初恋
ツルゲーネフ作/佐々木彰訳
目 次
初恋
解説
年譜
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ぺ・ヴェ・アンネンコフにささぐ
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初恋
客たちはとっくに散会した。時計が十二時を打った。部屋に残ったのは主人《あるじ》と、セルゲイ・ニコラエヴィチと、ウラジーミル・ペトローヴィチだけである。
主人が呼び鈴を鳴らして、夜食のあとかたづけをするように命じた。
「じゃ、そうきまりました」肘《ひじ》かけ椅子に一そう深く腰をうずめ、葉巻きに火をつけると彼は言った。「めいめいが自分の初恋の話をするんですよ。まずあなたから、セルゲイ・ニコラエヴィチさん」
セルゲイ・ニコラエヴィチは、まるまる太った男で、ぽってりとした顔の金髪であったが、まず主人の顔を眺め、それから天井を見やった。
「ぼくには初恋がありませんでしたね」と、しまいに彼は言った。「いきなり第二の恋から始めたんです」
「そりゃまたどうして?」
「しごく簡単ですよ。はじめて、あるきわめてかわいらしいお嬢さんを追い回したのは、十八の年でした。でもその追い回しかたはなにも目新しくないようなものだった。のちにほかの女を口説《くど》いたのとまったく同じでしたから。実を言うと、ぼくが恋をしたのはあとにも先にも、一度きり、年は六つのころで、相手は子守りでした。しかしそれは大昔のことです。二人の間にあった細かい点は記憶から消え去ってしまいましたし、たとえぼくがそれを覚えているにしても、だれがそんなことに興味をもつでしょう?」
「ではどうしましょうか?」と主人が言いだした。「わたしの初恋にしたって大して面白いことはないんです。わたしは現在の妻、アンナ・イワーノヴナを知るまで、だれにも恋をしたことがありません、……しかもわれわれのことは万事すらすらと運んだのです。それぞれ父親から縁談を持ち出されると、わたしたちはすぐにお互いどうし好きになってしまって、さっさと結婚してしまったというわけですから。わたしの話なんかほんの一言《ひとこと》ですんでしまいますよ。わたしは、みなさん、実を言うと、初恋の話を持ち出したのは……あなた方を期待してのことなんですよ。あなた方は、老人とは申しませんが、さりとて若いとも言えない独身者ですから。どうです、あなたはなにか面白い話をして下さるでしょうね、ウラジーミル・ペトローヴィチさん?」
「わたしの初恋は、じっさいありきたりのものではないんです」とすこしばかり口ごもりながら、ウラジーミル・ペトローヴィチは答えた。これは四十がらみの男で、黒い髪の毛にはもう白いものがまじっている。
「やあ!」と主人とセルゲイ・ニコラエヴィチは異口同音に答えた。「なおさらけっこう……聞かして下さい」
「いいですとも……いや、だめですね。話すのはやめましょう。わたしは話すのが不得手ですから。無味乾燥な、簡単なものになるか、だらだらした、不自然なものになってしまいますよ。もしよろしかったら、思い出すことをすっかりノートに書いて……それをあなた方に読んで聞かせるとしましょう」
友人たちははじめは承知しなかったが、ウラジーミル・ぺドローヴィチは自説をおし通した。二週間後に彼らが再びより合ったとき、ウラジーミル・ペトローヴィチは自分の約束をはたした。
以下は彼のノートに書いてあったことである。
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一
そのときわたしは十六歳であった。一八三三年の夏のことである。
わたしはモスクワの両親のもとに住んでいた。カルーガ関門のあたり、ネスクーシヌイ公園の向かい側に別荘を借りていたのである。わたしは大学に入る準備をしていたが、ろくすっぽ勉強せず、ゆっくりとかまえていた。
だれもわたしの自由を束縛しなかった。わたしは自分のしたい放題のことをしていた。とくに、最後の家庭教師であるフランス人と別れてからは、そうであった。彼は自分が『爆弾のように』ロシヤに落下した(comme une bombe)という考えにどうしてもなじむことができず、顔にものすごい表情をうかべて、くる日もくる日も一日じゅう、ベッドの上でごろごろしていた。父はわたしを冷淡にやさしく扱った。母はわたしのほかに子供がいなかったのに、ほとんどわたしに関心を払わなかった。ほかの心配ごとでいっぱいだったのである。父はまだ若くて大そう美男子であったが、財産目あてで母と結婚した。母は父より十も年上だった。母はみじめな生活をしていた。しょっちゅう興奮したり、やきもちをやいたり、腹を立てたりした……ただし父のいないときにである。母は父をひどく恐れていたし、父の態度はきびしく、つめたく、よそよそしかった、わたしはあれほど気取った、うぬぼれの強い、得手勝手な男を見たことがない。
別荘ですごした最初の数週間を、わたしはけっして忘れることができないだろう。すばらしいお天気が続いていた。われわれが市内から引っ越していったのは五月九日で、ちょうど聖ニコライの日だった。わたしは、時には別荘の庭を、時にはネスクーシヌイ公園を、時には関門外を散歩した。なにか本……たとえばカイダーノフ(ロシヤの歴史家。一七八〇〜一八四三)の『万国史』など……を手に持って出かけたが、それをめくることなどめったになく、ひじょうにたくさんの詩をそらで覚えていて、それを声に出して口ずさむ方が多かった。血潮がわたしの体内でわきたっていたし、胸もうずいていた……あんなに甘く、こっけいなほどに。わたしはたえずなにかを待ちうけ、なにかにびくびくし、なにごとにも心をおどらせ、全身待機をしていた。幻想《ファンタジー》が踊りくるって、同じ観念のまわりをすばやくかけめぐるのであった。あかつきにツバメの群れが鐘楼のまわりをとびまわるように。わたしはもの思いに沈んだり、悲しんだり、涙を流しさえした。しかし、時にはひびきのよい詩句によって、時には夕暮れの美しさによってそそられた涙や、悲哀を通してさえも、若々しい、ふつふつとたぎる生の悦ばしい感情が、春の若草のように、にじみ出すのであった。
わたしは乗用馬を一頭持っていた。わたしは自分で馬に鞍《くら》を置き、ひとりでどこかに遠乗りに出かけたものである。馬をギャロップで走らせて、自分をトーナメントに出場した騎士のように想像したり……わたしの耳に、風がなんと快《こころよ》く吹きつけたことであろう! ……大空をふり仰いで、輝かしい光とるり色とを、開けひろげた魂の奥底まで吸いこんだものである。
思えば、女の姿とか、女の愛のまぼろしとかは、そのころほとんど一度も、はっきりした形をとって心にうかんだことがなかったようである。しかしわたしの考えることのすべて、感じることのすべてには、なにかしら新しいもの、言いようもなく甘美なもの、女性的なもの……に対する半ば無意識な、はじらいをふくんだ予感がひそんでいたのだった。
この予感、この期待は、わたしの骨の髄《ずい》までしみわたっていた。わたしはそれを呼吸し、またそれはわたしの血管の中を血の一滴々々に宿って、かけめぐるのだった……まもなくそれは実現する運命にあった。
うちの別荘は円柱の立ちならんだ木造の地主屋敷と、二棟の天井の低い傍屋《はなれ》から成っていた。右手の傍屋は安物の壁紙を作るちっぼけな工場になっていた……わたしは度々そこをのぞきにいったが、油じみた上っ張りをきて、やつれきった顔つきをし、もじゃもじゃの髪の毛をした男の子が十人ほど、四角な印刷機をおしつける木の「てこ」の上にしょっちゅうとびのっては、自分のひ弱い身体の重みで壁紙のまだらな色模様を捺《お》しだしているのだった。右手の傍屋は空いていて、貸家になっていた。ある日のこと、五月九日から三週間ほどのち……この傍屋の窓の鎧戸《よろいど》が開いて、女たちの顔がちらついているのが見えた……どこかの家族が越してきたものと見える。忘れもしない、その日の夕食のときに母が執事に向かって、今度となりに越してきたのはだれかとたずねたが、公爵夫人ザセーキナという苗字を耳にすると、はじめは多少尊敬の気持ちをこめて、「まあ! 公爵夫人……」と言ったが、すぐあとでこうつけ加えた。「きっと、どこかの貧乏貴族だろうよ」
「三台の辻馬車で越してこられました」とうやうやしく皿をさし出しながら、執事が言った。「自家用の馬車はお持ちじゃございませんし、家具もごくお粗末でして」
「そう」と母は答えた。「それでもましだよ」
じっさいザセーキナ公爵夫人は裕福な婦人のはずがなかった。彼女の借りた傍屋は古びていて、せまくもあれば、天井も低かったので、多少とも暮らしむきの豊かな連中ならば、越してくることを承知しなかったであろうから。とはいえ、わたしはそのときはこういったことはすべて聞き流した。公爵という称号はわたしにほとんど作用を及ぼさなかった。つい最近シラーの『群盗』を読んだばかりだったのである。
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二
わたしは毎日、夕方になると鉄砲を持ってうちの庭をぶらつき、カラスの見張りをするのが習慣だった。この用心深い、強欲で、悪賢い鳥にたいして、わたしは以前から憎悪をいだいていた。さきにのべた日も、わたしはやはり庭へ出て……空しく並木道を歩き回ったあげく(カラスどもはわたしを知っていて、ただ遠くからきれぎれに鳴くばかりだった)、ふと低い垣根に近づいた。その垣根は、右手の傍屋《はなれ》の向こうへのびて、その家にぞくしている細い帯のような庭と、うちの領分の境になっていた。わたしはうなだれて歩いていた。不意に人声がした。わたしは垣根ごしに眺めて……石のようになった……奇妙な光景がわたしの目に映じたのである。
わたしから数歩はなれたところ……青々としたエゾイチゴの繁みにかこまれた空地に、すんなりとした背の高い少女が、縞《しま》の入ったバラ色の服を着て、頭に白いスカーフをかぶって立っていた。そのまわりには四人の青年がひしめきあっていて、少女は彼らの額《ひたい》を小さな灰色の花束でじゅんじゅんにたたいているのだった。その花の名をわたしは知らないが、子供たちのよく知っている花である。小さな袋の形をした花で、なにか堅いものでそれをたたくと音をたててはじける。青年たちは嬉々として自分の額をさしだした……一方、少女の動作には(わたしは横合いから彼女を見ていた)なにかしらじつに魅惑的な、高びしゃな、あざ笑うような、しかもかわいらしいところがあったので、わたしは驚きと満足のあまりもう少しで声を立てるところだった。そして自分もあのうっとりするような指でおでこをはじいてもらえるなら、即座に世界じゅうのものを投げ出してもかまわないと、思った。鉄砲は草の上にすべり落ちた。わたしはなにもかも忘れてしまった。わたしはそのすらりとしたからだつきや、頭や、きれいな手や、白いスカーフの下から見えているかすかに乱れた髪や、半ば開いている利口な目や、そのまつ毛や、その下にある柔らかな頬などをむさぼるように見つめていた……
「君、おい君」と不意にわたしのそばでだれかの声がした。「よそのお嬢さんをそんなに一心に見つめてもいいものかね?」
わたしはぎょっとしてふるえあがり、茫然となってしまった……すぐそばの垣根の向こうに、黒い髪の毛を短く刈りこんだどこかの男が立っていて、皮肉な目でわたしの方をじろじろ見ていた。ちょうどこの瞬間、少女もわたしの方をふり向いた……わたしが、表情に富んだ、活気のある顔に、大きな灰色の目を認めたとたん、その顔ぜんたいがいきなりふるえだし、笑い出して、白い歯がきらりと光って、眉毛がおかしくつり上がった……わたしは顔を赤くし、地面から鉄砲をひっつかむと、甲《かん》高い、しかし意地悪くはない笑い声に追われて、自分の部屋へ逃げ帰り、ベッドの上に身を投げ出すと、両手で顔をおおった。心臓ははげしく躍っていた。わたしはひどく恥ずかしく、また愉快だった。わたしはこれまでに味わったことのない興奮を感じた。
ひと休みすると、わたしは髪をとかし、服のほこりを払って、お茶を飲みに下へおりて行った。若い娘のおもかげは、目の前にちらついた。動悸《どうき》はおさまっていたが、胸がなんだか快くしめつけられるような気がした。
「どうしたんだ?」と不意に父が聞いた。「カラスをしとめたのかい?」
わたしは父にすっかり話してしまおうかと思ったが、がまんして、内心ひそかにひんやりとしただけだった。寝るときに、わたしは、自分でもなぜだかわからないまま、三べんほど片足でくるくるまわり、ポマードを塗りたくって、横になると、朝まで死んだように眠った。明けがたちょっと目を覚まし、頭をもたげ、むやみと嬉しくなってあたりを見まわし……それからまた寝入ってしまった。
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三
『なんとかしてあの人たちと知り合いになりたいものだが?』というのが、翌朝、目を覚ますや否や、まっ先にわたしの頭にうかんだ考えであった。わたしはお茶の前に庭へ出たが、垣根へはあまり近づかず、だれの姿も見なかった。お茶のあとでわたしは、別荘の前の通りをなんどか往ったり来たりして……遠くから窓をのぞいてみた……カーテンのかげに「あのひと」の顔が見えたような気がしたので、わたしはあわてて、さっさと通りすぎた。『しかし、知り合いにならなくっちゃいけない』とわたしは考えた、ネスクーシヌイ公園の前にひろがっている砂原をめちゃくちゃに歩きまわりながら。『でも、どうやって? それが問題だ』わたしは昨日のめぐりあいのいちぶしじゅうを思いうかべてみた。どういうわけだかとくにはっきりと心にうかんでくるのは、彼女がわたしのことを笑ったときのありさまだった……しかし、わたしが興奮していろいろな計画をたてているうちに、運命はすでにわたしのことを配慮していた。
わたしの留守中に母は新しい隣人から手紙を受け取ったが、それは灰色の紙に書かれており、郵便局の通知状か安物の酒の栓《せん》にしか使われないような、褐色の封蝋《ふうろう》で封印してあった。たどたどしい文章と下手な字で書かれたこの手紙のなかで、公爵夫人は母に、自分を引きたててくれるようにと依頼してきたのだった。母は、公爵夫人の言葉によれば、二、三の名士と知り合いであるが、公爵夫人と彼女の子供たちの運命はその人たちに依存している、なぜなら彼女は今ひじょうに重大な訴訟を起こしているから、というのであった。『わたしこと〈叔〉女といったとしまして』と彼女は書いていた。『同じ〈叔〉女で〈入《い》〉らっしゃるあなたさま〈え〉お手紙をさし上げるしだいですが、この〈期〉会を得ましたこと、まことに喜ばしく存じます』そして手紙の終わりに、あなたを訪問することをお許し願います、と申しそえてあった。母は不きげんだった。父が留守で、だれも相談相手がいなかったからである。『淑女』、それも公爵夫人に、返事しないわけにはゆかなかったが、どう返事していいものやら彼女は迷っていた。手紙をフランス語で書くのはこのさい適当じゃないような気がしたし、さりとてロシヤ語の正書法という段になると、母自身が心もとなかった……自分でもそれを知っていた……ので、恥をさらしたくなかったのである。
母はわたしが帰ってきたのを喜んで、すぐに公爵夫人のところへ行って、口頭で、母は力の及ぶかぎり奥さまのお役に立ちたいと申しております、ついては今日の十二時すぎにお越しくださるよう、お待ちしております、と伝えてくるように言いつけた。ひそかな望みが思いがけなく早くかなえられたのにわたしは喜びもすれば、おどろきもした。しかしわたしはなにくわぬ顔をして……新しいネクタイと小さなフロックコートをつけるために、まず自分の部屋へ引き取った。家ではわたしはまだ短い上衣を着て、折り襟のカラーをしていたのである。嫌で嫌でならなかったのだが。
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四
傍屋《はなれ》の狭くて汚ない玄関へ、思わず全身を武者ぶるいさせながら入ってゆくと、白髪頭の老僕がわたしを迎えた。すすけた赤がね色の顔に、豚のようなぶあいそうな小さな目をして、額やこめかみには、これまでわたしが見たこともないような深いしわがきざまれていた。彼は、食べたあとの鰊《にしん》の背が一つのっている皿を運んでゆくところだったが、隣の部屋へ通じているドアを足でしめながら、鋭い声で言った。
「なんのご用です?」
「ザセーキナ公爵夫人はご在宅でしょうか?」とわたしはたずねた。
「ヴォニファーチイ!」とドアの向こうから、女のガラガラ声が呼んだ。
老僕は黙ったままわたしに背を向けたが、そのさい彼のおしきせのひどくすり切れた背中が丸見えになった。定紋《じょうもん》入りの赤ちゃけたボタンがそこに一つだけくっついているのが見えた。彼は皿を床の上に置くと、奥へ引っこんだ。
「警察へは行ってきたのかい?」とまた同じ女の声がした。老僕がなにやらぼそぼそ言った。「え? ……だれか来たって? ……」とまた声がして、「お隣のお坊っちゃん? じゃお通しして」
「どうぞ客間にお通りください」と老僕が再びわたしの前に現われて、床の上の皿を持ち上げながら言った。
わたしは身づくろいをなおして、『客間』なるものに入った。そこは小さな、あまりきれいとは言えない部屋で、貧弱な、まるで大急ぎで並べたてたような家具があった。窓ぎわの、片肘の折れた肘かけ椅子に、五十がらみの女が坐っていた。髪をむき出しにした器量の悪い女で、古びた緑色の服を着、頚《くび》のまわりにまだら色の毛糸の襟巻きをまいている。小さな黒い目がくい入るようにわたしを見つめた。
わたしはそばへよっておじぎをした。
「ザセーキナ公爵夫人でいらっしゃいますか?」
「わたしがザセーキナ公爵夫人です。あなたがVさんのご子息ですか?」
「その通りです。母の使いでまいりました」
「どうぞおかけになって。ヴォニファーチイ! わたしの鍵はどこだね、見なかったかい?」
わたしはザセーキナ夫人に彼女の手紙に対する母の返事を伝えた。彼女は太った赤い指で窓がまちを軽くたたきながら、わたしの話を聞いていた。そしてわたしの話が終わった時、もう一度わたしを見つめた。
「けっこうですとも。ぜひ伺いますわ」と、おしまいに彼女は言った。「あなたはまだずいぶんお若いのね! 失礼ですけど、おいくつ?」
「十六です」と思わず口ごもりながら、わたしは答えた。
公爵夫人は、なにかしら一ぱい書きこんだ、脂《あぶら》じみた書類をポケットから取り出すと、鼻の先へ持っていって、それを調べだした。
「いい年ごろですわ」と、椅子の上で身体をねじまげたり、もぞもぞ動いたりしながら彼女は急に言いだした。
「まあ、どうぞあなた、お楽になさいませ。うちでは気取りませんから」
『あんまり気取らなすぎる』とわたしは、思わず嫌悪の念をいだいて、彼女のぶざまなかっこうを眺めながら、心のなかで思った。
この瞬間、客間のもう一つのドアが急にぱっと開いて、しきいの上に姿を現わしたのは、前の日に庭で見かけた、あの娘だった。彼女は片手をあげたが、顔にはちらりとうす笑いがうかんだ。
「これがうちの娘ですの」と彼女を肘《ひじ》でさして、公爵夫人は言った。「ジーノチカ、お隣の、Vさんのご子息ですよ。失礼ですが、お名前は?」
「ウラジーミルです」と私は立ちあがって答えたが、興奮のあまり声が上ずっていた。
「ご父称は?」
「ペトローヴィチです」
「まあ! わたしの知り合いの警察署長さんもウラジーミル・ペトローヴィチといいましたの。ヴォニファーチイ! 鍵は探さなくてもいいよ。わたしのポケットにあったから」
若い娘は、そっと目を細め、首をややかしげて、相変わらずにやにやしながら、わたしの方を見ていた。
「ヴォルデマール(ウラジーミルのフランスふうの呼び方)さんにはもうお目にかかったわ」と彼女は言いだした。(彼女の声の銀のようなひびきを聞いて、わたしの背筋は甘い快さにぞくぞくした)「あなたをそうお呼びしてもよろしくって?」
「けっこうです」とわたしは舌をもつらせた。
「どこでなの?」と公爵夫人がきいた。
公爵令嬢は母に答えなかった。
「いま、おいそがしい?」と彼女は、わたしから目をそらさずに言った。
「いいえ、ちっとも」
「じゃ、毛糸をほどくのを手伝ってくださらない? こちらへ、わたしの部屋へいらっしゃい」
彼女はわたしにうなずいてみせて、客間を出て行った。わたしはそのあとに従った。
わたしたちの入った部屋は、家具もすこしはましで、ならべ方も工夫してあった。もっとも、その瞬間、わたしはほとんどなにも目にとまらなかった。わたしは夢のなかのように身体を運び、おろかしいほど緊張した幸福感を身体じゅうに感じたのだった。
公爵令嬢は腰をおろすと、赤い毛糸の束を取り出して、わたしに向かいの椅子をさして坐らせ、一生けんめい結び目を解きほぐしてから、それをわたしの両手にかけた。この間ずっと彼女は無言で、なんだか面白がってわざとゆっくりやっているようなようすだったし、わずかに開きかげんの唇には相変わらず明るい、ずるそうなうす笑いをうかべていた。彼女は折り曲げたカルタに毛糸を巻き始めたが、不意に、じつに明るいすばやいまなざしでわたしをパッと照らしたので、わたしは思わず目を伏せた。彼女は目を、たいていは半ば細めているのだったが、大きく一ぱいに見開くと……彼女の顔はすっかり変わってしまうのだった。まるで光が顔にみちあふれるかのようだった。
「あなたは昨日のわたしのことをどうお思いになって、ムッシュー・ヴォルデマール?」としばらくして彼女はきいた。「あなたはきっと、わたしのことをいけない女だと思ったでしょ?」
「わたしは……お嬢さん……わたしはなにも思いませんでした……なんでわたしがそんな……」とわたしは狼狽《ろうばい》して答えた。
「ねえ、よくって」と彼女は切り返した。「あなたはまだわたしをご存じないんだわ。わたしって変な女よ。つねに人から本当のことを言ってもらいたいの。あなたは十六だそうだけど、わたしは二十一よ。わたしの方がずっと年上でしょう、だからあなたはわたしに、いつも本当のことを言わなくちゃならないわ……そしてわたしの言うことを聞くの」と彼女はつけ加えた。「さあ、わたしの顔をまっすぐごらんなさい……どうしてあなたはわたしの顔を見ないの?」
わたしは一そううろたえたが、しかし目をあげて彼女を見た。彼女はにっこり笑った。これまでの笑いではなく、別の、好意的な微笑であった。
「わたしの顔をごらんなさい」とやさしく声を落として、彼女は言った。「見られてもわたしはいやじゃないの……わたしはあなたの顔が気に入ったわ。わたしたち、お友だちになれそうな気がするわ。ところで、わたしはあなたのお気に召して?」と彼女はぬけ目なく言いそえた。
「お嬢さん……」とわたしは言いかけた。
「第一に、わたしをジナイーダ・アレクサンドロヴナと呼んで下さい。第二に……子供のくせに……(と言って、彼女は言い直した)若い人のくせに……自分の感じたことをまっすぐ言わないなんて、いけないことだわ。大人ならかまわないけれど。わたし、あなたのお気に召して?」
彼女がわたしに対してこんなに率直に話しかけたことは、わたしにとってじつにうれしかった。とはいうものの、わたしはすこしむっとした。わたしは、彼女の相手が子供ではないことを見せてやりたかったので、できるだけぞんざいな、しかつめらしい顔つきをして、こう言ってやった。
「むろん、大そう気に入りましたよ、ジナイーダさん。ぼくはそれをかくすつもりはありません」
彼女はゆっくり句切りながら頭をふった。
「あなたには家庭教師がついているの?」と不意に彼女はきいた。
「いいえ、ぼくには、もうとっくに家庭教師なんかいません」
わたしはうそをついた。フランス人家庭教師と別れてから、まだ一月《ひとつき》とたっていなかったのである。
「へえ! あなたもうすっかり大人ってわけね」
彼女はわたしの指をかるく叩いた。
「手をまっすぐにしてらっしゃい……」そして彼女はせっせと毛糸をまきだした。
わたしは彼女が目をあげないのに乗じて、彼女をしげしげと眺めはじめた。はじめはこっそり盗み見していたが、それからだんだん大胆になっていった。彼女の顔は昨日よりも一そう美しく見えた。顔のなかの目鼻だちからなにもかもすべて、じつにととのっていて、利発そうで、愛らしかった。彼女は白い巻き上げカーテンのおりている窓に背を向けて坐っていた。日ざしはこのカーテンを通して部屋のなかにさしこみ、彼女のふさふさした金髪や、清らかな首筋や、なだらかな肩や、やさしい安らかな胸に、やわらかい光をそそいでいた。じっと彼女を見ているうちに……彼女はわたしにとって、どんなに愛すべき親しいものになってきたことであろう! ずっと前から彼女を知っているような気もすれば、彼女と知り合いになるまでは自分はなにひとつ知らず、なんの生き甲斐もなかったような気もしてきた……彼女は地味な色の、かなり着古した服をき、エプロンをしていたが、わたしはこの服やエプロンのひだの一つ一つをいそいそとなでてみたいような気がした。彼女の靴の先が洋服の下からのぞいていた。わたしはうやうやしくその靴にぬかずきたいとさえ思った……『こうしてぼくは彼女の前に坐っているのだ』とわたしは思った。『ぼくは彼女と知り合いになったのだ……ああ、なんとしあわせなんだろう!』わたしはうれしさのあまり、もうすこしで椅子から跳びおりるところだったが、両足をばたつかせただけでがまんした。おいしいおやつを食べている赤ん坊のように。
