決闘/黒衣の僧
チェーホフ/小笠原豊樹訳
目 次
決闘
黒衣の僧
訳者あとがき
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決闘
一
朝の八時だった。蒸し暑かった夜が明けて、士官や役人や観光客たちが海で一泳ぎし、それからコーヒーや紅茶を飲みに茶亭《パヴィリオン》へ立ち寄る時刻である。イワン・アンドレーイチ・ラエーフスキーという、年は二十七、八、痩《や》せぎすで、髪はブロンド、大蔵省の制帽をかぶり上履《うわばき》をはいた青年は、水浴びに来て浜で大勢の知合いと出逢《であ》ったが、そのなかには友人の軍医サモイレンコもいた。
刈り上げた大きな頭、短い頸《くび》、赫《あか》ら顔、大きな鼻、もじゃもじゃの黒い眉《まゆ》、灰色の頬《ほお》ひげ、肥えた体《からだ》、たるんだ皮膚、おまけに声は軍隊風の嗄《しわが》れた低音《バス》というわけで、このサモイレンコは、ここへ来たばかりの人には嗄れ声の成上がり者という不愉快な印象を与えたが、初対面の日から二、三日も経《た》てば、この顔は妙に善良な、やさしい顔に見え、更には美しくさえ見え始めるのだった。不細工な外見や、いくらか粗暴な物腰とは裏腹に、この男は静かで、限りなく善良で、温和で、親切な人間なのである。町中の人と君僕の間柄だったこの男は、だれにでも金を貸し、だれでも診療してやり、縁談を取持ち、喧嘩《けんか》の仲裁をし、ピクニックのお膳立《ぜんだ》てをし、そのピクニックでは羊肉を串焼《くしや》きにしたり、非常に味のいいボラのスープをこしらえたりした。要するに年中だれかのために走りまわり、だれかの世話を焼き、いつも何かしら嬉《うれ》しがっていた。衆目の一致するところ、きわめて罪のない男で、欠点といえば二つしかなかった。その一つは、自分の善良さを恥じて、故意に厳《ぎび》しい目つきや見せかけの粗暴な物腰で本心を隠そうとすることであり、もう一つは、まだ五等官なのに衛生兵や一般の兵士から閣下と呼ばれるのを好むことだった。
「ねえ、アレクサンドル・ダヴィーディチ、一つ質問に答えてくれないか」と、サモイレンコと二人で肩の深さまで水に入ったとき、ラエーフスキーが言い出した。「これは仮定の話だけれども、きみが一人の女を愛して、その女と一緒になったとする。そして二年あまり同棲《どうせい》したあげく、よくあることだけれども、愛情がさめて、まるで見も知らぬ女と一緒にいるような気持になったとする。そういう場合、きみならどうする」
「簡単さ。おい、どこへでも勝手に出て行け――それだけ言やあいいじゃないか」
「言うは易《やす》しだ! その女に行きどころがなかったら? 身寄りのない孤独な女で、金もなく、働く能力もないとしたら……」
「なあに、それなら一ぺんに五百ルーブリも叩《たた》きつけてやるか、でなきゃ月に二十五ルーブリずつ払うか、それで文句はないだろう。簡単なもんだ」
「じゃ、きみにその五百ルーブリ乃至《ないし》は月に二十五ルーブリが払えると仮定しょう。ところが、今話しているこの女はインテリで、気位が高いんだ。まさか金を突きつけるわけにはいかないだろう。払うにしても、どういうかたちで払ったらいい?」
サモイレンコは何か答えようとしたが、そのとき大きな波が二人に襲いかかり、それから岸に砕けて、ざわめきながら小石の間を引いて行った。二人は岸へ上がって、服を着始めた。
「そりゃあ、愛してない女と一緒に暮すのはいやなものだ」と、サモイレンコが長靴の砂をふるい出しながら言った。「でもね、ワーニャ、人情ということも考えなくちゃいけない。もしもぼくがそんな立場に立ったとしたら、愛情がさめた素振りも見せずに死ぬまで添いとげるだろうな」
自分の言葉が急に恥ずかしくなったのだろう、サモイレンコはあわてて言い足した。
「しかし、ぼくに言わせりゃ、女なんか全然いないほうがいい。女なんか森の精にさらわれちまえ!」
二人は服を着てから、茶亭《パヴィリオン》へ行った。この店はサモイレンコにはわが家同様で、彼専用の食器さえ備えつけてあった。毎朝、盆にのせられて出て来るのは、一杯のコーヒーと、背の高いカットグラスのコップにアイス・ウォーターが一杯、それにコニャックが一杯と成っていた。サモイレンコはまずコニャックを、それから熱いコーヒーを、それから氷の入った水を、順々に飲むのだが、これはたまらなく美味《うま》いとみえて、一通り飲んだあとは目が潤《うる》んでくるのだった。そして両手で頬《ほお》ひげを撫《な》で撫で、海を眺《なが》めながらサモイレンコは言うのである。
「絶景なるかな!」
長い一夜を不愉快で無益な考えごとに空《むな》しく費やし、そのために眠りは妨げられ、夜の蒸し暑さや暗さまで一そう募るような思いだったラエーフスキーは、今も打ちのめされたような気分だった。泳いでも、コーヒーを飲んでも、気分はいっこうに良くならなかった。
「ところで、アレクサンドル・ダヴィーディチ、話の続きだけれども」と、ラエーフスキーは言った。「きみは友達だから、隠さず率直に話そう。ぼくとナジェージダ・フョードロヴナとの関係は実によくない……最悪の状態だ! つまらない打明け話になって申しわけないが、どうしても言わずにはいられないんだ」
話の内容を察したサモイレンコは目を伏せ、指先でテーブルを叩き始めた。
「あの女と二年暮して、愛はさめた……」と、ラエーフスキーは続けた。「いや、正確にいえば、愛なんか初めからなかったということが分ったんだ……この二年間は偽りの生活だった」
ラエーフスキーには、話をするとき自分のバラ色の掌《てのひら》をじっと見つめたり、爪を噛《か》んだり、カフスボタンをいじったりする癖があった。今もそれをやっていた。
「きみに話してもどうにもならないことぐらい、よく分ってるさ」と、ラエーフスキーは言った。「それでもこうして話すのは、われらの同胞、挫折《ざせつ》した余計者にとって、救いはお喋《しゃべ》りにしかないからなんだ。ぼくは自分の行為を一々一般化せずにはいられない。自分の馬鹿げた生活についての説明や弁明を、だれかの理論や、小説の有名な主人公などに求めずにはいられない。たとえば、われわれ貴族階級は退化しつつあるというような説にね……ゆうべも、ぼくは自分を慰めるために、ああ、トルストイの言うことは正しい、無慈悲なほどに正しい! なんて一晩中考えていたんだ。おかげで気が楽になった。実際、きみ、偉大な作家だからな! なんといったって」
毎日読もうと思い立ちながら、まだトルストイを読んだことのないサモイレンコは、どぎまぎして言った。
「そう、ほかの作家はみんな想像で書くだけだけれども、彼はモデルをそのまま書くんだな……」
「やれやれ!」と、ラエーフスキーは溜息《ためいき》をついた。「ぼくらはどこまで文明に毒されているんだろう! ぼくは人妻を愛し、むこうもぼくを愛した……初めのうちはキスだ、静かな夕暮だ、誓いの言葉だ、スペンサーだ、理想だ、公共の福祉だ……なんという嘘《うそ》っぱちだろう! 要するにぼくらは女の亭主から逃げ出しただけなのに、インテリの空虚な生活から逃げ出したなんて自らを偽ったんだからね。ぼくらには自分たちの未来がこんなふうに見えていた。まずカフカスへ行って、土地や人々に馴《な》れるまでは制服を着て官庁に勤める。やがて勤めをやめたら、一片の土地を手に入れて、額に汗して働き、葡萄《ぶどう》だの、その他の作物だのを作って、云々《うんぬん》。これがぼくじゃなくて、きみか、あるいはきみの動物学者、あのフォン・コーレン先生だったら、恐らくナジェージダ・フョードロヴナと三十年も共に暮して、立派な葡萄畑や、一千ヘクタールものとうもろこし畑を子孫に残しただろうが、ぼくときたら第一日から破産した男みたいな気分になっちまった。町はものすごく暑くて、退屈で、がらんとしているし、野原へ出れば、どの薮《やぶ》の蔭にも石の下にも蜘蛛《くも》やサソリや蛇《へび》がうようよしているし、野原のむこうは山と荒地だ。見馴れぬ人々、見馴れぬ自然、みじめな生活条件――こういうことは、きみ、毛皮外套《シューバ》にくるまって、ナジェージダ・フョードロヴナと手を組んで、ネフスキー通りを散歩しながら、南国を夢みたりするのとは大違いだよ。この土地で必要なのは生死を賭《か》けた戦いだが、一体ぼくがどんな闘士だろう。憐《あわ》れなノイローゼ患者、高等遊民……勤労生活や葡萄畑についてぼくが夢みていたことなんか何の役にも立たないということを、ぼくは第一日から悟ったのさ。愛のほうはどうかといえば、はっきり言って、スペンサーを読み、あなたのためなら世界の涯《はて》までもという女と暮すことは、そこいらのアンフィーサやアクリーナなんぞと暮すことと同様、面白くもおかしくもない。アイロンや白粉《おしろい》や薬の匂《にお》いがすることは同じだし、毎朝の巻髪紙《パビョット》といい、自己|欺瞞《ぎまん》といい……」
「アイロンは家事には欠かせないだろう」と、知合いの婦人のことをラエーフスキーがあけすけに喋るので、赤くなりながらサモイレンコが言った。「今日のきみは機嫌《きげん》が悪いんだな、ワーニャ。ナジェージダ・フョードロヴナは教育のある立派な御婦人だし、きみは優秀な男だし……もちろん、きみたちは正式に結婚してはいないが」と、あたりのテーブルを見まわしながら、サモイレンコは続けた。「それはきみたちの罪じゃない。それに……偏見なしに、現代思想の水準に立たなければいかんよ。ぼくだって自由結婚の支持者だぜ、そうとも……しかし、ぼくが思うに」ひとたび一緒になったからには死ぬまで添いとげるべきだな」
「愛がなくても?」
「まあ聴けよ」と、サモイレンコは言った。「八年ばかり前、この町に役所勤めの老人がいてね、やはり優秀な人間だったが、いつもこう言っていた。『家庭生活の要《かなめ》は忍耐なり』。分るかい、ワーニャ。愛じゃなくて忍耐なんだ。愛は永続きするものじゃない。きみは二年間の愛の生活を経て来て、今や明らかにきみの家庭生活は、いうなれば、平衡を保つために全忍耐力を発動せねばならぬ、そういう時期に突入したんだな……」
「きみがその老人の言葉を信じるのは勝手だが、ぼくにしてみれば、そんな忠告は全く無意味だね。きみのその老人なら偽善の生活を続けることができたし、忍耐の稽古《けいこ》ができた。愛してもいない人間を、その忍耐の稽古のために必要な対象として見ることができたわけだが、ぼくはまだそこまでは堕落していない。忍耐の稽古がしたくなったら、ぼくならバーベルか荒馬を買うけれども、人間を使う気にはなれないな」
サモイレンコは氷を入れた白葡萄酒を注文した。それを一杯ずつ飲み干すと、ラエーフスキーが突然尋ねた。
「教えてくれないか、脳軟化症というのはどんな病気なんだ」
「それはだね、なんといったらいいか……つまり脳が軟《やわ》らかくなる病気さ……どろりと溶けてくるんだな」
「治《なお》る病気かい」
「治りますよ、手遅れでなければ。冷たいシャワーや、発泡膏《はっぽうこう》や……それに内服薬を何か」
「ふうん……とにかくぼくの現状はこの通りだ。あの女と暮すことはぼくの力に余る。きみと一緒にいるときは、こうして哲学を並べて笑っていられるけれども、家へ帰ったら全く意気銷沈《いきしょうちん》なんだ。いやだという気持は非常に嵩《こう》じているから、もしここでだれかに、あと一と月あの女と一緒にいろと言われたら、頭に弾《たま》を一発ぶちこみかねないね。そのくせ別れることは不可能だ。彼女は身寄りがないし、働く能力はないし、金ときたらぼくにも彼女にもありゃしない……一体どこへ行ったらいいんだろう、彼女は。だれを頼《たよ》ったらいいんだろう。いくら考えても答えは出てこない……ねえ、一体どうしたらいいんだろうね」
「うん、そうだな……」サモイレンコは返事につまって唸《うな》った。「あのひとはきみを愛しているのか」
「そう、愛しているよ。あの年頃、ああいう気性の女として、男を必要とする程度にはね。ぼくと別れるのは白粉や巻髪紙《パビョット》と別れるのと同じように辛《つら》いだろう。彼女にしてみれば、ぼくは閨房《けいぼう》の必要構成分子なんだ」
サモイレンコはどぎまぎした。
「ワーニャ、今日のきみは機嫌が悪いな。睡眠不足じゃないのか」
「ああ、よく眠れなかった……概してひどい気分だね。頭の中はからっぽだし、心臓はとまりそうだし、なんだかぐったりしている……逃げ出さなきゃ!」
「どこへ」
「むこうへさ、北へさ。松林へ、キノコヘ、人間や思想のある所へ……今どこかモスクワ県かトウーラ県あたりの小川で泳いで、その冷たさに震えあがって、それから一番成績の悪い学生とでもいい、三時間ばかり歩きまわって、次から次へとお喋りできたら、命を半分ぐらい捨てても惜しくない……あの干草《ほしくさ》の匂《にお》い! 覚えてるだろう。それから夕方、庭を散歩していると、家から洩《も》れてくるピアノの音、遠くを走る汽車の音……」
ラエーフスキーは嬉《うれ》しそうに笑い出した。その目には涙が浮び、それを隠そうと、坐《すわ》ったまま隣のテーブルに手をのばして、マッチを取った。
「ぼくはもう十八年もロシアへ行っていない」と、サモイレンコが言った。「どんなだったか忘れてしまったよ。ぼくに言わせりゃ、このカフカスほど結構な所は他にないね」
「ヴェレシチャーギンの絵に、深い井戸の底で死刑囚たちが歎《なげ》いているのがあった。きみの結構なカフカスが、ぼくにはその井戸みたいに見えるんだ。もしもぺテルブルグで煙突掃除夫になるか、あるいはここで王様になるか、二つに一つを選べと言われたら、ぼくは煙突掃除夫を選ぶだろうな」
ラエーフスキーは考えこんだ。その前かがみの体《からだ》、一点を見つめている目、汗ばんだ蒼白《あおじろ》い顔、窪《くぼ》んだこめかみ、それに噛《か》みつぶされた爪《つめ》や、踵《かかと》のあたりがずり落ちて不細工な靴下の繕いの跡をのぞかせている上履《うわばき》を眺《なが》めているうちに、サモイレンコはつくづく気の毒になり、ラエーフスキーの姿が寄るべない子供を連想させたためだろうか、こう尋ねた。
「きみのお母さんはお元気?」
「ああ、でもぼくらとは付き合っていない。ぼくらの関係を許してくれなかったんだ」
サモイレンコはこの友人を愛していた。ラエーフスキーは善良な男であり、気のいい学生みたいな人物であり、共に飲んだり笑ったり心底から語り合ったりできる相手だと思っていた。だがこの人間の内実にはサモイレンコの気に入らぬ部分があった。ラエーフスキーは時ならぬ時に大酒を飲み、トランプをやり、自分の勤めを軽んじ、分不相応の生活をし、会話の中でしばしば下品な言い回しを用い、上履のままで町を歩き、人前でナジェージダ・フョードロヴナと喧嘩《けんか》をする――こういったことがサモイレンコの気に入らなかった。だが、ラエーフスキーがかつて大学の文科にいたことや、今でも分厚い雑誌を二冊も予約購読し、よく少数の人にしか分らぬようなむつかしい話をすること、教育のある婦人と同棲《どうせい》していることなどは、理解できぬながらも好ましく思い、この男はラエーフスキーを自分より一段上の人間として尊敬していた。
「もう一つだけ詳しい事情を聴いてくれ」と、ラエーフスキーが頭を振りながら言った。「ただこれはここだけの話にしてくれよ。今のところナジェージダには隠しているんだから、彼女の前で喋られては困る……おととい、彼女の亭主が脳軟化症で死んだという手紙が来たんだ」
「それはまた……」 サモイレンコは溜息《ためいき》をついた。「なぜあのひとに隠すんだ」
「手紙を彼女に見せるということは、すなわち教会で式を挙げるということだ。それよりも前にぼくらの関係をはっきりさせなきゃならない。もうこれ以上同棲を続けるわけにはいかないということを彼女が納得したら、手紙を見せてやるつもりさ。その場合には危険がないからね」
「あのね、ワーニャ」と、サモイレンコは言い、何か非常に大事な頼みごとを断わられはしないかと気遣《きづか》うときのように、とつぜん悲しげな哀願するような表情になった。「結婚しろよ、悪いことは言わんから!」
「なぜ」
「あのすばらしい婦人に対するきみの義務を果すのさ! 御亭主が亡《な》くなった、ということはすなわち、きみの為《な》すべきことを神が指し示しておられるということだよ!」
「だからさ、きみも変な男だな、分ってくれよ、それが不可能なんだ。愛なくして結婚することは、信仰なくして礼拝するのと同じように、人間の名に値しない恥ずべき行為じゃないか」
「でも、きみには義務があるだろう!」
「なぜぼくに義務がある?」と、苛立《いらだ》たしげにラエーフスキーが尋ねた。
「あのひとを御亭主の手から奪ったきみは、自分の肩に責任を負ったんだぜ」
「ところが、ぼくは愛してないんだ! ロシア語ではっきり言っているのに分らんのか」
「よし、愛がないなら尊敬しろ、祭り上げろ……」
「尊敬しろ、祭り上げろ、か……」 ラエーフスキーは口真似《くちまね》をした。「それじゃ彼女は修道院の尼さんだ……だいたい女と一緒に暮してだね、尊敬や崇拝だけで事が運ぶと思っているんなら、きみは心理学者としても生理学者としても最低だよ。女にまず必要なのは寝室なのさ」
「ワーニャ、ワーニャ……」 と、サモイレンコはへどもどした。
「きみは大きな子供で理論家だが、ぼくは若い老人で実際家だ。絶対に理解し合えないね。こんな話はやめたほうがいい。ムスターファ!」ラエーフスキーはボーイに叫んだ。「勘定はいくら?」
「いいよ、いいよ……」軍医はびっくりしてラエーフスキーの腕を掴《つか》んだ。「ぼくが払うよ。ぼくにつけといてくれ!」と、ムスターファに叫んだ。
二人は店を出ると、無言で海岸通りを歩き出した。遊歩道の入口で立ちどまり、別れの握手をかわした。
「きみもわがままな御仁《ごじん》だよ!」と、サモイレンコは溜息《ためいき》をついた。「運命の神はきみに若くて美しい、教育のある婦人を贈ったのに、きみは要らないと言うんだからな。ぼくなら、よぼよぼの婆さんを授かったって、親切でやさしくしてくれりゃ、それで満足だがね。葡萄畑《ぶどうばたけ》のかたわらに仲良く暮して……」
サモイレンコはふと気がついて、口調を変えた。
「そうして、そのよぼよぼの鬼婆あにサモワールの支度《したく》でもさせるか」
ラエーフスキーと別れて、サモイレンコは遊歩道を歩き出した。肥満した堂々たる体を純白の制服に包み、みごとに磨《みが》き上げた長靴をはいて、顔には厳《きび》しい表情を浮べ、リボンつきのヴラジーミル勲章の輝く胸を張って遊歩道を行くとき、サモイレンコはたいそう自分自身に満足であり、世間の人たちもこの姿を眺めて満足であろうと思うのだった。頭は動かさずに、あたりに目を配れば、遊歩道は完璧《かんべき》に整備されていて、若い糸杉やユーカリの木、それに体液不調の醜い棕櫚《しゅろ》の木はたいそう美しく見え、これが今に大きな木蔭《こかげ》を作るだろうとサモイレンコは思い、またチェルケス人は正直で客好きな連中だなどとも思った。『このカフカスがラエーフスキーの気に入らんとは奇妙な話だ』――とサモイレンコは考えた――『実に奇妙な話だ』。銃を担《かつ》いだ五人の兵士がやって来て、彼に敬礼した。遊歩道の右側の歩道を、ある役人の細君が中学生の息子を連れて通りすぎた。
「マリヤ・コンスタンチーノヴナ、お早うございます」と、サモイレンコは気持のいい笑顔《えがお》を見せて呼びかけた。「水浴びにおいででしたか。は、は、は……ニコジム・アレクサンドリッチによろしく!」
そして笑顔のまま歩き出したが、むこうから部下の衛生兵がやって来るのを見ると、急に眉《まゆ》をひそめ、呼びとめて尋ねた。
「医務室にだれか来ているか」
「来ておりません、閣下」
「なに?」
「来ておりません、閣下」
「よし、行け……」
威風堂々と体をゆすぶりながら、サモイレンコはレモネードの売店に足を向けた。売り台のむこうには、一見グルジア女ふうの胸の大きなユダヤ人の老婆が坐っていた。サモイレンコはその老婆に、一連隊を指揮するときのような大声で言った。
「すまないが、ソーダ水を一杯頼みます!」
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二
ラエーフスキーがナジェージダ・フョードロヴナを嫌《きら》っている証拠としては、例《たと》えば、彼女の言うこと為《な》すことの悉《ことごと》くが彼には嘘に、あるいは嘘らしく見えるということ、そしてまた今までに読んだ女性あるいは恋愛についての否定論の悉くが、自分とナジェージダとその夫の場合にこの上なくぴったり当てはまるような気がするということがあった。家に帰ってみると、ナジェージダはもう服を着て髪をととのえ、窓ぎわに坐《すわ》って、むつかしい顔をしてコーヒーを飲み、分厚い雑誌のページをめくっていた。コーヒーを飲むということは何もあんなにむつかしい顔をするほどの大事件ではないし、ここでは誰かに気に入られる必要も目的もないのだから、流行の髪を結うことは時間の無駄だ、とラエーフスキーは思った。そして雑誌もまた彼には嘘に見えるのだった。きちんと服を着たり髪をいじったりするのは美人に見られたいからだし、雑誌を読むのは悧巧《りこう》な女だと思われたいからだ、と彼は思った。
「今日、私、海水浴に行ってもいいかしら」と、ナジェージダが訊《き》いた。
「なぜ? きみが行こうと行くまいと、大地震が起るわけでもあるまい……」
「いいえ、先生に叱《しか》られやしないかと思って訊いただけよ」
「なら先生に訊きなさい。ぼくは医者じゃない」
今度は何よりもまずナジェージダの露《あらわ》な白い頸筋《くびすじ》と、うなじにかかる捲毛《まきげ》の束とがラエーフスキーの気に入らなかった。そして彼は、夫への愛のさめたアンナ・カレーニナが何よりもいやだったのは夫の耳だったというくだりを思い出し、『全くあの通りだ! あの通りだ!』と思った。体がぐったりし、頭がからっぽになったように感じながら、ラエーフスキーは書斎に入って長椅子に横たわり、蝿《はえ》に悩まされぬように顔にハンカチをかけた。一つことのまわりを空回《からまわ》りする長い物憂《ものう》い思いが、どんよりした秋の夕暮を行く荷馬車の列のように頭の中を通りすぎ、ラエーフスキーは眠い重苦しい気分に落ちこんで行った。ナジェージダにも、その夫にも自分はいけないことをした、彼女の夫が死んだのは自分のせいではないだろうか、と彼は思った。自分の生活を駄目《だめ》にしてしまったのも自分の罪であり、高遠な思想や知識や勤労の世界に対しても自分はいけないことをしたのではなかろうか。そのようなすばらしい世界は、彼にしてみれば、飢えたトルコ人や怠惰なアブハジア人がうろつくこの海辺にではなく、オペラや芝居や新聞やさまざまな知的労働がある、あの北の国にのみ存在し得るような気がするのだった。正直で、賢明で、高尚で、純潔な人間になれるのは、むこうにいた場合のことであり、ここでは駄目なのだ。ラエーフスキーは自分に理想もなければ、しっかりした人生哲学もないことを責めるのだったが、今ではそれが何であるかをおぼろげながら悟ってはいた。二年前、ナジェージダを愛したときには、ナジェージダと一緒になってカフカスへ行きさえすれば、俗悪で空虚な生活から救われるという気がしていた。それと同じように、今ではナジェージダを捨ててぺテルブルグへ行きさえすれば、自分に必要なものはすべて購《あがな》えると確信していたのである。
「逃げよう!」と、上体を起し爪を噛《か》みながら彼は呟《つぶや》いた。「逃げよう!」
ラエーフスキーの想像力は次々と描き出した。彼は汽船に乗りこみ、それから朝食をとり、冷たいビールを飲み、甲板で婦人たちと言葉をかわし、それからセヴァストーポリで汽車に乗り、汽車は動き出す。自由よ、こんにちは! 一つまた一つと停車場が閃《ひらめ》き、空気はだんだん冷たく鋭くなり、そら、白樺《しらかば》だ、樅《もみ》だ、そら、クルスクだ、モスクワだ……食堂車には野菜スープがあり羊肉のオートミールがあり、蝶鮫《ちょうざめ》料理があり、ビールがあり、要するに野蛮なアジアではなくてロシア、本当のロシアだ。乗客たちの話は商売のこと、新人歌手のこと、フランスとロシアの友好関係のこと。到る所で感じられるのは生き生きとした生活、文化的で、知的で、大胆な生活だ……急げ、急げ! さあ、やっとネフスキー通りだ、ボリシャヤ・モルスカヤ通りだ、さあ、ここが学生時代に住んでいたコヴェンスキー横町だ。なつかしい灰色の空、霧雨、濡《ぬ》れた馭者《ぎょしゃ》たち‥…
「イワン・アンドレーイチ!」と、だれかが隣の部屋から呼んだ。「いらっしゃいますか」
「いますよ!」と、ラエーフスキーは答えた。「何ですか」
「書類です!」
ラエーフスキーは大儀そうに、少し眩暈《めまい》を感じながら立ちあがり、あくびをして、上履をばたばたいわせながら隣の部屋へ行った。開け放した窓の外側、往来に立っていたのは若い同僚の一人で、窓の張出しに役所の書類を拡げていた。
「ちょっと待ってくれ」ラエーフスキーはやさしく言って、インク壷《つぼ》を取りに行った。窓ぎわに戻ると、目も通さずに書類に署名した。「暑いね!」
「ええ。今日はお出になりますか」
「たぶん出ないね……なんだか具合が悪いんだ。シェシコフスキーに、食事のあとでお寄りすると言っといてくれないか」
同僚は帰って行った。ラエーフスキーはまた書斎の長椅子に横たわり、考え始めた。
『とにかく、いろんな状況を秤《はかり》にかけて考えをまとめなければ。ここから出て行く前に、借金の片をつける必要がある。借りは約二千ルーブリ。おれは一文なし……これはもちろん大した問題じゃない。さしあたり一部だけ払っておいて、あとはぺテルブルグから送ろう。問題はナジェージダ・フョードロヴナだ……何よりもまずわれわれの関係をはっきりさせなければいけない……そう』
少し経《た》って彼は思う。サモイレンコに相談してみたらよくはないか。
『それもいいが、そんなことをして何になるだろう。また閨房《けいぼう》だとか、女だとか、正しいとか正しくないとか、場違いの話になるに決っている。一刻も早く自分の命を救わなければならないというのに、この呪《のろ》わしい束縛の中で息が詰り自分で自分を殺しているというのに、正しい正しくないを論じて何になるんだ、畜生。……いい加減に悟るがいい、おれのような生活を続けることは俗悪であり、残酷であり、それに比べれば、ほかのことは取るに足らぬ些末事《さまつじ》なのだ。逃げよう! ――彼は単身起き上がって呟いた――逃げよう!』
荒れた海岸、耐えがたい猛暑、そして永遠に孤独で無言の紫色に煙《けむ》る単調な山々は、ラエーフスキーの内部に淋《さび》しさを掻《か》き立て、いってみれば彼を眠らせてはその隙《すき》に何かを盗んで行くように思われるのだった。ひょっとすると彼は非常に聡明《そうめい》で、有能で、誠実きわまりない人間であるのかもしれない。もしもこの海や山に四方八方から取囲まれていなければ、彼は地方の名士に、政治家に、雄弁家に、評論家に、英雄になれたかもしれない。だれが否定できるだろう! もしもそうだとすれば、例えば音楽家や画家のような才能に恵まれた有益な人物が、捕われの境遇から逃げ出したいばかりに壁を破り、看守を騙《だま》したとしても、それについて正しい正しくないを論じるのは愚の骨頂ではないか。そのような人間の場合は、すべてが正しいのだ。
二時になり、ラエーフスキーとナジェージダ・フョードロヴナは食卓にむかった。料理女がトマトの入った米のスープを出したとき、ラエーフスキーが言った。
「毎日同じものだ。野菜スープをこしらえたらどうだろう」
「キャベツがないのよ」
「妙だね。サモイレンコの所でもキャベツのスープが出るし、マリヤ・コンスタンチーノヴナの所でもキャベツのスープが出るのに、ぼくだけがどういうわけか、この甘ったるいどろどろのものを食わなきゃならない。これじゃ困るな、奥さん」
大多数の夫婦に見られることだが、ラエーフスキーとナジェージダも以前は食事のたびに必ずといっていいほど癇癪《かんしゃく》を起したり喧嘩《けんか》をしたものだったが、もうこの女を愛していないと悟ったときから、ラエーフスキーは努めてナジェージダに逆《さか》らわず、口のきき方もやさしく丁寧になり、いつも微笑を浮べ、相手を「奥さん」と呼ぶのだった。
「このスープは甘草《かんぞう》の汁みたいな味だね」と彼は微笑《ほほえ》みながら言った。だが愛想よく見せようという努力をしきれなくなって、とうとう言った。「この家じゃだれも家事に責任を持たないんだな……きみが病気か、それとも読書で忙しいんなら、失礼してぼくが台所をやろうか」
以前なら彼女はここで「そうなさってよ」とか、「あなたは私を料理女にする気なのね」とか言い返したところだが、今ではおずおずと彼の顔を見て、顔を赤らめるだけなのだった。
「で、今日の気分はどう?」と、彼がやさしく尋ねた。
「今日はなんともないわ。ちょっと力が抜けたみたいなだけ」
「大事にしなきゃ駄目だよ、奥さん。ぼくはきみのことが心配でたまらない」
ナジェージダ・フョードロヴナは何かの病気だったのである。サモイレンコはマラリア性の熱だと言って彼女にキニーネをのませた。もう一人のウスチモーヴィチという医者は、背の高い、痩《や》せこけた、人付合いの悪い男で、昼間は家に閉じこもり、夜になると両手をうしろに組んで背後にステッキをぴんと立て、静かに海辺を歩きまわっては咳《せき》をするという人物だったが、この医者は婦人病だと診断を下して温湿布をすすめた。ラエーフスキーがまだ彼女を愛していた頃なら、ナジェージダの病気は彼の心に憐れみと恐怖を掻き立てたものだったが、今ではこの病気にさえ彼は嘘を見るのだった。熱の発作のあとのナジェージダの眠たそうな黄色い顔、沈んだ目つき、あくび、そして発作の間、格子|縞《じま》の毛布をかけて、女というより男の子そっくりの姿、いやな匂《にお》いのする息苦しい彼女の部屋――これらすべてが彼の考えでは幻滅の源であり、愛や結婚についての異議申立てなのであった。二皿目には堅ゆでの卵を添えたほうれん草が出たが、ナジェージダは病人なので牛乳をかけたゼリーだった。彼女が心配そうな顔をして、まずスプーンでさわってみてから、牛乳を啜《すす》り啜り、のろのろとゼリーを食べ始めたとき、彼女の喉《のど》の鳴る音が聞え、ラエーフスキーは頭が痒《かゆ》くなるほどの激しい憎しみに襲われた。こんな感情は犬に対してさえ失礼であることは分っていたが、腹立たしいのは自分自身ではなく、自分にこんな感情を起させたナジェージダの方であって、世の男たちが時として情婦を殺す気持は理解できると彼は思った。ラエーフスキーはもちろん殺人に走ったりはしないが、もし今、自分が弁護士になったら情婦殺しの弁護を引受けるに違いない。
「メルシ、奥さん」食事が終ると彼はそう言って、ナジェージダの額にキスした。
書斎に戻ってから五分間ほど、彼は横目で長靴を眺めながら隅《すみ》から隅へ行ったり来たりしていたが、やがて長椅子に腰かけて、呟いた。
「逃げよう、逃げよう! この関係を清算して逃げるんだ!」
ラエーフスキーは長椅子に横たわり、ここで再び、ナジェージダの夫の死は自分の罪かもしれないと思った。
「惚《ほ》れたとか、愛がさめたとかいうことで人間を責めるのは、愚の骨頂だ」寝そべったまま長靴をはこうと足を持ちあげながら、彼は自分自身に言い聞かせた。「愛や憎しみはわれわれの意のままに動かせるもんじゃない。彼女の亭主の死については、おれも間接的な原因の一つかもしれないが、だからといって、おれが彼の女房に惚れ、女房がおれに惚れたことがおれの罪だろうか」
それから彼は立ちあがり、制帽を探し出してから、同僚のシェシコフスキーの家へ出掛けた。その家には役人連中が毎日集まって、ヴィント〔トランプ遊び〕をやったり、冷たいビールを飲んだりするのだった。
『おれの優柔不断はハムレットに似ている』と、みちみちラエーフスキーは思った。『シェイクスピアの描写はなんと正確だろう! ああ、なんと正確だろう!』
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三
この町にはホテルがないので、新たに赴任して来た人や独身者は食事する場所に不自由していたが、その窮状を救うためと、一つには退屈を紛らすためもあって、軍医のサモイレンコは自宅で一種の定食のようなものを提供していた。その頃、サモイレンコの家に食事に来ていたのは二人だけだった。夏の黒海へ水母《くらげ》の発生を調べに来ていた若い動物学者のフォン・コーレンと、最近神学校を卒業して、年老いた補祭が療養に出掛けている間の代理としてこの町に派遣されて来た、ポベートフという補祭である。二人とも昼食と夕食に月十二ルーブリずつ払い、サモイレンコはこの二人に、きっかり二時までに食事に現われるという固い約束をさせていた。
いつも最初にやって来るのはフォン・コーレンだった。この男は何も言わずに客間に腰を落着けると、テーブルの上のアルバムを手に取り、だぶだぶのズボンに山高帽子といういでたちの見知らぬ紳士たちや、ふくらませたスカートに頭巾《ずきん》の婦人たちの色褪《いろあ》せた写真を、注意深く眺《なが》め始めるのだった。サモイレンコも写真の中の人物の名前はごく一部しか知らず、名前を忘れた人物のことは「これはもう実にすばらしい優秀な人です」と言って溜息《ためいき》をつくのである。アルバムを眺め終えると、フォン・コーレンは飾り棚《だな》からピストルを取り、左目を細めて永いことヴォロンツォフ公の肖像を狙《ねら》っているかと思うと、鏡の前に立ち、自分の浅黒い顔や広い額、黒人のように縮れている黒い髪、そしてまるでペルシャ絨毯《じゅうたん》のように大きな花模様のある灰色|更紗《さらさ》の上衣《ルパシカ》やチョッキ代りの幅の広い革バンドなどを点検した。この自己観照は、アルバムや高価な縁飾りのついたピストルの点検よりも大いなる満足を彼に与えるようだった。この男は自分の顔や、きれいに刈りこんだあご鬚《ひげ》や、健康と頑丈《がんじよう》な骨格との明らかな証拠である広い肩幅などに、しごく満足していた。上衣《ルパシカ》の色に合わせて選んだネクタイから黄色い短靴に至るまで、自分の粋《いき》な服装にも満足していた。
この男がアルバムを眺め、鏡の前に立っている頃、台所とそれに続く控えの間では、上衣とチョッキをぬいで胸をはだけたサモイレンコが、興奮のあまり汗だくになって、調理台のまわりを駆けまわり、サラダや、何かのソースや、オクローシカ〔野菜とひき肉にクワスをかける〕の材料にする肉と胡瓜《きゅうり》と玉ねぎをこしらえながら、手伝いの従卒を凄い目で睨《にら》んだり、ナイフやスプーンで嚇したりしていた。
「酢をよこせ!」と、彼は命じた。「それは酢じゃない、サラダ油だ!」そして足を踏み鳴らしてどなった。「どこへ行くんだ、阿呆《あほう》!」
「バターを取りに参ります、閣下」と、肝をつぶした従卒が割れたテノールの声で言った。
「早くしろ! バターは戸棚だ! それからダーリヤに、胡瓜漬《きゅうりづけ》の壜《ぴん》に茴香《ういきょう》を入れておけと言え! 茴香だぞ! こら、間抜け、クリームに蓋《ふた》をしろ、蝿がたかる!」
この叫び声に家全体が揺れるかと思われた。二時十分前か十五分前になると、補祭がやって来た。これは年の頃は二十二、三、痩《や》せた、髪の長い青年で、あご鬚はないけれども、ごく薄い口髭《くちひげ》があった。客間に入ると、この青年は聖像に十字を切り、にっこり笑ってフォン・コーレンに手を差出すのだった。
「こんにちは」と、動物学者は冷やかに言った。「どこに行ってましたか」
「波止場《はとば》でブィチョック〔黒海でとれる小魚〕を釣っていました」
「なるほど……お見受けしたところ、補祭さん、あなたは少しもお仕事をしようとなさらんですね」
「いけませんか? 仕事は熊《くま》じゃないから、森へ逃げては行きません」と、補祭は白い平服の非常に深いポケットに両手を突っこみながら、笑顔《えがお》で言った。
「あなたにはかなわないな!」と、動物学者は溜息をついた。更に十五分から二十分も経《た》ったが、食事の知らせはいっこうになく、依然として従卒が控えの間から台所へ、またその逆に、長靴の音をさせて走りまわり、サモイレンコのどなり声が聞えるだけだった。
「テーブルに置け! どこへ持って行くんだ! まず洗え!」
すっかり腹が減ってしまった補祭とフォン・コーレンは、劇場の天井桟敷の客のように踵《かかと》で床を踏み鳴らして、苛立《いらだ》ちを表現し始めた。やっとドアがあき、へとへとになった従卒が「食事の支度《したく》ができました!」と知らせた。食堂で二人を迎えたのは、台所の蒸し暑さにうだって赤紫色の顔になり、ぷりぷりしているサモイレンコだった。軍医は憎々しげに二人を眺め、顔には恐怖の色を浮べてスープ鉢《ばち》の蓋《ふた》を持ち上げると、二人の皿にスープを注ぐのだが、二人ががつがつ食べ始め、どうやら料理が気に入ったらしいのを見とどけたとき初めて、安堵《あんど》の溜息をつき、深々とした肘掛椅子《ひじかけいす》に腰を下ろした。その顔は疲労の色に覆《おお》われ、目が潤《うる》み始めた……そして軍医はゆっくりと自分のグラスにウォツカを注いで言う。
「若き世代の健康のために!」
ラエーフスキーと話したあと、サモイレンコは朝から昼食まで、自分の上々の機嫌《きげん》とは裏腹に、心の奥底では何がしかの重苦しさを感じつづけていたのだった。彼はラエーフスキーが気の毒でたまらず、力になってやりたいと思ったのである。スープの前にウォツカを一杯飲み干してから、サモイレンコは溜息をついて言った。
「今日、ワーニャ・ラエーフスキーに逢《あ》ったよ。あの男も苦労している。物質的にも恵まれていないが、それより問題は心理的方面だ。実に気の毒だよ」
「気の毒じゃないね、あの男は!」と、フォン・コーレンが言った。「もし奴《やっこ》さんが溺《おぼ》れかけていたら、ぼくはステッキで突いてやるだろうな。それ、溺れろ、溺れちまえ、ってね……」
「嘘つけ。そんなことができるものか」
「なぜできないんだ」と、動物学者は肩をすくめた。「ぼくだって善行にかけてはきみと同じぐらい能力があると思うがね」
「人間を溺れさすことが善行ですか」と、補祭が尋ね、笑い出した。
「ラエーフスキーを? そうですとも」
「どうもこのオクローシカは何かが足りないようだな……」サモイレンコが話題を変えようとして言った。
「ラエーフスキーは社会にとってはコレラ菌のように断然有害で危険な人物だ」と、フォン・コーレンは続けた。「あいつを溺れさすことは社会奉仕の一種だ」
「隣人のことをそんなふうに言うのはよくないことだぞ。どうして彼をそんなに憎んでいるんだね」
「ドクトル、下らんことを言っちゃいけない。細菌を憎んだり蔑《さげす》んだりするのは馬鹿げているし、出逢った人間を無差別に隣人扱いするということは、失礼だけれども、すなわち何も考えないということであり、正しい人間関係を否認するということであり、一言にして言うなら、責任|逃《のが》れだ。ぼくはきみのラエーフスキーを人非人だと見なしているから、そのことを隠しはしないし、良心に全然恥じるところなく奴《やつ》を人非人扱いする。ところが、きみは奴を隣人と見なしている――まあ、キスでもすりゃいいさ。隣人と見なすということは、つまり、ぼくや補祭さんと同じように扱うということ、つまり、何扱いでもないということだ。きみはだれに対しても一様に無関心なんだ」
「ひとを人非人呼ばわりか!」サモイレンコはいとわしそうに顔をしかめて呟《つぶや》いた。「そりゃもう何とも言いようがないほどよくないことだよ!」
「人間はその行為で判断するものだ」と、フォン・コーレンが続けた。「今度はあなたが判断してみて下さい、補祭さん……あなたに聴いてもらいましょう。ラエーフスキー氏の行動は中国の巻物のように眼前にくりひろげられているから、初めから終りまで読むことができます。彼はここに来てからの二年間に何をしたか。指折り数えてみましょう。第一、彼はこの町の住民にヴィント遊びを教えた。二年前までこの遊びはこの町では知られていませんでしたが、今では誰も彼もが、婦人や未成年者すら朝から真夜中までヴィント遊びをやっています。第二に、彼はここの市民にビールを飲むことを教えましたが、これまたこの町ではなかったことです。ウォツカの鑑別を市民たちが覚えたのも彼のおかげだ。今ではみんな目隠しをされてもコシェリョフとスミルノフ二十一番とを区別できます。第三に、以前はこの町では人妻と同棲《どうせい》することは、泥棒が盗みをこっそりやるのと同じ心理で、こっそりと行い、決して大っぴらには行わなかったものです。姦通《かんつう》は世間の目にさらすことのできない恥ずべきものと見なされていました。この点でも、ラエーフスキーは先駆者です。彼は他人の妻と公然と同棲している。第四に……」
フォン・コーレンはそそくさとオクローシカを平らげ、従卒に皿を渡した。
