カンタベリ物語(下)
チョーサー/西脇順三郎 訳
目 次
郷士の話
医者の話
赦罪状売りの話
船長の話
尼寺の長の話
チョーサーの話
修道院僧の話
尼院侍僧の話
第二の尼の話
僧の従者の話
大学賄人の話
牧師の話
訳者解説
[#改ページ]
カンタベリ物語(下)
郷士の話
郷士の話 前口上
昔のブリトン人(フランスのブルターニュに住んだ民族)は開けていて、その当時、いろいろの奇事奇談の物語を、古代のブリトン語で詩に作った。
そうした物語を楽器につれて、うたったり、また楽しみに読んだものだ。その物語の一つをおぼえているが、それをこれからせいぜいうまく話してみよう。
みなさん、まずはじめにおことわりしますが、わしは下司の人間ですから、わしの言葉が下等でも許してもらいたいのです。
第一、修辞学とやらは習ったことがありません。わしの言うことは、むきだしの飾りけのないものに違いない。詩の神様がいらっしゃるというパルナスの山なぞに、一ぺんもねむってみたこともないし、ローマの大文人キケロとかを読まされたこともまるっきりない男だ。文章の色づけをする形容法などは、確かに一つも知りゃしない。牧場の原っぱに咲いている花の色とか、染物屋の染料とか、絵かきの絵具ぐらいは知っているが、修辞学のいろどりなんぞはわしにはちんぷんかんぷんだ。そんなことは、わしの心にはぴんとこないのだ。
だが、よかったら、わしの話を聴いてもらうか。
郷士の話
一名ブルターニュと言われてるアルモリックという国に、一人の騎士が住んでいた。
この男、ある女に惚れて、あらゆる方法をつくして、女の歓心を買おうとした。この女を手にいれるまで、いろいろと苦労し、計画をした。
というのは、この女は世にもまれにみる美人で、しかも家柄もよかったので、この騎士も自分の悩みを女に知らせるには、ちょっと心配で、なかなか、骨が折れたからである。
だがしまいには、女も、この騎士が立派な男でもあるし、またとくにやさしい性質でもあったので、その男が苦しんでいるのを憐れんで、彼を夫とし、主人とすることを、ひそかに承諾してしまった。ただ男が自分の女房を支配する権力と同じ権力を妻にも認めるという条件であった。
なお、より幸福な生活をするために、騎士のほうから、すすんで、一生涯、夜も昼も、けっして、妻の意志に反して、夫の権力をふりまわさないということ、妻に対してやきもちを焼かないこと、また恋人がその相手の婦人に対して当然なすべきことであるように、夫はどんなことでも妻の意志に服すということを約束したのであった。ただ、騎士としての体面をけがさない程度の支配権は保留した。
女は、この騎士の約束をありがたく思って、しとやかに言った。
「あなたが、あなたの立派な人格から、それだけ寛大な譲歩をなさってくださったからには、二人のあいだに少しでも争いやいざこざが起こりましたら、それはあたしの責任です。あたしは死ぬまで、あなたの真実な妻になりたいのです。それは、どうぞ信じてください」
それで、二人は安心した。
みなさん、ここでひとこと申したいのです。友人同士、末長くつきあいたいなら、たがいに譲りあうようにしなければならない。愛も権力で圧迫してはいけない。支配権が出てくると、愛の神は羽ばたきして、さらばと、行ってしまうものだ。
愛の精神は自由の精神だ。女は生れながら、自由を愛し、奴隷のように、拘束されることを好まないものだ。それは男もおなじことであろう。恋愛は、忍耐ぶかい者が勝利者だ。確かに忍耐は美徳だ。学者も言っているように、ものを征服するのは忍耐であって、苛酷な行為からは何も得られない。
人は人の言ったことをいちいち、とがめたり、反対してはいけない。許してやったらよい、そうでなくとも、きっと、いつかは、いやおうなしに、それを経験するはずだ。人は誰でも時には誤ってものを言ったり、なしたりするものだ。怒り、病気、あるいは運勢、酒、不幸、気分などは過失のもとになることがしばしばある。それをいちいち仇《あだ》に思ったり、恨みに思ったりはできないものだ。時にあたって身を慎しむには自制心が大切だ。
さて、そこで、この騎士も立派な人だから、平和に暮らすために、妻に服従することを約束したのだ。妻もまた、利口な女だから、夫に対して私のほうにも落度がないようにいたしますと誓ったのだ。
このような約束ができたということは、たがいに、へりくだった気持があったからである。
女は夫を愛の従者として、また結婚の上では主人として、男を受けいれたのだ。その場合、その男の位置は同時に、主人でもあり、奴隷でもあることになる。
なるほど奴隷だが、その上、彼はもちろん主人としての支配権もある。彼はその女を妻とし愛人として所有しているからには、そういえるのだが、妻のほうも、確かに、愛の法則に従って結婚した以上はまた、主人としての支配権もあるわけだ。
彼はそういう幸福な結婚をして、妻をつれて、ペンマルクというところの近在にある自分の故郷にもどって、そこで幸福な楽しい生活をはじめた。
夫婦のあいだの水入らずの楽しみは、結婚した人でなければわからないものだ。
この騎士の名はカイルッドのアルヴェラグスといったが、彼はそこで一年以上も楽しい生活をした。それから一名ブリテン国ともいわれている英国へ行って、一、二年の予定で、そこで武者修行をはじめた。そこでみっしり勉強したのだが、書に伝えられたところによると、まる二年間、英国に滞在したという。
さて、アルヴェラグスのことは、しばらくおき、話はその妻のドリゲンのことになります。
この女は夫を心の生命として、愛していたのだから、夫の留守中は異郷の夫を思っては泣いていた。立派な女ほどそうなるものだ。
彼女は夜もねられず、悲しさやる方なく、食欲も減退し、ひたすら歎いていたが、夫をこがれる欲望のせつなさに神経衰弱となって、しまいには、この世をさえ、はかなむようになってきた。
彼女がそんなに憂鬱の思いにしずんでるので、友達は、いろいろと慰めようとした。
そんなことをしては、自殺するようなもので、まことにつまらないことだと、友達は、いつも彼女に説いてきかせた。
なんとかして、気をはらしてやりたいと、友達は一所懸命に、慰めた。
誰も知っているように、根気よく石をほれば、やがては、何かの形が刻まれるものだ。
長く、この友達も彼女を慰めているうちに、希望したように、少しずつ、その効果があらわれて、悲しい思いも、さすがにうすらいできた。もう、あの気違いじみた悩みをいつまでも、つづけられなくなった。
そうした心配の最中にアルヴェラグスも、手紙をよこして自分の無事であることをも知らせてき、また、妻が悩んで死なれては大変だから、なるべく急いで帰ることにする、といってきた。
友達はその女の苦しみも、少しうすらいだと思ったので、ひざまずいて、この女に、後生だから、みんなと一緒に散歩に出て、しんきくさい空想を、散らしてしまいなさいと願った。
しまいに、この女も、それが一番だと思ったものだから、その願いを入れることにした。
この女の住んでいたのは海岸の近くにある城であった。そこで彼女は気晴らしに友達と、海岸の岩山へのぼってみた。そこからは、たくさんの大船小舟の出たり入ったりしているのが見えたが、それがかえって、彼女の悩みの種となった。その山で彼女はこう言って、ひとり悲しんだのだ。
「ああああ、あれほど船がたくさんくるのに、うちの主人をつれてくる船はないのか。そうすれば、あたしの心の苦しみも癒えるであろうに」
また、ある時は、彼女は崖の上に思いにふけりながら坐っていたが、ふと断崖の下にある黒いものすごい岩を見おろした時、怖ろしさのあまり、心がふるえて、立っていられなくなるのであった。はては、草原にぺたりと坐って、やるせなく、海をながめ、悲しそうに、溜息をついて言った。
「この世界を摂理によってお治めあそばす永遠の神様、あなたがおつくりになるものはみんな意味のあるものばかりで、けっして無駄のものがないと申します。それですのに、なぜこのようなまっ黒い、悪魔のようなものすごい岩をお造りになったのでしょうか。全知不変な神様のおつくりになった美しい自然界にくらべますと、なんとまあ、きたならしい、だらしのない作物に見えますが、神様、あなたはどうして、こんな気まぐれな作品をおつくりになったのですか。
東西南北、どちらをみても、この小島の岩には、人間も、鳥も、けものも住めないではありませんか。あたくしの考えでは、それは、むしろ益なく害があるばかりにみえます。それは人間を殺すではありませんか。神様、あなたは、それがおわかりになりませんか。あなたが、ご自分のお姿にならって、おつくりになった、あなたの作物の中でも美しいと言われている人間を、数十万という無数の人々を、この岩が殺しているではありませんか。
人間をおつくりになった時は、人間を愛されていたはずですのに、また人間に害になるようなものをおつくりになって、人間を殺されていますのは、どうしたわけですか。
坊さんたちは、勝手な議論をして、それはみな、天の配剤で間違いのないものだ、というのですが、あたくしにはその理由がわからないのです。
だが、それはどうでもよい、吹く風をつくられた神様が、あたしの主人をお守りくださるように祈ります。議論めいたことは坊さんにおまかせいたしまして、これがあたしのただ一つのお願いでございます。
こんな暗礁はみんな、地獄へ沈んで夫の命が無事でありますように。私はこの岩を見るとそれが心配で、胸もつぶれてしまいそうです」
そう言って、彼女はせつなそうに涙を流した。
友達は、海岸の散歩は彼女には慰めにならないで駄目だと思ったので、他のところで遊ぶように計画した。こんどは、川のほとりや泉のほとりや、いろいろと他のいいところへ連れだして、ダンスをやったり、将棋をさしたり、すごろくをやったりした。
さて、ある日、まだ午前中から、近くの庭園で遊山をし、ご馳走をととのえたり、余興の準備をいろいろとして、一日じゅう、遊び暮らすことにした。
その日は五月六日の朝であった。五月のやわらかな雨で、庭は美しい葉や花でいっぱいに、いろどられていた。まことに人工のかぎりをつくして美しくつくられてあったので、天国の楽園でもなければ、これほどの立派な庭はよそではみられないのであった。
花の香りや鮮かな風情はおよそ人の心を浮き浮きとさせるものであるが、心に悩みのある人には、どんなに美しい庭をみても心は浮きたたない。
昼飯の後で、みんなはダンスをしたり、うたったりしたが、ドリゲンだけは、相変らず、悲しみ歎いた。それというのも、自分の恋する夫のダンスをするのが見られなかったためである。
でも、しばらく、ここに辛抱して、悲しみの去るのを待たなければならなかった。
このダンスの時、人たちの中に、五月の月よりもはでやかと思われる服装をした一人のきれいな騎士の従者が、ドリゲンの眼の前で、おどっていた。彼は、この世がはじまってから、誰よりも、歌と、踊りの上手であった。その上、いわば、天下きっての美男子だ。若く、強く、賢く、金もある。みんなから可愛がられ、尊敬もされていた。
実は、ドリゲンは知らなかったことであるが、この色男の若武士は、ヴィーナスの信者で、アウレリュウスという男であった。
この男は不幸にして、二、三年まえからドリゲンに思いをよせ、誰よりも愛していたのだが、さりとて自分の悩みをドリゲンには一度も打ち明けるほどの勇気もなく、いわば、ひとりで自分の苦しみを呑みこんでいたのである。
彼は失望していた。何も言わなかったが、世間一般にうたわれている歎きの恋歌として、自分のうたう歌の中で自分の不幸をそれとなく、もらすだけで、あわびの片思いだと自分では言っていた。
そういう片恋の情を、歎き歌、ルーンデルとかヴィルライという踊り歌、俗謡など、いろいろの歌に作って、うたっていた。自分の恋の苦しみを打ち明けないで、ただ地獄の苦しみに身をこがしていたのだ。そして、神話にあるエコーがナルシサスに片思いして焦れ死んだように、自分も恋のために死ぬかもしれないという意を歌にあらわした。
この方法以外には自分の恋情をあらわさなかったが、ただ若い人たちが、時にダンスの場合などで、ドリゲンに敬意を表して、挨拶をするが、そういう時は、いわば惚れている男が愛を乞うような顔つきで、彼はドリゲンにみとれていても、ドリゲンはその意味が少しもわからなかったのだ。
ところが、この庭園のダンス会の最中、ドリゲンはこの男と話しあうようになった。実はこの男はドリゲンの近所に住んでいたので、彼女も彼が立派な紳士として尊敬されていることを、昔から知っていたのであった。
アウレリュウスは、この時とばかり、どんどん、自分の目的に向かって、つっこんでいった。やがて時分はよしと思った頃、こんなことを言った。
「奥様、こんなことを言ってあなたのお気分にさわるといけませんが、実はあなたのご主人が海外に出かけられた日に、このアウレリュウスも、どこか二度と帰れないところへ行ってしまいたいと思ったのです。ぼくは失恋したのです。ある人へのぼくのせっかくの心尽しも水の泡に終わり、その報いとしては死ぬことばかりになったのです。ああ、どうぞ、奥様、ぼくの苦悩に同情してください。
ぼくを殺すも生かすもあなたのお言葉一つできまるのです。いっそ、このあなたのお足もとで死んで葬られたら、かえって仕合せなのでございます。
もうこれ以上申し上げることもできません。ねえ、奥様、憐れに思ってお助けください。さもなければ、あなたはぼくを殺しておしまいになるのです」
彼女はアウレリュウスをじっとみて、言った。
「あなたの願いというのはそういうことだったの。まあ大それたことをおっしゃる。あなたの思っていられることがはじめてわかりました。あなたのお望みはよく承知しましたが、アウレリュウスさん、あたしとしては、呼吸と魂とをお与えくださった神様に誓って、姦婦にはなりたくないのです。あたしが正気でいるあいだは、あたしは、あたしとちぎった人のものなのです。これが、あたしの最後のご返事です」
ああ、しかし、うっかり彼女は冗談にこんなことを、つけ加えてしまったのである。
「あなたが、そんなに、せつなそうに、訴えるのをみると、あたしも、どうやら、無下にあなたの恋人になってあげるのがごめんとも言いかねる気もします。
そうねえ、それならいいこと、いつかあなたが、このブルターニュの海岸から岩を一つ残らず、取り去って船がかよえるようにしたら、――よくって? この海岸に一つも岩がないように、きれいに清めてくださったなら、その時こそ、あたしはあなたを誰よりも愛してあげましょう。これはあたしの心からの約束と信じてもいいことよ」
彼は言った。
「これが、あなたの慈悲心ですか、ほかにはないのですか」
「ほかにはありませんよ。また、そんなことが起こるはずがありませんから安心です。ですからさ、あなたのような馬鹿な考えはおすてなさい。人妻に横恋慕したって、どんな快楽が得られますものか。妻の体は夫がいつでも自由にするのですもの」
アウレリュウスは幾度も溜息をして、苦しんだ。彼はドリゲンのこの言葉をきいて、情けなく悲観した。
「奥様、どうしてもできない相談ですか。ああ、ああ、ぼくは今にも死んでしまいたい」
そう言って、彼はすぐ、うしろを向いて行ってしまった。
その時他の友達がたくさんドリゲンのところへやって来た。みんなは庭の小径をあちこちと散歩していたので、この事件を知らなかった。そしてまた一同で急に、ダンスをやり始め、太陽がかげるまで、踊りつづけた。やがて地平線が日の光をうばう(これは夜が来たということを形容する詩人の言葉)夕方になって、人たちは元気よく家に帰った。ただアウレリュウスだけは、哀れにも、すごすごと、悲しい思いで家に帰っていった。
彼はもう死を覚悟して、心臓が冷たくなってきたように感じた。両手を天のほうへあげて、ひざまずいて、うわ言をいうように、祈祷をした。悲しみのあまり、正気をなくして、口から出まかせを言った。
神々と太陽に向かって、哀れそうに、泣き言をいった。
「草も樹も花もあらゆるものを支配なさるアポロの神よ、あなたは、自分の自由に、北から南へと住み家を移されて、草木にその季節を定められる。太陽の神様、この死んでゆく、哀れなアウレリュウスをお憐れみください。愛する女が罪のないわたしを殺すというのです。わたしの死にそうな心を、あなたの慈悲でお憐れみください。
太陽の神よ、あの女人以外に、わたしをほんとうに救ってくださる者は、あなただけです。おききください。どうすればわたしが救われるのか、その方法を申し上げたいのです。
海にはネプチューンという神もいますが、あなたの妹にあらせられる輝かしい月の女神ルシナはやはり海の主神で、海の女王です。この女神は海の神ネプチューンの上に女王として立っていられます。
この月の女神はあなたの光で、生命を受けたり、光ったりするのです。それがために、月はあなたの命令にはよく服従するのです。それと同じように、海と河の女神であるルシナの命令に海がよく服従するのも、海の自然の性質です。
だから、太陽の神様、あなたにお願いするのですが、どうか奇蹟を一つおこなってくださいまし。さもなければ、わたしは死んでしまいます。その奇蹟というのは、こんど、(天文学でいうと)あなたが獅子宮にはいられて、月に対して最大な勢力が出ました時、月に命じて大きな満潮を起こさせて、ブルターニュの海岸にあるいちばん高い岩の上をさえ、五|尋《ひろ》も深く、潮が来るようにして、それが二年間も、ひかないようにさせてください。
そうしたら、わたしは、その女に、こういうふうに言えるのです。
『約束を守ってください。岩は一つもなくなりましたよ』
太陽の神様、どうぞ、わたしのために、そういう奇蹟をおこなってください。月の女神に二年間、あなたと同じ早さでめぐるようにと願ってください。そうすれば、いつも満潮になっています。春の潮が二年間夜も昼もつづくのです。
もし、月の女神が、そういうふうにして、わたしのいとしい恋を助けてくださることも約束できないとおっしゃるなら、いっそのこと、地獄の神のプルートーが住んでいる地下へ、岩という岩をみんな沈めてくださるように願ってください。月の女神は地下の暗夜の国の女王でもあるのですから、そうしてもらってもよいのです。
いずれにしても、岩をなくしてもらえないなら、わたしは永久に恋しいひとを手に入れることができないことになるのです。そうしていただけば、あなたの神殿のあるデルフォスへ、お礼のために、はだし参りもいたします。太陽の神様、このほっぺたに、こぼれる涙をごらんくださいまして、なにとぞわたしの苦しみにご同情くださいまし」
そう言ったと思うと、気を失って倒れ、しばらくのあいだは、人事不省になっていた。
ところがこの苦しい事情を知っていた兄が来て、彼を抱きおこし、ベッドへつれていった。
さて、失恋のアウレリュウスが死のうが生きようが、しばらくこのままにしておいて、話はアルヴェラグスの上にうつります。
アルヴェラグスは、他の騎士と一緒に、武士の誉れをあげて意気揚々と、故郷へ錦を着て帰って来た。
ドリゲンよ、きみは、幸福な女だ。きみを心の生命とまでも愛している、こんなに立派な花のような武士を君の若い夫として、抱けるとは、幸福なことだ。
アルヴェラグスは留守中、ドリゲンに恋をしかけたものがあったとは夢にも思っていなかった。
そんなことは少しも疑わず、ダンスをしたり、試合をしたり、妻の機嫌をとったりしていた。ここで私はこの二人を、幸福に暮らさせておいて、ふたたび病めるアウレリュウスの身の上に移ろう。
話かわって、病気のアウレリュウスは、やるせない苦しみに二年以上もふせっていたが、病いようやくおこたってとぼとぼと、歩けるくらいになってきた。その失恋の事件を知っているのは、学者であった彼の兄ただ一人で、他には誰一人それを慰めてくれるものもなかった。アウレリュウスはそのことを誰にもかくしていた。ローマの詩にあるパムフィルスがガラテーという女を恋していることを、かくしていたという話よりも、まだ秘密に、彼は自分の恋を胸中深くかくしていた。彼の胸は、外面からみると、かすり傷一つないが、その心臓の中には、いつもするどい矢がささっていたのである。
外面だけなおって、中がくさるという傷の療法は外科としても危険な手術である。そのかくれている矢を取らなければならないからだ。
彼の兄は、ひそかに弟のために心配して、いろいろと思い悩んだあげく、ついに、フランスのオルレアンというところの大学で勉強していた時代に奇術の本を見たことを思いおこした。実はこの男は、学術の研究に熱心な学生が、専門の科学を学ぶために世界じゅうの隅々まで出かけるように、ものずきにもそのオルレアンで勉強していたことがあったのだ。そのオルレアン時代のある日のこと、彼の友達の法学士が、他のことを勉強に来ていたのだが、机の上にそっと置いていた本があった。それは自然魔術という奇術の本であった。この本は、月の影響を受ける二十八宮の運行とかいう天文学のことが書いてあるので、今日ではなんの価値もない馬鹿げたものだ。われわれの信ずる神聖教会の信条としては、われわれの害になるような空想は許されないのだから。
だが、この男はこの本のことを思い出した時、嬉しさのあまり、心はおどるばかりであった。そして、ひそかに思った。
「弟をすぐに、なおしてみせる。確かに上手な奇術師がやるような、いろいろな現象をひきおこすことができる奇術というものがあるようだ。きくところによると、王侯の饗宴では、余興としての催しに、奇術師が大広間いっぱいに水をつくり出し、小舟を浮かべて、あちらこちらと、座敷じゅうをのりまわすそうだ。
またある時は、恐ろしい獅子が出て来たり、牧場のように花が咲き出したり、つるに、紅白のぶどうがなったり、ときには、石灰と石で造った城が出てくる。だが、それをまたすぐに消してしまえる。とにかく、誰の眼にもそう思えるのだ。
もし誰かオルレアン時代の昔の友達で、月の天文学者か、そうした奇術を心得ている者がいれば、弟の恋をかなえてやることができるのだ。もしそういう学者が、ブルターニュの海岸から黒い岩を全部なくなし、船が断崖のそばまで通えるようにし、それが一、二日つづいているような錯覚をおこさせるなら、弟の病気もなおるし、あの女も約束をどうしても守らなければならなくなるだろう。さもなければ、少なくともその女を辱しめてやるべきだ」
そういうふうに思って、早速、彼は弟のねているベッドへやって来て、二人でオルレアンへ行こうとすすめると、病人は現金なもの、急に元気づいて、すぐ、むっくりと起きあがり、そうすれば悩みがとれると大いに期待して、オルレアンへ旅立った。
もう二、三町でオルレアンへ着くというところで、彼らはひとりでぶらぶら歩いて来る若い学者に会った。この男は慎重にラテン語で彼らに挨拶をしてから、不思議なことを言った。
「あなた方がこちらへお越しになった理由をわたしは知っています」
それから一歩も行かないうちに、この男は、「あなた方の計画のことはわたしはみな、知ってるのです」と言った。
このブルターニュの学者はその学者に、昔の友達のことをきいたところが、みんな死んでしまったときいて、幾度か、涙を流した。
アウレリュウスは馬から、すぐおりて、この奇術家の家へ行き、非常な歓待を受けた。ご馳走は大好きなものばかり出た。家の設備も立派なもので、アウレリュウスはこんなに立派なものはまだ見たことがなかった。
夕食前に散歩に出て、この奇術家は、森や、野生の鹿がたくさんいる猟園などを案内して、客に見せた。長い角の生えた牡鹿で珍しく大きいものがいた。と猟犬が現われて百匹もの鹿が殺され、また矢に当たって可哀そうに血を流しているものもあった。
鹿がいなくなると、こんどは、きれいな川のほとりで、鷹匠が、鷹を使って、あおさぎをとっているところを見せた。
その次には、騎士が野試合をしているところ。
そのあとで、奇術家はアウレリュウスの恋人がダンスをしているところを見せた。アウレリュウスも一緒にダンスをしているような気がしたので、非常によろこんだ。
この奇術家は、そういうまぼろしをアウレリュウスに見せたが、時間が来たので、手をたたいた。そうすると、お名残り惜しや、この楽しいまぼろしがことごとく消えてしまった。
しかも、この驚くべきまぼろしを見物しているあいだ、彼らは、外へ出かけていたのではなく、奇術家の蔵書を置く書斎に、たった三人きりで静かに坐っていたのであった。
奇術家は従者を呼んで言った。
「夕食の用意はできたか。お客様が書斎にはいられてから、もうかれこれ一時間になるが」
「用意はできております。いつでもおはじめください。ただいまからすぐでもよろしゅうございます」
「それではみなさん、まいりましょう。そうなさったらよい。恋をしている人はときには休むものです」
と奇術家は言ったのだ。
食後、ブルターニュの海岸とまたジルンド河からセーヌ河口までのあいだにある岩をとりさるには、その奇術家に、どれほどの報酬を払ったらよいか、話しあった。奇術家は困難な点をいろいろと数えあげて、容易に承諾しなかった。千ポンドでもあまり嬉しくはないのだが、それより以下ではおことわりと、たんかをきった。
アウレリュウスは、よろこんで、すぐ答えた。
「千ポンドぐらいなんだ。この広い世界は丸いものだというが、わたしがこの世界の王なら、それをみんなあげてもよいくらいだ。話がついたから、これで契約ができた。あなたにはほんとうにお払いするから、ご安心ください。なにもぐずぐずして、ここへ長くとどまっている必要もないことだ。おそくも明日は早速出かけましょう」
「そうですとも、きっとそうします」
と、奇術家は答えた。
アウレリュウスは、ねたくなった時に、床につき、その晩はよく休息した。苦労した甲斐もあり将来の希望もわいたので、苦しい気持も、やわらいだ。
翌朝、早く、アウレリュウスは奇術家と一緒に、ブルターニュへ直行し、適当なところで、馬からおりた。
書物で読んだ記憶によると、その時は、十二月で、霜のおりる季節であった。
太陽は北回帰線にあった時は、きらきらした光を放って、燃えた黄金のように輝いたのだ、今は老いて、くすんだ銅貨のような色をしている。すなわち太陽は今は南回帰線におりているから、光はあおざめているのである。
みぞれや雨が、凍って、きびしい霜となり、庭の緑をことごとく枯らしてしまった。
冬至もすぎて、正月やクリスマスのお祭の季節だ。ローマ神話でいう正月の神ジャヌスはあごにひげを生やして、いろりの火にあたりながら、角笛の形をしたコップでぶどう酒を飲んだり、前におかれた長い牙をした猪の肉をご馳走に喰べている。また誰もクリスマスで陽気になり、「ノエル」(ご降誕日おめでとう)と叫んで、クリスマスの歌をうたうのだ。
アウレリュウスは、せいぜいこの奇術家を鄭重にもてなして、早く苦しみから救ってください、さもないと刃でおのが心臓をひとつきについてしまいますと言った。この利口な奇術家も彼に同情して、日夜研究をいそいで、正確な計算が出せる時機をまっていた。つまり、まぼろしとか手品(占星術の言葉ではなんというのか知らないが)で人に錯覚をおこさせ、ブルターニュの岩がなくなったとか地下へ埋まったという感じを誰にでももたせるようにするのである。
そうこうするうちに、ようやく、この奇術家は、そういう愚劣な迷信のインチキ仕事をする時機を発見した。
彼は自分のもっているトレタン式観測表を持ち出して、誤りのないように、正確に計算し、星の位置の変化も一年から二十年の場合と、二十年から三千年の場合とをよく観察したり、黄経という星の位置の経度もはかったり、恒星の位置を計算したり、角度を測ったり、星の運行を計算して一年間の比率を出したりして、星の運行を正確に計算した。
それから恒星圏の計算で、アルナスという星が、天界の最高圏にあると考えられている白羊宮の先端からどれだけ離れてきたかと正確に計算した。そういうふうに、彼は実に、こまかに算出したのであった。
彼はまず、そういう計算で、月の位置を確かめた。他のことは、その比率でわかる。月が十二宮のうちで、何宮の何度に出るか、またどの星座に出るか、くわしく、月のあがる状態を調べた。そして仕事をするに好い時機を月の運勢で知った。その他、その時代の異教徒が考えたような妄想や錯覚をおこさせるに必要な観察もできた。これだけ準備をすれば、もう大丈夫だ。彼の奇術によって、一、二週間のうちに、岩がなくなることであろう。
アウレリュウスは、恋愛に成功するか、失敗するか、まだ半信半疑で、日夜、その奇蹟を待っていたのだが、なんのさしさわりなく、岩が全部なくなったと知って、彼は奇術家にひざまずいて、言った。
「この不幸なアウレリュウスは、あの苦しみから救ってくださった、貴殿と、ヴィーナスに感謝いたします」
それから、恋人の女に会えると思って、早速、神殿に出かけた。そして、機会をみて、おそるおそる、やさしい顔をして、彼のすばらしい恋女に挨拶をした。
この不幸な男は言った。
「ぼくがこの上なく尊敬し愛し大切に思っている、ご機嫌をそこなうのをこの世で何よりもつらいものに思っている、恋しいお方よ、あなたの膝もとで死んでしまうほど、また苦しい病気にかかっていなかったなら、ぼくは自分の苦しみを、あなたに打ち明けはしないでしょう。けれども、確かに、ぼくは死ぬか歎くか、どちらかやらなければならない。あなたは罪もないのにぼくを苦しめて殺すのです。
ぼくが死んでも、あなたは平気かもしれませんが、あなたの約束はどうなさるのです。ぼくがあなたを愛するためにあなたはぼくを殺すことになるのだから、神様のために、そうならないうちに悔い改めてください。奥様、あなたは自分で約束されたことをおぼえているでしょう。
ぼくはあなたに対して、権利があって、あなたをぼくのものにしたいと主張するのでなく、あなたの特別な恵みを受けたいと主張するのです。でも、あなたは、あちらの庭のあの場所で、ぼくに約束されたことはお忘れないでしょう。あなたはぼくをいちばん愛してくれると、この手をとって約束なさった。神様もご照覧あれ、ぼくはその価値もない人間ではありますが、それはあなたが、確かにおっしゃったことなのです。
奥様、ぼくがこう言うのも、命が助かりたいためではなく、あなたの名誉をきずつけないためなのです。嘘をつくのは不名誉なことでしょう。
あなたの、おっしゃったように、いたしました。お疑いでしたら、行ってごらんなさい。
お出でになろうとなるまいと、それはあなたのご随意ですが、約束はお忘れなく。生かすも殺すも、まったくあなたのお力であるのです。とにかくぼくは、あそこで待っておりますよ。生殺の責任はあなたにあるのです。だが岩はなくなりましたよ」
彼は、そう言って、去った。女は唖然として立っていた。顔には少しの血の色もなかった。
女は、そういうわなにかかるとは、夢にも思わなかったのだ。
「あああ、そんなことが、まさかに起ころうなんて。そんな摩訶不思議なことがおこるなんて、どうしても考えられなかった。まさか、そんなことはものの道理にあわないわ」
彼女は悄然として家へ帰った。心配のあまり、歩くこともできなかった。一日、二日は泣き悲しみ、気もとおくなった。みていられない痛ましいようすであった。なぜか、ひとに言わなかった、アルヴェラグスはちょうど留守であったから。
だが、あおざめた、みじめな顔をして、ひとり、なげいていたが、こんなことを言った。
「運命の女神様、あなたにぐちを言うのですが、あたしは、うっかり、あなたのくさりに、ひっかかってしまいました。それから、逃げる道がないのです。逃げるには、死か不名誉かどちらかよりありません。このうち、どちらかを選ばねばなりません。けれども当然、あたしとしては、肉体上の恥辱を受けるよりも、むしろ死をえらびたいのです。また、嘘をついて名誉をけがすよりもやはり死をえらびたいのです。死ねば、この罰を清算できるのですから、肉体をけがされるのを望まないで自殺をした、立派な妻も娘も世にたくさんにあったのだわ。そうだ、こんな話もあったわ。
昔、アテネに三十人の暴君がいて、残忍な性質で、アテネでフィードゥンという人を饗宴の場で殺し、その娘たちをとらえて、辱しめるにもほどがある、けがらわしい快楽を満足させるために、その娘をみな裸にして前につれ出した上、床の上にながれている父親の血潮の上で、踊らせたことがある。罰あたりな人非人たち。
そこで不幸な娘たちは処女を汚されることを恐れて、ひそかに井戸へ身を投げて、哀れやことごとく死んでしまった、と、ジェロームの説教に記してあります。
また、メセニヤの暴君どもはラセダエモニヤから五十人の娘をつれだして、けがそうとしたが、娘たちは、ひとりのこらず、処女を破られるよりはと死をえらんで、殺されてしまったという。あたしだって、けっして死ぬことなどこわくないわ。
またアリストクリデスという暴君は、スアイムファリデスという娘を愛していた。ある晩、その娘の父親が殺されたので、この娘は処女を守る女神ディアーナの神殿に参詣して、その神像を両手で握って、どうしても離れようとしなかった。誰もその手をはなすことができなかったが、しまいに、とうとう、この娘はその場で殺されてしまったという。娘でも男の下等な快楽でけがされることを嫌っているのだもの、妻ならなおさらのこと、貞操をけがされるくらいなら、当然、死をえらぶと思うのだわ。
また、ハスドロバレスというカルタゴの王の后が自殺した話もある。ローマ人がカルタゴを攻略した時、その王后は自分の子供を火の中へなげ入れて、自分もローマ人の辱しめをうけるよりもと死をえらんだのだ。
またローマの話だが、ルークレスという人妻がタルクウィンという将軍にけがされたので、貞操をけがされて、生きているのは恥辱と考え、自殺したのではなかったか。
また、ミレジヤの七人の娘の話もある。ゴール人にけがされるよりはと、死をえらんで、自殺した。
そういう話は何千もあると思う。
スーシの王アブラダテスが殺されるとき、その后は自殺して、自分の血を夫の傷口深く流しこませて、最後に言った。
『せめてこうして、わたしの体を誰にもけがさせますまい』と。
けがされるよりも、よろこんで自決した例がこんなにたくさんあるからには、もうこれ以上あげる必要もないわけだわ。つまり、あたしも、けがされるよりは自殺するように覚悟をきめている。
あたしは夫アルヴェラグスに貞操を守りましょう、守りとおせなくなったら、デモーションの娘のように自決しましょう。
ベオチヤのレオクラというところの話だけれど、そこのセダススという人の娘は、やはりそういう場合に自決しているのだわ、可哀そうに。
またニカノールを逃れようとして自殺したという、あのテーベの娘の話も、これに劣らず、いやこれよりもなお、気の毒なものだ。もうひとりのテーベの娘の話もある。それは、マセドニヤのある男が、処女を奪ったので、その娘は自殺して、死をもって清浄な処女のつぐないをしたという。アテネの三十人の暴君に殺されたニケラトスの妻が自殺した話もある。
またアルキビヤデスの妾は、夫の死骸を埋葬しないくらいなら、死んだがましだと言ったという、まことに立派なことだ。
また、神話にあるアルセステは、なんという立派な妻でしょう(夫の身がわりに地獄へ行く)。
またホーマーに出ている貞女ペネロペの貞操のほまれは、ギリシャで誰知らぬものはないのです。
また、ラオドミヤは、夫がトロイで殺されたときに、もうその日から生きている気がなかった。ブルータスの妻ボルシヤも、一生、夫を愛して、夫の死後、すぐに自殺したという話だ。
アルセメシヤは貞節の誉れ高い女王として異教の国々に崇められている。
イリアの女王テウタの貞操は女人の鑑だ。その他、ジュイルスの妻ビリヤも、ダリウスの娘ロドゴナもセルヴィウスの妻ヴァレリヤも、みんなそうであった。この人たちは再婚をこばんだ女だ」
そんなことを思いながら、ドリゲンは一日、二日は、死ぬ覚悟でいた。
だが、三日目の晩に、夫の立派な騎士アルヴェラグスが、帰って来て、なぜそんなに、つらそうに泣いているのか、ときいた。そう言われると、彼女はますますはげしく泣きながら、
「情けない。なぜあたしは生まれたのだろう。恨めしい。あんなことを言わなければよかった。あんなことを約束しなければよかった」
そう言って、その事件を夫にみな打ち明けた。
夫は、わらって、親しそうに、受け答えをした。
「ドリゲン、ただそれだけのことか」
「ええ、それだけですけれど、これだけでも大変なことです。どうしようもありません」
「ね、おまえ、そんな取越し苦労はしないがいい。『眠った犬はそのままにしておけ』ということわざもある。その日その日をありがたく暮らすのだ。約束はぜひとも守らねばならぬ。もしおまえが約束を破るようなことがあれば、ぼくはむしろ胸をさされて殺されたほうがよいと思う。それはおまえをほんとうに愛すればこそおまえの名誉をきずつけたくないからだ。神様、このぼくの気持にご同情くださいまし。
約束というものは、人間の守るべき最大なものだからな――」
そうは言ったが、とたんに彼は男泣きに泣きくずれた。ややあって語をつづけて言った。
「命にかけても、ぼくはおまえに命令するが、この事件は一生のあいだ、誰にも言ってはいけない。ぼくも妻の辱しめられた悲しみはできるだけ忍んで、けっして憂鬱な苦しいようすなどは人にみせまい。おまえが悪いのだと人が思ったりするといけないからな」
彼はそう言って、従者と侍女とを呼んで、すぐに、かくかくのところへ、ドリゲンのお供をして行くように命じた。
彼らは、挨拶して、出かけた。なぜドリゲンが、そこへ行くのかわからなかった。主人もそのことについて、誰にも言わなかった。
さて、おそらく、多くの人たちは、女房をそういう危険なところへやったとは、馬鹿な男だと思うだろう。
だが、話をよくきいてから、この女に同情してください。みなさんが考えられるよりも運がよいかもしれないのだ。だから話の終りまできいてから、判断してください。
ドリゲンに惚れていたアウレリュウスというこの騎士の従者は、偶然にも、ちょうど町のいちばん人通りの多いところで、ドリゲンに出会った。ドリゲンは約束した庭へ行こうとした途中であり、この男も庭へ行くところであった。彼はその女が、どこへ出かけるかいつも見張っていたのであったが、その時は、偶然か神の恵みか二人が会ったのだ。
それで彼は、よろこんで女に挨拶し、どちらへお出かけかときいた。女は半分狂っているようなようすで答えた。
「夫の命令で、あたしの約束をはたすようにと、あの庭へ行くところです。ああ、情けない」
アウレリュウスは、これをきいて驚いた。この女がどんなに悲しんでいるかよくわかって、非常に同情したのである。また彼女の夫のアルヴェラグスが、さすが立派な騎士だけあって、妻が約束を破るようなことはもっともにくむところゆえ、妻に約束を守るように命令したという、その立派な心根にも同情したのであった。
それで、彼はどうすればいちばんよいかを、あれこれといろいろの点から考えていたが、やがて心ひそかにこの事件に同情しだした。しまいに彼は、そういう紳士的な貴族的な気高い精神をふみにじって、田夫野人のような下等きわまる行為をするよりも、自分の情欲を思いとどめたいという気になった。
それがために彼はかいつまんで、こう言った。
「ねえ、奥さん、あなたのご主人のアルヴェラグスに言ってください。――ご主人があなたに対して非常に立派な態度を示していらっしゃるのと、あなたが心配していられることとが、わたくしによくわかりました。また、ご主人が、わたくしへの約束を破らせるよりも、むしろ、恥辱を受けるほうがよいと決心されたとうかがいますと気の毒に思いますから、わたくしも、あなた方お二人のあいだの愛をさくよりも、自分の不幸を我慢するほうがよいと思うようになりました。
あなたが、生まれてから以来わたくしに約束されたことは、どんなことでもみんな取り消しにいたしましょう。そして、約束のことではどんなことでも、もう、あなたを責めないということを、わたくしは、ここでお約束いたします。
これで、あなたとお別れいたします。わたくしの知るかぎり、これほど善良貞淑な夫人はみたことがありません。だが世のご婦人たちは約束には気をつけなければなりません。少なくともドリゲンのことを思い出すように望みます。
私のような騎士の従者というつまらぬ身分の者でも、このように騎士と同じように立派なおこないをすることができるものです」
聞くより、ドリゲンは地面にひざまずいて、感謝をし、家に帰って、ここでわたしの言ったようなことを夫に話しました。夫はここでは書けないほどの大変なよろこびよう。それについては、これ以上述べる必要はありますまい。
さて、アルヴェラグスと妻のドリゲンは一生、真に幸福に暮らし、二人のあいだに少しの気まずいことも起こらなかった。夫は妻を女王のように大切にし、妻は夫に心から誠をつくした。もうこの二人についてはお話がつきました。
アウレリュウスは費用を全部無駄にしたので、自分の生まれたことを呪った。
「ああああ、困ったなあ。哲学者に純金千ポンドの価を約束してしまったが、どうしたらよかろうか。わかっているのは、ぼくがまったく、失敗したことだけだ。世襲の財産を売って乞食にならなければならない。
奇術師のお慈悲にすがらないと、この町で乞食をして親類の人々に恥をかかせることになる。だが、とにかく、年々、少しずつ、払うようにして、その親切にむくいるようにしよう。そう願えれば、ありがたいのだ。おれは約束は守る。嘘はつきたくない」
悲観しながら、金箱を開けて、この哲学者へ、確か、五百ポンドほどの金額をもって来た。そして、なしくずしに払うことを許してくれるように頼んだ。
「先生、ぼくは自慢ではないが、いままで約束を破ったことはないんです。シャツ一枚になっても、乞食をして暮らしても、きっと借金はお返しします。
きっとお返ししますが、二、三年支払いをまっていただけませんでしょうか、いかがです。そうすれば、また盛り返しましょうから。もしそう願えないと、財産を売らなきゃならないのですから。そういうわけなんです」
この言葉をきいた先生は、いかめしそうに答えて言った。
「わしは、あなたとの約束どおりやったじゃありませんか」
「そりゃそのとおりに違いありません」
「あなたは望みどおり婦人を手に入れなかったのですか」
「だめでした」
と彼は溜息をついて、悲しそうに言った。
「どういうわけですか。ひとつ聞かせてもらおうじゃないですか」
アウレリュウスは、すぐ、一部始終を哲学者にきかせた。
「アルヴェラグスは、立派な紳士で、自分の女房が約束を破るよりも、自分は悲しんで死んでしまったほうがよいと言ったのです」
それからドリゲンの苦しんだことも話してきかせた。不貞な女になることを嫌って、その日、すぐに死んでしまいたいと思ったことや、またアウレリュウスと約束したのは、まったく、無邪気な冗談のためであったということなどを、哲学者に話してきかせた。
「ドリゲンは錯覚をおこさせる奇術があるということをきいたことがなかったので、そういう約束をしたのです。それをぼくは大変気の毒に思うんです。紳士的に、なんのこだわりもなく、アルヴェラグスが妻をぼくのところによこしたように、ぼくもまた、その女を紳士的にあっさり帰してやったのです。話はこれで全部なんです」
先生は答えて言った。
「そうですか。そりゃあ、あなた方お二人はたがいに立派なおこないをしたというものです。あなたは従者、彼は騎士。あなた方と同じように、学者も、ひとつ、紳士的にやらないと、罰があたりそうですな。
では、あなたが、たったいま地面の中から這い出たばかりで、私というものを知らなかったことにして、千ポンドの約束は取り消しましょう。
ぼくの学問に対しても、骨折りに対しても、あなたから一文もいただきますまい。もうあなたはぼくの食費だけは十分出してくださった。それで十分です。さようなら、ごきげんよう」
そう言って、哲学者は馬にのって去っていった。
みなさん、これから、わしはあなた方に質問を出したいと思う。
この三人のうちで、どの男がいちばん紳士として気前がよいと思いますか。さあ、言ってください、先へすすまないうちに。
これだけしか知らない、わしの話はこれでおしまい。
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医者の話
ローマの歴史家ティトゥス・リーヴュウスによると、昔ヴィルジニュウスという騎士がいた。
みなから尊敬され、親友も多ければお金もたくさんあった。この騎士と女房との間にひとり娘があった。
この娘は珍しい美人だった。「自然」がとくにその妙なる力を傾けて、すばらしい美人をこしらえ、こう言って自慢しているように見えた。
「ごらんなさい。美人でしょう。わたしは『自然』です。こしらえようと思えば、色も形も、こんなに立派な生物をこしらえることができるのです。誰もわたしのまねはできないでしょう。
どんなに、あの神話にある彫刻家ピグマリオンが、鍛えても、鋳《ほ》っても、刻んでも、描いても、わたしのまねはできやしない。また自慢ではないが、ギリシャの画家アペレスやゼウキスが、わたしをまねようとして、彫刻をしても、描いても、鍛えても、打っても無益です。というのは、造物主の神が、わたしを神の代理者として、わたしの自由に、地上の生物を形づくり、いろどることを、おまかせになったからです。また満ちたり、かけたりする月の下にいるものはみな、わたしの監督下にあるのです。わたしの作品については何ぴとの意見もきかないでわたしの自由につくるのです。
神とわたし(自然)とはまったく心が一致しているのです。このような娘をつくったのは、神を崇めるためなのです。わたしは、また他の生物もみな同様に、どんな色合いにでも、どんな形にでも、つくるのです」
この美しい娘について、「自然」はそういうようであった。「自然」が賞美したこの娘は十四歳であった。「自然」はゆりの花を白くそめ、ばらの花を赤くいろどるように、この気高い生物が生まれる先から、将来このようになれといってその美しい手足にふさわしいいろどりをつけておいてくれたのだ。
また太陽は、その娘の豊かな頭髪を、あかあかと燃える光線にならって、染めたのだ。
この娘の美しさは、すばらしいものであったが、その立派な性質は、なお数千倍もすばらしいものであった。
この娘には、心ある人たちがみんな賞讃するような美点は一つとして欠いているものがなかった。
肉体においても、精神においても、清浄であった。それがために、処女として立派な花であった。謙譲、節欲、節度、忍耐というような精神に富み、態度も身なりも、慎ましいところがあった。いつも、人との応答には注意深いのであった。
おそらくギリシャの女神パラスのように賢い娘であり、言葉づかいは女らしくやさしく、かつ明快であったが、それとて、利口ぶった言葉はけっしておくびにも出さなかった。いつも自分の身分にふさわしい言葉づかいで、どんな場合でも、立派なやさしい言葉を使っていた。
娘らしくはにかみ、慎ましやかで、心はいつもたいらかでかわりなく、またいつも几帳面に事をおこなって、けっして怠けるようなことはすまいとつとめていた。
ぶどうの神バッコスもこの娘の口を支配することができなかった(この娘はぶどう酒を慎しんだ)。ぶどう酒を青年が飲むとヴィーナスの情(性欲)を盛んにするものだ。これは、たとえば、火の中へ油や脂肪をなげこむようなものだ。
祭や、宴会や、ダンスなどで友達が、みだらな話をしている時は、清浄な気持があやしくみだされ、たまらなくなると、病気をよそおうて、逃げ出したことも時々あった。
そういう遊びの時に出るみだらな話は、子供をあまり早くませさせて、危険だと昔から思われている。それというのは、人の女房となった女の、ずうずうしい知識を、あまり早く覚えすぎるからである。
貴族の娘を養育するおつきの老婦人たちよ、わしの言うことを悪く思いなさるな。あなた方が令嬢のご養育係になれたのは、ただ二つのことのためなのですよ。あなた方が女らしい美徳を守ってきた女であったか、あるいは、若い時分に、浮気もし、色恋の苦労も十分知りつくしたあげく、そういう苦労は二度とすまいと、色事からいっさいをあらってしまった女かどちらかであるのです。
だから、後生だから、娘には徳操を教えるようによく勤めてくださいよ。
王侯の御料林で、麻をぬすんだことのある男のほうが、誰よりもいちばんよく立派な御料林係になれるのと同じことだ、鹿盗人の常習犯がいったんその悪事をさとって、真人間になると誓った場合はいちばんよい猟場番人になれるのだ。
だから、そういう養育係の方々、どうか娘さんをよく監督してくださいよ。やろうとすれば、誰よりもよくできるはずなのですからね。
どんな悪徳も許してはなりません。それはあなた方の責任になる。それはみな、あなた方の悪い了簡から来るものとみなされるからです。
悪徳を許すようなものは、誰でも反逆者となるのだ。
またわしの言うことを注意してきいてください。最大な反逆は無邪気な罪のないものを裏切ることだ。
世間のおとうさんたちも、おかあさんたちも、子供が一人であろうが二人であろうが、ひとりだちができるまでは、その監督はあなた方の責任ですよ。
夫婦は、不和な生活をしたり、しつけを怠ったりして、子供が駄目にならないように気をつけなければなりません。悪い子をもって、苦労しないようにしなければなりません。さもないと、ひどい目にあうことになりますよ。ふぬけた怠け者の羊飼いのところには、狼がやってきて、たくさんの羊や仔羊を殺してしまう。
この一例で十分だろう。本題にもどらねばなりません。
さて、この娘は、生れつきしっかりしていて、養育係などはいらなかった。日常の生活でも娘たちは、書物の中からでも、女の美徳にふさわしい言葉づかいや行儀を覚えられるもの。現にこの娘も、そうして、慎ましやかにやさしい女性になれたのだ。それがために、この娘の美しいことも、気だての正直なことも、世間の大評判になったのだ。
この国で徳を愛する人は誰でもみなこの娘をほめちぎったが、「ただ嫉妬ぶかい人たちは、他人の幸福を快く思わないで、他人の悲しみや病気を、よろこぶのだ」(と聖オーガスティンは言っている。)
この娘は、ある日のこと、若い娘の習慣だが、母親につれられて、町にあるお宮へ参詣に出かけた。
さて、その町に、ひとりの裁判官がいた。その地方の知事をしていました。
偶然のこと、彼が立っていたわきを、この娘が通るとき、ふと注意して娘をうちまもった彼は、たちまち、心境に変化をきたした。それほどふかくこの娘の美にとらえられたからである。
彼は心ひそかに思った。
「誰がなんと言おうが、この娘は、おれのものにしてみせる」
たちまち、悪魔が彼の心にやって来て、なんとか悪いからくりで、この娘を手に入れる方法を教えた。まず暴力でも、賄賂《わいろ》でも、この問題は解決しそうもないと思った。それというのも、この娘には友達もたくさんあり、またしつけもきわめて厳格であったから、とても肉体的な誘惑では成功しないということがわかったからである。
これで、考えたあげく、知合いの、大胆でなかなか悪賢いので有名な、町のやっこを呼びにやった。
この裁判官は極秘にこのやっこに話をうちあけて、もし他人にもらしたら、首がとぶぞとおどかして、秘密を守るように誓わせた。
この悪辣な計画で、一仕事をすることを承諾させたので、裁判官は大変よろこんでいろいろ高価な品物をくれて、このやっこのご機嫌をとった。
陰謀を、事こまかに、計画し、極秘のうちに、あとからお話しするような姦淫をおかすことにした。この話をうちあわせてから、クラウジュウスというそのやっこは家へひとまず帰った。
この裁判官の名はアピュウスといった。(この話はつくり話でなく、歴史上有名な事実である。)
この悪裁判官は一日も早く自分の快楽を実現しようと、いそがしく、駆けずりまわった。
それからのちまもなく、ある日、いつものように、裁判所で、いろいろと判決を下していると、やっこが急いで、とびこんできて、次のようなことを言った。
「裁判長様、なにとぞ、あの娘の父ヴィルジニュウスに対するこの訴状をお取りあげください。もし彼がその訴状の調書を否定したら、わっちらはそれに対して証明もできますし、十分な証拠もあるのです。この調書で言っていることはみな事実です」
裁判官は答えた。
「被告人のいないのに欠席裁判をおこない、最後の判決をくだすことはできぬ。その男を呼び出してからよくきくことにする。裁判所は言い分をよくきいて、公平に裁きをするところだ」
ヴィルジニュウスは、裁判官がどんな用があるのかと思って、やって来た。ただちに、訴状が読みあげられた。それは次のような文言であった。
「裁判官アピュウス閣下。拙者クラウジュウスは騎士ヴィルジニュウスに対して、告訴いたします。この騎士は、不法にも正義にたがい、拙者の意志に反して、拙者が正当に所有していた奴隷であった女子を、まだ幼な子のとき、夜陰に乗じて、拙者の家から盗み出したのであります。そのことは、閣下のご満足ゆくように、立派に証言できるのであります。ゆえにいかなることを被告が申すとも、その女は被告の娘ではありません。貴殿の裁判によって、その奴隷を拙者に引き渡すように取りはからっていただきたいのであります」
これが、彼の訴状の文句であった。
ヴィルジニュウスはやっこをみて、それに対して騎士としても、答弁し、原告の言ったことは、みな虚言であると多くの証人を出して証明しようとしたが、この悪裁判官はたちまち、ヴィルジニュウスが話をきり出すのをおさえて、一言もその言葉を言わせずに、急いで次のように判決を下した。
「本官はこのやっこが女奴隷を即刻とりもどす権利があると判決する。汝は今後汝の家々にその女奴隷をとどめておくことは相成らぬ。その女奴隷をつれて、この方の保護に引き渡すべし、やっこは自己の奴隷をとりもどす権利があると認める」
ヴィルジニュウスはアピュウスの判決のために、自分の可愛い娘を道楽者の判事に、強制的に引き渡さねばならなくなった。
ヴィルジニュウスは家に帰ると、座敷へ坐って、すぐ娘をよびよせ、血の気のない顔をして、娘のやさしい顔をながめると、決心したものの、気の毒になって胸がつきさされたように感じた。
「娘、ヴィルジニヤ(「処女」の意)よ、おまえの名によって誓うのだ。おまえのとるべき道は二つに一つしかない。死か恥辱かだ。ああ、情けないことになったわい。おまえは刀にかけられるような悪い娘ではけっしてなかったのに。娘よ、わしは片時も忘れることなく楽しみ育ててきたのに、そのおまえが死ねばわしも死んでしまう。娘よ、おまえはわしの生涯での最後の悲しみであり、また最後の喜びでもあるのだ。
ああ、清浄無垢の処女の宝石。辛抱して、死んでおくれ。これがわしの決心したことだ。愛のためにはおまえは死なねばならないのだ。けっして憎しみのためではないのだ。
わしの情けの手でおまえの首をはねるのだ。
ああ、アピュウスがおまえを見なかったならば、こんなことにはならなかったのに。
今日、アピュウスがおまえに不公平な判決を下したのだ」
そう言って、父親は、みなさまがすでにお聞きのあの話を娘に知らせた。それを二度申し上げる必要もありますまい。
「お父様、どうしましょう」
と娘は言って、いつもやるように、父の首にしっかり抱きついた。涙が両眼からはらはらとはふり落ちた。
「お父様、あたし死なねばならないのでしょうか。神様のお助けもないのでしょうか。助かる見込みはないのですか」
「娘、何もないのだ」
「それでは、お父様、すこしの間、あたしに別れの言葉を言わせていただきます。聖書にあるように、ジェフサーも自分の娘を殺すまえに、少しの時間を許したのです。神もご存じのように、その娘には罪がなかったのですが、ただ父の王が戦さに勝てば、家に帰った時、最初に出迎えに来たものを殺して、神にささげると、約束したばかりに(ちょうど最初にうやうやしく迎えたのが、その王の娘であったので)、その自分の娘を殺したのです。その時も、少しの時間を許してやって、その娘に歎きを言わせたのです」
そう言ったと思うと、すぐ気を失ったが、また意識を回復して、立ち上がり、父に言った。
「処女として死ぬことは、ありがたいのです。辱しめられないうちに殺してください。神の名によって誓いますが、子を殺して、あなたのご意志を満足させてくださいませ」
そう言って、幾度も、父の刀で静かに殺してくださいと頼んだかと思うと、また気絶して、倒れました。
父親は、悲しみ、歎いて、娘の首をはね、その首をもって、まだ裁判所にいた裁判官のところへもっていった。
裁判官は、話によると、それを見るや否や、その騎士をとらえて、すぐに絞首刑にするように命じたという。
それを気の毒に思い、かつ憤り、騎士を救おうとして、群衆が押しかけて来た。その不正な判決が知れたからである。
そのときやっこが人々に喧嘩を吹きかけたが、そのようすから、その事件にアピュウスがなれ合いであることが、すぐに感づかれたのであった。また裁判官が誰よりも淫乱であるとみんなに知れていたことも、怪しまれたもとになったのだ。
そこで、悪裁判官アピュウスは訴えられて、牢にぶちこまれたが、彼はそこで自殺をした。
アピュウスのやっこであったクラウジュウスは、はりつけの刑を言い渡されたが、ヴィルジニュウスは慈悲によって流罪に減刑するように願い出た。そうでなければ、確かに死刑になるところであった。
この不祥事に関係した他の人々もみな、地位の高下を問わず、絞首刑に処せられた。――
これで、悪いことをすればかならず悪い報いがある、ということがわかるのだ。
神様が誰をお打ちになるかは少しもわからぬし、また神と罪人とだけにしか知れていない秘密の罪悪でも、良心の呵責というものが、どんなに罪の生活をいやがるものかということも、われわれにはわからぬから、ご用心、ご用心。
無学の人も、学問のある人も、いつ死におびやかされるか知れないから、わしの言うことをよくお聞きなさい。――罪があなた方を地獄におとさぬうちに、自分のほうから罪を早くすててしまうことです。
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赦罪状売りの話
紹介
医者と赦罪状売りへの亭主の言葉
亭主は気違いのようになって、たんかをきりだした。
「そりゃあおどろいた。キリスト様の十字架の釘と血に誓って言うが、こりゃあ、悪いやっこと悪い裁判官だなあ。
そんな裁判官や三百代言は、地獄におちて、早くくたばりでもしなけりゃ胸がすかねえ。
それにしても、殺された娘は、二度と生きかえることはねえ、気の毒なものよ。こうなると、美人も考えものよ。美貌がえらく高くついたわけだなあ。わしが、いつも言うことだが、運よく財産に恵まれたりべっぴんに生まれついたばっかりに、大事な命を失くした人がたくさんある。その娘だってなまじ美しかったのが禍いして、あたら若いつぼみを散らすことになったのだ。してみると、財産と美貌という二つの賜物で、得をするより損する人のほうが多いのだ。
だが、先生、実際、これは聞くも哀れな話だねえ。とはいえ、聞いてしまえばそれまでよ。どうか先生の立派なお体もご大切になさいまし、それからまた先生、溲瓶《しゆびん》も尿器も一緒に、また興奮剤も薬物も、それから、その薬箱も、どうかご大切になさいまし。神様と聖母マリヤ様が、どうかこれらの品々をお守りくださいますように。確かに、先生は立派な人だ、僧正のようですよ、いやもうまったくの話。
本当です。高尚な、むずかしい言葉では言えないが、確かに、先生の話で、わしの心臓はきりきり痛みましたんで、狭心症になりそうだった。ほんとうに、なにか特効薬でものましていただくか、さもなきゃあ、新しい、こくのあるビールでも一杯ひっかけるか、それとも今すぐ面白い話でもうかがわねえことにゃあ、この娘があんまり気の毒で、わしの心臓はとまってしまいそうだ。
やあ親友、赦罪状屋さん、何かひとつ面白い冗談話を、これからすぐに、やってくれないか」
赦罪状売りは言った。
「おっと合点承知の助。したが、腹がへっては戦さができぬ、ちょっくらごめんこうむって、まず、ここの居酒屋でちょいと一杯ひっかけて、飯をひと口食べたいんだ」
それをきいて、居合わせた紳士連は叫んだ。
「よしておくれ、あいつに猥談《わいだん》をやられちゃたまらない。ためになるような説教ものなら、ききたいが」
赦罪状売りが答えた。
「よろしい。承知はしましたが、一杯飲みながらでないことには、ためになる立派な話が考えられねえ」
赦罪状売りの話 前口上
[#地付き]悪の根元は金の欲である(テモテへの前の書六)
赦罪状売りは言った。
「みなさん、わしがお寺で説教する場合は、できるだけ声をはりあげて、お寺の鐘のように、ひびき渡らせようと骨を折るが、それも自分でみんな諳誦していることばかり言うのだからそうできるのだ。わしの説教の題目は、昔からいつも一つにきまっている。それは、『悪の根元は金の欲』ということだ。
まず自分の生国をはっきり申し上げ、それからローマ法王からたまわった委任状をみなさまにお見せいたします。
自分はキリストの神聖なお仕事をおこなうにあたっては、大胆にも、わしの仕事を邪魔しようとする乱暴者に対しては、それが僧侶であろうと学者であろうと、自分の身をまもるために、この委任状におされてあるローマ法王の御印をまず見せてやることにしている。
それがすむと、遠慮しないで、法王や、法王の最高顧問官や、高級司教や僧正などの教書や委任状をみせてやります。
わしが説教する時に、ラテン語を少し使うのは、説教を立派にみせかけて、人に宗教心をそそるためだ。
それから、着物の切れはじや、骨をいっぱい入れた細長いガラスの箱をみせびらかす。誰でもそれは聖骨遺宝の類だということがわかるはずだ。わしはあるユダヤの聖人(ヤコブ)の羊の肩胛骨《けんこうこつ》だというものを錫《すず》の中へ包んで入れておく。
わしは、こんなふうに説いてまわる。
『みなさん、ご静聴を願います。牛や羊が蛇にかまれたり、虫にさされたりして、はれあがったときなど、この骨を井戸につけて、そのお水で、かまれた動物の舌を洗ってやれば、たちまちなおってしまう。また羊などにその水を飲ませると、どんなすり傷でも、皮癬《ひぜん》でも、吹き出物でもけろりっとなおる。よろしいか。
それから、あの神聖なユダヤ人ヤコブがわしらの先祖に教えたところによると、家畜を飼っている人が、毎週、断食して、鶏の鳴くまえに、このお水を飲んでいると、家畜がかならずふえてくるのです。
みなさん、それどころか、このお水の功徳《くどく》はてきめん、嫉妬の心がなおるのです。どんなにやきもちやきの男でも、この水で肉と野菜の吸い物をつくって食べるなら、たとえ細君が二、三人の坊さんを出入りさせていて、怪しい事実があったとしても、細君を怪しく思うことはなくなる。
また、ここに手袋があります。これをはめていると、小麦であろうが、からす麦であろうが、自分のまいた種から穀物がたくさんとれるようになる。それだけ一文でも二文でもたくさん寄付ができるというわけ。
善男善女のみなさん、ただいま、ここの教会にいられる人で、けしからんことではあるが、恐ろしい罪を犯しながら懺悔をしないでいるような人や、また年齢によらず、間男したことのある女などは、ここにあるわしの聖者の遺宝にはあやかる力もお許しもないのです。
そういうとがのない人だけ、ささ、ずっとすすんで御拝なされ。私、この法王様の正文で委任された権威によりまして、そういう方々の、罪障を消滅させてあげるのです』……という次第。
わしが赦罪状売りになってからこういう手段を用いて、年々、百マルクの収入があった。
説教壇に立てば学者のようにえらそうに脚下に善男善女を見おろして、ただいま申し上げたようなことを説教したり、とほうもないでたらめをたくさん述べたりした。
そういう時には、できるだけ、首をのばして、鳩が納屋《なや》の上にとまっているように、聴衆の上をあちらこちら見おろして、うなずきながら、頭をペコペコ動かすのだ。
手と口がうまく調和して敏活に動くので、わしの苦労の説教はみていても心もちがよいから、聴衆がよろこぶのだ。
わしの説教の題目は年じゅう、金の欲ということだから、人はけちけちせずに寄付を出す。とくにわしにくれるのだ。またわしの説教の目的は、金をもうけることだけで、人の罪をさとすのでない。
人が死んで埋められ、その霊魂がふらふらして極楽往生しかねても、わしの知ったことじゃない。
いったい、説教というやつは、悪い根性からやる人が多いのだ。
ある人は人をおだててよろこばし、偽善の力で自分の出世を考えている。またある人は虚栄のため、ある人は人を憎んで攻撃するためだ。
わしは、議論しても負けると思ったその時は説教をして、その中で、うんと自分のするどい舌で相手をさしてやる。そうすれば、わしらの宗団やわし自身の悪口を言ったやつは、罪もないのに、やっつけられるにきまっている。
相手の本名を言わなくとも、私の身振りや前後の事情で、誰のことか、よくわかるように言えるのだ。そうやって、わしらに悪口を言った人たちの仇をとってやる。そうすれば、神聖という美名のもとで、毒舌をふりまいても、神聖、真実にみえるのだ。
これから、わしのもくろみを述べてみよう。
わしはいつも昔から金の欲のことばかり説教している――
『悪のもとは金の欲』
自分がもっている悪徳はやはり金欲だが、それに対してわし自身が反対の説教をするのだ。
だがわし自身、その罪を犯しているが、人にはその罪をいましめて後悔させることができる。もっとも、それはわしの主たる目的ではない。
わしは金の欲ということばかり説教するが、そのことだけで十分だ。
それから、昔から伝えられた話からたくさん例をとって話をする。学問のない人たちは古い話が好きなものだ。そういうことは、彼らはよく覚えるし、見ならいもする。
どうですか。説教して歩いてその報酬にお金がもうかるのに、わしは好んで貧困に甘んじて生活したいのだ、と言っても、みなさんは信じますか。いや、いや、実のところ、わし自身もそうしたいとは思ったことがないのだ。
諸所方々の国で説教して、金を貰って歩きたいのだ。だが、ただ怠けて乞食をしたくはないからとて、手を使って労働したり、籠を作って生活したくはない。
わしはキリストのお弟子たちのまねはしたくはないのだ。お金でも羊毛でもチーズでも小麦でもよしそれが村の寡婦が子供を飢えさせてまでもわしにくれるものであっても、また村の貧乏な小僧がくれたものであっても、貰いたいのだ。それどころか、甘いぶどう酒も飲みたい、どこの町へいっても女郎も買いたい。
前口上が長くなったが、みなさん、おききください。あんた方はわしの話をききたいのでしょう。ビールを思う存分、飲んだから、さあ、これから、ぜっひお気にいるような話をいたしましょう。
わし自身は、ろくなものではござんせんが、金もうけの説教できたえあげたんだから、教訓話はお手のものです。さあみなさんご静聴。いよいよ物語の始まり始まり」
赦罪状売りの話
昔、フランドルという国に、若造の一味がいた。あんちゃん連は、ご多分にもれぬ飲む、打つ、買う、三拍子そろった道楽者で、家を外に悪所通い。三味線、笛、シザン琴に合わせてダンスをしたり、夜昼ぶっとおしでさいころをやったり、飲み食いはしほうだいというていたらくだ。
そういう悪魔の神殿で、呪わしくも、彼らが、悪魔に仕えていたということは、実にゆきすぎもはなはだしいものだ。
彼らの口汚いたんかの切り方といったら、実に罰あたりなことで、きいてもぞっとする。わが主キリストのお体を、きれぎれにちぎるというものだ。ユダ人がそうしたのが、まだたりないと思ったのでもあろうか。
たがいに罪の笑いっこしているのだ。罪悪をもてあそんでいる。
貪欲に近い淫欲の火を吹いておこすために、早速、悪魔の従者がみなやって来た。きゃしゃな体の女軽業師、果物売りの娘、竪琴をひく歌い女《め》、売笑婦、菓子売り等。
