三人姉妹
チェーホフ/佐々木彰訳
目 次
第一幕
第二幕
第三幕
第四幕
解説
年譜
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登場人物
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プローゾロフ=アンドレイ・セルゲーヴィチ
ナターリヤ・イワーノヴナ(ナターシャ)……その婚約者、のちに妻
オーリガ(オーリャ)……アンドレイの姉妹
マーシャ(マリーヤ)……アンドレイの姉妹
イリーナ……アンドレイの姉妹
クルイギン……フョードル・イリイッチ……中学校教師、マーシャの夫
ヴェルシーニン……アレクサンドル・イグナーチエヴィチ……中佐……砲兵隊長
トゥーゼンバッハ……ニコライ・リヴォーヴィチ……男爵、中尉
ソリョーヌイ……ワシーリイ・ワシーリエヴィチ……二等大尉
チェブトゥイキン……イワン・ロマーヌイチ……軍医
フェドーチク……アレクセイ・ペトローヴィチ……少尉
ローデ……ウラヂーミル・カールロヴィチ……少尉
フェラポント……地方自治会の守衛、老人
アンフィーサ……ばあや、八十歳の老婆
県庁のある町でのこと
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第一幕
プローゾロフ家。円柱のある客間、それらの円柱のうしろに大広間が見える。ま昼。戸外は日が当たっていて陽気である。広間では朝食の食卓を準備している。
オーリガが女学校教師の青い制服をきて始終立ったまま、また歩きながら生徒のノートをなおしてやっている。マーシャは、黒い服を着、ひざの上に帽子をのせ、すわって本を読んでいる。イリーナは白い服を着て、考えにふけって立っている。
【オーリガ】 お父さまが亡くなったのはちょうど一年前のきょう、五月五日、あなたの名の日〔自分の洗礼名と同名の聖者の祭日〕なのね、イリーナ。ひどい寒さで、あの日は雪が降っていた。わたしは、不幸にとてもたえられないような気がしたし、あなたは気を失って、死んだように横たわっていた。でもこうして一年たってみると、あのときのことを気楽に思いだせるし、あなたはもう白い服を着て、顔もはればれとしている。〔時計が十二時をうつ〕あの時も時計がうったっけ。〔間〕覚えているわ、お棺《かん》が運ばれて行くとき、軍楽隊がマーチをやったのだの、墓地で弔銃を射ったのを。お父さまは将軍で、旅団長だったのに、会葬者はすくなかった。もっとも、あのときは雨だった。ひどい雨と雪!
【イリーナ】 なんだってそんなことを思いだすの!
円柱のならんでいる向こう、広間のテーブルのあたりにトゥーゼンバッハ男爵、チェブトゥイキン、ソリョーヌイ登場。
【オーリガ】 きょうは暖かくて、窓をあけ放しておけるのに、白樺はまだ芽をふいていない。お父さまが旅団長になり、わたしたちをつれてモスクワを発ったのは十一年も前のことなのに、わたしははっきりと覚えている。五月の初め、ちょうど今ごろのモスクワはもうすっかり花が咲き、ぽかぽかして、日ざしがあふれていた。十一年もたったのに、モスクワのことならなんでも覚えているの、きのう発ってきたみたいに。まあ、どうでしょう! けさ目をさまして、いっぱいにあふれている光を見たら、春のきたのを見たら、うれしさが胸のなかにこみあげてきて、生まれ故郷へ帰りたくてたまらなくなったの。
【チェブトゥイキン】 ばかばかしい!
【トゥーゼンバッハ】 もちろん、くだらんことです。
【マーシャ】 〔本の上で考えこみ、そっと歌を口笛で吹く〕
【オーリガ】 口笛やめて、マーシャ。みっともないわ。〔間〕わたしは毎日学校に行くし、それから夕方まで授業をするもんだから、しょっちゅう頭痛はするし、ものの考え方までがすっかり婆さんじみてしまったみたいだわ。実際、この四年間、学校に勤めだしてから、毎日のようになん滴かずつ、力も若さも身内からぬけていくような気がする。大きく強くなっていくのは空想だけ……
【イリーナ】 モスクワヘ行くという空想ね。家を売って、この土地と手を切って、モスクワヘ……
【オーリガ】 そうよ! 早くモスクワヘ。
チェブトゥイキンとトゥーゼンバッハ笑う。
【イリーナ】 兄さんは、たぶん、教授になるんだから、どっちみちここにはいないでしょうよ。ただ、困るのはマーシャのこと、かわいそうに。
【オーリガ】 マーシャは毎年夏モスクワに来たらいいわ。
【マーシャ】 〔そっと歌を口笛で吹く〕
【イリーナ】 だいじょうぶ、みんなうまくいってよ。〔窓の外を見ながら〕いいお天気ね、きょうは。わたし自分でもわからないわ、どうして気持ちがこんなにはればれしているのか! けさ、きょうはわたしの名の日だということを思いだしたら、急にうれしくなって、まだお母さまの生きてらした子供のころを思いだしたの。そしたら、すばらしい考えがつぎつぎとわいてわたしを興奮させたの、すばらしい考えが!
【オーリガ】 きょうのあなたはいかにもはれやかで、いつになくきれいに見える。マーシャもきれいだわ、アンドレイも美男子のはずだけど、ただひどく太っちゃって、似合わないわね。ところがわたしは老けて、やせてしまった。これはきっと、学校で娘たちに怒るせいよ。きょうはこうしてお休みで家にいるもんだから、頭痛もしないし、きのうより若返ったような気がする。わたしは二十八だけれど、ただ……そりゃ、なにもかもすばらしいし、なにもかも神さまのみ心だけれど、もし自分がお嫁にいっていて、一日じゅう家にいられるんだったら、そのほうがいいだろうなあって気がするの。〔間〕わたしは夫を愛するわ、きっと。
【トゥーゼンバッハ】 〔ソリョーヌイに〕あなたの話はあんまりばかばかしくて、聞きあきましたよ。〔客間に入りながら〕そうそう、申し忘れました。きょうこちらへわれわれの砲兵中隊の新しい指揮官ヴェルシーニンがごあいさつにみえるはずです。〔ピアノのそばにすわる〕
【オーリガ】 まあ、そうですの! 大そううれしいですわ。
【イリーナ】 その方、お年より?
【トゥーゼンバッハ】 いや、大したことはありません。せいぜい四十か四十五でしょう。〔そっとひく〕どうやらりっぱな人物です。おろかものでないことはたしかです。ただおしゃべりですよ。
【イリーナ】 美男子ですの?
【トゥーゼンバッハ】 ええ、かなり。だが、奥さん、そのお母さん、それに娘が二人いますがね。おまけに二度目の奥さんです。訪問する先々で、妻と娘がふたりいると話すんですよ。ここでもきっと言いますよ。奥さんはなんだか気が変で、娘のように長いお下げをしており、高遠なことをならべたて、哲学的な論議をし、ちょいちょい自殺をくわだてるんです。きっと、夫へのいやがらせですね。わたしだったら、とっくの昔にあんな女のところから逃げだしたでしょうに、あの人はじっとがまんして、ただぐちをこぼすだけなんです。
【ソリョーヌイ】 〔チェブトゥイキンといっしょに広間から客間へ入ってきながら〕片手だとわしは一プード半〔二十四・五キロ〕しか持ちあげられないのに、両手だと五プード、いや六プードだって持ちあげられる。そこでわしはこう結論するんです。二人は一人の二倍強いんではなく、三倍、いやそれ以上だと……
【チェブトゥイキン】 〔歩きながら新聞を読む〕脱け毛には……ナフタリン九グラムを〇・三リットルのアルコールに、溶解し、毎日用いる……〔手帳に書きこむ〕書いておこう!〔ソリョーヌイに〕それでさ、いいかね、びんの口にコルクをはめて、それにガラス管を通す……それから普通の、そんじょそこらにあるみょうばんを一つまみ取って……
【イリーナ】 チェブトゥイキンさん、ねえチェブトゥイキンさんてば!
【チェブトゥイキン】 なんですか、お嬢さん、かわいいお嬢さん?
【イリーナ】 ねえ教えてくださらない、なぜわたし、きょうこんなに幸福なのかしら? まるでわたしは帆船に乗りこんでいて、頭の上には広々とした青空があり、大きな白い鳥が飛んで行くみたい。なぜでしょう、ねえ、なぜでしょう?
【チェブトゥイキン】 〔彼女の両手にキスしながら、やさしく〕わたしの白い小鳥さん……
【イリーナ】 きょう目がさめて、起きて顔を洗ったら、わたしにはこの世のすべてのことがはっきりしているように、いかに生くべきかが自分にわかるような気がしてきたの、ねえ、チェブトゥイキンさん、わたしはなんでも知ってるわ。人間は働かなくちゃならない。だれだってひたいに汗して働かなければ。そこにのみ、人生の意義や目的が、人間の幸福、人間の喜びがあるんだわ。夜が明けるか明けないうちに起き出して、街路で石をくだく労働者や、羊飼いや子供たちを教える先生や、鉄道の機関手になったら、どんなにかいいでしょう……ああ、人間じゃなくて牛だって、ただの馬だってかまわないわ、ただ働けさえすれば。お昼の十二時にのこのこ起きだして、それから寝床の中でコーヒーを飲み、それから二時間もかかって着物をきる若い女になるよりは……ああ、ほんとうにぞっとするわ! 暑い日に水を飲みたくなるときがあるように、わたしは働きたくなったの。ですから、もしわたしが早起きもしないし、働きもしなかったら、絶交してくださいね、チェブトゥイキンさん。
【チェブトゥイキン】 〔やさしく〕絶交しますよ、絶交しますよ……
【オーリガ】 父はわたしたちを七時に起きるようにしつけました。今イリーナは七時に目をさまして、それからすくなくとも九時までは寝たまんまでなにか考えているんです。そのまじめくさった顔ったら!〔笑う〕
【イリーナ】 姉さんはわたしをいつまでも子供だと思っているから、わたしがまじめな顔をすると変だと思うんだわ。わたしだって二十歳《はたち》よ!
【トゥーゼンバッハ】 働きたくてならない気持ち、いやほんとうにぼくにはよくわかりますよ! ぼくは生まれてから一度も働いたことがないんです。ぼくはあの寒い、ぐうたらなペテルブルグで勤労も、どんな心配も知らない家庭に生まれました。忘れもしませんが、ぼくが幼年学校から家に帰ってくると、下男が長靴を脱がせてくれるのですが、そのときぼくはわがままをしました。でも母はそのぼくをあがめ奉《たてまつ》ってほかの人たちがぼくに対して別の見方をすると、びっくりしたものでした。みんなはぼくに仕事をさせまいとしました。ただそれがうまくいったかどうか、あやしいもんですがね! 新しい時代がやってきて、われわれみんなの上に、巨大なものがのしかかろうとしています。たくましい、はげしい嵐がもりあがっていて、それはすぐそばまできており、やがてわれわれの社会から怠惰《たいだ》や、無関心や、勤労への軽蔑や、くされきった倦怠《けんたい》だのを一掃するでしょう。ぼくは働きますよ。あと二十五年か六年もたてば、人間はみんな働くようになりますよ。みんな!
【チェブトゥイキン】 わしは働かんぞ。
【トゥーゼンバッハ】 あなたは勘定にはいりません。
【ソリョーヌイ】 二十五年たったらあんたはもうこの世にいないさ、ありがたいことにね、二、三年したら卒中《そっちゅう》でポックリいっちまうか、それともわしがかんしゃくを起こしてあんたの額にズドンと一発タマを打ちこむかだよ、君。〔ポケットから香水びんを出して、胸や腕にふりかける〕
【チェブトゥイキン】 〔笑う〕いや、わしは、ほんとうについぞなんにもしたことがない。大学を出てから、指一本動かしたことがないし、一冊の本だって読んだことがない。読んだのは新聞だけだ……〔ポケットから別の新聞を取り出す〕ほら、ね……新聞で、たとえばドブロリューボフ〔十九世紀なかばのロシアの哲学者、批評家〕って男がいたことは知っているが、その男がなにを書いたのかは知らない、どうぞごかってに、だ……〔階下から床をコツコツいわせる音が聞こえる〕ほら……下でわたしを呼んでいる、だれかきたようだ。すぐきますよ……ちょっとお待ちください……〔ひげをしごきながら、あたふたと退場〕
【イリーナ】 あの人なにか思いついたんだわ。
【トゥーゼンバッハ】 そう。まじめくさった顔をして出て行きましたから、きっと、今あなたにプレゼントを持ってきますよ。
【イリーナ】 まあ、いやだわ!
【オーリガ】 そう、やりきれないわ。あの人、いつもばかなことをするんだもの。
【マーシャ】 「入江のほとり緑なす槲《かしわ》の木あり、黄金の鎖そが上にかかりて……黄金の鎖そが上にかかりて……」〔プーシキンの叙事詩「ルスランとリュドミーラ」の冒頭部分〕〔たちあがって小声で歌う〕
【オーリガ】 あなたはきょう、うかない顔をしてるわ、マーシャ
【マーシャ】 〔歌いながら帽子をかぶる〕
【オーリガ】 どこへ行くの?
【マーシャ】 家へ帰る。
【イリーナ】 変ねえ……
【トゥーゼンバッハ】 名の日なのに帰ってしまうなんて!
【マーシャ】 かまわないの……晩にまたくるわ。さようなら、かわいいイリーナ……〔イリーナにキスする〕もう一度言うわ、元気で、しあわせでね。以前、お父さまが生きてらしたころは、名の日というといつも将校たちが三十人、四十人とやってきて、にぎやかだった。それがきょうは、わずかにひとり半で、まるで砂漠のような静けさ……わたし帰るわ……きょうわたしメランコロジー〔ゆううつ症〕で気がくさくさするの、だからわたしの言うことなんか気にしないでね。〔泣き笑いしながら〕あとで話すとして、今は失礼するわ、イリーナ。どこかへ行ってくる。
【イリーナ】 〔不服そうに〕まあ、ひどいわ……
【オーリガ】 〔涙ぐんで〕わかるわ、あんたの気持ち、マーシャ。
【ソリョーヌイ】 男が哲学《フィロソフィヤ》をならべると、それはフィロソフィスチカ〔勝手に作った単語。詭弁学ぐらいの意〕になって、つまりそこにはソフィスチカがあるが、もしも女が一人で、あるいは二人で哲学をならべるとなると、それはもう……わたしの指をひっぱってね、ということさ。
【マーシャ】 あなたはなにがおっしゃりたいの、あきれた方ね。
【ソリョーヌイ】 なんでもないです。「あっというまもなく、熊は百姓に襲いかかった」〔クロイロフの寓話「百姓と作男」の一節〕さ。〔間〕
【マーシャ】 〔オーリガに、腹だたしげに〕泣かないで!
アンフィーサとパイを持ったフェラポント登場。
【アンフィーサ】 こっちだよ、お前さん、お入り、お前さんの足はきれいだから。〔イリーナに〕地方自治会のミハイール・イワーヌイチ〔イワンの息子の意〕、プロトポーポフさまから、お祝いのお菓子でございます。
【イリーナ】 ありがとう。お礼を申しあげてね。
〔パイを受け取る〕
【フェラポント】 なんでございます?
【イリーナ】 〔声を高くして〕お礼を申しあげて!
【オーリガ】 ばあや、この人にピローグ〔ロシヤの揚げまんじゅう〕をあげて。フェラポント、向こうへ行ってピローグを食べておいで。
【フェラポント】 なんでございます?
【アンフィーサ】 さ、行きましょう、フェラポントじいさん。行きましょう……〔フェラポントを連れて退場〕
【マーシャ】 プロトポーポフってわたしきらいよ、やかんの息子だか、イワンの息子だかしらないけど。あんな人呼ぶことないわ。
【イリーナ】 わたし呼びません。
【マーシャ】 それなら結構。
チェブトゥイキン登場、そのあとから兵隊がサモワールを持ってくる。驚きと不満のがやがやという声。
【オーリガ】 〔両手で顔をおおう〕まあ、サモワール! あきれたわ!〔広間のテーブルのほうに去る〕
【イリーナ】 チェブトゥイキンさん、ほんとうに、なんてことなさるの!
【トゥーゼンバッハ】 〔笑う〕ぼくが言ったでしょう。
【マーシャ】 チェブトゥイキンさん、よくも恥ずかしくないことね!
【チェブトゥイキン】 かわいい、りっぱなお嬢さんがた、あなたがたはわたしの唯一の生きがいだ、あなたがたはわたしにとって、この世でいちばん大事なものです。わたしはもうじき六十だ。わたしは老人だ。一人ぽっちの、つまらない老人です……あなたがたへの愛をのぞいたら、わたしには何のとりえもないし、またもしあなたがたがいなかったら、わたしはもうとっくの昔に、この世にいなかったでしょう……〔イリーナに〕わたしのかわいいお嬢ちゃん、わたしはあなたを、あなたが生まれた日から知っていますよ……抱っこしたものです……わたしは亡くなられたママが好きでした……
【イリーナ】 でも、どうしてこんなに高価なプレゼントを!
【チェブトゥイキン】 〔涙声で、腹だたしげに〕高価なプレゼントですと……よしてください!〔従卒に〕サモワールをあっちへ持って行け……〔口まねをする〕高価なプレゼント……〔従卒、サモワールを広間へ運び去る〕
【アンフィーサ】 〔客間を通りぬけながら〕お嬢さんがた、知らない隊長さんがお見えになりました! もう外套《がいとう》をお脱ぎで、な、お嬢さんがた、こっちへおいでですよ、イリーナお嬢さん、愛想よく、ていねいになさいませ……〔出て行きながら〕もうとうに朝食の時刻なのに、やれやれ……
【トゥーゼンバッハ】 きっとヴェルシーニンですよ。
ヴェルシーニン登場。
【トゥーゼンバッハ】 ヴェルシーニン中佐だ!
【ヴェルシーニン】 〔マーシャとイリーナに〕お目にかかれてしあわせに存じます。ヴェルシーニンです。やっとこちらへ伺えて、実に、実にうれしく思います。ずいぶん大きくおなりですね! これは、これは!
【イリーナ】 どうぞおかけください。わたくしたちもうれしく存じます。
【ヴェルシーニン】 〔うきうきと〕うれしい、実にうれしい! でも、あなたがたはたしか三人姉妹でしたな。覚えていますよ……お嬢さんがお三人。みなさんがたのお顔はもう覚えていませんが、あなたがたのお父さま、プローゾロフ大佐に三人の小っちゃなお嬢さんがいらしたことを、わたしははっきり覚えていますし、この眼で見ております。時のたつのは早いもんですな! いや、実に、時のたつのは早いもんだ!
【トゥーゼンバッハ】 ヴェルシーニン中佐はモスクワから赴任されたのです。
【イリーナ】 モスクワから? あなたはモスクワからいらしたんですの?
【ヴェルシーニン】 ええ、モスクワから。亡くなられたお父さまがあちらで砲兵中隊長をなさっていたころ、わたしは同じ旅団の将校でした。〔マーシャに〕そう、あなたのお顔は見覚えがあるような気がします。
【マーシャ】 でもあたしはあなたを……覚えてませんわ!
【イリーナ】 オーリガ姉さん! オーリガ姉さん!〔広間に向かって叫ぶ〕オーリガ姉さん、いらっしゃいよ!
オーリガが、広間から客間に入ってくる。
【イリーナ】 ヴェルシーニン中佐はモスクワからいらしたんですって。
【ヴェルシーニン】 すると、あなたがいちばん上のオーリガさん……で、あなたがマーシャさん……あなたがイリーナさんですね……いちばん末の……
【オーリガ】 モスクワからいらっしゃいましたの?
【ヴェルシーニン】 ええ。モスクワで勉強し、モスクワで任官し、長年あちらで勤務していましたが、とうとうこちらの隊をあずかることになり……ごらんのとおり、転任してきました。わたしは、実はあなたがたお一人お一人を記憶しているのではなく、ただ、あなたがたが三人姉妹であることだけを記憶しています。お父さまのことはわたしの記憶にはっきり残っていて、こうして目をつむると、生ける者のようにまぶたに浮かんできますよ。モスクワではお宅にちょいちょい伺いました……
【オーリガ】 わたし、みなさんがたを全部覚えているような気でいましたのに、とつぜん……
【ヴェルシーニン】 ヴェルシーニンと申します……
【イリーナ】 ヴェルシーニンさん、あなたがモスクワからいらしたなんて……ほんとに意外ですわ!
【オーリガ】 わたしたち、あちらへ越そうと思ってますの。
【イリーナ】 秋までにはもうあちらへ行ってると思いますの。わたしたちの故郷の町ですわ、わたしたちは向こうで生まれたんです……旧バスマンナャ街……〔両人うれしそうに笑う〕
【マーシャ】 思いがけなく同郷の方にお目にかかれたわ。〔生き生きと〕あ、思い出した! 覚えている、オーリャ〔オーリガの愛称〕、うちでは『恋せる少佐』って言ってたでしょ。あなたは当時中尉で、どなたかに恋をしてらしたわね。それであなたのことをみんなが、なぜだか少佐ってからかってました……
【ヴェルシーニン】 〔笑う〕それ、それです……恋せる少佐、それですよ……
【マーシャ】 あのころあなたは口ひげだけでしたわ……まあ、なんてお老けになったんでしょう!〔涙声で〕なんてお老けになったんでしょう!
【ヴェルシーニン】 そう、恋せる少佐と呼ばれていたころは、わたしもまだ若くて、恋をしていました。今はちがいますよ。
【オーリガ】 でも、まだ白髪《しらが》が一本もありませんもの。老けたといっても、まだお年よりじゃありませんわ。
【ヴェルシーニン】 しかしもう数えで四十三ですよ。あなたがたはだいぶ以前にモスクワから当地へ?
【イリーナ】 十一年になります。あら、どうしたのマーシャ、泣いたりなんかして、おかしな人……〔涙声で〕わたしまで泣きたくなるわ……
【マーシャ】 なんでもないの。で、なに街にお住まいでしたの?
【ヴェルシーニン】 旧バスマンナヤ街です。
【オーリガ】 わたしたちもそうでした……
【ヴェルシーニン】 ドイツ人街にもいたことがありますよ。ドイツ人街から赤兵営〔モスクワにあった兵営の名〕へ通ったものです。その途中に陰気な橋がありましてね、橋の下では水がザアザアいっているんです。孤独な者には心がわびしくなるところでした。〔間〕ところがここには、なんと広々とした、なんと豊かな川があることでしょう! すばらしい川です!
【オーリガ】 ええ、でもただ寒いんですの。ここは寒くて、おまけに蚊がいるし……
【ヴェルシーニン】 なにをおっしゃる! ここは実に健康な、快適な、スラヴ的な気候ですよ。森、川、それからここには白樺もある。愛らしい、つつましやかな白樺、わたしはどんな木よりも好きですね。住むにはいいところです。ただ不思議なのは、鉄道の駅が二十キロも離れていることですね……そしてなぜそうなっているのか、だれも知らないんです。
【ソリョーヌイ】 そのわけなら、わしが知っている。〔一同彼を眺める〕なぜならばですな、もしも駅が近ければ遠くないはずだし、もしも駅が遠ければ、つまり、近くないってわけです。
気まずい沈黙。
【トゥーゼンバッハ】 笑わせるね、ソリョーヌイ君。
【オーリガ】 わたしも今あなたのことを思い出しましたわ。おほえています。
【ヴェルシーニン】 わたしはあなたがたのお母さまを存じあげていました。
【チェブトゥイキン】 ごりっぱな方でした。天国に安らいたまえ。
【イリーナ】 ママはモスクワに葬られていますの。
【オーリガ】 ノヴォ・デーヴィチイ修道院の墓地に……
【マーシャ】 どうしたことでしょう。わたしはもう母の顔を忘れかけていますの。そのようにわたしたちのことだって、いつまでも覚えていてくれないでしょうよ。忘れられてしまうわ。
【ヴェルシーニン】 そう。忘れられてしまうでしょうな。それがわれわれの運命というもので、どうにもいたし方ありません。今われわれにとって重大であり、意義ぶかくひじょうに大事だと思われていることが、……時がくれば、……忘れられてしまうか、あるいはつまらないことと思われるでしょう。〔間〕そこでおもしろいのは、今のわれわれには、将来そもそもなにが高尚で重要なものとみなされ、なにがみじめな、こっけいなものとみなされるか、まったく知ることができないということです。あのコペルニクスの発見だの、あるいはたとえば、コロンブスの発見だのが最初は無用でこっけいなものと思われなかったでしょうか? 一方、どこかの変わり者によって書かれたくだらないたわごとが、真理と思われなかったでしょうか? われわれの現在の生活にしたって、……まあ、われわれはそれと調子をあわせてやっているわけですが、……時がたつにつれて奇妙で不便でおろかで、あまりきれいでない、いや、それどころか、もしかしたら罪ぶかいものにさえ、思われるかもしれません……
【トゥーゼンバッハ】 さあ、そりゃわかりませんねえ。が、ひょっとすると、現在のわれわれの生活を高尚だと言って敬意をもって思いだしてくれるかもしれませんよ。今日では拷問《ごうもん》もなければ、死刑も、侵略もないけれども、その反面どんなに多くの悩みがあることでしょう!
