実不可能だ。弟に対してじゃないかな? でもあんたはあれを愛しているだろう?」
「愛しています」
「心から? まごころから?」
「わたしはニコライ・ペトローヴィチをまごころから愛しています」
「本当かね? わしの顔を見てごらん、フェーネチカ(彼が彼女を愛称でこう呼んだのははじめてだった……)あんただって知っているだろうが、嘘をつくのは大変に悪いことなんだよ!」
「わたしは嘘なんか言っていません。パーヴェルさま。わたしがニコライ・ペトローヴィチを愛していないんだったら……それくらいなら死んだほうがましです!」
「それではあんたは弟をだれにも見かえるつもりはないんだね?」
「わたしはだれに見かえることができましょう?」
「たくさんいるさ! たとえば先《せん》だってここから出ていった旦那にだって」
フェーネチカは立ちあがった。
「まあ、パーヴェルさま、なんだってあなたはわたしをお責めになりますの? わたしがあなたになにをしたというんです? そんなひどいことをおっしゃるなんて……」
「フェーネチカ」と悲しげな声でパーヴェルが言った。
「わしは見たんだよ……」
「なにをごらんになりましたの?」
「あそこで……四阿で」
フェーネチカは髪の毛や耳のつけ根まで赤くなった。
「わたしがどんな悪いことをしたとおっしゃるの?」とやっとのことで彼女は言った。
パーヴェルは身を起こした。
「あんたは悪くないって? そう? ちっとも?」
「わたしはこの世でニコライ・ペトローヴィチだけを愛していますし、いつまでも愛しつづけるでしょう!」と突如として力強くフェーネチカは言った。がそのあいだにもおえつがはげしく彼女の喉をしめつけるのだった。「あなたのごらんになったことでしたら、わたしは最後の審判のときに、わたしはなにも悪いことをしていないし、したこともないとはっきり言いきることができます。そんなことを疑われるくらいなら、今すぐ死んでしまったほうがましです。大恩うけたニコライ・ペトローヴィチに対してわたしが……」
しかしここで彼女は声が出なくなってしまった。(そして)それと同時に彼女はパーヴェルが自分の手を取って、ギュッと握りしめたのを感じた……彼女は彼の顔を見て、たちまち石のようになった。彼はさっきよりも一そう蒼ざめていた。目が光っていた。そしてなにより驚いたことは、大粒の涙が一つ彼の頬をつたって流れていたことである。
「フェーネチカ!」と彼はなんだか奇妙な、ささやくような声で言った。「愛してやってください、うちの弟を愛してやってください! あれはじつにやさしい、いい男です! この世の、ほかのだれとも見かえないでください、だれの言うことにも耳をかさないでください! 愛していながら自分が愛されていないことほど恐ろしいことはないんです! うちのかわいそうなニコライをすてるようなことは、けっしてしないでください!」
フェーネチカの目は乾いて、恐怖はしずまった。しかしパーヴェルが、パーヴェルその人が、彼女の片手を自分の唇におしつけ、彼女の手に取りすがって、彼女にキスするでもなく、ただ時おりひきつったようにため息をもらしているのを見たときの彼女の気持ちといったら……
「ああ!」と彼女は思った。「発作でも起きたのではないかしら? ……」
だがこのとき、滅び去った全生涯が彼の身うちでわなないていたのである。
階段をきしませて急ぎ足でやってくる音が聞こえた……彼は自分のそばから彼女をおしのけて、頭を枕の上にのせた。ドアがあいて、ニコライ・ペトローヴィチが陽気な、さわやかな、赤い顔であらわれた。父親とおなじようにさわやかな赤い顔しをしたミーチャが、彼の胸の上で、シャツ一枚で跳びはねていた。父親の田舎ふうの外套の大きなボタンにむき出しの両足をひっかけながら。
フェーネチカはいきなり彼の方へとんでいった。そして親子を両腕でだいて、彼の肩に顔をうずめた。ニコライ・ペトローヴィチはびっくりした。内気で控えめなフェーネチカは、これまでけっして、人前で彼に甘えるようなことがなかったからである。
「どうしたんだね?」と彼は言った。そして兄の方を見てから、彼女にミーチャを渡した。「気分でも悪いんじゃないの?」と彼はパーヴェルのそばによりながらきいた。
こちらは麻のハンカチに顔をうずめた。
「いや……その……なんでもない……それどころか、ずっといいくらいだ」
「長椅子に移ったのが早すぎたんだな。お前どこへ行くんだい?」とニコライ・ペトローヴィチは、フェーネチカの方をふり向きながら言い足した。しかし彼女はもうドアをしめて外に出ていた。「うちの坊主を見せようと思ってつれてきたのだ。伯父さんを恋しがるもんだから。なんだって彼女《あれ》はつれていってしまったんだろう? それにしてもどうしたの? ここでなにかあったんじゃないかい?」
「ニコライ!」とパーヴェルがまじめくさって言った。
ニコライ・ペトローヴィチは身ぶるいした。彼は、自分でもなぜとも知れず、うす気味悪くなった。
「ニコライ」とパーヴェルはくり返して言った。「わしの頼みをきくと約束してくれ」
「どんな頼みですか? おっしゃい」
「非常に重大なことだ。わしの考えでは、お前の生活の幸福はすべて、その一つにかかっている。このごろずっと考えつづけてきたことだが、今お前にそれを言おうと思う……なあ、ニコライ、自分の義務を果たすんだな、誠実な、高潔な人間の義務を。誘惑をやめてくれ、だれよりもりっぱな人間であるお前が見せている、悪いお手本をやめてくれ!」
「それはなんのことだね、パーヴェル?」
「フェーネチカと結婚してくれ……あれはお前を愛している。あれは――お前の息子の母親なのだ」
ニコライ・ペトローヴィチは一歩ひきさがって両手を打ちあわせた。
「あんたがそう言ってくれるかね、兄さん? こういう結婚の最も頑強な反対者だとつねにわたしの思っていた兄さんが! あんたがそう言ってくれるのか! しかし兄さんにはわからなかったんですか、ひとえに兄さんに対する尊敬の念から発して、あんたが今きわめて公平にわたしの義務と呼んだことを、わたしがこれまで実行しなかったということを!」
「そんな場合にはわしを尊敬することはなにもなかったのだ」と、憂うつな微笑をうかべて、パーヴェルが言い返した。「バザーロフがわしを貴族主義者だといって非難したのは、たしかに当たっているとわしも思うようになった。いや、ニコライ、もったいぶったり、世間ていを考えたりするのはもうたくさんだよ。われわれはもう老人でひっそりと暮らしている人間なんだから。よけいな心配ごとはわきにうっちゃっておいていいころだ。まさしく、お前の言うように、われわれの義務を果たそうじゃないか。そうすれば、きっと幸福も手に入れることができるよ」
ニコライ・ペトローヴィチは自分の兄を抱くために突進した。
「あんたはすっかりわたしの目を開かせてくれた!」と大きな声で彼は言った。「わたしはいつも兄さんのことを、世界じゅうで一番やさしい、賢い人だと言ってきたが、そのとおりだった。ところが今という今、兄さんが分別もあれば、寛大な心の持ち主でもあるということが、わかった」
「静かに、静かに」とパーヴェルがさえぎった。「お前の分別のある兄貴の足にさわらないでくれ、五十|面《づら》さげて見習士官のように決闘なんかした兄貴のな。じゃ、その話はきまった。フェーネチカはわしの……belle-soeur(義妹)となるわけだ」
「ありがとう。兄さん! しかしアルカージイはなんと言うだろう?」
「アルカージイ? あれも喜ぶよ、とんでもない! 結婚はあれの原理のなかにないが、そのかわり平等の感情が満足するだろうよ。いやまったくの話が、このau dixneuvieme siecle(十九世紀)に階級制度もないもんだ」
「ああ、兄さん、兄さん! もう一度あんたにキスさせておくれ。大丈夫、用心してやるから」
兄弟は抱き合った。
「ところでどうだい、今すぐあの女《ひと》に知らせてやらなくていいかい?」とパーヴェルが言った。
「そんなに急ぐこともあるまい」とニコライ・ペトローヴィチが答えた。「兄さんたちはあらかじめ話し合ったんですか?」
「話を、われわれが? Quelle idee!(とんでもない!)」
「それならけっこう。なによりもまず兄さんになおってもらわなくちゃ。この話はわれわれの所から逃げて行きやしまいし、よくよく考えて、いろいろと……」
「お前は決心したんじゃないのか?」
「むろん、決心したし、心から兄さんに感謝しているよ。じゃ、もう行くからね、休んでもらわなくちゃ。興奮することは一切、兄さんには禁物なんだ……あとでまた話し合うとしましょう。お休み、兄さん、早くよくなってもらいますよ!」
『なんだって弟はあんなにありがたがっているんだろう?』とパーヴェルはひとりになって、考えた。『自分の心しだいでどうにもなることではないみたいに! おれは、弟が結婚したらすぐに、どこか遠くへ、ドレスデンかフィレンツェあたりへでも行って暮らすとしよう。そしてそこに永住するのだ』
パーヴェルはオーデコロンで額をしめし、目を閉じた。明るい日中の光に照らされて、美しい、やせた彼の顔は、白い枕の上に横たわっていた。死人の頭のように……彼は死人も同然であったのだ。
二十五
ニコーリスコエの庭に高々とそびえ立っている一本《ひともと》のトネリコの木陰で、カーチャとアルカージイが芝生におかれたベンチに腰かけていた。かたわらの地面には犬のフィフィーが、長い身体を曲げて、猟人《ハンター》たちのあいだで『ウサギの寝そべり』といわれている優美な曲線をえがいていた。アルカージイもカーチャも黙っていた。彼は半開きの本を両手で持ち、彼女は籠のなかから白いパンくずをえり出して、雀の群れに投げ与えていた。雀どもは、彼らに特有の、臆病なくせに大胆なやり方で、彼女の足もとで跳びはね、さえずっていた。そよ風がトネリコの葉のあいだをさやさやと通りすぎると、小暗い小道の上にも、フィフィーの黄色い背中の上にも、うすい金色の光の斑点が左右にゆれ動くのであった。なだらかな影がアルカージイとカーチャをつつんでいた。ただ時たま彼女の髪のなかで明るい縞が燃え立つばかりであった。
彼らは二人とも口をきかなかった。しかし二人が黙っていること、二人が並んで坐っていること、ほかならぬそのことのなかに、たがいに信頼をよせ合っているという親しさが現われていた。二人のどちらも、隣の者なぞ考えてもいないように見えたが、そのくせ相手がそばにいることを心ひそかに喜んでいるのだった。二人の顔つきも、われわれが最後に彼らを見たときから、ずいぶん変わっていた。アルカージイには落ちつきが見られたし、カーチャは活発に、大胆になったようである。
「トネリコの木をロシヤ語で|ヤーセニ《ヽヽヽヽ》〔「明るい」の意味〕と言うのは、うまく名前をつけたものですね」とアルカージイが言いだした。「そう思いませんか? まったくトネリコのように、こんなに軽く、|明るく《ヽヽヽ》、空気を透かして見える木はほかにありませんからね」
カーチャは目を上げて「そうね」と言った。アルカージイは、『この人は、きざな言い方だ、などと言って、ぼくをとがめるようなことはしない』と思った。
「泣いているときのハイネも、笑っているときのハイネも」とアルカージイの手にしている本を目でさしながら、カーチャは言いだした。「わたしは好きじゃないわ。好きなのは、ハイネが考えこんで、悲しんでいるとき」
「ぼくは笑っているときのハイネが好きだ」とアルカージイは言った。
「それはあなたはまだ、皮肉な傾向の古い名残りがのこっているせいだわ……(『古い名残りだって!』とアルカージイは思った。『もしもバザーロフがこれを聞いたら!』)今に見てらっしゃい、わたしたちがあなたをつくりかえてあげるから」
「だれがぼくをつくりかえてくれるんです? あなたですか?」
「だれが? ――姉さんよ。それからポルフィーリイ。あなたはもうあの人と議論しなくなったわ。それに伯母さま。あなたは一昨日お伴をして教会へ行ったでしょ」
「断わりきれなかったんです! オジンツォーヴァさんのことでしたら、あなただって覚えていらっしゃるでしょう、多くの点でバザーロフと意見が一致していましたよ」
「姉はあのころ、あの人の影響をうけていたのですわ、あなたと同じように」
「ぼくと同じようにですって! ぼくがもうバザーロフの影響を脱していることにあなたもお気づきなんですか?」
カーチャは答えなかった。
「ぼくは知っていますよ」とアルカージイはつづけた。「あなたはついぞバザーロフを好きになりませんでしたね」
「わたし、あの人のことをとやかく申せませんわ」
「ねえ、カテリーナさん? そうしたご返事を聞くといつも思うんですが、ぼくには信じられませんね……あなたやぼくに批判できないような人間なんていませんよ! それはただの言いのがれです」
「そんなら言いますわ、あの人は……わたし、あの人がべつに嫌いだとかいうんじゃないんです、あの人はわたしとは縁のない人で、わたしもあの人には縁がない、という気がしているだけ……それにあなただってあの人には縁がないわ」
「そりゃまたどうしてです?」
「なんと言ったらいいかしら……あの人は猛獣だけれど、わたしやあなたは飼いならされた獣だわ」
「ぼくも飼いならされた獣ですか?」
カーチャはうなずいた。
アルカージイは自分の耳のうしろをかいた。
「あのねえ、カテリーナさん。それは、本質において、侮辱することですよ」
「ではあなたは猛獣になりたいんですの?」
「猛獣というわけじゃないけれど、強い、エネルギッシュな人間になりたいですね」
「それは望んでもだめ……あなたのお友だちなんか、べつに望んでいるわけじゃないけれど、ひとりでにそれが備わっているわ」
「ふむ! するとあなたの考えでは、バザーロフがオジンツォーヴァさんに大きな影響力をもっていた、というんですね?」
「ええ。でも、いつまでも姉さんを抑えつけていることはだれにもできないわ」とカーチャは小声でつけ加えた。
「なぜそう考えるんですか?」
「姉さんは大そうプライドが高いから……いいえ、そう言おうとしたんじゃないわ……姉さんは自分の独立をひじょうに大事にしているの」
「それを大事にしない人なんているもんですか?」とアルカージイは言い返したが、彼自身の頭のなかでは、『そんなものがなんになるだろう?』という考えがひらめいた。『そんなものがなんになるだろう?』という考えはカーチャの頭のなかにもひらめいた。ひんぱんになかよくつきあっている若い人たちというものは、しょっちゅう同じことを考えるものである。
アルカージイは微笑した。そしてそっとカーチャによりそうと、ささやくように言った。
「本当は、|あのひと《ヽヽヽヽ》をすこし怖がっているんでしょう?」
「だれを?」
「|あのひと《ヽヽヽヽ》を」と意味ありげにアルカージイはくり返した。
「じゃあなたは?」とカーチャが逆襲した。
「ぼくも。いいですか、|ぼくも《ヽヽヽ》、と言ったんですよ」
カーチャは指をたてて彼をおどかした。
「わたし驚いているの」と彼女は言いだした。「姉が今度のようにあなたに好意を持っているのは、これまでになかったことなの。最初にいらしたときとは大ちがい」
「そうですか!」
「あなたはそれに気がつきませんでしたの? どう、嬉しくなくって?」
アルカージイは考えこんだ。
「どうしてぼくがオジンツォーヴァさんに好意を持たれるようになったんだろう? あなた方のお母さんの手紙を持ってきてあげたからじゃないかしら?」
「それもあるけれど、ほかの理由もあるの。それは言えないわ」
「どうしてです?」
「言わない」
「ああ! ぼくは知ってますよ、あなたは大へん強情なんだ」
「強情よ」
「そして観察が鋭い」
カーチャはアルカージイを横目で見た。
「もしかしたら、それであなたは腹をたててらっしゃるのかも知れないわね? なにを考えてらっしゃるの?」
「ぼくは、実際あなたのなかにある鋭い観察力が、一体どこから出てくるのかを考えているんです。あなたはびくびくしていて、うたぐり深い。みんなをさけている……」
「わたしはずっとひとりで暮らしてきたんですもの。自然にいろんなことを考えるようになったわ。でもわたし、みんなをさけているかしら?」
アルカージイはカーチャに感謝のまなざしを向けた。
「それはみんなけっこうなことです」と彼はつづけた。
「でもあなたのような境遇の人、つまりあなたのように財産のある人はめったにそういう才能を持ち合わせておりません。そういう人たちは、ツァーリ〔ロシヤ皇帝〕とおなじで、真理に到達することがむずかしいんです」
「でもわたしはお金持ちじゃありません」
アルカージイはびっくりした。彼はすぐにはカーチャの言葉の意味がわからなかった。『本当に、領地はみんな姉さんのものなんだ!』という考えが彼の頭にうかんだ。その考えは彼にとって不快なものではなかった。
「あなたは言いにくいことをよくそうおっしゃっていましたね!」と彼は言った。
「なんのことですの?」
「よくおっしゃった。あっさりと、悪びれも、気取りもせずに。ところでぼくはこう思いますね。自分が貧乏であることを知っていて、そのことを言う人の気持ちには、なにか特別な、一種の虚栄心のようなものがあるにちがいない、と」
「姉のおかげで、わたしはそんな経験をちっともしないですみましたわ、わたしがさっき自分の財産のことを言ったのは、ほんの話のはずみです」
「そうですか。でも正直なところ、あなたにだって、今わたしが言った虚栄心の一部分はあるんでしょう」
「たとえば?」
「たとえば、あなたは、――こんなことをおききして失礼ですが――あなたは金持ちのところへはお嫁にいかないでしょう?」
「もしもわたしがその人を大そう愛していたら……いいえ、それでも行かないでしょうね」
