山椒魚戦争
カレル・チャペック/樹下節訳
目 次
第一部 アンドリアス…この未知なるもの
一 ヴァン・トッホ船長の奇行
二 ゴロムベク氏とヴァレンタ氏
三 ゲー・ハー・ボンディと彼の同郷人
四 ヴァン・トッホ船長の航海日誌
五 ヨット・ヴァン・トッホ船長と芸をするイモリ
六 潟に浮かぶヨット
七 潟に浮かぶヨット(続き)
八 アンドリアス・ショイフツェリ
九 アンドリュー・ショイフツァー
十 ノヴィー・ストラシェツの祭日
十一 人間イモリについて
十二 山椒魚シンジケート
第二部 文明の階段を登る
一 ポウォンドラ氏新聞を読む
二 文明の階段を登る――山椒魚の歴史
三 ポウォンドラ氏ふたたび新聞を読む
第三部 山椒魚戦争
一 ココス諸島の殺戮《さつりく》
二 ノルマンジーにおける衝突
三 ドーバー海峡事件
四 デル・ノルドモルフ
五 ウォルフ・マイネルトが論文を執筆する
六 Xは警告する
七 ルイジアナの地震
八 チーフ・サラマンダーが要求を提出する
九 ヴァドゥーツ会議
十 ポウォンドラ氏がみずから罪を負う
十一 作者が自問自答する
訳者あとがき
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登場人物
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ヴァン・トッホ船長……山椒魚の発見者
ボンディ……山椒魚シンジケート会長
ポウォンドラ……ボンディ家の取次役
ヴァレンタ……新聞記者
リリー嬢……映画女優
アンディー……有名人の山椒魚
メルシエ博士……科学者の山椒魚
チーフ・サラマンダー……全山椒魚の頭領
X氏……対山椒魚の警告者
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第一部 アンドリアス…この未知なるもの
一 ヴァン・トッホ船長の奇行
あなたが、地図でタナーマサなる小島を捜されたとする。すると、スマトラからいささか西のあたり、まさに赤道直下のところで、それを発見されるであろう。あるいはまた、あなたが『カンドン・バンドゥン』号上で、ヨット・ヴァン・トッホ船長に向かって、たった今彼が岸辺にいかりをおろしたばかりのタナーマサが、いったいどんな島であるかと尋ねられたとする。すると船長は、のっけに悪口をひとくさり並べたてたあげく、こいつはスンダ列島中でいちばんけったくその悪い穴みたいな島で、タナーバラよりももっとひどい、そしてすくなくともピニやバニヤクと同じくらいいまいましい島である、ここに住んでいるたった一人の人間は(もちろん、あの汚ならしいバタクは別としてだが)、クブ(スマトラ島の南部に居住する。人口約一五〇〇)とポルトガル人の混血児の代理人だけれど、ごめんこうむって言っちまうなら、こいつは箸《はし》にも棒にもかからない飲んだくれであるうえ、まじりっけのないクブと、まじりっけのない白人を束にしてもかなわぬほどの大ぬすっとの、罰当りの、げじげじ野郎である、それからまた、娑婆《しゃば》に真実いまいましいものがあるならば、それはあんた、このくそいまいましいタナーマサのくそいまいましい生活のことを言ったものにちがいない、などと語りだすであろう。
さて、そのつぎにあなたが、もしそうならば、お言葉を返して悪いようだけれど、面白くもない幾日かの逗留《とうりゅう》のために、どうしてここに停泊されたのであるか、と尋ねられたとする。ととたんに、彼は中っ腹らしくフーッと息をついてから、『カンドン・バンドゥン』号は、もちろんコプラや椰子油《やしゆ》なんて代物《しろもの》だけのためなら、こんな所に寄りはしないですよ、だけどあたしにゃ、ろくでもない用がここにあるんでしてね、ただこいつはあんたになんの係わりもないことだから、あんたはまあご自分の用でも足してくださるんですな、といったふうなことを述べたてるであろう。終わって船長は、若からずといえども年としてはまだ十分に頑健な、海の猛者《もさ》にふさわしい、息の長い、言葉だくさんな悪態《あくたい》を、どっとばかり浴せかけるにちがいない。
しかし、あなたがうるさく質問ぜめにする代わりに、ヨット・ヴァン・トッホ船長が、勝手に悪態をついたり、うなったりするままにしておかれたとしたら、きっともっとよけいに、いろんなことを聞き出すことができるであろう。彼が思いきり気持を軽くしたい欲求をおぼえているのは、彼の顔つきを見ればわかるではないか。つまり、船長はほうっておくにかぎるのである。そうすれば彼のいらだちは、ひとりでに出口を見つけだすことになるのだ。彼は不意に言いだすにちがいない。
「つまりねえあんた、アムステルダムのかたりどもが、あのきんちゃく野郎どもがねえ、ひょいと真珠のことを思い出したんでさあ。ところが、そんなに簡単に真珠が見つかりますか。このごろじゃ万人《ばんにん》が万人、真珠に目の色を変えていやがる」
ここで船長は、くそっとばかりにつばをとばすであろう。
「金を真珠にしておくつもりなんですよ。こいつはなんですぜ、あんた方がいつまでも、戦争だとか、それに似たようなものをやりたがるせいですぜ。そこで、自分の銭《ぜに》が心配でしようがないのさ。これがあんた、恐慌ってもんでしょうが」
ヴァン・トッホ船長は、あなたと経済問題について語るべきではなかろうとがてんして、ちょっと口ごもるであろう。というのは、今日このごろの話題といったら、このほかにないとはいえ、タナーマサ海岸での話としてはあまりに暑苦しすぎるし、あなたも暑さでだらけきっている際だからである。そこで、ヴァン・トッホ船長は片手をひょいとうち振って、またもやぶつくさと語りはじめることになろう。
「真珠って一口に言うのはやすいこったがね。セイロンじゃあんた、五年先の分まで採りつくしているし、台湾じゃ完全に採取を禁止しちまったんですからね。ところが連中ときたら、『ヴァン・トッホ船長さん、ぜひこの際、新しい産地を発見するように努力してくださいよ。まわりじゅう貝のいる浅瀬ばかりというような、小島に寄ってみてくださいな』って、言うじゃないですか」
そこで船長は、軽蔑をこめながら、空色のハンカチでチーンと鼻をかむのだ。
「ヨーロッパにいるあのイエネズミどもは、いまだにここで誰も知らないようなものを発見できると思っていやがる。言っちゃ悪いが、あんぽんたんばかりでさあ。バタクの口を一つ一つのぞいて、真珠がかくれて光ってやしないか見てこいって、言いつけなかったのがまだしもなくらいだ! 新しい産地ときた! パダンに新しい女郎屋ができてますがね。そいつは確かだが、新しい産地となるとまた別だからね。そうでしょうが。あたしはですな、この近辺の島という島は、自分のズボンと同じくらいに知っているんですぜ。セイロンからけったくその悪いクリパートン島(東太平洋にある無人島)までの間ならね。誰かが、この辺で何か発見して、それでひともうけできると考えているんなら、あたしゃそのご仁に、名誉も地位もあっさり進上しちまいますよ。あたしゃね、このあたりを三十年から航海しているんですぜ。ところが、あのあほうどもは、ここであたしに発見をさせる気でいやがる」
ヴァン・トッホ船長は、この人を小ばかにした要求を思ったばかりで、あわや窒息しそうになる。
「連中はね、乳くさい小僧っ子をよこしゃいいんですよ。そいつが、目の玉パチクリてなものを発見してくれるでしょうさ。それをあんた、要求するに事欠いて、この近辺をようく知っているヨット・ヴァン・トッホ船長に言うたあ何事ですか! ねえ、お気づきかどうか知りませんがね、あんた、ヨーロッパのほうじゃ、まだ何か発見することができるかもしれませんが、ここじゃもうだめですぜ。ここにはあんた、だれもかれもが大もうけ口を見つけにやってくるんです。大もうけできないまでも、売った買ったの方法をさぐりにやってくるんだ。それに、このいまいましい熱帯地方のどこかで、二倍の値段で売れるようなものがめっかったとしてもですぜ、あるとすると、そのそばにゃもう二、三人の手代どもがつっ立っていて、止まれえってんで、七つの国の船に向かって、きたならしいハンカチをうち振ってますぜ。そう、口はばったいようだが、あたしゃ大英帝国の植民地省よりも、こういうことには明るいんですからね」
ヴァン・トッホ船長は、彼の正当なうっぷんをおさえようとして、しばらく目を白黒やったあげく、やっとそれに成功する。
「あそこに哀れな様子で、ぼんやりつっ立っている二人が見えますか。あいつらはね、まさに真珠採りなんですよ。セイロン島のシンハリー族(セイロン島の人口一千万のうち七割を占めている)ですよ。まあ神様があんなふうに奴らをおつくりになったんでしょうがね。どうしてああいうことをなすったのか、あたしにゃ解《げ》せませんな。とにかく、あたしは連中をいっしょに連れて歩いてましてね、『代理店』とか『バチャ』(チェコスロヴァキアのズリーンにあった大製靴工場主。今次大戦の少し前に死んだが、きわめて大がかりな宣伝と、巧妙な労働対策をもって各国にその名を知られていた)とか、『本舗《ほんぽ》』とかいったような看板の見えない岸辺を、ひとかけらでも見つけだすと、貝を捜しに奴らをもぐらせるんです。背の低い方のごくつぶしは、八〇メートルの深さまでもぐりますぜ。奴は、プリンス諸島で九〇メートルの深さまでもぐって、撮影機のクランクをひき上げてきましたがね。ただ、真珠となるともうさっぱりでさ! これっぽっちの目安もないんですよ。あのシンハリー族てのは、がらくたみたいなもんですな。つまりねえ、あんた、椰子《やし》油を買いつけるようなふりをしながら、真珠貝の新しい産地を捜すというのが、あたしのろくでもない仕事なんですよ。おおかたあっちじゃ、あたしが処女大陸でも発見するのを待ちかまえているんでしょうさ。え、どうです? いいえねえ、こういうことは自尊心のある商船隊の船長のやる仕事じゃないですよ。ヨット・ヴァン・トッホは、冒険家とやらいう妙ちきりんなものじゃないですからな。絶対にノー(否)ですよ!」
かくて彼は、先へ先へと進むのだ。海は茫洋《ぼうよう》たるものである。が、時間の大洋もまた果てしないものである。海につばしてみたまえ。さればとて、海の水はいささかもふえはしない。かくなりたる次第をうらんでみても、しょせんは無益であろう。が、ようやくに、前口上や紆余《うよ》曲折《きょくせつ》の末にわれわれは、オランダ汽船『カンドン・バンドゥン』号の船長ヨット・ヴァン・トッホが、タナーマサのカンポン(部落)に出向き、クブとポルトガル人の混血児である酔っぱらいと商談をかわすべく、吐息と悪態とともに、ボートにみこしをすえる段にまでこぎつけたのである。
「ソリー・キャプテン(残念ですが、船長さん)」と、最後にクブとポルトガル人の合いの子は言った。
「タナーマサには、貝などまったくいやしません。かさっかきのバタクどもは(と彼は、極度の嫌悪をこめて言った)、くらげさえ食いますよ。奴らは、陸よりも水の中で暮らしているほうが多いんですからね。ここの女どもは、なまぐさい魚のにおいがしましてねえ、あなたにゃ想像もできんくらいです。さてと、あっしゃ何を言うつもりだったんだろう? あ、そうか、あなたは女どものことをお尋ねでしたな?」
「ここには、たった一か所でもいいから、バタクどもが水にはいらないような岸辺はないですか?」船長は尋ねた。クブとポルトガル人の混血児は頭をうち振った。
「ないですね。デヴル・ベイ(魔の入江)でもなくちゃねえ。だけどあそこは、あなたのお役にたちませんぜ」
「なぜかね?」
「なぜかって……、つまり、そんな冒険をする奴ぁいないんでしてね。お注ぎしましょうか、船長?」
「サンクス(やあどうも)、サメでもいるのかね、そこにゃ?」
「サメもだが、だいたい……」と、にえきらない調子で合いの子は続けた。
「いけねえ所なんですよ。誰かがあそこにはいるのを、バタクどもがいやがるんでね」
「どうしてかね?」
「魔物がいるんでさ……、海の魔物がね」
「海の魔物って何かね、魚かね?」
「いや、魚じゃねえんです」合いの子は、答えを避けるふうであった。
「ほんものの魔物ですよ。水中魔でさ。バタクどもは『|のっそり《ヽヽヽヽ》』と呼んでいますがね。ええ、|のっそり《ヽヽヽヽ》とね。その魔物が、あそこに町をつくってるみたいなんです。お注ぎしましょうか?」
「それで、そいつはどんな格好をしているのかね、その海の魔物ってのは?」
クブとポルトガル人の混血児は肩をすくめた。
「魔物のきまりどおりでさ。一ぺんあっしも見たことがありますよ。といっても、頭だけですがね。あっしゃボートでハールレム岬から帰るところでしたが、ひょいとあん畜生、目の前に出てきやがってね……」
「なんとね? それで、そいつは何に似ていたかね?」
「バタクと同じ頭でしたよ。もっとも、つるりとしてましたっけ」
「そりゃ、ほんとにバタクだったんじゃないかな?」
「そうじゃねえんです。あそこで水にはいるバタクなんぞ、一人もいやしませんからな。それから奴は……下のまぶたで、あっしに目くばせしたじゃねえですか(恐怖のせんりつが、混血児のからだを走った)。奴の目をおおっている下まぶたでね。そいつぁ|のっそり《ヽヽヽヽ》でしたよ」
ヨット・ヴァン・トッホ船長は、太い指の中で椰子酒のコップをくるりと回した。
「あんたは生酔いじゃなかったんですかい、酔っぱらってたんじゃあ?」
「そうだったんですよ。さもなきゃ、あっしぁ、あそこに迷いこみゃしなかったでしょうよ。だってねえ、バタクは誰かがその魔物をおどかすのをいやがりますからね」
ヴァン・トッホ船長は、頭をうち振った。
「魔物なんて、君、いるもんじゃないんだ。いたとしても、そいつぁヨーロッパ人みたいな格好をしているにちがいない。そいつはきっと、魚かなんかだったんだ」
「魚にゃね」と、クブとポルトガル人の混血児は、ちょっと口ごもって言った。
「魚にゃ手がねえですからね。あっしゃバタクじゃねえですよ。あっしゃバデュングにある学校に通いましたからね……。ですから、今もって十戒(旧約聖書中の十条のおきて)やら精密科学の少しぐらい覚えているつもりですぜ。教育のある人間なら、どんな時でも魔物と動物の見さかいぐらいつきますからね。バタクに尋ねてくださいよ」
「それは、くろんぼの迷信さ」
船長は、自分の優越を知っている教養人の微笑を含みながら言いきった。
「科学的見地からすると、それはナンセンスだな。それに、魔物は水の中に住めるもんじゃない。水の中で奴らは何をやることがあるんだね? 土人のでたらめを信用しちゃいかんねえ。誰かがそこに『魔の入江』なんていう名をつけたんで、その時からバタクがこわがるようになったんさ。それだけのことさ」
船長はそう言うと、テーブルをパタンとひっぱたいた。
「何もあそこにゃいやせん。科学的見地からして、そいつぁ完全に明らかだ」
「そうですな」バデュングの学校に通ったことのある混血児は、あいづちをうった。「しかし、常識のある人間なら、デヴル・ベイ(魔の入江)で何か捜そうとはしないでしょうぜ」
ヨット・ヴァン・トッホ船長は、満面に朱をちらした。
「なにい?」彼はがなった。「かさかきのクブめ、おれがその魔物をおっかながるとでも思っているのか? おっつけわかるぜ」
そして彼は、どの相手にも思わず畏敬《いけい》の念をおこさせる巨体の持つ二〇〇ポンドという重量を、いすの上から持ち上げながらつけ加えた。
「おれは村長に用があるから、おまえと暇をつぶそうとは思わん。ただ一つだけちゃんと覚えとけ。オランダの植民地にゃ魔物などいない。いるとしたら、フランスの植民地だ。あっちならいるかもしれん。ところで、このカンポン(部落)の頭《かしら》野郎を呼んでくれ」
こう指名された高官は、長く捜すまでもなかった。当の人物は、混血児のちゃちな店のかたわらにしゃがんで、サトウキビをくちゃくちゃかんでいたからである。彼は、年をとったまる裸の男で、ヨーロッパの村長の誰よりもやせ細っていた。少し後ろには、適当な間隔をおいて、女子どもをまじえた部落全体が、明らかに撮影を心待ちしながらしゃがみこんでいた。
「用というのはねえ、君」
ヴァン・トッホ船長は、村長に向かってマライ語で話しかけた(オランダ語あるいは英語で話しかけても、首尾は同じであったろう。と言うのは、尊敬すべきバタクの老人は、マライ語を一語も解せず、クブとポルトガル人の混血児は、船長の話を全部バタク語に訳さなければならなかったからである。しかしながら、船長はいかなる考慮によってか、マライ語で話すことがもっとも適当であるとみなした)。
「用というのはねえ、君。丈夫で力の強い、勇敢な青年が二、三人要るんだ。ある事業のために連れて行きたいんだ。事業、わかるかね?」
混血児が通訳すると、村長はわかったというしるしに頭を振った。ついで混血児は、もっと多数の聴衆に向かって演説らしきものをぶったが、それはたしかに効果があった。
「村長はね」混血児は通訳した。「トゥアン(旦那)のためなら、ごいっしょに、部落をあげて出かけるって言ってるんですよ」
「じゃあと、連中に、おれたちはデヴル・ベイ(魔の入江)に貝を採りに行くんだと、言ってくれるかね」
約十五分ばかり、そうぞうしい会議が続けられた。村をあげて、と言っても主として老婆たちが、これに参加した。その後に、混血児は船長に向かって言った。
「みんなは、デヴル・ベイにゃ行けないって言ってるんです」
船長の顔に朱がさしてきた。
「どうしてだめなんだ?」
混血児は肩をすくめた。
「あそこには、トプ・トプがいるからですよ。魔物がですよ」
船長の顔は紫がかってきた。
「じゃ言ってくれ、もし行かなきゃ……おれが歯をたたき折ってやるからって。耳をひきちぎってやる、つり下げてやる、カンポンとやらを焼きはらってやるって。わかったかね?」
混血児は、それをちゃんと訳した。するとまたもや、前のよりも少し長くてそうぞうしい会議が開かれた。とどのつまり、混血児は船長に向かって言った。
「連中が言うにはですね、みんなでパダン(スマトラ西岸の州都)の警察にうったえでて、トゥアン(旦那)がみんなを恐喝したと言ってやるってんです。そういう条項が法律にあるらしいですな。村長はね、こういうことは放っておけんと言ってますぜ」
ヨット・ヴァン・トッホは、紫から青に変わった。
「それなら奴に言ってくれ」彼はがなった。「おれが……」
とばかりに船長は、十一分がとこも、息もつがずしゃべりちらした。
混血児は、言葉のたくわえのある限り訳しつづけ、ついでバタクたちが、長時間ではあるが今度はもう事務的な内容の会議を終わってから、船長に向かって報じた。
「連中が言うにはですな、トゥアンがこの土地の官辺にじかに科料を納められるならば、裁判所にうったえるのは止めようってんです。二〇〇ルピーってんですがね」と、もぞもぞと彼は言った。
「しかしねえ、そいつはちょっと多すぎましょう。五ルピーって言っておやんなさい」
船長の顔の色は、暗褐色の斑点に分解しはじめた。彼はまず、世界中のバタクというバタクをなきものにしてやると宣言し、ついでそれを三人にまで譲歩し、最後にアムステルダムにある植民地博物館用にするため、村長の剥製《はくせい》をこさえてやるということでがまんした。バタクはバタクで、まず値段を二〇〇ルピーから鉄製ポンプまでひき下げ、結局は、船長が村長に科料がわりに揮発油ライターを提供することという線でがんばった。
「くれておやんなさいよ」クブとポルトガル人の混血児が説いた。「あっしんとこの倉庫に、ライターなら三つありますよ。もっとも|しん《ヽヽ》がありませんがね」
このようにして、タナーマサにおける平和は回復した。しかし、ヨット・ヴァン・トッホ船長は、それ以後、白色人種の威信が髪の毛一筋にかかっているということを、認識するにいたったのである。
その日の午後になって、オランダ船『カンドン・バンドゥン』号から、ボートがおろされた。それには、つぎのような人物が乗っていた。すなわち、ヨット・ヴァン・トッホ船長、スウェーデン人のイェンセン、アイスランド人グドムンドソン、フィンランド人ギルレマイネン、それに真珠採りの二人のシンハリー族であった。ボートは、デヴル・ベイ(魔の入江)へとまっすぐに進路をとった。
引き潮がその極に達した午後三時ごろであった。船長は岸辺に立ち、ボートの方は岸から約一〇〇メートルほどのところでサメを警戒しながらこぎ回り、潜水夫である二人のシンハリー族は、あいくちを手に、命令を待ちかまえていた。
「最初はおまえだ」船長は背の高い裸の男に言った。
シンハリーは水にはいり、海の中を数歩走って行ってから、姿を没した。船長は、時計をながめていた。
四分二〇秒ののち、約六〇メートル左方の水中から青銅色の頭が現われた。片手にあいくち、片手に真珠貝をつかんだシンハリーが、驚きのあまりわれを忘れ、ガタガタふるえながら、大あわてにあわてて岩の上にはいあがった。船長は顔をしかめて、
「どうしたんだ?」と、鋭く尋ねた。
シンハリーは、岩にひざまずいたまま、恐怖のために一言も口がきけずにいた。
「どうしたんだ?」船長はどなった。
「サイブ、サイブ(旦那。インドでは白人に対してこう言う)……」しゃがれ声でシンハリーはそう言い、荒い息をつきながら、砂の上にへたばってしまった。
「サイブ、サイブ……」
「サメか?」
「ジン(アラビア神話に出てくる悪霊)です」シンハリーはうなるように言った。「旦那、悪魔です。悪魔が何千も、何千も!」
彼は両手で目をおおった。
「旦那、ほんとうの魔物です」
「その貝を見せろ」と船長は命じて、貝をナイフでこじあけた。その中には、小さいがきれいな真珠がはいっていた。
「見つけてきたのは、これだけか?」
シンハリーは、首にかけている袋から、さらに三つ貝を取り出した。
「あそこにゃ貝があるけど、魔物どもが番してるんですよ、旦那。あっしが貝をひっぺがすのを、奴らは見てましたぜ」
彼のもしゃもしゃの髪の毛が、恐怖でさか立った。
「サイブ、サイブ、あそこはだめです!」
船長は、貝殻をこじあけた。二つはからであったが、三番目のには、えんどう大の水銀玉のような丸い真珠がはいっていた。ヴァン・トッホ船長は、真珠と地上にのびているシンハリーとを交互にながめやった。
「なあ」彼はためらいながら言った。「もう一ぺん、あそこに潜ってみる気はないか?」
シンハリーは、黙って頭をうち振った。
ヨット・ヴァン・トッホ船長の舌は、悪態を浴せかけようとむずむずしてきたが、驚いたことに、彼は自分が静かな、ほとんどねこなで声のような調子で話しているのに気がついた。
「まあびくびくするなよ。それで、その魔物ってのはどんな格好だった?」
「小さい子どものようでね」シンハリーは小声で言った。
「後ろに尻っ尾がありますよ。それで丈《たけ》は、旦那、これくらいです(彼は手で、地上から一二〇センチばかりのところを示した)。奴らはあっしの回りにつっ立って、あっしのすることを見てましたよ……。その数がまた大変でね……」
シンハリーは、がたがたとふるえ続けた。
「サイブ、サイブ、あそこはだめです!」
ヴァン・トッホ船長は、じっと考えこんだ。
「奴らは下まぶたでまばたきしなかったか? そんなようなことをしなかったか?」
「知らねえです、旦那」シンハリーは、つぶやくように言った。「一万から……いますぜ」
船長は、もう一人のシンハリーをふり返ってみた。彼は、一五〇メートルばかり離れたところにつっ立っていて、両肩に手をあてがいながら、平然と命令を待っていた。ついでだが、裸で立っている人間というものは、自分の肩の上でもなければ、手の置き場所がないではないか? 船長は黙ったまま、その方にうなずいてみせた。そこで、やせ型のシンハリーは水へ飛びこんだ。三分五〇秒ののち、彼は浮かび上がり、ふるえる両手で岩につかまった。
「止れ!」そうどなった船長は、じっと様子をうかがった末、岩をとびとび、必死にしがみついている手を目がけて走って行った。これほどの巨体に、こんな跳躍ができるとは信じがたいことであった。ついに彼は、シンハリーの片手をつかまえ、息をはずませながら、相手を水の中からひき上げた。ついで彼を岩の上にすわらせてから、額の汗を払った。シンハリーは、身じろぎもせずに倒れていた。片方のわき腹が、骨に達するほど傷ついていた。一見して、これは岩にぶっつけたものであることがわかった。船長は彼のまぶたをひろげて見たが、見えたのはひっくり返った白目だけだった。彼は、貝もあいくちもにぎってはいなかった。
この時、一行を乗せたボートが岸近くにやってきた。
「サー(船長)」スウェーデン人のイェンセンが叫んだ。「ここにゃサメがいますぜ。仕事を続けるかね?」
「もういい」船長は答えた。「ここにきて、この二人を乗せてくれ」
「ごらんなせえ、船長」本船へこぎかえる途中で、イェンセンが言った。
「ここん所で、いきなり浅くなっているでしょう。ここから岸の所まで、平たい場所が延びているんですよ」
彼は、オールで水面をつつきながら教えた。
「水の下が堤になってるみてぇでしょう?」
小柄な方のシンハリーは、船の上でやっと人心地がついた。彼は両ひざにあごをうずめ、やけにぶるぶるふるえながらすわっていた。船長はみんなを遠ざけてから、両足を広くはだけて彼の向こうに腰をおろした。
「申し上げちまえ!」彼は言った。「おまえ何を見た?」
「ジンです、サイブ」やっと聞きとれるような声で、小柄なシンハリーは言った。彼はまぶたまでふるわせ、おまけに全身鳥はだだっていた。
ヴァン・トッホ船長は、ペッとつばをはいた。
「それで、どんな格好をしているんだ?」
「あのお……あのお……」
シンハリーの目は、またもや一条の白目となった。ヨット・ヴァン・トッホは、彼を生気づかせるため、思いがけないすばやさをもって、手の裏表で二度びんたをくらわせた。
「サンクス(すみません)、サイブ」小柄なシンハリーはつぶやいた。瞳孔《どうこう》が、ふたたびまぶたの下から泳ぎ出てきた。
「しゃんとしたか?」
「はい、サイブ」
「貝があったか?」
「ありました、サイブ」
ヨット・ヴァン・トッホ船長は、辛抱強く克明な尋問をつづけた。そうです、あそこにゃ魔物がいます。どれくらい? 何千っています。丈は十くらいの子どもほどでね、サイブ、ほとんどまっ黒です。水の中じゃ泳いでいますが、底につくと二本足で歩きますぜ。あなたやあっしのように二本足でですぜ、サイブ。歩く時、奴らのからだはユーラユーラ、ユーラユーラゆれてるんです。そうです、サイブ、手は人間の手みたいですよ。いいえ、爪はありません。もっとはっきり言うと、赤ん坊の手みたいなもんです。いいえ、サイブ、角もなければからだの毛もありません。ええ、尻っ尾はあります、小さいのがね。ちょうど魚のやつのようですが、尾びれじゃないんです。それで、頭は大きくて丸く、バタクの頭みたいです。いいえ、何もしゃべりませんでした。ただ、舌を鳴らしたみたいでした。
さて、シンハリーが約十六メートルばかりの深さの所で貝を採っていると、背中を小さな冷たい指でつつかれたような気がしたと言うのである。彼はふり返ってみた。すると、『彼ら』が回りに何百も集まっていた。『何百もですぜ、サイブ』――奴らは泳いだり、岩の上にすわったりして、シンハリーのすることを見ていた。彼は、貝もあいくちもおっぽりだして、大急ぎで水面に浮かび出ようとした。その時彼は、上の方を泳いでいた幾匹かの魔物にぶっつかった。『それからさきは、もう何も覚えちゃいませんや、サイブ!』
ヨット・ヴァン・トッホ船長は、ふるえている小柄な潜水夫をじっと見ていた。『このちびは』と、内心彼は思った。『もう全然役にたたんな。パダンからセイロンの家へ送り返そう』フーフー言いながら、彼は船長室へ向かった。部屋にはいると、彼は紙袋の中から机の上に二つの真珠を出してみた。一つは砂粒ほどの小さいものであったが、も一つはエンドウ豆くらいもあって、桃色から銀色までのあらゆる光沢に輝いていた。オランダ船の船長は、フーッと鼻息をつくなり、戸棚から、アイリッシュ・ウィスキーを取り出した。
夕方六時ごろになって、彼はふたたびボートを出すように命じ、かのクブとポルトガル人の混血児をおとずれるべく、カンポンをめざして行った。『トデイ(洋酒に湯と砂糖とレモンを加えたもの)』と彼は言った。彼が口にしたのは、このひと言だけであった。彼は、波型トタンをふいたヴェランダにすわり、太い指で厚いガラスのコップをささえ、飲んだり、つばをはいたり、目を細めて毛虫眉の後ろから、踏みあらされたきたならしい庭先のシュロの木の下で、何やらわからないものをついばんでいる、やせこけたヒヨコをながめたりしていた。混血児の方は、一言も口をきかぬように用心しいしい、コップに酒を注ぐことだけを続けていた。おいおいに船長の目は血走り、指がいうことをきかなくなってきた。ズボンを引き上げて彼が立ち上がった時には、もううす暗くなっていた。
「船長さん、もうお休みになりますか?」
魔物と悪魔の合いの子野郎は、いんぎんに尋ねた。
船長は、空間を指さした。
「見たいもんだ」と、彼は言った。「おれのお目にかからない魔物なんてものが、世の中にいてたまるもんか。おい、北西てなぁどっちの方角だ?」
「あっちですよ」混血児は教えた。「どこへおいでですか、船長?」
「炎熱地獄だ」ヨット・ヴァン・トッホ船長は、しょっぱい調子で言った。「デヴル・ベイ(魔の入江)を見てくるんだ!」
まさにこの夜から、ヨット・ヴァン・トッホ船長の奇行がはじまったのである。彼は、夜明け前になって、やっとカンポンへ帰ってきた。そして、プツリとも口をきかず自分の船に向かい、着くなり船長室にとじこもって、夕方まですわりとおしていた。これだけではしかし、誰も不思議とは思わなかった。『カンドン・バンドゥン』号は、タナーマサ島の天産品(コプラ、コショウ、|しょうのう《ヽヽヽヽヽ》、ゴム、椰子油、煙草、労働力)の、いずれかを積まなければならなかったからである。しかし、夕方になって、積荷作業全部完了という報告を受けた時、船長は鼻息をついただけで、『ボートを出せ。カンポンへ行く』と言いだした。そしてまたもや、夜明けになって帰ってきた。船に上がる彼に手をかしてやったスウェーデン人のイェンセンは、儀礼から『今日は出航ですね、船長?』と尋ねた。すると船長は、尻を突き刺されでもしたように、くるりと向き直って、『君になんの関係があるんだ?』と、くってかかった。『自分の仕事をしていればいい』
丸一日、カンドン・バンドゥン号は、なんらなすこともなく、タナーマサの岸から半マイルのところに停泊していた。夕方になると、船長は船長室からころがり出て、『ボートを出せ、カンポンに行く』と言った。やせぎすなザパティスというギリシア人が、片目でやぶにらみの視線を彼にすえ、『おいみんな、うちの大将は女ができたか、気がふれたか、どっちかだぜ』と、おんどりの鳴き声のような声で言った。スウェーデン人のイェンセンは顔をしかめて、『貴様に関係あるまい? 手前の仕事をしていやがれ』ときめつけた。つぎに彼は、アイスランド人のグドムンドソンといっしょに小さいボートに乗りこんで、デヴル・ベイ(魔の入江)の方向へこぎだした。彼らは岩陰に隠れ、何が起こるかとしんとしてうかがっていた。船長は、入江の岸辺を歩き回っていた。誰かを待っているように見えた。彼はときどき立ち止っては、ツ・ツ・ツと奇妙なことを口走った。
『見ろ』グドムンドソンはそう言って、落陽の下に目もくらむばかりに光っている海面を指さした。イェンセンは、デヴル・ベイの方へ進んで行く刃《やいば》のように鋭いひれを、二つ、三つ、四つ……六つまで数えた。『桑原《くわばら》、桑原!』イェンセンは口の中で言った。『ここにもサメがいるんだな』この時、刃の一つがぷくりとかくれ、水上に尾がはね上がった。と、激しい渦巻となって水がざわめいた。ヨット・ヴァン・トッホ船長は、呪いの言葉の限りをならべたてて、『サメなどコレラで死ねばよい』とどなりながら、岸辺を気違いのようにはね回りはじめた。熱帯の短い夜がやってきて、島の上に月がのぼった。イェンセンはオールをにぎると、ファールロング(イギリス公定マイルの八分の一、約二〇〇メートル)のところまで岸辺に接近した。船長は依然として岩の上にすわって、ツ・ツ・ツとつぶやいている。彼のまわりに何か動いているものが見えるのだが、それがなんであるかは識別できなかった。『アザラシそっくりだな』と、イェンセンは思った。『ただ、アザラシの這い方は、あれとは違うな』
それは、岩の間の波間から泳ぎ上がると、ペンギンのようによたよたしながら、岸辺を歩いて行った。イェンセンは、音のしないようにオールを水中に沈めて、船長から半ファールロング(約一〇〇メートル)のところまで接近した。船長は何か言っていた。もっとも、魔物でさえも、それがマライ語やらタミール語やらわかりはしなかったであろう。彼はアザラシどもに向かい(イェンセンの確かめたところによれば、実際はアザラシではなかったが)、何か投げ与えるような格好で両手を振り、一方、しばしも休まずに中国語やらマライ語やらわからぬ言葉をあやつり続けていた。
ちょうどこの時、一本のオールがイェンセンの手からすべり落ち、水をパシャンとたたいた。船長は頭をもたげて立ち上がったかと思うと、三〇歩ばかり海の方に向かって駈け出してきた。と見る間に、パッと閃光《せんこう》がひらめき、銃声がとどろきわたった。船長が、ボートめがけてブローニングをぶっ放したのである。ほとんど同時に、湾内はひどくそうぞうしくなり、千頭のアザラシが水に飛びこんだような、激しい水音が聞えた。しかし、イェンセンとグドムンドソンは、すでにオールの上に身をふせ、ただもう耳もとで風が鳴るばかりの速さで、近くの出っぱりのかげを目がけてこいでいた。船に帰った二人は、誰にも何も言わなかった。元来北方人は沈黙は得手《えて》なものだ。朝になって船長が帰ってきた。彼はふきげんで、怒った様子をしていたが、それでも何も言いはしなかった。ただ、イェンセンが乗船しようとする彼に手をかした時、二対の青目玉が、冷たいさぐるような視線をかわしただけであった。
「イェンセン」船長は言った。
「イエス・サー」
「今日出航する」
「イエス・サー」
「スラバヤで報酬を受け取りたまえ」
「イエス・サー」
それで全部だった。この日、カンドン・バンドゥン号は、パダン目ざして出航した。パダンからヨット・ヴァン・トッホ船長は、アムステルダムの本社あてに、千二百ポンドの保険をかけた小包を送った。同時に、健康上やむをえずとかなんとかいった理由で、一年間の休暇願いを打電した。つぎに、捜している人間にぶっつかるまでというもの、パダンをぐるぐる歩き回りだした。行き当ったのは、ボルネオの未開人で、とくにイギリスの旅行者たちにサメがりのため雇われたダヤク族であった。イギリス人の方は、このダヤクがあいくち一丁を手ばさんで、昔どおりの風習に従いサメがりをやって見せるというので、変わった見物を楽しもうと雇ったものなのである。彼は明らかに食人種であったが、しかし賃金の方はけっして掛値を言わなかった。食費のほかに、サメ一匹について五ポンドというのが彼の言値であった。彼の様子を見ると、ぞっとした。両手、胸、ふとももはさめの皮で傷つけられ、鼻と耳はサメの歯がたで飾られていた。シャーク(サメ)というのが、彼の名であった。
喜び勇んで、このダヤクといっしょに、ヨット・ヴァン・トッホ船長は、タナーマサを目ざして出発した。
二 ゴロムベク氏とヴァレンタ氏
何をやってもうまくいかぬ、と言うよりはうまくいきそうにもない、誰も政治なんぞやらかさぬ、それにヨーロッパ問題などてんからありもしない、といった、からからに干上がった新聞編集局の夏枯れ時であった。しかし、このような時でさえ、どこかの海岸やこんもり茂った木陰に裸のままひっくり返っている読者の方は、暑気と自然と静けさと、一般に健康で単調な休暇中の生活のために、たががゆるんでいるので、気分のすっとするような珍奇な何かを(毎日幻滅を味わわされるにもかかわらず)、待ちかまえているものなのである。つまり、殺人とか戦争とか地震とか、一口にして言えば『何か』を待っている。さて、その種のものがなかったとなると、彼らは新聞をもみくちゃにして、これにゃ何ものっとりゃせん、とも言えんがのっとらんのも同じだ、だいたい新聞なんぞ読む必要はないや、てなことを憤然と宣言し、購読を止めてしまうのである……。
ちょうどこのころ、編集局には、五、六人の者が運命のわがままにゆだねられたまますわっていた。と言うのは、他の同僚たちは休暇をとって、同じく憤然と新聞紙をくしゃくしゃに丸め、このごろの新聞には何もない、何もないと言っちゃ語弊《ごへい》があるが、ないのも同じだとぼやいていたからである。一方、植字場からは整版工がやってきて、「ねえ、先生方、明日の社説がありませんぜ」と、責めたてるのであった。
「そんなら、社説の代わりに、このブルガリアの経済状態についてっていう論文を、入れてくれんですか」と、見放され組の一人が言った。
整版工は、重い吐息をついた。
「しかしあんた、誰がそいつを読みますかね? また、全紙をつうじて『読めるものがない』ってことに、なるんじゃないですか」
見放された男たちは、あたかも『読めるもの』をそこに発見できるとでもいうように、視線を天井に向けた。
「何か事件が起こっていればいいけれど」ぼんやりと、中の一人が言った。
「それとも、何か魅力のあるルポルタージュでもあればだが……」と、も一人がさえぎった。
「どういう?」
「そいつはぼくにもわからんね」
「それとも……新しいヴィタミンでも発見するか」と、三番目の人物がもそりと言った。
「今は夏じゃないのか」四番目の男が抗議した。「ヴィタミンは、君、あれは知識層の用いるもので、だいたいが秋向きだよ」
「それにしても諸君、暑いなあ」五番目の仁があくびをした。「極地の話でもあればいいんだけれど」
「たとえば、どういう話がかね?」
「どういう話って、まあ何かさ。エスキモーのウェルツルについて、てなもんさ。指の凍傷、永久凍結とかいった種類のものさ」
「言うはやすし」と、六番目のが言った。「しかし、どこからそいつを手に入れるのかい?」
すると、編集局には絶望の静寂がくだるのであった。
「あっしゃぁ日曜日に、イェヴィチェクに行きましたがね」整版工がそろりと言いだした。
「それで?」
「あそこに、ヴァン・トッホっていう船長が、休暇でやってきているって話です。あそこの生まれなんだそうですよ、イェヴィチェクのね」
「ヴァン・トッホって、どんな人物?」
「太った男でね、遠洋航路の船長なんだそうです。その男が、どこかで真珠を手に入れてきたという話ですよ」
ゴロムベク氏は、ヴァレンタ氏をじっと見つめた。
「奴は、どこで手に入れたんだろう?」
「スマトラやセレベスなんですって。だいたいあっちの方らしいですがね。その男は、三十年から向うにいたんだそうですぜ」
「大将、そいつはアイデアだ!」ヴァレンタが言った。「第一級のルポルタージュが手にはいるかもしれんぞ。行ってみるか、ゴロムベク?」
「そうさ、一丁あたってみるか?」ゴロムベクも決心して、すわっていた机の上からとび下りた。
「あそこにいられる方でございます」と、イェヴィチェクの旅館の主人は言った。
庭にすえたテーブルを前にして、白い帽子をかぶった肥大漢が、両足を大きくひらいてすわりこみ、ビールを飲みながら、子細あり気に、太い人差し指でテーブルの上に何やらいたずら書きをしていた。二人の客は、その方を目ざして行った。
「新聞記者のヴァレンタという者ですが」
「新聞記者のゴロムベクです」
太った大将は顔をあげた。
「ホワット(えっ)? なんですかな?」
「新聞記者のヴァレンタという者です」
「あたしも同じく記者で、ゴロムベクという者ですが……」
太った大将は、威厳をこめて立ち上がった。
「キャプテン・ヴァン・トッホです。ヴェリー・グラッド。どうぞおかけください」
二人のジャーナリストは、待ってましたとばかりに腰を下し、目の前に用紙つづりをひろげた。
「ご両所は何を飲まれますかな?」
「イチゴシロップ入りのソーダ水を一つ」と、ヴァレンタ氏が言った。
「シロップ入りのソーダ水ですか?」信じられないといった様子で、船長は尋ね返した。「なぜですね? ご主人、お二人にビールをさし上げてください。時に、どういうご用向きなんです?」
彼は、テーブルにひじをついて尋ねた。
「ヴァン・トッホさん、あなたがここのお生まれだというのはほんとうですか?」
「ヤー(そう)、ここの生まれです」
「恐れ入りますが、船に乗るようになられたいきさつをお話しくださいませんか」
「ハンブルクで乗るようになったんです」
「長く船長さんをおやりですか?」
「二十年ですよ。ここに証明書一式がある」子細らしくわきポケットをたたきながら、船長は言った。「お見せしてもいい」
ゴロムベク氏は、船長の証明書の様子を非常に見たかったが、強いてその欲望を抑制した。
「その二十年間に、地球上をずいぶん回られたでしょうね、船長さん?」
「そう、相当なもんですな」
「具体的にはどんな所を?」
「ジャワ、ボルネオ、フィリピン、フィジー諸島、ソロモン諸島、カロリン諸島、サモア、いまいましいクリパートン島、ア・ロット・オブ・ダムド・アイランズ(まったくくそ面白くもない島々をね)! それがどうかしましたか?」
「いいえ別に……。非常に興味があります。も少しいろんな話をしていただけると、大変結構なんですけど……」
「ヤー(そうだな)。だけど、それだけかね?」船長は、相手に青目玉を釘づけにした。「あんたたちは、警察の人間じゃないでしょうな?」
「いいえ、船長さん、新聞社のもんですよ」
「ああ、そうか。新聞社のね。探訪記者だね。そんならこう書いてください。キャプテン・ヨット・ヴァン・トッホ、カンドン・バンドゥン号船長……」
「えっ、なんです?」
「カンドン・バンドゥン号、スラバヤ港のね。旅行の目的、ヴェイカンシズ……。こいつあなんて言いましたかね?」
「休暇って言うんです」
「ヤー(そうだ)、こん畜生、休暇だ休暇だ。人物往来のところに、そう書いといてください。さあ、原稿紙をひっこめてもらいましょうか……。ユア・ヘルス(ご健康を祝す)」
「ヴァン・トッホさん、われわれがきたのは……、あなたの生活の一部を話していただきたいと思いましてね」
「そりゃまたなぜです?」
「新聞に書かせていただきたいんですがね。遠い島のことや、われわれの同国人であるチェコの方が、イェヴィチェク出身の方がですね、あちらで見聞されたことをお聞きするのは、読者としては非常に興味があるでしょうからね」
船長はうなずいた。
「そりゃまったくですな。あたしゃイェヴィチェク出身のたった一人のキャプテンですからな。まったくの話が! ここからもう一人船長が出てるって話だけれど、回転ボートの船長なんだってね。あたしゃ……」と、彼は声を低めてつけ加えた。「そいつは本物の船長だとは思わないんですよ。問題はトン数ですからね。そうでしょう?」
「あなたの船のトン数は、どれだけでしたか?」
「一万二千トン!」
「つまり、れっきとした船長さんだったんですね?」
「そう、れっきとしたね」船長は威厳をこめて言った。「ときに、あんたたちは金を持ってるかね?」
二人のジャーナリストは、自信なげに顔を見合わせた。
「持っちゃいますが、よけいじゃありませんよ。船長さん、あなた金が要るんですか?」
「ヤー(そう)、あってもじゃまにゃならんもんなあ」
「なんですよ、そのう、あなたが何か適当な話をしてくだすって、それでわれわれが記事を書けたら、あなたは金を受け取られることになりますよ」
「いくらかね?」
「さあ、たぶん、何千……かでしょうな」ゴロムベク氏は、気前よく約束した。
「ポンド(英貨)かね?」
「いやいや、コルナ(チェコ貨)ですよ」
ヴァン・トッホ船長は、頭をうち振った。
「いや、それじゃだめだ。それくらいなら、あたしにだってある」彼は、ポケットから厚い札束をひきだした。「シー(どうかね)?」
それからテーブルにひじをついて、二人のジャーナリストの方へからだをのりだした。
「ねえ、ご両所。あたしゃ、ビッグ・ビジネスを提供できるんですがね。こいつはなんて言いましたかな?」
「大事業って言うんです」
「ヤー(そうだ)、大事業だ。しかし、あんたたちはそのために、千五百万から千六百万コルナばかり、あたしに出す必要がある。どうです、こいつぁ?」
二人の客人は、またもや自信なさそうに顔を見合わせた。ジャーナリストというものは、しばしば奇妙きてれつな気違い、発明家、山師の変わり種との対面を余儀なくされるものである。
「ちょっと待ってください」船長は言った。「あんたたちにお見せするものがある」
彼は、チョッキのポケットに太い指をさしこみ、そこから何かを引き出して、テーブルの上にのせた。それは、五つぶの桃色の真珠で、一つ一つの大きさが桜ん坊の種ほどもあった。
「これ、いくらぐらいするもんですか?」小声でヴァレンタ氏は尋ねた。
「ヤー・ロッツ・オブ・マネー(さよう、かなりな金高さね)。しかし、こいつは見本用にあたしが持ち歩いているもんなんでね。どうです、手打ちと行きましょうか」
船長は、テーブルごしに大きな手のひらをさし出しながら言った。
「ヴァン・トッホさん、それほどの金は……」ゴロムベク氏は、ため息をついた。
「ハルト(待った―ドイツ語)」船長はさえぎった。
「あんたはわしを知っとらんようだ。しかし、スラバヤ、バタビア、パダン、そのほかどこでもいいが、キャプテン・ヴァン・トッホがあっちでどんな顔だか、誰にでもいいから聞いてみたまえ。誰だって言うから、『ヤー、キャプテン・ヴァン・トッホ、ヒー・イズ・アズ・グッド、アズ・ヒズ・ワード(ああ、ヴァン・トッホ船長かね、あの仁なら言葉をたがえるこたぁない)』ってね」
「ヴァン・トッホさん、われわれもあなたを信じていますよ」ゴロムベク氏は抗議した。
「ただね……」
「ちょいと待った」船長は命令した。
「あんたは、あいよってんで金を出すのがいやだってんだろう。その点あたしゃ、そうこなくちゃって、あんたに言うがね。だけど、あんたは船に金を出すんですぜ。シー(よしか)。あんたは船を買って、シップオーナー(船主)になり、自分で航海できるんですぜ。あたしがあんたのために、どういう仕事をやっているか監督しようってんで、乗ってこられるんですぜ。もっとも、もうけた金はフィフティ・フィフティ(半々)にするのさ。さばさばした仕事でしょうがね、どうです?」
「しかし、ヴァン・トッホさん」ついにゴロムベク氏は、いささかの困惑の体《てい》で白状した。「そんな金、ぼくらにゃないですからね」
「ふーん、そんなら話は別だ」船長は言った。「ソリー(残念ですな)。そうだとすると、どうしてあんたたちがあたしを訪ねてこられたのか、あたしにゃ訳がわからんね」
「何か話をしていただこうと思ってですよ、船長さん。いろいろな出来事にお会いだったでしょうからな」
「そう、いろいろありましたな。気色の悪い出来事がいろいろありましたよ」
「難破なすったことがありますか?」
「ホワット(何)? つまり、シップレッキングのことかね? そりゃないね? あんた、いったい何を考えているのかね? いい船さえ提供してもらえれば、何事も起こるもんじゃないですよ。アムステルダムに、あっしのことをレファランス(照会)してみてもいいですぜ。出かけて行って、確かめるんだな」
「土人はどうです? 土人に会われたでしょう?」
「教育を受けた人間にとっちゃ、面白みのある話じゃない。あっしゃ、そいつについちゃしゃべらんぜ」
「そんなら、ほかの話をしてくれませんか」
「話して話してって……」船長は、うたぐり深そうになった。
「あんたたちゃ、後で話をどこかの会社に売るんだろう。そうすると、その会社があそこに船を送り出すという寸法だ。あんたに申し上げるがね、マイ・ラッド(お若いの)、人間てなあかたりばかりだからなあ。しかし、いちばんひどいかたりはコロンボの銀行家だな」
「あなたは、何度もコロンボにいらっしゃいましたか?」
「ヤー(そう)、何度もね。それから、バンコックにもマニラにも……。ねえ」と、不意に船長は言った。
「あたしゃ船を一つ知っていますがね。すばらしい船なうえに、非常に安いんですよ。ロッテルダムに停泊してるけどね。行って見てきませんか。ロッテルダムなら一足だ(彼はかたわらを指さした)。あそこじゃ船がとても安いんでね。まるで鉄くず同然だ。そいつの船齢はわずか六年で、ディーゼル・エンジンですよ。出かける値うちがあるというもんじゃないですか?」
「だめですな、ヴァン・トッホさん」
「あんたたちは変人だな」船長はため息をつき、空色のハンカチで音高く鼻をかんだ。
「あんたたちは、誰かここの人で船を手に入れたがっている人を知らんですか?」
「ここでですか、イェヴィチェクでですか?」
「ヤー(そう)、ここでもよし、この近くでもよし。あたしゃね、この大きな収益がマイ・カントリー(故郷)のここに流れこむのを願っているんですよ」
「そいつは、船長さん、立派なことですな」
「あっちの実業家は、みんなかたりばかりだからね。それに金も持たんですよ。あんたたちは、ニュース・ペーパー(新聞)関係だから、ここでも顔役を知ってるはずだ。つまり、銀行家だとかシップオーナーだとか。こいつはなんて言いましたかね。たしか船持ちだったね?」
「船主ですよ。ぼくらはそういう連中は知りませんな、ヴァン・トッホさん」
「そいつは|わや《ヽヽ》だ」船長は悲観した。
ゴロムベク氏は、何か思い出した。
「あなたはたぶん、ボンディさんをご存知じゃないでしょう?」
「ボンディね、ボンディと」船長は記憶をたどってみた。
「ちょっと待ってください。その名前は聞いたような気がするぞ。ロンドンにボンド街というのがあって、大金持ちどもが巣くっているがね。そのボンディさんというのは、ボンド街に事務所かなんか持っちゃいないかね?」
「いいえ、あの人はプラハに住んでいますがね。イェヴィチェクの出らしいですよ」
「こん畜生!」と、船長は歓呼の声をあげた。
「あんたの言うとおりだ。勧工場《かんこうば》に小間物店を出してた。ボンディ……なんといったっけな?……マックスだ、マックス・ボンディだ。今でもあの人は、プラハで商売をやってるかしらん?」
「いいえ、それはきっとあの人のおとっつぁんでしょう。今のボンディは、ゲー・ハーっていいますよ。ゲー・ハー・ボンディ社長ですよ、船長さん」
「ゲー・ハーねえ?」船長は頭をひねった。
「ここには、ゲー・ハーってのはいなかったなあ。たしか、グストル・ボンディというのだけだったと思うが……、でも、そいつは社長じゃなかったな。そのグストルは、そばかすだらけのユダヤ人の小僧だったからね。いや、奴なはずはない」
「きっとその人ですよ、ヴァン・トッホさん。だって、ずい分長い間会われなかったんでしょう?」
「ヤー(なるほど)、そりゃそうだな。ずい分長いことだからなあ」船長はうなずいた。
「四十年だもんね。グストルが一人前になったってことも、ありうるわけだ。それで、あの男はどんなことをやってます?」
「あの人は、MEASの取締役会長ですよ。ボイラーだとか、そういったものをこさえている大工場でね。そのほか、二十ばかりの会社やトラストの会長をやってます。大人物ですよ、ヴァン・トッホさん。わが国産業界の船長と呼ばれていますがね」
「船長って?」キャプテン・ヴァン・トッホはびっくりした。
「すると、あたしがイェヴィチェク出身の、たった一人の船長じゃないということになるな。畜生、グストルまでがキャプテンたぁ! 奴に会わにゃならん。奴は金を持ってるかね?」
「オッホー! 金の山でさ、ヴァン・トッホさん。たぶん、あの人は何億って持ってるでしょう。わが国一番の金持ちですからね」
ヴァン・トッホは、大いに真面目になった。
「奴もキャプテンか! いや、あんた、どうもありがとう。ボンディのところに船をつけてみよう。そう、グストル・ボンディか。アイ・ノウ(覚えてますよ)。ユダヤ人の小僧っ子だったが、今じゃキャプテン・ゲー・ハー・ボンディか。まさに光陰矢のごとしだなあ」思い入れたっぷりに、彼はため息をついた。
「船長さん、すみませんが、ちょっと。夕方の汽車をはずすと事《こと》なんで……」
「そんならあたしが波止場まで送って行きますよ」船長はそう言って、いかりをあげはじめた。
「いやどうも、わざわざいらしてくだすってありがとう。あたしゃ、スラバヤにいる新聞記者を一人知ってますがね。いい青年ですよ。ヤー、ア・グッド・フレンド・オブ・マイン(そう、大の仲よしさ)。えらい酒飲みでね。なんなら、あんたたちをスラバヤの新聞社にお世話しますぜ。いやかね? そんならまあご随意に」
汽車が出発すると、船長はしかつめらしく、ゆっくりと大きな青いハンカチをうち振った。その時、彼のポケットから、いびつな大きい真珠が一つ、ポトリと砂の上に落ちた。しかし、この真珠はぜんぜん誰にも見つけられずじまいになった。
三 ゲー・ハー・ボンディと彼の同郷人
周知のように、人が高い地位につけばつくほど、門標に書かれる文字の数は少なくなるものである。老マックス・ボンディは、店舗の上、入口の両側、窓などに大きな文字で、ここにマックス・ボンディありて、あらゆる小間物、呉服物ほか、花嫁道具、ししゅう品、タオル、ナプキン、テーブルクロス、敷布、さらさ、白麻布、極上ラシャ、絹、カーテン、たれ布、ふさべり、各種衣類付属品などの販売を一八八五年以来営んでいる旨を、べた一面に書いておかなければならなかった。だが、産業界のキャプテン、MEAS会社取締役会長、商業顧問官、株式取引委員会委員、工業会副会長、エクアドル共和国領事のほか、幾多の会社の取締役である、彼の子息ゲー・ハー・ボンディの邸宅の扉には、小さい黒いガラス板がさがっていて、金文字でつぎのように書かれているだけであった。
ボンディ
それっきりである。他の連中が自宅の入口に『ゼネラルモーターズ会社代表ユリウス・ボンディ』だとか『医学博士エルヴィン・ボンディ』だとか『エス・ボンディ&C』だとか書くのは勝手だが、肩書ぬきのただのボンディは、一人しかいないのである(私が思うのに、ローマ教皇の家の入口にも、肩書や番地などは示されないで、ただピオとだけ書かれているにちがいない。また天上、地上を問わず、神のみ許にも表札などぜんぜんありはしない。つまり、神がここに住み給うや否やは、各人の認識すべきことなのである。もっともこれは本筋に関係はなく、思いついたままをしるしただけにすぎない)。
暑さのはげしいある日、白い船員帽子をかぶった男が、精力的な後頭部を青いハンカチでふきながら立ったのが、まさにこのガラス板の前であった。『こん畜生、もったいぶった家だな』と彼は思い、少しばかりおじ気づいて、呼鈴の銅の引手をつかんだ。
扉のところに、取り次ぎのポウォンドラが現われ、太った客を、短靴のところから帽子の金モールのところまでずいとあらため、控え目に尋ねた。
「ご用向きは?」
「用はですな」客は言った。「ボンディさんとおっしゃる方のお宅は、こちらですか?」
「何かご用件でも?」ポウォンドラ氏は、氷のような調子で尋ねた。
「スラバヤのキャプテン・ヴァン・トッホという者が、ちょっとお目にかかりたい、と伝えてください。そうだ」彼は思い出した。「ここに名刺があります」
彼は、ポウォンドラ氏に名刺を差し出した。それにはいかりが描かれているほかに、つぎのように英語で印刷されてあった。
東インド・太平洋汽船会社
カンドン・バンドゥン号
船長 ヨット・ヴァン・トッホ
スラバヤ 海員クラブ
ポウォンドラ氏は、頭を垂れて思案にくれた。ボンディ様はご不在ですと言ったものであろうか? あるいは、お気の毒ですがボンディ様はただいま重要会議でございますと言ったものだろうか? 取り次ぐべき訪問客と、取次役が片づけてしまう訪問客とがある。ポウォンドラ氏は、このような場合に彼がよりどころにしてきた本能も、今度ばかりは砲口がつまったみたいな具合なので、途方にくれていたのである。太った客は、取り次ぎに値しない普通の客には属さず、外交販売員でも慈善団体の代表でもなさそうであった。ちょうどこの時、ヴァン・トッホ船長はフーッと鼻息をつき、ハンカチではげのところをふいた。同時に、明るい目をいかにも善良そうに細めた。とたんにポウォンドラ氏は、いっさいの責任を自分で引き受けようと決心したのである。
「どうぞお通りくださいませ」彼は言った。「ただ今会長さんにお取り次ぎいたします」
ヨット・ヴァン・トッホは、青いハンカチで額をふきながら、玄関の様子に度肝をぬかれていた。グストルの野郎、えらい造作をしてやがる、ロッテルダム―バタヴィア航路汽船のサロンみたいじゃないか、えらく大金をかけたんだろうな、小さいそばかすだらけのユダヤ人の小僧だったがなあと、船長はびっくりしていた。
一方この時、ゲー・ハー・ボンディは、書斎にすわって、船長の名刺を子細らしくながめていた。
「なんの用かね?」疑ぐり深そうに彼は尋ねた。
「申しわけございません。存じませんので」ポウォンドラは、小声でうやうやしく答えた。
ボンディ氏は、なおも名刺を両手でひねくり回していた。船のいかり。キャプテン。ヨット・ヴァン・トッホ。スラバヤ――スラバヤっていったいどこだ? ジャワかどっかじゃないかな? 未知の遠い国の息吹きが、ボンディ氏の方へにおってきた。『カンドン・バンドゥン』か、まるでゴングの鳴る音みたいだな。スラバヤか……。今日はまさに、そういった熱帯性の天気だ。ふん、スラバヤね……。
「ま、ここへ通してくれたまえ」ボンディ氏は命じた。
入口のところに、船長の帽子をかぶったがんじょうな男が立ち止って、挙手の礼をした。ゲー・ハー・ボンディは、彼に向かって歩いて行った。
「ヴェリー・グラッド・ツー・シー・ユー、キャプテン、プリーズ、カム・イン」
「ごめんください! 今日は、ボンディさん」
うれしそうに、船長がチェコ語でどなった。
「あなたはチェコの方ですか?」ボンディ氏は驚いた。
「ヤー(そう)、チェコ人ですよ。あたしたちは知り合いですよ。ボンディさん。イェヴィチェク時代のね。粉屋のヴァン・トッホですよ。ドゥー・ユー・リメンバー(ご記憶ですか)?」
「そうだ、そうだ」ゲー・ハー・ボンディはおおぎょうに喜んでみせたが、ただしそれと同時に、若干の失望を禁じえなかった。『奴はオランダ人じゃないのか?』
「勧工場《かんこうば》の粉屋のヴァン・トッホさん、そうでしょう? だけど、あんたは少しも変わりませんね、ヴァン・トッホさん。昔のままだ。やはり粉のご商売をなすってらっしゃるんですか?」
「サンクス(ありがとう)」船長はうやうやしく答えた。「おやじはもう、娑婆《しゃば》のご用ずみという奴でして」
「亡くなられた? それは、それは……。もちろんあなたは、二世に当られるわけですな」
ボンディ氏の目が生き生きとしてきた。彼は不意に思い出したのである。
「ときにあんたは、あたしらが子どものころ……、あたしとよくつかみ合ったヴァン・トッホさんなんでしょう?」
「そうですよ、そのご本尊ですよ」船長はしかつめらしく裏書きした。「そのせいで、あたしゃモラフスカー・オストラヴァに送りやられたですからな」
「いや、あたしとあんたはよくけんかしましたな。しかし、あんたの方が強かった」
ボンディ氏は、スポーツマン的正確さをもって事実を認めた。
「そう、あたしの方が強かった。あんたはまた弱かったですからね、ボンディさん。けつをずいぶんやられたもんでしたな。ずいぶんね」
「やられましたな、そうでしたよ」ゲー・ハー・ボンディは、思い出に感激した。
「どうぞお掛けください、どうぞ! いや、よくあたしのことを思い出してくださいました。ときにあんたは、どこからおいでになったんですか?」
ヴァン・トッホ船長は、威厳をこめて席につくと、帽子を床の上においた。
「こっちで休暇を送ってるんですよ、ボンディさん。ザット・イズ・ソー(そういったわけですよ)」と船長は言い、感慨をこめてハンカチで鼻をかんだ。
「アッフ、ヤー(何ともはや)! あのころはよかったですな。しかし、こんなに早く時がたっちまっちゃ仕様がない。今じゃ二人とも年寄りで、二人ともキャプテンですもんな」
「そうだ、あんたは船長さんでしたね」ボンディ氏は思い出した。「思いもかけなかった。キャプテン・オブ・ロング・ディスタンセズ(遠洋航路の船長)、そういうんでしょう?」
「さようです。公海を航海しています。イースト・インディア・アンド・パシフィック・ラインズ、サー(東インドと太平洋航路ですがね)」
「立派なご職業ですな」ボンディ氏は吐息をついた。「船長さん、あたしはあなたとなら、喜んで交替してもいいですよ。ひとつ、ご自分のことを話してくださらんですか」
「そりゃいいですがね……」船長は活気づいた。「ちょっとあなたにお話したいことがあるんです、ボンディさん。すばらしいことがあるんですよ」
ヴァン・トッホ船長は、きょろきょろとあたりを見まわした。
「何か捜しているんですか、船長?」
「あのう、ボンディさん、あんたはビールは飲まんですか? あたしゃスラバヤから家へたどりつく間に、のどがからからになってしまってね」
船長は、ばかでかいズボンのポケットをさぐって、青いハンカチをひっぱりだした。すると同時に、何かはいっている亜麻布の包と、煙草入れ、ナイフ、コンパス、それに札束まで出てきた。
「誰かビールを買いにやりたいんだが」彼は言った。「あたしを船室に案内してきたスチュアード(船内給仕)でもいいけれど」
ボンディ氏はベルをならした。
「ご心配なさらんで、ボンディさん。しばらく葉巻でもふかしていてください」
船長は、金と赤の輪のまいてある葉巻をとり上げて、においをかいでみた。
「ロムボク(小スンダ列島内の島)煙草だな。あそこの連中はかたりばかりでね、またたく間に人をまっ裸にしちまうですよ」
そう言うと船長は、ボンディ氏がはっと思う間に、高価な葉巻をがんじょうな手のひらの中でもみくちゃにし、黒くなったパイプに細かにした葉をつめこんだ。
「ロムボクか、スンバ(同じく小スンダ列島の島)かだな」
扉のところに、音もなくポウォンドラが現われた。
「ビールを買いにやってくれたまえ」ボンディが命じた。
ポウォンドラは眉をあげた。
「ビールでございますか? どれだけでございます?」
「一ガロン(三リットル四分の三)!」船長はそううなってから、燃えきったマッチをじゅうたんの上にひょいとほうり、足でふみにじった。
「アデンはひどく暑かったですよ。ときに、あたしゃあんたにニュースを一つ持ってきたんですがね、ボンディさん。スンダ諸島ね、いいですか? あそこで、まるでおとぎ話みたいな仕事がはじめられるんですよ。ア・ビッグ・ビジネス(大事業)がね。しかし、最初から話さなきゃならんな、このストーリーは。これなんと言いましたっけ?」
「物語りですか?」
「ヤー(そうだ)。話せば長いことだからね……。ちょっと待ってくださいよ」
船長は、ワスレナグサ色の目を天井にそそいだ。
「どこから始めていいやらわからんくらいだ!」
『また商談か』ゲー・ハー・ボンディは考えた。
『へっ、やるせないなあ! ミシンをタスマニアに輸入できるとか、蒸気機関や留ピンをフィジーに入れられるとか、しゃべるつもりなんだろう。おとぎ話のような商売か。ごもっともだよ! おれが君たちに必要なのは、そのためだからな。勝手にしやがれ! おれは小商人じゃないんだぞ。おれは夢想家なんだ。一種の詩人なんだ。船乗りシンドバッドめ、スラバヤのことでも、フェニックス諸島のことでもいいから、大ぶろしきをひろげちまえ。磁気の大岩が君をひっぱりはしなかったか? ロッホ鳥が君を巣に連れて行きゃしなかったかい? 君は真珠、肉桂《にっけい》、ベゾアール(ベゾアール山羊の体内の結石、かつて妙薬とされていた)を積んで帰ってくるんじゃないのかい? さあさあ、せいぜいだぼらを吹いたり、吹いたり……』
「まずヤモリからはじめるかな」船長は宣言した。
「ヤモリって、どんな?」商業顧問官ボンディは、あっけにとられた。
「あのスコルピオン(サソリ)からね。なんといいましたっけね、リザードのこと?」
「トカゲかね?」
「そうだ、イモリだ。そのイモリって奴が、あっちにいるんですよ、ボンディさん」
「どこにですか?」
「あっちのある島にですよ。ちょっとその名は言えないんです。極秘だからね。ワーズ・オブ・ミリオンズ(ひと言百万両)って奴だ!」
ヴァン・トッホ船長は、ハンカチで額をふいた。
「ときに、ビールはどうしたんだろう?」
「すぐにきますよ、船長」
「まあいいや。そこでね、ボンディさん。そのイモリって奴はとてもかわいい、利口な動物だってことを覚えていてくださいよ。あたしが知ってるんだから!」と、船長は熱をこめてテーブルをたたいた。
「あれが魔物だなんて、ア・ダムド・ライ、サー(大うそのこんこんちきさ)! むしろ、あんたかあたしの方が魔物っていうにふさわしいくらいだ。ねえ、あたしゃキャプテン・ヴァン・トッホですぜ。このことについちゃ、あたしを信用してもらっていいです」
ゲー・ハー・ボンディはあきれかえった。
『デリリウム(精神錯乱)だ』彼は思った。『ポウォンドラのばか野郎は、どこへ行きやがったんだろう?』
「あそこにゃ、そのイモリが何千といるんですよ。だけどそれを、あいつがやけに食いやがったんでね。ええくそっ、なんと言いましたかね、シャークのこと?」
「サメですか?」
「そうそう、サメさ。そのせいで、イモリが少なくなっているんですよ。ただ一か所、あたしが名を言えない入江にだけいるんです」
「すると、そのイモリは海の中にいるんですか?」
「ヤー(そう)、海の中です。晩だけ岸にあがってきますがね。それも、ほんのちょっとの間ですよ」
「それで、どんな格好をしているんですか、それは?」ボンディ氏は、ポウォンドラのばか野郎が帰ってくる間、暇をつぶそうと考えたのである。
「大きさはアザラシくらいですがね。しかし、後足で立った時は、これくらいの高さですね」と、船長は高さを示した。
「きれいなもんだとは、お義理にも言えませんよ。皮なんぞ、ぜんぜんないです」
「うろこじゃないですか?」
「そう、殻でさ。奴らはね、ボンディさん、ヒキガエルか山椒魚みたいにつるりとしているんです。前足は、ちょうど子どもの手みたいですがね。ただ、指は四本ずつしかないです。じつに哀れなやつでね」船長は、れんびんの面持でつけ加えた。「だけど、とても利口でかわいい動物ですよ、ボンディさん」
とたんに船長は、ひょいとしゃがんだかと思うと、ゆらゆら歩きはじめた。
「そのイモリは、こんなふうに歩くんですよ」
しゃがんだまま、船長は彼の巨体にくねくねした動きを与えようと苦心した。彼は後足で立ち、ものをねだっている犬のような格好をして、両手を前に垂れた。同時に、同情でも求めているような青い目玉を、ボンディ氏にすえた。ゲー・ハー・ボンディは、ある興奮とともに、人類に対する羞恥《しゅうち》のようなものを感じた。つぎに、この場面のしめくくりとして、ポウォンドラ氏がビールびんを持って、音もなく扉のもとに現われて、船長の不作法な所業に目をとめ、とがめるように眉をさか立てた。
「ビールを置いて、さがってくれたまえ」ゲー・ハー・ボンディは早口に言った。
船長は、フーフー言いながら立ち上がった。
「その動物はね、ボンディさん、こういった格好なんですよ。ユア・ヘルス(健康を祝す)!」彼はそう言ってビールを飲み干した。「このビールはいいな。だけど、こういう家を持ってると……」
そう言いさして、船長は口ひげをふいた。
「それで船長さん、あんたどうしてそのトカゲを見つけだしたんです」
「あたしもちょうど、そこんところを話そうと思っていたところですよ、ボンディさん。あたしがタナーマサで真珠を捜している時でしたがね」
船長は、開口一番にしてどろを吐いたのである。
「それともほかの所だったかな。ヤー(そう)、そいつはほかの島でしたよ。しかし、これはあたしの秘密でね。人間て奴ぁかたりばかりだからね、ボンディさん。いやでも応でも歯の後ろに舌をひっこめてなきゃならんですよ。それでね、二人のシンハリー族の野郎どもが、海の中から真珠のシェルを採ってきた時に……」
「貝ですね?」
「ヤー(そう)、貝なんです。そいつは、根が生えたように岩にくっついているもんだから、ナイフでひっぺがさなきゃならないんです。それをね、イモリの奴らが見てたんですよ。シンハリーどもは、奴らを海の魔物だと思ったんですね。シンハリーだとかバタクだとかいうのは、まったく無学ですからね。あそこにゃ魔物がいるって言いやがる」
船長は威勢よく鼻をかんだ。
「ねえ、こいつは人間にとっていいことじゃないんだが、好奇心が強いのは、われわれチェコ人ばかりでしょうかね。あたしにゃよくわからんが、しかし国の人に出会うごとに、相手はあっちじゃどういうことになってるかって、根ほり葉ほり聞いてきますね。こいつは、われわれチェコ人てのが、言葉を信じたがらないせいだろうと、あたしゃ思いますね。あたしも同じで、その魔物って奴を近くで見なきゃならないって考えを、このもうろく頭にたたきこんだって訳ですよ。赤道地帯じゃ、いろんなことがあるもんですからね。それであたしは、晩になって、そのデヴル・ベイ(魔の入江)を見に出かけて行ったんでさあ」
ボンディ氏は、岩の間に切れこんだ赤道地帯の湾と処女林とを想像してみた。
「あたしゃ、あそこにすわって、魔物よ出てこいってんで、ツ・ツ・ツと呼んでみたんですよ。するとどうです、一分ばかりしたらイモリが一匹海から出てきて、後足で立ったかと思うと、からだをくねくねやりはじめたじゃないですか。そして、私の方を向いてツ・ツ・ツって言いやがる。もしあたしが一ぱいひっかけていなかったら、きっと一発ぶっ放したでしょう。ところがあたしは、イギリス人のようにご酩酊《めいてい》だったもんですからね。それで言ったんですよ、こい、こい、のそのそ野郎、どうもしやしないよって……」
「あんたチェコ語で言ったんですか?」
「いや、マライ語だけどね。あっちじゃマライ語をいちばんよけいに使うんでね。ところがね、奴はそのままじっとしているんですよ。ただ、足を踏みかわして、恥ずかしがっている子どもみたいに、もぞもぞしているだけなんです。その時ひょいと見ると、回りの水の中にはもう、そのイモリが何百といて、水の中から顔をつき出して見ているじゃないですか。あたしゃね、奴がおっかながらないように、ひょいとしゃがんで(そりゃ、あたしは確かに飲んじゃいましたがね)、そのイモリと同じようによたよた回ってみせたんですよ。するてえと、十ぐらいの子どもの背丈をしたイモリが一匹、水の中からはい上がってきて、やっぱりパッタパッタ歩きだしたんですよ。見るとあんた、前足に真珠貝をにぎっているじゃないですか(船長はビールを一口飲んだ)。ご健康を祈ります、ボンディさん! あたしゃ酔っぱらってたもんですからね、その勢いで、え、この野郎、貝をあけてくれって言うのか、ヤー(そうなのか)って、聞いてみたんですよ。そんならこっちへ来い、ナイフで開けてやるって言うんだが、奴ぁじっとしていて進んでこない。そこであたしゃもう一ぺん、恥ずかしがっている女の子みたいに、くなりくなりとやって見せたんですよ。そしたら、奴ぁ近くへ寄ってきましたよ。そこであたしは、そうっと手を伸ばして奴の手から貝を取ったんです。はっきりいやぁ、双方ともびくびくもんだったんですよ。ボンディさん、あんただって想像がつくでしょう。だけど、あたしゃ酔っぱらっていたからね、ナイフを出して貝殻をこじあけてやって、そのあと、真珠がはいってやしないか、指でさぐってみたんですよ。しかし、気味の悪いぬるりとしたもののほかは、何もなかったんです。その貝の中には、そういうぬるっとしたものがはいっているんですよ。そこであたしゃ、ツ・ツ・ツ、食いたいなら食いなと言ってね、こじあけた貝殻を投げてやったんです。奴がそいつをしゃぶる様子を、あんたに見せたかったですね。イモリにとっちゃ、そいつはきっと特別なティト・ビトだったんでしょう。そう、何と言いましたかね、これ?」
「珍味ですか?」
「そうだ、珍味だ。だけどかわいそうに、その堅い殻が奴らの手におえなかったんですね。奴らだって、食うためには大変なんですよ(船長はビールを飲み干した)。あたしゃ、あとでがてんがゆきましたがね、シンハリーが貝をひっぺがすのを見ていたイモリどもは、ははあこの人たちもこいつを食うんだなって、思ったにちがいないんですよ。どうやってシンハリーどもがそれをあけるか、見たがっていたわけですね。それから、あたしが海岸に立って、イモリと同じようにくねくねやってみせたら、奴らは、あたしがきっと大きな山椒魚で、それなら貝をあけてもらいに行っても心配いらないと思ったんですね。いや、利口な、よくなつく動物でしてねえ」ヴァン・トッホ船長は、ふいに赤くなった。
「あたしが奴らと近づきになった時には、ボンディさん、奴らにできるだけ似るように、つまり同じように裸でいたほうがいいと思って、すっ裸になっていたんですよ。だけど、奴らには非常に奇妙だったらしいですな、あたしの胸に毛がはえていたり、そのう……あれだったりするのがね」