【ソリョーヌイ】 〔かん高い声で〕トー、トー、トー〔ニワトリを呼ぶときの声〕……男爵は哲学するのが三度の飯よりも好きだってさ。
【トゥーゼンバッハ】 ソリョーヌイ君、お願いだからぼくにはかまわないでくれたまえ……〔座を移す〕いいかげん、うんざりするよ。
【ソリョーヌイ】 〔かん高い声で〕トー、トー、トー……
【トゥーゼンバッハ】 〔ヴェルシーニンに〕今日見られるいろいろな悩みは……それはじつに多いです!……それにもかかわらず社会がすでに一定の道徳的高みに到達したことを物語っています……
【ヴェルシーニン】 そう、もちろん。
【チェブトゥイキン】 男爵、あなたは今しがた、人びとは将来われわれの生活を高尚とよんでくれるだろう、とおっしゃいましたね、しかし人間はいつになっても低いですよ……〔立ち上がる〕ごらんなさい、このわたしの低いこと。たんなる気休めに、自分の生活は高尚だ、などと言わなければならないんですよ、知れたことさ。
舞台うらでバイオリンの音。
【マーシャ】 あれは兄のアンドレイが弾いてますの。
【イリーナ】 兄はうちでは学者です。きっと教授になるでしょうよ。パパは軍人でしたけれど、息子のほうは学者を職業にえらびましたの。
【マーシャ】 パパの希望ですわ。
【オーリガ】 わたしたちはきょうアンドレイをからかってやりました。あれは、どうやら、少し恋をしている様子ですの。
【イリーナ】 この土地のあるお嬢さんに。きょうその人、おそらく家へきますわ。
【マーシャ】 いやだわ、あの人の衣装の好みったら! みっともないとか、流行おくれとかいうんじゃなく、ただもう気の毒なの。こんなふうな下卑た房飾りのついた、なんだか変な、はでな、黄色っぽいスカートに、赤い上衣を着こんじゃって。それにほっぺたをてかてかに磨きたてちゃって! アンドレイは恋なんかしていない……わたしはそうは思わない、なんたってアンドレイには好みがありますもの。ただわたしたちをからかっているんだわ、かついでいるのよ。わたしはきのう聞いたわ、あの人はここの市会議長のプロトポーポフのとこへお嫁にいくんですって。それでけっこうよ……〔横手のドアに向かって〕アンドレイ、ちょっといらっしゃい!
アンドレイ登場。
【オーリガ】 これが弟のアンドレイですの。
【ヴェルシーニン】 ヴェルシーニンです。
【アンドレイ】 プローゾロフです。〔汗をかいた顔をふく〕砲兵隊長としてこちらへ赴任なさったのですか?
【オーリガ】 それがどうでしょう、ヴェルシーニンさんはモスクワからいらしたのよ。
【アンドレイ】 そう? それはおめでとう、今度はうちの姉や妹たちがあなたを悩ませますよ。
【ヴェルシーニン】 わたしのほうが早くも、みなさんがたをうんざりさせたところですよ。
【イリーナ】 ごらんなさい、まあなんという肖像用の額ぶちを、兄さんがきょうわたしにお祝いにくれたことでしょう!〔額ぶちを見せる〕これ、兄のお手製ですの。
【ヴェルシーニン】 〔額ぶちを見て、なんと言っていいやら、わからずに〕ええ……なかなか……
【イリーナ】 それから、ほら、ピアノの上にある額ぶちも、やっぱり兄がつくりましたの。
アンドレイ、片手をふって行こうとする。
【オーリガ】 この人はうちでは学者でもあれば、ピアノもひき、いろんな細工もする、要するになんでもできますの。アンドレイ、行かないで! この人の癖で……いつでも行ってしまいますの。こっちへいらっしゃい!
マーシャとイリーナ、彼の両わきをかかえて連れもどす。
【マーシャ】 いらっしゃいってば!
【アンドレイ】 ほっといてもらいたいな。
【マーシャ】 おかしな人! ヴェルシーニンさんは昔、恋せる少佐って呼ばれたけれども、すこしも怒らなかったわ。
【ヴェルシーニン】 すこしも!
【マーシャ】 わたしアンドレイのことを、恋せるバイオリニストって呼びたいわ!
【イリーナ】 それとも、恋せる教授!
【オーリガ】 この人は恋をしていまあす! アンドリューシャが恋をしていまあす!
【イリーナ】 〔手をうって〕ブラヴォー、ブラヴォー! アンコール! アンドリューシャが恋をしていまあす!
【チェブトゥイキン】 〔後ろからアンドレイに近より両手を彼の胴にかけて〕ただ恋のためにのみ、自然はわれらをこの世に生みだしぬ!〔声をたてて笑う。彼は始終新聞を持っている〕
【アンドレイ】 いや、もうたくさん、たくさんですよ……〔顔をふく〕ぼくは一晩じゅう眠らなかったので、今はいささか、いわゆる気分がすぐれないんです。四時まで本を読んで、それから横になったんですが、ちっとも眠れませんでした。あれこれと考えているうちに、夜の明けるのが早いもんだから、日がずんずん寝室にさしこんでくる。この夏、ここにいる間に、英語の本を一冊訳したいと思いましてね。
【ヴェルシーニン】 英語がおできになるんですか?
【アンドレイ】 ええ、父が……天国に安らいたまえ……われわれを教育でギュウギュウいわせたものですから。こっけいで、ばかげたことですが、実は白状しますと、父の死後ほくは太りだして、一年でこんなデブになってしまいました。まるでぼくの身体が重荷から解放されたみたいに。父のおかげで、われわれきょうだいはフランス語、ドイツ語、英語を知っていますし、イリーナはそのほかにイタリヤ語まで知っています。しかしそのための苦労は大変なものでした。
【マーシャ】 この町では三か国語を知ってるなんて必要のないぜいたくだわ。いいえ、ぜいたくどころか、六本目の指のような、無用の長物《ちょうぶつ》なのよ。わたしたちはよけいなことを知りすぎてるの。
【ヴェルシーニン】 おやおや!〔笑う〕よけいなことを知りすぎている、とね! わたしの考えでは、賢い、教養のある人間を必要としないような、そんなたいくつで沈滞した町なんてどこにもないし、あり得ませんね。まあかりに、この町の十万の人の中で……もちろん、それは時代おくれの、無教育な連中ばかりですが……その中で、あながたのような人はたった三人だとします。むろん、あなたがたは周囲の無知蒙昧《むちもうまい》な大衆に打ち勝つことなどできやしない。一生のうちには、だんだんとあなたがたは譲歩しなければならなくなり、やがて十万の群衆の中にまぎれこんでしまい、実生活があなたがたの声をかき消してしまうでしょう。それでもやっぱり、あなたがたはむなしく消えてしまうのではないし、影響を残さずに終わりやしない。あなたがたのような人が、あなたがたのあとに、今度は六人出てくるかもしれませんし、それから十二人、それからまた……というふうにふえていって、ついには、あなたがたのような人たちが、大多数となるかもしれません。二百年、三百年後の地上の生活は想像もできないほどすばらしい、驚くべきものとなるでしょう。人間に必要なのはそのような生活なんで、今のところそれがないにしても、人間はそれを予感し、期待し、空想し、その準備をしなければなりません。人間はそのために、祖父や父が見たり知ったりしていたよりも、もっと多くのことを見たり知ったりしなければならない。〔笑う〕だのにあなたは、よけいなことを知りすぎているなどと不平を言われる。
【マーシャ】 〔帽子をぬぐ〕わたし食事をしていくわ。
【イリーナ】 〔ため息をついて〕ほんとうに、これはみんな書きとめておかなくちゃ……
アンドレイはいない。気づかぬうちに退場したのである。
【トゥーゼンバッハ】 なん百年かのちには、地上の生活はすばらしい、驚くべきものになる、とおっしゃいましたね。まったくそのとおりです。しかし、その生活に今、遠くからなりと参加するためには、それに対して用意をしなければなりません、働かなければなりません……
【ヴェルシーニン】 〔立ちあがる〕そうです。それにしてもお宅にはずいぶんたくさん花がありますね!〔見まわしながら〕お住居《すまい》もすてきだし、うらやましいことで! わたしなんぞは一生、椅子が二つに、長椅子が一つ、それにいぶってばかりいるストーブつきの官舎を、つぎつぎと渡り歩いてきました。わたしの生活にはちょうど、ほら、ああいった花が足りなかったのです……〔手をすりあわせる〕ええい! 今さら言ったところで始まらない!
【トゥーゼンバッハ】 そう、働かなければなりません。あなたは、たぶん、ドイツ人めが感激にひたってるわい、とお思いでしょう。しかしぼくは、うそじゃありません、ロシヤ人ですし、ドイツ語は話せもしません。父は正教徒ですし……〔間〕
【ヴェルシーニン】 〔舞台を歩きまわる〕わたしはよくこんなことを考えます。もし人生を新たに初めから、しかも意識的にやり直すことができたら? もしもすでに費やしてしまった人生が一つの、いわば下書《したがき》用の人生であり、今ひとつの清書用の人生があるならば! そうだったらわれわれはだれでもが、思うに、なによりもまず自分自身をもう一度くり返すまいと努力することでしょう、すくなくとも、自分のために別の生活環境を作り出すでしょう、こんなふうに花のいっぱいある、日あたりのよい住居をととのえるでしょう……わたしには妻と、娘が二人いますが、その妻が病身だとか、その他いろいろなことで、もし人生をもう一度やり直せるんだったら、わたしは結婚しないでしょう……けっして!
クルイギン、制服の燕尾服を着て登場。
【クルイギン】 〔イリーナのそばに寄って〕親愛なる妹よ、つつしんでお前の名の日をお祝いするとともに、誠心誠意、心から、健康ならびに、お前の年ごろの娘に望み得るいっさいを、お祈りします。それから記念に、ほらこの本をプレゼントとして贈呈しよう。〔本を渡す〕うちの中学の五十年史で、わたしの書いたものさ。つまらん本で、退屈しのぎに書いたんだが、とにかく読んでみておくれ。今日《こんにち》は、みなさん!〔ヴェルシーニンに〕クルイギン、当地の中学の教師です。文官七等でして。〔イリーナに〕その本には、五十年間にうちの中学を出た卒業生全員の名簿がのっているよ。Feci, quod potui, faciant meliora potentes 〔ラテン語。できるだけのことをした。もっとよくできるという者はやってみるがいい〕〔マーシャにキスをする〕
【イリーナ】 でも、復活祭のときもこんな本をわたしにくださったわ。
【クルイギン】 〔笑う〕まさか! もしそうなら返しておくれ、いや、いっそのこと大佐にさし上げなさい。どうぞ、大佐。退屈なときに、いつかお読みください。
【ヴェルシーニン】 ありがとう。〔帰ろうとする〕お近づきになれて、大へんうれしく存じますが……
【オーリガ】 お帰りですの? いいえ、いけませんわ!
【イリーナ】 お食事をしていらして。どうぞ。
【オーリガ】 お願いしますわ!
【ヴェルシーニン】 〔おじぎをして〕わたしはどうやら名の日に来あわしたようですね。失礼しました。存じませんで、お祝い申しあげず……〔オーリガといっしょに広間へ去る〕
【クルイギン】 きょうは、みなさん、日曜日、つまり安息日《あんそくび》です。休息しましょう。年令と身分に応じてめいめい楽しくすごしましょう。じゅうたんは夏のうちは片づけて、冬までしまっておかなくちゃ。虫よけ粉かナフタリンをまいて……ローマ人が健康だったのは、よく働き、よく休んだからです。つまり彼等は、mens sana in corpore sano 〔ラテン語。健康な精神は健康な肉体に宿る、の意〕だったわけです。彼らの生活は一定の形式に従って進行しました。うちの校長はつねづね言って言っています。どんな生活のなかでも大切なのは……その形式である……形を失うものは、すなわち滅びる……われわれの日常生活においても同じことです。〔マーシャの腰に手をかけ笑いながら〕マーシャはわたしを愛している。わたしの妻はわたしを愛している。窓のカーテンもじゅうたんといっしょにしまわなきゃ……きょうわたしは楽しい、絶好の気分です。マーシャ、きょうわたしたちは四時に校長のところへ行くんだよ。教員と家族のピクニックが催されることになっている。
【マーシャ】 行かないわ、わたし。
【クルイギン】 〔しょげて〕かわいいマーシャ、どうしてだね?
【マーシャ】 その話はあとで……〔ぷりぷりして〕いいわ、行く。でもお願いだから、そこどいて……〔わきへ離れる〕
【クルイギン】 それから夜は校長の家ですごすんだよ。あの人は病身なのに、まず第一に社会的たらんと努める人だ。すぐれた人物だ。すばらしい人物だ。きのうも会議のあとで、わたしにこう言うんだよ、「疲れたよ、クルイギン君! 実に疲れた!」〔壁の時計を見、それから自分の時計を見る〕ここの時計は七分すすんでいる。そう、「疲れた!」というのさ。
舞台うらでバイオリンの音。
【オーリガ】 どうぞ、みなさん、お食事にいたしましょう! ピローグですの!
【クルイギン】 ああ、わたしのかわいいオーリガ、親身のひと! きのうわたしは朝から夜の十一時まで働いてへとへとだったもんだから、きょうはじつに幸福な気持ちだ。〔広間のテーブルのほうへ行く〕親身のひと……
【チェブトゥイキン】 〔新聞をポケットに入れ、ひげをしごきながら〕ピローグだって? そいつはすてきだ!
【マーシャ】 〔チェブトゥイキンに、きびしく〕ただ気をつけてね。きょうはなにも飲まないこと。わかって? 飲むのはあなたに毒なの。
【チェブトゥイキン】 え! わたしはもう直ったよ。この二年間、発作性大酒症は起きなかったんだから。〔いらだたしげに〕なに、お嬢さん、どっちにしたって大したことはありませんよ!。
【マーシャ】 それでも飲んじゃいけません。いけませんよ。〔腹だたしげに、しかし夫に聞こえないように〕また一晩じゅう、校長のところで退屈するのか、ああいやだ、いやだ!
【トゥーゼンバッハ】 ぼくがあなただったら行きませんね……しごく簡単です。
【チェブトゥイキン】 行くのはおやめなさい、マーシャさん。
【マーシャ】 行くのはおやめなさい、か……こんな生活なんて、いまいましい、やりきれないわ……〔広間へ行く〕
【チェブトゥイキン】 〔彼女のあとを追う〕さあて!
【ソリョーヌイ】 〔広間への通りすがりに〕トー、トー、トー……
【トゥーゼンバッハ】 もうたくさんだよ、ソリョーヌイ君。もういいったら……。
【ソリョーヌイ】 トー、トー、トー……
【クルイギン】 〔陽気に〕あなたのご健康を祝して、大佐! わたしは教師ですが、この家ではうちわのものです、マーシャの夫ですから……あれは気だてのやさしい、まことにやさしい女で……
【ヴェルシーニン】 わたしはほら、こっちの黒いほうのウォッカをいただきましょう……〔飲む〕ご健康を祝して!〔オーリガに〕お宅は実に楽しいです!
客間にはイリーナとトゥーゼンバッハだけが残る。
【イリーナ】 マーシャはきょう、きげんが悪いの。姉さんがお嫁にいったころは、あのクルイギンがこの上なく頭のいい人に思われたの。でも今はちがうわ。気だてはこの上なくいい人なんだけど、この上なく頭のいい人ってわけにはいかないもの。
【オーリガ】 〔じれったそうに〕アンドレイ、いらっしゃいな、いいかげんに!
【アンドレイ】 〔舞台うらで〕はぁーい。〔登場、テーブルのほうへ行く〕
【トゥーゼンバッハ】 なにを考えています?
【イリーナ】 ベつに。わたし、あのソリョーヌイさんを好かないし、怖いの。あの人、ばかなことばかり言って……
【トゥーゼンバッハ】 おかしな男ですよ。かわいそうでもあるし、しゃくにさわりもする。まあ、どっちかといえばかわいそうですね。あいつは内気なんだと思いますよ……ぼくと二人きりでいるときは、頭のいいことも言うし、愛想《あいそ》もいいんですが、人中へ出ると、とたんにがさつな暴れ者になってしまうんです。行かないでください、みんなテーブルにつくまで待ちましょう。も少しあなたのそばにいさしてください。なにを考えているんです?〔間〕あなたは二十《はたち》だし、ぼくはまだ三十前です。われわれの前途にはどれだけの歳月が残っていることでしょう? 長い長い多くの日々が、あなたに対するぼくの愛にみちて……
【イリーナ】 トゥーゼンバッハさん、わたしに愛の話なんかなさらないで。
【トゥーゼンバッハ】 〔耳をかさず〕ぼくは生活や、闘争や、勤労を燃えるように渇望していて、この渇望が心の中であなたへの愛と一つに融けあっているのですよ、イリーナさん、そして、わざとのようにあなたはすばらしい、だからぼくには人生がじつにすばらしいものに見えるんです! なにを考えているんです?
【イリーナ】 あなたは、人生をすばらしい、とおっしゃる。でも、もしもただそう見えるだけだったら! たとえばわたしたち三人姉妹の人生は、まだすばらしかったことなどありません。それは雑草のようにわたしたちの上におおいかぶさりました……涙が流れてくるわ。いけない、……〔すばやく顔をふき、微笑して〕働かなくちゃならないわ、働かなくちゃ、わたしたちが心楽しまず、人生を暗く眺めているのは、わたしたちが勤労を知らないからだわ。わたしたちは勤労をさげすんでいた人たちから生まれたんですもの……
ナターシャ登場。バラ色のワンピースに緑色のバンド。
【ナターシャ】 あちらじゃ、もうテーブルにつくところだわ……おそくなっちゃった……〔ちらっと鏡をのぞいて、身づくろいをなおす〕髪はまあまあだと……〔イリーナに気がついて〕イリーナさん、おめでとう!〔強烈に、長くキスする〕お客さまがおおぜいで、わたし、ほんとうに、恥ずかしいわ……こんにちは、男爵!
【オーリガ】 〔客間に入りながら〕まあ、ナターシャさん。よくいらっしゃいました!〔キスしあう〕
【ナターシャ】 おめでとうございます。あんまりおおぜいいらっしゃるんで、わたしほんとうに困っちゃったわ……
【オーリガ】 なによ、みんなうちわの人じゃない。〔小声で、あきれたように〕緑色のバンドをしているのね! あなた、それはよくないわ!
【ナターシャ】 縁起《えんぎ》が悪くって?
【オーリガ】 いいえ、ただにあわないの……それになんだかおかしいわ……
【ナターシャ】 〔泣き声で〕そうお? でも、これ緑じゃなくって、どっちかというと、くすんだ色なのよ。〔オーリガについて広間へ行く〕
広間では一同テーブルにつく。客間には人ひとりいない。
【クルイギン】 ねえイリーナ、お前にいいおムコさんが見つかるように。もうお嫁にいっていい時分だ。
【チェブトゥイキン】 ナターシャさん、あなたにもいいおムコさんがさずかりますよう。
【クルイギン】 ナターシャさんにはもうちゃんとおムコさんがいますよ。
【マーシャ】 〔フォークで皿をたたく〕ブドウ酒を一杯いただくわ! おお苦しい、痛ましい人生よ、よし、やってみよう、なるようになれだわ!
【クルイギン】 お前の操行はマイナス三だよ。
【ヴェルシーニン】 おいしい果実酒《ナリーフカ》ですね。なにをつけたんですか?
【ソリョーヌイ】 油虫ですよ。
【イリーナ】 〔泣き声で〕まあ、ひどいわ! なんていやなことを!……
【オーリガ】 夜食には七面鳥の丸焼きとアップル・パイが出ます。ありがたいことに、わたしきょうは一日じゅう家にいられますの、晩も、家に……みなさん、晩にまたいらしてください……
【ヴェルシーニン】 わたしも晩にうかがわせてください!
【イリーナ】 どうぞ。
【ナターシャ】 こちらはきさくですもの。
【チェブトゥイキン】 ただ恋のためにのみ、自然はわれらをこの世に生めり。〔笑う〕
【アンドレイ】 〔腹だたしげに〕やめてください、みなさん。よくもうんざりしませんね?
フェドーチクとローデ、大きな花かごをもって登場。
【フェドーチク】 だがもう食事をしてるぜ。
【ローデ】 〔大声で、舌たらずに〕食事をしてるって? そうだ、もう食事をしている……
【フェドーチク】 ちょっと待って!〔写真をとる〕一つ! もうちょっと待ってくれたまえ……〔もう一枚写真をとる〕二つ! これでよしと!〔二人はかごを持ちあげて広間へ行く。一同にぎやかに二人を迎える〕
【ローデ】 〔大声で〕おめでとう。ご幸福を祈ります! きょうは実にすばらしいお天気で、まったくすてきでした。きょうは午前ちゅうずっと、中学生たちをつれて散歩しました。わたしは中学で体操を教えています……
【フェドーチク】 動いてかまいませんよ、イリーナさん、かまいません。〔写真をとりながら〕あなたはきょうお美しい。〔ポケットからコマを取り出す〕ときに、ほら、コマがありますよ……すごい音をたてます……
【イリーナ】 まあすてき!
【マーシャ】 「入江のほとり緑なす槲《かしわ》の木あり、黄金の鎖そが上にかかりて……黄金の鎖そが上にかかりて……」〔涙もろく〕まあ、なんだってこんなことを言ってるのかしら? 朝からこの文句がこびりついて離れないの……
【クルイギン】 十三人のテーブルだ!
【ローデ】 〔大声で〕みなさん、あなたがたは迷信を気になさるんですか?〔笑声〕
【クルイギン】 もしも十三人がテーブルについていると、つまり、恋仲の一対がいるってわけなんだよ。ひょっとすると、あなたじゃありませんか、チェブトゥイキンさん、あやしいですぞ……〔笑声〕
【チェブトゥイキン】 わたしなんかは老いぼれの罰あたりだが、ほら、ナターシャさんがなぜ顔を赤くされたのか、わたしにはとんとわかりませんな。
爆笑。ナターシャが広間から客間へ走り出す。アンドレイ、そのあとを追う。
【アンドレイ】 もういいですよ、気にしないでください! ちょっと待って……待ってください、お願いです……
【ナターシャ】 わたし恥ずかしいわ、わたし自分がどうなっているのかわからないのに、みんなでわたしを笑いものにするんですもの。今テーブルを離れて出てきたのは、そりゃ無作法ですけれど、でもわたしにはできないの……できないの……〔両手で顔をおおう〕
【アンドレイ】 ぼくの大事なナターシャさん、お願いですからどうか興奮しないでください、うそじゃありません、みんなはふざけているんですよ、みんなやさしい気持ちからしてることなんです。大事な、かわいいナターシャさん、あの人たちはみんな気だてのやさしい、情愛の深い人たちで、ぼくやあなたを愛してくれてるんですよ。さ、こっちの窓のほうへいらっしゃい、ここならあの人たちに見えないから……〔あたりを見まわす〕
【ナターシャ】 わたし、人なかへ出つけないもんだから!……
【アンドレイ】 おお青春、妙なる、美しい青春! ぼくの大事な、ぼくのかわいいナターシャさん、そう興奮しないでください!……ぼくを信じてください、信じて……ぼくはすばらしい気持ちです、胸は愛と喜びでいっぱいです……だいじょうぶ、だれもわれわれを見ていませんよ! 見てやしません! いったいなぜ、なぜあなたが好きになったのか、いつ好きになったのか……ああ、ぼくにはなにもわからない。ぼくの大事な、かわいい、清らかなナターシャさん、ぼくの妻になってください! ぼくはあなたを愛しています、愛しています……これまで一度だってこんなに……〔キス〕
二人の将校登場。キスしている両人を見てびっくりして立ちどまる。〔幕〕
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第二幕
舞台装置は第一幕に同じ。
夜の八時。舞台うらで、街でひいているアコーデオンの音がかすかに聞こえる。あかりはついていない。部屋着姿のナターシャ、ろうそくを持って登場。歩いてきてアンドレイの部屋に通じるドアの前でたちどまる。
【ナターシャ】 あなた、アンドリューシャ、なにしてるの? ご本を読んでいるの? なんでもないの、ただちょっと……〔歩いて行ってもう一つのドアをあけ、中をのぞいてしめる〕あかりがついてないかしら……
【アンドレイ】 〔本を手にして登場〕どうしたんだね、ナターシャ?
