無名氏の話/三年
チェーホフ/中村白葉訳
目 次
無名氏の話
三年
解説
[#改ページ]
無名氏の話
一
私は、今はくわしく語っていられないある理由があって、オルロフというぺテルブルグの一官吏の家に、下僕として住み込まなければなりませんでした。彼は年が三十五六で、ゲオルギィ・イワーヌイチと呼ばれていました。
私がこのオルロフ家へ住み込んだのは、自分の事業の重大な敵だと考えていた有名な政治家である彼の父が目的でした。私は息子の家に寝起きしていたら、小耳にはさむ会話や、卓の上に見かける書類や手紙などによって、父親の政策や意図を、くわしく探求できるだろうと考えていたからです。
普通朝の十一時に、私のいる下僕部屋で、主人の眼ざめたことを知らせる電鈴がちりちり鳴りました。私が刷毛《ブラシ》をかけた服と、磨いた長靴をもって寝室へ入っていくと、ゲオルギイ・イワーヌイチは寝不足というよりはむしろ眠り疲れたという顔つきで寝床の上に座ったまま、眼のさめたことによるなんの満足をも示さないで、じっと一点を見つめていました。私が着がえをさせてやっても、彼は黙りこくって、私の存在などてんで気もつかないようすで、しぶしぶ私のするままになっていました。
やがて、洗って濡れた頭に新鮮な香水の匂いをぷんぷんさせて、彼は珈琲を飲みに食堂へ行きました。彼が食卓について、珈琲を飲んだり新聞をひるがえしたりしている間、私と小間使いのポーリャとは、うやうやしく戸口に立って、彼の方を見ているのでした。ひとりの男が珈琲を飲んだりビスケットをかじったりしているのを、ふたりの立派な大人が、極めて厳粛な注意をもってじっと見守っていなければならなかったのです。この一事は、どう考えても、おかしな、奇怪なことには違いなかったが、しかし私は、自分がオルロフと同じ教養ある貴族でありながら、こうして戸口に立っていなければならぬということには、べつだん屈辱的なものは感じませんでした。
当時私には肺病がきざしかけていて、それと共に、恐らく肺病以上に重大なあるものがはじまっていました。病気の影響か、それとも当時はまだ無自覚ではあったが、生じはじめていた世界観の変化のためか、私は日一日と、平凡な日常生活を求めるいらだたしい情熱的な渇望に、心を占められて行きました。私には魂の平安や、健康や、よい空気や、満腹が望ましかったのです。私は空想家になりました。そして、空想家のご多分に洩れず、自分に必要なものがなんであるかはよく知りませんでした。修道院へでも行き、何日でもそこの窓際に座って、木立ちや野原を眺めていたいと思ったり、地面の五デシャティーナばかりも買って、地主として暮らしてみようかと空想したり、あるいはまた、ひとつ学問に専念して、ぜひともどこか地方の大学の教授にでもなろうと心に誓ったりしたものです。私は退職海軍大尉なので、海洋や、わが艦隊や、自分がそれに乗って世界一周を遂行した古い海防艦などが、よく夢に現われるのでした。私はあの名状しがたい感情――熱帯の森の中を歩いたりベンガル湾の落日を眺めたりしながら、歓喜のために陶然となると同時に、郷愁に胸をしめつけられたりしたときのあの感情を、もう一度味わってみたくてならないのでした。私は山々や、女や、音楽を夢に見、少年のような好奇心をもって、人の顔に見入ったり、人の声に聞き入ったりするのでした。こうして私は、戸口に立ってオルロフが珈琲を飲むのを見ているときには、自分を下僕としてではなく、世の中のすべてのことに、オルロフにさえ興味を持つ人間として感じるのでした。
狭い肩、長い腰、落ちくぼんだこめかみ、色のはっきりしない眼、頭髪や口ひげの薄く染められた貧弱な毛髪――こういったオルロフの外貌は、ペテルブルグ的でした。彼の顔は、手入れは届いていたが、擦りへらされたような不愉快な顔でした。とりわけ不愉快だったのは、彼が考えこんでいるときや、眠っているときでした。もっとも、平々凡々な容貌をかれこれ描写してみるにもあたりますまい。それに、ペテルブルグはスペインではないのだから、男の容貌など、ここでは、恋愛事件においてさえ大した意味は持たなくて、ただ風采の立派な下僕や馭者にだけ必要なものなのですから。しかるに、私が今オルロフの顔や髪のことを言い出したのは、ただ、彼の容貌の中には、それを特記するに足る何ものかがあったからに過ぎません。つまり――オルロフがどんなものにしろ新聞や書物を手にするとき、またどんな人にしろ人と会うときには、彼の眼はきまって皮肉な微笑を浮かべ、彼の顔は、悪意はないが軽い嘲笑的な表情をとるのでした。何かを読むとか、あるいは話を聞くとかする前には、彼にはまずもって、野蛮人の楯のように、心のうちに皮肉が用意される。これは古い癖のような習慣的な皮肉でしたが、近頃になってからはもう、なんら意志の関与なしに、恐らくは一種の反射作用として、その面上に現われるのでした。しかし、まあこのことはあとにしましょう。
十二時過ぎると、彼は皮肉な顔付きをして、書類のぎっしり詰まった折鞄を取り上げ、勤めに出かけます。そして食事は外でして、八時過ぎに帰ってきます。私が書斎にランプとロウソクをつけると、彼は肘掛椅子に腰掛けて、両足を別の椅子の上へ伸ばし、こうして楽な姿勢をとって読書をはじめる。ほとんど毎日彼は、新しい本を自分で持って帰ったり、書店から取り寄せたりしましたので、私の下僕部屋の一隅には、私の寝台の下に、ロシア語以外の三ヶ国語の、もう読まれたり、見捨てられたりした書物が山のように積まれていました。この男は素晴しい速力で本を読むのでした。
まず、何を読んでいるのかをいえ、しからば君の何者たるかを言おう――よくこういうことをいいますね。これはあるいは本当かも知れませんが、彼が読んでいる書物によって、オルロフを判断することだけは、断じて不可能でした。それは一種のカーシャ〔粥のような食物。ごちゃごちゃの意〕でした。哲学もフランス小説も、新しい詩も、「ポスレードニク〔出版社の名〕」の出版物も、――なんでもかんでも彼は同じ速さで、同じ皮肉な表情を眼に浮かべて、読み飛ばすのでした。
十時過ぎると、彼は念入りに服装を整えて、たいていは燕尾服でしたが、たまには年少侍従の制服を一着に及んで、屋敷を出て行きます。そして帰宅はいつも夜明け間ぢかでした。
私と彼との関係は平穏無事でした。私達の間にはいささかの誤解もありませんでした。普通彼は私の存在を認めていなかったので、私と口を利く場合には、彼の顔にも皮肉な表情はありませんでした。――明らかにこの男は私を人間とは思っていないのでした。
ただ、一度私は、彼の怒ったのを見たことがあります。あるとき、――それは私が彼の家へ住み込んでから一週間ばかりしたときでした。――彼はどこかの晩餐会から、九時頃に帰って来ました。彼はむら気な、疲れたような顔をしていました。ロウソクをつけるために、私が彼の書斎へ入って行くと、彼は言いました。
「この部屋はなんだか臭いじゃないか」
「いいえ、空気はきれいでございます」と私は答えました。
「だが、おれは臭いといってるんだ」と彼は腹立たしげに繰り返しました。
「わたくしは毎日通風口を開いておりますが」
「屁理屈をいうな、馬鹿!」と、彼は怒鳴りつけました。
私はむっとして、言い返そうとしました。もしこのとき、私よりよく主人の気心を知っていたポーリャが仲へはいらなかったら、この結果はどうなっていたかわかりません。
「ほんとうに、いやな臭いがいたしますわ!」と彼女は眉を上げながら言いました。「どこからくるんでございましょう? ステパン、お客間の通風口をあけて、暖炉をお焚《た》きなさいな」
彼女は嘆声を発したり、あくせく気を揉んだりして、スカートの音をさらさらさせ、噴霧器をしゅうしゅう吹きながら、室内を歩き廻りました。オルロフは依然として不機嫌でした。どうやら彼は大声で怒鳴り散らしたりするのを自制している様子で、卓に向かって、手早く手紙を書いていました。二三行書くと、彼は腹立たしそうに鼻を鳴らして、手紙を引き裂き、それから改めてまた書きはじめました。
「畜生め!」と彼はつぶやきました。「奴らはおれに途方もない記憶力を持たせようとしてやがる!」
とうとう手紙は書きあがりました。彼は卓の前から立ちあがって、私に向かって言いました――
「お前な、ズナメンスカヤ街へ行って、この手紙をジナイーダ・フョードロヴナ・クラスノーフスカヤに手渡してきてくれ、が、その前にまず玄関番に、あの人の主人、つまりクラスノーフスキィ氏が帰っていないかどうか聞いてみてくれ。そしてもし帰っていたら、手紙は出さないで帰ってくるんだ。ああ、待て待て!…… それから、もし奥さんが、おれのところに誰か来ているかとでも聞いたら、八時頃からどこかの紳士がふたり来て、何か書きものをしてると言っといてくれ」
私は馬車でズナメンスカヤ街へ出向きました。玄関番がクラスノーフスキィ氏はまだ帰っていないと言いましたので、私は三階へあがって行きました。私に扉をあけてくれたのは、背の高い、ふとった、黒い頬ひげをはやした赤ら顔の下僕で、下僕が下僕に対して口を利くときにのみ見られるような、眠そうな、ものうげな、いけぞんざいな調子で、何の用かと聞きました。私がまだ答える間もないうちに、広間のほうから控室へ、黒服姿の夫人が急ぎ足に出て来ました。彼女は眼を細めて私を見ました。
「ジナイーダ・フョードロヴナはおいででございましようか?」と私は聞きました。
「わたしがそうよ」と夫人は言いました。
「ゲオルギイ・イワーヌイチからお手紙でございます」
彼女はせかせか封を切ると、それを両手で持って、ダイヤの指環を私のほうへ見せながら読みはじめました。私は下あごの前へ出た、睫毛の長く濃い、輪郭の柔かな、色の白い顔を観察しました。うち見たところ、この夫人は、二十五にはなっていないようでした。
「どうぞよろしく、お礼を申し上げておいて頂戴」と、読み終わってから彼女は言いました。
「それで、ゲオルギイ・イワーヌイチのところには、どなたかお客さまがあって?」と彼女はものやわらかに、嬉しそうに、自分の不信を恥じるような口吻《こうふん》で、訊きました。
「どなたかおふたり」と私は答えました。「なにか書き物をしていらっしゃいます」
「どうぞよろしく、お礼を申し上げといて頂戴」彼女はこう繰り返して、頭をわきの方へ傾《かし》げ、歩き歩き手紙を読みながら、音もなく奥へ入って行きました。
私はその頃あまり婦人というものに会いませんでした。で、ひと目見ただけのこの婦人が、私にある印象を与えました。歩いて家へ帰りながら、私は彼女の顔と、優雅な香水の香を思い出して空想に耽りました。私が家へ帰ったときには、オルロフはもう家にいませんでした。
二
こうして、私と主人の間は、至極平穏無事でしたが、でも下僕として住み込むときに私が恐れていた不純な、屈辱的な感じは、依然として眼の前にあり、毎日まざまざとそれを感じさせられるのでした。私とポーリャとは気が合いませんでした。ポーリャはまるまるとふとった、甘やかされた女で、主人だというのでオルロフを尊敬し、下僕だというので私を軽蔑している人間でした。しかし、ほんものの下僕や料理人の眼からみれば、恐らく彼女は、誘惑的に見えたでしょう――赤い頬、仰向いた鼻、細めた目付、過ぎた感あるふとり肉《じし》。彼女は白粉を塗り、眉と唇に紅を差し、コルセットを締め、腰あてを付け、貨幣でつくった腕環をはめていました。彼女の歩き振りは小股でちょこちょこ踊るようでした。彼女が歩くときには、肩や臀部を回転させたり、よくいうぴくぴくひきつらせたりするのです。そのスカートの衣摺れの音、コルセットの軋む音、腕環の鳴る音、口紅や化粧水や、主人のを失敬した香水の下品な匂いなどが、毎朝彼女と一緒に部屋の掃除をするとき、私の心に、自分が彼女と共謀で何か卑しいことでもしているような感じを起こさせるのでした。
私が彼女と一緒になってものを盗まなかったり、彼女の情夫になりたそうな気振りを一向に見せなかったりしたのが、恐らく彼女の気に障ったせいでもあろうか、それともまた、彼女が私のうちに階級の違った人間を感知していたせいでしようか、彼女はそもそも最初の日から、私を憎み出しました。私の不器用、下僕らしからぬ容貌風采、私の病気などが、彼女にはみじめなものに見えて、その心に嫌悪を呼び起こしたのでしょう。私は当時|咳《せき》がひどかったので、毎晩のように彼女の眠りを妨げるようなこともあったのです。というのが、彼女の部屋と私の部屋とは、たった一枚の板壁で仕切られているきりだったので、彼女は毎朝私に言ったものです――
「お前さんのおかげで、あたしはまた寝られなかったよ。お前さんなんか、病院へでも行くがいいんだよ。旦那方のお屋敷に住み込むなんて柄じゃないわ」
彼女は心から、私が人間ではなく、何か彼女とは比べものにならないほど低いところに立っているものと思い込んでいたので、奴隷たちの前で水浴することを恥じとしなかったローマの老貴夫人たちのように、ともすると私の前を、下着一枚で歩き廻ることがありました。
ある日、食事のときに(私達には毎日料理屋からスープと焼肉が届けられたのです)そのとき私は晴々とした、空想的な気分でいたので、こう訊ねました――
「ポーリャ、君は神様を信じているかね?」
「信じなくてどうするの!」
「じゃあ君は、」と私は続けました――
「恐ろしい審《さば》きのあることや、われわれは自分のわるい行為に対していちいち神様にお答えしなけりゃならないことを信じているんだね?」
彼女はなんとも答えないで、ただ馬鹿にしたように顔をしかめただけでした。そして私はこのとき、彼女の満足したらしい冷やかな眼を見ながら、このすっかり出来あがって、完成しきっている存在には、神もなければ、良心もなく、法律もなく、そしていまかりに、私が人殺しをするとか、放火するとか、また盗みをするとかいう必要の生じた場合には、金でこれ以上の共謀者を得るのは絶対に不可能なことを、見てとりました。
新しい環境の中で、おまけに、|お前《ヽヽ》と呼ばれることや、のべつ口にしなければならぬ嘘(彼が在宅のときにも「主人はお不在《るす》でございます」ということ)に慣れないために、オルロフ家における最初の一週間は、私にとってあまり楽ではありませんでした。下僕の燕尾服が私には、甲冑《かっちゅう》でも着けているようにぎこちなく感じられました。しかしその後は慣れました。本物の下僕のように給仕もすれば、部屋の掃除もするし、命《めい》のままに走り使いでもなんでもしました。オルロフがジナイーダ・フョードロヴナとの逢引に出かけて行く気がなかったり、また、彼女を訪問する約束を忘れたりした場合には、私はズナメンスカヤ街へ馬車を飛ばし、彼女に手紙を渡して嘘をついてくるのでした。そしてすべての結果は、私が下僕奉公に住み込むときに期待していたこととは、およそ違ったものになってしまいました。
この私の新生活の日々は、私にとっても、私の計画にとっても、なんの役にも立たないことがわかりました。というのは、オルロフは、自分の父親のことを決して口に出さなかったし、彼の客達もやはり同様だったからで、この有名な政治家の行動については、私はただ、それまで同様、新聞や同志たちとの通信から知り得たことを知ったまでに過ぎませんでした。私が書斎で見つけて読んだ幾百の手紙や書類は、私が求めていたものに対しては、僅少な関係すら持たないものばかりでした。オルロフは、自分の父の政治的活動に対しても全然無関心で、まるでそんなことなど耳にしたこともないか、あるいはまた、父親などはとうの昔に死んでしまった人のような顔をしていました。
三
毎週木曜日には、屋敷に客がありました。
私は料理屋へローストビーフを注文したり、エリーセーエフ〔有名な食料品店〕へイクラや、チーズや、牡蠣《かき》などを届けるように電話をかけたりしました。カルタを買いにも行きました。ポーリャはもう朝から、茶器の仕度や、夜食の食卓の準備にかかっていました。実をいうと、この小さな活動も、私達の無為な生活には何ほどかの変化を与えてくれるので、木曜日は私達にとって一番興味の深い日だったのです。
訪客は三人きりでした。中で一番しっかりした、恐らく、一番興味のある客は、姓をペカールスキィという、背の高い、痩せ形の、年は四十五六、長いかぎ鼻に大きな黒いあご髭のある、はげ頭の男でした。この男の眼は大きくとび出ていて、顔の表情はギリシャの哲学者のように真面目で考え深そうでした。彼は、鉄道管理局と銀行に地位を有し、ある重要な官庁に法律顧問を勤め、また後見人とか債権者会議の代表者とかいった資格で、いろいろな私人とも事業上の関係を持っていました。彼の官位は至って低く、自身でも謙遜して、自分は一介の弁護士に過ぎぬといっていましたが、その勢力はなかなか広大なものでした。彼の名刺なり書いたものなりがあれば、有名な医者にでも、鉄道局長にでも、地位の高い官吏にでも、順番でなく会えたでしょうし、彼の口添えがあれば、四等官の地位を得ることも容易だし、どんな不都合な事件でももみ消してしまうことができるという噂でした。彼はまた、非常に頭のいい人という評判をとっていましたが、その頭のよさは一種特別な、風変わりなものでした。彼は一瞬間に、暗算で三七三に二一三をかけることもできれば、鉛筆や表の助けを借りずに、スターリングをマルクに換算することもできるし、鉄道事業とか財政方面のことには特に通暁していた上、行政に関する事項では、百事百般、彼にとっては秘密というものが何一つ存在しないくらいでした。その他、民事事件では、比肩するもののない巧妙な弁護士で、彼と抗争するのは容易ではないという評判でした。
ところが、この非凡な知恵者にも、そこらあたりにうようよしている馬鹿者どもでも知っていることで、全然理解の届かないようなことが沢山ありました。こうして彼は、何がゆえに人間は退屈したり、泣いたり、自殺したり、人殺しさえするのか、何がゆえに彼等は、直接自分達には関係のない事柄や事件に興奮するのか、何がゆえに彼等は、ゴーゴリやシチェードリン〔有名な諷刺作家〕を読んで笑うのか、断乎として理解できなかったのです……すべて抽象的なこと、思想感情の領域に踏み込んでいる問題は、彼にとっても、聴覚を持たない者にとっての音楽同様、不可解かつ退屈なものでした。人を見るにも、彼はただ実際的見地からのみして、彼等を有能と無能とに分類していました。それ以外の分類は彼には存在しないのでした。正直と清廉《せいれん》とはただ、有能の特徴をなすものである。酒を飲み、カルタを遊び、放蕩するのも差しつかえない、しかし、それも事務を妨げない程度でなければならぬ。神を信ずることは賢明ではない。だが宗教は擁護されなければならぬ。なぜなら、民衆にとっては、自己を抑制すべき土壌が必要で、それがなくては、彼等は働かなくなるだろうからである。刑罰は、威嚇のためだけに必要である。別荘へ出かけなければならぬ理由は少しもない。街でも暮らせるからである。万事この調子だったのです。彼は男やもめで子供はなかったが、生活は家族持ちのように大がかりで、家賃なども、年に三千ルーブリから払っていました。
第二の客のククーシキンは、若手の四等官で、背が低く、そのぶくぶくふとった胴体と、小さい痩せた顔との不均衡が、彼に与えた最高度に不愉快な表情によって目立つ男でした。彼の唇はハート形をしているし、短くはさんだ口髭は、さながら漆《うるし》で貼りつけたような格好をしていました。そして、身のこなしの蜥蜴《とかげ》のような男でした。彼は小股でちょこちょこと歩いて、からだを揺すぶって忍び笑いをしながら、入ってくるのではなく、這ってくるのでした。笑うときは歯をむき出しました。彼は、ある官庁の嘱託官吏だったので、高給を食《は》んでいながら、これぞという仕事はしていませんでした。ことに彼のためにいろんな出張用務が考え出される夏の間は、莫大な収入になったのに、彼は、骨の髄までどころか、もっと深く、血の最後の一滴までの官海遊泳者でしたが、しかしけちくさい、自信のない、ただただ進物政策だけで出世の道を開いたような遊泳者でした。どこかの外国の勲章を手に入れるためとか、他の名士達と一緒に追悼式や祈祷式に参列したことを新聞に書かせるためとかには、彼は、どんな卑下でも、執拗な強請《ゆすり》でもおもねりでも約束でもする覚悟を持っていました。彼は臆病から、オルロフやペカールスキイには常に媚びていました。それは彼等を有力な人々と考えていたからですが、私やポーリャにまで同じ態度を見せたのは、私達が有力な人のところに奉公していたからなのです。いつも、私が毛皮外套を脱がせてやるたびに、彼はひひと追従笑いをして、こう訊くのでした――「ステパン、お前は女房持ちかね?」――それから――私に特別な注意を払っている印として――卑猥なことを言い出すのでした。ククーシキンは、オルロフの弱点や 頽廃や飽満におもねって、彼の気に入るために毒々しい嘲笑家と無神論者の仮面をかぶり、彼と一緒になって他の場所ではその前に奴隷のような偽善者ぶりを発揮する人々のことを、かれこれ批評するのでした。夜食の卓上で、女の話や色恋のことが問題にのぼる時分には、彼は、洗練された、粋な通人ぶりを装うのでした。総じて、ペテルブルグの蕩児どもは、自分達の変態的嗜好について語ることが好きなのを注意しなければなりません。ある若手の四等官は、自宅の料理女や、ネーフスキィ通りをうろついているどこかの不幸な女の愛撫に充分満足しているくせに、そのいうことを聞いていると、この男は東西両洋の悪徳に感染して、いくつもの秘密不良団の名誉団員であり、すでに警察のブラックリストに載っている人間のように思われるでしょう。ククーシキンは、自分のことでは実に無良心にでたらめをしゃべりました。で、ほかの連中は、全然彼を信じないというのではありませんが、彼のでたらめ話はいいかげんに聞き流しているようでした。
第三の客は、グルージンという尊敬すべき学識ある将軍の息子で、オルロフとは同い年の、髪を長くして、強度の近視眼に金縁眼鏡をかけた金髪男でした。私には今でも、その男のピアニストにでもみるような長い、蒼白い指が思い出されます。のみならず、この男の全姿態には、どこやら、音楽家らしい、名手らしいところがありました。こうした風采の人がオーケストラではよく第一ヴァイオリンを弾いています。彼はよく咳をしたり、扁桃痛に悩んだりしていて、いったいに病身な、弱々しい人のように思われました。多分、家では服ひとつ着るにも脱ぐにも赤ん坊のように人手を煩わしていたに違いありません。彼は法律学校を卒業して、初めは司法省に勤め、後、元老院に転じ、そこをやめてから、ある手づるによって御料局に地位を得たが、ここも間もなくやめてしまいました。それで、私の知っていた頃には、オルロフの役所に勤めて、彼の下で一課長をしておりましたが、なんでもまた、じきに、もとの司法省へ舞い戻るという話でした。勤務とか、ひとつの地位から他の地位へとふらふら浮草のように移り歩くことに対しては、彼は実に稀にみる軽率な態度を持していて、人が彼の前で、官位とか、勲章とか、俸給とかについて真面目な話でもはじめようものなら、彼は気心のよさそうな微笑を浮べて、プロトーコフの警句を繰返すのでした――「官吏になってみて、初めて真理がわかるのさ!」この男には、しわだらけの顔をした、小柄な、ひどい焼餅やきの細君と、ひ弱そうな五人の子供がありました。彼は細君には不誠実で、子供達をもただ眼で見ているときだけ可愛がるという調子で、概して家族に対しては、かなり冷淡で、からかってばかりいました。彼は、家族を抱えて借金政策で生活を立てていて、誰かれのみさかいなしに、あらゆる機会を利用して借金をしました。この点では自分の上役達や玄関番すら除外しませんでした。これは、脆弱《ぜいじゃく》な、自分自身のことにも全然無関心なほどの怠け者で、いわばどこへなんのためというでもなく、流れのまにまにただふらふら動いているといったふうの人間でした。彼は、誘われるところならばどこへでも行きました。魔窟のようなところへでも――行きました。眼の前に酒を置かれれば飲み、置かれなければ飲みません。人が彼の前で細君を罵倒すれば、彼も自分の細君を罵倒して、細君のために自分の一生が台なしになったようなことをいうのでした。が、人が細君を褒めるときには、彼も同じように褒めて、心底からこう言うのでした――
「わたしは可哀そうなあれを非常に愛しています」彼は毛皮外套を持たなかったので、いつも子供部屋のにおいのする格子縞のマントを着ていました。夜食の席で、彼が何やら考え込みながら、パンで球《ボール》を作ったり、赤葡萄酒をむやみに飲んだりしているのを見ると、奇妙なことに私は、彼のはらの中には何かがある、彼自身おそらく漠然とはそれを感じているのだが、浮世の繁忙や煩いのために、それを理解し評価する暇がないのだろうと、ほとんど確信するのでした。彼は少しばかりピアノを弾きました。よくピアノの前に腰掛けて、二三度諧調を試してみてから小声でうたい出すことがありました。――
〈明日はまたわが身に何かもたらさん?〉
しかしすぐ、びっくりしたように立ちあがって、ピアノの傍をはなれるのでした。これらの客達は普通十時までに集まりました。彼等はオルロフの書斎でカルタをやります。私とポーリャとが、それにお茶を出します。当然、このときだけは私も、下僕生活の甘味を残りなく満喫するのでした。四五時間も連続的に戸口に立ったまま、空のコップができないように気を配ったり、灰皿を取り換えたり、落ちた白墨やカルタを拾いに卓の傍へ駈けよったりすることは、ことに、終始待機の姿勢で立ったまま、注意を集中しながら、口を利かず、咳もせず、笑いもしないでいるということは、あえて申しますが、どんなに辛い百姓の労働よりも確かに辛いものですよ。私はいつか猛烈な|しけ《ヽヽ》の晩に、四時間ずつの当直に立ったことがありますが、この当直の方が、はるかに楽な仕事だったと思わずにはいられません。
彼等は二時まで、ときには三時までカルタをやって、それから伸びをしながら、夜食を食べに、あるいはオルロフのいわゆる何かひと口つまむために、食堂へ行くのでした。夜食の卓では、雑談がはじまる。普通まず、オルロフが眼に微笑を浮かべて、知人の誰かれの噂話や、最近読んだ本のことや、新しい任命や企画について口を切ることからはじまるのでした。すると早速、お世辞者のククーシキンが調子を合せて、そこで、当時の私の気分ではとてもやり切れない音楽がはじまるのでした。オルロフとその友人達の皮肉には果てしがなく、何人《なんぴと》も何ものをも容赦しませんでした。宗教について語れば、――皮肉、哲学について、人生の意義と目的について語れば――皮肉、誰かが民衆に関する問題をもち出しても――皮肉です。
ペテルブルグには人生のあらゆる現象を洒落《しゃれ》のめすことをもって、使命と心得ているような特別な人種がいます。彼等は飢えている者や自殺者の傍をすら、馬鹿口を叩かずには素通りできない連中です。しかし、オルロフとその友人とはふざけるのでもありません。茶化すのでもありません。ただ皮肉な言い方をするだけです。彼等は言いました。神はない。人間は死と共に完全に消滅する。不死はただフランスのアカデミィにのみ存在するのだと。真の幸福というものはない。またある筈がない。なぜなら、その本質は人間の完全を条件とするが、人間の完全などということは論理的不合理だからである。ロシアはペルシャと同じように退屈な貧乏国だ。知識階級には希望は持てない。ペカールスキィの意見によると、知識階級は大部分、あって甲斐ない無能な輩から成り立っている。ところが民衆は、酔っ払いで、怠け者で、泥棒癖がつき、退化している。われわれには科学がない。文学はお粗末だ。商業はいんちきで成り立っている。――「だまさないときは――売らないときだ」である。万事こういったあんばいで、すべてがお笑い草なのです。
葡萄酒のおかげで、夜食の終り頃には、一同はますます陽気になって、会話も朗らかになって行きます。彼等は、グルージンの家庭生活を笑ったり、ククーシキンの勝利を笑ったり、ペカールスキィの出納簿の中に、ひとつは「慈善事業」いまひとつは「生理上の要求」という見出しをつけた頁が設けてあるように言って、それを笑ったりしました。彼等はまた、世には貞淑な人妻というものはない、夫が隣りの書斎にいるときでも、ある程度の手腕さえあれば、客間から出ないでいて、その愛撫が得られないというような人妻はひとりもないという話をしました。近頃は若い娘達まで、すっかり堕落しきっていて、もうなんでも心得ている。オルロフはやっと十四になったばかりの女学生の手紙を保存しているが――その女学生は学校の帰途、「ネーフスキィ通でひとりの若い将校に、彼が求婚するようにし向けた」ところ、相手が彼女を自分の家へ連れ込んで、晩遅くなってようやく放免した。というようなことを、その少女は早速手紙に書いて、友達と喜びをわかちあおうとしたのです。そして、彼等が言うには、精神の純潔などというものは、いつの時代にもなかったし、現代もない。また、明らかにそれは不必要なものである。人類は今日に至るまで、それなしで結構立派に過ごして来た。いわゆる放蕩から生ずる害毒などというものは、疑いもなく誇張されたものである。われわれの法令中にあらかじめ刑罰を定められている破倫も、ディオゲネスが哲学者であり教師であることを、妨げはしなかった。カエサルやキケロは、背徳漢であると同時に偉大であった。老カトーは若い女と結婚したが、依然として峻厳な斎戒者、道徳の守護者とうたわれている。
三時ないし四時に、客達は解散するか、あるいは一緒に郊外か、将校町のどこかのワルワーラー・オーシポヴナのところへ出かけます。で、私は下僕部屋へ引き取りますが、そんなときには、頭痛と咳のために、長いあいだ寝つくことができませんでした。
四
私がオルロフ家へ住み込んでから三週間ほど過ぎた、忘れもしない、日曜日の朝でしたが、誰かが呼び鈴を鳴らしました。十時廻ったところだったので、オルロフはまだ寝ていました。私は玄関を開けにでました。
そのときの私の驚きを想像して下さい――階段の踊り場には、扉の傍に、ヴェールをかけたひとりの婦人が立っているではありませんか。
「ゲオルギイ・イワーヌイチはお目ざめになって?」と彼女は聞きました。
その声音で、その婦人は、私がズナメンスカヤ街へ手紙を届けたことのあるジナイーダ・フョードロヴナだとわかりました。私は、自分がうまく返事をしたかどうか、それすらよくは記憶していないくらい、彼女の出現には度肝を抜かれていました。それに、彼女の方では、私の返事なんかどうでもよかったのでしょう。あっというまに私の傍をすりぬけると、私が今でもはっきり覚えている香水の匂いで控え室を満たしながら、奥へ通ってしまいました。そして、その足音はたちまち消えてしまいました。それから、少なくとも三十分ばかりの間は、物音ひとつ聞こえませんでした。ところが、またしても、誰かが呼び鈴を鳴らしました。今度は、一見して富家の小間使いらしい、えらくめかしこんだひとりの娘と、うちの玄関番とで、ぜいぜい息を切らしながら、鞄を二個と行李を一個、運び込んできたのでした。
「これはジナイーダ・フョードロヴナに」と娘は申しました。
そして、それ以上は一言も言わないで、帰って行ってしまいました。これらのことはすべて、いかにも神秘不可思議で、かねて主人達のいたずらを崇拝していたポーリャに、ずるそうな薄笑いを浮かべさせました。
「ほら、ご覧なさい。あたい達もおんなじよ!」――彼女は、こうも言いたげな顔つきをして、のべつつま先で歩いていました。ついに、足音が聞こえてきました。ジナイーダ・フョードロヴナがつかつかと、控え室へ出てきて、下僕部屋の戸口にいた私を見るとこう言いました。――
「ステパン、ゲオルギイ・イワーヌイチにお召し替えをさせてあげて頂戴」
私が服と長靴を持ってオルロフの部屋へ入って行ったとき、彼は熊の毛皮の上へ両足をぶら下げて、寝台に腰かけていました。彼の全姿態は混乱を現わしていました。彼は日ごろ私など眼中になかったし、私の下僕的意見など意に介していなかったのですから、彼が混乱したり、はにかんだりしていたのは、むろん自分自身に対し、自分の「内部の眼」に対してであったに違いありません。着替えをすまし、洗面を終わってからも、彼は黙ってのろのろと、みるからに自分の陥った境遇について思いめぐらし考慮する時間を自分に与えようとでもするふうに、しきりに刷毛《ブラシ》や櫛を使っていました。その背中を見ただけでも、彼が混乱の極、自分自身に不満でいることがわかりました。
彼等はふたりで珈琲を飲みました。ジナイーダ・フョードロヴナは、自分とオルロフに珈琲を注ぐと、片肘を卓について、笑い出しました。「あたしにはまだなんだかほんとうのような気がしませんわ」と彼女は言いました。「長い旅をしたあとで、ホテルに着いたときに、もうこれで先へ行かなくてもいいのだということが、ちょっと嘘のような気がする、あれと同じ気持ですわ。ほっと安心の息をつくのは嬉しいものね」
いたずらしたくてたまらないでいる少女のような表情をして、彼女は一つ太い息をつくと、またしても笑い出しました。
「あなたは僕を許してくれるでしょうね」と、オルロフは新聞のほうをしゃくって言いました。「珈琲を飲みながら新聞を読む――これは僕のうちかちがたい習慣なんですからね。だが、僕は同時に二つのことが出来るんですよ――読むことと、聞くことと」
「どうぞ、読んで頂戴、読んで頂戴……あなたの習慣とあなたの自由とは、どこまでもあなたのものですわ。だけどあなたはどうしてそんな元気のないお顔をしていらっしゃるの、それとも今日だけ? あなたは嬉しくないの?」
「嬉しくないどころか。しかし僕は、白状すると、少々ぼんやりしているんですよ」
「どうしてでしょう? あたしがいつかはくるという覚悟をなさる時間は充分あったはずじゃありませんか。あたしは毎日のようにそういって、あなたを脅かしていたんですもの」
「そうです。しかし、まさかあなたがあんな脅かしを、今日実行なさろうとは思いもかけませんでしたからね」
「そりゃ、あたし、自分だって思いもかけませんでしたわ。でも、結局はこの方がいいのよ。あなた、痛む歯はひと思いに抜いてしまえば――それでおしまいなんですもの」
「そりゃ、もちろん、そうですよ」
「ああ、あなた!」と彼女は、眼を細くしながら言いました。「何事もうまく片付けばそれで結構なんですわ、でも、うまく片がつくまでには、随分苦しい思いもしましたわね! あなた、あたしが笑っているとお思いになっちゃ駄目よ。あたしは嬉しいの、幸せですわ、だけど、あたしは泣きたいの、笑うよりは泣きたいの、あたし昨日、ひと戦争しちゃったのよ」と彼女はフランス語で続けました。
「あたしがどんなに苦しい思いをしたかは、神様だけがご存知ですわ。でも、あたしは笑っているの、なぜって、あたしにはほんとうと思えないんですもの。あたしには、こうしてあなたと一緒に座って珈琲を飲んでいるのが、現《うつつ》でなくて夢のような気がしているんですもの」
それから彼女はフランス語でしゃべり続けながら、昨日、夫と衝突したときの顛末《てんまつ》を述べ立てました。その間、彼女の眼は涙でいっぱいになり、あるいは笑って、うっとりとオルロフを見つめていました。彼女は、夫はもうとうから彼女を疑っていたけれど、口に出すのを避けていたのだと語りました。夫婦はもう始終のように争いをしたが、いつも最も火の手があがる時分に、夫の方がふいと黙ってしまって、さっさと時分の部屋へ引き上げてしまった。それは、夢中になって思わず例の疑いを口にのぼせたり、また、妻の方から告白されたりするのを避けるためであった。ところで、ジナイーダ・フョードロヴナの方でも、自分を罪深い、思いきって真面目な行動に出る力のない、とるに足りぬ女と感じて、そのため日一日とますます強く己れを憎み夫を憎みして、さながら地獄のような苦しみをなめていた。けれど、昨日は争いの間に、夫が泣き声を上げて叫び出した――
「ああ、いつになったらこんなことは終わるのだろう。もうたまらない」――そして自分の部屋へ駈け込もうとした。そのとき彼女は、鼠を追う猫のように追いすがって、彼が後ろ手に閉めるのをさえぎりながら、自分は心の底から彼を憎んでいるのだと喚《わめ》いた。すると、彼が彼女を部屋へ入れたので、彼女は彼にすべてを打ち明けて、自分は他の男を愛している。その男こそ彼女の真の最も正当な夫である。だから今日という今日は、たとえどのようなことがあろうとも、大砲で撃ち殺されようと、その男の許へ移るのを良心の義務と考えていると告白した――こう語るのでした。
「あなたの胸には、ロマンチックな神経がたぶんに脈打ってるんですね」とオルロフは、新聞から眼をはなしもしないで、彼女をさえぎりました。
彼女は笑い出して、珈琲には手もつけずにしゃべり続けました。彼女の頬は真っ赤に燃えはじめました。と、いくらかそれに気がさしたらしく、ときどき私やポーリャの方を、きまりわるげに眺めるのでした。なお、続いての彼女のお喋りで、私は、夫が叱責や、威嚇や、ついには涙をもって彼女に答えたこと、で、もっと正確にいえば、戦いに勝ったのは彼女ではなくて、彼だったということを知りました。
「それでねえ、あなた、あたしの神経が興奮している間は万事うまく行ってたんですけれど」と、彼女は語り始めた――
「夜になると早速、あたしは気が衰えてしまいましたの。ジョールジ、あなたは神様を信じていらっしゃらないかもしれないけれど、あたしは少しばかり信じていて、報いということを恐れていますの。神様はあたし達から、忍耐や、寛大や、自己犠牲を求めていらっしゃるのに、あたしはこの通り忍耐を拒絶して、生活を自分の思いどおりにしようとしているんですものね。これが正しいことでしょうか? もし、神様の眼から見て、正しくなかったらどうしましょう? 夜中の二時に、宅があたしの部屋に入ってきたと思うと――「お前は出て行くわけにゃ行かないよ。警察の力を借りて、どんな騒ぎを起こしてでも呼び戻してやるから」こういうじゃありませんか。が、暫くしてみると、宅は影のようにしょんぼり戸口に立っているのです。「ちょっとは僕のことも考えてください。あなたの家出は僕の勤務にきっと悪く影響するからね」この言葉はあたしにもぐっとこたえました。そのために、あたしはまるで、錆びついたような気分になって、これは報いが始まったのだわと思いましたの。そしておそろしさにふるえたり、泣いたりしだしたのですわ。あたしは、まるでいまにも頭の上へ天井が落ちかかってくるような、すぐにも警察へ引きたてられそうな気がするかと思えば、あなたがあたしを飽きておしまいなさるように思われたり――つまり、なんともいえない気持になってしまいましたの! そこであたしは、修道院へ行くかどこかへ行って看護婦にでもなろう、幸福なんて考えは捨ててしまおう、こうも考えてみましたの。だけど、そこで、あなたがあたしを愛して下さることや、だからあたしにはあなたのお許しなしに自分を処理する権利のないことを思いだしましたの。こうしてあたしの頭の中では、なにもかもがごっちゃになってしまったので、あたしはもうがっかりして、考えることも、することも、わからなくなってしまいましたの。でも、太陽が昇ると、あたしはまた元気になりました。で、朝になるのを待ちかねて、こうしてあなたのところへ駈けこんできたんですわ。ああ、あたしはどんなに苦しんだでしょう! ふた晩つづけて、あたしはまんじりともしませんでしたのよ!」
彼女は疲れて、興奮していました。 彼女には、同時に、眠ったり、喋ったり、笑ったり、泣いたり、自分の自由を味わうために料理屋へ食事をしに行ったりしたかったのです。
「こちらは感じのいいおうちね。でもあたし、ふたりには少し狭くないかとおもうわ」と彼女は珈琲のあとで、足早に家の中を見て廻りながら言いました。
「あたしにはどのお部屋を下さるおつもり? あたしはこのお部屋がいいわ。だって、あなたのお書斎の隣なんですもの」
一時過ぎに彼女は、それ以来自分の部屋と呼ぶようになった書斎の隣室で着替えをしました。そして、オルロフと一緒に朝食をしに出て行きました。昼食も彼等は料理屋でとりました。朝食と昼食とのあいだの長い時間には、方々の店を乗り回しました。私は晩遅くまで、そうした商店からくる店員や配達人のために、ドアを開けて、彼等からいろんな買物を受け取らねばなりませんでした。彼等が持ち込んできたものの中には、素晴しい姿見や、化粧台や、寝台や、私達には必要のない贅沢な茶器のセットなどがありました。なお、銅のフライパンが大小いくつも届いたので、私達はそれを、がらんとした寒い台所の棚に並べました。私たちが茶器の包みを解いていたときに、ポーリャの眼が怪しく光りました。彼女は、この優美な茶碗の一つをまっさきに盗むのが、彼女ではなくて私かも知れぬという恐怖と憎悪をもって、三度ばかりじろじろ私を見ました。非常に高価なものではあるが、便利ではなさそうな婦人用の書卓も届きました。どうやらジナイーダ・フョードロヴナは、主婦としてこの家にどっしりと御輿《みこし》をすえるつもりだったのでしょう。
彼女はオルロフと一緒に、九時すぎに帰ってきました。何か勇敢な、非凡なことを成し遂げた誇らかな意識に満ちて、熱烈に愛し、また自分の気持では熱烈に愛されているという喜びに燃えつつ、疲れきって、幸福な堅い眠りを前もって楽しみ味わいながら、ジナイーダ・フョードロヴナは新生活に酔いしれていました。幸福の過剰から、彼女は両手を堅く握り合わせて、すべてが美しいことを強調し永久に変わらない愛を誓っていましたが、こうした誓いと、自分は今も強く愛されているし、永久に愛されるに違いないという無邪気な、ほとんど子供らしい信念とが、彼女を五つも若返らせていました。彼女は罪のない迷い言をいっては、ひとりで自分を笑っていました。
「人間には自由以上の幸福はありませんわね!」と彼女は、無理にも何か真剣な、意味ありげなことを話そうとして、こう言うのでした。
「ほんとに、なんて、おかしなことでしょうね! あたし達は、自分の意見となると、かなり立派なものでも、なんの価値もないように思うくせに、他人の意見となると、つまらない人達の意見の前にも、すぐふるえあがるんですものね。あたしもいよいよとなるまでは、他人の意見が恐ろしくてならなかったんですけれど、いったん自分の意見に従って、思い通りに生活しようと決心をかためてみると、急に眼があいたような気持になって、自分のおろかな恐怖を征服したので、今ではこんなに幸福で、誰にもこういう幸福が恵まれるようにと、祈っているくらいですわ」
が、彼女の思想の糸はたちまち断ち切られて、彼女は新しい住居や、壁紙、馬、スイスやイタリアへの旅行などのことを話しだしました。が、オルロフは、料理屋や方々の店を廻り歩いて疲れていた上に、私が今朝気がついた、あの、自分自身に対する混乱の気持にまだ悩まされ続けている様子でした。彼は笑顔をしてはいましたが、それは満足よりもむしろ礼儀を思う心からで、彼女が何か真面目な口調で言い出すと、彼はやや皮肉な調子で、こう同意を表すのでした――
「ええ、そうですよ!」
「ステパン、大急ぎでいいコックをひとりみつけて頂戴な」と彼女は私に言いました。
「台所のことを急ぐにはあたらないよ」とオルロフは、冷やかに私を見て言いました。「それよりもまず、新しい住居に移るのが急務だよ」
彼はこれまで、自分の家には絶対に、台所も馬も置きませんでした。というのは、彼の言い草によりますと「家の中の乱雑になる」のを好まなかったからで、私にしてもポーリャにしても、真に必要やむを得ずして置いていたにすぎないのです……異常な喜びと雑多紛々とを持っている、いわゆる家庭なるものは、俗悪なものとして彼の趣味を辱めたのです。妊娠するとか、子供を持つとか、子供について話すとか――こうしたことはみな、下品な、町人根性だというのです。そこで、今や私にとっては、このふたりの男女――家庭的で、良妻型で、銅鍋を揃えたり、いいコックや馬のことを空想したりしている女と、常に友達に向かって、清潔好きな紳士の住居には、軍艦のように、何一つ余計なものがあってはならない――女も、子供も、ぼろぎれも、台所道具もいらないと豪語している男とが、同じ家の中でどうして暮らして行くものか、それが異常な観物《みもの》に思われてきました……
五
ここで私は皆さんに、次の木曜日に起こったことをお話しましょう。この日、オルロフとジナイーダ・フョードロヴナとは、コンタンかドノンかで食事をしました。そして、家へ戻って来たのはオルロフひとりで、ジナイーダ・フョードロヴナは、これはあとで知ったことですが、うちに客のいる間の時間つぶしに、ペテルブルグスカヤ街の昔の家庭教師の許へ行ったのだそうです。つまりオルロフは友達仲間に彼女を見られたくなかったのですね。これを私がなるほどと合点したのは、彼が彼女の平安のためにぜひとも自分の木曜日の夜の集まりを廃さねばならぬと、彼女を説得しはじめた朝の珈琲のときでした。
客達は、例によって、ほとんど時を同じくしてやってきました。
「奥さんもおうちかね?」と、ククーシキンが囁き声で私に聞きました。
「いいえ、いらっしゃいません」と私は答えました。
彼はずるそうな、やさしい眼をして、玄妙不可思議な薄笑いを浮かべながら、凍えた手をこすりこすりはいって行きました。
「やあ、どうも、おめでとう」と彼は取り入るような、媚びるような笑いに全身をふるわせながら、オルロフに向かって言いました。
「リバン山の杉の木のごと、殖え栄えられんことを祈ります」
客達は寝室へ行って、そこで、女のスリッパや二つの寝台の間の敷物や、寝室の背にかけてあった灰色のブラウスなどのことで、少しばかり洒落をいいました。彼等には、恋愛においていっさいの常套を軽蔑していた頑固者が、突如としてかくも簡単平凡に、女の網にかかってしまったのが、とても愉快でならなかったのです。
「笑えるものに従いつか」ついでに申しますが、とかく教会スラブ語をひけらかす不快な癖のあるククーシキンは、何度も繰り返してこう申しました。「静かに!」と彼は一同が寝室から書斎の隣室に移ったときに、一本の指を唇へあてて囁きました。「しっ! ここでマルガリータがファウストのことを夢みてるんですぜ」
そして、何か途方もなくおかしいことでも言ったように、笑いこけました。わたしはグルージンの音楽家魂はさぞこの笑いに辟易していただろうと期待してじっと彼を観察していましたが、それは私の誤りでした。彼の善良そうな痩せた顔は、喜びのために輝いていました。カルタの席でも、彼は笑いにむせて、舌たるい声を出しながら、家庭の幸福を完全にするために今ジョールジニカに残されているのはただ、長い桜のパイプとギターを持ち込んでやにさがることだけだと言いました。ペカールスキイは悠揚迫らぬ態度で笑っていましたが、彼の集中したような表情によると、オルロフの新しい恋愛事件が彼には確かに不愉快だったのです。彼は、いったい何が起こったのか、それをよく理解していなかったらしいです。
「だが、夫の方はどうしているんだね?」と彼は、三番勝負を一回やったところで、解《げ》しかねるような調子で聞きました。
「知らないね」とオルロフは答えました。
