桜の園
チェーホフ/中村白葉訳
目 次
第一幕
第二幕
第三幕
第四幕
解説
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登場人物
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ラネーフスカヤ夫人(リュボーフィ・アンドレーエヴナ)……女地主
アーニャ……その娘、十七歳
ワーリャ……その養女、二十二歳
ガーエフ(レオニード・アンドレーエヴィッチ)……ラネーフスカヤ夫人の兄
ロパーヒン(エルモラーイ・アレクセーエヴィッチ)……商人
トロフィーモフ(ピョートル・セルゲーエヴィッチ)……大学生
シメオーノフ・ピーシチック(ボリース・ボリーソヴィッチ)……地主
シャルロッタ・イワーノヴナ……家庭教師
エピホードフ(セミョーン・パンテレーエヴィッチ)……支配人
ドゥニャーシャ……小間使い
フィルス……老僕、八十七歳
ヤーシャ……若い下僕
浮浪人、駅長、郵便局員、客、召使い大勢
ラネーフスカヤ夫人の領地における出来事。
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第一幕
今なおこども部屋とよばれている一室。ドアの一つはアーニャの部屋へ通じている。夜明け前、じき太陽の昇りそうなけはい。もう五月で、桜の花が咲いているが、外は朝寒でひえびえする。部屋の窓々はしまっている。ドゥニャーシャ、蝋燭《ろうそく》を手に、ロパーヒン書物を手にして登場。
【ロパーヒン】 ああ、おかげでやっと汽車がついた。何時かね?
【ドゥニャーシャ】 じき二時になりますわ。(蝋燭を吹き消す)もう明るうございますもの。
【ロパーヒン】 いったい汽車は、どれくらい遅れたのかね? すくなくとも、二時間はたしかだな。(あくびをし、伸びをする)おれもだいぶやきがまわって、いい馬鹿をみたものさ! 停車場でお出迎えするつもりで、わざわざここまでやってきながら、つい寝すごしてしまうなんてね……腰掛けているうちにうっかり眠ってしまったやつさ。くそいまいましい……おまえでも起こしてくれたらよかったんだ。
【ドゥニャーシャ】 わたしはまた、あなたはもうお出かけになったものとばかり思っていましたのよ。(聞き耳をたてる)おや、もうお着きになったようだわ。
【ロパーヒン】 (耳をすます)いや、ちがうよ……荷物を受けとったり、なにかと手間どるからね……(間)リュボーフィ・アンドレーエヴナは、外国で五年も暮らしてこられたんだから、今ではどんなになっていられるか……なんにしてもいい人だて、あの方はなあ。気さくで、さっぱりした気性でさ。忘れもしない、おれがまだ十五、六の小僧だった時分、死んだおれの親父《おやじ》が……親父はその時分、村で小さな店をやっていたのだが……おれの横っ面《つら》を拳固でなぐりとばしたので、ぽとぽと鼻血が出たことがある……そのときおれたちは、どうしてかこのお屋敷へやってきたんだ。親父は一杯飲んでいたんだね。するとリュボーフィ・アンドレーエヴナがさ、今でもよく覚えてるが、その時分はまだ若い、とてもほっそりとした方だったがね、おれを洗面台のところへつれて行って、そうだ、この部屋だよ、このこども部屋だよ、そして「泣くんじゃないよ、小さいお百姓や、婚礼までには直るからね」っておっしゃるのさ……(間)小さいお百姓か……いやまったく、おれの親父は百姓だったよ。おれは今このとおり、白いチョッキに黄色い靴なんかはいてるがね。じつは雑魚《ざこ》のととまじりさ……やっと金持ちの仲間入りして、金だけはうんともってるが、考えてみりゃ、百姓はやっばり百姓さ……(書物のページをめくる)いまもこの本を読んでたんだが、なんにもわかりゃしなかった。読みながら寝てしまったのさ(間)
【ドゥニャーシャ】 ゆうべは、犬たちも夜どおし寝ませんでしたわ。ご主人さまのお帰りを感づいたんでしょうね。
【ロパーヒン】 おまえどうしたんだい、ドゥニャーシャ、そんなに……
【ドゥニャーシャ】 手がふるえるんですのよ。わたし、いまにも倒れそうですわ。
【ロパーヒン】 おまえはどうもちっと優しすぎるね、ドゥニャーシャ。それになりもまるでお嬢さんだし、髪の結いかただってそうだ。それではいかんよ。分を知らなきゃいかんよ。
エピホードフ 花束を手にして登場、背広を着、ぴかぴかにみがいた、ひどくきゅっきゅっと鳴る長靴をはいている。はいってきながら、花束をとりおとす。
【エピホードフ】 (花束を拾う)これはね、いま園丁がよこしたんだよ、食堂へおくようにってね。(ドゥニャーシャに花束をわたす)
【ロパーヒン】 そして、おれにクワス(裸麦の粉と麦芽で醸造するロシア独特の薄いビール)を持ってきてくれること。
【ドゥニャーシャ】 かしこまりました。(退場)
【エピホードフ】 今はちょうど朝寒で、零下三度です、それだのに、桜は満開なんですからね。どうもロシアの気候はいいといえませんな。(嘆息する)いえませんな。なにしろ、ロシアの気候ときたら、ちょうどころあいっていうわけにゃゆかないんですからね。ところで、エルモラーイ・アレクセーエヴィッチ、ついでにちょっと申し上げることをお許し願いたいのですが、わたしは、おととい長靴を買ったんですがね、まったくどうも、とても我慢がならないほどきゅうきゅう鳴りやがるんですよ。いったいなにを塗ったらよろしいんでしょうねえ?
【ロパーヒン】 あっちへ行ってくれ。うるさいよ。
【エピホードフ】 わたしにはどうも毎日なにかしら不幸がおこるんですよ。でも、わたしは不平は言いません、慣れっこになっているので、かえってにこにこしているくらいです。
ドゥニャーシャ登場。ロパーヒンにクワスを差しだす。
【エピホードフ】 じゃあまいりましょう。(椅子にぶつかってそれを倒す)ほら、このとおり……(まるで勝ちほこったように)ごらんください、失礼ないい分ですが、まずこういったありさまです……いやまったく、驚くほかはありません!(退場)
【ドゥニャーシャ】 あのねえ、エルモラーイ・アレクセーエヴィッチ、エピホードフがわたしに結婚を申し込んだんですのよ。
【ロパーヒン】 ほほう!
【ドゥニャーシャ】 わたしもうどうしていいかわかりませんの……あの人はおとなしい人ですけれど、ただときどき、とんとわけのわからないことを言い出すんですもの。なかなか上手に、面白そうに話すんですけれど、ただどうにもわからないんですのよ。わたしにも、あの人はいくらか気に入ってるような気もしていますの。ところがあの人ときたら、まるでもうわたしに夢中なんですわ。あの人不仕合わせな人でしてね、毎日なにかかにか、きっとおこるんですのよ。それで、うちではみんながあの人のことを……二十二の不仕合わせって言って、からかってるんですの……
【ロパーヒン】 (耳を澄ます)そら、どうやらお着きのようだ……
【ドゥニャーシャ】 お着きですわ! まあわたしどうしたんでしょうね……からだじゅう冷たくなってしまいましたわ。
【ロパーヒン】 ほんとうにお着きだ。さあ、お迎いに出よう。奥さんはおれがおわかりになるかしらん? なにしろ五年会わないんだからな。
【ドゥニャーシャ】 (わくわくして)わたしもう倒れそうだ……ああ、倒れそうだ!
二台の馬車が家へ近づいてくる音が聞こえる。ロパーヒンとドゥニャーシャ、いそぎ退場。舞台空虚。つぎの間で物音がおこる。停車場へリュボーフィ・アンドレーエヴナをむかえに行ったフィルス、杖《つえ》にすがりながら、気ぜわしなげに舞台を横ぎる。彼は、古風な『しきせ』に山高帽をかぶり、何かひとりごとを言っているが、ひと言も聞きわけられない。舞台裏の物音はしだいに高くなる……「さあ、ここを通って行きましょうよ……」という声。リュボーフィ・アンドレーエヴナ、アーニャ、犬の鎖をもったシャルロッタ・イワーノヴナ、みな旅行服をつけている。外套を着、頭布をかぶったワーリャ、ガーエフ、シメオーノフ・ピーシチック、ロパーヒン、包みと傘とをもったドゥニャーシャ、手荷物をさげた召使い等……一同部屋を通りかかる。
【アーニャ】 ここを通って行きましょう。おかあさま、あなた、この部屋なんだか覚えてらして?
【リュボーフィ・アンドレーエヴナ】 (嬉しそうに、涙ぐんで)こども部屋よ!
【ワーリャ】 なんて寒いんでしょうねえ、わたし手がかじかんでしまったわ。(リュボーフィ・アンドレーエヴナに)あなたのお部屋ね、おかあさま、白いほうも紫色のほうも、そっくりそのまんまですわ。
【リュボーフィ・アンドレーエヴナ】 わたしのかわいいこども部屋、美しいこども部屋……わたしも小さい時分にはここで寝たものだわ……(泣く)今だって、わたしはやっぱりこども同然だわ……(兄、ワーリャ、それからもう一度兄に接吻する)それはそうと、ワーリャはやっぱり昔のまんまね、ちっともかわらないわ、そしてまるで尼さんのようだわ。ドゥニャーシャもわたしすぐわかったわ……(ドゥニャーシャに接吻する)
【ガーエフ】 汽車は二時間も遅れたんだぜ。どうだい? なんというだらしなさだ!
【シャルロッタ】 (ピーシチックに)わたしの犬は胡桃《くるみ》でもたべますよ。
【ピーシチック】 (驚きのていで) ヘえ、そいつは驚いた!
アーニャとドゥニャーシャをのぞき、一同退場。
【ドゥニャーシャ】 わたくしたち、ずいぶんお待ち申し上げましたのよ……(アーニャの外套と帽子をぬがせる)
【アーニャ】 わたしね、途中ずっと、四晩も寝なかったのよ……そして今はすっかり凍えちまって。
【ドゥニャーシャ】 お嬢さまがお立ちになりましたのは大斎期《たいさいき》(復活祭前の四十日間。およそ二月初旬から三月初旬にあたる)で、そのときにはまだ雪があって、ひどい寒さでしたけれど、今はどうでございましょう? ああ、かわいいお嬢さま!(笑って接吻する)わたくしの大好きな、大事な大事なお嬢さま、わたくし、どんなにお帰りをお待ちしていたことでしょう……わたくし、今すぐ申し上げてしまいますわ、一分の我慢もできませんですから……
【アーニャ】 (けだるそうに)またなにか……
【ドゥニャーシャ】 ええ、支配人のエピホードフがね、神聖週間のあとで、わたくしに結婚の申し込みをしたんでございますよ。
【アーニャ】 おまえったら、相変わらずひとつことばっかり言ってるのね……(髪を直しながら)わたしピンをすっかり落としちゃったわ……(非常に疲れた様子で、よろけさえする)
【ドゥニャーシャ】 わたくし、もうどう考えていいかわかりませんのよ。あのひと、とてもわたくしのことを思ってるんですもの。そりゃあ思ってるんですもの!
【アーニャ】 (自分の部屋の戸口をのぞいて、なつかしそうに)わたしのお部屋、わたしの窓、まるでどこへも行ってたんじゃないみたいな気がするわ。わたしはもうおうちにいるんだ! あした朝起きたらすぐお庭へ駆け出てみよっと……ああ、ほんとうによく寝られるとよかったんだけど! わたし、途中ずっと、ちっとも眠らなかったのよ。なんだか心配で心配で。
【ドゥニャーシャ】 おとといピョートル・セルゲーエヴィッチがおいでになりましたわ。
【アーニャ】 (嬉しそうに)あら、ペーチャが!
【ドゥニャーシャ】 湯殿におやすみになって、そこに暮らしていらっしゃいますの。邪魔《じゃま》になるといけないからって。(自分の懐中時計を見る)お起こしするといいんですけれど、ワルワーラ・ミハイロヴナがいけないっておっしゃいますから。おまえあの人を起こすんじゃないよって。
ワーリャ登場。腰に鍵の束をつけている。
【ワーリャ】 ドゥニャーシャ、コーヒーを早くして……おかあさまがコーヒーをほしがってらっしゃるから。
【ドゥニャーシャ】 ただいま(退場)
【ワーリャ】 やれやれ、おかげで無事にお着きになった。あんたもまたおうちへきたわけね。(つきまといながら)わたしのかわいい子が帰ってきた! 別嬪《べっぴん》さんが帰ってきた!
【アーニャ】 わたし、ずいぶん我慢したのよ。
【ワーリャ】 察してよ。
【アーニャ】 わたしがここを立ったのは神聖週間で、その時分はまだ寒かったわね。シャルロッタったら途中のべつしゃべりどおしで、いろんな手品をして見せるんですもの。なんだってあんた、シャルロッタなんかわたしにつけてよこしたのかしら……
【ワーリャ】 だってさ、あんたひとりで出かけるわけにもいかないじゃないの、十七やそこいらで!
【アーニャ】 わたしたちがパリヘ着いてみると、あちらも寒くてね、雪があるのよ。わたしのフランス語ときたら、大したもんでしょう。ママは五階に住んでらしてね。わたしが行ったときには、そこにどこかのフランス人や、女の人や、本をもった年よりのカトリックの坊さんなんかがいて、ひどいタバコの煙で、居心地のわるいったらないのよ。そしたらわたし、急にママが可哀そうになって、可哀そうで可哀そうでたまらなくなって、ママの頭をだいて両手できゅっとしめつけたなり、どうしてもはなすことができないの。そのあとで、ママは幾度でもわたしを抱いて、泣いてばかりいらしたわ……
【ワーリャ】 (涙ぐんで)もう言わないで、もうなんにも言わないで……
【アーニャ】 メントナの近くの別荘ももう売ってしまってね、ママの手にはなんにも残ってないのよ、なんにもといったらなんにも。それに、わたしのほうにも一文も残ってないので、こちらへ帰ってくるのもやっとなくらいだったわ。それでも、ママにはそれがわからないの! 停車場で食事をするにでも、いちばん高い料理をとって、ボーイたちには一ルーブリずつのチップをやるのよ。シャルロッタまでがそうなの。おまけにヤーシャまでが、一人前ちゃんと注文するんですものね、恐ろしいくらいだったわ。だってね、ママはヤーシャってボーイをおいてらっしゃるのよ、こんどもいっしょに連れて来たわ……
【ワーリャ】 ええ見たわ、いやな奴《やつ》ね。
【アーニャ】 で、どうして? 利子は払って?
【ワーリャ】 どこにそんなお金があって?
【アーニャ】 ああ、どうしたらいいんだろう、どうしたらいいんだろう。
【ワーリャ】 八月にはこの領地も売られてしまうのよ……
【アーニャ】 ああ、どうしたらいいんだろう……
【ロパーヒン】 (戸口からのぞきこんで、子牛の鳴きまねをする)めえええ……(退場)
【ワーリャ】 (涙ぐんで)あんな奴、ほんとにこうでもしてやりたい……(拳骨でおどす真似をする)
【アーニャ】 (ワーリャを抱いて、静かに)ワーリャ、あの人申し込みをして?(ワーリャ否定的に頭を振る)だって、あの人あんたを愛してるんじゃないの……なんだってあんた方は打ち明けないの、ふたりともなにを待ってるの?
【ワーリャ】 わたしそう思ってるのよ、この話はどうにもなりはしないって。あの人には仕事がたくさんあるので、わたしどころじゃないんですもの……わたしのほうなんか見向きもしないわ。あんな人、好きなようにするがいいのよ、わたし、あの人を見るの辛いの……みんなはわたしたちを結婚するもののように言って、お祝いを言ってくれるけれど、ほんとうはなんにもないのよ、みんな夢みたいなものだわ……(調子をかえて)あんたのブローチ、なんだか蜜蜂《みつばち》みたいね。
【アーニャ】 (悲しげに)これママが買ってくだすったのよ。(自分の部屋へ行き、快活な調子でこどもらしく)わたしパリでね、軽気球に乗ったわ。
【ワーリャ】 わたしのかわいい人が帰ってきた! 別嬪さんが帰ってきた!
ドゥニャーシャ、もうコーヒー沸しを持って戻ってきて、コーヒーをわかしている。
【ワーリャ】 (戸のそばに立って)わたしね、アーニャ、一日うちの用事で飛び回りながら、始終こんなふうに空想してるの。あんたをお金持ちの所へお嫁にやりたい。そうしたら、わたしは安心して修道院へでもはいり、それからキエフ……モスクワというように、始終聖地をめぐり歩こう……そして歩いて歩いて歩きまわったら、さぞいいだろうとねえ!……
【アーニャ】 庭で鳥がうたってるわ。いま何時?
【ワーリャ】 きっと二時すぎよ。あんたもう寝なくっちゃ。(アーニャの部屋へ入りながら)きっとすばらしいことよ!
ヤーシャ膝掛けと旅行鞄をもって登場。
【ヤーシャ】 (舞台を横ぎりながら、うやうやしく)こちらを通りましてもよろしゅうございましょうか?
【ドゥニャーシャ】 まあ、すっかり見ちがえてしまったわ、ヤーシャ。あんた外国へ行ってからまるで変わってしまったのねえ。
【ヤーシャ】 ふむ……それで、あんたはどなたでしたっけ?
【ドゥニャーシャ】 あんたがここを立ったときには、わたしはまだこんなだったわ……(床の上に背たけを示す)ドゥニャーシャよ、フョードル・コゾエードフの娘さ。あんた覚えてないの!
【ヤーシャ】 ふむ……かわいい胡瓜《きゅうり》さん!(あたりを見まわし、女に抱きつく。女は叫んで、皿を取りおとす。ヤーシャ素早く退場)
【ワーリャ】 (戸口で不満そうな声)またなんかしたの?
【ドゥニャーシャ】 (涙声で)お皿をこわしまして……
【ワーリャ】 それはいい前兆よ。
【アーニャ】 (自分の部屋から出てきながら)ママにそう言っとかなくちゃ……ペーチャが来てるって……
【ワーリャ】 わたしね、あの人を起こさないようにっていいつけといたのよ。
【アーニャ】 (物思わしげに)六年前におとうさまが亡くなって、それからひと月たつかたたぬに、弟のグリーシャが川へはまって死んでしまった。七つになったばかりのいい子だったのに。ママはたまらなくなって、家を出ておしまいになった、あとも見ないで行っておしまいになった……(身ぶるいする)わたし、ママの気持ちよくわかるわ。もしそれをママが知ってくだすったらねえ!(間)でも、ペーチャ・トロフィーモフはグリーシャの先生だったんだから、またお思い出しになるかもしれないわねえ……
フィルス登場。背広に白いチョッキを着ている。
【フィルス】 (コーヒー沸しのそばへ行き、心配そうに)奥さまはここでお召しあがりになるのだが……(白い手袋をはめる)コーヒーはできているかな?(ドゥニャーシャに、厳しく)おい! クリームはどうしたのだ!
【ドゥニャーシャ】 あら、どうしましょう……(いそぎ退場)
【フィルス】 (コーヒー沸しのまわりでせかせかしながら)ええ、この役たたずめが……(ひとりつぶやく)パリからお帰りになった……旦那さまもいつか、パリヘおいでになった事があった……馬車に乗って……(笑う)
【ワーリャ】 フィルス、おまえなにを言ってるの?
【フィルス】 なんでございますね?(喜ばしげに)奥さまがお帰りになりました! とうとう待ちおおせました! これでもう、いつなんどきでも死ねますわい……(嬉しさのあまりに泣く)
リュボーフィ・アンドレーエヴナ、ガーエフ、シメオーノフ・ピーシチック登場。シメオーノフ・ピーシチックは薄地のラシャの袖なし外套に、太いズボンをはいている。ガーェフは、はいってきながら、両手と胴とで、玉突きでもするような様子をする。
【リュボーフィ・アンドレーエヴナ】 あれはどうでしたっけ? ええと、ちょっと待ってちょうだいよ……黄玉は隅へ! 二度打ちはまん中へ!