わたしは水中の魚のようにいい気持ちで、いつまでもこの部屋を出て行きたくない、この場所から動きたくないと思った。
彼女のまぶたがそっとあがって、またもやわたしの前で彼女の明るいひとみがやさしく輝きだした……そしてまたもや彼女はうす笑いをうかべた。
「どうしてあなたはそんなにわたしを見つめるの」と彼女はおもむろに言うと、指をたててわたしをおどかした。
わたしは赤くなった……『この人はなんでもわかるんだ、なんでも見えるんだ』という考えがわたしの頭のなかをかすめた。『まったくこの人にはなんだってわからなかったり、見えなかったりするはずはないんだ!』
不意に隣の部屋でなにか音がした……サーベルのガチャガチャいう音だった。
「ジーナ!」と公爵夫人が客間で呼んだ。「ベロヴゾーロフさんが仔猫を持ってきてくださったよ」
「仔猫!」とジナイーダは大きな声で言うと、威勢よく椅子から立ちあがり、毛糸の玉をわたしの膝の上にほうり出して、部屋の外へ駆け出した。
わたしも立ちあがって、毛糸の束と毛糸を窓がまちにのせると、そこを出て客間へ入ったが、たちまち茫然と立ちつくした。部屋のまん中に四つ足をふんばって縞《しま》の仔猫が一匹寝ていた。ジナイーダがその前に両膝をついて立ち、用心ぶかくその鼻面を持ちあげていた。公爵夫人のそばに、窓と窓の間の壁をほとんど全部ふさいで立っている、ブロンドの巻き毛の青年の姿がだんだんに見えてきた。赤ら顔でどんぐり目の軽騎兵の将校であった。
「なんておかしいんでしょう!」とジナイーダはなん度も言った。「目も灰色じゃなくって、緑だし、それに耳の大きいこと! ありがとう、ヴィークトル・エゴールイチさん! あなたはほんとにいい方だわ」
その軽騎兵は(彼がきのうわたしの見た青年たちの一人であることにわたしは気づいた)微笑して一礼したが、そのときに拍車をうち合わせて、サーベルの釣り輪をガチャリといわせた。
「あなたがきのう、大きな耳をした縞の仔猫がほしいとおっしゃいましたので……手に入れてまいりました。お言葉は……おきて同然ですから」と言って彼はまた一礼した。
仔猫はかぼそいなき声をたてると、床をかぎ始めた。
「おなかがすいてるんだわ!」とジナイーダは叫んだ。「ヴォニファーチイ! ソーニャ! 牛乳を持ってきて」
古ぼけた黄色い服を着て、色のさめたスカーフを頸《くび》にまいた小間使いが、牛乳の入った皿を手に入ってきて、それを仔猫の前に置いた。仔猫は身ぶるいして、目を細め、ピチャピチャなめだした。
「まあ、バラ色の小さな舌」とジナイーダが、頭が床につきそうになるまで身をかがめ、横合いから猫の鼻の下をのぞきこみながら言った。
仔猫は満腹すると、すまして脚をぴくぴく動かしながら、のどを鳴らし始めた。ジナイーダは立ちあがって、小間使いの方をふり向くと、冷淡に「仔猫をあっちへつれてって」と言った。
「仔猫のごほうびに……お手を」と軽騎兵は言って、にやりと笑いながら、新調の軍服にぴったりとくるんだたくましい全身を、反り返らせた。
「両方よ」とジナイーダは答えて彼の方に両手をさしのべた。彼が彼女の手にキスしているあいだ、彼女は肩越しにわたしを見ていた。
わたしは一つところにじっと立ったまま……笑っていいものやら、なにか言ったものやら、それともこのまま黙っていていいものやら、わからなかった。とつぜん、開け放しになっている控え室のドアの向こうに、うちの下男のフョードルが立っているのが目に入った。彼はわたしに合図をしていた。わたしは上《うわ》の空でそちらに向かった。
「なんだい?」とわたしはきいた。
「お母さまがお呼びでございます」と彼はひそひそ声で言った。「すぐご返事をいただいてお帰りにならないので、怒っていらっしゃいます」
「そんなに長居したかい?」
「一時間以上になります」
「一時間以上だって!」と思わずわたしはおうむ返しに言って、客間へ引き返すと、おじぎをしたり、足を引きずったりし始めた。
「どこへいらっしゃるの?」と軽騎兵のうしろからこちらを見て、公爵令嬢がきいた。
「家へ帰らなくちゃなりません。ではこうお伝えいたします」とわたしは老夫人に向かって、言いそえた。「一時すぎにお見えになりますって」
「そう申しあげてくださいな、あなた」
公爵夫人があわただしく嗅ぎタバコ入れを取り出して、うるさい音をたててかぎ始めたので、わたしは身震いしたほどだった。
「そう申しあげてください」と、うるんだ目をしばたたいて、うめきながら、彼女は言った。
わたしはもう一度おじぎをすると、くるりと向きをかえ、背中になんとなく照れくささを感じながら部屋を出た。それは自分が背後から人に見られているとわかっているときに、ごく若い人が感じる、あの気持ちである。
「よくって、ムッシュー・ヴォルデマール、また遊びにいらっしゃいね」とジナイーダは叫ぶと、またもや大きな声で笑いだした。『なんだっていつも笑っているんだろう?』とわたしはフョードルをお供につれて家へ帰る道すがら考えた。フョードルはひと言もわたしに話しかけずに、不服そうにあとからついてきた。母はわたしに小言を言い、公爵夫人のところで、あんなに。いつまでもなにをしていたんだろう、といぶかった。わたしは母になんとも答えずに自分の部屋へ引き取った。わたしは急に、ひどく悲しくなった……わたしはこらえて、泣くまいとした……わたしはあの軽騎兵に嫉妬したのである。
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五
公爵夫人は約束通り母を訪問したが、母の気に入らなかった。わたしは二人が会ったその場に居合わさなかったけれども、食事のときに母が父に物語ったところでは、あのザセーキナ公爵夫人は「いたって俗悪な女」らしいということであった。彼女は自分のためにセルギイ公爵に運動してくれるようにとせがんで、母をうんざりさせたという。いつでも、なにかしら訴訟や事件を……それも des vilaines affaires d'argent (いやしい金銭問題)で……起こしているのだから、大へんな訴訟きちがいにちがいない、ということだった。けれども母はそれにつけ加えて、公爵夫人を娘さんといっしょに明日の夕食に招いた(『娘さんといっしょ』という言葉を聞くと、わたしは鼻を皿の中につっこまんばかりになった)と言った。その理由は、とにかく隣家のことだし、名のある人だからというのである。これに対して父は母に、その奥さんがどんな人であるか、今やっと思いだした、と言った。それによれば父は若いころ、亡くなったザセーキン公爵を知っていた。立派な教育はうけていたが、つまらない、くだらん男だった。長いことパリに住んでいたからというので、社交界では『le Parisien(パリっ子)』と呼ばれていた。大した金持ちだったけれど、カルタで全財産をすってしまい……なぜだかわからないが、どうやら金が目当てで……それにしてもほかに人がいたろうに(と父は言い足して冷ややかに微笑した)……どこかの下級官吏の娘と結婚したが、結婚後投機に手を出して、完全に破産してしまった、と。
「お金を貸してくれなどと言いださなければいいけど」と母が言った。
「そいつは大いにあり得ることだな」と落ちつきはらって父が言った。「フランス語は話せるのかね?」
「下手くそ」
「ふん。まあ、そんなことはどうでもいいけれど、さっき娘さんも呼んだ、と言ったようだったね。だれか言ってたが、大そうかわいらしい、教育のある娘だそうだ」
「へえ! じゃ母親に似なかったのね」
「父親にもさ」と父が答えた。「あの男も教育はあったが、おろか者だったからね」
母はため息をついて考えこんだ。父は口をつぐんだ。この会話の間じゅう、わたしはひどく照れくさかった。
夕食後、わたしは庭へ出たが、鉄砲は持たなかった。わたしは『ザセーキン家の庭』には近づくまいと心に誓っていたが、打ち勝ちがたい力がわたしをそこへひきつけるのだった……しかも、それがむだではなかった。垣根のそばへ行かないうちに、わたしはジナイーダの姿を認めた。こんどは彼女ひとりだった。彼女は小型の本を手にして、ゆっくりと小道を歩いていた。彼女はわたしに気づかなかった。
わたしはもうすこしで彼女をやりすごすところだったが、急に気がついて咳ばらいをした。彼女はふりむいたが、そのまま立ちどまらずに、円い麦藁《むぎわら》帽子についている幅広の青いリボンを片手で払いのけると、わたしを見つめ、そっと微笑をもらすと、またもや本に目を向けた。
わたしは帽子をとって、しばらくその場でもじもじしたのち、『Que suis- je pour elle?(彼女にとってぼくはなんだろう?)』と(なぜだか知らないが)フランス語で考えた。
聞き覚えのある足音が背後でひびいた。わたしはふり返った……例の速い軽快な足どりで父がこっちへ歩いてくるのだった。
「あれが公爵令嬢なの?」彼はわたしにきいた。
「お嬢さんです」
「お前、あの人を知っているのかい?」
「今朝、公爵夫人の家であの人に会いました」
父は立ちどまった。そしてくるりと回れ右をして、引き返した。ジナイーダのそばまで行くと、彼はていねいに会釈をした。彼女も彼に会釈をしたが、顔にいくぶん驚きの色をうかべて、本を下へおろした。わたしには彼女が父のうしろ姿を見送っているのが見えた。父の服装はつねにすこぶるスマートで、個性があり、しかもさっぱりしていた。けれどもこのときほど父の姿がわたしにすんなりと恰好よく見えたこともなかったし、グレーの帽子がわずかにうすくなりかけた巻き毛の上に、このときほどすてきにマッチしていたこともなかった。
わたしはジナイーダの方へ行こうと思ったが、彼女はわたしなどには目もくれず、ふたたび本を持ちあげると、向こうへ行ってしまった。
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六
その晩ひとばんじゅうとあくる朝、わたしはなんだか沈んだ気持ちですごした。忘れもしない、わたしは勉強しようと思ってカイダーノフを読み始めた。けれども、この有名な教科書の、間隔を広くとった行やページがむなしくわたしの目の前をちらつくだけであった。立てつづけに十ぺんもわたしは、『ジュリアス・シーザーは武勲をたてた』という文句を読んだが、なんにも頭に入らず、本をほうり出してしまった。夕食の前にわたしはまたポマードをぬりたくって、またフロックコートとネクタイをつけた。
「それ、どういうつもり?」と母がたずねた。「お前はまだ大学生じゃないし、試験にうかるかどうかだってわかりやしない。それにあの短い上衣だって、こないだ作ったばかりじゃないの? もったいないわ!」
「お客さまがくるから」とわたしはほとんど必死になってささやいた。
「ばかばかしい! あれがお客さまなもんですか!」
言う通りにするよりほかなかった。わたしはフロックコートを脱いで、短い上衣に着かえたが、ネクタイはとらなかった。公爵夫人は娘をつれて夕食の三十分前にやってきた。公爵夫人はわたしの知っている緑色の服の上に黄色いショールを羽織り、燃えるような赤いリボンのついた流行おくれの室内帽をかぶっていた。彼女はすぐに自分の手形の話を始めて、ため息をついたり、自分の貧乏を訴えたり、『せがんだり』したが、すこしも気取らなかった。家にいるときのように騒々《そうぞう》しく嗅ぎタバコをかぎ、椅子の上で気ままに身体をねじまげ、もぞもぞ身動きをした。自分が公爵夫人である、などということは、てんで念頭にうかばないようだった。そのかわりジナイーダは大そうきびしく、ほとんど傲慢《ごうまん》なくらいにふるまって、本当に公爵令嬢らしかった。彼女の顔には冷ややかな動きのなさと尊大さが現われていた……それでわたしには、彼女が別人のように見えた。あのまなざしも、あの微笑も見当たらなかった。とはいえ、この新しい姿でも彼女は、わたしにはじつに美しく見えた。彼女の着ているのはうすい紗《しゃ》の服で、うす青い唐草模様がついていた。髪は長い房をなして両頬に沿って垂れていた……イギリスふうに。この髪かたちは彼女の顔の冷たい表情にぴったりだった。父は食事のあいだ、彼女の横に座を占め、持ちまえの優美な、落ちつきはらったいんぎんな態度で令嬢のお相手をしていた。彼は時たま彼女の方をちらりと見たし……彼女も彼の方を時たま見やるのだったが、その目つきはふしぎな、ほとんど敵意をふくんだものであった。二人の会話はフランス語でおこなわれた。わたしは、ジナイーダの発音のきれいなのにびっくりしたのを、今でも覚えている。公爵夫人は食事のときにも、相変わらずすこしも遠慮することなく、さかんに食べては、料理をほめた。母は彼女にいささかうんざりしたらしく、返事をするにもなんだかゆううつで気乗りしないようすだった。父は時たまかすかに眉をひそめた。ジナイーダもやはり母の気に入らなかった。
「なんだか高慢な娘じゃないの」と、彼女はつぎの日にそう言った。「考えても見なさい……お高くかまえることでもあるっていうの……avec sa mine de grisette!(あんなグリゼット=パリの下町娘。はすっぱな職業婦人=みたいな顔をして!)」
「あんたはグリゼットなんか見たことがないだろうに」と父が彼女に言った。
「ええ、ありがたいことに!」
「むろん、ありがたいことさ……でもそんなら、グリゼットがどうだのって言えないはずだが?」
わたしにはジナイーダはてんで注意を向けようともしなかった。食事がすむとまもなく、公爵夫人は暇乞いをはじめた。
「どうぞ今後ともお引き立てをおねがいいたしますよ。マーリヤ・ニコラエヴナさんにピョートル・ワシーリイチさん」と彼女は歌うように声をひっぱって、母と父に言った。「どうしようもありません! いい時もありましたが、今じゃ昔の語り草です。このわたしだって奥方さまといえば聞こえはいいけれど」と嫌な笑い声をたてて彼女は言いそえた。「食べるものもないのに、名誉どころじゃありませんもの」
父はうやうやしく一礼すると彼女を玄関のドアまで送っていった。わたしはつんつるてんの短い上衣を着てその場に立ったまま、まるで死刑を宣告されたみたいにじっと床をみつめていた。わたしに対するジナイーダの冷たい態度を見て、わたしはすっかり絶望してしまったのだ。けれども、彼女がわたしのそばを通りすぎるときに、早口で、目にもとのようなやさしい表情をたたえて、わたしにつぎのようにささやいたとき、わたしはどんなに驚いたことだろう。
「今晩八時にうちへいらっしゃい、よくって、きっとよ……」
わたしはびっくりして両手をひろげた……しかし彼女は白いスカーフを頭にかぶるとさっさと向こうへ行ってしまった。
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七
きっかり八時に、わたしはフロックコートをつけ、髪を頭の上に小高く盛りあげて、公爵夫人の住んでいる傍屋《はなれ》の控え室に入っていった。老僕は無愛想にわたしを見て、しぶしぶ腰かけから立ちあがった。客間では、陽気な人声が聞こえていた。わたしはドアを開けたが、びっくりして後じさりした。部屋のまん中では、椅子の上に公爵令嬢が立っていて、男の帽子を手にささげ持っている。そのまわりには五人の男がひしめき合っていた。彼らはきそって帽子のなかに手をつっこもうとするのだが、彼女はそれを上に持ちあげて、強くそれをゆすぶっていた。わたしに気がつくと彼女は大きな声で、
「待って、待って! 新しいお客さんよ、あの人にもくじ札《ふだ》をあげなくちゃ」と言うと、ひらりと椅子から跳びおりて、わたしのフロックコートの袖の折り返しをつかまえた。
「行きましょうよ」と彼女は言った。「どうしてつっ立っているの? Messieurs(みなさん)、ご紹介いたします。こちらムッシュー・ヴォルデマール、お隣の坊っちゃん。こちらは」とわたしの方を向いて順に客をさしながら、「マレーフスキイ伯爵、お医者のルーシンさん、詩人のマイダーノフさん、退職大尉のニルマーツキイさん、それにベロヴゾーロフさん。ベロヴゾーロフさんはもうご存じね。では、よろしくね」
わたしはすっかりうろたえてしまって、だれにもおじぎさえしなかった。医者のルーシンというのは、この前、庭でわたしに、こっぴどく恥をかかせた、あの浅黒い男のことだとわかったが、あとのみんなは初対面だった。
「伯爵!」とジナイーダは言葉をつづけた。「ムッシュー・ヴォルデマールにもくじ札を書いてあげてちょうだい」
「それは不公平だな」とすこしばかりポーランドなまりのあるアクセントで、伯爵は反対した。すこぶる美貌の、こった身なりをした栗色の髪の男で、表情豊かな褐色の目に、白くて細い小さな鼻をもち、小さな口の上に、ちょびひげを生やしていた。「この人は罰金遊びに入っていなかったんですから」
「不公平ですよ」と、ベロヴゾーロフと退職大尉と呼ばれたもう一人の紳士も相槌《あいづち》をうった。後者は四十がらみの、みっともないほどあばた面の男で、黒んぼのようにちぢれ毛で、猫背で、がに股で、肩章のない軍服を着て、ボタンをはずしている。
「札を書いてあげなさいってば」と公爵令嬢はくり返した。「暴動を起こすつもりなの? ムッシュー・ヴォルデマールははじめてですから、今日は特別扱いなの。ぶつぶつ言わないで、書いてあげて、わたしがそうしたいんだから」
伯爵は肩をすくめたが、おとなしく一礼すると、宝石入りの指環で飾りたてた白い手にペンを取り、小さな紙きれを裂き取って、それに書きだした。
「せめてヴォルデマール氏に事のしだいをご説明申しまあげましょう」と嘲《あざけ》るような声でルーシンが始めた。「さもないと、すっかりまごついておられるようですから。われわれはね、君、罰金遊びをしているのです。公爵令嬢が罰金を払うことになったので、幸運のくじを引いた人が令嬢の手にキスする権利を得るってわけです。わたしの申しあげたことがわかりましたか?」
わたしはちらりと彼の顔を見ただけで、相変わらずぼんやりとつったっていたが、令嬢はふたたび椅子の上に跳びのると、ふたたび帽子をゆすぶり始めた。みんながその方に手を伸ばした……わたしもみんなに従った。
「マイダーノフさん」と令嬢は背の高い青年に向かって言った。これは痩せこけた顔の、小さな目をしょぼつかせて、黒い髪の毛をものすごく長くのばした男である。「あなたは詩人ですから気前のいいところをみせて、あなたのくじをムッシュー・ヴォルデマールに譲ってあげなければなりません。そうすればこの人のチャンスが一でなく、二になりますから」
しかしマイダーノフは首を横に振って、長髪をゆすりあげた。わたしは一番あとから帽子のなかに手をつっこんで、くじをとり、開けてみた……ああ! その札《ふだ》に『キス』と書いてあるのを見たとき、わたしはどんなに驚いたことだろう!
「キスだ!」と思わずわたしは大きな声で言った。
「ブラヴォー! この人に当たったわ」と令嬢がすかさず応じた。「嬉しいわ!」彼女は椅子からおりて、じつに晴れやかな甘い目つきでじっとわたしの目をのぞきこんだので、わたしの心臓は躍りあがった。「あなた嬉しくって?」と彼女はわたしにきいた。
「ぼく?……」とわたしは口ごもった。
「その札をぼくに売ってくれないか」と、とつぜんわたしのすぐ上でベロヴゾーロフが、がらがら声で言った。「百ルーブリ出すぜ」
わたしがひどい憤激のまなざしで軽騎兵をじろりと見てやったものだから、ジナイーダは手をたたき、ルーシンは「でかした!」と絶叫した。
「ところで」とルーシンはつづけた。「わたしは式部官として、万事規則通りに行なわれるように監督しなければなりません。ムッシュー・ヴォルデマール、片ひざをつきなさい。そういうきまりなのです」
ジナイーダはわたしの前に立ち、わたしを一そうよく見ようとするかのようにすこし首を横にかしげて、もったいぶってわたしに手をさしのべた。わたしは目のなかがくらくらっとした。片ひざをつこうとしたけれど、両ひざをついてしまった……そしてすこぶるぎごちなくジナイーダの指に唇をふれたので、彼女の爪で自分の鼻先をひっかいてしまったほどである。
「よろしい!」とルーシンは叫んで、わたしを助け起こした。
罰金遊びは続けられた。ジナイーダは私を自分のそばに坐らせた。彼女はじつにいろいろな罰金を考えだすのであった! そのうちに彼女は『立像』をやることになった……すると彼女は自分の台座に醜男《ぶおとこ》のニルマーツキイを選びだして、うつ伏せに寝るように命じ、おまけに顔を胸の中に埋めさせた。笑い声は片ときもたえなかった。やかましい地主屋敷で育って、ひとりぼっちの真面目な教育を受けてきた少年のわたしは、こうしたどえらいさわぎや、無遠慮な、ほとんど狂暴といっていいはしゃぎっぷりや、見ず知らずの人たちとのはじめての交際のため、たちまち頭にきてしまった。わたしは酒を飲んだように酔っぱらってしまった。わたしがだれよりも大きな声で笑ったり、しゃべったりし始めたので、相談のために呼びよせた、イヴェールスキイ門あたりからきた小役人と隣の部屋で話しこんでいた老公爵夫人までが、わざわざわたしを見に出てきたほどである。しかし、わたしは幸福感でいっぱいだったので、人にあざ笑われようが、白い目で見られようが、いわゆる馬耳東風であって、いっこう気にかけなかった。ジナイーダはわたしをひいきにして、自分のそばからはなさなかった。ある罰金でわたしは彼女と坐り、一つ絹のスカーフをかぶっていなければならないことになった。わたしは彼女に「自分の秘密」を打ち明けなければならないのだった。わたしたち二人の頭がとつぜん、息苦しい、半透明な、よい匂いのするもやに包まれたかと思うと、このもやのなかで、彼女の目がすぐそばで柔和に光り、開いた唇が熱っぽく息づき、そのうちには歯も見えてきて、ほつれ毛がわたしをくすぐり、なやませたのを、わたしは覚えている。わたしは黙っていた。彼女は秘密めいたずるそうな微笑をうかべていたが、とうとう、『ねえ、どうしたの?』とわたしにささやいた。わたしは赤くなって笑っているだけで、顔をそむけて、じっと息を殺していた。罰金ごっこにあきると……縄《なわ》まわしが始まった。ああ! わたしがぼんやりしていて彼女からしたたかピシャリと指をうたれたとき、わたしはどんなに強烈なよろこびを感じたことであろう! そのあとでわたしがわざとぼんやりしているふりをしていても、彼女はわたしをじらして、さし出している手にふれようともしないのだ!
わたしたちがその晩ひと晩のうちにしたことは、まだまだそれだけではなかった。ピアノもひけば、歌もうたい、踊りもおどれば、ジプシーの群れのまねもした。ニルマーツキイは熊の皮を着せられ、塩水を飲まされた。マレーフスキイ伯爵はトランプの手品を披露したあげく、カードをよく切ってから四人に配ったところ、切り札はみんな自分のところに出た。そこでルーシンは『彼に祝辞を呈する光栄』を有した。マイダーノフは自作の叙事詩『人殺し』の断片を朗読した(ちょうどロマンチシズムの全盛期のことだった)。彼はその詩を、黒い表紙に血のように赤い色の表題をつけて出版するつもりだと言った。イヴェールスキイ門からやってきた小役人のひざの上から帽子をそっとくすねてきて、それを受け出すのにコサック踊りをやらせた。ヴォニファーチイ老人は女の室内帽をかぶせられ、公爵令嬢は男の帽子をかぶった……とても一々数えつくすことはできない。ただひとりベロヴゾーロフだけは眉をしかめ、怒ったような顔をして、とかく部屋の隅に引っこみがちになった……時々、目を血走らせて、まっ赤になり、今にもわれわれ一同に躍りかかってわれわれを、こっぱのように、四方八方に投げ散らすのではないかと思われた。しかし令嬢がちらりと彼を見て、指でおどすと、彼はふたたび隅っこへ隠れるのだった。
わたしたちもとうとう、へとへとになってしまった。公爵夫人は、自分の言い草によると、そのようなことがまんざら嫌いな方じゃなかったが……どんなにさわごうが彼女はびくともしなかった……さすがにくたびれてひと休みしたいと言い出した。夜の十一時すぎに夜食が出たが、それは古い、ひからびたチーズ一切れと、ハムをきざみこんだおそまつな冷えた肉まんじゅうであった。それがわたしには、ほかのどんな肉まんじゅうよりもおいしく思われたのだった。ぶどう酒は一本きりで、それもあやしげな代物《しろもの》だった。黒いびんでくびのところがふくれあがっていたし、中身ときたらバラ色のペンキの匂いがした。もっとも、だれ一人それを飲んだものはいなかったが。ぐったりするほど疲れて、幸福な気持ちになって、わたしは傍屋を出た。別れるときジナイーダは強くわたしの手を握りしめ、またも謎めいた微笑をうかべた。
夜気が重くしっとりとわたしのほてった顔に吹きつけた。雷が来そうな気配だった。黒い雨雲がわきだして空を這《は》い、しきりにそのもやもやした輪郭を変えていた。そよ風が暗い木立ちのなかでざわざわと身ぶるいをし、どこか地平線のはるかかなたでは、雷が、まるでひとりごとのように、腹だたしげなにぶい声でぶつぶつ言っていた。
裏口からこっそりわたしは自分の部屋にしのびこんだ。じいやが床の上に寝ていたので、わたしはまたぎこさなければならなかった。彼は目をさまして、わたしだとわかると、母がまたわたしに腹を立てて、またもや使いを出して呼びにやろうとしたのだが、父にとめられてやめたのだ、と報告した。(わたしは母に挨拶せずに、また母の祝福をうけずに床《とこ》に就いたことはこれまでに一度だってなかった)とはいえ、今さらどうしようもなかった!