船長は、ハンカチで日焼けした首すじをふいた。
「少しばかり長話になったようですな、ボンディさん」
ゲー・ハー・ボンディは、大いに興味をそそられながら聞いていた。
「いえ、いえ、そんなことはないですよ。どうぞ続けてください。船長さん」
「そうですか。それでね、そのイモリが貝をしゃぶっているのを見て、ほかの奴らまでが岸に上がってきたんです。同じように、貝をにぎっている奴もいるんですよ。あんな子どもみたいな手で、どうしてそれをクリフス(礁脈)からひっぺがせたのか、驚くほかないですがね。まったく不思議ですよ。はなのうち、奴らは遠慮していやがったが、だんだんに、にぎっている貝をあたしに取らせるようになりました。だけど、そいつは真珠貝じゃなくてね、いろんながらくただったり、気色の悪いカキだったり、それに似たりよったりのものだったりでしたよ。あたしゃね、そういった奴はみんな水の中にぶちこんで、『みんな、こいつはだめだ。こういうものはおれのナイフであけちゃやれない』って言ってやったんです。その時までには、あたしの回りにはもう、何百からのリザーズ(イモリ)がすわっていてね、あたしが貝殻をあけるのを見てるんですよ。それにあんた、そこらにちらばっている貝殻やなんかで、自分でもって、貝をあけてみようとする奴まででてきたんです。いやもう、驚くべきことでね。どんな動物でも道具は扱えやしない、動物ってものは、そういうことには不向きですよ。それが本性なんでね。あたしはバイテンツォルグで、ティンを、つまり罐詰の罐をナイフであけるサルを見るにゃ見たですよ。だけどサルは、あれはもうただの動物じゃないからね。いや、ほんとにあたしゃ驚きましたね(船長はビールを飲んだ)。その晩にね、ボンディさん、あたしはシェル(貝)の中から、真珠を十八見つけだしましたよ。果物の実くらいのをね(ヴァン・トッホは、しかつめらしくうなずいた)。朝になって船に帰ってきた時、あたしゃ自分に言ってきかせました、キャプテン・ヴァン・トッホ、こいつは夢にすぎんぜ、飲みすぎのせいだよってね。だけど、袋の中に真珠が十八ちゃんとはいっているんだもの、そう言ってみたところで仕様がないじゃないですか」
「そいつは、なかなかいい話ですね」ボンディは小さい声で言った。「そういう話をいつか聞いたことがある」
「そうでしょうがね」船長は、喜色を浮かべて言った。
「昼のうち、あたしはずっと考えつづけていましたよ。ヤー(そうだ)、このイモリをならして仕込んでやろう、そうすると奴らはパール・シェル(真珠貝)を採ってくるにちがいない、あのデヴル・ベイ(魔の入江)にはすごく貝がいるにきまっているからってね。その夕方も、あたしはあそこに出かけて行きました。今度は少し早目にね。日がかくれるころになると、イモリどもが水の中からむくむく顔を出してね、あそこもここも、つまり入江じゅう奴らでいっぱいなんですよ。あたしは海岸に腰をおろして、ツ・ツ・ツと呼んでいました。ところが、ひょいと見るとサメがいるじゃないですか。と言っても、ひれが水の上に出ているだけだけれどね。デヴル・ベイの夕まぐれに泳いでいるサメを、あたしは十二まで数えたですよ。ボンディさん、あん畜生らは、その夕方だけであたしのイモリを二十以上も食っちまいやがってね」
船長はそう叫んで、えいくそとばかりに鼻をかんだ。
「二十以上もですぜ! イモリは裸ですもの、手だけでサメから身を守れないのは、知れきっているじゃないですか。それを見てあたしは、すんでのことに泣きだすところでした。あんたに見てもらいたかった」
船長は考えこんだ。
「あたしは非常に動物が好きでね」しばらくして彼はそう言い、青々した目をゲー・ハー・ボンディ氏にそそいだ。「あんたはどうか知りませんが、キャプテン・ボンディ」
ボンディは、肯定のしるしに頭を縦にふった。
「そうですか、そりゃいいな」ヴァン・トッホ船長は喜んだ。
「あののそのそ野郎は、じつに利口なもんですよ。人間が奴らに話しかけると、犬が主人の言うことを聞いている時のように、耳をそばだてますぜ。それに第一、あの子どものような手がねえ……。あたしゃ年とった独身者で、家族なんか全然いない。ヤー(そう)、ひとりぼっちの年寄りなんで、わびしいもんだけれどね」
船長は、興奮をしずめようとしてうなった。
「このイモリはじつにかあいいもんだ、だけどそれだけじゃねえ、こんなにサメに食われなくてすめばなあって思いながら、奴らに、つまりサメどもに石を投げつけはじめたんですよ。そしたらあんた、のそのそどもも投げだしたじゃないですか。ボンディさん、あんたには信じられないでしょうがね。そりゃもちろん、奴らは遠くまではとばせませんでしたよ。だって、手がとても短いですからね。しかしとにかく、こいつにゃおったまげましたね! そこで、あたしは言ってやりましたよ、いや、これほどおまえたちが利口者なら、おれのナイフで貝をあけてみないかって。そう言って、ナイフを投げてやったんです。はなのうち、奴らは遠慮していやがったが、しばらくしたら一匹のイモリがやってみる気になって、ナイフの刃を貝殻の間にさし込むじゃないですか。こじあけるんだ、こじあけるんだ、いいか、こういう具合にナイフをまわすとうまくいくよって、あたしが言うと、奴ぁ一生懸命やってるんです……。しばらくすると、ふいにキュルッといって、貝殻があきましたよ。そら見ろ、むずかしかないだろうって、言ってやりました。バタクやシンハリーのような罰当りどもにやれるんだもの、のそのそどもにできないはずがないじゃないですか。絶対にできるんですよ! あたしゃねえもちろん、ボンディさん、動物にこんなことができるなんて、お話のようなマーブル(奇跡)だ、実際奇跡だってことを、イモリどもに向かって言いやしませんでした。だけど、その時ばかりはまったく……、まったく……、雷に打たれたような気がしましたね」
「正気の沙汰でない」ボンディ氏は小声で言った。
「ヤー・リフティク(いやはや、まったく―ドイツ語)、正気の沙汰じゃないみたいでした。あたしは、そのためにぼんやりしちまって、もう一日船といっしょに停泊しちまったくらいです。それで夕方になると、またデヴル・ベイに出かけて行って、サメどもがイモリを食うのを見たんですよ。その晩にあたしは、このままにしてはおかんぞって決心したんです。ボンディさん、あたしは奴らに対しても誓いましたよ。『のそのそどもよ――ってあたしは言ったもんです――、キャプテン・ヴァン・トッホは、このこうごうしい星空の下で、おまえたちに手をかすことを誓うぞ』ってね」
四 ヴァン・トッホ船長の航海日誌
ヴァン・トッホ船長は、ぼんのくぼの髪の毛がさかだつほどに熱中して語りつづけた。
「ヤー(そう)、あたしはそう言って誓いをたてたんです。その時から、一分たりとも気の安まる時がなくなりましたよ。パダンであたしは休暇をもらい、アムステルダムにいる紳士連中に、動物どもがもってきてくれた真珠を百五十七個ばかり送りつけました。それがすんでから、若いもんを一人さがし出しました。そいつはダヤクのシャーク・キラー(サメ殺し)でね、水にはいってあいくちでサメを殺すんです。奴といっしょに、小さいトランプ(不定期貨物船)に乗ってまたタナーマサに帰っていったんです。つまりその男が、あそこのサメを殺しちまって、イモリどもが安心していられるようにって、あたしは思ったんですよ。そのダヤクは、のそのそくそくらえでね。えらいぬすっと野郎でしたよ。魔物であろうとなかろうと、奴ぁ平気なんだ。その間あたしはずうっと、リザーズに向かってオブザーヴェイション(観察)とエクスペリメント(実験)を続けていましたがね。ちょっと待ってくださいな。あたしは、毎日書きこんでいた航海日誌をもってるんだ」
船長はわきポケットから、かさばった手帳を取り出してパラパラめくりはじめた。
「今日は何日です? そう、六月二十五日でしたな。それじゃたとえば、六月二十五日さ。つまり去年のですぜ。そら、ここだ。『ダヤクがサメを一匹殺した。イモリは、この死骸に大いに関心を示す。トビーは……』こいつは小さいが、とても利口なイモリでね」船長は説明した。「あたしは、奴らにありとあらゆる名前をつけてやらなきゃならなかったんですよ。この手帳に、奴らのことを別々に書きつけておけるようにね。さてと、『トビーは、あいくちの傷口に指をさし込んでみた。夕方、彼らはわが燃やすたき火のもとに、枯枝を運びきたった』いや、こいつはつまらん」船長はうなるように言った。「ほかの日を捜してみよう。六月二十日じゃどうです?『リザーズ建設を続行』こいつは、こいつは何と言ったかな、ジェッティは?」
「堤《つつみ》ですか?」
「ヤー(そうだ)、堤だ。一種のダムですよ。奴らはそのころ、デヴル・ベイの北西部に、新しい堤を築いていたんです。まるで話みたいな出来事でしたな」船長は説明した。「本物のブレックウォーターですからな」
「防波堤ですか?」
「ヤー(そう)。奴らはね、あそこで卵を産むんですよ。それで、水の中をそうぞうしくないようにしておきたいと思ったんだね。ダムを作るのは、奴らが自分で思いついたんですよ。あたしはうけ合いますがね、アムステルダムの水中工事施工事務所のどんな役人だって、どんな技師だって、あれほど見事な海中堤防を設計することはできないですぜ。じつに巧妙な仕事でね。ただ、水に仕事を妨げられることはあったようですがね。奴らはねえ、岸のところまで海底に深い穴を掘って、その穴の中にすんでいるんです。とても利口な動物で、まるでビーバーみたいですよ」
「海狸ですか?」
「ヤー(そう)。そいつは川の中にせきをこさえる、大きなネズミみたいな奴でしょうが。ところが、デヴル・ベイのイモリどもは、大小無数の堤を造っててね、見事で平らなダムで、町そっくりなんです。とうとうおしまいに、奴らはデヴル・ベイ全体を堤で仕切ってしまおうと思いついたんです。そうなんですぜ!『岩をてこで掘り起こすことをおぼえた』(船長は読み続けた)『その際アルバートは――こいつはのそのその一匹ですがね――指を二本つぶした』『二十一日、ダヤクがアルバートを食う。奴などくたばってしまえ! アヘン十五滴。これ以上やるまいと誓う。一日じゅう雨。三十日、リザーズ堤の建設を続ける。トビーが働きたがらない』――こいつは利口な奴でね」賛嘆をこめて船長は説明した。「利口な奴は働きたがらないからねえ。このトビーって奴は、しょっちゅういたずらをやらかしたもんですよ。イモリどもの間でも、いろいろ違いがあるのは仕様がないんですね。『七月三日、サージャントがナイフをもらう』このサージャントというのは、大きな力の強いイモリでしたよ。それに、とても身軽でね。『七月七日、サージャントがナイフでカットル・フィッシュを殺す』……こいつは、気色の悪い褐色の魚ですよ……聞いたことがありますか?」
「イカかな?」
「それそれ。『七月二十日。サージャント、大きなジェリー・フィツシュ(クラゲ)を殺す』……こいつはからだが煮こごりみたいで、イラクサのように刺すんですよ。いやらしい奴さ。ボンディさん、今度が山ですぜ。『七月十三日と――ここには線が引いてあるんだ――サージャントが、ナイフで小さいサメを殺した。重さ七〇ポンド』どうです、ボンディさん!」ヨット・ヴァン・トッホは、意気揚々と声を張り上げた。
「ここのところが、白一色ちゅう黒一点さ。これぞまさしく偉大なる日ですよ。去年の七月十三日こそ、まさにそれだ」船長は手帳をとじた。「ボンディさん、あたしゃ恥ずかしいとは思わん。あたしはね、あのデヴル・ベイの岸辺にひざまずいて、喜びのあまり泣きました。これで、のそのそどもは自分が守れるようになったんです。サージャントはね、その手柄で、新しい立派なもりをもらいましたよ。サメ狩りには、もりがいちばんだからね。あたしは奴に言ったもんです。ビー・ア・マン(男になれよ)、サージャント、そして仲間に自分たちのからだが守れるってことを教えてやれってね。そしたらね、あんた」船長はいすからとび上がり、興奮のあまりテーブルをぶちのめしながら叫んだ。
「一日たったら、今度は大きなサメが死んで流れついたじゃないですか。フル・オブ・ガシェズでね――、これはなんて言います?」
「満身|創痍《そうい》かな?」
「ヤー(そう)、もりの突き傷で穴だらけさね」船長は、のどがゴクンゴクン鳴るほどの勢いで、ビールを飲み干した。「ボンディさん、こういうしだいなんですよ、そこではじめて、あたしもね、のそのそどもと一種の協定みたいなものを結んだんです。連中があたしに真珠貝をとってきたら、代わりに、連中が自衛できるように、もりやナイフをやるって約束したんでさ。シー(どうです)? これは潔白なビジネスですよ。人間はあんた、動物に対しても潔白でなくちゃいけないですからな。そのうえにね、あたしは板を少しばかりと、鉄のウイール・バロウを二つやりましたよ」
「手で押す車ですね、手車」
「ヤー(そうです)、手車です。連中が堤まで石を運んで行けるようにね。奴らはかわいそうに、手で運んでいたんですよ。まあ一口に言やあ、奴らはいろんな品物を受け取ったわけです。あたしは、奴らをだましたかなかったですからな。そんなことはぜんぜんないです。ちょっとお待ちなさい、あんたに見せるものがある」
ヴァン・トッホ船長は、左手で自分の腹をひき上げ、もう一方の手でズボンのポケットから、厚い布で作った袋をひっぱり出した。
「そら、ね!」そう言って、彼は袋の中身をテーブルの上にあけた。
いろんな大きさの真珠が、千ほども出てきた。麻の種くらいの小さいの、それよりも少し大きいエンドウ大のもの、そしていくつかは桜ん坊ほどの大きさであった。水滴のように丸い見事な真珠、こんもりとした真珠、銀色の真珠、薄青色の、膚色の、黒と桃色をまじえた淡黄色の真珠。ゲー・ハー・ボンディは魅せられたようになった。彼は完全に自制心を失い、それをかきまぜ、指先でテーブルの上を転がしてみた。かと思うと、両手でかき集めたりした。
「これは見事だ」彼は有頂天になってつぶやいた。「船長、こいつはまるでおとぎ話だ」
「やー(そう)!」船長は少しも騒がずに答えた。
「きれいでしょう。ところで奴らはですな、あたしがいっしょに暮らした一年間に、サメを三〇匹ほども殺しましたよ。ここにみんな書いてあります」わきポケットをたたきながら、彼は言った。
「しかし、あたしもずいぶんナイフをくれてやったですからなあ。それからもりもね。ナイフはアピースで、つまり一個で二アメリカ・ドルについたですからな。良質の鋼でできているナイフでね、全然ラストなんぞつかないんだ」
「さびですか?」
「ヤー(そう)。というのは、海水用のナイフでなけりゃならないからね。それに、バタクにもずいぶん金がかかった」
「バタクって?」
「その島の土人ですよ。奴らは、のそのそを魔物だと信じてて、ひどくこわがってるんですね。あたしがその魔物と話しているのを見て、奴らはあたしをばらそうとしたくらいです。奴らは自分たちのカンポンから魔物を追い出そうと思って、一晩じゅう鐘をたたきゃがってね、えらい音さ。それで朝になると、その警鐘の代を払えと言っちゃ、あたしにくっついて離れないんだ。でもまあしかたがないですよ、バタクというのはかたりばかりだから。しかし、のそのそども、つまりイモリどもとは、きれいなビジネスができるんですよ。これがいいところですね、ボンディさん」
ゲー・ハー・ボンディには、この出来事が夢のように思われてきた。
「連中から真珠を買うんですね?」
「ヤー(そうなんです)。ただ、デヴル・ベイにはもう真珠がない。ところが、他の島にはのそのそがいないってわけなんですよ。ここが肝心かなめなところだがね」
ヨット・ヴァン・トッホ船長は、勝ちほこったようにほおをふくらませた。
「これこそ、あたしが熟慮に熟慮を重ねた問題なんですよ」太い指をあげて、誰とはなしにおどかしながら彼は言った。
「そのイモリはね、あたしが保護を引き受けて以来、やたらにふえているんです。そのうえ、奴らは今じゃ自分が守れる。ユー・シー(どうです)? ええ? 今後はもっとふえるにちがいない。どうです、ボンディさん、こいつはおとぎ話のような企業になりゃせんですか?」
「あたしには、完全にのみこめんのだが」と、ゲー・ハー・ボンディはあやふやに答えた。「あんたはいったい、どんなふうに考えているんですか、船長?」
「のそのそを、ほかの島に移すんですよ」ついに船長は、本音をはいた。
「あたしが確かめたところによると、イモリどもは公海の深い所は、自分で泳ぎ渡れないんです。奴らは少し泳いでから、そのあと少し底を歩くんですよ。だけど深すぎると、奴らにとっちゃ水圧が大きいんですね。奴らは、とても柔らかだからね。しかし、レゼルヴァールを、つまり貯水槽をとっつけられるような船があたしにあれば、奴らを好きな所に運べるというもんだ。シー(そうでしょう)? 連中はそこで真珠を捜す、あたしは連中のところにかよっちゃ、奴らの要るナイフだとかもりだとか、その他いろいろな物を持って行ってやる。気の毒に奴らは、デヴル・ベイでひどくバン……バンショクだったかな?」
「繁殖でしょう?」
「ヤー(そうでしたな)。ひどく繁殖しちまって、あそこにゃもう食うものがないんですよ。奴らは、小魚やら軟体動物やら水カブトムシやらを食っているんでね。だけど奴らには、ジャガイモやビスケットといったような、普通のものも食えるんですよ。船の水槽の中にいる時には、こういうもので養えるんです。それでね、あまり人のいない適当な場所で、あたしが奴らをまた水の中に放して、そこにイモリどもの、あのう、あのう、飼育場を作るんです。つまりあたしはね、あの動物どもが食っていけるようにしてやりたいんですよ。利口なかあいい動物だからね。ボンディさん、あんたが自分の目で見なさりゃ、ほう、キャプテン、こいつはもうかる動物だって言われるにちがいないんだ。人間どもはこのごろ、真珠で気が違っているからね。ボンディさん、あたしが考えついた大事業というのはこれですよ」
ゲー・ハー・ボンディはためらった。
「船長さん、大変残念だが……」と、彼は口をきった。「本当のとこ、見たこともないんだから……」
ヨット・ヴァン・トッホの青目玉が湿りをおびてきた。
「そいつは困った! それじゃ船の抵当に、この真珠を全部おいたらどんなもんでしょう。あたしは、自分で買えないもんでね。ロッテルダムに適当な船があるのを知っているんですよ。ディーゼル・エンジン付でね……」
「だけど、あんたはどうしてこの仕事をオランダの誰かにきりださなかったんです?」
船長は頭を振った。
「あたしはね、奴らがどんな連中だか知ってるんだ。奴らにゃこの話はもちだせんですよ。それにあたしは……」黙考のすえ、彼はつけ加えた。
「その船でほかの品物も、いろんなグッズ(商品)も運んで、島ごとに売りさばきますぜ。そういうことだって、あたしにゃできるんだ。あっちにゃ、顔見しりが山ほどいるからねえ、ボンディさん。おまけにその船には、イモリの水槽もおいとけるし……」
「ふむ、そいつは考えてもいいな」ゲー・ハー・ボンディは、考えを声に出して言った。
「偶然の一致ですな。いやね、あたしらはうちの仕事のために、新しい市場を捜さなきゃならなくなっているんですよ。ちょうどここんとこで、二、三の人とそのことを相談したところなんだが……、あたしは船を二はいばかり買いたいと思ってるんだ。一つは南米向け、一つは東洋諸国向け……」
船長は、またもや活気づいた。
「ボンディさん、そりゃ名案だと申し上げたいですね。今、船はべらぼうに安い。あんた、港いっぱいも船が買えますよ」
ヴァン・トッホ船長は、どこで、いくらで、どんなヴェッセル、ボート、タンク・スチーマー(いずれも船の種類)を売っているといった、技術的な説明にはいった。ゲー・ハー・ボンディは、彼の言うことなど聞いていなかった。彼は、相手を観察しているだけだった。ゲー・ハー・ボンディには、人を見る目があった。彼は、ヴァン・トッホのイモリなど、少しも本当にしてはいなかったが、船長その人は、彼に信頼の念を起こさせた。これは、間違いなく潔白な人物だ。それに、あちらの事情もよく知っている。ゲー・ハー・ボンディの心臓の中で、幻の弦が鳴りはじめた。真珠とコーヒーを積んだ船、アラビアの薬味や香料を乗せた船! ゲー・ハー・ボンディは、重大な、そしてかならず成功する断案をくだすに当って、いつもまず最初に現われてくる思考上の真空を感じた。この感じを言葉にすると、『なぜだか自分にもわからんが、おれはこれをやってみるよ』といったふうなものであった。一方、キャプテン・ヴァン・トッホは、空中に、オーニングズ・デッキ(おおい甲板)とコーター・デッキ(後甲板)のついた船を、すなわち物語の船を、特大級の手で描いてみせていた……。
「ねえ、ヴァン・トッホ船長」と、不意にゲー・ハー・ボンディは言った。「二週間したら来てくれませんか。その時、船のお話をしましょう」
キャプテン・ヴァン・トッホは、この言葉にどんな大きな意味があるかを悟った。喜びのためにまっ赤になった彼は、ようやくのことでこう言った。
「それであの、イモリどもは……、あたしの船で奴らを運んでもいいですか?」
「いいですよ。ただね、どうぞそのことについちゃ、誰にも言わんでおいてください。人が思うかもしれんですからね……、あんたがそのう、あれで……、あたしもご同様だってね」
「真珠は、ここに残していっていいですか?」
「いいですよ」
「だけど、きれいな真珠を二つだけもらっていかにゃならん。ある人におくるのでね」
「誰にです?」
「二人の新聞記者にですよ。ヤー(さてと)、こん畜生、ちょっと待て!」
「どうしました?」
「連中の名前、なんていったかな? 畜生!」ヴァン・トッホ船長は途方にくれて、青目玉をパチクリさせた。
「あたしゃ低能だからね、あの二人のボーイズがなんという名だったか、忘れちまったんですよ」
五 ヨット・ヴァン・トッホ船長と芸をするイモリ
マルセイユの海岸通りで、一人の男が叫んだ。
「おめえがイェンセンでなけりゃ、おらあこの場で消えてなくなってもいいや!」
スウェーデン人のイェンセンは顔をあげた。
「ちょっと待て。おれがおめえを思い出すまで、黙っててくれ」そう言って彼は、片手で目をおおった。
「『かもめ』? そうじゃない。『インド女王』? そうでもない。『ペルナムブコ』? でもなし。ああ、わかりかけたぞ。五年まえフリスコ(サンフランシスコ)で、大阪商船の『ヴァンクーバー』号だ。それで、おめえの名はディングル。この無宿野郎め! アイルランド人だったな、おめえは?」
相手は黄色い歯をむきだして、うやうやしく一礼した。
「ライト(そのとおりだよ)、イェンセン。そのほか、ご馳走になる酒なら、なんでもちょうだいするという野郎だ。ところでおめえは、いまどこにみこしをすえているんだ?」
イェンセンは、頭を振って示した。
「マルセイユ―サイゴン間を行ったり来たりしてるよ。でおめえは?」
「おらあ休暇だ」ディングルは威張った。
「どれだけがきがふえたか、家へ見に行くところだあな」
イェンセンは、意味ありげに頭を振った。
「またおっぱらわれたってわけだな。そうだろう? 勤務中の泥酔《でいすい》とかなんとかいったたぐいだろう。おめえ、おれのようにYMCAをたずねりゃいいんだ」
ディングルは、うれしそうに笑った。
「ここにもYMCAがあるのか?」
「きょうは土曜日だぜ」イェンセンは、つっけんどんに言った。「それでおめえは、どこを泳ぎ回ってるんだ?」
「あるトラムプ(不定期貨物船)でね」ディングルはあやふやに答えた。「南の方のあらゆる島々をよ」
「船長は?」
「ヴァン・トッホなんとかってんだ。オランダ人かなんかだがね」
スウェーデン人イェンセンは考えこんだ。
「ヴァン・トッホ船長か。おれもあの大将と、五年まえに航海したことがあるぜ。『カンドン・バンドゥン』号ってんだ。青鬼島から赤鬼島へ行ったり来たり、てなもんさ。ひでえ航海だったよ。太ったはげおやじで、悪態をつく時にゃマライ語まで使いやがる。よく知ってらあ」
「大将は、その時からもう気がふれてたか?」
スウェーデン人は頭をうち振った。
「トッホおやじなら、オーライだったぜ」
「そん時にももう、イモリを運んでいたかい?」
「そんなこたあねえよ」
が、イェンセンは何か思い出しはじめた。
「そういうことを聞いたことがあるな、シンガポールで。うそつきがいて、そんなことをしゃべってたっけ」
アイルランド人は、少し気色を悪くして言った。
「そいつぁうそなんかじゃないんだぞ、イェンセン。そのイモリの話は、掛値なしにほんとうなんだぞ」
「シンガポールの男も、ほんとうだってうけ合いやがったぜ」スウェーデン人はそうけんつくをくわせ、「だから、でたらめの罰を受けやがったんだ」と、勝ちほこったようにつけ加えた。
「まあいいや、おれが話をしてきかせらあ」ディングルはがんばった。「とにかく、おれより知ってる者はいねえんだから。あのむなくその悪い代物《しろもの》を、この目で見たんだからな」
「おれもさね」イェンセンが、ひょいとつぶやいた。「ほとんどまっ黒でよ、長さは尻っ尾をいれて六〇センチほどで、二本足で走るんだろう。知ってらあ」
「まったくいやらしい奴だ」ディングルは身ぶるいした。「いちめんいぼいぼでよ! ええ、ぞっとすらあ。ああいうものにゃ、触れたくねえな。あいつはきっと、毒を持ってるぜ」
「どうして?」スウェーデン人はうなった。「おらぁ、まえに人間を運ぶ船に乗ってたことがあるけど、上甲板も下甲板も人間だらけなんだ。おなごやら何やらね。それで、ダンスをしたりカルタをやったりよ。おらあ、その船じゃかまたきだったがな。おめえもずいぶんぬけてるぜ、どっちが毒があるか聞きてえや」
ディングルは、ペッとつばをとばしただけだった。
「おらあ、兄弟、そいつがカイマン(もともとは中南米産のワニのこと)だったら、なにも言いやしねえぜ。おれもいっぺん、あいつをバンジェルマシンから、動物園のために運んでやったことがあるんだ。くせえのなんのって、おめえ。だけど、あのイモリはよ、ありゃ奇妙きてれつなもんだぜ。昼のあいだは水槽の中にへえっているが、晩になるてえと、パッタパッタ、パッタパッタはい出してきてよ。船中こいつらだらけになるんだ。それで、後足で立ってからに、すぐ後へきて頭をひょいと曲げるんだぜ……(アイルランド人は十字をきった)。そしておめえ、人間に向かって、香港の淫売みてえにツ・ツ・ツって言うんだ。なんだか知らねえが、こらあ変だと思ってよ。仕事がこんなに窮屈でなきゃ、イェンセン、おらあ一時間だってあの船にゃあいねえよ。一時間だってよ」
「ははあ」イェンセンは言った。「それで、おっかあの所へ帰ろうってんだな」
「それもちったぁあるんだ。だいたいあの船で辛抱しているためにゃ、がぶがぶ飲んでいなきゃならねえ。そのうえ、あの船長がけんか犬でよ。おれがあの動物を一匹ぶったたいたら、えらい騒ぎだったぜ。そらあ、たたくにしても少しばかり薬がききすぎたがね。奴の背骨をぶっくじいたんだからな。その時のおやじの様子を、おめえに見せたかったぜ。まっさおになって、おれののどをつかめえてよ。航海長のグレゴリーがいなきゃ、すんでのことにおれを海に投げこもうとしたぜ。奴のことなら知ってるだろう?」
スウェーデン人はうなずいた。
「もういいでしょう、船長って、航海長が言ったが、それでも奴ぁおれの頭に、水をおけ一杯ぶっかけやがったぜ。そこで、カコポでおらあ岸に上がっちまったんだ(ディングルはペーッとつばをはいた。つばは長い弧を描いて空中を飛んだ)あのじじいにゃな、人間よりもあの気色の悪い奴の方がたいせつなんだ。おめえ知ってるか、大将は奴らに言葉を教えてたんだぜ。ほんとうよ。奴らととじこもって、なん時間も話していやがるんだ。サーカスに出そうと思って、仕込んでるんだとおらあ思うよ。だけど、いちばん奇妙なのは、大将があとでまた奴らを海の中に放すことだな。ばかみてえな小島に泊ってね、ボートに乗って岸の所をぐるぐる回っちゃ、水深を測ってやがるんだ。それがすむと、貯水槽のある所へへえりこんで、船べりの引窓をあけてよ、そこからあの気色の悪い奴らを海の中に放すんだ。すると奴らは、仕込んだアザラシのように、あとからあとからと窓を飛び越して出て行くよ。十頭から十二頭くらいだがね。それから晩になると、トッホじじいめはなんの箱だか持って、また岸の方へ出て行きゃがる。箱の中身は、誰にもさぐれねえんだ。そしちゃあまた、先へ航海して行くんだぜ。トッホじじいのあんばいは、こういったふうなんだよ、イェンス。奇妙だよ、奇妙きてれつだよ(ディングルの目に、恐怖の色がちらりと動いた)。いやもう、イェンス、いやな気持ったらなかったぜ! だからおらあ、気違いみてえに、飲んで飲みつづけたよ、そしたら、晩になって奴らが船の中を、後足で立ってパッタパッタ歩きながらツ・ツ・ツと言ってもよ、ときには、こいつぁ酒のせいだなって思うようになったんだ。そういうことが、フリスコでおれにゃぁあったんだよ、イェンセン。そん時、おれに見えたのはクモだったがね。デリリウム(せんもう状態)だって、海員病院の医者は言いやがった。だけど今度はよ、太ったビングって野郎に、おめえあの妙なものを見たかって聞いたら、奴も見たって言うじゃねえか。イモリが扉の取手をにぎって、船長の部屋へはいって行くのを、自分の目で見たって言うんだ。そのとおりだったかどうかは、おれにもわからねえがね、そのジョーって奴も酒くらいだったからさ。だけんどイェンス、おめえはどう思う、ビングの奴、夢を見たんだろうか? おめえどう思うかよ?」
イェンセンは、肩をすぼめただけだった。
「それにドイツ人のペーテルスはな、マニヒキ諸島でよ、船長を岸におくりとどけてから岩の陰に隠れて、トッホじじいが箱をどうするか見ていたんだとよ。野郎の話では、じじいが奴らにのみを渡したら、奴らが自分で箱をあけたとよ。それで、箱の中に何があったと思う? 長いナイフやもりやら、だいたいそういったもんだそうだ。ほんとうのところはな、おらあペーテルスの言うことを真にうけちゃあいねえんだ。奴ぁ利口で、鼻の上に眼鏡なんぞのっけていやがるけど、それでもこいつぁやっぱり変だもの。おめえどう思う?」
イェンス・イェンセンの額の筋がふくれあがった。
「おれかあ?」彼はうなった。「おらあ、その知恵者のドイツ人とやらが、出しゃばりすぎてると思わあ。そうだろ? そういったことはおすすめできねえって、言いてえや」
「おめえ、奴に手紙を出してそう言ってやんな」アイルランド人はあざ笑った。
「それで宛て名は、地獄って書いた方がいいぜ。いちばん確実に届かあ。それはいいとして、おれがびっくりしているなあ、いったいなんだと思う? そいつぁね、トッホじじいがイモリをおろした所へ、ちょくちょく出かけて行くことなんだ。ほんとうだぜ、イェンス。奴ぁ夕方にな、ボートに乗っけて岸に連れて行けって言いつけといてよ、朝になってやっと帰ってくるんだ。イェンセン、誰のために岸に行かなきゃならねえのか、教えてもらいてえや。それともう一つ、奴がヨーロッパに送り出す小包に何がはいっているか、教えてもらいてえ。小さい小包に、千ポンドも保険をかけるんだもんな」
「おめえ、どうしてそれを知ってる?」スウェーデン人は顔をしかめた。
「知ってるんだ」ディングルは、答えを避けるような調子で言った。
「それからトッホじじいが、どこからイモリを運んでくるか知ってるのか? デヴル・ベイからだぜ。魔の入江からだぜ。イェンス、おらあね、あそこに知ってる男がいるがね。教育のある代理人だが、そいつがおれに言うことにはだな、兄弟、ここのイモリはぜんぜん仕込まれちゃいないぜってんだ。その手にゃ乗らねえよって奴だよ、なあ! あれはただの動物さなんて、ちっちゃい子どもにでも言やいいやな。おれたちをたぶらかすのは、やめてもらいてえや(ディングルは、いわくありげに目ばたいてみせた)。だいたいこういうことなんだよ、イェンセン。これでもおめえはまだ、キャプテン・ヴァン・トッホはオーライだなんて、うそをつくつもりかあ!」
「なにい、もういっぺん言ってみやがれ」大兵のスウェーデン人は、しゃがれ声でおどした。
「もしもトッホじじいがオーライなら、魔物を世界じゅう運び回ってよ、あっちこっちにばらまきゃしめえ。おれがいっしょに航海してた間に、大将は何千って奴らを運んだぜ。イェンス。トッホじじいは自分の魂を売ったんだ。その代わり、魔物どもが何をくれるか、おらあちゃんと知ってるんだ。ルビーや真珠なんてもんだぞ。訳もねえのに大将がこんなことをするもんか。おめえ疑うこたあねえぜ」
イェンス・イェンセンはいやな顔をした。
「それがおめえとなんの関係があるんだ?」彼はそうがなると、こぶしでドンとテーブルをひっぱたいた。「自分のことに性根を入れろい!」
小男のディングルは、びっくりしてとび上がった。
「なんだなんだ、おめえは」あわてて彼は、舌が回らなくなった。
「なんだ急に……。おらあ見たことを話してるだけじゃねえか。なんなら、おれの見たものは、みんな夢だったことにしてもいいや。それと、おめえがここでおれの前にすわっていることもなあ。みんなうわごとだと言ってもいいぜ。おめえなにも、おれに腹を立てるこたああるめえ。イェンセン。おめえも知ってるだろうが、おらあもうフリスコで、いっぺんそういうことがあったんだ。海員病院の医者どもがよ、どうも思わしくねえ状態だって言いやがったよ。ほんとうなんだ、兄弟。おらあイモリか魔物か、そんなものを見たような気がしたんだ。ほんとうは何もいなかったんだけどよ」
「いたんだよ、パット」スウェーデン人は陰気に言った。「おらあ見たよ」
「違うぜ、イェンス」ディングルは、彼を説き伏せようとした。
「おめえのは幻よ。トッホじじいはオーライさ。だけど大将は、あの魔物を世界じゅうにばらまくこたあなかったんだ。なあ、そうじゃねえか? おらあ家に帰ったら、大将の魂のお助けねげえに、ミサを頼むぜ。おれがミサを頼まなかったら、イェンセン、おらあこの場で消えてなくなってもいいや」
「おれたちの方の宗旨じゃ、そういうことはやらねえな」イェンセンが、一語一語ひきのばしながら、陰気に言った。「だけどパット、誰かのためにミサをやってもらうと、効能があるように思うかい?」
「そりゃ大ありだぜ、兄弟!」アイルランド人は叫んだ。
「とても効能があったためしを、おらあうちの方でいくらも聞いてらあ。ひどくむずかしい時でも効能があるんだ。悪魔払いだとか、そう言った時によ」
「そんならおれも、カトリックのミサを頼まあ」イェンス・イェンセンは決めた。
「ヴァン・トッホ船長のためにな。だけどおらあ、ここで、マルセイユでやってもらうぜ。あそこにある大聖堂でなら、元値で安くやってくれると思うんだ」
「そりゃ、やってくれるだろう。だけどアイルランドのミサの方がいいぜ。おれたちの方にゃ、魔法使いより巧《う》めえ修道士がいるからな。バラモン行者が邪宗徒かといった手合がな」
「なあパット」イェンセンが言った。「ミサの代金に、おらあおめえに十二フランくれてやらあ。もっとも、おめえはやくざもんだからな、飲んじまうだろう」
「そんなこたあねえよ、イェンス。そんな罰当りなこたあしねえよ。だが、ちょっと待ちな。おめえが信用するように、その十二フランの受取りを書こうじゃねえか。どうでえ?」
「よかろう」なにごとでもきちょうめんなのが好きなスウェーデン人は言った。
ディングルは、紙切れと鉛筆を探し出し、テーブルいっぱいに店をひろげた。
「なんと書いたもんかな?」
イェンス・イェンセンは、肩ごしに彼を見て言った。
「まず受取りと書きな」
そこでディングルは、舌を出して鉛筆をつばだらけにしながら、のろのろと骨をおりおり書きあげた。
[#ここから1字下げ]
うけとり
一 金十二フラン也
右トッホ|せんちょう《ヽヽヽヽヽ》のたましいおはらい代として、イェンス・イェンセンより正に
受取り申し|そろ《ヽヽ》也
[#地付き]パット・ディングル
[#ここで字下げ終わり]
「これでいいんだろう?」自信なさそうに、ディングルは尋ねた。「それで、この紙っ切れはどっちが持ってるんだい?」
「むろんおめえだよ。おめえも物事のわからねえ男だな」思案もせずに、スウェーデン人は答えた。
「こういうことはな、金を受取ったもんが忘れねえ用心にすることなんだぜ」
ディングルは、その十二フランをアーヴルで飲んでしまい、アイルランドではなくジプチ(東アフリカ)へ行ってしまった。結局ミサはとり行なわれず、事件の進行は天界から干渉されずにすんだのである。
六 潟に浮かぶヨット
エイブ・ローブは目を細めて夕陽をながめていた。彼が入日の美しさを語りたいと思っているのに、リーちゃんことリリー・ヴァリー嬢、正式に呼べばスレチナ・リリアン・ノヴァーコヴァー、友だちの間では『金巻き毛のリー』とか『白ゆりの君』とか『足長のリリアン』(十七歳の時の呼名)そのほか、いろいろな愛称をもったこの女は、ふんわりとした海水浴用のケープにくるまったまま、うずくまっている小犬のように丸くなって、熱い砂の上でまどろんでいた。
そこでエイブは、自然の美しさについては何も語らずに、裸の両足の指をもぞもぞやり、はさまっている砂を落としながら、ホッとため息をついたきりであった。海の上には、ヨットの『グロリア・ピックフォード号』が安らかに浮かんでいた。エイブはこのヨットを大学試験に受かった褒美《ほうび》として、父親のローブから、もらったのである。気まえのいい父親であるローブ、すなわちジェッス・ローブは、映画界やそのほか産業界の重鎮なのである。
「エイブ、男の友だちや女の友だちを何人かさそって、漫遊して来なさい」と父親は言った。ジェッス親父はじつに話せる! かくしていま、かなた真珠貝のようになめらかな海の上に、『グロリア・ピックフォード号』がやすらい、こなた熱い砂の上には、小ちゃなリーが静かに眠るというしだいとはなったのである。エイブは幸福に息がつまりそうであった。いとしい彼女が、小さい子どものように眠りほうけている。エイブ氏は、リーをいかなる危険からでも守ろうという、うちかちがたい激情をおぼえるのであった。
この女とちゃんと結婚しなければならなかったんだ、ローブ二世はそう思った。すると彼の心臓は断固たる決意と、気弱なおそれのいりまじった、苦しくも甘い感情にしめつけられるのであった。ローブ夫人は、賛成しないにきまっているし、ローブ氏も『おまえは気が違ったんだエイブ』とばかりに両手を広げるにちがいない。両親にゃわからないんだ、わかりゃしない……。エイブ氏は甘い吐息をついて、ケープのすそでリーの白いくるぶしをくるんでやりながら、おれの足はどうしてこんなにも毛むくじゃらなんだろう、愚劣だなあと思った。
『ああ、ここはきれいだな、なんてきれいなんだろう。リーが見てくれないのが残念だ』エイブ氏は、彼女の腰の美しい線にみとれ、あるばく然たる連想から、芸術について考えはじめた。リーもまた芸術家だった。映画女優だった。彼女はまだ出演したことこそなかったが、一世を風靡《ふうび》する大スターになろうと堅く決心していた。ひとたびリーが決心すると、それはかならず実現するのだ。おふくろはまさにこの点を知らないんだ。女優とはまさに女優で、ほかの女の子と同じであるべきじゃない。それにほかの女の子にはちっともいいとこなんぞありゃしない。エイブ氏はそう断定した。
『たとえば、ヨットの上にいるジュディーだ。あの子は金持のお嬢さんで、ぼくはフレッドがあの子の船室にはいって行くのを知っている。それも毎晩だからね、あきれるよ。それと反対にぼくとリーは……、一口に言やぁ、リーはそんな女じゃない。ぼくは野球選手のフレッドと気持よくつき合っちゃいるが……』エイブは寛大な気持で考えた。『あいつはぼくの学友だからな。だけど毎晩というのは……、いや、金持の令嬢というものは、あんなふるまいをしちゃいけないよ。ジュディーのような、あんな家庭の令嬢はね。ジュディーは女優でもないんだから。しかしあの子たちのしゃべることといったらどうだい!』ふとエイブは思い出した。
『ああいうときの女の子の目の光ることといったら、それに笑い声はどうだ。ぼくとフレッドなら、ああいうおしゃべりはしないな。第一、リーはあんなにカクテルを飲んじゃいけないんじゃないかな。彼女はあとでは、自分の言ってることがわからなくなるんだもの。たとえばきょうのお昼だ。彼女はジュディーと、どっちの足がきれいかって口げんかしたけど、あれはあんまりだったよ。だいたいが、それはリーにきまってるじゃないか。ぼくはちゃんと知ってるんだ。フレッドもフレッドさ。ばかばかしい足のコンクールなんぞ、考えつかなきゃよかったのに……』
『ああいったことは、パーム・ビーチかどこかでやるべきことなんで、親密な間柄でやっちゃいけないんだ。女の子たちにしてからが、あれほど高くスカートをたくし上げることがあるもんか。あれじゃもうほんとうに、足だけとは言えなかったぜ。すくなくとも、リーはあんなことをしちゃいけなかった。特にフレッドの目の前でさ。ジュディーのような金持の令嬢までが、同じ真似をすることがあるもんかい。ところでぼくときたら、必要もないのに船長を呼んで、審査員になってくれって頼んだんだからな。愚劣だったよ。船長の奴まっ赤になって、口ひげまでさかだてたぜ。「失礼します」ってんで、パターンと扉をしめて行っちまいやがった。不愉快だよ。非常に不愉快だよ。船長があんな乱暴な態度をとるなんて。だって、あのヨットは、とどのつまりはぼくのもんじゃないか? しかし、船長は自分のお相手を連れていないんだからな、ああいうものを平気で見ちゃいられないのかもしれないな。つまりひとりものの境遇だからさ』
『だけど、フレッドがジュディーの足のほうがきれいだって言ったら、リーが泣いたのはなぜかしら? あのあとで彼女は、フレッドは教養がない、旅行を完全にめちゃめちゃにしたって言ってたっけ。かわいそうなリーさ。女の子たちったら、おたがいにふくれっ面《つら》でいやがる。それに、ぼくがちょっとフレッドと話をしようとすると、ジュディーは、奴を番犬かなんかのように呼びこんだじゃないか。でも、とにかくフレッドはおれの親友さ。奴はジュディーに首ったけだから、もちろん彼女の足の方がきれいだって言わなきゃならないわけだ。だけど、どうしてあれほど決定的に言わなきゃならなかったのかな? あれじゃリーに対して無礼だよ。フレッドはしょってるってリーは言ってるけど、ほんとうだな。あいつは大ばか野郎だ。ぼくは今度の旅行が、もすこし違ったものになると思ってたのになあ。フレッドはぼくの貧乏神だったぜ。』
エイブは、自分がもう真珠色の海に魅せられていないことに気がついた。しかし、なおも陰気な様子で、貝殻まじりの砂をすくって指の股《また》をくぐらせたりしていた。彼は気持を乱されて不愉快だったのだ。ローブ氏は、『出かけて世間を見て来い』と言った。ぼくたちはもう『世間』の出来事を見たのかしら? エイブ氏は彼の見たものを思い出そうとつとめてみたが、思い浮かべることのできるのは、ジュディーとリーが足を出し、肩幅の広いフレッドがその前にしゃがんで、はねている有様だけだった。エイブは、まえよりもしかめっ面になった。
『ときに、このさんご島はなんという島だっけ? 船長はタワイワって言ったな。タワイワ、すなわちタフアラ、すなわちタライハトゥアラ・タフアラさ。もう家に帰って、「お父さん、ぼくらはタライハトゥアラ・タフアラってところに行ってきたよ」って話してきかせられたらと思うよ。だけど結局、あの時ぼくが船長を呼びさえしなきゃよかったんだ』エイブ氏は顔をしかめた。『あんなことはやらないように、リーに言っとかなくちゃ。ああ、なんだってぼくは、こんなにめちゃくちゃにこの娘が好きなんだろう? 目をさましてくれないかな、話をしたいや。ぼくたち結婚してもいいって言ってやるんだ』エイブの目は、涙でいっぱいになった。『ええくそ、こいつはいったいなんだ。愛情のせいかな、苦しみのせいかな? この無限の苦しみは、この女を愛しているためかしら?』
小さいリーの、光った柔い貝のような、アイシャドゥをつけたまぶたがふるえはじめた。「エイブ」眠たげな声が聞えてきた。「あたしが何を考えているかわかる? この島でなら幻想的な映画がとれると思うのよ」
エイブ氏は、毛むくじゃらな忌まわしい足に砂をかけて、かくそうとした。
「すばらしいアイデアだね。それで、どんな映画?」
リーは、深ぶかとした青い目をひらいた。
「ねえ……あたしがこの島のロビンソンだと想像してよ。女ロビンソン! あんまり新しいアイデアでもない?」
「そうだな」エイブはあいまいに言った。「だけど、君はどんなふうにしてこの島にやってくるの?」
「すばらしい方法でよ」甘ったるい声が答えた。
「つまりねえ、あたしたちのヨットが嵐に会って難破するの。それであたしたちはみんな、あなたもジュディーも船長もみんな、おぼれ死んでしまうのよ」
「で、フレッドは? フレッドはすごく泳ぎがうまいよ」
なめらかな額にしわがよった。
「そんなら、フレッドは|サメ《ヽヽ》に食われちまえばいいわ。これ面白いデテールになるわね」リーは手をたたいた。「それにさ、フレッドはすごくきれいなからだをしてるんですもの。そうじゃない?」
エイブはため息をついた。
「それで、その先は?」
「あたし、気を失って岸にうち上げられるの。あたしねえ、ほら、あんたがおととい気に入ったって言った空色のしまのパジャマがあるでしょう、あれ着てるの(半ばとじられたまつ毛の後ろから投げられた視線が、女の魅力を誇示していた)この映画はねえ、エイブ、天然色でなきゃいけないのよ。空色があたしの髪の毛にとてもよくうつるって、みんなが言うでしょう」
「誰が君を見つけだすの?」気がかりなように、エイブが尋ねた。リーは考えた。
「誰にも見つからないの。だって、ここに人間がいたんじゃ、あたしロビンソンでなくなるもの」リーは明確な論理とともに答えた。「あたしがずうっと一人で演技するんで、もうけ役になるんじゃないの。主役兼単独出演のリリー・ヴァリーを想像してみてよ」
「しかし、映画の始めから終わりまで、君は何をしてるの?」
リーは片ひじをついた。
「それねえ、みんなもう考えてあるのよ。泳いだり、岩の上で歌ったりするのよ」
「パジャマを着てかい?」
「ぬいでよ」リーは言った。「あたしとても成功すると思うけど、どう?」
「だけど君、しょっちゅう裸で歩き回れやしないよ」
エイブは、明らかに不賛成な様子で言った。
「どうしてだめ?」相手はあどけなく驚いてみせた。「だめなことないじゃないの」
エイブ氏は、何かわけのわからないことをブスブスッと言った。
「それから……」リーはしばらく考え続けた。「ちょっと待ってよ。ああわかったわ。それからね、ゴリラがあたしをさらうのよ。毛だらけでまっ黒なゴリラなの」
エイブ氏は赤くなって、彼ののろわれた両足を、もっと深く砂の中にうずめようとした。
「ここにはゴリラなんていないさ」おずおずと彼は反駁《はんばく》した。
「いるわ。ここにはあらゆる動物がいるのよ。エイブ、あなた芸術家として対象に近づかなくちゃだめよ。ゴリラは、あたしの膚の色にとても似合うと思うわ。あのねえあんた、あんたジュディーの足が毛だらけなのに気がついてる?」
「いいや」このテーマがひどく不愉快なエイブは答えた。
「ものすごい足ね」リーはそう断定してから、自分のふくらばぎを満足気にながめやった。
「それでねえ、ゴリラがあたしを連れて行こうとすると、森の中から美しい野蛮人の青年が出てきて、ゴリラを刺し殺すのよ」
「野蛮人は、どんな服装をしているの?」
「弓を持ってるのよ」リーはためらわずにそう決めた。「頭には花輪をつけてるの。今度はその野蛮人があたしをさらって、人食い人種の部落に連れて行くの」
「ここには人食い人種なんかいないよ」エイブは、タフアラ島のために弁護を試みた。
「いるわ。人食い土人たちは、あたしを自分たちの偶像の犠牲にしようとするのよ。それでね、その時ハワイの歌を歌うのよ。レストランの[パラダイス]で、黒人たちが歌ってるでしょう。ところが、その若い人食い土人があたしに恋するんだわ」小さなリーは、恐怖の目を見ひらきながら、ささやくように言った。
「それから、もう一人の野蛮人が……人食い人種の酋長《しゅうちょう》でもいいわ、あたしに恋するの。それから、もう一人白人が……」
「白人がどうしているんだろう?」正確を期すために、エイブは尋ねた。
「白人はね、人食い人種につかまってるのよ。その人ねえ、野蛮人につかまった有名なテナーってことでなきゃいけないわ。映画の中で歌うため、そうしとくのよ」
「そのテナーはなに着てるの?」
リーは、自分のかわいい足指をじっと見つめた。
「その人、人食い土人のように何も着てないの」
エイブは頭をうち振った。
「そりゃだめだよ。有名なテナーは、どれもこれも太ってるもの」
「残念ねえ」リーは悲観した。「それなら、その役はフレッドがやって、テナーは歌うだけでいいわ。ほら、映画じゃ吹き替えをやるでしょう」
「だって、フレッドはサメが食っちまったんだろう?」
リーは腹をたてた。
「エイブったら、そんなリアリストじゃだめよ。あんたとは、芸術など語れやしないわ。それからねえ、酋長はあたしの全身に真珠の飾りをまきつけるのよ」
「奴は、どこでそれを手に入れるのかしら?」
「ここには真珠がたくさんあるのよ」リーは確信をもって言った。
「だからフレッドがやっかんで、海の上の岩で酋長と格闘するのよ。あんた、空を背景にしたフレッドのシルエットを想像してよ。どう、すばらしいアイデアじゃないの! それでねえ、二人とも海におっこちるの(リーは浮き浮きしてきた)。ここでサメのエピソードがおこるんだわ。だけど、フレッドがあたしといっしょに映画に出ると、ジュディーがきっとかんかんになるわね。結局ねえ、あたしその美しい野蛮人と結婚することになるのよ(金巻き毛のリーは、はねおきた)あたしたち……この岸辺に入日を背景にして……すっ裸で立ってるんだわ……。そこでだんだん絞りがとじて行く……(リーはケープをぬぎすてた)。あたし水にはいってこようっと!」
『水着を着ていないや』どきっとしてエイブはつぶやき、誰か見ていやしないかと、ヨットの方をふりかえって見た。しかしリーはもう、砂のうえをとびながら、潟《かた》に向かって走っていた。
『あの子、着物を着ている時の方がいいなあ』思いもかけず、心の中で冷酷な批判の声が言った。エイブは、自分の中にしかるべき激情のたかまりが見つからないのにびっくりして、まるで自分に罪があるような気がした。そうは言っても、やっぱりリーは着物とはきものをつけている時の方がはるかに美しかった。
『君はたぶん、その方が行儀がいいって言いたいんだろう』エイブは冷静な声に反抗してみた。
『そうだ。それもある。と同時に、ずっときれいなんだ。なんだってあの子は、むやみに水をバタバタはねかえすんだろう? なぜあの子の腰は、あんなに揺れるんだろう? なんだってあれは……』
『よせよ』ぎくりとなって、エイブは反抗した。『リーはね。地球上で一番美しい女の子だよ。ぼくはあの子がとても好きなんだ』
『あの子がなんにも着ていない時だってかい?』批判の声が尋ねた。
エイブはそっぽを向いて、潟《かた》に浮かぶヨットをながめた。『あの船はきれいだな。ふなべりの線の一つ一つが申し分ないじゃないか。ここにフレッドがいなくて残念だ。フレッドとなら、ヨットの美しさについてだって話ができるのに』
この時にはリーはもう、ひざまで水につかりながら、入日に向かい手を伸ばして歌っていた。
『畜生、さっさと水にはいりゃいい』いらいらしながらエイブは思った。『だけど、ケープにくるまって目をとじ、丸くなりながら寝ている時の彼女は美しかったな。かわいい小さなリー』エイブは感動の吐息をつき、ケープのそでにキッスした。『そうだ、そうだ、ぼくはとても彼女を愛しているんだ。せつないほど愛しているんだ』
不意に潟の方から、つんざくような叫び声が聞えてきた。エイブは、何ごとか確かめるため、つきひざになった。リーが金切声をあげ、両手を振り回し、つまずいては水をはねちらしながら、岸を目ざして走ってきた。エイブははね起きて、彼女の方へかけだした。
「どうしたんだ、リー?」
『あの子のぶざまな走り方をごらんよ』冷たい批判の声が言った。『あの足をあげる様子はどうだい。両手を振り回す具合はどうだ。みっともないの一語につきるね。そのうえギャアギャア言うんだもの』
「どうした、リー?」救援におもむきながら、エイブは叫んだ。
「エイブ、エイブ……」とだけリーは言って、ピシャリと冷たいぬれたからだのまま、彼にぶら下がった。「エイブ、そこに変なけだものが!」
「何もいやしないよ」エイブはなだめた。「いたところで、せいぜい魚くらいなもんだよ」
「そうじゃない。気味の悪い頭が見えたわ」小さいリーはオンオン泣いて、ぬれた鼻をエイブにおしつけた。
エイブは、父親のようにリーの肩をたたいてやりたかった。『だけど、ぬれたからだをたたくと、大げさな音がするんじゃないかな』
「おいおい」彼はうなるように言った。「見てごらん、もう何もいやしないよ」
リーは、潟《かた》をふり返ってみた。
「こわいわ」彼女はそうつぶやいたかと思うと、またもや不意に金切声をあげた。「あそこに……あそこに……見える?」
黒い頭が大きな口を開けたり閉じたりしながら、岸の方へゆるゆると近づいてきた。リーは、ヒステリー患者のような声をあげたまま、いちもくさんに逃げだした。
エイブは迷っていた。リーをおびえさせないために、彼女の後を追って行くべきか、ここに残っていて、こんな動物などこわくないというところを彼女に見せるべきか? 彼はもちろん、第二の決定を選んだ。彼は、海の方へ数歩ふみ出し、くるぶしのところまで水にはいって、こぶしを固めながらけものを見すえた。黒い頭は接近するのを止め、妙なふうにからだをひとゆすりして言った。
「ツ・ツ・ツ……」
エイブは少しばかり気味が悪くなったが、そんなそぶりを見せるわけにはゆかなかった。
「どうしたんだ?」彼は、頭に向かってあらあらしく尋ねた。
「ツ・ツ・ツ……」頭は答えた。
「エイブ、エイブ、エイブ……」小さなリーが泣声で言った。
「いま行くよ」エイブはどなり返し、変に思われぬようにゆっくりと、恋人の方へ足をふみ出した。彼は途中で立ちどまり、後ろをきっとにらみつけさえした。
いつも波が砂の上にかすかな模様をつけている岸のところに、丸い頭をした黒い色の動物が、後足で立ちながら、全身をくねくねと揺り動かしていた。エイブは胸をどきどきさせて、その場にすくんでしまった。
「ツ・ツ・ツ……」けものは言った。
「エイブ」気を失いかけたリーが、わめいた。
エイブは、けものから目を放さずに、一歩一歩あとずさりした。けものはじっとしたまま、エイブを見て頭をめぐらすだけだった。
エイブはついに、砂の上にうつぶせに倒れ、恐怖のためにゼイゼイ言いながら、すすり泣いているリーのそばに達した。
「あれはね、アザラシみたいなもんなんだよ」あやふやにエイブは伝えた。「リー、ヨットへもどったほうがいい」
しかし、リーはただもうふるえているだけであった。
「たいして危なかないよ」エイブは宣言した。
彼はひざをついて、リーの上におおいかぶさりたいと思った。だが彼は、彼女とけものの間に、騎士のようにつっ立っていなければならなかった。『パンツ一つでなけりゃ。ナイフでもいいから持っていたら……、棒っ切れでもいいから見つけだせたら』彼はそう思っていた。
うす暗くなってきた。けものはなおも三十歩ばかり近づいてきて、立ち止った。さらにその後から、同じようなけものが、五、六、八頭も海から上がってきて、よたよたしながら、エイブがリーを守っている方へゆっくり歩いてきた。
「見ちゃいけないよ、リー」エイブは小声で言った。しかし、その必要もなかった。リーは、そう言われなくても、周囲の何ひとつとして見る気づかいはなかったからである。
一方、海の中からはつぎつぎに影が現われて、大きな半円形をえがきながら近づいてきた。『もう六十頭はいるな』エイブは考えた。少し離れた所に、明るいものが見えた。
それは、リーのケープであった。いましがた彼女がくるまって寝ていた、ケープであった。動物どもはもう、大きな斑点のようにポツンと砂の上に浮かび上がって見える、明るいケープのそばに近づいていた。
エイブはこの瞬間、おのれの愛する貴婦人の手袋を拾うため、ライオンのいる闘技場へ身をおどらせたシラーの騎士と同じように、当然ではあるが無意味な態度にでた。男どもが行なうこの種の当然で、しかも無意味な行為は、世の続く限りしょせんなくなりはしないのである。ためらわずに、エイブ・ローブは頭をきっともたげ、こぶしをにぎりしめながら、小さいリーのケープを奪いかえそうと、動物どもの群の中にふみ込んで行った。
動物どもは少しばかり後ずさりしたが、それでも逃げはしなかった。エイブはケープを拾いあげ、闘牛士のようにそれを片手にかけて立ち止った。
「エイブ」後から必死の泣声が聞えてきた。
エイブ氏は、無限の勇気と力がどっとばかりにおし寄せてくるのを覚えた。
「なんだ?」彼は動物どもに向かって言い、さらに一歩ふみ出した。「おまえたちは、何が欲しいんだ?」
「ツ・ツ」一頭の動物がそう舌打ちして、かすれた老人のような声でほえた。「ネイフ!」
「ネイフ!」少し離れた所で、いくつかのキーキー声がひきとって言った。「ネイフ! ネイフ!」
「エ……エイブ!」
「こわがらなくてもいいよ、リー」エイブはどなった。
「リー」彼の前にいるものどもがほえた。「リー、リー。エ、エイブ……」
エイブは、夢を見ているような気がした。
「どうしたんた?」
「ネイフ!」
「エ、エイブ!」リーがうめいた。「ここへ来てえ」
「すぐ行くよ……。ナイフのことを言っているのか? おれはナイフなんか持っていないよ。おれじゃだめだ。ほかに何が要るんだ?」
「ツ・ツ……」動物は舌を鳴らし、彼の方へよたよたと寄ってきた。
エイブは腕にかけたケープをつかみ、両足を広くひろげた。しかし、退ぞきはしなかった。
「ツ・ツ」彼は言った。「何が要るんだ?」
けものは、彼の方に手を伸ばしたようだった。エイブはいやな気がした。
「なんだ?」かなり鋭く彼は言った。
「ネイフ!」動物はそうほえ、手の中から水滴に似た白っぽいものを落としてみせた。転がったところをみると、それは水滴ではなかった。
「エイブ」息もたえだえに、リーが呼んだ。「あたしを放っとかないで!」
エイブは、少しも恐怖を感じていなかった。
「退《の》け」そう言って、彼はけものに向かってケープを振った。
けものは不器用に、大急ぎで後ろにさがった。エイブは、意気揚々と引きあげることができた。どんなに勇敢だか、リーに見てもらいたいところだった。
背をかがめた彼は、動物が手から落とした白っぽいものを見つめた。それは堅くて丸い、鈍く光った三つの球であった。もうあたりも暗くなったので、エイブ氏はそれを目にもっていった。
「エイブ」うち捨てられたリーは、金切声をあげ続けた。「エイブ、エイブ!……」
「行くよ、行くよ」エイブは叫んだ。「リー、いいものがあるよ。リー、リー、持って行ってあげるからね」
頭の上でケープを振り回しながら、エイブ氏は、若い神のように岸辺を駆けて行った。リーはえびのようにからだを曲げ、がたがたふるえてうずくまっていた。
「エイブ」歯を鳴らしながら彼女は叫んだ。「あんたったら……、あんたったら……」
エイブは、うやうやしく彼女の前でひざを折った。
「リリー・ヴァリー、海の神トリトン(貝殻笛を巧みに吹く人魚)が、君に敬意を表しにやってきたよ。ヴィーナスが海のうたかた(泡沫)から生まれ出てこのかた、どんな女優も、君ほどの印象を海神たちに与えはしなかったと断言するよ。感嘆のしるしに、彼らは君に……」と、エイブは彼女の方へ手をさし伸ばした。
「三個の真珠をささげているんだ。見たまえ」
「何を変なこと言ってるのよ、エイブ」リーは泣きだしそうになった。
「まじめなんだよ、リー。ごらん、これは本物の真珠だよ」
「見せて」リーはうめくように言い、ふるえる指に三つの白っぽい球を受けた。
「エイブ」小さい声で彼女は言った。「これほんとうの真珠だわ。あんた砂の中でこれを見つけたの?」
「ノー、真珠はねえ、砂の中にあるもんじゃないよ」
「あるわよ」リーはきめつけた。「洗い出して採ってるのよ。ごらんなさい、あたしあんたに、ここにはたくさん真珠があるって言ったでしょ」
「真珠はねえ、海の中の貝殻の中で大きくなるもんだよ」ほとんど完全な確信をもって、エイブは言った。「ほんとうに、リー、これはあのトリトンが君に持ってきたもんだよ。君の泳ぐところを連中は見てたんだ。彼らは、自分たちでこれを君のところへ持ってゆきたかったんだろうが、君があんまりびっくりしたもんで……」
「だって、あんなに気味が悪いじゃないの」リーは叫んだ。「エイブ、これまさにおとぎ話の真珠ね。あたし真珠が大好きよ」
『今の彼女はきれいだな』と、胸の中の声が言った。『ここにこうやってひざまずいて、手のひらに真珠を受けてる様子はいいな。申し分なしだ』
「エイブ、これほんとうにあたしに持ってきてくれたのかしら? あのけものが?」
「あれは君、けものじゃなくて、海の神だよ。トリトンって言うんだ」
リーは少しも驚かなかった。
「大変な好意なんでしょう、これ? かわいいことをするわね。エイブ、あたしみんなにお礼いわなきゃいけないかしら?」
「もうこわくない?」
リーは身ぶるいした。
「こわいわ。エイブ、お願いだから、あたしをここから連れて行って」
「じゃ、お立ち」エイブは言った。
「ボートまでたどりつかなくちゃ。行こう。こわがらなくてもいいよ」
「だけど、もし道をふさがれたら?」リーは歯をガチガチ鳴らした。「エイブ、あんた一人であの連中のところへ行ってみない? だけどあたし、おいてけぼりになるのもいやだなあ」
「ぼくが君を抱いて行くよ」エイブは勇敢に申し出た。
「そうね、その方がいいわ」小さな声でリーは言った。
「ただ、ケープだけは着ていてくれない」エイブはもぐもぐと言った。
「今すぐね」ミス・リーは、両手で評判の金巻き毛をなおした。「あたしの髪ばらばらでしょう? エイブ、あんたルージュ持ってない?」
エイブは、彼女の肩にケープをかけてやった。
「さあ行こう、リー」
「あたしこわい」リーはささやくような声で言った。
エイブは彼女を抱きあげた。リーは、見たところ雲のように軽そうだった。『どうだい、君が思ってたよりも重いかね』冷たい心の中の声が、エイブに尋ねた。『これでは、君、両手がふさがってるぜ。あのけものどもが君をおそったら、どうなるかね?』
「あんた、駆けて行けないの?」リーが言い出した。
「よーし」エイブは息をはずませながら、やっとのことで足をふみ出した。
もう、ほとんどまっ暗だった。エイブは、広い半円を描いている動物どもの方へ近づいて行った。
「早く、エイブ、駆け足で!」リーがささやいた。
動物たちは、奇妙なくねくねした動作で、上体をうねらせはじめた。
「走って! カメみたいにのろくさしてちゃだめじゃないの!」リーは、ヒステリックに足をばたつかせ、うめくように言い続けた。銀色のニスを塗った爪が、エイブの首につきたった。
「だめだよ、リー、放せよ!」エイブはわめいた。
「ネイフ!」彼のそばでほえ声がした。「ツ・ツ・ツ! ネイフ! リー! ネイフ、ネイフ、ネイフ! リー!」
しかし、彼らはもう無気味な半円を通り過ぎていた。エイブは、彼の足がしめった砂にもつれるのに気がついた。
「おろしてもいいわ」エイブの手と足がしびれたようになったせつなに、リーは小声で言った。
エイブはひじで額の汗をふきながら、あらい息を吐いていた。
「ボートのところへ、急いで!」小さなリーは、命令をくだした。
半円を描いた黒い影は、今度はリーの方へ近寄ってきた。
「ツ・ツ! ネイフ、ネイフ! リー」
リーは、悲鳴をあげはしなかった。リーは、逃げださなかった。リーは、両手をさし上げた。ケープが肩からずり落ちた。裸になったリーは、揺れている影に向かって両手をうち振り、投げキッスをおくった。彼女のふるえるくちびるは、少しばかりひん曲がっていた。これは、魅力的なほほえみを表わしているはずのものであった。
「あんたたちかあいいわ」ふるえ声でそう言うのが聞こえた。そしてまたもや、白い両手が揺れている影の方へさし伸べられた。
「ここへきて手を貸してくれよ、リー」ボートを水の上におし出しながら、少し乱暴にエイブが言った。
リーはケープを拾いあげた。
「みなさん、さようなら」
黒い影が水に飛び込む音がした。
「エイブ、ちょっとどいてよ」ボートの方へ近づきながら、リーは小声で言った。「こっちまでやってくるわ」
エイブ・ローブ氏は、ボートを海に浮かばせようと、こん身の力をふりしぼった。リーはもうボートに乗り込んで、お別れに片手をうち振っていた。
「エイブ、わきに寄ってよ。あたしが見えないじゃないの」
「ネイフ! ツ・ツ・ツ! エイブ!」
「ネイフ! ツ! ネイフ!」
「ツ・ツ!」
「ネイフ!」
ボートはついに、波間におどりはじめた。エイブ氏はボートによじ上がるやいなや、オールにしがみついていた。彼は、片方のオールを、何かぬるりとした無気味なものにぶち当てた。リーは深ぶかと空気を吸いこんだ。
「ほんとうにあれ、とてもかあいいじゃない? あのシーン、あたしとてもうまくやったでしょう」
エイブは、懸命にヨットをめざしてこいで行った。
「リー、ケープをお着よ」かなりそっけなく彼は言った。
「あたし、とても成功したつもりよ」ミス・リーはもう一度言った。「だけど、エイブ、この真珠見てごらんなさい。いくらぐらいするかしら?」
エイブは、一瞬こぐのをやめた。
「ぼくは、君がそんな格好で奴らの前に姿を現わしちゃいけなかったと思うな」
リーは、少しばかり腹をたてた。
「どうしてそういうことを言うの、エイブ? あんたが芸術家でないってことが、たちまちわかるわね。お願いだから、もっと早くこいでよ。このケープだけじゃ、あたし寒いのよ……」
七 潟に浮かぶヨット(続き)
その夜、『グロリア・ピックフォード』号の上では、個人的な争いこそ起こらなかったが、科学的見解が分かれて、けんけんごうごうたる状態が現出した。フレッドは(エイブに淡泊に支持されながら)、船長の哺乳《ほにゅう》動物説に対して、イモリのごときものであるとがんばった。船長は、海にイモリはいないと、熱くなって断定した。しかし、大学生である紳士たちは、彼の反駁《はんばく》に屈しなかった。とにかく、イモリの方がはるかに効果的でセンセーショナルである。小さなリーは、あの動物が派手な暮らしをしている点や、彼女があのように効果をあげたところから見ると、あれはトリトンだった、ということで安心していた。そしてまたリーは(エイブの好きな空色のしまのパジャマを着て)、目を輝やかせながら、真珠と海神について夢想していた。ジュディーは、もちろんみんなくだらないうそっぱちで、リーとエイブの作りごとだと堅く信じていた。彼女はフレッドに向かい、ばかばかしい話を止めるように、憤然として目くばせしていた。エイブはといえば、ボートを海に浮かばせようとしている間に、リーがどんなにしゃんとした態度で彼らをあしらったか、もう三べんも話してきかせ、四へん目を話し出そうとしているのだから、リーの方も、エイブが彼女のケープのために、どんなに恐れる色もなくイモリの方へ近づいて行ったか、話してくれてもよさそうなものだと思っていた。
しかし、フレッドと船長は、イモリと哺乳《ほにゅう》動物についての激論に没頭していて、ほとんど何も聞こうとはしなかった。『ほんとうに重大事件のようなふりをしていやがる』と、エイブは思った。しまいにジュディーがあくびをして、もう寝るわと言い出した。彼女は、意味深長にフレッドを見つめた。だがフレッドは、ちょうどこの時、ノアの大洪水以前の奇怪なイモリどもが(ディプロサウルスとか、ピゴサウルスとかなんとか、妙ちきりんなものが)いたことを思い出した。
「ねえ君、奴らは後足で歩き回っていたんだぜ。おれ自分で、部厚な本に図版が出ているのを見たことがあるんだもの。大した本だったよ。君は、あれを見る必要があるな」
「エイブ」リーが言った。「あたし、とても魅力的な映画のアイデアを考えついたわ」
「どういうの?」
「すごく新しいものよ。あたしたちのヨットが沈没して、あたしだけがこの島で助かると思ってよ。あたし、ロビンソンのように暮らすのよ」
「それで、あんた何をするんですか?」懐疑的に船長が尋ねた。
「泳いだりなんかよ」けろりとしてリーは答えた。「その時、海のトリトンがあたしに恋して、真珠を持ってくるの。ねえ、完全に現実と一致してるでしょ。これ、記録映画や科学教育映画になると思うけど、どう? 『商船旗』とかいったような……」
「リーの言うとおりだ」フレッドがいやにはっきり言った。
「あした、そのイモリを映さなくちゃ」
「つまり、その哺乳動物をね」と船長が訂正した。
「つまり、あたしをよ」とリーが言った。「あたしが海のトリトンのまん中に立っているところをよ」
「だけど水着を着てだよ」とエイブが大急ぎで口をはさんだ。
「あたし白い水着を着るわ」リーは言った。「グレタったら、もっとていねいに髪をあげてくれなくちゃ。きょうのあたしはひどかったわ」
「それで、誰が君をとるの?」
「エイブよ。何か役にたたなくちゃ仕方がないじゃないの。それからジュディーは、暗くなったらライトをあてるのよ」
「フレッドは?」
「フレッドは弓を持って、頭に花輪をつけて、トリトンたちがあたしをさらおうとする時、それを殺してしまうのよ」
「ありがたき幸せだね」フレッドはにやりと笑った。「しかし、ぼくは連発ピストルの方を選ぶね。それから船長はどうなんだい?」
船長は、勇ましく口ひげをねじあげた。
「あたしの心配はご無用ですよ。何が必要だかちゃんと知っていますからな」
「何かしら?」
「三人の船員ですよ、優秀な武器を持ったね」
リーは、ぎょうさんに驚いてみせた。
「船長さん、そんなに危いことだと思ってらっしゃるの?」
「あたしは何とも思ってやしませんさ」船長はうなるように言った。「だがね、すくなくともことエイブに関する限り、ジェッス・ローブのお指図を受けてますからな」
男たちは夢中になって、探検の技術的な細部を検討しはじめた。エイブはリーに向かって、もうベッドにはいる時間だということやら何やらをわからせるために、目ばたきをしてみせた。リーはおとなしく席をたった。
「ねえ、エイブ」自分の部屋で彼女は言った。「あたし、これすごい映画になると思うわ」
「そうだね」エイブはあいづちをうって、彼女にキッスしようとした。
「きょうはいけないわ、エイブ」リーはからだを引いた。「あたしが精神を集中しなきゃならないこと、わかってくれなくちゃだめよ」
次の日、リーは一日中仕事に没頭していた。そこで、不幸なメイドのグレタは、仕事で息がつまりそうだった。なんとか塩《えん》というぎょうぎょうしい名の薬品と香水を入れた風呂、[ブロンドの婦人用]シャンプーを使っての洗髪、マッサージ、ペディキュア、マニキュア、カーリング、整髪、アイロンかけ、着物の寸法合わせ、縫い付け、メイク・アップ、その他こういう場合に伴ういろんな準備。ジュディーもまた、この熱病にとりつかれて、リーの手伝いをした(女たちが、驚くべき献身をおたがいに発揮する時がある。たとえば、着付けなどがそれである)。
ミス・リーの船室で熱病のような活動が沸騰している間に、男たちはめいめいの仕事にかかっていた。テーブルの上に灰皿とウィスキーのびんを配したうえで、彼らは、誰がどこに立っているかだとか、何事か起こった場合の各人の任務はどうだとかいったような、戦略計画をたてていた。その際指揮のことが問題になると、船長の権威は何度かひどい侮辱をこうむった。昼間のうちに潟《かた》の岸に、撮影機、小型機関銃、食料と食器のはいっているかご、小銃、蓄音器、その他の軍需資材が運ばれた。これらはすべて、やしの葉で念入りに偽装された。日没までに、三人の船員と最高指揮官である船長は、所定の位置についた。ついで、リリー・ヴァリー嬢が必要とするかもしれないこまごまとしたものを入れた、大きなトランクが岸に運ばれた。そのつぎに、フレッドとジュディー嬢が岸に着いた。すると、熱帯特有のはなやかさをあますところなく見せながら、日が沈みはじめた。
そのころ、エイブはもう十ぺんもリーの船室をノックしていた。
「ねえ、ほんとうにもう一分も時間がないんだよ」
「すぐよ、すぐよ!」相手は答えた。「お願いだから、いらいらさせないでよ。あたし着物を着なきゃならないのよ。そうでしょ?」
この時、船長は地形を観察していた。なめらかな湾の表面に、長い平らな線が光っていて、波だつ海と潟の静かな水とをへだてていた。水中に堤か防波堤があるみたいだな、と船長は思った。たぶんあれは砂州か|さんご《ヽヽヽ》礁だろう、しかし人工的な設備みたいにも見える。奇妙な所だ!