「ね! やっぱりそうでしょう!」とアルカージイは大きな声で言い、しばらくしてからこうつけ加えた。「どうしてあなたは金持ちのところところへお嫁にいかないというんですか?」
「だって、釣りあわぬお嫁さんのことは、歌でもうたわれているじゃありませんか」
「あなたはたぶん、実権をふるう方でしょうね、それとも……」
「いいえ! なんのためにそんなことを? それどころかわたしは、夫に従いますわ。ただ平等でないのは苦痛でしょう。自分を尊重して、夫に従う、というんだったらよくわかるの。それは幸福ですわ。でも隷属生活なんて……いいえ、そんなことならこのままでたくさん」
「このままでもたくさん」とアルカージイは、カーチャの言葉をそのままくり返した。「なるほど」と彼はつづけた。「さすがにオジンツォーヴァさんと血筋を同じくするだけのことはありますね。あなたもお姉さんと同じように自主独立の精神に燃えている。でもあなたの方がひかえ目です。あなたはきっと、けっして自分の方から先に自分の感情を口に出すようなことはしないでしょうね。その感情がどんなに強く、神聖なものであっても……」
「でも、ほかにどうしようもないでしょう?」とカーチャがきいた。
「あなたも同じように聡明です。あなたも、お姉さん以上じゃなくても、それに負けないくらいしっかりしています……」
「わたしを姉さんとくらべたりしないでください。おねがい」とカーチャは急いでさえぎった。「わたしの方が不利すぎますもの。あなたはお忘れになったみたいね、姉さんが、美人でもあれば、頭もよく、それに……ほかの人ならともかく、あなたが、アルカージイさん、そんなことをおっしゃっちゃいけませんわ、それもそんなまじめくさった顔で」
「『ほかの人ならともかく、あなたは』というのはどういうことです? それに、ぼくが冗談を言っているなどと、どこをおせば出てくるんでしょう?」
「もちろん、あなたは冗談をおっしゃってるんだわ」
「そうお思いですか? でも、もしぼくが、自分の言っていることを確信しているんだったらどうします? まだこれでも言い方が足りない、とぼくが思ってるんだったら?」
「あなたのおっしゃることが私にはわからないわ」
「本当ですか? いや、ぼくには今わかりましたよ。ぼくはあなたの観察力を買いかぶっていたようですね」
「どうして?」
アルカージイはなにも答えずにそっぽを向き、カーチャは籠のなかから残りのパン屑を探し出して、雀にやり始めた。しかし彼女が余り勢いよく手をふったので、雀はついばむいとまもなく、脇へ飛び立った。
「カテリーナさん」といきなりアルカージイは言いだした。「たぶんあなたにとってはどうでもいいことでしょうが、ぼくはあなたをお姉さんばかりか、世界じゅうのだれよりも愛しています」
思わず口をついて出た言葉にびっくりしたかのように、彼は立ちあがると足早に立ち去った。
カーチャは両手と籠を膝の上に落として、首をかしげたまま、いつまでもアルカージイの後ろ姿を見送っていた。彼女の頬はしだいに赤くそまった。けれども口もとは微笑にほころぶこともなく、黒い目は疑惑と、今のところなんとも名づけようのないなにか別の感情をあらわしていた。
「あんたひとり?」とそばでオジンツォーヴァの声がした。「アルカージイさんと一しょに庭へ出たんだと思っていたのに」
カーチャはゆっくりと目を姉に移して(粋《いき》というよりも、むしろ凝った身なりをして、オジンツォーヴァは小道の上にたたずみ、開いたパラソルの先でフィフィーの耳をいじっていた)ゆっくりと言った。
「わたしひとり」
「それはわかってるわ」と姉は笑いながら答えた。「するとあの人は、自分の部屋へ帰ったの?」
「ええ」
「一しょに本を読んでいたんでしょう?」
「ええ」
オジンツォーヴァはカーチャのあごに手をやって、彼女の顔をちょっと持ち上げた。
「喧嘩したんじゃないでしょうね?」
「ええ」とカーチャは言って、姉の手を払いのけた。
「ずいぶんともったいぶった返事のしかたね! あの人がここにいたら、散歩に誘おうと思っていたの。あの人がいつも、ご一しょしましょうと言うもんだから。町からあんたの長靴がとどいたわ。行ってはいてごらんなさい。昨日見たら、前の靴がすっかりへってしまっていたから。大体あんたはこんなことにあまり関心がないのね、そんなにすてきな足をしているのに! 手も美しいけれど……少し大きすぎるわ。だから足で点数をかせがなくちゃ。でもあんたはあんまりおめかしをしないのね」
オジンツォーヴァは美しい洋服でかすかに衣ずれの音をさせながら、小道づたいに先へ歩きだした。カーチャはベンチから立ち上がって、ハイネを取り上げると、やはりその場を立ち去った――けれども長靴の寸法を合わせに行ったのではなかった。
『すてきな足』と彼女は、太陽でカンカンに焼きつけられたテラスの石段をゆっくりと、軽やかに登って行きながら考えた。『すてきな足とあなたは言う……そう、いまにあの人がこの足もとにひざまずくの』
けれども彼女はすぐに恥ずかしくなって、急いで階段を駆けあがった。
アルカージイは自室に向かって廊下を歩きだした。執事があとから追いかけてきて、バザーロフさんがお部屋でお待ちでございます、と取りついだ。
「エヴゲーニイが?」とアルカージイはほとんど驚かんばかりにつぶやいた。「ずっと前から来ているの?」
「たった今おいでになったばかりで。オジンツォーヴァさまにはお取りつぎしないようにとお命じになり、直接あなたさまのお部屋に通してくれとのことでございました」
『もしかしたらうちになにか不幸があったのではなかろうか?』とアルカージイは思って、急いで階段を駆けあがり、勢いよくドアを開けた。バザーロフのようすを見てすぐに彼は安心した。もっとも、もっと経験に富んだ人が見たならば、不意の客の相変わらず精力的ではあるが、憔悴した姿のうちに、内心の不安のきざしを見いだしたにちがいない。ほこりにまみれた外套を肩にかけ、学帽をかぶったまま、彼は窓がまちの上に腰かけていた。彼はアルカージイがにぎやかな叫び声と共に彼の首にとびついたときでさえ、腰を上げなかった。
「よく来てくれたね! 思ってもいなかったよ!」と彼は、自分でも喜んでいるように思いこみ、かつ人にもそう見せたい人がやるように、室内をせかせか歩きながら、くり返した。「ぼくのうちでは万事変わりないだろうね、みんな達者だろうね、そうじゃないかい?」
「君のうちは万事変わりないが、しかしみんなが達者というわけではないよ」とバザーロフは言った。「君、べらべらしゃべらないで、クワス〔飲料の一種〕でも持ってくるように命じてくれ給え。それから、ここに坐って、話を聞いてくれ。簡単明瞭に報告するから」
アルカージイは静かになり、バザーロフはパーヴェルとの決闘のいきさつを彼に話した。アルカージイはひじょうに驚いた。彼はむしろ悲しく思ったほどだった。しかしそれを口に出す必要はないと考えた。彼はただ、伯父の傷が本当に危険でないかどうかきいただけだった。そして、傷がごく興味あるものではあるが、しかしそれは医学的な点ではないときくと、作り笑いをしてみせたが、彼の心は無気味にもなれば、なんだかはずかしくもなった。バザーロフは彼の気持ちがわかったようだった。
「そうさ、君」と彼は言った。「殿さまと暮らすというのはこういうことなのだ。自分も殿さまになって紅白試合《トーナメント》に参加することになる。そこでぼくは『親もと』に向かって出発し」とバザーロフは言葉を結んだ。「途中でここへよったわけさ……これら一部始終を伝えるために、と言いたいんだがね、もしも無益な嘘をばかげたことと思わなかったら。いや、ここへ寄ったのは――なぜだかわかったもんじゃない。ねえ君、人間てやつは、自分の髪の毛をひっつかまえて、畑のうねから大根をひっこ抜くみたいに、遠くへおっぽりだしてみるのも、時には有益なんだ。ぼくはそれを最近やってのけた……ところが一たん自分の別れたものが、自分の植わっていたうねが、もう一度見たくなったのさ」
「君の言うのはぼくのことじゃないだろうな」とアルカージイは興奮して言った。「君はまさか、|ぼく《ヽヽ》と別れるつもりじゃあるまいねえ」
バザーロフはじっと、ほとんどつき刺すように彼を見つめた。
「君はじつに悲しいみたいだね? ぼくには、君《ヽ》はもうぼくと別れてしまったような気がするよ。君はそんなにみずみずしくて、こぎれいだ……きっと、オジンツォーヴァさんとのこともうまくいってるんだろう」
「オジンツォーヴァさんとのことってなんだい?」
「だって君はあの人のために町からここへやってきたんだろう、坊や? ところで、町の日曜学校活動はどうだったのかね? 君はあの人に惚れてるんじゃないのか? それとももう控え目にふるまっていい時期が来たのかい?」
「エヴゲーニイ、君も知っているように、ぼくはいつだって君に隠しだてなんかしたことがないよ。断言してもいい、誓って言う、君はまちがっている」
「ふん! 耳新しい言葉だな」とバザーロフは低い声で言った。「しかしなにもそんなにむきになることはない。ぼくにとっちゃどっちみち同じことなんだ。そりゃロマンチストなら、二人の道は別れはじめようとしているような気がする、なんて言うだろうが、ぼくはあっさり、われわれはたがいに鼻についた、と言うだけのことさ」
「エヴゲーニイ君……」
「君、これはべつに大したことじゃないよ。この世の中に鼻につくことはたんとある! ところでぼくらも、そろそろ別れるべきときじゃないかと思うがな? ぼくはここへ来てから、胸くそが悪くてならんのだ、カルーガ県知事夫人あてのゴーゴリの手紙を読んだときみたいに。ついでながら、ぼくは馬を外さないでおくように言いつけてあるよ」
「君、そんなばかなことってあるもんか!」
「なぜかね?」
「ぼくはもう自分のことは言わない。しかしそれは、オジンツォーヴァさんに対して最高に失礼だよ。きっと君に会いたいと言うにちがいないんだから」
「なに、それは君のまちがいだ」
「ところがぼくは、反対に、自分の方が正しいと確信している」とアルカージイが言い返した。「それに、なんだって君はそんなにとぼけるんだ? こうなったからにははっきり言うが、君こそあの人のためにここへ来たんじゃないか?」
「それは本当かも知れないが、しかしやっぱり君はまちがってるよ」
しかしアルカージイの言ったとおりだった。オジンツォーヴァは執事を通してバザーロフに、会いたいから自分のところによって欲しいと言った。バザーロフは彼女のところへ行く前に着がえをした。自分の新しい服がすぐ出せるように、手近なところにしまっておいたことがわかった。
オジンツォーヴァが彼に会った部屋は、彼があんなにだしぬけに彼女に愛の告白をした部屋ではなく、客間だった。彼女は愛想よく彼に指の先をさしのべたが、しかし彼女の顔は思わず緊張の色をうかべていた。
「オジンツォーヴァさん」とバザーロフはそそくさと言いだした。「ぼくは第一にあなたに安心していただかなければなりません。あなたの前にいるのはとっくの昔に自分で正気に返った男でして、その男はほかの人間も自分のばかげたふるまいを忘れてくれたものと期待しております。当分お目にかかることもないと思います。ぼくはいかにも優男《やさおとこ》じゃありません。けれどもあなたが、ぼくのことを思い出すたびに嫌なお気持ちになられるのではないか、と思うと、やりきれないんです」
オジンツォーヴァはたった今高い山によじ登ったばかりの人のように深いため息をついたが、その顔は微笑で生き生きとなった。彼女はもう一度バザーロフに手をさしのべて、彼の手を握り返した。
「過ぎ去ったことは水に流してしまいましょう」と彼女は言った。「まして、正直なところ、あのときわたしにも、コケットリイとまでいかなくとも、なにかそういったほかのことで至らぬ点があったのです。要するに、これまで通りお友達としておつき合いいたしましょう。あれは夢でした。そうじゃありません? いつまでも夢を憶えている人がいるでしょうか?」
「いませんね。それに恋なんてやつは……いつわりの感情じゃありませんか」
「本当ですの? それを聞いて大そう嬉しゅうございますわ」
オジンツォーヴァはこのように言い、バザーロフはこのように言った。二人とも自分は真実を言ったのだ、と思った。彼らの言葉のなかに真実が、完全な真実があったであろうか? 彼ら自身それがわからなかったからには、作者にはなおさらのことである。しかし会話は、二人がたがいにすっかり信じきっているかのように、始められた。
オジンツォーヴァは話のうちにバザーロフに、彼がキルサーノフ家でなにをしていたのかをきいた。彼はもうすこしで、パーヴェルとの決闘の一件を話すところだったが、自分が女たらしのように思われてもこまると思ったので、それをさしひかえて、ずっと勉強していたと答えた。
「わたしはね」とオジンツォーヴァが言った。「はじめのうちはどういうわけか気がふさいでしまって、外国旅行に出かけようかと思ったくらいですのよ! ……でもそのうちにおさまりました。そこへあなたのお友達のアルカージイさんがいらして、わたしもふたたび自分の軌道に、自分の本当の役割にもどりましたの」
「どんな役割なんでしょう、それは?」
「伯母さんの役割、女教師の役割、母親の役割、その他なんとでも呼んでください。それでね、バザーロフさん、|せん《ヽヽ》にはわたし、あなたとアルカージイさんがどうして仲がいいのかよくわかりませんでした。わたしはあの人をごくつまらない人だと思っていたもんですから。でも今度よくわかりましたし、賢い人だと思うようになりました……でも大事なことはあの人はまだ若い、若いということです……わたしやあなたとはちがいますわ、バザーロフさん」
「アルカージイは相変わらずあなたの前に出ると、びくびくしていますか?」とバザーロフがきいた。
「まさか……」とオジンツォーヴァは言いかけたが、すこし考えてから、こうつけ加えた。「今ではぐっとくだけてきて、わたしとも話をします。前にはわたしをさけていました。もっともわたしの方からすすんで相手にしようとはしませんでしたが。カーチャとは大のなかよしですわ」
バザーロフはいまいましくなった。『女ってやつはずるくふるまわずにはいられないんだ』と彼は思った。
「アルカージイがあなたをさけていた、とあなたはおっしゃるけれど」と彼は冷ややかなうす笑いをうかべて言った。「おそらくあなただって、あれがあなたに恋をしていたことはご存じでしたでしょう?」
「え? あの人も?」という声が思わずオジンツォーヴァの口からもれた。
「あれもです」とバザーロフはくり返して、うやうやしく頭を下げた。「あなたはご存じなかったんですか、初耳ですか?」
オジンツォーヴァは目を伏せた。
「それはまちがいですわ、バザーロフさん」
「そうは思いませんね。しかし、ぼくはこのことをあなたに申しあげるべきじゃなかったかも知れません」『これからはずるくふるまうんじゃないぜ』と彼は心のなかでつけ加えて言った。
「べつにおっしゃって悪いことなんかありません。でもわたしの考えでは、あなたは束《つか》の間《ま》の印象に大きな印象を与えすぎます。どうやらあなたはものごとを大げさに考える傾向がおありのようですね」
「もうこの話はしない方がよさそうですね、オジンツォーヴァさん」
「どうしてですの?」と彼女は言いだしたが、自分の方から話題をかえた。なにもかも忘れてしまった、と彼にも言ったし、自分にも言いきかせはしたものの、彼女にとってはやはり、バザーロフと向きあっているのが気づまりだった。彼となにげないことばを取りかわしていながら、冗談さえも言いながら、彼女は軽い恐怖に胸がしめつけられる気がした。たとえば海を行く汽船に乗っている人びとが、堅固な陸地の上にいるように、くったくもなく話したり、笑ったりしている。ところが僅かの故障でも起きると、なにか異常なことのきざしがごく僅かでもあらわれると、すぐさまみんなの顔に、危険をいつまでも意識していることを物語る、あの独特な不安の色がうかぶ、それと同じことである。
オジンツォーヴァとバザーロフとの話はあまり長くはつづかなかった。彼女は考えこんで、上の空で返事をするようになり、しまいに広間へ行きましょうと言いだした。行って見るとそこには老公爵令嬢とカーチャがいた。「アルカージイさんはどこ?」と女主人はたずねた。そしてもう二時間以上も姿を見せないという返事をきくと、彼を呼びに人をやった。すぐには見つからなかった。彼は庭の一ばん淋しいところへ入りこんで、組み合わせた両手の上にあごをのせて、物思いに沈んで坐っていた。それは深いものであったが、悲しいものではなかった。彼はオジンツォーヴァがバザーロフとさし向かいでいることを知っていたが、以前のように嫉妬を感じなかった。反対に、彼の顔はおだやかに輝いていた。彼はなにかに驚いており、喜んでおり、なにごとかを決心しようとしているみたいだった。
二十六
故人となったオジンツォーフは新しいものを取り入れることを好まなかったが、『高級な趣味』をいささかたしなむところがあったので、自宅の庭の温室と池のあいだに、ロシヤ煉瓦でギリシャふうの柱廊のようなものを建てた。この柱廊、つまりギャラリーの奥の、窓のない壁には、彫像用の六つの壁《へき》がんがつくってあった。オジンツォーフはそこにおく彫像を外国から取りよせるつもりだった。彫像はそれぞれ孤独、沈黙、思索、憂愁、羞恥、感傷をあらわすことになっていた。その一つである、唇の上に一本の指をあてがった沈黙の女神の像が、とどいて、すえつけられた。ところがその日のうちに屋敷づとめの召使のところの子供たちが鼻を叩き落としてしまったのである。近所の左官がこの像に『前のより二倍もりっぱな』鼻をくっつけようとしたが、オジンツォーフはこの像を取り払うように命じた。そこでこの像は打穀小屋の片隅におかれて長年立っていた。