わしは聖書を自分の証言としていうが、酒に酔うのは奢《おご》りになる。ごらん、酒に酔ったロットは自然の法に反して、知らずに自分の娘とねてしまった。酔ってるために自分のやってることが自分にわからなかったのだ。
ヘロッドは、歴史によれば、宴会の席で酔っていたために、その席から命令を出して、浸礼派のヨハネを殺させた。
ローマの哲人セネカもまた、確かに、うまいことを言っている。「気違いと、飲んだくれとは区別ができない」と。ただ悪人の狂気は、飲んだくれの狂気よりも長くつづいて、しつこいだけだ。
呪うべき欲張りは、人間の堕落の根本、人間の地獄落ちの最初の原因であったが、ついにキリストがその血で人間をあがなって救ってくださったのだ。それでようやく人間は助かったのではないか。
みよ、人間の呪うべき悪性のため、そういう高い犠牲を払っていただいたのだ。
人間の世界は欲のために腐敗していたのであった。
確かに、人間の父アダムとその妻イヴは、欲のために極楽から苦痛の生活へ追いやられたのだ。なぜかというに、私の読むところでは、アダムが禁欲している間は極楽にいられたのだからである。これが、禁断の実を食べてから、すぐに苦痛の生活へ追放されたという次第。
貪欲を人間が嫌うのも、もっとものことだ。
節度をまもらない欲望から、いろいろの病気が起こってくるということを知ったなら、人は食事に気をつけて、それだけよく節制するようになることだろう。
ああ、欲張りの奢る口のために、一瞬の快楽を求めるのどのために、東西南北、世界のいたるところで、地の中、空の中、水の中までも、人間は必死になって、おいしい喰い物と飲み物をさがしているのだ。
このことについて、聖パウロはうまいことを言われた。「腹の中にはいった喰い物も、喰い物をおさめた腹も、一緒に神によって、地獄におとされるのだぞ」
ああ、こんなことを口にするのは、けがらわしい、その行為は、なお、けがらわしいのだが、赤や白の酒を飲んで、のどを便所にするとは、まことに呪わしい不節制というものだ。
その使徒は、哀れにも泣いて言った。
「わたしが言ったような者がたくさん歩いている。哀れな声を出して、泣いてわたしは言うのだが、彼らはキリストの十字架の敵である。彼らの最後は死であって、地獄に行く。彼らの崇める神は腹である」
ああ、腹、くさい袋だ。糞と腐敗がつまっている。その両端から出る音の、くさいこと。腹を養うには金がかかることだ。
意地のきたない食欲を満足させるために、料理人は、つぶしたり、こしたり、粉にしたりして、実体論者と名目論者が概念の性質を論ずるように、実体性を偶有性に変化させてしまう。
(ぜいたくなやつに喰わせるために、料理人はこった料理をつくるので、何を喰わされているか、実体がわからなくなる、ただものの形や色や味やにおいだけになる。)
堅い骨から骨髄までもしぼり出す、といった工合に料理人は、のどもとをとろりとおいしく通れるものは何一つすてないのだ。
食欲をますますそえるために、ソースに香料やいろいろの葉や皮や根を入れて味をつける。
だが確かに、美食家は、その罪に生きているあいだは、死人も同然だ。
酒は人を堕落させるものだし、酔っぱらいは喧嘩し、下等なことをする。酔った男は顔がまがって、息がすっぱい、抱くとくさい、そして鼻からスウスウと息をして、「サムプスーン、サムプスーン」と人の名を呼んでるようだ。だが聖書に出ているサムプスンは酒を飲んだことがなかったのだ。
刺し殺された豚のようにたおれている。ろれつがまわらず、正気をなくしてだらしがない。泥酔は人の理知分別をほうむる墓場だ。酒に支配される男に秘密がまもれないのは当然なことだ。
白と赤のぶどう酒はさけたらよい。とくにロンドンのチェーパ区や魚町で売っているスペインのレーパという町から来る白ぶどう酒はよくない。
このスペインの白ぶどう酒は、強い臭気を発散するので、近くのフランスの産地から出るぶどう酒と一緒にしておくと、不思議にその臭気がうつってしまう。そういう強烈な毒気のスペイン酒を飲むと、二、三杯で、酔って正気を失い、ロンドンのチェーパにいるのか、スペインのレーパにいるのか、自分のいるところさえわからなくなってしまうのだ。フランスのロシェルやボルドー産の白ぶどう酒はよわいので、そうはならないのだ。
まあ、みなさん、おききなさい。一言申したいのです。旧約聖書に出ている勝利の偉業はみな、禁欲と全能の神への祈祷とによって、なしとげられたものですぞ。
聖書を読んで、どうかそのことを悟ってもらいたい。
偉大な征服者アチラを見てごらんなさい。酔って鼻から血を流し、床の中で不名誉な恥かしい死に方をした。酒を飲むは王侯のなすべきことではない。とくに、聖書にある、レムエル王に対する訓言は、よく覚えて身の戒めにするがよい。(レムエル王ですぞ、サムエルではありませんぞ。)
とくに飲酒の罪をおかす方々は、ぜひ聖書のここを読んで戒めとせられたい。
これだけ申しておけば十分であろうから、あとは略する。
次に貪欲については、賭博をやめることだ。
賭博は詐欺の母ともいえる。また虚偽、破約、キリストに対する冒涜、殺人、財産、時間の浪費となる。なお、賭博の常習犯になることは不名誉なことだ。それが、身分の高い人々となると世間ではますます無頼漢《ぶらいかん》のようにいうものだ。まして王侯が賭博にふける場合には、個人としての品行においても、公けの政治においても、それだけその人の名をけがすものである。
昔、ギリシャで、ラケダエモンという国からスチルボンという大使が、同盟を結ぶ使節として、堂々とコリントへ派遣された。このコリントへ来てみると、その国の偉い人々がみな、賭博にふけっていたのを見て、この大使は、早速、逃げて国へ帰って来てしまった。そして言うのには、
「あんな国へ行って、自分の名をけがしたくはない。あんな賭博の国と同盟を結ぶ使節になって自分の名をけがしたくない。他の立派な人を大使にやってもらいたい。ばくち打ちと同盟を結ぶ役をするより、死んだほうがましだ。そうするのはぼくの意志に反することでもあり、ぼくの賛成できないところだ」
この賢人はそう言ったのだ。
書物によると、昔、パルテ人の王が、シリアの王デメトリュウスへ、軽蔑の意味で、黄金のさいころを一組送った話がある。デメトリュウスは賭博にふけって、王としての名声などは顧みなかったからである。王侯は日々の娯楽として、もっと王侯にふさわしい慰めがありそうなものだ。
次に、偽誓や神名濫用の悪罵について、古書の言うことを少し述べよう。
悪罵は呪わしいことであるが、偽誓はそれよりもまだ、いましむべきものだ。神はマタイ伝にみるように、口汚くののしることを禁じられている。とくに聖エレミヤは誓いについてこう言っている。
「汝は真実を誓い、嘘を言うことなかれ、正義の判断をもって誓えよ」と。
いたずらな誓いは呪うべきことだ。至上の神のご命令である十誡をよく見たらよい。その第二の命令には、「みだりに、わが名を使うべからず」とある。見よ、神は、殺人その他呪わしいことよりも、先に、神名濫用の誓いを禁じられたのだ。この順序で禁令を下されたのですぞ。十誡を知る人は、神の第二の禁令はそのことであったということを知っているはずだ。
なお、みだらな誓いをする人の家には罰があたることは明らかだ。たとえば、「神の御心により、十字架の釘により、ハイルズの寺にあるキリストの血によって、誓うが、おれは、七つでゆこう、きさまは五つと三つで、勝負をしよう。
神の両腕で誓うが、インチキすると、きさまを、さしころすぞ」
などというのだ。
この呪うべき二つのさいころの骨から、誓いを破ったり、おこったり、嘘をついたり、人を殺したりするようになるのだ。
わしらのために死んでくださったキリストの愛のために、神名濫用の誓いは大小にかかわらず、やめなければならん。
これから、わしの話の本筋にもどる。
さて、この三人の道楽者は、まだ九時の鐘がならないまえから居酒屋にすわりこんで、飲みはじめた。すわっていると、ある死骸が墓場にはこばれるので鐘をならす音がした。
その一人がボーイを呼んできいた。
「おい早くいって、ここを通っている葬式は誰の葬式か、すぐに行ってきいてきてくれ。ちゃんと名前をきいてくるんだぞ」
「旦那、きいてくるまでもありません。旦那がここへいらっしゃる二時間ほどまえにききました。それは、旦那のお仲間です。なんでも、昨晩、ふいに、酔っ払って腰掛けにかけているところを殺されたのだとか言いますぜ。『死』という、こそ泥の仕業ですな。こいつはこの国の人をみんな殺そうとしている。槍でつきさして、何も言わないで、だまって行ってしまうんです。この死神が、この悪疫流行で、もう千人も殺しています。
旦那、こいつに会わないように、ご用心、ご用心。
『いつこいつにひっかかるかしれないから、気をつけろ』と、おふくろが、わたしにそう言って教えてくれましたんです」
酒屋の亭主が言った。
「この小僧の言うとおりでさあ。マリヤ様に誓って言うが、ほんとに危ねえこんだ。ここから一マイルも行った大きな村では、今年になって女と子供、下郎と小僧をみんな殺してしまったのだ。その悪疫病がそこに住んでいたに違いない。そんなやつの手にかかって恥辱を受けないように、気をつけるのが、利口というもの」
この道楽者が言った。
「へええ、そいつに会うのはそんなに危険なのか。神の御骨で誓っても、田舎道でも町の大通りでも、くまなくさがして、そいつに会ってやろう。
おい連中きけ。三人が力を合わせて、やってみようじゃねえか。手をあげて、たがいに兄弟約束をしよう。そして、この反逆人の『死神』を退治てくれよう。神様のご威光に誓って、たくさんの人間を殺したやつを日が暮れないうちに、殺してみせる」
それで、この三人は、生れつきの兄弟のように、たがいに生死をともにする兄弟契約をしたのであった。
彼らは一杯機嫌で、すさまじい剣幕で立ちあがり、酒屋の亭主が言った村のほうをめがけて出かけた。彼らは、ひどいたんかをきってうそぶいた。つまり、キリストのお体をこなごなにうちくだいたというものだ。――
「死神のやつ、つかまえたが最後、殺してくれるぞ」
さて、半マイルも行かないうちに、関木《せきぎ》があった。それを越えようとした時、乞食のような老人に出会った。そうすると、その老人が言った。
「やあ、だんなさま方、今日は、どちらへ、ご機嫌よう」
その時、その三人のうちでいちばん生意気なやつが返答した。
「なんだい、この田舎っぺいの馬鹿野郎。なぜそんなに、顔だけ出して、あとはすっかり包んでいるんだ。そんなによぼよぼになるまで、生きているのか」
この老人は、その男の顔をのぞきこみながら言った。
「わしは、わしの老いた年と若い年とを交換してくれる人はいないかと思って、インドまで出かけて、町でも村でもさがし歩いて来たが、ひとりも見つからなかったのだ。だから、いまだに、老いぼれながら、生きているのだ。神のご意志に従って、いつまでも生きているのだ。ああ、情けないことに、死さえわしの命をとってくれないのだ。だから、こんなに、行きどころのない乞食のように、わしは歩きまわっているのだ。それで、朝夕、わしのおふくろの家の門であるこの大地を、この杖でたたいて、『お母さん、わしを入れてください。わしは、こんなに、肉も、血も、皮もなくなって、死ぬばかりになっています。ああ、それなのに、いつになったら、わしの骸骨を往生させてくださるのか。
お母さん、わしの室に、長く置いてある金箱を上げますから、そのかわりに、体を包む毛の着物を一枚ください』
と言うのだ。だが、おふくろは、どうしても、そうしてくれないのだ。わしの顔があおざめて、しなびれているのはそれがためだ。
――それはとにかく、みなさん、悪いことを言ったわけでも、したわけでもなし、この老人に向かって、あんた方のように悪口をつくのは無礼だと思わないのか。聖書をよく読んでみたまえ。『白髪の人の前には起ちあがるべし』とあるではないか。
だからよく考えて、老人には意地悪をしないがよい。あんた方もこの世に長くとどまって、年をとってみると、他人に意地悪されたくないと思うようになるだろう。
それでは、さようなら、おいでなさい。わしも行くところがあるのだ」
そうすると、こんどは、他のばくち打ちが、すぐに、口答えをしはじめた。
「なにを、老いぼれ百姓め、そうはさせねえ。そうたやすくは行かせねえぞ。この国の同胞を殺すあの死神の反逆人のことを、たった今、おまえは言ったな。きっと、きさまは死神のスパイに違いねえ。さ、死神のやつがどこにいるか言ってくれ。言わないと、こわいぞ。おまえもわれわれ青年を殺す一味のものに違いねえ。この盗人野郎」
そう言うと、老人が言った。
「さあ、あんた方。死神をそんなにさがしたいなら、教えてやるが、このまがった道を行きなさい。あの森の中の樹の下でその『死神』にあったばかりだから、まだそこにいるだろう。あんた方が、どんなにおどかしても、死神はそれがこわくてかくれやしない。
あそこに、樫の木がある。あそこにいるだろう。人類をお救いくださった神様があんた方をお救いになり、また報いてくださいますように」とこの老人は言った。
さて、三人の道楽者はいずれもばたばたかけ出して、樫の木の下へやって来た。みると、まるい山吹色のフロリン小判が、こはそもいかに約八俵ばかりころがっていた。
もう、彼らは死神をさがすどころか、そのピカピカ光っているフロリン金貨をみて、みなその秘蔵の宝のそばにひざまずいた。その連中の中でいちばん悪いやつが最初に口をきった。
「兄弟、おれの言うことをきいてくれ。おれは、ふざけたり冗談を言ったりばかりする男だが、これでなかなか頭がいいところがあるのだぜ。おれの考えでは、これは幸運の神様がこの掘り出しものをおれたちにくださって、一生涯、おもしろおかしく、どんちゃんさわぎをして暮らせということだ。悪銭身につかずということがあるが、いっそのこと、そうしようじゃないか。
それにしても、まあなんとたいしたものだなあ。おれたちがこんな恵みを受けるなんて、誰が考えていたものがあったろう。
ところでこの金貨をおれの家でもおまえたちの家へでも――この金貨はみんな、おれたちのものだからな――もって帰れたら、どんなに嬉しいことだろうな。だが、てんとうさまが出ているうちは、やらないほうがいいぞ。強盗してきたと思われたんじゃ、この自分たちの宝のために、首を吊られることになるからな。夜になってから、こっそり、うまく、はこばなくちゃならぬ。
ところで、どうだろう、これからくじをひいて、あたった者はぐずぐず言わずに、町へ急いで走って行って、こっそりパンと酒をもってくることにしようじゃないか。その間、あとの二人で、この宝を気をつけてまもっていることにしよう。
町へ使いにいったものがパンと酒をちゃんともって帰って来たらば、相談の上で、夜になってから、いちばん安全だと思うところへ、はこぶことにしようではないか」
その中の一人が、こぶしにくじを入れてもって来て、みんなにひかせた。そうすると、いちばん若いやつにあたったので、その男は、早速、町へ出かけていった。
行くや否や、その残った一人がこういうことを言った。
「おまえは、おれの誓った兄弟だ。あいつが行ってしまったから、早速、これから、おまえに得になることを言ってきかせよう。ここに金貨がしこたまあるが、これは三人に分けるのだ。だが、これをおれたち二人のあいだで分けるようにすることができれば、おれもおまえに親切がつくせるというものよ。なんとそうではなかろうか」
相手の男が言った。
「どうして、そんなことがやれるのか。だって、この銭はおれたち二人が番をしていることを、きゃつは知っているじゃねえか。いったいどうしたらいいのかい。どういうふうに、あいつに言ったらいいのか」
そうすると、最初のずるいやつが言った。
「秘密だぞ。どうしたらうまくいくか、二、三ことで言ってきかせてやる」
「そりゃ、もう、おまえを裏切るようなことは、こんりんざい、しないつもりだ。言ってきかせてくれ」
「それじゃあ言うが、おれたち二人なら、一人よりも強いだろう。
やつが帰って来て、すわったとみたらすぐに、きさまが立って、あいつと冗談半分にすもうをとるのだ。遊戯のようなつもりで、取り組んでいる最中に、おれは、やつの両腹を突きとおすから、きさまも、短刀で同じことをやれよ。そうすりゃあ、この金貨は、おまえとおれとで山分けということになる。そうなりゃあ、二人とも思う存分遊べるし、気ままに、ばくちも打てるというものだ」
そんなふうに、この二人のずるいやつが、他のやつを殺すことに相談した。
一方、町へ行った若造は、その新しい金貨の美しさを、心の中で幾度も思い浮かべては、考えこんだ。
「ああ、あの宝を全部、おれだけが手に入れることができたなら、天下におれほど愉快に人生をおくれる者はないだろうが」
と思った。
ついに、われら人間の敵、悪魔にとりつかれ、二人の友達を殺すために毒薬を買おうという悪心をおこした。というのは、悪魔は、この男が平生ふまじめな生活をしていたので、地獄へおとしてよいという許しを得たのだ。なにしろ、まったく自分ひとりの考えで、友達を殺そうと思い立ち、しかも少しも後悔しないという大変な男であったのだから。
彼は、すぐに、町へ行って、薬種屋にとびこんで、ねずみを殺すに何かいい薬がないかきいた。また自分の庭で鶏を殺したいたちをやっつけ、夜来て害を与えるけものを、できるなら退治したいのだ、とも言った。
薬種師は答えた。
「そんなら、ひとついいものをあげましょう。それを麦の一粒ほど飲んだり、食べたりしたら、どんな生きものでも、死んじまわないものはないという混ぜ薬です。しかも非常に強いから、一マイル歩く時間もかからないうちに、死んじまいます」
この悪辣な男は、その毒薬を箱に入れて、それから、次の町で、大きなびんを三本借りた。その二本に毒を入れて、他の一本には、自分が飲むため、毒はいれなかった。なにしろ、夜じゅうかかって、あそこから金貨をはこび出す労働をするつもりであったからだ。
この道楽者の野郎は、三本の大びんに酒をつめて、友達のところへもどっていった。
話はこれ以上くわしく言う必要もない。友達の二人は計画したとおり、この男をすぐに、殺してしまった。殺してからその一人が言うのには、「さあ、ゆっくり飲んで、少し元気をつけよう。それから死骸を埋めようよ」
そう言いながら、ちょうど毒のはいっているびんをとって飲み、仲間にも飲ませた。それでまもなくこの二人とも、くたばってしまった。
有名なアラビヤの医者アヴィセンの書いた薬の本のどの章節をみても、この二人が死ぬまえに現わした毒薬の驚くべき徴候にまさる毒薬のことは書かれていないはず。
かくして、その二人の人殺しも、その悪辣な毒殺者も死んでしまったという次第。
呪うべき罪、罰あたりだ。裏切り者の殺人、極悪非道だ。
欲、奢り、賭博は、無礼にも、常習的自負心から来る悪口で、キリストをないがしろにするものだ。
ああ、どうして、人間というものは、自分を造ってくださった神に対し、自分を尊い血で救ってくださった神に対し、どうして、こんなに、裏切ったり、誠を欠いたことをしたりするものだろうか。
さあ、みなさん、あんた方の罪を許してくださるよう、神にお願いするが、どうぞ欲張りの罪を犯さないように気をつけてください。
わしの売っているこの神聖な赦罪状はあんた方の罪をみな許してくださるのだ。だから、金貨でも、法定の正貨でも、さもなければ、銀の襟止めでも、さじでも、指環でもけっこうだ。ご寄進なされよ。
このありがたい、法王の赦罪状を拝んでください。おかみさんたち、こっちへ来て、羊毛を少し寄付してもらいたい。寄付者はすぐに、この名簿帳に名を書きいれて進ぜる。そうすれば、かならず天国へ行けることうけあい。わしは上から委任されて来たのだから、法王のかわりに、あんた方の罪を許してあげるわけだ。あんた方が生まれてきた時に清浄潔白できれいであったように、きれいさっぱり、思いきって寄付する人は許されるのだ。……
みなさん、わしは、こんな工合に、説教するんです。
また、人間の魂の医者イエス・キリストにも、あんた方の罪を許してくださるようお願いするのだ。それがいちばんよい方法なんだ、本当だ。
みなさん、ひとこと忘れたことがある。わしの、この頭陀袋の中に聖者の遺宝と赦罪状がはいっている。これはみな英国の何ぴとよりも立派に、法王手ずからわしにくださったものだ。
誰でも信心ごころを出して、寄付し、わしから罪を許してもらいたい人は、すぐここへ出て来て、ひざまずいて、すなおにわしの赦罪状を受けなされ。
それとも、あんた方のゆきすぎで、どの村のはずれででもいいから、赦罪状をお受けなされ。そうしてそのおり、ぱりぱり金貨でも銅貨でも寄進をなさっていただきたい。
あんた方はみな、この淋しい山道を旅されているんだから、いつ災難が起こって死なぬとも限らない。そういう時は、さいわい、わしのような本式の赦罪状売りがあんた方の仲間になって、あんた方の罪を許してあげられるのだから、みなさん、これを大変に名誉なことだと思ってもらいたい。
一人や二人は馬からおちて、首の骨を折る方がないともかぎらない。そういう場合、わしがあんた方の仲間にいることは安心なものですぞ。死んで魂が体からはなれる時、上下を問わず、わしがその人の罪を許してあげる。
ここにいる宿屋のご亭主からまずはじめに、赦罪状をお受けなされ。ご亭主はいちばん罪が深そうだ。
さあ、ご亭主、早く出て来てご寄進につきなされ。それからこの遺宝に一つ一つ接吻なされ。財布をあけて、一文でも出すがよい。
*  *  *
この時、亭主は言った。
「なにをぬかす。そんなことをしちゃ、キリスト様の罰があたらあ。よしたらいい。寄付なんぞするものか。
おまえさんのけつでよごれた、よれよれのズボンでもなめさせて、聖者の遺宝だと思わせたいのか。
聖エレインのみつけた十字架で誓って言うが、遺宝とか聖品とかを手にとっておがむくらいなら、おまえさんのきんたまを手にとっておがむよ。そんなものなんざ、棄ててしまったらどうだ。それをもって歩きたいなら、手つだってあげよう。そんなものは豚の糞の中へ入れておがんだらよい」
赦罪状売りはひとことも答えなかった。あまりおこったので、何も言えなかったのだ。
亭主は言った。
「おまえさんには、もう冗談は言わないことにする。おこるやつは話にならねえ」
みな、笑ったので、そこにいた騎士がすかさず口をはさんだ。
「もう、喧嘩はそれで手打ちにしましょう。もうたくさんだ。赦罪状売りさん、機嫌をなおしてください。それから、亭主どん、ひとつ赦罪状売りさんに接吻してやってください。さあ、赦罪状売りさん、どうぞ、こっちへ来てください。さあ、まえのように、みんな冗談を言って笑おうじゃないか」
二人は接吻して、すぐに道をつづけた。
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船長の話
昔、パリーの近く、サン・ドニイというところに、一人の商人が住んでいた。成金で、ぬけめのない男だというみんなの評判であった。
細君は非常な美人で、大変な交際家、人を集めて、飲めや歌えの大騒ぎをするのが大好きだった。だがそれには、莫大な費用がかかるので、少しくらい、宴会やダンス会でちやほやされたり、人から尊敬されてみても割があわない話だ。
そういう宴会などで儀礼や見栄をはったりすることは、壁にうつる影法師みたいにたちまち消えてしまうものだ。
でも、その費用を全部負担する人こそ災難だ。気の毒にも亭主こそいい面の皮で、いずれは支払いで四苦八苦しなければならない。亭主は女に着物をきせたり、はでやかにダンスをする衣裳をつけさせなければならないが、これみな金持として自分の顔をつぶさないためである。
万一、亭主が支払えない場合でも、または、そんなことは無駄な浪費と考えて、支払いたくないと思った場合でも、いずれ、女の費用は他の男が支払ったり、また金を供してくれることになるにきまっている。そこに危険が起こるのだ。
この豪商は立派な邸宅をかまえていた。いつも、そこが立派な社交界の中心となっていた。それというのも、この主人がおうようで、ことのほか自由な考えをもっていたことと、その細君が美しかったためである。
だがおききなさい。ここへいろいろの客が集まってきたが、その中に一人の修道僧がいた。押出しの立派な、大胆な男で、年は三十くらいであったろう。この家の常連であった。
この美男の坊さんは、この家の主人とはじめて知り合ってから、非常に懇意になって、この家でのいちばんなじみな友人になった。
それから、この家の主人と同じ村の出だというので、この坊さんは、この主人と従兄弟《いとこ》の間柄だと、いつも言っていたが、主人もべつにそのことは一度も否定したこともなく、むしろ、そう言われることを喜んでいた。まるで小鳥が夜明けをよろこぶようによろこんだのだ。
そう親しまれることは、彼にとってはほんとうに嬉しいことであったからだ。
そういうふうに、彼らの交友は永久に結ばれ、たがいに一生の友として兄弟分のよしみを誓ったのだ。
ジョン氏(この僧の名)は気前のよい男で、とくに、この家に来た時は、金を惜しまず使った。つとめて人の気にいるようにしたので、金もたくさん使った。その家のいちばん小さいボーイにもチップをやることを忘れなかった。
この家に来る時は、まず主人をはじめ奉公人にまで、それぞれ身分に応じて何か立派なものをくれたから、みんな、小鳥が太陽ののぼるのを喜ぶように、彼の来るのをよろこんだ。
こんな話は、これくらいにして、よしておこう。
さて、ある日のこと、この商人は(当時ヨーロッパで商業の中心地であった)フランドルのブルージの町へ、商品を仕入れに出かけるので準備をはじめた。
それで、彼は早速、ジョン氏へ使いを出して、ブルージへ出かけて留守になるが、そのまえに、ジョン氏からぜひサン・ドニイへ来てもらって、自分たち夫婦と一、二日遊んでいってほしい、と言ってやった。
この偉い修道僧は慎重にものを考える男でもあり、寺領の荘園で穀倉納屋を全部監督する外廻りの役人であったから、修道院長から、自分の勝手な時に、外出する許可が貰えたのだ。
ジョン氏は早速サン・ドニイへやって来た。この礼儀正しい親愛なるいとこのジョン氏ほど歓迎される客は他にない。彼はギリシャ産のぶどう酒マルヴァジイを大びん一つ、ほかにイタリー産の赤ぶどう酒ヴェルナジの一級品一本と、またいつものように鳥の肉をもって来た。
一日二日、彼らは飲んだり、たべたりして、遊んだ。
三日目になると、この商人は起きる早々、また商売のことを一所懸命に考えこんでいた。会計室へはいりこんで(それも、もっともの話だが)、その年の財産状態を調べた。どれだけ費って、どれだけ財産がふえたかどうか。帳簿や金を入れたふくろをたくさん勘定台の上にひろげた。
彼が蓄えた財宝は大変なものであったから、人にはみせられない。戸をぴしゃりとしめた。金を数えているあいだは、しばらく、人をその室へ入れたくなかった。
そうして、九時すぎまで、そこで坐っていた。
ジョン氏も、朝起きると、庭をあちらこちらと散歩し、礼儀正しく、朝の祈祷を口ずさんだ。
この家の細君も、ジョン氏がひとりで静かに庭を歩いているのをみて、自分もこっそり散歩に出た。
いつものように、細君は彼に挨拶をした。
小間使の娘が細君のお供をしていたが、この娘はまだほんの子供であったから細君が思うままに、しつけていた。
細君は言った。
「いとこのジョンさん、どうしてそんなに早くお起きになったの」
「奥さん、夜は五時間ねむれば十分なはずですよ。結婚している人たちの中によくあることだが、猟犬の群れにかみ殺されようとして穴の中へもぐりこみ、小さくなってじっとしているうさぎのような老衰した人でもないかぎり、五時間ねむればたくさんです。
ところで、奥さん、どうして、そんなにあおい顔をしているんです。きっとご主人に夜どおしこづきまわされて、よく休まれなかったんでしょう」とジョン氏は、そう言って面白そうに笑ってみたが、自分の言ったことに顔を赤らめた。
この美人の細君は頭をふって、言った。
「実のところ、おいとこさん、あたしの場合はそんなことではないのです。
実際、フランス国じゅうさがしても、あたしほどそんなあさましい遊戯に興味の少ない女房はほかにないでしょうよ。
どんなに『情けない、あああ』とか『ほんにこの世に生まれて来なければよかったに』などと口には出しても、あたしの事情は誰にも話したくはないのです。だから、外国へでも行ってしまうか、自殺でもするほか、道がないと思っているのです。それほど、今あたしには困った悩みがあるのです」
僧は細君をじっと見て言った。
「いやいや、たとえどんな悩みや心配事があったにせよ、自殺をするなどとは、神がお許しになりませんよ。
どんな悩みか知らないが、言ってごらんなさい、このわたしにでも、ひょっとしたら、なんとかお力になることができるかもしれませんから。言ってごらんなさい、あなたの悩みを、けっして口外はしませんから、ちょうどここに祈祷書をもっていますから、この上で誓いをたてて申しますが、どんなことがあっても、わたしはけっしてあなたの秘密をあばいて、裏切るようなことはせぬつもりです」
細君は言った。
「あたしも同じことです。あたしの身がこなごなにくだかれても、地獄におちようとも、親類にも仲間にも、このあなたのおっしゃることはけっして口外はいたしません。その祈祷書で誓います。愛と友情のためにこの誓いをするのです」
そうして、彼らはたがいに誓い、祈祷書の上に接吻した。それから、たがいに思うままに打ち明けた。
細君は言った。
「ここにいては、とくにいい機会もないのですが、いつか、あたしの苦難の伝記を話しましょう。
あなたは主人のいとこかもしれませんが、実は、主人と結婚してから以来、ずっと大変な苦しみを受けたのです」
僧は言った。
「いやいや、聖マルチンによって誓いますが、実は、いとこではないのです。この樹にさがっているこの葉がいとこでないように、あかの他人なんです。
実は、あなたを誰よりもとくに愛してきたために、あなたの主人をいとこと呼んで親しくすれば、それだけあなたに近づける機会がたくさんできると思ったのです。このことは、わたしが僧としての自分にかけて、かたく誓って言うのです。
ご主人が降りてこないうちに、どんな心配がおありなのか打ち明けて、早くあちらへ行ってください」
「ねえ、ジョン様、この秘密はかくしておきたいのですが、言わねばならない羽目になったからには、もうひっこますこともできませんわね。
あたしの主人はあたしにとっては、この世のはじめからこれほどの悪人はないと思われるほどの悪人です。だが妻である以上、閨《ねや》の中での秘密はもちろん、どんな場所での秘密でも他人に知らせるなど、妻としてなすべきことではないものだということは知っています。けっして言うべきものではないのです。神様が禁じていらっしゃるのです。
妻は、夫の名誉になることだけを言うものだときいています。このことはあなたにだけ言うのですが、主人は一匹の蝿の価もない人です。それというのは、おそろしくけちんぼうなんです。それがいちばんあたしが情けなく思うところです。それがあたしの悩みなんです。
ご存じのように、女というものは、あたしだけでなく、生れつき六つの望みをもっているのです。
女が夫に望むことは、第一に線が太く、第二に賢明で、第三に金持で、第四に気前がよく、第五に妻に従順で、第六に床の中では若々しく溌剌なことです。
あたしたちのために血を流してくださった神様に誓って申すことですが、実はね、私、次の日曜には、衣裳代の百フランをどうしても払わねばなりません。払えなければ、私はもうだめ、おしまいです。そんな恥辱を受けるくらいなら、いっそのこと、この世に生まれなかったほうがよかったくらいです。
このことが夫にわかったら、あたしは死んだも同然、だから、ね、その金をあたしに貸してくださいな。さもないとあたしは生きていられません。ね、後生一生のお願い、この百フランを貸してください。
きいてくださったら、このご恩は忘れません。きっと、いつかお返ししますから。またあなたの望みどおり、あたしのできることなら、どんなお望みもサービスもいたします。もしあたしが嘘を言ったなら、フランスのジェニルン(シャーレマン大帝への大反逆者)のように身をさかれて、神様の罰を受けてもかまいません」
やさしい僧は答えた。
「おくさん、それは大変お気の毒なことですから、きっとお助けします。心配なさるな。ご主人がフランドルへ発たれてから、確かにその百フランはもってまいりましょう」
そう言って、女の腰をとらえて、しっかり、抱擁し、幾度も幾度も接吻した。
僧は言った。
「さあ、こっそり、あちらへいらっしゃい。早く、朝飯にしましょう。
おやおや、わたしの時計(携帯用の日時計)だと、もう九時です。さあ、あちらへいらっしゃい。おたがいに約束をまもりましょう」
細君は、
「きっとですよ」
と言って、かささぎのように陽気な気持になって戻ってゆき、雇人の料理番に命じて、すぐ食事の用意をさせた。
それから、夫のところへいって、会計室の戸をどんどん力いっぱいたたいた。
夫は言った。
「誰だ」
「あたしよ。いったい、どうしたというのです、あなた。いつお食事になさるの、いつまで、そんなに計算したり、帳面をいじくったりしていらっしゃるおつもりなの。
そんな勘定なんかおよしなさいよ。それだけ果報があればたくさんよ。金袋にかまわずに、今日は、下へおりていらっしゃい。ジョンさんは、おきのどくに、まだ食事をしないでいらっしゃるのよ。いいかげんになさいな。
ねえ、祈祷をきいて、早く食事にしましょうよ」
この男は言った。
「奥、おまえはこの商売が、どんなにやりにくいかということを知らないんだね。じっさいの話、われわれ商人というものは、十二人のうち、年をとるまで一生どうにか失敗せずにゆけるものは、二人もあるかなしなのだ。
死ぬまで、財産は大事にまもってゆきたいものだ。世間のようすがどうかわろうと、平気な顔をして世が渡れるし、また年取ったら、巡礼にでも出かけて遊んで歩くことも、世の中から、ひっこんで気楽に暮らすこともできるのだ。
だからさ、うつりかわりのはげしい、この世の中じゃ、うんとすばしこく立ちまわることが大いに必要だと思うのだ。それというのも、われわれ商売人の世界では、いつどうなるか、いつも運、不運にびくびくして、暮らさなければならないので、油断ができないからさ。
明朝は、フランドルへ出かけるが、なるべく早く帰って来るつもりだ。
ついては、おまえにお願いしておくが、留守中は、言うことをきいて、みんなにやさしくしてやっておくれ。財産を大切にして、立派に家をまもっておくれ。
いま、おまえがもっているだけで、倹約にさえしていれば十分経済がとれる。着物も食糧も十分あるし、小遣銭も足りるはずだ」
そう言って、会計室の戸をしめた。それから、商人は下へおりて来て、すぐに、いそいで祈祷をすませ、早く食事の用意をさせ、早速食事をはじめた。そこで、商人はご馳走を出して、僧をねぎらった。
食事がすむとすぐに、ジョン氏は憂鬱そうな顔をして、商人を、わきへひきよせ、ひそかに言った。
「あなたはブルージへ行かれることになったそうですね。無事にいっていらっしゃい。道中は気をつけて、とくにこの暑さには食事をひかえることです。
二人のあいだで、他人行儀の挨拶もおかしいから、これでおいとまごいにいたしましょう。また、夜でも昼でもかまいませんが、あちらで何か起こったら、私でできることなら、やりますから、遠慮なくおっしゃってください、おっしゃるとおりにやってあげましょう。
時に、お出かけにならないうちに、お願いしたいことがあるんですが。ほかでもない、実は、わたしらのお寺の地所の一部で、少し家畜を仕入れて飼ってみたいので、一、二週間のあいだ、百フランばかり貸していただきたいのです。あんたにも、ああいう地所があればいいんですがね。
借りたお金は、それこそ千フランだって約束の日には、きっとお返しできるんです、一時間だって遅らしゃしません。
このことは内密にしていただきたい。実は今晩、その家畜を買わなければなりませんのでね。それではご無事で行っていらっしゃい。ご親切いろいろありがとう」
この立派な商人は紳士らしく答えた。
「ジョンさん、そりゃおやすいご用だ。金は欲しいだけお持ちなさい。金ばかりでなく品物でもいいだけお持ちなさい、けっして遠慮はいりません。
だがね、あんたもご承知のように、商人は誰も同じことだが、金は商人の田畑《でんばた》だ。商人は評判のいいうちは、信用借りで借金ができるが、金が失くなったら、最後だ。都合がよくなったら返してもらいたい。わしはできるだけのことはしてあげたいと思っているんです」
すぐに、彼はその百フランをもって来て、ジョン氏に、こっそり手渡した。この借財のことは他の人は誰も知らなかった。
それから彼らは飲み、かつ、しゃべり、少し庭をぶらついて遊んだ。やがてジョン氏は自分の寺へ馬に乗って帰った。
朝になって、商人はフランドルへ馬に乗って出かけた。年季奉公の小僧に案内させ、元気でブルージの町へ着いた。
さて、この商人は買ったり借りたりして取引きにいそがしい思いをし、早く用事をかたづけようと多忙であった。この男はさいころもダンスもするではなし、商人としての生活に精進した男であった。
お話かわって、ジョン氏は、この商人が出かけた次の日曜日に、頭もひげも、きれいに剃って、サン・ドニイにやって来た。
ジョン氏がまた来たので、家のものは小僧にいたるまで、みんな喜んだ。
話の要点をかいつまんで言うと、その美しい女房はジョン氏に、百フランのお礼に、一夜じゅう、あおむきになって抱かれてもよいと約束した、ということであるが、この約束は行為においてもはたされた。歓楽は一夜じゅうつづいて、夜が明けるまで、いそがしかった。夜が明けて、ジョン氏は家の奉公人にまで、「さようなら、ごめん」と挨拶して、出て行った。その家人も、町の人も誰ひとり、ジョン氏を怪しむものもなく、彼は自分の寺へ帰ったのか、どこか目ざすところへ去ってしまった。このことはこれまで。
さて、商人はブルージの町の市《いち》もすんだので、サン・ドニイへ帰って来た。女房と宴を張って大喜び。
商品があまり高かったので信用借りをして来た。それで、その手つけとして二万銀ばかり、すぐに払わねばならないということを女房に話した。
それで、商人は早速パリーへ行って、友人からある金額のフランを借りることにし、自分も少しはもってゆくことにした。
パリーへ着くと、なつかしくなって、まずジョン氏のところへ遊びにいった。
金を催促するつもりも、借りるつもりもあったわけではないが、ただどうしているかと思って訪ねてみたのであった。そのときも商売の話をしたが、それは友人同士が会ったときなどに、よくある話題であったにすぎない。
ジョン氏は彼を歓待した。商人はジョン氏に話した。
「手ぎわよく品物を買い占めたことはありがたかったが、ただ、どうしても、信用借りをしなければならなくなった。でもそうするほうが得でもあり、安心できるだろうと思ったのです」
そんなことを、くわしく商人はジョン氏に話してきかせた。
ジョン氏は答えた。
「ご無事で帰られて安心しました。わたしが金持なら、その二万銀は立替えできたのですが。このあいだは、ご親切に金を貸していただいて、ほんとうにありがたいと思っているのですから、お立替えができなかったのは残念です。
でもあの金は、お宅へいって、奥さんのところまで、おとどけしました。あなたの机の上に置いてきました。奥さんはよく承知していられます。なんなら言いひらきの証拠もとってあります。
すみませんが、これで失礼させていただきたい。院長さんがすぐ、この町から出かけるので、わたしがお供をすることになっています。奥さんによろしく、では、さようなら、いずれまた」
この商人は、なかなかぬけめのない男であったから、パリーの友人から借金をして、その金をまたパリーの某銀行へ現金で入れて、借金を決済した。
彼は、きつつきのように喜び勇んで、家に帰った。それというのは、旅行の費用をさしひいても千フランばかり儲かったことになるからである。
妻は、とにかく、昔からの習慣で、早速夫を門のところまで迎えに出た。
借金もかたづき、金もできたので、その晩は夫婦は夜じゅう楽しく過ごした。
朝になって、商人はまた女房を抱き、顔へ接吻した。それから起ち上がって、荒々しいようすをしてみせた。
妻は、
「もうおよしなさいよ。それでたくさんじゃありませんか」
そう言って、それから、彼とまたふざけて、あそんだ。
やがて、しまいに、商人はこう言った。
「言うのもいやなことだが、わしはおまえに少しおこっているのだ。なぜだかおまえもわかるだろうが、わしといとこのジョン氏のあいだに、おまえはへんに水をさすようなことをやったね。
ジョン氏は百フランを確かにおまえへ返したといったが、わしがパリーへ出かける前にそう言ってくれなければ、こまるじゃないか。
わしが信用借りのことをジョン氏に話したところが、ジョン氏はへんな顔をした。なにか感情を害しているようにみうけられた。だが、わしはなにも彼に催促したつもりではなかったのだ。
こんどから、もうけっしてあんなことをやらないでくれよ。誰でも金を借りた人が、わしの留守に来て、おまえに返したら、わしがまた出かけないうちに、そう言ってもらいたいのだ。おまえが不注意のために、わしが、返した金をまた催促するようなことがあってはいけないから」
細君は少しも臆せずに、すぐ大胆に答えた。
「まあ、そうだったの、あの嘘つきの坊主め。けしからないジョンさんだ。あたしはそんなしるしのついてるものなんかもってはいないわ。確かに、お金をあたしにもって来ることは来ましたわ。でも、くやしいったらない、あの坊主の鼻をへし折ってやれ。
その金はあたしにくれたものと思っていたのです。いとこ同士とやら言っているし、またうちへときどき来て世話にもなっていることだしするから、あたし、その金は、あなたへのお礼のつもりでくれたのだと思ったのです。
そうむずかしくおっしゃるなら、あたしもはっきりご返事しますわよ。あなたから金を借りている人のようにあたしはぐずぐずしてはいません。すぐにお返ししますわ。毎日ちゃんとお返しします。できない時は、あたしはあなたの妻ですもの、あたしの借りとして帳簿につけてくださってもよいでしょう。できるだけ早くお返ししますわ。
お金はみなあたしの衣裳にかけたのです、一文も無駄に使ったのではありませんわよ。それもみなあなたのお顔のためを思ってしたことなんですもの、あなたから、おこられる理由はないはずよ。ね、ね、おたがいに笑って楽しくあそびましょうよ。あたしのこの美しい肉体を借金の抵当にあげますわ。床の中で返すことよ。ねえ、あなた許してちょうだいよ。さ、こっちを向いて、笑ってちょうだいな」
この商人は、どうせ取り返しのできないものを、叱ってみたってはじまらないと思って、しぶしぶあきらめてしまった。
「さあ、おまえ、許してあげるが、もう荒づかいはよしておくれ。わしらの財産は、もう少しよくまもっておくれよ。いいかね」
わしの話はこれでおしまいだが、人間の一生が終わるまで、面白い話がつきませんように。アーメン。
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尼寺の長の話
前口上
船長と尼寺の長とに対する亭主の言葉
亭主は言った。
「いい話でした。えらい、立派な紳士ですな、船乗りさん、せいぜい長生きして、船をうごかしてください。
そんな修道僧には千艘の船荷になるほどたくさん、凶年がつづきますように!
あはは、みなさん、どうか気をつけて、そんなたくらみにおちないようにいたしましょう。坊主のやつめ、男をだましたばかりか、その女房までもだましやがった。坊主は家へ入れないことですな。
さあて、その話はそれまでとして、どうでしょう、どなたか、お次をひとつお話しなすってくださいまし」
それから亭主は娘のようなしとやかさで、尼さんに向かって、「尼寺のご庵主さん、およろしかったら、次の話は、あなたひとつやっていただけませんか。それほどご迷惑でもないでしょうから、ぜひ願いたいのですが」
院長は、
「承知いたしました」
と言って、はじめた。
われらの主、神よ――
われらが主、神よ、あなたのお名はこの広い世界にあまねくゆきわたり拝まれています――と尼寺の院長は言った――
あなたの讃美はいかめしい大人がやるばかりではなく、小児の口からもあなたのありがたいお慈悲のことがうたわれております。子は母親の胸に乳をのみながら、あなたを讃美するようすをときどきみせるのです。
それでわたしもできますかぎり、あなたとあなたをお生みになった、永遠に処女であられるあの白ゆりの花(聖母マリヤ)とをほめたたえるために、一所懸命に話をひとつ申しましょう。
わたしはこの話で聖母の御名《おんな》を高めるつもりではありません、聖母の御名はすでにこの上なく崇められ、御子《おんこ》キリストに次いで、慈悲の根元として、また霊魂の救済者として拝まれていらっしゃいますから。
おお、母にして乙女なるマリヤ様、乙女にして母なるマリヤ様。あなたはあのモーゼの眼の前で焼かれても燃えなかったというくさむらでいらっしゃいます。あなたは謙譲なお方であられたので、神から聖霊を引きおろされて、ご自身の中に聖霊を宿されたのです。その聖霊はあなたの御心《みこころ》に光をあびせて、そのお力によって、父なる神の知恵がお生まれになったのです。
わたしは、あなたをお讃えするために、このお話をするのですから、お力をおあたえください。
聖母様、あなたのお慈悲、宏大無辺な御心、御徳《おんとく》、謙譲な御心は、学問の力などではとうてい言いつくされるものではございません。
あなたは、ときどき、まだお祈りをいたしませぬさきにお恵みをお与えくださいます、そうして、あの尊いあなたの御子キリストへわたしたちを導いてくださるために道を照らしてくださいます。
聖母様、あなたのお偉い高徳をおひろめするには、わたしなどの力が及ぶところでなく、つたないものであります。一歳の子供のようにものがいえないのですから、あなたのお助けをかりて、これから、あなたのご高徳を歌物語として申し上げます。
*  *  *
昔、アジヤに大きな都市があった。そこにキリスト教徒とまじり、ユダ人の住んでいる一区域があった。この地区は、その国のある領主の保護の下に、キリストやキリスト教徒に嫌われている不正な高利を貸すことや、闇儲けなどが盛んであった。その町は開放されていたので、人々はその町の中を自由に通りぬけることができた。
その町のはずれに、キリスト教徒の小学校があったが、そこで大勢のキリスト教徒の子供たちが年々規定の学課を学んでいた。尋常科で普通やるような唱歌と読方を教わった。
この子供たちの中に、一人の寡婦の子がいた。この生徒は聖歌隊の一人で、年は七つ、毎日通学していた。
この子は道ばたで聖母の像を見るといつも、教えられたように、ひざまずいて拝み、「アヴェ・マリヤ」の讃美歌をくちずさんで、その前を通ってゆくのであった。
この寡婦は自分の小さい息子に聖母を信心するように教えこんでいた。利口な子供だったから、それをけっして忘れたことがなかった。
このことで、わたしはいつも、子供の時分からキリストを信仰したという聖ニコラス(学童の守り聖者)を思い出す。
この子供は学校で初歩の読本を教わっている時にも、讃美歌を習っている子供が「救い主の御母――」というラテン語の歌をうたっているのをきいていた。
彼は、うたっているところへ臆面なしに近づいていって、その歌の文句も節もよくきいていたから、しまいにははじめの一行はそらでうたえるようになった。
まだ子供だったので、ラテン語の意味はすこしもわからなかったが、ある日のこと、彼は友達に、その言葉の意味や、なぜその歌がいつもうたわれるのかきいてみた。それを説明してもらいたいので、地面にひざまずいて幾度も頼んだのだ。この子よりも年上であったこの友達は答えた。
「この歌は慈悲深い聖母様をあがめるためにつくられたのだという話だよ。そして、ぼくらが死ぬ時に救ってもらえるようにお頼みするためだとさ。これ以上はぼくも知らないよ。ぼくはうたうことはできるけど、文法なんかよく知らないんだ」
「キリストのお母様をあがめる歌なのか、そんなら、クリスマスの来ないうちに、ぼくはみんな覚えるように勉強しよう。読方の出来なんかが悪くてしかられても、それこそ、一時間に三度鞭で打たれてもかまわないから、この聖母の歌をみなおぼえよう」と、この無邪気な子供は言った。
友達は毎日、学校の帰り道で、こっそり、暗記するまで教えてくれた。一語一語節に合わせて、うまく大声でうたえるようになった。学校へ行く時と、帰る時と、日に二回この歌を練習した。
それほどこの子は聖母を信心していたのだ。
例のユダ人町を通る時、この子はゆきかえり、いつも、楽しそうに、大声を出して、このラテン語の讃美歌をうたった。
聖母のあたたかい心がこの子供の心に深くしみこみ、聖母を信心するために、歩きながらでもその歌をやめることができなかった。
人間の最初の敵、蛇となって誘惑し、今もユダ人の心の中に地蜂の巣をつくって、彼らをそそのかしたサタンナスは怒って言った。
「ヘブライの人々よ。情けないことではないか。こんな子供がきみたちを軽蔑して、きみたちの国法の威厳を害するような文句を、思うがまま自由に、うたい歩いているとは。きみたちはそれを正しいことだと思うのか」
そう言われて、その時からユダ人らはこの罪のない子供をこの世から追っ払ってしまう計画をたくらんだ。それがために刺客を雇った。この呪うべきユダ人は路地にかくれていて、子供がわきを通った時、つかまえて、しばりあげ、のどをついて、おとし穴へ投げこんだ。その穴はユダ人が大便をする便所であったということはあきれたものではありませんか。
呪うべきヘロッドの人民の再現か。そんな悪事をして、なんの役に立つのか。悪事はかならずあらわれる。きっとあらわれるものだ。ことに、神の威力が及ぶところでは、殺人の罪はおのずから露見するのです。
「このけがれない童心の殉難者は、今は、あの純白な天の仔羊(キリスト)のお供をしてうたうことができるのです。偉大な伝道者聖ヨハネがパトモスで書いているように、肉体的に女を知らなかった者は、その仔羊の前で新しい歌をうたえるのです」(黙示録第十四章三節および四節)と庵主は言った。
さて、この寡婦は可哀そうに、よもすがら、子供の帰りを待っていたが、ついに帰っては来なかった。
それで、夜が明けてから、心配のあまりまっさおな顔をし、あれこれと思いわずらって、学校や方々をさがしまわったが、しまいに、その子供はユダ人町で見た人があったということをききだした。
親心で、胸はいっぱいになり、気違いのようになって、いそうなところへはみな行ってみた。そして、慈悲深い聖母の名をとなえながらさがしまわったが、しまいに、ユダ人の町をさがすことにした。
そこに住んでいるユダ人のひとりびとりにあたっては、可哀そうに、「もしや子供が通りませんでしたか」とたずねていたが、誰も知らないと言うものばかり。
やがて、まもなく、イエス様の恵みによって、寡婦は、ちょうど、子供がなげこまれたあの場所のそばで、子供の名をよんだ。
「罪のない子供の口からも讃美される偉大な神様、あなたの御力の現われをご照覧くださいまし」
清浄な童心の宝石、このエメラルド、輝かしい殉教のルビーである、この子はのどをつかれあおむけに横たわっていたのだが、その時、聖母の讃美歌「救い主の御母――」を声たかくうたいだした。その声はあたりに響きわたった。
この声に驚いて、その町を通っていたキリスト教徒の人たちはみな集まってきた。そうしてすぐに、町の奉行をよびにやった。
奉行はすぐにやって来て、天の王にましますキリスト様と人類の誉れともいえる聖母様とをたたえたあとで、その悪いユダ人を逮捕した。
讃美歌をやめずにうたいつづけているこの子供をとり上げてみな泣いた。立派な行列をつくって近くの寺院にはこんだ。
母親は棺のわきで、気を失ってい、そこにいた人たちは誰もついに、この第二のレーチェルをそこから引き離すことができなかった。(蘇生させることができなかった。)
奉行はその殺人事件に関係したユダ人を一人のこらず、すぐに、拷問にかけ死刑に処した。そういう罪悪をけっして容赦することができなかった。罪をおこなえばかならず罰せられるものです。
犯人は荒馬に乗せてひきまわされたのち、法によって絞首刑に処せられた。
この罪のない犠牲者は、祈祷のあいだ、中央の祭壇の前で棺台の上に横たわっていた。それから、修道院長と同伴の僧侶たちは、いそいでこの子を埋葬しようとした。
だが、お水がかけられると、この子がしゃべりだし、また讃美歌をうたいはじめた。
この院長は僧侶であるから、当然、神聖な人であったので、この子供に向かって、誓願した。
「神聖なる三位一体の名においてたずぬるが、汝ののどはつかれたるにもかかわらず、なぜ汝はうたえるのであるか、その理を告げよ」
子供は答えた。
「ぼくののどは頸の骨までつきとおされたのですから、ふつうなら、もうとっくに死んでいるはずですが、イエス・キリストは、本の中に書かれているように、その御光が長くつづき、忘れられないようにお望みになるのです。またぼくは聖母様を信心していたおかげで、讃美歌を声高く、はっきりうたえるのです。
慈悲心の泉、聖母様を子供心から、ぼくはいつも信心していました。命がなくなりそうになった時、聖母様がお出でになって、ぼくにこの讃美歌を死んでゆく時にうたうように命じられました。それをあなた方はおききになったのです。ぼくがうたってしまったら、聖母様はぼくの舌の上に、一粒の真珠をおのせになったようです。だから、ぼくはそのありがたい聖母様のために、うたい、どこまでもうたいつづけなければなりません。その粒がとれるまでうたいつづけます。
聖母様は、真珠の粒をぼくの舌の上においたあとで、こうおっしゃったのです。
『坊や、おまえの舌からその真珠の粒がとれた時、おまえを天国へつれてゆきますよ。けっしてこわがってはいけませんよ、わたしがついているのですから』」
この神々しい僧の院長は子供の舌を引き出して、その粒を取り去った。すると、子供は静かに息をひきとった。この院長はこの奇蹟をみて涙をはらはらとおとして、地面にぬかずき、まるで、そこにしばられたようにじっとうつぶした。
他の同伴の僧侶たちも地面に転び伏し、泣きながら、聖母を拝んだ。それから立ち上がり、出かけていって、棺からこの殉教者をはこび出し、きれいな大理石の墓へ、そのあどけない小さい死骸を葬った。
いまこの子供がいる天国で、わたしたちもその子に会えるよう神にお祈りをする。
英国のリンコンというところで、ヒュウという子供が、呪わしいユダ人に殺された話も有名だが、それは、ほんのこのあいだのことであった。(一二五五年)
わたしたちは罪ふかい頼りないものであるから、わたしたちのためにもお祈りをし、そして聖母マリヤ様を信心して、わたしたちのために神が幾重にも恵みをお与えくださるようにお祈りをしたいのです。アーメン。
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チョーサーの話
亭主のチョーサーに対する冗談
この奇蹟物語のあとで、みながしんみりさせられ、真面目になったのも奇蹟的にみえた。
しまいに亭主は冗談を言い出した。彼は最初わたしをじっとみて、こんなことを言った。
「あなたはいったい何をやっていられるかたですか。いつも地面の上ばかりみておいでになる。野兎でもいないかとさがしておられるような顔つきですな。
もうちっとこっちへ来て、ほがらかに上をお向きなせえよ。
さあ、みなさんどいてやって下さい、ひとつこの方にはいっていただきましょう。わしと同じように腰つきが立派で、小がらで、なかなか好男子でさ。どんな女でも片手で抱けるお人形のようですな。誰にも冗談を言わないところをみると、この様子ではなかなか曲者にみえますな。
他の人たちも話したんですから、さあ、なんとかおっしゃって下さいよ。これからさっそく、面白い話をやってもらいたいのです」
わたしは言った。
「亭主、そう機嫌を悪くしなさるな。べつだん話というほどのものもないが、久しい以前に覚えた俗謡があるだけだ」
「ほほう、そいつあ面白い。みなさん、この人の顔つきからみますと、だいぶ、いきな話が出そうだ。さあ、謹聴謹聴」
チョーサーの話・サー・トーパス物語
みなさん、悪くとらずに、きいて下さい。これからほんとうに、面白い冗談ばなしをいたします。サー・トーパスという騎士がいた。実戦でも試合でも立派な腕前だった。
生れは、遠く海をこえ、フランドルのポーペリンというところ、父は立派な人で、その土地の領主だ。
サー・トーパスはそこで育てられ、勇猛な若者となった。顔は上等のパンのように真白く、唇は薔薇のように真紅だった。頬のいろは紅で染めたようだ。鼻は上品なかっこうをしてた。
頭髪も鬚もサフランの花色で黄色に光り、ひげは帯のところまでさがっていた。靴はスペインのコルドワ産の革、とび色のズボンはブルージ出来、上衣は高価な錦織だった。
彼は山野に鹿を追い、あるいは、河べりで、灰色のおおたか[#「おおたか」に傍点]を手に、たか[#「たか」に傍点]狩りをした。また弓が上手で、角力も無敵、いつも賞品にかけられた牡羊をもらった。
美しい箱入り娘たちは皆彼を恋い、悶々として眠られぬ夜をすごしている。だが彼はかたい男で浮気はしない。赤い実のなる、いばらの花か。
ある日のこと、武者修行を思いたち、灰色の馬にまたがり、手には槍、腰には長い刀をさげて、出発した。
美しい森の中を、拍車をかけて、かけずりまわった。森には獣がたくさんいた。牡鹿も野兎もいたのである。
やがて、北や東へ、かけまわっているうちに、不幸なことが起って来た。
そこには、かんぞう[#「かんぞう」に傍点]、うこんそう[#「うこんそう」に傍点]、ちょうじ[#「ちょうじ」に傍点]の木、などいろいろの薬草が生えていた。また、古いビールや、新しいビールにいれたり、箱の中にもいれておく、にくずく[#「にくずく」に傍点]という芳草もあった。
鳥が鳴いていた。はいたか[#「はいたか」に傍点]や、きつつき[#「きつつき」に傍点]の声をきくのはうれしいものだ。つぐみ[#「つぐみ」に傍点]も歌っている。山鳩は枝にとまって、ほがらかに歌っている。
サー・トーパスはつぐみ[#「つぐみ」に傍点]の鳴き声をきくと、急に、恋ごころにもえてきた。気が狂ったように、馬をのりまわした。馬もしぼれるほどに汗をかき、両腹が血ばしった。
サー・トーパスも、やわらかい草地の上をあまりのりまわしたので、すっかりつかれ、鼓動もあまりにはげしくなったので、その場にころがり、馬も休ませ、草を喰わせた。
サー・トーパスは言った。
「ああ、この恋の悩みはどうしたことか。夜じゅう、妖精界の女王がわしの情人になって、わしの衣の下でねるようになった夢をみた。
わしの妻になる資格の女は町にはいない。妖精の女王こそわしの愛する女だ。他の女はみなすてて、野を越え山を越えて、妖精の女王のところへ行ってみよう」
そう言って、すぐに、鞍にとび乗り、妖精の女王をさがすのだと、柵を越え岩を越えて、拍車をかけた。長く乗りまわしているうちに、やがて、人里はなれた山おくに、妖精の国を見つけたのだ。はなはだ荒涼としている。女も子供も誰ひとり、彼のところへやって来るものはいなかった。
だが、やがて、サー・オリファウント(象)となん申す巨人がやって来た。乱暴なあら武者だ。
彼が言うのには、
「この小かっぱめ、テルマガウントの神(キリスト教徒が回教の神と信じていた、仮想の凶暴な神)によって誓っていうが、ここからすぐに出て行けばよし、さもないと、このつちぼこ[#「つちぼこ」に傍点]できさまの馬をたたき殺すぞ。ここをどこだと思う、畏《おそ》れ多くも妖精の国の女王様が住んでいらっしゃって、七絃琴や笛や太鼓で、まつりごともなさるところだ」
若武者は答えた。
「よろしい。明日おれは武装をととのえてまたやって来て、かならずここで勝負をしよう。この槍の先にかけて、きさまをひどいめにあわせてやる。きっと明朝の第一|刻《とき》(六時から九時まで)が終らぬうちに、きさまの胃袋をつきさして、ここできさまを殺してくれる」
サー・トーパスは、すぐに、ひきさがった。巨人が、恐ろしい柄のついた石投道具で、彼をめがけて石を投げつけて来たが、うまく身がまえて、運よく、その難を避けた。
さあ、諸君、きいて下さい。わたしの話は、うぐいすの歌よりも陽気なものだ。
腰骨のほそいサー・トーパスは、野を越え山を越え、町へ戻って来た。
そして自分の従者たちに「こおどりして喜んでくれ。明日は美しい女のため、恋人のために、三頭の巨人と決闘するのだから」と命じた。
それから彼は言った。
「さあ、楽人ども集れ。わしが武装をつけるあいだ、物語をしろ。英雄物語でも、法王や高僧の伝記でも、また恋物語でもよろしいぞ」
それから、前祝だ。まず木杯に入れた甘い葡萄酒や蜜酒が出、香料品が出た。上製のしょうが[#「しょうが」に傍点]入りのビスケットやにくずく[#「にくずく」に傍点]や砂糖づけのカミンなどだ。
それから、雪のような白いはだに、うすモスリンのシャツをきて、ももひきをはいた。シャツの上に綿入れの軍服をつけ、またその上に、心臓をつかれぬように、くさりかたびらをつけた。さらにその上に、ユダヤ製の立派な丈夫なくさりかたびらをつけた。それから、いちはつ[#「いちはつ」に傍点]の花のように真白い陣羽織を着た。楯は全部黄金製で、紅玉と猪の頭の彫刻がついていた。
それから、彼はパンとビールによって誓いをたて、どうあっても、巨人を殺してみせる、と言った。
彼のすねあてはかたい革で、刀のさやは象牙で、かぶとは光った黄銅で、くらは鯨の歯で、たづなは日の光か月の光とも思われるほど光っていた。槍の柄は檜《ひのき》で、先はするどくとがれ、うちてしやまんという感じであった。馬は連銭葦毛の馬、しとやかな軽い調子で国中を踏破するのだ。
さあ、諸君、これで話は、ひとくさりすんだが、後をききたければ、お話しいたしましょう。
ではお侍さんも、貴婦人方もどうかだまって、わたしの話をおきき下さい。わたしはこれから、いくさ物語、騎士道、恋の貴婦人のことをお話しいたしましょう。
昔から、けだかいロマンスがある。若きホルン物語、イポチス物語やベービスや、サー・ギーやサー・リベウスや、プレン・ダムール等の物語もあるが、なかでもこのサー・トーパスの物語は騎士道の花ともあおがれ、最大なロマンスだ。
彼は愛馬にまたがり、火ばなのように、道を急いだ。彼の頭は白百合の花にかざられた小さい塔に見えた、神様、彼の体をおまもり下さい。彼は武者修行の騎士であるから、人家にはとまらず、自分の頭巾をかぶって野宿する。輝くかぶとは彼のまくらとなり、馬は、わきで、草を喰う。
彼はまた(騎士物語で有名な)美しい武装の騎士ペルシヴェルのように泉の水を飲んだのだ。
やがて、ある日のこと――
*  *  *
この時、亭主は口をはさんだ。
「もう、後生だから、それでやめて下さい。お前さんの馬鹿な話には、うんざりした。そんなつまらない話をきくと耳がうずくのだ。
そんな俗謡にある物語は真平だ。そんなのは腰折れのへぼ詩《うた》というものだ」
わたしは言った。
「なぜですか。これはわたしの知ってる俗謡の中で一番よいものだのに、お前さんばかりが、もうききたくないなどというのはいったいどうしたことか」
「なあに、あっさりいえば、そんなつまらない韻文とかいうやつは、くそよりもねうちがねえ。ひまつぶしだ。もう韻文は御免だよ。
なにか歴史ものか、さもなければ散文でもよい。おもしろくて、ためになるのがよい」
わたしは言った。
「承知した。それでは、散文で短いものをやりましょう。それならお気に召すだろう。それでもだめなら、おまえさんもだいぶ近づきにくい男だ。
やろうと思う話は、尊い教訓ばなしだが、昔からいろいろの人たちがいろいろのやりかたでやってるものだ。一例を言えば、聖書の中でキリストの受難記を書いているどの伝道者にしたところで、みな同じことを言ってはいないのだ。だが話し方が違っていてもその真意は一つで一致している。キリストの受難の苦しみを話す場合、マルコ伝、マタイ伝、ルカ伝、ヨハネ伝、どれにしても、みな多少の違いがある。しかしその真意はまったく一つだ。
そうですから、これからお話しいたす短篇ものが、他の人たちと話し方が違っていても、お許しを願いますぞ。わたしは、あなた方がすでにお聞きになっている話よりも、たくさんの諺を使って、この話を効果的にしたいのです。他の人と同じ言葉を使わないでも、おとがめ下さるな。その真実は、原本の話とあまり違ってはいません。そういう考えから、このおもしろい話を書いてみるのです。
そのつもりで、どうぞおききを願います」
チョーサーの話・メリベ物語
昔メリベウスという勢力のある金持の若い男がいた。妻のプルデンスとの間に、ソフィヤという娘があった。
ある日のこと、彼は気ばらしに野辺へ遊びに出かけた。戸をよくしめて、妻と娘を家において出かけた。
そうすると仇敵の三人(名利、肉欲、邪念)がそれを機会に、家の塀に梯子をかけて窓からしのびこみ、妻をうちのめし、娘には、足、手、耳、鼻、口と五か所に致命傷を与え、半ごろしにしてたち去った。
家に帰って来たメリベウスはこの危害の有様をみて、狂気のようにいかり、きている自分の着物をさきながら、くやしがった。
妻のプルデンスは、いろいろと泣かないように頼んでみたが、夫はますます泣き叫んだ。
プルデンスはオヴィド(ローマの恋愛詩人)の書いた『恋愛の苦しみをなおす法』という本の中にある言葉を思い浮べた。『子供の死を悲しみ泣く母親は、心ゆくまで泣かしてやり、しばらくそのままとめないでおくことだ。それからできるだけやさしい言葉で慰めて、泣きやむように頼むことだ』
プルデンスも夫が満足するまで泣くように、しばらくそのままほうっておき、時機をみて、こう言った。
「ああ、あなたはなぜそんなに馬鹿なまねをなさるのです。そんなに悲しむのは賢人のすることではありません。娘は、神様のお恵みによって、きっとなおって助かります。たとえ娘が死んでしまったとしても、あなたまでがそのために悶死してしまうのはいけませんわ。
ローマの哲人セネカも『賢人は子供を死なすとも、悲観のあまり自暴自棄にはならぬ。従容として自らの死を待つとひとしく、わが子の死に対しても一生それを忍耐してゆく』と言っているではございませんか」
メリベウスはすぐに答えた。
「これだけ悲しい理由があるのに、誰が泣かずにいられようか。イエス・キリストも友のラガルスが死んだとき泣いたではないか」
プルデンスが答えた。
「気の毒な人達に同情して泣くのも結構ですが、それには程度があります。泣くことにも節度があります。聖パウロはローマ人への書に『喜ぶ者と共によろこび、泣く者と共になけ』と書いていられます。ですが、節度ある悲しみは許されていますが、極端な悲しみは確かに禁じられています。悲しみの度合もセネカの私たちに教えているところにしたがって計らねばなりません。『友達が死んだ時、あまり眼をぬらしすぎるのも、またあまりにぬらさなすぎるのも、悪いことだ。たとえ涙の眼にたまるとも、けっしておとすものでない』とセネカは言っています。
それで、友達を失くしても、また他の友達をおみつけになることです。そのほうが、亡くなった友達のために泣くよりか賢明です。泣いても無益なことです。それですから、智恵をもって自制し、もうけっしてなげかないで下さいませ。
シラックのジェーズスの言ったことを思い浮べて下さい。
『心の楽しみをもつ人は年をとってもおとろえないが、心に悲しみをもつ人は骨を枯らすこと明らかである。』ジェーズスはまた『心の悲しみは多くの人を殺す』とも言っています。