【ガーエフ】 隅へ切るのさ! 昔はわしらはふたりいっしょにこの部屋で寝たもんだが、今ではわしはもう五十一だ、どうも不思議な話だが、仕方がない……
【ロパーヒン】 そうです、時はどんどんたっていきます。
【ガーエフ】 なんだって!
【ロパーヒン】 時はたつって言ってるんですよ。
【ガーエフ】 それはそうと、ここは麝香《じゃこう》草のにおいがするね。
【アーニャ】 わたしもう寝るわ、行って。おやすみなさい、ママ。(母に接吻する)
【リュボーフィ・アンドレーエヴナ】 わたしの大事な大事なアーニャ。(彼女の手に接吻する)おまえ、おうちへ帰ってうれしいだろうね? わたしはまだどうしても自分に帰れないんだよ。
【アーニャ】 ごきげんよう、伯父さん。
【ガーエフ】 (彼女の手と顔に接吻する)神様がお守りくださるように。おまえはなんておかあさんに似てるんだろうね!(妹に)リューバ、おまえもこの子の年ごろには、すっかりこのとおりだったよ。
アーニャ、ロパーヒンとピーシチックに手を与えて退場。うしろ手にドアをしめる。
【リュボーフィ・アンドレーエヴナ】 あの子はとても疲れてるんですよ。
【ピーシチック】 なにしろ、長い道中ですからな。
【ワーリャ】 (ロパーヒンどピーシチックに)みなさんいったいどうなすったんですの? もう二時すぎですよ、すこしは遠慮なさってもいい時刻ですわ。
【リュボーフィ・アンドレーエヴナ】 (笑う)おまえはやっぱり相変わらずだね、ワーリャ、(彼女を引きよせて接吻する)まあひとつコーヒーでも飲んで、それからみんな引きとることにしましょう。(フィルス、彼女の足下へクッションをおく)ありがとうよ、じいや、わたしはコーヒーを飲みなれてしまったのでね。昼でも夜でも飲むんだよ。ありがとうよ。じいや。(フィルスに接吻する)
【ワーリャ】 さあひとつ、荷物をぜんぶ運んだかどうか見てこなくちゃ……(退場)
【リュボーフィ・アンドレーエヴナ】 ほんとに、ここに掛けているのはわたしでしょうか?(笑う)わたし、おどりあがって、思うさま両手を振りまわしたいような気持ちだわ。(両手で顔をおおう)だけど、もしこれが夢だったら! 誓ってもいいけれど、わたしはそりゃ故郷を愛してるのよ、たまらなく、愛してるのよ。で、わたし、汽車の窓からも外を見ていられなくて、泣いてばかりいましたわ。(涙声で)でも、コーヒーは飲まなくちゃね。ありがとうよ、フィルス、ありがとうよ、じいや。わたしほんとに嬉しいわ、おまえがまだ生きていてくれて。
【フィルス】 おとといでございます。
【ガーエフ】 これは耳が遠いんでね。
【ロパーヒン】 わたしはもうじき、朝の四時すぎには、ハリコフへ立たなければなりません。じつに残念です! いつまでもあなたのお顔を見て、お話ししていたいんですが……あなたは、いつになってもじつにお美しいですなあ。
【ピーシチック】 (重々しく息を吐く)かえって美しくなられたくらいだ……それに服はパリ仕立てだし……ああ、わたしの馬車なんか、四つの輪ぐるみどこかへ消えてなくなるがいい。……
【ロパーヒン】 あなたのおにいさま、このレオニード・アンドレーエヴィッチは、わたしのことを、下司《げす》だ、欲ばりだなんておっしゃいますが、わたしはなんと言われたって、ちっともかまやしません。なんとでも言うがいいんです。ただ、あなたが前々どおりわたしを信用して、そのすばらしい、感動的な目で、前々どおりにわたしを見てくだされば、結構なんです。神さまはお慈悲ぶこうございます! わたしの親父は、あなたのお祖父さまやお父さまの農奴でした。ところがあなたは、ほかのだれでもないあなたさまという方は、わたしのために、いつかたいへんよくしてくだすったことがあるものですから、わたしはすべてを忘れて、あなたをお慕い申しております。まるで親身の人のように……。むしろそれ以上に。
【リュボーフィ・アンドレーエヴナ】 わたし、じっとすわっていられないわ……(飛び上がって、はげしい興奮の態で歩きまわる)わたしもう、あんまり嬉しくて死んでしまいそうだ……どうぞ、いくらでも笑ってちょうだい、わたしはばかな女ですわ……わたしのなつかしい戸棚……(戸棚に接吻する)わたしのテーブル……
【ガーエフ】 ああ、そうそう、おまえのるす中にばあやが死んだよ。
【リュボーフィ・アンドレーエヴナ】 (腰をおろしてコーヒーを飲む)ああ、天国へまいりますように。わたし知らせてもらいましたわ。
【ガーエフ】 それから、アナスターシイも死んだよ。やぶにらみのペトルーシカは、わたしのとこを出て、今では町の警部の家に住みこんでる。(ポケットから氷砂糖のはいった小箱を取りだして、しゃぶる)
【ピーシチック】 わたくしどもの娘のダーシェニカが……あなたによろしくって……
【ロパーヒン】 わたしはあなたにひとつ、すてきに愉快な、気持ちのいい話がしたいんですがね。(時計を見る)が、今はお暇《いとま》しましょう、時間がありませんから……、しかし、まあちょっと簡単にお話ししましょう。あなたももうご存じでしょうが、こちらの桜の園は、借金のかたに売られることになって、この八月二十二日が競売の日ときまっています。ですが奥さん、あなたはご心配ご無用ですよ、安心しておやすみください、方法はありますから……そこでわたしの案ですが、いいですか! こちらの領地は、町から二十キロしかはなれていなくて、そばを鉄道がとおっています。ですから、もしこの桜の園と川沿いの土地とをこまかく別荘地に区画して貸し地にしたら、どううちわに見つもっても、年二万五千ルーブリの収入にはなります。
【ガーエフ】 失敬だが、なんというばかげた話だ!
【リュボーフィ・アンドレーエヴナ】 わたしにも、あなたのお話はよくのみこめませんわ、エルモラーイ・アレクセーエヴィッチ。
【ロパーヒン】 つまりあなたは、その別荘の借地人から一デシャチーナについて、どんなに少なくても、年に二十五ルーブリはお取りになれるのです。で、もし、今すぐ広告をなされば、わたしはなにを賭けてでもお請け合いしますが、秋までには少しの空き地ものこさず、みんな借り手がついてしまいますよ。で、つまり、おめでたいわけで、あなたはもう救われなすったんでさ。なにしろ、場所はいいし、川は深いし。ただ、もちろん、少しは整理してきれいにしなきゃなりませんがね……たとえば、古い建物を全部取りのけてしまうとか、第一、この家なんぞもう、なんの役にも立ちゃしないんですからね。それからまた、古い桜の園も伐《き》りはらってしまうとか……
【リュボーフィ・アンドレーエヴナ】 伐りはらってしまう? まあ、あなた、失礼だけれど、あなたはなんにもおわかりにならないのね。もし、この県内になにか面白いものがあるとすれば、面白い以上に立派なものがあるとすれば、それはただうちの桜の園だけじゃありませんか。
【ロパーヒン】 この園が立派だというのは、ただそれが非常に大きいということだけですよ。実《み》は二年に一度きりしかなりゃしないし、なったところで、どこへもやる先はありゃしない、あんなものだれも買やしませんからね。
【ガーエフ】 だが、この園のことは「百科辞典」にだってのってるくらいだよ。
【ロパーヒン】 (時計を見て)もしわたしたちがなんの方法も考えず、決心もつけなかったら、八月の二十二日には、桜の園も領地全体も、競売に付されてしまうんですよ。さ、ご決心なさい! ほかに方法はありません。誓って言います、ありませんよ、ほんとにありませんよ。
【フィルス】 昔は、四、五十年も前には、桜の実を乾したり、砂糖漬けにしたり、酢漬けにしたり、ジャムを煮たり、それによく……
【ガーエフ】 黙ってるんだ、フィルス。
【フィルス】 それによく、乾した桜の実を幾台も車につんで、モスクワやハリコフへ送ったものでございます。たいしたお金でございましたよ! それに、乾した桜の実も、その時分には柔らかで、汁気《しるけ》があって、甘くて、香りもよかったものでございます……その時分には、こしらえかたを知っておりましたからな……
【リュボーフィ・アンドレーエヴナ】 じゃあ、今は、そのこしらえかたをどうしてしまったの?
【フィルス】 忘れてしまったのでございます。だれひとり覚えていないんでございますよ。
【ピーシチック】 (リュボーフィ・アンドレーエヴナに)パリはいかがでした? どうでした? 蛙《かえる》を召しあがりましたかね?
【リュボーフィ・アンドレーエヴナ】 鰐《わに》をたべましたわ。
【ピーシチック】 や、こいつあどうも……
【ロパーヒン】 これまでは、田舎にはただ旦那がたと、百姓だけしかいなかったのですが、今ではそのほかに、別荘居住者というものが現われました。都会という都会は、どんなに小さな町でも、今では別荘に取りかこまれております。ですから、それこそ今から二十年もたつうちには、別荘居住者というものが、おそろしくふえるにちがいありません。今ではまだ、その人たちも、バルコンでお茶を飲むくらいがせいぜいですが、いまにその人たちが、一デシャチーナくらいの地面を持って、農業でもはじめることになれば、お宅の桜の園も、それこそすばらしい、贅沢《ぜいたく》な、立派なものになるでしょうよ……
【ガーエフ】 (憤慨して)何というばかげた話だ!
ワーリャとヤーシャ登場。
【ワーリャ】 おかあさま、ここに電報が二通きておりますわ。(鍵を選りだして、がちゃがちゃいわせながら、古い戸棚をあける)これがそれでございます。
【リュボーフィ・アンドレーエヴナ】 これはパリからきたのだよ。(読まないで引き裂く)パリにはもう用なし……
【ガーエフ】 ああ、リューバ、おまえ、この戸棚の年を知ってるかね? 一週間ばかり前に、わしが下のひきだしをぬいてみたら、その中に年月日が焼きつけてあるじゃないか。それによると、この戸棚はちょうど百年前にできたものなんだよ。どうだい? え? 記念祭をしてやってもいいくらいじゃないか。無生物とはいえ、これでもやっぱり、本を入れる戸棚だからねえ。
【ピーシチック】 (驚いたように)ひゃく年……や、こいつあどうも!……
【ガーエフ】 そうだよ……これはとにかく……(戸棚にさわってみて)ああ貴重な、尊敬すべき戸棚よ! わしは、もう百年以上も善と正義とのかがやかしい理想に向かって進んできたおまえの存在を祝福する。有益な仕事のほうへと招くおまえの無言の呼び声は、百年のあいだ、少しも衰えることはなかったのだ。そして、(涙声で)この家の代々の人々に、よりよき未来に対する信仰と勇気とを与え、善の理想と社会的自覚とを養ってくれたのだ。(間)
【ロパーヒン】 さよう……
【リュボーフィ・アンドレーエヴナ】 レーニャ、あなたはやっぱり昔のまんまね。
【ガーエフ】 (少しはにかんで)その玉から右の隅へやるんだ! まん中を切るぞ!
【ロパーヒン】 (時計を見る)さあ、もう時間だ。
【ヤーシャ】 (リュボーフィ・アンドレーエヴナに薬をわたす)いますぐ丸薬を召しあがりましたら……
【ピーシチック】 薬などあがることはありませんよ、奥さん……そんなものは毒にも薬にもなりゃしません……こちらへ貸してごらんなさい……ねえ奥さん。(丸薬をとり、それを自分の手の平にのせ、ふっとひと吹きして口に入れ、クワスで飲みこむ)まずこのとおり!
【リュボーフィ・アンドレーエヴナ】 (あきれて)まあ、あなた気でもお違いになったの!
【ピーシチック】 丸薬はすっかりちょうだいしてしまいました。
【ロパーヒン】 なんという大ぐらいだ!(一同笑う)
【フィルス】 こちらは、神聖週間にうちへいらして、胡瓜漬けを半樽たべておしまいになりましたよ……(ぶつぶつ言う)
【リュボーフィ・アンドレーエヴナ】 じいやはなにをぶつぶつ言ってるの?
【ワーリャ】 もう三年もああして、ひとりでぶつぶつ言ってるんですのよ。わたしたち、慣れてしまいましたわ。
【ヤーシャ】 お年だからな。
シャルロッタ・イワーノヴナ、ひどく痩せたからだに白い服をぴったりと着、帯に柄つき眼鏡をさげて舞台をよこぎる。
【ロパーヒン】 ご免なさい。シャルロッタ・イワーノヴナ、あなたにはまだご挨拶しませんでしたな。(その手に接吻しようとする)
【シャルロッタ】 (手をひっこめながら)あなたにうっかり手を接吻させてあげようもんなら、それこそ、こんどは肘《ひじ》、こんどは肩とおっしゃいますからね……
【ロパーヒン】 今日はどうもさんざんだ。(一同笑う)シャルロッタ・イワーノヴナ、ひとつ手品を見せてください。
【リュボーフィ・アンドレーエヴナ】 シャルロッタ、手品を見せてちょうだいな!
【シャルロッタ】 だめですわ。わたくし、眠いんですもの。(退場)
【ロパーヒン】 三週間したら、またお目にかかります。(リュボーフィ・アンドレーエヴナの手に接吻する)今はこれで。時間です。(ガーエフに)またお目にかかります。(ピーシチックと接吻する)さようなら。(ワーリャに手を差しだし、それからフィルス、ヤーシャと握手する)どうも、出かけるのはいやなんですがね。(リュボーフィ・アンドレーエヴナに)なお、別荘のことはよくお考えになって、ご決心がついたら、ひとつお知らせくださいませんか。そうすればわたしが、五万ルーブリばかり工面します。まじめにひとつお考えください。
【ワーリャ】 (腹立たしげに)もういいかげんにしてお帰んなさいよ!
【ロパーヒン】 帰ります、帰ります……(退場)
【ガーエフ】 下司野郎! いや、パルドン(ごめん)……ワーリャはあの男のところへお嫁にいくはずだったね、あれはワーリャのお婿《むこ》さんだったね。
【ワーリャ】 伯父さん、よけいなことおっしゃらないでよ。
【リュボーフィ・アンドレーエヴナ】 なんですねえ、ワーリャ。わたしはたいへん喜んでるんだよ。あれはいい人じゃないか。
【ピーシチック】 いや、正直なところ……このうえない立派な人物ですよ……うちのダーシェニカも……同じように言っておりますよ……その、いろんなことを言っておりますよ。(鼾《いびき》をかく、がすぐ目をさまして)ところで、とにかく奥さん、ひとつわたしに……二百四十ルーブリ、お貸しくださらんか……あす抵当の利子を払わなきゃなりませんので……
【ワーリャ】 (びっくりして)ありませんよ、ありませんよ!
【リュボーフィ・アンドレーエヴナ】 わたしにはほんとうに一文もありませんのよ。
【ピーシチック】 いまに出てきますさ。(笑う)わたしはけっして希望を失いませんよ。いつかなんか、もうとても駄目だ、いよいよ破滅だと思っていると、どうでしょう……鉄道がうちの地面を通ったので……賠償《ばいしょう》金がもらえました。ですから、またいまに、今日でなければ明日、なにかしらもちあがりますよ……ダーシェニカが二十万ルーブリの籤《くじ》をひきあてるかもしれません……あれは債券を一枚持ってますからね。
【リュボーフィ・アンドレーエヴナ】 コーヒーも飲んだから、もうやすんでもいいわね。
【フィルス】 (ブラシでガーエフを払いながら、たしなめるように)また違ったズボンをおはきなさいましたね。わたしにはもう、あなたさまのお守りはできませんよ!
【ワーリャ】 (静かに)アーニャは寝ている。(静かに窓をひらく)もう太陽が出たから、寒かないわ。ごらんなさいな、おかあさま、なんてみごとな木でしょうねえ! ああ、この空気! 椋鳥《むくどり》がうたっていますわ!
【ガーエフ】 (別の窓をあける)庭は一面に真っ白だ。おまえ忘れやしないだろうね、リューバ? ほら、あの長い並木道が、まるでのばした皮帯のように、どこまでもどこまでもまっすぐにつづいて、月夜の晩にはきらきら光る。おまえ覚えてるだろう? 忘れやしないだろう?
【リュボーフィ・アンドレーエヴナ】 (窓ごしに庭を見る)おお、わたしのこども時代、わたしの純潔! わたしはこのこども部屋に寝て、ここから庭をながめたものだが、あのころには、幸福が毎朝、わたしといっしょに目をさましたものだった。あのころも、庭は今のままだった、ちっとも変わってなんかいやしない。(喜びきわまって笑う)一面に、一面に真っ白だわ! おお、わたしの庭よ! 暗い陰気な秋と寒い冬を送ったあとで、おまえはまた若々しく、幸福にみちている、天のエンゼルたちは、おまえを見捨てなかったんだわね……まあ、もしわたしの胸や肩から重い石をとりのけることができたら、もしわたしが自分の過去を忘れることができたら!
【ガーエフ】 そうだよ、この園まで借金のかたに売られてしまうんだからねえ、どう不思議がってみたところで……
【リュボーフィ・アンドレーエヴナ】 ごらんなさい、亡くなったおかあさまが、お庭を歩いてらっしゃるわ……真っ白な着物で!(嬉しさのあまり笑う)あれはおかあさまよ。
【ガーエフ】 どこにさ?
【ワーリャ】 おかあさま、しっかりしてちょうだいよ。
【リュボーフィ・アンドレーエヴナ】 だれもいやしない、わたしの気の迷いだったのだわ。右手の、あずまやのほうへ曲がるところに、白い木がななめになってるもんだから、それが女のように見えたのよ……
トロフィーモフ登場。着古した大学の制服に眼鏡をかけている。
【リュボーフィ・アンドレーエヴナ】 なんてすばらしいお庭でしょう。花は白い雲のようだし、空は青いし……
【トロフィーモフ】 リュボーフィ・アンドレーエヴナ(彼女振りかえる)、僕ちょっとあなたにご挨拶して、すぐあちらへまいります。(熱烈に手に接吻する)僕は朝まで待つようにっていわれたんですが、どうしても待っていられなかったのです……
リュボーフィ・アンドレーエヴナ、けげんそうに見る。
【ワーリャ】 (涙声で)このかた、ペーチャ・トロフィーモフですのよ……
【トロフィーモフ】 お宅のグリーシャの教師だった、ペーチャ・トロフィーモフです……僕そんなに変わったでしょうか?
リュボーフィ・アンドレーエヴナ、彼を抱き、静かに泣く。
【ガーエフ】 (まごまごして)もういいよ、もういいよ、リューバ。
【ワーリャ】 (泣く)だから、わたし言ったじゃありませんか、ペーチャ、明日までお待ちなさいって。
【リュボーフィ・アンドレーエヴナ】 わたしのグリーシャ……わたしの坊や……グリーシャ……息子……
【ワーリャ】 どうも仕方がありませんわ、おかあさま。神さまの思召《おぼしめし》ですもの。
【トロフィーモフ】 (柔かに、涙声で)もういいです、もういいです……
【リュボーフィ・アンドレーエヴナ】 (静かに泣く)あの子は死んでしまいました、川へはまって、死んでしまいました……なんのためでしょう? なんのためでしょう、ねえ、あなた?(いっそう低く)あちらにアーニャが寝ているのに、わたしは大きな声をだして……人騒がせをして……それで、ペーチャ、あなたはどうなすったの? どうしてそんなにみっともなくなっておしまいなすったの? どうしてそう老けておしまいなすったの?