「知り合って一と月も経《た》たぬうちに、ラエーフスキーのことはすっかり分ってしまいましたね」と、補祭を相手にフォン・コーレンは話を続けた。「ぼくと彼は同じ頃ここへ来たんです。彼のような男は友情とか、交際とか、連帯とか、そういったたぐいのことが大好きですが、それはつまり、ヴィント遊びや酒の相手、お茶の相手がつねに必要だからです。しかも彼のような人種はお喋《しゃぺ》りだから、聴き手を必要とします。ぼくと彼とは友人になりました。ということはすなわち、彼が毎日のようにふらふらやって来ては、ぼくの仕事の邪魔をし、自分の情婦のことを打明けたということです。ぼくが初めから驚いたのは、その話にあまりにも嘘が多いことで、それはもう胸が悪くなるほどの嘘の連続だったのです。ぼくは友人として彼に叱言《こごと》を言いました。なぜ深酒をするのか、なぜ身分不相応の暮しをして借金をするのか、なぜ何一つせず本も読まないのか、なぜそう教養がなく知識に乏しいのか――ぼくの質問にたいして彼は苦笑いをし、溜息をついて、こう答えたものです。『ぼくは挫折者《ざせつしゃ》だ、余計者だ』あるいは『われわれ農奴制の残滓《ざんし》に何を求めるんですか……』あるいは『ぼくらは退化しつつあるのです……』さもなければ、オネーギンだとか、ぺチョーリンだとか、バイロンのカインだとか、バザーロフだとかについて、長たらしい寝言を並べて、『これぞ肉体的・精神的にぼくらの祖先だ』とくる。つまりですね、役所の公文書が何週間も封を切られずに眠っていることも、彼が酒を飲み他人に飲ませもすることも、悪いのは彼じゃなくて、オネーギンや、ぺチョーリンや、あるいは挫折者、余計者のたぐいを考え出したツルゲーネフが悪いと、こういうわけなんですね。極端な退廃や乱脈の原因は、つまり、彼にではなくて、どこか外側の空間にあるというのです。しかも――実にずるがしこいやり方じゃありませんか! ――だらしがなくて、嘘つきで、醜悪なのは、彼一人じゃなくてわれわれなんです……『われわれ八十年代の人間』『われわれ無気力で神経質な、農奴所有権が生み落した変り種』『文明にゆがめられたわれわれ』……要するに、ぼくらが理解しなければならないのは、ラエーフスキーのような偉大な人物はその没落においても偉大であるということ、彼の退廃や無教養やだらしのなさは必然性によって浄《きよ》められた自然科学的・歴史的現象であり、その原因は世界的、不可抗力的であるということ、そしてまたラエーフスキーは時代と思潮と遺伝と、その他もろもろの呪《のろ》われたる犠牲者であるから、お燈明でも上げなきゃならんということです。役人だの御婦人達だのは彼の話を聴きながら、『おお』とか『ああ』とかしきりに感心しますが、ぼくは永いこと相手が何者なのかよく分らなかった。シニックか、それともペテン師か。彼のような、一見インテリ風で、いくらか学問もあって、自分の家柄のよさを吹聴《ふいちょう》する人間は、異様に複雑な性格を装うことが上手《じようず》ですからね」
「黙れ!」と、サモイレンコが憤然として言った。「ぼくの前で立派な家柄の人の悪口は許さん!」
「話の腰を折るなよ、アレクサンドル・ダヴィーディチ」と、フォン・コーレンは冷やかに言った。「すぐ結論を出すから。ラエーフスキーという人物はかなり単純なオルガニズムです。彼のモラルの骨組みは次の通り。朝、上履《うわばき》と海水浴とコーヒー、それから昼食まで上履と散歩と会話、午後二時には上履と昼食と酒、午後五時には海水浴とお茶と酒、それからヴィントと嘘、午後十時には晩めしと酒、十二時すぎには睡眠と女《ラ・フアム》。彼の存在は殻の中の卵のように、この狭苦しいプログラムから一歩も外へ出ない。彼が歩こうと、坐《すわ》ろうと、怒ろうと、書こうと、喜ぼうと、すべては酒とトランプと上履と女に帰するのです。女は彼の生活では運命的かつ圧倒的な役割を演じていましてね。彼自身の物語によるならば、十三歳で彼はすでに恋をした。そして大学の一年のとき、ある婦人と同棲したが、その婦人は彼に良き影響を与え、彼の音楽的教養もまたその婦人に負っているそうです。大学の二年になると、ある淫売宿《いんばいやど》から一人の娼婦を請け出し、自分の水準にまで引上げた。ということはつまり、情婦にしたということです。その女は半年ほど同棲してから、元の古巣に逃げ帰ったが、この逃亡は彼に少なからぬ精神的苦痛を味わわせたそうです。その苦痛の甚《はなは》だしさに、彼は学業を放棄して、二年間何もせずに自宅で過さなければならなかった。だがこれが彼にはむしろ幸いしましてね。つまり自宅で一人の未亡人と知り合い、その婦人が彼に法科をやめて文科に移るよう勧めたのです。彼はその通りにした。そして大学を出ると、今のあの……なんという名前でしたっけ……あの人妻に熱烈な恋をして、このカフカスへ駆落ちをした。理想を求めると称してね……奴《やっこ》さん、きっとまもなくあの女に嫌気《いやけ》がさして、ぺテルブルグへ舞い戻るでしょう。やはり理想を求めてね」
「そんなこと、どうして分る」と、サモイレンコが動物学者を憎らしそうに眺めながら呟いた。「それより、とにかく食べなさい」
ポーランド・ソースと、ボラの煮つけが出た。サモイレンコは二人のお客に一尾ずつとりわけ、自らソースをかけてやった。二分間ほど沈黙のうちに過ぎた。
「女性はだれの生活においても本質的な役割を演じています」と、補祭が言った。「それはどうしようもないことでしょう」
「そう、しかし程度問題です。われわれの場合、女性は母親であり、妹であり、妻であり、友人であるわけですが、ラエーフスキーの場合、女性はそれらのすべてであり、しかも単なる情婦なのです。女が、つまり女と同棲することが、彼の生活の幸福であり目的であるのです。彼が陽気になったり、悲しんだり、退屈したり、幻滅したりするのは、すべて女のせいであり、生活がいやになった――それも女の罪であり、新生活の曙光《しょこう》がさしそめた、理想が見つかった――その蔭《かげ》にも女あり、です。彼を満足させるのは、女の出てくる小説や絵だけだ。彼に言わせると、われわれの時代が劣悪で、四十年代や六十年代よりも劣っているのは、ひとえにわれわれが恋のエクスタシーや情熱に我を忘れて打ちこむすべを知らないためだそうです。こういう色好みの男の頭脳には、きっと肉腫《サルコマ》というような特別の瘤《こぶ》があって、それが脳を圧迫し、心理ぜんたいを支配しているに違いない。ラエーフスキーがどこかのパーティに行っているところを観察してごらんなさい。すぐ分ることですが、何か一般的な問題、例《たと》えば細胞とか、本能とかの話が出ているあいだは、彼は隅《すみ》に引っこんで沈黙を守り、ろくに話を聴いてもいない。その様子はだるそうで、失望があからさまで、何もかも月並みだ、つまらない、とでも言わんばかりですが、話がひとたび雌と雄のこと、例えば蜘蛛《くも》の雌は受胎を終ると雄を食ってしまうというような話が始まるや否や彼の目は好奇心に燃え、顔は輝き、一口に言うならば生き返ったようになる。奴さんの考えることは、どんなに上品な、高尚な、または平凡なことであろうと、すべて落着く先はただ一つ。奴さんと一緒に街を歩いてごらんなさい、例えばロバがむこうから来たとする……彼は尋ねます、『ねえ、ロバの雌にラクダの雄をかけたらどうなるだろう』。それから夢! あいつ自分の夢の話をしませんでしたか。これが凄《すご》い! お月さまと結婚させられる夢とか、警察に呼ばれて、ギターと同棲を命じられるとか……」
補祭はげらげら笑い出した。サモイレンコは笑い出しそうなのを我慢して、眉《まゆ》をひそめ、怒ったような顰《しか》め面《つら》になったが、たまりかねて吹き出した。
「嘘ばっかり!」と、涙を拭《ふ》きながら彼は言った。「嘘にきまってる!」
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四
補祭は笑い上戸《じょうご》で、些細《ささい》なことに横腹が痛くなるまで笑いころげるのだった。この青年が人中に出るのを好んでいたのも、世間の人間にはそれぞれ滑稽《こっけい》な面があり、そこで滑稽な綽名《あだな》を奉るチャンスが生じるということが唯一の理由であるようにも見えた。青年はサモイレンコに袋蜘蛛《タランチュラ》という縛名をつけ、従卒には雄鴨《おがも》という名をつけ、いつかフォン・コーレンが、ラエーフスキーとナジェージダをキツネ猿《ざる》の夫婦と呼んだときは、有頂天になって喜んだ。この青年はいつも人の顔をじっと見つめ、瞬《まばた》きもせずに話に耳を傾けているが、やがてその目に笑いが満ちてくるのがはっきりと認められ、まもなく思う存分笑いを爆発させる時を待ち受けて、期待に顔が緊張するのだった。
「奴は堕落した変態男だ」と、動物学者は言葉を続け、補祭は何か面白い言葉が出てくるのを待ってフォン・コーレンの顔を見つめた。「あんな下らない奴《やつ》には滅多にお目にかかれるものじゃない。肉体的にも彼は生気がなく、虚弱で、年寄りくさいし、知性の面でも、ただ食って飲んで羽蒲団《はねぶとん》に寝て、お抱《かか》えの馭者《ぎょしゃ》を情夫に囲っている商家のでぶのかみさんと、何ら変りはない」
補祭はまたげらげら笑い出した。
「まあ笑いなさんな、補祭さん」と、フォン・コーレンは言った。「要するに下らん話ですよ。ぼくだって本来ならば彼の下らなさには何の注意も払わないところです」と、補祭の笑いがやむのを待って、彼は話を続けた。「あんな奴など知ったこっちゃない、もしも奴があれほど有害で危険な人物でなければね。あの男の有害性は何よりもまず女にもてるということ、従って子孫を持つ恐れがある、つまり彼自身と同じように虚弱で堕落したラエーフスキー風の人物を一ダースもこの世に送り出すかもしれないということにあります。第二に、彼には高度の感染性がある。ヴィント遊びやビールのことはさきほど申上げた通りです。あと一、二年も経《た》てば、彼はカフカスの海岸一帯を征服するでしょう。御承知の通り、大衆、殊《こと》にその中間層は、インテリ臭さや、大学教育や、上品な立居振舞いや、文学的な喋《しゃベ》り方などを、異様に信じていますからね。彼がどんなに醜悪なことをしても、彼は自由主義的なインテリで大学を出た人間だから、あれでいいのだ、ああでなければいけないのだと、みんなが思いこんでしまう。しかも彼は挫折者で、余計者で、ノイローゼ患者で、時代の犠牲者だ、ということはすなわち、何をしても許されるということです。奴《やっこ》さんは愛すべき男で、誠実で、人間の弱点にたいして寛大で、おとなしくて、柔軟で、素直で、傲慢《ごうまん》なところはないし、酒の相手にはちょうどいいし、猥談《わいだん》や噂話《うわさばなし》の相手にもいい……大衆というやつは宗教の面でも道徳の面でもつねに神人同形説《アントロポモルフィズム》に傾きがちだから、自分たちと同じ弱点を持つ小さな偶像が大好きなんです。これでお分りでしょう、彼の伝染範囲がどれほど広いか! おまけにあの男はなかなかの役者で、巧みな偽善者で、非常に目端《めはし》のきく人間です。彼のごまかし方や手品のうまさをごらんなさい。例《たと》えば彼の文明談義でもいい。文明の匂《にお》いも嗅《か》いだことがないくせに、『ああ、ぼくらはなんと文明にゆがめられているのだろう! ああ、ぼくは文明を知らぬ野蛮人や自然児がうらやましい!』とくる。つまり、彼はかつて全身全霊を文明に捧《ささ》げ、文明に奉仕し、文明を底の底まで理解したが、文明は彼を倦《う》ませ、幻滅させ、裏切った、とまあ、こんなふうにぼくらは考えてしまう。彼はファウストであり、第二のトルストイであるわけですね……ショーペンハウアーやスペンサーはまるで小僧扱いです。まるで父親のように肩をぽんと叩《たた》いて、よう、どうした、スペンサー、とでも言い出しかねない。もちろん彼はスペンサーなんか読んだことはないが、軽い何気ない皮肉をこめて自分の情婦のことを『彼女、スペンサーを読みましてね!』などと言うときは、なんとまあ愛らしいことだろう。で、みんなおとなしく彼の話に耳を傾け、このペテン師にスペンサーのことをそんなふうに語る資格はおろか、スペンサーの靴の裏にキスする資格すらないことを、だれ一人分ろうとはしない。自分の弱さや精神の貧弱さを正当化し覆《おお》い隠したいばかりに、文明や権威や他人の祭壇の土台を掘っくりかえし、泥をはねかし、おどけたウインクをする、こんなことができるのは、自惚《うぬぼ》れの強い、卑劣で醜悪な動物だけですよ」
「コーリャ、どうもよく分らないな、きみはあの男に何を求めるんだ」と、もはや憎しみは消え、申しわけなさそうに動物学者を見ながら、サモイレンコが言った。「彼は世間一般と何の違いもない人間じゃないか。もちろん欠点がないわけではないが、それでも現代思想の水準に立って、役所に勤め、国家に貢献している。十年ばかり前、この町に役所勤めの老人がいたけれども、それが非常に優秀な人で……いつも口癖のように……」
「ああ、もう沢山だ!」と、動物学者はサモイレンコの話をさえぎった。「役所に勤めている、だと? 奴がこの町に現われたために、秩序がよりよく保たれ、役人たちがまじめに、正直に、丁寧になったかね。とんでもない、大学出のインテリという自分の権威によって、奴は役人どものだらしなさを是認しただけじゃないか。奴がまじめに勤めるのは毎月、月給日の二十日だけで、あとの日は自宅で上履《うわばき》をべたべたいわせながら、おれがカフカスにいるだけでもロシア政府はありがたく思え、とでも言いたげな表情を作っているだけだ。だめだよ、アレクサンドル・ダヴィーディチ、あいつの肩を持ったって無駄だ。きみは徹頭徹尾、誠意のない人間だね。もしもきみが本当に彼を愛し、隣人と見なすのなら、何よりもまず彼の欠点に無関心でいてはいけないし、彼に寛大であってはいけない。彼自身のためにも、奴さんの毒を取り除いてやらなくちゃ」
「というと?」
「毒を取り除くんだ。奴はもう矯正しようのない人間だから、無害にするたった一つの方法は……」
フォン・コーレンは自分の頸《くび》に指で線を引いた。
「あるいは溺れさすか……」と、フォン・コーレンは付け加えた。「人類のためにも、彼ら自身のためにも、ああいう連中は絶滅されるべきだ。断じて」
「なんてことを言うんだ!」と、腰を浮かし、動物学者の冷静な顔を呆《あき》れたように眺めながら、サモイレンコは言った。「補祭さん、この男は何を言ってるんだろう。きみ、気は確かか」
「死刑を主張しているわけじゃない」と、フォン・コーレンは言った。「死刑が有害だというのなら、何かほかの方法を考え出してくれ。ラエーフスキーを殺すことがいけないのなら、隔離するか、市民権を剥奪《はくだつ》するか、失業対策事業ででも働かせるか……」
「なんてことを言うんだ」サモイレンコは身震いをした。「あ、胡椒《こしょう》、胡椒をかけなさい!」ひき肉を詰めたカボチャを補祭が胡椒をかけずに食べているのを見て、絶望的な声で叫んだ。「きみのような優秀な人間が全くなんてことを言うんだろう! われわれの友人、誇り高い知識人を失対事業で働かせるなんて!」
「誇りが高くて、反抗でもしたら、足枷《あしかせ》をかけりゃいい!」
サモイレンコはもう一言も口がきけずに、指をぴくぴく動かすだけだった。その呆然《ぼうぜん》とした滑稽な顔を見て、補祭は笑い出した。
「この話はもうやめよう」と、動物学者は言った。「ただ一つだけ覚えておいてくれ、アレクサンドル・ダヴィーディチ、原始時代の人類はね、生存競争や自然|淘汰《とうた》によって、ラエーフスキーのような分子から身を守っていたんだ。ところが現代では、われわれの文化が生存競争や自然淘汰をいちじるしく弱めてしまったから、われわれは自らの手で虚弱な人間や、不適応者の絶滅を行わなければならない。さもないと、ラエーフスキーのような連中が殖《ふ》えて、文明はほろびるし、人類は全く退化してしまうだろう。そんなことになったら、われわれの罪だ」
「人間を溺れさせたり、縛り首にしたりしなきゃならんのなら」と、サモイレンコは言った。
「きみの文明なんか糞《くそ》くらえ、人類なんか糞くらえ! 冗談じゃないよ! ぼくの考えはこうだ。きみは偉い学者で、優秀な人間で、祖国の誇りだが、惜しいかな、ドイツ人に毒された。そう、ドイツ人! ドイツ人!」
サモイレンコは医学を学んだデルプトの町を去って以来、ドイツ人には滅多に逢わず、ドイツ語の本は一冊も読んだことがなかったが、この軍医の意見によれば、政治上、学問上の悪のすべてはドイツ人のせいなのである。一体どうしてこんな意見になったのかは自分でもよく分らなかったが、とにかくこの考えを固く信じていた。
「そう、ドイツ人だ!」と、サモイレンコはもう一度繰返した。「さあ、お茶を飲みに行くか」
三人は立ちあがって帽子をかぶり、庭へ出て、蒼《あお》ざめた楓《かえで》や梨《なし》や栗《くり》などの木蔭《こかげ》に腰を下ろした。動物学者と補祭は小さなテーブルのそばのベンチに坐り、サモイレンコは幅広い斜めの背のある籐椅子《とういす》に腰かけた。従卒がお茶とジャムとシロップの壜《びん》を持って来た。
非常に暑い日で、木蔭でも三十度はあった。熱い空気は死んだように動かず、栗の木から垂れ下がった長い蜘蛛《くも》の糸は少しも揺れていなかった。
補祭はテーブルのそばの地面にいつも置いてあるギターを取上げ、調子を合わせてから細い声で、「神学校の若者ら、居酒屋の前に立ち……」と歌い出したが、暑さのあまりすぐに歌いやめ、額の汗を拭《ふ》いて、頭上の燃えるような青空を見上げた。サモイレンコは居眠りを始めた。暑さと、静けさと、手足の隅々《すみずみ》にまで忽《たちま》ち行きわたった快い食後の睡気《ねむけ》のせいで、ぐったりと酔い心地《ごこち》なのである。両手は垂れ下がり、目は細くなり、頭は胸に垂れた。そして軍医は涙がこみあげてくるような感慨をこめて、フォン・コーレンと補祭を眺《なが》め、もぐもぐ呟《つぶや》き始めた。
「若き世代……学界の明星と、教会の燈明……ほうれ、長い裾《すそ》を引きずってハレルヤを唱えていたのが忽《たちま》ち大司教に出世して、こっちはお手々に接吻《せつぶん》せにゃならん……それもいいさ……ありがたいこった……」
まもなく鼾《いびき》が聞え始めた。フォン・コーレンと補祭はお茶を飲み終え、通りへ出た。
「また波止場《はとば》でブィチョック釣りですか」と動物学者が尋ねた。
「いや、暑いから」
「ぼくの家へ来ませんか。うちで小包を一つ作って、それから清書をちょっと手伝って下さい。ついでに、あなたの仕事のことも話し合ってみましょう。働かなきゃ駄目ですよ、補祭さん。今のままじゃよくない」
「あなたのおっしゃることは正しいし論理的です」と、補祭は言った。「でも、ぼくの怠惰は現在の生活の状況から説明のつくことです。御存知の通り、どっちつかずの状態は人の倦怠感《けんたいかん》をいちじるしく強めますからね。ぼくがここへ派遣されたのは一時的なのか、それとも永久になのか、神のみぞ知り給う。それがわからぬまま、ぼくはこの町で暮し、家内は父の家で無為徒食し、退屈しています。それに、正直を言うと、この暑さでぼくの脳味噌《のうみそ》はふやけたみたいなんです」
「下らない、そんなことは」と、動物学者は言った。「暑さにもじき馴《な》れるし、奥さんがいない生活にも馴れます。だらけてはいけない。しゃんとしていなければ」
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五
朝、ナジェージダ・フョードロヴナは海水浴に出掛け、水差しと銅の金盥《かなだらい》とタオルとスポンジを持った料理女のオリガが、そのうしろをついて行った。たぶん外国の貨物船だろう、白い煙突の汚《よご》れた見馴《みな》れぬ二隻の汽船が投錨所《とうびょうしょ》に碇泊していた。白服に白靴の男たちが波止場を歩きまわり、フランス語で声高にわめくと、汽船から叫び返した。町の小さな教会では盛んに鐘を鳴らしていた。
『今日は日曜だった!』と、ナジェージダ・フョードロヴナは思い出し、嬉《うれ》しくなった。
今日は全く健康な感じで、休日らしい浮き浮きした気分だったのである。男物の粗《あら》い繭紬《けんちゅう》で作った新しいゆったりした服を着て、大きな麦藁帽子をかぶっていたが、帽子の幅広い鍔《つば》は耳のところで急激に折れ曲り、顔は人形箱から覗《のぞ》いているような按配《あんばい》で、自分ではたいそう可愛《かわい》らしく見えるつもりだった。この町で若くて美しくて教養のある女といえば、それは自分一人であり、安くて優美で趣味のいい服装のできる女も自分一人だけだ、と彼女は思った。例《たと》えば、この服は、たったの二十二ルーブリだが、とてもきれいに見える! 町中で人に好かれる女は自分一人で、しかも男は大勢いるから、従ってみんな心ならずもラエーフスキーをうらやんでいるに相違ない。
最近ラエーフスキーが彼女に冷たくなり、妙に遠慮っぽく丁寧であるかと思えば、時には無遠慮かつ粗暴にすらなることが、ナジェージダにはむしろ嬉《うれ》しかった。彼の敵意に満ちた言動、冷たい蔑《さげす》みの視線、あるいは奇妙な不可解な視線にたいして、以前の彼女は涙や、非難や、出て行くとか飢死にしますとかいう脅《おど》し文句で応《こた》えたのだったが、今ではただ顔を赤らめ、申しわけなさそうに彼を見るだけで、実は彼がちやほやしてくれないことが嬉しいのだった。いっそ彼女を罵《ののし》り威嚇《いかく》してくれたら、もっとすっきりするに違いない。というのは彼女はラエーフスキーに全くすまないことをしたと感じていたからである。第一に、彼がぺテルブルグを棄《す》ててこのカフカスへやって来た当の目的である勤労生活の夢に、自分が共鳴しなかったことが申しわけなく、彼が最近ご機嫌《きげん》斜めなのもそのせいだとばかり思っていた。カフカスへ来る途中、彼女がなんとなく予想していたのは、到着したその日に海岸に静かな家を見つけ、居心地《いごこち》のよい庭には木蔭《こかげ》があり、小鳥が飛びかい、小川が流れ、そこに花を植え、野菜を作り、家鴨《あひる》や鶏を飼い、隣人を招き、貧しい百姓たちを治療し、パンフレットを与え、というようなことだった。ところが、現実のカフカスは禿山《はげやま》と森と巨大な谿谷《けいこく》ばかりで、ここでは長期間にわたって選《え》り分けたり奔走したり建設したりすることが必要であり、しかも隣人などはどこにも見えず、暑さはものすごく、追剥《おいはぎ》の危険もあるという始末だった。ラエーフスキーは土地を手に入れることを急ごうとはしなかった。そのことが彼女はむしろ嬉しく、こうして二人はまるで秘《ひそ》かに約束でもしたように勤労生活のことは決して口に出さなかった。ラエーフスキーが黙っているのは、つまり彼女が黙っているのを怒っているのだと、ナジェージダは思っていた。
第二に、彼女はラエーフスキーには相談せずに、アチミアノフの店から、いろんながらくたをこの二年間に三百ルーブリほども買いこんでいた。布地やら、網やら、日傘やら、少しずつ買ううちに、いつのまにかこんなに借金ができたのである。
「今日こそは話そう……」と、彼女は決心するのだが、ラエーフスキーの最近の不機嫌を思えば、借金の話を持ち出すのはまずいと、すぐに思い返してしまうのだった。
第三に、彼女はラエーフスキーの留守中すでに二度も、警察署長のキリーリンを家に入れたのである。一度は午前中、ラエーフスキーが海水浴に出掛けたあとで、もう一度は夜遅く彼がトランプをしに行ったときのことだった。そのことを思い出して、ナジェージダ・フョードロヴナは急に顔が赤くなり、心の中の考えを読み取られるのではないかというように料理女の方を盗み見た。たまらなく暑くて長く退屈な昼間、美しくもまた悩ましい夕べ、蒸し暑い夜、そして朝から晩まで不要な時間を何に費《つか》ったらいいのか分らないこの生活、そしてまた自分はこの町一番の美しい若い女でありながら、その青春は空《むな》しく過ぎ去りつつあるという、つねに念頭を去らぬ思い、更には誠実で思想的なのかもしれないが単調で、いつも上履《うわばき》をひきずって歩き、爪を噛《か》み、うんざりするほどわがままな、ラエーフスキーという男そのもの――これらのことどもが彼女を次第次第に欲望のとりこに変えてしまい、昼も夜もナジェージダは狂ったようにただ一つのことしか考えなかった。自分の息づかいにも、まなざしにも、声音にも、歩みにも、彼女は自らの欲望を感じるだけだった。海のざわめきは彼女に恋をしなければいけないと語り、夕闇《ゆうやみ》も同じことを、山々も同じことを語った……そこでキリーリンに口説かれたとき、彼女はもう逆《さか》らう意志も力もなくなって、男に身を任せたのだった……
今、外国の船と白服の男たちはなぜか彼女に大広間を連想させた。フランス語の話し声と一緒に、彼女の耳の中でワルツが鳴り始め、ゆえ知らぬ喜びに胸がふるえた。踊ったり、フランス語を喋《しゃべ》ったりしたくなった。
自分の不貞はさほど恐ろしいことでもないと彼女は考え、喜ばしい気持になった。心は不貞にかかわっていない。彼女は依然としてラエーフスキーを愛していた。まだ彼に嫉妬《しっと》するし、彼をいとしいと思うし、彼が留守だと淋《さび》しくなるのが、その証拠ではないだろうか。一方、キリーリンは美男だが平凡な粗野な男で、この男とのことはもう一切終ったのだし、これからも何もないだろう。すんだことはすんだことで、もう誰にも分りはしないだろう。もしラエーフスキーの耳に入ったとしても、彼は信じないだろう。
海岸には女性用の脱衣場が一つあるだけで、男は露天で着替えをしなければならなかった。ナジェージダが脱衣場に入って行くと、例の役人の細君、初老のマリヤ・コンスタンチーノヴナ・ビチューゴワと、その娘のカーチャという十五歳の中学生とがいた。二人ともベンチに腰かけて、服を脱いでいるところだった。マリヤ・コンスタンチーノヴナは小心で気のいい、夢中になりやすいたちの女で、熱のこもった歌うような喋り方をした。三十二歳まで家庭教師をし続けて、それからビチューゴフという役人と結婚したのだが、これはまた背の低い、頭の禿げた男で、残りの髪を両のこめかみに撫《な》でつけ、性質は非常におとなしかった。マリヤはいまだにこの御亭主に惚《ほ》れていて、やきもちを焼いたり、「愛」という言葉を口にするたびに顔を赤らめたり、自分はとても仕合せだと逢《あ》う人ごとに断言したりするのだった。
「まあ、あなた!」と、ナジェージダの姿を見るや否や、知人たちに巴旦杏《はたんきょう》みたいな表情と言われている甘ったるい表情を作って、マリヤは嬉しそうに言った。「嬉しいわ、あなたがいらして! 御一緒に水浴びしましょうね、すてきだわ!」
オリガは手早く自分の服と下着を脱ぎ、女主人の服を脱がせ始めた。
「今日はきのうほど暑くありませんわね」と、ナジェージダは裸の料理女に無遠慮に体《からだ》をさわられるので、身を縮めるようにして言った。「きのうはもう蒸し暑くて死にそうだったわ!」
「ほんとうねえ、あなた! 私も息がつまりそうでしたわ。私ったら、あなた、きのうは三度も水浴びをしたのよ……三度もよ、あなた! 終《しま》いには、ニコジム・アレクサンドリッチが心配したりしましてね」
『人間がここまで醜くなれるものかしら』と、オリガと役人の細君を眺《なが》めて、ナジェージダは考えた。それからカーチャに目を移して思った。『娘はいい体をしてるわ』
「あなたのニコジム・アレクサンドリッチはとてもすてきな旦那《だんな》様ね!」と、ナジェージダは言った。「私なんだか御主人に恋しちゃったみたい」
「ははは!」と、マリヤは不自然に笑い出した。「それはまた、すばらしいことね!」服から解放されると、ナジェージダは飛びたいという欲望を感じた。そして両手ではばたけば本当に空へ舞い上がれるような気がした。すっかり裸になって、ふと気がつくと、ナジェージダの白い肉体をオリガが不愉快そうに眺めていた。オリガは若い人妻で、ある兵隊と正式に結婚していたから、自分は女主人よりも一段高いまともな女だと思っているのだった。ナジェージダは、マリヤやカーチャからも尊敬の目では見られず、むしろこわがられていることに気づいていた。それは不愉快な事実だったから、女たちに少しでも高く評価されようと彼女は言った。
「ペテルブルグですと今頃はみんな別荘生活ですわ。私にも主人にも知合いが大勢いましてね! 一度みんなの顔を見に帰らなくっちゃ」
「御主人様は確か技師さんでしたわね」と、マリヤがこわごわ尋ねた。
「いえ、ラエーフスキーのことですわ。彼にはお友達がとても多いんですよ。ただ困ったことに彼のお母様は気位の高い貴族で、とても旧弊で……」
皆まで言わずに、ナジェージダはシャワーを浴び始めた。マリヤとカーチャもそれに続いた。
「世間には本当に偏見が多いでしょう」と、ナジェージダは続けて言った。「見かけほど住みよくありませんわ」
貴族の家で家庭教師をしていたことのあるマリヤは、いかにも訳知りといったふうに言った。
「全くねえ! ガラティンスキー家なんか、あなた、朝もお昼も盛装してお食事なのよ。私まで女優さんみたいに、お給料のほかに衣裳代《いしょうだい》をいただいてましたわ」
ナジェージダを洗った水からわが娘を守ろうとでもいうように、マリヤはナジェージダとカーチャの間に立ちふさがった。海にむかって開けっぱなしのドアのむこう、脱衣場から百歩ほどの所をだれかが泳いでいるのが見えた。
「ママ、あれはうちのコースチャよ!」と、カーチャが言った。
「まあ、まあ!」と、マリヤは仰天して牝鶏《めんどり》のような声を出した。「まあ、コースチャ!」と叫んだ。「帰ってらっしゃい! コースチャ、戻ってらっしゃい!」
十四歳の少年コースチャは母親と姉に大胆なところを見せようと、一度水に潜《もぐ》り、更に沖の方へ泳ぎ出したが、疲れたとみえて大急ぎで引返してきた。その緊張した真剣な顔を見れば、少年が泳ぎに自信を持っていないことは明らかだった。
「ほんとに男の子って困ってしまう!」マリヤがほっとして言った。「いつなんどき頸《くび》の骨を折るか分らないんですものね。ほんとに、あなた、母親というものは楽しくて、しかも辛《つら》いものよ! 心配のたねが多すぎて」
ナジェージダは麦藁帽子をかぶって、海へ泳ぎ出た。十メートルほど泳いでから水の上で仰向きになった。水平線まで拡がる海と、汽船と、海岸にいる人々と、町が見え、それらの光景は炎熱や透明なやさしい波と相俟《あいま》って、彼女を刺激し、生きなければ、本当に生きなければ……と囁《ささや》きかけた。すぐそばを、波や大気をいかにも精力的に切り裂きながら、ヨットが急速に通りすぎた。舵《かじ》を取っている男が、じっと彼女を見つめ、そんなふうに見つめられることが彼女には快かった……
水浴びがすむと、女たちは服を着て、連れ立って歩き出した。
「私、一日おきに熱が出るんですけど、ちっとも痩《や》せないわ」と、海水で塩辛くなった唇を舐《な》め知人たちの挨拶に笑顔《えがお》で応《こた》えながら、ナジェージダは言った。「昔から肥《ふと》っていましたけど、この頃はもっと肥ってきたみたい」
「それはあなた、体質なのよ。例《たと》えば私みたいに肥らない体質だと、何を食べても駄目なの。それはそうと、あなた、帽子がぐしょ濡《ぬ》れね」
「構わないわ、すぐ乾《かわ》きます」
海岸通りを白服の男たちが歩き、フランス語で喋っているのを、ナジェージダは再び見た。すると、なぜか再び胸の中で喜びが涌《わ》き立ち始め、彼女はどこかの大広間を漠然《ばくぜん》と思い出した。いつかそこで踊ったことがあるのかもしれないし、いつか夢で見ただけかもしれない。そして心の奥の奥で何かが微《かす》かに、うつろに囁いた、お前は下らない、俗悪な、屑《くず》のような、何の価値もない女だ……
マリヤ・コンスタンチーノヴナは自宅の門口で立ちどまり、寄って行くようにすすめた。
「お寄りなさいな、あなた!」と、哀願するような声で言いながら、ナジェージダをちらと見たその目には、迷惑そうな色と、たぶん寄りはしないだろうという安堵《あんど》の色とが見えた。
「喜んで寄せていただくわ」と、ナジェージダはあっさり言った。「お宅にお邪魔できるなんて、とても仕合せ!」
そして彼女は家に入った。マリヤ・コンスタンチーノヴナは彼女に椅子をすすめ、コーヒーを出し、バタパンを食べさせ、それから曾《かつ》ての教え子たちの写真を見せた。それはガラティンスキー家の令嬢たちで、今ではもうみんなお嫁に行ってしまったという。それからマリヤは、カーチャとコースチャの成績表を見せた。成績は非常に良いのだが、それをもっと良く見せようと、マリヤは溜息《ためいき》をつき、今の中学校は勉強がむつかしくなって、などとこぼしてみせた……こうして客をもてなしながらも、マリヤはこんな女を家に上げたことを後悔し、ナジェージダが子供たちの心に悪い影響を与えはしないかと気をもみ、ニコジムが留守でよかったと喜んだりしているのだった。彼女の考えでは、男というものはみなこういう女が好きだから、夫のニコジムにしたところでナジェージダから悪い影響を受けないとも限らない。
客と話している間、今晩のピクニックのことがマリヤの頭から離れなかった。そのことはキツネ猿《ざる》の夫婦、つまりラエーフスキーとナジェージダには絶対に言わないようにと、フォン・コーレンから頼まれていたのだったが、マリヤはつい口を滑《すべ》らせてしまい、真《ま》っ赤《か》に顔を染めて、どぎまぎしながら言った。
「そうだわ、あなたもいらっしゃいよ!」
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六
町から街道を南へ七キロ行き、黒い川と黄色い川と呼ばれる二つの川の合流点にある居酒屋のあたりで馬車をとめて、魚スープをこしらえようという計画だった。出発は五時過ぎだった。先頭の無蓋馬車《シャラパン》にはサモイレンコとラエーフスキーが乗り、その次の半幌馬車《コリヤースカ》は三頭立てで、マリヤ・コンスタンチーノヴナと、ナジェージダと、カーチャとコースチャが乗っていた。食料の籠《かご》や食器類もこの馬車に積みこんだ。次の馬車には警察署長のキリーリンと、アチミアノフという青年が乗った。これはナジェージダが三百ルーブリの借りをつくったあの商人アチミアノフの息子である。この二人の向いの席には、体を縮め、あぐらをかいて、ニコジム・アレクサンドリッチが坐《すわ》っていた。背の低い、几帳面《きちょうめん》な、髪をこめかみに撫《な》でつけた男である。最後尾の馬車には、フォン・コーレンと補祭が乗っていた。補祭の両足の間には魚を入れた籠があった。
「右ィ!」と、荷馬車や、驢馬《ろば》に乗ったアブハジア人がむこうからやって来るたびに、サモイレンコが精一ぱいの声で叫んだ。
「二年後に資金と人手が揃《そろ》ったら、探険に出掛けます」と、フォン・コーレンが補祭に語っていた。「ウラジオストックから海岸伝いにべーリング海峡へ行って、更にベーリング海峡からユニセイの河口まで行きます。地図の製作、動物相、植物相の研究、地質学・人類学・人種誌学上の詳細な調査。あなた次第だな、ぼくと一緒に行くかどうかは」
「それは不可能ですね」と、補祭は言った。
「どうして」
「ぼくは自由じゃない。所帯持ちですよ」
「奥さんは行かせてくれますさ。ぼくらが奥さんの生活を保証しましょう。もっといいのは、あなたが自分で口説いて、公共のためにという口実で、奥さんを修道院に入れちまうことだ。そうすればあなたも修道僧という資格で探険に参加できる。なんならぼくがお膳立てしましょうか」
補祭は黙っていた。
「専門の神学のほうには詳しいんですか」
「詳しいわけでもないな」
「ふむ……ぼくも神学のほうは殆《ほとん》ど知らないから、その点については何の助言もできませんね。とにかく必要な本のリストを作ってくれれば、この冬ぺテルブルグから送ってあげましょう。行脚僧《あんぎゃそう》の手記などにも目を通しておくほうがいいだろうな。ああいう人たちの中には立派な人種誌学者や、東洋語の大家がいます。そんな人たちの方法をよく知っておけば、仕事にとりかかりやすいというものだ。そう、本がなくても時間を無駄にしちゃいけない。私の家へおいでなさい。コンパスの使い方を練習したり、気象学を一通り身につけたりしましょう。どれもこれも必要なことばかりだ」
「それはそうだけれども……」と、補祭は呟《つぶや》き、笑い出した。「実は中部ロシアに就職口を頼んでおいたんです。叔父の司祭長も尽力してくれるそうです。だから、あなたと一緒に出掛けると、みんなに無駄骨を折らせたことになってしまう」
「どうもよく分らないな、なぜあなたは躊躇《ためら》うんだろう。このまま、祭日だけ勤めて、あとは仕事もないというような、普通の補祭を続けていると、十年|経《た》っても今とおんなじで、口髭《くちひげ》とあご鬚《ひげ》がふえるくらいだろうが、探険に行って来たとなると、同じ十年間であなたは全く違った人間になる。何事かを為《な》したという意識によって豊かな人間になれるんです」
女たちの馬車から恐怖と感歎の叫び声が聞えた。馬車の列は垂直な岩壁の中腹を切り開いた道を通っていたので、ちょうど背の高い壁に取りつけた棚《たな》の上を走っているような気分であり、今にも馬車が谷底へ転落しそうに見えたのである。右手には海が拡がり、左手には、黒い斑点《はんてん》や赤い岩脈の上を大きな木の根の這《は》う、でこぼこした褐色《かっしょく》の壁があり、頭上には、まるで恐怖と好奇心から下を覗《のぞ》きこんでいるような、鬱蒼《うっそう》たる針葉樹が覆《おお》いかぶさっていた。少し経って、再び金切り声と笑い声。押しかぶさるような巨岩の下を通り抜けたのである。
「一体全体なんだってきみたちのお伴をしなきゃならんのか」と、ラエーフスキーが言った。
「実に愚劣で俗悪だ! ぼくはわが身を救うために北へ逃げ出さなくちゃならないのに、どういうわけか、この馬鹿げたピクニックに参加したりして」
「まあ見てごらん、凄いパノラマだ!」と サモイレンコが言い、馬車は左へ曲って、黄色い川の谷地が展《ひら》け、川そのものもきらりと光った。黄色く濁った狂気の川……
「ぼくはちっとも感心できないな、サーシャ」と、ラエーフスキーは答えた。「いついかなるときでも自然に感動するということは、自分の想像力の貧しさを語ることにほかならない。ぼくの想像力が与えてくれるものと比べれば、こんなちっぽけな川や岩は屑《くず》以外の何物でもないね」
馬車の列はすでに川の岸辺を走っていた。両岸の切り立った岩壁はお互いに少しずつ接近し、谷は次第にせばまって、行く手は狭間《はざま》になっていた。道ばたの岩山は造化の手が巨大な岩石ばかりを寄せ集めたかと思われるようで、巨岩が互いに凄《すさ》まじい力で押し合いへし合いしている様を見るたびに、サモイレンコは思わず知らず唸《うな》り出すのだった。薄闇《うすやみ》の迫った美しい山のところどころに細い裂け目や狭間があり、そこから湿っぽい神秘的な風が旅行者たちに吹きつけてきた。狭間のむこうには、褐色《かっしょく》の、バラ色の、薄紫の、煙色の、あるいは明るい光を浴びた、彼方《かなた》の山々が見えた。馬車が狭間の前を通りすぎるとき、どこか高い所から水がしたたり落ちて岩を打つ音が時折聞えた。
「ああ、いやな山だ」とラエーフスキーが溜息《ためいき》をついた。「ぼくはもううんざりだ!」
黒い川が黄色い川に流れこみ、インクのように黒い水が黄色い水を汚《よご》しつつ、それと戦っているあたりの道ばたに、ダッタン人ケルバライの居酒屋があった。屋根の上にはロシアの旗が立ち、看板にはチョークで「愉快な居酒屋」と書いてあった。建物のまわりは編み垣《がき》をめぐらした小さな庭で、テーブルやべンチが置いてあり、みすぼらしい茨《いばら》の茂みの中に一本だけ美しい暗い糸杉がそそり立っていた。
背の低い敏捷《びんしょう》なダッタン人のケルバライは青い上衣に白いエプロンという姿で道に立っていたが、馬車が近づいて行くと手を腹に当てて深々とお辞儀をし、よく光る白い歯を見せて微笑した。
「よう、ケルバライカ〔「ケルバライ」という名前を間違えて〕!」と、サモイレンコが叫んだ。「もう少し先へ行くから、サモワールと椅子を持って来てくれ! 急げよ!」
ケルバライは刈り上げた頭を縦に振って、何か呟いたが、その声は最後尾の馬車に乗っている人にしか聞えなかった。「岩魚《いわな》がございます、閣下」
「持って来い、持って来い!」と、フォン・コーレンがケルバライに言った。
居酒屋から五百歩ほどの所で、馬車の列はとまった。サモイレンコは小さな草原を選定した。そこには腰を下ろすのに便利な石が散らばっており、嵐《あらし》に倒された一本の樹が、毛のようにからみ合った根や、枯れた黄色い棘《とげ》をあらわにして横たわっていた。すぐ背の川には、丸太を組んだ頼《たよ》りない橋が渡してあり、向う岸のちょうど正面には、四本の低い杙《くい》を脚にした小さな納屋があった。それはトウモロコシを乾《ほ》すための小屋で、お伽話《とぎばなし》に出てくる鶏の足の小屋を思い出させた。戸口には小さな梯子《はしご》があった。
一同の第一印象は、ここからは絶対に脱け出せないという感じだった。どちらを向いても、そびえ立ち、のしかかる山々ばかりで、居酒屋と暗い糸杉の方からは、恐ろしいような速さで夕闇が押し寄せ始め、その夕闇のせいだろうか、狭い曲りくねった黒い川の狭間はいっそう狭く、山々はいっそう高く見えるのだった。川の唸《うな》り声と、ひっきりなしに啼《な》く蝉《せみ》の声が聞えた。
「うっとりするわ!」と、嬉《うれ》しそうに息を深く吸いこみながら、マリヤ・コンスタンチーノヴナが言った。「お前たち、ごらんなさい、すてきでしょう! なんて静かなんでしょう!」