それを見て百姓女たちは、迷信的な恐怖にかきたてられるのだった。柱廊の前面にはずっと前から灌木が生い繁っていて、円柱の柱廊だけがあたり一面の緑の上に見えていた。この柱廊のなかは真昼でも涼しかった。オジンツォーヴァはそこに蛇がいるのを見てからというもの、この場所を訪れるのを好まなかった。けれどもカーチャはよくここへ来て、壁がんの一つの下に設けられた大きな石のベンチに腰をおろすのだった。すがすがしい空気と木陰に取りまかれて、彼女は読書をしたり、仕事をしたり、完全な静寂感にひたったりした。この感じはおそらくだれもが身に覚えのあるもので、その魅力というのは、われわれのまわりや、われわれ自身のなかで、たえまなくよせては返す広漠とした生の波を、ほとんど意識することなく、黙々として待ち伏せしているところにある。
バザーロフの来た翌日、カーチャはお気に入りのベンチに腰かけていたし、そのそばにはまたもやアルカージイが坐っていた。彼が彼女に自分と一しょに『柱廊』にきてくれるように頼んだのである。
朝食まではまだ一時間ほどあったが、露のおりた朝はもはや暑い日中と代わろうとしていた。アルカージイの顔は昨日の表情をとどめていたが、カーチャは心配そうな顔つきをしていた。姉が、お茶がすむとすぐに彼女を自分の居間に呼びよせ、さきにやさしい言葉をかけておいてから(そんなときカーチャはいつもすこし不安な気持ちになるのだった)、アルカージイと一しょのときは自分の行動に気をつけるように、とくに二人で話をすることはさけるようにと忠告したのである。伯母や、家じゅうのものの目につくからというのであった。その上、すでに前の晩からオジンツォーヴァはふきげんだった。またカーチャ自身も、まるで自分の罪を認めるかのように、当惑を覚えたのだった。アルカージイのねがいをきいてやりながら、彼女は、これが最後よ、と自分に言い聞かせたのだった。
「カテリーナさん」と彼は、はじらいながらも勇気をふるって言いだした。「幸福にもあなたと同じ家に住むようになってから、ぼくはあなたといろんなことを話し合いました。けれどもぼくがまだ触れたことのない、ぼくにとってはひじょうに大事な問題が……一つあります。あなたは昨日、ぼくがここへ来てからつくりかえられた、と言いましたね」と彼は、なにかききたそうに自分をみつめているカーチャの視線を見たり、はずしたりしながら言いそえた。「じっさい、いろんな点でぼくは変わりました。あなたがほかのだれよりもこのことをよくご存じです。本当に、あなたのおかげでぼくは変わったのです」
「わたしが? ……わたしのおかげ?……」とカーチャが言った。
「ぼくは今ではもう、はじめてここへ来たときのような傲慢な少年じゃありません」とアルカージイはつづけて言った。「ぼくだって数え年二十三歳になったんですから、ぼくはこれまでのように有用な人間になることを望んでいます、ぼくの力のありったけを真理にささげたいと思っています。けれども自分の理想を、せんに探し求めていたところには探し求めていません。それはぼくの……ずっと近くにあるのです。これまでぼくは自分というものがわかりませんでした、ぼくは自分の力にあまる任務を自分に課していたのです……最近ぼくの目があいたのは、ある感情のおかげです……どうも、あんまりうまく言いあらわせませんが、ぼくの気持ちはわかっていただけると思います」
カーチャはなんとも答えなかったが、アルカージイの方を見ることをやめてしまった。
「ぼくはこう思います」と彼はふたたび、一そう上ずった声で言いだした。ウソが一羽、彼の頭上でシラカバの葉のあいだで、のんきに歌をうたっていた。「ぼくは、あらゆる誠実な人間の義務はかくしだてをしないことだと思うんです……その……つまり……要するに、親しい人たちですね、だからぼくは……ぼくの気持ちは……」
しかしここで雄弁がアルカージイを裏切ってしまった。彼はまごつき、口ごもり、やむなくすこし黙らなければならなかった。カーチャはなおも目を上げなかった。どうやら彼女は、この話の結論がどうなるのか理解できないようでもあれば、なにごとか待っているようでもあった。
「あなたがびっくりなさるだろうということは、よくわかっています」と、また元気をだしてアルカージイは言いだした。「ましてこの気持ちはいくらか……いくらか、じつは――あなたに関係することなんです。あなたはぼくを、たしか昨日だったと思いますが、まじめさが足りないといわれましたね」とアルカージイは、沼地に足を踏み入れた人が、一足ごとにますます深みにはまりこむと感じながらも、早くそこを抜け出そうとして、なおも前へ急ぐときのような顔つきをして言葉をつづけた。「この非難はよく若い人たちに対して言われます……浴びせられます、もう非難される理由がなくなってからでも。もしもぼくにもっと自信があったら……(『助けてくれ、なんとかしてくれ!』――とアルカージイは絶望しそうに思っているのに、カーチャは相変わらずこっちをふりむかなかった)もし期待できるなら……」
「もしわたしが、あなたのおっしゃることを確信できましたらね」と、この瞬間オジンツォーヴァのはっきりした声がひびいた。
アルカージイはすぐに口をつぐみ、カーチャは蒼くなった。柱廊をおおっている繁みのそばを小道が通じている。オジンツォーヴァはその道を、バザーロフとつれだって歩いていた。カーチャとアルカージイには二人の姿が見えなかったが、一語々々が、衣ずれの音が、息づかいまでが聞こえてきた。彼らは五、六歩あるいて、まるでわざとのように、柱廊のまん前で足をとめた。
「まったくの話」とオジンツォーヴァがつづけた。「わたしたちはまちがったのです。わたしたちはどちらもそんなに若くありません、とくにわたしなんかは。わたしたちはもうそろそろ生活に疲れが出たところです。わたしたちは二人とも利口です――なにも謙遜することはありませんわ。はじめわたしたちはたがいに興味を持ちました、好奇心をかきたてられました、それから……」
「それからぼくがへたばった」とバザーロフがまぜっ返した。
「それがわたしたちの仲たがいの原因でないことは、あなたもご存じでしょう。しかしいずれにせよ、わたしたちはおたがいを必要としなかったのです。それが大事なことよ。わたしたちのなかには多すぎたのです……なんと言ったらいいかしら、その……似た点が。わたしたちにはそれがすぐにはわかりませんでした。反対に、アルカージイは……」
「あなたはあの男を必要とするんですか?」とバザーロフがたずねた。
「たくさんだわ、バザーロフさん。あなたは、あの人がわたしに関心をもっているとおっしゃる。わたしも、あの人がわたしを好いている、といつも思っていました。わたしは自分があの人の伯母さんぐらいがちょうどお似合いだということを知っています。でもわたしはあなたにかくしだてなんかしようと思っていません、わたしもあの人のことをしばしば考えるようになりましたわ。あの若い、みずみずしい感情のなかには、なにかしら美点がありますもの……」
「そんな場合には魅力《ヽヽ》とおっしゃった方がいいでしょう」とバザーロフが話の腰を折った。彼のおだやかではあるが、うつろな声にはとげとげしいものが感じられた。「アルカージイは昨日なんだかぼくによそよそしい態度をとって、あなたのことも、妹さんのことも話しませんでした……」
「あの人はカーチャとまるで兄妹《きょうだい》のようにしていますわ」とオジンツォーヴァが言った。「わたしにはそれが気に入ってますの。もっとも、ことによったら、二人があんなに接近するのを許しておいてはいけないのかもしれませんけど」
「そうおっしゃるのは……姉としてですか?」とバザーロフは一語々々ゆっくりと言った。
「むろんです……あら、なにもここに立っていることはないわね? 参りましょう。変な話になってしまったわ、そうじゃありません? あなたとこんな話をするなんて、思ってもいなかったことよ。あなたはご存じですわ、わたしがあなたを恐れているってことを……で、それと同時にあなたに信頼をよせているってことも。だってあなたは、根が大そういい人なんですもの」
「第一に、ぼくはちっともやさしい人間じゃありません。第二に、ぼくはあなたにとってあらゆる意義を失ってしまったのに、あなたはぼくがやさしいとおっしゃる……それは死人の頭《こうべ》に花環を置くも同然ですよ」
「バザーロフさん、なんでもわたしたちの思いのままになるわけじゃありませんわ……」とオジンツォーヴァは言いかけた。けれどもこのときさっと風が吹いてきて、木の葉をきらめかせ、彼女の言葉を運び去った。
「でもあなたは自由でしょう」と、しばらくたってからバザーロフが言った。
それからあとはなにも聞きとれなかった。足音は遠ざって……なにもかもひっそりとなった。
アルカージイはカーチャの方を見た。彼女は同じ姿勢で坐っていた。ただ前よりも一そう低く頭を垂れていた。
「カテリーナさん」と彼はふるえる声で言って、両手を握りしめ、「ぼくはいつまでもあなたを愛します、あなたのほかはだれも愛しません。ぼくはあなたにこのことを申しあげて、あなたのご意向をきき、あなたに求婚しようと思ったのです。なぜってぼくは金持ちでもありませんし、どんな犠牲もいとわないつもりだから……お返事がいただけませんね? あなたはぼくが信用できないんですか? あなたは、ぼくが軽はずみに言っていると思ってらっしゃるんでしょう? でもこの数日のことを思いだしてください! あなたはだいぶ前から、ほかのことはみんな――いいですか――みんな、ほかのことはみんなだいぶ前から跡かたもなく消えてしまったことを、お認めになっているではありませんか? ぼくの顔を見てください、一言おっしゃってください……ぼくは愛しています……ぼくはあなたを愛しています……ぼくを信じてください!」
カーチャは厳粛な明るいまなざしでアルカージイを見つめた。そして長いこと考えたあげく、やっと微笑をうかべて、低い声で言った。
「ええ」
アルカージイはベンチから跳び上がった。
「ええですって! あなたは『ええ』とおっしゃいましたね、カテリーナさん! そのお言葉はどういう意味なんでしょう? ぼくがあなたを愛しているということ、あなたがぼくを信じてくださるということでしょうか……それとも……それとも……ぼくはとてもおしまいまで言うことができません……」
「ええ」とカーチャはくり返した。今度は彼にも彼女の言葉の意味がわかった。彼は彼女の大きな美しい手を取って、喜びに息をはずませながら、自分の胸におしつけた。彼はやっとのことで立っていることができた。そしてただ、「カーチャ、カーチャ……」とくり返すだけだったが、彼女はどうしたわけか無邪気に泣きはじめ、自分で自分の涙をひそかにおかしく思ったことであった。愛する人の目にうかぶこのような涙を見たことのない者は、人間がこの地上において、感謝と恥じらいに身も魂も消えいるようになったときに、いかばかり幸福になりうるのかをいまだ体験したことのない者である。
翌日、朝まだき、オジンツォーヴァはバザーロフを自分の居間に呼ぶように命じた。彼女は無理に笑顔をつくって、一枚の折りたたんだ便箋を彼に手渡した。それはアルカージイからの手紙だった。その中で彼は彼女の妹に結婚の申し込みをしていた。
バザーロフは手紙を走り読みすると、たちまち胸中に燃えあがった意地悪い感情を外にあらわすまいと懸命につとめた。
「そうでしたか」と彼は言った。「たしかつい昨日でしたね、アルカージイがカテリーナさんを愛しているのは兄が妹を愛するような気持からだと思う、とおっしゃったのは。今度は一体どうなさるおつもりです?」
「あなたの知恵をおかりしたいわ」とオジンツォーヴァは、笑顔をくずさずに言った。
「ぼくの考えはですね」とバザーロフも笑顔を見せて言った。彼にとっては、彼女も同じことだったが、いっこうに愉快でなく、ちっとも笑顔なんか見せたくなかったのである。「ぼくの考えでは、若い人たちを祝福してやるべきだと思います。あらゆる点で似合いの二人ですよ。アルカージイには相当の資産があるし、あの男は一人息子です。それに親父もいい人ですし、反対するようなことはないでしょう」
オジンツォーヴァは室内をすこし歩いた。彼女の顔はかわるがわる赤くなったり、蒼くなったりした。
「そうお思いになります?」と彼女は言った。「けっこうですわ。わたしも異存ありません……わたし、喜んでますの、カーチャのため……それからアルカージイさんのために。むろん、父親の返事を待ってからのことですけど。ご本人を父親のところへやりますわ。昨日わたしが、わたしたちはどちらももう古い人間だわ、とあなたに申しあげたのは、当たってましたわね……どうしてなんにも気がつかなかったのかしら? わたし、びっくりしましたわ!」
オジンツォーヴァはまた笑いだしたが、すぐに顔をそむけた。
「今どきの若い者はひどくずるくなりましたからね」とバザーロフは言って、やはり笑いだした。「さようなら」と彼は、しばらく黙っていてからふたたび言いだした。「この話がめでたくまとまるようにお祈りします。ぼくは遠くから祝意を表しますよ」
オジンツォーヴァはすばやく彼の方をふり向いた。
「お発ちになる? どうして|今度は《ヽヽヽ》お泊まりにならないの? とまってらっしゃい……あなたとお話するのは楽しいわ……まるでがけっぷちを歩いているみたい。はじめはびくびくしているけれど、そのうちどこからか勇気がわいてくるの。泊まってらっしゃい」
「おすすめくださってありがとう、オジンツォーヴァさん。それからぼくの弁舌の才をおほめにあずかって。しかしぼくは、そうでなくても、自分とは無縁の社会に入りびたりすぎたようです。トビウオは少しのあいだは空中にいることができても、じきに水中に跳びこまねばなりません。ぼくもまたわが世界に落ちこませてください」
オジンツォーヴァはバザーロフを見た。にがいうす笑いが彼の蒼白い顔をひきつらせていた。『この人はわたしを愛していたのだ!』と彼女は思った。すると彼が気の毒になった。彼女は心をこめて彼に手をさしのべた。
しかし彼も彼女の胸のうちを察した。
「いいえ!」と彼は言って、一歩あとへしりぞいた。「ぼくは貧乏人ですが、これまで一度だってめぐみを受けたことはありません。さようなら、ごきげんよう」
「わたし、またいつかきっとお目にかかれることと確信しておりますわ」と思わず身体をのりだしてオジンツォーヴァは言った。
「世の中にはいろんなことがありますからね!」とバザーロフは答えて、おじぎをすると出て行った。
「では君も自分の巣をいとなもうってわけだな?」と同じ日に彼は、しゃがみこんでトランクにものをしまいながらアルカージイに言った。「けっこうじゃないか。いいことだ。ただ小細工することはなかったぜ。ぼくは君がまったく別の方向にすすむかと思っていたんだ。もっとも、君は、自分でもあきれているのかもしらんが」
「君と別れるときに、まさかこうなるとはぼくも思っていなかったよ」とアルカージイが答えた。「それにしても君こそ、なぜ小細工をして、『いいことだ』などと言うんだい? 君の結婚観をまるでぼくが知らないみたいじゃないか?」
「なんだって、君!」とバザーロフは言った。「おっしゃいましたね! 今ぼくのしていることが見えるだろう。トランクのなかにすき間ができたので、そこへ干し草を詰めているところだ。われわれの人生のトランクもそんなもんさ。なにを詰めてもいい、すき間がないようにしなくちゃ。まあ、怒らんでくれ。君はたぶん、覚えているだろう、ぼくがいつもカテリーナさんについて言っていたことを。ただ利口そうにため息をつくからという理由だけで、利口だと評判をとっている娘がいるもんだ。ところが君の彼女はしっかりものだ。しっかりしすぎて君は尻にしかれてしまうよ――しかし、そうでなくちゃならないんだ」彼はバタンと蓋をしめて、床から立ち上がった。「ところで今度はお別れにもう一度言っておこう……なにも嘘を言うことはないからね。ぼくらは永久におさらばだ、君だってそういう気がしているだろう……君のやり方は賢明だったよ。君はわれわれのようなにがい、つらい、貧乏暮らしをするようには生まれついていないのだ。君にはふてぶてしさも憎悪の念もない。あるのは若さの無鉄砲と血気だ。われわれの仕事のためには向いていない。君たち貴族は上品な興奮より先へは一歩も進めないんだ。くだらんさ。たとえば君は喧嘩をしないくせに、いっぱしの若者のつもりでいる――ところがぼくらはけんかをしたいのだ。そうだとも! ぼくらのたてるほこりは君の目に入るし、ぼくらの泥は君たちを汚すだろう。ところが君はぼくらほどに成長していないのだ。君は思わず自分の姿に見とれている、君は自分自身を買っていい気持ちになっている。ところがそんなことはわれわれにはうんざりさ――ほかのやつを出せ! ほかのやつを打ち破らなくちゃならない! 君はいいやつだ。しかしやっぱり柔弱な、自由主義的なお坊ちゃん――うちの親父の言葉を借りれば、エ・ヴォラ・トゥ(それっきり)だ」
「永久にぼくと別れるつもりかね、エヴゲーニイ!」と悲しげにアルカージイが言った。「ぼくのために、ほかに言いようがないのかい?」
「あるよ、アルカージイ、ほかの言葉があるよ、ただ言わないだけだ。なぜってそんなことを言うのはロマンチシズムってことになるからな。おセンチになることなんだ。君、早く結婚したまえ。自分の巣をつくって、子供をできるだけたくさんこさえるんだ。その子供たちは、ぼくや、君とちがっていい時代に生まれ合わせるから、賢い人間になるよ。おや! 馬の用意ができたようだ。じゃね! みんなに暇乞いをすませたと……どうだい? ひとつ抱き合おうか?」
