燈火/浮気ほか
チェーホフ/中村白葉訳
目 次
眠い
燈火
浮気
学生
葦笛《あしぶえ》
無題
百姓
故郷
富籤《とみくじ》
解説
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眠い
夜。十三歳の小娘である子守のワーリカは、赤ん坊の眠っている揺り籠を揺すぶっては、やっと聞えるほどの声で、呟いている――
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ねんねんよう、おころりよう、
あたいはお唄をうたいましょ……
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聖像の前には、緑色の燈明がともっている。隅から隅へと、部屋を横ぎって一本の細引が渡してあり、それに、襁褓《おしめ》や大きな黒いズボンなどが吊るしてある。燈明からは、大きな緋色の斑点が天井にうつって、襁褓《おしめ》とズボンとは長い影を、暖炉や、揺り籠や、ワーリカの上に投げかけている…… 燈明の灯《ひ》が瞬きはじめると、班点と影とは活気ついて風に吹かれてでもいるように動き出す。息苦しい。キャベツ汁と靴屋らしい臭いがしている。
赤ん坊は泣いている。彼は、泣くためにもう疾《と》くから声は嗄れ、力も弱っていたのだが、それでも依然として泣きつづけている。いつになったら泣きやむのか、見当もつかない。が、ワーリカは眠い。眼は自然とくっつき、頭は垂れ、頸《くび》は痛い。彼女は、瞼《まぶた》も唇も動かすことが出来ない。そして顔はばさばさに乾いて木のようになり、頭はピンの頭のように小さくなって行くような気がしている。
『ねんねんよう、おころりよう』と彼女は呟く――『坊やにお粥《かゆ》をこさえましょ……』
暖炉の中では蟋蟀《こおろぎ》が鳴いている。扉の向うの隣室では、主人と下職《したしょく》のアファナーシイとが鼾《いびき》の声を立てている……蟋蟀《こおろぎ》は哀れっぽい音を立ててきしり、ワーリカ自身は呟いている――そしてこれらの音がみな、床《とこ》の中に寝ていて聞けばさぞよかろうと思われる、眠りを誘うような、夜の音楽に溶け合っている。ところが今は、この音楽もただ、気を苛立たせ、心をおしつけるに過ぎない、なぜなら、それは眠りの方へ追い込むのに、眠ることは許されないからである。もしワーリカがうっかり眠ろうものなら、主人達はきっと彼女を打つだろう。
燈明はちらちら瞬く。緑色の班点と影はそれにつれて動き、ワーリカの半開きの、じっと動かない眼のなかへ這い込んで、その半分眠っている脳髄の中で、朦朧とした幻想に組み立てられる。彼女は、暗い雲が、大空で互いに追いつ追われつして、赤ん坊のように、泣いているのを見る。しかし、たちまち風が吹き起こって、雲が消えると、ワーリカは今度は、水のような泥濘《ぬかるみ》に蔽《おお》われている広い街道を見る。街道には、荷馬車の列が続き、袋を背負った人々がのろのろと行き、何かの影が前へ後へと動いている。両側には、寒そうな侘《わび》しい霧をとおして森が見えている。突然、袋を背負った人達と影とが、地面の水のような泥濘《ぬかるみ》の上へばたりと倒れる。――「どうしたの?」とワーリカは訊く。――「寝るんだ、寝るんだ!」――と人々は答える。そして彼等はぐっすりと寝入ってしまう、さも快よさそうに眠ってしまう。が、電信の針金に鴉《からす》と鵲《かささぎ》とが幾羽もとまって、赤ん坊のように鳴いては、しきりに彼等を呼び起そうとしている。
『ねんねんよう、おころりよう、あたいがお唄をうたいます……』とワーリカは呟く、そして今度はもう暗い、息づまるような百姓家の中にいる自分を見る。
床《ゆか》の上には、死んだ父親のエフィーム・ステパーノフがごろごろ転がっている。彼女にはその姿は見えないけれども、彼が痛さのあまり床の上をころげ回って唸っている声が聞える。彼には、彼の言う通り、「脱腸が起った」のである。その痛みは、彼が一言も口を利くことが出来なくて、ただただ空気を吸い込んで唇で太鼓を打つような音きり出せないくらい、烈《はげ》しいのである――
『ブ ブ ブ ブ……』
母親のペラゲーヤは、エフィームが死にかけていることを言いに地主屋敷へ駈けて行った。彼女はもう大分前に行ったのだから、そろそろ帰って来ていい時分である。ワーリカは煖爐《だんろ》の上に横になったまま、眠らないで、父の「ブ ブ ブ」に聞き入っている。するうちに、おお、誰かが小屋へ馬車を乗りつけた気配が聞える。これは、地主が、街から彼等のところへ客に来ていた若い医者をよこしてくれたのである。医者は小屋へはいってくる。暗いのでその姿は見えないけれど、咳の声と、扉のばたんと鳴る音とが聞える。
『あかりをつけて下さい!』とその人が言う。
『ブ ブ ブ……』とエフィームが答える。
ペラゲーヤは煖爐の方へ飛んで行き、マッチのはいった陶器のかけらをさがしはじめる。一分ばかりが沈黙のうちに過ぎる。医者は、ポケットをさぐって、自分のマッチを擦る。
『すぐでござります、先生さま、すぐでござります』ペラゲーヤはこう言って 小屋の外へ駈け出して行く。そして暫くすると、蝋燭《ろうそく》の燃えさしを持って戻ってくる。
エフィームの頬は薔薇色をして、眼はぎらぎら輝き、その眼光は、エフィームが小屋をも医者をも見透しに見ているように、なんとなく変に鋭い。
『おい、どうだね お前はいったい何を考え出したんだね?』と、彼の方へ屈み込みながら、医者が訊く。『ほう! お前はもう長いことこんななのか?』
『なんでごぜえますね? おっ死《ち》ぬでごぜえますだよ、且那さま、お迎へが来たでごぜえます……おらもうとてもいけねえでごぜえますだ……』
『馬鹿なことを言っちゃいかん…… ちゃんと直してやるよ!』
『どうぞええようにしてくらっせえまし、旦那さま、誠に有難えこってごぜえますだ……だがわしらにゃはあ、もうちゃんとわかっとりますだ……おっ死ぬ時の来たものあ、ほかにどう仕様がありますべえ』
医者は十五分ばかりエフィームをいじっていてから、やがて立ちあがって、言う――
『おれじゃもうどうすることも出来んな……病院へ行かなくちゃ駄目だ、病院へ行けば、手術をしてくれる。すぐ出かけるがいいよ……是非出かけるんだよ! 少し時間が遅いから、病院じゃみんなもう寝てるだろうが、そんなことは構わん、おれが手紙をつけてやるから。わかったね?』
『旦那さま、だとってこの人がなんに乗って行きますべえ?』とペラゲーヤは言う。『わしらにゃ馬がござりましねえだ』
『心配するな、おれが地主に頼んでやる、馬ぐらい貸してもらえるよ』
医者が去り、蝋燭が消えると、またしても「ブ ブ ブ」が聞える……三十分ばかりして小屋へ誰かが馬車を乗りつける。地主が病院へ行くための荷馬車をよこしてくれたのである。エフィームは支度をして出かけて行く……
ところが、今はもう晴れ晴れとした、結構な朝である。ペラゲーヤは家にいない――彼女は病院へエフィームの様子を見に行ったのである。どこかで赤ん坊が泣いていて、ワーリカは、誰かが彼女の声でうたっているのを耳にする!
『ねんねんよう、おころりよ、あたいはお唄をうたいましょ……』
ペラゲーヤが戻ってくる。彼女は十字を切って、こう囁く!
『病院じゃ、夜中に脱腸を入れてくれただが、朝がた神様に魂をお返し申しただ……天国を賜《たま》え、永久の平安を賜え……手遅れだって言っていただよ……もっと早くしねえじゃってな……』
ワーリカは森の中へはいって行き、そこで泣いている。が、不意に誰かが彼女の後頭を、彼女がこつんと額を白樺の幹に打《ぶ》つけたほどの力でなぐる。彼女は眼を上げて、自分の前に主人の靴屋を見る。
『やい、何をしてやがるんだ、疥癬《かいせん》かきめが?』と彼は言う。『餓鬼が泣いてるのに、手前《てめえ》は眠ってるんだろう?』
彼はひどく彼女の耳を引張る。彼女は頭を振って、揺り籠を揺すぶり、子守唄を呟く。緑色の斑点や、ズボンと襁褓《おしめ》の影が揺れ、彼女に眼配せして、じきまた彼女の脳髄を占領する。またしても彼女は、水のような泥濘《ぬかるみ》に蔽われた街道を見る。背中に袋をしょった人と影とが、方々にころがってぐっすりと眠っている。彼等を見ていると、ワーリカは堪らなく眠くなってくる。彼女は横になって寝たかったのだが、母のペラゲーヤが並んで歩いていて、彼女を急き立てる。ふたりは奉公口を求めに街へ急いでいるのである。
『どうぞお慈悲を、基督《キリスト》さまのために!』と母は会う人ごとに頼む。『お慈悲でござります、お情け深え旦那さま!』
『子供をこっちへおくれ!』とそれに、誰やら聞き覚えのある声が答える。『子供をこっちへおくれ!』と同じ声が繰り返す、が、今度はもう腹立たしげな鋭い調子である。『寝てるんだね、仕様のない?』
ワーリカは飛びあがり、あたりをきょろきょろ見廻して事の次第を諒解する。街道もなければ、ペラゲーヤもいず、通行人もいなくて、部屋の真中にただひとり、赤ん坊に乳をやりに来たお上さんが立っているだけである。ふとった、肩幅の広いお上さんが、赤ん坊に乳を飲ませて泣きやませようとしている間、ワーリカは立って彼女を見ながら、それが済むのを待っている。窓の外は早くも空気が蒼白くなり、天井の緑の班点や影も、眼に見えて蒼ざめて行く。間もなく朝である。
『さあよ!』とお上さんは、肌着の胸釦《むねぼたん》をかけながら、言う。「まだ泣いている。きっと呪われたのに違いない』
ワーリカは赤ん坊を受取り、揺り籠へ入れて、再び揺すりはじめる。緑の斑点と影とは少しづつ消えて行き、もう誰も彼女の頭へ這い込んで、脳髄を掻き乱すものもない。が、眠いことは依然として眠い、恐しく眠い! ワーリカは揺り籠のふちへ頭をもたせ、眠気に打ち勝とうとして、からだ全体で揺すぶりはじめる、が、眼はやはり自然とくっつき、頭は重たい。
『ワーリカ、煖爐《だんろ》を燃しつけるんだ!』こう言う主人の声が扉の向うから聞える。
つまり、もう起きて、仕事にかかる時間である。ワーリカは揺り籠を見捨てて、薪とりに物置へ駆け出す。彼女は嬉しいのだ。走ったり歩いたりしている時には、じっと坐っている時ほど、眠気を感じないですむからである。彼女は薪をとって来て、煖爐を焚きつける。そして、木のようになっていた自分の顔が次第に直ってくるのを、頭がはっきりしてくるのを感じる。
『ワーリカ、サモワールの支度をおし!』とお上さんが叫ぶ。
ワーリカは木片《こっぱ》を割っている。が、やっとそれに火をつけて、サモワールの中へ押し込むか押し込まぬに、もう新らしい命令が聞える――
『ワーリカ、親方の表靴《カローシ》(オーヴァーシューズ)をきれいにおし!』
彼女は床《ゆか》の上へ腰をおろし、オグシューズの掃除をしながら、この大きな、深い靴の中へ頭を突込んで、その中で少し寝たらどんなにいいだろうと考える……と、にわかに、オグシューズが大きくふくれて、部屋一ぱいにひろがり出す、ワーリカは刷毛を取りおとす、が、すぐ頭を振り、眼を見張っていろんなものが眼の中で大きくなったり動いたりしないように見ようと努める。
『ワーリカ、表の段々を洗うんだ、さもないと、お客さまに恥かしいよ!』
ワーリカは段々を洗い、部屋の掃除をする。それから別の煖爐を焚き、店へ駈けて行く。仕事が多いので、一分間も暇な時はない。
しかし、台所の卓を前に同じところにじっと立って、馬鈴薯《ばれいしょ》の皮を剥《む》くほど辛いことは外にはない。頭は自ずと卓の方へさがり、馬鈴薯は眼の中でちらちらし、ナイフは手からすべり落ちるが、傍《そば》にはふとった、怒り虫の上さんが、腕まくりして、歩き廻りながら、耳ががんがんするような大声で盛んに喋り立てている。その外、食事の給仕も、洗濯も、縫物も、辛い。どうかすると、もう欲もとくもなく、床《ゆか》の上にころがって眠りたいと思うような瞬間がある。
一日は過ぎて行く。窓が暗くなってくるのを眺めながら、ワーリカは木のようになっているこめかみをおさえて自分でもなんのためともわからずに、にっこりする。夕靄《ゆうもや》が彼女の重くなる眼を撫でいたわって、間もなくぐっすり眠れる時のくるのを約束してくれる。晩になると主人達のところへお客がくる。
『ワーリカ、サモワールの支度!』とお上さんが怒鳴る。
主人の家のサモワールは小さいので、客達がお茶を飲み飽きる前に、五度くらいも沸《わか》しかえさなければならない。お茶がすむとワーリカは、まる一時間もひとっところにじっと立って、お客の方を見ながら、命令を待っていなければならぬ。
『ワーリカ、ひと走り行って、ビールを三本買ってくるんだ』
彼女はいきなり、立っていた場所をはなれ、眠気を追い払おうとして、出来るだけはやく駈けようとする。
『ワーリカ、ウォーッカを買って来い! ワーリカ、栓抜きはどこにある? ワーリカ、鯡《にしん》をお洗い!』
だが、やっとのことで、客は帰った。火は消されて、主人達は床に就く。
『ワーリカ、赤ちゃんを揺すぶるんだよ!』最後の命令が響き渡る。
煖爐の中では蟋蟀《こおろぎ》が鳴き、天井の緑の斑点と、ズボンや襁褓《おしめ》の影とは、またしてもワーリカの半開きの眼の中へ這い込んで、眼配せして、その頭をぼんやりさせる。
『ねんねんよう、おころりよう』と彼女は呟く――『あたいはお唄をうたいましょ……』
が、赤ん坊は泣いて泣いて、声が涸れても泣き続ける。ワーリカはまたしてもぬかった街道や、袋を背負った人々や、ペラゲーヤや、父親のエフィームを見る。彼女はすべてを理解し、すべての人をそれと認める。けれども、半分眠っているので、彼女の手足を鎖につないで、彼女を押しつぶし、彼女の生きることを妨げている力だけは、どうしても理解出来ない。彼女はあたりを見廻し、それからのがれるためにその力をしきりに捜すが、見出せない。ついに、苦しまぎれに、ありたけの力と視力とを集めて、眼配せしている緑色の班点を見上げ、赤ん坊の泣き声に耳を澄ましているうちに、彼女の生きることを妨げる敵を見出す。
その敵は――赤ん坊だ。
彼女は笑う。彼女には不思議に思われる――どうしてこんなつまらないことがこれまでわからなかったのだろう? 緑の斑点も、影も、――蟋蟀も、いっしょになって笑ったり呆れたりしているように思われる。
偽りの想像がワーリカを支配する。彼女は床几《しょうぎ》から立ちあがって、いかにも晴れやかに微笑しながら、瞬きもしないで、部屋の中を歩き廻る。もうすぐ彼女の手足を鎖でつないでいる赤ん坊からのがれるのだと思うと、彼女は嬉しくて嬉しくて、くすぐったいような気持ちである…‥赤ん坊を殺して、それから眠るんだ、眠るんだ、眠るんだ……
笑いながら、眼配せしながら、緑色の斑点を指でおどす真似をしながら、ワーリカはそっと揺り籠の傍へ忍び寄り、赤ん坊の上へ屈みかかる。赤ん坊の息をとめてしまうと、彼女は大急ぎで床《ゆか》の上へころがつて、これで寝られるんだと思う嬉しさから笑いながら、一分後にはもう、死んだ者のように、堅くぐっすりと眠ってしまう……(一八八八年)
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燈火
戸外でけたたましく犬が吠え出した。技師のアナーニエフと、その助手の学生フォン・シュテンベルグと、私とは、犬が何を吠えているのか見届けるために、バラックから出て行った。私はこのバラックの客だったので、出て行くにもあたらなかったのであるが、実をいうと、一杯やった酒が利いて頭が少しふらふらしたので、新鮮な外気を吸うのが嬉しかったのである。
『誰もいやしない……』私達が外へ出た時に、アナーニエフが言った。『アゾールカ、なんだって貴様はこんな嘘をつくんだ? 馬鹿め!」
あたりには人影ひとつ見えなかった。黒い番犬である「馬鹿」のアゾールカは、さだめしいたずらに騒いだ罪を詫びようとでもするのであろう、おずおずと私達の方へ近づいて、尻尾《しっぽ》を振り出した。技師は身を屈めて、彼の耳の間を撫でてやった。
『これ、なんだってお前はわけもないのに吠えるんだ?』と彼は、優しい心を持った人々が子供や犬を相手に話す時の調子で言った。『いやな夢でも見たのか、ううん? ねえドクトル、ひとつこいつを紹介しますがね』彼は私の方を向いて言った――『どうも、えらく神経質な奴でしてね! とてもひとりじゃいられないんですよ、のべつ恐い夢を見て、うなされづめで、うっかり怒鳴りつけでもしようものなら、まるでヒステリイのようになっちまうんですよ』
『そうです、とても敏感な犬なんです……』と大学生も言葉を合わせた。
アゾールカはどうやら、話が自分のことであるのを悟ったに違いなかった。鼻面を持ちあげて、「ええそうですよ、わたしは時々とても堪らないほど苦しくなることが、あるんですよ、がどうぞお許し下さい!」とでも言おうとするように、哀れっぽくきゅんきゅん鳴き出した。
八月の、星は多いが真暗な夜であった。これまでの生涯に、私はついぞ一度、現在偶然に落ちているようなこうした特殊な境涯に身を置いたことがなかったので、この星月夜が私には、何やら淋しい、無愛想な、それが実際にあったよりもずっと暗いもののように思われたのだった。私が立ってみたのは、今工事最中の鉄道線路の上であった。半ば出来あがった高い土手や、砂や、粘土や、屑石の堆積《やま》や、幾棟ものバラックや、穴や、そちこちにほうり出されてある手押し一輪車や、工夫達の住んでいる土小屋の屋根の平べったい高まりや、――闇の一色に塗り潰されたこれらの混雑が、この地上に、さながら混沌時代を思い出させるような、一種異様な、荒涼たる相貌を与えていた。私の眼前に横たわる一切のものがあまりに紛然雑然としていたので、このぶざまに掘り返されてなんに譬《たと》えてみようもないような地上に、人影や、すらりとした恰好のいい電柱などを見るのが何やら不思議に思われたほどであった。そのいずれもが、この画面の調和を取り壊して、同じ世界のものではないように見えた。あたりは静かで、聞えるものとてはただ、私達の頭上の、どこか非常に高いところで、電線がその憂鬱な歌をうたっているだけであった。
私達は土手へよじのぼって、その上から地上を見おろした。私達から五十サージェン(一サージェンは七尺余)ばかりのところ、窪地や、穴や、物の堆積《やま》などが夜の暗霧と隙間もなく解け合っているあたりに、ぼんやりとした一点の灯影《ほかげ》が瞬いていた。その向うに第二の灯影、そのまた向うに第三のそれ、それから更に百歩ばかりを距《へだ》てて 二つの赤い眼が並んで光っていた――多分どこかのバラックの窓であろう――そしてこうした燈火の長い列は、次第に密に、次第に光を弱めながら、線路に沿うて地平線まで延び、それから左へ半円を描いて、遠い夜の闇の中へ消えていた。それらの灯影は、じっとしていて動かなかった。それらの火と、夜の静寂と、悲しげな電線の歌の中には、何やら相通ずるものがあるように感ぜられた。何か重大な秘密が土手の下に隠されていて、それを知っているのはただ、この灯影と、夜と、電線だけであるように思われた。
『ああ、なんという素晴らしさだろう!』とアナーニエフは溜息をついた。『この広さと美しさはどうだ、少しふんだんに過ぎるくらいじゃないか! それにこの土手! これはもう土手ではなくて、純然たるモンブランだ! 何百万というねうちものだ……』
遠い灯影と、数百万ルーブリのねうちのある土手に魂を奪われながら、一杯機嫌で感傷的な気分になっていた技師は学生フォン・シュテンベルグの肩を軽く叩いて冗談らしい調子で続けた――『どうだね、ミハイル・ミハイルイチ、君はどう思いますね! 自分達の手で作った仕事を見るのは実に愉快なもんじゃないか? 去年までは、人間の臭いもしない裸の曠野《こうや》だった同じ場所に、今ではこの通り――生活があり、文明がある! 実に素晴らしいじゃないか、君! 僕と君とは今鉄道を敷設している。われわれの死後百年とか二百年とかのうちには、他の人達がここに、工場や、学校や、病院を建てるだろう、そして――機械ががらがら動くようになるだろう! ええ?』
学生はポケットに両手を突込んで、じっと、身動きもしないで立ったまま、灯影から眼をはなさなかった。彼は、技師の言葉は耳にも入れないで、何やら思い耽っていた、どうやら、話したくも聞きたくもないような気分に浸っていたらしい様子で。長い沈黙の後で、彼は私の方を振り向いて、静かに言った――
『ねえ、この限りない灯影はいったい何に似ているでしょうか? 彼等はわたしの心に、もうずっと昔に死んでしまった、何千年か前に生きていたもののことや、アマレク人やフィリスチン人のキャンプとかいったふうのもののことを想像させます。まるで、旧約聖書中の人々が野陣を張って、サウールやダビデと戦うために、朝の訪れを待っているような気がするのです。そしてこの幻想を十分なものにするには、ただ、喇叭《らっぱ》の音と、エヒオビヤ語で叫び交わす哨兵の姿のないことが不足なだけですよ』
『成程ね!……』と技師は言葉を合わせた。
と、その時、誂《あつら》えたように、線路上を一陣の風がさっと吹き過ぎて、武器の相撃つような音響を運んで来た。そしてすぐ、沈黙が襲いかかった。技師や学生は今何を考えているか、私は知らない、が、私には、自分が今実際に、遠い昔に死んだものを眼のあたり見ているばかりか、わけのわからぬ言葉で喋っている哨兵の声まで聞いているような気がした。と、私の想像はたちまち、キャンプや、見なれない人々や、その服装や、甲冑《かっちゅう》などを描き出すのだった……
『そうですよ』と学生は思い沈んだ様子で呟いた。『いつかはこの世に、フィリスチン人やアマレク人などが住んでいて、戦争をしたり、それぞれの役割を演じたりしていたのだが、今では跡形もなくなってしまっている。わたし達もいずれはそうなる運命でしょう。今わたし達は鉄道を敷設したり、こんなところに立って哲学したりしていますが、これで二千年も過ぎようものなら、この土手からも、烈しい労働に疲れて眠っている工夫達からも、塵っぱ一つ残らないでしょうからね。全く、これは恐ろしいことですよ!』
『ああ、君、そんな思想は捨てなくちゃいけませんね……』技師は、真面目な、教え諭すような調子で言った。
『どうしてです?』
『どうしてって……人はそういう思想をもって生涯を終るべきであって、始めるべきではないからですよ。そんなことを考えるには、君はまだあまり若過ぎますよ』
『そりゃまた、どうしてですか?』と学生は繰り返した。
『そうした虎無とか無常とか、生の無意義とか、死の不可避とか、来世の無明とかいったふうの思想、そうした高遠な思想はさ、君、僕に言わせれば、人が老年になって、それが長い間の内的労働や苦悶の結実として現われてこそ結構でもあり自然でもあり、実際はまた知的財産となるのですが、まだやっと独立の生活をはじめたばかりの若い脳髄にとっては、そうした思想は、単なる禍いですよ! 禍いですよ!』アナーニエフはこう繰り返して、片手を振った。『僕に言わせれば、君がたの年頃では、そんなふうの傾向の思想を持つくらいなら、全然肩の上に頭をのっけてない方がいいくらいのものだ。男爵、僕は君に真面目に言ってるんですよ。僕はもう疾《と》うからこの問題について君と話したいと思っていたんだ、というのはだ、君と知り合った第一日から、僕は君のうちにこの呪われた思想に対する熱意を認めていたからさ!』
『やれやれ、どうしてこれが呪われた思想なんですかね?』と学生は笑顔で問い返した。が、その声と顔つきでは、彼はただ単なる礼儀の心からそう応じただけで、技師によって企てられた議論には、少しも興を催されていない様子であった。
私は眼がくっつきそうであった。私は、散歩をすましたら早速お互いにお休みなさいを言って、眠りにつくことを考えていたが、この念願はすぐには実現されなかった。私達がバラックへ引返すと、技師は空壜《あきびん》を寝台の下へ押しやって、大きなバスケットから新らしい壜を二本取り出し、その栓を抜いて、なお引続き飲んだり、話したり、仕事をしたりしようという様子をあからさまに見せながら自分の仕事卓の前に腰をおろした。彼はコップからちびちび啜《すす》りながら、鉛筆で何かの図面に書き入れをしたり、続けて学生に、彼の思想の不妥当さを指摘したりした。学生は彼と並んで腰をおろし、何かの計算をしらべながら、黙っていた。彼も、私同様に、口を利くのも話を聞くのもものうかったものらしい。私は彼等の仕事の邪魔をしないように、どうぞ休んで下さいと言われるのを今か今かと心待ちにしながら、車の傍から少しはなれて、技師の、脚のまがった旅行用寝台に腰かけて、退屈していた。夜はもう十二時を過ぎていた。
所在ないままに、私は新らしい知人達を観察していた。アナーニエフにも学生にも、私はこれまでは全く一面の識もなく、この晩に初めて知合いになったのだった。夕方遅く、私は定季|市《いち》から騎馬で、客に来ていた地主屋敷への帰路に就いたのだったが、暗いために道を踏み違えて、迷い込んでしまったのだった。鉄道線路の付近をぐるぐる廻っているうちに、夜の闇が次第に濃くなってくるのを見ると、私は、徒歩や騎馬の旅行者を待ち伏せしている「跣《はだし》の鉄道荒し」のことを思い出しておじけづき、最初に行きあたったバラックの扉を叩いた。と、そこで親切に迎えてくれたのが、アナーニエフと学生だったのである。これは、偶然に落ち合った互いに見も知らぬ他人同士の間によくあることであるが、私達は知合いになると同時にすぐ打ちとけて最初はお茶の間に、それから酒の間に、忽ち十年の知己のようになってしまった。ものの一時間もたつうちに、私は早くも、彼等が何者で、どんな運命によって首都からこんな遠い草原《ステッヒ》くんだりまで来ているのかということを知り、彼等もまた、私が何者で、何を職業とし、どんな思想を持っているかを知ったのである。
技師アナーニエフ、ニコライ・アナスターシエビッチは、肩幅の広い、体格のがっしりした男で、その外貌《がいぼう》から判断すると、オセロのようにもう「頽齢《たいれい》の谷へ下り」かけていて、いくらかふとり過ぎの感があった。彼は今まさに、結婚の口利き女達の所謂《いわゆる》「男盛り」という時期にあった、つまり、若くもなければ年寄りでもなくて、うまいものを好み、酒を飲み、過去をほめ、歩く時には軽く息を切らし、眠れば大きな鼾《いびき》をかくが、周囲の者に対する態度には既に、相当の人達が上長官程度の官等にへのぼってふとりはじめる時分に自然にそなえる、あの落ちついた、ゆったりとした寛厚振りが現われていた。頭にも顎鬚《あごひげ》にもまだ白いのは一本も見えなかったが、彼はもう、自分ではそれと気づかないで、無意識に、若い者に対しては「ねえ、君」という調子で恩恵でも施すような親しみを見せ、彼等の思想形態に対して優しく戒めるのを自分の権利のように感じていた。彼の動作と声とは、自分がもう生活の本道へ乗り出していること、定まった職業を持ち、生活の安定を得、物事に対して一定の見解を有することを自らよく知っている人に見られる落ちつきと、滑らかさと、自信とに充ちていた……その日やけした、鼻の大きな顔と、逞《たくま》しげな頸《くび》とは、こう言っているようであった――「わしは満ち足りて、健康で、自分に満足しているが、今に君達若い諸君も、同じく満ち足りた、健康な、自分に満足する人になるだろう……」
彼は、斜に襟のついた更紗《さらさ》のシャツを着て、幅の広いリンネルのズボンを大きな長靴の中へ押し込んではいていた。二三のちょっとした点、例えば色毛糸の帯や、刺繍のある襟や、肱のところの補布《つぎ》などによって、私は、この男は細君持で、てっきりその妻から優しく愛されているに違いないと察しることが出来た。
交通専門学校の学生であるフォン・シュテンベルグ男爵、ミハイル・ミハイロビッチは、二十三四の青年であった。ただ亜麻色《あまいろ》の頭髪とうすい顎鬚と、もう一つ強いて言えば、顔の輪郭のどことなく粗野な、乾いた感じとだけが、東方の県の男爵の生れであることを思わせるだけで、その他のすべて――名前も、信仰も、思想も、物腰も、顔の表情も、純然たるロシヤ人であった。アナーニエフ同様、更紗のシャツをズボンの上へかぶせて着て、大きな長靴をはき、日焦《ひや》けのした、しょうしょう猫背の彼は、学生らしいところ、男爵らしいところは少しもなくて、寧《むし》ろ普通のロシヤ人の見習い職工であった。彼は口数も利かず、からだを動かすことも少く、酒はいやいや、なんの食欲もなさそうに飲み、計算のしらべ方も機械的で、絶えず何か考えごとでもしているように見えた。彼の動作と音声も、同じように落ちついて滑らかではあったが、彼の落着きは、技師のそれとは凡《およ》そ種類の違ったものであった。日焦けのした、心持ち皮肉な、物思わしげな顔つきと、いくらか上眼づかいにものを見る眼つきと、全体の姿態とは、心の沈滞と脳髄の怠惰とを現わしていた……謂《いわ》ば眼の前に灯があろうとなかろうと、酒がうまかろうとまずかろうと、彼の調べていた計算が正しかろうと間違っていようと、断然|痛痒《つうよう》はないといったような工合であった……そして私は彼の利口そうな、落ちついた顔にこう読んだのであった――「今のところ自分は、定まった職業にも、生活の安定にも、事物に対する一定の見解にも、少しもいい点は見出さないのだ。そんなことはみんなどうでもいいことだ。自分は先頃まではペテルブルグにいたし、今はここのバラックに坐っている。が、秋になればまたここからペテルブルグへ帰り、それから春が来るとまたここへやってくるのだ……こんなことに一たいどんな意味があるのか、自分は知らない、自分ばかりでなく誰も知らないだろう……してみれば、屁理窟を並べてみたところではじまらないのだ……」
技師の言葉をも彼は、上級の士官候補生が意見の合わないお人よしの叔父の言葉を聞いている時のような、あの恩にきせるような無関心を以て、なんの興味もなしに聴いていた。技師の口から出たことなんか徹頭徹尾、彼にはなんの新らしみもなく、もし口を利くのが懶《ものう》くさえなかったら、彼自身の方がもっとずっと新らしい、気の利いたことを言うだろうといった様子だった。ところが、アナーニエフの方は一向黙らなかった。それどころか、もう、お人よしらしく冗談めかした調子を棄てて、真面目に、剰《あまつさ》え、彼の落ちついた顔つきには凡そ不似合な熱中の色さえ浮べて、夢中になってまくしたてるのだった。どうやら彼は、抽象的な問題に対しても無関心でなく、寧ろそれを愛していたのだが、それを論議するだけの力がなく、また馴れてもいない様子であった。
そしてこの不馴れは、私など、一たい彼は何を言おうとしているのか、咄嗟にはその真意を掴みかねたほどに強く、彼の言葉に現われていた。
『僕は心からそういう思想を憎むですよ!』と彼は言った。『僕自身も若い時分にはそういう思想に悩まされたもので、今でもまだすっかりそれから脱け切ってるとは言えない、で、君に言うのですが、――或はそれは僕が馬鹿だからかも知れんが、そういう思想は、僕にとっては、骨折損のくたびれ儲けで、害毒以外には何一つ齎《もたら》してはくれなかった。そりゃもうわかり切ったことですよ! 人生は無意義だとか、現世の空寂《くうじゃく》だとか、無常だとかいう思想や、ソロモンの所謂《いわゆる》「無常観」などは、今日まで人間の思想界において最高最極の段階をなしても来たし、また現在なしてもいるものです。思想家はこの段階まで到達すると――それでもうストップです! それ以上はもうどこへも行くところがありません。ノーマルな頭脳の働きはそれで完成される、そしてそれが物の順序としても自然なのです。ところが、われわれの不幸は、つまりわれわれがこの究極から考えはじめる点にあるのです。正常な人が終るところ、そこからわれわれがはじめるからです。われわれは、脳髄がやっと独立して働きはじめるや否や、そもそもの振り出しから、いきなり最高最極の階段によじのぼってしまって、その下にどんな階段があるかを知ろうともしないのです』
『それがどうしていけないんですか?』と学生は訊いた。
『君はまずそれがノーマルでないことを理解しなくちゃいけませんよ!』とアナーニエフは、ほとんど、怒ったような眼つきで彼をじろりと見て叫んだ。『もしわれわれが、下の方の階段の助けを借りず、一足飛びに最上段へ躍りあがるような方法を見出そうものなら、その長い全階段は、つまりさまざまな色彩や、音響や、思想を持った全人生は、われわれにとって一切の意味を失ってしまうことになります。君がたの年頃にあってこういう考え方がどんなに害悪と不合理を形作るものであるかは、君の合理的な、独立した生活の一歩一歩に徹して、よくわかる筈ですよ。仮に今すぐ君がダーウィンとかシェイクスピアとかを読むとしてみ給《たま》え。最初の一頁も読み終らないうちにもうその害毒が現われはじめて――君の老い先長い生涯も、シェイクスピアも、ダーウィンも、君にはとるに足らぬ愚劣なものに思われるようになるから。というのは、君が、自分の早晩死ぬこと、シェイクスピアにしてもダーウィンにしても同じく死んでしまったこと、彼等の思想は、彼等自身をも、世界をも、君をも救わなかったこと、もしこうして人生が意義を失ってしまったら、一切の知識や、詩や、高尚な思想などもただ、なんの役にも立たぬ慰み、大きな子供の下らないおもちゃになってしまうことを知るからだ。そして君はもう第二頁を読むことをやめるでしょう。今仮に君のところへ人がやって来て、君を賢明な人として、例えば戦争に就いての君の意見を聞くとする――戦争は望ましきものであるかどうか、道義的なものであるかどうか? に就いてだね。この恐ろしい質問に対する答として、君はただ肩をすくめて、何か一般的なことを言うにとどめるでしょう、なぜなら、君にとっては、君の考え方からすれば、幾十万の人々が不自然な死に方をしようと、自分の寿命で死のうと、断じて痛痒はないからだ、つまり、いずれの場合にしても、結果は同じこと、塵と忘却なんだからね。今われわれは鉄道線路を作っている。ところで、この鉄道も、二千年後には塵になることがわかっているとすれば、一たいわれわれはなんのために頭を捻ったり、工夫したり、衆にぬきんでたり、工夫どもを憐れんだり、盗んだり盗まなかったりするのだと言いたくなる。まあ、万事がこういった調子だ……そこでだ、いいかね、こういう不幸な考え方には、なんの進歩も、学問も、芸術も、思想そのものすらもあり得ないということを知らなければならぬ。われわれには、われわれは衆愚より賢い,シェイクスピアより賢いという気がしている、が、その実われわれの思索的活動も、その帰着するところは無である。なぜなら、われわれには下る階段へおりて見る気は更にないし、それかとて上へはもう昇りようがないからだ、こうしてわれわれの脳髄は、進みもとまりもならぬ結氷点に立っているのです……僕は約六年間こうした思想の重圧の下にあって、君に誓って言うが、その間ずっと案内書一冊読まず、こればかりも利口にならず、自分の道徳法典に一字を書き加えることもしなかった。これが果して不幸でないだろうか? その上われわれは、われとわが身をそこなっているばかりでなく、周囲の人々の生活にまで害毒を及ぼしているのです。尤ももしわれわれが、その厭世主義と共に生活を拒否して、洞窟に隠れるとか、急いで死んでしまうとかすればそれでいいけれども、一般の法則に従順なわれわれは、現にこの通り生活し、感じ、女を愛し、子供を育て、鉄道を作っているんだからね!』
『しかし、われわれの思想のために暑い思い寒い思いをしてる人は誰ひとりありませんよ……』と学生は気乗りのしない調子で言った。
『駄目だ、君はすぐそんなことを言うから――まずそれを止めなくちゃ! 君はまだひと通りの人生のにおいも嗅いでいないが、いずれ僕くらいの年輩になれば、思い知るというものだ! われわれの思想は、君が考えているほど純潔なものじゃありませんよ。実際生活においては、人と人との交渉の上で、それはただ恐怖や愚劣に導くに過ぎないですよ。現に僕などは、憎い韃靼《だったん》人にすら送らせたくないと思うような状態を、経験しなければならなかったんですからね』
『例えば?』と、私は訊いた。
『例えば?』と、技師は訊き返した。彼はちょっと考えて、にっこりすると、言い出した――『例えば、まあこんな事件をとってみてもです。いや、もっと正確に言えば、それは事件ではありません、発端も結末もある立派なひとつのロマンです。素晴らしい教訓です! ああ、なんという教訓でしょう!』
彼は、私達にも自分にも酒を注《つ》ぎ、ぐっとひと息に飲みほして、両の掌《てのひら》でその広い胸を撫でながら、学生よりは寧ろ私に向って、言葉を続けた――
『それは、一八七十何年だったか、戦争の直後で、わたしが大学を出た夏のことでした。わたしはコーカサスへ向う途中で、Nという海岸町に五日ばかり足をとめたことがあります。ところで、お断りして置かなければならんのは、わたしはその町で生れて育ったということで、自然、都人士《とじんし》には、チュフローマとかカシーラとかいう町同様に退屈で不便に思われるこのNが、わたしには極めて住み心地のいい、温かな、美しい町のように思われたことにも、別に不思議はないのです。物悲しい気持を抱いて、わたしは嘗《かつ》て学んだことのある中学の傍を通ったり、同じ物悲しい気持で、馴染の深い公園を歩いたり、久しく見ないが、よく覚えている人達の顔をちかぢかと眺めようとする物悲しい試みを持ったりしました、終始同じ感傷的な気持で……
その間に、或る夕方のことでしたが、俗に検疫所と呼ばれていたところへ馬車を駆ってみました。そこはずっと以前、いつかペストのはやった時に、実際検疫所が置かれてあったが、今では別荘地になっているちょっとした禿げたような森でした。そこへ行くには、町から四|露里《ろり》ばかり柔らかな坦々たる道をたどって行くのでした。馬車を進めながら見ると――左手には青い海が続き、右手には涯《はて》しのない荒涼たる草原が続いていました。息をつくのも楽なら、眼を遮るものもありません。そして、当の森のありかも、海岸だったわけです。わたしは辻馬車を返してから、馴染の門をはいって、まず並木路伝いに、子供の時分に好きだった石造の小さなあずまやの方へ行きました。わたしに言わせると、古い墓標の抒情詩とソバケービッチ(ゴーリキー作「死せる魂」中の一人物)の粗野とを一身に兼ね備えた、不細工な円柱の上に立っている、このまるい、どっしりとしたあずまやこそ、この町じゅうでの最も詩的な一隅でした。それは海岸の断崖の上に立っていたのだ、そこからは海の眺めがとても素晴らしかったのです。
わたしはベンチに腰をおろし、欄干越しに屈み込んで、下をのぞいて見ました。このあずまやから、険しい、ほとんど垂直の急斜面を縫って、粘土の塊と牛蒡《ごぼう》の間を、一條の小徑《こみち》が走っていました。そして、小徑のつきている遥か下の砂浜には、高からぬ波が懶《ものう》そうに泡立ったり、優しく潮騒の音を立てたりしていました。海は、わたしが中学を終って、この故郷の町から首都へ出て行った七年前と同じように、厳《おごそ》かな、涯しない、不愛想な表情をしていました。遠くに一條の煙がなびいていました――それは汽船が通っているのでした。このやっと見えるか見えないくらいの、動かない煙の帯と、水面をひらひらかすめて飛ぶ海燕以外には何一つ、この海と空の単調な光景に活気をつけるものはありませんでした。あずまやの左右には、でこぼこした、粘土の岩が続いていました……
ご存じの通り、感傷的な気分になっている人間が、ひとりぼっちで海に向って立ったり、或は一般に如何にも雄大に思われる風景の前に立ったりする時には、なぜかその感傷に、きまって、自分は人知れず生き且《か》つ死んで行くものだという信念が入り込むので、反射的に鉛筆などを取り出して、なんでも眼にあたったものに急いでわが名を書きつけたりするものです。恐らくそのためでしょう、このあずまやのような、淋しくひっそりとした場所には、いつも鉛筆のあとや、ペンナイフの刃あとがむやみについています。今でもはっきり覚えていますが、欄干を眺めているうちに、わたしはそこに、次のような文字を読みました――「記念、イワン・コローリコフ、一八七六年五月十六日」そのコローリコフと並んで、どこかの田舎の空想家が落書きをして、こんなふうに書き足していました、――「広漠たる海の岸辺に立てば、偉大なる思いぞ胸に溢《あふ》る」そして、その筆跡は如何にも空想家らしく、濡れた絹糸のように生気のないものでした。それからもうひとり、クロスという名前が見えましたが、それは多分、地位も何もないつまらない男で、自分のつまらなさをよほど強く痛感したものでしょう。ぺンナイフの動くままに、自分の名を一ヴェルショーク(一ヴェルショークは約一寸五分)もある大きな字で深く彫りつけていました。そこでわたしも機械的に、ポケットから鉛筆を取り出して円柱の一本に、同じように名を書きつけました。しかし、これは話の本筋には関係のないことです……ご免なさい、わたしはどうも簡単に話の出来ない人間でしてね。
わたしはうら悲しい思いに沈みながら、いくらか退屈な気持でいました。退屈と、静けさと、浪の音とが次第にわたしを、今ここで話題にのぼったような思想の方へつれて行きました。その当時、つまり七十年代の終りごろに、その思想は公衆の間にはやりかけ、その後八十年代のはじめになって徐々に公衆の間から、文学や、科学や、政治の中へ移って行きかけたのです。当時わたしは、やっとまだ二十五六でしたが、それでももう、人生が無意味でなんの目的も持たぬことや、すべては錯覚であり幻影であるということや、その本質と結果から見て、サガレン島の懲役生活も、ニースの生活も一向変りがないということや、カントの頭脳と蝿の頭脳との差異も本質的意義を持たないことや、この世では誰も正しくもなければ罪があるわけでもないということや、凡ては荒唐無稽であるということや、そんなものは一切悪魔にくれてしまえばいいということなどをよく知っていました! わたしは生きていました、生きていながら、それで以て、わたしを余儀なく生きさせている、或る知られない力に対して、恩恵を施してでもいるような気がしていました――「見ろ、おれはこんな生活なんか、一文の価値も認めてはいないんだが、それでも生きていてやるんだぞ!」こんなふうに思っていたものです。わたしの思想は一定の傾向こそとっていましたが、その調子に至ってはまちまちで、この点では、ただ馬鈴薯だけを材料にして、うまい料理を幾皿でも調理することの出来る気の利いた料理通のようなものでした。勿論、わたしは一方に偏して、或る程度には偏狭でさえあったのですが、当時のわたしには、自分の思索範囲には始めもなく終りもなく、自分の思想は海のように広大なものであるような気がしていたのです。ところで、わたしが自分自身に徴《ちょう》して判断し得る限りでは、今ここで話題にのぼっているような思想は、本質的に、煙草とかモルヒネとかいったふうの、人を惹き入れるような麻酔的なものを持っているんです。それは習慣となり要求となります。そして一分間でもひとりでいるとか、何か便宜な機会さえあれば、すぐにそれを、人生は無意義だとか、来世の暗黒だとかいう思想に耽けるために利用することになるのです。わたしがあずまやに掛けていた時には、そこの並木路を、長い鼻をしたギリシャ人の子供達が行儀よく散歩していました。わたしは早速この恰好な機会を利用して、彼等を眺めながら、こんなふうに考えたものです――
≪あの子供達は一たいなんのために生れて、なんのために生きているのだろう? 彼等の存在に、どんな意味にしろ意味があるだろうか? ただ大きくなって、自分ではなんのためとも知らずに、なんの必要もなく、この辺鄙《へんぴ》な田舎に生活して、死んで行くのだ……≫
そしてわたしには、それらの子供達がまるで実際に、自分達のちっぽけな無味乾燥な生活を高く評価して、なんのために生きているかを知ってでもいるように、行儀よく歩きながら、何やらもっともらしく話し合っているのが、いまいましくさえなって来ました……今でも覚えていますが、その時、並木路の遠いはずれに、女の姿が三つ現われました。令嬢風の女が――ひとりはバラ色、ふたりは真白な服を身につけていたのが――互いに腕を組み合って、並んで歩きながら、何か喋ったり笑ったりしているのです。その女達を見送りながら、わたしはこう考えました――
≪こんなとき退屈凌ぎに二三日でも、いい女の遊び相手が出来たらどんなによかろう!≫