「そう、本当にすてきだ」と、この景色が気に入ったラエーフスキーは合槌《あいづち》を打った。そして空を眺め、居酒屋の煙突から立ち昇る青い煙を眺めると、どうしたわけか彼は突然悲しくなった。「そう、すてきだ!」と、彼は繰返した。
「イワン・アンドレーイチ、この景色を描写して下さいません」と、マリヤ・コンスタンチーノヴナが潤《うる》んだ声で言った。
「どうして」と、ラエーフスキーが尋ねた。「印象はいかなる描写にも勝ります。印象というものを通じて、だれでもが自然から受けとることのできる豊かな色彩や音は、作家どもに喋《しゃべ》りちらされると、醜悪な、似ても似つかぬものになってしまう」
「そうかな」と、水ぎわの一番大きな石を選んで、そこに坐ろうとよじ登りながら、フォン・コーレンが冷やかに尋ねた。「そうかな」と、ラエーフスキーをまともに見つめてもう一度繰返した。「じゃ、『ロミオとジュリエット』は? でなければ、プーシキンの『ウクライナの夜』は? 自然はすべからく、これらの作品の前にひざまずくべきだ」
「そうかもしれない……」と、考えたり反駁《はんばく》したりするのが億劫《おっくう》なラエーフスキーは同意した。「しかしですよ」と、少し経って言った。「そもそも、ロミオとジュリエットとは何だろう。美しい詩的な神聖な恋といっても、腐敗物を隠すためのバラの花だ。ロミオだって一般の人間と同じ生きものじゃないですか」
「あなたは何の話をしても、結論はすべて……」
フォン・コーレンはカーチャの方をちらりと見て、口をつぐんだ。
「結論はすべて、何ですか」と、ラエーフスキーが尋ねた。
「たとえば、だれかが『なんときれいな葡萄《ぶどう》の房だろう!』と言うと、あなたは『そう、しかし人間に食われて、胃の中で消化されるときは醜悪だよ』と言う。なんのためにそんなことを言うんです。特に新しい意見でもないし……なんというか、妙な癖だ」
ラエーフスキーは、フォン・コーレンに好かれていないことを知っていたので、この男がなんとなく恐ろしく、この男の前では、みんなが窮屈がっているような、背後にだれかが立っているような感じに襲われるのだった。彼は何も答えずにその場から離れ、出掛けてきたことを悔んだ。
「諸君、焚火《たきび》用の枯枝を集めに出発!」と、サモイレンコが号令をかけた。
みんな好き勝手な方角へ散って行き、あとにはキリーリンと、アチミアノフと、ニコジム・アレクサンドリッチだけが残った。ケルバライが椅子を運んで来て、地面に敷物を敷き、葡萄酒の壜《びん》を何本か並べた。署長のキリーリンは背の高い堂々たる男で、どんな天気の日にも夏服の上に外套《がいとう》を着ていたが、その傲然《ごうぜん》たる態度といい、勿体《もったい》ぶった歩き方といい、少し嗄《しわが》れた太い声といい、田舎警察の若手の刑事部長を連想させるのだった。その表情は、たった今むりやり起されたような、悲しげな寝呆《ねぽ》け顔だった。
「おい、なんだこりゃ、貴様、何を持って来た」と、一語一語ゆっくりと、署長はケルバライに尋ねた。「クワレリを持って来いと言ったのに、ダッタン野郎、何を持って来たんだ。え? 何だと?」
「私たちの酒がたくさんあるじゃありませんか、エゴール・アレクセーイチ」と、おずおずした丁寧な口調で、ニコジム・アレクサンドリッチが口を挟《はさ》んだ。
「なんですと? しかし私は私の酒が欲《ほ》しいのです。このピクニックに参加したからには、自分の酒を飲む充分の権利があるものと考えます。そう考えます、私は! クワレリを十本持って来い!」
「どうしてそんなにたくさん?」と、キリーリンに金がないことを知っている、ニコジムは驚いて言った。
「二十本だ! 三十本!」と、キリーリンがわめいた。
「いいから放っておきなさい」と、アチミアノフがニコジムに耳打ちした。「私が払います」
ナジェージダ・フョードロヴナは愉快な、いたずらっぽい気分だった。跳《は》ねたり、笑ったり、叫んだり、だれかをからかったり、だれかに媚《こ》びたりしたかった。青い水玉模様の安物の更紗《さらさ》の服を着て、赤い靴をはき、例の麦藁帽子をかぶったところは、我ながら蝶々《ちょうちょう》のように小さくて、無邪気で、身軽で、妖精《ようせい》めいているように思われた。彼女は頼りない丸太の橋を走って渡りかけ、ちょっと水面《みのも》を覗《のぞ》きこんで、たちまち目がまわり、悲鳴を上げて向う岸の乾燥小屋めがけて走ったが、そのとき男たちがみんな、ケルバライまでが自分の後ろ姿に見惚《みと》れているような気がした。迅速《じんそく》に迫って来る夕闇の中で、木々が山々と、馬が馬車と一つに溶け合い、居酒屋の窓にあかりがともったとき、ナジェージダは岩と茨《いばら》の茂みの間をうねる小径《こみち》を伝って丘に登り、一つの石に腰を下ろした。下ではもう焚火が燃えていた。火のまわりを、袖《そで》をたくしあげた補祭が歩きまわり、その細長い黒い影は輻《や》のように焚火の周囲を回転していた。補祭は枯枝を火にくべたり、長い棒の先につけたスプーンで鍋《なべ》の中身をかきまわしたりしていた。赤銅色の顔をしたサモイレンコは自宅の台所にいるときと同じように、火のまわりをせかせか歩きながら猛烈な勢いで叫んでいた。
「塩はどこです、諸君。まさか忘れて来たんじゃないだろうね。なんだってみんな地主みたいに坐りこんでるんだ、ぼく一人を働かせて」
ラエーフスキーと、ニコジム・アレクサンドリッチは倒れた樹に並んで腰かけ、物思わしげに焚火を眺《なが》めていた。マリヤ・コンスタンチーノヴナと、カーチャと、コースチャは、籠《かご》から茶碗《ちゃわん》や皿を取出していた。フォン・コーレンは腕を組み、片足を岩に掛けて、水ぎわに立ち、何か考えこんでいた。焚火の赤い斑点《はんてん》は、黒い人影のまわりの地面を影といっしょに右往左往し、丘や、木や、橋や、乾燥小屋の上で震えていた。反対側では、水の穿《うが》った穴だらけの険しい岸がすっかり照らし出されて、ちらちらと川面《かわも》に映り、荒々しい急流がその反映を千々に砕いていた。
補祭は、ケルバライが川べりで腸《わた》を抜いて洗っている魚を受取りに行ったが、途中で立ちどまり、あたりを眺めた。
『ああすばらしい眺めだ!』と補祭は思った。『人間と、岩と、焚火と、夕闇と、醜い一本の樹――ほかには何もないが、なんというすばらしい眺めだろう!』
向う岸の乾燥小屋のあたりに幾つかの見馴《みな》れぬ人影が現われた。あかりがちらつき、焚火の煙がそちらへ流れて行くので、それらの人々を一度に見定めることはできず、毳立《けばだ》った帽子や、白い頬《ほお》ひげや、青い上衣や、肩から膝《ひざ》までぶら下がっているボロ布や、腹の上に斜めにくくりつけてある短剣や、まるで炭で描いたように濃いくっきりした黒い眉毛《まゆげ》をもつ若々しい浅黒い顔など、いろいろなものが部分的に見えた。なかの五、六人は円陣を作って地べたに坐り、残りの五、六人は乾燥小屋へ入って行った。一人が焚火に背を向けて戸口に立ち、両手をうしろに組んで何やら喋り出したが、それはよほど面白い話であるらしい。というのは、ちょうどそのときサモイレンコが枯枝をくべて焚火が燃え上がり、火花が散って、乾燥小屋が明るく照らし出されたので、小屋の中で一心に聴き耳を立てている二つの穏やかな顔が浮び上がり、円陣を作っている人たちも頸をまげてその話に聴き入り始めたのが見えたのである。少し経って、円陣を作っていた人たちが、のんびりした節回しの歌を静かな声で歌い出した。それは大斎《たいさい》期に教会で歌う歌に似ていた……その歌声を聴きながら、補祭は自分が十年後に探険から帰って来たときのことを空想していた。彼は若い修道司祭兼伝道僧であり、赫々《かつかく》たる経歴をもつ有名な著述家だ。管長に推され、やがて大主教になる。大本山で祈祷式《きとうしき》を司《つかさど》る。黄金色の礼帽をかぶり、首から胸章を下げて、説教台に現われ、三枝|燭台《しょくだい》や二枝燭台で会衆を祝福しながら、大声で聖句を称《とな》える。『主よ、天より見守り給え、御手もて植え給いしこの葡萄畑を訪れ給え!』そして子供たちは天使のような声で応《こた》えて歌う。『聖なる主よ……』
「補祭さん、魚はどこです」と、サモイレンコの声がした。
焚火のそばに戻ると、補祭は、七月の暑い日に埃《ほこり》っぽい道を行く十字架行列の有様を心に描き始めた。先頭を行く百姓たちは教会旗を担《かつ》ぎ、女房や娘たちは聖像を捧《ささ》げ持ち、そのうしろを聖歌隊の少年たちが進み、顔を布で包み髪に藁《わら》をさした寺男が行き、そのうしろが彼すなわち補祭で、その次は丸い帽子をかぶり十字架を持った役僧、そして百姓たち、女房たち、子供たちが群れをなして埃を立てながらついて来る。そのなかにはプラトークをかぶった役僧の細君や、補祭の細君もいる。聖歌隊が歌い、子供たちが叫び、ウズラが啼き、ヒバリも歌い出す……行列が停止し、群衆に聖水が振りかけられる……また動き出し、ひざまずいて雨乞《あまご》いをする。それから食事、世間話……
『これも悪くない……』と補祭は思った。
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七
キリーリンとアチミアノフは小径づたいに丘へ登った。アチミアノフは遅れて途中で立ちどまり、キリーリン一人がナジェージダに近寄った。
「今晩は!」と、署長は挙手の礼をして言った。
「今晩は」
「そうなのです!」と、空を見上げ、考えながらキリーリンが言った。
「そうなのですって何が?」と、少し間を置いて、アチミアノフが二人を見守っているのを意識しながら、ナジェージダが尋ねた。
「つまりですな」と署長はゆっくりと喋《しゃべ》り出した。「われわれの恋は、いうなれば花開く前に凋《しぼ》んでしまったわけです。あのことをどう解釈せよとおっしゃるのですか。あなたにしてみれば単なるコケットリーだったのですか、それともこの私はどうあしらわれても構わない青二才だというふうにお考えなのですか」
「あれは間違いでした! 私につきまとわないで下さい!」と、ナジェージダは鋭く言った。この奇蹟《きせき》のように美しい宵にそむいて、怯《おび》えた彼女は相手を見つめ、ふしぎな気持で自問するのだった。自分がこの男を好きになり、気を許したなどということは、一体本当にあったことなのだろうか。
「なるほど!」と、キリーリンは言った。そして無言で暫《しばら》く立っていてから、再び口を開いた。
「まあいいでしょう。あなたの御機嫌《ごきげん》が直るまで暫く待つことにしますが、これだけははっきり申上げておきます。私は一人前の男であって、その点を疑うことはなんぴとにも許しません。私をからかうことは許されんのです! アディユ!」
署長は挙手の礼をすると、草むらを分けて立ち去った。少し経《た》って、どっちつかずの足どりで、アチミアノフが近づいて来た。
「いい晩ですね、今夜は!」と、軽いアルメニア訛《なま》りで言った。
彼は一応の美男子で、流行の服装をし、育ちのよい青年らしく態度もさっぱりしていたが、ナジェージダはこの青年の父親に三百ルーブリ借りがあったので、この青年も好きではなかった。それに小商人がこのピクニックに招かれていることは不愉快だったし、選《よ》りに選ってこんなに気分の晴ればれしている宵にこの青年が接近してきたことも不愉快だった。
「ピクニックはまずまず成功でしたね」と、少し黙っていてから青年は言った。
「ええ」と彼女は合槌《あいづち》を打ち、ここで初めて借金のことを思い出したように、さりげなく言った。
「そうだわ、お店の方におっしゃっていただけません、二、三日中に主人が三百ルーブリ……だったかしら、よく覚えていませんけど、とにかくお返しに伺いますから」
「そのお金のことを毎日のようにおっしゃるのをやめて下さるなら、あと三百ルーブリ御用立てしても構わないんですが。どうしてそう散文的なんですか」
ナジェージダは笑い出した。もしも自分があまり道徳的ではない女で、その気になったとすれば、借金はあっという間に消えてしまうのだという滑稽《こっけい》な考えが浮んだのである。例《たと》えばの話、この若い馬鹿な美男子をのぼせあがらせたとしたら! どんなに滑稽で、馬鹿げた、途方もないことになるだろう! そして彼女は急に、この青年を自分に惚《ほ》れこませて、搾《しぼ》れるだけ搾り取り、それから捨ててやったら一体どういうことになるものか、見とどけたくなった。
「あの、一つだけ御忠告したいんです」と、アチミアノフはこわごわ言った。「あのキリーリンに気をつけて下さい。彼はあなたについて方々でひどいことを言い触らしているんです」
「馬鹿なひとにどう言い触らされていようと、私は興味ありませんわ」と、ナジェージダは冷やかに言ったが、心の中は急に不安でいっぱいになった。そしてこの美しいアチミアノフ青年をもてあそぶという滑稽な考えも、とつぜん魅力を失ってしまった。
「もう下りて行かないと」と彼女は言った。「呼んでるわ」
下では魚スープがもう出来上がっていた。それをめいめいの皿に取分け、ピクニックでなければ見られぬ恭《うやうや》しさで一同は食べた。そして誰もが、このスープは実にうまい、こんなうまいものは家では食べたことがない、と言うのだった。そしてピクニックではよく起ることだが、まもなくナフキンや包み紙や、風に追われてあちこちへ移動する不要の油紙などの山のなかで、一同はわけが分らなくなり、どこにだれのコップがあるのか、どこにだれのパンがあるのかも判然とせず、葡萄酒《ぶどうしゅ》を敷物や自分の膝《ひざ》に注いでしまったり、塩をこぼしたりした。あたりは暗く、焚火《たきび》のあかりももう大して明るくないのだが、立って行って枯枝をくべるのは、だれもが億劫《おつくう》なのだった。一同は葡萄酒を飲み、コースチャとカーチャにはコップ半分ずつ与えられた。ナジェージダは一杯飲み干し、もう一杯飲み、酔っぱらって、キリーリンのことは忘れてしまった。
「豪華なピクニック、魅力的な夜」と、ほろ酔いのラエーフスキーは言った。「にもかかわらず、ぼくは冬のほうが好きだな。『厳寒《モロース》の埃《ほこり》は海狸《ビーバー》の襟《えり》に銀《しろがね》と光る』〔プーシキン『オネーギン』の一節〕」
「蓼喰《たでく》う虫も何とやらか」と、フォン・コーレンが言った。
ラエーフスキーは気まずさを感じた。彼の背中は焚火の熱気に押され、胸と顔はフォン・コーレンの憎しみに圧迫されていた。頭のいい一人前の男のこの憎しみは、正当な理由を内に秘めているらしいだけに、いっそうラエーフスキーを傷つけ、挫《くじ》くのだった。その憎しみに張り合うだけの力をもたぬ彼は、媚《こ》びるような口調で言った。
「ぼくは自然を熱烈に愛しているから、自分が自然科学者でないことが残念でたまらない。あなたが羨《うらや》ましいな」
「あら、私は残念でもないし、羨ましくもないわ」と、ナジェージダが言った。「カブトムシやコガネムシの研究なんかしている人の気持が私には分らないの。民衆は苦しんでいるのに」
ラエーフスキーも同じ意見だった。自然科学のことは全然分らないので、アリの触角だとかゴキブリの足だとかに没頭している人々の権威ありげな口調や、深刻ぶった学者|面《づら》には我慢がならなかったし、そういう人たちが触角だの足だの、それに原形質とやら(それはなぜか彼には牡蠣《かき》のようなものに思えるのだった)を土台として、人類の起原や生態を含む大問題を解こうとしていることは、腹立たしくてたまらなかった。しかしナジェージダの言葉にも嘘が見えすいていたので、彼女をやりこめるためにだけ、ラエーフスキーは言った。
「問題はコガネムシじゃなくて、科学の成果ということなんだ!」
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八
夜がふけて、十時を過ぎ、一同は帰りの馬車に乗り始めた。みんな乗ってしまって、足りないのはナジェージダとアチミアノフだけだった。二人は向う岸で、げらげら笑いながら追い駆けっこをしていた。
「おおい、早くしてくれ!」と、サモイレンコが二人に叫んだ。
「だから女に酒を飲ませちゃいかんのだ」と、フォン・コーレンが小声で言った。
ピクニックに疲れ、フォン・コーレンの敵意と自分のさまざまな思いに困憊《こんぱい》しきったラエーフスキーは、ナジェージダを迎えに行った。すっかり陽気になり、羽毛のように軽い気分のナジェージダは、息を弾《はず》ませて笑いながら、ラエーフスキーの両手をつかまえ、彼の胸に頭を押しつけてきた。ラエーフスキーは一歩うしろへ下がって、厳《きび》しく言った。
「よしなさい、みっともない、まるで……娼婦《しょうふ》だ」
ラエーフスキー自身、女がかわいそうになったほど、この言葉はひどく乱暴に響いた。ナジェージダは男の腹立たしげな疲れきった顔に、自分への憎しみと、憐《あわ》れみと、苛立《いらだ》ちとを読みとり、とつぜん気持が萎《な》えしぼむのを感じるのだった。自分が調子に乗りすぎたこと、あまりにも無遠慮にふるまったことを悟って、彼女はすっかり悲しくなり、自分が鈍重な、肥満した、粗野な酔いどれ女になったように感じながら、手近な空馬車《あきばしゃ》にアチミアノフと一緒に乗りこんだ。ラエーフスキーはキリーリンと、動物学者はサモイレンコと、補祭は女たちと、それぞれ同乗して、馬車の列は動き出した。
「あれがキツネ猿の夫婦の実態だ……」と、フォン・コーレンはマントにくるまって、目を閉じ、喋《しゃべ》り出した。「聞いたかい、あの女は民衆が苦しんでいるときカブトムシやコガネムシの研究などできないそうだ。あれが猿どものわれわれ科学者にたいする判断の仕方なのさ。何百年も笞《むち》と拳《こぶし》で脅やかされてきた狡猾《こうかつ》な奴隷どもの種族だ。暴力の前では震えあがって、おとなしくなって、おべっかを使うが、だれにも首根っこを抑《おさ》えられぬ自由の天地へ放してみろ、たちまち増長して勝手な熱を吹きやがる。展覧会や、博物館や、劇場で、あの牝猿《めすざる》がどれほど生意気に振舞うか見てごらん。でなきゃ、どんなふうに科学を論じるか。気取ったり、後脚で立ちあがったり、罵《ののし》ったり、批判したり……そう、必ず批判する! これが奴隷の特徴さ! いいかね、自由業の人間の方がペテン師連中よりも罵られることが多いのは、つまり、社会の四分の三が奴隷どもから成り立っている、ああいうキツネ猿から成り立っているからなんだ。奴隷が手を差しのべて、われわれの仕事に心底から感謝するということは、まずあり得ないね」
「一体きみは何を言いたいんだ!」と、サモイレンコがあくびをしながら言った。「かわいそうに、あの婦人はごく無邪気に、ちょっと気のきいたことを言ってみただけなんだ。だのにきみは大層な結論を出すんだからな。なんだか知らんが、ラエーフスキーに腹を立てているからといって、あの婦人まで巻添えにすることはないだろう。立派な婦人なのに!」
「よしてくれ! あれはただの妾《めかけ》、身持ちの悪い、俗悪な妾じゃないか。いいかね、アレクサンドル・ダヴィーディチ、もしも亭主と別れた普通の女が、のらくらと、面白おかしく日を送っているのを見たら、きみだって、まじめに働け、と言ってやりたくなるだろう。だとすると、この場合、妙に遠慮して、本音を吐くのを恐れるのはなぜだ。ナジェージダ・フョードロヴナが船乗りの妾じゃなくて役人の妾だからか」
「ぼくにあの婦人をどうしろと言うんだ」と、サモイレンコは癇癪《かんしゃく》を起した。「殴《なぐ》れとでも言うのか」
「悪徳を甘やかすなということだ。われわれはいつも蔭《かげ》で悪徳を呪《のろ》うけれども、それじゃまるで負け犬の遠吠《とおぼ》えじゃないか。ぼくは動物学者、あるいは社会学者だ、ということは、きみが医者であるのと同じことだ。社会はわれわれを信頼している。だからわれわれには、あのナジェージダ・イワーノヴナのような女の存在が現在の社会や未来の世代におよぼす恐ろしい害毒を、社会にむかって指摘してやる義務があるんだ」
「フョードロヴナだよ」と、サモイレンコは訂正した。「で、社会はどうすりゃいいんだね」
「社会が? それは社会の勝手さ。ぼくに言わせれば、最も直接的で確実な方法は強制だね。軍車力《マヌ・ミリターリ》によってあの女を亭主の家へ強制的に送り返す。もしも亭主が引取らなかったら、流刑地へ送るか、あるいは何らかの矯正施設へ入れてしまえばいい」
「ふう!」と、サモイレンコは溜息《ためいき》をつき、少し黙っていてから小声で尋ねた。「きみはこのあいだ、ラエーフスキーのような人間は絶滅しなきゃならんと言ったね……だったら、もしもだよ……国家なり社会なりが、きみに彼の絶滅を任せたとしたら、きみは……実行できるか」
「手も震えずにやるだろうね」
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九
帰って来ると、ラエーフスキーとナジェージダは、自分たちの暗い蒸し暑い退屈な住居へ入った。二人とも無言だった。ラエーフスキーは蝋燭《ろうそく》をつけ、ナジェージダは腰を下ろして、マントも帽子も取らずに、悲しそうな、申しわけなさそうな目で彼を見上げた。
彼女が言いわけを待っていることがラエーフスキーには分ったが、言いわけをしても退屈で無益で、うっとうしいだけだし、さっき自分がたまりかねて乱暴なことを言ってしまったために、心の中は重苦しかった。偶然、ポケットの中の手紙に指が触れた。毎日持ち歩いて今日こそは読んでやろうと思っていた手紙である。今この手紙を見せれば、彼女の注意が別の方向にそれるだろうと、ラエーフスキーは思った。
『とにかくわれわれの関係をはっきりさせるべき時だ』と彼は思った。『見せてやろう。あとはなるようになれ』
彼は手紙を出して、彼女に渡した。
「読みなさい。きみと関係のあることだ」
そう言うと、書斎に入って、暗闇《くらやみ》の中で枕もせずに長椅子に横たわった。ナジェージダは手紙を通読して、天井が下がってくるような、壁が自分に迫ってくるような気持に襲われた。あたりは俄《にわ》かに狭苦しく、暗く、恐ろしくなった。彼女は急いで十字を一二度切り、祈りの文句を称《とな》えた。
「主よ、安らぎを……主よ、安らぎを……」
そして泣き出した。
「ワーニャ!」と彼女は呼んだ。「イワン・アンドレーイチ!〔「ワーニャ」よりも改まった言い方である〕」
返事はなかった。ラエーフスキーが部屋に入って来て、椅子のうしろに立っているのだと思ったナジェージダは、赤ん坊のようにしゃくり上げながら言った。
「あの人が死んだこと、どうして今まで教えてくれなかったの。知っていれば、ピクニックには行かなかったし、あんな馬鹿笑いもしなかったのに……男の人たちにいやらしいことを言われたのよ。ああ、罪深い、罪深いわ! 私を助けて、ワーニャ、助けて……私、気が変になったわ……もうお終《しま》いだわ……」
ラエーフスキーは彼女の啜《すす》り泣きを聞いていた。我慢できないほど蒸し暑く、心臓は激しく打っていた。やりきれない気持で起き上がり、部屋のまんなかに暫《しばら》く立っていてから、彼は手をのばしてテーブルのそばの肘掛椅子《ひじかけいす》を暗闇の中で探りあて、腰を下ろした。
『まるで監獄だ……』と彼は思った。『逃げ出さなきゃ……もうやりきれない……』
トランプをしに行くにはもう遅いし、この町にはレストランもなかった。彼は再び横になり、啜り泣きが聞えぬように耳をふさいだが、サモイレンコの家になら行けると、突然思い出した。そこで彼はナジェージダのそばを通らずにすませるために、窓から庭へ飛び下り、垣根《かきね》を乗り越えて、道を歩き出した。暗かった。一隻の汽船が今しがた着いたところで、灯火の様子から察するに大きな客船らしい……錨《いかり》の鎖ががらがらと鳴り始めた。岸からその船にむかって、赤い灯が急速に近づいて行った。税関の艀《はしけ》である。
『船室でみんな平和に眠っている……』と、ラエーフスキーは考え、他人の安らかさを羨《うらや》ましく思った。
サモイレンコの家の窓はあけっぱなしになっていた。ラエーフスキーは一つの窓を覗《のぞ》きこみ、もう一つを覗きこんだ。部屋の中はまっくらで静かだった。
「アレクサンドル・ダヴィーディチ、寝たかい」と彼は呼んだ。「アレクサンドル・ダヴィーディチ!」
咳払《せきばら》いと、怯《おび》えたような叫び声が聞えた。
「だれだ。何者だ」
「ぼくだよ、アレクサンドル・ダヴィーディチ。悪いな」
少し経《た》って、ドアがあいた。燭台《しょくだい》のやわらかな光がゆらめき、白いパジャマに白い帽子をかぶったサモイレンコの大きな姿が現われた。
「どうしたんだ」と、まだ目が醒《さ》めきっていない荒い息使いで、うなじを掻《か》きながら、サモイレンコは尋ねた。「ちょっと待て、いま閂《かんぬき》を外《はず》すから」
「いいよ、窓から入る……」
ラエーフスキーは窓から這《は》いこみ、サモイレンコに近づくと、その手を握った。
「アレクサンドル・ダヴィーディチ」と、震える声で言った。「ぼくを助けてくれ! 頼むから、拝むから、分ってくれ! ぼくの現状はもう最悪なんだ。これがあと一、二日続いたら、自分で自分の首を締めなきゃならない、まるで……まるで犬でも締め殺すようにね!」
「ちょっと待ってくれ……そりゃ一体なんのことだ」
「あかりをつけてくれ」
「おう、おう……」と、サモイレンコは溜息《ためいき》をつき、蝋燭《ろうそく》をともした。「呆《あき》れたね……きみ、もう一時すぎだぞ」
「申しわけない、でもとても家にいられなかったんだ」と、あかりとサモイレンコの存在にずっと気が楽になったのを感じながら、ラエーフスキーは言った。「アレクサンドル・ダヴィーディチ、きみはぼくの唯一の、最良の友だ……すべての希望はきみにかかっている。頼むから、何がどうあろうと、とにかくぼくを救ってくれ。ぼくは何がなんでもここから逃げ出さないきゃならない。金を貸してくれ!」
「やれやれ、全くなんてこった!」と、サモイレンコは体《からだ》を掻きながら溜息をついた。「うとうとすると汽笛が聞えて、汽船が入ってくる。叉《また》うとうとすると今度はきみだ……金はたくさん要るのか」
「少なくとも三百。彼女に百は残さなきゃならんし、ぼくの旅費に二百は要る……今までにもきみには四百ばかり借りているけど、あとで全部返すよ……全部……」
サモイレンコは両方の頬《ほお》ひげを片手で握って、脚を拡げ、考えこんだ。
「そう…」と考えながら呟《つぶや》いた。「三百か……そう……でも手許《てもと》にはそんなにないよ。だれかに借りなきゃならんな」
「借りてくれ、頼むよ!」と、サモイレンコの顔色から、相手が金を貸す気になっていること、きっと貸してくれることを見てとって、ラエーフスキーは言った。「借りてくれ、必ず返すから。ぺテルブルグに着いたら、すぐ送るよ。それはもう安心してもらって大丈夫だ。ところで、サーシャ」と、生き返ったようになって言った。「葡萄酒《ぶどうしゅ》を一杯やろうじゃないか!」
「そうだな……葡萄酒もわるくない」
二人は食堂へ入って行った。
「しかし、ナジェージダ・フョードロヴナはどうかな」と、葡萄酒の壜《びん》を三本と、桃を盛った皿をテーブルに置きながら、サモイレンコが尋ねた。「おとなしくここに残るだろうか」
「それはぼくがうまくやる、何もかもうまくやる……」と、思いもかけず喜びが涌《わ》き上がってくるのを感じながら、ラエーフスキーは言った。「あとで金を送って、彼女を呼び寄せるよ……二人の関係をはっきりさせるのはそれからだ。友よ、きみの健康のために」
「待て!」と、サモイレンコが言った。「まずこれを飲んでみてくれ……うちの葡萄畑のやつなんだ。この壜はナヴァリーゼの畑ので、こっちはアハトゥーロフのだ……三つとも飲んでみて、率直な意見を聞かせてくれ……うちのは少し酸味が強くてね。え? どうだい?」
「うん。お蔭《かげ》で気が安まったよ、アレクサンドル・ダヴィーディチ。ありがとう……生き返ったようだ」
「酸味が強いだろう?」
「さあ、分らないよ、そんなこと。しかしきみはすばらしい、実にいい人間だな!」
蒼白《あおじろ》い興奮した善良そうなラエーフスキーの顔を見ていると、サモイレンコは、こんな連中は絶滅しなければいけないと言ったフォン・コーレンの意見を思い出し、ラエーフスキーが弱い寄るべない幼児、いつだれに苛《いじ》められ殺されるか知れぬ幼児のように見えてくるのだった。
「帰ったらお母さんと仲直りをしなさいよ」と、サモイレンコは言った。「今のままじゃよくない」
「うん、そう、必ずそうする」
暫く二人は沈黙した。一本目が空《から》になると、サモイレンコが言った。
「フォン・コーレンとも仲直りするといい。きみたちは二人とも実に立派な優秀な人なのに、まるで狼《おおかみ》のように睨《にら》み合っているんだからな」
「そう、彼は実に立派な優秀な人だ」と、今はもう誰でも褒《ほ》め、誰でも赦《ゆる》してしまいたい気分で、ラエーフスキーは合槌《あいづち》を打った。「すばらしい男だけれども、彼と調子を合わせることはぼくはできないな。そう! 性格が違いすぎる。ぼくは無気力で、弱くて、だれかに従属せずにはいられない人間だろう。もしかすると、ぼくだってある場合には彼に手を差しのべるかもしれないが、彼は顔をそむけるだろうね……蔑《さげす》みをこめてね」
ラエーフスキーは葡萄酒を一口|呷《あお》り、部屋の隅《すみ》から隅へ一往復し、中央で立ちどまって言葉を続けた。
「ぼくにはフォン・コーレンという人間が実によく分る。あれは頑固《がんこ》な、強い、専制的な性格のもちぬしだ。彼がしじゅう探険の話をするのを聞いただろう。あれはただの無駄話じゃない。彼に必要なのは砂漠《さばく》や月夜なんだ。あたりのテントの中で、あるいは野天で、コサックや、案内人や、人夫や、医者や、僧侶《そうりょ》など、飢えて、病んで、強行軍に疲れ果てた連中が眠っているけれども、眠っていないのは彼一人、まるでスタンレーのように折畳《おりたた》み椅子に腰かけて、おれは砂漠の王だ、この連中の主人なのだと感じている。彼はどこかを指《さ》して歩きつづけ、部下たちは呻《うめ》き、一人また一人と死ぬが、彼はなおも進み、遂《つい》には自分も倒れる。それでも砂漠の専制君主、砂漠の王なのだ。なぜなら三、四十マイル先のキャラバンからも見える彼の墓の十字架が砂漠を支配しているのだからね。あの男が軍人でないのは残念だ。軍隊に入っていれば、きっとすばらしい天才的な指揮官になれたと思うな。自分の率いる騎兵隊を川に溺《おぼ》らせて、死体の橋をかけたかもしれない。戦争に必要なのは築城学や戦術よりも、そういうたぐいの勇敢さなんだ。ああ、ぼくにはあの人間が実によく理解できる! それにしても彼はなぜこんな土地でぶらぶらしているんだろう。ここに何の用があるんだろう」
「海の動物相の研究さ」
「いいや。それが違うんだな!」ラエーフスキーは溜息をついた。「船に乗り合せたある学者が言っていたが、黒海という所は動物相が貧弱で、硫化水素《りゅうかすいそ》が多すぎるために海底での有機体の生活は不可能なのだそうだ。だからまともな動物学者はみな、ナポリや、ヴィルフランシュの生物学研究所で仕事をしている。しかし、フォン・コーレンは頑固な一匹狼だ。彼が黒海で仕事をしているのは、ここではだれも仕事をしていないからなのさ。大学と縁を切り、学者仲間や友人と付き合おうとしないのは、彼が何よりもまず専制君主であり、然《しか》るのちに動物学者であるからなんだ。見ていてごらん、今に彼は大したものになるだろう。探険から帰って来たら、わが国のありとあらゆる大学から陰謀と凡庸さを一掃して、学者連中を徹底的に痛めつけることを、今から夢みているんだからね。戦争と同じく、科学の世界でも専制主義は強いんだ。とにかく彼がこの悪臭|芬々《ふんぷん》たる田舎町にもう二た夏も暮しているのは、町で二流たらんよりは田舎で一流たれ、というわけなのさ。ここでなら彼は王様だ、鷲《わし》だ。すべての住民を掌握し、自分の権威によってねじ伏せている。すべてを手中に収め、他人のことに干渉し、ありとあらゆることを要求するから、みんなにこわがられている。ぼくは彼の足の下から脱け出しかけているが、彼はそれを感じているから、ぼくを憎むんだね。ぼくを絶滅する必要がある、さもなきゃ失業対策事業でこき使えと、彼は言わなかったかい?」
「言ったよ」と、サモイレンコは笑い出した。
ラエーフスキーも笑い出し、葡萄酒を呷った。
「彼の理想も専制的なんだ」と、彼は言い、笑いながら桃をかじった。「死すべき普通の人間なら、公共の利益のために働くという場合、念頭にあるのは身近な者、ぼくとか、きみとか、要するに人間だろう。ところがフォン・コーレンにとっては、人間なんてただの犬っころと同じことで、自分の人生の目的とするには小さすぎるんだね。彼が仕事をしたり、探険に行って頸《くび》の骨を折ったりするのは、身近な者への愛のためじゃなくて、人類とか、未来の世代とか、人間の理想種とかいう抽象概念のためなんだ。彼は人間の種の改良に努力しているのであって、その観点からすれば、ぼくらなんぞ彼にとっては奴隷か、大砲の餌食《えじき》か、あるいは単なる駄獣にすぎない。彼はできることならある者を絶滅させ、あるいは流刑地に追放し、またある者は規律によって縛り、アラクチェーエフ〔アレクサンドル一世時代の陸軍大臣、反動政治家〕のように太鼓の合図で起床し就寝させ、僕らの貞操と美徳を守るために宦官《かんがん》を置き、ぼくらの狭い保守的な道徳の枠《わく》からはみだす者はすべて銃殺したいところだろうが、それもこれも人間の種の改良のためなんだからね……しかし人間の種とは一体何だ。幻想だ、蜃気楼《しんきろう》だ……昔も今も専制君主は幻想主義者なんだ。ぼくは彼という人間が実によく理解できるな。ぼくは彼を評価しているし、彼の価値を否定するものではない。彼のような人間にこそ世界は支《ささ》えられているのであって、もしも世界がぼくらのみに任せられでもしたら、ぼくらは自らの人の好さと善意とによって、例《たと》えば蝿《はえ》がこの絵にしたのと同じことを、この世界に対して、してしまうだろう。全くの話」
ラエーフスキーはサモイレンコのそばに腰を下ろし、まじめに熱っぽく言った。
「ぼくは空っぽな、下らない、堕落した人間さ! 今吸っている空気、この酒、恋愛、要するに生活全体を、ぼくは今まで嘘と怠惰と無気力とを代償に貰いつづけてきたんだ。ぼくは今日まで他人と自分を欺きつづけ、そのために苦しんできたが、その苦しみさえ安っぽい俗悪な苦しみだった。フォン・コーレンの憎しみを前にして、ぼくがおずおずと背を丸めるのは、ときどきぼく自身、おのれを憎み、蔑むからなんだ」
ラエーフスキーはまた興奮して部屋の隅から隅へ一往復し、喋《しゃべ》りつづけた。
「自分の欠点をはっきりと見たこと、それを意識したことが、ぼくは嬉《うれ》しいよ。これはきっと、ぼくが復活して、全然べつの人間になるための助けになるだろう。ねえ、きみ、きみには分ってもらえないかもしれないが、ぼくは熱烈に、心の底から自己革新を渇望しているんだ。誓ってもいいが、ぼくはまともな人間になる! きっとなる! 酒のせいでそんな気がするのか、それとも事実そうなのか分らないが、今夜ここで過したような明るい清らかな時間は久しく経験しなかったような気がする」
「ところで、きみ、もう寝なくちゃ……」と、サモイレンコが言った。
「そう、そう……失敬した。すぐ帰るよ」
ラエーフスキーは家具や窓のあたりをうろついて制帽を探した。
「ありがとう」と溜息《ためいき》をつきながら言った。「ありがとう……親切と、やさしい言葉は慈善に勝《まさ》る、か。きみのお蔭で生き返った」
制帽を見つけると、彼は体の動きを止め、すまなそうにサモイレンコを見た。
「アレクサンドル・ダヴィーディチ!」と、哀願するような声で言った。
「なんだい」
「悪いけど、泊めてくれないかな」
「構わないよ……そんなに改まらなくたって」
ラエーフスキーは長椅子に横になり、更に永いこと軍医とお喋りをつづけた。
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十
ピクニックから三日ばかり経《た》って、ナジェージダの住居に突然マリヤ・コンスタンチーノヴナが現われ、挨拶もせず帽子も取らずに、いきなりナジェージダの両手を掴《つか》むと、それを自分の胸に押しっけ、ひどく興奮したように言った。
「あなた、私もう興奮するやら、びっくりするやら。きのう、あの親切な軍医さんがうちのニコジムに教えて下さったんですけど、あなたの御主人がお亡《な》くなりになったんですって? これは、あの……本当の話ですの」
「ええ、本当よ、亡くなりました」と、ナジェージダは答えた。
「まあ、あなた、恐ろしいことだわ! でも不幸中の幸いとよく申しますでしょ。御主人様はきっと御立派な、すてきな、聖者のような方でしたでしょうから、そういう方はこの世よりも天国にいらっしゃるほうがふさわしいのよ」
まるで肌《はだ》の下で小さな無数の針が跳《は》ね始めたように、マリヤの顔のあらゆる線、あらゆる点が揺れ出し、夫人は巴旦杏《はたんきょう》のように甘い笑《え》みを浮べて、息を弾《はず》ませながら、勝ち誇ったように言った。
「とにかく、これであなたも自由の身ね。もう胸を張って、相手の目をまっすぐ見つめることがおできになるわけね。今後は神様も世間の人たちもあなたとイワン・アンドレーイチとの結びつきを祝福するでしょう。すてきなことだわ。なんだか嬉《うれ》しくって体が震えるみたい。なんと言ったらいいのか分らないわ。私あなたがたの仲人《なこおど》を勤めさせていただこうかしら……だって、ニコジムも私もあなた方が大好きでしたもの、あなた方の正式な清らかな結びつきを祝福させていただきたいのよ。それで、結婚式はいつになさるの」
「そういうことは考えていませんでしたわ」と、自分の手を引っこめながら、ナジェージダは言った。
「まあ、そんなことってないわ。お考えになったでしょう、もちろん」
「ほんとうに考えていなかったわ」と、ナジェージダは笑い出した。「どうして結婚式をしなければならないのかしら。ちっとも必要じゃないと思いますけど。これからも今までと同じように暮して行くだけですから」
「なんてことをおっしゃるの!」と、マリヤは恐ろしそうに言った。「本当にまあ、なんてことを!」
「結婚式をしても、べつに事態がよくなるわけじゃないわ。かえって悪くなるんじゃないかしら。お互いに自由を失うだけですものね」
「あなたという方は! まあ、なんてことをおっしゃるの!」と、マリヤは叫び、後退《あとずさ》りをして両手を打合せた。「それはあんまりよ! よく考えていただきたいわ! 落着いて!」
「落着くって、どうして。私はまだ本当の生活を知らないのに、落着けって言われても……」
実際、自分はまだ本当の、生活というものを知らないのだ、とナジェージダは今更のように思った。寄宿女学校を出て、好きでもない男に嫁《とつ》ぎ、やがてラエーフスキーと一緒になり、あとはずっとこの退屈な荒涼たる海辺で、何か、より良いことを待ちながら暮した。これが果して生活だろうか。
『やはり結婚すべきなのだろうか……』と彼女は思ったが、キリーリンやアチミアノフのことを思い出して、顔を赤らめながら言った。
「そう、そんなこと不可能だわ。たとえ、イワン・アンドレーイチがひざまずいて頼んだとしても、私は断わるでしょうね」
マリヤは悲しそうな、まじめくさった顔をして、空間の一点を見つめ、何も言わずに一分間ほど長椅子に坐《すわ》っていたが、まもなく立ち上がると冷たい声で言った。
「では、さようなら! お邪魔しましたわ。申上げにくいことですけれど、はっきり申上げてしまいます。今日限り、お付合いはお終《しま》いですわ。私、イワン・アンドレーイチを心から尊敬しておりますけれど、うちのドアはあなた方がいらしても開きません」
四角張ってこう言ってしまうと、自分の四角張った調子に圧倒されて、マリヤは再び顔を震わせ始めた。そしてたちまちやさしい巴旦杏《はたんきょう》のような表情になり、驚きかつ狼狽《ろうばい》しているナジェージダに両手を差しのべて、哀願するように言った。
「ねえあなた、一分間でいいから、あなたのお母さんか、お姉さんにならせて下さらない! 私、お母さんのように率直なお話がしたいのよ」
ナジェージダは、まるで自分の母親が本当に生き返って目の前に立っているような、温かさと喜ばしさが胸の内に涌《わ》き上がってくるのを感じ、相手の同情を感じた。そして発作的にマリヤにすがりつき、その肩に顔を埋めた。二人とも泣き出した。お互いの顔を見ず、一言も発することができずに、二人の女は長椅子に腰を下ろし、少しの間むせび泣くのだった。
「かわいいひとね、聴《き》いてちょうだい」と、マリヤがやがて口を開いた。「残酷かもしれないけど、遠慮せずに本当のことを言うわ」
「おっしゃって、おっしゃって!」