アルカージイはかつての師匠であり、親友であるバザーロフの肩にとびついた。彼の目からは涙がしきりに流れ出た。
「これだから若い者はこまる!」とバザーロフは落ちつきはらって言った。「しかしぼくはカテリーナさんを頼みに思っているよ。見給え、あの人が君をなぐさめてくれるから!」
「さよなら、君!」と早くも馬車に乗りこんで、彼はアルカージイに言った。そして、うまごやの屋根の上にならんでとまっている一対のカラスを指さして、こうつけ加えた。「ほら、あれだよ、研究したまえ!」
「どういう意味だね?」アルカージイがきいた。
「え? 君はそんなに博物が苦手なのかい? それともカラスは一番礼儀正しい、家庭的な鳥だということを忘れてしまったのかい? 君のお手本だよ! ……さようなら、セニョール!」
馬車はガラガラ音を立てて走り出した。
バザーロフの言ったとおりであった。晩、カーチャと話しているうちに、アルカージイは自分の指導者のことをすっかり忘れてしまった。彼はもうカーチャの言いなりになりだした。カーチャもそれを感じたが、別におどろかなかった。彼は翌日マリーノ村のニコライ・ペトローヴィチのところへ行くことになっていた。オジンツォーヴァは若い連中にきゅうくつな思いをさせたくはなかったが、ただエチケットを考えてあまり長く二人きりにしておかなかった。彼女は気をくばって二人のそばから老公爵令嬢を遠ざけた。老嬢は二人が結婚するという知らせをきいて、涙の出るほど怒ったのだ。はじめオジンツォーヴァは、二人の幸福そうな光景を見せつけられて自分もすこしつらくなるんじゃないかと心配した。けれども結果はまったく反対だった。その光景は彼女の心をひき、おしまいには彼女を感動させた。オジンツォーヴァはそれを喜びもすれば、悲しくも思った。『どうやらバザーロフの言ったとおりだわ』と彼女は考えた。『好奇心、好奇心だけだわ。それに安静を乱されたくない気持ち、エゴイズム……』
「ねえ、あんたたち!」と彼女は大声で言った。「どう、恋っていつわりの感情かしら?」
しかしカーチャにも、アルカージイにも彼女の言葉は通じなかった。二人は彼女を敬遠した。はからずも盗みぎきした会話が二人の頭から去らなかったのである。とはいえ、オジンツォーヴァはじきに二人を安心させた。そしてそれは彼女にとってむずかしいことではなかった。彼女自身が落ちついてきたからである。
二十七
バザーロフ老夫婦はよもや息子がこんなにだしぬけに帰ってくるとは思っていなかったので、なおのこと息子の帰宅を喜んだ。アリーナはすっかり大さわぎをして家じゅうを駆けまわったので、老バザーロフは彼女を『シャコ』にたとえたほどである。彼女の短い上衣の短い裾《すそ》は、じっさい、彼女になにかしら鳥のような感じを与えていた。彼の方はただ喉を鳴らしたり、琥珀《こはく》のパイプを横っちょにくわえ、指で首すじをつまんで、首をふってみせるだけであった。それはちょうど、首がちゃんとすわっているかどうかを試しているみたいであった。かと思えばとつぜん大口を開けて、声を立てずにカッカッと哄笑するのだった。
「ぼくはまる六週間いるつもりで帰ってきましたよ、お父さん」とバザーロフは彼に言った。「勉強しようと思うから、どうか、邪魔しないでください」
「わしの顔を忘れるくらい、邪魔するとしよう!」と老バザーロフが答えた。
彼は約束を守った。この前と同じように息子を書斎に落ちつかせると、ほとんど息子の前から姿を隠さんばかりであった。妻にも愛情の無用な表現をさしとめた。「ねえお前」と彼は彼女に言った。「この前エニューシャがきたときには、少々あれをうんざりさせたようだ。今度はもちっと気をつけようじゃないか」
アリーナは夫に同意したが、そのためあんまり得るところはなかった。というのは、息子の顔を見るのは食事のときだけで、彼と口をきくのさえ恐れはばかったからである。「エニューシェンカや!」と声をかけてみるものの、息子がまだこちらをふりむきもしないうちに、手提げ袋のひもをいじくりながら、「なんでもないの、なんでもないの、つい呼んだだけだよ」とつぶやくことがよくあった。が、あとで老バザーロフのところへ出向いて、頬杖ついて彼に言うのだった。
「ねえ、あんた、今日の夕飯はシチーとボルシチと、エニューシャはどっちがいいって言うかしら?」
「自分であれにきけばいいじゃないか?」
「うるさがるといけないわ!」
しかし、バザーロフはじきに自分の方から閉じこもるのをやめた。勉強熱が|さめて《ヽヽヽ》、なやましい倦怠と漠然とした不安がそれにとって代わった。彼のすべての動作のなかに奇妙な疲労感が目につくようになり、しっかりとした、猛烈に元気のよい歩き方さえ変わってしまった。ひとりで散歩するのをやめて交際を求めるようになった。客間でお茶を飲んだり、父親と菜園を散歩したり、彼と一しょに『黙りこくって』タバコを吸ったりした。あるときなどはアレクセイ神父の消息をたずねた。老バザーロフははじめこの変わりようを喜んだが、しかし彼の喜びは長つづきしなかった。
「エニューシャにもこまったものだ」と彼はひそかに妻に訴えた。「ふきげんなわけでも怒っているわけでもない。それだったらまだしもなんだが、あれは悲しんでいる、沈んでいる――それが心配でならん。いつも黙りこくってばかりいる。むしろおれやお前に当たりちらしてくれればいいんだが。やせてきて、顔の色だってすぐれない」
「神さま、神さま!」と老婆はささやくように言った。「あの子の首にお守り袋でもさげてやりたいけれど、あの子は承知しないでしょうよ」
老バザーロフは何度か息子に、この上なく用心ぶかく、彼の勉強や、健康や、それからアルカージイのことなどをきいてみようとした……しかしバザーロフはいやいやながらといった調子ですげなく答えるのだった。あるときなどは、父親が話のなかでなにかを聞き出そうとしているのに気づくと、いまいましそうにこう言った。
「なんだってぼくのまわりを、爪先立ちで歩くようなことをするんです? そんなやり方は前よりずっとよくないですよ」
「なに、なに、べつになんでもないんだ!」とかわいそうに老バザーロフは、急いで答えた。政治問題にもってゆこうというほのめかしもやはりむだだった。あるとき、近々おこなわれる農民の解放に関連して、時代の進歩ということについて話をはじめ、息子の同感を呼ぼうと期待したが、相手は冷淡にこう言った。
「昨日塀のそばを通りかかったら、ここの百姓の子供たちが、なにか古い歌の代わりに、『|たしかな時ぞ近づきぬ《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、|心は愛を覚ゆ《ヽヽヽヽヽヽ》なり……』と歌っているのを聞きました。これがお父さんの言う進歩ですよ」
時おりバザーロフは村へ出むき、例によってひやかし半分の調子で、百姓のだれかれをつかまえて話を始めるのだった。「どうだね」と彼は百姓に言った。「わしにお前の人生観をきかしてくれないか。聞くところによると、ロシヤの力も将来もことごとく、お前たちのなかにある、歴史の新しい時代はお前たちから始まるんだそうだ――お前たちがぼくらに本当の言葉も、法律も与えてくれるそうじゃないか」百姓はなんにも答えないか、さもなければつぎのような種類の言葉をのべるのであった。
「できるよ……おれたちにだって。なぜって、つまり……たとえば、おれたちには、限界ってものがないもんな」
「お前たちのミール〔ロシヤの農村共同体〕ってどんなものかわしに説明してくれないか?」とバザーロフは話の腰を折った。「三匹の魚の上にのっているミール〔「ミール」には「世界」の意味もあり、ここではその意味〕と同じかい?」
「そりゃ、旦那、地面は三匹の魚の上にのってますがな」となだめるように、族長めいてのんびりした、歌うような調子で百姓は説明した。「で、われわれのミールの反対側には、知れたこと、旦那がたのお心ちゅうもんがある。なんせあんたがたはわしらの父親も同然だで。旦那がきびしく取りたてれば取りたてるほど、百姓は嬉しいので」
こういう言葉を聞いて、あるときバザーロフは軽蔑するように肩をすぼめ、そっぽを向き、一方百姓は家路をたどりはじめた。
「なんの話をしていたんだい?」と彼に、中年の、陰気な顔をした百姓が、遠くの方から、自分のうちのしきいの上からきいた。彼はさっき二人が話していたとき、そばを通ったのだ。「人頭税の話でもしていたのかね?」
「なんの人頭税なもんかい、お前!」とはじめの百姓は答えた。彼の声のなかにはもはや、族長的な歌うような調子など跡かたもなかった。反対に、なんだかぞんざいな、荒々しいひびきが感じられた。「なんのかのとしゃべっただ。むだ話がしたかったもんでな。なに、知れたことよ、相手は旦那だ、なんにもわかっちゃいねえ」
「わかるもんかい!」と相手の百姓は答えた。二人は帽子をずらしバンドを下へおしさげて、仕事の話や貧乏話を始めた。ああ! 軽蔑するように肩をすぼめて、百姓と話をすることができると思っているバザーロフ(彼はパーヴェルと論争したときにそう自慢したのだ)、この自信たっぷりのバザーロフは夢にも知らなかったのだ、百姓から見れば自分も一種の道化にすぎないということを……
しかし、彼もついに自分の仕事を見つけ出した。あるとき、彼の居合わせたところで、老バザーロフが百姓の負傷した足を包帯してやっていたが、老人は手がふるえて、包帯をうまく扱うことができなかった。息子が父親に手をかしてやり、そのときからというもの、父親の診察に参加するようになった。しかし同時に自分ですすめた方法を笑うことも、その方法をすぐに採用した父親を笑うこともやめなかった。けれども息子に嘲笑されても老バザーロフはすこしもあわてなかった。かえって彼は気なぐさみに思ったくらいである。脂で汚れた自分の部屋着の腹のあたりを二本の指でつまみながら、パイプをくゆらしながら、彼は楽しそうにバザーロフの話に耳を傾けた。そして幸福な父親は、息子の言行に毒気が多ければ多いほど、自分の黒い歯を一本残らず見せて、ますます温良に高い笑い声をたてるのだった。彼は息子のこういった、時として気のきかない、無意味な言い草をまねることさえもあった。たとえば数日間これという理由もなしに、「なに、つまらんこってす!」とくり返すのだった。それというのもただ、息子が、父親たちが朝のお祈りに行くのを知って、この言葉を使ったからにすぎない。「ありがたい! 憂うつ病がなおったようだ!」と彼はつれ合いにささやいた。「今日はわしをこっぴどくやっつけおったわい!」そのかわり自分にはこんなりっぱな助手がついているのだと思うと、彼はすっかり嬉しくなって、誇らしさで胸が一ぱいになるのだった。「そうだとも」と彼は、男ものの百姓外套を着て、角《つの》のある頭巾をかぶったどこかの百姓女に、グラルド水の入ったびんや白いぬりぐすりのつぼを渡しながら、言った。
「お前さんは、運がよかったんじゃ。ちょうど今は休暇でうちに息子が帰って来ているところでな。よくよく神さまにお礼を申しあげなくちゃならんて。おかげで最も科学的な最新の方法でお前さんを治療できるんだから。わかるかな? フランス人どもの皇帝ナポレオンだって、こんなりっぱな医者はかかえておらんのじゃ」
『さしこみ』(彼女は『さしこみ』という言葉の意味を、自分では説明できなかった)がおこったといって見てもらいにやって来たその百姓女はただおじぎをして、ふところに手をつっこんだ。そこには卵が四つ、タオルのはしにくるまれて入っていた。
バザーロフはあるときなど、織物の行商人の歯をぬいてやったことさえあった。その歯はごく普通の歯だというのに、老バザーロフは珍品のようにそれをしまいこんだ。そしてそれをアレクセイ神父に見せては、たえずくり返すのだった。
「見てください、この頑丈な根っこを! それにしてもエヴゲーニイの力はすごい! 行商人め空中に舞い上がりましたよ……あれはカシワの木だってひっこぬいてしまうだろうと思いますね!……」
「あっぱれですな!」としまいにはアレクセイ神父は言った。どう答えて、うちょうてんになっているこの老人をふり切ったものか、彼も困ってしまったのである。
あるとき隣村の百姓が、チフスにかかった自分の兄弟を老バザーロフのところにつれて来た。藁束の上にうつぶせに寝かされて、不幸な男は死にかかっていた。身体にはところどころ黒い斑点ができていて、とっくに意識を失っていた。老バザーロフは、だれか気がついてもっと早く医者のところへつれてくればいいものを、もう手おくれだ、と言った。実際、百姓が病人を自宅へつれて帰るまでもなかった。彼は馬車の上で死んでしまったのである。
それから三日ほどして、バザーロフは父の部屋へ入ってきて、硝酸銀はないかときいた。
「あるよ。なんにするんだ?」
「いるんですよ……傷をやくのに」
「だれの?」
「自分の」
「自分のだと! なぜだい? どんな傷だね? どこだ?」
「ほら、この指です。今日ぼくが例の村へ行ったらですね――ほら、この前チフスの百姓が運ばれてきた村ですよ。なぜだか遺体を解剖しようということでしたが、ぼくはしばらく解剖の実習をしていないんです」
「それで?」
「それで、郡の医者に頼んでやらせてもらい、そのとき切ってしまったのです」
老バザーロフは、とつぜんすっかりまっ青になり、一言も言わずに、書斎にとびこむと、すぐに硝酸銀を一|片《かけら》手にしてもどってきた。バザーロフはそれをうけ取って出て行こうとした。
「頼むから」と老バザーロフは言った。「おれにやらせてくれ」
バザーロフはにやりと笑った。
「お父さんは実習が好きだなあ!」
「冗談はやめてくれ。指を見せてごらん。大した傷じゃないな。痛むか?」
「もっと強くこすって、大丈夫」
老バザーロフは手をとめた。
「どう思う、エヴゲーニイ、鉄で焼いた方がよくないかな?」
「もっと早くしなければならなかったんです。今となっちゃ、本当は、硝酸銀など必要ありません。もし感染したとすると、もう手遅れです」
「なに……手遅れだと……」と老バザーロフはやっとのことでそう言うことができた。
「むろん! あれから四時間あまりたっているんです」
老バザーロフはさらにもうすこし傷口を焼いた。
「一体、郡の医師は硝酸銀を持っていなかったのかね?」
「もっていませんでした」
「そんなばかなことがあるもんか! 医者のくせにこういう必要な薬を持っていないなんて!」
「お父さんにあの男のランセットを見せたかったですよ」とバザーロフは言って、出て行った。
その日は晩になるまで、それからつぎの日一日じゅう、老バザーロフはなにかと口実をつくっては息子の部屋へ入っていった。もっとも彼は傷のことなど口にもしなかったばかりか、つとめて関係のないほかのことを話した。けれどもしつこく息子の目を見、心配そうに彼のようすを見守っているものだから、バザーロフはがまんできなくなって、家を出て行くとおどかしたほどだった。老バザーロフは心配しないと彼に約束をした。ましてアリーナが(むろん彼は彼女にはなにもかも隠していた)彼に向かって、どうしてねないの、なんかあったの、とうるさくききだしたからには、なおさらであった。ひそかにようすをうかがっていると、息子の顔いろがどうも気にかかってならなかった。それでもまる二日は彼もがまんしていたが……しかし三日目の食事のときになると、とうとうがまんできなくなった。バザーロフはうつむいて坐ったまま、食事にはぜんぜん手をださなかった。
「どうして食べないんだね、エヴゲーニイ?」と、できるだけさりげない表情をして、彼はきいた。「料理は上手にできているようだが」
「食べたくないから、食べないんです」
「食欲がないのかい? で頭は?」と彼はおどおどした声でつけ加えた。「痛むか?」
「痛い。頭の痛いことだってありますよ」
アリーナは背筋をしゃんとのばして、用心をした。
「怒らないでくれ、エヴゲーニイ」と老バザーロフはつづけた。「お前の脈を見せてくれないか?」
バザーロフは腰をうかせた。
「脈を見なくたってわかりますよ、熱があるんです」
「寒気はしなかったか?」
「寒気もしました。行って寝ますよ。あとでボダイジュのお茶を持ってこさしてください。風邪をひいたんですよ、きっと」
「そうそう、夜なかに咳をしていたっけ」とアリーナが言った。
「風邪ですよ」とバザーロフはくり返して言うと、引き下がった。
アリーナはボダイジュの花のお茶をこさえにかかった。老バザーロフは隣室へ入ると黙って自分の髪の毛をひっつかんだ。
バザーロフはその日はもう起きてこなかった。彼は一晩じゅう、重苦しい、半無意識状態のまどろみのなかですごした。真夜中の十二時すぎに彼は、やっとのことで目を開くと、灯明の光に照らされて、自分の上にかがみこんでいる父親の蒼ざめた顔を認めた。彼は父に、出て行ってくれと言った。父は言うことをきいて、その通りにしたが、すぐまた爪先立ちでもどってきて、戸だなの戸のかげに半ば身をかくし、じっと息子を見つめていた。アリーナも床に入らず、書斎のドアを細目にあけて、たえずやってきては『エニューシャがどんな息づかいをしているか』をうかがい、夫の方を見やるのであった。彼女に見えるのはじっと動かない、丸くかがめられた息子の背中だけであったが、それだけでも多少気休めにはなった。朝になってバザーロフは起き上がろうとしたが、目まいがして、鼻血が出たので、ふたたび横になった。老バザーロフは黙って彼の世話をしていた。アリーナが入ってきて、気分はどうかと息子にたずねた。彼は、「すこしよくなった」と答えると――壁の方へくるりと向いた。老バザーロフは妻に向かって両手を振り回した。彼は泣きださないようにギュッと唇をかんで、部屋を出た。