その時ちょうどわたしは、自分が最後にペテルブルグの自分の女のところへ行ったのは、三週間前だったことを思い出しました。そして行きずりの恋をするには、今こそ最上の機会だろうと考えました。白い服を着ていた真中の女は、三人のうちで一番若く、一番美しく思われたし、その動作や笑い声から判断して、上級の女学生だと思われました。わたしは満更不純な感情なしでもなく、彼女の上半身に見入りながら、同時にその娘のことを考えていました――
≪あの女も今に、音楽や作法を習って、誰かギリシャ人のひとりと結婚して、灰色な、愚劣な生活を送り、なんの必要もなく子供をぐたぐた生んで、死んで行くのだろう。下らない人生だ!≫
ここでちょっとお断りして置かなければならんのは、概してわたしという人間は、自分の高遠な思想を、極めて低級な散文と結合することの名人だということです。来世の暗黒というような思想も、女の上半身や足に当然の貢物を捧げる妨げにはなりませんでした。これはちょうど、わが親愛なる男爵閣下にとって、その高遠な思想が少しも、土曜日毎にヴコローフカへ出かけて、そこでドン・ファン式襲撃を行う妨げにならないと同じです。正直なところ、わたしが自分を記憶している限りでは、婦人に対するわたしの態度は甚だ侮辱的なものでした。今こうして、その女学生のことを思い出しても、わたしは当時の自分の思想を思って、顔が赤くなるのを覚えますが、しかし当時のわたしの良心は、極めて平静なものであったのです。身分ある両親の息子で、基督《キリスト》教徒で、最高の教育を受け、天性悪党でもなければ愚物でもないくせに、わたしは、女に対して独逸《ドイツ》人の所謂《いわゆる》 Blutgeld(血の代償)を払ったり、女学生を侮辱的な眼眸《がんぼう》で見送ったりした時にも、これっぽっちの不安をも感じなかったのです……問題は、青春は自分の権利を持っているのに、われわれの思想は原則において、それがいいものであろうと厭《いと》うべきものであろうと、そうした権利に反対するものを何一つ持たないという点にあるのです。人生が無目的で、死が不可避であることを知っている者は、自然との闘争や罪の観念に対して頗《すこぶ》る冷淡なものです――闘っても闘わなくても――どうせ死んで腐ってしまうんだからというわけでね……第二にですね、われわれの思索は、ごく若い人々の胸にすら、所謂思慮分別という奴を植えつけています。感情に対する理性の優越が、われわれにあっては圧倒的です。直感とか霊感とかいうものは、すべて、とるに足らぬ分析解剖のために抑えつけられてしまっています。ところが、思慮分別のあるところ、そこには冷淡があり、冷淡な人間は――実際のところ――貞潔《ていけつ》という観念を持たない。この美徳が知られているのは、ただ温かい心を持った、誠実な、人を愛することを知っている人達だけに限ります。第三に、われわれの思索は、人生の意義を否定すると共に、それによって各個人性の意義をも否定しています。ところで、もしわたしが、ナターリヤ・ステパーノヴナという女の個人性を否定するとすれば、その女が侮辱されようとされまいと、わたしにとって断じてなんの痛痒もないのは自明の理です。今日わたしは彼女の人間としての尊厳を侮辱して、彼女に Blutgeld(血の代償)を払ったが、明日はもう彼女のことなど覚えてもいないという有様です。
まあこんな工合に、わたしは四阿《あずまや》に腰掛けて、令嬢達を観察していました。するうちにまた並木路へ、帽子なしで、白っぽい髪をむき出しにして、白い毛糸の肩掛をかけた女の姿が一つ現われました。その女は、暫く並木路を歩いてから、やがて四阿《あずまや》へはいって来て欄干につかまり、漫然と下を見おろしたり、遠く海上を眺めたりし出しました。四阿《あずまや》へはいって来た時にも、この女は、まるで気がつかなかったように、わたしにはなんの注意も向けませんでした。わたしは足から頭まで(しかし、男を見る時のように頭から足まででなく)彼女をじろじろ見回しました。そしてその女がまだ若く、二十五才以上ではないこと、顔もきれいだし、姿も美しい女であること、十中八九もう娘ではなくて、相当身分ある階級に属する大人であることなどを見てとりました。彼女は普段着ではあるが、流行の、なかなか趣味のある服装をしていました。一般にNの知識階級の夫人達がそうであるように。
≪そうだ、この女にわたりをつけよう……≫わたしは、その美しい腰や腕をじろじろ見ながら、考えました――≪これなら上等だ……きっと医者か中学教師の細君に違いない……≫
しかしその女に渡りをつけること、つまりその女を、例の漫遊客《まんゆうきゃく》の憧れの的たる即席ローマンスの一つの女主人公とすることは、容易でないどころか、ほとんど不可能なことでした。それをわたしは、彼女の顔を見ている間に感じました。彼女の眼眸といい、顔つきといい、まるで、海や、遠い煙や、空などは、もう疾《と》くに飽き飽きして、眼を疲らせるに過ぎないという様子で、彼女自身どうやら疲れ切って、退屈して、何か面白からぬことでも考えているらしく、その顔には、普通ほとんどすべての女が身近に見知らぬ男の存在を感じる場合に示す、あの、無理に取りすましたような空々しい表情すらありませんでした。
金髪女は、ちらと退屈そうな眼つきでわたしを見て、ベンチに腰をおろすと、何かしらじっと考え込みましたので、わたしはその眼つきによってこの女はわたしなど眼中にないこと、わたしの都人士《とじんし》らしい風采もこの女には単なる好奇心すら起させなかったことを知りました。でも、わたしはやっぱり彼女に話しかける決心をして、こう訊ねてみました――
「奥さん、失礼ですが、ちょっとお尋ね致します。ここから町への馬車は、何時に出るのでしょうか?」
「たしか、十時か十一時だったと思いますが……」
わたしは礼を述べました。彼女は一度二度じっとわたしを見ましたが、するとその無表情な顔に突然好奇の色が閃き、やがてそれが一種驚きに似たような色に変りました……わたしは大急ぎで自分の顔に無関心な表情を装い、その場にふさわしい態度をとるように努めました――おいでなすったな! こう思いましてね。彼女は、まるで何かに痛く刺されでもしたように、急にベンチから立ちあがると、物柔かな笑みを含んで、慌ただしげにわたしをじろじろ見回しながら、おずおずとこう尋ねました――
「あの、あなたはアナーニエフさんじゃいらっしゃいませんかしら?」
「ええ、僕はアナーニエフですが……」と、わたしは答えました。
「でも、あなたはあたくしがおわかりになりませんのね? そうでしょう?」
わたしも少々面くらいましたね。そして、じっと彼女を見ているうちに、どうでしょう、わたしは、顔や姿でなしに、その疲れたような、物柔かな微笑によって、彼女をそれと認めたのです。それはナターリヤ・ステパーノヴナ、つまり、七八年前、わたしがまだ中学の制服を着ていた時分に首ったけになって惚れ込んでいた、あの、みんながキーソチカと呼んでいた女でした。「もう遠い過去のこと、古い時代の伝説です……」わたしはそのキーソチカを、小柄な、痩せた、十五六の女学生として記憶しています。どことなく中学生好みのする、自然の手で特にプラトニックラヴのために創られたような娘として、記憶しています。実際、なんという可憐な娘だったでしょう! 蒼白い、脆《もろ》そうな、いかにも軽やかな娘で、――ぷうっと吹こうものなら、羽根のようにふわふわと、天までも舞いあがってしまいそうに思われました。――優しい、困ったような顔、小さい手、帯まで届く長い柔かな髪、黄蜂のそれのような細い腰――全体にどこやらエーテルのような、透き通った、月の光に似たような感じがあって、これを要するに、中学生の眼からみれば、実に絶世の美人だったのです……わたしは全く、どんなに彼女に、惚れていたでしょう! 夜の眼も寝ないで、恋の詩ばかり書いていたものです……よくこんなことがありました。夕方など彼女が公園のベンチに腰かけていると、われわれ中学生はそのまわりに集まって、敬虔《けいけん》な眼をして彼女を見守っていたものです……わたし達一同のお世辞や、ポーズや、歎息《たんそく》に対する答として彼女は、夕暮れの湿っぽさに神経的に肩をすくめたり、眼を細くしたり、物柔かな笑顔を見せたりしていましたが、そうした時の彼女はまるで、可愛い、綺麗な仔猫そっくりでした。こうして彼女を見守っている時のわたし達には、そのひとりひとりの胸に、彼女を猫のように撫でさすってやりたい、愛撫してやりたいという欲望が起るのでした――キーソチカという綽名《あだな》もつまりここから出たものなのです。
互いに相見なかった七八年の間に、キーソチカはすっかり変っていました。体格もずっとがっしりして、肉つきもよくなり、柔かな、毛のむくむくした仔猫らしいところは跡形もなく失われていました。彼女の顔だちは、老けたとか、色が褪《あ》せたとかいうのではなかったが、どことなく薄暗くなって、心もち厳しさを加え、髪の毛は短かく、背は高く、肩はほとんど倍も広くなっているように思われましたが、何よりも一番眼についたのは、その顔にもう母親らしい表情のあることと、勿論以前には見たこともなかった、彼女の年頃の身分ある婦人によく見かける従順の表情のあることでした……これを要するに、昔の女学生らしい、プラトニックな面影から完全に残されていたものは、ただひとつ例の物柔かな微笑だけで、そのほかには何ひとつもありませんでした……
わたし達は夢中になって話し込みました。わたしがもう技師であることを知ると、キーソチカは大変喜んでくれました。
「まあ結構ですわねえ!」と彼女は、喜ばしげにわたしの眼の中をのぞき込みながら言いました。「なんて結構なことでしょう! あなた方は皆さんほんとにおえらいんですわね! あなたとご一緒の卒業の方で、失敗した方はひとりもありませんわ。みんな立派な方におなりですわ。ひとりは技師、ひとりはお医者、ひとりは先生、ひとりはなんでも今、ペテルブルグで有名な歌うたいになってらっしゃるってことですわ……みなさん、あなた方はみなさん、揃ってとてもおえらいわ! ほんとに、なんて結構なことでしょう!」
キーソチカの眼の中には、心からの喜びと好意とが輝いていました。彼女は、まるで肉親の姉か、昔の女教師ででもあるように、しげしげとわたしに見惚れるのでした。が、わたしは、彼女の可愛い顔を見ながら考えていました――≪今日この女をうまく手に入れたらさぞいいだろうな!≫
「ねえナターリヤ・ステパーノヴナ、あなたも覚えていらっしゃるでしょう」とわたしは訊きました――「或る時僕が公園であなたに、手紙をつけた花束を上げたことのあったのを? あなたはその手紙を読むと、とても困ったような顔をなさいましたっけ……」
「いいえ、あたくし覚えてませんわ」と彼女は、笑い出しながら言いました。「けれど、あたくしのためにあなたがフローレンスに決闘を申込もうとなすったことは覚えていますわ……」
「へえ、どうでしょう、僕はそのことはちっとも覚えてませんよ……」
「ええ、でもみんな、昔のことになってしまいましたのね……」と、キーソチカは歎息《たんそく》しました。「昔はあたしがあなた方の偶像だったのですけれど、今ではあたしの方で、あなた方みなさんをお見上げしなければならなくなりましたわ……」
その後の話から、わたしは、キーソチカは女学校卒業後二年して、半分ギリシャ人半分ロシヤ人である土地っ子のひとり、銀行というでもなければ保険会社というでもないところに勤めながら、一方で小麦商を営んでいる男に嫁いだのだということを知りました。その男の苗字はなんでも、ポプラーキとかスカランドプロとかいったふうの、変に難しい苗字でした……誰がそんなもの知るものですか、きれいに忘れちまいましたよ……概してキーソチカは、自分のことは言葉少なに、気の進まない様子で話しました。会話はただわたしのことばかりを話題にして進みました。彼女はわたしに、専門学校のこと、わたしの仲間のこと、ペテルブルグのこと、わたしの設計のことなどに就いて尋ねました、そしてわたしの言ったことはみな、彼女の心に生き生きとした歓びと――「まあほんとに結構ですわね!」という叫び声とを呼び起すのでした。
わたし達は海辺へおりて、砂浜をそぞろ歩きしました。やがて、海の方から夕方の湿っぽい風が吹いてくるようになってから、上の方へ引き返しました。その間もずっと会話は、わたしのこと、過去のことばかりでした。わたし達は、別荘の窓々に夕映えの反映が消えかけるまで、その辺を散歩しました。
「ねえ、あたくしの家へお茶をあがりにいらっしゃいません」とキーソチカはわたしを誘いました。「きっとサモワールはもう疾《と》くに支度が出来ていますわ……家にはあたしひとりきりですのよ」彼女は、アカシヤの緑越しに彼女の別荘が見えて来た時にこう申しました。「夫はいつも町の方にいて ただ夜だけ帰って参りますの、それも毎日ではありませんの。それで、実を申しますとあたくし、毎日それはそれは死ぬほど退屈な思いをしているのですよ」
わたしは彼女の後から歩きながら、彼女の背中や肩に見とれていました。わたしには彼女が人妻であることが愉快でした。行きずりのローマンスのためには、人妻の方が娘よりはずっと似合いの材料ですからね。なお、わたしにとって愉快だったのは、彼女の夫が家にいないということでした。しかし、同時にわたしは、ローマンスは起らないだろうという気もしていました……
わたし達は家へはいりました。キーソチカの別荘の部屋はあまり広くなく、天井も低く、家具も別荘式のものでした。(ロシヤ人は別荘では不便な、重い、不景気な、捨てるのは惜しいし、それかとてどこへやり場もないような家具を好んで使っています)けれど、二三のちょっとしたものを見ただけでもやはり、キーソチカ夫妻はあまり貧しくない生活をしていること、年に五六千ルーブリは生活にかけているらしいことがわかりました。忘れもしません、キーソチカが食堂と呼んだ部屋の真中には、なぜか六本脚の円卓が立っていてその上にサモワールと紅茶茶碗がのって居り、その端の方には、開いた書物と、鉛筆と、帳面が一冊のっていました。わたしはその書物をのぞいてみて、それがマリーニンとプレーニンの算術例題であることを知りました。今でも覚えていますが、その開けてあったところは、「組合の歩合計算」のところでした。
「あなた誰を相手にこんなことをしてらっしゃるんです?」とわたしはキーソチカに訊きました。
「誰も相手なんかありませんわ……」と彼女は答えました。「あたしひとりでただちょっと……退屈まぎれ、なんにもすることがないからですわ。昔のことを思い出して、問題を解いてみてるんですわ」
「あなたお子さんは?」
「ひとり男の子がありましたけれど、一週間生きていただけで死んでしまいましたの」
わたし達はお茶を飲みにかかりました。キーソチカはわたしに見惚れながら、またしてもわたしが技師であることを言い出して、またしても、なんて結構だろう、わたしはどんなにあなたの成功を喜んでいるだろうと繰り返すのでした。そして、彼女が熱心に話せば話すほど、心からの笑顔を見せれば見せるほど、わたしの心には、自分はなんの得るところもなく空しく彼女の許を辞し去るであろうという信念が強くなってくるのでした。わたしは当時もう、ローマンスの方面にかけては一人前の専門家でした。成功か不成功かという自分の運勢くらいは、正確に予測することが出来ました。ところで、もしこちらの眼をつけたのが馬鹿な女か、或はこちらと同様に冒険や感覚の探究者か、或はまた全然見ず知らずの強《したた》か女ででもあれば、その成功は十分疑いなしです。が、もし相手が相当頭の働く真面目な女で、その顔が疲れたような従順さと、こちらの訪問を心から喜んでいる好意を現わしている場合、ことにこちらを尊敬してくれてる場合には、黙って引揚げるに限ります。そういう場合に成功するためには、一日以上の連続的の時日が必要だからです。
ところで、キーソチカは、夕方の光で見ると、昼間よりは一層いい女に見えました。わたしは、見れば見るほど彼女が好きになるし、向うでもどうやらわたしに心を惹かれているようでした。それに、周囲の事情が、ローマンスにはまことにうってつけでした――夫は留守だし、召使の姿は見えないし、あたりは森閑《しんかん》としている……自分ではどんなに成功を信じる気にならなくても、やはり、万一の僥倖《ぎょうこう》を思って、小あたりにあたってみないではいられませんでした。それにはまず、ぐっと打ちとけた調子になって、抒情的に生真面目なキーソチカの気分を、ずっと軽いものに変えなければなりません……
「ねえ、ナターリヤ・ステパーノヴナ、少し別の話をしようじゃありませんか」とわたしは言い出しました。「何かもっと面白い話を。何よりもまず、昔の思い出に従って、あなたをキーソチカと呼ばせて下さい」
彼女は承知しました。
「ではね、キーソチカ、どうか話して下さい」とわたしは続けました――「ここの婦人達は一たいどんな蝿に刺されたというんでしょう? 一たいどうしたというのでしょう? 以前は誰も彼も、如何にも道徳堅固な、婦徳に富んだ女《ひと》ばかりだったのに、近頃はどうでしょう、誰のことを訊いてみても、恐ろしいようなことばかり聞かされます……或る令嬢は将校と駆落ちしたとか、或る娘は中学生を誘惑して家出したとか、或る夫人は役者と手に手を取って夫の家からどろんをきめたとか、或る夫人は夫を棄てて将校の許へ走ったとか、こんなふうの話ばかりです……まるで立派な疫病ですよ! こんな有様だと、恐らく今にこの町には、ひとりの娘も、ひとりの若い人妻もいなくなってしまうでしょうよ!」
わたしは下品な、ふざけたような調子で言いました。もしその返辞にキーソチカが、わたしに笑って見せるようだったら、わたしはこの調子で押して行けばいいのです――「あなたも気をおつけなさいキーソチカ、将校や役者なんかに盗み出されないようにね!」すると彼女は伏目になって言うでしょう――「誰がものずきに、あたしみたいなものを盗み出すでしょう? もっと若い、もっと美しい人がいくらもいるのに……」すると、わたしは言ってやる――「冗談ですよ、キーソチカ、僕なんかが真先にあなたを攫《さら》って逃げますよ!」まあざっとこんな工合にやって行けば、結局わたしは成功したに違いないのです。けれども、キーソチカは、わたしに笑顔を見せるどころか却《かえ》って真面目くさった顔をして、溜息をつきました。
「そういう噂はみんな事実なんですわ……」と彼女は言いました。「夫を棄てて役者と駆落ちしたのは、あたしのいとこのソーニャなんですの。勿論これはよくないことですわ……人は誰しも運命から与えられたものに堪えて行かなければなりませんものね。けれど、あたしはああいう人達を非難しようとも、責めようとも思いませんの……事情というものは、どうかすると人間より強い場合があるものですからね!」
「それはそうですがね、キーソチカ、しかし、一たいどんな事情がこんな疫病を生み出すことが出来たのでしょう?」
「それはもうとても簡単明瞭ですわ……」とキーソチカは眉をあげながら言った。「この土地では、知識階級の娘や女は、全く、どうしていいか見当もつかないくらいなんですもの。大学へ行くとか、女教師になるとか、一般に殿方がしていらっしゃるように、理想を持ち目的を持って生活するということは、どの女にも出来るというわけにはまいりません。やっぱり結婚するほか道がないのですわ……では、誰と結婚すればいいのでしょう? あなた方男子の方達は、中学を卒業すると大学へ行き、決して二度と故郷の町へは帰らないで、都で奥さんを貰っておしまいになり、娘達だけが取残されるんですものね!……一たい、娘達は誰と結婚すればいいのでしょう? 教育のある立派な人がいないために、娘達は、誰ともわからぬような人、お酒を飲んだり、クラブで口論したりするほかなんの能もないようないろんな仲買人やピンドース(山師の意)達と結婚するのですわ……だから、みんなもう、無茶苦茶に結婚してしまうのです……それですもの、その後の生活がどんなだか、思いやられますわね。なにしろ、学問あり教育のある女が頭のない重苦しい男と暮して行かなければならないんですものね。そのうちに、将校とか、役者とか、お医者とかいう知識階級の人に出合うと、忽ち恋を感じて、今までの生活が堪えられなくなり、結局夫を棄てて逃げ出すようなことになってしまうのですわ。ですもの、とても非難は出来ませんことよ!」
「もし、そうだとすると、キーソチカ、初めから結婚しなければいいじゃありませんか?」とわたしは訊きました。
「そうですわね」とキーソチカは溜息をつきました。「けれど、娘達にしてみれば、どんな夫にしろないよりはましだと思うのも無理はないじゃございませんか……とにかくですね、ニコライ・アナスターシエビッチ、ここの生活は、やり切れませんのよ、とてもお話になりませんのよ! 娘でいる間も息づまるようだし、結婚してからも息づまるようだし……現に世間では、ソーニャが家出したのを、役者などと家出したのを、笑いものにしていますけれど、もしあの人の心をのぞいてみたらとても笑えなんか出来なかっただろうと思いますわ……」』
戸外では、またぞろアゾールカが吠え出した。犬は、ひとしきり何者かに向って腹立たしげに吠え立てた挙句、悲しそうに唸り出して、全身をバラックの壁にぶっつけた……アナーニエフの顔は憐れみからしかめられた。彼は自分の話を打ち切って、外へ出て行った。二分間ばかり、扉の向こうで、彼の犬をなだめる声が聞えていた――「よしよし、可愛い奴だな! 可哀そうにな!」
「わがニコライ・アナスターシイチと来たら、とても話好きなんですからね」と、フォン・シュテンベルグは笑顔になって言った。「いい人ですよ」と彼は、ちょっと沈黙したあとで言い足した。
バラックへ帰ってくると、技師は私達のコップに葡萄酒を注いで、笑みを含み、両手で胸を撫でながら、話を、続けた――
『こんなわけで、わたしの攻撃は功を奏しませんでした。どうも仕方がない、不純な目論見《もくろみ》はもっと恵まれた機会まで見合わせることにし、自分の不成功に甘んじて、よく言うように、手を振って諦めました。そればかりではありません、キーソチカの姿や、夕暮れの空気や、静けさに影響されて、わたし自身も次第に、物静かな、抒情詩的な気分に沈んで行きました。忘れもしません、わたしは一ぱいに開け放った窓際の肘掛椅子に腰をおろして、外の木立ちや、暮れ行く空を眺めていました。アカシヤや菩提樹のシルエットは、何もかも八年前とすっかり同じです。当時の少年時代と同じように、どこか遠くで、安物のピアノの音が聞え、並木路を前後にそぞろ歩きする人々の様子も昔どおりでしたが、しかし、その人々は違っていました。並木路を歩いていたのは、最早わたしでもなければ、わたしの仲間でもなく、また、わたしの情熱の対象でもなくて、どこの誰とも見知らぬ中学生や、見知らぬ娘達でした。わたしは侘しい気持になりました。知人の消息に就いてのわたしの質問に対して五度ばかりも、同じ――「亡くなりましたわ」という答をキーソチカから聞いた時には、わたしの侘しさは、いつもよき知人の葬儀を送って感じるような気分に変りました。そしてわたしは、その窓際に腰を掛けて、散歩の人々を眺めたり、下手なピアノの音を聞いたりしながら、生れて初めて、自分自身の眼で以て、どんなに貪婪《どんらん》な勢いでひとつの時代が他の時代にとって代ることを急いでいるか、僅か七八年の歳月すらが、人の一生にあってはどんなに運命的な意味を持っているかを看て取りました!
キーソチカは卓の上へ、葡萄酒の壜を置きました。わたしは一杯やっていい気持になり、だらだらと長たらしく何やら喋り出しました。キーソチカはそれを聞きながら、依然としてわたしに見惚れ、わたしの知恵に感心していました。時間は段々にたって行きました。空はもう、アカシヤや菩提樹のシルエットがひとつにとけ合ってしまったほど暗くなり、並木路には最早散歩の人影も絶えて、ピアノの音もいつしか止み、聞えるのはただ単調な海の音だけになりました。
若いものは誰しも同じようなものです。若いものを甘やかし、歓待して、酒でも振舞い、彼が人好きのする人間であることを思い知らせてやってごらんなさい、奴《やっこ》さん、すっかりみ輿《こし》を据えてしまって帰る時刻も忘れ、いつまででも喋っているものです……主人の方は、もう眼がくっつきそうになり、もう疾《と》くに寝る時間が来ているのに、奴《やっこ》さんいい気になっていつまででも喋っている。わたしもその通りでした。一度、なんの気もなく、わたしは時計を見ました――十時半でした。わたしは暇を告げはじめました。
「では、出がけにもう一杯召上っていらっしゃい」と、キーソチカは言いました。
わたしは出がけの一杯をやると、またしても長々と喋り出し、立つべき時であることを忘れて、坐り込んでしまいました。が、やがて、男の声と、足音と、拍車の音が聞えました。二三人の人が窓の下を通り過ぎて、戸口に立ちどまりました。
「きっと、うちの人が帰って来たんですわ……」と、キーソチカは聞き耳を立てながら言いました。
扉がばたんと鳴って、話し声はもう玄関で聞えました。わたしは、食堂へ続く扉の傍を、ふたりの男の通り過ぎるのを見ました。――ひとりはでっぷりふとった、体格の立派な鉤鼻のブリュネットで、麦藁帽子をかぶっていましたし、ひとりは真白な夏服を着た若い将校でした。戸口を通り過ぎる時に、ふたりは無関心な眼で、ちらとわたしとキーソチカの方を見て行きました。わたしには、ふたりとも一杯機嫌でいるように見えました。
「あの女がつまり、君を一ぱいはめたのさ。それを君は真に受けたのだ!」一分ばかりすると、ひどく鼻にかかったこういう大きな声が聞えて来ました。「第一に、あれは大きい方のクラブじゃなかった、小さい方のクラブだったんだ」
「ジュピター、君は怒ってるんだね? してみると、君は正しくないんだ……」と、もうひとつの、笑って咳をしている、明らかに将校のらしい声が言いました。「ねえ君、今夜僕ここへ泊ってもいいかね? 君、構わず言ってくれたまえ――邪魔じゃないかね!」
「なんということを訊くんだ? いいどころじゃない、是非そうしなくちゃならんくらいだよ。君はどちらがいいかね、ビールか葡萄酒か?」
二人はわたし達からふた部屋ばかりむこうに陣どって、声高に喋り散らしていました。どうやらキーソチカにも彼女の客にも興味を持っていない様子でした。が、キーソチカには、夫が帰ると同時に、著しい変化が起りました。初めは赤くなりましたが、やがてその顔は、おずおずした、罪あるもののような表情をとりました。彼女は一種の不安に捕われているらしく見えましたので、わたしには、彼女はきっと自分の夫をわたしに見られるのを恥かしく思って、わたしに早く帰って貰いたがっているのだというような気がし出しました。
わたしは暇を告げはじめました。キーソチカはわたしを入口の段々のところまで送ってきました。わたしは、彼女がわたしの手を握って、次のように言った時の、その物柔かな、悲しそうな微笑と、優しく従順らしい眼とを、今でもはっきり覚えて居ります――
「多分もうお目にかかることはないでしょうね。では、どうぞご機嫌よろしゅう。ありがとうございました!」
溜息ひとつ、美しい言葉一句なかったわけです。別れを告げながら、彼女は両手で蝋燭を持っていました。光の班点が、例の物悲しげな微笑を追いかけようとでもするように、彼女の顔や顎筋におどっていました。わたしは、どうかすると猫のように愛撫してやりたくなった昔のキーソチカを心に描きながら、今の彼女をじっと見つめているうちに、なぜか彼女の先刻言った言葉を思い出しました――「人は誰しも運命から与えられたものに堪えて行かなければなりませんわ」すると、わたしは胸が一ぱいになって来ました。わたしの感覚は察し、わたしの良心は、幸福な、無関心な人間であるわたしに囁きました。今わたしの前に立っているのは、善良な、好意に満ち、愛に満ちた、しかし苦しみ悩んでいる人間であるということを……
わたしは一礼して、門の方へ歩き出しました。もう真暗でした、南方の七月は夕暮れがはやく、空気は見る間に暗くなって行きます。十時前にもう、鼻をつままれてもわからないほど真暗になることがあります。ほとんど探るようにして、門まで行き着く間に、わたしは二十本ばかりマッチをつかいました。
「辻馬車!」とわたしは門を出るなり叫びました。ぷつりとの答もありませんでした……「辻馬車!」と、わたしは繰り返しました。「おい、馬車!」
けれど、辻馬車も高級馬車も居りません。墓のような静寂です。耳に入るものはただ、眠そうな潮騒の音と、酒のために高くなった自分の心臓の鼓動とだけです。眼をあげても――空には星屑ひとつ見えません、真暗で、どんよりとしています。確かに、空は雲で蔽われていたのです。なんの故ともなく、わたしは肩をすくめ、愚かしげな微笑を浮べてもう一度、しかし今度はもう前ほどしっかりした調子でなく、辻馬車を呼んでみました。
「あゝゝゝ!」と、こだまがわたしに答えました。
四露里の野道を、しかも真暗な夜道を、てくてく歩かなくちゃならぬということは、――あまりにも不愉快な予想です。いよいよ歩くと決心をつける前に、わたしは長いこと考えたり、辻馬車を呼んだりしてみましたが、やがてひとつ肩をすくめると、全然なんの目的もなしに、のろのろともとの森の方へ引返して行きました。森の中の暗さはまた一入《ひとしお》でした。ここかしこ、木立ちの間に、別荘の窓がぼんやり赤くなっています。一羽の鴉《からす》が、わたしの足音に眠りを破られ、わたしが四阿《あずまや》への道を求めてするマッチの光に驚かされて木から木へ飛び移り、木の葉の中でがさがさ音を立てました。わたしはいまいましいやら、気恥かしいやらでしたが、鴉《からす》めはまるでそれを見抜きでもしたように、かあかあと人を嘲笑します! いまいましかったというのは、歩いて帰らなければならないことで、恥かしかったというのは、キーソチカのところで少年のようにお喋りをしたことです。
やっと四阿《あずまや》まで辿り着くと、わたしはベンチを探り当てて腰をおろしました。遥か下の方では、濃い闇の奥で、静かに、怒ったような海が呟いていました。今でも覚えていますが、わたしはまるで盲目のように、海も、空も、自分がその中に坐っている四阿《あずまや》さえも見ませんでした。そしてわたしにはもう、この世界全体がただ、一杯機嫌のわたしの頭の中をさまよっている思想と、どこか下の方で単調な響きをたてている、見えざる力とからだけ成り立っているように思われていました。が、やがてうとうとしかけると、今度は、音を立てているのは海ではなく自分の思想であるように、全世界がただわたしひとりから成り立っているように思われて来ました。こんな工合にして、全世界を自分自身の中へ集中してしまうと、わたしはもう辻馬車のことも、街のことも、キーソチカのことも忘れてしまって、わたしが大好きだった感覚に全心身を委ねてしまいました。それは、真暗な、無形の全宇宙間に、ただひとり自分が存在しているという気のする時の、あの恐ろしい孤独感です。これは、この思想や感覚が、その平原や、森林や、雪のように、広く、果てしなく、粗野であるロシヤ人だけに許された、放漫な、化物じみた感覚です。もしわたしが画家だったら、是非ひとつ、ロシヤ人が足を組んでじっと坐り、両手で頭を抱えてこの感覚に耽っている時の顔の表情を描きますね……なにしろ、無意義な人生とか、死とか、来世の暗黒とかいう思想は、この感覚と併存しているものなんですからね……この思想は、鐚一文《びたいちもん》の価値もないものですが、顔の表情は美しいに違いないですから……
急には腰を持ち上げる気にもならず、そのままうとうとしていた間に――わたしは温かでいい気持でした――突然、変化に乏しい単調な海の音の間に、ちょうど画布の上へ印でもつけるように、わたしの注意をわたし自身から引き離す物音が際立って来ました……誰かが並木路を急ぎ足に歩いてくるのです。四阿《あずまや》の傍までくると、この誰かわからない人は立ちどまり、少女のようにくすんと鼻をすすって 少女らしい泣き声で言いました――
「ああ、いつになったらこれがみんなおしまいになるんだろう? ああ神様!」
その声と泣き声から推せば、それは十一二の少女でした。彼女は心のきまらないさまでのろのろと四阿《あずまや》の中へはいって来て、腰をおろすと、祈るでもなく訴えるでもなく、声を出して、こんなことを言い出しました……
「ああ神様!」と彼女は泣きながら、言葉尻をひいて言うのでした。「だって、もうとてもやりきれませんわ! どんな辛棒強い人だって、これではとてもやり切れませんわ! あたくしは辛棒して、黙っています、けれど、お察し下さいまし、あたくしだって生きたいのでございますわ……ああ神様、神様!」
大たいずっとこんなふうの言葉です……わたしはその少女をひと眼見て、なんとか言葉をかけてやりたくなりました。そこで、相手を驚かさないように、まずひとつ大きく溜息をつき、咳払いをしておいて、それから注意深くマッチを擦りました……暗闇の中に明るい火がぱっと輝いて、泣いていた女を照らし出しました。それはキーソチカでした』
「こいつはどうも飛んだ奇蹟だ!」とフォン・シュテンベルグが溜息をついた。「真暗な夜、海の音、苦しみ悩んでいた彼女、宇宙の孤独感に浸っている彼……いやはやどうも実に! 足りないのはただ、七首を閃《ひらめ》かして迫るチェルケス人だけですよ」
「僕が作り話を話してるんじゃない、事実ですよ」
「いや、よしんば事実にしてもですよ……そんなことはなんにもなりませんよ、もう疾《と》くに知れ切ったことですよ……」
『まあ馬鹿にすることは暫く待って、しまいまで話させ給え!』アナーニエフはこう言って、いまいましげに片手を振った。『どうか邪魔をしないでくれ給え! 僕は君に話してるんじゃない、ドクトルに話してるんだから……さてと』と彼は私の方へ顔を向けながら、同時に、学生の方へもちらちら横眼を走らせながら、続けた。学生は自分の帳簿の上へ屈み込んで、技師をからかったことにひどく満悦の態《てい》であった。『さて、わたしを見てもですね、キーソチカはいっこう驚きもしなければ恐れもせず、まるで、この四阿《あずまや》でわたしを見ることを前もって知っていたようなふうでした。彼女はきれぎれな息をつきながら、熱病にでも罹ったように、全身をわなわな顫《ふる》わせていました。そして涙に濡れたその顔は、わたしが後から後からとマッチを摺りながら漸《ようやく》く見分け得た限りでは、最早以前のような聴明な、従順な、疲れたような顔ではなくて、どこやら違った、今日になってもまだどうしても理解することの出来ない、一種異様な顔でした。それは苦痛をも、不安をも、憂愁をも、その涙と言葉が現わしていたようなものは何ひとつ現わしていませんでした……実を言うと、恐らくわたしがそれを理解しなかったからでしょうが、それはわたしには、なんの意味もない、酒に酔ってでもいるもののように思われました。
「あたしはもう我慢が出来ませんの……」とキーソチカは、泣いている少女のような声で呟き出しました。「あたしにはもうその力がありませんの、ニコライ・アナスターシイチ! ご免なさい、ニコライ・アナスターシイチ……あたしもう、こんなふうにして生活しては行けませんの……街の母のとこへ参りますわ……どうぞ送って頂戴《ちょうだい》な……後生ですからどうぞ送って!」
泣いている女を前にして、わたしは喋ることも黙っていることも出来ない気持でした。わたしはまごまごして、訳のわからないことを呟きながら、彼女を慰めようとしました。
「いいえ、いいえ、あたし母のところへ参ります!」とキーソチカは立ちあがるなり、痙攣《けいれん》的にわたしの手を掴《つか》んで、(彼女の手も袖口も涙で濡れていました)断乎たる調子でこう言うのです。「ご免なさい、ニコライ・アナスターシイチ、あたし行きますわ……だってもう我慢が出来ないんですもの……」
「キーソチカ、だってもう辻馬車が一台もいないんですよ!」とわたしは言いました。「何に乗って行こうと言うんです?」
「そんなことなんでもありませんわ。あたし歩いて行きますわ……そんなに遠くないんですもの。それにもうとても我慢が出来ないんですもの……」
わたしはすっかり面くらいはしましたが、別に感動はしませんでした。わたしには、キーソチカの涙や、その顫《ふる》えや、鋭さを失った顔の表情の中に、浅薄《せんぱく》な、安っぽい、爪の垢ほどの悲しみのために涙を一プードも流す不真面目なフランスか小ロシヤのメロドラマが感じられていたからです。わたしは彼女を理解していなかったし、また理解していないことを知ってもいたので、ほんとうに黙ってるべきだったのでしょうが、でもなぜか、多分自分の沈黙が愚鈍のように思われはしないかとでも思ったのでしょう、彼女を説いて母のところへ行かせないように、家にじっとしているように勧めるのを、必要なことと考えたのです。一たい泣いている者は、人に涙を見られるのをいやがるものです。が、わたしは、後から後からとマッチを取り出して、箱が空っぽになるまで摺り続けました。なんのためにわたしにこんな思いやりのないイルミネーションが必要だったのか、今日になってもなおわたしには、どうしてもわけがわかりません。一たいに、冷淡な人間は屡々《しばしば》不細工であり、時に愚鈍でさえもあるものですね。
遂に、キーソチカがわたしの腕をとりましたので、わたし達は歩き出しました。門を出ると、わたし達は右へまがり、埃っぽい、足あたりの柔かな道を踏んで、急がずゆるゆると歩いて行きました。真暗でしたが、だんだん眼が闇に慣れてくるにつれて、わたしは、道の両側に立っていた、古いけれどもひょろひょろした槲《かしわ》や菩提樹のシルエットを見分けるようになりました。間もなく、右手にあたって、ところどころ大きくはないが深い谷や、水で洗われた窪地に断ち切られている、凸凹の烈しい断崖の黒い帯が、ぼんやりそれと見えて来ました。谷の傍には、人が蹲《うずくま》ってでもいるような、背の低い木叢《こむら》が隠れていました。なんとなく薄気味わるくなって来ました。わたしは疑わしげに断崖の方へ横眼をつかいました。こうなるともう、海の音も、野の静寂も、不愉快にわたしの想像を脅かすばかりでした。キーソチカは黙っていました。彼女はなお顫《ふる》えがとまらないで、半露里も歩かないうちにもう歩き疲れて、せいせい息を切らし出しました。わたしも黙っていました。
カランチン(検疫所)から一露里ばかり来たところに、恐ろしく高い煙突を持った、荒廃した四階建ての建物が立っています。そこは昔蒸気製粉所のあったところです。それは絶壁の上にひとつきりぽつんと立っていたので、昼間は、遠く海からでも、野からでも見えるのでした。それがもう廃墟になって、誰ひとり住む者もなかったのと、そこには木魂が棲んでいて、通行人の足音や声をはっきり繰り返したのとで、なんとなく神秘的に思われるのでした。そこでです、まずこの真暗な晩に、夫の家から逃げて行く女と腕を組み合って、わたしの一歩一歩を反響しながら幾百と知れぬその窓の黒い眼でじっとわたしを見つめている、長い、高い、巨大な建物の傍を通りかかったわたしを想像してみて下さい。世の常の若い者なら、こういう情況の下ではロマンチックな気分になったでしょうに、わたしは暗い窓々を見上げながら、こんなふうに考えていたものです――≪これはみな如何にも感銘の深い情景だが、しかし今にいずれは、この建物からも、今のような悲しみを持ったキーソチカからも、こういう思想を抱いている自分からも、塵も残らぬような時がくるのだ……何もかも無意味だ、空虚だ‥…≫
製粉所の前までくると、キーソチカは急に立ちどまり、自分の腕を自由にして口を利き出しましたが、今度はもう少女のような声でなく、自分自身の声で言いました――
「ニコライ・アナスターシイチ、あたし知ってますわ、あなたがこれを変に思ってらっしゃることは。けれど、あたしは恐ろしく不幸なんですのよ! あなたにはとても想像もつかないほど不幸なんですのよ! とても想像はつきませんわ! あたしあなたにはお話いたしません、だってお話なんかとても出来ませんもの……こんな生活、こんな生活……」
キーソチカはしまいまで言いませんでした。歯をくいしばって、苦痛の叫びを洩らすまいと懸命にこらえてでもいるように、うめきました。
「こんな生活!」と彼女は恐ろしそうに、うたうように声音をひいて、南方人らしい、いくらか、小ロシヤがかったアクセントで繰り返しましたが、このアクセントは、それが女の場合だと特に、興奮した言葉に歌のような性質を与えるのでした。「こんな生活! ああ、神様、神様、これは一たいなんでしょう? ああ神様、神様!」
まるで、自分の生活の神秘を解こうとでもするように、彼女は思い惑った様子で肩をすくめて、頭を振り、はたと両手を打ち合わせました。彼女は、ちょうど歌でもうたうような口の利き方をして、優美な美しい身のこなしを見せることによってわたしに或る有名な小ロシヤの女優を思い出させました。
「ああ、あたしはまるで穴の中に暮しているようなものですわ!」と彼女は、両手を揉みしだきながら続けました。「せめてただの一分でも、世間の人達と同じように、歓んで暮せたらと思いますの! ああ神様、神様! あたしとうとう、そこいらの放埓女のように、よその人の眼の前で、夜なかに夫の家を逃げ出すような恥知らずになってしまいました。こんなことをしていて、これからさきどうなるのでしょう」
彼女の身振りと声音を嘆賞しながら、わたしは急に、彼女と夫との仲がうまく行っていないということに、一種の満足を感じはじめました。≪この女をうまく手に入れたら!≫こういう考えがまたしても心に閃きました。そしてこの不人情な考えがわたしの頭に根をおろしてしまって、途中ずっとわたしから離れず、段々にはっきりと、笑顔を見せてくるのでした……
製粉所から一露里半ばかり来たところで、街へ行くには、墓地について左へ曲がらなければなりませんでした。その曲り角の、墓地の片隅に、石造の風車製粉所が立っていて、その傍に粉屋の住んでいる小さな小屋がありました。わたし達は風車と小屋の前を通り過ぎて、左へ曲り、墓地の門へ着きました。すると、キーソチカはそこに立ちどまって、言いました――
「あたし帰りますわ、ニコライ・アナスターシイチ! あなたはどうぞお帰りになって頂戴、あたしひとりで帰りますから。恐くもなんともありませんから」
「またそんなことを!」と、わたしは驚きました。「帰るなら帰るでいいが……」
「あたし少し興奮し過ぎましたのよ……もとはと言えばつまらないことなんですものね。あなたのお話で昔のことを思い出して、心をかき立てられたんですの……あたしは悲しくて、泣き出したいような気持になっていました。そのとき夫が将校の前であたしに乱暴なことを言ったので、あたしかっとなってしまいましたの……ですもの、街の母のところへ行く必要がどこにあるのでしょう? そこへ行けば少しでも幸福になれるでしょうか? 帰らなければなりませんわ……でも、やっぱり……参りましょう!」キーソチカは、こう言って、笑い出しました。「おんなじことですわ!」
わたしは、墓地の門に、「時至れば、生きとし生ける者みな墓に横たわりて、神の子の声を聞かん」という銘の彫りつけてあるのを覚えていましたし、やがては自分も、キーソチカも、その夫も、白い服を着ていた将校も、塀の中の暗い立木の下に横たわる時がくるであろうこと、自分と並んで歩いているのは、不幸な、辱しめられた人間であることを、よく承知していました――こうしたことをすべて、はっきりと意識はしていたのですが、同時に一方では、キーソチカが帰ってしまいはしないか、自分はまた必要なことを言い出しえないのではないかという、重苦しい、不愉快な恐怖に心を掻き乱されていました。わたしの頭の中でこの晩ほど、高遠な思想と、最も低劣な動物的散文とが、こんなに密接に絡み合ったことはありませんでしたよ……実に恐ろしいことです!
墓地から少し来たところで、わたし達は辻馬車を見つけました。キーソチカの母の住まっていた大通りまで行き着くと、わたし達は馬車を捨てて、歩道を歩き出しました。キーソチカはずっと黙ったきりでしたが、わたしは彼女の方を見ては、自分に腹を立てていました――≪なんだって貴様ははじめないんだ? いい時じゃないか!≫わたしの泊っていたホテルから二十歩ばかりのところで、キーソチカは街燈の傍に足をとめて、泣き出しました。
「ニコライ・アナスターシイチ!」と彼女は泣きながら、笑いながら、濡れて光る限でわたしの顔を見ながら、言い出しました!