またソロモンも言うように『羊の毛につく虫が着物にたかるように、また小さい虫が樹木に害をなすように、悲しみは人間の心に害をなす』のです。
ですから、人は子供をなくしたり、財産を失った場合でも、辛抱してその悲しみにたえなければなりません。忍耐ぶかいヨブのことを思いうかべて下さい。ヨブは子供や財産を失くし、自分の身にもいろいろと危害を受けながら、しかも『神はこの苦しみをわたしに与えられたが、またこの苦しみを取って下さったのだ。有難いのは神様だ』と言ったのです」
メリベウスは、この妻の言葉に答えて言った。
「お前が言ったことは本当のことだし、ためになる話だが、わしの悲しみはあまりにひどすぎて、どうすることもできないのだ」
プルデンスはしかたなく、こう言った。
「それではあなたの親友や、親類の中から、賢しい人たちをみなお集めになって、この事件をお話しなさって、御相談なさい。その人たちの意見どおりになさったらいかがですか。ソロモンも言われたように『いっさいのことは人の意見にしたがってなせ、そうすればけっして悔むことはない』のです」
そこでメリベウスは、妻プルデンスの意見にしたがって、そういう人たちにたくさん集ってもらった。
そのなかには青年も老人もいた。外科医もいれば内科の医者もいた。なかには昔はメリベウスの敵であったが、今は親睦を装って親しそうにしている人々も少しはいた。また、よくあるように、本当に愛をもって敬服しているのでなく、恐ろしいので敬意を表している、といった、近所の人たちも少しは来ていた。
その他に、巧妙なお世辞をつかう人たちや、法律にあかるい利巧な弁護士もたくさん集っていた。
さて、こういう人たちが集った時、メリベウスは悲しそうにこの事件を説明した。彼の話しぶりから察すると、彼は心中はげしく憤って、犯人に対してはきっと仇をとってやるぞ、今にも血の雨をふらすも辞せぬという気持が表われていた。
だがメリベウスは一応、この事件についての彼らの意見をたずねてみた。
この時、そこにいならぶ賢人たちの許しを得て、まず一人の外科医が立ちあがり、メリベウスにむかって、次のように言った。
「御前、わたしども外科医は、勤務中はどんな患者に対しても、誰かれの区別なく最善をつくして治療をほどこし、けっして害を与えないのが役目です。
ですから、敵と味方が互に傷ついた場合でも、医者は敵も味方も区別せず両方を助けるのです。そういう場合はよくあることです。
それですから戦争をおこしたり、党派に味方したりすることは、わたしどもの医術にはむかないことです。それで令嬢を治療いたします場合は、たとえ傷がもう助かるみこみのない時でありましても、わたしどもは日夜全力をつくして、おなおしいたそうとするのです。また一日も早く御平癒あそばすように神にお祈りいたすのです」
内科医の人たちも、ほぼ同じようなことを言ったが、なお、少しつけ加えて言ったことがある。それは「病気は対症療法でなおすと同じように、戦争も復讐によってなおすことができる」ということであった。
メリベウスをねたんでいる近所の人たちも、友人のふうをしている人たちも、ご機嫌とりの人たちも、みな泣くまねをしたりして、この事件を一層悪化させた。それというのも彼らはメリベウスの敵の微弱な力を軽蔑し、これに反してメリベウスが偉大な勢力と財力のあること、および有力な味方のあることなどを讃美したからである。
彼らはメリベウスがただちに戦争をおこし、復讐すべきものだということを率直に言った。
次に一人の利巧な弁護士は、他の賢人の同意を得て、立ちあがり、こう言った。
「諸君、わたしどもがここへ集った理由は重大問題を議する必要があったからです。この犯罪は極悪非道なことであり、またこのような危害は将来にもまた起り得ることでもあり、また敵味方ともに偉大な富と勢力を具備している、というようなもろもろの点を考えてみると、この事件はなかなか重大事件です。これを処理する方法を誤ると、大変なことになるだろうと思います。
メリベウスさん、だから、わたしどもの意見としては、とくにあなたが御身辺を警戒される、それから、スパイにかからないようにされる必要がある、ということです。それからあなたの家に番兵を置いて、おからだとお邸とを護られることです。だが急に戦争をしかけて復讐するということは、いまのところ、明らかに、得策とは思われません。それゆえ、ゆっくりお考えになってから処理されたらよいと思います。諺にも申しますように『早計は失敗のもと』です。また賢明な裁判官とは、事件の性質を早く理解し、ゆっくり考えてから判決を下す人だといわれています。遅滞することはすべて損なことではありますが、判決の場合とか、復讐する場合には、適当な遅滞はけっして責むべきものではないのです。
イエス・キリストの例もあります。姦淫を犯した女がつかまって、キリストの前につれられ、人々がその裁判を願った時、キリストはそれに対してなんと答えるべきかをよく御存じでありましたのに、ただちにお答えはなさらず、よく考えられるために地面に二回も何かお書きになり、おききにならないようなふうをなさいました。(ヨハネ伝第八章三節――八節)
そういうわけで、ゆっくりお考えなされることをおすすめしたいのです。しかる後、やり方を申し上げましょう」
その時、すぐに青年組が立ちあがって反対し、その組の大部分の人たちは老人組の賢者を軽蔑してさわぎ出し、こう言った。
「鉄は熱している時に打つものだというが、それと同様に、復讐もまた日がたたないうちに、すべきです」
それから大声を出して叫んだ。
「戦争だ、戦争だ」
その時、一人の老人組の賢人が立ちあがり、手をあげて、
「静かに――話せばわかる」というような様子をして言った。
「諸君、戦争を叫ぶものはたくさんいるが、戦争というものはどんな犠牲を払うものか知っているものは少ないのだ。戦争の初めは人を巻きこむ力が強いので、誰でも平気で賛成し、すぐに戦争が始まるものです。だが実はその結果はどうなるかはあまり考えられていない。
戦争がいったん始まったら最後、多くの子供は生まれないうちに死んでしまうし、また不幸な生活をし、みじめに死なねばならない。戦争はよく考えてから始めるべきものです」
そう言って、この老人が理をもって、諄々《じゆんじゆん》と説こうとした時に、その話の腰を折ろうとして、青年組はそんな話はやめろやめろと老人にたびたび言った。
ききたくない説教をきくのはいやがられる。それでシラックのジェーズスも言っているが、『悲しい時の音楽は不愉快なもの』である。言いかえれば、いやがる人の前で説教をしてみても、泣いている人の前で歌うのと同じように益のないことだ。
それで、この賢人はききてがないと見て、しぶしぶまた腰かけた。ソロモンは、『ききてのない時は、強いて話すものでない。またよい忠告は必要の時には出ないものだという諺も真理だと思う』と言っている。
なお、ここへ集った人たちのなかでも、メリベウスに、ひそかに耳うちして、何か忠告した人もたくさんあったし、公然と彼に反対したものもたくさんいた。
メリベウスはこの集会の大部分が戦争をするという彼の意見に賛成しているので、直ちに戦争派に同意して、戦争することに確信を得た。
その時、プルデンスは夫が戦争をして復讐することに決心したようであったから、時機をみてこう言った。
「心からお頼みするのですが、あせらずに、わたしのいうことをぜひおきき下さい。
ピエルス・アルフォンス(十二世紀のスペインの説教者)は『善悪にかかわらず、急いで相手に報いるものでない、ゆっくり事を行えば、相手が友達ならば、それだけ長く期待して喜び、相手が敵ならば、それだけ長くおびやかされるものだ』と言っています。
また諺にも『急ぐなら待つべきである(急がばまわれ)』とか、また『下手に急げば損をする』ということもあります」
これに対してメリベウスは答えた。
「いろいろの理由で、おまえの忠告どおりにはやらないつもりだ。多くの賢者が認め賛成したことを、おまえの忠告によってわしが変更しようとしたなら、人はわしのことを馬鹿だと思うに違いない。
次に、女はみな邪悪で、ひとりも善いものがいないと思うからだ。ソロモンも『男は千人中に一人は善い男がいるが、女となるとひとりもいない』と言っている。また、わしがもしおまえの忠告に支配されたなら、かかあ天下だと思われるだろう。それはまっぴらだ。シラックのジェーズスも言うように、『もし女房が支配をすれば、それは夫に対する反抗である。』またソロモンも言っているが、『一生のあいだ、女房、子供、友人の支配を受けてはいけない。子供の世話になるよりも、子供が父親から、必要なものを貰うようにするほうがましだ。』またわしがもしおまえの言うことをきいて、秘密な計画をしても、やがては人に知られてしまうのだ。これはこまる。というのは、物の本にも書いてあるように、『女はおしゃべりであるから、自分の知っていることは何もかくしてはおられない』からだ。
なお、哲人も言うように、『女は計においては夫に勝つ』ということもある。
だから、僕はおまえの意見は用いてはならないのだ」
プルデンス夫人は、夫が言いたいことをみな言ってしまうまで、おとなしく辛抱してきいていたが、夫の許しを得て、次のように話しだした。
「あなたの第一の理由については、たやすくお答えができます。事情がかわれば、意見も、したがってかわるのが当然です。また事情が前とかわってきたと思えば、したがって意見もかわるはずです。
だから、あなたが御自分の計画を実行するように誓われ、命令を下されたあとからでも、その計画を正しい理由で中止されるなら、誰も人はあなたを嘘つきとか誓いを破ったとは言わないでしょう。書物にも『改心して嘘をつかないのが賢人である』とございます。
たとえあなたの計画が多数の人たちの意見で定められたからといって、その計画をどうしてもやる必要はありません。御自分の好むようにやればよいのです。それというのも、ものの道理と利益とがよくわかる人は、賢明な少数の人たちでありまして、てんでに勝手な熱を吹いてさわぎ立てる大多数の民衆ではないのです。たしかに、そういう民衆は信用ができないのです。
次に、第二の理由について答弁させていただけば、女はみな邪悪なものだとおっしゃいましたが、失礼をかえりみず申し上げれば、それはすべての女を軽蔑したおっしゃりようです。書物にも『あらゆる人を軽蔑するものは、あらゆる人から憎まれる』とあります。またセネカの言ったことにも『智者になろうとするには、人をけなしてはいけない。いばらないで喜んで自分の知っている知識を人に教えるものだ。自分の知らないことを人にきくのは恥かしいことでない、自分より下の人からものをきくのも恥かしいことと思ってはいけない』というのがございます。
また善良な女もたくさんいるということも、たやすく証明ができます。もし女がみな邪悪なものでありましたら、イエス・キリストは女からおうまれ遊ばさなかったことでしょう。その後復活されたとき使徒たちよりも早く、女にお会いになりました。
またソロモンが『まだ善良な女にあったことがない』と言ったことは、必ずしも、女がみな邪悪であると言う意味にはなりません。ソロモンが善女にあったことがない、と言われても、他の多くの人は善良な女にあっています。おそらくソロモンの意味は、至上な善の精神をもっているような女をみたことがないという意味でありましょう。それは女ばかりでなく福音書にも書いてありますように、神以外には至上な善をもっている人間はひとりもないのです。造物主は完全な善でありますが、そういう善は人間にはないものです。
次に、第三の理由について答弁いたします。『わたしの意見に左右されては、かかあ天下に見えるだろう』とおっしゃいましたが、失礼をかまわず申し上げますれば、そのようなことはございません。
もし自分を支配している目上の人たちの意見だけをきくものとすれば、他の人に幾度も相談する必要はないのです。また人の意見をきいても、それを採用するかしないかはその人の自由意志であります。
それから第四の理由ですが、『女はおしゃべりで、知っていることはなんでもかくしておいたためしがない』とおっしゃいましたが、そうなると、『女というものは自分の知っていることはかくせない』ということに同じです。
そういうことは、おしゃべりな邪悪な女には言えるかもしれません。男が家からにげだす三つの理由があるそうです。煙たいこと、雨もりすること、悪い女房をもつことだと世間では言っています。ソロモンも言うように『やかましい女といっしょに住むくらいなら沙漠に住んだほうがよい』のでしょう。御存じのように、わたしはそういう女ではございません。わたしが、いつも非常な沈黙をまもり、忍耐強くやっていましたことも、それから、失礼でございますが、かくすべき秘密はよくかくして参りましたことも、おぼえておいででございましょう。
第五の理由につきましても申し上げます。『妻が邪悪な忠告をして、夫を亡す』ということですが、それもしっかりした根拠があって申されたのではないと思います。
よくおききになって下さい。あなたは悪いことをなさるために人の意見をおききになります。もしあなたが悪いことをなさろうとするのを、妻が理をもってそれをおとめしますなら、その妻をお責めになるどころか、おほめ下さるのが本当です。そういうことは『奸計においては妻は夫に勝つ』と言って哲学者の言ったことを信じられたのです。そして、あなたが女や女の意見を非難されますが、わたしは女にもよい女がいたことを例をあげて、女の意見も健全でためになることもあることを申し上げたいのです。またある人たちの言ったことですが、『女の意見はあまり高すぎるか、あまり価のないものだ』ということです。多くの女が邪悪で、その意見も邪悪であるかもしれませんが、なかにはよい女もたくさんありますし、その意見も立派な、ためになるものがたくさんございます。ヤコブは母のリベカの意見をきいて、父のイサクの祝福を得て、同胞の主となったのです。ジューディスは自分の賢い意見から、自分の住んでいた、ベチューリの町をオロフェルヌスが囲み破壊しつくそうとしたのをまぬがれさせたのです。またアビガイルは夫ナバルがダヴィデ王に殺されるのを救い、王の怒りをなだめたのも、女の賢い智恵からでありました。またエステルがアスエルス王の御代に神の信者の数を増したのも、彼女の賢い見識によるものでありました。そういう立派な智恵をもっていた女の話はまだたくさんあります。
神が人間の祖アダムをお造りになった時も、おっしゃいました。『男ひとりではよくない。男に似て、助けとなるものをアダムのために造ってやろう』
もし女が邪悪でその考えも悪くてためにならないものであったら、天にましますわれらの神様はけっして女をお造りにもならず、また男の助けとお呼びにもならなかったでしょう。むしろ人類を亡すものとお呼びになったでありましょう。
またある学者が二行の詩で、こんなことをうたっています。『黄金よりよいものは何か。碧玉。――碧玉よりよいものは何か。智恵。――智恵よりもよいものは何か。女。――善い女よりよいものは何か。何もない』
それからまた、他の理由によっても、善い女はたくさんおり、女の賢い智恵の話もたくさんあるということがおわかりになれます。
だから、もしあなたがわたしの意見を信用して下さったなら、娘を完全になおしてみせます。またこの事件であなたのおためになるようなことをたくさんやってお目にかけます」
このプルデンスの言葉をきいたメリベは言った。
「ソロモンの言ったことは本当だと思う。『思慮ある賢い言葉は、蜂蜜のように甘い愛撫の言葉だ。それは人の魂を喜ばせ、身体を健かにする。』おく、わしはおまえのやさしい言葉にほだされ、またおまえの真実と智恵にさとり、万事おまえの意見どおりにやることにする」
プルデンスは言った。
「それでは、あなたがわたしの意見どおりにするという約束をなさいますからには、あなたの相談役たちのおっしゃることのなかで、どれをお選びになればよいかを申し上げましょう。
どんなことをなさる場合でも、まず相談役として最大な神のおっしゃることを、おとなしくおききなさいませ。トービイがその子に『いつも神を祝福し、汝のとるべき道を教えて下さるよう神にお願いせよ』と教えたように、あなたも神様があなたに忠告し慰めて下さるようになさいませ。
いつも神様に御相談なさることです。聖ジャームも『知識を欲するなら神に求めよ』とおっしゃっています。
まず、あなたは神様におききになり、それから御自分でよくお考えになり、どうすれば最大な利益になるかおきめになることです。それから、怒りと、欲と、軽率は、最善の意見の敵ですから、心から取り去ってしまうことです。
まず、よく自ら考える人は、どんな理由があっても、怒ってはいけません。第一に、怒っている人は自分のできないことでもできると思うのが常です。第二に、怒っていては、よくものを判断できなくなります。よく判断できない人に、よく分別のつくわけはありません。第三に、セネカも言うように、『怒っている人は悪口だけいうことになる』ものです。悪口は人をおこらせるだけです。
次に欲心があってはいけません。使徒は『災害のもとは欲心である』というのです。欲のふかい人は自分の欲を満足させようとばかりして、よく考えたり判断したりすることができません。だからけっして満足することができません。金があればあるほど、ますます金をほしがるのです。
それから、けっして、ものは早まってはいけません。急に思いついたことは、最善の分別、考えとはいわれません。幾度も考えなおしてみることが大切です。おききになったことがおありでしょうが、諺にも『早計は失敗のもと』ということがございますからね。
人の意見はいつも同じものでありません。一時は最善のことと思われたことでも、また時がかわると、それが最悪なことに見えることがあります。
最善なことと思われたものでも、よく御自分で考えてからさらにそれを秘密にしておおきなさい。大丈夫と思われてもあなたの意見は、誰にもうちあけなさらないほうがよいのです。それだけ有利な立場になりますから。シラックのジェーズスも言うように『敵にも味方にも、秘密なことも愚かなこともうちあけてはならぬ。人は本人のいるところではよくきき、好意も示してみせるが、かげでは悪口をいうものだ』ということもあります。また、ある学者は『秘密をまもってくれる人はほとんどいないものだ』と言っています。また書物にも『心の秘密は牢獄においてもまもるものだ。秘密を人に言うと、わなにかけられることがある』と言われています。
だから、秘密をうちあけた人には、けっして他言しないようにかたく約束しておもらいなさい。セネカも言っているように、『自分でも秘密がまもれないくらいなら、人にその秘密をまもってくれるようにと願うのは無理なことだ』と思います。
ですが、もし人に秘密をうちあけたほうが、あなたの立場がそれだけ有利になるという場合は、こんな工合に意見をうちあけたらよいのです。
第一、戦争か平和か、自分の意見や意志を、はっきり人に示さないで、人の意見をきくことです。いったい、王侯の顧問官というような相談役はお世辞をいうものばかりです。本当のことやためになることをいわないで、主君の気にいるような、うまいことばかりいつも言おうと勤めているのです。人もいうように『金持は自分でよい意見をもっていないかぎり、人からよい意見はきけないものだ』と思います。
それから、あなたは敵と味方をよく考えなければなりません。味方の人たちについても、誰が一番忠実で賢明であるか、また誰が一番元老でありその意見を一番認めてやらなければならないか、お考えになればよいのです。そういう人たちにだけ、場合場合にしたがって、御意見をおただしになることです。
まず、真実な味方の人たちに意見をただされるのがよいのです。ソロモンは『よい香をかぐと、心がさわやかになるように、真実の友達は魂をよろこばすものである。真実の友達ほど味のあるものはない』と言っています。
金銀の価も真実の友情にはおよびません。またソロモンも『真の友は強みである。それを見つけたものは偉大な財宝を見つけたものである』と言っています。
次にまた、真の友達を得たならば、さらにその人たちがはたして賢明であるか否か知ることです。書物にも『いつも賢明な人に意見をただせ』とあります。
それですから、年とった、多く経験のある、たしかな意見をもっている友達に相談するほうがよいということになります。書物にも『老人に智恵あり、長い経験に思慮分別あり』とあります。またローマの哲人ツリュウスの言うのには『偉大な事業は腕力や体力によってなされず、賢明な考えや人格の権威や知力によってなされるものである。これらの三つのものは年をとっても衰えないものであって、むしろ、日に日に力をましてゆくものである』
それから、一般の原則として、まず第一に、特別な友人をわずかな人数にかぎり御相談なさい。ソロモンもいうように『友人がたくさんいる時は、千人のうち一人を相談役とするのがよい』のです。初めはごくわずかな人に相談し、必要があればそれからあとでいくらでもたくさんな人たちにもきけることです。友人は前にも申しましたように、三つの条件を備えていることが大切です。真実で賢明で年とって経験のあるかたです。どんな場合でもただ一人の相談役ですませる必要もないことです。時には、多くの人に相談なさらなければならないこともあります。ソロモンもいうように『多くの相談相手があるところに、よい救済策が考え出される』ものです。
さて、どういう人たちに相談されたならよいか申し上げましたから、こんどは、どんな意見はお避けになったらよいかをお教えいたします。
まず馬鹿な意見はお避けになったらよいのです。ソロモンもいうように『馬鹿者の意見はいれないことだ。馬鹿者は、自分の好き勝手な意見ばかり出すものだ』からです。書物にも『馬鹿者の性質として、自分ばかりよい人間で人はみな悪いと信じやすいものだ』とあります。ものの事実を申さずに、あなたをお世辞になめようとばかりするようなあなたの追従者の意見は、みなお避けになったらよいのです。
だから、ツリュウスもいうのです。『友達づきあいをするにあたって最も害のあるものは、お世辞をいうことである。』ですから、あなたは、誰よりもお世辞をいう人たちをお避けになって下さい。書物にも『本当のことをいう友達の苦々しい言葉よりも、むしろお世辞屋の甘い言葉を恐れてにげることだ』とあります。またソロモンは『お世辞屋の言葉は無邪気な人をおとしいれるよいわなとなる。友達に甘いお世辞をいう者はその人の足もとにあみをかけてひっかけようとする』と言っているのです。ツリュウスも『お世辞をいう者に耳をかすな、お世辞屋の意見をきくな』と言っています。またローマの哲人カトーンも『よく注意して、お上手をいう言葉を避けよ』と言っています。
また、あなたは今は仲なおりをしていられても仇敵の意見は避けられるがよいのです。書物にも『いかなる人も仇敵には心ゆるして安心して親しくよりつかないことだ』とあります。イソップも『昔敵であった人を信じたり、意見をうちあけてはならない』と言っています。またセネカもその理由をのべて『火がたくさん長い間もえていたところには、熱気がなくなることはない』からだと言っています。だから、ソロモンも『仇敵は信じるな』と言っているのです。
たとえ、あなたの敵が和睦して、頭をさげて来ていても、けっして信頼してはいけません。それはあなたを親愛しているためでなく、自分の利益のために服従しているふうをしているのです。それというのは、戦争では勝利を得られないでも、その偽った様子をもって勝利を得たつもりでいるのです。またピエルス・アルフォンスも『仇敵とは友達になるな。彼らは好意に報いるに悪をもってする』と言っています。
また、あなたを尊敬するあなたの従者の意見はお避けになったほうがよいのです。おそらく彼らはあなたを親愛するためというよりも、あなたを恐れるために意見を述べることがあるかもしれないからであります。だから、ある哲学者はこの点について言っています。『あまり恐れている人に対してはうちとける気にはなれないものだ。』またツリュウスもいうのには『人民から恐れられているよりも愛されていなければ、いかなる皇帝の威力も長くつづくものではない』のです。
次に酒飲みの人たちの意見はお避けなさい。酒飲みは秘密をまもれないのです。ソロモンは『酒飲みがのさばっているところには秘密はない』と言っています。
それからまた、ひそかにある事を企てながらあなたに反対のことを忠告するような人の意見は用心なさったらよいのです。カシドール(中世紀の説教者)は『正々堂々と事をやるようにみせかけて、かげではそれと逆なことをするのは、人をあざむく一つの手くだである』と言っています。
また、悪人の意見は用心なさったらよいのです。書物にも『悪人の意見はいつもごまかしばかりだ』とあります。またダヴィデは言われます。『悪人の意見に従わないものは幸いである』
また、若い者の意見はお避けなさいませ。彼らの意見は未熟ですから。
さて、これまでどんな人に相談なさるか、どんな人の意見を採用なさるかを申し上げましたから、こんどはツリュウスの説に従って、どの意見が正しいか吟味なさる方法をお教えいたします。
相談役をおしらべになる時には、いろいろのことをお考えにならなければなりません。
まず第一に、御計画なさっていらっしゃること、次に他人の意見をお求めになることについては、いずれにしても真実をおっしゃったり、また真実をお守りなさることです。つまり本当のことを正直におっしゃることです。嘘のことを相談してもよい意見が出ないのです。
それから、あなたがなさろうと御計画されたことと相談役の正しい意見とが一致した場合、その一致点をさらによくお考えになることです。それからまた、あなたのお力でその計画が実行できるかどうか、また相談役の大多数がそれに賛成しているかどうかをお考えになることです。
それから、その意見に従った場合どういう結果になりますか。例えばそれがために嫌悪、平和、戦争、和解、利益、損害などの起ってくること、その他いろいろのことをお考えにならねばなりません。そうして、このうちから最善なものをおえらびになり、あとはみなおすてになることです。
それから、あなたの御意見がどういう根拠から生れて来たか、またそれがどういう結果を生むことになるかをお考えになればよいのです。つまり、その原因結果をお考えになることです。
あなたのおっしゃる御意見をお調べになったり、どの党の意見のほうがよりよく利益であるかとか、年とった賢者がそれを認めたかどうか、よくお調べになってから、それからそれを実行して成功するかどうかもお考えになることです。当然実行できないものをお始めになることは理に反することです。人は責任をもってやれない重い仕事を引受けるものではありません。格言にも『多くを抱く者は多くをつかめない』ということがあります。またカトーンも『自分の力を考えて事をなせ、さもないとその仕事がやりきれなくなって、せっかく始めたこともやめなければならなくなる』と言っています。
おできになるかどうかわからないものはお始めにならないほうがよいのです。それでピエルス・アルフォンスは『たとえ、やる力があっても、後悔するようなことはやらないことだ』と言っています。つまり、何もおっしゃらないで、だまっていられることです。後悔なさるようなことは、たとえなさるお力がありましても、なさらないことです。やれるかどうかわからないことはやろうとしてはいけません。こんなことは誰も知っていることです。
よく考えをおねりになり、また御計画をなさるお力がおありになっても、最後の最後までそれを確かめられることです。
さて、こんどは、御計画を変更なされても人から非難を受けずにすむ場合がありますが、その時機とその理由を説明いたします。
ある事を計画する必要がなくなったり、また新しい事情が起って来た時は、その計画を変更しても差支えはありません。法律でも、新しく起った事件については、新しい考え方が必要であります。また、セネカは『計画が敵の耳にはいったなら、その計画は変更すべきである』と言っています。過失その他の原因で不利益なことが起る場合は、その計画は変更しなければなりません。
またあなたの計画が不正であり、不正の原因から来ている時は、その計画を変更するものです。法律でも、不正な命令は無効となります。また一度きめたことが実行不可能な場合も、犯罪を構成する命令または禁止も同様に無効であります。
つまり、一般原則といたしまして、事情の変化があるにもかかわらず変更のできないような頑強な計画は、むしろわたしには悪い計画だと思われます」
メリベウスは妻プルデンスの説をきいて答えた。
「おまえのいままでの説明で相談役の選択方法と維持法についての一般的原則はよくわかったが、こんどとくにお願いしたいことは、この事件について集ってもらった相談役の人たちをおまえはどう思うか言ってほしいのだ」
プルデンスは言った。
「との、もしわたしがあなたのごきげんにそむくようなことを申し上げましても、おおこりになったり、またむきになって、わたしの説に答弁なさらないで下さいませ。わたしはけっして、あなたの不ためになるようなことは申さないつもりです。辛抱しておきき下さいませ。
このたびの御相談は、厳格に申しますと、相談ではありません。おろかなことを提案されたにすぎません。この相談にはいろいろの間違いがありました。
まず第一に、ああいう人数の相談役をお集めになったことが間違いです。初めはごくわずかな人たちをお召《よ》びになって、必要があれば、その後でも人数はふやせます。ところがあなたは、突然あんな多数をお集めになったのです。あんなやっかいな、うるさい連中、きいていられやしません。年とった賢い親友ばかりお集めになればよかったのです。それなのに、あんな見知らぬ人たちや、若い人やお世辞屋や、仲なおりをした敵の人や、あなたを心から尊敬していない人たちも集められたのです。これも大間違いです。
またあなたの御意見の中には怒り、欲、早まった考えがつきまとっています。そういうことは尊敬すべき有利な意見を出すのには邪魔になるものです。この三つのものは、あなた自身の中にも、この相談役の人たちの中にも、多分にあるのです。そういうものはみなすててしまわねばなりません。
また、すぐ戦争をして仇を討ちたいというあなたの御希望を相談役の連中に明らかに示されたことも間違いです。あなたの言葉使いで、あなたがどういうことを暗に望まれているかみなわかるのです。だから本当にあなたのためになることよりも、あなたの希望にそうようにみなが意見をのべるのです。
それからまた、あなたはこの人たちの相談だけで満足していられたことも誤りです。こんな緊急の大事件では、もう少し多数の顧問が必要であり、また御計画を実行されるには、もう少しよくお考えになることでした。
また相談役を二つに分けられて真の友達と、友達をよそおっている人たちとを区別すべきでありました。年とった賢い親友の意志をおききになればよかったのです。
ところが、あなたはそういう人たちの言葉をつまらないものとしてすてておしまいになり、大多数の人たちの意見に心を向けられたのです。人間の数からいっても賢い人よりも馬鹿な人が多い以上、そういう相談会では馬鹿な人のほうが支配権があるのです。そうした相談会は多数の人たちの集りでありますから個々の人の知識よりも多数の頭数のほうが優勢であります」
メリベウスは答えた。
「たしかにぼくが間違っていた。ある場合には、正しい理由があれば相談役を取りかえてもけっして悪いことでないと、お前も言ったのだから、僕はおまえの考えどおり、これから相談役をかえようと思う。格言にも『罪をなすのは人間のすることだが、罪を長くやめないでいるのは悪魔のすることだ』とあるからな」
この意見に対してプルデンス夫人はすぐに答えた。
「この会議をよくお調べになって、誰が一番正しい意見をのべ、一番立派な意見をあなたに申し上げたかお考え下さい。
吟味が必要ですから、まず、最初しゃべったお医者さんたちについて考えてみましょう。あの外科医も内科医も医者として当然な分別ある意見をのべました。医者の任務としては誰に対してもその人の名誉と利益を考えてやるのでありまして、けっして害になるようなことはできないと立派に申し立てていました。最善をつくして医術をほどこし、患者をなおそうと努力すると言っています。ああいうふうに賢い立派な意見をのべたかたに対して、あなたは立派なごほうびをお出しになったらよいのです。またそうすればそれだけ娘の治療を熱心にやるはずです。あの人たちはあなたの友人でありましても、無報酬であなたに仕えさせるわけにはゆきませんから、早く報酬をお出しになって、あなたの太腹であるところをみせていただきたいのです。
それから、あの時、内科医たちが提案したことです。つまり、病気は、対症療法でなおされるということですが、その意味をあなたはどういうふうに解釈なさいますか、言っていただきたいのです。またパウロはいろいろのところで平和を説いたのです」
メリベウスは答えた。
「なあに、僕はこういうふうに解釈するのだ。彼らが僕に叛逆を企てたなら、こちらも叛逆でかえすべきだ。向うで僕に危害を加えて仇をなした以上、こちらも彼らに危害を与えて仇をかえすべきだと解するのだ。それで反対療法をしたことになる」
プルデンスは言った。
「それごらんなさい。人というものはすぐ、自分の都合のよいようにものを解釈し自分の欲にとらわれるものです。その内科医の言葉をそういうふうに解釈してはいけないのです。罪悪は罪悪の反対ではありません。復讐は復讐の反対ではありません。危害は危害の反対ではありません。一つは他を悪化させ増長させるにすぎません。
内科医の言葉は、こんなふうに解釈すべきものだと思います。
善と悪、平和と戦争、復讐と寛容、不和と調和、というようなものは二つの相反する対照であります。その他そうした二つの対照になるものがたくさんあります。それで、悪は善をもってなおし、不和は調和をもって、戦争は平和をもって、なおすべきものと思うのです。その他にも例がたくさんあります。使徒聖パウロもいろいろのところで、このことについて言っておられます。『害に対して害を与えるな、悪口に対して悪口をいうな、害をなす者に善をなせ、悪口をいうものを祝福せよ』
またすでにおききになったように、法律家も賢人も同じことを言っていましたが、その人たちの意見をもう一度申し上げましょう。『とりわけ、あなた御自身を守り、家をよく守備なさいますよう。こんな場合は用意周到におやりになって下さい』と言っていました。
まず『あなた御自身を守る』という点ですが、このことはこんなふうに解釈なさって下さい。つまり戦争をする人は、何をさておいても、イエス・キリストにお恵みを乞い、いざという時によく保護をお受けになるように心からお祈りなさい、ということです。この世では、キリストの保護なくしては、誰も立派な計画を立てることもできず、保護も不十分なものです。この意味で、予言者ダヴィデも『神が都市を守って下さらなければ、番兵が寝ないで番をしていても駄目である』と言っています。
だから、御自身の保護はあなたの認められた信頼する親友におまかせ下さい。その人たちに保護をお頼みなさい。カトーンも言っています。『助けを求めるなら、友達に頼めよ。内科医ほど真の友達になれるものはほかにない』
こんごは、見知らぬ人たちや嘘つきにつきあわないようになさい。そういう連中は信用してはいけません。ピエルス・アルフォンスは『前から知っている人ならよいが、知らない人と一緒に旅をするものではない。偶然無断で連れになった人があったなら、その男の職業や来歴を、うまくききだすことだ。そして自分の行先をかくすことだ。自分の行きたいところを言わないことだ。もしその男が槍をもっていたなら、その男の右側を行き、剣をもっていたなら、左側を歩け』と言っています。
こんごは、わたしの申し上げたような種類の人たちからは遠ざかり、そういう人たちの意見は、お避けになったらよいのです。
また、こんごは、あなたのお力を自慢し、敵の力をあなどってはいけません。またうぬぼれて御自身のことをお忘れにならないように気をつけて下さいませ。
誰でも賢い人は敵をおそれるのです。ソロモンは『何事にも恐れる人は幸福である。強気の人、力の強い人は、ほこりのために不幸をまねくものだ』と言っているのです。
あなたも伏兵やスパイをいつも警戒なさって下さい。セネカも『賢人は危害をおそれるゆえ危害にかからない。危険をさける人は危険におちいらない』と言っているのです。
安全なところにいると思っても、いつも油断ができません。大敵ばかり気をつけて小敵を忘れてはいけません。セネカは『注意深い人は最小の敵をおそれる』といい、オヴィドは『小さいいたち[#「いたち」に傍点]は大きな牡牛をも鹿をも殺す』と言っています。またセネカの書物にも『小さい棘は王様をもさして傷つける。犬は猪をとらえるものだ』
だが、ただめちゃくちゃにこわがる臆病者になっていただきたいというのではありません。書物に『人をだますことばかり考えている人たちは、自分たちが人からだまされることをこわがるものだ』とあります。
だが、毒殺されないようにして下さい。また、人をさげすむ人にはつきあわないことです。書物には『人をさげすむ人とつきあわないように、毒舌をさけよ』とあるのです。
さて、第二の点ですが、賢明な医者は、あなたの家をよくお守り下さいと言いました。あなたはその言葉の意味をどう解釈なさいますか、おききしたいものです」
メリベウスは答えて言った。
「僕はこんなふうに解するよ。塔やとりでやその他いろいろの建物をたてたり、武器やとび道具を備えて、敵が恐ろしがり近づけないようにして家と自分をまもれというふうにね」
プルデンスはすぐに、これに答えた。
「高い塔や大建築をして備えるということは時には、誇ることにもなりましょうが、莫大な費用と労力をかけて大廈高楼を造り、防禦を完備したところでそれを守る人が、年とった賢人の真の友人でないかぎり、そんなことをしても藁一本の価もないものです。
また自分自身と財産とを保護するために、金持が備え得る最大最強の軍隊というのは、自分の臣下や近隣の人たちから愛されるということであります。ツリュウスは『征服のできない一種の軍隊がある。それは自分の都民や臣下から愛されている王侯である』と言っています。
さて第三の点ですが、あの賢い元老の顧問官が言いましたことは、この緊急の場合あなたはあせらずに、よくお考えになってよく準備をお整えになるようにとのことでした。それは賢明な正当なことです。ツリュウスも『どんな急ぐことでもよく準備をしてから始めよ』と言っています。
それからわたしも申し上げたいことは、復讐でも、戦争でも、闘争でも、十分の準備をなさってからお始めになっていただきたいのです。ツリュウスは『闘う前に長く準備をすれば勝利はつかのまである』と言っています。またカシドールも『軍隊は長い間訓練すればそれだけ強いものだ』と言っています。
さて、こんどは、となり組の人たちの言った意見について批判してみましょうか。あなたに対して愛もなく、ただ服従している人たちや、仲なおりをして来た仇敵の人たちや、あなたに表裏のある行動をすすめたお世辞屋の人たちや、すぐに戦争を始めて復讐することをすすめた青年連中のことです。
前にも申しましたように、そういう人たちを集めて相談なさったということは間違いでした。こういう人たちの意見は前にのべました理由で十分非難すべきものです。
だが、なお詳しく考えてみましょう。まずツリュウスの説に従って議論をすすめて行きます。
第一、この事件の真相とか、この相談の真相ということにつきましては、もう、敢て調べる必要もありません。というのは、あなたにこのふとどきな危害を加えた者は誰であったかよくわかっていますし、幾人いたかも、どんなふうに危害を加えて来たかも、よく知れています。
ですから、次の問題は、ツリュウスがこの問題について、(その「義務論」で列挙している五つの条件のうち)第二の条件を吟味することです。その第二条件というのは(或るものが或るものに)同意する場合のことを言っているのです。つまり、この事件でいうなら、さっそく復讐したいというあなたの意志に対して、誰が、幾人、どういう種類の人が同意したかという問題です。
その次に、こんどは、あなたの反対者(戦争に同意した人たち)に同意した人たちは誰か、幾人あったか、どういう人間であったかを考えましょう。
第一の点については、あなたの急速な復讐の意志に同意した人たちは誰々だったかということですが、これははっきりとわかっています。つまり急襲して復讐するようにあなたにすすめるような人たちはみなあなたの友人ではありません。あなたの敵です。
その次に、あなたが御自身のための友人として親しく思っていられる人たちは、どういう人であるかを考えてみましょう。
あなたがいかに勢力があり金持でもあられましょうとも、所詮あなたはひとりぽっちのようなものです。ただひとりの娘しかないのです。また兄弟もなく近親者も親類もないのです。ありさえすればこわがって、敵もあなたにけんかをふきかけたり、殺そうなどとすることは思いとどまるはずです。
次に、あなたは財産を、いろいろの党派の人たちに分けておやりにならなければなりません。自分の分け前をもらったなら、誰もあなたの命をとろうとするものはありません。だがあなたの敵は三人ですが、みな子供や兄弟や、いとこや他の近親をたくさんもっています。たとえ、あなたが敵を二、三人ころしてみましても、仇をうちに来るものはたくさんいます。
また、たとえ、あなたの親類が敵の親類よりも、しっかりしているにしても、あなたの親類は遠い親族のものばかりです。すなわち親類とはいうものの、あなたには関係が非常に薄く頼りになりませんが、敵のほうの親戚は近親者ばかりです。この点では敵の条件のほうが有利です。
次に、あなたに復讐の意見を出した人たちの考えが、理にかなっているかどうか吟味してみましょう。
あなたは、きっと『かなっていない』とおっしゃるでしょう。それはそうです、権利と道理からしても、法権をもっている裁判官以外は普通の人は誰に対しても復讐ができないのです。裁判官だけが法に従って、復讐としての適当な罰を与えることを許されているのです。
それから、さらに、ツリュウスの言った『同意』という言葉について申しますと、あなたの意志に対して、またあなたの相談役に対して同意を与える正当な権限があなたにありましょうか、これを考えてみましょう。
あなたは、きっと『ない』とおっしゃるでしょう。それはそうです、厳格に申せば、わたしたちは、正当な道を踏んで行う以外には何事をも行う権利はないのです。あなた御自身の権威を侵害するものに対しても、復讐することさえ正しいことではないのです。また、あなたには自分の意志にさえ同意を与える権利はないのです。よくおわかりになれたと思います。
次に、ツリュウスがあげた第三の条件は『結果』ということですが、このことを吟味しましょう。
あなたが計画された復讐は結果ということになります。その結果からさらに復讐がつづいて起り、危険、戦争、その他無数の思いがけない危害が起ってまいります。
それから、第四の条件をツリュウスは『生れてくるもの』とよんでいますが、このこともお考え下さい。あなたが受けられた危害は、敵があなたを憎んだことから生れたのです。さらに前に申し上げましたように、一つの復讐から他の復讐が生れて、多くの人は悲しみ、財宝の浪費となるのです。
次に、最後の条件をツリュウスは『原因』だと言っています。あなたの受けられた危害には原因となるものがあるのです。学者はその原因を分類して遠因と近因としております。遠因は全能の神でありまして、すべての原因です。
その近因にあたるものはあなたの三人の敵です。その偶因は憎しみです。その質料因は娘の五つの傷です。その形式原因は梯子をかけて窓からのぼったということになります。その目的因は娘を殺そうとしたことです。この目的因は犯人の力には及ばなかったのですが。次に遠因について申せば、彼らはどんな最期をとげるものか、どんなことが最後にこの悪人どもに起るものか、まったく想像以外には判断ができません。しかしとにかく彼らには、悪い最後が来るものと想像されます。『天命の書』にも書いてありますように、『不正の原因によって起されたものが良い最後になることは稀れである』と思われます。
神様はなぜあなたにこんな危害を受けさせられたのかきかれても、わたしにはその原因の真相はお答えできません。使徒パウロは『全能の神の知識と判断はあまりに深く、人間にはそれを十分に探知することができないのだ』と言われています。
だが、わたしは、僭越ながら想像いたしますと、正しい裁判をなされる神様は正しい理のある原因によってこの事件を起させられたのだと信じます。
あなたのお名はメリベですが、それは『蜜を飲む男』という意味です。あなたはあまりにこの世で美しい現世の財宝と歓楽と名誉とを蜜のようにお飲みになり、それにお酔いになったために、あなたをお造りになったイエス・キリストをお忘れになってしまったのです。あなたは当然おできになれましたのに、キリスト様へ礼拝をなさったことがありません。オヴィドの言った言葉に、『肉体の蜜の中に霊魂を殺す毒がひそむ』という言葉に注意なされませんでした。
ソロモンもまた『蜜があったなら、ほどよく飲め、度をこして飲めば、吐き出すからだ』といわれました。だから貧乏におなりなさい。
それで、おそらく、キリストはあなたを卑しまれ、慈悲のお顔もお耳もあなたからそむけられたのです。神様はあなたが犯した罪であなたが罰をうけるようになさったのです。あなたはキリストに対して罪を犯したのです。
人間の三人の敵は肉体と悪魔と現世です。あなたはその三人の敵をあなたの体の窓から好んであなたの心の中へはいらせたのです。彼らの攻撃と誘惑に対してあなたは十分に防備なさらなかったので、あなたの魂は五か所に傷を受けたのです。つまり、五感から五つの地獄におちる罪があなたの心の中へはいったのです。
それと同じように、三人の敵があなたの家の窓からはいって、あなたの娘にあんなに傷をおわせたのも、みなキリストの思召しであったのです」
この時、メリベは言った。
「よくわかった。おまえの熱心な説教でわしはすっかりまいった。もう敵のかたきはとらないことにする。復讐から生れてくる危険や不幸もよくわかった。
だがどんな復讐からも悲惨なことが起ってくるということを恐れると、誰も復讐するものがなくなるだろうが、これはこまったことだ。というのは、復讐によって悪人と善人とが区別されるはずなのに。
悪事をなそうとする人々は、罪の刑罰があるために思いとどまるのだ」
プルデンス夫人は答えた。
「復讐から悪いこともよいことも起るのは認めますが、復讐の権限は誰にでもあるものではありません、ただ犯人を支配する裁判官にだけあるのです。
ある一人の個人が他の個人に復讐すれば罪となります。それと同じように、もし裁判官が犯人に復讐しなければ罪となります。セネカは『悪い生徒をしかるのは良い先生だ』と言っています。カシドールも『人は悪事をすれば裁判官や王様の怒りをかう、それで悪事をすることをこわがるのだ』と言っています。また他の人も『正義を行わない裁判官は悪人をつくる』と言っています。また使徒パウロは『ローマ人への書』の中で『裁判官は徒らに槍をおびず』と言っています。だが裁判官は悪人や犯人を罰し、善人を保護するために槍をもつのです。
もしあなたが敵に復讐なさりたければ、犯人を支配する裁判官に訴えられたらよいのです、そうすれば、裁判は法規によって彼らを罰するはずです」
メリベは言った。
「ああ、復讐はいやだ。考えてみると子供の時から幸運にめぐまれて育てられた。その後、幾多の難局をきりぬけてこられたのも幸運のおかげだった。こんども幸運の助けを得て、復讐という恥かしいことをやらないですむと思う。こんごも幸運にまかそう」
プルデンスは言った。
「あなたがもしわたしの意見どおりになさって下さるなら、なにも幸運などにおたよりになる必要はありません。幸運などに頭をさげてたよらないで下さい。セネカも『幸運をたよって馬鹿なことをすれば、最後はろくなことにならない』と言っています。それからまた『幸運は輝かしくすばらしく見えれば見えるほど、それだけもろくこわれやすく、すぐにだめになる』とも言っています。
幸運にはけっしてお頼り下さいますな。幸運はうつりかわりがはげしく、はかないものです。幸運をしっかりつかめたと思っていると、すぐにあざむかれてしまいます。
あなたは子供の時から幸運にめぐまれていたとおっしゃったが、そんなに幸運というものの力をお信じになってはいけません。セネカも『幸運にめぐまれている人は、だれでも大馬鹿者になる』と言っています。
さて、法廷による復讐はお嫌いかもしれませんし、幸運による復讐もあてにはならず危険ですが、それでも復讐をお望みとあれば、キリストの裁判に訴えるほかありません。神はあらゆる罪悪にたいしては、自ら見そなわすところに従ってあなたのために復讐して下さいます。『復讐をわれに任せよ、われこれをなさん』とおっしゃるのです」
メリベは答えた。
「わしに危害を加えた者を復讐しないでおくと、僕は犯人の一味からまた危害をまねくことになる。書物にも『昔の怨みをはらしておかないと、また、敵から危害をうけることになる』とある。
わしがそれを我慢して復讐せずにいると、またどんな危害をかけてくるかもしれない。もう耐えられないひどい危害を加えてくるだろう。そうなるとまったく顔つぶしだ。人も言うように『あまり寛大に許しておくと耐えがたいいろいろの悪事が起ってくるものだ』と思う」
プルデンスは言った。
「たしかに、あまり苦しみを我慢するのは、よくないことです。ですが、害を被《こうむ》った者が誰でもみな復讐をしなければならないわけでもございません、犯罪に対して復讐して下さるのは裁判官ばかりです。
ですから、あなたがお示しになったその二つの権威者の言葉はただ裁判官だけに適用されるのです。それというのは、裁判官がもし犯人に対する復讐をあまり寛大に失し、罪人を罰せずに許すとなりますと、犯罪が多くなるばかりでなく、むしろ犯罪をせよと命令するようなことになります。賢人の説に『罪人を罰することのできない裁判官は、人に罪を犯せと命ずるものだ』ということがあります。それから、一国の裁判官や王侯が悪人をゆるやかに取扱ったために、やがて時がたつにつれ、罪人が勢力をもつようになり、裁判官や主君の位置をうばって、王侯の権力を取ってしまうようになるのです。
だが、いまあなたが仇をうつことにしたとして、考えてみましょう。でも今はあなたは仇をうつ力がないのです。敵と比較してみてごらんなさい。いろいろの点であちらのほうが条件がよいのです。ですから、このまま許してやり、我慢をなさったらよいではありませんか。
御存じのように諺にも『自分よりも強い者とけんかをするのは気違いざただ。同じ力の者とするのは危険だ。弱い者とするのは馬鹿だ』とあります。だからなるべくけんかは避けるものです。ソロモンも『けんか騒ぎを避ける人は尊敬すべきだ』と言っていられます。もし自分より力のある人が苦情をもちこんで来たら、仇をうつよりもその苦情をうまくなだめるようにしたほうがよいのです。セネカは『自分より強い人とけんかをするのは危険だ』と言っていますし、カトーンも『自分よりも位や身分や権力のある人が苦情をいいかけて来たら、さからわないほうがよい。そういう偉い人はいつか助けてくれることもあるからだ』と言っています。
たとえ、あなたが敵をとるに十分なお力があるとしましても、それでも他にたくさんこまることが起って来ますから、だまってがまんしているほうがよいこともあります。まず第一にあなた御自身にも欠点短所があることをお考え下さい。それがために神はあなたに苦しみをおかけになるのですからね。詩人はいうのです。『苦しみは、自分の悪いために受けたのだと思ってがまんして、これを受けるものだ』
また聖グレゴリは『自分の罪と、欠点の多いことを考えると、その苦痛がそれだけ楽に感じられる。また自分の罪の深いことを考えると、それだけ苦痛が軽くなる』と言っています。
またキリストの御忍耐深いことをお考えになって、有難く拝んで下さいませ。聖ペートルはその書翰の中で『イエス・キリストはわたしどものために苦しまれ、それを模範として人間に苦しみを忍ぶように教えられた。キリストは、一度も罪をおかされたこともなく、一度も悪口を申されたこともなく、人がキリストを呪ったことはなかった。人がキリストを打っても、けっしてその人をおどされたことがなかった』とお書きになっているではありませんか。
また今は極楽においでになる聖者たちが、なんの罪も科もないのに苦痛を受けられたとき、その大変な忍耐をなさってじっと忍ばれたことをお考えになって、辛抱して下さい。
またこの世の苦しみはつかのまで、すぐにすぎ去ってしまうのだとお考えになり、辛抱して下さいませ。
それから、人が苦痛を辛抱して求める快楽は永遠の快楽です。使徒が書翰の中で申されたように『神の喜びはいつまでもつづくものである』のです。永遠の快楽です。忍耐のできない人や忍耐をしたくない人は育ちのよくない人であり、教育のない人でもあります。ソロモンは『忍耐のあるかないかで、人の育ちや教育がわかる』と言っています。また、ほかのところでも『忍耐ぶかい人は分別のある人だ』と言っています。またソロモンは『すぐ怒る人は騒々しい人で、辛抱づよい人は自制心のあるおとなしい人だ』とか、『力強い人より、忍耐ぶかい人は価値がある。自制心の強い人は、大都市をも取れるほどの力強い人よりも偉いのだ』と言われています。聖ジャームはその書翰の中で、『忍耐は完全なるものの偉大な力である』と書いております」
メリベは言った。
「プルデンス、たしかに忍耐は完全な存在の偉大な力だ。だが人間はおまえが求めるような完全なものにはなれないのだ。わしはけっして完全な人間ではない。わしの心は敵をとらないうちは落ちつかない。
敵がわしに危害を加えて来たことは敵にとっても危険なことであったのだが、その危険をおかして彼らは悪心を満足させたのだ。だから、思うに、わしだって仇をうつために多少の危険をおかしても、また仇をもって仇に報いるというおおそれたことをするとしても、わしはそれほど非難されるはずがないと思う」
プルデンス夫人は言った。
「ああ、勝手なことをおっしゃっても、仇をうつというようなおおそれたことはするものではありません。カシドールは『犯人の敵をとる人はその犯人と同罪である』といっています。ですからあなたは、仇をおうちになりたければ、正々堂々と法律によっておとりなさい。おおそれたやりかたではいけません。正しい方法で仇をうたないと罪になるのです。だからセネカは『悪をもって悪に報いてはならない』と言ったのです。
御存じのように、正当防禦として暴力は暴力により、戦争は戦争によって自己を防禦するのは正義として認められていますが、その場合の自己防衛は、ほとんど間髪をいれないもので同時に行われるのです。自己をふせぐためであって、仇をうつためではありません。また自己防衛の場合でも、適度な方法をとるべきでありまして、あまり過激な暴力を用いることは、理に反するものとして非難されます。あなたの場合は正当防禦にはなりません、仇をうつためです。つまりあなたには適当の方法でおやりになる意志がないのです。
それですから、我慢なさるのが一番よいのです。ソロモンは『短気な人は大きな損をする』と言いました」
メリベは言った。
「でもそれはこんな場合にはそうに違いない。たとえば、ある人が危害をうけたにせよ、自分に少しも関係のないことで他人のけんかを買って出たような場合だ。法律にも『自己に関せざる事物に干渉する者は有罪なり』とある。またソロモンも『他人のけんかにくちばしをいれる者は耳をつかんで犬をおさえる者に等しい』と言った。それというのは、知らない犬を耳をもっておさえると、時々かまれることがあるように、何も自分に関係のない他人のけんかに辛抱しきれずにくちばしをいれたために危害を受けることがあるが、こんな場合は危害を受けることも当然あることだ。
ところが、わしの苦情はおまえも知ってるように、わしには痛切に関係あることだ。だから、僕が短気を出しておこるのも、不思議はないのだ。
僕がかたきをうったところで、失礼ながら、たいして損にはなるまい。僕は敵よりも金もあり力もあるのだ。この世のことはなんでも金と財産で支配されているのだよ。ソロモンも『なんでも金しだい』だと言っている」
プルデンスは夫が自分の金力をほこり、敵の力をみくびっているのをきいて、次のように言った。
「なるほどあなたは金持で勢力もあります、また金というものは正しく得て正しくつかう人には役にたつものだということを認めます。ちょうど人間の体が魂がないと生きられないように、現世の物資がなければ生きられないのです。人は金の力で立派な友人を得られます。パムフィレス(恋愛詩の中に出てくる主人公)も言っています。『牛飼の娘でも金がありさえすれば千人の男から夫がえらべる。その千人の中ではねつける男はひとりもいないだろう。』また、このパムフィレスは『もし本当に幸福であるならば、つまり本当に金持なら、多数の仲間や友達が集ってくる。だが運命がかわって貧乏になると、こんな友人はみなにげてしまうのだ。貧乏人の友達がいやなら、友達もなくひとりでくらさなければならなくなる』とか、『奴隷の身分の人も金の力で立派な貴族にもなれる』と言っています。
それから、金の力でたくさんの財産がはいってくるように、貧乏になると多く悪事をすることになります。あまり貧乏だと人は悪いことをいろいろしでかすものです。ですから、カシドールは『貧は破滅の母である』と言ったのです。つまり貧乏は没落の原因だということです。ピエルス・アルフォンスも『この世での最大な不幸の一つは、生来の自由人(奴隷でない身分の人)が貧乏のためにその人の敵のほどこしものを食わされることだ』と言っています。また法王イノセントはその書の中で『食うに食われぬ乞食の境遇ほど世に不幸なものはない。もし自分の食物を乞わなければ飢えのため死ぬ。もし乞えば恥辱のために死ぬ。しかも、どうしても必要にせまられて乞わねばならない』と言っています。
だから、ソロモンは『これほどの貧乏なら死ぬほうがましだ』とか、『そんな貧乏で生きているよりはもがいて死ぬほうがよい』とか言っています。
そういういろいろの理由でわたしは『金は正しく得て正しくつかう人にこそ役に立つものです』と申し上げたのです。ですから、どうすれば正しい行いがなされますか、どういうふうに財産をおつくりになればよいか、またどんなふうに財産をお使いになるとよいか、お話しいたします。
まず第一に、欲ばらずに、徐々に、あせらずに、財を得ようとすることです。あまりあせると人は盗んだり、その他いろいろの悪事をするようになります。だからソロモンも『金持になろうとあせるものは邪気をおこすものだ』と言っています。また『いそいで取ったお金は、すぐに出てしまう。少しずつはいってきた金はいつもふえる一方だ』とも言っています。
それであなたもよく考えて努力して、身のためになるように財をためることです。けっして他人に迷惑をかけてはいけません。法律も『他人に害を及ぼして金持になることは許さない』と言っています。つまり、他人を犠牲にして自分ばかり金持になることは、自然の禁ずるところであります。ツリュウスも『他人に損害をかけて自分の利益をまそうとすることは、死の悲しみ、死の恐怖よりもまだ自然の理に反することである。これほど天理に反するものはない。王侯が(普通の人より)たやすく富を得られるからといって、普通の人は利益を得るためにはけっして怠けてはいけない、常に働くべきものだ。どんなことでも人間は怠けてはいけない』と言っています。ソロモンもまた『怠惰は人に多く悪事をおしえるものだ。土地を勤勉にたがやす者はパンにありつくが、怠けて何もしない者は貧乏になり飢死をする』と言っています。
それで、なまける人は金をもうけるよい機会を失くするものです。ある詩人がいうように『なまけ者は、冬は寒いといい、夏はあついといって、なまける口実をつくる』のです。また、カトーンのいうように『早く起きて、ねぼうせぬことだ。休みすごすと多くの悪事が起ってくる』のです。それで聖ジェロームも申されたように、『いつも何か善事をなすようにせよ。人間の敵、悪魔は、何もしないで遊んでいる人をとらえるから』です。悪魔は善事をなす人をたやすくとらえることができないからです。
それで、富をつくる時でも怠けてはいけません。それから努力して正しく得た財をどうしてつかうかと申しますと、あまりけちけちしてもこまります。またあまり、だらしなく金をつかっても浪費者と思われます。けちけちして金を出ししぶると欲ばりと非難され、それと逆にあまり大げさにつかうとまた非難されるのです。だからカトーンも『自分の金をつかうにしても使いかたがある。人に悪く思われたり、けちだといわれないようにするものだ。さもしい心と重い財布を一緒にもっているのは人間にとっては恥ずべきことだ』とか、『自分の財産は適度に利用することだ』と言うのです。つまり適度に金をつかうことです。人は財産を浪費して自分の金がなくなると、他人の財産をとろうとするのです。
それで、あなたも、欲ばらずに金をうまくおつかいになるのです。財産を死蔵するといわれないようになさいませ。いつも財産はあなたの勢力として生かしてつかうように処理することです。ある賢人は欲ばりな人を非難して、こんなことを二行の詩で言っています。『なんのために財産を死蔵するのか。人間はみな必ず死なねばならないのに。死は現世の最後なれば』
なんのために人は自分の財産にしっかりしばられて、財産からどうしても離れられなくなるのでしょう。死んだら最後この世から何一つもって行けないことはわかっているはずです。聖アウグスチンも『欲の深い者は地獄にひとしい。あればあるほどほしがる』と言われています。
あなたも人から欲ばりだとか、けちだとかいわれないように、またあまり大げさにつかって馬鹿だといわれないようになさいませ。ツリュウスは『家の財産は秘蔵せず、あまりかたくまもらないことだ。人情で開けられるようにしておくことだ』と言っていました。つまり、こまっている人たちには分けてやることです。また彼は『財産はあまり開放すると、誰の財産かわからなくなる』とも言っています。
それから、財産の処理には三つの点に注意なさい。それは神と良心と名声という点です。
第一に、神ということをお忘れにならないよう。あなたの造物主の神にそむかないように財産を処理することです。ソロモンも『貧乏でも神の愛を受けるほうが、多大の財宝をもって神の愛を失うよりは、はるかにましだ。』また『多大の財産をもって悪人といわれるよりも、あまり財宝がなくとも善人といわれるほうがよい』と言われています。
なお、財産をつくるには良心をもってするように努力なさることです。使徒もいわれるように『世の中で最大な喜びというのは、わたしたちの良心がわたしたちの罪のないことを証明してくれる時である』のです。賢人もいうように『人の良心に罪がない時は人の本体は善である』のです。
次に財産を処理なさるとき、あなたの名声をきずつけないように勤めることです。ソロモンがいうように『多大な財産をもつよりも、名声を得ることが大切であり、またその人に役だつものでもある。』また他のところでいわれているように『友情と名声を大切にすることである。財宝はどれほど貴重であっても、財宝よりも名誉のほうが長くつづくものである』のです。
とりわけ、神と良心に従って、名声を守ろうとしない人は紳士とよぶことができません。カシドールのいうように『人が、名声を尊重するということは、高貴な心がある証拠となる』のです。また聖アウグスチンのいうように『ぜひ必要なことが二つある。それは良心と名声である。つまり、良心は自分自身の心のためであり、名声は外部にいる近隣の人たちのためである』のです。
またあまり自分の良心を過信する人は名声を軽くみたり、人の感情を害したり、あまりに名声ということを軽蔑するのです。そういう人は紳士でなく、無謀な下司です。
さて、これまで財産の処理について申し上げましたが、次に、あなたは、あまり御自分の財力を信じていられるので、戦争をなさりたいのだと思われますが、財力を信じて、戦争を始めてはいけません。あなたの財力では戦争を維持するにはまだ不十分です。
ある哲人のいうように『戦いを無理にも望む者は、いくらあっても足りないものだ。戦いに勝利を得て尊敬されようとすれば、金があればあるだけ、経費をかけてしまうものだ』と思います。
またソロモンもいうように『財産があればあるほど、それだけまた金をつかう者もたくさんいる』のです。
また、あなたの財力で多くの人たちをうごかすこともできましょうが、戦争をやらないで平和な他の方法でもあなたは尊敬されるようになれるのですから、わざわざ戦争をお始めになるのは良いことでもなく、やるべきことでもありません。この世にある戦争の勝利というのは人民の数にもよらず、また人間の力にもよらないものです。それはみな全能の神の意志にあり神の掌中にあるものです。だから、神の騎士ジューダス・マカベウスはマカベ軍よりも大軍の強敵と戦ったのです。彼は自分のわずかな兵隊をなぐさめてこう申しました。
『このわずかな軍兵を、大軍と同じようにたやすく勝利が得られるように全能の神に祈ります。勝利は兵数によるものでなく、天帝から来るものであるから』
(ソロモンがいうように自分が神から愛される価値があるかどうかわからないのです。ちょうどそのように)人は神が勝利を与えて下さるだけの価値が自分にあるものかどうかは、自分ではわからないものですから、戦争を始めるなどは遠慮すべきです。戦争には多くの危険がともなうものでありますし、ときには偉人も小人とともに殺されてしまうのです。列王紀略下巻(今日ではサムエル記二)でいわれているように『戦闘行為は、冒険的でたよりないものである。誰も同じように、上下の区別なく、たちまち槍で殺されてしまう』のです。
ですから戦争は危険です。及ぶかぎり、戦争は避けたらよいのです。ソロモンの言うように『危険を好むものは危険におちいる』のです」
プルデンスがそう言ったあとで、メリベは答えて言った。
「おく、よくわかった。おまえの美しい言葉と立派な道理で、おまえが戦争を嫌っていることがよくわかった。しかし、それではわしはこの場合どうすればよいのか、おまえの意見がききたい」
プルデンスは言った。
「敵と和平をすることです。聖ジャームはその書翰の中で、『平和によってわずかな財産も増えてくるが、不和いさかいをすれば大財産も没落する』と言っています。世界で一番大切なことの一つとして、この世がみな一つに結ばれ、平和になることです。イエス・キリストも『幸いなるかな、平和ならしむる者、その人は神の子とたたえられん』と申されました」
メリベはこのとき言った。
「ああ、お前がわしの名声と威厳を愛してくれぬことが今わかった。よく知っているように、わしの敵は暴力をもって、けんかを売って来たのだ。また彼らは僕に和平も妥協も求めてはいないのも知ってのはず。
それなのに、わしのほうからぺこぺこ折れて行って、平伏し、やつらにあわれみを乞えというのか。それは自分の威厳にかかわることだ。俗にいうように『あまり質朴にすると軽蔑されることがあるように、あまり謙遜卑下すると同じように軽蔑される』のだ」
プルデンスは、このとき少し怒ったような様子をして言った。
「失礼ながら、わたしは自分のもののようにあなたの名誉と利益ばかりを思ってまいりました。不ためになることをわたしがいつやりましたでしょう?