【ナターシャ】 あかりがついてないか見てまわっているの……いま謝肉祭の最中で、召使いが上《うわ》の空なもんだから、万一のことがないように、よくよく用心しなくっちゃ。きのうま夜中に食堂を通ったら、ろうそくがついてるじゃない。だれがつけたのか、結局わからないの。〔ろうそくをおく〕今なん時?
【アンドレイ】 〔時計を見て〕八時十五分。
【ナターシャ】 オーリガとイリーナはまだよ。帰ってこないの。かわいそうに働きづめなんだわ。オーリガは教員会議、イリーナは電信局……〔ため息をつく〕けさあんたの妹さんに言ってやったの。「身体を大事にしなさいよ、イリーナ」って。聞こうともしないの。八時十五分ですって? わたし心配だわ、うちのボービクがいつもよくないの。なんだってあんなに冷たいんでしょう? きのうは熱があると思ったら、きょうはすっかり冷たいの……とても心配だわ!
【アンドレイ】 だいじょうぶだよ、ナターシャ。坊やは健康だよ。
【ナターシャ】 でもやっぱり、食餌療法をやったほうがいいわ。心配ですもの。今晩九時すぎに仮装舞踏《かそうぶとう》の連中が家へやってくるって言ってたけど、来てもらわないほうがいいんじゃない、アンドリューシャ。
【アンドレイ】 ほんとうに、ぼくは知らないよ。でも、こっちで呼んだんだろう。
【ナターシャ】 けさ、坊やが目をさましてわたしを見てると思ったら、急にニッコリ笑ったわ。つまり、わたしだってことがわかったのよ。「ボービク、おはよう! おはよう、坊や!」と言ったら笑ってるのよ。子供ってわかるんだわ、ようくわかるんだわ。じゃ、いいのね、わたし言っとくわよ、アンドリューシャ、仮装舞踏の連中を家へ入れないようにって。
【アンドレイ】 〔にえきらぬ調子で〕でも、それは姉さんたちしだいだよ。ここの主婦なんだから。
【ナターシャ】 あの人たちだって賛成よ。わたしが言っとくわ。みなさんいい人だもの……〔行く〕夜食にはヨーグルトを出すように言いつけておいたわ。先生がおっしゃるの、ヨーグルトしか食べちゃいけない、でないとやせませんって。〔立ちどまる〕ボービクが冷たいの。きっと、あの部屋が寒いせいじゃないかしら。せめて陽気が温かくなるまででもいいから、ほかの部屋に入れなくちゃ。たとえばイリーナの部屋なんか、赤ん坊にはもってこいだわ。乾燥していて、一日じゅう日があたるんだもの。当分オーリガと一つ部屋でがまんしてくれるように、イリーナに言わなくっちゃ、昼間は留守で、夜寝るだけなんだから同じことだわ……〔間〕アンドリューシャ、なぜ黙ってるの?
【アンドレイ】 ちょっと、考えごとをしていたんだ……それに話すこともないし……
【ナターシャ】 そう、わたし、あなたになにか話があったんだわ……あ、そうだ。地方自治会からフェラポントがお使いに来ていて、あんたにお目にかかりたいって。
【アンドレイ】 〔あくびをする〕呼んでくれ。
ナターシャ退場。アンドレイ、ナターシャの忘れていったろうそくのほうに上体をかがめて本を読む。フェラポント登場。古いぼろぼろの外套を着てえりを立てている。耳は布でくるんでいる。
【アンドレイ】 やあ、ご苦労。なんの用だね?
【フェラポント】 議長さんが帳簿となにやら書類をよこされました。はい……〔帳簿と公用封書を渡す〕
【アンドレイ】 ありがとう。よし。なんだってまたこんな時刻にやってきたんだね? もう八時すぎじゃないか?
【フェラポント】 なんでございますか?
【アンドレイ】 〔声を高めて〕来かたがおそい、もう八時すぎだ、と言ってるんだよ。
【フェラポント】 そのとおりで。ここへ来たときは、まだ明るかったんですが、ずっと通してもらえませんでした。旦那さまはお仕事中だ、とのことで。なに、かまやしません。お仕事中なら、お仕事中でけっこう、こっちは別にいそぐこたあねえ。〔アンドレイになにか聞かれたと思って〕なんでございます?
【アンドレイ】 なんでもない。〔帳簿に目をとおす〕明日の金曜は、役所は休みだそうだが、ぼくはやっぱり行って……仕事をしよう、家にいるのは退屈だ……〔間〕なあじいさん、人生ってやつは、なんとまあ奇妙に変わり、人をあざむくものなんだろうなあ! きょうぼくは退屈まぎれに、所在なさに、ほら、この本を、古い大学の講義をひっぱり出して見たんだ……すると、ぼくはおかしくなってきたよ……なんとぼくは地方自治会の書記なんだ、プロトポーポフが議長をしているお役所のね。ぼくは書記で、ぼくの望みうる最大のもの、それは……地方自治会の議員になることなのさ! ぼくが地方自治会の議員になるなんて! モスクワ大学の教授、ロシヤの誇りとする有名な学者を、毎晩のように夢見ているぼくがだ!
【フェラポント】 わかりません……耳が遠いもんで……
【アンドレイ】 お前の耳が満足に聞こえるんだったら、なにもお前を相手に話なんかしないだろうさ。ぼくには話し相手が要るんだが、妻はぼくの話が理解できないし、姉さんや妹はなぜだかにがてなんだ。ぼくをひどく笑って、うろたえさせるんじゃないかと思って……ぼくは飲まないし、酒場も好きじゃないが、しかし今モスクワのテストフだの、大モスクワだのという店にいるんだとしたら、どんなにいい気分だろうなあ、じいさん。
【フェラポント】 なんでもモスクワじゃ、さっき役所で請負師《うけおいし》が話してましたが、どこかの商人たちがブリン〔謝肉祭の主要食のパンケーキ〕の食べっくらをしたってことで。ブリンを四十枚たいらげた男は、おっ死《ち》んだとか。いや、四十枚でもないし、五十枚でもないし、よくおほえておりません。
【アンドレイ】 モスクワで、レストランのだだっぴろいホールにすわっていると、こっちもだれも知らないし、向こうもだれ一人こっちを知らない。それでいて、自分がよそ者のような気がしないんだ、ところがここだと、自分がみんなを知っており、みんなが自分を知っているのに、自分は他人、他人なんだ……よそ者でひとりぼっちなんだ。
【フェラポント】 なんでございます?〔間〕その請負師の話だと……うそかもしれないけれど……モスクワじゅうを横切って、太い綱が一本張ってあるとかで。
【アンドレイ】 なんのためだね?
【フェラポント】 わかりません。請負師の話なんで。
【アンドレイ】 ばかばかしい。〔本を読む〕お前、モスクワヘ行ったことがあるかい?
【フェラポント】 〔しばらくしてから〕ありません。神さまのおぼしめしで。〔間〕行ってもいいですか?
【アンドレイ】 行っていいよ。達者でな。〔フェラポント退場〕達者でな。〔読みながら〕あすの朝きて、この書類を持ってってくれ……行っていいよ……〔間〕行ってしまったな。〔ベルの音〕さあ、ことだぞ……〔のびをしてゆっくり自分の部屋へ退場〕
舞台うらでゆりかごの赤子を寝かしつけながら子守が歌っている。マーシャとヴェルシーニン登場。二人が話している間に、小間使いがランプやろうそくをともす。
【マーシャ】 わかりません。〔間〕わかりませんわ。もちろん、習慣には多大の意義があります。たとえば、父の死後、わたしたちは、家に従卒《じゅうそつ》がいないことに、長い間なれることができませんでした。でも習慣のほかに、わたしの気持ちの中では、公平な物の見方がものを言っていると思いますの。そりゃ、ほかの土地では別かもしれませんが、わたしたちの町では、いちばんきちんとした、いちばん上品で教養のある人たちといったら……それは軍人ですわ。
【ヴェルシーニン】 のどがかわきました、お茶がほしいですね。
【マーシャ】 〔時計を見て〕じき出ますわ。わたしは十八のときにお嫁にやられましたが、夫をおそれていました。なぜって夫は教師でしたし、わたしは女学校を出たばかりなもんですから。当時は夫が大した学者に、頭のいい、偉い人に見えたのです。今は残念ながら、ちがいますけれど。
【ヴェルシーニン】 そうですか……なるほど。
【マーシャ】 わたし、夫のことを言ってるんじゃありません、夫になれっこになっていますから。でも文官の中には、いったいにがさつで、無愛想で、教養のない人がたくさんいますわ。がさつな人をみると、わたしはむかむかして、腹がたってくるんです。デリケートなところのない、柔和さや、愛想に欠けた人を見ると、苦痛を感じるんですの。夫の同僚の教員仲間の中にいるときなんか、ほんとにもう、がまんできませんわ。
【ヴェルシーニン】 なるほどね……しかしわたしの考えでは、文官だって、軍人だって変わりありません、同じように魅力がありますよ、すくなくともこの町では。変わりありません! 文官でも軍人でもいい、だれかこの町の知識人の話に耳を傾けるならば、妻君のことで悩んでいるとか、家のことで悩んでいるとか、領地のことで悩んでいるとか、馬のことで悩んでいるとかですよ、いったいロシヤ人はものごとの高尚な考え方が得意なくせに、さて実生活となると、どうしてこんなに低級なんでしょう? なぜでしょう?
【マーシャ】 なぜでしょう?
【ヴェルシーニン】 なぜ男は子供らのことで悩んだり、妻君のことで悩んだりするんでしょう? またなぜ、妻君や子供らは男のことで悩むのでしょう?
【マーシャ】 あなたはきょう、すこしごきげんが悪いのね。
【ヴェルシーニン】 そうかもしれません。わたしはきょう、食事をしていません。朝からなにも食べていないんです。実は娘がすこしぐあいが悪いのです。娘が病気すると、わたしは不安におそわれ、娘たちがあんな母親を持っていることにふと良心の呵責《かしゃく》を感じるのです。ああ、あなたがきょうの家内のていたらくをごらんになったら! なんというばかさかげんでしょう。朝の七時からののしり合いを始め、九時にはドアをバタンとしめて、とび出したのです。〔間〕わたしはけっしてこんなことは人に言いません、不思議なことに、あなたにだけは、こうやってぐちをこぼすんですよ。〔手にキスする〕わたしのことを怒らないでください。あなた一人をのぞいてわたしにはだれもいないんです。だれも……〔間〕
【マーシャ】 ペーチカの中でひどくゴーゴーいってるわ。父の亡くなるすこし前にも煙突がうなったの。ちょうどこんなふうに。
【ヴェルシーニン】 あなたは迷信をお持ちですか?
【マーシャ】 ええ。
【ヴェルシーニン】 奇妙ですね。〔手にキスする〕あなたは実にすばらしい、りっぱな婦人です。実にすばらしい。りっぱな! ここは暗いけれども、あなたの眼のキラキラするのが見える。
【マーシャ】 〔ほかのいすにすわって〕こっちのほうが明るいわ……
【ヴェルシーニン】 わたしは好きで、好きで、大好きだ……あなたの眼だの、あなたの動作だのが。夢に見るほどです……実にすばらしい、りっぱな婦人だ!
【マーシャ】 〔小声で笑いなから〕わたしを相手にそんなふうにおっしゃると、わたしなぜかしら笑いたくなるの、こわいくせに……二度とおっしゃらないで、お願いですわ……〔小声で〕でも、やっぱり、おっしゃってください、かまいませんわ……〔両手で顔をおおう〕わたしには同じことだわ……だれかくるわ、なにかほかのことを話して……
イリーナとトゥーゼンバッハ、広間を通って登場。
【トゥーゼンバッハ】 ぼくの姓は三重なんですよ。ぼくはトゥーゼンバッハ・クローネ・アルトシャウアー男爵というんですが、しかしぼくはロシヤ人で、あなたと同じ正教徒です。ドイツ人らしいところは、ぼくにはほとんど残っていません、まあ、強いて言えばがまん強いのと、強情なところですね。その強情でもってあなたをうんざりさせてるわけです。毎晩あなたをお送りして。
【イリーナ】 ああくたびれた!
【トゥーゼンバッハ】 これから毎日、電信局まで迎えに行って、お宅までお送りしますよ。十年でも、二十年でも、あなたに追っぱらわれるまで……〔マーシャとヴェルシーニンの姿をみとめてうれしそうに〕ここにいらしたんですか? 今晩は。
【イリーナ】 やっと家に帰れたわ。〔マーシャに〕今さっきどこかの奥さんがきてね、きょう息子が死んだという電報を、アラトフの兄のところへ打ちたいって言うの。ところがどうしても住所が思いだせないの。それで住所なしで、ただサラトフとして打ったわ。その人ったら泣いているの。それでわたし、これという理由もないのに、乱暴な口きいちゃった。「わたしは忙しいんですから」って。ばかなことをしちゃった。きょう、仮装舞踏の人たちくるの?
【マーシャ】 そうよ。
【イリーナ】 〔ひじかけ椅子にすわる〕ひと休みしなくっちゃ。くたびれたわ。
【トゥーゼンバッハ】 〔ほほえんで〕あなたがお勤めから帰ってくるとき、あなたはまだほんの小さい、不幸な娘に見えますよ……〔間〕
【イリーナ】 くたびれたわ。電信局なんていやなこった、ああいやだ。
【マーシャ】 あんたやせたわね……〔口笛を吹く〕それに若くなって顔が男の子に似てきたわ。
【トゥーゼンバッハ】 髪のせいですよ。
【イリーナ】 ほかの仕事をさがさなくちゃ、今のはわたしには向かないわ。ほかでもない、わたしの望んでいた、空想していた、そのものが、今の仕事にはないの。詩もなく、思想もない労働……〔床をコツコツたたく音〕ドクトルがたたいてるわ……〔トゥーゼンバッハに〕あなた、たたいてやってください。わたしできないの……くたびれちゃって……
【トゥーゼンバッハ】 〔床をコツコツならす〕
【イリーナ】 今くるわ。なんとか方法を講じなくっちゃねえ。きのうドクトルと兄さんがクラブヘ行ってまた負けたのよ。兄さんは二百ルーブリ負けたって話だわ。
【マーシャ】 〔冷淡に〕今さら、どうしようもないわ!
【イリーナ】 二週間前にも負けたし、十二月にも負けたでしょう。いっそすっからかんに負けてしまえば、わたしたちはこの町から逃げ出せるかも知れないわ。まあ、わたしったら毎晩モスクワの夢を見るの。わたし、頭がすっかりどうかしちゃったんだわ〔笑う〕わたしたちは六月には向こうへ移るから、それまであますところ……二月、三月、四月、五月、ざっと半年もあるわ!
【マーシャ】 ただね、カルタに負けたことをナターシャに知らせないようにしなくちゃ。
【イリーナ】 あの人はどっちみち同じことよ、きっと。
寝床から起きたばかりのチェブトゥイキン……彼は夕食後休んでいたので……広間へ入ってきて、ひげをなでつけ、それからテーブルに向かってすわり、ポケットから新聞を取り出す。
【マーシャ】 ほら、きたわ……あの人、部屋代払った?
【イリーナ】 〔笑って〕いいえ。八か月のあいだ一文も。きっと、忘れてるのよ。
【マーシャ】 〔笑う〕あのもったいぶったすわりかた!
一同笑う〔間〕
【イリーナ】 どうして黙ってらっしゃるの、ヴェルシーニンさん?
【ヴェルシーニン】 さあ。お茶がほしいですね。一杯のお茶のためなら、命を半分捧げてもいい! 朝からなにも食べていないので……
【チェブトゥイキン】 イリーナさん!
【イリーナ】 なんですの?
【チェブトゥイキン】 どうぞこちらへ、Venez ici 〔フランス語。こちらへ来てください〕〔イリーナ、行ってテーブルに向かってすわる〕あなたがいないとどうも〔イリーナ、カルタ占いの札をならべる〕
【ヴェルシーニン】 どうです? お茶が出ないなら、哲学論議でもやりますか?
【トゥーゼンバッハ】 やりましょう。テーマは?
【ヴェルシーニン】 テーマ? 夢物語をしますか……たとえば、われわれのあとにくる、二、三万年後の生活について。
【トゥーゼンバッハ】 そうですね? われわれのあとでは軽気球に乗って飛んだり、背広の型が変わったり、ことによると第六番目の感覚が発見されて、それを発達させるかもしれませんね。がしかし、生活はまったく同じまんまでのこるでしょう。生活は苦しく、謎にみち、かつ幸福でしょう。千年たっても人間は、今と同じようにため息をついて言いますよ。「ああ、生きるのはつらいなあ!」って。そしてそれと同時に、ちょうど今と同じように、人間は死を恐れ、死にたがらないでしょう。
【ヴェルシーニン】 〔ちょっと考えてから〕なんと言ったらいいか? わたしの考えでは、地上のものは、すべて少しずつ変わらねばならないし、現にわれわれの眼の前で変わっていってますよ。二、三百年もしたら、いやいっそ千年もたったら……問題は期限なんかじゃありません……新しい幸福な生活がやってきます。われわれがその生活に加わるようなことは、もちろん、ありませんが、しかしわれわれは今その生活のために生き、働き、そのうえ苦しんでいるのです、われわれはそれを創りあげているのです……そしてそのことだけに、われわれの存在の目的が、またそう言いたければ、われわれの幸福があるのです。
【マーシャ】 〔小声で笑う〕
【トゥーゼンバッハ】 どうしました?
【マーシャ】 わからないわ。きょうは一日じゅう朝から笑ってますの。
【ヴェルシーニン】 ぼくもあなたと同じところで学校を終わりにし、陸軍大学へは行きませんでした。本はたくさん読みますが、しかし本を選択する能力がないので、もしかしたら、まったく見当ちがいの読みかたをしているのかもしれませんが、それはともかく、長く生きていればいるだけ、もっと多く知りたくなりますね。わたしの髪の毛は白くなって、ほとんど老人も同然ですが、知っていることといったらわずか、ほんのわずかです! それでもやはり、いちばん大事な、ほんとうのことは知っている、ちゃんと知っているという気がします。幸福などというものはわれわれにとってないし、あり得ないし、将来もないだろう、ということをあなたに証明してあげたくてならないんですがね……われわれはただひたすら働かなければなりません、で幸福は……それはわれわれの遠い子孫のわけまえですよ〔間〕ぼくはだめとしても、せめて孫子《まごこ》のそのまた孫子ぐらいは。
フェドーチクとローデ、広間に姿をあらわす。二人はすわって小声で歌を口ずさむ、ギターをひきながら。
【トゥーゼンバッハ】 あなたのご意見では、幸福を夢見てもいけない、ってわけですね! でも、もしぼくが幸福だったら!
【ヴェルシーニン】 そんなことはない。
【トゥーゼンバッハ】 〔両手を打って笑いなから〕明らかに、われわれは互いに理解できないようですね。さて、どうやってあなたを説得したものか?
【マーシャ】 〔小声で笑う〕
【トゥーゼンバッハ】 〔指を立てて彼女をおどかしながら〕お笑いなさい!〔ヴェルシーニンに〕二、三百年後といわず、百万年たっても生活はこれまでと同様ですよ。それは変わりません。それ自身の法則にしたがって、一定不変です。その法則はわれわれに関係がないか、あるいはすくなくともけっして知ることのできないものです。渡り鳥、たとえば鶴が、一心にとんでいきますね。そしてどんな思想が、高尚なものであれ、低級なものであれ、彼らの頭の中にわいたところで、やっぱり彼らは飛んでいくでしょうし、なぜ、どこへ行くのかは知ることができないのです。彼らは現に飛んでいるし、この先も飛んでいくでしょう。どんな哲学者が彼らの中にあらわれようとも。かってに哲学論議をさせておけ、おれたちはただ飛びさえすればいい、と……。
【マーシャ】 それでもやっぱり意味というものがあるんじゃない?
【トゥーゼンバッハ】 意味ね……ほら、雪が降っていますよ。どんな意味があります?〔間〕
【マーシャ】 わたしはこう思うの。人間は信仰を持っていなければならない、あるいは信仰を探し求めなければならない、さもないとその人の生活は空虚なものとなる……なんのために鶴が飛ぶのか、なんのために子供が生まれるのか、なんのために空には星があるのか、生きていて知ることができないなんて……なんのために生きるかを知っているか、それともなにもかもがつまらない、とるにたらないものであるか、どちらかだわ。〔間〕
【ヴェルシーニン】 それにしても青春のすぎ去ったのは残念ですね……
【マーシャ】 ゴーゴリにこんな言葉があるわ。「この世に住むのはなんと退屈だろうか、諸君!」〔ゴーゴリの短編「イワン・イワーノヴィチとイワン・ニホーフォロヴィチが喧嘩をした話」の結びの文句〕って。
【トゥーゼンバッハ】 ぼくならこう言うね。「あなたがたと論議するのは困難だよ、諸君!」って。いやはや、あなたがたときたら……
【チェブトゥイキン】 〔新聞を読みながら〕バルザック、ベルヂーチェフ〔ウクライナの町〕で婚礼。
【イリーナ】 〔小声で歌を口ずさむ〕
【チェブトゥイキン】 こいつは手帳に書きとめておこう。〔書きとめる〕バルザック、ベルヂーチェフで婚礼。〔新聞を読む〕
【イリーナ】 〔カルタ占いの札をならべながら、物思わしげに〕バルザック、ベルヂーチェフで婚礼。
【トゥーゼンバッハ】 運命は決した。ねえ、マーシャさん、ぼくは辞表を出しましたよ。
【マーシャ】 聞いたわ。でもちょっともよかなくってよ。わたし、文官ってきらい。
【トゥーゼンバッハ】 同じことですよ……〔立ちあがる〕ぼくはこのとおりの醜男《ぶおとこ》、軍人ってがらじゃありません。なに、同じことですよ、どっちみち……ぼくは働きます。せめて生涯に一回なりと、夜、家へ帰ってくると、へとへとに疲れてしまい、ベッドにぶったおれたまま、ぐっすりと眠ってしまうほど働いてみたいものです。〔広間へ立ち去りながら〕労働者たちは、きっとぐっすりと眠るんだろうなあ!
【フェドーチク】 〔イリーナに〕今しがたモスクワ街のプィジコフの店で、あなたのために色鉛筆を買ってきました……それから、ほらこのナイフ……
【イリーナ】 あなたは相変わらずわたしを子供扱いなさるけど、わたしだってもう大きくなったのよ、〔鉛筆とナイフを取りあげて〕まあすてき!
【フェドーチク】 自分用には、ほら、このナイフを買ってきました……ごらんなさい……、ナイフ、もう一つのナイフ、それからもう一つ、これは耳かき、これは鋏《はさみ》、これは爪の手入れ用……
【ローデ】 〔大声で〕ドクトル、あなたはおいくつですか?
【チェブトゥイキン】 わたし? 三十二。〔笑声〕
【フェドーチク】 ぼくが別の占いをやってあげましょう。〔札をならべる〕
サモワールが出る。サモワルのそばにアンフィーサ。すこしたってナターシャがきて、テーブルのあたりで同じく世話をやく。ソリョーヌイがやってきて、あいさつをかわしてから、テーブルに向かってすわる。
【ヴェルシーニン】 それにしても、ひどい風ですね!
【マーシャ】 ええ。冬にはうんざりですわ。わたしもう、夏ってどんなか忘れてしまいましたの。
【イリーナ】 あら、占いが出るところね、わたしたちモスクワヘ行けるんだわ。
【フェドーチク】 いいえ、そうはなりません。ほらね、八がスペードの二の上にあるでしょう。〔笑う〕つまりあなたがたはモスクワにいらっしゃらない。
【チェブトゥイキン】 〔新聞を読む〕チチハル〔満州北部の町〕。天然痘大流行。
【アンフィーサ】 〔マーシャのそばへよって〕マーシャさま、さあお茶ですよ。〔ヴェルシーニンに〕はい、どうぞ、ええと、旦那さま……ごめんなさい、ついお名前を忘れてしまいましたので……
【マーシャ】 こっちへ持ってきて、ばあや。そっちへは行かないから。
【イリーナ】 ばあや!