ペカールスキイは指で大きなあごひげをかきながら、考え込んでしまいました。そしてそれからは、夜食のときまでずっと黙りこくっていました。一同が夜食の卓についた時に、彼はゆるゆると一語一語を引きのばしながら、言いました――
「一般的にいって、失敬だが、僕には君達ふたりの気がしれないよ。君達が互いに愛し合って、第七戒を破るのはご勝手だ――それは僕にもわかる。そうだ、それは僕にもわかる。が、なんのために夫にその秘密を打ち明けるんだね? 果たしてそんな必要があるもんかね?」
「だって、それはどちらにしてもおなじことじゃないか?」
「フム……」ペカールスキイは考えこんでしまいました。「じゃあ僕が君に言うがね、君」と彼は思想の明らかな緊張を見せて、続けました――「仮に僕がいつか二度目の結婚をして、君が僕に角を出させるような考えを起こしたとしてもだ、なるべく僕の気のつかないようにやってもらいたいね。人の生活の秩序を破壊したり、名誉を傷つけたりするよりは、彼を欺くほうがはるかに公正だよ。そりゃ僕だって理解はする。君達ふたりは、公然と生活することをもって、自分達が非常に誠実な自由な行動をとっているように思っているのだろうが、しかしその……さあ、なんといったらいいのかね?……そのロマンチシズムには、僕は賛成できないね」
オルロフはなんとも答えませんでした。彼は不機嫌な気持で、口を利く気にもならなかったらしいのです。ペカールスキイは、依然として解しかねるような面持で、指でこつこつ卓を叩きながら、ちょっと考えてから言いました――
「僕にはやっぱりどうも君達ふたりがわからない。君は大学生じゃないし、あの女《ひと》は裁縫女じゃないんだからな。君達ふたりは財力ある人達だ。だから、僕は思うのさ、君は彼女のために、別の住居を用意することも出来ただろうと」
「いや、そんなことはできないよ。まあツルゲーネフを読んでみたまえ」
「なんのためにそんなものを読むんだね? 僕はもうとっくに読んだよ」
「ツルゲーネフはその作品の中で、すべての真面目な考えを持ち、崇高な心情を持った娘は愛する男には世界の涯《はて》までもついて行って、その理想に殉ずべきことを教えている」とオルロフは、皮肉に眼を細めながら言いました。「世界の涯――こいつは Licentia poetica(詩人の誇張)だ。全世界は、そのすべての涯とともに、愛する男の住居の中に在るのだ。そこで、君が愛する女と一つ家に同棲しないということは――つまり彼女の高い使命を認めず、彼女の理想を分かたないわけになるのだ。そうだよ。君、ツルゲーネフはこう書いている。で、僕は今、彼の尻ぬぐいをしているというわけさ」
「どうしてこんなところへツルゲーネフが出てきたんだか、僕にはわからんな」とグルージンは静かに言って、肩をすくめました。「じゃあ君、覚えてますか、ジョールジニカ、彼が「三つの邂逅」の中に、ある晩遅く、イタリアのどこかを歩いていて。ふと、Vieni Pensando a me segretamente! (心ひそかにわが身をおもえば)を聞いたときのことを書いているのを――Vieni pensando a me segretamente!」 とグルージンはうたい出しました。「いいじゃないですか!」
「それはそうと、彼女は君んとこへ無理やりに押しかけてきたんじゃないだろう」とペカールスキイは言いました。「君自身がそれを望んだんだろう」
「ふ、とんでもない! 僕は望むどころか、いつかそんなことが起ころうなどとは、考えも及ばなかったくらいだよ。彼女が僕の方へ移ってくるなんて言ったときにゃ、僕は可愛い冗談を言うくらいに考えていたんだからね」
一同は笑い出しました。
「第一僕が、そんなことを望む筈がないじゃないか」とオルロフは、余儀なく弁解させられてでもいるような口吻で続けました。「僕はツルゲーネフの主人公じゃないから、万一いつかポルガリアを解放しなければならぬはめになったところで、あえて、婦人の協力は必要としないよ。恋愛に対しては、僕は何よりもまず、自分の精神に対抗して、それを低下させる僕の有機体の要求だとみてるんだ。だからそれは、相当の考慮をもって満足させるか、それとも全然拒否するかすべきもので、さもなければ、それは君の生活の中へ、それ自身と同じように、不浄な要素を持ち込むだろう。それが喜びであって、苦痛でないようにするために、僕はそれを美しいものにしよう。いろんな幻影で彩ろうと努めているのさ。僕はもし相手の女が美しくて魅惑的であることを前もって信じなければ、女のところへなんか行きはしないよ。また、気が向かなくても断じて行きはしないよ。そして、ただこういう条件の下においてのみ、われわれは、互いに欺き合うことに成功して、お互いに愛し合っているような、幸福であるような気がしていられるのだ。だのに、その僕がどうして、銅のフライパンや乱れた頭などを望むだろう。また自分が、顔を洗わず不機嫌でいるところを見られたいと思うだろう! ジナイーダ・フョードロヴナは、持ち前の単純な心で僕に、僕がこれまでずっと避けてきたことを、愛させようとしているのだ。彼女は、僕の住居に、台所や雑巾のにおいをさせようと思ってるんだ。大騒ぎをして新しい住居に移りたいんだ。一分毎に僕の個人生活に干渉し、一歩毎に僕の後をつけ回したがっているんだ。しかも、同時に、心から、僕の習慣と自由とはあくまでも僕のものだと保証しているんだからね。彼女は、われわれは新婚者のように、ちかぢか旅行に出るものときめこんでいる。つまり彼女は、車室内でもホテルでも、少しもはなれないで僕の側にいようと望んでいるんだ。ところで、僕のほうはどうかというと、汽車の中では本を読むのが好きで、お喋りのほうは真っ平ときている」
「じゃあ、よくあの女《ひと》に言い聞かせりゃいいじゃないか」とペカールスキイは言いました。
「どういうふうに? 君は、するとあの女が僕を理解すると思っているのかね? とんでもない。僕達の考え方には実に雲泥の差があるんだぜ。彼女の意見によると、両親なり夫なりの許を去って愛人の手へ走ること――これは市民的勇気の頂点だが、僕にいわせると――子供らしい駄々にすぎない、男を愛して一緒になること――これは新しい生活の開始を意味するが、僕に言わせれば、そんなことはなんの意味もありゃしないよ。恋愛と男性とは、彼女の生活の主要な本質を成すもので、あるいはこの関係で彼女のうちに無意識の哲学が働いているかもしれないんだ。恋愛は、食べ物や、衣類などと同じ単なる要求にすぎず、夫や妻達がわるいからといって、この世界は決して滅びるものではなくて、人間は、道楽者であり、誘惑者であると同時に、天才的な、立派な人間であることもできるし、また他面からは――愛の享楽を拒否しながら、同時に愚かな、邪悪な動物でもありうるということなどを、まあひとつ彼女に説き聞かせてみたまえ。現代の開けた人間は、下層階級の者、たとえば、フランスの労働者のごときでさえ、日々、食事に十スウ、食事の際の酒に五スウ、そして女に五スウから十スウまでの金を使って、自分の知恵と神経とは、百パーセント労働にささげている。ところが、ジナイーダ・フョードロヴナときたら、恋愛にスウではなくて、自分の魂のありったけを捧げているのだ。そりゃあ僕だって、あの女に言って聞かせないこともないが、そんなことを言おうものなら、それこそあの女は腹の底からおいおい泣き出して、僕が彼女を破滅させたの、彼女にはこの世にもう何一つ残されたものはないなどと、わめき立てるに決まっているんだ」
「じゃあ、あの人にはなんにも言わないでおきたまえ」とペカールスキイは言いました――「ただ、あの人のために、別の住居を借りたまえ、それで万事オーライだ」
「ところが、それは言うは易いが……」
一同は暫く沈黙しました。
「だが、あの人は可憐な人ですね」とククーシキンが言いました。「なかなか美人ですよ。ああいう女は永久に恋をしていられるように考えて、夢中になって、身を任せてしまうんですよ」
「しかし人間は、肩の上に頭をのせてなくちゃなりませんからね」とオルロフは言いました――「思慮を持たなきゃなりませんからね。われわれが日々の生活から学んだり、無数の小説やドラマから借り出したりするいっさいの経験は、声を揃えて、身分ある人間同志の情事や同棲はことごとく、たとえ初めはどんなに愛が強くあろうと、二年以上は続かない。多くて三年は続かないものだということを証明している。これは彼女だって、承知してなくちゃならないはずだ。だから、こうした引越しや、フライパンや永久の愛と調和に対する希望などはすべて――自分と僕とを瞞着《まんちゃく》しようとする要求以外の何物でもないのです。彼女は可憐です。美しくもあります――それを誰が争うだろう。しかし、彼女は、僕の生活の車をひっくりかえしてしまったのです――今まで、僕がくだらなく無意味に考えてもみなかった神などという偶像に現在の僕は奉仕させられています。なるほど、彼女は可憐でもあれば美しくもある。だが、なぜか僕は今、役所から帰るときにも、家ではきっと暖炉職人が暖炉をみんな壊してしまって、煉瓦の山を築いているにちがいないといったような不便なことがあるような、いやな気分を感じるのです。これを要するに、愛の代償として僕ももはやスウではなく、自分の平静と神経の一部を捧げているというわけです。こいつは少々困りものですよ」
「しかも、彼女はこの悪党の心を知らずか!」とククーシキンは嗟嘆《さたん》しました。「君よ」と彼は芝居がかりで言いました――「われは御身を、あの美わしきものを愛するという重き義務より解き放たん! われ御身よりジナイーダ・フョードロヴナを奪い取るべし!」
「どうぞ……」と、オルロフは無造作に言いました。
半分ばかり、ククーシキンは細い声で笑って、全身をふるわせていましたが、やがてこう言い放ちました――「気をつけてください。僕は冗談言ってるんじゃありませんよ! 後になってオセロを演じないように!」
一同は、情事におけるククーシキンの不撓性《ふとうせい》について話しはじめました。女にとって彼がいかに抗しがたい男であるか、世の夫にとっていかに危険な人物であるか、またこうしたふしだらな生活のために、あの世ではどんな劫火《ごうか》に焼かれるだろうかということなどについて。彼は黙って眼を細くしていましたが、知り合いの婦人の名が出るたびに、小指で脅す真似をしました――他人の秘密を暴くのは良くないよ、とでもいうように。オルロフはふと時計を見ました。
客達はそれと悟って、帰り支度をはじめました。忘れもしません。葡萄酒のまわっていたグルージンがなんでもこのときには、うんざりするほど手間どって外套を着ましたよ。彼はあんまり金廻りのよくない家庭で、子供達に着せている部屋着のような外套を着ると、襟を立てましたが、それからまた、長々と話しはじめました。が、やがて、誰も聞き手のないのに気がつくと、例の子供部屋のにおいのする格子縞のマントを肩に投げかけ、すまなさそうな、祈るような顔をして、私に帽子を探してくれと頼みました。
「ジョールジニカ、僕の天使!」と彼は優しい口調で言いました。「君、ひとつ僕の言うことを聞いてください。そしてこれから一緒に郊外へ付き合ってください」
「どうぞご自由に、僕は駄目です。僕はいま妻帯者のような状態にあるんですから」
「あの女《ひと》はいい人ですから、怒りやしませんよ。さあ、わが長官閣下、一緒に行きましょう! 素晴しい天気です。少しばかり吹雪《ふぶ》いて、凍《い》てが強く……実際、あなたはちょっと浩然《こうぜん》の気を養う必要がある。でないと、元気がなくていかん――どうしたのかわけがわからん……」
オルロフは伸びと欠伸をして、ペカールスキイを見ました。
「君は行くのか?」彼はためらい気味に訊きました。
「さあ、どうするかな」
「じゃあひとつ、酔っ払うか。ええ? じゃあ、よし、行こう」とオルロフは、暫くの躊躇のあとで、決心しました。「ちょっと待ってくれたまえ、金をとってくる」
彼は書斎へ行きました。その後からグルージンが、格子縞のマントを引きずりながら、よろめいて行きました。一分ばかりすると、ふたりは控え室へ戻って来ました。少し酔って、すっかりいい気持になっていたグルージンは片手に十ルーブリ札を握っていました。
「明日精算しよう」と彼は言いました。「が、あの女はいい人だから、怒りなんかしないさ……あの女はうちのリーゾチニカの洗礼母だ。僕はあの気の毒な人を愛している。ああ君!」彼は突然嬉しそうに笑い出して、ペカールスキイの背中へ額を押し付けました。「ああ、ペカールスキイ! 君は無味乾燥な弁護士でも、恐らく女は好きだろう……」
「むっちりと肉づきのいい奴といいたまえ」とオルロフは外套を着ながら言いました。
「だが、早く出よう。うっかりしていて戸口でばったりは、気が利かないからね」
「Vieni pensando a me segretamente!」と、グルージンはうたい出しました。
遂に一同は馬車で出かけてしまいました。この晩オルロフは家で寝ませんでした。そして翌日の正餐前に帰宅しました。
六
ジナイーダ・フョードロヴナの手もとで、いつか父親から送られたという金時計が紛失しました。この紛失は彼女を驚かし怖れさせました。小半日、彼女は部屋をうろうろ歩きまわって、放心したように、卓の中を捜したり、窓を見たりしていましたが、時計は影も形もありませんでした。
その後まもなく、三日ばかりしてから、ジナイーダ・フョードロヴナはどこかから帰って来て、控え室にがま口を置き忘れました。私にとって仕合せなことには、そのとき彼女の外套を脱がせたのは、私でなくてポーリャでした。みんながま口に気がついたときには、それはもう控え室にはありませんでした。
「おかしいわね!」と、ジナイーダ・フョードロヴナは不審がりました。
「あたし、はっきり覚えてるのよ。だって、辻馬車に払うために、ポケットから出したんですもの……そして、それからここの鏡のそばへ置いたんですもの。不思議だわ!」
私が盗んだわけではなかったが、私は自分が盗みを働いて、その現場を取り押さえられでもしたかのような感じに支配されました。眼に涙が浮かんだくらいでした。彼等が正餐の卓についたときに、ジナイーダ・フョードロヴナは、フランス語で言いました。
「うちにはなんだか幽霊が棲んでるようよ。あたし今日控え室で、がま口をなくしましたの、ところが、今みるとそれが、あたしの卓の上にちゃんと乗ってるじゃありませんか。ですけど、この幽霊は、まんざら無欲に、こんな手品を使ったのではなかったのよ。ちゃんと、その報酬に、金貨一つと二十ルーブリ札を一枚とって行きましたわ」
「あなたはよくものをなくしますね。時計だの、金だのと……」と、オルロフは言いました。「どうして僕にはそんなことが一度も起こらないんでしょう?」
一分後には、ジナイーダ・フョードロヴナはもう、幽霊のやった手品のことなど、ためいきにも出さないで、先週は書簡用紙を注文したのはいいが、新しい住所を言い忘れたため、店ではその品をもとの住所の夫の許へ届けたので、夫はそれに対して十二ルーブリという勘定を払わねばならなかったと、笑いながら話していました。そのうち、彼女は不意にその視線をポーリャの上へ据えてじっと彼女を見つめ出しました。すると彼女はさっと顔を赤らめて、急に何かよそごとを言い出したほど、どぎまぎしました。
私が書斎へ珈琲を持って行ったとき、オルロフは暖炉のそばに、火の方へ背を向けて立っていましたが、彼女は、彼と差し向かいに肘掛椅子にかけていました。
「わたし決して、気を悪くしているわけじゃありませんのよ」と、彼女はフランス語で言っていました。「けれど。よく考えてみて、何もかもがはっきりわかりましたの。あたしはあなたに、いつあの女があたしの時計をとったか、その日と時間まで申し上げられますわ。それから、がま口でしょう? これにはもうどんな疑いもあり得ませんわ。おお!」と彼女は、私から珈琲を受け取りながら笑い出しました。
「今になってみると、あたし、どうしてあんなにハンカチや手袋がなくなったか、そのわけがよくわかりますわ。なんでしたら、明日あたし、あの四十雀《しじゅうから》(お喋り女の意)を放してやって、その代わりにステパンに、うちのソフィアを呼んできてもらいますわ。あれは泥棒じゃありませんし、それにあれはあんな……人好きのしない様子をしていませんわ」
「あなたはだいぶ機嫌をそこねていますね。だが、明日になればまた気分が変わって、ただ疑わしいと思うだけで、人を追い出したりしてはいけないことがわかるでしょう」
「あたし疑っているんじゃありませんの、確信しているんですわ」と、ジナイーダ・フョードロヴナは言いました。「この不幸な顔つきのプロレタリアを、あなたの下僕を疑っていた間は、あたしひと言も口には出しませんでした。あなたがあたしの言葉を信じてくださらないなんて、ジョールジ、それは侮辱よ」
「しかしですね、僕とあなたとあることについて、意見が一致しないからって、それは何も僕があなたを信じないことにはなりませんよ。まあ仮にあなたの言う通りとしましょう」と、オルロフは、くるりと火の方へ向き直って、その中へ煙草を投げ捨てながら、言いました――「しかし、だからといって、別に騒ぐにはあたりませんよ。とにかく、実を言うとですね、僕のこんなけちくさい世帯が、あなたのためにそれほど真剣な心遣いや興奮の原因になろうとは、全く思いも寄りませんでしたよ。もし金貨がなくなったら、それはそれとして、僕の百ルーブリでもとっておいて下さい。が、生活の秩序をかえるなんて、街から新しい小間使いをひろってきて、それが慣れるのを待つなんてことは、――それは、じれったくて、退屈な、僕の性分には合わないことです。今のうちの小間使いは、なるほどでくでく太っていて、ひよっとしたら、手袋やハンカチを失敬するわるい癖を持っているかも知れない。その代わりあれは、充分行儀も知っているし、訓練も届いていて、ククーシキンにつねられても、決してきゃあきゃあさわがないですよ」
「するとつまり、あなたは、あの女と別れられないと仰しゃるのね……それならそうと仰しゃればいいのに」
「あなたは妬《や》いていますね?」
「ええ、あたし、妬いていますわよ!」と、ジナイーダ・フョードロヴナは、決然たる口調で言いました。
「有難う」
「ええ、あたし、妬いていますとも!」と、彼女は繰り返しました。その眼には涙が光り出しました。
「いいえ、これは嫉妬ではありませんわ、もっと悪いものですわ…… あたしにはなんと言っていいかわからないけれど」と彼女はこめかみをおさえて、夢中になって続けました――「あなた方、殿方って、ほんとうにいやらしいのね! ああ、恐ろしい!」
「ところが、僕はなんにも恐ろしいものなんぞ、見出しませんよ」
「あたしは見たこともないから、存じませんわ、けれど、世間ではよく、あなた方殿方は、まだ子供の時分から、小間使いなどと関係しはじめて、後にはもう習慣になって、それに何のいやらしさも感じなくなるのだといっていますわ。あたしは存じませんわ、存じませんわ、だけど、読んだこともありますわ……ジョールジ、そりゃあなたの仰しゃる通りよ」彼女はオルロフの傍に歩み寄って、語調を、やさしい祈るような調子に変えながら、言いました――「ほんとにあたし、今日は機嫌が良くありませんの。だけど、あなたも察して頂戴。あたしほかにどうしようもないんですもの。あたしはもうあれがいやでいやで、その上、恐いような気もしますの。あたしもう、あれの顔を見るのもつらいんですわ」
「いったいあなたは、こんな些細なことにも超然としていられないんですかねえ?」と、オルロフは困ったように肩をすくめて、暖炉のそばをはなれながら言いました。
「だって、それ以上簡単なことはないじゃありませんか――あんな女のことなど眼中におかなければ、自然といやでもなんでもなくなるし、こんなつまらないことのために、一場の悲劇を演ずる必要もなくなるというものです」
私はそのとき書斎を出てしまったので、オルロフがどんな返事を得たかは知りません。それはとにかく、ポーリャはうちに残るようになりました。しかし、この後ジナイーダ・フョードロヴナは、もう何事があっても、彼女には注意を向けませんでした。あきらかに、彼女の手を借りないですまそうと努めている様子でした。ポーリャが彼女に何かを渡したり、あるいはその腕輪の音を立てたり、スカートをさらさら鳴らしたりしただけでも、彼女はぶるっと身ぶるいするのでした。
私は思うのですが、もしこのポーリャに暇を出せというのがグルージンとかペカールスキイとかだったら、オルロフは一議に及ばず、なんのいざこざなしに、そうしたに違いないのです。彼はすべての無関心な人の例に洩れず、人の言葉をよく聞く男でしたから。ところが、ジナイーダ・フョードロヴナとの交渉になると、彼はなぜか、ごく些細なことまで、時々はかたくなと思われるほど意地を張り通すのでした。こういうわけで、私はもうちゃんと知っていました――ジナイーダ・フョードロヴナに気に入ることは、きっと彼の気に入らないだろうと。彼女が買物から帰って来て、いそいそと彼の前に新しい物をひろげると、彼はちらと一瞥をくれただけで、冷然たる調子で、家の中に一つでも余計なものがふえれば、それだけ空気が減るというのでした。また時には、どこかへ外出するために、もう燕尾服を一着に及んで、ジナイーダ・フョードロヴナと出がけの挨拶をすませてから、急に例の片意地から、家に残ったりするようなこともありました。そんなとき私には、彼はただただ自分を不幸に感ずるためにだけに、家に残るのだという気がしました。
「どうして、あなた、およしになったの?」ジナイーダ・フョードロヴナは、わざとらしい残念そうな口吻で、同時に嬉しさに輝きながら、こんなふうにいうのでした。「どうしてですの? あなたは晩は家にいらっしゃらない習慣でしょう、あたしのために習慣をお変えになるの、あたしいやですわ、あたしに心苦しい思いをさせたくないと思し召したら、どうぞお出かけになってちょうだい」
「じゃあ、誰かがあなたを責めるとでもいうんですか?」とオルロフは言います。
犠牲のような顔をして、書斎の肱掛椅子にふんぞりかえり、片手を眼にかざしながら、彼は読書にかかります。しかし間もなく、書物は手から投げ出されて彼は椅子の中で重々しく向きを変え、再び日光でもよけるように眼をさえぎりました。こうなると、彼はもう、出かけなかったことが、いまいましくてならないのです。
「入ってもよくって?」ジナイーダ・フョードロヴナは、ためらい気味に書斎へ入って来ながら言うのです。「あなた、ご本? あたし淋しくなっちゃったもんで、ちょっと来たのよ……どうしていらっしゃるかと思って」
忘れもしません。そうしたある晩のことでした。彼女は例によってためらい気味に、時ならぬ時分に入って来て、オルロフの足許の絨毯の上へ、くず折れるように座ってしまいました。そのおずおずとした、もの柔かな動作からみても、彼女が彼の気分を解《げ》しかねて、おどおどしているのが明瞭でした。
「あなたはいつもご本ばっかり読んでいらっしゃるのね……」と彼女は、明らかに彼に取り入ろうとする様子で、媚びるようにはじめました。
「ねえ、ジョールジ、あなたの成功のいま一つの秘訣がそこにあるんでしょうねえ? あなたは非常に教育があって、賢いわ、今読んでらっしゃるのそれ、なんのご本?」
オルロフは答えました。数分間が沈黙のうちに過ぎましたが、私には非常にそれが長いように思われました。私は客間に立って、そこからふたりを観察しました。そして咳をするのも恐れていました。
「あたしちょっとあなたに申しあげたいことがあるのよ……」ジナイーダ・フョードロヴナは静かにこう言って、笑い出しました。
「言ってもいいこと? あなたは多分、笑い出して、自己欺瞞だと仰るかもしれないわね。あのね、あたし、今夜あなたが家にいらっしゃるのは、あたしのためだと思いたいのよ。とてもとても思いたいの……つまり一緒にひと晩を送るためだと、ねえ、そうでしょ? そう思ってもいいでしょ?」
「思いなさいとも」オルロフは、例の眼かくしをしながら、言いました。「ほんとうに幸福な人というものは、実際にあることばかりでなく、ないことまで考える人のことなんですからね」
「あなたはなんだかまわりくどいことを仰っしゃったけれど、あたしには良くわかりませんでしたわ。つまりあなたの仰っしゃるのは、幸福な人間は想像で生きてるってことなんでしょう? ええ、それは本当ですわ。あたしは毎晩あなたの書斎に座って、いろんな空想に遠く遠く運ばれていくのが好きなんですの…… 空想にひたるって、本当に楽しいものですわね。さあ、これからひとつ声に出して、空想を語り合いましょうよ。ね、ジョールジ!」
「僕は寄宿女学校にいなかったので、そんな学問はしませんでしたよ」
「あなた今日はご機嫌がおわるいの?」とジナイーダ・フョードロヴナは、オルロフの手を取りながら訊きました。
「言って頂戴――どうしてなの? あなたがこんなふうにしていらっしゃると、あたし心配なのよ。だって、頭でも痛いのか、それともあたしに怒ってらっしゃるのか、見当がつかないんですもの……」
また長い数分が、沈黙のうちに過ぎました。
「どうしてあなたはズナメンスカヤ街でお目にかかった時分のように、優しい、朗らかな方でなくなったのでしょう? あたしもうこちらへ来てから、かれこれひと月になるけれど、なんだか、ふたりはまだ生活もはじめなければ、ろくすっぽお話もしないような気がしていますわ。あなたはいつも、まるで先生みたいに、冷たい、長ったらしいお説教か、でなければ冗談でしか、あたしに答えてくださらないんですもの。その冗談だって、あなたのには、どこか冷たいところがありますわ……どうしてあなたは、あたしと真面目に話すことをやめておしまいになりましたの?」
「僕はいつも真面目に話していますよ」
「じゃ、これから話しましょうよ。ほんとに、後生ですわ。ジョールジ……さ、話しましょう!」
「よし、話しましょう、しかしなんの話?」
「あたし達の生活のこと、これから先のことについて、話しましょうよ……」と、ジナイーダ・フョードロヴナは、空想的に言いました。「あたしはしょっちゅう生活の計画《ブラン》を立てていますの。ほんとにしょっちゅう――あたしにはそれがどんなに楽しみでしょう! ジョールジ、あたしまずこういう質問からはじめましてよ――あなたはいつ今のお勤めをおやめになるおつもり?……」
「それはどういうわけですね?」とオルロフは額から手をはなしながら訊きました。
「あなたのような意見を持っていて、お勤めはできませんわ。あなたに不似合いですわ」
「ぼくの意見ですって?」とオルロフは問い返しました。「ぼくの意見? 信念からいっても気質からいっても、僕は一個の平々凡々たる官吏です。シチェードリン(著名な諷刺作家)の主人公です。あえて言いますが、あなたは僕を見そこなっているんですよ」
「また、冗談になさるのね、ジョールジ!」
「決して。勤務はあるいは僕を満足させるものではないかもしれない。しかし、なんといってもそれは、僕にとってほかのものよりはましですよ。役所にはもう慣れてしまったし、楽な気分でいられるんですよ」
「いいえ、あなたはお勤めを嫌ってらっしゃいますわ。あなたはお勤めには向きませんわ」
「へえ、そうですかね? すると、あなたは、もし僕が退職して、空想を語ったり、別の世界へ思いを馳せたりするようになれば、この世界が僕にとって、勤務よりもいやなものでなくなると考えてるんですね?」
「あなたはあたしに反対なさるために、ことさらご自分を誹謗しようとしていらっしゃいますのね?」ジナイーダ・フョードロヴナは気分を損じた様子で、立ちあがりました。「あたし、こんな話を始めなければよかったと悔やんでいますわ」
「なんだってそんなに怒るんです? だって僕は、あなたがお勤めをしないからって、怒ったりしないじゃありませんか? 人はみんな自分の好きなように生活しているんですよ」
「じゃあ、あなたはこれで、お好きな生活をしていらっしゃいますの? あなたはこれでご自由ですの? あなたの信念に反するような書類を書いて生涯を送ったり」とジナイーダ・フョードロヴナは、絶望したように手を打ち合わせながら、つづけました――
「人に服従したり、上官に新年の挨拶をしたり、それからカルタ、カルタ、カルタ、それはまだしもとして、それより一番肝心なことは、あなたに気持のいい筈のない制度のために勤務したり、――いいえ、ジョールジそんなことは駄目ですわ! そんな没趣味な冗談は、およしにならなければいけませんわ。それは、恐ろしいことですわ。あなたは思想家です。ただ思想だけに事《つか》えるようになさらなければいけませんわ」
「いや全く、あなたは僕を、誰かと思い違いをしてるんですよ」とオルロフは嘆息しました。
「もしあたしと口を利くのがおいやでしたら、はっきりそう仰しゃって頂戴。あたしはあなたに嫌われていますのね。もうおしまいだわ」と、涙声になって、ジナイーダ・フョードロヴナは言いました。
「はあ、なるほどね。僕の可愛い人」とオルロフは、教訓でもするように、椅子の中で身を起こしながら言いました。
「あなたは、自分で僕を、聡明な人間だ、教育のある人間だと認めていられるんじゃありませんか。学者を教えるなんて――ただわるくするだけですよ。あなたがぼくを思想家だなどといわれるその根本をなす大小の思想はみんな、僕にはわかりきっていることです。してみれば、そうした思想よりも勤務やカルタを僕が好むのは、恐らくそれだけの根拠があるからだろうじゃありませんか。これが一つ。第二にあなたは、僕の知る限りでは、一度も勤務をされた経験がないんだから、官吏勤めがどんなものかということは、ただ、ろくでもない小説や笑い話などから、その概念を得ているに過ぎない。こういうわけだから、ここでひとつわれわれは、しっかり約束を決めようじゃありませんか――つまり、今後は、もうとっくにわかりきっていることや、われわれの圏内にはいってこないもののことは、いっさい口にしないということに」
「どうしてあなたはあたしに対してそんな言い方をなさいますの?」と、ジナイーダ・フョードロヴナは、何か恐怖に襲われでもしたかのように、後ずさりしながら言いました。
「どうしてですの? ジョールジ、どうぞ後生ですから、考え直して頂戴!」
彼女の声はふるえて、途切れました。彼女はどうやら、涙を押えようとしている様子でしたが、急にしゃくりあげてしまいました。
「ジョールジ、あなた、あたしはもう破滅ですわ!」彼女はフランス語でこう言って、すばやくオルロフの前に跪《ひざまず》きながら、その膝に頭を伏せてしまいました。
「あたしはさんざん苦しみました。疲れました。この上は、もう堪えられませんわ、堪えられませんわ……子供の時分にはいやな、放埓《ほうらつ》な継母、次は夫、それから今度はあなた……あなた……あなたはあたしの物狂おしいほどの愛に対していつも皮肉と冷淡ばかり……それにあの恐ろしい、厚顔《あつか》ましい小間使い!」彼女は泣きながらこう続けました。
「そうですわ。そうですわ。あたしにはちゃんとわかっていますわ――あたしはあなたの妻でもなければ、友達でもないただの女、あなたの愛人になったばかりに、あなたに尊敬もしていただけない女ですわ……あたしは死んでしまいます!」
私は、これらの言葉や涙がオルロフにこんなに強い印象を与えようとは、全く思いもかけませんでした。彼は真っ赤になって、椅子の中でむずむず動き出しました。その顔には、皮肉の代わりに、鈍い、子供のような恐怖が現われました。
「まあまあ、あなたは僕を誤解したんですよ。僕は誓います」と、彼は彼女の髪や肩にさわりながら、途方にくれたように呟きました。「どうか許してください。後生です。僕が悪かった……僕は自分を憎みます」
「あたしは泣き言や愚痴を並べて、あなたを侮辱しましたわね……あなたは正直な、寛大な方ですわ……珍しい方ですわ。あたし、普段はよく承知してるんですけれど、この頃はずっと気がくさくさしてるもんですから……」
ジナイーダ・フョードロヴナはいきなり、オルロフを抱擁して、その頬に接吻しました。
「泣くのだけはやめてください。お願いです」と彼は言いました。
「いいえ、いいえ……あたしはもうさんざん泣いたので、気分が軽くなりましたの」
「小間使いのことはね、明日はもう家にいないようにするから」と彼は、なおずっと椅子の上で不安そうに身動きしながら、言いました。
「いいえ、あれを置いとかなくちゃいけませんわ、ジョールジ! いいこと? あたしはもうあの女なんか恐れてやしませんわ……些細なことには超越して、つまらないことは考えないようにしなくちゃいけませんもの。あなたの仰しゃることはほんとうですわ! あなたはほんとうに、珍しい……非凡な方ですわ!」
まもなく彼女は泣きやみました。睫毛にはまだ乾ききらぬ涙を宿したまま、オルロフの傍に跪いて、彼女は小声で、何か感動的な、少女時代の思い出めいたことを話していました。そして、片手で彼の顔を撫でたり、指輪のはまった彼の手や、鎖に下がった下げ飾りを接吻したり、子細に眺めたりしていました。彼女は自分の話と、愛する男のそば近くいることに、有頂天になっていました。そして、多分今の涙が彼女の心を洗い清めて、さばさばさせたせいでしょう、彼女の声は、常になく綺麗に、真実のこもった調子に響きました。オルロフは、彼女の栗色の髪をいじったり、その手に唇をつけて音もなく接吻したりしていました。
それから、ふたりは書斎でお茶を飲みました。ジナイーダ・フョードロヴナは声に出して幾通りかの手紙を読みました。十二時過ぎて、ふたりは寝に就きました。
その夜、わたしは脇腹がひどく痛んで、朝まで身体が温まらず、寝つくことができませんでした。私には、オルロフが寝室から書斎へ行く音が聞こえました。彼は、そこに一時間ほどいてから、ベルを鳴らしました。苦痛と疲労のために、浮世の秩序や作法をすっかり忘れてしまって、私は、下着一枚の素足で書斎へ行きました。オルロフは、ガウンに帽子といういでたちで、戸口に立って私を待っていました。
「呼ばれたときにゃ、ちゃんと服を着てこなくちゃいかんじゃないか」と彼は厳しい語調で言いました。「あたらしいロウソクを持って来てくれ」
私は詫びようと思いましたが、そのとき急に烈しく咳き込んでしまって、倒れまいとして、片手でやっと側柱につかまりました。
「あなたはからだがわるいのですか?」とオルロフは訊きました。
お互いに知り合ってから、彼があなたと呼んだのは、たしかこれが初めてでした。どうしてこんなことになったのか、誰にもわかりません。多分、下着一枚で、咳のために歪んだ顔をした私が、自分の役割をまずく演じて、下僕らしいところが少なくなっていたせいでしょう。
「もしからだがわるいのなら、なんだって奉公なんかしているんです?」と彼は言いました。
「飢え死にしないためでございます」と私は答えました。
「何もかも、なんていやなことばかりだ!」彼は自分の机の方へ行きながら、小声でこう呟きました。
私がフロックをひっかけて、新しいロウソクに火をつけている間、彼は机のそばに腰掛け、肘掛椅子の上へ両足を踏み伸ばして、書物の頁を切っていました。
私は、読書に没頭している彼を残してそこを出ましたが、今度はもう宵のように、書物は彼の手から投げ出されはしませんでした。
七
今、この数行を書くにあたって、私の手を抑えるものは、少年時代から私のうちに養われてきた恐怖――感傷的に思われたり、滑稽に思われたりすることを恐れる感情であります。私は人を愛撫するとか、優しいことを言おうとする場合には、真剣になることができません。つまり、この恐怖と不馴れのために、私はどうしても、そのとき私の心に起っていたことを、充分はっきりと表現できないのです。
私はジナイーダ・フョードロヴナに惚れていたわけではなかったのですが、私が彼女に対して抱いていた普通の人情の中には、オルロフの愛以上に、はるかに多くの、若々しく、新鮮な、喜びの感情がありました。
朝、長靴を磨いたり、その辺の掃除をしたりして働きながら、私はいつも心臓の凍るような思いをして、今か今かと彼女の声と足音が聞こえてくるのを待つのでした。彼女が珈琲を飲んでいるとき、それから朝食をしたためているときに、じっと立って彼女を見ていたり、玄関で彼女に毛皮外套を渡したり、その小さな足にオバーシューズをはかせたり(そのとき彼女は私の肩につかまりました)、下の玄関番が知らせてくれると、雪をかぶって寒さに薔薇色となっている彼女を戸口に迎えたり、寒さや馭者《ぎょしゃ》のことできれぎれに叫ぶ声を耳にしたりすること――こうしたことがみな、私にとってどんなに意味深いものであったかを、読者が知って下さったらと思います! 私は恋をしたいと思っていました。自分の家族を持ちたいと思っていました。未来の妻には、こんな顔をした、こんな声の女がほしいと思っていました。食事の間も、どこかへ使いに出されて街路へ出ても、夜眠れないときにも、私はそんなことを空想しました。オルロフは、女の|ぼろ《ヽヽ》とか、子供とか、台所とか、銅のフライパンとかいうものを、潔癖に身辺から投げ捨てようとしていましたが、私はそれを一々拾いあげて、自分の空想裡で大切に育《はぐ》くみ、その幸福を運命に祈っていました。こうして、私は常に、妻や、子供部屋や、庭の小道や、小さな家などが、夢みられるのでありました……
私は、仮に自分が彼女を恋したとしても、相手からも同じ愛で報いられるというような奇跡は、あえて期待しないであろうことを知っていました。が、この考慮は、私を不安にはしませんでした。普通一般の思慕に似た私の謙虚な、静かな感情の中には、オルロフに対する嫉妬も、羨望すらもありませんでした。なぜなら、私は、私のような廃疾者にとっての個人的幸福は、ただ空想裡でのみ可能なことを、承知していたからです。
夜毎ジナイーダ・フョードロヴナが、わがジョールジの帰りを待ち侘びながら、頁も繰らずにじっと書物を見つめているときや、ポーリャが部屋を通ったために、身震いしたり顔色を変えたりするときには、私は彼女と一緒に苦しみ、そして私の頭には――この心の痛手を一時も早く取り去ってしまおう、木曜日の夜食のとき、ここで語られた一部始終を、一時《いっとき》も早く彼女が知るようにしよう、こういう考えが浮ぶのでしたが、しかし、それにはどうしたらいいのか? こうするうちに、私は次第に多く彼女の涙を見るようになりました。初めの何週間かは、オルロフが家にいないときでも、彼女は笑ったり、歌をうたったりしていましたが、月が変わる時分にはもう、私達のこの家は、ただわずかに、木曜日だけに破られるもの悲しい静寂に閉ざされてしまいました。
彼女はオルロフにおもねって、彼から心にもない笑顔や接吻を得るために、その前に跪き、小犬のように甘えるのでした。ひどく気の滅入っているようなときでも、姿見のそばを通るときには、彼女は自分をのぞいて見て、髪を直さないではいられませんでした。私には不思議に思われるのでしたが、その中でも彼女は依然として、衣装類に興味を持ち、何かしら買物をしては、有頂天になって喜んでいました。これはなんとなく、彼女の心からの悲しみにふさわしからぬものでした。彼女は相変らず流行を追って、高価な衣装を縫わせていました。誰のために、そしてなんのために? 私が特に記憶しているのは、四百ルーブリもした一枚の新しい衣装のことです。我が国の日雇い女が、その懲役のような労働に対して、食事持参で一日二十カペイカ銀貨一枚しか得られないというときに、またヴェネチアやブリュッセルのレース女工が、それ以上は彼女達が売色で儲けるという計算から、一日にわずか半フランしか与えられないでいるときに、なんの必要もない、余計な一枚の着物のために、四百ルーブリ支払うということは、そして、ジナイーダ・フョードロヴナがそれに気がつかないでいることが私には不思議で、残念なのでした。が、彼女が一歩家から出て行きさえすれば、私はたちまちすべてを忘れ、すべてを許して、下の玄関番の鳴らしてくれるベルの音ばかりを待つようになるのでした。
彼女は、私にはどこまでも、下僕として、身分の低い者として対していました。犬は撫でてやると同時にそれを認めないでいることもできます。私も用を言いつけられたり、質問を受けたりはしますが、私の存在は認められません。主人達は、ある程度以上に私と口を利くことは不体裁だと考えていました。もし私が、食事の給仕をしながら、話しに口を挟んだり笑い出したりしようものなら、彼等はきっと私が気がふれたと思って、追い出してしまうでしょう。
とはいえ、ジナイーダ・フョードロヴナは、私に好意を持っていてくれました。私をどこかへ使いに出すとか、新しいランプの使い方を説明するとか、そんなふうなことをする場合には、彼女の顔は並々ならず明るく善良に愛想よくなり、その眼は正面《まとも》にひたと、私の顔を見つめるのでした。そういう場合には、私はいつも、彼女がズナメンスカヤ街へ手紙を届けに行ったことを感謝の気持で思い出しているのだろうという気がしました。彼女がベルを鳴らしますと、私は彼女のお気に入りだと思って、そのために私を憎んでいたポーリャは、意地の悪い笑みをふくんで、こういうのでした――
「おいでよ、|お前のレコ《ヽヽヽヽヽ》が呼んでるよ」ジナイーダ・フョードロボナは私を身分の低い者と考えていたので、もし、この家に誰か屈辱的な地位にある者があるとすれば、それは彼女ひとりだと信じて疑いませんでした。彼女は下僕の私が彼女のために苦しみ、日に二十ぺんも、前途には何が彼女を待っているのか、これらはどういう結末がつくのかと、自問していたことを知りませんでした。事態は日一日と、眼に見えて悪化していきました。勤務のことで話し合ったあの晩以来、涙を好まなかったオルロフは、明らかに、話すことを恐れて避けはじめました。ジナイーダ・フョードロヴナが争ったり哀願したりしはじめると、また、泣きそうな気振りを見せたりすると、彼は、体《てい》のいい口実を設けて、自分の書斎に逃げ込むか、全く外へ出てしまうかするのでした。彼は次第に家で寝ることが少なくなり、食事をすることは一層少なくなって行きました。そして木曜がくるたびに、今ではもう自分の方から、友人にどこかに誘い出してくれるように頼むのでした。ジナイーダ・フョードロヴナは相変らず、自分の台所のことや、新らしい住居や、外国旅行のことなどを空想していましたが、空想はいつになっても空想にすぎませんでした。食事は料理屋から運ばれたし、移転問題は、今後外国から帰るまでは持ち出してくれるなとオルロフが頼みましたし、おまけにその旅行も、彼の頭髪が長くなるまでは出かけられない、なぜなら、ホテルからホテルへと移り歩いたり、思想に仕えたりするためには、頭髪が短くてはどうにもならぬというのでした。
その上、オルロフの不在をねらっては、毎晩のように、ククーシキンがこの家を訪れはじめました。彼の行動には、変わったところは少しもありませんでしたが、私はやはりどうしても、彼がオルロフからジナイーダ・フョードロヴナを奪ってやると言明したあの晩の会話を忘れることが出来ませんでした。彼には、お茶や葡萄酒を出しましたが、彼はひひと追従笑いをしては、何か愉快なことを言おうとして、自由結婚はあらゆる点で、教会結婚にまさるだとか、実際身分ある人々はみな、今すぐジナイーダ・フョードロヴナのところへ来て、その足下にひれ伏すべきであるとか、断言するのでした。
八
クリスマスの大祭週は、何かよくないことがあるかのような漠然とした予感のうちに、寂しく過ぎて行きました。新年の前日、朝の珈琲のときに、オルロフは突然、目下○○県下を検察中の元老院議員の許へ、ある特別な使命を帯びて派遣される旨を告げました。
「僕は行きたくないんだが、うまい逃げ口上も思いつかないんでね!」と彼は残念そうに申しました。「行かなくちゃ、どうも仕方がない」
こういう知らせを受けると、ジナイーダ・フョードロヴナの眼はみるみる真っ赤になりました。
「長くですの?」と、彼女は聞きました。
「五日ばかり」
「あたし、ほんとうはね、あなたのお出かけになるのを喜んでますのよ」と彼女は、ちょっと考えてから言いました。「いい気晴らしになりますもの。途中で誰かに恋をして、あとであたしに話して頂戴」
彼女はあらゆる機会に、自分は少しも邪魔しないということ、彼は好きなように振舞っていいのだということを、オルロフに思い知らせようと努めるのでしたが、この拙劣な白い糸で縫ったような策略は、誰をも欺くことできなくて、ただ余計にオルロフに彼の自由でないことを思い出させるにすぎませんでした。
「僕は今晩出かけるよ」彼はこう言って、新聞を読み出しました。
ジナイーダ・フョードロヴナは、彼を停車場まで見送ろうとしましたが、彼は、アメリカへ行くのでもなし、五年間行くというわけでもない、たった五日、それよりも短いくらいだからと言って思いとどまらせました。七時廻ったところで、告別の一幕が演じられました。彼は片手で彼女を抱いて、額と唇に接吻しました。
「いい子だからね。僕のいないあいだに、淋しがっちゃいけないよ」と彼は優しい、私まで感動させたような心のこもった調子で言いました。
「神さまがお前をお守りくださるように」
彼女は、大事な顔を少しでも強く記憶にきざみつけておこうとでもするように、貪るごとく彼の顔に見入りました。それから優美に彼の首に両手を巻いて、頭を胸に押しつけました。
「あたし達の誤解を、どうぞあたしに許して頂戴」と彼女はフランス語でいいました。「夫婦というものは、愛し合っているときには、喧嘩しないでいられないものですわ。そこへ行くとあたしは気違いのようにあなたを愛してるんですものね。どうぞ忘れないで頂戴……できるだけたびたび、そしてくわしく、電報を打って頂戴ね」
オルロフはもう一度彼女を接吻して、一言も言わずに、あたふたと出て行きました。扉の向こうでもうガチャリと錠が鳴ってから、彼は階段の中途に立ちどまって思い沈んだように上を見上げました。このときもし上のほうからちょっとした物音でも聞こえたら、彼は引き返しただろう。こういう気が私にはしました。しかし、森閑としていました。彼は着ていた毛皮外套の着心地を直して、心の決まらないさまで、のろのろと下へおりて行きました。
車寄せにはもう先ほどから、二台の辻ぞりが待っていました。オルロフが一台に乗り、私はトランクを二個持って別のに乗りました。厳しい凍てで、四つ辻には焚き火が煙をあげていました。そりの速力のために、寒風は私の顔や手を刺し、息も止まる思いでした。私は眼を閉じて、考えました――あれはなんと素晴しい女だろう! あの愛し方はどうだろう! 今の世の中では、廃物までが家ごとに集められて、慈善の目的の下に売られたり、壊れた硝子でも立派な商品として扱われたりしているのに、優美な、若い、愚かでもない、身分ある女の愛というような、これほどの宝石が、これほどの貴重品が、全然無意味に見捨てられてしまうとは。ある昔の社会学者は、すべてのよからぬ情熱に対しても、扱い方いかんによっては、善に振向けることもできる一つの力として見ていました。しかるにわが国では、高尚な、美しい情熱すら、一個無気力の産物として、なんの用もなさぬ、えたいの知れぬ、俗悪なもののように、生じたままやがて消え失せて行くのです。これはなぜでしょう?