【トロフィーモフ】 僕は汽車の中でも、ひとりの百姓女に……禿《は》げの旦那なんて言われましたっけ。
【リュボーフィ・アンドレーエヴナ】 あの時分は、あなたはまだ、からきしこどもで、かわいらしい大学生さんだったけれど、今では髪も薄くなったし、眼鏡までかけていらっしゃるし。いったいあなたは、やっぱりまだ大学生なんですの?(戸口のほうへ行く)
【トロフィーモフ】 おおかたねえ、僕は万年大学生なんでしょうよ。
【リュボーフィ・アンドレーエヴナ】 (兄を接吻し、ついでワーリャを接吻する)さあ、行っておやすみなさいな……あなたも年がいったわねえ、レオニード。
【ピーシチック】 (彼女のあとにつづいて)つまり、もう寝なくちゃなりませんかな……ああ、わたしの痛風も閉口だ。今日はこちらへ泊めていただきますよ……ところで、リュボーフィ・アンドレーエヴナ、あすの朝わたしは……二百四十ルーブリ……
【ガーエフ】 この男ときたら、のぺつ自分のことばかりいっている。
【ピーシチック】 二百四十ルーブリ……抵当の利子をはらわなきゃならないんでね。
【リュボーフィ・アンドレーエヴナ】 だって、わたしにはお金ないのよ、あなた。
【ピーシチック】 返しますよ、奥さん……いくらでもないんですから……
【リュボーフィ・アンドレーエヴナ】 じゃいいわ、レオニードがだしてくれるでしょう……ね、レオニード、あげてちょうだい。
【ガーエフ】 ああ、あげるよ、ポケットをあけて待ってるがいい。
【リュボーフィ・アンドレーエヴナ】 だって仕方がないじゃないの、あげてちょうだいよ……この人にはいるんですもの……きっと返してくださるわよ。
リュボーフィ・アンドレーエヴナ、トロフィーモフ、ピーシチック、フィルス退場。ガーエフ、ワーリャ、ヤーシャのこる。
【ガーエフ】 妹はまだ金をまきちらす癖がやまないとみえる。(ヤーシャに)おい、おまえ、もう少しそっちへ行ってくれ、鶏のにおいがぷんぷんする。
【ヤーシャ】 (薄笑いをうかぺて)レオニード・アンドレーエヴィッチ、あなたはやっぱり、相変わらずですなあ。
【ガーエフ】 なんだって?(ワーリャに)こいつなんと言ったんだね?
【ワーリャ】 (ヤーシャに)おまえのおかあさんが田舎からきて、昨日から下男部屋に待っててよ、おまえに会いたいって……
【ヤーシャ】 あんな奴、勝手にしやがれ!
【ワーリャ】 まあ、この罰あたり!
【ヤーシャ】 厄介な話だ。あしたでもくりゃいいのに。(退場)
【ワーリャ】 おかあさまは昔とおんなじね、ちっとも変わってらっしゃらないわ。おかあさまの好きにさせといたら、ありたけまいておしまいになるわ。
【ガーエフ】 そう……(間)もしなにかの病気にたいして、いろいろとたくさんの療法がすすめられる場合には、それはつまり、その病気が不治の病だということになる。わしは考えた、頭をしぼって考えた、そしてたくさん、非常にたくさんの方法を思いついた、つまり実質においては、なにひとつ考えつかないわけになるのだ。だれかから遺産をゆずられたらよかろうとか、うちのアーニャをたいへんな大金持ちのところへ嫁にやったらよかろうとか、ヤロスラーヴリヘ行って、伯母さんの伯爵夫人のところで幸運をためしてみたらよかろうとかとね。だって、伯母さんは、それこそ素敵な大金持ちなんだからね。
【ワーリャ】 (泣く)神様がお助けくださいましたらねえ。
【ガーエフ】 泣くんじゃないよ。伯母さんは大金持ちだが、わたしらが好きじゃない。第一に、妹が貴族でない弁護士なんかと結婚したものだからね……
アーニャ、戸口に姿を現わす。
【ガーエフ】 貴族でない男と結婚したうえに、非常に立派だとはいえないような振舞をしたものだからね。あれは美しい、善良な、立派な女で、わたしは心からあれを愛してるんだが、どんなにうまい事情を考えだしてみても、やっぱりあれが不身持ちだということは認めないわけにゃいかない。このことは、あれのちょっとした身ぶりにも感じられるくらいだ。
【ワーリャ】 (ささやき声で)アーニャが戸口に立ってますわよ。
【ガーエフ】 なんだって?(間)こりゃ驚いた。わたしの右の目の中へ何かはいった……よく見えなくなった。木曜日にわたしが地方裁判所へ行ったとき……
アーニャ、はいってくる。
【ワーリャ】 どうして寝ないの、アーニャ?
【アーニャ】 寝られないのよ。どうしてもだめなの。
【ガーエフ】 わたしのかわいい子。(アーニャの顔と手に接吻する)わたしのこども……(涙声で)おまえは姪《めい》どころじゃない、わたしの天使だ、わたしにとっては一切だ。わたしを信じておくれ、信じて……
【アーニャ】 わたしあなたを信じててよ、伯父さん。みんな伯父さんを好いて、尊敬してるわ……でもねえ、伯父さん、あなた黙ってらっしゃらなきゃいけないことよ。ただ、じっと黙ってらっしゃらなきゃ。たった今だって、あなたはわたしのママのことを、ご自分の妹のことを、なんておっしゃってて? どうしてあんなことおっしゃるのよ?
【ガーエフ】 そう、そう……(彼女の手で自分の顔をかくす)ほんとうにこれは恐ろしいことだ! ああ、神様! どうぞわたしをお救いくださいまし! 今日もわたしは戸棚のまえで演説をしました……ああ、なんというばかばかしいことだ! 言ってしまうとすぐ、ばかばかしいということがわかったのだよ。
【ワーリャ】 ほんとうよ、伯父さん、あなたは黙ってらっしゃるほうがいいことよ。じっと黙っていらっしゃい、それでいいの。
【アーニャ】 黙ってさえいらっしゃれば、ご自分だって楽になってよ。
【ガーエフ】 黙るよ。(アーニャとワーリャの手に接吻する)黙るよ。だが、ちょっといま用談だけな。木曜日にわしが地方裁判所へ行ったとき、仲間の者が落ち合って、なにかと話をしているうちに、ふと、約束手形で金を借りて、銀行の利子を払うことができるかもしれぬという気がしてきたのさ。
【ワーリャ】 神様がお助けくださいましたらねえ!
【ガーエフ】 火曜日に行って、もう一度話してみよう……(ワーリャに)泣くんじゃないよ……(アーニャに)おまえのおかあさんはロパーヒンに相談するだろう。あの男はもちろん、いやとは言うまい……ところでおまえは、疲れがなおったらヤロスラーヴリの伯爵夫人、おまえのおばあさまのところへ行ってごらん。こうして三方から運動すれば、もう大丈夫。利息はかならず払えるよ、わたしがうけあう……(氷砂糖を口に入れる)わたしは名誉でもなんでも、お望みのものをかけて誓うが、領地は大丈夫売られやしないよ!(興奮して)わたしは自分の幸福をかけて誓う! さあ、指切りだ、もしわたしが競売までほうっておくようなことがあったら、そのときはわたしをやくざとでも、恥知らずとでも言うがいい! わたしは自分の全存在を賭けて誓うよ!
【アーニャ】 (おちついた気分が返ってくる。彼女は幸福そうになる)伯父さん、あなたはなんていい人でしょう、なんてお利口なんでしょう!(伯父を抱く)わたし、もう安心したわ! 落ちついたわ! 幸福だわ!
フィルス登場。
【フィルス】 (責めるような調子で)レオニード・アンドレーエヴィッチ、あなたは神さまを恐れなさらんのでございますか! いつになったらおやすみになるのです?
【ガーエフ】 いますぐ、すぐだよ。いいからおまえはさがっておれ、フィルス。大丈夫だ、わしは自分で着がえをするから。じゃ、こどもたち、もうねんねだよ……こまかいことは明日にして、今はもう行って寝るのだ。(アーニャとワーリャに接吻する)わたしは八十年代の人間だ……人はこの時代をよくいわないが、しかしとにかくわたしなどは、自分の信念のために随分いろんな目にあってきたとは言うことができる。だから、百姓がわしを好くのも無理はないのだ。百姓というものを知らなきゃだめだよ! 知らなきゃだめだよ、いかなる……
【アーニャ】 また伯父さんは!
【ワーリャ】 伯父さん、お黙りなさいっていうのに。
【フィルス】 (腹立たしげに)レオニード・アンドレーエヴイッチ!
【ガーエフ】 行くよ、行くよ……さあ、おやすみ。両側からまん中へ! きれいなやつを打ちこむぞ……(退場。それにつづいてフィルス、ちょこちょこと歩いて行く)
【アーニャ】 わたしもうおちついてよ。ヤロスラーヴリへは行きたくはないわ、わたし、おばあさまきらいなんですもの。だけど、わたしもう安心してるわ。伯父さんに感謝するわ。(腰をおろす)
【ワーリャ】 もう寝なくちゃ。わたし行くわよ。あ、そうそう、あんたのいない間にいやなことがあったのよ。あんたも知ってるわね、あの古いほうの下男部屋、あすこには、エフィームだの、ポーリャだの、エフスチグネイだの、カルプだのって、年よりの下男ばかりいるでしょう。ところがあの連中がさ、どこかの風来坊を引き入れて、泊めることをはじめたのよ……わたしは見ない振りをしていたの。ところがね、そうするうちに、なんだかわたしが、あの人たちに豌豆《えんどう》ばかりたべさせるように言いつけたなんて噂が立ってしまったじゃないの。わたしが吝嗇《けち》だからですって、いいこと……そしてこれがみんなエフスチグネイの仕業なのよ……わたしは、よしよし、それならそれで、いまに見ろ、こう思ってね、エフスチグネイを呼びつけたの……(あくびをする)そしてくるといきなり……エフスチグネイ、おまえはいったいどうしたというの……なんという馬鹿だろうねえって……(アーニャを見て)アーネチカ!……(間)眠ってるわ……(アーニャの腕をとる)さあ、寝床へ行きましょう……。行きましょう!……(彼女を連れて行く)可哀そうに、寝ちゃったわ! さあ行きましょう……(両人歩く)
遠く園のむこうで、牧夫の葦笛《あしぶえ》を吹くのが聞こえる。トロフィーモフ、舞台を横ぎりながら、ワーリャとアーニャを見て立ち止まる。
【ワーリャ】 しっ……この子は寝てるのよ……寝てるのよ……さあ行きましょうね、アーネチカ。
【アーニャ】 (静かに、半ば夢中で)わたしすっかり疲れちゃったわ……のべつ鈴の音がしてるわ……伯父さん……いいひと……ママも、伯父さんも……
【ワーリャ】 行きましょう、ね、行きましょう……(アーニャの部屋へ退場)
【トロフィーモフ】 (感動して)わたしの太陽! わたしの青春!(幕)
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第二幕
野。もう久しく見捨てられたままの、傾いた古い礼拝堂。そのそばには井戸。もとはどうやら墓標だったらしい大きな石。古いベンチ。ガーエフの屋敷へ通ずる道が見える。わきの方には、ポプラの木立ちが高くそびえてくろずんでおり……そこから桜の園がはじまっている。遠くに電柱の列、なお遠く遠く、はるかな地平線上に、大都会の輪郭がぼうとして霞《かす》んでいるが、それは非常によく晴れた、明るい日でなければ見えない。
日は間もなく沈みそうである。シャルロッタ、ヤーシャ、ドゥニャーシャ、ベンチに腰掛け、エピホードフそのそばに立ってギターをひいている。皆もの思わしげな様子で掛けている。シャルロッタは古い学生帽をかぶり、肩から銃をおろして、皮紐の止め金を直している。
【シャルロッタ】 (考えこんだ調子で)わたしは本物の旅券を持たないから、自分の年もはっきり知らないけど、いつも若いような気がしてるわ。わたしが小娘だった時分には、わたしの両親は市場から市場をわたり歩いて、なかなか面白い、いろんな見世物を見せていたものだわ。で、わたしもサルト・モルターレ(とんぼがえり)だの、いろんな踊りをやったものさ。ところが、両親が死んでしまうと、あるドイツ人の奥さんがわたしを引きとって、教育しかけてくれたのよ。ねえ、いいこと。こうしてわたしは大きくなって、それから家庭教師になったのさ。だからわたしは、自分がどこからきたのか、どういう人間なのか、さっぱり知らないのよ……わたしの両親というのは何者なのか、ひょっとすると、結婚なんかしてなかったかもしれないし……それもわからない。(ポケットから胡瓜をだしてたべる)なんにもわからないの。(間)で、わたしは、いろんな話がしたいんだけれど、だれも話し相手はなし……だれひとり頼りにする人もないのよ。
【エピホードフ】 (ギターをひいて、うたう)「騒がしき世に何用あらん、敵も味方もあらばこそ……」マンドリンをひいてるのはじつにいい気持ちだよ!
【ドゥニャーシャ】 それはギターですよ、マンドリンじゃないことよ。(懐中鏡を見て、白粉《おしろい》を刷く)
【エピホードフ】 恋に狂える者にとっては、これはマンドリンだよ……(うたう)「思い思わるる熱き血に、わが心あたためられなば……」
ヤーシャ、ついてうたう。
【シャルロッタ】 ひどいもんだ、この人たちの歌ときたら……ふっ! まるで山犬の遠吠えだ。
【ドゥニャーシャ】 (ヤーシャに)でも、外国で暮らすなんてずいぶん仕合わせだわ。
【ヤーシャ】 そうさ、もちろん。こいつあ同意しないわけにゃいかないね。(あくびをする。やがて葉巻を吸いはじめる)
【エピホードフ】 そりゃ言うまでもない事さ。外国ではもうずっと前から、万事が完全無欠なんだからねえ。
【ヤーシャ】 もちろんさ。
【エピホードフ】 我輩は進歩した人間で、随分いろいろ立派な書物を読んだが、いったい自分はどう進むベきか、その方向が理解できん、つまり、実をいうと、生きるべきか自殺すべきか、それがてんでわからないんだ。しかし、とにかく僕は、いつもピストルは手ばなさずに持ってるよ。これこのとおり……(ピストルをだして見せる)
【シャルロッタ】 さあすみました。行きましょう。(銃を肩にかける)エピホードフ、あんたはたいそう利口な、そしてたいそう恐ろしい人ね。あんたには、女の子がきっと夢中になってよ。ぶるるだ!(歩く)この利口者たちのそろいもそろったばかさ加減はどうだろう、わたしの話し相手になれるような者はひとりだってありゃしない……いつもひとり、ひとりぼっちだ。だれもたよりになる人はありゃしない、そして……そしてわたしはいったい何者か、なんのために生きているのか、これもさっぱりわかりゃしない……(ゆるゆると退場)
【エピホードフ】 他の問題にはふれないで、実のところをいえばですな、僕は、なかんずく自分について、こう言わないではいられないのです、つまり、運命は僕にたいして遺憾なく、嵐《あらし》の小舟にたいするがごとくである、と。もし、かりに僕があやまっているとしてもです、たとえばけさ僕が目をさましたときに、なぜ僕の胸の上におそろしく大きな蜘蛛《くの》がのっかっていたんでしょう。……こんな大きな奴ですよ。(両手で大きさを示す)それからまた、クワスを飲もうと思ってコップを取りあげると、油虫なんていう不作法きわまるへんな奴が、きまってはいってるんですからね。(間)君はボークリ(H・T・バックル、十九世紀のイギリスの歴史家)を読んだことがあるかね。(間)アフドーチャ・フョードロヴナ、僕はちょっとふた言ばかりお耳をけがしたいことがあるんですがね。
【ドゥニャーシャ】 おっしゃってちょうだいな。
【エピホードフ】 じつは、あなたとふたりきりのところで言いたいんですがね……(ため息をつく)
【ドゥニャーシャ】 (動揺して)いいわ……ただその前に、わたしの長外套を持ってきてくださらない……戸棚のそばにありますわ……少ししめっぽくなってきたわね……
【エピホードフ】 よろしい……取ってきましょう……さあ今こそ、このピストルをもってどうすればいいかわかったぞ……(ギターをとって、ひきながら退場)
【ヤーシャ】 二十二の不仕合わせか? ばかな奴だ、ここだけの話だがね。(あくびをする)
【ドゥニャーシャ】 自殺なんかしてもらっちゃ困るわね。(間)わたしこのごろなんだか気がおちつかなくて、のべつ心配でならないのよ。わたしはまだずっとこどものころにこちらへあがったものだから、今では世間なみの暮らしができなくなって、手なんかもこのとおり、まるでお嬢さまの手みたいに真っ白だわ。そして優しい、弱々しい、上品な女になってしまったので、なにもかもが恐ろしくてしようがないの……とてもとても恐ろしくて。だからねえ、ヤーシャ、もしあんたがわたしをだましでもしようものなら、わたしの神経は、どうなるかわからないことよ。
【ヤーシャ】 (彼女に接吻する)かわいい胡瓜《きゅうり》さん! もちろん、娘というものは、だれしも自分を忘れないようにしなくちゃならないさ。だから、僕は、身持ちの悪い娘がなによりきらいなのさ。
【ドゥニャーシャ】 わたしもう夢中になってあんたを思ってるのよ、あんたは教育のある人で、どんな理屈でも言えるんですもの。(間)
【ヤーシャ】 (あくびをする)そうさ……だが、僕に言わせると、もし娘がだれかに惚れたとなりゃ、つまりそいつあもう不身持ちってことになるんだからねえ。(間)きれいな空気の中で葉巻をふかすのはいい気持ちだなあ……(聞き耳をたてる)おや、人がくるようだぞ……奥さんたちだ……
ドゥニャーシャ、突発的に彼を抱く。
【ヤーシャ】 うちへお帰りよ、川へ水浴びにでも行ったような顔をしてね、こっちの小道から帰るのさ。さもないと、みんなに出会わして、僕が君とあいびきでもしていたように思われるからね。そいつが僕にゃがまんならねえんだ。
【ドゥニャーシャ】 (静かにつぶやく)わたし葉巻のおかげで頭が痛くなったわ……(退場)
ヤーシャ、のこって、礼拝堂のかたわらにすわっている。リュボーフィ・アンドレーエヴナ、ガーエフ、ロパーヒン登場。
【ロパーヒン】 さあ、もうどうでも、きっぱり決着をつけなければいけませんよ……時は待ってくれませんからね。問題は、ぜんぜん簡単じゃありませんか。いったいあなた方は、土地を別荘地として貸すのにご同意なんですかどうですか? たったひとこと返事をしてください……うんとか、いやとか? たったひと言でいいんですよ!
【リュボーフィ・アンドレーエヴナ】 ここでこんなひどい葉巻をふかしてるのは一体だあれ……。(腰をおろす)
【ガーエフ】 どうだ、鉄道が敷けてからは、じつに便利になったじゃないか。(腰をおろす)ちょっと町まで行って飯を食ってこられるんだからなあ……黄玉はまん中へ! わたしはまずうちへ行って、ひと勝負やりたいんだがねえ。
【リュボーフィ・アンドレーエヴナ】 まだ大丈夫、間にあってよ。
【ロパーヒン】 ただひと言でいいんです!(祈るように)わたしに返事を聞かせてください!
【ガーエフ】 (あくびをしながら)なんだって?
【リュボーフィ・アンドレーエヴナ】 (自分の金入れをのぞいてみて)昨日はどっさりお金がはいっていたのに、今日はほんのちょっぴりになってしまったわ。可哀そうに、うちのワーリャは、経済を考えて、わたしたちみんなには牛乳スープをのませて、台所の年よりたちには豌豆しかたべさせないでいるのに、わたしときたら、つまらない無駄使いばかりして……(金入れをとりおとす、金貨が散乱する)まあ、散らかってしまった……(いまいましげな様子)
【ヤーシャ】 どうぞ、わたしがすぐひろって差しあげます。(金を拾い集める)
【リュボーフィ・アンドレーエヴナ】 ありがとうよ、ヤーシャ。いったい、今日あたりなんだってご飯なんかたべに行ったんだろう……それに、あの音楽をやってた料理屋のひどいことといったら、テーブル掛けは石鹸《せっけん》くさいし……第一また、なんだってあんなにお酒を飲むの、レーニャ? なんだってあんなにたくさんたべるの? そして、なんだってあんなにおしゃべりするの? 今日だって料理屋で、あんたはまた突拍子もないことばかりしゃべりちらして、やれ七十年代の、やれデカダンのって。それもだれとでしょう? ボーイをつかまえて、デカダンの話をするなんて!