【アンフィーサ】 はーい!
【ナターシャ】 〔ソリョーヌイに〕乳飲み子ってほんとによくわかるのね。「こんにちは、ボービク。こんにちは、坊や!」って言うとね、わたしの顔を特別な目つきで見るの。あなたは、母親のひいき目と思うでしょうけど、いいえ、けっしてそんなことはなくってよ! あれは普通の赤ん坊じゃありませんわ。
【ソリョーヌイ】 その赤ん坊がわたしのだったら、フライパンで焼いて、食べちまいますがね。〔コップを持って客間へ行き、すみにすわる〕
【ナターシャ】 〔顔を両手でおおって〕乱暴な、無教養な人!
【マーシャ】 いま夏なのか、それとも冬なのか気がつかないでいる人は幸福ですわ。わたしモスクワにいるんだったら、天候には無関心でいられると思いますの……
【ヴェルシーニン】 最近わたしはフランスのある大臣が獄中で書いた日記を読みました。その大臣はパナマ運河疑獄事件〔一八八九年のパナマ運河会社をめぐる疑獄事件〕で有罪になったのです。でそのひとが、獄窓から見た、前に大臣をしていたときには気がつかなかった小鳥のことを、すっかり有頂天になって、歓喜して述べているのです。自由放免の身となった今ではもう、もちろん、以前と同じように小鳥なんか気にもとめないでしょう。それと同様にあなたも、モスクワに住むようになれば、モスクワになんか気がつかなくなりますよ。幸福なんてものは現にわれわれにありませんし、もともとないものなんです、あったらいいなあ、とわれわれが望むだけのものなんですよ。
【トゥーゼンバッハ】 〔テーブルの上から小箱を取り上げて〕キャンデーはどうしたんです?
【イリーナ】 ソリョーヌイが食べてしまったの。
【トゥーゼンバッハ】 みんな?
【アンフィーサ】 〔お茶をさし出しながら〕お手紙でございますよ、旦那さま。
【ヴェルシーニン】 わたしに?〔手紙を取る〕娘からだ。〔読む〕そりゃ、そうだろう……失礼ですが、マーシャさん、わたしはこっそり帰ります。お茶はいただきません。〔興奮して立ち上がる〕いつになってもこの騒ぎだ……
【マーシャ】 なんですの? 秘密じゃありません?
【ヴェルシーニン】 〔そっと〕家内がまた毒を飲んだのです。行かなくちゃなりません。そっと抜け出しますよ。じつに不愉快きわまりない。〔マーシャの手にキスする〕かわいいマーシャさん、あなたはすばらしい、いい方です……わたしはここからこっそり抜け出します……〔退場〕
【アンフィーサ】 どこへ行きなさるんで? せっかくお茶を出したのに……おどろいた人だ。
【マーシャ】 〔腹をたてて〕そこをどいて! うろちょろして、うるさくってしょうがない……〔茶わんをもってテーブルのほうへ行く〕お前にはうんざりしたよ、もうろく!
【アンフィーサ】 なにをそんなに怒っていなさる? ねえお嬢さま!
【アンドレイの声】 アンフィーサ!
【アンフィーサ】 〔口まねする〕アンフィーサ! おみこしをすえて……〔退場〕
【マーシャ】 〔広間のテーブルのそばで、腹ただしく〕わたしにもすわらせて!〔テーブルの上のカルタをかきまわす〕カルタで場所を占領したりして。お茶を飲んだらどう!
【イリーナ】 あんた意地わるね、マーシャ。
【マーシャ】 意地わるなら、わたしとなんか口きかないでちょうだい。わたしのことはほっといて!
【チェブトゥイキン】 〔笑いながら〕ほっときなさい、かまわないで……
【マーシャ】 あなたは六十でしょ、なのに小僧っ子みたいに、わけのわからないたわ言ばかり言ってさ。
【ナターシャ】 〔ため息をつく〕ねえ。マーシャさん、なんだってそんな口のきき方をするの? あなたのその器量なら、お上品な社交界に出たって率直に言って、ただもううっとりするぐらいなのに、そんな口さえきかなければ。Je vous prie, pardonnez moi, Marie, mais vous avez des manieres un peu grossieres〔フランス語。こんなこと言って失礼だけど、マリ、あなたの態度には少し荒っぽいところがあるわ〕
【トゥーゼンバッハ】 〔笑いをこらえながら〕そ、それをぼくにくださいな……ぼくに……そこにあるのそれ、コニャックでしょう……
【ナターシャ】 Il parait, que mon Bobik, deja ne dort pas.〔フランス語。うちのボービクはもう眠っていないらしい〕もうおめざめだわ。あの子は、きょうぐあいが悪いの。行って見てきますわ、失礼……〔退場〕
【イリーナ】 ヴェルシーニンさんはどこへいらしたの?
【マーシャ】 家へ。奥さんがまた何かしでかしたの。
【トゥーゼンバッハ】 〔コニャックの入ったカットグラスのびんを両手で持って、ソリョーヌイのところへ行く〕さっきからずっと、あなたはひとりですわって、考えごとをしている……なにを考えているのかわからない。さあ、仲なおりをしようぜ。コニャックを飲もうじゃないか。〔二人飲む〕きょうぼくは一晩じゅうピアノをひかされるだろうな、たぶん、いろいろと下らない曲を……なに、かまうもんか!
【ソリョーヌイ】 なぜ仲なおりするんだね? ぼくはあんたとけんかした覚えはない。
【トゥーゼンバッハ】 いつでもあなたは、まるでわれわれの間になにかがあったような、そんな感情を起こさせるからね。あなたは奇人ですよ、それは認めなくちゃ。
【ソリョーヌイ】 〔朗読口調で〕余は奇人なり、だれか奇人ならざらん! 怒りたもうな、アレーコ〔プーシキンの叙事詩「ジプシー」の主人公〕よ!
【トゥーゼンバッハ】 アレーコになんの関係があるんです……〔間〕
【ソリョーヌイ】 ぼくは、だれかと二人きりでいるときは、別にどうってことはなし、みんなと同じなんだが、人なかへ出ると、臆しちゃって、ひっこみじあんになる……で、ばかげたことをしゃべる。だが、それでもやっぱり、ぼくは、そんじょそこらの有象無象《うぞうむぞう》よりは、潔白だし、高貴だよ。なんなら、証明してやってもいい。
【トゥーゼンバッハ】 ぼくはちょいちょい、あんたに腹がたつよ。人中にいるときに、あんたはしょっちゅうぼくに言いがかりをつけるから。しかし、やっぱりあんたは、ぼくにはなぜだか好感がもてるんだ。なにはともあれ、きょうは大いに飲むぞ。さ、ひとついきましょう。
【ソリョーヌイ】 いきましょう。〔二人飲む〕ぼくはね、男爵、あんたにふくんだことなんかないですよ。ただぼくの性格はレールモントフ〔ロシヤのロマン派詩人。小説「現代の英雄」の作者〕的ときている。〔小声で〕ぼくはレールモントフにいささか似てさえいる……人の話ではね……〔ポケットから香水びんを取り出して両手にふりかける〕
【トゥーゼンバッハ】 辞表は出してある。ストップだ! 五年間考えあぐんだすえ、とうとう決めたんだ。ぼくは働きますよ。
【ソリョーヌイ】 〔朗読口調で〕怒るのをやめよ、アレーコ……忘れ去れ、おのが妄想を……
二人が話しているうちに、アンドレイが本を持って静かに登場。ろうそくのそばに腰をおろす。
【トゥーゼンバッハ】 働きますよ。
【チェブトゥイキン】 〔イリーナといっしょに客間へ出て来ながら〕ごちそうもやはり本式のコーカサス料理でね。玉ネギのスープ、|焼いた料理《ジャルコーエ》には……チェハールトマ、つまり肉。
【ソリョーヌイ】 チェレムシャーが肉なもんですか、こっちの玉ネギみたいな植物ですよ。
【チェブトゥイキン】 いいえ、あんた。チェハールトマはネギじゃない、羊の肉を焼いたもんですよ。
【ソリョーヌイ】 ぼくは、チェレムシャーはネギだと言ってるんだ。
【チェブトゥイキン】 わたしは、チェハールトマは羊の肉だと言ってるのさ。
【ソリョーヌイ】 ぼくは、チェレムシャーはネギだと言ってるんだ。
【チェブトゥイキン】 あんたと議論してもはじまらん! あんたはコーカサスヘ行ったこともなければ、チェハールトマを食べたこともないんだから。
【ソリョーヌイ】 そりゃ食べたことはない、とてもがまんできたもんじゃないから。チェレムシャーはニンニクそっくりのにおいがする。
【アンドレイ】 〔哀願するように〕たくさんですよ、みなさん! やめてください。
【トゥーゼンバッハ】 仮装舞踏の連中はいつくるんです?
【イリーナ】 九時ごろって約束よ。もうすぐだわ。
【トゥーゼンバッハ】 〔アンドレイを抱く〕「おお、わが宿よ、新しき宿……〔有名なロシヤ民謡〕」
【アンドレイ】 〔踊って歌う〕「新しき宿、楓《かえで》づくりの……」
【チェブトゥイキン】 〔踊る〕「格子づくりの!」〔笑声〕
【トゥーゼンバッハ】 〔アンドレイにキスする〕ちきしょう、一杯いこうや。アンドレイ君、「おれ、きさま」で一杯いこうぜ。ぼくも君といっしょに、アンドレイ君、モスクワヘ行って、大学へ入るんだ。
【ソリョーヌイ】 どっちの大学だい? モスクワには大学が二つある。
【アンドレイ】 モスクワには大学は一つさ。
【ソリョーヌイ】 ところがぼくは……二つあると言ってるんだ。
【アンドレイ】 三つあってもかまいませんよ。なおさらけっこう。
【ソリョーヌイ】 モスクワには大学が二つあるんだ〔不平のつぶやき。シーッという声〕モスクワには大学が二つある。古いのと新しいのと。だが、もしも聞きたくないんだったら、ぼくの言葉が癇《かん》にさわるとあらば、ぼくはしゃべらなくともいい。ほかの部屋へひきさがってもいいさ……〔ドアの一つから退場〕
【トゥーゼンバッハ】 ブラヴォー、ブラヴォー!〔笑う〕みなさん、始めてください、ぼくはすわってひきますよ! おかしなやつだな、あのソリョーヌイは……〔ピアノにむかってワルツをひく〕
【マーシャ】 〔一人でワルツを踊る〕|男爵が酔った《バロン・ピヤン》、男爵が酔った、男爵が酔った!〔原語はバロン・ピヤンのくり返しで、語ろ合わせになっている。またピアノの音の擬音でもある〕
ナターシャ登場。
【ナターシャ】 〔チェブトゥイキンに〕チェブトゥイキンさん!〔チェブトゥイキンになにか言って、そっと退場。チェブトゥイキンはトゥーゼンバッハの肩をつついて、なにか耳うちする〕
【イリーナ】 どうしたの?
【チェブトゥイキン】 おいとまする時刻です。ごきげんよう。
【トゥーゼンバッハ】 おやすみなさい。おいとましなくちゃ。
【イリーナ】 ちょっと……じゃ、仮装舞踏の人たちは?
【アンドレイ】 〔どぎまぎして〕仮装舞踏の連中はこないよ。あのねえ、イリーナ、ナターシャの話だと、ボービクがあまりぐあいがよくないんだよ、それで……要するに、ぼくは知らないよ。ぼくにはまったく、どっちだっていいんだ。
【イリーナ】 〔肩をすぼめて〕ボービクが病気ね!
【マーシャ】 生きてるうちが花なのよ、か! 追ったてられるとあらば、帰らなくっちゃ。〔イリーナに〕病気なのはボービクじゃなくて、あの人なのよ……ほら、ここが!〔指でひたいをたたく〕俗物根性!
アンドレイ、右手のドアから自室へ退場、チェブトゥイキンそのあとを追う。広間で別れのあいさつ。
【フェドーチク】 実に残念ですなあ! ぼくはここで一晩すごすつもりでしたが、赤ちゃんが病気というんじゃ、もちろん……ぼく、あしたおもちゃを持ってきてあげよう……
【ローデ】 〔大声で〕ぼくはきょうわざわざ昼寝をしたんですよ。一晩じゅう踊るつもりで……まだやっと九時じゃありませんか!
【マーシャ】 とにかく外へ出て、そこで相談しましょう。何をどうするのか決めるのよ。
「さようなら! ごきげんよう!」の声が聞こえる。トゥーゼンバッハの陽気な笑い声が聞こえる。一同退場。アンフィーサと、小間使いが食卓を片づけ、あかりを消す。乳母の歌っているのが聞こえる。アンドレイ、外套を着て帽子をかぶり、チェブトゥイキンとともにそっと登場。
【チェブトゥイキン】 わたしは結婚するひまがなかったのさ。なぜなら人生が、稲妻のようにつかの間にすぎ去ってしまったのと、もう一つは人妻だった君のお母さんを、夢中で愛していたからだ……
【アンドレイ】 結婚なんてする必要がありません。なぜ必要がないかというと、退屈だからです。
【チェブトゥイキン】 そりゃまあそうだが、孤独ってやつもなあ、どんなに理屈をつけてみたところで、孤独ってやつは恐ろしいものなんだよ、君……せんじつめれば……もちろん、まったく同じことだが!
【アンドレイ】 早く行きましょう。
【チェブトゥイキン】 なにをそんなに急ぐことがあるんだね? まにあうさ。
【アンドレイ】 家内にとめられやしないかと心配なんですよ。
【チェブトゥイキン】 あ、そうか!
【アンドレイ】 きょうぼくは勝負はやりませんよ。そばで見てるだけ。からだのぐあいが悪いんです……どうしたらいいんです、チェブトゥイキンさん、息切れには?
【チェブトゥイキン】 間くだけヤボだ! 覚えていないね、君。知らん……
【アンドレイ】 台所を通って行きましょう。〔二人退場〕
呼鈴。やがてまた呼鈴。人声や笑い声が聞こえる。
【イリーナ】 〔登場〕なにかしら?
【アンフィーサ】 〔ひそひそ声で〕仮装舞踊の人たちですよ!〔呼鈴の音〕
【イリーナ】 ばあや、家にはだれもいないって言っておくれ。かんにんしてもらって。
アンフィーサ退場。イリーナ考えこんで部屋を歩きまわる。彼女は興奮している。ソリョーヌイ登場。
【ソリョーヌイ】 〔けげんそうに〕だれもいない……みんなはどこへ行ったんだろう?
【イリーナ】 うちへ帰りましたわ。
【ソリョーヌイ】 変だなあ。あなただけですか?
【イリーナ】 わたしだけ。〔間〕さようなら。
【ソリョーヌイ】 さっきはおとなげない、はしたないふるまいをしました。しかしあなたは、ほかの連中とちがって、高尚で純潔な方ですから、ほんとうのことがおわかりでしょう……ぼくを理解できるのは、あなた一人だけです。ぼくは愛しています、深く、限りなく愛しています……
【イリーナ】 さようなら! お帰りになって。
【ソリョーヌイ】 ぼくはあなたなしでは生きていかれません。〔彼女のあとを追いながら〕おお、ぼくの幸福!〔涙声で〕おお、しあわせ! ぼくのすばらしい、絶妙な、なんとも言えず美しい眼、そのような眼をぼくは、ほかの女性に見たことがありません……
【イリーナ】 〔冷たく〕やめてちょうだい、ソリョーヌイさん!
【ソリョーヌイ】 ぼくがあなたに愛をうちあけるのは初めてです。ぼくはまるで地上でなく、ほかの遊星にいるような気持ちです。〔ひたいをこする〕いやなに、同じことだ。愛の押し売りはできないさ、もちろん……しかしぼくは幸運な競争者の存在は許しませんからな……許しませんとも……神かけて誓いますが、競争者はぶち殺してやりますよ……おお、すばらしいイリーナさん!
ナターシャろうそくを持って近づく。
【ナターシャ】 〔つぎつぎとドアをのぞき、夫の部屋へ通じるドアの前にさしかかる〕ここはアンドレイ、本を読ましておきましょう。あら、ごめんなさい、ソリョーヌイさん、ここにいらっしゃるとは知らなかったもので、部屋着のまんま……
【ソリョーヌイ】 ぼくにはどっちみち同じことです。さようなら!〔退場〕
【ナターシャ】 あなた疲れているのね、イリーナさん。かわいそうに!〔イリーナにキスする〕もう少し早く寝るといいのに。
【イリーナ】 ボービクはおやすみ?
【ナターシャ】 寝てるわ。あ、ちょうどいいわ、イリーナさん、わたしあなたに前々からお話したいと思ってたけれど、いつもあなたがいなかったり、わたしが忙しかったりで……今の子供部屋じゃ、ボービクが寒くてじめじめしすぎるように思うの。でもあんたのお部屋なら赤ん坊にはもってこいだわ。ねえ、あんた、当分オーリガさんのところへ移って!
【イリーナ】 〔解《げ》しかねて〕どこへ?
鈴をつけたトロイカが家の前へ乗りつける音が聞こえる。
【ナターシャ】 あんたには当分オーリガさんと同居してもらって、あんたの部屋にはボービクが移るのよ。あの子、ほんとにかわいい子でね、きようわたしが「ボービク、いい子ね! いい子!』って言うと、小さなお眼々でわたしのほうを見るじゃない。〔呼鈴の昔〕オーリガさんよ、きっと、ずいぶんおそいこと!
小間使い、ナターシャに近づき耳打ちする。
【ナターシャ】 プロトポーポフだって? おかしな人ね。プロトポーポフが、いっしょにトロイカでドライブしようって、わたしをさそいにきたの。〔笑う〕男って変ねえ……〔呼鈴〕まただれかきたわ。ほんの十五分ばかりドライブしてこようかしら……〔小間使いに〕すぐまいります、って言っておくれ。〔呼鈴〕またベルが……オーリガさんだわ、きっと。〔退場〕
小間使い走り去る。イリーナは考えこんだまますわっている。クルイギン、オーリガ、つづいてヴェルシーニン登場。
【クルイギン】 こりゃおどろいた。夜会があるという話だったが。
【ヴェルシーニン】 変ですな、わたしがついさっき、半時間ほど前にここを出て行ったときは、仮装舞踏の連中を待っていたんですが……
【イリーナ】 みんな帰ったわ。
【クルイギン】 マーシャも帰ったのかね? どこへ行ったんだろう? なぜまたプロトポーポフは下で、トロイカに乗って待ってるんだろう? だれを待ってるんだろう?
【イリーナ】 そう質問ぜめにしないで……わたし疲れてるのよ。
【クルイギン】 ふん、気まぐれやさん……
【オーリガ】 会議がやっとすみましたの。わたしくたくただわ。校長が病気なので、今わたしが代理をしているの。頭が、頭が痛い、頭が……〔すわる〕アンドレイはきのうカルタで二百ルーブリ負けたって……町じゅう評判よ……
【クルイギン】 そう、わたしも会議で疲れてしまった。〔すわる〕
【ヴェルシーニン】 家内がついさっきわたしを驚かそうと思って、毒を飲みましてね。まあ幸いと無事にすんだので、うれしくて、今ひと息入れているところですよ……すると、つまり、帰らなければならないんですか? しかたがない、では、ごきげんよう。クルイギンさん、いっしょにどこかへ行きましょう! わたしは家になんぞいられません、とてもいられたもんじゃない……行きましょう!
【クルイギン】 くたびれた。行きませんよ。〔立ちあがる〕くたびれた。家内はうちへ帰ったのかな?
【イリーナ】 きっとそうよ。
【クルイギン】 〔イリーナの手にキスする〕さようなら、あしたも、あさっても、一日じゅう休める。ごきげんよう!〔行きかけて〕お茶が飲みたいなあ。たのしい仲間といっしょに一夕すごすつもりだったのに…… O, fallacem hominum spem! 〔ラテン語。おお、はかなき人の望みよ!〕……感嘆の目的格と……
【ヴェルシーニン】 じゃ、一人で行くか。〔口笛を吹きながら、クルイギンと退場〕
【オーリガ】 頭が痛い、頭が、アンドレイが負けた……町じゅうの評判……行って寝ましょう。〔行きながら〕あしたはお休み……ああ、ほんとうにうれしいわ! あしたはお休み、あさってもお休み……頭が痛い、頭が……〔退場〕
【イリーナ】 〔一人で〕みんな行ってしまった。だあれもいない。
街でアコーデオンの音。乳母が子守歌をうたっている。
【ナターシャ】 〔毛皮外套を着て、帽子をかぶって広間を通りすぎる。小間使いがあとに従う〕半時間したら帰ってくるわ。ちょっと乗ってくるだけ。〔退場〕
【イリーナ】 〔一人残って、憂わしげに〕モスクワヘ! モスクワヘ! モスクワヘ!〔幕〕
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第三幕
オーリガとイリーナの部屋。左右にベッドがあり、つい立てで仕切られている。ま夜中の二時すぎ。舞台うらで半鐘の音。火事はだいぶ前からつづいている。家では人びとがまだ床に入っていないもよう。ソファーにマーシャが横になっている。いつものように黒いドレス。オーリガとアンフィーサ登場。
【アンフィーサ】 今、下の階段下にすわっております……「どうぞお二階へ、まさかそうやってもいられませんでしょう」とわたしが言っても、おいおい泣いてぱかりいますの。「パパがどこにいるかわからない。焼け死んだのでなければいいんだけど」ですとさ。めっそうもない! 庭にも来ていますよ、どこかの人たちが……やっぱり着のみ着のままで。
【オーリガ】 〔戸棚から衣類を取り出す〕さあ、このねずみ色のを持っておいで……それからこれも……この上衣《うわぎ》も……このスカートも持っておいで、ばあや……ほんとうに、どうしたってことでしょう! キルサーノフ横町はまる焼けになったんだわ、きっと……これも持ってって……〔ばあやの両手に衣類を投げる〕ヴェルシーニンさんとこの人たち、かわいそうにおびえてしまったのね……もうすこしで家が焼けるところだったんだもの。今夜はうちへ泊めてあげて……家へ帰しちゃだめよ……かわいそうに、フェドーチクさんはまる焼けで、なにひとつ残らなかったって……
【アンフィーサ】 フェラポントをお呼びくださいまし、オーリガお嬢さま、とても持ちきれませんで……
【オーリガ】 〔呼鈴を鳴らす〕来やしないわ。〔ドアをあけて〕そこにいる人、だれでもいいから来てちょうだい。〔あけ放されたドアの口から、空焼けでまっかになった窓が見える。窓のそばを消防隊の通る音が聞こえる〕ほんとうにこわいわ。おお、いやだ!
フェラポント登場。
【オーリガ】 さあ、これを受け取って、下へ持ってってちょうだい……階段下にコロチーリンさんとこのお嬢さんがたがいらっしゃるから……さしあげて。これもあげてね……
【フェラポント】 かしこまりました。十二年にはモスクワも焼けました。やれやれ、おっそろしい! フランスの兵隊ともはおったまげたで。
【オーリガ】 さっさと行きなさい……
【フェラポント】 かしこまりました。〔退場〕
【オーリガ】 ねえ、ばあや、みんなあげて。わたしたちはなにもいらないわ。みんなあげてね、ばあや……わたし疲れたわ、やっと立っているの……ヴェルシーニンさんのうちの人を帰らせちゃだめよ、お嬢さんたちは客間にやすんでもらって、ヴェルシーニンさんは下の男爵のところ、フェドーチクさんも男爵のとこか、でなかったらこっちの広間に……ドクトルはまるでわざとのように酔っぱらっていて、ぐでんぐでんなの。あの人のところにはだれも泊められない。ヴェルシーニンさんの奥さんもやっぱり客間ね。
【アンフィーサ】 〔ぐったりして〕ねえ、オーリガお嬢さま、わたしを追い出さないでくださいまし! 追いださないで……。
【オーリガ】 なにをばかなことを言うの、ばあや。だれもお前を追い出しやしませんよ。
【アンフィーサ】 〔オーリガの胸に頭をうずめて〕いとしいお嬢さま、大切なお嬢さま、わたしは精だしております、働いております……身体が弱ったら、みんなに「出ていけっ!」て言われましょう。でも、このわたしに行きどころなどありません。どこへ? 八十でございますよ、数えじゃ八十二ですもの……
【オーリガ】 おかけ、ばあや……疲れたんだね、かわいそうに……〔椅子にかけさせる〕ひと休みしなさい。まあ、ずいぶん青い顔!