そりが急に止まりました。私は眼を開いて、私達の立っているのはセルギエーフスカヤ通りのペカールスキイが住まっている大きな建物の傍なのを見ました。オルロフはそりから出て、車寄せの中に隠れました。五分ばかりすると、戸口にペカールスキイの下僕が、帽子なしで現われ、寒さにぷりぷり腹をたてながら、私に叫びました――
「おいお前、耳が聞えないのかい? そりを返して、二階へ行きなよ。お呼びだよ!」
いっさい五里霧中で、私は二階へあがって行きました。ペカールスキイの住居へは私は前にも来たことがあります。つまり玄関に立って、広間をのぞいて見たこともあったのですが、しめっぽい陰気な街路を通って来たあとでは、そこはいつも、絵の額縁や、青銅、贅沢な調度の燦爛《さんらん》たる輝きで、私の眼を驚かしたものでした。今日は、その光輝燦爛たる中に、私はグルージンとククーシキンと暫くしてオルロフを見たのでした。
「あのねえ、ステパン」彼は私の方へ歩いて来ながら、言いました。「僕はここに金曜日か土曜日までいる。もし手紙や電報が来たら、毎日ここへ届けてくれ。家ではもちろん、おれは発ったことにして、あれによろしく言っといてくれ。じゃあもう帰ってよろしい」
私が家へ帰ったとき、ジナイーダ・フョードロヴナは客間のソファに寝そべって、梨を食べていました。枝付き燭台にさされたロウソクが、たった一本ともっていました。
「汽車に遅れはしなくって?」とジナイーダ・フョードロヴナは訊きました。
「大丈夫でございました。よろしくと仰しゃいました」
下僕部屋へ引き取って、私も横になりました。なんにもすることはなかったが、読書する気にもなりませんでした。私は別に驚きも憤慨もしませんでしたが、ただ、なんのためにこんなごまかしが必要なのか、それを理解しようとして、思考力を緊張させました。だって、こんなふうに愛人を欺くのは、ただ若い連中だけのやることです。いったい彼、あんなに多く読書して、思慮にも富んでいる筈の一人前の男に、いま少し気の利いたことがかんがえられなかったものでしょうか? 実をいうと、私はこの男の智力は相当に買っていました。そこで私は考えるのでした。これがもし彼が、自分の大臣なり、あるいは誰にしろ有力な人物を欺かねばならぬ必要に迫られたのだったら、彼はそのために多くの精力と技巧を用いたに違いないのですが、今、一人の女を欺くにあたっては、明らかに最初に頭に浮かんだ考えで充分だったのでしょう。瞞着が成功すれば――よし、失敗しても――さして困ることはない。格別頭をひねらずとも、すぐ造作なく簡単に、第二段の嘘をつくことができる。
私達の頭の上の階上で、新年を迎えるために、椅子をがたつかせたり、ウラアを叫んだりし出した夜中に、ジナイーダ・フョードロヴナは、書斎の次の部屋から、私にベルを鳴らしました。彼女は長く横になっていたせいで、ものうげな様子して机の前に腰掛け、紙片に何か書いていました。
「電報を打たなくっちゃならないの」と彼女は言って、にっこりしました。「急いで停車場まで行ってね、これをすぐ打ってくれるように頼んで頂戴な」
それから、街路へ出ながら、私はその紙片を読みました――
「新年おめでとう、新しい幸福を祈ります。早く電報を頂戴、淋しくてたまりません。もう永久の時がたったようです。電報では、幾千の接吻もこの思いも送ることの出来ないのを悲しみます。ご機嫌よう。私の喜び。ジーナ」
私はこの電報を打って、翌朝その受け取りを渡しました。
九
何よりわるいことは、オルロフが無思慮にも自分の欺瞞の秘密をポーリャにも明かして、彼女にシャツをセルギエーフスカヤ街に届けさせたことでした。そのあとで、彼女は、私にも見当のつかない憎悪と意地の悪い喜びの眼で、ジナイーダ・フョードロヴナを見て、自分の部屋でも、控え室でも、嬉しそうに鼻を鳴らすのをやめませんでした。
「もう随分長いことになるわ。そろそろなんとかなっていい時分!」と彼女は、歓喜の調子で言うのでした。「もういい加減に自分でも感づかなきゃいけないわ……」
彼女は早くも、ジナイーダ・フョードロヴナがもう長くここにいそうもないことを嗅ぎつけ、この機会をのがさぬように、眼についたものはなんでも――香水瓶でも、べっ甲の髪針でも、ハンケチでも、靴でも、せっせとかすめてしまいました。新年の翌日、ジナイーダ・フョードロヴナは自分の部屋へ私を呼んで、小声で彼女の黒い衣装が見えなくなったことを告げました。それからびっくりしたような、憤慨に堪えぬような、蒼白な顔をして家じゅうの部屋を歩きまわって、ひとり言を言っていました――
「なんてことだろう? ほんとになんてことだろう? まるで聞いたこともないような図々しさだわ!」
食事のときに、彼女は自分でスープを注ごうとしましたが、できませんでした――手がふるえていたからです。手ばかりでなく、唇もぶるぶるふるえていました。彼女はふるえの止まるのを待ちながら、やるせなげにスープとピローグを眺めていましたが、急に我慢を切らして、ポーリャの方を見ました。
「ポーリャ、あなたはあちらへ行っていいことよ」と彼女は言いました。「ステパンひとりで沢山だから」
「いいえ、よろしゅうございます。わたくしここにおりますでございます」とポーリャは答えました。
「あなたはここに立っている用はありません。ここからすっかり出ていって頂戴……すっかり!」とジナイーダ・フョードロヴナは、烈しい興奮のていで立ちあがりながら、続けました。「そしてどこか別の奉公口を捜したらいいでしょう。今すぐ出ていって頂戴」
「旦那さまのお言いつけがなければ、わたくし出て行くわけには参りません。わたくしは旦那さまがお雇い下さったんでございます。旦那さまがそう仰しゃれば、そのようにいたします」
「あたしだってあなたに言いつけます! あたしはこの家の女主人ですよ!」ジナイーダ・フョードロヴナはこう言って、真っ赤になりました。
「そりゃ、あなたさまも女主人かも知れませんけれど、わたくしにお暇をお出しになれるのは、旦那さまお一人でございますわ。旦那さまがわたくしをお雇い下さったんですもの」
「あなたはもう一刻もここにいることはできません!」とジナイーダ・フョードロヴナは叫んで、ナイフで皿を叩きました。
「あなたは泥棒です! わかりましたか?」
ジナイーダ・フョードロヴナは卓の上へナプキンを投げつけると、みじめな、受難者めいた顔をして、足早に食堂から出て行きました。スープと樹鶏とは冷めてしまいました。そしてなぜか、今この食卓に並べられている料理屋のご馳走が、私にはポーリャに似た、浅ましい、泥棒じみたものに思われました。中でも一番みじめな、罪ありげな様子をしたのは、皿の上に乗っている二つのピローグでありました。「今日はおれ達は、このまま料理屋へもどられるが」それらはこんなふうに言っているようでした――「明日はまたどこかのお役人か、有名な歌《うた》い女《め》の食卓へでもまかり出るんだぜ」
「ご大層な奥さまだよ、へん!」こういう声がポーリャの部屋から私の耳にまで聞えて来ました。「あたいだって、なりたいと思や、とうの昔にあんな奥さんぐらいにゃなれていたんだよ。でも、これでも恥を知っているからね。まあ見ていましょうよ。どっちが先にこの家から出て行くかさ! そうともさ!」
ジナイーダ・フョードロヴナがベルを鳴らしました。彼女は自分の部屋の片隅に、まるでバツのために隅っこへ座らされたような顔をして、掛けていました。
「電報は来なかった?」と彼女は訊きました。
「参りませんでございます」
「玄関番に訊いてみて頂戴。来てるかも知れないから、ああ、だけど、あなたは家から出ないで頂戴」と彼女は私の後ろから言いました――「あたしひとりになるのが恐いの」
それからというもの、私はほとんど一時間毎に、下の玄関番のところに駆けおりて、電報が来ていないかどうか訊かねばなりませんでした。白状しますが、それはほんとうになんといういやな時でしたか! ジナイーダ・フョードロヴナは、ポーリャを見るのがいやさに、食事もお茶も自分の部屋でとり、夜もそこで、G字型の短い長椅子の上で眠って、寝床も自分で始末しました。最初の二、三日は、私が電報を打ちに行きましたが、返事が来ないので彼女は私を信じなくなり、自身で電信局へ行きました。こうした彼女を見ていると、わたしまでがたまらない気持で、電報を待つようになりました。私は彼がなんとかうまい手を考えるだろう、例えば、どこかの停車場から彼女に電報を打つような手配をしてくれるだろうと期待しました。またもし彼があまりカルタに夢中になるか、あるいはもう他の女に心を移すかしたとしても、そんなときにはもちろん、グルージンなりククーシキンなりが、私達のことを彼に思い出させてくれるだろうと、私は考えました。
しかし、私達の期待はすべて徒労でした。いっそひと思いにいっさいの真実を打ち明けてしまおうと思い、一日のうちに五度も私はジナイーダ・フョードロヴナの部屋へ入って行きましたが、羊のような彼女の瞳や、力なく垂れた肩や、唇のわなわなとふるえているのを見ると、そのままなんにも言わずに引き下がってしまうのでした。同情とか憐憫とは私から、すべての勇気を奪って行きました。ポーリャは何事もなかったような顔をして、朗らかで、嬉しそうな顔をして、主人の書斎や、寝室の掃除をしたり、戸棚を掻き回したり、皿小鉢をがちゃがちゃいわせたりしていました。そして、ジナイーダ・フョードロヴナの戸口を通るときには、鼻歌をうたったり、咳払いをしたりしました。この女は、自分が人に避けられるのが嬉しかったのです。晩になると、彼女はどこかへ出かけて行き、二時か三時にベルを鳴らすので、私は彼女のために扉をあけてやった上、自分の咳についてのことで小言を拝聴せねばなりませんでした。すると早速また別のベルが聞こえるので、私が書斎の隣室に駈けつけると、ジナイーダ・フョードロヴナが、戸口から顔を出して訊くのでした――
「誰、今のベル?」そして、自身は私の手を見ています――そこに電報がにぎられていないかと。
遂に、土曜日に階下でベルが鳴って、階段に聞き慣れた声がしたとき、彼女はたちまち、わっと声をあげて泣き出したほどの喜びようでした。彼女は彼を迎えに飛び出して、彼を抱くと、その胸や袖に接吻して、とりとめのないことを喋るのでした。玄関番はトランクを運び込み、ポーリャの楽しそうな声が聞こえました。まるで誰かが休暇で帰って来たような気分でした!
「あなた、どうして電報を下さらなかったの?」とジナイーダ・フョードロヴナは、喜びのあまり苦しそうな息をつきながら言いました。
「どうしてですの? あたし淋しかったわ。やっとの思いで過ごしてきましたわ……ああ、ほんとに!」
「理由は至極簡単さ! 僕は元老院議員と一緒に、最初の日にモスクワへ行ってしまったものだから、お前の電報を一通も受け取らなかったのだよ」と、オルロフは言いました。
「まあ、食事のあとで、くわしいことは話してあげるよ。それより今は眠ること、眠ることだ……汽車ですっかり疲れちゃったよ」
彼が夜っぴて眠らなかったことは明らかでした――恐らくカルタをやったり、むやみに飲んだりしたのでしょう。ジナイーダ・フヨードロヴナは、彼を寝床へ寝かしつけました。そして私達一同は、それから夕方まで、爪さき立ちで歩きました。食事は全く無事に済みました。が、二人が珈琲を飲みに書斎へ入ると、いろいろ問題が起りかけました。ジナイーダ・フョードヴナは、小声で早口に何か言い出しました。彼女はフランス語で話しましたので、その言葉はまるで小川の呟《つぶや》きのように聞えましたが、やがてオルロフの大きな溜息と声とが聞えました。
「あなたには、あの悪党女中についてのおきまり文句以外に、もう少し気の利いた話題はないんですかね?」
「だってあなた、あの女は、あたしのものを盗んだり、あたしに失礼なことを言ったりしたんですもの」
「でも、あの女は、僕のものを盗んだり、僕に失礼なことを言ったりしないのは、どうしたわけですか? 僕が女中だとか、家番だとか、下僕などを眼中に置かないのはどういうわけかね ? そう言っちゃなんだが、あなたはただわがままなんですよ。しっかりした気持を持とうとしないからですよ……実際あなたは、妊娠でもしてるんじゃあないかとまで僕は疑うね。いつか僕があれに暇を出そうと言ったときには、あなたはもっとおいとくようにって、止めたくせに、今度は僕にあれを追い出せと言う。こうなると、僕も意固地にならざるを得ませんよ。あなたはあれが出て行くのをお望みだ。ところが、僕はあれを置いとくように主張する。これがあなたの神経を直す唯一の方法ですよ」
「まあ、もう沢山ですわ、沢山ですわ!」とジナイーダ・フョードロヴナは愕然として言いました。
「こんなお話はもうよしましょう…… 明日まで延ばすことにしましょう。さ、今度はあたしにモスクワの話しをして頂戴……モスクワはいかがでしたの?」
十
翌日――それは一月七日の洗礼者ヨハネの日でありました――朝食後オルロフは、父の許へその名の日を祝いに行くために、黒の燕尾服を着て勲章をつけました。二時までに行かなければならなかったのですが、彼が服装を整えたときは、やっとまだ一時半でした。この三十分をどうしてすごすか? 彼は客間を歩き廻って、いつか子供の時分に父母に読んで聞かせたことのある祝賀の詩を朗読していました。そこには、女裁縫師か商店へ出かける支度のできていたジナイーダ・フョードロヴナも腰掛けて、微笑を浮かべて聞いていました。ところで、ふたりの会話がどんなふうに始まったか知りませんが、私がオルロフに手袋を持って行ったときには、彼はジナイーダ・フョードロヴナの前に立って、気ままらしい、哀願するような顔をして、彼女にこう言っていました――
「どうか後生だから、お願いだから、もう誰でも彼でもが知っているようなことは言わないでください。だいたい、中学生でもとっくの昔に飽き飽きしているようなことを、子細らしい顔つきで、躍起となって論ずるなんて、わが賢明な、思慮深い婦人方には、なんという不幸な才能があるのでしょう。ああ、もしあなたがわれわれの夫婦生活のプログラムから、こうした鹿爪らしい問題を取り除いてくれたらねえ! なんとかひとつ、よろしく願いたいもんですよ!」
「あたし達女は、自分の意見を持つだけの勇気がないのですわ」
「僕はあなたに完璧な自由を与えていますから、どんな作者の言葉を引用しようと、いっさいあなたの自由ですが、ただ一つ僕に譲歩して、次の問題――つまり、上流社会の有害性と、結婚の変態性とについて論ずることだけは、僕の前では止めてください。どうです、あなただってわかるでしょう。上流社会はいつも、商人や、坊主や、町人や、百姓や、いろんなシードルやニキータ(下男の代名詞)などの住んでいる社会と照らして、世の非難を浴びている、どちらの社会も僕は嫌いですが、しかし、万一僕に、良心を以って二者のうち一つを選べといわれたら、僕は躊躇なく上流社会を選ぶでしょう。そして、これは虚偽でもなく、虚飾でもありません。なぜなら、僕の趣味はその方の側にあるのですから。われわれの社会は、卑俗でもあり空虚でもあるが、しかしその代わりわれわれは、とにかくかなりフランス語を喋るし、読書も少しはするし、烈しい争いをするときでも、まさか互いに横腹を突き合うような真似はしない。ところがシードルやニキータや、そうした階級の手合いになると――ひと骨折るべえとか、いんまに見ろとか、手前を四つんばいに這わせてくれる、だとかいうような言葉や、居酒屋式のだらしなさや、偶像崇拝やがあるきりですからね」
「だって、あなた方を養っているのは、百姓や商人じゃありませんこと」
「そりゃあそうさ、だからどうだというんです? そんなことはただ、僕ばかりでなく彼等をも、わるい方面から紹介するだけのものですよ。彼等は僕を養い、僕の前でぺこぺこする。つまり彼らには、それ以外のことをする知恵も誠意も足りないわけになるんですよ。僕は何人《なんぴと》をも非難をしなければ賞賛もしない、ただ、こう言いたいだけですよ――上流社会も下等社会も、どっちもどっちだと。感情でも知識でも、僕はどっちにも反対だが、僕の趣味だけは、前者の側にありますからね。ところで、今度は、結婚についての変態性についてだが」と、オルロフはちょっと時計を見てから続けました――
「このことについては、もうあなたも、変態などというものは少しもない、今のところただ結婚に対する漠然とした要求があるだけだということを、そろそろ理解してもいい時分ですがね。いったいあなたは、結婚から何を求めているんですか? 合法的にしろ非合法にしろ、よいものにしろ悪いものにしろ、いっさいの同棲とか結合とかいうものの中には、ただ同じ一つの本質があるに過ぎません。あなた方婦人は、この唯一の本質のために生きているので、あなた方にとってはそれがすべてであり、それなくしては、あなた方の存在は、あなた方にとって意味を持たなくなってしまうでしょう。あなた方には、その本質以外にはなんにも必要でない。そしてあなた方はそれを心得ているのだが、小説類を読み出して以来、それを取ることが気恥ずかしくなってきたので、ついあっちこっちへふらふら、行きあたりばったりに、男を取り換えたりしながら、この混乱を弁護するために、結婚の変態性などということを言い出したのです。あなた方がこの本質を、あなた方の第一の敵を、あなた方の悪魔を取り除けない以上、また取り除こうともしない以上、のみならず、それに奴隷的奉仕を続けている以上、そこにどんな真面目な論議があり得ますか? あなたが僕に向かってなんと言おうと、それはすべてとるに足らぬ虚飾にすぎないでしよう。僕はあなたのことばなんぞ、信じませんよ」
私は、橇《そり》が来たかどうを訊きに、玄関番のところへ行きました。そして戻ってきたときには、もう争いになっていました。船員たちのいわゆる、風が強くなっていました。
「あなたは今日は例のシニズムで、あたしをやり込めようとしていらっしゃるのね」とジナイーダ・フョードロヴナは烈しい興奮の態で、客間の中を歩きまわりながら言っていました。
「あたしはあなたが仰しゃるのを聞いていると、胸がむかむかするくらいですわ。あたしは神様の前にも、人間の前にも清浄潔白ですわ。あたしには後悔なんか絶対にありませんわ。あたしは夫にそむいてあなたのところに来ました。そしてそれを誇りにしていますわ。あたし名誉にかけてあなたに誓いますけど!」
「なるほど、結構なこってすよ」
「もしあなたが、誠意のある正しい方でしたら、あなたも一緒になってあたしの行為を誇りにして下さる筈ですわ。それはあたしとあなたとを、あたしと同じことをしたくていながら、臆病やちっぽけな打算のために、思いきって出来ないでいる幾千の人達の頭上高く、押し上げてくれるんですもの。けれど、あなたは正しい方じゃないんですわ。あなたは自由を恐れて、どこかの無学な男があなたの誠実な人であることを疑いはしまいかという恐怖から、誠意の発露を嘲笑していらっしゃる。あなたはご自分のお知り合いにあたしを見られるのを恐がっていらっしゃいますわ。あなたにとっては、あたしと一緒の馬車で道を行くほど恐ろしい罰はないのです……いかが? 図星でしょう? でなかったら、なぜあなたは今日まであたしを、あなたのお父さまや従兄弟さん達に紹介してくださいませんの? なぜですの? いいえ、あたしもうこんなことはとても我慢できませんわ。飽き飽きしましたわ!」ジナイーダ・フョードロヴナはこう叫んで、足をとんと一つ踏みました。
「あたしは、当然あたしに権利のあることを要求してるんですわ。どうぞあたしをお父さまに引き合わせて頂戴!」
「もし、父に用があるなら、自分でさっさと出かけて行ったらいいでしょう。父は毎日、朝十時から十時半まで客を受けつけていますから」
「まあ、なんてあなたは卑劣なんでしょう!」ジナイーダ・フョードロヴナは、絶望的に手を揉みしだきながら言いました。「たとえあなたが不真面目で、腹にあることを仰しゃってるんでないとしても、この一つの残酷だけでも、あたしはあなたを憎まずにはいられません。ああ、なんという卑劣な方でしょう?」
「われわれはいつも周囲を堂々めぐりしているばかりで、決して問題の中心まで論及したことがない。問題の中心は、あなたが間違っているくせに、それを口に出して承認しようとしないところにあるんです。あなたは僕を英雄のように想像していた。僕に何か異常な思想や理想があるように想像していた。ところが、実際にあたってみると、僕は極めて平凡な一官吏で、カルタ好きで、どんな思想にも関心を持たない人間なのがわかった。僕という人間はあなたがその空虚と卑俗とを憤慨して逃げ出してきたあの腐敗した社会の立派な末裔なんですよ。あなたはそれを認識して公平にならなくっちゃいけません――憤慨するにしても、僕にではなく、自分自身に対して怒るべきです。だって、間違ったのはあなたで、ぼくじゃないんですからね」
「ええ、あたし認めますわ――あたしの間違いでしたわ!」
「大いに結構、これでわれわれもやっと肝心の点まで漕ぎつけました。じゃあ、今度はその先を聞いてください。いいですか、そこでです。あなたの高さまで登ることは僕にはできない。僕という人間が、あまりに堕落しているからです――そうかといって、僕のところまで降りてくることは、あなたにはできない。なぜって、あなたはあまりに高尚だからです。してみると、残るのはただ一つ……」
「なんですの?」ジナイーダ・フョードロヴナは息をつめ、突然のように蒼白になって、早口に訊きました。
「助けに論理を呼び出すだけです……」
「ゲオルギイ、あなたはなんだってそんなにあたしをおいじめなさるの?」とジナイーダ・フョードロヴナは、急にロシア語に変わって、ひびの入ったような声で言いました。
「なんのために? あたしの苦しみも、ちっとは考えてみて頂戴……」
涙におびやかされたオルロフは、すばやく書斎に駈け込んで、――彼女に余計な苦しみを与えようとしたのか、それともこうした場合の常套手段を思い出したのか、その辺は判然としませんが、とにかく早速、扉に鍵をかけてしまいました。彼女は声を上げて、着物をさらさら鳴らしながら、そのあとを追って駈け出しました。
「これはどういう意味ですの?」彼女は扉を叩きながら訊きました。
「これは……どういう意味ですの?」と彼女は、憤慨のためきれぎれになる、細い声で繰り返しました。「ああ、ほんとにこれはなんということでしよう? それじゃあ、いいですか、あたしあなたを憎みましてよ。蔑《さげす》みましてよ! あたし達の間はもう何もかもおしまいですよ! 何もかも!」
ヒステリー的な泣き笑いの声が聞こえました。客間では、何かあまり大きくないものが、卓から落ちて壊れた音がしました。オルロフは、別の戸口を通って書斎から控え室へ抜け出し、おずおずと四方を見廻しながら、手早く毛裏外套を着、シルクハットをかぶって出て行きました。
三十分たち、やがて、一時間たちましたが、彼女はずっと泣き続けていました。私は、彼女には父も母も身寄りもなくて、この家でも、彼女を憎んでいる男と彼女を掠《かす》めることしか考えていないポーリャとの間にはさまれて生活していることを思い出しました――ほんとになんという喜びのない彼女の生活でしょう! 私は自分でもなんのためともわからないで、彼女のいる客間へ入っていきました。弱々しい、たよりなげな、美しい髪をした、私には優雅と美の化身のように思われていた彼女は、まるで病人のように苦しんでいました。彼女は顔を隠して寝椅子に身を横たえながら、全身をわなわなふるわせていました。
「奥さま、お医者さまをお呼びいたさないでもよろしゅうございますか?」と、私は静かに訊きました。
「いいえ、いりませんわ……なんでもないのよ」彼女はこう言って、泣き濡れた眼で私を見上げました。
「あたし、少し頭が痛いの……有難うよ」
私はそこを出ました。晩になると、彼女はあとからあとからと手紙を書いて、それを一々私に、ペカールスキイのところへ、ククーシキンのところへ、グルージンのところへ、しまいには私がいっときも早くオルロフを捜しあてて手紙を渡せそうなところならどこへでも、届けさせました。私が手紙を握って空しく引き返してくるたびに、彼女は私を罵ったり哀願したり、私の手の中へ金を押し込んだりしました――まるで熱にでも浮かされているように。そして、その晩は夜通し眠らないで、客間に座ったまま、ひとりごとを言っていました。
翌日、オルロフは、正餐前に帰ってきました。そしてふたりは和解しました。
この事件のあった後の最初の木曜日に、オルロフは堪えがたく重苦しい生活について、例の友人達に訴えました。彼はむやみに煙草をふかして、苛々《いらいら》しながら言っていました――
「これは生活ではなくて、糾問《きゅうもん》だ。涙、号泣、理屈っぽい会話、赦しをこう言葉、また涙と号泣、そして結局は――いま僕には、自分の住む家がないというわけだ。僕は自分も苦しみ、あの女をも苦しめているんだ。こんなふうで、この上ひと月もふた月も、はたして暮らして行けるだろうか? 行けるだろうか? そんなことがいったい出来るもんかね!」
「じゃあ君、あの女と話しあったらいいじゃないか」とペカルスキイは言いました。
「それもやってみたよ、だが駄目なんだ。なにしろ僕の場合は、相手が、独立した人間なら、どんな真実でも勇敢に言ってのけれるが、なにしろ僕の場合は、相手が意志も、性格も、論理も持たない存在なんだからねえ。僕は涙が我慢できない。涙は僕を武装解除してしまうんだ。あれが泣き出すと僕はたわいなく永久の愛を誓ったり、自分でも泣き出したりしてしまうんだよ」
ペカールスキイは理解しませんでした。彼は考え込んで、その広い額をかきながら、言いました――
「まったく、君はあの女のために別荘を借りればよかったんだ。だって、それは君、実に簡単なことじゃないか!」
「あれに必要なのは僕で、住居じゃないんだからね。だが、何と言ってみたって仕方がない」とオルロフは嘆息しました。「僕は、ただ果てしのない話しを聞くだけで、僕の状態には逃げ道は見つかりやしない。これこそまったく、罪なくして罪ありという奴だよ! 僕は茸《きのこ》と名乗った覚えはないのに、篭に入れられちゃったようなもんさ。僕は生涯英雄になる役まわりを拒否し通して、そのためにいつもツルゲーネフの小説は我慢できなかったものだが、それが急に、まるで面当てみたいに、本物の英雄になる役まわりにぶつかっちまったんだからね。僕は決して英雄なんかじゃないと真面目にことわって、動きのとれない証拠を持ち出してみせても、どうしてもそれを信じないんだ。なんだって信じないんだろう? 思うに実際、僕の外観にどこかきっと英雄的なところがあるんだろうなあ」
「じゃあひとつ、地方の検察にでも出られたらいいじゃないですか」と、ククーシキンが笑いながら言いました。
「そう、それ一つが残された道なのさ」
この会話のあと、一週間ばかりして、オルロフはまた、元老院議員の許へ派遣される旨を発表しました。そして、その日の晩に、トランクを抱えて、ペカールスキイの家へ去ってしまいました。
十一
敷居の上には、地面までひきずりそうな長い毛皮外套を着て、海狸《ビーバー》皮の帽子をかぶった六十年輩の老人が立っていました。
「ゲオルギイ・イワーヌイチは家かね?」と彼は訊きました。
初めわたしは、これはときどき少しばかりのものを請求にオルロフの許へくるグルージンの債権者である高利貸のひとりだろうと思いましたが、その男が控え室へ入って、外套の前を開いたときに、私はかねて写真でよく承知していた濃い眉と、特徴のある引きしまった唇と、制服の胸にかけられた二列の星章を見ました。私は誰であるかを知りました――それは、オルロフの父の有名な政治家でありました。
私は彼に、ゲオルギイ・イワーヌイチは不在である旨を答へました。老人はきっと唇を引き結んで、その干からびて、歯の抜けた横顔を私に見せながら、思案するやうな様子でわきの方を見ていました。
「じゃあ、一筆書いて行こう」彼はこう言いました。「案内してくれ」
彼は控え室でオーバーシューズを脱ぎ、その長い重そうな外套を着たまま、書斎へ通りました。彼はそこで、書卓の前の肘掛椅子に腰をおろして、ペンを取り上げる前にまず、三分ばかり、ちょうど陽を避けるやうに片手を――彼の息子が不機嫌なときにやるのと全く同じに――眼にかざして、何事か考えていました。彼の顔は、ただ年老いた宗教的な人の顔だけにときどき見かける、あの従順な表情をたたえた、悲しげな、考え深そうなものでありました。私は彼のうしろに立って、その禿げ頭と、項《うなじ》の凹みとを見ていました。この弱々しい、病身らしい老人が、いまや私の手中にあることは、私にとって火を見るように明らかでした。だって、今この家の中には、私と、私の敵以外には、人っ子ひとりいなかったからです。私としては、ほんのちょっと腕力を用いて、そのあとで、犯罪の目的をくらますために、時計でも引っさらって、裏口から逃げ出せばよかったのです。そうすれば、私は下僕として住み込んだときあてにしたより、はるかに多くの効果を収め得たに違いなかったのです。私は考えました――果して二度とまたこんないい機会がくるだろうかと。しかし私は、行動を起こす代りに、ぜんぜん無関心に、彼の禿げ頭や毛皮外套を眺めながら、この男とその一人息子の関係や、富と権力によって甘やかされて我がままになっている人間は、さぞ死ぬことをいやがるだろうなどと、静かな気持ちで考えていました……
「お前はもう長く、倅《せがれ》のところに勤めているのか?」と彼は、紙の上へ大きな字を書きながら訊きました。
「ちょうど三ヶ月目でございます。閣下」
彼は手紙を書き終えて、立ちあがりました。私にはまだ時間が残っていました。私は自分を急《せ》き立て、拳を握りしめて、以前の憎悪をせめて一滴でも自分の心から絞り出そうと努めてみました。私は、自分がつい最近まで、どんなに情熱的な、執拗な、飽くことを知らぬ敵であったかを思い出しました……しかし、脆《もろ》い石でマッチを擦りつけることは困難でした。年老いた、悲しげな顔と、星章の冷たい光とは、私の心にただ、地上いっさいのものの儚《はかな》さや、急死などについての、くだらない、安価な、要でもない想念を喚び起すにすぎませんでした……
「さようなら、兄弟!」老人はこう言うと、帽子をかぶって、出て行きました。
もはや疑うことはできませんでした――私には変化が起こったのです。私は別の人間になってしまったのです。自分自身を検証しようとして、私は過去を回想しはじめました。が、たちまち私は、思いがけなく真っ暗なじめじめした片隅でものぞき込んだような、不気味さを感じはじめました。私は自分の同志や知人達を思い出しました、と、まず第一に頭に浮かんだ想念は、もし彼等の誰かに会おうものなら、いまの自分は随分赤い顔をして、面目を失わなければならぬということでした。いったい、今の私は何者だろう? 何を考え、何をしたらいいのだろう? どこへ行くべきなのだろう? なんのために生きているのだろう?