「あなた、私を信じてね。この町に住む女のなかで、あなたとお付合いしたのは私だけだってこと、思い出してね。最初の日から私はあなた方がこわかったけど、ほかの人たちのように蔑《さげす》みの目であなた方を見ることはできなかったわ。あの善良な、感じのいいイワン・アンドレーイチが、まるでわが子のように思えて、私ずいぶん苦しんだの。まだ世の中を知らない弱々しい若者が、知らない土地へ来て、お母様もいらっしゃらないと思うと、胸が痛んで、胸が痛んで……うちの主人は彼とお付合いすることに反対でしたけど、私が説得して……説き伏せて……それでイワン・アンドレーイチとお付合いすることになって、もちろん、あなたともお付合いしたわ。でなきゃ彼が気を悪くするでしょう。私には娘も息子もいるから……子供のやわらかな頭、清らかな心のことは、お分りでしょ……もしも子供たちの一人でも悪に染まったらと思うと……あなた方とお付合いしながら、私は子供のことを思って震えていたのよ。そう、あなたも母親になれば、私のこの恐怖はお分りになるわ。私があなたを、ごめんなさい、まともな女として扱うと言って、みんなびっくりするやら、あてこすりを言うやら……蔭口《かげぐち》や邪推はもちろんよ……ですから心の底では、私、あなたを責めていたけれど、あなたは不幸で、惨《みじ》めで、常軌を逸した方だから、私胸が痛むやら、お気の毒だと思うやら……」
「でも、なぜ。なぜ?」と、ナジェージダは全身を震わせながら尋ねた。「私、だれかに悪いことをしたかしら」
「あなたは恐ろしい破戒者よ。祭壇の前で御主人に立てた誓いを破ったんですもの。もしもあなたに出会いさえしなければ、身分の釣り合った良家のお嬢さんを正式にお貰《もら》いになって、今頃は世間並みの生活をしてらっしゃる筈《はず》の立派な青年を、あなたは誘惑したんですもの。彼の青春をあなたは台なしにしたのよ。何も言わないで、何も言わないでね、あなた! 女が罪を犯すのは男に責任があるなんてこと、私は信じない。悪いのはいつも女なのよ。男の方は家庭生活では軽率で、情《じょう》じゃなく頭で生きているから、いろいろ分らないことがあるみたいだけど、女は何もかも分るんですもの。すべては女次第なのよ。女にはたくさんのことが任されているから、要求されることも多いわけね。だってあなた、もしも女がこういう点で男より馬鹿で弱かったら、神様が育児の仕事を女にお任せになる筈がないでしょう。それからまた、あなたというひとは恥を忘れ果てて悪徳の小道に踏みこんだ。だって、ほかの女《ひと》なら、あなたのような立場に立った場合、人目を避けて家に閉じこもるのが普通でしょう。人前に出るのは教会でだけ、それも蒼《あお》い顔をして、黒い服を着て、さめざめと涙を流しているのならば、みんな心から同情して、『神さま、罪を犯した天使が再びあなたの御許《みもと》に帰ろうとしております……』と言うでしょう。ところが、あなたときたら、慎みということをすっかり忘れて、まるで罪を誇りにしてでもいるように、あけっぴろげな、常軌を逸した生活ぶりで、遊びまわったり、笑ったりですもの、そういうあなたを見ていて、私、恐ろしさに震えたのよ。あなたが私たちの家に来てらっしゃるときに、天から雷が落ちやしないかと思って。いえ、あなた、何も言わないで、何も言わないで!」と、何か言いそうになったナジェージダを見て、マリヤは叫んだ。「私を信じてね。あなたを欺《だま》したり、あなたの心の目をごまかしたりする気は、ちっともないんですから。とにかく話を聴いて欲《ほ》しいの……神様は破戒者にしるしをおつけになるでしょう。あなたにもしるしがついているのよ。思い出してごらんなさい、あなたのお召しものはいつもひどかったわ!」
服装に自信のあるナジェージダは泣きやんで、びっくりしたように相手の顔を見た。
「そうよ、ひどかったわ!」と、マリヤは続けた。「あなたのお召しものの粋《いき》なところ、派手なところを見れば、だれにだってあなたの品行は知れるわ。みんなあなたを見て、唄ったり肩をすくめたりするのが、私はもう辛《つら》くて辛くて……それに、ごめんなさいね、あなたには清楚《せいそ》なところがないわ! いつか脱衣場でお目にかかったときも、私思わず身震いしてしまった。上着はまあまあですけど、スカートや、スリップは……あなた、今思い出しても顔が赤くなるみたい! お気の毒なイワン・アンドレーイチにしたところで、ネクタイをきちんと結んであげるひともいないのね。あの方のワイシャツや靴を見れば、世話をしてあげる人間が家にいないということがよく分ります。それにあなた、彼はいつもお腹《なか》を空《す》かしているのよ。だって家にサモワールやコーヒーの世話をする人がいなければ、月給の半分を茶亭《パヴィリオン》で費《つか》ってしまうのも仕方がないことでしょう。それにお宅の中の様子といったら、恐ろしい、恐ろしいわ! この町には蝿《はえ》のいる家なんて一軒もないのに、お宅じゃ蝿が多すぎてどうしようもないくらい。お皿も小皿もまっ黒でしょう。窓やテーブルも、ごらんなさいな、埃《ほこり》、蝿の死骸《しがい》、コップの行列……どうしてあんなにコップが並んでいるのかしら。それにお宅じゃ食卓を片付けたことは一度もないんじゃありません? それからお宅じゃ、寝室には恥ずかしくって入れやしない。到る所に下着が散らかっているし、壁にはいろんなゴム製品がぶらさがっているし、何かの容れものは出しっぱなしだし……あなた! 夫にはやたらに見られてはいけないものなのよ。妻は夫の前では天使のように清らかでなくちゃ! 私は毎朝、明るくなるとすぐ起き出して、冷たい水で顔を洗って、ニコジムには寝ぼけた顔を見せないようにしてるのよ」
「そんなことみんな小さなことよ」と、ナジェージダは泣きながら言った。「仕合せでありさえすればいいのよ。でも、私はこんなに不幸だわ!」
「そう、そうよ、あなたはとても不幸なひとよ!」と、マリヤは泣き出しそうになるのをやっとのことでこらえながら、溜息《ためいき》をついた。「それに将来あなたを待っているのは恐ろしい悲しみなのよ! 老い先の孤独、病気、それから最後の審判では神様にお答えしなくちゃならない……恐ろしい、恐ろしいことだわ! 今なら運命の神があなたに救いの手を差しのべているのに、あなたは無分別にその手を払いのけようとしている。結婚なさい、なるべく早く結婚なさい!」
「ええ、そうしなければいけないのね」と、ナジェージダは言った。「でも、それができないの!」
「それはまた、どうして」
「できないのよ! ああ、あなたには分っていただけないわ!」
キリーリンのことや、ゆうべ波止場《はとば》で美青年のアチミアノフと再び出っくわし、あの三百ルーブリの借金から逃《のが》れる気違いじみた滑稽《こつけい》な考えが浮んでとてもおかしかったこと、そして夜遅く家に帰る途中で、自分はもう取返しのつかないほど堕落した売女《ばいた》だと思ったことなど、ナジェージダは洗いざらい話してしまおうかと思った。なぜこんなことになってしまったのか、彼女自身にも分らない。今、あの借金はきっと返しますとマリヤの前で誓いたかったが、啜《すす》り泣きと羞恥心《しゅうちしん》が口をきくことを妨げていた。
「私この町から出て行くわ」と、ナジェージダは言った。「イワン・アンドレーイチは残ってもらって、私は出て行きます」
「どこへいらっしゃるの」
「ロシアヘ」
「でも向うでどうやって生活なさるの。財産は全然ないんでしょう」
「翻訳《ほんやく》でもするか……それとも小さな図書館でも開いて……」
「そんな夢みたいなこと言わないで。小さな図書館を開くにもお金が要るのよ。とにかく私はもうおいとましますけど、落着いて、よくお考えになってね。あすは晴れ晴れとした気分で私の家へいらしてちょうだい。そうなれば、すばらしいことだわ! じゃ、さようなら、私の天使さん。キスさせてね」
マリヤ・コンスタンチーノヴナは、ナジェージダの額にキスし、十字を切ってやってから静かに出て行った。あたりはもう暗くなり、オリガが台所であかりをともした。ナジェージダは泣きつづけながら寝室へ行き、ベッドに横たわった。激しい熱が襲ってきた。横たわったままで彼女は服を脱ぎ、脱いだ服を足の方へ揉《も》みくちゃに押しやり、毛布をかぶって丸くなった。水を飲みたかったが、持って来てくれる人はなかった。
「きっと返すわ!」と彼女は独《ひと》りごとをいい、夢現《ゆめうつつ》の境で、だれか病気の女がかたわらに坐って、いて、よく見るとそれは自分自身であるような気分になっていた。「返すわ。馬鹿みたいよ、もしも私がお金のために……この町から出て行って、ぺテルブルグに着いたら、あの人にお金を送るわ。初めは百ルーブリ……それから百……それから百……」
夜遅く、ラエーフスキーが帰って来た。
「初めは百……」と、ナジェージダは彼に言った。「それから百……」
「キニーネでも飲みなさい」と、ラエーフスキーは言い、心の中で思った。
『あすは水曜、船の出る日だが、おれは発《た》てない。ということは、土曜までここにいなきゃならんということだ』
ナジェージダがベッドの中で膝《ひざ》を突いて起きあがった。
「私、今、何も言わなかった?」と、蝋燭《ろうそく》の光に目を細め、微笑《ほほえ》みながら尋ねた。
「言わないよ。あすの朝、お医者を呼ばなきゃならないね。もう寝なさい」
彼は枕を持って、ドアの方へ歩き出した。ここを発つこと、ナジェージダを後に残すことを最終的に決心してからというもの、彼女はラエーフスキーの心に憐《あわ》れみと罪悪感を掻《か》き立てるのだった。彼女の前に出ると、殺すと決めた病気の馬か老いた馬の前に出たように、なんとなく恥ずかしかった。ラエーフスキーはドアの前で立ちどまり、振向いた。
「ピクニックのときは、いらいらしていて、乱暴なことを言ってしまった。許してくれるね」そう言うと、自分の書斎に入り、横になったが、永いこと寝つかれなかった。翌朝、その日は祭日だったので完全礼装に肩章と勲章をつけたサモイレンコが、ナジェージダの脈をとり舌を眺《なが》めて、寝室から出て来ると、ドアのすぐ外側に立っていたラエーフスキーが心配そうに尋ねた。
「ね、どうだった? どうだった?」
その顔には恐怖と、極度の不安と、希望とが同時に現われていた。
「心配するな、特に危険なことはない」と、サモイレンコは言った。「ただの熱だ」
「そのことじゃなくて」と、ラエーフスキーは苛立《いらだ》たしげに顔をしかめた。「金は出来たかい」
「ああ、悪いな」と、サモイレンコはドアの方を振返ってどぎまぎしながら囁《ささや》いた。「本当にすまないな! だれにも余分の金の持ち合せがなくてね、五ルーブリ、十ルーブリと集めて、まだ全部で百十ルーブリにしかなっていないんだ。今日も、ほかを当ってみるよ。もう少しの辛抱だ」
「しかし土曜日がぎりぎりの期限だぜ!」と、苛立たしさに身を震わせながら、ラエーフスキーは囁いた。「後生だから土曜までに頼む! 土曜に発てないなら、もう、どうなったって構わないんだ! 医者に金がないなんて、ぼくにはさっぱり分らないな!」
「それがどうしようもないんだ」と、サモイレンコは緊張した早口で囁き、喉《のど》がヒイというような音を発した。「みんなに借りられてさ、もう七千も貸しになっているし、ぼくも借金だらけなんだ。これがぼくの罪だろうかね」
「じゃ土曜までには出来るね? そうだね?」
「努力してみよう」
「頼むよ、きみ! 金曜の午前中には金がぼくの手に入るようにしてくれ」
サモイレンコは椅子に腰かけて、キニーネ入りブロム・カリ溶液と、大黄《だいおう》の煎《せん》じ薬《すり》と、ゲンチアナ・チンキ入り茴香水《ういきょうすい》とを処方し、その三つを水で割って、苦くないようにバラ糖蜜《とうみつ》を加えなさいと言い残し、帰って行った。
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十一
「まるでぼくを逮捕しに来たような恰好《かっこう》だね」と、礼装で入って来たサモイレンコを見てフォン・コーレンが言った。
「いや、ちょうど通りかかったので、動物学の勉強でもしようかと思ってね」と、動物学者がありあわせの板を打ちつけて作った大きな机の前に腰を下ろして、サモイレンコは言った。「こんにちは、神父さん!」と、窓ぎわで何か書き写している補祭に会釈して、「ちょっと休んでから、めしの支度《したく》に走って帰るよ。もう時間だ……お邪魔じゃなかったかな」
「全然」と、細かい文字の書きこまれた紙を机の上に拡げながら、動物学者は答えた。「今、写し物をしていたところだから」
「なるほど……いや、これはまた……」と、サモイレンコは溜息《ためいき》をつき、死んで乾《かわ》き切った毒|蜘蛛《ぐも》の載っている埃《ほこり》だらけの本をそっと引寄せて言った。「しかし想像してごらん、一匹の緑色のカブトムシが何かの用事で出掛ける途中、こんな物凄《ものすご》い奴に出っくわす。想うだに恐ろしいことだね!」
「そう、全くね」
「こいつは敵から身を守る毒を持っているのかね」
「そう、身を守り、また攻撃もする」
「なるほど、なるほど……つまり、自然のすべては合目的的であり、説明可能であるというわけか」サモイレンコは溜息をついた。「ただ一つ分らないことがある。きみは優秀な人だから、教えてくれないか。よく見かける動物だが、大きさはネズミくらい、見たところなかなかきれいだけれども、性質は最大限に下劣で不道徳なんだ。例《たと》えば、この動物が森の中を行くとする。小鳥を見ると、こいつはすぐつかまえて食ってしまう。少し先へ行くと、草原に小さな巣があり、そこに卵が入っている。もう腹いっぱいで食いたくないくせに、こいつは卵の一つを噛《か》み砕き、残りを足で巣から放り出す。それからカエルに出逢《であ》うと、たちまち、ちょっかいを出す。カエルをいじめ殺すと、自分の体をぺろぺろ舐《な》めながら更に進む。今度はカブトムシに出逢う。カブトムシも足で踏みつぶす……こうやって出逢うもののことごとくをぶちこわし、滅ぼしてしまう……ほかの動物の穴にも入りこむし、用もないのに蟻塚《ありづか》を荒すし、カタツムリを噛み砕く……ネズミに逢えば喧嘩《けんか》をおっぱじめるし、ヘビや仔《こ》ネズミを見れば絞め殺さずにはいられない。一日中こんな調子だ。ねえ、こんな動物が何のために必要なんだろう。何のために創造されたんだろう」
「それは何という動物のことかな」と、フォン・コーレンは言った。「きっと食虫動物の一種だろうね。しかし、それがどうした? 小鳥がやられたのは不注意だったからさ。卵の入っている巣がこわされたのは、鳥が不器用で、巣のかけ方がまずくて、隠しおおせなかったからだね。カエルはきっと保護色に何らかの欠陥があったのだろう。さもなきゃ見つからずにすんだ筈《はず》だ。以下同様。きみのその動物に滅ぼされるのは、弱い者、不器用な者、不注意な者ばかり――要するに、自然が後代に伝える価値なしと認めた欠陥のもちぬしばかりなんだ。生き残るのは、悧巧《りこう》な者、注意深い者、強い者、発達した者だけなのさ。そういうわけで、きみのその動物は意識せずして自然界の改良という大目的に奉仕しているんだ」
「なるほど、なるほど……ところで、きみ」と、サモイレンコはくだけた調子で言った。「ちょっと百ルーブリほど貸してくれ」
「いいとも。食虫動物のなかには、ずいぶん面白い奴がいるんだ。例えば、モグラ。モグラは害虫を駆除するから人間の為《ため》になる動物だと言われているね。昔あるドイツ人がモグラの皮で外套《がいとう》を作ってヴィルヘルム一世に献上したところ、皇帝は、有用な動物をこんなにたくさん殺したのはけしからんと、その男を叱《しか》ったという話がある。ところが、モグラは残忍な点ではきみのその動物に決して劣らないし、しかも牧草地をひどく荒すから、極《きわ》めて有害な動物なんだ」
フォン・コーレンは手箱をあけて、そこから百ルーブリ紙幣を取出した。
「モグラの胸郭はコウモリと同じくらい逞《たくま》しい」と、手箱を閉めながらフォン・コーレンは続けた。「恐ろしく発達した骨格と筋肉、異様に武装された口。あれで大きさがもしも象くらいだったら、すべてを破壊する不敗の動物だったろうにね。面白いのは、二匹のモグラが土の中で出逢ったときだ。まるで申合せてあったように、二匹とも土を掘り拡げ始めるんだ。戦いやすいように広場を作るわけだね。広場ができると、二匹は猛烈な戦闘を開始し、弱い方が倒れるまでは決してやめない。そら、百ルーブリ」と、フォン・コーレンは調子を落して言った。「ただし、ラエーフスキーのための金じゃなければという条件つきだ」
「ラエーフスキーのためでもいいじゃないか!」と、サモイレンコはかっとなって言った。「きみと関係ないことだ」
「ラエーフスキーのためなら、金は貸せない。きみが金を貸すのが大好きなことは知ってるさ。強盗のケリムにだって頼まれれば貸す人だが、失礼ながら、きみのそういう傾向を助長することはできない」
「そう、ぼくはラエーフスキーのために借りたいんだ!」と、サモイレンコは立ち上がり、右手を振りまわして言った。「そうだよ! ラエーフスキーのためだ! どこのどんな悪魔だろうと、悪霊だろうと、ぼくが自分の金をいかに費《つか》うかについてお説教する権利はないんだ。きみは貸したくないのか。そうなんだね?」
補祭がげらげら笑い出した。
「まあそう興奮せずに、よく考えてごらん」と、動物学者は言った。「ぼくが思うに、ラエーフスキー氏に善行を施すということは、雑草に水をやり、イナゴに餌《えさ》をやるのと同じように愚かなことだ」
「ぼくが思うに、われわれは隣人を助けなければいかんのだ!」と、サモイレンコは叫んだ。
「だったら、塀《へい》の下に寝ている、あの飢えたトルコ人を助ければいい。あれは労働者で、きみのラエーフスキーより有用な、有益な人間だ。この百ルーブリをあの男にやりなさい。さもなければ、ぼくの探険旅行に百ルーブリ寄付して欲《ほ》しい!」
「貸すのか貸さないのか、それを訊《き》いているんだ」
「率直に言ってくれないか。彼は何のために金が要るんだ」
「そりゃ別に秘密じゃない。土曜日にぺテルブルグへ発つための金さ」
「なあるほど!」と、フォン・コーレンは言葉を長く引きのばして言った。「そうだったのか……それで分った。で、あの女も一緒に発つのか、それとも、どうするんだ」
「彼女は暫《しばら》く残る。彼がぺテルブルグで落着いたら、金を送ってよこして、そこで彼女も引きあげる」
「うまい!……」と動物学者は言い、甲高い声で短く笑った。「うまい! そりゃ名案だ」
そしてサモイレンコにそそくさと近寄り、顔を顔に近づけ、相手の目をじっと見つめながら尋ねた。
「ざっくばらんに言えば、奴はあの女に飽きたんだな。そうだろう? さ、言ってくれ、飽きたんだね? そうだね?」
「そう」と、サモイレンコは言い、急に汗ばんだ顔になった。
「なんという不潔な話だろう!」と、フォン・コーレンは言った。その顔色から、動物学者が憎しみを感じていることは明らかだった。「アレクサンドル・ダヴィーディチ、きみは奴《やつ》とぐるになっているか、それとも失礼ながら、きみという人間がよほど抜けているか、二つのなかの一つだね。奴がきみをまるで子供のように、実に破廉恥に操《あやつ》っているのが、きみには分らないのか。要するに、奴が女から逃げたいということ、女をここに棄てて行くということは、火を見るよりも明らかじゃないか。女は残るとすれば、きみの頸《くび》にぶらさがるしかない。で、きみが自腹を切って女をペテルブルグへ発たせることになるという、これもまた火を見るよりも明らかだね。御立派な友人のさまざまな美徳に目をくらまされて、きみはそんな簡単|明瞭《めいりょう》なことも分らなくなっているのか」
「それはただの臆測《おくそく》だ」と、サモイレンコは腰を下ろしながら言った。
「臆測だって? じゃ、なぜ奴は女と一緒じゃなくて、一人で発つんだ。奴に直接訊いてごらん、なぜ女が先に発って男があとじゃいけないんだ。実に狡猾《こうかつ》なやり口じゃないか!」友人への思いもかけぬ疑惑と不審の念に押しひしがれて、サモイレンコは急に弱々しくなり、口調が低くなった。
「しかし、そんなことはあり得ない!」と、ラエーフスキーが自分の家に泊った夜のことを思い出しながら、彼は言った。「あの男はとても苦しんでいる!」
「それがどうした。泥棒や放火犯人だって苦しむよ!」
「きみの言う通りだと仮定しよう……」と、サモイレンコは考え考え言った。「仮にそうだとして……しかし彼はまだ若いし、他国に住む身で……大学出だ。われわれだって大学出だろう、この町で彼の力になってやれる人間はわれわれ以外にいないよ」
「きみと彼が別々の時期に大学に籍を置き、二人とも何一つ学ばなかったというだけの理由で、彼の卑劣な行為を助けるのか! 馬鹿げたことだ!」
「ちょっと待て、冷静に考えてみようじゃないか。例えば、こんなふうにしてみたらどうだろう……」と、サモイレンコは指をしきりに動かしながら、考え考え言った。「金はやはり貸してやることにして、その代り、一週間以内に旅費をナジェージダ・フョードロヴナに送るということを、名誉にかけて約束させるんだ」
「そんな約束なら奴はするだろうし、涙を流して自分で自分の約束を信じもするだろうが、そんな約束に何の価値があるだろう。奴は守りゃしないよ。一、二年|経《た》って、ネフスキー通りを新しい情婦と手を組んで歩いているところを、きみに見つかったら、きっと、自分は文明に毒された人間だとか、ルージンそっくりの男だとか、言いわけをするだろうな。悪いことは言わないから、奴とは手を切るんだね! ぬかるみから身を引くことだ。両手でぬかるみを掻《か》きまわすようなことはやめるんだ!」
サモイレンコは少し考えてから、きっぱりと言った。
「しかし、ぼくはやっぱり彼に金を貸すよ。きみはどう思おうと勝手だ。単なる臆測だけを根拠に、人の申し出を断わるようなことは、ぼくにはできない」
「たいへん結構だね。奴と抱き合って、キスでもすりゃいい」
「とにかく、そういうわけだから、その百ルーブリをくれないか」と、サモイレンコはおずおずと頼んだ。
「いやだ」
沈黙が流れた。サモイレンコは全く力を失ってしまった。顔には申しわけなさそうな、恥じ入ったような、媚《こ》びるような表情が浮んだ。肩章や勲章をつけたこの巨《おお》きな男の、こんなふうに憐《あわ》れっぽい、子供のように照れた顔を見るのは、なんとなく奇妙だった。
「ここの主教さまは馬車を使わずに、馬に乗って教区をお回りになります」と、補祭がペンを置いて言った。「馬に乗っているお姿は、実に感動的ですよ。主教さまの素朴さと謙虚さには聖書の偉大さが満ちあふれています」
「いい人ですか、主教さんは?」と、話題が変るのを喜んで、フォン・コーレンが言った。
「でなくてどうします。いい方でなければ、主教さまになれるわけがありません」
「主教クラスの人たちのなかには、かなり才能のある立派な人物がいるものだ」と、フォン・コーレンは言った。「ただ惜しいことに、彼らの大多数には一つの弱点があって――つまり国士きどりになるということだ。そして植民地のロシア化に精を出したり、学問を批判したりする。そういうことは彼らの仕事じゃないのにね。それよりも教区監督局へもっとしばしば顔を出してもらいたいもんだ」
「俗人には主教さまを裁くことはできません」
「どうしてですか、補祭さん。主教だってぼくと同じ人間でしょう」
「同じ人間であって、同じ人間ではないのです」と、補祭はペンを取りながら、気を悪くしたように言った。「もしも同じなら、あなたは天の恵みによって主教になっている筈ですが、あなたは主教ではないのだから、従って同じではない」
「下らん話はよしなさい、補祭さん!」と、サモイレンコは憂鬱《ゆううつ》そうに言った。「ちょっと今考えついたことを聞いてくれないか」と、フォン・コーレンに、「その百ルーブリは貸してくれなくてもいい。きみは冬まであと三カ月間、うちでめしを食うだろう、その三カ月分を前払いしてくれ」
「いやだ」
サモイレンコはまばたきし、真《ま》っ赤《か》になった。そして毒蜘蛛の載っている本を機械的に引寄せ、それを眺《なが》めた。やがて立ちあがって帽子を掴《つか》んだ。フォン・コーレンは軍医がかわいそうになった。
「全く、ああいう連中とよく付き合っていられるね!」と、動物学者は言い、何かの紙片を腹立たしげに部屋の隅《すみ》へ蹴《け》とばした。「頼むから分ってくれよ、そんなのは親切でもなければ愛情でもない、弱気だ、放任だ、害毒だ! 理性が築きあげるものを、きみのぐうたらな役立たずの心がぶちこわしてしまうんだ! ぼくは中学時代、腸チフスにかかったとき、叔母がかわいそうだと言ってキノコの酢漬《すづけ》を食べさせてくれて、お蔭《かげ》で危うく死ぬところだった。人間への愛は心や胃や腰にあるんじゃない、ここになきゃいけないということを、きみや叔母に分ってもらいたいよ!」
フォン・コーレンは自分の額を叩《たた》いた。
「持って行ってくれ!」と、百ルーブリ紙幣を放り出した。
「そう怒ることはないだろう、コーリャ」と、サモイレンコは紙幣を畳《たた》みながら穏やかに言った。「きみの気持はよく分るが……ぼくの立場も考えてくれよ」
「きみは百姓婆さんだ。それだけのことだ」
補祭がげらげら笑った。
「いいかい、アレクサンドル・ダヴィーディチ、最後の頼みだ!」と、フォン・コーレンは熱っぽく言った。「あの悪党に金を渡すとき、一つだけ条件をつけるといい。細君を連れて発《た》つか、それとも細君を先に発たせるか、でなければ金を渡すな。奴に遠慮することはないんだ。だから、ぜひとも条件をつけてやれ。もしきみにそれができなかったら、誓ってもいいが、ぼくは奴の役所へ行って、奴を階段から突き落して、きみとも絶交だ。覚悟していてくれ!」
「いいさ。彼女と一緒に発つにせよ、彼女を先に発たせるにせよ、そのほうが彼にも好都合だろう」と、サモイレンコは言った。「かえって喜ぶと思うよ。じゃ、さようなら」
彼はやさしく別れの挨拶《あいさつ》をして出て行ったが、後ろ手でドアを閉める前に、フォン・コーレンを振返り、こわい顔をして言った。
「きみはやはりドイツ人に毒されたんだ! そう! ドイツ人!」
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十二
翌日は木曜日で、マリヤ・コンスタンチーノヴナが息子のコースチャの誕生日を祝った。みんなは招待されて、正午にはピローグを食べ、晩にはチョコレートを飲んだ。その晩、ラエーフスキーとナジェージダがやって来たとき、すでに客間に坐ってチョコレートを飲んでいた動物学者は、サモイレンコに尋ねた。
「奴と話したかい」
「まだだ」
「絶対に遠慮するな。ああいう連中の厚かましさには呆《あき》れるね! 自分たちの同棲《どうせい》生活をこの家の人たちがどう見ているかよく知っているくせに、なおかつ、のこのこやって来るんだから」
「偏見を一々気にしていたら」と、サモイレンコは言った。「どこにも出られなくなっちまうよ」
「私通やふしだらな生活にたいする大衆の反感は、偏見かね」
「もちろん。偏見と憎悪《ぞうお》だ。兵隊たちは尻軽《しりがる》な女の子を見ると笑ったり口笛を吹いたりするが、じゃ、兵隊たちに訊《き》いてごらん、自分たちは一体どうなんだ、とね」
「いや、兵隊たちの口笛は無意味じゃない。尻軽な娘が私生児を窒息死させて流刑地へ行くということ、アンナ・カレーニナが汽車に飛びこんで死んだということ、農村で門口にタールを塗る〔その家の女のふしだらを責める意味で〕ということ、きみにもぼくにもあのカーチャの清純さがなんとなく好ましいということ、だれしも浄《きよ》い愛などありはしないと知りながら漠然《ばくぜん》とその必要を感じているということ――こういうもろもろの事実は果して偏見だろうか。これこそは自然|淘汰《とうた》をくぐりぬけて生きのびてきた唯一のものであって、男女関係を調整するこの蔭の力がなかったならば、ラエーフスキーのような連中がのさばって、人類は二、三年で退化してしまうよ」
ラエーフスキーが客間に入って来た。みんなと挨拶《あいさつ》をかわし、フォン・コーレンとも握手すると媚《こ》びるように微笑した。それから折を見はからって、サモイレンコに言った。
「失礼、アレクサンドル・ダヴィーディチ、ちょっと話があるんだ」
サモイレンコは立ちあがって、ラエーフスキーの胴に腕をまわし、二人はニコジム・アレクサンドリッチの書斎に入った。
「あしたは金曜日……」と、ラエーフスキーは爪《つめ》を噛《か》みながら言った。「約束のものは出来た?」
「二百十ルーブリだけな。あとは今日あすのうちにこしらえる。安心してくれ」
「よかった!……」と、ラエーフスキーは安堵《あんど》の息をつき、その両手が嬉《うれ》しさに震えた。「アレクサンドル・ダヴィーディチ、きみのお蔭で大助かりだ。神にかけて、ぼくの幸福にかけて、何でもきみの好きなものにかけて誓うよ、到着次第その金はすぐ返すからね。前の借金も返す」
「ところで、ワーニャ……」と、サモイレンコは相手の服のボタンをいじり、赤くなって言った。
「きみの家庭の事情に干渉するようで申しわけないが……なぜナジェージダ・フョードロヴナと一緒に発《た》たないんだ」
「きみも妙な男だな、そんなことができると思うかい。ぼくとナジェージダのどちらか一人はどうしても残らなくちゃならない。でないと債権者が騒ぎ出すからね。なにしろ、いろんな店に少なく見つもっても七百ルーブリの借金があるんだ。まあ見てろ、金を送って奴らの口を塞《ふさ》いで、それから彼女を発たせるから」
「なるほど……しかし、なぜ彼女を先に発たせないのかね」
「ああ、とんでもない、そんなことができるもんか」と、ラエーフスキーはぞっとしたように言った。「ナジェージダは女だよ、一人でむこうへ行って何ができる? 何が分る? 時間の浪費だよ、金が余計にかかるだけだよ」
『もっともだ……』と、サモイレンコは思ったが、フォン・コーレンとの会話を思い出して、目を伏せ、暗い声で言った。
「その考えには、ぼくは賛成できないな。彼女と一緒に発つか、それとも先に発たせるか、さもなければ……さもないと、きみに金を貸すのは断わる。これはぼくの最終的な考えだ……」
そして後退《あとずさ》りして背中をドアにぶつけ、恐ろしくあわてて、赤い顔で客間へ戻った。
『金曜日……金曜日……』と、客間へ帰りながら、ラエーフスキーは思った。『金曜日……』
チョコレートが出た。ラエーフスキーは熱いチョコレートで唇《くちびる》や舌を火傷《やけど》しながら考えていた。
『金曜日……金曜日……』
なぜか金曜日という言葉が頭にこびりついて離れなかった。金曜日以外のことは何一つ考えられず、しかも頭の中ではなくどこか心臓のあたりで、土曜日には発てないということがはっきり感じられた。ラエーフスキーの前には、こめかみの毛をきれいに撫《な》でつけ、小ざっぱりしたニコジム・アレクサンドリッチが立ち、しきりにすすめていた。
「どうぞ、まあ、ひとつ、おあがり下さい……」
マリヤ・コンスタンチーノヴナは客たちにカーチャの成績表を見せ、歌うような調子で喋《しゃべ》っていた。
「この頃は勉強がそれはもうむつかしくなりましてねえ! 宿題もたくさん出ますし……」
「ママ!」と、恥ずかしさと褒《ほ》め言葉に身の置きどころがないというように、カーチャは呻《うめ》いた。
ラエーフスキーも成績表を眺《なが》めて褒めた。神学、国語、操行、五点、四点などという文字が目の中で踊り出し、それらすべてが、頭にこびりついた「金曜日」や、きれいに撫でつけたニコジムのこめかみの毛や、カーチャの赤い頬《ほお》と一緒になって、どうしようもない底なしの退屈として感じられ、危うく絶望の叫び声を上げそうになって、彼は自問した。『おれは本当に、本当にもう発てないのか』
トランプ用のテーブルを二つくっつけて、一同は手紙遊びをやることになった。ラエーフスキーも席についた。
『金曜日……金曜日……』と、笑顔《えがお》でポケットから鉛筆を取出しながら、彼は思った。『金曜日……』
自分の現状についてじっくり考えたかったが、考えることは恐ろしかった。永いこと注意に注意を重ねて自分自身にすら隠してきた欺瞞《ぎまん》を、今、軍医に見破られたと思うことは一つの恐怖だった。将来について考えるとき、彼はいつも自分の思考に完全な自由を与えてはいなかったのである。汽車に乗りこみ、汽車が動き出す――それだけで彼の人生問題は解決であって、その先のことはいつも考えまいとした。遠い将来、ぺテルブルグのどこかで、ナジェージダと手を切り借金を返すために小さな嘘をつかねばならなくなるかもしれないという考えが、野の涯《はて》に見える微《かす》かなともしびのように、時たま彼の頭にひらめくことはあった。その嘘はたった一度だけで、あとは完璧《かんぺき》な新生活が始まるだろう。それは結構なことだ。小さな嘘を代償として大きな真実を購《あがな》うのだから。
しかし、軍医が乱暴な拒絶によって彼の欺瞞を指摘した今、ラエーフスキーに見えてきたのは、嘘の必要なのは遠い将来ではなく、今日、あす、一カ月後であり、たぶん死ぬまで必要なのではあるまいかということだった。実際、出発するには、ナジェージダや債権者や上司に嘘をつかなければならない。そしてぺテルブルグで金を手に入れるには、もうナジェージダとは手を切ったと母親に嘘を言わなければならない。母親は五百ルーブリ以上は出してくれないだろうから、サモイレンコにすぐには金を返せないことになり、従って軍医をも既にだましたことになる。そしてナジェージダがぺテルブルグへ出て来たときには、手を切るために大小さまざまの嘘をつかなければなるまい。そして又もや涙、退屈、うんざりするような生活、後悔、つまり新生活どころではない。欺瞞、それ以外の何ものでもない。ラエーフスキーの空想の中で、無数の嘘が丘のように盛りあがった。少しずつ嘘をつくのではなく、その嘘の丘を一ぺんに跳《と》び越すためには、断乎《だんこ》たる手段をとらなければならない。例《たと》えば、何も言わずに立ちあがって帽子をかぶり、このまま一文なしで、何の言いわけもせずに出発すればいい。だが自分にはそんなことはできないと、ラエーフスキーは思った。
『金曜日、金曜日……』と彼は思った。『金曜日……』
みんなは手紙を書いて、それを二つに折り畳み、ニコジムの古い山高帽子に入れた。手紙がたまると、コースチャが郵便配達夫になって、テーブルのまわりを配って歩いた。補祭や、カーチャや、コースチャは、滑稽《こつけい》な手紙を受取ると、それを上まわる滑稽な手紙を書こうとして、もう夢中だった。
『お話ししたいことがあります』と、ナジェージダが受取った手紙には書いてあった。彼女がマリヤ・コンスタンチーノヴナと視線を合わせると、むこうは巴旦杏《はたんきょう》のように甘い笑みを浮べて、うなずいた。
『何の話だろう』と、ナジェージダは思った。『洗いざらい話すことができないのなら、話したって仕方がないわ』
この家へお客に来る前に、彼女はラエーフスキーのネクタイを結んでやったが、そんな些細《ささい》なことがナジェージダの心をやさしさと悲しみで一杯にするのだった。彼の顔に浮んだ不安の色、放心したようなまなざし、蒼白《あおじろ》い顔色、最近の彼に起った不可解な変化、彼女が隠している恐ろしい忌わしい秘密、そしてネクタイを結んでやるとき彼女の手が震えたこと――これらすべてはなぜか二人の生活がもう永くは続かないことを語っていた。ナジェージダはまるで聖像でも見るように、恐怖と悔《く》いをこめて彼を眺め、『許して、許して……』と心の中で言った。テーブルの真向いにはアチミアノフが坐《すわ》り、黒い瞳《ひとみ》で惚《ほ》れ惚《ぼ》れと彼女を見つめて、目をそらさなかった。ナジェージダは欲望に心が乱れ、そんな自分を恥ずかしく思い、淋《さび》しさや悲しみも自分が今日あすのうちに不純な情熱に身を任せることの妨げにはならないのだ、と思った。まるで酔いどれ女のように、もはや踏みこたえる力は彼女にはないのだった。
自分にとって恥ずかしく、ラエーフスキーにとって屈辱的なこの生活を、これ以上続けぬため、ナジェージダはこの町から立ち去ろうと決心した。彼には、どうか別れてくれと泣いて頼もう。もし彼が反対したら、こっそり出て行こう。起ってしまったことは決して話すまい。彼には清らかな思い出だけを持ちつづけてもらおう。
『愛しています、愛しています、愛しています』と、手紙の文面。これはアチミアノフからだ。
どこか辺鄙《へんぴ》な所に住んで、働いて、ラエーフスキーには匿名でお金や、縫いとりをした肌着《はだぎ》や、煙草を送り、やがて年老いて、もしも彼が重病にかかり、付添いが必要になったら、そのとき初めて彼の許《もと》に帰ろう。ナジェージダがなぜ彼の妻になることを拒み、なぜ彼を棄《す》てて去ったかを知って、年老いたラエーフスキーは彼女の犠牲的精神を高く評価し、彼女を許してくれるだろう。
『あなたの鼻は長い』――これはきっと補祭か、コースチャの手紙だろう。
ナジェージダは、ラエーフスキーと別れるとき、彼を強く抱きしめ、その手にキスをして、あなたを生涯愛しつづけますと誓う自分の姿を空想した。それから辺鄙な土地で、見知らぬ人たちの中で暮しながら、自分にはどこかに一人の友が、愛する男がいる、清潔で、高貴で、上品なそのひとは、私の清らかな思い出だけを抱《いだ》いているのだと、明け暮れ思いつづける自分の姿を。
『もし今夜|逢《あ》って下さらぬ場合は、私は誓って然《しか》るべき手段に訴えます。一人前の男を相手にこのようなやり方は許されぬものであることを、とくとお考え願いたい』――これはキリーリンの手紙である。
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十三
ラエーフスキーは二通の手紙を受取った。一通を開いてみると、『いい子だから発《た》つのはやめなさい』とあった。
『だれだろう、こんなことを書いたのは』とラエーフスキーは思った。『もちろん、サモイレンコではない……補祭でもない、あいつはおれが発とうとしていることを知らない筈《はず》だから。フォン・コーレンかな?』
動物学者はテーブルにかがみこんで、ピラミッドの絵を描いていた。その目が笑っているように、ラエーフスキーには見えた。
『きっとサモイレンコが喋《しゃべ》ったんだ……』と、ラエーフスキーは思った。
もう一通には、尻尾《しっぽ》の長い、飾りの多い、わざと崩《くず》した同じ筆跡《ひっせき》で、『だれかさんは土曜日には発ちません』と書いてあった。
『馬鹿げたいたずらだ』と、ラエーフスキーは思った。『金曜日、金曜日……』
何かが喉《のど》にこみあげてきた。彼はカラーにさわって咳払《せきばら》いをしたが、咳の代りに喉から飛び出たのは笑いだった。
「は、は、は!」と彼は笑い出した。「は、は、は!」――『どうしたんだ』と彼は思った。「は、は、は!」
自分を抑《おさ》えようと手で口を塞《ふさ》いだが、笑いは胸や頸《くび》を圧迫し、とても手で口を抑えてはいられなかった。
『しかしなんと馬鹿げたことだ!』と、笑いころげながら彼は思った。『おれは気でも狂ったのかな』
笑い声は次第に高くなって、なんとなく狆《ちん》の吠《ほ》え声に似てきた。ラエーフスキーはテーブルの席から立ちあがろうとしたが、足が言うことをきかず、右手は彼の意志とは無関係に、奇妙な具合にテーブルの上をはねまわって、痙攣《けいれん》的に紙切れを掴《つか》み、それを握りしめるのだった。みんなの驚き呆《あき》れた視線や、愕然《がくぜん》としたサモイレンコの真剣な顔や、冷たい嘲笑《ちょうしょう》と嫌悪《けんお》に満ちた動物学者のまなざしが目に入り、彼は自分がヒステリーを起したのだと悟った。
『なんという醜態だろう、なんという屈辱だろう』と、頬《ほお》に涙のぬくみを感じながら彼は思った。
『ああ、ああ、なんという恥! こんなことは今までは一度もなかったのに……』
とつぜん両脇《りょうわき》を抱きかかえられ、後頭部を支《ささ》えられて、どこかへ連れて行かれた。目の前でコップがきらりと光り、そのコップが歯にぶつかり、水が胸にこぼれた。そこは小さな部屋で、まんなかにべッドが二つ並び、雪のように白い清潔なシーツで覆《おお》われていた。彼は一つのベッドに倒れて、号泣し始めた。
「なんでもない、なんでもない……」と、サモイレンコが言っていた。「よくあることだ……よくあることだ……」
恐怖に凍りついたようになって、全身を震わせ、何か恐ろしいことを予感しながら、ナジェージダがベッドのそばに立ち、しきりに尋ねていた。
「どうしたの。ね? お願い、おっしゃって……」
『キリーリンがこの人に何か手紙で教えたんじゃないだろうか』と、彼女は思った。
「なんでもない……」と、ラエーフスキーは泣き笑いをしながら言った。「あっちへ行っててくれ……頼むよ」
彼の顔には憎しみや嫌悪の色はなかった。してみれば、何も知らないのだ。ナジェージダはいくらか安心して、客間へ戻った。
「心配しなくても大丈夫よ!」と、マリヤ・コンスタンチーノヴナが隣に坐《すわ》り、彼女の手を取って言った。「すぐよくなるわ。男の方だって、私たち罪深い女と同じように弱いものなのよ。あなた方お二人は今が危機なのね……お察しするわ! で、あなた、私はお返事を待っていたのよ。少しお話でもしましょうか」
「いえ、お話はまたいつか……」と、ラエーフスキーの啜《すす》り泣きに耳を傾けながら、ナジェージダは言った。「なんだか気がふさいで……もう失礼しますわ」
「まあ、何をおっしゃるの!」と、マリヤは驚いて言った。「お夜食も差上げずにお帰しすると思って? お食事がすめば、お引留めはしませんけど」
「なんだか気がふさいで……」と、ナジェージダは呟《つぶや》き、倒れまいとして両手で椅子の腕につかまった。
「あれはただのひきつけだ!」と、フォン・コーレンが客間に入って来ながら愉快そうに言ったが、ナジェージダの姿を見ると、あわてて出て行った。