だが、あなたのほうから和平を求めて妥協なさればよかったのだと、もしわたしが言ったとしてもわたしは誤ったことを言ったのだとは申されません。賢人のいうように『争いは相手の人が始めるが、和解はこちらからするものだ』と思います。予言者(ダヴィデ)がいうように『悪事をさけ、善事をなせ。できるだけ平和を求めて行くことだ』と思います。
あなたは敵よりも早くこちらのほうから敵に和平を求めて行かれるようなかたではないのです。あなたは薄情なかたですから、わたしのことなどなにも考えて下さらないのです。ソロモンのいうように『あまり無情な人は不運になる』のです」
メリベはプルデンスの怒った様子をみて言った。
「わしの言ったことで、おこらないでくれ。おわかりだろうが、僕は憤激しているのだ、そしてそれも無理からぬことだろう。おこっている時は、人間は何をするか、何を言うか、前後を忘れている。予言者もいうように『わずらっている眼ではよく見えない』のだ。
だが思うままにおまえの意見をきかしておくれ。わしもきっとおまえの望みどおりにするつもりだ。
おまえがわしのおろかなことを非難すればするほど、わしはおまえを愛し尊敬したくなる。ソロモンは『自分の馬鹿なことを自ら非難する者は、うまい言葉で自らをあざむく者よりも神のお恵みを受けられる』と言っている」
その時、プルデンスは言った。
「わたしは、あなたのためでなければ、怒ったようなふうはいたしません。ソロモンのいうように『人の悪事をほめたりそそのかしたり、また人の馬鹿なことを面白がったりする者よりも、馬鹿な人を非難したり、しかったりして、おこったふうをしてみせる者のほうが価値のある人だ』と思います。この同じソロモンは後にまた『悲しそうな顔をしてみせると、つまり憂鬱な顔をしてみせると馬鹿者は自分で自分をなおしてゆくものだ』と言っています」
その時、メリベは言った。
「わしはもうおまえから矢つぎ早やに立派な道理をならべてみせられると、どうにも返答ができなくなる。おまえの意見を遠慮なく言ってくれ、おまえの意見どおりにやる覚悟をした」
その時、プルデンスは心をとりもどして、言った。
「まず、神とあなたの間に平和が必要です。神様と神様のお恵みとに従うことです。前にも申し上げたように、あなたの罪に対して神はあなたにこの苦痛をお与えになったのです。もしわたしの言うとおりになさったら、神はきっと敵のほうからあなたのところに来、あなたの足もとにひざまずいて、あなたの御命令をきくようになるのです。ソロモンもいうように『神様の思召しにかなう者には、敵のほうから心境の変化をきたして、平和と慈悲を仰ぎに来るものだ』ということです。
ですから、どこか秘密のところで、わたしに敵の人たちと会わして下さい。これは、あなたの知らないことにしたいのです。わたしが彼らに会って、彼らの意志をきいてみます。そうすれば、もっと確かな意見を申し上げることもできるのです」
メリベは言った。
「おまえの考えどおりにやってくれ。もうわしはおまえに万事一任したいのだ」
この時プルデンスは夫がこちらになびいて来たので、どうしたらこの事件を円満に解決することができるか、よく自分で考えてみた。
時をみて、プルデンスは敵に使者を出して、秘密の場所に来てもらった。
そうして、そこでプルデンスは敵と会談して和平をすればどんな得があるか、また戦争をすればどんなに災害がともなうものか、諄々と説いてきかせた。それから彼らがメリベや娘やプルデンスに加えた危害を彼らがどうしても後悔しなければならないように、立派な態度で説いたのであった。
驚くべきことには、彼らはプルデンスの立派な言葉をきいて、唖然として驚き、プルデンスにほれぼれと魅せられ、よろこぶこと大へんなものであった。
彼らは言った。
「奥さん、あなたのおっしゃったことは、ダヴィデの諺どおり、美しい『よきたまものの恵み』を与えて下さった。わしらはそういう調停をなさって下さるような価値のある者じゃございませんが、それならこちらも悔い改め服して、その御恩に報いなければなりません。これこそソロモンの智恵が実現されたともいわれましょう。ソロモンのいうように『情けある言葉は友誼をまし、悪人を服する』というものです。
わたしらのことは御好意にあまえ、なんでもお任せいたします。またメリベ侯の御命令には服するつもりです。ですから奥さん、あなたに伏してお願いいたしますが、あなたの情けあるおこころで、あなたの情けあるお言葉を実現なさって下さいませ。たしかに白状いたしますが、メリベ侯に対しては法外な罪をおかしました。そのつぐないさえすることができないほどの御迷惑をおかけしてしまったのです。ですから、その義務としてわたしら一党は誓ってメリベ侯の命令に服したいのです。
だがおそらく、侯は犯罪をおかしたわしらのことをひどくおいかりになっていられるでしょうから、さぞやわしらを、とうてい耐えられないような重い刑にかけてやりたいと思っていられることでしょう。ですから奥さん、あなたからお情けあるおこころで、わしらも、わしらの仲間も、この犯罪のために、追放されたり殺されたりすることのないように、よろしくおとりなし下さいまし」
プルデンスは言った。
「たしかに、敵の権限内にある裁判にかけられるということはつらいことでもあれば危険なことでもあるのです。ソロモンは『わたしを信頼せよ、わたしの言葉に従いなさい、みなさん、偉い人も、人民も、教会の指導者たちも、よくきいて下さい。生きているあいだは息子にも、女房にも、友人にも、兄弟にも、あなたの体を自由にさせてはいけない』とおっしゃった。
人は自分の体を兄弟にも、友達にも自由にさせるなとおっしゃったことからみると、ソロモンは敵に体をひきわたすことなどはなおさらのこと禁じていらっしゃるのです。だがわたしの主人は信頼していただきたい。あの人は気だてのやさしい、太腹な、礼儀正しい人です。また物欲もなく金の欲もない人です。この世の中でただ一つ望んでいることは尊敬されるということです。なお、この事件については、主人はきっと万事わたしの意見どおりにするでしょう。それゆえ、神様のお恵みによって、あなたがわたしどもと仲なおりなされるように、わたしがひとはだぬいでみます」
その時、彼らは声をそろえて言った。
「奥さん、えらいものですね。わしらは財産を全部あなたの御意志にまかせます。また何日でも御指図下さいました日に必ずまいります。そして、あなたのお望みどおりにお言いつけを守りますことをかたくお約束いたし、あなたもメリベ侯も御満足なさるようにしたいと思うのです」
プルデンス夫人はこの人たちの回答をきいて、またひそかに立ち去った。そしてメリベ侯のところへもどって来て、きいて来たことを話した。敵は後悔しているということ、自分たちの犯罪を告白したこと、刑を受ける覚悟のあること、慈悲をもって許してもらいたいということ、などを話した。
その時、メリベは言った。
「自分のやった罪に対して抗弁しないで、その罪を認め後悔し、大赦を願うものはその罪を許してやるだけの価値のある者だ。セネカもいうように『懺悔のあるところに免罪あり』だ。懺悔は無罪に近いものだ。セネカはまた他のところでも言っているが、『自分の罪を恥じ、それを認める者は無罪にする価値がある。』だからわしは和解をすることに同意するのだ。しかしわしたちの友人の同意を得てそうするのがよいであろう」
その時、プルデンスはよろこんで言った。
「よくおっしゃって下さいました。というのは、あなたは、友達の同意と助けを得て、戦争をして敵をとろうとなさったように、やはり友達の意見がなければ、敵と和解することに同意なさりたくはないでしょう。法のいうように『自分で結んだものを自分でまた解けるものほど、自然の法則からみて、美しいものは他にない』のです」
それからプルデンスは早速、親類のものや賢い旧友に使いを出して来てもらった。そして、メリベの前で、その人たちへ順序正しくメリベの決心したことを話した。それからみなに意見をきき、この場合どうすべきものか計ったのであった。メリベの友人たちはこの問題をいろいろ考えたあげく、みな和解することに一致同意した。またメリベが心から敵の罪を寛大に許してやるべきだということにも意見の一致をみた。
プルデンスはメリベの承諾もあり、友人の同意もあり、また自分の意見どおりになったので、非常によろこんでメリベに言った。
「昔からの諺にもありますように『今日できる善は明日にのばすな――善はいそげ』ということもありますから、さっそく、敵へしっかりした使者を出して、もし和解を望むならすぐに当方へまいるようにあなたのかわりに伝えさせて下さい」
そのとおり使者が出た。メリベの敵は罪を悔いていたが、使者のいうことをきいて大いに喜び、謙譲な言葉で答えた。メリベ侯およびその友人に感謝の意をささげ、すぐに使者と一緒に出かけ、メリベ侯の命令に服することにした。
それからすぐに、彼らはメリベ侯の屋敷へやって来た。彼らはいっしょに親友を少し連れて来て、忠誠を誓わせ証人として立ってもらった。彼らがメリベ侯の前へ出たとき、メリベ侯は次のように言った。
「君たちはなんの理由もゆかりもなく、わしにも妻のプルデンスにも娘にも危害を加えたということは事実だ。わしの家に闖入《ちんにゆう》して、あのような大罪を犯したのだから、なんといえどもその罪はまさに死刑に当ることを知っている。そこで訊ねるが、君たちはその犯罪に対して受くべき刑罰もその復讐の方法も、わしとプルデンスとの意志にまかせるかどうか」
この時、三人の敵の中で一番賢い男が、みなにかわって答えた。
「わたしどももよく承知していることですが、わたしどものような奴どもは、あなた様のような偉い主君のお屋敷へまかり出るすじのものではございません。といいますのも、御前様に対しまして、大変な考え違いから死刑に処せられても文句もいえない罪を犯したのでございますから。だがあなた様の世にも知られる御仁徳に敬服しておりますから、わたしどもは御前の御高徳にすがり、一身をおまかせいたし、どんな御命令にも服す覚悟であります。おお、わたしどもはみな後悔し平伏いたしておりますことを、なにとぞなにとぞ、お慈悲によって御憫察のほどお願い申し上げるのでございます。この無謀な犯罪を、なにとぞおゆるし下さいますようお願いする次第でございます。
呪わしくもわたしどもは御前に対して罪を犯したのでありますが、わたしどもの犯した罪はどれほど罪深いものでありましても、それにくらべて、御前の御仁徳の慈悲深さはそれよりもはるかに深いことを存じております」
するとメリベはやさしく、彼らを地面からおこして、証人の保証により服従を誓わせた。そして犯罪に対する刑の宣告をする日をきめ、再び出廷するように申し渡した。それをきいて、みなが家に帰った。
それからプルデンス夫人は時機をみて、メリベに、どんな復讐をなさるつもりかときいてみた。これに対してメリベは答えた。
「財産を没収し、無期国外追放にするつもりだ」
プルデンスは言った。
「それは残酷な御宣告、はなはだ理に反するものではございませんか。あなたはもう十分金持でいらっしゃいます、これ以上他人の財産などいりますまい。そんなことをなさると、すぐに欲ばりの評判がたちます。それは悪いことです。立派な人はみなそんなことは避けるものです。使徒も言われますように『欲ばりはあらゆる罪悪のもと』です。ですから、そんなふうに他人の財産をおとりになるよりは御自分の財産をそれだけ失くされるほうがましでありましょう。財を得て恥辱を受けるよりも、財を失くして名誉を得るほうがよいのです。誰でもよい評判をとろうと努力しなければなりません。人は名声を維持するように勤めるのみならず、名声をつねに新しく高めることにも努力しなければいけません。書物にも書いてありますように、『人の名声はいつも新しくしていないとすぐ消えてなくなるもの』です。
あなたのおっしゃったように、あなたは彼らを追放なさりたいのでしょうが、彼らはもうあなたの勢力に服している以上、追放とはあまりはげしい刑です、理に反するものだと思えるのです。書物にありますが、『与えられた権力を乱用するはその特権を失うものだ』ということです。
また実際上そんなことはおやりになるはずはないと思いますけれど、たとえ、あなたは法律上立派にその刑をいいわたされたとしても、それはおそらく実際には執行なされないでしょう、そうなるとまた以前のように戦争問題になりやすいのです。ですから彼らをあなたに服従させようとなさりたければ、もう少し手やわらかい裁判をおやりにならねばなりません。つまりもう少し楽な刑をお考えにならねばなりません。法の本にも『一番手やわらかい支配者には、人が一番よく服従する』とあります。ですから、この際、感情にはしらず心を静めていただきたいのでございます。セネカは『勝利にかちほこる心を征服した者は、二度の征服をしたことになる』といっています。またツリュウスのいうように『王侯の態度で一番賞讃すべき場合は、心やさしく、自ら怒りがとける時である』と思います。
ですから、復讐というようなお考えをすっかりすててしまっていただきたいのです。そうすれば立派なお名前も長くつづけられますし、人からあなたが慈悲深いおかただと賞讃されるようにもなれば、またおやりになったことを後悔なさらずにすむとも思うのです。セネカも『勝利を後悔する者は、まずい征服者』だといっております。
ですから、最後の審判の時、全能の神様に慈悲で許していただけますように、あなたも慈悲心をもって下さいませ。聖ジャームもその書翰の中で『人を慈悲で許せない者はやはり自分も慈悲のない裁判を受けるのだ』とおっしゃっていらっしゃいます」
メリベはプルデンス夫人の立派な道理や教えをきいて、その真意をさとり、心は妻の誠意にほだされて、すぐに妻の意見どおりにすることを承諾した。また彼は、あらゆる善徳の泉である神様に感謝し、これほど思慮ぶかい妻をもっていることを、神様のたまものとして有難く感謝した。
敵の人たちが宣告をききにくる日が来た。メリベは彼らにやさしく言ってきかせた。
「君たちは高慢不遜、怠慢愚劣にもわしに対してふとどきな悪事を犯したが、君たちがよく服従し、その罪を心から後悔しているのをみると慈悲をもって許してやりたくなるのだ。だから特別の憐れみをもって、わしとわしの家族に対して君たちが犯したいっさいの罪は許してやる。わしが君たちの罪を許してやるのは、この不幸な世の中でわれらが犯した罪を、われらが死ぬとき無限な慈悲のお心から神様に許していただくためである。
それは疑いもなく、人間が罪を神の前で悔いあらためるならば、神は寛大にも慈悲をもってその罪を許し、永遠につきない幸福に導いて下さるがゆえである。アーメン」
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修道院僧の話
修道院僧の話 前口上
わたしがメリベとその情けぶかい妻のプルデンスの話をやってしまうとすぐ亭主はこう言った。
「わしはキリスト教信者だ、聖マチュリンの遺骸に誓っていうのだが、家のかみさんにもこの話をきかしたかったよ。ビールを一樽もらうよりはそうしたかったのだ。
このメリベウスの細君プルデンスのように我慢づよい人情のある女じゃねえ。わしがうちの小僧をなぐる時にはまっさきになって、でかいこん棒をもち出して来て、『そんなのら[#「のら」に傍点]犬はかたっぱしからぶち殺して、骨という骨をたたき折ってやりな』とどなるものだ。
また女房ときちゃ、お寺で近所の人がおじぎでもしそこねたり、少し気にさわるなまいきなふうをしようものなら、家へ帰ってから、わしの前で、きいきい声をはりあげて『あんたはいったいこしぬけだよ、女房の敵をとれないのか。ちえっ、あたしがどす[#「どす」に傍点]をのむから、あんたは女房にかわって糸でもつむいだらいいのだよ』と、どなりちらして、かんかんになっておこりやがる。
朝から晩まで始めやがる――『情けない、いまいましいことだ。誰にも頭をおさえられ、そんな意気地なしのふぬけの腰ぬけ野郎とどうして夫婦になったものやら。おまえのように女房の権利がまもれないような男はあったもんじゃねえ』
近所の人とけんかもしたくはねえから、こんな生活でもがまんをしているのだ。そういう時はすぐに外へでも遊びに出て、うさを晴らすか、狂い獅子のようによっぽどけんかに強くないひにゃあ、こっちがめえってしまうのだ。またいつか一度はきっと女房にせがまれて、近所の人を殺して、どっかへにげて行ってしまうことだろう。わしでもでばぼうちょう[#「でばぼうちょう」に傍点]をもたせれば、誰でも近よれないが、女房にはかなわねえ。あんなに腕っぷしの強い女はねえ。うそなら、けんかをふっかけてみたらわかることだ。
だがこんな話はよしましょう。
そちらにいられる修道院のお坊さん、そんなやかましい顔をなさらないで、ひとつお話をお願いしましょう。ごらんのとおり、ロチストルの町ももうじきです。さあ、だんな、ずっとこっちへ出て下さい、ひとつ話をしていただいて、この遊びがとぎれないようにやって下さい。
お名前も存じませんが、なんとおっしゃるかたか、ジョン和尚かトマス和尚かアルバン和尚か。どこの修道院でいらっしゃるか。なんとまあ色の白いかたですこと。立派な牧場で草をくわれるとみえてだいぶ栄養がよろしいようだ。あんたは幽霊のようにやせ衰えた苦行修行のお坊さんでもなさそうだ。役づきのお坊さんで、聖器係りの堂守りか、それとも食料品係りを勤めていられそうだ。お見うけしたところ、お家では立派な旦那様でしょう。貧乏な修道僧でも、またかけだしの見習僧でもなさそうだ。偉い立派な殿様にみえますぜ。
おまけに、体格もすばらしいものだ、なんと言ってもおしだしの立派な人だ。
誰がいったいあんたを坊さんにさせたのか、もったいない話だ。交尾に使う雄鶏にでもなればすばらしいものだ。あんたの力をみんな生殖に使わせてもらったら、どんなに子供がたくさんできたことだろう。だがまあ、どうして頭をお剃りになったのです。残念なことです。わしがもし法王であれば、あんたばかりでなく、出家で体格のいい人は誰でも女房をもたせるのだが。人間の世がすっかり衰えているからさ。立派な雄鶏の役がつとまる男は大部分出家している有様だ。俗人はみんないじけた小男ばかりだ。
弱い樹からはいじけた枝ばかり出るものだ。それと同じように、生殖力の衰えたわしらの子孫はみんなやせこけるか、弱くなるはずだ。
あんたがた出家はわしらのような俗人よりか、ヴィーナス(生殖の女神)に税金がよく払えるから、わしらの女房は出家とこころみたがるはずだ。あんたがたは正真正銘の本物で支払いできるのだ。
こんな冗談を言いますが、旦那おおこりなく。冗談の中にでもときどき真理があるものでさ――」
この立派な修道僧はおこらずに言った。
「名を辱かしめぬよう、立派な話を二、三やることに努力してみましょう。それでは、聖エドワルドの伝記をやりますから、どうぞおきき下さい。さもなければ、最初悲劇的な話をやりましょう。そういう話なら、百も取っておきのものがある。
いったい、悲劇というものは、古書によると、栄えし人がその高位から没落して、みじめな最期をとげる話をいうのです。普通悲劇の話はラテン語の六脚韻詩という詩形で書かれている。その他いろいろの形で詩に書かれているが、散文でもたくさん書かれている(例えばボッカッチョの『偉人の没落』)。さあ、前置きはこれでたくさんだ。
では、おききなさい。お許しを願いたいことは、順序よく年代順にはならべませんが、法王、皇帝、王侯の悲劇を心に浮ぶままに話しましょう。行きとどかず無学な点はお許し下さい」
修道院僧の話
さて、これより、わしは悲劇の作風に習って、もとは高い位につきおったのに、今は身の浮ぶ瀬もないまでに落ちぶれた方々の非運を弔おう。真に運命の女神が逃げるとなれば、誰でもそれを引き留めるわけにはゆかぬのだ。どなたもあてにならぬ幸運などには安心なさるな。この数々の古き実例を心の戒めとなされよ。
[#ここから2字下げ]
ルウシフェル
暁の明星であられた頃、彼は天使であって人間ではなかったのだが、わしはまずこのかたから始めよう。運命の女神も天使にはなんの手出しもできないのだが、自分が犯した罪のため天より落ち、今では地獄の住人だ。
おお、暁の明星、ルウシフェルよ。天使の中でもっとも輝ける御身も、今は悪魔《サタン》となりかわり、この没落の不幸からはもはや逃れ得ぬのだ。
アダム
それ、あのアダムを見られよ。このかたはダミセネの野で神様御自ら御手を下されて造られたかただ。人間の穢れた液から産まれ給うたものではござらぬ。して、ただ一本の樹を除けば、楽園にあるものはすべてこのかたに治められておったのだ。
アダムほどに気高き位に昇りし者はこの世にはおらなかったのだが、つい、このかたも、己が犯せる罪により、その最高の幸運の境遇から追い立てられ、苦役と地獄の不運におちぶれてしまったのだ。
サムソン
サムソンを見られるがよい。彼の生誕を天使が告げるまでは、神に仕えるヘブライの行者であり、いまだ両眼が見えた頃には、誠に貴き御身分であらせられた。その力といい、その胆の太いことといい、あのおかたほどの者は他におらなかったものだ。それがその、心の秘密を妻に洩らしたが因果でわが身を滅し、あの浅ましい姿に成りはてたのだ。
この威高き武士《もののふ》、サムソンは婚儀の式に向う道すがら、二つの腕のほかにはなんの武器も取らずして獅子を撃ち、これを八つ裂きに引き裂いてしまった。彼の不貞の妻は甘言をもって彼を騙《だま》かし、彼の隠語《なぞ》を探り出し、これを敵に通じて、不実にも、彼を捨て去り、新しく他に嫁いだのだ。
サムソンは憤りのあまり、三百匹の狐を捕えて、その尻尾を結び合わせ、そのおのおのに炬火《たいまつ》をつけ、火を点じてこれを野に放したから、その地の穀物は勿論、はては橄欖《オリーヴ》の森から葡萄の畠までことごとく焼き払ってしまった。
さらにまた、彼は武器といっては驢馬の肋骨《あばらぼね》一つを取れるだけで、一千人の奴輩《やつばら》をうち殺したが、その時、彼はあまりの喉の乾きに、息もたえだえとなり、神よこの苦しみに憐れみを垂れ、水を下し給え、さあらずば、死なんばかりと、神にお祈りをした。すると、どうじゃ、ひからびた驢馬の腮骨《えらぼね》の奥歯から泉が吹き出た。彼はこれをまたたく間に飲みほしてしまった。かくて神は彼を救い給うたということが、士師記に伝えられているのだ。
また、ある夜のこと、ガーザの街では力をふるい、ペリシテ人をものともせず、城門を撃ち倒し、これを背負って人の見えるようにと、丘の上に運び上げてしまった。
気高き、全能のサムソンよ。そちがもしそちの心の秘めごとを女子などに打ち明けなんだら、そちに並ぶ者はおらなかったものを。
神の戒めにより、このサムソンはけっして濃い酒も葡萄酒も飲まなかった。また、彼の頭には剃刀も鋏もあてたこともなかった。
と申すのは、彼の髪には彼のことごとくの力が潜んでいたからだ。して、彼はまる二十年が歳月を一年と欠かさずイスラエル国を治めていたのだが、ほどなく悔の涙にくれねばならぬことになったのだ。それと申すもみな、女の仕向けた仕業。
彼は彼の情婦ダリダに、己れの大力はことごとくこの髪の中にあるのだということを打ち明けてしまった。よって、この女は不実にも彼を敵に売ったのだ。ある日、彼が彼女の膝をまくらにしてねている間に、女は彼の髪をつみ刈らせ、敵に彼の秘密の力を知らせてやった。敵の族《やから》は彼が髪をかられ力を失くしたので、彼を固く縛り、彼の両眼を抉《えぐ》り取ってしまった。髪を刈りおとされさえしなければ、どんな縄も彼を括《くく》ることはできなかったのだが、今は、はや洞窟に囚われの身、手臼を碾《ひ》かされておるしまつだ。
人間きっての屈強者、かつては誉れと富に恵まれた審き人サムソンよ。汝は幸運の身から逆境に落ちた者だ。盲の眼で泣きあかさねばならないのだ。
さて、これからこのとりこの最期をのべよう。一日、彼の敵どもは饗宴を張り、そこに彼を召して道化をやらせたのじゃ。それも、立派な神殿の中でじゃ。しかし、彼もついに恐ろしき身の破滅を招いた。彼は二本《ふたもと》の柱をゆさぶって、これを倒したために、社殿も何もみな倒れ、彼自らも敵と一緒にことごとく下敷きとなって殺されてしまった。そこにいた王侯はみな三千の奴輩と一緒に、石の殿堂が崩れたので殺されてしまった。
わしはもうサムソンの話はこれで止めよう。この明らかな古えの例に傚《なら》って、戒められよ。夫の秘密はもしそれが夫の身命にかかわることなら、女房へはあかさぬことだ。
ヘルキュレス
いと高き勝利者、ヘルキュレスの高き栄誉は数々の彼の勲《いさお》が語るところだが、彼が力を持っていた時が彼の華であった。
彼は獅子を撃ち、その皮を剥ぎ、半人半馬《センタウロス》の高慢をへし折り、また、残忍獰猛の禽ども、半人半禽《アルピイ》を落しては、龍の手より黄金の林檎を奪い、はたまた、地獄の狗セルベルスを駆って暴君ビュシールスを殺し、その肉と骨を彼の馬に喰わせた。また彼は火を吐く毒蛇を殺し、アケロイスの両角の一つをへし折り、巨人カークスを岩窟の中で斬り斃《たお》し、ついでは、強力、巨人のアンテウスを殺し、この見るも恐ろしき野猪を斬りて、やすやすと自分の首に天を久しく支えていた。
天地開闢以来、彼ほどに数々の怪物を平らげた者はおらなかった。その力、その高い徳により、彼の名はこの広い世界の果てまでもとどいていた。彼はすべての国々を見て廻るために旅して歩いたが、なんせ力ある彼のこと、何人も彼を拒むことはできなかった。トローフェーが申すのに、世界の両端に、ヨーロッパとアフリカ大陸の境を示す柱を建てたのも彼であった。
さて、この気高き戦士にも、その名をディアニーラと呼ぶ、五月のごとくすがすがしい恋女があった。して今日の学者たちが申すには、この娘は彼に新しい、麗わしい肌着を贈った。
ああ、この肌着こそ、なんたることぞ。これには巧みに毒が塗られておったで、半日と纏《まと》わぬうちに、彼の肉は骨より殺《そ》げおちてしまった。
だが、学者たちのなかには、この肌着を造ったネッススという女こそ咎めるべきものだとて、この娘を庇《かば》う者もある。まあ、それはともかく、わしは彼女の罪を責めはせぬ。だがしかし、彼は肉が毒のために黒くなるまで、あらわな背の肌に、この肌着を着けていたのだ。して、はやなおす道もなく、しかたなしに、自ら熱き火床を掻き起し、身を投じた。毒で死ぬ気にはなれなかったからだ。かくて、この天晴れの力士、ヘルキュレスは滅びたのだ。
それ、見よ、誰が運命の神を束の間も信じられよう。犇《ひし》めくこの世を渡る者は、えてして己れが気づかぬうちに打ち倒されるものだ。己れを知り得る者こそ、まことに賢けれ、心せよ、幸運の女神が甘い言葉で言い寄ろうとする時こそ、女神は男を思いもよらぬ遣り口で打ち倒す機会を窺いおるのだ。
ネブカトネザール
ネブカトネザールの巨大な王座、貴き御宝、輝かしい王位、堂々たる威風は言葉ではよく言いつくせぬ。王は二度エルサレムの都を取り、その神器を持ち去った。王はバビロンに皇居を構え、そこで栄耀栄華をきわめたのだ。
王はイスラエルの王室の中から最も眉目麗わしき童らを宦官となし、これをみな、王の奴隷としたが、その中には最も穎《さと》しい童、ダニエルもまざっていた。そのころ、カルデヤの国には、王がみる夢を占い判断する博士は一人もおらなかったが、ダニエルはよく王の夢を解きあかされた。
この高慢な王は高さ六十キュウビット、幅七キュウビットの黄金の像を造らしめ、老いも若きもこの像にひれ伏して拝め、しからずんば、紅炎の炉にて身を焼かるべしと命じた。されど、ダニエルとその若き二人の同僚《とも》は断じてこれには従おうとはしなかったのだ。
この王の王たるネブカトネザールは高慢であって、天にまします神すらも自分の高い位を奪うことはできまいと信じておられた。
しかるに、王はにわかにその威厳を失い、獣のようになったと思われた。牝牛のごとくに乾草を食《は》み、野天に身を横たえ、暫時の間、雨の中を野の獣とともに歩かれた。
してその髪は鷲の羽のごとく、その爪は鳥の鉤爪のごとくなり果てた。やがて神は暫しの刑より彼を解き、彼に正気を戻したまわれた。この時、王は潸々《さんさん》と涙を流して神に謝し、その生涯に初めて、過ちを犯したことを悔み、さらにまた罪を犯すことをおそれた。
して、王が柩の上に身を横たえられる時まで、神こそは力がある、恵み深きものだということを忘れなかった。
バルタザール
バルタザールという彼の息子、父の後を継ぎ、王位についた。彼は父の過ちに気づかず、その心、その暮しも驕りを極め、かつまた、彼は偶像礼拝者であった。彼の高き身分が彼の誇りに安んじしめたのだ。しかし運命の女神は彼を没落させ、にわかに彼の王国が瓦解した。
ある時、彼は諸侯を招いて宴を張り、彼らに楽しむようにと申しつけ、また役人どもを呼び、「赴《ゆ》きて、かの神器を持ちきたれ、わが父がその昔栄えし時、エルサレムの神殿より奪い来りしあの神器を。してわれらの祖先がわれらに遺しゆかれし誉れを、われらが高き神々に謝し奉らん」と言った。
彼の妻、彼の群臣、彼の愛妾はこの尊き器よりもろもろの酒を心ゆくまで酌み交わした。して王が眼をふと壁の方へむけた時、彼は腕のない一本の手がすみやかに何事かを書くのを見た。彼は恐れおののき、激しく溜息をついた。バルタザールをいたく驚かしたこの手はただこう書いたのだ「メネ、テケル、ファレス」(数えたり、秤れり、分たれたり)と。
この国中でこの文字の意味を解き得る法術師はおらなかった。しかし、ダニエルは直ちにこれを解いて、告げた。「王よ、神は陛下の父君に栄えと誉れ、国土、宝物、貢物を下し給う。されど御父君にはいささかも神を畏れたことがなかった。されば神は父君の上に復讐をなされ、父君が持ちし国土を奪い給うた。父君は人間のなかから逐《お》いたてられ、野馬と住いをともにし、雨の日も晴れの日も獣のごとく乾草を食みおられたが、やがて、神の恵みと智によって、天にまします神こそは、よろずの国、よろずの生物をしろしめすものであることを悟った。よって神は父君に憐れみをかけられ、父君の国土と元の御姿を戻し給うた。
父君の子の陛下は、また心驕り、このことをことごとく知っていられるはずだのに、陛下は神の反逆者となり、神の敵となり、陛下は大胆にも神器から酒を酌み、飲まれた。お妃も御側室も罪深く、同じ器にてもろもろの酒を飲み交わし、呪わしくも邪神を褒め称えた。されば、陛下に大いなる苦しみが下されたのだ。メネ、テケル、ファレスと書いたこの手は神の下し給うたものである。わたくしのいうことを信じたまえ。陛下の国は終りをつげた。陛下として重みがなくなり、陛下の国は分裂し、メジアとペルシャに分けられることになる」と、彼は申したのだ。
かくて、その夜この王は殺され、その後をダリウスが占めた、別に彼が正統な権利があったわけではないのであった。
みなさん、そなたたちもこの見せしめにより、君主という御身分もけっして安心のできないものだということを心に留めおかれよ。と申すは、運命の女神が人を捨てるとなれば、国から富から友達までも大小を問わず攫《さら》って行くものである。誰でも栄えている時は友が得られるが、一旦不運となれば、これが敵となるものだ。この諺は普遍の真理だ。
セノビヤ
シリヤの国の一都パルメリヤの御妃、セノビヤのことはペルシャ人が、その徳を記しているとおり、戦に臨めばまことに剛胆、その勇気、その血統《ちすじ》、その威厳において並ぶ者は他になかった。妃はペルシャ王の血を引けるおかた、わしは妃が女子の中で一番麗わしいとは申さぬが、その容姿はあれ以上に望めるものではないと思う。
幼き頃より、姫は婦女の務めを逃れては、森へ出かけ、太矢を射って幾頭となく牡鹿の血を流されたものだ。して、姫はいたって足の早いかたであったから、これをすぐに捕えられた。姫が長じてよりは、獅子や豹を殺し、熊は八つ裂きにし、腕に取ればこれを意のままに組みふせ、いけどりにしたものだ。姫はまた勇敢に野の獣の隠れ家を捜し求め、夜もすがら山野をさまよい、叢の中にも眠られた。どんなに活発な若者とでも角力をとられ、まことに、姫の腕力にはかなわなかったのだ。姫は処女《むすめ》の間はいかな若者も遠ざけて、誰とも契りを結ぼうとはしなかった。
けれども、姫の友達はようやくのことで、姫をこの国の王子、オデナックに嫁がせた。王子も姫と同様気まぐれな空想をもっていたのだろう。だが一緒になってみたら互にいとしく想いあって、まことに睦まじく暮した。
けれども妃はいかにしてもお聞き入れにならなかったことがある。それは殿がただの一度だけ妃の傍にねることを許されてそれ以上はおききにならなかった。それは子孫をふやすために、御子をもうけられるのが妃の本心だったからだ。して妃はいまだみごもらぬことに気づかれると、すぐに、また一度だけ殿の愛をお許しなされる。しかし、御懐妊なされたとなれば、まる四十日が経つまでは殿の戯れを断られ、それがすぎるともう一度お許しなされるのだ。このオデナック、時には手荒く、時にはやさしくもされてみたが、妃は少しも動じなかった。男がもし妻の体を弄ぶならば、それは妻にとって淫らなこと、恥ずべきことであると妃は考えたからだ。
妃はオデナックとの間に二人の皇子をもうけられ、妃はこの二人に徳と学問を教え込まれた。
しかし、ここらで話を本筋に戻すことにしよう。おそらくこのセノビヤほど立派な、そして賢いまた程よく心の広い、また戦に臨んでは勢強く、決意は固く、その上、礼に厚いおかたは世界のどこを捜してもないだろう。この妃の立派な生活は、什器といい、衣裳といい、とうてい言葉では言いつくせぬ、妃は宝玉と黄金で身を包んでいたのだ。してその学識といえば、骨身を惜しまず、暇さえあればいろいろの国々の言葉をあさり、言語をよく学び、書籍を読まれるのが何よりの喜び、まことに妃は徳の道に生涯を捧げられたのであった。
さて、話を縮めて申しあげよう。妃も殿もまことに勇ましくあられたので、あまたの東の国々や、ローマ皇帝所領の数々の美しい都市まで平らげて、これをしっかり治められ、オデナックの御代のつづくかぎり、敵も手出しができなかった。
さて、この妃がペルシャ王サポールその他に仕向けし戦だが、これがみな、いかに起り、何が故に兵をすすめ、していかなる位をかち得たか、それから後の妃の御不運やら御悲歎、また妃が囚われ人となった時の有様をご所望なさるなら、このことをよく書いているわが師、ペトラルカを参照なさい。
オデナックが亡くなられた後は、妃は自分ひとりの力で国々を治められ、敵とも烈しく戦ったので、もし妃がお慈悲で矛《ほこ》を収むれば、これを喜ばぬ王侯とてなかったほどである。彼らはみな和平をねがうため妃と和を結び、盟を契り、妃が意のままに馬を馳り、狩りをなされてもだまっていたほどであった。
ローマ皇帝、クラウディウス、その先考、ガリエヌスにせよ、はたまた、アルメニヤ人、エジプト人、シリヤ人、アラビヤ人にせよ、妃の剣に倒れ、妃の兵に追われるのを懼《おそ》れ、あえて妃と野に一戦を交えようとする者は一人としておらなかった。
妃の二人の王子は王として、父君の領土をことごとくうばわれ、その名をペルシャ人の呼び名では、ヘルマンノーとチマラヤーと称された。
けれども、運命の女神はその蜜の中に苦い汁を混じているものだ。この力強き妃も、はや耐えるわけには参らなくなった。運命の女神は妃をその王土より逐い出し、不運と悲惨の中に陥れてしまった。
ローマ帝国の支配がアウレリアンの手に帰したとき、彼はこの妃に復讐を企て、その部勢をセノビヤの国へと進めたのだ。して、結局妃を追い、遂に捕えて、二人の王子とともに足枷に繋ぎ、この国を平らげると、ローマへ戻った。
彼の戦利品の中には黄金と宝石でつくられた妃の馬車も混っていたが、このローマ帝、アウレリアンは、これを人々に見せるため引いて帰った。妃はこの戦利品の前を首に金の鎖を懸けられて歩み、頭には妃の身分に傚って冠を載せ、装束には宝石をちりばめてあった。
運命とはいいながら、まことにいたわしい次第だ。かつては四海の帝王をおびやかした妃。今や民衆はみな暗然として妃を見つめるのだ。かつての激戦には甲胄をかぶり、固めの都と城を落された妃が今はガラスの冠をかぶり、かつて誉れの華笏を握った手には糸巻を持たされる運命になったのだ。
スペイン王ペトロ
おお、スペインの誉れであった気高い天晴れのペトロの御稜威を運命の女神があれほどまでに高めたのに、王はいたわしい最期をとげたので、その人民が歎いたのも当然なことだ。
王の弟エンリックの陰謀でペトロは国から追放され、巧みに攻められ、幕舎に連れられ、弟の手で殺されたという話がある。その弟は兄の領土歳入をうばったのだ。
銀色の地に紅炎のごとき鳥黐《とりもち》で捕えられたように見える黒鷲の図案を紋章にしているエンリックは、このたくらみ、この罪を犯したのだ。
エンリックを助けてペトロを殺した男は「邪悪の巣」といわれ、この悲劇の下手人であった。この男の名はオリヴェルと言ったが、シャーレマン大帝の忠臣オリヴェル(誠心名誉を重んじた)ではなく、アルモリックのゲネロン・オリヴェルといわれ、賄賂をとり腐敗した男であって、シャーレマンの不忠義者ガネロンに似た男で、この立派なペトロ王を罠に陥れたのだ。
キプロスのペトロ王
おお、天晴れのペトロ、キプロスの王は気高き指揮によって、アレキサンドリアをおとしいれ、数多の異教徒を迫害した。これがため、王の臣下は王を恨み、折角の武勇も水泡に帰し、王は朝方床の中で暗殺されてしまった。
かく、運命の女神こそはその車をまわし、人をして喜びより悲しみに向かわせるものだ。
ロンバルジヤのバルナボ
ミランの領主バルナボ子爵、快楽の神ともロンバルジヤの厄神とも考えられていたが、高い位から不幸して没落したのだ。これも悲劇として数えねばなるまい。その兄弟の子、二重の縁者、すなわち、彼の甥子で、彼の聟君のために獄舎の露と消えてしまったのだ。(一三八五年)
けれど、どういうわけで、どういうふうに彼が殺されたのか、わしは存じませんのだ。
ピサの伯爵ウゴリーノ
ピサのウゴリーノ伯の非運については、あまり、不憫な話で、いかなる言葉でも語りつくせないのだ。ピサを少しく離れた所に一つの塔が立っているが、ここに彼は五歳にもまだならない童子を頭に三人の子供と一緒に入れられたのだ。なんという悲しい運命か、こんな雛をかような籠の中に入れるとはあまりにもむごい話。
この獄舎で彼は無理強いに殺されたのだ。
と申すのは、ピサの僧正、ロジエルは彼を誣告《ぶこく》に陥れ、これがため民は彼に刃向い、彼を牢獄に繋いだ、これはみなさんもお聞き及びのとおりです。してそこであてがわれた飲物も食物もまことに乏しい粗末なものであった。
ある日のこと、いつも食事の持ち込まれる刻限に、牢番は塔の扉を閉めてしまった。彼にはその音がよく聞えたが、言葉は一声もあげなかった。して心の中では、これはわしを飢えさせ、殺すのだと早くも察したのだ。「ああ、無念、生れなければよかったのだ」と彼は言って、思わず涙が眼から落ちた。
三歳になる彼の幼子は彼に言った。「おとうさま、なぜ泣くの。番人はいつ汁を持って来てくれるんですか。もうパンは一口もありませんよ。おなかがすいて眠れない。ずうっと眠ってしまいたい。そうすれば、お腹がすいてきませんから。ああ、パンがたべたい。ほかのものは何もいりません」と。
かように、この子は毎日毎日泣き明かし、やがて父親の胸に抱かれ、「おとうさま、さようなら、僕は死ぬよ」と言って、父親に接吻した。やがて、その子はその日死んでしまった。悲歎にくれた父親は、死んだわが子を眺めながら、悲しみのあまり、わが腕を咬み、「無念じゃ、運命の神、無念至極だ。おれはお前の誤れる運命の車を恨むぞ」と言った。
父は悲しみのあまり腕をかみきろうとしたのだが、子供たちは飢えのあまりに腕を咬んでいるのだと思いこみ、「おとうさま、そんなことをなさるなら、何卒、僕らの肉をおたべなさい。僕らの肉はあなたの下さったもの、遠慮なくこの肉を取ってめしあがって下さい」と言った。
そう子供らが言ってから一両日すぎて、彼らは父親の膝に身を横たえて死んだのだ。また、彼自らも絶望のうちに餓死してしまった。
かく、この力あるピサの領主も運命の女神のために高いところから、つきおとされ、その生涯を閉じたのだ。この悲劇については、もうこれでよかろう。この先を聞かれたい方はかのイタリーの詩聖、ダンテをお読み。彼は一言も洩らさず、逐一語っているのだ。
ネロ
ネロは地獄の底にいる悪魔のように極悪非道の人であったが、また、スウェトーニュウスが告げるように、彼は東西南北に亙り、この広い世界を征服した皇帝だ。
彼の衣はことごとく上から下まで、紅玉、サファイヤ、白真珠を織り込めたものであった。なぜといえば、彼は宝石をいたく好んだ男だ。
彼ほど衣裳に目が高く、それを誇り、贅をつくした皇帝は他にはあるまい。一度手を通された衣には二度と目もくれなかったものだ。
また彼は気晴らしにチベール河で魚をとるために、数々の金糸の網をもっていた。彼の所望することはみな法律を出して命令した、運命の神もまた彼に味方してこれを許したのだ。
彼は戯れにローマの街を焼いたり、或いはまたいかに人の哭き叫ぶかを聞くためと申して、元老たちを殺害し、或いはまた自分の兄弟を斬り、妹をさえ辱かしめた。
また己が孕まれし処を見るとて母君の下腹を切り裂き、母君を目もあてられぬ姿にしたが、浅ましいかぎりだが彼は母君のことなどなんとも思わず、平気でその有様をながめ、涙一滴流さぬどころか、「おお、なんと美しい女だ」と言ったのだ。まことに解せぬことであるが、彼は母君の死骸の美を鑑賞したのだ。彼は少しも歎く様子もなく、酒をもって来させ、それをすぐに飲みほした。
権力が残忍と結べば、その害毒はどこまでも底知れず深まるものだろう。
彼には若き折、学問と礼儀を教える先生があった。書物によると、彼の壮年時代は道徳の鑑とも言えたのだ。この先生の教えを受けていた間は彼もまことに賢く、また穏やかであったのだが、その後しばらくしてから非道と悪徳が、彼の心にくい入ったのだ。
この先生というのはセネカであって、ネロはセネカを懼れていた。というのは、彼は賢明にも行いをもってせず言葉をもって彼の悪徳をよく戒めたものだ。
「陛下、皇帝たる者は必ずや徳を備え、非道を斥けるべきである」と、つねづね彼に言って聞かせたものだ。されば、ネロは浴槽に入れてこの先生を両腕より血を流さし、自殺をさせた。
ネロが若い時、先生が来ると立って会釈をさせられたが、これがネロには不平であった。その怨みに彼はかかる手段を選び先生を殺したのだ。けれどこの賢明なセネカは他の刑を受けたくないので、進んで浴槽を死場所と選んだのだ。かくしてネロはその貴き師を殺したわけだ。
されども、今や運命の女神はもはやネロの傲《おご》る心を育てようとはしなくなった。彼は強かったが女神はさらに強かった。女神は考えた。「ああ、まことにかくも悪徳の者を高位につかせ、帝王と呼んだのは馬鹿なことだった。彼を高御座よりひきおろし、彼が思いもかけぬ時を選んで滅ぼそう」と。
ある夜、民は彼の罪業を怒って、立ち上った。彼はこれを知るやいち早く屋外に逃れ、かつての友人の家を叩いたが、彼が叫べば叫ぶほど、彼らはいっそう固く戸を閉ざした。彼は道を誤ったことを悟ったが、声もあげずにただ歩みつづけた。
人々は声をあげ、ここ、かしこと歩き廻った。彼は人々が「ネロ、この偽りの暴君はどこへ行ったか」と尋ねる声を自らの耳で聞き、恐怖のあまり気も狂わんばかり、彼は憐れにも救いを求めて神に祈った。されどなんの効験も現われず、今や彼は恐怖のために死なんばかりになり、そして、とある庭に馳け入って身を隠そうとした。そこに彼は二人の野良人が燃えさかる火の傍に坐っているのを見て、この身を殺し、この頭を刎《は》ねてくれと頼んだ。それは彼が死んだ後、彼の死骸に辱かしめを受けまいとしたので。彼は自害した、彼にはこの他にとる術がなかったのだ。運命の女神はこれを見て笑い、興じた。
オロフェルン
ネブカトネザール王の首将、オロフェルン以上に多くの国土を平らげ、戦場で万事に強く、また彼以上の高名を博し、彼以上に傲岸無礼の者はなかった。運命の女神はいつも気まぐれから彼に接吻し、彼を浮きつ沈みつさせたのだが、ついに彼は彼の知らぬ間にその頭を斬られたのだ。
人々はひたすら富と自由を失うまいと、ただ、彼を畏れたばかりか、各人は信仰をさえすてさせられた。「ネブカトネザールは神なり、他の神を拝むこと相成らぬ」と彼が命令した。エリアキムという祭司のいた強き町、ベスリヤのほかに何人も彼の命令に反対するものがなかった。
けれど、このオロフェルンの最期を見たまえ。ある夜、彼は部下とまじって酒を飲み、納屋ほどもある広い幕舎の中で酔い倒れていたのだ。彼が仰向きに眠っている時に、ジューディスという女は彼の勢いも顧みず、彼の首を掻き切って人目を偸んでこれをひそかに町へともちかえった。
有名なアンチョークス王
アンチョークス王の高き威光、その傲慢、その罪過は、もうのべる必要もなかろう。彼のような王は他にはいなかった。マカベの書をよく読んで見たまえ。また彼が放った高言や、何故、高き幸運より落ちて、山上に憐れな死にかたをしたか読みたまえ。運命の女神はあまりにも高き栄誉を彼に与えたために、彼は星の世界にまでのぼり、山を秤にかけたり、海の流れをも止め得るものとまで誇っていた。
彼は神の子らを最も憎み、彼らを苛みては殺し、神すらも彼の誇りを殺《そ》ぐことはできまいと信じていた。ニカノルとテモテをユダヤ人が勢いこめて征服したということを聞くや、彼は激しくユダヤ人を憎み、直ちに戦車の準備を命じ、エルサレムに舞い戻り、彼の腹の虫のおさまるまで彼の憤怒を晴らそうと誓ったのであるが、すぐに彼の目的が妨げられた。
神は彼を畏れさすために、眼には見えない致命的な傷を負わし彼を激しく苦しめた。これがため彼の臓腑は喰いちぎられ、その苦しみはまことに耐え難いものであった。彼は数多の人々の腹に傷を負わしめたために、この苦しみは真に当然の報いであったのだ。されど彼はこの苦しみにもかかわらず彼の呪うべき、憎むべき謀を打ち切ろうともせず、直ちに彼の軍勢に陣立てを命じたが、突如、神は彼が気づくより早く彼の厚顔無礼を挫きなされた。彼は戦車よりどっと落ちたと思うと、彼の身体は八つ裂きに斬られ、彼は歩むことも馬に乗ることもできず、前後左右血みどろになって床几に身を支えるのみであった。神はあまりにも彼を懲しめ給うたため、邪悪の蛆は腹からのた打ち出で、彼は寝ても覚めてもひどい悪臭を放ち、付添う家来どもは皆その臭気に耐え得なかったほどであった。この身の破滅に臨み、彼は咽び泣き、神こそは万物の主なることを悟ったのだ。彼にもむろん、彼の部下にもこの腐肉の悪臭は胸をつき、何人も彼を連れて歩く者はなかった。彼はこの悪臭と激痛の中に憐れにも山中でその一命を断った。
かくて、数多の者を泣かし、歎かしたこの盗人、この人殺しはその傲慢の報いを受けたのであった。
アレキサンドル
アレキサンドル大王のことは誰も知っている話だから今日賢い人なら誰でも彼の一代記は幾分でも知っているだろう。一口に申せば、彼はこの広い世界を武勇によって平らげたのだが、彼の高い名声を聞き、進んで彼に和を請う者も大勢いた。彼の赴くところ世界の涯まで、驕る人間も獣も打ちのめされた。
彼のごときは他の征服者のあいだにその類を求むることもできない。四海の者はことごとく彼を懼れて震えおののき、彼はまことに武士道と自由の華であった。運命の女神もその名を彼に継がしめたほどだ。彼の戦意と苦心を鈍らすものは酒と女のほかには何もなく、獅子のごとき勇気にみちた人であった。たとえ、ダリウス王を初めとし、彼によって征服され、悩まされた幾十万の王侯貴族についてのべたところで、それが、アレキサンドルにとってはなんの讃辞になろうか。それどころか人馬の通い得るところ、世界はことごとく彼の領土となったのだ。
彼の武勇については述べつくせるものでない。
マカベの書にもあるように、アレキサンドル大王は十二年のあいだ王位にいた。彼はマセドニヤのフィリップの子であって、初めてギリシャ全土の王となった。
あっぱれな貴いアレキサンドルのような幸運ですら滅びるときは滅びるのだ。彼は臣下の盛った毒に斃れた。彼の骰子が六点から一点に変ったが運命の女神は涙一滴落さぬのだ。
世界中を征服してもこれに甘んぜず、なおも心は壮図に充ちていたこの高貴な王の死を歎いてみても、誰がわしとともに涙を流してくれるだろうか。ああ、誰がわしと一緒にこのいたずらなる運命の女神を難じ、この毒殺を呪うてくれるだろうか。わしは彼の非運の責めをこの二つに負わせるのだ。
ジュリアス・シーザー
かの征服者ジュリアスはその叡智とその勇気と、その大いなる辛苦とによって、賤しい生れより身を起し、帝位まで上り、武の力によって或いは盟を結び、西方の海陸をことごとく征服し、これをローマの属邦としたものだ。後には帝の位についたが、ついに運命の女神は彼の敵となってしまった。
おお、偉大なシーザー、彼は日出づる東の国の武士どもを抑えた彼の養子ポムペイウスとテッサリの野に戦い、これに勝ち、ポムペイウスと一緒に逃げた兵を除きことごとく捕えてこれを討った。かくして、シーザーは運命の女神を味方としてその加護を受け、東方の諸国をことごとく威圧した。
しかし、わしは今この戦から逃げ去ったローマの気高き執政、ポムペイウスの跡をしばし弔うのだ。彼の部下の一人なる偽りの裏切者は彼の首を打ち落し、これをジュリアスの許に届け、歓心を買わんとした。ああ、東方の征者、ポムペイウスを運命の女神がかかる最後に導いたのだ。
ジュリアスはローマに凱旋し、月桂樹を冠せられた。されど、あるとき彼の高御座を妬むブルウタス・カシアスは巧みにもジュリアスに対し窃かに謀り、わしがこれから申すとおり、彼を短剣で倒そうとその場所をも定めた。
ある日のこと、ジュリアスはいつものごとく議事堂へ出かけたが、そこで偽れるブルウタスとその一党は彼を短剣で刺し、数多の傷を負わしめ、ついに斃した。もし彼の伝えに偽りなくば、彼は初めの一、二撃を受けた時のほかは少しも呻きをもらさなかったのだ。
ジュリアスはその心まことに雄々しく、また威厳を重んじた人であった。彼は身に深手を負いつつも、人に己れの前を見せまいと腰に外衣を投げかけた。彼は半ば気を失って倒れ、己が死に赴くを知りつつも、気品を忘れることはなかったのだ。
ルーカン(歴史家)よ、わしはこの話をそなたにまかそう。また、この物語の発端と結び、すなわち、ポムペイウス、シーザーの両雄に運命が初めはくみし、後には敵となった経過のことは歴史家スウェトンやヴァレリにまかせよう。
人はけっして長く運命の女神の恩寵に浴することができないものです。この両雄を見せしめとするがよい。
クレーソス
かつてはリディアの王であった富裕のクレーソスはシールスをも畏れさせたほどであったが、ついにその誇りに身を奪われ、火の中で焼かれようとされたのだが、大空から雨が降ってきて火を鎮め、彼を逃れさせた。されども彼は神のお恵みに気づかずして、ついに運命の女神は彼を絞架につるし、口を開かしめたのだ。
彼は救われた後、また新たな戦争を思いとどめることができなかった。運命の女神は彼のために雨を降らし死を逃れさせたので、彼はまた己惚れて自分は敵の刃に倒れることはあるまいと固く信じてしまったのだ。ある夜、彼は夢を見て、これを喜び、これを誇り、ついに復讐の意を決したのだ。夢の中で彼は樹の上にいた。ジューピテルの神が彼の体のまわりを洗い、フェーブス(太陽)は美しい手拭を持って来て彼を拭いた。これがため彼の誇りはつのってしまった。そして彼は彼の傍に佇める娘にこの夢の判断を命じた。彼はその女が高い学問を豊かに持っていることを知っていた。彼女は父の夢を解いて、「樹とは絞架の意にして、ジューピテルは雪と雨のしるし、清き手拭を持てるフェーブスは、すなわちかの日の光なり。父上よ、そなたは必ずや絞架に懸けられるべし。雨はそなたを洗い、日はそなたを乾かさん」と申した。この娘の名はファニアと呼んだ。この娘は少しも飾らず、ありていに父を諫めた。結局、この驕れる王、クレーソスはついに縄に吊された。彼の王位もはかないものであった。
悲劇とは運命の女神が驕れる王座を不意打ちして、これを倒す話を哭き悲しみつつ歌うものにほかならない。人もし女神を頼りとすれば女神はその人を見捨て、その輝く顔を雲でおおうてしまうものだ。
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尼院侍僧の話
尼院侍僧の話 前口上
騎士は(修道僧の話がすむと)言った。
「やあ、もうおよし、もうたくさんだ、これ以上はごめんだ。たいていの人は憂鬱な話が嫌いだ。とくに、わしなどは、金があって安楽に暮らしている人が急に没落する話をきくと気がくさっていけんわ。それと逆な話になると嬉しく面白くきけるのだ。貧乏な人が出世して金持になって栄える話は慰めになるよ。そういうことは、なかなか楽しい話で、そういう話をするのもまた愉快なことだろう」
亭主は騎士に言った。
「聖ポール寺の鐘で誓っても言うが、あんたのおっしゃることは本当だ。この坊さんは大げさな言葉をつかって、幸運の女神の雲がくれの話をした。
なんだか知らないが、『悲劇』とやらをあんたもおききになったが、いやなことだ。やったことを泣き悔んでみてもしかたがねえし、しんきくさい話は、おっしゃるとおり、聴くに堪えられねえ。
さあ、坊さん、もうよしてください。あんたの話をきいて、この連中はみんな気がくさってしまうのだ。そんな話は一羽の蝶々ほども価値がない。そんな話には冗談がはいらないで面白くねえ。
だからさ、坊さん、あんたの名はピエルス様かもしれないが、後生だから、別の話をやってくださいよ。あんたの手綱の両わきにさがっている鈴が、ガチャガチャ音をたてなかったら、あんたのねぼけ話でわしらは、とっくの先に居眠りして、馬から落ちることだろう。泥でも深かったら、みんなはそれっきりおだぶつだ。そうなるとあんたのせっかくの話が無益になるだけだ。昔からの学者も言うように『聴き手のない説教は役にたたない』ことになるのだ。話をうまく言うのには、こっちの聴き手が大切なんだ。聴き手を面白がらすことだ。
坊さん、狩りの話でもなさいよ」
僧は答えた。
「いやいや、わしには冗談は言えぬ。さっきから言ってるように、他の方からやっておもらいなさい」
そうすると亭主は尼院侍僧に向かい遠慮ない言葉で言った。
「そちらの坊さん、こっちへいらっしゃい。ジョンさん、わしらをみんな嬉しがらせる話をしてくださいな。みじめな賃馬に乗っていても、あんたは朗かになさいよ。馬はきたなく、痩せていたところで、あんたの言うことをよく聴きさえすれば、それで結構だ。元気をだして、朗かな顔をなさいな」
侍僧は言った。
「亭主、そうですよ。そうしよう、愉快にやろう」
それからすぐに、このお人よしの坊主、ジョンはみんなの前でこんな話をした。
尼院侍僧の話
昔の話、ある一人の年とった貧しい寡婦がいた。谷間の森のわきにたてた小さい百姓家に住んでた。
夫がなくなってから、この寡婦は辛抱づよく質素な生活をしてきた。財産も収入もあまりなかったのだ。切りつめたやり方をして、神様の下さるもので、自分と二人の娘を養ってた。
家には、三匹の大きい牝豚と、三匹の牝牛に、それからマラという名をつけた一匹の羊を飼ってた。
この家は寝間と居間の二室しかなかったがみな煙ですすだらけだった。たいがいその居間で細々と粗末な食事をしていた。ぴりっとする味をつけるソースなどは少しもいらなかった。おいしいものとて彼らの口には、はいったこともなかった。
食事も着物もよく釣り合って、粗末なものだった。食いすぎて病気になったことなどはなかったのだ。
また、粗末な食事が摂生となり、働くことが運動となり、満足した心が薬となり、これだけがこの女の養生法であった。
この女の唯一の養生法といえば、控え目の食事に、働いて体を動かすこと、それから心の満足感ということだった。栄養過多からくる痛風で踊れなくなるということもなく、卒中で頭が悪くなることもなかった。彼女は赤でも白でもぶどう酒はいっさい飲まず、食卓には白と黒のご馳走、つまり牛乳と黒パンを自由に食べるのだ。それから照り焼きの燻肉と、ときには一、二個の卵が出ていた。それというのは、この女は乳しぼりのようなものだった。
この女には木の枝と空堀を四囲に囲らした養鶏場があったが、この中でチャンテクレールという雄鶏を飼ってた。その啼き声は国じゅうでどこを捜しても並ぶ鳥はなく、その音は、ミサの日に教会で鳴る楽しいオルガンの音よりも美しいものだった。
寝床で鳴く彼の啼き声は柱時計や寺院の時計よりも正確だった。生来、彼はこの村での昼夜平分線の昇度を知ってて、十五度昇るたびごとに精魂傾けて啼くのだ。その鶏冠は上等な珊瑚よりも紅く、縁は城壁のように鋸形に刻み込まれていた。そのくちばしは黒く、ぬば玉のように光り、脚と足指は青空のようにまっ青で、爪は白ゆりの花より白く、毛色はいぶし金の色をしていた。この立派な雄鶏には彼の慰みをつとめる七羽の雌鶏が仕えていたが、これはみな彼の妹たちと情婦とであって、彼のように容色はみなすぐれてた。その中でのどの毛色がいちばんきれいなのはペルトロット夫人という名であった。彼女は礼儀を守り、慎しみ深く、しとやかで、交際家であり、お七夜をすまして以来、いたって立派に振舞っていたので、チャンテクレールはすっかり惚れこんで身動きもできないほど心をうばわれた。それもよかろう、それほど彼女を愛せるなら。
輝く太陽が昇る時、「わが君は去りぬ」という俗謡を彼らが声を合わせてうたうのを聞くのは、なんとうれしいことだ。夜明けには、鳥も獣もうたい語ることができるのだと言われている。
さて、ある夜明けのこと、ちょうどチャンテクレールが鶏舎の中で妻たちに囲まれてとまり木にとまり、すぐ隣にはうるわしいペルトロットが坐っていた時に、チャンテクレールがまるで人間が夢の中でうなされているように、うめき声をあげた。ペルトロットは彼のうなり声を聞き、びっくりして叫んだ。
「あなた、どうなさったの、そんな苦しそうな声を出して。あなたはよく眠る人だのにさ。まあ、みっともないわ」と、すると彼は答えて、こう言った。
「マダム、そうがみがみ言わないでおくれ。ぼくはまだ心臓がふるえているほど恐ろしい夢をみたのだ。さあ、神様、わたしの夢を正しくお解き明かしください。このわたしの体を地獄からお救いくださるように。実はこんな夢を見たのだよ、ぼくがこの庭をあちこち歩いてると、犬のような獣が出てきて、ぼくにとびかかってきて、ぼくを殺そうとしたのだ。その毛色は黄色と赤がまざっていて、尻尾の先と両耳の先は毛色がちがって黒がさしていた。それから鼻が細くとおってて、眼はものすごく光っていた。今でもその顔が眼にちらついて、思っても死にそうだ。きっと、それでわたしは声をあげたのだ」
そう言われて、彼女は言った。
「およしなさいよ。いやだね、おまえさんは弱虫だね。ああ、あたしはもうおまえさんには愛想がつきたよ。ほんとうにあたしは臆病者は好きになれないもの。誰がなんと言っても、女というものはね、胆が太くて、利口で、気前がよくて、口がかたく、そしてしわんぼうでもなく、馬鹿でもなく、どんな刃物を出されてもびくともせず、それでいて自慢もしないというような人を夫にもちたいのよ。いったい、よくもおまえさんは恥さらしに、何かこわいものがあるなんて恋人に言えたものだ。おまえさん男のくせに度胸がないのかい、そのひげは伊達なのかい。ああ、情けないね、おまえさんは夢なんかにおどかされるなんて。ばかばかしい、夢なんてありゃしないことばかりだ。夢というものは食べすぎた時か胃から毒ガスが発散する時か、また人の体質によって、体の中に体液が溜りすぎる時に見るのだよ。まったく、おまえさんが昨夜見たというその夢は、あまりおまえさんの黄胆汁が多すぎるからだよ。この体液のために、あたしたちは夢のなかでは弓矢とか紅い焔をみたり、大きな獣が出て来て咬みつきそうにするので驚いてみたり、また喧嘩をしてみたり、大小のワン公がたくさん出てきておどかされてみたりするのさ。また黒胆汁のために憂鬱症にかかった人は、夢のなかで黒熊だとか黒牛におどかされたり、また黒い魔物につかまりそうになって、悲鳴をあげる人が大勢あるわよ。他にもいろいろ眠っている人をおどかす体液の話があるんだけれど、そんなことはくどくど言いたくはないわ。カトーンというえらい方も『夢を気にするなかれ』とちゃんと言っているじゃないの」
なお、彼女は言いつづけた。
「ところでたるきから下りたら、後生だからすぐに通じ薬を飲んでおくれよ、あたしはけっして嘘は言わないわよ。そしておまえさんにいちばんためになることを言うのだが、おまえさんの気病いのもと、黄と黒の胆汁をくだしてしまうのだよ。で、一刻も早いほうがいいのだ。この村には薬屋はないのだが、おまえさんの体のためになる草を教えてあげるわ。おまえさんの毒気を上からも下からも吐き出させる草が、この敷地の中に生えてることよ。
後生だから、これだけは忘れないでちょうだい。おまえさんの体は胆汁液でいっぱいなのだよ。おてんとうさまが昇ったら、おまえさんの体に熱い体液がいっぱいつまっていることを、おてんとうさまにわからないように気をつけなさいよ。もしおてんとうさまにわかると、一グロート賭けてもよいが、おまえさんはきっと三日熱になるか、おこりになるよ。そうすると命をとられるかもしれないよ。
それから一、二日、こなれのよくなるうじ虫でも食べてから、ちんちょうげ[#「ちんちょうげ」に傍点]、矢車菊、みやまけまん[#「みやまけまん」に傍点]や、そこに生えているへりぼり[#「へりぼり」に傍点]、たかとうだい[#「たかとうだい」に傍点]、うめもどき[#「うめもどき」に傍点]や、それからこの屋敷にある、あの苦いひかげのかずら[#「ひかげのかずら」に傍点]を食べて通じ薬にするがいい。そういう草をそのまま摘んでお食べよ。お父様の子孫のために元気をだしてさ。夢などをこわがるものではないわ」
すると、彼が言った。
「ああ、おまえの言うことはありがたく聞く。だけれど、あの賢人だという名高いカトーン先生のことだが、なるほど、あの方は夢をおそれるなと言っているが、この先生よりもっと偉い人の古典を読むとそれと反対なことを言ってるぜ。人間がこの世で堪えている悲しいことも、また嬉しいことも夢の中に現われるものだということを実際の経験で証明している。これについてはもう議論の余地はないのだ。実地に示されたのだ。
人々が読んだいちばん偉い著者の一人が言ってるのに、昔、二人連れの男が信心で巡礼に出かけた、そしてある町へ着いたのだが、人が多いのに宿屋が少なくて二人が一緒に泊まる家は一軒もない。そこで、二人はその晩はどうしても別々に泊まらなければならなくなり、めいめい行き当たりばったりどこでもかまわず宿をとったのだ。一人は遠く離れた屋敷の中の牛舎で百姓牛と一緒に寝た。ところが、われわれすべての者を支配する運命の女神の常で、もう一人はまったく立派な家に泊まった。すると夜明けにまだ間があり、寝床の中で横になっていた時、この男が夢を見た、それは連れが彼のところへやって来て、『ああ、悲しい、おれは今夜牛小屋で殺されるのだ。どうか、兄弟、おれを助けてくれ、急いでおれのところへ来ておくれ』と言っている夢をみた。この男はびっくりして眼が覚めたが、夢だと思って、また寝返りを打ち、なんの気なしにまた眠った。こうして彼はまた眠ると同じ夢を二度見た。そして三度目の夢に彼の連れはまた彼のところへやって来て、こう言っているように思えた。『おれはいま殺された。おれのこの深い大きな血だらけの傷を見てくれ、夜が明けたら早く起きてみてくれ。そうすれば、おまえは町の西門で肥料《こやし》車に会うだろう。その中におれの死体が隠されているのだ。その車を思いきって止めてくれ。ほんとうにおれの持ち金がもとで、おれは殺されてしまったのだ』と、彼はまっさおな、見るも哀れな顔つきで彼の殺された仔細を語ったのだ。
これは実話なんだ。この連れは夢が正夢であったことがわかった。というのはあくる朝早くに、彼は連れの宿へ急いでいって、牛舎へ着くと、彼は連れの名を呼びつづけた。するとすぐ宿の亭主が出てきて言った。
『旦那、お連れはもうお発ちですぜ。あの方は夜が明けるとすぐに町を出て行かれましたよ』と答えた。
この男は自分の見た夢を思い出し、疑わしくなってきたので、早速、西門へかけていってみた。すると、どうだい、死人の言葉どおり、肥料車がちょうど畑に肥料《こやし》をやろうとしているところだったので、彼はむっとして、あたりかまわずこの殺人事件をあばいて仇をとってやろうと思って、叫んだ。
『おれの連れは今朝殺されて、この車の中で、あおむけにされて口をあけて倒れているのだ、おれはこの町の奉行のところに申し出るぞ。助けてくれ、おれの連れがのびているのだ』
そういうわけで、それから人が出て来て、車を投げ倒した。するとどうだ、肥料《こやし》の中からいま殺されたばかりの死体が出て来た。神様はいつもよくみてござる。ええ、神様はいつも人殺しをお明かしになるものじゃ。
悪事はかならず露見するものだ。それは日頃知ってることだ。正義と道理の神は人殺しをいたく憎み、嫌うものだから、それを隠しおおせるものじゃない。たとえ、一年か二年、三年は隠しとおせても、いつかはかならずばれるものだよ。
そこですぐにお奉行様は車曳きを捕えて、きついこらしめを与え、宿の亭主のほうは拷問台にかけたところが、両人ともすぐに罪を白状したので、首を絞められた。
これでも夢というものは恐るべきことがわかるだろう。また確かに、その同じ書物で、しかもそのすぐつぎの章で(ぼくは嘘は言わぬよ、極楽往生がしたいから)読んだのだが、それは、商用で海を渡って遠国へ旅をしようとした二人の男があった。ところがあいにくと逆風が吹いたために、港近くの住み心地のよい町で逗留しなければならなかった。するとある日の夕刻、風向きが変わって、望みどおりに吹くようになった。二人は喜んで翌朝早くに船出をするつもりで床にはいった。すると、ここで一方の男が体を横にすると、不思議きわまることが起こった。彼は朝方になって、不思議な夢をみた。それは一人の男が枕辺に立って、出立を少し待てというように思えた。そして『おまえはもし明朝発てば、溺死をするぞ、わしはかくのみ申す』と言った。彼は眼をさますと、連れに夢の話をして、今日旅をするのはやめてくれと頼んだ。そばに寝ていた連れは笑い出し、彼をひどくののしった。『わしは商売を思いとどまるほど、夢などに驚きはしない。わしはあんたの夢などはどうでもいい。夢なんてえものはなんでもありはしねえ、ごまさしさ。人間は絶えずふくろうとか猿とかいろいろ見当のつかないようなことを夢に見たり、また今までにもなかったような、またこれからもありえないようなものも夢に見る。しかしあんたはこんなところに逗留して、みすみす好い機会をふいにするつもりらしいが、残念なことだ。それじゃ、さようなら』
こう言って、彼は別れを告げ去っていった。しかし、彼が船で半分も行かぬうちに、どうしたことか、またどんな災難が起こったのか知らないけれど、不意に船底が裂け、船も人ももろともに海の藻屑となったのだ。これはちょうどその時、すぐそばを通りあわせた他の船から見えたことなのだ。だからペルトロットさん、このような古い実話でわかることだが、夢というものはあまり軽々しく考えないことだ。たいていの夢はこわいものだ。馬鹿にはできねえ。
そら、ぼくはメルシア国の気高い王ケヌルフスの王子、聖ケネルムの伝記の中で読んだのだが、ケネルムは自分が殺される少し前、ある日のこと、自分が殺されるのを夢でみた。乳母はこの夢をすっかりみな判じて、大逆に注意されるように申し上げたのだけれど、なにせ、その時はケネルムはやっと七歳であったので、まだあどけなく無邪気だったから、夢などには注意されなかった。そこでだ、もしきみもぼくと同じようにあの聖者の伝記を読んでいたのならよかったのに。ペルトロット、なんだぜ、あのアフリカのスキピオの夢のことを書いたマクロビュウスという人は、ちゃんと夢の価値を認めて、夢は人間があとでわかることを先に教えてくれるものだと言っているのだよ。
それからまた、旧約聖書の中でダニエルが夢をくだらぬものだとされているかどうか、ようく見てもらいたい。それからまたヨセフのことも読んでもらいたい。そうすれば、きみも夢というものが時には(いつもとは言わない)未来のことのお告げであることがわかるよ。つぎにエジプト王ファラオとそのパン屋と執事の話もある。この人たちが夢の効果を感じなかったかどうか見てごらん。種々の国の年代記をひもとけば、誰でもその国のさまざまな不思議な出来事を読むことができるのだ。リディアの王であったクレーソスをごらんよ。彼は樹の上にいた夢を見たが、それは絞架に吊られることを示したものであったでしょう。それからヘクターの妻のアンドロマケを見てごらん。彼女はヘクターがもしこの日に出陣すれば、命を落すことになるという夢を、ちょうどその前夜に見た。彼女は彼に忠告をしたけれど、それは無益であった。彼は戦さに出てすぐにアキレスに斃《たお》された。この話は話しきれないほど長いものだ。もうすぐ夜が明けるし、ぐずぐずはしていられない。要するに、きっと、ぼくたちはこんな夢を見たからには、いずれ不運な目にあうだろうということだ。それから、もう一つ言っておくけれど、ぼくはどうしても通じ薬などを大事とは思えない。ああいう草はみな毒なのだ。あんなものはごめんだ、第一、ぼくはあまり好かんよ。
それでは、こんな話はよしてひとつ面白い話をしよう。まずペルトロット、ぼくはいつも神に幸福になることをお願いしているので、神は非常なお恵みをぼくに垂れてくださっている。というわけは、おまえの顔の美しさ、おまえの眼のまわりのまっ赤なところを見ていると、ぼくはどんな心配があってもどこかへ吹き飛んでしまう。『ムリエル・エスト・ホミニス・コンフュージョー』(女は男を乱すもの)という言葉は不抜の真理だよ。
ねえ、きみ、このラテン語の意味は、女というものは男の喜びであり、男の幸福だということだよ。たとえば、夜にわたしがおまえの柔かな横腹にふれると、残念ながら、このとまり木が狭いため上がれないけれど、わたしはもう嬉しくて、夢もまぼろしもあったもんじゃねえ」
そう言って、彼はたるきから跳びおり、つづいて雌鶏たちも跳びおりた。もう朝だった。そして彼はコッコと啼いて、雌鶏たちをみな呼びはじめた。彼は庭に穀粒がころがっているのを見つけたからだ。彼は堂々として、何も恐れるものはなかった。彼は九時まえに何度となくペルトロットを羽でおおい、そのたびごとにつがった。彼の姿は威高き獅子のように、爪さきであちこちと歩き廻り、脚をけっして地につけようとはしなかった。彼は穀粒を見つけるとコッコと啼き、妻たちは彼のまわりに走り寄ってゆくのであった。そんなふうにして、広間に出御あられた殿様のように、威風堂々たるこのチャンテクレールは草場にいたが、ここで彼の身に降りかかる事件が起こったのだ。
天地創造の起こった月、つまり神がはじめて人間を創り給うた弥生月がはじまってから三十二日目のこと、七人の妻を引きつれて歩いていた得意絶頂のチャンテクレールは、ふとその眼を輝ける太陽に向けた。それはちょうど、牡牛座を二十一度と少しのところを走っていた。彼はなんの学問にもよらず、生れながらの知識で、時は九時であることがわかり、喜びの声をあげて啼いた。
「日は天に高く、すでに四十一度あまりに昇った。わが世の歓び、ペルトロットよ。喜びの鳥どものうたうを聞け、新しき花の咲きいづるを見よ。わが心は歓びと楽しみに充つ」
ところがここに悲しい事件が起こった。いつも喜びの終りは悲しみだ。この世の歓びはたちまちに消え去るものだ。文をよくする修辞学者なら、これを深遠な真理として歴史に書き残すことであろう。さて賢明なみなさん、わしの申すことに耳をかしたまえ。わしは断言してはばからぬ、この話はかの婦女子がいたく尊ぶ『湖上のランスロットの物語』とひとしく真実を伝えるものだ。さて、話はまえに戻る。
ちょうど昨夜のこと、このあたりの森に三年この方住んでいた悪賢い黒狐は、神の先見の明によって、生垣を破ってはいり、美丈夫チャンテクレールが妻たちとよく出かけてゆく庭の中へもぐりこみ、チャンテクレールと落ちあう時刻を待っていた。そして九時過ぎまで、野菜畑にじっと身を伏せていた。あたかも、人殺しが人を殺そうと待ち伏せているよう大いに勇んでいた。ああ、巣窟にひそむ殺人犯だ。キリストを裏切った新たなイスカリオット、シャーレマン大帝を裏切った新たなガネロンだ、トロイを破滅におとしいれたギリシャの白ばっくれ者のシノンだ。
おお、チャンテクレールよ、おまえがたるきから庭へおりた朝こそねたましい。その日はおまえにとっては危険な日だということをおまえは夢で警告されていたのだ。ある学者の言うところに従えば、神が予見せしことはかならずや起こるものだと言われている。まあこの問題については神学者のあいだでも大いに異論があり、大いに議論されていることでもあるし、また幾万の人々がいつも問題としてきたのだ。このことは立派な学者なら誰も知ってる問題だ。しかし神はかならずやその先見のとおりに人間をふるまわしめるものか(わしがかならずやと申すのは絶対に宿命の意味だが)、もちろん、神は人間よりも先に人間のなすことについてはご存じであるものだが、それとも人間は一つのふるまいをなそうとかなすまいとか、自由に選び得るものであろうか、あるいはまた、神の先見が定めるところは条件づきの宿命であろうか、こういう問題の真相は、かの聖オーガスチン博士やボエーチュウスやブラッドワルデイン(一三二五年頃のオックスフォルド大学神学教授)なら知っていられるだろうが、わしにはよくわからない。まあわしのようなものがとやかく申す必要もござるまい。わしの話は、みなさんのお聞きのとおり、雄鶏の話だ、あの夢を見た朝、妻の意見をきいて雄鶏が庭を歩いたのが失敗のもとであったのだ。ところが女の意見というものはたびたび不幸をまねくのだ。人間に最初、悲劇をもたらしたものは女の言葉であった。それがアダムを、あの安らかに楽しく暮らしていた楽園から追い出させたのだ。しかし、わしが女の意見はきくものではないと悪口を言うと、どなたかのご機嫌を損じるかもしれないから、これは冗談に言ったものとして気にかけないでください。かようなことについては学者どもがいろいろ書いているから、それをお読みになれば、彼らがいかように女のことを申しおるかがおわかりになるでしょう。これは単に雄鶏の言葉をわしがかわって申したので、わしの言葉ではないのだ。わしはご婦人の悪口を言おうなどとは毛頭考えてはおりませぬ。