私には何ひとつわかりませんでした。はっきり認識し得たのはただ一つ――一時《いっとき》も早く荷物をまとめて立ち去らねばならぬということでした。老人の訪問までは、私の下男生活にもまだ意味がありましたが、今ではそれは、嘲笑《わら》うべきものでした。涙は開いたトランクの中へぽたぽたと落ちて、いかにも堪えがたい無念さでしたが、しかも私は、どんなに生きたいと願ったでしょう? 私は、自分の短い生涯のなかへ、人間に許されているすべてを包含し、摂取する覚悟をしていました。私は、話すことも、読むことも、どこかの大工場で大槌《おおづち》を揮《ふる》うことも、当直に立つことも、地面を耕すことも、あらゆることをしたいと思いました。私はネーフスキイ大通りへも、野へも、海へも、心を惹かれました――私の想像の赴くところどこへでも。ジナイーダ・フョードロヴナが戻って来たときには、私は扉を開けに駆け出して、特に優しく彼女の毛皮外套を脱がせてやりました。最後の思い出に!
老人のほかに、この日ふたりの来客がありました。夕方、もうすっかり暗くなってから、思いがけなくグルージンが、オルロフのために何かの書類を取りに来ました。卓をあけて、必要な書類を取り出すと、彼はそれを筒に巻いて、控え室の自分の帽子のそばへ置いておくように私に命じてから、自身はジナイーダ・フョードロヴナのところへ行きました。彼女は、両手を頭の下にあてがって、客間のソファに寝そべっていました。オルロフが検察旅行に出かけてからもう五六日たっていて、いつ帰るものやら、誰にも見当がつきませんでした。ポーリャはまだ依然としてこの家にいましたが、彼女はそれを気にもとめていないようでした。「どうでもいいわ!」――私は彼女の無感情な、ひどく蒼ざめた顔に、こう読みました。彼女もまた、オルロフと同じように、我執《がしゅう》ゆえに自ら不幸になろうとしていたのでした。彼女は、自分自身とこの世のあらゆるものに対する面《つら》あてに毎日じっとソファの上に寝そべって、自分のためによからぬことばかりを望み、よからぬことばかりを期待していたのでした。恐らく彼女はオルロフの帰宅、避けがたい彼との争い、それから彼の冷却、裏切り、更にふたりが別れるときのことなどを想像していたに違いありません。そしてこれらの悩ましい想念が、あるいは彼女に満足をもたらしていたのかも知れないのです。とはいえ、今突然に事の真相を知ったなら、彼女は何というでしょう?
「僕はあなたを愛しているんですよ」と、グルージンは挨拶をして、彼女の手に接吻しながら言いました。「あなたはこんなにいい方です! それなのにジョールジニカったら出かけちまって」と彼は嘘を吐《つ》きました。「出かけちまって、悪党めが!」彼はため息をつきつつ腰をおろして、優しく彼女の手を撫でました。
「失礼ですが、一時間ばかりお邪魔させてください」と彼は言いました。「家へ帰るのはいやだし、それかといって、ビルショーフんとこに行くのも少々はやすぎますからね。今日はね、ビルショーフのところで、カーチャの誕生祝いがあるんですよ。あれはいい子ですね!」
私は彼に、お茶とコニャックの小瓶を出しました。彼はのろのろと、いかにも気の進まぬ様子でお茶を飲みほすと、私にコップを返しながら、遠慮深かそうに訊きました――
「君、何かひと口つまむものはないかね? 僕はまだ食事前なんだ」
うちにはなんにもありませんでした。私は料理屋へ行って、彼に一ルーブリの定食をとって来ました。
「あなたのご健康のために!」彼はジナイーダ・フョードロヴナにこう言って、ウオーッカの杯を乾しました。「うちの小さい、あなたの名付け子が、あなたによろしくということで、可哀そうに、あの子は瘰癧《るいれき》でしてね! ああ、子供達、子供達!」と彼は嘆息しました。「なんといったところで、父親になるのは嬉しいものですよ。ジョールジニカにはこの感情はわかりませんね」
彼はもう一杯飲みました。痩せて蒼白い顔をした彼は、エプロンでもかけたようにナフキンを胸にかけて、貪るように食い、眉を吊り上げては、済まなさそうに、あるいはジナイーダ・フョードロヴナの方を、あるいは私の方を、ちょうど子供のような目付きで見るのでした。もし私が樹鶏かチェリーかを与えなかったら、彼は泣き出しただろうという気がしました。空腹が癒えると、彼は元気になって、笑いながら、ビルショーフの家庭の様子をあれこれ話し出しましたが、それが退屈で、ジナイーダ・フョードロヴナが少しも笑わないのに気がつくと、黙ってしまいました。と、急に、妙に座が白けました。食事のあと、ふたりは、ランプ一つだけともった客間に座って、黙然としていました――彼には嘘をつくのが辛かったし、彼女は彼に何か訊きたいと思いながら、思いきって訊けなかったのです。こうして三十分ばかり過ぎました。グルージンは時計を見ました。
「さあ、もうそろそろお暇しなくちゃなりますまい」
「いいえ、もう少しいらして頂戴……ちっとはお話もしなくちゃ」
また、黙ってしまいました。彼はピアノの前に腰をおろして、一つの鍵を叩き、それから弾き出して、静かに歌いました――「明日はわが身に何かもたらさん!」――が、例によって、すぐ立ちあがって、頭を振りました。
「何か弾いてくださいな」とジナイーダ・フョードロヴナは頼みました。
「なんですって?」と彼は、肩をすくめて訊きました。「もうすっかり忘れちまいましたよ。やめてから随分たちますからね」
思い出そうとするように天井を仰ぎ見ながら、彼は素晴しい表情を浮かべて、チャイコフスキイの曲を二つ弾きました。いかにも温かく、いかにも巧みに! 彼の顔は普段の通りで――利口そうでものろまらしくも無かったので、私には、この、いつも低劣極まる、不純な周囲の中に見慣れていた人間が、こんなに崇高な、私などには及びもつかないような感情の高揚や、こうした純潔さを持ちうるということが、まるで奇蹟のように思われました。ジナイーダ・フョードロヴナは、ぽっと顔を上気させ、興奮の態で客間の中を行きつ戻りつしていました。
「ああ、ちょっと待って下さい。うまく思い出せたら、あなたのためにもう一つ小曲を弾いてみますから」こう彼は言いました。「いつかチェロでやっているのを聞いたことがあるんですがね」
初めはおずおずと、さぐりさぐり、やがて自信を取り返して、彼はサンサーンスの「白鳥の歌」を弾き出しました。一度弾いてから、もう一度繰り返しました。
「どうです、いいでしょう?」と彼は言いました。
興奮させられたジナイーダ・フョードロヴナは、彼の傍に立ちどまって、訊きました――
「どうぞね、お友達としてあたしにほんとうのことを仰しゃって頂戴な――あなたはあたしのことをどんなふうに思ってらして?」
「さあ、なんといったらいいですかな?」と、眉を吊り上げながら彼は言いました。「僕は、あなたを愛しているので、あなたについては、ただいいことだけを考えています。だが、もしあなたが僕に一般的にご自分に興味のありそうな問題について話せと仰しゃるのでしたら」と彼は、袖の肘のあたりをこすったり、眉をひそめたりしながら、続けました――
「申しますがね……自分の心の誘いに自由に従うこと――これは立派な人間に常に幸福を与えるものとは限りません。それで僕は思うのですが、自分を自由であると同時に幸福であると感じるためには、人生は残酷で、粗野で、無慈悲なほど保守主義であることを、わが眼に隠さないようにして、それにふさわしいもので人生に答えるようにしなければならぬ。つまり、自由を得るためには、人生と同じように粗野で無慈悲なものにならなければならぬ。こういう気がするのです。僕はそう思うのですよ」
「そんなことがあたしなんかに!」と、ジナイーダ・フョードロヴナは悲しそうに微笑みました。「あたしはもう疲れてしまいましたわ。あたしすっかり疲れてしまって、自分を救うために指一本動かすことも出来ないくらいですわ」
「じゃ、修道院へおはいりなさいよ」
それを彼はふざけて言ったのですが、この言葉の後ではジナイーダ・フョードロヴナの眼も、やがては彼自身の眼にも、涙が光りはじめました。
「さてと」彼は言いました――「すっかり御輿《みこし》をすえてしまいました。もう行かなくちゃ。さようなら、可愛いひと。ご機嫌よう」
彼は彼女の両手に接吻して、優しくそれを撫でながら近いうちにまたきっとお訪ねすると言いました。控え室で例の子供のマントみたいな外套に手を通しながら、彼は、私に心づけをくれるために長いあいだポケットを捜していましたが、結局なんにも見つかりませんでした。
「さようなら、君!」彼は悲しげにこう言って、立ち去りました。
この男がそのあとに残して行った気分を、私は永久に忘れないでしょう。ジナイーダ・フョードロヴナは、依然たる興奮の態で、ずっと客間の中を歩き続けていました。彼女が横にならずに歩いていたこと――これだけでも好都合です。私はこの気分を利用して、率直にすべてを打ち明け、すぐこの家を出てしまおうと思いましたが、私がグルージンを送り出すか出さないうちに、またベルの音が聞こえました。今度はククーシキンが来たのでした。
「ゲオルギイ・イワーヌイチは家かね?」と彼は訊きました。「帰ったかね? まだだって? なんて残念なことだ! そういうのなら、せめて細君の手だけでも接吻して――そして帰ることにしよう。ジナイーダ・フョードロヴナ、よろしいですか?」と彼は叫びました。「僕はちょっとあなたのお手に接吻させていただきたいのです。こんなに遅く失礼ですが」
彼は長くは客間にいませんでした。十分以上ではなかったのですが、私には、彼がもうずっと前から座り込んでいて、いつまでたっても出て行きそうにないような気がしました。私は憤りといまいましさから唇を噛んで、早くもジナイーダ・フョードロヴナまでも憎み出す始末でした。
〈なんだって、あの人はあいつを追っ払わないんだろう?〉――彼女が彼に退屈しているのは明白だったのに、私はこう憤慨しました。
私が彼に毛皮外套を渡したとき、彼は私に対する特別な愛顧のしるしとして、どうして私が妻なしでいられるかということを尋ねました。
「だが、お前だってまさかただぽかんとしているわけじゃあるまい」と彼は笑いながら言いました。「きっとポーリャとよろしくやっているんだろう……しれものめ!」
浮世の経験は数々|嘗《な》めていたにもかかわらず、当時の私は、人間というものを良く知りませんでした。それで、たびたびつまらぬことを大きく考えたり、大切なことに全然気がつかなかったりすることがよくありました。私には、ククーシキンが私に変な笑い方をしたり、お世辞をつかったりするのは、ただごとでないように思われました――つまり彼は、私が下僕の常として、他家の下僕部屋や台所で、彼がオルロフの留守をねらって毎晩のようにうちへ来て、夜遅くまでジナイーダ・フョードロヴナと差し向かいでいることを喋り散らすだろうと、早くもそれを当てにしていたのではあるまいか? こうして私のお喋りが彼の知人たちの耳に達した頃合いを見計らって、彼は面はゆげに眼を落として、小指で嚇《おど》す真似をしてみせるだろう。それどころか、彼自身、――と私は、彼の小さな甘いような顔を見ながら考えました――今日にもカルタの席で、もうオルロフからジナイーダ・フョードロヴナを奪いとったような顔をしたり、あるいは口に出してそう言ったりするのではないだろうか?
昼間老人が来たときにはあんなに不足だった憎悪感が、いまや私の全幅を支配しました。ククーシキンは遂に出て行きました。私は彼のオーバーシューズの足音を聞きすましながら、ひとつ、あいつの後を追っかけて、お別れに何か思いきった罵声を浴びせてやりたい強烈な欲求を感じましたが、やっと自分を抑えました。階段の足音が静まると、私は控え室へ引き返しましたが、そこで、自分でも自分のしていることがわからずに、グルージンの忘れて行った紙の巻いたのをひっつかむや、まっしぐらに階段を駈けおりました。外套もなく帽子もなしで、私は街路へ飛び出しました。寒くはなかったが、大粒の雪が降っていて、風が吹いていました。
「閣下!」と私は、ククーシキンに追いつきながら叫びました。
「閣下!」
彼は街燈の傍で立ち止って、訝《いぶか》しそうにこちらを見ました。
「閣下!」と私は、喘《あえ》ぎ喘ぎ言いました。「閣下!」
そして、言うべきことを考えつかないうちに、私は紙の巻いた奴で、二度ばかり彼の顔を殴りつけました。何がどうしたのか五里霧中で、驚くことさえ忘れた形で、――それほど私は彼の度肝を抜いたのです。――彼は街燈に背をもたせて、両手で顔を覆いました。このとき、そばをひとりの軍医がとおりかかって、私が人を打っていたところを見ましたが、ただちょっと不審げに私達を見ただけで、通りすぎてしまいました。
私は恥ずかしくなって、家の方へかけ戻りました。
十二
雪に頭をぬらして喘ぎ喘ぎ、私は下僕部屋へ駈けこんで、すぐさま燕尾服を脱ぎ捨てると、背広の上へ外套を着て、自分のトランクを控え室へ持ち出しました。逃走! しかし、立ち去る前に、私は急いで腰をおろして、オルロフに手紙を書き出しました――
「贋造旅券を貴下に残して行く」と私は書き出しました――「記念に手許にとどめられたし、贋造人間、ペテルブルグの官吏殿!」
「名を偽《いつわ》って他家へ入り込み、下僕の仮面に隠れて他人の私生活を観察し、頼まれもせぬに後日その虚偽を実証せんがため、すべてを見聞きすること――すべてかかる行為を、貴下は盗賊にも等しきものと言わるるならん。しかり、しかしながら、小生にはいま品のよしあしなど、顧慮してはおられざるなり、小生は今日まですでに何十度、貴下は思いのままに振る舞われしにもかかわらず、小生は沈黙のうちに見聞せざるを得ざりし貴下の正餐や夜食を堪え忍び来しなり、――小生は同じものを貴下に贈ろうとは思わず。のみならず、もし貴下の周囲に、貴下に阿諛《あゆ》することなく、あえて真実を直言し得るていの生きたる人間のおらざるならば、せめて下僕ステパンをして、貴下のために、貴下の偉大なる相貌を洗わしめよ」
この書き出しは私には気に入りませんでしたが、書きかえる気にもなれませんでした。第一、そんなことはどうだっていいではないか?
黒っぽいカーテンのかかった大きな窓、寝床、床の上に投げ出された燕尾服、濡れた私の足跡などは、物々しく悲しげに見えました。四方の静寂は一種特別なものでありました。
多分、帽子もオーバーシューズもなしで、街路へなど駆け出したせいでしょう。私には高い熱が出てきました。顔は燃え、足は痛みました……重い頭は卓の上へ垂れさがり、思考力には一種の分裂作用が行われて、脳裏にひとつの想念が起ると、それに影が付いてまわるような気がするのでした。
「小生は病弱かつ精神的に意気沮喪しておるため」と私は続けました――「望みのままに書くことは不可能なり。小生は初め貴下を思うざま面罵《めんば》したく思いたりしも、今はその権利わが身にありとも思われず。貴下と小生――ふたりは共にすでに倒れて、再び起きあたわざる人間なり。小生の書簡にしてたとえいかに雄弁、強力、恐るべきものあるにせよ、所詮、棺の蓋を叩く音に等しきのみ――いかに叩けばとて、死人を呼びさますこと思いもよらず! いかなる努力も最早貴下の呪われたる、冷えきったる血を温め得べきものにあらず。これは貴下の小生以上に熟知せらるるところなり。しからば何がゆえにこれを書くや? しかし小生の頭と心は燃え、小生は書き続けざるを得ず。ゆえ知らず胸おどりて、あたかも、この手紙だに書かば、なお貴下と小生とを救い得るがごとき心地するをいかにせん。病熱のため、思想は脳裏に渋滞し、ペンはただ無意味に紙面に軋《きし》むにすぎざるも、小生が貴下に提出せんとする問題は、小生の前に火の文字のごとく明瞭に立ちおれり。
小生が心身ともにかく速やかに衰弱したるは何がゆえか、説明するにむずかしからず、小生は、かのバイブルのサムソンのごとく、ガザの門を肩に担いで山頂へ運び上げんとせしもの。しかしてわが身のすでに力つき、青春と健康の火の永久に消え去りたる時にあたりて初めて、この門が到底わが肩の力に及ばず、われとわが身を欺きいたるものなることに心づきしなり。のみならず、小生には烈しき不断の苦痛あり。小生は飢餓を、寒気を、病気を自由の喪失を体験せり。個人的幸福のごとき、過去において知らず、現在においてしらず、住むに家なく、追憶は苦渋にして、良心はしばしばそれを恐るるのみ、しかしながら、貴下はまた何がゆえに滅びたるにや、貴下は? いかに悪魔的なる宿命的原因が、貴下の生涯に春花の満開を妨げたるにや、何がゆえに貴下は、未だ真の生活をはじめるに至らずして、みだりに急いで自ら神の姿を振り捨て、一個臆病なる動物となりさがって、自ら恐るるがゆえに吠え、その吠え声にて他を驚かしつつあるにや? 貴下は人生を恐れおれり、かの終日座布団の上に座して煙草をくゆらしおるアジア人のごとくに恐れおれり。しかり、貴下は多く読み、貴下にはヨーロッパふうの燕尾服よく似合うも、しかも貴下の、飢餓に対し、寒気に対し、肉体的緊張に対し、――苦痛に対し、不安に対して自己を護らんとすることの、なんたる優しき、純アジア式、ダッタン王式の配慮ぞや。貴下の魂のガウンのうちに隠れ潜めることの何たる速さぞ。また、あらゆる健全正常なる人の敢然として闘いつつある現実生活に対し、自然に対して、貴下のいかに臆病者の役割を演じおらるることぞ。げに貴下の生活は甘美なり、快適なり、暖かなり、便利なり――しかもそのなんたる退屈! しかり、そは、独房におけるがごとき殺人的退屈なり、暗黒的退屈なり。しかも貴下はこの敵よりも逃避せんことをこれ努めて、実に一昼夜のうち八時間をカルタに費やしおらるるにあらずや。
更に貴下の皮肉はいかん? おお、小生は極めてよくそを理解しおれり! 生ける、自由なる大胆なる思想は、探求的にして強力なり、遊惰怠慢の知性にとっては、堪え難きものたるを免れず。貴下はその思想の貴下の平安を乱すを恐れて、幾千の貴下の同年者同様、青春にして早くもそを枠のうちに収め、人生に対する嘲笑的態度ともいうべきものをもって自らを武装し終おせたるなり。されば、抑圧され威嚇されたる思想は、貴下の張りめぐらせたる埒《らち》を越えることあたわず。しかして貴下が、すべてを知りつくせるがごとき顔して、多くの思想を愚弄するありさまは、かの卑怯にも戦場より遁走せる脱走兵が、その恥辱をおおうべく、戦争を嘲り、勇気を嘲笑《あざわら》う態度に酷似せるものあるをいかんせん。犬儒主義《シニズム》は苦痛をまぎらすもの。ドフトエフスキイのある小説には、ひとりの老人の、わが娘に対して己れに非あるがゆえに、愛する娘の肖像を踏みにじるの描写あり、貴家が善と真実の思想に対して、卑しくいまわしき嘲笑を敢えてするは、これ貴下のすでにそれに帰る力のなきにがゆえにあらざるか。貴家の堕落に対する真実にして誠意ある暗示は挙げて、貴下の恐れるところなるがゆえに、貴下はことさら己が周囲に、ただ貴下の弱点に媚びる以外に能なき輩を集めおれり。貴下が涙を恐れることの甚だしき、真にさもありなんと申すべきなり!
ついでに、婦人に対する貴下の態度につき一言すべし、血肉共にわれらは破廉恥を継承し、破廉恥のうちに養われおれり。しかも、われらが人間たるの所以は、自己のうちに存在するこの野獣を征服することにあらずや。成人して、すべての思想を知りはじめしとき、貴下は真理を見ざるを得ざりし筈なり。貴下は真理を知れり、しかも貴下はその後に従うことをせずして、いたずらにそれに慴《おび》え、自らの良心を欺くため、声を大にして、罪は貴下に在るにあらず、婦人自身にあり、婦人こそ貴下の彼女に対する態度と同様に低級なるものなりと自ら説得しはじめたりき。冷々然たる猥談、馬のごとき笑い、事物の本質とか、結婚に対する漠然たる要求とか、フランスの労働者が女に払う十スウとかにつきての貴下の無数の、論理及び、女の論理、虚偽、弱点等に対するお定まりの引証―― 以上はすべて、とにもかくにも、婦人を低く泥濘に押し伏せて、彼女と彼女に対する貴下の態度を同水準に置かんとする欲求と見て、大過なかるべきにはあらざるか? 貴下は実に、弱くして不幸なる、しかして不愉快なる人間なり」
客間ではジナイーダ・フョードロヴナが、先刻グルージンが弾いたサンサーンスの曲を思い出そうと努めながら、ピアノを叩き出しました。私は寝床へ行って横になりましたが、もうそろそろこの家を出なければならぬ時なのを思い出し、努めて起きあがると、熱のある重い頭を抱えて、またしても卓の方へ行きました。
「しかしながら問題はこれなり」と私は続けました。
「何がゆえにわれわれはかく疲れたるか? 何がゆえにわれわれは、初めはあくまで情熱的に、あくまで勇敢に、高尚に、信仰厚かりしにもかかわらず、三十ないし三十五歳にしてとく既に完全なる破産者とは成り果てしぞ? 何がゆえに、一人は肺病に倒れ、一人は自ら銃丸を射込み、一人はウォーッカやカルタに忘却を求め、一人は、恐怖と憂愁をまぎらすために、己が純潔なる美しき青春の肖像を破廉恥にも踏みにじれるや? 何がゆえにわれわれは、ひとたび倒れればもはや起き直らんとは努力せず、一つを失えば他を求めんとは努力せざるや? 何がゆえに?
十字架にかけられし盗賊は、最早恐らく一時間生きるときの残りおらざるにもかかわらず、なおあえて自らの生の歓喜と、実現せざるべき勇敢なる希望とを取り戻し得たりしとぞ。貴下は前途なお甚だ春秋に富めり、小生また、おそらくは、今思わるるほどに早くは死なざるべし、もしここに奇跡の行われて、現在の事態が一場の夢、恐ろしき夢魔と化し去りて、われら再び甦えれる、純潔なる、力強き、自己の真理を誇りとするものとして覚醒したりとすればいかん?……甘き空想は小生を焼き、小生は興奮の極、辛うじて息をつくの感あり。小生は今ひたすらに生きんことを欲す。われらの生命の聖《きよ》く高くして、かの大空の穹窿《きゅうりゅう》のごとく荘重ならんことを欲す。君よ、生きようではないか? 太陽は日に二度とは昇らず、生活は二度とは与えられない――君よ、君の生涯の残れる部分をしかと把握して、そを救うべく努力せられよ……」
これ以上私は一言も書きませんでした。思想は脳裡に雲のようにむらがっていましたが、それはみな散り乱れるばかりで、どうにもまとまりがつきませんでした。手紙を書き上げないで、私は自分の身分と姓名とを記して、書斎へ行きました。真っ暗でした。私は手探りで卓を捜して、その上に手紙をのせました。多分、暗がりで私が何かの家具に躓《つまず》きでもしたのでしょう。ガタリと大きな音がしました。
「だあれ、そこにいるの?」客間から、ぎょっとしたような声が聞こえました。
と、その途端に卓の上で、時計が優しく、夜半の一時を報じました。
十三
暗闇で、少なくも半分ばかり、私は手探りして引っかいてから、ゆっくりとそれを開けて客間へはいりました。ジナイーダ・フョードロヴナは、寝椅子に横になっていましたが、片肘を立てて、私の方を見ました。私は、言い出す決心をつきかねて、静かにそのそばを通り過ぎました。彼女は私を見送りました。私はしばらく広間に立っていて、再びそばを通りましたので、彼女は注意深く、疑わしそうに、いやむしろ恐怖の色をさえ浮かべて、私を見ました。遂に、私は立ちどまって、思いきってこう言いました――
「あの人は帰りませんよ!」
彼女は素早くすくっと立ちあがると、不審そうに私を見つめました。
「あの人は帰りませんよ!」私は繰り返しました。私の胸は烈しく躍り出しました。
「あの人は帰りません。ペテルブルグを発ったのではないのですから。あの人はペカールスキィの家に泊まっているのです」
彼女は了解しました。そして私を信じました――それを私は、さっと変わった顔色の蒼さと、急に恐怖と懇願の表情を見せて胸に腕を組んだ様子によって、見て取ったのです。彼女の記憶には、一瞬の間に、その最近の過去がきらめき、彼女は沈思するまでもなく、仮借なき明瞭さをもって、いっさいの真実を知ったのでした。しかし、同時に彼女は思い出しました。私が下僕で低い身分の者であることを……髪を乱し、熱のために赤い顔をして、悪くすると酔っているのかもしれない、一種下品な外套を着た旅烏が、不作法にも彼女の私生活の中に入り込んできたのですから、彼女もさすがに気分をそこねました。
「誰もあなたに聞いていませんよ。あっちへ行って頂戴」
「おお、どうぞ私をお信じ下さい!」私は夢中になって、彼女の方へ両手を差し延べながら言いました。「私は下僕ではありません。あなたとおなじ自由な人間なのです!」
私は自ら名乗るとともに、彼女が私の言葉をさえぎったり、自分の部屋へ行ってしまったりしないようにと、早口に、大急ぎで,自分が何者で、また何のためにここに住みこんでいたのかを説明しました。この新しい暴露は、最初のそれよりもいっそう彼女を仰天させました。彼女には、それまではまだまだ、下僕が嘘をつくか、間違うか、あるいはでたらめを言っているのかもしれないという希望があったわけですが、今、私の告白のあとでは、もはやなんの疑いもあり得ませんでした。みるみる年をとったように、ふくらみを失い、急に醜くなった彼女の不幸な眼と顔の表情によって、私は彼女の堪えがたい苦しみを察し、自分も良くないことを言い出したものだと感じましたが、私は酔ったようになって続けました――
「元老院議員だとか検察官だというのはみんなあなたを欺くための狂言です。一月にもあの人は今と同じにどこにも行かず、ペカールスキイの家にいたのです。私は毎日あの人と会って、その狂言にひと役買っていたわけです。あの仲間はあなたを持て余して、あなたがここにいらっしゃるのを憎み、あなたを嘲笑していました……あの人とあの仲間は、ここであなたとあなたの恋愛をどんなに愚弄したことでしょう。お聞きになったら、とても一分間もここにはいられなかったでしょう! 早くここを出ておしまいなさい! 出ておしまいなさい!」
「だって、それがなんでしょう!」彼女はこう震え声でいうと、片手で髪を撫でました。「だって、それがなんでしょう? 構いませんわ」
彼女の眼には涙があふれ、唇はわなわな震え、顔全体は恐ろしいほどに蒼ざめて、憤怒の焔《ほむら》を吐いているようでした。オルロフの卑劣な、無礼な欺瞞は、彼女を激昂させた上、蔑むべく、笑うべきものに思われたのでしょう。彼女は微笑さえ浮かべましたが、この微笑は私には気に入りませんでした。
「だって、それがなんでしょう?」と彼女は同じことを言って、再び片手で髪を撫でました。「構いませんわ。あの人はあたしが卑下して死ぬように思ってるんでしようが、あたしには……おかしいくらいですわ。あの人がそんな、隠れているなんて無駄なことよ」彼女はピアノの前をはなれると肩をすくめて言いました。「無駄なことよ……そんな隠れたり、ひとさまのお宅をうろつき廻ったりするより、あたしと話をつけるほうがよっぽど簡単だわ。あたしにだって眼があるから自分でももうとうから、ちゃんと見てましたもの……そしてただきっぱり話しをつけるために、あの人の帰りを待っていただけですわ」
それから彼女は、卓のそばの肘掛け椅子に腰をおろし、長椅子の腕に頭をもたせて、烈しく泣き出しました。客間には枝付き燭台にロウソクがたった一本燃えているきりだったので、彼女の掛けていた肘掛け椅子のあたりは暗かったのですが、私には、彼女の頭や肩のふるえているのや、ほつれた髪が、首や、顔や、腕に乱れかかっているのが見えました……静かな、抑揚のない泣き声、ヒステリックでない、普通の、女らしい泣き声には、屈辱と、傷つけられた自尊心と、憤りと、もはや癒やす術《すべ》もなければ慣れることもできない、逃れようのない頼りなさが聞かれました。かき乱された私の悩ましい心に、彼女の泣き声は、反響をよび起こしました。私はもう、自分の病気も、世の中の一切をも忘れてしまって、客間を歩きながら、放心したようになって呟いていました――
「これが生活というものだろうか? ……ああ、こんなふうにして生きて行くことはできない! できない! これは――狂気だ、犯罪だ、生活ではない!」
「なんという卑屈さでしょう!」と彼女は、涙の中から言いました。「あたしをもてあましたり、笑ったりしていながら、一緒に暮して……わたしに笑顔を見せるなんて……おお、なんという卑屈さでしょう!」
彼女は頭をもたげて、泣いた眼で、涙に濡れた乱れた髪のあいだから私を見つめ、眼の邪魔をするその髪を直しながら、尋ねました――
「あの人達は笑っていたのね?」
「ああいう連中には、あなた自身もあなたの愛も、あなたが愛読されたというツルゲーネフも、みんな笑い草なんですよ。いま仮に、わたし達ふたりが絶望のあまり死ぬとしても、これも彼等にはやはりお笑い草なのです。彼等はこれを滑稽な笑話に作って、あなたの追悼式の語り草にするでしょう。あんな連中を、なんで問題になさるのですか?」私は苛々して、こう言い放ちました。「それより、ここを逃げ出すことが大切です。私はもう一分もこの家にはいられません」
彼女は再び泣き出しました。私はピアノの方へさがって、腰をおろしました。
「このうえ何を待つことがあるでしょう?」と私は沈痛な声で訊きました。「もう二時過ぎですよ」
「あたしなんにも待ってなんかいませんわ」と彼女は言いました。「あたしはもう破滅した人間なんですもの」
「どうしてそんなふうに仰しゃるんです? それより、これからどうしたらいいか、ご一緒に考える方がいいですよ。あなたも、わたしも、お互いに、もうここにはいられない人間です……あなたはここを出てどこへいらっしゃるおつもりですか?」
突然、控え室にべルの音が鳴り響きました。私は心臓が躍り出しました。ククーシキンから私の苦情を聞かされて、もうオルロフが帰って来たのではないだろうか? われわれはどんなふうに彼と会うべきだろう? 私は扉を開けに行きました。それはポーリャでした。彼女は入ってくると、控え室で頭巾つき外套から雪をはらい落して、私には声をかけようともせず、自分の部屋へ行ってしまいました。私が客間へ引き返したとき、ジナイーダ・フョードロヴナは死人のように真蒼な顔をして、部屋の真ん中に突っ立ったまま、大きな眼で私を見ました。
「誰かまいりましたの?」と彼女は小声で訊きました。
「ポーリャです」と私は答えました。
彼女は片手で髪を撫でつけ、力なげに眼を閉じました。
「あたし今すぐここを出て行きますわ」と彼女は言いました。「あなた済みませんけれど、ぺテルブルグ区まであたしを送って下さいな。いま何時でしょう?」
「三時十五分前です」
十四
それから暫くして、私達が家を出たとき、街路は真暗で人影もありませんでした。ぼた雪が降っていて、湿っぽい風が顔にあたりました。忘れもしません、それは三月の初めで、雪解けがはじまり、もう数日前から、辻ぞりは馬車に変わっていました。裏梯子や、寒さや、夜の闇や、門を通す前に不審そうに訊問した羊の皮衣を着た門番などの印象に圧倒されて、ジナイーダ・フョードロヴナはすっかり弱くなり、意気沮喪してしまいました。馬車に乗って、幌が下ろされると、彼女は全身をわななかせながら、口早やに、どんなに私に感謝しているかということを、言いはじめました。
「あたし、あなたのご親切はちっとも疑ってなんかいないのですけれど、でも、あなたにこんなご迷惑をおかけするのが恥ずかしいのですわ……」と、彼女は呟きました。
「ああ、あたしも思いあたりますわ、思いあたりますわ……今日グルージンがいらした時にも、あたしはあの人が嘘をついていて、何かしら隠しているらしいのを、感じてましたわ。だって、それがなんでしょう? 構いませんわ。ですけど、やっぱりあたし、あなたにこんなご迷惑をおかけしていることは恥かしいわ」
彼女にはまだ疑惑が残っていたのです。で、それを徹底的に払いのけるために、私は馭者に、セルギエーフスカヤ街へ行くように命じました。そして、馬車をぺカールスキイの車寄せに止めさせると、私は馬車からおりて、べルを鳴らしました。玄関番が出てくると、私はジナイーダ・フョードロヴナに聞こえるような大声で、ゲオルギイ・イワーヌイチは在宅かどうかとたずねました。
「おいでだよ」と彼は答えました。
「三十分ほど前にお帰りになった。きっともうおやすみだろう。お前どうしたんだい?」
ジナイーダ・フョードロヴナはたまりかねて、馬車から顔を出しました。
「ゲオルギイ・イワーヌイチはもう長くここにいらっしゃるの?」と彼女は訊きました。
「もう三週間になります」
「そして、どこへも行かなかったの?」
「どこへも」と玄関番は答えて、びっくりしたように私を見ました。
「じゃあ明日できるだけ早く、あの人にことづけてくれ」と私は言いました――「ワルシャワから妹さんがお出でになりましたからって、さよなら」
それから私達は、更にさきへ馬を走らせました。馬車には前幌がなかったので、雪はこんこんと私達にふりかかるし、風は、ことにネヴァ河畔では、骨まで沁み通るようでした。私には、ふたりがもう長いあいだ馬車に乗って苦しみ続け、そして自分はもう久しく、ジナイーダ・フョードロヴナの荒い呼吸のふるえを聞いているような気がしはじめました。私はちらりちらりと、ちょうど眠りかけているときのように、半分夢うつつの気持で、自分の数奇な、無意味な生活を振り返ってみました。と、私にはなぜか、少年時代に二度ばかり見た「パリの乞食」というメロドラマが思い出されました。そしてなぜか、私がこの夢心地を振り落すために幌の下から外をのぞいて、暁の色を見たとき、すべての過去の映像が、茫然としたすべての思想が、卒然として私の脳裡で、一つの明瞭確然とした思想――私とジナイーダ・フョードロヴナとはもう取り返しがたく破滅してしまったのだという思想に溶け合ってしまいました。これは一つの信念でした。ちょうど、冷やかな碧空《あおぞら》がその中に預言を蔵しているようなものでしたが、一瞬の後には、私はもう他のことを考え、他のことを信じていました。
「これからあたしどうしたらいいんでしょう?」とジナイーダ・フョードロヴナは、寒さと湿気に嗄《か》れた声で言いました。「どこへ行ったらいいのでしょう。何をしたらいいのでしょう? グルージンは仰しゃいましたわね。修道院へ入れって、ああ、あたしほんとうに行こうかしら! 着物を変え、顔を変え、名を変え、心を変え……何もかも、何もかも変えて、永久に身を隠してしまったら。でも、あたしなんか、修道院で入れてくれませんわ。あたしは妊娠しているんですもの」
「明日一緒に外国へ立ちましょう」と、私は言いました
「そんなこと駄目ですわ。あたしの夫が旅券を渡してくれませんもの」
「旅券なんかなくたって、わたしがうまくお連れしますよ」
辻馬車は、暗い色に塗られた二階建の木造家屋のそばに止りました。私がベルを鳴らしました。私の手から、小さな軽いバスケット――われわれが持ち出した唯一の荷物――を受取って、ジナイーダ・フョードロヴナは、変に酸っぱいような笑顔を見せて言いました――
「これあたしの bijoux(宝物)よ……」
けれども彼女は、この bijoux を支える力もなかったほど、弱っていました。扉はなかなか開けてもらえませんでした。三度目か四度目のベルの後で、やっと窓に灯影がちらつき、足音と、咳の声と、囁き声が聞こえてきました。遂に、錠前ががちゃりと鳴って、赤い、びっくりしたような顔のふとった百姓女が戸口に現れました。その後ろに、少し距離をおいて、ざんぎりの白髪頭にジャケッを着た、小柄で痩せた老婆が、ロウソクを手にして立っていました。ジナイーダ・フョードロヴナは、玄関へ駆け込むと、この老婆の首へかじりつきました。
「ニーナ、あたしはだまされたの!」彼女はわっと泣き出しました。
「あたしは、思いきりひどくだまされたの! ニーナ! ニーナ!」
私は百姓女にバスケットを渡しました。扉は閉められましたが、すすり泣きの声と「ニーナ!」という叫び声とは、なおいつまでも聞えていました。私は馬車に戻ると、馭者に、ゆっくりネーフスキイ大通へやってくれと命じました。今度は、自分の泊るところを考えなければならなかったのです。
翌日、夕方前に、私はジナイーダ・フョードロヴナをたずねました。彼女はひどく変っていました。げっそり痩せた蒼白い顔には、もう涙の痕はなく、表情もすっかり変っていました。それは、贅沢などとはおよそ縁遠い、全然違った環境の中で彼女を見たせいか、われわれの関係がもうすっかり変っていたせいか、あるいはまた、強い悲しみが早くも彼女の上にその刻印を捺《なつ》したせいか、その辺のところはよくわかりませんが、とにかく今の彼女はこれまでのような優美な、華やかな女とは見えませんでした。姿までがどことなく小さくなったようで、動作にも、歩き振りにも、顔付きにも、何かこう急いででもいるような、余計な神経質と唐突さとが眼につき、その微笑にすら、以前の柔らかみがありませんでした。私は今、昼のうちに買いととのえた高価な揃いの服を着ていました。彼女は、何よりまず第一に、この服と、私の手にしていた帽子に一瞥を投げてから、私の顔を研究でもするように、性急《せっかち》な、探るような視線をそれに凝らしました。
「あなたのお変りになったことは、あたしにはまだどうしても、なんだか奇蹟のような気がしてなりませんわ」彼女は言いました。「こんなにじろじろ見たりして、ほんとに失礼ですわね、ごめん遊ばせ。だって、あなたは普通の方ではないんですもの」
私はもう一度彼女に、自分が何者であって、なんのためにオルロフ家に住み込んでいたかを物語りました。昨日よりも長くかかって、くわしく物語りました。彼女は非常に注意深く傾聴していましたが、話の終るのを待たないで、こう言いました――
「あたしのあちらのことは、もうすっかり片づきましたわ。あのね、あたしたまらなくなって、手紙を書いてやったんですのよ。これがその返事ですわ」
彼女が私の手に渡した紙片には、オルロフの手でこう書いてありました――
「僕は今さら弁解はしない。しかし、あなたは認めなければいけませんよ――過ちを犯したのはあなたであって僕ではないということを。幸福を祈ります。そして一時も早く、あなたを尊敬しているG・Oをお忘れになるよう願います。二伸。あなたの荷物をお送りします」
オルロフから届けられたトランクやバスケットは、同じ客間の中にありました。その中にまじって、私のみすぼらしい鞄もありました。
「つまりね……」とジイナーダ・フョードロヴナは言いましたが、あとは続けませんでした。
私たちは黙っていました。彼女は手紙を取り上げて、二分間ばかりそれを目の前に支えていました。そのとき彼女の顔は、昨日私達が話し合った初めに見せたと同じ、尊大な、蔑むような、誇りやかな、堅いような表情をとりました。その眼には涙が、臆病でなく、苦《にが》くもない、傲然として腹立たしそうな涙が、浮かんでいました。
「それでねえ」彼女は不意に立ちあがって、私にその顔が見えないように、窓際の方へ行きながら、言いました。「あたしこう決心いたしましたの――明日あなたとご一緒に外国へ行くことに」
「結構ですね。わたしは今日でも出かけられます」
「あたしもお仲間にして下さいましね。あなた、バルザックをお読みになりまして?」と彼女はだしぬけに、くるりとこちらを向いて訊きました。「お読みになりまして? あの人の『ゴリオ爺さん』という小説は、主人公が小山の頂きからパリを見おろして、〈今こそわれわれは清算するんだ!〉こう言ってあの都会をおどすところで、そしてそのあとで新生活のはじまるところで終ってますわね。ちょうどああいうふうに、あたしも、汽車の窓から最後にぺテルブルグを見て、そう言ってやりますわ――〈今こそあたし達は清算するんだ!〉って」
こう言ってしまって、彼女はこの自分の冗談ににっこり笑いました、そしてなぜか全身をぶるっとふるわせました。
十五
ヴェネチアで、私には肋膜《ろくまく》の痛みが始まりました。多分、停車場からホテル「プール」へ向う間に、夜だったので風邪を引いたのでしょう。着く早々床上の人となって、二週間ばかり寝てすごさなければなりませんでした。私が病気をしている間、ジナイーダ・フョードロヴナは、毎朝、一緒に珈琲を飲むために、自分の部屋から私の部屋へ来て、そのあとで私に、ウイーンでしこたま買い込んで来たフランスとロシアの書物を読んで聞かせてくれました。それらの本は、私にはもうとっくの昔に知っていたものか、または興味のないものばかりでしたが、私の耳に響く声がいかにも快く優しいので、実際においてそれらの書物の内容までが、私にとってひとつのもの――自分が孤独でないという意味に帰納されたくらいでした。彼女は、明るい灰色の服に軽やかな麦藁帽子をかぶって散歩に出かけ、春の太陽に暖められて、快活になって帰ってくると、私の寝台のそばに腰をおろし、私の顔の上へ低く屈み込んで、何かとヴェネチアの話をしてくれるか、こうして書物を読んでくれるかするのでした――そして私は幸福でした。
夜は私には寒くて、痛くて、退屈でしたが、昼は、生の喜びに陶酔するのでした――全くこれ以上の表現はちょっとありますまい。開け放った窓や、バルコンの戸口に射す、明るい、熱い日の光、下の方で聞える叫び声、櫂の水をはねる音、鐘の音、午砲の轟音、それに完全な自由の感情が、私に奇蹟を行ってくれ、私は自分の両脇に、私をどこともなく運んで行く、力強い、広い翼を感じるのでした。そして、今では私の生活と並んで他の生活が営まれていることや、今の私は、若い、美しい、富裕な、しかし弱い、辱しめられた、孤独な一生物の下僕であり、番人であり、友であり、なくてはならぬ同伴者であることを思うと、どれほどの魅力と、時には歓喜を覚えたことでしょう! その回復を、祭でも待つように待っていてくれる人のあることを思えば、病気までが楽しい気がします。一度私は、彼女が扉の向うで私の医者と何かひそひそ話をしている声を耳にしました。やがて彼女は、泣いたような眼をして私の部屋へはいって来ました――これは不吉な兆候《しるし》です――けれども、私は感動してしまったので、気分はむしろ非常に軽くなったくらいでした。
しかし、遂に私はバルコンへ出ることを許されました。太陽と、海からくる微風とが、私の病体を撫でいたわってくれます。私は古いゴンドラを見おろします、それは、この地の特色ある陶酔的な文化の贅沢さを、あますところなく生きかつ感じてでもいるように、荘重になめらかに、女性的な優美さをもって水に浮かんでいるのです。海の匂いがします。どこかで、弦楽器を奏でる音がして、二重奏でうたっています。なんていいのでしょう? ぼた雪が降りしきってあんなにあらあらしく顔を打ったあのぺテルブルグの夜とは、なんという相違でしょう! まっすぐ堀割の向うを見やると、そこには海辺が見えて、遠い地平線上には、眼に痛いほどキラキラと、まったく自由に太陽が水にきらめいています。私の心はその方へ、全て私が青春を捧げた、懐しい、美しい海の方へ惹かれます。ああ、生きたい! 生きてさえ行けたら――それ以上は何もいらない!