わたしはじいやに、自分で着がえをして寝るから、と言って……ろうそくを消した。しかし着がえもしなければ、寝もしなかった。
わたしは椅子に腰をおろすと、魔法にかかったように、いつまでも坐っていた。わたしの感じたことは、じつに新しい、じつに楽しいものだった……わたしはわずかにあたりを見まわしながら、身動きもせずに、ゆっくりと息をついていた。ただ時おり声を立てずに思いだし笑いをした。あるいはまた、『ぼくは恋をしているのだ、あれがそうなんだ、あれが恋なのだ』と思っては、胸の底がひやりとするのだった。ジナイーダの顔が目の前の闇の中を静かにただよっていた……ただよっているだけで、通りすぎなかった。彼女の唇はやはり謎の微笑をうかべ、目は少し横合いから問いかけるように、もの思わしげに、やさしくわたしを見ていた……わたしが彼女と別れた瞬間のように。やっとわたしは立ちあがって、爪先立ちでベッドのそばにより、着がえをせずに、そっと頭を枕の上にのせた。激しい動作をすると、わたしの身うちに一ぱいになっているものがびっくりしやしないかと、恐れるような気持ちで……
わたしは横になったが、目もとじないでいた。まもなくわたしはなにかしら弱い照り返しがたえずわたしの部屋のなかにさしこんでは消えるのに気づいた……わたしは少し起き上がって窓の外を眺めた。窓の桟《さん》が、神秘めいてほの白く見えるガラスから、くっきりと浮き出るのだった。
「雷雨だな」とわたしは思った。本当に雷雨だったが、しかし、ずっと遠いところを通るので、雷鳴も聞こえないほどだった。ただ空を、光の鈍い、長く尾をひいた、まるで枝を出したような稲妻がたえず光るだけであった。いや、光るというよりはむしろ、瀕死の鳥の翼のように、わななきふるえているのであった。わたしは起きあがって、窓べにより、朝までそこに立ちつくした! ……稲妻は片ときもやまなかった。俗に言う、「雀の夜」(暗い荒れた雷雨の夜のこと。巣中の雀を驚かすため、そう言う)であった。わたしはもの言わぬ砂原や、ネスクーシヌイ公園の黒々とした森かげや、遠くの建物の黄色っぽい正面などをじっと見つめていた。遠くの建物もまた、稲妻が弱い閃光を発するたびごとに身ぶるいするように見えた……わたしはじっと見つめたまま……目を離すことができなかった。あの無言の稲妻、あのひかえめな閃きが、わたしの身うちでもひらめいている無言の、ひそかな衝動と相応じているように思われるのだった。夜が明け始めた。朝焼けのためところどころに真紅のまだらが現われた。日の出が近づくにつれて稲妻はだんだん淡くなり、短くなっていった。わななきはだんだん間遠になり、とうとう消えてしまった。始まった一日の、ものみなの夢を覚ます、疑いもない光にひたされて……
わたしの胸のなかでも稲妻は消えてしまった。わたしは大きな疲労と平安を感じた……けれどもジナイーダのおもかげは相変わらず凱歌を奏しながら、わたしの魂の上を飛び回っていた。ただそれ自体、つまりそのおもかげも、おだやかになったように思われた。沼地の草むらから飛び去った白鳥のように、そのおもかげもまた、自分を取り巻いているほかの醜いものかげから離れ去ったのである。わたしはうとうとと寝入りながら、もう一度、信頼をこめた崇拝の念とともに、そのおもかげにすがりついた……
おお、めざめた魂のおとなしやかな情感、はたまたやさしいひびき、温良、静もり、恋のはじめての感動のとろけるようなよろこびよ……そうした一切のものはどこへ行ってしまったのだろうか、どこへ行ってしまったのだろう?
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八
翌朝、お茶におりて行くと、母はわたしを叱りつけた上……もっとも思ったほどのことはなかったが……、ゆうべどんなふうにすごしたかを話させた。わたしは、多くの細かな点をはぶいて、全体にすこぶる無邪気な感じを与えるようにつとめながら、言葉少なく母に答えた。
「とにかくあの人たちは、comme il faut(まともな連中)じゃないんだから」と母は言った。「あんなところへ出入りすることはありません、その代わりに試験の準備だの、勉強だのをするんですよ」
わたしの勉強に対する母の配慮が、せいぜいこの数語につきるものであることを知っていたので、わたしは口答えする必要を認めなかった。けれどもお茶がすむと父はわたしの腕をとって、庭へ散歩に連れ出し、ザセーキン家でわたしの見たことをなにもかもわたしに物語らせたのである。
父はわたしに奇妙な影響力を持っていた……またわれわれ父子の関係にしても奇妙なものだった。父はわたしの教育にほとんど関心を持たなかったが、しかしわたしを侮辱することはついぞしたことがなかった。彼はわたしの自由を尊重していた……それどころか、もしそう言ってよければ、わたしに対していんぎんでさえあった……ただ彼はわたしを自分に近づけなかったのである。わたしは父を愛し、父に見とれ、父を男性の模範だと思っていた……だから、ああ、もしもわたしが、たえず自分をおしのけようとする父の手を感じなかったならば、どんなに熱烈に父になついたことであろう! そのかわり、父さえその気になれば、彼はほとんど一瞬にして、たった一言《ひとこと》、一動作でもって、無限の信頼感をわたしに呼びさますことができたのだ。わたしはすっかり心底を打ち明けて……もののわかる親友や、寛容な先生とのように、父とおしゃべりをしている……ところが、そのうちにいきなり父はわたしをうっちゃるのだった……そして彼の手はふたたびわたしを押しのける……愛想よく、おだやかにではあるが、しかし押しのけるのである。
父も時にはうきうきした気分になることがあって、そんな時にはわたしを相手にはしゃいだり、ふざけたりすることをいとわなかった。(彼ははげしい肉体の運動ならなんでも好きだった)一度……たった一度きり! ……父はひじょうにわたしをかわいがってくれて、わたしはもうすこしで泣きだしそうになったことがある……しかし父のうきうきした気分も、やさしさも、跡かたもなく消えうせるのだった……そして二人の間におこったことは、いっこうに将来への期待をわたしに与えなかった……まるでわたしは夢を見たようなものだった。よくあったことだが、父の賢こそうな、美しい、晴れやかな顔をつくづく見ていると……わたしの胸はときめき、身も心も父に引きよせられそうになるのだった……と、父はわたしの気持ちを察したかのように通りすがりにわたしの頬を軽くたたいて……向こうへ行ってしまうか、なにかを始めるか、とつぜんすっかり冷たくなってしまうので(彼だけが冷たくなり得たように)、わたしもたちまち縮んでしまい、同じように冷たくなるのだった。ごくまれに父がわたしに対して発作的に好意を示すことがあっても、それはけっして、口にこそ出しては言わないが、一目でそれとわかるわたしの哀願によってひきおこされたものではなかった。それはつねに不意におこるのだった。
後年、父の性格をいろいろと考えて見て、わたしの達した結論は、父はわたしどころじゃなかったし、家庭生活どころじゃなかった、ということである。彼は別のものを愛していて、その別のものを心ゆくまでいとしんでいたのである。「取れるものを自分で取れ、他人《ひと》の手にゆだねるな、自分自身のものであること……人生の結論はそこにあるのだ」と父はあるときわたしに言ったことがある。また別のときにわたしは若き民主主義者として、父の面前でとうとうと自由論を始めたことがある(父はその日『やさし』かった。そんなときは父を相手になにを話してもよかった)。
「自由か」と彼は言った。「ところでお前は、人間に自由を与えるものはなにか、知っているかい?」
「なんです?」
「意志、自分自身の意志だよ。意志があれば、権力だって得られる。権力ってのは自由にまさるものなのだ。欲することができるなら……自由にもなれるし、人の上に立つこともできる」
父はなによりもまず、なににもまして、生きることを欲した……そして生きた……ことによると父は、自分があまり長く人生の『妙諦』を利用できないことを予感していたのかもしれない。父は四十二で死んだのである。
わたしはザセーキン家を訪問したときのことを詳しく父に話して聞かせた。父はベンチに腰かけて、鞭の先で砂の上になにか書きながら、半ば注意ぶかく、半ばぼんやりしたようすでわたしの話を聞いていた。父はときどき笑い声をたてて、なんだかこう、晴れやかな、面白いといった顔つきでわたしをちらちらと見て、短い質問を発したり、反対意見をのべたりしてわたしをけしかけた。わたしははじめジナイーダの名前を口にする勇気さえなかったが、がまんできなくなって、彼女のことをほめだした。父は相変わらず笑いつづけた。それから父はふと考えこみ、のびをして立ち上がった。
わたしは、父が家を出るときに、馬に鞍をおくようにと命じたことを思い出した。父は馬術の名人で、レーリ氏などよりずっと前から、荒馬を乗り馴らす術を心得ていた。
「いっしょに行ってもいい、お父さん?」わたしは父にきいた。
「いや」と父は言った。その顔はいつもの冷ややかな、気のない愛想をたたえた表情になっていた。「行きたかったら、一人で行くんだな。御者に、わたしは行かないからと言ってくれ」
父はくるりとわたしに背を向けて、足早に立ち去った。わたしが目で父を追っていると……門の外へ姿を消した。父の帽子が垣根ぞいに動いてゆくのが見える。父はザセーキン家へ入っていった。
父がザセーキン家にいたのは一時間たらずであったが、すぐに町へ出かけて、夕方近くになってやっと帰ってきた。
夕食のあとで今度はわたしがザセーキン家へ行った。客間には老公爵夫人しかいなかった。わたしを見ると夫人は室内帽をかぶっている頭を編み棒でかき、だしぬけに、請願書を清書してもらえないか、ときいた。
「おやすいご用です」とわたしは答えて、椅子の端に腰をおろした。
「ただ、字をなるべく大きく書くように気をつけてくださいね」と夫人は、ごてごて書きこんである紙を一枚、わたしに手渡しながら言った。「今日じゅうにできませんかね、坊っちゃん?」
「今日じゅうにやりますとも」
隣の部屋のドアがかすかにあいて……そのすき間にジナイーダの顔が現われた……蒼白い、もの思わしげな顔をして、髪をむぞうさに後ろにやってある。大きな冷たい目でわたしをじっと見て、静かにドアをしめた。
「ジーナ、ねえジーナー」と老夫人が呼んだ。
ジナイーダは返事をしなかった。わたしは老夫人の頼みを家へ持って帰り、一晩じゅうそれにかかりきりだった。
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九
わたしの『情熱』はその日から始まった。忘れもせぬ、そのときわたしは、はじめて就職した人がきっと感じるたぐいの気持ちを味わったのだ。つまりわたしはもはやただのうら若い少年ではなくなったのだ。わたしは恋する人となった。今わたしは、その日からわたしの情熱が始まったと言ったが、それにつけ加えて、わたしのなやみもその日から始まったと言ってもよい。ジナイーダがいないとわたしは気がめいった。なに一つ頭に浮かばず、なにごとも手につかず、毎日々々、明けても暮れても、ひたすら彼女のことを思った……わたしは気がめいった……しかし彼女がいたところで気が楽にはならなかった。わたしは嫉妬し、自分のつまらなさかげんにいやけがさし、ばからしくもふくれっ面《つら》をして、ばからしくも卑屈な態度をとった……にもかかわらず、どうにもならない力がわたしを彼女の方にひきつけるのだった……そしてそのたびごとにわたしは、幸福のおののきに身をふるわせて彼女の部屋のしきいをまたぐのだった。ジナイーダはすぐに、わたしが彼女に恋していることを見ぬいたし、わたしもそれを隠そうとしなかった。彼女はわたしの情熱を面白がって、わたしをばかにしたり、甘やかしたり、いじめたりした。自分が、他人《ひと》の最大の喜びや、底知れぬ悲しみの唯一の源であり、わがまま勝手で、無責任なその原因であることは快いものであるが、わたしはジナイーダの手のなかにある柔らかい蝋のようなものだった。とはいえ、彼女に恋しているのはわたしだけではなかった。彼女の家を訪れる男性はことごとく、彼女に夢中だったし、彼女の方ではみんなを自分の足もとにつなぎとめていた。彼女は男たちに希望を持たせたり、不安をいだかせたり、そのときの気分しだいできりきり舞いをさせては、悦に入っていた(彼女はそれを、人と人をぶっつける、と呼んでいた)。ところが男どもはそれに抵抗するどころか、喜んで彼女の言いなりになっていた。溌剌《はつらつ》としていて美しい彼女という人間のなかで、ずるさとのんきさ、技巧と素朴、しとやかさとおてんば、といったものが、まじりあっていて、一種独特の魅力をなしていた。彼女の言うこと、なすことすべての上に、彼女の一つ一つの動作の上に、微妙《デリケート》な、軽やかな魅力がただよっており、この人独自の演技する力がすべてのものに現われていた。顔つきもたえず変わって、やはり演技していた。それはほとんど同時に冷淡も、もの思いも、情熱もあらわした。風のある晴れた日の雲のかげのように、多種多彩な感情が、たえず彼女の目のなかや口もとを駆けぬけるのであった。
彼女の崇拝者の一人々々が彼女には必要であった。ベロヴゾーロフは、彼女によって、時には『わたしの猛獣』と呼ばれ、時にはもっと簡単に『わたしの』と呼ばれていたが、彼女のためなら火の中へだってとびこんだことであろう。頭の働きでも、そのほかの点でも自信がないので、彼は、ほかの連中がただ口先だけであることをほのめかして、しょっちゅう彼女に結婚を申しこむのであった。マイダーノフは彼女の魂の詩的発散にこたえた。文士がみなそうであるように、彼もかなり冷たい人間であった。彼は、自分は彼女を崇拝しているのだと、彼女に、ことによると自分にも信じこませようとやっきになっていて、果てしなく長く続く詩句の中で彼女を称賛し、なんだか不自然でもあれば、まごころも感じられる熱狂ぶりで彼女に朗読して聞かせるのだった。彼女は彼に共鳴するところもあれば、いささかばかにしたようなところもあった。彼女は彼のことをあまり信用しておらず、彼にさんざん真情を吐露させたあげく、プーシキンの詩を朗読させるのだった。それは彼女の言い草によると、空気を清めるためであった。皮肉屋で、毒舌家である医師のルーシンは、だれよりもよく彼女を知っていたし……だれよりも深く彼女を愛していた。そのくせかげでも、面と向かっても彼女の悪口を言った。彼女は彼を尊敬していたけれども、彼を見逃しはしなかった……時どき、独特の意地悪な喜びとともに、彼もまた彼女の手中にあることを感じさせてやるのだった。「私はコケットで、情け知らずで、女優のような性格よ」と彼女はあるときわたしのいる前で彼に言ったことがある。「あ! いいことがあるわ! あなたのお手を出しなさい、わたしのピンをつきさしてあげる。あなたはこの坊っちゃんの手前、はずかしくもあればまた痛くもある。でもやっぱり、笑ってみせてちょうだいね。りっぱなお方」ルーシンは赤くなり、顔をそむけ、唇をかみしめたが、結局片手をさし出した。彼女がピンをつきさすと、彼は本当に笑い出した……彼女も笑い声をたてながら、深くピンをさしこみ、むなしくあちこちそらそうとする彼の目を、じっとのぞきこむのだった……
一番わたしにわかりにくかったのは、ジナイーダとマレーフスキイ伯爵とのあいだの関係である。彼は美男子で、如才《じょさい》なく、頭のいい男だったが、しかし彼にはなにかしらあやしい、なにかしらいつわりのものがあるような気が、十六歳の少年にすぎないわたしにさえもした。それなのにジナイーダがそれに気づいていないのをわたしはふしぎに思った。もしかしたら彼女はそのまがいもの的なところに気がついていながら、さしてそれを嫌だと思わなかったのかもしれない。変則な教育、一ぷう変わったつきあいや習慣、しょっちゅうそばにいる母親、家庭内の貧困と乱脈、おまけに若い娘が自由気ままにくらすことができ、自分はまわりの連中よりもずっとすぐれているという意識をもっている……こうした一切のことが彼女のうちに、半分人をばかにしたような無頓着さとすてばちな態度とを育成したのである。なにごとがおころうと、……ヴォニファーチイがやって来て、「砂糖がきれました」と報告しようが、なにかいまわしい噂が耳に入ろうが、客がけんかを始めようが……彼女はただ巻き毛をひとふりして、「くだらない!」と言うだけで、けろりとしているのだった。
そんなわけで、たとえばマレーフスキイが、狐のようにずるそうに肩をゆすりながら彼女のそばによって、彼女の椅子の背にいきなかっこうでよりかかり、やにさがって、にやにやしながら彼女の耳になにやらささやきだす。わたしは、全身の血が燃え立つのをおぼえたものである……すると彼女は胸に腕をくんで、しげしげと彼を見つめ、自分でも笑みをもらしたり、首をふったりするのである。
「どこがよくて、マレーフスキイさんなんかを家に入れるんですか?」とあるときわたしは彼女にきいた。
「あの人、すてきなひげをしていますもの」と彼女は答えた。「でもあなたがそんなこと言うなんて、見当ちがいよ」
「あなたは、わたしがあの人を愛している、と思っているんじゃなくって?」とまた別のときに、彼女はわたしに言った。「ちがうわ。わたしは、自分が上から見おろさなくちゃならないような人は、好きになれないの。わたしに必要なのは、わたしを征服してくれるような人……でもそんな人に出っくわすことはないわ。ありがたいことに……わたしはだれの手にも落ちませんからね。いいーだ!」
「すると、決して恋なんかしないというんですね?」
「じゃ。あなたはどう? わたし、あなたを愛していなくって?」と彼女は言って、手袋の先でわたしの鼻をたたいた。
まったく、ジナイーダはさんざんわたしをなぐさみものにした。三週間というもの、毎日のようにわたしは彼女に会ったが……彼女がわたしに対してしなかったようないたずらは、なにひとつなかったのだ……家へはめったに来なかったが、わたしはそれに痛痒《つうよう》を感じなかった。家へ来ると彼女は急に令嬢に、公爵令嬢になってしまうので……わたしは彼女を敬遠した。わたしは母に見破られるのがこわかった。母はジナイーダにまるで好意を持たず、敵意をもってわれわれを監視していた。父はそんなにこわくなかった。父はわたしに気がついていないようだったし、ジナイーダとはあまり口をきかなかった。しかし話すとなると、その言葉はなかなか気の利いた、含蓄《がんちく》のあるものだった。わたしは勉強も読書もやめてしまった。あたりをぶらつくことや乗馬までもやめてしまった。足に糸をゆわえつけられたカブト虫のように、わたしはなつかしい傍屋のまわりを、たえずぐるぐるとまわっていた。いつまでもそこにいたい気持ちだったが……しかしそれはできなかった。母はぶつぶつ小言を言うし、ときには当のジナイーダに追いはらわれた。そんなとき、わたしは自分の部屋にとじこもるか、庭の一番端へ逃げ出して、石造りの高い温室のくずれ残っているのによじ登り、道路に面した石塀の上から両足をぶらさげ、なん時間も坐ったまま、なにも目に入らないのに、ひたすら眺めているのだった。そばの、埃《ほこり》をかぶったイラクサの上を、白いチョウチョウがものうげに飛びかわしていた。すこし先では、元気なスズメが一羽、半壊の赤れんがの上にとまって、たえずくるくるまわりながら、尾をひろげて、癇《かん》にさわる声で鳴いていた。相変わらず疑いぶかいカラスの群れが、すっかり葉の落ちた白樺《しらかば》の高い高いてっぺんで、時たまカアカアと鳴いていた。太陽と風が白樺のまだらな枝のあいだで、そっとたわむれていた。時おり、風に乗って、ドン修道院の鐘の音が、おだやかに、ものうく聞こえてきて……わたしは坐って、見て、聞き入っている……言いようもない感じで胸が一ぱいになる。その中にはなにもかもふくまれていた。悲しみも、喜びも、将来の予感も、生のおそれも。しかし当時のわたしにはそういったものがなにもわからず、自分のなかでかもし出されているすべてのもののうち、一つとしてその名をはっきりと呼ぶことができなかった……それとも、これらすべてを一つの名……ジナイーダという名で呼んだかもしれない。
ジナイーダは相変わらず猫がネズミをからかうように、わたしをもてあそんでいた。彼女はわたしに気をもたせるかと思えば……わたしは興奮してうっとりとなった……急にわたしをおしのけるのだった。わたしは彼女のそばへよることもできず、彼女を見つめることもできなかった。
なんでも数日間ぶっつづけに彼女がわたしに対してひじょうにつれない態度をとったことがあった。わたしはすっかりおじ気づいてしまい、びくびくしながら、傍屋に上がりこんで、つとめて老公爵夫人のそばにくっついているようにした。もっともそのころ悪いことに、公爵夫人は、ひどく怒りっぽくて、がみがみと小言をいったり、怒鳴りちらしたりしてばかりいた。それというのも、例の手形の件がうまくゆかず、もう二度も警察署長と話し合いをしたところだったのである。
ある日わたしが庭へ出て、例の垣根のそばを通りかかると……ジナイーダの姿が見えた。彼女は両手をついて、草の上に坐ったまま身じろぎもしない。わたしはしのび足で遠ざかろうとしたが、彼女は不意に頭をあげて、わたしに命令するような合図をした。わたしはその場に立ちすくんだ。彼女がどういうつもりなのか、すぐにはわからなかったのである。彼女はもう一度合図をくり返した。わたしはすかさず垣根をとび越えると、いそいそと彼女のそばに駆けよった。しかし彼女は目でわたしをおしとどめ、自分から二歩ほど離れた小道を指さした。当惑したわたしは、どうしていいかわからずに、小道の端にひざまずいた。彼女はひどくまっ蒼で、痛ましい悲しみと、深い疲れの色が顔の方々にあらわれているので、わたしは胸がしめつけられるような気になり、思わず口走った。
「どうしたんですか?」
ジナイーダは片手をのばして、なにか草をもぎとると、かんで、ぽいとすてた。
「あなた、わたしが大好き?」とやっと彼女はきいた。「そう?」
わたしはなにも答えなかった……それになぜわたしがそれに答える必要があったろう?
「そう」と、相変わらずわたしを見つめながら、彼女はもう一度言った。「そうだわね。同じ目つきだわ」と言い出して、じっと考えこみ、両手で顔をおおった。「わたし、なにもかも嫌になった」と彼女はささやくように言った。「世界の果てまで逃げ出したいくらい、とてもたまらない……扱いきれない……わたし、この先どうなるんだろう! ……ああ、つらい……ああ、じつにつらい」
「なぜですか?」わたしはおずおずときいた。
ジナイーダはわたしになんとも答えず、ただ肩をすくめただけであった。わたしはさっきからひざまずいたまま、すっかりしょげかえって彼女を見つめていた。彼女の一言々々がぐさりとわたしの胸に食いいった。わたしはこの瞬間、彼女の悲しみが消せるものなら、喜んで自分の命を投げ出したにちがいないと思う。わたしはじっと彼女を見つめていた……そして、なぜそんなに彼女がつらいのかはわからぬながらも、彼女がとつぜん、たえがたい悲しみの発作におそわれて、庭へとび出し……ぱったりと地面に倒れたさまを、ありありと思いうかべた。あたりは光にみちて、青々としていた。風が木の葉をそよがせ、時たま木イチゴの長い枝を、ジナイーダの頭上で、ゆすっていた。どこかでハトがククウとなき……蜜蜂がまばらな草の上をとびかいながら、ブンブンうなっていた。上からは青空がやさしく見おろしていた……だがわたしは言いようもなく悲しかった……
「なにか詩を読んでちょうだい」とジナイーダが小声で言って、片ひじをついた。「わたし、詩を読むときのあなたが好き。あなたの読み方は歌うみたいだけれど、それでけっこう、若々しくって。『グルジヤの丘の上』(プーシキンの詩)を読んでちょうだい。でも、その前に坐らなくちゃ」
わたしは坐って『グルジヤの丘の上』を読んだ。
「『愛さでやまぬ胸なれば』」とジナイーダはくり返した。「そこが詩のいいところだわ。詩はわたしたちに、事実ではないけれども、事実よりもりっぱなことを言ってくれる。そればかりか、事実よりももっと真実味のあることを言ってくれるんだもの……愛さでやまぬ胸なれば……しまいと思っても、できないんだわ!」
彼女はまた黙りこんだが、とつぜん身をふるわせて立ち上がった。「行きましょう。お母さまのところにマイダーノフが来ているの。わたしに叙事詩を持ってきてくれたのに、置き去りにしてきたの。今ごろあの人もしょげてるわ……しかたがない……あなたにもいつかわかるときが来るわ……ただ、わたしのことを怒らないでね!」
ジナイーダはそそくさとわたしの手を握ると、先に立って駆け出した。わたしたちは傍屋《はなれ》に帰った。マイダーノフはわたしたちに、朗読をはじめたが、わたしはそれを聞いていなかった。彼は四脚の短長格を、歌うような調子でがなりたてた。韻が入れかわって、小鈴のように空しく、騒々しくひびいたが、わたしはじっとジナイーダの顔を見つめたまま、彼女のさっきの言葉の意味をしきりに考えていた。
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それとも秘密のライバルが
にわかに君を征服したのか?