さて、ペルトロットは姉妹とともに日なたぼっこをしていた。チャンテクレールは海で人魚がうたうよりもほがらかに楽しそうな歌をうたっていた。人魚は動物考の書にもちゃんとたくみに楽しくうたうものと書いてある。
やがて雄鶏はふと彼が畑の中を飛びかよう蝶々に眼を向けたその瞬間、彼は隠れていたあの狐を見つけた。彼は啼き声をあげるつもりはなかったのだが思わずコッコと叫んで、びっくりした人間のように飛び上がってしまった。と申すわけは、この鶏ははじめて狐を見たのだけれど、動物というものはやはり生れながらにして、前世からの敵を見ると逃げようとするものだ。このチャンテクレールもやはり狐に気がついたせつな、逃げようとしたのであったが、狐はすぐにこう言った。
「まあだんな、雄鶏さん、あなたはどこへお出でになろうとなさるのか。あなたはこのわしをこわがられるのかね、ぼくはあなたの友達なんです。そりゃ、ぼくがあなたに危害を加えようとか、恥をかかせようとかするならば、なるほどそりゃあ、鬼よりこわいと言われてもしようがないが、実のところ、ぼくがここへまいったわけは、あなたの秘密を探りに来たのではなく、あなたの歌を聴きにまいったんですよ。ほんとうにあなたはあの天国の天使にも劣らぬよい声の持主だ。そしてボエーチュウスよりも、またどんな歌手よりも音楽には良い勘をお持ちだよ。それから、ぼくはたいへん嬉しかったのだが、あなたの亡くなられた父上も、また母上もご丁寧にぼくのところへおいでくださったことがある。ひとつあなたにもごひいきに願いたいものです。ところで歌の話になるとわしは確信をもって言えるのだが、あなたの父上が朝方うたわれたように上手にうたえる者はあなた以外にはないのです。確かに、父上の歌は心がこもっていた。あのお方は高い声を出そうとされる時などは、両眼をつぶられて一所懸命うたわれたものです。そして爪先で立ち、長い細い首を伸ばして大声を張り上げられたものです。そのうえ、父上はとても思慮深い方でいらしったので、どこの地方でも歌と知恵の点では父上をしのぐ者は他におらなかったぐらいでした。ぼくは『驢馬のブルネル』という詩の中でこんなことを読んだことがある。それは昔ある僧の息子がまだ若くて見境いのない頃に雄鶏の脚をなぐったために、僧の聖職をうしなったという話である。(その鶏はその息子が僧職の就任式の日にときをつくらなかったので時間におくれて僧職につけなかったという。鶏の仇とりの話)しかし、確かにあなたの父上の知恵と思慮、それから賢明の点では並ぶ者はおらなかった。さあひとつ、うたってみてください。後生だから。さあ、父上ほどゆけますかな」
するとこのチャンテクレールは羽ばたきをした。彼は詐欺を見抜くことができなかった。それほど彼は甘言で有頂天になっていた。しかし、悲しいかな、みなさん。王侯の宮廷には真実を話す人よりは、殿様を喜ばせる偽れるへつらい者や幇間《ほうかん》が大勢いるのだ。伝道之書の中にあるへつらいをお読みなさい、そしてその裏切り行為に注意なさい。
チャンテクレールはすぐに爪先でのび上がり、首を伸ばし、眼を閉じ、朝の祈祷のために大声で啼いた。すると狐のルッセルはすぐに跳びつき、チャンテクレールののどをとらえて、背にしょって森へと立ち去った。なにせまだ彼を追う人が出ていなかった頃であったからね。
おお、まぬかれがたき運命よ、ああ、チャンテクレールはたるきより跳び下りてしまったのだ。妻は夢に用心しなかったのだ。しかもこの不幸はすべて金曜日の出来事だ。おお、快楽の女神なるヴィーナスよ、このチャンテクレールはあなたに仕える忠僕であって、生物の数をふやすためよりも快楽のために全力をつくしてあなたに仕えた者なのに、なぜあなたの日(金曜)を選び、彼を殺そうとなさったか。
おお、大詩人ガウフレッドは、尊き王リチャード一世が金曜日に射殺された時、その死をいたくいたんで詩を書いたが、わしにもこの詩人のように、金曜日を責める言葉や知識をもちたいものだ。(リチャードが殺されたのは実に金曜日であった。)
さて、つぎにわしはこのチャンテクレールの懊悩をいかにとむらったらよいか、ひとつやってみよう。エーネアス物語にあるように、かのイリオンが落ち、ピルスがプリアム王のひげをとらえ、抜き身で斬り殺した時、女子供があげた哀哭の叫びも、ここの庭の雌鶏どもがチャンテクレールのこの姿を見た時にあげた叫び声ほどではなかったものだ。とくに、ペルトロット夫人の泣き声は激しかった。それはまたローマ人がカルタゴを炎上させ、ハスドルバールが死んだ時、その妻は苦しみもがいて、みずから火の中に飛びこみ、平然として焼け死んだ、その泣き叫んだ声よりも、ペルトロットの鳴き声は高く響いた。
ああ、雌鶏らはネロがローマの市を燃やし、罪もない元老らを殺した時、彼らの妻女のように泣いて悲しんだのだ。
さて、また話の本筋にかえるとしよう。その気の毒な寡婦と二人の娘はこの雌鶏たちが泣きわめくのを聞き、すぐに戸の外に跳び出すと、狐が雄鶏を背負って森のほうへ駆けてゆくのを見て、「出て来ておくれ、助けてえ」と叫んで、母子は狐の跡を追った。それから他の者たちも棍棒を持ってつづいた。犬の連中は、八公も熊公もかけ出し、マルキンは手に糸巻を持ったままで走った。それから牡牛も犢《こうし》も豚までもが、犬の吠え声、男女の叫び声に驚いて走った。みんなは心臓が破れはしまいかと思われるまで走り、地獄の鬼どものようにうそぶいた。あひるは絞め殺されでもするようにガアーガアーと鳴き、鵞鳥は驚いて樹のてっぺんまで飛び上がり、蜜蜂の群れは巣から飛び出し、いやはや、その騒ぎときたら大変だった。(一三八一年に)ジャック・ストロウとその仲間がフランドル人を虐殺した時でも、この日の狐追いの騒ぎに及ばなかった。彼らは、真鍮のらっぱやつげの木の笛や角笛をブーブーならし、叫ぶやら、騒ぐやら、そのために天が落ちてくるような騒ぎであった。
さて、みなさん方、どうかお聞きください。いかに運命の女神がにわかに敵の願いと誇りをくつがえすかごらんなさい。狐の背中におった雄鶏はおそるおそる狐に話しかけた。
「もしもし、狐さん、もしわたしがあなたでしたら、天地神明に誓って、こう言いますよ。『おい、生意気な下司どもめ、引き返せ。畜生め! おれはあの森の縁《へり》に着けば、おまえらがなんと思っても、この雄鶏はそこからにがさないぞ。それからすぐに、おれさまが召し上がるのだ』と言いますよ」
狐は答えた。
「おお、そらそうだ、そうしよう」
狐がこの言葉を口にするや、間髪を入れず、鶏は狐の口を振り切って、樹の上に飛び上がった。狐は彼が飛び去ったのを見て、こう言った。
「ああ、チャンテクレール、ぼくはおまえさんを驚かしてすまないことをした。おまえさんをとらえて庭から連れ出したりして。だが、ぼくは悪気があったわけではなかったのだ。降りておいでよ、そうすればぼくの本当のはらを言ってやるよ。天地神明に誓って、ぼくは本心を言うよ」
雄鶏は言った。
「いや、いや、わたしはこのわたしら両人を呪うてやる。もしおまえが一度ならずこのわたしを欺くならば、まず第一にこのわたしを、血も骨も呪うてくれる。おまえはもういくら甘い口を叩いても、このわたしをうたわしたり、眼をつぶらせたりすることはできぬぞ。眼を開いているべき時に、わざわざ眼をつぶるようなものは、神はけっして仕合せを与えてはくださらない」
すると狐は言った。
「いいや、だまっているべき時に、べらべらしゃべるような軽率なやつには神様は禍いをくだされるぞ」
それごらん、うかつで思慮がなく、おだてにのると、そんなことになる。
だが、この話をただ狐と雄鶏と雌鶏のくだらぬ話だと思し召す方々は、どうかこの寓意をおくみください。聖パウロも申されるように、書かれてあるものはみなことごとく、わしらを教える教理のために書かれてあるのだ。どうか、実だけ取り、皮は捨ておいてください。善なる神よ、もしそれがご意志なれば、われらが主の申せるごとく、われらすべての者を善き人たらしめ、われらを高きさいわいに導きたまえ。アーメン。
結語
亭主はさっそく言った。
「お坊さん、あんたのズボンも石もみんな祝福されるのだ。このチャンテクレールの話は面白い話だった。だが実際のところ、あんたが俗人だったら、すばらしい雄鶏なんですよ。というのは、精力があるように勇気があれば、察するに十七の七倍ほどの雌鶏が必要なんでしょう。
ごらん、この立派な坊さんはなんと逞しい筋肉なんだろう。あんな太い首とあんな広い胸だ。
眼つきなどは、はいたかのようだし、顔色の赤味などは、インドやポルトガルから染料を輸入する必要がないほどだ。
坊さん、あんたの話はありがたかった」
そう言って、また元気よく、他の人に話を頼んだ。
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第二の尼の話
第二の尼の話 前口上
悪徳を導き悪徳を養うものを英語では「怠惰」という。怠惰へ行く門の番人は奢侈を好む。そういう怠惰を避けるためには、また怠惰を制するには、それと反対な行為勤勉をもっておさえなければならないのです。
人間は怠惰であると悪魔に捕えられるのですから、怠惰にならないように努力しなければなりません。
悪魔はいろいろの巧妙なわなを使って、絶えず人間を捕えようとしているのです。もし人間が怠けるとたやすく、悪魔のわなにかかってしまうのです。うっかりすると、着物のはじをつかまれてからようやく悪魔に捕えられたことがわかるのです。人はよく働いて怠惰に対抗しなければなりません。
人間は死を恐れないとしても、怠惰は恐るべきものです。よく人も知るように怠惰は破滅の安逸であって、怠けては、けっして永遠の幸福をますものではありません。また、安逸は怠け者をわなにかけて惰眠をむさぼらせ、飲み食いに耽らせ、他人が汗を流してつくったものを、みなむさぼり食わせるのです。
聖セシリヤよ。乙女の殉教者よ。薔薇と白百合でつくられた花たばをおもちになっている聖セシリヤよ。わたしたちが人間の最大な破滅のもと怠惰におちいらないように、わたしはここに、聖者の伝記から、あなたの輝かしい苦難の一生を翻訳して、わたしの勤めをはたしたいのです。
聖母マリヤへの祈願
あなたは処女の花であります。聖ベルナルドはあなたを信仰し、あなたをよく讃美しておられます。わたしはまず、あなたに祈願をささげるのです。
わたしたちの不幸なことを慰めて下さいませ。殉死により永遠の生命をかち得て、悪魔を征服した、あの乙女の殉教者の伝記をわたしに書かせていただきたいのです。
あなたは乙女であり、あなたの御子キリストの母であり娘であります。あなたは慈悲の泉であり、罪ある霊がそれで清められるのです。キリストはその清められた霊を救って下さるのです。
謙譲なあなたは、すべての生物の上に高くおかれていられます。そして人間の自然の性質を気高く向上させて下さいましたので、造物主は自然というものを軽蔑されず、キリストを人間のように肉と血にお包みになったのです。
御身体の有難いお堂の中で永遠の愛と平和とが人間の形となってお生れになった。その方は地、海、天が絶えず礼讃する三界の王者であられます。
あなたは無垢の処女であられます。あなたの御身体に造物主を宿されたが清浄な処女としておられました。
あなたの中に、あらゆる威光が集められています。慈悲あり、仁徳あり、憐れみがあるのです。あなたは美しい太陽のようなものです。あなたはあなたにお助けを乞う人ばかりをお助け下さるのみならず、お助けを願わない者に対しても、お自《みずか》ら、慈悲深く、お救いなさるのです。あなたは霊の医者であられます。
お救い下さい、やさしい美しい乙女ごよ、この苦痛の荒野に追放された不幸者のわたしを、お救い下さい。
「小狗も主人の食卓よりおつる食屑を食うなり」と言ったカナンの女のことをお考え下さい。わたしはエバの価値ない子孫で、罪ふかい者でありますが、わたしの信仰をお許し下さい。信仰は働かずしてはないも同然であります。あなたがもしわたしに智恵と機会をお与え下さるなら、働いて、暗闇の中から救われたいのです。
あなたは麗しい情け深いかたであられます。絶えず神の讃歌が唄われている天国からわたしをお守り下さい。キリストの母君、アンナの娘よ。
わたしの汚い肉体や、世の煩悩の重荷や、虚偽の情愛などで悩まされるわたしの捕われた霊魂を、あなたの光で照らして下さい。悲しみにもがく人たちにとって、あなたは救いの避難所であられます。
さて、お助けを願いたいのです。これから創作をつくりたいと思うのです。
わたしの読者にお願いがあるのです。この物語はわたしが努力して作ったものではありません。すでに、この聖女の信仰のために作った人(ヤコブス・ヤヌエンシス)の文章もありますし、また『黄金の聖者伝』の中に出ているこの聖女の物語をわたしは手本としたのですから、その点はお許しを願いたいのです。間違いがありましたら叱正していただきます。
まずセシリヤという名前について説明したいと思います。その伝記にいろいろと言われていますが、セシリヤという言葉を英語で言いますと「天の白百合」ということで、清浄無垢の処女ということをたとえたのです。または、その「白」は真実を表わし、茎の「みどり」は良心を表わし、その「香り」は名声を表わしています。そうした「百合」がその聖女の名前であったのです。
また一方では、セシリヤという言葉は「盲人のための道しるべ」という意味があります。それはこの聖女は人をよく教えたからだといわれています。
或いはまた、他の書物には、「天」と「活動」という言葉を二つくっつけた語であるとも言われています。すなわち「天」は神聖を意味し、「活動」はこの聖女の宗教上の仕事を意味したのです。
またこんなふうにも言われます。この聖女の智恵の偉大な光明のため、その清らかな徳性のために、盲目がなくなることを意味するとも考えられます。
或いはまた、この輝かしい名は「天」と「人民」とが結合したものだとも考えられます。すなわち「人民の天」ということになり、この聖女が人民のために美徳の鏡となったことを意味するのです。ちょうど人が天に日月星をみるように、信心家はこの美しい乙女の中に、偉大な信仰や清純の智恵やその他神々しい業績などがみられるというのです。また哲学者が言うのには、天が円滑に廻転し、燃えているように、白い美しいセシリヤは神聖な仕事に活躍し、よく苦痛に耐え、円満であり、慈善の心に燃え輝いていたのです。
これでセシリヤの名が何を意味するか説明したのです。
第二の尼の話
この美しい乙女セシリヤはその伝が伝えるように、ローマ人より出で、また身分の高い一族の者でありました。そして赤子の時からキリストの信仰のうちに育てられ、心にその福音書がきざみこまれておりました。そして本にも見えるように、その処女の身を守護し給えと神に求めて、たえて祈りを忘れることとてもなく、また神を愛し畏れておりました。
そしてこの乙女が、ヴァレリアンというまことに若々しい男に嫁ぐことになり、婚礼の日がやって参りました時、彼女はこの上なくつつましく、やさしい心映えで、美しくその身を包んだ黄金の着衣の下に、毛の肌着をひたと着けました。
そしてオルガンが麗しい曲を奏でた時、ただ神にのみ心の中でこう唄いました。「おお主よ、わが心もわが身をもともに、清らかに保ち給え」と。そして十字架につかれた救世主の愛のために、一心不乱に祈りながら、一日おきに、または二日おきに断食をしたのです。
その夜が来ました。そして慣例に従って、ぜひなくその夫とともに臥所《ふしど》にはいりました。するとすぐに彼女は声をひそめて、その夫に申しました。
「おお愛する君よ、おきき下さい。秘密がございます。しかしけっして私をお裏切りなさいませんようお誓い下さいませ」
ヴァレリアンは、厳かに、どんな理由でも、またどんなことであろうとも、けっして裏切ることはないと誓いました。その時はじめて彼女は彼に申しました。
「私には、私を愛し、私が寝ても醒めても、いつも大きな愛で、私の身を護って下さることのできる天使がついております。で、もしあなたが私の身体に触れたり、私をいやしいお気持でお愛しになるのを彼が見ましたら、彼は必ずあなたをたちどころに殺すことでしょう。そしてあなたはこんなに若くて死んで行かれなければなりません。またもしあなたが、清らかな愛情で私を守って下さるなら、彼はちょうど彼が私を愛して下さいますように、あなたの純潔さのために、あなたを愛しますことでしょう。そして彼のよろこびと彼の光り輝く美しさを、あなたにお示しになることでしょう」
ヴァレリアンは神のみ心のままに煩悩を去って、再び答えました。
「もしあなたのいうことを私に信じさせようとするのなら、その天使を私に見せて下さい。そして、それが本当の天使なら、私はあなたが望んだようにしましょう。そしてもしそれがあなたの愛人なら、その男とあなたとの二人を必ずやこの剣で刺し殺しましょう」
セシリヤはすぐにこう答えました。
「お望みならその天使をお見せいたしましょう。ですからキリストを信じ、洗礼をお受けなさい。この町から三マイルしか離れていない、ヴィア・アピアへおいで下さい。そしてそこに住む貧しい人たちに、私の言うとおりのことをおっしゃるのです。彼らにこういうのです。『私セシリヤが秘密な用事のためにあなたを法王ウルバンにお見せするためにおつれするように、そこへお遣わししたのだ』と。そしてあなたが聖ウルバンにお会いになりましたら、私があなたにお話ししたとおり法王にお伝え下さい。そして彼があなたを洗礼して下さいましたら、あなたはすぐそこで、その天使にお会いなさるようにいたしましょう」
ヴァレリアンはその場所に行きました。そして話のとおりに、この聖なる老ウルバンが聖者の墓地の中にひそんでいるのを見つけました。そしてそこで彼は直ちに彼の言伝てをいたしました。彼が話し終るとウルバンは、欣《よろこ》んで双手を挙げました。そして両の眼から涙を落して申しました。
「おお全能の神、イエス・キリスト、高潔なる意志を蒔く者、われわれみなの牧者よ、御身がセシリヤのうちに蒔き給いたる淑徳の種子より出来たる実をとらせ給え。見よ、欺くことなく、忙しき蜂のごとく、御身の奴隷セシリヤはつねに御身に仕う。全その嫁ぎたる、荒き獅子のごとき夫を、柔和なる小羊のごとく御身に送り来たる」と。
するとその言葉とともに白いきらきらした衣服を身にまとった一人の老人が、その手に金の文字で書いた本を持って姿を現わしました。そしてそれを見て驚きのあまり死んだように倒れたヴァレリアンの前に立ちました。それから、その老人は彼を抱き起し、その本から次のように読みました。「一人の上帝、一つの信仰、一つの洗礼、すべてのものの上に、すべてのところに君臨するただ一人の神にして、すべての者の父」と、これらの言葉は皆金文字で書かれておりました。
そう読み上げてから、この老人は申しました。
「汝このことを信ずるや否や。否か応かを答えよ」
ヴァレリアンは言いました。
「私はすべてのことを信じます。と申しますのは、この世の中のいかなる人も、これより誠のことを考えることはできませんから」
するとその老人の姿は見えなくなりました。どこへ消えたかヴァレリアンにはわかりませんでした。そして法王ウルバンはその場所で彼に洗礼を施しました。
ヴァレリアンは家に帰り、彼の部屋にセシリヤが一人の天使と立っているのを見ました。この天使は手に、百合と薔薇の二つの冠を持っていました。そして私が読んだところによれば、最初にその一つをセシリヤに与えました。そして次に他の一つを、その夫ヴァレリアンに与えました。天使は申しました。
「これらの冠をつねに清き身と汚れなき心もて護れ。余はおまえたちのために、これらの冠を天国から持ちきたったのである。これらの冠はけっして萎れることはない。余を信ぜよ、さもなくば、その香りは失せるであろう。またなんぴとにも、彼が清らかで汚れあるものをにくむのでなければ、それらの冠はその眼には見えまい。そしてヴァレリアンよ、おまえはかくも速やかに天意を容れたのだから、おまえの望むところを言うがよい。そうしたらその願いをかなわせてあげよう」
ヴァレリアンは答えました。「私には一人の弟がございます。そしてこの世の中で彼ほど可愛いものはございません。お願いですから、ここで私が与えられましたように、弟にも真実を知る美徳をお与え下さい」
天使は申しました。「おまえの望みは神の御心にそうものだ。お前たち二人を殉教の勝利を示す棕櫚の葉をつけて、神の尊き祝宴につらならせてあげよう」
するとこれらの言葉をきいて、彼の弟ティブルスがやって参りました。そして彼が百合と薔薇の放つ芳香をかいだ時、心のうちで大変不思議がりました。そして言いました。
「私ににおう百合と薔薇の香りは、いったいこの季節にどこからにおって来るのでしょう。私の両の手にその花を持っていたとしても、その香りはこれほど深く私のうちにしみこんでは来ますまい。私の心のうちに感じるこのよい香りは、私を別な私に変えてしまいました」
ヴァレリアンは言いました。
「私たちはおまえの眼には見えないが、雪の白さと薔薇の紅《くれない》に輝きわたる二つの冠をもっています。そして私の祈りを通して、おまえがその香りをかぐように、弟よ、もし怠ることなくおまえが誤りなく正しく信じ、そして真の信仰を知るならば、それらの冠を見せて上げよう」
ティブルスは答えました。
「あなたはこのことを本当に間違いなく私に言っているのでしょうか、それとも自分は夢できいているのでしょうか」
ヴァレリアンは言いました。
「弟よ、今日という今日まで私たちはたしかに夢を見て過して来たのです。しかし今は、まず私たちの住む処も現実のものです」
「どうしてあなたには、このことがわかるのですか、ほんとうにどのようにして」とティブルスは尋ねました。ヴァレリアンは答えて、
「それを話しましょう。神の天使がその真実を私に教えてくれたのです。もしお前が邪神と縁を切って清浄なものになれば、その天使に会わせてあげよう。他のことでは駄目です」
――そして二つの冠の奇蹟について聖アンブローズは、彼の序言でお話し下さっています。この気高い最愛の博士はそれを祝って、こう言っています。すなわち、殉教の棕櫚の葉を受け、聖セシリヤは神の賜に満たされ、この世を捨て、結婚の閨《ねや》までも棄てた。このことについてはヴァレリアンとティブルスの信仰の告白が証明している。神はその恩恵により香り高き二つの花の冠をこの二人に賜わり、天使の手からそれを彼らに下さったのです。
その乙女はこれらの人々を天上の幸福に導いたのです。清浄な献身的な生活を愛することは、いかに価値高きものであるかをこの世の人はみな知っているのです。――
その時セシリヤは、はっきりした誰にもわかる言葉で、すべての邪神は唖でありまた聾であるのだから、空しいものに過ぎないことをティブルスに示した。そして彼女は彼にその邪神を捨てるように申しつけました。
「このことを信じない者は誰にせよ野獣なのだ」とティブルスは申しました。すると彼女はこれを聞いて、はじめて彼の胸に接吻して、彼がその真実をよく知ることができたことを非常によろこびました。
「私は今日からあなたを私の味方にいたします」とこの最愛の祝福された美しい乙女は申しました。そして言うのに「御覧なさい、キリストの愛は私をあなたの兄の妻としましたが、同じように、ここに私はあなたをこれから私の味方にいたします。それはあなたがあなたの邪神をおさげすみになるからです。今あなたの兄上とともに行きなさい。そしてあなたの兄上がお話しした天使の顔を見ることができますよう、洗礼を受け、身を清浄にしなさい」
ティブルスは答えて申しました。「兄上、まず行く先を、そしてまた誰の処へ行くのですか教えて下さい」
ヴァレリアンは申しました。「誰の処へだと? さあ元気に私はお前をウルバン法王の処へ連れて行こう」
ティブルスは言いました。「ウルバンの処へ? 兄さんあなたは私をそこへお連れなさるんですか。不思議なことだと思います。これまでたびたび死刑を申し渡され、ここかしこの隅っこに身をかくし、一度も姿を人にみせないあのウルバンのことではないんですか。もし彼が見つけられたら、或いはもし人々が彼を探し出したら、彼らは彼を赤い赤い火で焼くことでしょう。そして私たちまで彼の道連れにすることでしょう。秘かに天にかくされている上帝を私たちが求めている間は、いずれにせよ、私たちはこの世の中で焚《た》かれることでしょう」
それにたいしてセシリヤは大胆に答えました。
「弟よ、もしこの生命《いのち》が唯一の生命で、他に生命がないものなら、人々がこの生命を失うことを恐れるのも無理なく当然のことでしょう。しかし恐れてはいけません。どこかよそにけっして失われることのない、もっと優れた生命があるということを、神の御子がご慈悲によってお話しになっています。その神の御子はすべてをお造りになりました。そしてすべては、優れた御心により造られました。神から発した聖霊は、うたがいもなくキリストの御心に宿っています。言葉と奇蹟により、神の御子はこの世に在りました時、人々が住まうことのできる、もう一つの生命があることを宣しました」
それにティブルスは答えました。「姉上よ、あなたは今この世には真実の神は一人しかないとおっしゃいましたけど、三つのことについて証言することができますか」
彼女は申しました。「それはすぐにお話し申しましょう。人でさえも三つの能力すなわち記憶、想像、理知をもっていますように、神には当然三つの神人格があり得ましょう」と。
そこで彼女は熱心にキリストの到来について語りきかせ、キリストの苦難を教え、神の御子が罪と労苦の中に生きる人類を救済するために、この世にとどまられた有様をすべて、ティブルスに説いてきかせたのでした。
そしてこの後で、ティブルスはヴァレリアンとともにウルバン法王のところへ行きました。法王は神に感謝し、快く喜んで彼に洗礼を与え、完全な知識を授け、彼を神の勇士《ナイト》といたしました。このことあって後、ティブルスは毎日いついかなる時にも神の天使を見ることができるように神の恵みを得ました。そして神に祈れば、何事も直ちに叶えられましたのです。
イエスが彼らのために示されました奇蹟の数々を、順よく申し述べますことは、まことにむずかしいことでございましょう。しかしまあ、かいつまんでお話しすれば、ローマの町の役人たちは彼らをやっと探し出し、地方長官アルマキウスの前に連れて行ったのです。すると彼は彼らを訊問し、彼らの心を知りました。そこで、彼らをジューピテルの神像の前に送り、そして長官は申しました。
「この神を拝まない者は、誰あろうと打ち首にする。これがわしの宣告じゃ」と。
直ちに長官付の役人で、その秘書をつとめているマクシムスという男が、この殉教者たちを引っ捕えました。そして彼がこの聖者たちを連れ去ります時、彼らを憐れんで彼自身涙しました。そして彼が聖者たちの教えをきいた時、死刑執行吏たちの許しを得て、彼らをすぐに彼の家に連れて行きました。そして日がまだ暮れきらないうちに、この聖者たちは教えを説いて、死刑執行吏たちやマクシムスとその仲間の者たちから、邪教の信仰を根こそぎ取り除いて、ただ「神」のみを信じさせました。
夜になりますと、セシリヤが僧侶たちとやってまいりまして、彼らに一人残さず洗礼を施しました。その後、夜明けになりましてから、セシリヤは二人を厳かに元気づけて申しました。
「さあ、キリスト教の勇士たちよ、暗き仕事をすべてなげうち、光の鎧をお着けなさい。本当にあなた方は大きな戦いをなさいました。あなた方のなすべきことは終りました。あなた方はあなた方の信仰を守りつづけました。萎れることのない生命の冠をお着けなさい。あなた方がお仕え申した正しい裁判官キリストは、あなた方の御功績にたいしてお報い下さるに違いありません」と。
そして彼女がこう言い終りましたとき、人々はジューピテルを拝ませるため、彼らを連れ去って行きました。しかし彼らがその場所に連れて行かれましたとき、簡単に申し上げますが、彼らはなんとしましても、犠牲をささげたり、香を焚こうとはしませんで、ただ貧しい心とひたすらな信仰心とで、跪いたまま、ヴァレリアンとティブルスの両名は、首を打ち落されました。彼らの魂は、恩寵の王のもと天にのぼりました。
これを見たマクシムスは、直ちに彼らの魂がいずれも光り輝く美しい天使たちとともに、滑るように天に昇って行くのを見たと、憐れみの涙とともに物語りました。そして彼は自ら説いて多くの人たちを改宗させました。それゆえにアルマキウスは彼を鉛の鞭で打たせ、彼の生命を奪いました。
セシリヤは彼らの骸《なきがら》を運んで、墓所の石の下に、ティブルスとヴァレリアンと並べて、やさしく彼らを葬りました。
その時アルマキウスは、いそいで使臣に命じて、セシリヤを彼の前に引っぱり出し、ジューピテルに犠牲を捧げ、香を焚かせようとさせたのです。しかしセシリヤの聡明な教えによって改宗した使臣たちは、涙もつきるまで泣き、彼女の言葉を深く信じて繰り返し叫びました。
「神の善き僕《しもべ》として神に仕え来った神の御子キリストこそ、真の神そのものである。これこそわれらの正しき信念であり、たとえ死のうともわれらは心をあわせて、これを信ずる」
アルマキウスはこの出来事を耳にして、セシリヤに会いたく思い、彼女を連れて来るよう命じました。そして御覧なさい、これが彼の最初の問いだったのです。
「おまえはどんな女なのか」と。
「私は生れながらの淑女です」と彼女は答えました。
「いやでもあろうが、おまえの宗教とお前の信仰とをきかせてくれ」と彼は申しました。
「愚かな質問をおはじめになったものですね。問うところは一つなのに二つの答えをお求めになるとは。まるで愚かな輩《やから》のもののききよう」と彼女は申しました。
その言葉にアルマキウスは答えて言いました。
「おまえの生意気な答えのしようは、いったいどこから出るんだね」
彼女は申しました。「どこからだとおっしゃるのですか。良心といつわりのない敬虔な心からです」
アルマキウスは言いました。「おまえはわしの権勢を問題にしないのかね」
すると彼女は、彼のこの問いに答えて、
「あなたの権勢など少しも恐れるに足りません。と申しますのは、人の権力などは本当にいずれも空気でふくらんだ膀胱みたいなものに過ぎません。それがすっかりふくらんでも、その偉そうな様子は、針一本でぺしゃんこにされてしまうことでしょうからね」と申しました。
彼は言いました。
「おまえははじめからとんだ間違いをしているのだ、そしてまだ根気よくつづけているね。おまえはわしたちの力の強い高貴な王侯たちが、どうして命令を発して、キリスト教徒は誰あろうとその教えを棄てないなら刑罰に処す、しかしその教えを棄てるなら誰もみな赦される、という法令を出したのか知らないのかね」
セシリヤは申しました。
「あなた方の王侯たちは、あなたと同様間違っていらっしゃいます。狂った裁きで私たちに罪をおきせになりますが、それは本当ではありません。と申しますのは、私たちが身に覚えのないことを御存じでいながら、私たちがキリストを崇めて、クリスチャンという名前を頂戴しているからといって、あなたが私たちを責めたり、罪人扱いになさるからです。しかしその名がどんなに力強いものであるかを知っている私たちは、それを否定するわけにはまいりませんのです」
アルマキウスは答えました。
「この二つの中から一つを選べ。罪をのがれるために犠牲を捧げるか、キリスト教を棄てるかだ」
それをきいて聖なる祝福された乙女は笑い出しました。そして彼に向って申しました。
「おお、愚かな考えに迷わされている裁判官、あなたは私を悪人にするために、罪のない心を棄てよとおっしゃるのですか。御覧なさい、こうしてすべての人々の面前で、しらばっくれていらっしゃるあの顔つきを! 彼があたりを見まわす時はじっと眼を見据えて、気狂いのようにおこっておいでです」
彼女に対してアルマキウスは、
「不幸な奴じゃ、わしの権力の及ぶところを知らぬのじゃな。わが権勢ある王侯たちがわしに、いいか、生殺与奪の権をともに与えておられるのじゃ。どうじゃ、なぜわしに対して、そのような思い上ったものの言いようをするのだ」と言いました。
「私はただ、確乎不抜のものの言いようをしているまでのこと。不遜どころではございません。と申しますのは、私に言わせれば、私たちこそ驕慢の罪をひどく嫌うのでございます。ですからもし誠の言葉に耳をかすことがこわくないのでしたら、私ははっきりと正直に、あなたがひどく間違ったことをおっしゃったのだということを、お示しいたしましょう。あなたはあなた方の王侯たちが、あなたに人を殺したり生かしたりする力を与えているのだと申されましたが、あなたはただ人の生命を奪うことがおできになるだけで、他の力はなんの持ちあわせもないではございませんか。あなたはあなた方の王侯たちがあなたを死の宰相にしたとは申せましょうが、それ以上のことをおっしゃれば、あなたは嘘をおつきになったことになりますね。と申しますわけは、あなたの力はまことに虚《うつろ》なものだからでございます」と彼女は申しました。
その時アルマキウスは言いました。「大胆不敵な態度をやめなさい。まず、われわれの神々を拝んで行け。わしは哲学者のようにそれを忍ぶことができるから、おまえがどのようにわしを侮辱しようともかまわないが、われわれの神々に対しおまえが与える侮辱の言葉は聞き捨てならぬぞ」
セシリヤは答えました。「おお、愚かなる者よ、あなたは私に話していらっしゃる間、何をおっしゃってもあなたの愚かさを示す言葉ばかり、そしてあなたは何をなさっても無知な役人であり、頭の空っぽな裁判官であることを示す言葉ばかりお使いになりました。あなたの肉体の眼はまったくめくらです。誰が見ましてもすぐわかるように、私たちが石として見ておりますそのものを、あなたは神と呼んでいらっしゃるのです。あなたは眼が見えないんですから申し上げますが、それに手を置いて全体をよくさわって御覧なさい。そうすれば石であることがおわかりになります。偉い神様は高い天におわすものだということは普通誰でも知っていますから、残念ながら、こんな工合にあなたをなぶりものにしたり、あなたの愚行を嘲笑したりするのです。結局これらの偶像は微々たるものにすぎなく、したがってあなたにも、また誰にもなんの利益ももたらさないことは、すぐおわかりになるでしょう」
こんなことを、他にもいろいろと彼女は申しましたので、彼は大いに腹を立て、彼女を家に連れ帰り、赤い焔の火の風呂で焚き殺すようにと命じました。
そして彼が命じたとおり事は運ばれました。つまり彼女をぴたりと風呂の中に閉じ込めて、夜昼のわかちなく、風呂の下を勢いよく燃やしつづけたのでございます。しかし夜昼長い間その風呂の火と熱とにもかかわらず、彼女は全身ひえびえと坐ったまま、なんの苦痛も感じませんでした。彼女に一滴の汗さえ流させはしなかったのです。しかしその風呂で彼女は死なねばなりませんでした。と申しますのは、かの邪心に満ちたアルマキウスは、そこで彼女を殺すようにと命令を下したからです。その死刑執行吏は彼女の頸を三度打ちましたけれど、なんとしても首を打ち落すことはできませんでした。ところでその頃一つの掟がありまして、何ぴとも、強かろうと弱かろうと、四度人を打つことは許されていませんでしたので、その死刑執行吏は敢てそれ以上打とうとはせず、頸を裂かれ、半死半生のままそこに倒れている彼女を置き去りにしたまま行ってしまいました。
彼女のまわりにおりましたキリスト教徒たちは、敷布で彼女の血を抑えました。三日の間彼女はこの苦しみのうちに生き、なお信仰を説くことを止めませんでした。これまで彼女が育ててきた人たちにも教えを説くことを断たず、また彼らに自分の私財や品物を与えました。それから彼女は信者をウルバン法王に託し、そして申しました。「私がこの世を去る前にこれらの人々をあなた様にお話し申すため、天帝にただ三日だけの猶予をお願いいたし、また私の家を末永くつづく教会にしていただくようにお願い申し上げました」と。
聖ウルバンは彼の教会の執事たちとともに、秘かにその屍体を運んで来て、他の聖者たちと一緒のところに、夜分鄭重に葬りました。彼女の家は、聖セシリヤ教会と呼ばれております。聖ウルバンは十分に力を備えたお方でしたので、それを神聖なものとして清めました。そして、その教会で人々は今日に至るまで、立派にキリストとその聖者につかえております。
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僧の従者の話
僧の従者の話 前口上
セシリヤの話が終って、五マイルも行かないうち、ボホトン・ウンデル・ブレという里で、白い法衣の上に黒い衣をつけた男がこの団体に追いついた。この男が乗って来た賃馬は連銭葦毛の馬で、おそろしく汗をかいていた。三マイルも一気に馬を駈けさせたと見えた。
この男は従者をつれていたが、その従者の乗っていた馬も汗をかいていて、ひょろひょろになってもう歩けそうもなかった。鞅《むながい》のところに泡が堆くたまって、乗っていた男も泡でぶちになり、かささぎ[#「かささぎ」に傍点]のように見えた。
馬の尻の上に二つに折りたたんだかばん[#「かばん」に傍点]が一つつけてあったが、あまり着物らしいものをもっていなかったようだ。この人は、夏らしい薄着で出かけて来たのだ。
この人はどういう男だかと、ひそかにふしんに思っていたが、頭巾がマントにぬいつけられていたので、ははあと思った。どうも考えてみると、カノンという僧侶だと見当がついた。(カノンは教会に属する宗教団であって、修道院僧よりは厳格な生活をなさぬもの)
帽子にひもをつけて、かぶらずに背中の上にさげていた。馬を駈けさせて乗って来た。気ちがいのように、いつも拍車をあててやって来たのだ。
汗をよけるために、ごぼう[#「ごぼう」に傍点]の葉を頭巾の中へ入れていた。またそれで、暑さにあたらないように頭を保護していたのであった。
だが、それにもかかわらず、この坊主が汗をかいているのをみるとおかしかった。額から汗が薬草の蒸溜器のようにぼとぼと落ちていた。おおばこ[#「おおばこ」に傍点]やヒレトリュウムという草がたくさんつまっていた蒸溜器を思わせる。
僧はこの団体に追いついて来た時、大きな声を出して言った。
「御連中さま、今日は。あんたがたとご一緒に行こうと思って、追いつきたいので、ひどく駈けて参ったのです」
その従者もまた丁寧に言った。
「今朝、早く、あんたがたが、お宿をお出かけのところを拝見して、ここにいられるわしの主人にすすめました。あんた方とごいっしょに旅をすれば、さぞ愉快なことだから、いっしょに行くことをすすめたのです。主人はこれでなかなか世間話が好きなんですよ」
この時、亭主は言った。
「それはどうも有難とう。よくすすめて下さった。しかしあんたの旦那は利巧な人間らしい。冗談も言って陽気なたちに違いねえ。この連中を面白がらせる愉快な話を一つか二つやって下さらないものか」
「誰がですって、わしの主人がですか。どうして、どうして、冗談や陽気な話は相当できるんです。
また、あんたがたは御存じなかろうが、あれでなかなかやりてなんで驚くんです。ここにおられる人たちなんざ、誰もとうていできないような大仕事をいろいろともくろんでいる人なんでさ。そのこつ[#「こつ」に傍点]をあんたがたもこの人から少し習ったらいいんです。
この人があんたがたの仲間になっている間に、親しくなってこの人と知合いになるのは、あんたがたのためになることだ。この機会をはずさずにこの人と知己になると大変得ですよ。わしの財産を全部なげ出しても保証することだ。この人は非常な辣腕家で、まあ、たいした傑物なんですぜ」
亭主は言った。
「じゃ、この人は学者ですかね」
従者は答えた。
「学者などより偉い人だ。それじゃ、この人の学識を簡単に言ってあげよう。
主人は秘密の術を知っているんだ。――(だが実はこの人の学識はわしからはとても言えないが、わしはこの人の仕事を幾分助けている)――偉い術をこの人は知っているんだ。わしらが歩いているこのカンタベリ道路をはじからはじまで、ほり返して、それに金と銀でしきつめることができるんだぜ」
そう従者が言うと、亭主は答えた。
「これはおどろいた。それだけ人から尊敬されるほど立派な学識や分別のあるあんたの主人が名誉もかまわず、あんなぼろぼろのきたないマントを着ているなんて。マントを一着ぐらい買うのはなんでもないことだろうが。いったいどういうわけで、あんたの主人はみすぼらしいのかね。
あんたの言うようなことが本当なら、もう少し立派な着物が買えるはずだが。おかしいな。どうしたんだい」
従者は答えた。
「なぜだって。それがききたいのかい。つまり、貧乏だからさ。(だがわしも本当のことは知らないんだから、いまの話は秘密にして下さいよ。)実は、主人はあまり利巧すぎるのだろう。学者も言っているように、ものは度を越すと欠点になるものだ。だからその点でわしも主人のやりかたは馬鹿だと思うのだ。智恵がありすぎると人はそれを悪用しがちなものだ。困ったことに、うちの主人もその口だ。もうこれ以上いえない」
亭主は言った。
「そんなことはどうでもいい。それはそうと主人の秘密を知っている以上、あんたは主人が何をしている人か言えるだろうが、きかして下さいよ。お願いだから。それだけ利巧な男なら何かやっているはずだ。いったい、あんたがたはどこにお住みかい。言えるものならきかしてもらおう」
従者は答えた。
「ある町の場末に住んでいるんです。追剥やぬすっとのようなやからが、人目をはばかって、もぐっている袋小路やかくれ場所にひっこんで暮しているのです。実をいうとまあ、そんなふうにやってるのだ」
亭主はそれから言った。
「そうか。失礼だが、あんたの顔色はおそろしく悪いが、どうかしたのかい」
従者は言った。
「いまいましいことだ。火を吹いてばかりいるもんだから、すっかり顔色が変ったのさ。そうかもしれねえ、ろくに鏡もみたこともなく、汗水たらしてかせいでいるのだ。実は錬金術で金銀をつくることを習っているのだ。わしらは夢中になって火の中をばかりのぞきこんでいるのだ。
でもいまだに望みも果たせず、いつまでたっても、らちがあかねえ。だが、そういうことをして、たくさんな人たちの目をくらまして、一ポンド、二ポンドと、金《きん》を借りるのだ。時には十ポンド、二十ポンドとたくさん借りられる。少なくとも一ポンドから二ポンドつくれるのだと人にはそう言って借りるのだ。
だがそれは真赤な嘘だ。それでもわしらはその望みはすてずに、四苦八苦、研究しているのだ。
そういう科学が完成されるには、わしらの力ではとうてい及ばないところだ。大丈夫成功するものと誓えもしたが、どうして、なかなかわしらの力では追っつかない。できそうだが、できないものだ。そのあげくのはては、乞食になるほかないだろう」
従者がそう話している時、主人の僧は近よって来て、従者の言ったことをみんな聴いていた。この坊主はなかなか人の言うことをいつも怪しんできく奴だった。カトーンという賢人がいうように、罪をおかしている人は、人が話をしていると、みな自分の悪口を言っているのではないかとあやしむものだ。
そういうわけで、従者の話をきくために、近よって来たのだ。そこでこの坊主は従者に言った。
「もうおよし。そんなことをいうとひどいめにあわせるぞ。おまえはこのみなさんの前でおれの悪口を言うのか。自分の罪を自分であばいていることだ」
亭主は早速言った。
「どうなろうと、みな言ったらいい。なんとおどかされようが、そんなことはへでもねえ」
従者は言った。
「ええ、もうかまったことはねえ」
僧はもう、従者が秘密をしゃべるに違いないと思ってか、そこにいたたまらず、にげて行ってしまった。
その時、従者は言った。
「やれやれ。これからみなさんを笑わしてあげましょう。わしの知っている話をみな話してあげられる。あいつが行ってしまったからには、くそくらえだ。もうこれから先、あいつのところへは少しくらいの金をもらっても行きやしねえ。
わしを初めてそんなばくち遊びに誘惑した奴こそ、この世に生きている間にうんといじめてやりたいものだ。しみじみ感じさせられるが、わしには遊びごとでない。金も賭けてしまったことだから真剣なんだ。だから、どんなに苦労をしても、うきめをみても、いまさらそれをやめられねえのだ。ひどいめにあったものだ。
錬金術というこの学問のことをのこらずみなさんにお知らせする力などは、あいにく、わしにはもちあわせがないのだ。その一部分だけでもお伝えしましょう。主人も幸いどこかへ行ってしまったことだし、思いきって悪口もいわれるのだ。わしの知ってるだけご披露しましょうか」
僧の従者の話
わしはこの坊さんの家に七年間も勤めて来たんだから、少しはその坊さんの錬金術でも覚えられるかと思ったのだが、つい駄目だった。
そんなつまらない野心をおこしたのがあやまり、そんなこんなでみんな、もってる物は全部すっからかんにたたいてしまったんだ。こりゃ、わしばかりでなく、そういう人がずいぶんいたんだ。
昔はわしも立派な着物もきたし、もちものも上等なものをもっていたこともあったんだが、今じゃ、ももひきを頭からかぶらなきゃならねえ有様だよ。
顔色もせん[#「せん」に傍点]はなかなかあざやかな桜色だったが、これも今じゃ青ざめた鉛いろだ。
錬金術なんかやる奴は結局みんな後悔するにきまってら。
わしなんざ、だまされて、縁の下の力もちにされたんだ。みてみねえ、錬金術で金をふやそうなんて、なんの利益があるものか。
こんなひょうたんなまず[#「ひょうたんなまず」に傍点]のような科学のおかげで、わしは裸にむかれ、財産はなにもなくなった。
おまけに借りたお金で首がまわらず、一生かかっても返せるみこみがたたないのだ。
みなさん、わしを見て、これから先のいましめにしておくんなさい。
誰でも、錬金術にうち込んで、つづけてやると失敗しますよ。財布をたたき、頭がのっぽになってしまうばかりだ。
いつか学者からきいた話だが、自分のまぬけから、冒険をして財産をすった連中は、自分と同じように、人にも財産をすらせるために錬金術をすすめるものだ。そういう悪い奴どもにゃ、人が苦しむのをみるのが楽しみだということだ。
それはそれで、これからわしらのやった仕事のことをお話ししよう。
こんな魔術をやろうとしているわしらは、えらくもの知りに見える。わしらが使ってる術語はひどく学者らしく、ふう変りでへんてこなものだ。
でもわしの仕事は気絶するまで火を吹くことだがね。
わしらが使用する材料の分量などは、わしにはとても言えないのだ。たとえば銀が五オンスとか六オンスとか、いろいろ他の材料も用いるのだが。また粉末にして用いる石黄とか焼き骨とか鉄の薄板などがあるが、それを一つ一つあげるのもわしにはめんどうだ。
それから、さっき言った粉末を入れる前に、土のるつぼ[#「るつぼ」に傍点]に塩だとか胡椒などをみんな入れて、ガラスの薄板で蓋をするというようなことや、いろいろの作業があるんだが。
また、中の空気がもれないように、るつぼ[#「るつぼ」に傍点]やガラス器を粘土で封じることや、また火力を適当な熱度にすることや、それから、昇華させるために細心な注意を払わねばならないことや、それからまた生の水銀とよぶ水銀の合金を作ったり、それを焼いて生石灰をつくることや、いろいろあって、わしらの魔術のことをいうと際限がないのだ。
石黄とか、水銀の合金とか、斑岩の盤の上でひいた黄丹などみな相当の量を用いるのだが、何も効果がない。まったく徒労に終ってしまった。また蒸気を出したり、るつぼ[#「るつぼ」に傍点]の底に固形物をつくらせてもなんにも効がない。万事徒労で、費用はまる損で、いまいましいことだ。
わしらの仕事にゃ、まだまだたくさん要るものがあるんだが、なにしろわしには学問というやつがないんだから、順序をたてて話ができねえ。それも種類によって分類して話せばいいんだが、まあ、であたりばったり、思い出すままに話しやしょう。
まず要るのは、アルメニヤの土、緑青、硼砂、それに土やガラスでつくったいろいろな器に尿器に、油をとる機械に、ガラス壜、るつぼ[#「るつぼ」に傍点]、昇華用の器、ひょうたん[#「ひょうたん」に傍点]形のフラスコ、蒸溜器といったような類、その他くだらない機械だ。
他にまた要るものに、火の要素だと思われていた赤い水とか、牛の胆汁、砒素、塩化アンモニア、硫黄などあるが、いちいち、あげる必要もないのだ。
草のほうでは、きんみずひき[#「きんみずひき」に傍点]、かのこ[#「かのこ」に傍点]草、ひめはなわらび[#「ひめはなわらび」に傍点]など、言えばまだたくさんある。
ランプは昼夜つけっぱなしで、錬金術の完成をいそいだ。
かまどには生石灰をつくるものと、白い水をとるものがある。それに消和していない石灰、白堊、卵の白身、いろいろの粉末、灰、糞小便の類、粘土、蝋びきの袋、硝石、硫黄、塩、石炭や木材をくべたいろいろの火、炭酸カリ、アルカリ、精塩、燃えやすい物、凝結した物、馬や人間の毛をまぜた粘土、酒石英、みょうばん[#「みょうばん」に傍点]、ガラス、酵母、麦芽汁、生酒石英、赤石黄などが要る。
それから、吸収、結合作用、銀をだいだい[#「だいだい」に傍点]色にする作用、焼付けと醗酵作用、鋳型、分析といったようなことがたくさんあるのだ。
それから、四気七体と申すものを、うちの旦那がいつもおっしゃられていたとおり順よく話しやしょう。
四気とは、水銀、石黄、塩化アンモニア、硫黄でございます。七体とは、太陽の金、月の銀、火星の鉄、水星の水銀、土星の鉛、木星の錫、金星の銅じゃ。
この呪われた術を行う者は誰にせよ、財産は残せない。と申しますのは、それに使う金はきっとみななくすにきまっているからです。馬鹿なまねをやってみたいとお思いのかたは出て来て錬金術をお習いなさい。また金庫の中に何かもっておいでのかたは、さあどなたでも出て来て錬金術の哲学者におなりなさい。おそらくは、その術は習いやすいものだとお思いなさろうが、いやいやそれどころじゃありません。
修道僧だって、托鉢だって、牧師だって、カノニック派の僧だって、この面妖な馬鹿げた学問をやって、日夜じっと動かずに本を見ていたところで、まったく無益なことで、それほど馬鹿げたことはねえのだ。
この秘術を学問のねえ奴が習ったって、そりゃとても駄目な相談だ。だって、学問があろうがなかろうが、とどのつまり同じことになるんだ。
錬金術てえやつはだ、学問がある奴もない奴も、しまいには、どうせ同じように両方とも失敗してしまうにきまってら。
そうそう、まだならべたてることを忘れてたよ。錬金術にゃ、まだいろいろのものが要るのだ。昇汞水《しようこうすい》にやすりこ[#「やすりこ」に傍点]に、まだあら、可鎔金に、素地の軟化と硬化、油と酒水、可鎔金属、こんなものをみんな言ったら、どこの国のバイブルよりも厚い本ができてしまうんだ。だから、こんな名前をみんなあげないのも、いいことだろうよ。というのは、あんまり錬金術の話をしたもんだから、どんなにこわい顔つきの悪魔かしらねえが、悪魔が一匹出てくるぜ。悪魔をよび出すほど十分錬金術のことをお話ししたのだ。(錬金術を魔法と考え、悪魔をよびだす呪文にたとえたもの)
いや、それも仕方がねえ、わしらは一所懸命に仙丹という「哲学者の石」をさがしているんだ。やっこさんさえつかまえたら、しめたものだが、なにしろ秘術をつくし、魔法をつかい、あらゆる手をうってみても、やっこさんなかなかやって来てくれやしねえ。
財産はみんなそそのかされてしまい、気が狂いそうだ。だが、どんなに苦しんでも、いつかそのうちに発見さえすれば助かるものと望みをかけているんだ。でもそういう空想を望んでいると、ひどいめにあうんだ。
あんたがたにも、よく言ってきかせるが、仙丹というようなものは永久に発見できないものだ。「いつかいつか」とそういうことを信じていた者はみんな財産をすってしまった。
だが、それにもこりずに人は錬金術を研究している。錬金術というやつはつらいが魅力のあるもので、にがいが甘味《うまみ》のある菓子のようなものだ。
夜は一枚のシーツ、昼は一枚背中にかける着物さえあれば、あとはみんなたたき売ってこの錬金術にうちこむのだ。すっからかんになるまで、やめられねえとみえる。
錬金術にとりつかれている奴はどこにいようが、臭いのでわかる。あの硫黄のにおいがするんだ。なんのこたあねえ、まるで野羊のようににおうんだ。鼻もちならない臭味がして一里さきからもぷんぷんする。その臭いことと、ぼろ着物で、錬金術をやってる奴どもはすぐわかる。
また、どうしてそんなにみすぼらしいふうをしているのかと彼らにこっそりきいてみると、すぐに耳のところへ口をよせて、もしわかったら、そういう科学をやっているというので殺されるからだと、ささやきやがる。
みてみなさい、そういう連中は罪のない人をたぶらかすのだ。
さて、それはそれで、わしの話にもどろう。
うちの旦那は、火にるつぼ[#「るつぼ」に傍点]をかけない前に、金属に他の材料を適当な分量にまぜあわせてから、るつぼ[#「るつぼ」に傍点]に入れて火にかけるのだ――ここへ旦那がいないから遠慮なく言えるんだが――錬金術じゃえらいんだそうだ。だがなんぼ有名でも、時々非難もされるんだ。どうしてかてえいうと、時々るつぼ[#「るつぼ」に傍点]が破裂して、みんなめちゃくちゃになってしまうんだ。この金属てえやつは、えれえ爆発力があるものだ。壁なんざ弱いもので、石やしっくいで出来てる時にゃ、突きぬけて、どっかへふっとんでしまうのだ。またある部分は地面へささって沈んで行ってしまうので、時には幾ポンドもなくしてしまうのだ。またある部分は床の上に粉みじんに散ったり、屋根うらへ飛びこんで行くのだ。
たしかに、眼にはみえないが、悪魔が出て来てやってる仕事だ。あのやっこさんの仕事だ。悪魔が治めてる地獄でもこんなうきめはみられないだろう。
そういうふうに、るつぼ[#「るつぼ」に傍点]が破裂すると、みなからさんざおこられたり、小言をいわれるんだ。ある人はそれは火のたき方が悪かったのだとか、またある人は火の吹き方が悪いんだといわれる(こうなるとわしの役目は火吹きだから心配になるが)。またある人は「なあに、それはまぜ方が悪かったんだ。馬鹿な奴どもはしようがない」という。そうするとまた他の人は、「いやいや、ぶな[#「ぶな」に傍点]の木をたかなかったのが悪かったんだ。それに違いねえ」というのだ。
どれが悪かったのかしらねえが、こっちじゃ喧嘩が始まるのだ。
旦那は旦那で言うのだ。
「なあに、さわぐことはねえ、これから、二度とこんな危険のないように注意するまでのことだ。るつぼ[#「るつぼ」に傍点]にきずがあったに違いねえ。ともあれ、そんなにたまげねえでもいいよ。いつものように、床をすぐに掃除をしておくれ。さあ元気を出して、やっておくれ」
それから、かけらを山のようにかき集め、床の上に布をしいて、その上で幾度もふるい[#「ふるい」に傍点]にかけて金属を拾うのだ。
そん時に弟子の一人が言うのだ。
「有難てえ、まだ金属がいく分ここに残っていまさ。こんどは、こんなことになったんだが、またそのうちにゃ成功するかもしれねえんだ。
商人だって、いつもいいことばかりないのでさ、仕入れた商品が時にゃ海の中で船と一緒に沈んでしまうことがあるんでさ」
旦那はそういう時には答えて言うのだ。
「次回はもっとうまい結果を出してやろう。成功しなきゃこちらが悪いのだ。今回はどこかに欠陥があったのじゃ」
して、ある人は、火力が強すぎたのだと言ったが、わしはどうもそう思わねえ。熱かろうが冷たかろうが、どうせしまいには、しくじることだ。
わしらは欲しいものが得られないで、ますます気ちがいのようになっている。
してまた、わしらがいっしょに並んでいるところを外からみただけでは、どんぐり[#「どんぐり」に傍点]の背くらべで、どいつもこいつも、ソロモンのように、かしこそうに見えるのだ。
だが光るものは必ずしも金ばかりじゃないということをよくきいてるのだ。また外見が綺麗な林檎は必ずしも、うまいものばかりじゃねえ。なんといってもそらそうじゃ。ええ、それと同じようにわしらもそうなんだ。
一番賢く見えても、いざとなると、一番馬鹿なことをすることがある。一番正直そうにみえても、ぬすっとをする者もいるのじゃ。
わしは話がすめば失礼するのですが、その時までにみなさんも、このことをよくわかってもらいたいものだ。
わしらの中にカノニック派の坊主で、全市に害毒を流したという、したたか者が一人いた。この男の手にかかっては、たとえニネヴェ、ローマ、アレキサンドリア、トロイといったような大都市でも全市がみな被害を蒙るのだ。
もっともわしらの仲間に他にもカノニック派の坊主が三人ほどいたが、こいつが一番悪い奴だった。
彼の悪辣きわまる悪事ときては、人が千年も生きられて書いたとしても書きつくせぬほどだ。
この悪の世の中でも彼の悪事には及ぶものがなかった。
この坊主は、どんな人でも親しくつきあうと思えば、うまい言葉に相手を巻きこんで、彼と同じように悪魔ででもなけりゃ、誰でもすぐに欺されるのだ。
彼にちょろまかされた人は以前からたくさんあったのだ。彼がまだ生きてる間は、これからも欺される人がたくさん出るだろう。今でも彼が悪辣なことを知らないで、わざわざ知己を求めて彼のところへやってくる人もいるのだからな。
おきき下さるなら、この坊主の話を、これからやりましょう。だが、カノニック派のお坊さんたちよ、わしの話はカノニック派の坊さんのことですが、あんたがたの宗派に、わしがけち[#「けち」に傍点]でもつけようとするのだとお思い下さるなよ。
どの宗派にも悪い奴がいるものです。だからといって、その一人の愚行にたいして、その団体全体のものがその責任をとるべきものじゃありません。
わしはあなたがたの悪口をいうつもりではないのです、ただ誤りを正すのです。また、この話はあんたがたのためにだけするのでなく、他の人たちのためにもなろうかと思っていたすのです。
またよく御存じのように、キリストの十二人の使徒の中にもユダという一人のうらぎり者が出たのです。他の罪のない人たちまでもそれがためにとがめを受けるはずがありません。あんたがたの場合も同じことです。いいですか、もしあんたがたの宗派に一人のユダのような裏切者が出て、それが名誉をきそんする心配がありましたら、さっそくそいつを追放しさえすれば、それでよいのだと思うのです。
どうか気持を悪くせずに、わしの話をおきき下さいよ。
ある僧がロンドンに長い間住んでいた。この男は「年給僧」といって故人のために毎年法要を営むのに雇われていた。
彼は下宿のおかみに愛想よく親切だったので、どんなに派手にくらしても、食費と着物の費用は払わないでも、おかみはだまっていた。また小遣銭も十分もっていた。
それはそれで、これからする話は、この僧を破滅にみちびいたというカノニック派の僧侶のことだ。
この悪いカノニック派の僧は、ある日のこと、この年給坊主の下宿にやって来て、こいつに金をすこし貸してくれるようにと頼んだ。すぐ返すからと言った。
「三日間だけ一マルクの金をおかしな。約束の日には必ず返すから。もしわしが嘘をついたら、こんど来た時、首をしめておくれよ」
そう言った。その年給坊主はさっそく一マルクの金を渡した。そうするとカノニック僧は幾度もお礼を言って、行ってしまった。
それから、三日たつと、カノニック派の僧は金をもって来て返したので、年給坊主はすっかり安心して、こう言った。
「約束の日を一日もたがわず、返してくれるような正直な人には、一ノーブルでも二ノーブルでも三ノーブルでもお貸ししてかまわん。それどころか、もっているものはなんでも安心しておかしできる。そういう人には『いや』とは言えないのだ」
そうすると僧は答えた。
「なんですって。わしが不正直なことなんざできますかい。とんでもねえこっだ。死んで墓の中へもぐりこむ日まで、正直にしていつもいたいものだ。悪いことはけっしてやっちゃならねえ。有難いことに、わしに金を貸してくれた人に迷惑をかけたためしがない。このことはわしの口からいうのもなんだが、本当にそうなんだ。まちがったことをしようと思ったことなどは一度もないんだ。
いやさ、あんたにゃ大変お世話になったんだから、なにか一つご恩返しをやろうと思うので、わしは誰にも教えない秘密の術を知っているが、よければそれをご伝授して、あんたにそのやり方をわかりやすくお教えしましょう。
大きな眼をあけて、よくみて下さいよ。これからわしはさっそく、えらい仕事をお目にかけてやりやしょう」
そのとき坊主は言った。
「どうぞ、どうぞ、どうぞそうして下さい。ぜひお願いします」
「あんたのご所望となら、やむねえことだ」と僧は言った。
まあ、ごらんなさい。この泥棒の奴、うまいことを言って相手をつり出すこつ[#「こつ」に傍点]を知ってるのです。昔から賢人も認めてるように、そういうもち込みのサービスは本当に鼻もちのならない、いやなものです。
このいつも愛想のよい僧は、うらぎり行為の根元ともいうべき悪人だった。わしはこの男の実例をもって、悪魔のようなそういう悪心をおこした彼がクリスチャンの人々を、どういうぐあいになぶりものにしたかを、これからお話ししたいのです。
みなさんも、この悪僧のインチキにひっかからないように神にお頼みするのです。
この年給坊主はそんな悪人を相手にしてるとは露ほども知らず、災難がふりかかっていることも感づかなかったのだ。
なんと気の毒な坊さんだ。罪もないのに、気の毒な話だ。だが彼は、これからすぐ欲に目をくらませられるのだ。彼は神にみはなされ、頭がぼけているので、この狐が彼をだまそうと計画しているのに少しも気がつかないのだ。彼はもうこの狐のずるいトリックを避けることができない。その結果、破滅におちいらなければならないとは、不幸な人だ。
わしはさっそく、とりあえずこのだまされた坊主の話をし、またせいぜい力の及ぶかぎり、そのカノニック派の僧のインチキをすっぱぬいてみよう。
ところで、宿屋の御亭主、このカノニック派の僧がわしの主人だと思うでしょうが、それはそうでなく、他のカノニック派の僧で、主人より百倍も奸智にたけた男だった。幾度となく人をだましてきた奴だ。
こやつの悪事を詩に書くと、こっちが馬鹿になってしまうのだ。こやつのインチキの話をすると、いつもこっちが顔まけして恥かしくて顔がまっ赤になるんだ。
わしの顔には少しも赤味がないはずだが、その悪僧のことを考えると、いつも頬がぽうとほてってくるのがわかる。というのもさっきからお話ししたように、わしの顔色がまっ青なのも、錬金術をやってると金属の毒ガスが皆わしの顔の赤味をみんな消耗しつくしてしまったからね。
皆さん、この悪辣な僧を警戒して下さいよ。
さて話は前にもどって、この悪僧は例の坊さんにこう言った。
「ね、あんた。水銀さえあれば、またずに作れるんだから、下男のかたに、水銀二オンスか三オンス買って来てもらえないかね。それさえあれば、すぐにあんたが今まで見たこともないような奇蹟をごらんにいれられるんです」
「いいですとも、ぜひやって下さい」
と言って、坊さんは下男にいいつけて、水銀をとりにやった。下男はすぐ主人の命令どおり、出かけてまもなく水銀をもって帰り、それを僧に渡した。
僧はそれをもらって、丁寧に下へ置き、またその下男に命じて石炭をもってこさせ、さっそく仕事にとりかかるのであった。
石炭が運ばれてきた。それから僧はふところからるつぼ[#「るつぼ」に傍点]をとり出し、坊さんに見せた。
「ごらんのこの器械をあんたの手にもって、それから、自分の手で水銀を一オンスばかり、その中に入れてみて下さい。それで立派な錬金術者になれるんです。
わしは自分の術を、あまり他の人には伝授しなかったんです。だが、この実験をここでよく見てて覚えて下さい。あんたが見ているところで、わしはこの水銀に変化を起させますよ、いいですか、そしてこの水銀をわしらのがまぐち[#「がまぐち」に傍点]に入れてるような銀貨と少しもかわらない立派な銀にしてしまうのです。その銀をかた[#「かた」に傍点]に入れて銀貨をつくれるんです。
もし、しくじったら、わしは二度と世間に顔向けができぬようなインチキをしたのだと思われても、しかたがねえのです。
わしはここに、高価な錬金薬をもってるが、重宝なものです。これからごらんにいれる奇蹟もこれがもとなんです。
下男は外へ出して、扉はしめて下さい。わしらが錬金術をやってる間、その秘密をさぐられないようにしたいのだ」
坊さんは、いわれたとおりにやった。下男は外へ出て行った。主人の坊主はすぐに扉をしめて、いそいで仕事にとりかかった。
この坊さんは悪僧の命じたとおり、すぐにそれを火にかけ、火を吹いたりして、いそがしくたち働いた。
なんでつくられているのか知らないがその錬金薬という粉末をるつぼ[#「るつぼ」に傍点]の中に投げいれた。この粉末といっても、その坊さんの目をくらますために、白堊かガラスを粉にした、三文の値打ちもないものだった。
それから悪僧は坊さんに命じて、石炭をるつぼ[#「るつぼ」に傍点]の上の方まで平らに積ませた。
「さあ、わしはあんたを愛しているという証拠に、あんたの手でこれから奇蹟が起るようにさせてあげるのです」と悪僧は言った。
「ありがてえ」と坊さんはいいながら、よろこんで、命じられたとおり石炭を積みあげた。
坊さんがいそがしくたち働いてる時、この悪僧め、ふところから木炭を取り出した。この木炭の中にうまく穴を一つあけて、その中へ一オンスの銀粉を入れて、それからこぼれないように穴を蝋でふさいでおいた。このインチキの木炭は前から計画的に準備して来ていたのだった。
まだ他にもそういうインチキなものを悪僧はもって来ていた。
初めからこの坊主をだまそうと思ってやって来たのだから坊さんはうまくつぼにはまり、金を取って行かれてしまったのだ。
わしはこの悪僧の話をするだに、しゃくにさわるのだ。なんとかして、いつか、こいつの敵をとってやりたいのだ。だがこいつなかなかひとところにいないので、とらえようがない浮浪人でこまったものだ。
まあ、みなさんもこいつにひっかからぬように注意なさい。
さて、この悪僧のいうのには、
「あんた、そらちがう。そういうふうに積むんじゃないんです。わしがすぐなおしてあげやしょう。ちょっとわしにやらせておくんなせえ。気の毒で見ちゃいられねえ。まあ汗をながしておられるのう。さぞあついことでござんしょう。このハンカチで少し汗をふいておくんなせえまし」
坊さんがそれから、顔をふいている時をみはからって、悪僧め用意していた木炭をとり出して、るつぼ[#「るつぼ」に傍点]のちょうど上につまれた石炭の中へ入れて、石炭が燃えあがるまで吹いた。
それから悪僧は言った。
「さあ、一杯やりやしょう。万事これでうまくゆきやしょうから安心だ。前祝いだ、腰かけて一杯飲みましょうや」
木炭は燃えて、すぐに銀粉がうまくるつぼ[#「るつぼ」に傍点]の中へ落ちて行った。それも道理、るつぼ[#「るつぼ」に傍点]のちょうど上に置いたから、燃えるとその中へ落ちるはずだ。だが坊さんには不幸にして、それがわからなかった。坊さんはそのインチキを知らず、どの炭も炭にはかわりがないと思っていた。
このインチキの錬金先生、時分はよしと立ちあがり、
「坊さん、立って来て、わしのそばに来てみて下せえ。ところが、あんたは鋳型をおもちじゃねえだろうから、白墨を少しもって来ておくんなせえよ。まにあわせに、鋳型と同じ形のものを一つ作りたいのです。それから、水を一杯どんぶり[#「どんぶり」に傍点]か鍋の中へ入れて、それといっしょにもって来て下せえな。そうすれば、この実験がうまくいったかどうかわかるんです。
だが、あんたがいない留守にわしがインチキなことでもすると疑われてもこまるから、あんたといっしょに行って、また来ることにしやしょう」と言った。
話をかいつまんで言うことにしよう。彼らはさっそく扉を開けたと思うとすぐにしめて、鍵をもって、出て行った。そしてまたすぐ帰って来た。
こんなお話で一日つぶさせやしねえ。簡単に話すことにしよう。
悪僧は白墨のかたまりをとって、それを鋳型の形にこねあげた。
それから、どうでしょう、こいつめ、袖の下から一オンスあまりしかない銀の薄板をとり出した。この手品をよくみてて下さい。
それから、勿論彼は幅も長さもその銀板と同じように鋳型を作って、銀板をまた袖にかくした。それをうまくやってのけたので、坊さんの眼には見えなかった。
それから彼はその品物を火の中から取り出して、うれしそうに鋳型の中へ流しこみ、それを時機をみて、いいかげんに水のはいった器の中に入れるや否や、坊さんにこう言った。
「何があるか見てごらんよ。あんたの手を入れて、さぐってごらんよ。思ったとおり、銀があるんです、ええ」
坊さんは手をつっこんで、立派な銀板をとりあげて、それが本当だったので、ほくほく。
「カノニックさん、神様も聖母も、すべての聖者たちもあんたを祝福されるのだ。だがこのあんたの見事な妙技をわしに教えて下さるものなら、あんたのお弟子にぜひさせていただきたいもんです」
そうすると悪僧は言った。
「この技術に熟練されるように、もう一度やってあげましょう。そうすれば、あんたが必要な時は、いつでも、わしがいないでも、立派にこの妙術がやれますように」
それからつづけて言った。
「すぐに、もう一オンスの水銀をもって来て下せえ、前と同じようにそれを銀にしてみやしょうか」
坊さんは、悪僧の命ずるままに、また精々立ち働き、また成功するように望みながら一所懸命に火を吹きだした。
その間、悪僧はまたインチキをする用意をした。彼は体裁に杖を手にもっていたが、その杖は(気をつけなさい)中が空で、その先に前と同じように一オンスの銀粉がつめてあり、それがこぼれ落ちないように蝋でよくふさいであった。
坊さんがいそがしく働いている時、悪僧は杖をもって、坊さんのとこへ行き、前と同じように錬金薬の粉を入れた。(行いでも言葉でも人をだますような奴は悪魔が来て、皮をむいてしまったらよいのだ。)彼はそのインチキの杖でるつぼ[#「るつぼ」に傍点]の上にある石炭をかきまわした。蝋は馬鹿でも知ってるように火には解けるから、杖の中につめてあるものがこぼれ出て、すぐにるつぼ[#「るつぼ」に傍点]の中へ落ちこんだ。
みなさん、あきれたものじゃありませんか。
坊さんはまただまされ、それを本当と思って、うれしがった。その喜んだ様子ときては言葉にも何にも言いつくせないほどだ。そしてすぐ身体も財産も彼に提供したのだ。
この悪僧はすぐこう言った。
「そうですか、わしは貧乏だが、技術はうまいものでしょうが。だがまだ他にもやれることがあるんですよ。おたくに銅が少しありませんかね」
「ありましょう」
「なけりゃ少しさっそく買ってきて下さいよ。さあ、いそいで行ってきて下さい」
坊さんは出かけて、銅を買って来た。
悪僧はそれを手にもって、一オンスだけ、はかって取った。
わしの舌はまことにつたなく、この悪の根元ともいえる僧の二枚舌を思うとおりには述べられないのが残念だが、このカノニック派の僧は彼を知らない人には極めて親切な男に見えたのだが、実はその心持も考え方も悪魔であった。
わしは彼の悪事をいうのもいやになるが、実は人のいましめにしようと思うからこそお話しするのです。
さて、この悪僧はるつぼ[#「るつぼ」に傍点]に一オンスの銅を入れ、それをすぐに火にかけ、錬金薬を入れて、坊さんに火を吹かせて、前のとおり仕事に夢中にならせたが、それはみなインチキな計画であった。思うがままに悪僧はこの坊主を喰いものにした。
それから、鋳型の中へそれを流しこみ、最後にそれを水を入れた鍋の中へ入れ、自分の手をそれにつっこんだ。そして(前と同じ手で)袖の中に一枚の銀板をかくしておいたのだ。この呪うべき奴め、坊さんに手品がわからないように、こっそりその銀板をとり出して鍋の底に置いておいたのだ。
それから水の中をあちこちさぐり、坊さんに知られないように銅板の方をこっそり取り出して、かくした。それから坊さんのむなぐらをつかまえて、ふざけてこう言った。
「かがんで、手を入れて、何があるか取ってみてごらんな。前はわしがあんたを助けたんだから、こんどはわしを助けるのがあんたの責任だ」
坊さんは早速銀板を中から取り出した。それで坊さんは言った。
「わしらの作ったこの三枚をどこか飾職のところへもって行って、本物かどうか見てもらったらどうですかね。純銀には違いねえと思うが、すぐにわかるはずだ」
彼らはその三枚の銀の薄板を飾職にもって行って、火にかけたり、たたいてみたりして、ためしてもらった。誰がみてもそれはまがいもの[#「まがいもの」に傍点]だとは言えないはずだ。
喜んだのはこの馬鹿坊主だ。日の出に鳴く小鳥よりも、五月の季節に鳴くナイチンゲールよりも、この坊さんは喜びうたった。
またたとえ貴婦人が小唄を喜んでうたったり、恋や女の淑徳の話をする時でも、また騎士が武功をたてて婦人の愛顧を受ける名誉を得た時でも、この坊さんが、この悲しげな錬金術を覚えた時ほどは喜ばないだろう。
坊さんは喜んでこのカノニック派の僧にこう言ったのだ。
「わしらのために死んで下さったキリストの愛のために誓っていうのだが、これもみんな、あなたのおかげであるからにゃ、いったいどれだけのお礼をすればよいのか、さあ正直に言っておくんなせえ」
僧は答えた。
「聖母に誓って申すが、そりゃ高いもんですよ。たまげねえでおくれよ。だいたい英国中でこれができるのはわしと、もう一人托鉢僧がいるだけなんだ」
「いやなんぼ高くともかまわねえのだ。言っておくれな。いくら払えばいいんだね」
「そうか。高いよ、本当に高いんだよ。望みとなら素直にいうが、四十ポンド支払ってもらいやしょう。でも、あんたは前から親しい友だちだから安くしてあげたのだが、そうでなかったら、まだうんと高いんだぜ」
坊さんはすぐに金貨で四十ポンド出して来た。そして耳をそろえてこの悪僧にちゃんと支払いをした。だがこの悪僧の仕事はみな詐欺であったのに。
僧はこう言った。
「お坊さん、実はこのわしの術は広めないようにしているんです。秘密にしておきたいんです。後生だからあんたも秘密にしておいて下さいよ。
もし人にわしの秘密が知れると、わしの哲学をねたむものが出て、わしは殺されるほかないのだ」
坊さんは答えた。