家じゅうがにわかに暗くなったようだった。みんなの顔が憂いにつつまれて、異様な静けさがはじまった。大声を出す雄鶏が一羽、裏庭から村中《むらなか》へつれ去られたが、雄鶏は長いあいだ、なぜ自分がそうされるのか、合点がいかなかった。バザーロフは相変わらず壁の方を向いたまま、寝ていた。老バザーロフは彼にいろいろたずねようとしたが、質問はバザーロフを疲れさせた。老人は自分の肘かけ椅子に腰かけたまま身動きもしなくなった。ただ時たま指を鳴らすだけであった。彼は庭へ出ては、二、三分のあいだぼんやりとつっ立っていた。まるで言いあらわしがたい驚きにうたれたかのように(おどろきの表情はつねに彼の顔から消えなかった)。そして妻に根掘り葉掘りきかれまいとして、また息子のもとへもどってくるのだった。彼女はとうとう夫の腕をつかまえて、おどかさんばかりに、「あの子はどうなの?」ときいた。われに返った彼はむりに笑顔をつくって彼女に答えようとしたが、われながらぞっとしたことには、笑顔を見せるかわりに、彼は声を立てて笑い出した。息子が腹を立てるといけないので、彼は朝のうちに医者を呼びにやった。そのことを前もって知らせておいた方がいいと彼は思った。
バザーロフは急にソファーの上で寝返りをすると、ぼんやりとした目でじっと父親の方を見ていたが、水をくれと言った。
老バザーロフは彼に水をやり、そのついでに額にさわってみた。額は燃えるように熱かった。
「お父さん」とバザーロフはしゃがれた声で、ゆっくりと言いだした。「ろくでもないことになりました。ぼくは感染しました。二、三日したら葬式ということになりますよ」
老バザーロフはだれかに足をがんと打たれでもしたかのように、よろめいた。
「エヴゲーニイ!」と彼はつぶやくように言った。「なにを言うんだ! ……しっかりしろ! お前は風邪をひいたのだ……」
「もうたくさんだ」とバザーロフはおもむろに父親をさえぎった。「医者がそんな言い方をしちゃいけないな。なにもかも感染の徴候ですよ。お父さんだってわかるでしょう」
「どこにそんな……徴候が出ているんだね、エヴゲーニイ? ……ばかな!」
「じゃ、これはなんです?」とバザーロフは言って、シャツの袖をまくりあげ、不吉な、赤い斑点の出ているのを見せた。
老バザーロフは身震いした。彼は恐怖のためにぞっとなった。
「かりに」とやっと彼は言うことができた。「かりに……もしも……もしもなにかに感染した……ようなものだとしても……」
「膿血症《ピエミヤ》ですよ」
「そう……なにか……伝染病《エピデミヤ》」
「膿血症《ヽヽヽ》」ときびしい調子ではっきりとバザーロフはくり返した。「お父さんはもうノートを忘れたんですか?」
「なに、なに、お前の好きでいいさ……それだってもわしが治《なお》してやるぞ!」
「そいつはごまかしだ。しかし大事なのはそのことじゃないんです。ぼくは、自分がこんなに早く死ぬとは思っていませんでした。これは偶然ですよ、正直言って、しごく不愉快ではあるけれど。お父さんやお母さんは、今こそ信心深いのを利用なさらなくちゃなりません。それをためしてみる絶好のチャンスです」彼はまた少し水を飲んだ。「ところでひとつお父さんにおねがいしたいことがあるんです……ぼくの頭がまだたしかなうちに。明日か明後日、ぼくの脳髄は、お察しのように、辞職しますよ。ぼくは今でも確信が持てないんです、自分がちゃんとした言い方をしているのか、どうか。寝ているあいだぼくはずっと、このまわりを赤い犬どもが駆け回っているような気がしていました。そしてお父さんが犬をぼくにけしかけるんですよ、山鳥にでもするみたいに。ぼくはまるで酔っているみたいだ。ぼくの言うことがよくわかりますか?」
「とんでもない、エヴゲーニイ、お前の言っていることはまったくまともだよ」
「なおけっこう。お父さんは、医者を呼びにやった、と言いましたね……そうすることによってお父さんは自分を慰めた……ぼくのことも慰めてください。実は急ぎの使いを出して欲しい人が……」
「アルカージイにかい?」と老人は言葉をひきとった。
「アルカージイってだれのことです?」とバザーロフは考えこむようにして言った。「あ、そうか! あのひよっこのことですか? いいえ、あれはそっとしといてください。(老バザーロフはうなずいた)あれは今じゃカラスの仲間入りをしたんですから。驚くことはありませんよ、うわごとじゃありませんから。オジンツォーヴァ・アンナ・セルゲーエヴナ――という女地主がいるんです――ご存じですか? 彼女のところへ急ぎの使いを出して欲しいんです……エヴゲーニイからよろしくとのことで、エヴゲーニイが今死にかけている、と言ってやってください。やってくれますか?」
「やるとも……しかし、お前が死んじまうなんてことがあるもんか、エヴゲーニイ……考えてみてくれ! それじゃあんまりひどいじゃないか?」
「そんなことはぼくの知ったことじゃありません。ただ急ぎの使いを出してくれればいいんです」
「今すぐ使いを出すし、わしからも手紙を書くとしよう」
「いいえ、そんな必要はありません。よろしく、と言ってくれればいいんです。それ以上なんの必要もありません。ぼくはこれからまた犬どものところへ帰ります。ふしぎだな! 死の問題をじっくり考えたいんだけれど、だめだ。なんだか|しみ《ヽヽ》のようなものが見える……ほかになにも見えない」
彼はふたたび苦しそうに壁の方に向きなおった。老バザーロフは書斎を出て、妻の寝室に辿りつくと、いきなり聖像の前に、くずれるようにひざまずいた。
「お祈りしてくれ、アリーナ、お祈りしてくれ!」彼はうめくように言った。「せがれが死にかけているのだ」
医者が――硝酸銀を持ちあわせていなかったという、例の群医が、やってきた。彼は病人を診察して、持久療法をとることをすすめ、同時に、なおることだってあるかも知れない、と二言、三言のべた。
「あなたは、ぼくのような状態にある人間があの世へ行かずにすんだ例を、見たことがあるんですか?」とバザーロフは口をきいた。そしてとつぜん、長椅子のそばにあった重いテーブルの足をつかむと、それをゆさぶって場所を動かした。「力は、力はまだそっくりあるんだ」と彼は言った。「それなのに死ななくちゃならない! せめて、老人ならあきらめがついていようというものだが、このぼくが、そうだ、死というものを否定してやろうと思っても、死がきさまを否定して、それでおしまいだ! だれだね、そこで泣いているのは?」しばらくして彼は言いたした。
「お母さんか? かわいそうに! お母さんは、今度はだれに、あのすばらしいボルシチを、ご馳走してあげるんだろう? それからあんたも、ワシーリイ・イワーノヴィチ氏も、めそめそしているようですね? なに、キリスト教でもききめがなかったら、哲学でも、ストア派の哲学でもやってください! だってお父さんは、じまんしていたじゃありませんか自分は哲学者だ、と」
「なんでわしが哲学者なもんか!」と老バザーロフは慟哭した。涙がとめどなく頬をつたって流れた。
バザーロフの容態は時々刻々に悪くなっていった。病気は急速に進行した。それは外科被毒のばあいに普通見られるところである。まだ気は確かで、人の話もわかった。彼はなおもたたかっていた。「うわごとなんか言いたくないな」と彼はこぶしを握りしめながら、ささやくように言った。
「なんてばかばかしいんだろう!」しかし、すぐにこんなことも言った。「八から十をひくと、いくらになる?」老バザーロフは気ちがいのように歩きまわり、あれをやったらどうだろう、これをやったらどうだろうと申し入れるのであったが、できることといえば、ただもう息子の足をおおってやることだけだった。「冷たいタオルでくるんでやらなくちゃ……吐剤を飲ませることだ……腹部は芥子を塗布する……それから放血も……」と彼は緊張して言った。彼に頼まれて残った医者は、それに相づちをうち、病人にレモン水を飲ませたが、自分のためにはタバコだの、『元気をつけ身体を温めるもの』、つまりウォツカだのを所望した。アリーナはドアのそばにある低いベンチに坐っていて、ただ時どき、お祈りしに出て行くだけであった。数日前に化粧用の小鏡が彼女の手からすべり落ちて粉々に砕けたが、彼女はそうしたことをいつも悪い前兆とみなしていた。アンフィースシュカさえも彼女になぐさめの言葉をかけてやることができなかった。チモフェーイチはオジンツォーヴァのところへ使いに出向いていた。
その夜バザーロフはよくなかった……高熱が彼を苦しめた。明け方近くなってすこし楽になった。彼はアリーナに頼んで髪をとかしてもらった。彼女の手にキスをし、お茶を二|口《くち》ほどのんだ。老バザーロフは少し元気づいた。「ありがたい!」と彼はくり返した。「峠がきたんだ……峠をこしたんだ」
「まあ、なんてことを考えるんです!」バザーロフは言った。「言葉なんてものに意味はありませんよ! 『峠』という言葉を見つけだして、口に出して言ってみて――それで安心している。人間がまだ言葉を信仰しているなんて、おどろくべきことだ。たとえば、ばかと言われて、ぶんなぐられなかったら、悲しく思うだろうが、利口と言われたら金をもらわなくったって、満足するのだ」
バザーロフのこの短いスピーチは、彼の以前の『言行』を思いださせるものであり、父親を感動させた。
「ブラヴォー! うまいぞ、うまいぞ!」と手をたたくふりをして、彼は叫んだ。
バザーロフは悲しげにうす笑いをうかべた。
「それでお父さんは」と彼は言った。「峠はこしたと思いますか、それともきたと思いますか?」
「お前はよくなったよ、それがわかるので、こんなに喜んでいるのだ」と父親は答えた。
「それはけっこう。喜ぶことはいつだって悪いことじゃあありません。で、あれのところへは、覚えてますか? 使いをやってくれましたか?」
「やったとも、むろんだよ」
病気は一たん快方に向かったかと思われたが、長くつづかなかった。発作がまた始まった。老バザーロフは息子のそばに坐っていた。彼はなにかしら特別な苦悩にさいなまれているようであった。彼はなん度か言いだそうとしたが――できなかった。
「エヴゲーニイ!」ととうとう彼は言った。「せがれや、大事な、かわいいせがれや!」
この異常な呼びかけはバザーロフに効果を与えた……彼はすこし首をそちらへ向けた。そして、自分をおさえつけようとしている人事不省の重圧から脱け出そうともがきながら、言った。
「なんです、お父さん?」
「エヴゲーニイ」と老バザーロフは言葉をつづけて、息子の前にひざまずいた。もっともバザーロフは目を開かなかったので、父の姿は見えなかった。「エヴゲーニイ、お前は今、すこしよくなったようだ。もしかしたら神さまのおかげで助かるかも知らん。しかしちょうどいいおりだから、わしや母さんを安心させておくれ、キリスト教徒の義務をはたしておくれ! お前にこんなことを言うなんて、まったくたまらない気持だ。しかしもうたまらないんだよ……なにしろお前が永久に、エヴゲーニイ……考えてもみておくれ、どんなに……」
老人の声はとぎれた。息子の顔の上を(彼は相変わらず目を閉じたまま寝ていたが)、なにかふしぎなものが這うように通りすぎた。
「それでお父さんやお母さんが安心できるんだったら、ぼくもいやとは言いませんよ」とついに彼は言った。「しかしまだ急ぐ必要はないと思うんです。あなたは自分で、ぼくがよくなったと言っているんですから」
「よくなったよ、エヴゲーニイ、よくなったよ。しかしわかりやしないのだ、なにもかも神さまのみ心にままなんだから。義務をはたしてから……」
「いや、もうすこし待ってみるよ」とバザーロフは話をさえぎった。「峠がきた、ということにはぼくも同意するよ。が、もしもぼくやお父さんがまちがったんだとしても、かまいません! 意識不明の人にだって聖|さん《ヽヽ》をうけさせるじゃありませんか」
「滅相なことを、エヴゲーニイ……」
「ぼくは待ちますよ。今ぼくは眠いんです。じゃましないでください」
彼は頭をもとの場所にのせた。
老人は立ちあがって、肘かけ椅子に腰をおろした。そして、あごに手をあてがって、指をかみはじめた……
バネつきの旅行馬車のひびきが、片田舎では一きわ高く耳にひびくあの音が、とつぜん彼の耳を驚かせた。軽い車輪の音はだんだん近づいてくる。ほらもう、馬のいななきも聞こえだした……老バザーロフは跳び起きて、窓辺にかけよった。彼の家の屋敷のうちに、四頭立ての、二人乗りの箱馬車が乗り入れるところだった。それがなにを意味することなのかをろくに考えもしないで、なんだか知らないが無意味な喜びの発作にかられて、彼は昇降口に走り出た……おしきせ姿の下僕が箱馬車のドアを開け、黒いヴェールをかぶり、黒いマントを羽織った貴婦人が、馬車から出てくるところだった……
「わたしはオジンツォーヴァです」と彼女は言った。「エヴゲーニイさんは別状ありませんか? あなたがお父さまで? わたし、医者をつれて参りました」
「あなたは息子の恩人です!」と老バザーロフは大声で言うと、彼女の手を取り、ぶるぶるふるえながら自分の唇におし当てた。そのあいだにオジンツォーヴァのつれてきた医者は(ドイツ人らしい顔をして、眼鏡をかけた小男であった)ゆっくりと馬車から出て来た。「まだ生きています、エヴゲーニイは生きています、もうこれで助かりましょう! アリーナや! アリーナや! ……うちに天使さまがいらしたぞ……」
「どうしたんですの、一体!」と老婆は客間から駆け出してきて、つぶやいた。そしてなんのことやらわからぬままに、すぐさま玄関にいるオジンツォーヴァの足もとに身を投げだして、気ちがいのように、彼女の服にキスしはじめた。
「なにをなさいますの! なにをなさいますの!」とオジンツォーヴァはくり返して言った。しかしアリーナは聞こうともしなかったし、老バザーロフはただ、「天使さま! 天使さま!」とくり返すだけであった。
「Wo ist der Kranke?(病人はどこにいます?)一体、患者はどこにいるんですか?」とうとう医者は、いささかむっとしたらしく、そう言った。
老バザーロフはわれに返った。
「ここです、ここです、どうぞわたしのあとについてらしてください|ヴェルテステル《ヽヽヽヽヽヽヽ》・|ヘル《ヽヽ》・|コレーガ《ヽヽヽヽ》(どうぞ先生)」と彼は旧い記憶をたどってつけ加えた。
「え!」とドイツ人は言って、歯を見せて苦笑いした。
老バザーロフは彼を書斎に案内した。
「アンナ・セルゲーエヴナ・オジンツォーヴァさまがおよこしになったお医者さんだよ」と彼は、息子のすぐ耳もとまでかがんで、言った。「奥さまもここにおいでになっておられる」
バザーロフは急に目を開けた。
「今なんて言いました?」
「アンナ・セルゲーエヴナ・オジンツォーヴァさまがお見えで、お前のところへお医者さんをおつれになった、と言っているんだよ」
バザーロフはあたりを見まわした。
「あの人がここに……会いたいな」
「すぐに会えるよ、エヴゲーニイ。しかしまず先生とお話ししなくちゃ。わしは先生にお前の病気の経過ををすっかりお話し申しあげて――シドール・シドルーイチさん(というのが郡医師の名前だった)はお帰りになったのでな――ご相談しようと思うんだ」
バザーロフはドイツ人の方を見た。
「じゃ、さっさとお話しください。ただしラテン語でなく。なにしろぼくは、jam moritur(死にかけている)とはどんな意味か、わかるもんですから」
「Der Hert sheint des Deutschen maechtig zu sein(あなたはどうやら、ドイツ語がおできになるようですね)」とアスクレピオス〔ギリシャの医神〕の新しい弟子は、老バザーロフに向かって言いだした。
「|イッヒ《ヽヽヽ》……|ハーベ《ヽヽヽ》……いや、ロシヤ語で話していただいた方がよさそうです」と老人は言った。
「ソゥデスカ! ソレデハ、ソゥイウコトニシテ……ドゥゾ……」
協議が始まった。
三十分ほどしてオジンツォーヴァは、老バザーロフにともなわれて書斎に入ってきた。医師はすきを見て、病人が快復する見込みはまったくない、と彼女にささやいた。
彼女はバザーロフを見た……そして戸口に立ちすくんだ。にごった目でじっと自分を見つめている、高熱にあえぎながら、同時に死相の出ている顔は、それほど彼女をびっくりさせたのである。彼女は冷たい、やりきれない驚きを感じた。もしも自分が本当に彼を愛していたなら、このようには感じないであろう――という考えが、彼女の頭のなかにふとひらめいた。
「ありがとう」とやっとのことで彼は言い出した。「思ってもいませんでした。これは善行ですよ。あなたが約束されたように、またぼくたちは会えましたね」
「オジンツォーヴァさんにはいろいろとご親切にな……」と老バザーロフは始めた。
「お父さん、席を外してくれませんか。オジンツォーヴァさん、いいでしょうね? まさか、今じゃ……」
彼はぐったりと力なく投げ出された自分の身体をあごでしゃくって見せた。
老バザーロフは出て行った。
「やあ、ありがとう」とバザーロフはくり返した。「皇帝みたいですね。皇帝も死にかけているのを見舞うんだそうです」
「エヴゲーニイさん、わたしは希望を持っています……」