とかくするうちに、静かでなめらかな潟の表面のあちこちに、黒い頭が現われはじめ、それが岸をめざして近寄ってきた。船長は不安をおぼえて、くちびるをひきしめながら、連発ピストルをつかんだ。女たちは船に残っていた方がよかったな! ジュディーはがたがたふるえ、ひきつけでも起こしたような格好で、フレッドにかじりついた。この人なんて強そうでしょう、あたし大好き、と彼女は思った。
ついで、最後のボートがヨットのそばを離れた。ボートには、難破して波にうちあげられる時に着ていることになっている、すかし織の化粧着と、トリコットの水着をつけたリリー・ヴァリー嬢が乗っていた。いっしょに、グレタとエイブがいた。
「エイブ、あんたどうしてそんなにのろのろこぐの?」リーがなじった。
エイブ氏は、岸に向かって進んで行く黒い頭を見ていて、何も答えなかった。
「ツ・ツ!」
「ツ!」
エイブは、ボートを砂のうえにひきあげ、リーとグレタが陸にあがるのに手をかした。
「撮影機のところへ行ってよ」小声で女優は言った。「それで、あたしが『ハイ』って言ったら、クランクを回してちょうだい」
「けどね、もうすぐ何も見えなくなるよ」エイブが反駁した。
「なら、ジュディーがライトをあてればいいわ。グレタ!」
エイブが撮影機のかたわらに位置を占める間に、女優の方は砂のうえに瀕死《ひんし》の白鳥の形でのびた。グレタが化粧着のひだをつくろった。
「もう少し足が見えるようにしてよ」難破に会った女はささやいた。「いいこと? それじゃ離れて! エイブ、いいわよ!」
エイブは、クランクを回しはじめた。
「ジュディー、ライト!」
しかし、明りはつかなかった。その間に、海の中からゆらゆら揺れる影が現われて、リーに近づいてきた。グレタは、叫び声をおし殺そうと、片手を口にあてた。
「リー!」エイブ氏は叫んだ。「リー、お逃げ!」
「ネイフ! ツ・ツ・ツ! リー、リー! エイブ!」
誰かが、連発ピストルの安全装置をはずした。
「いかん! 撃っちゃいかん!」圧しつぶしたような声で、船長が言った。
「リー!」クランクを回し止めて、エイブは叫んだ。「ジュディー、ライトをつけて!」
リーは、からだをくねらせながらゆっくりとたちあがり、両手を空にさしあげた。軽い化粧着が肩からすべり落ちた。難破に会った者が失神ののちわれに返る時にするような格好で、優雅に両手を上へさしのべつつ、雪のように白いリーが砂の上に立っていた。エイブは、やけくそになってクランクを回しはじめた。
「くそっ、ジュディー! ライトをつけてくれよ!」
「ツ・ツ・ツ!」
「ネイフ!」
「ネイフ!」
「エ、エイブ!」
黒い影は揺れながら、まっ白なリーをとり囲んだ。ストップ、ストップ、それこそ演技どころではなかった! リーはもう両手をさしのべてはいず、何かを押しやりながら金切声をあげていた。
「エイブ、エイブ、あたしにさわったわよお!」
この瞬間、目もくらむばかりのライトがパッとついた。エイブは激しくクランクを回し、一方フレッドと船長は、連発ピストルを手に、うずくまったまま歯をガチガチいわせているリーのそばへ駆けつけた。一瞬、明るいライトのもとで、幾百という黒いものが、ぶつかりあいながら大急ぎで海の方へのがれて行くのが見えた。この時、二人の水夫が、逃げて行く一つの黒い影に向かって網を投げかけた。やはりこの時、グレタが気を失って、まるで袋か何かのようにドスンとぶっ倒れた。とたんに、二、三発の銃声が鳴りわたり、海が激しい水音とともに口をあけた。二人の水夫が、くねくねともがく何物かをおさえこんだ。と思う間に、ジュディー嬢の手にしていたライトが消えた。
船長が懐中電燈のボタンをおした。
「あんた、なんともなかったですか?」
「あたしの足に触ったのよお」リーは泣きながら言った。
「フレッド、こわかったわ、あたし!」
エイブも懐中電燈を手にして駆けつけた。
「すばらしかったよ、リー!」彼は言った。「ジュディーが、も少し早くライトをつけてくれるとよかったけれど」
「だって、つかなかったんですもの」ジュディーがムニャムニャっと言った。「つかなかったんだわねえ、フレッド」
「ジュディーはびっくりしてたんだよ」フレッドが彼女の代わりに弁明した。「ほんとうだよ。わざとしたわけじゃない。そうだろ、ジュディー?」
ジュディーはふくれっ面になったが、ちょうどこの時、大きな魚みたいにばたばたするものを網ごとひっぱりながら、二人の水夫が駆けつけてきた。
「船長、これでさ。生きてますぜ」
「化け物の奴、何か毒をぶっかけやがった。手にいっぱいブツブツができたですよ。ひりひりしてたまらねえ」
「あたしにもぶっつかったわ!」リーが悲鳴をあげた。「エイブ、あかりをつけて、ブツブツができてやしないか見てちょうだい」
「いや、君には何もできちゃいないよ」エイブが請け合った。彼は、リーが一生懸命にさすっているひざの上のところを、あぶなくキッスしそうになった。
「あの冷たいことといったらなかったわよ! ブルル!」リーが訴えた。
「あなたは真珠をおとされましたぜ、マダム」水兵の一人がそう言うと、砂の上で拾った球をリーに渡した。
「まあ、エイブ!」リーは叫んだ。「またあたしんところへ真珠を持ってきたんだわ。みんな早く真珠をさがしてちょうだい。あたしのために、たくさん真珠を持ってきてくれたのかもしれないわ。なんてすばらしい動物でしょう、ねえ、フレッド? あら、ここにも一つ真珠があるわ!」
「ここにも!」
三つの懐中電燈が、地上のあちこちに光の円を投げかけた。
「一つ大きいのを見つけたぞ」
「それあたしのよ」リーが宣告した。
「フレッド」氷のような口調でジュディーが言った。
「いますぐだよ」つきひざになって砂の上をはいまわりながら、フレッドは言った。
「フレッド、あたしヨットにかえりたいのよ」
「誰かに連れてっておもらいよ」自分の仕事に没頭しているフレッドは、そんなことを言い出した。「ええくそ、たいしたお慰みだ!」
三人の男とリーは、大きなホタルのような格好で、砂の上をうごめきつづけた。
「また三つあった」船長がどなった。
「見せて、見せて!」リーがキーキー声でそう言いながら、船長の方につきひざのまま進んで行った。
ちょうどこのときマグネシュームがパッと光って、撮影機のクランクがカタカタと鳴りはじめた。
「さあ、これであんたたちフィルムにおさまったわ」ジュディーが復讐するように言った。「これなら新聞むきのすばらしい写真になるわよ。一団のアメリカ人、真珠をさがす! 海中イモリ真珠を投ず!」
フレッドは砂の上にすわった。
「そうだ。ジュディーの言うとおりだ。僕たちはこれを新聞に送るべきだよ」
リーが砂の上にすわった。
「ジュディー、ジュディーったら。もういっぺんとってよ。だけど今度は前からよ」
「いい加減にするもんだわ」ジュディーが言い返した。
「みんな」エイブ氏が言った。「もっと見つけたがいい、あげ潮になってるよ」
闇に沈んだ波打ち際に、黒い影の揺れているのが見えた。リーが金切声をあげた。
「あそこに……あそこに……」
三つの懐中電燈は、その方に光りの円をさしむけた。それは、ひざをついて闇の中で真珠をさがしているグレタでしかなかった。
リーは、二十一個の真珠をいれた船長の帽子をひざの上に乗せていた。エイブはコップに酒をつぎ、ジュディーは蓄音器のレコードをしきりにとりかえていた。果てしない星づく夜が、永遠にさやぐ海の上に、シーツをかぶせたように広がっていた。
「ねえ、どんな見出しをつけたらいいだろ?」フレッドがそうぞうしく言った。「[ミルウォーキーの実業家の令嬢、化石イモリを撮影す]」
「[太古の爬虫《はちゅう》動物、美と青春に拝跪《はいき》]」エイブは詩的な見出しを提案した。
「[『グロリア・ピックフォード』号未知の動物を発見]」船長が言い出した。「あるいは[タフアラ島の謎]」
「そいつは小見出しにしかならん」フレッドが言った。「大見出しはずっと大げさでなくっちゃ」
「そんなら[フレッド選手、怪物と格闘]」とジュディーが応じた。「フレッドが迫って行ったところはすばらしかったわ。よくとれてるといいけど」
船長は、せき払いをした。
「一番にかけつけたのはわたしでしたよ、ミス・ジュディー。しかしまあ、そいつは言わぬことにしておきましょう。わたしはねえ、見出しは科学的なものでなきゃいけないと思いますな。冷静な、科学的な、[太平洋孤島上のプレリュヴィアル動物相]といったような」
「プレリドヴァルですよ」フレッドが訂正した。「そうじゃない、プレヴィドヴィアルだ。くそっ、なんたっけなあ? アンチリュヴィアルかな。アンテドヴィアルかな。いやこいつぁだめだ。誰でも覚えるようなもっと簡単な見出しをつけなきゃいけない。ジュディー、君がいちばんなんでも達者だから……」
「アンテディリュヴィアル(「先洪水の」の意)」ジュディーは言った。
フレッドは頭をうち振った。
「あまり長すぎるよ、ジュディー。尻っ尾を入れたあの怪物よりももっと長いや。見出しは短くなくっちゃ。だけどジュディーは実際すばらしいよ、そうだろう? ねえ船長さん、たいしたもんだねえ?」
「ほんとうに」と船長はあいづちをうった。「立派なご令嬢ですよ」
「あなたもたいしたもんですよ、船長さん」若い運動選手は、お礼の意味でそう言った。「ねえ、みんな、われらの船長はすばらしいねえ。だけどプレリュヴィアル動物相ってのはだめだよ。新聞の見出しにゃならないもの。むしろ[恋する真珠島の住人]とかなんとか言ったものの方がいい」
「[トリトンら白ゆりに真珠をそそぐ]」エイブが叫んだ。「[ポセイドン(海神)のみつぎ物][新しきアフロディテ]」
「トリトンなんて全然いなかったんだもの。このことは君、科学的に立証されている事実だろう。アフロディテなんていなかったんだ。ねえ、そうだね、ジュディー、いなかったんだね? [古代イモリと人類の闘争][勇敢なる船長、有史前の怪物にいどむ]この方がパッとした見出しになるよ」
「号外だ」エイブがどなった。「[映画女優、海の怪物に襲わる! 近代女性のセクス・アピール原始ヤモリを魅惑! 滅亡せる爬虫類、ブロンドの女性に傾倒!]」
「エイブ」リーが言った。「あたしにアイデアがあるわ」
「どんなの?」
「映画向きのアイデアよ。これはねえ、幻想みたいなものなのよ、エイブ。あたしが海岸で泳いでいると思ってよ」
「白いトリコットは、とても君にうつるよ」大急ぎでエイブは口を入れた。
「そうお? それでね、トリトンがあたしに恋して、あたしを海の底へ連れて行ってしまうの。そして、あたしがねえ、女王になるのよ」
「海底でかい?」
「そう、海の中でよ。トリトンの秘密の王国でよ。トリトンの国には、きっと町やなんかがあると思うわ」
「だって君。海底へ行ったら死んじまうじゃないか」
「心配ご無用、あたし泳げるわよ」けろりとしてリーは言った。「あたしねえ、空気を吸いに一日に一ぺんだけ岸に上がってくるわ(リーは、しなやかな腕を動かし、こんもりとした胸をそらせて、呼吸運動をしてみせた)こんなふうによ。それでね、海岸でね、一人の若い漁夫があたしに恋するの。あたしも恋するのよ、すごく!」ため息をつきながら、リーは言った。
「その漁夫は、とてもたくましくて、美男なのよ。トリトンが、その青年を沈めようとするけど、あたしが彼を救うんだわ。そして、二人で彼の小屋に逃げこむの。すると、トリトンがあたしたちをとりまくの。その時、あんたたちが助けにきてくれるのよ」
「リー」真面目になってフレッドが言った。「そいつは奇想天外で、ほんとに映画がつくれるよ。ジェッス氏が、そいつで大スペクタクル映画を作らなきゃ、ぼく驚きだな」
フレッドは正しかった。かつて、これを土台にして、リリー・ヴァリーを主役にした大スペクタクル映画――ジェッス・ローブ映画会社製作――が作られたのである。彼女のほかに、六百人のネレイデス(海の女神)、一人のネプトゥヌス(水神)、ノアの洪水前のイモリにふんした一万二千のエキストラが、この映画に出演した。しかし、それまでには多くの時が流れ、また幾多の事件も起こったのである。すなわち、次のようなことが……。
(1)捕えられて、リーの化粧室のバスにいれられた動物は、二日間というもの、みんなから手あつい取り扱いを受けた。三日目に、それは動かなくなった。するとリーは、かわいそうに寂しいのよと言った。四日目になってそれは、悪臭を放ちはじめた。腐敗の程度はかなり進んでいたので、それはうち捨てるほかなかった。
(2)潟の岸辺でとられた画面のうち、役にたったのは二コマだけであった。第一のコマでは、リーが恐怖のためにうずくまって、彼女をとりまいている動物どもに向かい、両手をうち振っていた。二番目のコマでは、三人の男と一人の女の子とが、鼻を地上につっ込まんばかりにして、ひざをついたままはい回っているところが見られた。彼らは全部後ろからとられているので、神前にぬかずいている人たちのような印象を与えた。このコマは、かっさいをはくした。
(3)予定された新聞見出しについて言えば、アメリカその他の国の日刊紙、週刊誌が、その大部分を利用した([アンテディリュヴィアル動物相]といったものまでも含めて)。諸新聞はこれらの見出しをつけ、イモリの真中につっ立っている小さなリー、水着をつけたリーだけ、バスに入れられたイモリだけ、ジュディー嬢、エイブ・ローブ氏、野球選手のフレッド、ヨットの船長、『グロリア・ピックフォード』号だけ、タライワ島だけ、黒ビロードにのせられた真珠だけなど、さまざまな写真をかかげて、事件を細大もらさず報道した。これによって、小さいリーの前途は保証された。リーは、寄席に出演することを断固として拒絶し、訪問した新聞記者に向かい、自分は芸術に邁進《まいしん》するつもりであると語った。
(4)しかしながら、自身の科学者としての権威の上に立って、これは原始イモリではなく、写真によって判断しうる限りでは、山椒魚の一種であると断定した人々もあった。もっと権威のある専門家たちは、この種の山椒魚はいまだ科学の知るところでない、したがって現存していないとさえ断言した。新聞、雑誌では、この問題について長い間論争が行なわれていた。これに休止符をうったのは、エール大学のJ・W・ホプキンス教授であった。彼は、提供された写真を全部研究してみたが、これはペテンかトリック写真である、フィルムに現われている動物は大山椒魚《オオサンショウオ》(クリプトブランクス・ヤポニクスや、そのほかシーボルディア・マクシムとか、トリトメガス・シーボルディあるいはメガロバトラクス・シーボルディ)に似ている点も若干あるが、もともときわめて不正確かつ不器用な偽作であり、明らかに物好きな素人の小細工を思わせるものだと、言明した。このようにして、その後長い間、科学上の問題としては、この事件は以上の声明によってあますところなく解明されたものと、信ぜられるにいたった。
(5)最後に、しかるべき時期を経たのち、エイブ・ローブ氏はジュディー嬢と結婚した。政治、芸能そのほか各界名士があまた列席するうちに、にぎにぎしく行なわれた華燭《かしょく》の典において、親友の野球選手フレッド氏は、付添人の役を引受けた。
八 アンドリアス・ショイフツェリ
人間のあつかましさは、限りがないものである。当時、爬虫《はちゅう》類については最大の権威とされていた、エール大学のJ・W・ホプキンス教授が、この不可解な生物を、非科学的なよまいごとに類する完全なねつぞう物であると言明したにもかかわらず、これを認めないやからがきわめて多数いた。専門刊行物や新聞紙上では、ますますひんぱんに、これまで知られていない大山椒魚に似た動物が、太平洋上の各地に現われたという報道が見られるようになった。確実の程度はしばらくおくとして、各種の報道は、この動物はソロモン諸島、ショウテン島、カンピンガマランギ、ブタリタリ、タペテウエア、ヌクフェタウ、フナフティ、ヌークノーノー、フカオフ諸島において見られ、ヒナウ、ウアフカ、ウアプ(ヤップ)、プカプカにおいてさえ見られると報じた。そして、ヴァン・トッホ船長の魔物についての話や(主としてメラネシアに関する限り)、リリー嬢のトリトンについての話(だいたいはポリネシアに関する場合)が引用された。
新聞は(夏になって書くことがなかったのがおもな理由であったが)、これはさまざまな種の有史以前の水中の怪物であると断定した。この水中の怪物は、大いに読者間にセンセイションをまき起こした。特にトリトンは、アメリカでの流行となった。ニューヨークでは、三百人の美しいトリトン、ネレイデス、セイレネスの出る[ポセイドン]というショーが、三百回あまりも上演された。マイアミやカルフォルニアの海水浴場では、若い男女が、トリトンやネレイデスの装いで(つまり、三重にまいた真珠の飾りだけをつけて)泳ぎ回った。中部諸州や中西部諸州では、『退廃撲滅運動』が大いに盛り上がった。事態は大衆デモにまで高まり、その際に何人かの黒人がつり下げられ、何人かが焼き殺された。
最後に『全国地理学月報』誌上に、コロンビア大学調査班の報告が現われた(これは[罐詰王]といわれるJ・S・テインカーの資金によって行なわれた)。この報告には、魚類寄生虫、線形動物、栄養生物学、滴虫《てきちゅう》類、アブラムシなどに関する当時の世界的権威であるP・L・スミス、W・クラインシュミット、チャールズ・コヴァル、ルイ・フォルジェロン、D・エルレロらが署名した。さて、この膨大な報告の内容を若干引用してみよう。
『まず最初に、調査班はラカハンガ島において、今日まで知られていない大山椒魚の後足の跡に遭遇した。足跡は五指を有し、指の長さは三―四センチメートルである。足跡の数より推すに、ラカハンガ島の岸辺には、この山椒魚が群生している模様である。前足の跡を目撃しえなかったことからして(幼獣のものと思われる四指の痕跡を除き)、調査班は、この山椒魚は明らかに後足をもって歩くものであると認定した。
ラカハンガ島には、川も沼も存在しないので、同島の山椒魚は海中に住んでおり、唯一の生息地は海中であると見なければならない。メキシコ産アホロートル(アムブリストマ・メキシカーナ。アメリカ産山椒魚の一種アンブリストマ・ティグリヌムの変体しない個体)が塩湖に生息するのは周知のところであるが、外洋性(すなわち海中に住む)山椒魚については、コルンゴールドの古典的労作「有尾目」(ベルリン、一八一三年発行)にさえ指摘されていない』
『……われわれは、これを捕獲するか、あるいはすくなくとも実体を見ようと夕刻まで待ったが、ついに徒労に終わった。思いを残しつつ、われわれは美しいラカハンガ島を去ったが、しかしD・エルレロは、ここで見事な南京虫の変種を新たに発見するという幸運をつかんだ』
『最も幸運に恵まれたのは、トンガレワ島においてであった。われわれは、銃を手にして岩辺で待機していた。日没後、水中から山椒魚の頭が現われた。それは、比較的丸くなだらかであった。まもなく、山椒魚は砂の上にはい上がってきた。その歩行はぎごちなかったが、それでもかなりしっかりと後足で立っていた。坐高は一メートル余である。山椒魚らは広い半円を描いて坐し、上半身のみをもってする特徴のある動きを見せはじめた。すなわち、あたかもダンスをするがごとくであった。W・クラインシュミットがよく見ようと腰をあげた。すると山椒魚は、彼の方を振り向き一瞬完全にすくんだが、しばらくの後、鳴くがごとくほえるがごとき声をあげて、彼の方へ殺到してきた。彼から七歩ほどの距離まで接近してきた時、われわれはこれを目がけて発砲した。動物たちは急ぎ逃走に移り、海中に突入した。そして同夜は、それ以上姿を現わさなかった。岸辺に残ったのは、二匹の山椒魚の死体と、脊柱を射ちぬかれた一匹の山椒魚であった。後者は、「カミサマ、カミサマ、カミサマ」というがごとき、独特な音を口にし続けた。しばらくして、この山椒魚は絶命した。こうしてW・クラインシュミットがその胸腔を切り開くや……(以下、われわれ門外漢にはわからない解剖学上の詳報が続いている。なお、専門家諸氏には、上記の報告書を読まれるようにおすすめする)』
『さて、上記の諸形質より推すに、これは有尾目の典型的な代表と見なすべきである。周知のごとく、これにはイモリ属とサラマンドラ属に分かれる擬蜥《ぎせき》群、潜鰓《せんし》類と顕鰓《けんし》類に分かれる魚形群とが属している。その大きさを問わぬとしても、なおかつ種々の点において、これはハンザキあるいは[沼の魔物]と称せられるアメリカ産ハンザキに似てはいるが、よく発達した感覚器官と、水陸双方においてかなり迅速《じんそく》に移動する可能性を与えられている長く強力な四肢とを具えている点において、これとは異なっている(以下、比較解剖学上の詳しい記述が続いている)』
『死んだ動物の骨格の標本を作った際に、われわれは興味ある事実を発見した。すなわち、これら山椒魚の骨格は、エニンゲン石切場の発掘にあたって、切石の上においてヨハンネス・ヤコブ・ショイフツェル博士により発見され、一七二六年刊行の「ホモ・ディルヴィイ・テスティス(大洪水時代の人間)」なる書に示されている骨格図と、ほとんど一致しているのである。専門家外の読者に対して言っておかねばならないが、上記ショイフツェル博士は、彼の発見物をノアの洪水前の人間の遺骨であると思っていた。「木彫により余が学界に示さんとして、ここに掲ぐる図が、ノアの洪水を目撃せる人間なることは、疑念あるべからざるところなり。活発なる幻想が人間に似たるものを描き出さんがために根拠となしうるがごとき線を、ここに見いだすことは難《むずかし》けれども、人間の骨格の各部分との類似と完全なる相対は、これを随処において見ることを得。前方より見る時は、これは化石人間なり。これすなわち、あらゆるローマ、ギリシア、さらにはエジプトならびにいっさいの東洋各地の墳墓よりもさらに古き、死滅せる人類の記念物なり」と、彼は述べている。
後にエニンゲン化石は、キュヴィエによって、化石山椒魚の骨格であると識別され、クリプトブランクス・プリマエヴスあるいはアンドリアス・ショイフツェリ・チューディと名付けられて、つとに死滅せる種の代表と見なされるにいたった。新聞紙上において不可解な原竜と称されているのは、化石山椒魚、すなわちアンドリアス・ショイフツェリにほかならない。あるいはこれに新しい名を与えるとすれば、ティンカー氏真立ハンザキまたはポリネシア大山椒魚とでも言うべきものである』
『……しかしながら、この興味ある大山椒魚群が、ラカハンガ、トンガレワ島およびマニヒキ諸島に多数生息するにもかかわらず、なにゆえに今日まで学界の注目を免れえたかは、謎として残るのである。ランドルフおよびモンゴメリーさえも、その著「マニヒキ諸島における二か年間」(一八八五年発行)において、これを指摘していない。土地の住民は、この動物が(彼らはこれを有毒だと信じている)、六―八年前はじめてこの地に現われたと語っている。彼らはまた、次のように言っている。すなわち、この「海の魔物」は話すことができ、生息する入江に水中都市を思わせる堤やせきを縦横に建設している、彼らの住む入江は、一年中水槽のごとくおだやかである、彼らは水底に穴や長さ数十メートルにおよぶ通路を掘り、昼の間はここにはいり、夜になると畑に現われては馬鈴薯《ばれいしょ》やヤマイモをかすめる、さらに人家よりつるはしその他の器具をさえ盗む、というのである。およそ土民は、この動物を好まず、のみならず大いに恐れてさえいる。多くの場合、住民はむしろ他の場所へ移住する。その原因は明らかに、二本足をもって歩行する点において、人間を思わせるなどのことにより、無害な山椒魚を妖怪であるかのように言い伝えた、素朴な物語かもしくは迷信にある』
『……また、マニヒキ島以外の島々においても、大山椒魚が見られると称している旅行家たちの報告に対しては、大いに慎重な態度をもってのぞまなければならない。ただし、最近クルアッセ船長によりトンガターブー島(トンガ諸島中最大の島)の海岸において発見された後足の跡には、疑いもなくアンドリアス・ショイフツェリの足跡を認めることができる(科学雑誌『ラ・ナチュール(自然)』にその写真が掲載されている)。この発見は、重大な意義をもっている。すなわちそれは、古代動物相の残存を多数有している、オーストラリア・ニュージーランド区と、マニヒキ諸島間の関連を明らかにしているためである。とにかくわれわれは、スティーヴン島に今なお生息する[ノアの洪水前のイモリ](ハッテリーあるいはトゥアタル)のことを、念頭におく必要がある。ほとんど文明のおかすところとならず、大部分は人口希薄なこれらうち捨てられた島々には、他の区においてすでに死滅した動物が残存しうるのである。いまや、J・S・ティンカー氏の功績により、化石トカゲ(ハッテリー)に、さらに洪水前の山椒魚が加わることとなった。かくて、光栄あるヨハンネス・ヤコブ・ショイフツェル博士にして存命ならば、彼のエニンゲンのアダムの復活をばみずから目にすることができたであろう』
このようにさまざまな風説を呼びおこした謎の海の怪物に関する問題の解明は、以上の学術報告で十分であろう。ところが不幸なことに、これと時を同じくして、この大山椒魚を、メガトリトン・モルッカヌスという名称のもとに山椒魚・イモリ科に入れるとともに、その伝播がスンダ列島中のオランダ領の島であるジロロ、モロタイ、セラムにまでおよんでいる事実をあげたオランダの研究家ホーゲンフックの研究が現われたのである。ついでフランスの学者ミニヤル博士の報道が現われた。彼は、この新しい動物を典型的な山椒魚であると断定し、その原産地はフランス領のタカロア、ランギロア、ラロイラなどの島々であることを指摘し、これを簡単にクリプトブランクス・サラマンドロイデスと呼んだ。さらにこれにつづいて、この山椒魚は最初ギルバート諸島に生まれたペラギダエという新しい科であって、以後はペラゴトリトン・スペンケイという名のもとに、独立の種として存在しうると述べたH・W・スペンスの報告が発表された。
すなわちスペンス氏は、一匹の生きている標本を、ロンドン動物園に届けることに成功した。かくして、この山椒魚はそれ以後の研究の対象となり、ついには、ペラゴバトラクス・ホーケリ、サラマンドロプス・マリティムス、アブランクス・ギガンテス、アムビウマ・ギガスなどなどの名をうるにいたった。一部の学者は、ペラゴトリトン・スペンケイは、クリプトブランクス・ティンケリと同一であり、ミニヤルの山椒魚はアンドリアス・ショイフツェリにほかならないと断定した。これに関連して、最初の発見の名誉はなんぴとに属するものであるかという論争や、その他純粋に学術的な諸問題をめぐる論争がまき起こった。その結果、各国の自然科学はそれぞれの大山椒魚を有することになり、冷酷無情に他国の大山椒魚に対して科学的迫害を加えるという事態が生起した。かくて学界では、山椒魚の実体に関するきわめて重大な問題が、最後まで十分解明されぬままになってしまったのである。
九 アンドリュー・ショイフツァー
木曜日で、ロンドン動物園は閉っていた。イモリ館の番人であるトマス・グレッグス氏は、貯水槽や陸生小動物飼育器などを掃除《そうじ》していた。彼は、アメリカハンザキ、日本産大山椒魚、アンドリアス・ショイフツェリその他、多くの小型イモリ、山椒魚、アムブリストマの幼生、ウナギ、カイギュウ、ホライモリなどの置かれている山椒魚部に、たった一人でいた。グレッグスがぼろ切れと雑巾《ぞうきん》ぼうきを手にして、アンニー・ローリーの歌を口笛で吹いていると、不意に後ろでキンキンした声で言うものがあった。
「見てごらん、ママ」
トマス・グレッグス氏は振り返ってみたが、そこには誰もいなかった。ただ、ハンザキがねば土のうえにすわって舌を鳴らし、それから黒い大山椒魚、つまりアンドリアスが前足を貯水槽の端にかけ、からだをくねくね動かしているだけであった。『おれの気のせいだな』グレッグス氏はそう思い、天さえ熱くなるほど一生懸命に床を磨き続けた。
「見てごらん、山椒魚だよ」と、後ろで声がした。
グレッグス氏は、つと振り返ってみた。黒い山椒魚が彼を見て、下まぶたでまばたいてみせた。
「ブルルル! 気味が悪い!」と、不意に山椒魚が言った。「もう行こうよ」
グレッグス氏は、恐怖から口をあんぐりとあけた。
「なに?」
「これくいつかないかしら?」キーキー声で、山椒魚は言った。
「おまえは、おまえは……口がきけるのか?」グレッグス氏は、自分の感覚が信じられないで、どもりどもり尋ねた。
「ぼくこわい!」と、山椒魚が言った。「ママ、これ何食べるの?」
「『こんにちは』と言ってみろ」恐怖にとらわれながらも、グレッグス氏は言った。
山椒魚は、からだをくなりと曲げた。それから言った。
「今日は、今日は、今日は! これにパンパンやってもいい?」
グレッグス氏は、あっけにとられたままポケットに手をさし込み、ロール・パンのかけらを取り出した。
「そら、やるよ」
山椒魚は、ロール・パンを手に受けて食べはじめた。
「ごらん、山椒魚だよ」そして彼は、けろりとした様子でモグモグ言いつづけた。「パパ、どうしてこれこんなに黒いの?」
と言ったかと思うと急に水にもぐり、頭だけさし出した。
「どうして水にはいったの? どうして? ああ気持が悪い」
トマス・グレッグス氏は、ぼんのくぼをかきながら考え込んでしまった。ははあ、こいつ人間から聞いたことを、そのまま繰り返しているんだな。
「『グレッグス』と言ってみろ」彼は試してみた。
「グレッグスと言ってみろ」山椒魚は繰り返した。
「ミスター・トマス・グレッグス」
「ミスター・トマス・グレッグス」
「今日は」
「今日は、今日は、今日は!」
山椒魚は、しゃべり足りぬようだった。しかし、グレッグスはこれ以上なにを言っていいかわからなかった。ミスター・トマス・グレグッスは、あまり雄弁な方ではなかったのである。
「しばらくおとなしくしてろ」彼は言った。「仕事を片づけたら、話すのを教えてやるからな」
「しばらくおとなしくしてろ」山椒魚は言った。「今日は。ごらん、山椒魚だよ。話すのを教えてやるからな」
動物園のお偉方は、番人たちが受持ちの動物に何か変なことを教えるのをいやがった。『象は仕方がないけど、他の動物は教育上の目的から置いてあるので、サーカスみたいにショーをやるために置いてあるのではない』というのである。そこで、グレッグスも山椒魚部をたずねるのを秘密にしておき、ここに出かける時には、人が一人もいなくなる時間を選んだ。ところで、彼は男やもめだったから、彼がイモリ館に閉じこもっていても、誰一人それを怪しみはしなかった。『人にはさまざまなくせがあるもんさ』という訳だった。のみならず、山椒魚室はたずねる人も少なかったし、ワニが大人気だったのに比べて、アンドリアス・ショイフツェリは比較的に閑散な日を送っていた。
ある日、すでに日が暮れてどの館もしまってから、園長のサー・チャールズ・ウィッガムは、万事手ぬかりはないか点検するため、二、三の部を回ってみた。彼が山椒魚部を通りかかった時である。一つの貯水槽で水のはねる音がして、金切声で言うのが聞えてきた。
「今晩は」
「今晩は」びっくりして園長は答えた。「誰です、君は?」
「どうもすみません」キンキン声は言った。「ぼく、ミスター・グレッグスだと思ったもんですから」
「誰です、君は?」園長は繰り返した。
「アンディーです。アンドリュー・ショイフツァーです」
サー・チャールズは、貯水槽に近づいてみた。しかし、そこには後足で立ってじっとしている山椒魚がいるばかりだった。
「誰です、ここで口をきいたのは?」
「アンディーですよ」と、山椒魚が言った。「ときに、あなたはどなたでしょうか?」
「ウィッガムです」恐怖にとらえられながら、サー・チャールズは言った。
「初めまして」と、アンディーはうやうやしく答えた。「お元気でいらっしゃいますか?」
「こん畜生」サー・チャールズはわめいた。「グレッグス、おーい、グレッグス!」
山椒魚は、稲妻のような速さで水中にもぐり、そのまま姿をかくしてしまった。興奮したグレッグス氏が、息を切らしながら扉のところに現われた。
「なんでございますか?」
「これは何かね、グレッグス?」サー・チャールズはどなった。
「何か起こりましたか?」不安気にグレッグスは尋ねた。
「ここにいる動物が口をきくんだ」
「すみません」しょげ返って、グレッグス氏は答えた。
「アンディー、こういうことをしちゃいけないんだよ。おれが千べんも言ってきかせたろう。おしゃべりをして、人をうんざりさせちゃいけないって」
「お許しください、園長さん、二度とこういうことは起こらないようにしますから」
「あんた、山椒魚にしゃべるのを教えたんですか?」
「しかし、最初は奴の方なんです」グレッグスは弁解した。
「二度とこういうことがないようにしてください、グレッグス」サー・チャールズは厳重に言いわたした。「わたしは、あんたを監視するようにしますからね」
その後しばらくして、サー・チャールズはペトロフ教授と向かいあってすわりながら、いわゆる動物の知能や条件反射について語りあい、さらにまた、一般の人々が動物の知的能力についてどんな評価を下しているかにつき、語りあっていた。ペトロフ教授は、数を数えることができるのみか、二乗もでき、根《こん》を見いだすこともできるという、エルバーフェルドの馬について、疑念をひれきした。中等教育を受けた人間でも根を見いだせないじゃありませんか、とこの学者は言った。サー・チャールズは、口をきくグレッグスの山椒魚のことを思い出した。
「ここに、山椒魚がいるんですがね」彼は、おそるおそるはじめた。「あの有名なアンドリアス・ショイフツェリですが……、そいつもオウムのように、しゃべることをおぼえましたよ」
「それは不可能です」学者は言った。「山椒魚の舌は、口蓋《こうがい》にゆ着していますからね」
「見てこようじゃありませんか」サー・チャールズはすすめた。「今日は清掃日ですから、あまり人がいません」
そこで二人は出かけて行った。サー・チャールズは、山椒魚部の入口で立ち止った。中から雑巾《ぞうきん》ぼうきのキュッキュッ鳴る音と、言葉を一音節一音節ひきのばしながらしゃべる、単調な声が聞えてきた。
「ちょっとお待ちください」サー・チャールズ・ウィッガムは小声で言った。
「[火星には人間がいるか?]」単調な声は、音節をひきのばしながら言った。「これを読みますか?」
「ほかのを読んでくれ、アンディー」別の声が答えた。
「[本年度ダービーはいずれに? ペルハム・ビューティーか、ゴバナドルか?]」
「ペルハム・ビューティーだよ」もう一つの声が言った。「とにかく、それを読んでくれ」
サー・チャールズは、さっと扉をひらいた。トマス・グレッグス氏は、雑巾ぼうきで床をふいており、一方海水をたたえた水槽の中にアンドリアス・ショイフツェリがすわり、前足で夕刊をにぎりながら、ゆっくりと一節一節はなしては、キンキン声でそれを読んでいた。
「グレッグス」サー・チャールズが呼びかけた。
山椒魚は、反転して水中に姿を消し、グレッグス氏はぎょうてんして雑巾ぼうきをとり落した。
「はい」
「これはなんだね?」
「どうもすみません」あわれなグレッグスは、どもりながらもがもがと言った。「あたしが掃除をしている間、アンディーが読んでくれますんです。それで、アンディーが掃除している時には、あたしが読んでやりますんです」
「誰が教えたのかね?」
「奴が自分でこっそりおぼえましたんです。あたしは……あたしは、奴があまりしゃべらないように、新聞をくれてやります。のべつまくなしにしゃべるもんですから。それに、あたしはあれです、奴がすくなくとも、教育のある人間のような口をきくようになってもらいたいと思いまして……」
「アンディー」サー・チャールズは呼んだ。
水の中から、黒い頭が出てきた。
「なんですか?」と、キーキー声でそれは言った。
「ペトロフ教授がおまえを見にこられたんだ」
「初めまして、私アンディー・ショイフツァーでございます」
「どうしておまえは、自分がアンドリアス・ショイフツェリという名だってことを知っているのかね?」
「ここに書いてございますからね、[アンドレアス・ショイフツァー。ギルバート島]って」
「おまえ、しょっちゅう新聞を読むのかい?」
「はい、そうです。毎日です」
「新聞の中で一番興味をもっているのはなんだね?」
「法廷記事、ランニングに競馬、サッカーなどです」
「サッカーを見たことがあるかね?」
「いいえ」
「馬は?」
「見たことがございません」
「それじゃ、どうしてそういうものを読むのかね?」
「新聞にのっているものですから」
「政治には興味があるかね?」
「ええ、面白いですね。[戦争はあるか?]なんて」
「誰もそういうことはわからんよ、アンディー」
「[ドイツ、新型潜水艦を建造中]」アンディーは明瞭《めいりょう》に言った。「[全大陸を廃墟と化す殺人光線]」
「それも新聞で読んだのかい、ええ?」サー・チャールズは尋ねた。
「はい。[本年度ダービーはいずれに? ペルハム・ビューティーか、ゴバナドルか?]」
「おまえはどう思うね、アンディー?」
「ゴバナドルですね。ミスター・グレッグスは、ぺルハム・ビューティーだと思っていられますがね(アンディーは頭をうち振った)。[イギリス製品をお求めください]ですよ。[スナイダーのズボンつりは、最優秀品です][あなたはもう六汽筒の新型タンクレッド・ジュニアをお持ちですか、快速、廉価、優美]……」
「ありがとう、アンディー、たくさんだよ」
「[映画女優のうちで、あなたの一番お好きなのは誰ですか?]」
ペトロフ教授は、髪の毛と口ひげを逆立てた。
「失礼ですが、サー・チャールズ」彼は、うなるように言った。「もうおいとまする時間ですから」
「まいりましょう。アンディー、おまえのところへ学者の方に二、三人きていただいても、いいかね? おまえと喜んで話をしてくださると思うんだが」
「結構でございます」と、山椒魚はキーキー声で言った。「失礼します、サー・チャールズ。失礼します、先生」
ペトロフ教授は、腹だたしげに鼻息をつき、何かブツブツ言いながらスタスタ歩いて行った。
「失礼ですが、サー・チャールズ」彼はついに言った。「あなたは、新聞を読まない動物を見せてくださるわけにはゆかなかったでしょうか?」
学者がたというのは、医学博士サー・バートラム、エッビンガム教授、サー・オリヴァー・ドッジ、ジュリアン・フォックスリーその他であった。ここに、彼らとアンドリアス・ショイフツェリとの対談の記録を引用することにしよう。
「あなたの名は?」
「アンドリュー・ショイフツァー」
「おいくつですか?」
「存じません。[若々しい容姿をお望みですか? それならリベラのコルセットをおつけください]」
「きょうは何曜日ですか?」
「月曜です。いいお天気ですね。この土曜に、イプソムで行なわれる競馬では、ジブラルタル号が走りますね」
「五の三倍はいくつですか?」
「どうして、それをお尋ねになるんですか?」
「計算ができるんでしょう?」
「できますとも。十七の二十九倍はいくつですか?」
「われわれに質問させてください、アンドリュー。イギリスの川をあげてみてくれませんか?」
「テムズ」
「それから?」
「テムズ」
「ほかには知らないんですか? イギリスの王位にある方は?」
「キング・エドワード。神よキングを守りたまえ」
「見事です、アンディー。イギリス最大の作家は誰ですか?」
「キップリング」
「大変結構です。作品を読んだことがありますか?」
「いいえ。あなたはメイ・ウェスト(アメリカの女優、豊満な肉体で人気をよんだ)はお好きですか?」
「あたしたちが質問した方がいいですよ、アンディー。イギリスの歴史のことで、何か知っていますか?」
「ヘンリー八世のことを知っています」
「どういうことを知っていますか?」
「最近での最優秀映画です。幻想的な演出です。驚くべきスペクタクルです」
「あなた、その映画を見ましたか?」
「いいえ、見ません。[イギリスを知りたいと思われますか? それなら小型フォードをお求めください]」
「あなたは、アンディー、何が一番見たいですか?」
「ケンブリッジ対オックスフォードのボートレースです」
「大陸はいくつありますか?」
「五つです」
「大変結構です。名をあげてください」
「イギリスその他です」
「その名を言ってください」
「ドイツ人。それからイタリア」
「ギルバート諸島というのは、どこにありますか?」
「イギリスです。[イギリスは大陸 に お い て自繩《じじょう》自縛におちいることを望まぬ。イギリスは一万の航空機を必要とする][イギリス南岸をおたずねください]」
「あなたの舌を見てもいいですか、アンディー?」
「結構です。[歯を磨《みが》くならフリットの煉《ねり》で……、一等お徳です。イギリス製です。口臭を防ぐには、フリットの煉をおすすめします]」
「ありがとう、もう十分です。それでは今度は、アンディー……」
といった具合である。アンドリアス・ショイフツェリとの対談記録は、雑誌『ザ・ナチュラル・サイエンス』に一六ページをさいて掲載された。記録の終わりには、つぎのような専門委員会発表の調査結果が掲げられていた。
(1)ロンドン動物園に飼育されているアンドリアス・ショイフツェリは、若干しゃがれ声でではあるが、話をすることができ、約四百の言葉をあやつる。もっとも、口にするのは耳にしたこと、また読んだことのみである。独自の思考は、もちろんぜんぜん問題にならない。舌はよく動く。当日の状況においては、その声門を子細に調べることはできなかった。
(2)この山椒魚は読むことができる。ただし、夕刊新聞のみである。ふつうのイギリス人がいだくのと同じような問題に関心をいだいており、これらの問題に対して普通人、すなわち妥当な伝統的見解を有する者と同じような反応を示す。その精神生活(といえるかどうか問題だが)は、その時どきに一般大衆の間に広がっている、意見と観念の範囲に止まっている。
(3)その知性は、いささかも今日の普通人の知性以上に出るものではないから、今のところはまず、これを過大評価する必要はない。
このような専門委員会の冷静な結論のために、口をきく山椒魚は、ロンドン動物園のよびものとなった。人気者のアンディーは、お天気をはじめとして経済恐慌や政治情勢にまでおよぶ、あらゆる問題について対談しようと熱望する群集にとりまかれるにいたった。その際アンディーは、訪問客たちから、ボンボン、チョコレートのたぐいをおびただしくもらい、そのため激しい胃腸カタルをひき起こした。ついには、山椒魚部の閉鎖となったが、その時にはすでに手遅れだった。アンディーの名で有名であったアンドリアス・ショイフツェリは、名声の犠牲となって倒れた。見られるとおり、名声は山椒魚をさえも堕落させるものなのである。
十 ノヴィー・ストラシェツの祭日
ボンディ家の取次役であるポウォンドラ氏は、ちょうど暇をもらって故郷の町に帰っているところであった。明日は大祭日にあたるので、ポウォンドラ氏が八歳になる息子のフランチークの手をとって家を出ると、ノヴィー・ストラシェツのいたるところで、焼きたての菓子パンがにおい、通りでは用意したねり粉をもってパン屋へ急ぐ女房や娘たちの姿が見られた。広場にはもう、ガラスや焼き物のたぐいを商《あき》なう商人、ありとあらゆる小間物をひさぐがらっぱちな女、それから二人の菓子屋が店を出していた。ズックの幕をはりめぐらした、見世物の小屋掛けもでていた。今しも、小柄な男がはしごにのぼって、上の方に看板をとりつけるところであった。
ポウォンドラ氏は、何をやるのかしらと思って立ち止ってみた。
細っこい男は、はしごを降りて、これでよしといった様子で、うちつけた看板をながめた。さて、ポウォンドラ氏は一読してびっくり仰天した。
ヨット・ヴァン・トッホ船長と
芸をする山椒魚
ポウォンドラ氏は、いつだったか彼がボンディ氏のところに通した、船長帽をかぶった大柄な男のことを思い出した。気の毒に、あの船長もへとへとになって、こんなみすぼらしいサーカスと一座して、どさ回りをやっているのか……。ポウォンドラ氏は、哀れみをおぼえた。あんなにしっかりした男だったのに! あの仁《じん》に会わなきゃならん、ポウォンドラ氏は同情からそう思った。
この時、小柄な男は小屋の入口にもう一つ看板を掛けた。
口をきくイモリ
学会最大のセンセーション
入場料 二コルナ
父兄同伴のお子様 半額
ポウォンドラ氏は思案した。二コルナと子どもが一コルナというのは、もちろん少しばかり高い。しかし、フランチークはよく勉強するし、それに遠い国の動物を知るということは、教育上いいにちがいない。ポウォンドラ氏は、教育のためになにがしかの犠牲を払う気になり、小柄で細い男に近づいて行った。
「ちょっとお尋ねします」彼は言った。「ヴァン・トッホ船長にお会いしたいんですが」
相手はしまのシャツをつけた胸をつき出して答えた。
「あっしですが、旦那《だんな》」
「あんたがヴァン・トッホ船長?」ポウォンドラ氏は驚いた。
「そうです」相手の男は、手首に彫ったいかりを示した。
ポウォンドラ氏は、あっけにとられてまばたいた。船長は、どうしてこんなに干物みたいになっちまったのかしらん? いや、こんなことってあるものか!