「あたし、あなたのご親切は死ぬまで忘れませんわ……あなたはなんていい方でしょう! あなたのお仲間はみなさん揃っておえらいのねえ! 正直で、寛大で、誠実で、利口で……ああ、なんて結構なことでしょう!」
彼女はわたしという男を、あらゆる点において進んだ、知識的な人間だと思っていたので、その涙に濡れた、笑っている顔には、わたしという者が彼女の心に掻き起した感動と歎喜《たんき》と並んで、こういう人には滅多に会う機会がないということや、そうした人のひとりの妻になる幸福を神が彼女に与えなかったということを悲しむ気持が、ありありと描かれていました。彼女は何度でも呟きました――「ああ、なんて結構なことでしょう!」その顔に現われた子供らしい喜び、涙、優しい微笑、頭巾の下からはみ出ている柔かい髪、無造作に頭にまかれている頭巾そのもの、そういったものが、街燈の光を受けて、わたしに、昔見るたびに猫のように愛撫してやりたく思った以前のキーソチカを思い出させました……
わたしはたまり兼ねて、彼女の髪や、肩や、手を撫ではじめました……
「キーソチカ、君は一たいどうしようというの?」とわたしは呟き出しました。「僕を君と一緒に世界の涯まで行かせたいというの? 僕はいつでも君をこの穴から引き上げて、幸福にしてあげられると思う。僕は君を愛しています……行こうじゃないか、君? ええ? いいでしょう?」
キーソチカの顔には困惑の色が漲《みなぎ》りました。彼女は街燈の下から後退りして、大きな眼をみはり、呆気にとられたようにわたしの顔を見入りました。わたしは堅く彼女の手を掴んで、その顔や、頸や、肩に接吻を浴びせかけながら、誓ったり約束したりしつづけました。恋愛事件では、この誓いや約束というやつが、ほとんど生理的に必要なんです。それなしにはどうしても済みません。時によると、それが嘘であることや、約束なんか必要でないことを承知の上で、やはり、誓ったり約束したりしていることがあります。呆気にとられたキーソチカは、絶えずよろよろと後退りしながら、大きな眼でわたしを見つめていました……
「いけませんわ! いけませんわ!」彼女は、両手でわたしを押しのけるようにしながら、こう呟きました。
わたしは強く彼女を抱きしめました。彼女は、急にヒステリ的に泣き出し、その顔はわたしが先刻|四阿《あずまや》の中でマッチを摺った時に見たと同じ、無意味な、鈍い表情をとりました……わたしは彼女の同意も待たないで、口も利かせないようにしながら、無理やりにホテルの自分の部屋へ引張って行きました……彼女は立ち竦《すく》んだようになって歩きませんでしたが、わたしはその腕をとって、ほとんどしよびいて行きました……忘れもしません、わたし達が階段をあがって行った時に、赤い縁《ふち》のついた帽子をかぶったひとりの男が、びっくりしたようにわたしを見て、キーソチカに会釈しました……』
アナーニエフは顔を赤くして、口を閉じた。彼は黙って卓のまわりをひと廻りし、いまいましげに後頭を掻き、その大きな背中をぞっと悪寒でもが走ったように、幾度も、痙攣的に肩や肩胛骨をすくめた。彼にはこの思い出が恥かしく重苦しかったのである、彼はわれとわが身と闘っていたのである……
『よくないことです!』彼は葡萄酒のコップをぐっと呷《あお》って、頭を振りながら言った。『なんでも医者の学校では、婦人病の講義にはいつもその序講で、学生達に、婦人患者の服を脱がせて触診する前に、自分達にもそれぞれ、母親があり、姉妹があり、許嫁の娘のあることを思い出すようにと忠告するということです……ところでこの忠言は、ひとり医学生ばかりでなく、この人生で女と交渉を持つすべての人々にあてはまるものですよ。妻や娘を持った今では、ああ、わたしにもどんなによくこの忠言の意味がわかるでしょう! ほんとにどんなによくわかるでしょう! しかし、まあ話の先を聞いていただきましょうね……わたしの愛人になると同時にキーソチカは、わたしとはすっかり違ったものの観方をするようになりました。何よりもまず、彼女は熱烈に、深く愛しはじめました。わたしにとって平凡な恋愛即興詩を成すに過ぎなかったものが、彼女にとっては生涯の一大変革だったのです。忘れもしません、その時わたしには、この女は気が狂ったのではないかと思われたくらいでした。生れて初めて幸福になり、年の五つも若返った彼女は、霊感でも受けたような、有頂天な顔をして、幸福感のために身の置きどころもないといった有様で、笑ったり、泣いたり、そうしてのべつ幕なしに、明日になったら一緒にコーカサスへ行き、秋になったらそこからペテルブルグへ行くことや、それからどんな生活をするかなどということに就いて、口に出して空想を語ったりするのでした……
「あたしの夫のことはちっとも気にしないでいいことよ!」と、彼女はわたしを慰めました。
「あの人はあたしを離縁する義務がありますの。あの人がコストービッチという年上のお婆さんと懇《ねんご》ろにしていることは、街じゅうの人が知ってるんですもの。あたし達は離縁をとって、結婚すればいいんですわ」
女というものは、恋をすると、猫のようにすぐ人に馴れて、同化し易いものです。わたしの部屋に一時間半ばかりいた間に、キーソチカはもうわが家にいるような気分になって、わたしの持ち物を自分の物のように扱い出しました。彼女はわたしの持ち物をトランクへ詰めたり、わたしが新調の高価な外套を釘にも掛けないで、ぼろぎれかなんぞのように椅子の上へほうり出しておくと言っては、わたしに小言を言ったりしました。
わたしは彼女を見たり、その言葉を聞いたりしながら、疲労といまいましさを感じていました。相当身分のある、正直な、苦しんでいる女が、こんなにも易々と、僅か三四時間の間に、初めて会った男の愛人になるのかと思うと、いくらか浅ましいような気もしたのです。こういうことは、わたしには、身分ある人間としてですね、つまり些《いささ》か気に入らなかったのですよ。その上、わたくしに一層不愉快に作用したのは、キーソチカのような女は、深味もなく不真面目で、あまりに生活を愛し過ぎ、男に対する愛というような、本来愚にもつかぬことまでを、幸福だの、苦悩だの、生活の転換だのという程度にまで持ち上げていることでした……それに、もう満腹してしまった今となっては、愚かにも、早晩否応なしに欺かなければならぬ女と関係を結んだ自分が、いまいましくてならないのでした……ところで、お断りして置かなければならぬのは、自分はだらしがないくせに、嘘をつくことはとても我慢がならぬということでした。
忘れもしません、キーソチカはわたしの足許に坐って、わたしの膝に頭をもたせ、きらきらと輝く恋する女の眼でわたしを見つめながら、訊きました――
「コーリャ、あなたはあたしを愛してるのね? 非常に? 非常に?」
こう言って、嬉しそうに笑い出しました……わたしにはそれが、センチメンタルで、あくどくて、愚かしいように思われました、しかもわたしは、早くももう、万事にまず「思想の深さ」を求めようとするような、気分になっていたのです。
「キーソチカ、君はもう家へ帰った方がいいだろう」とわたしは言いました。「さもないと、家の人が君の見えないことに気がついて、街じゅう捜し廻るかも知れないからね。それに第一、お母さんのとこへ行くんだって、夜明けになっちゃ、工合がわるいだろう……」
キーソチカはそれに同意しました。別れる時にわたし達は、明日正午に街の公園で会い、明後日一緒にピャチゴールスクへ立つことを約束しました。わたしは、彼女を送って街路へ出ました。そしてみちみち心から優しく、真面目に彼女をいたわってやったことを覚えています。その間には、彼女がこんなにも虚心坦懐にわたしを信じていてくれるのが急に堪らなく可哀そうになり、実際思い切ってピャチゴールスクへ連れ出そうかと決心しかけた瞬間もありましたが、しかし、自分の鞄の中にはもう僅か六百ルーブリしかないことや、秋になって別れるのは、今よりずっと難しくなるであろうことなどを思い出して急いで憐憫の情を圧《お》し殺しました。
わたし達は、キーソチカの母親の住んでいた家の前まで来ました。わたしが呼鈴の紐をひきました。扉の向うに足音が聞えてくると、キーソチカは急に真面目な顔をして、空を見上げ、幾度も、気忙《きぜわ》しげに、まるで子供に対するようにわたしに十字を切ってくれ、それからわたしの手をとって、自分の唇に押しつけました。
「では明日まで!」彼女はこう言って、扉のかげへ姿を消しました。
わたしは向う側の歩道へ渡って、そこからその家を眺めました。初めのうち窓の中は真暗でしたが、やがて、窓のひとつに、とぼされたばかりの蝋燭の、弱々しい、青みがかった火がちらちらし出しました。その火はだんだん明るくなり、あたりを照らすようになりました。と、わたくしは、その灯影と一緒に、ひとつふたつの人影が、部屋の中をあちこちし出したのを見ました。
≪思いがけなかったんだ!≫とわたしは考えました。
自分の部屋へ帰ると、わたしは服を脱ぎ、葡萄酒を一杯飲んで、昼のうち市場で買っておいた新鮮なイクラを食べてから、悠々と床につくや、なんの屈託もない漫遊客の堅い眠りを眠りました。
朝眼がさめると、わたしは頭痛がして、なんとなく気分がすぐれませんでした。何やら心の落ちつかぬ気持だったのです。
≪一たいなんだろう?≫とわたしは、自分の不安を説明しようとして、こう自問しました。≪何がこんなに気になるのだろう?≫
そして自分の不安をわたしは、今にきっとキーソチカがやって来て、出立の邪魔をするのだろう、自分は嘘をついたり、彼女の前を取りっくろったりしなければならぬだろうという恐怖にもとづくものだと解釈しました。そこで、わたしは急いで服をつけ、手廻りの品を片づけると、戸口番に、晩の七時までに荷物を停車場へ届けるようにいいつけてホテルを出ました。その日は一日、わたしは友人の医者のところで過しましたが、夕方にはもうその街を立ってしまいました。どうです、わたしの思索は、ここでもまたわたしが卑劣な、裏切り的逃亡を企てる邪魔にはならなかったのですよ……
友人の許に坐っている間も、それから停車場へ馬車を走らせる間も、わたしは終始不安に悩まされ通しでした。わたしには、自分は、キーソチカと会って醜い一幕を演じることを恐れているのだという気がしていました。停車場ではわたしはことさら、第二鈴の鳴るまで化粧室にはいっていました、そしてやっと自分の車室へもぐり込んだ時には、自分の全身が頭のてっぺんから足のさきまで盗んだ品物で一ぱいになっているような感じに圧倒されていました。どんなに苛立たしい思いと恐怖とをもって、わたしは第三鈴の鳴るのを待ったことでしょう!
が、とうとう救いの第三鈴が鳴って、汽車は動き出しました。やがて監獄を過ぎ、兵営を通り過ぎて、野へ出ました。ところが、わたしのいたく驚いたことに、不安は依然としてわたしを見棄てず、わたしはやっぱり自分自身を、むやみに逃げることばかり考えている泥棒のように感じるのでした。なんという不思議なことでしょう? 気をまぎらして心を落ちつかせるために、わたしは窓を眺めはじめました。汽車は海岸を走っていました。海は鏡のように凪《な》いで、その面には、ほとんど半分がた日没の柔かな紫金色に彩られた玉のような大空が、晴れやかに、静かに影をおとしていました。海面のそこここには、漁舟や筏が、点々と黒くなっていました。玩具のように清らかな美しい街は、高い崖の上に立って、もう夕靄《ゆうもや》に包まれていました。街の教会の金色《こんじき》した尖頂や、窓や、緑葉は、それぞれ入日の光を反映して、溶解する金のように、燃えたり溶けたりしていました……野の臭いが、海から吹いてくる柔かな湿気とまざり合っていました。
汽車は矢のように飛んでいました。乗客達や車掌達の笑い声が聞えていました。誰も彼も朗らかな、軽い気分でいるようでしたが、わたしのえたいの知れない不安は、ますます募るばかりした……わたしは、街を包んでいる軽い靄を眺めやりました。そして、その靄の中を、教会や家々のまわりを、無意味な、鈍い顔をしたひとりの女が、うろうろしながらわたしを捜して、少女のような声で、或は小ロシヤの女優のように声音をひいて――「ああ神様、ああ神様!」と呷いているさまを、想像していました。わたしは、彼女の真面目な顔や、昨日肉親の者に対するようにわたしに十字を切ってくれた時の、大きな、心配そうな眼を思い出すと、つい機械的に、彼女が昨日接吻した自分の手を眺めました。
≪一たいおれはあの女に恋をしたんだろうか、どうだろう?≫とわたしは、その手を掻きながら自問しました。
やがて夜になり、ほかの客が眠ってしまって、わたしが自分の良心と差し向いになった時に初めて、それまでどうしてもわからなかったことが、だんだんにわかって来ました。車室の薄闇の中に、わたしの前にキーソチカの姿が立って、わたしから離れませんでした、そしてわたしはもうはっきりと、自分のしたことが殺人にひとしい悪業であったことを認識していました。で、良心がわたしを苦しめていたのです。このやり切れない感情を揉み消そうとして、わたしは、一切は無意味であり空虚である、自分もキーソチカも今に死んで腐ってしまうのだ、彼女の悲しみも死と比べれば何んでもない、云々、云々……結局人間には自由意志などはないのだ、してみると、自分は別に罪があるわけでもなんでもない、こんなふうに自分を説得してみました。しかし、こんな論証はみな、ただわたしを苛立たせるばかりで、なんとなく特別に早く、ほかの想念の中で意義を失ってしまいました。キーソチカが接吻した手の中に、憂愁の感触がありました……わたしは横になってみたり、起きてみたり、停車場へ着くとウォーッカを飲んだり、無理にサンドイッチを食べたり、またしても、自分に向って、人生の無意味を説いたりしてみましたが、何一つなんの役にも立ちませんでした。わたしの頭の中では一種奇妙な、次第によってはおかしいといってもいい作用が行われていました。極めて多種多様な思想が雑然と、一つが一つの上へ積みかさなり、互いに縺《もつ》れ合い、妨げ合っていましたので、思想家たるわたしは、額を地面につけたまま、何一つ理解することも出来ず、この必要な思想と不必要な思想の堆積の中で、どう方角の立てようもなかったのです。つまり、思想家としてのわたしは、まだ思索の技術すら体得してはいないこと、自分自身の頭を整理することも、時計を修繕することが出来ないように、出来ないのだということがわかったのです。生れて初めてわたしは、心底緊張してものを考えました。そしてそれがわたしには、驚きのあまり、≪自分は気が狂うのではないか!≫と考えたほど、不思議なことに思われました。常に働いていないで、困難な時にだけ働く人の脳髄には、よく狂気という想念が浮ぶものです。
こうした有様で、わたしはその夜と、翌日一ぱいと、更に次の夜とを悩み通しました。そして、自分の思索なるものが如何に役に立たぬものであるかを知ると同時に、わたしは眼がさめたようになって、遂に、自分が一たいどんな人間であるかということを悟りました。わたしは、自分の思想が三文の価値もないこと、キーソチカと会うまでのわたしは、まだまだ思索をはじめていたどころか、真面目な思想とはどんなものかという理解すら持たなかったことを悟りました。今、さんざ苦しみぬいた挙句、わたしは初めて、自分には信念も、確とした道徳的法典も、ハートも、理性もなかったのだということを悟りました。わたしの知的ないし道徳的財産は悉《ことごと》く、専門的知識や、断片や、不必要な思い出や、他人の思想などから成り立つているに過ぎなくて、わたしの心理的活動は、ヤクート人のそれのように、複雑さのない、単純な、わかりきったものだったということを悟りました……もしわたしが嘘を吐《つ》くことを好まず、盗まず、殺さず、概してあまり明白な過ちをしでかさなかったとしても、それは自分の信念の力ではなく――そんなものはわたしにはなかったのです、――ただわたしが、わたしの血肉の中へ入り込んで、わたしには下らないと軽蔑されながらも、人知れずわたしの生活を指導していた乳母のお伽噺や、初歩の道徳観念に、手も足も出ないほどに縛られていたからにほかなりません……
わたしは、自分が思索家でもなく、哲学者でもなく、単にその道の好事家《こうずか》に過ぎないことを悟りました。神はわたしに天稟《てんぴん》の才能ある、健全な、力強い、ロシヤ人の頭脳を与えてくれました。そこでひとつ、この頭脳が、生れてから二十六年になっても、なんの仕込みもされず、完全に放任され、どんな荷物も負わされないで、ただ技術方面での二三の知識の埃《ほこり》を軽く浴びたに過ぎないところを、想像してみて下さい。それは若くて、生理的に活動に飢え、それを求めている。そこへ突然、全く偶然な形で、外部から彼の中へ、無目的な人生、来世の暗黒という、美しい、汁気の多い思想が入り込んで来たのです。彼はがつがつとそれを吸収して、自分の空地全部をその支配に委ね、それを相手に、ちょうど猫が鼠を弄《もてあそ》ぶように、いろいろにして遊びはじめました。頭脳には博学も系統もない、が、これは不幸ではありません。彼は独学者ふうに、持って生れた自然の力で広汎な思想を処理して、一月もたたぬうちに、もうその頭脳の所有者は、一つの馬鈴薯から数百皿のうまい料理を調理するようになり、自分をひとかどの思想家のように思い込んでしまうのです……
この好事癖を、厳粛な思想に対するこの遊戯を、われわれの時代は、化学にも、文筆にも、政治にも、その他、それが行くことを面倒がらない限りどこへでも持ち込んだのですが、この好事癖と一緒にそれは、自分の冷淡と、退屈と、偏狭を持ち込んで、わたしの見るところでは既にもう、大衆の中で、厳粛な思想に対する新しい、今日までは嘗《かつ》てなかったような態度を養うことに成功しているように思われます。
自分の変態性と完全な無知とを、わたしは、ひとつの不幸のおかげで理解し評価しました。が、わたしの正常な思索は、今考えられるところでは、わたしがABCに取りかかった時、即ち良心に責められてNへ取って返し、変な小細工を弄しないで、キーソチカの前に罪を懺悔《ざんげ》し、子供のように彼女の許しを乞うて、彼女と一緒に泣いた時にやっとはじまったのです……』
アナーニエフは、キーソチカとの最後の会見の模様を手短かに語って、口をつぐんだ。
「なあるほどね……」学生は、技師が語り終った時に、歯の間から押しだすようにこう呟いた。
「この世にはそんなふうのこともあるでしょうね!」
彼の顔は依然として頭脳的|懶惰《らんだ》を現わしていた、そしてどうやらアナーニエフの話も、少しも彼を動かさなかったようであった。ただ、技師が一分ばかり息を休めた上、再び自分の思想を述べはじめて、もう話の初めに言ったことを更に一度繰り返そうとしかけると、学生は苛立たしげに眉をひそめ、卓の前を立って、自分のベッドの方へ行った。彼は寝床を整えて、服を脱ぎはじめた。
「あなたはなんですぜ、まるで実際に誰かを説得したような顔つきですぜ!」彼は苛立たしげにこう言った。
「僕が、誰かを説得したって?」と技師は訊き返した。「すると、君は何かね、僕はそんなことをねらっていると思ってるのかね? 実にとんでもない話だ! 君を説得するなんて到底不可能なことですよ! 君はただ自己の経験と苦悩によってのみその信念に到達し得るのさ!……」
「それだって、驚くべき論理ですよ!」と学生は、寝間着を着ながら、呟いた。「あなたがそんなにきらってらっしゃる思想は、若い者にとっては有害だけれども、老人にとっては、あなたの仰《おっしゃ》るようだと、正常だということになりますね。まるで白髪の話みたいじゃありませんか……この老人の特権は一たいどこからくるのですか? その根拠はなんですか? もしこうした思想が有害だとすれば、万人にとって一様に有害だろうじゃありませんか」
「いや、いけないいけない、君、そんなふうに言うものじゃないよ!」技師はこう言って狡《ずる》そうに片眼で眼配せした。「そんなふうに言うものじゃないよ! 老人は、第一に好事家じゃない。彼等の厭世主義は外部からひょっこりやってくるのではなく、自分自身の頭脳の奥深いところからくるものだ。彼等があらゆるヘーゲル、あらゆるカントを研究して、さんざ苦しみ、数え切れないほどの過ちをしでかしたあと、一言で言えば、下から上まで全階段をのぼり終った時に、初めてやってくるのだ。彼等の厭世主義は、その背後に個人的体験と、確乎とした哲学的発達を持っている。第二に、老人の思想家の厭世主義は、君と僕とがやっているようなこんなお喋りでなくて、世界的苦痛、苦悩を形成しているものです。彼等の厭世主義は、基督教的反面を持っている。なぜなら、それは人類愛と人間観とから流れ出ているもので、好事家の間に認められる例のエゴイズムを全然持たないものだからです。君は人生を、その意味と目的とが君から隠されているがために軽蔑し、ただ自分自身の死だけを恐れているが、真の思想家は、真理が万人から隠されていることを恩い悩んで、万人のために恐れているのだ。例えば、このじき近くに官有林の林務官イワン・アレクサンドルイチが住んでいます。非常にいい老人ですよ。昔は、どこかで教師をしたこともあれば、何かものを書いたこともあり、その身分のほどは誰も知らないが、ただ素晴しく賢明な男で、哲学方面では十分の研究を積んでいる。非常な読書家で、今でも絶えず読んでいます。ところで、最近のことだが、僕はグルゾーフスキイ保線区で、この男と会ったことがある……その時分、そこではちょうど、枕木とレールの敷設中だった。それはなんでもない作業だが、専門家でないイワン・アレクサンドルイチには、何か手品の一種ででもあるように思われたらしい。枕木を置いてそれにレールを取りつけるぐらいのことは、熟練工なら一分間もかからないでやってしまう。工夫達は上機嫌で、実際手際よく、敏捷に働いていた。特にひとりの奴などは、ずばぬけてうまくハンマーを釘の頭へ打ちおろして、ただの一撃でそれを打ち込んだが、何しろそのハンマーの柄はちょっと一サージェン(約七尺)もあり、釘はまた釘で一フートもあるんですからね。イワン・アレクサンドルイチは長いこと工夫達を眺めていたが、感動の極、眼に涙を浮べて、僕にこう言ったものさ――「こんな素晴らしい腕を持った人達が死んで行くなんてなんて情けないことだろう!」こういう厭世主義なら僕にもわかるよ……」
「そんなことはみななんの証明にも、なんの説明にもなりませんよ」と、学生はシーツにくるまりながら言った――そんなことはみな、臼の中で水を搗《つ》き砕いてるようなもんですよ! 誰も何も知らないんだから、言葉では何ひとつ証明することは出来ませんよ」
彼は、シーツの下から眼だけ出して頭を持ち上げ、苛立たしげに眉をひそめて早口にこう言った――
「人間の言語や論理を信じて、それに決定的意義を与えるには、非常に無邪気でなければなりません。言葉だけでならどんな証明でも出来るし、一切のものを探すことも出来ます。人間は早晩、二の二倍が七であるということを数学的に明確に証明し得るような程度にまで、言葉の技術を完成するでしょう。僕は聞いたり読んだりすることは好きですが、有難いことに、信じることは出来もしないし、またしようとも思いません。僕が信じるのは神だけで、あなたなどは、よしんば、基督再臨の時まで説き立てていようと、五百人のキーソチカを誘惑されようと、信じるこっちゃありませんよ。気でも違わない限りはね……じゃ、おやすみなさい!」
学生はシーツの下へ頭を隠して、顔を壁の方へ向け、この動作で以てもう聞くのも喋るのもご免だということをわからせようとした。それで議論は一段落ついた。
床に就く前に、私と技師とは、バラックの外へ出た、そしてわたしはもう一度灯影を眺めた。
「わたし達のお喋りにはさぞうんざりなすったでしょうね!」とアナーニエフは、欠伸《あくび》しながら、空を見上げながら、言った。「ですが、これも止むを得ないんですよ、あなた! なにしろこの退屈さの中では、酒でも飲んで屁理窟でも並べるほか楽しみというものがないんですからね……ああ、なんという土手だろう、ほんとうに!」と彼は、私達が土手へ近づいた時に、こう感動の声を放った。「これはもう土手じゃない、アララト山だ」
彼はちょっと黙っていてから、言い出した――
「男爵には、あれらの灯影はアマレク人を思い出させるそうだが、わたしにはあれは、人間の思想に似ているように思われますよ……いいですか、各個人の思想なるものもです、ちょうどあんな工合に無秩序に散らばりながら、暗闇の中を、或る一線に沿うてどこか目的の方へ続きながら、何ひとつ照らしもせず、夜を明るくすることもなく、どこともなしに――遠く老年の彼方へ消えています……しかし、哲学はもう沢山ですね!……ねんねする時間ですね……」
私達がバラックへ引返した時、技師は私に、是非彼の寝台でやすんでくれと説きはじめた。
「さあどうぞ!」彼は両手で胸をおさえるようにして、祈るような調子で言った。「是非そうして下さい! わたしのことはご心配いりません! わたしはどこででも寝られる男だし、それにまだ急には寝ませんから……どうぞ、是非ひとつ!」
私は同意して、服を脱いで、床に就いた、すると彼は、卓に向って、製図にかかった。
「われわれにはなんですよ、あなた、ろくに寝る時間もないんですよ」彼は、わたしが横になって眼を閉じた時に、小声で言った。「女房持ちで子供のふたりもある男は、ちょっと眠るどころじゃありませんよ。現在の食うこと着ること、それに将来の貯えもしなければなりませんからね。ところで、わたしには子供がふたりあります――倅《せがれ》と娘と。倅の方はちょっといい面をしています……まだ六つにならないのですが、そう言ってはなんですが、ずばぬけた才能を持っていましてね……そうそう、どこかこの辺に、豚児《とんじ》共の写真がありましたっけ……ああ、子供達、子供達!」
彼は書類の中をかき捜して、写真を見つけると、それに見入りはじめた。わたしは寝入った。
アゾールカの吠え声と、高調子な話し声とがわたしを呼びさました。フォン・シュテンベルグが下着一枚の跣《はだし》で、髪ももじゃもじゃのまま戸口の閾《しきい》の上に立って、誰かと声高に話をしていた。白《しら》みがかっていた……どんよりとした蒼い黎明《れいめい》が、戸口や、窓や、バラックの隙間からのぞき込んで、私の寝台や、書類の載った卓や、アナーニエフを、弱々しく照らしていた。床《ゆか》にひろげた袖無し外套の上へと身を延ばして、その肉の厚い、毛むくじゃらの胸を露《あらわ》に、頭の下に草枕をかって、技師は眠ったまま、とても物凄い鼾《いびき》をかいていた。この男と毎晩一緒に眠らなければならぬ学生を、私が心から気の毒に思ったほど。
「なんの謂《いわ》れがあってわれわれがそれを受け取らなきゃならないんだい?」とフォン・シュテンベルグは叫んでいた。「おれ達の知ったことじゃないじゃないか! チャリソーフ技師のところへ行くがいい! その釜は一たいどこから持って来たんだ?」
「ニキーチンとこからです……」と、誰かのバスがぶっきら棒に答えた。
「じゃあチャリソーフのところへ行け……それはこちらの受持じゃないよ。なんだって突立ってやがるんだ? 早く行けよ!」
「旦那、チャリソーフさんとこへはもう行って来たですよ!」と、バスは一層気難しげに言った。
「昨日は一日線路伝いにあの人を捜し歩いたですが、あの人のバラックで訊いてみると、ドゥイムコーフスキイ保線区へ行きなさったてことでさ。どうぞ、お慈悲でさ、これを受け取っておくんなさいよ! わしらあ一てえいつまでこいつを引張り回してりゃいいんです? 線路伝いにいつまでもいつまでも、とんときりがありヤしねえ……」
「なんだと言うんだ?」とアナーニエフが眼をさまして、がばと頭を擡《もた》げながら、嗄《しゃが》れ声を出した。
「ニキーチンのところから釜を持って来たんですよ」と学生は言った――「そして僕等にそれを受け取ってくれって言ってるんです。一たい僕等にそんなものを受取る筋があるんですかね?」
「頸《くび》根っ子を掴んでおっぽり出してやり給え!」
「旦那、そう仰《おっしゃ》らずにどうかよろしく願えますよ! 馬の奴あ二日も食わず飲まずだし、親方あきっと怒ってるに違えねえ。じゃあ一てえわしらにこれを持って帰れって言いなさるだかね、ええ? 釜を註文したな鉄道なんだから、してみりゃ受け取るのも当りめえでねえかね……」
「だから、これはおれ達の知ったことじゃないて言ってるじゃないか、頓痴気《とんちき》め! チャリソーフのとこへ行けてんだよ!」
「どうしたって言うんだ? 誰が来てるんだ?」と、またしてもアナーニエフが嗄れ声を出した。
「畜生め、なんといういまいましい野郎だ」彼はむくむくと起き上って、戸口の方へ行きながら、罵《ののし》った。「なんだと言うんだ?」
私は服をつけると、二分ばかりしてバラックを出た。アナーニエフと学生とは、ふたりとも下着一枚の素足で、何やら熱して、苛立たしげに、ひとりの百姓に説明していた。百姓は帽子もかぶらず、片手に鞭を提げたまま、ふたりの前に立っていたが、どうやらふたりの言うことが呑み込めない様子であった。ふたりの顔には、極くありふれた屈託の色が現われていた。
「お前の釜がおれになんの用があるんだ?」とアナーニエフは叫んだ。「それを頭にでもかぶれと言うんか、ううん? もしチャリソーフが見つからなかったら、助手を捜したらいいだろう、そしてもうおれ達は放免してくれ!」
私を見ると、学生は、恐らく昨夜の話を思い出したのであろう、その眠そうな顔には屈託の色が消えて、頭脳的|懶惰《らんだ》の表情が現われた。彼は百姓の方へ片手を振っておいて、何やら考えながら、わきの方へ行った。
どんよりと曇った朝であった。夜のうち灯影の光っていた線路には、起き出たばかりの工夫達がうようよしていた。話し声と手押し一輪車の軋《きし》む音が聞えていた。労働の一日がはじまったのだった。縄の輓具《ひきぐ》をつけた一頭の小馬がもう、土手の上をよたよた歩いて、力一ぱい頸をのばしながら、砂利を積んだ荷車をひいていた……
私は別れを告げはじめた……昨夜はいろいろなことが話されたが、わたしは何ひとつ解決した問題は得なかった、そして今、朝になってこれらの話から濾過器のように私の記憶に残ったのは、ただあの灯影とキーソチカの幻影とだけであった。もう馬に乗って、これを最後に学生やアナーニエフや、どんよりした、まるで酔ったような眼をしたヒステリイ犬や、朝霧の中にちらちらしている工夫達や、土手や、頸をのばしている馬などを見やった時に、私は考えた――
≪この世のことは何ひとつわかりやしない!≫
が、やがて馬にひと鞭あてて、線路沿いに走り出した時、それから暫くして自分の前に、ただ、涯しない、陰鬱な平原と、どんよりと曇ったうすら寒げな空とだけを見た時に、私に思い出されたのは、昨夜論じられたいろいろの問題であった。私は考えに耽った。が、日光に焼かれた平野や、大空や、遠くに暗く見えている樹の森や、茫とした遠方などは、私にこう言っているように思われた――
『そうだ、この世のことはなんにもわかりゃしないよ!』
太陽が昇りはじめた……(一八八八年)
[#改ページ]
浮気
一
オリガ・イワーノヴナの結婚式には、彼女の友達やよき知人達がひとり残らず集まった。
『ねえ、あの人を見て頂戴よ――どこかいいところがありゃしなくって、ええ?』彼女は自分の友達に向って、夫の方をしゃくって見せながら、それで以て、どうして自分がこんな単純な、平凡極まる、なんの特徴もない男と結婚したかを説明しようとでもするように、こう言った。
彼女の夫のオーシップ・ステパーヌイチ・ドゥイモフは、医者で、九等官の官位を持っていた。彼は二ヶ所の病院に勤めていた――一方では客員として、一方では解剖科長として、毎日朝の九時から正午まで、彼は外来患者を診《み》たり、受け持ちの病室を廻診したりした挙句、午後からは鉄道馬車で第二の病院へ出かけて、そこで死亡患者を解剖するのであった。自宅診瞭の方は一向振わず、年に五百ルーブリくらいしかあがらなかった。以上。この上、この男に就いて語ることが何かあるだろうか? ところが一方、オリガ・イワーノヴナを初めその友達や知人の面々は、揃いも揃って全然平凡な人達ではなかった。彼等はいづれも、何がしかの特徴を持って居り、少しは人にも知られ、既に名声もあって、ひとかどの名士に数えられるか、たとえまた有名ではないまでも、その未来には輝かしい希望を抱かせる人達ばかりであった。とうに天才を認められている一流の悲劇俳優で、優雅で、聡明で、謙譲《けんじょう》な人物で、オリガ・イワーノヴナに朗読を教えている優れた朗読家。いつもオリガ・イワーノヴナに向って、あなたは自分を滅ぼしているのだ――もしあなたが怠けないで勉強すれば、きっと素晴らしい歌手になれるのにと溜息まじりに保証する、気心のいいふとっちょのオペラ歌手。そのほか数人の画家がいたが、その中心は、風俗画家で、動物画家で、風景画家の、リャボーフスキイという非常な美男子で、二十五歳の若い金髪の男、展覧会では必ず成功して、最近の作品などは五百ルーブリに売れたという代物《しろもの》である。この男はいつも、オリガ・イワーノヴナの習作に筆を入れるたびに、あなたはきっとものになるだろうと言うのだった。それから、自分の知っている婦人達の中で伴奏の出来るのはただオリガ・イワーノヴナだけだと露骨に公言して憚らない、楽器をとれば泣くような音を出すチェリスト。次に、年は若いがもう、長篇、戯曲、短篇の数々を書いて有名になっている文学者。さてほかには? ほかにはまだ、ワシーリイ・ワシーリエビッチという田舎紳士で、地主で、古いロシヤの文体や、古語や、叙事詩に恐ろしく傾倒している、ジレッタントの挿絵画家兼図案画家がいる。この男は、紙や、陶器や、煤けた灰皿などに、文字通りの奇蹟を現出するのであった。こうした自由な、運命に甘やかされた、もっとも、デリケートで謙遜ではあるが、病気でもしない限り医者の存在など思い出そうもない、したがって、ドゥイモフという名がシードロフであろうとタラーソフであろうと一向変りない芸術家仲間の、――こういう連中の間では、ドゥイモフは、背の高い、肩幅の広い男ではあったが、仲間はずれの、ちっぽけな、余計者のように思われるのだった。他人の燕尾服の借り着でもして、手代ふうの顎鬚もつけているように思われるのだった。とは言え、もしこれで、彼が文士か画家であったなら、人々は、あの鬚はゾラを思い出させると言ったに違いないのである。
俳優はオリガ・イワーノヴナに言った、彼女が亜麻色の髪を垂らして、婚礼の晴着をまとっている姿は、春一面に優しい白い花をつけた、端麗な桜の木そのままだと。
『いいえ、まあ聞いて頂戴な!』とオリガ・イワーノヴナは、彼の手をとりながら言った。『ほんとにどうして急にこんなことになってしまったんでしょうね? あなた聞いて頂戴な、聞いて頂戴な……まずお話しなければならないのはね、あたしの父がドゥイモフと一緒に同じ病院に勤めていたということですわ。ところが、可哀そうな父が病気をした時に、ドゥイモフは幾日も夜昼なしに、父の枕許につききりでいてくれましたのよ。なんという自己犠牲でしょう! まあ聞いて頂戴、リャボーフスキイ…… それからあなたも、ねえ小説家《せんせい》、これはとても面白いお話なんですからさ。もつとこっちへいらっしゃいな。ほんとになんという自己犠牲、心のこもった同情でしょう! あたしも寝ないで、父の傍につき添っていましたの、そして急に――どうでしょう、この青年を征服してしまったんですわ! つまりあたしのドゥイモフはあたしに首ったけになってしまったんですの。まったく、人間の運命って不思議なものでございますわねえ。で、それから、父が死んでからも、あの人はときどき宅へ来たり、往来で会ったりしていましたが、そのうち、或る夕方のことでした、不意に――さっと! 申し込みをしたんですわ……まるで頭の上へぼたりと雪でもおちて来たように……あたしはひと晩泣き明かしてとうとう自分でも、滅茶苦茶に惚れ込んでしまいました。そしてご覧の通り、あの人の妻になってしまいましたの。ところで、ほんとうにあの人には、どこやら力強い、逞しい、熊のようなところがあるじゃありませんか、ねえ、いかが? 今あの人の顔は、四分の三がたこちらを向いてて、光線の工合がよくないですけど、あの人がこちらを向いたら、みなさんどうぞあの人の額を見てやって頂戴。リャボーフスキイ、あなたはあの額を見てなんと仰《おっしゃ》るでしょうね? ドゥイモフ、あたし達今あなたのことを話してるのよ!』と、彼女は夫に叫んだ。『こちらへいらっしゃいな、そしてその正直な手をリャボーフスキイに差し出して下さいな……そうそう。お友達になつて頂戴ね』
ドゥイモフは、人のよさそうな、ナイーヴな笑顔になって、リャボーフスキイに手を差し出しながら、言った――
『非常に愉快です。わたしと一緒に大学を出た男に、リャボーフスキイ某と言うのがありましたよ。あなたのご親戚か何かじゃないでしょうか? 』
二
オリガ・イワーノヴナは二十二、ドゥイモフは三十一であつた。結婚後、ふたりは素晴らしい生活をはじめた。オリガ・イワーノヴナは、客間の壁という壁へ隙間もなく、自分の習作や他人の絵の額に入ったのや入らないのを掛け連ね、ピアノや家具のまわりには、支那傘、画架《がか》、色とりどりの布きれ、短剣、胸像、写真などで、美しい狭苦しさを造り上げた……食堂には、壁に安物の版画を貼りめぐらし、草鞋《わらじ》や鎌を掛け、一隅に大鎌と熊手を置いたので、食堂がロシヤ趣味のものになった。また彼女は、寝室を洞穴のように見せようとして、天井や壁を暗い羅紗《らしゃ》で蔽い、寝台の上にはヴェニスの提灯《ちょうちん》をつるし、戸口には戟《げき》を携える像を据えた。そのためすべての人々は、この若夫婦が非常に可憐な住居を持っていると考えていた。
毎日、十一時頃に床をはなれると、オリガ・イワーノヴナはピアノを弾くか、もし太陽が出ていれば、油絵具で何かしら描く。それから、十二時を廻ったところで、女裁縫師のうちへ馬車を走らす。彼女にもドゥイモフにも、金は甚だ潤沢でなく、きりつめにしかなかったので、ちょいちょい新しいものを身につけて、服装で人目を奪おうとするには、彼女と彼女の裁縫師とが大いに一工夫を凝らさねばならなかった。こうして、ほとんどのべつ、染めかえしの古い衣裳から、もうなんの役にも立ちそうでない絹網や、レースや、フラシ天や、絹のきれはしなどから、ひと口に言えば奇跡、人の魂を奪い去るようなもの、もう着物ではなくてひとつの幻想が生み出されるのであった。裁縫師から、オリガ・イワーノヴナは普通、芝居の噂を聞いたり、ついでに新作戯曲の初上演や祝儀興行の切符を手に入れたりするために、知り合いの女優の許へ出かける。女優のところから更に、画家のアトリエか、絵画展覧会へ廻り、ついで名士の誰かのところへ――自宅へ招いたり、儀礼的な訪問をしたり、或はただお喋りをしたりするために、立ち寄らなければならなかった。そして彼女は、行くさきざきで快く親しい態度で迎えられ、あらゆる人々から、あなたは美しい、可愛らしい、珍らしい方だと言い聞かされた……また、彼女が名士とか偉い人とかいっていた人々も、彼女を仲間のように、同輩のように待遇して声を揃えて彼女だけの才能と、趣味と、知恵がある以上、それを濫費さえしなければ、立派なものになれるに違いないと予言するのであった。彼女は歌もうたえば、ピアノも弾くし、油絵も描けば、塑像《そぞう》もやり、素人芝居の舞台にも立ったが、しかもそのすべてを、どうにかやるという程度ではなく、かなり見事にやってのけるのである。燈飾用の提灯を作るにしても、着物を着るにしても、人のネクタイを結んでやるにしても――彼女のすることは、すべてが並々ならず芸術的な、優美な、可憐な結果を生むのだった。しかし彼女のこの才幹《さいかん》も、彼女が所謂名士達と瞬く間に知り合いになり、忽ち親しい交際を結ぶに至るその手腕ほどに、華々《はなばな》しい現象を見せることはほかにはなかった。何人にしろ、ちょっとでも有名になるか、人の口の端にのぼりさえすれば、彼女はすぐその人物と知り合いになって、その日のうちにもう親しくなり、自宅へ招き寄せるのであった。あらゆる新しい交際が、彼女にとっては真の祝祭であった。彼女は知名の士を神のように敬い尊び、彼等を誇りとし、毎晩彼等の夢をみるのだった。彼女は永久に彼等に渇していて、どうしてもこの渇きを癒すことが出来なかった。古い者は次第に離れて忘れられ、その代りに新しい者がやってくるのだが、それに対しても彼女はじき慣れて、或は幻滅し、また新しい者、新しい偉大な人物を捜し求め、見つけては、更にまた求めはじめる。なんのために?
四時過ぎに彼女はうちで夫と午食を共にする。彼の単純、常識、気立のよさが、彼女を感動と歓喜に導く。彼女はのべつ跳びあがっては、発作的に彼の頭を抱いて、それに接吻を浴びせかけるのである。
『ねえ、ドゥイモフ、あなたは賢い、上品な方ね』と彼女は言う――『だけど、たった一つ非常に大きな欠点があるわ。芸術に対してちっとも興味をお持ちにならないんですもの。音楽でも、絵画でも、なんでも否定なさるんですもの』
『僕にはそういうものはわからないのだよ』と彼は穏かに答える。『僕はこれまでずっと自然科学と医学に没頭して来た、芸術に興味を感じている暇がなかったんだよ』
『ですけれど、それは恐ろしいことじゃない、ドゥイモフ!』
『どうしてだね? お前の知り合いの人達は、自然科学や医学を少しも知らないが、それでもお前はそれを責めはしない。人間にはそれぞれ特長がある。僕は絵やオペラはわからないが、こういうふうには考えている――或る賢明な人達がそれに一生を捧げ、他の賢明な人達がそれに莫大な金を払っているところをみれば、それは必要なものに違いないのだと。僕は芸術がわからないが、わからないということは、否定するという意味にはならんからね』
『さ、お手を頂戴、あたしにその正直なお手を握らせて頂戴!』
食後、オリガ・イワーノヴナは、馬車で知人達を歴訪し、それから芝居か音楽会へ廻って、真夜中過ぎに家へ帰る。毎日がこの調子であった。
毎水曜日に、彼女は自宅で小夜会を催した。この小夜会では、主客は、カルタをやるとかダンスをするとかいうのではなくて、一同が思い思いの芸術で歓を盡《つく》すのであった。悲劇俳優は朗読し、歌手はうたい、画家達はオリガ・イワーノヴナの手許にどっさりあるアルバムに描き、チェリストは弾奏し、主婦自身もやはり、絵を描いたり、像を作ったり、うたったり、伴奏したりする。朗読や、音楽や、歌の合間合間に、彼等はまた、文学を談じ、演劇を論じ、絵画を品評するのである。婦人客はこなかった、その理由は、オリガ・イワーノヴナが、女優と自分の女裁縫師以外のあらゆる女を、退屈な平凡なものと考えていたからである。そして一度の夜会も、主婦が玄関のベルが鳴るたびに身顫《みぶるい》いして、勝ち誇ったような得意顔で――「あの方よ!」と、この「あの方」という言葉に新しく招待した名士という意味を仄《ほの》めかしながら、言わないで終ることはなかった。ドゥイモフは客間へ顔を出さなかったので、誰ひとり彼の存在を思い浮べる者はなかった。が、きっかり十一時半になると、食堂への扉がさっと開いて、ドゥイモフがその好人物らしい、穏かな笑顔を現わして、揉み手をしながら、言うのだった――
『どうぞ、みなさん、ひと口、召し上って』
一同はぞろぞろと食堂へ行く、そして食卓の上に見るのは、いつも同じ品々である――牡蠣《かき》の皿、ハムか犢《こうし》の切肉、油漬の鰯、チーズ、イクラ、蕈《きのこ》、ウォーッカ、二本の葡萄酒。
『ねえ、ちょいと、あたしの可愛い給仕長さん!』とオリガ・イワーノヴナは、喜びのあまり両手を拍ち合わせながら、言うのだった。『あなたはほんとに魅力のある方だわ! 皆さん、どうぞこの人の額を見て頂戴! ドゥイモフ、あなたちょっと横顔を見せてごらんなさいな。さあ皆さん、ご覧なさい――ベンガル産の虎のような顔でしょう、だけど、善良な可愛らしい表情は、鹿のようじゃありませんこと。おお、可愛い人!』
客達は食べる、そしてドゥイモフの顔を見ながら考える! ≪ほんとに、可愛らしい先生だ≫――が、じき彼のことは忘れてしまい、芝居や、音楽や、画に就いての談笑を続けるのだった。
若い夫婦は幸福であった、そしてふたりの生活は油をひいたように流れて行った。とは言え、彼等の蜜月の第三週は、完全に幸福というわけには行かなかった。寧ろ悲しみでさえあった。ドゥイモフが病院で丹毒《たんどく》に感染して、六日間を床の中で過ごし、その美しい真黒な髪をくりくりに刈らなければならなかったからである。オリガ・イワーノヴナはその傍に坐って、烈しく泣き続けた。けれど、彼がいくらかよくなると、その刈った頭に白い布をかぶせて、それをモデルにアラビヤ人を描きはじめた。そしてふたりは楽しかった。彼がすっかりよくなって、再び病院へ通い出してから三日ばかり過ぎて、またしても彼に新しい困惑が起った。
『僕は運がわるいよ、ママ!』と、或る時午食の席で彼は言った。『今日僕は四回解剖をやったんだが、その間に一度に二本も指を切っちゃったよ。しかも、家へ帰ってから初めてそれに気がついたんだ』
オリガ・イワーノヴナはびっくりした。彼は笑顔で、こんなことはなんでもない、解剖の時に自分の手を傷つけるくらいはざらにあるのだと言った。
『僕は熱中しやすいんでね、ママ、つい夢中になってしまうんだよ』
オリガ・イワーノヴナは屍毒の感染を恐れて、夜ごと神に祈ったが、すべては無事に経過した。そして再び、悲しみもなく不安もない、平和な、幸福な生活が流れた。現在は美しかった、しかもそれに続いてもう、遠くからにこやかな微笑みと共に、数千の歓喜を約束しながら、春が近づきつつあった。幸福には限りがないように思われた! 四月、五月、六月は、町から遠くはなれた別荘、散歩、写生、魚漁、鶯《うぐいす》、つづいて七月から秋までは、美術家仲間のヴォルガの船旅、そしてこの旅行には、その仲間の定連として、オリガ・イワーノヴナも参加するであろう。彼女はもう麻の旅行服を二着縫わせ、途中で用いる絵具、刷毛《ブラシ》、画布、新しいパレットなども買い込んであった。ほとんど毎日彼女の許へは、彼女の絵の進歩工合を見るために、リャボーフスキイがやって来た。彼女が自分の絵をみせると、彼は両手を深くポケットへ突込んで、唇を堅く結んで、鼾《いびき》のような声を出して、言うのだった――
『なるほど……あなたのこの雲は叫んでいますよ! それは夕方らしくない光線に照らされています。前景がどうも噛まれてますね、どことなくどうもぴんとこない、いいですか……それに百姓家も何かに圧《お》しつけられてるようで、哀れっぽい声を出してぴいぴい泣いています……この隅はもっと暗くすべきでしょうなあ。だが、全体としてはわるかありません……褒めてあげます』
そして、彼がわけのわからぬことを言えば言うほど、オリガ・イワーノヴナけますます容易にそれを理解するのであった。
三
三位一体祭の二日目の昼食後、ドゥイモフはザクースカ(つまみもの)や菓子などを買って、別荘にいる妻の許へ出かけた。彼はもう二週間も彼女と会わなかったので、彼女恋しさの思いに燃えていた。汽車の中でも、それから、大きな森の中で自分の別荘を捜しながらも、絶えず空腹と疲労を感じては、やがて妻と一緒にのんびりした気持で夕食をしたためることや、それから寝につく時のことなどを空想していた。それで彼には、イクラや、チーズや、ベロルイビツァ(鮭科に属する大きな白い魚)などのはいっている包みを見るのが楽しくてならなかった。
彼が自分の別荘を捜しあてて、それと認めた時には、太陽はもう沈みかけていた。奥様は只今お不在でございますが、もう間もなくお帰りの筈でございますと、老婢が言った。見かけのひどくみすぼらしい、低い天井には書簡箋《しょかんせん》の古|反古《ほご》などが貼り廻され、床はでこぼこで隙間だらけのこの別荘には、部屋がたった三つしかなかった。第一の部屋には、寝台が置かれてあり、第二の部屋には、椅子の上にも、窓の上にも、画布や、刷毛、油で汚れた紙きれ、男の外套や帽子などが乱雑にほおり出されていて第三の部屋でドゥイモフは、三人の見知らぬ男に出会った。ふたりは、顎鬚のある髪の黒い男で、もうひとりは、顔を綺麗に剃った、ふとった、確かに――役者らしい男であった。卓上には、サモワールがしゅんしゅん沸《た》ぎっていた。
『何かご用ですか?』と俳優は、無愛想にドゥイモフを振り返りながら、バスで訊いた。『オリガ・イワーノヴナにご用ですか? 少しお待ち下さい、じき帰られるでしょう』
ドゥイモフは腰をおろして待ちはじめた。髪の黒い男のひとりは、眠そうな、懶《ものう》げな眼でときどき彼の方を見ながら、自分のコップにお茶を注いで、こう訊ねた――
『いかがですか、お茶は?』
ドゥイモフは、飲みたくもあり食べたくもあったのだが、せっかくの食欲をそこないたくなかったので、お茶は断った。間もなく、足音と聞きなれた笑い声とが聞えて来た。扉がさっと開いて、部屋の中へ、鍔《つば》の広い帽子をかぶって、手に箱を提げたオリガ・イワーノヴナが駈け込んで来、つづいて、真紅な頬をした、快活なリャボーフスキイが、大きな洋傘と畳み椅子とを持ってはいって来た。
『ドゥイモフ!』とオリガ・イワーノヴナは叫んで、喜びのあまり真赤になった。『ドゥイモフ!』と彼女は、彼の胸へ頭と両手を置きながら繰り返した。『まあ、あなたなのね? どうしてあなた、こんなに長く来て下さらなかったの? どうして? どうして?』
『だって僕にいつ来る時があるね、ママ? 僕はいつも忙しい、たまに僕が暇な時には、きまって汽車の時間がうまく行かなかったりするんだよ』
『でもあたし、あなたに会えてほんとに嬉しいわ! あたし昨夜は夜っぴてあなたの夢ばかり見ていたので、ひょっとあなたが病気にでもおなりになったんじゃないかと思って、随分心配してたのよ。ああ、あなたがどんなにいい方で、どんなにいい時に来て下すったか、それがおわかりになったらねえ! あなたはあたしの救い主よ。あたしを救うことの出来る人はあなただけだわ! 明日ね、ここで、とても風変りな結婚式が挙げられるのよ』彼女は笑って、夫のネクタイを結び直してやりながら、続けた。『停車場に勧めているチケリジェーエフという若い電信技手が結婚するの。なかなかきれいな青年で、それに馬鹿でもなし、顔つきなんかどこかしら逞しい、熊のようなところがあるの……この人をモデルにすれば、若いノルマン人が描けそうなのよ。あたし達、別荘にいる者はみんな、この人に興味を持って、その結婚式にはきっと出るって、固い約束をしたんですの……何しろ貧乏な、孤独な、気の小さい人なんですからねえ、勿論、それを断ったりなんかしちゃ罪ですわ。まあ考えてみて頂戴、礼拝式の後で結婚式をして、それからみんなで歩いて教会から花嫁の家へ行くの……いいこと、森でしょう、小鳥の歌でしょう、草の上に落ちる太陽の班点でしょう、そして鮮かな緑の地に色とりどりの班点を作るあたし達一同――どう、素敵でしょう、フランス印象派の趣味ですわ。ところがねえ、ドゥイモフ、あたし何を着て教会へ行けばいいの?』オリガ・イワーイヴナはこう言って、泣き顔になった。『あたし、ここにはなんにもありませんのよ、ほんとうになんにもないんですのよ! 着物も、花も、手袋も……だから、どうでもあなたが救って下さらなくちゃ。あなたがこうして来て下すったのも、つまりは運命があなたにあたしを救うことを命じたのよ。どうぞね、あたしの鍵を持って家へ帰って、衣裳戸棚からあたしの薔薇色の衣裳を出して来て頂戴な。あなた覚えてらっしゃるでしょう、一番前にかかっていますわ……それから、納戸の右側の床《ゆか》の上にボール箱が積んであります。その一番上のを開けると、そこにはいろんな絹網やぼろきれがいっぱいはいっていて、その下に花があるの。その花をみんな、ねえあなた、気をつけて出して潰さないように大事にして持って来て頂戴な、その中からあたしが選びますからね……それから手袋も買って来て』
『よしよし』とドゥイモフは言った。『明日帰ったらすぐ送ってよこすよ』
『あら明日ですって?』オリガ・イワーノヴナはこう訊き返して、びっくりしたような眼で彼を見た。『明日でどうして間に合って、あなた? 明日の一番は九時に出るのに、式は十一時ですもの。いいえ、あなた、今日でなくちゃ駄目よ、どうでも今日でなくちゃ! そして、もしも明日あなたがいらっしゃれないようだったら、使い屋に持たせてよこして頂戴。さ、行って頂戴……もうすぐ旅客列車が着く筈よ。乗り遅れたりしちゃいけないわ、ねえ、あなた』
『よしよし』
『ああ、なんて残念なことでしょう、あなたをお返ししなければならないなんて』オリガ・イワーノヴナはこう言った、彼女の双眸《そうぼう》には涙が溢れた。『ほんとにあたしもいい馬鹿だわ、なんだって電信技手なんかにあんな約束をしたんでしょう?』
ドゥイモフは手早くお茶を一杯飲みほし、輪形パンを一つ手にとって、穏かに微笑しながら、停車場さして引返した。そして、イクラとチーズとベロルイビツァは、ふたりの髪の黒い男と、ふとった俳優が平らげてしまった。
四
月の明るい七月の或る静かな夜、オリガ・イワーノヴナは、ヴォルガの河蒸汽《かわじょうき》の甲板に立って、水を眺めたり、美しい両岸を見やったりしていた。彼女の傍にはリャボーフスキイが並んで、彼女に向って、水面の黒い影は、影ではなくて夢だとか、幻想的な輝きを持つこの魔法のような水や、底知れぬ大空を見ていると、また、人生の空しさを思わせたり、より高く、永遠な、幸福な何かの存在に就いて語り顔の、悲しく物思わしげな両岸などを見ていると、われを忘れて、死んで、思い出となってしまったらどんなによかろうとかいうようなことを、話していた。過去は平凡で興味がない、未来もつまらないものである、そして生涯にまたとないこの素晴らしい一夜も、間もなく過ぎ去って、永遠のうちに溶け込んでしまうであろう――いったい、なんのために生きて行くのか?