「やだなあ、オジンツォーヴァさん、本当のことを話しましょうよ。ぼくはもうおしまいです。車の下敷きになったんです。だから将来のことなんか考える必要がなくなったってわけですよ。死は昔からあることだけれど、めいめいにとっちゃ新しいことなんです。これまでのところぼくはおじ気づいてなんかいないけれど……やがて人事不省になって、それから|あばよ《ヽヽヽ》だ!(彼は力なく手を振った)さて、あなたになにを言おうとしたのかな……ぼくはあなたを愛しています! これは前からなんの意味も持っていなかったけれど、今となっちゃなおさらですね。恋は形体だけれども、ぼく自身の形体はもう分解しかけてるんです。それよりか、こう言った方がいいな。『あなたはじつにすばらしい方だ!』と。今あなたはそうして立っている、じつに美しい……」
オジンツォーヴァは思わずぶるっと身ぶるいした。
「いや、大丈夫、こわいことなんかありません……そこにおかけになってください……ぼくのそばにはよらないで。ぼくの病気はうつるんですから」
オジンツォーヴァは足早に部屋を横ぎり、バザーロフが寝ている長椅子のそばの肘かけ椅子に腰をおろした。
「あなたは寛大な方だ!」と彼はささやくような声で言った。「ああ、こんな近くにいるなんて、若くて、みずみずしくて、清らかなあなたが……こんなけがらわしい部屋に! ……では、さようなら! 長生きなすってください、それがなによりです、そしておそくならないうちに有効に使ってください。まあごらんください、みっともないさまったらありませんよ。半ばふみつぶされかけた虫けらが、まだピクピクしてるんです。そのくせ、片っぱしから仕事をしてやるぞ、どっこい、死ぬもんか! 仕事がある、おれは巨人なのだ! などと思っていたんですからね。ところが今やその巨人の仕事は、ただもう立派に死にたいものだ、ということなんですからね、そんなことはだれも知ったこっちゃないのに……なにかまうもんか。じたばたしても始まらない」
バザーロフは口をつぐみ、片手をのばしてコップを探り始めた。オジンツォーヴァは手袋のまんま、おずおずと息をしながら彼に水を飲ませてやった。
「あなたはぼくを忘れてしまうでしょう」と彼はふたたび言いだした。「死人は生きているものの仲間じゃありませんから。親父はあなたに、ロシヤはあたら人材を失おうとしている、などと言うでしょう……くだらない。しかし老人をがっかりさせないでやってください。『子供はどんなにきげんをとってもよい、泣かぬようにだけはしたいものだ』って言うでしょうが……おふくろもなぐさめてやってください。うちの親たちのような人間は、あなた方の上流社会では、昼間あかりをつけて探したって見つかりやしません……ぼくはロシヤに必要なんだ……いや、どうやら必要じゃないらしい。じゃ、だれが必要なんだ? 靴屋が必要だ、仕立て屋が必要だ、肉屋が……肉を売る……肉屋……待ってくれ、こんがらがってきた……ここに森がある……」
バザーロフは額に手をのせた。
オジンツォーヴァは彼の方へ身をかがめた。
「エヴゲーニイさん、わたしはここよ……」
彼はいきなり手をのけて、身を起こした。
「さようなら」と彼はにわかに力強い声で言った。その目は最後の輝きを放っていた。
「さようなら……あのねえ……あのときぼくはあなたにキスしなかったでしょう……消えかかっているランプを吹いてやってください、消してやってください」
アンナ・セルゲーエヴナは彼の額に唇をあてた。
「もうたくさん!」と彼は言って枕の上に頭を落とした。
「もう……まっくらだ……」
オジンツォーヴァはそっと部屋を出た。
「どんなですか?」と小声で老バザーロフが彼女にきいた。
「寝つかれました」と彼女はやっと聞こえるくらいの声で答えた。
バザーロフはもう二度と目覚めない運命にあった。夕方ごろから彼は完全に昏睡状態におちいり、翌日死んだ。アレクセイ神父が彼のために宗教上の儀式をとり行なった。塗油式をして、聖油が胸にふれたとき、彼の片目があいた。祭服をつけた僧侶や、香煙の立ちのぼる香炉や、聖像の前のろうそくなどを見て、一瞬なにやら恐怖のおののきに似たものが、死相の出ている顔に反映したようであった。ついに彼が最後の息をひきとって、家じゅうに嘆きの声があがったとき、老バザーロフはとつぜん狂ったようになった。
「わしは神をうらむと言っておいた」と赤くなった、ゆがんだ顔をして、彼はしゃがれ声で叫んだ。まるでだれかを脅かすみたいに片手のこぶしを虚空にふりながら「だからうらんでやるぞ、うらんでやるぞ!」しかしアリーナが顔じゅう涙にぬれて夫の首にすがりついたので、二人は一しょにうつぶせに倒れ伏した。「こんなふうに」とあとでアンフィースシュカが女中部屋で語り聞かせたものである。「ならんで、うなだれて、まるで真昼の羊みたいに……」
しかし昼の炎熱がすぎて、夕方がき、夜がくると、苦しみ、疲れたものも静かな隠れ家にもどり、そこで安らかな眠りにつくのである……
二十八
六カ月たった。白一色の冬であった。雲一つない極寒のきびしい静けさ、堅い、きしむ雪、バラ色の樹氷、うすいエメラルド色の空、煙突から立ち昇る煙の輪、開けたとたんにドアから出てくる湯気の渦巻き、まるで寒さに刺されたように赤くなった人々の顔、こごえきった馬のあわただしい足どり。一月の一日《ひとひ》は早くも暮れようとしていた。夕方の寒さはよどんだ空気を一そう強くしめつけて、まっ赤な夕映えは見る見るうちにうすれていった。マリーノ村の地主屋敷の窓には灯りがともり始めた。黒い燕尾服に白い手袋のプロコーフィチは、とくにもったいぶったようすで、七人前の食卓の仕度をしていた。一週間前に村の小さな教会でひっそりと、ほとんど立会い人もなしに、二組みの結婚式がおこなわれた。アルカージイとカーチャ、ニコライ・ペトローヴィチとフェーネチカの結婚である。ところでちょうどこの日は、ニコライ・ペトローヴィチが、用事でモスクワに出かける兄のために、送別の宴を張ろうとしていた。オジンツォーヴァは若い夫婦に十分の財産を分けてやってから婚礼のすぐあとで、モスクワへ発ってしまった。
きっかり三時にみんなは食卓についた。ミーチャもそこに坐らされた。彼にはもう、金襴の頭巾をかぶったばあやがついていた。パーヴェルはカーチャとフェーネチカのあいだに着席した。『花聟たち』はめいめい自分の花嫁とならんで坐った。おなじみの連中が最近すっかり変わってしまった。みんなが美しくなり、大人びたみたいである。パーヴェルだけはすこしやせたが、それがかえって、彼の表情に富んだ顔立ちに、一そうエレガントな、貴族的な感じを与えていた……それにフェーネチカも変わった。さっぱりした絹の洋服を着て、ビロードの広い髪飾りをつけ、金色の鎖を首にかけて、うやうやしく身じろぎもせずに坐っていた。彼女は彼女自身に対しても、まわりのなにごとに対してもうやうやしく、『ごめんなさい、わたしが悪いんじゃないのよ』とでも言いたそうに、微笑していた。彼女だけではなしに、ほかの者もみな微笑していたし、やはり申しわけないような顔をしていた。だれもがすこしばかりきまり悪そうで、すこしばかり悲しそうであったが、本当は、大そうたのしかった。めいめいがおどけた親切ぶりで給仕しあっていたが、それはまるでみんなが申し合わせて、なにか純粋な喜劇でも演じているみたいだった。カーチャはだれよりも落ちついていた。彼女はすっかり信じきったようすで自分のまわりをときおり見ていた。ニコライ・ペトローヴィチが早くも彼女を夢中でかわいがっていることは、よそ目にも明らかであった。食事の終わる前に彼は立ち上がった。そして杯を手に取ると、パーヴェルの方を向いた。
「兄さん、あんたはわれわれを見捨てて行こうとしている」と彼は言い出した。「むろん、長いことではないが。それにしてもやはり一言申しあげないわけにはいかない……わたしは……われわれは……われわれはいかに……わたしはいかに……どうも困ったことだが、われわれはスピーチのやり方を知らんて! アルカージイ、お前やってくれ」
「いや、お父さん、ぼくは準備してませんよ」
「わしはちゃんと準備したんだがな! じゃ、兄さん、兄さんをだきしめて、ごきげんよう、と言うことにしよう。なるべく早く帰って来てください!」
パーヴェルはみんなと強くキスし合った。むろん、ミーチャとも。フェーネチカには、そのほか手にもキスしたが、彼女はまだ作法通りに手を出すことができなかった。それから、もう一度注がれた杯を飲み干しながら、深いため息をしながら言った。「では皆さん、おしあわせで! Farewell!(さようなら!)」最後の英語には気がつかなかったが、しかしみんなは感動したのであった。
「バザーロフさんの思い出に」とカーチャは夫の耳にささやいて、杯をふれ合わせた。アルカージイはそれに答えて彼女の手を強く握ったが、この乾杯を大きな声で言い出す決心はつかなかった。
どうやら、話は終わったようだ。しかし、読者のうちには、登場人物のひとりひとりが今、ほかならぬ今、なにをしているのか知りたい、という人がいるかも知れない。そこでもう少しつけ加えるとしよう。
オジンツォーヴァは最近結婚した。しかしそれは恋愛結婚ではなく、所信にもとづいての結婚である。相手は将来ロシヤの指導者ともなるべき人物で、すこぶる頭のよい人であり、清潔家であって、しっかりした実際的な分別と、強い意志と、すぐれた弁舌の才を備えている。まだ若くて、やさしくて、かつ氷のように冷ややかな人である。彼らは大そう円満に暮らしており、おそらく、幸福にもなり……愛し合うようにもなることであろう。老公爵令嬢は死に、死んだその日のうちに忘れられてしまった。キルサーノフ父子はマリーノで暮らし始めた。一家の財政はよくなりかけている。息子のアルカージイはきわめて熱心な経営者となり、『農園』はもうかなりの収益をあげている。父のニコライ・ペトローヴィチは農地調停員となって全力をあげて働いている。彼はたえず自分の受持ち区域を乗りまわしては、長々と演説して歩いているが(彼の意見によれば、百姓どもは『啓蒙』しなければ、すなわち、同じことをなん度もなん度も、相手がうんざりするほどくり返さなければならないのである)、それでも、実を言うと、農奴解放を時には気どって、時にはメランコリイに語る教養のある貴族をも、『ろくでもない農奴解放め』と口ぎたなく語る無教養な貴族をも、十分満足させるわけにはいっていない。どちら側から見ても、彼は手ぬるすぎるのである。カーチャにはコーリャという男の子が生まれたし、ミーチャはもう元気よく駆け回り、生意気におしゃべりをしている。フェーネチカ、すなわちフェドーシャ・ニコラエヴナは、夫とミーチャのつぎにはだれよりも嫁をあがめている。カーチャがピアノに向かうときには、喜んで一日じゅうそばにつきっきりである。ついで下男のピョートルのことも言っておこう。彼は、ばかなくせにもったいぶるもんだから、完全にいかれてしまったが、それでもやはり嫁をもらい、相当の持参金をうけ取った。嫁は町の野菜園の持ち主の娘であったが、りっぱな花聟候補が二人もいたのに、彼らが時計を持っていないからといって、結婚を断わってしまった。一方ピョートルは、時計ばかりか、エナメルの半長靴まで持っていたからである。
ドレスデンのブリュールのテラスで、二時から四時までのあいだに、それは散歩するのに一番気のきいた時間なのだが、年のころ五十くらいの人物を見かけることができる。もうすっかり白髪で、痛風をやんでいるもようだが、しかしまだまだ美男子で、エレガントな身なりをしており、長年上流社会でくらした人にだけある独特の気品をそなえている。これがパーヴェルである。彼は保養のためモスクワから外国に向かい、ドレスデンに居を定めたが、つき合っているのは主にイギリス人や旅行中のロシヤ人である。イギリス人に対しては飾らない、ほとんどつつましやかな態度をとっているが、しかし威厳を損なうようなことはない。イギリス人たちは彼を、すこし退屈な男だと思っているが、しかし彼が完全な紳士なので、尊敬している。ロシヤ人に対してはもっとくだけた態度を取り、遠慮なくかんしゃくを起こしたり、自分のことや彼らのことをあざけったりしている。しかし彼の場合にはそういったことが万事、いやみがなく、天真爛漫でもあれば、上品さも失わないのである。彼はスラヴ主義的見解を持している。上流社会ではそのことがきわめて尊敬すべきものとされていることは、周知の通りである。彼はロシヤ語のものはなに一つ読まないが、しかし机の上には百姓のわらじの形をした銀製の灰皿がのっている。ロシヤの旅行者たちはしきりに彼のことを追い回している。マトヴェイ・イリイッチ・コリャージンも、彼はこのところ|暫定的野党の立場《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》にあるが、ボヘミヤの鉱泉に行く途中ものものしく彼を訪ねたのであった。土地の人たちとはあまりつき合わないが、それでも彼らは、パーヴェルをほとんどあがめたてまつらんばかりである。宮廷楽団や、劇場などの切符を der Hert Baron Von Kirsanoff(キルサーノフ男爵)ほど容易に早く入手できるものはだれもいない。彼はつねにできるだけ善行を施している。彼は今なお世間をさわがせている。かつて交際社会の花形とうたわれたのももっともである。しかし生きることは彼にとって苦しい……彼が自覚しているよりも苦しいのだ……ロシヤ人教会で、片脇の壁によりかかりながら、彼はぎゅっと唇をかみしめて物思いにふけり、いつまでも身動きしないでいるが、それからふとわれに返って、人知れず十字を切り始める。そのような彼の姿を見さえすれば察しのつくことである。
クークシナは外国に現われた。彼女は今ハイデルベルクにいて、もう自然科学ではなしに、建築を勉強している。彼女の言葉によれば、その分野で新しい法則を発見したとのことである。彼女は相変わらず学生たちと、とくに、ハイデルベルクに一ぱいいる、ロシヤ人の若い物理学や化学の学生たちと親しく交際している。これらのロシヤ人学生は、はじめのうちは、単純なドイツ人教授たちを、自分たちのまじめなものの見方で驚かせるのであるが、あとでは同じ教授たちを、自分たちの完全な無為と徹底的な怠惰で驚かすのである。酸素と窒素の区別も知らないくせに、否定と自尊の精神にみちているこのような二、三の化学科の学生と、それからまた偉大なエリセーヴィチと一しょに、シートニコフは(これまた偉大になる準備をしているのだが)、ペテルブルクでぶらぶらしていて、その断言するところによれば、バザーロフの『事業』をつづけている。最近だれかが彼をやっつけたが、彼も負けてはいなかったということである。ある怪しげな雑誌にのった、ある怪しげな論文のなかで、彼は自分をやっつけた男が臆病者であることをあてこすったとか。彼はそれを皮肉と呼んでいる。父親が彼をこき使うことは相変わらずであり、妻は彼のことをばかで……かつ文士だと思っている。
ロシヤのとある片田舎に小さな墓地がある。ロシヤの墓地がほとんどみなそうであるように、そこもうら悲しい光景を呈している。まわりを取りまいていたみぞはとっくの昔に草に埋もれてしまった。灰色をした木の十字架は傾き、かつては彩色してあった屋根の下で、朽ちかけている。墓石は、まるでだれかが下からつきあげるかのように、どれも少しずつ位置がずれている。わずかに、二、三本のみすぼらしい木が、まばらな影を落としている。羊の群れがところかまわず墓のあいだをさまよい歩いている……けれどもその中に一つだけ、人も手を触れなければ、動物も踏みつけない墓がある。ただ鳥だけがそこにとまり、明け方には歌をうたう。鉄の柵がその墓を取りかこみ、二本のモミの若木が両端に植えられている。エヴゲーニイ・バザーロフがこの墓に葬られているのだ。近くの村から二人の老いさらばえた老人が――夫と妻が――ちょいちょい墓参りにやってくる。二人は助け合いながら重い足をひきずってくる。柵のそばによると、くずおれるようにひざまずいて、長いあいだ、さめざめと泣く。そしていつまでも、しげしげと、物言わぬ石を眺めている。その下には彼らの息子が横たわっているのだ。二人は短い言葉を取りかわし、石の上のほこりをはらい、モミの小枝を手入れしたりしたのち、またお祈りする。二人はこの場所を立ち去ることができない。ここにいると息子のすぐそばにいるような気がするし、息子の思い出もまた一そう身近に感じられるのだ……
二人の祈り、二人の涙はしょせん無益なものであろうか? 愛は、神聖な献身的な愛は全能ではないのだろうか? いや! どれほどはげしい、罪ぶかい、反逆の心がこの墓の中に隠れていようとも、その上に咲いている花は、あどけない目でおだやかにわれわれを眺めている。とこしえの安らぎだけを、『非情な』自然のあの偉大な安らぎだけをその花は語っているのではない。それらの花はまた永遠の和解と限りなき命をも語っているのである……
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解説
ツルゲーネフの生涯
イワン・セルゲーヴィチ・ツルゲーネフは一八一八年十一月九日、ロシヤ中部の町オリョール市に生まれた。
父のセルゲイ・ニコラエヴィチは古い家柄ではあるが落ちぶれた貴族の出で、胸甲騎兵連隊に勤務する軍人であった。母はワルワーラ・ペトローヴナ、旧姓ルトヴィーノヴァである。金持ちではあるが、もうオールド・ミス(三十五歳)のワルワーラと結婚すると、セルゲイはやがて軍務を退き、妻の領地に移り住んだ。やめたときは大佐で、妻の領地というのは、ムツェンスクという町の近くにある、スパスコエ・ルトヴィーノヴォ村のことである。作家ツルゲーネフの幼年時代はここですごされた。なお兄弟は男三人で、兄のニコライは二つ年上であり、弟のセルゲイは三つ年下である。つまり作家ツルゲーネフは次男というわけである。弟のセルゲイは虚弱で少年時代に病死している。