ナターシャ登場。
【ナターシャ】 あっちでね、一刻も早く罹災者救済会を作らなければって話がでてるの。いいじゃない? りっぱな考えだわ。全体、一刻も早くかわいそうな人たちを助けてあげなくっちゃ。それが金持ちの義務ですもの。ボービクとソーフォチカはよく寝てるわ、なにもなかったみたいに。家《うち》はもうおおぜいの人で、どこもかしこもいっぱい、町で今インフルエンザがはやっているから、子供たちにうつりやしないかと心配だわ。
【オーリガ】 〔聞こうとしないで〕この部屋からは火事が見えないから、気が落ちつくわ……
【ナターシャ】 そうね……わたし、きっと髪がくしゃくしゃだわ。〔鏡の前で〕わたしのこと、太ったなんて言うけれど……うそだわ! ちっともよ! マーシャは寝てるのね、へとへとなんだわ、かわいそうに……〔アンフィーサに向かって、ひややかに〕わたしの前でずうずうしくすわりこんだりして! お立ち! あっちへおいで!〔アンフィーサ退場。間〕あんた、なんだってあんな老いぼれをおいとくの、わたしにはわからないわ!
【オーリガ】 〔おどおどして〕ごめんなさい、わたしもわからないわ……
【ナターシャ】 なんの役にもたちやしない。あれはもともと百姓なんだから、いなかで暮らすのがほんとうよ……甘やかすことなんかありません! わたしは家の中をきちんとしておきたいの! よけいな人間は家にいるべきじゃないわ。〔オーリガの顔をなでて〕あんた、かわいそうに、疲れてるわ! 家の校長先生がお疲れだわ! うちのソーフォチカが大きくなって女学校へ入るようになったら、わたしあんたをこわがるわね。
【オーリガ】 校長になんかならないわ。
【ナターシャ】 あんたが選ばれてよ、オーリガさん。そうにきまってる。
【オーリガ】 わたし辞退するわ。とてもできません。力にあまることですもの……〔水を飲む〕あなたは今さっき、ばあやをつっけんどんに扱ったわね……ごめんなさい、でもわたしがまんできないの……眼の中が暗くなったわ……
【ナターシャ】 〔感動して〕ごめんね、オーリガさん、ごめんね……あんたにつらい目をさせるつもりじゃなかったの。
マーシャ起きあがって、クッションを持ち、ぷりぷりしながら退場。
【オーリガ】 わかってほしいわ、ナターシャさん……わたしたちはおかしな教育をうけたのかもしれないけれど、ああいうことはがまんできないの。ああした仕うちを見せつけられると、胸がギューとしめつけられるみたいで、とてもたまらなくなり……ただもうがっくりときてしまうの!
【ナターシャ】 ごめんね、ごめんね……〔彼女の手にキスする〕
【オーリガ】 ささいなことでも乱暴な態度を見せつけられたり、ぷしつけな言葉を聞かされたりすると、胸がドキドキするの……
【ナターシャ】 わたしもよくよけいなことを言うわ、それはほんとうよ。でもね、オーリガさん、このことには同意してほしいの、あの女《ひと》はいなかで暮らしたっていいじゃないの。
【オーリガ】 あれはもう三十年も家にいるのよ。
【ナターシャ】 でも今あれは働けないじゃありませんか! わたしがわからずやなのか、あんたがわたしの言うことをわかろうとしないのか、そのどちらかだわ。あの女はもう働けなくて、居眠りしているかすわりこんでいるだけよ。
【オーリガ】 じゃ、すわらせておけばいいわ。
【ナターシャ】 〔あきれて〕すわらせておけですって? でもあれは召使いなんですよ。〔涙声で〕わたし、あんたの言うことがわからないわ。オーリガさん。わたしたちのところには子守りもいるし、乳母もいるし、おまけにこの家には小間使いもお勝手働きもいるじゃない、そのほかになんであの老いぼれをおいとくことがあるの? なんのために?
舞台うらで半鐘の音。
【オーリガ】 今夜ひと晩でわたしは十も年をとったわ。
【ナターシャ】 わたしはきっぱりと話をつけておく必要があってよ、オーリガさん。あんたは女学校で、わたしは家庭、あんたの仕事は授業で、わたしの仕事は家事だわ。だからわたしが召使いのことを言うときは、自分の言ってることがわかってるんです。わかっているんですよ、自分の≪言ってる≫ことがね……よし、あしたにも追い出してやる、あの泥棒ばばあを、くたばりそこないを……〔地だんだを踏む〕あの鬼ばばあを! これ以上、いらいらさせられてたまるものか! そうはさせないよ!〔ハッと気づいて〕ほんとうに、あんたが下へ移ってくれないと、けんかの絶えまがなくってよ。ああ、いやだ、いやだ。
クルイギン登場。
【クルイギン】 マーシャはどこにいるんだろう? もう家へ帰る時刻なのに。火事は下火だそうだ。〔のびをする〕一区焼けただけですんだが、なにしろあの風だ、はじめは町じゅう総なめにされるかと思った。〔腰をおろす〕くたくただ。なあ、オーリガさん……わたしはよくこう思うよ。マーシャがいなかったら、わたしはあんたと結婚したろうって。あんたは実にいい人だ……ああくたびれた。〔耳をすます〕
【オーリガ】 なあに?
【クルイギン】 まるでわざとみたいに、ドクトルが発作性大酒症で、ぐでんぐでんに酔っぱらっている。わざとみたいに!〔立ちあがる〕ほら、こっちへ来るらしい。……聞こえるでしょう? そう、こっちだ……〔笑う〕まったく、こまった人だ……わたしはかくれよう。〔戸棚のほうへ行き、すみに立つ〕なんてしょうのない人だ。
【オーリガ】 二年も飲まなかったのに、急にまた飲んだくれるなんて……〔ナターシャといっしょに部屋の奥へひっこむ〕
チェブトゥイキン登場。しらふの人のように、ふらつかずに部屋を通り、眺め、それから洗面台に近づいて手を洗いはじめる。
【チェブトゥイキン】 〔ふきげんに〕どいつも、こいつも、くたばっちまえ……おれが医者だから、どんな病気でもなおせると思ってやがるが、おれはまるっきりなにも知っちゃいない、知ってたことはみんな忘れてしまった、なにも覚えちゃいない、まるっきりなんにも。〔オーリガとナターシャ、彼に気づかれぬように退場〕ええ、ちきしょうめ! 先週の水曜日に、埋め立て区で女の治療をしたら、……死んじまった。死んだのは、おれのせいだ。そう、二十五年も前なら、おれだってなにやかや知っていたが、今はなんにも覚えちゃいない。なんにも。ひょっとしたら、おれは人間なんてものじゃなくって、ただこうして、手も足も頭もあるようなふりをしているだけなのかもしれない。ひょっとしたら、おれはまったく存在しないで、ただ自分が歩いたり、食ったり、眠ったりしているような、気がするだけかもしらん。〔泣く〕おお、もし存在しないんだったら!〔泣きやんで陰気に〕ええ、かってにしろ……おとといクラブでみんながしゃべっていた。シェイクスピヤだの、ヴォルテールだのと……おれは読んじゃいない、てんで読んじゃいないんだが、読んだような顔をしてやった。ほかのやつらだっておれとおなじさ。俗悪だ! 卑劣だ! それに水曜に殺した女のことが思いだされて……なにからなにまで思いだされてきて、胸のなかがこうひん曲がり、けがらわしく、むかむかしてきたもんで……出かけて行って、飲んでしまった……
イリーナ、ヴェルシーニン、トゥーゼンバッハ登場。トゥーゼンバッハは新しい、流行の文官服を着ている。
【イリーナ】 ここにかけましょうよ。ここならだれもこないわ。
【ヴェルシーニン】 兵隊たちがいなかったら、町じゅうまる焼けになっていたでしょう。えらいもんだ!〔満足のために両手をこする〕みごとな連中だ! 実にすばらしい!
【クルイギン】 〔彼らに近づき〕なん時ですか、みなさん!
【トゥーゼンバッハ】 もう三時すぎです。夜が明けかかっていますよ。
【イリーナ】 みんな広間にすわりこんで、だれも帰らないの。ほら、あのソリョーヌイさんもよ……〔チェブトゥイキンに〕ねえ、ドクトル、行って寝たらいいわ。
【チェブトゥイキン】 平気ですよ!……ご心配はありがたいが……〔ひげをしごく〕
【クルイギン】 〔笑う〕ぐでんぐでんですね、チェブトゥイキンさん!〔肩をたたく〕えらいもんだ! In vino veritas 〔ラテン語。「酒中に真理あり」〕と、古人も言っていますよ。
【トゥーゼンバッハ】 みんながぼくに、罹災者救済の音楽会を開けって言うんですよ。
【イリーナ】 でも、だれが……
【トゥーゼンバッハ】 その気になれば開けますよ。マーシャさんは、ぼくが思うには、ピアノがたいへんおじょうずです。
【クルイギン】 たいへんじょうずです! ねえ。
【イリーナ】 姉さんはもう忘れてるわ。三年もひかないんだもの……四年かしら。
【トゥーゼンバッハ】 この町にはまるっきり音楽のわかる人がいません、一人だって。しかしぼくにはわかりますから、きっぱりと断言できます、マーシャさんはみごとに、ほとんど天才的といっていいくらいにひきますよ。
【クルイギン】 そのとおりです、男爵。わたしはあれを、マーシャを、すこぶる愛しています。あれはりっぱな女です。
【トゥーゼンバッハ】 あれほどすばらしくひける腕をもちながら、同時に、自分をだれひとり、だれひとり理解してくれないということを、意識しなければならないなんて!
【クルイギン】 〔ため息をつく〕そう……でもあれが音楽会に出るのは適当かどうか?〔間〕なにしろ、わたしは、みなさん、なにも知りませんのでね。ことによると、それはかまわないのかもしれない。実を言うと、うちの校長はいかにもいい人で、すこぶるいい人で、ひじょうに頭のいい人なんだが、しかしあの人の見解は……いや、もちろん、あの人の知ったことじゃないが、なんだったら、とにかく、わたしから校長に話してみてもいいですよ。
【チェブトゥイキン】 〔せと物の置時計を手に取ってながめる〕
【ヴェルシーニン】 火事さわぎでわたしはどろだらけになってしまいました。見られたざまじゃありませんよ。〔間〕きのうちらっと聞いたんですが、われわれの旅団がどこか遠方へ移されるもようです。ポーランド王国だという人もいますし、チタ〔現在のソ連邦。チタ州のこと〕だという人もいます。
【トゥーゼンバッハ】 ぼくも聞きました。それもいいでしょう。そうなるとこの町はすっかりさびしくなりますね。
【イリーナ】 わたしたちも行ってしまうわ!
【チェブトゥイキン】 〔時計を落とす。時計こわれる〕粉みじんだ!
間。一同心痛と当惑。
【クルイギン】 〔かけらを拾いながら〕こんな高価なものをこわすなんて……ええ、チェブトゥイキンさん、チェブトゥイキンさん! あなたの操行はマイナス零点ですぞ!
【イリーナ】 それ、亡くなったママの時計よ!
【チェブトゥイキン】 そうかもしれない……ママのと言えば、つまりママのだ。ひょっとすると、わたしはこわしたのじゃなくって、こわしたように見えるだけなのかもしれない。ひょっとすると、われわれも存在しているように見えるだけであって、実はわれわれはいないのかもしれない。わたしはなにも知らないし、だれもなにも知らない。〔ドアのそばで〕なにを見てるんです? ナターシャはプロトポーポフとロマンスがあるのに、あなたがたには見えない、あなたがたはそこにすわっていてなにも見えないのに、ナターシャはプロトポーポフとロマンスがある……〔歌う〕「このヤシの実を、お一ついかが……」〔退場〕
【ヴェルシーニン】 そう……〔笑う〕なにごともつきつめてみると、妙なことばかりですよ!〔間〕火事がはじまったとき、わたしは急いで家へかけつけました。そばまで来て、見ると……家はそっくり無事だし、燃える心配もありません。けれども二人の娘がしきいぎわにねまき一枚で立っていて、母親の姿は見えず、おおぜいの人がさわぎまわっている、馬や犬がかけまわっているといったありさま。娘たちの顔には不安、恐怖、祈り、それからなんといっていいやらわからない表情があらわれています。その顔を見たとき、わたしは胸がしめつけられる思いでした。やれやれ、この子たちはこの先、長い生涯のうちに、またどんな目に会わなければならないだろう! わたしは二人をひっかかえて、どんどん走りながらも、ひとつことだけ考えていました。「この子たちはこの世で、またどんな目に会わなければならないだろう!」と。〔半鐘の音。間〕ここへ来てみると、母親はさきに来ていて、わめいたり、怒ったりしてるんです。
マーシャ、クッションを持って登場。
【ヴェルシーニン】 うちの娘たちがねまき一枚でしきいのところに立っており、通りが火でまっかにそまり、すさまじい騒音がしていたとき、わたしはふと思いました。昔、不意に敵が侵入してきて、掠奪したり、火をつけたりしたときも、これと似たようなことが起きたんだろうな、と……それにしても、現在と過去では、本質的になんという大きなちがいがあることでしょう! もうすこし時がたてば、まあ二百年か三百年もすると、現在のわれわれの生活も、やはり、恐怖と憫笑《びんほう》をもってながめられることでしょうし、現在のこといっさいは、ごつごつした、重苦しい、すこぶる不便な、奇妙なものに思われるでしょう。おお、たしかにすばらしい生活になりますよ、すばらしい生活に!〔笑う〕これは失礼、また哲学をはじめてしまいました。もうすこし続けさしてください、みなさん。わたしは哲学論がしたくてたまらない、今そんな気分です。〔間〕みなさん眠ってらっしゃるようだ。じゃ、話しますよ。すばらしい生活になります! まあひとつ考えてもごらんなさい……今この町には、あなたがたのような人はたった三人しかいませんが、しかし次の世代、次の世代とだんだんふえていって、とうとうしまいには、いっさいがあなたがたの考えのように変わり、あなたがたの考えのように生活する時代がくる。で、そのつぎにはあなたがたも古くなり、あなたがたよりも優秀な人びとがどしどし生まれてくる……〔笑う〕わたしはきょう、なんだか特別な気分です。むしょうに生きたい……〔歌う〕「恋に年令《よわい》のへだてなく、そのほとばしりなべて美わし……」〔笑う〕
【マーシャ】 トラム・タム・タム……
【ヴェルシーニン】 タム・タム……
【マーシャ】 トラ・ラ・ラ。
【ヴェルシーニン】 トラ・タ・タ。〔笑う〕
フェドーチク登場。
【フェドーチク】 〔踊る〕焼けた、焼けた! まる焼けだ!〔笑い声〕
【イリーナ】 じょうだんどころじゃないわ。ほんとうにまる焼け?
【フェドーチク】 〔笑う〕きれいさっぱり。なに一つ残りません、ギターも焼けたし、カメラも焼けた、手紙もみんな……あなたにさしあげようと思っていた手帳……それも焼けちゃった。
ソリョーヌイ登場。
【イリーナ】 いけませんわ、どうぞお帰りになって、ソリョーヌイさん。ここへ来ちゃだめ。
【ソリョーヌイ】 なぜ男爵ならよくて、ぼくじゃだめなんです?
【ヴェルシーニン】 実際、出ていかなくちゃ。火事はどうです?
【ソリョーヌイ】 下火になったそうです。いや、ぼくにはまったく不可解だ、なぜ男爵ならよくて、ぼくじゃいけないのか?〔香水びんを取り出し、ふりかける〕
【ヴェルシーニン】 トラム・タム・タム。
【マーシャ】 トラム・タム。
【ヴェルシーニン】 〔笑って、ソリョーヌイに〕広間へ行きましょう。
【ソリョーヌイ】 いいとも、肝に銘じておきましょう。この考えはもっとはっきりさせることができるんだが、無益に人を怒らせぬかと心配だ……〔トゥーゼンバッハを見ながら〕トー、トー、トー……〔ヴェルシーニン、フェドーチクとともに退場〕
【イリーナ】 まあ、あのソリョーヌイったら、部屋じゅうタバコの煙でもうもうにさせて……〔けげんそうに〕男爵が寝ているわ! 男爵! 男爵!
【トゥーゼンバッハ】 〔気がついて〕それにしても、疲れましたよ……煉瓦工場が、これは寝言じゃなくて、ほんとうに、ぼくはまもなく煉瓦工場へ行って、働きだすんです、もう話がありました。〔イリーナにやさしく〕あなたは青ざめた、美しい、うっとりするような顔をしている……あなたのその青白さが、まるで光のように、暗い空気を照らしだしているような気がします……あなたは悲しそうだ、あなたは生活に不満だ……ねえ、ぼくといっしょに行きましょう、行っていっしょに働きましょう!
【マーシャ】 トゥーゼンバッハさん、ここから出てってください。
【トゥーゼンバッハ】 〔笑いながら〕あなたもここにいらしたんですか? 気がつかなくて……〔イリーナの手にキスする〕さようなら、ぼく行きます……今こうやってお顔を見ていると、いつだったか、だいぶ前、あなたの名の日のときのこと思いだしましたよ。あなたは元気で、明るく、労働のよろこびについて語られた……あのときはぼくの目に、幸福な生活がありありと見えたことでした! それは今どこへいったんでしょう?〔手にキスする〕あなたは眼に涙を浮かべている。横におなりなさい、もう夜が明けかけていますよ、朝です、あなたのために生涯をささげることを許していただけたら!
【マーシャ】 トゥーゼンバッハさん、出て行ってください! ほんとうに、まあ、なんて……
【トゥーゼンバッハ】 行きますよ……〔退場〕
【マーシャ】 〔横になりながら〕あんた、寝てるの?
【クルイギン】 あ?
【マーシャ】 家へ帰ればいいのに。
【クルイギン】 わたしのかわいいマーシャ、大事なマーシャ……
【イリーナ】 姉さんはへとへとなの……休ませてあげるといいわ、兄さん。
【クルイギン】 今行くよ……わたしのりっぱな、すばらしい奥さん……わたしはお前を愛してるよ、わたしのかけがえのない……
【マーシャ】 〔憤然として〕 Amo, amas, amat, amamus, amatis, amant,〔アモ、アマス、アマト、アマムス、アマティス、アマント=ラテン語の動詞「愛する」の現在変化〕
【クルイギン】 〔笑う〕いや、ほんとうに、驚嘆すべき女性だよ。お前をめとって七年になるが、ついきのう婚礼をあげたような気がする。ほんとうだよ。いや、まったく、お前は驚嘆すべき女性だ。わたしは満足だ、わたしは満足だ、わたしは満足だ!
【マーシャ】 あきあきした、あきあきした、あきあきした!……〔起きあがってすわったままで話す〕どうしても頭をはなれないの……憤慨しちゃうわ。頭の中にこびりついているので、とても黙っちゃいられない。あのね、アンドレイのことなの……アンドレイがこの屋敷を銀行へ抵当に入れて、そのお金はみんなあの妻君がふんだくっちまったのよ。でもこの屋敷はアンドレイひとりのものじゃなくて、わたしたちきょうだい四人のものなんじゃない! そんなことわかっているはずよ、まともな人間なら。
【クルイギン】 よせばいいのに、マーシャ! お前はどうだっていいじゃないか? アンドレイ君は借金で首がまわらないんだ、ほうっておけばよい。
【マーシャ】 どっちにしたってしゃくにさわるわ。〔横になる〕
【クルイギン】 わたしたちは別にこまってやしない。わたしは働いている、中学に勤めているし、そのあとで個人教授だ……わたしは清廉《せいれん》な人間だ……気どらない人間だ……いわゆる Omunia mea mecum porto〔オムニア、メア、メクム、ポルト ラテン語。自分のものはすべて身につけている、の意〕
【マーシャ】 わたしはなにもほしくなんかないわ。でも不正を見せつけられるとむかむかするの。〔間〕あなた、もう行ってよ。
【クルイギン】 〔彼女にキスする〕お前は疲れている、半時間ほど休んだらいい、わたしはあちらですわって待っているから……おやすみ……〔行く〕わたしは満足だ、わたしは満足だ、わたしは満足だ。〔退場〕
【イリーナ】 実際、兄さんも堕落したものね。あんな女がそばにいるので、すっかり気力がなくなり、老けこんでしまったわ! 前には教授になる意気ごみだった人が、きのうは、やっと地方自治会の議員になれたって自慢していたの。兄さんが議員で、プロトポーポフが議長……町じゅうがその話で持ちきりで笑っているのに、兄さんだけは見えも聞こえもしないってわけ……今だってみんなが火事場へかけつけたというのに、自分だけはのうのうと居間にひきこもって、どこ吹く風なの。バイオリンばかりひいている。〔いらだって〕ああ、たまらない、たまらない、たまらない!……〔泣く〕わたしできない、とてもこれ以上がまんできない!……できない、できない!……
オーリガ登場。自分の小テーブルのあたりをかたづける。
【イリーナ】 〔大声をあげて泣く〕わたしをほうり出して、ほうり出して、わたしはもうだめなの!……
【オーリガ】 〔びっくりして〕どうしたの、どうしたの? ねえ、イリーナ!
【イリーナ】 〔むせび泣きながら〕どこへ? どこへみんな行ってしまったのかしら? あれはどこなのかしら? ああ、まったく、何ということでしょう!わたしはみんな忘れてしまった、忘れてしまった……頭の中がごっちゃになってしまった……わたしはもう覚えていない、イタリヤ語で窓をなんというんだったか、あの天井をなんというんだったか、なにもかも忘れていく、毎日のように忘れていく、それなのに生活はすぎ去って、二度ともどってこない、わたしたちはいつになったって、けっしてモスクワヘなんか行けっこないわ……わたし、わかっている、行けるもんですか……
【オーリガ】 イリーナちゃん、イリーナちゃん……
【イリーナ】 〔自分をおさえながら〕ああ、わたしは不幸だわ……わたしは働けない、もう働くのはやめたわ。たくさん、もうたくさん! 前には電信係をやり、今は市役所に勤めているけれど、わたしに与えられる仕事なんか、どれもこれも憎らしく、ばかばかしい……わたしはもう数えの二十四で、働きに出てからだいぶたつ。おかげで、脳みそはカラカラにひからびるし、やせるし、老けてしまったというのに、なに一つ、なに一つ、どんな満足も得られない。それなのに時はすぎていき、ほんとうの美しい生活から離れてゆくような気がする。だんだん遠くへ離れていって、なにか深い淵の中へでも落ちこんでゆくような気がする。わたしは絶望だわ、どうしてまだ生きているのか、どうしてこれまで自殺しなかったのか、自分でもわからない……
【オーリガ】 泣かないで、イリーナ、泣かないで……わたしもつらくなるから。
【イリーナ】 わたし、泣かないわ、泣かないわ……もうたくさん……ほら、もう泣いていないでしょう。たくさん……もうたくさん!
【オーリガ】 ねえ、イリーナ、きょうだいとして、また友だちとして言うけれど、わたしの忠告が聞きたかったら、男爵のところへお嫁にいきなさい!