が、オリガ・イワーノヴナは、リャボーフスキイの声に耳を傾けたり、夜の静寂に聞き入ったりしながら、自分は不死で、永久に死なないだろう、こんなことを考えていた。彼女がこれまで一度も見たことのなかったトルコ玉のような水の色、空、岸、黒い影、彼女の胸に満ち溢れる妖しい歓喜などが、彼女に、彼女はきっと偉大な芸術家になるであろうこと、そしてこの月夜の彼方遥かに遠く、無限の空間のいずこかに、成功と、栄誉と、民衆の愛とが彼女を待っているであろうことを囁いていた……瞬きもしないで長い間遠くを見ていると、彼女にはそこに、人々の群れや、燈火の光や、荘厳な楽の音や、歓喜のどよもしや、純白な衣裳をまとった彼女自身や、彼女めがけて八方から投げられる花の雨などが、感じられるのだった。彼女はまた、彼女と並んで、舷側に肘を突いて、真の偉人が、天才が、神に選ばれた人が立っているということを、考えていた……彼が今日までに創ったものはすべて美しく、新しく、非凡であるが、彼が年を経てその稀に見る天才の成熟と共に創り出すところの作品こそは、それこそ測り難く崇高な、驚歎すべきものになるであろう。この一事は、彼の顔にも、自己を表現する様子にも、また自然に対する彼の態度にも明らかである。影に就いて、夜の色調に就いて、また月の輝きに就いて、彼は一種特別な、独自の言葉で語ったので、自然を支配する彼の力の魅力が、つい心にもなく感じられるのである。第一、彼自身が世にも稀な美男子で、異色ある男である。それにまた、彼の生活も、自主的で、自由で、浮世の俗事には没交渉《ぼっこうしょう》で、小鳥のそれのようであった。
『少し冷えて来ましたわね』オリガ・イワーノヴナはこう言って、身震いした。
リャボーフスキイは自分のマントで彼女をくるむと、物悲しげな口調で言った――
『僕はあなたに征服されました。僕は奴隷です。どうして今夜のあなたはこんなに魅惑的なんでしょう?』
彼は、始終眼をはなさないで彼女を見ていた。その眼が恐ろしかったので、彼女は彼の顔を見るのも恐れていた。
『僕は物狂おしいほどあなたを愛しています……』彼は彼女の頬に息を吐きかけながら、こう囁くのだった。『どうか僕に、ただひと言聞かせて下さい、そしたら僕はもう生きていません。芸術も捨てます……』彼は烈しい興奮の態《てい》で呟いた。『僕を愛して下さい、愛して……』
『どうぞもうそんなことは仰らないで』と、オリガ・イワーノヴナは眼を閉じながら言った。『それは恐ろしいことですわ。ドゥイモフはどうなりますの?』
『ドゥイモフがなんです? なんのためにドゥイモフなんか? ドゥイモフが僕になんの関係があるんです? ヴォルガ、月、美、僕の愛、僕の歓喜、ドゥイモフなんかなんの関係もありませんよ……ああ、僕はなんにも知らない……僕には過去なんかどうでもいい、ただ一瞬を与えて下さい……一瞬を!』
オリガ・イワーノヴナは胸がどきどきし出した。彼女は夫のことを考えようとしたが、彼女の過去のいっさいは、結婚も、ドゥイモフも、小夜会も、おしなべて、今の彼女にはちっぼけな、とるに足らぬ、茫漠とした、不必要な、遥かに遠いことのように思われるのだった……実際また――ドゥイモフがなんだろう? なんのためにドゥイモフなんか? ドゥイモフが彼女になんの関係があるだろう? 第一、そんな男がこの自然界に存在しているのだろうか、ただの夢ではないのだろうか?
≪あんな単純な、平凡な人は、これまでに享《う》けた幸福だけでもたくさん過ぎるわ≫ 彼女は両手で顔を蔽いながら、考えた。≪いいわ、あちらでなんと非難されようと、呪われようと構やしないわ、あたしみんなへの当てつけに、思いきって身を滅ぼそう、思いきって身を滅ぼそう……人生だもの、すべてを経験するがいいんだわ。ああ、なんて恐ろしい、なんて楽しいことだろう!≫
『さあどうです? どうです?』と画家は彼女を抱いて、彼女が弱々しく押し退けようとする両手に、貪るように接吻しながら、呟いた。『君も僕を愛してくれますね? ね? ね? ああ、なんという夜だろう! 素晴らしい夜!』
『ほんとに、なんという夜でしょうねえ!』と彼女は、涙に輝く彼の眼を見ながら囁いたが、やがて素早くあたりを見廻すと、彼を抱いて、強くその唇に接吻した。
『もうキネーシマ近くへ来ているね!』甲板の向う側で、誰かがこんなことを言った。
重々しい足音が聞えて来た。食堂の給仕がそばを通ったのであった。
『ねえ、ちょいと』とオリガ・イワーノヴナは、幸福のあまり泣いたり笑ったりしながら、その男に言った――『葡萄酒を持って来て頂戴な』
画家は、興奮から真蒼になって、べンチに腰をおろして、感謝と崇拝の眼で暫くオリガ・イワーノヴナを見ていたが、やがて眼を閉じると、疲れたような笑顔になって言った――
『僕、がっかりしちゃった』
そして舷側へ頭をもたせた。
五
九月の二日は、暖かで、静かな、しかし曇った日であった。早朝のうちは、ヴォルガの水面に軽い霧がさまよっていたが、九時を過ぎると、ぽつぽつ雨が落ちて来た。そして晴そうな望みは全然なかった。お茶の時に、リャボーフスキイはオリガ・イワーノヴナに向って、絵画は――最もやり甲斐のない、最も退屈な芸術である、自分は美術家ではない、ただ馬鹿な奴等だけが自分に天才があると考えているに過ぎない、こんなことを言い出した。そして突然、なんのこれという原因もないのに、いきなりナイフをとって、自分の一番出来のいい習作を、さっと切り裂いてしまった。お茶のあとでは、彼は暗い顔をして窓際に腰掛け、ヴォルガを眺めていた。ヴォルガはもう輝きを失って、どんよりと、鈍く、見るからに冷たそうな色をしていた。万象が、すべて、寂しい、陰鬱な秋の近いことを思い出させた。そして両岸の豪奢な緑の絨毯や、ダイヤモンドのような光の反映、透明な青い遠景など、いっさいの絢爛華麗な装飾は、自然が今ヴォルガからそれを取りあげて、来ん春までと箪笥の中へしまい込み、鴉までがヴォルガの上を飛び廻って、「はだかあ! はだかあ!」と彼を嘲笑っているように思われた。リャボーフスキイは、彼等の囁き声を耳にしながら、自分はもう気が抜けて、才能を失ってしまったこと、世の中のことはすべて約束的、相対的で、おまけに愚劣であるということ、こんな女に自分を結びつけるのではなかったというようなことを考えていた……これを要するに、彼は不機嫌で、憂鬱になっていたのである。
オリガ・イワーノヴナは、仕切り壁の向うの寝台に腰掛けて、美しい、亜麻色の髪を指で梳《と》きながら、客間や、寝室や、夫の書斎における自分の姿を想像していた。想像は彼女を劇場へ、女裁縫師や、有名な友人達のところへと連れて行った。あの人達は、今頃何をしているだろう? 彼女のことを思い出しているだらうか? もう社交季節がはじまっている。そろそろ例の夜会のことも考えていい頃だ。それから、ドゥイモフは? いとしいドゥイモフ! なんという穏かな、子供らしい哀願振りで、手紙のたびに、少しも早く帰ってくれと願ってくることだろう! 毎月彼は七十五ルーブリづつ送ってよこすが、彼女が画家達に百ルーブリ借りが出来たといってやったら、すぐその百ルーブリも送ってよこした。なんという善良な心のひろい人だろう! 旅行はもうオリガ・イワーノヴナを飽き飽きさせた。彼女は退屈して、一時も早くこんな百姓達や河の湿気のにおいから遁れて、これまで百姓家に寝たり、村から村とさまよい歩いたりして嘗めて来た肉体的不潔感を、わが身から洗いおとしたいと思っていた。もし、リャボーフスキイが仲間の画家達に、九月の二十日まで一緒にここで滞在するという約束をしていなかったら、今日にも出立が出来たろうに。そして、そうだったらさぞよかったろうに!
『ああああ』とリャボーフスキイは唸った――『いったいいつになったら太陽が出るんだろう? 太陽が出なくちゃ、おれは日の照っている風景画を続けることも出来やしない!……』
『だって、あなたには曇り日の習作があるじゃないの』 とオリガ・イワーノヴナは、仕切り壁の向うから出て来ながら、言った。『ほら、右手に森があって、左手に牝牛と鵞鳥の群れのいる。今日あたりあれを仕上げたらいいでしょう。
『ええい!』と画家は眉を顰《ひそ》めた。『あれを仕上げる! するとあなたは僕というものを、自分のすべきこともわからないほどの馬鹿だと思ってらっしゃるんですか!』
『まあひどいわ、あなたはあたしに対して随分お変りになったのね!』とオリガ・イワーノヴナは溜息をついた。
『ふん、それがどうしたのさ、結構じゃないか』
オリガ・イワーノヴナの顔は震え出した。彼女は煖爐の方へ行って、泣き出した。
『そうだ、涙だけが不足だったんだ。およしなさい! 僕にゃ泣きたい理由が千もある。それでも僕は泣かないのです』
『千の理由!』とオリガ・イワーノヴナはしゃくりあげた。『その一番大きな理由は、もうあたしがいやにおなりなすったことなんでしょう。きまっていますとも!』こう言って、彼女はしゃくりあげた。『ほんとうのことを言えば、あなたは、あたし達の恋を恥じてらっしゃるんでしょ。あなたはね、仲間の人達に感づかれないようにと思って、しょっちゅうそればかり気にしてらっしゃるのよ、どうせ隠し終せることじゃないのに、もうとうの昔にみんなに知られているのに』
『オリガ、僕はあなたにただ一つだけお願いがある』画家は祈るような口吻で、胸に手をあてながら言った――『ただ一つ――どうか僕を苦しめないで下さい! それ以上あなたに要求することはなんにもないんだから!』
『じゃあ、誓って頂戴、今までどおりあたしを愛しているって!』
『それが苦痛なのです!』画家は歯の間から押し出すように言って 跳びあがった。『結局は僕がヴォルガへ身を投げるか、気が狂うかするのがおちなんだ! 僕に構わないで下さい!』
『じゃ、いっそ殺して下さい、殺して下さい、あたしを!』とオリガ・イワーノヴナは叫んだ。『殺して下さい!』
彼女はまたしても烈しくしゃくりあげながら、仕切り壁の向うへ行った。百姓家の藁葺屋根に、雨が音をたてて降り出した。リャボーフスキイは頭を抱えて、一度隅から隅へと歩いてから、まるで誰かに何ごとか証明しようとでもするような決然たる面持で、帽子をかぶると、肩へ銃を投げかけて、百姓家を出て行った。
彼が出て行ってからも、オリガ・イワーノヴナは長いこと、寝台に身を投げて泣いていた。初め彼女は、リャボーフスキイが戻って来た時、死骸になって彼と会うように、毒を飲んでやったら面白かろうなどと考えていたが、そのうちに彼女は、そうした想念に導かれて客間へ、夫の書斎へと連れて行かれ、そこで自分が、夫ドゥイモフの傍にじっと坐って、肉体の安息と清潔さを喜んでいるところや、晩に劇場におさまって、マジニを聴いているところなどを想像に描いた。と、文明と、都会の物音と、知名の人々を恋しい思いが、彼女の心臓をしめつけた。この時、小屋の中へ百姓の女房がはいって来て、昼食の支度にかかって、のろくさ竃《かまど》を焚きつけはじめた。焦げくさいにおいがし出して、煙のために空気が青みがかって来た。汚れた深い長靴をはいて、顔を雨に濡らした画家達が帰って来て、銘々の習作を見ながら、さすがにヴォルガは天気のわるい日にさえ独特の美しさを持っているなどと、勝手な気安めを言い合っていた。壁の上では、安物の時計がチクタクと時を刻んでいる……凍えた蝿どもは、上座にあたる片隅の塑像のまわりに群がって、ぶんぶんうなっている、そして腰掛の下では、厚いボール紙の中で、ゴキブリががさごそやっている音が聞える……
リャボーフスキイは、日が落ちかけた時分に帰って来た。彼は卓の上へ大黒帽を投げ出して、蒼い、疲れたような顔つきで、汚れた長靴のまま、ぐったりと椅子に腰をおろして、眼を閉じた。
『ああ、疲れた……』彼はこう言って、瞼を擡《もた》げようとしつつ、びくびく手を動かしはじめた。
彼に甘えて、自分の怒っていないことを知らせるために、オリガ・イワーノヴナは彼の傍へ歩み寄り、黙って接吻して、彼の白っぽい髪に櫛をあてた、彼女は彼の髪が梳かしてやりたくなったのである。
『なんです、いったい?』彼は、何か冷たいものにでも触られたように身震いして、眼を見開くとこう訊いた。『何をするんです? 後生だから僕に構わないで下さい』
彼は両手で彼女を押し退けて、わきの方へはなれた、彼女には、その顔が嫌悪といまいましさを現わしているような気がした。この時、百姓の女房が彼のところへ、両手で注意深く、キャベツ汁の皿を運んで来た。オリガ・イワーノヴナは、彼女がそのふとい指をキャベツ汁の中へ突込んだのを見た。お腹《なか》をしばった薄汚ない女房も、リャボーフスキイががつがつと食べ出したキャベツ汁も、百姓小屋も、初めはその単純さと芸術的無秩序があんなにも気に入っていたこの生活全体も、今では恐ろしいものに思われ出した。彼女は急に自分を侮辱されたもののように感じ出して、冷やかにこう言った!
『あたし達は暫く別れている必要がありますのね、そうでもしないと、退屈のあまりほんとに喧嘩をはじめるかも知れませんから。こんなことあたしはもう飽き飽きしちゃった。あたし今日立ちますわ』
『なんに乗って? 棒きれにでも乗ってですか?』
『今日は木曜日でしょう、だから、九時半には汽船が着きますわ』
『ええ? そう、そう……ふん、じゃあ仕方がない、お帰り……』リャボーフスキイは、ナプキンの代りにタオルで口を拭きながら、物柔かにこう言った。『君にゃここは退屈だ、なんにもすることがないからね、君をここへ引き止めとくためにゃ、大変なエゴイストにならなきゃならん。お立ち、そして二十日過ぎにまた会おう』
オリガ・イワーノヴナはいそいそと荷造りをした、それどころか、彼女の額は嬉しさに燃え立ったくらいである。果してこれがほんとうだろうか――彼女はこう自分に訊ねた――もうじき自分があの客間で絵を描いたり、寝室で眠ったり、卓布のかかった食卓で食事をするのだろうか? 彼女は気分が軽くなって、画家に対する腹立たしさもいつか忘れてしまった。
『あたし、絵具や刷毛はあなたに置いて行ってよ、リャブーシャ』と彼女は言った。『もしほかに残ってるものがあったら、持って来て頂戴ね……それから、あたしがいなくなっても、怠けちゃ駄目よ、塞ぎ込んだりしちゃいけないことよ、しっかり勉強なさらなくちゃ。あなたはあたしの大事な人ですからね、リャブーシャ』
十時にリャボーフスキイは、彼女が考えていた通り、汽船の上で、仲間の前で接吻しなくてもいいように、早いところ別れの接吻を済ませておいて、波止場まで送って来た。間もなく汽船が来て、彼女を運び去った。
彼女は、二昼夜半の後にわが家へ帰り着いた。帽子も防水外套もそのまま、興奮のあまり荒い息づかいをしながら、まず客間へはいり、そこから更に食堂へ行った。ドゥイモフはフロックも着ず、チョッキのボタンもはずしたまま食卓の前に坐って、ホークでナイフを研いでいた。彼の前の皿には蝦夷山鳥《えぞやまどり》が載っていた。初めわが家へはいって行った時には、オリガ・イワーノヴナはすべてを夫に隠さなければならぬこと、それだけの手練と力は自分に充分あることを確信していたが、今、ぱっと明るい、穏かで、幸福そうな夫の笑顔と、歓喜に輝く眼をまのあたり見た時には、こんな人にものを隠すのは、他人を誹《そし》ったり、盗みをしたり、殺したりするのと同様に、卑劣な、忌わしい、同時に不可能な、到底彼女の力には及ばぬことなのを痛感した。そして一瞬の間に彼女は、あったことを逐一夫に打ち明けようと決心した。彼の接吻と抱擁に身を任せながら、彼女は彼の前に跪《ひざまず》いて顔を蔽った。
『どうしたの? どうしたの、ママ?』と彼は優しく訊いた。『淋しくなったの?』
彼女は、恥のために赤くなった顔を上げて、申し訳ないような、祈るような眼で彼を見た、が、恐怖と羞恥が彼女に真実を口にするのを妨げた。
『なんでもないの……』と彼女は言った。『あたし、ただ……』
『まあ掛けようじゃないか』彼は彼女を抱き起して、卓に就かせながら、言った。『そうそう!……山鳥でもおあがり。可哀そうに、お前お腹《なか》が空いたんだろう』
彼女は、思うさま親しい空気を吸い込んで、山鳥を食べた。彼は感動的な眼で彼女を見て、嬉しそうに笑っていた。
六
どうやら、冬の中頃からドゥイモフは、自分が欺かれているのに気がつきはじめたらしい。彼はまるで自分の良心にやましいことでもあるかのように、妻の眼が正視出来ず、彼女と顔を合わせても喜びの微笑が浮べられなかった。そして、彼女とさし向いになる機会を出来るだけ少くするために、しばしば自宅へ同僚のコロステリョーフという、皺くちゃな顔をした毬栗頭《いがぐりあたま》の小柄な男を食事に引張って来た。この男は、オリガ・イワーノヴナと口を利く時にはいつもとまどいして、初めは背広のボタンを全部はずしたりはめたりしているが、後には右手で左の口髭を捻り出すのであった。食事の間ふたりの医者は、横隔膜のつき方の高い場合には、時として心臓の不整があるものだとか、近来とみに神経炎の増加が見られるとか、或はまた、昨日はドゥイモフが、「悪性の貧血症」と診断のきまった死体を解剖して、膵臓《すいぞう》に病歴を発見したとか、こんな話をする。そして、彼等ふたりがこんな医学上の話ばかりするのはただ、オリガ・イワーノヴナに沈黙の可能を与える、つまり嘘をつかない可能を与えるためにほかならないように思われる。食後、コロステリョーフがピアノの前に座を占めると、ドゥイモフは溜息をついて言うのだった――
『ああ、君! だが、まあいいや! 何かひとつ悲しい曲を弾いてくれ給え』
肩をそびやかし、広く指を開いて、コロステリョーフは、二三の諧音を試みてから、テノールで歌いはじめる――「ロシヤの百姓《ムジーク》が呻かなくてもよいような住家があったら見せてくれ」ドゥィモフはもう一度溜息をついて、拳に頭をもたせて、思い沈む。
近頃になってオリガ・イワーノヴナは、眼にあまる不謹慎な態度をとるようになった。毎朝彼女は、非常に重い気分で眼をさまして自分はもうリャボーフスキイを愛していない、有難いことにもう過ぎてしまったと考える。が、珈琲を飲み終る時分には、彼女はまた、リャボーフスキイが自分から夫を奪い去ったので、今では自分は、夫もなくリャボーフスキイもない境涯に落ちてしまったのだと想像する。それから彼女は、リャボーフスキイがこの頃展覧会出展のために、ボレーノフ好みの、風景画と風俗画を取り合わせた驚嘆すべき作品を描いていて、そのため彼のアトリエを訪れるほどの者は、ひとり残らず恍惚境に誘われるという知人仲間の噂話を思い出す。しかしそれだって、と彼女は考えるのである。自分の影響によって創られたものだ、総じてあの男は、自分の影響のおかげで、ぐっといい方へ変化したのだ。自分の影響は非常に有益な、根本的なものなので、もし自分が見棄てたら、彼は恐らく滅びてしまうだろう。それから、彼女はまた、最近に彼が、小枝模様入りの灰色のかかったフロックに新しいネクタイを結んで彼女の許へやって来て、疲れたような語調で――「どうです、美男子でしょう?」と訊ねたことを思い出す。そして、実際、長い縮れ髪に碧い眼をした端麗な彼は、非常に美しく、(或はそう思われたのかも知れない)そして彼女に優しかったのである。
いろんなことを思い出したり、思い廻《めぐ》らしたりしてから、オリガ・イワーノヴナは着替えをして、胸をわくわくさせながら、リャボーフスキイのアトリエへ馬車を飛ばす。彼女は、彼が、全く素晴らしい自分の作品に歓喜して、有頂天になっているところへ行き合わせる。彼は飛んだり跳ねたり、道化たり、真面目な質問にもふざけた返辞をしたりする。オリガ・イワーノヴナは、リャボーフスキイのせいでその絵に嫉妬と憎悪を覚えるのだったが、礼儀を思う心から五分ばかり黙然とその前に立ちつくして、人が聖物の前に立った時するように、ほっと一つ溜息をついてから静かに言うのである――
『そうね、あなたはこれまでこんな絵をお描きになったことは一度もなかったわね、ほんとに恐ろしいくらいだわ』
それから彼女は彼に向って、自分を愛してくれ、見棄てないでくれ、頼りのない不幸な女を憐れんでくれと、哀願しはじめる。彼女は泣いて、彼の手に接吻し、彼に愛の誓いを要求し、もし彼女のよき影響がなかったら、彼にしても道を踏みはずして、滅びてしまうに違いないなどと、証明する。こうして、彼のせっかくの上機嫌をそこない、自分自身をも辱しめられたもののように感じながら、彼女はそこを出て、女裁縫師のところか、切符を手に入れるため知合いの女優のところへ馬車を向ける。
が、万一彼の不在に行き合わせると、彼女は彼に置き手紙をして、その中で、もし今日うちへ来て下さらなければ、自分はきっと毒を飲んで死んでしまうと誓うのだった。彼はおじけづいて彼女の許へやって来て、正餐《せいさん》に残る。夫の面前をも憚《はばか》らず、彼は彼女に不遜な口を利き、彼女も同じ調子でそれに答える。ふたりは、自分達がお互いに束縛し合っていること、お互いに暴君であり敵なのを感じて、憎み合い、その憎悪感のゆえに、自分達が不謹慎になっているのにも、毬栗頭のロステリョーフがすべてを察しているのにさえ、気がつかないのであった。食事が済むと、リャボーフスキイはそこそこに暇を告げて、帰り支度をする。
『どこへいらっしゃるの?』オリガ・イワーノヴナは控室で、さも憎そうに彼を見ながら、こう訊ねる。
彼は、眉をひそめ眼を細めながら、共通の知人であるどこかの夫人の名を挙げるが、これは、彼女の嫉妬を嘲笑して、彼女を焦《じ》らそうとする下心なのは明らかであった。彼女は自分の寝室へ行って、寝台の上へ身を投げる。嫉妬、口惜しさ、屈辱、羞恥《しゅうち》の感情から、彼女は枕を噛んで、声を放って鳴咽《おえつ》しはじめる。ドゥイモフは、コロステリョーフを客間に残して寝室へ行き、ばつのわるそうな、困《こう》じ果てたような顔をして、静かに言った――
『そんな大きな声で泣くもんじゃないよ、ママ……どうしたというんだね? こうしたことは口にすべきことじゃないよ…‥世間に知られないようにしなくちゃいけないよ……出来てしまったことは仕方がないんだからね』
こめかみがづきづき痛むような重苦しい嫉妬をどうして取り鎮めたらいいかを知らないままに、事態はまだなんとかなるだろうと考えながら、彼女は顔を洗い、泣いた顔に白粉を刷いて、懇意な婦人の許へ飛んで行く。そこでリャボーフスキイに会えないと、彼女は第二の婦人、更に第三の婦人の許へと馬車を走らせる……初めのうちは彼女も、こんなにして方々廻り歩くのはさすがに恥かしかったが、後には慣れっこになってしまい、或る晩など、知り合いの婦人を全部歴訪して、リャボーフスキイをたずね廻ったので、一度でみんなにそれと感づかれてしまったくらいであった。
或る時彼女は、リャボーフスキイに夫のことをこう言った――
『あの人は自分の寛大さであたしを苦しめてるのよ!』
この文句が余程気に入ったとみえて、彼女は、自分とリャボーフスキイとのローマンスを知っている画家達と会うたびに、いつも、片手で精力的な仕草をしながら、夫についてこう言うのだった――
『あの人は自分の寛大さであたしを苦しめてるのよ!』
生活の秩序は、だいたい去年と同様であった。水曜日ごとに小夜会が催された。俳優は朗読し、画家達は描き、チェリストは弾き、歌手はうたった。そして相変らず、十一時半になると、食堂へ通ずる扉が開いて、ドゥイモフがにこにこしながら言う――
『どうぞ、みなさん、ひと口、召し上って』
依然としてオリガ・イワーノヴナは、偉い人を捜し歩いては見出して、それが鼻についてくると、また次の人を物色する。依然として彼女は毎日、夜更けて家へ帰るのだったが、ドゥイモフはもう、去年のようには寝ていないで、自分の書斎に籠《こも》って、何かしら仕事をしていた。彼は三時に寝ても、八時には起きるのだった。
或る晩、彼女が劇場へ行く支度をして、寝室の姿見の前に立っているところへ、燕尾服に白ネクタイといういでたちで、ドゥイモフがはいって来た。彼は穏かな微笑を浮べ、前々通り嬉しそうな顔をして、まともに妻の眼を見つめた。彼の顔は輝いていた。
『僕はいま自分の学位論文の弁護をして来たんだよ』と彼は腰をおろして、膝を撫でながら言った。
『まあ、弁護を?』とオリガ・イワーフヴナは訊いた。
『ハゝゝ!』彼は笑い出してなお彼の方へ背を向けて立ったまま、髪を直している姿見の中の妻の顔を覗き込もうとして、首を伸ばした。『ハゝゝ!』と彼は繰り返した。『実はね、僕は近々に、普通病理学の助教授に任命されそうなんだよ。どうもそんなにおいがするんだ』
彼の幸福に輝く、晴れ晴れとした顔つきによると、もしオリガ・イワーノヴナが彼と共にその喜びと勝利を分ったなら、彼は彼女にいっさいを、現在も未来もきれいに赦してすべてを忘れてくれたに違いなかったが、しかし彼女は、助教授とか普通病理学とかいうものが何を意味するのか理解しなかったばかりでなく、彼女は芝居に遅れることばかり気にしていたので、なんとも言わなかった。
彼は二分間ばかり腰掛けていたが、やがて、済まなそうな微笑を浮べて、出て行った。
七
それはこの上なく胸騒がしい日であった。
ドゥイモフは頭痛がしてならなかった。彼は朝のお茶も飲まず、病院へも出勤しないで、ずっと自分の書斎のトルコ椅子の上に寝そべっていた。オリガ・イワーノヴナは、例によって、十二時過ぎると、自分の習作の nature morte(静物)を見せがてら、彼が昨日こなかったのをなじるために、リャボーフスキイの許へ出かけて行った。習作は彼女自身にもつまらないものに思われていたので、彼女がそれを描いたのはただ画家を訪ねる余計な口実を設けるために過ぎなかったのである。
ベルも鳴らさずに彼の家へはいって、玄関でオーヴァーシューズを脱いでいる間に、彼女の耳には、アトリエで何かしらこそこそ走る気色《けはい》と、女らしい衣摺れの音が聞えたように思われた。そして彼女が急いでアトリエを覗き込んだ時には、褐色のスカートの端だけが見えて、それが一瞬間ちらりとしてすぐ、黒キャラコの布《きれ》で画架ごと床のへんまで蔽われている大きな絵の蔭へ消えるのが眼にはいった。疑いもなく、それは女が隠れたのであった。嘗《かつて》はオリガ・イワーノヴナ自身も、どんなにたびたびこの絵の蔭に隠れ場所を求めたであろう! 明らかに、ひどく狼狽したリャボーフスキイは、さも彼女の訪問に驚いた様子で、彼女の前へ両手を差しのべて、無理な笑顔を作りながら、言った――
『やゝゝゝ! よく来て下さいましたね。何かいいお話でもありますか?』
オリガ・イワーノヴナの眼は涙で溢れそうになった。彼女は恥かしかった、辛かった。本来なら彼女は、たとえ百万ルーブリ貰っても、現在そこの絵の蔭に立って、恐らくは意地のわるい忍び笑いをしているであろう第三者の女、競争者である嘘つき女の前で、口を利く気になどとてもなれなかったに違いないのだ。
『あたし、習作を持って参りましたのよ……』彼女は消え入りそうな声で、おずおずと言った。唇はわなわな震え出した!『nature morte ですわ』
『ほほう……習作ですか?』画家は習作を両手にとって、それをと見こう見しながら、さも機械的らしく次の部屋へはいって行った。オリガ・イワーノヴナはおとなしくその後について行った。
『|Nature morte《ナチュール・モルト》……ペールヴイ ソルト(一等品の意)』彼は脚韻を合せながら、こう呟いた。
『クロールト(療養地の意)チョールト(悪魔)…‥ポールト(港の意)……』
アトリエの方から、慌ただしげな足音と衣摺れの音が聞えた。つまり、彼女が立ち去ったのである。オリガ・イワーノヴナは、大声に喚いて、ぐわんとひとつ何か重いもので画家の頭を殴りつけて、さっさと帰ってしまいたいのは山々だったが、彼女の眼は涙のためになんにも見えず、心は屈辱の感じに圧《お》し挫《くじ》かれて、自分がもうオリガ・イワーノヴナでも、女流画家でもなくて、ちっぽけなてんとう虫なのでもあるかのように思われた。
『僕は疲れてるんですよ……』画家は習作を見ながら、眠気に打ち勝とうとして頭を振りながら、さも疲れたような口吻《こうふん》で言った。『勿論、これはよく出来ています、けれど、今日も習作、去年も習作、一ケ月後も習作‥…これでよくあなたは飽きませんね? 僕がもしあなただったら、絵なんかやめて、真面目に音楽か何かほかのものをやりますね。だって、あなたは画家じゃなくて音楽家ですものね。それはそうと、僕今日はとても疲れてるんですよ! が、今すぐお茶を言いつけますから……ね?』
彼は部屋を出て行った。オリガ・イワーノヴナには、彼が下僕に何か言いつけている声が聞えた。暇を告げたり何かと言い合ったりしたくなかったので、とりわけ泣き顔なんか見せたくなかったので、彼女は、リャボーフスキイが戻ってこないうちに急いで玄関へ走り出て、オーヴァーシューズをつっかけると、往来へ飛び出した。そしてほっと溜息をつくと、初めて自分が、リャボーフスキイからも、絵画からも、たった今アトリエの中で彼女を圧し挫いたあの重苦しい屈辱感からも、永久に解放されたような気がした! すべては終った!