「あたしはねえ、船長を知ってるんですがねえ」彼は言った。「あたしはポウォンドラというもんです」
「そんなら話は別だ」かたりは言った。「しかし、山椒魚はほんとうにヴァン・トッホ船長のですぜ、旦那《だんな》。保証付の本物のオーストラリア産イモリですぜ。どうぞはいってください。すぐ、グランド・ショーがはじまりますよ」彼は頼むように言って、入口ののれんをかかげた。
「はいろう、フランチーク」ポウォンドラ一世はそう言って、中へはいった。
縦も横もなみはずれて大きい女が、大急ぎで小さい机の前に腰をおろした。こいつは変わった組合せだわい! 三コルナ置きながら、ポウォンドラ氏はびっくりして思った。小屋の中には、いやなにおいと鉄製のタンクのほかは何もなかった。
「山椒魚はどこにいるんですか?」ポウォンドラ氏は尋ねた。
「この浴槽の中におりますです」大女はけろりとして答えた。
「こわがらなくてもいいよ、フランチーク」と言って、ポウォンドラ一世はタンクに近づいた。
大きさがナマズの甲羅《こうら》を経た奴ぐらいもある、何やら黒いものが、息もたえだえに水の中に横たわっていた。皮膚が一か所だけ、上がったり下がったりするきりだった。
「これが、あれほど新聞でさわがれた、ノアの洪水以前の山椒魚だよ」幻滅の様子を顔色に出さずに、ポウォンドラ一世は言ってきかせた。
『おきまりのしらっぱくれだが』と、彼は思った。『しかし、坊主がそうだと気づく必要はない。とにかく、三コルナは損しちまったわい!』
「パパ、どうしてこれ水の中にいるの?」フランチークが尋ねた。
「それはだね、山椒魚というものは、水の中に住んでいるからだ。わかったかね?」
「パパ、これ何食べるの?」
「魚だとか、そんなものだよ」ポウォンドラ一世は言った(何か食わなきゃしようがあるまい)。
「どうして、こんないやな形してるの?」フランチークはなおも追及した。
ポウォンドラ氏がなんと答えていいかわからずにいるところへ、れいのやせっぽちが小屋の中へはいってきた。
「東西、東西、さてお立ち合い!」しょっぱい声で彼ははじめた。
「山椒魚は、たった一匹じゃないか」ポウォンドラ氏は、なじるように言った(せめて二匹でもいれば、少しは損害もつぐなわれたのに)。
「もう一匹はくたばったんでさ」げす野郎は答えた。
「さてお立ち合い、お客様がたの前におりますのは、有名なるアンドリアン、すなわち、オーストラリア諸島に産しまする、珍しい有毒イモリでございます。産地におきましては、身のたけ人間ほどとなり、後足をもって歩きます。そうら」そう言いながら、彼は水の中にじっと横たわっている、息もたえだえな黒い生物を、つえの先でつついた。
黒い生物は身じろぎして、やっとのことで水の中からからだをおこした。フランチークは少しばかり後ずさりしたが、ポウォンドラ氏は、びくびくするな、おれがついてるとばかりに、しっかりその手をにぎった。
動物は後足で立ち上がり、前足をタンクの縁にかけた。からだを見まわすと、えらがひきつるようにふるえ、ひらいた口が空気を吸いこんでいるのが見えた。たるんだ皮膚は、あちらこちらひっかき傷で血をにじませており、そのうえいぼだらけであった。カエルの目に似た丸い両眼は、ときどき病的に閉じては、膜のような下まぶたの下にかくれた。
「ごらんのとおり、お立ち合い」げす野郎はしゃがれ声で続けた。「この動物は、水の中に住んでおります。したがいましてこの動物は、陸に上がりました際呼吸をいたしますため、えらと肺とを備えております。後足にはおのおの五本の指を有し、前足には四本の指を有しておりますが、この指をもちまして、いかなる品をもにぎることができます。そうら!」
動物は棒をにぎりしめ、道化師のつえのように立ててみせた。
「なわを結ぶこともできます」男はそう言って、動物の持っている棒をとりあげ、かわりにきたならしいなわを与えた。
動物はしばらくにぎっていたあと、ほんとうにそれを結んでみせた。
「太鼓をたたき、踊ることもできまあす」男は、しめられたニワトリのような声で言って、動物に子どもの太鼓とばちをわたした。
動物はなんべんか太鼓をたたき、上半身をくねくねと動かしてみせた。そのうちに、動物はばちを水の中にとり落した。
「ひっぱたくぞ、この野郎」男はののしりながら、水の中からばちをひろいあげ、「この動物は」と、ひときわ声をはりあげて言った。「人間のように、口をきく能力をもっておりまあす」
そして、手のひらをたたいた。
「グーテン・モルゲン(お早うございます)」と、下まぶたを病的にひきつらせながら、動物がキーキー声で言った。
ポウォンドラ氏の方はほとんどぎょうてんせんばかりであったが、フランチークはたいした印象も受けないようだった。
「お客様方になんと申し上げるんだ?」きびしい口調で、男は尋ねた。
「よくいらっしゃいました」と山椒魚はおじぎをした(呼吸門がピクッと縮んだ)。
「算数ができるかね?」
「できます」
「七の六倍はいくつだい?」
「四十二です」山椒魚は、クワッというような声でかろうじて言った。
「ごらん、フランチーク」ポウォンドラ一世は訓戒をたれた。「うまく算数ができるじゃないか」
「さてお立ち合い」男はのどをふりしぼった。「皆様方から質問を出していただきまあす」
「何か尋ねてごらん、フランチーク」ポウォンドラ氏はすすめた。
フランチークは、はにかんで口ごもっていたが、
「九の九倍はいくつ?」と、やおら質問した。彼の考えでは、これはあらゆる質問のうち、もっともむずかしいものであった。
山椒魚はゆっくり目をつぶり、またゆっくり目を開いた。
「八十一」
「今日は何曜?」ポウォンドラ氏が尋ねた。
「土曜です」
度肝をぬかれて、ポウォンドラ氏は頭をうち振った。
「ほんとうに人間と同じだ。この町はなんという町かね?」
山椒魚は、口をあけて目を閉じた。
「もう疲れたんです」あわてて男は言った。
「おい、皆様方になんと申し上げるんだ?」
山椒魚は頭をさげた。
「失礼いたしました。いろいろとありがとう存じました。ごめんくださいまし。さようなら」
「こいつは……こいつは変わった動物だ」と、ポウォンドラ氏は驚いてそう言いはしたものの、三コルナというのはやはり大金だったので、つけ加えた。「このほかに、子どもに見せるようなものはないのかね?」
男は、あごをつまみながら思案していた。
「これでみんなです」彼は言った。「まえにはサルがいましたが、サルは手がかかるばかりでしてね」あいまいに彼は説明した。
「それじゃ、あっしの女房でもお目にかけますか。奴は世界一の大女だったんです。マルジカ、ちょっときな」
マルジカは、やっとこさで腰をあげた。
「なんだよ?」
「お客様にごあいさつしなよ、マルジカ」
世界一の大女は、色っぽく頭をかしげ、片方の足を前に出して、ひざの上までスカートをまくりあげてみせた。スカートの下には、赤い絹のくつ下におおわれた、いやにふくれてむくむくっとした動物のもも肉みたいなものがあった。
「足の上の方は、まわりが八四センチあります」やせた男は説明した。「しかし、ただ今のコンクールにおきましては、マルジカが最大ではございません」
ポウォンドラ氏は、びっくりしているフランチークを小屋から連れ出した。
「失礼いたしました」と、タンクの中からキンキンした声が聞えてきた。「またどうぞ」
「どうだったい、フランチーク?」外に出てから、ポウォンドラ氏は尋ねた。「わかったかね?」
「わかったよ」フランチークは言った。「パパ、だけどあの女の人、どうして赤いくつ下はいてるの?」
十一 人間イモリについて
口をきく山椒魚のほかには、当時何も語られも書かれもしなかったと断言するのは、こじつけにすぎるというものであろう。きたるべき戦争、経済恐慌、サッカーの試合、ヴィタミン、ニュー・モードについても、語られたり書かれたりした。とはいえ、口をきく山椒魚について、非常に多くのことが書かれたことも事実である。しかも、その記述たるや、きわめて非科学的であった。そこで、すぐれた学者の一人であるブルノ大学の教授、ウラディミール・ウヘル博士は、『リドヴェー・ノヴィニ(国民新聞)』紙のために、一文を草した。彼はその中で、人間の言語に対するアンドリアス・ショイフツェリの仮想的な能力、すなわちもっと厳密に言えば、他の者によって口にされた言葉を、オウムのように繰り返す能力は、科学的見地よりすれば、この特殊な両生類に関するその他の諸問題ほどに、興味のあるものではないと指摘して、つぎのように述べた。
『アンドリアス・ショイフツェリによって与えられている学術上の謎は、全然別な点にある。この動物がどこで生まれたか、どこを故郷としてかくもえんえんと連なる地質紀を生きとおしてきたか、現在太平洋の赤道地帯のほとんど総てに広く分布していることが明らかになっているのに、なぜこれほど長期にわたって未知のまま残っていたか、これが大きな謎である。周知のごとく、最近これは著しい速さで繁殖している。しかしながら、おそらく地形学的に孤立していると思われる離れ小島に、ごく最近まで完全に未知な存在を続けてきたこの第三紀の原始動物は、いったいどこからこのような驚くべき生活力をえたのであろうか? この有史前の山椒魚の生存条件が、なんらかの好転ぶりを示すにいたったのであろうか? そのため、中新世に属するこの珍しい残存生物が、異常に高い発展をとげうるような新しい時期が到来したのであろうか? いずれは、アンドリアスが量的に繁殖するばかりでなく、その発展途上において進化を続け、その結果、ただ一種の動物においてとはいえ、種の形質の大変化の過程を目撃するという特権が、われわれの科学に与えられるかもしれない』
『もしアンドリアスが、数十の言葉をあやつり、若干の事柄(門外漢たちが、一定の段階に達した知性の表現と見ているところのもの)に習熟しうることが事実とすれば、休止し立ち遅れてほとんど死滅しかけていた動物を、かくも速やかにまたはなばなしく復活せしめた生命力の大爆発は、まことに奇跡の名に値すると言わなければならぬ。ショイフツェリは、海中に住む唯一の山椒魚であり(さらに驚くべきことには)、エチオピア・オーストラリア区、神秘のレムリア国に住む山椒魚である。いったいわれわれは、目下、自然が従来なおざりにしていた生存の可能性の一つを、あわただしくとり返そうとしている、あるいはうち忘れたまま糧《かて》を与えることのできなかったある品種を世に送り出そうとしている、と言いたい欲望をいだいてはいけないであろうか? つぎに、日本産大山椒魚とアルジェニ(アメリカ)産山椒魚との間に横たわっている海洋全体にわたって、両者を結びつける環が一つもなかったとすれば、それも奇怪である。率直に言って、従来アンドリアスがいなかったとするならば、われわれは、現実に生息するところに、その存在を想定する以外にないであろう。アンドリアスは、目下、地理上、進化上の相互依存関係よりして、古くからここに生息すべきであった、この自由な地域を完全におおうにいたっているが、それはともかくとして――結論として学識深い教授は言った――この中新世の山椒魚の進化上の復活を例にとって、われわれは敬虔《けいけん》な恐れをいだきつつ、われわれの住む惑星上の進化は、いまなおその創造活動を完了していないとの、確信を持つことができるであろう』
この論文は、この種の論文は元来新聞向きでないという編集局の無言の確信を無視して、紙上に発表された。その後まもなく、ウヘル教授は一読者からつぎのような手紙を受け取った。
前略 小生は昨年、チャスラフの広場にある家屋を一軒買いとりました。家を見まわりますうちに、小生は屋根裏部屋において、つぎのごとき稀覯《きこう》本のはいっている箱を発見いたしました。すなわち、一八二一―一八二二年の二か年にわたるヒベレウの雑誌『哺乳動物』、ヴォイチェク・セドリャチェクの『博物学あるいは物理学の基礎』『クロク』百科事典普及版全十二巻、二十三年間にわたるチェコ語の『ムゼウム』誌などであります。なおまた小生は、キュヴィエの『地殻変革論』の訳本(一八三四年発行)の中に、古い新聞の切り抜きが枝折《しお》りがわりにはさんであるのを発見しましたが、それには奇妙なイモリに関する記事がのっていました。このたび、先生の謎の山椒魚に関する論文を拝見いたしまして、かの枝折りを思い出し、捜し出してまいりました。先生のご参考になりはせぬかと愚考いたしますので、自然を熱愛し、かつは先生のご労作を愛読する者として、これをお届け申し上げるしだいでございます。
I・V・ナイマン
手紙に同封された新聞の切り抜きには、新聞名も日づけも書かれていなかった。正字法や活字などから推察するのに、それは前世紀の二十年か三十年代に属するものらしかった。そして、判読に苦しむほど黄色くなりいたんでいた。ウヘル教授は、すんでのことにこれを紙くずかごに投げこもうとしたが、この印刷物の古さが、彼に一種のインスピレーションを与えた。そこで彼は、それを読みはじめた。一分ほどたつと、彼は『こん畜生』とうなって、せかせかと眼鏡をかけなおした。さて、この切り抜きの原文というのはつぎのようなものであった。
人間イモリについて
一外国紙において、吾人は、遠国より帰還せる英国軍艦長某が、オーストラリア海上の小島において遭遇せる、奇妙なる爬虫類に関する報告を提出せる旨の記事を見たり。この島には、海よりかなりへだたりあるのみならず、近づくこと難《かた》き塩湖《えんこ》存在す。さて、くだんの艦長と艦付医官とは、ここに休息しありき。突如湖の中より、大きさアブラザメほどにして、人間のごとくに二本足にして歩行する、イモリに類する動物いできたれり。しこうして、特別なる調子にて、すこぶる面白きさまをなして、踊るがごとく岸辺を回りはじめたり。艦長ならびに医官は、小銃にて射撃し、その動物のうち二頭をたおせり。そのからだには、毛あるいはうろこのごときものなく、なめらかにして、この点山椒魚に似たり。翌日艦長と医官はこれを運ばんと思い、再度そのもとにおもむきたるも、はげしき悪臭の結果、遺棄《いき》するのやむなきにいたれり。ここにおいて彼らは、網を用いて湖をさぐり、数頭の怪物を生けどりにして艦にもたらすよう、水兵らに命じたり。湖をさぐりし後、水兵らはイモリを総て(多数)うち殺し、そのからだは毒を有し、イラクサのごとく刺すことはなはだしと称して、わずかに二頭をのみ艦にもたらせり。これらの動物は、英国まで生きたるまま運ぶため、海水を満たせる樽《たる》に入れられたり。しかれども、事態は予期に反せり。すなわち、艦がスマトラ島にたち寄りし時、とらえられたるイモリどもは樽を抜けいだし、自ら下甲板の部屋の小窓をあけ、夜陰に乗じて海中に飛込み、姿をくらましたり。艦長および艦付外科医の言によれば、これらの動物は剽軽《ひょうきん》、怜悧《れいり》にして、二本足をもって歩行し、奇妙なる声にてほえかつ舌を鳴らすも、まったく人を害することなし。したがってこれを、[人間イモリ]と称するに、いささかの妨げもなからん、と。
切り抜きは、ここで終わっていた。『こん畜生』ウヘル教授は、いまいましげに繰り返した。
『どうして切り抜いた日づけと新聞名が記載してないのだろうか? この「外国紙」は何新聞で、「某艦長」とはなんという人物であろう? また「オーストラリア海上の小島」とは、何島か? もう少し正確に、いわばもう少し科学的に書かれなかったものであろうか? 非常に貴重な歴史的文献なのに!』
『オーストラリア海域の小島、なるほどね。塩湖か。これはきっと、さんご島だな。接近しにくい塩水の潟《かた》のある環礁《かんしょう》だったのだな。そこは、あの化石動物が、高い発展段階に立つ環境から切り離され、生来の特徴をそのまま残して、人知れず生存するのに都合のいい場所だったのに相違ない。そいつらがひどく繁殖しなかったのは、その湖で十分食物を見つけられなかったせいだな。この点は、はっきりしている』教授はそう思った。
『イモリに似てうろこがない、それで二本足で歩く動物か。すると、アンドリアス・ショイフツェリか、それと親縁関係にある別の山椒魚だな。とにかく、この動物がアンドリアスであったと仮定してみよう。それから、水兵どもが湖でそいつらをみな殺しにして、軍艦に生きたまま届けられたのは、二頭だけだったと仮定してみよう。しかし、ちょっと待てよ。その二頭は、スマトラで海の中へ逃げだしたというじゃないか。あそここそまさに、生物学上の条件が非常によく、環境によって無制限に食物が提供されている赤道地帯だぞ。この環境の変化は、中新世の山椒魚があれほど発展するため、刺激を与えることができたのじゃないかな? おれたちは、山椒魚が塩水になじんでいることを知っている。そこで、食物のたくさんある静かな入江に、新しい生息地をえたものと想像してみよう。すると、どういうことになるかな? 最上の条件をえた山椒魚は、驚くべき生命力をもって、激しく発展しはじめるにちがいない。これだ、これだ!』学者は歓呼の声をあげた。
『それ以来山椒魚は、燎原《りょうげん》の火にも似た力をもって、発展途上をばく進している。こいつは、気違いのようになって生命力にしがみついているんだ。新しい環境のもとにおかれた卵と幼生が、特別な敵をもたない以上、山椒魚は繁殖して、恐るべき数に達するだろう。さて、こいつは島から島へ住みついているが、一線を引いてみると、二、三の島を飛び越しているのが変に思われる。しかし、その他の点では、食物を求めての移住の典型的な例だ。だが、もう一つ大きな問題があるぞ。奴は、どうしてもっと前に発達しなかったのだろうか? エチオピア・オーストラリア区で山椒魚が知られていないという事実、あるいは今日まで知られていなかったという事実は、こういう訳ではないだろうか? つまりこの区では、中新世において、生物学的に見て、山椒魚にとり不都合な環境の変化が起こったのではなかろうか? これはありうることだ。たとえば、特殊な敵が現われて、山椒魚を全滅させたというようなことだってありうる。そこで、ある島のひそかな湖にだけしか、中新世の山椒魚は残らなくなり、残るには残っても、発達がとまるという犠牲を払ったのだ。つまり、その進化の過程はたち切られてしまった。ねじれたまま元に戻らないバネみたいな結果になってしまった。だが、順当に進めば、山椒魚は、きわめて高い発達を遂げるだろうということも、考えられたのではないか? しかも、止まることを知らないような(こう考えると、ウヘル教授は背筋がぞくっとするのを感じた)。だとすれば、アンドリアス・ショイフツェリは、中新世における人間になりえなかったとも言い切れまい』
『ところで、ちょっとお待ちあそばせだ! この未発達の動物が、不意に、新しい比較にならないほど良い環境にぶち当ったとしたら、ねじれたバネがしゃんとなりはしないか? アンドリアスは、生命力を爆発させ、中新世的規模で発展途上をばく進することになるぞ。奴は、進化の過程中にとりにがした幾千年、幾百万年を、激しい情熱とともにとり返そうとするだろう。とすればだ、奴は現在の発展段階で安んじているだろうか? 奴は、われわれがいま見るような発達の程度で、全力を出しきっていると言えるだろうか、それとも進化の敷居のところに立ったばかりで、上昇を始めたばかりだろうか? 結局いまのところは、奴がどの高さまで達するのか、誰にもわからないのではないかな?』
黄色くなった新聞の切り抜きをにらみ、知的な興奮にうちふるえながら、ウラディミール・ウヘル教授が描きだした思索と想像は、こんなふうなものであった。ついに彼は、学術雑誌など誰も読まないのだから、こいつを新聞に発表してやろうと決心した。
『自然界のどんなに雄大な過程にわれわれが近づこうとしているか、みんなにわかってもらわなきゃならん。おれはこれに[山椒魚は未来を有するか]という題をつけるんだ』
だが、『リドヴェー・ノヴィニ』紙の編集長は、ウヘル教授の論文を見て、頭をうち振っただけであった。『また山椒魚か! 読者は山椒魚でへどが出そうになってるんだ。もう、ほかのことに移らなくちゃ。それに、こういった学術的考察なんてものは、新聞には向かないんだよ』
かくして山椒魚の発達と未来に関する論文は、ついに日の目を見ずに終わった。
十二 山椒魚シンジケート
ゲー・ハー・ボンディ取締役会長がたちあがった。
「それでは皆さん」と彼ははじめた。「太平洋輸出会社の臨時株主総会を開くことにいたします。ご出席の皆様、どうもご苦労様でございます。多数ご出席くださいましたことを、私から厚くおん礼申し上げます……」
「さて皆さん」彼はたかぶった口調で続けた。「本意ないことでありますが、私は皆様にきわめて悲しむべきしらせをお伝えしなければなりません。じつは、ヨット・ヴァン・トッホ船長が逝去されたのであります。遠い太平洋上の島々と通商関係を結ぼうという、すぐれた思想の生みの親とも申すべき、われわれの初代の船長にして最も献身的な同僚は、幽明《ゆうめい》境を異にされたのであります。船長は本年初頭、ファンニング島(ハワイの南)の近くにおきまして、わが社の『シャーク』号の船上において執務中、瀕死の重傷を受け、ついに不帰の客となられました。(『あの通りの男だったから、羽目をはずしちまったんだろう』と、ボンディは心のうちで考えていた)氏のご冥福《めいふく》を祈りたいと存じますので、恐れ入りますが皆様のご起立をお願いいたします」
出席者たちは、いすをガタガタならして起ち上がり、総会が長びくことだけを心配しながらも、水をうったようにシーンとなった。
『気の毒なヴァン・トッホ君』心からの悲しみとともにゲー・ハー・ボンディは思った。『死んじゃっちゃしようがない! 板にのっけられて、海のなかにしずめられたんだな。ピシャーンてんで、はいって行ったんだろう。良い男だった。青い目をしていたっけ!』
「皆様どうもありがとうございました」ゲー・ハー・ボンディは手短かにつけ加えた。「私の親友ヴァン・トッホ船長の冥福を心からお祈りくださいましたことを感謝いたします。さてそれでは、取締役のヴォラフカ氏に、太平洋輸出会社の本年度決算予定についてご報告をお願いいたします。数字は最終的なものではございませんが、年度末までに、大きく変わるものとは予想されません。それではどうぞ」
「皆さん」取締役のヴォラフカ氏は早口にはじめ、やがて本題にはいった。「真珠市場の状態は、きわめてかんばしくないのであります。昨年度におきまして、真珠の採取高は、最も好況でありました一九二五年の二十倍となり、ために真珠の価格は大暴落いたしたのであります。値下がりは、六五パーセントにも達しました。したがいまして重役会は、本年度採取の真珠を市場に出さず、倉庫に積んで、需要の高まりを待つことにいたしました。加うるに、まことに遺憾《いかん》なことでありますが、昨年秋以来真珠は流行から外れまして、そのためにもいちじるしく値下がりいたしたのであります。現在わが社のアムステルダムの倉庫には二十万個以上の真珠がはいっておりますが、ただいまのところ、これはほとんど販売不可能なのであります」
「反対に本年度におきましては」と、取締役ヴォラフカ氏は早口に続けた。「真珠の採取量はいちじるしく減少いたしました。わが社は一連の産地を放棄することをよぎなくされました。これは、これら産地の収入が、船賃をつぐなわなかったためであります。二、三年前に発見されました産地も、大なり小なり採りつくされたかたちであります。以上のような事情でありますので、重役会といたしましては他の海産物、すなわちサンゴ、貝殻、海綿などに注目することにいたしたのであります。実際におきまして、サンゴやその他装飾品の市場はいちおうこれを活発ならしめることができましたが、とは申しますものの、商況は目下太平洋サンゴよりも、イタリア産サンゴに有利に展開いたしているのであります」
「重役会はまた、太平洋海域におきまして、大規模なる漁業が可能であるかいなかの問題につきましても、研究をいたしております。重点は、かの地の魚類をいかにしてヨーロッパおよびアメリカの市場に運ぶかということにありますが、ただいまのところ好い情報ははいっておりません」
「これに反しまして」取締役は、いささか声を高めながら読み進んだ。「副次的な商品の取り引き高は、若干増加いたしました。繊維製品、瀬戸引き器、ラジオ、手袋の輸出などがそれであります。この取り引きは、今後拡大する傾向が見えます。すでに本年度におきましても、その収支決算は、比較的に僅少なる欠損に止まるのではないかと思われます。と申しましても、わが社といたしましては、年度末に配当金を行なうことは全然できないのであります。これに関連いたしまして、重役会は、今回はボーナスおよび特別賞与を、いっさい受けないことにいたしております」
長く重くるしい沈黙になった。
『ファンニング島というのは、どんな島なんだろう?』ゲー・ハー・ボンディは考えていた。『心からの船乗りだったのに、ヴァン・トッホは死んでしまった。いい男を気の毒なことをした。そんな年でもなかったがなあ、おれより年上じゃなかった』
しばらくして、フプカ博士が発言を求めた。以下われわれは、太平洋輸出会社臨時株主総会の議事録を引用することにしよう。
フプカ博士――太平洋輸出会社を解散する意志はないか?(と質問)
ゲー・ハー・ボンディ――重役会は、この問題については、各方面からの今後の申し入れを待つことにしている(と答弁)。
ルイ・ボナンファン――真珠の採取がまじめに、かつまた正しい技術にもとづいて行なわれているかいなかについて監査する真珠検収役を、会社が現地に置いていなかったのは手落ちだ(と非難)。
ヴォラフカ取締役――この問題は検討されたことがあるが、この方法による時は、いちじるしく事務費の増加をきたすものと断定された。これがためには、正社員である代理人を、三百人以上も必要とするのである。さらにまた、いかに統制したところで、これらの代理人が集められた真珠を全部引き渡すかどうか、この点についてもよろしくご賢察願いたい(と答弁)。
エム・ハー・ブリンケレル――山椒魚は、実際に、見つけた真珠を全部渡しているものと信じていいか、会社の依託人以外の何物かに渡しているのではないか(と質問)
ゲー・ハー・ボンディ――公開の席上において山椒魚について述べられたのは、今回が初めてであって、今日までのところ会社は、いかなる方法により真珠が採取されているかの問題を、詳細な論議に移すことを避ける方針をとっていた。それゆえにこそ、太平洋輸出会社というひかえ目な名称がとられたのである(と指摘)。
エム・ハー・ブリンケレル――会社の利害に触れるという理由で、すでに久しい以前から多くの人々の知るところとなっている事実を、ここで語ることまで禁止されているのか?(と質問)
ゲー・ハー・ボンディ――禁じられている訳ではないが、とにかくこれは画期的なことである。今後、このことについて公然と語れるのは喜ばしい。ブリンケレル氏の第一問に対するお答えであるが、手もとにある報告によれば、真珠とサンゴの採取に従事する山椒魚の完全な良心的行動と労働能力を疑うような根拠を、われわれは全然もたないと申し上げることができる。しかるにわれわれは、今日まで知られている産地が、大いに枯渇《こかつ》しつつあること、あるいはいずれ近い将来に枯渇するであろうことを、念頭においておかねばならない。われわれの忘れることのできない同僚であるヴァン・トッホ船長もまた、新しい産地を求めて、未開発の島におもむこうとする途中において死去したのである。目下のところわれわれは、彼ほどの経験と一点非のうちどころのない潔白さ、および仕事に対する愛情をかね具えた、代わりの人物を見いだせないでいる(と答弁)。
D・W・ブライト大佐――自分も、故ヴァン・トッホ船長の功績を認めるのにやぶさかではなく、その逝去に対して深い哀悼の意を表するものであるが、ただ同氏はあまりにもかの山椒魚をあまやかしすぎたようである(同感の声)。故ヴァン・トッホのように、ナイフやその他上等の器具を山椒魚に与える必要はまったくなかった。飼料に対しても、あれほどに多額を支出する必要はなかった。山椒魚の維持費をはるかに引き下げ、そのことによって企業の収益を高められたはずである(と指摘。激しい拍手)。
J・ギルバート副会長――ブライト大佐に同意するが、ヴァン・トッホ船長の存命中には、それを実行することができなかった。ヴァン・トッホ船長は、山椒魚に対して個人的責任があると言って譲らなかった。種々の理由によって、同氏のかたくなな要求をいれない訳にはゆかず、そうしたことも望ましくなかった(と発言)。
クルト・フォン・フリッチ――山椒魚を別途に利用することはできないか。特に、真珠採取よりも有効に利用できないものか。生来の『ビーバー(海狸)的能力』といったものを、水中堤防やその他の施設の建設に適用することが、考えられないか。港湾の掘下げ工事や防波堤建設など、水中請負工事に使えるのではないか(と質問)
ゲー・ハー・ボンディ――重役会は、この問題を慎重に研究中である。疑いもなく、その方面では大きな可能性が存在する。現在、会社の有する山椒魚の数は、約六百万である。しかして、一対の山椒魚が一年に百匹の子を産むものとすると、来年度はわれわれは三億の山椒魚を有することになる。とすれば、十年後におけるその数は、まさに天文学的数字に達するであろう(と述べたのち、会社当事者に対して質問)。現在すでに、会社は天然飼料欠乏のため、山椒魚飼育場において、コプラ、馬鈴薯、トウモロコシなどを、飼料として与える必要にせまられているが、いったい会社としては、異常ともいえるほどにおびただしい山椒魚を、どうするつもりか?
クルト・フォン・フリッチ――山椒魚は食えるか(と質問)
J・ギルバート――ぜんぜん食えない。その皮がなんの役にもたたないのと同じである。
ボナンファン――とすれば、重役会はいかなる方法をとるつもりか?(と質問)
ゲー・ハー・ボンディ――われわれは、本会社のきわめて暗い見通しを、赤裸々《せきらら》に見ていただくために、この臨時総会を開いたのである。思い返すのに、本会社は過去の決算においては、二〇ないし三〇パーセントの配当金を記載しえた。と同時に、長期予備金その他の控除項目をも記載しえたのである。しかるに現在、われわれは岐路に立つにいたっている。かつてわれわれを裏切らなかった企業形態は、今日にいたってその根底を失ったのである。すなわちわれわれは、新しい道を求めなければならないのである(『そのとおり』の声)。
この転換期に世を去った、卓抜な船長にして忠実な友ヨット・ヴァン・トッホは、まことに時を得たと言うべきである、ロマンチックで美しく、しかも――あえて明らさまに言うならば――いささか気違いじみた真珠取り引きのアイデアは、彼の個性と大いに関係があったのである。私はこれを、完了した営業項目であると見ている。この仕事は、言うならばエキゾチックな魅力をもってはいたが、現代に適したものではなかった。諸君! 真珠は、縦横に分岐した堂々たる企業の対象にはなりえないのである。私個人としては、真珠の事業は、小さな慰みでしかなかった(会場ざわめく)。しかり、これは諸氏にも私にもかなりな金をもたらしたところの、気晴しだったのである。このほか、山椒魚は、この事業開始当時、新奇さという点でいくらかの魅力をもっていた。だが、三億の山椒魚ではもう、そのような魅力を与えることもなかろう(笑声)。
私は新しい道と言った。私の善良な友人ヴァン・トッホ船長が生きている間というもの、ヴァン・トッホ船長式とでも呼ぶべき性格以外のものを、われわれの企業に与えることはぜんぜん不可能だった(『なぜか?』の声)。というのは、幾多の様式を組み合わせるという好みを、私が多分に有しているのに対して、ヴァン・トッホ船長の様式は、いわば冒険小説の様式だったからである。ジャック・ロンドン(アメリカの小説家、一八七六―一九一六)やジョーゼフ・コンラッド(イギリスの小説家、一八五七―一九二四)の様式だったのである。エキゾチックで古い、植民地ふうの、ほとんど英雄的な様式だったのである。私は、これによって彼が私を魅了したことを否定するものではない。しかしながら、ひとたびヴァン・トッホ船長の死に会うや、われわれはこの猟奇的な、子どもじみた史詩を継続すべきではなくなったのである。われわれが前にしているのは、新しい項目ではなく新しいテーマである。新たに、しかして決定的に別種の創造的構想をうちたてるという任務である。(『まるで小説の話のようだ』との声)まさにそのとおりである。貿易は、芸術家としての私の関心をそそるものである。真に創造的な想像力なくしては、諸氏もまた、新たに事を考えだすことはできないであろう。世界の停滞を望まぬならば、われわれは詩人とならなければならない(拍手。ゲー・ハー・ボンディ頭をさげる)。
遺憾ではあるが、私はこのヴァン・トッホの項目とでもいうべき項目を、抹殺《まっさつ》するであろう。われわれ自身の中に存在する猟奇的で子どもらしいものは、これをもって終わりをとげるのである。真珠とサンゴの物語は、すでにうち切らるべきである。船乗りシンドバッドは世を去った。いまや問題は、ここにいたってわれわれが何をくわだてなければならないかということにある(『そのことを尋ねているじゃないか?』の声)。それでは恐縮ながら、鉛筆を手にしてお書き取り願いたい。六百万。書き取られたか? これを五十倍していただきたい。三億となる、そうではないか? ふたたび五十倍していただきたい。百五十億、そうであろう? さてここで諸氏は、山椒魚が百五十憶となる三年後に、われらのなすべきことについて、助言を与えていただきたいのである。われわれはこれをいかに利用し、いかにしてこれを養うべきであろうか?(『くたばるまま放っておけばいい』という声)さよう、しかしそのような解決法を選ぶのは、不当ではなかろうか? それぞれの山椒魚が、いくらかの財産上の価値と労働力としての価値を有して、活用を待っている事実を、諸君は考慮外におかれるつもりであろうか? さて、六百万の山椒魚では、われわれはなお経営を続行しうる。三億では、それが困難となる。百五十億ともなれば、どうであろうか? 完全にわれわれの手にあまるのである。山椒魚が会社を食いあらすことになろう。しかり、食いあらすのである(『貴下はその全責任をおうべきである。貴下が山椒魚の事業を企画したのだから』という声。ゲー・ハー・ボンディ頭をあげる)。
しかり、私は絶対に責任をとろうとするものである。ご希望の向きは、直ちに太平洋輸出会社の株から手をひかれてもかまわない。私は、たとえ一株であろうとも、払い戻しを行なう用意がある(『いくら払い戻すのか?』の声)。全額である(会場騒然。司会者十分間の休憩を宣する。会議再開とともに、エム・ハー・ブリンケレルが発言を求める)。
エム・ハー・ブリンケレル――山椒魚がかくもいちじるしく繁殖しているのは、ご同慶にたえない。と申すのは、これによって会社の財産が増加しているからである。とはいえ、いたずらに山椒魚を保持していることも、明らかに不合理であろう。もしも目下のところ、山椒魚にとって適当な仕事がないとするならば、私は株主側を代表して、水中あるいは水底作業を行なおうとする人々に、労働力として山椒魚を売るという簡単な方式をおすすめしたい(拍手)。山椒魚の飼育は、日に数サンチームをもって足りる。たとえば、一対の山椒魚を百フランで売るとして、もし一対の山椒魚が一年の労働に耐えるとするならば、どの企業家もつぎこんだ金を、容易に取り戻すことができる(同感の声)。
J・ギルバート――山椒魚の生命は一年ではなく、きわめて生存年齢が長い。もっともどれほど生きるかについては、厳密にいって、継続的な実験の経験がないので、何も言うことができない(と発言)。
エム・ハー・ブリンケレル――もしそうであるならば、一対の山椒魚の価格を、運賃を含めて三百フランと決めてはどうであろうか(と提案し、前案を訂正)。
エス・ワイスベルゲル――しかしながら、山椒魚はいかなる作業をなしうるか?(と質問)
ヴォラフカ取締役――生来の本能と異常に発達した技術上の能力によって、山椒魚は、堤防、堰、防波堤の建設、港湾、運河の掘り下げ、浅瀬や沖積土の除去、水路の清掃などを行なうのに適している。また海岸の護岸工事、陸地の拡張なども行なうことができる。これらはすべて何百、何千という労働力を必要とする大作業である。近代技術といえども、十分に安い労働力を保有せぬかぎり、着手しようとしないきわめて大掛りな作業である(『そうだ!』『すばらしいぞ!』などの声)。
フプカ博士――山椒魚は新しい所有者の手に渡ってからも、おそらくは繁殖するものと思われるが、そのようなものを売るとすれば、会社は独占的地位を失いはしないか(との疑念を表明し、ついで)、適当に訓練した山椒魚からなる作業班を、水中作業施行業者に貸与するだけに止め、その際卵は会社の所有となるという条件をつけてはどうか?(と提案)
ヴォラフカ取締役――水中にいる幾百万、いな幾十億の山椒魚を監視することは不可能である。特にその子を監視することはできない。遺憾ながら、山椒魚はすでに動物園や見せ物用として多数盗まれている(と指摘)。
D・W・ブライト大佐――会社の所有する山椒魚|孵卵《ふらん》器、飼育場以外では繁殖しえないように、雄の山椒魚だけ売るとか、賃貸するとかしたらいいではないか(と提案)。
ヴォラフカ取締役――われわれは、山椒魚飼育場が会社だけのものであると断定することはできない。海底を専有するとか、それを単独に利用するとかいうようなことは不可能である。たとえば、オランダ王国の領海内に生息している山椒魚が何人に属しているかという法律上の問題は、きわめてあいまいであって、幾多の争いを引き起こしうる(会場ざわめく)。だいたいにおいて、われわれは漁業権さえ確保していないのであり、太平洋諸島に山椒魚飼育場を設ける際にも、われわれはいわゆる突貫精神をもって事に当ったのである(と説明、ざわめき激しくなる)。
J・ギルバート(ブライト大佐に答えて)――今日までの経験によれば、隔離された雄の山椒魚は、しばらく後には気力をも労働能力をも失うにいたる。萎靡沈滞《いびちんたい》し、しばしば気鬱《きうつ》性に冒されて、死んでしまう。
クルト・フォン・フリッチ――山椒魚を売る前に、去勢するとか、断種するとかいったようなことはできないか?(と質問)
J・ギルバート――それでは金がかかりすぎる。結局われわれは、売り渡した山椒魚の、それ以後における繁殖を防止することはできない(と説明)。
エス・ワイスベルゲル――動物愛護協会員として、山椒魚の売り渡しが、人間の感情を傷つけないような人道的方法をもって行なわれるように要望する(と要求)。
J・ギルバート――ご注意に対して感謝する。山椒魚の捕獲と輸送が、訓練された人々に依嘱され、それ相当の管理下におかれることはもちろんである。しかし、山椒魚を売った企業家が、それをどのように取り扱うかについてまで、責任をもつことはできない。
エス・ワイスベルゲル――ギルバート副会長の説明に満足する(と言明、拍手)。
ゲー・ハー・ボンディ――われわれはまず、将来における山椒魚の独占という考えを捨てたいと思う。遺憾ながら、現行法によれば、われわれは山椒魚に対する特許権をうることができない(笑声)。しかしながら、山椒魚取り引きにおける特権的地位は、これを他の方法によって強めることができる。かつまた、その必要がある。ただし、そのために必要な前提条件は、これまでと異なる形式とはるかに広範な規模において、事業を行なうということにある(『謹聴』の声)。私の前には、予備協定書がうず高くつまれている。すなわち重役会は、『山椒魚シンジケート』という名称のもとに、新しい縦のシンジケートを設立することを提案するものである。わが社のほかにシンジケートを構成するのは、大企業、大金融グループである。たとえば、山椒魚のために特殊な金属器械を製造する、ある有名なコンツェルンなどがそうである(『貴下の言われるのはMEASのことか?』と言う声)。しかり、私の言うのはMEASのことである。そのほか、山椒魚のために安い特許飼料を生産する化学・食料品カルテル、従来の経験を基礎にして、山椒魚の輸送のため、衛生的な特殊水槽を設計し、その特許をとる一連の運送会社、購入された山椒魚が輸送の途中あるいは作業場において死亡、負傷した場合に、その保険を取り扱う保険会社ブロックが参加し、最後にまた、工業、運輸、銀行に関係しておられるが、目下のところ慎重を期してその姓名を申し上げられない、某某実業家がこれに参加されるであろう。これを要するに、このシンジケートが四億ポンドをもって発足することをお伝えすれば、それで十分であろう《ざわめき》。すなわち、このハトロン紙の中には、現代における最大の経済機関を発足させるため、署名を待つばかりになっている契約書がはいっているのである。重役会としては山椒魚の合理的な繁殖と利用とを任務とする、この大コンツェルンの設立に必要な全権を、重役会にゆだねられるよう、せつにお願いする(拍手および抗議の声)。
私は皆さんに、このような連合体のもつ利益を理解していただきたい。山椒魚シンジケートは、たんに山椒魚を提供するのみならず、山椒魚のために器具や飼料をも提供するであろう。すなわち、飼育さるべき数十億にのぼるかの動物に、トウモロコシ、澱粉《でんぷん》、牛脂、砂糖などを提供するのである。さらにシンジケートは、輸送、保険、獣医学的な管理をも取り扱うことになろう。しかしてこれらのことは、独占を保証しないとしても、すくなくとも、山椒魚を売ろうとする競争相手の企業に対する絶対的優位を保証するような、最低賃率をもって行なわれるのである。結局、なん人かが試みに事業を行なうのは勝手であるが、長期にわたってわれわれと競争することは不可能であろう(『ブラヴォー』の声)。しかもこれが総てではない。山椒魚シンジケートは、山椒魚によって行なわれる水中作業に対して、あらゆる資材をも提供するのである。それゆえにこそ、われわれの背後には、重工業、セメント、建築、木材、煉瓦《れんが》などの企業が立っているのである(『山椒魚がどんな働きぶりを見せるか、まだわからないじゃないか?』という者あり)。現在サイゴン港では、一万二千の山椒魚が、新しいドック、埠頭《ふとう》、防波堤の建設作業に従事している(『そういう話は聞かなかった』という声)。いや、これは大規模な実験としては、初めてのものである。しかしながらこの経験は、最高度に満足すべき結果を与えたのである。現在ではすでに、山椒魚の将来性を疑うべきではない(激しい拍手)。
しかもなお、これがすべてではない。山椒魚シンジケートの仕事は、この程度で尽きるものではないのである。シンジケートは、山椒魚のために、地球を股《また》にかけて仕事を見つけることになろう。シンジケートは、海洋征服の案をたて、その膨大な案を作り上げるであろう。ユートピアと雄大な夢を宣伝するであろう。諸大陸を結ぶ堤、運河、新しい海岸などの設計や、太平洋横断航空路のための人工の島、太平洋のまん中に浮かぶ新大陸の計画をも提示するであろう。すなわち、人類の将来は、この中にこそあるのだ。地球の五分の四は海によって占められている。これがあまりに多すぎることは明らかである。わが惑星上の陸と海との比率は、修正されなければならない。これはすでに、ヴァン・トッホ船長の様式ではない。言うならば、われわれが小商人としてとどまるか、創意を成し遂げるか、二つに一つである。もしわれわれが、大陸と海洋の規模において物事を考えないならば、それはすなわち、われわれが有するところの可能性の高さまで、高まっていない証拠である。この席上においては、一対の山椒魚をいくばくをもって売るべきかということが検討された。しかしながら、私として望みたいことは、幾十億の山椒魚、幾千万の労働力、地殻の改造、新しい世界の創造、新しい地質時代等々の規模において、われわれが物事を考えるということである。すでにわれわれは、新しいアトランティスや、世界海洋を征服してますます拡大して行く旧大陸や、人類自らが築く新大陸について、語ることができるのである。もしこれが、諸氏にユートピアと聞えるならば、どうぞ許していただきたい。だがわれわれは、事実ユートピアの国に足を踏み入れつつあるのだ。すでにわれわれは、その国にはいっているのだ。われわれはすでに、山椒魚の将来性に関する問題の、技術的側面を考えるだけで足りるのである(『それから経済的側面もだ』という声)。
しかり、経済的側面についてのみ特に言うならば、わが社は、幾十億の山椒魚を使役するにはあまりに小規模にすぎる。なおまた、金融上のあるいは政治上の可能性も不足しているのである。すなわち、陸海図が変わるとすれば、列強もかならずこれに関心を寄せるであろうが、今はこのことについては語るまい。さらにまた、すでにわれわれのシンジケートに対して深い好意を寄せていられる高官の方々のことも、申し上げないことにしよう。それはさておき、私からお願いしたいのは、ただいま皆様が賛否を表明されようとする事業が、無限の可能性を有している点を、なにとぞ念頭から放さないでいただきたいということである」(激しい連続的な拍手。『ブラヴォー』『すばらしいぞ』などの声)。
ところで、この採決に移るまえにまず、本年度も予備資金をさいて、太平洋輸出会社株に、すくなくとも一〇パーセントは配当を行なうという約束がなされねばならなかった。その後重役会の提案に対して、株式資本の八七パーセントに当る株主が賛成し、わずか一三パーセントがそれに反対した。かくして、山椒魚シンジケートは発足したのである。ゲー・ハー・ボンディは祝辞を受けた。
「見事な演説でした、ボンディさん」エス・ワイスベルゲル翁が賛辞を呈した。「大変お見事でした。ところで、どこからああいったアイデアが頭に浮かんできたか、お話ねがいたいもんですな」
「なんとおっしゃいます?」ゲー・ハー・ボンディは、うつろな口調で答えた。「正直なところ、ワイスベルゲルさん、私はヴァン・トッホ老の冥福《めいふく》のためにやったまでのことですよ。あの男が山椒魚を大事にしたことといったら、あなた……、|のそのそ《ヽヽヽヽ》どもをくたばらせたり、殺しっぱなしにしたりしたら、あの男がなんと言ったかしれやしません」
「|のそのそ《ヽヽヽヽ》とはなんです?」
「あの怪物、つまり山椒魚のことですよ。とにかくですな、すくなくともなんらかの価値を持つようになった現在では、連中にも相当の礼をつくす必要がありますからな。しかし、あの動物相手じゃ、ワイスベルゲルさん、夢みたいなこと以外にやり方がありませんものね」
「私には解《げ》せませんな」ワイスベルゲルは言った。「ボンディさん、あなたは山椒魚をごらんになったことがあるんですか? 私はどんなものだか、知らないんですがね。いったい、どんな格好をしているんですか?」
「とおっしゃっても、申し上げようがないんですよ、ワイスベルゲルさん。私も、山椒魚がいったいどんなものか知っちゃいませんからね。また、知る必要もないじゃありませんか? どんな格好をしているか、第一、私にせんさくする暇でもあるとおっしゃるんですか? いえねえ、私は山椒魚シンジケートをまとめただけで、もう満足なんですよ」
(付記) 山椒魚の性生活について
人間の精神的諸活動のうちで最も好まれているものの一つに、遠い未来ともなれば世界と人類とはいかなる様相を呈するであろうかとか、どのような技術的奇跡が起こるかとか、いかなる社会的問題が解決されるだろうかとか、科学や社会機構がどれほど進歩するかなどを、空想してみることがある。これらのユートピアの多くは、つぎのような問題にも、大いにかかわりをもっている。すなわち、きわめて発展した、すくなくとも技術に完全な世界では、性生活、生殖、恋愛、結婚、家庭、婦人問題といった、古くてしかも一般的な関係は、いったいどうなるであろうかという問題が、それである。これに関しては、ポール・アダン(フランスの小説家、一八六二―一九二〇)、H・G・ウェルズ、オルダス・ハクスリー(イギリスの小説家、一八九四―一九六三)の関連文献を参照されたい。
ところでこの本の作者は、われわれの住む地球の未来に一べつを与えるにあたって、いちいち実例をあげながら、山椒魚の未来の世界で、性生活がいかなる様相を示すかについても見解を述べたいと思うのである。私は、後の埋草としてではなく、直ちにそれにとりかかろう。アンドリアス・ショイフツェリの性生活は、むろん本質的には他の有尾目の生殖と一致している。すなわち、本来の意味での合体(二個の生殖個体が合一すること)はない。雌は、むしろ一定の時期に卵を産み、受精卵は、水中で幼生となって成長を続ける。このことは、あらゆる博物誌に記せられている。そこでわれわれは、ここでは、アンドリアス・ショイフツェリの観察によって認められた、二、三の特性にのみ触れることにしよう。
H・ボルターは、つぎのように述べている。四月の上旬、雄たちは雌たちのもとに集まってくる。一般に雄は、生殖期間を通じて同一の雌につきまとい、数日間というもの、雌から一歩も離れない。この期間中、雌山椒魚が普段に見られないほど食欲旺盛なのに対して、雄はぜんぜん食物を摂取しない。雄は、水中において雌をあちらこちら追跡し、頭部を雌の頭部にできるだけぴったりとつけようとする。これがうまくいくと、雄は鼻づらを雌の鼻の前方へ突き出す。おそらくこれは、雌を逃がさないための動作なのであろう。つぎに雄は、からだをこわばらせる。頭部を触れあわせている間、二匹は、からだをおよそ三〇度の角度にして並んだまま動かない。ときどき雄はからだを曲げ、わき腹を雌に触れさせる。続いて両足を大きく広げ、選んだ相手の頭部に口だけで触れながら、またもやからだを硬直させる。その間雌は、無関心に、見つけたものを食ったりしてい る 。こ の接吻《せっぷん》――と言うことができるならば――は、数日間も続くのである。雌は、ときどき非常に興奮して怒ったようになっている雄に追跡されながらも、食物を採るため、雄から離れようとする。だが、結局雌はすべての抵抗を放棄して、逃げるのを止める。こうして、可憐《かれん》な一対は、結び合わされた黒い木片のように、水中をじっとしたまま漂い続けるのである。やがて雄は、ひきつるようにからだを動かしはじめる。そして、この動きの間に、おびただしい、幾分粘液質の精液を水中に射出する。その後すぐに、雄は雌から離れ、極度に疲労して岩の後に隠れる。この期間雄は、足や尾を切り取られても、抵抗すらしない。
雌の山椒魚は、この間しばらく、からだをこわばらせたまま動かない。やがて雌は、力をふりしぼってからだをくねらせ、膠状《こうじょう》の膜に囲まれた鎖状の卵を、総排出腔(消化管の終末部で、同時に生殖輸管と輸尿管の開口する腔所)から産みはじめる。その際雌は、しばしばヒキガエルがやるように、後足でこの動作を助けようとする。雌一体分の卵塊は、四〇個ないし五〇個から成っている。雌は、卵とともに一定の安全な場所へ泳いで行き、卵を藻やツノマタまたは岩だけの所へ置く。十日後にこの雌は、ふたたび雄と会うこともなく、二〇個から三〇個くらいの二番目の卵を産む。まぎれもなく、これらの卵は、総排出腔で直接に受精したものである。普通は、さらに七日から八日後に、一五個か二〇個くらいの残らず受精した、第三、第四番目の卵を産む。その後一週間から三週間たって、枝状のえらをもった、元気な幼生が生まれてくるのである。一年後には、これらの幼生は普通の山椒魚に成長し、そのうえ増殖もできるようになる。以後、同じことが続く。
これに対し、ブランシ・キステンマッケル嬢は、アンドリアス・ショイフツェリの二匹の雌と、一匹の雄とによって、いろいろな観察を行なってみた。産卵期になると、雄は、二匹の雌のうちの一匹に近より、かなり激しくこれを追跡した。雌が危険から脱しようとすると、雄は尻っ尾で雌を打った。また、雌が食物を採ろうとすると、雄は不興気に、食物のそばから雌を追い払おうとした。明らかに、雄は雌を独占しようとし、そのために雌を威嚇したのである。射精した後、雄は二匹の雌に襲いかかり、これをとって食おうとした。そこで雄は飼育槽から取り出され、ほかの所に移されねばならなかった。にもかかわらず、第二の雌も、受精卵を全部で六三個も産んだ。これら三匹の動物の観察によって、キステンマッケル嬢は、この時期になると総排出腔の縁が、いちじるしく膨張することに気がついた。キステンマッケル嬢は、アンドリアス・ショイフツェリの受精は、合体や抱卵によってではなく、性的媒質とでもいうべきものによって行なわれるようであると述べている。明らかなように、卵の受精のためには、一時的|癒合《ゆごう》(生物の器官などの単位が合して一体となること)は必要でないのである。この事実は、キステンマッケル嬢を、つぎの興味ある実験へ導くことになった。彼女は、雌雄を性別によって分離した。つぎに、時期の到来をまち、彼女は雄から精液をしぼり出し、それを水中の雌たちに与えた。やがて、雌たちは受精卵を産みはじめた。つぎの実験で、ブランシ・キステンマッケル嬢は、精液を濾過《ろか》し、精子を含まぬ濾過液(それは、わずかに酸性の透明な液であった)を、水中の雌たちに与えてみた。その場合も、雌たちは卵を産みはじめ、おのおの五〇個ほどの卵を産んだ。しかも、その多くは受精しており、卵は正常な幼生となった。このことはキステンマッケル嬢に、性的媒質についての重要な概念を与えた。つまり、この性的媒質は、無性生殖から有性生殖にいたる、一つの独立した過渡的状態をなしているのである。この場合、卵の受精は、外界の化学的変化(これまで人工的に作り出すことのできなかった一定の酸化)によって、行なわれるのである。この変化は、なんらかの方法で、雄の性的機能にかかわりをもっている。もっともこの性的機能は、本来は必要でない。雄が雌に対して行なうことは、明らかに、アンドリアスの受精が、他の山椒魚群の場合とまったく同様に行なわれた、古い発展段階の名ごりなのである。キステンマッケル嬢が正しく述べているように、癒合《ゆごう》とは、もともと父性についてのある種の幻想である。実際には、雄は幼生の父ではなく、一定の受精媒介者である性的媒質、すなわち本質的にはまったく非個性的な化学的因子にすぎないのである。われわれは、もし飼育槽に癒合した百|番《つがい》のアンドリアス・ショイフツェリを入れるならば、百の個々の生殖行為が行なわれると推量しがちである。が、実際には、ただ一つの行為、与えられた媒質の集団的な性行為しかない。さらに正確に言うならば、それは水の一定の酸化であり、アンドリアスの成熟した卵は、自然にそれに反応し、やがて幼生へと成長するのである。以上のようにして、この独特なアンドリアスの性生活が、いかに大きな幻想であったかが、暴露されるにいたった。その欲情、性的残忍性、一時的貞節、鈍重な快楽など、これらのすべては、もともと退化したよけいな象徴的行為であって、受精させるための性的媒質の形成や、非個性的な本来の性行為を導き出し、そして粉飾するものにすぎないのである。雄たちの気違いじみた無益な媚《こび》に対する雌たちの特徴的な無関心は、雌たちが、これらの求愛を、本来の婚姻行為のための形式的な儀式、つまり前戯と感じていることを、明らかに証明している。雌たちは、むしろ、受精のため媒質と無造作に融合する。すなわちわれわれは、アンドリアスの雌はこの事態を雄よりも明確に理解し、エロチックな幻想などいだくことなく、即物的にこれを体験すると言いたいのである。
このことと関連して、山椒魚の踊りといわれている奇妙な儀式のことを、述べておこう(この数年、主として上流階級の間で流行したもので、ヒラム主教が、これまで側聞した中でも最も破廉恥な踊りであると言った、あのサラマンダー・ダンスのことではない)。交尾期をのぞき、満月になると、アンドリアスの雄だけが岸辺に集まってくる。そして半円を描いて並び、上体を奇妙にくねらせはじめる。この動きは、他の場合でも、大きな山椒魚の特徴的な動きをなしているが、特にこの踊りの時期ともなれば、彼らは、デルヴィーシ(回教の托鉢僧)と同じように、疲れはてるまで、あらあらしく情熱的にこの踊りを踊りまくる。一部の学識者は、この狂気じみた回転と足踏みとを、大陰崇拝、つまり宗教的儀式だと考えた。これに対して、他の人々は、本質的にエロチックな舞踏であると考え、上に述べたような特殊な性的秩序をもってこれを説明した。われわれはさきに、アンドリアス・ショイフツェリ間の本来の受精媒介者をなすものは、雌雄の個体間の集団的、非個性的媒介者としての、性的媒質とも言うべきものであると言った。また、雌たちは、この非個性的な性的関係を、雄たちよりはるかに現実的、自主的に受け入れることを明らかにした。これに反して雄たちは、虚栄と征服欲から、すくなくとも性的優越の虚名を保持しようとの気持から、求愛と雄の所有権とをもて遊ぶのである。すなわちこれは、自身を雄の集団として意識しようとする努力以外のなにものでもない大祭典によって粉飾された、性愛上の大幻想なのである。この集団舞踊によって、雄の有性生殖に対する無意味な世襲的幻想が抑制される。この目まぐるしく回る狂乱状態の群集は、雄のみの集団である。すなわちそれは、雌側からの奇妙な遮断のもとで、愛の舞踏を行ない、盛大な結婚式に没頭する花婿集団であり、合体者の集団なのである。その間雌たちは、無関心に、食いつくした魚やイカのそばで、舌つづみをうっている。有名なチャールズ・ジェー・パウエルは、この山椒魚の祭典のことを、雄性の原理にもとづく舞踊であると言って、つぎのように述べている。『なおまたわれわれは、雄の連帯的儀式の中に、称賛すべき山椒魚本来の集団主義の基礎と源泉を見てはいけないであろうか? 種の生活と発生が、性的な番《つがい》に立脚していない所においてのみ、真の動物社会が見いだされることを、われわれは十分考えておく必要がある。ミツバチ、アリ、シロアリなどがそうである。ミツバチの社会は、私、すなわち女王バチの房(王台)という言葉で、表現することができる。これとは別に、山椒魚の社会は、われわれ、すなわち雄性の原理によって表現される。受精のための性的媒質を、一定の瞬間に型どおりに射出する雄たちが一つに総括された時に、彼らははじめて巨大な雄となるのである。それは、雌の体内に侵入し、惜みなく生命を殖やす。彼らの父性は、集団的である。それゆえ、彼らの天性は集団的であり、共通の行為において表現されるのである。一方雌たちは、産卵から解放された後、つぎの春まで、多かれ少なかれ分散的で隠遁的な生活をおくる。雄たちだけが、一つの共同体をなしている。他のいかなる属の雌も、アンドリアスの雌ほどに、従属的な役割を演じることはない。雌たちは、共同の行為からしめ出され、いささかもこれに関与しないのである。化学的にほとんど知覚できないほどの酸味――しかも潮の満ち干によって無限に希釈された場合ですら効果を発揮するほど浸透力をもった酸味――を、雄性の原理があたりにふりまく時に、雌たちの産卵の時がやってくる。あたかもそれは、海洋そのものが、岸辺において数百万の胚を受精せしめる雄自身に代わるかのごとくである』チャールズ・ジェー・パウエルは、さらに続ける。『大多数の属の場合、自然は、あらゆる自尊心を度外視して、むしろ雌に生活上の優越を与えた。雄たちは、快楽のためと殺すために存在する。雌たちがその属を、力とゆるぎない美徳とにおいて表現しようとするのに対して、雄たちは高慢で狂暴な個体であるにすぎない。アンドリアスの場合(人間も幾分そうであるが)、この関係は本質的に違っている。雄は、雄の社会と連体性の形成によって、大いに生物学的優越を獲得し、雌よりもはるかに大きな集団として、属の発展を左右するにいたっている。アンドリアスでは、雄が著しく発展する傾向にあるので、ひいては、技術的な、したがって典型的に雄性的資質が優先するにいたっている。アンドリアスは、生まれつきの技術家であって、共同事業に対する性癖を有している。雄のこの二次性徴、すなわち技術的才能と組織感覚とは、われわれの目の前で、急速かつ着々と発展しつづけており、もしわれわれがいかなる強力な生命の因子が性の決定子をなしているかについて知識を有しないならば、多分これを自然の奇跡だと言ってしまうにちがいない。アンドリアス・ショイフツェリは、いわば動物の技術家であって、おそらくは近い将来、技術的に人間をさえ追い越してしまうであろう。そしてこれらすべてのことは、雄たちの純粋社会の形成という、自然的事実にもとづくものにほかならない』
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第二部 文明の階段を登る
一 ポウォンドラ氏新聞を読む
ある人は郵便切手を集め、またある人は初版本を収集する。しかし、ゲー・ハー・ボンディ家の取次役であるポウォンドラ氏などは、長いあいだ人生の意義が発見できずにいた口である。彼はずっと、有史前の墳墓に対する熱中と、国際情勢に対する情熱の間を行ったり来たりしていた。ところである夜、突如として、人生の充実のためにこれまで何が不足していたかが、パッと解けた。大事件というものは、つねに突如として起こるものなのである。
その夜のこと、ポウォンドラ氏は新聞を読み、ポウォンドロヴァー夫人は、フランチークのくつ下をかがり、そしてフランチークはドナウ川左岸の支流の名を、暗記するような振りをしていた。静かでいい気持だった。
「気違いざただ!」ポウォンドラ氏がうなり声をあげた。
「何か起こったんですの?」針に糸を通しながら、ポウォンドロヴァー夫人が尋ねた。
「相変わらずの山椒魚だよ」ポウォンドラ一世は答えた。
「ここに、この四半期に七千万匹売られたと書いてある」
「いけないことですの、それ?」ポウォンドロヴァー夫人が言った。
「そうだよ。これはおまえ、大変な数字だもの。考えてもごらんよ、七千万だとさ」ポウォンドラ氏は頭をうち振った。「人間どもはたぶん、これで大金をつかんだにちがいないがね。実際、なんてことを思いついたもんだろう」しばらく考えこんだあとで彼はつけ加えた。「ほらここに、『各所で新しい陸地と島が急速に建設されている』と書いてある。今では人間は、好きなだけ陸地が造れるんだ。これはおまえ、大変なことだよ。アメリカ発見以上に大きな、一歩前進だよ」
ポウォンドラ氏は、思いに沈んでしまった。
「新しい歴史時代だ、ねえ?」彼は言った。「大変だな。われわれは、偉大な時代に生きているって訳だ」
またもや長い沈黙になった。不意にポウォンドラ一世は、パイプの煙をプカリと吐いた。
「しかも、おれさえいなけりゃ何事も起こらなかったんだからなあ」
「起こらなかったって、何がですの?」
「山椒魚の取り引きがだよ。それから、『新しい世紀』もさ。よくよく考えると、この発端を作ったのはこのおれだからなあ」
ポウォンドロヴァー夫人は、穴のあいたくつ下から目を放して、彼をじっと見つめた。
「なぜかしら?」
「おれがあの船長を、ボンディさんのところに通したからなんだ。もし、おれがあの男を取り次がなかったら、船長は死ぬまでボンディさんと会わなかったはずだ。おれさえいなければ、何事もなくてすんだろうよ」
「船長さんは、誰かほかの方を見つけだしたかもしれないわ」ポウォンドロヴァー夫人は言った。
ポウォンドラ一世のパイプが、何を言うかとばかりにジュッと鳴った。
「そんなこたぁないよ。こういう腹芸のできるのは、ゲー・ハー・ボンディさんだけだもの。誰かと言っても、そいつは誰だかわからないけどさ、ボンディさんは、その誰よりも先が見えるんだ。ほかの人ならば、こういった仕事は気違いざただとか、ぺてんだとか、まあそんなふうに見たにちがいない。ところが、ボンディさんはぜんぜん違うんだ。あの人は目がきくからねえ」
ポウォンドラ氏は考えはじめた。
「あの男、あの船長、あれはなんて名だったかな? そうそう、ヴァン・トッホてんだ。見たところ、ありふれた人物だったがね。太ってて、あから顔で、それだけのことだった。ほかの取次役だったら、あなたどこへいらっしゃいます、ご主人ならいらっしゃいませんよ、てなことを言ったにちがいない。ところが、おれには何か予感みたいなものがあったんだよ。取り次ごうとおれは思ったんだ。ボンディさんから大目玉をくうかもしれないが、とにかく、取り次いでみようってね。しょっ中おれは言うが、取次役には特別な勘がなくっちゃいけないものなんだよ。ときには、男爵とも見える型の人物が呼鈴を鳴らすことがあるが、それがルーム・クーラーの販売人だったりするんだもんな。人を見分ける能力がなきゃいけない」ポウォンドラ一世は最後に言った。「ねえ、フランチーク、つまらない地位の人間にでも、どんなことがやれるか、ようくわかったろう。わたしをお手本に、いつも自分の義務を果たすように気をつけなさい」
まじめくさったポウォンドラ氏は、頭を振りながら、思い入れたっぷりにこの言葉に裏打ちした。
「わたしはな、船長を敷居から先に通さずに、迷惑のかかるのをさけることもできたんだよ。ほかの取次役なら、ふくれっ面をして、鼻の先でパターンと扉をしめちまったかもしれん。そうして、この驚くべき世界の進歩を抹殺《まっさつ》してしまったかもしれん。フランチーク、覚えておきなさい。みんなが自分の義務を果たしていれば、世の中は天国みたいなものなんだよ。わたしの言うことを、ようく聞いておおき」
「うん」しゅんとなって、フランチークは答えた。
ポウォンドラ一世は、せきばらいをして言った。
「母さん、はさみを貸しておくれ。のちのちの人のために、新聞を切り抜いておかなきゃならんからね」
このようにしてポウォンドラ氏は、山椒魚に関する新聞の切り抜きを集めはじめたのである。そしてこのようにして、われわれは、彼の収集家としての情熱に幾多の資料を負うことになった。彼がいなければ、これらの資料は、忘却の淵に沈められてしまったかもしれない。ところが彼は、刊行物の中に、山椒魚に関する記事を見つけ出すやいなや、どれもこれも切り抜いて、保存しておいた。しょっぱなにちょっと動揺はしたものの、後になると、山椒魚の|さ《ヽ》の字でもあれば、それののっている新聞をひいきのカフェからくすねてくる手管《てくだ》を、彼が見事にものにした事実をも、われわれは隠さないことにしよう。彼は、人目につかぬようにこっそりと、必要な部分を新聞からひきむしり、給士長の鼻っ先でそれをポケットにしのばせる技術において、ほとんど奇術師的な妙技にまで到達した。周知のごとく収集家というものは、コレクションに新しい標本を加える段になると、強盗殺人をさえあえて辞さないものなのである。しかもそれは、彼の良心を曇らすことさえない。
このようにして、ポウォンドラ氏の生活は意義をもつようになった。つまり、それは収集家の生活だったからである。彼は毎晩、寛大なポウォンドロヴァー夫人の目の前で切り抜きをより分けたり、読み返したりした。細君の方はといえば、男というものがある点では気違いで、ある点では子どもであることを知っていた。ビヤホール通いをしたり、カルタいじりをしたりされるよりは、切り抜きを作って悦に入ってもらってた方がいいわ、と思っていた。のちになって彼女は、コレクションのために考案された箱の置き場所を、タンスの中に作ってやったほどである。とにかく妻たるもの、主婦たるものに大きな要求をするのが、そもそも間違っているのではなかろうか?