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と、いきなりマイダーノフが鼻にかかった声で叫んだ……そのとき、わたしの目とジナイーダの目がかち合った。彼女は目を伏せて、かすかに顔を赤らめた。彼女が赤くなったのを見て、わたしはびっくりして全身が冷たくなるのを感じた。わたしは前から彼女に嫉妬していたが、しかしこの瞬間にはじめて、彼女は恋をしているのだ、という考えがわたしの頭のなかにひらめいたのである。『ああ! 彼女は恋をしている!』
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十
わたしの本当の責め苦はその瞬間から始まった。わたしはなやみ、迷い、考えあぐんだ……そして執念ぶかく(できるだけこっそりとではあったが)、ジナイーダを観察していた。彼女は一人で散歩に出かけて、長いあいだ歩き回るのであった。時おり客たちに姿を見せず、何時間も自室に引きこもっていた。前ならそんなことはなかったのである。急にわたしは目がきくようになった……あるいはそうなったような気がした。『あいつじゃないかしら? それともあいつかな?』とわたしは自問自答した、彼女の取り巻きをつぎつぎとせわしなく思いうかべながら、マレーフスキイ伯爵が(ジナイーダにかぎってまさかそんなことが、とは思ったものの)、ほかのだれよりもあやしいように、心中ひそかにわたしは思った。わたしの観察力はごく狭いところしか見とおせず、わたしの秘密のはかりごとにしてやられるものは、どうやらだれもいなかったようだ。すくなくともルーシン医師はすぐにわたしの意中を見ぬいた。もっとも、そのルーシンにしてからが最近は変わってしまった。このところ彼はやせた。笑い声をたてることは相変わらずだが、その笑い声はなんだか前よりもうつろに、毒々しく、短くなった……以前の彼にはあった軽い皮肉や、とってつけたような冷笑癖は、ままならぬ神経質ないらだちに変わってしまったのである。
「なんだって君はそんなにしょっちゅうここへやってくるんです」とあるとき彼は、ザセーキン家の客間でわたしと二人きりになったとき、わたしに言った。(令嬢はまだ散歩から帰らず、夫人のがみがみ声が中二階でしていた。彼女は小間使いと言い合いをしていたのである)「あなたは勉強しなくちゃならない……若いうちに。……それなのにどうしたんです?」
「わたしが家で勉強しているかどうか、あなたにわかるはずはないでしょう?」とわたしは多少ごうまんに、しかしいささかうろたえて言い返した。
「なにが勉強なもんですか……君の頭にあるのはそんなものじゃない。まあ、議論しても始まらんが……そりゃ、君ぐらいの年齢じゃ無理もないよ。それにしても相手が悪い。この家がどんな家かわからないのかね」
「あなたのおっしゃることがわたしにはわかりません」とわたしは言った。
「わからないって? ますますいかんな。それじゃわしから注意しておかなくちゃなるまい。われわれ年をとった独身ものはここへ来てもかまわない。別にどうもなりやしないんだ。われわれは鍛えられているから、びくともしない。ところが君たちの皮膚はまだやわらかいのだ。ここの空気は君たちには有害だ……まったくの話が、うつるかもしれないのだ」
「どうして?」
「知れたことさ。君は今、健康ですかね? ノーマルな状態ですか? 君の今感じていることは君のためになるんですか、いいことですか?」
「でも、ぼくはなにを感じてるんでしょう?」とわたしは言ったが、心のなかでは、医者の言うとおりだと思った。
「いや、君は若いよ、君は若いよ」と医者は、この二つの言葉のなかに、わたしにとってすこぶる侮辱的ななにかが含まれているかのような表情で、言葉をつづけた。「引き返そうたってだめさ、ありがたいことに、君の思っていることが、顔にちゃんと書いてあるんだから。もっとも、こんな講釈をしても始まらん。ぼくにしたってここへ出入りしなかったろうよ、もしも……(医者は歯を食いしばった)……もしもぼくがこんな変人じゃなかったら。ただぼくがふしぎでならないのは、君のような頭のいい人が自分のまわりでおこっていることがどうしてわからないんだろう?」
「なにがおきているんですか?」とわたしは食いさがってすっかり緊張した。
医者は嘲るような同情の色をうかべてわたしを見た。
「ぼくもおめでたいやな」と彼は、ひとりごとのように言った。「しかしこのことはぜひともこの人に言っておかなくちゃ。要するにだね」と声を高めて「くり返して言うが、ここのふんい気が君にはよくない。君はここへ来ていると楽しいだろう、しかし油断大敵だよ……そりゃ温室のなかだってやはりいい香りがするが……そこに住むわけにはいくまい。ねえ! 言うことを聞いて、またカイダーノフの勉強でも始めたまえ!」
公爵夫人が入ってきて医者に歯痛を訴えだした。やがてジナイーダが現われた。
「そうそう」と夫人は言い出した。「ねえ先生、この子を叱ってやってください。一日じゅう氷を入れた水を飲んでいるんですの。身体にいいはずはないでしょう、胸が弱いんだから」
「どうしてそんなことをなさるんです?」
「やったら、どういうことになりますの?」
「どういうこと? 風邪をひいて死ぬかもしれませんね」
「本当に? まさか? でも、かまやしないわ……当然ですもの!」
「おやおや!」と医者はつぶやいた。
夫人は出て行った。
「おやおや」とジナイーダは口まねをした。「生きることってそんなに楽しいかしら? まわりを見てごらんなさいな……どう……すてき? それともあなたは、わたしがそれさえもわかっていない、感じていない、と思ってらっしゃるの? 氷を入れて水を飲むとわたしはいい気持ちなの。それをあなたは、こんな人生が大事だから、束の間の満足のために危険をおかしてはいけない、などとまじめくさってわたしにお説教なさるのね? ……わたし、幸福なんかどうでもいいの」
「いかにも」とルーシンが言った。「気まぐれとひとりよがり……あなたはこの二語につきますよ。あなたという人は全部この二語のなかにあります」
ジナイーダは神経質に笑い出した。
「証文の出しおくれだわ、先生。目が利かないのね。おくれてらっしゃる。眼鏡をおかけになるといいわ。わたしは今、気まぐれどころじゃないの。あなたがたをからかったり、自分を笑いものにしたり……なにが楽しいもんですか……自分勝手だとおっしゃるけれど……ムッシュー・ヴォルデマール」とジナイーダはとつぜんほこ先を変えて、とんと足を踏みならした。「そんなゆううつな顔をしないでちょうだい。わたし、ひとに同情されるの、がまんできないの」彼女は足早に出ていった。
「毒だ、君には毒だよ、ここのふんい気は。ねえ君」ともう一度ルーシンがわたしに言った。
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十一
その日の晩、いつもの連中がザセーキン家に集まった。わたしもその一人だった。
たまたまマイダーノフの叙事詩が話題になった。ジナイーダは率直にほめた。
「でも、そうねえ」と彼女は彼に言った。「もしわたしが詩人だったら……わたしはほかのテーマでやってみたいわ。こんなことばかげた話かもしれないわね……でもわたし、ときどき妙な考えが頭にうかんでくるの。ことに夜あけ方、窓がバラ色や灰色になりかけるころ、眠れないでいるときなんか。わたしだったら、たとえば……みんなわたしのことを笑わないかしら?」
「笑やしませんよ!」とわたしたちは異口同音に叫んだ。
「わたしならこんなふうにするわ」と彼女は、両手を胸に組んで、わきの方を見ながら、言葉をつづけた。「若い娘たちが大ぜい、夜なかに、大きな船に乗っているの。で、その船は静かな河に浮かんでいる。月が出ていて、娘たちはみんな白い着物をきて、白い花冠をかぶって歌っているの。そうね、なにか賛歌のようなものだわ」
「わかります、わかります、つづけてください」ともっともらしく、夢見ごこちで、マイダーノフが言った。
「すると、とつぜん岸の上がざわつき出すの。高笑いやたいまつや、小鈴のついた手太鼓などが……それはバッカスの巫女《みこ》たちで、群れをなして歌ったり、叫んだりしながら走ってくるところなの。この情景の描写はあなたにお任せするわ、詩人さん……ただわたしの注文は、たいまつはまっ赤で、もうもうと煙を出していること、それから巫女たちの目は花冠の下でキラキラ光るように黒っぽくなくちゃね。それから虎の皮や杯も忘れないでちょうだい……それから金《きん》、金をどっさり」
「金を一体どこに使うんですか?」と、自分のべったりした髪の毛をうしろへ払い、鼻の穴をひろげながら、マイダーノフがたずねた。
「どこですって? 肩にも、手にも、足にも、どこにもよ。古代の女たちは、くるぶしに金の輪をはめていたっていうでしょ。バッカスの巫女たちは舟の娘たちを呼ぶの。娘たちは自分たちの賛歌をピタリとやめてしまった……とても歌をつづけることなんかできやしない、……しかし身じろぎもしないでいる。河に流されて舟が岸へよってくるもんだから。するととつぜん一人の娘がそっと立ちあがるの……ここはうまく書かなくちゃ。月の光を浴びてそっと立ちあがるところだの、仲間の娘たちの驚くところだの……その娘がふなばたをまたぐと、バッカスの巫女たちは彼女を取り巻き、夜の闇の中へさらっていってしまう……ここでは煙が渦を巻いてもうもうとたちのぼり、なにもかもごっちゃになってしまうところを書くんだわ。聞こえるのは巫女たちの叫び声だけで、その娘の花冠が岸べにポツンと残されているの」
ジナイーダは口をつぐんだ。(『ああ、彼女は恋をしている!』またもやわたしは思った)
「それだけですか?」マイダーノフがきいた。
「それだけよ」と彼女は答えた。
「それではまとまった叙事詩のテーマにはなりませんね」ともったいらしく彼は言った。「でも抒情詩の材料にあなたのアイデアを使わせてもらいましょう」
「ロマンチックなものですか?」とマレーフスキイがきいた。
「もちろん、ロマンチックな、バイロンふうのものです」
「ぼくはユゴーがバイロンよりもいいと思うね」と若い伯爵がぞんざいに言った。「面白いですよ」
「ユゴーは一流の作家です」とマイダーノフが答えた。「ぼくの友人のトンコシェーエフも自伝のイスパニヤふう物語『エル・トロヴァドール』のなかで……」
「ああ、それ、疑問符がひっくり返っている本でしょ?」とジナイーダがさえぎった。
「そうです。イスパニヤではああ書くことになっているんです。ぼくの言いかけたのは、トンコシューエフが……」
「おやおや! また古典主義だの、ロマン主義だのと議論を始めるんですの」とまたもジナイーダが彼をさえぎった。「それより何かして遊びましょうよ……」
「罰金ごっこですか?」とルーシンが応じた。
「いいえ、罰金ごっこは退屈だわ。くらべごっこがいいわ。(この遊びはジナイーダが自分で考えついたものだった。なにかの名をあげて、みんながそれをなにかほかのものと比較する。そして一番うまい比較を思いついた者が、ごほうびをもらうのだった)」
彼女は窓べによった。日がたった今沈んだばかりであった。空高く、細長い、赤い雲がいくつかうかんでいた。
「あの雲はなにに似ているかしら?」とジナイーダはきいて、わたしたちの答えを待たずに、つぎのように言った。
「わたし、あの雲は、クレオパトラがアントニオを迎えに行ったとき、クレオパトラの金塗りの船にはってあった、緋色の帆に似ていると思うわ。覚えていらっしゃる、マイダーノフさん、あなたはこのあいだわたしにその話をしてくださったわね?」
わたしたちはみな、『ハムレット』のポローニアスのように、いかにもあの雲はその帆に似ている、それ以上の比較はだれも思いつくまい、ときめてしまった。
「そのとき、アントニオはいくつだったかしら?」ジナイーダがたずねた。
「たぶん若かったんじゃないかな」とマレーフスキイが言った。
「そう、若いよ」とマイダーノフが自信たっぷりに肯定した。
「失礼ですが」とルーシンが大きな声で、「四十を越してましたよ」
「四十を越して」とジナイーダはおうむ返しに言った、彼にすばやい一瞥《いちべつ》をくれて。
わたしはまもなく家に帰った。『彼女は恋をしている』と思わずわたしの唇はささやいた。『しかしだれに?』
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十二
日がたっていった。ジナイーダはますます奇妙に、ますますわけがわからなくなっていくのだった。ある日わたしが彼女の部屋へ入っていくと、彼女は藤椅子に腰かけて、頭を机のとがった縁《ふち》におしつけていた。彼女は身を起こしたが……顔じゅう涙にぬれていた。
「まあ! あなただったの!」と彼女は薄情なうす笑いをうかべて言った。「こちらへいらっしゃいな」
わたしはそばへよった。彼女はわたしの頭の上に片手をのせて、いきなりわたしの髪をつかむと、ねじり始めた。
「痛い……」と、しまいにわたしは言った。
「おや! 痛いって! じゃ、わたしは痛くなくって? 痛くなくって?」と彼女はくり返した。
「あら!」彼女はいきなり大声をあげた。
わたしの頭から髪の毛を一房むしり取ったのに気がついたのである。「わたし、なんてことをしてしまったんでしょう? かわいそうな、ムッシュー・ヴォルデマール!」
彼女はむしり取った髪の毛をていねいにのばし、指に巻きつけて、小さな輪をつくった。
「わたし、あなたの髪の毛をロケットに入れて、いつも身につけておくわね」と彼女は言ったが、目には相変わらず涙が光っていた。「すこしはあなたの気休めになるかも知れないもの……じゃ、またいらしてね」
家へ帰ってみると不愉快なことがおきていた。母が父と言い争いをしていたのである。母がなにやらしきりと父をなじり、父は例によって、冷ややかに、いんぎんに沈黙を守っていたが……やがて外へ出て行った。母がなんの話をしているのか聞こえなかったし、それにわたしはそれどころではなかったのだ。覚えているのはただ一つ、言い争いのあとで母がわたしを自分の部屋に呼びつけて、わたしが公爵夫人の家へあんまりちょいちょい通うので、母が大そう不満をのべたことだけである。母の言葉によると公爵夫人は、une femme capable de tout(なんだってやりかねない女)であった。わたしは母のそばへよって手にキスし(会話を打ち切りたくなったとき、わたしはいつでもそうした)、自分の部屋に引きさがった。ジナイーダの涙はわたしをすっかり錯乱させてしまった。わたしはどう考えていいやらまったくわからず、自分の方が泣きたいくらいだった。十六にもなるのに、わたしは相変わらず子供だったのだ。わたしはもうマレーフスキイのことは考えなかった。もっともベロヴゾーロフは日ましにだんだん険しい顔つきになり、ぬけ目のない伯爵を見ること、狼が羊を見るがごとくであった。しかしわたしはなにごとも、だれのことも考えなかった。わたしは考えあぐんで途方にくれ、孤独な場所をさがし求めた。とりわけ気に入ったのはあの崩れ落ちた温室だった。よく高い石塀の上によじ登っては、腰をおろし、いつまでも坐っていたものだ。なんという不幸な、ひとりぼっちの、わびしい若者だろうと思うと、自分で自分がいじらしくなるのだった……わたしにはそうした悲哀感が無上のなぐさめであった。わたしはそれに酔いしれていた! ……
さてある日、わたしは石塀の上に坐って、遠くの方を眺めながら、寺院の鐘の音に耳をすましていると……不意になにかがわたしの身をかすめてさっと通りすぎた……そよ風かというにそよ風でもなく、寒気でもないし、まるでなにかの息吹きというか、だれかが近づいてくるような気配というか……わたしは下を見た。下の道を、鼠色がかった軽やかな服を着て、バラ色のパラソルを肩に、急ぎ足でジナイーダがやってくる。彼女はわたしに気がついて、立ちどまり、麦藁帽子のへりを押しあげ、ビロードのような目でわたしを見あげた。
「そんな高い所でなにをしているの?」となんだか奇妙な微笑をうかべて彼女はわたしにたずねた。「そうそう」と言葉をつづけて、「あなたはいつもおっしゃってるわね、わたしを愛してるって……わたしのところまで、この道へ跳びおりていらっしゃい、もし本当にわたしを愛してるんだったら」
ジナイーダがこの言葉を言い切らないうちに、わたしはもう下へ跳んでいた、ちょうどだれかにうしろから小づかれたみたいに。塀の高さはおよそ四メートルほどもあった。ぶじ地面に両足がとどいたはいいが、ショックが強すぎて、身体をささえきれなかった。わたしは倒れて、瞬間、気を失った。われに返ったとき、わたしは目をとじたままだったが、そばにジナイーダのいるのを感じた。
「かわいい坊や」とわたしの上にかがみこんで彼女は言った。その声音《こわね》のなかには取り乱したやさしさがひびいていた。「どうしてこんなことをしたの、どうしてわたしの言うことなんか聞いたの……わたしだって愛してあげているのに……さあ、起きて」
彼女の胸はわたしのすぐそばで息づいていて、両手がわたしの頭に触れ、いきなり……そのときになんということがわたしの身におこったことだろう! ……彼女のやわらかい、みずみずしい唇がわたしの顔じゅうをキスでおおいはじめたのだ……それはわたしの唇にもふれた……しかしこのときジナイーダは、たぶん、わたしの顔の表情からして、目はとじているものの、わたしがもう正気に返っていることを察したにちがいない、すばやく立ちあがると、こう言った。
「さあ、起きなさい、茶目なおばかさん。どうしていつまでもこんなほこりのなかに寝ているの?」
わたしは起きあがった。
「わたしのパラソルを取ってきて」とジナイーダは言った。「ほら、あんなところへほうり出しちゃったわ。そんなにじろじろわたしを見ないで……なんておばかさんなの? けがしなかった? イラクサに刺されて、チクチクするんでしょう? わたしの顔を見ちゃいけないってば……まあこの人ったらなにもわからないんだわ、返事をしないところをみると」とひとり言のように言い足した。「家へお帰りなさい、ムッシュー・ヴォルデマール、服のほこりを払いなさい、わたしのあとなんかつけてきちゃだめよ……そんなことしたら、わたし、怒って、もう二度とふたたび……」
彼女は自分の言葉を最後まで言いきらずにさっさと行ってしまい、わたしは道に坐りこんだ……立っていることができなかった。イラクサに刺された手がチクチクするし、背中はずきずきするし、頭がくらくらした。しかし、わたしがそのときに感じたこの上ない幸福感は、その後二度とわたしの生涯でくり返されることがなかった。それは快い苦痛となってわたしの五体に宿っていたのであるが、ついに、歓喜にみちた跳躍や叫び声によって解き放たれたのである。本当に、わたしはまだ赤ん坊だったのだ。
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十三
わたしはその日一日じゅう、たまらなく心がうきうきとして、誇らしい気持ちだった。顔には、ジナイーダのキスの感触がまだありありと残っていた。わたしは身ぶるいするような喜びを感じながら彼女の言葉の一つ一つを思いだすのだった。自分の思いがけない幸福を胸のなかでいつまでもかみしめていると、この新しい感覚の源となった彼女に会うのがなんだか怖くなってきて、できることなら会いたくないと思ったほどである。もうこれ以上、運命からなにひとつ求めるべきではない、今こそ『思いきりよく心ゆくばかり最後の息をして、そのまま死んでしまえばいいのだ』とわたしは思った。そのかわりつぎの日、傍屋へ出かけるとき、わたしは多大の当惑を感じた。それは、自分は秘密を守れるということを人に知らせたがっている人間に通有のひかえ目なさりげない顔つきぐらいでは、ごまかしのきくものでなかった。ジナイーダはすこしも悪びれることなく、ごくむぞうさにわたしをむかえたけれども、指を一本たててわたしを脅かし、どこかに青あざはできなかったか、ときいた。その瞬間、わたしのひかえ目なさりげなさも、二人だけの秘密という気負いの心もけしとんでしまい、それとともにわたしの当惑の感じもなくなった。もちろん、わたしはなにも特別なことを期待していたわけではなかったが、ジナイーダの落ちつきはらった態度に、冷水を浴びせられた思いであった。この人の目から見れば自分は赤ん坊なのだ、と思い知らされて、……私はひどく暗澹《あんたん》たる気持ちになってしまった! ジナイーダは部屋のなかをいったりきたりしながら、わたしの顔を見るたびに、すばやく微笑をうかべるのだったが、しかし彼女の思いは遠くにあった。わたしにはそれがよくわかった……『自分の方から昨日の話を持ち出してみようか』とわたしは考えた。『あんなに急いでどこへ行くところだったのか、彼女にきいて、すっかり白状させてしまおうか……』しかしそれも断念して、隅に腰をおろした。
ベロヴゾーロフが入ってきた。わたしは彼のきたのを喜んだ。
「あなたがお乗りになるおとなしい馬はまだ見つかりません」と彼はつっけんどんな声で言い出した。「フライタークのやつが、一頭ひきうけた、と言ってるんですが……当てになりません。ぼくは心配ですね」
「なにがご心配ですの?」ジナイーダがたずねた。「お伺いしたいわ」
「なにがですって? あなたは乗馬なんかできないじゃありませんか。とんだことにならないともかぎりませんからね! なんだってそんな突拍子もないことを思いついたんですか?」
「それはあなたの知ったことじゃなくってよ、私の猛獣さん。そんなわけでしたら、わたし、ピョートル・ワシーリエヴィチさんにお願いするわ……(ピョートル・ワシーリエヴィチというのは父の名前だった。わたしは彼女がこんなに気やすく、臆面もなく父の名を口にしたのでびっくりした。まるで父が彼女の言うことならなんでもきいてやるような口ぶりなので)」
「なるほど」とベロヴゾーロフが言い返した。「あなたはあの人と遠乗りなさるつもりで?」
「あの人とであろうと、ほかの人とであろうと……あなたには関係のないことよ。あなたとでないことだけはたしかなの」
「ぼくとではない」とベロヴゾーロフはおうむ返しに言った。「どうぞご随意に。けっこうです。馬は手に入れてあげましょう」
「でも、よくって、牛みたいなのろまなのはだめよ。断わっておきますけれど、わたし、駆けさせるんですからね」
「駆けさせるなり、どうなりと、よしなに……それにしてもだれとですか。マレーフスキイとでも出かけるんですか?」
「どうしてあの人とじゃいけなくって、軍人さん? まあ、落ちついて」と彼女はつけ加えた。「そんなに目をぎらぎらさせないでください。あなたもお連れしますよ。あなただってご存じでしょう、マレーフスキイさんなんか今のわたしには……『ふん!』だってことを」彼女はかぶりをふった。
「あなたがそうおっしゃるのは、ぼくの気休めのためなのだ」とベロヴゾーロフがぼやいた。
ジナイーダは目を細くした。
「あなたの気休めのため? ……あきれた軍人さんだこと!」と彼女は、ほかの適当な言葉が見つからないかのように、やっとこさ、言った。「ヴォルデマールさん、あなたもわたしたちといっしょにいらっしゃる?」
「ぼく、嫌いなんです……人なかへ出るのが……」とわたしは、目をあげずにつぶやいた。
「あなたは、さしむかいがお好き?……いいわ、人は好き好き、世はさまざま……だもの」と彼女はほっとため息をついて、言った。「それではベロヴゾーロフさん、お願いするわね。わたし、明日馬がいるんですから」
「そう。でもお金はどうするんだい?」と公爵夫人が横合いから口を出した。
ジナイーダは眉をしかめた。
「お母さまに出してくださいとは申しません。ベロヴゾーロフさんが立てかえてくださるわ」
「たてかえ、たてかえ……」と公爵夫人はぼそぼそ言ったが……いきなり大声でどなりたてた。
「ドゥニャーシカや!」
「ママ、呼び鈴をあげてあるでしょ」と令嬢が言った。
「ドゥニャーシカや!」と老夫人がまた怒鳴った。
ベロヴゾーロフは別れをつげた。わたしもいっしょに帰った。ジナイーダはわたしをひきとめなかった。
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十四