彼女は女裁縫師の許へ馬車を飛ばし、それから昨日着いたばかりのバルナーイのところへ行き、バルナーイから更に楽譜店へ廻ったが、その間ずっと彼女は、リャボーフスキイに、冷たい、残酷な、こちらの値打ちを充分に思い知らせる手紙を書いてやることや、この春か夏にはドゥイモフと一緒にクリミヤへ出かけて、そこで徹底的に過去を清算して新しい生活をはじめることなどに就いて考えていた。
この晩おそく家へ帰ると、彼女は着更えもしないで、手紙を書くために客間に坐った。リャボーフスキイは彼女に、彼女は画家でないと言った、で、彼女もそのしっぺ返しに、彼も毎年同じものばかり描き、毎日同じことばかり言っている、彼はもう凝り固まってしまったのだから、これまでにあった以上のどんなものにもなれはしない、こんなふうに書いてやろうと思った。なお、彼は多くの点で彼女のよき影響を受けていること、彼のおこないのよくないのは、ただ彼女のこの影響が、今日、絵の蔭に隠れていたような、ああしたえたいの知れぬさまざまな女どものために麻痺させられてしまったからにほかならない――こういうことも書いてやりたかった。
『ママ!』と書斎の中からドゥイモフが、扉は開けずに呼んだ。『ママ!』
『なあに?』
『ママ、お前ここへはいって来ちゃいけないよ、ただちょつと戸口までおいで。――実はね…‥僕は一昨日病院でジフテリヤに感染したんだ、そして今……どうも工合がよくないんだ。大急ぎでコロステリョーフを迎えにやってくれないか』
オリガ・イワーノヴナは日ごろ夫を、すべての知り合いの男を呼ぶように、名前でなく姓で呼んでいた。彼の名のオーシップが彼女には気に入らなかったから。というのは、それがゴーゴリのオーシップとその洒落――「オーシップはアフリープ(嗄れ声になったの意)アフリープはオーシップ(同上の意)」を思い出させたからである。が、この時ばかりは彼女も叫んだ――
『オーシップ、そんなことある筈がないわ!』
『迎えにやってくれ! 僕は工合がよくないんだ……』ドゥイモフは扉の向うでこう言った。そして長椅子の方へ行って、横になったらしい様子であった。『やってくれ!』彼の声はうつろのように響いた。
≪ほんとにどうしたというんだろう?≫とオリガ・イワーノヴナは、恐怖の思いにぞっと寒けを覚えながら、考えた。≪だって、これは危険なんじゃないかしら!≫
全然なんの必要もないのに、彼女は蝋燭をとって、自分の寝室へ行った。そしてそこで、しなければならぬことを考えながら、われ知らず姿見の中の自分をのぞいた。蒼ざめたびっくりしたような顔をして、胸に黄色い羽根飾りと、スカートに風変りな縞のはいった、袖の短いジャケツを着た姿が、彼女には、恐ろしく忌わしいもののように思われた。急に彼女には、せつないほどドゥイモフが、彼女に対する彼の限りない愛が、彼の若い生命が、もう久しく彼が用いなくなっていたこの空しい寝床までが、可哀そうになって来て、彼のいつもの穏かな優しい笑顔が、ひしひしと思い出された。彼女は烈しく泣き出して コロステリョーフに哀願の手紙を書いた。夜中の二時であった。
八
朝の七時を廻ったところで、オリガ・イワーノヴナが眠眠不足の重い頭を抱へて、髪も梳かさない醜い姿で、済まなさそうな顔をして寝室から出て来た時に、一見して医者らしい、黒い顎鬚をはやしたひとりの紳士が、彼女とすれ違って、玄関の方へ行った。ぷんと薬の臭いがした。書斎の戸口に、コロステリョーフが佇んで、右手で左の口髭をひねっていた。
『失礼ですが、この部屋へはお入れ出来ませんよ』彼はこう陰鬱な口調でオリガ・イワーノヴナに言った。『伝染の恐れがありますからね。それに第一、なんにもなりゃしませんよ、実際。どうせ熱に浮かされてるんだから』
『本物のジフテリヤなんですの?』と、オリガ・イワーノヴナは囁き声で訊いた。
『無理に横車を押すような人間は、全く裁判にでも渡さなきゃならん』コロステリョーフは、オリガ・イワーノヴナの質問には答えないで、こう呟いた。『あなたは、どうしてあの男が感染したかご存じですか? あの男は火曜日に、ジフテリヤの子供の咽喉から、管で膜を吸いとったのです。なんのために? 馬鹿馬鹿しい……全く無茶だ……』
『重態なんでしょうか? そんなに?』とオリガ・イワーノヴナは訊いた。
『ええ、重症らしい話です。シレークでも呼ばなくちゃなりますまいな、実際』
小柄な、赤毛の、鼻の長い、ユダヤ訛《なまり》のある男が来、やがて、背の高い、猫背で毛むくぢゃらな、補祭長のような男が来た。それからまた、恐ろしくふとった、若い、赤ら顔の眼鏡をかけた男がやって来た。これはみな医者で、同僚の付き添いに来たのであった。コロステリョーフは、自分の当直時間を過ぎても、家へは帰らずそのまま居残って、影のように家の中をさまよい歩いていた。女中は当直の医師達にお茶を出したり、折々薬局へ使いに駆け出したりしていたので、誰も部屋を片づける者がなかった。ひっそりとして、陰気であった。
オリガ・イワーノヴナは、自分の寝室に閉じこもって、これは神が、夫をだましたことで彼女を罰しているのだと考えていた。いつも無口で、不平ひとつ言った例《ため》しのない、不可解な存在、あまりの温良さのゆえに茫漠として捉えどころがなく、あり余る善良さのために弱く無性格に見える存在は、どこか向うの長椅子の上で、人知れず苦しんでいて、苦痛を訴えようともしないのである。もし彼が、せめて譫言《うわごと》にでも苦痛を訴えたなら、当直の医師達も、その苦悶がひとりジブテリヤのせいばかりではないのを知るであろう。そしてコロステリョーフに訊くだらろう――彼はすべてを知っている、彼が、彼女こそこの事件の真犯人で、ジフテリヤはただその共犯者に過ぎないとでもいうような眼つきで、自分の親友の妻を見ているのも無理からぬことである。彼女は最早ヴォルガ河上の月の夕べも思い出さなければ、恋の告白も、百姓家に於ける詩的な生活も思い出さず、ただ、自分が、浅間しい放恣《ほうし》やわがままから、全身、手も足も、何か汚ならしい、ねばねばした、なんとしても洗い落すことの出来ないようなものの中へはまり込んでしまったのを思い出すだけであった……
≪ああ、あたしはなんという恐ろしい嘘をついたものだろう!≫と彼女は、自分とリャボーフスキイとの間にあつた不安な恋に就いて思い出しながら、考えた。≪ああ、何もかもが呪わしく怨めしい!≫
四時に彼女は、コロステリョーフと一緒に食事をした。彼は料理には手もつけないで、赤葡萄酒ばかり飲んで、苦りきつていた。彼女もやはりなんにも食べなかった。その間彼女は、心の中で神に祈って、もしドゥイモフが治ったら、自分は再び彼を愛してきっと忠実な妻になりますと誓ったり、かと思えばまた、一分間われを忘れて コロステリョーフの顔に見入りながら、≪いったい、なんのとりえもない、平凡な、誰にも知られない、おまけにこんなちんくしゃ顔の不作法な人間でいて、ほんとに退屈でないのだろうか?≫こんなことを考えたり、更にまた、伝染を恐れてまだ一度も夫の書斎へ行かないでいる罰に、自分は今すぐにも神様に殺されるだろうなどと考えたりした。が、総じてそこにあったのは、鈍い、物悲しい感情と、生活はもう滅びてしまった、最早どうしてもそれを取り返す術《すべ》はないのだという信念であつた……
食事が終る頃、黄昏が迫って来た。オリガ・イワーノヴナが客間へ出て行くと、コロステリョーフは、金糸で刺繍をした絹のクッションを頭の下にあてがって、長椅子の上に眠っていた。「グウ プー……」彼は鼾をかいていた。――「グウ プー」
当直のために出たりはいったりしていた医師達も、この不しだらに気がつかなかった。よその男が客間で眠っていぎたなく鼾をかいていること、壁に掛っている習作、風変りな家具類、主婦が髪も梳かさないで取り乱した恰好をしていること――すべてこうしたことも今は、些かの興味さえ喚び起こさなかった。医師のひとりが何かあってついうっかり笑い出すと、その笑い声までが、なんとなく奇妙に、おずおずと響いて、無気味にさえなるのであった。
オリガ・イワーノヴナが二度目に客間へ出て行った時には、コロステリョーフはもう眠っていなかった。腰掛けて、煙草をふかしていた。
『御主人のは鼻孔のジフテリヤです』と彼は小声で言った。『もう心臓も大分弱っています。実際、困ったことです』
『シレーク先生をお呼びになって下さいまし』とオリガ・イワーノヴナは言った。
『もう来ました。ジフテリヤが鼻に移ったのに気がついたのもあの人です。ええ、しかしシレークがなんだ。実際、シレークなんかなんでもありゃしない。あの男はシレーク、僕はコロステリョーフ――それきりの話じゃないか』
時間はだらだらと無性に長く思われた。オリガ・イワーノヴナは着のみ着のまま、朝から片づけもしない寝床に倒れて、うとうとしていた。彼女には、この家全体が、床から天井まで、大きな鉄塊でいっぱいになっているような気がしていた。そして、それさえ外へほうり出してしまえば、忽ち一同が愉快な軽い気持になれるような気がしていた。が、眼がさめると、彼女は、それが鉄塊でなくて、ドゥイモフの病気なのを思い出した。
≪|Nature morte《ナチュール・モルト》、ポルト……≫彼女はまたしても忘我の境に沈みながら、考える――≪スポールト……クロールト……が、シレークはどうかしら? シレーク、グレーク、ヴレーク……クレーク。それはそうと、あたしのお友達は今どこにいるのかしら? あの人達、あたし達の悲しみを知っているかしら? ああ主よ、救い給え……助け給え。シレーク、グレーク……≫
と、またしても鉄塊……時はだらだらと続き、時計は階下で幾度も鳴った。そして、ひっきりなしにべルが聞えた。医者達がくるのである……女中が空のコップを載せた盆を持ってはいって来て、訊いた――
『奥様、お床をおのべいたしましょうか?』
が、返事がなかったので、そのまま出て行った。階下で時計が鳴り、ヴォルガの雨が夢に現われ、またしても誰かしら寝室へはいって来たが、家の者ではないらしい。オリガ・イワーノヴナは跳び起きて、コロステリョーフの顔を認めた。
『何時でございますの?』と彼女は訊いた。
『三時頃です』
『それで、何か?』
『何かどころか! 僕はお知らせに来たんです――もう臨終ですよ……』
彼はしゃくり上げて、彼女と並んで寝台に腰をおろすと、袖口で涙を押し拭った。彼女はすぐにはわからなかった。が、やがて総身にぞっと寒けを覚えて、のろのろと十字を切りはじめた。
『もう臨終です……』彼は細い声でこう繰り返して、再び涙に咽んだ。『死にかけています、つまりわが身を犠牲にしたのです……学界にとってなんという大きな損失でしょう!』彼は悲痛な口吻《こうふん》で言った。『あれは、われわれの誰と比べても、実に偉大で、非凡な男でした! なんという天才だったでしょう! なんという輝かしい希望をわれわれ一同に与えていてくれたでしょう!』コロステリョーフは両手を揉みしだきながら、続けた。『ああああ、あれは、今ではもう鐘太鼓で捜しても見出せないほどの偉大なる学者になれた男です。オーシカ・ドゥイモフ、オーシカ・ドゥイモフ、君はなんということを仕出かしたのだ! ああああ、なんともはや!』
コロステリョーフは、絶望の極、両手で顔を蔽って頭を振った。
『それにあの精神力!』と彼は何者かに向ってますます怒気を加えながら、こう続けた。『善良な、純潔な、愛に充ちた魂――人間じゃあない、硝子だ! 科学に事《つか》えて、科学のために倒れたのだ。彼は、まるで牛のように、夜昼なしに働いた。誰も彼を労《いた》わる者はなかった。そしてあの少壮学徒、未来の大学教授は、病家の口を見つけたり、毎夜遅くまで翻訳をやったりしなければならなかった。こんな、こんな……くだらないぼろぎれの代を払うために!』
コロステリョーフは、憎悪の眼でオリガ・イワーノヴナを見て、両手で敷布をひっ掴むと、まるでそれに罪があるように、腹立たしげに引き裂いた。
『あの男は自分で自分を労《いた》わらなかったが、人もまた彼を労《いた》わらなかった。ええ、ほんとに、なんということだ!』
『そうだ、珍らしい男だった!』誰かが客間の方でバスで言った。
オリガ・イワーノヴナは、彼と共にした自分の全生活を、初めから終りまで、あらゆる詳細まで、余さず思い返してみて、卒然として、これこそ真に非凡な、世にも珍らしい、彼女の知る限りの人と比べて真に偉大な人物であったことを悟った。そして更に、自分の死んだ父や仲間の医者達の悉《ことごと》くが彼に対してどんな態度をとっていたかを思い出して、彼等がみな彼のうちに未来の名士を認めていたのを悟った。壁、天井、ランプ、床の絨毯までが、さながら嘲笑的に瞬きして、
「見そこなったよ! 見そこなったよ!」とでも言っているようであった。彼女は泣きながら寝室を走り出し、客間でどこかの見知らぬ人の傍をすりぬけて書斎の夫の許へ駈け込んだ。彼はトルコ椅子の上に、帯のあたりまで毛布に蔽われてじっと仰臥《ぎょうが》していた。その顔は、げっそりと肉が落ちて痩せ衰え、生あるものには決して見られない灰黄色を呈していた。そして僅かにその額と、黒い眉と、馴染の深い微笑によって、それがドゥイモフだとわかるだけであった。オリガ・イヮーノヴナは素早く、その胸や、額や、手に触ってみた。胸はまだ温かかったが、額と手は不気味に冷たかった。そして半ば開いた眼は、オリガ・イワーノヴナの顔でなく、毛布の上に注がれていた。
『ドゥイモフ!』彼女は声高く呼んだ。『ドゥイモフ!』
彼女は彼に向って、あれが過ちだったのであり、まだすべてが失われてしまったのでもなくて、生活はまだ美しく幸福なものになり得ること、彼が世にも珍らしい、非凡な偉人であり、彼女は生涯彼に対して崇敬の念を忘れず、神に祈り、神聖な畏怖を感じ続けるであろうことなどを、説明したかったのである……
『ドゥイモフ!』と彼女は、彼がもう永久に覚めないとはどうしても信じられなくて、軽く彼の肩をたたきながら、こう呼んだ。『ドゥイモフ、ドゥイモフってば!』
が、客間ではコロステリョーフが女中にこんなことを言っていた――
『何をくどくど訊くことがあるんだね? それより君は教会の番人のところへ行って、養老院の婆さん達がどこにいるか訊いて来てくれ。あの女達が湯棺をしたり、あと始末をしたり、――するだけのことは、いっさいしてくれるんだから』(一八九二年)
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学生
初めのうちは静かないい天気であった。鶇《つぐみ》が鳴いていて、近くの沼では、なんという生物か、ちょうど空壜を吹くような哀れっぽい音を立てて唸っていた。一羽の|ほどしぎ《ヽヽヽヽ》が飛んだと思うと、それを狙った銃声が、春の空気に音高く、陽気に響きわたった。が、森の中が暗くなってくるとともに、折悪しく東の方から、冷たい、突き通すような風が吹いて来て、万象が音を収めてしまった。水溜りには氷の針が一面にうわり、森の中は居心地のわるい、淋しい、荒涼たるものになった。冬溜のにおいがして来た。
寺男の息子で、宗教学校の学生であるイワン・ヴェリコポーリスキイは、猟からの帰途、終始|小徑《こみち》伝いに、水の氾濫した草場を歩いていた。彼は指が寒さに硬ばり、顔が風にほてっていた。彼には、この急に来た寒気は、万物の秩序と平和を破壊し、自然そのものにも無気味に感じられたので、そのために夕闇が、必要以上に早く濃くなったように思われていた。四辺は荒涼として、なんとなく特別に陰鬱であった。ただ、河のほとりの寡婦の野菜畠に、一点の火光《かこう》が見えるだけ、周囲はどちらを見ても、四露里ばかり先に村のあるあたりでも、万象が寒い夕闇の中にすっぽりと沈んでいた。学生は、先刻彼が家を出かけた時には、母は玄関の床の上に跣《はだし》で坐って、サモワールの掃除をしていたし、父親は煖爐の上に寝そべって、咳をしていたことを思い出した。ちょうど受難金曜日で、家ではなんにも煮炊きしなかったので、堪らなく空腹だった。で、今も、寒さに身を縮めながら、学生は、リューリックの時代にも、ヨアン雷帝の時代にも、ピョートルの時代にも、まさしくこれと同じような風が吹いていただろうということや、彼等の時代にも、まさしく同じように兇暴な貧乏や、飢えがあっただろうというようなことに就いて、考えた。同じような穴だらけの藁葺屋根や、無智や、憂愁や、同じような荒涼たる周囲や、陰暗や、重苦しい感情や――こうした恐怖はみな、昔もあったし、現在もあるし、未来もまたあるであろう。そして、なお一千年の歳月がたったからとて、人生は格別よくなることはないであろう。彼は、なんとなく家へも帰りたくなかった。野菜畠が寡婦達のと呼ばれていたのは、その持主が母と娘とふたりの寡婦だったからである。焚火がぱちぱちいいながら、四辺の犁《す》き起された地面を遠くまで照らしながら、あかあかと燃えていた。百姓の半外套を着た、背の高い、ぶくぶくふとった老婆である寡婦のワシリーサがその傍に立って、思い沈んだような様子で焚火を見つめていた。その娘の、痘痕《あばた》のある、愚かしげな顔をした小柄なルケーリヤは、地面に坐って釜と匙《さじ》とを洗っていた。どうやら、たった今|夕餉《ゆうげ》を済ましたばかりのところらしかった。百姓達の話し声が聞えていた。それは、この辺の百姓達が、河で馬に水を飼っているのであった。
『また冬が帰って来ましたね』と学生は、焚火の方へ近づきながら、言った。『今晩は!』
ワシリーサは吃驚《びっくり》して身震いしたが、すぐ彼と気がついて、愛想よく微笑んだ。
『まあ、見違えましたよ、御機嫌よう』と彼女は言った。『お金持におなんなさいますよ』
彼等は話した。昔地主のところに乳母として、後には保母として勤めたことのある苦労人のワシリーサは、上品な言葉づかいをした。そしてその顔からは終始、物柔かな、落ちついた微笑が去らなかった。が、亭主に虐待された田舎女である娘のルケーリヤは、ただ眼を細くして学生を見ているだけで、黙っていた。その顔つきは、聾唖者のそれのような奇妙な表情を持っていた。
『ちょうどこんなふうに使徒ペテロも、寒い晩に焚火にあたっていたんだろうね』と学生は、火の方へ両手を差しのべながら言った。『つまり、その時も寒かったわけですよ。ああ、それはなんという恐ろしい夜だったろうね、小母さん! なんともいいようのない、悲しい、長い夜だっただろうね!』
彼はあたりの暗闇を眺め廻し、痙攣でもするように頭を振りながら、こう訊いた――
『小母さんは多分、福音書の十二使徒行伝を聞いたことがあるでしょう?』
『ああ、ありますよ』とワシリーサは答えた。
『じゃ、覚えてるでしょう、最後の晩餐の時にペテロがイエスに――「主よ、われは汝と共に、獄《ひとや》にまでも、死にまでも行かんと覚悟せり」と言うところを。すると、主が彼に答えて言われるには――「ペテロよ、われ汝に告ぐ、今日汝三度びわれを知らずと否《いな》むまでは、告時鶏《ときつげどり》、つまり鶏ですね、鳴かざるべし」って。晩餐の後、イエスは園で死ぬばかり悩み悲しんで、祈られたが、哀れなペテロは心が疲れ、身が弱り、瞼が重くなって、どうしても睡魔と闘うことが出来なかった。眠ってしまった。それから、あんたは聞いたろう、ユダがその晩イエスに接吻して、主を迫害者どもに売り渡してしまったことを。そこで主は捕縛され、祭司の長のもとへ引かれて、鞭打たれたのだが、その時ペテロはぐったり疲れ、憂えと不安に悩まされながら、いいかね、十分に眠ることも出来ないで、今にもこの地上に何か恐ろしいことが起るだろうということを予感しながら、あとについて歩いて行ったのだ……ペテロは熱烈に、われを覚えないまでにイエスを愛していた。それが今、遠くから主の打たれるところを眼にしたのだ……』
ルケーリヤは匙《さじ》をおき、じっと動かない眼を据えて、学生の顔を見つめた。
『人々は祭司の長のところへ来て』と彼は続けた――『イエスを尋問しはじめた。そのうち下僕達が、中庭の真中で焚き火をし出した。寒かったので、暖まろうとしたわけさ。ペテロも、その連中と一緒に火の傍に立って、あたっていた。ちょうど今の僕のようにね。すると、ひとりの女が彼を見て、こう言い出した――「この人もイエスと一緒にいたわ」って。つまり、ペテロをも尋問に連れて行くべきだと言ったのだね。そこで、火のまわりにいた下僕達が、きっと、胡散臭そうに、荒っぽい眼つきで、じろじろと彼を見たのに違いない。彼はどきどきして、ついこう言ってしまったのさ――「わたしはあの人なんか知りません」って。暫くすると、また誰かが彼をイエスの弟子達のひとりだと気がついて、「お前もあの仲間のひとりだ」と言った。が、今度も彼はそれを否定した。と、三度目誰かがまた彼に向って――「今日わしが園であの男と一緒にいたのを見たのはお前じゃなかったかね?」と言った。彼は三度びそれを否定した。と、そのあとですぐ鶏がうたい出したので、ペテロは遠くからイエスを眺めて、晩餐の時に主が彼に言われた言葉を思い出した……思い出すと、彼ははっとわれに返り、中庭から出て、烈しく烈しく泣き出した。福音書にはこう書いてあるね――「外に出でて甚く泣けり」って。僕は今それを想像するのさ――静かな静かな、暗い暗い園、そのしんとした中で、やっと聞える低い歔欷《きょき》の声……』
学生はほっとひとつ溜息をついて、考え込んだ。ワシリーサは、依然として笑顔を続けながら、急に啜り上げた。と、大粒な、夥《おびただ》しい涙が、その頬を伝って流れ、彼女はその涙を恥じるように、袖で火から顔を隠した。が、ルケーリヤの方は、じっと学生の顔を見つめながら、真赤になり、その顔つきは、烈しい痛みを堪えている人のそれのように、重苦しい、緊張したものになった。
百姓達が河から戻って来た。そのうちのひとりは馬に跨がって、ずっと近くへ来ていたので、焚火の灯影がその上で震えていた。学生は寡婦達に夜の挨拶をして、さきへ歩き出した。すると、またしても暗闇が彼を包み、彼は手がこごえ出した。痛いような風が吹き、真実冬が帰って来たようで、明後日が復活祭だとはとても思えないほどであった。
今や学生は、ワシリーサのことを考えていた――彼女が泣き出したところをみると、あの恐ろしい夜ペテロに起った一切のことが、彼女になにかの関係を持っているのではあるまいか……
彼はうしろを振返った。淋しい火の光は、闇の中で穏かに瞬いていたが、その傍には最早、人影は見えなかった。学生はまたしても考えた、ワシリーサがあんなに泣き、娘があんなにどぎまぎしたところをみると、明らかに、彼が今話した十九世紀以前に起ったことが、現在に――このふたりの女に、そして恐らくはこの荒廃した村に、彼自身及びすべての人々に、何等かの関係を持っているのに違いない。老婆があんなに泣いたのは、決して、彼の話し方がうまくてそれに感動させられたためではなく、ペテロが彼女に近かったから――彼女がその全存在を以て、ペテロの心に起ったことに心を惹かれたからに違いない。
と、歓喜の思いが、突如として彼の心に波立ちはじめたので、彼は一分間、息をつくために立ちどまったくらいであった。過去は、――と彼は考えた――次から次へと流れ出す間断ない事件の連鎖で、現在と結びついている。そして彼には、自分はたった今、その連鎖の両端を見たのだという気がした――一方の端にさわったら、他の端がゆらいだように思われた。
やがて、彼は渡船で河を越し、それから山へのぼって、自分の生れた村や、寒む寒むとした深紅の夕映えが細い條になって光っていた西方を眺めやった時に、昔、その園や祭司の長の中庭で人間生活を導いたところの真理と美とが、連綿として今日に続き、どうやら常に、人間生活の主たるもの、一般に地上の主たるものを組成しているということに就いて考えた。と、若さと、健康と、力の感じ――彼はまだやっと二十二歳になったばかりであった、――と、言い難く甘い幸福の期待、知られざる神秘な幸福の期待とが、少しづつ次第に彼を占めて行き、そしてこの人生が、彼には魅惑的な、奇跡的な、そして崇高な意味に満ちたもののように、思われてくるのだった。(一八九四年)
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葦笛《あしぶえ》
樅林《もみばやし》の蒸暑さにぐったりして、全身蜘蛛の巣や樅の葉だらけになりながら、デメンチエフ荘園の管理人メリトン・シーシキンは、銃を肩に、やっとの思いで、林の縁《ふち》を指して進んで行った。彼のダームカ――番犬とセッターの雑種で――ひどく痩せた、身持の牝犬は、腹の下へ濡れた尻尾を捲き込んで、主人のあとからよたよた歩きながら、樹枝などに鼻面を引掻かれまいと、いろいろに気を配っていた。どんよりと曇った朝であった。淡い霧に包まれた樹木や羊歯からは、大粒の雫がぽたぽた落ちて、森の湿気は刺すような朽葉の匂いを放っていた。
前方、森の尽きたあたりに白樺の木立があり、その幹や枝を通して、霧立ち込めた遠方が見えていた。その白樺の木立の向うで、誰かが手製の葦の牧笛を吹き鳴らしていた。吹き手は、五つか六つの音色を、格別節をつけるでもなく、物ぐさそうに長くひっばっているだけであったが、それにも拘らず、笛の音には、なんとなく厳《いかめ》しげな、いたく憂鬱な響きが聞きとられた。
森がまばらになって、樅《もみ》の木が若木の白樺とまじり出した時分に、メリトンは牧畜の群を認めた。脚を縛られた馬、牝牛、羊などが叢《やぶ》の間をさまよって、樹の枝をぼきぼき折ったり曲げたりしながら、森の草を嗅ぎ廻っていた。森のはずれに、濡れた白樺の幹に身をもたせて、粗羅紗のぼろ上衣に、帽子はかぶらないで、痩せた老人の牧夫がひとり立っていた。彼は地面を見つめて何事か考えながら、見たところ機械的に、葦笛を吹いているのだった。
『お早う、爺さん! 達者でいいね!』とメリトンは、その堂々たる体躯と、肉づきのいい大きな顔には凡そ不似合いな、細い、嗄《しゃが》れ声で挨拶した。『お前なかなか笛がうまいなあ! それで今|牧《か》ってるな誰の家畜だい?』
『アルタモーノフんでさ』と牧夫は不承不承に答えて葦笛をポケットへ押し込んだ。
『すると、この森もアルタモーノフんだね?』とメリトンは、あたりを見廻しながら訊いた。『ほんとに、アルタモーノフんだろう、言ってくれよ……おれは危く迷子になるところだったのだ。茨で顔じゅう引掻かれちゃったよ』
彼は濡れた地面に腰をおろして、新聞紙で煙草を巻きはじめた。
稀薄な感じの音声と同じように、この男の身についているすべてのもの――微笑も、眼も、釦《ボタン》も、細かく刈り込んだ大きな頭にやっと載っている縁なし帽も、すべてが小さくて、その背や、幅や、ふとった顔に釣り合わなかった。彼が口を利いたり、微笑んだりすると、そのきれいに剃った、ぶくぶくふとった顔にも、その姿態全体にも、一種、女のような、臆病な、柔和なものが感ぜられた。
『どうも、この天気じゃ、やりきれないねえ!』と彼は言って、頭を振った。『まだ燕麦《えんばく》の刈入れも済まないのに、まるで雇われでもしたような雨だ。いやになっちまう』
牧夫は、雨のそぼ降る空や、森や、管理人の濡れた服などを眺めて、考え込んだまま、ひと言も言わなかった。
『夏じゅうこんなだったからね……』とメリトンは歎息した。『百姓達にもわるけりゃ、旦那方にも面白くねえし』
牧夫はもう一度空を見あげて、ちょっと考えてから、まるで一語一語を噛みしめるように、間をおいて言い出した!
『世の中のことは、何もかもが同じ方へ向いてるんでさ……ええことは来やしませんよ』
『ところで、お前の方はどんなだね?』とメリトンは、煙草に火を付けながら訊いた。『アルタモーノフの伐採地で山鳥の雛の孵《かえ》ったのを見なかったかね?』
牧夫はすぐには答えなかった。彼はまたしても空を見あげたり、あたりを見廻したりして、ちょっと思案して、眼をしばたたいた……見受けるところ、彼は自分の言葉に少なからぬ意味をおいていて、その値打ちを増やすために、いくらか勿体ぶって、努めてゆっくり発音しようとしている様子であった。彼の顔つきは、いかにも年寄りらしく、鋭く真面目で、鞍型をした凹みに横ざまに断ち切られた鼻と仰向いた鼻孔とのせいで、狡猾な、皮肉な印象を与えた。
『うんにゃ、見ねえようでしたよ』と彼は答えた。『村の猟師のエレームカがイリヤ様の日に、プストーシェの近くで雛をひと孵り追ん出したって言ってただが、きっといい加減な出鱈目に違えねえ。鳥は少くなっただでなあ』
『そうだ、兄弟、全く少くなったなあ……どこにも少くなっちまったよ! 当り前に考えちゃ、猟なんか一文の値打ちもない、馬鹿馬鹿しいことになっちまった。鳥はまるでいなくなって、たまにいると思いや、手を汚《よご》すがものはないくらいのしろもの――てんで育ってもいやしない! 見るのも気恥かしくなるような小物ばかりだ』
メリトンは笑って、手を振った。
『世の中のことは何もかも、ただ笑ってるより仕方のないようなことばかりだね! 今日《こんにち》じゃ、鳥まで変てこになっちまって、卵を抱くのも遅くなり、中にはピョートル様の日になってもまだ孵さないのがいるからね。ほんとうにさ!』
『何から何まで同じ方へ向ってるんでさ』と牧夫は、顔を仰向けながら、言った。『去年も猟は少かったが、今年はまためっきり少なくなっただ、この調子で五年もたったら、なんにもいなくなってしまうでしょう。わしが思うにゃ、猟の獲物ばかりじゃねえ、今に鳥と名の付くものはいなくなってしまいましょうて』
『そうよな』とメリトンは、ちょっと考えてから、頷いた。『ほんとうにそうさ』
牧夫は苦々しげに笑って、頭を振った。
『不思議なこんだよ!』と彼は言った。『いってえどこへ隠れちまっただか? 二十年前にゃ、覚えているだが、この付近にゃ鵞鳥もいりゃ、鶴もいたし、鴨も、山鳥も――雲のようにいたもんだ! 旦那衆が馬車で猟にござらしたと思うと、もうすぐ、ぽん、ぽん、ぽん! ぽん、ぽん、ぽん! と鉄砲の音が聞えたもんでさ。田鷸《たしぎ》、山鷸《やましぎ》、千鳥なんぞにゃ限りがなく、小鴨や鷸《しぎ》は、椋鳥《むくどり》か雀も同じように!――うんとこさいたもんでさ。それが、いってえみんなどこへ行ってしまっただか! 悪鳥どもまで見えやしねえ。鷲も、鷹も、梟《ふくろう》も、とんといなくなっちまっただ……それに、いろんな獣もぐんと減っただ。今日日《きょうび》にゃお前さま、狼や狐までが珍らしいくれえで、熊や獺《かわうそ》どころの騒ぎじゃねえ。昔や大鹿せえいたもんだになあ! おら、なんだよ、もう四十年も毎年毎年神様のお仕事に気をつけて見ていて、何もかもがみな同じ方へ向いてるってことがわかっただよ』
『どういう方へね?』
『わるい方でさ、お前さま。つまり、滅びの方へと考えなくちゃなんねえだ……つまり、神様の世界にも滅びの時が来たちうわけでさ』
老人は帽子をかぶって、空を眺めはじめた。
『悲しいこんだ!』と彼は、ちょっと黙っていた後で、歎息した.『ほんとに、なんて悲しいこんだろ! そりゃ、言うまでもねえ、世界はわしらが創ったじゃねえから、神様の御心には違えねえだが、でもやっぱり悲しいこんだよ。たった一本の木が枯れたり、牝牛が一疋死んだりしても、わしらあいい加減悲しいだに、この世界がすっかり滅びてしまうのを見たら、どんなに悲しいだか? いいものあ山ほどあるじゃねえか、ほんとによ! お日様にしろ、空にしろ、森にしろ、河にしろ、獣にしろ――みんな、お互いにうまく合うように、役立つように、工合よく創られたもんでさ。みんな、それぞれの役目があって、自分の居場所を知っていまさ。それがよ、それが、みんな滅びちまわなきゃなんねえなんてねえ!』
牧夫の顔には悲しげな微笑がのぼって、瞼はぱちぱち瞬きはじめた。
『お前はなんだね――世界は滅びるって言うんだね……』とメリトンは、考えながら言った。『なるほど、やがては世界の終りがくるかも知れんて、だが、ただ鳥が減ったというだけで、そうきめてしまうわけにもゆかんよ。まさか、鳥がその証明にもなるまいじゃないか』
『ところが、鳥だけじゃねえんでさ』と牧夫は言った。『獣でも、家畜でも、蜜蜂でも、魚でもおんなじだあ……わしの話を嘘だと思うなら、誰でも年寄りに訊いてみなさるがいい。今日《こんにち》じゃ魚だって昔とはまるで違うって言うだから。海にも、湖にも、河にも、魚は年々減る一方だ。忘れもしねえ、わしらのぺスチャンカ河でも、一アルシン(二尺三寸余)もある梭魚《かます》がとれ、ひげ(鰻に類した魚)もいりゃ、鯉も、石斑魚《うぐい》も、そのほか、いろんなでっかい魚が姿を見せたもんだが、今じゃ五六寸の梭魚《かます》や小鱸《すずき》でもとれたら見っけもんでさ。ほんものの金目鯛だっていやしねえ。一年一年わるくなる一方で、これでもう少しすりゃ、魚というものも根こそぎなくなっちまうだ。それから今度は河を見なさろ……河だって、今に涸れちまうだよ!』
『そりゃほんとうだ、涸れてゆくね』
『そうともさ。年々浅くなる一方で、今じゃもう、昔あったような淵はどこにもありゃしねえだ。そら、そこに叢《やぶ》が見えらね?』と老人は、わきの方を指しながら訊いた。『あの向うに、入江と言ってる古い河床がありまさ――わしの親父の時代にゃ、ペスチャンカはあそこを流れていただが、今じゃ見なさろ、それがどこへ持って行かれちまったか! 河床がぐんぐん変って、今にすっかり涸れちまうまで変っちまうだから。クルガーソヴォの向うにゃ、沼や池が幾つもあっただが、今じゃそれも、どこへ行っちまっただかね? また、小さい流れなんかもどこへ行っちまっただか? 今わしらのいるここの森にも、小川が一筋流れていただ、百姓達が魚籃《びく》をおろして梭魚《かます》をとったり、野鴨がその辺で冬篭りしたりした小川があっただが、今じゃ、春の雪解けの時でせえ、小舟ひとつ浮かすことも出来やしねえだ。そうよ、お前さま、見渡す限り、どこもかしこもからからよ。どこもかしこも!』
沈黙が来た。メリトンは考え込んで、雙《ふたつ》の眼をじっと一点に凝らした。彼はこの自然界に、万物を掴む滅びの手のまだ触れていないものを、せめて一つでも見出したいと考えたのである。霧と、斜《なな》めの雨脚とを透けて、ちょうど曇り硝子を透けるように光の斑点が滑り出したが、すぐ消えてしまった、――これは、昇りゆく朝日が雲間から顔を出して、大地を見おろそうとしたのであった。
『森だって、やっぱりおんなじだね……』とメリトンは呟いた。
『森だっておんなじでさ……』と牧夫は繰り返した。『伐ったり、焼いたり、枯れたりしてしまって、若木はてんで育ちゃしねえ。ちっとばかり育ったと思いや、ほあ、すぐ伐り倒しちまうだでねえ。今日芽を吹いたかと思うと、もう明日《あした》は伐られてるだ――こうして、一本なしになるまで伐り倒すでさ。おら、なんだよ、お前さま、農奴解放の時からこっち、ずっと村組合の牧群の番をして来ただし、解放前も、地主さまのところで牧夫をして、ここで家畜の番をしていたから、一生のうちでわしがここにいなかった夏の日は一日《いちんち》も思い出せねえくれえだよ。そして、その間ずっと、気をつけて神様のお仕事を見ていましたじゃ。こうしてわしは、一生の間、それを見てきたから、今じゃもう、草木ちうもんは、みんな滅びてゆくもんだということがわかっただよ、裸麦にしろ、野菜にしろ、どんな花にしろ、みんな同じ方へ向ってるだよ』
『その代り、人間はよくなったよ』と管理人は言った。
『どうよくなっただね?』
『利口になったよ』
『利口になった、そりゃほんとだ、だけど、それがなんの役に立つだね? もうじき滅びるという人間に、知恵がなんの役に立つだね? くたばるぐれえのことは、なんの知恵がなくても出来ますだよ。獲物がねえのに、猟師に知恵がなんの役に立つだね? わしは、こう考えてるだ、神様は人間に知恵を下されただが、その代り力を取り上げておしまいなすっただとな。人間は弱くなっただ、方図《ほうず》もなく弱くなっただ。何より早い話がこのわしだあ……わしにゃもう一文の値打ちもありましねえ、わしゃもうはあ、村で一番どんじりの百姓だが、でもまだ、力はありますだよ。お前さまも見なさるとおり、わしゃかれこれ七十だが、日がな一日家畜を追った上、晩は晩で、二十カペイカで夜番に出て、ろくに寝もせにゃ、凍えもしねえだ。ところで、わしの倅はわしより利口だが、野郎をわしの代りに使ってみなさろ、明日は、もう給金の値上げをせがむか、医者にかかるかするにきまってるだ。そうともよ。おら、パンのほかにゃ、なんにも食べましねえ、なぜと言って、「今日もわれらに日々の糧なるパンを与え給え」こう言うじゃねえですかね。わしの親父も、パンのほかにゃ、なんにも食べたことはねえ。祖父《じじい》だってそうでがさ、ところが、今時の百姓は、お茶もくれろ、ウォーッカもくれろ、白パンもくれろ、そして、日が暮れると夜明けまで寝て、医者さま通いはする、そのほかいろんな気儘《きまま》勝手を働くだ。なんでだね? 弱くなったからでさ、持ち堪える力がなくなったからでさ。奴がいくら喜んで眠らずにいようとしたって、眼の方がさっさと、くっついちまうだから――どうにも手におえねえだよ』
『そいつあ全くだ』とメリトンは同意した。『今時の百姓は正直なんの役にも立たんなあ』
『嘘のねえところ、なんだよ、わしらは年々わるくなってゆくだよ。それに、今度は旦那衆の方を考えてみなさろ、これはまた百姓より一倍弱くなってしまっただ。今日日《きょうぴ》の旦那は、何事にもえらくなって、知らいでもええことまで知っているだが、あれがいってえなんになるだね? あの衆を見ていると、気の毒になってくるくれえだよ……まるでハンガリイ人かフランス人みてえに痩せひょろけて、弱くなって、威厳もなけりゃ、品《ひん》もねえ――ただ旦那という名ばかりだあ、これという役目もなきゃ仕事もねえ、いってえ何が入用なんだか、からっきし、もう見当もつきませんわい。釣竿を持って坐り込んで魚を釣るか、仰向けに寝ころんで本を読むか、百姓の家をうろつき廻って、ろくでもねえお喋りをするか。そして食えねえ連中は、書記なんぞに雇われて行くだ。こうして つまらねえことに一生を送って、何か役に立つことでもしようなんて考えは、これっぱかりも頭にねえと思いなさろ。昔の旦那衆は、半分は将軍さまだったが、今の旦那衆は、ひとり残らず、ろくでなしでさ!』
『みんなひどく貧乏になったからね』とメリトンは言った。
『つまり、神様が力を取り上げておしまいなすっただで、それで貧乏になったでさあ。神様に逆らっちゃ何ひとつ出来ねえだでねえ』
メリトンはまたじっと一点を見つめた。ちょっとの間考えて、真面目な、分別のある人がつくような溜息のつき方をして、頭を振って、こう言った――
『だが、これはみんななんのためだろう? われわれは沢山罪を犯してるし、神様を忘れてしまった……それでつまり、こんな、何もかもに終りのくるような時が来たんだろう。それにこの世界にしたって いつまでも続くというわけにゃゆかないんだ――分《ぶ》を知るべき時が来たんだ』
牧夫は歎息した。そして不愉快な話はもうやめようとでもいうように、白樺の傍をはなれると、眼で牝牛の勘定をはじめた。
『へ、へ、ヘーい!』と彼は叫んだ。『へ、へ、ヘーい! えい、畜生め、始末のわるい野郎どもだ! 茨ん中へなんぞへえりゃがっで! さあよ、さあよ、さあよ!』
彼は怒ったような顔をして牧群を集めるために、叢《やぶ》の方へ歩いて行った。メリトンは立ちあがって、静かに林の縁伝いに歩き出した。彼は自分の足許を見ながら考えていた。どうもまだ、せめて一つでも、何なり死の触れていないものを思い出したくてならなかったのである。斜めの雨脚を縫って、またもや日光の斑点がさっと滑った。それは森の梢でひと踊りして濡れた木の葉の中に消えた。ダームカは叢《やぶ》の下ではハリネズミを見つけ、その方へ主人の注意を惹こうとして、泣くような吠え声をたてはじめた。
『お前さまの方にも日蝕があっただかね、それともなかっただかね?』と叢《やぶ》の蔭から牧夫が叫んだ。
『あったよ!』とメリトンは答えた。
『なるほどね、どこでも、百姓達が日蝕があったってこぼしてるだよ。つまり、お前さま、天にも騒ぎのあるしるしだあ! ただごとじゃあねえでがすよ……へ、へ、ヘーい! ヘーい!』
林の縁へと牧群を追い立ててしまうと、牧夫は白樺の幹に身をもたせて、空を眺め、ポケットから悠々と葦笛を取り出して吹きはじめた。前のとおり、彼は機械的に吹くだけで、五つ六つの音色きり出さなかった。彼が葦苗など手にしたのはこれが初めてでもあるように、その音色は曖昧に、無秩序に、なんの節をもなさないで響いたが、世界の滅亡ということばかり考えていたメリトンには、その音色のうちに、何か異常に憂鬱な、楽しんで聞いてはいられないような、不愉快な響きがあるように聞きとられた。震えたり断ち切られたりする一番高い、ピイピイいう音は、さながら笛自身が病みおびえて、やるせない咽び泣きの音を洩らしているように思われたし、一番低い調子はなぜか、霧や、悲しげな樹木や、灰色の空を思い起させた。そしてこうした音楽は、人にも、天気にも、老人にも、その言葉にも、いかにもふさわしいもののように思われた。
メリトンは泣き言が言いたくなった。彼は老人の傍へ歩み寄って、その悲しげな、皮肉らしい顔と葦笛とを見ながら、こう呟き出した――
『それに、生活もだんだんつまってきたなあ、爺さん。とてももう生活しちゃゆけないよ。飢餓、貧乏……のべつ幕なしの家畜の疫病、病気……すっかり貧乏に負かされちまったよ』
管理人のぶくぶくふとった顔は紫色になり、うらぶれた、女のような表情をとった。彼は、自分のはっきりしない感情を伝える言葉を捜そうとでもするように、指をむずむず動かしながら、続けた――
『八人の子供と、女房と……おまけにお袋がまだ生きているんだからね、それで給料といえば、自分飯で月たった十ルーブリときているんだ。貧乏から女房は気違いのようになってるし……おれ自身は飲んだくれてる。おれは分別のある真面目な人間で、教育もある。だから、落ちついてじっと家に坐っていりゃいいのだが、日がな一日こうして銃を持って、犬のようにうろつき廻ってる、つまり、どうしても、じっとしていられないのだ――家がいやで堪らないんだよ!』
舌が、自分の意志とは全然違ったことを喋っているのに気がつくと、管理人は片手を振って、苦々しげにこう言った――
『もし世界が滅びるものなら、いっそ早く滅びちまうがいいんだ! いつまでもぐずぐずして、むだに人間を苦しめるにゃあたらないんだ……』
老人は唇から葦笛をはなし、片眼を細めて、その小さい穴をのぞいた。彼の顔は悲しげで、涙のような、大粒な水滴に蔽われていた。彼は微笑を浮べて、こう言った――
『情けねえこんだよ、お前さま! ほんとになんて情けねえこんだろ! 地面も、森も、空も……ありとあらゆる生きものは――みんな役に立つように創られたもんだ、みんな、それぞれの智恵を持っているんだ。それがみんな、一文の役もしねえで滅びちまう。中でも一番可哀そうなのは人間だ』
森の奥から林の縁の方へ迫ってくる大粒な雨の音が聞えはじめたBメリトンは音のする方を眺め、外套の釦《ぼたん》を全部かけて、こう言った―
『どれ、村へ行こうか。爺さん、さよなら。お前の名はなんていうんだね?』
『ルカ・べードヌイさ(貧乏人のルカの意)!』
『じゃ、あばよ、ルカ! いろいろいいことを聞かしてくれて有難う。ダームカ、こい!』
牧夫と袂《たもと》をわかつとメリトンは暫く林の縁を辿り、それから草地の方へくだって行った。その草地は、進むに従って、次第に沼地になってゆくのだった。足の下に水がにじみ出し、まだ青々として瑞々しかった錆色の葦は、人の足に踏まれるのを恐れるように、地面へ身を伏せていた。爺さんの言った沼の向うのペスチャンカの河岸には幾本かの柳が立ち、柳の向うの霧の中には、地主の穀倉が黝《くろず》んでいた。そして、なんとしても避け得られない、不幸な時――野は暗くなり、地面は泥濘《ぬか》って冷たくなり、泣き濡れている柳が一層わびしげに思われて、その幹を伝って涙が流れる中で、ただひとり世を上げての不幸を免れる鶴すら、自分達の幸福の表情で、憂いに沈む自然を辱しめることを恐れるかのように、悲しく、沈鬱な唄を天空に響かせる時、その時の近いことが、しみじみ感じられるのであった。
メリトンは河の方へと道を辿りながら、背後で葦笛の音色が次第に消えてゆくのに耳を澄ました。彼にはまだずっと、愚痴を並べたいような気分が続いていた。彼は、悲しげな眼眸《まなこ》であたりを見廻した、と、空も、地面も、太陽も、森も、自分のダームカも、あらゆるものが堪えがたく可哀そうになってきた。が、葦笛の一番高い音色が、空中に長く尾をひいて運ばれて来、咽び泣く人の声のように震え出した時には、自然界に感じられる不秩序が、いかにも苦々しく、腹立たしいような気がしてきた。
高い音は震えて、ばたりと絶えた。それきり、葦笛の音は消えてしまった。(一八八七年)
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無題
第五世紀にも、今日のように、太陽は毎朝起き出でて、毎晩眠りに就いた。朝、最初の光線が露に接吻する時分には、大地は蘇り、空気は歓喜と、勇躍と、希望の物音に満たされたが、夕方になると、その同じ大地が、静まりかえって、厳しい闇の底へ沈むのだった。日は日に似、夜は夜に似ていた。稀には、雨雲が走せ集まって、雷がおどろしく鳴りはためいたり、うっかりした星が空から滑り落ちたり、或は、真蒼になった修道僧が駈け込んで来て、修道院から程遠からぬところで虎を見たなどと、同宿達に話したりするようなこともあった――しかし、それもそれだけで、その後はまた、日は日に似、夜は夜に似ていた。
修道僧達は、労働したり神に祈ったりしていたが、彼等の院長である老人は、オルガンを弾いたり、ラテン語の詩を作ったり、楽譜を書いたりしていた。この不思議な老人は、非凡な才能の持主であった。彼はことのほか巧みにオルガンを弾いたので、最早生の終りに近づいて聴覚の頼みに鈍くなっていた老修道僧達すら、彼の庵室からオルガンの音の洩れてくる時には、涙をとどめあえないほどであった。また、彼が何か、極めてありふれたもの、例えば樹木とか、野獣とか、ないしは海とかいうものに就いて話をする時でも、その話を、微笑なしに、また涙なしに聴くことは出来なくて、彼の心の中では何か、オルガンにあると同じような絃が鳴り響くのではないかと思われるのであった。であるから、もし彼が怒るとか、烈しい歓びに心酔するとか、或はまた何か恐ろしいこと、偉大なことなどに就いて話し出すような場合には、熱烈な霊感が彼を支配し、輝く双眸には涙が浮び、顔は上気し、声は雷のように轟くので、僧達は彼の話を聞きながら、彼の霊感が彼等の魂をもひとつに鍛え合わせるような感じを覚えるのだった。こうした荘厳幻怪な瞬間には、彼の権力は無限大であって、もし彼が部下の長老達に向って海へ飛び込めと命じても、彼等はひとり残らず、ことごとく随喜して、彼の意志を実行すべく急いだであろうと思われる。
彼の音楽や、声音や、その中で彼が神をたたえ天地を謳《うた》った詩は、僧達にとって、不断の歓喜の泉であった。時に、生活の単調から、樹木や、花や、春や、秋が、彼等に倦怠の思いを与え、海の潮騒が彼等の聴覚を倦《う》ませ、小鳥の歌が不愉快に響くことがあっても、老院長の才能ばかりは、パンの如く、彼等の日々に欠くべからざるものであった。
幾十の歳月が過ぎた。しかも常に、日は日に似、夜は夜に似ていた。野鳥や野獣以外、修道院の周囲には、生きたものは何ひとつ現われなかった。最も近い人家すら非常に遠く、修道院からそこへ行くにも、そこから修道院へくるにも、無人の広野を百露里も横切らなければならなかった。で、生命を軽んじ、生活を拒否して墓へはいるつもりで修道院へくる人だけが、僅かにこの広野を過ぎる決心をするだけであった。
だから、或る深夜に、一個尋常の都人士《とじんし》で、生活を熱愛していた極めてありふれた罪人《つみびと》であった男が彼等の門を叩いた時の、僧達の驚きはどんなであったか! しかもその男は、院長に祝福を乞い、祈りを捧げる前に、葡萄酒と食物とを要求したのである。どうして街から広野へ迷い込んだかという質問に対しては、彼は猟人の長物語を以てそれに答えた――要するに、猟に出て、飲み過ぎて、道に迷ったのであった。修道僧になって、自分の魂を救えという申し出に対しては、彼は笑顔と、次のような言葉を以て答えた――「わたしはあなた方の仲間じゃあありませんよ」
腹一ぱい飲み、鱈腹《たらふく》食ってしまうと、彼は給仕をしてくれていた僧達を顧み、詰《なじ》るように頭を振って、こう言った――
『ねえ、お坊さん方、あなた方は何ひとつしないでいらっしゃるんですね。ただ食ったり飲んだりすることを知ってなさるというだけだ。一たい、それで人の魂が救えるもんですかね? まあ考えてもごらんなさいよ――あなた方がここで安穏に行いすまして、食って、飲んで、幸福を夢みていなさる時に、あなた方の近しい人達は、滅びの道を辿って、地獄へ落ちつつあるんですぜ。まあ、街で起っていることをひと眼見てごらんなさい! 或る者は、飢えのために死んで行くかと思えば、或る者は、自分の金の隠し場所を知らないで、放蕩に身を持ち崩し、蜜にはまった蝿のように、死んで行きます。人間の中には、信仰もなければ真実もありません! ところで彼等を救うのは、一たい誰の仕事でしょう? 道を説いて聞かせるのは誰の仕事でしょう? 朝から晩まで酔っ払っているわたしの仕事でしょうか? 一たい神様があなた方に、柔和な魂や、愛に満ちた心や、信仰をお授けなすったのは、あなた方がここの四壁の中に坐り込んで、何もしないでいるようにというためでしょうか?』
市人の酔言は、暴慢無礼な不作法極まるものであったが、それが、奇体に院長に作用した。老人は、部下の僧侶達と眼を見合わせ、やや蒼い顔をして、こう言った――
『兄弟たち、この人の言うことはほんとうじゃ! 実際、気の毒な人達は、無知と弱さのために、悪行と不信の中で滅びつつある。それをわしらは、まるでこちらの知ったことかとでもいうように、坐り込んでいて動こうともせん。どうしてわしに、出かけて行って、彼等が忘れているキリスト様のことを思い出させないでいられよう?』
市人の言葉は老人を惹きつけた。翌日、彼は自分の杖をとり、兄弟達に別れを告げて、街を探して出かけて行った。で、修道僧たちは、音楽なしに、彼の話や詩なしに、取り残された。
彼等は一ケ月、二ケ月と淋しく送った。が、老人は戻って来なかった。遂に、三ケ月目を過ぎてから、彼の杖の耳慣れた音が聞えた。修道僧たちは彼を迎えに走り出て、質問を浴びせかけたが、彼は、彼等を見て喜ぶ代りに、烈しく泣き出して、一言も口を利かなかった。修道僧たちは気がついた――彼がひどく年をとり、痩せ衰えてしまったことに。彼の顔は疲れ切った様子で、深い悲哀を現わしていた。が、彼が泣き出した時には、それは、辱められた人のような表情をとった。
修道僧達も泣き出し、同情を籠めた調子で、どうして泣くのか、どうして彼の顔はこんなに暗いのかと問いかけたが、彼は一言も言わないで、自分の庵室へ閉じ籠ってしまった。七日の間、彼は一室に閉じ籠って飲食を断ち、オルガンも弾かないで、泣いていた。部屋の戸を叩く音にも、早く出て来て彼等と悲しみをわかってくれという僧達の願いにも、彼は深い沈黙を以て答えた。
遂に、彼は出て来た。一同の僧侶を自分のまわりに集めて、彼は泣き顔に悲痛と憤懣の表情を浮べながら、この三月の間に彼の身に起ったことに就いて語りはじめた。彼の声は、平静であった。そしてその眼は、――彼が修道院から街までの旅路を描いていた間は微笑んでいた。途では、と彼は物語った、彼のために小鳥がうたい、小川がせせらぎ、甘い、若々しい希望が彼の心を波立たせた。彼は行く行く、自分を、必勝を期して戦場に赴く兵士のように感じていた。空想しながら彼は歩き、詩を賦《ふ》し、讃歌を綴りして、道の尽きるにも気がつかなかった。
しかし、彼が街のこと、人々のことを話し出した時には、彼の声は震え、眼は輝き、全身は憤怒に燃え立った。彼が街へはいると共に遭遇したところのものは、彼がこれまでについぞ一度も見たこともなければ、想像さえも敢てしたことのないようなものであった。ただそこで彼は、この老年に及んで初めて、悪魔の如何に強く、悪の如何に美しく、人間の如何に弱く、無気力で、取るに足らぬ者であるかを、見かつ理解したのである。不幸な偶然にも、彼が足を踏み入れた最初の家は、淫蕩の棲み家であった。金のありあまる五十人ばかりの人々が、物を食ったり、底なしに酒を飲んだりしていた。彼等は酔いしれて、唄をうたったり、神を恐れる人は口にするのも憚るような、恐ろしい、汚らわしい言葉を、平気で口にしたりしていた。あくまで自由で、大胆で、幸福な彼等は、神を恐れず、悪魔を恐れず、死を恐れずして、言いたいことを言い、したいことをし、色欲の導くがままにどこへでも赴いたのである。だが、琥珀のように美しく、金色の火花で蔽われた酒は、恐らくは堪らなく甘く、芳醇なものだったに違いない。なぜなら、盃を口にするほどの者はみな、幸福そうに徴笑して、重ねて飲むことを所望したから。人間の微笑に対して酒もまた微笑を以て答え、飲まれる時には嬉しげに、火花を散らして輝いた。さながらその甘美の中に、如何なる悪魔的魅力が秘められてあるかを、自ら知ってでもいたように。
老人は、益々強く熱しながら、悲憤の涙に咽びながら、目撃したことに就いて語り続けた。酒宴している人々の囲んでいる卓上には、と彼は語った、半裸体のひとりの娼婦が立っていた。世にこれより美しく魅惑的なものは、想像することも見出すことも困難である。この若い、髪の長い、色の浅黒い、真黒な眼と脂ぎった唇を持った、無恥で厚顔な、穢《けがら》わしい奴は、その雪のように白い歯をむき出して――「さあ、どうぞ見て頂戴、わたしはなんという厚顔な、なんという美しい女でしょう!」とでも言いたげに、艶然と微笑していた。薄絹と金欄とが、美しい襞《ひだ》を作ってその肩から垂れていたが、美は衣裳のかげに隠れるのをいやがって、春の大地から萌え出る若草のように、飽くことなく、襞の下から顔を出そうとしていた。厚顔な女は、酒を飲み、唄をうたい、望む者には誰にでも身を任せた。
老人は更に、さも憤《いきどお》らしげに両手を振りながら、競馬場の話、闘牛場の話、劇場の話、さては裸体の女を描いたり粘土で型どったりしている、美術家のアトリエの話などをした。彼は霊感的に、美しく、響き高く、あたかも見えない琴線でも奏でるような声音で話したので、僧達は茫然とわれを忘れて、貪るように彼の言葉に耳傾け、歓喜から息をはずませていた……悪魔の魅力、悪の美、穢わしい女の肉体の魂を蕩《とろ》かすような艶美のありたけを語りつくすと、老人は悪魔を呪いながら、身を翻して、自分の戸口の中へ隠れてしまった……
翌朝、彼が庵室から出て来た時には、修道院にはひとりの僧も残っていなかった。彼等はみな街へ走ってしまったのだった。(一八八八年)
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百姓
一
モスクワの旅館「スラビヤンスキイ・バザール」のボーイ、ニコライ・チキリジェーエフは病気になった。足がしびれて歩行が不自由になったので、或る時、廊下を通っていて、躓《つまず》き、青豆とハムを載せた盆を持ったまま転がってしまった。余儀なく職をやめなければならなかった。自分の分と女房の分と、有り金《がね》全部を治療代に使い果して、もはや食うにも事欠くようになったし、働かないでいるのが退屈にもなってきたので、彼はいよいよ故郷の家へ帰るほかあるまいと決心した。わが家なら病気をしていても気が楽だし、暮しの方も安くあがる。第一|諺《ことわざ》にもいう――わが家では、壁さえ何かの役に立つのだから。
彼は、日の暮れ方に生れ故郷のジューコヴォへ着いた。子供の頃の記憶では、この生れ故郷は明るい住み心地のいい便利な場所のように思われていたが、今は、わが家へはいってみて、むしろ驚いたくらいだった――いかにも暗く、狭苦しく、不潔だったからである。彼と一緒に来た妻のオリガと娘のサーシャとは、家のほとんど半分を占めている、煤と蝿で真黒な、大きな汚れきった煖爐を呆れたような顔をして眺めていた。なんという物凄い蝿だろう! 煖爐は一方へ傾き、壁の丸太はゆがんでいて、小屋全体が今にも倒れそうに思われる。上座にあたる一隅、聖像の傍には、壜のレッテルや、新聞紙の切抜きなどが貼ってあり――それが絵の代りであった。貧乏、貧乏! 大人はひとりも家にいなかった。全部収穫に出ていたのである。煖爐の上には、八つくらいの汚ない顔をした、髪の白っぽい、ぼんやりした女の子が坐っていた。彼女は這入つて来た人達の方を振り向きもしなかった。その下では一疋の白描が火掻き棒にからだを擦りつけていた。
『にゃあにゃ、にゃあにゃ!』とサーシャがそれを呼んだ。『にゃあにゃ!』
『おらんちの猫は聞えないんだよ』と小娘が言った。『聾《つんぼ》になったんだよ』
『どうしてなの?』
『なんでもないよ。打《ぶ》たれたんだよ』
ニコライとオリガとは、ひと眼でこの家の暮らし向きを見てとったが、お互いに一言も口には出さなかった。黙々と包みをおろして、黙々と往来へ出て行った。彼等の小屋は村はずれから三軒目で、見たところ一番古く、一番みすぼらしかった。二軒目もいいとは言えなかったが、一番はずれの家は亜鉛屋根で、窓にもカーテンがさがっていた。この家は、周囲にかこいも何もなく二軒別になっていて、村の飲食店であった。家々は一列に並んで居り、村全体が静かで、物思わしげ、どの構《かま》えの中からも、柳や、ニワトコや、ナナカマドなどがのぞいていて感じのいい外見を持っていた。
百姓家の背後からは、河の方へ急勾配になっていたので、粘土のそちこちに大きな石が露出していた。斜面には、こうした石や陶器工に掘られた穴の間を、小徑がうねうねと走って、褐色や赤の陶器の破片が山のように積まれて居り、その下の方には、ひろびろとした平坦な明緑色の草場がひろがっていた。が、それはもう鎌入れが済んだあとで、今はその上を、百姓達の家畜の群れが歩いていた。河は村から一露里ほどのところを延々と、草の繁茂した岸をうねり流れていて、その向うはまたひろびろとした草場になり、そこには家畜の群れや、白い鵞鳥の長い列が見え、そのさきは、こちら側と同じように急に高くなっていて、その上には五つ屋根の教会などの見える村があり、さらに少し離れては地主邸が見えていた。
『あんたの村はなかなかいいとこね!』とオリガは教会に向って十字を切りながら言った。『のんびりしててさ、ほんとうに!』
ちょうどこの時、晩祷に呼ぶ鐘が鳴り出した。(日曜の前夜だったので)下の方を、水桶を運んで行くふたりの小さい女の子は、その響きを聞こうとして教会の方を振り返った。
『いま時分スラビヤンスキイ・バザールじゃ晩餐の最中だろう……』とニコライは夢みるような口吻で言った。
崖の端に腰をおろして、ニコライとオリガとは、太陽の沈んでゆくのや、金色や紫紅色に彩られた空が、河面や、会堂の窓や、モスクワでは一度だって味わったことのない、物柔かな、穏かな、えもいわれぬ清らかな大気全体に映っているのを眺めやった。太陽が沈んでしまうと、思い思いに鳴いたり吼えたりしながら家畜の群れが通り過ぎ、川向うから鵞鳥が飛んで来て、――やがてすべてが沈黙し、空中の静かな光も消えて、みるみる夕闇が迫って来た。
そうこうするうちに老人達、ニコライの父と母とが帰って来た。痩せた、腰の曲った、歯の抜けた、ふたりとも同じような背恰好の年寄りだった。女達――河向うの地主のところで働いていたマーリヤとフョークラという二人の嫁も戻って来た。マーリヤは兄息子のキリヤークの女房で六人子持ち、フョークラは兵隊に行っている弟デニースの女房で二人の子持ちだった。ニコライは小屋へはいって行って、これら一家の者達を見、煖爐の上や揺り籠の中や、あちこちの隅々に蠢《うごめ》いている大小とりどりの人影を見た時には、そして老人や女達が黒パンを水に浸してがつがつ食っている様子を見た時には、自分が病人になって、一文なしで、おまけに妻子まで抱えてこの家へ舞い戻って来たのは、間違いだったと考えずにはいられなかった――間違いだった!