【ロパーヒン】 そうですよ。
【ガーエフ】 (片手を振る)わたしは直らない、とてもだめだ……(いらいらした調子で、ヤーシャに)なんだおまえは、のべつ人の目の前をちょこまかして……
【ヤーシャ】 (笑う)わたしは旦那の声を聞くと笑わずにいられないんで。
【ガーエフ】 (妹に)おれか、あいつか……
【リュボーフィ・アンドレーエヴナ】 あっちへおいで、ヤーシャ、早くおいで……
【ヤーシャ】 (リュボーフィ・アンドレーエヴナに金入れを渡す)ただ今まいります。(やっとのことで笑いをおさえながら)今すぐ……(退場)
【ロパーヒン】 こちらの領地は、金持ちのデリガーノフが買おうとしています。なんでも自身競売に出むいてくるという話ですよ。
【リュボーフィ・アンドレーエヴナ】 あなた、どこからそれを聞いたの?
【ロパーヒン】 町ではみんなそう言っていますよ。
【ガーエフ】 ヤロスラーヴリの伯母さんが送ってくれるという約束だが、いついくら送ってくれるんだか、そいつはわからん……
【ロパーヒン】 いくらお送りくださるでしょうな? 十万ですかな? 二十万ですかな?
【リュボーフィ・アンドレーエヴナ】 さあ……一万か、一万五千、まあそれでも上等よ。
【ロパーヒン】 失礼ですがみなさん、あなた方のように考えのない、非事務的な奇妙な方には、わたしはまだ一度もお目にかかったことがありませんよ。わたしはあなた方に、ロシア語で申し上げているんですよ……こちらの領地が売られようとしているって。それだのに、まるでおわかりにならないんですからね。
【リュボーフィ・アンドレーエヴナ】 だって、わたしたちどうしたらいいんですの? 教えてくださいな、どうしたらいいの?
【ロパーヒン】 わたしは毎日お教えしてるじゃありませんか。毎日同じ事ばかり言ってるじゃありませんか。桜の園も、地面も、別荘地に貸し出さなければいけないって、それも今すぐ、一刻も早くって……なにしろ、競売がもう目の前に迫ってるんですからね。ここをよく考えていただかないと! 一度別荘にするという決心さえつけてくだされば、金はいくらでも出てきます、そうなればあなた方は救われるのです。
【リュボーフィ・アンドレーエヴナ】 別荘や別荘客……これはあんまり俗だわね、失礼だけれど。
【ガーエフ】 わたしもぜんぜん同感だね。
【ロパーヒン】 わたしは泣きだすか、怒鳴りだすか、卒倒してしまうかしそうですよ。とてもたまらん! あなた方は、わたしをへとへとにしておしまいなすった!(ガーエフに)あなたは女ですよ。
【ガーエフ】 なんだって!
【ロパーヒン】 百姓女ですよ!(行こうとする)
【リュボーフィ・アンドレーエヴナ】 (びっくりして)いいえ、行かないでちょうだい、ね、ここにいてちょうだい、お願いですわ。なんとか考えられるかもしれないから!
【ロパーヒン】 いまさらなにを考えるんです
【リュボーフィ・アンドレーエヴナ】 行かないでちょうだいよ、ね、お願いだから。あなたがいてくださると、やっぱり心丈夫ですから……(間)わたし始終なにかを待っているようなの。いまにも頭の上へ家がくずれかかってくるような気持ちで。
【ガーエフ】 (深い物思いに沈みながら)二度打ちは隅へ……交差突きはまん中へ……
【リュボーフィ・アンドレーエヴナ】 わたしたちは罪がふかすぎるのねえ……
【ロパーヒン】 あなたがたに、どんな罪がおありなんです……
【ガーエフ】 (氷砂糖を口へ入れる)世間じゃなんだってな、わたしは氷砂糖で全財産をしゃぶりつぶしてしまったって言ってるってな……
【リュボーフィ・アンドレーエヴナ】 おお、わたしの罪……わたしは年じゅう気違いみたいに、むやみやたらにお金をまきちらしたうえ、ただ借金するほか能のないような男と結婚したんですもの。わたしの夫はシャンパンのために死んだのよ……途方もない飲み手だったんですものね……そのうえ、不幸なことに、わたしはまた別の人に恋をして、その人といっしょになってしまった。と、ちょうどそのとき……これがわたしの受けた最初の天罰だったのだわ、真っ向から脳天へ打ちおろされた打撃だったのだわ……ほらね、ちょうどそこのあの川で……わたしの坊やが溺《おぼ》れて死んでしまったの。そこでわたしは、外国へ立ってしまいました。もう二度と帰らないつもりで、二度とこの川を見ないつもりで、思いきって出かけてしまったのです……わたしは目をつぶって、無我夢中で、逃げだしてしまいました……すると、『その人』もあとを追って……おかまいなしにぬけぬけとついてきてしまったの。ところが、『その人』がそこで病気になったものだから、わたしはメントナの近くに別荘を買い、それから三年間というもの、昼も夜も、休む間もないような日を送りました。病人に苦しめられて、心までかさかさになってしまいました。そして去年、借金のかたにその別荘を手ばなすとすぐ、パリへ出たんだけれど、そこでその人は、わたしを裸にして捨ててしまって、ほかの女といっしょになったじゃありませんか。わたしは、あやうく毒を飲もうとしたくらいでしたわ……いかにもばかばかしくて、恥ずかしかったので……と、急にロシアへ、生まれ故郷へ、娘のところへ帰りたくなったの(涙をふく)神様、神様、お慈悲をもって、どうぞわたしの罪をお許しくださいまし! もうこのうえ罰をお下しくださいませんように!(ポケットから電報を取りだす)、今日パリからきたんですのよ、詫言《わびごと》をならべてね、帰ってくれって言ってるんだけど……(電報を破る)どこかで音楽をやってるようね。(耳をすます)
【ガーエフ】 あれは有名なわがユダヤの楽隊なんだよ。おまえも覚えてるだろう、ヴァイオリン四人に、フリュートに、コントラバスと。
【リュボーフィ・アンドレーエヴナ】 あら、あれがまだあるんですか? じゃあどうかしてうちへ呼んで、夜会でもしたらいいわねえ。
【ロパーヒン】 (耳をすます)聞こえない……(静かに歌う)「金のためならドイツの奴は、ロシアをフランスにしてみせる」(笑う)昨日わたしは劇場でたいへんな芝居を見ましたよ、とてもおかしかったですよ。
【リュボーフィ・アンドレーエヴナ】 きっとなんにもおかしいことなんかなかったんでしょう。あなたは芝居なんか見るより、できるだけ自分を見るほうがいいのよ。あなた方はみんな、なんてじみな暮らしをしてるんでしょう、そして、なんてよけいなことばかりしゃべってるんでしょう。
【ロパーヒン】 それはまったくです。嘘は言えません、わたしたちの暮らしはばかげたものです……(間)わたしの親父はまぬけな百姓で、自身もなんにも知らなければ、わたしにもなにひとつ教えてはくれませんでした。ただ酔っぱらってはわたしを打つくらいのものでね、それもいつも棒っきれで。実のところ、わたしも、それと同じまぬけのとんちきでさ。なにひとつ覚えたことはなし、字はまずくて、豚みたいで、とても恥ずかしいしだいですよ。
【リュボーフィ・アンドレーエヴナ】 あなたなんか結婚するといいのよ、ね。
【ロパーヒン】 さよう……まったくそのとおりで。
【リュボーフィ・アンドレーエヴナ】 うちのワーリャはどう。あれはいい娘ですよ。
【ロパーヒン】 さよう。
【リュボーフィ・アンドレーエヴナ】 あれは百姓の生まれで、一日《いちんち》働きづめでいるし、第一あなたを愛していますよ。それにあなたも、もとからあれが気に入ってるんでしょう。
【ロパーヒン】 そりゃもう。わたしはいやじゃありません………ありゃいい娘さんですよ。(間)
【ガーエフ】 わたしに銀行へはいらないかというんだがね。年俸六千ルーブリでね……聞いたかね?
【リュボーフィ・アンドレーエヴナ】 あんたにどうして! まあじっとしてるほうがいいことよ……
フィルス登場。外套を持っている。
【フィルス】 (ガーエフに)旦那さま、お召しなさいまし。だいぶしめっぽくなってまいりました。
【ガーエフ】 (外套を着る)おまえにはもうまいったよ。
【フィルス】 どうも困ったお方だ……けさだって、なんにもおっしゃらないで、出て行っておしまいなさるし。(彼を見まわす)
【リュボーフィ・アンドレーエヴナ】 おまえもずいぶん年をとったわねえ、フィルス!
【フィルス】 なんとおっしゃいましたね?
【ロパーヒン】 おまえもえらく年をとったもんだって、おっしゃったんだよ!
【フィルス】 ずいぶん長いこと生きておりますよ。わたくしが嫁を持たせられようとしたころには、あなたさまのおとうさまもまだ、この世にはいらっしゃいませんでしたからねえ。(笑う)解放令の出た時分には、わたくしはもう下男頭《げなんがしら》をしておりました。そのときわたくしは、自由になるのはご免だどいうので、引きつづいてご奉公したわけでございます……(間)今でも覚えておりますが、みんな喜んで暮らしておりましたですよ。なにが嬉しいのか、自分でもわかっちゃいなかったのでございますがね。
【ロパーヒン】 昔はほんとうによかったのさ。なんといったって、遠慮なくぶんなぐったもんだからなあ。
【フィルス】 (聞きわけないで)いうまでもねえ。百姓どもは旦那がたを頼りにするし、旦那がたは百姓どもを頼りになさるし。ところが今じゃ、みんながてんでんばらばらだ。なにがなんだかわかりゃしない。
【ガーエフ】 だまれ、フィルス、あすわたしは町へ出かけなくちゃならん。ある将軍に紹介してもらう約束になってるんでね。その将軍が手形で金を貸してくれそうなんだよ。
【ロパーヒン】 なにができるものですか。利子だって払えやしませんよ、安心していらっしゃい。
【リュボーフィ・アンドレーエヴナ】 この人は譫言《うわごと》を言ってるんですよ。将軍なんかてんでありゃしませんよ。
トロフィーモフ、アーニャ、ワーリャ登場。
【ガーエフ】 ああ、みんながやってきた。
【アーニャ】 ママがいらっしゃるわ。
【リュボーフィ・アンドレーエヴナ】 (優しく)おいで、おいで……みんな……(アーニャとワーリャを抱きながら)ああ、わたしがどんなに、おまえたちを愛しているか、それがおまえたちにわかったらねえ。さ、ここへならんで、お掛け、そうそう。(みんな腰をおろす)
【ロパーヒン】 わが万年大学生の君は、いつもお嬢さんがたとごいっしょですね。
【トロフィーモフ】 よけいなお世話ですよ。
【ロパーヒン】 この人はやがて五十だというのに、いつも相変わらずの大学生なんですからね。
【トロフィーモフ】 そんなくだらんしゃれはよしたまえ。
【ロパーヒン】 なんだって君、そんなに怒るんだね、へんな男だなあ!
【トロフィーモフ】 いつまてもくどくどいうのはよしたまえ。
【ロパーヒン】 (笑う)じゃ、ひとつあなたにうかがいますがね、あなたは、わたしのことをなんと考えていられますね?
【トロフィーモフ】 僕はね、エルモラーイ・アレクセーエヴィッチ、こんなふうに考えていますよ……君は金持ちで、いまに百万長者になるだろうって。ちょうど、新陳代謝のためには行く手にあたるものはすべてとって食ってしまう猛獣が必要であるように、君という人もやっぱり必要なんですよ。(一同笑う)
【ワーリャ】 あなたはね、ペーチャ、星の話でもなすったほうがいいわ。
【リュボーフィ・アンドレーエヴナ】 いいえ、それより昨日の話のつづきをすることにしましょうよ。
【トロフィーモフ】 というのは、何でしたっけね?
【ガーエフ】 気位のたかい人間の話さ。
【トロフィーモフ】 われわれは昨日かなり長いことしゃべったけれど、なんの結論にも達しなかったですね。あなたのご意見によると、気位のたかい人間には、なにか神秘的なところがあるんでしたね。そりゃ、ある意味においては、あなたが正しいかもしれませんが、しかし、なんら成心なく単純に考えたら、気位とは、そもなんぞやと言いたくなるですね。いったいそれになにか意味があるでしょうか。第一に人間というものが、生理的に貧弱に造られており、大多数の者が粗野で、無知で、おまけにたいへん不幸なものである以上は、です。うぬ惚れはほどほどにしなけりゃいけませんよ。そして、ただ働かなくちゃいけません。
【ガーエフ】 しかし、どっちにしたって死ぬんだよ。
【トロフィーモフ】 そんなことだれが知るもんですか? それに……死とはなにを意味するのでしょう? ひょっとしたら、人間には百ぐらい感覚があって、そのうち死とともに滅びるのは、われわれの知っている五感だけで、あとの九十五は生きてのこるかもしれないんですからね。
【リュボーフィ・アンドレーエヴナ】 まあ、あなたはなんて賢い人でしょうねえ、ペーチャ!
【ロパーヒン】 (皮肉に)ひじょうにね!
【トロフィーモフ】 人類は一歩一歩自己の力を完成しつつ前進しているのです。人類にとって現在では理解しがたいこともすべて、いつかは身近な明瞭なものになるに相違ないのです。ただ、今は働かなければなりません。真理を求めている者を、全力をあげて助けなければなりません。ところが、わがロシアでは、今のところ、働いている者はきわめて少数です。僕の知っているインテリゲンチャの大部分は、なにひとつ求めてもいなければ、なにひとつ仕事もせず、労働というものにたいしては、現在のところまず無能であります。彼らは、自らインテリゲンチャと称してはいるものの、召使を呼ぶには「おまえ」をもってするし、百姓たちは動物扱いだし、勉強はろくにせず、まじめな読書などは少しもしない。まったくなにひとつしないで、科学のことだってただ口先でしゃべるだけだし、芸術なんてことも、いっこうにわかっちゃいないんです。それでいて、みんなおおまじめで、こむずかしい顔をして、高尚なことばかり言って、哲学者ぶっていますが、そのくせわれわれの大多数は、百人中九十九人までが、まるで野蛮人のような生活をしていて、ちょっとしたことにもすぐなぐり合ったり、罵《ののし》り合ったりする、そしていやなものをたべ、きたない、息のつまるようなところに寝て、いたるところ南京虫と、悪臭と、湿気と、精神的不潔と……これだから、われわれのあいだの美しい話などは、みな明らかに、ただ自他の目をごまかすためにすぎないのです。第一、このごろ世間でむやみに騒いでいる託児所などは、いったいどこにあるんです? 図書館はどこにあるんです? ひとつ僕に教えてください。そんなものはただ小説に書いてあるだけで、実際にはなにひとつありゃしません。あるものはただ、汚穢《おわい》と、卑俗と、アジアふうの生活ばかりです……僕はあまりにまじめな顔つきを恐れます、好きません、同様に、まじめな話を恐れます。むしろ沈黙を守るにしかずです!
【ロパーヒン】 そういえばですねえ、わたしは、朝は四時すぎにはおきて、朝から晩まで働いています。そして自分のやら人のやら、たえず金を扱っているので、周囲の人たちをよく見てますがね。正直な、人間らしい人間がいかに少ないかということを知るためには、ただちょっと、なにか新しいことをはじめてみるだけでたくさんです。ときどき、寝られない晩などには、わたしはよくこんなことを考えますよ……「神様、あなたはわたしたちに、大きな森や、はてしもない野原や、遠い遠い地平線などを授けてくださいました。ですから、そこに住むとしますと、わたしたち自身も、本来ならば、もっと大男でなければならぬはずでございます……」
【リュボーフィ・アンドレーエヴナ】 まあ、あなたは大男が必要なんですって……そんなものはおとぎ話でこそいいけれど、ほんとうに出てきたらびっくりするわ。
舞台の奥をエピホードフが通る。相変わらずギターを弾いている。
【リュボーフィ・アンドレーエヴナ】 (思い沈んだ調子で)エピホードフが歩いてるわ……
【アーニャ】 (思い沈んだ調子で)エピホードフが歩いてるわ。
【ガーエフ】 さあ日が落ちたよ、諸君。
【トロフィーモフ】 そうですね。
【ガーエフ】 (低く、朗読口調で)おお自然よ、驚くべき自然よ、おん身はつねに永遠の光に輝いている、美しく、しこうして無関心なる自然よ、われらが母とよぶおん身は、生と死とを一身のうちに融合して、生を与え、かつ滅ぼす……
【ワーリャ】 (祈るように)伯父さん!
【アーニャ】 伯父さんたら、また!
【トロフィーモフ】 あなたにはやっぱり、黄玉をまん中へ二度打ちのほうが、いいですね。
【ガーエフ】 いや、もう黙るよ、黙るよ。
一同、思い沈んださまでじっと腰掛けている。静寂。ただフィルスが小声でぼそぼそつぶやくのが聞こえるだけである。突然、天からでも落ちたように、弦のきれたような、しだいに消えてゆく、悲しげな、遠い音が響きわたる。
【リュボーフィ・アンドレーエヴナ】 あれなあに?
【ロパーヒン】 わかりませんなあ。どこか遠くの鉱山で、昇降機でもきれたんでしょうよ。しかし、どこかずいぶん遠くらしいですね。
【ガーエフ】 だが、ひょっとすると鳥かもしれないよ……鷺《さぎ》かなにか。
【トロフィーモフ】 それとも大みみずくか……
【リュボーフィ・アンドレーエヴナ】 (身ぶるいする)なんだかいやな気持ちだわ。(間)
【フィルス】 あの不幸の前にも同じようなことがございましたよ……梟《ふくろう》が鳴いたり、サモワールがのべつゴトゴト言ったり……
【ガーエフ】 どういう不幸の前に?
【フィルス】 あの解放令の前で。(間)
【リュボーフィ・アンドレーエヴナ】 ねえみなさん、そろそろ行こうじゃありませんか、もう暮れかけてきたから。(アーニャに)おまえ涙ぐんだりして……まあ、どうしたのさ!(彼女を抱く)
【アーニャ】 なんでもないのよ、ママ、ただちょっと。
【トロフィーモフ】 だれかきましたよ。
白い古ぼけた帽子をかぶり、外套を着た浮浪人、姿を現わす。彼はすこし酔っている。
【浮浪人】 ええ、ちょっとうかがいますが、ここをまっすぐ行って、停車場へ出られましょうか?