「まさか、そんなことがあってはなりませぬ。そんな災難にあんたをおかけ申すくらいなら、わしが財産を全部なくしたり、(また気が狂ったり)したほうがまだましですよ」
僧は言った。
「あんたのご好意はきっと恵まれますぞ。ではさようなら、まことに有難う存じました」
そしてカノニック僧は出て行ってしまった。その後、坊さんのところへ彼は一度も姿をあらわさなかった。
坊さんは、その伝授の秘術をやってみたくなった時、自分でこころみてみたが、もうさらばだ、駄目だった。
みてごらんなさい。坊さんは喰い物になり欺かれたのだ。そのカノニック派の僧はうまく取り入っては人々を破滅に導いたのだ。
皆さん、よくお考え下さい。どんな身分階級にも人と金の間にはげしい争いが起り、金はむしろ一文も残らなくなるものです。錬金術は多くの人たちを盲目にさせ、それがむしろ金のひっぱくの大もとになるものです。
錬金術については哲学者は、あいまいきわまる言葉を使って説明するので、今日の人の知識ではとうていその真価はつかまれないのです。
錬金術者の連中はかけす[#「かけす」に傍点]のようによくべちゃくちゃしゃべり、術語にうきみをやつしているが、なんの目的にも到達できやしないのだ。
少し金でももってる人は、錬金術でもうかうかとけいこをやり出して、もってる財産をみんなすっからかんにたたいたらいいや。
みてごらんなさい。この欲ばったばくちの儲けどころは、こんなものだ――人の喜びも悲しみになり、重い財布を空っけつにしてしまい、金を貸した人たちの怨みをかうのがせきの山だ。
情けないことだ。やけどをした人は、火をこわがるものだよ。錬金術をやる人は、みんな失くさないうちに、早くよしたらいいのだ。まだおそくはない。ぜんぜんやめないよりはいいのだ。いつまでやっても、どうせ成功はしないのだ。いつまでももがいて歩きまわっても、みつからぬのだ。
錬金術をやる奴は危険を知らずに無茶に飛びまわって、まるでめくらの馬公のように向うみずだ。じゃまになる石をよけられるのに、わざわざその石にぶつかって行くという乱暴者だ。錬金術をやる奴はそんなものだ。
眼がよくみえないでも、心でよくみられるようにしたらよい。また、どんなによく眼でみはっていても、錬金術じゃ一文も儲からないぞ。借りたり、もらったり、ぬすんだりしたものをみんな失くしてしまうのだ。
あまりあつくならないうちに火をひっこましたらいい。そんな術に手を出さないことだ。手を出したら最後、もともこもきれいに失くなってしまうのだ。
このことについて哲人は、なんと言っていますか。新町のアルノルドというフランスの錬金術の哲学者が、その『哲学者の薔薇園』という本の中で、「水銀はその兄弟である硫黄の知識がなければ、何人もそれに化学的な変化を与えることができない」とまさに言っているところだ。またこの哲学者の説では、錬金術の祖ヘルメスがそのことを最初に言ったといわれている。その説では、竜はその兄弟に殺されなければ死ぬことがないというのである。すなわち、ここで竜というのは水銀のことを言うのだ。兄弟というのは硫黄のことを言ってるのだ。この二つは太陽(金)と月(銀)からひき出されたものだ。
またこの哲学者が言うのには、「ゆえに余の訓戒に注意せよ。哲学者の目的とするところ、およびその言葉を解せずして、人は錬金術をなすものではない。なす者こそ無学なものである。この術は神秘中の神秘であるからであるぞ」ということだ。
またプラトーの弟子の一人が、ある日先生に「その秘密の石の名をお教え下さい」と言った。(この話はその著『セニオリス』の中に出ている質問であるが、)するとプラトーは「ティタースという名の石のことだ」とすぐに答えてくれた。弟子は「どんな石ですか」と質問した。するとまたプラトーは「マグネシヤも同じものだ」
そうするとまた弟子は「これはしたり、これは知らざるものをより知らざるもので説くというものです。いったい、マグネシヤというものはどんなものですか」とききかえした。プラトーは「それは四つの要素から成る一種の水液であるのだ」と答えた。すると弟子は「それではその水の根(本質)をお教え下さいませんか」とたずねた。
その時プラトーは「いやいや、そりゃやりたくない。哲学者というものは、誰でもその本質は、書物などに書いたりして、人に知らさぬように誓ったのだ。それというのは、キリストにとってはそれは大切なことであるために、みだりにそれを人間におあかしにならないのだ。ただ霊感によって人にお知らせになるのみであって、神の思召しによることだ。それだけの話のことだ」と言った。
つまり、わしの結論はこうだ。神のご希望としては哲学者がみだりにこの仙石の発見法を明記しないことでありますから、なるべく錬金術はよしたほうがよいのです。
というのは、神のご意志に逆らうものは誰でも神を敵とするものだ。たとえ、現世で一生の間財をふやしてみても来世の栄えは望みがたい。
これでわしの話は終りですから、止めるとしましょう。
神よ、正直な人間には天の恵みを与え、お救け下さい。アーメン。
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大学賄人の話
大学賄人の話 前口上
御存じかどうか知らないが、カンタベリへ行く道中に、ボップ・ウッパンドゥーンという小さい町がブレー河の岸にありますが、その辺に来ると、亭主はまた冗談を言ってふざけ出した。
「皆さん。どうしたんです。少し行き詰って元気がなくなったようですね。だまって後からついてくるお仲間がいられますが、なんとかして、ねむけをさましてやって下さいな。追剥もこんな男なら楽なものだ。ごらんなさい、あんなに居眠りしてござる。じきに馬からおっこちそうですぜ。悪くするとロンドン生れの板前じゃなかろうか。
先へ出してやって、話をさせてやらないと後悔しますぜ。義理がたい奴に違いない。どうせ下司のやる話だ、屁のようなつまらないものだろうが。
おきなせえ。板前さん。どうしたというのです。朝っからねむっているなんて。夜じゅう蚤でねられなかったのか、それとも、酔っているのか、それとも頭をあげていられないほど、夜じゅうみずてん[#「みずてん」に傍点]と働いて来たというのか」
この板前は真青な顔して亭主に言った。
「ええ、ごもっとも。なんだか知らないが、むしょうにねむけがさしていて、チェープで極上の酒を一ガロンもらうよりか、こうやってねむっていたいのだ」
この時、そこにいた賄人は言った。
「うん。それもいい。板前さん、そうやっているのがおまえさんに楽なら、またこの団体のみなさんに不愉快な思いをさせないなら、それもいいさ。亭主の意見もそうなら、わしは当分おまえさんに話をさせたくないのだ。つらも真青だし、眼もおぼろにかすんでいるだろう。またさだめし、息もすっぱく、くさった臭いがするに違いない。それもからだの工合が悪いせいだ。わしがおまえさんの批評をしちゃ悪いのだが。
ごらん、この酔っぱらい、あんなに大きな口をあけてあくびをしている。まるでわしらをみんな呑みこんでしまいそうだ。おい口をしっかりつぶりな。地獄から悪魔が来て足をその中へつっこんでくれたらいい。
おまえさんのくさい息で、わしらはみんな病毒がうつされるんだ。
ええ、くさい豚だ。ええ、畜生。みなさん、この飲み助を注意して下さい。
さあ、おまえさん槍的《やりまと》柱で試合をしたらいい。(中世の武技の一つで、回転する棒の一端に砂ぶくろをつけ、他端に扇形の楯にもした広板をつけ、その広板を槍でつき、回転してくる砂ぶくろで背部をたたかれぬよう早く走り去る)それにはごくもってこいだ。
おまえは酔っぱらって、いまは猿のようになっているところだから藁を一本出してもそれに戯れるのだ」
そうすると板前は非常にぶりぶりおこって、賄人の方を向き、言葉も出せず、頭をぺこぺこ動かし、うらめしそうに、にらみつけた。あまり激して馬からおち、地面にのめされたが、助けられて馬にのっけてもらったのだ。これが板前の偉業というものだ。杓子をもって台所をまもっていなかったおかげだ。
このみじめな青白い幽霊はかさばった荷厄介なやつで、大変な骨折りをして、ようやく鞍に乗っけたのであった。
その時、亭主は賄人に言った。
「この酔っぱらいに話をさせたら、さぞ下等な話をするだろうよ。葡萄酒か、古いものでも新しいものでもビールで酔ったものなら、鼻声になり、フッフッ息をきらして、鼻かぜをひいたようになるものだ。また馬もろともにあいつが泥の中へでもおっこちようものなら、ひきあげるには厄介極まるものだ。またすぐ馬からおちると、重たい酔っぱらいの体をもちあげるなんて、皆さんにまた大変な迷惑をかけることになるのだ。こんな奴にかまわずに、あんたの話を始めて下さいな。
だがしかし、賄さん、あんたも実は少しまずかったな、面と向ってあいつのことを非難したもの。
あいつのことだ、いつかそのうちに、あんたを鷹のように餌で釣って復讐をしますぜ。というのは、こまかいことをほじくりだして、あんたの会計簿のあらさがしをすることだ。いずれ調べられたら不正がわかることだろうから」
賄人は言った。
「いやいや。そうなると災難だ。そうされちゃ、たやすくわしもわなにかかるのだ。あいつと張り合うよりか、あいつの乗ってる馬に金を出して買ってやったほうがまだ得だな。あいつをもうおこらせちゃ損だ。
ああ言ったのもまったく冗談で言ったことだ。だからこうしようと思うがどうです。幸いわしのひょうたん[#「ひょうたん」に傍点]に甘い酒が一瓶あるんです、そういえば、あんたもすぐにそのトリックがおわかりでしょうが。なんとかしてこの板前にそれを飲ませてやりましょう。あいつのことだ、『いや』とは言わないにきまっている」
そのとおり、板前はひょうたん[#「ひょうたん」に傍点]に口をつけて、ぐいぐい飲みだした。しようがない奴だ。前にたらふく飲んでるくせに、まだあきたらないのか。
ひょうたん[#「ひょうたん」に傍点]からラッパを吹くかっこうで滝のみにし、それを賄人にかえした。それを飲ませて貰ったのが大変嬉しかったとみえて、心からお礼をいった。
この時、亭主は大きな声を出して笑った。
「なるほど。どこへ行くにも、うまい酒をもって歩くものだな。酒はどんな怨みも不安も和合と愛にかえ、どんな危害に対してもその償いになるものだ。
ああ、酒の神バッコスは有難いものだ。真面目な人にも冗談を言わせる。バッコスを拝みましょう、有難い神様だ。
これはさておき、賄さん、話をやりだして下さいな」
賄人は言った。
「うん、では聴いておくんなさい」
賄人の話
ある古書によると、太陽《フエーブス》が、まだこの地上に住んでいた時分、彼はこの世の中で一番力強い若武士であり、最大な射手であった。
ある日のこと、日なたで眠っていたフィトウンという蛇を殺したり、他に数々の偉業をとげたのも、みな弓の力であったといわれている。
彼はまた、どんな楽器もひけたし、歌もうたえた。美しい声は音楽をきくようであった。テーベの王アムフィオンは歌をうたってその都市の城壁を築いたというが、フェーブスの半分も及ばなかった。
なおそれどころか、太陽はこの世が始まって以来、後にも先にもない美しい男だった。その面ざしのすぐれていることは言うまでもないが、この世に彼ほどに美しいものはなかった。また心もやさしく、名誉を重んじ、完全な偉人だった。
騎士道からも義侠からも、若武士の鑑であったフェーブス(太陽)は、自分の楽しみとして、また伝説でいわれているようにフィトウンという蛇を征服したしるしとして、いつも手に弓をもっていた。
この太陽は家に長い間からす[#「からす」に傍点]を籠に入れて飼っていた。そしてかけす[#「かけす」に傍点]に教えるように、このからす[#「からす」に傍点]に話をさせるようにしこんでいた。
このからす[#「からす」に傍点]は白鳥のように雪のごとく真白だった。人間のように立派に話ができた。それからナイチンゲールという夜鳥よりも遙かによく美しい声で歌もうたえた。
太陽には家に、自分の命よりも可愛がっている女房があった。そして彼はいつもこの女房のご機嫌をとり、敬っていたが、ただ嫉妬ぶかいので、その女房をしつこく看視をして、仇し男をこさえないように注意した。
そういうことはある程度まで誰もそうだろうが、看視をしても実は無益なことだ。言語挙動に潔白な善女は看視すべきものでないし、またがみがみ女は制裁しようとしても、それは徒労であり、とうてい駄目なことだ。
昔からの学者は一生の経験から言っているが、女房をおさえつけようとして骨を折るなどとは馬鹿なこっちょうだと思う。
この話の要点にもどって言えば、フェーブスがあらゆる手段をつくして女房のご機嫌をとっていたのも、そういうやりかたでやれば、女房に嫌われずに、男としての支配権が守れるものだと思っていたからだ。ところが、無理に圧迫してみても、生物に与えられた自然の性質は左右できないものだ。
鳥の例をごらんなさい。籠に入れて最上のうまい餌や飲物をやって、心をつくして養ってみても、また黄金の籠にいれて、綺麗に飼ってやったところで、鳥というものは粗野な寒い森の中にいるのが、籠にいるよりも幾千倍も好きなのだ。そこで虫をとってたべたり、そういう粗悪な餌をとりたがるものだ。
鳥はいつも自由を好み、一所懸命で籠からにげ出ようとしたがるものだ。
また猫の例もある。牛乳や、やわらかい肉で猫を飼ってやったり、絹で寝床をつくってやっても、ねずみ[#「ねずみ」に傍点]が壁のわきでも通ろうものなら、牛乳でも肉でも、またどんな御馳走もすてて、ねずみ[#「ねずみ」に傍点]をたべたがるものだ。このことは、欲が勝ち、食いけが分別をなくすものだということをよく示している。
牝狼にも粗野な性質がある。交尾期には恥も外聞もかまわず、一番悪い性質の狼を選んで夫とする。
これらの例はみな不実な男の場合のたとえであって、女のことを言っているのではない。男というものは女房より下等なものに情欲を満足しようとするものだからだ。どんなに美しい、貞淑な、しとやかな妻があっても下等なものに好奇心をおこすのだ。それというのも、肉欲というものは、不幸にして、好奇心である。肉欲は立派な徳行では一瞬も満足されないものだ。
正直なフェーブスはどんなに優れて偉いにしても妻に欺されていたのだ。妻は自分の夫フェーブスにくらべては、まったく取るに足らぬつまらない男を情夫《いろ》にしていた。だがこんなことから時々大事が起ってくるものだが、そういう場合はその罪はなお深いものとなる。
さて、ある日のこと、フェーブスが留守の時、妻は情夫を呼んで来た。
「情夫」という言葉は確かに下等な言葉だが、失礼ながら、そう言わせて下さい。
賢人プラトーもいうように、言葉と行為とは一致するものだ。正しくは、言葉と行為といとこ同士だということだ。
本当に、わしは学問のない人間だから言うのだが、貞操のない体のけがれた女なら、どんな高貴の女房でも、貞淑な貧乏人の女と、かわりがないと思うのだ。貞操がなければ、高貴の女も、下司の女も、上下の区別なく、悪い女ということになる。
だが貴族の階級では、そういうみだらな色好みの女でも貴婦人といわれ、貧乏人の女がそういうことをすると、色女とか情婦といわれるのだ。わしの考えでは、そういう貴婦人は情婦と同じように下等なものだ。
それと同じように、王位の僭取者と馬賊や大どろぼうとの区別ができないのだ。アレキサンドル大王にこんな訓言をしたものがある。「暴君というものは、普通のどろぼうより力があって、兵力で虐殺をやったり、家を焼いたり一国を焦土に化しても、大将軍といわれるのだが、馬賊はわずかな兵力でやるのだから、一国を亡すほどの危害を与えないでも、馬賊とかどろぼうといわれる」
そうは言うものの、わしは学問のない人間だから、古典のことはあまり知らない。どれこの話の先を語りましょう。
さて、フェーブスの妻は情夫をつれて来て、すぐ大ふざけをやらかした。
このことを籠にいた白いからす[#「からす」に傍点]が黙って見ていた。フェーブスが帰ってくると、このからす[#「からす」に傍点]は「コックー、コックー、コックー」と鳴いた。
フェーブスは言った。
「ええ、からす[#「からす」に傍点]、なんという歌をうたうのだ。以前はおまえは愉快そうに鳴いたのに、おまえの鳴く声をきくと楽しくなったものだが、今のこの不吉な鳴きかたはどうしたのだ」
からす[#「からす」に傍点]は言った。
「わたしはけっして鳴きかたがまずいのではありません。あなたは、どんなにえらいかたで、どんなに美しくやさしいかたか知りませんが、またどんなに歌がお上手で絃琴にたけていられようとも、またどんなに警戒なさっていようとも、あなたとくらべたら蚊ほどのねうちのないつまらない奴から、あなたは目をくらまされているのです。そんな奴があなたの奥さんとあなたの床の上でねているのを見たのです」
皆さんもあきれたでしょう。からす[#「からす」に傍点]は確証をにぎり遠慮なく、奥さんがどんな工合にみだらな行為を行ったか、主人にすぐ話をした。それはあまりにも主人にとっては恥辱で無礼きわまるものであった。からす[#「からす」に傍点]は幾度となく、実際に目撃したことをくりかえして語った。
フェーブスは顔をそむけて、心もさけるばかりに悲しんだ。彼は弓を引きしぼり矢をつがえて、憤怒のあまり妻を射殺した。そういう恐ろしい結果になってしまったのだ。
妻を殺したのを悔んだあまり、彼はまた楽器をみなたたきこわした。七絃琴も琵琶もギターも古代絃琴もこわしてしまった。また矢も弓も折ってすててしまった。
それから彼はからす[#「からす」に傍点]にこう言った。
「汝叛逆者め、さそり[#「さそり」に傍点]のような毒舌で、汝はわしを破滅におとしいれたのだ。生を受けて自分がこの世に生れて来たのが呪わしい。死んでしまったらよかったのだ。
奥、おまえはわしにはあんなに真実で、あんなに操をまもっていたのだ。美しい宝石であったのだ。それが、こんなに青ざめた顔をして、死んでいる。なんの罪もないのに殺されてしまった。
こんなみぐるしい過失をなしたとは、早まったことをした。不用意にも罪のない者を殺したとは、なんという血迷ったものか、なんという無分別の怒りか。まちがった嫉妬からだ。不信用から起ったことだ。智のたりない話だ。分別のないやりかただ。
人間は誰も早まってはいけない。確かな証拠なくものを信じてはいけないのだ。
確かにみきわめないで、早まってものを打ってはいけないのだ。怒りにも嫉妬にもまどわされず、よく考えて、ことをするものだ。
多くの人たちは怒りのために早まって自ら破滅するのだ。ああ、この苦しみのために自殺をしよう」
彼はまたからす[#「からす」に傍点]にこう言った。
「貴様はどろぼうだ。嘘を言った罪の敵《かたき》をとってやる。おまえは昔はナイチンゲールのように美しく鳴いたのだが、このどろぼうめ、その声を失くしてしまったのだ。その白い羽をみな失くしたのだ。おまえにはもう一生しゃべらせないようにしてやるぞ。叛逆者の敵はとらなければならないのだ。おまえもおまえの子孫もみな真黒くしてやる。その美しい声もでないようにしてやるのだ。ただ風の時や雨の時にはいつも、わしの女房がおまえのために殺されたということをおまえに鳴き叫ばせるのだ」
そう言って彼はからす[#「からす」に傍点]の方へ急いで行って、白い羽をみんなむしり取り、どす黒くしてやった。またその美しい声を取り去り、話さぬように言葉をとりあげてやった。そしてどうなろうと外へからす[#「からす」に傍点]をほうり出してしまった。それからというものは、からす[#「からす」に傍点]はみな黒くなってしまったということだ。
みなさん、この例をみて、よく考え、わしのいうことをよくきいて下さい。「おまえの女房は他の男にやられた」などというものではない。そう言われた男は言った人を殺してしまうほど憎むものだ。
賢人たちもいうように、ソロモンは余計なことをおしゃべりするものでないと教えている。
わしは前にも言ったように古典に通じてはいないが、おふくろからよくきかされたものだ。
「ぼうや、からす[#「からす」に傍点]の話を忘れてはいけませんよ。お友達には言葉をつつしみなさいよ。悪口は悪魔よりまだ悪いんだよ。人はみな十字をきって悪魔を払うのです。
神様は限りないご慈悲から、人間の舌を歯や口脣で囲ってお守り下さるのだ。人間は言葉をつつしむようにそうなさって下さったのだ。
学者の教えによると、あまりしゃべりすぎて、多くの人たちは亡びたのだ。言葉をつつしめば人は助かるものだと普通いわれている。
神様を拝みお祈りをし、つとめて神様のことをお話する以外には、いつも言葉をつつしみなさい。
ぼうや、最初に覚えなければならないのはおまえの言葉をつつしむことだ。そうするのは子供の時分から大切なことだ。おしゃべりをつつしまないと、つい不用意にしゃべると敵をつくるものだと言ってきかされたものだ。おしゃべりは罪をつくるものだ。
早まってものを言うと損をするのだよ。ちょうど刀で腕をまっ二つに切りおとすように、舌は友達を二つに切り離すものだ。おしゃべりは神様がお嫌いになります。
ダヴィデの歌やローマの賢人セネカを読んだらよい。あまりしゃべらずに、うなずいているものだ。おしゃべりの人が危いことを言うときは、つんぼのまねをして、きかないふりをするがよい。フランドル人の諺にも『おしゃべりをつつしみさえすれば、それだけ安心だ』というが、よくおぼえていなさい。
人の悪口をつきさえしなければ人から悪口をつかれる心配がないのだ。だがいったん言ったことは取り返しがつかない。もう言ったら最後、どんなに悔んでもぜひもない。不愉快に思われる話を対手に言ってしまったら、その人におちどを捕えられうらまれるのだ。嘘でも本当の話でも、人のうわさをする張本人だと思われないようにすることだ。どんな人たちの間でも言葉をつつしみ、からす[#「からす」に傍点]の話を忘れてはいけないよ」
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牧師の話
牧師の話 前口上
賄人の話がすむと、わたしの見たところ、太陽は南から西へさがり、その二十九度のところに来て、四時頃であった。その時のわたしの影の長さはながくなり、六フィートのものが約二倍の長さになる時であった。
土星の支配が最高勢力に達した時(天秤宮の二十一度)は、わたしたちが村へはいりかけた時でした。
それで亭主はいつものように、この愉快な団体の進行係をして、こんなふうに言った。
「みなさん、もうひとつどなたか話して下されば、ちょうどわしの計画どおりにすむのです。わたしの命令をみなさんがよくまもって下さったので、わたしの計画も完成に近いのです。この最後の話を面白くなさって下さるかたは、きっとこの話自慢に勝てるみこみがあるのです。
お坊さん、代理牧師をなさっていられるかたか、それともどこかの住職でございますかい。正直におっしゃっていただきたい。
いずれにせよ、あんただけまだ話をなさらないのです。とぎれないように、つづけて話をやって下さいな。
どんな話をおもちですか、やってみていただきたいのだ。そのお顔つきじゃ、さだめし、立派な話がおできになれることだ。すぐに、話を始めて下さい」
この牧師はさっそく答えた。
「わしにおどけ話をさせないでもらいたいのだ。聖パウロは『テモテへの書』で、信実のないおどけた悪いつくり話をする者を、非難されているのだ。わしも百姓をしているのだから、実のなる小麦の種をまけるのに、なにを好んで、自らすすんで実のない籾がらをまけましょうや。
だから、教訓話の立派なことがききたけりゃ、おきき下さいよ。できることなら、キリストのために、あんたがたを心から喜ばせてあげたいのだ。
だが、わしは南国生れじゃ、北国ではやるような言葉の頭をそろえる・・ルム・ラム・ルフという口調で話ができないし、また普通の韻文もそれほどよいとも思えぬから、飾らぬ平凡な言葉で話すつもりだ。だから、面白い話をひとつ散文でいうことにして、この話の会の総くくりに最後の役を務めましょうか。
またイエスは恵み深くも、わしをこの巡礼に参加させ、みなさんに、天国のエルサレムへ行けるあの完全な光栄ある巡礼への道を御案内するようにさせて下さったのです。
みなさんが御承諾なら、わしはさっそく始めましょう。それについて御意見でもあればおっしゃって下さい。わしとしては精々よくやるつもりです。だがこの説教は、沈思黙考してやるのですけれど、もし学者からみて誤りがあればなおしていただきたい。わしは教書を手もとにもっていて正確にやるのではないのですから。つまりその意味だけをお話するのですから、修正されるところが十分あるのだと言えるのです」
この言葉をきいて、すぐにわたしたちは賛成したのだ。それというのは、牧師に話をしてもらって、なにか有難い話で巡礼の旅を終りたいと思ったからだ。
わたしたちは牧師にお話を願うように亭主に頼ませた。議長の役をつとめた亭主は言った。
「お坊さん、どうも有難う存じます。どんなお話でもお気に召したままやっていただきます。みんな感心にききたいのです」
なおつけ加えて言った。
「黙想録をひとつおやりになって下さい。でも急いでいただきたい。日もくれて来ます。この残りのわずかな時間を有効に使って、いいところをうまくおやりになって下さい。お願いです」
牧師の話
天にましますわれらの神は、どんな人間も亡びることはお望みにならないのです。いや、われわれみなが神を知り、永遠につづく幸福な生涯を知るようにと、予言者エレミヤの口を通して、次のようにお諭しになっておられます。
「汝ら途《みち》に立《たち》て見古き径《みち》に就て(といいますのは、古人の教えのことですが)何《いずれ》か善道《よきみち》なるを尋ねて、其|途《みち》に行《あゆ》め、さらば汝らの霊魂安《たましいやすき》を得ん」
われらの主、イエス・キリストに近づく道、すなわち栄光の国へ導かれる心霊の道はたくさんあります。なかでも、非常に立派で工合のよい道があります。これまでに罪を犯して、天のエルサレムへの正しい道から足を踏みはずしてしまった男にも女にもきっと役に立ってくれる道なのです。それは「贖罪《しよくざい》」と申す道です。人間たるものは心をつくしてこの道のことをとくと聞くべきです。ところで、「贖罪」とはいかなるものでありましょうや、どうして「贖罪」と申すのでしょうか、また「贖罪」の行為はいく通りありましょうか、またさらに、「贖罪」に必要なものはなんでしょうか、邪魔になるものはなんでありましょうか。
聖アンブローズも申されたことですが、「贖罪とは犯した罪に対する歎きであり、歎かねばならぬようなことは二度と繰り返すまいとすることです」
またある博士の言葉によりますと、「贖罪とはあやまって犯した罪を歎き悲しむことであります。」贖罪とは自らの罪を歎き苦しむ者が、ある条件つきで、心から痛悔することです。真に贖罪するためには、まず犯した罪を歎き、ひたすら心の中で罪の告解をして贖罪し、二度とこのような罪を犯さず、善行を積んで行かねばなりません。さもなければ、痛悔してもなんにもならないのです。
イシドールスも言っていますように、「痛悔したやさき、またすぐ罪を犯すようなものはふざけ者であり、うそつきである。本当に痛悔したものではない。」ただ犯した罪を歎いても、以後罪を犯すことを止めないかぎり、なんの役にも立たないのです。しかしそれにもかかわらず人々は何度罪を犯しても、もし彼が聖寵をうけているなら、そのつど「贖罪」によって立ち直ることができると思うべきです。しかしこれは大いにおそるべきことです。
聖グレゴリウスも、「悪に染まって習性となったものは、救い難し」と言っておられます。よく痛悔し、以後死ぬまで罪を犯さぬものは、教会の力で必ず救われるのです。また、罪を犯したものでも、死の間際に心から痛悔するならばその心に免じて、われらの主、イエス・キリストの大いなるお慈悲によって教会がその者を救うのです。つねに安全な道を歩みなさい。
さて、贖罪とはどういうものであるかということについていまお話ししましたから、次に、贖罪に三つの行為があることを知らねばなりません。贖罪の第一の行為は……(原典は以下数行ぬけていると思われる。話はとんで贖罪の際にすべからざる行為に移っている。)
罪を犯した後に洗礼を受ける際には、聖アウグスティーヌスも言っておられるように、「過去の罪深き生活をよく贖罪するにあらざれば、新しい清らかな生活にはいることはできない」のであります。昔の罪を償うことなしに洗礼を受けるものは、心から痛悔するまでは、形だけ洗礼の印は受けても、聖寵も得られなければ、真の罪の宥しも得られないのです。第二に、洗礼を受けた後に大罪を犯してはならないということ。第三に、洗礼の後に毎日毎日小罪を犯してはならないということ。ですから、聖アウグスティーヌスも言っておられるように、「心正しくつつましやかな者の贖罪は日々に行われる」のであります。
贖罪には三つの種類があります。公式の贖罪と普通の贖罪と秘かに自分だけでする贖罪とあります。公式に行われる悔悛には二通りありまして、一つは子供を殺したというような罪を犯したものが四旬節に教会から破門されるというようなこと。もう一つはある者が公然と罪を犯して、そのうわさが国中に拡がっている場合、教会は裁判によってその者に公の席で悔悛するように命ずるのです。
普通の悔悛というのは大がい僧侶がある場合に一般の人々に言いつけるものです。例えば粗末な薄衣をまとったり、またははだし[#「はだし」に傍点]などで巡礼に行くようにと命ずるのがそれです。
自分だけで秘かに行う悔悛というのは、人々がいつも人知れず犯した罪に対してする悔悛です。われわれは自分だけで秘かに告解し、秘かに悔悛するわけです。
さて、次に真実の完全な贖罪には、何が必要であるかを知らねばなりません。その根本は三つあります。心の中で痛悔すること、口に出して告解すること、そうして最後に贖罪することであります。
このことについて、聖ジョン・クリソストムはこう言っておられます。「贖罪というものは、心で痛悔し、口に出して告解し、さらに贖罪して、あらゆる屈従をしのび、自らに課せられた苦痛を従順に受けるようにさせるものである」
これでこそ初めて、私たちが、主、イエス・キリストのお心を損じた三つのことに対する有効な贖罪となるのです。すなわち快楽的考え、不注意な言葉、罪深き行いの三つです。これらのけしからぬ罪を償うために贖罪があるのです。これは木にたとえられましょう。
その木の根は「痛悔《つうかい》」であります。それは真に痛悔した者の胸の中に隠れています。ちょうど木の根は地の中に隠れているように。そしてその痛悔という根から茎が伸び、その茎に「告解《こくかい》」という枝葉が出、「贖罪」という実が結ばれるのです。
このことについて、キリストは福音書の中で、「立派な贖罪の実を作るべし」と言っておられます。なぜかと申しますと、人々は実によってその木を知ることができます。けっして胸の中に隠れている根によって知れるわけでもなく、また、「告解」という枝や葉によって知れるわけのものでもありません。ですから、われらの主、イエス・キリストはこのようにおっしゃっておられます。「汝ら果実によってそれらを知るべし」
この根から、同時に聖寵という種子が生れます。この種子は安心の母であり、痛烈かつ熱烈なものであります。この種子の聖寵は神から生れます。最後の審判の日のことを思い、地獄の責苦を思うがゆえに生れてくるのです。このことについてソロモンはこう言っています。「神を畏れることによって人間は罪を捨て去るのである」
この種子の熱は神を愛する心であり、永遠なる喜びを求める心であります。この熱は人の心を神へと近づけ、自分の罪を憎むようにさせます。実際、赤ん坊にとって母乳ほど美味《おい》しいものはありません。他のものが混じった乳ほどいやなものはありません。ちょうどそれと同じことで、自分の罪を愛しているうちは、罪が一番快いものに思われるのです。ところが、いったんわれらの主、イエス・キリストを心から愛するようになり、永遠の生命を望むようになると、今度は自分の罪ほどけがらわしいものはないと思うようになるのです。
まったく、神の掟は神を愛することであります。予言者ダヴィデはこう言っています。「われ、汝の掟を愛し、不正と憎悪を憎む。」神を愛する者こそ、神の掟を守り、神の言葉を守る者です。
予言者ダニエルはネブカデネザル王の夢を聞いて、心の中でこの木を見ました。そこで、ダニエルは王に贖罪を勧めたということです。
ソロモンの言うところによりますと、「贖罪」はそれを受け容れるものにとっては生命の木であり、つねに心から贖罪をしているものは祝福されるのであります。
さて、「贖罪」の第一の部分、すなわち「痛悔」について、人は四つのことを知らねばなりません。すなわち、痛悔とは何か、人を痛悔へと導く動機は何か、いかにして痛悔すべきか、そうして、どのような痛悔が霊に益するかということです。結局、痛悔というものは、罪に対して人々が心の中に抱く真実の歎きであって、告解し贖罪して、以後けっして罪を犯すまいと心から願うことなのです。そうしてこの歎きは聖ベルナルドゥスも言われるように、こうなければなりません、すなわち、「それは心の中で非常に重く鋭く厳しくあらねばならない。」なぜならその者は、主であり創造者であらせられる方を怒らせたのですから。もっと鋭く厳しくてもいいわけです。天にまします父を怒らせたのですから。いや、もっと鋭く厳しいのが当り前です、なぜなら自分を贖《あがな》って下さった方をお怒らせしたのですから。その方は尊い血をもってわれわれを罪のきずなから、悪魔の残虐から、そしてまた地獄の責苦からお救い下さったのであります。
人を「痛悔」へ導くべき動機には六つあります。まず第一は、自分の犯した罪を覚えておくことです。ですが、けっして快いものとしてそれらの記憶を眺めてはなりません。その罪に対して非常な恥と悲しみとを抱かねばなりません。ヨブも言っていますように、罪ある者は、告解にふさわしい行いをするのです。ですから、聖エゼキエルはこう言っています。「わが世にある間、わが心の苦しみによりて、われを記憶せん。」神も黙示録《もくしろく》の中でおっしゃっておられます。「汝らいずくより落ちしかを思え」
罪を犯す前までは、人々は神の子であり神の国に属している者であった。ところが、罪を犯したがために、奴隷となり邪悪なる者となり、悪魔の手下、天使の嫌われ者、教会の面よごし、嘘つき蛇の餌、地獄の火の絶えざる燃料となったのです。
いや、もっと邪悪なけがらわしいものになったわけです、なぜなら人々は自ら嘔いた物を食べに戻る犬のように何度も罪を重ねたのですから。そしてまた、長い間罪を重ねてそれが習性となってなおさら邪悪なものとなったのです。その罪の中で人々は朽ちてゆくのです、ちょうど獣が糞の中で死んで行くように。
このように考えると、人々は自分の罪を恥じ、けっして喜ばなくなるのです。ちょうど予言者エゼキエルの口をかりて神がおっしゃっておられるように。「汝ら、汝らの行為《わざ》をよく憶《おぼ》えよ、それらは汝らを不快にさせるであろう。」まったく、罪悪こそ人々を地獄へと導く道であります。
人々が罪を嫌悪するようにさせる、二番目の動機というのは、聖ペトロも言われているように、「罪を犯すものはすべて罪の奴隷である」ということです。罪は人を奴隷として強く束縛してしまいます。
でありますから、予言者エゼキエルも、「われは己れを憎み、悲しみに耽った」と申しております。まったく人々は当然、罪を憎み、罪の束縛、罪の隷属から身を引くべきです。
セネカはこのことについてなんと言っているでしょうか。「神も人もそれをけっして知ることはあるまいということは私にはわかっていたが、しかも私は罪を犯すことを蔑みたいと思っていた」
また、同じくセネカはこうも言っております。「私は、自分の体の奴隷となったり、自分の体を奴隷にしたりすることより遙かに尊いことをするために生れてきたのだ」
いかなる男にしても女にしても自分の体を罪に托してしまうことが一番、自分の体をけがらわしい奴隷に化してしまうことになるのです。そうすれば、たとえその者がこの世で最も価値のない者であろうと、なお邪悪なるものに、なお罪の奴隷として束縛されるようになるのです。
高い地位から堕ちるごとに、ますますその者は奴隷となり、ますます神に対し、この世の中に対し邪悪なけがらわしいものとなるのです。
ああ、ほんとうに、人々は罪を蔑むべきであります。なぜかと申しますと、罪を犯したがために、せっかく自由であった者がすっかり束縛の身となってしまうからです。
ですから、聖アウグスティーヌスも言っておられます。「もし汝の下僕があやまちを犯したがために、その者を蔑むときは、汝自らが罪を犯すことを蔑め。汝が自己に対してあまりに邪《よこし》まなものとならないように、汝の価値にふさわしいだけの報酬を受けよ」
ああ、まったく人々は罪の下僕となり奴隷となることを蔑むべきです。そして自らを恥じるべきです。神々は量り知れないお恵みをもって人々に高い地位をお与えになり、知、肉体の力と健康、美、繁栄とをお与えになられた。しかも胸の血を流されてまで人々を死から救い給うたのであります。その神のおなさけに対して、人々は神にひどい報いをし、かくて彼らはみずからの魂を殺してしまったのであります。
おお、いとも美しい女たちよ、ソロモンの言った言葉を思い出しなさい。「美しいが、体の軽はずみな女は、豚の鼻についている金の輪のごときものだ」と彼は言っています。なぜなら、ちょうど豚が鼻の先であちこち泥の中をつっつき廻しているように、美しい女は罪悪という臭い泥沼の中で、自分の美をつつき廻しているのです。
人々を「痛悔」へと動かす第三の動機は、最後の審判の日と、地獄の恐ろしい責苦とに対する恐怖です。聖ジェロームはこう言っています。「私は、最後の審判の日のことを想うごとに、身の内が震える。食べている時でも、飲んでいる時でも、何をしている時でも、いつもラッパの音が耳もとに聞えるような気がする。汝ら死せる者ども、立ちあがって、審判の庭にきたれ」
ああ、聖パウロも言っておられるように、「われらの主、イエス・キリストの席の前にわれらすべては立たねばならない。」そのような審判を人々は当然恐れるべきであります。その時には、主は総会を開かれ、いかなる人間も欠席することは許されないのです。いやまったく、その場合、どんな言いわけも頼みごとも役に立ちません。そうしてただ私たちの落度が裁かれるだけでなく、あらゆる私たちのした行いがその場で公開されます。聖ベルナルドゥスも言っておられるように「そこではいかなる頼みも陰謀も役立たない、どんな下らない一言にも償いをせねばならぬ」のであります。
そこの裁判官はけっしてごまかすことも買収することもできません。なぜでしょうか。われわれの心の中で考えていることは、すっかりその裁判官にわかっているのです。また、頼みこんでも、賄賂を持って行っても買収することはぜったいにできないのです。
ソロモンも言っていますように、「神の怒りは、頼もうが贈物をしようが、誰をも容赦するものではない」のです。このように最後の審判の日は、逃げ隠れできる望みはいっさいないのです。
でありますから、聖アンセルムはこう言っておられます。
「罪を犯したものは、最後の審判の際には大きな苦悶をなめなければならない。上には、いかめしく厳格な審判者が坐っており、その下には、恐ろしい地獄がぽっかり口を開けて、罪を認めざるを得ない者を滅ぼそうと待ち構えている。その罪は、神やその場にいるすべての者の前に公にされるのである。そうして左側には、考え及ばないほど無数の鬼どもが罪深き魂を地獄の責苦へせき立て、引きずって行こうと控えている。」こうして人々の心の内部には鋭い良心の呵責があり、外部の周囲には燃えさかる世界がある。いったいどこへみじめな罪人どもは隠れることができようか。実際、隠れることなどできはしない、出てきてみなの前に身を曝すより仕方がない。
なぜなら、聖ジェロームも言っているように、
「大地も、海も、大気も彼を追い出してしまう。大気は雷鳴と雷電に満ちるであろう」
実際、こういうことをよく念頭に留めているものは、地獄の責苦が恐ろしいわけですから、罪を犯してうれしいはずはないのです。非常に歎くはずです。ですから、聖ヨブは神に言いました。「主よ、しばしの間われに歎き悲しむ時を与え給え。いったん行けば戻ることのかなわぬ、死の闇にとざされた暗い国へ旅立つ前に。煩悶と暗闇の国、死の影のある土地、なんら秩序も順序もない土地、そこにあるものはただ永遠につづく恐怖のみである」
御覧なさい、ヨブは神に、犯した罪を歎き悲しむしばしの猶予を願っているではありませんか。まったく、一日の猶予はこの世のすべての宝にもまさるものであります。神の前で自らの罪を免ずることができるのは、この世における贖罪であって、宝ではないのですから、ヨブは犯した罪を歎き悲しむしばしの猶予を神に請い願ったのです。
まったく、人がこの世の初めから味わったすべての悲しみをよせあわせても、地獄の悲しみにくらべれば物の数ではないのです。ヨブがなぜ地獄のことを「闇の国」と呼んだのでしょうか。地獄のことを「国」または「土地」と呼んだのは、それが動かないものであり、滅亡することのないものだからであります。「闇」と呼んだのは、地獄の中にいる者は自然の光を見ることがないからです。実際には、暗い光が永遠に燃えつづけている地獄の火から発している、それは地獄の中にいる者にとって非常な苦しみとなるのです。なぜならその光はその者を責めさいなむ恐ろしい鬼どもに自分の姿を見せるからです。「死の闇にとざされた」とヨブが言っているのは、つまり、地獄にいる者は神のお姿を拝むことができないということなのです。なぜなら、神のお姿こそ永遠の生命であります。「死の闇」というのは、みじめな者どもの犯した罪が邪魔をするので、神のお顔が拝めないのです。ちょうど、太陽とわれわれの間にある黒雲が日光の邪魔をするように。
「煩悶の国」と呼んだのは、地獄では三つのものが欠けているからです。その三つは現世では得られるものです。すなわち、誉れと快楽と財産です。誉れに対して、地獄で得るものは恥辱と混乱です。「誉」とは人が人に対する尊敬の情であることはよく御存じでしょう。ところが、地獄では、その誉も尊敬もないのです。そこでは王さえも下僕と同然、けっして尊敬されるなどということはありません。
神は予言者エレミヤの口を通してこう言っておられます。
「われを侮ったものは、侮辱されるであろう」と。
「誉」はまた偉大な権威とも言われます。ところが地獄では誰も危害と責苦以外のものに仕えることはありません。また「誉」は非常な高位高官であるともいわれます。けれども地獄ではそんなものは悪魔どもにすっかり踏みにじられてしまいます。神が言われるように、「恐ろしい悪魔は地獄へ堕された者どもの頭の上を往き来する」のであります。しかも、この世で高い地位にあればあるほど、その者は地獄ではしいたげられ、踏みにじられるのです。
現世の財産の代りに、地獄では貧困という苦しみがあります。そうしてこの貧困は四つの面にあらわれます。つまりひとつには財宝のないことです。このことについてダヴィデはこう言っています。「この世で財宝のことにのみ執着している金持も、死の眠りの中で眠ることであろう。しかも手には自分の財宝を一つも持たずに」
その上に地獄の苦しみの中には、食物、飲物の欠乏があります。神はモーゼの口を通して、次のように言っておられます。「彼らは飢えて痩せおとろえるであろう。地獄の鳥どもが彼らをむざんに殺し、むさぼり喰うことであろう。竜の胆汁が彼らの唯一の飲物となり、その毒が唯一の食物となるであろう」
さらにそのうえに、着る物がないという苦しみがあります。なぜなら、彼らはまったく身にまとうものがないのです。ただ身の周りにあるものは彼らを焼く火とその他の汚物だけです。しかも、彼らの心も裸です。心の着物であるあらゆる美徳を彼らは持っていないのです。派手な衣服、やわらかい布、小さい下着などは、いったいどこへ行ったのでしょうか。神は予言者イザヤの口を通して、彼らのことをなんとおっしゃったでしょうか。「彼らの下には蛾が撒《ま》かれ、彼らを覆うものは地獄の蛆共《うじども》であろう」
またさらに友達がいないという苦しみもあります。なぜかというと、よい友をもっている人は貧しくないわけですが、地獄では友というものが一人もいないのです。なぜなら神もどの生き物も彼らの友ではありません。彼らは互に心の底から憎みあうのです。
「息子も娘も父や母に刃向い、血族は血族に反逆し、夜となく昼となく、互にいがみあい、憎みあう」と神は予言者ミカの口を通しておっしゃっておられます。
かつてはあれほど骨肉の愛で互に愛しあっていた可愛い子供たちも、地獄では互に喰い殺さんばかりの有様です。地獄の責苦の中でどうして互に愛しあうなどということができましょうや、現世における成功を互に憎みあっている仲ですから。いや、まったく彼らの骨肉の愛は非常な嫌悪だったのです。予言者ダヴィデも言っていますように、「悪を好むものは、自分の霊を憎むもの」であります。自分の霊を憎むものは当然どうしたって他人を愛するなどということはできません。ですから、地獄の中にはなんの慰めも友情もないのです。地獄の中では骨肉関係のものが多いほどますます呪いあい、いがみあい、憎しみあいも多いわけです。
またさらに、その他に彼らは快楽というものをいっさいもちません。まことに快楽というものは五感の欲求によるものであります。すなわち、視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚であります。ところが地獄では、彼らの見るものといえば、暗闇と煙だけです。ですから彼らの眼は涙でいっぱいです。彼らの聴くものといえば、歎きわめく声と歯ぎしりの音だけだとイエス・キリストもおっしゃっておられます。鼻は気持の悪くなるような悪臭でいっぱいです。しかも、予言者イザヤが言っておりますように、「彼らの味わうものといえば、にがい胆汁だけなのです。」彼らの体に触れるものといえば、「消えることのない火と、死ぬことのない蛆虫だけである」とイザヤの口を通して神は言っておられます。
地獄の責苦にあったとてけっして死ぬことはできず、死んで責苦から逃れることもできないということを彼らはよく知っているのですから、「そこには死の影がある」とヨブが言った言葉もよくわかっているのです。
まったく、影というものは、その影の実体によく似てはいますが、実体と同じものではありません。それと同じように、地獄の責苦も、死の断末魔にそっくりです。なぜなら地獄の責苦は彼らを絶えず苦しめるので、今にも死んでしまうのじゃないかと思われるのです。ところがけっして彼らは死んでしまうことはありません。聖グレゴリウスも言っておられるように、あわれな罪人どもにとっては死ぬことなき死があり、終ることなき終末があり、なくなることのない欠乏があるのです。なぜなら彼らの死は、つねに生きており、彼らの終末はたえまなくいつも始まっており、欠乏はつねに欠くることがないからです。でありますから、福音書を書いた聖ヨハネもこう言っておられます。「彼ら死を求むれど、死を見出し得ず、死なんとこいねがえども、死彼らより逃れ去る」
ヨブも言っていますように、地獄に整然たる秩序というものはいっさいないのです。神はすべてのものを正しい秩序をもっておつくりにならず、すべてに秩序正しい順序をおつけになりました。ところが、地獄へ堕された者は秩序にあてはまらないもので、なんの秩序ももっていないのです。
大地は彼らのために果実を結んでやりません。なぜなら予言者ダヴィデも申しますように、神は彼らから大地にある果実を奪ってしまうのです。いかなる水も彼らの渇を癒やしてはくれません。空気も彼らを元気づけてはくれません。火も光を与えてくれません。聖バシリウスも言っておられますように、「神はこの世の中にある火の熱は、地獄にいる者どもにお与えになるが、光と明るさは天にいる神の子にお与えになる」のです。ちょうど、立派な人がわが子には肉を与え、犬には骨を与えるのと同じです。
彼らはけっして逃れることはできないのですから、聖ヨブが最後に言っているように、「そこでは陰惨な恐怖が永久につづいている」のです。恐怖とはやがて来るべき危害に対する絶えざる怖れであって、この怖れは地獄に堕ちた者の心にいつまでも残っているのです。
それですから彼らは七つの理由のためにまったく希望というものを失っています。第一に、彼らの審判者である神は彼らにはまったく情けをかけては下さらない。彼らは神をお喜ばせすることができない。また神に仕える聖者たちをお喜ばせすることもできない。罪を贖《あがな》う何ものも与えることはできない。神に申し上げる声をもたない。責苦から逃れることができない。その上、彼らは少しも徳をもっていないので、よい行いをすることによって責苦から自分を救い出すことができません。
それですから、ソロモンも申しておりますが、「悪い者は死んだ後、けっして責苦から逃れることはできない」のです。
これらの責苦をよくわかりたいと思う人は、そして自分の罪に対しては当然それだけの責苦を受けねばならないということに思い至った人は、ですからもううたったりはねたりするどころではありません。溜息をつき悲しみにふけりたいと思うのが当然です。
ソロモンも言っています。「誰でも、罪悪に対していかなる責苦が定められているかを知った者は、悲しまざるを得ないであろう」
「そういうことを知れば、人は心のなかで歎き悲しむのである」と聖アウグスティーヌスも言っておられます。
人々を「痛悔」へと導く第四の点は、現世において行わずにしまった善行と、彼が失ってしまった善行とに対する悲しい記憶です。まったく人々はいろいろ善行を残しています。なかには大罪に陥る以前に行った善行もあれば、罪に陥っている最中に行った善行もあります。罪に陥る以前に行った善行は何度も繰り返される罪のために弱められ、混乱し、薄められてしまいます。また一方、大罪に陥っている最中に行った善行は、天国の永遠の生活に関するかぎり、まったく死んでしまったことになります。
ですから、何度も罪を重ねたために帳消しにされてしまった善行は、たとえ神の聖寵にあずかっている時に行ったものであっても、心から贖罪しないかぎり、再び生き返ることはできません。
このことについて、神はエゼキエルの口をかりてこうおっしゃいました。「もし義人《ぎじん》その義をはなれて悪を行わば、生《いく》べきや」と。いえ、生きることはありません。彼の行ったすべての善行は忘られてしまいます。なぜならその者は罪の中で死んで行ったのですから。
このことについて聖グレゴリウスも言っています。「人々が何よりもまず心得おくべきことは、もしわれわれが大罪を犯したならば、それより前に行った善行をいくら記憶に呼びもどそうとしても、それは無駄な話であるということです。」なぜかと申せば、大罪を犯す場合、それより前に行った善行に対する信用はなくなるのです。というのは、その善行によって天国の永遠なる生活へ入ることはできなくなるのです。
けれども、その善行も再び生き返り、再び戻ってきて、天国の永遠なる生活へはいるのに役立つことができます。それはわれわれが痛悔をした場合であります。ですが、大罪の最中に行った善行は、これが大罪である以上は、どうしても生き返ることはできません。一度も生命を持ったことのないものが生き返るはずはありませんから。それにしても、その善行は永遠なる生活にはいるには役立たないまでも、地獄の責苦を減ずるとか、この世で財宝を得るとかいうことには役立つでしょう。またますます神がその罪人の心を明るく照らして悔悛させたいものだと思召すようにもするでしょう。また善行を積む習慣をもたせて、魂の上に悪魔の影響が及ぶのをより少くするのにも役立つでしょう。
情け深き主、イエス・キリストは、いかなる善行も消えないようにお望みになるのです。なぜなら、善行はいま申しましたようになんらかの役に立つものなのです。
それにしても、善良な生活をしているあいだに行った善行でも、その後に行った罪によってすっかり帳消しにされますし、大罪を犯している間に行った善行は永遠なる生活を得るにはまったく役立たないのであります。ですから、現在善行をひとつもしない者は当然あのフランスの新しい歌、「時も苦労も水の泡」という歌をうたうがいいでしょう。なぜなら、罪というものは人から自然の幸せも、聖寵の幸せも奪ってしまうからです。聖霊の恩寵はちょうど休むことのできない火のようなものであります。火というものは、その働きを止めるとすぐ消えてしまいます。それと同じように、聖寵もその働きを止めるとすぐなくなってしまうものなのです。それですから、罪ある者は栄光ある幸せを失います。その幸せは真面目に働く者のみに約束されているものです。
それですから、これまで生きて来ただけの生命《いのち》、またこれから先、生きるかぎりの生命を全部神に戴いていながら、自分の全生命を下さった神に自分の負債を支払うべき善行を何一つ持っていない者は大いに悲しむべきです。
聖ベルナルドゥスはこうおっしゃっておられます。「人はこの世で自分に与えられたいっさいの物について決算を提出せねばならぬ。またそれらのものをいかに費したかを報告せねばならぬ。それであるから、ほんの頭髪の毛一筋を失っても、また生涯のうちのほんの一瞬の時を失っても、それについて計算を提出しなければならないのである」
さて、人々を「痛悔」へと導く第五の動機は、われらの主、イエス・キリストが私たちの罪を救われるために受けられた受難を思うことであります。聖ベルナルドゥスもこう言っておられます。「私は生命《いのち》あるかぎり、われらの主、イエス・キリストが教えをひろめておられる時に受けられた数々の労苦を覚えていよう。労苦をなめておられる間の疲労、断食しておられた時の誘惑、祈りを捧げておられる間の不眠、善良な人々の上を思って流された涙をしかと覚えていよう。またさらに、人々が主に対して言った害ある恥ずべき、汚らわしい言葉、また、人々が主の顔に吐きかけた汚れた唾、人々が主に加えた鞭、非道な排斥、人々が主に対して吐いた非難のことも覚えていよう。さらに主が十字架にはりつけられた釘のことも、そのほか、すべて主が御自身なんの罪科《つみとが》もないのに私の罪を着て受けられた受難のことをしかと心にとめておこう」と言っておられます。
罪を犯すと、すべての秩序、順位も逆転してしまうということを知っておかねばなりません。と申しますのは、神、理性、五感の欲、肉体の四つは、それぞれ他のものを支配する力を持つように定められているのです。つまり神は理性を、理性は五感の欲を、五感の欲は肉体を支配します。ところがもし人々が罪を犯しますと、この順位や秩序はさかさまになってしまいます。人間の理性が当然その主君であるはずの神に対して服従しないのですから、したがってその理性はまた五感の欲に対する支配権を失ってしまうわけです。それはどうしてかと申しますと、その時には五感の欲が理性に叛逆し、それによって理性は五感の欲と肉体とに対して支配権を失ってしまうからです。理性が神に対して逆うのと同じように、五感の欲と肉体とがともに理性に逆うのです。
この混乱、この叛逆を、われらの主、イエス・キリストは尊い御体を犠牲にして贖《あがな》われたのです。どういうふうにしてかをこれからお話しします。
さきほど申しましたように、理性が神に叛逆したのですから、人間が悲しみに遭い、死んで行くのが当然であります。ところが、われらの主、イエス・キリストが人間のためにこの苦痛をお受けになったのです。弟子たちの一人に裏切られ、捕えられ、縛られて、「手のひとつひとつ爪から血が吹き出した」と聖アウグスティーヌスは語っています。
さらにまた、人間の理性が五感の欲を抑え得るにもかかわらず、抑えようとしないのでありますから、人間は当然はずかしめを受けるべきであります。ところが、われらの主、イエス・キリストが人間の代りにこの苦痛をお受けになりました。人々は主のお顔に唾を吐きかけたのであります。またさらに、人間の賤しい肉体が理性にも五感の欲にも叛逆しているのでありますから、肉体は当然死に価するのです。ところが、われわれの主、イエス・キリストは人間の代りに十字架の上でこの苦痛をお受け下さったのです。十字架にはりつけられ、体のどの部分も自由にならず、そのうえ、大きな苦痛と苦しい受難とがあったのです。
これらすべての苦痛をイエス・キリストはお受けになったのであります、御自身は何一つ悪いことをなさったこともないのに。でありますから、イエスさまのことを次のように申しているのは、まったく理にかなったことだと思います。「われ自ら受くる理由《いわれ》なきものによりて、あまりにも大いなる苦しみを受けたり、また人間の受くべき辱かしめによりて、われあまりにも甚しく汚されぬ」
それでありますから、聖ベルナルドゥスもおっしゃっておられますように、罪深き者は当然こう言うべきです。「わが罪のいたみよ呪われてあれ。わが罪のために、かくまでも大いなる苦痛はしのばれたればなり」と。まったく、われわれの邪悪な性質が種々さまざまにいがみあったのに応じて、イエス・キリストの受難も種々さまざまなことで行われたのであります。すなわち、罪深き人間の霊は現世の繁栄を欲するがために悪魔に裏切られ、肉体的快楽を選んでは、虚偽のために侮辱されます。しかも不遇による焦燥のために苦しめられ、罪の奴隷となり下僕《しもべ》となって唾を吐きかけられ、あげくのはては殺されてしまうのです。罪深き者のこうした違犯のためにキリストはまず裏切られ、ついで縛られておしまいになったのです。われわれを罪と苦痛の縛《いましめ》から解き放とうとこの世にいらっしゃった方でありますのに。そうしてキリストは侮辱をお受けになりました。ただひたすらすべての点において、すべてのものから敬われるべきすじのお方でありますのに。ついで、すべての人間が拝みたいと願うキリストの顔、天使さえも眺めたいと思うようなその顔は、もったいなくも唾を吐きかけられたのであります。しかも主は罪もないのに鞭うたれ、とうとう最後には十字架にはりつけにされ、殺されてしまわれたのであります。
こうしてイザヤの言葉、「彼はわれわれの愆《とが》のために傷つけられ、われらの不義のために砕かれたり」という予言は実現されてしまったのです。
かように、イエス・キリストはわれらの悪行のためのすべての苦痛を身にお引き受けになったのです。ですから、罪深い者は、自分の罪のために天の神の御子がすべていま申したような苦痛を耐え忍ばれたことを思って、歎き悲しむべきであります。
さて、人々を「痛悔」へと導く第六の動機というのは、三つのことを希望することであります。その三つとは、罪を宥されることと、善い行いをするように聖寵を与えられることと、天国の栄光とであります。天の栄光は善行を積んだ者に対して神がお与えになる報酬であります。
イエス・キリストは寛い御心から、また尊いお慈悲からこれらのものをわれわれにお与えになるのです。それですからキリストは「ナザレ人のイエス、ユダヤの王」と呼ばれるのです。イエスということは「救い主」または「救い」という意味です。人々はこの「救い主」に罪の宥し、すなわち罪からの救いを仰ぐのです。
ですから、天使はヨセフにこうおっしゃいました。「汝その名をイエスと名づくべし。己《おの》が民をその罪より救い給う故なり。」このことについて聖パウロも申しておられます。「イエスを除きて、天《あめ》の下には、われらの救わるべき他の名を、人に賜いしことなし」
「ナザレ人」というのは、「花」と同じような意味になります。人々は彼が罪を免じて下さったと同様に善行を積むように聖寵をお与え下さるものと期待しているのです。花には時が来れば実を結ぶという希望があります。同様に罪の宥しの中には、善行を積むための聖寵があるという希望があるのです。イエスはこうおっしゃっておられます。「われ汝の心の戸の外に立ちて叩く、人もし戸を開かば、われ罪を宥さん。われ、わが恩寵によりその内に入りて、彼、善き行いをなすをもって彼と共に食せん。善行は神の食事なり。彼もまたわが与えし大いなる喜びのゆえをもって、われと共に食せん」
かように人々は悔悛の行いに対して、神がみ国をお与え下さることを希望すべきです。そのことは神様も福音書の中で約束しておられます。
さて次に人々は痛悔をどういうふうにすべきかを知らねばなりません。痛悔は完全にあますところなくなされなければなりません。と申しますのは、つまり人間は心で喜び楽しみながら犯したすべての罪を心から悔いなければなりません。なぜならば快楽というものは非常に危険なものなのです。
承諾には二通りありまして、その一つは感情の承諾と申します。それは人々が罪を犯す気になり、長いことその罪のことを思って楽しむ場合であります。しかも理性は、それが神の掟にそむく罪であることをよく弁《わきま》えているのです。そのことが神を崇うことに反するものであることをはっきりと知っていながら、理性はその邪《よこし》まな快楽や欲望を抑えようとしません。
その罪を行為としてあらわすことを理性が承諾しないにしても、博士たちが言っていますように、そのような快楽を心の中に長く止めておくと、たとえそれがごく小さなものであっても、非常に危険なものとなります。人は理性の完全な承諾を得て、神の掟に反することを欲したところのすべてに対しとくに歎くべきであります。なぜなら、承諾を与えるということが大罪であることは疑いの余地がありません。
まったく、どんな大罪も必ずまず最初は心の中にあり、次にそれを心の中で楽しむようになり、ついで承諾となり、行為へと移るのです。多くの人たちはそのような考えや快楽については決して痛悔しませんし、告解もしません。ただ表面にあらわれた大きな罪の行為だけについて痛悔し、告解するだけです。ですから、そのような邪まな快楽や考えは、地獄へ堕《お》つべき人間にとっては狡猾な欺瞞者となるのであります。
人々はまた、邪まな行為だけでなく、自分の邪まな言葉のためにも歎くべきです。なぜなら、一つの罪だけを後悔して他のすべての罪については後悔しなかったり、またはほとんど全部の罪について悔い改めても一つの罪だけは後悔しなかったというふうではなんの役にも立ちません。なぜなら、全能の神は完全なる善でいらっしゃるから、すべての罪を宥すか、さもなければ何一つお宥しにならないかのいずれかです。
このことについて、聖アウグスティーヌスも「私は神がすべての罪人の敵であることをよく知っている」と言っておられます。しかしそれはいったい、どういうふうにしてでしょうか。ただ一つの罪だけはどうしても棄てないでいる者に、はたして他のすべての罪が宥されるでしょうか。いいえ、けっして宥されません。
さて、また、痛悔というものは非常に悲しい苦しいものでなければなりません。それなればこそ神様は十分のお慈悲を垂れて下さるのです。ですから、私の霊が私の中で非常に苦しんでいた時、私は祈りがきっと神様のところに届くだろうといつも思っていました。
さらに申しますと、痛悔というものは絶えず行われるべきものです。そして、いつも告解して、生活を改善して行こうという心がけを持っていなければなりません。なぜなら、いつも痛悔しつづけているかぎり、人は罪を宥される希望が持てます。そこから罪を憎む心が生じ、その心が自らの力で自分自身の中にある罪も、また他の人の中にある罪も消滅させてしまうのです。それについて、ダヴィデも、「汝ら神を愛する者は悪を憎むなり」と言っております。まったく、神を愛することこそ愛すべきものを愛し、憎むべきものを憎むことになるのであります。
さて、痛悔について最後に知っておくべきことは、痛悔はなんの役に立つのかということです。ある時には人間を罪から救います。ダヴィデはそのことについてこう言っています。
「われ告解を固く心に掛けたれば、主よ汝はわが罪を宥し給えり」
機会がある時には告解をするという真剣な心がけがなければ、痛悔をしてもなんの役にもたたないのです。それと同様に、痛悔ということがなければ、告解も、罪償完済《ざいしようかんさい》もほとんどなんの価値もないのです。
しかも痛悔は、地獄の牢獄をこわしますし、悪魔のすべての力を弱めますし、聖霊からの贈物や、すべての美徳を取り戻してくれます。また霊から罪を洗い去ってくれますし、霊を地獄の責苦から、悪魔の仲間から、また罪の奴隷という身分から救ってくれます。そしてすべての霊的幸福と聖なる教会の交わりの中へ霊を戻してくれます。しかも、かつては怒りの子であった者を聖寵の子にと変えてくれます。これらのことはすべての聖書の中にはっきりと記されていることであります。
ですから、これらのことによく心を用いる人は、賢い人です。なぜなら、そうすれば、一生涯その人は罪を犯す気にはなれませんし、体も心もすべてイエス・キリストに捧げ、キリストの臣下として忠実に服従するようになるからです。
まことに、われらの主でいらっしゃるイエス・キリストはわれわれのあやまちをおやさしくも救って下さったのであります。もしもかりにキリストが人々の心にお情けをかけて下さらなかったとするならば、私たちはみな、歎きの歌をうたわねばならない羽目になったでありましょう。
贖罪《しよくざい》の第二の部分は「告解」であります。それは、痛悔のあらわれであります。さて、みなさんは告解とはなんであるか、告解をする必要があるかないか、真の告解にふさわしいものは何か、ということを知らなければなりません。
まず第一に、告解とは、僧侶の前に罪を完全に示すことであるということを知っていなければなりません。「完全に」と申しましたのは、つまり、人々は自分の罪に関係のあるすべての事情をでき得るかぎり僧侶に告解しなければならないからです。
すべてを語らなければなりません。何一つとして言い遁れをしたり、隠しごとをしたり、しまいこんでしまったりしてはなりません。また自分のよい行いを自慢してはなりません。またさらに、どこから罪が生じたのか、どうしてその罪が大きくなったのか、またどういう罪であるかを知る必要があります。
罪の起源について聖パウロはこう言っておられます。「最初一人の人によりて罪は世に入り、また罪によりて死は世に入りしごとく、凡《すべ》ての人、罪を犯ししゆえに、死は凡ての人に及べり」
この一人の人というのはアダムのことです。アダムが神のおいいつけを破った時から、罪はこの世の中にはいってきたのです。それですから、初めは非常に強い者で、けっして死ぬべきものではなかったアダムも、自分の意志にはなんら関係なしに、死ななければならない弱い者になってしまったのです。そして、この世にいるアダムの子孫たちはアダムと同様に罪を犯すのです。
アダムとエバがまだ純真無垢で、天国で裸のまま暮していても少しも恥しいとは思わなかった時のことを考えてみましょう。神のお創りになった動物の中でも一番ずる賢いあの蛇が女に言いました。「なぜ神様はおまえさんたちに天国にある木はどれでも食べてよいとはおっしゃらなかったんですか」
すると女はこう答えました。「私たちは天国にある木の実を食べて生きているのです。けれども、天国の真中にある木の実だけは食べてはいけないし、触ってもいけない、死ぬといけないから、と神様はおっしゃいました」と言うと、蛇は「いやいや、おまえさん方は死ぬなんてことはありゃしない。おまえさんたちがそれを食べると、眼が開いて、神様のように物事のよし悪しがわかるようになるということを神様は御存じだからなのさ」と言いました。
女はその木を眺めやりました。いかにもおいしそうに見えますし、見た眼に美しいし、快い眺めでした。そこでその木の実をもいで、食べました。そして夫にも渡すと、夫もそれを食べました。するとたちまち、二人の眼は開きました。そうして、二人とも裸でいることに気がつくと、無花果《いちじく》の葉を縫いあわせてズボンのようなものを作り、身体を隠しました。
でありますから、大罪というものはまず初めに、ちょうど今の話の蛇のように悪魔が誘い出すものだということがおわかりになりましたでしょう。そうしてその次に、今の話のエバのように肉体の快楽となります。それから、アダムの場合のように、理性の承諾となります。悪魔がエバを、すなわち、肉体を誘惑し、肉体が禁じられていた木の実の美しさを快く思う。そこまでなら、まだ純真でいられたのです。その次に理性が、この場合ならアダムにあたるわけですが、その木の実を食べることを承諾しさえしなければ。
ですから、このアダムからわたしたちは原罪《げんざい》を受けたのです。なぜなら、私たちは皆、アダムの骨肉の流れをうけ、邪《よこし》まな堕落したものから生れてきたのですから。
そうして霊が私たちの体にはいった途端に、原罪が備わるのです。それは、最初のうちは単なる欲情の苦しみでありますが、やがてそれが苦痛となり、罪となるのです。ですからもし、私たちの罪をはらうために受ける洗礼というものがなかったならば、私たちはみな、怒りの子であり、永遠に堕ちぶれた者の子でありましょう。それでもなお、私たちの中には誘惑の苦痛が残ります。その苦痛のことを欲情といいます。その欲情が私たちの中で悪い位置を占めますと、私たちを肉欲によって肉体上の罪を、眼で見ることによって物欲を、また心の傲慢によって地位欲を起させます。
さて、まず第一の欲から申し上げましょう。それは正しい神の御裁量によって規則正しく作られている私たちの肉体の法則による欲情であります。人々が主たる神に対して従順でないのですから、したがって肉体も欲情のために人に対して服従しません。この欲情のことを、罪の滋養物とか、罪の源とか申します。それですから、自らの中に欲情の苦痛を抱いている間は、どうしても、自分の肉体の中で時たま誘惑され罪へと動かされずにはいられません。このことは生命あるかぎりはつづきます。もっとも、洗礼の功徳によって、或いは贖罪の結果、神の恩寵によって、それが弱められるということはあります。しかしそれにしても、すっかりそれが消え去って、自らの中で誘惑されることは全然起らないというわけにはゆきません。病のために、或いは、魔術や冷たい飲物の不法な作用によって、すっかり肉体が冷えきっているというような場合は別ですが。
聖パウロはなんとおっしゃったでしょうか。
「肉の望むところは御霊《みたま》にさからい、御霊の望むところは肉にさからいて互に相|戻《もと》ればなり。これ汝らの欲するところをなし得ざらしめんためなり」
また同じく、聖パウロは海や陸でのさまざまな苦難の後に(一昼夜海中にいたことや、非常な危険、大きな苦痛をなめ、野にあっては、飢え渇き、凍《こご》え、裸でいたこと、ある時はほとんど死に瀕したことさえありました)、それでもなお、パウロは「ああ、われ悩める人なるかな。この悩める体の牢獄よりわれを救わん者は誰ぞ」とおっしゃったのであります。
また、聖ジェロームは、長い間沙漠に住み、野獣の他に友とするものもなく、野草の他に食べる物もなく、飲む水もなく、大地の他に横たわる寝床もなく、体は暑さのためにエチオピア人のように黒く、しかも、寒さのためにほとんど死なんばかりの想いをしました。それでもなお、ジェロームは「色欲の焔、わが内に燃えたり」と申しました。
それでありますから、もし自分の肉体の中で誘惑されることはないと言うような人があるとすれば、その人はだまされているのだということは、私にはよくわかっているのです。
使徒の一人である聖ヤコブを御覧なさい。ヤコブは「人の誘《いざな》わるるは己れの欲に引かれて惑わさるるなり」と言っております。というのはつまり、私たちすべての者が、肉体の中に、自らを誘惑する罪の滋養物の材料と源を持っているということなのです。それですから、福音書著者の一人である聖ヨハネはこう申しております。
「もし罪なしと言わば、これみずから欺けるにて、真理《まこと》われらの中《うち》になし」
さて、次にどういうふうに罪が人の中で育ち、大きくなって行くのかということを知らなければなりません。最初のものは、今さっき申し上げましたように、罪の滋養物であり、肉体の欲情であります。その次に来るものが、悪魔の誘いであります。悪魔の誘いと申しますのは、悪魔が人間の中に肉体の欲情の火を吹きこむのに使う鞴《ふいご》のことです。その次に、人間は誘惑されていることを、行おうか止めようかと考えます。その時に、もしも人が自分の肉体の、或いは悪魔の最初の誘惑に抗い、それを払いのけるならば罪にはなりません。もしそうしなければ、忽ち快楽の焔を感じるでしょう。その時こそ、よく気をつけ、気をひきしめなければなりません。さもなければ、すぐに罪を承諾する気になってしまいます。そして時と所さえ掴めば、罪を犯してしまうのです。
このことについてモーゼは悪魔の口をかりて、こんなふうに言っております。
「悪魔が言うには、俺は邪悪な誘い水で人間どもを追い求める。そして罪をかきたてることによって人間を掴まえる。俺はその分捕品や餌を慎重に区わけする。そうすりゃ、俺の欲情はいい気持に満足する。そこで、俺は、罪を承諾した時にさっと剣を抜くんだ。」まことに、剣が物を二つに切り離してしまうと同じように、罪の承諾は神を人間から切り離してしまうのです。さらに悪魔が言うには、「そうして人間どもが罪を犯しているさ中に、俺はこの手で人間どもを殺してしまう。」こうして人間の霊はすっかり死んでしまうのです。
このように罪というものは、誘惑と快楽と承諾によって成立します。こうして成り立った罪のことを現行罪と申します。
罪には二つの種類がありまして、一つを小罪といい他を大罪といいます。もし人間がわれらの創造主でいらっしゃるイエス・キリストより以上にある者を愛したとするならば、それは大罪であります。小罪というのは、人間のイエス・キリストに対する愛が当然あるべき量より少い場合であります。
小罪の行為は非常に危険なものであります。なぜなら、それは、人が当然神様に向けるべき愛をますます減少させるものだからであります。それですから、そのような小罪を積み重ねた者は、いつかその罪の荷を告解によって下してしまわないかぎり、イエス・キリストに対して抱いていた愛のすべてを簡単に失ってしまうようになります。このようにして小罪は大罪へと移って行きます。人は心に小罪の荷を積み重ねれば、重ねるほど、ますます、大罪へと陥りやすくなります。それですから、この小罪の荷を下すことを怠ってはなりません。