ツルゲーネフの母は頭のよい、教養のある女性だったが、わがままで、むら気で、権勢欲に富んでいた。残された肖像画から判断できるかぎりでは、ひらべったい顔をしていて、どう見たってきりょうよしというわけにはいかないが、いかにも賢そうな目をしている。不幸なみなし児としてさびしい青春をすごした彼女は、思いもかけず莫大な遺産の相続人となった。そうなると、それまで彼女を見向きもしなかった連中が、財産目当ての求婚者として彼女のまわりに集まった。手の裏をかえしたような人間どもの変わりかたに、彼女は人間に対する不信感をかきたてられたにちがいない。勢い彼女は、周囲の者や使用人にはつらく当たる専横な女地主となったが、六つも年下の彼女の夫が道楽者で、浮気者で、とかく家庭内に風波の絶えなかったことも、彼女をかたくなにさせた有力な原因であろう。長身で、美貌で、しゃれものだった父のおもかげを、息子のツルゲーネフは中編『初恋』のなかで描いている。母の肖像もいろいろな作品のなかに出てくるが、老年になった母のおもかげをわれわれは、短編『ムムー』のなかに見いだすことができる。母の子供たちに対する態度はなかなかきびしいもので、少年ツルゲーネフはしょっちゅう鞭で打たれるおしおきをうけたという。
ツルゲーネフが早くから体験した地主の横暴や、狂態は、多感な少年の心に農奴制度という非人間的な社会体制への憎悪を植えつけ、自然や動物を愛する心、また文学に親しむ気持ちをはぐくんだ。ツルゲーネフ家の地主屋敷がどんなに大きなものであったかは、一八三九年に火事で焼けた家の部屋数が四十もあったということから、おおよその見当がつくであろう。下男下女の数は四十人を越えていたし、所有する農奴数は数千人を数えた。
ついでにツルゲーネフ家の蔵書について述べておこう。ロシヤ語、英語、ドイツ語とある本のなかで、大部分、つまり三分の二はフランス語の書籍であった。なかでヴォルテール、ルソー、モンテスキュー、モリエール、スタール夫人、シャトーブリアン、ウォルター・スコットなどの著作が目につく。ゲーテの『若きウェルテルの悩み』やリチャードソンの『クラリッサ・ハーロウ』などはフランス語訳である。ロシヤ作家はカンテミール、スマローコフ、カラムジーン、ドミートリエフ、ボグダノーヴィチ、ジュコーフスキイ、ザゴースキン、イズマイロフなど。ほかに神学の本や歴史の本、旅行記、植物や自然科学、古い文集、夢占い、カレンダーなど。おそらく当時の田舎地主たちの読書傾向は、大ていこんなものであったにちがいない。
当時の貴族地主の習慣にしたがい、ツルゲーネフははじめ家庭で教育をうけたのち、一八二七年に全家族とともにモスクワに移った。ここで塾で学んだり、家庭教師による教育をうけて中学校の課程を終わり、一八三三年にモスクワ大学文学部に入った。しかしモスクワ大学に在学したのはわずか一年だけで、やがてペテルブルク大学の歴史・言語学部に移り(当時ゴーゴリが歴史の助教授をしていた。ツルゲーネフにその回想記がある)、そこを卒業する。それが一八三七年、十九歳のときである。学生時代すでに詩を書いたり、シェイクスピアやバイロンの翻訳をしたりしている。ロシヤの作家ではプーシキン、レールモントフ、マルリンスキイ、ベネジクトフなどを愛読した。
一八三八年、ツルゲーネフは留学のためベルリンに出発したが、途中船火事のためあやうく命を落とすところだった。ベルリン大学では歴史と言語学、とくにヘーゲル哲学を勉強した。当時の学友にスタンケーヴィチやグラノーフスキイがいる。またバクーニンとの交友もここで始まる。一八四一年、帰朝したツルゲーネフはモスクワに住んで内務省につとめ、学位を取る準備をするかたわら、詩作をしたり、文学サークルに顔を出すことをおこたらなかった。一八四二年、ペテルブルク大学で哲学博士の学位を取った。しかし結局のところ、教授にはならずに小説家となった。
一八四三年に詩物語『パラーシャ』を発表してツルゲーネフの名前は世間に知られるようになったが、作家としての地位を確立するにいたるのは、なんと言っても、農村スケッチ『猟人日記』が出てからであり、もっと正確に言うならば、のちに『猟人日記』に収録される第一作『ホーリとカリーヌイチ』(一八四七)を、彼の出世作と呼ぶべきであろう。とするならば、一八四三年はツルゲーネフにとって、むしろ、イスパニヤ生まれの歌姫ポリーナ・ヴィアルドーとの出会いということによって、記憶さるべきであった。ヴィアルドー夫人と知り合ったことは、ツルゲーネフのその後の個人的運命を大きく左右することになる。ツルゲーネフとヴィアルドー夫人との関係の真相は永遠の謎であるが、ツルゲーネフが一生を独身で通したのは、ヴィアルドー夫人への愛のためであろうと言われている。ツルゲーネフは結婚こそしなかったが、彼には、青年時代に母親のお針女に生ませたポリーナという娘が一人いた。彼女が七歳になったとき、父親は娘の養育をパリ在住のヴィアルドー夫人に託した。ポリーナは夫人のもとで成長するが、年ごろになるにつれて、父娘と父の愛人との三角関係が奇妙なものとなっていったであろうことは、想像に難くない。とにかくツルゲーネフは、ヴィアルドー夫人の行くところ、その後を追って、生涯の大半を国外で暮らすことになるのである。一八四八年にはパリに在って、二月革命の目撃者となった。
一八五〇年夏、彼はロシヤへ帰った。十一月母死去。彼は莫大な遺産を相続した。彼はスパスコエ、モスクワ、ペテルブルクと住み、劇作をこころみ、それが上演されては成功をおさめた。一八五二年、作家ゴーゴリの死に当たり、追悼文を書いたところ、ペテルブルクでは検閲をパスしなかった。そこで今度はそれをモスクワへ送って『モスクワ報知』に載せた。そのためツルゲーネフは検閲規則違反に問われ、「勅命」により逮捕され、ひと月後にスパスコエに身柄を送られることとなった。もっともこの流刑の本当の原因は『現代人』誌に別刷りで印刷された『猟人日記』だったと言われている。流刑は一八五二年十一月までつづく。この間ツルゲーネフは読書、文筆、音楽、チェスで日を送った。
一八五六年には最初の長編小説『ルージン』が刊行された。この『ルージン』はそのあとにつづく一連の長編小説『貴族の巣』『その前夜』『父と子』『けむり』『処女地』などの前駆をなすものである。
一八五六年八月にツルゲーネフはまた外国に出かける。六〇年代のはじめ以降は、ほとんど外国で暮らすことになるが、毎年のように短期間ロシヤへ帰ってきた。彼のめぐり歩いた外国はドイツ、イギリス、イタリア、オーストリア、フランスなどで、最も長く滞在したのはバーデン=バーデンとパリおよびその近郊である。そのくせ彼はコーカサスヘも、クリミヤヘも行ったことがなかった。
長年の作家生活のあいだにツルゲーネフはじつによくほかの作家たちと仲違いをした。トルストイやドストエフスキイとの確執は有名であるが、ほかにもゴンチャローフ、ゲルツェン、ネクラーソフなどと不和になっている。これは一つにはツルゲーネフの交際の広さとも関係のあることで、たとえばトルストイとドストエフスキイは同時代の高名な作家でありながら、互いに一度も会ったことがなかった。会ったことがなければ、けんかにはならないわけである。
外国生活が長かったので、当然、多くの外国作家と親交があった。パリで親しくしていたフランス作家にメリメ、ゴンクール兄弟、ドーデ、ゾラ、モーパッサン、フローベールなどがいる。とくにフローべールはツルゲーネフの親友だった。彼はまたロシヤと西ヨーロッパの文化交流の面でも、大いに尽力した。一八七九年に帰国したときには青年たちから大歓迎をうけ、同年夏にはイギリスのオックスフォード大学から法学博士の学位を授与された。一八八○年、モスクワに建てられたプーシキンの銅像除幕式に参列するため帰国したが、それが最後の帰国となった。
一八八二年三月末、彼の命取りとなった病気の最初の徴候が現われる。彼は故国をしのびながら異境で死を待つ身となった。そのころ、彼は親友のポロンスキイにあててつぎのような手紙を送っている。「あなたがスパスコエ村へ行かれたら、わたしに代わって、家や、庭や、わたしの若いカシワの木に――ふるさとに、よろしく伝えてください。おそらく、わたしは二度とふたたび、ふるさとを見ることができないでしょうから」
一八八三年九月三日、ツルゲーネフはパリで永眠した。遺体はペテルブルクに送られて、十月九日盛大な葬儀が営まれ、ヴォールコヴォ墓地に埋葬された。
その作品について
ツルゲーネフの小説の特徴はまず第一に、作品の底流にあるリリシズムである。ブランデスの言葉を借りるならば、「ツルゲーネフの心には憂うつの深く広い流れが」流れているということになろう。それを二葉亭四迷は「晩春の相」と言った。ツルゲーネフの幽愁は彼の世界観――悠久の自然にくらべて、うつろいやすく、はかない人生という、無常迅速の悟りに由来する。有限の生をいかに生きるかという問いかけに対して、ツルゲーネフは、美しく生きよと答える。美しく生きるということは彼にとってヒューマンに生きることを意味した。したがってツルゲーネフにおいては美なるものとヒューマンなものは一致する。ツルゲーネフの幽愁は厭世的なものではなく、その反対に人生肯定的なものなのである。この傾向は『猟人日記』で散文作家として文壇にデビューしてから、『散文詩』で作家活動の最後のしめくくりをするまで、ほとんど変わっていない。
第二に、これもよく言われるように、時代の典型、「歴史を創造するタイプ」をつくり上げたことである。つまり十九世紀の四〇〜七〇年代のロシヤ社会に見られた代表的な人間像は、ツルゲーネフによって肉化され、歴史的に位置づけられて、不滅の生命を賦与されたのであった。たとえばルージンやラヴレーツキイ(『貴族の巣』)のような「余計者」がそれである。十九世紀ロシヤ文学において一つの系譜をなしている「余計者」とは、自分の能力の発揮できる場を見いだせないままに、社会的になんら意義ある仕事をなし得ないで、無為のうちに滅びてゆくインテリゲンチャを言う。あるいは農奴解放後の新時代の旗手として華々しく登場するニヒリスト、バザーロフ(『父と子』)がそれである。さらには自分の個人的幸福を犠牲にして、自分の運命を異国の革命家の運命と結びつけるエレーナ(『その前夜』)がそれである。したがって、リリシズムとならんで、小説の時事性・社会性ということもツルゲーネフの特徴と言えるであろう。
第三に、批評家ベリンスキイが早くから指摘したように、ロシヤ作家のなかでも自然描写がとくにすぐれていることである。むろん、これはリリシズムと無縁ではない。
第四に、これはツルゲーネフだけの特徴というわけではないが、ロシヤの民衆に対する愛、その精神力、英知、才能に対する信である。それはヒューマンなものと結びついているがゆえに、ショーヴィニズムとはまったく関係がない。
第五に、ツルゲーネフはきわめて西欧的な感じの作家だということ。事実、彼は、西欧で「大小説家」と見られた最初のロシヤ作家だった。これは言うまでもなく青年時代の留学や、その後の在外生活と深くかかわりを持つものであろう。それは土くさく、ふてぶてしく、鈍重な感じのものではなく、洗練された、文化的な、ハイカラな、あるいは女性的なものである。そうした西欧的なものが、彼の文学にはしみわたっているように思われる。
第六に、ツルゲーネフは好んで恋を、したがって女性を描いた作家であることで、これは作者が、実人生においてはかなえられなかった自分自身の不幸な恋を、完全な、理想的な女性像の創造によっておぎなおうとしたものであるとも言える。クロポトキンは、人間が全貌をあらわすのは、「恋が発展した瞬間」なのだ、と言う。しかしそれならば恋を描くのはあらゆる作家の仕事であるべきであって、ツルゲーネフの小説がなぜ社会小説であると同時に恋愛小説であるのか、の説明としては十分な説得力がない。ツルゲーネフが恋を描いたのはほかでもない、彼が美の極致というものを恋愛のなかに見いだしたからなのである。
『貴族の巣』(一八五九)は『初恋』とならんでツルゲーネフの作品中、芸術的に最も完成した作品といわれている。執筆は一八五八年夏。この作品はツルゲーネフの長編小説のなかで最も好評を博したものである。その理由は、甘美なリリシズムに富み、筋の中心になっているラヴレーツキイとリーザの悲恋が読者の共感を呼んだためであろう。ラヴレーツキイは父親の気まぐれな教育の犠牲者であり、消極的な、おとなしい性格の地主である。善意にみちた、やさしい人がらではあるが、このような退嬰《たいえい》的な人間は社会を動かす原動力にはとうていなり得ない。ラヴレーツキイのような「余計者」がどのようにして誕生したか、それはラヴレーツキイの経歴を辿ることによって知ることができる。これに対してリーザの性格は、外見上はおとなしいようだが、じっさいは、その篤い信仰心に支えられて、人生の岐路に立ったときも取り乱して自分を失うようなことがなく、自分の針路をえらぶことにおいて誤らない。清純な少女リーザの魅力が、このロマンに多大の読者をひきつけた最大の理由にちがいない。しかしラヴレーツキイにおいて描かれている中年男の心境というのも、じつによくあらわされているように思われるが、どうであろうか。
しかしもし、ツルゲーネフのロマンを社会性の面から見るならば、その最も代表的な作品は『父と子』(一八六二)であることに、これまたまちがいあるまい。この作品の中心的人物は、言うまでもなく、ニヒリストの医学生バザーロフである。事実によって確かめられないかぎりなにごとも認めず、既成の価値体系を真っ向から否定するバザーロフは、永遠に生きのびる青年像である。そのため古い規準によってしか物事を考えることのできない老人ども――と言っても、小説のなかではせいぜい四十代にすぎない――は荘然自失する。なるほどアルカージイの伯父はバザーロフを説得しようとするが、あべこべに言い負かされて、ますます彼を憎む。その敵意ある感情のはけ口にフェーネチカとの一件を理由に決闘を申し込むが、その結果はかえって自分の方が、青二才バザーロフの前にぶざまな負けかたをする。新旧両世代のチャンピオンの果たし合いが、旧世代のチャンピオンの敗北に終わることはすこぶる象徴的である。もっとも、バザーロフも、最後まで自分の勝利を誇ることができたとは言えない。それはオジンツォーヴァヘの恋におけるみじめな結末である。なぜみじめであるか? それは彼の求愛がオジンツォーヴァによって受け入れられなかったからではなく、オジンツォーヴァヘの恋によって、バザーロフの常日ごろの「理論」がもろくもくずれ去ったからである。
『父と子』という表題の意味するところは、キルサーノフ、バザーロフ二組みの父子のことである。しかし小説の冒頭ではバザーロフの弟子として登場するアルカージイも、結末では父親たちの世界のなかにまったくとけこんでしまうゆえ、父と子の対立の意味はなくなる。またバザーロフ父子の場合も、表面上バザーロフはいろいろと露悪趣味を発揮するけれども、本当はじつに親思いの孝行息子であって、息子の毒舌と肚のなかが一しょでないことは、バザーロフ老人にはわかりすぎるほどわかっているのだ。血でつながる親子の自然な思いやり、以心伝心がある。したがって『父と子』という表題は、つまりはそれだけのことであって、作者の書こうとしたものが親子の対立ということにあったわけでないことがわかるだろう。むろん、子供が成長して親から離れてゆくことからくる親のさびしさだの、反対に、親の思惑など気にせずに勝手に自分で伸びてゆく若者の生態などは、いつの世にも見られる真実である。
この作品は一八六〇年八月に構想を始め、一年後に完成、一八六二年に発表されたものである。ところが発表されるとすぐに、読書界に一大センセーションをまきおこした。作者ツルゲーネフは、新旧両世代から、『父と子』は自分たちの世代を誹謗するものだ、として攻撃されたのである。のちに作者はみずからこの作品を解題したが、それによれば作者は、バザーロフを肯定的な人間像として描いたものだという。むろん、それは、バザーロフが欠点のない人間として描かれている、ということを意味しはしない。むしろ、欠点があるにもかかわらず、といった方が正しい。ツルゲーネフの言葉を借りれば、「一方において賄賂をもらう役人、他方において理想的な青年を描く」ことは、ほかの人に任せておけばよいのだ。事実、バザーロフの臨終のときの態度などはまことにヒロイックではないか。終わりにすこしつけ加えておくならば、『父と子』は『貴族の巣』などにくらべると、かなりドライな感じを与える筆運びであると言うことができる。読者は至るところで誇張されたカリカチュアに出っくわす。バザーロフを含む登場人物をかなり突き離した調子で傍観しているという気がする。そのような点から見るならば、『父と子』は諷刺小説でもあると思う。
ツルゲーネフは西ヨーロッパだけでなく、日本とも関係の深い作家である。二葉亭のすぐれた訳業のせいもあるが、明治から大正時代のある時期にかけて、最も数多くそして熱心にわが国に作品が紹介されたロシヤ作家は、トルストイでも、ドストエフスキイでもなくて、じつにツルゲーネフであった。つまり日本にはツルゲーネフ時代という一時期があったのである。(佐々木彰)
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年譜
一八一八年 十一月九日中部ロシヤの町オリョールの富裕な貴族の家に生まれる。父セルゲイ・ニコラエヴィチ・ツルゲーネフは軍人。母はワルワーラ・ペトローヴナ、旧姓ルトヴィーノヴァ。
一八二一年(三歳) 父、陸軍大佐で退職。一家はオリョール県ムツェンスク町からほど遠からぬスパスコエ村に移る。作家ツルゲーネフの幼年時代はここですごされる。