二週間すると、私はどこへでも行けるようになりました。私は日向《ひなた》に座って、ゴンドラの舟子の唄を聞き、何一つ理解しないで、茫然と、何時間も、デスデモナが住んでいたという小さい家――乙女のような表情をした、ナイーブな、物悲しげな小さな家、レースのように軽い、片手でどこへでも動かせそうな軽々とした小さな家を、眺めているのが好きでした。私はまた長い間、カノーヴァ(イタリアの彫刻家)の墓の傍にたたずんで、いたましい獅子の像から眼を放さないでいることもありました。ドージの宮殿では、いつも私は、つい不幸なアリノ・ファリエロの絵が黒い塗料で塗り潰されている一隅へと惹きつけられるのでした。美術家となり、詩人となり、戯曲家となるのはいいことだ、が、もし自分にそれが許されないとしたら、せめて神秘主義にでもなれたらと私は考えるのでした! ああ、いま自分の魂を満たしているこの穏かな平安と、満ち足りた心持の上に、せめて一片の信仰でもあったならば。
晩には、私達は牡蠣を食べ、葡萄酒を飲み、ゴンドラに乗りました。忘れもしません、私達の黒いゴンドラは、静かに同じ場所に漂っていて、舟底では水音が幽かに聞えます。星影や岸の灯影《ほかげ》がそこここに ふるえたり揺れたりしています。私達は、彩色をした提灯をさげ連ねて、その影を水に映している程遠からぬゴンドラの中に、数人の人が座って、うたっています。ギターや、バイオリンや、マンドリンの響きと、男女の声が、暗い中に響いています。そして、ジナイーダ・フョードロヴナは、蒼白で、真面目な、ほとんど厳しいくらいの顔をして、肩と腕とをきっと堅く引きしめ、私の隣に座っています。彼女は、何かじっと考えに沈んで、眉一つ動かさず、私の言葉も聞いていない様子です。その顔、姿勢、なんの表情もない、凝然と動かない眼ぶた、そして真実とは思われないほどの、物悲しい、無気味な、雪のように冷たい思い出、それからと、あたりに浮かぶゴンドラ、灯影、音楽、「Jam-mo! …… Ja-mmo! ……」という精力的で情熱的な叫び声を伴う唄――なんという生活の対照でしょう! 彼女がこんなふうに、堅く腕を組んで、化石のように超然たる様子をして座っているとき、私には、私達ふたりは何か――「薄命の佳人」とか「見棄てられた麗人」とかいったふうな題をつけた、古風な小説の中の人物のような気がするのでした。私達ふたり――彼女は見棄てられた薄命の佳人であり、私はその忠実な親友で、空想家で、次第によっては、ただ咳をしたり、空想したり、あるいは自己を犠牲にしたりする以外に、最早なんの能力もない余計者であり敗残者であるわけです……が、しかし、ここで問題になるのは、今は誰に、なんのために、私の犠牲が必要だろうか? また何か犠牲にするものがあるだろうか? こういうことです。
宵の散歩のあとでは、私達はきまって彼女の部屋でお茶を飲み、話をしました。私達は、まだ癒えきらない古傷にふれるのを恐れませんでした――それどころか私は、オルロフ家での自分の生活について彼女に語ったり、よく知っていて隠しようのなかった秘密にふれたりするときには、なぜかむしろ満足を覚えたくらいでした。
「わたしはときどきあなたを憎らしく思ったことがありましたよ」と私はいいました。「あの男が我がままをしたり、恩にかけるような顔をしたり、嘘を吐いたりするときにわたしを驚かしたのは、あなたがそのわかりきった見えすいたことを、見ようともわかろうともなさらないことでした。あなたといったら、あの男の手に接吻したり、跪いたり、機嫌をとったり……」
「あたしがあの人の手に……接吻したり、跪いたりしたときは、あたし、あの人を愛したんですもの……」と彼女は、顔を赤らめながら言いました。
「だが、あの男の正体を見破るのがそんなに困難だったでしょうかね? 大したスフィンクスですよ! スフィンクスですよ――侍従って奴はね! 僕はしかし、少しもあなたを非難してるんじゃありませんよ」と私は、自分の不作法者であること、他人の魂の問題に触れる場合には特に必要なデリカシイと世間智に欠けていることを痛感しながら、こう続けました。これまで、彼女と知り合うまでは、自分にこの欠陥があるのに、私は気が付かないでいたのでした。
「それにしても、どうしてあなたにあれが見破れなかったんですかね!」と私は、しかしもうずっと穏かな、控え目な調子で繰り返しました。
「あなたは、あたしの過去を軽蔑すると仰しゃりたいんでしょう、ほんとにあなたの仰しゃる通りですわ」彼女は烈しい興奮の態で言いました。「あなたは、普通の尺度では計れない、特別な部類に属するお方ですから、あなたの道徳的要求は格別厳格で、何事にも容赦ということがお出来にならないですわね、あたしよくわかっていますわ。あたしあなたのお心はよくわかっているのですから、もし今度どうかしてあなたに反対するようなことがあっても、それは決してあたしが物事に対してあなたと違った見方をしていることにはなりませんのよ。あたしがこれまでと同じようなつまらないことを言うのは、ただまだ古い着物や偏見がすっかり捨てきれないからにすぎませんわ。あたしは自分でも自分の過去を、恨みもすれば蔑んでもいますのよ、オルロフも、自分の恋も……だけど、いったいあれが恋でしょうか? 今では何もかもがかえっておかしいくらいですわ」と彼女は、窓の方へ行って、下の堀割を見おろしながら、言いました。「ああいう恋愛はただ、良心を晦《くら》ましたり心を撹き乱したりするだけですわ。人生の意味はただ一つ――闘争の中にあるだけですわね。いやな蛇の頭を踵で踏みつけて、そいつをぐしゃっと踏みつぶすこと!――これが人生の意味ですわ。これ以外にはなんの意味もありませんわ」
私は彼女に、自分の過去の長物語をして聞かせたり、事実驚くに足る幾多の冒険を物語ったりしました。しかし、私の心に起っていた例の変化については、一言も口にしませんでした。彼女は終始非常に熱心に聴き入って、面白い個所になると、さもさも自分にまだそうした冒険や、恐怖や、歓喜を経験する機会のなかったのが残念だとでも言うように、手をすり合わせたりするのでしたが、そのうち急に思い沈んで、自分に沈潜してしまうのでした。そんなとき私は、彼女の顔付きによって、彼女がもうこちらの話を聞いていないのを、見て取るのでした。
私は、堀割の方へ向った窓を閉めて、こう訊きます――暖炉を焚かなくてもよろしいですか? と。
「いいえ、ご心配なく。あたし寒かありませんわ」彼女は、ものうげな微笑を浮かべながら言いました――
「あたしただすっかり疲れただけですの。それよりねえ、あたし、この頃なんだか自分が大変利口になったような気がしますのよ。あたしには今、普通とは変った、独創的な思想がありますわ。例えば、あたしが過去の出来事や、あの時分の生活や……それから一般に人間というものについて考えるときには、そうしたものが皆あたしの中で、ただ一つのもの――あたしの継母の姿に溶け合ってしまうんですのよ。不作法で、横柄で、冷酷で、嘘つきで、自堕落で、おまけにモルヒネの中毒患者なんですの。からだも弱く気も弱かった父は、金のためにあたしの母と結婚して、母を肺病にしてしまったのですわ、それでいて、自分の二度目の妻、つまりあたしの継母の方は、まるで夢中になって愛していました……ですから、あたしは随分辛い思いをいたしましたわ! だけど、こんなお話してなんになるでしょう! そんなわけで、つまり、今もいうように、何もかもが一つの姿に溶け合ってしまうんですのよ……そしてあたしは残念で残念でなりませんの――どうしてあの継母が死んでしまったろうか? こう思ってね。だってあたし、今では継母に会ってみたいんですもの!……」
「どうして?」
「さあ、それはわかりませんけど……」と彼女は、美しく頭を振りながら、笑って答えました。
「じゃ、おやすみなさいまし、早くお直りになって頂戴ね。お直りになったらすぐ、あたし達の仕事にとりかかりましょう……もうそのときですわよ……」
別れの挨拶をして、私が扉の把手《ハンドル》に手をかけたとき、彼女は言いました。
「あなた、どうお思いになって? ポーリャはまだずっとあの人のところにいるでしょうか?」
「多分ね」
そして私は自分の部屋へ帰りました。こうして私達は一ヶ月を送りました。ある曇り日の午のことでした。私達ふたりが、私の部屋の窓際に立って、黙然と、海の方から動いてくる雨雲や、蒼黒くなって来た堀割を見ながら、いまにもざあッとひと雨来そうな気配を感じていましたとき、そして、早くも狭い濃い雨のすじが、薄絹のように、海辺を蔽いかけましたときに、私達は急に堪えがたい淋しさを覚えました。そして、その日のうちにフィレンツェへ向けて出立しました。
十六
事件は、すでにその秋、ニースにいたときに起っていました。ある朝、彼女の部屋に入っていくと、彼女は足を組み合わせ、からだを折りまげ、両手で顔をおおって、ぐったりと肘掛椅子に身を埋めたまま、烈しくすすり上げて泣いていました。その長い、まだ結ってない髪は、その膝の上まで垂れていました。私がたったいま見て来たばかりで、彼女に伝えたいと思ってきた不思議な、驚くべき海の印象は、たちまち私を見捨て、私の心臓は、痛みのためにきつく締めつけられました。
「どうしたんです?」と私は訊きました。彼女は片手を顔から離して、私に出て行くようにと振って見せました。
「だって、どうしたんです、ええ?」私は繰り返しこう言って、知り合ってから初めて彼女の手に接吻をしました。
「いいえ、いいえ、なんでもありませんの!」彼女は早口にこう言いました。「ほんとになんでもありませんわ、なんでもありませんわ……行って頂戴……だって、あたし着物を着ていないんですもの」
私はひどく混乱してそこを出ました。それまでずっと長い間わたしが享受していた平安と落ちついた気分は、憐憫のために跡形もなくかき乱されてしまいました。私は、彼女の足許にひざまずき、ひとりで泣いていないで自分にもその悲しみを分けてくれるようにと頼みたい思いに燃えたちましたが、単調な潮騒の音は、私の耳の中で早くも陰鬱な予言のように呟きはじめましたので、私は前途に数々の新しい涙、新しい悲しみ、喪失を予想しないではいられませんでした。何をいったい、何を彼女は泣いているのだろう?――私は、彼女の顔と悩ましげな眸《ひとみ》とを描き出しながら、こう自問しました。私は彼女が妊娠しているのを思い出しました。彼女はその状態を人の目からも、自分自身にすらも、隠そうと努めていました。家では彼女は、ゆったりとした寛衣《ブルース》か、胸のところに大げさな、派手な襟のついたジャケットを着ていましたが、どこかへ出かけるときには、あまり強くコルセットを締めすぎるので、散歩している間に二度卒倒したぐらいでした。私にさえ、妊娠のことは決して話しませんでした。一度私が医者に診せたらよくはないかと、それとなく言い出したときにも、真っ赤になって、一言も答えませんでした。
そのあとで、私が彼女の部屋へ行ったときには、彼女はもうきちんと身じまいして、髪もとりあげていました。
「もういいですよ、いいですよ!」と私は、彼女がまたしても泣き出しそうにしているのを見て言いました。「それより海のほうへでも散歩に行って、少し話そうじゃありませんか」
「あたしお話はできませんの。ごめんなさい、あたし今ひとりでいたいような気持でいますのよ。それからね、ウラジミール・イワーヌイチ、今度からあたしの部屋へいらして下さるときには、前もってノックするようにして下さいましね、どうぞ」
この「前もって」はなんとなく変に、女らしくない調子に響きました。私はそこを出ました。呪わしいペテルブルグの気分が戻ってきて、私の夢想はことごとく熱を受けた木の葉のように、丸くなってしぼんでしまいました。私は自分が再び孤独になり、ふたりの間の接近はもはや望みのないことを感じました。彼女にとっての私はちょうど、この棕櫚《シュロ》にとっての蜘蛛の巣です。それは偶然そこにかかっているだけで、風が吹けばちぎれ飛んでしまうものです。私は、音楽の奏でられていた辻公園を散歩して、カジノへ立ち寄りました。そこで私は着飾って香水の匂いをぷんぷんさせている女達を見ました。女達はみな私を見て、こう言おうとしているようでした――「お前さんひとりもの、結構ね……」それから私はテラスへ出て、長いこと海を眺めていました。遠い水平線上には、一点の帆影も見えず、左手の岸には、淡い紫がかった霞の中に、山々や、庭や、塔や、家々があり、それらすべての上に日光が戯れていました。しかもすべてが親しみなく、冷然としていて、一種の混雑が感ぜられました。
十七
彼女は前々通り、毎朝私の部屋へ珈琲を飲みに来ましたが、もう一しょに食事はしませんでした。彼女は、どうも食欲がないといって、ただ珈琲や、紅茶や、ほかには蜜柑とかキャラメルといったふうな、軽いものをとるだけでした。
それから、毎晩話し合うことも、いつかなくなってしまいました。どうしてそういうわけになったのか、知りません。私が彼女の泣いているところへ行きあわせてからというもの、彼女は私に対して、なんとなく軽い、ぞんざいな、ときには皮肉な態度をすら見せるようになって、なぜかわたしを、「あたしの旦那さま」と呼ぶようになりました。前には彼女に恐しく、驚くべきほど英雄的に思われて、彼女のうちに羨望と歓喜を喚び起こしたことが、今では全然彼女を動かさず、いつも私の話を聞いてしまうと、軽く背伸びをして、言うのでした――
「そうね、昔そんなこともありましたわね、あたしの旦那さま」
どうかすると、何日も彼女と顔を合わせないようなことも起りました。ときには、おずおずと、何かわるいことでもするように、彼女の扉をノックしてみる――返事がない。もう一度叩いてみる――だんまり……というようなこともありました。戸口にたたずんで、耳をすます。と、女中が傍を通りかかって、冷たい調子で言う――「madame est partie(奥様は遊戯場にいらっしゃいます)」それからは、ホテルの廊下をあちこちと歩く、歩く、歩く……見知らぬイギリス人や、胸をふくらませた婦人や、燕尾服の給仕《ガルソン》達……廊下には、その全延長にわたってすじの通った絨毯が敷いてある。長い間それを見ていると、ふと私の頭に浮かぶのは、あの女の生涯にとって、私の演じている役割は、奇妙な、恐らくまやかし的なものであって、この役割を変えることは、もはや私の力に及ばないだろうということなどでした。私は、自分の部屋へ駈け戻って、寝床の上に倒れ、考えに考えるが、何一つそれをまとめられない。そして私にはっきりしているのはただ、生きたいということ、彼女の顔が醜く、乾いて、冷淡になって行けば行くほど、彼女はますます私に近いものとなり、私はますます強く悩ましく、ふたりの親近を感じるということでした。「旦那さま」でもなんでもいい、どんな軽っぽい、ぞんざいな態度をみせられてもいい、ほかのことはどうでもいい、ただ私を見棄てないでくれ、私の宝よ。私は今ひとりぼっちになるのがとても恐ろしいのだ。
やがてまた私は廊下へ出て、不安な気持でわくわくしながら耳をすます……私は食事もとらなければ、日が暮れるのにも気がつかない。遂に、十時過ぎて、私は覚えのある足音を聞きつけます、階段の上の廊下の曲り角に、ジナイーダ・フョードロヴナが現れます。
「ご運動?」彼女は、傍を通りながら、声をかけます。「戸外《そと》へいらしたらいいじゃありませんか……おやすみなさい!」
「すると、もう今日はこれきりお目にかかれませんか?」
「もう遅い、と思いますけど、でも、どちらでも?」
「あなたはどこへ行ってらしたのです?」と私は、彼女のあとについて部屋へはいりながら、たずねます。
「どこですって? モンテ・カルロよ」彼女はポケットから金貨を十ばかり掴み出しながら、言います――「ほらね、旦那さま。あたし勝ったのよ。ルーレットをして」
「へえ、まさかあなたがそんなことを」
「あら、どうしてですの? あたし明日も出かけるつもりよ」
私は、色のわるい病的な顔をして、妊娠の身をきつく締めつけた彼女が、蜜に集まる蝿のように金貨のまわりでひしめいているぼけたような老婆や娼婦どもの群れにまじり、賭博台のそばに立っているをさまを想像してみました、彼女がなぜ私に隠れてモンテ・カルロへ行ったかを思ってみました……
「わたしはあなたの仰しゃることを信じませんよ」と私はあるとき言いました。「あなたはあんなとこへいらっしゃりはしませんよ」
「ご心配には及びませんわ。あたしだって沢山負けはしませんから」
「負ける負けないが問題ではありません」と私はいまいましく思って言いました。
「いったいあなたには、あそこで遊んでいる間に、金貨の輝きや、老若さまざまの女どもや、|賭金集め人《クルーパー》や、周囲のいっさいの、こういったものが、労働者の勤労や血の汗に対する、卑しい、奇怪な嘲笑だという考えが頭に浮かばないのですか?」
「だって、これがいけなかったら、ここでは何をしたらいいんですの?」と彼女は訊きました。
「労働者の勤労だの、血の汗だの――そんな美辞麗句はまたのことにしていただいて、今は、せっかくあなたがこういうお話をおはじめになったんですから、どうぞこれを続けさせて下さいね、で、ひとつ思いきって伺いますけど――いったい、あたしはここで何をすればよろしいんですの、何をすることがあるんですの?」
「何をするって?」私は肩をすくめて言いました。「こういう問題は、そう手っとり早くは答えられませんね」
「あたしは良心的なご返事を伺いたいのよ、ウラジーミル・イワーヌイチ」と彼女は言いました。彼女の顔付きは怒ったようになりました。「あたしが思いきってこんなことを伺うのは、おざなりのご返事をお聞きしたいためではありませんのよ。あたしはあなたに伺います」と彼女は、まるで拍子でもとるように、手で卓を叩きながら、続けました。
「あたしはここで何をしなければならないのかしら? いいえ、このニースばかりではありません。一般的にこの世で?」
私は黙って窓から海を見ていました。私の心臓は烈しく鼓動し出しました。
「ウラジーミル・イワーヌイチ」と彼女は小声で、息を切らしながら、言いました。彼女には口を利くのが苦しかったのです。「ウラジーミル・イワーヌイチ、もしあなた自身がその仕事を信じてらっしゃらないのでしたら、そしてもうそこへ戻ることを考えていらっしゃらないのでしたら、なぜ……あなたは、あたしをぺテルブルグからお連れ出しになりましたの? なぜ約束をしたり、あたしの心に気違いじみた希望を喚びさましたりなさいましたの? あなたの信念は変り、あなたは別の人になっておしまいになりましたけど、でも誰も、その点であなたを責めはいたしませんわ――信念というものは、あたし達の思うようになるものとはきまっていませんからね、ですけれど……ですけれど、ウラジーミル・イワーヌイチ、どうしてあなたは、正直に言って下さいませんの?」彼女は私の傍へ歩み寄りながら、静かに続けました。「この何ヶ月かの間、あたしが口に出して空想したり、うわ言を言ったり、自分の計算に夢中になったり、生活を新らしく建て直そうとしたりしていたときに、どうしてあなたは、あたしにほんとうのことを言わないで、黙っていたり、いろんな話であたしを励ましたり、さもさもあたしに同感だといったような顔をなすったりして、いらしたの? なぜですの? どこにそんなことをなさる必要があったんですの?」
「だって、自分の破産を告白するのは辛いものですからね」と私は、振向きながら、しかし彼女の顔は見ないで言いました。「そうです、わたしは信じていません、疲れてしまいました、意気消沈してしまいました……正直になることは辛いものです、恐ろしく辛いものです。で、わたしは黙っていました。どうか誰にも、わたしが嘗めてきたようなこんな苦しみは嘗めないで済みますように」
私は、自分がいまにも泣き出しそうな気がしたので、口をつぐんでしまいました。
「ウラジーミル・イワーヌイチ」彼女はこう言って、私の両手をとりました。「あなたはこれまでいろんな生活をして、経験を積んでいらっしゃるから、あたしなんかよりずっと沢山のことを知っていらっしゃいます。ひとつ真面目に考えて、どうぞ言って頂戴な――あたしは何をしたらいいのか? どうぞあたしに教えて頂戴。もしあなたご自身に、もう先へ進む力がなく、他人を導いて行く力もおありにならないのだったら、せめてあたしに、どこへ行くべきかだけでも教えて頂戴。だって、ねえ、あたしだってこれでも、感じもすれば考えもする生きた人間ですわ。偽りの境遇に沈んで……えたいの知れぬつまらない役回りを演じるのは、あたしだって辛いんですわ。 あたしはなにも、あなたを責めてるんじゃありませんのよ。非難してるんでもありませんのよ、ただお願いしてるだけですわ」
お茶が持ってこられました。
「さあ、どうなんですの?」ジナイーダ・フョードロヴナは、私にコップをとってくれながら訊きました。「あなたはどう言って教えて下さいますの?」
「世界は窓から見えるだけのものではありません」と、私は答えました。「世の中には、わたし以外に人が大勢いますよ、ジナイーダ・フョードロヴナ」
「じゃあどうぞ、その人達をあたしに教えて頂戴」と彼女は、気負い込んで言いました。「あたしのお願いするのも、そのことなんですわ」
「なお、わたしは言いたいことがあります」私は続けました。「人間が思想に仕えるのは、ある一つの部門に限られるものではありません。一つの部門でしくじったり、信念を失ったりしたら、他のものを見つけ出せばいいのです。思想の世界は広大無辺ですからね」
「思想の世界!」彼女はこう言って、嘲るように私の顔を見つめました。「じゃ、こんな話はもうやめにする方がようござんすわ……なんにもなりゃしませんもの……」
彼女の顔はさっと紅潮しました。
「思想の世界!」彼女はこう繰り返して、ナフキンをわきの方へほうり出しました。彼女の顔は、憤まんに堪えぬような、気むずかしげな表情をとりました。
「あたしちゃんと知っていますわ、あなたの仰しゃるそうした立派な思想はみな、一つの避け得られない、必要な方向へ帰納されるものですわ――あたしがあなたの愛人になるべきだという、それが一番の要点ですわ。思想をともにしながら、立派な思想家の愛人にならないのは、つまり思想を理解しないわけになるんですものね。ですから、まずそれからはじめなければ……つまり愛人からはじめなければならないのですわ。すれば、あとのことは、自然に進んで行くんですわ」
「あなたはなにか腹を立ててらっしゃるんですね、ジナイーダ・フョードロヴナ」と私は言いました。
「いいえ、あたし真面目ですわ!」彼女は苦しそうな息をつきながら、こう叫びました。
「あたし真面目ですわ」
「そりゃあなたは真面目でしょう、恐らくね。しかし、あなたは思い違いをしていらっしゃる、わたしはそれを聞いているのが辛いんですよ」
「なるほど、あたし思い違いしていますわ!」と彼女は笑い出しました。「ほかの人はそう言っても構いませんけれど、あなたはいけませんわ、旦那さま、こんなことをいえば、あなたはあたしをさぞ不躾けな、残酷な女のようにお思いになるでしょうけど、構いませんわ――あなたはあたしを愛してらっしゃるでしょう? 愛してらっしゃるでしょう?」
私は肩をすくめました。
「まあ、いくらでも肩をおすくめになるがいいわ!」と彼女は嘲るように続けました。「あなたがご病気だったあいだに、あたしあなたのうわ言を聞いていたんですもの、それからは、絶えずあなたの愛に満ちたお眼、溜息、そして精神的接近とか、親しみとかいうことについての意味ありげなお話……でも、一番肝腎なのは、どうしてあなたが今まで正直でなかったかということですわ。なぜあなたは、あることを隠して、ありもしないお話をなすったの? 第一、どういう思想が、あなたにあたしをぺテルブルグから連れ出させたのか、そもそもの初めから話して下さったら、あたしだってちゃんとわかりましたわ。あたしはあの当時、自分で思った通り、毒を飲んで死んでいましたわ、そうしたら今頃、こんな退屈な喜劇なんか演じなくても済んだでしょうに……ええ、でも、今更こんなことを言ってみたってはじまりませんわね!」彼女は私の方へ片手を振ってみせて、腰をおろしました。
「あなたはなんですね、まるでわたしに怪しからぬ企画《たくらみ》でもあったように思ってらっしゃるらしい口振りですね」私は侮辱を感じて言いました。
「ええ、まあそりゃどうだってようござんすわ。そんなことどっちだっていいことですの。あたしはあなたに企画《たくらみ》があったように思ってるんじゃありませんわ、かえってなんの企画《たくらみ》もなかったろうと思っているんですわ。もしあったら、あたしだってとっくに知ってた筈ですもの。思想と愛のほか、あなたにはなんにもなかったのですわ。今は思想と愛、将来には――あたしという愛人。人生でも、小説でも、こういうのが物事の順序ですのね……あなたはあの人を罵倒してらしたけれど」彼女はこう言って、手で卓を叩きました。「いやでも、あの人の意見に同意しないではいられないじゃありませんか。あの人が、こうした思想をみんな頭から馬鹿にしてるのも無理はありませんわ」
「あの人は、思想を馬鹿にしてるんじゃありません、恐れているのです」と、私は叫びました。
「あの男は臆病者です、嘘つきです」
「ええ、まあそれでもよござんすわ! あの人は臆病者で嘘つきで、あたしを騙しました、それはそうですけれど、ではあなたは? 大へん露骨な言い方で失礼ですけど――あなたはどうですの? あの人は、ぺテルブルグであたしを欺いて、振り棄てました。でも、あの人は、思想までを虚偽の巻添えにはしませんでした、それだのに、あなたは……」
「ああ、どうしてあなたはそんなことを仰しゃるんですかね?」私はぎょっとして、手を揉みながら、つかつかと彼女の傍へ歩み寄りました。「いいえ、ジナイーダ・フョードロヴナ、いいえ、それは犬儒主義《シニズム》です、そんなに絶望してはいけません、まあわたしのいうことを聞いて下さい」と私は、漠然とながら咄嗟に私の頭に閃いて、まだ私達ふたりを救うことができるように思われた想念にすがりつきながら、続けました。
「聞いてください。私は自分の生涯に多くの、思い出すだけでも頭がぐらぐらするほど多くのことを経験しました。そして今わたしは、自分の頭で、病み疲れた魂で、人間の使命は、何物の中にもないか、あるいはただ一つのもの――近きものに対する自己犠牲的な愛の中にあるかの二つであることを、明確に悟りました。これこそ、わたし達ふたりの向って行かなければならぬ目標で、この中こそ、わたし達の使命はあるのです! これがわたしの信念です!」
続いて私は、慈善とか寛容とかいうことについて話を進めたいと思いましたが、自分の声が急に空々しい響きを帯びてきたので、ついどきまぎしてしまいました。
「わたしは生きたいのです!」と誠心こめて言いました。「生きたいのです、生きたいのです! わたしは平和と静寂が欲しいのです、暖かさが、ほらこの海が、あなたの接近が欲しいのです、ああ、わたしは今、どんなにあなたにも、この情熱的な生の渇望を吹き込みたく思っているでしょう! あなたはたったいま愛ということを仰しゃったが、わたしにとっては、あなたが傍にいて下さること、あなたの声、顔の表情、それだけで沢山なのです……」
彼女は真赤になって、私に口を利かせないために、早口に言いました――
「あなたは生活を愛してらっしゃるけれど、あたしはそれを憎んでいます。してみると、あたし達の道は別々ですわ」
彼女は自分のコップにお茶を注ぎましたが、それには手を触れようともしないで、寝室へ行って、横になりました。
「あたし、このお話はやめにした方がいいと思いますの」彼女はそこから私に言いました。「あたしにとってはもう万事おしまいで、必要なものはなんにもありませんわ……この上、何を話すことがあるでしょう!」
「いや、まだ万事おしまいじゃありませんよ!」
「でも、まあよござんすわ!……あたしわかってますわ! 飽きあきしましたわ……もう沢山」
私は暫く立っていて、隅から隅へと一度歩いてから廊下へ出ました。そのあと、夜更けて、彼女の戸口へ歩み寄って耳をすましたとき、私ははっきり泣き声を耳にしました。
翌朝、ボーイが私に服を渡しながら、笑顔で、十三号室の夫人が産気づいた旨を告げました。私はいい加減に服をつけ、恐怖のために心臓の止るような思いをしながら、ジナイーダ・フョードロヴナの許へ急ぎました。彼女の部屋には、医者と、産婆と、ダーリヤ・ミハイロヴナというハリコフから来ている中年のロシア婦人がひとりいました。エーテルの匂いがしていました。私が閾《しきい》をまたぐかまたがないかに、彼女の寝ていた部屋からは、静かな、哀れっぽい叫き声が聞こえて来ました、と、あたかも風がそれをロシアから吹き送ってでもきたように、私はオルロフを、彼の皮肉を、ポーリャを、ネヴァ河を、綿のような雪を、それから前幌のない辻馬車を、私が寒い朝空に読んだ預言を、「ニーナ! ニーナ!」という絶望的な叫び声を、思い出しました。
「あなた、あの方のそばへいらっしゃいまし」と婦人は言いました。
私は、自分が生まれる子供の父親ででもあるような感じを覚えながら、ジナイーダ・フョードロヴナの部屋へはいりました。彼女は、げっそりと痩せた蒼白な顔に、レースのついた白い室内帽をかぶって、眼を閉じたまま仰臥《ぎょうが》していました。忘れもしません、そのとき彼女の顔には、二つの表情が浮かんでいました――一つは、無関心な、冷やかな、ものうげなもので、一つは、白い帽子が彼女に与えていた子供っぽい、頼りなげなものでした。彼女は私がはいって行った気配を聞かなかったのか、あるいは聞いても、私に注意を向けなかったのかも知れません。私は立ったまま、彼女の顔に見入って、待っていました。
そのうち彼女の顔は苦痛に歪み、彼女は眼を開いて、何事がわが身に起っているのか、それを考えようとでもするように、天井を見つめ出しました……その顔には嫌悪の色が現れました。
「ああ、けがらわしい」と彼女は囁きました。
「ジナイーダ・フョードロヴナ」と私はそっと呼びました。
彼女は無関心な、大儀そうな目付きで私を見て、眼を閉じました。私は暫く立っていて、そこを出ました。
その夜中に、ダーリヤ・ミハイロヴナが私に、女の子が生まれたこと、しかし産婦は危険な状態にあることを知らせてくれました。その後、廊下を人々がばたばた走り廻って、騒がしくなりました。再び私の部屋へダーリヤ・ミハイロヴナがやって来て、絶望的な顔付きで、烈しく手を揉みながら、言いました――
「おお、恐ろしいことです! お医者さまはあの人が毒を飲んだのではないかと疑ってらっしゃいます! ああ、ここへくるロシアの女の人達は、なんて変なことばかりするんでしょう!」
翌日正午に、ジナイーダ・フョードロヴナは息を引き取りました。
十八
二年たちました。事情が変って、私は再びぺテルブルグへ舞い戻り、そこで、もう公然と暮せるようになりました。私は最早、感傷的になることも、感傷的に思われることも意としないで、ジナイーダ・フョードロヴナの忘れ形見のソーニャが私のうちに喚びさました父親らしい、というよりはむしろ偶像崇拝的な感情に、全く身も心も捧げていました。私は自分の手で彼女を養い、湯を使わせ、寝かしつけて、夜通し彼女から眼を放さず、乳母がいまにも幼児を落しそうに思われては、ときどき大きな声を出すのでした。平凡な普通人の生活を思う私の渇望は、時とともにますます強く、性急になってきましたが、奔放な空想は、私に必要だったものを遂にソーニャの中に見出しでもしたように、彼女の周囲に停止してしまいました。私はこの女の子を物狂おしいほど愛していました。私は彼女のうちに自分の生命の延長を見ていたのです。つまり、私がそう感じていたというのではないが、なんとなくそんな気がして、ほとんど信じるような気持になっていたのは、いずれ私が自分自身から、このひょろ長い、骨ばった、顎鬚のある形骸を振り棄てる暁には、この碧い眼や、白っぽい絹のような髪や、むっちりとふとった薔薇色の小さい|おてて《ヽヽヽ》――いかにもいたいけに私の顔を撫でたり、私の首に抱きついたりする|おてて《ヽヽヽ》の中に、生きるのだということでした。
ソーニャの運命は私の心労の種でした。彼女の父はオルロフでしたが、洗礼済み証書の面では、彼女はクラスノーフスカヤ(母親の先夫の苗字)となっていて、彼女の身の上を知り、それに関心を持っているただひとりの人間、すなわちこの私は、もはや自分の歌をうたい終ろうとしていました。何はおいても今のうちに、彼女の身の振り方を真剣に考えておく必要がありました。
ぺテルブルグへ着いた翌日、私はオルロフの家へ行きました。私に戸を開けてくれたのは、口ひげはなく、人参色の頬ひげのある、一見してドイツ人と知れるふとった老人でした。客間を片づけていたポーリャは、私に気がつきませんでしたが、その代りオルロフはすぐ気がつきました。
「やあ、反逆者君!」彼は好奇の眼でじろじろと私を見て、笑いながら言いました。「どうした運命のめぐり合わせで?」
彼はちっとも変っていませんでした――相変らず手入れの届いた不愉快な顔、同じ皮肉、そして卓の上にも、従前通り、象牙のペーパーナイフを挟んだ一冊の新らしい書物がのっていました。明らかに、私の行くまで読んでいたものです。彼は私を椅子につかせ、葉巻をすすめ、優れた教養を受けた人々だけに特有の敏感さをもって、私の顔と痩せ衰えた姿が彼の心に喚びさました不快感を色にも出さないで、私が少しも変っていないとか、すっかり顎ひげを生やしたけれど、ひと眼でわかるとかいうようなことを、口軽に語るのでした。暫く私達は、天気のことやパリのことを話し合いました。彼をも私をも苦しめ悩ましていた重苦しい避けがたい問題から、一刻も早く逃れるために、彼はこう訊きました――
「ジナイーダ・フョードロヴナは死んだそうですね?」
「ええ、亡くなりました」と私は答えました。
「お産でですか?」
「そうです、お産でです。医者はほかに死因があるように疑っていましたが……あなたのためにも、わたしのためにも、彼女はお産で亡くなったものと考える方が気楽です」
彼は、礼儀として一つ溜息をつき、暫く黙っていました。静寂の天使が翔け通ったわけです。
「なるほどねえ、だが、僕の方は、万事旧態依然たりで、特別な変化は何ひとつありません」と彼は、私が書斎を見廻しているのに眼をとめて、元気よく言い出しました。「父は、あなたもご承知でしょうが、官を退いて、今では平穏に暮らしているし、わたしはずっと同じ役所へ出ています。ぺカールスキイをご記憶ですか? 彼もあの当時のままですよ。が、グルージンは、去年ジフテリヤで死にました……ククーシキンは健在で、よくあなたの噂をしています。そうそう」とオルロフは、内気らしく眼を落しながら、続けました。「ククーシキンは、あなたの正体を知ると、行くさきざきで、あなたが彼を襲撃して殺そうとしたが、彼はやっと身をもって逃れたなんて話し出しましてね」
私は黙っていました。
「昔の下僕はわが主人を忘れない……これはあなたとして、非常に美わしいことですね」とオルロフは冗談を言いました。「それはとにかく、葡萄酒か珈琲でもひとついかがです? 何か言いつけましょう」
「いや、有難う。が、わたしは実は、非常に重大な用件があってお訪ねしたんですよ、ゲオルギイ・イワーヌイチ」
「重大な用件なんて僕はあまり好まない方ですが、あなたのことなら喜んで承りますよ。どんなご用ですか?」
「実はですね」と私は、胸を躍らせながらはじめました――「実は今わたしの手許に、亡くなったジナイーダ・フョードロヴナの女の子がいるのです……今日までは私が養育にあたってきましたが、ご覧の通り、わたしはもう今日明日にも虚無に帰る人間です。それで、実はあの子の前途の方針を見届けてから、安心して死にたいと思いましてね」
オルロフはいくらか赤くなり、眉をひそめて、険しい目付きでちらっと私の顔を見ました。彼に不愉快に作用したのは、「重大な用件」よりも、虚無に帰るとか、死とかいう私の言葉でした。
「そう、それは一考を要する問題ですね」と彼は、日光をよけるように眼の上へ手をかざしながら、言いました。「有難う。女の子だと仰しゃいましたね?」
「さよう、女の子です。玉のような女の子です!」
「なるほど。それは勿論、ちんころじゃなし人間だから……真面目に考えなきゃなりませんね。僕もむろん相談にあずかります、そして、あなたに非常に感謝します」
彼は立ちあがって、爪を噛みながら、部屋をひと廻りすると、額《がく》の前に立ちどまりました。
「これは一考を要する問題ですね」彼は私の方へ背を向けて立ったまま、うつろな声で言いました。「僕は今日ぺカールスキイを訪ねますから、あの男にクラスノーフスキイのところへ行ってもらいましょう。恐らくクラスノーフスキイは、格別文句を言わずに、子供を引き取ってくれるでしょうよ」
「しかし、失礼ですが、クラスノーフスキイがこの問題になんの関係があるのか、わたしにはわかりませんね」と私もやはり立ちあがって、部屋の別の端にかかっている絵の方へ行きながら、言いました。
「だって、その子は、あの人の姓を名乗っていると思うのですが!」とオルロフは言いました。
「そうです、そりゃあるいは、法律上ではあの人が引き取るべき義務があるかも知れません、その辺は僕にはわかりませんが、とにかく僕はあなたのところへ伺ったのはですね、ゲオルギイ・イワーヌイチ、法律についてかれこれいうためではありませんからね」
「そう、そう、それは仰しゃる通りです」と彼は早速同意しました。「僕はつまらないことを言ったようです。しかし、どうか気になさらないで下さい。ひとつこの問題は、お互いに満足のいくように解決しようじゃありませんか。ああでなければこう、こうでなければああといった具合に、なんとでもして、この微妙な問題をうまく解決するようにしましょう。ぺカールスキイが万事うまくやってくれますよ。じゃあどうかひとつ、あなたのアドレスを残して行って下さい。われわれの到達する解決策を、早速お知らせしますから。今どこにお住まいですか?」
オルロフは私のアドレスを書きとめると、溜息をついて、笑顔になって言いました――
「小さい女の子の父親になるという奴も、これでなかなか大変なものですね! しかし、ぺカールスキイが万事うまくやってくれるでしょう。あれは「気の利いた」男だから。時に、あなたはパリには長くいられたんですか?」
「二ヶ月ばかり」
私達は黙り込みました。オルロフは明らかに、私が再び娘について言い出すのを恐れたのでしょう、私の注意を他の方へ向けるために、こう言いました――