翌朝、わたしは早く起きると、木を切り取って杖《つえ》をつくり、関門の外へ向かった。ひとつ憂さ晴らしに行ってこようというわけである。絶好の日和で、日は出ていたが、そんなに暑くはなかった。ここちよい、さわやかな風が地上をさまよって、あらゆるものをそよがせながらも、ざわつかせるほどではなく、適度にさやさやとたわむれていた。わたしは長いこと山や森を歩きまわった。わたしは自分を幸福と感じていたわけではない。家を出るときには思う存分、哀愁にひたるつもりだったのだ……けれども若さや、すばらしいお天気や、さわやかな空気や、さっさと歩く快さや、繁った草の上にひとり寝そべっている気楽さには勝てなかった。あの忘れがたい言葉や、あのキスの思い出が、ふたたびわたしの胸のなかにわりこんできた。それにしてもジナイーダが、わたしの決断、わたしの勇敢なふるまいを正当に認めないわけにはいくまい、と思うと愉快だった……『あの人にはほかのやつらの方がぼくよりよく見えるのだ』とわたしは考えた。『なに、かまうもんか! そのかわりほかの連中は、ただ口先でやりますと言うだけだろうが、ぼくはちゃんとやってみせたのだ……あの人のためなら、もっとどえらいことだってやってみせることができるさ……』わたしの想像はおどりはじめた。わたしは、自分が彼女を敵の手中から救い出すありさまや、自分が全身血まみれになって彼女を牢獄から救い出すありさまや、彼女の足もとで死ぬありさまを想像し始めた。わたしは、うちの客間にかかっている絵を思いだした。それはマレク・アデルがマチルダを奪い去るところであった。ところがちょうどこのとき、まだら色の大きなキツツキが現われたので、わたしはそれに気をとられてしまった。キツツキはシラカバのほそい幹をせかせかとせわしげに登ってゆき、そのかげから不安そうにあるいは右に、あるいは左に顔をのぞかせていた。ちょうどそれは、音楽師が首を、コントラバスの頸のかげからのぞかせるのとそっくりだった。
それからわたしは、『白き雪にはあらざるか』を歌いだしたが、それがいつのまにか、そのころ流行《はや》っていた『そよ風吹けば、君を待つ』というロマンスにかわっていた。それがすむとわたしは、ホミャコーフ(十九世紀半ばのロシヤの作家・哲学者)の悲劇のなかの、星に呼びかけるエルマークの言葉(ロマン主義的な悲劇『エルマーク』の第五幕のモノローグをさす)を、大きな声で朗読しはじめた。あるいはまたセンチメンタルふうの詩をなにか作ることを試みて、『おお、ジナイーダ! ジナイーダ!』という句で全編の結びとなるはずの一行は、いち早く思いついたのだが、結局ものにならなかった。そのうちそろそろ昼飯どきになった。わたしは谷間へおりて行った。細い砂の小道が谷間を曲がりくねって、町へと通じていた。わたしはその小道を歩き出した……と、馬の蹄の鈍い音が背後から聞こえてきた。わたしはふり返ると、思わず立ちどまって、帽子を脱いだ。父とジナイーダの姿を認めたからである。二人はならんで馬を進めていた。父は胴体をすっかりジナイーダの方へねじ向けて、馬の頸に片手をついたまま、彼女になにか話しかけていた。彼は微笑をうかべていた。ジナイーダは、きびしく目を伏せ、唇をかみしめて、黙って父の話を聞いていた。わたしがはじめ見たのはこの二人だけだったが、ほどなく谷間の曲がり角から、ベロヴゾーロフの姿が現われた。外衣のついた軽騎兵の軍服をきて、泡を吹いた黒馬に乗っている。駿馬は首をふり、鼻息をたて、躍りはねている。乗り手は馬を引きとめたり、拍車を当てたり、大変である。父は手綱を引きしめて、ジナイーダから離れた。彼女はゆっくりと父を見上げ……二人は馬を走らせた……ベロヴゾーロフがサーベルをガチャつかせながら、そのあとを追って疾駆した。『あいつはエビのようにまっ赤なのに』とわたしは考えた。『彼女は……なぜ彼女はあんなに蒼い顔をしているんだろう? 朝じゅう馬を乗り回したというのに蒼い顔をしているとは?』
わたしは歩度を二倍も速めて、ちょうど昼飯前に帰宅した。父はもう着がえをすませ、顔を洗い、さっぱりしたようすで母の肘かけ椅子のそばに坐り、持ちまえの流ちょうな、ひびきのいい声で、『討論新聞』の小品欄を母に読んで聞かせていた。しかし母は大して熱心に聞いているでもなく、わたしの姿を見ると、一日じゅうどこへ行っていたのか、とたずねた。そして、やたらなところをやたらな相手とぶらつくのは、どうかと思うね、と言い足した。『でもぼくはひとりで散歩したんですよ』と答えようかと思ったが、ちらりと父の顔を見て、なぜかそのまま黙っていた。
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十五
それから五、六日のあいだ、わたしはジナイーダにほとんど会わなかった。病気ということであったが、しかしそれは、傍屋《はなれ》の常連が入れかわり立ちかわり、彼らのいわゆる『当直』にやってくることをさまたげなかった。マイダーノフだけは別で、彼は感激にひたる機会がなくなると、たちまちがっかりして、ふさぎこんでしまった。ベロヴゾーロフはきちんと軍服のボタンをかけ、赤い顔をして、ふきげんに部屋の隅に坐っていた。マレーフスキイ伯爵のきゃしゃな顔には、なんだか敵意ある微笑がたえずただよっていた。彼はじっさいにジナイーダの不興をこうむったので、老夫人に取り入ろうととりわけ精をだし、彼女のお供をして辻待ちの箱馬車で総督のところへ出かけたほどだった。もっともこの旅行は失敗に終わり、マレーフスキイはあべこべに不愉快な目に合った。いつか彼が交通省の連中を相手に持ちあげた事件を持ち出されて……あのときは未熟だったので、と言いわけせざるを得なかったのである。ルーシンは日に二度くらいやってきたが、長居はしなかった。このあいだの言い争いがあってから、わたしは彼をすこしばかり恐れていたが、同時に心の底から彼にひかれるものを感じていた。ある日、わたしといっしょにネスクーシヌイ公園へ散歩に出かけたが、ひどく親切で、愛想がよく、いろいろな草や花の名前や特性を教えてくれていたのだが、とつぜん、いわゆる藪《やぶ》から棒に、顔をピシャリと叩いて、叫んだ。「わたしはおろかにも、あの人をコケットだと思っていたんだ! 世の中には自分を犠牲にすることが楽しい、という人もいるらしい」
「それはどういうことなんですか?」と私はたずねた。
「君にはなにも言いたくないよ」とルーシンはそっけなく答えた。
ジナイーダはわたしを避けていた。わたしが現われると……わたしはそのことに気づかざるをえなかった……彼女はいやな気持ちになるらしかった。彼女は無意識にわたしから顔をそむけた……無意識に。それがわたしにはとてもつらく、それがわたしには悲しかった! しかしどうしようもなかった……わたしはつとめて彼女の目にふれないように心がけて、ただ遠くから彼女の現われるのを待つばかりだったが、いつもうまくゆくとは限らなかった。彼女には相変わらずなにかしら不可解なことがおきていた。彼女は顔が変わり、すっかり別人のようになってしまった。彼女のうちに生じた変化がとりわけわたしを驚かしたのは……ある暖かい、静かな夕方のことであった。わたしはひろびろと根をはったニワトコの木の下におかれた低いベンチに坐っていた。わたしはこの場所が好きだった。そこからはジナイーダの部屋の窓が見えたからである。わたしは坐っていた。頭上の、暗くなりだした繁みのなかで、小鳥が一羽せわしげにかさこそ動いていた。灰色の猫が背中をのばして、用心深く庭へ忍びこんだ。出始めたカブトムシが、もう明るくはないけれども、まだ透き通って見える大気の中をぶんぶん唸《うな》りながら飛び回っていた。わたしは坐って窓の方を見ていた。つまり窓の開くのを心待ちに待っていた。はたして窓が開いて、ジナイーダの姿が現われた。彼女は白い服をきていたが……彼女自身が、顔も、肩も、腕も……まっ白なほど蒼ざめていた。彼女は長い間、身じろぎもしないで、眉をよせたまま長いあいだじっと、正面を見つめていた。わたしは彼女がこんな目つきをしているのを見たことがなかった。それから両手をかたくかたく握りしめて、それをまず唇に、それから額に持っていったと思うと……とつぜん、指を引き離して、髪の毛を耳のうしろへ払いのけ、さっと髪をゆすりあげた。そして、なにか心に決心したらしく、頭を上から下へ大きくうなずいて見せると、バタンと窓をしめた。
三日ほどしてわたしは庭で彼女に出会った。脇へさけようとしたが、彼女の方からわたしを引き止めた。
「手を貸してちょうだい」と彼女は前のようにやさしく愛想よくわたしに言った。「わたしたち、長いあいだおしゃべりしなかったわね」
わたしは彼女の顔をうかがった。目は静かに光っていたし、顔はうすもやを通して見るようにほほえんでいた。
「まだずっとおかげんが悪いんですか?」とわたしは彼女にきいた。
「いいえ、もうすっかりなおったわ」と彼女は答えて、小さな紅いバラを一輪つみ取った。「すこし疲れているけれど、それもじきなおるわ」
「ではまた前と同じようにおなりになるんですね?」わたしはきいた。
ジナイーダはバラを顔に近づけた……あざやかな花びらの照り返しが彼女の頬をそめたように思われた。
「わたし、変わったかしら?」と彼女はわたしにきいた。
「ええ、変わりました」とわたしは小声で答えた。
「わたし、あなたに冷たい態度をとったわね……自分でもわかってるの」とジナイーダは言いだした。「でも気にすることなんかなかったのよ……わたし、ほかにどうしようもなかったの……あら、こんな話をしても始まらないわね!」
「あなたはぼくに愛されたくないんです……そういうことですよ!」わたしは、思わず衝動に駆られて、沈んだ声で叫んだ。
「いいえ、愛してください……でも、前のようにではなしにね」
「というと?」
「わたしたち、お友だちになりましょう……そうだわ!」
ジナイーダはわたしにバラの花をかがせた。「ねえ、いいこと、わたしはあなたよりずっと年上でしょ……わたし、あなたの叔母さまにだってなれるはずよ、本当に。叔母さまでなくって、お怖さまにだって。ところがあなたは……」
「どうせ、ぼくは、あなたから見たら赤ん坊ですよ」
「そうよ、赤ちゃん。でもかわいくって、やさしくって、おりこうだから、わたし、大好きよ。ねえ、どうかしら? わたし、さっそく今日からあなたをわたしのお小姓にとりたててあげるわ。あなたは、お小姓というものはご主人のそばを離れちゃいけないものだということを、忘れてはいけませんよ。ほらこれが、あなたの新しい位のしるし」と彼女は、バラの花をわたしの短い上衣のボタン穴にさしながら、言いそえた。
「あなたに対するわたしのご寵愛のしるし」
「ぼくは前にあなたから、別のご寵愛をうけたことがありますよ」とわたしはつぶやいた。
「まあ!」とジナイーダは言って、横からわたしの顔を見た。「よく覚えてること! いいわ! 今でもやってあげてよ……」
そう言ってわたしの方に身をかがめると、額に、清らかな、安らかなキスをした。
わたしはただちらっと彼女の顔を見あげただけであるが、彼女はくるりとそっぽを向いて、「あとからついてらっしゃい、お小姓さん」と言うと、傍屋の方へ歩きだした。わたしはあとからついて行ったが、心のなかではずっと疑惑をいだいていた。『いったい』とわたしは考えた。『このしとやかな、分別くさい娘が、……ぼくの知っていたあのジナイーダなのだろうか?』歩きつきまでが……しとやかになったような気がした。その容姿全体が堂々として、すらりとしてきたように思われた……
そして、ああ! なんという新しい力をもって恋情はわたしの身うちで燃えたったことであろう!
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十六
夕食のあとでまた客たちが傍屋《はなれ》に集まると、……公爵令嬢もそこへ出てきた。あの最初の忘れがたい晩のように、みんなの顔がそろっていた。ニルマーツキイでさえのこのこやってきた。マイダーノフはまっ先にやってきた……新作の詩を持参したのである。またもや罰金ごっこが始まったけれども、もう以前のようにとっぴなふるまいも、悪ふざけも、ばかさわぎもなくて、……ジプシー的な要素は消え失せていた。ジナイーダはわたしたちの会合に新しい気分を与えたのだ。わたしは小姓の権利によって彼女のそばに坐っていた。そのうちに彼女は、罰金に当たった人が自分の見た夢の話をすることにしましょう、と言いだした。しかしそれはうまくゆかなかった。夢がいっこうに面白くなかったり(ベロヴゾーロフが夢で自分の馬にフナを食わせたら、その馬の首は木になっていたというふうに)、不自然な、つくりごとだったりした。マイダーノフは一編の物語でわれわれをもてなした。そこにはアーチ形の墓穴も、竪琴をいだいた天使も、もの言う花も、遠くから聞こえてくる音も出てくるのだった。ジナイーダは彼におしまいまで話させなかった。
「どうせ作り話になったんですから」と彼女は言った。「今度はめいめいがなにか、ぜひとも自分で考えた話をすることにしましょうよ」
最初に話をすることになったのはベロヴゾーロフだった。
若い軽騎兵は困りはてた。
「ぼくはなにも考え出せやしませんよ!」と彼は叫んだ。
「そんなことなくってよ!」とジナイーダは引き取って、「たとえば、あなたがお嫁さんをもらったものと考えて、あなたがお嫁さんといっしょにどんなふうにくらすか、それを話してみるの。あなたならお嫁さんを閉じこめてしまうでしょうね?」
「わたしなら閉じこめてしまうでしょう」
「で、ご自分はお嫁さんのそばにくっついているんでしょうね?」
「きっとそばにくっついているでしょう」
「けっこうだわ。でも、お嫁さんがうんざりしちゃって、あなたを裏切るようなことがあったら?」
「殺してしまうでしょう」
「もし逃げ出したら?」
「追いかけて行って、やっぱり殺してしまいます」
「そう。じゃ、かりに、わたしがあなたのお嫁さんだとしたら、あなたはどうしたかしら?」
ベロヴゾーロフはちょっと言葉につまった。
「ぼくは自殺するでしょう……」
ジナイーダは笑いだした。
「どうもあなたの歌は長続きしないのね」
二番目の罰金はジナイーダに当たった。彼女は目を天井にあげて考えこんだ。
「じゃ、よくって」と彼女はついに話し始めた。「これがわたしの考えた話なの……豪華な御殿、夏の夜、すばらしい舞踏会を想像してちょうだい。舞踏会の主催者は若き女王なの。どこもかしこも、金や、大理石や、水晶や、絹や、あかりや、ダイヤモンドや、花や、お香やで、ぜいたくの限りをつくしているの」
「あなたはぜいたくがお好きですか?」とルーシンがまぜっかえした。
「ぜいたくって美しいでしょ」と彼女は答えた。「わたしはなんでも美しいものが好き」
「りっぱなものよりもですか?」と彼がきいた。
「なんだかひねくれた言い方ね、よくわからないわ。でも、まぜっかえさないでちょうだい。とにかく、すばらしい舞踏会なの。お客が大ぜいきていて、どれもこれも若くて、りっぱで、勇敢で、みんな夢中で女王を愛しているの」
「客のなかには女性はいないんですか?」とマレーフスキイがきいた。
「いないわ! ちょっと待って! いいえ、いるの」
「みんなぶきりょうなんですか?」
「それが美人なの。でも男性はみんな女王に恋している。女王は背が高くてすんなりしていて、黒い髪の毛の上に小さな金の頭飾りがあるの」
わたしはジナイーダを見たこの瞬間、彼女はわたしに、われわれみんなよりもずっと高貴な存在に見え、その白い額や、じっと動かない眉から、すこぶる明せきな頭脳や威力の気配が感じられたものだから、わたしは、『あなたこそその女王なのだ!』と心のなかで思ったほどである。
「みんな女王のまわりにむらがって」とジナイーダはつづけた。「お追従《ついしょう》たらたらなの」
「女王はお追従が好きなんですか?」とルーシンがたずねた。
「うんざりだわ、この人! まぜっ返してばかりいて……お追従のきらいな人がいるもんですか?」
「もう一つ、最後の質問です」とマレーフスキイが言った。「女王には夫がいるんですか!」
「わたし、そんなこと考えもしなかったわ。いいえ、夫なんて要るもんですか」
「もちろんですとも」とマレーフスキイが言葉を引き取った。「夫なんて要るもんですか」
「Silence!(静かに!)」とフランス語の下手くそなマイダーノフが、フランス語で叫んだ。
「Merci(ありがとう)」とジナイーダが彼に言った。「さて、女王はお追従を聞いたり、音楽を聞いたりしているが、客のなかのだれにだって目もくれないの。六つの窓が上から下まで、つまり天井から床まで開け放たれている。窓の外には大きな星々をちりばめた暗い夜空と、大きな木々の繁った暗い庭があるんだわ。女王は庭を見ているの。そこには、木立ちのそばに噴水があって、闇のなかにほの白く見えている……長く、長く、幻のように。女王の耳には人声や音楽の合い間に静かな水の音が聞こえている。女王はじっと眺めながらこう考えている。皆さん、あなたがたはみんな名門の出で、賢くて、お金持ちです。あなたがたはわたしを取りまいて、わたしの一言一句を尊重し、みんなわたしの足もとで死ぬ覚悟をしておいでです。わたしはあなたがたを思いのままにできる……でも、そこの噴水のそばに、さらさらと音をたてている水のそばに、わたしの愛している人、わたしを思いのままにできる人が立っていて、わたしを待っているのです。その人はりっぱな衣裳も着ていないし、宝石も身につけていないし、だれにも知られていない。けれどもわたしを待っていて、わたしがそこへ行くことを確信しているの……そう、わたしは行きますとも。わたしがその人のところへ行って二人だけになろうと思ったら、わたしを引き止めることのできるような力はないんだわ。わたしはその人といっしょに、庭の暗がりのなかで、木だちのざわめきのなかへ、噴水の水音の下へ、姿を消してしまうってわけ……」
ジナイーダは口をつぐんだ。
「それはつくり話ですか?」とマレーフスキイがずるくきいた。ジナイーダは彼の方を見向きもしなかった。
「ところで皆さん」とだしぬけにルーシンが言い出した。「もしもわれわれが客の一人であって、噴水のそばにいる果報者のことを知っているとしたら、われわれはどうするだろうね?」
「待って、ちょっと待って」とジナイーダがさえぎった。「あなた方の一人々々がどうするか、わたし、自分で言ってみるわ。あなたは、ペロヴゾーロフさん、その人に決闘を申しこむわね。あなたは、マイダーノフさん、その人に当てつけた諷刺詩を書く……おっと、ちがった……あなたは諷刺詩は書けないんだっけ。あなたはバルビエ(十九世紀後半のフランスの詩人)ふうの短長格の長詩でもつくって、『モスクワ電信』(自由主義的な傾向の有名な文学雑誌で一八二五〜三四年、ポレヴォーイにより発行された)にのせるんだわ。あなたは、ニルマーツキイさん、その人から借金するでしょう……いいえ、その人にお金を貸して利息を取るんだわ。あなたは、ドクトル……」彼女は言葉につまった。「あなたがどうなさるか、わたしにはわからないわ」
「ぼくは侍医の役目がら」とルーシンは答えた。「舞踏会を開かないように女王を諌《いさ》めますよ、お客どころじゃないってときに……」
「おっしゃる通りかも知れないわ。伯爵、あなたなら? ……」
「ぼくか?」と例の不気味な微笑をうかべてマレーフスキイが言った……
「あなたならその人に毒入りのボンボンをすすめるわね」
マレーフスキイの顔はかすかにゆがんで、一瞬ユダヤ人のような表情をしたが、しかし彼はすぐに大声で笑いだした。
「あなたはどうするかというと、ヴォルデマールさん……」とジナイーダはつづけたが、「でも、もうたくさんだわ。ほかのことをしてあそびましょうよ」
「ムッシュー・ヴォルデマールは女王のお小姓として、女王が庭へ駆け出すときに、彼女の引きすそを持つでしょうな」と毒々しい調子でマレーフスキイが言った。
わたしはかっとなったが、ジナイーダがすばやくわたしの肩の上に片手をのせて、すこし身体を起こし、かすかにふるえをおびた声で、「伯爵、わたしは一度だってあなたに、無礼なふるまいをすることを許した覚えはありません、どうぞお帰りになってください」と言って、彼に戸口を指《さ》した。
「とんでもない、お嬢さま」とマレーフスキイは言ったが、すっかり蒼白になった。
「公爵令嬢のおっしゃる通りだ」とベロヴゾーロフは叫んで、やはり立ちあがった。
「本当に、そんなつもりじゃなかったんです」とマレーフスキイはつづけた。「わたしの言葉のなかには、おとがめをうけるようなことはなにもなかったと思いますが……お気にさわるようことを言うつもりなどは毛頭……どうぞおゆるしください」
ジナイーダは彼に冷ややかな一瞥をくれて、冷ややかなうす笑いをうかべた。
「どうぞ、そのままでいらして」とむぞうさに手をふって、彼女は言った。「わたしやムッシュー・ヴォルデマールも、こんなに怒ることはありませんでしたわね。あなたは皮肉をおっしゃるのが楽しみなんですもの……いくらでもおっしゃいな」
「おゆるしください」ともう一度マレーフスキイはくり返した。わたしはジナイーダのさっきの動作を思いうかべながら、またもや、本物の女王でもこれ以上の威厳をもって無礼者に戸口を指すことはできないだろう、と考えたことであった。
こんな一幕のあとでは、罰金ごっこも長つづきしなかった。みんなが気まずくなったのである。それもこの一件のためというよりはむしろ、ほかの、はっきりとはしないが、しかし重苦しい感情のためだった。だれもそのことは口にしなかったが、だれもが自分にも、ひとにもその気持ちのあることを認めていた。マイダーノフが自作の詩を朗読した。するとマレーフスキイがやたらと熱っぽくそれをほめちぎった。「いい子に見られようと思ってむりしてるじゃないか」とルーシンがわたしにささやいた。わたしたちはまもなく散会した。ジナイーダは急に考えこむし、公爵夫人は召使をよこして頭痛がすると言ってくるし、ニルマーツキイはリューマチのことをこぼし始める、といったことで……
わたしは長いこと寝つかれなかった。ジナイーダの話に衝撃をうけたからである。
「一体あの話にはなにか暗示が含まれているのだろうか?」わたしは自問した。「だれのことを、なにをほのめかそうとしたんだろう? もし本当にほのめかすことがあるとしたら……人前で言いだす決心がつくものだろうか? いや、いや、そんなはずはない」とわたしは、火照《ほて》った頬をかわるがわる枕に当てがいながら、ささやき声で言った……しかしわたしは話しているときのジナイーダの顔の表情を思いだした……ネスクーシヌイ公園で思わずルーシンの口からもれた叫び声や、彼女のわたしに対する態度が急に変わったことなどを思いだした……そして推測に苦しんだ。『相手はだれだ?』この言葉が闇中にくっきりとうかんで、わたしの目の前にまるで立ちはだかっているようだった。まるで低い不吉な雲が頭上にたれこめているようで……わたしはその重圧を感じた……、わたしはそれが爆発するのを今か今かと待ちうけていた。近ごろわたしはザセーキン家でいろんなことになれもすれば、じつにいろいろなことを見あきるほど見てきた。彼らのだらしのなさや、脂ろうそくの燃えさしや、かけたナイフやフォークや、陰気なヴォニファーチイや、ぼろを着た女中たちや、公爵夫人ご当人のお行儀ぶり……こういった奇妙な生活全体にはわたしはもう驚かなくなっていた……けれども、わたしが今ジナイーダの身に漠然と、感じていることには、……わたしはどうしてもなれることができなかった……『男たらし』と彼女のことをあるときわたしの母が言った。彼女が、わたしの偶像が、わたしの神が……『男たらし』だなんて! この呼び名はわたしを苦しめた。わたしはそれから逃れようとして枕に顔をうずめた。わたしはふんがいしたが……それと同時にこう思ったこともたしかである、ただもう自分が噴水のほとりの果報者になれさえするなら、なんでも承知してやるぞ、なんでも与えてやるぞ!
身体じゅうの血が燃えたち、荒れ狂った。『庭……噴水……』とわたしは思った。『庭へ行って見ようかな』わたしはすばやく着物を着て、家を脱け出した。夜は暗く、木々はかすかにそよいでいた。空からは静かな冷気がおりてきて、野菜畑からはウイキョウの香りがただよってきた。わたしは並木《なみき》道という並木道をすっかり歩きつくしてしまった。自分の軽い足音が、わたしをとまどいさせもすれば、はげましてもくれた。わたしは時に立ちどまって、なにものかを待ちうけながら、心臓がどきんどきんと早鐘のようにうつのに耳をすませた。とうとう、わたしは垣根のそばへ行って、細い棒によりかかった。とつぜん……それとも気のせいだったろうか? ……わたしから五、六歩離れたところを女の人影がちらりと見えた……わたしはひとみをこらして闇のなかを見つめた……わたしは息をころした。あれはなんだろう? 聞こえたのは足音だろうか……それともまだ心臓がどきどきしているのだろうか?