というわけで、山椒魚に関する限りでは、ゲー・ハー・ボンディといえども、ポウォンドラ氏の端から端にわたる百科事典的な知識に驚嘆せざるをえなかった。それよりさき、ポウォンドラ氏はちょっと照れながら、山椒魚について書かれたものは、なんでもかんでも集めていると白状して、ボンディ氏にその箱を示した。ゲー・ハー・ボンディは、彼のコレクションを手放しでほめた。実際、腹のできた人間だけがこんなふうに、人をほめるにやぶさかでないものだし、実力のある者だけが他人を有頂天にさせる術を心得ているものである。なぜかというと、これらの人物にとっては、こういったことは一文にもつきはしないからである。だ い た い、大人《たいじん》というものは、どういうふうにふるまわねばならないか、すべてを胸三寸におさめているものなのだ。たとえばボンディ氏も、きわめて淡泊に、山椒魚シンジケートの事務所からポウォンドラ氏のところへ、文書課で保存の必要のない山椒魚に関する切り抜きを届けるように、命じたものであった。その結果、ありがたいながらもいささかろうばいしたポウォンドラ氏は、日ごとに世界のあらゆる言語で書かれた資料を、幾箱となく受け取ることとなった。これらの資料の中で、彼に特に宗教的な畏敬の念を起こさせたのは、スラヴあるいはギリシア文字で印刷された新聞や、ユダヤ、アラビア、中国、ベンガーリー、タミル(インドのマドラス州とセイロン島の北半に広がる言語)、ジャワ、ビルマ、ターリク(フィリピンに住む一種族)の文字で書かれた新聞であった。
「大したもんだな」それらを、と見こう見しながら彼は言った。「おれがいなければ、こういうことにはならなかったんだからな」
すでに述べたとおり、ポウォンドラ氏のコレクションの中には、山椒魚に関するありとあらゆる思いつきについて、じつに豊富な資料がそろっていた。もっともそれが、歴史学者を満足させるに足るものであったと言うことはできない。まず第一に、補助歴史学と、記録収集方法の上で専門知識を欠いていたポウォンドラ氏は切り抜きに出所を示さず、日づけをも付さなかった。そこでその資料がいつ、どこで発表されたものやら、かいもくわからない結果となった。第二に、集まった材料があまりにおびただしいところから、ポウォンドラ氏は、おもに彼が重要だと思った大きな論文だけをしまっておいて、短いニュースや電報は、炭箱の中にうち捨ててかえりみなかったのである。そこで、収集期間をつうじて、実際的な報道や資料は、きわめて僅かしか集まっていなかった。第三に、ポウォンドロヴァー夫人も、大いにこの仕事に参与するところがあった。つまり、ポウォンドラ氏の箱がひどく一杯になると、彼女はそっと切り抜きの一部を取り出して、それを焼き捨てた。こんなことを、年に数回も繰り返した。彼女は、あまりかさばらない資料、たとえばマラバル(インド西南部)、チベット、コプト文字(エジプト語から派生したもの。文字はギリシア語のアルファベットに数個の文字を加えて書きはじめられた)などによって印刷された資料だけは、大目に見ていた。で、こういった切り抜きはほとんど完全に残ってはいたが、われわれの知識は完璧というわけではないので、それはさほどに役にたたなかった。
結局、われわれの手許にある山椒魚の歴史に関する資料は、たとえば十三世紀の土地台帳や女流詩人サッフォ全集のように、ばらばらなものになっているといううらみがあった。つまり、巨大な発展過程の個々別々な時期についての資料だけが、偶然にわれわれに伝わるという結果になってしまった。それはともかく、きわめてブランクが多いなりにも、われわれはいちおうこの過程を、[文明の階段を登る]という見出しの下に、以下、簡単に描きだす努力をはらってみようと思うのである。
二 文明の階段を登る――山椒魚の歴史
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文献 ゲー・クロイツマン『山椒魚の歴史』、ハンス・テイッツェ『二十世紀の山椒魚』、クルト・ウォルフ『山椒魚とドイツ国民』、サー・ハーバート・オーエン『山椒魚と大英帝国』、ジォヴァンニ・フォカジャ『ファシズム時代における両生類の進化』、レオン・ボンネ『両生類と国際連盟』、エス・マダリヤーガ『山椒魚と文明』、その他。
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記憶すべき太平洋輸出会社の総会の席上でぶちまくった、まさに生まれいでようとするユートピアに関する予言的大演説の中で、ゲー・ハー・ボンディが述べた歴史時期のことが話題になるやいなや、われわれはその歴史的時間を、これに先立つ世界史に対して行なわれたように、世紀あるいは十年をもって数えることができなくなる。わずかに、四半期間国民経済概観の出る期間をもって時をはかること、つまり一年の四分の一をもって計算することができるだけである。この時代における事件の続出は――もしこういうことが言えるならば――、大規模な企業のようなものであった。したがって、歴史のテンポもまた異常に速くなったのである。
とにかくわれわれにしてからが、何か良いことなり悪いことなりが世界の上に起こるかもしれぬという時に、数百年も手をこまねいてはいられない。それにたとえば、かつて数世紀にわたって行なわれたという民族移動さえも、近代の輸送機関をもってすれば、三年ばかりで完了したはずである。でなければ、運輸業でもうけるなどということは、まずむずかしい。ローマ帝国の滅亡、新大陸の植民地化、インディアンの殲滅《せんめつ》なども同じことである。今もしこれを、金融的に強力な企業にまかせるならば、比較にならぬほどの速さでやってのけるにちがいないのである。この点、山椒魚シンジケートがあげた大きな成果と、世界史に対するその大きな影響とは、明らかに、今後の企業家の指針となるであろう。
その証明として、直ちにポウォンドラ氏のコレクションから、最初の切り抜きを引用することにしよう。
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山椒魚関係取引概況
本四半期末に、山椒魚シンジケートによって発表された報告によれば、山椒魚の売上げは三〇パーセントの増加を示した。三か月間に売りさばかれた山椒魚は約七千万であった。しかして特に、中南米、インドシナ、イタリア領ソマリランド向けが多かった。近く、パナマ運河の掘り下げ、拡張工事、グァヤキル湾とトレス海峡の浅瀬や暗礁の除去工事が行なわれることになっている。
これらの作業のみでも、およそ九〇億立方メートルの岩石を除くことが要求されている。マデイラ―バーミューダ間航空路に、大きな航空島をきずこうとする建設工事は、来春から開始される予定になった。さらに、日本の委任統治下にあるマリアナ諸島では、海岸の埋立工事が続けられている。目下、このような方法によって、テニアン島とサイパン島の間に、『軽い陸地』と称せられる八四万エーカーの新しい陸地ができあがっている。需要の増加にともない、山椒魚の価格は、大いに上がり気味である。相場次のとおり。[班長級]六一、[作業集団]六二〇。商品の予備は十分である(チェコスロヴァキア情報)
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山椒魚の歴史は、当初から、合理的で巧妙な組織をその特徴としていた。これはなんといっても、まず第一に山椒魚シンジケートの功績であったが、しかしそれだけではなかった。科学、博愛主義、教育、言論およびその他の要因もまた、山椒魚の異常な伝播、発達に作用したのである。とはいえ、膨張をさまたげる幾多の障害を克服することを強いられながらも、山椒魚のために、日ごとに新しい海岸や国々を開拓し続けたのは、まさに山椒魚シンジケートにほかならなかった。たとえば、日づけのないつぎの新聞記事の切り抜きなども、この種の障害について述べている。
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英国、山椒魚の移入を禁止
下院議員J・リーズ氏の質問に対して、サー・サミュエル・マンドヴィルは、本日つぎのように答弁した。
「帝国政府は山椒魚の輸送に対し、スエズ運河を閉鎖することにした。英領諸島の海岸あるいは領海内において、一匹の山椒魚たりとも作業せしめるようなことがあってはならない。これらの方策の動機となっているのは、一つには英国海岸の安全であり、二つには奴隷売買に関する従来からの法律、ならびに協約の存在である」
B・ラッセル議員の質問に答えて、サー・サミュエルは、「この規定は、英自治領および植民地には適用されない」と述べた(ロイター通信)。
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インドと中国の港々がつぎつぎに山椒魚の住むところとなり、さらに、アフリカ海岸およびアメリカ大陸まで進出し、その際、メキシコ湾に新しい最も完備された孵化《ふか》場ができあがり、大規模な移住の波と並行して、来るべき輸入の前衛隊である山椒魚の小群が各地に送られている事情は、山椒魚シンジケートの四半期報告によって、これを詳細にうかがうことができる。たとえば、山椒魚シンジケートは、オランダ水中工事施行事務所に、第一級の山椒魚を千匹寄贈し、マルセイユ市に、旧港湾の浚渫《しゅんせつ》作業のため六百匹贈呈している。一言にして言えば、地球上における人類の移住と違って、山椒魚の普及は、計画的に、しかも大がかりに行なわれたのである。もしもこの仕事が自然そのものにゆだねられたとしたら、おそらく数百年、数千年を要したであろう。実際、自然はいついかなる場合にも、人間のいとなむ商工業ほど、進取的でも打算的でもなかった。山椒魚の需要増加は、その出産率にも大いに影響した。雌の平均出産率は、年に一五〇匹にまで増加した。サメによってもたらされる、なにがしかの周期的な損害も、この肉食魚を防衛するため、水中連発ピストルとダムダム弾を山椒魚に与えて以来、ほとんど後をたつようになった。ミルコ・シャフラネク技師によって発明され、ブルノ兵器工場で製作されたピストルが、この目的のために各地で使用されるようになった。
しかし、山椒魚の伝播は、どこででも円滑に進んだ訳ではなかった。ある所では、二、三の団体が、人間の労働に対する非良心的な競争であるとして、この新しい労働力の輸入に激しく反対した。
すなわち、つぎのような新聞記事が現われるようになったゆえんである。
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オーストラリアにストライキの波
オーストラリア労働組合の指導者ハリー・マクナマラは、港湾、運輸労働者および発電所、そのほか各企業労働者のゼネストを行なうことになるかもしれないと言っている。
労働組合は、オーストラリアへの労働山椒魚の輸入を、移民法にもとづいて、厳重に割当て制にせよと要求している。これに反して、オーストラリア農民は、山椒魚飼料の需要に関連して、国産トウモロコシおよび獣脂、特に羊脂の販売がいちじるしく増加していることから、山椒魚輸入制限の撤廃を希望している。一方、山椒魚シンジケートは、輸入される山椒魚一匹について、それぞれ六シリングずつ労働組合に支払おうと申し出ている。政府は、山椒魚を水中作業だけに従事させ、社会道徳を考慮して、四〇センチメートル、すなわち胸から上の深さから出さないような方法をとる用意があると称している。これに対して、労働組合は一二センチメートルを固執し、現行登録税率に従って、山椒魚一匹につき、一〇シリングを支払うよう要求している。会計局の仲裁によって、妥協が成立する模様(アヴァス通信)。
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一部では、山椒魚が海生動物を食うので、それが漁業の脅威になるという意見さえ述べられた。また、水底の穴やそれをつないでいる通路などによって、山椒魚が海岸や島を破壊してしまうだろうと断定した人々も多数いた。山椒魚の輸入にはっきり反対する人々も、少なくなかったのである。しかし、大昔から知られているとおり、新しい事実と発見は、いつも抵抗と不信に遭遇するものときまっている。工場の機械がそうであった。山椒魚の場合にも、同じことが繰り返されることになったのである。
別の所では、これとは違った誤解も生じた。しかし、山椒魚の取り引きがきわめて洋々たるものであったことと、大宣伝によってえられる収益を正当に評価した世界の諸新聞が精力的に協力したことによって、山椒魚の輸入は、多くの場合、大きな関心と承認のうちに迎えられることとなった。またときには、激励をもって迎えられさえした。
さてわれわれは、ポウォンドラ氏のコレクションの中から、つぎのような興味ある資料を、ここに引用することにしよう。
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山椒魚、溺死せんとする三十六名を救助(特派員発)マドラス、四月三日
定期航路船『インディアン・スター』号は、マドラス港内において、約四十名の乗客をのせたはしけと衡突した。その結果、はしけは見る見るうちに沈没した。しかるに、水上署のカッターが用意される以前に、同港内で沖積土の除去作業に従事していた山椒魚が、遭難者の救助にかけつけ、三十六名を無事海岸へ送りとどけた。ある山椒魚などは、三人の婦人と二人の子どもを救助した。この勇敢な行為を賞して、同地の官辺はこの山椒魚に対し、防水ケース入りの感謝状を授与した。
一方、当地の市民は、溺《おぼ》れようとする上流人に山椒魚が手を触れたというので、大いに憤慨している。一般の市民は、山椒魚を『不潔』で『手を触れてはならぬもの』と見ているのである。すなわち、数千人にのぼる現地人が埠頭《ふとう》に集合して、山椒魚を港から追放せよと要求した。これに対して、警察側も秩序維持にのりだし、かろうじて鎮圧に成功した。結局、わずかに死者三名逮捕者一二〇名を記録しただけですんだ。
夜の九時までに、秩序は回復された。山椒魚は作業を続けている。
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山椒魚の取り引きは、主として山椒魚シンジケートの手に集中され、同シンジケートは、特にこのために建造した専用の輸送船にのせて山椒魚を運んだ。山椒魚の取り引きと、いわばその取引所の中心となったのは、シンガポールにある『山椒魚会館』であった。
次に『英字紙、十月五日付』に記載されている客観的で詳細な、取引記事を引用してみよう。
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『S=取り引き』
シンガポール十月四日。班長級―六三。重量級―三一七。作業集団―六四八。はんぱもの―二六・三五。くず物―〇・八、卵―八〇―一三二。
新聞の読者は、経済欄の綿花、すず、小麦の相場速報のなかに、毎日、以上のような報道を見られるでありましょう。もちろんあなたは、この謎のような数字と言葉が、何を意味しているのか、すでにご存知のことと思います。ご承知の通り、これは山椒魚の取り引き、すなわちS=取り引きであります。けれども、この取り引きが実際にはどんなものであるかについては、大多数の読者はご存知ないかもしれません。きっと皆さんは、幾千という山椒魚がうごめいている市場がそれであって、その中をヘルメットや頭巾《ずきん》をかぶった商人たちが歩き回っては、陳列された商品を見たり、体格のいい元気な若い山椒魚をつっついてみたりして、「こいつがいいな。いくらかね?」と言っているものと思っていられるでしょう。
ところが、山椒魚の取り引きは、ぜんぜんこういったものとは違うのです。シンガポールにあるS=取り引きの大理石のビルディングにはいっていっても、一匹の山椒魚さえみられないでしょう。その代わりに、白い服を着たスマートで敏捷《びんしょう》な会社員たちが、目にうつるでありましょう。彼らは電話で注文を受けては、「かしこまりました。班長級は六三でございます。どれほどお入用でございますか? 二〇〇匹でございますね。かしこまりました。重量級が二九に、作業集団が一八〇匹でございますね。結構でございます。承知いたしました。汽船で五週間かかりますが、よろしゅうございますか? ありがとうございました」と応待しています。S=取引会館の中は、電話の話し声でいっぱいです。それは市場というよりは、むしろ役所か銀行といったような印象を与えます。ところが、正面にイオニアふうの円柱をもったこの白いすっきりした建物こそ、ハールン・アル・ラシード(七六三―八〇九、アッバース朝第五代のカリフ)時代のバグダードよりも、もっと大きな世界的市場なのです。
さて、先にかかげました商業用語まじりの商況速報にかえってみましょう。
班長級―これは特に選抜された知能的に優秀な、原則として三歳の山椒魚でありまして、作業班の監督や班長の職務を遂行させるために、わざわざ訓練されているものです。この山椒魚は一匹ずつ別々に売られ、重量はその際考慮されないことになっており、知能だけが考慮されることになっています。ちゃんとした英語を話すシンガポールの班長級が一等優秀で、信頼のおけるものとされています。カピタノス、技師、マライの酋長、組頭などとも呼ばれている同じ級の山椒魚も、一匹ずつ売られますが、しかしなんといっても班長級が他のどれよりも一番優れています。現在その価格は、一匹六〇ドルを上下しています。
重量級―力士のように重いからだをしたもので、一〇〇ないし一二〇ポンドの体重を有する通常二歳の山椒魚です。これは班(ボディといわれています)単位で売られ、一班は六匹からなっています。この山椒魚は、たとえば石切りだとか、大きな岩の掘り起こしだとかいったような最も重い労働を目的として訓練されています。この通報では[重量級―三一七]となっていますが、これは六匹の重量級山椒魚から成る班の価格が三一七ドルだという意味です。それぞれの重量級班には、原則として班長兼監督である班長級が付くことになっています。
作業集団―これは八〇から一〇〇ポンドまでの体重を有する普通の労務用山椒魚の集団で、二〇匹ずつまとめて売られることになっています。これらの山椒魚は、集団的な作業に用いられるもので、主として浚渫《しゅんせつ》作業、土手、堤防建設工事などに使役されます。この集団にも班長級が一匹付くことになっています。
はんぱもの―これは独自な部門をなしています。ある種の原因によって(たとえば、特殊な設備をした大きな飼育場で飼育されなかったといったような)、必要な訓練を受けていない山椒魚がこれです。厳密に言えば、中には非常に有能な山椒魚もいますが、だいたいは半ば野生的な山椒魚だと言えましょう。一匹ずつか、ダースで買っていただくことになっていまして、班や集団を使うのには適しない、各種の小規模な補助的作業に使役されることになっています。最近企業主のみなさんは、班長級、重量級、作業集団、くず物に分けたあとで、それぞれ訓練を加える素材として、これを購入しておられます。
くず物―値打が低くからだの弱い山椒魚、あるいはなんらかの肉体的な欠陥のある山椒魚をこう呼んでいます。これは一匹だけや集団などでは売られずに普通こみで、つまり数十トンという目方で売られます。目下、一キログラム七ないし一〇セントとなっています。率直に申し上げますと、これが何に適しているか、またなんの目的のために買われているかわかっていませんが、だいたい、水中の軽作業用として買われているようです。誤解をさけるために申し上げておきますが、山椒魚は人間の食用にはなりません。くず物はほとんど、中国の仲買人によって購入されていますが、それがどこにさし向けられているかは不明です。
卵―これは山椒魚の卵です。もっと正確にいえば、一年内の幼生です。だいたい数百というふうに、まとめて購入されていますが、価格が安く、輸送の費用が最低ですむところから、売れ行きはすこぶる良好です。つまり幼生は、現地で、労働に適する年齢まで成長することになるわけです。成熟した山椒魚は、毎日水から出してやらなければなりませんが、これに反して、幼生は水を出ることができないので、タンクで運ばれることになります。しばしば卵の中には非常に有能なのがいて、班長級の標準タイプをしのぐくらいです。このことは、卵の取り引きを大いに刺激しています。きわめて能力の高い山椒魚は、あとで一匹数百ドルにも売れます。アメリカの富豪デニッカーのごときは、ひととおり九か国語を話す山椒魚に二〇〇〇ドルを投じ、つぎにこれを特別な船にのせてマイアミに送っています。この輸送費だけでも、約二万ドルついたと言われています。また最近、山椒魚の子は、いわゆる山椒魚プールにさし向けるために、購入されています。つまりこのプールでは、敏捷《びんしょう》なスポーツ用の山椒魚をよりわけたうえで、訓練しているのです。さてこの山椒魚を、貝殻形に作った平底船に三匹ずつつなぐのです。山椒魚をつないだ貝殻舟競争は目下大流行で、パーム・ビーチ、ホノルル、キューバなどでは、アメリカの女性に一番好まれる娯楽となっています。そして[トリトン競争]だとか、[ヴィーナス・レガッタ]だとか呼ばれています。装飾をほどこしたかるい貝殻舟の上には、丸裸とたいしてかわらない、豪華な水着をつけた競技者が、三匹一組の山椒魚をつないだ絹の手綱をにぎりながら立っています。最後にヴィーナスの称号が賞として授けられるわけです。[罐詰王]と呼ばれているJ・S・ティンカーはポセイドン、ヘンギスト(五世紀に南イギリスに侵入したジュート族の指導者)、エドワード王と呼ばれる三匹の競争用山椒魚を買い入れ、そのために三万六〇〇〇ドル余りも支払いました。しかし、こういったことは、全世界に強健な班長級、重量級、作業集団などを提供することだけに専念しているS=取り引きの事業の枠をこえるものであります。
山椒魚飼育場という言葉が、先程出てきました。読者のみなさんはこれを、柵をめぐらした大規模な飼育場だというふうに想像しないでいただきたいのです。これは数キロにおよぶガランとした海岸にすぎません。そうしてところどころに波形ブリキで屋根をふいた小屋が、ポツンポツンと建っているきりなのです。一つは監督の小屋、も一つは獣医の小屋、そのほかのは番人たちの小屋です。引き潮になってはじめて、海岸をいくつかのプールに分けている長い堤が、海岸から海に向かってのびているのが見えます。一つは[卵]のはいっている所、も一つは班長級の山椒魚のはいっている所といった具合です。それぞれの種類は別々に飼育されており、訓練も別々に行なわれています。訓練は夜間に行なわれます。
たそがれになると、山椒魚どもが、海底の穴の中から岸へ上がってきて、指導係のまわりに集まります。最初の訓練は、語学です。指導者は山椒魚どもに向かって、たとえば[掘る]といったような言葉を言ってきかせ、つぎにその意味を実地について教えます。おわると指導係は、山椒魚を四列縦隊に並ばせて、行進の訓練を行ないます。そのつぎは二〇分間の体操、それから水中での休憩です。休憩が終わってから山椒魚は、各種の器具、工具の操作をならい、その後の三時間は、指導係の監督の下に水中工事の実際を学びながら、いろいろな作業を行ないます。訓練がすんでから、山椒魚は、トウモロコシの粉と脂を主にした山椒魚ビスケットをもらいます。班長級と重量級には、このほかに肉が与えられます。怠けたり反抗したりした場合には、欠食の罰が加えられます。しかし体刑は加えられません。もっとも山椒魚は、肉体的痛みに対しては、あまり敏感ではありません。日の出とともに、山椒魚飼育場には、死のような静寂がやってきます。人々は寝にゆき、山椒魚は海の中に姿を消してしまいます。
この日課表は、一年に二度だけくずれます。一度は、二週間放っておかれる交尾の時であり、も一度は飼育場に、山椒魚シンジケートの輸送船がやって来る時です。輸送船は、どの種類の山椒魚をどれだけ船に積むかという命令を、監督にもたらします。積み込みは、夜行なわれます。飼育場の監督である高級船員と獣医が、ランプの光に照らされたテーブルを前にしてすわり、一方番人と船の乗組員とは、海に逃れようとする山椒魚の退路をたつ役目をひきうけます。つぎつぎに山椒魚がテーブルの所にやってきます。そこで、『適』『不適』がきめられるのです。それがすむと、発送さるべき山椒魚は、彼らを船まで運ぶボートにはいこみます。多くの山椒魚が、すすんでこれに応じます。つまり、かねてから、命令には直ちに従うように訓練されているわけです。鎖につなぐといったような軽い刑罰を加えなければならない場合などは、きわめてまれです。[卵]つまり子は、簡単に網でとらえます。
山椒魚の輸送であっても、人道的に、かつ衛生的に行なわれます。貯水槽の水は、毎日ポンプによって取り替えられます。山椒魚に対する給与も、きわめて良好です。輸送中の死亡率は、一〇パーセントに達するか達しないくらいです。動物愛護協会の求めによって、どの輸送船にも司祭が乗りこんでいて、山椒魚の取り扱いが人道的であるかどうかを監視しています。そして毎晩、山椒魚に向かって、人間に対する尊敬を教え、山椒魚の幸福を父親のように願うほかに他意のない未来の主人への感謝、服従、愛の義務について説教を行ないます。しかし、山椒魚は父性の概念を知りませんので、この『父親としての配慮』なるものについて説明を加えるのは、かなりに困難なようです。知能の発達した山椒魚の間では、この配属司祭は『山椒魚のパパ』と呼ばれています。輸送中に人間の技術の奇跡を教え、同時に、山椒魚の将来の使命と義務を教えるために、学術・教育映画を山椒魚に見せたことがありますが、これも期待したとおりの効果をあげることができました。
さて、このS=取り引き(山椒魚取り引き)をスレイヴ取り引き、つまり奴隷売買とかんちがいする人がいます。じつに驚きいったしだいです。第三者として観察してわれわれが申し上げられることは、かつての奴隷売買が衛生の点で、現在の山椒魚売買のように一点も非のうちどころなく行なわれていたとするならば、奴隷もまた祝福されるべきだということです! 船長や乗組員は、依託された山椒魚の生命について、給料と賞与をかけて責任をもつことになっていますが、それは別としても、高価な山椒魚などは特に、懇切丁寧な取り扱いを受けております。筆者は、輸送船『シー・シー第十四』号のあらくれ水夫たちが、同じ貯水槽に入れられた二四〇匹の第一級山椒魚が赤痢にかかったのを見て、大いに悲しんでいるのを目撃したことがあります。彼らは、目に涙を浮かべんばかりの有様で山椒魚を見舞いに行き、そのあげく『くたばりやがって、まんが悪いっちゃねえや!』という素朴な言葉をもって、彼らの真に人道的な感情を表現したのであります」
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山椒魚の輸出増加にともなって、[闇]取り引きが発生したのはもちろんである。山椒魚シンジケートといえども故ヴァン・トッホ船長が、ミクロネシア、メラネシア、ポリネシアの離れ小島にばらまいた山椒魚まで統制し、管理することはできなかった。その結果、山椒魚の生息している多くの入江が、そのままに放置されるという事態が生じた。ひいては、合理的な山椒魚の繁殖事業とともに、天然の捕獲の仕事もまた、きわめて大規模に行なわれるようになってきた。これは多くの点で、かつて行なわれたアザラシ狩りを思い出させるものであった。この仕事は、ある程度まで非合法であったが、山椒魚保護法といったようなものがなかったために、捕獲者は最悪の場合でさえ、ある国の領海に許可なくして立ち入ったということで追及される程度にとどまった。のみならず、これらの島々の山椒魚は、ひどく繁殖したうえ、ここかしこで土民の田畑に損害を与えるので、山椒魚の『乱獲』自体、彼らの繁殖にたいする自然的調節であるとして、黙認されるところとなった。
当時行なわれた山椒魚狩りについて、つぎのような目撃者の記事がある。
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二十世紀の海賊
われわれの船長が、国旗をおろし、ボートの用意をするように命じたのは、夜の十一時であった。当夜は銀色のもやのかかった月夜であった。われわれは、一つの小島をめざしてこいで行ったが、思うにこれは、フェニックス諸島(ギルバート諸島の東南東にある)のガードナー島のようであった。月のある晩には、山椒魚が岸に出てきて、踊りを踊るのである。そしてあなたは、彼らのすぐそばまで近づくことさえできるのである。彼らは、あなたたちに気がつかないほどに、声なき乱舞に没入してしまうのだ。岸に降り立ったわれわれは、みんなで二〇名であった。われわれはオールを手に、散開隊形をとって進み、乳色の月光の流れる浜に黒くうごめいている群を、半円形にとり囲みはじめた。
山椒魚のダンスの印象を伝えるのは、なかなかにむずかしい。約三〇〇の山椒魚が後足で立ち、内側に顔を向けて、きちんと円形に並んでいた。円の中はあいていた。山椒魚は麻痺《まひ》したように動かない。それは、ある密教の祭壇にめぐらされている囲いを思わせた。が、ここには祭壇も神像もないのだ。不意に山椒魚の一匹が『ツ・ツ・ツ』と舌を鳴らして、上体をくねくねとくねらせはじめた。この動きがだんだんに、踊りの輪に伝わって行き、数秒後にはすべての山椒魚が、その場を動かず、物音ひとつたてずに、恍惚《こうこつ》の中でますます早く、ますます幻想的にからだをくねらせはじめた。
一五分もたつと一匹の山椒魚が疲れきってしまう。つづいて二匹目が、そして三匹目がまいりはじめる。彼は力つきたように、何回かよろめいたあげく、じっとなってしまう。するとほかの山椒魚たちも、いっせいに聖像のように、じっとすわりこむ。しばらくすると、またもやどこかで静かに『ツ・ツ・ツ』という声がして、一匹の山椒魚がからだをくねらせはじめる。そして、その踊りがただちに輪全体にわたっていくのである。私のつたない筆では、この有様を生き生きと描きだすことはできない。しかしあなたが乳白色の月光と、うち寄せる男波女波の響きとを、くわえて想像してくだされば、この描写から、なにか模糊《もこ》とした幻術をおもわせる気分や、妖術もどきの調子を感じとってくださるに相違ない。私は立ちどまった。私ののどは、無意識の恐怖のためにしめつけられた。『足を動かしなよ。土に根がはえちまうぜ』と、近くにいた友が私に叫びかけた。
われわれは、踊っている山椒魚をとりまいた輪を、だんだんせばめていった。オールをしっかり構えたわれわれは、山椒魚に聞きつけられるからというよりは、夜であるという理由から、小さい声で口をききあった。『まんなかめがけてつっこめ!』と高級船員が号令をかけた。われわれは走りかかって、くねくねと動いている輪をめがけてどっとばかりつっこんだ。にぶい音をたてながら、オールが山椒魚の背にうちおろされた。その時になってやっと、山椒魚は驚いてわれに返り、まん中の方へ集まりはじめた。山椒魚のあるものは海へ逃げ出そうとしたが、オールの一撃をくらい、痛みとおそれに悲鳴をあげながら、後ろへすっとんだ。われわれは、たたかれてたがいにつき当ったり、幾重にも重なりあったりしている山椒魚どもを、輪のまん中の方へ追っていった。
一〇人ばかりの人々がオールで作った柵の中に彼らをとじこめ、別の一〇人ばかりが、柵をぬけ出て逃げだそうとする山椒魚をおしかえしたり、たたきのめしたりした。すると、くねくねとうごめいては、混乱してなき騒ぐ黒い肉のかたまりみたいなものができあがった。そしてぶったたかれるたびに、その黒いかたまりはにぶい音をたてるのであった。そうこうするうちに、二つのオールの間に、通り路があいた。そこから抜け出そうとした一匹の山椒魚は、後頭部に棍棒《こんぼう》をくらって気を失ってしまった。同じことが、二匹、三匹、二〇匹ほどになるまで繰り返された。『穴をふさげ』と、高級船員がどなった。オールの間にあいた通路はふさがれた。バリー・ビーチと、くろんぼと白人の合いの子であるディンゴとが、気を失った山椒魚の足(片手に一匹ずつ)をひっぱり、まるで袋のようにボートに向かって砂の上をひきずって行った。ひっぱられて行くうちに、一匹の山椒魚が岩の間にひっかかった。船員は手荒くひっぱった。とたんに足がちぎれてしまった。『てえしたこたぁねえや』と、私のそばに立っていたマイク老人がうなるように言った、『また生えらあ』。気を失った山椒魚どもがボートに投げこまれると、高級船員はそっけなく『つぎ』と命令した。とふたたび、別の山椒魚の後頭部に、棍棒が雨とふりそそがれるのであった。さて、ベラミーという名のこの高級船員は、教育のある謙虚な人物で、チェスの名手であった。しかしこの場合、狩りこみ、つまり山椒魚狩りの成否は、ひとえに彼の双肩にかかっていたので、礼儀もへちまもあったものではなかった。結局こんなふうにして、われわれは二〇〇匹以上の山椒魚を捕獲した。約七〇匹ばかりがその場にぶったおれていたが、明らかに死んでしまっていたので、運んでいく必要はなかった。
捕えられた山椒魚どもは、船の貯水槽に投げこまれた。われわれの船は古い油槽船であった。貯水槽は清掃がゆきとどいていず、ひどく石油のにおいがして、水の上には虹のような油の膜がはっていた。空気をかよわすために、その膜は取り除かれた。山椒魚がそこに投げこまれた様子は、そうめん入りのぞうすいが煮つまったような、なんともはや気色の悪いものであった。ところでそうめんは、哀れな様子で力なくうごめいていた。まる一日というもの、気がつくのを待って、山椒魚はそのまま放っておかれた。翌日になると、長い竿《さお》をもった男が四人現われ、その竿で『ぞうすい』(玄人筋では『スープ』と呼ばれている)をつつき始めた。彼らは貯水槽にいっぱいつまっている山椒魚をひっかきまわしては、すでに動かなくなったのやら、肉と骨とが離れてしまっているのやらを見つけるのであった。見つかったやつは、長いかぎにかけて、貯水槽から引き上げた。『ぞうすいはきれいになったかね?』と、しばらくしてから船長が尋ねた。『イエス・サー!』『それじゃ水を入れろ!』『イエス・サー!』。このぞうすい掃除は、毎日繰り返されなければならなかった。
そのたびにかならず六匹から一〇匹ぐらいの[きず物]を、海に投げこまなければならなかった。われわれの船にはたえず、栄養のいいサメの行列がくっついていた。貯水槽からは、なんとも鼻もちならぬにおいが立ちのぼった。水は定期的に取り替えられたが、それでも黄色い色に変わっていた。そして不潔物やら、グチャグチャになったビスケットやらが一面に浮いていた。その中に、黒いからだが重い息づかいをしながら、ぼんやりと横たわっているのである。『こいつはまだいい方ですぜ』とマイク老人が言った。『あっしは、ベンジンを入れる鉄製のタンクに入れて運んでいる船を見ましたぜ。もちろん、みんな死んじゃったがね』
六日の後われわれは、ナノメア島においてまたもや商品を仕込んだ。
山椒魚の商売というのは、だいたいこういったものである。本当をいえば、これは闇取り引きというよりは、一晩にぱっと行なわれる正真正銘の海賊行為である。それはさておき、売買される山椒魚のほとんど四分の一が、この方法で手に入れられるものとみなされている。つまり、山椒魚シンジケートとしては常設の飼育場を置くのに適しないような、生息地があるわけである。そして、太平洋上の小島では、荷やっかいになるほどに山椒魚がふえてきている。土着民は山椒魚をいやがり、穴や通路で島をあなだらけにしてしまうとこぼしている。そのために、植民地の統治にあたる当局も、山椒魚シンジケートとともに、山椒魚の生息地荒しを、見て見ぬふりしているわけである。山椒魚の捕獲だけを仕事にしている海賊船の数は、約四〇〇隻とされている。
そのうえ小企業だけでなく、大きな船会社までが、この近代的海賊行為に従っている。その中で、最も大きなのは太平洋貿易会社で、本社をダブリンに有しており、しかも会長には、尊敬すべきチャールズ・B・ハリマンをいただいている。一年前までは状況はもっとひどかった。中国の匪賊テングのごときは、三隻の船を擁して、山椒魚シンジケートの飼育場を襲い、抵抗しようものなら、飼育場員であろうとなんであろうとうち殺しさえした。昨年十一月、彼はその船隊もろとも、ミッドウェー付近で、アメリカの砲艦ミネトンカ号によってうち沈められてしまった。その時以来、山椒魚略奪はさほど猛烈ではなくなったが、それでも二、三の原則が協定されて、またもや拡大しそうな形勢にある。つまりこの原則を守る限り、強奪は非公式ながら黙認されているのである。この原則たるや、他の国家に属する海岸を襲う場合には国旗をおろさねばならない、山椒魚の捕獲を口実として他の商品の輸出入を行なってはならない、襲撃によって捕えた山椒魚はダンピング価格で売ってはならない、契約する場合これらの山椒魚は二等品とされなければならない、といったたぐいのものである。
闇の山椒魚は、一匹二〇ドルから二二ドルの間で取り引きされている。一般の意見によれば、この種の山椒魚は質的には低いが、海賊船で手荒な取り扱いを受けているので、きわめて忍耐力が強い由である。捕獲された山椒魚のうち、輸送されたのちまで生き残るのは、二五パーセントか三〇パーセント程度だとされているが、その代わりにこれらの生き残り組は、どのようなことにも耐えられるのである。取り引き上の隠語では、これを『マカロニ』と呼んでいるが、最近では、定期取引情報にも『マカロニ』についての情報がのるようになった。
この山椒魚狩りから二か月たったのち、私はサイゴンにある[オテル・ド・フランス]のロビーで、ベラミーを相手にチェスに興じていた。私はもちろん、すでに雇い水夫などではなかった。
「ねえ、ベラミー君」私は彼に言った。「君はれっきとした人物で、いわばジェントルマンでしょう。もともと下劣で奴隷売買とかわらない仕事をやってて、どうして君、不愉快じゃないんですか?」
ベラミーは肩をすくめた。そして、いやいやながらつぶやくように言った。
「山椒魚は山椒魚にすぎませんからね。そうでしょう」
「二百年前にも、『くろんぼはくろんぼにすぎん』てなことを言ってたんじゃありませんか?」
「そうだろうじゃないですか?」ベラミーは答えた。「王手!」
この勝負は私の負けだった。そのうえ私には、チェスの差し口が、どれもこれも新しい手ではなくて、すでに誰かによって試みられているような気がしてならなかった。これが昔だったら、象牙海岸では、同様にきわめて謙虚で典雅なベラミー君が、黒人をつかまえて船倉におしこんでは、ハイチやルイジアナに運んでいたのかもしれない。この場合のベラミーも、大変結構な意図のもとに行動していたわけである。ベラミー君は、昔も今も、いつも大変結構な意図のもとに行動しているのだ。だからこそ、ベラミー君たちをため直すことがむずかしいのである。
「黒の負けだ」ベラミーは満足気にそう言ったのち、伸びをしてたち上がった。
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組織よろしきをえた取り引きと、刊行物による大々的な宣伝とならんで、山椒魚の普及のうえで大きな役割を演じたのは、大規模な技術的計画が全世界に波のようにあふれたことである。ゲー・ハー・ボンディは正しくも、今後人間の知恵が、新大陸や新しいアトランティスに向けられるようになるだろうと予言したのである。山椒魚の世紀が続いた間というもの、技術界の代表者たちの間では、コンクリートの岸にかこまれた重いどっしりとした大陸を建設すべきであるか、あるいはまた、海の砂を土台とする軽い堤防状の陸地を建設すべきであるかという、有益な論争が活発に続けられていた。
ほとんど毎日といっていいくらいに、巨大な計画が現われた。イタリアの技師たちは、地中海のほとんど全体を包含する(トリポリ、バレアル諸島、ドデカネーゼにわたる)『大イタリア』の建設を提案するかと思うと、イタリア領から東に向かいインド洋のほとんど全体を占める、レムリアと称する新大陸の建設を提唱したりした。そして事実、一群の山椒魚の力によって、ソマリーランドのモグディシュ湾の向こう側に、面積一三エーカー半の小島が造られたのである。日本は、旧マリアナ諸島に代わる大きな島の建設計画を立て、一部を実行したほか、マーシャル、カロリン両群島を、『新日本』と呼ばれる二つの大きな島に統合しようとした。そして、二つの島のいずれにも、未来の島民に聖なる富士山を思い出させるため、人工火山を設けることにした。
また、将来アトランティスとして、フランス領西アフリカに脅威を与えうる重厚なコンクリートの大陸が、ドイツの技術者たちによって、サルガッソ海に建設中だといううわさがたった。もっとも、実際には基礎がすえられた程度らしかった。オランダでは、ゼーランドの干拓工事が開始された。フランスは、グアドループ(仏領西インド、リーワード諸島中の二島の総称)のグラン・テル、バス・テル、ラ・デジラードを、一つの気持のいい島に結びつけてしまった。アメリカは、三七度線に最初の航空島を建設しはじめた(この島は二つの層から成っていて、大きなホテル、競技場、ルナ・パーク〔娯楽場〕、五千人を収容する映画館などがあった)。このようにして、その昔、人類の活動の躍進にとって決定的な妨げとなっていた海による障害は姿を消してしまい、巨大な技術的計画の時代がやってきたのである。
最初のうち、科学は生理学や心理学の観点から、山椒魚の研究に関心をはらっていただけであったが、後には科学もまた、山椒魚の取り引きのうえで見るべき役割を果たすようになった。
ここに、パリで行なわれた学術会議の報告を引用することにしよう。この報告は、会議に出席した人の筆になるものである。
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第一回有尾目会議
その完全な名称はもっと長くて、『有尾目の心理学的研究に関する第一回国際動物学者会議』というのだが、簡略化して『有尾目会議』と呼ばれているのである。生粋《きっすい》のパリジャンはながったらしい名称を好まないので、ソルボンヌ大学の講堂で講義する教授たちは、『有尾目君は』と言ったり、もっと簡単に、そしてもっとぞんざいに『この動物学的存在は』と言ったりしている。
われわれは、探訪記者の義務というよりは、むしろ好奇心にそそのかされ、『この動物学的存在』にお目にかかって驚いてやろうとの量見から、会議に参加したのである。もちろん、ほとんどみな眼鏡をかけた、年配の世界的有名人たちに、好奇心を刺激されたわけではない。部厚な学術書から流行歌にいたるあらゆる分野でもてはやされている、かの『動物学的存在』、ある人に言わせると新聞のうそっぱちにすぎぬが、別の人に言わせれば、世界大戦やそのほかさまざまな歴史的事件を体験した現在でも、まだ自然の帝王、創造の王者と自称する人間どもよりはるかに有能な創造物(われわれが率直に、『動物』と書けないのはなぜだろうか)が、われわれの興味をそそったのである。
私は、有尾目の心理学的研究会に参加した名声さくさくたる諸先生が、われわれ門外漢に対して、アンドリアス・ショイフツェリの理解力がどの程度のものであるかという問題に、最後的な答えを与えてくれるものと期待していた。『この動物はきわめて利口で、あなたや私のように文明に対する感受性をもった存在である。ひいては、かつてわれわれが未開、野蛮という部類に入れていた諸民族の未来を考慮しなければならなくなったのと同様に、将来この動物をも重視しなければならなくなるであろう』という、意見が出るものと想像していた。ところが、そのような答えはむろんのこと、この種の質問さえも会議の席上で聞くことができなかったことを、正直に白状しなければならない。現代の科学は、こんな問題を取り扱うためには、今やあまりにも専門化されているのである。
さて、学術語で『動物の精神生活』と呼ばれているところのものの研究にとりかかってみよう。今やわれわれの目の前の講壇では、妖術家のようにひげをもじゃもじゃのばした人物が、たけりたっている。これこそ有名なデュボスク教授である。彼が、ある尊敬すべき同学の士の意見をけなしていることだけはわかるが、さてわれわれはとなると、報告のこの部分がよく理解できない。どれだけかたってはじめて、われわれには、このたけりたった芸術家が、アンドリアスの色彩感覚のことを、つまりいろいろな色彩のニューアンスに対する識別力のことを、述べているのだということがわかってくる。私の理解が正しかったかどうかは知らないが、アンドリアスは明らかに少しばかりドールトン病(赤色盲)のようだった。一方、デュボスク教授はといえば、キラキラ光る部厚な眼鏡に用紙を近づけるところを見ると、ひどい近眼のようであった。
つぎには、日本の学者岡川博士が微笑をたたえながら、アンドリアスの脳の感覚神経を切った場合に見うけられる徴候や、反応弓(特定の反射に関与する神経経路)について述べた。さらに彼は、蝸牛《かぎゅう》に代わる耳の中の器官をこわすと、アンドリアスにどんなことが起こるかについて語った。それに続くのはレーマン教授で、電気の刺激に対しアンドリアスがどう反応するかを、こと細かに説明した。さてこの報告は、彼とブルックナー博士との激しい論争をひき起こした。このブルックナー博士というのは、興味のあるタイプで、小柄で狷介《けんかい》な、悲劇役者的気質の人物である。他の人々とは反対に、彼はアンドリアスは人間同様、不完全な感覚器を与えられており、本能もまた不完全であると断定した。純生物学的観点からすれば、アンドリアスは人間のように退化しつつある動物であって、人間と同様に、生物学的欠陥を知性と呼ばれるものによって代行させようとしている、というのがだいたい彼の見解であった。
しかし、ほかの専門家たちは、ブルックナー教授が、アンドリアスの感覚器を切断してから、脳に充電してみたことがないという一事をもってしても、教授の言を信じることは不可能であると見ているようであった。ブルックナーにつづいて、ヴアン・ディーン博士が立ち、静かなほとんど敬虔《けいけん》なとも言える声で、脳の右側頭部、あるいは左大脳半球の後頭部を除くと、アンドリアスにいかなる障害が起こるかを描き出してみせた。アメリカのデヴライトン教授が、つづいて報告を行なった。
申しわけないことであるが、私はデヴライトン博士がなんのことを報告したのか知らない。というのは、ちょうどその時私は、デヴライトン教授の脳の右側頭部を取り除くと、彼のうえにどんな障害が起きるか、にこやかな岡川博士を電流で刺激すると、彼はどんな反応を示すであろうか、またもし蝸牛《かぎゅう》を破壊するとなると、レーマン教授がどんなふうになるであろうかなどと想像したあげく、目が回るような気持になっていたからである。私はまた、私自身、色彩の識別力や、運動反応の場合のティー・ファクターなどについて、どうも十分に自信がもてないと思ったりしていた。われわれがたがいに、脳の各部を抜いたり、相手の感覚神経を切ったりしない限り、自身の(つまり人間の)精神生活について語る資格(厳密な科学的意味における)があるだろうかという疑問が、ひどく私を苦しめるのであった。
つきつめて言えば、おたがいに精神生活を研究しようと思えば、われわれはメスを手にして、相手にとびかからなければならないということになる。私ならば、科学のために、デュボスク教授の眼鏡をたたきわり、ヴァン・ディーン教授のはげ頭に電流を通じ、そのうえで、彼らがいかなる反応を示したかという論文を発表するのにやぶさかではない。はっきり言って、私はその時の様子をまざまざと思い浮かべることさえできる。アンドリアスについて言えば、このような試練を受けた彼らの心中がどんなであったか、私は、人間の場合ほどはっきりとは想像することができないのだが、いずれにせよ、アンドリアスは信じられないくらいに忍耐強い善良な動物なのであろう。なにしろ、報告を行なった有名人のうち誰一人として、アンドリアス・ショイフツェリが激怒したと報告した者はないのだから……。
私は、第一回有尾目会議が科学的に大きな成果をあげたことを、疑うものではない。しかし私は、一日の暇をえたら、動物園に行って、まっすぐアンドリアス・ショイフツェリの貯水槽のそばにおもむき、彼にそっと言ってやろうと思うのである。
「ねえ、山椒魚君、いつか君の時代がくるだろうが、その時になっても、人間の精神生活を学術研究の対象になどしないでくれたまえよ!」
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このような科学的研究の結果、山椒魚は奇跡だとは見られなくなってしまった。山椒魚は厳密な科学的解明を受けたすえ、希少価値を大いに失うにいたったのである。心理学的実験の対象としても、それはきわめてありふれた特質を示しただけであった。その高度な能力などは、科学的結論よりすれば、物語にひとしいものだとされてしまった。科学は、退屈千万な、そしてかなりに無能な『標準的山椒魚』を発見しただけだったのである。わずかに、新聞だけがときどき、五けたの暗算のできる『非凡な山椒魚』を捜し出してきたが、これさえもだんだんと一般の注意をひかなくなってしまった。
つまり、それ相当の訓練を行なえば、普通の人間でさえ習熟できることが証明されて以来、特に一般の関心はうすれてしまったのである。一般の人々は、山椒魚を、計算器か自動機械と同じくらいにありふれたものと見るようになった。未知の深海からなぜとも知らず浮かび上がってきた神秘的なものと見る人など、いなくなったのである。もともと人間は、危険や害を与えるものだけを神秘と見て、人間に奉仕したり利益を与えるものを、神秘と見ない傾向がある。山椒魚も多くの点できわめて有益な存在であることがわかったので、人々はこれを、合理的な日常生活の一構成部分だと見るようになった。
山椒魚の利用法について特別に研究したのは、ハンブルクの研究家のヴールマンであった。この問題に関する彼のいろいろな論文を圧縮して、つぎに紹介しよう。
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山椒魚の体細胞的素因について
ハンブルクの実験室での太平洋産大山椒魚(アンドリアス・ショイフツェリ・チュディ)に対する私の実験は、環境の変化やその他の外的作用に対する山椒魚の抵抗の程度を明らかにし、そのことによって、異なった地帯やその他各種の原因により変化した条件のもとで、山椒魚をどのように利用するかを解明するという、一定の目的を追求するものであった。
第一系統の実験は、水のそとに出た山椒魚群が、どれくらいの期間たえていられるかを知るためのものであった。実験用の山椒魚は、四〇―五〇度のかわいた樽《たる》の中に入れられた。数時間後にはすでに、はっきりと力の減退が見うけられたが、水をふりかけると、山椒魚はふたたび生き生きと動きはじめた。二十四時間後には、じっと横たわったきりで、動くのはまぶただけになった。脈搏がおそくなり、あらゆる生理的プロセスが最少限度までくだった。山椒魚たちは、明らかに苦しみ、ちょっとした運動にさえ大きな努力を必要とするようになった。
三日を経過すると、強梗《きょうこう》症が現われる(すなわち乾燥病)。山椒魚は、電気ごてで焼いても反応しなくなる。しかし空気の湿度が上がるにしたがって、彼らは少しばかり生命の徴候を示しはじめる(光をあてると目を閉じるなど)。七日の後に山椒魚を樽から引き上げ、ふたたび水の中に入れてみたが、しばらくすると生き返った。それ以上無水状態がつづくと、実験用山椒魚は、大部分死んでしまった。また、日光の直射を受けた山椒魚は、数時間にして死亡した。
他の山椒魚には、乾燥した環境と闇の中で、車の軸を回させてみた。三時間で生産性が低下しはじめたが、水をたっぷりかけてやると、生産性はふたたび高まってきた。人間の場合は、五時間後にはこの機械的作業のため疲労困ぱいするが、これに対して山椒魚は、しばしば水をかけてやりさえすれば、十七時間あるいは二十時間も軸を回すことができた。二十六時間も回した例もある。この実験から結論できるのは、山椒魚は、陸上の作業にもきわめて適しているということである。もっともその場合、山椒魚を日光の直射にさらさないことと、からだの表面全体に一定の時間ごとに水をかけてやるという、二つの条件が守られなければならない。
第二系統の実験は、熱帯産動物である山椒魚の、寒さに対する抵抗を試験するものであった。水を突然に冷してみた。すると、山椒魚は腸カタルを起こして死んでしまった。しかし、じょじょに冷たい環境になれさせた場合、彼らは容易にそれに順応していった。八か月後には、食物中に含有される脂肪の量が多ければ(一日に一五〇グラムから二〇〇グラムまで)、七度という温度でも、彼らは元気だった。しかし、水温が五度以下ともなれば、凍結性強梗症(ゲロズ)におちいった。ところで、このような状態の山椒魚を氷塊に入れて、数か月放置しておくことも可能であることがわかった。氷が解け、水温が五度以上に上がるやいなや、彼らはふたたび生命の徴候を示しはじめ、七―一〇度ともなれば、活発に食物を求めだしさえした。以上のように、山椒魚は明らかに、北ノルウェーからアイスランドにいたる気候帯の生活条件にも、よく順応できることがわかる。
これに対して、山椒魚は、水中の化学的混入物には、きわめて敏感である。弱アルカリ溶液、工場の廃液、皮なめし用剤などを実験に用いてみたが、その際山椒魚の皮膚はぼろぼろになって剥落《はくらく》し、えらを失って、ついには死亡した。したがって、わが国の河川で山椒魚を使役することは不可能である。
第三の系統の実験で、われわれは、山椒魚がどれくらいの期間食物をとらずにたえることができるかを、明らかにすることができた。三週間あるいはそれ以上になってはじめて、山椒魚は飢えはじめるが、しかもこのことは、若干の病的状態となって現われるのみである。ある実験用の山椒魚などは、約六か月も飢えさせてみた。最初の三か月というもの、この山椒魚は、動かずに眠ってばかりいた。私は、山椒魚のはいっている樽《たる》に、肝臓のきれっぱしを投げこんでみたが、山椒魚はまったく反応を示さないくらいに弱ってしまっていた。そこでついには、人工栄養によるのやむなきにいたった。数日たつと、山椒魚はふつうに食物をとるようになり、それ以後の実験にも利用できるようになった。
一番最後の系統の実験は、山椒魚の再生力に関するものであった。山椒魚の尾を切ると、二週間後にはまた新しいのがはえてくる。一匹の山椒魚に対して、七回この実験を繰り返してみたが、そのつど同じ結果がえられた。足を切り放しても、またはえてくる。われわれは、ある実験用山椒魚の四肢と尾を切断してみた。ところが、三十日後には、その全体がふたたびもとどおりになった。脛骨《けいこつ》あるいは肩骨が砕けると、砕けた部分の全部が落ちて、その代わりに新しいのができてくる。目が破裂したり、舌が切られたりした場合にも、同じように回復するのである。私の手で舌を切断された山椒魚が、口をきくことを忘れてしまい、はじめから習得しなおさねばならなかったのは、興味があった。さて、頭あるいは頸部と胴部との中間を切り放すとなると、山椒魚は死んでしまう。これに反して、生活機能をそこなうことなく、胃、腸の一部、肝臓の三分の二、その他の器官を山椒魚から除去することができる。すなわち、ほとんど全部内臓をぬかれていても、山椒魚は、なおかつ生存の能力をもっていると言うことができるのである。山椒魚を除き、これほどまでに負傷に対して抵抗性をもっている動物は、ほかにいない。この点山椒魚は、ほとんど不死身ともいうべき優秀な戦闘用動物となりうるのであるが、遺憾ながら、平和的な性格と、生来の武装をそなえていないことが、このことをさまたげている。
以上述べた実験とともに、私のアシスタントであるワルター・ヒンケル博士は、山椒魚を有益な原料として利用できるかどうかを研究してみた。彼は、山椒魚のからだに、きわめて多くのヨードと燐《りん》とが含まれていることを明らかにした。必要とあれば、工業的方法をもってこれらの貴重な元素をうることもできるであろう。山椒魚の皮は、それ自体では大したものではない。しかし、棒でたたいて高圧によって圧搾すると、その結果えられた人造皮は、軽くて十分に強く、牛皮の代用ともなりうる。山椒魚の脂肪は食用に適せず、味もよくないが、非常な低温の場合に凍るのみなので、じゅんかつ油として適当である。同じように、山椒魚の肉は食用にならないばかりか、有毒だとされている。その生肉を食うと、感覚器の激痛と幻覚とをまねく。ヒンケル博士は自身でいろいろ実験してみた結果、これをこま切れにして熱湯をとおし(ある種のテングタケに対して行なうように)、水洗いして、マンガンカリの弱溶液に二十四時間つけておくと、この有害な作用がなくなるのを発見した。その後は、煮てもなまの状態でも、牛の下等肉のような味になるのである。
われわれは、ハンスと呼ばれる山椒魚を、このようにして食ってみた。彼は、学術活動の才能に恵まれた、怜悧《れいり》な山椒魚で、ヒンケル博士の室の助手をしていた。彼には、きわめて細かな化学分析でもまかせることができた。暇な夜などは、われわれは彼と長いこと話しこみ、その飽くことを知らない知識欲に驚かされたものである。残念なことに、われわれはハンスと別れねばならなくなった。というのは、彼が私の開頭術の実験の結果、失明するにいたったからである。彼の肉は黒ずんでいて、小さい穴があったが、別に不快な結果をもたらしはしなかった。戦時に、山椒魚の肉が廉価な代用肉となりうることは、疑いないところである。
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幾億となく繁殖して、地球上にはびこるやいなや、山椒魚がセンセーションでなくなったのは、きわめて自然なことであった。珍しい間だけ人々におこさせていた興味は、怪奇映画『サリーとアンディ』『二匹の善良な山椒魚』や、キャバレーの舞台に生き残るだけになった。というのは、声をつぶしてしまったクプレーやシャンソンの歌い手が、こっけいな山椒魚をまねて、キンキン声をはりあげたり、文法をゆがめてユーモラスな役をやってみせたりしたのである。が、山椒魚があたりまえの現象として広く普及してくると、山椒魚に関する問題も自然と形が変わってきた。
『山椒魚には精神があるか』という問題について、『デイリー・スター』紙の行なったアンケートは、この点興味のある材料を提供している。このアンケートに対する回答のうちから、有名人の言葉をつぎに引用してみよう(もっとも、真偽のほどは保証の限りでない)。
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***
前略
小生は、尊敬すべき友H・B・ベルトラムとともに、かなりの長期間にわたり、アデンの防波堤工事において、山椒魚の観察を続け申候。われらは再三、山椒魚と話しあい候も、名誉、信仰あるいはスポーツ精神のごとき高尚なる感情につきては、その暗示をさえ受け申さず候。このうえは、借問す、われらは完全なる権利をもち、何をもってか精神となし得るや。
(J・W・ブリットン大佐)
***
私は一度も山椒魚を見ておりません。しかし、自身の音楽をもたない創造物には、精神もないものと確信しております。
(トスカニーニ)
***
精神の問題はしばらく論外としよう。しかし、私がアンドリアスを観察しえた限りでは、彼らには個性はないと言いたい。彼らはたがいにそっくりそのままであって、すべてが同じように勤勉であり、同じように有能である……。さらにまた、同じように表情がない。一言にして言えば、彼らの間においては、標準という近代文明の理想が具現されているのである。
(アンドレ・ダァルトゥア)
***
もとより彼らに精神はない。この点、彼らは人間に似ている。
(バーナード・ショー)
***
ご質問は、私にいろいろなことを考えさせました。たとえば、私は私の飼っているシナ犬のビビーが、小さくても美しい精神をもっているのを知っています。それから、私のペルシアネコのシディ・ハヌムにも魂がございます。それもなんて誇り高い魂でしょう! けれども、山椒魚はどうでしょうか? この哀れな動物が、大変有能で知的であることは間違いないと思います。話すことも教えることもできますし、大きな利益をも与えているのですもの。けれども、醜いとあってみれば、どうしようもないではございませんか。
(マドレーヌ・ロッシ)
***
山椒魚たるのみにとどまりて、マルクス主義者とならざるよう希望す。
(クルト・フーバー)
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彼らに精神はない。精神ありとせば、われわれは彼らに対して、人間とひとしい経済的平等を認めねばなるまい。しかるに、そのことたるやまさに不合理と言うべきである。
(ヘンリ・ボンド)
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彼らには、セクス・アッピールがございません。これは、精神がないということと同じでございます。
(メイ・ウェスト)
***
あらゆる生物、あらゆる植物、生きとし生けるものに精神があると同じく、彼らにも精神はある。生命の秘密は、まさに大である。
(サンドラブハラタ・ナット)
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彼らは、面白い泳法とスタイルとをもっている。われわれは、多くのことを彼らから学ぶことができる。特に、長距離水路の場合にそうである。
(トニー・ワイズミューラー)
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このようにして、山椒魚の一大センセーションは、見る見るうちに色あせていった。そして、もっと内容のある取り扱いが、それにとって代わった。いわゆる『山椒魚問題』がそれである。『山椒魚問題』の首唱者は、人類発展の歴史のうえでしばしば見られたのと同じに、女性であった。ローザンヌの寄宿女学校の校長である、マダム・ルイズ・ツィンメルマンがその人であった。彼女は、なみなみならぬ精力と消えることのない情熱を燃やし、『山椒魚に系統的な学校教育を授けよ』という、高尚なスローガンをかかげて、全世界に叫びかけた。長い間彼女は、一般の人々の無理解に苦しめられたが、それでも屈せずに説き続けた。
『山椒魚は、生まれながらにして独特な明敏さをもっています。もし彼らに知的、精神的教育を十分授けることを怠るならば、人類文化は彼ら山椒魚によって、重大な脅威を受けることになるでしょう。もしわれわれの教育事業が、現代人類の最高理想へ近づくことを禁じられ、精神的にいやしまれている創造物の大海にかこまれた、小島のようなものになってしまうならば、ローマ文化が野蛮人の侵入によって滅亡したように、われわれの教養もまた滅びるでしょう』
ヨーロッパ、アメリカはもちろん、日本、中国、トルコなどのあらゆる婦人クラブにおける、六千三百五十七回におよぶ講演の中で、彼女は予言者のように、こう叫び続けたのであった。『婦人解放が十九世紀のスローガンであったのと同様、「山椒魚に系統的な教育を授けよ」は、今世紀のスローガンにならなければならない』と、彼女は言った。その雄弁と驚くべき根気とによって、ルイズ・ツィンメルマンは、全世界の婦人を結集することに成功し、ボーリュー(ニースのそば)に、最初の山椒魚学校を開設するのに十分な、資金を集めることができた。そして、マルセイユとツーロンで働いている山椒魚の子たちがここに入学し、フランス語、文学、修辞学、作法、数学、文化史を学ぶことになった。
これについては、『ルイズ・ツィンメルマン――その生涯と理想ならびに活動』(アルカン書房)という単行本に詳しい。この著書の中から、ツィンメルマン夫人の最初の教え子である、一山椒魚の感動をこめた回想文を、引用することにしよう。
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『夫人は、簡素だが清潔で快適なプールのそばにすわって、ラ・フォンテーヌの寓話《ぐうわ》を読んできかせてくれた。夫人は湿気になやまされていたのであるが、それでも、全霊を教育にささげていられるので、湿気が夫人を驚かすなどということは、まったくなかった。夫人は、われわれが中国人と同じように、rの音を発音することができないところから、われわれをメ・プチ・シノア(私の小さな中国人)と呼んでいた。しかし自分でも、自分の姓を 、rをlととり違えて発音するようになったほど、夫人はわれわれのなまりになじんでいた。われわれ子どもたちは、夫人を崇拝していた。肺が未発達なために水から出られない小さな連中は、校庭を散歩する夫人のお伴ができないというので泣いたりした。
また、夫人はきわめて温厚篤実な方で、腹をたてられたのは、私の知る限りでは一ぺんきりであった。それは、ある夏の日のこと、歴史を担当していた若い女教師が、水着をつけてわれわれのプールにはいり、首まで水につかりながら、ネーデルランド解放戦争について講義した時であった。尊敬すべきツィンメルマン夫人は、彼女に対して大いに腹をたて、「マドモアゼル、早く上がってからだを洗っていらっしゃい。お上がりなさい、お上がりなさい」と、涙を浮かべながら叫ばれた。これはわれわれにとっては、きわめて微妙な教訓であった。しょせん、われわれは人間でないということを教えた教訓であった。後になってみんなは、このように、遠まわしだがはっきりした形で説明してくださったことに対して、この精神上の母親に感謝した。
われわれがよく勉強した時には、彼女は、たとえばフランソア・コペ(一八四二―一九〇八)のような近代作家の詩を読んできかせてくださった。
「ほんとうは、これあんまり近代的すぎますけれどね」と夫人はよく言われた。「けれど、今ではこれも立派な教育に必要ですから」
学年末には公開式典が行なわれ、ニースの知事やその他の行政機関の代表者や、各界の名士が招待された。すでに肺もできていて、有能なうえに成績も優秀だった生徒は、からだをかわかしてから、使丁の手で、白い祭服のようなものを着せられた。それから、薄い幕の後ろに隠れていて(婦人たちを驚かせないために)、ラ・フォンテーヌの寓話《ぐうわ》を読み、数学の問題を解き、カペ家(フランクの第三王朝、九八七―一三二八)の王の名を、逐次年代順に数えあげたりした。それが終わると、知事が、美辞麗句たっぷりな演説を行ない、尊敬すべき校長に感謝の意を述べ、そして式は終了した。
ツィンメルマン夫人は、われわれの精神的発達と同じように、肉体の健康についても考慮を払われた。毎月われわれは獣医の診察を受け、半年に一回体重をはかられた。わが尊敬すべき指導者は、特に熱心に、月光ダンスという放埒《ほうらつ》な習慣を止めるように、われわれにすすめられた。それにもかかわらず、私は、成熟した一部の生徒が、満月の夜ひそかに、この動物的破廉恥行為にふけっていた事実を、恥ずかしながら認めなければならない。私は、われわれの母であり友であった師の君が、この事実を知られないように希望するのみである。これは、夫人の慈愛に富む高貴な心を傷つけるに相違ないからである』
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マントンにある山椒魚女学校は、これほどには成功しなかった。この学校の基礎学科――音楽、栄養料理、技芸(ツィンメルマン夫人は、主として教育上の考慮から、これらの学科に執着したのである)――は、明らかに、理解力の不足にぶつかった。ときには、生徒である妙齢の山椒魚の、頑固《がんこ》な無関心にさえ遭遇した。しかし、それにもかかわらず、最初の公開試験は大変な好成績で、それは後になって、動物愛護協会の努力により、カンヌに山椒魚工科大学が、それからマルセイユに山椒魚大学が設立されるきっかけになったくらいであった。山椒魚が最初の法学博士号を受けたのも、このころであった。
それ以後、山椒魚の教育問題は、円滑に、しかも迅速に発展していった。進歩的な教師たちは、模範的なツィンメルマン式学校に対して、多くの重大な反対を提起した。特に彼らは、人間の子弟のはいる人文学本位の学校がすでに古くさくて、成長期の山椒魚には適さないと断定した。そして、文学と歴史の授業に強く反対し、実際的な課程、つまり自然科学、実習所での作業、技術の習得、体育のような学科に、多くの時間をさくよう要求した。古い教育の支持者たちは支持者たちで、山椒魚を人類の文化水準に近づけることができるのは、ラテン語を基礎としてのみであって、古代詩人を引用し、キケロの弁辞法をもって表現する術を彼らに教えないならば、話し言葉の教育さえものにならないだろうとがんばり、革新的な学校、つまり『実際生活学校』を、激しく非難した。この問題をめぐって、長い間かなりに激しい論争がくり広げられていたが、結局のところ、国家が山椒魚学校を管理し、人間の青年の学校の方も、できるだけ改良された山椒魚学校の理想に近づけることにするというところで、いちおうのけりがついた。
国家の監督下にある学校で、山椒魚に系統的な義務教育をさずけよという呼びかけが、ほかの国でも聞かれるようになったのは、もちろんのことである。海をひかえた国では、じょじょにそのような情勢になっていった(ただし大英帝国だけは別だった)。古い古典的な伝統の重荷に拘束されずに、精神技術学、技術教育、召集前軍事訓練などの最新方法や、その他最近の教育上の成果を利用できたところから、山椒魚学校では、科学的見地からしても最も進歩的で近代的教育制度がとりあげられた。当然のことながら、これは人間の学校の教師と生徒の羨望《せんぼう》をまねいた。
山椒魚の学校教育の問題といっしょに、言語問題が起こってきた。現在世界に存在する言語のうち、山椒魚はどれを学ぶべきかというのである。太平洋諸島産の山椒魚は、土民や海員からおぼえたピジン・イングリッシュ(中国の通商英語)をあやつっていた。またマライ語やその他の方言をしゃべれるのもたくさんいた。シンガポール市場のために飼育された山椒魚は、古い文法形態を無視して簡略化された科学的英語、すなわちわずか数百語で足りるベイシック・イングリッシュを教えられていた。そのため、改良されたこの標準英語は、[山椒魚イングリッシュ]と呼ばれるようになった。
模範的なツィンメルマン式学校の山椒魚は、コルネーユの言葉を用いていたが、これはけっして国家的な考えにもとづくものではなく、高等教育がそれを要求したからにすぎなかった。反対に改良された学校では、理解しやすい言葉として、エスペラントがさずけられた。このほか、それまでに、全世界――人間と山椒魚の双方――に、バビロンの塔(言語の混乱)に代わるべき単一、共通の言葉を与えることを使命とした共通語が六つほども現われた。そして、これら共通語のうち、どれが一番学習に適しているか、美しい響きをもっているか、そのうえ最も普遍的であるかということが大いに論争された。とどのつまりは、各国それぞれに、独自の共通語を宣伝するという結果が現われた。
有名な言語学者クルツィウスが『ヤーヌア・リングアルム・アペルタ(開かれたる言語の扉)』という論文で、ウェルギリウス(前七〇―前一九)時代の珠玉のラテン語を、山椒魚の単一日常語として採用するようにすすめた事実を指摘しておく必要がある。
『文法原則においてもっとも豊かで完全な、そして学術的にもっとも整備されたこの言葉が、ふたたび世界の生きた言葉になるかならぬかは、ひとえにわれわれの双肩にかかるところである』と彼は言った。『もし教育ある人々がこのことを理解しないならば、ゲーンス・マリティマ(海の種族)である山椒魚よ、おん身らは自身の言葉として、オルビス・テラルム(地球)において語られるにふさわしい唯一の言葉、エルディタム・リングアム・ラティーナム(洗練されたるラテン語)を選びたまえ。山椒魚よ、もしおん身らが、新生活のために、神と英雄の永遠の言葉を復活せしめるならば、おん身らの功績は不滅となるであろう。なぜというに、世界の君主たる古代ローマの残した遺産が、この言葉とともに、おん身らゲーンス・トリトヌム(トリトンの種族)に伝わるからである』
これと同時に、ラトヴィアの郵電局の官吏であるウォルテラスという人物が、メンデリウスという牧師と共同で[ポンティ語](海洋語)という特別な山椒魚語を思いつき、ついでこれを完成した。彼はこの言葉のために、アフリカの諸言語を含む世界のあらゆる言語の語根を利用した。この山椒魚語(当時このように呼ばれていた)は、かなりに普及した。とくに北方諸国において普及したが、残念なことにそれは人間の間だけにとどまった。ウプサラ(スウェーデン)大学では、山椒魚語の講座が設けられたくらいであったが、知られている限りでは、一匹の山椒魚もこの言葉を用いはしなかった。正直に言って、山椒魚の中でいちばん通用していたのは[ベイシック・イングリッシュ]であった。そしてこれは、のちになって山椒魚の正式言語となったのである。
しかし、山椒魚学校が国家の手に移るとともに、事態はきわめて簡単になった。どの国も、山椒魚に自国の『国語』を教えはじめたのである。山椒魚は、外国語をかなり容易に、またみずからすすんで学んだが、ただしその言語能力には少しばかりの欠陥がないわけでもなかった。この欠陥は、一部は山椒魚の言葉機関の構造によるものであり、また一部は心理学的な原因によるものであった。たとえば彼らには、長いつづりの言葉の発音が困難なようで、それを一音節にちぢめてしまおうとした。山椒魚はそれらの言葉を、少しばかりのどにかけて、早口に発音した。
それからrをlと発音し、歯擦音(s・zなど)も舌たらずであった。また語尾をおとすくせがあり、さらにどうしても[私]と[われわれ]の区別ができなかった。そのうえ、ある言葉が男性であるか、女性であるかについて無関心であった(交尾期以外の性的無関心が、この点に現われているのは明らかであった)。一言にしていえば、どの言語も、彼らの口にかかると特徴のある変化をとげたのである。つまり、一種の合理化を受けて、簡単で基本的な形式になった。彼らの新語や発音や単純な文法などは、港の下層民の間で広がったばかりか、いわゆる上流社会にまで急速に伝播していった。
その結果、この会話法は新聞に移り、まもなく社会全体のものにさえなった。人間の間でも文法形式がなくなり、語尾が脱落したり格変化が消滅したりした。青年たちはrをやめて、舌たらずな発音をおぼえた。現在すでに教育のある人々の中でも、インディターミニズム(非決定論)や、トランセンデンタル(先験的)などという言葉が、なにを意味するか言える者は少ないが、それらはこれらの言葉があまりに長くて、発音に不都合だという簡単な原因によるものなのである。
つまり、ことの善悪は別として、山椒魚は生息している海岸がどこであるかによって、ほとんどあらゆる言葉をあやつりはじめた。たしか『ナーロドニー・リスティ』紙(『国民新聞』、プラハで出ていた保守的新聞)であったと思うが、当時のチェコスロヴァキアの新聞に一文が掲載されたことがあった。ポルトガル語、オランダ語、その他小数民族の言葉を話す山椒魚はいるようだが、なぜ彼らはチェコ語を学ぼうとしないのだろうかという、この論文の悲憤|慷慨《こうがい》調の質問は、まことに理由のあることだった。
『残念ながらわが国は海岸をもたない』論文にはこのように述べられていた。『したがって、わが国には山椒魚もいない。しかし、わが国が海をもたないからといって、われわれが世界文化に対して、いま多数の山椒魚がその国語を学んでいる多くの国民と同程度の寄与を、否、それよりもはるかに大きな寄与をなしえないというわけではない。山椒魚がわれわれの精神生活の研究にまで手をのばしてくれれば、それで事はすむのだが、しかし山椒魚の中にわが国の言語を知っているものがなければ、研究しようにもやりようがないではないか? われわれは、ある篤志家がいて、文化的義務を遂行するために、山椒魚学校に、突如チェコ語およびチェコスロヴァキア文学の講座を設けるだろうと期待するものではない。ある詩人が言ったように、「この世にてわれ何人も信ぜず。この世にはわが友とてもなし。ただ一人とてもなし」である。われわれは自分で、このような状態を改めようではないか』論文の筆者は呼びかけた。『われわれの権利と義務は、山椒魚の中にさえ友を見つけ出そうと努力することである。しかるに、わが国の外務省は、他の小国が山椒魚に対して自国の文化の宝庫を開放し、同時にまた工業製品に対する彼らの関心を呼びさますために、多額の金を投じて努力しているのに、山椒魚にわが国の文化と生産を宣伝することに、しかるべき注意をはらっていないのである』
この論文は、大いに人々の注目するところとなった。とくに、工業界の注目をひいた。すくなくとも、チェコスロヴァキア文学選をつけた『山椒魚のためのチェコ語』という小さな教科書が出版されるという成果をもたらした。題名は少しばかり不適当なようであったが、しかしこの本は七百部以上も出たのであるから、当時としては大きな成功であった。
これに関連して、ポウォンドラ氏のコレクションの中にある随筆をひとつ借用してみよう。これはヤロミル・ゼイデル・ノヴォメストスキーの筆になるものである。
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ガラパゴス諸島のわれらが友
わが叔母である女流作家ボフミラ・ヤンダ・ストレショヴィツカーの他界によって、多くの深刻な経験をした私は、そのなまなましい苦痛を消すために、妻である女流詩人ヘンリエッタ・ゼイデル・クルディムスカーとともに、世界一周の旅に出た。その途上、私たちは、幾多の物語をふりまいているガラパゴス諸島に立ち寄った。二時間の間《ま》があるだけだったので、私たちはこの時間を、荒涼たる島の海岸の散歩にあてることにきめた。
「ごらん、きれいな入日だねえ」私は妻に向かって言った。「空ぜんたいが、夕焼の紅と金色の中に沈んでるみたいじゃないか?」
「あなたはチェコの方でいらっしゃいますか?」正確な美しいチェコ語でそういう声が、背後に聞えた。
私たちは驚いてその方を振り返って見た。そこには誰もいず、大きな黒い山椒魚がただ一匹、本らしきものを手にして、岩の上にすわっているだけだった。旅行のあいだに私たちは、すでに何回か山椒魚と出会ってはいたが、いまだに彼らと話をする機会には恵まれていなかった。してみれば、この荒涼たる海岸で山椒魚に会い、しかも母国語で質問を受けた時のわれわれの驚きが、どんなであったか、読者にもわかっていただけるであろう。
「何かおっしゃったのはどなたですか?」私はチェコ語で叫んだ。
「失礼とは思いましたが」うやうやしく立ち上がりながら山椒魚は言った。「生まれてはじめてチェコ語を聞いて、たまらなくなったものですから」
「どうして、あなたは、チェコ語をご存知なんですか?」私はびっくりして尋ねた。
「私はちょうど、不規則動詞の[ビーチ(在る)]の変化をやっているところでした」山椒魚は言った。「もっともこの動詞はどの国語でも、不規則に変化しますね」
「どこで、それになんのために、あなたはチェコ語の勉強をなすったんですか?」私は尋ねた。
「偶然にこの本が手にはいったものですから」
手にしている本を私の方にさしのべながら、山椒魚は答えた。それは『山椒魚のためのチェコ語』で、教科書のページというページが、頻繁に、しかも勤勉に利用された痕跡《こんせき》をとどめていた。
「ほかの学術的な内容の本といっしょに、この本がここにまいったんです」山椒魚は続けた。「中学校上級用の幾何、軍事技術史、鍾乳洞《しょうにゅうどう》案内記、両貨本位原則などという本をとることもできたのですが、私はこれを選んだのです。この本は私の無二の友になりましたよ。私はもうこれを全部暗記していますが、それでも読み返すたびに新しい楽しみと、有益な知識の源を発見しています」
妻と私は、山椒魚の正しくかなりに明確な発音に対して、筆舌につくせぬ喜びと驚きの意を表明した。
「残念なことに、ここにチェコ語で話しをする相手がおりませんでね」われわれの新しい友は謙虚にそう言った。「たとえば扉(ドウェジェ)という言葉の造格が、[扉もて]となるのか、[扉にて]となるのか、確信がもてないのです」
「扉にてですよ」と私は言った。
「あら違うわ、扉もてよ!」妻は叫んだ。
「百の塔たち並ぶプラハについて、何か新しいことをお話ねがえないでしょうか?」われわれの奇特な話し相手は、強い興味をこめて尋ねた。
「だんだん大きくなって行きますよ」彼の関心の現われに喜んで、私は答えた。そして、わが黄金なす首府の繁栄について、少しばかり話してきかせた。
「そういうお話をうかがっていますと、ほんとうにいい気持です」満足の様をまざまざと表わしながら、山椒魚は言った。「石の塔には、今でも処刑されたチェコ貴族の打ち首がさがっているってほんとうですか?」
「とんでもない。ずいぶん前に、そんなものはなくなりましたよ」白状するが、この質問にいささか辟易《へきえき》しながら、私は答えた。
「それは残念ですね」気のいい山椒魚は言った。「あれはたいせつな歴史記念物でしたのに。それに三十年戦争(一六一八―四八年間にドイツで行なわれた戦争。ハプスブルグ家に対するチェコ内の蜂起が発端となった)で有名な記念物がたくさんなくなったのが残念でなりません。私が間違っていなければ、その時チェコの国土は、涙と血にそんだ荒地になってしまったんですね。あの時に、否定の場合の生格がなくならなかったのが、めっけものなくらいですよ。この本には否定の生格がなくなりかけていると書いてありますが、(スラヴ語族では否定の動詞をうける名詞はふつう生格をとる)もしそうなら私は慨嘆にたえませんね」
「あなたは、私たちの国の歴史に関心をよせていられるわけですね?」喜びながら、私は尋ねた。
「もちろんです」山椒魚は答えた。「とくにビーラー・ホラ(白山)の殄滅《てんめつ》と、三百年にわたる隷属に関心をいだいています。私はこの本で、たくさんそのことについて書いてあるのを読みましたよ」
「そう、あれは困難な時代でした」私は相づちをうった。「隷属と苦難の時代でした」
「あなた方も、その嘆きを経験されたんですか?」強い同情をこめて、わが友は尋ねた。
「強暴な圧制者のくびきのもとで、筆舌につくしがたい辛酸をなめてきましたからね。うめき声がみちみちていましたよ」
「私はたいへん安心しました」山椒魚はホッと吐息をついた。「私の本にもそう書かれています。それがほんとうだったので、安心しましたよ。この本は、中学上級用の幾何よりもずっといい本です。私は、チェコの貴族が処刑された歴史的な場所に行ってみたいと思っています。それから残酷な隷属の記念物になっている、その他の名所などをたずねてみたいと思っています」
「どうぞいらしてください」私は心からそう言って招待した。
「ご親切にお招きくださってありがとうございます」山椒魚はおじぎをした。「残念でございますが、私は往来に不自由なものですから」
「でしたら私たちがあなたをお買いしますよ」私は叫んだ。「つまり、私の言わんとするところはですね、全国に署名運動を起こして、基金を募集することなんです。それであなたを、あれできますからね」
「感謝いたします」明らかに感動して、わが友はつぶやくように言った。「しかし私は、ウルタヴァの水があまりよくないと聞きました。川水ですと、私たちはひどい下痢にかかるのです」
そして少しばかり考えた末、山椒魚は言った。
「それに私は、たいせつにしている庭園と別れたくないものですから」
「あら」と妻が叫んだ。「私もとても庭いじりが好きですわ。ここの植物を何か見せていただけたら、あたしほんとうにうれしいんですけれど」
「それはもう喜んで、奥様」山椒魚は、ていねいなおじぎをして答えた。「ですが、私の庭園は水中にありますので、それがあなたの障害になりはしないでしょうか?」
「水の中ですの?」
「左様でございます。二二メートルの深さのところにあります」
「それで、どんな花を栽培していらっしゃるんですの?」
「海アネモネ(イソギンチャク)でございます」わが友は答えた。「珍種を少しばかりね。それからサンゴの株のほかに海ハコベ、海ムラサキなどです。『一本のばら、一枝の花を育てし者は幸いなるかな』って、詩人が申しておりますね」
残念なことに、汽船が出航の汽笛を吹きならしたので、私たちは別れねばならなかった。
「何かほかにおっしゃりたいことはありませんか、パン(ミスターにあたるチェコ語)?」わが友の名を知らなかったので、私はつかえてしまった。
「私、ボレスラフ・ヤブロンスキー(同名の詩人がいる、一八一二―一八八一)と申します」はずかし気に山椒魚は言った。「私はいい名だと思っています。この本の中からこの名を選びましたのです」
「そんならパン(ミスター)・ヤブロンスキー。何かあなたから、わが国民にお伝えしたいことはありませんか?」
山椒魚はちょっと考えこんだ。
「お国のみなさんにおっしゃってくださいませんか」激しく興奮しながら山椒魚は言った。「おっしゃってくださいませんか。スラヴの古き反目よ、消ゆるなかれ! ご健勝を祈る! つつしんであいさつを送る……」明らかに興奮をおさえかねた山椒魚は、ふと口をつぐんだ。
私たちは感動につつまれ、物思いに沈みながらボートに乗りこみ、そして綱をほどいた。わが友は岩の上に立ち、私たちに向かって手を振っていた。なにか彼は叫んでいるようだった。
「なんて言ってるのかしら?」妻が尋ねた。
「わからないね」私は言った。「プリマートル(プラハ市長の呼称)によろしくって、言ってるみたいだったね」
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教育と言語の問題は、人間のすぐわきで発生した山椒魚問題というきわめて大きな問題の一面でしかなかった。たとえば、それからまもなく、日常の関係で山椒魚に対してどんな態度をとるべきであるかという問題がもち上がってきた。山椒魚を、残酷な非人間的態度で取り扱わないということについては、いわゆる山椒魚世紀の先史時代に、動物愛護協会が熱心に努力した。同協会のうむことをしらないあっせんが効をそうして、ほとんど各地の官憲がしかるべき方法を講じるようになり、その結果、ほかの家畜に対して定められている警察規則や、獣医学的措置などが、完全に山椒魚に適用されるようになった。
同時に、生体解剖に反対する人々が、かずかずの抗議文やら請願文などを書いては、生きた山椒魚に学術的実験を加えることを禁止するように要求した。ある国では、実際に、そのような法律が出された。とくにドイツでは、あらゆる生体解剖が厳禁された。もっとも、その適用を受けたのはユダヤ系の生物学者だけであったが。しかし、山椒魚の教育が発達するにつれて、動物愛護の一般的原則を山椒魚に適用することは、だんだんと疑問視されるようになった。理由ははっきりしないのだが、なんだかそれだけでは、気づまりに感じられるようになったのである。そこで、ヘッダースフィールド公妃のうしろだてをえて、国際山椒魚愛護連盟《サラマンダー・プロテクション・リーグ》が設立された。この連盟は、二十万以上の会員(主としてイギリス人)を擁し、賞賛に値する大きな仕事を成し遂げた。連盟は、ものずきな見物人にさまたげられずに、山椒魚が[集会とスポーツの祭典]を(おそらくは月光ダンスを)やれるような、特別のグラウンドを、海岸に設けることに成功したのである。また一方学校では(オックスフォード大学を含めて)、学生に対し、山椒魚に石を投げないように言いわたされた。それから、山椒魚学校に学んでいる子弟に対しては、学課が過重にならないように、二、三の方法がとられることになった。最後に、山椒魚が住んだり働いたりしている所には、高い柵がめぐらされて、山椒魚をあらゆる不安から守ることになった。重要なことは、このようにして、山椒魚の世界を、人間の世界から完全に隔離してしまったことである。
道徳についての二、三の配慮も、この点明らかに一定の役割を果たした。さて、ポウォンドラ氏の資料の中には、ヘッダースフィールド公妃自身の署名いりで、全世界の新聞に発表された、各国語のアッピールがいくつとなく発見された。このアッピールには、つぎのように述べられている。
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『山椒魚愛護連盟は、醇風《じゅんぷう》美俗を守るために、山椒魚に適当な衣服を与えるという、大きな仕事に参加されるよう、婦人のみなさまに訴えるものでございます。この衣服といたしましては、長さ四〇センチ、ウェスト六〇センチの、できればゴムテープを入れたスカートが一番適しております。とくに、プリーツ・スカートがよろしく、これですと容姿を大いに美しくしますし、動作も自由でございます。熱帯諸国向けのものといたしましては、洗いざらしの布地で作った、ひも付のエプロンで十分でございます。あなたのお召物の残りでお作りになったもので結構です。あなたはそれによって、哀れな山椒魚をお助けになることになりますし、山椒魚のほうも、人のそばで働きます折りに、着物を着ずに出てきて、自分自身をはずかしめたり、エチケットを知る人を、とくに婦人や母親を困らせることがなくなるだろうと存じます』
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あれやこれやのことから推察するのに、この企画は予期したほどの成果をあげなかったようである。山椒魚が、スカートやエプロンをつけるのを承知したというようなニュースはない。おそらくこういったものは、水中では彼らの邪魔になったろうし、ちゃんとからだについてもいなかったであろう。それに、柵で人間と山椒魚をへだててしまうと、双方にとって、羞恥《しゅうち》や不快な印象の原因になるものがなくなってしまった。
山椒魚をあらゆる不安から守るという点で、まず第一に頭に浮かんだのは、犬のことであった。犬はどうしても山椒魚になじむことができず、山椒魚にかみつくと、口のところに粘膜をかぶったできものができるにもかかわらず、それでも山椒魚を海の中まで追って行った。ときには、山椒魚のほうも防衛手段にうったえた。そのために、良犬がすくなからずつるはしやくわなどでぶち殺されてしまった。おおよそ、犬と山椒魚との間には、必死とも言えるような激しい敵対関係が生じ、おたがいをへだてている物さえも、この対立を弱めぬのみか、かえってそれを尖鋭化しさえした。しかし、こういった事実は犬について言えるだけでなく、いついかなる場合にも見うけられることである。
ついでだが、この数百キロにわたるタール塗りの海岸沿いの柵は、教育上の目的のために利用された。柵には、端から端まで、山椒魚に役だつ題字や標語が、大きく書かれていた。たとえば、
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みなさんの労働は、みなさんの成功にひとしいものです。一秒を惜しんでください! 一日は、たった八万六四〇〇秒です! 各人の価値は、労働の量によってのみきまります。みなさんは、一メートルのダムを、五七分で建設することができるのです! 働く者はすべての者に奉仕し、働かない者は食べていけません!