【ガーエフ】 出られますよ。この道をまっすぐ行きたまえ。
【浮浪人】 まことにどうもありがとうございます。(咳ばらいして)たいへん結構なお天気で……(朗読口調で)わが同胞よ、苦しみ悩む同胞よ……。ヴォルガのほとりに出《い》でよ、誰《た》が呻吟《しんぎん》ぞ……(ワーリャに)マドモアゼル、どうかこの飢えたるロシアの同胞に、三十コペイカばかりお恵みください……
ワーリャ、驚いて悲鳴をあげる。
【ロパーヒン】 (腹立たしげに)どんな醜いことにも、相当の礼儀というものはあるものだ。
【リュボーフィ・アンドレーエヴナ】 (あっけにとられて)さあ、もっておいで……これをあげるわ……(金入れの中をさがす)銀貨がないわ……おんなじだ、さあ、この金貨をあげよう……
【浮浪人】 どうも、まことにありがとうございます。(退場)
笑い。
【ワーリャ】 (おびえて)わたし行きますわ……もう行きますわ……ああ、おかあさまったら、うちでは、召使いたちにたベさせるものもないというのに、あんな人に、金貨をやっておしまいになったりして。
【リュボーフィ・アンドレーエヴナ】 わたしのようなこんな馬鹿はまったくどうにもしようがないわね! わたし今日うちへ帰ったら、ありたけのものをみんなおまえに渡すわ。エルモラーイ・アレクセーエヴィッチ、あなたまたわたしに貸してくださいね……
【ロパーヒン】 承知しました。
【リュボーフィ・アンドレーエヴナ】 さあ、まいりましょうよ、みなさん、もう時間ですわ。ああ、今ここでね、ワーリャ、わたしたち、おまえの縁談をすっかりきめてしまったのよ。おめでとう。
【ワーリャ】 (涙ぐんで)おかあさま、こんなことで冗談をおっしゃるの、ひどいわ。
【ロパーヒン】 オフィリヤ殿は尼寺へおゆきやれ……
【ガーエフ】 わたしは、どうも手がふるえてならんよ……久しいこと玉を突かないもんだからね。
【ロパーヒン】 オフィリヤどの、おお、水精《ニンフ》どの、予の罪障消滅をも祈り添えてたもれ!
【リュボーフィ・アンドレーエヴナ】 行きましょうよ、さあみなさん。もうすぐ晩の食事ですわ。
【ワーリャ】 あの男、ずいぶん人をびっくりさせたわ。わたし、心臓がまだこんなにおどってる。
【ロパーヒン】 みなさん、もう一度申し上げておきますがね……八月の二十二日には、桜の園が競売になるんですよ。このことをよくお考えください! よくお考えください……
トロフィーモフとアーニャをのぞいて、一同退場。
【アーニャ】 (笑いながら)あの浮浪人に感謝するわ。あの男がワーリャをおどかしてくれたおかげで、やっとふたりきりになれたわねえ。
【トロフィーモフ】 ワーリャはね、われわれが急に恋仲にでもなりゃしないかと思って、一日じゅうわれわれのそばをはなれないんですよ。あのひとは料簡が狭いもんで、われわれが恋愛など超越してるってことがわからないんですよ。人間が自由になり幸福になるのをさまたげる卑俗な幻影を回避すること、これこそわれわれの生活の目的であり意義であります。前へ進めです! われわれは、はるかあなたの空遠く輝いている明らかな星をめざして力いっぱい突き進んでいるのです! 前へ進め! 諸君、落伍してはいけない!
【アーニャ】 (手をうちながら)まあ、あなたはとてもお話がお上手ね!(間)今日はここの景色、とてもすばらしいわ!
【トロフィーモフ】 そうです、じつにいい天気です。
【アーニャ】 ねえペーチャ、あなたはいったいわたしに、なにをなすったのかしら、どうしてわたしは、前のようにこの桜の園を愛さなくなったのかしら。もとはわたし、この桜の園をやさしく愛して、うちの園ほどいいところは、世界じゅうどこにもないように思っていたのに。
【トロフィーモフ】 全ロシアがわれわれの庭ですよ。この地球は偉大でかつ美しいものだから、そこにはいくらでもいいところがあります。(間)まあ、よく考えてごらんなさいよ、アーニャ……あなたのお祖父《じい》さんも、曾祖父《ひいじい》さんも、あなたの先祖はみんな農奴所有者で、生きた魂を自分のものにしていたものです。はたしてこの庭の桜の木から、その葉の一枚一枚から、その幹の一本一本から、人間的存在があなた方をにらみつけていないでしょうか、はたしてあなた方には、その声が聞こえないでしょうか……ああ、これは恐ろしいことです、あなたの庭は恐ろしいです。夕方か夜中に庭の中を歩いていると、桜の木の古い樹皮がにぶく光って、なんだか桜の木々たちが、百年も二百年も前のことを夢に見ながら、重苦しいまぼろしに苦しめられているような気がします。いや、なにもいうものはありませんさ! われわれは、少なくとも二百年くらいはおくれているんです。われわれの国には、まだからきし何にもありゃしません。過去にたいしても、はっきりした態度をもっていないのです。われわれはただ、哲学者をきどったり、憂鬱《ゆううつ》を訴えたり、ウオッカを飲んだりしているだけです。だって、もうわかりきったことなんですものね……われわれがもう一度現在において生活をはじめるためには、まずわれわれの過去をあがない、それをきれいに清算してしまわなければならない。ところで、過去をあがなうには、ただ苦難をもってするほかはないのです。ただ異常な、不断の努力をもってするほかはないのです。ここをよく会得して下さい、ね、アーニャ。
【アーニャ】 わたしたちがいま住まっている家は、もうとっくにわたしたちの家ではないんですのよ。だから、わたし出て行きますわ。きっとあなたに約束するわ。
【トロフィーモフ】 もしあなたが家政の鍵《かぎ》を預かっているんだったら、そんなものは、井戸の中へほうりこんで、出ておしまいなさい。そして、風のように自由になるんですよ。
【アーニャ】 (歓喜にもえて)まあ、なんてあなたはお上手におっしゃるんでしょう!
【トロフィーモフ】 ねえ、アーニャ、どうぞ僕を信じてください! 信じてください! 僕はまだ三十にもたらぬ若造で、一介の大学生にしかすぎませんが、しかし僕は、これまでに、もうどれくらい苦労をしてきたかしれませんよ! 冬になると、僕は飢えと病いに苦しめられて、まるで乞食のような貧しい境涯《きょうがい》におちるのです……そして運命に追われるままに、どこへでも流れて行ったものです! でも、僕の魂は常に、夜となく昼となく、いかなるときでも、ある言いがたい予感にみちていました。僕は幸福を予感しています。アーニャ、僕はもうそれをはっきりと見ているのですよ……
【アーニャ】 (思い沈んださまで)ああ、月が昇ったわ。
エピホードフがギターをかき鳴らして、たえずおなじ悲しげな歌をひいているのが聞こえる。月が昇る。どこかポプラの木のあたりで、ワーリャがアーニャをさがしながら、呼んでいる……「アーニャ、あんたどこう?」
【トロフィーモフ】 そう、月が昇った、(間)ね、あれですよ、あれが幸福ですよ、もうやってきたのです。だんだん近づいてくるのです、僕にはその足音が聞こえます。たとえ僕たちに見えなくても、僕たちに見分けがつかなくても、そんなことがなんでしょう? ほかの人が見つけてくれますよ!
【ワーリャの声】 アーニャ! あんたどこう?
【トロフィーモフ】 またあのワーリャだ!(腹立たしげに)いやんなっちゃうなあ!
【アーニャ】 いいじゃないの。川のほうへ行きましょうよ。あすこはいいわ。
【トロフィーモフ】 行きましょう。(両人歩きだす)
【ワーリャの声】 アーニャ! アーニャ!(幕)
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第三幕
アーチで広間からへだてられた客間。吊り燭台《しょくだい》がともっている。玄関でユダヤの音楽隊の演奏しているのが聞こえる。第二幕で噂にのぼったそれである。晩。広間では大円舞《グラン・ロン》を踊っている。シメオーノフ・ピーシチックの「プロムナード・ア・ユヌ・ペール(一組ずつ行進)」というフランス語のかけ声。一同客間へ現われる……先頭の組はピーシチックとシャルロッタ・イワーノヴナ、第二番目は……トロフィーモフとリュボーフィ・アンドレーエヴナ、第三番目は……アーニャと郵便局員、四番目は……ワーリャと駅長等々。ワーリャは忍びやかに泣いていて、踊りながら涙をふいている。最後の組には、ドゥニャーシャがいる。一同客間を通って進む。ピーシチック、叫ぶ……「グラン・ロン・バランセ!(大円陣、左右ひとしく整列)」「レ・カヴァリエ・ザ・ジュヌー・エルメルシュ・ヴォ・ダーム!(騎士たちはひざまずいて淑女に謝意を表わします)」
燕尾服《えんびふく》姿のフィルス、盆に炭酸水をのせて出る。ピーシチックとトロフィーモフ、客間へはいってくる。
【ピーシチック】 わしは多血質で、二度も卒中にやられたくらいだから、舞踏はちょっと困るんだがね。たとえにもいう、犬の群れへはいったら、吠える吠えないは別として、尻尾だけは振らなきゃならん。ともあれ、わしの健康ときたら、馬なみだよ。亡くなった親父は……天国を与えたまえ……なかなかの冗談もんで、うちの先祖についてこんなふうに言っていたものだ。わがシメオーノフ・ピーシチックの家は、なんでもあのカリグラ(ローマの皇帝)が元老院にすわらせたという有名な馬から出ているとね……(腰をおろす)だが、一つの不幸は……金がないということだ! 飢えたる犬はただ肉だけを信仰する……(いびきをかく。が、すぐ目をさまして)わしもまさしくそのとおりで……金の話以外はできない始末さ……
【トロフィーモフ】 じじつあんたの様子にゃ、どこか馬みたいなところがあるて。
【ピーシチック】 なあに……馬はいい獣だよ……馬は売れるからね……
隣室で玉をつく音が聞こえる。広間のアーチの下ヘワーリャが現われる。
【トロフィーモフ】 (からかう)マダーム・ロパーヒン! マダーム・ロパーヒン!……
【ワーリャ】 (腹立たしげに)お禿げの旦那。
【トロフィーモフ】 ええ、僕はお禿げの旦那ですよ、そしてそれを誇りとしていますよ!
【ワーリャ】 (悲痛な沈思のうちに)こんな楽隊なんか呼んで、どうして払うつもりだろ?(退場)
【トロフィーモフ】 (ピーシチックに)もしだね、あんたが一生のあいだ借金の利子を払う金の工面に費やした精力を、なにかほかのことに向けていたら、しまいにはたしかに、世界をひっくりかえすようなこともできたに違いないですぜ。
【ピーシチック】 ニーチェ……哲学者の……あのえらい、有名な……恐ろしい知恵者さ、あの男の書いたもののなかに、贋造《がんぞう》紙幣を作ってもいいなんてことが書いてあるが。
【トロフィーモフ】 じゃあ、あんたはニーチェを読んだのかね?
【ピーシチック】 いや……うちのダーシェニカが話したんだよ。ところで、わしは今、贋造紙幣でも作りたいくらいのせっぱつまった羽目になってるんだ……あさって三百十ルーブリ払わなくちゃならないんでね……百三十ルーブリだけは手に入れたんだが……(ポケットをさぐり、不安げに)金がなくなった! 落としちまった!(涙ぐんで)どこへやったかしら?……(喜ばしげに)ああ、あった。裏のほうへ落ちてやがった……やれやれ、びっしょり冷汗をかいちまった……
リュボーフィ・アンドレーエヴナとシャルロッタ・イワーノヴナ登場。
【リュボーフィ・アンドレーエヴナ】 (コーカサスの舞踏曲を口ずさみつつ)どうしてレオニードはこんなに遅いのかしら? 町でなにをしてるんだろう。(ドウニャーシャに)ドゥニャーシャ、楽隊の人たちにお茶をあげておくれ……
【トロフィーモフ】 競売が成立しなかったんですよ、きっと。
【リュボーフィ・アンドレーエヴナ】 楽隊の来かたもおりがわるかったし、わたしたちが舞踏会を思いついたのも、おりがわるかったのね……だけど、まあいいわ……(腰をおろして、静かにうたう)
【シャルロッタ】 (ピーシチックに一組のカルタをわたす)さあ、ここにカルタがひと組あります。このうちのどれか一枚を思ってください。
【ピーシチック】 思いました。
【シャルロッタ】 じゃあよく札を切ってください。たいへん結構。では、こちらへお貸しください。おお、わが愛するピーシチックさん。一《アイン》、二《ツワイ》、三《ドライ》。さあ、さがしてごらんなさい。今の札があなたの脇ポケットにありますから……
【ピーシチック】 (脇がくしからカルタを取りだす)スペードの八、まさにそのとおり!(驚いて)こいつはどうだ!
【シャルロッタ】 (一組のカルタを手のひらにのせて、トロフィーモフに)早く言ってください。一番上にある札はなんですか?
【トロフィーモフ】 なんです、いったい? スペードのクインさ。
【シャルロッタ】 よろしい!(ピーシチックに)さあ、一番上の札はなんですか?
【ピーシチック】 ハートのポイント。
【シャルロッタ】 よろしい!(手のひらを一つたたく、一組のカルタ消える)今日はなんていいお天気でしょう!(神秘な女の声が、まるで床下からでも出るように彼女に答える……「ええ、ほんとうに素敵なお天気ですわね、奥さん」)あなたはほんとに立派なわたしの理想です……(声……「奥さん、わたしにはあなたがたいへん気に入りました」)
【駅長】 (拍手する)いよう、女腹話術師、ブラーヴォー!
【ピーシチック】 (驚いて)こいつはどうだ! どうもなんともかとも申しようのないシャルロッタ・イワーノヴナだ……わたしは手もなく惚れこんでしまったよ……
【シャルロッタ】 惚れこんだ?(肩をすくめる)あなたにも恋なんてことができるんですかねえ? グータ・メンシュ、アーバ・シュレヒタ・ムジカント(独語、善き人よ、されど悲しき音楽師よ)
【トロフィーモフ】 (ピーシチックの肩をたたいて)ほんとにあんたはなんという馬だろうなあ……
【シャルロッタ】 さあさあ、いま一番手品をごらんに入れまあす。(椅子の上から膝掛けをとる)これは飛びきり上等の膝掛けでございます、これをお売りしたいと思います……(振る)どなたかお買いくださる方はございませんか?
【ピーシチック】 (驚いて)こいつはどうだ!
【シャルロッタ】 一《アイン》、二《ツワイ》、三《ドライ》!(手早くたらした膝掛けをあげる。膝掛けのうしろにアーニャが立っている。彼女は膝をかがめる会釈をして、母のそばへ駆けより、彼女を抱きしめてから、一同の感嘆のうちに背後の広間へ駆け去る)
【リュボーフィ・アンドレーエヴナ】 (拍手する)ブラーヴォー、ブラーヴォー!
【シャルロッタ】 いま一番! 一《アイン》、二《ツワイ》、三《ドライ》!(膝掛けをあげる。膝掛けのうしろにワーリャが立っていて、おじぎをする)
【ピーシチック】 (驚いて)こいつはどうだ!
【シャルロッタ】 終わり!(膝掛けをピーシチックに投げつけ、膝をかがめる会釈をして広間へ駆け込む)
【ピーシチック】 (そのあとから急ぎながら)悪者め……なんという女だ? なんという女だ?(退場)
【リュボーフィ・アンドレーエヴナ】 レオニードはなかなか帰らないわね。いったいこんなに長く町でなにをしてるんだろう、わからないね! だって、もうなにもかもおしまいで、領地は売られてしまったんじゃないの。それとも、競売がうまくまとまらなかったのかしら。どうしてこんなにいつまでもひとをじらすんだろうね。
【ワーリャ】 (母を慰めようと努めながら)きっと伯父さんがお買いになったのよ。わたしそうに違いないと思いますわ。
【トロフィーモフ】 (冷笑的に)そうですよ。
【ワーリャ】 お祖母《ばあ》さまが伯父さんに委任状をおよこしになって、お祖母さまの名義で領地を買って、借金をそちらへ書きかえるようにしてくだすったんですもの。これはアーニャのためにしてくだすったのよ。だからわたし、神様のお助けで、きっと伯父さんがお落としになったことと思いますわ。
【リュボーフィ・アンドレーエヴナ】 ヤロスラーブリのお祖母さまは、ご自分の名義で領地を買うようにって、一万五千ルーブリ送ってくだすったの……つまり、わたしたちを信用なさらないのさ……だけど、それだけのお金では、利子を払うにもたりやしない。(両手で顔をおおう)今日は、わたしの運命がきまる日だわ、運命が……
【トロフィーモフ】 (ワーリャをからかう)マダーム・ロパーヒン!
【ワーリャ】 (腹立たしげに)ヘん、万年大学生! もう二度も大学から追んだされたくせに。
【リュボーフィ・アンドレーエヴナ】 なんだっておまえ、そう怒るの、ワーリャ? この人がロパーヒンのことでおまえをからかったからって、それが何よ? 嫁《ゆ》きたかったら……ロパーヒンのところへおいでなさい。あの人は、面白い、いい人じゃないの。だけどまた、もしいやだったら……嫁かないまでのこと。だれもおまえの自由を束縛はしませんよ……
【ワーリャ】 わたしはねおかあさま、隠さず言いますけど、このことは、まじめに考えておりますのよ。あの人はいい人で、わたしは気に入ってるんですもの。
【リュボーフィ・アンドレーエヴナ】 じゃあ、そうなさい。なにを待ってるのさ、わからないねえ!
【ワーリャ】 だっておかあさま、わたしが自分のほうから申し込みをするわけにもいかないじゃありませんか。もう二年ごし、みんなはわたしにあの人のことで、いろんなこと言っていますけれど、あの人はいつも黙ってるか、冗談にしてしまうかなんですもの。でも、わたしはわかっていますの。あの人はだんだんお金持ちになって、仕事が忙しいものだから、わたしのことどころじゃないんですよ。もしわたしにお金があったら……ほんの少しでも、せめて百ルーブリでもあったら……わたしはなにもかもうっちゃって、遠いところへ行ってしまうんですのに。尼寺《あまでら》へでも行ってしまうんですのに。
【トロフィーモフ】 あっぱれなお心掛けで!
【ワーリャ】 (トロフィーモフに)大学生は、もっと利口でなくちゃいけないのよ!(柔らかい調子で、涙ぐみながら)だけど、ほんとにあなたったら、なんてみっともなくなってしまったんでしょうね、ぺーチャ。そしてなんて年をとったんでしょう!(リュボーフィ・アンドレーエヴナに、もう泣かないで)ただね、わたし、仕事をしないではいられませんの、おかあさま。わたしは一分間でもなにかしないではいられませんのよ。
ヤーシャ登場
【ヤーシャ】 (やっとのことで吹きだすのを堪えながら)エピホードフが玉突きのキューを折りました!……(退場)
【ワーリャ】 どうしてエピホードフなんかがここにいるんだろう? だれがあの人に玉突きなんかすることを許したんだろう? あの人たちのすることは、さっぱりわけがわからないわ……(退場)
【リュボーフィ・アンドレーエヴナ】 ねえ、ぺーチャ、あの子をからかうのはよしてちょうだい。あなただってご存じでしょう、あの子は、それでなくても不仕合わせなんですから。
【トロフィーモフ】 あのひとは少しおせっかいがすぎるんですよ、自分のことでもないのによけいな心配をして。この夏じゅうも、僕とアーニャとのあいだにロマンスでもできるかと案じて、うるさくつきまとったんですからね。第一、それがあのひとにとってなんだと言うんです? それに、僕はそんなけぶりも見せなかったんですよ、僕は、そんな平凡なことには、だいぶ距離のある人間です。僕たちは、恋愛以上に超越してるんですからね!