【イリーナ】 〔静かに泣く〕
【オーリガ】 あんたはあの人を尊敬しているし、りっぱな人だと思っているんでしょう……そりゃ、あの人はたしかに醜男《ぶおとこ》だけれど、きちんとした、純潔な人だわ……だいたい、お嫁にいくのは相手を愛してるからじゃなくって、自分の義務をはたすためなのよ……少なくともわたしはそう思うし、わたしだったら愛していなくてもお嫁にいくわ。だれが申しこんだって、かまやしない、いっちゃうわ、ただきちんとした人でさえあるなら……お年よりのところへだっていくわ……
【イリーナ】 わたしずっと待っていたの、モスクワヘ行ったら、むこうでわたしのほんとうの人に会えるだろうって。わたしはその人のことを空想し、恋していたの……でも、なにもかもばかげたことだとわかったの、なにもかも……
【オーリガ】 〔妹を抱く〕わたしのかわいいイリーナ、美しい妹、わたしにはよくわかるわ。トゥーゼンバッハ男爵が軍職を退いて、背広姿で家へきたとき、あの人があんまり醜男に見えたので、わたしは涙がこぼれたの……「なにを泣いてらっしゃるんです?」ってあの人が聞くでしょう。まさかわたしから言うわけにもいきませんし! でも、もしあの人があんたと結婚することになれば、わたしは願ったりだと思うわ。それとこれとは別問題ですもの。
ナターシャがろうそくを持って、右手のドアから左手のドアヘ、黙って舞台を横切る。
【マーシャ】 〔すわりなおして〕あの人ったら放火犯人みたいにうろうろしているわ。
【オーリガ】 マーシャ、あんたはばかね、うちの家族でいちばんばかなのはあんたよ。そう言っちゃ悪いけど。〔間〕
【マーシャ】 ねえ、あんたたち、わたしざんげがしたいの。胸が苦しくって。あんたたちに打ち明けたら、もうそれっきりだれにも、けっして……今言うわね。〔小声で〕これはわたしの秘密だけれど、あんたがたにはぜひとも知ってもらいたいの……わたし黙っていられない……〔間〕わたしは愛している。愛している……愛してるの、あの人を……たった今、あんたたちの見た人を……なに、言ったってかまやしない。つまり、ヴェルシーニンさんを愛してるの。
【オーリガ】 〔自分のつい立てのかげに行く〕やめといて。どうせわたしは聞いてないんだから。
【マーシャ】 だってしかたがないわ!〔頭をかかえる〕はじめは変な人だと思っていたけれど、それからかわいそうになり、それから好きになってしまったの……あの人の声も、言うことも、ふしあわせも、二人の女の子も、好きになってしまったの……
【オーリガ】 〔つい立てのかげで〕わたしどうせ聞いてないわ。あんたがどんなばかなことを言っても、どうせわたしは聞いていない。
【マーシャ】 あら、あんたおばかさんね、オーリャ。わたしが恋をしている……というのは、それがつまり、わたしの運命ってことよ。つまり、わたしの定めなの……あの人もわたしを愛している、これはみんな恐ろしいことだわ。そうでしょう? これ、よくないことでしょう?〔イリーナの片手を取ってひきよせる〕わたしのかわいいイリーナ……わたしたちはこの先どうやって一生を送るのかしら、わたしたちはどうなるのかしら……小説なんか読むと、なにもかも古くさくて、みんなわかりきったことのような気がするけれど、いざ自分で恋をしてみると、だれにもなんにもわかっちゃいない。人はめいめい自分のことは自分で解決しなければならないということが、はっきりとわかるわ……ねえ、あんたたち、打ち明けたから、もう黙るわ、今度はゴーゴリの気ちがい〔ゴーゴリの短編小説「狂人日記」の主人公をさす〕のようにしてるわ……黙って……黙って……
アンドレイ、つづいてフェラポント登場。
【アンドレイ】 〔腹だたしげに〕なんの用があるんだ? いっこうにわからん。
【フェラポント】 〔ドアのところでじれったそうに〕わたしは、プローゾロフさん、もう十ぺんも言いました。
【アンドレイ】 第一におれはお前にプローゾロフさんなどと、気やすく呼ばれるいわれはない、先生と言え!
【フェラポント】 先生、消防隊が川へ出るのに、お庭を通らしてくださいって。ぐるっとまわった日には、えらい遠まわりになるんで。
【アンドレイ】 よろしい。いい、と言え。〔フェラポント退場〕うるさいやつらだ。オーリガ姉さんはどこだろう?〔オーリガ、つい立てのかげから出てくる〕あんたに用があってきたんだ、戸棚の鍵をくれないか、自分のをなくしちゃったから。こんな小さな鍵持ってるだろう。
オーリガ黙って鍵を渡す。イリーナは自分のつい立てのかげへ行く。間。
【アンドレイ】 ひどい大火事だ! やっと下火になった。ちきしょう、あのフェラポントめが、ひとをいらいらさせるもんで、ついばかなことを言ってしまった……先生、だなんて……〔聞〕なぜ黙ってるんだね、オーリガ姉さん?〔間〕いいかげんばかなまねはやめて、そんなにふくれるのはよさないか、わけもないのに……マーシャもここにいるし、イリーナもいる、ちょうどいい……腹蔵《ふくぞう》なく話しあってきっぱりと片をつけようじゃないか。君たちはぼくになにをふくんでいるんだ? なにを?
【オーリガ】 やめて、アンドリューシャ。お話はあしたにしましょう。〔興奮して〕なんていやな晩でしょう!
【アンドレイ】 〔ひどくうろたえて〕興奮しないでくれ。ぼくはまったく冷静にきいているんだ。なにを君たちはぼくにふくんでいるのだ? 率直に言ってくれ。
【ヴェルシーニンの声】 トラム・タム・タム!
【マーシャ】 〔たちあがって大きな声で〕トラ・タ・タ!〔オーリガに〕さよなら、オーリャ、お大事に。〔つい立てのかげに行き、イリーナにキスする〕ぐっすりおやすみ……さよなら、アンドレイ。あっちへ行きなさいよ、この人たちは疲れているんだから……あしただって話はできるでしょう……〔退場〕
【オーリガ】 ほんとうに、アンドリューシャ、あしたまでのばしましょうよ……〔自分のつい立てのかげへ行く〕寝る時刻よ。
【アンドレイ】 ひとこと言ったら、出て行くよ。すぐだ……第一に、君たちはナターシャに、ぼくの妻に、なにかふくんでいるが、ぼくはそのことに結婚の当日から気がついているんだ。ナターシャはりっぱな、誠実な人間だ、まっすぐで、高潔な……これがぼくの意見だ。自分の妻をぼくは愛し、尊敬している、いいかね、愛し、尊敬していて、ほかの人たちもあれを尊敬することを要求する。くりかえして言うが、あれは誠実な、高潔な人間で、君たちの不満はみな、失礼ながら、気まぐれにすぎない……〔間〕第二に、君たちは、ぼくが教授でなく、学問に従事していないことに、どうやら不服なようだ。しかしぼくは地方自治会に勤めている。地方自治会の議員をしていて、この自分の奉仕を、学問への奉仕と同じように、神聖で高尚なものだと思っている。ぼくは地方自治会の議員だし、それを誇りに思っているよ、知りたければ教えてやるが、〔間〕第三に……ぼくはまだ言うことがある……ぼくは君たちの同意を求めないで、この屋敷を抵当に入れた……これは重々ぼくが悪い、だからあやまる。ぼくにそうさせたのは借金だ、三万五干の……ぼくはもうカルタはしない、とっくにやめた、が、しかし、ぼくとして弁解できる大事な点、それは、君たちは未婚の娘で恩給をもらっているが、ぼくにはその、かせぎといったものがなかったということだ……〔間〕
【クルイギン】 〔ドアからのぞいて〕マーシャはここにいませんか?〔心配そうに〕どこへ行ったんだろう? 不思議だな……〔退場〕
【アンドレイ】 聞いていないんだな。ナターシャはすばらしい、誠実な人間だ。〔黙って舞台を歩きまわる。それから立ちどまる〕ぼくは結婚するとき、こう思っていた。ぼくたちは幸福になれるだろう……みんなも幸福になれると……ああ、情けない……〔泣く〕ぼくの愛する、大事な姉さんや妹たち、ぼくの言うことを信じないでくれ、信じないで……〔退場〕
【クルイギン】 〔ドアからのぞいて心配そうに〕マーシャはどこだ? ここにマーシャはいませんか? おどろいたな、どうも。〔退場〕
半鐘の音。舞台空虚。
【イリーナ】 〔つい立てのかげで〕オーリャ! 床をたたいてるのだれ?
【オーリガ】 あれはドクトルよ、チェブトゥイキンさんよ。あのひと酔ってるの。
【イリーナ】 落ちつかない夜ね!〔間〕オーリャ!〔ついたてのかげからのぞいて〕聞いた? 旅団はここから引きあげて、どこか遠い所へ移るんだって。
【オーリガ】 ただのうわさよ。
【イリーナ】 そうなったら残るのはわたしたちだけね……オーリャ!
【オーリガ】 なあに?
【イリーナ】 あのねえ、わたしは男爵を尊敬してるの、りっぱな方だと思うの。あの人はりっぱな人だわ、わたしあの人のところへお嫁にいくわ、承知するわ、ただ、モスクワヘ行きましょうよ! お願い、行きましょう! この世にモスクワよりいいとこはどこにもないわ! 行きましょうよ、オーリャ! 行きましょう!〔幕〕
[#改ページ]
第四幕
プローゾロフ家の古い庭。長いモミの並木道。そのつきるところに河が見える。河の対岸に森。右手に家のテラス。そこのテーブルの上に酒びんやグラス。今しがたシャンパンをあけたらしいようす。昼の十二時。往来から河のほうへ時おり通行人が庭を通って行く。兵隊が五人ほど足早に通りすぎる。
チェブトゥイキンはおだやかな上きげんである。それはこの幕を通じて変わらない。庭のひじかけ椅子にすわって、呼ばれるのを待っている。軍帽をかぶりステッキを持っている。イリーナ、首に勲章をさげたクルイギン〔口ひげをつけていない〕、およびトゥーゼンバッハが、テラスに立って、段々をおりて行くフェドーチクとローデを見送っている。両士官は行軍の服装。
【トゥーゼンバッハ】 〔フェドーチクとキスをかわす〕君はいい人だよ、ぼくたちは仲よく暮らしたっけ。〔ローデとキスしあう〕もう一度……さようなら、君……
【イリーナ】 またお会いしましょう!
【フェドーチク】 いいえ、さようならですよ、もう二度とお目にかかることはないでしょう!
【クルイギン】 わかるもんですか!〔眼をふき、微笑する〕わたしまで、つい泣いてしまった。
【イリーナ】 いつかお会いできるわ。
【フェドーチク】 十年か十五年もたってから? でもそのときは、お互いに思いだすのもやっとで、ひややかにあいさつをかわすことでしょう……〔写真をとる〕そのまま……最後にもう一枚。
【ローデ】 〔トゥーゼンバッハを抱く〕もう会えないだろう……〔イリーナの手にキスする〕いろいろとありがとう、いろいろと!
【フェドーチク】 〔いまいましそうに〕おい、じっとしてろよ!
【トゥーゼンバッハ】 たぶんまた会えるだろうさ。手紙をくれたまえ。きっとだよ。
【ローデ】 〔庭を眺めまわして〕さようなら、木立!〔叫ぶ〕ヤッホー!〔間〕さようなら、こだま!
【クルイギン】 あちらで、ポーランドで、結婚するかもしれないね……ポーランド人の妻がだきついて言うだろうよ。「|あんた《コハーネ》!」とね。〔笑う〕
【フェドーチク】 〔時計を見て〕あと一時間たらずだ。われわれの砲兵中隊では、ソリョーヌイだけがはじけて行って、われわれは部隊といっしょに行きます。きょうは三個中隊が個別に出発し、あすまた三個中隊……それで町はひっそりと静かになりますよ。
【トゥーゼンバッハ】 それからおそろしく退屈にね。
【ローデ】 マーシャさんはどこですか?
【クルイギン】 マーシャは庭にいます。
【フェドーチク】 あの人にお別れをしなくちゃ。
【ローデ】 さようなら、行かなくちゃなりません、さもないとぼくは泣きだしてしまう、〔すばやくトゥーゼンバッハとクルイギンを抱きしめ、イリーナの手にキスする〕ぼくたちはここでじつに楽しくすごしました、
【フェドーチク】 〔クルイギンに〕これを記念にあなたに……鉛筆つきの手帳です、ぼくたちはここから河のほうへ出ます……〔二人ふりかえりながら立ち去る〕
【ローデ】 〔叫ぶ〕ヤッホー!
【クルイギン】 〔叫ぶ〕さようなら!
舞台の奥でフェドーチクとローデはマーシャに出会い、別れを告げる。彼女もいっしょに退場。
【イリーナ】 行ってしまった……〔テラスの下の段に腰をおろす〕
【チェブトゥイキン】 わたしにはお別れを言うのを忘れて行ってしまったよ。
【イリーナ】 あなたはまた、どうして?
【チェブトゥイキン】 わたしもなんとなく忘れてしまった。もっともあの連中とはじきに会える、わたしはあした発つんだから。そう……もう一日ある。あと一年して退職したら、またここへ来て、あなたがたのそばで余生を送りたい……恩給がつくまで、あとほんの一年だ……〔ポケットに新聞を入れ、別のを取り出す〕あなたがたのところへもどってきたら、生活を根本的に改めますよ……しごくおだやかな、このま……このましい行儀のいい人間になりますよ……
【イリーナ】 ほんとにあなたは生活を変えなくてはねえ。どうにかして、そうしなくちゃ。
【チェブトゥイキン】 そう。自分でも感じています。〔小声で口ずさむ〕タララ……ブンビヤー……|道の置《シジュー・ナ・》|石に腰かけて《トゥンベ・ヤー》……
【クルイギン】 チェブトゥイキンさんはなおりませんよ! なおるもんですか!
【チェブトゥイキン】 ひとつあんたにしこんでもらおう。そしたらなおるだろうな。
【イリーナ】 兄さんはひげをそってしまったの。見られやしないわ!
【クルイギン】 どうして?
【チェブトゥイキン】 あんたが今度はなにに似てきたか言おうと思ったんだが、ま、やめとこう。
【クルイギン】 なに、かまやしない! こうするのがしきたりで、これは Modusu vivendi 〔ラテン語。生活様式〕だよ。うちの校長はひげをそっているので、わしも生徒監になるとき、そってしまった。だれにも気にいらないが、わたしにとってはどっちみち同じことだ。わたしは満足だ。ひげがあろうが、なかろうが、ひとしく満足だ……〔腰をおろす〕
舞台の奥をアンドレイが赤んぼうを乗せた乳母車をおして通る。
【イリーナ】 ねえ、わたしの大好きなチェブトゥイキンさん、わたしなんだか、ひどく胸さわぎがするの。あなたはきのう広小路へいらしたわね。あそこでなにがあったか教えてくださらない?
【チェブトゥイキン】 なにがあった? なにも。つまらんことですよ。〔新聞を読む〕おなじことです!
【クルイギン】 うわさじゃ、なんでもソリョーヌイと男爵が、きのう広小路の劇場のへんで出会って……
【トゥーゼンバッハ】 やめてください! まったく、なんてことを〔片手をふって家の中へ退場〕
【クルイギン】 劇場のへんで、ソリョーヌイが男爵に言いがかりをつけた。で、男爵もがまんできず、なにかひどいことを言った……
【チェブトゥイキン】 知りませんね。みんなチェプハー〔くだらんこと〕さ。
【クルイギン】 どこかの神学校で先生が、作文の時間に「チェプハー」と書いたら、ある生徒が「レニークサ」と読んだそうだ。ラテン語だと思ったんだね。〔笑う〕ひどくこっけいだよ……人のうわさだと、なんでもソリョーヌイがイリーナにほれていて、それで男爵にうらみをもっていた、というんだがね……それなら話はわかる。イリーナはたいへんいい娘だ。マーシャに似たところまであって、やはり考えこむたちだ。ただあんたはね、イリーナ、性格がもっとやさしい。もっともマーシャだって、実に気だてがいい。わたしはあれを、マーシャを愛している。
舞台のうら、庭の奥のほうで、「おーい!」「ヤッホー!」の声。
【イリーナ】 〔身ぶるいする〕わたし、きょうはなんだかびくびくしつづけなの。〔間〕もうすっかり用意ができているわ。食事がすんだら荷物を送り出すの。あした男爵と結婚式《しき》をあげて、あしたのうちに二人で煉瓦工場に向けて発ち、あさってはわたしはもう小学校に出ている。新しい生活がはじまるんだわ。うまくいってくれますように! 女教員の試験に受かったとき、わたしうれしくて、ありがたくて泣いたほどよ……〔間〕もうすぐ馬車が荷物を取りにくる……
【クルイギン】 そりゃまあそんなものだが、ただなんだかそのこと全体が真剣じゃないな。理想だけ先走りして、真剣味がたりない。とはいうものの、心から成功を祈るよ。
【チェブトゥイキン】 〔感動して〕わたしのすばらしい、りっぱなイリーナさん……わたしの大事な……あんたはずいぶん先へ行ってしまった、とても追いつけやしない。わたしははるかうしろに残された、老いぼれて飛べなくなった渡り鳥みたいに。飛んで行きなさい、あんたたち、気をつけて!〔間〕クルイギンさん、あんたはひげをそったりして、むだなことをしたもんだ。
【クルイギン】 たくさんですよ!〔ため息をする〕これできょう、軍人たちが行ってしまえば、万事がふたたびもとどおりになるだろう。なんと言われようと、マーシャはりっぱな、潔白な女だ、わたしはあれをひじょうに愛しており、自分の運命に感謝している……人の運命はさまざまだ……ここの税務署にコズイリョーフというのが勤めている。わたしと同級だったが、どうしても| ut conectivum (ウト・コンセクティヴム)〔ラテン語の結果をあらわす ut 〕がわからなくて、五年のとき中学をやめさせられてしまった。今その男はひどく貧乏していて、病気だが、会うとわたしは「こんにちは、|結果の ut 君《ウト・コンセクティヴム》!」と言ってやるんだ。するとやっこさんは、「そう、まさしくその| consectivum (コンセクティヴム)〔結果〕だよ……」と言ってせきこむしまつさ……が、わたしはこのとおり一生運がよくて、幸福で、そら、このスタニスラーフ二等勲章まで持っていて、自分が今ではこの| ut conectivum (ウト・コンセクティヴム)を人に教えているご身分だ。もちろん、わたしは頭のいい人間で、ひじょうに多くの人たちよりも頭がいいが、しかし幸福はそこにあるわけじゃない……
家の中では、ピアノで『乙女の祈り』をひいている。
【イリーナ】 あしたの晩はもう、あの『乙女の祈り』を聞くこともないし、プロトポーポフに出っくわすこともないわ……〔間〕プロトポーポフがあそこの客間にすわりこんでいるの。きょうもやって来たわ……
【クルイギン】 校長先生はまだかな?
【イリーナ】 まだ。迎えにやったわ。オーリガ姉さんのいないこの家に、わたしが一人で暮らすのがどんなにつらいか、それがあなたにわかっていただけたら……オーリャは学校に住んでいるの。オーリャは校長先生だから、一日じゅう仕事でいそがしい、ところがわたしは一人ぼっちで、退屈で、なんにもすることがないし、自分の住んでいる部屋までにくらしいの……それでわたしは急に決心したの。モスクワヘ行けないものなら、それでもしかたがない。つまり、それが運命なんだから、どうにもなりゃしない……みんな神さまのみ心しだい、ほんとうにそうよ。そこヘトゥーゼンバッハさんがわたしに、結婚を申しこんだの。いいじゃない? ちょっと考えてきめたの。あの人いい人だわ、驚くほど、実にいい人なの。するとわたし、いきなり魂に翼が生えたようになり、心がうきうきし、気持ちがはずんできて、またいっしょうけんめい働きたくなったの……ただほら、きのうなにかあったっていうでしょう、なにかしら秘密がわたしの頭の上におおいかぶさって……
【チェブトゥイキン】 レニークサさ。つまらんことですよ。
【ナターシャ】 〔窓から〕校長さんよ!
【クルイギン】 校長さんがお見えだ、行きましょう。
イリーナといっしょに家へはいる。
【チェブトゥイキン】 〔新聞を読みながら、小声で口ずさむ〕タララ・ブンビヤー……|道の置石に腰かけて《シジュー・ナ・トゥンペ・ヤー》……
マーシャが近づいてくる。舞台の奥をアンドレイが乳母車をおして通りすぎる。
【マーシャ】 こんなところにすわりこんでるわ……
【チェブトゥイキン】 なんです?
【マーシャ】 〔腰かける〕なんでもないの……〔間〕あなたはうちのママが好きだったの?
【チェブトゥイキン】 たいへんに。
【マーシャ】 で、ママのほうは?
【チェブトゥイキン】 〔間をおいて〕それはもう覚えてませんね。
【マーシャ】 うちの人きまして? いつかうちの台所女のマルファが、つれあいの巡査のことをそう言ってたの、「うちの人」って。うちの人きまして?
【チェブトゥイキン】 まだです。
【マーシャ】 わたしみたいに、幸福を時たま、ちょっぴりずつ手に入れては、それを失っていると、しだいに気持ちがすさんできて、根性がねじけてくるの……〔自分の胸をさして〕わたし、ここが煮えくりかえってるの……〔乳母車をおして通るアンドレイを見て〕ほら、兄貴のアンドレイよ……希望がみんなだめになってしまって。なん千という人が鐘《かね》を持ちあげようとして、多くの労力と金を使っだあげく、突然それが落ちて、割れてしまった。不意に、これという理由もなしに。アンドレイもそうだわ……
【アンドレイ】 いったい、いつになったら家の中が静かになるのかなあ! ひどいさわぎだ。
【チェブトゥイキン】 じきさ。〔時計を見る〕わたしの時計は旧式で、時を打つんだよ……〔ねじを巻く、時を打つ〕第一、第二、第五中隊は一時ちょうどに出発する。〔間〕わたしはあしただ。
【アンドレイ】 行きっきり?
【チェブトゥイキン】 わかりませんなあ。ことによると、一年後には帰ってくるかもしれない。といっても、わかったもんじゃない……おんなじことさ……
どこか遠くでハープとバイオリンの合奏をしている。
【アンドレイ】 町はさびしくなる。まるでふたでもかぶせたみたいに。〔間〕きのう劇場のあたりでなにかあったんだって。みんながその話をしているが、ぼくは知らない。
【チェブトゥイキン】 なんでもない。ばかげたことだ。ソリョーヌイが男爵にからみだしたので、男爵がカッとなってソリョーヌイを侮辱した。とどのつまり、ソリョーヌイが男爵に決闘を申しこまねばならぬことになったのさ。〔時計を見る〕そろそろ時刻のようだな……十二時半に、官有林《かんゆうりん》で、ほら、ここから河向こうに見えるだろう、あそこで……ポンポンとやるわけさ。〔笑う〕ソリョーヌイはレールモントフ気どりで、詩まで書いている。それはともかく、三度目の決闘だって。
【マーシャ】 だれが?
【チェブトゥイキン】 ソリョーヌイですよ。
【マーシャ】 男爵のほうは?
【チェブトゥイキン】 男爵に何があるもんですか?〔間〕
【マーシャ】 わたし、頭の中がこんがらがってしまった。とにかく、二人にそんなことをさせてはいけないわ。あの人は男爵を負傷させるかしれないし、ひょっとしたら殺してしまうかもしれない。
【チェブトゥイキン】 男爵はいい人だが、しかし男爵が一人多かろうと、少なかろうと……おんなじことじゃありませんか? 好きにさせときなさい! おんなじことです!〔庭のかなたで叫び声。「おーい! ヤッホー」〕いま行くよ。あれは介添人《かいぞえにん》のスクヴォルツォーフがどなっているんです。ボートに乗っていますよ。〔間〕
【アンドレイ】 ぼくの考えでは、決闘の当事者となるのも、立会人となるのも、たとえ医者としてでも、まったく不道徳だと思いますね。
【チェブトゥイキン】 そんな気がするだけさ……わたしたちはいない、この世にはなにもいない、われわれは存在しない、ただ存在するような気がするだけ……どっちみちおなじことじゃないか!
【ナターシャ】 一日じゅうあんなことをくどくど言ってるんだわ、この人たち……〔歩きだす〕こんな時候の中で暮らしていて、今にも、雪が降りそうだというのに、その上まだこんな話を聞かされるなんて……〔立ちどまりながら〕わたしは家の中へは入らないわ、とても入れない……ヴェルシーニンさんがきたら、知らせてちょうだい……〔並木道を行く〕もう渡り鳥が飛んで行く……〔空を見あげて〕白鳥かしら、雁《がん》かしら……かわいい、しあわせな鳥たち……〔退場〕
【アンドレイ】 うちもさびしくなるなあ。将校たちは行ってしまう、あなたも行ってしまう、妹はお嫁に行く、残るのはぼく一人だ。
【チェブトゥイキン】 奥さんは?