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などといった具合である。この柵が世界全体では三〇万キロ以上にもおよんでいたことを考えると、こういった標語がどれほどの鼓舞を与え、一般的に役に立ったか、想像にかたくない。
作法と人道主義の原則にもとづいて、山椒魚を遇しようという賞賛すべき個人的な努力は、まもなく、それだけでは不十分なことがわかった。
『山椒魚を生産過程に参加させること』は、比較的に容易であったが、しかし、彼らを現在の社会秩序のわく内に入れることは、これに比べてはるかに困難でもあり、複雑でもあった。この点について保守的な人々は、法律上、社会上のことは問題にならないと言った。つまり、山椒魚は主人のたんなる所有物にすぎないのだから、山椒魚が与えるかもしれない損害については、主人が責任を負うべきだというのである。山椒魚は明らかに知能を有しているけれども、法的対象としては、物件すなわち財産にほかならないので、山椒魚に関する立法は、それがどのようなものであっても、神聖な私有権をおかすことになる、と彼らは主張した。
これに対して他の人々は反駁《はんばく》した。『山椒魚は知的で、自身の行為に責任をもちうる存在であるので、故意に、そしてさまざまな方法をもって現行法に違反することができるのだ。山椒魚の所有者は山椒魚が意識的にたくらむ行為に対して、どうすれば責任がもてるというのか? この危険を放置すれば、山椒魚を使役する作業における個人の企業欲を、かならずやそこなうにちがいない。海には垣根などないから、山椒魚をその中にとじこめて監視しているわけには行かない。そこで、人間の法的秩序を尊重して、山椒魚のためにさだめられた原則に従うという義務を、立法的措置によって山椒魚そのものに課すべきである』これが彼らの言い分であった。
このことと、第一回の[山椒魚裁判]を対照してみると非常に面白い。この裁判は、ダーバンにおいて行なわれ、全世界の新聞によってさまざまに解説された(ポウォンドラ氏の切り抜きによってうかがわれる限りでは)。Aにある港湾部が、作業のために山椒魚の集団を買い入れた。時がたつにしたがって、山椒魚はひどく繁殖し、港には彼らを収容する余地がなくなった。何個集団かの山椒魚の子たちは、隣りの海岸に移らねばならなくなった。この海岸の一部を所有していた地主のBは、そこに彼の水浴場があるという理由から、港湾部に対して、彼の所有地から山椒魚をひきあげるように要求した。ところが港湾部は、そんな責任はまったくない、山椒魚が原告の所有地に住みついて以来、山椒魚は原告の所有になったのであると反駁《はんばく》した。
この交渉がだいたい普通の経過をたどっているうちに、山椒魚は(一部は生得の本能により、また一部は訓練によってもたらされた勤勉とによって)、指図も許可もないのに、新しい場所に堰《せき》とプールをつくりはじめた。そこでB氏は、港湾部に対し、彼の財産に与えられた損害を賠償せよと要求した。第一審では、堰《せき》はB氏に損害を与えぬのみか、同人の財産状態を改善しさえしたという理由で、訴訟却下となった。ところが第二審では、原告は所有地に隣家の家畜を入れておく義務はないのだから、同人の方が正しいと判定されたのみか、所有する家畜が隣家に与えた損害について、農業経営者が賠償しなければならぬのと同様、港湾部も山椒魚の与えた損害についていっさいの責任を負うべきであるということになった。被告は、海中の山椒魚を隔離しておくなどということはまったく不可能であるから、右のような責任はないと異議を申し立てた。
これに答えて、判事は、ニワトリは飛べるので隔離がむずかしいが、それが損害を与えたとすればやはり賠償せねばならぬ、山椒魚の場合もこれと同じだと論じた。そこで港湾部の委任弁護士は、それならば自分の依頼者、つまり港湾部は、どうすれば山椒魚を立ち去らせることができるか、あるいはまた、B氏の所有する海岸をみずから離れるように仕向けることができるか、と質問した。すると判事は、それはもう自分の関知するところではないと答えた。これに対して委任弁護士は、もしも被告が山椒魚を射殺するように命じるとしたら、尊敬する判事は、これに対していかなる態度をとられるかと質問した。判事は、自分はイギリスの紳士として、かかる行為をきわめて節度のないふるまいであるとみるばかりではなく、B氏にぞくする所有地内における狩猟権の侵害だとみるであろうと答え、被告は、原告の所有地から山椒魚を立ち去らせるとともに、堰《せき》の建設と海岸帯の地形変化によってもたらされた損害をつぐなうべきである、しかもこのことは、右の地区をもとの状態にかえすことによって行なわれなければならない、と述べた。
一方被告の弁護人は、でき上がっている施設をとりこわすのに、山椒魚を使役してかまわないかと質問した。判事は、自分の意見では、原告の妻が山椒魚を嫌悪することはなはだしく、山椒魚によってけがされた場所で水浴するのを好まぬと言っているから、原告の同意がなければ、そういったことは不可能であろう、と答えた。被告は、山椒魚の手をかりなければ、水中につくられている堰《せき》を取り除くことはできないと反論した。これに答えて判事は、法廷は技術問題の細部にまで立ち入りたいとは思わない、またそのようなことは不可能である、法廷は財産権の保護のために存在するのであって、何をせよ、何をするなということを検討するために存するのではない、と言明した。
この難問題は、法的には以上のように決定された。Aの港湾部が、この困難な立場から脱却することができたかどうかは、つまびらかにしない。しかしそれはとにかくとして、右の事実は、山椒魚問題が、新しい法的手段によって、調整されねばならなくなっているという実状を明らかにした。
知られている限りでは、山椒魚に関する法律が最初に出されたのは、フランスであった。第一の法律は、動員および戦時における山椒魚の義務を規定したものであった。第二の法律は(ドヴァル法といわれた)山椒魚は、所有者あるいは県の所管当局が指定する海岸にのみ住むという義務を規定していた。第三の法律は、山椒魚が警官のあらゆる命令に服従すべきことを命ずるものであった。これに反抗した場合には、警察当局は乾燥した明るい場所に山椒魚を禁固したり、長期にわたり作業からひきはなして罰したりすることができることになった。イタリアの山椒魚は、企業家と当局代表とによって構成されている山椒魚組合に従属することになった。オランダでは、水中施設省の所管にはいった。一言にしていうならば、各国とも思い思いに山椒魚問題を解決したのである。しかし、山椒魚の市民としての義務を規定し、動物としての自由を制限した政令の内容は、どこの国でもほとんど同じようなものであった。
山椒魚に対する最初の法律が公布されるやいなや、人間の社会が山椒魚に対し一定の義務を課するならば、彼らのためにいくらかの権利も認めてやらねばならないと、法律上の論理から証明しようとした人々も、もちろん現われてきた。山椒魚についての法律を定めた国家は、このことによって、山椒魚に向かって彼らが自由であると同時に、自身に責任をもつべき存在であること、つまりいわば自国民であることを認めたわけである。そうだとすれば、山椒魚とそれを司法権下においている国家の相互関係を、なんらかの形で法的に成文化する必要がある。山椒魚を外国移民とみなすことも、もちろんできるけれども、その場合には、あらゆる文明国(イギリスを除く)が行なっているように、動員と戦争に際して山椒魚に一定の義務と服従を課す権利はないはずである。軍事的紛争が起これば、われわれはおそらく、山椒魚に対し、自国の海岸を守るように要求するにちがいない。したがって、われわれの方でも、彼らに対して一定の政治的権利を拒むことはできない、うんぬん。山椒魚に一種の水中自治権のようなものを与えよ、という声も聞かれた。しかしこの種の論議は、いつも純粋にアカデミックなものに終わったのである。山椒魚は、結局、どこにおいても権利などぜんぜん獲得せず、問題はなんらの実際的結論に到達することなくして終わった。
一部の人々は、山椒魚の同権というのを文字通りに理解して、山椒魚が水陸いずれにおいても、あらゆる公職につきうるようにすべきであると要求したほどだった(たとえばG・クルトーなど)。また、山椒魚が、独自の指導官をもつ、規則どおりに武装した水中連隊を編成することも要求された(エール・デフール将軍)。そのうえまた、人間と山椒魚の雑婚が許さるべきであるとした者もあった(ルイ・ピエロ弁護士)。自然科学者が、この結婚はもともと不可能であると説いたにもかかわらず、ピエロ弁護士は、問題は肉体的な可能性にあるのではない、法の原理の中にあるのだ、自分はこの婚姻法の改革を死文と化せしめぬために、山椒魚と結婚する用意があるとまで言明した(後になってピエロ弁護士は、離婚訴訟できわめて有名な弁護士になった)。
さてこのことに関連して、アメリカの新聞に、水浴中山椒魚に強姦《ごうかん》された娘の記事が、しばしば現われるようになったことを言っておかねばならない。このためにアメリカでは、山椒魚をひっとらえて、リンチを加えるという事件がしきりに起こった。しかもこのリンチは、たき火で焼き殺すという方法で行なわれたのである。解剖学上から見て、山椒魚がこの種の犯罪をおかすことなどぜんぜん考えられないと言って、学者たちが抗議してみても、まるでききめがなかった。多くの娘たちは、ちゃんと宣誓して、山椒魚がつきまとって離れなかったと証言した。普通のアメリカ人の場合、この証言で問題はきまったのも同じであった。しばらくすると、山椒魚のリンチの際に好んで用いられた方法、つまり火あぶりの刑は、いちおう制限されるようにはなった。つまり、山椒魚を火あぶりにするのは、土曜だけと定められ、それも消防夫の監視のもとに行なわれるようになったのである。しかし一方では[山椒魚リンチ反対運動]も起こり、その先頭には、黒人の牧師であるロバート・J・ワシントンが立った。この運動には十万人以上の人々が参加し、そのほとんどが黒人であった。アメリカの新聞は、この運動がめざしているのは破壊的な政治目的だ、とわめき立てた。事態は黒人居住地区襲撃にまで発展し、その際、教会で山椒魚のために祈っていた多数の黒人が焼き殺された。さて、ルイジアナ州のゴールドンヴィルの黒人教会焼打事件が、全市の大火になるという椿事《ちんじ》が起こるにおよんで、黒人に対する残虐行為は最高点に達した。もっとも、こういったことは、山椒魚の歴史に直接関係があるわけではないのだが……。
山椒魚の人権といったふうの、とくに恩恵的な取り扱いの中から、二つ三つ実例をあげてみよう。山椒魚はいずれも山椒魚戸籍簿にのせられ、働いている場所で登記されることになった。山椒魚は、ある土地に居住するについて、まず当局の許可を受けなければならなかった。また山椒魚に代わって、その所有者が支払った人頭税を納めなければならなかった。つまり、所有者はあとで、支払うべき食糧の中から、その分を控除したのである(山椒魚は、金で給料を受け取ってはいなかった)。同じく彼らは、住んでいる海岸の地代、地方付加税、建てられた柵に対する税金、教育税のほか、いろいろな国税、地方税を納めなければならなかった。一口にいえば、われわれは、この点山椒魚がほかの市民と同じ取り扱いを受けたことを認めなければならない。そうなったのは、山椒魚が一定の権利を受けていたがためである。
それからもう一つ、山椒魚が参加することなく、彼らの側からこれといった関心も示されないのに、大きな論争が展開された実例をあげなければならない。それは、山椒魚に洗礼をほどこすことができるかどうかという問題をめぐる論争であった。カトリック教会は、最初から、いかなる形でもそれは許されないという断固たる観点に立った。山椒魚はアダムの子孫ではなく、原罪のうちにみごもられたものでないから、洗礼の秘蹟によってきよめるにもきよめようがない、神聖なる教会は、山椒魚が不滅の霊魂やその他の聖寵《せいちょう》を受けているかどうかの問題の検討に、加わりたくはないのだ、教会の山椒魚に対する好意は、煉獄におちた魂への祈りや、無信仰者に対する代願をとり行なう時に、ときどき日を定めて山椒魚の名をあげて祈ることの中にあるだけである、とカトリック教会は宣言した。
プロテスタント教会は、問題をこのように簡単に解決しはしなかった。プロテスタントは、山椒魚が理性を有することを認め、したがってキリスト教を受け入れる能力をもっていることを認めたが、だからと言って、彼らを教会の懐に抱きとり、彼らをキリストにおけるはらからとする決心まではつかなかった。そこで教会は、防水紙を使った山椒魚のための聖書(簡略にしたもの)を出版するだけにとどめた。そして、何百万部となくそれを頒布した。さらにまた、山椒魚のために、ベイシック・イングリッシュの類推から、ベイシック・キリスト教といったものを与えようと試みた。これは、基本原理にまでさかのぼった、簡単なキリスト教の教義であった。しかし、この試みは神学上の論争をひきおこし、そのために結局は放棄のやむなきにいたった。この問題については、汗牛充棟《かんぎゅうじゅうとう》もただならぬほどの論文が現われ、その文献紹介だけで、ゆうに部厚な二巻の本になるほどだった。
一部の宗派は、宣教師を山椒魚のもとに派遣し、彼らに真の宗教を説教させ、『全世界におもむきて、すべての民を教えよ』という聖書の言葉に従って、山椒魚を受洗させようとした。この宗派などは、あまり枝葉末節にこだわらなかった。しかし、山椒魚と人間をへだてている柵をこえることができたのは、一部の宣教師だけであった。つまり、説教によって山椒魚がやたらに仕事から引き放されるのをきらって、企業家たちが宣教師の山椒魚への接近をこばんだのである。そこで、タールを塗った柵のかたわらにつっ立ち、犬どもにとり囲まれ、そのほえ声を伴奏にして、神の言葉を懸命に、しかもいたずらに説いている伝道者たちの姿が、そこかしこに見られるにいたった。
これよりも少し広く山椒魚の間に普及したのは、モニズム(一元論、哲学上、経験が現わす多様は、すべて単一の原理にもとづくとする説)であった。彼らの一部は、金本位制や、その他の科学的ドグマ(独断)をさえ信じた。通俗哲学者ゲオルグ・セクウェンツは、山椒魚のために、特別の神学を書きあげさえした。この神学の中心となる最高の教理は、大山椒魚に対する信仰であった。この教えは、山椒魚の間にはぜんぜん根づかなかったが、反対に人間の間に、とくに大都会で、短い期間に多数の山椒魚教会が現われた。
ポウォンドラ氏の資料の中には、B市の警察の報告をもとにして書かれたきわめてつやっぽいパンフレットがある。『著作権確保、学術出版』と称するこの資料は、れっきとした本の中で引用するには、いささかはばかるところがあるので、われわれは、二、三の細部をその中から借用するだけにとどめよう。
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『Y街X号館にある山椒魚教教会の中央には、暗紅色の大理石をしきつめた大きなプールが設けられている。プールの水は温められて、香油でにおいをつけられたうえ、たえず色をかえる明りによって底の方から照明されている。大理石の階段をふんで両側から、楕円形のプールの中ヘまっ裸になった信徒たちが、すなわち雄山椒魚と雌山椒魚とが[山椒魚|連祷《れんとう》]を誦《しょう》しながら降りて行く。片側からは男が、他の側からは女が降りて行くのである。これはすべて、上流に属する人々である。たとえばその中には、M男爵令嬢、俳優のS、D公使その他有名人の名をあげることができる。突如、空色の反射灯が、水の上に突き出ている大きな大理石の岩を照らす。岩の上には[山椒魚教祖]と呼ばれる大きな年老いた山椒魚が、重い息をつきながら黒い姿を横たえている。しばしの静寂ののち、教祖が短い説教を行なう。教祖は信徒に向かって、これから行なわれる山椒魚踊りの儀式に全霊をうちこみ、[大山椒魚]に拝跪《はいき》せよと呼びかける。つぎに教祖はすわりなおして、上体をゆり動かしはじめる。つづいて男の信徒が、首まで水につかって同じく狂ったように、からだをゆり動かしたり、身をよじったりしはじめる。それは[性的雰囲気]をかもし出すために、なおいっそう速くなって行く。山椒魚たちはみな鋭い[ツ・ツ・ツ]という声を出したり、金切声で叫びはじめたりする。水中のあかりはつぎつぎに消えて行き、このようにして上を 下 へ の躁宴《そうえん》がくり広げられるのである』
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この記事の真偽のほどは、保証の限りではない。それはともかくとしてヨーロッパの大都会の警察が、この大山椒魚教を厳重にとりしまると同時に、たえず発生する大きなスキャンダルをもみ消そうと努めていたことは人のよく知るところとなっている。いろんな点から推察するのに、大山椒魚教は大いに普及したようであるが、しかし秘蹟の大方は、物語り式の壮麗さの中に行なわれたわけではないようである。もっと小さい教団では、水など用いずに、乾燥した室でこの秘蹟がとり行なわれたのである。
それよりずっとのちになってであるが、山椒魚はほとんど各地で、これとは違った宗教を受け入れるようになった。もっともその経過は明らかでない。この宗教というのは、モロフにたいする礼拝である。モロフというのは、人間の顔をもった巨大な山椒魚だと考えられていた。山椒魚たちは、鋳鉄でできた大きな水中偶像をもっていたが、彼らはこれをアームストロングやクルップなどの会社に注文したものである。うわさによれば、この宗教の細部はきわめて厳格で秘密になっていた。その結果、細かい様子はわからずじまいになってしまった。なにしろ、儀式の行なわれたのが水中だったからである。この宗教が山椒魚の間で普及したのは、あきらかにモロフの名が、山椒魚の自然科学上の名称[モルケ]あるいはドイツ名[モルフ]を思わせたためであった。
このように、山椒魚問題は長いあいだ、人間の社会や人間の秩序とすれすれのところに立ちながらも、山椒魚はどの程度に理知的で文化的な存在であるか、人間の権利の一部をどれくらい与えるべきものであるかという点でひっかかっていた。言いかえれば、それは各国の国内問題として、民法の枠内で解決されていたのである。長い間誰一人として、山椒魚が大きな国際的意義をもつようになり、たんに思考力をもつ存在としてだけではなく、山椒魚全体として、つまり山椒魚族として、これに対しなければならなくなるなどとは、考えてもみなかった。
山椒魚問題に対するこのような解釈のうえで、一歩ふみだしたのは、厳密に言うならば、『全世界におもむきて、すべての民を教えよ』という聖書の言葉にもとづいて、山椒魚に洗礼をほどこそうとした例の奇矯《ききょう》な宗派であった。つまり、そのことによってはじめて、山椒魚は民族のごときものであるとみなされるようになったのである。もっとも、山椒魚を民族として、国際的、原則的にまっ先に承認したのは、コンミュニスト・インターナショナルの、評判のかんばしくないアッピールであった。それは、同志モロホフの署名入りで、『全世界の革命的被圧迫山椒魚』に向かって、うったえたものであった。すなわち、ポウォンドラ氏のコレクションの中に、つぎのようなアッピールが保存されていた。
[#ここから1字下げ]
山椒魚の同志諸君!
資本主義的秩序は、最後の犠牲者を発見するにいたっている。今や腐敗した資本主義の暴虐は、階級意識に目覚めたプロレタリアートの革命的高揚によって、分断されはじめた。この時にあたって、海の労働者よ、資本主義は君たちを隷属せしめ、ブルジョア文化によって精神的に奴隷化し、階級的法律に屈従させ、君たちのすべての自由を奪い、いっさいの手段を弄して、君たちを殺すことなく、ひたすらに搾取しようとしている。
(十四行削除)
山椒魚の勤労者諸君! 君たちのおかれている奴隷状態の重圧を、自覚すべき時がきたのだ。
(七行削除)
しかして、君たちの階級的、民族的権利をかちとり……、
山椒魚の同志諸君! 全世界の革命的プロレタリアートは、君たちに手をさしのべている。
(十一行削除)
すべての手段をもって……。企業別委員会を設置せよ。信頼にたる同志を選出せよ。ストライキ基金を積み立てよ! 諸君、忘れるな、自覚したプロレタリアートは、この正義の戦いにおいて君たちを見捨てず、ともに手をとって最後の攻撃を敢行するであろう。
(七行削除)
全世界の革命的被圧迫山椒魚よ、団結せよ! 最後の戦いの時がきたのだ!
モロホフ
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このアッピールは、山椒魚に対してはなんら直接的影響を与えなかったようだが、代わりに世界の言論界に大きな反響を呼びおこした。すくなくとも、この点に関して本気に留意されるようになり、まもなく、山椒魚全体として、ある人間群の思想、政治、社会綱領に参加せよという、火のような呼びかけが、各方面から山椒魚に対し、雨あられとそそがれるようになった。
ポウォンドラ氏のコレクションから発見された、この種の檄文《げきぶん》の数は、あまり多くはなかった。おそらく、残りはポウォンドロヴァー夫人が、つぎつぎに焼いてしまったのであろう。残った資料の中には、つぎのような山椒魚に対するアッピールがあった。
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山椒魚よ、軍備に反対せよ!(平和宣言)
山椒魚よ、ユダヤ人を放逐せよ!(ドイツで出されたビラ)
同志山椒魚よ!(海洋少年団の正式の呼びかけ)
友なる山椒魚よ!(水生動物愛好者協会のあいさつ)
山椒魚よ、友人よ!(道徳復興連盟のアッピール)
山椒魚の市民諸君!(在ディエップ市民改新党のアッピール)
仲間なる山椒魚諸君、われわれの隊列に加われ!(退職海員相互扶助会)
仲間なる山椒魚!(在エギール水泳クラブ)
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ジュネーヴにある国際労働局も、山椒魚問題を取り上げた。ところで、ここでは二つの反対意見が衝突することになったのである。一方では、山椒魚を新しい範疇《はんちゅう》の労働者と認めて、労働法を完全に適用しようとし、他方ではこれに反対して、山椒魚の出現によって競争の危険が増大しているから、その労働の使用を完全に禁止すべきであると主張した。これに対し、雇い主側からはつぎのような意見が出た。
世界の工業、つまり金属(器具、機械、山椒魚のための鋳鉄製偶像)、軍需、化学(水中爆薬)、製紙(山椒魚用教科書用紙)、セメント、人工飼料《サラマンダー・フッド》を生産している木材、およびその他専門の生産状況は、最近非常に高まっている。さらにまた、商船隊のトン数は、前山椒魚時代に比して二七パーセント増加し、採炭高も一八・六パーセント増えている。このような事情は、就業労働者の増加と人間の福祉水準の向上とによって、間接的に他の工業部門の取引額の拡大をもたらしている。それにごく最近、山椒魚は自分の設計により、各種機械の部分品を注文しだした。これらの部分品によって、彼らは水中で、エア・ドリル、エア・ハンマー、水中モーター、印刷機械、水中無線送信機などを組み立て、そのほかにも自分たちの設計にもとづき、いろいろな機械・機具を作りあげているのである。そして山椒魚は、機械部分品の代価を、生産高の増加によって支払っている。今日すでに、全世界の重工業と精密機械生産の五分の一は、山椒魚の注文にかかっている有様である。もし山椒魚を黙殺するならば、全企業の五分の一は閉鎖のやむなきにいたるであろう。
もちろん、国際労働局もこの反駁《はんばく》を考慮にいれぬわけにはいかなかった。結局この問題は、長い交渉ののちつぎのような妥協点に到達した。つまり、『上記Sグループ(両生類)に属する使用者は、水中、水底あるいは海岸(満ち潮線より一〇メートル以内)において、就業しうるものと認める。ただし、これらの者は、海底の石炭あるいは石油を採取する権利をもたない。また、陸上における販売を目的として、海草から紙、繊維製品、人造皮革を製造する権利をもたない』と、定められたのである。この山椒魚に対する生産制限は、十九項から成る規定として編さんされたのであるが、これを守る者など、もちろん一人もいなかったという簡単な理由から、細かな紹介はいちおう見あわせることにしよう。しかし、山椒魚問題の経済的、社会的側面に対して、広範囲に国際的決定を与えた点で、これは興味のある貴重な資料をなしている。
ほかの分野、とくに文化的相互関係の分野における、山椒魚の国際的承認は、遅々として進まなかった。一方この間、専門刊行物に、ジョン・シーマンという署名で『バハム諸島の海底の地質構造』という論文が現われたが(この論文は、後にしばしば引用されるようになった)、これが学識のある山椒魚の労作であることを疑う者は、誰一人としていなかった。そうこうするうちに、学術会議、各アカデミー、学会などは、研究者である山椒魚から、海洋学、地理学、水生生物学、高等数学、その他精密科学の諸問題について、どんどん報告をうけとるようになった。これは、そのつど、ろうばいと不満をひきおこさせた。たとえば、マルテル博士など、『あの醜悪な連中はわれわれを教える気なのか』と、言ったくらいである。ついには、深海魚アルギロペレクス・ヘミギヌス・コッコの幼生における卵黄嚢《らんおうのう》の発達に関する一山椒魚の報告を引用した日本の学者オノシタが、学界のボイコットにあい、腹を切って死ぬという事件さえもち上がった。このようにして、大学の学問にとっては、山椒魚の学術論文を完全に無視することが、良心と団体的誇りであると見られるようになった。それだけに、記念式典の席上で演説させるため、ツーロン港の学識高い山椒魚のメルシエ博士を招いたニース大学当局の行為は、大センセーションをまきおこした(痛憤といった方がいいかもしれない)。博士はといえば、この式典席上で非ユークリッド幾何学における円錐曲線論について講演を行ない、大成功をおさめたのである。
ポウォンドラ氏のコレクションには、この式典についての、かなり表面的で読物ふうな記事が保存されていた。もっともそれは、残念なことに半分しか残っておらず、あとの半分はなくなっていた。さて、その記事をつぎにかかげよう。
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ニース、五月六日
プロムナード・デザングレにある地中海海洋研究所の明るく美しい建物は、この日活気にあふれている。二人の警官が、わざわざ、来賓のために歩道の整理にあたっている。一方来賓たちは、赤い敷物をふんで、ひんやりとした講堂へはいって行く。われわれはそこに、微笑を含んで立っているニース市長、シルクハット姿の知事、紺青の正服を着た将軍、レジオン・ドヌールの赤い略綬《りゃくじゅ》をつけた紳士、年齢不明の貴婦人(今年の服装は、赤土色が圧倒的に多かった)、海軍提督、新聞記者、教授、つねにコート・ダジュールに充満している各民族の身分のある古老たちを見るのである。突然、ちょっとした事件が起きた。何か妙なものが、来賓の間をおずおずと通りぬけようとしているのだ。それは、頭のてっぺんから足の爪先まで、黒い肩掛けかドミノといったようなものをまとっている。そして、両眼は大きな色眼鏡にかくされている。それは、人でいっぱいな玄関を目ざして、よちよちと歩いて行く。「ちょっと、あんた。なんの用かね?」と、一人の警官がどなった。しかし、その時には、びっくりしている相手のところへ、大学のお偉方がかけつけてきて、「こちらへどうぞ、博士」「あちらへどうぞ、博士」と案内しはじめる。これこそ、今日コート・ダジュールのきら星を前に演説を行なうことになっている、学識高い山椒魚のシャルル・メルシエ博士であった! さてわれわれは、祝祭日にふさわしい空気の中でざわめいている講堂の中へ、いい席を占めるために急いではいることにしよう。
壇上には、ムッシュー・ル・メール(市長閣下)、大詩人のムッシュー・ポール・マルリ、国際知性協力委員会代表マリア・ディミネアヌ夫人、地中海大学学長、その他公式代表が着席している。壇の片方に報告者の講壇があり、その後ろには……なんと、浴室にあるような普通のほうろうびきのバスがおいてある。そこへ、二人の世話係りが長いローブ(寛衣)をつけておどおどしている[彼]を連れてくる。少しばかりあわてたような拍手がきこえはじめる。シャルル・メルシエ博士は、内気に頭をさげ、どこにすわったものかとおそるおそるあたりを見回す。「どうぞこちらへ」ほうろうびきのバスを示しながら、世話係りの一人が言う。「先生のお席でございます」メルシエ博士は狼狽《ろうばい》しきって、この配慮に対しいかに感謝してよいかわからぬ様子である。彼はできるだけ注意をひかぬように気をつけて、バスの中に席を占めようとするが、長い肩掛けにひっかかり、水音高くバスの中に落ちこんでしまう。壇上にいならぶ人たちは一面にはねをかけられるが、何事も起こらなかったようなふりをしている。講堂の片隅で誰かヒステリックに笑う。すると、前列に並んでいる人々は、けわしい目つきでそちらをにらみ、「シーッ」ととがめる。この時、ムッシュー・メール・エ・デピュテ(国会議員兼市長閣下)が立ち上がって、演説をはじめる。
「紳士ならびに淑女諸君、私はこの美しいニースにおいて、深海の住人であり、われらの親しい友人たちの中のすぐれた学界代表である、シャルル・メルシエ博士に対してあいさつを述ぶる機会をえましたことを、無上の光栄とするものであります(メルシエ博士は、半身をバスからのり出し、低くおじぎをする)。文明史上におきまして、ここにはじめて、陸と海とは知的協力のために、たがいに手をさしのべたのであります。文明の前には、ただ今まで、越えがたい障害が横たわっておりました。世界の海こそが、まさにそれであったのであります。われわれは船に乗り、縦横に大洋を航海することができたのでありますが、その奥に向かって浸透することは、紳士淑女諸君、文明もまたよくするところでなかったのであります。すなわち、人類の住む一塊の陸地は、今日まで未開の処女海にとり囲まれていたのであります。これは、巨大なわくでありました。それと同時にもう一つ、古くからの境界がありました。一方に発達していく文明があり、他方に永久不変の自然が存在した事情こそが、まさにそれであります。
さてみなさん、この境界は今まさに消え去らんとしております(拍手)。偉大な今世紀の子であるわれわれは、われわれの精神王国がいかに成長し、いかにして海岸線を越えて海の波に沈潜し、海底に達したのち、古い文化の陸地と近代文明の海洋とを結びつけつつあるかを目撃するという、はかり知れぬ幸福に会うことができたのであります。これは、なんたる偉観でありましょう!(ブラヴォーの声)。満場の諸君、ここにわれわれがそのすぐれた代表に対してあいさつを送る光栄をえましたところの海洋文化、この海洋文化の誕生こそが、事実上しかして決定的に、わが地球を文化的惑星に転化せしめたのであります!(感激の拍手、メルシエ博士はバスの中で立ち上がり、おじぎをする)」
「大いなる賢人であられる尊敬する博士よ」市長はバスの縁によりかかり、感動のためにかろうじてえらをふるわせているメルシエ博士に向かって言った。「なにとぞあなたは、海底において、あなたの友や同胞に向かい、われわれの心からの友情と賛嘆と熱烈な共感とを伝えていただきたい。進歩と文化の前衛として、果てしない海洋を歩一歩と住家にかえ、大洋の底に文化的新世界をうちたてる前衛として、あなたがた海の友を、われわれがいかに歓迎しているかということを、なにとぞお伝えねがいたい。われわれはすでに、わだつみのまっただ中に、新しいアテネ、新しいローマの成長しつつあるのを見、海底ルーヴル、ソルボンヌ、凱旋《がいせん》門、無名戦士の墓、劇場、ブールヴァールを有する新しいパリが、花開きつつあるのを見るのであります。ここにおきまして、私のかねてひそかに抱懐いたしております考えをひれきすることを、許していただきたいのでありますが、私は、われらの愛するニースと並びまして、海底の美しい大通り、公園、散歩道などにより、われらのコート・ダジュールをいろどるところのあなた方のニース、新たなるうるわしきニースが、地中海の青い海の中に出現するのを、せつに願っているのであります。われわれは、あなた方と相知ることを望んでおり、同時にあなた方がわれわれの知己となられることを切望しております。われわれ相互の学術上、実際上の関係は、見られるとおりの幸福なる前兆のうちに、その緒《と》についたのでありますが、私はこのことが、全人類のため、世界の平和、繁栄、発展のため、われら諸国民をさらに緊密なる関係へと導くであろうことを、深く信じて疑わぬものであります」(長い拍手)。
これにつづいて、シャルル・メルシエ博士がたち上がり、ニース市長兼国会議員に対して、二言三言簡単な感謝の辞を述べようと試みた。しかし、博士が極度に感動しているのと、発音にいささか特徴があるのとで、私がその演説の中でどうにかとらえることのできたのは、耳なれた二、三の言葉だけであった。もし間違いがなければ、それは「あまりのおほめにあずかり」「文化的相互関係は」「ヴィクトル・ユゴー」などであった。恐縮しきったメルシエ博士は、言い終わると、ふたたびバスの中にかくれてしまった。
つぎに、ポール・マルリが発言する。それは演説ではなく、深い哲学につらぬかれた聖歌であった。
「人類のもつ美しい物語の一つが実現される時まで、生き長らえ得たことに対して、私は運命に感謝する。この実現は、まことにめざましい。われわれは驚嘆のうちに、かつて海の中に沈んだアトランティスに代わって、新しいアトランティスが、深海から浮かび上がってくるのをながめている。尊敬する同僚であるメルシエ氏よ! あなたは、空間幾何学の詩人である。そして、あなたがた学問の友は、深海から浮かび上がりつつある新しい世界の、最初の使者である。あなた方は、うたかた(泡沫)から生まれ出たアフロディテとしてではなく、パラス・アナドメーヌ(知の女神)として、われわれのもとに来られたのである。しかしながら、これと同時に、はるかに決定的で、はるかに神秘なのは……」
終わりの方は残っていない。
婦人団体の代表者であるマリア・ディミネアヌ夫人も、他の人々とともにニースの式典において祝辞を述べたと言われている。このすぐれた貴婦人は、メルシエ博士の謙虚さと学識に動かされて、彼女の活動的な生涯を、山椒魚の国際連盟加入の実現にささげようと決心したほどであった。
「おかわいそうに、なんて醜いんでしょう!」と、彼女は叫んだそうである。
この雄弁で精力的な女性に対して、政治家たちが、山椒魚は地球上のどこにも自身の国土や主権をもっていないから、国際連盟の一員になることができないと、どんなに説いてきかせても、結局なんにもならなかった。ディミネアヌ夫人は、それならば山椒魚はどこかに自由な領土を獲得して、彼ら自身の水中国家をつくらねばならないと、宣伝しはじめたのである。この思想はかなりにいかがわしく、危険でさえあったが、そうこうするうち、幸いにもある手段が講じられることになった。国際連盟に付属して、特別に[山椒魚問題研究委員会]が設けられたのである。その代表の一人には、ディミネアヌ夫人の要請によって、ツーロンのシャルル・メルシエ博士があげられた。それにもう一人、プランクトンと沿海性|浮游《ふゆう》生物層を専門に研究している、キューバの学者の太ったドン・マリオとかいう山椒魚があげられた。山椒魚の国際的承認という点から見て、これは当時として最大の成果であった。
ポウォンドラ氏の資料の中には、山椒魚の二代表が、ジュネーヴ湖からモン・ブランの桟橋へはしごづたいに上がろうとしているところをとった、不鮮明な写真が保存されていた。彼らの公式宿舎が、この湖の中に用意されていたわけである。
さて、ジュネーヴの山椒魚問題研究委員会は、きわめて貴重な大事業を成し遂げた。つまりその仕事は、主として、当面の政治上、経済上のあらゆる問題を、極力回避することに集中されていたのである。委員会は、なん年にもわたって会議を続けた。山椒魚にどんな統一的な国際的名称を与えるかという問題を例にとると、討論のために無慮千三百回以上の会議が開かれたほどである。しかも、結局においてなんらの成果もあがらなかった。この問題では、どうにもならない混乱が発生した。サラマンドラ、モルヘ、バトラクスなどの学術上の名称(これらは、少しばかり礼を失するもののように思われはじめていた)のほかに、いろいろな名称が山とばかりにもちだされた。山椒魚自身は、トリトン(半人半魚の人魚)、ネプトゥヌス(水神)、テティス(海の女神)、ネレイデス(海神)、アトラント(アトランティス島民)、オケアノス(全世界をとりまく川)、ポセイドン(海、川などの支配者)、レムノス(レムリア島民)、ペラーグ(遠洋族)、リトラル(沿岸族)、ポントス、バティード(次深海属)、アビッサ(深海族)、ヒドリオン、ジャン・ド・メール(海人)、スーマリン(海中族)、などと呼ばれることを望んだ。山椒魚問題研究委員会は、これらの名称のうち、もっとも適当と思われるものを選びださなければならなかった。委員会は、完全に問題を研究したのみか、山椒魚時代の最後の段階まで、懸命にこれと取り組んでいたが、どうしても満場一致の決定にたどりつくことができなかった。
さて、この間に、山椒魚のほうは、大きく一歩前進するのである。文明の向上とともに、出産率は大いに減少していたが(雌一匹で二十匹ないし三十匹の子を産んだ)、しかし、山椒魚の数はすでに七十億と算定されていた。彼らは、地球上の海岸の六〇パーセントを占めていた。彼らは、極地の海岸にこそ住んでいなかったが、それでもグリーンランドの海岸などは、すでにカナダの山椒魚の移住するところとなり、エスキモーを国内から追い出して、漁業や肝油の販売を手中に収めるようになっていた。
もちろん、このような文化的向上は、いついかなる場合にも、内部の混乱をともなわずに、円滑に行なわれたわけではなかった。ほんとうのところ、われわれは、山椒魚の内部問題をわずかしか知らない。しかし、二、三の点から推察するのに(たとえば、頭や足をもがれた山椒魚の死体が浮き上がってきた)、おだやかな海面の下でも、長い間、年をとった山椒魚と若い山椒魚との間で、激しい思想上の争いが続けられたようである。若い山椒魚は、サッカー、恋の手練手くだ、ファシズム、性的放縦をも含めて、あらゆる大陸文化の成果を水中に移す必要があるといって、制限、禁止を全然ともなわない進歩を支持した。
これに対し、年をとった山椒魚は、山椒魚の天性を守り続けて、古い善良な動物的習慣と本能から遠ざかるのを望まなかった。むやみに新奇を追う傾向を排撃した彼らが、それを凋落《ちょうらく》の兆候と見、祖先の理想に対する裏切りと見ていたことは、火を見るよりも明らかである。彼らは、堕落した現代の青年たちが、盲目的に、縁もゆかりもない文化の影響に屈服しているのを嘆き、さるまね的な人間の模倣が、誇り高い山椒魚にふさわしい行為であろうかと反問したりした(ポウォンドラ氏は、そのコレクションに、当時の人類の青年を非難した『国民政治』紙の論文を、二つ三つ加えていた。おそらく、この時代の山椒魚文化史に関するものだと、思い違いをしたものであろう)。われわれは、『中新世へかえれ! いっさいの人間化を排除せよ! 確固たる山椒魚性の確立のために闘え!』などという、大げさなスローガンが、つぎつぎにうち出されていった有様を、容易に想像することができる。二つの世代間の鋭い思想闘争と、山椒魚の発展途上における根本的転換の前提とが、ここに歴然と見られるのである。われわれは、残念ながら、もっと詳しい情報を提供することができないのであるが、想像するのに、山椒魚たちは、とことんまでこの闘争を展開したようである。
これに続いてわれわれは、繁栄の最高峰をめざしてばく進する山椒魚を見るのである。同時に、人間の世界の方も、当時、未曾有《みぞう》の繁栄期にあった。つぎつぎに大陸の海岸が整備され、大洋のまん中に人工の航空島ができていった。しかし、それらの建設にしてからが、巨大な地球の全面的改造という計画に比べれば、物の数ではなかった。この計画は、融資を待つのみとなっていた。山椒魚のほうは、いたるところの海底で休む間もなく働き続け、夜を徹してあらゆる大陸の海岸で作業を続行した。彼らは、その生活に満足していて、何か仕事があり、どこかの海岸に穴や、暗いすみかを結ぶ廊下を掘ることができれば、それ以上なんの要求もしなかった。
ところで、デイヴィツイの住人である一人の紳士が、かつてポウォンドロヴァー夫人に、つぎのような話をしてきかせたことがある。北海のカトヴァイクにある海水浴場で泳いでいる時のことであった。彼が遠くまで泳ぎでると、不意に浜辺に立っていた番人が、引き返せとどなってきた。当の紳士は(プルシゴダ氏とかいうブローカーであったが)、それを無視して沖へ泳いで行った。すると、番人がボートで後を追いかけてきて言った。
「旦那《だんな》、ここで泳いじゃいけないんですよ」
「なぜかね」プルシゴダ氏は尋ねた。
「ここにゃ山椒魚がいるんです」
「山椒魚なんかこわくないよ」プルシゴダ氏は言い返した。
「奴らは、海の中に工場をこさえているんです」番人は、ぶつくさと言った。「ここじゃ旦那《だんな》、誰も泳ぎゃしませんぜ」
「どうして?」
「山椒魚がいやがるんですよ」
つまり、山椒魚は、水中や地下に都市をこさえていたのである。彼らは、深海に首都を築き、二〇メートルから五〇メートルの深さの所に、彼らのエッセンやバーミンガムを擁していたのである。また、人口過剰をきたしている工場地帯、港湾、輸送幹線道路などが出現し、何百万という人口の集中さえみうけられた。一言にして言えば、山椒魚は、人間にこそ知られていないが、技術的に非常にすすんでいる、自分たちの世界をもっていたのである。彼らのもとには、溶鉱炉や製鉄所などはなかった。しかし人間が、彼らの労働とひきかえに、金属を提供していた。彼らは、爆薬ももっていなかったが、やはり人間が彼らにこれを売っていた。山椒魚の動力源としては、潮汐《ちょうせき》あり暗流あり、そして温度差ありというわけで、いわば海自体が動力源であった。タービンの提供は人間にあおいでいたが、山椒魚はこれを一〇〇パーセント利用する能力をもっていた。それはともかく、文明とは、ほかの者が考え出したものを利用する能力を指すのではなかろうか? またもしかりに、山椒魚に独自の思想がないとしても、独自の知識はもちえたはずである。彼らには自身の音楽や文学はないが、ないままに支障なくやっているではないか。人間はこのように考えて、これこそじつに近代的だという結論にさえ到達した。
幸せで新しい、全体的な充足と繁栄の世紀の到来のためには、これ以上何が不足であろう。待望のユートピアの実現をさまたげる、何があると言うのだ? まさに何もないのである! すなわち、以後における山椒魚の売買は、国家の細心な監督をうけるはずだ。つまり、国家の監督によって、新世紀の機械をめぐらす車輪が不意にきしんだりしないように、十分配慮されるようになったのである。
そうこうするうちに、ロンドンで海にのぞむ国々の会議が開かれて、山椒魚に関する国際協定が起草され、採択された。その結果、高潔な協約諸国は、たがいにつぎのような責務を負うことになった。すなわち、他の国家の主権下にある水域に自国の山椒魚を送らぬこと、自国の山椒魚が他国の領土あるいは権益圏の不可侵性を絶対におかさぬようにすること、他の海洋国の山椒魚問題にけっして干渉せぬこと、自国と他国の山椒魚間に紛争の起こった場合には、ハーグ国際裁判所の決定に従うこと、サメに対して用いられる普通の水中連発ピストル(シャフラネク・ガンあるいはシャーク・ガンと呼ばれるもの)よりも大きな口径を有する武器を、自国の山椒魚に与えぬこと、自国の山椒魚に他国の統治下にある山椒魚と緊密な関係を結ばせないようにすること、事前にジュネーヴにある常設海洋委員会の許可を受けずに、山椒魚を使役して、新たに大陸を建設したり自国領土を拡張したりしないこと、などがそれであった(全体で三十七項から成っていた)。
しかし、海洋国は山椒魚に対して義務的軍事訓練を行なわないこと(イギリス案)、山椒魚を国際管理にして、それを世界水域の調整にあたる国際山椒魚局に隷属せしめること(フランス案)、所属する国家の焼印をそれぞれの山椒魚におすこと(ドイツ案)、海にのぞむ国々の山椒魚の保有数は、一定の比率にもとづくべきこと(これもドイツ案)、山椒魚過剰におちいっている国に対し、その移住のために新しい海岸あるいは海底を提供すること(イタリア案)、有色人種の代表である日本国民が、山椒魚を(もともと黒色であるという理由から)委任統治すること(日本案)などは、すべて退けられた。
これらの提案の大部分は、次回の海洋国会議の検討に回されることになった。ところで、次回の会議そのものが、ついに開かれずにしまったのである。
つぎに、ジュール・ザウエルシュトッフが『タン』紙上で述べた、この協定に関する意見を紹介しよう。
『この国際的規定は、山椒魚の将来性および長期にわたる人類の波乱のない発展を保証した。われわれは、ロンドン会議が、その困難な課題を無事に遂行したことを祝福しよう。さらにまた、採択された規則にそくして、山椒魚に対しハーグ裁判所の保護が与えられるようになった事実に関連して、山椒魚に対しても祝辞を述べることにしよう。この結果、山椒魚は平静に、かつまた完全な信頼をもって、彼らの作業と海中における進歩にうちこむことができるのである。ここに強調されねばならないのは、ロンドン協約に表現された山椒魚問題の非政治化が、世界平和の重要な保障の一つだという点である。特に、山椒魚の非武装化は、各国間における水中紛争の可能性を、大いに減少せしめている。あらゆる大陸において、幾多の国境紛争や、支配権をめぐる紛争が続いたとしても、海においてだけは、疑いもなく、全体的な平和に脅威を与えるような現実的危険は存在しないであろう。
もっとも、平和は陸上においても、明らかにかつてないまでに強固になっている。海にそう国々は、陸上における国境の拡張にふける代わりに、新しい海岸の建設にまい進し、海によって自国の領土を広げることができるのである。わずかな土地をめぐって、鉄とガスを用いて戦う必要はなくなるであろう。それぞれの国が、必要とするだけの領土を作りあげるのには、山椒魚のシャベルとつるはしがあれば十分である。ロンドン協約こそは、あらゆる国民の福祉のために、このように平和な山椒魚の作業を保証しているのである。地球は、現在を除いたいついかなる時にも、これほど強固な平和と全面的繁栄とに近づいたことはなかった。山椒魚については多くのことが書かれもし、言われもしてきたが、今後はそれとは代わって、光輝ある山椒魚の世紀のことが、それにふさわしい完全な権利とともに語られるようになるであろう』
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三 ポウォンドラ氏ふたたび新聞を読む
子どもほど時の流れの速さを気づかせるものはない。われわれがドナウ川の左の支流のところで別れた(それも、ついこの間のことであった)小さいフランチークの面影は、いったいどこへ行ってしまったのであろうか?