一八二七年(九歳) 年のはじめツルゲーネフ一家モスクワに移る。モスクワにあるヴェイデンガンメルの塾に入る。約二年ここに学ぶ。
一八二九年(十一歳) 八月クラウゼの塾に入り、十一月退塾。家庭教師につき学業を継続。
一八三三年(十五歳) 九月モスクワ大学文学部入学。
*プーシキンの短編『スペードの女王』成る。バルザック『ウジェニー・グランデ』出る。
一八三四年(十六歳) 秋、ペテルブルク大学哲学部言語学科に転入学。十一月父セルゲイ死す。
*ゴーゴリの戯曲『検察官』成る。ゲルツェン流刑。
一八三六年(十八歳) 六月ペテルブルク大学卒業。
一八三七年(十九歳) 七月学士試験に合格。
*プーシキン死。『ハムレット』ロシヤで初演。
一八三八年(二十歳) 三月ぺ・ア・プレドニョーフ教授の文学の夕べに出席。四月、詩『夕ぐれ』を「現代人」誌に発表。九月ベルリン着。ベルリン大学で聴講(〜三九年)。グラノーフスキイ、スタンケーヴィチと親交。
一八三九年(二十一歳) 秋、ロシヤに帰国。レールモントフを知る。
一八四〇年(二十二歳) 一月外国へ出発。二〜五月イタリヤ滞在。五〜十二月ベルリン大学でヘーゲル哲学、言語学および歴史学を学ぶ。
*ゴーゴリ『外套』出る。レールモントフ『現代の英雄』出る。
一八四一年(二十三歳) 五月ベルリン大学の課程を終了、ロシヤへ帰国。モスクワに住む。九月、T・Lの署名で詩『老地主』を「祖国雑記」誌に発表。十一月おなじく詩『バラード』を発表。
*レールモントフ決闘で死ぬ。
一八四二年(二十四歳) 三月詩『掠奪』をT・Lの署名で「祖国雑記」に発表。博士試験をうけるためモスクワからペテルブルクに向かう。四〜五月哲学博士の試験に合格。娘ポリーナ誕生(母は農奴)。七月モスクワに住む。ゲルツェンを知る。七〜十一月ドイツ旅行。十二月ペテルブルクに転居。
*ゴーゴリ『死せる魂』第一部出る。
一八四三年(二十五歳) 年初、長詩『バラーシャ』執筆。二月ベリンスキイを知る。四月T・Lの署名で『パラーシャ』刊行。六月内務省出仕。十一月ポリーナ・ヴィアルドーを知る。この年、「祖国雑記」に詩数編と劇一編を発表。
*バルザック、ペテルブルクに立ちよる。
一八四四年(二十六歳) 二〜三月勤務の休暇のさいにモスクワでゲルツェンに会う。夏、ペテルブルク近郊パルゴーロヴォの別荘ですごす。毎日のようにベリンスキイと会う。この年「祖国雑記」一、三、四、六、十一、十二号と、「現代人」三、十号に詩および短編小説『アンドレイ・コロソフ』を発表。
一八四五年(二十七歳) 一月長詩『会話』刊行。二月ヴロンチェンコ訳ゲーテ『フアゥスト』書評を「祖国雑記」に発表。四月選集『昨日と今日』に詩数編を掲載。内務省官吏を十等官で退職。五〜十一月フランス旅行。十一月ペテルブルクに帰着。ドストエフスキイを知る。
一八四六年(二十八歳) 一月長詩『アンドレイ』を「祖国雑記」に発表。「ペテルブルク文集」に、短編『三つの肖像画』、長詩『地主』、バイロンおよびゲーテの訳詩を発表。十月戯曲『金づまり』を「祖国雑記」に発表。
*ドストエフスキイ『貧しき人々』、バルザック『従妹ベット』出る。
一八四七年(二十九歳) 年初、外国旅行、七月までドイツに、以後フランスに滞在。詩、書評とともに短編『ホーリとカリーヌイチ』を「現代人」に発表。『猟人日記』第一作である。中編『乱暴者』を「祖国雑記」に発表。二月短編『ピョートル・ペトローヴィチ・カラターエフ』を「現代人」に発表。三月「現代人」に『ベルリンだより』。五月「現代人」に短編『隣人ラジーロフ』『郷士オフシャニコフ』『リゴフ』『エルモフイと粉屋の女房』を発表。五〜九月ベリンスキイと会い、ドイツ、フランス旅行をともにする。七月短編『荘園管理人』を書く。十月「現代人」に『荘園管理人』『事務所』を発表。十一月短編『ユダヤ人』を「現代人」に発表。
一八四八年(三十歳) この一年間パリに居住し、ゲルツェン、バクーニンと会う。二月短編『苺の水』『田舎医者』『狼』『レベジャン』『タチヤーナ・ボリーソヴナとその甥』『死』を「現代人」に発表。パリの二月革命を目撃す。九月短編小説『ペトゥシコーフ』を「現代人」に発表。
*ベリンスキイ死。マルクス『共産党宣言』出る。ロシヤで反動政策強まり、検閲がきびしくなる。
一八四九年(三十一歳) この一年パリやクルタヴネルに住む。貧乏する。母からの送金とだえ、文筆に専念。年初しばしばゲルツェンと会う。二月短編『シチグロフ郡のハムレット』『チェルトプハーノフとネドビュースキン』『森と草原』を「現代人」に発表。戯曲『食客』、検閲にひっかかる。九月戯曲『独り者』を「現代人」に発表。十月『独り者』ペテルブルク初演(シチュープキンの祝儀興行)。十二月『貴族団長宅の朝食』初演(カラトゥイギンの祝儀興行)。
*ペトラシェーフスキイ会の検挙。ドストエフスキイ逮捕され、流刑に処せられる。ゴンチャローフ『オブローモフの夢』出る。
一八五〇年(三十二歳) 三月戯曲『学生』(『村のひと月』)完成。四月短編『余計者の日記』を「現代人」に発表。六月ロシヤに向けて出発。十月娘ポリーナをヴィアルドー一家に託し外国に送りだす。十一月短編『歌うたい』『あいびき』を「現代人」に発表。母の死。農奴を解放する。
一八五一年(三十三歳) この一年間ロシヤに住む(モスクワ、ペテルブルク、スパスコェ)。一月喜劇『田舎女』を「祖国雑記」に発表。二月短編『べージンの野』を「現代人」に発表。三月短編『クラシーヴァヤ・メーチのカシヤン』を「現代人」に発表。十月モスクワにゴーゴリを訪問す。十一月ゴーゴリによる『検察官』の朗読に出席。十二月『うすいところが破れる』ペテルブルクで初演。
一八五二年(三十四歳) 二月短編『三つの出会い』を「現代人」に発表。三月「モスクワ報知」にゴーゴリ追悼文を掲載し、そのため四月に逮捕、五月スパスコエに流刑(一年半)。八月『猟人日記』刊行。はじめて『二人の地主』を含む。検閲官リヴォーフ、『猟人日記』の発行を許可した責任を問われ免職となる。流刑中に中編『はたごや』執筆。
*ゴーゴリ死。
一八五三年(三十五歳) この一年間、流刑でスパスコエに住む。六月、詩人フェートを知る。十一月中編『二人の友』完結。十二月流刑を免ぜられペテルブルクに帰る。「現代人」編集部、ツルゲーネフのために歓迎会を開く。
*ロシヤ、トルコと開戦(〜五六年)。ロシヤ使節プチャーチン長崎来航。随員に作家ゴンチャローフあり。
一八五四年(三十六歳) 「現代人」との結びつきおよびネクラーソフとの友情深まる。一月『二人の友』を「現代人」に発表。六月パリで『猟人日記』のフランス語訳刊行。
*クリミヤ戦争始まる。
一八五五年(三十七歳)一月『村のひと月』を「現代人」に発表。四月中編『ヤーコフ・パースインコフ』を「現代人」に発表。六〜七月スパスコエで『ルーシン』を執筆。十一月『はたごや』を「現代人」に発表。レフ・トルストイを知る。
一八五六年(三十八歳) 一〜二月長編『ルージン』を「現代人」に発表。八月外国へ出発。「現代人」に喜劇『貴族団長宅の朝食』を掲載。八〜九月ロンドンにゲルツェンを訪ねる。十月中編『フアゥスト』を「現代人」に発表。十一月『ツルゲーネフ中・短編集』刊行。この年の終わりの数ヵ月パリに在ってフランス作家(ダカン、ルコント・ド・リール、ユゴーなど)と相知る。フランス現代文学および文学環境の研究。
*クリミヤ戦争終わる。
一八五七年(三十九歳) この一年間病的状態にあり、ほとんど仕事できず。三月喜劇『他人のパン』(『食客』)を「現代人」に発表。五月ロンドンにゲルツェンを訪ねる。十月ボートキンとともにローマヘ行き、冬をすごす。
*フローべールの『ボヴァリー夫人』、ボードレールの『悪の華』出る。
一八五八年(四十歳) 一月中編『アーシャ』を「現代人」に発表。三〜六月ローマ出発、イタリヤ諸都市訪問ののち、ウィーン、ロンドン、パリを歴訪、六月ロシヤに向かう。六〜十月スパスコエに住む。農奴制改革を迎える準備をする。長編『貴族の巣』の執筆に鋭意従事。
一八五九年(四十一歳) 一月長編『貴族の巣』を「現代人」に発表。三月モスクワ大学「ロシヤ文学愛好者の会」の正会員にえらばれる。文学者救援基金の設立に参加。五月外国旅行(パリ、ロンドン)。九〜十一月スパスコエに住み、長編『その前夜』を書く。
*ゴンチャローフ『オブローモフ』出る。ダーウィン『種の起原』出る。
一八六〇年(四十二歳) 一月講演『ハムレットとドン・キホーテ』を「現代人」に掲載。二月長編『その前夜』を「ロシヤ報知」に発表。ネクラーソフに、ドブロリューボフの論文『本当の日はいつくるか』を「現代人」に掲載しないように要求するが、拒否される。四月中編『初恋』を「読書文庫」誌に発表。困窮文士学者救済のために開いた作家参加の慈善芝居『検察官』に商人の役で出演。ツルゲーネフとゴンチャローフとの間で仲裁裁判おこなわれる。ツルゲーネフが『その前夜』に、ゴンチャローフの未発表作品『断崖』の一部を盗用したとする告訴事件である。このため二人は絶交する。五月外国へ行き、一八六一年五月まで滞留。主としてパリに住む。夏はドイツとイギリスですごす。十月パナーエフにあてて「現代人」への寄稿を断わる手紙を書く。十二月、学士院準会員にえらばれる。年末エヌ・ア・オストローフスキイ版『ツルゲーネフ著作集』出はじめる。この一年間ゲルツェンとしきりに文通す。ゲルツェンの機関紙「コーロコル」(「鐘」)に参加。
*オストローフスキイの戯曲『雷雨』出る。チェーホフ生。
一八六一年(四十三歳) 二〜三月農奴解放令に関心を持ち、ゲルツェンに情報を伝える。五月外国よりペテルブルクに帰る。五〜八月スパスコエで農奴解放にもとづく措置を講じる。農民たちは農奴解放が自分たちの利益になるということを理解せず、不信の念で迎える。六月トルストイと争う(フェートの領地ステパーノフカで)。九月外国へ赴く。この一年間ゲルツェンと親しく交わる。
*ロシヤで農奴制廃止(二月十九日)され、農民の騒擾事件さかんとなる。
一八六二年(四十四歳) 三月長編『父と子』を「ロシヤ報知」に発表。四月スルチコーフスキイとゲルツェンに手紙を送り、そのなかで『父と子』の作者としての見解を披歴す。五月ロンドンでゲルツェンと会い、ロシヤの発達の方法について論争する。六月外国より帰る。八月外国へ出発。十月ゲルツェンとオガリョフの作成したアレクサンドル二世あての書簡に署名することを拒む。ゲルツェンに数次手紙を出し、社会・政治問題でゲルツェンやオガリョフと同調できないむね主張。
*ユゴー『レ・ミゼラブル』出る。チェルヌイシェーフスキイ官憲に逮捕さる。
一八六三年(四十五歳) この一年間、外国にあり。五月からバーデン=バーデンに住む。一月エル・ヴィアルドーとともに『エヴゲーニイ・オネーギン』(プーシキン作)の散文体フランス語訳を出す。年頭、フランス語訳ツルゲーネフ作品集出る。
*リンカーン、奴隷廃止を布告。
一八六四年(四十六歳) ボーデンシュテットのドイツ語訳ツルゲーネフ作品集出る。一月ロシヤに帰る。「鐘」で「白髪頭のマグダリナ」とののしられる。二月『まぼろし』を「エポーハ」(「時代」)誌に発表。ゴンチャローフと和解す。三月外国へ行く。「白髪頭のマグダリナ」のことでゲルツェンに抗議。決裂。四月短編『犬』執筆。「サンクト・ペテルブルク報知」誌に『シェイクスピヤ論』を掲載。六月バーデン=バーデンに土地を買い家を建てる。ヴィアルドー一家バーデン=バーデンに越してくる。
*二葉亭四迷生。
一八六五年(四十七歳) バーデン=バーデンに住む。パリに出かける。ロシヤに約二ヵ月滞在(六、七月)。一〜二月娘ポリーナの結婚のことで奔走する。ポリーナは二月にフランス人と結婚。六月『ムツイリ』(レールモントフ作)フランス語訳出る。十一〜十二月『煙』執筆。一八六四〜六五年にツルゲーネフ著作集(サラーエフ版)。その第五巻にはじめて『たくさんだ』発表。
一八六六年(四十八歳) この一年バーデン=バーデンに住む。『煙』執筆。四月短編『犬』を「サンクト・ペテルブルク報知」に発表。
*ロマン・ロラン生。ドストエフスキイ『罪と罰』出る。カラコーゾフのロシヤ皇帝暗殺未遂事件。死刑。
一八六七年(四十九歳) 三〜四月ロシヤに在り。四月『煙国』を「ロシヤ報知」に発表。五月ゲルツェンに『煙』を送る。ゲルツェンとの和解。七月ドストエフスキイとの不和。この年メリメ監修により『煙』仏訳される。
*トルストイ『戦争と平和』第一巻出る。
一八六八年(五十歳) 一月中編『旅団長』を「ヨーロッパ報知」に発表。二月短編『エルグーノフ中尉の話』を「ヨーロッパ報知」に発表。六〜七月ロシヤ帰国。
*ドストエフスキイ『白痴』出る。ゴーリキイ生。
一八六九年(五十一歳) 一月サラーエフ版『ツルゲーネフ著作集』(二版)二、三、四、五巻出る。二月短編『不幸な女』を「ロシヤ報知」に発表。四月『ベリンスキイの思い出』を「ヨーロッパ報知」誌に発表。五月著作集第六巻『舞台と喜劇』出る。十一月『文学的回想』(ツルゲーネフ文学活動二十五年記念)が著作集の第一巻として出る。
*トルストイ『戦争と平和』完。ジイド生。
一八七〇年(五十二歳) 一月短編『奇妙な話』を「ヨーロッパ報知」に発表。六〜七月ロシヤ帰国。十月『曠野のリヤ王』。
*フローべール『感情教育』出る。普仏戦争(〜七一年)パリ包囲さる。
一八七一年(五十三歳) 二〜三月ロシヤ帰国。三月ガリバルジイ救援運動のために『旅団長』を朗読す。四月著作集第八巻(補巻)出る。十一月パリに居を移す。
*パリ・コミューン(三〜五月)。
一八七二年(五十四歳) フローべールらと親交。この一年間『処女地』執筆。一月『春の出水』を「ヨーロッパ報知」に発表。三〜六月ロシヤ帰国。十一月短編集『チェルトプハーノフの最後』。
*ドストエフスキイ『悪霊』完結。ニーチェ『悲劇の出生』出る。
一八七三年(五十五歳) この一年間外国ですごす。一〜二月『処女地』執筆。作品を完結させるためにロシヤ行きを計画。四月ノーアンにジョルジュ・サンドを訪問。九月再度ジョルジュ・サンドを訪ねる。
一八七四年(五十六歳) 二月サラーエフ版著作集第三版出る(二、三、四、五、六巻)。三月著作集第八巻。四月短編『生きているミイラ』『プーニンとバブーリン』を「ヨーロッパ報知」に発表。いわゆる「五人会食会」のはじまり(ツルゲーネフ、フローベル、エ・ゴンクール、ゾラ、ドーデ)。三〜七月ロシヤ帰国。十月著作集第一巻。短編『音がする』はじめて収録。十一月著作集第七巻。
*ナロードニキの「人民の中へ」の運動おこる。
一八七五年(五十七歳) この一年間を外国ですごす。
*ドストエフスキイ『未成年』出る。
一八七六年(五十八歳) 一月短編『時計』を「ヨーロッパ報知」に発表。二月『処女地』の仕事に没頭。ロシヤからネチャーエフ事件の裁判議事録を送ってくれるように依頼。六〜七月ロシヤ帰国。スパスコエで『処女地』執筆。完結。
一八七七年(五十九歳) 一月『処女地』第一部を「ヨーロッパ報知」に発表。二月『処女地』第二部を「ヨーロッパ報知」に発表。同時に『処女地』の仏訳刊行される。四月フローべールの『聖ジュリアンの物語』のツルゲーネフによるロシヤ語訳を「ヨーロッパ報知」に発表。五月おなじくフローべールの『へロデアス』を「ヨーロッパ報知」に訳載。六〜七月はじめロシヤ帰国。
*トルストイ『アンナ・カレーニナ』出る。四月ロシヤ・トルコ戦争(〜七八年)。日本、西南戦争。
一八七八年(六十歳) この一年間『散文詩』を執筆。六月パリの国際文学者会議に出席、副議長にえらばれる。八〜九月ロシヤ帰国。トルストイとの和解。
一八七九年(六十一歳) この一年間『散文詩』を執筆。二〜三月ロシヤ帰国。モスクワやペテルブルクで歓迎をうける。五月パリで、ロシヤ亡命者救援のための文学・音楽のつどいに出席、サルトゥイコーフ=シチェドリーンの『一人の百姓が二人の将軍を養った話』と、自作『猟人日記』の断片を朗読す。六月オックスフォード大学より法学博士の学位をうける。
*ドストエフスキイ『カラマーゾフ兄弟』出始める。アレクサンドル二世暗殺未遂。
一八八〇年(六十二歳) サラーエフ版ツルゲーネフ著作集(全十巻)出る。二〜七月はじめロシヤ帰国。女優サーヴィナと会う。二月ナロードニキの雑誌「ロシヤの富」の編集者グレープ・ウスペンスキイらと会う。六月モスクワでプーシキン銅像除幕式に参列。ドストエフスキイらとともにプーシキンについての講演をする。
一八八一年(六十三歳) この一年間『散文詩』を執筆。三月ロシヤに帰る。七月女優サーヴィナ、スパスコエにツルゲーネフを訪ねる。十一月『勝ち誇れる恋の歌』を「ヨーロッパ報知」に発表。年末『勝ち誇れる恋の歌』の仏、独語訳出る。
*ドストエフスキイ死。アレクサンドル二世暗殺される。
一八八二年(六十四歳) この一年『散文詩』を執筆。新しい著作集の編集にあたる(グラズーノフ版)。三月病気悪化す。八月スタスュレーヴィチに『散文詩』の原稿を渡す。十二月『散文詩』を「ヨーロッパ報知」に発表。
一八八三年(六十五歳) 著作集の編集をつづける。病い篤し。一月短編『クララ・ミーリチ』を「ヨーロッパ報知」に発表。三月グラズーノフ版著作集第二巻出る。六月ヴィアルドー夫人に『海上の火事』を口述筆記させる。トルストイに手紙を送り、創作活動への復帰をすすめる。八月ヴィアルドー夫人に短編『終末』を口述。九月三日午後二時、脊椎癌のため死去。十月一日パリで遺体に告別。十月九日ペテルブルクで葬儀。遺言によりペテルブルクのヴォールコヴォ墓地に埋葬される。
*モーパッサン『女の一生』出る。マルクス死。ケインズ生。(佐々木彰編)ツルゲーネフ作/佐々木彰訳