【リュボーフィ・アンドレーエヴナ】 じゃあ、わたしはきっと恋愛以下に堕落してるんだわね。(はげしい不安の態で)どうしてレオニードは帰ってこないんだろう? 領地が売れたかどうか……ただそれだけでも知れるといいのに。わたしには、この不幸がとても信じられないほどひどい気がして、なにを考えたらいいのか、それさえ分らないくらい、ぼうっとしてしまってるのよ……わたしは、いまにも大きな声でわめき出しそうだ……ろくでもないことでも仕出かしそうだ。ねえ、ペーチャ、あんた、どうぞわたしを助けてちょうだい。なんでもいいから話してちょうだい、ね、話して……
【トロフィーモフ】 今日領地が売られようと売られまいと……どっちにしたって同じことじゃありませんか? そんなものは、もうとうに片がついちゃってるんです。いまさらもとへは帰りゃしませんよ。道は草で埋まってしまいました。奥さん、どうぞおちついてください。もう自分をあざむく必要はありません。せめて生涯に一度くらい、真実をまともに見つめなくちゃいけません。
【リュボーフィ・アンドレーエヴナ】 真実ってどんなものですの? あなたはどこに真実があって、どこに偽りがあるかご存じですけれど、わたしは、まるで視力を失ってしまったように、なんにも見えないんですもの。あなたはどんな重大問題でもどしどし解決しておしまいになるけれど、それは、あなたがお若いからじゃないかしら? あなたがどんな問題にも苦しんだことがおありにならないからじゃないかしら? あなたは勇敢に行く手を見つめていらっしゃる。しかしこれも、人生というものがまだあなたの若いお目から隠されているために、なにひとつ恐ろしいものを見もしなければ、期待してもいらっしゃらないからじゃないかしら? あなたは、わたしたちより勇敢で、正直で、深刻ですわ。だけど、せめて指の先ほどでも、寛大な気持ちになってみてちょうだいな、そしてわたしを哀れんでちょうだいな。だって、わたしは、ここで生まれたんですよ。わたしの父も、母も、お祖父さんも、ここで暮らしたんですよ。で、わたしは、この家を愛しています。この桜の園なしに、わたしは自分の生活を考えることはできません。ですから、もしどうしても売らなきゃならないのだったら、園といっしょにわたしも売ってしまってちょうだい……(トロフィーモフを抱いて、その額に接吻する)だって、わたしのかわいい坊やがここで溺れて死んだんですもの……(泣く)あなたは優しい、いい人ですわ、どうぞわたしを哀れんでちょうだい。
【トロフィーモフ】 そりゃ勿論、心から同情していますよ。
【リュボーフィ・アンドレーエヴナ】 だけど、なんとかもう少し、もう少しなんとか言い方がありそうなものだわねえ……(ハンケチを取りだす、その拍子に床の上へ電報がおちる)わたし今日は、なんともいえないいやな気持ちなのよ、あなたにはとても想像もつかないくらい。ここはわたしには騒々しくて、ちょっとの物音にも胸がふるえます、からだじゅうがぶるぶるふるえるんですわ。けれど、そうかといって自分の部屋へ引っ込む気にもなれませんの。静かなところでひとりぽっちになるのもこわいんですもの。ですけれど、ねえぺーチャ、あなたはどうぞわたしを責めないでちょうだい……わたしはあなたを愛しているのよ、まるで親身の人のようにね。あなたにならわたし、喜んでアーニャを差しあげますわ、きっと差しあげますわ。ただね、勉強はなさらなくちゃだめよ、学校は卒業してしまわなくちゃ。あなたったらなにもしないで、ただ、運命のままにあっち行きこっち行きしてるんですもの、これはどうもあんまり変よ……そうじゃなくって? ねえ、それに顎髭《あごひげ》だって、もう少しどうにかなるように手入れしなくちゃ……(笑う)おかしな人ね、あなたは!
【トロフィーモフ】 (電報を拾いあげる)僕はべつに好男子になる気はないんですよ。
【リュボーフィ・アンドレーエヴナ】 それはパリからきた電報なんですの。毎日くるんですわ。昨日も今日も。あの野蛮人はまた病気になって、どうもまたよくないんですって……で、一生懸命にあやまって、帰ってくれってしきりに頼んでるんだから、本来なら、パリへ行って、そばについててやらなきゃならないんだけれど、まあペーチャ、あなたはむつかしい顔をしてるのねえ、だけど、どうしようがありましょう、わたしにどうしようがありましょう。あの人は病気で、ひとりぼっちで、不仕合わせでいるのに、世話をする人がいないんですもの、あの人のあやまちを押える人がいないんですもの! 時間時間にちゃんと薬を飲ませてくれる人がいないんですもの! それに、いまさらなにも、隠したり、『しら』をきったりしてもはじまりません、わたしはあの人を愛しています、それはもう明白なことですわ。愛してますとも、愛してますとも……これは、わたしの首にかけられた重石《おもし》です、わたしはそれにつられてぐんぐん底へおちてゆきます。それでもわたしは、その重石が好きで、それなしには生きていかれないんですもの。(トロフィーモフの手を握りしめる)どうぞわるく思わないでくださいね、ペーチャ、もうなんにも言わないで、ね、なんにも……
【トロフィーモフ】 (涙ぐんで)どうか露骨な言いかたをお許しください……だってあの男は、あなたを裸にしちゃったんじゃありませんか!
【リュボーフィ・アンドレーエヴナ】 いいえ、いいえ、いいえ、そんなふうに言うものじゃありませんわ……(耳をおおう)
【トロフィーモフ】 だって、あの男はやくざです、ただあなただけがそれを知らないのです! あいつはちっぽけな、やくざな、なんの役にも立たない男です……
【リュボーフィ・アンドレーエヴナ】 (腹を立てながら、しかしじっと押さえて)あなたはもう二十六か七でしょう、それなのにあなたは、相変わらず中学の二年生みたいね!
【トロフィーモフ】 いいですよ!
【リュボーフィ・アンドレーエヴナ】 もういい加減一人前の男にならなきゃだめよ、あなたぐらいの年ごろになったら、恋するものの心持ちぐらい、わからなきゃだめですよ。そして自分でも恋をしなくちゃ……打ち込んでみなくちゃ!(腹立たしげに)そうとも、そうとも! そのくせあなたには、純潔はないのです、ただ純潔をきどってるだけよ、滑稽な変人、不具者……
【トロフィーモフ】 (あきれて)このひとはなにを言ってるんだろう!
【リュボーフィ・アンドレーエヴナ】 「僕は恋愛以上に超越している!」あなたなんか、恋愛を超越してるんじゃなくって、ただもう、ちょうどあのフィルスが言う、できそこないなんですよ。あなたぐらいの年ごろに、色女ひとりもたないなんて!……
【トロフィーモフ】 (あきれて)これは驚いた! このひとはなにを言うんだろう?(足早やに広間のほうへ行く、両手で頭をつかんで)これは恐ろしい……とてもかなわん……あっちへ行こう……(出て行く、が、すぐ引返してくる)僕たちの関係はもう、これで全部終わりですよ!(玄関のほうへ退場)
【リュボーフィ・アンドレーエヴナ】 (うしろから叫ぶ)ペーチャ、待ってちょうだい! おかしな人ねえ、わたしちょっと冗談を言ったまでじゃありませんか! ペーチャ!
玄関の階段をだれか足ばやに昇っている足音が聞こえていたが、急にすごい響きをたてて下へ落ちた音がする。アーニャとワーリャ、わっと叫び声をあげる。が、すぐ笑い声が聞こえる。
【リュボーフィ・アンドレーエヴナ】 どうしたの?
アーニャ、駆け込む。
【アーニャ】 (笑いながら)ペーチャがはしご段からおっこちたの!(駆け去る)
【リュボーフィ・アンドレーエヴナ】 なんて変わり者だろう、あのぺーチャは……
駅長広間の中央に立ちどまって、アレクセイ・トルストイの詩「罪深き女」を朗読する。一同きく。が、二、三行読むか読まぬかに、玄関のほうからワルツの音が響いてきて、朗読は中断される。一同踊る。玄関から、トロフィーモフ、アーニャ、リュボーフィ・アンドレーエヴナが出てくる。
【リュボーフィ・アンドレーエヴナ】 ねえペーチャ……ねえ、純潔な方……わたしお詫びするわ……さあ踊りましょう……(ぺーチャと踊る)
アーニャとワーリャ、踊る。フィルスがはいってきて、自分の杖を横手の戸口のそばに立てる。ヤーシャも同じく客間からはいってきて、舞踏を見る。
【ヤーシャ】 どうだい、おじいさん?
【フィルス】 どうもからだがはっきりしないよ。昔はうちの舞踏会となると、将軍だの、男爵だの、海軍の大将がただのがきて、踊りなさったものだが、今じゃ、郵便局長や駅長などを呼びにやっても、そんな連中さえ喜んではきやしない。なんだかわしも弱りこんでしまったよ。亡くなった旦那さまは、親旦那さまは、封蝋《ふうろう》をつかってだれのどんな病気でも直してくだすったものだ。わしなんぞも、二十年も、その上も、毎日封蝋を飲んでるよ。今まで生きてるのもそのおかげかもしれんて。
【ヤーシャ】 おらもうおまえにもあきあきしたよ、おじいさん。(あくびをする)せめて早く片づいてしまやいいのに。
【フィルス】 ええい、こいつ……できそこないめが!(ぶつぶつつぶやく)
トロフィーモフとリュボーフィ・アンドレーエヴナ、広間で踊ってから、客間へくる。
【リュボーフィ・アンドレーエヴナ】 メルシ(ありがとう)、わたし少し休みます……(腰をおろす)もうへとへと。
アーニャ登場。
【アーニャ】 (興奮のていで)いまね、どこかの人がお台所で、桜の園が今日売れたって話してたわよ。
【リュボーフィ・アンドレーエヴナ】 だれに売れたの?
【アーニャ】 だれにってことは言わなかったわ。そして行ってしまったの。(トロフィーモフと踊る。両人広間へ去る)
【ヤーシャ】 それは、どっかのじいさんがしゃべってたんですよ。よその男ですよ。
【フィルス】 だが、レオニード・アンドレーエヴィッチはまだいらっしゃらない、まだお帰りにならない。薄い合いの外套を着ていらしたが、かぜをおひきにならにゃいいがね、どうも若いおひとというものは!
【リュボーフィ・アンドレーエヴナ】 わたしもう死にそうだわ。ヤーシャ、おまえ行ってきいてきておくれ、だれに売れたんだか。
【ヤーシャ】 だって、もうとうに行っちゃいましたんですよ、そのじいさんは。(笑う)
【リュボーフィ・アンドレーエヴナ】 (すこしいまいましげに)まあ、おまえなにを笑ってるの? なにがそんなに嬉しいの?
【ヤーシャ】 でも、あのエピホードフがあんまりおかしいもんで。くだらない男ですな。二十二の不仕合わせなんて。
【リュボーフィ・アンドレーエヴナ】 フィルス、もし領地が売れてしまったらおまえどこへ行くつもり?
【フィルス】 どこへでも、行けとおっしゃるところへまいります。
【リュボーフィ・アンドレーエヴナ】 おまえどうしてそんな顔をしてるの? どこかわるいんじゃないかえ? 行って休んだらいいだろう……
【フィルス】 はい……。(冷笑的に)わたくしが行って休んでしまったら、誰がお給仕をいたします? 誰が指図をいたします? わたくしがひとりで家じゅうを背負ってるんでございますよ。
【ヤーシャ】 (リュボーフィ・アンドレーエヴナに)リュボーフィ・アンドレーエヴナ! どうかお情けをもって、わたくしのお願いをおきき届けくださるよう願います! ほかでもございません、もしまたパリヘいらっしゃるようでしたら、どうかわたくしをお連れなすってくださいまし、お慈悲でございます。ここに残っていることは、わたくしにはとてもできませんので………(見まわしながら、小声で)改めて申し上げるまでもなく、奥さまご自身でよくご存じでいらっしゃいます。じつに無教育な国で、人間は不品行だし、そのうえ退屈だし、台所ではやりきれないたべものをくれるんでございますからねえ。そこへまた、このフィルスがうろうろ歩きまわって、なんだかわけのわからんことばかりぶつぶつ言ってるんですから。どうぞ、お情けでございます、わたくしをお連れなすってくださいまし!
ピーシチック登場。
【ピーシチック】 失礼でございますが、お美しい奥さん……ひとつワルツをお願いできませんでしょうかな……(リュボーフィ・アンドレーエヴナ、彼といっしょに行く)ねえ奥さん、とにかく百八十ルーブリはお願いしますよ……ぜび拝借しますよ……(踊る)百八十ルーブリ……(両人広間の方へ移る)
【ヤーシャ】 (静かにうたう)「わしの心の苦しさを、おまえがわかってくれたなら……」
広間のほうで、灰色のシルクハットに格子縞のズボンをはいた人物が、両手を振ったり飛びあがったりしている。「プラーヴォー、シャルロッタ・イワーノヴナ!」といういくつもの叫び声。
【ドゥニャーシャ】 (白粉を刷くために立ちどまって)お嬢さまがわたしにも踊れっておっしゃるんだもの……男の人が多くって、女が少ないからって……ところがわたしは、あんまり踊ったんで頭がくらくらして、心臓がどきどきしてきたのよ。フィルス・ニコラーエヴィッチ、いまね、郵便局の人がわたしに、えらいことをおっしゃったもんだから、わたし、あやうく息がつまるところだったわ。
音楽静まる。
【フィルス】 なにをおっしゃったんだね?
【ドゥニャーシャ】 あなたはね。まるで花のようだって。
【ヤーシャ】 (あくびをする)無学な連中だ……(退場)
【ドゥニャーシャ】 花のようだって……わたしはとても気の弱い娘だから、優しい言葉がとっても好きなのよ。
【フィルス】 おまえもそろそろ怪《あや》しくなってきたなあ。
エピホードフ登場。
【エピホードフ】 アフドーチャ・フョードロヴナ、あなたは僕を見るのがおいやなんですね……まるで僕が虫けらででもあるように……(ため息する)ああ、人生よ! か。
【ドゥニャーシャ】 あなた、なんのご用?
【エピホードフ】 もちろん、そうでしょう、あなたが正しいのでしょう。(ため息をつく)だが、もちろん、その、観察点からするならばですな、あなたは、こういう言いかたをして、露骨な言いかたをして恐縮ですが、僕をすっかりその、こういう気分に陥《おとしい》れてしまわれたのですよ。僕は自分の運命をよく知っています。僕には毎日なにかしら不幸がおこる。けれども僕は、もうとっくにそれに慣れてしまっているので、微笑をもって自分の運命をながめています。あなたは僕に約束してくれたことがあります、だから、よしんば僕が……
【ドゥニャーシャ】 お願いですわ、お話はまたあとにしましょう。今はわたしにかまわないでください。わたしはいま、空想してるところなんですから。(扇をいじっている)
【エピホードフ】 僕には毎日不幸がおこる、しかし、僕はあえて言うのですが、ただ微笑んでいるのですよ、いや、笑ってすらいるのです。
広間からワーリャ登場。
【ワーリャ】 おまえはまだ行かないでいたんだね、セミョーン? ほんとうにおまえというひとは、なんというつまらない人間だろうねえ。(ドゥニャーシャに)おまえもあっちへおいで、ドゥニャーシャ。(エピホードフに)玉突きなんかしてキューを折ってしまうかと思うと、まるでお客さまのように、客間を歩きまわったりして。
【エピホードフ】 こう申しちゃなんですが、わたしをおしかりなさる権利はあなたにはありませんよ。
【ワーリャ】 わたしなにもしかってやしないわ、話をしてるだけじゃないの。だけどおまえったら、ただあちこち歩くばかりで、仕事なんかてんでしないんだもの。支配人が雇ってあったって、なんのためやらわからないじゃないの。
【エピホードフ】 (むっとしたらしく)わたしが働こうと、歩こうと、たべようと、玉を突こうと、そんなことにかれこれ口だしする権利のあるのは、ただもののわかった、年長者だけですよ。
【ワーリャ】 おまえはわたしに向かって、よくもそんなことが言えるね!(気色ばんで)ほんとによくもそんなことが! じゃあ、つまり、わたしは、なんにもものがわからないと言うんだね? さあ、出ておいで、ここから出ておいで! 今すぐ出ておいで!
【エピホードフ】 (おじけづいて)どうか、もう少しなんとか、優しい言いかたをしてくださいませんか。
【ワーリャ】 (われを忘れて)いますぐ出て行け! とっとと出て行け!(エピホードフ戸口のほうへ行く。彼女そのあとを追う)二十二の不仕合わせ! おまえのにおいもしないようにしておくれ! 二度とわたしの目がおまえを見ないようにしておくれ!(エピホードフ退場。戸の向こうで、彼の声が聞こえる……「わたしはあなたを訴えますぞ」)おや、また帰ってくる気だね?(フィルスが戸口に立てかけておいた杖をとる)来てみるがいい……おいで……おいで……ひどい目にあわせてやるから……おや、くるんだね? くるんだね? こうしてやるから……(杖を振りまわす、そのときロパーヒンがはいってくる)
【ロパーヒン】 どうも、まことにありがたい仕合わせで。
【ワーリャ】 (腹立たしげに、あざけるように)どうも失礼。
【ロパーヒン】 いや、なんでもありませんよ。まことに結構なご馳走《ちそう》で、ありがたく感謝している次第です。
【ワーリャ】 お礼には及びませんわ。(わきのほうへはなれて行ったが、やがて振りかえり、柔らかな調子でたずねる)わたし、あなたにお怪我させやしませんでして?
【ロパーヒン】 いや、なんでもありません。でかい瘤《こぶ》ぐらいは飛びだすかもしれませんが。
【広間の人声】 ロパーヒンがきた! エルモラーイ・アレクセーエヴィッチだ!
【ピーシチック】 ようよう、これはこれは……(ロパーヒンと接吻する)君はちょっくらコニャックをにおわしてるね。われわれも今ここで愉快の最中だよ。
リュボーフィ・アンドレーエヴナ、登場。
【リュボーフィ・アンドレーエヴナ】 おや、エルモラーイ・アレクセーエヴィッチ、あなたでしたの? どうしてこんなに長くかかったんです? レオニードはどこにいます?
【ロパーヒン】 レオニード・アンドレーエヴィッチは、わたしといっしょにお帰りでした。じきいらっしゃいますよ……
【リュボーフィ・アンドレーエヴナ】 (動揺しながら)で、どうでしたの? 競売はありましたの? さあ、話してください!
【ロパーヒン】 (はにかんだような調子で、自分の喜びを現わすのを恐れながら)競売は四時前にすみました……が、わたしたちは汽車に乗りおくれたので、九時半まで待たなきゃならなかったのです。(重々しく息をついて)うーふ! どうも頭が少しふらふらする……
ガーエフ登場。右手に買い物をさげ、左手で涙をふいている。
【リュボーフィ・アンドレーエヴナ】 レーニャ、どうしたの? レーニヤってば、ねえ?(じれじれして、涙声で)さあ、早く聞かしてちょうだい、後生だから……
【ガーエフ】 (彼女にはなにも答えないで、ただ手を振る。フィルスに、泣きながら)おい、これを取ってくれ……こん中にアンチョビとケルチェン(クリミヤ半島)のニシンがはいっている……わたしは、今日はなにもたべなかった……どれほど苦労したか知れないよ!(玉突き室への戸があいていて、玉を突く音と、「七と十八!」というヤーシャの声が聞こえる。ガーエフの表情がかわる。もう泣いていない)わたしはへとへとに疲れちまった。フィルス、ひとつ着換えをさせてもらおう。(広間を通って自分の部屋へ去る。フィルスそのあとにつづく)
【ピーシチック】 競売の様子はどうだったい? ひとつ話しておくれよ!
【リュボーフィ・アンドレーエヴナ】 桜の園は売られたの?
【ロパーヒン】 売られました。
【リュボーフィ・アンドレーエヴナ】 だれが買ったの?