ヒステリーが収まると、ラエーフスキーは他人のベッドの上に起きあがって考えた。
『恥ずかしい、女の子みたいに泣きわめいてしまった! さぞかし滑稽《こっけい》に、いやらしく見えただろう。裏口から出て行こうか……いや、それではおれが自分のヒステリーを大いに問題にしていることになる。冗談にしてしまうのが一番かもしれない……』
鏡を眺《なが》め、暫《しぼら》く坐っていてから、彼は客間へ出て行った。
「ただいま戻りました!」と、彼は笑顔《えがお》で言った。内心はたまらなく恥ずかしく、みんなも彼の出現によって恥ずかしい思いをしていることが感じられた。「ときどき起ることなんです」と、腰を下ろしながら彼は言った。「坐っていると、急に、その、横腹に刺すような恐ろしい痛みを感じて……それが我慢しきれない痛みなので、神経がやられてしまって……それでああいう馬鹿げたことになりました。なにしろ、ノイローゼ時代ですから、仕方がありませんね!」
夜食が出ると、彼は葡萄酒を飲み、世間話をし、ときどき、ひきつったような溜息《ためいき》を洩《も》らしながら、まだ痛みが感じられることを見せつけるように脇腹をさすった。だが、ナジェージダ以外にはだれも彼を信じる者はなく、そのことを彼も感じていた。
九時をすぎると、一同は遊歩道へ散歩に行った。ナジェージダは、キリーリンに話しかけられることを恐れて、いつもマリヤとその子供たちのそばから離れないように気を配った。恐怖と憂鬱に気力はすっかり失《う》せ、しかも発熱を予期して不安になり、彼女は足を運ぶのがやっとだったが、それでも家へ帰ろうとしないのは、帰りかければ必ずキリーリンかアチミアノフが、あるいは二人が一緒について来るだろうと予想したからだった。キリーリンはニコジムと並んで後ろの方を歩きながら、低い声で歌っていた。
「からかわれて、なるものか! なるーもーのーか!」
遊歩道から茶亭《パヴィリオン》の方へ曲って、一同は海岸づたいに歩き、海が燐光《りんこう》を発しているのを永いこと眺めた。フォン・コーレンは海が燐光を放つ理由を説明し始めた。
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十四
「ところで、もうヴィントの時間だ……仲間が待っていますので」と、ラエーフスキーが言った。「さようなら、みなさん」
「私も一緒に行くわ、待って」と、ナジェージダが言い、彼の腕にすがった。
二人はみんなと別れて歩き出した。キリーリンも別れの挨拶をし、同じ道だからと言って二人と並んで歩き出した。
『なるようになるだけだわ……』と、ナジェージダは思った。『なりゆき任せ……』
悪い記憶がぞろぞろと頭の中から出て来て、暗闇《くらやみ》の中を自分と並んで歩きながら重い息づかいで喘《あえ》いでいるような気がした。彼女自身はインク壷《つぼ》に落ちた蝿《はえ》のように、敷石道をやっとのことで這《は》いながら、ラエースキーの脇腹《わきばら》や手を黒く汚《よご》しているように思われた。『もしもキリーリンが』と、彼女は思った。『何かよくないことを仕掛けてきたとしても、悪いのは彼ではなくて私一人なのだ。だって昔なら、私にむかってキリーリンのような口のきき方をする男は一人もいなかったのに、私自身がそんな時期を糸のように断ち切り、もう取返しがつかぬほどにこわしてしまった――それが私の罪でなくてなんだろう。自分の欲望に酔い痴《し》れて、恰好《かっこう》のいい背の高い男だというだけで、見も知らぬ男に微笑《ほほえ》みかけ、二度あいびきをしたあげく退屈して棄てた。それでもまだ』と、今では彼女は考えていた。『それでもまだ、私にたいして勝手な振舞いをする権利がこの男にはないと言えるだろうか』
「じゃ、ここで別れようか」と、ラエーフスキーが立ちどまって言った。「きみはキリーリンさんに送っていただきなさい」彼はキリーリンに一礼して、急ぎ足で遊歩道を横切り、もう一つの道を横切って、窓にあかりのともっているシェシコフスキーの家へ近づいて行った。まもなく木戸をばたんと閉める音が聞えた。
「では、話し合いを始めさせてもらいましょうか」と、キリーリンが口を開いた。「私は子供ではないし、そこいらのアチカーソフだか、ラチカーソフだか、ザチカーソフだかじゃない……この点をひとつまじめに考えていただきたい!」
ナジェージダの胸が激しく打ち始めた。彼女は何も答えなかった。
「私に対する態度が急激に変ったのは、初めあなたのコケットリーだとばかり思っておりました」と、キリーリンは続けた。「今にしてようやく分りましたが、あなたは一人前の男との付合い方を御存知ないのだ。あのアルメニアの少年と同じように、私をもてあそんだだけだったのでしょうが、私は一人前の男ですから、一人前の男として扱われることを要求します。では、あなたの言い分をどうぞ……」
「なんだか気がふさいで……」と、ナジェージダは言い、泣き出した。そして涙を見せまいと顔をそむけた。
「私も気がふさいでいますが、だからどうだとおっしゃるのですか」
キリーリンは少し黙っていてから、一語一語をゆっくりと明瞭《めいりょう》に発音しながら言った。
「奥さん、繰返して申しますが、もし今夜|逢《あ》っていただけないのなら、私は断然、今夜のうちに騒ぎを起しますよ」
「今夜は帰らせて下さい」と、ナジェージダは言ったが、それは自分の声とも思えぬほど憐《あわ》れっぽい細い声だった。
「あなたを懲らしめなきゃならん……乱暴な言い方で申しわけないが、私はどうしてもあなたを懲らしめたいのです。そう、遺憾ながら、あなたを懲らしめなければならない。今日とあすと、二度のあいびきを私は要求します。あさってになれば、あなたは全く自由の身だから、だれと一緒にどこへ行こうと勝手ですがね。今日とあすは」
ナジェージダはわが家の木戸に近づき、立ちどまった。
「帰らせて下さい!」と、全身を震わせながら彼女は囁《ささや》いたが、目の前の闇の中には白い制服のほかに何一つ見えなかった。「おっしゃる通り、私はひどい女よ……悪いのは私ですけど、でも帰らせて……お願い……」キリーリンの冷たい手に触れて、彼女は身震いした。「後生ですから……」
「ああ!」と、キリーリンは溜息《ためいき》をついた。「悲しいかな、お帰しするわけにはいきませんな、私はただあなたを懲らしめたいだけです。思い知らせたいだけです。それに、マダム、私は女性というものを殆《ほとん》ど信じておりませんよ」
「気がふさいで……」
ナジェージダは海の単調な響きに耳をすまし、星をちりばめた空を見上げて、何もかも一刻も早く終らせてしまいたいと思った。海や、星や、男たちや、発熱などという、この呪《のろ》わしい生の感覚から逃げ出したい……
「でも、うちでは困るわ……」と彼女は冷たく言った。「どこかへ連れて行って」
「ミュリドフの家へ行きましょう。あそこが一番だ」
「どこ、それは」
「城跡《しろあと》のそばです」
彼女は足早に往来を歩き出し、やがて山の方へ行く横道に曲った。暗かった。敷石道のところどころには明るい窓からさす光の帯があって、彼女は自分がまるで蝿のようにインク壷の中に落ちたり、そこからまた光の中へ這い出たりしているような気分に襲われた。キリーリンはうしろからついて来た。途中で何かにつまずき、ころびそうになって笑い出した。
『酔っている……』と、ナジェージダは思った。『どうでもいいわ……どうでもいい……なりゆき任せよ』
アチミアノフも間もなく一行と別れて、ナジェージダをボート遊びに誘おうと、彼女を追って歩き出した。彼女の家に近づくと、垣根《かきね》ごしに覗《のぞ》いた。どの窓も開いていたが、あかりはなかった。
「ナジェージダ・フョードロヴナ!」と、青年は呼んだ。
一分ほど経《た》った。もう一度呼んでみた。
「どなた」と、オリガの声が聞えた。
「ナジェーシダ・フョードロヴナはいらっしゃいますか」
「いいえ。まだお帰りになりません」
『妙だ……どうも変だ』と、激しい不安を感じ始めて、アチミアノフは思った。『さっき帰って行ったのに……』
遊歩道を歩き、それから往来を歩いて、彼はシェシコフスキーの家の窓を覗いてみた。上衣を脱いだラエーフスキーがテーブルにむかい、一心にトランプを見つめていた。
「妙だ、妙だな……」と、アチミアノフは呟《つぶや》き、ラエーフスキーのヒステリーを思い出して、いたたまれないような気分になった。「家にいないとすると、どこだろう」
アチミアノフは再びナジェージダの住居に取って返し、暗い窓を眺《なが》めた。
『だまされた、だまされたんだ……』と、今日の昼ビチュゴフの家で逢ったとき、彼女の方から今夜のボート遊びの約束をしたことを思い出して、アチミアノフは思った。
キリーリンの家の窓もまっくらで、玄関のそばのベンチに一人の警官が坐り、居眠りをしていた。窓や警官を見たとき、アチミアノフには一切が明白になった。彼は家に帰ろうと決心して歩き出したが、いつのまにか再びナジェージダの住居の近くへ来ていた。そこでベンチに腰を下ろし、頭の中が嫉妬《しっと》と怒りで燃えるようなのを感じながら、帽子をとった。
町の教会の大時計は、一日に二度だけ、正午と夜半に時を打つのだった。その時計が夜半を報じて間もなく、せかせかした足音が聞えた。
「じゃ、あすの晩もまたミュリドフの家で!」と声が聞え、それはキリーリンの声だとアチミアノフは気づいた。「八時に。では、おやすみ!」
垣根の前にナジェージダが現われた。ベンチにアチミアノフが坐っていることには気づかず、影のようにその前を通りすぎると、木戸をあけ、それを閉めもせずに家の中へ入った。自分の部屋へ入ると、彼女はあかりをつけ、大急ぎで服を脱いだが、ベッドには入らず、椅子の前にひざまずいて、それを抱きかかえる姿勢になり、額を椅子に押しつけた。
ラエーフスキーが帰って来たのは午前二時すぎだった。
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十五
一度にではなく小出しに嘘をつくことに決めたラエーフスキーは、翌日の一時すぎ、何がなんでも土曜日に発《た》つための金を借りるべく、サモイレンコの家へ行った。きのうのヒステリーのために、ただでさえ重苦しかった気持に更に鋭い羞恥《しゅうち》が加わった今では、この町にとどまることはとても考えられなかった。もしもサモイレンコが例の条件を固執するなら、と彼は思った、その条件を呑《の》んで金を受取り、あす、出発のときに、ナジェージダは発つのを拒んだと言おう。それはみな彼女のためを思ってのことだとナジェージダを説得するには、一晩もあれば充分だろう。どうもフォン・コーレンの影響を受けているらしく見えるサモイレンコが 金を一切貸さないと言い出したり、あるいは何か別の条件を持ち出すようだったら、彼ラエーフスキーは今日すぐ貨物船で、さもなければ帆船ででもいい、ノーヴィ・アフォンなり、ノヴォロシースクなりへ行って、そこから母親に屈辱的な電報を打ち、母親が旅費を送ってくれるまで滞在することにしよう。
サモイレンコの家に入ると、客間でフォン・コーレンと出会った。動物学者はたった今、食事に来たところで、例によってアルバムを開き、山高帽子をかぶった紳士や、頭巾《ずきん》をかぶった貴婦人の写真を眺《なが》めていた。
『これはまずい』と、その姿を見てラエーフスキーは思った。『こいつにまた邪魔をされるかもしれない』
「こんにちは!」
「こんにちは」と、振向きもせずにフォン・コーレンは答えた。
「アレクサンドル・ダヴィーディチは、いますか」
「いますよ。台所に」
ラエーフスキーは台所へ行ったが、サモイレンコがサラダの製造に夢中になっているのを戸口から見て、客間へ引返し、腰を下ろした。動物学者の前では彼はいつも気まずさを感じるのだったが、今日はヒステリーの話をしなければならないことが恐ろしかった。一分間以上が沈黙のうちに過ぎた。フォン・コーレンが突然顔を上げ、ラエーフスキーに視線を注いで尋ねた。
「きのうのことがあってから、気分はいかがです」
「気分は上々ですね」と、ラエーフスキーは赤くなって答えた。「特にどうということはなかったわけですから……」
「きのうまで、ヒステリーは女性にしか起らぬものだと思っていたので、初め、あなたは舞踏病にかかったのかと思った」
ラエーフスキーは媚《こ》びるように微笑し、心の中で思った。
『なんという失礼な奴だろう。おれが辛《つら》いことはよく知っているくせに……』
「ええ、全く滑稽《こっけい》なことでした」と、微笑しつづけながら彼は言った。「今日は午前中ずっと笑っていましたよ。ヒステリーの発作で奇妙なのは、それが馬鹿げていることを自分で知っていて、心の中では嗤《わら》っているのに、しかも同時に泣いてしまうことです。このノイローゼ時代にあっては、ぼくらは自分の神経の奴隷なんですね。神経はぼくらの主人で、ぼくらを好き勝手に操《あやつ》ります。この点、文明というものはぼくらには有難迷惑な存在ですね……」
ラエーフスキーは喋《しゃベ》りながら、フォン・コーレンが真剣に注意深く耳を傾け、まるで研究でもしているように、まばたきもせず、じっとこちらを見つめているのが、不愉快でならなかった。そして、フォン・コーレンを好いてもいないのに、自分が媚びるような微笑をどうしても消せないことが、腹立たしかった。
「しかし正直を申せば」と、彼はつづけて言った。「あの発作には近因というか、かなり根深い理由があったのです。実は最近、健康状態がすぐれませんでね。その憂鬱に加えて、年がら年中、金の苦労やら……話し相手や共通の話題がないことやら……全く絶体絶命ですね」
「そう、あなたの現状は絶望的です」と、フォン・コーレンが言った。
嘲笑《ちょうしょう》とも、問わず語りの予言とも受けとれる、この静かな冷やかな言葉は、ラエーフスキーの癇《かん》にさわった。嘲《あざけ》りと嫌悪《けんお》に満ちた動物学者のきのうの視線を思い出して、ラエーフスキーは少しのあいだ口をつぐんだが、やがて微笑の消えた顔で尋ねた。
「ぼくの現状をどうして御存知ですか」
「たった今、御自分でおっしゃったし、それにあなたの友人たちはあなたに熱烈な関心があるらしくて、寄るとさわると、あなたの噂《うわさ》ばかりです」
「友人というと? サモイレンコですか」
「そう、彼もそうです」
「じゃ、アレクサンドル・ダヴィーディチにも、ほかの友人たちにも、ぼくのことはあまり構わないでくれと頼まなくちゃ」
「ほら、サモイレンコが来た、あまり構わないでくれと頼んでごらんなさい」
「なぜそういう言い方をなさるのか、ぼくには分らないな……」と、ラエーフスキーは呟《つぶや》いた。動物学者が彼を憎み、蔑《さげす》み、嘲笑していること、動物学者こそは最も凶悪な不倶戴天《ふぐたいてん》の敵であることが、今初めて分ったような気がしたのである。「そういう言い方は、だれかほかの人に対してなさったらいい」と、彼は小さな声で言った。すでに憎しみが、まるでゆうべの笑いの衝動のように胸や頸《くび》を締めつけるので、大きな声が出せないのだった。
上衣を脱ぎ、台所の熱気に汗だくで、顔を真《ま》っ赤《か》に火照《ほて》らせたサモイレンコが入って来た。
「あ、きみも来ていたのか」と、サモイレンコは言った。「こんにちは。食事は? 遠慮せずに言ってくれ、食事はまだだろう?」
「アレクサンドル・ダヴィーディチ」と、ラエーフスキーは立ち上がりながら言った。「ぼくがきみに何か内密のことを頼んだとしても、きみは慎みを忘れていい、他人の秘密を尊重しなくてもいいということにはならないのだ」
「何の話だい、そりゃ」と、サモイレンコは驚いて言った。
「もし金がないのなら」と、ラエーフスキーは声を張り上げ、興奮のあまり片足から片足へ絶えず重心を移しながら言った。「貸さなければいい、断わればいい、ぼくの現状が絶望的だとか何だとか町中に触れまわる必要がどこにある。針小棒大の慈善や友情は我慢ならないね! 自分の慈善行為を自慢して歩くのはきみの勝手だが、ぼくの秘密をあばく権利はきみには絶対にない!」
「秘密とは何のことだ」と、わけのわからぬサモイレンコは少し腹立たしくなって尋ねた。「喧嘩《けんか》をしに来たのなら帰ってくれ。あとで来てくれ!」
親しい人間に腹が立ったときは百まで数えれば気が鎮《しず》まるという話を思い出して、サモイレンコは大急ぎで数を数え始めた。
「頼むから、ぼくには構わないで欲《ほ》しい!」と、ラエーフスキーは続けた。「ぼくを放っといてくれ。ぼくという人間、ぼくの生活が、だれにどんな関係があるんだ。そう、ぼくは逃げ出そうとしているさ! そう、ぼくは借金をするし、酒を飲むし、他人の女房と同棲《どうせい》しているし、ヒステリーを起すし、俗悪だし、だれかのような深遠な思想のもちぬしではないが、それがだれに何のかかわりがあるんだ。人間の個性というものを尊重し給え!」
「きみ、失礼だが」と、三十五まで数えたサモイレンコが言った。「それはしかし……」
「個性を尊重し給え!」と、ラエーフスキーは相手をさえぎって言った。「そうやってしょっちゅう、おおだとか、ああだとか言って他人の取沙汰《とりざた》をする、絶え間なく蹤《つ》けまわし、立ち聞きする、それを友情のなせる業《わざ》だとは……ちゃんちゃらおかしいよ! まるで子供にでも言うように、金は貸すが条件がある、だと! 全くなんという目に逢《あ》わせるんだろう! ぼくはもう何も要らんよ!」と、興奮のあまりよろめきながら、またヒステリーが起ったのではないかと不安になりながら、ラエーフスキーは叫んだ。『とすると、土曜日には発てない』という考えが頭の中にひらめいた。「ぼくはもう何も要らん! ただお願いだから、親代りに面倒を見てくれるのだけはやめてくれ! ぼくは子供でも気違いでもないんだ。頼むから監視しないでくれ!」
補祭が入って来た。ラエーフスキーが真《ま》っ蒼《さお》な顔で手を振りまわし、ヴォロンツォフ公の肖像にむかって奇妙な演説をしているのを見ると、戸口に釘付《くぎづ》けにされたように立ちどまった。
「ぼくの精神を絶え間なく覗《のぞ》き見するということは」と、ラエーフスキーは続けた。「ぼくの人間的品位にたいする侮辱だ。頼むから自発的探偵諸君はスパイ活動を停止してくれ! もうたくさんだ!」
「なんだって……きみは今、何と言った」と、百まで数え終ったサモイレンコは、赤黒い顔になって、ラエーフスキーに詰め寄った。
「もうたくさんだ!」と、ラエーフスキーは繰返し、息を弾《はず》ませて制帽を取った。
「私はロシアの軍医だ、貴族だ、五等官だ!」と、一語ずつ切りながら、サモイレンコは言った。
「スパイをやったことは一度もないのだ。私を侮辱することは何ぴとにも許さん!」最後の一語に力を入れ、声を震わせて叫んだ。「黙り給え!」
こんなに威風堂々として、赤黒い顔になった恐ろしい軍医を、いまだかつて一度も見たことのなかった補祭は、口に手をあてて玄関の間へ逃げ出し、腹をかかえて笑い出した。フォン・コーレンが立ちあがり、ズボンのポケットに両手を突っこんで、そんなポーズのまま、この先のなりゆきを待ち受けるように立っているのが、ラエーフスキーの目には霧の中の光景のように見えた。その冷静な姿がラエーフスキーにはこの上なく倣慢《ごうまん》に、侮辱的に思われた。
「きみの言葉を取消してもらおう!」と、サモイレンコがどなった。
自分がどんな言葉を口走ったのか、もう覚えていなかったので、ラエーフスキーは言った。
「ぼくに構わないでくれ! ぼくはもう何も要らない! ぼくの望みは、きみや、そこいらのユダヤ系ドイツ人に構ってもらいたくないだけだ。さもないと、考えがあるからな。あくまでも戦うからな!」
「それで分った」と、フォン・コーレンがテーブルのむこうから出て来て言った。「ラエーフスキーさんは出発の前に、気晴らしに決闘をしたいのだ。その望みをぼくが叶《かな》えよう。ラエーフスキーさん、あなたの挑戦に応じましょう」
「挑戦?」ラエーフスキーは動物学者に近寄り、その浅黒い額や縮れた髪に憎しみの視線を注ぎながら、低い声で言った。「挑戦? よろしい! ぼくはきみを憎む! 憎む!」
「たいへん結構。あすの朝、なるべく早く、ケルバライの店のそばで。詳細はあなたの好みに任せる。今はとにかく帰って下さい」
「きみを憎む!」と、ラエーフスキーは荒い息を吐きながら小声で言った。「ずっと前から憎んでいたんだ! 決闘! よかろう!」
「この男を撮《つま》み出してくれないか、アレクサンドル・ダヴィーディチ、でなきゃ、ぼくが出て行く」と、フォン・コーレンが言った。「噛《か》みつかれちゃかなわない」
フォン・コーレンの落着いた調子が軍医の熱をさました。突然我に返った軍医は、両手でラエーフスキーの腰をつかまえて動物学者から引離しながら、興奮に震えるやさしい声で呟いた。
「きみたち二人とも……いい人間なんだ、善良な人間なんだ……二人ともかっとなっただけで、もうお終《しま》いにしてくれよ……もうたくさんだ……なあ、きみたち……」
友情のこもった柔和な声を聞くと、ラエーフスキーは、たった今、自分の生活に何か途方もない恐ろしいこと、危うく汽車に轢《ひ》かれかけるといった、とんでもないことが起ったのを感じ、泣き出しそうになって、片手を一振りすると、部屋から走って逃げ出した。
『他人の憎しみを体験するということ、おれを憎んでいる人間の前に哀れっぽく惨《みじ》めな頼《たよ》りない姿をさらすということは、ああ、なんと辛いことだろう!』と、少し経《た》って茶亭《パヴィリオン》の椅子に坐り今し方味わった他人の憎しみのためにまるで体《からだ》が銹《さび》だらけになったように感じながら、ラエーフスキーは思った。『ああなんと野蛮なことか!』
冷たい水とコニャックが彼を元気づけた。彼はフォン・コーレンの傲然《ごうぜん》たる冷たい顔を、きのうの目つきを、絨毯《じゅうたん》に似た上衣《ルパシカ》を、声を、白い手を思い浮べて、重苦しい燃えるような憎しみが胸のなかでのた打ちまわり、復讐《ふくしゅう》を要求するのを感じた。そして心のなかでフォン・コーレンを地面に投げ倒し、両足で踏みにじり始めた。さきほどの出来事がきわめて細かい点まで一々思い出され、自分があのような下らない男に媚びるような笑顔《えがお》を見せたことが、そしてこの地図にも出ていない田舎町、ぺテルブルグの紳士がだれ一人知らないこのちっぽけな町に住む、下らない無名の連中の意見などを尊重したことが、不思議に思われてならなかった。この小さな町が突然陥没あるいは焼失したとしても、ロシアの人たちはそのニュースを、古道具の入札広告を読むのと同じように退屈して読むだけのことだろう。あしたフォン・コーレンを殺そうと、生かしておこうと、それはどうでもいいことであり、どちらにしても無益な、面白くもないことなのだ。足か手を撃って負傷させ、それから奴《やつ》をあざ笑ってやろう。足を一本もがれた昆虫が草の中をうろつくように、奴はひそかな苦しみを抱《いだ》いて奴同様に下らない連中のなかへ立ち去ればいいのだ。
ラエーフスキーはシェシコフスキーの家へ行き、一部始終を話して、介添人になってくれと頼んだ。それから二人で郵便局長の家へ行って、局長にも介添人になってもらい、そのまま夕食に居坐った。食事中は大いに冗談が飛び、笑いが響いた。ラエーフスキーは全く射撃の心得のない自分を冗談のたねにして、王様の射手だとか、ウィルヘルム・テルだとか自分のことを呼んだ。
「あの紳士に一つ思い知らせてやらなきゃ……」と彼は言うのだった。食事がすむと、トランプのテーブルを囲んだ。ラエーフスキーはトランプをやり、葡萄酒を飲みながら、決闘というものは概して馬鹿げた無意味なものだ、なぜなら決闘によって問題は何一つ解決せず、かえって複雑になるだけではないか、しかし時には決闘がないと困る場合もある、などと考えていた。例《たと》えば今の場合もそうだ。まさか、フォン・コーレンを治安判事に訴えるわけにもいくまい! それに今度の決闘のいい点は、そのあと町に残ることが不可能になるということだ。ラエーフスキーはほろ酔い気分になり、トランプに我を忘れ、上機嫌《じょうきげん》だった。
だが日が沈み、暗くなってくると、不安に襲われた。食事の間も、トランプの間も、決闘は無事に終るという確信がなぜか頭を去らなかったのだから、これは死の恐怖ではなかった。それはあすの朝生れて初めて経験する未知の何ものかにたいする恐怖であり、近づきつつある夜への恐怖だった……彼の予想では、この夜は長い不眠の夜になるだろうし、フォン・コーレンとその憎しみのことだけではなく、なんとか越してしまわねばならぬさまざまな嘘の山のことも考えねばならないだろう。それらの嘘を避けて通るだけの力も手腕も彼にはありはしない。ラエーフスキーはまるで急病にでもかかったように、突然トランプにも話し相手にも興味を失い、そわそわし始め、帰らせてくれと言い出した。一刻も早くベッドに横たわり、じっと動かずに、長い夜のための心構えを固めたかったのである。シェシコフスキーと郵便局長は彼を送りかたがた、決闘の打合せにフォン・コーレンの家へむかった。
自分の住居のそばで、ラエーフスキーはアチミアノフと出逢った。青年は息を弾ませ、興奮していた。
「あなたを探していたんです、イワン・アンドレーイチ」と、青年は言った。「どうか、すぐ来て下さい……」
「どこへ」
「あなたの御存知ない人ですが、非常に重要な用件でぜひお目にかかりたいそうです。一分間でいいから、どうしてもお立ち寄り願いたいと言っています。何かお話ししたいことがあるとか……その人にとっては命にかかわる問題だそうで……」
アチミアノフは興奮のあまり強いアルメニア訛《なま》りで喋《しゃべ》ったので、「命」が「イノツ」と聞えた。
「だれです、それは」と、ラエーフスキーは尋ねた。
「名前は言わないでくれと言われました」
「今忙しいからと、その人に伝えてくれませんか。もしよかったら、あすでも……」
「どうしてそんな!」と、アチミアノフは目を丸くして言った。「あなたにとって非常に重要なことをお話ししたいそうなんです……非常に重要な! もしいらっしゃらないと、よくないことが起ります」
「変だな……」と、アチミアノフがなぜこんなに興奮しているのか、誰にも用のない退屈な田舎町で一体どんな秘密があり得るのか、さっぱりわけが分らずに、ラエーフスキーは呟《つぶや》いた。「変だな……」と、考えこんで繰返した。「とにかく、行ってみよう。どうでもいいことだ」
アチミアノフは先に立って足早に歩き出し、ラエーフスキーはそれに続いた。通りを行き、やがて脇道《わきみち》に入った。
「全く面白くもないね」と、ラエーフスキーが言った。
「もうすぐ、もうすぐ……すぐそこです」
城跡《しろあと》の近くで、柵《さく》で囲った二つの空地《あきち》の間の細い道を通り抜け、それから大きな中庭に入り、一軒の小さな家に近づいた……
「あれはミュリドフの家だった?」と、ラエーフスキーは尋ねた。
「ええ」
「でもなぜ裏庭を通って行くのか、ぼくには分らないな。通りから行けばいいのに。そのほうが近い……」
「いえ、いいんです……」
アチミアノフが裏口へ案内することも、ラエーフスキーには奇妙に思われた。青年は、静かに、何も言わずに歩いて下さい、というように片手を振った。
「こちらへ、こちらへ……」と、アチミアノフは言い、そっとドアをあけて、爪先立《つまさきだ》ちで入口の間に入った。「どうか、静かに、静かに……聞えると困ります」
青年は聴き耳を立て、苦しそうに息を継ぎながら、囁《ささや》き声で言った。
「このドアをあけて入って下さい……大丈夫です」
ラエーフスキーはわけが分らぬまま、そのドアをあけて、天井の低い、窓にカーテンのかかった部屋へ入った。テーブルの上に蝋燭《ろうそく》があった。
「何か用か」と、次の部屋から誰かが尋ねた。「きみか、ミュリドフ君?」
ラエーフスキーはその部屋の方を向き、キリーリンと、そのかたわらにいるナジェージダの姿を見た。
何か言われたようだったが、その言葉は耳に入らず、ラエーフスキーは後退《あとずさ》りして、気がつくといつのまにか通りに出ていた。フォン・コーレンへの憎しみも不安も心から消え失《う》せていた。帰るみちみち、彼は右手を不器用に振り、平らな所を選《よ》って歩こうと足元を注意深く眺めるのだった。家にたどり着き、書斎に入ると、両手をこすりあわせ、上衣やシャツが窮屈だというように肩や頸をぎごちなく動かしながら、部屋の隅《すみ》から隅へと一往復し、それから蝋燭の火をつけて、机にむかった……
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十六
「あなたのおっしゃる人文科学は、その発展の過程において精密科学と出逢《であ》い、それと手をたずさえて進む場合にのみ、人間の思索を満足させることができるでしょう。両者の出逢いが行われるのが、顕微鏡の下でか、新しいハムレットの独白の中でか、あるいは新しい宗教においてなのか、ぼくには分らないけれども、そうなるよりも先に地球は氷の層に覆《おお》われてしまうだろうと思うな。人文科学のなかで最も持久力があり生命力があるのは、言うまでもなくキリストの教えだけれども、ごらんなさい、それがいかにまちまちに解釈されていることか! ある者は、すべての隣人を愛せよ、ただし兵隊と犯罪者と狂人は例外、と教える。兵隊は戦争で殺してもいいし、犯罪者は隔離しても、あるいは死刑にしてもいいし、狂人には結婚を禁じてもいいというわけです。またある者は、プラス・マイナスの差別なしに、あらゆる隣人を例外なく愛せよと教える。その教えによれば、もし結核患者あるいは殺人犯あるいは癲癇《てんかん》持ちが現われて、あなたの娘に求婚したら、娘を嫁《とつ》がせろということです。白痴が心身共に健康な人間に戦いを挑《いど》んできたら、首を差出せということです。この愛のための愛を説く教えは、芸術のための芸術と同じように、もし力を得たならば結局のところ人類を完全な死滅に導き、こうして地上にかつて行われた悪業のなかの最大のものが成就されるに違いない。解釈は実に多く、それが多いということは、どの解釈もまじめな思索を満足させないということであり、雑多な解釈の上に各自の解釈が大急ぎで付け加えられるということです。だから、あなたがおっしゃったように、問題を哲学的あるいは所謂《いわゆる》キリスト教的土台の上に置いてはいけない。そんなことをすれば、問題の解決から遠ざかるばかりだ」
補祭は動物学者の言葉を注意深く聴き終え、少し考えてから尋ねた。
「人間の一人一人に固有の道徳律は、哲学者が考え出したものですか、それとも神が人間の肉体と一緒にお創《つく》りになったものですか」
「さあ分らない。しかし道徳律はあらゆる民族、あらゆる時代にきわめて共通しているものだから、ぼくが思うに、それは人間と有機的に結びついているものだと認識すべきだね。考え出されたのではなくて、現にあり、将来もあるということ。ぼくが言いたいのは、いつかは道徳律を顕微鏡で覗《のぞ》ける日が来るなんてことではなくて、道徳律と人間との有機的な結びつきはすでに明証として証明されているということです。重い脳の病気や、いわゆる精神病のすべては、ぼくの知る限りでは、何よりもまず道徳律の悪化となって現われますからね」
「分りました。つまり、胃の腑《ふ》が食べることを望むように、道徳感は私たちが隣人を愛することを望む。そうですね? しかし私たちの本性は利己心という点で良心と理性の声に反抗し、そこでさまざまの面倒な問題が発生します。もし問題を哲学的土台の上に置いてはいけないとなると、このような諸問題の解決は一体だれに頼んだらいいのですか」
「ぼくらの持っている少量の精密な知識に頼《たよ》ることです。明証と事実の論理を信じなさい。もちろん、それは貧弱なものにすぎないけれども、その代り、哲学のようにあやふやではないし、曖昧《あいまい》でもない。かりに道徳律が人間を愛せよと要求しているとしましょうか。それだからどうだというんです。そもそも愛とは、何らかの点で人間に害を及ぼすもの、現在および未来において人間の脅威となるものを、排除することにある筈《はず》でしょう。ぼくらの知識と明証の教えるところによれば、人類の脅威は精神的・肉体的な異常者の側から来る。もしそうならば、異常者と戦うことだ。異常者を正常にまで高めてやる力がぼくらにないとしても、異常者を無害なものにする、つまり絶滅するための力や腕は充分にあると思うな」
「というと、強い者が弱い者を征服することが愛なのですか」
「もちろん」
「しかし主イエス・キリストを十字架にかけたのは強者だったじゃありませんか!」と補祭が熱っぽく言った。
「いや、そこですよ、キリストを十字架にかけたのは強者ではなくて弱者なんだ。人類の文化は生存競争や自然|淘汰《とうた》の勢いを弱め、それをゼロに近づけようとしている。例《たと》えば、未完成かつ発育不全な人道的思想を、蜜蜂《みつばち》に吹きこむことに成功したところを想像してみなさい。一体どんなことになるか。殺されねばならぬ雄蜂は生き残って蜜を食いつくし、働き蜂を堕落させ、絞め殺す――結果としては弱い者が強い者を圧倒し、強い者は退化する。これと同じことが今、人類に起っているわけです。弱い者が強い者を圧迫している。まだ文化に接触したことのない野蛮人の間では、最も強く賢い者、最も道徳的な者が先頭に立って、指導者となり、酋長《しゅうちょう》となる。ところがぼくら文化的な人間は、キリストを十字架にかけ、今なお同じようなことを繰返しているでしょう。つまり、ぼくらには何かが不足している……その『何か』を取戻さない限り、こういう誤解が終る時はないだろうな」
「でも、どんな規準によって強い者と弱い者を区別するんです」
「知識と明証。結核患者や瘰癧《るいれき》患者はその病状によって、不道徳な人間や狂人はその行為によって分る」
「しかし間違いもあり得るでしょう!」
「そう、しかし洪水が迫っているとき足が濡《ぬ》れるのを恐れても始まらない」
「それは哲学ですね」と補祭は笑った。
「とんでもない。あなたは神学校的哲学にあまりにも毒されているから、何を見てもただ曖昧な霧だけしか見ようとしないのだ。あなたの若い頭に詰めこまれている抽象的な学問は、あなたの知性を明証から引離し、抽象してしまうからこそ、抽象的と呼ばれるのです。悪魔の目をまっすぐ見つめて、相手が悪魔だったら、これは悪魔だと言いなさい。説明を求めて、カントやへーゲルに駆けつけることはない」
動物学者は少し口をつぐんでいてから、話を続けた。
「二かける二は四だし、石は石なんだ。早い話が、あすは決闘がある。それは愚かしい不合理なことだとか、決闘はもう時代遅れだとか、貴族趣味的な決闘というものは居酒屋で酔っぱらい同士が喧嘩《けんか》するのと本質的に少しも変りないとか、ここでいくら話し合ったとしても、やはりぼくらは思いとどまらずに、出掛けて行って決闘をするだろうと思う。すなわち、ぼくらの考察より強い一つの力が存在している。ぼくらは戦争は強盗行為だ、蛮行だ、恐怖だ、兄弟殺しだと叫び、失神せずには血を見ることができない。ところが、ひとたびフランスあるいはドイツに侮辱されるや、たちまち精神の高揚を感じ、心の底からウラーと叫んで敵陣に突進する。あなた方聖職者はぼくらの武器に神の祝福を与え、ぼくらの勇敢な行為は社会一般の心からの熱狂を呼びさますんだ。つまり、この場合にも、ぼくらやぼくらの哲学より、たとえ高尚ではないにせよ、遥《はる》かに強力な一つの力が存在する。海のむこうから涌《わ》いてくるあの黒雲をとどめることはできないように、ぼくらはその力をとどめることができない。偽善はおやめなさい、その力を蔭《かげ》で軽蔑《けいべつ》したり、『ああ愚劣だ! ああ時代遅れだ! ああ聖書の教えに悖《もと》る!』などとぶつくさ言ったりしないで、その力を直視し、その合理的妥当性を認めること。そして例えば、虚弱で淫蕩《いんとう》な瘰癧《るいれき》やみの種族をその力が絶滅しようとしているときに、福音書の悪《あ》しき解釈からでっちあげた丸薬や引用句でその力の邪魔をしないことです。レスコフの作品に、まじめな男ダニーラが町外《まちはず》れで癩病《らいびょう》患者を見つけ、愛とキリストの名においてその癩病やみに食物を与え、体を温めてやるという話があった。もしこのダニーラが本当に人間を愛するのだったら、癩病やみを町からなるべく遠い所へ引きずって行って、溝《どぶ》に叩《たた》きこみ、自分はあくまでも健康な人々に奉仕しただろうな。ぼくの希望的解釈としては、キリストは合理的で有意義で有益な愛をぼくらに説いたのだ」
「全くあなたはなんという人だろう!」と補祭は笑い出した。「キリストを信じてもいないのに、どうしてそうたびたび引合いに出すんですか」
「いや、信じていますよ。ただもちろん自己流に信じているので、あなた流にではない。まあいいさ、補祭さん!」と、動物学者も笑い出し、補祭の腰を抱いて愉快そうに言った。「とにかく、あすは一緒に決闘へ行きますね?」
「上の方々が許しません、それでなければ行きたいところですが」
「上の方々とは?」
「私は聖職者です。天の恵みを受けている人間です」
「ああ補祭さん、補祭さん」と、フォン・コーレンは笑いながら繰返した。「実に愉快だなあ、あなたと話していると」
「あなたは信仰をお持ちだとおっしゃいましたね」と、補祭は言った。「それはどんな信仰なのですか。私の叔父で僧侶《そうりょ》になっているのがいまして、その叔父は熱烈な信仰のあまり、旱魃《かんばつ》の年に野原へ雨乞《あまご》いをしに行くときなど、帰りに雨に濡《ぬ》れない用心に必ず雨傘と革《かわ》の外套《がいとう》を持って行くんです。これが本当の信仰ですよ! この叔父がキリストの話をするときは体から後光がさして、百姓たちは男も女も啜《すす》り泣くんです。この叔父なら、あそこの黒雲をとどめることもできるでしょうし、あなたのその一つの力とやらも追い払ってしまうでしょう。そう……信仰は山をも動かす」
補祭は笑って、動物学者の肩を叩いた。
「全くね……」と補祭は続けた。「あなたはそんなふうにいろんなことを教えたり、海底の神秘を探ったり、弱い者と強い者を区別したり、本を書いたり、決闘を挑んだりしていらっしゃるが、だからといって世の中の何かが変るわけではありません。ところが、どこかのよぼよぼの老人がたった一言、聖霊の言葉を伝えるか、あるいはアラビアから新しいマホメットが半月刀を振りかざし馬をとばして現われるかしたら、あなたの研究も何もかも水泡《すいほう》に帰し、ヨーロッパ全体が廃墟《はいきょ》と化してしまうでしょう」
「それは、補祭さん、ただの空想というものだ!」
「仕事を伴わぬ信仰は死んだ信仰ですが、信仰なき仕事はもっと悪い。単なる時間の浪費以外の何ものでもありません」
海岸通りに軍医が現われた。補祭と動物学者の姿を見て、近寄って来た。
「だいたい用意はいいようだ」と、息を切らしながら軍医は言った。「ゴヴォロフスキーとボイコが介添人になる。朝五時に来てくれる筈《はず》だ。ああ、すっかり曇ったな!」と、空を眺めて言った。「なんにも見えない。一雨来るかな」
「きみも一緒に来てくれるね」と、フォーン・コーレンが尋ねた。
「いや、勘弁してくれ、へとへとなんだ。ぼくの代りに、ウスチモヴィチが行くよ、話はつけておいたから」
海の彼方《かなた》で稲妻が光り、微《かす》かな雷鳴が聞えた。
「雷雨の前は、なんとも蒸し暑い!」と、フォン・コーレンが言った。「賭けてもいいが、きみはもうラエーフスキーの所へ行って、彼の胸にすがって泣いて来たんだろう」
「なんでぼくが彼の所へ行く?」と、軍医はどぎまぎして答えた。「いい加減にしてくれよ!」
日が沈む前に、軍医はラエーフスキーに逢いたくて、遊歩道や大通りを何度か歩いたのだった。自分がつい興奮してしまったこと、その興奮のあとで突然やさしい言葉を口走ってしまったことが、恥ずかしくてたまらなかった。彼はラエーフスキーに逢ったら冗談めかして謝罪し、多少|叱言《こごと》もいい、宥《なだ》めてもやってから、決闘は中世の蛮行の名残《なごり》だが、和解の手段として決闘を定めたのは神の思召《おぼしめし》しなのだ、と言うつもりだったのである。あす、二人の当事者はどちらも実に優秀な人間なのだから、弾《たま》のやりとりのあとで、お互いの高潔さを悟り合い、友人になるに違いない。だが、ラエーフスキーとは、とうとう逢えなかった。
「なんでぼくが彼の所へ行く?」と、サモイレンコは繰返した。「ぼくが彼を侮辱したのじゃなくて、彼がぼくを侮辱したのだよ。教えてくれないか、なぜ彼はぼくに突っかかってきたんだ。ぼくが何か悪いことをしたのかね。客間へ入って行くと、まるで薮《やぶ》から棒にスパイ呼ばわりだ! 全くなんてことだろう! 一体何がそもそもの始まりだったのか、教えてくれないか。きみは何を言ったんだ」
「奴の現状は絶望的だと言ってやったのさ。ぼくの言葉に間違いはなかった。だって、どんな状況からも脱け出すことができるのは正直者かペテン師だけだが、正直者であり同時にペテン師でありたいと望む人間には、出口なんかありゃしない。ところで、みなさん、もう十一時だ、あすは早起きしなくちゃならない」
突然、風が襲ってきた。風は海岸通りの埃《ほこり》を巻き上げ、潮騒《しおさい》よりも大きな声で吠《ほ》えた。
「突風だ!」と、補祭が言った。「早く行かないと、目をやられる」
三人は歩き出し、サモイレンコは溜息《ためいき》をついて、制帽を抑えながら言った。