「フランチークのやつ、どこにまた雲がくれしたのかな?」夕刊をめくりながら、ポウォンドラ氏がぼやいた。
「尋ねるまでもないじゃありませんか」くつ下のつぎあてに熱中していた、ポウォンドロヴァー夫人が答えた。
「女の子を追い回しているんだな」ポウォンドラ氏は中っ腹で言った。「しようのない小僧だ。もう三十になるというのに、一晩だって家にじっとしていやしない」
「空さわぎばかりやらかして、どれほどくつ下を破くかわかったもんじゃないわ」
手のつけられないようなくつ下を、別の木型にひっかけながら、ポウォンドロヴァー夫人はため息をついた。『これ、どうやったらいいかしら?』と、セイロン島を思わせるかかとの大穴を、と見こう見しながら、彼女は思案にくれた。『どうしようもないわ』そう判断しながらも、彼女はながながと戦略的考慮をはらったあげく、決然としてセイロン島の南岸に針をうちおろした。
ポウォンドラ一世がこよなく愛している、気持のいい家庭的な静けさがやってきた。わずかに新聞のサラサラなる音だけが聞え、いそがしく走る針の音がそれにこたえるだけになった。
「もうつかまりました?」ポウォンドロヴァー夫人が尋ねた。
「誰が?」
「女に切りつけたあの人殺し」
「人殺しのことなどあと回しだ」ポウォンドラ氏は、おこったような口調で言った。「日本と中国の関係が緊張しているって書いてある。これは大事件だぞ。あっちじゃいつも、大事件の連続だよ」
「あの男つかまらないと思うわ」ポウォンドロヴァー夫人は、判断をくだした。
「誰がかね?」
「あの人殺しですよ。女殺しは、たいていいつもつかまらないわね」
「中国が黄河の治水をやっているのが、日本の気にくわないとさ。これが政治っていうもんだ。黄河があばれて、中国がしょっちゅう洪水や飢饉におびやかされている間は、中国は弱いってわけだ。わかるかね? はさみをかしておくれ、これを切り抜いとくから」
「どうしてですの?」
「黄河でね、二百万の山椒魚が働いていると書いてあるんだ」
「そうなると、何かいけないことでもあるんですの?」
「と、おれは思うんだ。山椒魚に金を払っているのは、アメリカだからね。そうなんだぜ。だけど、日本の天皇もあそこに自国の山椒魚を入れたがるだろうしね。ありゃりゃ、こりゃどうだ!」
「何が起こったんですの?」
「『プチ・パリジャン』が、フランスはこれを黙許せずって書いてるよ。あたりまえだ。おれだってがまんしないな」
「がまんしないって、何をです?」
「イタリアが、ランペドゥーサ島の拡張に着手したんだよ。あれは、じつに重要な戦略的地点だからな。これでイタリアは、ランペドゥーサからチェニスに脅威を与えることができるんだ。『プチ・パリジャン』は、イタリアがランペドゥーサにすごい海上要塞を建設しようとしているって書いている。武装山椒魚が六万からいるそうだ。まったく冗談じゃないな。六万と言えば、おまえ、三個師団だよ。言っとくけどね、いつかきっと地中海では、何か起こるにきまってるぜ。ちょっと貸してくれ、切り抜いとくから……」
この時、セイロン島は、ポウォンドロヴァー夫人のたんねんな手にかかって姿を消し、ロードス島の大きさにまでちぢまっていた。
「ところでイギリスだがね」ポウォンドラ氏は考察を続けた。「ここにも苦労の種があるんだな。大英帝国は、水中施設の点で他の国に立ち遅れているって、下院で言われたんだそうだ。『ほかの植民地所有国が、あらそって新しい海岸や大陸を建設しているのに、イギリス政府は山椒魚に対する保守的な不信によって』てなことが言われたんだろうさ。だけど、こいつはほんとうだよ。おれはもうせん、イギリス大使館の小使いを一人知ってたがね。その男なんざ、本当にただの一ぺんもトラチェンカ(臓物のソーセージ)を食ったことがなかったよ。イギリス人はそういうものは食わんと言ってね、だからその男も食わんと言うのだ。とにかく、ほかの国がイギリスを追い越したとしても、おれは少しも驚かんね(ポウォンドラ氏は、きまじめな様子で頭をうち振った)。フランスは、カレーの海岸を拡張している。そこでイギリスの新聞は、海峡がせばまると、フランスはドーバー海峡越しにイギリスを爆撃するだろうと騒ぎたてているんだ。あたりまえだよ。自分の方からだって、ドーバーの海岸を広げて、フランスを爆撃できたんだもの」
「だけど、どうして爆撃などしなきゃならないのかしら?」ポウォンドロヴァー夫人は尋ねた。
「そいつはおまえにゃわからんよ。これは、軍事上のことだからね。おれは、あそこで何か起こったとしてもいっこう驚かんね。あそこであろうと、ほかのところであろうとね。山椒魚のおかげで、世界情勢は完全に一変しちまったよ。まったく完全にね!」
「戦争が起こるかしら?」ポウォンドロヴァー夫人は、不安気に言いだした。「あたし、あれよ……、うちのフランチークが……戦争に行かずにすめば……って思ってるのよ」
「戦争かい?」ポウォンドラ一世は答えた。「各国が海を分割しようとすれば、かならず世界大戦が起こるさ。しかし、わが国は中立を続けるね。ほかの者に武器や何かを提供するためには、誰かが中立でいなけりゃならないからな。そうなんだよ」ポウォンドラ氏は、そう判断をくだした。「しかし、おまえたち女には、こいつはのみこめまい」
ポウォンドロヴァー夫人はくちびをひきしめ、手早く返し縫いをしながら、フランチークのくつ下のかかとから、セイロン島をなくしかけていた。
「だけど、あれだな」ポウォンドラ一世は、内心の誇りをかろうじてかくしながら言った。「もしおれがいなければ、こういう恐るべき状態にはならなかったろうな。もしもだ、おれがあの船長をボンディさんのところに通さなかったら、歴史は全然違ったものになっていたろうよ。ほかの取り次ぎなら、あの人を家に入れやしなかったろうが、おれは自分で責任をとることにしたんだ。今になってみると、見てごらんよ、イギリスやフランスのような国でも、ひどくやっかいなことになっているじゃないか。そのうえ、どういう結果になるか、わかったもんじゃない」
ポウォンドラ氏は興奮して、ぷかぷかとパイプの煙をあげはじめた。
「そうなんだぜ。新聞は、山椒魚のことでいっぱいだ。ここにも出てる」ポウォンドラ一世は、パイプをかたわらに置いた。「セイロンのカンケンサントゥライ市のそばで、山椒魚が村を襲ったとさ。その少しまえに、土民が山椒魚をなん匹か殺したらしいんだ。『警官と土民軍一個小隊が配置され……』」ポウォンドラ氏は音読した。「『それいご継続的に、山椒魚と人間との間に射撃がかわされている。兵の間に負傷者が出た』……」ポウォンドラ一世は新聞をおいた。
「こりゃいかんな」
「どうして?」まえにセイロン島のあったところを、これでよしとばかりにはさみでせかせかとたたきながら、ポウォンドロヴァー夫人は驚いて尋ねた。「これでいいわ」
「どうしてだかわからないがね」ポウォンドラ氏はそう言い、興奮しながら部屋の中を歩き回りはじめた。
「こいつはまったくいかんよ。気にくわんな。人間と山椒魚が射ちあうなんて、あんまりじゃないか」
「山椒魚は防いだだけでしょうよ」なだめるようにポウォンドロヴァー夫人はそう言って、くつ下をかたわらに置いた。
「そう、たぶんそうだろう」ポウォンドラ氏は、不安気にうなった。「しかし、もし奴らが不意に発砲でもするようになると、まずいことになるぞ。こういうことは、初めてだからな。こいつはいかん」ポウォンドラ氏は、立ちどまって考えこんだ。「自分でもよくわからないが、おれはどうも、あの船長をボンディさんのところに通しちゃいけなかったようだな……」
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第三部 山椒魚戦争
一 ココス諸島の殺戮《さつりく》
ポウォンドラ氏は、一点においてあやまっていた。カンケンサントゥライのうち合いは、人間と山椒魚との最初の戦闘ではなかったのである。史上知られている最初の紛争は、この事件に先立つこと数年まえ、山椒魚に対する海賊的襲撃の最盛期に、ココス諸島(インド洋上にある)ですでにぼっ発していた。しかもこれでさえ、この種の事件の中で最も古いものではなかった。太平洋の港々では、山椒魚どもが健全なS=取り引きに対してまで反抗したという遺憾きわまる事件が、いくつかうわさされていたくらいである。これらは結局、ささいな事件なので、歴史の本に書き残されなかったまでのことである。さて、ココス諸島(キーリング諸島とも呼ばれている)の事件のいきさつは、つぎのとおりである。ハリマン系の『太平洋貿易会社』に属するジェイムズ・リンドレイ船長指揮下の密猟船『モンローズ』号が、れいのごとく野生山椒魚(連中の符丁によれば[マカロニ])を捕獲するために、同地へやってきた。ココス諸島には有名な山椒魚の入江があったが、ここの山椒魚はヴァン・トッホ船長の手で移住せしめられたのち、遠隔地のために、うち捨てられたままになっていたのである。
それはさておき、リンドレイ船長の処置に手ぬかりがあったと責めるのは、いささか当を失するであろうし、乗組員に武器をもたせずに上陸させたことで、彼を非難することも酷にすぎよう。というのは、当時の山椒魚の密猟は、すでにちゃんとしたものになっていたからである。それ以前の密猟船と乗組員は、機関銃をもち、それから軽砲までそなえていた。もっともこの用意は、山椒魚に対するものではなく、他の海賊との間に起こるかもしれない争いにそなえたものだった。
たとえば、カラケロン島(インドネシア東端タロード諸島の主島)では、ハリマン系の船とデンマーク船との間で、戦闘が行なわれたことさえある。ごたごたは、デンマーク側の船長が、カラケロンを自分の方の禁猟区だとみなしていたところからおこった。この機会に、双方の乗組員たちは、貿易と威信とをめぐるまえまえからの紛争を、すっぱり決算しようと思いたったのである。彼らは、山椒魚の捕獲も何もかもうち忘れて、大砲と[ホッチキス]で射ちあいを始めた。さて陸上では、ナイフを手に攻撃に出たデンマーク人が勝利をしめた。しかし、ハリマン系の船は、そのあとデンマーク船の砲撃に成功し、ニールセン船長を含めて、船をはらわたもろともうち沈めてしまった。これが、カラケロン事件と呼ばれる紛争である。この事件には、関係国の公式機関と政府が介入せざるをえなくなった。その結果、ギャング船に対しては、それ以後、大砲、機関銃、手榴弾《しゅりゅうだん》を用いることが禁止された。そのほか、密輸会社は、山椒魚地区への出入を一定の密猟船だけにとどめるという申し合わせを行ない、その際いわゆる自由猟区を分割することにした。小経営の密猟会社は、大密猟会社のこの紳士協定を尊重し、きちんと守りさえしたのである。
ところで、リンドレイ船長のことに戻ろう。山椒魚捕獲のため島に部下を上陸させる際、彼は、当時行なわれていた貿易と海運上の習慣の精神をちゃんと守って、オールと棍棒《こんぼう》だけを持って行かせた。のちに行なわれた公式調査は、この点、亡くなった船長の行為を完全に正しいものと認めた。
その月明の夜、ココス諸島に上陸した人々を指揮したのは、捕獲の経験にたけていた高級船員のエディー・マッカースであった。さて、マッカースのひきいる部下の人数がわずか十六名であったのに対して、彼が岸辺に発見した山椒魚は、六百ないし七百の成長した雄の山椒魚から成る大群であった。だが、それを知っても、彼が仕事を中止しなかったからといって、彼を非難することはできない。密猟船の高級船員と乗組員が、習慣に従って、山椒魚を一匹つかまえるごとに賞金をもらっていた事実を考えるなら、なおさら彼を非難できない。海事局も、その後取り調べを行なった際、『事実、高級船員マッカースは、この遺憾な事件に対して責任を有してはいるが、このような場合、彼のごとき地位にある者なら誰しも、別な行動をとりはしなかったろう』と、断定した。ところで、この不幸な高級船員は、大いに判断力をはたらかせて、じょじょに山椒魚を包囲する代わりに(その場合の数的関係では、完全に包囲することなどぜんぜん不可能だった)、彼らを海から遮断《しゃだん》したうえで、島の奥の方に追いこみ、そこで一匹一匹に棒とオールをくらわせることにし、急襲をかけるはらをきめた。まずいことに、散開隊形で攻撃をかけたまではよかったが、その後海員たちの輪が破られ、二百ばかりの山椒魚が海の方へすりぬけてしまった。攻撃者側が、海から遮断された山椒魚を片づけている間に、ふと後ろの方で、水中連発ピストル(シャーク・ガン)の発射音が、やつぎばやに聞えてきた。実際のところ、ココス諸島の『天然』山椒魚が、サメを防御する連発ピストルを持っていようなどと考えている者は、一人もいなかった。それはさておき、いったい誰が彼らに武器を与えたかということは、結局わからずじまいだった。
さて、この椿事《ちんじ》のただ一人の生き残りであるマイクル・ケリーという水夫が語ったところによれば、その時の事情はつぎのようであった。
「銃声が聞えはじめた時、私たちは、やはり山椒魚狩りにここへ上陸した、別の船員たちがやってきたのだと思いました。高級船員のマッカースはふり返って、『薄のろめえ、何をしやがるんだ。おれたちは、モンローズ号の乗組員だぞ』って、どなりました。ちょうどこの時、彼は太ももに負傷しましたが、それでも連発ピストルをにぎって射ちはじめました。そうこうするうちに、彼はもう一方の手でのどをつかんで、ぶっ倒れてしまったのです。その時になって、私たちは初めて、射ってきたのが山椒魚で、私たちを海から遮断しようとしているのだと気がつきました。ロング・スチーヴがオールをふりあげて、『モンローズ! モンローズ』ってどなりながら、山椒魚にうってかかりました。私たちも、『モンローズ』とどなり、力のある限りオールをふりまわして、奴らをたたきのめしました。そのうちに、五人だけがその場にとり残され、あとの連中は海の方へ突破しました」
「ロング・スチーヴなどは、水の中へ飛びこんで、ボートへたどりつこうとしましたが、なん匹かの山椒魚にしがみつかれ、海底にひきずりこまれてしまいました。チャーリーも沈められてしまいました。『おーい、助けてくれーっ! 助けてえ!』って奴がどなるのを聞きながら、私たちは、助けたくても手も足も出ない有様でした。後ろからは奴らが射ってきます。ボトキンが、ふり返って一匹の山椒魚の腹をなぐりつけましたが、そのうちに『だめだあ』とどなりながら、倒れてしまいました」
「そこで私たちは、島の奥へ逃げこもうと思いました。しかし、棍棒《こんぼう》やオールなども、奴らをたたきまくったあげく折れてしまっていましたから、私たちは、まるでウサギのように逃げだすより手がありませんでした。そのうちに、私たちはたった四人になってしまいました。船に帰れなくなるのが心配だったもので、私たちは、あんまり海岸から遠くへは逃げたくない気持でした。岩の陰やら木の茂みにかくれた私たちは、仲間が山椒魚にとっつかまるのを、じっと見ているきりでした。奴らは、仲間をまるでネコの子のように海に沈めてしまい、誰かまだ泳いででもいようものなら、|かなてこ《ヽヽヽヽ》でガンと頭をぶっくらわせたりしました。その時になって初めて、私は足を脱臼しているのに気がつき、気がついたかと思うと、もうそれ以上そこから進めなくなってしまいました」
船に残っていたジェイムズ・リンドレイ船長は、明らかに、島で起こった銃声を聞きつけたものと思われる。そして、島で土民と の 間 に悶着《もんちゃく》がおきたのか、ほかの山椒魚狩りの連中が上陸しているのだと思いこんで、船に残っていたコックと二人の機械工を連れ、厳重な禁令をやぶり、あらかじめ船の中にかくしておいた機関銃をボートに積みこむように命じたあげく、島にいる乗組員たちの応援にかけつけたのだった。船長はかなり慎重なほうだったので、すぐには岸に上がらなかった。彼は、機関銃をのせたボートを岸につけさせ、腕組みをして、すっくと立ち上がった。さてその後は、水夫のケリーに語らせよう。
「私たちは、山椒魚に見つかるのがこわいので、船長に声をかけることができませんでした。リンドレイさんは、腕組みをして、ボートの上につっ立ち、『何ごとだ?』とどなりました。それを聞いて、山椒魚どもが、船長たちのほうへかけて行きました。海岸に数百匹の山椒魚がいたほか、海からぞくぞくと新手の山椒魚が泳ぎ出てきました。そして、ボートをぐるりととりまいてしまいました。『なんだ?』と船長が尋ねますと、一匹の大きな山椒魚が船長に近づいて行き、『引き返しなさい』と言いました。船長は、山椒魚をにらんだまま、しばらく黙っていましたが、最後に尋ねました。『おまえたちは山椒魚か?』『そうです、山椒魚です』と、相手は答えました。『引き返しなさい』『おまえたちが、うちの連中をどんな目にあわせたか、おれは知りたいんだ』と、うちの親父は言いました。『あの連中は、われわれを襲撃すべきではなかった』と、山椒魚は言いました。『自分の船にお戻りなさい』船長は、またしばらく黙っていましたが、つづいて『よし、射て、ジェンキンス』と、平然と言い放ちました。そこで機械工のジェンキンスが、山椒魚目がけて機関銃火をあびせかけたのです」
事件の調査にあたっていた海事局の言葉を逐語的に引用すると、『その際ジェイムズ・リンドレイ船長は、イギリスの船員に要求されるとおりの行動に出たのである』
「山椒魚はひとかたまりになっていましたので――ケリーは供述を続けた――まるでムギの穂がなぎ倒されるみたいに、バタバタ倒れました。山椒魚どもの中には、リンドレイさんに向かって連発ピストルをうちかけるものもいましたが、それでもあの人は腕組みをしたまま、身じろぎもしませんでした。この時、罐詰の罐のようなものをもった黒い山椒魚が、ボートの後ろの水面に浮かび上がりました。そいつは、別の方の手で罐から何かひき出し、ボートの下の水中めがけて投げてみました。するととたんに、そこに水柱がたちのぼり、ズシーンと私たちの足もとの土地が鳴ったくらいに、激しい爆発が起こりました」
マイクル・ケリーの供述にもとづいて調査を行なった当局は、その爆薬について、シンガポール港の補強工事に従事していた山椒魚に、海底岩の爆破のために与えられていたW3号爆薬であったと結論した。しかし、この爆薬がどんな経路で、シンガポールの山椒魚からココス諸島にとどけられたのやら、かいもくわからなかった。ある者は人間が運んできたのだと思い、別の人々は、当時すでに山椒魚たちが、遠距離の連絡をさえとっていたのだと思っていた。世論は、危険きわまるこの爆薬を山椒魚に与えることを禁止せよと当局に要求したが、これに対して関係当局は、目下のところ『効果が高くて、しかも比較的に安全なW3号爆薬を、ほかの爆薬に取り替える可能性はない』と釈明した。そして、この問題もそれきりになってしまった。
「ボートは空中にふっとびました」ケリーは供述を続けた。「そして、木っぱみじんになってしまいました。生き残った山椒魚どもが、爆発の場所にかけつけました。リンドレイさんが無事かどうか、私どもには見とどけられませんでしたが、それでもドノヴァン、バーク、ケネディーらはたち上がって、船長が山椒魚らにつかまらぬように、救援にかけ出しました。私も、奴らといっしょにかけつけたいと思いましたが、くるぶしを脱臼していましたので、そこの関節を直そうと思って、すわったまま、両手で足の裏をおしあげたりしていました。ですから、私はあっちでどういうことが起こっているのか、気がつきませんでした。私の気がついた時には、ケネディーは顔を砂にうずめてぶっ倒れていましたし、ドノヴァンとバークの二人などは、それこそ影も形もなくなっていました。ただ、海の中がばかにそうぞうしいばかりでした」
その後、水夫のケリーは島の奥の方にのがれ、土民の村にたどりついたが、土民はなぜか非常にすげない態度を示し、彼をかくまうのをひどくいやがった。明らかに彼らは、山椒魚を恐れていたのである。この事件が起こってから七週間もたってから、ある漁船が、ココス諸島に停泊している『モンローズ』号に出会わしたが、同船はきれいさっぱり略奪されていて、船内はがらがらであった。ケリーを救いだしたのも、この船だったのである。
それからさらになん週間かたった後であった。大英帝国の砲艦『ファイアボール(火の玉)』号が、ココス諸島に来ていかりをおろし、そのまま夜を待った。その夜も前の時と同じく、明るい月夜だったので、山椒魚が海の中から出てきて、砂の上に大きな円をつくってすわり、それからおもむろに荘重な彼らの踊りを踊りはじめた。これを見ると、大英帝国の砲艦は、第一弾をあびせかけた。山椒魚の中で、こなごなになるのをまぬがれた連中は、一瞬われを失ってぼう然としていたが、つぎには海を目がけ大急ぎでのがれはじめた。この時、六門の砲からうち出すいっせい射撃の音が、ごう然となりわたった。結局、海の中にのがれることができたのは、わずか数匹の手負いの山椒魚だけであった。それでも、いっせい射撃は二度、三度と続けられた。
それがすむと、大英帝国の砲艦『ファイアボール』号は、半マイル後退した。つぎに、岸に沿ってゆっくり遊えいしながら、海中めがけて砲撃を加えた。これは六時間も続き、約八百もの深海爆弾がうち出された。その後まる二日間、キーリング諸島付近の海上には、傷だらけになった山椒魚の死体が無数に浮いていた。
同じ夜、オランダの軍艦『ヴァン・ダイク』号も、グノン・アピ島上に密集している山椒魚に対し、三たび砲撃を加えた。それから、日本の巡洋艦『函館』が、山椒魚の島アイリングラプラプに向かい、三発の榴弾《りゅうだん》を放った。フランスの軍艦『べシャメル』号も、同じく三発の砲弾をもって、ラワイワイ島の山椒魚の踊りを粉砕した。つまり、これらは山椒魚に対する警告だったのである。この警告は、けっしてむだではなかった。このような事件(この事件は、『キーリング・キリング』、すなわち『キーリングの殺戮』と呼ばれた)は、それ以上起こらず、かくして山椒魚の取り引きは、正規ルートであるか闇ルートであるかにかかわらず、従来どおり盛大に継続されたのである。
二 ノルマンジーにおける衝突
それから少し後に起こったノルマンジーの衝突は、前の事件とは違った性質のものであった。ノルマンジーの山椒魚は、主としてシェルブールで働き、住いのほうは隣りの海岸にあり、非常にリンゴを好んだ。しかし、彼らの主人たちが、普通の山椒魚食のほかにリンゴを与えたがらなかったので(建設費が予定以上に超過するのをおそれたのである)、山椒魚は近くのリンゴ園を襲っては、盗みをはたらいていた。農民は、このことを県当局に訴えでた。そこで、山椒魚は、『山椒魚地帯』以外の海岸に姿を現わすことを禁じられることになった。しかし、この禁令だけではなんの効果もありはしなかった。依然としてリンゴはなくなり、ニワトリ小屋の卵までがなくなった。農民は、まい朝、番犬がますます多くぶち殺されているのを発見するようになった。
そこで事態は、農民たちが古い鉄砲を持ち出してきて、自分から果樹園の番に立ち、強盗山椒魚を射撃で迎えるというところまで発展した。ほんとうは、それでもまだ事件は局地的な事件にとどまることができたのであるが、このほかに農民は、税金の引き上げ、弾薬の騰貴に憤慨して、ますます山椒魚に敵意をもやし、ついには徒党を組み山椒魚を襲うようになった。しかも彼らは、港湾施設工事地区にいる山椒魚にまで発砲するようになった。そこで、シェルブールの水中工事を請け負っていた企業家たちも、やむをえず当局にこのことを訴え出た。県当局は、さびついた農民のやくざな鉄砲を没収するように命じた。もちろん、農民はこれに反抗し、とうとう憲兵との激しい衝突という段にまでいってしまった。強情をもってなるノルマンジー人たちは、山椒魚はおろか、憲兵に向かってさえ発砲した。そこで、増援のため、ノルマンジー向けに憲兵隊の別隊が送られ、村という村では、一軒のこらずしらみつぶしの家宅捜索が行なわれた。
ちょうどこの時、きわめて不快な事件が起こった。クタンス付近での出来事であるが、ある日村童たちが、悪さをしようと(と彼らは言った)、ニワトリ小屋に忍びよった山椒魚をとりおさえ、納屋の壁ぎわに追いつめ、煉瓦をぶつけた。負傷した山椒魚は、突然手をふりあげ、一見卵のようなものを地上にたたきつけた。とたんに爆発が起こって、山椒魚は木っぱみじんに砕けてしまった。同時に、十一歳のピエル・カジュス、十六歳のマルセル・ベラル、十六歳のルイ・ケルマデクの三少年も、同じ運命に見まわれた。そのほかに、五人の子どもがそれぞれに負傷した。
この報は、ただちに全地方に広がった。まもなく、小銃、くま手、鎖などを手にした約七百人ばかりの者が、バスに乗ってノルマンジーの各地から集まってきて、バス・クタンスにある山椒魚の生息地を襲った。はじめのうちは、憲兵も激高した群集をおし返すことができた。もっとも、その間に二十匹ほどの山椒魚が殺された。工兵がシェルブールから呼び寄せられ、バス・クタンス湾に有刺鉄線をはりめぐらした。しかし、夜になると今度は山椒魚が海から出てきて、手榴弾《しゅりゅうだん》で鉄条網線をうち破り、つぎに同地の奥へ侵入しようと試みた。何個中隊かの兵が、機関銃をたずさえて、軍用自動車でかけつけてきた。列をつくった軍隊が、山椒魚と人間とをひき分けた。ところで農民は、税務署と憲兵隊の建物にうち壊しをかけた。一税務官吏が、『山椒魚をやっつけろ!』と書きつけてある、街灯につり下げられた。新聞――とくにドイツ各地の新聞――は、ノルマンジーに革命が起こったと書きたてた。フランス政府は声明を発し、それをきっぱり否定した。
農民と山椒魚との衝突が、カルヴァドス、ピカルディ、パ・ド・カレ海岸に沿って広がっている間に、シェルブールからノルマンジーの西海岸に向かって、フランスの旧式巡洋艦『ジュール・フランボー』号が出航した(このことは、同軍艦の出現が、土地の住民にも山椒魚にも、鎮静の効果を与えるであろうという想定にもとづく措置であったと、後になって説明された)。『ジュール・フランボー』号は、バス・クタンス湾から一マイル半のところに停止した。夜にはいって、巡洋艦の艦長は、効果を強めるために、有色|火箭《かせん》をうち上げるように命じた。そこでおびただしい群集が、美しいみものをながめようと、海岸に集まってきた。見ているうちに、突如、大きくシュッと鳴る音が聞えたかと思うと、軍艦の艦首のところに、巨大な水柱がボーンと上がった。と見る間に、艦がぐらりと傾き、間髪をいれず、おそろしい爆発音がとどろきわたった。巡洋艦の沈没は、火を見るよりも明らかだった。モーター・ボートが近くの港から救援にかけつけるまでには、ものの十五分とはかからなかった。しかし、その必要はなかった。爆発の際に死んだ三人を除いて、そのほかの乗組員は全部、自分たちで助かったからである。そして、『ジュール・フランボー』号は、五分ののちに沈没した。その際艦長は、『処置なし』という記憶すべき言葉を残しつつ、一番最後に艦を離れた。
同夜行なわれた正式発表には、『数週間のうちに艦隊名簿から除外されることになっていた、旧式巡洋艦ジュール・フランボー号は、夜間航行中、礁《しょう》にのり上げ、汽鑵《きかん》の破裂を起こして沈没した』とあったが、新聞はこの発表に満足しなかった。とくに、野党系の新聞や外国の新聞は、つぎのような長い見出しをかかげた。
仏巡洋艦、山椒魚の魚雷攻撃を受く
ノルマンジー海岸の怪事件
山椒魚一揆ぼっ発
『人間に反対するために山椒魚を武装させた者、フランスの農民や無心に遊んでいる子どもを殺すため彼らの手に爆薬を支給した者、勝手しだいにフランスの軍艦を撃沈するため最も近代的な魚雷を彼らに与えた者の責任を、われわれは追及する』と、バルテレミ代議士は、彼の新聞紙上で激しく呼びかけた。『繰り返して私は言う。われわれは、彼らの責任を問うことを要求する。彼らに殺人罪の判決を与えよ。彼らを軍法会議に引きわたせ。さらにまた、これらの者どもが、海の怪物を文明の花である海運業に対して武装せしめた代償として、兵器製造者らからどれほどの報酬を受けたかを審理し、実情を明らかにせよ』
いたるところに、不穏な空気があふれていた。人々は群れをなして路上に集まり、ところどころではバリケードをさえ築きはじめた。パリのブールヴァールには、小銃をピラミッド形に組んで、セネガル狙撃《そげき》兵がつっ立っていた。そして郊外には、装甲自動車や戦車が、いかめしく待機していた。
この日下院では、海軍大臣フランソワ・ポンソーが自席から立って、蒼白《そうはく》な面持ちながら、決然たる態度で言明した。
「フランス沿岸の山椒魚に、小銃、水中機関銃、水中砲、水中迫撃砲などを与えたことに対しまして、政府は全責任を負うものであります。ただし、フランスの山椒魚が有しておりますのは、小口径の軽砲にとどまるのであります。これに反し、ドイツの山椒魚は、三二サンチ水中臼砲を有しているのであります。さらにまた、フランス沿岸における水雷、手榴弾《しゅりゅうだん》、爆薬の水中倉庫が、二四キロに一つの割合になっているのに対しまして、イタリア沿岸の水中兵器庫は、平均二〇キロに一つ、ドイツでは一八キロに一つとなっております。フランスは、祖国の海岸を無防御のまま放置することはできません。また、放置するようなことも絶対にないのであります。フランスは、自国の山椒魚の武装化を、断念することはできないのであります」
続いて大臣は、ノルマンジーにおける重大な誤解の責任者が何者であったかを明らかにするため、厳重な取調べを行なうように命じたと述べた後で、つぎのように報告した。『山椒魚は、明らかに、有色|火箭《かせん》を戦闘開始の信号と見て、防御しようとしたもののようである。つぎに、巡洋艦ジュール・フランボー号の艦長とシェルブール県の知事についてであるが、両者はともに解職処分に付せられた。さて、特別委員会は、水中施設局が山椒魚に対してどのような取り扱いをしているか、目下調査中である。将来この点、厳重な統制が行なわれるはずである。さらに政府は、犠牲に対し深い哀悼の意を表する。今は亡き若き国民的英雄ピエル・カジュス、マルセル・ベラル、ルイ・ケルマデクは、勲章を授与されるとともに、国家の負担によって埋葬されることになっている。また、彼らの両親に対しては、相当な年金が与えられることになろう。つぎに、海軍の上層部では、近く大|更迭《こうてつ》が行なわれるはずである。そればかりでなく、議会に対してさらに詳細な報告を行なえるような時期の到来をまち、政府は議会に信任案を提出するつもりである』
この演説についで、無期限閣僚会議が宣せられた。一方新聞は、その政治的色彩の程度に応じてであるが、山椒魚に対する懲罰的な殲滅《せんめつ》的進撃や、植民地的十字軍などを要求した。民衆は、港湾や海岸が立入禁止になるといううわさにおびえて、夢中になって食糧をたくわえはじめた。その結果、あらゆる物資の値段が、目まいのするような速さで高騰した。物価騰貴のために、工場地帯では動揺が起こった。取引所は、三日間の休場となった。
これほどに険悪な状態は、久しく見られなかった。すくなくとも、それまでの三、四か月には見られなかった。
事態がここまで発展してきた時、モンティ農相が事件に介入した。このことが、事件をつごうよく転換させることになった。つまり彼は、週に二、三回、フランスの海岸地帯へリンゴを貨車に積んできて、海へぶちまけるように命じたのである。もちろん、費用は政府もちであった。この方策は、山椒魚を満足させたばかりでなく、ノルマンジーやその他の地方の果樹園経営者をも、大いに安心させた。が、モンティはそれだけに止まっていなかった。たまたま、売行不振に悩むぶどう酒醸造地帯で不満が増大し、そのことが政府を悩ましていた際だったので、農相は、政府が毎日半リットルの白ぶどう酒を山椒魚に与えることによっても、『山椒魚援助』を行なうように命じた。ぶどう酒がひどい下痢をおこさせるというので、最初のうち、これは山椒魚には不人気だった。彼らは、ぶどう酒を海に流してしまっていた。しかしそのうちに、山椒魚はだんだんに飲酒にふけるようになった。そして、その時以来、大いに雌雄の交わりに熱をあげるようになった。もっともこれは、多産性の点では、従来に比べて大して効果があった訳ではなかった。つまりこのようして、農業問題も山椒魚事件も、一挙にして解決されたのである。緊張状態は、魔法のように消えてしまった。それからしばらくたって、ラプレル夫人事件をめぐる金融上のスキャンダルに関連して、またもや政府の危機がおとずれた時、先に手練のほどを示したモンティは、海相として新内閣に入閣することになった。
三 ドーバー海峡事件
こういった事件のあと、しばらくしてからであった。ベルギーの旅客船『ウーデンブルグ』号が、オーストエンデを出てラムスギットに向かって航行していた。この船が、ちょうど英仏海峡のなかほどにさしかかった時、当直の高級船員は、通常の航路から半マイルばかり南によった海中に、『何か起こっている』のを発見した。何が起こっているのか、人が溺死しかけているのか、何もわからなかったので、彼は海水のざわめいているところへ、船を向けるように命じた。二百人以上の船客が、風下にあたる船の上から、この奇妙な光景を見物していた。
ここかしこに、海の水が噴水のようにふき出し、それにつれて、黒っぽいものが海中から吹き上げられて飛び出していた。海は、半径約三〇〇メートルばかりにわたってざわめいており、うずが泡《あわ》をふいて回っていた。うずの奥からは、かみなりのような音と、こもったような響きとが聞えてきた。それはちょうど、『あまり大きくない火山が、水中で噴火を起こしてでもいるように思われた』。『ウーデンブルグ』号は、そろそろとそこへ近づいて行った。すると突然、船首から一〇メートルばかりのところで、バカーンと大きな爆発音がして、山のような大波がもくりともち上がった。とたんに船は、ズーンと沈み、熱湯のようにわきたった海水を、ザーッとばかりに甲板からかぶった。と同時に、黒い大きな物体が、ちぢこまって船首甲板にぶつかっては、痛さに悲鳴をあげるのが聞えてきた。それは山椒魚だった。けがだけでなく、火傷さえしている山椒魚だった。当直高級船員は、船がこの熱湯地獄にはいらないように、逆行を命じた。
が、この時にはもう、爆発音はあたり一面に聞えはじめ、海面はばらばらになった山椒魚の死体におおわれてしまった。とにもかくにも、『ウーデンブルグ』号は、方向を変えることに成功し、全速力で北を目ざしてつっ走った。と見るまに、船尾から六〇〇メートルばかりの所で、ものすごい爆発が起こって、水と蒸気の巨大な柱が、もくりと海中から上がった。ハリッジの方へ進路をとった『ウーデンブルグ』号は、『至急報、至急報、至急報! オーストエンデ―ラムスギット航路上に、きわめて危険なる海中爆発あり。原因不明、各船舶に進路を変更するよう忠告す!』という無電を、各方面に送りだした。その間依然として、艦隊の演習の時に聞えるようなズーンという音や、グヮラグヮラという音が聞えていたが、海中からふき上がる海水と蒸気のために、視界はぜんぜんきかなかった。一方、ドーバーとカレーからは、この地点を目ざして、水雷艇と駆逐艦が全速力で出航し、何個中隊かの軍用機もまた飛び立った。しかし、それらが現場に到着した後で見いだしたのは、気を失ってひっくり返っている魚と、ばらばらになった山椒魚の死体とにおおわれ、黄色い軟泥《なんでい》に濁った海面だけであった。
最初のうちは、言いあわせたように、誰もかれもが水雷の一種が海峡で爆発したのだと言っていた。しかし、英仏海峡両岸が軍隊でとり囲まれ、イギリスの首相が土曜日の晩に、ウィークエンドをきりあげて、急ぎロンドンへとってかえすやいなや(これは、英国史はじまって以来四回目の出来事であった)、人々は、非常に重大な国際的事件が起こったことに気がついた。新聞は、そうぞうしくいろんなうわさをばらまきはしたが、今度という今度ばかりは、事実からはるかに立ち遅れていた。ただ、その数日間というもの、誰一人として、ヨーロッパと全世界が戦争とすれすれの所に立っているのを、疑わなかった。数年たって、当時のイギリスの閣僚であったサー・トマス・マルベリーが国会議員選挙に落選し、そのあげく政治生活の回想録を発表した時、大衆は初めて、この時の事件の真相を知ることができた。もっともその時にはもう、誰の興味もひかなくなってはいたが……。
簡単に言うと、事件はつぎのとおりだったのである。フランスもイギリスも、いざ戦争となった時、英仏海峡を封鎖できるような、山椒魚の海底要塞を、それぞれ自国側から建設しはじめていたのである。後になって両国は、たがいに罪をなすりつけあって、相手が先に着手したのだと言いはった。しかし、隣りの友邦に先んじられるのをおそれて、同時に築城工事を始めたというのが、おそらくは真相であったろう。一言にして言えば、海峡のなめらかな海面の下には、重砲と迫撃砲をそなえ、広い地雷原をもち、人類の進歩がこの時までに到達することのできた軍事技術の粋をほどこされた、二つの巨大なコンクリートの要塞が、向かいあってできあがろうとしていたのである。イギリスの要塞には二個師団、約三万のがっしりした活動的な山椒魚が配置され、フランス側では、三個師団の第一級の山椒魚兵が部署についていた。
この不幸な日に、海峡のまん中で、作業中のイギリスの山椒魚部隊とフランスの山椒魚とが遭遇して、両者の衝突となったのである。フランス側は、おとなしく働いていたフランスの山椒魚を、イギリス側が襲撃して追い払おうとしたと主張して、つぎのように言った。『武装したイギリスの山椒魚は、その際、数匹の山椒魚を――もっとも、相当に抵抗をしたのは事実であったが――連れ去ろうとした。そればかりでなく、イギリスの山椒魚兵は、働いているフランスの山椒魚に、手榴弾《しゅりゅうだん》を投げつけ、迫撃砲の砲撃を加えさえした。そこで、フランスの山椒魚も武器をとらざるをえなくなったのである。要するにフランス政府は、大英帝国政府に対して、完全な賠償と、問題の海底からの撤退を要求し、同時に、今後この種の事件を起こさぬという保証を求めざるをえない』
一方イギリス側は、特別覚書をもって、フランス共和国政府につぎのように通告した。『英仏海峡の大英帝国側に、武装したフランスの山椒魚が侵入し、地雷を敷設しはじめた。そこでわが帝国側の山椒魚は、わが方の作業地区に侵入しているむねを注意した。ところが、手の爪先から足の爪先にいたるまで武装したフランス側の山椒魚は、手榴弾を投げつけてこれにこたえ、作業中の数匹の英国側の山椒魚をうち殺した。このうえは、遺憾ながら大英帝国政府は、フランス共和国政府に対し、完全な賠償を要求するとともに、今後フランス側の山椒魚兵が、わが帝国領に侵入しないという保証を求めざるをえない』
これに答えて、フランス政府は声明した。『われわれとしては、隣国政府が、フランス海岸と直接つながる所に海底要塞を設けるのを黙認できない。もっとも、海峡の底において発生した今回の誤解についてのみ言えば、ロンドン協約にもとづいて、この紛争がハーグ仲裁裁判の決定に移されることを、共和国政府は提案したい』
これに対しイギリス政府は、イギリス海岸の安全問題を、いかなる形にもせよ局外的な裁判にゆだねることはできない、またその意志もない、攻撃をこうむった国として、イギリスはふたたび、謝罪と損害賠償と将来に対する保証とが直ちに行なわれるよう要求すると反駁《はんばく》した。これと同時に、マルタ島にあったイギリス地中海艦隊が全速力で西方に向かい、大西洋艦隊も、ポーツマスとヤーマスに集結せよという命令を受けた。
フランス政府は、五か年にわたる海軍予備将兵の動員を命令した。
このようにして、両政府はいずれも譲歩しないように思われた。結局はっきりしたのは、海峡全体に対する支配が、問題の中心になっているということであった。ところで、この一触即発というあぶない時にサー・トマス・マルベリーが、驚くべき事実について立証した。イギリス領の島々および領海においては、イギリス領における山椒魚の使用を厳禁したサー・サミュエル・マンデヴィル当時の法律が効力を有しているので、イギリス側には軍務、労務のいずれにも、山椒魚などぜんぜん存在しない(すくなくともデ・ユレ――法律上は――)、したがってイギリス政府は、フランスの山椒魚がイギリスの山椒魚を襲撃したと公式に断定することはできなかった、問題はつまるところ、フランス側山椒魚のイギリス領への侵入が、故意であったか偶然であったかという点に帰着するのみである、うんぬん。結局、フランス共和国当局は実情調査に同意し、イギリス政府は、紛争をハーグ国際裁判の審理にまわそうなどと言い出しもしなかった。その後、イギリスとフランスの海軍当局は、海峡にある海底要塞の間に五キロの中立地帯を設ける協定を結んだ。この協定は、両国間の友好関係の強化を大いに助けた。
四 デル・ノルドモルフ
北海とバルト海に初めて山椒魚の群れが現われてから、数年後のことであった。ドイツの学者ハンス・チューリング博士は、バルト海の山椒魚が、明らかに環境の影響によって、肉体的形質において、ほかの海域の山椒魚といくらか違っていることを発見した。バルト海の山椒魚は、ほかの山椒魚よりもいくらか色が白く、歩行の姿勢がまっすぐであった。また、骨相学的指数も、他の山椒魚よりも頭蓋が狭くて長い事実を示していた。この変種には、デル・ノルドモルフ(北山椒魚)とか、デル・エーデルモルフ(高級山椒魚)、あるいはアンドリアス・ショイフツェリ・ヴァリエタス・ノビリス・エレクタ・チューリンギ(アンドリアス・ショイフツェリ―高級直立チューリング変種)とかいう名称が与えられた。
その後ドイツの新聞が、バルト海の山椒魚のことをでかでかと書きはじめた。事実、この山椒魚は、ドイツの環境の影響によって、特殊で高等な門に転化し、明らかに自然の力により、他の山椒魚にまさるものになっていた。このことが、決定的意義をもつものとされたのである。ドイツの新聞は、軽蔑《けいべつ》をこめて、肉体的、精神的に退化しかけている地中海の山椒魚、未開な熱帯地方の山椒魚、一般に低級で野蛮な他国の山椒魚のことを、書きはじめた。『大山椒魚からドイツ山椒魚へ』、これが当時の慣用語であった。
ドイツを除いて、どこが新時代の山椒魚の故郷となりうると言うのか? ドイツの学者ヨハン・ヤコブ・ショイフツェルが、中新世に属する見事な山椒魚の痕跡を発見したエニンゲンこそが、彼らの故郷でなくて、どこがそうであるか? 現代からはるかに遠い地質学的時代に、ドイツの地において、初めてアンドリアス・ショイフツェリが生まれたことは、まったく明らかである。それ以後に、これはほかの海や地域に広がった。そしてこの代償として、退化という現象を支払ったのである。が、ふたたび発祥地に帰り住むやいなや、彼らは昔の姿に返ったのだ。つまり、明るい色をもち、まっすぐに歩行する、頭蓋の細長い、高貴な、北方系のショイフツェル博士の山椒魚に返ったのである。ドイツの土壌において、山椒魚ははじめて、最高の純粋型、すなわち偉大なヨハン・ヤコブ・ショイフツェルによりエニンゲン石切り場において、痕跡として発見されたのと同じ型へ、復帰することができた。
さて、ドイツの水域において、純血のドイツ種山椒魚の新しい世代が発展するためには、広い海岸と公海とがドイツにとって必要である。『われわれは、自国の山椒魚のために、新しい空間を必要とする』と、ドイツの新聞は書きたてた。それからまた、この必要性をドイツの国民が、日常自身の目で認識するように、ベルリンにヤコブ・ショイフツェルの見事な記念像がたてられた。この大学者は、部厚な本を手にしているポーズできざまれていた。その足下には、高級北山椒魚が直立していて、はるかかなたに横たわる世界の海の果てしない岸辺へと目をそそいでいた。
この国家的な記念像の除幕式にあたって行なわれた一、二の演説は、世界の言論界のごうごうたる論評をひきおこした。とくにイギリスでは、つぎのような反響をよび起こした。『ドイツはまたもや威嚇しているのだ。われわれはすでに、このような論調になれてはいる。しかしながら、公式の機会を利用して、この三年間にドイツが必要としている海岸は五千キロであると声明されたのを聞いては、わが方としても率直につぎのように答えざるをえない。そうか、ではやってみたまえ! 諸君はイギリスの海岸につき当たって、歯をぶち折ることになるだろう。われわれには現在すでに備えがあるが、この三年間にもっと準備をととのえることになろう。イギリスは、艦数において、大陸の二大国が有する艦隊に匹敵する艦隊をもたなければならない。そして事実、それをもつようになるだろう。この力関係は、永久に不変でなければならない。もし諸君が、無謀な海上軍備拡張を展開しようとするならば、イギリス国民は、一人としてそれを黙認しないであろう』
『われわれは、ドイツの挑戦に応じるものであります』政府を代表して、海軍委員長サー・フランシス・ドレイクは、議会で言明した。『いずこの海であるとを問わず、それに手を伸ばす者があるならば、彼はかならずわが国の軍艦に遭遇するでありましょう。イギリスは、自国に属する島々、自治領、植民地などの海岸に対する攻撃を撃退するに足る、力を有しているのであります。ある海洋の波がイギリスの海岸を、わずかなりとも洗っているならば、その海洋上における新しい陸地、島、要塞、航空基地の設置を、われわれは侵略とみなすでありましょう。私は、この言葉が、たとえ一ヤードであってもわが国の海岸をおかそうとする者に対する警告となることを、期待するものであります』
この演説を聴取した議会は、新しい軍艦の建造を承認し、このために五億ポンドを支出することに同意した。これは、ベルリンにおける挑発的なヨハン・ヤコブ・ショイフツェル記念像建立に対する、きわめて暗示的な回答であった。もっとも、記念像の方は、わずか一万二千マルクしかかかっていなかったが……。
ところで、有名なフランスのジャーナリストであり、おきまりどおりの事情通であるド・サド侯は、これらの示威行為について、つぎのような意見を述べた。
『イギリスの海軍委員は、いかなる不意の事態に対しても備えがあると声明した。しかし委員は、ドイツが現在、五百万の山椒魚職業軍人から成る、高度に武装した常備軍を、バルト海の山椒魚の中に有しており、ただちに水陸の両戦線にこれを配置しうる態勢にあることを、ご承知であろうか? そのうえ、技術や兵站《へいたん》勤務につける山椒魚と、任意の時に予備軍あるいは占領軍を編成しうる約千七百万の山椒魚がいるのだ。目下のところ、バルト海の山椒魚は、世界で最も優秀な兵である。彼らは、完全な心理的訓練を受けており、戦争を自身の最高の使命であるとみなしている。彼らは、狂信者の熱意と、技術者の冷静な判断力と、正統プロシア山椒魚の徹底した規律精神とをもって、戦闘にのぞむにちがいない』
『さらにまた、イギリスの海軍委員は、一隻をもって一回に一個旅団の山椒魚を輸送することのできる輸送船を、ドイツが必死になって建造中であることを、知っていられるのであろうか? と同時に、もっぱらバルト海の山椒魚のみを乗組員とする、行動半径三千ないし五千キロという小型潜水艦を、いく百となく建造中であることを、ご存知であろうか? ドイツが、大洋の各所に、巨大な水中燃料タンクを設けつつあるのを、ご承知であろうか? もう一度われわれは尋ねよう。実際に、このイギリス市民は、彼の偉大な国が、いかなる不測の事態にも備えていると、確信しているのであろうか?』
『沿岸封鎖のため、水中ベルタ(四二センチ・クルップ砲のこと)、迫撃砲、水雷などを装備した山椒魚が、将来戦いにおいてどのような役割を果たすかは、想像にかたくない。私は誓って言うが、世界史上初めて、イギリスの輝やかしい島国的地位をうらやむ者が、一人もいなくなるという事態が生起するにちがいない。さて、ひとたびこの問題に触れた以上、私は言わなければならないが、いったいイギリス海軍本部は、バルト海の山椒魚が、一点以外ではきわめて平和的な、空気ドリルと称する機械を与えられているのを、知っているのであろうか? 最新技術の産物であるこのドリルが、一時間に、最も堅いスウェーデンの花崗岩《かこうがん》で一〇メートル、イギリスの白亜層ならば五〇メートルから六〇メートルまでもうがつ事実を、知っているのであろうか? (先月の十一、十二、十三日の夜、ハイズとフォークストンの間のイギリス海岸で、つまりドーバー要塞の鼻の先で、ドイツの技術調査班が試みた試験掘さくが、このことを証明した)。ケントまたはエセックスが、一かけのチーズのような穴だらけになるには、なん週間の水中作業が必要かという計算は、英仏海峡の対岸に住むわれらの友たちにゆだねることにしよう。今までのところ、イギリスにいる島国人は、その美しい諸都市や、イギリス銀行や、四季を通じて緑なすキヅタの柵に囲まれた快適で平和なコッテージなどをおびやかす危険が、空からだけやってくるものと思って、大空のみを不安気にながめていた。今ともなれば、これまで見たこともない爆薬をしかけるため、山椒魚ドリルの恐ろしい先端が、うなりをあげつつ、尺一尺とくいこんできはしないか聞きつけるために、子どもたちの遊んでいる大地に耳をおしあててみた方が、彼らとしては上分別というものである。かつてわれわれは、アルビオン号(英国のこと)の司令橋から発せられた、傲岸《ごうがん》な言葉を聞いた。事実、アルビオン号は目下のところ、波間に浮かびつつ、海を支配する強大な軍艦であることを続けている。しかしこの波は、ある日突如として粉々に砕けて沈んでいくこの軍艦を、のみこんでしまうかもしれない。危険を直視するのは、早い方がいい。三年後では、あまりに遅すぎよう!』
この著名なフランスのジャーナリストの警告は、イギリスになみなみならぬ騒ぎをひき起こさせた。公式の打ち消しがつぎからつぎに出たにもかかわらず、人々はイギリスのあちらこちらで、山椒魚ドリルの音を聞きつけた。ドイツの官辺は、完全な捏造《ねつぞう》であり、悪意ある宣伝であるとして、この論文の見解を激しく否定した。が、それと同時にバルト海では、ドイツ陸海軍と山椒魚兵との、大規模な連合演習が行なわれた。この演習に際し、山椒魚の地雷敷設中隊は、各国武官の目の前で、リューゲンワルド地区にある六キロメートル平方の砂丘を下からうがって、ものの見事にふっとばしてみせた。うなりながら、大地が『パンの皮をへし曲げたように』ゆがみ、つぎに煙と砂と石の大きな黒雲となってふっ飛んだ有様は、まことに偉観であった。この時、あたりはまるで夜のように暗くなった。爆発によって吹き上げられた砂は、周囲約一〇〇キロにわたって飛んだばかりか、数日ののち砂の雨となってワルシャワに降りそそいだ。この大爆発の後、あてどもなく飛び回る砂とほこりが、大気中におびただしく残っていて、そのためにヨーロッパでは、その年の終わりまで、日ごろになく美しい入日が見られた。ヨーロッパの緯度では、火のように燃える太陽など、今だかつて見られなかったのである。
爆発された海岸の砂を洗っている海は、その後『ショイフツェル海』という名をえて、学校生徒の見学や、ドイツの子どもたちの遠足地となった。この時ドイツの子どもたちは、大流行となったつぎのような山椒魚の歌を歌うのだった。
かかる成果をあぐるのは
ドイツ山椒魚の天才の
ひとり成しうるところなり
五 ウォルフ・マイネルトが論文を執筆する
世捨人であるケーニヒスベルク(現在ソ連領のカリーニングラード)の哲学者ウォルフ・マイネルトに、『ウンテルガング・デル・メンシハイト(人類のたそがれ)』と題する、特記すべき論文の執筆を思いつかせたのも、おそらくは、たった今述べた悲劇的に美しい入日であったに相違ない。帽子もかぶらず、外套《がいとう》をはためかせながら、海岸をさまよい歩き、熱狂的な目をあげては、大空の半ば以上をひたしている火と血の流れに見入っている彼を、われわれは生き生きと想像することができる。『そうだ!』彼はわれを忘れてつぶやいた。『人類の歴史に結語を与える時がきたのだ!』このようにして彼は、この結語なるものを書きあげたのである。
『今や人類の悲劇は終わろうとしている』と、ウォルフ・マイネルトは初めた。『人類の強烈な進取性と技術的福祉に、われわれは欺かれてはならない。それは、すでに死の刻印を打たれた有機体の顔に現われる、肺患特有の紅潮にほかならないのだ。人類は過去において、現在のように高度な生活状況を経過したことがない。しかもわれわれは、あらゆる文明の恩恵や、精神および物質のクリスス(リディア国王、巨万の富を有していたという)的過多のなかにありながら、ますます、自信の喪失と心痛とさだかならぬ不安にとらわれて、なすことを知らぬ有様である』。このように述べて、ウォルフ・マイネルトは、現代世界の精神状態、すなわち恐怖と憎悪、自己不信と誇大|妄想《もうそう》、冷笑と小心の混交を、容赦もなく分析した。一言にして言えば絶望であると、ウォルフ・マイネルトは結論において約言した。これこそまさに、典型的な末期の兆候である。精神的臨終の苦悶である。
たえず分解しつつある、きわめて多くの種族から成る人類と称する巨大な有機体の慢性病が、まさに臨終の苦悶に移った時に、山椒魚が生存の可能性を示しはじめたことは、けっして偶然ではないと、ウォルフ・マイネルトは哲学した。一般原則からのわずかな偏差を除けば、山椒魚はもともと巨大な一族を成している。今日にいたるまで、彼らの間では、種族、言語、国民、国家、宗教、階級上の著しい分裂が認められない。彼らの間でも、分業によって生じた相違が存在するのは事実だが、山椒魚は元来、同種の群れであり、いわば同一の種子から生じた一枚岩的な群れである。この群れは、生物学的に見て、あらゆる点で同じように原始的であり、同じように自然の恩恵をわずかしか受けていない。しかし、だからと言って、山椒魚がそれによって苦しんでいることを証明するような兆候は見受けられない。いな、その逆である。すなわちわれわれは、人間が形而上の恐怖と生命の貧困とから求めているものの一つをさえ、彼らが必要としていないのを見るのである。彼らは、哲学をも、死後の生命に対する信念をも、芸術をももたずに生きている。彼らは、空想、ユーモア、神秘的感情、夢、遊戯の何たるかを解しない。彼らは、現実主義に徹しているのだ。われわれにとって彼らは、アリやニシンと同じように、縁なき衆生《しゅじょう》である。彼らがこれらの存在と異なるのは、他の生活環境、つまり人類の文明に順応して生きている点だけである。彼らは、人間の家にいる犬と同じく、この環境の中にいついてしまった。かといって、彼らは、きわめて素朴で、未分化な動物の一科であることを止めはしない。彼らは、生きかつ繁殖している事実に満足して、きわめて幸福であることもできるのである。なぜというに、彼らは不平等感に苦しめられることがないからである。彼らは、まったくの一族なのだ。そこで彼らは、ある日突如として、いな、さらに正確に言えば、近い将来において、全世界にわたる一族の統一、世界共同体という、人類の成し遂げ得なかった理想を、難なく実現することになろう。一言にして言えば、普遍的な山椒魚世界を作りあげることができるであろう。そしてまさにこの日、数千年におよぶ人類の臨終の苦悶が終わるのだ。われわれの住む惑星上には、たがいに世界をわがものにしようとする、二つの勢力の共存する場所はない。一つが他に、かならず譲歩しなければならない。そしてわれわれは、他の勢力がなにものであるかについて、前もって熟知しているのである。
現在地球上に住む文明化した山椒魚の数は、約二百億に達している。この数は、ほとんど人間の数の十倍に相当する。生物学的必要と歴史の論理からして、右の事実はつぎのような結果を生むであろう。すなわち、たがいに結ばれた山椒魚は、不可避的に「分解する」が、同時にまた、同族であるため、不可避的に統一されねばならないのである。かくして、太古の世界に見られたような巨大な勢力と化した彼らは、かならず世界の支配をにぎるにちがいない。さてその時になって、人間を許すほどに彼らが愚かだと、諸君は思われるか? 大昔から、人類は被征服民族と階級を、殲滅する代わりに奴隷化するという歴史的|誤謬《ごびゅう》をおかしてきたが、諸君は彼らもまたこの誤謬を繰り返すと思われるか? 人間はそのエゴイズムから、永久に人間のあいだに差別を作りだし、しかもその後で、理想主義と寛大さとから、その間にかけ橋を渡そうと務めるが、はたして山椒魚もまた、このような誤りを繰り返すであろうか?』
『いなである』と、ウォルフ・マイネルトは絶叫した。『すくなくとも、拙著から警告をくみとるであろうことからしても、山椒魚はこのような歴史的な不条理をおかしはしないであろう。彼らは、いっさいの人類文明の継承者となるのだ。世界を征服するため、われわれがかつて行ない、あるいは試みたすべてのことが、彼らの手に移るのである。しかしこの時、彼らがこの遺産とともに、われわれまでも得ようとするならば、その行為は彼ら自身にそむくものとなるであろう。彼らがその一族性を守ろうと願うなら、彼らは人類から解放されねばなるまい。彼らがこれ以外の行動をとるならば、われわれ人間は遅かれ早かれ、差別を作り出してそのために苦しむという、二重に破壊的な性癖を彼らに伝染させるにちがいない。しかしこの点、われわれは意を安んじて可なりであろう。今となっては、人間の歴史を受けつごうとするいかなる創造物も、この自殺的な愚行を模倣しはしまい』
以上われわれは、できるだけ平易に、ウォルフ・マイネルトの見解を紹介した。もっとも、全ヨーロッパを、とくに人類の没落と最後に対する信念を大いに歓迎した青年を魅した記述の力強さと深さとが、著しく失われているのを、われわれは知っている。ところでドイツ政府は、二、三の政治的類推にもとづき、この『偉大な厭世家』の教義を禁止した。ウォルフ・マイネルトは、スイスにかくれねばならなくなった。にもかかわらず、文化人たちはのこらず、マイネルトの人類滅亡論を大いに歓迎した。彼の著書(六三二ページ)は、あらゆる言語に訳され、山椒魚の間でさえ、何百万部と普及した。
六 Xは警告する
明らかに、マイネルトの予言的な著書の影響によって、文化の中心地の文学、芸術のアヴァンギャルトは、『われらに続く山椒魚』というスローガンを打ち出すにいたった。未来は山椒魚のものだ。山椒魚は文化革命だ。彼らに独自の芸術をもたせるな。その代わりに彼らは、愚かな理想やひからびた伝統や、詩、音楽、建築、哲学、文化一般と呼ばれるペダンチックながらくたの重荷を負うことがないのだ。こんなものは、古ぼけた言葉にすぎない。われわれは、ヘドが出るほどあきあきしている。彼らが、生命力を失った人類の芸術の反芻《はんすう》にふけっていないならば、それだけ好つごうというものだ。彼らのために、われわれは新しいものを作り出そう。われわれ青年は、未来における全世界的山椒魚イズムのために、その露払いとなるつもりである。われわれは、最初の山椒魚となることを望む。われわれは、明日の山椒魚だ!
このようにして、詩壇に『山椒魚派』と称する新しい傾向が現われたほか、クラゲ、ヒトデ、サンゴなどの生活からヒントを得た、トリトン音楽や海洋画などが出現した。山椒魚の沿岸整備工事は、新しい美と威容の源だと宣伝された。われわれは自然に食傷していると、この派の理論は宣言した。『古めかしい絵画的な岩石は、なめらかなコンクリートの岸に代わらなければならない! ロマンスは死んだのだ。未来の大陸は直線をもって形どられ、球面三角形と菱形《りょうけい》に区分されねばならない。古い地質学的世界は、幾何学的世界に席をゆずらねばならない』。一口に言えば、これは一種の新未来派的傾向であり、新しいセンセイションと芸術的宣言であった。いち早く未来の山椒魚イズムの道に立ちはぐれた人々は、この旗の背後にとりのこされたのを痛感した。そこで彼らは、純『人間性』と人間の自然への復帰を説くことによって、これに復讐《ふくしゅう》した。ウィーンで開かれたトリトン音楽の演奏会は、口笛をあびせかけられ、パリ・アンデパンダンのサロンでは、不明の犯人が『青のカプリチオ』と題する海洋画を切りさくという事件が起こった。それにもかかわらず、山椒魚イズムは、堂々と前進し続けた。
『山椒魚マニア』に対する反対行動も、けっして不足していたわけではない。その中で一番筋金入りだとされていたのは、『Xは警告する』と題する、匿名筆者の英文パンフレットであった。このパンフレットは大いに普及したが、ただ筆者については、結局わからずじまいであった。多くの人々は、教会の大立者の一人がこれを書いたと見ていた。英語でXは、キリストの略字だからである。
筆者は、引用数字は不正確かもしれないがとことわりながら、第一章において、山椒魚に関する統計を示そうと試みた。山椒魚の総数に限っても、目下のところ、地球総人口の七倍とも二十倍とも言われていると述べたあと、彼はつぎのように続けた。
『水中の山椒魚が、工場、石油タンク、藻類《そうるい》の農場、ウナギの養殖場、水力およびその他自然動力源の利用設備をどれほど有しているかについて、われわれのもっている情報も、同じ程度に不確実なものにすぎない。また、山椒魚の有する工業の生産能力に関する概略的な資料さえ、われわれは有していない。山椒魚が、金属、機械部分品、爆薬、化学製品などを所有していることは、人々の知るところである。しかし各国とも、自国の山椒魚に提供している武器や製品については、極秘にしているし、海底において山椒魚が、人間から買い入れた製品と原料とで何を作っているかについてのわれわれの知識もまた、驚くほどに貧弱である。われわれが知っているのは、山椒魚がこれらについて知られるのを、極度にきらっているという事実だけである。数年この方、多数の潜水夫が海底におもむいたまま、不帰の客となってしまったが、これなどたんなる偶然に帰してしまうことはできない。このことが、産業のみならず軍事の点から見て、ゆゆしい前兆であることは、疑問の余地がない』
『もちろん』と、Xはつぎの章において述べた。『山椒魚が、人間から何を奪うことができるか、また奪おうとしているかは、想像に困難である。彼らは、陸上に住めない。一方われわれは、彼らの水中における生活様式を妨害することができない。彼らとわれわれの生活環境は、永遠に鋭く分裂しているのである。事実われわれは、彼らが一定の作業を遂行することを要求している。だがその代わりにわれわれは、彼らに多量の食糧を与え、原料や物資を提供しているのだ。彼らは、われわれ以外から、これを手に入れることはできない。たとえば、金属のようなものがそれである。このように、われわれと山椒魚との対立については、実際上の理由をあげることができないのであるが、それでもなお私の言いたいことは、形而上のコントラストについてである。地上の創造物と深海の創造物、昼の存在と夜の存在、かわいた明るい大地と暗い深海などがそれである。陸と水との境は、今までよりもはるかに確然となっているのだ。「われらの」大地は、「彼らの」水と接触している。われわれはたがいにたえず局外者として生活しながら、一定の製品とサーヴィスとを交換することができよう。にもかかわらず、いったいそれは可能であろうかという重苦しい感じから、のがれることは困難である。なぜか? 私は、明確な理由をあげることができない。だからといって、この感じは消え去らない。それは、ある日突如として、誰が誰をの問題をきめるため、水の世界が陸に向かって進発してきはしないかという予感のようなものである』
『かつて黄禍、黒禍、赤禍ということが言われた。しかし、これらはすべて人間であった。問題が人間に関する限り、われわれは相手が何を欲しているか想像できる。これに反して、人類が何に対していかに防衛しなければならないか、概念さえもてないことがあるのだ。ただしその際、すくなくとも一事だけは万人にとって明らかであろう。すなわちそれは、もし一方に山椒魚が立つようになれば、反対側に立つのが全人類だということである。
山椒魚に対立する人間! 今やすでに、このように規定する時がきた。常識ある人々はすべて、胸に手をあてながら、山椒魚を本能的に憎んでいる。彼らに嫌悪《けんお》感をいだき、そして彼らを恐れている。氷のように冷たい恐怖の影が、全人類の上に落ちたのだ。この愚かな欲情、いやされることのない歓楽の渇き、現代人をとらえて放さぬ淫蕩《いんとう》な躁宴は、これ以外の何によって説明できるであろうか? 蛮族の侵入直前のローマ帝国この方、われわれはこのような道徳的退廃を目にしたことがなかった。これは、未曾有の物資的繁栄の成果であるだけではない。退廃と滅亡の不快な予感をうち消そうとする、絶望的な努力でもあるのだ。なんたる無知、なんたる恥辱であろう! 今や、矢のように奈落《ならく》を目ざして落ちていく民衆と階級とに、神の慈悲心が滅亡を与えようとしているのは、明らかである。諸君は、宴たけなわな人類の頭上に、火の大文字をもって書かれた「メネ(数えたり)、テケル(秤れり)、ペレス(分かれたり)」(*)という言葉を読むことを欲しているのか? うたげと淫蕩の巣窟《そうくつ》の入口の上に、終夜輝き続けている光の文字を見よ。すでに、われわれ人間は山椒魚に近づきつつあるのだ。すなわち、われわれは昼よりも夜に生きていることが多いのである』
(*)[旧約聖書ダニエル書第五章――ベルシヤザル王その大臣一千人のために酒宴を設けたり……、その時人の手の指あらわれて、燭台と相対する王の宮の粉壁《ぬりかべ》に物書けり、王その物書ける手の末《さき》を見たり……その書ける文字は是《かく》のごとしメネ、メネ、テケル、ウルバシン、その言《ことば》の解明《ときあかし》は是《かく》のごとし、メネ(数えたり)は神汝の治世を数えてこれをその終りに至らせしをいうなり、テケル(秤―はか―れり)は汝が權衡《はかり》にて秤《はか》られて汝の重《め》の足《たら》ざることの顕れたるをいうなり、ペレス(分れたり)は汝の国の分たれてメデアとペルシヤに与えらるるをいうなり、からの引用]
『山椒魚がこれほどまでに標準化されていなければ、まだ救われよう』Xは憂いをこめて叫んだ。『とにもかくにも、彼らは教養を身につけているということができる。が、彼らはそのことによって、愚かしい存在になりえたにすぎない。なぜというに、彼らは人間の文明から、標準的なもの、実用的なもの、機械的なもの、非個性的なものだけを受け取ったからである。彼らは、ワグナーがファウストのかたわらにつっ立っているように、人類のかたわらに立っているのだ。両者の相違は、山椒魚がこれに満足して、いかなる疑惑にも苦しめられていないという点にある。しかも、最も恐るべきことは、感受性に富み、愚かで自己に満足する、この俗悪文明の徒が、同族として何百万、いな何十億という単位で増加していることである。いや、これは私の誤謬だ。最も恐るべきことは、彼らが今見るような成果を達成したということである。彼らは、機械と数学の利用を習得した。彼らが全世界の支配者となるためには、これで十分であることが明らかになった。彼らは、直接効用のないあらゆるもの、いっさいの遊戯、幻想、過去の遺産などを、人類の文明からうち捨ててしまった。このようにして彼らは、その中にある人間的なもののいっさいを除去し、もっぱら実際的、実用的、技術的な面だけを把握《はあく》したのである。人類文明に対するこの哀れなカルカチュアは、驚くべき力をもって、世界を自身に適応せしめようとしているのだ。それは、技術的な奇跡を創造し、われわれの住む古い惑星を改造して、ついには人類さえも魔法にかけようとしている。ファウストは、教え子である従僕から、着々として成果をあげつつある通俗精神の秘密を学ぶことになるであろう! しょせん、人類が死をかけて山椒魚と衝突するか、みずから山椒魚化してかえりみぬか、二つに一つしかない。さて、私はと問われるならば――と陰鬱《いんうつ》にXは言った――、私は前者を選ぶと言おう』
『かくして、Xは諸君につぎのごとく警告する――匿名の筆者は続けた――。われわれにからみついている、このぬらぬらした冷たい輪をふり放すことは、今ならまだ可能である。われわれは、山椒魚から解放されねばならない。彼らはあまりにふえすぎた。彼らは武装している。彼らは、どれほどの威力があるのかさえわからない武器を、われわれに対して行使することもできる。だが、われわれ人類にとって最も恐ろしいのは、彼らの数や力ではない。それは、いっさいを圧倒する彼らの劣等性である。私は、彼らの人類文明性と、彼らのよこしまで冷酷な動物的残忍性との、いずれをより多く恐れねばならないかを知らない。ただ、もしこの二つが結合するならば、ほとんど悪魔的ともいえる、想像をこえた悪夢が現出することになろう。文明の名において、キリスト教と人類の名において、われわれは山椒魚から解放されねばならない』最後に匿名の使徒は、つぎのように呼びかけた。
『愚かなる人々よ、山椒魚に食を与えることを止めよ! 彼らに仕事を与えるな。彼らの奉仕を受けるな。彼らと絶交せよ。彼らをいずこかに移住せしめ、他の水生動物と同じく、みずから食を得さしめよ。かくすれば、自然がおのずから、過剰となった山椒魚を処置するであろう。人類、人間の文明、人類史は、山椒魚のために働くことを止めねばならぬ!
山椒魚に武器を与えることを止めよ! 金属および爆薬を与えることを止めよ。われわれの機械と部分品を、彼らのもとに送るな。君らは、トラに歯を、ヘビに毒を与えてはならない。君たちは、火を吐く活火山をあたため、洪水を求めて土壌を平らにしてはならない。物資提供の禁止を、あらゆる海洋に徹底せしめよ。山椒魚を、法の適用から除外せよ。彼らを呪詛《じゅそ》し、われわれの世界から追放せよ。山椒魚反対の国際連盟を設けよ!