『で、兄貴のキリヤークはどこにいるんだね?』と彼は、みんなと挨拶した時に訊いた。
『商人とこへ番人に住み込んでるだ』と父親が答えた――『森番にな。いい百姓だが、酒が過ぎるだでなあ』
『稼ぎ手じゃねえな!』と老婆はしめっぽい調子で言った。『うちの百姓達は駄目じゃよ、家へ持ってくるんでなくて、持って行く一方だでなあ。キリヤークも飲みや、爺さまもちゃんと、居酒屋への道は知っているだ。隠すにゃあたらねえから言うがね。聖母様もお腹立ちなさるよ』
客が来たというのでサモワールが支度された。お茶は魚臭いし、砂糖はかじりかけで鼠色をしているし、パンや皿には油虫が這い廻っていた。飲むのも胸がわるかったし、話を聞くのも辛かった――終始貧乏と病気の話で持ちきりだったから。が、一同がまだ一杯のお茶も飲みきらないうちに、外から高らかな長く引く酔いどれ声が聞えて来た――
『マーーリヤー!』
『どうやら、キリヤークが帰ったらしい』と老人は言った――『噂をすりゃ影だわい』
一同は鳴りをひそめた。暫くすると、またしても同じ、まるで地の底からでもくるような荒々しい長く引く叫び声が聞えた――
『マーーリヤー!』
総領嫁のマーリヤは、顔色を変えて煖爐にしがみついたが、この肩幅の広い逞しげな不器量な女の顔に恐怖の表情を見るのは、なんとなく不思議な気のすることであった。彼女の娘で、例の煖爐の上に坐って、ぼんやりしているように思われた女の子が急に大声あげて泣き出した。
『なんだよお前? コレラめ』と、これも逞しげな広い肩をした器量よしのフョークラが彼女に叫んだ。『まさか殺されやしまいによ!』ニコライは老父の口から、マーリヤは森の中でキリヤークと一緒に暮すのを恐れていることや、彼は酔っ払うと必ず彼女のところへやって来て、ひと騒ぎ持ちあげて容赦なく彼女を打ちのめすということなどを知った。
『マーリヤー!』と今度は、戸口のついそこで声がした。
『後生だから、助けとくれよ、みなの衆』とマーリヤは、まるで冷水の中へでもほうり込まれたような息遺いをしながら舌足らずの声で言った――『助けとくれよ、みなの衆……』小屋じゅうの子供がみんな泣き出した。誘われてサーシャまでが泣き出してしまった。酔っ払いらしい咳の声が聞えて、ついで、冬帽子をかぶった背の高い顎鬚の黒い百姓がはいって来たが、豆ランプの薄暗い灯影《ほかげ》で顔がよく見えなかったからかえって恐ろしかった。それがキリヤークであった。女房の傍へ歩み寄ると、彼は片手を振り廻して、拳固でその顔を打《ぶ》ったが、彼女は打たれて気が遠くなったように、声ひとつ立てないで、ただくたくたと坐ってしまった。忽ち、その鼻からたらたらと鼻血が流れた。
『なんて恥かしいことだ、恥かしいことだ』 と老人は煖爐の上へよじのぼりながら呟いた――
『お客の前でよ! なんて罪なことだ!』
が、老婆は黙りこくって、背を丸めて坐ったまま、何かひとりで考えていた。フョークラは揺り籠を揺すぶっていた……キリヤークはどうやら自分が恐がられているのを意識して、それに満足の様子で、マーリヤの手を掴むと戸口の方へ引張って行き、一層恐ろしく見られようとして野獣のように吼え出したが、その時、ふと客の姿を認めて足をとめた。
『やあ、来ただな……』と彼は女房を放しながら言った。『親身の弟が、女房子を連れて……』
彼は、よろよろしながら、その真赤に充血した酔眼を大きく見開いて、聖像に祈りを捧げてから、こう続けた――
『弟が女房子を連れて親の家へ来たってわけか……つまり、モスクワからな。つまり、皇帝さまの都のモスクワから、街のお母あのモスクワからな……まあご免なさいよ……』
彼はサモワールの傍の床几にぐたりと腰をおろして、一同の鳴りをひそめた中で大きな音をたてて受け皿から啜りながらお茶を飲みはじめた……十杯も飲むと、床几の上へ倒れかかって鼾をかき出した。
みんなは寝床にもぐりはじめた。ニコライは病人だというので、老人と一緒に煖爐の上へ寝かされた。サーシャは床《ゆか》の上に寝たが、オリガは女達と一緒に納屋へ行った。
『まあまあ、お前さん』と彼女はマーリヤと並んで乾草の上へ身を横たえながら言った、『泣いたって辛いことは減りゃしませんからね! まあ辛抱が肝腎ですよ。聖書にもありますわ――人汝の右の頬を打たば、左の頬をも向けよって……ねえ、お前さん!』
それから彼女は囁き声で、うたうように声をひいて、モスクワのことや、生活の内輪話や、家具付き貸間に女中奉公した時のことなどを話して聞かせた。
『モスクワにはね、大きな、石造りの家なんかありますよ』と彼女は言った――『教会だっていくつもいくつも、どのくらいあるかわからないですわ。そしてそういう家には、旦那方が住んでらっしゃるの、立派な、美しい且那方がね!』
マーリヤは、モスクワは愚か、自分の郡の街さえ一度も見たことはないと言った。彼女は字を知らなかったので、祈祷の文句一つ知らず、「われらの父よ」すら知らなかった。彼女といい、今は少し離れたところに坐って聞いているもうひとりの嫁のフョークラといい――ふたりとも極端に無学で、何一つ理解出来なかった。ふたりとも自分達の亭主を好いてはいなかった。マーリヤはキリヤークが恐くて堪らず、彼が帰っている間はのべつ恐怖に戦《おのの》き、ウォーッカと煙草の臭いがいかにもひどかったので、彼の傍にいると、きまって頭痛を催すのだった。フョークラは、亭主がいなくて淋しくはないかという質問に対して、吐き出すようにこう答えた――
『ふん、あんな奴!』
女達は暫く話しているうちに静まってしまった……
なんとなく肌寒かったし、納屋の近くで時々鶏がけたたましく鳴いて眠りを妨げた。蒼みがかった朝の光が早くも隙間から射し込んで来た時分に、フョークラはこっそり起き上って外へ出て行ったが、やがて、彼女が跣《はだし》のままどこかえ駈け出して行く足音が聞えた。
二
オリガは教会へ出かけた。マーリヤと連れ立って行った。小徑伝いに草場の方へおりて行く時にはふたりとも楽しい気持だった。オリガにはのんびりした田舎が気に入っていたし、マーリヤは弟妹に対して近しい親身の情を感じていた。太陽が昇りかけていた。草場の上には、低く、眠そうな大鷹が飛んでいて、河はどんよりと曇って、そちこちに霧が漂っていた。しかし河向うの丘の上には、もう朝日の帯が長く棚曳いて、教会の建物はキラキラと光り、地主屋敷の庭では、白嘴鴉《しろはしがらす》が喧しく騒いでいた。
『爺さまはなんでもないんだがね』とマーリヤは語った!『婆さまかとてもやかましくていつも喧嘩が絶えないの。うちのパンは謝肉祭まで足りる筈だったのに、今じゃ村の居酒屋で粉を買ってるの――それで婆さま怒るのさ――お前達や大食らいだってね』
『まあね、お前さん! 辛抱が肝腎ですよ。聖書にもあるんだからね、すべて疲れたる者、重きを負える者はわれに来たれってさ』
オリガはうたうように影をひいて、真面目な口の利き方をした。が、その歩き方は、巡礼のそれのように早くて気忙《きぜわ》しそうだった。彼女は毎日福音書を読んだ。寺男のように朗読した。そして多くのことは理解しなかったが、でも、神聖な言葉には涙ぐむまでに感動させられて、「されば」とか「その時まで」とかいう言葉は、まるで魂が甘く凍りつくような声で発音するのだった。彼女は神を信じ、聖母を信じ、聖徒達を信じていた。なお人は、この世の何人をも――身分の低い人をも、ドイツ人をも、ジプシイをも、ユダヤ人をも辱しめてはならないこと、生き物を憐れまぬ人にすら禍いがあるということを信じ、聖書の言葉はすべてそのまま信じていたので、彼女がそれを発音する際には、わからない言葉の時すら、その顔は慈悲深く、優しく、輝かしくなるのだった。
『お前さん生れはどこだね?』とマーリヤは訊いた。
『わたしはウラジーミル県だよ。だけど、わたしがモスクワへ連れて行かれたのはもう余程前だからね、八年にもなるからね』
ふたりは河の方へ近づいた。向う岸の水際に女がひとり立って着物を脱いでいた。
『ありゃうちのフョークラだよ』とマーリヤはそれを認めた!『河向うの地主さまのとこへ通うだよ。管理人のとこへね。気ままな、口の荒い女だよ――ほんとにさ!』
眉の黒い、まだ若い、まるで娘のようにがっしりした身体つきのフョークラは、散らし髪のまま岸からざんぶと水へ飛び込んで、両足でばたばた水を叩きはじめた。と、そこから八方へ浪がうねりはじめた。
『気まま者だよ――ほんとにさ!』とマーリヤは繰り返した。
河には、ゆらゆらする丸木橋が掛っていて、その真下には、透き通った綺麗な水の中に額の広い鯔《ぼら》の群れが泳いでいた。水に影を映していた緑の潅木の上には、朝露がキラキラと光っていた。暖かくて、気が浮き浮きしてきた。なんという美しい朝だろう! そしてたぶんこの人の世の生活も、もし貧乏さえ、どこへも逃れようのない恐ろしい出口のない貧乏さえなかったら、どんなに美しいものになるだろうと思われた! ところが、今はただちょっと村の方を振り返って、昨日のことを逐一思い出しただけで――あたりに感じられた幸福の幻影は一瞬にして消えてしまった。
ふたりは教会ヘ着いた。マーリヤは入口に立ちどまって先へ進もうとはしなかった。そして彌撒《ミサ》の鐘が鳴りはじめるのは八時過きてからだったのに、腰をおろすこともしかねた。こうして終始立ちつくしていた。
福音書が読まれている最中に、人々は急にこそこそと動き出して、地主の家族達のために道をあけた。雪白の服に、鍔《つば》の広い帽子をかぶったふたりの少女と、それと一緒に、水兵服姿のよくふとった薔薇色の顔をした少年がはいって来た。彼等の出現はオリガを感動させた。彼女はひと眼で、それが立派な教育ある美しい人々に違いないときめてしまった。が、マーリヤは額越しに白い眼で、気むづかしげに陰鬱に彼等を見ていた。まるでそれは人間でなく、うっかりして避けなかろうものなら、踏み殺しもしかねまじい怪物でもあるように。
そして補祭がバスで何やら唱えはじめると、彼女にはその度にそれが、「マーリヤー!」という叫ひ声に聞えた――彼女はぶるぶる震えていた。
三
村ではじき客の到来を知り、彌撒《ミサ》が終わると、大勢の人達がぞろぞろ小屋へ集まって来た。レオーヌィチの家の者も、マトヴェイの家の者も、イリイチの家の者も、モスクワで奉公しているそれぞれの身内の者の消息を聞きにやって来た。読み書きの出来るジューコヴォの若者はひとり残らずモスクワへ送られて、そこできまって給仕とか廊下番とかになっていた。(ちようど河向うの村の若者達がパン焼きになるのと同じように)この習わしはかなり古く、今ではもう伝説の人になっているルカ・イワーヌイチというジューコヴォ村の百姓がモスクワの倶楽部の一つで食堂係を勤めていた農奴制時代以来のことで、この男が自分の下には土地の者しか使わなかったことにはじまるのである。ところがまた、この連中が少し有力になってくると、めいめい身寄りの者を呼び寄せては、それを酒場や料理店へはめ込んだのである。で、この時分からジューコヴォ村は、付近の住民連の間では、ハームスカヤとかホルーエフカとか(下司村とか下郎村とかの意)とばかり呼ばれるようになった。ニコライがモスクワへ送られたのは十一の年で、当時「エルミクージュ」遊園で桟敷方を勤めていたマトヴェイ一家のイワン・マカールイチに、奉公先へはめ込んでもらったのだった。で、今もニコライは、マトヴェイ一家の者に向っては、教訓的な口調で言うのだった!
『イワン・マカールイチはわっしの恩人でさ、あっしゃあの人のためにゃ、毎日毎晩、神様にお祈りを上げる義務があるでさ。なにせ、わっしがいい人間になったな、あの人のおかげだからね』
『なあお前さんや』 とイワン・マカールイチの妹の、背の高い老婆が涙声で言った――『わしら、もうあの人のことはさっぱり聞かねえだがの』
『あの人は、冬の間はオーモンに勤めていたんだが、この季節《シーズン》にゃなんでもどっか市外の遊園へ行ってるってことだよ……年をとりなすったでね! 以前にゃ、夏分は日に十ルーブリずつも持って帰んなさったもんだが、今じゃどこもかしこも不景気になったから、爺さんも困ってなさるだろう』
老婆や女房達は、フェルト靴をはいているニコライの足を見たり、その蒼白い顔を見たりして、いたましそうに言うのだった――
『お前は稼ぎ手じゃねえよ、ニコライ・オーシプイチ、稼ぎ手じゃねえよ! どうしてどうして!』
そしてみんなはサーシャを可愛がった。彼女はもう数え年の十一であったが、小柄な上にひどく痩せていたので、見かけは七つくらいにしか見えなかった。日焼けして、髪もろくに剪《き》り揃えてない長たらしい色のさめたシャツなどを着ているほかの小娘達の中では、大きな黒い眼をして、髪に赤いリボンなどを結んだ色白の彼女は、まるで野原で掴まえて家へ連れてこられた小さな獣のように物珍らしく思われたのである。
『この子はもう字が読めるんですよ!』とオリガは、わが娘をいとしむような眼で見やりながら吹聴した。『ちょっと読んでごらんよ、お前!』と彼女は、片隅から福音書を取り上げながら言った。『読んでごらん、正教の衆が聞いてて下さるから』
福音書は、どっしりとした革表紙の端々のまくれている古いもので、その本からはちょうど小屋の中へ坊さん達がはいって来たような匂いがした。サーシャは眉を上げて、高くうたうような調子ではじめた――
『――その去り行きし後、視《み》よ、主の使、夢にヨセフに現われて言う――「起きて幼児とその母とを携え……」』
『幼児とその母とを携え』オリガはこう繰り返して、興奮から真赤になった。
『――エジプトに逃れ、……わが告ぐる時まで彼処《かしこ》にとどまれ……』
「時まで」という言葉を聞くと、オリガはこらえかねて泣き出した。それを見て、まずマーリヤが泣き出し、ついでイワン・マカールイチの妹が泣き出した。老人は咳き込みながら、孫娘に何かしら褒美にくれるものはないかと気を揉みはじめたが、なんにもなかったのでただ片手を振った。こうして朗読が終ると、隣人達は感動し、オリガとサーシャとにいたく満足して家々へ散って行った。
祭日だというので、一家は終日家にいた。連れ合いからも、嫁達からも、孫からも、一様に婆さまと呼ばれていた老婆は、なんによらず万事を自分で取りしきってやろうとした。煖爐も自分で焚けば、サモワールも沸かし、野良への弁当運びにさえ自分で出かけて、あとで仕事が辛いとぶつぶつこぼすのだった。そして彼女は始終、誰かが余計に食いはしないか、爺さまや嫁達が手をあけてぼんやり坐っていはしまいかと、そんな心配ばかりしているのだった。どうかすると彼女には、居酒屋の鵞鳥が裏道から彼女の野菜畠の方ヘ行くらしい様子に聞える。と、彼女は長い棒を持って駈け出して、そのあと半時間くらいは、彼女自身のようにしなびて痩せた自分のキャべツ畠のまわりを、金切り声をあげて駈け廻る。かと思うとまた、彼女には、鴉が雛鶏《ひよこ》をねらっているような気がする。で、わいわい喚きながら鴉を追っかける――こうしたことがよくあった。こうして彼女は朝から晩まで、腹を立てたりぶつぶつ言ったり、時には、外を通っている人が足をとめるほどの大声で嘆き立てたりするのだった。
自分の老夫に対しても、彼女は優しいところなど微塵もなく、彼のことをよく、怠け者だのコレラだのと言って罵った。それは実際、ぐうたらな、頼りにならない百姓で、もし彼女が常に尻から追い立てなかったら、或は仕事など全然しないで、ただ煖爐の上に坐り込み、喋ってばかりいたかも知れないのである。彼は、息子をつかまえてくどくど、自分の敵《かたき》のことを話したり、毎日隣人から馬鹿にされているような気のしていることをこぼしたりするので、聞いている方では退屈でやりきれなかった。
『そうだよ』と彼は、両手を腰にあてて、まくし立てるのだった。『そうだよ……聖十字架祭(九月十四日)のあと一週間ばかりして、おら乾草を一プード三十カペイカで売っただよ、自分の勝手でな……そうだよ……そりゃよかっただ……ところが、つまり、おれが朝がた乾草を運んで行くというとさ、それも自分の勝手で、誰の邪魔もするわけじゃねえ。だのに、生憎とまた、見ると――居酒屋から村老のアンチープ・セデーリニコフが出て来たと思え。「やい、それをどこへ持ってくだ、この野郎?」てわけで、おらの耳をがんとぶんなぐりゃがっただ』
ところがキリヤークは、二日酔いで頭痛がひどくて、弟の手前がなんとなく恥かしかった。
『みんなウォーッカのせいだよ。ああ、ああ!』と彼は、痛む頭を振りながら呟いた。『だからよ、どうかみんな、弟も妹も、キリスト様のために勘弁してくれよ、おら自分でも喜んじゃいねえんだ』
祭日だというので、彼等は居酒屋で鯡《にしん》を買って来て、その頭でスープを煮た。午《ひる》には一同お茶を飲むために腰をおろして、長いこと、汗の出るまでそれを飲んだ。そしてお茶でふくれたようになってから、今度はみんなが一つ壷からスープを啜り出した。が、鯡は婆さまが隠してしまった。
夕方になると陶器工が崖の上で壷を焼いた。下の方の草場では娘達が円舞を踊ったり、唄をうたったりした。手風琴を弾いている者もあった。河向うでもやはり一つの竈《かまど》に火がはいって、娘達がうたっていたが、遠くから聞いていると、それは調子のいい優しい唄のように思われた。居酒屋の中とそのまわりでは百姓達が騒いでいた。彼等は酔っただみ声で、てんでに自分勝手にうたったり、聞くに堪えぬ言葉で罵り合ったりしていた。オリガはそれを聞くと震えあがって、思わずこう言ったほどである――
『あれまあ神様!……』
彼女を驚かしたのは、そうした罵声がひっきりなしに聞えて、しかも明日にもお暇の出そうな老人までが、誰よりも大声にいつまでも毒づいていたことだった。ところが、子供達や娘達は、それを聞いても少しも気にする様子はなかった。明らかに彼等は揺り藍の中からそれには慣れっこになっていたのである。
真夜中過ぎると、竈の火は、こちらのも河向うのも消えたが、下の草場や居酒屋では人々がまだ騒いでいた。老人とキリヤークとは泥酔して腕を組み合い、両方から肩で突き合いながら、オリガとマーリヤの寝ていた納屋の方へやって来た。
『よせやい』と老人はたしなめた――『よせってことよ……あれはおとなしい女だあ……罪だあよ……』
『マーリヤ!』とキリヤークは叫んだ。
『よせやい……罪だよ……あれやいい女じゃねえか』
ふたりは、ちょっとの間納屋の傍に立っていて、歩き出した。
『わしは野に咲く花が好き!』と不意に老人が高い、よく透るテノールでうたい出した。『草場で花を摘むが好き!』
それからペッと唾を吐いて、汚ない言葉を吐き散らしてから小屋の中へ姿を消した。
四
婆さまは、サーシャを自分の野菜畑の傍に立たせて、鵞鳥を寄せつけないように番をしろと言いつけた。八月の暑い日であった。居酒屋の鵞鳥は、裏手から野菜畠へ忍び込むことが出来たのだが、今は自分の仕事に追われて、おとなしくべちゃくちゃ喋りながら居酒屋の傍の燕麦を喰べていた。ただ雄鵞鳥が一羽だけ、棒を持った婆さんが現われはしないかと見張りでもするように、頭を高く持ち上げていた。また、ほかの鵞鳥どもは、下の方からくることが出来たのだが、これも今は、遠く河向うの草場の上に長い真白な花環のようになって餌を漁っていた。サーシャは暫く立っていたが、やがて退屈になってきたので、鵞鳥がこないのを見すまして崖縁の方へ歩き出した。
そこで彼女は、マーリヤの総領の娘モーチカを見つけた。モーチカは、大きな石の、上に佇んで教会の方をじっと見ていた。マーリヤは十三度お産をしたのだが、無事でいるのは六人きり、それもみな女で、男の子はひとりもなく、総領はやっと八つであった。モーチカは長たらしいシャツを着て、跣で炎天に立っていた。太陽は真向から脳天を照りつけていたが、彼女はそんなことには気もつかぬ様子で、まるで化石した人間のようであった。サーシャは彼女と並んで立って、教会の方を見やりながら言葉をかけた――
『教会には神様がいらっしゃるのね。あたし達のお家じゃランプや蝋燭をつけるけど、神様のお家では、赤や、青や、紺色の眼のような燈明がとぼるのね。神様は夜中になると、教会の中をお歩きになるのよ。聖母様やニコライ聖者様とご一緒に――すっ、すっ、すっと足音をさせて……だから番人はとてもとても恐いんだって! まあね、お前さん』と彼女は母親の口調を真似て言い足した。『そして、世界の終りの日になると、教会はみんな天へ昇ってしまうんだって』
『あの|かーねー《ヽヽヽヽ》も一緒に?』とモーチカは一言一言を長く引張りながらバスで訊いた。
『鐘も一緒によ、そしてその終りの日には、善い人は天国へ行くんだし、わるい人はいつまでたっても消えない火の中で焼かれるんだって。ねえ、お前さん。あたいのお母さんやマーリヤには神様がこう仰しゃるのよ! お前達は誰ひとり人を辱しめるようなことはしなかった。だから、右の方へ、天国へ行くがいいって。が、キリヤークや婆さまにはこう仰しゃるわ――お前達は左の方へ、火の中へって。肉を食べた人もやっぱり、火の方へ行くんだって』
彼女は空を見上げ、眼を大きく見開いて、こう言った――
『空を見てごらん、瞬きしないで――天使が見えてよ』
モーチカも同じように空を見上げはじめた。一分ばかりが沈黙のうちに過ぎた。
『見える?』とサーシャが訊いた。
『見えないよ』とモーチカはバスで答えた。
『あたいは見えるわ。ちっちゃい天使がどっさり空を飛んでるわ、翼を動かして――ちっちゃくて、ちっちゃくて、まるで蚊みたいだわ』
モーチカは、暫く地面を見て考えていてから、こう訊いた――
『婆さまは焼かれるの?』
『焼かれるさ、お前さん』
その石から崖の下までは、手で撫でてやりたいような、その上へ寝転びたくなるような柔かな緑の草に蔽われた、平らな、なだらかな斜面になっていた。サーシャはそこへ寝て下の方へすべりおりた。モーチカは真剣な、ものものしい顔をして、息をはずませながら同じように寝てすべりおりた。その時、彼女のシャツは肩まで裂けた。
『あらまあ、おかしい!』とサーシャは嬉しがって叫んだ。
ふたりは、もう一度すべるために上へあがった。が、その時、聞き馴れた、軋《きし》むような声が聞えて来た。おお、なんという恐ろしさだったろう! 歯のない骨と皮ばかりのような婆さまが、短い白髪を風に吹き乱され、長い棒を持って、野菜畠から鵞鳥を追い出しながら叫んでいるのだった――
『キャベツをみんなつついてしまやがった。畜生め、くたばりぞこないめ、罰あたりめ、死んじまやがれ!』
彼女は女の子達を見ると、棒をほおり出して、枯れ枝を拾い上げ、ぱさぱさに乾いた鬼びしのように硬い指でサーシャの頸根っこを掴んで、びしびしと打ちはじめた。サーシャは痛さと恐ろしさから泣き出した。と、この時、雄鵞鳥が、頸を前へ突き出し、片足ごとにひょこひょこ揺れながら婆さまの傍へ駈けて来て、何やら叱るような声で鳴きたてた。それから、彼が自分の仲間の方へ帰って行くと、今度は一同の雌鵞鳥どもが、励ますように鳴いて彼を歓迎した――があ、があ、があ! ついで、婆さまはモーチカを打ちはじめた。この時にも、モーチカのシャツはまた裂けた。絶望を経験し、大声にわんわん泣きながら、サーシャは言いつけるために小屋へ駈け込んだ。モーチカもそのあとに続いた。これも同じように泣いてはいたが、この方はバスで、涙を拭こうともしなかったから、その顔はまるで水に浸けたように濡れていた。
『まあ、どうしたの!』ふたりが小屋へはいって行くとオリガがびっくりして叫んだ。『聖母様!』
サーシャは話しはじめた。そこへ金切り声で喚きたてながら婆さまがはいって来た。フョークラもつまらぬことに腹を立てた。そして小屋じゅうが大騒ぎになった。
『いいよ、いいよ!』とオリガは真蒼になって、おろおろして、サーシャの頭を撫でながら慰めた。『あれは――お婆さんだからね、あの人に怒ったりしちゃ罪だよ。 なんでもありゃしない、いいよ、いいよ』
ニコライ――かねてもう、この絶え間ない喚きや、飢えや、炭気や、悪臭につくづく嫌気がさし、貧乏を憎悪し軽蔑し、妻や子に対して自分の父や母を恥かしく思っていたニコライは、煖爐の上から両足をだらりとさげて苛々した泣声で、母に向ってこう言った――
『あなたは、あれを打《ぶ》つことは出来ません! あなたには、あれを打つ、なんの権利もありませんよ!』
『ふん、お前なんか煖爐の上で転がってるがいいだよ、やくざ者!』と、フョークラが毒々しく彼に怒鳴った。『お前なんか、なんだってこんなとこへ来たんだ、ごく潰《つぶ》しめ!』
サーシャも、モーチカも、そこにいた女の子はみな煖爐の上へ這い上って、片隅のニコライのうしろに小さくなり、鳴りをひそめて、そこから恐る恐るすべてのことを聞いていた。と、その耳には、彼等の小さい心臓の鼓動までがハッキリ聞えた。一軒の家にもう長いこと望みのない病気をしている者があると、時には家じゅうの者がみなおずおずと、誰にも言わずに心の底で、その死を願うような重苦しい瞬間のあるものだが、ただ子供達だけは、どんな場合にも身内の者の死を恐れて、それを考えただけでも恐怖を感ずるのが常だ。今も女の子達は、息を殺し、悲しそうな表情を顔に浮べて、ニコライを見ながら彼がもうじき死ぬであろうことを考えて、泣きたいような、何か優しい同情の籠ったことを言ってやりたいような気がしていたのである。
彼はオリガにぴったりと身を寄せて、さながら彼女に保護を求めるような様子をしながら震え声で静かに言った!