【アンドレイ】 家内は家内ですよ。あれは潔白な、しっかりした、それにまあ、善良な女です。しかしそれにもかかわらず、家内のなかには、あれをみじめな、盲目的な、こう毛のもじゃもじゃと生えた動物に下落させているなにかがあるんです。いずれにしてもあれは人間じゃありません。こんなことを言うのは、あなたがぼくの親友だから、心の底を打ち明けられるただ一人の人間だからです。ぼくはナターシャを愛している。それはそうだけれど、時おりあれがひどく俗悪に見えることがあって、そのようなときぼくは、途方にくれて、わからなくなるんです、なんのために、どうしてぼくがあの女をこんなに愛しているのか、あるいは少なくとも、愛していたのか……
【チェブトゥイキン】 〔立ちあがる〕わたしは、君、あした発つ。もしかしたら、もう二度と会えないかもしれない。そこで君に忠告しておくよ。いいかね、帽子をかぶり、手に杖を持って出て行くことだ……出て行って、あともふり向かずにどんどん歩いて行くのだ。遠くへ行けば行くほど、ますますいいのさ。
ソリョーヌイが二人の将校とともに舞台を通りかかる。彼はチェブトゥイキンの姿を見て、こちらへやってくる。将校たちは先へ行ってしまう。
【ソリョーヌイ】 ドクトル、時間ですよ! もう十二時半だ。〔アンドレイとあいさつをかわす〕
【チェブトゥイキン】 今すぐ。君たちには閉口だよ。〔アンドレイに〕だれかわたしのことをたずねたらね、アンドレイ君、すぐ帰ると言ってください……〔ため息をつく〕おお、お、お!
【ソリョーヌイ】 「あっというまもなく、熊は百姓に襲いかかった」さ。〔彼といっしょに行く〕なにをうめいているんです、ご老体?
【チェブトゥイキン】 ふん!
【ソリョーヌイ】 ごきげんいかがです?
【チェブトゥイキン】 〔腹だたしげに〕ご貴殿《きでん》いかんね。〔原文は前文と語呂合わせになっている〕
【ソリョーヌイ】 ご老体は興奮なさることはありませんよ。ぼくはちょっとやるだけです、相手をボトシギみたいに射って傷つけるだけですよ。〔香水を出して両手にふりかける〕きょうは一びんすっかり使ってしまったのに、やっぱり臭い。ぼくの手は死体のにおいがする。〔間〕さて、と……あの詩を覚えていますか?「叛乱の子は嵐を求む、嵐の中に安らぎありと!〔レールモントフの詩「帆船」の一節〕」
【チェブトゥイキン】 そう。「あっというまもなく、熊は百姓に襲いかかった」さ。〔ソリョーヌイといっしょに退場〕
「ヤッホー! おーい!」という叫び声が聞こえる。アンドレイとフェラポント登場。
【フェラポント】 書類に署名を……
【アンドレイ】 〔いらだって〕そこをどいてくれ! どいて! 頼むから!〔乳母車をおして退場〕
【フェラポント】 署名するための書類じゃねえだか。〔舞台の奥へ退場〕
イリーナと麦わら帽子をかぶったトゥーゼンバッハ登場。クルイギン「おーい、マーシャ、おーい!」と叫びながら舞台を通る。
【トゥーゼンバッハ】 この町であの人ぐらいのものでしょうね、軍隊の発って行くのをよろこんでいるのは。
【イリーナ】 わかるわ。〔間〕この町もさみしくなるわ。
【トゥーゼンバッハ】 イリーナさん、すぐ帰ってきますから。
【イリーナ】 どこへ行くの?
【トゥーゼンバッハ】 町へ行かなくちゃならないし、それから……仲間の見送りだの。
【イリーナ】 うそ……ニコライ、どうしてきょうはそんなにうわのそらなの?〔間〕きのう劇場のあたりでなにがあったの?
【トゥーゼンバッハ】 〔いたたまれない身ぶりで〕一時間したら帰ってきて、またいっしょにいますよ。〔彼女の両手にキスする〕いつまで見ていても見あきない……〔彼女の顔をみつめる〕ぼくがあなたを恋するようになってから、もう五年もたつのに、あいかわらずどころか、あなたはますます美しくなってゆくような気がする。魅惑的な、すばらしい髪! すてきな眼! ぼくはあした、あなたをつれて発つ。ぼくたちは働いて、金持ちになる。ぼくの夢がよみがえるのだ。あなたも幸福になれる。ただ一つ、ただ一つだけ心残りなこと……あなたはぼくを愛していない!
【イリーナ】 それはわたしの方じゃどうにもなりませんの! わたし、あなたの妻に、貞淑な、従順な妻になりますわ、でも愛はありません、しかたがないんです!〔泣く〕わたしは生まれて一度も愛したことがありません。ああ、わたしはどんなに愛を夢みたことでしょう、ずっと前から、昼も夜も夢みてきたのに、わたしの心はまるで、ふたをしめて鍵をなくしてしまった大事なピアノみたいですの。〔間〕あなた、そわそわした眼つきをしてらっしゃるわ。
【トゥーゼンバッハ】 ぼくはひと晩じゅう眠りませんでした。ぼくの生活には、ぼくをびっくりさせるような怖ろしいことはなにもありません。ただその失われた鍵がぼくの心をさいなみ、ぼくを眠らせてくれないのです……なにか言ってください……〔間〕なにか言ってください……
【イリーナ】 なにを? なにを言えばいいの? なにを?
【トゥーゼンバッハ】 なにか。
【イリーナ】 もういいわ! もういいわ!〔間〕
【トゥーゼンバッハ】 実にくだらない、実にばかげたことが、これといった理由もないのに、突然、人生において重大な意義を持ってくることが、時おりありますね。それまでのように笑いものにし、ばかにしているうちに、ずるずると引きずられていき、気がついたときにはもう踏みとどまることができない。いや、こんな話はよしましょう! ぼくは陽気だ。まるで生まれてはじめて、あのモミの木や、カエデや、白樺を見るような気がするし、すべてのものがぼくのほうをもの珍しげに見て、ぼくを待っているみたいだ。なんという美しい木だろう、だから、本来、美しい木のそばには、美しい生活があるべきなんだ!〔「おーい!」「ヤッホー!」という叫び声〕行かなければならない、もう時間だ……ほら、あの木は枯れているけれど、やっぱりほかの木といっしょに風に揺れている。あのように、もしぼくが死んでも、やはりなんらかのかたちで人生に参加していくだろうという気がする。さようなら、かわいいイリーナ……〔両手にキスする〕君のくれた手紙は、ぼくの机の上の、カレンダーの下にあるよ。
【イリーナ】 わたしもいっしょに行くわ。
【トゥーゼンバッハ】 〔あわてて〕いけない。いけない!〔急いで行くが、並木道で立ちどまって〕イリーナ!
【イリーナ】 なあに?
【トゥーゼンバッハ】 〔言葉に窮して〕ぼくはきょうコーヒーを飲まなかった。入れておくように言っといて……〔足早に退場〕
イリーナ考えこんで立っている。やがて舞台の奥に去りブランコに腰かける。アンドレイ乳母車をおして登場。フェラポント姿をあらわす。
【フェラポント】 プローゾロフさん、書類はわしのもんじゃねえ、お役所のもんですよ。わしが考えだしたんじゃねえだ。
【アンドレイ】 ああ、あれはどこなんだ、どこへ行ってしまったんだ、おれの過去は? おれは若くて、快活で、頭がよかった。おれはあのころ美しい空想や思索にふけったものだ。おれの現在と未来は希望に輝いていた。なぜわれわれは生活をはじめるが早いか、退屈に、灰色に、つまらなく、怠慢に、無関心に、無益に、ふしあわせになるのだろう……この町は二百年も前からあり、十万の住民がいるのに、ほかのやつらと似ていないやつは、一人としていない。昔も今も一人の功労者もいなければ、一人の学者も、一人の芸術家もいない。それどころか、羨望の念を起こさせ、みならってやろうという熱烈な願望をかきたてるような、ちょっとでも気のきいたやつさえいないのだ……ただ食って、飲んで、寝て、それから死んでゆくだけだ……また別のが生まれてきて、やはり食って、飲んで、寝て、退屈ぼけがしないように、卑劣な陰口《かげぐち》や、ウォッカや、カルタや、裁判ざたなどで生活をまぎらす。妻君が亭主をだますと、亭主はうそをつき、なにも見えず、なにも聞こえないふりをする。俗悪きわまる影響は子供たちを圧迫し、その持っている神々しいひらめきは消えうせ、彼らも父母同様のあわれな、お互い似たりよったりの亡者《もうじゃ》となっていくのだ……〔フェラポントに、腹だたしげに〕なんの用だ?
【フェラポント】 なんの用かって? 書類に署名ですよ。
【アンドレイ】 お前にはあきあきしたよ。
【フェラポント】 〔書類をさし出しながら〕今さっき税務監督局の門番が言っとりました……なんでも、冬、ペテルブルグじゃ、二百度の寒さだったとか。
【アンドレイ】 現在はいやらしいが、そのかわり未来のことを考えると、実にすばらしいなあ! 心ははずみ、気は大きくなり、遠くのほうに光がさしはじめ、自由が見えてくる。おれや子供たちが、怠惰や、クワスや、キャベツをそえた鵞鳥《がちょう》や、食後の昼寝や、いやしい寄生生活から解放されるようすが、ありありと見えるのだ……
【フェラポント】 なんでも二千人こごえ死んだとか。みんなおじ気をふるったそうです。ペテルブルグだったか、モスクワだったか……覚えてませんがね。
【アンドレイ】 〔やさしい感情にとらえられて〕愛する姉妹《きょうだい》たち、すばらしい姉妹たち!〔涙声で〕マーシャ、おれの妹……
【ナターシャ】 〔窓から〕だれ、そんな大きな声でしゃべっているのは? まあ、あなたなの、アンドリューシャ? ソーフォチカが目をさますわよ。 Il ne faut pas faire du bruit, la Sophie est dormee deja. Vous etes un ours.〔フランス語。うるさくしないで。ソフィヤがもう眠っているのよ。あんたは熊男だわ。〕〔ぷりぷりして〕おしゃべりしたかったら、赤ちゃんの乳母車をだれかほかの人に渡したらいいわ。フェラポント、旦那さまから乳母車を取りあげておくれ!
【フェラポント】 かしこまりました。〔乳母車を取りあげる〕
【アンドレイ】 〔きまりわるそうに〕ぼくはそっと話してるんだよ。
【ナターシャ】 〔窓の中で、子供をあやしながら〕ボービク! お茶目なボービク! いたずらなボービク!
【アンドレイ】 〔書類に目を通しながら〕よろしい、調べてみて、必要なものには署名する。お前はまた役所へ持ってってくれ……〔書類を読みながら、家の中へ退場〕
フェラポントは乳母車を庭の奥へおしてゆく。
【ナターシャ】 〔窓の中で〕ボービク、ママはなんて名前? おお、いい子、いい子! じゃこれはだあれ? これ、オーリャ伯母さん。伯母さんに言ってごらん、「こんにちは、オーリャ!」って。
旅の音楽師、男と娘がバイオリンとハープを合奏する。家の中からヴェルシーニン、オーリガ、アンフィーサが出てきて、ちょっとのあいだ聞き入る。イリーナが歩いてくる。
【オーリガ】 うちの庭は通路みたいに人や馬が通るのね。ばあや。この楽師さんたちになにかあげてちょうだい!
【アンフィーサ】 〔楽師たちにあげる〕気をつけて行きなされ。あんたがた。〔楽師たちおじぎをして退場〕不幸な人たちだ。腹がくちければ、ひきもすまいに。〔イリーナに〕こんにちはアリーシャ〔アリーナの愛称、アリーナはイリーナの俗称〕!〔彼女にキスする〕ええ、ええ、お嬢さま。このとおり元気でいますよ! このとおり元気で! 女学校の官舎にオーリガお嬢さまといっしょに暮らしています……年とったら、神さまのおぼしめしで。生まれてこのかた、こんなけっこうな暮らしはしたことがございません……家は大きいし、お上のものですし、わたしにもちゃんと寝台つきの一部屋があてがわれましてな。みんな官費です。夜中に目をさますと、……ああ神さま、聖母マリアさま、わたしより幸福なものはおりません、とつくづく思うんですよ!
【ヴェルシーニン】 〔時計を見て〕そろそろおいとまします、オーリガさん。時間ですから。〔間〕ではごきげんよう、ごきげんよう……マーシャさんはどこでしょう?
【イリーナ】 庭のどこかにいてよ……行って、さがしてくるわ。
【ヴェルシーニン】 お願いします。急ぎますので。
【アンフィーサ】 わたしも行ってさがしましょう。〔呼ぶ〕マーシャお嬢さまあ!〔イリーナといっしょに庭の奥へ退場〕お嬢さまあ!
【ヴェルシーニン】 なにごとにも終わりがあります。われわれもこうしてお別れすることになりました。〔時計を見る〕市がわれわれに朝食のようなものを出してくれ、シャンパンを飲み、市長が演説したりしましたが、食べたり聞いたりしながらも、わたしの心はここへ、あなたがたのところへ飛んできていました〔庭を見まわす〕すっかりおなじみでしたのに。
【オーリガ】 またいつかお目にかかれるときがあるでしょうか?
【ヴェルシーニン】 まあ、ないでしょう。〔間〕妻と二人の娘はなお二月ほど当地に滞在します。なにかあったり、まさかのときには、どうかよろしく……
【オーリガ】 ええ、ええ、もちろん。どうぞご心配なく。〔間〕町にはあしたから一人も軍人がいなくなり、いっさいが思い出となってしまいますわ。そして、むろん、わたしたちにとっても新しい生活がはじまるでしょう……〔間〕なにごとも思いどおりにならないものですわ。わたしは校長になりたくなかったのに、やっぱりなってしまいました。つまり、モスクワヘは行けないってわけ……
【ヴェルシーニン】 はあ……いろいろとありがとうございました……行きとどかなかったことはお許しください……たくさん、実にたくさんおしゃべりをしました……これも悪しからずおゆるしねがいます。
【オーリガ】 〔目をぬぐう〕どうしてマーシャは来ないのかしら……
【ヴェルシーニン】 お別れにのぞんで、あなたになにを申しあげたらいいか? なんについて哲学をはじめましょうか?〔笑う〕人生は苦しい。それはわれわれ多くの者にとって、出口のない、絶望的なものですが、それでもやはり、しだいに明るく、楽になってゆくことは認めなければなりません。そして、おそらく、人生がすっかり明るくなる時代は、そう遠くはありますまい。〔時計を見る〕時間です、もう時間です! 昔、人類は戦争でいそがしく、遠征だの、侵入だの、勝利だのでその全存在をみたしてきましたが、今ではそんなものはすでに廃《すた》れて、あとには大きな空白が残されています。今のところそれをみたすべきものがなにもありません。人類は熱烈にさがし求めていますし、むろん、発見するでしょう。ああ、それが一刻でも早いといいですね!〔間〕もしも、いいですか、勤勉に教育を加え、教育に勤勉を加えるならばですよ。〔時計を見る〕しかし、もう時間です……
【オーリガ】 マーシャがきましたわ。
マーシャ登場。
【ヴェルシーニン】 お別れにきました……
オーリガ、別れのじゃまにならないように、すこしわきへ離れる。
【マーシャ】 〔彼の顔を見つめて〕さようなら……〔長いキス〕
【オーリガ】 もういいわ、もういいわ……
【マーシャ】 〔はげしく号泣する〕
【ヴェルシーニン】 お手紙をください……忘れないで! はなして……時間です……オーリガさん、この人を頼みます、わたしはもう……時間です……おくれてしまいました……〔ひどく感動してオーリガの両手にキスし、それからもう一度マーシャを抱きしめ、足早に退場〕
【オーリガ】 もうたくさん、マーシャ! やめて、ねえ……
クルイギン登場。
【クルイギン】 〔当惑して〕いや、なんでもない、しばらく泣かせておくといいです、そのまま、わたしの大事なマーシャ、やさしいマーシャ……お前はわたしの妻だし、わたしは幸福だよ、なにごとがあろうと……わたしは不平は言わない、お前を責めもしない……ほら、ここにいるオーリャが証人だ……またもとどおりに生活をはじめよう、わたしはお前にひと言だって、遠まわしにだって……
【マーシャ】 〔号泣をこらえて〕「入江のほとりみどりなす槲《かしわ》の木あり、黄金の鎖そが上にかかりて、黄金の鎖そが上にかかりて……」わたし気が狂いそうだ……「入江のほとり……みどりなす槲の木……」
【オーリガ】 落ちついて、マーシャ……落ちついて……この人に水をやって。
【マーシャ】 わたしはもう泣かないわ……
【クルイギン】 あれはもう泣いていない……あれはやさしい……
遠くのほうで一発のにぶい銃声が聞こえる。
【マーシャ】 「入江のほとりみどりなす槲の木あり、黄金の鎖そが上にかかりて……緑の猫……みどりの槲の木……」こんぐらかってしまった……〔水を飲む〕失敗の人生……もうわたしにはなにもいらない……わたし、すぐ落ちつくわ……どうせ同じことだわ……「入江のほとり」ってなんだろう? なぜこの言葉が頭にこびりついているんだろう? 頭のなかが混乱している。
イリーナ登場。
【オーリガ】 落ちついて、マーシャ。ほら、おりこうさん……部屋へはいりましょう。
【マーシャ】 〔腹だたしく〕行かないわ、そんなところへ。〔号泣するが、すぐ泣きやんで〕わたしはもうこの家へは来ない、今も行かない……
【イリーナ】 いっしょにこうしてすわっていましょう、黙ってでもいいから。あしたはわたし発つんですから……〔間〕
【クルイギン】 きのう三年生の教室で、あるわんぱく小僧から、ほら、このつけひげを取りあげたんだよ……〔ひげをつける〕ドイツ語の先生に似ているだろう……〔笑う〕そうじゃないかね? おもしろい連中だよ、あの子供たちは……
【マーシャ】 ほんとうにあんたの学校のドイツ人に似てるわ。
【オーリガ】 〔笑う〕そうね。
【マーシャ】 〔泣く〕
【イリーナ】 たくさんだわ、マーシャ姉さん!
【クルイギン】 すこぶる似ている。
ナターシャ登場。
【ナターシャ】 〔小間使いに〕なんだって! ソーフォチカにはプロトポーポフさんがついてくださるし、ボービクは旦那さまに乳母車に乗せてもらえばいいわ。子供ってほんとに世話がやけるわ〔イリーナに〕イリーナさん、あんたあした発つのね……おなごり惜しいわ。せめてもう一週間いるといいのに。〔クルイギンを見て金切声をあげる。クルイギンは笑ってつけひげを取る〕ひどいわ、びっくりさせて!〔イリーナに〕わたしはあんたとすっかりおなじみになってしまったから、あんたと別れるとなると、やっぱりつらいわ、わかる? あんたの部屋には、アンドレイにバイオリンを持って移らせるわ……あそこでキイキイひかせるの!……で、アンドレイの部屋にはソーフォチカをいれるの。おどろくべき、すばらしい赤ん坊よ! なんというりっぱな女の子でしょう! きょう、わたしをこんなお目々で見て……「ママ」って言うの!
【クルイギン】 りっぱな赤ちゃん、それはたしかだ。
【ナターシャ】 するとあしたは、わたしはもう一人になるのね。〔ため息をする〕まず第一に、あのモミの並木道を切らせることにするわ、それからカエデの木も……夜になるとあのカエデは、実にいやな姿になるんだもの……〔イリーナに〕ねえ、あんた、そのバンドあんたにまるで似あわなくってよ……悪趣味だわ。なにかもっとうすい色にしなくちゃ。それからわたし、ここいらじゅうに花を植えさせるわ。いい匂いがするように……〔きびしく〕なんだってこのベンチの上にフォークがころがってるの?〔家へあがりこみながら、小間使いに〕なんだってこのベンチの上にフォークがころがってるのかって、聞いてるんですよ。〔叫ぶ〕おだまり!
【クルイギン】 そうら、かんしゃくを起こした!
舞台うらで軍楽隊の奏する行進曲。一同聞き入る。
【オーリガ】 発って行くわ。
チェブトゥイキン登場。
【マーシャ】 発って行くわ、あの人たち。まあ、いいわ……道中ご無事で!〔夫に〕家へ帰らなければ……わたしの帽子とそでなし外套はどこ?
【クルイギン】 家の中へいれといたよ……すぐ取ってこよう。
【オーリガ】 そうね。もうめいめい家へ帰ってもいいわ。時間だもの。
【チェブトゥイキン】 オーリガさん!
【オーリガ】 なあに?〔間〕なんですの?
【チェブトゥイキン】 なんでもありません……なんと申しあげていいか……〔彼女に耳うちする〕
【オーリガ】 〔驚いて〕まさか!
【チェブトゥイキン】 ええ……そういうしだいです……わたしはへとへとだ、ぐったりしてしまった、もう口をきくのもいやだ……〔いまいましげに〕しかし、同じこった!
【マーシャ】 なにがおきたの?
【オーリガ】 〔イリーナを抱きしめる〕きょうは恐ろしい日だわ……あんたにどう言っていいやら、大事なイリーナ……
【イリーナ】 なによ? 早く言って。なんなの? ごしょうだから!〔泣く〕
【チェブトゥイキン】 いましがた決闘で男爵が殺されました。
【イリーナ】 〔そっと泣く〕わたし知っていたわ、わたし知っていたわ……
【チェブトゥイキン】 〔舞台の奥でベンチに腰をおろす〕へとへとだ……〔ポケットから新聞を取り出す〕しばらく泣くがよい……〔小声で口ずさむ〕タ・ラ・ラ・ブンビヤー……|道の置石に腰かけて《シジュー・ナ・トゥンペ・ヤー》……同じことじゃないか!
三人姉妹がよりそって立つ。
【マーシャ】 ああ、あの楽隊の音! あの人たちはここを発って行く。一人は行きっきりで、永遠に帰ってこない。わたしたちだけここに残って、またわたしたちの生活をはじめるのだわ。生きてゆかなければ……生きてゆかなければ……
【イリーナ】 〔オーリガの胸に頭をのせて〕やがて時がくれば、だれにもわかるでしょう、どうしてこんなことがあるのか、なんのためにこういった苦しみがあるのかが。わからないことはなにもなくなるでしょう。でもさしあたり生きてゆかなければ……働かなくちゃ、ただ働かなくちゃ! あした、わたしはひとりで発つわ。学校で教えて、自分の一生涯を、それを必要とするかもしれない人たちにささげるわ。今は秋、だからじき冬がきて雪がつもるけれど、わたしは働くわ……働くわ。
【オーリガ】 〔二人の妹を抱きしめる〕楽隊はあんなに楽しそうに、元気に演奏している。聞いていると、生きてゆこうって気になるわ! ああ! やがて時がたつと、わたしたちも永久にいなくなるんだわ、わたしたちは忘れられてしまう、わたしたちの顔も、声も、なん人きょうだいだったかということも。けれどもわたしたちの苦しみは、わたしたちのあとに生きる人たちのよろこびに変わって、幸福と平和が地上におとずれるでしょう。そして現在こうして生きている人たちを感謝の気持ちで思いだし、祝福してくれるでしょう。ねえ、あんたたち、わたしたちの生活はまだおしまいじゃないわ。生きてゆきましょう! 楽隊はあんなに楽しそうに、あんなにうれしそうに演奏している。あれを聞いていると、もうすこしたてば、なぜわたしたちが生きているのか、なぜ苦しんでいるのか、それがわかるような気がするわ……それがわかったら、それがわかったらね!
楽隊の音、しだいに遠ざかる。クルイギン、浮き浮きとほほえみながら、帽子と外套を持ってくる。アンドレイ、ボービクを乗せた乳母車をおしてくる。
【チェブトゥイキン】 〔小声で口ずさむ〕タラ……ラ……ブンビヤー……道の置石に腰かけて……〔新聞を読む〕おんなじことさ! おんなじことさ!