「あなたは多分もう、例の置き手紙のことはお忘れでしょう。が、あれはちゃんと保存してありますよ。あなたのあのときの気分は僕にはよくわかります。そして、実をいうと、僕はあの手紙を尊敬しているのです。呪うべき冷酷な血とか、アジア人とか、馬のような笑いとか――これは実に可憐で、特色のある表現ですよ」と彼は、皮肉な微笑を浮かべながら続けました。「そしてその根本思想も、争えば限りなく争えるものの、大体真理に近いものです。つまり」と彼は口ごもりました――「その争いというのも、思想そのものとではなくて、問題に対するあなたの態度、いわばあなたの気質と争うわけなんですからね。全く、わたしの生活は正しくありません、腐敗しています。なんの役にも立ちません。しかも、新らしい生活をはじめることは、わたしの臆病が許しません。――この点では、あなたの議論は全く正しい。だが、それをあまりに近く自分の方へ引寄せて、興奮したり絶望したりされるのは――これは理屈に合いませんね、この点ではあなたは、完全に正しくありませんよ」
「だって、血の通ってる人間は、自ら滅びたり、周囲の人々が滅びたりするのを見ちゃ、興奮したり絶望したりしないではいられませんよ」
「そりゃ勿論のことです! 僕だって決して、無関心を宣伝する者じゃありません、僕はただ、人生に対して客観的態度を望んでいるだけです。客観的であればあるほど、誤謬に陥る危険も少いわけですからね。人間は常に事物の根底を究め、すべての現象において、あらゆる原因を探究しなければなりません。われわれは弱くなって、気が弛んで、遂に堕落してしまいました。われわれの世代はことごとく、神経衰弱者と感傷主義者で成り立っていて、われわれは口を開けばただ、疲労だの困憊《こんぱい》だのということきり知りません、しかし、だからといってこの罪は、あなたにも僕にもあるんじゃありませんよ。時代全体の運命がわれわれの意志にかかっているというにしては、われわれはあまりに弱小すぎます。ここで考えなくちゃならんのは、ですね、生物学上の見地からみて、それ相当に立派な raison d'etre(存在理由)を持っている、大きな、一般的な理由です。われわれは神経衰弱者で、泣き虫で、背教者です、しかし、もしかするとこれもわれわれの次に生活をはじめる新らしい世代にとって、必要かつ有益なものであるかも知れないのですからね。一本の髪も、天なる父の意志によらないでは頭から落ちない、――換言すれば、自然界と人間界では、でたらめに創られたものは何一つないのです。すべては必然であり、必要であります。とすればですね、われわれはなにも、特に気を揉んだり、絶望的な手紙を書いたりする必要はないじゃありませんか!」
「そういえばそうです」と、私はちょっと考えて言いました。「わたしは信じます、次の時代の人々には、もっと楽によく見えるようになるでしょう。われわれの経験が、彼等の役に立つでしょうからね。しかしわれわれは、次の時代などには関係なく、彼等のためばかりでなく、生きて行きたいじゃありませんか。人生は一度しか与えられないものです。誰しも大胆に、明確に、美しく生きたいじゃありませんか。堂々たる、独立的な、立派な役割を演じて、次の時代がわれわれの一人一人について――これはくだらんとか、あるいはそれ以上の酷評を放つ権利を持たないような、歴史を作りたいじゃありませんか……僕だって、周囲に起こっていることの必然性や必要性は信じています。けれども、この必然性が、僕になんの関係があるのです、なんのために、わたしの「自我」を失わなければならないのです?」
「しかし、どうも仕方がありませんね!」オルロフは立ちあがって、私達の話がもう終ったことを悟らせようとでもするように、溜息をつきました。
私は帽子を取り上げました。
「われわれはちょっと三十分ばかり座っていただけですが、随分いろんな問題を論じたもんじゃありませんか!」オルロフは私を控え室まで送り出しながら、言いました。「じゃ、例の件は早速研究してみます。今日ペカールスキイと会いますから。決してご心配なく」
彼は、私が外套を着るあいだ立って待っていました。どうやら彼は、私がもうすぐ出て行くことに喜びを感じていたらしい様子でした。
「ゲオルギイ・イワーヌイチ、どうかわたしにあの手紙をお返し下さい」と私は言いました。
「承知しました」
彼は書斎へ行って、一分ばかりすると手紙を持って戻って来ました。私は礼を言って、そこを出ました。
翌日、私は彼から手紙を受け取りました。彼は問題の円満解決について、私にお祝いを述べていました。ペカールスキイの許にひとり知り合いの婦人があってと、彼は書いていました、それが、非常に幼い子供でも収容する幼稚園ふうの寄宿舎をやっている。この婦人は充分信頼できるが、彼女と契約する前に、まず一応クラスノーフスキイと相談するのもわるくない――これは形式の要求するところだ。こう書いてから、私に、即刻ペカールスキイの許へ出向くこと、もしあれば、その節洗礼済み証書を携帯されるように、と勧めて来ました。「貴下の誠実なる下僕の尊敬と誠意をお信じ下さい……」
私が、この手紙を読んでいたとき、ソーニャは卓の上に座り込んで、瞬きもせずに、じっと私を見つめていました、それが彼女の運命を決するものであることを知ってでもいたように。(一八九三年)
[#改ページ]
三年
一
あたりはもう暗くなり、あちこちの家に灯影が見えはじめて、街路のはずれの兵営の陰から、蒼白い月が昇ってきた。ラープチェフは、門のそばのベンチに腰をおろして、ペテロとポール教会の、晩祷《ばんとう》の終わるのを待っていた。
彼は、ユーリヤ・セルゲーエヴナが晩祷からの帰途、そばを通りかかるだろうから、そのとき話しかけて、あわよくば、一夜を彼女とともに過ごしたいものだと考えていたのである。
彼はもう一時間半もそこに掛けていたので、彼の想像は、その間に、モスクワの住居や、モスクワの友人達や、従僕のピョートルや、書卓のことなどを描き出していた。彼は時々、疑い惑うような気持で、じっと動かない暗い樹木を見やった。と、彼には、自分の今ソコーリニキの別荘でなく、こんな田舎の、朝夕大きな牧群がそばを追われて通り、そのたびに物凄い砂塵の雲が巻き上げられたり角笛が吹き鳴らされたりして行く家に住んでいることが、不思議なように思われるのだった。彼は、まだつい近ごろに、自分もその仲間のひとりだったモスクワでの長い会話、――人は愛なしでも生活することができる、情熱的な愛などは一種の精神病である、だいたい愛なんてものは全然あるわけではなく、あるのはただ両性間の肉体的牽引だけだ、こんなふうな会話を思い出していた。彼はそれを思い出して、悲しい気持で考えていた、もし今、愛とは何かと問われたら、自分はきっと答える言葉に窮しただろうと。
晩祷が終わって人々が出て来た。ラープチェフは瞳をこらして暗い人影に見入った。僧正はもう馬車で送られて帰り、鐘の音はやみ、鐘楼では赤や緑の火が一つ一つだんだんに消えて行った、――それは、寺の祭礼日を祝うイルミネーションだった。が、人々はなおぞろぞろと、急がないで、話をしたり窓の下に立ちどまったりしながら歩いていた。やがて、遂にラープチェフは、馴染のある声を聞きつけた。と、心臓が烈しく躍りはじめた。が、ユーリヤ・セルゲーエヴナはひとりでなく、見知らぬふたりの婦人と一緒だったので、彼は絶望につかまれてしまった。
〈ああ、なんということだ、なんということだ!〉と彼は彼女を嫉妬しながら呟いた。〈なんということだ!〉
町角の、横町への曲り目で、彼女は婦人達と別れるために立ちどまった。そしてそのとき、ラープチェフの方をチラリと見た。
「僕、お宅へ伺おうと思って」と彼は言った。「お父さんにちょっとお話がありましてね。お父さんお宅でしょうか?」
「たぶんおりますわ」と彼女は答えた。「クラブへ行くにはまだ早過ぎますから」
横町はずっと、庭と庭のあいだを通っており、垣根ぎわには菩提樹が立ち並んで、今はそれが月光の下に広い影を投げていたので、片側の垣と門とはすっかり闇の中に沈んでいた。そしてその中からは、女の囁き声や、忍び笑いや、誰かが静かに静かにバラライカを弾いている音などが漏れてきた。菩提樹と乾草のにおいがしていた。見えない人達の囁き声と、これらのにおいが、ラープチェフを刺激した。彼は突如として、自分の同伴者を抱擁し、その顔や、手や、肩に接吻の雨を浴びせ、泣いて彼女の足許に身を投げて、どんなに長く彼女を待ったかということを話したいという烈しい情熱を感じた。彼女の身辺からは、ほのかな、ほとんど捉えがたいほどの香の薫りが漂って来て、それが彼に、かつて彼自身も神を信じて晩祷に出かけた時分のことや、純潔な詩的な恋をしきりに空想していた時分のことを、思い出させた。そして、この娘が彼を愛していなかったので、彼が当時空想していたような幸福の可能は、彼にとって永久に失われてしまったような気がしているのだった。
彼女は、彼の姉のニーナ・フョードロヴナの健康のことを、同情のこもった口調で話し出した。彼の姉は二月ばかり前に癌腫の切開手術を受けたので、今はみんなその再発を気遣っているのだった。
「あたし、今朝あの方をお見舞いしてまいりましたのよ」とユーリヤ・セルゲーエヴナは言った――
「あの方この一週間に、お痩せになったというわけではないけれど、なんだかこう、お憔《やつ》れになったように見えましたわ」
「そうです、そうです」と、ラープチェフは言葉をあわせた。「再発したわけでもないのですが、日一日とだんだんに弱って、痩せ細ってゆくのが眼に見えるようです。いったいどうなるのか、僕には見当がつきません」
「ほんとにねえ、もとはあんなに健康そうにふとって、あかい頬をしてらっしゃいましたのにねえ!」とユーリヤ・セルゲーエヴナは、暫くの沈黙の後に言った。「ここではみんなあの方のことを、モスクワ夫人なんていってましたのよ。ほんとによく笑う方だったのに! 祭りのときにはよく、あの方、百姓女の仮装をなさいましたが、それが大変よく似合いましてね」
ドクトル・セルゲイ・ポリースイチは家にいた。ふとった、赤ら顔の男だったが、膝の下まである長いフロックを着ていたせいで見た眼に脚が短く見えた彼は、両手をポケットに突込んだまま、書斎を往きつ戻りつしながら、小声で――「ル、ル、ル、ル」とうたっていた。白い頬髯は乱れていたし、頭髪も、たったいま起きたばかりのようにもじゃもじゃになっていた。そして書斎そのものも、長椅子の上に枕がころがっていたり、隅々に反古《ほご》紙の束があったり、卓の下に病身らしい汚ならしい老犬が寝そべっていたりして、ちょうど彼自身と同じような、垢面蓬髪《こうめんほうはつ》といった印象を與へた。
「ムシュー・ラープチェフがね、お目にかかりたいって」と娘は、書斎へはいって行きながら言った。
「ル、ル、ル、ル」と彼は一層高くうたい出して、くるりと客間の方へ振向くと、ラープチェフに手を与えて、こう尋ねた――
「何かいいことがありますかね?」
客間の中は暗かった。ラープチェフは腰もおろさず、帽子も手に持ったまま、突然邪魔をした詫びを言いはじめた。そして、姉が夜眠るようにするにはどうしたらいいか、どうしてあんなにひどく痩せてゆくのか、こんなことを尋ねたが、そのときふと、これと同じ質問はもう今朝の診察のときにもしたような気がしたので、まごついた。
「いかがでしょう」と彼は訊いた――「ひとつモスクワから、誰か内科の専門医でも呼んだらどういうものでしょう? どうお考えになりますか?」
ドクトルは溜息をつき、肩をすくめて、両手で曖昧な仕草をした。
彼が気をわるくしたことは明らかだった。それは珍らしく怒りっぽい邪推深いドクトルで、この人にはいつも、人が彼を信じないような、彼を認めなくて充分の敬意を払わないような、患者達が彼を濫用しているような、また、仲間の者達が彼に好意を持っていないような気がしているのだった。彼は常に自分を嘲笑して、自分のような馬鹿者は、ただ公衆に馬で踏みにじられるためだけに創られているようなものだと言い言いした。
ユーリヤ・セルゲーエヴナはランプをつけた。彼女は教会で疲れて来た。このことは、彼女の蒼白いぐったりしたような顔付きや、ものうげな歩きつきによって明瞭だった。彼女は休みたくてならなかった。彼女は長椅子に腰をおろすと、両手を膝の上において思い沈んだ。ラープチェフは、自分が美男子でないことを知っていた。今も彼には、自分がこの自分の醜さを、肉体的にまで感覚しているような気がしていた。彼は、背は低いし、痩せてはいるし、頬には紅い斑点があるし、おまけに頭髪は、頭が寒いほど、早くも薄くなっていた。彼の表情には、あの、粗野な醜い顔すら気持のいいものにして見せる優美な純朴さというものが全然なかった。婦人達の仲間へはいると、彼は不器用で、いらざることに饒舌で、気取り屋だった。今、彼は、それゆえにこそほとんど自分を軽蔑していた。が、ユーリヤ・セルゲーエヴナが彼と一緒にいて退屈しないようにするには、何か話をしなければならなかった。だが、どんな話をすればいいのか? また姉の病気の話か?
そこで、彼は医学を話題に選んで、それについて普通にいわれていることを話し出し、衛生学を称揚して、自分はもう早くからモスクワに宿泊所を設けたく思っていること、既にその予算も出来ていることなどを語った。彼の計算によると、夕方その宿泊所へ来た労働者は、五六カペイカ出せば、パンに熱いシチューの定食と夜具つきの暖かい乾いた寝床と、服や履き物を乾燥する場所とを得られる筈であった。
ユーリヤ・セルゲーエヴナは、彼の前ではいつも沈黙がちだったので、彼は不思議な方法で、恐らくは恋するものの感覚によってであろう、彼女の思想なり思惑なりを察するのであった。今も彼は、彼女が晩祷の後にも自分の部屋へ、着更えにもお茶を飲みにも行かないところをみると、これはてっきり今晩またどこかへ客へ行くつもりなのだろうと推量した。
「しかしわたしは、宿泊所の設立を急いでいるわけではありませんよ」と彼は、今度はドクトルの方へ顔を向けながら、早くも焦燥といまいましさのまじった語調で続けた。ドクトルは、何のために彼が自分に向かって、医学だの衛生だのという話をはじめる必要があったのか、明らかに了解に苦しむという様子で、なんとなしにぼんやりと、困ったような顔をして彼を見ていた。
「まだすぐにはわれわれの予算を利用するわけにはゆかないのです。で、わたしがいま恐れているのは、この宿泊所がわがモスクワの偽善者流や、すべての企てを打壊《うちこわ》すのがお得意の婦人博愛家達の手に落ちることなのです」
ユーリヤ・セルゲーエヴナは立ちあがって、ラープチェフの方へ手を差し出した。
「失礼ですけど」と彼女は言った――「あたし出かけなければなりませんの。お姉さまにどうぞよろしく」
「ル、ル、ル、ル」とドクトルはうたい出した。
「ル、ル、ル、ル」
ユーリヤ・セルゲーエヴナは出て行った。ラープチェフも、暫くするとドクトルに暇を告げて、帰途に就いた。人が不満な気持で自分を不幸と感じている場合には、これらの菩提樹や、影や、雲から、自足的で無関心なあらゆる自然の美からも、どんなに平凡な息吹きが吹いてくることだろう! 月は既に中空高く昇って、その下を雲が飛ぶように走っていた。
〈だが、なんという素朴な、田舎田舎した月だろう、なんという痩せっぽちな、みじめな雲だろう!〉とラープチェフは考えた。彼には、自分がたった今、医学だの、宿泊所だのについて話したことが、恥ずかしく思われた。そして、明日もまた、自分は意気地なく、彼女を見よう、話をしようとするだろう、そしてもう一度また、自分が彼女にとってとるに足らぬ人間だということを思い知らせられるのだろうと、おぞましい気持で考えた。〈明後日――やっぱり同じことだろう。なんのためだ? そしてこうしたことはみな、いつ、どんなふうにしておしまいになるだろう?〉
家へ帰ると、彼は姉の部屋へ行った。ニーナ・フョードロヴナは、見かけはまだしっかりしていて、骨格の立派な強健な女のような印象を与えた。けれども、極端な蒼白さが、彼女をまるで死人のように見せていた、わけても彼女が、今のように仰向けに寝て、眼を閉じている場合には。彼女のそばには十歳になる彼女の総領娘のサーシャが椅子に掛けて、自分の読本の中の何かを、母に読んで聞かせていた。
「アリョーシャが来たのね」病人は静かに、ひとり言のように言った。
サーシャと叔父とのあいだには、もう以前から暗黙の約束ができていて――ふたりは交互に交代し合った。今もサーシャは、読本を閉じると、一言も口は利かないで、静かに部屋を出て行った。ラープチェフは、箪笥の上から歴史小説をとり、読みさしの頁を繰り出すと、腰をおろして音読をはじめた。
ニーナ・フョーロヴナは生粋のモスクワっ子だった。彼女とふたりの弟とは、その子供時代と青春時代を、ピャトニーッカヤ街なる、生れた商人の家庭で送った。子供時代は、長い、退屈なものだった。父親はなかなか手荒で、三度ばかりは笞で彼女を打ったことさえあり、母は、何か長わずらいをした揚げ句に死んでしまった。女中は、粗暴な汚ならしい、陰日向《かげひなた》の多い女だった。家へはよく牧師や修道僧たちが出入りしたが、これらもみな、粗野な陰日向の多い人間だった。彼等は飲んだり食ったりして、愛してもいない彼女の父に下卑たお世辞を使っていた。男の子達は都合よく中学へ通わせられたが、ニーナは教育を受けなかったので、生涯|金釘《かなくぎ》流の字を書き、歴史小説だけを読んで暮らした。十七年前、二十二のときに、彼女はヒームキの別荘で、今の夫の地主パナウーロフと知り合いになり、恋に落ちて、父の意思にそむいてひそかに彼と結婚してしまった。男振りはいいが少し大風《おおふう》で、燈明の火で煙草を吸いつけたり口笛を吹いたりするパナウーロフは、彼女の父に全く取柄のない人物と思われていたので、後に婿が手紙で持参金を要求してよこしたときには、老人は娘に宛てて、自分は彼女に、母親の遺品である毛皮や、銀や、その他いろんな品物と、金を三万ルーブリ彼女のいた田舎へ送ってはやるが、しかし親としての祝福は与えないと書いてよこした。そして、その後でまた二万ルーブリ送ってよこした。これらの金と持参品とは浪費され、領地は売られ、そしてパナウーロフは、家族と共に街へ転住して、そこで県庁の役人となった。ところがその街で、彼が第二の家族を持った上、この不義な家族が大きな顔をして生活していたので、毎日いざこざの絶え間がなかった。
ニーナ・フョードロヴナは自分の夫を崇拝していた。今も、歴史小説を聞きながら、彼女は自分がこれまでに随分多くのことを経験して来たこと、その間に何ほどの苦しみを嘗めて来たかということ、もし誰か自分の生涯を書いてくれる人があったら、きっと非常に哀れっぽい物語ができるだろうということを考えていた。彼女の癌腫は胸部にできたものだったので、彼女は自分は愛ゆえに、家庭生活ゆえに悩んでいるのだ、自分を床に就かせたのは、嫉妬と涙だと、かたく思い込んでいたのである。
しかし、やがてアレクセイ・フョードロイチは書物を閉じて、こう言った――
「これでおしまい、ちょんちょんだ。明日からまた別のを読もう」
ニーナ・フョードロヴナは笑い出した。彼女は昔から笑い上戸だった。が、この頃ではラープチェフは、病気のせいで姉は時々理性が鈍るらしく、つまらないことに笑ったり、全然なんの原因もなく笑ったりすることに気がつきはじめていた。
「あんたの不在《るす》に、お昼前にユーリヤがいらしてね」と彼女は言った。「わたしの見たところでは、あの人あまり自分のお父さんを信じてらっしゃらないようね。こんなことを言いなさるのよ、まあお父さんはお父さんで診させておいて、あなたはやっぱり内緒でお坊さんに、あなたのためにご祈祷してもらうように手紙をお出しなさいな、なんて。この土地には、何かそんな坊さんが住んでいるんだって。そしてユーリチカはここへ傘を置き忘れてらしたから、あんた明日でも届けてあげて頂戴」彼女は、ちょっと黙ってからまた続けた。「だって駄目ねえ、もう終りの時が来たんだから、お医者だって坊さんだって、なんの助けにもなりゃしないわ」
「ニーナ、あんたはどうして夜寝ないんですかね?」とラープチェフは、話題を変えるために訊いた。
「どうしてってこともないわ。ただ寝られないのよ、それきりのことだわ。横になって、いろいろ考えてるのよ」
「何をそんなに考えるんです?」
「子供達のことや、あんたのことや……自分の生活のことや。だってねえアリョーシャ、わたしは随分いろんなことをしてきたでしょう。思い出しかけようものなら、それこそ……ああ、ほんとに!」と彼女は笑い出した。「五人生んで、三人亡くすなんて、これが冗談でしょうか……ときにはね、こっちが産気づくというのに、うちのグリゴーリイ・ニコラーイチはほかの女の方へ行っていて、お医者を呼ぶにも、お婆さんを頼むにも人がないので、自分で玄関かお産所へ女中を呼びに這い出して行く。と、そこには、ユダヤ人だの、小商人だの、高利貸だのが、うちの人の帰りを待っている、こんなこともあったものよ。ほんとに頭がぐらぐらするようなことがあったわ……あの人は、わたしを愛してはいなかったのよ、口にこそ出さなかったけれどね。いまでこそわたしも気がしずまって、楽な気持になったけれど、以前、もっと若かった時分には、そりゃ随分|口惜《くや》しかったわ、――ああ、ほんとに、どんなに口惜しい思いをしたことだろう! 一度などはね、――まだ田舎にいた時分のことだけれど、――わたしあの人が庭で他所《よそ》の女の人と一緒にいるところを見かけたのよ、それでわたしは逃げ出したの……足の向いた方へとっとと逃げたのよ、そして気がついてみたら、いつの間にか教会の入口へ来ていたのさ、わたし跪いて祈ったわ――「天にまします聖母様!」って。夜のことでね。月がこうこうと照っていたっけ……」
彼女は疲れて、喘ぎ出した。やがて、少し休むと、弟の手をとって、弱々しい、響きのない声で続けた――
「ねえ、アリョーシャ、あんたはなんていい人でしょうね……そしてなんて賢いんでしょう……ほんとに立派な人になったわねえ!」
かなり更けてから、ラープチェフは彼女に別れを告げた。そして帰りがけに、ユーリヤ・セルゲーエヴナの忘れて行った傘を持って来た。もう随分遅かったのに、食堂では男女の召使達がお茶を飲んでいた。なんというふしだらだろう! 子供達も寝床へはいらずに、同じ食堂に起きていた。彼等は小声でひそひそ話をしていて、ランプが燻《くすぶ》って消えそうになっているのにも気がつかなかった。大人も子供も、家の者はみな、あとからあとからと起ってくる不吉な徴候に心を乱されて、圧《お》しつけられるような気分でいるのだった――玄関の姿見が割れた、サモワールは毎日轟々と凄い音をたてる、しかもそれは、まるでわざとのように、今も唸《うな》っていた。また人々は、ニーナ・フョードロヴナが服をつけていたときに、その履き物の中から鼠が飛び出したという話をした。そしてこうしたすべての徴候の恐しい意味は、もはや子供達にも知れ渡っていた。痩せたブリュネットの総領娘のサーシャは、食卓の前に身動きもしないで掛けていて、その顔は、びっくりしたような、悲しげな色を浮かべていたが、くりくりとふとったブロンドの、今年七つになる妹娘のリーダは、姉のそばに立って、額越しにじいっと火を見つめていた。
ラープチェフは階下の自分の住居へ、いつもゼラニュームのにおいがしていて息苦しい、天井の低い住居へおりて行った。彼の客間には、ニーナ・フョードロヴナの夫のパナウーロフが座って、新聞を読んでいた。ラープチェフは、彼にちょっと会釈してから、その前に腰をおろした。ふたりは腰掛けたまま黙っていた。ふたりはこうしてよく、黙りこくったまま夜を送ることがあった。そしてこの沈黙も、少しも二人の気持ちを圧迫しなかった。
女の子達が二階から、おやすみなさいを言いに来た。パナウーロフは無言のままゆるゆると、何度もふたりに十字を切ってやって、彼等に自分の手を接吻させた。ふたりは、右脚を後へひいて少し膝を屈める古風な礼をして、それからラープチェフのそばへ来た。ラープチェフも同じように、彼女達に十字を切ってやり、自分の手を接吻させなければならなかった。この接吻と敬礼という作法は、毎晩繰り返されるのであった。
子供達が出て行くと、パナウーロフは新聞をわきの方へ押しやって言った――
「この無事泰平な町は実に退屈だ! で、実をいうとだね、君」と、彼は溜息まじりに言い足した――「僕は非常に喜んでるのだ、君がとうとういい楽しみを見つけたのをね」
「それはなんのことですか?」とラープチェフは訊いた。
「僕は先刻、君がドクトル・ベラギンのところから出てくるところを見かけたのですよ。まさか君もあの親爺《おやじ》のところへ行ったんじゃないだろう」
「もちろんですね」ラープチェフはこう言って、赤くなった。
「なるほど、もちろんだね。ところで、ついでにいうと、あの親爺のようなやくざな獣《けだもの》は、真っ昼間|提灯《ちょうちん》をつけて捜しまわったって、ちょっと見つかるもんじゃありゃしない。あいつがとんなにいまわしい、無能な、不細工な畜生だか、君には恐らく想像もつかないだろう! 君達のように首都にいる人達には、今日でもまだ田舎というものに、ただ抒情的方面から、いわば、風景画やアントン・ゴレムイカ(可哀想なアントンの意。農民文学の勃興当時、一途に農民を哀れと見た当時の代表作)といった方面からばかり興味を持っているんだが、僕は君に誓って言う、抒情詩なんてものはありゃしない。あるのはただ野蛮と卑劣と、不潔だけだ――それ以外には何ひとつありゃしない。まあひとつ、この土地の科学の使徒達や、この土地のいわゆる知識階級《インテリゲンチャ》を考えてみたまえ。第一、この町に、医者が二十八人もいるなんて想像がつきますか、しかも、彼等はみな財産を作って、それぞれ自分の家に住んでいるのに、住民達は依然として、きわめてみじめな状態に沈湎《ちんめん》しているという始末だ。それでいて、ニーナに実際簡単な手術をする必要が生じると、そのため特にモスクワから外科医を呼ばなければならん、――ここにはひとりも引き受ける者がいないのだ。君にはこんなことは、ちょっと想像もつかないだろう。実際彼等は、なんにも知りゃしないんだ、なんにもわかりゃしないんだ、そして、なにごとにも興味を持っていないんだ。まあ早い話が、ひとつ彼等に、癌腫とは何か? と訊いてみたまえ。 何か? 何からそれは発生するのか?」
そしてパナウーロフは、癌腫のなんであるかを説明しはじめた。彼はあらゆる科学の専門家で、どんな話の場合にも、いっさいを科学的に説明した。しかし彼は、いっさいを自己流に説明したのである。彼には彼独特の血液循環の学説があり、自分の化学があり、自分の天文学があった。いったい彼は、ゆるゆると物柔らかな口調で、自信たっぷりな口の利き方をし、「あなたにはちょっと想像もつきますまい」こういう言葉を祈るような声で発音し、眼を細め、さも疲れたように溜息をついて、王様のように寛容な微笑をたたえるのが常だった。そして、彼が非常に自分に満足していて、自分がもう五十だというようなことはてんで考えてもいないことが、ひと目でわかった。
「僕は何か少し食べる物が欲しくなった」とラープチェフは言った。「何か塩からい物が食べたいですね」
「そんなことおやすいご用じゃないか? すぐにも実現できますよ」
暫くすると、ラープチェフとその姉婿とは、二階の食堂で夜食の卓に就いていた。ラープチェフはウォーッカを一杯やってから、葡萄酒を飲みはじめたが、パナウーロフはなんにも飲まなかった。彼は酒も飲まなければ、カルタ遊びをしたことも一度もなかった。しかもそれでいて、自分の財産と妻の財産を使いはたしたうえ、多額の借金をこしらえていた。僅かの年月の間にそれだけ多くの金を費消し尽すには、情熱とは別の、何か一種特別な才能を持たなければならない。パナウーロフは美食家で、豊富で豪奢な食卓や、食事中の音楽や、演説や給仕どもの叩頭《こうとう》が好きで、彼等に對しては、十ルーブリ札、ときには二十五ルーブリ札という心付けを無造作に投げ出してやるのだった。彼はのべつあらゆる寄付や富くじに名を列ね、知己の婦人の命名日の祝いに花束を贈り、茶碗や、コップ皿や、カフスボタンや、ネクタイ、ステッキ、香水、巻き煙草の吸口や、パイプ、犬、鸚鵡《オウム》、さては日本の美術品、骨董などを買い込んだ。夜の肌着も彼のは絹物で、寝室は真珠貝をちりばめた黒壇作り、ガウンは本物のブハラ織りといった調子であった。そうしてこうした物に封して毎日、彼自身の言い草どおり、金の「洪水」が流れ出すのであった。
夜食のあいだ、彼は始終溜息をついたり、頭を振ったりしていた。
「そうだ、この世のことにはすべて終りがあるんだ」と彼は、その黒い眼を細めながら、静かに言った。
「君も恋をして、苦しむだろう。恋ざめを経験するだろう、それから裏切られるだろう。だって、夫を裏切らない女はこの世にないんだから。で、君も苦しんで、絶望して、自分でも裏切るようになるだろう。しかし、そんなこともみな、いずれは思い出となってしまうときがくる、君が冷やかに考察して、それをなんでもないつまらないことだと思うようになるときがくる……」
が、ぐったりと疲れて、軽い酔い心地だったラープチェフは、彼の美しい頭や、短く刈り込んだ黒い顎鬚などを見ていた。と、彼には、この甘やかされた、自信の強い、肉体的に魅力のある男をなぜ女達がこんなに愛するのか、その理由が頷《うなづ》けるような気がした。
夜食を済ますと、パナウーロフは家に残らないで、別宅へ出かけた。ラープチェフはそれを送って出た。この町じゅうで、シルクハットをかぶって歩くのはパナウーロフだけであった。そして灰色した垣や、三つ窓のみすぼらしい小家や、いらくさの薮などの周囲の中では彼の優美な、ハイカラな服装や、シルクハットや、オレンジ色の手袋などがいつも、奇妙な侘《わび》しいような印象を与えるのだった。
彼と別れると、ラープチェフはゆるゆると家の方へ引き返した。月はこうこうと照り輝いて、地上にある藁一本さえ見分けられた。そしてラープチェフには、月の光が彼のむき出しの頭をそっと撫でているような気がした。ちょうど誰かが羽根で頭を撫でてでもいるように。
「おれは恋をしている!」彼は声を出してこう言った。と、急に、走って行ってパナウーロフに追いつき、彼を抱いて、許して、うんと金をやり、それからどこか、野原か森の方へでも行ってしまいたい、後をも見ず一目散に走って行ってしまいたい、こういう気がし出した。
家へ帰ると、彼は椅子の上に、ユーリヤ・セルゲーエヴナの忘れて行った傘のあるのを見て、それを取上げ、貪るように接吻した。それは、古いゴム紐《ひも》で結わえられた、もう新しくない絹張りであった。柄《え》は、ありふれた白い骨製の安物であった。ラープチェフは、それをひろげてさしてみた。と、身のまわりに、幸福の香りが立ち込めるような気がした。
彼はできるだけ坐り心地よく腰をおろし、傘を手に持ったまま、モスクワの友人のひとりに宛てて書き出した――
[#ここから1字下げ]
親愛なるコスチャよ、きみにニュースをひとつ提供します――僕はまた恋に落ちました! またというのは、六年ばかり前に、モスクワのある女優に恋をしたことがあるからです、もっとも、その女とは、近づきになることすら成功しなかったんですがね。それからもうひとつ、最近一年半ばかりは、君もよく知っている「婦人」――若くもなければ美しくもない女と同棲していたからです。ああ君、いったい僕は、恋には恵まれぬ男だったのです! 僕はかつて一度も女に成功したことがない、僕がここで|また《ヽヽ》なんて言葉を使うのも、ただ、自分の青春が全然恋なくして過ぎ去ってしまったこと、そして、真に恋らしい恋を感じたのが三十四になった今がはじめてだということを自分自身に認識するのが、何かしら侘しいような、腹立たしいような気がするからにほかならない、まあ、また恋をしているということに、させといてもらいましょう。
ああ、もし君が、それがどんな娘だか知ってくれたらねえ! それは、美人とはいえない女です、顔は幅が広いし、ひどく痩せてもいるし、だが、その代り笑うときには、不思議なくらい、いかにも善良そうな表情になるのです。彼女が口を利くとき、その声はまるでうたうように、鈴のように響きます。僕は、まだ一度もゆっくりと話をしたことがないので、彼女をよくは知りません。けれども、彼女のそばにいるときは、僕は彼女のうちに、智恵と、崇高な傾向に満たされた、稀有な、非凡な存在を感じます。彼女は信心深い女です。それが僕をどんなに感動させ、僕の眼に彼女をどんなに高めるか、君にはちょっと想像がつかないでしょう。この点に関しては、僕はどこまでも君と争うつもりです。君は正しい、それは君のいわれるとおりに違いなかろうけれども、何はともあれ、僕は彼女が教会でお祈りしているところが好きです。彼女は、田舎生れではあるが、教育はモスクワで受けたので、わがモスクワを愛し、モスクワふうの服装をしています。そしてそのゆえに僕は、彼女を愛しているのです、愛しているのです……僕には、君が眉をひそめて、僕に長たらしいお説教を聞かせるために――恋とは何か、どんな女は愛してもいいが、どんな女は愛してならないかなどという問題についてお説教すべく、立ち上がるさまが見えるようです。しかし、親愛なるコスチャよ、僕も自分が恋をしなかった間は、恋とは何ぞやということをよく知っていたものですよ。
僕の姉は、君の見舞いを感謝している。彼女はよく、昔コスチャ・コチェウォーイを中学の予科へ連れて行ったことを言い出して、いまだに君のことを|可哀そうな《ヽヽヽヽヽ》なんて呼んでいます、というのは、姉の頭には、孤児の少年としての君の記憶が保たれているからです。さて、こういうわけで、可哀そうな孤児よ、僕はいま恋をしている。だがこれは、目下のところまだ秘密だから、そちらの、君もご承知の例の「婦人」には、なんにも言わないでくれたまえ。僕の考えでは、この方はひとりでにうまくゆくだろう、あるいは、トルストイ作中の侍僕の言い草じゃないが、|まるく《ヽヽヽ》納まるだろう……
[#ここで字下げ終わり]
手紙を書き終わると、ラープチェフは床に就いた。疲れていたので、眼は自然に閉じたが、なぜか眠れなかった。町の物音が耳ざわりな気がしてならなかった。牧群が追われて通り、角笛が鳴り、やがて間もなく、朝祈祷に呼ぶ鐘の音が響きはじめた。農用馬車がきいきい軋みながら通るかと思うと、市場へ行くらしい女の声が聞こえてくる。雀がひっきりなしにぺチャクチャさえずる。
二
晴れやかな祭日らしい朝であった。十時ごろ、ニーナ・フョードロヴナは、髪を梳かし、褐色の服をつけ、両方から胸を支えられながら、客間へ出てきた。そこで彼女は少しばかり歩いて、暫く開け放った窓際に立っていた。彼女の笑顔は晴々として無邪気であった。彼女を見ていると、この土地のある飲んだくれの画家が彼女の顔を聖像の顔のようだと言い、彼女をモデルにロシアの謝肉祭を描きたいと言ったことが思い出された。そして誰の頭にも――子供達にも、召使いにも、弟のアレクセイ・フョードロヴィッチにすらも、彼女自身にも、――突如として、彼女はきっと直るだろうという信念が生まれた。少女達は、きゃっきゃっと笑いながら、叔父の後を追い廻したり捉えまえたりし出して、家の中は急に賑やかになってきた。
彼女の病気見舞いにいろんな人がやってきた。彼等は聖パンを持って来て、今日はほとんどすべての教会で彼女のために祈りが上げられた旨を伝えた。彼女は、この町では慈善家として知られて、みんなから愛されていたのである。彼女は与える必要の有無などてんで考えないで、至極無造作に、ずばずば金をばらまいた弟のアレクセイとおなじように、まったく惜しげも無く慈善を施した。ニーナ・フョードロヴナは、不遇な生徒達のために学費を出してやり、老婆達には、お茶や、砂糖や、ジャムを恵み、貧乏な花嫁には、衣装を作ってやった。こうして彼女は、新聞を見るときにはいつも、まず真っ先に、誰かの気の毒な境遇についての檄《げき》なり記事なりが出ていないかと物色するのだった。
今も彼女の手には、勘定書きの束があった。それはいろんな貧乏人たち、つまり彼女の庇護者たちが、それによって、ある雑貨店で買いつけをしたもので、前夜商人から、八十二ルーブリという支払いの請求につけて廻してよこしたものであった。
「まあ、いくら買ったんだろう、仕様のない人達ねえ!」彼女は、勘定書きの面の自分の醜い筆跡を、やっとのことで、読みわけながら言った。「冗談じゃあないわ。八十二ルーブリなんて! わたし払ってやらないからいい」
「今日は僕が払いましょう」とラープチェフが言った。
「まあ、なんですって、なぜさ?」とニーナ・フョードロヴナはびっくりした。「月々わたしがあんたと弟とから、二百五十ルーブリずつもらっているだけでも沢山だわ。有難いことだわ」彼女はこう、女中の耳に入らないように、小声で言い足した。
「だって、僕は月に二千五百ルーブリずつも使っています」と彼は答えた。「僕はもう一度繰り返して言いますが、姉さん――あなただって、僕やフョードルと同じように使う権利を持っているんですよ。ここのところよくわかって下さい。僕らはお父さんにとって三人の子供です。三カペイカの一つは当然姉さんのものじゃありませんか」
けれども、ニーナ・フョードロヴナは理解しなかった。彼女の顔付きには、腹の中で何か非常に困難な問題でも解いているような表情があった。金銭問題におけるこの無理解は、ラープチェフを不安がらせ、気を揉ませるのが常だった。彼は、彼女にはその上、何か彼に言いにくい秘密な借金でもあって、それに苦しめられているのではないかとも疑ってみた。
足音と重々しい息づかいとが聞こえて来た――それはドクトルが、例のとおり、髪も髭もぼうぼうとしたままで、階段を上がって来たのだった。
「ル、ル、ル」と彼はうたっていた。「ル、ル」
彼に会うのを避けるために、ラープチェフはいったん食堂へ出て、それから改めて階下の自分の部屋へおりた。彼にとって、このドクトルともっと近しくなり、気軽に彼の家へ出入りするようになることの不可能なのは、明瞭だった。それに、パナウーロフのいわゆるこの「獣《けだもの》」と会うことも、愉快ではなかった。第一、彼がユーリヤ・セルゲーエヴナとたまにしか会えないのも、そのためだったのだ。で、彼は今、今なら父親が家にいないから、もしユーリヤ・セルゲーエヴナに傘を届けてやれば、てっきり彼女ひとりのところへ行き合わせるに違いないと考えた。と彼の心臓は、喜びのために締め付けられた。早く、少しも早く!