『なあオーリャ、おれは我慢にももうこの家にゃいられない。もうとてもその力がないよ。後生だからひとつお前、お前の妹のクラーウデヤ・アグラーモヴナのところへ手紙をやって、ありたけのものを全部、売るなり質に入れるなりして、その金を送ってもらってくれ。おれ達はここから出て行こう。ああ、ああ』と彼は堪え難そうな調子で続けた――『せめてひと眼でもいい、モスクワが見たいよ! 夢にでもいい、モスクワが見たいよ!』日が暮れて小屋の中が暗くなると、口を利くのも物憂いほど憂鬱になった。ぶりぶりしていた婆さまは、裸麦パンの固いところを茶碗に漬けては、長いこと、まる一時間もかかってそれを啜っていた。マーリヤは牝牛の乳を搾り、乳桶を持って来て、それを腰掛の上へ置いた。婆さまはやがてそれを、同様長いことかかってゆっくりゆっくりと桶から壷へ移した。今は聖母昇天祭の精進期で、誰も牛乳を飲もうとはしないから、それがそっくリ残るであろうことに、ひとりで北叟《ほくそ》笑みながら、そしてほんのちょっぴり、フョークラの赤ん坊のために小皿へ注いだ。それから彼女とマーリヤとが壷を穴倉へ運んで行くと、モーチカが急に挑ね起きて煖爐から這いおり、パン屑のはいった木椀の載っていたベンチの傍へ行って、木椀の中へ皿の牛乳をあけてしまった。
婆さまは小屋へ戻って行くと再び自分のパン屑にとりかかった。サーシャとモーチカとは煖爐の上に坐って彼女を見ていた。ふたりには、婆さまが精進を破ったから今ではもう地獄へ行くに違いないことが嬉しかったのである。彼女達はそれに慰められて眠るべく身を横たえた。サーシャは、うとうとしながら最後の審判のことを想像していた――陶器焼きの竈のような大きな竈がさかんに燃えていて、牛のような角のはえた全身真黒な鬼が長い棒で婆さまを火の中へ追い立てていた。ちょうど先刻婆さま自身が鵞鳥を追っていた時と同じように。
五
聖母昇天祭の晩の十時過ぎ、下の草場で遊んでいた娘や若者達が、不意にけたたましい声をあげて村の方へ駈け出した。上の崖縁に腰をおろしていた連中は、初めのうち、どうしてそんなに騒ぐのかさっぱりわけがわからなかった。
『火事だあ! 火事だあ!』下の方で、こういう絶望的な叫び声が起った。『火事だよう!』
崖の上に腰をおろしていた人々は振り返った。と、彼等の前には恐ろしい、ただならぬ光景が展開された。村はずれの小屋の一つの藁葺屋根の上に、一サージェン(約七尺)ばかりの火柱が立ち、それがぐるぐると渦巻いて、まるで噴水のように、八方へ火花を撒きちらしていた。そしてみるみる屋根全体が物凄い火炎に包まれ、ぱちぱちという燃えさかる火の音が聞えた。
月の光が暗くなって村全体が早くも真紅の震える光に包《つつ》まれてしまった。地上には黒い影が這い、物の焦げる臭いがした。下から駈け上って来た人達はみんな息を切らして、震えのために口が利けず衝き当ったり、転んだり、時ならぬ光に眼をくらまされて、お互いの見分けがつかなかったりした。恐ろしかった。特に恐ろしく思われたのは、火炎の上の煙の中を鳩が飛び廻ったり、また火事のことを知らなかった居酒屋で、何事もなかったように、依然としてうたったり手風琴を弾いたりしていることであった。
『セミョーン小父んちが焼けてるだあ!』誰かが大きな荒くれた声でこう叫んだ。
マーリヤは、火事はずっと遠くの村はずれだったのに、泣いて手を揉みしだきながら歯をカチカチ鳴らして、自分の小屋のまわりをうろうろしていた。ニコライはフェルト靴をはいて出て来たし、子供達はシャツ一枚で駈け出して来た。駐在巡査の小屋のあたりでは鉄板を打ち出した。じゃん、じゃん、じゃん……という音が空中を飛び廻り、そのものものしい、掻き乱すような響きから、心臓が締めつけられて、身うちが寒くなってきた。年とった女達は聖像を抱えて立っていた。羊や、犢《こうし》や、牝牛などは、屋敷内から往来へ追い出され、箱や、羊皮や、桶などが運び出された。他の馬を蹴ったり傷つけたりするので、馬群の中へ放されなかった黒の牡馬は、自由にされたので、嘶《いなな》きながら、蹄の音高く二度ばかり村じゅうを駈け廻ったが、急に荷馬車の傍に立ちどまると、後脚でそれを蹴りはじめた。
河向うでも、教会で鐘を鳴らし出した。
燃えている家の近くは熱く、地上の草の一本一本さえハッキリと見えたほど明るかった。ようやく持ち出された箱の一つに、大きな鼻をした赤毛の百姓セミョーンが、背広服に、縁なし帽を耳が隠れるはど深くかぶって腰掛けていた。その女房は俯伏《つっぷ》しに倒れて、正気を失ったまま唸っていた。侏儒《こびと》のように小さいくせに大きな顎鬚をはやした八十ばかりの老人が、土地の者ではないが、明らかに火事に係わりのある様子で、帽子もかぶらず白い包みを両手に抱えて、その辺をうろついていた。その禿げ頭には火の光が映っていた。ジプシイのように顔が浅黒く髪の黒い村老のアンチープ・セデーリニコフは、斧を手にして小屋へ近づくと、なんのためやら一つ一つ窓を壊して廻った――ついで入口の段々を壊しはじめた。
『女ども、水だ!』と彼は叫んだ。『ポンプを持って来《こ》う! 早くするだあ!』
たった今まで居酒屋で騒いでいた百姓達がポンプを曳き出して来た。みんな酔っ払っていたので躓《つまず》いたり倒れたりした。誰も彼も頼りなげな顔つきで眼に涙を浮べていた。
『女《あま》っ子ども、水だよう!』と、これも酔っ払っていた村老は叫んだ。『早くするだ、女《あま》っ子ども!』
女房達や娘達は泉のある下の方へ駈けて行き、バケツや手桶に一杯ずつ上まで運んで来て、それをポンプの中へあけると、また駆け出して行った。オリガも、マーリヤも、サーシャも、モーチカも水を運んだ。女達と腕白どもがポンプを押すと、ホースがしゅうしゅう言い出した。村老はその筒先を戸口へ向けたり窓へ向けたりしながら、指で筒先を押えていたので、それはますます、高い音をたててしゅうしゅう鳴った。
『凄えぞ、アンチープ!』こういう激励の声々が聞えた。『しっかりやれよ!』
アシチープは、燃えている家の入口へ這い込んで、そこから叫んだ―
『しっかり押すだ! さあ正教の衆、こんな災難の時にゃしっかり働くだ!』
百姓達は、ひと群れになって立ったまま、手を拱《こまね》いて火を見ていた。誰も何から手をつけていいのか、どうしていいのかわからなかった。しかも周囲には、穀物の束や、乾草や、納屋や、枯れ枝の堆積《やま》などがあったのである。そこにはキリヤークも、その父のオーシップ爺さんも立っていた。ふたりとも一杯機嫌だった。そして、自分達ののらくらしている弁解でもするように、老人は地面に倒れている女に向ってこう言った――
『何をくよくしてるだ、おばさんよ! 家にゃ保険がついてるじゃねえか――泣くことがどこにあるだね!』
セミョーンは、あの人この人に向って、どうして火事が起ったかを説明していた。
『この包みを抱えてるちっこい爺さまがよ、ジューコヴォ将軍さまんとこの奉公人だが……あの将軍さまんとこで、料理人をしてただが、昨夜《ゆうべ》おらの家へやって来てよ、「ひと晩泊めてくんろ」こう言うでねえか……そして、知れたこと、一杯ずつふたりで飲んだだよ……婆さまはサモワールの傍でごそごそやってただ――爺さまにお茶を振舞うちゅうわけでね、ところが生憎よ、サモワールを入口で沸かしてたもんで、つまり、煙突の火が真直ぐ屋根へ上ってよ、そこで藁に燃えついたと思え。おら達は危くおっ死ぬところよ。爺さまは帽子を焼いちまうしよ、罪なこんだよ』
その間も鉄板はひっきりなく乱打され、河向うの教会の鐘もしきりに鳴っていた。オリガは全身|火光《かこう》に包まれて、息を切らして、真赤な羊や、薔薇色に染まって煙の中を飛んでいる鳩を見ながら丘を上へ下へと駈け歩いていた。彼女には、そうした物音が鋭い刺になつて彼女の魂を突き刺す気がした。また火事はいつになっても終らないような、サーシャが行方不明になったような気がしていたのだ……やがて、どっと音をたてて小屋の天井が焼け落ちた時には、今夜はきっと村じゅうが焼けてしまうような気がしたので、彼女はがっかりしてしまい、もはや水を運ぶ力もなく、傍へバケツを置いたまま崖縁へ坐り込んでしまった。その傍や下の方には女房達が坐って、まるで死人でも悼《いた》むように大声に歎いていた。
が、やがて河向うのお屋敷の荘園から、管理人や下男達が二台の馬車に分乗して、ポンプを曳いて駈けつけた。白い夏服の前をはだけたまま、まだほんの若いひとりの大学生が馬に乗って飛んで来た。斧で打つ音が起り、燃えている梁へ梯子が掛けられて、見る間に五人の男が、それを伝わって駈け上ったが、その先頭には例の大学生が立っていて、真赤になって、鋭い嗄れ声で、消防には馴れているような調子で叫び出した。彼等は小屋を叩き壊し、家畜小屋や、編み垣や、近くの草の山などを引き離した。
『奴等に壊させるな!』群衆の中に、こう言うきっとした声々が響いた。『壊させるな!』
キリヤークは、他所者《よそもの》の破壊を邪魔しようとするような決然たる顔つきで小屋の方へ進んだが、労働者のひとりが彼をくるりと後ろへ向け直して、ひとつどんとその頸をくらわした。どっと笑い声が起った。下男がもう一度くらわすと、キリヤークはそこへ打《ぶ》っ倒れ、四つん這いになって、もとの人混みの中へ這い戻った。
また河向うから、帽子をかぶった美しい娘がふたりやって来た――きっと大学生の姉妹に違いなかった。ふたりは少し離れたところに佇んで火事を見ていた。引き出された丸太は、もう燃えてはいなかったが、物凄く煙を吹いていた。大学生はホースを持って働きながら、その筒先を、或はこれらの木材へ、或は百姓達へ、或は水を運んでいる女達の方へ向けた。
『ジョールジ!』と娘達は叱るように心配らしく彼に叫んだ。『ジョールジ!』
火事は終った。人々は、そろそろ散りはじめる頃になって初めて、もう夜が明けかかっていて、みんなが蒼ざめてこころもち浅黒い顔をしていることに気がついた――空に最後の星の消えてゆく時分の早暁には、いつもそんなふうに見えるものである。百姓達は思い思いの方へ帰りながら、笑ったり、ジューコヴォ将軍の料理人のことや、焼けてしまったという帽子のことなどで、ふざけたりしていた。彼等はもう、火事を冗談にして、それがこんなに早く消えてしまったのを残念がっているようであった。
『旦那、あなたは上手にお消しなさいましたわね』とオリガは大学生に言った。『あなたなんかこそわたくしどものモスクワへいらっしゃるとようございますわ――あちらでは毎日のように火事がありますから』
『じゃあ、あなたはモスクワからいらしたの!』と令嬢のひとりが訊いた。
『さようでございますよ。わたくしの連れ合いはスラビヤンスキイ・バザールで働いていましたのでございます。そして、これがわたくしの娘でございますの』彼女はこう言って、寒がって自分にしがみついているサーシャを指した。『これもモスクワっ子でございますわ』
ふたりの令嬢はフランス語で何か大学生に、言った。大学生は二十カペイカ銀貨を一つサーシャに与えた。オーシップ爺さんはそれを見ていた。その顔には急に希望の光が輝き出した。
『閣下さま、神様のおかげで、風がござりませなんだで』と彼は学生の方を向いて言った――『でなかろうものなら、一時間で燃えちまったでございますだ。閣下さま、いい旦那さま』と彼はもじもじしながら声を低めて言い足した――『暁方はなかなか冷えますだで、少し温まらなきゃなりませんだ……お情けで、半壜でも買っていただけますと』
が、なんにも与えられなかったので、彼は溜息をついて家の方へよろめいて行った。オリガはそれから暫く崖縁に佇んで、二台の荷馬車が河の浅瀬を渡って行くさまや、旦那方が草場を歩いて行くのを見送っていた。彼等の馬車は河向うに待っていたのである。やがて家へ帰ると、彼女は感極まったような口吻で夫に話した――
『ほんとに立派な方! 綺麗な方! お嬢さま方ときたら――まるで天使ですよ』
『あんな奴ら八つ裂きにでもされちまうがいいんだよ!』と半分眠っていたフョークラが、毒々しくこう呟いた。
六
マーリヤは自分を不運な女だと考えて、いつも死にたい死にたいを口癖にしていた。だがフョークラには反対にこの生活がその性に合っていた――貧乏も、不潔も、絶え間ない口喧嘩も。彼女は与えられる物をなんでも、選り好みしないで食べ、どこにでも、なんの上にでも、行きあたりばったりに眠った。汚水を敷居の上から入口の段々へ撒きすてて、その水溜りの上を跣でびちゃびちゃ歩くことも平気であった。そして彼女は、そもそもの最初の日から、オリガとニコライに反感を持ったが、それは彼等がこの生活を嫌ったからであった。
『まあま、お前さん方がここで何をお食べなさるか見てましょうよ、モスクワの貴族さまがた!』と彼女は意地わるな口調で言った。『まあま、見ていましょうよ!』
或る朝――それはもう九月の初めであった。――寒さに薔薇色になった健康そうな美しいフョークラは、下から水桶を両手に提げて上って来た。この時、マーリヤとオリガとは卓の前でお茶を飲んでいた。
『お茶と砂糖か!』フョークラは嘲けるような調子で言った。『奥さま方は違ったもんだよ』と彼女は、桶をそこへおろしながら言い足した――『毎日お茶を飲むなんて、とんでもないことを流行《はや》らしゃがって。お茶でお腹がパンクしないように気をつけるがいい!』と彼女は、憎さげにオリガを見ながら続けた。――『モスクワで遊び過ぎて、そんなに食らいふとったんだろう、太つちょめが!』
彼女は天秤棒をひと振りしてオリガの肩を打ったので、ふたりの嫁は呆気にとられ、手を拍ち合わせてこう言った――
『ああ、神様』
それからフョークラは河へ肌着の洗濯に行ったが、歩いて行く間ずっと小屋にいてさえ聞えるほどの大声で毒づいていた。
一日が過ぎた。長い秋の夜が来た。小屋では絹を繰《く》っていた。フョークラを除くみんなが繰っていた――フョークラは河向うへ行っていたのである。絹は近くの工場からとってくるのだが、家内じゅうで働いても何ほどの稼ぎにもならなかった――一週間にやっと二十カペイカくらいであった。
『旦那のとこに奉公してた時分の方がよっぽどましだったよ』と絹を繰りながら老人は言った。
『働いて、食って、寝てさえいりゃよかった。午もシチューとカーシャ、夜もシチューとカーシャ。胡瓜漬やキャベツはいくらでも、食いてえだけ鱈腹《たらふく》食ったもんだ。その上、掟はもっとしっかり守られてよ。誰でもみんな自分を知ってたもんだ』一つきりの豆ランプが点《とも》って薄暗く燻《くすぶ》っていた。誰かがランブを遮《さえぎ》ると、大きな影が窓をふさいだので、明るい月の光が見えるのだった。オーシップ老人は、ゆっくりした口調で、農奴解放前まではみんながどんな生活をしていたかということや、今ではこんなに退屈な、みじめな生活の送られているこの同じ土地で、昔は、ゴンチイ犬や、ボリゾイ犬や、プスコフ犬を使って、どんなに大がかりな猟をやったか、その狩立ての時には、百姓達はどんなにふんだんにウォーッカを振舞われたかということや、若い主人達のために、獲物の鳥を積んだ荷馬車隊が、どんなにモスクワへ向けて進んだかということや、悪人どもはどんなに鞭でひっぱたかれたりトウェーリの領地へ送られたりしたか、善人達はどんなに褒賞されたかということなどを話して聞かせた。と、婆さまも何かしら話した。彼女はありとあらゆることを完全に覚えていた。彼女は自分の昔の女主人に就いて話した。それは気立ての優しい、信心深い女であったが、夫は道楽者で放蕩者であったこと、おまけにその娘達がみな揃いも揃って、とんでもない結婚をしたこと――ひとりは飲んだくれの夫を持ち、ひとりはつまらない町人のところへ嫁ぎ、三人目はこっそりと盗み出された(婆さま自身、その時分は娘であったから、そのかどわかしに手を貸したのであった)こと、そして三人とも、その母親同様に、悲歎のあまり世を早めたことなどを話して聞かせた。婆さまは、そんなことを言い出して、しくしく泣き出したくらいであった。
突然、誰かが扉を叩いたので一同は震えあがった。
『オーシップ小父や、ひと晩泊めてもらいてえんだが!』
禿げ頭の小柄な老人、あの帽子を焼いてしまったというジューコヴォ将軍の料理人がはいって来た。彼はそこへ腰を落ちつけると、みんなの話に耳を傾け、それから自分でも思い出すままにいろんなことを話し出した。ニコライは煖爐の端に腰掛けて、両足をだらりとさげたまま話に聞き入り、のべつ、旦那のところではどんな料理を作ったかと訊くのだった。彼等はビフテキだの、カツレツだの、いろんなスープだの、ソースだののことを話した。そして、この料理人もなんでもよく記憶していて、今では無いような料理の名をいろいろ挙げた――例えば、牛の眼玉で調理する「朝のお眼ざめ」と呼ばれていた料理などがあった。
『じゃその時分には、カツレツ マレシャールを拵《こしら》えたかね?』とニコライは訊いた。
『いいや』
ニコライは非難めかしく頭を振って言った――
『ああ、じゃお前さんは、大した料理人じゃないね』
女の子達は煖爐の上に坐ったり寝転がったりして、瞬きもしないで下を見おろしていた。どうやらその数はかなり多いらしく――まるで雲の中の天使のようであった。彼等には、話ならなんでも気に入った。彼等は、或は歓喜から、或は恐怖から、溜息をついたり、震えたり、蒼くなったりしていたが、誰よりも一番面白く話した婆さまの話の時には、身動きするのも恐れながら息を殺して聴き入っていた。一同は黙々として眠りに就いた。話に心をかきたてられて興奮していた老人達は、若い時がどんなによかったかということに就いて、しかも、それは如何なるものであったにせよ、あとにはただ一つの生き生きした喜ばしい感動的なものが思い出の中に残っているに過ぎないということに就いて考えていた。それからまた、もう山の向うにあるわけではない死という奴がどんなに恐ろしく冷酷なものであるかを考えていた――いや、死のことなどは考えない方がいい! 豆ランプは消えた。と、暗闇や、くっきりと月光に照し出されている二つの窓や、静寂や、揺り籃の軋りまでが、なぜかただ、生活は最早過ぎ去った、それはどうしても、もう二度とは帰って来ないということを思い出させた……とろとろとなって、忘我の境に入る。と、突然誰かが肩に触ったり、額へ息を吹きかけたりすると、もう眠りは失われて、からだは寝疲れてしびれたようになり、頭へは依然として死の想念ばかりがもぐり込む。くるりと、ひとつ寝返りを打つと――死の考えはすぐに消え去るが、今度は、貧乏や、食物や、麦粉が高くなったということなどに就いての、もう久しい退屈な煩わしい想念が、頭の中をさまよい歩く。が、暫くするとまた、生活は最早過ぎ去って、再びは帰らないことが思い出される……
『おお、神様!』と料理人は歎息した。誰かが静かに静かに窓を叩いた。フョークラが帰って来たのらしい。オリガが起きて、欠伸《あくび》まじりに祈りの文句を呟きながら、扉をあけ、それから玄関の閂《かんぬき》をはずした。けれども、誰もはいっては来ないで、ただ往来から寒い風が吹き入り、あたりが月光のためにさっと明るくなっただけであった。開かれた戸口からは、ひっそりとした人気のない往来と、大空を泳いでいる月とが見えた。
『そこにいるのは誰?』とオリガは声をかけた。
『あたいだよ』こういう返辞が聞えた。『あたいだよ』戸口の傍に、ぴったりと壁に身を寄せて、素っ裸でフョークラが立っていた。彼女は寒さに震えてカチカチ歯を鳴らし、明るい月の光を浴びて、ひどく蒼白く、美しく、幻の女のように見えた。その肌に描かれた月光と影との縞がくっきりと眼に映り、とりわけその黒い眉と、若々しい、がっしりとした胸が際立ってハッキリ見えた。
『河向うで悪党めらが着物を剥いで、こんな裸にしやがったのさ……』と彼女は言った。『で、裸のまんま帰って来たんだ……お母あに生んでもらったまんまの裸でね。何か着るものを持って来ておくれったら』
『だけどお前、まあうちへおはいりよ!』とオリガは静かに言った。同じように震え出しながら。
『年寄り達に見られたくないからね』
実際、婆さまはもう気を揉んで、何やらぶつぶつ言っていたし、爺さまはこう訊いていた――
『誰だ、そこにいるな?』オリガは自分の肌着とスカートを持って来てフョークラに着せてやった。それからふたりは、音のせぬよう静かに扉をしめて小屋へはいった。
『ええ、おのれだな、のっペらぼうめ?』と婆さまは、それが誰であるかを察して、腹立たしげに呟いた。『う、手前なんか、くたばりやがれ……蝙蝠《こうもり》め!』
『いいのよ、いいのよ』とオリガはフョークラをかばうように囁いた――『大丈夫よ、お前さん』
再び静かになった。小屋の人々は、いつもぐっすりと眠ったことはなかった。何かしらうるさい煩わしいことに、みんなは眠りを妨げられるのだった――爺さまは背中の痛みに、婆さまは心労と腹立ちに、マーリヤは恐ろしさに、子供達は痒《かゆ》さとひもじさとに。今も一同の眠りは落ちつきのないものだった。誰も彼もごそごそ寝返りしたり、寝言を言ったり、水を飲みに起きたりしていた。
フョークラは不意にやけ声で、大声にわっと泣き出したが、すぐ自分を抑えた。そしてそれからはすっかり黙ってしまうまで、だんだんに声を落して、たまに啜り上げていた。ときどき河向うから、時計の鐘の音が響いて来た。が、その時計はちょっと変だった――五時を打った後で三時を打った。
『おお、神様!』と料理人は溜息をついた。
窓を見ても判断はつきかねた――まだずっと月が照っているのか、それとももう夜が明けかかっているのか。マーリヤが起きて外へ出て行ったと思うと、やがて庭の方で乳を搾りながら――『じっとしているだ!』こういう声が聞えた。婆さまも出て行った。小屋の中はまだ暗かったが、でも、もういろんな物が見え出してきた。
夜どおし眠らなかったニコライは煖爐の上から這いおりた。彼は緑色の箱から自分の燕尾服を取り出し、それをはおって窓の方へ行きながら、袖の皺《しわ》を伸ばしたり、折り目を撫でたりして微笑んだ。それから、注意深く燕尾服を脱ぎ、箱にしまって再び横になった。
マーリヤが帰って来て煖爐を焚きつけはじめた。彼女は、まだよく眼がさめきらない様子で、歩きながらふらふらしていた。多分夢でも見ているか、さもなければ、昨日の話でも思い出していたのであろう、煖爐の前で、気持よさそうに伸びをして、こう言った――
『いいえ、自由の方がいい!』
七
旦那がやって来た、――村では警察の署長をこう呼んでいたのである。彼がいつなんの為にやってくるのかは一週間前からわかっていた。ジューコヴォには、わずか四十世帯しかなかったのであるが、国庫と地方自治会に対する滞納金が二千ルーブリ以上も溜まっていたからである。
署長は居酒屋に足をとめた。彼はそこでお茶を二杯「おあがりになって」、それから徒歩で村老の家へ赴いた。その近くにはもう滞納者の群れが待ち受けていた。村老のアンチープ・セデーリニコフは、その若さにも拘らず――彼はやっと三十そこそこであった――なかなかのやかましやで、自分も貧乏で納税も滞り勝ちだったくせに、いつもお上の肩を持つのだった。明らかに彼は、自分が村老であることに喜びを感じ、権力意識が気に入っていたのであるが、厳格以外には、その表現方法を知らなかったのである。集会ではみんな彼を恐れて、その言うことに従った。彼はよく往来や居酒屋などで突然、酔漢に飛びかかり、それをうしろ手に縛り上げて留置場へほうり込むことがあった。二度など彼は婆さまを、彼女がオーシップの代りに集会へ来て悪態をついたというかどで留置場へほうり込み、そこに幾日も留め置いたことさえあった。彼はついぞ一度、街に住んだこともなければ、本を読んだこともなかったのだが、どこからかいろんな小むずかしい言葉を拾って来て、会話の中にそれを使うのが好きであった。百姓達はよくもわからなかったくせに、その点で彼を尊敬していた。
オーシップが自分の税金簿をもって村老の家へはいって行った時、頬に白い長鬚をはやしている痩せた老署長は、灰色の普段着姿で、上座にあたる一隅の卓に向って何やら書き物をしていた。家の中は小ざっぱりとして、壁という壁は、雑誌から切り抜いたいろんな絵で飾り立てられ、聖像の傍の一番眼につく場所には、前ブルガリヤ公バッテンベルヒの肖像が掛っていた。卓の傍には、アンチープ・セデーリニコフが腕組みをして突立っていた。
『閣下、この男の分は百十九ルーブリでございます』と彼は、順番がオーシップまで来た時に言った。『復活祭前に一ルーブリ納めたきり、一文も納めねえんでございます』
署長はオーシップの顔へ眼をあげて尋ねた――
『いったいどうしたことだね、兄弟?』
『どうぞお慈悲でございますだ、閣下様』とオーシップは、どぎまぎしながら言い出した――『なんでございますだ、去年、その、リュトレーツキイの旦那がわしに――「オーシップ、乾草を売れよ……な、おれに売れよ」こう言いなさったです。どうして売らねえことがありますだね? おらんちにゃその時、百プードばかり売る分がありましたよ、女どもが荒地で刈ったですよ……そこで値段をきめましただ……何もかも滞りなくうまい工合に……』
彼は村老に対する苦情を並べ立てて絶えず百姓達の方を振り向きながら彼等の証言を求めるような素振りを見せた。彼の顔は真赤になって、汗がにじみ、眼は鋭く毒々しく光ってきた。
『どういう気でそんなことをくどくど言ってるのか、わしにはわからん』と署長は言った。『おれはお前に訊いてるんだ……お前に訊いてるんだよ。なぜ滞納金を納めないのかって? お前達はみんな納めて居らんが、おれに責任を負わす料簡か?』
『わしには納める力がねえのです!』
『こんなことは皆、結果のない言葉であります、閣下』と村老は言った。『事実、チキリジェーエフ一家は、貧民階級には属しまするが、誰にでもお訊きになって下さいまし、その原因は皆――ウォーッカでございます。それに途方もない乱暴者で。とんと訳のわからん奴等で』
署長は何かを書きとめてから、オーシップに向って穏かに、まるで水の無心でもするような調子で言った。
『あっちへ行け』
間もなく暑長は帰途に就いた。彼が自分の安物の旅行馬車に乗り込んでから、ごほんごほん咳をしていた時には、その長い痩せた背中の表情を見ただけで、彼は最早オーシップのことも、村老のこともジューコヴォ村の滞納者のことも覚えてはいなくて、何か自分一個のことを考えているらしいのが明らかだった。彼がやっとまだ一露里も来ないうちに、アンチープ・セデーリニコフはもうチキリジェーエフの小屋からサモワールを持ち帰ろうとしていて、その後から婆さまが、胸を張り金切り声をあげて追いかけていた――
『おら、やらねえよ! お前なんかにゃ、やらねえよ、人非人《ひとでなし》め!』
彼は急いで大股に歩いていた。婆さまは息を切らし、ほとんど倒れんばかりに背中を丸め、狂暴な形相をしてその後から追っかけて行った。頭巾は肩へ摩《ず》り落ち、いくらか青みを帯びた白髪は風に吹き乱されていた。彼女は急に立ちどまると、本物の暴動者のように、両の拳で自分の胸を打ったり、ますます高く、うたうような声で、まるで泣くように叫んだりしはじめた――
『神様を信じてなさる正教の衆! 人をいじめるだよ! 搾《しぼ》るだよ! ああ、ああ、みなの衆、助けて下され!』
『婆さん、婆さん』と村老は厳然とした口調で言った。『ちっとは考えてものを言え!』
サモワールが姿を消したので、チキリジェーエフの小屋の中は見るから侘しいものになってしまった。この喪失の中には、まるで小屋から急にその名誉が剥奪されでもしたように、一種、卑しめられ辱められたようなものがあった。もし村老の押収したのが、卓とか、腰掛とか、壷とかいう類いのものであったら、みんな持って行かれてしまっても――これほど空虚な感じはしなかったであろう。婆さまは怒鳴るし、マーリヤは泣くし、女の子達もそれを見て一緒になって泣いていた。老人は、わが身に責任を感じて、片隅に項垂《うなだ》れて腰掛けたまま押し黙っていた。ニコライも黙っていた。婆さまは日頃は彼を愛し、いとしんでいたが、今はその憐憫《れんびん》を忘れて、いきなり彼の鼻先へ拳を突きつけ、罵詈《ばり》と叱責を以て彼に食ってかかった。彼女は叫ぶのだった、これはみんな彼のおかげだと。実際、彼は、「スラビヤンスキイ・バザール」で月々五十ルーブリずつもとっていると手紙のたびに吹聴してよこしながら、どうして家へはあんなに僅かばかり送って来たのか? なんのためにここへ帰って来たのか、おまけに女房子まで連れて? もし彼が死んだら、どういう金で葬式を出すのか?……こんなわけで、ニコライとオリガとサーシャとは、はたの見る眼もみじめなほどであった。
老人は咽喉を鳴らし、帽子をとって村老の許へ出向いて行った。もう暗くなっていた。アンチープ・セデーリニコフは、頬をふくらましながら煖爐の傍で何かハンダづけをやっていた。炭気が籠っていた。チキリジェーエフの子供達と大差ない、痩せた汚ならしい顔をした彼の子供達は、床の上にごろごろ転がっていた。不器量な大きな腹をした雀斑《そばかす》だらけの女房は絹を繰っていた。これも不幸な貧乏な一家で、ただひとりアンチープだけが、えらそうな身綺麗な風態をしていたに過ぎない。腰掛けの上にはサモワールが五個ずらりと並んでいた。老人はバッテンベルヒにちょっとお祈りを捧げてから言った――
『アンチープ、後生だからサモワールを返してくれろよ! お願い申すだ!』
『三ルーブリ持って来な、そうしたら返してやるよ』
『おらにゃそんな力はねえだよ!』
アンチープは頬をふくらました。火は、いくつものサモワールに反射しながら音をたてて燃えあがった。老人は帽子をくしゃくしゃに揉みながら、ちょっと思案してから言った――
『返してくれろよ!』
色の浅黒い村老の顔は、もう真黒に見えて、まるで魔法使いのようだった。彼はオーシップの方を振り返り、荒っぽい口調で早口に言った――
『万事自治会長の権限にあることだ。この二十六日に行政会議があるだから、もし不服があるならその時書面なり口頭なりで申し出るがいいだ』
オーシップはよく呑み込めなかったが、それに満足して帰途についた。
十日ばかりして署長はまたやって来たが、今度は一時間ばかりいただけで帰って行った。この頃は風立った寒い日和《ひより》が続いていた。河はもうとうの昔に凍っていたが、雪はまだ降らなかった。人々は道がなくなって難渋していた。とある日曜日の夕方、近所の百姓達がオーシップのところへ無駄話をしに集まった。彼等は暗い中で喋っていた。というのは、仕事をするのは罪だというので灯をつけなかったからである。かなり不愉快な新らしい話がいろいろ出た。二三の家では、滞納金のかたに鶏を押えて、それを村役場へ送ったが、そこでは誰も餌のくれ手がなかったので、片端しから死んでしまった。また、羊も押収して行ったが、それは繋がれて、村毎に荷馬車を変えながら送られて行くうちに、中の一頭がのびてしまったということであった。彼等は今、以上の話に対して責任が誰にあるかを論じ合ったのである――
『地方自治会よ!』とオーシップは言った。『ほかに誰があるだね!』
『知れたこと、自治会よ』
いっさいが自治会の罪にされた――滞納問題でも、圧制でも、不作の点でも。しかも誰ひとり、地方自治会とはなんであるか、それを知る者はなかったのである。そしてこれは、工場や、店や、宿屋を自分で持っていて、自治会の議員に出たこともある金持百姓達が、その制度に不満を感じて、後に自分の工場や居酒屋などで自治会の罵倒をはじめた時分からのことである。
彼等はまた、神様が雪を降らしてくれないことに就いても話した――もう薪を運ばなければならないのに、道が凸凹で、馬車で通ることも、歩くことも出来なかった。昔、十五年二十年前のジューコヴォでは話がもっとずっと面白かった。その時分には、老人達はみなそれぞれ何かしら秘密を持っていて、何事かを了解し、何か期待しているものがあるような顔をしていた。彼等は、金文字で印刷した勅令のことや、土地分配のことや、新らしい土地のことや、宝物のことなどを話したり、何か仄めかすようなことを口にしたりしたものであった。が、今のジューコヴォの人々にはなんの秘密もなく、彼等の生活は、掌上《しょうじょう》のものを見るように明白、誰の目にもあけすけで、彼等の話し得ることといえば、ただ貧乏とか、食い物とか、雪がないということだけであった……
一同は暫くの間黙っていた。そしてまたしても鶏や羊のことを言い出して、誰に罪があるかを論じ出した。
『自治会よ!』とオーシップは悲しそうな口吻で言った。『ほかに誰があるだね!』
八
教区の教会は、村から六露里ばかりのコソゴーロワにあった。そして百姓達は、ただ用のある時だけ、例えば洗礼とか、結婚式とか、葬式とかいう場合にだけそこへ行くのだった。お祈りには河向うへ行くことにしていた。天気のいい日曜日には、娘達は着飾って、群れになってぞろぞろと彌撒《ミサ》に出かけた。彼等がそれぞれ、赤や、黄や、緑の衣裳に飾られて、草場を通って行くさまを見るのは楽しかった。天気のわるい時には一同は家に籠っていた。精進の祈祷は教区の方でおこなった。大斎期にその祈祷を上げそこねた者からは、復活祭に僧が十字架を持って各戸を廻り、十五カペイカずつ徴集して行った。爺さまは神を信じていなかった、なぜなら、ほとんど一度も神に就いて考えたことがなかったから。彼は、超自然力を認めてはいたが、そんなものに係わるのは、ただ女どもだけのよくし得ることだと考えていたので、彼の前で宗教の話が出たり、奇蹟の話が出たりして、人からそれに就いての質問を受けたりすると、彼は頭を掻きながら気の進まぬ様子で答えるのだった――
『そんなこと誰が知るもんで!』
婆さまは信じていた。だが、はなはだ漠然としたものであった。彼女の頭の中では、すべての物がごっちゃになっていたので、彼女がようやく罪とか、死とか、魂のことを考えはじめるや否や、貧乏と当座の心遣いとが、その思考力を奪ってしまう。それで、彼女は忽ち、それまで考えていたことを忘れてしまうのだった。彼女は祈りの言葉を覚えていなかったので、毎夜眠りに就く時には聖像の前に立ってこう呟くのだった――
『カザンの聖母様、スモレンスクの聖母様、三本手の聖母様……』
マーリヤとフョークラとは、十字も切れば年々精進もしたが、なんの理解も持っているわけではなかった。子供達は、祈ることも教えられなければ、神の話など一向に聞かされず、どんな掟も守らせられないで、ただ精進日の肉食を禁じられていただけであった。どこの家でも、だいたい似たようなものであった――信じている者も少なければ、理解している者も少なかった。しかも同時に、彼等はみな聖書を愛していた。優しい敬虔《けいけん》な気持で愛してはいたが、第一、本がなかったし、誰もそれを読む者、説明する者がなかったのに、オリガが時々福音書を読んだので、そのため人々は彼女を尊敬して、彼女とサーシャには「あなた」言葉で口を利くのだった。
オリガはよく会堂の祭りに出かけたり、隣り村へお祈りに行ったり、修道院が二ケ所と教会が二十七ある郡役所町へ出向いたりした。彼女は、巡礼に歩いている間は放心したようになって、全く家族のことを忘れていた。そして帰途に着く頃になって初めて急に、自分には夫と娘とがあるという喜ばしい発見をするのだった。そんなとき彼女はニコニコして面を輝かしながら言うのだった――
『神様がお恵みを下さいました!』
村で起ることは、すべてが彼女に厭わしく思われ、それに悩まされた。彼等はイリヤ様の日にも、聖母昇天祭にも、聖十字架祭にも酒を飲んだ。聖母祭には、ジューコヴォで教区祭があったが、百姓達はその時にも三日間飲みとおした。共同基金を五十ルーブリも飲んでしまった上、各戸からウォーッカ代を徴集した。チキリジェーエフの家でも、最初の日に羊を殺して、朝も、昼も、晩も、それを食べた。腹いっぱい食べた。そのあと、また夜中にも子供達は食べるために起き出した。キリヤークは、三日とも正体なしに酔っ払って、帽子や長靴まで飲んでしまい、マーリヤを打《ぶ》って打って打ち据えて、彼女に水を打《ぶ》っかけなければならぬほどの騒ぎを演じた。が、あとでは、誰も彼も気恥かしくなって鬱《ふさ》いでいた。
とはいえ、ジューコヴォでも、このホルエーフカ(下司村)でも、一度は本物の宗教的儀式が行われたことがあった。それは八月のことで、そのとき人々は、村から村へと全郡を、生命を齎《もたら》す聖母像を担ぎ廻った。ジューコヴォでその像の渡るのを待ち受けたのは、静かな、どんよりと曇った日であった。娘達はもう朝のうちから一張羅を着飾って聖像を迎えに出かけ、夕方近く、十字行列と讃美歌とでそれを運んで来た。そのとき河向うでは、がんがんがんと三連鐘を鳴らし出した。村人と他村の人達との一大群衆が往来を埋めた。喧騒、塵埃、雑踏……爺さまも、婆さまも、キリヤークも――みな聖像の方へ両手を差し延べて、貪《むさぼ》るようにそれを見つめ、泣きながらこう唱えた――
『われらの守りなる聖母様! 聖母様!』
卒然として人々は、この大地と大空との間が空虚でないばかりか、富者や強者もまだ横領はして居らないこと、侮辱や、奴隷的束縛や、重苦しく堪え難い貧乏や、恐ろしいウォーッカからの護りがまだあることなどを理解したような様子であった。
『われらの守りなる聖母様!』とマーリヤは泣いた。『聖母様!』
しかし祈祷式が終って、聖像が運び去られてしまうと、万事は旧によって進み、居酒屋からはまたしても荒々しい酔いどれのだみ声が聞えて来た。
死を恐れるのはただ物持ち百姓だけであった。彼等は富めば富むほど、神を信じ魂の救いを信じる度が薄くなって、ただ地上生活の終りに対する恐怖のためばかりに、蝋燭を上げ、お祈りをするに過ぎなかった。が、貧しい百姓達は死を恐れなかった。爺さま婆さまに対しては、その眼の前で人々が、彼等はもう生きるだけ生きたのだから、そろそろ死んでもいい時分だなどと言ったが、彼等は意に介しなかった。彼等はまた、ニコライを前においてフョークラに、ニコライが死んでゆく時分には彼女の亭主のデニースも免役になって、兵隊から帰ってくるだろうなどと平気で言った。中でもマーリヤなどは、ただに死を恐れないばかりか、こんなに長く死の来ないのを残念に思っているくらいで、自分の子供達の死んだ時には寧ろ喜んでいたのである。
彼等は死を恐れなかったくせに、すべての病気に対しては常に誇張された恐怖を抱いていた。ほんのちょっとしたこと――胃の工合がわるいとか、軽い悪寒がするとかいうくらいのことでも、婆さまはもう煖爐の上へあがって、何かにくるまり、うんうん大声に捻り出し、のべつ――「死にそうだ!」を連発し出す。爺さまはあたふたと牧師を迎えに行き、婆さまに聖餐礼を施したり、聖油礼をおこなったりした。彼等は寄るとさわると、風ひきのこと、回虫のこと、最初腹の中でごろごろしていて、しまいには心臓の方へ押しかけてくる瘤腫のことなどに就いて話した。彼等が何より恐れていたのは風邪で、そのために彼等は、夏でも暖かく重ね着をして、煖爐の上で温まるのだった。婆さまは医者に診てもらうことが好きで、何かというと病院へ出かけたが、そこでは年を、七十でなくて五十八だと言うのだった。うっかりほんとうの年を知られようものなら、医者が直そうとはしないで、お前なんかもう死んでいい時分だ、治療することはいらん、こう言うだろうと考えたのである。病院へは彼女はいつも朝早く、女の子を二三人連れて出かけて、そして夕方、自分用の水薬と、女の子のための膏薬《こうやく》とを貰って、ぺこぺこに腹を減らし、怒りっぽくなって戻ってくるのだった。一度彼女はニコライを連れて行ったことがある。ニコライは、その後二週間ばかり水薬を服《の》んで大分よくなつたと言っていた。
婆さまは、周囲三十露里以内にいる賢者や、助医や、呪い師をことごとく知っていたが、気に入ったのはひとりもなかった。聖母祭(十月一日)に牧師が十字架を持って各戸を廻った時、寺男が彼女に、町の監獄の近くにもと軍隊の助医だった老人が住んでいて、それが非常に治療がうまいから、そこへ行ってみたらよかろうと勧めた。婆さまはその勧めに従った。初雪の降った日に彼女は町へ出かけて行って、青筋だらけの顔に裾長《すそなが》のフロックを着た鬚達磨《ひげだるま》の改宗者の老人を連れて戻って来た。ちょうどその時、小屋では日傭人達が働いていた――物凄い眼鏡をかけた年寄りの仕立屋は、ぼろぎれからチョッキを裁っているし、ふたりの若者は獣毛でフェルト靴を作っていた。飲酒のために解雇されて、今では家に住んでいたキリヤークは、仕立屋の傍に坐って、馬具の繕いをやっていた。小屋の中は狭苦しく、息苦しく、悪臭ぷんぷんとしていた。改宗者はニコライを診察して、これは吸角《すいふくべ》をつける必要があると言った。
彼は吸角をつけた。年寄りの仕立屋と、キリヤークと、女の子達とは立ってそれを見ていた。彼等には、ニコライの肉体から病気の出てゆくのを見ているような気がしていた。ニコライも、自分の胸につけられた吸角が、次第に暗い色の血で満たされてゆくのを見て、これも実際に自分の体内から何かが出てゆくように感じながら、満足そうにニコニコしていた。
『こいつはいいや』と仕立屋は言った。『うまく利いてくれるといいだがな』
改宗者はまず十二個の吸角《すいふくべ》をつけ、更にまた十二個つけてから、お茶を鱈腹飲んで帰って行った。ニコライはわなわな震え出した。顔は憔悴して、女達の言い草どうり、拳骨ほどに縮こまってしまい指は蒼黒くなってしまった。彼は毛布にくるまり、羊の皮衣にくるまったが、それでも、悪寒は募る一方であった。晩になると、彼は苦しみはじめて、床《ゆか》の上に寝かしてくれと頼んだり、仕立屋に煙草を喫まないでくれと頼んだりしていたが、やがて皮衣の下でおとなしくなって、朝のくるまでに死んでしまった。
九
おお、なんという荒涼とした、なんという長い冬だったろう!
もうクリスマス時分から、うちのパンは無くなって、彼等は粉を買っていた。今では家にいたキリヤークは、晩になると暴れては家じゅうの者に恐怖を抱かせたが、朝になると頭痛と恥かしさに悩み出して、はたの見る眼も哀れなほどであった。家畜小屋では、夜昼なく、飢えた牝牛の鳴き声が聞えて、婆さまとマーリヤの心を傷めた。そこへ持ってきて、まるでわざとのように、のべつぴちぴち凍《し》みわれるような凍寒《とうかん》が来て、高い雪堆《ゆきだまり》があちこちに出来た。そして冬は長びいた――受胎告知祭には本物の冬の吹雪があり、復活祭には雪が降った。
しかし、とにもかくにも冬は終った。四月の初めには、暖かい日々と寒い夜々が続いて、冬はどうしても退散しなかったが、或る暖かい日が冬を征服して、遂に――小川が流れ、小鳥がうたい出した。河に近い草場や木叢《こやぶ》は、すっかり春の水に浸され、ジューコヴォと向う岸との間の全|広袤《こうほう》は、早くも一面の大きな氾濫と化し去り、その上ではそこここに、野鴨が群れになって舞い上った。燃えるような春の落日は華麗な雲を伴って、夕べ夕べに、なんとなく異常な、新しい、真実とは思われないような、つまり、後になってこうした色彩こうした雲を絵などで見ることがあったにしても、とても信じられないだろうと思われるような光景を描き出すのだった。
鶴は矢のように飛びながら、心を誘うような悲しげな声で鳴いて行った。オリガは崖縁に佇んで、水の氾濫や、太陽や、きらきら光って、まるで若返ったように見える教会などを、長いこと眺めてみた。と、どこへでも、眼の向いた方へ行ってしまいたい、世界の果てへでも行ってしまいたいという思いが如何にも強くなったので、彼女は思わず涙を流し息をのんだほどであった。しかも、彼女がもう一度モスクワへ戻って下婢《はしため》の口でも見つけようということは、それと一緒にキリヤークも上京して家番なり何なりに住み込もうということは、もうちゃんと相談が出来ているのであった。ああ、一日も早く行ってしまいたい。
道が乾いて暖かになると、彼等は旅立ちの支度をした。オリガとサーシャとは袋を背負い、ふたりとも草鞋《わらじ》がけで、夜の引き明けに出立した。ふたりを見送るためにマーリヤも一緒に出かけた。キリヤークは身体の工合がわるかったので、一週間ばかり後に残ることにした。オリガは死んだ夫のことを思いながら教会の方へ向って最後のお祈りを上げた。泣き出しこそしなかったが、その顔は老婆のように皺だらけになり醜くなった。冬の間に彼女は痩せて器量が落ち髪もいくらか白くなって、前のような愛嬌と感じのいい微笑の代りに、もうその顔には受けた悲歎の従順な悲しげな色が現われてその眼眸《まなこ》にも、まるで聾《つんぼ》にでもなったような鈍い動かない表情があった。彼女には、田舎と百姓達に別れて行くのが悲しかった。彼女は、ニコライを墓へ送った時のこと、どこの家でも銘々に供養をしてくれたこと、彼女の悲しみに同情してみんなが泣いてくれたことを思い出した。ひと夏ひと冬を送った間には、ここいらの人達は畜生より劣った生活をしている、こんな人達と一緒に暮すのは恐ろしい――こんなふうに思った時や日も折々はあった。彼等は荒っぽくて、不正直で、不潔で、飲んだくれで、仲よく暮そうとはしないで、のべつ喧嘩ばかりしている。というのも、互いに尊敬することをせず、恐れ合い、疑い合っているからだ。居酒屋を経営して、百姓達を飲んだくれにしているのは誰だろう? 百姓だ。村組合や、学校や、教会の金を無駄使いしたり、飲んでしまったりするのは誰だろう? 百姓だ。隣り近所の物を盗んだり、放《つ》け火をしたり、ウォーッカ一壜のために裁判所で偽りの証言をしたりしたのは誰だろう? 地方自治会や、その他の集会で、真先きに百姓に反対して立つ者は誰だろう? 百姓だ。そうだ、彼等と一緒に暮すことは恐ろしかった。しかし、でも彼等もやっぱり人間だ。彼等もほかの人達のように、苦しみもすれば泣きもする。そして彼等の生活には、弁解の見出せないような行為は一つもない。夜ごと全身が疼《うず》き痛むような辛い労働、酷烈な冬、貧しい収穫、狭苦しさ、しかも救いはないのである、それを期待する当てすらもないのである。彼等より富める者、力強き者も、彼等を救うことは出来ない。なぜなら、彼等自身野蛮で、不正直で、飲んだくれだからである。彼等自身が同じように口汚く罵り合っているからである。最下級の官吏や店員すら、百姓に対しては、浮浪漢に対すると同様の態度で接して、村の年寄りや、教会の長老に対してまで「お前」呼ばわりをし、そしてそうする権利があるものと思っている。それにまた、ただ百姓達を侮辱し、搾取し、威嚇するだけが目的で村へ出かけてくるような、強欲非道、放蕩無頼な人間どもから、どんな助けや、いい模範が得られようか? オリガは、この冬キリヤークが笞刑《ちけい》を受けるために連れて行かれた時、老人がどんなに惨めたらしい卑下したような顔をしたかを思い出した……そして今では彼女には、これらの人々がみな気の毒で傷ましかった。で、彼女は歩いて行く間も絶えず百姓小屋の方ばかり振り返っていた。
三露里ばかり送ってくると、マーリヤは別れを告げた。それからそこに膝をつき、顔を地面に擦りつけて、声をあげて泣き出した――
『ああまたわたしはひとりぼっちになる、なんてわたしはこうまで可哀そうなんだろう、不仕合せなんだろう……』
そして長いこと彼女はそのまま泣いていた。オリガとサーシャにはなおいつまでも、彼女が跪《ひざまず》いたまま、両手で頭を掴んで、繰り返し繰り返し、わきの方へ向って誰かにお辞儀をしているのが見えていた。彼女の頭上には白嘴鴉《しろはしがらす》が飛んでいた。
太陽は高く昇って暑くなってきた。ジューコヴォの村はずっとうしろになった。歩くのが楽しかったので、オリガとサーシャはじき、村のことも、マーリヤのことも忘れてしまった。ふたりは気分が浮き浮きして、見るもの聞くものが心を楽しませた。或は古墳、或は電柱の連なり、それは一本一本と重なって、遠く地平線上に影を没しながら、どこへとも知れず続いているし、電線は神秘な音をたてて唸っている。或はまた遠方に、すっぽりと緑に包まれた一軒立ちの農家が見えて、その方から湿気と麻の香が漂ってくる。そしてなぜかそこには幸福な人達が住んでいるように思われる。かと思うと、今度は野中に一つきり、白く曝《さら》された馬の骸骨がある。雲雀は小やみなく囀《さえず》り、鶉《うずら》は互いに呼び交わしている。そして水鶏《くいな》は、まったく誰かが古い鉄の環をコトコトやってでもいるような声で鳴いている。
正午にオリガとサーシャとは大きな村へ着いた。そこの広い通りで、ふたりはジューコヴォの将軍の料理人だった小柄な老人に行き会った。彼はいかにも暑そうで、その汗ばんだ赤い禿頭は太陽にテカテカ光っていた。彼もオリガも、どちらもそれと気がつかなかったが、やがて同時に振り返って見てそれと知った。が、一言も交わさないで、それぞれ自分の道を先へ進んだ。他の家から見ていくらか物持ちらしい、少しは新しい百姓家の開け放った窓の前に足を止めると、オリガはお辞儀をして、声高に、細い、うたうような声で言った――
『正教の衆、キリスト様のために、お恵み下さいまし、あなたさまのお恵みで、親御さま方に天国のありまするよう、永久《とわ》の平安のありまするよう』
『正教の衆』とサーシャもうたい出した――キリスト様のためにお恵み下さいまし、あなたさまのお恵みで、天国を……』(一八九七年)
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故郷
一
ドン鉄道。草原《ステッピ》の真只中にぽつりと白く孤立して、炎熱のために壁が照りつけられ、影一つなければ、人っ子ひとりいないように見える、ひっそりとした陰気な停車場。汽車は、人をここへ投げ出して、行ってしまい、その音も有るか無きかに微かになって、遂に消え去ってしまう! 停車場の周囲は荒涼として、その人の馬以外には一匹の馬もいない。人は幌馬車に乗る、――これは、汽車のあとではいかにも乗心地がいい――そして草原の道路をドライブする。と、前には次第次第に、モスクワ付近ではとても見られないような、大きな、果しない、その単調さが魅力になっているような光景が展開する。草原、草原――そのほかにはなんにもない。遠くの方にぽつりと見えるのは、古い塚か風車である。牛車がのろのろと石灰を運んで行く……鳥が、一羽ずつ、平原の上を低く舞っていて、その翼の規則正しい動作は人に眠気を催させる。暑い。一時間、二時間と過ぎてゆくが、依然として草原また草原、依然として遥か彼方の古墳の高まり。馭者はしばしば鞭でわきの方を指しながら何かしら吃々《きつきつ》と話をする。要でもない話を長々とする。かくて心は無為平安に占められて、越し方のことなど、考える気も失せてしまうのである……」
三頭曳《トロイカ》がヴェーラ・イワーノヴナ・カルジーナを迎えに来ていた。馭者は荷物を積み込むと、輓具《ひきぐ》を直しはじめた。
『何もかも昔のまんまねえ』とヴェーラは付近を眺め廻しながら言った。『一番おしまいにここへ来た時には、あたしはまだ子供だったのよ、十年ばかり前のことだわ。あたし覚えているわ、その時はボリースって爺やが迎えに来てくれたのよ。あの爺や、まだ達者かしら?』
馭者はなんとも答えなかった。ただ怒ったように、小ロシヤ人らしくちらりと彼女の顔を見ただけで馭者台へ這い上った。
停車場からは約三十露里、馬車で行かなければならなかった。そしてヴェーラも、ご多分に洩れず草原の魅惑にうっとりとなって、過去のことは忘れてしまい、ただ、ここはなんてひろびろとしていて、なんて自由なのだろうと、そんなことばかり考えていた。健康で、聡明で、美しくて、若い――彼女はやっと二十三であった――彼女に、今日までその生活に欠けていたのは、まさしく、この広さと自由とだけだったのである。草原、草原……馬は走り、太陽は次第に高く昇る。そして彼女には、あの当時、子供の頃には、六月の草原も、こんなに豊かでこんなに華やかではなかったように思われる。草は花盛りで――緑、黄、紫、白、色とりどりに咲き乱れ、そしてそれらの花からも、照りつけられる地面からも、高い香気が鼻をつく……ヴェーラは既に久しく、祈る習慣からは遠ざかっていたが、今は睡魔を追いのけながら、こう呟く――
『神様、どうぞあたしをここで幸福にして下さいまし』彼女は心が穏かで楽しいので、よし生涯こうして馬車を駆って、草原ばかり見ていてもいいという気がする。突然、思いもかけず、若い樫や榛《はんのき》の木の生い繁った深い谷間が現われる。しっとりとした空気の流れ――きっと下には、流れがあるに違いない。こちら側の谷の崖縁から、ばたばたと羽音をたてて一群の鷓鴣《しゃこ》が舞い上った。ヴェーラは、昔よく夕方に、この谷の方まで散歩したことを思い出した。つまり、荘園はもう近いのである! そして見よ、事実もう遠くに、ポプラや穀倉が見えるではないか。わきの方には黒い煙も上っている――あれは古い藁を燃しているのだ。おお、もうダーシャ叔母さんが、迎えに出てハンケチを振っている。お祖父さんはテラスに立っている。おお、なんという喜び!