格言にも、「塵も積れば山となる」とあります。また、こんな例もあります。大浪は時には、船を沈めてしまうほど、大きな危害を加えます。けれどもそれと同じような危害を、小さな水滴が引き起すこともたまにはあります。水滴が隙間から、船艙へはいりこみ、さらに船底へたまります。もし人々が早目にそれをかい出すことを怠るならば大浪と同様なことが起ります。ですから、船の沈む原因にはかように相違がありますが、沈むことには変りがありません。
これと同様のことが大罪と、いまわしい数々の小罪との間にも起るのです。もし、小罪が人の心の中であまりにもたくさん積み重なると、人は神様を愛すると同様に、いえ、それ以上に世俗的なものを愛するようになります。そして、そのようなものこそ人を小罪へと導くものなのです。それでありますから、神様に捧げられるのでもなく、またとくに神様のためになされるのでもないところのすべてのものに対する愛は、たとえその愛が神様に対する愛ほど強くないにしても、それは小罪となります。そして、他のものに対する愛が人の心の中で神様への愛と同じか、或いはそれ以上に強い場合には、大罪となります。
聖アウグスティーヌスもおっしゃっておられるように、「大罪というのは、人間が至高の善であり、永久に変らざるものである神から、心が離れ、変化し移り行くものへ心を向けることであります。」変化するもの、それは天にまします神を除いた他のすべてのもののことです。それですから、人がもし心をこめて神に捧げるべき愛を、ある者へ向けたとするならば、その者に対する愛が深ければ深いほどよけい、神から遠ざかるのです。こうして、罪を犯したことになるのです。なぜなら、その人は神に負目《おいめ》のある者でありながら、神に負目のすべてをおかえししない、つまり、心からの愛を神に捧げないことになるわけですから。
さて、これで大体どういうものが小罪かということはおわかりになったと思います。次に、多くの人が罪だとは思っていないもの、したがって告解もしないものでいながら、事実は罪になるものについてとくにお話し申し上げるのがよろしいかと思います。学僧たちが書いていますように、人が自分の体を支えるに必要な分量以上に飲み食いするならば、それは罪を犯したことになるのです。また、必要以上にお喋りをしても罪になります。貧しい人々の訴えを親切に聴いてあげない時もそうです。他の人が断食をしている時に、体は健康でありながら、なんら理由もなしに断食をしない時もそうです。必要以上に眠った時、何かの理由で教会へ遅れて来たとか、その他慈善の仕事に遅刻して来たという場合。また神の誉れのために子孫を増やすという至高の願いもなしに、或いは体の負目を妻へ返済するという考えもなしに、妻の体をもてあそぶ時もそうです。病人や囚人を見舞えるのに見舞ってあげない場合。理性が要求する以上に、妻や子や或いはその他の世俗的なものを愛する場合。いかなる必要があるにせよ過度にお世辞を言ったり、おべっかを使ったりする場合もそうです。また、貧しい人々に与える施しを減《へら》したり、ひっこめたりする場合。また、必要以上に食事を美味しく調理したり、がつがつと急いで食べたりする場合。教会において、或いは神の儀式の際に見栄坊な話をしたり、愚かな邪《よこし》まな無駄口を叩いたりする場合もそうです。なぜなら、最後の審判の日には、そのことも決算をしなければならないからです。また、実行の伴わない約束や安うけあいをする場合。或いは、軽はずみや愚かなために、隣人に対して悪口を叩いたり、軽蔑したりする場合。或いはまた、ある物事について何も本当のことを知らないくせに、あやまった疑念を抱いたりする場合。まだその他にも数えきれないほどたくさんありますが、こういったものを、聖アウグスティーヌスも言っておりますように、罪というのです。
さて、世の中の人誰一人、こういったすべての小罪を避けることができないとしましても、われらの主、イエス・キリストに対する燃えるような愛によって、或いは祈りや告解などの善行によって、それらの小罪があまり大きな害とならないように抑圧することはできます。
聖アウグスティーヌスも言われるように、「もしかりにある人が、非常に神を愛し、なすことすべてが本当に神に対する愛において、或いは神に対する愛のためになされ、神に対する愛で燃えているほどであるとします。そうしますと、そのように完全にイエス・キリストに愛を捧げている人に対して小罪は、ちょうど一滴の水が燃えさかる炉の上に落ちてもなんら影響がないと同じように、なんの影響も与えません」
またその他に小罪を抑える途があります。イエス・キリストの尊い聖体を拝受するとか、聖水を受けるとか、慈善行為をするとか、弥撒や夕べの礼拝の時に「|われ、告白す《コンフイテオル》」と言ってみなといっしょに告白をするとか、司教や司祭から祝福を受けるとか、その他そういった善行をすることによって、小罪を抑制することができます。
さて次に、罪の頭目ともいうべき大罪とは、いったいどういうものか。これをお話するのが順序でありましょう。その大罪は皆同じ革紐に繋《つな》がれて走っていますが、それぞれ走り方が違います。罪の頭目と申しましたのは、それらこそ、すべての罪の主なものでありますし、源でもあるからです。七つの大罪の根は「傲慢」であります。これはあらゆる悪の共通の根です。この根から、「憤怒」、「嫉妬」、「怠惰」、「貪欲」、「貪食」、「邪淫」の枝が伸びます。さらにこれらの主な罪からそれぞれ大枝、小枝が分れています。このことについて、これからお話し申し上げましょう。
「傲慢」から生ずる小枝や害の数を一つ残らず数え上げることのできる人もいないでしょうが、私はこれからその一部を皆さんにお見せしましょう。「不従順」、「自惚《うぬぼれ》」、「偽善」、「侮蔑」、「尊大」、「厚顔」、「心の驕り」、「横柄」、「慢心」、「短気」、「闘争」、「偏窟」、「僭越」、「不敬」、「頑固」、「虚栄」、その他すっかり挙げきれないほどたくさんの小枝があります。
不従順な人というのは、神の十|誡(かい》や目上の者や、霊父《れいふ》を軽蔑して、それに従わない人です。自惚家というのは、自分のした悪や善を自慢する人です。偽善家というのは、ありのままの自分の姿を示さずに、自分以外のものに見せようとする人です。侮蔑的な人というのは、自分の隣人、すなわち、自分と同じキリスト教徒を軽蔑したり、或いは自分のなすべきことを軽蔑してしなかったりする人です。尊大な人というのは、自分が持ってもいない美徳を、持っているかのように考えたり、当然自分は美徳を備えるにふさわしいだけのことをしていると思ったり、或いは自分のことをありもしない姿に思いこんだりする人のことです。厚顔な人というのは、傲慢なために自分の罪を少しも恥かしいとは思わない人です。また、心の驕《おご》りというのは、人が自分のした悪い行為を喜んでいる時のことです。横柄な人というのは、心の中で他人の価値や才能や話や態度を軽蔑する人です。慢心というのは、人が、主人も友人も持つことは我慢ならないという時のことです。短気な人というのは、自分の悪い点を教えられたり、戒められたりすることを好まず、わざと真実に対して戦いをいどんで、悪を擁護する人です。偏窟な人というのは、自分より目上の者の権威や権力に対して憤慨し、抗う人のことです。僭越というのは、すべきでないことや、できもしないことに手をつけてみたりすることを申します。不敬とは、尊敬すべきものを尊敬せず、むしろ自分が尊敬されるのを待ち望むのをいいます。頑固というのは、自分の悪を擁護し、自分の知能に信頼をおきすぎることです。虚栄とは、現世の高位高官を誇り、満足に思うことであり、またそのような世俗的な身分に得意になることです。饒舌というのは、人前でしゃべりすぎ、製粉場みたいに軽口をたたき、自分の言っていることにちっとも気を配らないことです。
「傲慢」の中にはひそかに心の中にかくれているものもあります。例えば、自分が挨拶するより先に相手が挨拶するのを待ち望む、おそらくはその相手のほうが自分より立派な人であるのに。或いは、人より上席につきたがったり、人より先に歩きたがる。聖像牌に接吻したり、香を撒いてもらったり、供物を献納するなどといった場合にも、隣人より先にしたがるのです。おそらくは義務に悖《もと》ることでしょう。しかし、彼は人々の前で褒められ、尊敬されたいという、こうした傲慢な望みを心に抱いているのです。
さて、「傲慢」には二種類あって、一つは人の心の中にあり、他の一つは心の外にあります。すでにお話し申し上げたことや、まだその他にもありますが、それらは人の心の中にある傲慢のほうに属します。その他の傲慢が心の外にあらわれたものです。けれども、この二種類のうち、一方は他方の目印のようなものです。ちょうど居酒屋にあるあの人目を引く亭《ちん》が、酒倉にある酒の目印になっているのと同じことです。このことはいろいろな面にあらわれています。話においてもそうですし、容貌の場合もそうですし、人目を引くけばけばしい服装にしてもそうです。
もし、服装に関してなんら罪となるものがないならば、キリストはわざわざ福音書の中であのように金持の服装についてお述べにはならなかったでしょう。聖グレゴリウスも言っておられますように、豪華な服装が非難される点は、それが高価なこと、衣が柔かいこと、形が奇抜で凝りすぎていること、無駄が多すぎるか、或いは極端に少なすぎることなどです。ああ、今日は見られないと申せましょうか。罪深い金目のかかった服装、ことにごてごてしすぎるものや、極端に薄着のものなど。
まず最初の罪、華美にすぎた服装について申しましょう。それは、服装の値を高くさせ、一般の人を困らせます。刺繍や凝った切目や、筋、波型の線、縦筋、曲線、斜線をつける等その他そういった虚飾のために布を無駄に使う費用だけではありません。上衣に高価な毛皮をつけたり、或いは穴あけでたくさん布に穴をあけたり、布にギザギザに剪《はさみ》を入れたりします。さらにまた、そういった上衣は非常に長すぎて、肥料溜でも沼地でも裾を引きずっています。馬に乗っている時でも歩いている時でもそうです。また男女の別もありません。そういったお引きずりは実際上、布が痛みますし、すり切れて、ぼろぼろになりますし、肥料がくっついて汚れたりします。そして貧しい人たちの手にははいらないのです。貧しい人々がいかに困っているかを考えてみましょう。それはいろいろな方面から言えます。まず、布が無駄に消費されればされるだけ、布不足になりますから一般の人には値が高くなるわけです。また、そんなたくさん穴のあいたものやギザギザに剪を入れてある衣服を貧しい人々に与えたところで、そういった身分の人が着るには都合が悪いし、その人たちの必要を満たすには十分でないし、厳しい天候からその人たちを保護するに十分でもありません。
もう一方の、あの常識はずれた布節約について考えてみましょう。丈の短いジャケツなどは、あまり短くて、みっともない手足を丸出しにします。しかも、それをよろしくない考えからしているのです。ああなんとも困ったことで、なかには体の突起している部分や、恐ろしくもり上っている部分などを見せて、まるで長靴下をはいた脱腸患者よろしくといった恰好です。またその人たちの臀の恰好といったら、満月の後半分といったところです。流行の服装と称して体のいやらしいもり上った部分を見せ、しかも長靴下を紅白まだらにしているので、まるであのみっともない体の部分の半分は皮を剥がれたように見えます。もしも長靴下を別の色の組合せにしているなら、例えば白と黒とか、白と青とか、黒と赤とかいったふうに、そうなりますと、色の変化のために、隠すべき体の部分の半分が丹毒とか、癌《がん》などの禍いのために腐ってしまったのかと思われます。臀の後方など、見るだに恐ろしい状態です。その部分は臭い汚物を排泄するところです。それを彼らは誇らしげに人に見せています。彼らはイエス・キリストやその友人たちが生涯気を配っていた上品さなどを軽蔑しているのです。
また、無軌道な婦人服についてみましょう。顔は非常に純潔でしとやかに見えるものも、服装となると、欲情や傲慢を示してしまいます。私は別に、男でも女でも服装をきちんと整えることがよくないと申しているのではありません。ただ過度にけばけばしいものや、布を節約したものをいけないと申しているのです。
また装飾の罪は乗馬に関する装飾についても言えます。それは、快楽のために飼っている立派で肥えて、高価で優美な馬や、馬のために雇っているろくでなしの召使たちや、鞍、鞦《しりがい》、胸帯、手綱など高価な布や金銀の線や板のついた見事な馬具などの装飾のことです。これについて、神は予言者ゼカリヤの口をかりてこうおっしゃっておられます。
「そのごとき馬に騎《の》れる者ども、|※[#「女+鬼」、unicode5abf]《はじ》を抱くべし」
この人たちは、天にまします神の御子が乗ってこられたことも、驢馬にお乗りになった時の馬具のことも、また使徒たちの貧しい衣以外になんら支度がなかったということも考えないのです。私たちはキリストが驢馬以外の動物にお乗りになったことがあるという話をこれまで読んだことがありません。
私は、華美という罪についてこんなことを申しておるのです。理性が要求する際の、理に叶った身だしなみについて申しているのではありません。
また、傲慢の大きなあらわれとして、ほとんど役に立たないのに、いやまったくなんら役に立たないのに大勢の召使を持っていることが挙げられます。召使どもが虎の威をかりたり、お役目なりと称して、人々に乱暴を働いたり、迷惑をかけたりする際にはことにそうです。ですから、召使たちの悪事を養成しているような場合には、その主人は、主権を地獄の悪魔に売ったも同然です。身分の低い階段で、例えば旅館の主人が詐欺のあの手この手を使って盗みを働く召使を養っている場合にも同様です。そういう手合いは、ちょうど蜜を求める蜂であり、屍肉を求める犬のようなものである。彼らは精神的に自らの主人を苦しめ悩ませているようなものです。
このことについて、予言者ダヴィデはこう言っております。
「そのような主人にはみじめな死が訪れ、神が彼らを真逆さまに地獄へつき落して下さるといい。なぜなら彼らの住処《すみか》には悪事があり、天の神はおられないから」
それですから、もしも彼らが、その償いをしないならば、神は召使の悪を養っているごとき主人たちに呪いをお与えになるでしょう。ちょうど神がラバンにはヤコブを、ファラオにはヨセフをお遣わしになって、それぞれ祝福をお与えになったようにして。
食卓における傲慢もしばしば見られます。金持はご馳走にあずかるが、貧しい人は逐い払われ、罵られます。
また種々様々の料理や飲物の贅沢にも見られます。ことにミートパイや肉汁など、縁に火を燃やしたり、紙で色をつけたり、城のように囲ったり、といったふうの無駄は、まったく考えるだに困ったものです。
さらにまた、豪華な食器、音楽に対する興味にしてもそうです。それによって人はますます享楽にふけるようになるのです。
もしも人の心が、われらの主、イエス・キリストから少しでもよけい離れるとするならば、それは罪になります。しかも、そういった場合には、人々は快楽に夢中になっていますから、簡単に大罪へと陥ってしまうでしょう。
傲慢から生ずる種々様々なものの中でも、前もってよく想い、考え、心を用いて悪心から生じたものや、習性から生じたものは、確かに大罪であります。しかし、知らずして弱さのためにふらっと生じ、そしてまたすぐ引っこんでしまうような罪は、たとえそれが困った罪であっても、さほど大きな罪とは言えますまい。
さて、もしどなたか私に、いったい「傲慢」というものは何から生じ、育ったのかと質問なさるならば、私はこう答えましょう。時には、天性に備わった幸福から、また時には、運命のもたらした幸福から、またある時は、神の恩寵によってもたらされた幸福からだと。
天性備わった幸福には、体の幸福と、もう一つには心の幸福があります。体の幸福とは、身体の健康、力、活動力、美、よい生れ、特権などのことです。天性備わった心の幸福とは、すぐれた知能、鋭い理解力、賢明な天分、生来の美徳、よい記憶力などです。
運命のもたらした幸福は財産、高い貴族の地位、人々の讃美などです。
神の恩寵によってもたらされた幸福は、知識、精神活動に耐える力、雅量、気高い思考、誘惑に負けない力などです。
そのようなさまざまな幸福のうち、どれ一つとしてそれを誇らしく思ったりすることは愚かしいことです。天性備わっている幸福は、私たちの役に立つこともある代り、私たちを害うこともあるのです。たとえば、体の健康についてみましても、それはたやすく変ってしまうものですし、心の病の原因となることもしばしばあります。と申しますのは、肉体は心の強力な敵です。ですから、体が健康であればあるだけ、危険に陥りやすくなります。
また、自分の体力を誇るのもまったく馬鹿げたことです。なぜなら、肉体は精神に逆って欲望を持つものですから、肉体が強ければ強いほど、心はみじめなものとなります。とりわけ体力と世俗的な勇敢さは、たいていの人を危険や不幸に陥れます。
生れのよいことを自慢するのも愚かしいことです。肉体上の生れのよさはしばしば精神上の生れのよさを奪ってしまうものです。しかも、私たちはみな一人の父、一人の母から生れたのです。そして金持だろうと、貧乏人だろうと等しく、同じ堕落した天性から育ったのです。ここに、一つだけ讃められる価値のある生れのよさがあります。それは人の心を美徳と道徳に向け、キリストの子にさせるものであります。まことに、いかなる人であっても、罪に支配されれば、罪の奴隷であります。
さて、育ちのよさというものはいろいろなものにあらわれます。例えば、いうこと、なすこと、また顔の上にも、悪徳やみだらな話や罪の奴隷となることを避けること。或いは、美徳や優雅さ、清らかさがあらわれることや、気前のよいこと、つまり適度に人にものおしみなくほどこすこと。と申しますのは、度を越すことは愚かしいことでありますし、悪いことなのです。或いはまた、他人から受けた親切を忘れないこと。善良な目下の者には親切にすること。
セネカも言っておりますように、「身分の高い人にとって、優雅と同情ほど似つかわしいものはありません。ですから、蜂と申す虫も王を選ぶ時は、刺を持たない蜂を選びます」
また、気高い健気な心を持っていて、高い徳に到達しようとすることなどにも、育ちのよさがあらわれます。
さて、神の恩寵によってもたらされた幸福を誇る人があるとするならば、それはまったく愚かなことです。その人を幸せにし、癒やして下さるべき神の恩寵の贈物は、むしろその人を害い、困惑させるものとなるでしょう。聖グレゴリウスもそう言っております。
運命のもたらした幸福を誇る人もまったく愚かな人です。朝のうちは立派な身分であったものが、夜になるまでにはすっかり落ちぶれてしまうことだってあります。人の財産が死の原因になることもあります。快楽が大病のもとになり、そのために死んでしまうこともあります。人々から受ける讃美も時には偽りであったり、はかないものであったりで、まったく信用なりません。今日讃めたかと思うと翌日は悪口を言うという工合です。人々の賞讃を得ようとしてかえってそれがために有為な人が死んでしまうということはありがちなことです。
これでもう、みなさんは、傲慢とはなんであるか、その種類は何か、どこから傲慢が生ずるか、ということはおわかりになったと思います。そこで、次に、それではいったい傲慢という罪を救う道はなんであるかを知らなければなりません。それは、謙遜であります。従順とも申します。
謙遜という美徳を通して人々は真に自分を知り、自分の弱さを常に思って、けっして自分のすぐれていることを誇ったりしなくなるのです。謙遜には三つの種類があります。心の謙遜、言葉の上での謙遜、行為の上での謙遜の三つです。
心の謙遜にはさらに四種類あります。一つは、天にまします神の前では、人間はなんの価値もないものであると考えることです。第二は、他人を軽蔑しないこと。第三は、他人が自分の価値を認めなくても気にしないこと。第四は、自分の屈従を悲しまないこと。
同様に、言葉の上での謙遜にも四つあります。穏和な話し方、謙譲な話し方、自分は内心自分の心で思っているとおりの人間であることを自らの口で認めること。もう一つは、他人の親切をほめたたえ、けっしてそれをけなしたりしないことです。
行為の上での謙遜にも四つ種類があります。一つは、他の人を自分より先に立てること。第二に、みなの中で一番下座を選ぶこと。第三に、よい相談には喜んで同意すること。第四に、目上の者や身分のより高いものが取りきめたことには喜んで従うこと。これこそ立派な謙遜の行いでありましょう。
「傲慢」の次に「嫉妬」という罪についてお話ししましょう。ある哲学者の言うところによりますと、嫉妬とは他人の繁栄を悲しむことです。また、聖アウグスティーヌスは、嫉妬とは他人の幸福を歎き、他人の禍いを喜ぶことだと言っておられます。この邪悪な罪はまったく聖霊にそむくものであります。いうまでもなく、どんな罪でも聖霊にそむくものではありますが、ことに嫉妬の場合は、親切というものが当然聖霊に属するものであるに反し、嫉妬はもともと悪意から生れてきたものです。ですから嫉妬は元来聖霊にもとるものなのです。
さて、この悪意には二種類あります。つまり、悪を行うに大胆であること、或いは人間の肉体が盲であるため、罪を犯していることに気づかないのかもしれません。これは悪魔の大胆さであると言えましょう。もう一つの悪意は真実のものであると知りながら、その真実に戦を挑むことです。また、隣人に下された神の恩寵に挑みかかることです。これらはすべて嫉妬のなせる業です。でありますから、嫉妬は最悪の罪といえましょう。
「嫉妬」以外の罪はどれも、ただ一つの特定の美徳にもとる場合がありますが、嫉妬はあらゆる美徳、あらゆる善行にもとるのであります。なぜかと申しますと、嫉妬は隣人の徳のすべてを悲しみます。この点、嫉妬は他のどの罪とも性質を異にします。どの罪も、何かある快楽を伴うものですが、「嫉妬」だけは、苦しみと悲しみしかありません。
「嫉妬」の種類はと言いますと、第一に、他人の幸福や繁栄を悲しむことです。繁栄は喜びの対象であるのが自然です。ですから、「嫉妬」は自然にもとる罪であります。
第二に、他人の禍いを喜ぶことです。これは人間の禍いをいつも楽しんでいる悪魔と同じことです。
この二種類の「嫉妬」から、蔭口が生れます。この蔭口、或いは誹謗という罪にはいくつかの種類があります。例えばある人が悪だくみをもって隣人を讃めることもそうです。なぜなら、その人は必ず話の最後に、悪い結び目をこしらえます。と申しますのは、人をほめておいて、最後に、「ですがね」と但書をくっつけます。こうなると、ほめたどころか、けなしたことになってしまいます。
第二の種類は、ある善良な人が、善意をもって言ったり、したりすることを、蔭口屋が邪《よこし》まな意図をもってそれらの善行をくつがえしてしまうことです。
第三に、隣人の徳をけなすことです。
第四の蔭口の種類と申しますのは、人々がある人の善行を讃えていますと、蔭口屋は逆にその人のことをけなして、「いやどうして、あの人のほうがもっと偉いですよ」などという場合です。
第五の種類は、人々がある人の悪口を言いあっているのに喜んで同意したり、耳をかたむけたりすることです。この蔭口の罪は非常に重いもので、蔭口をたたく人の悪い意図とともに大きくなります。
蔭口の次に、不平不満が生れます。これは時には神や他人に対するいらだたしさから生れます。もしも人が、地獄の責苦や貧乏や財産を失ったことや、雨や嵐に対して不平をのべたり、或いはろくでなしが繁栄し、善良な人が不幸であると不満を言ったりするのは、神に逆うことです。これらはすべて辛抱強く耐えしのばなければなりません。なぜなら、それらは神の正しい裁きとおいいつけによってもたらされているものだからです。
「貪欲」から不平が生ずることもあります。例えばマグダラのマリヤがわれらの主、イエス・キリストの頭髪に高価な香油を塗った時に、ユダが不平をいったのもそうです。このような不平は自分自身が行った善行、或いは他の人たちが自らの所持品でなした善行に対してぶつぶつ不平をいう場合です。
また「傲慢」から不平が生れることもあります。例えば、マグダラのマリヤがイエス・キリストのおそばに来て、キリストの足許に伏して自らの罪を歎いた時、パリサイ人のシモンがマリヤのことをそしったのもそうです。
また時には「嫉妬」から不平が生れます。例えば、人々がある人の隠れている禍いを発見した時とか、悪事の責任をある人に着せるといった場合がそうです。
不平はまた、召使たちの間によく見受けられます。召使たちは目上の者が許可してもよさそうなことを禁じた場合に不平を言います。しかも、目上の者の命令に面と向って反対することもできないので、蔭で心から憎悪をもって、悪口を言います。そのような言葉を、人々は悪魔の「主の祈り」だと申します。悪魔に「主の祈り」などあろうはずはありませんが、無学な人はそんなふうに呼んでおります。
またある時には、憤怒や心中に秘めている憎悪から不平が生じます。これは心の中に怨恨を養成します。これについてはのちほどお話しいたしましょう。
さて不平の次には、心の辛辣《しんらつ》さが生じます。その辛辣さのために、隣人の善行はすべて苦い、不愉快な味がするように思えるのです。
その次には、不和が生じて、すべての友情関係を破壊します。次に来るのは侮辱であります。例えば、ある人が実際にはうまくゆかなくても、とにかく隣人の気を悪くする機会をねらっている場合などがそうです。
その次に起るのが、人に罪を着せることです。隣人の気を損ねる機会をねらっている時など、それはまったく、日夜私ども人間を罪に陥れようと待ちかまえている悪魔の業に似ております。
その次に、怨恨が生じます。その怨恨によって、人はできさえすれば隣人を秘かに怒らそうとします。またそれができないとしても、こっそり家を焼くとか、家畜に毒を飲ませたり、殺害したりすることくらいは十分にできるだけの悪意を持っています。
さてそれでは、この「嫉妬」という悪い罪を癒やす薬についてお話ししましょう。まず第一に神を愛すること、そして隣人を自分と同じように愛することです。まったく人間は隣人なしでは生きて行けないものです。隣人という名前の中には、兄弟という意味も含まれていることを知っておかねばなりません。なぜかと申しますと、私たちはみな肉体の上で、同一の父と同一の母を持っているからです。つまりそれはアダムとエバです。また、精神的にも、同一の父を持っております。それは天にまします神です。
隣人を愛し、隣人の幸せを希うべきです。神様も、「隣人を愛すること汝のごとくなせ」とおっしゃっておられます。それはとりもなおさず、生命と魂を救うことになるのです。さらに言葉の上でも、親切な忠告の上でも、懲罰の上でも、隣人を愛さなくてはなりません。隣人の怒りをなだめ、心をこめてその人のために祈ってあげるべきです。行為の上で隣人を愛するにも、自分自身にしてほしいと思うような親切を尽すべきです。悪い手本にそそのかされて、邪《よこし》まな言葉で隣人に害を加えたり、肉体を傷つけたり、その人の所持品をそこねたり、その人の心を傷つけたりしてはなりません。隣人の妻をほしがってもいけません。その他すべて隣人の物をほしがることはいけません。
また、隣人という名前の中には敵も含まれていることを知らねばなりません。人は神の戒律に従って、自らの敵を愛さねばなりません。友人は神の御名において愛さねばなりませんが、敵をも、神の御為に、戒律に従って愛すべきであります。もしかりに、人は敵を憎むのが理に叶ったことだとします。そうであるならば、神は神の敵である私たちを愛しては下さらなかったでしょう。神の敵どもが三つの害を神に加えたのに対し、神は次の三つのことをなさいました。すなわち、心中の憎悪と怨恨に対して、神は心の中でその者を愛されました。罵りと悪口に対して、神はその敵のために祈りました。敵の邪悪な行いに対して、神は恵みを垂れ給うたのです。
キリストはこうおっしゃっておられます。「汝らの仇《あだ》を愛し、汝らを責むる者のために祈れ。また汝らを追う者のために祈れ。また汝らを憎む者に親切を施せ。」私たちの敵に対しこのようになせと、われらの主、イエス・キリストはおいいつけになっておられます。
友を愛することは自然のことです。しかし、敵こそ友よりもなお愛を必要としているものなのです。より必要としているものに人々は善行を施すべきであります。そしてその善行をすることによって、私たちは敵を救うために死なれたイエス・キリストの愛を思い浮べることができます。そのような愛が行うのに困難ならば困難であるだけ、その報いも大きいのです。かように、敵を愛するということは悪魔の毒を消してしまいます。ちょうど悪魔が「謙譲」によって打負かされてしまうように、「敵を愛すること」によって悪魔は傷つき死んでしまうのです。それですから、愛は「嫉妬」という毒を人々の心の中から追い払う薬なのです。その品等の種類については、のちほどもっとくわしくお話し申し上げましょう。
「嫉妬」の次に、「憤怒」の罪について申し上げましょう。隣人に嫉妬心を抱いている人は、容易にその嫉妬している相手に対して言葉や行為の上で怒る材料を見つけます。「憤怒」は「傲慢」から生ずるように、「嫉妬」からも生じます。傲慢で嫉妬深い人はすぐ怒ります。
「憤怒」の罪は、聖アウグスティーヌスの言うところによりますと、言葉か行為によって悪意をはらすことであります。ある哲学者によりますと、「憤怒」は心の中で燃え上った熱烈な血で、それによって人は憎む相手を傷つけようとするのです。人の心は、血が熱くなり動揺すると、非常に混乱を来たし、理性の判断がまったく利かなくなるのです。
「憤怒」には二種類の途があることを知っておかねばなりません。一つは良く、他は悪いものです。
良いほうの「憤怒」とは、善行に対する嫉妬です。そのために人は悪に関して或いは悪に対して怒るのです。ですから賢い人も申しますように、「憤怒は冗談よりまし」であります。このような「憤怒」にはやさしさがあります。きびしいところはありません。人に対する怒りでなく、人の悪い行いに対する怒りなのです。予言者ダヴィデは、「怒りて罪をおかすことなかれ」と言っております。
さて、悪いほうの「憤怒」には二種あります。一つは不意の「憤怒」或いは急激な「憤怒」で、理性の考慮や同意を伴いません。その意味は、人の理性がその不意の「憤怒」に同意しないということです。そしてこれは小罪となります。もう一つの「憤怒」はまったく邪悪なもので、前もって熟慮考案された悪心から生れます。悪意をもって怨みを晴らそうとします。しかもそれは理性の同意を伴います。この場合は大罪となります。この「憤怒」はまったく神のお気に召しませんので、それは家を乱し、人の魂から聖霊を追い出し、神の似姿《にすがた》を破壊します。と申しますのは、人の心にある美徳を破壊することです。そしてその代りに、悪魔の似姿を心の中に入れて、人の正当な主でいらせられる神から、人を離してしまうのです。この「憤怒」はまったく悪魔の気に入りであります。なぜなら、それは、地獄の火で燃えている悪魔の炉であります。火が何よりも一番よく、地上のものを破壊してしまうように、「憤怒」はすべて精神的なものを破壊してしまう大きな力を持っています。ごく小さな炭火で、灰の下でもうほとんど消えてしまったと思われるものも、硫黄にふれると再び燃え上ります。それと同じように、「憤怒」も人の心の中に隠されている傲慢に触れると、再びいつまでも活躍します。火は無から起ることはありません。燧石《ひうちいし》で打金から火が起される場合のように、そのものの中に天然にはじめから火が内在するのでなければ。
傲慢が「憤怒」のもとになることがしばしばありますが、同様に、怨恨は「憤怒」を養い育てます。聖イシドールスの申すところによりますと、ある木は、その木で人々が火を起し、その炭を灰で覆うと、まる一年以上も火がもつと言います。ちょうどそのようなことが、怨恨についても言えます。つまり、人々の心の中に一たん怨恨が巣くうと、おそらくそれは復活祭から翌年の復活祭まで、いやもっと長くつづくでしょう。そしてその間じゅう、その人たちはまったく神の御恵みから遠ざかっているのです。
さっき申しました悪魔の炉では三人のならず者が働いています。「傲慢」は罵詈雑言《ばりぞうごん》によって絶えず火を吹き、火力を強めています。「嫉妬」もいます。赤熱した鉄を人の胸の上にのせ、宿怨《しゆくえん》という長い一対の火箸を手にして立っています。その次に、罵言とか闘争とか口論とか呼ばれる罪が立っております。邪《よこし》まな非難をもって打ち鍛えています。この呪われた罪は自分自身の気も、隣人の気も悪くします。人が隣人に対して行うすべての悪事は怒りから起ります。道に悖《もと》る怒りは悪魔の命ずるすべてのことをしてしまいます。キリストに対しても、キリストのおやさしい母君に対しても遠慮しません。ああ、まったく歎かわしいことですが、人は道にはずれた憤怒にとらわれている時は大がい、心の中でキリストや聖者たちのことを悪く考えているものです。これはまったく呪われたる悪徳ではないでしょうか。いやまったくそうです。それは人から知能も理性も奪ってしまいますし、つねに心の糧であるべき精神上の上品な生活を奪います。人の魂である神の正しい主権をも、また隣人愛をも失ってしまいます。真実に対してつねに戦いを挑みます。また同時に、それは心の安らかさを取り去り、魂を滅亡させます。
「憤怒」から、数々のいやなものが生れてきます。まず第一に、憎悪で、これは宿怨ともいうべきものです。また不和も生れます。このために、人は長い間愛して来た旧友を失います。次に生れるのが争いなど、隣人の体や所持品に加えるあらゆる悪事です。
この呪われた「憤怒」の罪から殺人も生じます。殺人にはいろいろ種類があることを知っておく必要があります。あるものは精神上の殺人であり、あるものは肉体上の殺人です。精神的殺人には、三種類あります。まず第一に、憎悪によるもの。聖ヨハネも、「兄弟を憎むものは殺人をしたことになる」と言っておられます。また蔭口による殺人もあります。この蔭口屋については、ソロモンもこう言っています。「彼らは二つの刀で隣人を殺そうとするものである。」なぜなら人の生命を取るのと同様に、人のよい評判を奪うのは悪いことだからです。また、人を欺いて間違った忠告を与えるのも殺人となります。例えば、不当に関税や税金を高くするように忠告することなどです。このことについてソロモンはこのように言っております。支払いや召使の賃銀などをやらなかったり、減らしたり、或いはまた、高利貸つけをしたり、貧しい人々に施し物をしなかったりする「専横な主君は、たけり狂うライオンや飢えた熊に似ている。」貧しい人々に施すことについて、ある賢人は、「飢えて、ほとんど死にそうになっているものに食物を与えよ」と言っております。もし食物を与えなければ、人を殺すことになります。これらはすべて大罪であります。
肉体上の殺人というのは、さっき申し上げたのとは違った方法で、やはり舌を使って人を殺す場合です。例えば、殺人を命じるとか、或いは殺人の忠告を与えるなどです。行為にあらわれた殺人には四種類あります。一つは法律による殺人です。審判者が死刑に価する罪人に宣告をする場合です。しかしその際、審判者は正義のために行うのでなければいけません。血を流すのが快くて行うのではいけません。正義を守るためであるべきです。他の殺人に必要に迫られて行うのがあります。例えば、自己防衛のために相手を殺すより他に死から遁れる途のない場合です。もし相手を殺さずとも遁れることができるのに相手を殺したという場合には、罪を犯したことになります。そしてその大罪に対して償いをしなければなりません。
また、もし人があやまって偶然にも矢を射たり石を投げて人を殺した時も殺人になります。また女が子供に添い寝をしている時、不注意からその子を窒息させるのも、殺人であり大罪であります。
同様に、人が妊娠を妨げたり、女に妊娠できなくさせるような毒草を飲ませて不妊症にしたり、胎児を殺すために女の陰部に物を入れたり、ある物をさしこんで胎児を殺したりするのも殺人になります。或いはまた、男女が子供が生れないような方法で、或いは生れないところに精液を出すことや、妊娠した女が自分の体を損ねて、胎児を殺すことも殺人となります。世間体を恐れて胎児を殺す女のことはなんといったらよいでしょう。いうまでもなく恐るべき殺人です。
また、男が淫らな欲情から女に近づき、そのために胎児を死なせたり、或いは、わざと女を打って、胎児を失わせたりするのも殺人になります。これらはみな殺人であり、恐るべき大罪であります。
「憤怒」からはまだそのほかたくさんの罪が生じます。言葉の上でも、考えの上でも、行いの上でも。例えば、自分が悪いのに、それを神のせいにしたり神を非難したりするのもそうですし、どこの国でも呪われた賭博者たちのすることですが、神をさげすみ、すべての聖者を軽蔑するのもそうです。彼らは心の中で神や聖者たちのことを悪く考えている時に、こうした呪われた罪を犯します。また、祭壇における聖礼を不敬な態度で行う時は、その罪は非常に重いので、もしかりに神の御恵みが神の御業にあまねくゆきわたっているのでないならば、とうてい救われないでありましょう。神の御恵みはそれほどあまねく、神はそれほどおなさけ深いのであります。
次に、「憤怒」から生れるのは、悪意に満ちた怒りであります。そういう人は、罪を告解して棄て去るようにと、きびしく諭された時に、怒り出し、軽蔑し憤慨したように答え、なんやかやと言って罪の弁解をし、言いわけをするのです。例えば、それは体が弱いためだとか、友人とつきあうためにしたのだとか、悪魔にそそのかされたのだとか、若げのあやまちだとか、感情がたかぶって我慢ならなかったのだとか、これがこの年の運勢なのだとか、先祖代々の名門の血をうけているからだとか、その他いろいろそういった言いわけをします。こういう人たちは自分の罪ですっかり覆われていますから、自分自身を救うことはできません。わざと自分の罪を弁解する人は、すなおに罪を認めるまで、罪から救われることはありません。
次に申し上げることは誓言《せいごん》であります。これは明らかに神の掟に反することで、怒りや「憤怒」からしばしば生じます。
神は、「汝の神の名を妄《みだり》に口にあぐべからず」とおっしゃっておられます。また、われらの主、イエス・キリストは聖マタイの口を通してこうおっしゃっておられます。「いっさい誓うな、天を指して誓うな、神の御座《みくら》なればなり。地を指して誓うな、神の足台なればなり。エルサレムを指して誓うな、大君の都なればなり。己が頭を指して誓うな、なんじ頭髪一筋だに白くし、また黒くし能わねばなり。ただ然り然り、否否といえ、これに過ぐるは悪より出づるなり」とキリストはおっしゃっておられます。
キリストの御為にも、キリストの魂、心、骨、体をばらばらに分解するような罪深い誓言を出してはなりません。そんな誓言は、まるであの呪われたユダヤ人たちがキリストの貴い御体をばらばらにしたのではまだ足りないから、もっとばらばらにしようと考えているように見えます。もしも掟によって誓言を余儀なくさせられた時には、その誓言において神の掟に従いなさい。聖エレミヤが第四章においてこう言っています。「汝三つのことを守るべし。すなわち、真実と裁きと正しきとをもって誓うべし。」ということは、真実を誓いなさいということです。偽りはすべてキリストにそむくことになります。キリストこそ最上の真実だからです。掟によって誓言を強いられているわけでもないのに、しょっちゅう大げさな誓言をするものは、こんな掟に反した誓言をする癖がぬけないうちは、疫病《えきびよう》はその者の家から去りません。
また、審判者から、真実の証言を要求された時には、裁きに宣誓すべきです。嫉妬や偏愛、賄賂のために誓ってはなりません。正義のために誓うべきです。また神をあがめ、同じキリスト教徒を助けるために宣誓すべきです。ですから、みだりに神の御名を口にし、邪《よこし》まな宣誓をなしたり、キリスト教徒だと言われるためにキリストの御名をかたり、しかもキリストの生き方や教えにそむいた生き方をする。これらはみな神の御名を妄りに使っているのです。
「使徒行伝《しとぎようでん》」の第四章で聖ペテロはなんとおっしゃっておられましょうか。「天《あめ》の下にはわれらの頼りて救わるべき他の名を、人に賜いしことなし。」と申しますのは、イエス・キリストの御名を除いては、という意味です。また聖パウロが「ピリピ書」の第二章で、キリストの貴い御名について言っているのをみましょう。「天に在るもの、地に在るもの、地の下に在るもの、ことごとくイエスの名によりて膝を屈《かが》むべし。」なぜなら、御名はいとも高く貴いものでありますから、地獄の呪われたる悪魔たちも、その御名を聞くと身が震えるのです。でありますから、祝福された神の御名をかりて、恐るべき宣誓をなす人々は、あの呪われたユダヤ人よりも、或いはまた神の御名を聞くと震えるという悪魔よりも、もっと大胆に神を軽蔑することになるわけです。
掟に従わない宣誓は固く禁じられていますが、偽って、しかも必要もないのに行う偽誓はなおさら悪いことです。
また、誓いを立てることに喜びを感じる人や、大げさな誓いをたてることは上品なことであり、男らしいことだと思っている人はどうでしょう。また、まったく習慣になってしまって、大した意味もないのに大げさな誓いをたてることを止められない人はどうでありましょうか。いうまでもなく、それは恐るべき罪です。よく考慮せずに出まかせにする宣誓も同じく罪になります。
さて次に話を進めて、例の邪悪な魔法使や妖術者たちが、水をいっぱい張った鉢や、輝く剣や、円や、火や、羊の肩の骨に対して言う、悪魔払いの呪詞や、魔法の呪文のあの怖しい誓いについて考えてみましょう。彼らはキリストや聖なる教会のすべての信条にさからって、呪わしく忌わしい宣誓をしているとしか思えません。
いろいろな占を信じている人はどうでしょう。例えば、鳥や獣の鳴き声による占、籤による占、土占《つちうらない》、夢占、戸のきしむ音や家の中のきしみや鼠の歯音による占、その他そういった怪しからぬ占を信じている人はどうでしょうか。もちろんこのようなことはキリストもすべての教会も禁じていることであります。それらの人は改善するまでは、そのようなけがらわしいものを信じたとて非難されます。人や動物の傷や病に対する呪文《まじない》がもしいくらかでも効《きき》めがあったとするならば、それはたぶん神が許し給うたからであって、人々はなおさらキリストの御名に信仰と尊敬を捧げるべきであります。
次に、嘘についてお話ししましょう。嘘というのは、たいてい同じキリスト教徒を欺こうというもくろみから出る言葉の偽りの表示です。ある種の嘘は誰の得にもなりませんが、なかには、一人に安心と利得を与え、他の一人に不幸と損害を与える嘘もあります。生命や財産を救うための嘘もあります。嘘をつくことが面白くて言う嘘もあります。その快楽のために、長い話を捏造《ねつぞう》し、その嘘でかためた土台の上に、ごてごてと話の細目を塗りたくります。また自分の言葉を裏づけしようとしていう嘘もあります。またよく考えもしないで不注意にいう嘘もあります。まだその他にもいろいろそういったふうな嘘があります。
甘言《かんげん》という悪徳について申し上げましょう。甘言は喜んでするのではなく、むしろ怖れのためとか貪欲のためにするのであります。それはたいがい邪《よこし》まな賞讃であります。甘言を弄する者は、わが子を甘言という乳で育てる悪魔に育てられた子供です。ソロモンも「甘言は誹謗より悪し」と言っております。なぜかと申しますと、誹謗というものは時には傲慢な人を謙譲にさせます。それは人が誹謗を怖れるからです。ところが、甘言は人の心や感情をふくれ上らせいい気にさせます。お世辞使いは悪魔づきの魔法使です。なぜなら、彼らは人を自分以外のものに思いこませてしまうからです。神を裏切ったユダのように、彼らは人を欺して敵へ、すなわち悪魔へ渡してしまいます。またお世辞使いはいつも「わが主、真実《まこと》を宣い給う」と歌っている悪魔づきの牧師であります。私が甘言を「憤怒」に含まれる悪徳の一つと見做したのは、ある人が一人の人に対して怒った場合に、他の人にお世辞を使って喧嘩の助太刀をたのむことが非常に多いからです。
次に憤怒の心から生ずる呪詛《のろい》について考えてみましょう。呪詛とはたいてい、あらゆる害をなす力のことを申します。そのような呪詛は聖パウロも言っておられるように、人を神の国から遠ざけます。そうして、そのような呪詛は往々にして呪った当人のところへ間違って戻ってくるものです。ちょうど小鳥が自らの巣に再び戻ってくるように。何よりも一番、でき得るかぎり気をつけて避けねばならぬことは、わが子を呪って、悪魔に手渡してしまうことです。これはまことに、大きな危険であり、また大きな罪であります。
それでは次に小言や叱責についてお話ししましょう。それは人の胸の中の大きな傷であります。なぜなら、それは人の胸の中にある友情の縫目をほどいてしまいます。誰だって、公然と自分を面罵し非難した者とよく気を合せてゆくということはむずかしいことです。叱責は、キリストも福音書の中でおっしゃっておられるように、非常によくない罪であります。では、隣人のことを、「癩病やみ」とか「せむし」などと肉体上の欠陥によって罵倒したり、或いは隣人の犯した罪でその者をののしったりする人のことを考えてみましょう。もし他人の肉体上の苦痛を罵る人があるとすれば、その人はイエス・キリストを罵っていることになります。なぜなら肉体の苦痛は、たとえそれが癩病であろうと、片輪であろうと、病であろうと、すべて神の正しい贈物によって、或は神の御|宥《ゆるし》によって下されたものなのです。また、もし人の犯した罪を情容赦なく、「やい姦夫」とか「やい酔いどれめ」などと罵倒する人は、つねに人間どもが罪を犯すのを楽しみにしている悪魔を喜ばすことになります。まったく罵りというものは邪《よこし》まな心からしか生じません。心の中がいっぱいになると、口をついてどんどん言葉が出るのです。どんな方法でも、他人を叱る時には必ず小言や叱責に気をつけなければなりません。なぜかと申しますと、気をつけなければ、消してしまわねばならない怒りの焔をたやすく勢よく燃え上らせ、親切心をもってたしなめるべきものを殺してしまうことにもなりかねません。ソロモンも言っておられるように、「やさしい舌は生命《いのち》の樹」、すなわち心霊の生命であり、邪まな舌は叱る者の心も叱られる者の魂もともに傷つけます。
聖アウグスティーヌスも言っておられます。「絶えず小言をいうものほど悪魔に似ている者はない」
聖パウロも「主の下僕《しもべ》なるわれ、争うべからず」と言っておられます。
小言はどのような人の間でもよくないことですが、ことに夫婦の間では一番工合の悪いことです。なぜなら夫婦間の小言は心の安らいをなくすからです。ですから、ソロモンはこう言っています。「たえず小言ばかりいう妻は屋根がなく雨漏《あまも》りのする家のごとし。」方々雨漏りのする家にいる者は、一箇所の雨漏りをさけて別のところに移っても、またそこに雨がもります。小言ばかりいう妻もそれと同じことです。あることで夫を叱ったかと思うと、また別のことで小言を言います。ですから、ソロモンは「睦じゅうして一塊のパンあるは、争いありて歓楽みちたる家にまさる」と言っておられます。
聖パウロは「コロサイ書」第三章で、こう言っておられます。「妻たる者よ、その夫に服《したが》え、これ主にある者のなすべきことなり。夫たる者よ、その妻を愛せよ」
さて次に軽蔑という悪い罪について話しましょう。ことに他人の善行を軽蔑する場合について話してみましょう。そのような軽蔑をする者は、ちょうど葡萄がよく実っている時、そのよい香りを嗅ぐのに我慢しきれない邪まなひき蛙と同じことです。このような者たちは悪魔の片棒をかつぐものです。なぜなら、彼らは悪魔が勝つと喜び、負けると歎きます。また彼らはイエス・キリストの敵でもあります。なぜなら、彼らはキリストの愛されるものを憎みます。すなわち、霊魂の救済を憎むからです。
次に、邪まな忠告についてお話ししましょう。邪まな忠告を与える者は裏切者であります。ちょうどアヒトベルがアブサロムになしたように、自分を信じている人を裏切るわけですから。ところが、この邪まな忠告というものは、まず最初に自分自身にそむくものであります。なぜかと申しますに、ある賢人も言っておられるように、すべて邪悪な生活態度の特色として他人を傷つけようとすれば、まず自らを傷つけることになるものです。人々は相談を求める際に、ことに精神上のことで相談を求める際には、悪人や怒りっぽい人やずるい人や、自分の利益や人間に対して非常な執着を抱いている人は避けるべきだということを知っておかねばなりません。
さて次に、人々の間に不和の種を蒔き、不和を育てる人々の罪に移りましょう。その罪はキリストが最もお憎しみになる罪です。それは当然のことです。なぜなら、キリストは人々の和合をはかるために死なれたのです。その人たちは、キリストを十字架にはりつけにした者たちより、もっと恥ずべきことをキリストに対してしていることになります。なぜかと申しますと、神は御自分の御体よりも、人々の間の友情を愛され、その和合をはかるために御体を犠牲にされたのであります。ですから、不和をもたらす者は、人々の間に不和を生ずる機会をたえずねらっている悪魔のようなものです。
二枚舌の罪に移りましょう。これは人前で体裁よく話して、蔭に廻ると悪口を言う場合や、相手のためを思って言っているのだというふりをしたり、或いはふざけて冗談に言っているのだというふりをして、その実、相手の不為《ふため》になることを言う場合などがあります。
その次に秘密を洩らすこと。このために、人は汚名を着、その損害は容易に取りかえしがつきません。
次に威嚇《いかく》についてみますと、これは明らかに愚劣なことであります。何度も何度も人を威嚇するものは、しばしば空嚇《からおど》しをするようになってしまいます。
次に無用な言葉についてみましょう。そのような言葉は、発する側にも聞く側にもなんら利益をもたらさぬものです。或いはまた、無用な言葉は不必要なものであるか、当然あるべき有益な意義をもたないものであるかのいずれかです。無用な言葉はある場合には小罪になります。しかし人々はそれを怖れるべきです。なぜなら、われわれは神の御前でそれを決算しなければなりませんから。
次は饒舌であります。これも必ず罪を伴います。ソロモンも言っておりますように、「それは明らかに愚かな罪であります。」でありますから、ある哲学者は、人々から他人を喜ばせるにはどうしたらよいかと尋ねられた時、「善行をたくさん積み、口数をできるだけ慎しみなさい」と答えました。
次に道化者の罪ですが、これは悪魔の猿です。なぜかと申しますと、ちょうど人々が猿のいたずらを笑うように、彼らは道化たことをして人を笑わせます。聖パウロはそのような道化師を禁じております。徳高い聖なる言葉がいかにキリストに仕えて働く人達の心を和らげるか考えて御覧なさい。それに対し、みだらな言葉や道化者の冗談は悪魔を楽しませます。
これらはすべて舌から起る罪であり、「憤怒」などの罪から生ずるものです。
「憤怒」を癒やす薬は、人々が「温和」と申す徳、すなわち柔和と、「忍耐」または「寛容」という徳であります。
「温和」は人の胸のうちの感情の動揺を抑圧し押えて、怒りや「憤怒」によってその動揺が外へ飛び出さないようにします。「寛容」は外面上人々から受けたすべての迷惑や悪事を快く宥《ゆる》すことです。聖ジェロームは柔和についてこう言っておられます。「それは他人に対してなんら害をなさず、言わず、人々が行ったり言ったりした害に対して理性にさからって怒ることは一切なし」
この美徳は時には生れつき備わっています。ある哲学者が申しておりますように、「人間は生れながらにして善に対して柔和で、素直である。しかし、聖寵によって教えられた柔和はなおもっと尊い」のであります。
「憤怒」に対するもう一つの薬であるところの「忍耐」は、あらゆる人の幸福を快く許容し、自ら受けた損害に対して怒らないことであります。哲学者が言っておりますには、「忍耐とは敵の不法な行いやあらゆる邪《よこし》まな言葉を穏やかに耐えしのぶことである」とあります。この徳は人間を神に近づけ、神の愛《いと》し子となすと、キリストもおっしゃっておられます。この美徳は敵を打負かします。それでありますから、ある賢人は、「汝もし汝の敵を滅ぼさんと欲するならば、耐えしのぶことを学べ。」外面的な四つの苦難を耐えしのび、それに対して、四つの忍耐を持たねばならないということを知っておかねばなりません。
まず第一の苦難は邪悪な言葉であります。イエス・キリストは、ユダヤ人たちが何度も何度もキリストを侮辱し非難した時に、まったく忍耐強く、これらの邪悪な言葉を耐えしのびました。でありますから、忍耐強く耐えるべきであります。賢人も言っています。「もし汝おろかなる人と争えば、或いは怒り或いは笑いて、休むことなし」
第二の外面上の苦難は自分の財産の損害であります。この苦難に対してもキリストはまったく忍耐強く耐えしのびました。それはキリストのこの世でのすべての所有物、すなわちそれはキリストの衣服だけでありましたが、それを盗みとられた時のことです。
第三の苦難は肉体に害を加えられることです。これも、キリストは受難の際、まったく辛抱強く耐えしのびました。
第四の苦難は非道な労働の過重です。ですから、召使をあまりひどく働かせすぎたり、時間外、例えば、祭日に働かせたりする人々はまったく大きな罪を犯していることになるわけです。この苦難に対しても、キリストはまったく忍耐強く耐えしのばれ、われわれに忍耐というものをお示し下さったのであります。それは、キリストが、その上で残酷な死刑に処せられなければならないその十字架を祝福された肩にのせて運ばれた時のことです。ここにおいて、人々は忍耐強くあらねばならないことを教えられました。まことに、ひとりキリスト教徒だけがイエス・キリストの愛のため、永遠なる祝福された生涯という報いのために忍耐強いのではなく、昔の異教徒たちもキリスト教徒ではありませんでしたが、やはり忍耐の徳を讃え、行っていたのです。
ある哲学者がある時、弟子がひどい悪戯をしたのに対しひどく心が動揺し、杖を取ってきて、その子を折檻しようとしました。その子は杖を見て、師に尋ねました。
「何をなさるおつもりですか」
「お前を打つのだ。こらしめのために」と師は言いました。
それに対し子供は、「それよりも、まずあなた御自身をおこらしめにならなくてはいけません。子供の罪にすっかり忍耐を失っておしまいになったのですから」と言いました。
それを聞いて師は涙ながらに申しました。「まったくそのとおりだ。お前の言ったことは正しい。お前がこの杖を取って、私の短気の罪をこらしめておくれ」と言いました。
さて、この「忍耐」から「従順」が生じます。これによって、人はキリストに対して、またキリストの名において素直に従うべきすべての人に対して従順になるのです。さらに心得ておかねばならないことは、完全な「従順」は、人がなすべきすべてのことを全く善良な心をもって喜び進んで行う時であります。一般に「従順」というのは、神や目上の者の教理を実行することです。その人たちに対して、人はあらゆる正義の名において従順でなければなりません。
「嫉妬」と「憤怒」の罪の次に、「怠惰」という罪についてお話し申しましょう。「嫉妬」は人の心を盲にしますし、「憤怒」は人の心をかき乱しますが、「怠惰」は人の心を重苦しく、もの憂く、いらいらさせます。「嫉妬」と「憤怒」は心に苦味を作ります。この苦味が「怠惰」の母なのです。そしてこれが人からすべての善に対する愛を奪ってしまいます。でありますから、「怠惰」は動揺している心の苦悶であります。聖アウグスティーヌスは「それは善に対する悲しみであり、害に対する喜びである」と言っておられます。まことにこれはいまわしい罪であります。なぜなら、ソロモンも言っておりますように、「怠惰」が、人々が心をこめてキリストに尽さなければならない奉仕を奪ってしまうかぎり、それはイエス・キリストに対して悪いことをしていることになるからです。「怠惰」はそのように勤勉ではありません。何をなすにも、悲しそうに、いらいらしながら、だらだらと、いい加減な言いわけをしながら、怠け怠け、いやいやながらいたします。このことについては、聖書の中でもこう言っています。「エホバのわざを行うて怠る者は詛《のろ》わる」
また、「怠惰」はどのような状態の人にとっても敵であります。人の状態には三つあります。一つは、ちょうどアダムが罪を犯す以前の状態、すなわち純潔無垢な状態であります。この状態にいる人は神を讃えあがめつつ仕事をしなければなりません。もう一つは罪を犯した者の状態です。この状態にある人は、自分の罪を償って下さるように、罪から立ち上ることをゆるして下さるようにと神に祈りつつ働かねばなりません。他の一つは、聖寵をうけている者の状態です。この状態の人は贖罪の仕事をしなければなりません。これらすべてのものにとって「怠惰」は敵であり反対者です。なぜなら「怠惰」はすべて活動というものを嫌います。
さて、この「怠惰」という悪い罪は身体の生計の上からいっても大敵であります。「怠惰」には現世の必要に応ずる準備がありません。すべての現世的なものを不注意から、殺したり、損ったり、破壊してしまいますから。
次に「怠惰」と地獄の責苦をうけている人々とは、不精《ぶしよう》と沈鬱の点で似ているということです。なぜなら、地獄に堕ちたものは非常に束縛されていますから、よく行うことも、よく考えることもできません。
「怠惰」からまず生ずるものは、すべてよいことをなすのが嫌になり、妨げられることです。そして、聖ヨハネも言っておられるように、神がそのような「怠惰」をお憎しみになるようにすることです。
次に「不精」が生じます。これはいかなる困難も難行も我慢しようとしません。まことに、「不精」はソロモンの言葉によりますと、いともか弱く華奢《きやしや》でありますので、困難や難行はいっさい忍ぼうとはしません。ですから、それは行うことすべてを駄目にしてしまいます。
この心の腐った罪、「怠惰」に反対して、人々は善行を積むように自分自身を訓練し、男らしく正しく、心をすこやかに保たねばなりません。そして、どのように小さな善行であろうとも、われらの主、イエス・キリストが必ずそれにお報い下さるのだということを考えなさい。
労働の習慣は大きな力を持っております。聖ベルナルドゥスも言っておられますように、その習慣は働く者に頑強な腕と筋肉を持たせます。これに反し、「不精」は人々を惰弱に、か弱くさせてしまいます。そして、すべて善行に手をつけることに怖気《おじけ》づいてしまいます。まったく、罪のほうに傾いた者にとっては、善い行いに手をつけることは、大事業のように思えるのです。そして、聖グレゴリウスも言っておられますように、善行にはとてもやかましい面倒くさいこまごました事情があって、とても我慢ならない、だから善行に手をつける気にはなれないと自分自身に思いこませてしまうのです。
次に、「絶望」について申しましょう。これは神の御恵みに対する絶望であります。あまりにも多くの罪を犯したから、いまさら痛悔して罪を捨ててもなんの役にも立つまいと思いこんで、時には悲しみのあまり、時には怖れのあまり生ずるものです。その落胆と恐怖のために、あらゆる罪のほうへ心を抛ってしまうことになるのだと、聖アウグスティーヌスも言っておられます。この呪わしい罪が、もし死ぬまでつづけられるならば、それは聖霊において罪を犯すものと呼ばれます。この怖るべき罪は非常に危険なものでありますから、望みを失っている者はいかなる悪もいかなる罪も犯すことを怖れなくなります。ちょうどユダの例のように。まことにこの罪は、ほかのいかなる罪にもましてキリストのお気に召さないものであり、キリストに逆うものであります。自分自身に絶望してしまったものは、あたかも、必要もないのに「負けた」といって降参する臆病な戦士に似ています。まったくもってその人は必要もないのにびくびくし、絶望しているのです。なぜなら、神の御恵みはつねに贖罪する者の上にあり、すべて彼の行いの上にあまねくかけられるのです。
ああ、人々は聖ルカの福音書第十五章でキリストがおっしゃっておられることを考えてみることができないのでありましょうか。
「悔改《くいあらた》むる一人の罪人のためには、悔改めの必要なき九十九人の正しき者にも勝《まさ》りて、天に歓喜《よろこび》あるべし」とおっしゃっておられます。
また同じ福音書にあります、失ったわが子が、痛悔によって再び父の許へ戻って来た時の、その善良な父の喜びと享宴《きようえん》を御覧なさい。
また、人々は聖ルカが第二十三章で言っていることを思い出せないのでありましょうか。イエス・キリストの傍で絞首刑に処せられた盗人が、「主よ、御国に入り給う時、われを憶《おぼ》え給え」と言った時、イエスはこうお答えになりました。「われまことに汝に告ぐ、今日なんじはわれとともに天国に在るべし」
まことに、どんな怖ろしい罪でも、キリストの受難と死の力によって、贖罪すれば必ず生涯のうちに消えてしまいます。それなのに、どうして人は望みを失う必要がありましょうや。神の御恵みはかくもあまねく、かくも豊かでありますのに。求めよ、さらば与えられん。
次に、「睡《ねむ》たさ」に移ります。これは、だらけた眠りであり、人々の心も体も沈鬱にものうくさせてしまいます。そしてこの罪は、「不精」から生じます。まことに、理性で判断して、人々の眠るべきでない時というのは早朝です。理にはまった理由があればまた別問題ですが。人々が祈りを捧げ、神を思い、神を崇め、貧しい人々に施し物をする、これはキリストの御名においてまず最初になすべきことですが、これらのことをなすのには朝が一番適しております。ソロモンはなんと言っているでしょうか。「朝とく起き出で、われを切に求むるものはわれに遇《あわ》ん」
次に「無頓着」または「不注意」のことですが、これはなんにも注意を払わないことです。無知がすべての害の母であるように、「無頓着」はそれらの乳母です。「無頓着」は何か事をした場合、それがよい出来か悪い出来か一向に気にかけません。
この二つの罪を癒やす薬は、賢人の説によりますと、「神をおそれるものは、なすべきことを怠らざるなり」ということであります。神を愛するものは、勤勉に仕事に励んで神をお喜ばせし、最善の力を出して自己を滅してよく尽そうとします。
次に「無為《むい》」ですが、これはすべての害悪の門です。なまけ者は囲いのない場所のようなものです。悪魔はあらゆるところからしのびこみ、方々から油断を見すかして、誘惑の矢を射ます。この「無為」こそ、あらゆる邪《よこし》まな考え、あらゆる口争い、闘争、その他汚らわしいもののすべてが溜るところです。まことに、働く者にこそ天国が与えられましょう。なまける者には与えられません。
「かれらは人々のごとく働かず、人々によって罰せられることなし」とダヴィデが言っておりますが、これは煉獄のことです。それですからこそ、かれは贖罪をしなければ、地獄に堕ちて悪魔に責めさいなまれるのでありましょう。
次に「遅滞《ちたい》」と申す罪でありますが、これは、神の方へ心を向けるのに緩慢で、ぐずつく時のことを言います。これはたしかに大へん愚かなことです。それはちょうど、溝に落ちても立ち上ろうとしない人に似ています。この悪徳は自分は長生きするだろうというあやまった望みから生じます。しかし希望は裏切られることが多いものです。
次に「怠慢」でありますが、これは何かよい行いを始めておきながら、すぐにそれをなげ出して止めてしまう人のことです。ちょうど、誰かを監督している人がその者の中に自分に反対な点や気に入らない点が見つかるとすぐ、それ以後はいっさい面倒を見なくなるのと同じことです。また、新米の羊飼で、知りつつも自分の羊を茨《いばら》の中の狼のところへ走らせてしまったり、或いは自分の監督すべきものに注意が行届かないものも同じことです。
この「怠慢」から貧困や破壊が精神の上にも物質の上にも生じてきます。人の心をすっかり凍らせてしまう冷たさが生じます。不信心も生じます。聖ベルナルドゥスも言われるように、この不信心のために人々は盲になり、心が無気力になり、教会で読むこともうたうこともできなくなりますし、祈祷に耳をかたむけることも、考えることもできなくなり、自らの手でよい行いをすることもできなくなります。善行などは味の悪い、気のぬけたもののように思えるのです。その次には、だらけて、睡がるようになり、すぐ腹を立ててみたり、すぐ憎んでみたり、嫉妬してみたりするようになります。その次に「悲歎」と申す、浮世の歎きの罪が生じて、これが聖パウロも言われるように、人を殺すのです。まことに、このような歎きは人の心も体もともに殺してしまいます。なぜなら、その悲歎から、ついには自らの生命をうとましく思うようになります。ですから、そのような悲歎はしばしば、天寿を全うしない先に人の生命を縮めてしまいます。
この「怠惰」という怖るべき罪およびその枝をなす罪に対して、「勇徳」または「剛毅《ごうき》」という徳があります。これは嫌悪すべきものを蔑《さげす》む心です。この徳は非常に力があるので邪《よこし》まな危険に力強く抵抗し、賢明にそれを避け、また悪魔の攻撃に敢然と闘います。なぜならこの徳は人の心を高揚させ強力にさせます。ちょうど「怠惰」がその反対に心を低落させ弱めるように。この「勇徳」は当然なすべき仕事をいつまでも辛抱強く耐えしのぶことができます。
この徳にはたくさんの種類があります。まず第一に「大量《たいりよう》」すなわち、大きな度量が挙げられます。「怠惰」が、悲歎の罪によって人の心を呑みこんでしまわないためには、また失望によって心を亡ぼしてしまわないためには、大きな度量がぜひ必要です。この徳は、人を自ら進んで、賢明に理に叶ったやり方で困難なことにもいとわしいことにも着手するようにしむけます。悪魔が力よりもむしろ業《わざ》や策略をもって人と闘う以上、人は智力と理性と分別をもって悪魔に抵抗すべきであります。
次の徳は、自分が続行しようと固く志した善行を遂行できるよう、神やその使徒を信仰し希望を持つことであります。
次に「安心感」または「安全感」というものがあります。これは、自分が手がけた善行からどのような難儀な仕事が起ろうとも怖れないものであります。
次に、「偉大な徳行」があります。これは自分がやり始めた偉大な善行をなし遂げることです。この徳が善行を積む目的であります。なぜなら、偉大な善行をなし遂げるところには、偉大な報酬があります。
次に、「恒心《こうしん》」があります。これは心の安定であります。そしてこれは変らぬ信仰によって、心にも、口にも、態度にも、顔にも、行為にもあらねばなりません。
以上のべた以外にも、地獄の責苦を想い、或いはまた、天国の喜びを想い、或いは自分の善意を遂行する力をお与え下さる聖霊の聖寵を信じるなど、種々さまざまの行いのうちに「怠惰」を癒やす特効薬があるのです。
「怠惰」の次に「吝嗇《りんしよく》」と「貪欲」についてお話し申しましょう。この罪のことを、聖パウロは「テモテへの書」第六章で、「もろもろの悪しきことの根は貪欲である」と言っておられます。人の心が動揺し乱れた時、そして魂が神への慰みを失った時に、人は世俗のものに対して空《むな》しい慰安を求めるのであります。
「吝嗇」とは、聖アウグスティーヌスの説明によりますと、世俗のものを得たいという心中の切望であります。他の人々によりますと、「吝嗇」とは、世俗的なものを欲張ってたくさん求めることであり、必要としている人々にいっさい物をやらないことです。「吝嗇」は土地や財産の上のみに限りません、時には知識や繁栄、そのほか何事でも度はずれたことに関して「吝嗇」や「貪欲」があります。
「吝嗇」と「貪欲」との相違はこうです。「貪欲」は自分の持っていないものを欲しがることで、「吝嗇」は正当な必要もないのに所有物を保存し、しまいこんでおくことです。まことに、この「吝嗇」は呪わるべき罪であります。聖書はいたるところでこの罪を呪い、その悪徳を非難しております。なぜならそれはイエス・キリストに対して悪いことをしているわけですから。と申しますのは、その罪は、人々が当然神へ向けるべき愛を奪い、その愛をあらゆる理にもとって、逆の方へ向けさせます。そして吝嗇な人は、イエス・キリストよりも自分の財産の方へより大きな期待を持ち、イエス・キリストに対する奉仕に意を用いるよりも、自分の財宝を溜めておくことに意を用いるようになります。それでありますから、聖パウロも「エペソへの書」の第五章でこう言っておられます。「貪《むさぼ》るものは偶像崇拝の奴隷なり」
偶像崇拝者と吝嗇な人との違いは、ただ偶像崇拝者がおそらくは一つか二つの偶像を持っているのに反し、吝嗇な人はたくさん持っているというだけの違いではないでしょうか。まったく金庫の中のすべての金貨一つ一つが彼にとって偶像なのであります。偶像崇拝の罪は神が十誡の中でまっ先に禁じておられるものです。それは「出《しゆつ》エジプト記」第二十章の中に立証されています。
「汝わが面《かお》の前にわれのほか何物をも神とすべからず。汝自己のために何の偶像をも彫《きざ》むべからず」
ですから、神の御前で自分の財宝を愛する吝嗇な人は、この「吝嗇」という呪わしい罪のために、偶像崇拝者の一人であるわけです。
「貪欲」から専横な君主が生じ、そのために、人々は税、関税、通行税など、当然義務として払うべき額や理に叶った額より以上に取り立てられます。またそういった君主たちは自分の農奴から専横な罰金を取り立てます。それは罰金というより搾取といったほうが当を得ていましょう。農奴から取り立てるこうした罰金や賠償金について、君主の家令の中ある者は、それは正当な取り立てであると言っております。奴隷の持っているものといったらすべて君主のものばかりであるから、とその家令たちは言います。しかし、こういった主君たちは間違っています。彼らは自分のほうから今までに与えたこともないものを農奴から奪うわけですから。このことはアウグスティーヌスの『神の国』第九巻に書いてあります。奴隷である条件や奴隷となる第一の原因は罪であると、「創世記」第五章に書いてあります。(実際は第九章)
このように、奴隷の身分にふさわしいものは罪悪であって、生れつきではない。ですから、そのような主君が非常に繁栄することはあり得ません。なぜなら自然の状態では、彼らは別に奴隷たちの主君ではないのですから。もしその奴隷たちが最初罪を犯したがために奴隷となったのなら話は別です。さらにまた、法律によりますと、農奴のこの世での所有物はすべてその主君の所有物であるといいます。そうです、しかし、それは皇帝の所有物は、農奴たちの権利を守るためにあるのであって、彼らから盗んだり奪ったりするものではないのであります。
それでありますから、セネカは、「汝の思慮、汝の奴隷に対して親切であれ」と言っております。人々が奴隷と呼んでいる者も同じ神の民であります。なぜなら心の柔和な者はキリストの友であります。彼らは主と親しいものであります。
農奴たちの生れ出た種子《たね》と同じ種子から主君たちも生れ出たのです。ですから主君と同じく農奴も救われるのが当然です。農奴の生命を奪う死と同じ死が主君の生命を奪います。ですから私はこう忠告します。「汝、奴隷を遇するに、もし汝彼の立場にあらば、汝の主君にかく遇せられたしと思うごとくなせ」
罪人はすべての罪の奴隷であります。でありますから、私は主君に対してこう忠告しましょう。「汝、奴隷を遇するに、彼らから怖れられるよりむしろ愛されるようになせ」
階級の別のあることは道理に叶ったことだと思います。人々が当然支払うべき借金を払うのは理に叶ったことです。けれども、自分より下のものから搾取したり、下のものを軽蔑したりすることは呪うべきことであります。
またさらに、このような征服者や圧政者は自分と同じく高い身分の被征服者を奴隷としてしまうことがしばしばあります。このような種類の奴隷はなんと呼んだらよいのか最初のうちはわからなかったのです。ノアがその子カナンに、罪を犯したがゆえにその兄弟の奴隷となるべしと言うまでは。
では次に、教会に対して掠奪や搾取を行う者たちのことはどうでしょう。騎士の授与式の時に与える剣は、教会を守るべしというしるしなのです。教会に対して盗みを働いたり、掠奪したりせよというしるしではありません。もしそうする者があれば、それはキリストに対して裏切者となります。そして聖アウグスティーヌスも言われるように、「彼らは、イエス・キリストの羊たちを縊《くび》る悪魔の狼どもである」いや狼よりも悪いことをしています。なぜなら、狼なら腹がいっぱいになると羊を縊《くび》るのをやめます。けれども、神の聖なる教会を掠奪したり破壊したりする者は、そうではありません。彼らはけっして掠奪を止めません。
さて、さっきも申しましたように、罪悪が奴隷となる第一の動機であったのですから、こういうことが言えましょう。この世の中全体が罪を犯していた間は、世の中全体が奴隷であり隷属しているものであったのです。けれども、聖寵の行われる時代になりますと、神は、ある者を高い身分地位に置き、またある者を低い身分地位に置いて、それぞれが自らの身分と地位とにおいて働けるようにお定めになりました。それでありますから、かつて奴隷を買っておりました国も、信仰を持つようになって以来、奴隷たちを解放しました。ですから、主君は家来に家来は主君にそれぞれ互に負《お》っているのです。法王は自らを神の下僕にさらに仕えるものであると言っておられます。けれども、もし神がある人を高い地位に、またある人を低い地位にちゃんとおきめにならなかったならば、教会の地位もないし、国民全体の繁栄も保てないし、地上の平和もなかったでありましょう。でありますから、高位にあるものは力の及ぶかぎり目下の者や家来たちを理に基づいて保護し、支え、守ってやるように、そしてけっして彼らを破滅させたりしないようにと、命ぜられております。狼に似て、貧しい人々の持物や財産を不正にも同情も節度もなく貪《むさぼ》る主君たちは、償いをしないかぎり、彼らが貧しい人々に対して想像したのと同じだけの量しかイエス・キリストの御恵みを受けることはできません。