彼は傘を取ると、烈しく興奮しながら、恋の翼に乗って飛んで行った。街路は暑かった。雑草やいらくさの生い茂ったドクトルのだだっぴろい庭では、二十人ばかりの男の子が、まり投げをして遊んでいた。それはみな、ドクトルが年々修繕を考えながら、のばしのばししている、古い、みすぼらしい三軒の離れ家に住んでいる借家人――職工の子供達であった。あたりには甲高い、健康そうな声が響き渡っていた。遠くわきのほうへ離れて、わが家の入口の段々のところに、ユーリヤ・セルゲーエヴナが立って、手を背中に組み合わせながら遊戯をみていた。
「今日は!」と、ラープチェフは叫んだ。
彼女は振り向いた。日ごろ彼は、無関心な、冷やかな顔をしているか、あるいは昨日のように疲れた顔をしている彼女を見つけていた。ところが今は、その顔の表情が、まり投げをやっている子供達のそれのように、生き生きとして、いたずらそうだった。
「ご覧なさいまし、モスクワでは、こんなに面白そうに子供達の遊んでいることはとても見られませんわね」と彼女は彼のほうへ来ながら言った。「もっともあちらには、こんな広い庭がありませんから、どこにも駈け廻るところがないわけだけれども。父はいましがたお宅へあがりましたのよ」と彼女は子供達のほうを見返りながら言い足した。
「ええ、知っています。ですが、僕はお父さんのところではなく、あなたのところへ伺ったのですよ」とラープチェフは、これまでには気のつかなかった彼女の若さ、今日初めて彼女のうちに発見したような若さに、うっとり見惚れながら言った。彼には、金鎖をかけた彼女のほっそりとした白い首を、いま初めて見るような気がした。
「僕はあなたのところへ伺ったのです……」こう彼は繰り返した。「姉がね、あなたが昨日お忘れになった傘をお届けするようにって言ったものですから」
彼女は、傘を受け取ろうとして手を出したが、彼は傘を自分の胸に押しつけて、またしても、昨夜夜中にそれをさして腰かけたまま味わったと同じ甘い歓喜に浸りながら、情熱的な、抑えかねたような調子で言い出した――
「お願いです。どうかこれをわたしに下さい。わたしはこれをあなたの…… わたし達のお近づきの記念としてとっておきたいのです。これは実にすばらしい傘ですもの!」
「ではどうぞ」彼女はこう言って、赤くなった。「ですけれど、その傘が素晴しいなんて、そんなことはちっともありませんわ」
彼は酔ったようになり、言うべき言葉を知らないで、黙って彼女を見ていた。
「まあ、あたしったら、こんな暑いところへあなたをお引きとめして!」と彼女はしばしの沈黙の後に、笑いだしながら言った。「さ、家の中へ入りましょう」
「しかし、お邪魔じゃありませんか?」
ふたりは玄関へ入った。ユーリヤ・セルゲーエヴナは、空色の花模様のついた白い服の衣ずれの音を立てながら、二階へ駈けあがった。
「あたしに邪魔だなんて、そんなことがあるもんですか」と彼女は、階段の中途で立ちどまりながら答えた――「あたしなんか、いつだってなんにもしてやしないんですもの。あたしには、毎日が朝から晩まで祭日ですわ」
「僕はあなたの仰しゃることがよくわかりませんね」と彼は、彼女の方へ近づきながら言った。「僕はみんなが、男も女も例外なしに、毎日一生懸命働いている世界で育ってきたものですからね」
「だって、もしなんにもすることがなかったら?」と彼女は訊いた。
「人間にはですね、自分の生活を、働くことが必要であるような条件に合わせてゆくことが必要ですよ。労働なしには、清らかな、喜ばしい生活はあり得ませんからね」
彼は、またしても傘を抱きしめて、自分自身にも思いがけなく、自分の声でないような声で、静かに言った――
「あなたがもしわたしの妻になることを承知してくださったら、わたしは何もかも差し上げます。何もかも差し上げます……わたしは何をしたって惜しいとは思いません。犠牲だとは思いません」
彼女は一つ身ぶるいして、驚愕と恐怖の表情で彼を見つめた。
「まああなたは、まああなたは!」と、彼女は蒼くなりながら言った。「そんなことはできませんわ、どうしても。ご免下さい」
それから足早に、やはり先刻のように衣ずれの音をたてながら、二階へあがり、扉の中へ隠れてしまった。
ラープチェフは、その意味するところを理解した。と、彼の気分は、さながら心の中の光が急に消えたように、たちまちさっと変ってしまった。彼は、軽蔑され、嫌われ、いやがられ、おそらく足げにされ、逃げられた人間の羞恥と卑下とを抱いて、その家から戸外へ出た。
〈わたしは何もかも差し上げます、か〉と彼は、暑い中を家の方へ帰りながら、自分の恋の告白の詳細を思い返しながら、われとわが身の口真似をした。〈何もかも差し上げます――すっかり商売人の言い草だ。お前の何もかもが誰にそんなに必要なんだ!〉
彼がたったいま口にしたばかりのことがすべて、彼には、胸糞がわるいほど馬鹿げたことに思われた。何のために彼は、みんなが例外なしに働いている世界で育ったなどと嘘をついたのか? また何のために、清らかな、喜びに満ちた生活などということを、教訓的な口調で話したのか? これは気の利かない、面白くもない、出鱈目だ――モスクワ式の出鱈目だ。しかし、やがて少しずつ、犯罪者が峻厳な宣告を受けた後で陥るような無関心な気分がしてきて、彼は、有難いことに今ではもう一切が過ぎ去ったこと、あの恐ろしい未知がなくなったこと、もはや毎日毎日期待したり、思い悩んだり、のべつ同じことばかり考えたりしている必要のなくなったことについて考えた。今ではもう、すべてがはっきりしている。個人的幸福に対する一切の希望をなげうって、欲望を抱くことなしに生活し、空想したり期待したりすることをやめなければならぬ。そしてもう育《はぐく》むことに飽き飽きしたあの退屈を避けるために、他人の仕事、他人の幸福のために働くことができる、するうちに、いつともなく老年がやって来て、生涯が終りに近づくだろう――これ以上はもう何もいらない。彼にはもう一切がどうでもよかった、何事も望まなかった。そして、いっさいを冷やかに判断することが出来たが、その顔には、ことに眼の下に、一種重苦しい影が澱《よど》んで、額はゴムのように緊張し、――いまにも涙が溢れ出しそうになっていた。彼は、全身に力抜けを感じながら、床に就くと、五分ばかりするうちにぐっすり眠ってしまった。
三
あまりに唐突になされたラープチェフの申込みは、ユーリヤ・セルゲーエヴナを絶望に陥れた。彼女はラープチェフをよく知らなかった。彼とは、ほんの偶然に知り合ったばかりだったから。それは金持ちで、有名なモスクワの「フョードル・ラープチェフ父子商会」の代表者で、いつも極めて真面目な、見たところ賢そうな、姉の病気を心から心配している男だった。彼女には、彼は自分などにはなんの注意も払っていないような気がしていたし、自分の方でも、彼に対しては全く無関心であった、――そこへ突如として、階段の中途でのあの告白、あのみじめな、恍惚としたような顔……
この申込みは、その唐突さと、その中で妻という言葉が発音されたためと、もう一つ、どうでも拒絶しなければならなかったためとで、彼女を混乱させたのである。彼女は最早、自分がラープチェフになんと言ったか、記憶していなかった。が、彼に拒絶した時の突発的な、不愉快な感情の痕跡は、まだ依然として残っていた。彼女は彼を好いていなかった。容貌は店員型だし、好いたらしいところは微塵もなかった。自然、拒絶以外には返事のしようもなかったのであるが、でもやはり、なんとなく、ばつがわるかった、なんだか罪でも犯したように。
「ほんとにまあ、――部屋へもはいらないで、いきなり梯子段で言い出すなんて」彼女は自分の枕許にかかっていた聖像の方へ顔を向けながら、絶望的な気持で言った――「前にちっともほのめかしもしないで、いきなり、あんな変なふうに、おかしなふうに……」
彼女はひとりぼっちだったので、心の混乱は刻々と烈しさを加え、彼女ひとりの力では、その重苦しい感じをどうすることもできなかった。彼女は、誰かにこの心持を聞いてもらい、自分の態度の正しかったことを保証してもらいたかった。しかし、聞いてもらう相手が一人もなかった。母親はもうずっと前からいなかったし、父親は変人だと考えていたので、真剣な話し相手にはならなかった。彼は、そのわがままと、並はずれた短気と曖昧な身振りをすることとで、日頃から彼女を圧迫していたばかりでなく、彼女と話をはじめると、すぐ自分自身のことを言い出してしまうのだった。また彼女は、祈祷のときにも充分率直にはなれなかった。なぜなら、実のところ、何を神様に願ったらいいのか、それがはっきりわからなかったから。
サモワールの支度ができた。ユーリヤ・セルゲーエヴナは、蒼ざめた、疲れきった、やるせなげな顔をして食堂へ出て行き、お茶を淹《い》れた――これは彼女の役目であった――そして、父のコップにお茶を注いだ。セルゲイ・ボリースイチは、膝の下まである例の長いフロック姿で、赤い顔をして、髪を乱したまま、両手をポケットに突っ込み、食堂の中を、隅から隅へでなく、まるで檻の中の獣のように、むやみやたらに歩いていた。食卓の前へ立ちどまり、コップからお茶をうまそうに一口|啜《すす》ると、また歩き出して、何やらしきりに考えている。
「今日ね、ラープチェフがあたしに申込みをしたのよ」とユーリヤ・セルゲーエヴナは言って、赤くなった。
ドクトルは彼女を見たが、その意味がよく呑み込めない様子であった。
「ラープチェフ!」と彼は訊いた。「パナウーロフの弟か?」
彼は娘を愛していた。彼女が早晩結婚して彼を見棄てて行くことは、おおよそ見当のつくことであった。けれども彼は、そのことは努めて考えまいとしていた。彼の恐れたのは、ひとりぼっちになることで、もしこの大きな家にひとりきり取り残されるようなことになったら、自分はきっと卒中の発作を起こすだろう、こういう気が、なぜかしていた。しかし、彼は、むきつけにそれを言うことは好まなかった。
「そりゃ結構じゃないか、おれは大いに喜ばしい」彼はこう言って、肩をすくめた。「心からお前にお祝いを言うよ。今こそお前には、おれと別れる絶好のチャンスが恵まれたわけだ。こんな満足なことはあるまい。おれには、お前の心がよくわかるよ。病身で半気違いみたいな年寄りの父親のところに暮らしているのは、お前の年頃じゃとても辛いに違いないからな。おれには、お前の心がよくわかるよ。おれなんぞは、一日でも早くくたばる方が、死神にとっつかれる方が、はたの者は喜ぶに違いないのだ。だから、心からお前にお祝いを言うよ」
「だって、あたしお断りしてしまったのよ」
ドクトルはたちまち気が楽になった。が、最早そこで立ちどまる力がなくて、こう続けた――
「おれは驚いているんだが、もういつからか驚いているんだが、どうして今日までおれを癲狂《てんきょう》院へ入れなかったのだろう? どうしておれは狂人の緊衣《きんい》でなく、こんなフロックを着ているんだろう? おれは依然として真実を信じ、善を信じている。おれは馬鹿で理想家だ。今の世の中で、果してこれが狂人でないだろうか? そして世間の奴らは、おれのこの真実に対し、正しい態度に対して、どんな扱いをしているだろう? 石を投げんばかり、馬の蹄《ひづめ》にかけないばかりだ。近い身内の者までが、おれの首綱になることばかり考えている。こんな老いぼれは、さっさとまいる方がいいんだよ……」
「お父さんとは、人間らしい話はできないわ!」とユーリヤは言った。彼女は発作的に卓の前から離れて、自分が相手だと父親がよくわからずやを言うことを思い出し、激しい怒りに駆られながら自分の部屋へ帰ってしまった。しかし、暫くすると、早くも父が気の毒になってきた。で、彼がクラブへ出かけるときには、階下まで送って出て、自分でそのあとの扉を閉めた。戸外は、荒れ模様の騒がしい天気であった。扉は、どっと吹きつける風にがたがたふるえ、玄関へは八方から風が吹き込んだので、何度でも蝋燭が消えそうになった。自分の住んでいる二階へ戻ると、ユーリヤは部屋部屋を歩き廻り、ありたけの窓や扉に十字を切った。風はひゅうひゅうと吼えたけって、まるで誰かが屋根の上を歩いてでもいるように思われた。彼女は、かつてこれほど淋しい思いをしたことはなかった。これほど孤独を感じたことはなかった。
彼女は自分に尋ねてみた――容貌が気に入らないからというだけの理由で、せっかくの申込みを拒絶したのは、正しい態度だっただろうか? 相手が愛のない男であるのに、その男に嫁ぐことは、取りも直さず、自分の空想や幸福というもの、夫婦生活というものについての自分の見解と、永久に訣別することになるのは事実である。しかし、考えてみると、彼女は自分の空想しているような男と、いつか会うことがあるだろうか、そして、その男を愛するようになるだろうか? 彼女はもう二十一である。この町には、適当な相手は一人もいない。彼女は自分の知っている男をことごとく――官吏や、教師や、将校達を思い浮かべてみた。その中のある者は既に妻帯者であり、彼等の家庭生活は、その空虚と退屈とで驚くべきものだったし、他の者は興味のない男だったり、燻《くすぶ》ったような男だったり、無知な男だったり、あるいは素行のおさまらぬ男だったりした。そこへ行くとラープチェフは、とにもかくにもモスクワっ子で、大学も出ていれば、フランス語を話しもする。彼は、賢明な人、上品な人、優れた人の大勢いる、そして華やかな芝居や、音楽会や、一流の裁縫師や、菓子店などのある、賑やかな首都に住んでいるのである……聖書の中には、妻は夫を愛さなければならぬと記されてあり、各種の小説の中でも、愛には大いなる意義が付与されている。しかし、それには誇張があるのではないだろうか? ほんとに愛がなくては、家庭生活が送れないものだろうか? だって、人はよく言うではないか、愛はじき冷めてしまい、残るのはただ習慣だけだとか、家庭生活の真の目的は、愛とか幸福とかにあるのではなく、例えば子供の教育とか、家政の切り盛りとかいったふうの、義務の中にあるのだとか。だから、聖書の言葉にしても、あるいは、夫に対する愛ということは、隣人に対する愛とか、尊敬とか、寛容とかいうものと、同じ意味でいわれているのかも知れない。
夜中にユーリヤ・セルゲーエヴナは、注意して夕べの祈りを上げ、それから跪《ひざまず》いて、両手を胸に組み合せ、灯明の火を見つめながら、感情をこめた語調で唱えた――
「教え導きたまえ、神よ! 教え導きたまえ、主よ!」
彼女はこれまでの生涯に、昔自分の求婚者を退けたことをいたく後悔して、嘆き悲しんでいた気の毒な、愚かな老嬢達に何人も出会ったことがある。彼女にもこれと同じことが起こるのではあるまいか? いっそ思い切って尼寺へはいるか、看護婦にでもなった方がよくなかろうか? 彼女は服を脱いで、わが身に十字を切り、身のまわりの空気に十字を切りながら、床へはいった。突然廊下に、けたたましく訴えるような調子で、べルの音が鳴りわたった。
「ああ、神様!」彼女は、このべルの音から、全身に病的な焦慮を覚えながら言った。彼女は横になったまま依然として、この田舎の生活がいかに変化に乏しく、単調で、しかも同時に落ちつきのないものであるかということを考えていた。のべつふるえたり、何事かを危惧したり、怒ったり、あるいは自分を罪ある者のように感じたりしていなければならないので、神経が、遂には夜着の下から頭をのぞけるさえ恐しいくらいにまで、破壊されてしまう。
小三十分すると、また同じようなけたたましいべルの音が鳴りわたった。きっと、女中はぐっすり眠っていて、聞かなかったのに違いない。ユーリヤ・セルゲーエヴナは蝋燭をつけ、ぶるぶるふるえて、女中をいまいましく思いながら、服をつけはじめた。そして服をつけて廊下へ出たときには、階下ではすでに女中が扉を閉めていた。
「旦那さまかと思いましたら、患者さんのところからの、お使いでございました」と彼女は言った。
ユーリヤ・セルゲーエヴナは自分の部屋へ戻った。彼女は箪笥からカルタを一組取り出して、それをよく切ったうえ、一番下になったのを一枚めくってみて、もし赤札だったら、それは諾《ヽ》を意味するのだし、つまりラープチェフの申込みを承諾する必要があるのだし、もし黒だったら、否《ヽ》を意味するのだということに決定した。カルタはスペードの十であった。これが彼女の心を落ちつかせたので、彼女はそのまま睡りについたが、朝になるとまたしても、諾でも否でもなくなって、自分さえその気になれば、ここで自分の生活を一変することもできるのだということを考え出した。こうした考えが彼女を悩ましたので、彼女はぐったり疲れて、まるで病人のような気持になった。でも、十一時を過ぎると着更えをして、ニーナ・フョードロヴナの見舞いに出かけた。彼女はラープチェフを見たいと思った――ひょっとしたら、今日は少しはましに見えるかも知れない。今日までは、こちらが、彼を見誤っていたのかも知れない……
彼女には、風に向って行くのがひと骨だった。彼女は両手で帽子を押えながら、やっとのことで歩いて行った。そして埃《ほこり》のためになんにも眼にしなかった。
四
姉の部屋へ入って行って、思いがけなくユーリヤ・セルゲーエヴナを見ると、ラープチェフはまたしても、嫌われた人間の卑屈な感情を経験した。彼は、彼女が昨日の一條のあったあと、こんなに平気で姉を訪ねて来て、彼と会うことができるのは、つまり彼女が、彼など眼中においていないか、全然取るに足らぬ人間とでも思っているか、どちらかに違いないと考えた。しかし、彼が彼女と挨拶したとき、彼女は、眼の下に埃のついた蒼ざめた顔をして、悲しそうに、済まなさそうに彼を見た。そこで彼は、彼女もまた同じように苦しんでいることを了解した。
彼女は気分が勝れなかった。彼女はほんのちよっとの間、ものの十分ばかりも座っていると、もう暇を告げはじめた。そして帰りがけに、ラープチェフに言った――
「宅まで送って下さいません、アレクセイ・フョードルイチ」
彼等は黙々として、帽子を押さえながら、町通りを歩いて行った。彼は少し遅れて歩きながら、少しでも彼女を風から庇《かば》おうと努めた。横町は穏やかだったので、ふたりは並んで歩いた。
「昨日のあたしの態度が失礼でございましたら、どうぞお許し下さいまし」彼女はこんなふうに言い出した。と、彼女の声は、いまにも泣き出しそうに思われたほど、わくわくふるえた。「ほんとになんという苦しみでしょう! あたしひと晩じゅうまんじりともしませんでしたわ」
「ところがわたしはぐっすりとよく眠りましたよ」とラープチェフは、彼女の方は見ないで言った――「といっても、これは、わたしが朗らかだったという意味ではありませんよ。わたしの生活は打ち砕かれ、わたしはこの上なく不幸です、昨日あなたに拒絶されてからというもの、わたしはまるで毒でものんだ人のように、ふらふらして歩いています。ですが、一番苦しいことを昨日口に出してしまったので、今日はあなたに対しても、もう遠慮を感じないで、率直にお話ができます。わたしは姉よりも、死んだ母よりも、あなたを愛しています……姉がいなくても、母がいなくても、わたしは生きていられましたし、また生きてもきました。けれども、あなたなしに生きることは――これはわたしにとって無意味です。わたしにはできません……」
そして今も彼は、いつものように、彼女の心のうちを推測していた。彼には、彼女が昨日の話をむし返したく思っていること、それゆえにこそ彼に見送りを頼んで、今こうして自分の家へ連れて行こうとしているのだということが明瞭だった。だが、あの拒絶の上へ、彼女に果して何を加えることができるのだろう? 何を新しいことを考え出したのだろう? すべての調子――眸《ひとみ》や、笑顔や、また彼女が彼と肩を並べて歩きながら、頭と肩とを保っている態度から推してすら――彼は、彼女が依然として自分を愛していないこと、自分は彼女にとってどこまでも他人であることを、感知しないではいられなかった。いったいこの上、彼女は何を言おうとしているのだろう?
ドクトル・セルゲイ・ボリースイチは在宅だった。
「や、よくおいでくだすった、お目にかかれて非常に嬉しいですよ、フョードル・アレクセーイチ」と彼は、彼の名と父称とをごっちゃにしながら言った。「非常に嬉しいです、非常に嬉しいです」
前には、彼がこんなに愛想のよかったことはなかったので、ラープチェフは、自分の申込みがもうドクトルの耳へもはいっていることを見てとった。彼にはこれも嬉しくなかった。彼は今客間に座っていたのであるが、するとこの部屋が、その貧弱な、町人ふうの飾りつけと、安物の絵などのかかっていることで、彼に奇妙な印象を与えた。そこには肘掛椅子もあれば、笠の懸った大きなランプもあったのに、それはやはりどことなく、人の住んでいない部屋のような、がらんとした納屋のような感じを与えた。こんな部屋に住んでいて家にいるように感じることのできるのは、ただドクトルのような人間だけだという気がした。いま一つの部屋は、ほとんど二倍も大きくて、広間と呼ばれており、そこには、舞踏室のように、椅子が数脚立っているきりであった。ラープチェフは、この客間に座ってドクトルと姉の話をしている間に、ある疑惑に悩まされはじめた。ユーリヤ・セルゲーエヴナが姉のニーナのところへ来て、それから彼をここへ連れ出してきたのは、彼女が彼の申込みを承諾することを彼に告げるためではないだろうか? おお、それはなんという恐しいことだろう? しかし何より恐ろしいのは、彼の心がこうした疑惑を容れ得ることである。彼は、昨日夕方から夜へかけて父と娘との間にどんなに長い相談があったか、あるいはどんなに長い争論があったか、そしてその後で、ユーリヤが金持の男の申込みを拒絶するなどあまりに軽率だということにどんな具合にして話がきまったか、こんなことを想像した。彼の耳には、普通こんな場合に親達の間で言われる言葉までが、聞こえるような気がした――
「そりゃお前があの男を愛していないことはわかっている、しかしその代り、よく考えるがいい、お前はそれによって、どれほど多くの善事をするか知れないんだよ?」
ドクトルは往診に出かける支度をした。ラープチェフは彼と一緒に出ようと思ったが、ユーリヤ・セルゲーエヴナが引きとめた――
「あなたはもう少しいらして頂戴、後生ですわ」
彼女は悩み疲れて、意気消沈していた。そして今は自分に言い聞かせていた。身分のある、善良な、自分を愛している男を、ただ単にその男が気に入らないからというだけの理由で拒絶することは、ことに、結婚さえすれば、自分の生活を、じめじめした、単調な、無為な生活を変え得るというときに、青春は徒らに過ぎ去って、未来にもなんの光明も見えないというときに、こうした状況にいながら拒絶するということは――これは狂気の沙汰だ、わがままだ、むら気だ、神様の罰があたるだろう――こう言い聞かせていた。
父は出て行った。その足音が静まったときに、彼女は突然ラープチェフの前に立ちどまって、決然とした口調で言った、しかし、恐しく真蒼な顔をして――
「あたし、昨日長いこと考えましたのよ、アレクセイ・フョードロヴィッチ……あたしあなたのお申込をお受けしますわ」
彼は身を屈めて、彼女の手に接吻した。彼女は不器用に、その冷たい唇で彼の頭に接吻した。彼は、この愛の告白には、一番肝腎なもの――彼女の愛が欠けていて、それ以外の余計なものが沢山介入していることを、感じていた。彼は、大声で喚き出したいような、逃げ出したいような、今すぐモスクワへ帰ってしまいたいような気がしたが、すぐ身近に立っていた彼女が、いかにも美しく見えたので、突如として情熱にとらえられ、今となっていくら考えてももう遅い、こう思いなおして、熱烈に彼女をかき抱き、胸に抱きしめて、彼女を|お前《ヽヽ》と呼びながら、何やら二言三言つぶやいて、彼女の首に、ついで頬に、頭に接吻した……
彼女は、こうした愛撫に恐れをなして、窓の方へ後退りした。そしてふたりは、早くも打ち明け合ったことを後悔して、困惑の気持で自問していた――
〈どうしてこんなことになったのだろう?〉
「あたしがどんなに不仕合せだか、あなたにわかっていただけましたらねえ!」彼女は両手を揉みしだきながら呟くようにこう言った。
「どうしたのです」彼は彼女のそばへ歩み寄り、同じように両手を揉みしだきながら、訊いた。「ねえ、後生だから話して下さい――なんですか? しかしただ真実を、お願いです、ただ真実だけを!」
「どうぞそんなにお気になさらないで」彼女はこう言って、強いて笑顔をつくった。「あたしあなたにお約束しますわ、あなたの忠実な、貞淑な妻になりますわ……今晩いらして下さいましね」
その後、姉の枕許に座って、歴史小説を読みながら、彼はこの一部始終を思い起した。と、彼には、自分の立派な、純な、豊かな感情に対して、こんな卑しい応対を受けたことが、いかにも腹立たしく思われた。彼は愛されてはいなかった。そのくせ、彼の申込みは受け容れられた。おそらくそれはただ、彼が金持だったから、つまり彼のうちで彼自身が一番低く評価していたことが、選ばれたからであろう。あの純潔で信心深いユーリヤは、おそらく金のことなどは一度も考えなかったであろう。しかし彼女は、彼を愛していないではないか、愛していない以上、彼女に打算のあったことは明らかである。よしあるいは、充分に意識していたわけではなく、漠然たるものであったにせよ、とにかく打算は打算である。ドクトルの家は、彼には、その町人式な調度類が不快だったし、ドクトルその人も、「コルネギーユの鐘」に出てくるオペレットのガスパルのような、みじめな、でぶのけちん坊のように思われたし、ユーリヤという名前そのものまでが、なんとなく下品に響いた。彼は、彼とユーリヤとが、本質的にはお互いに全然他人であり、彼女の方からは一滴の感情もなく、まるで媒酌結婚でもあるような気持で、式を挙げるときのさまを想像してみた。そして、今や彼のために残されているただ一つの慰めは、この結婚そのもののごとく平凡極まるところの慰めは、こうした結婚も、彼が最初でもなければ最後でもないこと、大部分の人々が、こんなふうにして妻を迎え、夫を持つのであるということ、及び、時が経って彼を近しく知るようになれば、ユーリヤもあるいは彼を愛するようになるかも知れぬ、こういう想念であった。
「ロミオとジュリエット(ユーリヤ)!」彼は本を閉じながら、こう言って笑い出した。「ねえ、ニーナ、僕はロミオですよ。どうぞ僕を祝ってください。僕は今日ユーリヤ・ベラギーナに申し込みをしたのです」
ニーナ・フョードロヴナは、初め彼が冗談を言っているのだと考えたが、やがて事実だと知ると、しくしく泣き出した。この報告は彼女には嬉しくなかったのである。
「そりゃね、お祝いするわ」と彼女は言った。「でも、あまり突然じゃないの?」
「いいえ、突然じゃありませんよ。もう三月から続いていることで、ただ姉さんが知らなかっただけですよ……僕は三月にもう恋に落ちてしまったのです。ほら、この姉さんの部屋であの人と初めて知り合ったときに」
「わたしはまた、あんたはやはりモスクワの娘さんと結婚することとばかり思っていたのよ」とニーナ・フョードロヴナは、ちょっと黙っていてから言った。
「そりゃわたし達仲間の娘さんは学問はないかもしれないわ。でもね、アリョーシャ、肝腎なことは、あんたが幸福であることですからね。これが一番肝腎なことですからね。うちのグリゴーリイ・ニコラーイチは、わたしを愛してくれませんでした。それで、わたし達の生活がどんなだかは、隠せることではないから、よくわかっているわね。いうまでもなく、どんな女でも、あんたの心の善良さと智恵とを愛するわ。けれどユーリチカは――高等教育を受けた貴族生まれじゃないの。あの人には、智恵と善良さだけでは不足だわ。あの人は若いのに、アリョーシャ、あんたはもう、若くもなければ、美男子ではないものね」
この最後のことばを和らげるために、彼女は彼の頬を撫でて、こう言った――
「あなたは美男子ではないわ、けれど気持のいい人だわ」
彼女はどぎまぎして、頬に薄い紅みを潮《さ》したほどであった。そして、聖像でアリョーシャを祝福することが、作法に叶うかどうかを夢中になって論じ出した。彼女は姉であって、彼のためには母親代わりである。で、彼女はいつも、意気消沈した弟に向かって、結婚式は型どおり世間の物笑いとならないよう、荘重に盛大に挙げなければならぬものだということを、熱心に説き聞かせてきたのだった。
これ以来彼は許婚《いいなずけ》の夫として、日に三四度ずつベラギーン家へ出入りするようになった。それでもう彼には、サーシャと交代する時間も、歴史小説を読む暇もなくなってしまった。ユーリヤはいつも、客間からも父の書斎からも離れた自分のふた部屋へ彼を迎えた。そしてその部屋がまた、彼には非常に気に入った。そこには暗い色の壁があり、一隅に聖像の龕《ずし》が立っていて、香水の芳香と、燈明の油のにおいがしていた。彼女は家の一番はずれの部屋に住んでいて、寝台と化粧卓とは衝立で隔てられ、書棚の扉には、内側に緑色の布がかけてあった。そこでは彼女は、絨毯の上を踏んで歩いたので、足音がまるで聞こえなかった――そこで、こうしたことから彼は、彼女が内気な性格で、静かな、落ちついた、隠遁的な生活が好きであるかのように思い込んだ。彼女は、家ではまだ大人でないような扱いを受けていて、自分の金というものが少しもなく、散歩のときなど、一文も持っていないで、赤面するようなことがよくあった。衣装代や書籍代として、彼女は父からわずかずつ、年に百ルーブリ足らずを支給されていた。それに第一、ドクトル自身が玄関は相当はやったにもかかわらず、金というものがほとんどなかった。彼は毎晩のようにクラブでカルタをやって、いつも負けてばかりいた。のみならず、彼は、相互信用組合から、抵当にはいっている家屋を肩代わりで買い込んでは、それを貸家にしていた。借家人たちは、家賃を几帳面には払わなかったが、彼はこういう家屋の運転を、非常に有利だと信じていた。娘とふたりで住んでいる自分の住居をも、彼は抵当に入れて、その金で荒れ地を買い、その上にもう大きな二階家を建てかけていた。落成次第また抵当に入れる予定で。
ラープチェフは今や、五里霧中に彷徨している有様で、自分が自分でなく、二重人格者ででもあるような気持ちだった。そして以前にはとてもする気にならなかったようなことを、いろいろした。彼は三度ばかりドクトルと一緒にクラブへ行き、夜食を共にして、われから彼に建築資金を貸そうと申し出たりした。彼はまた、パナウーロフの別宅へまで出かけて行った。あるときパナウーロフが食事に来てくれと招いたのを、ラープチェフは、よくも考えないで承知してしまったのである。彼を迎えたのは、三十五六の背の高い、痩せた、髪に少し白髪のまじった、眉の黒い、一見してロシア人らしくない夫人であった。その顔には、白粉のあとが斑らに白く残っており、彼女は甘ったるいような笑顔をして、白い手にはめていた腕輪が音をたてたほど、烈しく彼の手を握った。ラープチェフには、彼女がそんなふうな笑顔をするのは、彼女が不幸であることを、他人の眼はもとより自分自身にすら隠そうと思うからだろうという気がした。彼は、五つと三つになる、サーシャによく似たふたりの女の子をも見た。食事には、牛乳のスープと人参をつけ合わせた子牛の冷肉と、チョコレートが出た――それは甘すぎて、うまくなかった。が、その代わり卓上には、金のフォークや醤油瓶や、カイエン胡椒の壜や、非常に珍しい薬味台や、金の胡椒壷などが、燦然として輝いていた。
牛乳のスープを飲み終わったところで初めて、ラープチェフは、彼がここへ食事に来たことが、どんなに変なことであったかを考えた。婦人はどぎまぎして、のべつ歯を見せながら笑っていたし、パナウーロフは、恋愛とはなんであるか、それは何から発生するかなどということを、科学的に説明していた。
「われわれはそこに電気作用の現象の一つを見るんだよ」と彼は、夫人のほうを向きながらフランス語で言った。「各人の皮膚の中には、極めて微妙な線が通じていて、それが自分の中に電流を持っているのだ。それで、もし人が、自分の持っているのと一致する電流を持った人と出会うと、たちまちそこに愛が生ずるのだ」
ラープチェフは家へ戻って来て、姉からどこへ行って来たのかと訊かれたときに、はたと困惑した。そしてなんとも答えなかった。
結婚式の当日まで、彼は絶えず自分が虚偽の中に浸っているような気がしていた。愛は日一日とますます強くなり、彼にはユーリヤが詩的な崇高な女性のように思われていたが、しかし愛は依然として相互でなく、本質的にはやはり、彼が買って、彼女が売ったものであった。ときとすると、彼はいろいろに思い乱れた挙げ句、一概に絶望的な気持になって、こう自問するようなこともあった――逃げたほうがよくはなかろうか?