「だれだ、そこにいるのは?」とわたしは言ったが、舌が引きつって、ほとんど聞きとれないほどの声しか出なかった。ほらまた、なにかしら? 押し殺した笑い声か? …それとも木の葉のさらさらいう音か……それともすぐ耳もとでだれかがため息をついているのか? ……わたしは怖くなった……「だれだ、そこにいるのは?」とわたしは、さっきよりももっと小さな声でくり返した。
空気が一瞬間、さっと流れて、空にひとすじの火がひらめいた。星が流れたのだ。「ジナイーダ?」とわたしはきこうとしたが、音は唇の上まで出かかって出なかった。そしてあたりはたちまち、真夜中によくあるように、すっかり深い静寂に沈んでしまった……コオロギさえも木立ちで鳴きやんで……ただどこかで小窓がカタリといっただけである。わたしはしばらくたたずんでいたが、やがて自分の部屋へ、自分の冷えきった寝床に帰った。わたしは奇妙な興奮を感じていた。あいびきに出かけて行って……待ちぼうけをくい、他人の幸福のそばを、指をくわえて通りすぎたような。
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十七
つぎの日、わたしはジナイーダの姿をほんのちらりと見かけただけであった。彼女は公爵夫人といっしょに、辻馬車に乗ってどこかへ出かけるところだった。そのかわりわたしはルーシン……もっとも彼は、ろくろくわたしに挨拶もしなかったが……や、マレーフスキイに会った。若い伯爵は歯を見せてにっと笑い、親しげにわたしに話しかけてきた。傍屋の訪問者のなかで、彼だけはわたしの家に出入りを許されていて、母のお気に入りだった。父はてんで彼を好かず、彼に対する態度はばかていねいであった。
「Ah, mousieur le page !(おや、お小姓さん!)」マレーフスキイは言いだした。「お目にかかれてじつに嬉しいです。あなたの美しい女王さまはなにをしておいでですか?」
彼のみずみずしい男前の顔がこの瞬間じつにいやな気がしたのと……このとき彼がわたしの顔を、いかにも人をばかにしたようなふざけた目つきで見たので、わたしは返事もしてやらなかった。
「君はまだ怒ってるんですか?」と彼はつづけた。「おかしいな。君にお小姓という名前をつけたのは、ぼくじゃないんだし、お小姓というものは始終女王さまのそばにいるもんですからねえ。しかし、失礼ながらご注意申しあげると、君は自分の義務をおろそかにしていますよ」
「というと?」
「お小姓というものは片時なりとも主君のそばを離れてはいけないものです。お小姓は主君のすることはなんでも知っていなくちゃならないし、それどころか、主君を見張っていなくちゃならないものですよ」と言って、それから声を低めてつけ加えた。「昼も夜もね」
「それはどういう意味ですか?」
「どういう意味? ぼくははっきり言っているつもりですがね。昼も、……夜も、と。昼間はまだしも、まあまあどうにかなる。昼間は明るいし、人目もあるし。しかし夜ともなると……とにかく困ったことがおこりやすい。夜な夜な眠らずに見張っていることを、一生けんめい見張っていることを君にすすめるよ。覚えているでしょう……庭、夜中、噴水のほとり……まあ、そういう場所で番をしてるんですね。君はあとでぼくにお礼を言うだろうよ」
マレーフスキイは笑いだした。そして、くるりとわたしに背を向けた。彼は、おそらく、自分の言ったことに大して重きをおいていなかったであろう。彼は人をかつぐのがずいぶんうまいという評判だったし、仮装舞踏会でみんなをだまかす腕前のよさで音に聞こえていたから。それには、彼の人間全体にしみわたっている、ほとんど無意識な嘘つき癖があずかって大きな力があったのである……彼はただわたしをからかってやろうと思っただけなのだ。しかしその一語々々は毒となってわたしの全血管にゆきわたった。血がどっと頭にのぼってきた。『ああ! そうだったのか!』とわたしはひとりごとを言った。『よし! つまり、ぼくがなんとなく庭へ心をひかれたのも、理由があったのだ! そうはさせないぞ!』……とわたしは叫んで、こぶしで自分の胸をどんとたたいた。もっとも、「そうはさせない」というのが、じつはどういうことなのか、そこのところは自分でもよくわからなかったが。『マレーフスキイのやつが自分で庭へ乗りこんでくるのか』とわたしは考えた(彼は、もしかしたら、つい口をすべらしたのかも知れない。彼ならそれぐらいのずうずうしいことはやりかねないから)。『それともだれかほかのやつがくるのか知らないが』(うちの庭の垣根は大そう低かったので、それをのり越えるのはわけもなかった)『どっちにせよ、ぼくにつかまったやつこそ災難だぞ! ぼくに出っくわさないように気をつけるんだな! ぼくは世間のやつらと裏切り者のあの女に(わたしはやはり彼女を裏切り者と呼んだ)、見せつけてやるんだ、ぼくだって復讐できるということを!』
わたしは自分の部屋へ戻ると、机のなかからこのあいだ買ったばかりのイギリス製のナイフを取り出して、鋭い刃にさわってみた。そして眉根にしわをよせて、冷ややかな、一点に集まった決意とともに、それをポケットにつっこんだ。まるでわたしにとって、こんなことをするのがべつに驚くにも当たらず、はじめてでもないかのように。わたしの心臓は毒々しくたかぶり、石のように冷酷になった。わたしは夜がふけるまで眉をしかめ、唇をかみしめたまま、たえず部屋のなかをいったりきたりしていた。ポケットのなかで、手に熱くなったナイフを握りしめながら、なにか恐ろしいことに対して、あらかじめ心の準備をととのえていた。この新しい、これまで味わったことのない感覚は、わたしの心をつよくとらえ、うきうきさせさえしていたので、かんじんのジナイーダのことはほとんど頭のなかになかった。たえずわたしの目の前を若きジプシー、アレーコ(プーシキンの叙事詩『ジプシー』の主人公)の姿がちらついた。『どこへ行く、色男? ……そのまま寝ていろ……』それから、『あんたは血だらけじゃないの……まあ、なんてことをしてくれたの?』……『なんでもない!』なんという残忍な微笑をうかべてわたしは、この『なんでもない!』をくり返したことだろう! 父は家にいなかった。しかし母は(母はこのあいだからほとんどいつも、もやもやしたいらだちの状態にあった)わたしのせっぱつまった様子に目をつけて、夜食のときにこう言った。「なにをそんなにふくれているんだね、ひきわり麦を狙っているネズミみたいに?」わたしは返事のかわりに、おうようにうす笑いをしてみせただけだったが、心のなかでは、『もしも両親が知っていたら……どんなことになるだろう』と思ったことである。十一時を打った。わたしは自分の部屋へ引きさがったが、服を脱がずに、真夜中の来るのを待った。とうとう十二時を打った。『時間だ!』とわたしはひそひそ声で吐き出すように言って、上まできちんとボタンをかけ、腕まくりまでして、庭へ出かけた。
張りこむ場所はあらかじめ決めてあった。うちの領分とザセーキン家の領分の境になっている垣根は、庭のはずれで共同の塀につき当たっていたが、そこに、モミの木が一本はえていた。その低い、うっそうと繁った枝の下に立つと、夜の闇のゆるす範囲内で、あたりでおこる一切がよく見えるのだった。そこを一本の小道がうねうねと通っていて、それがいつもわたしには神秘めいて見えるのだった。というのは、その小道が、蛇のように垣根の下(そこには人の乗り越えた跡が残っていた)を通りぬけてアカシヤの繁みにつつまれた円いあずまやに通じていたからである。わたしはモミの木までたどりつくと、幹によりかかって、見張りを始めた。
前夜と同じように静かな夜だった。しかし空の雨雲は前日よりも少なかったので、木の繁みの形はもとよりか、背の高い草花の輪郭までが、いっそうはっきりと見えていた。待つ身にとって始めの数瞬間はまことに身も細る思いで、ほとんど恐ろしいくらいだった。腹はすっかりきまっていた。気がかりなのはどう行動するかということだけであった。『どこへ行く? とまれ! 白状しろ……でないと殺しちまうぞ!』とどなりつけてやろうか、……それとも一思いにグサリと突き刺してやろうか……ちょっと物音がしても、カサリ、とか、サラサラとかいう音がしても、それが一々わたしには意味のある、異常なものに聞こえるのだった……わたしは覚悟をきめた……わたしは上体を前に乗り出した……けれども事もなく半時間たち、一時間たつうちに、わたしの血潮はしだいに静まり、冷めていった。こんなことをしていてもむだだ、それどころかこっけいなくらいだ、マレーフスキイにまんまと一杯くわされたのにちがいない、という意識が……胸のなかに忍びこんできだした。わたしは待ち伏せをやめて庭を一まわりした。わざとのように、どこにもかすかな物音一つしなかった。万物が眠っていた。うちの犬までが、木戸のそばに身体を丸めて眠っていた。わたしは温室の廃墟によじ登った。前方に遠くの野原が見えた。わたしはジナイーダとの出会いを思いだして、じっと考えこんだ……
わたしはどきっとした……ギイと戸の開く音がして、それから小枝の折れる音がかすかに聞こえたような気がしたのだ。わたしはふた跳びで廃墟から跳びおりると……その場に立ちすくんだ。速い、軽やかな、けれども用心深い足音がはっきりと庭のなかに響いていた。それはわたしの方にやってくる。『来たな! ……とうとう来たぞ!』という考えが、胸中をすばやくかすめ去った。わたしはぶるぶるしながら、ふるえる手でポケットからナイフを取り出すと、ふるえる手でそれを開いた……なにか赤い火花のようなものが目のなかでぐるぐるまわりだし、恐怖と憎しみで髪の毛がぞくぞくとなった! ……足音はまっすぐこちらへやってくる! わたしは腰を曲げ、足音のする方に身がまえた……男の姿が現われた……ああ! それはわたしの父であった!
黒いマントにすっぽりくるまり、帽子を目深《まぶか》にかぶっていたものの、父だということがすぐにわたしにはわかった。父は爪先立ちでそばを通りすぎた。彼はわたしに気がつかなかった。物かげにかくれたわけではないが、わたしが小さくなり身体をちぢこめて、おそらく、地べたすれすれに這いつくばっていたからである。嫉妬に燃えて、殺人を決意したオセロが、突如として小学生に化してしまったのである……わたしは思いがけない父の出現に胆《きも》をつぶしたものだから、彼がどこから来てどこへ姿を消したのか、はじめのうちは気がつかなかったほどである。ふたたびあたりがひっそりと静まり返ったときにやっと、わたしは身体を起こして、考えたのだった。『なんだってお父さんは夜中に庭なんか歩くんだろう』と。わたしは怖さのあまりナイフを草むらに落としてしまったが、さがそうともしなかった。恥ずかしくてならなかったのである。わたしはたちまち迷いからさめた。とはいえ、家へ帰る途中でわたしは、ニワトコの繁みの下にある例のベンチのそばへ行って、ジナイーダの寝室の窓をうかがった。すこし反り返っている何枚かの窓ガラスは、夜空から落ちるかすかな光をうけて、ぼうっと青みがかっていた。とつぜん……その色が変わり始めた……内側から……わたしはそれを見た、はっきりと見た……用心深く、そっと、白っぽい巻き上げカーテンがおろされて、窓がまちのところまできたときに……そのまま動かなくなった。
「あれはなんだろう?」いつのまにかふたたび自分の部屋にもどっていたわたしは、ほとんど無意識に、声を出してそう言った。「夢なのか、偶然なのか、それとも……」とつぜん、ある臆測がわたしの頭にうかんだ。それはあまりにもなまなましく、異様なものだったので、とてもわたしには、それにふける勇気がなかった。
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十八
翌朝起きると頭痛がした。昨日の興奮は消えていた。それは重苦しい疑惑と、なにかしらこれまで味わったことのない悲哀……ちょうどわたしのなかでなにかが息を引き取ろうとしているような……にかわっていた。
「なんだって君は、脳味噌を半分抜き取られたウサギみたいな顔をしているんだね?」と出会いがしらにルーシンが言った。
朝食のとき、わたしは父や母のようすをひそかにうかがった。父は例によって落ちつきはらっていたし、母は例の通り内心いらいらしていた。わたしは、父がわたしにやさしく話しかけるのではないかと期待していた。父には時どきそんなことがあったのである……しかし父はわたしに、つね日ごろの冷たいお愛想さえ言ってくれなかった。『すっかりジナイーダに話してしまおうか? ……』とわたしは考えた。『もうどうせ同じことじゃないか……二人の間のことはなにもかもおしまいなのだ』わたしは彼女のところへ出かけていったが、彼女になに一つ話さなかったばかりか……雑談さえ思うようにできなかった。公爵夫人のところへ、彼女の生みの息子が、休暇でペテルブルクから帰省したのである。幼年学校の生徒で、十二ぐらいだった。ジナイーダはさっそくわたしに、この弟をおしつけた。
「さあ、わたしのかわいいヴォロージャ(彼女が愛称でわたしを呼んだのはこれが初めてだった)、お仲間をご紹介するわ。この子もやっぱりヴォロージャっていうの。どうぞ、かわいがってあげてちょうだい。まだはにかみ屋だけれど、気だてはいいの。ネスクーシヌイ公園でも見せて、いっしょに散歩してやってください、面倒を見てあげてくださいね。いいでしょう、そうしてくださるわね? あなたも、ほんとにいい人なんですもの!」
彼女は両手をやさしくわたしの肩の上にのせた。わたしはすっかりどぎまぎしてしまった。この少年が来たおかげで、わたしまで子供にされてしまったのである。わたしは黙って幼年学校の生徒を眺めた。向こうもやはり無言のままわたしを見つめた。ジナイーダは高らかに笑って、二人をたがいにおしやった。
「さあ抱き合って、いい子だから!」
わたしたちは抱き合った。
「よかったら、庭を散歩しましょうか?」わたしは幼年学校の生徒にきいた。
「はい、どうぞ」と彼は、いかにも幼年学校の生徒らしい、しゃがれ声で答えた。
ジナイーダはまた笑いだした……わたしは、彼女の顔にこんな魅力的な紅らみのさしたことが、これまで一度もなかったということに、いち早く気がついた。わたしは幼年学校の生徒といっしょに出かけた。うちの庭には古いブランコがあった。わたしは彼を薄い板ぎれの上に坐らせて、ゆさぶってやった。幅広い金モールのついた、厚地のラシャの新調の制服を着て、身じろぎもせずに坐ったまま、彼はしっかりと綱につかまっていた。
「襟《カラー》のボタンをはずしたらどうです」とわたしは彼に言った。
「平気であります、なれていますから」と彼は言って咳ばらいをした。
彼は姉に似ていた。とくに目がそっくりだった。わたしは彼の面倒を見てやるのが楽しくもあったが、しかしそれと同時に、あのうずくような悲哀がそっと胸をかむのであった。『これじゃもう、まったく、赤んぼだ』とわたしは考えた。『ところが、昨日は……』わたしはゆうベナイフを落とした場所を思い出したので、そこへ行ってナイフを見つけ出した。幼年学校生徒はわたしからそれをねだり取って、ウドの太い茎をもぎ取り、それを削って笛をつくり、ピューピュー吹きだした。オセロもまた吹いてみた。
そのかわり、夕方に、この同じオセロは、ジナイーダが庭の隅にいるオセロを見つけ出して、なぜそんなに悲しそうな顔をしているの、ときいたときに、ジナイーダの胸のなかで、どんなに泣いたことであろう。とめどなくふり落ちるわたしの涙を見て、彼女はびっくりした。
「どうしたの? どうしたの、ヴォロージャ?」と彼女はくり返したが、わたしが返事もしなければ、泣きやみもしないのを見て、涙に濡れたわたしの頬にキスしようとした。
しかしわたしは顔をそむけて、泣きじゃくりながらこうささやいた。
「ぼくはなにもかも知っています。なぜあなたはぼくをおもちゃにしたんですか? ……なんのためにあなたはぼくの愛が必要だったのです?」
「わたしが悪かったわ、ヴォロージャ……」ジナイーダは言った。「ああ、本当にすまなかったわ……」と彼女は言いそえて両手をぎゅっと握りしめた。「わたしの中には悪い、えたいの知れない、罪深いものがたくさんあるの……でもわたし、今はあなたをおもちゃにしてるんじゃありません、わたしはあなたを愛しています……なぜ、どんなふうにかってことは、あなたには想像もつかないわ……それはそうと、あなたはなにを知っているの?」
なにをわたしが彼女に言えだろう? 彼女はわたしの前に立って、じっとわたしを見つめていた……ところがわたしは、彼女に見つめられるやいなや、頭のてっぺんから足の先まで、すっかり彼女のものとなってしまうのだった……十五分ほどしてわたしはもう幼年学校生徒やジナイーダといっしょに鬼ごっこをしていた。わたしは泣いていなかった。わたしは笑っていた。けれども泣きはらした目ぶたからは、笑うたびに涙がこぼれるのだった。わたしの頸っ玉にはネクタイの代わりにジナイーダのリボンが結んであった。首尾よく彼女の胴をつかまえられたとき、わたしは歓声をあげるのだった。彼女はわたしをどうなりと思うままにすることができた。
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十九
失敗に終わった夜中の遠征のあと、一週間のあいだにわたしの身におこったことを、詳しく話すようにと言われたら、わたしはすこぶる閉口したにちがいない。それは異様な、熱病にかかったような時期であり、わけのわからない混沌としたものであった、この上なく矛盾した感情や、想念や、疑惑や、希望や、喜びや、なやみが、そのなかでつむじ風のようにうずまいていた。わたしは自分の心のなかをのぞいてみることを恐れた(十六歳の少年が自分の心のなかをのぞいてみることができるならば、の話だが)。また、なにごとにせよ、はっきりと理解することを恐れた。わたしはただ性急に一日を晩まで暮らそうとあせっていたのである。その代わり夜はよく眠った……子供っぽい軽率さがそれを助けた。わたしは、自分が愛されているかどうか、知りたくなかったし、自分が愛されていないと、自認することを欲しなかった。わたしは父を避けた……がしかしジナイーダをさけることはわたしにはできなかった……彼女の前に出るとわたしは火で焼かれる思いだった……しかしわたしを焼き、わたしを溶かす火がどんな火であるかを知る必要はなかった……わたしは溶けて燃えてゆくのが気持ちがよかったからである。わたしは感動にすっかり身をゆだね、自らをあざむき、思い出からは顔をそむけ、前途に予感されることには目をつぶった……この苦悩はおそらく長続きしなかったにちがいないが……落雷が一撃にすべてを終わらせて、わたしは新しいわだちの上にほうり出されたのである。
ある日のこと、かなり長い散歩から昼飯に帰ってみると、驚いたことにわたしは一人で食事をしなければならなかった。父は外出していたし、母は気分が悪いので、なにも食べたくないと言って寝室にとじこもっていた。従僕たちの顔つきからして、わたしは、なにか異常なできごとがあったな、と思った……彼らに問いただしてみる勇気はわたしになかったが、さいわいわたしには一人の仲よしがいた。それはフィリップという食堂係の若者で、詩の熱心な愛好家であり、ギターの名人だった。わたしは彼にきいてみた。彼から聞き知ったところによると、父と母のあいだにはすさまじい一幕があった(言葉の端にいたるまで、なにもかも女中部屋につつぬけであった。多くはフランス語で話されたが、小間使いのマーシャはパリから来た裁縫師のところに五年も住んでいたので、ぜんぶわかった)。母は父の不実を責め、隣家の令嬢との交際を非難した。父ははじめ言いわけを言っていたが、それからカッとなり、今度は自分の方から、どうやら『奥さまのお年のこと』らしかったが、なにかひどいことを言ったので、母はとうとう泣きだしてしまった。母もまた、公爵夫人にやったとかいう手形のことを持ち出して、公爵夫人のことを悪《あ》しざまに言い、ついでに令嬢のことまでものべたてたので、父は母におどし文句をつきつけたのだということであった。
「こんなさわぎになりましたのも」とフィリップはつづけた。「もとはと言えば匿名の手紙のせいなのです。だれが書いたものやらわかりませんが。そうでもなければ、こんな事柄が明るみに出るわけは毛頭ありません」
「じゃ、やっぱりなにかあったんだね?」とわたしはやっとのことで言ったが、そのあいだにもわたしの手足は冷たくなり、胸の奥底《おくそこ》でなにかがふるえだした。
フィリップは意味ありげに目くばせした。
「ありました。こういうことは到底かくしおおせるものではございません。その点、旦那さまは今度はずいぶん慎重におやりになりました……それにしても、早い話が、箱馬車をやとうとかなんとか……やっぱり人手なしではすまされませんので」
わたしはフィリップをさがらせると、ベッドの上に転がった。わたしはむせび泣きもしなければ、絶望におちいりもしなかった。わたしは、いつ、どのようにしてそのことがおこったのか、と自問しなかった。どうして前に、ずっと前に気がつかなかったのか、といぶかりもしなかった。父をうらめしいとも思わなかった……わたしの知ったことは、わたしの力に及ばないことだった。この思いがけない発見はわたしをおしつぶしてしまったのだ……一切は終わった。わたしの心の花はことごとく、たちまちもぎ取られて、投げ散らされ、踏みにじられて、わたしのまわりに散り敷いていた。
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二十
母は翌日、町へ引きあげると言いだした。その朝、父は母の寝室へ行って長いこと二人きりでいた。父が母にどう言ったか、だれも聞いたものはいないが、しかし母はもう泣いていなかった。母は気持ちが落ちついて、食事を命じた。とはいうもののやはり姿も見せず、決心も変えなかった。忘れもしない、わたしは一日じゅうぶらつきまわったが、庭には足を踏み入れず、一度も傍屋《はなれ》の方に目をやらなかった……ところが晩になって、わたしは、驚くべきできごとをこの目で見ることとなったのだ。父がマレーフスキイ伯爵の腕を取り、広間を通って玄関へとつれ出し、従僕のいる前で、冷ややかにこう言ったのである。「二、三日前にあなたは、伯爵、ある家で、ドアを指し示されましたな。……わたしは今あなたにくどくど申しあげようとは思わない。が、しかしこのことだけは申しのべさせていただきましょう。二度とふたたび拙宅へいらっしゃるようなことがあれば、わたしはあなたを窓からほうり出しますよ。わたしはあなたの筆跡が気にくわないのです」伯爵は頭を下げて、歯を食いしばり、小さくなって、姿を消した。
わたしたちの家のある、モスクワ市内のアルバート街へ引きあげる準備が始まった。おそらく、父にしても、もうこれ以上、別荘に残っていたくなかったのであろう。しかし、騒動を起こさないように、父は母をうまく拝み倒したようであった。万事はおだやかに、ゆっくりと運んだ。母は使いの者をやって公爵夫人に、健康がすぐれないので出発まえにお目にかかれずまことに残念に思います、と挨拶させたほどである。わたしは犯人のようにうろつきまわった、……早くなにもかも終わってくれればいいのに、とそれだけを望んで。ただ一つわたしの念頭を去らない想念があった。……それは、どうして彼女が、若い娘が……それに、とにもかくにも公爵令嬢ともあろうものが……こんなことをしでかす決心がついたものかということだった。わたしの父が自由の身でないことは彼女も知っているし、たとえば、ベロヴゾーロフのところへだって、お嫁にゆけるではないか。いったい彼女はなにを当てにしたのだろうか? どうして自分の将来を台なしにすることを恐れなかったのだろう? そうだ、とわたしは思った、これが恋なのだ、これが情熱なのだ、これが身も心もささげつくすということなのだ……するとルーシンの言葉が思いだされた。「自分を犠牲にすることを楽しく思う人もいるものだ」ひょいとわたしは、傍屋の窓の一つに、白いぼんやりしたものを認めた。『あれはジナイーダの顔じゃないかしら?』とわたしは思った……まさしく、それは彼女の顔だった。わたしはもうがまんできなかった。最後のさよならを言わずに彼女と別れることは、わたしにはできなかった。わたしは適当な瞬間をとらえて傍屋に向かった。客間へ入ると公爵夫人は、例によってだらしなくぞんざいな挨拶で、わたしを迎えた。
「どうしたんですの、お坊っちゃん、お宅がこんなに早々とあわただしく引きあげなさるなんて?」と両方の鼻の穴に嗅ぎタバコをつっこみながら、彼女は言った。
わたしは彼女の顔を見て、ほっと胸が軽くなった。フィリップの言った手形という言葉がずっと気になっていたからである。彼女はすこしもそんなことを疑っていなかった……すくなくともそのときわたしにはそう見えた。ジナイーダが隣の部屋から姿をあらわした。彼女は黒い服をき、蒼い顔をして、髪の毛はふりほどいていた。彼女は無言のままわたしの手を取って、わたしを自分の部屋へつれていった。
「あなたの声がしたので」と彼女は言いだした。「わたし、すぐに出ていったわ。こんなにやすやすとわたしたちをすてて、行ってしまうの? 意地悪!」
「お別れにまいりました、お嬢さま」とわたしは答えた。「たぶん、もうお目にかかることはないでしょう。ご承知と思いますが、うちが越しますので」
彼女はじっとわたしを見つめた。
「ええ、聞きました。よくいらしてくださったわ。わたし、もうあなたにお目にかかれないものと思っていましたの。ごきげんよう。わたし、よくあなたのことをいじめたわ。でも、わたしって、あなたがお思いになるような悪い女じゃありませんのよ」