『まあ、まあ お前! よく来たわね!』と叔母は、まるでヒステリイでも起したような上ずった声をあげる。『さあうちのほんとうの女主人が来たわ! ほんとうよ、お前はわたし達の女主人よ、女王さまよ! ここの物はみんなお前の物ですよ! いい子になったわね、大層綺麗におなりだね、わたしはもう叔母さんじゃないよ、お前の従順な奴隷ですよ!』
ヴェーラには、祖父と叔母以外に身寄りがなかった。母はもうとうの昔に死に、父の技師も三月前に、シベリヤからの帰途カザンで死んでしまったのである。祖父は、大きな白い顎鬚のある、ふとった、赤ら顔の喘息病みで、腹を前へ突き出しステッキに寄りかかって歩いていた。叔母は腰のところをきつく締めた肩のあがった流行の服装をしている四十二になる婦人だったが、明らかに若造りで、まだ人に好かれたい様子であった。彼女は小股にちょこちょこと歩いたが、歩くとき彼女の背中は、いつもぶるぶる震えるのだった。
『お前、わたし達を愛してくれるわねえ?』と彼女はヴェーラを抱きながら言った。『お前は傲慢ではないわねえ?』
祖父の希望で、感謝の祈祷が勤められ、そのあと彼等は長いことかかって食事をした――こうしてヴェーラのための新しい生活は始まった。彼女には一番いい部屋があてがわれ、そこへ有りったけの絨毯が運ばれて、いろんな花が飾られた。そして晩になって、その寝心地のよい、広い、ふかふかした柔かなべッドに身を横たえ、長くしまってあった古い着物のような匂いのする絹夜具にくるまった時、彼女は嬉しさから思わずくすくす笑い出した。ダーシャ叔母は、夜の挨拶をするために、ちょっとそこへやって来た。
『ああ、とうとうお前が来てくれたのね、有難いこと』と彼女はベッドに腰掛けながら言った。
『ご覧のとおり、わたし達は結構な生活をしているのだよ、この上の必要はないと思うくらいにね。ただ一つ――お祖父さまがね、よくないの! 困ったことにね、大分おわるいのよ! 息切れがひどいし、それにそろそろぼけてらしたの。だってねえ――お前も覚えてるでしょう?―あんなにお達者で、あんなにお元気で! とても頑固な方だったのにねえ……以前には、下男達にちょっとでも気に入らないことがあると、すぐ飛び上って――「熱い奴を二十五! 笞刑だ!」って、怒鳴りなさったものだのに。今じゃすっかりおとなしくなって、そんなお声は聞きたくも聞かれません。もっとも、今は時世も変ったからね、お前――打《ぶ》つことは許されないからね。そりゃ勿論、打つのはいいことじゃないね。だけど、甘くすることもよくないからね』
『叔母さん、じゃ今でも、下男達は打《ぶ》たれるの?』とヴェーラは訊いた。
『管理人が、どうかすると打つこともあるけどね、わたしゃ打ちゃしませんよ。どうせもうねえ! お前のお祖父さまだって、古い習慣で、どうかするとついステッキを振り上げたりはなさるけれど、打《ぶ》ちはなさらないよ』
ダーシャ叔母は欠伸《あくぴ》をして、口と、それから右の耳に十字を切った。
『ここの生活は退屈じゃないこと?』とヴェーラは訊いた。
『さあなんと言ったらいいかねえ? 地主達は今では引越して、ここには住んでいないけれど、その代り、近くにいくらも工場が出来て、そこに技師だとか、お医者だとか、鉱山師だとかが大勢いるからね! 勿論、素人芝居もあるし、音楽会もあるけれど、一番の慰みは、やっぱりカルタだね。それから、うちへもちょくちょくやって来ますよ。ドクトル・ネシチャーポフなんか、工場からよく遊びにみえるがね、なかなかの美男子で、面白い人だよ! この人がお前の写真に惚れ込んでしまったのさ。それであたしもこう思ってね――まあいいわ、これがヴェーロチカの運命だろうって。若い美男子で、おまけに財産家だし――いい似合いさ、早い話がね。なにしろ、お前にしたって、どうしてなかなか、どこへ出しても恥かしくないお嬢さんだからね。家柄だっていいんだし、領地だって抵当にこそはいっちゃいるけれど――そんなことがなんでしょう?――その代りよく整理が届いて手が抜けちゃいないから。もっとも中には、わたしの分もあるけれど、それだっていずれはみんなお前の物になるんだよ。わたしはお前の従順な奴隷なんだから。それに、わたしの亡くなった兄さん、お前のお父さまは、一万五千ルーブリ遺していらしたんだものね……それはそうと、お前もう眼が落ちそうだね。さ、いいからおやすみ、おやすみ』
翌日、ヴェーラは長いこと家のまわりを散歩した。小徑もなく、斜面に都合わるくしつらわれていた古い美しくもない庭は、全く荒れ果てたままになっていた――きっと、農事の中で余計なものと考えられていたのであろう。蛇がたくさんいた。|やつがしら《ヽヽヽヽヽ》が樹の間を飛び廻って、「うつう、つう!」と、さながら何かを思い出させるような調子で叫んでいた。下の方には、たけ高い葦の生い繁った一筋の河が流れていて、その向う岸から半露里ばかりのところに村があった。ヴェーラは庭から野へ出て行った。遠方を眺めやったり、生れ故郷における自分の新しい生活に就いて考えたりしながら、彼女はしきりに将来自分を待っているものが何であるかを知りたいと思った。周囲のこの天空|開闊《かいかつ》と草原の美しい平静とは、彼女の胸に、幸福はすぐ手近にあることを、恐らく既にそこにあるのだということを囁いた。実際、多くの人々は言ったであろう――健康で、教義ある若い婦人に生れて自分の荘園に生活するなんて、なんたる幸福だろうと! しかも同時に、平板単調で一望限りもない、何ひとつ生きたもののいない平原は彼女を脅かすし、この平静な緑の怪物が、彼女の生活をひと呑みにして、それを無に帰せしめるであろうことが、時々はっきりと感じられたりした。彼女は若くて、優雅で、生活を愛している。彼女は専門学校を卒業し、三ケ国語で話すことを学び、多くの本を読み、父に伴われて方々を旅行した――しかし、こうしたことがみな果して、最後にはこの辺鄙《へんぴ》な草原の荘園に落ちついて、くる日もくる日も所在ないままに、庭から野、野から庭へと歩き廻った挙句、家に坐って、祖父の息ぎれの音を聞く、ただそのためだけの準備工作だったのだろうか? しかし、ではほかにどうすればいいのか? どこへ行けばいいのか? 彼女は自分に対して、なんの回答を与えることも出来なかった。そしてそろそろ家の方へ引返す時分には、果して自分はここで幸福に暮せるかどうかということ、停車場からここへくる途中の方が、ここで生活するよりも遥かに興味があったことなどを考えていた。
工場から、ドクトル・ネシチャーポフが馬車でやって来た。彼は医者ではあったが、三年ばかり前に工場の株を持って、主人側のひとりとなっていたので、現在では、診療はしていたけれども医術を自分の重要な仕事とは考えていなかった。外見的にはそれは白いチョッキなどを着た顔の蒼白い容子のいい褐色髪の男であった。が、彼の心や頭に何があるか、それを理解することは困難だった。挨拶をする時に、彼はダーシャ叔母の手に接吻したが、それからものべつ、椅子を勧めたり席を譲ったりするために幾度でも飛び上り、終始はなはだ生真面目《きまじめ》に黙りこくっていた。そしてもし何か言い出しても、なぜか初めの一句は、聞きわけられもしなければ理解することも出来なかった、そのくせ、正しくちゃんと、小声という声でもなく、発音されるのだったのに。
『あなたはピアノをお弾きになりますでしょうね?』彼はヴェーラにこう問いかけたが、途端に、だしぬけに飛び上った。彼女がハンケチを落したからであった。
彼は、正午から夜中の十二時まで、黙りこくって坐り込んでいた。そしてヴェーラには甚だ気に入らなかった。彼女には、この田舎で白チョッキを着るなんて、あまりいい趣味ではないと思われた。それから、洗練された慇懃さや態度物腰、蒼白い真面目くさった眉の黒い顔、これらがみな甘ったるい感じだった。そして彼女には、彼が終始沈黙を守っていたのは、多分無知だからであろうという気がしていた。が、叔母は彼が帰った後で嬉しそうにこう言った――
『さあ、どう? ほんとうにチャーミングじゃないこと?』
二
ダーシャ叔母は、家政を取りしきってやっていた。彼女は胴をきつく締めて、両腕の腕環をチャラチャラ鳴らしながら、或は台所へ、或は倉庫へ、或は家畜小屋へと、小足によく歩き廻った。そのたびに彼女の背中は妙に震えるのだった。そして、管理人なり百姓なりと話す時には、なぜかきまって pince-nez(鼻眼鏡)をかけた。祖父はいつも同じところに坐ってトランプの独り占いをひろげるか、居眠るかしていた。午食にも夕食にも彼は恐ろしく沢山食べた。彼には、今日と昨日の料理と、日曜から残っている冷たいピローグと、召使い用の塩漬肉とが出されたが、それを余さずがつがつと食べてしまった。そして食事のたびにヴェーラは一種の印象を与えられたので、そのあと羊が追い廻されていたり、水車から粉をとって来たりするのを見ると、「あれもお祖父さまが召し上るんだな」こう考えずにはいられなかった。彼は、食事か独り占いかに没頭して、大方は黙っていたが、どうかすると、食事の間にヴェーラを見て、急に感動して、優しい口調でこう言うことがあった――
『わしのたったひとりの孫! ヴェーロチカ!』
そして涙が彼の双眸《そうぼう》に輝く。かと思うとまた、その顔が急に紫色になって、頸《くび》がふくれ、毒々しい眼つきで下男を睨みつけて、ステッキをこつこつやりながら、こんなふうに訊くようなこともある――
『なぜ、山葵《わさび》を出さないのか?』
冬は、彼は完全に無為の生活を送ったが、夏の間は時々、燕麦や草の模様を見るために、馬車で野良へ出かけて行った。そして帰ってくると、自分がいないと、どこもかしこも滅茶滅茶だと言って、ステッキを振り廻すのであった。
『今日はお祖父さまご機嫌がわるいよ』とダーシャ叔母はよく囁くのだった。『でも、今はまだいい方なんだよ。昔はねえ、どうしてどうして「熱い奴を二十五! 笞刑だ!」すぐこうだったからね』
叔母は、近頃はみんなが怠け者になって、誰ひとりなんにもしないので、領地からはなんの収入もあがらないと言ってよくこぼした。実際そこには、農業と名づけるようなものはなんにもなかった。ただ習慣的に、犂《す》いたり蒔《ま》いたりしているだけで、本質的には何一つしないで、だらけた生活を送っているのだった。そのくせ、一同は終日歩き廻ったり、勘定したり、せかせかしたりしていた。家の中の奔走は、朝の五時からはじまって、一日じゅう絶え間なしに、「それをとれ」「持ってこい」「走って行け」こういう声が聞えづめで、召使達は、普通夕方までにもう、へとへとになってしまうのだった。叔母の手許では、毎週、炊事女や小間使が変った。時には彼女が不しだらを咎《とが》めて彼等を解雇したし、時には彼等の方で、とても堪らぬと言って、自分の方から出てしまったのだった。自分の村の者は、誰ひとり勤めようとしなかったので、遠方の者を雇わなければならなかった。村の者ではただひとり、アリョーナという娘がいるきりだった。そしてこの娘が出て行かなかったのは、彼女の給金で一家全体――老婆と子供達とが養われていたからであった。小柄で蒼白い顔をした薄ぼんやりのこのアリョーナは、終日部屋を片づけたり、食卓の給仕をしたり、煖爐を焚いたり、裁縫をしたり、洗濯をしたりしていたが、それでいて人には、長靴をどたどた鳴らして騒ぎ廻るだけで、みんなの邪魔ばかりしているとしか思われないのだった。暇を出されて家へ帰されはしまいか、絶えずこういう恐怖に脅かされていたので、彼女はよく器物を取り落したり粗相をしたりして給金から損害を差し引かれた。と、やがて彼女の母親と祖母とがやって来て、ダーシャ叔母の前に足につくほどのお辞儀をするのだった。一週に一度、時にはもっとたびたび訪客があった。その都度、叔母はヴェーラのところへ来て言うのだった――
『お前、少しお客さまのところへ行ってお出でな。さもないと、傲慢《ごうまん》な娘だと思われますよ』
ヴェーラは客の席へ出て、彼等と一緒に長いことヴィントをやったり、ピアノを弾いたりする。客達はダンスをする。すると、上機嫌になった叔母は、ダンスで息を切らしながら、彼女の傍へ来て囁くのだった――
『マーリヤ・ニキーフォロヴナにはもう少し優しくなさいよ』
十二月六日のニコライ日には一度に三十人という多勢の客があった。彼等は夜遅くまでヴィントをして多くの者が泊まり込んだ。そして翌日はまた朝からカルタをはじめ、それから食事をし、食後ヴェーラが会話と煙草の煙から遁れるために自分の部屋へ引き取った時、そこにも客がいたので、彼女はがっかりして危く泣かんばかりになった。で、夕方になってやっと客が帰りかけた時には、やれやれと思う気持から嬉しくなって、心にもなくついこんなことを言ったほどであった――
『皆さん、もう少しいらして下さいましな!』
客は彼女を疲らせたり困らせたりした。そのくせ――これはほとんど毎日のことだったが、――日が暮れて、あたりが暗くなりかけると、彼女はつい外へ心を惹かれて、どこか工場とか、隣りの地主邸とかへ客に出かけて行くのだった。と、そこでもまた、カルタ遊び、ダンス、罰金遊び、夜食……工場や炭坑に勤めている若い人々は、時々なかなか巧者に小ロシヤの歌をうたった。彼等がうたう時には、一座がなんとなくしんみりとなった。時にはまた、一同が一つ部屋に集まって、そこの黄昏の光の中で、炭坑のことだの、昔いつか草原に埋められた宝物のことだの、サウール(古謡の英雄)の墓のことなどに就いて話した……そんな話の最中、もう遅い時刻に、どうかすると突然、「助けてくれえ!」こういう悲鳴の聞えるようなことがあった。これは、酔っぱらいが通るのか、近くの炭坑で誰かが追剥《おいはぎ》にでも会っているのかであった。また時には、煖爐の中で風が吼え、鎧戸がガタガタ鳴り、やがて暫くして、教会で、人の心に不安を誘うような鐘の鳴り出すこともあった。これは、雪嵐がはじまった合図であった。
すべての夜会、ピクニック、晩餐会において、いつも変らず一番面白い女はダーシャ叔母で、一番面白い男はドクトル・ネシチャーポフであった。工場でも荘園でも、読書する人は甚だ少く、音楽といえば、ただマーチかポルカを弾くだけ、若い人達はいつも熱心に、わかってもいないことに就いて論争するので、感じが野蛮であった。彼等は熱心に、声高に議論のやりとりをするのだったが、しかも奇妙なことに、ヴェーラはほかのどこでも、ここほど無関心な暢気な人達を見たことがなかった。傍で聞いていると、彼等には、祖国もなければ宗教もなく、社会的興味もないもののように思われた。文学の話が出るとか、または何か抽象的の問題が論じられるとかする場合には、ネシチャーポフは、こうした話題に少しも興味を持っていない上、もうとうの昔から、何年にも何一つ読んでいないし、また読もうとする気もないことが、その顔つきでわかるのだった。さながら下手に描かれた肖像のように、彼は生真面目で、無表情で、いつも白いチョッキを着て、依然として無口で不可解だった。しかし婦人達や令嬢達は、彼を面白い人と思って、彼の態度物腰に喜びを感じ、一見非常に彼の気に入っていたらしいヴェーラを羨望していた。で、ヴェーラはいつも、訪問先を出る時にはいまいましい気持で、もうこれからは家にばかりいるようにしようと自分に誓うのだったが、一日たって夕暮がくると、ついまた工場へ急ぐのだった。ほとんどひと冬こんな有様であった。
彼女は書物や雑誌を取り寄せて、自分の部屋でそれを読んだ。夜は床の中で寝ながら読んだ。廊下の時計が二時か三時を打ち、読書の疲れでそろそろこめかみが痛くなり出すと、彼女は床の上に坐って、考えるのだった。なにをしたら? どこへ行ったら? 呪わしい、執拗な問題、それに対しては、もうとうに多くの回答が出来あがっているくせに、本質的には、全然一つの回答もない問題。
おお、なんとそれは崇高な、神聖な、美しいことであらねばならぬのだろう――民衆に奉仕して、その苦痛を和らげ、彼等を啓発することは。しかし彼女――ヴェーラは、民衆を知っていない。第一、どうして彼等に近づいたらよかろう? 民衆は彼女にとって路傍の人であり、無興味な存在である。彼女は、百姓家の重苦しい臭気や、居酒屋の罵声や、不潔な子供や、病気に就いての百姓女の話などは、我慢しきれないに違いない。雪堆《ゆきだまり》の上を歩いたり、凍えたり、それから息づまるような百姓家の中に坐ったり、愛してもいない子供を教えたり――いやだいやだ、それよりは死んだ方がましである! それに、一方でダーシャ叔母が、居酒屋から収入を上げ、百姓達から罰金を取り立てている時に、その百姓の子供を教えるなんて――これはなんとしても一個の喜劇だ! やれ学校、その村の図書館、やれ教育の一般化のと、話はいくらでもあるが、もしこれらの彼女の知合いの技師や、工場主や、婦人達が、単におざなりを言っているのでなくて、実に教化の必要を信じているのだったら、よもや現在のように、教師達に十五ルーブリの俸給を払ったり、彼等を餓死させたりするようなことはなかったであろう。学校も、無学に就いての話も――これはただ良心をくらますための言い訳に過ぎない。なぜといって、五デシャティーナないし十デシャティーナの土地を持ちながら、民衆に無関心であることは、いかにしても気のひけることだからである。現にドクトル・ネシチャーポフに就いて婦人達はこう言っている。あの人は善良である。工場内に学校を建てたと。しかり、彼は古い工場の石を使って、八百ルーブリかで学校を建てた。人々はその開校にあたって、彼のために「命長かれ」をうたった。が、将来も彼は自分の持ち株を投げ出すことはないだろうし、百姓達も彼と同じ人間であるということや、彼等をも、ただこのみじめな工場の学校ばかりでなく大学で教育すべきだということなどは、恐らくその念頭に浮ばないであろう。
こうしてヴェーラは、自分自身に対し、すべての人々に対して憤りを感じる。彼女は、再び本を取り上げて読もうとするが、暫くするとまた坐って考え込む。医者になったらどうだろう? しかし、それにはラテン語の試験を受けなければならぬ。のみならず彼女には、死体や病気に対して如何《いかん》ともし難い嫌悪癖がある。機械技師になること、裁判官になること、汽船の船長になること、学者になること、つまり、なんなりそうした、肉体精神両様の全力を傾倒するような、そして疲れて、あとで夜ぐっすり眠ることの出来るような仕事をすることは、結構なことには違いない。自身興味ある人になるとか、興味ある人に好かれるとか、人を愛するとか、自分の真の家族を持つとかするためなら、自分の生命を捧げても惜しくはない……けれども、それには何をすればいいのか? 何から手をつければいいのか?
大斎期の或る日曜日の早朝、傘をとりに、叔母が彼女の部屋へ立ち寄ったことがある。ヴェーラは寝床の上に坐って、両手で頭を掴んで考えていた。
『ねえお前、教会へ行ったらどう』と叔母は言った。『さもないと、不信者だと思われますよ』
ヴェーラはなんとも答えなかった。
『お前は退屈しておいでだろう、ねえ可哀そうに、わたしにはちゃんとわかっていますよ』叔母は寝台の前に跪きながらこう言った。彼女はヴェーラを尊敬していたのである。『白状おしな――退屈なんだろ?』
『ええ、とても』
『ねえ、別嬪《べっぴん》さん、わたしの女王さま、わたしはお前の従順な奴隷なのよ、わたしはただお前のためにいいことと幸福だけを祈ってるのよ……だからさ、わたしに言って頂戴、どうしてお前は、ネシチャーポフと結婚しないの? あの人のほかにどんな人がお前には必要なの、ねえ? そう言っちゃなんだけれど、そうそう選り好みばかりもしていられませんよ、わたし達は公爵じゃないんだからね……それに、月日はずんずんたってゆくのに、お前はもう十七じゃないんだから……どうもわたしにはわからないよ! あの人はお前を愛して、崇拝しているのに!』
『あらまあ』とヴェーラはいまいましげに言った――『だって、それがどうしてあたしにわかるの? あの人はいっも黙っていて、一言だって口を利かないのに』
『あの人、遠慮してなさるんだよ、お前……一ペんでお前に断られやしまいかと思ってね!』
それから叔母が出て行くと、ヴェーラは部屋の真中に突立って、服を着ようか、もう一度床へはいろうかと迷っていた。厭《いと》わしいベッド、窓をのぞくと――そこには裸の木々や、灰色した雪や、いやな鴉や、やがて祖父に食われる豚や……
≪ほんとうに≫と彼女は考えた――≪結婚してしまおうか、なんでもいいから!≫
三
二日の間、叔母は泣き顔を厚化粧に隠して歩いていた。そして食事の時にも、のべつ溜息をついたり聖像の方を見たりしていたが、彼女の悲しみがなんであるかは分らなかった。が、遂に彼女は決心して、ヴェーラの許へはいってくると、打ちとけた調子で言った――
『実はね、わたし達銀行へ利子を払わなくちゃならないんだけど、借地人が地代を入れてくれないんだよ。だからね、お父さまがお前に遺していらした一万五千ルーブリのうちから、払わせておくれなね』
それから一日がかりで、叔母は庭でさくらんぼのジャムを煮た。アリョーナは暑さから頬を真赤にして、或は庭へ、或は家へ、或は穴倉へと、のべつ駈け廻っていた。叔母がひどく真面目くさった、さながら宗教上の儀式でもやっているような鹿爪らしい顔をしてジャムを煮ている時、短い袖が彼女の小さい丈夫そうな暴虐者らしい腕をあらわに見せている時、そして下婢《はしため》がのべつあちこち駈け歩いたり、自分の口へははいらないジャムのまわりであたふたしている時などには、何かそこに一種残酷なものの感じられるのが常であった……
庭内には、煮えるさくらんぼの匂いが漂っていた。太陽は既に沈み、七輪は持ち去られたが、その快い、甘いような匂いは、いつまでも空中に漂っていた。ヴェーラはべンチに腰をおろして、新しく雇った労働者、通りがかりの若い兵隊が、彼女の命令によって小徑を作っているのを眺めていた。彼はシャベルで芝を切っては、それを孤輪車の中へ投げ込んでいた。
『お前はどこで兵隊を勤めて来たの?』とヴェーラは彼に訊いた。
『ベルジャンスクです』
『そしてこれからどこへ行くの? お家《うち》?』
『いいえ、違います』と労働者は答えた。『自分には家はないのです』
『だって、じゃお前はどこで生れて、どこで育ったの?』
『オルロフ県です。兵隊に出るまでは、お袋のところに、継父《けいふ》の家に住んでいました。お袋は家の大将で、みんなに立てられていましたから、わたしもお袋の傍で食べていたわけです。が、兵隊にいる間に手紙が来て――お袋は死んだって知らせがありました……で、今ではもう家へ帰る気がしません。親父が実の親でないから、家も他人の家みたいなものです』
『じゃあ、実のお父さんは亡くなったの?』
『知りません。わたしは父なし子なんですから』
この時、叔母が窓へ顔を出して言った――
『イリ ニェ フォ パ パルレ オ ジャンス(労働者なんかと口を利いてはいけません)……さ、お前は台所へおいで』と彼女は兵隊に言った。『あそこでいくらでもお喋りをし』
そしてその後はまた、昨日やそれまでの日々と同じように、夜食、読書、不眠の夜、いつも同じことを考える際限のない物思い。三時になると太陽が昇り、アリョーナはもう廊下を走り廻っていたが、ヴェーラは依然として眠れないで、努めて本を読んでいた。孤輪車の軋み音が聞えた――これはあの新しい労働者が庭の方へ来たのであった。ヴェーラは本を手にし、開いた窓際に腰をおろして、うつらうつらしたり、兵隊が彼女のために小徑を作っているのを見たりしていた。と、それが彼女の心を惹きつけた。小徑は平らに、革紐のように滑らかで、そこへ黄色い砂が撒かれたらどんなになるだろうと、想像するだけでも楽しかった。
五時打つと、家の中から叔母が、薔薇色の部屋着に捲髪紙《カールペーパ》をつけたままの姿で出てくるのが見えた。彼女は暫く、三分ばかり入口の段々の上に黙って立っていたが、やがて兵隊に向って言った――
『さ、お前の旅券を持って、ここを出て行っておくれ。わたしは自分の家に父なし子を置いとくわけにはゆかないから』
ヴェーラの胸の中を、重苦しい怒りの感情が石のように圧《お》しつけた。彼女は義憤を感じて叔母を憎んだ。彼女にはもう叔母が、気の滅入るほど、胸のわるくなるほど鼻についていた……しかし、どうしたらいいのだろう? 叔母を黙らせるべきだろうか? 叔母にひどいことでも言ってやったものだろうか? しかし、それになんの利益があるだろう? にわかに、彼女と闘い、彼女を押し退けて、彼女を無害な人間にしたり、祖父がステッキを振り廻さないようにしたところで――なんの利益があるだろう? ちょうど、茫々無際限の草原で、一疋の鼠や一疋の蛇を殺すのと選ぶところはないであろう。広大無辺の広袤《こうほう》と、長い長い冬と、生活の単調と退屈とは、人の心にしみじみ頼りなさの意識を吹き込み、境遇は希望のないものに思われて何をする気も起らない――いっさいが無益である。
アリョーナがはいって来て、ヴェーラに低いお辞儀をしてから、埃を払うために肘掛椅子を運び出しかけた。
『またえらい時お掃除に来たものね』とヴェーラはいまいましげに言った。『あっち行ってて』
アリョーナはぽかんとして、恐怖から言われたことが理解出来なかったので、大急ぎで箪笥の上を片づけはじめた。
『あっちへおいでって言ってるのに!』とヴェーラは、ますます冷酷になって叫んだ。これまでについぞ一度、彼女はこんな重苦しい気分を味わったことはなかった。『出て行け!』
アリョーナは鳥のような一種奇妙な呻き声を発した。途端に、絨毯の上へ金時計を取り落した。
『出て行けって言うのに!』とヴェーラは、飛び上りざま全身をわなわな震わせながら、自分のとも思われないような声で怒鳴った。『この女を追ん出して頂戴、うるさいちゃありゃしない!』彼女は、アリョーナの後を追って廊下を急ぎながら、ばたばた足踏みして言いつのった。『出て行け! 笞だ! あれを打《ぶ》って!』
が、やがて急にわれに帰ると、彼女は髪も梳《と》かさず顔も洗わないで、ガウンにスリッパばきというそのままの姿で、まっしぐらに戸外へ飛び出して行った。彼女は馴染の谷間まで駈けて行って、そこで誰をも見ないよう、誰にも見られないように茨の叢《やぶ》の中へ身を潜めた。そこでじっと草の上へ身を横たえながら、彼女は泣きもせず恐れもしなかった。が瞬きもせずに空を見ながら、生涯忘れることの出来ない、自分に赦してはならないことの起ったのを、冷やかに、はっきりと思い返した。
≪いいえ、もうたくさんだわ、たくさんだわ!≫と彼女は考えた。≪もう自分をしっかり抑えつけなくちゃならない時だわ、さもないと、きりがないから……もうたくさんだわ!≫
正午に、谷間を通って、ドクトル・ネシチャーポフが荘園へと馬車を駆って行った。彼女は彼の姿を見るとすぐ、新しい生活をはじめよう、無理にでも自分にはじめさせよう、こう決心した。と、この決心が、彼女の心を落ちつかせた。そして、すらりとしたドクトルの後姿を見送りながら、あたかも自分の決心の生硬さを柔らげようとでもするように、こう言った――
≪あれはいい人だわ……どうにかうまくゆくだろう≫
彼女は家へ帰った。彼女が着換えをしているところへ、ダーシャ叔母がはいって来て言った――
『アリョーナが何かお前の気をわるくしたってね、わたしあの子を村の家へ帰してやりましたよ。そしたら母親があの子をさんざ折檻して今ここへ来て、泣いてたわ……』
『叔母さん』とヴェーラは早口に言った―― 『あたし、ドクトル・ネシチャーポフと結婚するわ。だけど、叔母さん、あなた話して頂戴ね……あたし言えませんわ……』
そして彼女は再び野へ出て行った。眼の向く方へ歩いて行きながら、自分も結婚したら、家政を見たり、百姓達の病気を直したり、教えたり、周囲の女達がやっていることを、みんなやろうと決心した。それからこの、自分に対し人に対する不断の不満や、この、ちょっと過去を振り返って見れば、自分の前に山になって峙《そばだ》っている浅間しい過失の連続を、自分に運命づけられた真の生活として考えよう、それ以上のものは期待しないことにしよう、こう決心した……現に、それ以上のものはないのである! 美しい自然や、夢想や、音楽の語るのは或るものではあるが、現実の生活は別のものなのだ。明らかに、幸福と真理とは、どこか生活以外のところに存在するのだ……だから、いっそ生活をしないで、この豪華な、果しない、永遠のように無関心な草原や、その花や、古墳や、地平線と一つに溶け合ってしまえばいいのだ、そうなればきっといいのだ……
一ヶ月後に、ヴェーラはもう工場で生活していた。(一八九七年)
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富籤《とみくじ》
年収千二百ルーブリで一家の生計を立てて、自分の運命に満足しきっている中流階級人のイワン・ドミートリチは、或る晩、夜食のあとで長椅子に腰をおろして新聞を読みはじめた。
『わたし今日はうっかりして、新聞を見ることも忘れてたわ』と彼の妻が、食卓の上を片づけながら、言った。『ちょっと見て頂戴な、当たり籤《くじ》の表が出ていないか?』
『ああ、出てるよ』とイワン・ドミートリチは答えた。『だが、お前の富札は質流れになっちまったんじゃないのかい?』
『いいえ、わたし火曜日に利子を払っといたんですもの』
『じゃ、番号は?』
『九四九九組の二十六番よ』
『そうか、よし……見てやろう……九四九九の二十六と』
イワン・ドミートリチは、籤運など信じてはいなかったので、これがほかの時だったら、富籤番号表など、どうあっても見向きもしなかったに違いないのだが、今はほかにする用もなかったし――それに、新聞が眼の前にあったので――彼は指で上から下へ組の番号を調べて行った。と、忽ち、さながら彼の不信に対する嘲笑ででもあるように、上から二行目までも行かないうちに、九四九九という数字が、鋭く彼の眼へ飛び込んできた。そこで、彼はもう札の番号などは見ようともせず もう一度確かめてみることもしないで、いきなり新聞を膝の上へおろした。と、まるで腹の上へ冷水でも跳ねかけられたように、心窩《みぞおち》の下にひやりと快い冷たさを感じた――擽《くすぐ》ったいような、恐しいような、甘いような!
『マーシャ、九四九九ならあるぞ!』と彼は、うつろのような声で言った。
妻は、彼のびっくりしたような、おびえたような顔を見て、彼がふざけているのでないことを知った。
『九四九九なの?』彼女は顔色を変えて、せっかく畳んだ卓布を食卓の上へ取り落しながら、訊いた。
『そうだ、そうだ……ほんとにあるんだよ!』
『じゃ、札の番号は?』
『あっ、そうだ! まだ札の番号があるんだったな。だが、待てよ……ちょっと待て。なあに、それがどうしたと言うんだい? とにかく、おれ達の組の番号はあるんだよ! とにかくさ、いいかね……』
イワン・ドミートリチは、妻の顔を見ながら、ちょうどきらきら光るものを見せられた幼児のように、明るい無意味な笑顔になった。妻も一緒になってにっこりした――彼女にも、彼と同じように、彼がただ組の番号を言っただけで、幸福な札の番号を急いで知ろうとしないのが、嬉しかったのである。可能性ある幸福に対する希望で、自分を悩ましたり苛立たせたりするのは――これはなんという楽しい、同時に気の揉めることだろう!
『われわれの組は当たっているんだ』とイワン・ドミートリチは、長い沈黙のあとで言った。『つまり、われわれが当たっているかも知れぬ希望があるわけだ。希望だけだ、が、その希望だけは確かにあるんだ!』
『だから、もう見てごらんなさいよ』
『まあ待て待て。急いで幻滅するにもあたらないよ。これは上から二行目なんだから、つまり、七万五千ルーブリの当たり籤だ。こうなるともう金じゃない、力だ、資本だ! 今すぐおれがこの表をのぞいてみる、とそこに――二十六! ええ、どうだい? ところで、おれ達がほんとうに当たっていたら、どうだろう?』
夫婦は笑い出して、長いこと黙って顔を見合っていた。幸運の可能が彼等を茫然とさせてしまったので、ふたりとも、その七万五千ルーブリをどうしたらいいか、何を買ったらいいか、どこへ行ったらいいか、それを空想することも、口にすることも出来なかった。彼等はただ、九四九九と、七万五千という数字のことばかり考えて、それを想像に描いてみるばかりで、大いに可能性のある幸福そのもののことは、どうしても考えられなかったのである。
イワン・ドミートリチは、両手に新聞を持ったまま、幾度も隅から隅へと往来した。そして、第一印象の感動が静まった頃になって初めて、そろそろ空想に耽りはじめた。
『もし、おれ達に当たったとしたら、どうだろう?』と彼は言った。『それこそ新生活だ、大事件だ! 札はお前のだが、もしそれがおれのだったら、おれは勿論、まず第一に、地所か何かそんなふうの不動産を二万五千ばかり買い込むね、それから、一万ばかりは、それに付随した諸費用に充てる。即ち新しい調度とか……旅費とか、借金の支払い、その他にだね……そして残りの四万は銀行へ預けて利子に廻す……』
『そうね、地所――結構だわね』と妻は腰をおろして、両手を膝の上へおとしながら言った。
『どこか、トゥーラ県かオリョール県あたりでね……第一に、別荘なんか不要なもんだし、第二には、なんといっても収入になるからね』
そして、彼の想像の中には、次から次へと、より美しくより詩的な光景が群がってきた。そしてそれらどの光景の中にも、彼は、満腹して、落ちついて、健康でいる自分自身を発見して、暖いどころか、暑いくらいであった! 今や彼は、氷のように冷たいオクローシカ(一種の冷スープ)を飲んで、河岸の焼けるような砂の上か、或は庭の菩提樹の下に、仰向けに寝ころがる……暑い……ちいさい息子や娘達があたりを這い廻って、砂を掘ったり、草の中でてんとう虫をつかまえたりしている。彼はいい気持に陶然となって、何事を考えるでもなく、ただ全身で、今日も、明日も、明後日も、自分はもう勤めに出なくていいのだということだけを感じている。寝ていることにも飽きてくると、今度は草刈場へ行ったり、茸《きのこ》とりに森へ行ったり、或は百姓達が網で魚をとるのを見物に行ったりする。日が落ちると、タオルと石鹸を持って、ゆっくりゆっくり水浴場へ出かけて行く。先方へ着いてからも、急がないでゆるゆると着物を脱ぎ、両の掌で裸の胸をひとしきり撫で廻してから、水に浸る。水の中では、薄濁ったシャボンの環のまわりで小魚がちょろちょろしたり、青い水草が揺れたりしている。水浴が済むと、クリームや、牛乳入りのビスケットなどでお茶を飲む……晩は、散歩か、近所の人とのカルタ遊び。
『そうね、地所が買えたらほんとにいいわね』と細君も、同じように空想しながら言う。その顔を見ただけでも、彼女が自分の空想に魅せられていることがわかる。
イワン・ドミートリチは、さらに秋を想像に描いた、時雨や、薄ら寒い夕方や、小春日和や。この季節には、庭や、野菜畠や、河岸の散歩をことさら長くしなければならぬ。それは、そうして充分にからだを冷やしておいてから、あとで大きなやつでぐっとひとつウォーッカをあおり、塩漬の茸か茴香漬《ういきょうずけ》の胡瓜《きゅうり》をつまんで、それからまた――二杯目をぐっとやる――そのためなのだ。子供達は、野菜畠から人参や大根をひっこぬいて駈け出してくる。人参や大根からは、新しい土の香がぷんぷんする……それからは、長椅子の上へ寝そべってゆるゆると絵入雑誌でも眺める、やがて雑誌で顔を隠す、チョッキの釦《ボタン》をはずす、うとうとと眠りにおちる……
小春日和のあとには、陰気な、いやな天気が続く。日となく夜となく雨が降り続いて、裸になった樹々は泣き、湿っぽく寒い風が吹く。犬も、馬も、鶏も――何もかもみんな濡れて、悲しそうに小さくなっている。散歩は愚か、家から出ることも出来ず、終日隅から隅へと歩くばかりで、暗い気持で、曇った窓を見ていなければならぬ。退屈だ!
イワン・ドミートリチは、ここで空想を中止して、妻の方を見た。
『おれはなんだね、マーシャ、いっそ外国へ出かけるね』と彼は言った。
そして彼は、秋が深くなってから外国へ出かけたらどんなによかろうと考えはじめた、どこか南フランスか、イタリヤか……印度へでも!
『わたしもぜひ外国へ行きますわ』と妻は言った。『さ、もう札の番号を見て頂戴よ!』
『まあ待て! まあお待ちよ……』
彼は部屋の中を歩き出して考え続けた。こんな考えが浮かんできた――もしほんとに妻が外国へ出かけるようなことになったらどうだろう? 旅はひとりが一番だが、さもなければ、道連れは、浮気で、暢気で、刹那刹那の考えで生きているような女達に限る。途中のべつ幕なしに子供のことばかり考えたり言ったりして、一カペイカ出すごとに溜息をついたり、驚いたり、震えたりするような女は真平ご免だ。イワン・ドミートリチは、包みや、バスケットや、巻いたものなどの山の中に埋まっている車中の妻を想像に描いた。彼女は何かしら溜息をついたり、旅疲れで頭が痛いとか、お金がずいぶん減ってしまったとか言って、こぼしている。停車場では、自分は、それお湯だ、サンドイッチだ、水だといって、駈け廻らなければなるまい……食堂へ行くことなどは、あれには出来ないに違いない、相当に高くつくから……
≪あれはきっと、一文一文におれに文句をつけるだろう≫彼は、じろりと妻を見やってこう考えた。≪なにしろ札があいつんで、おれんじゃないからな! それに第一、あいつに外国へ行く必要がどこにあるんだ? いったいあいつに、外国で何を見ることがあるのだ? どうせホテルの一室に坐りきりで、おまけにおれまで傍から放さないに違いない……わかってるよ!≫
ここで彼は生れて初めて自分の妻がすっかり老けて、器量が落ちて身体じゅう台所の臭いが浸みとおっているのに、彼自身はまだ若く、健康で、もう一度結婚してもいいほど瑞々《みずみず》しているのに気がついた。
≪勿論、こんなことはどうせ、くだらない、馬鹿げたことさ≫と彼は考えた。≪だが、なんのためにあいつに外国へ行くことがあるんだ? あいつに何がわかるというんだ? わるくするとあいつめ、行きやがるに違いない……わかってるよ……だが、実際あれにとって、ナポリがなんだろう、クリンがなんだろう――みんな同じじゃないか。ただおれの邪魔がしたいだけの話だ。おれがあいつの腰巾着にされちまうだけのことだ。わかりきってる、が、金を受け取ったが最後、あいつは早速、女の流儀で、六つも錠をかけてしまい込むにきまってる……おれから隠してしまうにきまってる……自分の身内にゃいい顔も見せようが、おれにゃ一カペイカごとに文句をつけるにきまってるんだ≫
イワン・ドミートリチは、身内のことを思い出した。兄弟達、姉妹達、伯母達、伯父達、こういった連中がみな、当籤を知ったが最後、ぞろぞろ這い寄って来て、乞食のようにせびったり、馬鹿のように笑ったり、善人ぶったりするだろう。ほんとにいやな、みじめな奴等だ! いくらかでもやろうものなら、きっとあとを引くだろうし、やらなかろうものなら――呪ったり、誹《そし》ったり、いろんな災難を祈ったりするだろう。
イワン・ドミートリチは、自分の親戚のことを思い出した。と、これまでは、なんの気もなしに眺めていた彼等の顔が、今は急に、不愉快な憎らしいものに思われてきた。
≪なんていやな毒虫どもだ!≫こう彼は考えた。
と、今度は妻の顔までが、不愉快な、憎らしいものに思われてきた。彼の心には、彼女に対する毒念が沸き立っていたので、彼は邪悪な心で考えた――
≪こいつは、金というものの意義をまるで知らないから、けちなのだ。万一、籤が当たろうものなら、おれにはやっと百ルーブリくらいもくれてあとは――錠をかけてしまうだろう≫
そして彼は、最早微笑はどこへやら、憎悪に満ちた眼で妻を見据えた。彼女もまた、憎悪と邪悪の眼で彼を見据えた。彼女には彼女で、自分だけの虹のような空想や、計画や、目論見があった。彼女はまた、夫がどんな空想を逞しくしているかをも、よく知っていた。彼女は、彼女の当たり籤にまず第一に蹠《て》を伸ばすのが誰であるかを、ちゃんと承知していたのである。
≪ひとの金を当てにして、好きなことを考えてりゃ世話はないわ!≫彼女の眼眸《ひとみ》はこう言っていた。≪だけどお生憎さま、あなたにそんな真似はさせませんよ!≫
夫は彼女の眼眸を読んだ。と、憎悪が彼の胸の中をごろごろし出したので、彼は、自分の妻を口惜しがらせるために、彼女に対するつらあてに、素早く新聞の第四面へ眼を投げて勝ち誇ったような口調で読みあげた――
『第九四九九組、第四十六番! 二十六番じゃありませんよ!』
希望と憎悪と――二つながら一ペんに消えてしまって、イワン・ドミートリチにも、その妻にも、一瞬にして忽ち、彼等の部屋が暗く、小さく、低いように思われはじめ、今食べたばかりの夜食も一向腹を満たしてはくれなくて、ただ胃の下のところをほんの少し圧《お》しつけたに過ぎないような、そして晩までが、長たらしく、退屈でならないような気がし出した……
『ちえッ、なんというだらしなさだ』とイワン・ドミートリチは、そろそろつむじを曲げかけながら言った。『ひと足でも歩きゃ、きっと紙きれか、屑か、何かの殻を踏んづける。一ペんだって部屋を掃いたこともありゃしない! つい、どこかへ行きたくなっちまうじゃないか、ええい、悪魔にでもすっかり攫《さら》われちまいたいよ。おれはこれから出て行って、まっさき出くわした柳の枝にぶらさがってやるから』(一八八七年)
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解説
世にいわゆるチェーホフの自覚については、それを、先輩グリゴロービッチからの懇切な手紙(一八八六年)、を機縁とするという観方と、サハリン旅行(一八九〇年)をその最も大なる現われとするという説と、いろいろある。しかしそのいずれもが、この稀世の一作家を伝記し研究する上に後人が勝手につけた便宜上の区劃であって、一個すぐれた人としての彼の自覚が、それまでになんの準備もなく素質もなしに、偶然の或る外的誘因によって忽然と生れ出たものでないことは、自明の理である。けれどもここでは、そうした詮索は暫く措いて、同じく便宜上、普通に行われている定式に従い、第一の自覚をグリゴロービッチの手紙を契機とするものとして考えてみる。現に、これについては、チェーホフの弟ミハイルが実兄を伝した中にも――「初めて兄の天才を認めてくれたグリゴロービッチの手紙の影響で、兄は自分自身並びにその文学的活動に対して、ずっと真面目な態度をとるようになった」と書かれているくらいだから、一般的にはまず無難な観点と見るべきであろう。
一八八七年に、チェーホフは戯曲「イワーノフ」を書いた。八八年には「草原」を書き、「燈火」を書いた。いずれも「自覚」後の作者の名を重からしめる作品であるが、しかしそれでもまだ読書界の大半は、在来の印象に慣れて、チェーホフとさえいえば、とかく軽妙洒脱な諧謔的作品を連想しがちであった。チェーホフの名がまぎれもない本格的の作家として確立したのは、翌八九年に発表された「退屈な話」以後であったと見るのが最も穏当であろう。本篇には、芸術家チェーホフにとって重大な意義を持つこの一八八七〜八年の作品を中心に、九二年から九七年にわたる後期の作品四篇が収録されている。もっともこの編集には格別の意味はない。ただ、これらの作品は、比較的小篇ながらに、みな相当人口に膾炙《かいしゃ》しているものばかりである。
「無題」(一八八八年)は、「六号室」同様、彼のトルストイズムからの離脱を認識せしめる作品で、トルストイズムの禁欲的な一面に対して投げられた挑戦の手套《しゅとう》としてよく問題にされる作品である。とはいえ、初めは「スカースカ(お伽噺の意)」と題されたと伝えられる掌篇だけに、チェーホフには珍しく抽象的な拵《こしら》えものであって、この作者の重要な特質である生活的要素に乏しく、現実のロシヤ生活ばかりでなく、一般的にいかなる生活にも、具体的には全然触れていないような作品である。従って、トルストイズムに対する批判としても、後に彼がなしたところの徹底的批判の前提たるにとどまり、「六号室」のそれとは到底同日に論じらるべきものではない。ただ、比較的最近まで彼をしっかりとらえていたこの教義が彼の心中に作り出した疑惑を示すものとして、極めて限定された興味を提供するにすぎないことを注意する必要がある。
「燈火」は、作の年代こそ比較的前期に属するが、ひとり前期のみならず、チェーホフの全作品を通じて、「退屈な話」「六号室」等につぐ主要作品の一つであり、量的にも、この作者としては中篇として扱わるべきものである。話の骨子は恋愛が中心になっているが、この作にはその成立に若干のいわれがあるのである。元来チェーホフも、多くの作家の例に洩れず、一般的に批評家ぎらいであったが、しかし好意ある批評に対してはかなり注意深く傾聴するのが常であったと伝えられる。当時、一八八七〜八年(「草原」発表前後)のころには、彼の作品にはイデオロギイ的な何かが欠けているという批評が、一般に行われていて、それが著しく彼の注意を惹きつけていた。「燈火」は、間接にはこうした批評を念頭におき、直接には、彼が日ごろ親密な関係にあり、その意見に敬意を払っていたオストローフスキイの彼に対する希望――作品の本質が思想そのものでないまでも、思想の欠如に対する憂愁から成っているような作品を期待するという意見に対する答として、書かれたものであるといわれている。そしてこのテーマは、しっかりした積極的な見解の欠如が、人々のあいだにいかにひどい荒廃をもたらすか――というのが一篇の中心思想であるとされているのであるが、しかし今日では、そんなことは実はどうでもいいので、それよりなにより、われわれ読者にとって一番興味深いのは、そこに描かれた人生的事実である。前後に比類を絶するとまでいわれるリアリスト、チェーホフの、精厳無比な人間性の把握と、適確を極める生活的デテールの再現とである。
チェーホフはよくインテリゲンチヤの代弁者といわれるだけに、六百篇に近い作品中、直接百姓――農民を書いたものは比較的少い。「百姓」(一八九七年)は「谷間」「新しい別荘」などとともに、その数少い農民小説の一篇である。これは最初新聞に発表されたが、掲載されるや否や、チェーホフの作品には珍しく、当時の合法的マルクス主義者と人民派とのあいだに、烈しい論戦を捲き起したりした点で、爆発的反響を呼んだ作品である。恐らく現在でも、彼の作品中最も騒がしい人気あるものの一つではないかと言われている。
しかし、こういう空騒ぎもまた、作者自身は一向にあずかり知らぬことであった。彼はただ観かつ知ったことを一つの作品として紙上に再現したにすぎない――というのが一番実情に近い観方であろうと思われる。次に掲げるのは、直接には「燈火」に関して書かれた書簡の一節であるが、この間の消息について道破しているところもあり、かつは一般に小説作家としての彼の心構えを知るよすがともなると思うので、煩雑を厭わずここに記載しておく――
「あなたは、厭世主義についての会話も、キーソチカ(「燈火」の女主人公)の物語も、厭世主義に対していささかの推進力にも解決法にもなっていないと書いていらっしゃる。ところが、私にはそうした神とか厭世主義とかいったふうの問題を解決することは、小説作者の仕事ではないという気がしているのです。小説作者の仕事はただ、誰がどんな状態でどんなふうに神または厭世主義について語り或は考えたかということを描写すれば足りるのです。芸術家はすべからく、自分の作中人物ないし会話の裁判官ではなくて、ただただ公平無私な立会い人でなければなりません。シチェグロフ・レオンチエフは、私が≪この世のことは何もわかりゃしない!≫という一句でこの小説を結んだことを非難しています。私はそれに服しません。ものを書く人間、ことに芸術家たるものは、もうそろそろこの世のことはわからぬものだということを認めていい時分なのです。かつてソクラテスが認め、またヴォルテールが認めたように」
本集には以上のほかにまだ、「浮気」「眠い」「学生」「葦笛」「故郷」「富籤」の諸篇が残されている。これだけでは本巻の解説として甚だ不十分、かつ繁閑《はんかん》よろしきをえないものであることは十分わかっている。が、今は一応これで擱筆《かくひつ》するわがままを許していただきたいと思う。(訳者)