【オーリガ】 それがわかったら、それがわかったらね!〔幕〕
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解説
人と文学
〔生いたち〕
アントン・パーヴロヴィチ・チェーホフは、一八六〇年、南ロシヤの商港ダガンローグに生まれた。この一八六〇年に生まれたということは、ロシヤの歴史ではかなり意味深いことである。なぜなら、その翌年一八六一年は、ロシヤで農奴制が廃止された記念すべき年だからである。
チェーホフの父はダガンローグの町で雑貨商を開いていたが、祖父はもと農奴であった。しかし祖父は有能な人だったので、身代金をはらって自由民となっている。それにしても祖父の代まで農奴であったことは、作家チェーホフの人間形成に大きな影響を与えていることは否定できないであろう。
チェーホフの幼年時代はつらいものであった。「私の幼年時代には幼年時代がなかった」と彼は後年回想している。父は暴君で、子供たちは笞《むち》でおしおきをされた。店の商売はもちろん手伝わされたし、教会の合唱隊のなかで歌うことも強制された。もっとも彼は、かなり才覚のある人であったらしい。それは後年チェーホフが、自分たちきょうだいは、才能は父から、心は母からうけついだ、と語っているからである。
チェーホフのきょうだいたちはいわば芸術一家というところで、長兄のアレクサンドルはジャーナリスト、次兄のニコライは画家、妹のマリーヤは女流画家(長年ヤルタにあるチェーホフ記念館の館長をしていた)、弟のミハイールは作家だったし、おなじく弟のイワンは教育家だった。このきょうだいたちは仲むつまじかったが、みんなに共通していたのは、ユーモアに富んでいたことである。なかでも三男のアントン・チェーホフは、ぬきんでていた。あるとき少年チェーホフは、乞食に身をやつしておじさんの家へおもらいに出かけたことがあった。あんまり上手にばけたので、おじさんはほんとうの乞食と思ったそうである。
母は普通のロシヤ婦人であった。おとなしくて、やさしくて、思いやりのある人だった。チェーホフに大きな影響を与えたと言われている。
一八六七年、父はチェーホフを、兄のニコライといっしょにギリシャ人の学校へ勉強にやることにした。父は子供たちを金持ちの商人にしたてたいと夢見ていたのである。しかしこの学校は二部授業どころか、五部授業であった。まともな教育のできるはずもない。一年後にここの教育がなんの役にも立たないのを知って、父は二人を中学校に入れることにした。
タガンローグの中学校にチェーホフは十一年在学した(一八六八〜七九)。成績がかんばしくなく、二度落第したからである。その理由はチェーホフの生活条件にあった。彼はたえず勉強を中断しなければならなかった。店番をしたり、教会の合唱隊で歌ったり、靴屋の仕事の見習いをさせられたりした。一家の生活は苦しく、お金がたりなかった。しばしば授業料が払えなくて、お金ができるまでなん週間もなんか月も学校へ行かずに家にいた。チェーホフの中学時代は灰色であった。
一八七六年、商売不振のため一家はモスクワに移り、チェーホフの家は競売になった。チェーホフだけが学業を続けるためタガンローグに残ったが、七九年に中学を卒業、モスクワに移った。そしてモスクワ大学医学部に入学する。当時チェーホフは十九才である。つまりチェーホフは三年間、タガンローグで家族と離れて暮らしたことになるが、それは少年に独立自主の精神をうえつけるのに役立った。
医学の学生としてすごした五年間は、チェーホフの世界観、人生観を形成する上に、きわめて大きな意義をもつものであったことは言うまでもない。後に彼はつぎのように回想している。「疑いもなく、医学修業は私の文学活動に重大な影響を与えた。それは私の観察の領域をひろめ、私の知識を豊かにした……」
〔文学への道〕
さて大学に入ったものの、チェーホフはあいかわらず貧乏であった。一家はたえず物質的窮乏に苦しめられた。大学生チェーホフは働いて学資をかせぎ、かつまた一家を助けることが必要だった。安閑としているわけにはいかない。彼は筆名でユーモア雑誌に寄稿をはじめた。こうした条件が彼のごく短い、枠にはまった小説の形式を決定した。処女作『ドンの地主の手紙』は大学に入った翌年、一八八〇年の「とんぼ」という雑誌に掲載されている。
医学と文学の二筋道をかけながら、一八八四年モスクワ大学を卒業したチェーホフは、卒業して医者となってからも文学をやめなかった。八四年に第一作品選集、八六年第二選集、八七年には第三、第四選集を出すほどの健筆ぶりである。さらに八八年には、短編集『たそがれ』によってプーシキン賞を受賞した。『熊』、『結婚申込み』のような戯曲の名作が、やはりこの年に上演されている。もうこのころになると、チェーホフは、作家として世に立つ自信を固めたことであろう。八九年にはペテルブルグのアレクサンドリンスキイ劇場で上演された『イワーノフ』が成功を収めた。モスクワのアブラーモワ劇場での『森の精』は、成功というわけにいかなかったが、小説『退屈な話』がやはりこの年に書かれている。そしてこの年、すなわち一八八九年までを、チェーホフの作家活動の一くぎりと見ていいであろう。普過言われているところによると、このころまでがチェーホフのトルストイ主義……悪に対する無抵抗主義……の心酔時代であって、人間として、作家として、大きく成長するのは、一八九〇年のシベリヤ・サハリン(樺太)旅行のあとである。
〔シベリヤの旅〕
一八九〇年四月、チェーホフはモスクワを出発してサハリン島へむかった。経路はモスクワ、ニージニイ、ノヴゴロド、チュメーニ、トムスク、アチンスク、クラスノヤールスク、イルクーツク、ブラゴヴェーシチェシスク、ニコラエフスクである。サハリン島へついたのは七月だった。まだシベリヤ鉄道が開通していなかったころで、チェーホフは四千露里(約四千キロ)の行程を馬で旅行しなければならなかった。河川の氾濫、寒気、泥濘《でいねい》といった困難な条件とたたかいながら、目的地にたどりついた彼は、三月をサハリン島ですごした。この間、懲役人や流刑にされた人びとの生活実態をつぶさに視察した。チェーホフが自分から進んで困難な旅に出かけたことは、彼がけっして引っこみ思案の書斎人でなかったことを物語っている。
さて、目的を果たしたチェーホフは、十月にサハリン島を出発、太平洋、印度洋を経由して十二月にモスクワに帰着した。しかし旅行中の無理がたたって健康をそこね、喀血し、やがてそれがチェーホフの命を奪うことになる。けれども作家チェーホフにとって、サハリン旅行の体験は豊かなみのりをもたらした。人生に対する態度、世界観は、このあたりを境目として、より深く、批判的に、きびしくなってゆく。それはやがて『六号室』や、『箱入り男』、『百姓』などに結晶した。
〔理想を求めて〕
「私は自由主義者でも保守主義者でもない、……私はただ自由な芸術家でありたいだけだ」と言っていたチェーホフが、サハリン旅行から帰ってくると、つぎのように言っている。「ああ、諸君、なんと退屈なことだ! 私が医者ならば、患者と病院が入用だ。私が文学者ならば、こんなマーラヤ・ドミトロフカの家(モスクワの彼の家)なんかでマングースを相手に暮らしていずに、民衆の中で生活することが必要だ。社会的・政治的な生活の一かけらでもいい、ほんのちっぽけな一かけらでもいい、それが入用だ……」
政治に対する無関心からぬけ出るためには、現実的な理想がなければならない。そのような理想、未来への夢が、シベリヤの旅の中でチェーホフによって語られていることは注目にあたいする。エニセイ河のほとりにたたずみながら、チェーホフは思った。「いまにどんなに完全な、聡明な、剛毅な生活が、この両岸を輝かすことであろうか」
このような思想の転回は実生活にも反映していく。一八九一年、西ヨーロッパを旅行したチェーホフは、旅行記『サハリン島』を執筆する。翌九二年には飢餓農民救済の仕事で活躍した。このころモスクワ近郊のメーリホヴォ村に転居した。地方自治体にも参加し、農民の衛生や教育にも積極的に尽力している。創作の面では『妻』『決闘』『六号室』『無名氏の話』『わが生活』『百姓』『すぐり』『イオーヌイチ』などが書かれ、劇『かもめ』『ワーニャ伯父さん』などが発表された。
〔晩年〕
一八九四年にはふたたび外遊した。ウィーン、ミラノ、ゼノア、ニースなど。翌九五年はヤースナヤ・ポリャーナにレフ・トルストイを訪問している。九六年にはコーカサス、クリミヤの旅に出た。この年の十月十一日、アレクサンドリンスキイ劇場で『かもめ』が初演されたが、完全に失敗した。翌九七年、結核が悪化し喀血した。入院、のちビアッリッツ、ニースに病を養った。九八年、『かもめ』が芸術座で初演され、大成功をおさめた。このとき、女優オーリガ・クニッペルを知った。また演出家ネミローヴィチ・ダンチェンコやスタニスラーフスキイと近づきになる。九九年、一家はヤルタに移る。ここでチェーホフはゴーリキイに会った。
一九〇〇年、チェーホフはアカデミーの会員にえらばれ、翌年クニッペルと結婚した(四十一歳)、一九〇二年、作家ゴーリキイがいったんアカデミーの会員にえらばれながら、のちに取り消されたのに抗議して、チェーホフはアカデミー会員を辞した。一九〇四年『桜の園』が芸術座で初演され、成功。しかし健康がいよいよ悪化し、外遊の旅先ハーディウァイラー(ドイツ)で客死した。享年四十三。
〔チェーホフ文学の特徴と意義〕
チェーホフの作風は最初は笑い、諷刺によって支えられていたが、のちにはしだいに幻滅、哀愁がただようようになり……それはポベドノースツェフの圧制時代の反映であった……、晩年にはさらにその中から一筋の光明が感じられるようになった。彼は多くの作品で八〇年代のインテリゲンチャの代表……なんの役にも立たぬ意気地を失った人びと、生活の安易に溺れている余計者……を描いている。その作品にはいたるところ凡俗性、小市民根性に対する諷刺、嘲笑が見られる。しかし彼はつねに、医者としての、科学者としての、対象にたいする客観的態度をすてない。しかも彼は単なる傍観者としてとどまらなかった。彼においては対象にたいする客観的態度とヒューマニズムとが融和しているのである。彼の作品に人の心をほのぼのと温めるものがあるのはそのためであろう。またチェーホフの劇は気分劇とか情調劇とか言われる独特のもので、いわゆる芝居がかったやり方は極力しりぞけられ、日常茶飯事的情景が淡々とくりひろげられてゆくなかで、人生の真実を示そうとするものである。したがってその演出の上でも総合演出が重視され、近代劇に清新な風を送りこんだ功績は大きなものがある。
チェーホフはわが国ではずいぶん古くから読まれてきた。しかし彼は絶望的厭世観の作家と見られてきた。部分的にはたしかにそうかもしれない。しかしそれがチェーホフの到達点だと見るならばまちがいである。この点、かえって文学者でない人、たとえば哲学者西田幾多郎の意見などは、聞くべきもののように思われる。彼はチェーホフの小説を批評しているのであるが、それは小説だけでなく劇にも当てはまる言葉のように思われる。いや、至言ではなかろうか。
「私は短編小説では、チェーホフのものを愛する。チェーホフの書いたものの背後にも暗いものがある。それは灰色というよりもむしろ暗いものである。しかしその暗いものは単なる暗いものではなくして、どこかに明るみをもっている。暗い夜が明けがたに近づいて、東の地平線上に、一抹の赤い線が引かれているような感じがする」(『煖爐《だんろ》の側から』)
『三人姉妹』(一九〇〇)作品解説
モスクワ芸術座で上演するために書かれた脚本で、一九〇一年一月三十一日に同座で初演された。『三人姉妹』がはじめて印刷されたのは、一九〇一年「ロシヤ思想」誌二号である。一九〇二年作品集第七巻の再版にあたり、作者により補足訂正がおこなわれた。
プローゾロフ家の三人姉妹、若くて、美しくて、才能のある三人(オーリガ、マーシャ、イリーナ)が、将軍であった父の死後、田舎町の低俗な環境の中で、しだいに若さを失い、きりょうも衰え、才能もむだについえてゆく物語を軸に、働くことのなかに人生の意義のあることが強調されている。家庭劇的な要素が、社会劇的なそれとないまぜになっているが、ここでも芝居のすじはごく自然に展開されてゆき、できるだけ作意の跡をとどめないように構成されている。
長女のオーリガは婚期を逸した女学校の先生で、のちに校長になる。幸福な結婚をすることがかつては彼女の夢であったが、それが幻滅となった今でも、教師という職業があるだけに、彼女には生活のはりあいがあると言えよう。弟の妻ナターシャに家を追い出された年老いたばあやのアンフィーサを自分の手もとに引き取ることができたのも、経済的に自立できる生活力を持っているからである。そうでなければどんなに彼女がやさしい気持ちの人であっても、そこまで手がまわらないであろう。
次女のマーシャは不幸な結婚に苦しんでいる。彼女は女学校を出るとすぐに、中学のラテン語の教師であるクルイギンと結婚する。そのころ彼女には、クルイギンがこの世でもっとも頭のよい、りっぱな人に思われたからである。しかしすぐに自分のまちがいに気づく。夫は外面的なお体裁ばかり気にする俗物でしかない。そのくせ彼は彼女を愛しているし、彼女にはやさしい。それがかえってマーシャにはたまらない。むしろ憎みあったほうが彼女にとっては気がはれるにちがいないのに……自分の軽蔑している人間に愛されることよりも、屈辱的なことはおよそないからだ。と、ちょうどそこへ旧知のヴェルシーニン中佐が赴任してくる。彼もまた家庭的に不幸である。二つの不幸な魂がたがいによりそう。しかしその愛は束の間の不毛の愛である。しょせん実を結ぶことはない。けれどもそう知りながらも、片時のものと知りつつも、愛さずにはいられないのが愛というものである。マーシャとヴェルシーニンの愛は、ヴェルシーニンの転任によって終わりをつげる。ピアノが巧みで頭の回転もすばしこそうなマーシャ。しかしだれも彼女の真の値打ちを認めてくれず、その才能は発揮する場をもたない。「宝の持ちぐされ」である。その彼女に人生の意義を説き、生きる希望を吹きこんでくれたのは、ヴェルシーニンであり、彼の抱いている未来への明るい期待である。ヴェルシーニンの去ったあとの心の空白を彼女はどのようにして埋めるのであろうか。中学教師の妻である彼女の生活は一応安定している。しかし彼女は「黄金の鎖」に結ばれて、槲の木にゆわえられている「猫」ではなかろうか。
三女イリーナは社会に有用な労働に身をささげることを早くから望んでいる。だが現実はきびしい。彼女は勤めに身心をすりへらす。幸福を求めて彼女はトゥーゼンバッハ男爵と結婚する決心をするが、男は決闘で死ぬ。イリーナは絶望の中から雄々しく立ち上がる決意をする。小学校の教師として……
三人姉妹以外の人たちもそれぞれの苦労から解放されているわけではない。自分を愛していない妻を持つクルイギン。失恋の傷手から恋敵を殺すソリョーヌイ。三人姉妹らの亡母に思慕をよせ、ずっと独身で通してき、今も彼女らのそばで暮らしているチェブトゥイキン。一見のん気なようでいて、酒乱のときに本音を吐いた。しかし彼は一種の虚無思想にかぶれていて、自分の愛しているイリーナの幸福を守るために、指一本動かすわけではない。かえって結果的には人殺しの手助けをする。
アンドレイもまた受難者である。妹のマーシャのように、彼もまちがった結婚をする。かつては人生の理想に燃え、功名心にはやった彼も、俗悪な妻の尻にしかれ、ずるずると太平しごくな生活の中にはまりこんでゆく。反面、妻ナターシャの旺盛な生活力には、読者もたじたじとならざるを得ない。
こうした凡俗な沈滞した空気のなかで、人はパン以外の何によって生きていったらいいのか。生きてゆくよすがとなるものは、「まあかりに、この町の十万の人々のなかで……もちろん、それは時代おくれの、無教育な連中ばかりですが……そのなかで、あなたがた(三人姉妹)のような人はたった三人だとします。むろん、あなたがたは周囲の無知蒙昧《むちもうまい》な大衆に打ち勝つことなどできやしない」だが「あなたがたのような人が、あなたがたのあとに、今度は六人出てくるかもしれませんし、それから十二人、それからまた……というふうにふえていって、ついには、あなたがたのような人たちが、大多数となるかもしれません。二百年、三百年後の地上の生活は想像もできないほどすばらしい、驚くべきものとなるでしょう」との期待、楽天主義的な世界観である。
また社会の急転換を予測する言葉がトゥーゼンバッハによって、つぎのようにのべられているのは、物情騒然たる二十世紀初頭のロシヤ社会の空気のなかに、作者チェーホフが身をもって感じた近づく革命の象徴として興味ぶかい。「たくましい、はげしい嵐がもりあがっていて、それはすぐそばまできており、やがてわれわれの社会から怠惰や、無関心や、勤労への軽蔑や、くされきった倦怠だのを一掃するでしょう。ぼくは働きますよ。あと二十五年か六年もたてば、人間はみんな働くようになりますよ。みんな!」
事実数年後、すなわち一九〇五年には、ロシヤに第一次革命が到来したのであった。
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年譜
一八四一 農奴だった祖父エゴール、身代金を払って一家自由民となる(自分と三人の息子の代金計三千五百ルーブリ)。
一八六〇 一月十七日、アントン・チェーホフ、南ロシヤの商港タガソローグ市(アゾフ海沿岸)に生まれる。父パーヴェル・エゴーロヴィチは食料雑貨店をいとなむ。店は朝の五時に開店、夜十一時閉店。きょうだいはアレクサンドル、ニコライ、アントン、イワン、マリーヤ、ミハイール。
一八六七(七歳) 秋、ギリシャ教会付属準備学級に入る。
一八六八(八歳) 八月、タガンローグ中学準備学級に入る。
一八六九(九歳) 秋、タガンローグ古典中学校入学。
一八七五(十五歳) 秋、二人の兄モスクワに行く。長兄はモスクワ大学に、次兄は美術学校に入学。
一八七六(十六歳) 四月、父破産。タガンローグの家は競売になり、一家モスクワに移る。アントンだけタガンローグに残り、家庭教師をして自活。
一八七九(十九歳) 六月、中学卒業。九月、モスクワ大学医学部入学。
一八八〇(二十歳) 三月、ユーモア短編『ドンの地主……の手紙』(のちに『学のある隣人への手紙』と改題)をペテルブルグの週刊誌「とんぼ」に掲載。現存する最初の作品。以後七年間、アントーシャ・チェーホンテ、兄きの弟、その他のペン・ネームで、四百編以上の短編、小品、雑文を「とんぼ」「目覚し時計」「見物人」「がらくた」などの週刊誌や新聞に寄稿。
一八八一(二十一歳) 四幕戯曲『プラトーノフ』を書き、劇場に持参するが上演をことわられる。
一八八二(二十二歳) ペテルブルグのユーモア週刊誌「がらくた」の発行者レイキンを知る。その後五年間に同誌に約三百編の短編やスケッチを寄稿。
一八八三(二十三歳) 短編『官吏の死』『嫁入り支度』
一八八四(二十四歳) 六月、モスクワ大学医学部卒業。地方自治会病院の医者として働く。十二月、最初の喀血。暮れに医師開業。第一選集『メリポメーナ物語』(自費出版)。短編『かき』
一八八五(二十五歳) 五月、「ペテルプルグ新聞」に寄稿しはじめる。夏、風景画家レヴィターンを知る。十二月、最初のペテルブルグ旅行。文壇の大歓迎をうける。保守派の大新聞「新時代」の社長スヴォーリン、小説家グリゴローヴィチ(『不幸なアントン』の作者)を知る。『下士官プリシベーエフ』『悲しみ』
一八八六(二十六歳) 二月、「新時代」紙に『追善供養』をのせ、はじめて本名を使う。四月、二度目の喀血。第二選集『色とりどり集』、短編『アニュータ』『物騒な客』『ワーニカ』『ふさぎの虫』
一八八七(二十七歳) 四月、南ロシヤの大草原を旅行する。第三選集『たそがれ』第四選集『罪のない物語』。このころから生活上、芸術上のなやみのために憂うつ症にかかる。九月末、戯曲『イワーノフ』執筆。十一月、モスクワで上演。十月、小説家コロレンコ〔『盲音楽師』の作者)を知る。短編『芦笛』『接吻』『カシタンカ』
一八八八(二十八歳) 一月、中編『草原』を執筆、雑誌「北方通信」に掲載。七月、クリミヤ旅行。秋、憂うつ症ひどくなる。十月、学士院よりプーシキン賞をうける。中編『ともしび』、短編『ねむい』『名の日の祝い』、一幕物『熊』『結婚申しこみ』(〜八九)
一八八九(二十九歳) 一月、『イワーノフ』上演《ペテルブルグ》、成功。六月次兄ニコライ(画家)肺結核で死亡。憂うつ症悪化。中編『退屈な話』、短編『公爵夫人』、四幕戯曲『森の精』(〜九〇)(『ワーニャ伯父さん』の原案)モスクワで上演、不成功。
一八九〇(三十歳) 四月、モスクワ出発、サハリン島に向かう。単身、馬車。シベリヤ横断、七月同島着。流刑地の実態調査。十月、離島。太平洋、インド洋を経て十二月、モスクワ帰着。旅行記『シベリヤの旅』短編『どろぼうたち』『グーセフ』
一八九一(三十一歳) 三月、スヴォーリンとともに外遊。ウィーン、ヴェニス、フローレンス、ローマ、モンテ・カルロ、パリ。四月末、モスクワ帰着。秋、大飢饉はじまる。難民救済に活動。短編『女房ども』、中編『決闘』『妻』
一八九二(三十二歳) 一、二月、飢饉の難民救済のことで活動。夏、コレラ流行、防疫に協力する。これよりさきモスクワ県メーリホヴォに転居。「ロシヤ思想」誌に中編『六号室』発表。短編『追放されて』『隣人たち』『浮気な女』
一八九三(三十三歳) 病気悪化す。雑誌「ロシヤ思想」に『サハリン島』を連載。中編『無名氏の話』
一八九四(三十四歳) 三月、ヤルタ滞在。八月、外遊。ウィーン、ミラノ、ゼノア、ニース。『ロスチャイルドのバイオリン』『学生』『文学教師』短編『黒衣の僧』『女の王国』
一八九五(三十五歳) 八月、ヤースナヤ・ポリャーナにはじめてトルストイを訪問。十月、『かもめ』起稿(〜九六)。短編『アリアドナ』、中編『三年』
一八九六(三十六歳) 八月、コーカサス、クリミヤ旅行。中編『わが人生』短編『中二階のある家』。十月、ペテルブルグのアレクサンドリン劇場で『かもめ』初演。完全な失敗。
一八九七(三十七歳) 三月、喀血。モスクワの病院に入院。秋、ニースに病を養なう。『ワーニャ伯父さん』をふくむ戯曲集。短編『百姓たち』『生まれ故郷で』『荷馬車で』
一八九八(三十八歳) 一月、ドレフュス事件におけるゾラの活躍に共鳴。年来の友人スヴォーリンと訣別す(「新時代」紙が反ドレフュス的な立場をとったことに対して)。五月、帰国。九月、新設のモスクワ芸術座の舞台げいこを見る。同座の女優オーリガ・クニッペルを知る。十月、父の死。ヤルタに地所を買い、家を建てる。『かもめ』芸術座初演。大成功。短編『箱入り男』『すぐり』『イオーヌイチ』
一八九九(三十九歳) 一月、全作品の著作権をペテルブルグの出版業者マルクスに七万五千ルーブリで譲渡す。マルクス版作品集の編集に従事。春、ヤルタでゴーリキイに会う。八月末、ヤルタの新居に移る。十月、モスクワ芸術座『ワーニャ伯父さん』上演。暮れ、マルクス版作品集、刊行はじまる。短編『小犬をつれた奥さん』『かわいい女』
一九〇〇(四十歳) 一月、トルストイ、コロレンコらとともに学士院名誉会員に選ばれる。健康悪化。十二月、ニースに病を養なう。中編『谷間で』
一九〇一(四十一歳) 一月、『三人姉妹』モスクワ芸術座初演。五月、女優オーリガ・クニッペルと結婚。病気と妻の仕事の関係で、ヤルタでの別居生活つづく。
一九〇二(四十二歳) 四月、妻病む。看病につかれ喀血。夏、モスクワ近郊のスタニスラーフスキイ(芸術座の俳優・演出家)の別荘に滞在、『桜の園』の想をねる。八月、ゴーリキイが一たん学士院名誉会員に選ばれながら、のちに取り消されたのに抗議して、コロレンコとともに学士院名誉会員を辞退する。短編『僧正』
一九〇三(四十三歳) 一月、肋膜炎。マルクス社の雑誌「ニーワ」の付録として、作品集(全十六巻)出はじめる。十月、『桜の園』脱稿。十二月、モスクワに行き、『桜の園』の舞台げいこに立ち会う。短編『いいなずけ』
一九〇四(四十四歳) 一月十七日、『桜の園』芸術座で初演。作家歴二十五年を記念するチェーホフ祝賀会。二月、ヤルタに帰る。病状悪化。六月妻同伴保養のため外遊(南ドイツ、シェワルトワルツの鉱泉地バーデンワイラー)七月二日夜死去。九月、モスクワに遺骸到着。同地のノヴォデーヴィチイ墓地に葬る。
〔訳者紹介〕
佐々木彰(ささき・あきら) 一九一七年生まれ。東京外語大学ロシア語科卒。訳書に「ボリス・ゴドゥノフ」(プーシキン)「猟人日記」「初恋」(ツルゲーネフ)他。