「今夜は眠れないだろうな」
「心配しなくていい」と動物学者は笑った。「落着いていなさい、決闘はぶじに終るから。ラエーフスキーは寛大に空を撃ってくれるだろう。そのほかにはどうしようもないだろうからね。ぼくはたぶん全然撃ちもしないだろう。ラエーフスキーのために裁判にかけられて時間をつぶすのは馬鹿らしいもの。それはそうと、決闘はどんな罰を受けるのかね」
「拘留だが、相手が死んだ場合は三年以下の禁固だ、要塞《ようさい》にね」
「ぺトロパヴロフスク要塞〔政治犯用の監獄〕?」
「いや、陸軍の要塞だろう」
「それにしても奴《やっこ》さんを懲らしめてやりたいがね」
背後の海で稲妻がきらめき、一瞬、家々の屋根や山々を照らし出した。遊歩道のあたりで三人は別れた。軍医が闇《やみ》の中に消え、足音も遠くなったとき、フォン・コーレンが軍医に叫んだ。
「あしたは天気に邪魔されないかな!」
「分らんぞ! まあ、なんとかなるだろう!」
「おやすみ!」
「おやがどうしたって? 何と言ったんだ?」
風と海の音、それに雷鳴で、声はよく聞きとれなかった。
「なんでもない!」と動物学者は叫び、急ぎ足で帰って行た。
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十七
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……憂《うれ》いにひしがれた心のなかに
あまたの重い思いがむらがるし。
思い出は言葉もなく私の前に
長い巻物をくりひろげる。
過去を読みつつ、うとましさに
私はうちふるえ私は呪《のろ》う。
いかに嘆き、いかに涙を流そうと
悲しみの文字は洗い流せぬ。
――プーシキン
[#ここで字下げ終わり]
あすの朝殺されても、または命を助けられあざ笑われても、いずれにせよ、もう破滅だ。辱《はすか》しめられたあの女も、絶望と羞恥《しゅうち》のあまり自殺しようと、惨《みじ》めな生を続けようと、いずれにせよ破滅だ……
夜遅く机にむかい、相変らず両手をこすりあわせながら、ラエーフスキーはそう思った。窓が出しぬけに音を立てて開き、激しい風が部屋に吹きこんで、机の上の紙が飛んだ。ラエーフスキーは窓をしめ、床に落ちた紙を拾おうとかがみこんだ。自分の体に何か新しい感じ、今までになかったぎごちなさのようなものが感じられ、自分の動作が他人の動作のようだった。肘《ひじ》を張り、肩を震わせながら、彼は辛《つら》そうに歩きまわり、机にむかうと再び両手をこすりあわせ始めた。体の柔軟性はすっかり失われていた。
死の前夜には近親に手紙を書かなければならない。ラエーフスキーはそれを忘れてはいなかった。ペンを取ると、震える文字で書いた。
『お母さん!』
母親が信じている慈悲深い神の御名において、自分が辱しめた不幸な女、孤独で貧しくて弱い女を、母親が引取り、やさしくいたわってくれるように、そしてすべてを、すべてを、すべてを忘れ、赦《ゆる》し、その犠牲によって息子の恐ろしい罪を部分的にでも償ってくれるようにと、ラエーフスキーは書くつもりだった。だが母親が肥《ふと》った大きな老婆で、レースの頭巾《ずきん》をかぶり、毎朝のように狆《ちん》を連れた居候《いそうろう》女をお供にして庭へ下り、高圧的な声で園丁や召使をどなりつけること、母親の顔付きが恐ろしく傲慢《ごうまん》であることを思い出して、彼は書きかけた文字を抹消《まっしょう》した。
三つの窓の全部に稲妻がぎらりと光り、続いて耳を聾《ろう》せんばかりの猛烈な雷鳴が鳴り響いた。それは鳴り初めは鈍い響きだったが、すぐに爆《は》ぜるような轟《とどろ》きに変り、窓ガラスが震えるほどの烈《はげ》しさになった。ラエーフスキーは立ちあがって窓に近づき、ガラスに額を押し当てた。外は凄《すさ》まじい美しい雷雨だった。水平線では稲妻が白い帯となってひっきりなしに黒雲から海へ落下し、沖一面の黒い高波を照らし出した。右でも、左でも、たぶん屋根の上でも、稲妻がきらめいた。
「雷雨!」と、ラエーフスキーは呟《つぶや》いた。だれかに、何かに、稲妻や黒雲にでもいい、彼は祈りたいと思った。「なつかしい雷雨!」
幼い頃、雷雨になると帽子をかぶらずに庭へ走り出たこと、金髪で青い目の二人の女の子があとを追って来て、三人ともずぶ濡《ぬ》れになったことを彼は思い出した。三人は喜んで笑いころげるが、猛烈な雷鳴が轟きわたると女の子たちは幼い彼に素直にすがりつき、彼は十字を切って大急ぎで、「聖者さま、聖者さま、聖者さま……」と唱えたのだった。おお、あの美しい清らかな人生の芽生《めば》えは、どこへ行ったのだろう、どこの海に沈んでしまったのだろう。もはや彼は雷雨をこわがらず、自然を愛さず、神を知らず、かつての素直な娘たちはみな彼や彼と同世代の男たちのために身を滅ぼし、彼はいまだかつて自分の庭に一本の若木も植えず、一株の草も育てず、生ある者の間に生きながら、一匹の蝿《はえ》すら救わず、ただ破壊し、滅ぼし、嘘をつき、嘘をつき……
『おれの過去に悪徳でないものがあっただろうか』と彼は自らに問い、崖《がけ》から落ちる男が灌木《かんぼく》にすがりつくように、何らかの明るい思い出にすがりつこうとした。
中学は? 大学は? だがそれは欺瞞《ぎまん》だった。彼はろくに勉強せず、教わったことはみな忘れてしまった。勤めは? それも欺瞞だった。役所では何一つ仕事をせず、ただ月給を貰《もら》っているだけなのだから、彼の勤めはいわば法に触れない醜悪な公金横領ではないか。
真理というものを彼は必要とせず、それを求めもせず、彼の良心は悪徳と嘘にたぶらかされて眠りこけ、あるいは沈黙していた。彼はまるで他国人のように、あるいは別の惑星から借りて来た者のように、人間の共同生活には加わらなかったし、人々の苦しみ、思想、宗教、学問、探求、闘争には無関心で、だれかに一言でも善いことを言ったためしはなく、一行でも有益な、月並みではない文章を書いたことはなく、一文の値打ちのあることもした覚えはなく、ただ人々のパンを食べ、彼らの葡萄酒を飲み、彼らの妻を盗み、彼らの思想を借り、自分の破廉恥な寄生生活を人々に又は自分自身に正当化するため、いつも自分が人よりも高尚な優《すぐ》れた人間だというふりをしようと努めてきた。何もかも嘘、嘘、嘘にすぎない……
この夜、ミュリドフの家で見たことを彼ははっきりと思い出し、嫌悪《けんお》と悲しみに耐えがたいほど胸が痛んだ。キリーリンとアチミアノフは忌わしい連中だが、彼らはラエーフスキーが始めたことを続けているにすぎないのではなかろうか。彼らはラエーフスキーの共犯者であり、弟子《でし》であるのだ。自分を実の兄以上に信頼してくれた若いかよわい女性から、彼は夫を奪い、友人たちを、故郷を奪って、彼女をこの土地へ――炎熱と熱病と倦怠《けんたい》の中へ連れて来た。彼女は来る日も来る日も鏡のように、彼の無為と悪徳と嘘とをおのれに映さなければならなかった。それだけで、そのことだけで彼女の弱々しい惨《みじ》めな生活は一杯だったのである。やがて彼は彼女に飽き、彼女を憎んだが、棄てる勇気はなく、まるで蜘蛛《くも》の巣のように彼女を嘘でますます固く縛り上げようと努めた……あとのことは、あの二人が仕上げてくれたのだ。
ラエーフスキーは机の前に坐ったり、また窓に近寄ったりした。蝋燭《ろうそく》を消したり、またともしたりした。声に出して自分を呪い、涙を流し、哀訴し、赦しを乞《こ》うた。幾度となく絶望的に机へ駆け寄って、『お母さん!』と書いた。
母親のほかに、彼には一人の親戚《しんせき》も親友もいなかった。しかし母親がどうやって彼を助けることができるだろう。それにどこにいるのだ、母親は? 彼はナジェージダに駆け寄って、その足元に身を投げ、彼女の手や足にキスをして赦しを乞いたかったが、彼女はラエーフスキーの生贄《いけにえ》であり、死体のように恐ろしい存在だった。
「人生の破滅だ!」と、両手をこすりあわせながら彼は呟いた。「ああ、なぜおれはまだ生きているのだろう!……」
彼は自分の微《かす》かな星を天から叩《たた》き落したのである。星は地平の下に沈み、その痕跡《こんせき》は夜の闇《やみ》とまじりあってしまった。星はもう天に帰らないだろう。なぜなら人生は一度限りのもので、二度とは繰返されないのだから。もしも過去の歳月を呼び戻すことができるのだったら、彼はかつての嘘を真実に、無為を勤労に、倦怠を喜びに換えるだろう。奪った純潔をその相手に返し、神と正義を見出《みいだ》しもするだろうが、それは沈んだ星を天に戻すことと同じく不可能なことである。それが不可能であるからこそ、彼は絶望に陥っているのではないか。
雷雨が通りすぎると、彼は窓をあけて窓ぎわに坐り、自分がどうなるのかを静かに考えた。フォン・コーレンは恐らく彼を殺すだろう。あの男の冷たい明晰《めいせき》な世界観は、虚弱者や不適応者の絶滅を許すのだから。万一、決定的な瞬間にその世界観が裏切ったとしても、ラエーフスキーによって呼びおこされる憎しみと嫌悪感が彼の決心を助けるだろう? またもし彼が撃ち損じたら、あるいは憎むべき敵を嗤《わら》うために、ラエーフスキーを負傷させるにとどめたら、あるいは空を撃ったら、その場合はどうしたらいいのか、どこへ行ったらいいのか。
「ぺテルブルグへ行くか」と、ラエーフスキーは自分に尋ねた。「だが、それでは呪わしい過去の生活を再び始めることになるだろう。渡り鳥のように場所の変化に救いを求める者は、結局、何一つ見出すことはできない。なぜならその者にとっては地上の到る所が同じなのだから。人間に救いを求めるか。だれに、どのように求める? サモイレンコの善良さと寛大さは、補祭の笑い上戸《じょうご》や、フォン・コーレンの憎しみと同様、殆《ほとん》ど救いになり得ない。やはり救いは自分自身に求めねばならないが、もしそれが見つからないのなら何のために時間を空費する。自殺すればいい、それだけのこと……」
馬車の音が聞えた。もう白みそめていた。一台の半幌馬車《はんほろばしゃ》がいったん家の前を通りすぎ、方向を変えて、湿った砂に車輪を軋《きし》ませながら、家の前でとまった。馬車にはニ人の男が乗っていた。
「待ってくれ、今行く!」と、ラエーフスキーが窓から二人に言った。「もう起きてるんだ。時間か、もう?」
「そう。四時だ。まだ間に合うけれども……」
ラエーフスキーは外套《がいとう》を着て制帽をかぶり、ポケットに煙草を入れ、それから立ちどまって考えた。何かほかにしなければならないことがあるような気がしたのである。外では介添人たちが小声で話し合い、馬が鼻を鳴らしていたが、それらの物音は、空が白みそめたばかりの寝静まったこの湿っぽい早朝、ラエーフスキーの胸を不吉な予感に似た倦怠で満たすのだった。少しの間、立ったまま考えていてから、彼は寝室へ行った。
ナジェージダは頭まで毛布をかけて、自分のベッドに長々と寝ていた。身動きもしないその姿全体が、とりわけ頭のあたりがエジプトのミイラを連想させた。無言で彼女を眺《なが》めながら、ラエーフスキーは心の中で赦しを乞い、もし天が空《から》っぽではなく本当にそこに神がいるのならば、神はこの女を守って下さるだろうと思った。もし神がいないのなら、彼女は滅びるがいい、生きていて何になるだろう。
彼女が急に跳《と》び起きて、ベッドの上に坐った。蒼白《そうはく》な顔を上げて、恐ろしそうにラエーフスキーを見ながら尋ねた。
「あなただったの。嵐《あらし》はやんだ?」
「やんだよ」
彼女は我に返り、両手で頭をかかえて、体ぜんたいを震わせた。
「辛《つら》いわ!」と彼女は言った。「どんなに辛いか分っていただけるかしら! 私、待っていたの」と、半ば目を閉じながら続けた。「あなたに殺されるか、でなきゃ雨と雷のなかへ追い出されるのを。でもあなたはなかなか……なかなか来なかった……」
彼は発作的に固く彼女を抱きしめ、その膝《ひざ》や手に幾度となくキスした。ナジェージダは何か呟いて思い出に身を震わせ、彼はナジェージダの髪を撫《な》で彼女の顔を見つめながら、この不幸な罪の女が自分には唯一人の身近な、親しい、かけがえのない人間であることを悟った。
外へ出て、馬車に乗ったとき、彼は生きて家に帰りたいと思った。
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十八
補祭は起きて服を着ると、節だらけの太いステッキを取り、そっと家を出た。外は暗く、通りを歩き始めたとき、補祭には自分の白いステッキさえ見えなかった。空には星が一つも見えず、また雨が降り出しそうな気配だった。湿った砂と海の匂《にお》いが漂っていた。
『これなら、チェチェン人〔北カフカスの少数民族〕に襲われることもあるまい』と補祭は思い、敷石にぶつかるステッキの音が夜の静寂の中で高く淋《さび》しく響きわたるのに耳をすました。
町を出ると、道も、白いステッキも見え始めた。黒い空のところどころにぼんやりした斑点《はんてん》が現われ、まもなく星が一つ顔を出し、その単眼が臆病《おくびょう》そうにまたたき始めた。高い岩壁の上を歩いて行く補祭には、海は見えなかった。海は下の方でまどろんでいて、姿の見えぬ波がだるそうに重苦しく岸にぶつかり、「うう!」と溜息《ためいき》そっくりの音を立てていた。それも、なんというゆるやかさだろう! 一つの波が打ってから、補祭が八歩数えると次の波が打ち、それから六歩数えると第三の波が打った。ちょうどこんなふうに、神が混沌《こんとん》の上を飛びまわっていた頃も、何一つ見えず、だるい眠そうな海のざわめきが聞え、想像もつかぬほど遠い無限の時の歩みが聞えていたのだろう。
補祭は薄気味わるくなった。不信心者たちの仲間入りをし、あまつさえ彼らの決闘を見物しに行く自分を、神は罰し給うのではないだろうか。この決闘はどうせ大したことのない、血も流れぬ滑稽《こっけい》なものになるだろうが、なんといっても決闘とは異端の見世物であり、聖職者が決闘の場に居合せるのは甚《はなは》だしく不謹慎なことである。補祭は立ちどまり、引返そうかと思った。しかし揺れ動く激しい好奇心が疑念に勝ち、彼は更に歩きつづけた。
『あの二人は不信心者だけれども、いい人たちだから救われるだろう』と、補祭は自らをなだめるのだった。「きっと救われる!」と声に出して言い、煙草の火をつけた。
人を正しく判断するためには、どんな尺度で人の価値を測ればよいのだろう。補祭は自分の仇敵《きゅうてき》ともいうべき神学校の生徒監を思い出した。その男は神を信じ、決闘などしたことはなく、清浄潔白の生活をしていたが、あるとき補祭に砂の入ったパンを食わせたし、またあるときはもう少しで補祭の耳を引きちぎるところだったのである。残酷で、嘘つきで、学校の小麦粉を盗む、あの生徒監が、みんなに尊敬され、その健康と救いを学校で祈ったりするほど、人間生活の仕組みが馬鹿げているものならば、フォン・コーレンやラエーフスキーのような人たちを、不信心者だというだけで敬遠するのは正当なことだろうか。補祭はこの問題を解こうとし始めたが、今日のサモイレンコの滑稽な姿を思い出し、それが思考の流れを断ち切ってしまった。あすはどんなに滑稽なことがあるだろう! 補祭は自分が薮《やぶ》にひそんで覗《のぞ》いている姿や、あすの昼食のとき、フォン・コーレンが自慢話を始めたら、自分が笑いながら決闘の一部始終を喋《しやベ》ってやる図などを空想した。
『どうして何もかも知っているのですか』と動物学者は尋ねるだろう。
『そこですよ。家に坐っていても、ちゃんと分るんです』
決闘のことを面白おかしく手紙に書くのもよかろう。女房の父親はそれを読んで大笑いするだろう。この義父は滑稽な話を聞いたり読んだりするのが三度の飯よりも好きなのだった。
黄色い川の狭間《はざま》が開けた。雨のために川は幅が広くなり、一段と邪悪な感じを強めて、もはや先日のように唸《うな》るのではなく、吠《ほ》えているのだった。夜明けが始まっていた。おぼろな灰色の朝、雷雲に追いつこうと西へ走る雲々、霧の帯をしめた山々、濡《ぬ》れた木々――すべてが補祭には醜く、不機嫌《ふきげん》に見えた。補祭は川の水で顔を洗い、朝の祈りの文句を称《とな》えると、義父の家で毎朝出すお茶や、生クリームつきの焼きたての白パンが恋しくなった。自分の妻や、彼女がピアノで弾《ひ》く『二度とかえらぬ唄《うた》』が思い出された。妻はどんな女なのだろう。補祭が彼女と知り合ってから一週間のうちに縁談がまとまり、結婚式が行われた。そして一と月も一緒に暮さぬうちに、ここへ派遣されたので、妻が一体どんな人間なのか、いまだによく分らないのである。それでも妻がいないことはなんとなく淋しかった。
『簡単な手紙でも書いてやらなければ……』と補祭は思った。
居酒屋の上の旗は雨に濡れて垂れ下がり、居酒屋そのものも屋根が濡れているためか、先日よりも暗く低く見えた。入口の前に一台の荷馬車がとまっていた。ケルバライと、どこかのアブハジア人が二人、それにトルコ風のズボンをはいた若いダッタン女、これはたぶんケルバライの細君か娘だろう、この四人が居酒屋から何かの袋を持ち出し、トウモロコシの藁《わら》を敷いた荷馬車に積みこんでいた。荷馬車の脇《わき》には、二頭の驢馬《ろば》が頭を垂れて立っていた。袋を積みこんでしまうと、アブハジア人とダッタン女はその上に藁をかぶせ始め、ケルバライはそそくさと荷馬車に驢馬をつけ始めた。
『密輸だな、きっと』と補祭は思った。
そこにはあの枯れた棘《とげ》だらけの倒木もあれば、黒く焦げた焚火《たきび》の跡もあった。ピクニックの一部始終が思い出された。焚火、アブハジア人たちの唄、司祭だの十字架行列だのの甘い夢想……黒い川も雨のためにいっそう黒く、幅がひろがっていた。補祭は、濁流の鬣《たてがみ》が触れそうになっている貧弱な橋をこわごわ渡り、梯子《はしご》を登って乾燥小屋に入った。
『頭のいい男だ!』と、藁の上に長々と寝て、フォン・コーレンのことを思い出しながら補祭は考えた。『頭のいい彼に神の御恵みあれ。ただ彼には残酷なところがある……』
なぜ彼はラエーフスキーを憎み、ラエーフスキーは彼を憎むのだろう。なぜ二人は決闘をするのだろう。もしも補祭のように幼い頃から貧乏を知っていたら、もしも無教育で薄情で貪欲《どんよく》な連中、一切れのパンのことで口汚《くちぎたな》く争い、言葉づかいは粗野で下品で、床に唾《つば》を吐き、食事や祈祷《きとう》のとき平気でげっぷをするような連中の間で育ったのだったら、そして幼い頃から恵まれた環境や選ばれた交際範囲によって甘やかされてきたのではなかったら、二人はどんなにお互いに頼《たよ》り合い、喜んでお互いの欠点を赦《ゆる》し、それぞれの価値を尊重したことだろう。紳士というものは、外見だけの紳士にしたところで、この世には実に少ないのではなかろうか! なるほどラエーフスキーはわがままで気違いじみた変り者だが、まさか盗みはやらないし、大きな音を立てて床に唾を吐きはしないし、『めしばかり食らいやがって働かねえ』と細君をどなりつけないし、馬の手綱で子供を殴《なぐ》ったり、使用人に腐りかけた塩漬肉《しおづけにく》を食わせたりもしない――それだけでも彼を寛容に扱うのに充分の理由とならないだろうか。しかも、ちょうど患者が傷に苦しむように、彼の欠点のために苦しんでいるのは、だれよりもまず彼自身ではないか。退屈のあまり、あるいは何らかの誤解から、お互いに退化だの、死滅だの、遺伝だの、ろくに分りもしないことを言い合うよりは、もっと低い場所へ下りて行って、無教育や、貪欲さや、叱言《こごと》や、不衛生や、罵声《ばせい》や、女の金切り声やで、街全体がわーんと鳴っているあたりへ、自分たちの憎しみや怒りを向けたほうがよいのではないだろうか。
馬車の音が聞えて、補祭の考えは中断された。扉から覗《のぞ》くと半幌馬車が見え、それに三人乗っていた。ラエーフスキーと、シェシコフスキーと、郵便局長。
「ストップ!」 と、シェシコフスキーが言った。
三人は馬車から下りて、顔を見合せた。
「連中はまだ来ていない」と、服にはねた泥を落しながら、シェシコフスキーは言った。「では、と。連中が遅れているあいだに、適当な場所を探しに行きますか。ここじゃ身動きもならない」
三人は川上の方へ歩き出し、まもなく視界から消えた。ダッタン人の馭者《ぎょしゃ》は馬車に上り、頭を肩に傾けて、うたたねを始めた。十分ほど待ってから、補祭は乾燥小屋から出て、見つからぬように黒い帽子をぬぎ、姿勢を低くしてあたりの様子をうかがいながら、薮《やぶ》やトウモロコシの列を掻《か》き分け、川岸を辿《たど》り始めた。樹木や藪から大粒の露が補祭にふりかかった。草もトウモロコシも濡れていた。
「醜態だ!」と、濡れて泥だらけの裾《すそ》をはしょりながら補祭は呟《つぶや》いた。「こうと知っていたら来るんじゃなかった」
まもなく人声が聞え、人の姿が見えた。ラエーフスキーは両手を袖口《そでぐち》につっこみ、背を丸めて、小さな草原のなかを足早に行ったり来たりしていた。介添人たちは川岸に立ち、煙草を巻いていた。
『妙だ……』と、別人のようなラエーフスキーの歩きぶりを見て補祭は思った。『まるで老人のようだ』
「連中は実に無礼だな!」と、時計を見ながら郵便局長が言った。「学者の世界では遅刻が許されるのかもしらんが、私に言わせれば、こういうことは実に非文化的だ」
黒い頬《ほお》ひげを生《は》やし、よく肥えたシェシコフスキーは、耳をすまして言った。
「来たぞ!」
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十九
「生れて初めて見る光景だ! なんというすばらしさだろう!」と、小さな草原に現われたフォン・コーレンは東の方へ両手を差しのべて言った。「ごらんなさい、緑色の光だ!」
東の山から二条の緑色の光線が伸びていて、それは本当に美しい眺《なが》めだった。日の出である。
「こんにちは!」と、ラエーフスキーの介添人たちに会釈して、動物学者は言葉をつづけた。「お待たせしませんでしたか」
そのうしろから、フォン・コーレン側の介添人たちがついて来た。ボイコとゴヴォロフスキーという、ちょうど同じ背丈《せたけ》の、白い制服を着た非常に若い二人の士官と、痩《や》せた人間|嫌《ぎら》いの医師ウスチモヴィチである。医者は片手で何かの包みを持ち、もう一方の手はうしろにまわしていた。背中には、いつもの通り、ステッキをぴんと立てている。包みを地べたに置くと、だれとも挨拶をせずに、空《あ》いた手も背中にまわして草原を歩き始めた。
ラエーフスキーは、まもなく死ぬかもしれないというのでみんなの注目の的になっている人間の、疲労と間の悪さを感じていた。一刻も早く殺してくれるか、でなければ家へ連れ戻してくれるといい、と彼は思った。日の出を見るのは生れて初めての経験だった。この早朝の光景、緑色の光線や、湿った空気や、濡《ぬ》れた長靴をはいた人々は、彼の生活には余分なもの、不要のものと思われ、しかもそれらは彼を圧迫するのだった。こんなことは何もかも、苦しかった一夜、あれらの想《おも》いや罪悪感とは何の関係もない。だから帰れるものならば決闘を待たずに帰りたかった。
フォン・コーレンも明らかに興奮していたが、それを隠すために、緑色の光線が何よりも面白くてたまらないというふりをしていた。介添人たちは間が悪そうで、なぜ自分たちはここにいるのだろう、何をしたらいいのだろうと尋ねるように、お互いに視線をかわしていた。
「みなさん、これ以上先へ行く必要はないと思いますな」と、シェシコフスキーが言った。「ここでいいでしょう」
「ええ、もちろん」と、フォン・コーレンが同意した。
沈黙が流れた。歩きまわっていたウスチモヴィチが突然ラエーフスキーの方に向き直り、彼の顔に息を吹きかけながら低い声で言った。
「あなたには、まだ、たぶん私の条件が伝わっていなかったと思います。どちらの側も十五ルーブリずつ払っていただくわけで、どちらか片方が亡《な》くなった場合には、生き残った方に三十ルーブリお支払いいただきます」
ラエーフスキーは以前からこの男を知っていたが、今初めてその濁った目や、硬《こわ》そうな髭《ひげ》や、肺病やみのような痩せた頸《くび》をはっきりと見た。高利貸だ、医者ではない! 男の息は不愉快な牛肉に似た臭《にお》いがした。
『全く世の中にはいろんな人間がいるものだ』と、ラエーフスキーは思い、答えた。
「分りました」
医者はうなずいて、また歩きまわり始めた。明らかにこの男は金が欲《ほ》しいわけではなく、ただ憎しみゆえに金を請求したのだった。一同は、もう始めるべき時だ、あるいは始めたことを終らせるべき時だと感じていたが、始めも終らせもせず、歩いたり、佇《たたず》んだり、煙草をふかしたりしていた。生れて初めて決闘に立ち会った二人の若い士官は、彼らの意見によれば文官的で無用なこの決闘を今では殆《ほとん》ど信用せず、自分たちの制服を丹念に点検したり、袖《そで》の皺《しわ》をのばしたりしていた。シェシコフスキーはこの二人に近づいて、低い声で言った。
「お二人に相談したいのですが、われわれは全力を挙げてこの決闘を成立させぬようにするべきだと思います。二人を和解させなければならない」
少し赤くなって、シェシコフスキーは続けた。
「実はゆうベキリーリンが私を訪《たず》ねて来て愚痴をこぼすのです。なんでも、ナジェージダ・フョードロヴナと一緒にいるところを、ラエーフスキーに見つかったとかいうことで」
「ええ、ぼくらもその話は聞いています」と、ボイコが言った。
「ですから、ごらんなさい……ラエーフスキーは手が震えているやら何やらで……あれではピストルを持ち上げることもできない。あの男と決闘をするのは、酔漢かチフス患者と決闘をするように非人間的なことです。もし和解が成立しなかったら、せめて決闘を延期したらどうでしょう……とにかくこういう厄介なことにはかかりあいたくない」
「フォン・コーレンと話してみてくれませんか」
「私は決闘の規則は知らないし、そんな剣呑《けんのん》なものは知りたくもないが、ひょっとしたら彼は、ラエーフスキーが怖気《おじけ》づいて私を差向けたと思うのじゃないかな。しかし、まあ、どう思われようと、一つ話してみましょう」
シェシコフスキーは足が痺《しぴ》れでもしたように少し跛《びっこ》を引きながら、不承不承フォン・コーレンに近づいて行った。咳払《せきばら》いなどしながら歩いて行くその姿は、けだるさそのものというふうに見えた。
「ちょっと申上げたいことがあります」と、動物学者のシャツの花模様をじっと見つめながら、シェシコフスキーは口を開いた。「ここだけの話ですが……私は決闘の規則は知らないし、そんな剣呑なものは知りたくもないので、つまり、介添人とかなんとか、そういうことではなく、人間として考えるというだけのことです」
「ええ。それで?」
「介添人が和解をすすめても、それは普通聞き入れられずに、ただの形式的な手続きと見なされるようです。すなわち、自尊心の問題ですな。しかし折り入ってお願いしますが、どうかイワン・アンドレーイチの様子をごらんいただきたい。今日の彼は常態ではない、いわば頭の調子が狂った、惨《みじ》めな有様です。実は不幸な事件が起りました。私は人の噂《うわさ》は嫌いなたちですが」と、シェシコフスキーは赤くなって、あたりを見まわした。「しかし決闘に関することですから、あなたにお知らせしなければならない。ゆうべ彼はミュリドフの家で、自分の奥さんが……その、ある紳士と一緒にいるのを見たのです」
「なんて醜悪な話だ!」と、動物学者は呟《つぶや》いた。その顔色が蒼《あお》くなり、彼は眉《まゆ》をひそめ大きな音を立てて唾を吐いた。「汚らわしい!」
動物学者の下唇《したくちびる》が震え出した。その先はもう聞きたくないと言わんばかりに彼はシェシコフスキーのそばから離れ、知らずに何か苦いものを舐《な》めてしまったときのように、もう一度大きな音を立てて唾を吐き、それからこの朝初めて、憎しみをこめてラエーフスキーを見た。興奮と気まずさが消えると、動物学者は頭を一振りして大声で言った。
「みなさん、お尋ねしたいが、われわれは一体何を待っているのですか。なぜ始めないのですか」
シェシコフスキーは二人の士官と顔を見合せて、肩をすくめた。
「みなさん!」と、シェシコフスキーは誰にむかってでもなく大声で言った。「みなさん! われわれはお二人に和解を提案いたします!」
「手続きはなるべく早くすませたい」と、フォン・コーレンは言った。「和解の話はもうすみました。あとはどんな手続きが残っているのですか。早くしましょう、みなさん、時間は待っていてくれない」
「しかしわれわれはやはり和解を主張します」と、他人の事情に介入することを余儀なくされた人間の、申しわけなさそうな声で、シェシコフスキーに言った。そして顔を赤らめ、片手を心臓にあてて言葉を続けた。「みなさん、われわれには侮辱と決闘との間の因果関係が分りません。人間の弱さゆえにわれわれが時として互いに与え合う侮辱と、決闘との間には、何らの共通点もありません。お二人は大学を出られた教養人ですから、むろん、決闘が時代おくれの空虚な形式うんぬんという論は御承知だと思います。われわれもまたそのような見方をする者であって、さもなければここへは来ていない筈《はず》です。なぜなら、われわれの面前で人間同士が撃ち合いをするのを許すわけにはいかないのですから」 シェシコフスキーは顔の汗を拭《ぬぐ》って続けた。「そういうわけでありますから、お二方は互いの誤解を解かれて、手を握り合い、仲直りの盃《さかずき》を乾《ほ》しに家へ帰ろうではありませんか。これは私の嘘偽りない心からの提案であります!」
フォン・コーレンは黙っていた。ラエーフスキーはみんなが自分に注目しているのに気づいて言った。
「ぼくはニコライ・ワシーリエヴィチに対して何ら含むところはありません。もしもぼくが悪いのだと彼が言うのでしたら、謝罪しても構いません」
フォン・コーレンが腹立たしげに言った。
「みなさんは明らかにラエーフスキー氏が寛大な騎士として帰宅されることをお望みらしいが、ぼくはみなさん及びラエーフスキー氏にそのような喜びを与えることはできない。和解の盃を乾し、酒の肴《さかな》を食い、決闘は時代おくれの形式だという説教を聞くだけのためになら、何も早起きをして町から十里も馬車を飛ばす必要はなかったのです。決闘は決闘であって、それを実際以上に愚劣な偽善的なものにしてはならない。ぼくは戦うことを望みます!」
沈黙が訪れた。士官のボイコが箱から二挺《ちょう》のピストルを取出した。一挺はフォン・コーレンに、一挺はラエーフスキーに渡されたが、そこでちょっとした混乱があって、動物学者や介添人たちを少しの間笑わせた。つまり、ここに居合せた人たちの中で今までに決闘に立ち会った経験のある者は一人もなく、当事者はどんなふうに立ったらいいのか、介添人は何を言い何を為《な》すべきかを、だれも知らなかったのである。だが、まもなくボイコが思い出して、笑顔《えがお》で説明し始めた。
「レールモントフの小説にどう書いてあったか、だれか覚えていませんか」と、フォン・コーレンが笑いながら尋ねた。「ツルゲーネフでも、バザロフがだれかと撃ち合うところがあったが……」
「そんなことを思い出して何になる」と、ウスチモヴィチが立ちどまり、苛立《いらだ》たしそうに言った。
「要するに距離を測ればいいんだ」
そして測り方を教えるように三歩ほど歩いてみせた。ボイコが歩数を数え、その同僚が剣を抜いて、柵《さく》のつもりなのだろう、両端の地面に線を引いた。
二人の男は一同の沈黙のうちに、それぞれの位置についた。
『モグラだ』と、薮《やぶ》の中に坐《すわ》っていた補祭はいつかの話を思い出した。
シェシコフスキーが何か言い、ボイコが再び何かを説明したが、それはラエーフスキーには聞えなかった。正確に言えば、聞えはしたが理解できなかった。まもなく時が来て、彼は撃鉄を上げ、重い冷たいピストルの銃口を上に向けた。外套《がいとう》のボタンを外《はず》すのを忘れていたために肩や腋《わき》の下がたいそう窮屈で、袖がブリキででも出来ているように腕はひどく持ち上げにくかった。ラエーフスキーは、きのう浅黒い額や縮れ毛に憎しみを覚えたことを思い出し、きのうの烈しい憎しみと怒りの瞬間でさえ、あの男を撃つことはできなかっただろうと思った。弾《たま》が何かのはずみでフォン・コーレンに当ることを恐れて、彼はピストルをますます高く上げ、このあまりにもあからさまな寛容のしぐさはかえって不作法《ぶさほう》であり非寛容でもあると感じたが、ほかにはどうしようもないのだった。初めから相手が空に向けて撃つことを確信していたらしいフォン・コーレンの、嘲《あざけ》るような微笑を浮べた蒼い顔を見て、ラエーフスキーは思った。ありがたいことに、もうじき何もかも終りだ、あとは引金にもう少し力を入れさえすれば……
強い反動が肩へ来て、銃声が鳴り響き、山のこだまが答えた。ぱんぱーん!
次にフォン・コーレンが撃鉄を上げ、ウスチモヴィチの方を見た。医者は依然として両手をうしろに組み、あたりの出来事には関心が一切ないというように歩きまわっていた。
「ドクトル」と動物学者が言った。「頼むから振子のように動くのはやめて下さい。あなたのせいで目がちらちらする」
医者は立ちどまった。フォン・コーレンはラエーフスキーを狙《ねら》い始めた。
『おしまいだ!』と、ラエーフスキーは思った。顔にまっすぐ向けられたピストルの銃口、フォン・コーレンの姿勢や体ぜんたいに現われた憎しみと蔑《さげす》み、昼日中、何人もの市民の前で一人の男が今まさに決行しようとしているこの殺人、そしてこの静けさ、ラエーフスキーを金縛りにして逃がさぬこの得体の知れぬ力――これらすべてはなんと神秘的で、不可解で、恐ろしいことだろう! フォン・コーレンが狙いを定めている時間は、ラエーフスキーには一夜よりも長く感じられた。ラエーフスキーは哀願するように介添人たちに視線を移した。介添人たちは身動きもせず、どの顔も真《ま》っ蒼《さお》だった。
『早く撃ってくれ!』と、ラエーフスキーは思い、自分の震えている蒼い哀れな顔はフォン・コーレンの内部にいっそうの憎しみを掻《か》き立てるに違いないと感じた。
『すぐ殺してやるぞ』と、フォンーコーレンは額に狙いを定め、すでに指を引金に触れながら思った。『そう、もちろん殺す……』
「殺してしまう!」と、突然、どこかすぐそばで絶望的な叫び声が聞えた。
同時に銃声が鳴り響いた。ラエーフスキーが倒れず元の位置に立っているのを認めてから、一同は叫び声が聞えた方を眺め、補祭を見つけた。蒼い顔をして、濡れた髪を額や頬《ほお》に貼《は》りつかせ、全身びしょ濡れで泥だらけの補祭は、向う岸のトウモロコシ畑の中に立ち、なんだか奇妙な笑みを浮べて、濡れた帽子を振っていた。シェシコフスキーは嬉《うれ》しさのあまり泣き笑いをしながら、その場を離れて行った……
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二十
少し経《た》って、フォン・コーレンと補祭は小さな橋のたもとで一緒になった。補祭は興奮していて、苦しそうに呼吸し、相手の目をまともに見なかった。自分の恐怖や、泥だらけの濡《ぬ》れた服を恥じていたのである。
「あなたが彼を殺すつもりのように見えたもので……」と、補祭は呟《つぶや》いた。「これは実に人間の本性に悖《もと》ったことです! どこまで不自然なことだろう!」
「しかしなぜこんな所へ来たのですか」と、動物学者は尋ねた。
「それを訊《き》かないで下さい!」と補祭は手を振った。「悪魔が誘ったんです。行け、行け、って……それで来ましたが、トウモロコシ畑の中で恐ろしさのあまり息がとまりそうでした。でも、よかった、よかった……ぼくはあなたに満足です」と、補祭は呟いた。「袋蜘蛛《タランチュラ》のおやじもさぞかし満足でしょう……実に滑稽《こっけい》だ、おかしいです! ただ、たってのお願いですが、ぼくがここに来たことはだれにも言わないで下さい。でないと上の人たちに油をしぼられます。補祭は決闘の介添人だった、なんて言われると困ってしまう」
「みなさん!」と、フォン・コーレンは言った。「補祭さんは、ここでみなさんと逢《あ》ったことをだれにも言わないで欲《ほ》しいそうです。まずいことになるそうなので」
「実に人間の本性に悖ったことです!」と補祭は溜息《ためいき》をついた。「たいへん失礼な言い方かもしれないが、さっきのあなたの顔を見ていて、これは間違いなく彼を殺すと思いました」
「あの汚らわしい男の息の根を止めたいという強い誘惑はありましたよ」と、フォン・コーレンは言った。「ところが、あなたがすぐそばで叫んだものだから、狙いが狂ってしまった。とにかく、こういう手順というものは馴《な》れていないとわずらわしいね。猛烈に疲れましたよ、補祭さん。なんだか力がすっかり抜けてしまった。一緒に馬車で帰りましょう……」
「いや、失礼して、ぼくは歩いて帰ります。服を乾《かわ》かさないと、ぐしょ濡れで凍えそうです」
「じゃ好きなようにして下さい」と、力の抜けた動物学者は馬車に乗りこみ、目を閉じ、もの憂《う》げな声で言った。「好きなように……」
一同が馬車のまわりをうろうろしたり乗りこんだりしている間、ケルバライは道ばたに立ち、両手を腹にあてて深々とお辞儀をしては、白い歯を見せるのだった。旦那方は風景を楽しみ、お茶を飲むために来たと思っていたので、なぜみんなが馬車に乗りこむのか、わけが分らなかったのである。一同の沈黙のうちに馬車の列は動き出し、居酒屋のそばには補祭一人だけが残った。
「店に入るね、お茶飲むね」と、補祭はケルバライに言った。「私たべたいね」
ケルバライはロシア語を上手《じょうず》に喋《しゃぺ》るのだが、補祭は、片言のロシア語のほうがダッタン人には通じやすいだろうと思ったのだった。
「卵焼くね、チーズくれるね……」
「どうぞ、どうぞ、お坊さま」と、ケルバライはお辞儀をしながら言った。「なんでも差上げるね……チーズあるよ、葡萄酒《ぶどうしゅ》あるよ……好きなもの食べるよろしね」
「ダッタン語で、神様は?」と、店に入りながら補祭は尋ねた。
「あんたの神様、私の神様、同じね」と、質問の意味が分らずにケルバライは言った。「だれの神様も同じ、人間違うだけね。ある人ロシア人、ある人トルコ人、ある人イギリス人、いろんな人いるが、神様一つね」
「なるほど。もしすべての民族が唯一の神を拝むのなら、きみたち回教徒がキリスト教徒を永遠の敵と見るのはなぜだ」
「なぜ怒るか」と、ケルバライは両手を腹にあてて言った。「あんた坊さま、私回教徒、あんた食べたい言うね、私差上げるね……お前の神、おれの神、やかましく言うの、金持だけね、貧乏人そんなことどうでもいいよ。どうぞ、食べなさい」
居酒屋で神学問答が行われていた頃、ラエーフスキーは帰りの馬車の中で、夜明けにこの道を来たときの薄気味悪さを思い出していた。あのとき、道も岩も山も濡れて、まっくらで、知られざる未来は底なしの淵《ふち》のように恐ろしく思われたのだったが、今は草や石に宿った雨のしずくが日の光を受けてダイヤモンドのようにきらめき、自然は喜ばしげに微笑《ほほえ》み、恐ろしい未来は背後に過ぎ去ってしまった。泣きはらしたシェシコフスキーの陰気な顔を眺《なが》め、フォン・コーレンとその介添人たち、それに医者を乗せて前を行く二台の馬車を眺めて、ラエーフスキーはふと、自分たちはいま墓場から帰るところなのだ、みんなの生活を邪魔した鼻持ちならぬ厄介な一人の男を今葬ってきたのだ、という気がした。
『すべては終った』と、そっと指で頸筋《くびすじ》を撫《な》でながら、ラエーフスキーはおのれの過去を思った。
頸の右側、カラーの当るあたりに、小指ほどの長さと太さの小さなみみず腫《ば》れができて、焼き鏝《ごて》を当てられたような痛みが感じられた。それは弾丸が掠《かす》った跡だった。
やがて家に帰ると、彼にとっては長い、奇妙な、甘やかな、まどろみのように朦朧《もうろう》たる一日が始まった。刑務所か病院から出て来た人のように、彼は久しく見馴《みな》れている物をじっと見つめ、机や、窓や、椅子や、光や、海が、とうの昔に忘れていた無邪気な生き生きとした喜びを呼びさますことに驚くのだった。蒼《あお》ざめて、ひどくやつれたナジェージダは、彼の物静かな声や奇妙な歩きぶりが不思議でたまらなかった。彼女は自分の身に起ったことの一部始終を大急ぎで語った……その話が彼にはよく聞えないのだろうか、それとも理解できないのだろうか、と彼女は思った。もしすべてを知ったら、彼はナジェージダを呪《のろ》い、殺してしまうだろう。だがラエーフスキーは彼女の話に耳を傾け、彼女の顔や髪を撫で、その目を見つめて言うのだった。
「ぼくには、きみのほかにだれもいない……」
それから二人は永いこと庭に坐りつづけ、互いに寄り添って沈黙を守り、さもなければ自分たちの幸福な未来の生活を夢みて、短い切れ切れの言葉を口にした。こんな長い美しいお喋りをしたことは初めてだ、と彼は思った。
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二十一
三ヵ月あまり経《た》った。
フォン・コーレンが出発を予定していた日が来た。早朝から大粒の冷たい雨が降り、北東風が吹き、海には大きなうねりが立っていた。こんな天気では汽船はまず投錨所《とうびょうしょ》には入って来ないだろうという話だった。時刻表によれば、船は午前九時すぎに到着する筈だったが、正午と、昼食後の二度、海岸通りへ出てみたフォン・コーレンの双眼鏡には、灰色の波と、水平線を覆《おお》い隠す雨の外には何も映らなかった。