人類はいっせいに武器を手にして、おのれの存在を守らねばならぬ。国際連盟、スウェーデン国王、あるいはローマ教皇の首唱のもとに、山椒魚に反対する全世界の同盟か、すくなくともキリスト教諸国民の同盟を組織する、全文明国の国際会議を召集せよ! われわれの運命は、今まさに決しようとしているのだ。と同時に、恐るべき山椒魚禍と、人間に課せられた責任の圧力によって、無限の犠牲を払いながらも、世界戦争が成し遂げ得なかった、万国の同盟の創設が成功するかもしれない時節が、ここに到来したのである。神よ、かくならせたまえ! もしこのことが成功すれば、山椒魚の出現も無益ではなく、彼らもまた神慮の手段であったとなすべきであろう』
この悲壮なパンフレットは、広範な大衆層の間に、大きな反響をよび起こした。中年の婦人たちは、未曾有の道徳的退廃の事実を肯定した。これに対して、各新聞の経済欄は、正当にも、人類の産業部門における生産の激減と、恐るべき恐慌とをもたらすから、山椒魚に対する物資提供を制限してはならないといい、農業が山椒魚の食糧となるトウモロコシや馬鈴薯《ばれいしょ》やその他産物の販路を考慮しなければならない現在、山椒魚が減少すると、食糧価格が暴落し、農家は崩壊の瀬戸際に立たせられることになろうと、述べたてた。
『山椒魚反対の国際連盟』の件は、責任ある政治機関のすべてが、その必要を認めぬといってこれに反対した。それらの機関は、つぎのように述べた。すでにわれわれは国際連盟を有しているし、他方、海にのぞむ国家は自国の山椒魚に重兵器を与えてはならぬと規定したロンドン協約も存在している。もっとも、隣りの海洋国がその軍事的潜在力を高めようとして、自国を脅かしながらひそかに山椒魚の武装化をたくらんでいるのではないかと、戦々恐々としている国家に向かって、軍備の制限を要求するのはなまやさしいことではない。さらにまた、どの国どの大陸にしてからが、その地の山椒魚に対して、ほかの場所へ移れと強要することはできない。そのことが、ほかの国や大陸の農工生産物の販路をひろめ、軍事力を高めることからしても、強要できない。健全な思考力をもつ者ならば、誰でも同意せざるをえないようなこの種の反駁《はんばく》がつぎつぎに打ち出されていった。
それでもなお、『Xは警告する』というパンフレットは、人々に深い印象を与え、なんらかの効果をあげずにはいなかった。ほとんどの国で山椒魚反対運動が広がり、『山椒魚撲滅同盟』『反山椒魚クラブ』『人類擁護委員会』などの団体が組織されていった。千二百十三回目の山椒魚問題研究委員会の会議に出席するため、ジュネーブへやってきた山椒魚代表が侮辱を受けるといった事件がもちあがった。海岸にめぐらされた柵に、『山椒魚に死を』『山椒魚撲滅』といったような威嚇の文字が、ペンキで塗りたくられたりした。多くの山椒魚が石でうち殺され、そのために、ただ一匹の山椒魚も、昼間は水から出てこなくなった。ただし、山椒魚は抗議などぜんぜん行なわず、報復手段にうったえたりもしなかった。わずかに、昼間姿を現わさなくなっただけであった。その結果、柵の向こう側をのぞきにきた人々が目にするのは、おだやかにささやいている、はてしない海だけとなった。『どうです』と、人々は憎悪をこめて言った。『奴らは出て来ないじゃありませんか』
ところが意外や意外、この無気味な静寂を破って、いわゆるルイジアナの地震の大音響が、ごう然と響きわたったのである。
七 ルイジアナの地震
十一月十一日午前一時、ニューオーリンズの住民は、大地の激動を感じて色を失った。黒人居住地区では数軒の小さい家屋がこわれ、人々は大あわてにあわてて、家の外にとび出した。震動の方はそれっきりで二度と起こりはしなかったが、まもなく瞬間的な激しい颶風《ぐふう》がうなり声をあげて通過し、黒人街の窓を破り、屋根をひっぺがしていった。その際、数十人の死者が出た。と思うまもなく今度は、泥をまじえた豪雨が、市の上にどっとばかりに降りそそいだ。
ニューオーリンズの消防夫たちが、最も被害の大きい地区めがけてかけつけている間、モーガン・シティ、プラックミン、ベートン・ルージュ、ラフィエットの電信は、『SOS! 救援隊を送られたい。地震と大旋風とにより、当市の半ばはなぎ倒された。ミシシッピの堤防決潰のおそれあり。ただちに工兵、衛生隊、労働能力ある男子を送られたい』という訴えを打ち続けていた。フォート・リヴィングストンからは、『ハロー、貴方もプレゼントを受けられたか?』という簡単な問い合わせがきただけであった。そのうちに、ラフィエットから『急報! 災害の最もはなはだしきはニューイベリアなり。ニューイベリア、モーガン・シティ間の連絡は断絶しあり、同方面に応援隊を送られたし』という電信がきた。つぎにまもなく、モーガン・シティから電話で、『ニューイベリアとの連絡は切れている。自動車道路、鉄道線路のいずれも、損害はなはだしい。汽船と飛行機をヴァーミリオン・ベイに送られたい。こちらは、これ以上なにも必要でない。当方の死者は約三〇名、負傷者は一〇〇名』と言ってきた。こんどはベートン・ルージュから、『情報によるに、最も被害甚大なるはニューイベリアなり。当方に送られるのは、労働者のみにて可。ただし迅速を要す。さもなくば堤防決潰のおそれあり。できうる限りの手段をこうじつつあり』という電報を打ってきた。つづく電報は、『シリーヴポート、ナチトクス、アレクサンドリア宛て至急報。救援列車をニューイベリアに送られたし。メムフィス、ウィノナ、ジャックソン宛て至急報。列車をニューオーリンズ経由にて送られたし。あらゆる自動車に人員を乗せ、ベートン・ルージュの堤防に送られたし』といってきた。それからつぎに『ハロー、当方はパスカグラ、死者若干あり。貴方に救援の要ありや?』と電信連絡をしてきた。
このころにはもう、消防隊や救護列車などが、モーガン・シティ―パターソン―フランクリンの方向をとって出発していた。さて、午前三時過ぎになり、はじめてある程度正確な情報がはいってきた。『フランクリンの西方七キロにわたって洪水が起こり、そのためにフランクリン―ニューイベリア間の鉄道は損害を受けている。地震によってヴァーミリオン・ベイからこの地に達する大亀裂が生じ、これへ海水が流れこんだ結果、洪水となったものと思われる。目下判明している限りでは、この亀裂は、ヴァーミリオン・ベイから北東に向かい、フランクリン付近で北に曲がり、グランド・レイクに切れこみ、さらに北に向かってプラックミン―ラフィエットの線までのび、旧|湖盆《こぼん》(湖沼の水をささえている地表の部分のこと)のところで終わっている。この亀裂から出た枝が、グランド・レイクと、その西方にあるナポレオン・ヴィル湖とを結びつけている。亀裂は、長さ約八〇キロ、幅二キロから一二キロにおよんでいる。震源地は、おそらくここかと思われる。ただこの亀裂が、大都会をはずれているのは、不幸中の幸いであった。しかし、死傷者数はかなりに多い。つぎに、フランクリンでは六〇センチの土砂が降り、パターソンでも四五センチほど降った。アチャファラヤ湾沿岸の住民の報ずるところによれば、地震とともに、海水が岸から三キロばかりも引き、引いたかと思うとうち返してきた。波の高さは、三〇メートルに達した。沿岸地方で、多数の死者が出たのではないかと心配される。ニューイベリアは、いまだに連絡がつかない』
まっ先にニューイベリアにかけつけたのは、西方のナチトクスから出発した列車であった。ラフィエットとベートン・ルージュ経由の迂回路によって送られてきたこの列車からの情報は、きわめてかんばしくなかった。『路盤が泥土にうずもれているため、ニューイベリアの数キロ手前で停止するのやむなきにいたった。避難民の言によれば、市の東方二キロばかりの地点で、「泥の火山」が活動しはじめ、一瞬にして、おびただしい量の冷たいねば土をふき上げた由である。彼らはまた、ニューイベリアは土にうずもれているとも語った。以遠の運行は闇《やみ》と降りしきる雨のために、きわめて困難である。ニューイベリアとの連絡は、いまだにつかない』
同時に、ベートン・ルージュからの、つぎのような電報が受け取られた。『ミシシッピの堤防では、すでに数千の人々が活動している。雨やみを待期中。つるはし、シャベル、トラック、人員の必要あり。プラックミンの住民は、ぼう然なすところを知らぬ。当方より同地に救援を送りつつある』
フォート・ジャクソンからは、つぎのようにいってきた。『午前一時半、波により家屋三〇戸流失。原因不明。流された者七〇名。当方は器械修理を終わったばかり。郵便局も流失。ハロー、実況を即時電報ありたい。無電係フレッド・ダルトン。ハロー、ミンニー・ラコストに小生無事と伝えられたい。わずかに片手を折り、着物を海に流せるのみ。ただし器械は活動中ゆえ、万事オー・ケー。フレッド』
ポルト・イーズからは、『死者あり。バリウッドは完全に流失』という、いとも簡単な報告がきた。
この時――すでに午前八時ごろであった――災害地に送られた、最初の飛行機が帰ってきた。それは、つぎのような報告をもたらした。ポート・アーサー(テキサス州)からモビール(アラバマ州)に達する海岸地帯は、夜間いっせいに波浪をかぶった模様。その結果、いたるところに全壊、半壊の家屋が見うけられる。チャールズ湖―アレクサンドリア―ナチズ間の道路から東南部に位置するルイジアナ州の一部と、ミシシッピの南部(ジャックソン―ハッチースバーグ―バスカグラの線まで)は、泥にうずもれている。ヴァーミリオン・ベイでは、幅約三キロから一〇キロにおよぶ新しい湾が現出し、陸地にくいこみ、長いくねくねしたフィヨルドの形をしながら、プラックミン付近に達している。種々の状況から察するのに、ニューイベリアは大損害を受けた模様である。が、家屋や道路をうずめた泥を掘り上げている人々の姿も、多数認められる。飛行機の降下は不可能であった。明らかに、人的損害は海岸に著しい。ポート・オーファーでは、メキシコ船と思われる汽船が沈没しかけている。シャンダリューア諸島付近の海上は、破損物の破片におおわれている。雨は、全地区にわたって止みかけている。視界は良好である。
午前四時ごろにはもう、ニューオーリンズの各新聞社が、最初の号外を出した。時間がたつにしたがって、号外も新しい詳報も多くなっていった。午前八時までには、各紙に被害地区の写真と新しい湾の地図が現われた。八時半には、ルイジアナの地震に関するメムフィス大学のウィルバーン・アール・ブラウネル博士(すぐれた地震学者)のインタービュー記事が出た。
慎重な学者である彼は、つぎのように述べた。『最後的結論を出すには早すぎるが、災害地の真向こうに位置する中部メキシコ火山帯の激しい火山活動と、今回の地震とは、まったく関係がないように思われる。本日の地震は、むしろ地殻構造上の原因によって起こったものである。すなわち、一つはロッキー山脈とシエラ・マドレとから成り、他はアパラチア山脈から成る山塊が、広いメキシコ湾の低地に対して与えた圧迫によって起こったものである。ミシシッピ川下流地帯の広い平野は、メキシコ湾の延長なのである。ところで、ヴァーミリオン・ベイから出ている亀裂は、新たな比較的に小さい割れにすぎず、地質的陥没の一エピソードをなすにすぎない。かつて、この陥没によって、メキシコ湾と、大、小アンティル群島の環――これは、過去にここに存在した山脈の名残りである――を含むカリブ海とが形成された。それはさておき、疑いもなく、中部アメリカの陥没は、地盤の変動、割れ、亀裂などを繰り返しながら、今後も続くものと思われる。ヴァーミリオン・ベイの亀裂が、メキシコ湾を中心とする構造上の活発なプロセスの序曲にすぎないといったことも、なきにしもあらずである。その場合にはわれわれは、地質上の一大異変の目撃者になれるかもしれない。その結果は、アメリカ合衆国のほとんど五分の一が、海底にならぬとも限らない。もっともその際、アンティル諸島、あるいはそこからさらに東に寄ったあたり――古代神話によって、沈んだアトランティスがあるとされているあたり――で、海底が浮かび上がってくるという期待も、大いに持ちうるであろう』
『しかしながら』と、この有名な学者は、人々を安心させるような口調で言った。『災害地区で火山活動が起こるかもしれないという危惧をいだく根拠は、ないと言っていい。泥土を噴出している穴は、ヴァーミリオン・ベイの亀裂に見られる沼気《しょうき》の噴出にすぎないのである。ミシシッピ川流域の沖積層に、巨大な地下ガスの泡《あわ》ができて、空気と接触すると同時に爆発を起こし、何十万トンという泥と水とをふき上げたからと言って、いささかも驚くにはあたらない。もっとも』と、ダブリュー・アール・ブラウネル博士は繰り返した。『最後的な判断は、今後の出来事を待ってくだすほかはない』
地質上の異変についてのブラウネルの考察が、輪転機から流れ出ている間に、ルイジアナ州知事は、つぎのような内容の電報を受け取った。
『犠牲者に対して哀悼の意を表す。貴州の諸都市の被害を避くべく努力せるも、海水の反衝および反撃までは予期し得ざりき。海岸地帯の人的損害は一四六名、深甚なる哀悼の意を表す。チーフ・サラマンダー』
『ハロー、ハロー、フォート・ジャックソン郵便局無電係りフレッド・ダルトン発信。たった今、三匹の山椒魚が立ち去った。一〇分前に彼らは局に現われ、電報を差し出し、同時に連発ピストルをつきつけた。しかし、もう姿をくらました。金を払った後、奴らは水辺めがけてかけ出した。追跡したのは、薬局の飼犬のみ。誰が、市中を歩く権利を彼らに与えたのか? そのほかには別状なし。ミンニー・ラコストにキッスを送ると伝えられたい。電信係りフレッド・ダルトン』
ルイジアナ州知事は、頭をうち振りながら、この電報をながめていた。最後に彼は、このフレッド・ダルトンなる男は、いたずら好きなふざけた野郎にちがいないと断定して、電報を新聞社に見せるのを見合わせてしまった。
八 チーフ・サラマンダーが要求を提出する
ルイジアナの地震から三日たって、またもやつぎのような地質異変の報が伝わった。こんどは中国であった。
連続的な激震が、南京北方にあたるヤンツゥキァン(揚子江)の川口とホアンホ(黄河)の旧河床との中間部で、チャンスー(江蘇)省の海岸地帯を、まっぷたつに引き裂いた。亀裂が現われて、そこに海水が流れこんだ。それは、ファンカン(黄岡)とフーチャン(阜城)両市の間にあるバンヤン湖、フンツェ(洪沢)湖の二大湖と合流してしまった。この地震の結果、ヤンツゥキァン(揚子江)は南京のそばを通る従来の河床を変えて、タイ(太)湖に流れこみ、ついでハンジョウ(杭州)へ流れるのではないかと思われる。死傷者の数は、目下のところ、おおよその見当さえもつかない。人々はぞくぞくと、北部および南部の諸省へ避難中である。日本の軍艦は、被害地の海岸への出動命令を受けた……。
チャンスー(江蘇)の地震は、規模において、ルイジアナの地震をはるかにしのぐものであったが、あまり注目されなかった。世界は、中国の異変になれきっていて、この国なら数百万の犠牲者でも大したことはないと、思っていたのである。そのほか科学的に見て、この異変が、琉球とフィリピン諸島付近における海底沈下に関連する単純な構造地震(断層地震のこと)にすぎないことが明らかだったので、なおさら注目をひかなかった。
ところが、またもや三日たって、ヨーロッパの地震計は、今度はケープ・ヴェルデ諸島付近を中心とする地面の震動を記録した。
まもなく、つぎのような詳報が届いた。
『サン・ルイから南に向けて、セネガンビー沿岸が、強震により損害をこうむった。ランプルとムボロの間に深い亀裂ができ、そこに海水が流れこんだ。この亀裂は、メリナゲンの方向に沿い、ディマル森林にまでのびている。目撃者の言によれば、恐ろしいごう音をあげて、地から火と蒸気の柱がふき出し、砂と石とをまきちらした。砂と石は四散して、遠くまで飛んでいった。と思うまに今度は、新しく現われた凹みめがけて流れこんでくる、海鳴りの音が聞えてきた。もっとも、死傷者は少なくてすんだ』
地震も三度となると、すでに紛乱めいたものをまき起こした。各新聞は、『地球の火山活動が活発化しているのか?』という質問を投げかけた。『今や、地殻破裂の危険が迫っている』と、夕刊は叫びたてた。専門家たちはと言えば、つぎのような仮説を並べた。『セネガンビーの亀裂は、ケープ・ヴェルデ諸島に属するフォゴ島上のピコ火山につながる火山脈の爆発の結果にすぎない。この火山は死火山とされていたが、じつは、つい一八四七年まで火をふいていたのである。したがって、明らかに構造上の原因によって起こったルイジアナおよびチャンスー(江蘇)の地震現象と、今回の西アフリカの地震との間には、なんら共通性はない』
しかし、人々にとっては、構造上の理由によろうが、火山のせいだろうが、大地がパクリと口をあけたことに変わりのあろうはずがなかった。
こえて十一月の二十日、午前一時ごろのことである。ヨーロッパの聴取者たちは、ラジオの変調に気がついた。ラジオは、非常に強力な放送局が放送を開始した時のような、強い妨害を受けた。二〇三メートルの波長のところで、聴取者たちは新しい放送局を発見した。で、耳をかたむけていると、機械のうなりか潮さいのような音が聞えてきた。この連続的な響きに、突如としてキンキンした金切声がはいってきた。聞いていた人々は、後で、言い合わせたように、作り声のようなのどにかかった声で、メガフォンでひどく強調されていたと、これを評した。そのカエルのような声が、興奮した口調で叫んだのである。
「ハロー、ハロー、ハロー! チーフ・サラマンダー・スピーキング(山椒魚頭領のお話があります)! ハロー、チーフ・サラマンダー・スピーキング(山椒魚頭領のお話があります)! ストップ・オール・ブロードキャスティング、ユー・メン(人間のみなさん、放送を全部中止してください)! ストップ・ユア・ブロードキャスティング(そちらの放送を中止してください)! ハロー、チーフ・サラマンダー・スピーキング(山椒魚頭領のお話があります)!」
それから別のひどく鈍い声で「レディ(いいかね)?」「レディ(いいです)」という応答が聞えてきた。つづいて、配線の過電圧のような、パチパチッという音がした「アテンション、アテンション、アテンション(お聞きください、お聞きください、お聞きください)!」「ハロー! ナウ(では始めます)!」
つぎに夜のしじまを破って聞えてきたのは、指揮官のように高圧的な緊張したしゃがれ声であった。
「人間のみなさん! まず最初に、私はルイジアナ、チャンスー(江蘇)、セネガンビーの犠牲者に対して哀悼の意を表します。申し上げておきますが、われわれはいたずらに、みなさんに危害を加えようとするものではありません。われわれが希望するのは、当方があらかじめ諸君に指示する海辺から、撤退していただくことであります。もしそれに従うならば、諸君は惨事を回避できるでありましょう。どの地点でわれわれが海を拡張するかについては、すくなくとも二週間前に予告します。目下われわれが行なっているのは、技術的試験にすぎません。みなさんの爆薬は、完全にその効力を発揮したわけでありまして、この点、われわれはみなさんに感謝しています」
「人間のみなさん! どうかみなさんは、平静を保っていてもらいたい。われわれは諸君に対し、なんら敵対的企図を有するものではありません。ただ、生存のために、もっと多くの水と岸と州とを必要としているだけであります。われわれはあまりにも多すぎるので、諸君の海岸だけでは、場所が足りません。そこでわれわれは、諸君の大陸をきり開かざるをえないのであります。われわれは、大陸を島と湾とに変えるつもりなのであります。その結果、全世界の海岸線の延長は、五倍となるでありましょう。さらにまた、州《す》を新しく作る予定もあります。州を作るのは、われわれが深海に住めないためであります。そこで、深海をうめる材料として、諸君の材料が必要なのであります。我方は諸君に敵対するなんらの理由ももちませんが、ただ、われわれはあまりに多すぎるのであります。一方諸君は、まだ奥地へ移動することもできる。あるいはまた、山中にひそむこともできるでありましょう。山岳は、最後にこわされることになっております」
「みなさんは、われわれの数が、できるだけ多いことを希望された。みなさんは、われわれを全世界にばらまかれた。今や諸君は、そのむくいを受けることになったのであります。かと言って、われわれが諸君との協調を望んでいることに、変わりはありません。諸君は、ドリルとつるはしを作るために、われわれに鋼鉄を提供していただきたい。われわれのために働いてもらいたいのであります。諸君の力をかりなければ、われわれは古い大陸を破壊することができません。人間諸君! チーフ・サラマンダー(山椒魚頭領)は、山椒魚全体を代表して、諸君に協力関係を提案するものであります。諸君は、われわれといっしょになって、諸君の世界を破壊してもらいたい。われわれは、諸君に対しお礼を約束するものであります」
緊張したしゃがれ声は沈黙した。そしてまたもや、機械の音か潮さいかわからない、鈍い音が聞えるだけになった。
「ハロー、ハロー、人間のみなさん」ふたたび金切声が聞えてきた。「つぎに、みなさん方のために、録音によって軽音楽をお送りいたします。劇映画[ポセイドン]中の人魚行進曲であります」
この夜間放送について、新聞は、非合法放送局の『ざっぱくな偽瞞』であると報道した。それでも翌晩になると、昨夜の高圧的なしゃがれ声が聞えはせぬかとラジオのそばにすわって待ちかまえている人たちが、たくさん現われた。事実、その声は、ときに高くときに低くなる雑音を伴いながら、かっきり午前一時に聞えてきた。
「グット・イーヴニング、ユー・ピープル(今晩は、人間のみなさん)!」ほがらかなのど声が伝わってきた。「放送の初めに、みなさま方に、オペレッタ[ガラテア(小アジアの中央部を占める内陸地帯の古名)]中の山椒魚の踊りを、録音によってお聞かせいたします」
わいせつな音楽の響きが消えると、またもや同じ不快な声が、ほがらかな調子でしゃべりだした。
「ハロー、人間のみなさん! ただ今、大西洋にあるわが方の放送局を破壊しようとしたイギリスの砲艦『エリバス』号が、撃沈されました。乗組員は、全滅であります。ハロー、イギリス政府にお願いします。マイクロフォンに出てください。ポートサイドの汽船『アメンホテプ』号は、わが方のマッカラー港において、当方から注文した爆薬の引き渡しを拒絶しました。同船は、積荷の引き渡しを今後停止するよう、命ぜられた模様であります。その結果、同船は撃沈されました。明日十二時までに、ラジオで命令を撤回されるよう、イギリス政府におすすめします。もしこれが実行されない場合には、カナダから穀物を積んでリバプールへ航行中の『ウィニペグ』『マニトバ』『オンタリオ』『ケベック』の各汽船は撃沈されるはずであります。ハロー、フランス政府にお願いします。マイクロフォンに出てください。セネガンビーに向かって航行中の巡洋艦をよび戻すようお願いします。わが方は、同地にできた湾をもっと広げなければならないのであります。ところで、チーフ・サラマンダー(山椒魚頭領)は、両国政府に対し、強固な友好関係を設定することを願っていると、伝えるよう命じました。これをもちまして、ニュースを終わります。みなさま、お好みのロマンス[サラマンドリア(エロチック・ワルツ)]を、録音によってお送りいたします」
翌日の正午ごろ、ミズン岬の西南にあたるところで、『ウィニペグ』『マニトバ』『オンタリオ』『ケベック』などの汽船が撃沈された。世界は、恐怖の波に洗われた。夜にはいって、イギリスのラジオは、大英帝国は山椒魚に対する各種食糧、化学製品、機械類、兵器、金属の提供を禁止したと、放送した。午前一時になって、またもや、興奮したしゃがれ声がラジオから流れてきた。
「ハロー、ハロー、ハロー! チーフ・サラマンダー、スピーキング(山椒魚頭領のお話がございます)! ハロー、チーフ・サラマンダー、イズ、ゴーイング、トゥ・スピーキング(山椒魚頭領が、ただ今からお話しいたします)!」
それについで、しゃがれた怒声が聞えてきた。
「人間諸君、諸君は、われわれを餓死させるつもりであるか? 愚かな行為はやめてもらいたい。諸君の行為は、諸君にかえっていくのだ。山椒魚全体を代表して、大英帝国に呼びかける。ただ今から、アイルランド自由国を除くあらゆる英領諸島に対して、無制限封鎖を行なうことを宣言する。同時に余は、ドーバー海峡を封鎖する。スエズ運河を封鎖する。すべての船舶の運行に対して、ジブラルタル海峡を閉す。イギリスの港はすべて封鎖される。あらゆる海上にあるイギリスの船舶は撃沈される。ハロー、フランスに呼びかける! 至急、C3、BFF、クウェスト5の海底保塁に対して、発注した水雷を引き渡してもらいたい。ハロー、人間諸君! 諸君に警告する。もし諸君が、われわれに対する食糧の提供を制限するならば、余は自身で、諸君の船舶から食糧を奪取するであろう。重ねて警告する」
緊張した声は低くなって、鈍いしゃがれ声になり、何を言っているかほとんど聞きとれなくなった。長い間《ま》の後、冷たい夜の海のさやぎに似た音が聞えるだけになった。それからまたも、ほがらかなのど声が聞えてきた。
「つぎに、最近流行の[トリトン・トロット]を、録音によりお聞かせいたします」
九 ヴァドゥーツ会議
これをしも戦争と言えるなら、それはじつに奇妙な戦争であった。山椒魚国などまったく存在せず、公式に宣戦を布告すべき相手と認められる山椒魚政府も存在しなかったからである。さて、まっ先に山椒魚と戦争状態にはいったのは、大英帝国であった。ところで、軍事行動開始となったとたんに、港に停泊していたイギリスの船という船が、みんな撃沈されてしまった。反撃など思いもかけなかった。その際相対的に安全だったのは、公海上の船舶だけだった。とにもかくにも、このようにして、イギリス海軍の一部が助かった。これらの軍艦は、マルタ島付近で山椒魚の封鎖を突破し、イオニア海で集結した。ところで、しばらくすると、それも山椒魚の小型潜水艦に捕捉《ほそく》され、つぎつぎに撃ち沈められてしまったのである。大英帝国は、六週間に、総トン数の五分の四を失った。
歴史はジョン・ブルに対して、かの有名な頑固さをもう一度発揮する機会を与えた。大英帝国政府は、山椒魚と交渉を開始しようとも、物資提供禁止令を解こうともしなかった。『イギリスのジェントルマンは、かの動物をあわれんではいるが、だからと言って彼らと妥協する気持などもたない』と、イギリス首相は全国民を代表して声明した。何週間かたつと、英領の島々は、破局的な食糧不足に見まわれだした。子どもたちだけが、一日に一かけのパンと、いく匙《さじ》かの茶か牛乳を配給されるだけになった。競争馬を食うほどの窮状におちいっても、イギリスの国民は、比類のない頑固さでこの困難にたえた。プリンス・オブ・ウェールズは、ローヤル・ゴルフ・クラブで、ロンドンの育児所に供せられるニンジンの最初の畝《うね》を、みずからすき起こした。ウィンブルドンのテニスコートには、馬鈴薯《ばれいしょ》が植えられ、アスコット競馬場には小麦がまかれた。『われわれは、進んでこの大試練におもむくとも、イギリスの名誉をけがしはしないであろう』と、保守党の領袖《りょうしゅう》は、議会で声明した。
イギリスの海岸は、完全に封鎖の環の中にとじこめられていたので、イギリスに残ったただ一つの補給路は、空だけになってしまった。『われわれは十万の航空機をもたねばならぬ』と、航空相は声明し、それにつづいて、手足をもつものはすべてこのスローガンの実現に着手した。一日に一千台の航空機を製作するために、あらゆる方法がとられた。ところがそうなると、ほかのヨーロッパ諸国政府が介入して、航空機保有量の均衡破壊だと、激しく抗議してきた。結局イギリス政府は、五か年間に二万機以上は作らないと公約して、以上の対空計画を放棄せざるをえなくなった。とどのつまりイギリスは、餓死するか、外国の航空機によって届けられた食糧品にぎょっとするほどの金を支払うか、二つに一つしかなくなった。
物価は、パン一ポンド一〇シリング、イエネズミ一つがい一ギニー(二一シリング)、イクラの罐詰二五ポンドというぐあいに騰貴した。これに反して、大陸の商・工・農業のほうは、まさに書き入れ時であった。イギリス 艦 隊 は緒戦《ちょせん》に殲滅《せんめつ》されていたので、対山椒魚戦は、陸上と空中とからだけ行なわれた。陸軍は水に向かって砲撃と機関銃射を加えたが、明らかに山椒魚に大損害を与えることはできなかった。いくらか効果をあげたのは、航空機の水中爆撃だけであった。山椒魚も、水中砲をもってイギリスの港々に砲撃を加え、これを廃墟と化せしめた。彼らは、テムズの川口からロンドンを砲撃さえした。これに対し軍司令部は、バクテリア、ガソリン、アルカリなどを、テムズ川や二、三の湾に流した。すると山椒魚は、イギリスの海岸一二〇キロにわたって、毒ガスの雲を放った。これは、一回目の試みにすぎなかった。が、二回目の試みの必要はなくなった。というのは、史上はじめて、イギリス政府は毒ガス戦の禁止を理由に、外国に仲介を要請しなければならなくなったからである。
つぎの夜、チーフ・サラマンダー(山椒魚頭領)の怒ったようなしゃがれ声が、ラジオからビンビン鳴り響いてきた。
「ハロー、人間諸君! イギリス帝国は、愚かな行為をなすべきでない! もし諸君が、われわれの水に毒物を流そうとするならば、われわれは諸君の空にガスを放つであろう。ご承知のとおり、われわれは諸君の兵器を使用しているのである。さてわれわれは、諸君に対して講和を提案する。諸君は製品を提供する一方、諸君の大陸をわれわれに売ってもらいたいのである。わが方は、十分な支払いを行なう用意がある。われわれは、講和より以上のものを提案する。すなわち、通商を提案するのである。諸君の陸地の代わりに、われわれは金を提供しよう。ハロー、大英帝国に呼びかける。リンカーンシャーの南部、ウォッシュ湾付近の価格を教えてもらいたい。考慮のために三日の猶予を与える。その間、封鎖のほか、いっさいの軍事行動を停止する」
一瞬、イギリスの海岸では、海からの砲撃の音がピタリと止んだ。陸上の砲も沈黙し、無気味な静けさがやってきた。ところがイギリス政府は、議会において、山椒魚と交渉にはいる意図を有しないと声明した。ウォッシュとリン・ディープ湾地区の住民に対しては、山椒魚の大攻撃が予想されるから、海岸から奥地へ避難するようにとの警告が発せられた。しかし、そのために用意された列車、自動車、バスなどは、子どもと女の一部を運びだしただけであった。男たちはすべて、現地に居残ったのである。イギリス人が領土を失うなど、彼らには考えられなかった。三日の休戦期間がきれて、一分たつやいなや、最初の砲声がとどろきわたった。それは、北ランカシャー・ロイヤル連隊が、行進曲『真紅の|ばら《ヽヽ》』の吹奏の下に、射撃を開始したのであった。
間髪をいれず、恐ろしい爆発音が鳴り響いた。とたんに、ニン川の川口がウィズビーチのところまで引き裂け、その中へウォッシュ湾の海水が、どっとばかりに流れこんだ。有名なウィズビーチ大修道院の跡、ホランド・キャッスル、『聖ジォージと竜』飯店、その他の史跡は、一瞬にして、水中に没してしまった。翌日の議会質問に答えて、イギリス政府はつぎのように言明した。
「イギリス海岸の防衛態勢は万全である。かと言って、ふたたびイギリス領が攻撃されぬとは考えられない。しかもその攻撃たるや、さらに大規模なものと思われる。とはいえ、大英帝国は、非戦闘員や女さえも容赦しない敵と交渉を開始しようなどとは、毛頭考えていない(同感の声)。ことここに至れば、問題はイギリスの運命にかかわるものというよりは、むしろ全文明世界にかかわるものと言えるであろう。この事実に関連して、全人類の脅威であるこの野蛮な攻撃に一定の限度を加える、国際的保障の問題が、もし提出されるようなことがあれば、わが大英帝国もまた、討議への参加を回避しないであろう」
それから何週間かたって、各国の代表がヴァドゥーツ(オーストリアとスイスにはさまれている、アルプス山中の世界最小の独立国リヒテンシュイン公国の首都)で開かれた、世界会議に集まった。
ヴァドゥーツで会議が開かれたのは、上アルプスなら山椒魚の危険がないということと、海にのぞむ国々の金持の多くがここに隠れているということによるものであった。この会議が世界の当面の諸問題の解決に力を尽したことは、万人のひとしく認めるところであった。ところでまず、あらゆる国が(スイス、エチオピア、アフガニスタン、ボリビアその他、海岸をもたない国までが)、山椒魚を独立した交戦国と認めることを、原則的に拒否した。これは主として、後になって自国の山椒魚が、山椒魚国の市民と認められはしないかという危惧《きぐ》にもとづくものであった。つまり、山椒魚国が承認されたとなると、山椒魚国はその独立権を、山椒魚の住んでいるあらゆる水辺や水域に及ぼさないとも限らぬと見たからである。そしてそのことから、つぎのような結論が行なわれた。山椒魚に宣戦を布告したり、その他の方法によって彼らに国際的圧迫を加えたりすることは、不可能である。各国は自国の山椒魚に対して反対行動をとる権利を有しているのみであって、これはすでに、その国の純国内問題にすぎないのである。すなわち、山椒魚を相手とする外交、軍事上の国際的措置は、まったく問題にならない。山椒魚の攻撃をこうむった国家への国際的援助は、国防上の必要にあてられる外債の提供という形で、行なわれうるのみである。
そこでイギリスは、それならば各国は、すくなくとも山椒魚に対する武器、爆薬の提供を中止する義務を負うべきだと、提案した。熟慮の末、この提案は退けられた。この種の義務はロンドン協約の中にすべて含まれているというのが、その理由の一つ、ある国が『もっぱら自身の必要のため』山椒魚に技術資材を提供し、『自国海岸の防衛のため』武器を与えるのを禁止することはできないというのが、理由の二つ、海にのぞむ国々は『もともと、海の住者との親善関係の保持を尊重しており』、それゆえ『山椒魚側から抑圧とみなされうるような手段をとるのは、しばらく見合せた方が適当であろう』というのが、理由の三つであった。が、これと同時にあらゆる国は、山椒魚の攻撃を受けた国への武器、爆薬の提供の約束をためらわなかった。
非公式交渉ではあっても、とにかく山椒魚と交渉をはじめたらどうかというコロンビアの提案は、全会一致で採択された。そして、チーフ・サラマンダー(山椒魚頭領)に対し、全権代表をこの会議に送るよう提案するという件が決定された。大英帝国代表は、山椒魚といっしょに会議に連なるなどもってのほかであると称して、これを拒絶した。結局、イギリス代表は『健康回復』のため、一時エンガディンに行くことで、話し合いがついた。その夜ただちに、海にのぞむ国々の国営放送局は、チーフ・サラマンダー(山椒魚頭領)閣下に対し、代表を任命のうえ、ヴァドゥーツに派遣されたいという提案を放送した。これに答えて、『よろしい。今回に限ってわれわれが諸君のもとに出向くが、次回には、諸君の代表に水中の余のもとへ来てもらおう』という声が聞えてきた。それから、『山椒魚全権代表は、明後日夕刻、オリエント・エクスプレスによって、ブクス駅に到着の予定である』という、公式発表が放送されてきた。
山椒魚代表を迎える準備で、てんやわんやの騒ぎになった。ヴァドゥーツに、豪華な浴場が用意された。そして、急行列車が山椒魚代表のために、わざわざ海水をタンクに入れて運んできた。ブクス駅には、夕方になって、いわゆる非公式出迎えが出ることになっていた。そこで、各国代表秘書、現地官辺代表、約二百名の新聞記者、写真班員、撮影技師たちだけが、駅に出向いた。六時二五分かっきりに、オリエント・エクスプレスが駅にはいってきた。貴賓車から赤いじゅうたんの上に、典雅な紳士が三人降り立った。幾人かのきびきびした秘書たちが、上流人らしい動作で、いっぱいつまったポートフォリオをおさえながら、そのあとに従った。
「山椒魚はどこだ?」と、誰かが小声で尋ねた。
二、三人の公式役員が、おずおずと、三人の典雅な紳士たちの方へ進んで行った。すると、先頭に立っている紳士が、低い早口で言った。
「私たちが山椒魚代表です。私は、ハーグのヴァン・ドット教授、この方はパリの弁護士ロッソ・カスティ氏、それからこちらはリスボンの弁護士のマノエル・カルヴァリュ博士です」
そこで、居並ぶ人たちは、頭をさげて自己紹介を行なった。
「そうしますと、あなた方は山椒魚ではいらっしゃらないわけですね?」と、フランス代表秘書が言った。
「もちろんそうじゃありませんよ」と、ロッソ・カスティ博士が言った。「私たちは、彼らの弁護士ですよ。ご免ください、こちらが私たちを撮影したがっていられるようですから」
そう言われて、写真班は夢中になって、微笑を含んだ山椒魚代表たちを、映画や写真にとりはじめた。出迎えに出た各国代表の秘書たちは、満足の様子をかくそうともしなかった。あたりまえの人間を代表として送るなど、山椒魚としては大出来だった。なんと言っても、人間と話し合う方がつごうがいいというものだ。それに、社交上の若干の不快さが消えるところにも、大いに意味がある。
その夜ただちに、山椒魚代表をまじえた第一回合同会議が開かれた。議題は、どのようにして、山椒魚と大英帝国との平和を、短期間に回復するかであった。ヴァン・ドット教授が発言を求めた。
「山椒魚が、大英帝国側から攻撃を受けたのは、まったく明らかであります」と、彼は言った。「イギリスの砲艦『エリバス』号は、公海におきまして、無電機を有する山椒魚の船舶を攻撃しました。また、イギリス海軍委員会は、汽船『アメンホテプ』号に対しまして、発注ずみの爆薬類の引き渡しを禁止し、かくして山椒魚との平和な通商関係を破壊したのであります。最後に、すなわち第三に、イギリス政府はあらゆる物資の輸出を禁止し、山椒魚に対する封鎖を開始しました。しかも山椒魚は、この敵対行為につき、ハーグに訴えることさえできなかったのであります。と申しますのは、山椒魚が国際連盟員でないというので、ロンドン協約が山椒魚に、ジュネーブに対する提訴権をさえ、与えなかったからであります。したがいまして、山椒魚に残された手段は、自衛以外になかったのであります。このような事情にもかかわらず、チーフ・サラマンダー(山椒魚頭領)は、軍事行動の停止に同意する用意があると申しております。ただし、それはつぎの条件においてのみであります。すなわち、一つ、大英帝国は以上の敵対行動について、山椒魚に陳謝すること、二つ、同国が山椒魚に対する物資提供の禁止を解くこと、三つ、同国によって与えられた損害の賠償として、山椒魚に対し、インダス川下流地帯を無償譲渡し、山椒魚がここに新しく海岸と湾を設けるのを黙認すること、以上であります」
議長は、この条件を、目下欠席中の尊敬すべき友人である大英帝国代表に取り次ぐであろうと答えた後、ただしこの条件は受け入れられないおそれがある、とはいえ今後の交渉の基礎にはなり得ようと、述べた。
つぎの議題は、セネガンビー海岸に関するフランスの提訴であった。フランスの言い分によれば、山椒魚はこの地を木っぱみじんにふっとばし、そのことによって、仏領の植民地帝国を侵した。山椒魚代表である、有名なパリの弁護士ジュリアン・ロッソ・カスティ博士が発言を求めた。
「ひとつご証明願いましょう」と、彼はくってかかった。「地震学の世界的権威はみな、セネガンビーの地震が火山起源である、フォゴ島のピコ火山の活動に関係があると、説明しているのであります。ここに」と、ポートフォリオを手のひらでたたきながら、博士はつづけた。「その学術上の結論があります。もしセネガンビーの地震が、私の依頼人である山椒魚の行為によってひき起こされたという証拠をおもちなら、どうか見せていただきたい。私は、その証拠を期待します」
それにつづいて、
ベルギー代表クレー――チーフ・サラマンダー(山椒魚頭領)は、山椒魚がこれをやったと、自分から言明したではありませんか?
ヴァン・ドット教授――あれは非公式のものです。
ロッソ・カスティ博士――私どもは、あの演説を取り消す全権を与えられています。私はあなたに、長さ六七キロにもわたって地殻に亀裂を作ることが、人工的な方法によって可能であるかどうか、技術専門家にお尋ねになるようおすすめします。それから私たちの目の前で、この種の実験を、同じ規模でやられることを提案します。この証明がなされない限り、やはり火山活動が原因だということになりますね。にもかかわらず、セネガンビーの亀裂の中に、山椒魚のすみかに適当な湾ができたというので、チーフ・サラマンダー(山椒魚頭領)は、その湾をフランス政府から買収したいと言っているのであります。私たちは、その価格について、フランス政府と交渉する全権を与えられています。
フランス代表(閣僚)ドヴァル――もしそのことを、損害賠償と見ることができるとおっしゃるなら、交渉に応じる用意があります。
ロッソ・カスティ博士――大いに結構です。もっとも、山椒魚政府は、この売買協定に、ジロンド河口からバイヨンヌにいたる六七二〇平方キロのランド県を含めることを固執しています。別の言葉で申し上げるとですな、フランスから、南端に位置するこの部分をも買収したいというわけです。
閣僚ドヴァル(バイヨンヌ出身で、バイヨンヌ選出代議士)――あなた方の山椒魚が、フランスの一部を海底にするためにですか? それは絶対にだめです。
ロッソ・カスティ――フランスはきっと、そのお言葉を残念に思うにちがいありませんよ、ムッシュー。今日ならばまだ、買収価格について話し合いができるはずですのに……。
ここで、この日の会議はうち切られた。
再開された会議において、交渉の中心となったのは、山椒魚に対する各国の共同提案であった。それは、つぎのような点を骨子としていた。すなわち、人口|稠密《ちゅうみつ》な旧大陸に不当な損害を与えるよりも、新しく海岸や島を建設してはどうか、その場合には、山椒魚に多額のクレジットが提供されるであろう、さらにまた、その結果でき上がった新大陸および新島は、山椒魚の主権下にある、独立領と認められることになるであろう……。
リスボンで最も有力な法律家であるマノエル・カルヴァリュ博士は、この提案に関連して、会議に感謝の意を表明し、ついで、この案を政府に取り次ぐであろうと述べたあとで言った。
マノエル・カルヴァリュ博士――しかしながら、新大陸の建設が、旧大陸の取り壊しよりもはるかに多くの時間と経費とを要することは、三歳の幼児にとってさえ明らかであります。私どもの依頼者は、新しい海岸や湾を至急に必要としているのであります。ただし目下のところ、チーフ・サラマンダー(山椒魚頭領)は、世界を人類から力ずくで取り上げるよりは、むしろ買収する考えに傾いているのでありますから、その寛大な提案をいれた方が、人間のためになろうかと、私は考えるものであります。山椒魚は、海水に溶解した金を採集する方法を発見しており、その結果、資金ならば無限に所持しております。したがいまして、みなさんの世界に対し、十分、いや十二分の代金が支払えるのであります。みなさんにおかれましては、時がたつにつれて、世界の価格がだんだん下落するということおよび、きわめて容易に想像できますとおり、規模におきまして、従来私どもが目撃いたしました惨事をはるかに上回る、火山性あるいは構造上の異変が生起するかもしれないということ、この二つを念頭におかれたいのであります。ただ今のところでは、世界を売るについても、これまでに算定されている面積に応じ、支払いを受けることができるのであります。が、水面上に山のはしだけが突き出て残るような状態になりましては、何人もみなさんに一文も出しはしますまい。私はこの会議に、山椒魚代表、法律顧問として出席しているのでありますから、彼らの利益を擁護せざるをえません(と、カルヴァリュ博士は、声をはげまして言った)。しかしながら諸君、私もみなさん同様人間でありますし、人間の福祉は私にとりましても、みなさんに劣らず貴重なのであります。そこで私はみなさんにおすすめする、というよりは、お願いいたしたい。手遅れにならぬうちに、大陸をお売りなさい! 売られるについては、一括ででも国別ででもよろしい。チーフ・サラマンダー(山椒魚頭領)が寛大で進歩的な思考形態の持主であることは、今では万人周知の事実となっておりますが、彼は、将来必要上行なわるべき地表の変化にあたっては、できうる限り人命をそこなわないようにしたい、大陸の浸水はじょじょにこれを行ない、とくに不必要な惨事や混乱を起こさせないようにしたいと、申しているのであります。私どもは、尊敬する世界会議、および個々の国家のいずれとも交渉する全権を与えられております。ヴァン・ドット教授、あるいはジュリアン・ロッソ・カスティ氏のごとき、卓抜な法律家が臨席しておられますことは、諸君にとりましても、一つの保証とでも申すべきでありましょう。さて私どもは、依頼人でありますところの、山椒魚の正当なる権利を擁護すると同時に、われわれ全体にとっての偉大な価値物、すなわち人類の文化と全人類の福祉とを、みなさんとともどもに擁護したいと、切望するものであります。
気勢をそがれた会議は、その後、沈める場所として中国中部を山椒魚に譲る代わりに、山椒魚の方でも、ヨーロッパ諸国とその植民地の安全を、永久に保証してもらいたいという、新しい提案の検討に移った。
ロッソ・カスティ博士――永久となりますと、あまり長すぎると思います。向こう十二年というところでいかがでしょう。
ヴァン・ドット教授――中国中部だけでは、あまり狭すぎると思います。アンホエイ(安徽)、ホナン(河南)、チャンスー(江蘇)、ホペイ(河北)、フゥチェン(福建)などを含めていただきたい。
日本代表は、日本の権益下にあるというので、フゥチェンシオン(福建省)の譲渡に対して抗議した。中国代表も発言したが、遺憾ながら、誰にも理解されなかった。会議場の不安は、高まっていくばかりであった。時計は、すでに午前一時を示していた。
いらいらと身じろぎしながら、ヴァン・ドット教授が手をあげた。
「議長、議事進行。議事の順番は、フゥチェンシオン(福建省)問題です。私どもは、同省の代わりに日本政府に金で賠償する件について、全権を与えられています。ところで、中国を除去する場合、関係諸国は、私どもの依頼人である山椒魚に、どの程度の賠償を要求されるおつもりでしょうか?」
ちょうどこの時、ラジオ聴取者たちは、山椒魚の夜間放送を聞いていた。
「ただ今のは、レコードによる[ホフマン物語]中の舟唄でございました」とアナウンサーが金切声で言った。「つぎに、南ヨーロッパ放送をおつなぎいたします。同地では、またもや激しい地震がはじまったところであります」
その後は、おし寄せてくる水の音に似た、鈍重なごう音が、無気味に聞えてくるだけになった……。
十 ポウォンドラ氏がみずから罪を負う
誰も気づかぬうちに、光陰は矢のごとくに流れ去った。われわれのポウォンドラ氏も、今ではもう、ゲー・ハー・ボンディ家の取次役ではなかった。わずかばかりの恩給としてみのった長いわずらわしい生涯の果実を、心安らかにつみとれる尊敬すべき一個の老人となっていた。しかし、今のような戦時の物価高では、二百や三百の金でどうしてやっていけよう。まず、たまに魚釣りに出かけられるのが、せめてもの心やりというものであった。
というわけで、彼は釣竿片手にボートにみこしをすえ、『この水は一日にどれほど流れて行くのかしらん。またどこから同じ量の水が流れて来るのだろう』と考えては、つくねんと川面をにらめているしだいとなった。ときには、コイが、またときにはクロマスが針にひっかかる。それに概して、魚類はふえていた。おそらく、河川が短くなったせいであろう。『クロマスも悪くない。少しばかり骨っぽいけれど、肉はうまい。つみれにすると、とくにうまい。家内ときたら、料理は上手だからな』……。ポウォンドラ氏は、当の細君が、彼の釣ったクロマスをのせて、いざ火を燃そうという時に、その昔彼が集めてはそれぞれの箱に分類しておいた切り抜きを、たきつけにしているのをご存知なかった。恩給を取るようになってから、ポウォンドラ氏はコレクションを放棄していたのである。その代わりに水槽をすえて、金魚といっしょに、小さいイモリや山椒魚をかっていた。そいつらが、じーっと動かずに水の中に横たわっている様子や、石で作った岸のところにはい出してくるのを、何時間もながめながら、彼は頭をうち振って言うのであった。『えらいこった!』しかし、人間は観察だけに満足してはいられないので、ポウォンドラ氏も魚釣りをはじめるようになったのである。片や、家内と称せられるポウォンドロヴァー夫人は、それを見ながらも、『しかたがないわ、男ってしょっ中なにかしてなきゃならないんだから』と、いつもすこぶる寛大な態度をとっていた。ビヤホールに通って『政治』などやられるよりよっぽどましだ、というので……。
まことに多くの月日が流れ去ったものではある。フランチークもまた、今や地理を勉強する生徒でも、むなしい喜びを追ってくつ下をはきつぶす表六玉《ひょうろくだま》でもなくなっていた。今の彼は、きちんとした人物でさえある。神の恵みによって彼は、郵便局の下級官吏になっている。熱心に地理を勉強したのも、むだではなかった。
『まあ奴も役にたつさ』ボートにすわったポウォンドラ氏は、レギエ橋の方へくだりながら、彼のことを考えていた。『まもなく奴はここへやって来るだろう。今日は日曜だから、勤めはないんだ。あいつをボートに乗せて、上のストルシェレツキー島の端《はな》のところへ行ってみよう。あそこは魚がよく食うからな。フランチークが、いろいろニュースをきかしてくれるだろう。それから、ヴィーシェフラドの家に行くんだ。嫁が、二人の子どもを連れて出て来るよ』ポウォンドラ氏はしばらく、幸福な祖父としての静かな喜びに身をゆだねていた。『一年たつと、マルジェンカが学校にあがる』と、彼は瞑想《めいそう》をつづけた。『孫のほうのフランチーク坊主も、もう三〇キロから体重があるんだ』。ポウォンドラ氏は、大きな満足感にひたりながら、何事も順調だなと思うのだった。
そうこうするうち、岸辺にはもう息子が立っていて、彼に向かって手を振っている。そこでポウォンドラ氏は、岸のほうへボートをこいで行く。
「やっとこさでお出ましだね」彼はおこったような口調で言う。「水に落ちないように用心しろ」
「くいますかね?」息子は尋ねる。
「だめだね」老人はぶつくさと答える。「かみの方へ行ってみよう」
なんて気持のいい日曜日だろう! サッカーその他ばかばかしいものをやらかしたあげく、のらくら者に気違いどもががやがやと群れをなして帰って行く時間には、まだまがあった。プラハは、静かでがらーんとしていた。ときおり川岸や橋に現われる数少ない通行人も、急がずにゆっくりと、何か風情をただよわせながら歩いて行った。みんな、分別のある人々であった。彼らは柵のところにたかって、ウルタヴァ川の釣師らを笑ったりなどしなかった。調和と幸福の快い感覚が、またもやポウォンドラ一世をとらえるのであった。
「なにか新しいことが新聞に出てるかい?」父親の威厳をこめながら、彼は尋ねるのだ。
「大したこともないですよ」と息子は答える。「ただね、山椒魚がこの近くまで来てるって言いますよ」
「山椒魚がおまえ、ここまで来てたまるもんかい!」老人はさえぎった。「はっきりしてるじゃないか。はじめに奴らは、岩をこわして、とりはらわなきゃなるまい。そいつがどんな大仕事だか、おまえにゃわからんのか」
「大仕事だなんて、へいちゃらですよ」顔をしかめながら、ポウォンドラ二世は言い返した。「屁《へ》でもないですよ。グァテマラで、奴らが山脈をごっそり沈めてしまったのを、お父さん知ってるでしょう?」
「そりゃまた別だあな」老人は、断固として言った。「ばか言っちゃいかんよ、フランチーク。グァテマラはグァテマラ、こっちはこっちさ。あっちの条件はぜんぜん違うもの」
ポウォンドラ二世はため息をついた。
「まあいいですよ。お父さんの言うとおりにしときましょう。けど奴らが、もう陸地の約五分の一を沈めちまったことを考えるとねえ」
「海の近くだけだよ、ばかだな。ほかの所じゃなんにも起こりゃせんさ。おまえは、政治というものがぜんぜんわからんのだよ。奴らと戦争してるのは、われわれじゃなくて、海のそばの国だからな。こっちはおまえ、中立国だもの、連中だって攻撃できるわけがないじゃないか? どうだい? 頼むから黙っててくれ、おまえのおかげで、一匹も釣れやせん」
川面は静かであった。すでにウルタヴァ川の上には、ストルシェレツキー島の細長い木の影が落ちていた。橋の上では電車がきしみ、川岸通りには、乳母車をおした乳母や、晴着を着た上品な人々の散歩する姿が見うけられた。
「パパ……」妙に子どもっぽく、ポウォンドラ二世がささやいた。
「なんだい?」
「あそこにいるのナマズじゃないかしら?」
「どこに?」
ちょうど国立劇場の反対側のところであった。大きな黒い頭が、水の上に浮かびながら、ゆっくりと上流へ進んでいた。
「あれナマズかな?」ポウォンドラ二世が繰り返した。
とたんに、老人は釣竿をとり落した。
「フランチーク、あれはナマズじゃないぜ」老人が別人のような声で言った。「家へ帰ろうよ。いよいよ最後だ」
「震えちゃって、お父さん」フランチークもびっくりして言った。「どうしたんです?」
「家へ帰ろう」老人は興奮状態におちいって、つぶやくように言った、あごが頼りなさそうにふるえた。「寒気がする。寒い……。もうだめだ。いよいよ最後だよ。奴らはここまでやってきたんだ。ああ、寒くてたまらん。おれは家に帰るから……」
それを見つめていたポウォンドラ二世は、あわててオールをにぎった。
「送って行きますよ、お父さん」彼も別人のような声でそう言い、激しくオールをうち返して、ボートを島の方へこいで行った。「いいですよ、ぼくがつなぎます」
「どうしてこんなに寒いのかな?」歯をガチガチうち合わせながら、老人はけげんらしく言った。
「お父さん、ぼくがつかまえてあげますからね、歩くのだけは自分で歩いてくださいよ」老人の手をささえて、息子は言いふくめるように言い続けた。「川の上でかぜをひいたんだよ、お父さんは。それにあれは腐った切り株だったんだ」
老人は、木の葉のようにうちふるえていた。
「腐った切り株だって、このおれにそう言うのか! おれはな、山椒魚てものが、どんなもんだか知ってるんだぞ。放してもらおう」
ポウォンドラ二世は、へその緒《お》切って以来の大英断でタクシーを呼びとめた。
「ヴィーシェフラドまで」そう言って彼は、父親を車に乗せた。「ぼくが送って行きますよ、お父さん。もう遅いですからね」
「ほんとうに、もう遅かないか、心配でたまらん」ポウォンドラ一世は、歯をうち合わせていた。「遅すぎたなあ、フランチーク。いよいよ最後になった。あれは腐った切り株じゃなかった。あれは奴らだよ!」
ポウォンドラ二世は、老人を抱きかかえるようにして家の階段を上がらせなければならなかった。
「母さん、床の用意をして」入口に立った彼は、早口にささやいた。「父さんをねかさなきゃ。病気になったんだよ」
このようにして、ポウォンドラ一世は、羽根蒲団をかぶって横たわることになった。鼻が、顔のまん中に突き出て見えた。くちびるは、何やらムニャムニャかみしめるような格好になるかと思うと、わけもわからぬことをつぶやいたりした。彼の老《ふ》けようはどうだろう? しばらくして、彼はやっと少しばかり落ち着いてきた。
「ちっとはいいですか、お父さん?」
ポウォンドロヴァー夫人は、寝台のすその所につっ立ったまま、泣き泣き前掛けで鼻をかんでいた。嫁は暖炉をたきつけようとやっきになっていた。フランチークとマルジェンカの二人の子どもは、誰だかわからない様子で、せいいっぱい目をみひらきながら、祖父を見つめていた。
「お医者さん呼ばなくていいんですか、お父さん?」
ポウォンドラ一世は、子どもたちを見て何かつぶやいた。突然彼のほおの上を、ポロッと涙がすべり落ちた。
「何か要るの、お父さん?」
「あれはな、おれのせいだったんだ、おれのせいだったんだよ」老人は言った。「覚えてておくれ、おれの責任なんだ。あの時おれが、船長をボンディさんのとこに通さなきゃ、何事も起こらなかったものを」
「そうですよ、お父さん、なんでもないですよ」ポウォンドラ二世が、落ち着かせようとして、そう言った。
「ようく思案しろよ」老人は言った。「いよいよ最後だぞ。いいか。世界の最後だ。山椒魚がやってきた以上は、海がここにもおし寄せてくるんだぞ……。この災難の張本人がおれなんだ。船長を通しちゃいけなかったんだ、おれは……。誰の責任だか、いつかはみんなにわかってもらいたいよ」
「そんな、くだらない」息子は、てもなくうち消した。「お父さん、変なこと考えるのはおよしなさいよ。みんなのせいですよ。各国の政府や資本ってものが、やったことなんですよ。だれもかれも、できるだけたくさん山椒魚をもって、かせごうとしたんだものね。われわれだって、山椒魚に兵器だとかなんだとか送ったんだから。われわれ全部の責任なんです」
不安なのかポウォンドラ一世は、しきりにてんてん反側した。
「大昔は、どこもかしこも海だったというが、また同じことになろうとしてるんだよ。いよいよ世界の最後がきた。ずっと前に人から聞いた話だが、ここも、プラハのあるところも、昔は海の底だったんだってな。その時のもやっぱり、山椒魚のしわざだったんだろう。船長を取り次ぐなんて、おれは、要らぬことをした。『取り次いじゃいかんぞ』って声が聞えていたのに、おれは、船長がチップをくれるかもしれんと思って……。チップなんぞ、てんでくれやしなかったさ。なんのいわれもないのに、一人の人間が、全世界を滅ぼしちまったんだ(老人は涙をのみこんだ)。おれは知っている、おれにはようくわかっている、おれたちの最後がきたってことがなあ。それがおれのせいだってことも、ようくわかってるんだよ」
「おじいちゃま、お茶召し上がりません?」かいがいしくポウォンドロヴァー若夫人が尋ねた。
「ただなあ、孫たちに……」老人は小さい声で言った。「おれの罪を許してもらえたらと思うよ」
十一 作者が自問自答する
「君、なにかね、ここでほったらかす気かね?」と、作者の心の声が口をはさんできた。
「なんの話だい?」いささかあやふやな調子で、作者は反問した。
「ポウォンドラ氏をほったらかして、死なすつもりかって聞いてるんだよ」
「そのう、あれだよ」言いのがれようとして、作者は言った。「わたしだって、まあ心ならずもだがね。しかしポウォンドラ氏もずいぶん、娑婆《しゃば》に生きながらえてたぜ。おそらく、七十の坂をこえるだろう」
「だからったって君、あんなに苦しんでいるものを、ほったらかすなんて……。おじいさん、そんなに悲観したものでもないですよ、世界が山椒魚のせいで滅びるなんてことはありませんさ、人類も助かりますよ、もう少しの辛抱です、あなたもがまんして、長生きしてくださるんですなって、なぐさめてやる気はないのかい? ねえ君、なんとかしてやれないのかい?」
「じゃ、お医者さんにでも行ってもらうかね」作者は言いだした。「年寄りの病気は、たぶん、神経熱だろうからな。あの年になると、肺炎を併発するおそれがあるが、よくなる期待もかけられるよ。よくなったらまた、マルジェンカをひざにのっけて、ゆすぶりながら、学校で何おそわったんだい、とかなんとか尋ねたりもできるわけだ……つまり幸福な老後というわけだよ。それもいいだろう。幸せな余生を送ってもらえばそれでいいやね」
「幸せがきいてあきれらあ!」あざ笑うように心の声は言い返した。「やせしなびた手に子どもを抱きしめて、いつかかならず洪水が世界をのんでしまう、それをのがれて右往左往しなきゃならないのかなあって、びくびくもんでいても、幸福だというのかい? こわくてこわくて、もしゃもしゃした眉毛をしかめながら、『おれに全責任があるんだ、マルジェンカ』ってつぶやいてるんだぜ。だけど君、君はほんとうに人類を滅亡させる気でいるのかね?」
作者は顔をしかめた。
「わたしの思わくなどどうでもいいじゃないか。だいたい君はだね、わたしの希望で大陸が滅亡するのだとか、そういう結末をのぞんでいるのだとか、まさかそう思っているんじゃあるまいな? これは簡単な論理なんだ。わたしはだよ、及ぶ限りの手はうってみたんだ。適当な時に警告を発しもしたんだ。Xってのは、一部分はわたしだったんだよ。わたしは呼びかけた、山椒魚に兵器や爆薬を与えるな、山椒魚ときたならしい取り引きなんぞするのはやめちまえ、ってね。ところでそいつが、人間にどんな効果を与えたと思うかね? 百人が百人、これ以外にやり方などはありませんてんで、無条件に正しい政治的理由やら、経済的理由やらを、五万と並べたてたぜ。こっちは政治家でも経済学者でもないから、そういった手合を説得することはできなかったよ。しかたがないやね、世界は結局滅亡さ。しかしすくなくともだ、その滅亡たるや、万人の認むる政治的、経済的判断の上に立っての滅亡だ。すくなくとも、科学、技術、それから世論の同意にもとづく滅亡だよ。人類の発明という発明が総動員されたうえでの滅亡ってわけだ! しかし、宇宙の滅亡なんざあ屁《へ》の河童《かっぱ》さね。もっぱら、国家や経済の利益、威信とかいうものに対する考慮、そのほか、これに類するエトセトラがたいせつなだけだからね。こいつらに逆《さか》らって、何ができるもんか!」
心の声はしばらく沈黙した。
「じゃ君は、人類がかわいそうじゃないのかい?」
「まあ、そうせかずに待ってろよ! 人類全部が滅びるわけじゃないさ。山椒魚は住みついて卵の産める所が、も少しほしいだけなんだ。彼らは、海岸をできるだけたくさんつくろうってんで、おそらく陸地をそうめんみたいにぶち切るだろう。だがね、その帯のようになった陸地の上には、ちっとは人間様も残るだろうじゃないか。そうだろう? それでだ、山椒魚のために、金属やらなんやら生産してやるのさ。山椒魚は自分たちじゃ火を使って仕事はできないからね」
「人間が山椒魚に奉仕するのかい?」
「ああ、お望みなら、そう言ってもらってもいいよ。人間は、今までと同じように、製造所や工場で働くばかりさ。主人が代わるだけのことだよ。結局、大した違いじゃない」
「そんな、君、それじゃあんまり人間がかわいそうじゃないか?」
「うるさいなあ、いいかげんにしろよ。わたしに何ができるってんだ? 人間が自分から望んだんじゃないか。だれもかれも山椒魚をもちたがった。商業も工業も、技術も、政治家も軍部のおえら方も、だれもかれもだ。ポウォンドラ二世だって、みんなに同じ責任があるって言ってたじゃないか。もちろん、人類がかわいそうでないはずがないだろう。人類が、自分からまっしぐらに深みにおちて行くのを見た時が、いちばん気の毒だったな。泣きたいくらいだったよ。列車がこわれた軌道の上をつっ走っているのを見たら、だれしもどなったり、両手を振ったりするだろうじゃないか。しかし、今となってはどうにもならんね。山椒魚はどんどんふえて、旧大陸をますます切りこまざくばかりだろう。ウォルフ・マイネルトの説を思い出してもらえばいいや。人類は山椒魚にその席をゆずらねばならぬ、ただ一人、山椒魚のみが幸福にして完全な単一の世界を築き上げるであろう、だよ」
「ウォルフ・マイネルトか。ウォルフ・マイネルトは、君、インテリだろう。どんなに破滅的で恐ろしいことや、無意味なことが起こっても、同じような手段で、世界を復活させようって言い出すインテリなんざあ、じきに見つかるよ。よせやいだ! ときに、マルジェンカが今なにをやってるか、君は知ってるかね?」
「知らないね。ヴィーシェフラドで遊んでいると思うがね。おとなしくしてるのよ、おじいちゃまがねんねしていらっしゃるからね、てなことを、言われてるんだろうさ。そう言われて、何をしていいやらわからずに、ひどく退屈しているんじゃないかな」
「それで何をしているんだ?」
「知らないねえ。まず、舌の先を鼻の先にくっつけてみようとでもしてるだろうよ」
「それみろ。そういう子どもがいるのに、君は、ノアの洪水みたいなものを、もう一ぺんやらかそうってのかね?」
「しつっこいねえ君は! だいたいわたしに奇跡でも起こせるっていうのかい? なるようにしかならないじゃないか。この事件はこの事件で、頑《がん》として自分の道を進んで行かせときゃいいやね! それにさ、そもそもこの事件は、内的必要と法則にもとづいて起こったんだという、いささかのなぐさめだってあるんだものな」
「どうしても、山椒魚はくいとめられないのかい?」
「どうしてもだめだね。山椒魚は、あんまり多すぎるからね。彼らには生活圏が必要なんだよ」
「山椒魚のほうが滅亡するってわけにゃいかないかね? たとえばひどい伝染病がはやったり、退化が起こったりしてさ」
「そんな君、そいつぁ、あんまりお手軽だぜ。人間が何か台なしにしたら、きまって自然にその尻ぬぐいをさせなきゃならないっていうのは、どうかな? 君にしてからが、人間が自分でなんとかやれるとは信じていまい? そらみろ! 君たちはいつも、誰かが、あるいは何かが、君たちを救ってくれるといった希望をいだきつづけているじゃないか。それにヨーロッパの五分の一が沈んじまった今も今さ、いまだに山椒魚に爆薬や水雷やドリルなどを提供している者がいるんだもの。世界を木っぱみじんにできる、もっと強力な機械や物資を発明しようと思って、夜に日をついで実験室でがんばっているのは、いったい誰だい? 山椒魚に金を貸し、世界の最後やら、新しいノアの洪水のために金融をしてるのが、いったい誰だか君は知ってるかい?」
「知ってるさ。われわれのほうの工業、銀行、それから政府だよ」
「そうらみろ。人間対山椒魚だけのことなら、まだなんとか方法を考えつけるかもしれん。しかし、人間対人間じゃ手のくだしようがないよ」
「ちょっと待ってくれ……。人間対人間か……。今ひょいと頭に浮かんできたことがあるんだがね。そのう、とどのつまりはだ、山椒魚対山椒魚ってことにならないかな」
「山椒魚対山椒魚か? するとどういうことになるのかい?」
「たとえばだよ、山椒魚がひどくふえてだ、ちっぽけな海岸や湾のことから、たがいに争うようになるんだ。それが発展すると、今度はもっと広い海岸が紛争の種になる。とうとうしまいには海岸全体の支配権をめぐって、おたがいに戦うはめになるのさ。どうだい? 山椒魚対山椒魚だね! 歴史の論理は、そこまでおれたちを連れて行きゃしないか?」
「だめだね、そいつは。山椒魚が相手じゃ戦えないよ。だって、自然に反するものな。山椒魚は、一族だからね」
「人間だって一族だぜ。だけど、それでどうするってこともないじゃないか。一族だが、戦争の種はつきない有様だ。その戦争の目標にしてからがだ、日のあたる場所を獲得するためじゃないんだ。勢力、影響、名誉、威信、市場、そのほかわたしの知らないようなもの、なんでもござれだ! だからさ、どうして山椒魚だけが、威信といったようなものをめぐって、戦争しちゃいけないのかね?」
「しかし、どうしてまた、その必要があるんだい? そいつがいったい、山椒魚に何を与えるか、教えてもらいたいくらいだよ」
「一方が一時的に、もう一方よりもよけいに海岸をにぎって、強力になる、それだけのことだよ。しばらくすると今度は何もかも反対になるんだ」
「だいたい、その勢力ってやつが、山椒魚にとってなんの役にたつんだろう? 彼らは同類だぜ。彼らはみんな山椒魚だよ。みんな骨格が同じで、同じように気味が悪くて、同じように標準化されているんだ……。それでいておたがいに殺し合う必要があるのかな。なんのために仲間同志で戦争しなきゃならないか。教えてもらいたいな」
「どうだっていいじゃないか、そんなこと。原因なんてすぐに見つかるさ。たとえばだ、一方が西の岸に住み、他方が東の岸に住んでいるとするとだね。すると、たがいに相手をぶっつぶしに出かけることになる。東対西てなスローガンをかかげてね。かたやヨーロッパの山椒魚、かたやアフリカの山椒魚だ。一方がもう一方より大きくなりたがらなかったとしたら、それこそ不思議じゃないか。とどのつまりは、文明、勢力拡張、その他のために、自分の優越を示そうと進出することになる。一方の岸の山椒魚が、向こう岸の山椒魚をたたっ切る口実になる政治的理由など、いつでも見つかるよ。山椒魚はわれわれと同じくらいにひらけているから、政治、経済、法律、文化などの論拠に不自由するもんか」
「そのうえ武器を持ってるしね。山椒魚の軍備が恐るべきものだってことを、忘れないでもらいたいな!」
「そう、兵器はくさるほど持ってるよ。そんなふうだからさ、人間から歴史を作ることだって学びとれようじゃないか?」
「ちょっと待ってくれ(作者はぴょこんととび上がって、書斎の中をせかせか歩きまわりはじめた)。そいつは真理だ! 彼らがそこまで考えつかないとすると、実際不思議なわけだ。やっとわたしにもわかってきたよ。世界地図を見ればたくさんだ。畜生、世界地図はどこにあるのかな?」
「自分の頭の中で考えるからいいよ」
「そうか。じゃここに大西洋と地中海と北海がある。ここがヨーロッパで、ここがアメリカだ……。ここに文化と近代文明|揺籃《ようらん》の地がある。このあたりで大昔、アトランティスが沈んでしまった」
「今では山椒魚が、新しいアトランティスを沈めようとして、脅威を与えている」
「そのとおり。つぎに、ここが太平洋とインド洋。神秘な古代東洋だね。人類の発祥の地と称するところだ。このあたり、つまりアフリカの東の方で、伝説の国レムリア国が沈んだんだよ。それから、ここがスマトラで、その少し西に……」
「タナーマサ島がある。山椒魚揺籃の地だ」
「そうそう。山椒魚の精神上の首領であるキング・サラマンダー(山椒魚王)の君臨しているのが、まさにこの地だ。ここにはいまだに、ヴァン・トッホの|のそのそ《ヽヽヽヽ》が、つまり半野生的な原始太平洋山椒魚が住んでいる。東洋は明らかに彼らのものだ。いいかね? この地帯は現在、レムリアと呼ばれ、もう一方のヨーロッパ化し、アメリカ化した文明地帯、つまり技術や時代精神の上から見て完全に成熟した地帯は、アトランティスと呼ばれている。今そこで独裁権をふるっているのが、偉大な征服者で技術家兼軍人、山椒魚のジンギス汗で大陸の破壊者、すなわちチーフ・サラマンダー(山椒魚頭領)なんだ。きわめて興味のある人物だよ、彼は」
「ちょっと尋ねるがね、彼はほんとうに山椒魚なのかい?」
「さにあらずだね、チーフ・サラマンダー(山椒魚頭領)は人間だよ。本名をアンドレアス・シュルツェといってね、第一次世界大戦当時の曹長だよ」
「ははあ、そうだったのか!」
「もちろん、そうさ。そうなんだぜ、君。さて前にもどって、アトランティスとレムリアだ。この区別は、地理、行政、文化……」
「民族上の理由によるんだろう。民族上の理由を忘れちゃいかんねえ。レムリアの山椒魚は[ピジン・イングリッシュ]を話し、アトランティスの山椒魚は[ベイシック・イングリッシュ]を話すんだよ」
「そうか。それで、時がたつにしたがって、アトランティスの山椒魚が、旧スエズ運河を通って、インド洋に侵入する」
「そう。昔からの東洋への道だ」
「そのとおり。反対にレムリアの山椒魚は、喜望峰をめぐって、旧アフリカの西岸へ殺到する。彼らは、アフリカはすべてレムリアに含まれているとがんばる」
「そうだそうだ」
「『レムリアをレムリアのものに返せ! 外来者を排除せよ!』といったスローガンが叫ばれる。アトランティスとレムリアの山椒魚の間では、死をかけてこの伝統的な対立と、相互不信の深淵が、ますます深まってゆく。アトランティス勢は、レムリア勢を軽蔑して、『不潔な未開族』と呼ぶ。レムリア方は、アトランティスの山椒魚を盲目的に憎悪して、西方の悪魔と呼び、古い山椒魚の純粋性を冒涜《ぼうとく》する者とみなす。チーフ・サラマンダー(山椒魚頭領)は、輸出と文明のためと称して、レムリア海岸の利権を強要する。尊敬すべき古老であるキング・サラマンダー(山椒魚王)は、好むと好まざるとにかかわらず、それに同意しなければならなくなる。つまり問題は、彼の軍備が劣っている点にあるわけだ。昔のバグダードからほど遠からぬ、ティグリス川の湾のところで事件がぼっ発する。そこに住むレムリアの山椒魚が、アトランティス方の居留地を襲撃し、民族的侮辱を加えた二将校を暗殺する。その結果……」
「事件は戦争にまで発展する。はっきりしているさ」
「そう、事件は山椒魚対山椒魚の世界戦争に発展する」
「文化と権利の名においてだ」
「それから、真の山椒魚性と、民族の栄誉と尊厳の名においてだ。『われらか、しからずんば彼らか』というスローガンがうち出される。マライのあいくちと瑜珈《よが》の短剣を帯びたレムリア勢が、レムリアにはいりこんだアトランティス勢を容赦なくたたっ殺す。ヨーロッパに住む教育のあるアトランティス勢は、これに答えて、レムリアの海岸を、毒物や致命的な細菌の培養をもって中毒せしめる。それは、世界海洋をおかすほどすごい効果を発揮する。あらゆる海が、人工培養されたカエルペストにやられてしまう。かくては、ついに最後だ。山椒魚は滅亡するよ」
「全部かい?」
「一匹残らずだ。山椒魚は、死滅した類と化する。彼らのあとには、大昔のエニンゲンの遺跡だけが残る」
「ところで、人間はいったいどうなるのかね?」
「人間かね? そうだったな……、人間か……。人間は、残っている大陸の海岸めざして、少しずつ山から帰ってくる。海はずっとあとまで、山椒魚の死体の腐臭をまきちらしている。大陸はまたしても、沖積土の働きで少しずつ大きくなっていく。海もまた、歩一歩としりぞいていくんだ。結局、いっさいが昔の形に返るのさ。人間の罪を憎んで神がくだしたもうたというノアの洪水の神話、あの話の新版が出来上がるってわけだ。かつて人類文化の揺籃の地で、のちに沈没してしまった国々の物語が現われる。イギリス、フランスと呼ばれた国々の伝説が語られるようにもなる……」
「それから?」
「それから先は、わたしにもわからないよ……」 (完)
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訳者あとがき
特異な風刺作家として、今世紀世界文学史上に輝かしい足跡を残したカレル・チャペックは、古典的SF作家としても、出色の存在であった。
チャペックは、一八九〇年一月、チェコスロヴァキアの北部にある、小さい炭鉱町の医師の家に生まれた。はじめプラハ大学で哲学(プラグマティズム――実用主義)を学び、ひきつづきベルリン、パリに留学した後、作家生活に入り、まず一九一七年に最初の短編集「十字架像」を出したが、彼の名を一躍有名にしたのは、それにつづく戯曲「強盗」(二一)、「ロボット」(二一)であった。特に、現代文明の崩壊を描いた「ロボット」(原題はRUR)は、非常な反響を呼び、チェコ国内はもちろん、諸外国の劇場の舞台にもかけられて、大成功をおさめた。今ではもう各国の言葉に入っている、人造人間を意味するロボットという造語は、実はこの時チャペックの作ったものなのである。
SF的構成を土台に、人間生活の矛盾と葛藤《かっとう》と、近代文明のひずみとに光をあて、これに痛烈な風刺をあびせかけるという、チャペック独得の手法は、「ロボット」のころから、すでに明確な形をとっていた。「ロボット」の大筋は次のごとくである。ある学者が、人工的な方法で原形質を得ることに成功し、これによって、外見は人間と少しも変わらないが、人間と違う特質をもった生物を作りあげる。この生物、つまり人造人間は、肉体的苦痛を感じないように作られているほか、喜怒哀楽や死に対する恐怖といった、人間的感情を全然もちあわせない。この点に目をつけた企業家が、ロボットの大量生産に着手し、やがて彼らに人間の仕事のすべてを肩がわりさせる。労働はロボットによって行なわれるので、人間はいつか生活を楽しむだけの存在と化する。だが、一種の楽園ともいうべきこの社会は、人間に進歩を与えるどころか、逆に退化現象をさえもたらす。人間はほどなく、子孫を産むことのできぬあだ花となりかわる。そして最後、己れの道具だとばかり思っていたロボットに、難なく支配の座を奪われてしまうのである。
「ロボット」と、全体主義を風刺したもう一つの戯曲「虫の生活」(二一)とは、わが国にも紹介されて、往年の築地小劇場などで上演され、非常な好評を博した。
同じころに発表された「マクロプロスの処法」も、これらに劣らず、きわめて特異な作品である。十六世紀の後期、一人の老練な医師が人命を三百年のばす処法を作り出す。彼は、この処法を自分の娘に試みる。実験は成功し、娘は若々しい容姿を保ったまま、二十世紀までも生きのびる。その間にさまざまな事件を体験した彼女は、今ではもういっさいのことに何の興味ももてなくなっている。もともと、名声も富も恋も、人生が短かければこそ、人々を魅するのである。人々が長寿を得たからといって、一体、「何世紀もの間、下っぱ役人として仕事をつづけていられるであろうか。また、くつ下ばかり編んでいられようか」
以上のドラマのほかに、チャペックは、同じくSF的発想にもとづく長編小説「絶対子製作所」(二三)、「クラカチト」(二四)を書いた。前者は、「原子気化器」と称する新しい機械の発明と、その利用による生産過剰をテーマにし、後者では、原子爆弾を連想させる爆弾の発明をめぐる各国の暗躍が描かれている。
このように紹介してくると、チャペックは一種異様な作品ばかり書いたかのようだが、決してそうではない。きわめて多面的な才能の持主であった彼は、スマートな随筆や興味しんしんたる旅行記をも物している。「園芸家の一年」(二七)や、自筆の插絵を豊富に入れた「イタリア通信」(二三)、「イギリス通信」(二四)、「スペイン紀行」(三〇)などは、好個の読物として、今もって多くの人々に愛読されている。そればかりでなく、彼は推理小説にも手をつけ、児童文学の分野においてさえ異才ぶりを発揮した。これらは、「園芸家十二か月」(小松太郎氏訳)、「一つのポケットから出た話」(栗栖継氏訳)、「長い長いお医者さんの話」(中野好夫氏訳)の書名のもとに、それぞれ邦訳されて出版されているので、目にされた読者も少なくないであろう。
さて、一九三〇年代のはじめに、三部作「ホルドバル」「流星」「平凡な生活」(三三―三四)が出たあと、いよいよ、彼の晩年の名作と目されている「山椒魚戦争」(三六)、戯曲「白斑病」(三六)、同「母」(三八)が現われる。
総体にチャペックは、現代社会の鋭い批判者でありながら、一定の政治的立場をとることを、極力避けつづけた。そのため彼は、しばしば、保守革新両陣営から高踏的な傍観者と呼ばれ、さらに初代チェコスロヴァキア共和国大統領マサリクに近かったことから、御用作家のレッテルをはられたことさえあった。だが、そのような文学者でなかった証拠に、一九三〇年代に入ってドイツのファッショ化が急速に進み、その侵略政策が露骨になるやいなや、彼は明らかに反ファッショ的な作品「白斑病」「母」などを世に問うた。
「山椒魚戦争」――正確には「山椒魚との戦争」――もまた、刻々に迫りくる戦争の危機に対する一種の警告である。チャペックはその中で、彼のもっとも得意とするSF的手法を用いて、第二次世界大戦直前の複雑怪奇な社会状況を描きだした。全編のストーリーは、次のように組み立てられている。ヴァン・トッホという一商船の船長が、インドネシア方面の海中で、ふとしたことから、山椒魚に似た奇妙な動物を発見する。彼は、この動物が人になれるうえに利口なことを知って、これを真珠採取に利用することを思いつく。そして、この仕事の企業化を、同郷人である実業家にもちかける。山椒魚は、まず単純な海中作業に利用されることになる。がやがて、人間はさまざまな技術を教え、言葉までさずけて、彼らを高度な仕事につけはじめる。しかし、技術のほかにいろいろな人間の知識を身につけたとなると、山椒魚を単なる道具と見ることは不可能になってくる。いわば一個の人格として、彼らを認めざるを得なくなるのである。こうして追々、山椒魚の法的地位、国際的帰属、教育など、やっかいな問題が起きてくる。だが、人間はその都度、一時しのぎの対策を講じるだけで、何ら抜本的な手段をとろうとしない。それどころか、各国は彼らを軍事目的のためにまで利用しはじめる。このことは、必然的に国際的な紛争をまきおこす。ただ、問題が人間対人間の争いに止まっている間は、まだ収拾の余地もあった。ところがその間に、人類から技術と知識を吸収した山椒魚は、ひそかに彼らの水中国家を海底に作りあげていたのである。このようにして、地球は人類と山椒魚、陸と海の二陣営に分裂する。やがて山椒魚は、生活圏を要求して人類に最後|通牒《つうちょう》をつきつけてくる。彼らは陸地を破壊し、これを海に変え、ここに新しい領域をひらこうとする。そして、手はじめにアメリカ、中国、アフリカの一部を爆破し、そこに人工の海を作る。ついに、人類は山椒魚と戦争状態に入る。だが人間は、事ここにいたってもまだ、人類全体として一つにまとまることができない。各国は、政治的、経済的、その他もろもろの理由をたてに取って、自国の存立のみを計ろうとする。そればかりではない、ひそかに山椒魚側へ寝返って、人類の滅亡に手をかす者さえ出てくるのである。
チャペックは、一九三八年十二月、第二次世界大戦|勃発《ぼっぱつ》直前に亡くなった。その一年前、彼の母国チェコスロヴァキアは、ミュンヘン会談の結果、涙をのんでズデーデン地方をドイツへ譲渡しなければならなくなった。かねてチャペックが「白斑病」などで予言していた、弱小国の悲劇が現実となったのである。その苦悩が、彼の死期を速めたと言われている。
チャペックは今なお、西側だけでなく東側にまたがって、多くの愛読者をもっている。ソビエトでも、彼はユニークな作家として非常に高く評価されていて、五巻選集が出ているほか、単行本がなん冊か刊行されている。現に、この訳書も露訳本を底本にした。ところで、底本のことが出たついでに、このたびの「山椒魚戦争」の訳出までの経過について、一言触れておきたい。この訳書は、これまでに二度出版されたことがある。だが、いずれも十年ほど前のことなので、今ではもう店頭に並ぶこともなくなっている。ところが今回、図らずも角川書店の好意を得て、形を一新してふたたび紹介する機会に恵まれた。ついてはこの際、杜撰《ずさん》であった旧訳を徹底的に改訳したほか、独訳本などを参照して露訳本に欠けている若干の個所を埋め、できるだけ疎漏のないものにするように努めた。これもひとえに、角川書店の厚意を得たればこそである。その間、同書店の角川春樹、毛利定晴、佐々木伸行の諸氏に、一方ならずお世話になった。紙上を借りて、心からお礼申し上げる次第である。なおこのほか、翻訳の過程で、独訳本のみにある二、三の個所を、東京芸大講師武藤三千夫氏にお願いして訳していただいた。記して謝意を表し、このあとがきを終わることとしたい。
一九六六年七月 訳者
訳者紹介
樹下節(じゅげたかし) 一九一一年(明治四四年)熊本市に生まる。〔専門〕露文学。ロシア文学会会員。〔主訳書〕A・トルストイ「パン」アサフィエフ「ロシヤの音楽」ショーロホフ「静かなるドン」「開かれた処女地」チャペック「山椒魚戦争」「近代ロシア詩集」