彼女はくるりと向こうを向いて窓によりかかった。
「ほんとうに、わたし、そんなじゃないの。わたしには、よくわかっているわ、あなたはわたしのことを悪く思ってらっしゃる」
「わたしが?」
「ええ、あなたよ……あなたが」
「ぼくが?」とわたしは悲しげにくり返した。わたしの胸は以前のように、とてもうちかちがたい、言いあらわすことのできない魔力にひきつけられてあやしくふるえ始めた。「ぼくが? 嘘じゃありません、ジナイーダさん、あなたがなにをなさろうと、どんなにぼくをいじめたにしても、ぼくはあなたを一生涯愛し、崇拝しますよ」
彼女はすばやくわたしの方へ向き直って、両手を大きくひろげ、わたしの頭をだきしめて、強く、熱烈にわたしにキスをした。この長い別れのキスが、だれを心当てにしたのかは知るよしもないが、わたしは貧るようにその甘さを味わった。わたしはそれが二度とくり返されないことを知っていたのだ。
「さようなら、さようなら」とわたしはくり返した。
彼女は身をふりほどいて出て行った。わたしも外へ出た。わたしがどんな気持ちをいだいて外へ出たか、わたしはそれをひとに伝えることができない。わたしはもう二度とあのような気持ちを味わいたくないのだ。しかし、一度もあのような気持ちを味わわなかったならば、わたしは自分を不幸だと思ったにちがいない。
わたしたちは町へ引きあげた。わたしはすぐには過去をふりすてることができなかったし、おいそれと勉強に取りかかることもできなかった。わたしの心の痛手はゆっくりと癒《い》えていった。しかし父その人に対してはすこしも悪い感情を持たなかった。それどころか、父はわたしの目には一そう偉くなったように映じた……この矛盾は心理学者たちに適当に説明してもらうとしよう。ある日並木道を歩いていると、ひょっこりルーシンに出会ったので、わたしは言いようもないほどうれしかった。わたしは彼のまっすぐな、飾り気のない性質が好きだったし、その上また、彼に出会ったおかげで一度にどっといろいろなことを思いだしたからには、なおさらなつかしかったのだ。わたしは彼のそばへ飛んで行った。
「やあ!」と彼は言って眉をしかめた。「君かい! どれ、顔を見せてごらん。相変わらず黄色い顔をしているが、さすがに目の中には以前のにごりはなくなったようだ。愛玩《ペット》用の小犬じゃなしに、人間らしく見える。けっこうなことだ。で、どうしている? 勉強しているかね?」
わたしはため息をついた。嘘はつきたくなかったし、本当のことを言うのははずかしかった。
「なに、なんでもないさ」とルーシンはつづけた。「びくびくすることはない。大切なのは、正常な生活をして、やたらに夢中にならないことだ。なんの利益もないからね。浪のまにまに押し流されて行くんじゃ……ろくなことはない。人間であるからには、たとえ岩の上だって、自分の足でしゃんと立っていなくちゃ。わしはほら、この通り、どうも咳が出て……ところでベロヴゾーロフのことは……君、聞きましたか?」
「なんでしょう? 聞いていません」
「行方《ゆくえ》不明なのさ。コーカサスヘ行ったということだ。いい教訓だよ、君。それというのもみんな、潮時に手を切ること、綱を引き破ることができないからなんだよ。君はどうやら、ぶじに跳び出たらしいね。気をつけて、二度とひっかかるんじゃないよ。さよなら」
『ひっかかるもんか……』とわたしは思った。『もう二度とあの人には会うまい』ところがわたしは、もう一度ジナイーダに会うように運命づけられていたのだ。
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二十一
父は毎日のように馬に乗って外へ出た。彼は栗毛ぶちの、すばらしいイギリス馬を持っていた。すらりとして、脚が長く、疲れを知らぬ荒馬だった。その名をエレクトリーク(いなずま)といった。父のほかにはだれ一人としてこの馬を乗りこなせる者はいなかった。ある日のこと、父は上機嫌でわたしのところへやってきたが、それはじつにしばらくぶりのことだった。彼は外へ出かけるところで、もう拍車をつけていた。わたしは父に、いっしょにつれて行ってくれるようにせがんだ。
「それより馬跳びでもして遊んだ方がよかろう」と父はわたしに答えた。「お前のドイツ馬ではとてもついてこれまい」
「ついていけますよ。ぼくも拍車をつけてきます」
「まあ、いいだろう」
わたしたちは出発した。わたしの馬は毛むくじゃらの黒い馬で、脚が丈夫で、駿足だった。もっとも、エレクトリークがトロットでいっぱいに駈け出すと、わたしの馬は全速力で走らなければならなかったが、それでもわたしはおくれずについていった。わたしは父のような乗馬の名人を見たことがない。馬上の姿はまことに見事であり、むぞうさに見えて巧みなその手綱さばきは、鞍の下の馬までが感じていて、乗り手を誇りとしているかのようであった。わたしたちは並木道という並木道をことごとく乗りつくし、乙女が原にも行ったし、垣根もいくつか跳び越して(はじめは跳び越すのがこわかったが、父は臆病者を軽蔑するので、……わたしも怖がるのをやめた)、モスクワ河を二度もわたった。それでわたしは、もうそろそろ家へ帰るのだろうと思っていた。わたしの馬が疲れていることに、父自身が気づいていたからにはなおさらのことだった。ところが急に、父は馬首を転じ、クリミヤの瀬からわきへそれて、岸づたいに馬をとばしはじめた。わたしはあとを追って馬を走らせた。古い丸太を山のようにつんであるところまでくると、父はひらりとエレクトリークからとび下りて、わたしにも馬をおりるように命じた。そして、自分の馬の手綱をわたしにあずけると、その丸太のそばでしばらく待っているようにと言い、自分はせまい横町へ折れて、姿を消した。わたしは二頭の馬をつれて、エレクトリークを叱りつけながら、河岸をいったりきたりしはじめた。エレクトリークは歩きながらひっきりなしに大きな首をふり、身体をゆさぶり、鼻をならしたり、いなないたりした。わたしが立ちどまると、左右のひづめで交互に土を掘ったり、けたたましい声をたててわたしのドイツ馬の頸っ玉にかみついたりした。要するに甘やかされた pur sang(純血種)らしくふるまったのである。父はなかなかもどってこなかった。河からはいやなしめっぽい風が吹いてきた。ぬか雨が音もなくふりだして、さっきからわたしがそばをぶらついている、もう飽き飽きしてしまった愚にもつかない灰色の丸太の上に、小さな黒い斑点をいっぱいにつけた。わたしは気がめいってきたが、父はなおも帰ってこなかった。フィンランド人の立番巡査が、これまた灰色ずくめの服を着て、つぼのような形のひどく大きい古い筒形帽子をかぶり、戟《ほこ》を持って(それにしても、なんだって立番巡査がモスクワ河の岸になんかきているんだろう!)、わたしの方に近づいてきた。そしておばあさんのような、しわくちゃの顔をわたしに向けて、言った。
「馬をつれてこんな所でなにをしているんです、坊っちゃん? 貸しなさい、わしが持っててあげるから」
わたしは返事をしなかった。彼はわたしにタバコをねだった。この男から逃れるために(その上、待ち遠しくてたまらなかったので)、わたしは父の立ち去った方角へ五、六歩あるいた。それから横町をはずれまで行って、角を曲がり、立ちどまった。往来を四十歩ほど行った先の、木造の小さな家の開け放された窓の前に、こちらに背を向けて父が立っていたのである。父は窓がまちに胸をもたせていた。家の中には、カーテンのかげになって半分しか見えなかったが、黒っぽい服を着た女が坐っていて、父と話していた。その女はジナイーダであった。
わたしは立ちすくんでしまった。まったくのところ、それは思いもよらぬことだった。はじめわたしは逃げ出そうと思った。『父がふり向いたら』とわたしは思った。『ぼくはもうおしまいだ』……しかし奇妙な感情が、好奇心よりも強く、それどころか嫉妬よりも、また恐怖よりも強い感情が、……わたしをおしとめた。わたしはじっと見つめだした。わたしは聞き耳をたてた。父がなにか言いはっているらしかった。ジナイーダは承知しなかった。わたしは今でもあのときの彼女の顔がありありと目にうかぶ……悲しげな、真剣な、美しい顔で、献身、憂い、愛、そしてなにかしら一種の絶望……とでも言うよりほかの言葉をわたしは知らない……といったものの、言うに言われない影が宿っていた。彼女は短い言葉で受け答えして、目をあげずに、ただ微笑するだけだった……従順に、そしてかたくなに。この微笑を見ただけでわたしは、もとのジナイーダだなと思った。父は肩をすくめて帽子をかぶり直した……それはじれったいときに父がいつもするしぐさだった……それから「あなたはあれと別れなくちゃなりません……」という言葉が聞こえてきた。ジナイーダは上体を起こして片手をさしのべた……と、いきなりわたしの目の前で、ありうべからざることがおこった。父がとつぜん、それまでフロックコートの裾のほこりを払っていた鞭《むち》をさっとふり上げたかと思うと……肘までむき出しになっているジナイーダの腕を、ピシリと打ちすえる音がしたのである。わたしはもうすこしで叫び声を立てるところだったが、かろうじて自分をおさえた。ジナイーダはびくりと身をふるわせたが、無言のまま父を見て、ゆっくりと自分の腕を唇に当てがい、赤くみみずばれになった傷痕にキスをした。父は鞭をわきへ投げすてて、あわただしく玄関の段々をかけあがると、家のなかにとびこんだ……ジナイーダはうしろをふり向いた……そして両手をさしのべ、頭をのけぞらせて、これまた窓べを離れた。
驚いて胸をどきどきさせ、ある恐ろしい疑惑を胸にいだきながら、わたしはもときた道を駆け出した。横町に駆けぬけたとき、もうすこしでエレクトリークの手綱をはなしてしまうところだったが、とにかく河岸に取って返した。わたしはどうしてもわけがわからなかった。冷静で自制心のある父が、時おり狂暴な発作をおこすことは知っていた、が……それにしても自分の今見た光景は、どうにも理解できなかった……しかしわたしは同時にまた、こうも感じた。わたしがこの先どれだけ生きるにせよ、ジナイーダのあの動作や、視線や、微笑を忘れることは終生できまい、これまで知らなかった彼女の新しい姿、とつぜんわたしの目の前に現われたあの姿は、永久にわたしの記憶にやきつけられたのだ、と。わたしはぼんやり河をながめていた。いつしか涙を流しているのに、わたしは気づかなかった。『あの女がぶたれるなんて』とわたしは思った……『ぶたれるなんて……ぶたれるなんて……』
「おい、どうしたんだね……馬をよこさないか!」とうしろで父の声がした。
わたしは上の空で父に手綱を渡した。父はエレクトリークに跳び乗った……こごえきった馬はいきなり後脚で立って、三メートルあまりも前に跳びはねた……だが父はじきに馬をおとなしくさせた。父は両の脇腹へ拍車をくれ、げんこで馬のくびに一撃を加えた……「ちえっ、鞭がないや」と父はつぶやいた。
わたしは、さっきその鞭で鋭く風を切り、ピシリと打ちすえたのを思い出して、身ぶるいした。
「どこへやったんですか?」としばらくしてから、わたしは父にきいた。
父はわたしには答えずさきに馬をとばした。わたしは追いついた。わたしはどうしても父の顔が見たかった。
「わしのいないあいだ退屈したろう?」と父は吐き出すような調子で言った。
「少し。でも、どこへ鞭を落としてきたんですか?」と、またわたしはきいた。
父はじろりとわたしの顔を見た。
「落としたんじゃない」と父は言った。「すてたのだ」
父は考えこんで、うなだれた……このときわたしははじめて、そしておそらくこれを最後に、父の端正な顔だちが、どんなにやさしさや思いやりをあらわすことができるかを見たのである。
父はまた馬をとばしだした。わたしはもう追いつくことができなかった。わたしは父より十五分おくれて家に帰った。
『これが恋というものなのだ』とわたしは、夜ふけに机の前に坐りながら、またひとりごとを言った。机の上にはそろそろノートや本がのりはじめていた。『これが情熱なのだ! ……ちょっと考えると、ひとにぶたれるなんて、とてもがまんできそうもない、たとえそれがどんな種類のものであろうと! ……言いようもなくかわいらしい手でぶたれるんでも……ところが、どうやら、平気なこともあるらしい、もし本当に恋しているんだと……それなのにぼくは……ぼくは思いちがいをしていた……』
この一月《ひとつき》のうちにわたしは大そう年をとった……わたしの恋は(それにともなう興奮やなやみのすべてをふくめて)、今一つの、未知ななにものかの前に出ると、われながらひどくちっぽけな、子供っぽい、みすぼらしいものに思われてきた。その未知なあるものとは一体なになのか、わたしにはほとんどわからなかった。それは、未知な、美しい、がしかし怖い顔のようにわたしをおびえさせるのだった。人がその顔を、うす闇の中でよくよく見きわめようとつとめてもむなしいのである……
わたしはちょうどこの夜、異様な、恐ろしい夢を見た。わたしは、天井の低い、うす暗い部屋へ入ってゆくところである……父が手に鞭を持って立ち、足を踏みならしている。隅にはジナイーダが身をちぢめていて、彼女の手にではなく、額に一筋赤い線がしるされている……と、二人のうしろから、全身血まみれになったベロヴゾーロフがむくむく起き上がって、蒼ざめた唇を開くと、憤怒に燃えて父をおどかすのだった。
二月《ふたつき》後にわたしは大学へ入った。それから半年のちに、父はペテルブルクで(脳出血で)亡くなった。母やわたしをつれて同地へ引き移ったばかりのところだった。死ぬ数日前に父はモスクワから一通の手紙を受け取ったが、それを見て父はひどく興奮した……父は母のところへ行って、なにかを頼みこんだ。なんでも父は泣いて頼んだということである。わたしのあの父がである! 発作のおきる、ちょうどその日の朝のこと、父はフランス語でわたしあての手紙を書きだしていた。『わが子よ』と父はわたしに書いていた。『女の愛をおそれよ、この幸福を、この毒を恐れよ……』父の死後母は、かなりの大金をモスクワヘ送った。
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二十二
四年ほどたった。わたしは大学を出たばかりで、なにを始めたものか、どんな扉を叩いていいものか、まだよくわからなかった。さし当たって仕事もせずにぶらぶら遊んでいた。ある晩のこと、わたしは劇場でマイダーノフに会った。彼はめでたく結婚して、役所につとめていたが、わたしの見るところではすこしも変わっていなかった。相も変わらず、その必要がないのに有頂天になったり、突如としてしょげ返ったりするのだった。
「ときに、君は知ってるだろうね」と彼はわたしに言った。「ドーリスカヤ夫人がここに来てるってことを」
「ドーリスカヤ夫人というと?」
「君はもう忘れてしまったのかい? もとのザセーキナ公爵令嬢ですよ、ほらぼくたちみんなが恋をしていた。君だってそうだった。覚えているでしょう、ネスクーシヌイ公園のそばの別荘で」
「あの女がドーリスキイという人の奥さんになったんですか?」
「そう」
「で、今ここに、劇場にきているんですか?」
「いや、ペテルブルクにきてるんですよ。二、三日前にやってきたんです。外国へ行く予定で」
「夫ってどんな人ですか?」とわたしはきいた。
「なかなかいい男です、財産もあるし。ぼくとはモスクワの役所で同僚でした。お察しの通り……例の一件のあとでは……君もよく知ってるはずですね(マイダーノフは意味ありげに微笑した)……結婚の相手を見つけるのが容易じゃなかったのです。いろいろとあとをひいて……しかしあの人の才知をもってすれば、なんだって可能ですよ。行ってごらんなさい。きっと喜びます。あの人は前よりもいっそうきれいになりましたよ」
マイダーノフはわたしにジナイーダの宿所を教えてくれた。彼女はデムート館に泊まっていた。昔の思い出がわたしの胸のなかで、しきりにうごめいた……わたしはさっそく明日にももとの『恋人』を訪ねてみようと心に誓った。しかしなんのかのと用事ができて、そのうちに一週間、二週間とすぎてしまい、わたしがやっと、テムート館に出かけていって、ドーリスカヤ夫人をたずねたときには……わたしは、彼女は四日前にお産のために、ほとんど急に死んでしまった、と聞かされたのだった。
わたしはなにかしらハッと胸をつかれる思いであった。彼女に会えたのに、わたしは会わなかった、そしてもう永久に会うことができないのだという思い……この苦い思いがわたしの胸に食い入って、はげしくわたしをとがめるのだった。『死んだ!』とわたしは、玄関番の顔をぼんやり見ながら、おうむ返しに言った。わたしはそっと往来へ出ると、どことも知れず歩きだした。たちまち過去の一切がうかび出て、わたしの前にたちはだかった。なんというあえないことだろう、あの若々しい、燃えるような、華麗な命が、急ぎながら、胸をわくわくさせながら急いで突き進んでいた、その目標はこれだったのか! そう思いながらわたしは、心のなかでこんなことを思いうかべていた。あのなつかしい顔だちや、目や、巻き髪が……せまい箱のなかに入れられて、じめじめした地下の闇の中にある……こうしてまだ生きているわたしからそう遠くない場所に。もしかしたら、それは、わたしの父から五、六歩のところかも知れないのだ……こんなことを考えて、想像力をはりめぐらしているうちに、
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冷静な口からわたしは死の知らせをきいて、
冷静にそれに耳をかたむけた
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という詩の文句がわたしの胸のなかでひびいた。ああ、青春よ! 青春よ! お前はなにごとにもとんじゃくしない、お前はまるで宇宙の財宝ことごとくを領有しているかのようだ。憂愁でさえもお前にはなぐさめであり、悲哀でさえもお前にはよく似合う。お前は自信に満ち傲慢不遜だ。お前は言う、「生きているのはおれだけだ……まあ、見てくれ!」ところが青春の日々は速やかにすぎて行き、跡かたもなく、しめくくりもなく、消えてゆく。お前のなかのすべてが消えてゆくのだ、日なたの蝋のように、雪のように……ことによるとお前の魅力の秘密は、なんでもなし得るということにではなく、なんでもなし得ると考えることができるところに、あるのかも知れない……ほかに使いようがないので、あり余る力をむだに使ってしまうところにこそ、あるのかも知れない。われわれの一人々々が大まじめに自分を放蕩者と思い、自分こそは当然、「ああ、もしも時をむだに費やさなかったら、おれだって大したことができたのになあ!」と言う資格があるものと、大まじめに信じているところにあるのかも知れない。
このわたしにしてもそうである……ほんのつかのま現われたわたしの初恋のまぼろしを、ため息をつきながら、ふとさびしい気持ちにおそわれながらようやく見送ろうとしていたころ、わたしはなにを期待していたか、なにを待ちうけていたか、どんな豊かな未来を夢見ていたのだろう? ところがさて、わたしの期待していたことのなかで、一体なにが実現したであろうか? 人生に夕べの影がさしはじめた今となってみると、あの速やかに通りすぎた、朝まだきの、春の雷雨の思い出にもまして、さわやかに、なつかしいものが、なにかほかにわたしに残っているであろうか?
しかし今さら泣きごとを言っても始まらない。あのころ、つまり無分別な若いころも、わたしは、わたしに呼びかける悲しげな声に、墓穴の中からわたしのところまで聞こえてくる荘厳な音に、無関心でいたわけではない。忘れもしない、ジナイーダの死を知ってから四、五日後のこと、わたしは自分で、やむにやまれぬ気持ちから、わたしたちと同じアパートに住んでいた、ある貧しい老婆の臨終に立ち会った。ぼろをまとい、硬い板の上に横たわり、枕がわりの袋に頭をのせた老婆は、もう重態で、苦しみながら息を引きとろうとしていた。彼女の一生は日々の窮乏との苦いたたかいのうちにすぎ去ったのだ。彼女はかつて喜びというものを知らず、幸福の甘さも味わったことがなかった……死を、死のもたらす自由を、安静を、彼女が喜ばないはずはあるまい、とわたしは思った。けれども、彼女の老いさらばえた身体がまだがんばっているうちは、胸が、その上にのせられた氷のように冷たくなった片手の下で、苦しげに波うっているうちは、最後の力が体内に残っているうちは、老婆はひっきりなしに十字を切って、「主よ、わが罪をゆるしたまえ」とささやきつづけるのであった。……そして意識の最後のひらめきが消えると共に、彼女の目のなかの、末期の恐怖やおびえがやっと消えたのである。忘れもしない、そのとき、貧しい老婆の死の床のかたわらにあって、わたしはふとジナイーダのことを思いだして恐ろしくなった。そしてわたしは、ジナイーダのためにも、父のためにも……そしてまたわが身のためにも、心から祈りをささげたくなったのである。(一八六〇)
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解説
ツルゲーネフの生涯
イワン・セルゲーヴィチ・ツルゲーネフは一八一八年十一月九日、ロシヤ中部の町オリョール市に生まれた。
父のセルゲイ・ニコラエヴィチは古い家柄ではあるが落ちぶれた貴族の出で、胸甲騎兵連隊に勤務する軍人であった。母はワルワーラ・ペトローヴナ、旧姓ルトヴィーノヴァである。金持ちではあるが、もうオールド・ミス(三十五歳だった)のワルワーラと結婚すると(一八一六年)、セルゲイはやがて軍務を退き、妻の領地に移り住んだ。やめたときは大佐で、妻の領地というのは、ムツェンスクという町の近くにある、スパスコエ・ルトヴィーノヴォ村のことである。作家ツルゲーネフの幼年時代はここですごされた。なお兄弟は男三人で、兄のニコライは二つ年上であり、弟のセルゲイは三つ年下である。つまり作家ツルゲーネフは次男というわけである。弟のセルゲイは虚弱で少年時代に病死している。
ツルゲーネフの母は頭のよい、教養のある女性だったが、わがままで、むら気で、権勢欲に富んでいた。残された肖像画から判断できるかぎりでは、ひらべったい顔をしていて、どう見たってきりょうよしというわけにはいかないが、いかにも賢こそうな目をしている。不幸なみなし児としてさびしい青春をすごした彼女は、思いもかけず莫大な遺産の相続人となった。そうなると、それまで彼女を見向きもしなかった連中が、財産目当ての求婚者として彼女のまわりに集まった。手のひらをかえしたような人間どもの変わりかたに、彼女は人間に対する不信感をかきたてられたにちがいない。勢い彼女は、周囲の者や使用人にはつらく当たる専横な女地主となったが、六つも年下の彼女の夫が道楽者で、浮気者で、とかく家庭内に風波の絶えなかったことも、彼女をかたくなにさせた有力な原因であろう。長身で、美貌で、しゃれものだった父のおもかげを、息子のツルゲーネフは中編『初恋』のなかで描いている。母の肖像もいろいろな作品のなかに出てくるが、老年になった母のおもかげをわれわれは、短編『ムムー』のなかに見いだすことができる。母の子供たちに対する態度はなかなかきびしいもので、少年ツルゲーネフはしょっちゅう鞭で打たれるおしおきをうけたという。
ツルゲーネフが早くから体験した地主の横暴や、狂態は、多感な少年の心に農奴制度という非人間的な社会体制への憎悪を植えつけ、自然や動物を愛する心、また文学に親しむ気持ちをはぐくんだ。ツルゲーネフ家の地主屋敷がどんなに大きなものであったかは、一八三九年に火事で焼けた家の部屋数が四十もあったということから、おおよその見当がつくであろう。下男下女の数は四十人を越えていたし、所有する農奴数は数千人を数えた。
ついでにツルゲーネフ家の蔵書について述べておこう。ロシヤ語、英語、ドイツ語とある本のなかで、大部分、つまり三分の二はフランス語の書籍であった。なかでヴォルテール、ルソー、モンテスキュー、モリエール、スタール夫人、シャトーブリアン、ウォルター・スコットなどの著述が目につく。ゲーテの『若きウェルテルの悩み』やリチャードソンの『クラリッサ・ハーロウ』などはフランス語訳である。ロシヤ作家はカンテミール、スマローコフ、カラムジーン、ドミートリエフ、ボグダノーヴィチ、ジュコーフスキイ、ザゴースキン、イズマイロフなど。ほかに神学の本や歴史の本、旅行記、植物や自然科学、古い文集、夢占い、カレンダーなど。おそらく当時の田舎地主たちの読書傾向は、大ていこんなものであったにちがいない。
当時の貴族地主の習慣にしたがい、ツルゲーネフははじめ家庭で教育をうけたのち、一八二七年に全家族とともにモスクワに移った。ここで塾で学んだり、家庭教師による教育をうけて中学校の課程を終わり、一八三三年にモスクワ大学文学部に入った。しかしモスクワ大学に在学したのはわずか一年だけで、やがてペテルブルク大学の歴史・言語学部に移り(当時ゴーゴリが歴史の助教授をしていた。ツルゲーネフにその回想記がある)、そこを卒業する。それが一八三七年、十九歳のときである。学生時代すでに詩を書いたり、シェイクスピアやバイロンの翻訳をしたりしている。ロシヤの作家ではプーシキン、レールモントフ、マルリンスキイ、ベネジクトフなどを愛読した。