夕方近く雨はやみ、風も目に見えて鎮《しず》まり始めた。フォン・コーレンは、今日はもう発《た》てないものと締《あきら》めて、サモイレンコとチェスをやり始めた。ところが暗くなってから従卒が来て、沖にあかりが見え、狼火《のろし》があがったと報告した。
フォン・コーレンはあわて始めた。雑嚢《ざつのう》を肩にかけ、サモイレンコや補祭と別れのキスをかわし、その必要もないのに全部の部屋を見てまわり、従卒や料理女に別れを告げて外へ出たが、まだ何か軍医の家か自分の住居に忘れ物をしてきたような気がするのだった。通りでは、彼はサモイレンコと並んで歩き、そのうしろに箱を抱《かか》えた補祭が行き、一番うしろを従卒がトランク二個を持ってついて行った。沖の暗いあかりを見分けたのはサモイレンコと従卒だけで、あとの二人は暗闇《くらやみ》にひとみを凝らしても何一つ見えなかった。汽船は岸から遠い所に投錨したのである。
「早く、早く」と、フォン・コーレンがせわしなく言った。「出て行っちまったら大変だ!」
ラエーフスキーが決闘のあと間もなく越して来た、窓の三つある小さな家の前へ来ると、フォン・コーレンは思わず一つの窓を覗《のぞ》いてみた。ラエーフスキーは向うむきに机にかじりつき、背を丸めて書き物をしていた。
「驚いたな」と動物学者は小声で言った。「よくあんなに自分で自分を縛ることができたものだ!」
「そう、全く驚くだけのことはある」と、サモイレンコは溜息《ためいき》をついた。「ああやって朝から晩まで坐《すわ》りづめで仕事だからね。借金を返す気なんだ。乞食《こじき》よりもひどい暮しをしてさ!」
半分間ほど沈黙のうちに過ぎた。動物学者と軍医と補祭は窓の下に立ち、三人ともラエーフスキーを眺《なが》めていた。
「結局ここから発てなかったわけさ、かわいそうに」と、サモイレンコが言った。「覚えてるだろう、あんなに発ちたがっていたのに」
「そう、よくも自分で自分を縛ることができたものだ」と、フォン・コーレンは繰返した。「彼の結婚といい、一片のパンゆえの昼夜兼行の仕事といい、彼の顔に現われた何やら新しい表情といい、立居振舞いさえも――あまりにも何もかも異常だから、それをどう呼んだらいいのか、ぼくには分らない」動物学者はサモイレンコの袖《そで》を掴《つか》み、動揺の現われた声で言った。「彼と彼の細君に伝えてくれないか、ぼくが発つとき驚いていた、よろしくと言っていた、とね……それから、もしできることなら、ぼくのことを悪く思わないように頼んでくれ。彼はぼくという人間を理解しているんだ。もしあのとき、こういう変化を見抜くことができたら、ぼくは彼の最良の友になっていたかもしれない。そのことも彼は分っているんだ」
「ちょっと寄って挨拶《あいさつ》したら」
「いや。それはまずい」
「どうして。ひょっとしたら、もうこれっきり彼には逢《あ》えないかもしれないんだぜ」
動物学者は少し考えてから言った。
「それもそうだ」
サモイレンコはそっと指先で窓を叩《たた》いた。ラエーフスキーはびくっとして振向いた。
「ワーニャ、ニコライ・ワシーリイチがお別れの挨拶をしたいそうだ」と、サモイレンコは言った。「今発つところなんだよ」
ラエーフスキーは机から離れ、ドアをあけに玄関へ出た。サモイレンコとフォン・コーレンと補祭は家に入った。
「一分間だけ」と動物学者は言い、玄関でオーヴァシューズをぬぎながら、感情に負けて呼ばれもせぬのに入りこんだことを、もう後悔していた。『どうもしつこすぎたな』と彼は思った。『それに愚劣だ』
「お邪魔して申しわけありません」と、ラエーフスキーについて部屋に入りながら動物学者は言った。「発つ間際《まぎわ》になって急にお目にかかりたくなったものだから。またいつ逢えるか分りませんしね」
「たいへん嬉《うれ》しく思います……どうぞお掛け下さい」と、ラエーフスキーは言い、まるで客たちの進路を塞《ふさ》ごうとするように、ぎごちない手つきで椅子をすすめ、両手をこすり合せながら部屋のまんなかに立った。
『野次馬は外で待たせればよかった』と、フォン・コーレンは思い、しっかりした口調で言った。
「どうかぼくのことを悪く思わないで下さい、イワン・アンドレーイチ。もちろん過去はあまりにも悲しく、それを忘れることはできませんし、ぼくがこちらへ伺ったのも、謝罪するためではなく、自分には罪がないと主張するためでもありません。ぼくは誠実に行動しましたし、あれ以来、自分の信念を変えてはおりません……なるほど今になってみれば、たいそう喜ばしいことに、ぼくはあなたを誤解しておりましたが、しかし平らな道でも躓《つまず》くことはままあるもので、人間の運命とは所詮《しょせん》そうしたものです。根本においては間違っていなくとも、細かい点では誤るものです。まことの真実はだれにも分りません」
「ええ、真実はだれにも分らない……」と、ラエーフスキーは言った。
「では、さようなら……どうかお元気で」
フォン・コーレンはラエーフスキーに手を差出し、ラエーフスキーはその手を握って頭を下げた。
「くれぐれも悪く思わないで下さい」と、フォン・コーレンは言った。「奥さんによろしくお伝え下さい、お別れの挨拶ができなくて非常に残念でしたと」
「家内はおります」
ラエーフスキーは戸口に近づいて、隣の部屋に声をかけた。
「ナージャ、ニコライ・ワシーリエヴィチがお別れの挨拶をなさりたいそうだ」
ナジェージダが出て来た。戸口で立ちどまり、おずおずと客たちを見た。その顔には怯《おぴ》えたような悪びれた表情が浮び、両手は叱《しか》られた女学生のように力なく垂れていた。
「これから発つところです、ナジェージダ・フョードロヴナ」と、フォン・コーレンは言った。「お別れに参りました」
彼女はためらいがちに手を差出し、ラエーフスキーは頭を下げた。
『それにしても、二人ともなんと惨《みじ》めなのだろう!』と、フォン・コーレンは思った。『この生活を手に入れるのによほどの代償が必要だったのだ』
「ぼくはモスクワにもぺテルブルグにも行きますが」と、彼は尋ねた。「あちらから何かお送りするものはありませんか」
「まあ」と、ナジェージダは言い、驚いて夫と顔を見合せた。「別に何も……」
「ええ、別に何も要りません……」と、ラエーフスキーは両手をこすり合せながら言った。「みなさんによろしく」
フォン・コーレンはこれ以上何が言えるか、何を言うべきか分らなかった。さきほど入って来たときは、善良な、暖かい、有意義なことをたくさん言うつもりだったのだが。彼は無言でラエーフスキーとその細君の手を握り、重い気分で家を出た。
「なんという人たちだろう!」と、うしろを歩きながら補祭が低い声で言った。「ああ、なんという人たちだろう! まことに神の御手はこの葡萄《ぶどう》の園を植え給うた! 主よ、主よ! ある者は数千人に打勝ち、ある者は数万人に打勝つ。ニコライ・ワシーリエヴィチ」と、勝ち誇ったように補祭は言った。「お分りですか、今日あなたは人類最大の敵に打勝ったのです――傲《おご》りの心に!」
「よして下さい、補祭さん! あの男やぼくが一体どんな勝利者だろう。勝利者なら鷲《わし》のように見えてもいい筈だが、あの男は惨めで、おどおどして、疲れ切って、シナの置物みたいにお辞儀ばかりしているし、ぼくは……ぼくは悲しくてたまらない」
うしろに足音が聞えた。ラエーフスキーが見送りに追いかけて来たのである。波止場には二個のトランクを持った従卒が立ち、少し離れた所に四人の水夫がいた。
「しかしこの風は……ぶるるる!」と、サモイレンコが言った。「外海はきっと時化《しけ》だぞ、やれやれ! ひどいときに発つもんだ、コーリャ」
「ぼくは船酔いはこわくない」
「いや、そうじゃなくて……この馬鹿どもがきみをひっくり返さなきゃいいがな。役所のランチで行くとよかったのに。役所のランチはどこだ」と、彼は水夫たちに叫んだ。
「もう出ました、閣下」
「税関のランチは?」
「それも出ました」
「なぜ報告しなかった」と、サモイレンコは腹を立てた。「馬鹿ども!」
「まあいい、心配するな……」と、フォン・コーレンは言った。「じゃ、さようなら。元気で」
サモイレンコはフォン・コーレンを抱きしめ、三度も十字を切った。
「忘れないでくれよ、コーリャ……手紙をくれよ……来年の春は待ってるからな」
「さようなら、補祭さん」と、フォン・コーレンは補祭の手を握りながら言った。「愉快なお付合いでした。いろいろ面白い話をありがとう。探険のことは考えておいて下さい」
「いいですよ、世界の涯《はて》まででも!」と補祭は笑った。「いやだなんて一度でも言いましたか」
フォン・コーレンは暗闇の中にラエーフスキーの姿を認め、黙って握手を求めた。水夫たちはもう下でボートを抑えていた。大きな波は防波堤にさえぎられるが、それでもボートは絶えず杙《くい》にぶつかっていた。フォン・コーレンはタラップを下り、ボートに飛びこんで舵《かじ》のそばに坐った。
「手紙をくれよ!」と、サモイレンコが叫んだ。「体を大事にな!」
『まことの真実はだれにも分らない……』と、ラエーフスキーは思い、外套《がいとう》の襟《えり》を立てて両手を袖口に突っこんだ。
ボートはすばやく埠頭《ふとう》をまわって、沖へ乗り出した。波間に隠れたが、すぐまた谷底から小山にせり上がり、人影やオールまでもはっきりと見分けられた。ボートは五、六メートル進んでは、三、四メートルもうしろへ押し戻された。
「手紙をくれよ!」と、サモイレンコが叫んだ。「全く、なんて天気に出掛けるんだ!」
『そう、まことの真実はだれにも分らない……』と、荒れる暗い海を物憂《ものう》げに眺《なが》めながら、ラエーフスキーは思った。
『ボートは押し戻される。二歩前進一歩後退、だが水夫たちは頑固《がんこ》で、たゆむことなくオールを動かし、高波を恐れない。ボートは絶えず前へ前へと進み、もう見えなくなった。半時間も経《た》てば水夫たちは汽船のあかりをはっきりと認め、一時間後には船のタラップに着くだろう。人生も同じことだ……真実を求めて人々は二歩前進し、一歩後退する。人生の苦しみと過《あやま》ちと倦怠《けんたい》が人々をうしろへ押し戻すが、真実への渇望と不屈の意志が前へ前へと駆り立てる。ああ、だれに分るだろう。ひょっとすると、人々はまことの真実に泳ぎつくかもしれない……』
「さようならああ!」 と、サモイレンコが叫んだ。
「もう見えも聞えもしない」と補祭が言った。「お元気で!」
ぽつりぽつりと雨が降り始めた。
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黒衣の僧
一
博士論文の試験に合格したアンドレイ・ワシーリイチ・コヴリンは、過労から神経衰弱になった。特に治療も受けなかったが、あるとき酒を飲みながら友人の医者にそれとなく話してみると、春と夏を田舎《いなか》で過すように勧められた。折も折、ターニャ・ペソツカヤからの長文の手紙で、ボリソフカへ来て暫《しばら》く滞在しないかという招きがあった。それならばひとつ出掛けようと彼は心を決めた。
初め――それは四月のことだったが――自分の郷里のコヴリンカへ行き、そこに三週間ひきこもった。それから道路がよくなるのを待って、かつての後見人兼養育者であり、ロシアでも有名な園芸家であるペソツキーの家へ、馬車で出掛けた。コヴリンカから、ペソツキー家のあるボリソフカまでは七十五キロ足らずであり、スプリングのよくきいた静かな馬車で柔らかな春の道を行くのはこの上なく快適だった。
ペソツキーの家は巨大で、たくさんの円柱や、漆喰《しっくい》の剥《は》げたライオンの像があり、入口には燕尾服を着た従僕が立っていた。暗く厳《いかめ》しい感じのする古い庭園は、イギリス流の作りで、家から川まで殆《ほとん》ど一キロあまりも続き、その末端は切り立った粘土質の断崖《だんがい》であり、断崖の上には、毛むくじやらの獣の足そっくりの根をむきだしにした松の木が生《は》えていた。崖《がけ》の下には、人を寄せつけぬように水が光り、鴫《しぎ》が哀れな細い声をあげて飛び交い、ちょっと腰を下ろして譚詩《バラード》でも書きたくなるような雰囲気が、いつもここには漂っていた。その代り母屋《おもや》の周辺、庭や、苗床と合わせて三十ヘクタールもの面積を占める果樹園は、天候の悪いときですら、明るく楽天的に見えた。すばらしい薔薇《ばら》や百合《ゆり》や椿《つばき》、あるいは純白から漆黒までありとあらゆる色のチューリップなど、一口に言って、これほど種類の豊富なたくさんの花々を、コヴリンは今までにぺソツキーの家以外の場所で見たことがなかった。まだ春の初めだったので、花園の本当のあでやかさはまだ温室の中に秘められていたが、並木道沿いの花壇のあちこちに咲きそめている花々を見るだけで、果樹園を散歩している自分が優美な色彩の王国にいるのだと感じるには充分だった。一つ一つの花びらに露のきらめく早朝には、特にその感が深かった。
果樹園の装飾的な部分、ペソツキー自身がほんの手すさびと称している部分は、かつて幼い頃のコヴリンにお伽噺《とぎばなし》のような感銘を与えたものだった。そこにはおよそ考えられる限りの奇抜な思いつきや、しゃれた変形や、自然に対する嘲弄《ちょうろう》があった! そこには果樹を組み合せて作った格子棚《こうしだな》や、ポプラのようなピラミッド形の梨《なし》の木や、球形の樫《かし》や菩提樹《ぼだいじゅ》、傘のかたちの林檎《りんご》の木、アーチ、頭文字《かしらもじ》の組合せ、シャンデリアなどがあり、杏《あんず》で1862という数字――ペソツキーが初めて園芸の道に入った年をあらわす数字までがあった。ここには棕櫚《しゅろ》のように固いまっすぐな幹をもつ恰好《かっこう》のよい美しい木がところどころにあったが、それはよくよく眺《なが》めないとスグリの木であることが分らないのだった。しかし果樹園のなかで何よりも陽気で、生き生きとした様子を全体に与えていたのは、絶え間ない動きである。早朝から日暮れまで、木々や茂みのまわりで、並木道や花壇で、手押し車やシャベルや如露《じょうろ》を持った人々が蟻《あり》のように動きまわっていた……
コヴリンがペソツキー家に着いたのは夜の九時すぎだった。ターニャと父親のエゴール・セミョーヌイチは、ひどく心配そうな顔をしていた。澄んだ星空と温度計とが朝方の厳《きび》しい寒さを予言しているというのに、園丁のイワン・カルルイチは町へ出掛けてしまい、ほかに頼《たよ》りになる人間はいないのだという。夜食の席でも話は朝の霜のことばかりで、結局、ターニャがそのまま起きていて、夜半すぎに異常がないかどうか果樹園を一まわりし、エゴール・セミョーヌイチは三時か、あるいはもう少し早い時刻に起きるということに決った。
コヴリンは一晩中ターニャに付き合い、夜半すぎに一緒に果樹園へ出た。寒かった。戸外にはすでに焦げ臭い匂《にお》いが漂っていた。商業果樹園と呼ばれ、毎年エゴール・セミョーヌイチに数千ルーブリの純益をもたらす大きな果樹園では、つんと目にしみる黒い濃い煙が地面を這《は》い、木々を包んで、それらの数千ルーブリを厳しい寒さから救っていた。ここの木々は碁盤《ごばん》の目のように植えられ、それらの列は兵士の隊列のように直線的かつ規則的であり、その厳格でペダンチックな規則性と、どの木も同じ背丈《せたけ》で全く同じような梢《こずえ》や幹をもつことが、かえって眺めを単調な、あるいはむしろ退屈なものにしていた。肥料や、藁《わら》や、さまざまな塵芥《じんかい》を燃やしている焚火《たきび》がくすぶっている木立ちのなかを、コヴリンとターニャは歩いて行き、時たま、煙の中を亡霊のようにうろついている人夫たちに出逢った。花を咲かせているのは桜や、杏《あんず》や、何種類かの林檎だけだったが、果樹園全体が煙の中に沈んでいたので、コヴリンは苗床のあたりまで来て、ようやく胸いっぱいに息を吸いこんだ。
「子供の頃から、ここへ来ると煙にむせて、くしゃみばかりしていたっけ」と、コヴリンは肩をすくめて言った。「でも、この煙がなぜ寒さを防ぐことになるのか、いまだに分らない」
「雲のないときに、この煙が雲の代りをするのよ……」と、ターニャは答えた。
「じゃ、雲は何のために必要なんだろう」
「雲の多い雨模様の天気だと、朝の霜が下りないの」
「なるほど!」
コヴリンは笑い出し、ターニャの手を取った。いかにも寒そうな彼女の生まじめな丸顔、細い黒い眉《まゆ》、頸《くび》の自由な働きを妨げている外套《がいとう》の立てた襟《えり》、夜露を避けるために服の裾《すそ》をつまんでいる痩《や》せぎすのすらりとした姿などが、コヴリンの心を動かした。
「全く、もう大人だものね!」と、彼は言った。「五年前、最後にぼくがここを出たときは、まだ子供だったのに。とても痩せていて、足がひょろ長くて、帽子なんかかぶらなかったし、短い服を着ていたから、ぼくは青鷺《あおさぎ》ちゃんなんてからかったっけ……時の流れだなあ!」
「そう、五年ですもの!」ターニャは溜息《ためいき》をついた。「あれからずいぶん年月が経《た》ったわ。ねえ、アンドリューシャ、正直におっしゃって」と、コヴリンの顔を見つめ、彼女は勢いこんで喋《しゃべ》り出した。「あなた私たちのことなんか忘れてらしたんじゃない? でも、私の質問もおかしいわね。あなたは男ですもの、もう御自分の面白い生活がある、偉い人ですものね……私たちと縁遠くなるのが当然よ! でも、それはそれとして、アンドリューシャ、私たちのことは家族同然に考えていただきたいの。そうお願いする権利が私たちにはあると思うわ」
「家族同然に思ってますよ、ターニャ」
「本当に?」
「そう、本当に」
「うちにあなたの写真があまりたくさんあるので今日驚いてらしたわね。でも、父があなたを尊敬していることはお分りでしょ。ときどき父は私よりもあなたのほうを余計に愛してるみたいな気がすることもあるわ。あなたが自慢なのね、父は。あなたが学者で、すばらしい方で、立派な資格をおとりになったのは、自分が育てたからそうなったんだと父は思ってるわ。そう思うのを邪魔する気はありませんけど。それはそれでいいのね」
すでに夜明けが始まっていた。煙の柱や木々の梢が大気のなかにくっきりと浮き出てきたことによっても、それは知れた。鶯《うぐいす》が歌い、野原からは鶉《うずら》の叫びが聞えてきた。
「でも、もう寝なくちゃ」と、ターニャは言った。「それに寒いわ」彼女はコヴリンの腕にすがった。「来て下さって本当にありがとう、アンドリューシャ。ここのお友達はつまらない人ばかりだし、そのお友達も僅《わず》かなの。ここは果樹園ばっかりで、ほかには何もないわ。幹だの、枝だの」ターニャは笑った。「アポルト、ラネット、ボロヴィンカ〔いずれもリンゴの銘柄〕、接木《つぎき》、舌継ぎ……私たちの生活はそっくり果樹園に注ぎこまれてしまったから、私なんか林檎や梨以外の夢は見たこともない。もちろんそれはそれでいいことだけど、ときどきは変化をつけるためにも何か別の夢を見たくなるの。今でも憶《おぼ》えてるわ、あなたが休暇だったか、それともほかの用事でうちにいらっしゃると、まるでシャンデリアや家具の覆《おお》いを外《はず》したみたいに、家のなかがさわやかに明るくなったわ。あの頃、私はまだ子供だったけど、はっきりそう感じたのよ」
ターニャは感情をこめて永いこと話した。なぜかコヴリンは不意に思った。この小さなかよわいお喋りの生きものに、俺はこの夏のあいだに魅了されて、恋してしまうかもしれない。今の二人の状態では、それはあり得ることだし、自然なことではないか! この考えは彼の心を動かし、彼を微笑《ほほえ》ませた。心配そうな愛らしい顔にコヴリンは自分の顔を寄せて、低い声で歌った。
[#ここから1字下げ]
オネーギン、ぼくは心を隠すまい、
ぼくは愛する、タチャーナを、狂おしく……
[#ここで字下げ終わり]
家に戻ると、エゴール・セミョーヌイチはもう起きていた。コヴリンは眠くなかったので、老人と四方山話《よもやまばなし》をし、また一緒に果樹園へ出た。エゴール・セミョーヌイチは長身で、肩幅が広く、太鼓腹で、喘息《ぜんそく》を病んでいたが、歩くのはいつも足早で、ついて歩くのが辛《つら》いくらいだった。老人はひどく心配そうな様子で、絶えずどこかへ急いでおり、一分遅れれば何もかも駄目になると言わんばかりの表情をしていた。
「なあ、きみ、こういうことがあるんだ……」と、息を継ぐために立ちどまり、老人は話し出した。「地表はごらんの通り霜が下りているのに、地表から四メートルほど上の棚《たな》に温度計を上げてみると、そこは暖かいんだな……なぜだろう」
「さっぱり分らない」と、コヴリンは言い、笑い出した。
「ふむ……もちろん、すべてを知ることは不可能だ……どんなに知恵の袋が大きくても、何から何まで詰めこむわけにはいかない。きみは、なにかね、哲学のほうに詳しいんだろう」
「ええ。心理学の講義をしていますが、大体は哲学を勉強しています」
「それで退屈したりしないかね」
「退屈どころか、それがぼくの生き甲斐《がい》です」
「そうだろうな……」と、エゴール・セミョーヌイチは言い、考えに沈んで自分の白い頬《ほお》ひげを撫《な》でた。「結構なことだ……きみのために嬉《うれ》しいよ……ほんとに嬉しい……」
だが突然、老人は耳をすまし、恐ろしい表情になると、横の方へ走って行って、すぐ木立ちの蔭《かげ》、煙の雲の中に姿を消した。
「だれだ、この林檎の木に馬をつないだのは」と、老人の絶望的な悲痛な叫び声が聞えた。「どこの悪党だ、林檎の木に馬をつないだりしやがって。ああ、なんてこった! 傷はつくし、汚《よご》れるし、もう台なしだ! 果樹園が駄目になっちまう! 果樹園の破滅だ! ああ!」
コヴリンの所へ戻ってきたとき、老人の顔は疲労と傷心そのものだった。
「あのいまいましい奴らめ、きみだったらどうする?」老人は両手を拡げ、泣くような声で言った。「スチョープカが夜中に堆肥《たいひ》を運んできて、林檎の木に馬をつなぎやがったんだ! あの馬鹿め、手綱を強く巻きつけたから、木肌《きはだ》が三カ所も破れちまった。それなのにどうだろう! 私がいくら説明しても、あの間抜け、目をぱちくりさせるだけなんだからね! 絞め殺してやりたい!」
気分が落着くと、老人はコヴリンを抱擁し、頬にキスした。
「とにかく、よかった……よかった……」と老人は呟《つぶや》いた。「きみが来てくれて嬉しいよ。なんとも言いようがないほど嬉しい……ありがとう」
それから老人は相変らずの早い足どりと心配そうな表情で果樹園をくまなくまわり、いろいろなタイプの温室や、霜除《しもよ》けの小屋や、自ら今世紀の奇蹟《きせき》と称する二つの養蜂場《ようほうじょう》などを、かつての養い子に見せた。
歩いているうちに太陽が昇り、果樹園を明るく照らした。暖かくなってきた。今はまだ五月の初めであり、この先に同じように明るく楽しい永い夏がそっくり控えていることを思い出して、コヴリンは突然、この果樹園を駆けまわっていた幼年時代に経験した若々しい喜ばしい感情が、胸の中に芽生《めば》えるのを覚えた。そこで自分から老人を抱擁し、やさしくキスした。二人ともすっかり感動して家の中へ入り、クリームや滋味豊かなビスケットをお茶受けにして、古い陶器の茶碗《ちゃわん》でお茶を飲んだ。そのような生活の細部が又《また》してもコヴリンに幼年時代や少年時代を思い出させるのだった。輝かしい現在と、心にめざめた過去の印象とがひとつに融《と》け合った。そのために胸はいっぱいだったが、楽しかった。
ターニャが起きて来るのを待って、コヴリンは一緒にコーヒーを飲み、散歩し、それから自分の部屋へ行って仕事にかかった。注意深く本を読み、メモをとりながら、ときどき目を上げては、開け放した窓や、テーブルの上の花瓶《かびん》の、まだ露に濡《ぬ》れている瑞々《みずみず》しい花を眺め、再び視線を本に戻した。自分の内部で血管の一本一本が満足感に震え、躍動しているような気持だった。
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二
田舎《いなか》でも、コヴリンは都会にいたときと同じような、神経質な落着かぬ生活をつづけていた。本をたくさん読み、ものを書き、イタリア語を勉強し、散歩をするときも、もうじきまた仕事にかかれると考えて満足するのだった。睡眠時間はみんなが驚くほど少なかった。昼間思いがけなく三十分ほどまどろんだりすると、そのあとはもう一晩中眠らず、眠らぬ一夜が明けても、何事もなかったように元気のいい明るい気分でいられるのだった。
コヴリンはよく喋《しゃべ》り、葡萄酒を飲み、高価な葉巻をくゆらした。ペソツキー家にはしばしば、殆《ほとん》ど毎日のように近所のお嬢さんたちが遊びに来て、ターニャと一緒にピアノを弾《ひ》いたり歌ったりした。ときどきは、ヴァイオリンの上手《じょうず》な近所の青年もやって来た。コヴリンは音楽や歌をむさぼるように聴《き》き、そのためにへとへとに疲れた。両のまぶたが合わさり、首が横に傾くことが、その疲労の肉体的な現われだった。
ある日、夕方のお茶のあとで、コヴリンはバルコニーに坐《すわ》り、本を読んでいた。そのとき客間では、ターニャがソプラノを、娘の一人がアルトを、青年がヴァイオリンを受持って、ブラーグの有名なセレナーデを練習していた。コヴリンは歌詞に耳を傾けたが――歌詞はロシア語だった――その意味がなかなか掴《つか》めなかった。やがて本を放り出し、注意深く聴いて、コヴリンはようやくその歌詞の意味を聞き取った。病的な想像力をもつ一人の娘が、ある夜、庭で何やら神秘的な音を聞く。その音はあまりにも美しく異様で、娘はそれを聖なる協和音《ハーモニー》だと認めざるを得ない。それはわれわれ死すべき人間には理解できぬ音であり、従ってすぐまた天へ逆戻りしてしまう。コヴリンはまぶたがくっつきそうになってきた。そこで立ちあがり、疲れきった気持で客間や広間を歩きまわった。歌がやむと、ターニャの手をとって一緒にバルコニーへ出た。
「今日は朝から、一つの伝説が心にこびりついてしまっている」と、コヴリンは言った。「どこかで読んだのか、それとも人から聞いた話なのか、よく覚えていないんだけれども、とにかく、ちょっと類のない奇妙な話なんだ。はっきりした話じゃないということは最初に断わっておくよ。今から一千年前、どこかシリアかアラビアあたりの砂漠《さばく》を、黒い衣を着た一人の修道僧が歩いていた……ところが、その僧が歩いていた場所から数マイル離れた所で、湖の上をゆっくりと渡って行くもう一人の黒衣の僧を、漁師が目撃した。その第二の僧は蜃気楼《しんきろう》だったんだね。この場合、伝説には通用しない光学の法則なんか忘れて、とにかく話の続きを聴きなさい。その蜃気楼からもう一つの蜃気楼が生れ、それからまた更に一つ生れ、そんなふうにして黒衣の僧の姿は一つの大気層から別の大気層へと、果てしなく伝わり始めた。その姿はアフリカでも見えたし、スペインでも、インドでも、極北地方でも……遂《つい》には地球の大気圏の外へ出て、今も全宇宙をさまよっている。いまだに消えるべき状況にぶつからないのでね。もしかしたら今頃その姿は火星か、南十字星のどれかの星で、目撃されているかもしれない。でもね、この伝説の一番の要《かなめ》というか、肝心なところは、黒衣の僧が砂漠を歩いていた時からちょうど千年後に、蜃気楼が再び地球の大気圏に入って、人の目に触れるようになるという点なんだ。しかも、その千年はどうやら終りに近づいているらしい……伝説が正しいとすれば、ぼくらは今日あすのうちにも、その黒衣の僧を見るかもしれないんだ」
「へんな蜃気楼ね」と、この伝説が気に入らなかったらしく、ターニャは言った。
「しかし何よりも不思議なのは」と、コヴリンは笑った。「この伝説が一体どこからぼくの頭に入りこんだのか、どうしても思い出せないことなんだ。どこで読んだんだろう。人から聞いたのか。それとも、ひょっとして、黒衣の僧がぼくの夢に現われたのか。どうにも思い出せない。でも、この伝説は頭に憑《つ》いて離れない。今日は一日中そのことばかり考えてるんだ」
ターニャを客たちのところへ帰すと、コヴリンは家を出て、物思いに沈みながら花壇の脇《わき》を歩いて行った。陽《ひ》はすでに沈みかけていた。花々は水を撒《ま》かれたばかりなので、湿った悩ましい香りを発散していた。家の中では再び歌が始まり、遠くから聞くと、ヴァイオリンは人間の声のような感じだった。コヴリンは、あの伝説をどこで聞くか読むかしたのだったろうと、記憶をふりしぼりながら、ゆっくりと庭園に入り、いつのまにか川のほとりに出た。
木々のむきだしの根を眺《なが》めながら、切り立った崖《がけ》の小道を水際《みずぎわ》まで下りて、コヴリンは鴫《しぎ》たちを騒がせ、二羽の野鴨《のがも》を驚かせた。陰気な松木立ちのそこここに夕日の最後の光が照りはえていたが、川面《かわも》はもうすっかり暗かった。コヴリンは渡り板をつたって対岸へ渡った。まだ花を開かぬ若いライ麦に覆《おお》われた広い平野が眼前に横たわっていた。見渡す限り人家一つ、人影一つなく、もしこの小道を行くならば、今しがた太陽が沈んで行ったあの未知の場所へ、夕焼けがあれほど広大に重々しく燃えている謎《なぞ》の場所へ導かれるのではないかと思われた。
『この広さ、自由、静けさ!』と、小道を行きながらコヴリンは思った。『全世界がおれを見つめ、息を殺して、おれに理解されるのを待っているようだ……』
だがそのとき、ライ麦畑が波立ち、夕べの微風が帽子をかぶっていないコヴリンの頭にやさしく触れた。僅《わず》かの間をおいてから、再び風が、今度は少し強く吹き寄せ、ライ麦がざわめき、背後では松林の低い呟《つぶや》きが聞えた。コヴリンはぎょっとして立ちどまった。地平線のあたりに、ちょうど旋風《つむじかぜ》か竜巻のように、高い黒い柱が地面から空へとそびえ立ったのである。輪郭は定かではなかっだが、瞬間的に分ったのは、それが一ヵ所にとどまっているのではなく、恐ろしい速さでこちらへ、まっすぐコヴリンを目指《めざ》して進んで来るということであり、近づくにつれて、それは次第に小さくなり、輪郭がはっきりしてきた。コヴリンは道をあけようと、かたわらのライ麦畑に跳《と》びこんだが、それはまさしく間一髪だった……
黒い衣をまとった、眉《まゆ》の黒い、白髪の修道僧が、両手を胸に組んで、すぐ前を通りすぎた……その素足は大地に触れていなかった。五、六メートル通りすぎてから、黒衣の僧はコヴリンを振返り、一つうなずくと、やさしく、だが狡《ずる》そうに微笑した。それにしてもなんと蒼《あお》い、恐ろしいほど蒼白い、やつれた顔だろう! 黒衣の僧はまた大きくなりながら川を渡り、粘土質の崖と松の木に音もなくぶつかると、それを通り抜け、煙のように姿を消した。
「ああ、やっぱり……」と、コヴリンは呟いた。「伝説は本当だったんだ」
この奇怪な現象を究明しようとはせず、僧の黒い衣ばかりか顔や目までもあれほど近くからはっきり見たということだけで満足して、コヴリンは快い興奮を感じながら家に帰った。
庭園や果樹園では人々が穏やかに行き来し、家のなかでは音楽の演奏が続き――つまり、黒衣の僧を見たのはコヴリン一人なのだ。ターニャやエゴール・セミョーヌイチに一部始終を話したくてたまらなかったが、二人はそれを彼の譫言《うわごと》だと思い、心配するかもしれない。それならいっそ黙っているほうがよかろう。コヴリンは大きな声をあげて笑い、歌を歌い、マズルカを踊り、客たちやターニャは、今日のコヴリンが霊感に打たれたような一種独特の輝かしい顔をして、たいそう面白い人間になっていることに気づいたのだった。
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三
夜食がすんで客たちが帰ると、コヴリンは自分の部屋へ行き、長椅子に横たわった。黒衣の僧のことを考えたかったのである。だが間もなくターニャが入って来た。
「ねえ、アンドリューシャ、父の論文を読んで下さらない」と、一束のパンフレットや抜刷《ぬきず》りを差出しながら、ターニャは言った。「立派な論文よ。とてもよく書けているの」
「そうさ、よく書けているとも!」娘のあとから入って来たエゴール・セミョーヌイチが、わざとらしく笑いながら言った。照れているのだった。「言われた通り読む必要はないぞ! もっとも寝つきをよくするためになら読みなさい。恰好《かっこう》の睡眠薬だ」
「私はすばらしい論文ばかりだと思うわ」とターニャは深い確信をこめて言った。「どうぞお読みになって、アンドリューシャ、そしてもっとたびたび書くようにパパを説得していただきたいの。パパなら園芸学の講座でも書ける筈《はず》なのよ」
エゴール・セミョーヌイチはぎごちなく笑い、顔を赤らめ、自分の書いたものを恥ずかしがっている人がたいていの場合|喋《しゃべ》るようなことを喋り始めた。そして結局、折れた。
「だったら、まずゴーシェの論文と、このロシア語の論文を二つ三つ読んでくれないか」と、震える手でパンフレットを選《え》り分けながら老人は呟《つぶや》いた。「でないと、わけが分らないからな。私の反論を読む前に、何に反論しているかを知っておかないと。それにしても、つまらんよ……恐ろしく退屈だと思うがな。それにもう寝る時間じゃないのか」
ターニャは出て行った。エゴール・セミョーヌイチは長椅子のコヴリンの近くに坐《すわ》り、深い溜息《ためいき》をついた。
「なあ、きみ……」と、少し沈黙していてから老人は言い出した。「親愛なる哲学博士さんにぜひ話しておきたいことがあるんだ。私はこうして論文を書き、博覧会にも出品し、メダルも貰《もら》っている……ペソツキーの果樹園じゃ頭ほどの大きさの林檎《りんんご》ができるとか、ペソツキーは果樹園で一身代つくったとか、人にも噂《うわさ》される。要するに、私は金持で有名だ。しかしそれが一体何になるのだろう。果樹園は確かに立派だし、模範的だ……単なる果樹園にあらずして、国家的重要性をもつ一つの施設だ。なぜといって、これはロシア農業、ロシア産業の新時代への、いわば第一歩だからね。しかしそれが何になるだろう。その目的は一体何なのだ」
「それは仕事がおのずから語るでしょう」
「いや、そういう意味で言ってるんじゃない。私が尋ねたいのは、私が死んだら果樹園はどうなるだろうということなんだ。私がいなかったら、この果樹園は今きみが見ているような姿を一ヵ月と保てはしない。成功の秘密は面積が広いとか、職人が大勢いるとかいうことではなくて、私が仕事を愛しているということ――分るかね――たぶん自分自身よりも仕事を愛していること、そこなんだ。まあ私を見てごらん。私は何から何まで自分でやる。朝から晩まで働きづめだ。接木《つぎき》は全部自分でやるし、枝落しも、植樹も、何もかも自分でやる。人に手伝ってもらうと焼餅《やきもち》がやけてきて、思わず乱暴な口をきいてしまうほど苛立《いらだ》ってしまう。一切の秘密はこの愛情にあるんだな。つまり、主人としての注意ぶかい観察眼とか、行き届いた世話の仕方とかにね。どこかへ一時間ほど客に行っていても、果樹園に何か起りゃしないかと心配で、気もそぞろになってしまう、その気持が肝心なんだね。そんな私が死んだら、だれが果樹園の面倒をみる? だれが働く? 園丁か? 職人か? え? つまり、私が言いたいのはだね、きみ、この仕事の第一の敵はウサギでも甲虫《かぶとむし》でも霜でもない、よその人間なんだ」
「でも、ターニャは?」コヴリンは笑いながら尋ねた。「娘さんがウサギより有害だとは考えられませんね。この仕事を愛しているし、理解もしているんだから」
「そう、愛しているし、理解もしている。もし私の死後この果樹園があの子のものになって、あの子が主人になるとすれば、もちろんそれ以上は望めないほどの主人になるだろうな。しかし万が一、あの子が嫁に行ったらどうなる」エゴール・セミョーヌイチは囁《ささや》くように言うと、怯《おぴ》えた目でコヴリンを見つめた。「そこなんだよ、問題は! 嫁に行って子供でもできたら、もう果樹園のことなぞ考える暇はないだろう。私が一番恐れるのはそれなんだ。そこらの若者の所へ嫁に行けば、亭主になった男はきっと欲を出して、果樹園を女商人にでも貸しつけるだろう。そうなったら何もかも最初の一年でお終《しま》いだ! この仕事じゃ、女は神の鞭《むち》だからな!」
エゴール・セミョーヌイチは溜息《ためいき》をつき、暫《しばら》く沈黙した。
「これはエゴイズムかもしらんが、ざっくばらんに言えば、ターニャを嫁にやりたくないんだよ! こわいんだ! 今日も、あのにやけた男がヴァイオリンを持って来て、キーキーやっておっただろう。ターニャがあんな男と結婚しないことは分ってるさ。分ってるが、奴を見ているだけで我慢ならないんだ! だいたい私はひどく変屈な男なんだね。それは認める」
エゴール・セミョーヌイチは立ちあがり、興奮したように部屋の中を歩きまわった。何か非常に大事なことを話したいのだが、切り出しかねている様子がよく分った。
「私はきみが大好きだから、ひとつ、ざっくばらんに言ってしまおう」と、ようやく心を決め、両手をポケットにつっこんで、老人は言った。「ある種の微妙な問題にも、私はごく当り前の態度で立ちむかうし、思っていることは率直に言ってしまう主義だ。いわゆる隠された意味というやつは我慢できない。端的に言おう。きみは、私が何の心配もなく娘をやれるたった一人の人間なんだ。きみは頭がいいし、情もあるし、私の愛するこの仕事を駄目にしてしまうような男じゃない。それに一番の理由は、私がきみを実の息子のように愛し……誇りにしているということだ。もしきみとターニャの間に恋愛事件のようなことでも起ったら、どうだろう。私はきっと喜ぶだろうし、幸福な気持にさえなると思うな。誠実な人間として率直に、気取りを捨てて私は言ってるんだ」
コヴリンは笑い出した。エゴール・セミョーヌイチは部屋を出ようとしてドアをあけたが、敷居の上で立ちどまった。
「もしきみとターニャの間に息子でも生れたら、私が立派な園芸家にしてみせるんだが」と、少し考えてから老人は言った。「しかし、こんなことは空《むな》しい夢だろうな……おやすみ」
一人になると、コヴリンは楽な姿勢で横になり、論文を読み始めた。一つの論文は『中間栽培について』という題で、もう一つは『果樹園の若返りのための土壌の掘り起しに関するZ氏の指摘に対して数言』、もう一つは『冬芽の接木について再び』――ほかもみな似たような題だった。それにしても、なんという不穏な語調だろう、なんという神経質な、殆《ほとん》ど病的なほどの鼻っ柱の強さだろう! 例《たと》えば、一番おとなしそうな表題で、内容的に特に問題はなさそうな一つの論文は、ロシアのアントーノフ林檎について語っていた。だが、エゴール・セミョーヌイチは初めに『他の一面にも耳を傾けていただきたい』と書いているくせに、終りは『賢者にはこれにて充分』などと結び、しかもそれらの説教じみた文句の間には『講壇の高みから自然を観察している札つきの園芸学者諸君の学問的無知』や『門外漢やディレッタントのお蔭《かげ》で成功した』ゴーシェ氏に関する毒々しい言葉が泉のように涌《わ》き出し、更には、果実を盗んで木を折る百姓たちをもはや鞭をもって罰するわけにはいかないなどという、わざとらしい不誠実な同情の言葉が、いかにも全体の論調にそぐわぬ感じで挿入《そうにゅう》されているのだった。『美しい、愛らしい、健全な仕事なのに、ここにも情熱や戦いがあるんだな』と、コヴリンは思ったが『どんな分野でも、ものを考える人間というのは神経質で、感受性が鋭敏であるに違いない。たぶん、そうでなくてはならないんだ』
エゴール・セミョーヌイチの論文をひどく買っているターニャのことを、コヴリンは思い出した。小柄で、色白で、鎖骨が見えるほど痩《や》せている娘。大きく見開かれた、黒い、知的な、いつも何かを見つめ、何かを探《さが》しているような目。父親と同じように小刻みでせかせかした歩き方。ターニャはよく喋り、議論が好きで、議論するとき、とるに足らぬ言葉にさえ豊かな表情と身ぶりが伴うのだった。きっと最高に神経質なのだろう。
コヴリンは先を読み始めたが、何一つ理解できないので放り出した。さきほどマズルカを踊り音楽を聴いたときの快い興奮が、今は彼の心身を疲れさせ、さまざまな思いを呼びおこした。コヴリンは起きあがり、黒衣の僧のことを考えながら部屋の中を歩きまわり始めた。もしもあの奇怪な、超自然的な僧を見たのが自分一人なのだとすれば、自分は病気であり、もはや幻覚を見るほど病状は悪化しているのではあるまいか、という考えが頭に浮んだ。その想像はコヴリンをおびやかしたが、それも永い間ではなかった。
『しかしおれは健康だし、だれに害を与えているわけでもない。つまり、おれの幻覚には何の害もないのだ』と、コヴリンは思い、再び気分がよくなってきた。
長椅子に腰かけ、自分の全存在を満たしている不可解な喜びを抑えるように、両手で頭をかかえてから、コヴリンは再び部屋の中を一まわりして、仕事にかかった。だが書物から読みとる思想はコヴリンを満足させなかった。彼は何かもっと巨大なもの、測り知れぬもの、驚くべきものが欲《ほ》しかった。明け方、コヴリンは服をぬぎ、しぶしぶベッドに横たわった。やはり眠らなければ!