【ロパーヒン】 わたしが買いました。(間)
リュボーフィ・アンドレーエヴナ圧倒される。もしそばに肘掛椅子とテーブルがなかったら、おそらく卒倒したであろう。ワーリャは腰から鍵の束をはずし、客間のまん中の床の上へたたきつけて退場。
【ロパーヒン】 わたしが買いました! まあみなさん、待ってください、お願いです。わたしは頭がぼうっとしていて、口をきくこともできないんです……(笑う)われわれが競売場へ行ってみると、そこにはもうデリガーノフが来ていました。レオニード・アンドレーエヴィッチは一万五千ルーブリしか用意していらっしゃらんのに、デリガーノフは抵当額の上へ一足とびに三万ルーブリせりあげました。事態容易ならずと見てとって、わたしは奴を相手に、四万とあげました。すると、奴は四万五千ときた。わたしは五万五千と出た。つまり、奴は五千ルーブリずつあげていくのに、わたしは一万ずつあげたのです……それでとうとう片がつきました。わたしは、抵当額の上へ九万ルーブリ張りこんだので、結局わたしのほうへ落ちたのです。桜の園は今ではわたしのものです! わたしのものです。(洪笑する)ああ、神様、この桜の園がわたしのものなんですよ! みなさんはどうぞわたしのことを、酔っ払いだ、気違いだ、夢を見ているのだと言ってください……(地団駄を踏む)が、どうぞわたしを笑わないでください! もしわたしの親父や祖父が墓の中から出てきて、今日の出来事を見たらどうでしょう。しじゅうぶたれてばかりいて、読み書きもろくにできないあのエルモラーイ、冬もはだしで飛びまわっていたエルモラーイ、あの当のエルモラーイが、世界じゅうに類のないほど美しい領地を手に入れたのです。わたしは、祖父や親父が奴隷奉公をして、台所へさえ入れてもらえなかったほどの領地を買ったのです。わたしは寝ぼけてるんだ、これはただわたしの気の迷いでそう思われるだけなんだ……これは無知の闇に包まれた想像の産物なんだ……(優しく微笑みながら鍵を拾う)あの先生、鍵をほうりだしたな、つまり自分はもうここの主婦でないということを見せようとしているんだ……(鍵を鳴らす)が、まあどうでもいいや。(オーケストラの調子を合わせる音が聞こえる)おーい、楽隊の衆、やってくれ、おれが聞きたいんだ! みんな来て見なさるがいい、エルモラーイ・ロパーヒンが桜の園に斧《おの》を入れて、木がどんどん地面へ倒れてゆくのを! ここに別荘を建てるのだ、孫や曾孫に、ここでの新しい生活を見せてやるんだ……楽隊、やってくれ!
奏楽がはじまる。リュボーフィ・アンドレーエヴナ、椅子の上へくずおれて、はげしく泣く。
【ロパーヒン】 (責めるように)なぜ、なぜあなたはわたしの言うことをおききなさらなかったんです? お気の毒な、いい奥さんだが、今となってはもう取り返しはつきませんよ。(涙ぐんで)ああ、こんなことはみんな早くすんでしまえばいいのに。こんな筋のとおらん不幸な生活は、早くなんとか変わればいいのに。
【ピーシチック】 (彼の腕をとって、小声に)奥さんは泣いていなさる。広間のほうへ行こう、ひとりにしておくほうがいい……さあ行こう……(彼の腕をとり、広間のほうへ連れて行く)
【ロパーヒン】 これは、いったいどうしたというんだ? 楽隊、もっと元気にやれ! なにもかもおれの言うとおりにやればいいんだ!(皮肉な調子で)新しい地主さまのお通りだ、桜の園の持ち主のお通りだ!(思わずテーブルに突きあたり、あやうく飾り燭台を落としかける)なあに、なんでも金を払ってやるよ!(ピーシチックとともに退場)
広間にも、客間にも、リュボーフィ・アンドレーエヴナのほかだれもいない。彼女は椅子に腰掛けたまま、身を縮めてはげしく泣く。楽隊は静かに演奏している。アーニャとトロフィーモフ、足ばやに登場。アーニャ、母に近づきその前にひざまずく。トロフィーモフは広間の入口に立ちどまる。
【アーニャ】 ママ!……ママ、あなた泣いていらっしゃるの、わたしの大事な、優しい、美しいママ、わたしあなたが大好きよ……わたしあなたを祝福しますわ。桜の園は売られました、もうなくなってしまったのです。それはほんとうです、ほんとうですわ。だけど泣くことはおよしなさい、ママ、あなたの生活はまだ先のほうに残ってるんですもの、そしてあなたの美しい、清い魂も残ってるんですもの……行きましょう、わたしといっしょに行きましょう。ね、ママ、ここから出て行きましょうよ!……わたしたちは、これよりもっと美しい、新しい園をこしらえますわ。ママも、それをごらんになれば、おわかりになってよ。そうすれば、静かな深い喜びが、ちょうど夕方の太陽のように、あなたの心にさしこむわ、そしたら、あなたもきっとお笑いになってよ、ママ! 行きましょう、ね! 行きましょう!(幕)
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第四幕
第一幕と同じ舞台面。ただ、窓に窓掛けもなければ、一枚の額もなく、少しばかりの家具が、売り物にでも出すように、片隅に積みかさねられているだけである。空虚が感じられる。出口のドアのそばと舞台の奥とに、トランクや旅行用の包みなどが積まれてある。
左手のドアは開いていて、そこからワーリャとアーニャの声が聞こえる。ロパーヒン、立って待っている。ヤーシャ、シャンパンをみたしたコップを盆にささげている。玄関ではエピホードフが箱をしばっている。舞台裏の奥のほうで、がやがやいう人声。百姓たちが別れの挨拶にきたのである。ガーエフの声……「ありがとう、みんな、どうもありがとう」
【ヤーシャ】 平民どもがお別れにやってきた。わたしはね、こういう意見なんですよ、エルモラーイ・アレクセーエヴィッチ……あの連中は人はいいが、どうも理解力に乏しい。
がやがやいう人声しずまる。玄関を通って、リュボーフィ・アンドレーエヴナとガーエフ登場。夫人は泣いてはいないが、真っ青になり、顔をびくびくふるわせている。口をきくこともできない。
【ガーエフ】 おまえはみんなに金入れをやってしまったね、リューバ、あんなことしちゃいけないよ! あんなことしちゃいけないよ!
【リュボーフィ・アンドレーエヴナ】 だって、わたし、仕方がなかったんですもの! 仕方がなかったんですもの!(両人退場)
【ロパーヒン】 (戸口の方へ向かって、二人のあとから)どうぞ、お願いですから! お別れに一杯召しあがってください。町から持ってくることに気がつかなかったので、停車場でやっと一本だけ見つけてきたんです。どうぞ!(間)どうしたんです、みなさん! おいやなんですか?(戸口からはなれる)そうと知ったら……買ってくるんじゃなかったっけ。じゃあ、おれも飲むのはよそう。(ヤーシャ、注意ぶかく椅子の上へ盆をおく)ヤーシャ、せめておまえだけでも飲めよ。
【ヤーシャ】 では、出発を祝いまして! あとに残る人たちの幸福を祈ります!(飲む)このシャンパンは本物じゃありませんね、わたしが保証しますよ。
【ロパーヒン】 一本八ルーブリもしたんだぞ。(間)ここはどうもひどく寒いな。
【ヤーシャ】 今日はペーチカをたかなかったんで。どうせ立ってしまうんですからね。(笑う)
【ロパーヒン】 なにを笑うんだ?
【ヤーシャ】 嬉しいからですよ。
【ロパーヒン】 もう十月だというのに、外は夏のように日があたって、静かだ。普請にゃ上乗の日和《ひより》だ。(時計を見て、戸口のほうヘ)みなさん、ご注意を願いますよ、汽車の出るまでにもう四十七分しかありませんからね! つまり、二十分たったら、停車場へ出かけなくちゃいけないということなのです。少しお急ぎにならなくちゃ。
トロフィーモフ、外套を着て戸外からはいってくる。
【トロフィーモフ】 もうぼつぼつ出かける時刻だと思いますがね。馬車の支度はできていますよ。ちえっ、いまいましい、僕のオヴァシューズはどこにあるんだろう。どっかへいっちまやがった……(戸口のほうへ)アーニャ、僕のオヴァシューズがないんですよ! どこにも見つからないんです!
【ロパーヒン】 わたしはハリコフヘ行かなきゃならない。君たちと同じ汽車に乗っていこうと思う。そしてこの冬じゅうハリコフで暮らすつもりだ。わたしもここのところずっと、君たちといっしょにのらくらしていて、仕事ひとつしないで閉口してしまった。どうもわたしは、仕事をしないではいられない。第一、この手をどうしたらいいかわからないのだ。まるで他人の手みたいに、なんだかへんにぶらぶらしていて。
【トロフィーモフ】 しかし、われわれはもうすぐ行ってしまうから、そうしたら君は君で、もうけ仕事に取りかかることができるさ。
【ロパーヒン】 まあ一杯やりたまえよ。
【トロフィーモフ】 いや、よそう。
【ロパーヒン】 じゃあ、これからモスクワヘ行くわけだね?
【トロフィーモフ】 ああ、みなさんを町まで送っといて、明日はモスクワへ行くつもりさ。
【ロパーヒン】 なるほど……なにしろ大学の先生がたが講義をはじめないで、君の帰りを待ってるんだってからね?
【トロフィーモフ】 ふん、よけいなお世話だよ。
【ロパーヒン】 いったい君は、何年大学で勉強しているんだね?
【トロフィーモフ】 おいおい、もう少しなにか新手を考え出せよ。そんな手はもう古くって、平凡だよ。(オヴァシューズを捜す)ところでと、僕らはもうたぶんこれきり会うことはあるまいから、ひと言お別れに忠告することを許してもらいたい……つまり、そう両手を振りまわすことはよしたまえ! ということだ。そのやたらに手を振りまわす癖は、よさなくちゃいけないよ。君のいわゆる別荘を建てたり、その別荘住まいの連中が将来おいおいに独立した農場経営者になるなんて考えたり、そんなことを考えること……これもやっぱり、やたらに手を振りまわすのと同じになるんだ……しかしとにかく、僕はやっぱり君が好きだ。君はまるで役者のように細い優しい指をしてるが、心もやっぱり華奢《きゃしゃ》で優しいからね……
【ロパーヒン】 (彼を抱く)さようなら、君。すべてにたいして君に感謝する。もしいるようだったら、どうかわたしから旅費を持っていってくれたまえ。
【トロフィーモフ】 なんのためにそんな? いらないよ。
【ロパーヒン】 だって君は持ってないじゃないか!
【トロフィーモフ】 あるよ。ありがとう。翻訳料がはいったからね。ほら、このポケットの中にちゃんとあるんだ。(心配そうに)だが、僕のオヴァシューズがないんだよ!
【ワーリャ】 (次の間から)このあなたのきたならしいものを持ってってちょうだい!(一足のオヴァシューズを舞台へほうりだす)
【トロフィーモフ】 なにをあんたは怒ってるんです、ワーリャ? フム……だが、これは僕のオヴァシューズじゃないや!
【ロパーヒン】 わたしはこの春、千デシャチーナのケシを播いて、こんど四万ルーブリの純益をあげた。そのケシの花盛りには、そこらはまるで絵のようだったぜ! とにかくそうして、わたしは四万ルーブリも儲《もう》けたんだ。で、つまり、できるからこそ、君にも貸してあげようと言うんだよ。なにをそうきどることがあるんだい? わたしは百姓だから……ざっくばらんだよ。
【トロフィーモフ】 君の親父さんが百姓だとか、僕の親父が薬屋だとかいうことには、絶対になんの意味もありゃしないさ(ロパーヒン、紙入れを取りだす)よしたまえ、よしたまえ……たとえ二万ルーブリくれようたって、僕はもらやしないよ。僕は自由な人間だ。だから、君たちみんなが、金持ちと貧乏人も同じように、非常にありがたがって高く評価しているものが、僕には、風にとびまわる綿毛も同様、まるでなんの権威をも持たないんだよ、僕は、君らがいなくなったってちっとも困りゃしない。僕は、君らのそばをどしどしとおりすぎる。僕は強者《きょうしゃ》だ。誇りがあるんだ。人類は、この地上にありうる限りの最高の真理と最高の幸福をめざして進んでいるのだ。そして、僕はその第一列に立っているのだ!
【ロパーヒン】 そこまで行きつけるかね?
【トロフィーモフ】 行きつけるとも。(間)よし行きつけなくたって、少なくともほかの人に行くべき道を示してやるよ。
はるかに斧で木を打つ音が聞こえる。
【ロパーヒン】 じゃあ君、さようなら、もう出かける時刻だ。われわれはお互いに、人前ではえらそうに気どっているが、生活のほうでは、勝手にどんどんすぎて行くよ。わたしなどは、長いこと疲れも知らずに働いているときには、心の中が軽くなって、なんのために自分が生きているか、わかるような気がしている。ところで君、ロシアには、なんのためともわからずに生きているような人間が、どれくらいあるか知れないんだよ。が、まあ、そんなことはどうだっていい、仕事の運びは、そんなことには関係ないんだから。それはそうと、レオニード・アンドレーエヴィッチは、勤め口ができて銀行へ出られるという話だね、年俸六千ルーブリとかで……ただどうも長く辛抱はできまいなあ、途方もない怠け者だからなあ……
【アーニャ】 (戸口で)ママがね、あんたに頼んでらっしゃるわよ……ママがここを出て行くまで庭の木を伐るのを待ってちょうだいって。
【トロフィーモフ】 ほんとうだよ、それくらいの気がつかないのかねえ……(玄関を通って退場)
【ロパーヒン】 今すぐ、今すぐ……ほんとになんという奴らだ。(彼につづいて退場)
【アーニャ】 フィルスは病院へやっただろうね?
【ヤーシャ】 今朝わたしがそう言っときましたから、やったに違いないと思いますが。
【アーニャ】 (広間を通りぬけて行くエピホードフに)セミョーン・パンテレーエヴィッチ、後生だから調べてみてくださいな……フィルスを病院へやったかどうか。
【ヤーシャ】 (腹を立てて)今朝わたしからエゴールに言っときましたよ。どうして十ぺんも同じことをきくんだろう!
【エピホードフ】 わたしの断固たる意見によりますと、あの長生きのフィルスも、いよいよ修繕がきかなくなったらしいですよ。もう先祖代々のそばへ行かなくちゃなりますまいて。しかしわたしは、あの老人すら羨《うらや》ましいくらいですよ。(鞄を帽子の箱の上へのせて、箱を押しつぶす)そら、このとおりだ、無論。こうなることはわかっていたんだ。(退場)
【ヤーシャ】 (冷笑的に)二十二の不仕あわせか……
【ワーリャ】 (ドアの向こうから)フィルスを病院へ連れてやって?
【アーニャ】 やったわよ。
【ワーリャ】 じゃあ、どうしてお医者さまのところへ手紙をもっていかなかったの?
【アーニャ】 そいじゃ、追っかけて持たせてやらなきゃいけないわ。(退場)
【ワーリャ】 (次の間から)ヤーシャはどこにいるの? あれにそう言ってやってちょうだい。母親がきて、あれとお別れがしたいって言ってるから。
【ヤーシャ】 (片手を振る)どうも、じつにやりきれないなあ。
ドゥニャーシャは、終始荷物のまわりで忙しそうにしていたが、今、ヤーシャが一人になったのを見ると、早速そばへ寄る。
【ドゥニャーシャ】 せめて一度ぐらい見てくれたっていいじゃないの。ヤーシャ! あんたはもう行っておしまいなさるのね……わたしを捨ててしまうのね……(泣いて、彼の首へしがみつく)
【ヤーシャ】 なにを泣くことがあるんだい?(シャンパンを飲む)六日後にはおれはまたパリの人だ。明日は急行列車に乗りこんで、おやという間もなく飛んで行くんだ。なんだか嘘のような気がするわい。ヴィーヴ・ラ・フランセ!(フランス万歳)……ここはどうもおれの性にゃ合わんのだよ、どうもここじゃ暮らせないんだ……いたしかたのない次第さ。百姓どもの無学にもあきあきしたからなあ……もうたくさんだよ。(シャンパンを飲む)なんだって泣くんだい? まあ、せいぜい身持ちをよくすることだな、そうしたら、泣くことなんかないからな。
【ドゥニャーシャ】 (懐中鏡を見ながら、白粉をつける)パリヘ着いたら手紙をちょうだいね。だってわたし、あんたを愛してたんだもの! ねえヤーシャ、こんなに愛してたんだもの! わたしは優しい女なのよ、ヤーシャ!
【ヤーシャ】 人がくるよ。(鞄のまわりを忙しそうにあちこちしながら、小声で鼻歌をうたう)
リュボーフィ・アンドレーエヴナ、ガーエフ、アーニャ、シャルロッタ・イワーノヴナ登場。
【ガーエフ】 われわれもそろそろ出かけなくちゃ。もういくらも時間がないよ。(ヤーシャを見ながら)このニシンのにおいをさせてるのはだれだね?
【リュボーフィ・アンドレーエヴナ】 もう十分もしたら、馬車に乗ることにしましょう……(部屋の中へ一瞥《いちべつ》を投げる)さようなら、なつかしい家、古いおじいさん。冬がすぎて、春がくる時分には、もうおまえもここにはなくなるのねえ、取りこわされてしまうんだわねえ。ああ、この壁は、どんなにいろんなことを見てきただろう!(娘を強く接吻する)大事な娘、おまえはまるで輝いているようだ、おまえの目はまるでふたつのダイヤモンドみたいに光っている。おまえは満足なの? そんなに?
【アーニャ】 ええ、とっても! だって、新しい生活がはじまるんですもの、ねえママ!
【ガーエフ】 (快活に)ほんとうに、今はなにもかもが結構ずくめだ。桜の園の売れるまでは、われわれはみんな興奮したり苦しんだりしたものだが、やがて問題がすっかり片づいてしまうと、みんなおちついて、うきうきさえしてきた。わたしは銀行家だ、もう一人前の金融業者だ……黄玉はまん中へか。それにおまえだって、リューバ、なんといっても、顔色がよくなったよ、それはうたがいない事実だよ。
【リュボーフィ・アンドレーエヴナ】 ええ。神経のほうはだんだんいいわ。それはほんとうよ(召使いたちから帽子や外套を渡される)夜分もよく寝られるのよ。ヤーシャ、わたしの荷物を運びだしておくれ。もう時間だから。(アーニャに)かわいいアーニャ、お互いにまたじき会えるわね、わたしパリヘ行って、ヤロスラーヴリのお祖母さまが領地を買い戻すようにって送ってくだすったあのお金で、暮らすつもりなの……お祖母さまも達者でいらっしゃるように!……だけど、このお金もじきなくなってしまうわね。
【アーニャ】 ママ、あなたすぐ帰ってくださるわね、すぐ……そうでしょう? わたし勉強して高等学校の試験を受けるわ、そしてやがては自分で働いて、ママの手助けになるわ。ね、ママ、ふたりでいっしょにいろんなご本を読みましょうね、いいでしょう?(母の手に接吻する)秋の晩なんかには、ふたりでご本を読みましょうね、たくさんたくさん読みましょうね。すると、そのうちに、わたしたちの前に新しい、目のさめるような世界が開けてきてよ……(空想する)ママ、帰ってきてね、
【リュボーフィ・アンドレーエヴナ】 帰ってきますともさ、おまえ。(娘を抱く)
ロパーヒン登場。シャルロッタ小声で歌をうたう。
【ガーエフ】 しあわせなシャルロッタ……歌なんかうたって!
【シャルロッタ】 (布にくるんだ赤ん坊を思わせる包みを取りあげる)坊やはいい子だ、ねんねしな……(赤ん坊の泣き声が聞こえる……「うああ! うああ!」)おお、おお、可哀そうに、可哀そうに。(「うああ!……うああ!……」)ほんとにほんとに可哀そうに!(包みをそこへほうり出す)ですからさ、あなた……どうぞわたしに口を見つけてくださいよ。わたしこんなふうじゃ、どうすることもできないんですもの。
【ロパーヒン】 見つけますよ、シャルロッタ・イワーノヴナ、心配しなさんな。
【ガーエフ】 みんなわれわれを捨てて行くんだ。ワーリャまで行ってしまう……われわれは急に無用な人間になってしまったんだ。
【シャルロッタ】 町ではわたし、どこにも行く先がありませんもの。行かなきゃなりませんわ……(うたう)どっちにしたって同じこと……
ピーシチック登場。
【ロパーヒン】 やあ、自然の奇跡!……
【ピーシチック】 (あえぎながら)いやはや、まあちょっと休ませてください……どうもひどい目にあった……みなさん、まことに………どうか水を……
【ガーエフ】 また金を借りにきたんだろう、きっと。まっぴらまっぴら、わたしは逃げだす……(退場)
【ピーシチック】 ずいぶん久しくこちらへもご無沙汰しましたなあ……美しい奥さん……(ロパーヒンに)君もここにいたのか……君に会えて嬉しいよ……すばらしい知恵者だよ君は……さ、これを取ってくれたまえ……受け取ってくれたまえ……(ロパーヒンに金をわたす)四百ルーブリ……あとまだ八百四十ルーブリ残金があるわけだ……
【ロパーヒン】 (けげんそうに肩をすくめる)まるで夢でも見ているようだ……いったいどこから取ってきたんだ?