一八三八年、ツルゲーネフは留学のためベルリンに出発したが、途中船火事のためあやうく命を落とすところだった。ベルリン大学では歴史と言語学、とくにヘーゲル哲学を勉強した。当時の学友にスタンケーヴィチやグラノーフスキイがいる。またバクーニンとの交友もここで始まる。一八四一年、帰朝したツルゲーネフはモスクワに住んで内務省につとめ、学位を取る準備をするかたわら、詩作をしたり、文学サークルに顔を出すことをおこたらなかった。一八四二年、ペテルブルク大学で哲学博士の学位を取った。しかし結局のところ、教授にはならずに小説家となった。
一八四三年に詩物語『パラーシャ』を発表してツルゲーネフの名前は世間に知られるようになったが、作家としての地位を確立するにいたるのは、なんと言っても、農村スケッチ『猟人日記』が出てからであり、もっと正確に言うならば、のちに『猟人日記』に収録される第一作『ホーリとカリーヌイチ』(一八四七)を、彼の出世作と呼ぶべきであろう。とするならば、一八四三年はツルゲーネフにとって、むしろ、イスパニヤ生まれの歌姫ポリーナ・ヴィアルドーとの出会いということによって、記憶さるべきであった。ヴィアルドー夫人と知り合ったことは、ツルゲーネフのその後の個人的運命を大きく左右することになる。ツルゲーネフとヴィアルドー夫人との関係の真相は永遠の謎であるが、ツルゲーネフが一生を独身で通したのは、ヴィアルドー夫人への愛のためであろうと言われている。ツルゲーネフは結婚こそしなかったが、彼には、青年時代に母親のお針女に生ませたポリーナ(ポーリンあるいはポーリネットと呼ばれた)という娘が一人いた。彼女が七歳になったとき、父親は娘の養育をパリ在住のヴィアルドー夫人に託した。ポーリネットは夫人のもとで成長するが、年ごろになるにつれて、父娘と父の愛人との三角関係が奇妙なものとなっていったであろうことは、想像に難くない。とにかくツルゲーネフは、ヴィアルドー夫人の行くところ、その後を追って、生涯の大半を国外で暮らすことになるのである。一八四八年にはパリに在って、二月革命の目撃者となった。
一八五〇年夏、彼はロシヤヘ帰った。十一月母死去。彼は莫大な遺産を相続した。彼はスパスコエ、モスクワ、ペテルブルクと住み、劇作をこころみ、それが上演されては成功をおさめた。一八五二年、作家ゴーゴリの死に当たり、追悼文を書いたところ、ペテルブルクでは検閲をパスしなかった。そこで今度はそれをモスクワヘ送って、『モスクワ報知』に載せた。そのためツルゲーネフは検閲規則違反に問われ、「勅命」により逮捕され、ひと月後にスパスコエに身柄を送られることとなった。もっともこの流刑の本当の原因は『現代人』誌(一八四七〜五二)に別刷りで印刷された『猟人日記』だったと言われている。流刑は一八五三年十一月までつづく。この間ツルゲーネフは読書、文筆、音楽、チェスで日を送った。
一八五六年には最初の長編小説『ルージン』が刊行された。この『ルージン』はそのあとにつづく一連の長編小説『貴族の巣』『その前夜』『父と子』『けむり』『処女地』などの前駆をなすものである。
一八五六年八月にツルゲーネフはまた外国に出かける。六〇年代のはじめ以降は、ほとんど外国で暮らすことになるが、毎年のように短期間ロシヤヘ帰ってきた。彼のめぐり歩いた外国はドイツ、イギリス、イタリヤ、オーストリヤ、フランスなどで、最も長く滞在したのはバーデン=バーデン(一八六三〜七〇)とパリおよびその近郊(ビジュワールの別荘)である。そのくせ彼はコーカサスヘも、クリミヤヘも行ったことがなかった。
長年の作家生活のあいだにツルゲーネフはじつによくかの作家たちと仲違《なかたが》いをした。トルストイやドストエフスキイとの確執《かくしつ》は有名であるが、ほかにもゴンチャローフ、ゲルツェン、ネクラーソフなどと不和になっている。これは一つにはツルゲーネフの交際の広さとも関係のあることで、たとえばトルストイとドストエフスキイは同時代の高名な作家でありながら、一度も会ったことがなかった。会ったことがなければ、けんかにはならないわけである。
外国生活が長かったので、当然、多くの外国作家と親交があった。パリで親しくしていたフランス作家にメリメ、ゴンクール兄弟、ドーデ、ゾラ、モーパッサン、フローべールなどがいる。とくにフローべールはツルゲーネフの親友だった。彼はまたロシヤと西ヨーロッパの文化交流の面でも、大いに尽力した。一八七九年に帰国したときには青年たちから大歓迎をうけ、同年夏にはイギリスのオックスフォード大学から法学博士の学位を授与された。一八八〇年、モスクワに建てられたプーシキンの銅像除幕式に参列するため帰国したが、それが最後の帰国となった。
一八八二年三月末、彼の命取りとなった病気の最初の徴候が現われる。彼は故国をしのびながら異境で死を待つ身となった。そのころ、彼は親友のポロンスキイにあててつぎのような手紙を送っている。
「あなたがスパスコエ村へ行かれたら、わたしに代わって、家や、庭や、わたしの若いカシワの木に……ふるさとに、よろしく伝えてください。おそらく、わたしは二度とふたたび、ふるさとを見ることができないでしょうから」
一八八三年九月三日、ツルゲーネフはパリで永眠した。遺体はペテルブルクに送られて、十月九日盛大な葬儀が営まれ、ヴォールコヴォ墓地に埋葬された。
その作品について
ツルゲーネフの小説の特徴はまず第一に、作品の底流にあるリリシズムである。ブランデスの言葉を借りるならば、「ツルゲーネフの心には憂うつの深く広い流れが流れ」ているということになろう。それを二葉亭四迷は「晩春の相」と言った。ツルゲーネフの幽愁は彼の世界観……悠久の自然にくらべて、うつろいやすく、はかない人生という、無常迅速の悟りに由来する。有限の生をいかに生きるかという問いかけに対して、ツルゲーネフは、美しく生きよと答える。美しく生きるということは彼にとってヒューマンに生きることを意味した。したがってツルゲーネフにおいては美なるものとヒューマンなものは一致する。ツルゲーネフの幽愁は厭世的なものではなく、その反対に人生肯定的なものなのである。この傾向は『猟人日記』で散文作家として文壇にデビューしてから、『散文詩』で作家活動の最後のしめくくりをするまで、ほとんど変わっていない。
第二に、これもよく言われるように、時代の典型、「歴史を創造するタイプ」をつくり上げたことである。つまり十九世紀の四〇〜七〇年代のロシヤ社会に見られた代表的な人間像は、ツルゲーネフによって肉化され、歴史的に位置づけられて、不滅の生命を賦与されたのであった。たとえばルージン(『ルージン』)やラヴレーツキイ(『貴族の巣』)のような「余計者《よけいもの》」がそれである。十九世紀ロシヤ文学において一つの系譜をなしている「余計者」とは、自分の能力の発揮できる場を見いだせないままに、社会的になんら意義ある仕事をなし得ないで、無為のうちに滅びてゆくインテリゲンチャを言う。あるいは農奴解放後の新時代の旗手として華々しく登場するニヒリスト、バサーロフ(『父と子』)がそれである。さらには自分の個人的幸福を犠牲にして、自分の運命を異国の革命家の運命と結びつけるエレーナ(『その前夜』)がそれである。したがって、リリシズムとならんで、小説の時事性・社会性ということもツルゲーネフの特徴と言えるであろう。
第三に、批評家ベリンスキイが早くから指摘したように、ロシヤ作家のなかでも自然描写がとくにすぐれていることである。むろん、これはリリシズムと無縁ではない。
第四に、これはツルゲーネフだけの特徴というわけではないが、ロシヤの民衆に対する愛、その精神力、英知、才能に対する信である。それはヒューマンなものと結びついているがゆえに、ショーヴィニズムとはまったく関係がない。
第五に、ツルゲーネフはきわめて西欧的な感じの作家だということ。事実、彼は、西欧で「大小説家」と見られた最初のロシヤ作家だった。これは言うまでもなく青年時代の留学や、その後の在外生活と深くかかわりを持つものであろう。それは土くさく、ふてぶてしく、鈍重な感じのものではなく、洗練された、文化的な、ハイカラな、あるいは女性的なものである。そうした西欧的なものが、彼の文学にはしみわたっているように思われる。
第六に、ツルゲーネフは好んで恋を、したがって女性を描いた作家であることで、これは作者が、実人生においてはかなえられなかった自分自身の不幸な恋を、完全な、理想的な女性像の創造によっておぎなおうとしたものであるとも言える。クロポトキンは、人間が全貌をあらわすのは、「恋が発展した瞬間」なのだ、と言う。しかしそれならば恋を描くのはあらゆる作家の仕事であるべきであって、ツルゲーネフの小説がなぜ社会小説であると同時に恋愛小説であるのか、の説明としては十分な説得力がない。ツルゲーネフが恋を描いたのはほかでもない、彼が美の極致というものを恋愛のなかに見いだしたからなのである。
『初恋』(一八六〇)は自伝的な中編小説であり、ツルゲーネフの最大傑作の一つである。異性へのあこがれに目ざめてゆく少年のナイーヴな心。その心の展開が完璧なまでに美しく、リアルに描かれている。甘く切ない初恋をむざんにうち砕いたものは、相手の娘が自分の父親の愛人であったということ。しかし初恋は、少年が大人になる過程において必然的に通過しなければならないプロセスのようなもので、そのようなにがい体験を重ねて、少年は精神的に成長してゆく。ツルゲーネフの『初恋』は回想の形をとってはいるが、「わたし」がすっかり少年の気持ちになりきっている点、見事な手腕と言わざるを得ない。ツルゲーネフは西ヨーロッパだけでなく、日本とも関係の深い作家である。二葉亭のすぐれた訳業のせいもあるが、明治から大正時代のある時期にかけて、最も数多くそして熱心にわが国に作品が紹介されたロシヤ作家は、トルストイでも、ドストエフスキイでもなくて、じつにツルゲーネフであった。つまり日本にはツルゲーネフ時代という一時期があったのである。(佐々木彰)
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年譜
一八一八年 十一月九日中部ロシヤの町オリョールの富裕な貴族の家に生まれる。父セルゲイ・ニコラエヴィチ・ツルゲーネフは軍人。母はワルワーラ・ペトローヴナ、旧姓ルトヴィーノヴァ。
一八二一年(三歳) 父、陸軍大佐で退職。一家はオリョール県ムツェンスク町からほど遠からぬスパスコエ村に移る。作家ツルゲーネフの幼年時代はここですごされる。
一八二七年(九歳) 年のはじめツルゲーネフ一家モスクワに移る。モスクワにあるヴェイデンガンメルの塾に入る。約二年ここに学ぶ。
一八二九年(十一歳) 八月クラウゼの塾に入り、十一月退塾。家庭教師につき学業を継続。
一八三三年(十五歳) 九月モスクワ大学文学部入学。
一八三四年(十六歳) 秋、ペテルブルク大学哲学部言語学科に転入学。十一月父セルゲイ死す。
一八三六年(十八歳) 六月ペテルブルク大学卒業。
一八三七年(十九歳) 七月学士試験に合格。
一八三八年(二十歳) 三月ぺ・ア・プレドニョーフ教授の文学の夕べに出席。四月、詩『夕ぐれ』を「現代人」誌に発表。九月ベルリン着。ベルリン大学で聴講(〜三九年)。グラノーフスキイ、スタンケーヴィチと親交。
一八三九年(二十一歳) 秋、ロシヤに帰国。レールモントフを知る。
一八四〇年(二十二歳) 一月外国へ出発。二〜五月イタリヤ滞在。五〜十二月ベルリン大学でヘーゲル哲学、言語学および歴史学を学ぶ。
一八四一年(二十三歳) 五月ベルリン大学の課程を終了、ロシヤへ帰国。モスクワに住む。九月、T・Lの署名で詩『老地主』を「祖国雑記」誌に発表。十一月おなじく詩『バラード』を発表。
一八四二年(二十四歳) 三月詩『掠奪』をT・Lの署名で「祖国雑記」に発表。博士試験をうけるためモスクワからペテルブルクに向かう。四〜五月哲学博士の試験に合格。娘ポリーナ誕生(母は農奴)。七月モスクワに住む。ゲルツェンを知る。七〜十一月ドイツ旅行。十二月ペテルブルクに転居。
一八四三年(二十五歳) 年初、長詩『バラーシャ』執筆。二月ベリンスキイを知る。四月T・Lの署名で『パラーシャ』刊行。六月内務省出仕。十一月ポリーナ・ヴィアルドーを知る。この年、「祖国雑記」に詩数編と劇一編を発表。
一八四四年(二十六歳) 二〜三月勤務の休暇のさいにモスクワでゲルツェンに会う。夏、ペテルブルク近郊パルゴーロヴォの別荘ですごす。毎日のようにベリンスキイと会う。この年「祖国雑記」一、三、四、六、十一、十二号と、「現代人」三、十号に詩および短編小説『アンドレイ・コロソフ』を発表。
一八四五年(二十七歳) 一月長詩『会話』刊行。二月ヴロンチェンコ訳ゲーテ『フアゥスト』書評を「祖国雑記」に発表。四月選集『昨日と今日』に詩数編を掲載。内務省官吏を十等官で退職。五〜十一月フランス旅行。十一月ペテルブルクに帰着。ドストエフスキイを知る。
一八四六年(二十八歳) 一月長詩『アンドレイ』を「祖国雑記」に発表。「ペテルブルク文集」に、短編『三つの肖像画』、長詩『地主』、バイロンおよびゲーテの訳詩を発表。十月戯曲『金づまり』を「祖国雑記」に発表。
一八四七年(二十九歳) 年初、外国旅行、七月までドイツに、以後フランスに滞在。詩、書評とともに短編『ホーリとカリーヌイチ』を「現代人」に発表。『猟人日記』第一作である。中編『乱暴者』を「祖国雑記」に発表。二月短編『ピョートル・ペトローヴィチ・カラターエフ』を「現代人」に発表。三月「現代人」に『ベルリンだより』。五月「現代人」に短編『隣人ラジーロフ』『郷士オフシャニコフ』『リゴフ』『エルモフイと粉屋の女房』を発表。五〜九月ベリンスキイと会い、ドイツ、フランス旅行をともにする。七月短編『荘園管理人』を書く。十月「現代人」に『荘園管理人』『事務所』を発表。十一月短編『ユダヤ人』を「現代人」に発表。
一八四八年(三十歳) この一年間パリに居住し、ゲルツェン、バクーニンと会う。二月短編『苺の水』『田舎医者』『狼』『レベジャン』『タチヤーナ・ボリーソヴナとその甥』『死』を「現代人」に発表。パリの二月革命を目撃す。九月短編小説『ペトゥシコーフ』を「現代人」に発表。
一八四九年(三十一歳) この一年パリやクルタヴネルに住む。貧乏する。母からの送金とだえ、文筆に専念。年初しばしばゲルツェンと会う。二月短編『シチグロフ郡のハムレット』『チェルトプハーノフとネドビュースキン』『森と草原』を「現代人」に発表。戯曲『食客』、検閲にひっかかる。九月戯曲『独り者』を「現代人」に発表。十月『独り者』ペテルブルク初演(シチュープキンの祝儀興行)。十二月『貴族団長宅の朝食』初演(カラトゥイギンの祝儀興行)。
一八五〇年(三十二歳) 三月戯曲『学生』(『村のひと月』)完成。四月短編『余計者の日記』を「現代人」に発表。六月ロシヤに向けて出発。十月娘ポリーナをヴィアルドー一家に託し外国に送りだす。十一月短編『歌うたい』『あいびき』を「現代人」に発表。母の死。農奴を解放する。
一八五一年(三十三歳) この一年間ロシヤに住む(モスクワ、ペテルブルク、スパスコェ)。一月喜劇『田舎女』を「祖国雑記」に発表。二月短編『べージンの野』を「現代人」に発表。三月短編『クラシーヴァヤ・メーチのカシヤン』を「現代人」に発表。十月モスクワにゴーゴリを訪問す。十一月ゴーゴリによる『検察官』の朗読に出席。十二月『うすいところが破れる』ペテルブルクで初演。
一八五二年(三十四歳) 二月短編『三つの出会い』を「現代人」に発表。三月「モスクワ報知」にゴーゴリ追悼文を掲載し、そのため四月に逮捕、五月スパスコエに流刑(一年半)。八月『猟人日記』刊行。はじめて『二人の地主』を含む。検閲官リヴォーフ、『猟人日記』の発行を許可した責任を問われ免職となる。流刑中に中編『はたごや』執筆。
一八五三年(三十五歳) この一年間、流刑でスパスコエに住む。六月、詩人フェートを知る。十一月中編『二人の友』完結。十二月流刑を免ぜられペテルブルクに帰る。「現代人」編集部、ツルゲーネフのために歓迎会を開く。
一八五四年(三十六歳)「現代人」との結びつきおよびネクラーソフとの友情深まる。一月『二人の友』を「現代人」に発表。六月パリで『猟人日記』のフランス語訳刊行。
一八五五年(三十七歳)一月『村のひと月』を「現代人」に発表。四月中編『ヤーコフ・パースインコフ』を「現代人」に発表。六〜七月スパスコエで『ルーシン』を執筆。十一月『はたごや』を「現代人」に発表。レフ・トルストイを知る。
一八五六年(三十八歳) 一〜二月長編『ルージン』を「現代人」に発表。八月外国へ出発。「現代人」に喜劇『貴族団長宅の朝食』を掲載。八〜九月ロンドンにゲルツェンを訪ねる。十月中編『フアゥスト』を「現代人」に発表。十一月『ツルゲーネフ中・短編集』刊行。この年の終わりの数ヵ月パリに在ってフランス作家(ダカン、ルコント・ド・リール、ユゴーなど)と相知る。フランス現代文学および文学環境の研究。
一八五七年(三十九歳) この一年間病的状態にあり、ほとんど仕事できず。三月喜劇『他人のパン』(『食客』)を「現代人」に発表。五月ロンドンにゲルツェンを訪ねる。十月ボートキンとともにローマヘ行き、冬をすごす。
一八五八年(四十歳) 一月中編『アーシャ』を「現代人」に発表。三〜六月ローマ出発、イタリヤ諸都市訪問ののち、ウィーン、ロンドン、パリを歴訪、六月ロシヤに向かう。六〜十月スパスコエに住む。農奴制改革を迎える準備をする。長編『貴族の巣』の執筆に鋭意従事。
一八五九年(四十一歳) 一月長編『貴族の巣』を「現代人」に発表。三月モスクワ大学「ロシヤ文学愛好者の会」の正会員にえらばれる。文学者救援基金の設立に参加。五月外国旅行(パリ、ロンドン)。九〜十一月スパスコエに住み、長編『その前夜』を書く。
一八六〇年(四十二歳) 一月講演『ハムレットとドン・キホーテ』を「現代人」に掲載。二月長編『その前夜』を「ロシヤ報知」に発表。ネクラーソフに、ドブロリューボフの論文『本当の日はいつくるか』を「現代人」に掲載しないように要求するが、拒否される。四月中編『初恋』を「読書文庫」誌に発表。困窮文士学者救済のために開いた作家参加の慈善芝居『検察官』に商人の役で出演。ツルゲーネフとゴンチャローフとの間で仲裁裁判おこなわれる。ツルゲーネフが『その前夜』に、ゴンチャローフの未発表作品『断崖』の一部を盗用したとする告訴事件である。このため二人は絶交する。五月外国へ行き、一八六一年五月まで滞留。主としてパリに住む。夏はドイツとイギリスですごす。十月パナーエフにあてて「現代人」への寄稿を断わる手紙を書く。十二月、学士院準会員にえらばれる。年末エヌ・ア・オストローフスキイ版『ツルゲーネフ著作集』出はじめる。この一年間ゲルツェンとしきりに文通す。ゲルツェンの機関紙「コーロコル」(「鐘」)に参加。
一八六一年(四十三歳) 二〜三月農奴解放令に関心を持ち、ゲルツェンに情報を伝える。五月外国よりペテルブルクに帰る。五〜八月スパスコエで農奴解放にもとづく措置を講じる。農民たちは農奴解放が自分たちの利益になるということを理解せず、不信の念で迎える。六月トルストイと争う(フェートの領地ステパーノフカで)。九月外国へ赴く。この一年間ゲルツェンと親しく交わる。
一八六二年(四十四歳) 三月長編『父と子』を「ロシヤ報知」に発表。四月スルチコーフスキイとゲルツェンに手紙を送り、そのなかで『父と子』の作者としての見解を披歴す。五月ロンドンでゲルツェンと会い、ロシヤの発達の方法について論争する。六月外国より帰る。八月外国へ出発。十月ゲルツェンとオガリョフの作成したアレクサンドル二世あての書簡に署名することを拒む。ゲルツェンに数次手紙を出し、社会・政治問題でゲルツェンやオガリョフと同調できないむね主張。
一八六三年(四十五歳) この一年間、外国にあり。五月からバーデン=バーデンに住む。一月エル・ヴィアルドーとともに『エヴゲーニイ・オネーギン』(プーシキン作)の散文体フランス語訳を出す。年頭、フランス語訳ツルゲーネフ作品集出る。
一八六四年(四十六歳) ボーデンシュテットのドイツ語訳ツルゲーネフ作品集出る。一月ロシヤに帰る。「鐘」で「白髪頭のマグダリナ」とののしられる。二月『まぼろし』を「エポーハ」(「時代」)誌に発表。ゴンチャローフと和解す。三月外国へ行く。「白髪頭のマグダリナ」のことでゲルツェンに抗議。決裂。四月短編『犬』執筆。「サンクト・ペテルブルク報知」誌に『シェイクスピヤ論』を掲載。六月バーデン=バーデンに土地を買い家を建てる。ヴィアルドー一家バーデン=バーデンに越してくる。
一八六五年(四十七歳) バーデン=バーデンに住む。パリに出かける。ロシヤに約二ヵ月滞在(六、七月)。一〜二月娘ポリーナの結婚のことで奔走する。ポリーナは二月にフランス人と結婚。六月『ムツイリ』(レールモントフ作)フランス語訳出る。十一〜十二月『煙』執筆。一八六四〜六五年にツルゲーネフ著作集(サラーエフ版)。その第五巻にはじめて『たくさんだ』発表。
一八六六年(四十八歳) この一年バーデン=バーデンに住む。『煙』執筆。四月短編『犬』を「サンクト・ペテルブルク報知」に発表。
一八六七年(四十九歳) 三〜四月ロシヤに在り。四月『煙国』を「ロシヤ報知」に発表。五月ゲルツェンに『煙』を送る。ゲルツェンとの和解。七月ドストエフスキイとの不和。この年メリメ監修により『煙』仏訳される。
一八六八年(五十歳) 一月中編『旅団長』を「ヨーロッパ報知」に発表。二月短編『エルグーノフ中尉の話』を「ヨーロッパ報知」に発表。六〜七月ロシヤ帰国。
一八六九年(五十一歳) 一月サラーエフ版『ツルゲーネフ著作集』(二版)二、三、四、五巻出る。二月短編『不幸な女』を「ロシヤ報知」に発表。四月『ベリンスキイの思い出』を「ヨーロッパ報知」誌に発表。五月著作集第六巻『舞台と喜劇』出る。十一月『文学的回想』(ツルゲーネフ文学活動二十五年記念)が著作集の第一巻として出る。
一八七〇年(五十二歳) 一月短編『奇妙な話』を「ヨーロッパ報知」に発表。六〜七月ロシヤ帰国。十月『曠野のリヤ王』。
一八七一年(五十三歳) 二〜三月ロシヤ帰国。三月ガリバルジイ救援運動のために『旅団長』を朗読す。四月著作集第八巻(補巻)出る。十一月パリに居を移す。
一八七二年(五十四歳) フローべールらと親交。この一年間『処女地』執筆。一月『春の出水』を「ヨーロッパ報知」に発表。三〜六月ロシヤ帰国。十一月短編集『チェルトプハーノフの最後』。
一八七三年(五十五歳) この一年間外国ですごす。一〜二月『処女地』執筆。作品を完結させるためにロシヤ行きを計画。四月ノーアンにジョルジュ・サンドを訪問。九月再度ジョルジュ・サンドを訪ねる。
一八七四年(五十六歳) 二月サラーエフ版著作集第三版出る(二、三、四、五、六巻)。三月著作集第八巻。四月短編『生きているミイラ』『プーニンとバブーリン』を「ヨーロッパ報知」に発表。いわゆる「五人会食会」のはじまり(ツルゲーネフ、フローベル、エ・ゴンクール、ゾラ、ドーデ)。三〜七月ロシヤ帰国。十月著作集第一巻。短編『音がする』はじめて収録。十一月著作集第七巻。
一八七五年(五十七歳) この一年間を外国ですごす。
一八七六年(五十八歳) 一月短編『時計』を「ヨーロッパ報知」に発表。二月『処女地』の仕事に没頭。ロシヤからネチャーエフ事件の裁判議事録を送ってくれるように依頼。六〜七月ロシヤ帰国。スパスコエで『処女地』執筆。完結。
一八七七年(五十九歳) 一月『処女地』第一部を「ヨーロッパ報知」に発表。二月『処女地』第二部を「ヨーロッパ報知」に発表。同時に『処女地』の仏訳刊行される。四月フローべールの『聖ジュリアンの物語』のツルゲーネフによるロシヤ語訳を「ヨーロッパ報知」に発表。五月おなじくフローべールの『へロデアス』を「ヨーロッパ報知」に訳載。六〜七月はじめロシヤ帰国。
一八七八年(六十歳) この一年間『散文詩』を執筆。六月パリの国際文学者会議に出席、副議長にえらばれる。八〜九月ロシヤ帰国。トルストイとの和解。
一八七九年(六十一歳) この一年間『散文詩』を執筆。二〜三月ロシヤ帰国。モスクワやペテルブルクで歓迎をうける。五月パリで、ロシヤ亡命者救援のための文学・音楽のつどいに出席、サルトゥイコーフ=シチェドリーンの『一人の百姓が二人の将軍を養った話』と、自作『猟人日記』の断片を朗読す。六月オックスフォード大学より法学博士の学位をうける。
一八八〇年(六十二歳) サラーエフ版ツルゲーネフ著作集(全十巻)出る。二〜七月はじめロシヤ帰国。女優サーヴィナと会う。二月ナロードニキの雑誌「ロシヤの富」の編集者グレープ・ウスペンスキイらと会う。六月モスクワでプーシキン銅像除幕式に参列。ドストエフスキイらとともにプーシキンについての講演をする。
一八八一年(六十三歳) この一年間『散文詩』を執筆。三月ロシヤに帰る。七月女優サーヴィナ、スパスコエにツルゲーネフを訪ねる。十一月『勝ち誇れる恋の歌』を「ヨーロッパ報知」に発表。年末『勝ち誇れる恋の歌』の仏、独語訳出る。
一八八二年(六十四歳) この一年『散文詩』を執筆。新しい著作集の編集にあたる(グラズーノフ版)。三月病気悪化す。八月スタスュレーヴィチに『散文詩』の原稿を渡す。十二月『散文詩』を「ヨーロッパ報知」に発表。
一八八三年(六十五歳) 著作集の編集をつづける。病い篤し。一月短編『クララ・ミーリチ』を「ヨーロッパ報知」に発表。三月グラズーノフ版著作集第二巻出る。六月ヴィアルドー夫人に『海上の火事』を口述筆記させる。トルストイに手紙を送り、創作活動への復帰をすすめる。八月ヴィアルドー夫人に短編『終末』を口述。九月三日午後二時、脊椎癌のため死去。十月一日パリで遺体に告別。十月九日ペテルブルクで葬儀。遺言によりペテルブルクのヴォールコヴォ墓地に埋葬される。