果樹園へ出て行くエゴール・セミョーヌイチの足音が聞えたとき、コヴリンはベルを鳴らして従僕を呼び、葡萄酒を持って来るように命じた。そしてラフィット酒を一杯|呷《あお》って大いに満足し、頭から毛布をかぶった。意識が薄れ、彼は眠りに落ちた。
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四
エゴール・セミョーヌイチとターニャは、しばしば口喧嘩《くちげんか》をして、お互いに不愉快な言葉をぶつけ合った。
ある朝、父娘《おやこ》は何かのことで衝突した。ターニャは泣き出して自分の部屋に閉じこもり、昼食にも、お茶の時間にも出てこなかった。エゴール・セミョーヌイチは初めのうちこそ、自分にとって正義と秩序の問題がこの世の何よりも重要であることを示すかのように、勿体《もったい》ぶったふくれ面《つら》で歩きまわっていたが、じきにその気持を持ちつづけられなくなり、しおれてきた。そして悲しそうに庭園をぶらつきながら、「ああ、弱った、弱った!」と溜息《ためいき》ばかりつき、昼食のときはパン一かけらも食べなかった。やがて良心の苛責《かしゃく》に耐えきれなくなり、うしろめたそうに、閉め切ったドアを叩《たた》き、おずおずと呼んだ。
「ターニャ! ターニャ?」
それに応《こた》えて、ドアの向うから、弱々しい、泣きくたびれた、しかも断乎《だんこ》たる声が聞えてきた。
「ほっといて、お願い」
主人|父娘《おやこ》の悩みは家中に、果樹園で働いている人たちにまで反映した。コヴリンは自分の興味ある仕事に没頭していたが、お終《しま》いにはやはり多少気まずくなってきた。そこで何とかみなの不快な気分を吹き払おうと、仲裁に立つことを決意し、夕方近く、ターニャの部屋のドアを叩いた。コヴリンは中へ入れてもらえた。
「さあ、さあ、恥ずかしくないのかい!」と、泣き濡《ぬ》れてところどころに赤い斑点《はんてん》が出ている悲しそうな顔を呆《あき》れて眺《なが》めながら、コヴリンはわざとおどけた調子で言った。「そんなに深刻な問題じゃないのに。困ったひとだ!」
「でも、あなたには分っていただけないわ、父が私をどれほど苦しめているか!」と、ターニャは言い、熱い大粒の涙が大きな目からこぼれ落ちた。「もう父にはうんざりよ!」と両手を握りしめて娘は続けた。「私はべつに何も言わなかったのよ……何も……ただ、いつでも日雇い人夫を使えるんだから……余計な職人をかかえておくことはないって……そう言っただけ……だって……職人たちはもう一週間も何もしていないし……私………ただそう言っただけなのに、父はいきなりどなり出して……ひどいことを言ったの、わざと私の気持を傷つけるようなことを。どうしてなの」
「もういい、もういい」コヴリンは娘の髪を直してやりながら言った。「喧嘩をして、泣いて、それでもうたくさん。いつまでも怒っているのはよくないよ……それに、お父さんはきみをとても愛してるんだから」
「父は私の……私の一生を台なしにしたのよ」と、しゃくりあげながら、ターニヤは言葉を続けた。「それなのに、私が聞かされるのは、ひどい言葉や……叱言《こごと》ばっかり。父は私のことをこの家の余計者だと思ってるんだわ。そうよ。父の言う通りよ。私あしたこの家を出て、電報局の交換手になるわ……もう、ほっといて……」
「さあ、さあ、さあ…‥泣かないで、ターニャ。泣く必要はない……あんた方は二人ともかっとなりやすい性質《たち》なんだ。どっちも悪い。さあ行こう、ぼくが仲直りをさせてあげるから」
コヴリンはやさしく説得するように喋《しゃべ》り、ターニャはまるで実際に恐ろしい不幸に見舞われたかのように、肩を震わせ、両手を握りしめて、泣きつづけた。大して深刻な悲しみでもないのに娘がひどく悩んでいるので、コヴリンはかえっていっそうこの娘が気の毒になった。この哀れな生きものを丸一日、いや、ひょっとすると一生涯不幸にするためには、なんと些細《ささい》なことがあれば充分なのだろう! ターニャをなだめながら、コヴリンは、この娘とその父親のほかに、自分を肉親のように愛してくれる人間は世界中を金のわらじで探して歩いても見つかりはしない、と思った。もしこの二人の人間がいなかったら、幼い頃両親を失った彼コヴリンは、身近な血縁者に対してのみ味わう誠実なやさしさや、理屈ぬきの無垢《むく》な愛情というものを、恐らく死ぬまで知らなかったことだろう。そして半ば病んで疲れきった自分の神経に、この身を震わして泣いている娘の神経が、ちょうど鉄が磁石に反応するように答えるのを感じた。健康で、頑丈《がんじょう》な、頬《ほお》の赤い女を愛することは、彼にはとてもできそうもなかったが、蒼白《あおじろ》い、弱々しい、不幸なターニャは、コヴリンの気に入ったのである。
そこでコヴリンはむしろ積極的に娘の髪や肩を撫《な》でたり、手を握ったり、涙を拭《ふ》いてやったりした……やがて娘は泣きやんだ。だがそれから永い間、父親のことや、この家での我慢できないほど辛《つら》い生活のことを訴え、しきりに自分の立場を理解してほしいとコヴリンに言うのだった。それから少しずつ笑顔《えがお》を見せ始め、神さまがこんな悪い性格を私にお授け下さったと言って溜息をつき、お終いには大声で笑い出して、私は馬鹿でしたと言うなり、部屋から走り出て行った。少し経《た》って、コヴリンが果樹園に出てみると、エゴール・セミョーヌイチとターニャは、もう何事もなかったように、連れ立って並木道を散歩しながら、二人とも空腹だったのだろう、黒パンに塩をかけて食べていた。
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五
仲裁者の役がみごとに成功したことに満足して、コヴリンは庭園へ行った。ベンチに腰を下ろして、考えごとをしていると、馬車の音や、女の笑い声が聞えた。客たちの到着だった。夕べの影が果樹園に横たわる頃になると、ヴァイオリンの音や歌声がかすかに聞え、それがコヴリンに黒衣の僧のことを思い出させた。あの光学的に不条理な幻影は、今ごろどこの国を、あるいは、どこの惑星の上を歩いているのだろう。
コヴリンが伝説を思い出し、ライ麦畑で見た得体の知れぬ幻影を心に思い浮べた途端、正面の松林の蔭から、物音一つ立てずに、中くらいの背丈《せたけ》で、白髪頭《しらがあたま》をむきだしにして、全身黒ずくめの衣服をまとった、乞食《こじき》のような裸足《はだし》の人物が出て来た。まるで死人のように蒼《あお》ざめた顔に、黒い眉《まゆ》がくっきりと浮き出ていた。愛想《あいそ》よくうなずきながら、その乞食のような、巡礼のような人物は、音もなくベンチに近寄って腰を下ろし、コヴリンはそれが黒衣の僧であることを知った。少しの間、二人はお互いに見つめ合った――コヴリンは驚きのまなざしで、黒衣の僧はやさしく、そしてあのときと同じように、いくらか狡《ずる》そうに、抜け目なさそうな表情をして。
「しかし、きみは蜃気楼《しんきろう》なのだろう」と、コヴリンは言った。「なぜここでは一カ所に腰を据えてるんだ。伝説と符合しないじゃないか」
「そんなことはどうでもいい」黒衣の僧はやや間を置いてから、コヴリンに顔を向けて低い声で答えた。「伝説も、蜃気楼も、私も、すべてはお前の昂《たかぶ》った想像力の産物だ。私は幻にすぎない」
「じゃ、きみは実在しないのか」と、コヴリンは尋ねた。
「好きなように考えなさい」と、黒衣の僧は言い、微《かす》かな笑顔《えがお》を見せた。「私はお前の想像の中に存在し、お前の想像は自然の一部であるから、従って私は自然の中にも存在しているのだ」
「きみの顔はとても老《ふ》けていて、聡明《そうめい》で、この上なく表情が豊かだ。まるで本当に千年以上も生きてきたように」と、コヴリンは言った。「自分の想像力がこんな現象を創《つく》り出せるとは知らなかったな。しかし、なぜそんなに嬉《うれ》しそうにぼくを見るんだ。ぼくが気に入ったのか」
「そうだ。お前は神の選民と正当にも呼ばれる者たちの一人だ。お前は永遠の真理に仕えている。お前の思想、計画、お前の驚くべき学問、お前の生活全体には、神々《こうごう》しい天上の刻印が捺《お》されている。それらが知的で美しいものに、すなわち永遠なるものに捧《ささ》げられているからだ」
「永遠の真理、と言ったね……しかし永遠の生命などありはしないのに、永遠の真理が人間に得られるだろうか、必要だろうか」
「永遠の生命はある」と、黒衣の僧は言った。
「きみは人間の不死を信じているのか」
「そう、もちろん。お前たち人間を待っているのは偉大な輝かしい未来だ。お前のような人間が地上にふえればふえるほど、その未来の実現は早くなるのだ。最高の目的に仕え、意識的に自由に生きているお前たちがいなかったなら、人類は絶滅していただろう。自然の秩序のままに発展していれば、人類は今後も永いこと、地上の歴史の終末を覚悟せねばならない筈《はず》だ。お前たちは人類を永遠の真理の王国へ導き入れるのを数千年早めているのだ。そこにこそ、お前たちの大いなる功績がある。お前たちは人間の中で眠っていた神の祝福を、われとわが身に体現しているのだ」
「では、永遠の生命の目的は何だろう」と、コヴリンは尋ねた。
「あらゆる生命の目的と同じく、快楽だ。真の快楽は認識の中にあり、永遠の生命とはすなわち認識のための汲《く》めども尽きぬ数限りない泉なのだ。わが父の家に住む人多し、というのはその意味なのだ」
「ああ、分ってもらえるかな、きみの話を聞いているのがどんなに嬉しいか!」と、満足のあまり両手を揉《も》みながら、コヴリンは言った。
「それは私も嬉しい」
「でもぼくは分っている。きみが消えてしまうと、きみの実在についての疑問にぼくは苦しめられる。きみは幻だ、幻覚だ。つまり、ぼくは精神を病んでいるのであって、正常じゃないわけだろう」
「それでも構わない。何を困ることがある。お前が病気なのは、むりな仕事をして疲労したからであり、それはすなわち、きみが自分の健康を思想の犠牲にしたということだ。きみが生命までも思想に捧げるべき時は、間近に迫っている。これ以上のことが他にあるだろうか。これこそ高貴な素質を天から授けられたすべての人間が目指《めざ》すことではないのか」
「自分が精神を病んでいるのを知りつつ、自分を信じることができるだろうか」
「全世界の信じる天才たちが幻覚を見なかったかどうか、どうしてお前に分る? 最近の学者が言うには、天才と狂人とは紙一重だそうだ。いいかね、健康で正常なのは月並みな十把《じっば》一からげの人間だけだ。ノイローゼ時代とか、過労とか、退化とかいうことを考えて、真剣に動揺するのは、人生の目的を現在の中にのみ見る人間、すなあち十把一からげの人間だけなのだ」
「ローマ人は言った、健全な精神は健全な肉体に宿る」
「ローマ人やギリシャ人の言ったことがすべて真理とは限らない。高揚した気分とか、興奮とか、恍惚《こうこつ》状態とかは、予言者や詩人や殉教者を普通の人間たちから区別するものであり、それはまた人間の動物的な面、すなわち人間の肉体的健康と対立するものなのだ。もし健康で正常でありたいのなら、群集に加わるがいい」
「不思議だな、きみはぼくがしばしば考えることを繰返している」と、コヴリンは言った。「まるでぼくのひそかな考えを覗《のぞ》き見するか、立ち聞きしていたようだ。でも、ぼくの話はどうでもいい。永遠の真理とは何だときみは思う?」
黒衣の僧は返事をしなかった。コヴリンは相手を見つめたが、顔を見定めることができなかった。顔の輪郭がぼやけ、薄れていった。やがて黒衣の僧の頭が消え、腕が消えた。胴体がベンチや宵闇《よいやみ》とまじり合い、遂《つい》には完全に消え去った。
「幻覚は終ったか!」と、コヴリンは言い、笑い出した。「それにしても残念だ」
陽気な、幸福な気分で、コヴリンは家に戻る道を歩き出した。黒衣の僧が語った僅《わず》かばかりの言葉は、彼の自尊心をではなく、精神全体を、全存在を快くくすぐったのである。選民となり、永遠の真理に仕え、人類を教千年も早く神の王国に値する存在にしてしまう人々、すなわち数千年の余計な戦いや罪や苦しみから人類を解放する人々の戦列に加わり、若さや力や健康など一切を思想に捧げ、全体の幸福のために死ぬ覚悟を決める――それはなんという高貴な、なんという幸福な役割だろう! コヴリンの記憶の中を、勤労に満ちた無垢《むく》で純潔な過去が通りすぎ、彼は自分が今までに学び他人にも教えてきたことを思い出して、黒衣の僧の言葉に誇張はなかったのだと納得した。
むこうから、ターニャが庭園を歩いてきた。もう服を着替えていた。
「ここにいらしたの」と、ターニャは言った。「私たち、あなたをずっと探してたのよ……でも、どうなさったの」コヴリンの歓喜に輝く顔や、涙をいっぱい溜《た》めた目を見て、ターニャは驚いて言った。「とても変よ、アンドリューシャ」
「ぼくは満足なんだ、ターニャ」娘の肩に両手を置いてコヴリンは言った。「満足以上だ、幸福なんだ! ターニャ、かわいいターニャ、きみならきっとこの気持を分ってくれると思うよ。かわいいターニャ、ぼくは嬉しい、嬉しくてたまらない!」
コヴリンは娘の両手に熱烈にキスして、言葉を続けた。
「ぼくはたった今、澄み切った、奇蹟《きせき》のような、この世のものとも思われぬ瞬間を味わった。でも、きみに一部始終を話すわけにはいかない。だって、きみはぼくを気違い呼ばわりするか、でなきゃ、全然信じないだろうからね。それより、きみの話をしよう。かわいい、すばらしいターニャ! ぼくはきみを愛しているし、もう愛することにすっかり馴《な》れてしまった。きみがそばにいること、日に十ペんずつきみと逢うことは、ぼくの心に必要不可欠なことになってしまった。自分の家に帰ってから、きみなしでどう過したものやら、ぼくには全く分らない」
「まあ!」と、ターニャは笑い出した。「あなたは二日も経《た》てば私たちのことなんか忘れてしまうわ。私たちはつまらない人間だけど、あなたは偉い人なんですもの」
「いや、まじめに話そう!」と、コヴリンは言った。「ぼくはきみを連れて行くよ、ターニャ。いいね? 一緒に来てくれる? ぼくの妻になってくれる?」
「まあ!」と、ターニャは言い、また笑おうとしたが、笑いは出て来ず、赤い斑点《はんてん》がその顔に現われた。
息づかいが荒くなったターニャは、足早に歩き出したが、家の方にではなく、庭園の奥の方へ歩いて行くのだった。
「そんなこと、私……考えてみなかったわ!」と、まるで絶望したように両手を固く握りしめて、ターニャは言った。
しかしコヴリンは、娘のうしろを歩きながら、依然として歓喜に輝く顔で喋《しゃべ》りつづけた。
「ぼくが欲《ほ》しいのはぼく全体を包んでくれる愛で、そんな愛を与えることができるのは、ターニャ、きみだけなんだ。ぼくは仕合せだ! 仕合せだ!」
娘は呆然《ぼうぜん》としてうなだれ、身をすくめ、急に十も年を取ったように見えたが、コヴリンはそんなターニャを美しいと思い、大声で自分の喜びを口にした。
「なんてきれいなんだろう!」
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六
恋愛事件が起ったばかりか婚礼さえ行われることになったと、コヴリンから聞かされたエゴール・セミョーヌイチは、興奮を隠そうと永いこと部屋中を歩きまわった。その手は震え、頸《くび》は赤黒く充血し、老人は馬車の支度《したく》を命じて、どこかへ出掛けて行った。父親が馬に鞭《むち》をあて、殆《ほとん》ど耳が隠れるほど深々と帽子をかぶるのを見て、その気持を察したターニャは、自分の部屋に引きこもって丸一日泣いた。
温室ではもう桃や杏《あんず》が熟していた。この愛らしい扱いにくい荷物を包装して、モスクワへ発送するには、たいへんな注意と労働と手数が必要だった。この夏が非常に暑く乾燥していたために、木の一本一本に水をやらねばならず、これに多くの時間と人手が費やされた。しかも青虫がおびただしく発生し、コヴリンがぞっとしたことには、職人たちは、あるいはエゴール・セミョーヌイチやターニャまでが、この青虫を指で平気でひねりつぶすのだった。こういうもろもろのことに加えて、もうそろそろ秋の果実や樹木の注文を受け、大がかりな契約を行わなければならなかった。そして猫の手も借りたいほど忙しい盛りに、畑仕事が始まり、果樹園から職人の半数以上を引抜いてしまった。エゴール・セミョーヌイチはかんかんに怒り、悩み、凶悪になって、果樹園や畑へ馬を飛ばしては、私を八つ裂きにする気か、とか、いっそ額に弾《たま》をブチこみたいとか、わめきたてた。
そこへもう一つ、ペソツキー家にとっては少なからぬ意義をもつ嫁入り支度の騒ぎが始まったのである。鋏《はさみ》の音や、ミシンの響きや、アイロンの熱気のために、また神経質で怒りっぽい中年女の仕立て屋の気紛《きまぐ》れのために、家中のだれもがめまいを感じた。その上、わざとのように連日お客があり、その相手をしたり食事を出したり、時には寝床の支度さえしなければならなかった。だが、これらの苦役も霧の中の風景のように、いつのまにか過ぎて行った。ターニャは十四の年からなぜかコヴリンが自分と結婚してくれると確信していたくせに、今は愛と幸福の不意打ちを受けたような気持を味わっていた。驚きと当惑ばかりで、自分が信じられなかった……時には雲まで飛んで行って、そこで神に祈りたいような喜びが不意にこみあげてくるかと思えば、また突然、八月には自分が育った家と別れ、父親を置いて行かねばならぬことを思い出し、あるいは、自分はとるに足らぬちっぽけな人間で、コヴリンのような偉い人にはふさわしくないという考えが、どこからともなく心に浮んで――そんなときターニャは自分の部屋に入って鍵《かぎ》をかけ、何時間もさめざめと泣くのだった。客が来たときなど、不意に、コヴリンは非常な美男子で、女たちはみな彼に恋をし、ターニャをねたんでいるような気がして、心はまるで全世界を征服したように喜びと誇りに満たされるのだが、コヴリンがどこかの令嬢に愛想よく微笑《ほほえ》みかけたりすると、それだけでターニャは嫉妬《しっと》に身を震わせ、自分の部屋にさがり、またもや泣くのだった。この新しい感覚は全面的に娘を捉《とら》え、ターニャは父親の手伝いも機械的にするだけで、桃も杏も職人たちも目に入らず、時が急速に流れて行くことにも気付かないのだった。エゴール・セミョーヌイチにも、殆ど同じことが起っていた。老人は朝から夜中まで働き、いつもどこかへ急いで行っては、腹を立てたり苛立《いらだ》ったりしていたが、それらすべては何やら魔法にでもかかったような半覚醒《はんかくせい》状態で行われるのだった。老人の中には今や二人の人間が居坐っているように見えた。一人は本物のエゴール・セミョーヌイチで、不手際《ふてぎわ》を報告する園丁イワン・カルルイチの話を聞きながら、腹を立て、絶望的に頭をかかえていたが、もう一人の本物ではないほうは半ば酔ったように、とつぜん言葉の途中で仕事の話を打切り、園丁の肩をつついて、こんなこと呟《つぶや》き始めるのだった。
「何といっても血のつながりというのは大したことだ。彼の母親は、品もよければ頭もいい、すてきな婦人だったよ。天使のように清らかな、明るい善良な顔は、見ているだけでたいへんいい気持だった。絵もうまかったし、詩も書いたし、五ヵ国語を話したし、歌も上手《じょうず》だったし……きのどくに、肺病で死んじまったが」
本物ではないエゴール・セミョーヌイチは、溜息《ためいき》をつき、少し黙っていてから言葉を続けた。
「この家で育てていた頃の彼も、明るくて善良な、天使のような顔をしていたっけ。目つきも、身のこなしも、喋《しゃべ》り方も、母親そっくりにやさしくて、しとやかなんだ。頭のほうは? それがまた、いつも頭のよさで私らを驚かせたものさ。学位をとったのも当然の話だ! そう、当然だとも! まあ見ていろよ、イワン・カルルイチ、あと十年も経《た》ったら彼がどんなに出世するか! 私らなんか足元にも寄れなくなるだろうよ!」
だが、ここで本物のエゴール・セミョーヌイチは、ふと我に返り、こわい顔になって、髪をかきむしり、叫ぶのだった。
「馬鹿者! 汚《よご》れるし、傷はつくし、もう台なしじゃないか! 果樹園が駄目になっちまう!果樹園の破滅だ!」
一方、コヴリンはそれまで通り熱心に仕事をつづけ、てんやわんやの騒ぎには一向に気づかなかった。愛情は火に油を注ぐ役目を果しただけだった。ターニャと逢《あ》ったあと、コヴリンはいつも幸福な喜ばしい気分で部屋に戻り、今し方ターニャにキスし愛の言葉を囁いたときと同じ情熱をこめて、本や原稿をとりあげるのだった。いつか黒衣の僧が神の選民とか、永遠の真理とか、人類の輝かしい未来とか話してくれたことは、コヴリンの仕事に特殊で重大な意義を与え、コヴリンの心を誇りと、自分の高さについての認識とで満たしていた。黒衣の僧とは週に一度か二度、庭園や家の中で逢い、永いこと語り合ったが、それは少しも恐ろしくはなく、逆に喜ばしかった。なぜなら、そのような幻覚が訪れるのは、思想への奉仕に自己を捧《ささ》げている選ばれた優秀な人間だけなのだと、今のコヴリンは固く信じていたからである。
ある日、黒衣の僧は夕食のときに姿を現わし、食堂の窓のそばに腰を下ろした。コヴリンは喜び、エゴール・セミョーヌイチやターニャにむかって、黒衣の僧が喜びそうな話を巧みに語り始めた。黒衣の客人は耳を傾け、愛想よくうなずいていたが、エゴール・セミョーヌイチとターニャも、まさかコヴリンの話している相手が自分たちではなく幻覚なのだとは露知らず、一所懸命話を聞いては楽しそうに微笑《ほほえ》んでいた。
いつのまにか聖母昇天祭〔八月十五日〕が近づき、そのすぐあとが婚礼の日だった。エゴール・セミョーヌイチのたっての願いによって、婚礼は「派手に」行われた。つまり二昼夜ぶっ通しのどんちゃん騒ぎになった。料理や酒におよそ三千ルーブリも費《つか》ったが、雇ってきた下手《へた》な楽隊や、騒々しい乾杯の言葉や、給仕たちの右往左往など、喧騒《けんそう》と狭苦しさのために、モスクワから取寄せた高価な葡萄酒《ぶどうしゅ》や贅沢《ぜいたく》な前菜《ザクースカ》の味はろくろく分らなかった。
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七
ある晩、冬の夜長のつれづれに、コヴリンはベッドに横たわって、フランスの小説を読んでいた。都会の生活に不馴《ふな》れなので毎晩のように頭痛を訴える哀れなターニャは、もうだいぶ前に寝つき、ときどき何やらとりとめのない寝言を口走っていた。
時計が三時を打った。コヴリンは蝋燭《ろうそく》を消して、体をのばした。目を閉じて暫《しばら》く横になっていたが、寝室がひどく暑いような気がするのと、ターニャが寝言を言うのとで、なかなか寝つかれなかった。午前四時半に、コヴリンは再び蝋燭をつけ、そのとき黒衣の僧がベッドのそばの肘掛椅子《ひじかけいす》に坐《すわ》っているのを見た。
「こんばんは」と、黒衣の僧は言い、少し黙っていてから尋ねた。「今、何を考えている?」
「名誉のことだ」と、コヴリンは答えた。「今読んでいたフランスの小説に、若い学者が出てくる。その青年は名誉にあこがれるあまり、いろいろ馬鹿な真似《まね》をして身を滅ぼすんだ。ぼくには、こういうあこがれは理解できない」
「それはお前が賢いからだ。お前は名誉というものに対して無関心な態度をとっているだろう。何の興味もない玩具《がんぐ》に対するように」
「そう、それは本当だ」
「名声はお前に微笑《ほほえ》みかけていない。快いこと、楽しいこと、有益なことというのは、すなわちお前の名前が墓石に刻みつけられて、やがて時がその文字を金箔《きんぱく》もろとも拭《ぬぐ》い取ってしまうことではないのか。しかも幸いなことに、お前のような人間はあまりにも大勢いるから、貧弱な人間の記憶力ではとてもお前の名前など憶《おぼ》えていられないだろう」
「分った」と、コヴリンは同意した。「それに、そんな名前を憶えておく必要なんかありゃしない。それより何かほかの話をしよう。例《たと》えば、幸福について。幸福とは一体何だろう」
時計が五時を打ったとき、コヴリンは両足を絨毯《じゅうたん》に垂らしてベッドに腰かけ、黒衣の僧にむかって話していた。
「むかし一人の幸福な男が、結局、自分の幸福におびえて――あまりにも大きな幸福だったのでね――神々の心をなだめるために自分の大好きな指輪を捧《ささ》げた。この話を知ってる? ぼくも、ポリュクレイトスのように、自分の幸福が少し心配になりかけている。朝から晩まで喜びばかりを味わい、喜びがぼくの全体を満たして、ほかの感情をすべて消してしまうのは、どうも奇妙なことじゃないだろうか。悲しみ、淋《さび》しさ、退屈とは一体どんなものなのか、ぼくには分らない。今だってぼくは不眠症のせいで眠らないけれども、退屈ではないんだ。まじめな話、ぼくは疑問を抱《いだ》き始めている」
「しかし、なぜかね」と、黒衣の僧は驚いて言った。「喜びは超自然的な感情だとでも言うのかね。喜びは人間の正常な状態ではあり得ないのかね。人間は知的、道徳的に発達すればするほど、自由になればなるほど、ますます大きな満足を人生から得るものなのだ。ソクラテスも、ディオゲネスも、マルクス・アウレリウスも、悲しみではなく、喜びを味わったのだ。十二使徒の一人も言っている、つねに喜べ、とね。だから、せいぜい喜んで仕合せになりなさい」
「しかし、ひょっとして神々が腹を立てないだろうか」と、コヴリンは冗談を言い、笑い出した。「もし神々に楽しみを取上げられて、凍えたり飢えたりしなきゃならないのなら、そいつはどうもぼくの趣味には合わないからね」
ターニャはこのときすでに目をさまし、驚きと恐怖のまなざしで夫を見つめていた。夫は身ぶりを交えて肘掛椅子に話しかけ、笑っていたのである。目がきらきら光り、笑い声には何か異様なものが感じられた。
「アンドリューシャ、だれと話してるの」と、ターニャは、黒衣の僧に差しのべている夫の手を掴《つか》んで、尋ねた。「アンドリューシャ! だれと?」
「え? だれとだって?」コヴリンはあわてて言った。「その人さ……そこに坐ってるだろう」と、黒衣の僧を指《さ》した。
「だれもいないわよ……だれも! アンドリューシャ、あなた病気なのよ!」
ターニャは夫を抱きしめ、幻影から守ろうというように身を寄せて、片手で夫の目をふさいだ。
「あなた病気なのね!」と全身を震わせてターニャは泣いた。「ごめんなさい、あなた、でも、あなたの気持が何かに乱されていることは、だいぶ前から気がついていたわ……あなたは神経衰弱なのよ、アンドリューシャ!」
妻の戦慄《せんりつ》はコヴリンにも伝わった。彼はもう一度肘掛椅子を眺《なが》めて、それが空《から》だったので不意に手足の力が抜けるのを感じ、あわてて服を着始めた。
「なんでもないよ、ターニャ、なんでもない……」と、コヴリンは震えながら呟《つぶや》いた。「確かにぼくはいくらか健康を害している……こうなったら認めるよ」
「私は前から気がついてたわ……パパも気がついてたわ」と、涙を抑えようと努めながら、ターニャは言った。「あなたは独《ひと》りごとを言ったり、へんな笑い方をしたり……夜も眠らないし。ああ、神さま、私たちをお助け下さい!」ターニャは恐怖にかられて祈った。「でも心配しないでね、アンドリューシャ、心配しないで、お願いだから心配しないで……」
ターニャも服を着始めた。その様子を眺めながら、コヴリンは初めて自分の状態の恐ろしさを悟り、黒衣の僧とは、黒衣の僧と語るとは何を意味するかを悟った。自分が狂人であることは、今のコグリンには明白だった。
二人は何のためかは分らぬまま、服を着てしまうと、広間に出て行った。たまたま遊びに来ていたエゴール・セミョーヌイチが、泣き声に夢を破られて、寝巻姿で、蝋燭を手にして立っていた。
「心配しなくていいのよ、アンドリューシャ」と、ターニャは熱病にかかったように震えながら言った。「心配しないで……パパ、すぐに何もかも収まるわ……収まるわ……」
コヴリンは興奮のあまり口がきけなかった。おどけた口調で義理の父親に、『おめでとうと言って下さい、ぼくはどうやら気が狂ったらしいですよ』と言いたかったが、ただ唇《くちびる》を動かし、苦笑しただけだった。
午前九時に、コヴリンはコートと毛皮外套《シェーバ》を着せられ、ショールにくるまれて、馬車で病院へ連れて行かれた。そして治療を受け始めた。
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八
再び夏が来て、医者は田舎《いなか》へ行くように命じた。コヴリンはすでに健康を取戻し、黒衣の僧を見ることもなく、あとは体力をつけることだけが残されていた。田舎の義父の家に暮して、コヴリンは牛乳をたくさん飲み、仕事は日に二時間するだけで、酒は飲まず煙草も吸わなかった。
聖イリヤ祭〔七月二十日〕の前日に、夕方から家で祈祷《きとう》が行われた。補祭が司祭に香炉を手渡すと、古い大きな広間の中に墓場のような匂いが漂い、コヴリンは退屈になって果樹園へ出た。絢爛《けんらん》たる花々には目もくれず、果樹園の中を歩きまわってから、ベンチで少し休み、それから庭園を通り抜けた。川に出ると水際《みずぎわ》へ下り、思いに沈んで水面《みのも》を眺《なが》めた。毛むくじゃらの根をもつ気むずかしい松の木たちは、去年この同じ場所であれほど若々しく喜ばしい元気なコヴリンの姿を見たのだが、今はまるで見違えてしまったというように、身じろぎもせず無言で立ちつくし、葉ずれの音もさせなかった。本当に、コヴリンは髪を短く刈ってしまい、長い美しい髪はもはやなく、歩きぶりも不活発《ふかっぱつ》で、顔も去年の夏に比べると肥《ふと》って、蒼《あお》ざめていたのである。
コヴリンは渡り板をつたって、向う岸へ行った。去年ライ麦があった場所には、刈りとられた燕麦《えんばく》が列をなして横たわっていた。陽《ひ》はすでに沈み、あすの風の強さを予言する広大な夕焼けが地平線に燃えていた。静かだった。去年初めて黒衣の僧が現われた方角を見つめて、コヴリンは二十分ほど佇《たたず》んでいたが、やがて夕焼けも消え始めた。
打ちしおれ、不満を抱《いだ》きながら家に帰ると、祈祷はもう終っていた。エゴール・セミョーヌイチとターニャは、テラスの階段に腰かけて、お茶を飲んでいた。二人は何か話していたが、コヴリンの姿を見ると、急に口をつぐみ、そんな二人の表情を見て、ゴヴリンは自分のことが話題になっていたのだと察した。
「あなた、もう牛乳をお飲みになる時間よ」と、ターニャは夫に言った。
「いや、まだだ……」と、一番下の段に腰を下ろしながら、コヴリンは言った。「自分が飲みなさい。ぼくは要らない」
ターニャは不安そうに父親と顔を見合せ、うしろめたそうな声で言った。
「あなたがおっしゃったのよ、牛乳は体にいいって」
「ああ、実にいいよ!」コヴリンは冷笑した。「おめでとう。金曜日以後ぼくの体重はまた一フント〔〇・四キロ〕ふえたからね」両手で頭を挟《はさ》んで強く締めつけながらコヴリンは悲しそうに喋《しゃべ》り出した。「なぜ、なぜあんた方はぼくを治療したりしたんだ。臭素《ブローム》の薬、無為の生活、温浴、監視、ぼくが一口飲むごとに、一足歩くごとに示される、小心翼々たる恐怖――そういういろんなことが結局ぼくを白痴にしてしまうんだ。なるほど、ぼくは発狂し、誇大|妄想狂《もうそうきょう》だったけれども、その代りに陽気で、元気がよくて、幸福ですらあった。個性のある面白い人間だった。今のぼくは分別くさい手堅い人間だが、その代り、みんなと同じ月並みな男で、生きるのが退屈でたまらない……ああ、あんた方はぼくになんという残酷なことをしてくれたんだろう! そりゃぼくは幻覚を見たが、それがだれの迷惑になった? 聞かせてもらいたいな、それがだれかの迷惑になったかね?」
「きみの言うことはさっぱり分らん!」と、エゴール・セミョーヌイチは溜息《ためいき》をついた。「聞くのも退屈なくらいだ」
「じゃ聞かなきゃいいでしょう」
他人の存在、殊《こと》にエゴール・セミョーヌイチの存在に今、心をかき乱されるコヴリンは、素気ない、冷たい、時には粗暴な返事しかしなかったし、蔑《さげす》みと憎しみ以外の何ものでもない目つきで見つめたから、エゴール・セミョーヌイチはどぎまぎし、自分が悪いとは少しも思っていないのに、いかにも申しわけなさそうに咳《せき》をするのだった。二人の和《なご》やかで温かな関係がなぜこうも急激に変化したのか、全く理解できないターニャは、父親に寄り添い、不安そうにその目を覗《のぞ》きこんだ。理解したくとも到底理解できないターニャにとって、一つだけはっきりしているのは、二人の関係が日ましに悪くなる一方であること、そして父親が最近めっきり老《ふ》けこみ、夫は怒りっぽく、気紛《きまぐ》れで、わがままで、面白味のない人間になってきたということだった。ターニャはもう笑うことも歌うこともできず、食事どきにも何一つ食べず、何か恐ろしいことを予期して幾晩も眠れず、あまりの悩みのために、ある日失神して、昼から夕方まで寝たきりでいたこともあった。祈祷のとき、父親が泣いているように、ターニャには見えたのだが、今こうして三人でテラスに坐っているときには、そんなことは考えまいと懸命に努力していた。
「仏陀《ぶっだ》やマホメットやシェイクスピアは仕合せだった。親切な親戚《しんせき》や医者に法悦や霊感を治療されなかったからね!」と、コヴリンは言った。「もしマホメットが神経の治療のためにブロム・カリをのんだり、日に二時間だけ仕事をして牛乳を飲んだりしていたら、あの偉人の死も、飼犬が死んだのと同じようなもので、大したものは残らなかっただろうな。要するに医者や親切な親戚のやることは、人類を愚鈍にすることだけだね。凡庸が天才と見なされて、文明は滅びてしまうだろう。あんた方には分るまいが」と、コヴリンは腹立たしげに言った。「ぼくはあんた方に心底から感謝しているんだ!」
激しい苛立《いらだ》ちを覚えたコヴリンは、余計なことを口走らぬために、そそくさと立ちあがり、家に入った。家の中は静かで、開け放された窓の向うの庭から、煙草やヤラッパの芳香が流れこんできた。巨《おお》きな暗い広間の床やピアノの上に、月光が青い斑点《はんてん》となってさしこんでいた。同じようにヤラッパの香りが漂い、窓に月影のさしていた、去年の喜びをコヴリンは思い出した。去年の気分を取戻そうとして、彼は急いで自分の書斎へ行き、強い葉巻に火をつけ、葡萄酒を持って来るように従僕に命じた。だが葉巻のせいで口の中が苦いいやな味になり、酒の味も去年とは違っていた。習慣を失《な》くすというのは、なんということだろう! 一本の葉巻と、二杯の葡萄酒のために、頭がくらくらし、動悸《どうき》が激しくなってきたので、ブロム・カリをのまなければならなかった。
床につく前に、ターニャが言った。
「父はあなたを尊敬しているのよ。あなたはどうしてか父に腹を立ててらっしゃるけど、それはまるで父を殺すようなものよ。見てごらんなさい、父は日ごとに、いいえ、一時間ごとに老いこんで行くわ。お願いよ、アンドリューシャ、お願いですから、あなたの亡《な》くなったお父さまのためにも、私の気持を安らかにするためにも、父にやさしくしてあげて!」
「できないし、したくもない」
「でも、どうして」と、全身を震わせ始めながら、ターニャは尋ねた。「説明して、なぜなの」
「あの人が気にくわないからさ、それだけのことだ」とコヴリンはなげやりに言い、肩をすくめた。「しかしあの人の話はよそう。きみの父親なんだから」
「分らない、分らないわ!」と、ターニャはこめかみを抑え、空間の一点を見つめながら言った。
「何かとんでもない恐ろしいことがこの家に起っているのね。あなたは変ったわ、別人のようになってしまった……頭のいい非凡なひとなのに、つまらないことで腹を立てたり、下らない喧嘩《けんか》に口を挟《はさ》んだり……あんまり下らないことに興奮なさるから、ときどきびっくりして、これがあなたなのかしらと思うくらいよ。いいえ、怒らないで、怒らないでね」自分の言葉に怯《おび》え、夫の手にキスしながら、ターニャは言葉をつづけた。「あなたは聡明《そうめい》で、善良で、上品な方よ。ですから父のことも公平に考えてね。父はとてもいい人よ!」
「いい人じゃなくて、お人よしなんだ。寄席《よせ》にはきみのお父さんそっくりのおっさんが出てくるよ。人のよさそうな満ち足りた面《つら》をした、恐ろしく客好きの変り者がね。そういう連中は昔はぼくを楽しませたし、小説の中でも、寄席でも、実人生でも、大いに笑わせてくれたもんだが、今となっちゃ不愉快なだけだ。あいつらは骨の髄までエゴイストだからな。何よりも不愉快なのはあいつらの満ち足りた面《つら》と、まるで牛か豚みたいな、胃袋的オプチミズムさ」
ターニャはベッドに坐《すわ》り、枕に顔を埋めた。
「まるで拷問だわ」と、ターニャは言い、その口調から、ターニャが極端に疲れていること、口をきくのも辛《つら》いことはよく分った。「冬からずっと心の休まるときがない……こんな恐ろしいことってあるのかしら! 私、辛くて……」
「そう、もちろんぼくはへロデ王だし、きみときみのパパはエジプトの幼な子だよ。そうだとも!」
コヴリンの顔が、ターニャには醜く不愉快に見えた。憎しみや嘲《あざけ》りの表情はコヴリンには似合わないのである。髪を短く刈り、面《おも》変りしたあの頃から、コヴリンの顔に何かが欠けていることを、とうにターニャは感じていたのだった。何か侮辱的なことを言ってやろうとして、ターニャはすぐに自分のそんな悪意に気づき、怯えて寝室から出て行った。
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九
コヴリンは独立した講座を持たされた。最初の講義は十二月二日と定められ、その告示が大学の廊下に掲示された。だが定められた日に、コヴリンは病気のため講義を行えぬむねを電報で教務課に知らせた。
喀血《かっけつ》したのである。血を吐くことは始終だったが、月に二度ばかりは猛烈な喀血をし、そんなときは極端に衰弱して、朦朧《もうろう》たる状態に陥るのだった。だが死んだ母が同じような病状で十年も、それ以上も生きていたのを知っていたから、この病気はさしてコヴリンをこわがらせはしなかった。医者たちも別に危険はないと請け合い、ただ興奮を避けて規則正しい生活を送り、なるべく喋《しゃべ》らないようにと忠告した。
一月にも講義は再び同じ理由で行われず、二月にはもはや講座を始めるには遅すぎた。来年まで見送らなければならなかった。
コヴリンはもうターニャと一緒ではなく、別の女と同棲《どうせい》していた。女は彼より二つ年上で、まるで子供を世話するようにコヴリンの面倒を見てくれた。コヴリンの気分もおだやかで、素直だった。喜んで相手の言いなりになり、ワルワーラ・ニコラーエヴナが――女はそういう名前だった――彼をクリミヤへ転地させようとしたときも、その旅行から何一つ良い結果は生れないだろうと予感してはいたが、すぐに同意したのだった。
二人は夕方セヴァストーポリに着き、休息のためにホテルに一泊して、翌日ヤルタへ向うことにした。二人とも汽車旅行でへとへとに疲れていた。ワルワーラ・ニコラーエヴナはお茶をたくさん飲み、横になると、すぐ眠りに落ちた。だがコヴリンは横にならなかった。まだ家にいたとき、駅へ出掛ける一時間ほど前に、ターニャからの手紙を受けとり、どうしても封を切る気になれなかったのだが、その手紙が今、服のポケットに入っていて、そのことを思うと不快な昂《たかぶ》りを感じたのである。今となってみれば正直な話、心の奥底では、ターニャとの結婚は間違いだったと思っていたし、彼女ときっぱり別れたことに満足してもいたのだが、最後には歩く屍《しかばね》となり果ててしまった彼女、凝視する大きな知的な目以外には以前の面影など何一つなくなってしまった彼女のことを思い出すと、その思い出が心の中に呼び起すものは憐《あわ》れみと、自分への苛立《いらだ》ち以外の何ものでもなかった。封筒の筆蹟《ひっせき》は二年前のコヴリンがどれほど理不尽で残酷だったかを思い出させ、何の罪もない人間たちに自分の心の空《むな》しさや退屈や孤独や人生への不満をどれほどぶちまけたかを思い出させた。更に思い出したのは、いつだったか、コヴリンが自分の学位論文や、病気中に書いた論文を細かく引裂いたことだった。その紙切れを窓から投げ捨てると、紙切れは風に舞いながら木の枝や花々にひっかかった。それらの文章のすべての行にコヴリンが見たのは、何の根拠もない奇妙な偏見であり、軽薄な強弁であり、厚かましさであり、誇大|妄想《もうそう》であり、それはまるで自分の悪徳の記述を読むような印象をコヴリンに与えたのである。だが最後のノートを破って窓から投げ捨てたとき、なぜか腹立たしく苦々しい気持になり、コヴリンは妻のところへ行って、乱暴な言葉をたくさん投げつけたのだった。全く、彼はどこまでターニャを苛《いじ》めぬいたことだろう! あるときはターニャに苦痛を与えたいばかりに、ぼくらの恋愛ではきみのおやじが不愉快な役割を果している、なにしろ娘を嫁に貰《もら》ってくれとおれに頼んだのだから、と言った。たまたまエゴール・セミョーヌイチがこれを小耳にはさみ、その部屋に駆けこんでくると、絶望のあまり一言も口がきけず、ただ地団太《じだんだ》を踏みながら、まるで舌を引抜かれたような呷《うめ》き声を発し、ターニャはそんな父親の姿を見て、胸の張り裂けるような悲鳴をあげ、気を失って倒れた。なんとも醜悪な場面であった。
そのようなもろもろのことが、馴染《なじみ》ぶかい筆蹟を目にすると記憶によみがえってきた。コヴリンはバルコニーへ出た。静かな暖かな気候で、海の匂いが漂っていた。美しい入江は月やたくさんの灯火を水面《みのも》に映し、名づけようもない色合いを帯びていた。それは青と緑がやさしく和《なご》やかに融《と》け合った色だった。ある場所では水は青い硫酸銅《りゅうさんどう》の結晶に似ていたが、また別の場所では月の光が濃縮されて水の代りに入江を満たしているようにも見えた。全体としてなんという色彩の調和だろう。なんという穏やかな、平和な、高貴な気分だろう!
バルコニーの真下の部屋では、窓を開け放してあるらしく、女たちの声や笑いがはっきりと聞えた。きっとパーティを開いているのだろう。
コヴリンは気力をふりしぼって手紙の封を切り、部屋へ戻って読み始めた。
『今、父が死にました。これはあなたの責任だと思います。あなたが父を殺したのです。うちの果樹園はもう破滅で、今ではよその人たちが管理をしています。つまり、きのどくな父があれほど恐れていたことがやってきたのです。これもあなたの責任です。私は心の底からあなたを憎み、あなたが一日も早く死ぬことを願っています。ああ、私はどんなに苦しんでいることでしょう! こらえきれぬ苦しみが私の心を焼きます……あなたは呪《のろ》われればいい。私はあなたを非凡な人、天才と思いこみ、愛したのですが、本当のあなたは気違いでした……』
コヴリンは読みつづけられず、手紙を破り棄てた。恐怖に似た不安が彼の心を捉《とら》えていた。衝立《ついたて》の向うにはワルワーラ・ニコラーエヴナが眠り、その寝息が聞えていた。階下からは女たちの声や笑いが伝わってきたが、コヴリンはこのホテルには自分のほかに生きた人間が一人もいないような気持に襲われた。悲しみに打ちひしがれた不幸なターニャが手紙の中で彼を呪い、彼の死を願っていたためだろうか、コヴリンは薄気味が悪くなり、思わずドアの方をちらと見た。この二年あまりの間に彼の生活と身近な人々の生活とをこれほどまでに破壊した超自然的な力が、今この部屋に入ってきて、再び彼を支配するのではないかというように。
神経が乱れたときの最良の薬が仕事であることは、すでに経験によって知っていた。机にむかって、何がなんでも、なんらか一つの考えに心を集中しなければならない。コヴリンは赤革の鞄《かばん》からノートをとり出した。そこに書きつけてあったのは、クリミヤで仕事がなくて退屈した場合のために考え出しておいた、ちょっとした編纂《へんさん》の仕事の概要である。コヴリンは机にむかって、その概要に取組み始め、まもなく穏やかで素直な無関心の気分が戻ってくるように感じた。概要のノートは世俗のことにまで考えを導いてくれた。人生が人間に与え得る些細《ささい》で平凡な幸福の代償として、どれほど多くのものを人間から奪ってしまうかを、コヴリンは考えた。例《たと》えば四十近い年齢《とし》になって講座を与えられ、月並みな大学教授になり、熱のこもらぬ退屈な重い舌で、ありきたりの、しかも他人の思想を述べるようになるために――つまり、一口で言うなら、平凡な教師としての地位を得るために、彼コヴリンは十五年も勉強し、夜となく昼となく研究し、重い精神の病いに耐え、不幸な結婚を経験し、思い出したくもないさまざまの愚行や不正に手を染めねばならなかったのである。今のコヴリンは自分が月並みな人間であることをはっきり意識し、進んでその事実と妥協していた。なぜなら、彼の意見によれば、すべての人間はあるがままの自分に満足すべきだから。
概要の文章が心を静めてくれたが、引裂かれた手紙が床の上に白々と散らばっていたので、注意の集中が妨げられた。コヴリンは机から離れ、手紙の切れはしを拾い集めて窓から投げ棄てたが、海からそよ風が吹いてきて、紙片は窓の框《かまち》に散らばった。又しても恐怖に似た不安が心を捉《とら》え、ホテル中に自分以外に生きた人間が一人もいないような気がした……コヴリンはバルコニーへ出た。入江は生きもののように青や紺色やトルコ玉や火のような無数の目で見つめ、彼を招いていた。実際、蒸し暑かったので、水浴びに行くのも悪くなかろうと思われた。
突然バルコニーの下の部屋で、ヴァイオリンを弾《ひ》き始め、二人のやさしい女声が歌い始めた。その曲には聞き覚えがあった。階下で歌っている歌のなかでは、病的な想像力をもつ一人の娘が、ある夜、庭で何やら神秘的な音を聞き、それはわれわれ死すべき人間には理解できぬ聖なる協和音《ハーモニー》であると思いこむ……コヴリンは息苦しくなり、心は悲しみに締めつけられ、久しく忘れていた奇蹟《きせき》のような甘い喜びが胸の中で震え始めた。
旋風《つむじかぜ》か竜巻に似た高い黒い柱が、入江の対岸に現われた。それは恐ろしい速さで入江を横切って、次第に小さく濃くなりながらホテルに近づき、コヴリンは道をあけようと間一髪で脇《わき》に身を寄せた……白髪、黒い眉《まゆ》、素足の修道僧が、両手を胸に組んで、すぐ前を通りすぎ、部屋の中央で立ちどまった。
「なぜお前は私の言葉を信じなかったのだ」と、やさしくコヴリンを見つめて、咎《とが》めるょうに黒衣の僧は言った。「もしあのときお前は天才だという私の言葉を信じていれば、お前はこの二年間を、これほど悲しく、心貧しく過さずにすんだのに」
コヴリンはすでに自分が神の選民であり天才であることを信じ、かつて黒衣の僧と交わした会話のすべてをはっきりと思い出して、口をきこうとしたが、喉《のど》から胸へ勢いよく血がほとばしり、あわてて両手で胸をこすったので、カフスボタンが血まみれになった。衝立の向うで眠っているワルワーラ・ニコラーエヴナを呼ぼうと、コヴリンは気力をふりしぼって呟《つぶや》いた。
「ターニャ!」
床に倒れ、両手を突いて身を起しながら、もう一度呼んだ。
「ターニャ!」
コヴリンはターニャを呼び、大きな果樹園と露に濡《ぬ》れた絢爛《けんらん》たる花々を呼び、庭園を、毛むくじゃらの根をもつ松の木を、ライ麦の畑を、自分の愛した学問を、青春を、勇気を、喜びを呼び、あれほど美しかった人生を呼んだ。顔のまわりの床に大きな血の池が見え、もはや衰弱のために一言も口をきけなかったが、言うに言われぬ限りない仕合せがコヴリンの全存在を満たしていた。バルコニーの下の部屋ではセレナーデの演奏が続き、黒衣の僧は囁《ささや》いていた。お前は天才だ、お前が死んで行くのは、かよわい人間の肉体がすでに均衡を失い、これ以上、天才を包む殻の役目を果せないからなのだ、それだけのことなのだよ、と。
ワルワーラ・ニコラーエヴナが目を醒《さ》まして、衝立の蔭から出て来たとき、コヴリンはすでに息絶え、その顔には幸福そうな微笑が凍りついていた。(完)
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訳者あとがき
ここに収めた作品はチェーホフ中期の代表作二編である。この時期における注目すべき私生活上の出来事といえば、それはもちろん、あのサハリン旅行である。一八九〇年四月末出発、七月、サハリン到着、十月、サハリン発、南まわりの海路で、東シナ海、インド洋、紅海、黒海を経て、十二月初めモスクワ着という大変な旅行は、その直接の動機が不明であるところから、一種の不可解な行動というふうに見られたこともあったが、現在の私たちにはチェーホフの意図はかなり奥の方まで覗《のぞ》きこめるような気がする。鍵《かぎ》は何よりもまずチェーホフの作為そのものに潜んでいるのであって、「恋愛や政治や医学においては嘘《うそ》をつくことができるが、芸術において嘘をつくことはできない」というチェーホフ本人の言葉を疑ういわれは少しもない。
サハリン旅行の第一動因は、何はともあれどこかへ行ってしまいたいという衝動であったと訳者は見る。一体チェーホフの作品におけるほど「どこかへ行ってしまいたい」と呟《つぶや》いたり叫んだりしている人物たちの数多く登場する芸術作品が、ほかにあるだろうか。晩年の四大戯曲からそのような人物を拾い出すことは極《きわ》めて容易であり、その数は両手の指の数を簡単に超《こ》えるだろう。
『いいなずけ』のナージャも然《しか》り、『往診中の出来事』の医師コロリョフもまた然り、ある意味では『犬を連れた奥さん』の中年の恋人二人もそうであるし、『中二階のある家』の語り手の画家もそうである。その「行ってしまいたい」ということの内容は、必ずしも自暴自棄的な逃避ではないし、かといって穏やかな憧《あこが》れというようなものでもない。人物と状況によってその内容はさまざまだが、煎《せん》じ詰めれば、それは「ここではないどこか」という観念に要約される。
言うまでもなく、「ここではないどこか」という観念には、「ここ」を忌避し否定する心が含まれている。チェーホフの場合、「ここ」とはナロードニキの運動が挫折《ざせつ》したあとのロシア社会であって、その様相、なかんずく精神的様相は、サハリンへ出発する以前に書かれた『退屈な話』を読めば、一目|瞭然《りよぅぜん》であろう。挫折した元女優と、その恋人の倦怠《けんたい》しきった大学教授とが、元女優の家で酒を飲みトランプをやりながら果てしない毒舌を楽しみ、その光景に批判的であった主人公の老教授までが毒舌の仲間に引きこまれて行く図は、まことに戦慄《せんりつ》的である。「私はどうすればいいの」というカーチャの叫びは、「ここ」にむかって放たれた鋭い絶望的な矢であり、その矢に当って老教授が精神的に死んだとき、「ここではない」という観念は激しい励起力としてチェーホフに作用したに違いない。
サハリンからの帰りの船旅での見聞にもとづくと思われる『グーセフ』にも、この間のチェーホフの心の動きは、間接的にではあるが明瞭《めいりょう》に語られている。地獄のような三等船客の病室で、ナロードニキ的情熱の最後のこだまのような存在であるパーヴエル・イワーヌイチは、ロシアに帰る日を夢みてこう言う。
「……おれはオデッサからまっすぐハリコフへ行くぞ。ハリコフには友達の文士がいるんだ。そいつの所へ行って、こう言ってやる。おい、兄弟、女の愛だの、自然の美だの、そういう醜悪なテーマは暫《しばら》く放り出して、二足獣の下らなさを暴露しろ……それが本当のテーマだ、ってね……」
一方、主人公のグーセフは、知識人的発想への無言の批判者であり、のちに何人ものすぐれたロシア・ソビエトの作家たちが描くこととなる一連の民衆像(そこには当然あのソルジェニーツィンの『イワン・デニーソヴィチの一日』の農民兵士シューホフも含まれるだろう)の原型であり、そしてまた不条理な人間存在の選びぬかれたサンプルである。イギリスの批評家コリン・ウィルスンが『夢見る力』の中で、サミュエル・ベケットの先駆者としてのチェーホフをとりあげ、この『グーセフ』を例《たと》えば『ゴドーを待ちながら』の先行的作品と評しているのは、恐らく正当な見方であろう。
「二足獣の下らなさ」はサハリン以後の最初の野心作『決闘』に残酷なほどの徹底性をもって描き出されている。カフカスの避寒地で無為の生活を送るラエーフスキーもまた、「ここではないどこか」に憑《つ》かれた人間であるが、この人物には『退屈な話』の元女優に見られるような悲劇性は殆《ほとん》どない。プーシキンやレールモントフ以来のロシア文学の大いなるテーマであった決闘は、ここでは単なるショック療法程度の物理的機能しか持ちあわせず、ラエーフスキーを初めとする各人物は、むしろ科学的な法則に従って、だが恐ろしいような必然性に操《あやつ》られて、落着くべきところに落着くのである。興味深い副人物、例えば臆病《おくびょう》な補祭は、実は磊落《らいらく》で世話好きな軍医サモイレンコの補完的存在であり、このような二人の人物を登場させたことはチェーホフの階級的観点と立体的な物の考え方をよく示している。例えば軍医サモイレンコがあれほどの世話好きでありながら、決闘の現場へ決して行かなかったことを思い出していただきたい。つまりこの軍医は、決闘の現場へ密《ひそ》かに出かけて失禁せんばかりに興奮する補祭と全く同じ種類の人間なのであり、二人はどちらも卑劣な「二足獣」なのである。ラエーフスキーが男のヒステリーを起す場面や、ナジェージダの心理の動きを写したいくつかの秀逸な場面と相俟《あいま》って、チェーホフの筆致は殆ど解剖学的な不気味さに達している。
『決闘』の翌年、チェーホフはあの名作『六号室』を書き、折からの大飢饉《だいききん》の難民救済に活躍し、そして九一年と九四年の二度、イタリアやフランスなど南ヨーロッパを旅した。九四年の『黒衣の僧』は、右に述べたような中期チェーホフの力闘的な世界から、晩年の清朗な世界へ移行しつつあった頃の作品として非常に興味深い。つまりここには力闘的なものと清朗なものとが同居し、プリズムのように角度によってさまざまな色合いの風景が見えてくるという仕掛けになっている。現実的角度から見るなら、これは分裂症患者に関する一種の臨床報告でもあろう。何やらツァラトゥストラを思わせる奇怪な黒衣の僧の幻影はもとより、果樹園経営者の老人やその娘の言動は、一つ一つがいわば症状であり、『決闘』の場合と同じように冷酷な必然性に導かれていることが、科学的正確さをもって明瞭に示される。だが角度を変えてみると、この作品はチェーホフが晩年の直覚的世界(お望みなら詩的世界と呼んでも差支《さしつか》えなかろう)へ踏みこみつつあることの証拠にほかならない。これは生と死に関するチェーホフ的イメージの美しい提示と展開である。伝記的事実を調べれば、たぶん源泉はすぐに知れるのであろうが、チェーホフにとって生あるいは青春あるいは健康とはペソツキー家の果樹園や露に濡《ぬ》れた花々であり、死とはヤルタあたりの蒸し暑い夜と南国風のセレナーデであった。そして観念は黒い竜巻のように遠景から押し寄せてくる……こんなふうに人間存在の諸要素に対応する幾つかの絶対的な形象が選び出され、しかもそれらが必然性に導かれるドラマの中で有機的に生きているということは、すでにして一つの綜合《そうごう》であり、晩年の「調和」概念へと通じる道であった。救われぬ結核患者、死すべき者チェーホフは到る所に死を見たが、死を見ることから創《つく》り出されたものは逆に生き生きとした形象のかずかずであり、直覚という最も人間的な機能の一つに捧《ささ》げられた美しい報告書であった。結局のところ、直覚的な真実こそは芸術家個人にとって最後の依《よ》りどころであり、芸術家を囲む多数者にとっても死と時の流れに損《そこな》われることの最も少ない部分なのであろう。(訳者)