【ピーシチック】 まあ待ってくれ……どうも暑い……いやはや、途方もないことがもちあがったのさ。わたしのところヘイギリス人がやってきてね、わしの地面のなかでなにやら白い粘土を見つけたのさ………(リュボーフィ・アンドレーエヴナに)さ、あなたにも四百ルーブリ……美しい奥さん……すばらしい奥さん……(金をわたす)あとはまたあとで。(水を飲む)今ね、ある若い男が汽車の中でこんな話をしていましたっけ、なんでもひとりの……たいへんえらい哲学者が、屋根から飛びおりることを勧めてるんだとかってね……「飛びおりろ!」……いっさいの問題はこのなかにあるんだって、こういうんですよ、(驚いたように)こいっはどうもはや! 水をどうぞ!……
【ロパーヒン】 それはいったいどういうイギリス人だね?
【ピーシチック】 つまり、わしはその連中に、粘土の出る地面を二十四年間貸してやったのさ……ところで今は、失礼ですが、こうしてる暇がありません……まだほうぼう飛びまわらなきゃならないので……ズノーイコフのとこへも……カルダモーノフのとこへも……みんなに借金があるんでね……(飲む)どうぞお達者で……木曜日にまたお寄りします…
【リュボーフィ・アンドレーエヴナ】 わたしたちはね、これからすぐ町へ引き上げて、わたしだけ明日外国へ立ちますのよ……
【ピーシチック】 なんですって?(びっくりして)なんだって町なんかへ? ははあ、道理で、道具やなにかが……鞄だの……いや、なんでもありませんよ、(涙ぐんで)なんでもありませんよ……どうもじつに知恵のある人間どもですわい……あのイギリス人たちはな……なあに、なんでもありませんよ……どうぞお仕合わせに……神様がお助けくださいますわい……なんでもありませんや……この世のものにはなににだって、終わりというものがありますからなあ……(リュボーフィ・アンドレーエヴナの手に接吻する)もし、このわたしにも、終わりがきたという噂がお耳にはいったら、どうかこの、それ、あの……馬を思い出してください、そして「ああ、昔なんとかいう……シメオーノフ・ピーシチックという男があったっけ……天国へのぼりますように……」とでもおっしゃってください。どうもすばらしいお天気ですな……さよう……(はげしく取り乱したさまで退場。が、すぐに引き返してきて、扉のところで)ダーシェニカがみなさんによろしくということで!(退場)
【リュボーフィ・アンドレーエヴナ】 さあ、もう出かけてもいいわ。わたしはふたつの心配を抱いてここを立つわけよ。ひとつは……あの病気のフィルスね。(時計を見る)まだ五分は大丈夫……
【アーニャ】 ママ、フィルスはもう病院へやってよ。ヤーシャが今朝連れさせたんですって。
【リュボーフィ・アンドレーエヴナ】 もうひとつのわたしの心配はね……ワーリャのことなの、あの子は朝早く起きて働くくせがついてるものだから、今では仕事がなくて、まるで水をはなれた魚のようなんだもの。やせて、青い顔をして、泣いてばかりいる、可哀そうに……(間)エルモラーイ・アレクセーエヴィッチ、あなたはこうした事情も十分ご存じでしたわね。それでわたし、実は……あれをあなたに貰っていただこうと空想していたんですのよ。それに、すべての点からみて、あなたもあれを貰ってくださるような様子だったもんですからね。(アーニャにささやく。アーニャはさらにシャルロッタにうなずいて見せて、両人退場)あの子はあなたを愛しているし、あなたもまんざらでもなさそうなのに、どういうわけかあなた方は、ふたりともまるで、お互いに避けるように避けるようにしてるんですものねえ。わたし、さっぱりわけがわからなくて!
【ロパーヒン】 わたしもやっぱりわからないんですよ、実をいえばですね。なんだか、どうも変な工合なんで……もしまだ時間があるようだったら、わたしは今すぐだってかまわないんです……ひと思いに片をつけちまって……それでおしまいにするんですが、しかし、あなたがいらっしゃらなくなったら、わたしはわれながら、どうも申し込みなんかしそうもないような気がしてるんですよ。
【リュボーフィ・アンドレーエヴナ】 それなら結構だわ。だって一分もありゃたくさんじゃないの。わたしすぐあの子を呼びますからね……
【ロパーヒン】 ちょうどここに、シャンパンもあります……(コップを見て)おや、からだ、だれかが飲んじまったんだ。(ヤーシャ、咳をする)これこそぺろりというやつだ……
【リュボーフィ・アンドレーエヴナ】 (元気づいて)結構だわ。じゃ、わたしたちはあちらへ行きますからね……ヤーシャ、おいで。わたしあの子を呼びますよ……(戸口のほうへ)ワーリャ、なにもかもうっちゃっといて、ちょっとこちらへおいで。早くね!(ヤーシャとともに退場)
【ロパーヒン】 (時計を見て)そう……(間)
ドアの向こうで押し殺したような笑い声、ささやき、やがてワーリャがはいってくる。
【ワーリャ】 (長いことかかって荷物を調べている)へんだわ、どうしても見つからない……
【ロパーヒン】 何をさがしてるんです?
【ワーリャ】 自分で片づけておいて、覚えがないんですのよ。(間)
【ロパーヒン】 あなたはこれからどこへ行くんです、ワルワーラ・ミハイロヴナ?
【ワーリャ】 わたし? ラグーリン家へ……あのうちの家政を見ることに話がきまったもんですから、家政婦とでもいうんでしょうねえ。
【ロパーヒン】 じゃあ、ヤーシネヴォヘ行くんですね? 七十キロもありますよ。(間)これで、このうちの生活もおしまいになったわけですね、
【ワーリャ】 (荷物を見まわしながら)あれはどこへいったのかしら……それとも、ひょっとすると、トランクヘ入れたかもしれないわ……ええ、このうちでの生活もおしまいになりましたわ……もう二度とは帰りませんわね、
【ロパーヒン】 ところで、わたしはいますぐハリコフヘ出かけるのです……この同じ汽車でね。どうも仕事が忙しいんですよ。で、こちらの長屋へはエピホードフを残しておきます……わたしはあの男を雇ったんですよ。
【ワーリャ】 あら、そうですか?
【ロパーヒン】 去年は今ごろはもう雪が降ってましたなあ、覚えておいででしょう、ところが、今年はおだやかですね、天気がよくて。ただどうも、ちと寒いですね……零下三度ぐらいでしような。
【ワーリャ】 わたし見ませんでしたの。(間)それに、うちじゃ、寒暖計をこわしちゃったもんですから……(間)
【戸外の声】 エルモラーイ・アレクセーエヴィッチ!……
【ロパーヒン】 (この呼び声を前から待ちかねてでもいたように)すぐ行きます!(足ばやに退場)
ワーリャは床の上にすわり、着物の包みに顔を伏せて静かに泣く。ドアがあいて、注意ぶかい様子でリュボーフィ・アンドレーエヴナ登場。
【リュボーフィ・アンドレーエヴナ】 どうして?(間)もう立たなくちゃ。
【ワーリャ】 (もう泣いていない。目を拭く)ええ、時間ですわ。おかあさま、わたし今日のうちにどうかしてラグーリン家へ行けるようにしますわ、ただ、汽車に乗りおくれさえしなければねえ、
【リュボーフィ・アンドレーエヴナ】 (戸口の方へ)アーニャ、支度をおし!
アーニャ、つづいてガーエフ、シャルロッタ・イワーノヴナ登場。ガーエフは頭巾つきの防寒外套を着ている。召使や御者たちが集まる。荷物のまわりでエピホードフが世話をしている。
【リュボーフィ・アンドレーエヴナ】 さあもう出かけてもいいわ。
【アーニャ】 (喜ばしげに)出発!
【ガーエフ】 愛する友よ、わが尊敬する友人諸君よ! いま永久にこの家を見捨てるにあたって、わたくしとして果たして一言なくしていられましょうか! いま自分の全幅をみたしている感情を、告別のために披瀝《ひれき》せずしていられましょうか……。
【アーニャ】 (祈るように)伯父さん!
【ワーリャ】 伯父さん、およしなさいってば!
【ガーエフ】 (悲しげに)二度打ちで黄玉をまん中へ、か……だまるよ……
トロフィーモフ、つづいてロパーヒン登場。
【リュボーフィ・アンドレーエヴナ】 どうしたんですか、みなさん、もう出かける時間ですよ!
【ロパーヒン】 エピホードフ、おれの外套!
【リュボーフィ・アンドレーエヴナ】 わたしもう一分間だけすわってるわ。わたしったらまるで、いままで一度も、このうちの壁がどんなだったか、天井がどんなだったか見たことがないような気持ちなの。で、今になって、なんともいいようのない優しい感じをいだいて、貧るようにそれをながめてみるのよ……
【ガーエフ】 いや、忘れもしない、わしがまだ六つのときだった、三位一体祭の日に、この窓の上に腰をかけて、おとうさんが教会へ歩いて行く姿を見ていたことがあったっけ……
【リュボーフィ・アンドレーエヴナ】 荷物は全部運んでしまって?
【ロパーヒン】 もう全部らしいですね。(外套を着ながらエピホードフに)エピホードフ、おまえ万事手おちのないように気をつけるんだぞ。
【エピホードフ】 (しゃがれ声で)どうぞご心配なく、エルモラーイ・アレクセーエヴィッチ!
【ロパーヒン】 貴様、そりゃいったいなんて声だ?
【エピホードフ】 いま水を飲んで、なにかのみ込みましたので。
【ヤーシャ】 (軽蔑的な口調で)無学な男だなあ……
【リュボーフィ・アンドレーエヴナ】 さあ行きましょう……もうここにはだれひとり残らないんだわねえ……
【ロパーヒン】 春まではね。
【ワーリャ】 (包みの中から傘を引き抜く。その様子が、傘を振りまわしでもしたように見える。ロパーヒン、びっくりしたような顔をする)まあ、なんですの、あなた、なんですの……まさかわたし、そんなこと考えてもいませんわ。
【トロフィーモフ】 みなさん、行って馬車に乗りましょう……もう時間です! すぐ汽車がきますよ!
【ワーリャ】 ペーチャ、そら、あったわよ、あなたのオヴァシューズ。鞄のそばにあったのよ……(涙ぐんで)だけど、なんてきたならしい古ぼけた靴でしょうねえ……
【トロフィーモフ】 (オヴァシューズをはきながら)さあ、みなさん、行きましょう!……
【ガーエフ】 (はげしく動揺して、泣きだしそうになるのを気づかいながら)汽車……停車場……交差打ちで真ん中へ、白は二度打ちに隅と……
【リュボーフィ・アンドレーエヴナ】 行きましょう!
【ロパーヒン】 みんなこちらですな。向こうにはだれもいませんな?(左手のドアに鍵をかける)ここには道具がおいてあるから、しまりをしとかなくちゃね。さあ、行きましょう!……
【アーニャ】 さようなら、おうち! さようなら、古い生活!
【トロフィーモフ】 新生活万歳!……(アーニャとともに退場)
ワーリャ、部屋に一瞥を投げ、ゆっくりと退場。ヤーシャと、犬をつれたシャルロッタ退場。
【ロパーヒン】 じゃあ、春までね、さあみなさん、おいでください……さようなら!……(退場)
リュボーフィ・アンドレーエヴナとガーエフ二人だけ残る。二人はちょうどそれを待っていたように、双方首へ手をかけ合って、人に聞かれるのをはばかりながら、静かに忍び音《ね》に慟哭《どうこく》する。
【ガーエフ】 (絶望の声で)ああ、妹、妹……
【リュボーフィ・アンドレーエヴナ】 おお、わたしのかわいい、優しい、美しい園……わたしの生活、わたしの青春、わたしの幸福、さようなら!……さようなら!……
【アーニャの声】 (快活に、誘うような調子で)ママー!……
【トロフィーモフの声】 (快活に、興奮した調子で)おーい!
【リュボーフィ・アンドレーエヴナ】 もう一度おなごりに壁や窓を見ましょう……亡くなったおかあさまは、この部屋をお歩きになるのがお好きだったわねえ……
【ガーエフ】 妹、妹!。
【アーニャの声】 ママー!……
【トロフィーモフの声】 おーい!……
【リュボーフィ・アンドレーエヴナ】 いま行きますよ!……(両人退場)
舞台空虚。全部のドアに鍵をかける音が聞こえ、やがて馬車の動き出す音がする。静かになる。静寂の中に、木を打つ斧の鈍い音が寂しく悲しく響きわたる。人の足音が聞こえる。右手の戸口からフィルスが現われる。いつものとおり背広服に白いチョッキを着、足にはスリッパをはいている。彼は病気である。
【フィルス】 (戸口に歩みより、ハンドルにさわってみる)鍵がかかっている。行ってしまった……(長椅子に腰をおろす)おれのことは忘れてしまったのだ……なあに、かまうこたあない……ここにこうして掛けていてやるわい……だが、レオニード・アンドレーエヴィッチはきっと、毛皮外套を着ないで、ふつうの外套でお出かけになったに違いない(心配そうにため息をつく)わしがつい見てあげなかったもんだから……若いお人というものはなあ!(わけのわからないことをぶつぶつつぶやく)ああ、とうとう一生すぎてしまった、まるで生きてなんかいなかったようだ……(横になる)ちょっとのあいだ横になってやろう……おまえにゃもう精も根もありゃしねえぞ、なにひとつ残ってやしねえ、なにひとつ……ええ、貴様……このできそこないめ!……(身動きもしないで横たわる)
さながら天からでも落ちたような、ちょうど弦のきれたような、しだいに消えてゆく、悲しげな、遠い音が聞こえる。やがて、静寂がおおいかかる。ただ、遠くの園で、木を打つ斧の音のみが聞こえる。(幕)
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解説
チェーホフは、『三人姉妹』の限界的達成を経て『桜の園』の神秘的透明へ突きぬけた。ただし、透明はもはや人間界のものではない。『桜の園』を書いていた時、チェーホフはすでに半死に近い病人だったが、それを書き上げると間もなく、他界の人となってしまった。『桜の園』が文豪チェーホフの白鳥の歌と呼ばれる所以である。
『三人姉妹』の上演は一九〇一年の一月、チェーホフと芸術座のプリマドンナ、クニッペルとの結婚はその年の五月、この引きつづいた二つの事情は、芸術対チェーホフの関係をますます密接なものにしたので、さらに新しい作を、という俳優たちの要請をも今回は快く受け入れて、チェーホフは新作の構想にとりかかった。これこそ、それから二年半がかりで完成をみた名作『桜の園』の一篇なのである。
『桜の園』は上記の通り、白鳥の歌とまでいわれるだけに、病中の作ではあり、その執筆から完成までに前例になく長い時間を要したが、その上演にさいしても、配役のことその他で、作者と舞台監督および俳優とのあいだに、烈しい意見の衝突をきたしたりした。病んで気の弱くなっていたチェーホフは、そうした煩いに堪えかねたらしい。苛々したあげく、この脚本を劇場側に交付する時には、三千ルーブリで買い取ってくれなどと捨鉢を言った。そうした紛糾にもかかわらず、上演はめざましい成功で、その後の十年間に最初作者の要求した三千ルーブリの十倍、三万ルーブリ以上の上演料を著者側にもたらしたと伝えられている。
この戯曲は一九〇三年の秋に完成したが、その初演は翌四年の一月十七日、すなわちチェーホフの名の日を選んでなされた。そしてその幕間に華々しい祝典が挙行され、病める作者もこわれてその席につらなったが、伝えられるところによると、この祝典こそはそのまま、一種悲壮な劇的シーンであったということである。……盛大な式場、数々の祝辞や演説、そのあいだに憔悴したチェーホフがしょんぼりと影のように立っているのを見て、「お掛けなさい、お掛けなさい……アントン・パーヴロヴィチを掛けさせてあげてください!」こういう人々の叫び声。期せずして不吉な予感が、一瞬、通り魔のように、人でいっぱいの賑かであるべき場内を流れたという。はたしてチェーホフは、それから半年後の七月、ドイツの旅に逝き、この盛大な祝典は事実上の告別式となったのである。この事実は、チェーホフの伝記においてきわめて有名な事件である。
しかもこの作は、数あるチェーホフの劇作中で、最も色調の明るいものである。『かもめ』の否定から『伯父ワーニャ』の諦めに進み、ついで『三人姉妹』の肯定と、次第に進展したチェーホフの人生観的推移は、この『桜の園』にいたってついに色濃く、未来の新生活の可能性に対する期待の歓喜をおどらせている。第四幕の幕ぎれに聞こえる、桜の木を倒す斧の音は、古き時代を送る挽歌であると同時に、新しい生活を迎える歓呼の声でなければならぬといわれて、舞台の音響効果上の比類なき成功に加え、芝居全体の閉幕後の印象に、それまでの彼の戯曲に見られなかった未来の可能性を象徴する明るい色調を与えている。本篇に描き出されたアーニャ、トロフィーモフのごとき、人生に対してなんの疑いをも持たない、生気溌剌たる人物は、以前の彼の作にはついぞ見なかった存在であることを注意したい。
それと、もうひとつ特に注意したい人物は、ロパーヒンである。この人物は貴族階級の没落につれて台頭してきた新興階級……商人であるが、これには独特のタイプが与えられており、作者自身への親近感によっても、『三年』のラープチェフとともに、注意すべき人物である。両者ともに農奴出身からブルジョワに成りあがった男で、性格的にも、それまでの貴族出の知識階級とは違う新しい複雑性を持っている。この人物については、チェーホフ自身も、芸術座のスタニスラーフスキイに宛てて、(一九〇三年)「劇作の主役としてこの人物は案出されたものである。彼は商人には違いない。が、あらゆる意味で几帳面な男なのだ」と書いている。彼は教養が浅く、「オフェリヤ」を「オフメリヤ」などというが、彼には役者のような華奢な柔い指と、デリケートな心があり、商人には珍しい瞑想癖を持つことまで指摘されている。この男……少年時代には大人達から打たれてばかりいたエルモライが、後には、世界じゅうに類のないほど美しい領地、祖父や父親は奴隷奉公をして台所へすら入れてもらえなかったほどの領地「桜の園」を手に入れることになるのである。そしてこの、没落に瀕した貴族階級(ラネーフスカヤ、ガーエフ、シメオーノフ・ピーシチック)が無気力な姿をさらして流れ去るあとへ、新興資本家たるロパーヒンが出て一応事態を収拾する一方、前の没落階級直系の新しい後継者たるアーニャ、トロフィーモフ等は、ロパーヒンとは別に、古い荘園の荒廃のなかから、どこか新しい世界を目ざして飛び出して行くという劇全体の骨子には、何か象徴的なものが漂っている……こう考えるのは少し行きすぎだろうか。のみならず、一見悲劇と見えるこの戯曲を、ことさら「喜劇」と銘打って、それを皮肉とも冷笑とも考えていないらしいチェーホフの見解に、稀に見る人生観上の深さと高さを感じとるのも、あるいはひとりよがりのこじつけだろうか。
ともあれ、『桜の園』には、人間ばなれのした妙に透明な無気味さがある。少くとも、死期に近い人にして初めて得られるかと思われる頭脳の透明さが感じられると、こう私はいいたいのである。しかも、例によってこの作が、戯曲らしい精力的な波瀾や建築的な構成からは遠い日常生活のディテールの累積から成っていながら、内部に悠久なる人生の流動を蔵している特徴は、彼の他の戯曲といささかも変わりはないのだ。見聞の狭い私などには、これこそまず人間業の極限だろうという気がしてならないのである。(中村白葉)