さて次に問題としますのは、商人と商人との間の欺瞞《ぎまん》であります。取引には二種あります、一つは物質的他は精神的のものであります。前者は正直で許せるものでありますが、後者は不正で許し難いものであります。
物質的な取引で許し得る正直なものとは、次のことであります。すなわちある領土或いは国が、物がありあまるように神が定め給うた場合に、この国のありあまった物でもっと困窮している別の国を助けてやることは正直であり許し得ることです。ですから、そこにはどうしても商品を一つの国から他の国へ運ぶ商人が必要であります。これに対して、欺いたり、だましたり、嘘をついたり、偽りの誓言をもって行う取引は呪わるべきものであります。
精神的取引とは、聖職売買というべきものであります。これは、心霊上のもの、すなわち神の聖堂や魂の救いなどに属しているものを買いたいという熱烈な望みであります。この欲望は、もし人がそれを熱意をもって遂行しようとする場合には、たとえその欲望がなんの効果もあらわれなかったにせよ、彼にとってはそれは大罪となります。そしてもしかりに聖職に任命されたならば、それは非合法であることになります。じじつ、この聖職売買《シモニー》というのはシモン・マグスに因《ちな》んで名づけられたことでありまして、その男は神が聖霊によって聖ペテロや使徒たちに与え給うた贈物を地上の財宝をもって買い取ろうとしたものであります。でありますから、精神的な物を売る者も買う者もともに聖職売買者と呼ばれるのであります。たとえそれが財宝によって取引されたにせよ、策略によってにせよ、肉体的友人や精神的友人の肉体的懇願によってにせよ、同じことです。
「肉体的」というのは二種類あります。すなわち肉親またはその他の友人であります。もしその人たちが価値も能力もない者のために頼み、そしてその者が聖職にありついたならばそれは聖職売買にあたります。しかし、もしその者が価値も能力もある者なら、聖職売買とはなりません。他の一つは、男や女がある人物に対して邪《よこし》まな肉体的愛情を抱いているために、その人が出世するようにこい願う場合で、これは邪悪な聖職売買であります。ところが奉仕については、人々が自分の召使たちに精神的なものを与える場合には、その奉仕に正直なものでなければならない。さもなければ与えてはならない。さらにまた物質的な取引きがあってはならないし、またその人物が有能であるということも条件であります。聖ダマーススも言っておられますように、「世の中のすべての罪もこの罪とくらべるならば、問題になりません。」なぜなら、ルシフェルや反《アンチ》キリストの罪についで、可能なる最大の罪でありますから。この罪のために神は教会を失われるのであり、教会を価値なき者の手に渡す者どものために、神が貴い血をもって贖われた魂を失われるのであります。なぜなら、彼らはイエス・キリストの御魂を盗み、教会財産を破壊する盗人たちの手に渡すようなものです。このようないい加減な牧師や牧師補のお蔭で、無学の人々はなおさら教会の聖礼に対して尊敬心を失います。またそのような教会の贈与者はキリストの子らを追放し、悪魔自身の息子を教会へ入れてしまいます。彼らは羊の持っている魂を、羊を縊《くび》る狼へ売るわけです。でありますから、彼らは羊たちの牧場に加わることはできません。つまり天国の幸福にあずかることはできません。
さて次に、賭事《かけごと》およびこれらに属する事柄、例えば「テーブル遊び」や富籤などについて申しましょう。これから生ずるのが、欺瞞、偽の誓言、罵り、強奪、聖物冒涜、神の否定、隣人への憎悪、物の浪費、時間の空費、そして時には殺人まで生じます。まったく、賭博者が賭博をしている間は、大きな罪を犯さないではいません。
貪欲からさらに、嘘、窃盗、偽りの立証、偽の誓言が生じます。これらは大きな罪悪であり、さきにも申しましたように、神の掟にとくに反するものであるということを知っておかねばなりません。
偽りの立証は言葉の上にもまた行為の上にも見られます。言葉の上のは、偽りの証言によって隣人の評判を失くすこと、或いは偽りの証言によって隣人の財産や世襲財産を奪いとることなどです。それは憤怒、賄賂、嫉妬のために、偽りの証言をしたり、或いは隣人を告訴したり、偽りの立証によって隣人の言いわけをしたり、自分自身の偽りの弁解をしたりする場合のことです。
陪審員並びに書記の方々よ、よくよく気をおつけなさい。偽りの証言のためにスザンナやその他多くの人々がいかに歎き苦しんだことか。
窃盗の罪もまた神の掟に非常に反するものであります。これには身体上のと精神上のとの二種あります。身体上のは、隣人の所有物を隣人の意に逆って、力ずくにせよ、謀略によってにせよ、或いはまた数量をごまかしてにせよ掠奪することなどを言います。また隣人に偽りの起訴をして物を盗んだり、隣人の所有物を返済する気持なしに借りることなどです。
精神上の盗みは聖物冒涜です。と申しますのは、二通りのやり口で聖物を傷つけたり、キリストを祀《まつ》ったものを傷つけたりすることです。すなわち、教会とか教会の境内において行ったあらゆる邪《よこし》まな罪や乱暴は聖物冒涜といわれます。また教会に属している権限を不正にも取上げる者もそうです。簡単明瞭に申しますと、聖物冒涜とは聖なる場所から聖物を盗むか、或いは聖なる場所から神聖でない物を盗むか、或いは神聖でない場所から聖物を盗むかのいずれかです。
さて、「吝嗇」を救うものは「慈悲」と、広い意味における「同情」とであります。なぜ「慈悲」と「同情」とが「吝嗇」を救うのかとおたずねになるかもしれません。それは、けちんぼな者は貧しい人々に対して、いささかも同情も慈悲も示しません。その人は自分の宝を蓄えることを喜び、同胞を救うとかいうことには喜びを感じません。そこでまず最初に「慈悲」について申しますが、慈悲とは、哲学者も言っていますように、不幸せにあったものの不幸に対して人の心が動かされる、その力を言います。慈悲についで同情が起り、その慈悲の慈善行為を遂行します。そしてこれらのことが、人をイエス・キリストのお慈悲へと動かします。キリストはわれわれの罪に対して慈悲を垂れ給い、慈悲のために死に赴かれ、われわれの原罪を宥し給うたのであります。そしてまた、慈悲によって、われわれを地獄の責苦から救い給い、贖罪によって煉獄の責苦を減じ給うたのであります。さらにまた、善行をなすように聖寵を垂れ給い、ついには天国の喜びをお与え下さるのであります。
慈悲の種類は、貸すこと、与えること、宥すこと、救うこと、心に同情を抱くこと、同胞の禍いに同情すること、或いはまた、必要とあらばこらしめることなどであります。
「吝嗇」に対する他の薬は適度の仁愛であります。この際、イエス・キリストの聖寵やキリストのこの世での所有物、またキリストがわれわれにお与え下さった永遠なる幸せを考えることが必要です。そして、いつ、どこに、どうしてやってくるかはわからないが、いずれわが身にふりかかる死のことを思い、自ら善行をなす際に費したもの以外のすべての持物を棄てるべきであります。
しかし、なかには度はずれたことをする人もいますが、愚かしいほどこしは避けるべきであります。それを浪費と申します。そのような人は財産を与えるのではなく、財産を失うようなものです。自分の名声を世間に拡めるために音楽師や人々に物を与えるなどという虚栄のためのほどこし物は、罪を犯したことにこそなれ、慈善とはなりません。自分の物を与えることによって罪のみを求める人は、不正にも自分の物を失う人です。そういう人は、清水を飲むよりもむしろ汚れて濁った水を飲もうとする馬にも似ています。与えるべきでない時に物を与えるかぎり、その人たちにこそ、キリストが最後の審判の日に地獄へ堕ちる者へお与えになるという呪いがかけられてよいでありましょう。
「貪欲」の次は「貪食《どんしよく》」であります。これもまた、神の御教えにまったく反するものであります。「貪食」は度はずれた飲食欲であります。或いは、飲食に対する度はずれた欲求や無節制な貪欲を満足させることであります。アダムとエバの罪によくあらわれていますように、この罪はこの世の中全体を堕落させました。
また、「貪食」について聖パウロが言っておられるのを御覧なさい。
「そはわれしばしば汝らに告げ、今また涙を流して告ぐるごとく、キリストの十字架に敵して歩む者多ければなり。彼らの終りは滅亡《ほろび》なり。己が腹を神となし、己が恥を光栄となし、ただ地のことのみを念《おも》う」と聖パウロは言っておられます。
この「貪食」の罪に耽るものは、いかなる罪にも抗《さから》うことができません。その者は、あらゆる悪徳の下僕《しもべ》とならざるを得ません。なぜなら、その者が隠れて休んでいる場所は悪魔の宝庫でありますから。
この罪にはたくさんの種類があります。まず第一に泥酔でありますが、これは人間の理性の怖るべき墓場であります。でありますから、人は酔うと理性を失います。そしてこれは大罪となります。けれども、あまり強い酒になれていない場合とか、おそらくは酒の力を知らない場合とか、頭が弱っている場合とか、働いた後に余計酒を飲む場合など、急に酒に酔っぱらったとしても、それは大罪とはならず小罪となります。
「貪食」の第二番目の種類は、人の心がすっかり混乱してしまうことです。なぜなら、酔いは知性の思慮を人から奪ってしまいます。
第三の「貪食」の種類は食物をむさぼり食い、食事の正しい作法を弁《わきま》えないことです。
第四は、食事の量が多すぎるため、体内の体液が変調を来たす場合のことです。
第五は、酒を飲みすぎて記憶力を喪失することです。このために、時々人は前日の夕方か夜、行ったことを翌朝になるまでには忘れてしまいます。
さて、聖グレゴリウスによりますところの、「貪食」の種類のわけ方は、方法はさっき述べたのとは違いますが、明瞭なものであります。
第一は、食事時以前に食べること。第二は、贅沢な飲食を摂《と》ること。第三に、適量以上に飲食を摂ること。第四は、大々的な計画で食事を作ったり用意したりする美食主義。第五は、あまりにもがつがつと貪り食うことであります。これらは人々を罪へと引きよせる悪魔の五本の手の指であります。
「貪食」に対する薬として、ガレーヌスも言っておりますように、「節食」があげられます。その節食も、ただ単に体の健康のためであるならば、別に讃められるほどのものではないと思います。聖アウグスティーヌスは「節食」は美徳のために、忍耐をもってなされることを望んでおられます。アウグスティーヌスがおっしゃっておられますには、「節食」というものは、もしも人がそれに対して立派な意志を持ち、忍耐と慈悲によってさらに強められ、しかも人が神の御為にまた天国の幸せを得る希望をもってそれをなすのでなければ、ほとんど価値はないということです。
「節食」の仲間には、すべてのことにおいて中庸《ちゆうよう》を保つ「中庸」と、すべて不正なものを避ける「廉恥心」と、さらにまた「満足感」といって、すべて豪華な飲食を求めず、度はずれた食事の準備には無関心なものがあります。また「節制」もそうであります。これは、無節制な食欲を理性によって抑制するものであります。「節酒」も仲間であります。これは過度な飲酒を抑制します。「倹約」もそうです。これは、長い時間、楽しみながら食事を摂るという享楽を抑制します。ですから、中には自分自らの意志でわざと、あまり暇のない時に食事を摂る人さえおります。
「貪食」の次に「邪淫」に移ります。この二つの罪は、ごく近親の従兄弟同士でありますから、しばしばこの二つは分離することができないほどです。この罪は神にとって非常に不愉快なものだということを神は知っておられたのです。それだからこそ、神は「汝姦淫するなかれ」とおっしゃったのです。神は昔の掟において、この罪に対して重い罰をお定めになりました。もしも女奴隷がこの罪を犯したならば、杖をもってこれを打ち死に至らすべし、もしそれが良家の子女ならば、石もてこれを殺すべし、もし祭司の娘ならば、神の掟により火もて焼き殺すべし、とお定めになりました。またさらに、この「邪淫」の罪のために、神は全世界を洪水で水びたしになさいました。そして、その後に落雷によって五つの都市を焼き払い、それらを地獄へ沈めてしまわれました。
さて次に、邪淫の中でも、人々が既婚者の姦通と呼ぶところのいまわしい罪についてお話しいたしましょう。これはいずれか一方が既婚者である場合と、双方とも既婚者である場合とあります。聖ヨハネは、姦通を犯せしものは火と硫黄との燃える池でその報いを受くべしと言っておられます。火は邪淫のため、硫黄は彼らの醜行の臭みのためであります。
まことに婚姻の聖式を破ることは、怖るべきことであります。それは天国において神御自身がお作りになり、イエス・キリストによってさらに堅固にされたものであります。聖マタイは福音書の中でこれを証明しておられます。「人は父母を離れ、その妻に合《あ》いて、二人のもの一体となるべし」
この聖式は、キリストと教会の結びつきを象徴しております。神は、姦通の行為だけを禁じておられるのではありません。汝、汝の隣人の妻を貪るなかれとお命じになりました。このおいいつけによって、邪淫を犯す貪欲はことごとく禁じられていると、聖アウグスティーヌスは言っておられます。
聖マタイは福音書の中で、なんと言っておられるでしょうか。「すべて色情を懐《いだ》きて女を見るものは、すでに心のうち姦淫したるなり」
ですから、みなさんはこの罪の行為だけでなく、罪を犯そうとする欲望も禁じられているのだということがおわかりになりましたでしょう。
この呪わしい罪はそれを犯すものをひどく悩ませます。まず第一に、その者の心を悩ませます。なぜならそれは心を、罪悪へと、また永遠につづく死の苦しみへと押しやります。またそれは肉体をもひどく悩ませます。なぜなら、それはその者を干《ひ》からびさせ、衰えさせ、堕落させ、そしてその者の血を地獄の鬼へ犠牲に供します。それはその者の財宝や資産を浪費させます。男が女のために自分の財宝を浪費するのが悪いことなら、女がそのような不浄なことのために、男に自分の財宝や資産を貢《みつ》ぐことはなおさら悪いことであります。
予言者も言っておりますように、この罪は男からも女からもよい名声やすべての名誉を奪いとるものであり、また悪魔にとっては非常な喜びとなるものであります。なぜならそれによって悪魔はこの世の大半をかち得るからであります。ちょうど商人が自分に利得の多い取引きを非常に喜びますように、悪魔もまたこの不浄な行いにほくそ笑むのであります。
この罪は、人を悪へと引張る五本の指を持った悪魔のもう一方の手であります。最初の指は愚かな女または男の愚かしい眼つきであります。これはちょうど、あの一|睨《げい》のもとにその毒で人を殺すといわれる怪蛇のように、人を殺します。なぜなら、貪欲な眼つきは貪欲な心のつぎに生じます。
二番目の指は邪《よこし》まなやり方でみだらに触れることであります。ソロモンが言いますには、女に触れる者は、人を刺し、毒をもってすぐに殺すという、蠍《さそり》に触れる者と同じであります。蠍は人を刺し、毒をもってすぐに殺します。その温い瀝青《ピツチ》に触れるものの指を損ねます。
第三番目の指は、偽りの言葉で、これは火のように、すぐに心を焼きただらせてしまいます。
第四番目の指は、接吻であります。まったく、燃えさかる窯《かま》や炉の口に接吻しようとする者は大馬鹿者であります。しかし淫らな接吻をする者はそれよりなお愚者であります。なぜなら、その口は地獄の口でありますから。ことに耄碌した好色家は接吻することができないくせになおも接吻をしたがり、少しでも味わいたいと思うのであります。そのような者はまったく犬畜生と同じことです。なぜなら、犬は、バラの叢やその他の叢にくると、放尿することができないくせに、足を持ち上げ、放尿するような恰好だけをするのです。
多くの人は自分の妻に対してなす淫奔な行為は、罪にならないと思っておりますが、この考えはたしかに間違っております。神は、人が自分自らの小刀で自らを殺すこともできれば、自らの酒樽によって酔っぱらうこともできるということを御存じであります。たとえ妻であろうと子供であろうと、神の前で何かこの世のものを愛するならば、それはその者の偶像であり、その者は偶像崇拝者となります。人はその妻を思慮深く、忍耐をもって適度に愛すべきであります。そうしますと、妻はあたかも妹のようになります。
悪魔の第五番目の指は、「邪淫」といういまわしい行為であります。悪魔は「貪食」という五本の指を人の腹の中に置きましたが、「邪淫」の五本の指で悪魔は人の腰を掴まえ、地獄の炉の中に抛りこもうとします。そこにあるものは、絶えることのない火と蛆虫、阿鼻叫喚《あびきようかん》、痛烈な飢餓と渇き、いささかの休みもなく、永遠に人々の頭の上を踏みにじる悪魔の恐ろしさであります。
「邪淫」にはいくつかの種類があることは、先にも申したとおりであります。例えば、「私通」といって、未婚の男女間の邪淫でありますが、これは大罪であり、自然に悖《もと》る行為であります。すべて自然の敵であり、自然を破壊するものは自然に悖ることであります。神が「邪淫」を禁じていらっしゃるかぎり、人の理性もそれが大罪であるということは承知しているはずであります。そして聖パウロはそれらの者に大罪を犯した者どもにのみふさわしい国を与えるのであります。
「邪淫」の次の罪は、処女から処女性をうばうことであります。そのようなことをなす者は、処女をこの世における最高の地位からつき落し、書物に「|百番目の果実《セ・フンドレド・フリユート》」といわれるあの貴い果実を奪ってしまうことになるのです。私は英語ではそれより他の言い方を存じませんが、ラテン語では「|百番目の果実《ケンテシムス・フルクトウス》」と申します。そのようなことをした者は、いかなる人も数えきれないほどたくさんの損害と悪のもととなります。その者は時には、動物が囲いの柵をこわして、その中でいろいろわるさをし損害のもとになるのと同じことで、そのために彼は、けっして取りかえしのつかないものを破壊してしまいます。まったく、処女性というものはけっして取りかえしがつきません。ちょうど、身体から切りとられた腕は二度と再び生えてこないように。もし贖罪するならば、その女は聖寵を受けることができます。けれども汚れなかった時のようには二度となれないのです。
もうすでに「姦通」について、いくらかお話し申し上げましたが、なおもっと「姦通」に属する数々の危険をお見せして、その邪《よこし》まな罪を避けるようにするのがよろしいかと思います。ラテン語で「姦通」というと、他人の寝台へ近づき、そのためにそれまで一心同体であった者が、自分の体を他人に委ねることであります。
この罪から数多くの害悪が生ずる、とある賢人は言っております。まず第一に信仰の破棄であります。まことに信仰にこそキリスト教の鍵があるのです。信仰を破り失う時に、キリスト教は空しいものとなり、なんの効果もないものとなります。
この罪はまた、窃盗でもあります。普通に窃盗と申しますと、相手の意志に逆ってその人の物を奪うことであります。でありますから、女が自分の体を夫から奪い取って、それを情人に与えて体を汚し、しかも自分の魂をキリストから盗み、悪魔へ渡すのは最も邪悪な窃盗であります。これは、教会を破壊し聖杯を盗むよりももっと邪悪な窃盗です。なぜかと申しますと、こういった姦通を犯したものは精神的に神のみやしろを破壊し、恩寵の器を盗むものであります。それはすなわち神体と神霊であります。この罪のために神は彼らを破滅させるのである、と聖パウロは言っております。
まことにヨセフが非常に怖れたのは、この窃盗罪であります。ヨセフの主人の妻が彼に淫らなことを言いよった時に、彼はこう答えました。「奥さま、私の御主人はこの世に持っていらっしゃるものはすべて私の手にお委ねになっておられます。御主人のお持ちになっていらっしゃるもので私の自由にならないものは何一つありません。ただ貴女様だけはそうはなりません。貴女様は御主人の妻でいらっしゃる。どうしてそのような悪いことをして、神に対してもまた御主人に対してもそのような怖ろしい罪を犯すことができましょうか。神はそのようなことをお許しにはなりません」
ああ、このような誠実さは今の世ではほとんど見当らないではありませんか。
第三の害悪は神の掟を破って、婚姻の創造者でいらっしゃるキリストを汚したその不浄な行為であります。婚姻の聖式が非常に尊く大切なものであるだけに、それを破ることはなおさら罪深いことになります。神は天国において、人類をふやして神に仕えるようにさせるために純真無垢な状態で結婚を成立させられました。それでありますから、それを破ることはなお悪いことになります。その破壊からしばしば偽りの後継《あとつぎ》が生れ、それらが不正にも人の世襲財産を占有します。それでありますから、キリストはそれらの者たちを天国から追放しようとなさるのです。天国こそ正しい人々へ譲られる世襲財産であります。
また、この破壊からしばしば、知らずに近親の者と結婚したり罪を犯したりする者が生れます。そしてことに、愚かな女どものいる遊女屋に足繁く通う好色家がいますが、そのようなところは、人々が不浄なものを排泄する共同便所のようなものにたとえることもできましょう。また、売淫という怖るべき罪によって生計をたて、売女に肉体売淫の儲けの一部をよこせと強制し、時にはよく女衒《ぜげん》のすることですが、自分の妻や娘にまでさせる、こういった売淫取引人のことはなんと言ったらよいでしょうか。いうまでもなく、それらは呪わしい罪であります。
姦通が十誡の中で窃盗と殺人との間に配置されているのは非常に当を得ています。なぜなら、それはこの上もなく重い窃盗罪であるからです。それは肉体と心の窃盗であります。また、それは殺人にも似ています。なぜかと申しますと、最初一心同体であったものを二つに切り、二つに分けてしまうのですから。でありますから、彼らは死刑に処せられるべきであると、神の古い掟には定められております。けれどもイエス・キリストの掟によりますと、それは慈悲の掟でありますが、ある女が姦通の現場を取りおさえられ、ユダヤ人たちの掟どおり、ユダヤ人の意志により、石をもって殺されるべきであったときに、キリストはその女におっしゃいました。「往《ゆ》け、この後ふたたび罪を犯すな」と。まことに姦通に対する復讐は地獄の責苦に授与されております。もし贖罪によってそれが妨げられないならば。
さて、この呪われた罪にはまだ他に種類があります。両者の一方が信心深いものであるとか、或いは両方ともそうである場合とか、宗教団に属している副助祭、助祭、僧侶、或いはホスピタル団の人たちの場合など。そして、その教団における地位の高い人であればあるだけ、その罪は重くなります。その人たちの罪をいやが上にも重くするのは、その人たちが聖職についた時に立てた純潔の誓いを破ったことにあるのです。しかも、聖職は神のすべての宝の中でもその頭に位するもので、神の純潔を象徴する特別なしるしであります。最も尊い生命であるところの純潔に参与することを示すものであります。そしてこれらの聖職に任命された人々はとくに神に奉仕し、神の特別の下僕となるのです。それでありますから、その人たちが大罪を犯せば、神や人民に対してとくに悪い裏切者となります。なぜならその人たちは人々のために祈るために、人々に依存して生活しているのですから、もしその人たちがそのような裏切者であるならば、彼らの祈りは人々にとって何の役にも立たなくなるからです。僧侶はその任務の権威からみますと天使のごときものであります。しかしまったく聖パウロも言われますように、「サタンも己れを光の御使に扮《よそお》う」のであります。ですから、大罪を犯すような僧侶は光の天使に姿を変えた闇の天使に似ています。それは光の御使のように見えますが実際は闇の使であります。そのような僧侶は「列王紀略《れつおうきりやく》」に書かれているところの無軌道、すなわち悪魔の息子たち、エリの子らであります。「無軌道」というのは「軛《くびき》のないこと」であります。そのように彼らは振舞います。自分たちは自由で、いっさい軛がないと思っております。ちょうど町中のどの牝牛でも自分の気に入ったのを選ぶ放ち飼いの牡牛が軛を持っていないように。そのようなふうに彼らは女に対して行います。なぜなら、放ち飼いの牡牛は町中で一頭あればたくさんであるのと同じように、一人の邪《よこし》まな僧侶の淫らな行為だけでも全教区にとって、或いは国全体にとって十分であります。聖書にも書いてありますように、これらの僧侶は人々に対する僧侶たるものの任務というものを知っていないし、また神をも知らないのであります。彼らは提供された煮た肉に満足せず、生《なま》の肉を力ずくで取るのであると、聖書で言っております。そのようにこの不埒な人たちは人々が彼らを非常に尊敬して提供する焼肉や煮た肉に満足せず、人々の妻や娘たちの生の肉を欲しがるのであります。そして、彼らの邪淫を承諾する女たちもキリストや教会やすべての聖書、すべての霊に対して、重い罪を犯すことになります。なぜならその女たちは、キリストを崇め教会を崇め、キリスト教徒の魂のために祈るべき者から、これらすべてを奪いとってしまうからであります。でありますから、そのような僧侶も、また、彼らの邪淫に同意を与えた情婦たちも、罪の改善をするまでは、キリスト教のすべての裁判所の呪いを受けます。
姦通の第三番目の種類は夫婦間にしばしば見られます。それは、聖ジェロームも言っておられるように、ただ単に肉体の快楽という以外になんら夫婦の契りに意義を認めない、ただ夫婦の契りを結んだことにしか考えが及ばない場合のことです。彼らは結婚しているのだから、何をしたってよいのだと考えています。しかし、天使ラファエルがトビアスにおっしゃったように、このような人たちの上にこそ、悪魔は権力を振うのであります。なぜなら、彼らの結合によってイエス・キリストを心の中から追い払い、あらゆる不潔なことに身を委ねるのですから。
第四番目の種類は、近親や同族の者同士の場合とか、父や近親の者が邪淫の罪に耽った相手と交わる場合であります。この罪は人を犬同然にしてしまいます。犬は近親だろうと少しも意にかけません。近親関係には二通りあります。一つは精神的、一つは肉体的であります。精神的のは、教母や教女と関係する場合です。子を生んだ父親は肉体上の父であると同様に、教父は精神上の父であります。ですから女がその教父と関係することは、その女の骨肉の兄弟と関係するのに負けず劣らず罪悪となります。
第五番目の種類は、非常に呪わしい罪でありまして、誰しも口に出したり書いたりすることをはばかるほどですが、聖書には公然と書かれてあります。この呪わしい行為は男も女もさまざまな意図とさまざまな方法によって行います。聖書の中にこの怖ろしい罪のことが書かれてあっても、それによって聖書が汚れることはありません。太陽が糞堆の上を照らしても汚れることがないのと同じように。
邪淫に属するその他の罪に、夢の中に出てくるものがあります。この罪はしばしば、処女や堕落せるものにやってきます。この罪のことを人々は不浄と申します。これは四通りの途《みち》からはいって来ます。時には体が衰えている時にやってきます。なぜなら体液が体内であまりにもはびこって、多くなりすぎたためです。また時には疾病から。これは医者も言うように、保持する力が弱まるためです。また、時には眠りにつく前に心の中にしまいこまれた淫らな考えから起ります。この考えは罪を伴わないことはありません。人々はこの罪から賢明に身を守るべきであります。さもなければ人々はひどく重い罪を犯すことになります。
では「邪淫」を癒やす薬について申し上げましょう。それは普通、「貞節」とか「節操」とか申します。これらは肉体の欲望から生ずるあらゆる無節制な行動を抑制します。この罪の汚れの邪《よこし》まな燃焼をよく抑制する者ほど、より大きな報いが来ます。「貞節」には二通りありまして、結婚生活における貞節と未亡人となってからの貞節とがあります。
婚姻とは男女の合法的結合であります。秘蹟《ひせき》の力によって絆を授けられ、それによって、一生、つまり夫婦がともに生きている間、別れることはできません。これは非常に重大な秘蹟であると、聖書に書いてあります。前にも申しましたように、神が天国において婚姻をお創りになり、御自ら婚姻によって誕生したいと思召されたのであります。そうして婚姻を神聖なものとなさるために、ある婚姻の式に御出席になり、その場で水を葡萄酒にお変えになりました。これは神が地上において使徒たちの前で行った最初の奇蹟であります。
婚姻の真の効果は私通を浄化し、教会を善良な子孫でみたすことにあります。これこそ婚姻の目的であります。それは結婚した二人の間の大罪を小罪に変え、二人の体も心もともに一体と化してしまいます。この真の婚姻は、天国において自然の掟が正しい地位を占めていた時、罪悪が生ずるより以前に神によって創られたのであります。そして聖アウグスティーヌスも言っておられるように、いろいろな理由から、夫はただ一人の妻を、妻はただ一人の夫を持つべしと神はお定めになりました。
その理由というのは、まず第一に、婚姻はキリストと教会の関係を象徴しているからです。第二に、夫は妻の首《かしら》であります。少くとも、神はそうあるべしとお定めになりました。ですからもし妻が幾人もの夫を持つならば、いくつもの首を持つこととなり、これは神に対して怖るべき仕業《しわざ》となります。また女は同時に大勢の人々を喜ばせることはできないのであります。またそのようでは、彼らの間に平和も休息もあり得ません。夫たちはみな自分のものを主張しますから。またさらにどの夫も自分の子がどれだか見当がつきません、またどの子に自分の財産を譲るべきかもわかりません。また妻も大勢の男と関係するようになってからは、以前ほど愛されなくなります。
さて次に、夫は妻に対してどのような態度を取るべきかということであります。ことに二つの点、すなわち忍耐と尊敬の点においてでありますが、これはキリストが初めて女を創り給うた時に、キリストがお示しになったとおりです。と申しますのは、神はアダムの頭から妻を創り給うたのではありません。それは妻たるものがあまりに高い主権を要求することのないためです。妻が権力を振うと必ず混乱を引き起します。これはいまさら例を引く必要はないでありましょう。日々の体験だけで十分であります。
また神はアダムの足からその妻をお創りになったのでもありません。これは妻たるものがあまり身分低く押えつけられることのないためであります。なぜなら妻は辛抱強く耐え忍ぶことはできません。神はアダムの肋骨からその妻をお創りになりました。これは妻は夫の協力者となるためであります。
夫は妻に対して、信と誠と愛をもって遇すべきであります。聖パウロもこう言っておられます。
「夫たる者よ、キリストの教会を愛し、これがために己れを捨て給いしごとく、汝らも妻を愛せよ」
夫たる者も、もし必要とあれば、キリストのように己れを捨てるべきであります。
次に、聖ペテロがおっしゃっておられるところの、「妻たる者は、その夫に従うべし」ということは、どういうふうにしたらよいでしょうか。まず第一に、従順であります。教令にもありますように、妻たる女は、妻である間は、その夫の許可なしに誓言を立てたり、証言をしたりする権威を持ちません。自分の夫は、すなわち自分の主であります。少くとも、当然そうあるべきなのであります。
妻たるものはまた、まったく正直であり、服装も華美にすぎないようにして、夫に仕えるべきであります。妻たちが自分の夫を喜ばせようと心を砕いているのはわかりますが、それも華美な服装によって喜ばせるのであってはなりません。聖ジェロームは、絹と高価な紫色の布を身に着けた妻はイエス・キリストを身につけることはできないと言っておられます。聖ヨハネはこのことについてなんとおっしゃっておられるでしょうか。聖グレゴリウスもこう言っておられます。「高価な装いをするものは、ただ人々の前でより多く尊敬されたいという虚栄を求めているにすぎない」
女が外面は美しく着飾り、心の中はけがれていることはまったく愚かなことであります。
妻たるものはまた、表情、物腰、笑い方においても度をすぎないようにすべきであります。すべて言葉や行いの上でも思慮深くなければなりません。そしてこの世のあらゆるものにもまして、心からその夫を愛し、夫に対して節操を守るべきであります。夫たる者も、妻に対してそうすべきであります。妻の体はすべてその夫のものであると同様に、妻の心も夫のものでなければなりません。さもないと、その夫婦の間には完全な結婚はないわけです。
さて、次に述べます三つの理由のもとに、夫と妻は肉体的に結ばれるべきであることを知っておかねばなりません。第一に、子を生んで神に仕えしめるためであります。これこそ婚姻の究極の理由であります。第二の理由は、夫と妻がそれぞれ肉体上の負目を与えあうことであります。なぜなら、夫も妻も自分自身の肉体を支配する力を持っておりません。第三の理由は、邪淫を避けるためであります。第四番目の理由は、これこそ大罪となるものであります。
第一の理由は、これは立派なことであります。第二の理由もそうです。なぜなら、教令にもありますように、夫に対して体の負目を与える妻は、もしそれが心の快楽や欲情のためでないならば、貞節の報いをうけます。
第三番目のは小罪となります。そういうことは、頽廃と快楽のために必ず小罪を伴わずにはおりません。第四番目のことは、もし夫婦の結合が肉欲的な愛のためだけであって、さっき申したような理由のためでないなら、燃えさかる快楽を満足させるために、何べんであろうとおかまいなく行うならば、それは勿論大罪となります。しかも、歎かわしいことには、欲望を満足させるより以上にもっと行おうとする人がおります。
貞節の第二番目の種類は、貞節な未亡人であり、男の抱擁を避け、イエス・キリストの抱擁を願うことであります。この人たちはかつて人の妻であったが、夫に先立たれた人か、邪淫の罪を犯してのち、贖罪によってその罪を宥《ゆる》された人であります。まことに、もし妻が夫の許しによって、生涯貞節を守り、夫に罪を犯す機会を与えないならば、その妻には大きな報いがあるでしょう。貞節を守るこのような女たちは、肉体的に或いは考えの上で貞節であるばかりでなく、心の中も清らかでなければなりません。そして服装も態度も中庸を保ち、飲食、話、行いにおいても節制を守るべきであります。それらは、よい香りで教会を満たしたあの祝福されたマグダラの杯と箱であります。
貞節の第三番目の種類は純潔ということであります。それは心が神聖で体が清らかであることが必要です。そうであればその女はイエス・キリストの配偶者となり、天使のような生活をすることになります。その女はこの世の賞讃のまとであり、殉教者と同等になります。心の中には、いかなる舌も語ることができず、いかなる心も考え得ないものを持っております。われらの主、イエス・キリストも純潔でいらっしゃったのです。キリスト御自身童貞でおられたのであります。
「邪淫」に対するその他の薬は、そのような罪悪を犯す機会を作るようなものをとくに取りのけることであります。例えば安楽、食事、飲酒などであります。まことに坩堝《るつぼ》が勢よく熱せられている時に、最良の薬がその火を取りのけるのであります。安逸《あんいつ》に長時間眠ることも非常に「邪淫」を育てます。「邪淫」に対するまだその他の薬とは、男も女も、誘惑される怖れのある人とのつきあいを避けることであります。なぜなら行為の上ではそれに抵抗しても、なおそこには大きな誘惑があります。まことに、白い壁は、そのそばに蝋燭を置いても、燃えることはありませんが、その焔のために黒ずみます。何度も私が忠告申し上げることですが、誰しも、自分がサムソンより力持ちで、ダヴィデよりも浄《きよ》く、ソロモンよりも賢いのでなければ、自分自身の完全性を信じてはなりません。
さて、これで七つの大罪とその枝となる罪、およびそれを癒やす薬について、私の力の及ぶかぎり申し上げたわけであります。もし私にできますことなら、さらに十誡についてもお話し申したいところでありますが、そのような高尚な教義は神学者におゆずりするといたしましょう。けれども、このお話のどこかで、十誡の一つ一つにふれるよう神にお願いします。
さて、贖罪の第二部は、最初の章で私が始めましたように、口で「告解」することであります。聖アウグスティーヌスがおっしゃいますには、罪とはイエス・キリストの掟に反するすべての言葉、すべての行為、そしてすべての人々がほしがるものであります。つまり視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚の五感によって、心や口や行いにおいて罪を犯すことであります。
それでは次に、すべての罪をなおいっそう悪化させるものはなんであるかということを知っておくのはよいことです。まず、罪を犯したる汝は何ものなるかを考えねばなりません。汝は男なりや女なりや。老いか若きか、良家の出か奴隷か、自由人か召使か、健康か病身か、既婚か未婚か、僧職に任命されしや否や、賢明か愚鈍か、僧侶か俗人か。また女は汝の近親者なりや否や、近親者なら、そは肉体上なりや精神上なりや。汝の近親者、これまでにその女とともに罪を犯せしことありや否や、などその他にもまだいろいろあります。
第二の事情となるものは……。そは私通なりや姦通なりや或いは否か、近親相姦なりや否や、処女なりや否や、殺人なりや否や、怖るべき大罪なりや小罪なりや、また罪を犯しつづけし期間幾何なりや。
第三の事情は、罪を犯した場所であります。他人の家なりや汝の家なりや。野原なりや教会なりや、或いは教会の庭なりや、献上されし教会なりや否や。もし神聖化された教会であるならば、その中で男女が罪と知りつつ、或いは邪《よこし》まな誘惑のために肉体の関係を結んだならば、司教によって取りなされるまではその教会は破門されます。そしてもし僧侶がそのような淫らな罪を犯したならば、生涯、弥撒《ミサ》の時にうたうことはできません。もしうたったならば、そのたびに大罪を犯していることになります。
第四の事情は、いかなる仲介人やいかなる使者によって、仲間となる誘惑をしたか、或いは仲間となる同意をしたか。悪人の多くは、仲間を得るために、地獄の悪魔のところへ行くのでありましょう。でありますから、罪悪を煽動したものも同意したものも罪の仲間であり、罪人に堕落したものであります。
第五の事情は、記憶しているならばこれまで何度罪を犯したかということと、何度これまでに堕落したかということであります。なぜなら何度も罪に陥った者は、神の御恵みを軽蔑し、ますます罪を増加し、キリストに対して恩知らずとなります。そして、罪への抵抗がますます弱まり、ますます簡単に罪を犯すようになり、ますます遅く起きるようになり、告解すること、ことに自分の聴罪司祭に告解するのがますます億劫になります。そのような人は、昔の愚かな行いを再び繰り返す時、昔の聴罪司祭をすっかり捨て去るか、或いは告解をいろいろな場所で分散して行うのであります。まったく、そのように分散した告解はその罪に対する神の御恵みにはなんら値いしません。
第六の事情は、なぜ罪を犯したかということであります。例えば、いかなる誘惑によって罪を犯したかということであります。自分自身がそのような誘惑を惹き起したのか、或いは他人に煽動されてか。或いはまた、暴力で女と罪を犯したのか、それとも女も同意の上でか。女の側なら、自分の意に反して強姦されたか否か、ということを女は言うべきであります。貪欲のためにしたのか、貧困のためか、或いはまた、自分自身の取計いか否か、など、このような事情を話すべきであります。
第七の事情は、どのような方法で男は罪を犯したかとか、いかに女は人々が彼女になしたことを忍んだかということであります。このことを率直に、すべての条件を添えて告解すべきであります。普通の遊女と罪を犯したか否か。神聖なる時に罪を犯したか否か。断食時に罪を犯したか否か。告解をなす以前か、或いは最近の告解以後に罪を犯したか。そしておそらくはそのために、課せられた悔悛《かいしゆん》を破ってしまったでありましょう。また、誰の助けをかりたか。誰のすすめによるか。魔法によってしたか、策略によってしたかなど、これらのことすべてを告解すべきです。これらのことはすべて、その大小によって人の感情を悪化させます。そしてまた、汝の審判者である僧侶も、汝が痛悔したあとで、汝に悔悛を与える際の審判に、それらがよい助言をしてくれるのであります。人は罪によって洗礼を汚した後に、もし救いに到達したいと願うならば、贖罪と告解と、罪償完済による以外の途はありません。ことに、告解を聞いてくれる聴罪司祭がいるならば、最初の二つによって、また罪を償うに十分長いこと生きているならば、第三のものによって罪から救われます。
次に人は真の効果ある告解をしようとしているかどうか、気をつけて考えるべきであります。それには四つの条件があります。
第一に、いたく心に苦しみをもって告解すべきです。ちょうど、エゼキエル王が神に、「わが世にある間、わが心の苦しみによりて、われを記憶せん」といわれたように。
この心の苦しみは五つのことに現われます。まず第一に、告解は恥じいってなされるべきです。罪を覆い隠すためではなく、神に対して罪を犯し、自らの魂を汚したことに対して恥じいるのです。このことについて聖アウグスティーヌスは「罪を恥じるがゆえに心苦しむ」と言っておられます。ですから非常に罪に恥じいっている人は、神の偉大な御恵みを受けるにふさわしいのです。
ある収税人の告解はちょうどそのようでありました。彼は眼を上げて天を仰ごうとしませんでした。なぜなら彼は天にまします神の怒りをかったのですから。しかしその恥じいった態度に対して、まもなく神の御恵みが得られたのであります。聖アウグスティーヌスはこのことについて、こう言っておられます。「そのように恥じいる者は罪の赦免《しやめん》に最も近いところにいるのである」
第二のあらわれは、告解をする際の謙譲であります。これについては聖ペテロも、「神の力のもとに己れを卑うせよ」と言っておられます。告解の際、神の御手は力があります。なぜならその御手によって神は汝の罪を宥《ゆる》されるからです。神のみがその力を持っていらっしゃいます。
この謙譲を心の中に持つとともに、外面にもあらわすべきであります。心の中で神に対して謙譲な心を持つように、神の代りになっておられる僧侶に対しても態度を謙譲になすべきであります。キリストは至高でいらせられ、僧侶はキリストと罪人との間に立つ仲裁人であり、罪人は最下位のものであることは理の当然でありますから、けっして罪人は聴罪司祭と同列に並んではいけません。病気のためにできないなら仕方がありませんが、必ず司祭の前に、或いは足許に跪くべきです。なぜなら、人は誰がそこにいるのか気にすべきではありません。誰の代りに司祭がそこにいるのかを考えるべきであります。主に対して罪を犯したのに、主の御恵みを求め、主と和解するために、いきなり主の御許に跪くような人は、不埒千万な者で、すぐに罪の宥《ゆるし》や神の御恵みを受けるになんら値いしないと人々は思うでしょう。
第三のあらわれは、いかに汝の告解が、もし可能なら、涙ながらになされるかということです。肉眼で泣くことができないなら、心の中で涙を流しなさい。聖ペテロの告解はちょうどそのようでありました。彼は、イエス・キリストの御名を拒んだ後、外へ出て、いたく涙を流しました。
第四のあらわれは、恥じのために告解を控えることのないようにすることです。マグダラの告解がそうでありました。彼女は食卓にいる人々を恥じず、われらの主、イエス・キリストの御許に行き、主に対して自分の罪を認めることをはばかりませんでした。
第五のあらわれは、男も女も自分の罪に対して課せられた悔悛を素直に受けることであります。まことにイエス・キリストは、人間の罪のために、死に従われたのであります。
真の告解の第二の条件は、ただちに告解することであります。もし人が致命的な傷を負った時に、その傷を癒やすのをおくらせばおくらすほど、ますます悪化し、死に至らしめます。そして傷は癒やすのがますます困難となります。それとちょうど同じことで、罪も長いこと告解しないでいるとそうなります。
いろいろな理由から見ても、人は直ちに罪を告解すべきであります。例えば死を怖れるという理由がありますが、死はしばしば突然やってきます、いつ、どこに来るか定まっておりません。また、一つの罪を長引かせておくと、他の罪を惹き起すことになります。或いはまた、罪の告解を遅らせば、それだけキリストから遠ざかるのです。そして一生の最後の日まで延ばすならば、自分の罪を告解したり、記憶したり、痛悔したりすることは、瀕死の病のためにほとんど不可能となるでありましょう。しかも、この世にある時にイエス・キリストがおいいつけになったことをきかなかったのですから、最後の日に及んでイエス・キリストに哀訴しても、キリストはほとんど聴き入れては下さらないでありましょう。
この第二の条件には四つのことが必要だということを知らねばなりません。つまり、汝の告解は前もって準備され、熟慮されるべしということです。なぜならば、あやまった性急はなんの効果ももたらしません。また人は自分の罪を、たとえそれが傲慢であろうとも嫉妬であろうとも、またさらに、罪の種類や事情について告解することができるということ。また、心の中で自分の罪の数やその罪の重さ、或いはまた、どのくらい長いこと罪を犯していたかを弁《わきま》えておくこと。さらにまた、自分の罪を痛悔すること、しかもそれを真面目な目的をもって、神の聖寵によって、二度と再び罪に陥らないようにと痛悔すること。また、自分が陥りそうになった罪を犯す機会を避けるために、自分自身を怖れ、看視することであります。
汝の罪をすべてただ一人の人に告解せよ、一部を一人に、一部を他の一人に告解すべからずということでありますが、これは恥辱や恐怖のために汝の告解を分割しようとすることで、これはただ、汝の霊を縊《くび》ることにしかならない。まことに、イエス・キリストは完全なる善におわしますから、キリストの中には不完全というものはない。でありますから、キリストは完全に宥し給うか、さもなければ全然お宥しにならないのです。けれども、もし汝の屈辱感にとって快くないというなら、すでに汝の主任司祭に告解した罪の残りを、ある罪を告解するように指定された聴罪司祭にすっかり告解しなければならない、こういう場合は、告解を分割したことにはなりません。また、告解の分割について申し上げても、べつに、汝の主任司祭の許可を得て、誰でも汝の好む思慮深く正直な司祭に告解することがゆるされた場合に、汝が汝の罪のすべてを、すっかりその司祭に告解することができるといっているのでもないのであります。しかし、汝の記憶に残っている限りのものは、ほんの一つのしみ[#「しみ」に傍点]でも隠しておいてはいけません。いかなる罪も黙っていてはなりません。また、汝が汝の主任司祭に告解すべき時には、この前に告解して以来犯した罪を残らず語らねばなりません。これは告解を分割しようとする邪《よこし》まな意図とはなりません。
真の告解にはこの他にもまだいくつかの条件が必要です。まず第一に、汝の自由意志によって告解し、人から強制されたり、人々に対する恥辱感のためや、病のためなどで告解しないこと。なぜなら自らの自由意志によって罪を犯したものは、自由意志によってその罪を告解するのは理の当然でありますから。また、自分の罪を語るものは自分以外の何者でもないこと、自分の罪を否定しないこと、罪を捨て去るように司祭から忠告を受けたのに対して怒らないこと。
第二の条件は、汝の告解が、法に叶っていることであります。というのはつまり、告解をする汝も、それを聴く司祭もともに聖なる教会を真に信仰していること。またカインやユダのようにイエス・キリストの慈悲に望みを失わないこと。また人は自分自身の罪を自ら非難すべきであって、他人が非難するのであってはならない。自らが自らを非難し、自らの罪の悪意を非難すべきであって、他人であってはならない。けれども、もし他人が自分の罪の原因であり、誘惑者であるならば、或いは、ある人物の状態のために自分の罪が重くなっているのであるならば、或いはまた、自分とともに罪を犯した人物のことを話さなければ、完全に告解することができない場合などには、それを語ることができます。もしその意図が他人を誹謗するためでなく、ただ自らの告解をなすためであるならば。
汝告解の際に偽りをいうことなかれ。というのは、おそらくは屈辱感のために、自らなんら罪のない罪悪を自分がしたのだということです。聖アウグスティーヌスはこういっておられます。「もし汝、屈辱感のゆえをもって、自らにつきて偽りをなせば、汝これまで罪を犯せしことなしといえども、汝の偽りによりて罪を犯すなり」
また、汝自らの口をもって汝の罪を告解しなければなりません。唖になったのでないならば。文字によってではいけません。なぜなら、汝は罪を犯したのであるから、それに対して恥じるべきであります。また汝の告解を美しい狡猾な言葉で飾り立て、罪をなおいっそう蔽い隠そうとしてはならない。なぜなら、それは自らを欺くことになり、僧侶を欺くことにはならないのであります。いかに邪まな、怖ろしい罪であろうともありのままに告解しなければならないのです。
また、思慮深い司祭に告解し、相談を受けるべきであります。虚栄のためや偽善のためや、その他のいかなる理由のためにも告解してはならない、ただイエス・キリストを畏《おそ》れ、汝の霊を癒やすためにのみ告解すべきであります。
或いはまた、すぐに司祭のもとに走り、冗談や物語の語り手のように軽率に罪を語ってはならない。慎重に、そして真剣に告解せねばなりません。そして一般的に申しますと、何度も告解すべきであります。もし何度も罪に陥ったならば、そのたびに、告解によって立ち上るのです。もしすでに告解した罪をさらに、一度ならず告解しても、それはむしろほめられるべきことであります。そうすれば、聖アウグスティーヌスがおっしゃっておられますように、それだけ早く、汝の罪も苦悩も、神の救いと恩寵を受けるようになるのであります。そして、少くとも年に一度は聖餐式を受けるのが法に叶ったことであります。なぜなら、年に一度はすべてのものが新しく生れ変るのですから。
これで、贖罪の第二の部分である真の告解についての話を終ります。贖罪の第三の部分は罪償完済であります。これは普通、施物と身体による贖罪によってなされます。施物には三つの種類があります。心の痛悔、これは、人が自らを神に捧げる場合です。第二に、隣人の貧困に同情すること。第三は、人々が必要としている時、ことに人々の生計を支えるために、精神的にも肉体的にもよい助言を与えること。普通、人が必要とするものは次のようなものであることを注意しておいて下さい。食物、衣服、住居、慈悲深い助言、牢獄にいる時や病の際の見舞、自分の屍体を埋める墓が必要であります。もし必要としている人を自分自ら見舞うことができない時には、使いの者か、或いは贈物によって見舞うべきであります。これらが、この世の富を有し、相談相手となる思慮を有する人々の、普通一般の施物であり、慈善の行いであります。この慈善行為については最後の審判の日に耳にすることでありましょう。
こういった施物は汝自らの持物によって、急いで、しかもできることなら、人目に立たぬようになすべきであります。しかし、もし秘かに行うことができない時には、人々が見ているからといって施物をすることを控えてはなりません、もしそれが世の中に対する感謝のためでなく、ただイエス・キリストに対する感謝のために行うのであるならば。聖マタイは第五章において、このことを証言していらっしゃいます。「山の上にある町は隠るることなし。また人は灯火をともして桝《ます》の下におかず、灯台の上におく。かくて灯火は家にあるすべてのものを照らすなり。かくのごとく汝らの光を人の前にかがやかせ。これ人の汝らが善き行為《おこない》を見て、天にいます汝らの父を崇《あが》めんためなり」
さて次に、身体による贖罪について申しますと、それは祈り、夜の祈祷、精進、祈祷の訓話においてなされます。祈祷というものは、心の切なる願いが、神において償われ、言葉によって外へ表わされて、罪を祓《はら》い、精神上の永遠のものを、またある時は地上のものを得たいと願うことであります。祈祷の中でも、ことに「|主の祈り《パテル・ノステル》」の中に、イエス・キリストは主なものをお納めになりました。その祈りは、威厳において三つの点が立ちまさっております、そしてそのために他のどの祈りよりも尊いのであります。なぜなら、イエス・キリスト御自身がそれを作り給うたからです。それは短い祈りです。それだけ簡単に覚えられるように、それだけ容易に心の中に記憶していられるように、それだけ何度も祈りによって自らを助けるように、またそれだけその祈りを言うのに飽きてしまわないように、或いはまた言い抜けをしてそれを覚えないということのできないように、それは非常に短く、やさしくしてあります。そして、その中にはすべてのよい祈りが含まれています。
この聖なる祈りはあまりにもすぐれており、また尊いものでありますから、その解釈は神学者の方々にお任せしましょう。ただこれだけのことは申し上げておきます。汝が汝に対し悪いことをなしたる者を宥したように神も汝の罪を宥し給えと祈る時には、汝は必ず慈悲を受けるということによく注意を払いなさい。この聖なる祈祷はまた同時に小罪を軽減します。ですから、この祈りはことに贖罪に必要なものです。
この祈りは真実をもって、真心からの信仰において、口にされるべきで、人々は神に向って整然と思慮深く、敬虔に祈るべきです。そしてつねに、自らの意志を神の御意志に服従させるべきです。また、この祈りは非常に謙虚な心で、また非常に清らかな心で口にされるべきであって、ある男か女に対する忿懣《ふんまん》のあまり、口にするのであってはなりません。この祈りに引続いて、慈善行為をせねばなりません。これはまた、霊の汚れに対しても効目があります。なぜなら、聖ジェロームも言われるように、「断食によって肉体の汚れは救われ、祈祷によって霊の汚れは救われる」のであります。
さて、この他に肉体による贖罪には夜の祈祷があることを知らねばなりません。イエス・キリストも「邪悪な誘惑に陥らぬよう、眼を覚しかつ祈れ」とおっしゃっておられます。
また、精進には三つのことがあります。肉体上の飲食を控えること、世俗的快楽を控えること、大罪を控えること、つまり、力の及ぶかぎり大罪を犯さぬよう気をつけるべきであるということです。
神が断食を命じ給うたということも知っておかねばなりません。断食には四つのものが含まれます。すなわち貧しい人々への施し、心霊の喜び、断食していることに対して怒りも憤慨もせず、不平も言わない。また食事時に適度に食べること。というのはつまり、食事時以外に食べたり、断食をしているからといって、なおいっそう長い間食卓に向って食べるということはすべきではありません。
次に、身体による贖罪には難行苦行があります。或いは言葉や書物や例による教訓であります。キリストの御為に、素肌《すはだ》の上にじかに馬毛製シャツや粗い布や鎖《くさり》帷子《かたびら》を着るなど、難行苦行をします。けれども、そのような肉体上の難行苦行によって汝の心が自らに対し厳しくなったり、怒ったり、憤慨したりしないように気をつけなさい。なぜなら、イエス・キリストに対する信頼感を失うくらいなら、むしろ馬毛製シャツをぬぎ捨てるほうがいいからです。ですから、聖パウロも言っておられます。「神に選ばれし者のごとく、汝も、慈悲、温和、忍耐の心のごとき衣をまとうべし。」馬毛製シャツや鎧下や鎖《くさり》帷子《かたびら》よりも、むしろそれらのほうがイエス・キリストのお気に召すのです。
その他に、胸を叩くこと、杖で打つこと、跪くこと、および困苦における難行苦行があります。また、汝に対して加えられた危害を辛抱強く耐え忍ぶこと、また病気や、世俗的財宝、妻、子供、友人などを失ったことによく耐え忍ぶことなどの難行苦行もあります。
次に、何が贖罪の妨げとなるかを知らねばなりません。それには四つあって、怖れ、恥、望み、失望であります。まず第一に、怖れについて申しましょう。人は怖れのために自分は贖罪に耐えることができないと思うのです。これに対する薬は、こう考えることであります。すなわち、肉体の贖罪は、あのいつ果てるともなくつづく残忍な長期間にわたる地獄の責苦と較べるならば、ほんの束の間の軽いものであると考えることです。
さて次に、告解するときに持つ恥辱感ですが、ことに、自分は完全な人間であるから告解をする必要はないのだと、人々に思われたい偽善者たちの恥辱感でありますが、これに対し、人々は当然こう考えるべきです。邪まなことをなすのに恥じないものは、よいことをなすにも、すなわち、告解をなすにも恥じるべきではない。また、神はすべての考えも行いも見て知っておられるから、神に対しては、何事も隠すことはできないと考えるべきであります。また人々は、最後の審判の日に、現世において痛悔も告解もしなかった者のところへやって来る恥辱を考えねばなりません。なぜなら、地上および地獄にいるすべての人々が、この世において隠していたことをすべてはっきりと示さねばならなくなるからです。
では次に、告解をなすのを怠ったり、すぐにしないものたちの希望についてお話ししましょう。これには二通りあります。その一つは、自分は長生きをして、自分の快楽のために、うんと富を獲得しようと望み、その後に告解したいと思うことです。そのような人はその時が告解をするちょうど適当な時だと思っているのです。他の一つは、キリストのお慈悲に大きな信頼を抱いていることです。
この最初の悪い考えに対して、われわれの生命は、はかないものであるということを考えるべきです。また、この世のすべての富は運命の手に弄ばれている、そして壁の上の影のように瞬く間に過ぎ去ってしまうということを考えるべきであります。聖グレゴリウスも言っておられるように、「罪から身を引こうとせず、好んで罪を犯しつづける者の苦痛はけっして止まることがない。これは、神の偉大なる正義のなせるわざである。つねに罪を犯そうとする心はつねに苦痛を持つべきである」
絶望には二通りあります。一つは、キリストのお慈悲に対する絶望であり、他の一つは、善行を長いことつづけることはできないと考えることであります。第一の絶望は、自分はあまりにも度々、あまりにも重い罪を犯し、あまりにも長いこと罪の中にいたから、もう救われることはないと考えるところから、生ずるのであります。この呪わしい絶望に対しては、こう考えるべきです。すなわち、罪の縛《しば》る力が強いといったところで、イエス・キリストの受難が縛《いましめ》を解く力は、それよりももっと強力だと考えるべきであります。また、何度罪に陥ろうとも、再び贖罪によって立ち上ることができると考えるべきです。また、いかに長いこと罪を犯していたとしても、キリストのお慈悲はいつもその者を慈悲へと受け入れる態勢になっているのです。次にまた、自分は長いこと善行をつづけることはできまいと考えるような失望に対しては、こう考えるべきです。力の弱った悪魔は、自分さえ許そうとしなければ、なんにもすることはできないのだ、また、自分が望みさえすれば、神や聖なる教会の助力や天使たちの守護という力を持つのだと考えるべきであります。
それでは次に、贖罪の効果はなんであるかを知らねばなりません。イエス・キリストのお言葉によりますと、それは終ることなき天国の幸福であります。そこでは喜びはその反対者である憂さや歎きを持ちませんし、この世における悪は消え去り、地獄の責苦からは安全に遠ざかり、つねに互の喜びを喜びとする幸福な友がおります。またそこにおいては、かつては病にかかり、もろく弱い、死すべき体であったのが、不死となり、何物も損《そこな》うことのできないほど強く健康になるのであります。また、そこには、飢えも渇きも寒さもなく、どの霊も完全に神を知るという視力によって満たされております。
人々はこの幸い満ちた国を心の貧しさによって得ることができます。そして栄光は柔和によって、豊かな喜びは飢えと渇きによって、平和は困苦によって、そうして生命は死と罪を制御することによって、得ることができるのであります。
*  *  *
さて、この拙《つたな》い話をお聴きになりました方々、或いはお読みになりました方々、この中に何かみなさんのお気に召すものがあったとすれば、われらの主、イエス・キリストに、そのことを感謝していただきたいのです。そのお方からすべての知と善が出ているのです。そしてもし何かみなさんのお気に召さないものがありましたならば、それは私の学問の足りないせいにしていただきたいのです。けっして私の意志のせいにはなさらないで下さい、私はもし学問さえあれば、もう喜んでもっと上手に語りたいと思っているのですから。私たちの聖書にも、「録《しる》されたる所は、みなわれらの教訓《おしえ》のために録せしものなり」とありますが、私の意図もそこにあるのです。それですから、キリストが私に慈悲をかけて下さり、私の落度を宥《ゆる》して下さるようみなさんが私のために祈って下さることを、ひたすらお願い申します。ことにそれは、世俗的なたわごとを扱いました私の翻訳や詩歌の罪であります。それらの作品を私は撤回することにします。例えば、「トロイルスの書」、「誉の書」、「十九人の貴婦人の書」、「公爵夫人の書」、「聖ヴァレンタインの日、小鳥の集いの書」、「キャンタベリ物語」のうち、罪となりそうな物語、「獅子の書」、そのほかにも、私が覚えていさえすれば、まだたくさんありましょうし、それにたくさんの歌や恋愛の小唄などがありますが、キリストがその偉大なお慈悲によって、私の罪をお宥し下さいますよう。
けれども、「ボエーチュウスの慰安」や、その他の聖者伝や説教文や道話や祈りの書、これらについては、われらの主、イエス・キリストとキリストの祝福された御母と、天にましますすべての聖者に感謝申し上げます。そうしてその方々がこれから先、私の最後の日まで、私に聖寵を垂れ給うて、私が自分の罪を歎き、また、私の霊の救済のために励むことができますようお願い申し上げます。そうして、この現世において行う真の痛悔、告解、罪償完済の聖寵をお与え下さいますようお願い申し上げます。王の中の王でいらせられ、すべての司祭の上に立つ司祭でいらせられるお方であり、お胸の尊い血をもってわれわれを贖《あがな》い給うた、そのお方のやさしい聖寵によって、最後の審判の日に救われる者の一人となることができますよう、お祈り申し上げるのです。
[#この行2字下げ]ジェフレイ・チョーサーの編んだ「キャンタベリ物語」の書、ここで終る。ねがわくはイエス・キリスト、チョーサーの霊にみ恵みを垂れたまわんことを。アーメン。
[#改ページ]
解説
[#地付き]西脇順三郎
「郷士の話」 著者の言ではケルト物語の一つから取ったというが、ボッカチョの『フィロコーロー』中にある話や、『十日物語《デカメロン》』の十日目の第五の話とも同じである。これも女の約束に関する教訓であり、やはり女を中心とした結婚問題の一つである。
「医者の話」 『薔薇物語』に出ている話であるが、元はリヴィーの『歴史』第三巻にある、死をもって処女を守る話で、やはり女の問題を提供している。ここに出てくる法官の「やっこ」はシェイクスピアの『オゥセロ』のイアゴーに似ている。
「赦罪状売りの話」 説教話であって、チョーサーの作品中、学校の教科書などで多く読まれている話の一つである。この話の序の中で、当時の路傍の説教者の生活がよく描かれている。また中世紀の説教のやり方が書いてあり、この点で実際的な文献として大切である。この話はチョーサーの話とすると、珍しく女の問題がはいっていないところに一つの特色を出している。
「船長の話」 ボッカチョの『十日物語《デカメロン》』八日目の第一の話からとったのである。この話は「バースの女房」がする話に適当している話であって、元来はそうするつもりで書かれたものと考えられている。けちんぼうな亭主に対する女の悪口である。この話の中で注意すべき他の点は、中世紀の商人の考え方をよく表わしていることである。
「尼寺の長の話」 中世紀の文学に「信心物語」――コント・ピエウというコントがあったが、その代表的なものである。この「信心物語」というのは多く聖母マリヤを信心する人が、いろいろの奇蹟をもって救われることを書いたのであった。聖母の信仰は早くからあったもので、とくにノルマン王朝によく流行した民間の信仰であった。おそらく多く婦人の間に発達したものと思われる。この話はクスタンスの話とともに、女の宗教的心理をよく解したものと思われる。
「チョーサーの話」 著者自らする二つの話である。トーパス物語は中世の騎士道を取扱っている騎士物語を意味しているが、チョーサーの態度はおとぎばなしとして騎士物語をしようとしたところに、最初のドン・キホーテを暗示しているように思われる。この話は未完になっているが、それは著者がわざとやったことであるように思われる。中世紀の騎士のロマンスを先にあげ、本式の王侯論をメリベ物語中でするための一つの序論とも思われる。この話の筋は、ある騎士が妖精の女王を探すことになっているが、後世になってスペンサーが「妖精女王」のことを考え出した糸口を与えたということは興味あることである。
メリベ物語はだいたいフランスの書『メリベとプリデンス』を翻訳したものであった。このフランス書は『薔薇物語』の後篇を書いたジャン・ド・マンの作として考えられている。またこのフランス書は元来ラテン語で書かれたアルベルターノーの著『慰安と忠告』をもととしている。話はアレゴリ(たとえ話)であって、まずメリベウスということは「蜜を飲む男」という意味であり、その妻のプルデンスの名は思慮分別という意味で、娘の名ソフィヤは智恵という意味である。三人の敵の意味は、人間の敵と考えられている肉欲、名利、悪魔のことを意味したのである。
この話は純然たる説教文学であるが、聖書はもちろん、中世の説教家の名句、ローマの哲人セネカやキケロからの引用を集めた一つの構成を示し、一種の格言集のようなものである。しかし話の全体の中心になっている思想は、王侯の道徳を説いたのである。中世紀の「王侯論」で有名なものにダンテの「王侯論」もあるが、このチョーサーの話はそうした中世紀の王侯論を通俗化して文学として述べようとしたところに特色がある。中世紀では王侯の道徳を説いたものは多くキリスト教の僧侶であった。その特色はこの話にも多分に残っている。中世紀研究者は王侯の道徳ということを知る必要があるので、そうした人たちがこの話を読むと非常に興味のある問題を多く与えられる。近世になってマキアヴェリが新しい「王侯論」を書いて驚かしたことは、その王侯論がいかに中世紀の王侯論と違っているかということであった。メリベはこの話の初めで紹介されているところでは、「勢力のある金持の若い男」であるが、実は王侯を意味しているのであった。この王侯論中とくに問題となっている点は、王侯と戦争ということである。この点は日本の戦争失敗に思いあたるところが多い。
この話に出ている娘ソフィヤは智恵のことを意味しているが、人間の智恵のことを言っている。そしてその娘が三人の敵に傷つけられたというたとえは、すなわち人間の智恵を亡ぼすものは現世の名利と人間の肉欲と悪魔であるということを意味している。この悪魔という意味は、神に反する者を総称しているので、要するに、神を信じない人間のことをいうのである。
中世紀文学では女を尊敬する場合の例として、女が男に智恵を教えることである。ボエーチュウスの『哲学の慰安』、ダンテの『神曲』は有名であるが、この話もその点でやはり同様なものである。
「修道院僧の話」 ボッカチョの『王侯の没落』などの書を手本としたもので、その「悲劇」という見地はアリストテレスの悲劇の意味とあまり遠くない考え方であった。初めアダムの没落から始めたのは、すなわち人間の没落を最初にあげたことになる。この悲劇の人々のなかにも、ウゴリーノの話はダンテの『神曲』地獄篇にも出ているところで、とくに注意すべき部分と思う。悲劇の世界はチョーサーの意味では、いつも運命の女神の世界であり、中世紀では悲劇と運命とを結びつけていることが重要な考え方となる。日本的にいえば、栄枯盛衰の無情をのべることに等しい。ギリシャ悲劇も多く運命悲劇ではあるが、中世紀のものはボエーチュウスなどから出発している悲劇観であった。
「尼院侍僧の話」 中世紀物語の一つの有名なタイプであった『狐物語』である。チョーサーが主として範としたのはフランスの文学で有名な『ロマン・ド・ルナール』である。この物語の中で注意すべき中世思想は、夢に関する中世紀人の考え方と神の先見説である。次に人間の性欲の問題であるが、チョーサーがヴィーナスの精神という場合には、快楽のための性生活ということを意味することがある。キリスト教では快楽のために性を用いることは悪とされている。性は人間増殖の目的にのみ純粋でなければならないというのが道徳である。なお、ついでに、この物語の中で暗示されている注意すべき事項は、中世紀の貧乏な百姓家の構造である。寝室と居間の二つの室から出来ていて、居間で鶏などを飼っている状態である。
「第二の尼の話」 中世紀の物語の一つのタイプである聖者物語と信心物語をいっしょにしたものである。思想としては、王侯の政治と宗教上の信仰との争闘を暗示している点が興味がある。
「僧の従者の話」 錬金術に対するチョーサーの皮肉を描いたものである。たとえそれは空想的な偽学問ではあっても、近世の化学の発達に貢献したのかもしれない。錬金術は中世では魔術に属するものとも考えられ、いつも悪魔に関連されている。物語の連想としては、近世の初期の物語「ファウスト物語」が頭に浮んで来る。ついでに、この話の中に出ているカノニック派の僧というのは日本語では正確な訳語は知らないが、中世紀では、牧師の団体として認められ、教会にその名を登録した僧をカノンといった。その種類に二つあって俗界に働いているものと、正規にある戒律のもとに生活しているものとがある。後者の僧は修道院僧ほど厳格な規律には服さなくともよいものであった。この正規の僧には幾つかの派があるが、有名なものは聖オーガスティン派であった。この物語に出てくる僧は、スキートによると俗界の僧といわれている。訳者としてこの種の僧を「カノニック派の僧」とした。ついでに、中世紀の文学に出ている僧の種類はだいたい四つに分けられる。修道院僧、牧師、托鉢僧、そしてこのカノンという名称でよぶ僧等であった。
「大学賄人の話」 ローマ詩人オヴィドの『変態奇談』第二巻にある挿話から取ったものである。心理的に大切な思想は、この話の中に女性の性的変態的好奇心を指摘している点である。また性欲は好奇心であるという心理現象をも指摘している。性的変態性を男のもつ悪質としてあげようとしているが、しかし女に関してはごまかしている点に注意すべきものだ。猫の例は女にあてはめようとしているのだ。女の心理中に(それは変態であろうが)つまらない男と接したがる点のあることを述べようとしているのだ。からす[#「からす」に傍点]の話は「口はわざわいのもと」という点である。しかしチョーサーは事にふれ折りにふれ、女性の心理を指摘しようとしている点はどの話にもある。今日の小説家ではロレンスがそうした心理を神秘的に描こうとしている。
「牧師の話」 代表的中世紀の説教である。中世紀の説教文学の中枢はカトリック教会の説教文学であり、通俗的には「罪の書」が教本となっている。このチョーサーの説教は、ロレンスというフランスの僧の書いた『罪と善徳の全書』をもととしている。この書は他にダン・ミチエルという説教者が『良心の呵責』として翻訳を書いている。
この説教で『カンタベリ物語』を終らせていることは象徴的意義がある。人生それ自身は神への巡礼である。チョーサーは人間の自然をさらけ出して、ざんげをし、霊の救済を願うのである。中世紀人の最大な人生の目的は死後の霊の救済であった。この説教の終りに、チョーサー自ら文人としてのざんげがあり、最後に霊の救済を祈っている。
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ジェフレイ・チョーサー (Geoffrey Chaucer)
一三四〇年頃ロンドンの富裕なワイン商の家に生まれる。中世イギリス最大の詩人。近代英詩の創始者。幼少の頃より宮廷に出仕、長じて軍人、外交使節、代議士などエドワード三世治下でさまざまな公職を歴任。一四〇〇年、病歿。亡骸はウェストミンスター寺院内に安置された。主な作品に『公爵夫人の書』『誉れの宮』『トロイルスとクリセイデ』等がある。最後にして最大の傑作が中世物語文学を集大成した『カンタベリ物語』であり、ヨーロッパ史における偉大な記念碑の一つと称される。
西脇順三郎(にしわき・じゅんざぶろう)
一八九四年、新潟の銀行主の家に生まれる。詩人、英文学者、慶應義塾大学名誉教授。一七年、慶應大学理財科卒業。二二年、英語英文学研究のためオックスフォード大学に留学、英文壇のモダニズム思潮の洗礼を受ける。帰国後、慶応大学文学部教授。英文学研究の傍ら、次々と作品を発表。日本のモダニズム詩運動の中心的存在として活躍、晩年まで詩作を続けた。六二年、芸術院会員。七一年、文化功労者。八二年歿。その膨大な文業は『西脇順三郎全集』纏められている。
本作品は一九七二年一一月、筑摩書房より「筑摩世界文学大系12」の一部として刊行され、一九八七年五月、ちくま文庫に収録された。
なお電子化にあたり、年譜は割愛した。