彼はもう何晩も眠らなかった。そして絶えず、結婚後モスクワで、例の友人への手紙の中で「ある婦人」と書いた婦人と、どんな具合にして会ったものか、気むずかしい父や弟が、彼の結婚に対しユーリヤに対して、どんな態度に出るだろうか。こんなことばかり考えていた。彼は、初対面のときに父がユーリヤに、何か無作法なことを言いはしまいかと恐れていた。しかも弟のフォードルには、最近何やら奇妙なことが起こっていた。彼はその長い手紙の中で、健康の重要性について、心理状態に対する疾病の影響について、宗教とは何ぞやということについて、長々と書いていたが、モスクワのことや事業のことは、一言も書いていなかった。これらの手紙は、ラープチェフを苛立たせた。彼には、弟の性格が悪い方へ変りつつあるような気がしていた。
結婚式は九月に行われた。式はペテロとポーロ教会で挙げられ、ミサの後ですぐ、その日のうちに新夫婦はモスクワへ出発した。ラープチェフと、長い裳をひいた黒服姿がもう娘ではなく、いっぱし婦人らしく見えた彼の新妻とが、ニーナ・フョードロヴナに別れを告げたときには、病人は顔じゅうを皺《しわ》にしたが、その乾いた眼からは、一滴の涙もこぼれなかった。彼女は言った――
「そんなことがあっちゃならないけれども、もしわたしに万一のことがあったら、子供達を引き取ってやって頂戴ね」
「ええ、ええ、お約束いたしますわ!」とユーリヤ・セルゲーエヴナは答えた。と、彼女の顔でも唇とまぶたとが、神経的にぴくぴくひきつりはじめた。
「僕は十月にはまたやってきますよ」とラープチェフは、いたく感動した様子で言った。「早くよくなって下さいよ、姉さん」
彼等は特別車室に乗って行った。ふたりとも、物悲しいような、ばつの悪い気持だった。彼女は帽子も脱がないで、片隅にかけたまま、ねむっているような振りをしていた。が、彼は、彼女の前の長椅子に身を横たえて、さまざまな物思いに――父親のことや、「ある婦人」のことや、モスクワの住居がユーリヤの気に入るかどうかというようなことに、胸の不安を掻き立てられていた。そして、自分を愛していない妻の顔を時々見やりながら、やるせない気持で考えていた――
〈どうしてこんなことになってしまったんだろう?〉
五
ラープチェフ一家はモスクワで小物類――縁飾りのふさ、真田紐《さなだひも》、装飾用品、編物糸、ボタン、そういったふうの物の卸し商を営んでいた。商売の上り高は、年額二百万ルーブリに達していたが、純益が何ほどになるかは、老人以外に誰も知らなかった。息子達と番頭達とは、この収入をおよそ三十万ルーブリと決定して、老人が「やたらに手を伸ばしさえしなかったら」、つまり無選択に貸売りさえしなかったら、なお十万ルーブリはあったろうと言っていた。最近十年間の、見込みのない手形だけでも、ほとんど百万ルーブリに達していたので、古参の番頭などは、話がこの点に触れると、ずるそうに片眼を瞬《またた》いて、一部の者にしかわからないような言葉を呟くのだった――
「世紀の心理的結果ですな」
商売上の主な活動は、市の市場にある倉庫と呼ばれている建物内で行われていた。倉庫の入口は中庭にあり、そこはいつも薄暗くて、筵《むしろ》の臭いがし、荷馬車馬がアスファルトに蹄の音を響かせていた。見てくれのとても粗末な、鉄鋲打ちの扉が中庭から、鉄格子のはまった細い窓ひとつに照らされた、ひどい湿気のために灰褐色になった壁の落書だらけな室内へ導き、その左手にもう一つ部屋があって、この方はいくらか大きく、いくらか綺麗で、鋳鉄の暖炉と卓が二脚備えてあったが、ここにもやはり、厳重な窓がついていた――これが事務室で、そこからすぐ、狭い石の階段が、主な部屋のある二階へと導いていた。それは、かなり大きな部屋であったが、いつも薄暗いのと、天井が低いのと、箱や、梱包や、のべつ動き廻っている人間のために窮屈に感ぜられるのとで、新来の者には、階下の二室と同じような不体裁な印象を与えるのだった。階上の事務室にもやはり、棚の上に、梱《こ》ったのやら、束にしたのやら、ボール箱入りのやら、いろんな商品が載せてあったが、その載せ方には、なんの秩序も美も見られなかったので、紙包みのそこここの穴から、深紅の糸や、飾り総や、縁飾りの端などがのぞいていなかったら、ここでは何が商《あき》われているのか、ちょっと見当がつかなかったに違いない。そして、こんなしわくちゃな紙包みやボール箱を見ただけでは、こんなつまらないもので数百万の売上げがあろうとは、またこの倉庫内で、外部からくる顧客をのぞいて、日々五十人の人間が仕事に従事しているなどとは、ちょっと信じられなかったに違いない。
モスクワに着いた翌日、正午頃、ラープチェフがこの倉庫へ来たときには、荷造りをするとて職工達が、物凄い音をさせてガンガン箱を叩いていたので、第一の部屋でも事務室でも、誰ひとり彼のはいって行ったのに気がつかなかった。顔見知りの郵便配達が、一束の郵便物を手にして階段を下へおりて来たが、この男も烈しい物音にしかめ面をしていて、やはり彼に気がつかなかった。階上で彼を迎えた最初の人は、人がよく双生児と間違えたほど彼によく似た弟のフョードル・フョードルイチであった。この酷似は、日頃ラープチェフに、彼自身の容貌外観について思い出させる種であった。今も、自分の前に、背の低い、頬の赤い、頭髪の薄い、痩せた、腰付きの下品な、一見していかにも野暮ったらしい、非知識階級的な男を見て、彼はついこう自問してしまった――〈ほんとにあれもあのとおりなのだろうか?〉
「ああ、僕は実に嬉しい!」とフョードルは兄と接吻し合って、堅くその手を握りしめながら言った。「僕は毎日首を長くして兄さんを待っていたんだよ、結婚するって便りをもらってからというもの、僕は好奇心に悩まされて、とても兄さんの帰りを待ってたんだよ。何しろ、お互いに半年会わなかったんだからなあ。それで、どうだ? どんな様子だい? ニーナはわるいかい? よっぽど?」
「大分わるいよ」
「どうも仕方がないな」とフョードルは溜息を吐《つ》いた。
「それで、兄さんのお嫁さんは? きっと美人だろうね? 僕もその人を愛してるんだよ、僕にも可愛い姉さんになるんだからな。ふたりで一緒に大事にしようよ」
ラープチェフには古い馴染みの、父親フョードル・ステパーヌイチの幅の広い、猫背の背中が見えてきた。老人は勘定台のそばの床几に掛けて、客と話していた。
「お父さん、神様が喜びを送ってくれましたぜ!」とフョードルは叫んだ。「兄さんが帰って来ました!」
フョードル・ステパーヌイチは、背の高い、珍らしく体格のがっしりした男だったので、八十歳という高齢と、皺だらけだったにもかからず、まだまだ矍鑠《かくしゃく》として壮者をしのぐ外観を持っていた。彼は、その広い胸から出る、まるで樽から出るような、深みのある重々しい、鳴り響くようなバスで口を利いた。彼は顎鬚を剃り、兵隊ふうに刈り込んだ口髭をはやしていて、葉巻を吸っていた。暑がりだったので、倉庫内でも、家でも、年がら年じゅうゆったりとしたズック製の背広を着ていた。彼は近頃、白内障《そこひ》の手術を受けたばかりで、眼がよく見えなかったので、この頃ではもう仕事はせず、ただ話をしたり、ジャムでお茶を飲んだりしているだけであった。
ラープチェフは、身を屈めて彼の手に接吻し、それから唇に接吻した。
「ずいぶん久しく会わなかったなあ、大将」と老人は言った。「ずいぶん久しく、どうだな、お前の正当な結婚を祝福しなければなるまいな? や、お目出とう」
こう言って彼は、接吻すべく唇を突き出した。ラープチェフは身を屈めて接吻した。
「それでどうした。お前は自分のお嬢さんを連れて来たかい?」老人はこう訊いたが、その返事は待たずに、客の方を向いて言った――
「父上、小生今回しかじかの娘と結婚いたすことに相成りそうろう、この段お知らせ申上げそうろうってわけですよ。そうですて。父親の祝福や忠告を乞うなんてことは、今日《きょうび》ではもう規則にないと見えます。今日《きょうび》じゃみんなもう自分だけの考えでやるんですな。わしが家内を持ったときにゃ、もう四十を越していましたが、それでも親父の足下に身を投げて、忠告を乞うたものです。今日《きょうび》じゃもう、そんなことはすたりましたな」
老人は、息子の帰ったのが嬉しくてならなかったのだが、彼を労《いた》わったり、どういう仕方にしろ、自分の喜びを表明したりするのは不見識だと考えていたのである。彼の声と、口を利くときの態度と、「お嬢さん」とが、ラープチェフに、彼がこの倉庫へくる度にきまって感じていた|いや《ヽヽ》な気分を起させた。ここでは、あらゆる些細なことが彼に、鞭打たれたり、精進料理の罰を受けたりした昔のことを思い出させた。彼は、今日でも子供達が鞭打たれたり、鼻血が出るまで顔を打たれたりすること、またそれらの子供達が大人になると、今度は自分達が同じように打つようになることを知っていた。それで、ものの五分間もこの倉庫内にいただけで、彼にはもう、いまにも自分が怒鳴りつけられたり、鼻面をぶんなぐられたりするような気がしてくるのだった。
フョードルは客の肩を軽く叩いて、兄に言った――
「ねえアリョーシャ、紹介しょう、これはね、われわれのタムボフの恩人、グリゴーリイ・チモフェーイチだ。現代青年の模範として役立ち得る方なんだよ――もう五十を越していられるのだが、それでまだ乳呑み子が何人もおありなんだからね」
店員達は笑い出した。と、蒼白い顔をした痩せた老人の顧客も、一緒になって笑い出した。
「普通の能力以上の人間は」と勘定台の向うに立っていた一番番頭が、口を挿んだ。「どこへ行こうと、そこですぐ頭角を現わしますからな」
年のころ五十ばかり、暗色の顎鬚に眼鏡をかけ、耳に鉛筆をはさんだ背の高いこの一番番頭は、いつも廻りくどい暗示をもって、曖昧に自分の考えを表白する癖があり、しかもそのずるそうな微笑を見ただけで、彼が自分のそうした言葉に一種特別な微妙な意味を含めていることが明瞭だった。彼は、自分の言説を、自己流に解釈した書物の言葉で曖昧にすることが好きで、その上多くのありふれた言葉をも、それが普通に持っているとは別の意味に使うことがしばしばだった。例えば「以外は」という言葉である。彼が何かの思想を確然と表白して、反駁を許すまいとするような場合、彼は右手を突き出して、こう言うのだった――
「以外は!」
しかも何より不思議なのは、ほかの店員や顧客達が、この男の言葉をよく理解することであった。彼はイワン・ワシーリイチ・ポチャートキンと呼ばれ、生れはカシーラの男であった。今も彼は、ラープチェフを祝福して、こんなふうに言ったものである――
「あなたさまとしては、ご勇気の功績でございますな、なぜって、女の心というものは、シャミーリ(コーカサスの猛酋長、強敵の意味)でございますからな」
倉庫でいまひとりの主《おも》立った人物は、マケーイチェフという、でっぷりふとった、脳天のきれいに禿げた、頬髭のある、押出しの立派な金髪男の番頭であった。彼はラープチェフのそばへ歩み寄ると、小声で、慇懃《いんぎん》にお祝いを述べた――
「お目出とうございます……神様が親御さまのお祈りをお聴き届けになりましたわけで、誠に結構なことでございます」
それから、ほかの店員達も、それぞれお祝いを述べに寄って来た。彼等はみな、流行の服装をして、身分の高い、教養ある人達のような顔付きをしていた。彼等は、アと発音すべきところをもオと重苦しく発音し、グという音をラテン語風にヒと発音し、ほとんど二語ごとに一々、うやうやしさを現わすスという言葉を加えて使ったので、早口に言われた彼らの祝辞、例えば――
「ご幸福を祈り上げますでございます」というふうな言葉でも、まるで鞭で空を切りでもするように――「ごこうふすすすす」と聞こえるのだった。
ラープチェフには、こうしたことがみなじき退屈になってきて、家へ帰りたく思ったが、帰ることも|ばつ《ヽヽ》がわるかった。礼儀からも、少くとも二時間くらいは、倉庫にいなければならなかった。彼は勘定台からわきの方へ離れて、マケーイチェフに、夏は滞りなく過ぎたか、何か変ったことはないかと尋ねはじめた。と、相手は、彼の眼は見ないで、慇懃《いんぎん》に答えるのだった。灰色のブルーザを着た毬栗《いがぐり》頭の小僧がラープチェフに、お茶のコップを受皿なしで渡した。暫くするといまひとりの小僧が、そばを通りながら箱につまずいて、危く転びそうになった。すると、押出しの立派なマケーイチェフが急に、恐しい、意地の悪そうな、没義道《もぎどう》な顔をして、怒鳴りつけた――
「足で歩け!」
店員達は、若主人が結婚して、とうとう帰って来たことを喜んでいた。彼等は物珍らしそうに愛想よく彼を眺めて、誰も彼も、彼の傍を通るときには、慇懃な態度で何か愉快なことを言うのを義務のように心得ていた。しかしラープチェフは、こうしたこともみな心から出たことでなく、彼を恐れて阿諛《あゆ》しているにすぎないことを承知していた。彼は、十五年ばかり前のこと、精神病にかかったひとりの番頭が、あるとき下着一枚のはだしで街路へ飛び出し、主家の窓に向かって挙を振り上げて威嚇しながら、主人達が彼を虐待したと大声に喚《わめ》いたことのあったのを、今もって忘れることができなかった。この哀れな男は、その後全快してからも長いあいだ、ほかの番頭達から、彼が主人のことを――|「搾取者」(エクスプルアタートル)という代りに|「栽培者」(プランタートル)と怒鳴っていたことを言い出されて、からかわれていた。
概してラープチェフ家の雇人達は、ひどい待遇を受けていて、その事実はもう古くから市場じゅうの評判になっていた。何よりいけなかったのは、フョードル・ステパーヌイチ老人の彼等に対する態度が、一種アジア式掛引きをほしいままにしたことであった。こんなふうで、彼のお気に入りであるポチャートキンとマケーイチェフがいくら給料をもらっているか、それを知る者はひとりもなかった。彼等は、賞与を合わせて年に三千ルーブリ以上はもらっていなかったのだが、彼は七千ルーブリずつも払っているような顔をしていた。賞与は毎年、全部の店員に支給されたが、それもひとりひとり秘密に渡されたので、自然少くもらった者も、自尊心から、なるべく多くもらったように言わなければならなかった。ひとりの小僧も、自分達がいつ番頭に登用されるか、知る者はなかった。またひとりの雇人達も、自分が主人の気に入っているかいないか、知る者はなかった。店員達には、何一つはっきり禁じられていることがなかっただけに、何が許されて何が許されていないのかよくわからなかった。彼等は、結婚を禁じられてはいなかったが、結婚したために主人の機嫌を損じ、職を失うのを恐れて結婚しなかった。彼等は、知人を持ったり客に行ったりすることを許されていた。が、晩の九時には門がしまってしまうし、毎朝主人が胡散《うさん》らしい眼で雇人達を見廻して、ウォーッカの臭いをさせている者はないかとあらためる――
「さ、ひとつ息をついてみろ!」
祭日には、雇人達は必ず早朝の礼拝式に出かけて、みんなが主人の眼にとまるように、食堂内に立っていなければならなかった。精進は厳格に守られた。何か廉《かど》めの日には、例えば主人なり家族の一員なりの命名日などには、店員達はそれぞれ醵金《きょきん》をして、フレイの店の甘いピローグとかアルバムとかを贈らなければならなかった。彼等は、ピャトニーツカヤ街にある家の階下や翼屋に、一室に三四人ずつかたまって住んでいた。そして食事のときには、銘々の前に皿は並べられるけれども、共同の鉢から食べるのだった。食事の最中にでも、もし誰か主人側の者がはいってこようものなら、彼等は一斉にさっと立ちあがるのだった。
ラープチェフは、彼らのうちでも、老人の教育によって骨抜きになった者達だけは、真面目に彼を恩人と思うこともできただろうが、その他の連中は彼を敵視し、「栽培者」視していたことにつねづね気がついていた。今、半年の不在の後でも、彼は、一つとしてよい方への変化は認めなかった。いや、それどころか、かえって少しもいいことを予報しない、何やら新らしい感じさえあったのである。以前には物静かな、考え深い、なみはずれてデリケートだった弟のフョードルが、今は何かひどく忙しそうな、事務家らしい様子をして、耳のうしろへ鉛筆をはさみ、倉庫内を駈け廻つて客の肩を叩いたり、店員達に向って、――「おい君!」などと叫んだりしていた。みたところ彼は、何か変った役割を受け持っていたものらしい。そしてこの新らしい役割の上では、アレクセイは弟を、それと認めかねたくらいであった。
老人の声が、ひっきりなしに轟き渡った。これといって別にすることがないので、老人は客をつかまえては、人間はいかに生活しなければならないか、事業はどう切り廻さなければならないかなどということについて教訓を垂れ、その例として、自分のことを挙げるのだった。この自惚れと、この横柄な、威圧的な調子は、ラープチェフにはもう、十年も、十五年も、二十年も前から耳に馴染みのものである。老人は、自分で自分を崇拝していた。彼の話を聞いているといつも、彼が自分の死んだ妻やその身内を幸福にしてやっていたように、子供達をよくしてやり、番頭や雇人達に恩恵を施していたように、全町内、全知人をして彼のことを永久に神に祈るように仕向けていたように受け取れるのだった。彼が何をしようと、それはみな非常にいいことで、もし人が事業に失敗すれば、それはただ、彼等が彼に相談しようとしなかった結果にすぎない。どんな事業も、彼の知恵を借りないでは、うまくいく筈がないのである。食堂内では、彼はいつも一同の真ん前に立っていて、司祭達が、彼の解釈では正しくない勤行《ごんぎょう》の仕方をすると、彼等に向って注意さえするのだった。そして、神は彼を愛しているから、それも神の思召《おぼしめし》に叶うものと考えているのだった。
二時になると、倉庫内の人々はみな、依然として我鳴り続けている老人を除いて、仕事に忙殺されていた。ラープチェフは、何もしないで突っ立っているのをまぎらすために、ひとりの女工の手から縁飾りを取って、女工を向うへ行かせたり、このあとヴォオロゴードスクの商人であるお客の話を聞いて、番頭にその相手を言いつけたりした。
「トの字、ヴの字、アの字!」こういう声が八方から聞こえて来た。(倉庫ではこれらの文字は商品の値段と番号を意味するのであった)「ルの字、イの字、トの字!」
そこを出るとき、ラープチェフは、フョードルだけに別れを告げた。
「僕は明日家内を連れてピャトニーツカヤ街へ行くよ」と彼は言った――「だが、前もって断っておくが、親父が家内に一言でも粗暴なことをいったら、僕は一分でもそこにゃいないからね」
「兄さんはやっぱり相変わらずだなあ」とフョードルは溜息をついた。「結婚しても、ちっとも変らないね。年寄りにゃもっと寛大にしなくちゃいかんよ、兄さん。じゃなんだね、明日は十一時までにくるわけだね。首を長くして待ってるよ。じゃ、礼拝式からまっすぐおいでよ」
「僕は礼拝式にゃ行かないよ」
「うん、そりゃどっちでもいいさ、肝腎なことは、十一時より遅くならないことさ、神様にお祈りを上げるのと朝飯とを一緒にやるためにね。じゃ、新らしい姉さんによろしく、僕のために手を接吻しといておくれよ。僕にゃ、その人が好きになれるだろうという予感があるんだよ」とフョードルは大真面目で言い足した。「兄さん、僕は少々やけるよ!」と彼は、アレクセイがもう下へおりかけたときに叫んだ。
〈なんだってあいつは、裸ででもいるように、ああ恥かしそうに小さくなっているんだろう?〉とラープチェフは、ニコーリスカヤ街を歩きながら、フョードルに起った変化を理解しようと努めて考えた。〈言葉つきまで変に変っている――兄さん、親愛なる兄さん、神様が慈悲をお送り下すったとか、神様にお祈りを上げるだとか、――まるでシチェードリンのイュドゥシカだ(裏切者の意)〉
六
翌日、日曜日の十一時に、彼は妻と共に一頭立ての軽快な幌馬車を駆って、ピャトニーツカヤ街へ乗りつけた。彼は、フョードル・ステパーヌイチが乱暴なことでも言いはしまいかと恐れて、行かぬさきからもう暗い気持になっていた。夫の家にふた晩送ったばかりで、ユーリヤ・セルゲーエヴナは早くも、自分の結婚を誤りだった、不幸だったと考え、将来夫と一緒に暮すのが、もしモスクワでなくどこかほかの街だったら、とてもこの恐怖には堪えられないという気がしていた。なんといっても、モスクワは彼女を慰めた。街路も、家も、教会も、とても気に入ったので、もしその辺を歩いている高価な馬をつけた立派な橇《そり》に乗って、終日、朝から晩まで、モスクワじゅうを乗り廻していられたら、そんなに不幸とは感じなかっただろうと思われた。
最近、漆喰を塗ったばかりの真白な二階家の傍で、馭者は馬をひかえて、車を右へ廻しはじめた。そこでもう、一同が彼等を待ち受けていた。門のところには、新らしい長上衣に、深い長靴にオーバーシューズをかけてはいた家番と、巡査がふたり立っていた。街路の中央から門までと、それから中庭を通って階段までの間の空地には、新らしい砂が敷かれていた。家番は帽子を脱ぎ、巡査達は挙手の礼をした。階段の傍ではフョードルが、ひどく真面目くさった顔をしてふたりを迎えた。
「お近づきになれて非常に嬉しいです、姉さん」と彼は、ユーリヤの手を接吻しながら言った。「よくいらっしゃいました」
彼は、彼女の腕をとって二階へ案内し、それから男女の群衆の中を抜けて、廊下を進んだ。玄関も同様混雑して、香のにおいがこもっていた。
「今すぐ父にご紹介いたします」とフョードルは、墓の中のような荘厳な静けさの中で、こう呟いた。「いいお爺さんですよ、Pater familias.(一家の父です)」
大広間には、祈祷のために用意された卓のそばに、明らかに待ち受けの姿勢で、フョードル・ステパーヌイチと、頭蓋帽をいただいた司祭と、補祭とが立っていた。老人は、ユーリヤに手を与えただけで、一言も口を利かなかった。誰も彼も黙っていた。ユーリヤは鼻白んだ。
司祭と補祭とは法衣をつけはじめた。香炉が持ってこられて、その中から火花がばちばち散り、香と炭の匂いが漂った。蝋燭がともされた。番頭達が爪先立ちで広間へはいってきて、壁際へ二列に並んだ。静かだった。咳ひとつする者はなかった。
「神よ、祝福をたまえ」と補祭がはじめた。
祈祷式は、何ひとつ略さないで厳かに執行され、二つの讃歌――「妙なるイエスに、聖なる聖母に」が朗唱された。歌うたい達は楽譜にあるのだけを、いとも長々とうたった。ラープチェフは、先刻、妻が困ったような顔をしたことに気がついたので、讃歌が読まれ、歌うたい達がいろんな調子で、「主よ、憐れみたまえ」の三重唱を奏している間、ひとり心を緊張させて、いまにも老人が振り返って、「あんたは十字の切り方も知りなさらんな」などといったふうのことを言い出しはしまいかと、びくびくしていた。そして彼はいまいましくてならなかった――いったいこの群衆はなんのためか、なんのためにこんな坊主や歌うたいまで呼んで儀式張ったことをするのか。これはあまりに商人ふうであった。しかし彼女が、老人と一緒に福音書の方へ頭を突き出したり、何度も跪いたりしているのを見ると、彼も、こうしたことがすべて彼女の気に入っているらしいのを見てとって、ほっとした。
祈祷の終り近く、長祷の祈りのときに、司祭が老人とアレクセイに接吻させようとして、十字架を蔽うようにして、何か言いたげな顔付きをした。それで、歌うたい達にも、歌を中止するように手が振られた。
「預言者サムエル」と司祭は始めた――「主の命によってべツレへムに来たれり、街の長老達恐れ戦《おのの》きて問いけるは、――「預言者よ、汝の来れるは平和のためなりや?」預言者答えて言いけるは――「平和のためなり、われは神に犠牲を捧げんと来れるなり、汝等身を浄めて、今日われと共に楽しめ」さて、神の下僕《しもべ》ユーリヤよ、わたし達もあなたに尋ねなければなりませぬ、汝のこの家に来れるは平和のためなりや?……」
ユーリヤは、心の動揺から真赤になった。それを終ると、司祭は彼女に十字架を接吻させて、今度はもう全然別の調子で言った――
「さて、今度はフョードル・フョードルイチを結婚させなければなりませんな。もうそのときですよ」
歌うたい達がまたうたい出し、人々がごそごそ動き出して、騒がしくなった。感動した老人は涙を眼にいっぱい溜めて、三度ユーリヤを接吻すると、彼女の顔に十字を切って、こう言った――「ここはあんたの家だ、わしのような老人にはもうなんにもいらんでな」
番頭達はお祝いの挨拶を述べて、何やら言ったが、歌うたい達があまり大きな声でうたっていたので、さっぱり聞き分けられなかった。それから人々は朝食の卓に就いて、シャンパンを飲んだ。彼女は老人と並んで着席した。老人は彼女に向って、別居はよろしくない、同じ家に一緒に暮すようにしなければならぬということや、別居とか不和とかこそ、結局、破綻に導くものだということなどについて話してきかせた。
「わしは財産をこしらえたが、子供達は使う一方だ」と彼は言った。「これからはあんたがわしと同じ家にいて、大いに儲けて下さい。わしはもう年寄りだから、そろそろ休んでいい時分だ」
ユーリヤの眼の前には、夫に生写しではあるが、ずっとよく動く、ずっと内気らしいフョードルの姿が、のべつちらちらしていた。彼は絶えず四辺をうろうろして、しばしば彼女の手に接吻するのだった。
「ねえ姉さん、わたし達はただの人間なんですよ」と彼は言った。彼の顔には赤い斑点が現われた。「で、わたし達は普通に、キリスト教徒らしく、ロシアふうの生活をしているんですよ、姉さん」
家へ帰ると、ラープチェフは、万事が無事に終り、案じたようなことが何ひとつ起こらないで済んだのにいたく満足して、妻に言った――
「お前は、あんなに頑丈な、肩幅の広い親父に、僕やフョードルのような、こんな背の低い、胸の弱そうな子供のできたのを不思議に思ってるだろう。そうなんだよ、だがこれも、実は当然のことなのさ! なにしろ親父が母と結婚したのは、親父は四十五で、母はたった十七のときだったんだからね。母は親父の前に出ると、いつも真蒼になって、ぶるぶる震えていたものなんだ。ニーナは総領で、母がまだ比較的丈夫な時分に生れたのだ、だから、僕達よりは丈夫でもありゃ、綺麗でもあった。ところが、僕とフョードルとは、母がもう絶え間のない恐怖にすっかり痩せ衰えてから妊娠して生れた子だ。忘れもしないが、親父が僕の躾《しつ》けをはじめたとき、つまりもっと簡単に言えば、びしびし打ちはじめたときには、僕はまだ五つにもなってなかったくらいだからね。親父は僕をムチで打ったり、耳を引っ張ったり、頭をぶんなぐったりしたので、僕は毎朝眼をさますとすぐ、何よりさきに、――今日も打たれるんじゃないか? こう考えたものさ。遊んだりいたずらしたりすることは、僕にもフョードルにも厳禁だった。僕達は、朝拝にも、早いミサにも行かなければならなかったし、坊さん達の手に接吻したり、家で讃歌を読んだりもしなければならなかった。お前は信心深くて、こうしたことが好きだからいいが、僕ときたら、宗教を恐れてる方だからね、今でも教会のそばを通ると、子供時分のことが思い出されて、気味がわるくなるくらいだよ。それから僕は、もう八つのときから倉庫へ連れて行かれたんだよ。そして、ただの小僧のように働かされたのだが、そこでも毎日のようにびしびしどやしつけられたので、すっかり健康を害《そこ》ねてしまった。その後、中学へ入れられてからは、昼までは学校にいたけれど、昼から夕方までは、いつも同じ倉庫内に、じっと腰掛けていなければならなかった。これが、僕の二十二になるまで、つまり僕が大学でヤールツェフと知り合いになるまで続いたんだ、この男が僕に、親父の家を出てしまえと勧めてくれたんだからね。なにしろこのヤールツェフは、僕に随分いろいろ尽してくれたよ、だからね」ラープチェフはこう言いさして、満足のあまり笑い出した――「これからすぐひとつ、ヤールツェフを訪問しようじゃないか。なにしろいい男だからね! 行ったらどんなに感激してくれるだろう!」
七
十一月のとある土曜日に、アントン・ルービンシュタインが、交響楽の指揮をした。非常な聴衆で、暑苦しかった。ラープチェフは円柱の背後に立っていたが、彼の妻とコスチャ・コチェウォーイとは、ずっと前の方、三列目に陣どっていた。幕間になってすぐ、彼のそばを、全く思いがけなく、例の「ある婦人」ポリーナ・ニコラーエヴナ・ラズスーヂナが通りかかった。結婚以来、彼はよく不安な思いをして、起り得べき彼女との邂逅について考えた。で、今、彼女が真向からひたと自分に見入ったときには、彼は、自分が今日まで彼女と話し合いをつけようとも、友達としてせめて二三行の手紙を書こうともしないで、まるで彼女から逃げ隠れでもしていたようであったことを思い出し、恥かしさに真赤になった。彼女は烈しく彼の手を握りしめて、尋ねた――
「あなた、ヤールツェフにお会いになって?」
そして、返事は待たずに、まるでうしろから誰かに衝き飛ばされでもしたように、大股に歩いて、いっさんに向うに行ってしまった。
彼女は恐しく痩せた、不器量な、鼻の長い女であった。彼女は年じゅう、疲れ悩んだような顔をしていて、眼をあけて倒れないでいるのが、大変な骨おりででもあるように見えた。彼女の眼は黒く美しく、その表情は聡明で、善良で、誠実であったが、動作はとげとげしく、厳しかった。彼女と話をするのは容易でなかった、なにしろ、落ちついて聞くこと話すことのできない性分だったから、彼女を愛することも同様容易でなかった。ラープチェフと差し向いになっても、彼女は両手で顔を隠し、いつまでも笑っている。そして彼女にとっては恋は生活の重要事でないことを力説して、まるで十七の少女のような澄まし方をするので、彼女と接吻するには、まずもって蝋燭を全部消してしまわなければならないのだった。そして生活の糧《かて》は、音楽の教授や、四部合奏に出たりして得ているのだった。
第九交響楽の間に、彼女はまた偶然来合せたような顔をしてそばを通りかかった。が、円柱のうしろに厚い壁のように立っていた男の群衆が彼女を通さなかったので、彼女はそこに立ちどまった。ラープチェフは、彼女の身に相変らず、彼女が去年も一昨年も音楽会に着ていたと同じビロードのジャケットがまとわれているのを見た。手袋は新らしく、扇も同様新らしかったが、安物だった。彼女は着飾ることが好きであったが、それだけの腕もなかったし、またそれにかける費用を惜しんだので、いつも碌《ろく》でもない衣装を、だらしなく付けていた。だから、彼女が出教授にと急いで大股に街路を歩いているところなどは、若い尼僧ででもあるように見られがちであった。
聴衆は拍手して、Bis を叫んだ。
「あなた、今日はひと晩わたしに付きあって下さるわね」とポリーナ・ニコラーエヴナは、ラープチェフの傍へ歩み寄って、きっとした目付きで彼を見ながら言った。「ここからまっすぐご一緒に、お茶を飲みに行きましょう。いいこと? わたしそれを要求しますよ。あなたはわたしにどっさり義理がおありなんですから、これくらいのことを拒否する道徳上の権利はお持ち合せにならない筈よ」
「よろしい、行きましょう」とラープチェフは同意した。
交響楽が終ると、際限のない喝采がはじまった。聴衆は席から立ちあがって、恐ろしくのろのろと退場しはじめたが、ラープチェフは、妻に断らないでは外へ出ることができなかった。戸口に立って、待っていなければならなかった。
「わたしお茶が欲しくてたまらないわ」とラズスーヂナは訴えた。「胸がやけるようだわ」
「ここだっていくらでも飲めますよ」とラープチェフは言った。「食堂へ行きましょう」
「だって、わたしにゃ、給仕にやるお金がありませんよ。わたしは商人のお上さんじゃありませんものね」
彼は彼女に腕を貸そうとしたが、彼女は、これまでに彼がもうたびたび聞いたこと、すなわち、彼女は自分を弱い美しい性に属しているものとは考えていないこと、従って紳士のサーヴィスを必要としないことについての、飽き飽きする長いせりふを並べて、謝絶した。
彼と話をしながら、彼女はのべつ聴衆の方を振り返っては、知人達と挨拶をかわした。それは、ゲーリエ女学校と音楽学校の同僚や、彼女の男女の生徒達であった。彼女は、彼等の手を強く、まるで引き抜こうとでもするように烈しく握った。が、やがて彼女は、熱病にでもかかったように肩をひきつらせたり、ふるえ出したりして、遂に、恐怖に満ちた眼でラープチェフを見ながら、小声で言い出した――
「あなたはいったい誰と結婚なすったの? あなたの眼はどこについてるんです、あなたはまるで気違いね? あのお馬鹿さんみたいな、つまらない娘のどこに何を見つけたのさ? わたしがあなたを愛したのは、知恵に対してですよ。心に対してですよ。ところが、あの陶器人形に入用なのは、ただあなたのお金だけじゃありませんか!」
「その話はもうよしましょうよ、ポリーナ」と彼は祈るような声で言った。「僕の結婚についてあなたにいえるだけのことは、僕自身もう何度自分に言い聞かせたか知れないことです……どうか。余計な苦痛の種になるようなことは言わないで下さい」
ユーリヤ・セルゲーエヴナが黒い衣装に大きなダイヤのブローチを輝かして出て来た。そのブローチは、祈祷式の後で、舅《しゅうと》が彼女に贈ったものであった。彼女の後には、その随伴者達――コチェヴォーイと、ふたりのドクトルと、将校と、姓をキーシという、学生服を着た、ふとった若い男とが従っていた。
「お前はね、コスチャと一緒に帰ってくれ」とラープチェフは妻に言った。「僕はすこし遅れて帰るから」
ユーリヤはうなづいて、さっさと歩いて行った。ポリーナ・ニコラーエヴナは、全身をふるわせたり神経的に肩をすくめたりしながら、彼女を見送った。その眸《まなこ》は、嫌悪と、憎悪と、苦痛とに満たされていた。
ラープチェフは、不愉快な口説や、皮肉や、涙を予感して、彼女の家へ行くことを恐れていたので、どこかその辺のレストランへ、お茶を飲みに行くことを提議した。しかし彼女は言った――
「いいえ、いいえ、わたしの家へまいりましょう。わたしの前でレストランなんてことを言うもんじゃありません」
彼女はレストランへ行くことを好まなかった。彼女にはレストランの空気が、煙草や男の呼吸で毒されているような気がしていたからである。すべての未知の男に対して、彼女は奇妙な先入観を抱き、彼等はみないつ何時でも彼女に襲いかかることのできる放蕩者のように考えていた。そればかりでなく、レストランの音楽という奴がまた、頭が痛くなるほど彼女を苛立たせるのであった。
貴族会館を出ると、彼等はオストゼンカで辻ぞりをひろって、ラズスーヂナの住んでいたサヴェローフスキイ横町へと走らせた。みちみちラープチェフは彼女のことばかり考えていた。実際、彼は彼女に負うところが多かった。彼が彼女と知り合ったのは、彼女に音楽のセオリーを習っていた友人ヤールツェフの許でだった。彼女は強く、全く無欲|恬淡《てんたん》に彼を愛し出したので、彼と一緒になってからも、自分は出教授をやめないで、それまでどおり、くたくたになるまで働きつづけた。彼女のおかげで、彼は、それまではほとんど無関心だった音楽に対して、理解と愛とを持ちはじめたのだった。
「わたし、今ならお茶一杯に国を半分でも出しますわ」彼女は、風邪をひかないようにマフで口をおおいながら、うつろな声でこう言った。「わたし今日も五軒教えに行って来たのよ、ほんとにいやになってしまう! 生徒達が揃いも揃ってぼんくらの木偶《でく》の坊で、わたしもう苛々して死にそうになっちゃったわ。おまけに、この懲役は、いつになったら終ることやら、皆目見当もつかないんですものね。がっかりしてしまいましたよ。わたし、三百ルーブリたまったら、何もかもほうり出して、さっそくクリミヤへ飛んで行くわ。そして海岸に寝ころんで、思うさま酸素を吸うんですわ。ああ、わたしはどんなに海が好きでしょう!」
「あなたにどこへ行けるものですか」とラープチェフは言った。「第一に、あなたにゃ一文だってたまる筈がないし、第二に、あなたは|けち《ヽヽ》だからさ。失敬だけど、僕はもう一度繰り返して言いますよ――いったい、その三百ルーブリという金を、暇つぶしにあなたから音楽を教わっている有閑人から絞り取って、それを一文ずつためることが、あなたの友達から借りるより、はたして卑しくないことですかね?」
「わたしには友達なんかありませんよ!」彼女は苛々してこう言い放った。「どうぞ、そんなつまらないことは言わないで頂戴。わたしもそれに属している勤労階級には、一つの特権がありますわ――つまり自分の清廉潔白の意識、商人のお上さんなどに借金しないで、それを軽蔑してやる権利ですわ。駄目なことですよ、あなたなどに買収されはしませんよ! わたしはユーリチカじゃありませんからね!」
ラープチェフは馭者に払おうともしなかった。そんなことをしようものなら、もうこれまでにさんざん聞かされた紋きり型の凄まじい奔流を誘い出すようなものだったからである。で、彼女が自分で払った。
彼女は、ある独身婦人の住居の一室を、家具と賄《まかな》いつきで借りていた。彼女のべッケル式の大型ピアノは、今のところバリシャヤ・ニキートスカヤ街にあるヤールツェフの許に預けてあったので、彼女は毎日そこへ弾きに通っていた。彼女の部屋には、カヴァーをかけた数脚の肘掛椅子と、真白な夏蒲団をかけた寝台と、女主人の花などがあり、壁には油絵ふうの石版画がかかっているだけで、ここが女の、高等教育を受けた女性の住居であることを思わせるようなものは一つとしてなかった。化粧卓ひとつ、書物一冊、書卓一脚すらなかった。どうやら彼女は、家へ帰ってくればすぐ床につくし、朝起きればすぐ出かけて行くものと思われた。
女中がサモワールを運んで来た。ポリーナ・ニコラーエヴナはお茶をいれて、なお依然としてぶるぶるふるえながら――部屋の中が寒かったのである――第九シンフォニーでうたった歌手達を罵りはじめた。彼女の眼は、疲労から自然に閉じた。彼女はまず一杯のお茶を飲み乾し、やがて二杯、さらに三杯目を飲み乾した。
「すると、あなたはもう奥さんもちなのね」と彼女は言った。「だけど、ご心配には及びませんよ、わたしは気を腐らせたりなんかしませんからね、自分の心からあなたをもぎ取るくらいのことはこれでもできますからね。ただ、あなたがほかのみんなと同じように与太者だったこと、女性の中であなたに必要だったものが知識でもなければ、理性でもなくて、肉体や、美や、若さだったということが、情けなく、いまいましいだけですよ……若さ!」彼女は、誰かの口真似でもするように、鼻にかかった声で言って、笑い出した。「若さ! あなたには純潔が必要だったのね、Reinheit! Reinheit!(純潔)と彼女は、肘掛椅子の背に身を投げかけながら笑い出した。「Reinheit!」
彼女が笑いやんだとき、その眼は涙ぐんでいた。
「あなたは幸福でしょう、少なくとも?」と彼女は訊いた。
「いいや」
「あの女はあなたを愛していて?」
「いいや」
ラープチェフは心を乱されて、自分を不幸に感じながら、立ちあがると、室内をあちこち歩きはじめた。
「いいや」と彼は繰り返した。「僕はね、ポリーナ、あなたが知りたいなら言いますが、非常に不幸なんですよ。しかし、どうしたらいいのです? 馬鹿な真似をしてしまったので、いまさら取り返しはつきませんよ。哲学者のような態度をとっているほかないのです。あれは愛なしに、愚かにも、あるいは打算的な気持もあったかも知らぬが、しかしよく考えもせずに、僕の妻になったので、今では確かに、自分の過ちを意識して苦しんでいます。僕にはそれがよくわかっている。僕達は夜は一緒に寝るが、昼はあれは、五分間でも僕とふたりきりになることを恐がって、気散じを求めたり、社交を求めたりしています。あれには、わたしと一緒にいることが、恥ずかしくもあり恐ろしくもあるらしいのです」
「でも、お金はやっぱりあなたから取っているんでしょう?」
「馬鹿なことを。ポリーナ!」とラープチェフは叫んだ。「あれが僕から金をとるのは、あれにとっては、それがあろうと無かろうと、断じて同じだからですよ。あれは正直な、純潔な人間です。あれが僕と結婚したのは、ただ父親の許を離れたかったからです、それだけですよ」
「じゃああなたは、あなたが金持でなくっても、あの女はあなたと結婚したと信じてらっしゃるの?」とラズスーヂナは訊いた。
「僕はなんにも信じていません」とラープチェフは憂鬱そうに言った。「なんにも、ぼくはなんにもわからないのです。後生です、ポリーナ、この話はもうよしましょう」
「あなたはあの女《ひと》を愛してらっしゃるの?」
「滅茶苦茶に」
そこで沈黙が来た。彼女は四杯目のお茶を飲んだが、彼は歩きながら考えていた、今ごろ妻は多分ドクトル倶楽部で、夜食をしたためているだろうと。
「だっていったい、なんのためということを知らないで、人を愛することができるでしょうか?」とラズスーヂナは訊いて、肩をすくめた。「いいえ、それは動物的情欲よ! あなたは酔払ってるのよ! あなたはあの美しい肉体と、あの Reinheit に毒されてしまったのよ! さ、もうあっちへ行って頂戴、あなたなんか忌わしい! さっさとあの女《ひと》のところへいらっしゃい!」
彼女は、彼に向って片手を振ってから、彼の帽子を取って、彼の方へ投げた。彼は黙って毛皮外套を着ると、そこを出た、が、彼女は玄関へ駆け出して、痙攣的に彼の腕の肩のあたりを押さえながら、泣き出した。
「よして下さい、ポリーナ! 沢山です!」と彼は言ったが、彼女の指を放すことは、どうしてもできなかった。「落ちついて下さい、お願いです!」
彼女は眼を閉じて、真蒼になった。と、その長い鼻が、まるで死人のような、いやな、蝋のような色になったが、それでもまだラープチェフは、その指を放すことができなかった。彼女は失神していたのだった。彼は注意深く彼女を抱き上げて、寝床の上へ寝かしてやり、彼女が正気に帰るまで十分ばかり、その傍に掛けていた。彼女の手は冷たく、脈は弱く、不整であった。
「さ、帰って頂戴」と彼女は、眼を開くとともに言った。「さ、行って頂戴、さもないと、わたしまた泣き出すから。わたし自分をしっかり掴んでなきゃいけませんから」
彼女の許を出ると、彼は、仲間の者が待っている筈のドクトル倶楽部へではなく、家の方へ歩き出した。途中ずっと彼は、責めるような気持で自問していた――自分をこんなに愛しているばかりか、事実上すでに妻であり伴侶であったこの女と、どうして家庭を作らなかったのだろう? これこそ、彼に結びつけられていた唯一の人ではなかったか、のみならず、この聡明で、誇り高く、仕事に疲れきっている人間に、幸福と、棲み家と、平安を与えることが、果して、尊ぶべく価値ある仕事ではなかっただろうか? 第一、これが自分に似つかわしいことだろうか――彼は自問し続けた――美や青春や、このあり得べからざるような幸福、まるで罰か嘲笑ででもあるように、現にもう三月も彼を陰鬱な、押しつけられたような状態に抑留している幸福に対するこうした要求が? 蜜月は既に遠く過ぎ去ったが、しかも、彼はまだ、言うもおかしいことであるが、自分の妻がどんな人間であるかを知らないでいるのだ。彼女は、自分の学校友達や父には、五枚も続くような長い手紙を書いても、なお書くことがあるのだが、彼とはただ天気のことや、もう昼飯のときだとか夜食のときだとかいうこときり話すことを持たないのである。彼女が就寝前に長いこと神に祈ったり、それから、自分の十字架や聖像に接吻したりしているときには、彼は彼女を見やりながら、憎悪をもって考える――〈ほら、あれはまだ祈っている、いったい何を祈っているのだろう? なんだろう?〉彼は、彼女との抱擁によって、自分は払っただけのものを取っているのだと、腹の中で彼女と自分とを侮辱したが、これは恐しいことであった。せめて相手が、健康で大胆な、罪深い女ででもあればとにかく、そこにあるものは、若さと、信心深さと、温順と、汚れを知らぬ清らかな眼ではないか……彼女がまだ許嫁だった時分には、彼女の信心深さは彼を感動させたものであるが、今ではこの見解と信念の制約的な堅苦しさが、彼には、そのかげに真の真理の隠されている関所のように思われるのだった。彼の家庭生活においては、既に一切のことが苦痛であった。彼と並んで劇場に席を占めていて、妻が溜息をついたり心から笑ったりするときには、彼女が自分ひとり笑っていて、その喜びを彼とわかとうとしないのが、彼には辛かった。ことに注意すべきは、彼女は、彼の友人のすべてと親交を結び、彼らはみなもう彼女がどんな人間であるかを知っているのに、彼ひとりなんにも知らないで、ただ憂鬱になり、黙って嫉妬を感じていることであった。
家へ帰ると、ラープチェフは部屋着を着、スリッパをはいて、小説を読むべく自分の書斎に座を占めた。妻は家にいなかった。しかし三十分もしないうちに、玄関でべルが鳴り、扉を開けに駆け出して行くピョートルの足音が鈍く聞えた。それはユーリヤであった。彼女は、寒さから頬を真紅にして、毛皮外套のまま書斎にはいって来た。
「プレースニヤが大変な火事よ」と彼女は息をはずませながら言った。「恐しい空焼けですわ。わたしこれから、コンスタンチン・イワーヌイチと一緒に見に行って来ますよ」
「気をつけておいで!」
彼女の健康と、新鮮と、その眼付きに浮かんでいた子供らしい恐怖の色とが、ラープチェフの心を落ちつかせた。彼は、なお三十分ばかり読んでから、寝に就いた。
翌日ポリーナ・ニコラーエヴナは、いつか彼から借りた本を二冊と、彼の手紙と写真とを、倉庫の方へ届けてよこした。それには、ただ一語だけを書いた紙片が添えてあった――「終り!」
八
十月の末にはもう、ニーナ・フョードロヴナの病気の再発が決定的になった。彼女はみるみる痩せ衰えて、相好《そうごう》まで変ってしまった。烈しい痛みにもかかわらず、彼女はもう快方に向っているものと考えて、毎朝健康な人のように着がえをし、それから終日、服を着たまま寝台に寝ていた。そして終りに近づくに従って、非常に話し好きになった。仰向けに寝たまま、夢中になり、苦しそうな息をつきながら、何かと小声で話すのだった。彼女は次のような状況のもとに、不意に死んでしまったのである。
それは晴れわたった、美しい月夜であった。街路には新雪の上を小ぞりが滑り、人声や物音が部屋の中まで聞えて来ていた。ニーナ・フョードロヴナは床の中に仰向けに寝ていたし、もう代わり手のなかったサーシャは、その傍に腰掛けて、居眠りをしていた。
「わたしはあの人の父称は覚えていないの」と、ニーナ・フョードロヴナは静かに語るのだった――「けれど、名前はイワンといったし、苗字はコチェヴォーイ、貧乏なお役人だったのよ、大変な酒飲みだったのさ――天国に行かれますように。その人はよくうちへ来たので、わたし達は毎月その人に、砂糖を一斤とお茶を四半斤ずつ上げていたの。ええ、そりゃ、お金で上げたこともあるのよ、もちろん。そう……そのうちにね、こんなことが起こったの――このコチェヴォーイという人がね、無茶飲みをやって、そのまま死んでしまったのさ、つまり、ウォーッカに焼かれてしまったわけね。それで、その後へ、七つになる男の子がひとり残ったの。孤児ね……そこで、わたし達がその子を引き取って、番頭達のところへかくまっておいたの。で、その子は、一年そこにいたけれど、うちのお父さんはなんにもご存じなかったのよ。だけど、お父さんは初めてその子を見たときにも、ただ片手を振っただけで、なんとも仰しゃらなかったわ。こうして、この孤児のコスチャが九つになったときに――そのときわたしはもうここへお嫁にくる約束が出来ていたの――わたしがその子を方々の学校へ連れて廻ったの。あっちこっちとね、でも、どこでも入れてくれないの。で、あの子は泣き出してしまうしね……『なんだって泣くのさ、お馬鹿さんね?』わたしはこう言って叱りながら、その子をラズグリャーイの第二学校に連れて行ったらね、いいあんばいに、そこで引き受けてくれたのさ……で、その子は毎日、ピャトニーツカヤからラズグリャーイへ、ラズグリャーイからピャトニーツカへと歩いて通いだしたの……お金はアリョーシャが出してくれてね……ところが、有難いことに、その子は勉強がよく出来てね。とうとう立派な人になったのよ……今ではモスクワで弁護士をして、アリョーシャのお友達になっているわ。同じように立派な学者になってね。こうしてわたし達が、決して人を軽蔑しないで、あの人を自分の家へ引き取ってやったればこそ、今ではあの人が、きっとわたし達のために神様にお祈りしてくれているのよ……そうよ……」
ニーナ・フョードロヴナは次第に声を細くして、長い間《ま》をおきながら話すようになったが、そのうちにちょっと黙ったと思うと、急に起きあがって座った。
「わたしなんだか変になってきた……なんだかいやな気持」と彼女は言った。「神様、お憐れみ下さい! ああ息が苦しい!」
サーシャはかねて、母親が間もなく死ぬに違いないことを知っていた。今、母の顔がにわかにげっそり痩せたようになったのを見ると、彼女はいよいよ最後の時の来たことを察して、ぎょっとした。
「お母さん、死んじゃいや!」と彼女は泣き出した。「死んじゃいやよう!」
「お台所へ行ってね、お父さんを呼びにやっておくれ、苦しくてたまらないから」
サーシャは部屋部屋を走り廻って、呼び立てたが、家じゅうにひとりの召使いもいず、ただ食堂の箱の上で、リーダが服のまま、枕もなしに眠っているだけであった。サーシャはそのまま、オーヴァーシューズもはかないで外へ、それから街路へ駆け出した。門の外のベンチに乳母が腰掛けて小ぞり遊びを眺めていた。そりすべり場のある河の方からは、軍楽隊の奏楽の音が響いて来た。
「乳母や、お母さんが死にそうよ!」と、サーシャは泣きながら言った。「お父さんを呼びに行かなくちゃ!……」
乳母は二階の寝室へ飛んで行き、病人の様子をひと眼見ると、その手に火をつけたロウソクを持たせてやった。サーシャはおろおろと駆け回って、相手の見きわめもなく父を呼びに行ってくれと頼んでいたが、やがて、外套を着、肩掛けをかぶると、街路へ駆け出した。召使いの口から、かねて彼女は、父にはもうひとり別の妻と、ふたりの女の子があり、父はその人達とバザールナヤ街に住んでいるということを聞き知っていた。彼女は門から左の方へ、泣きながら、見知らぬ人を恐れながら、駆け出した。そして間もなく、雪の中へ沈んで、凍えはじめた。
向うから空《から》の辻ぞりが来たが、彼女はそれには乗らなかった――うっかりそんなものに乗ろうものなら、街の外へ連れ出されて、身ぐるみ剥がれ、墓地へ放り出されてしまうだろう(お茶のときに、女中がそんな話をしたことがある)、彼女は疲れからぜいぜい息を切らして泣きながら、どこまでもどこまでも歩いて行った。バザールナヤ街へ出ると、彼女はこの辺にパナウーロフさんという人が住んでいるかと尋ねた。どこかの見知らぬ女が長いこと説明してくれたが、彼女が一向に呑み込めそうにないのを見てとると、その手をとって、車寄せのある平屋建ての家へと連れて行った。入口は戸締りがしていなかった。サーシャは玄関を駆け抜け廊下を通って、遂に明るい暖かい部屋の中に入った。そこにはサモワールを前にして、彼女の父と、ひとりの婦人と、女の子がふたり座っていた。しかし、彼女は最早一言も口を利くことができなくて、ただおいおいと泣き出した。パナウーロフは事態を察した。
「きっと、お母さんが悪いんだね?」と彼は訊いた。「えっ、どうなんだい――お母さんが悪いんだろ?」
彼はあたふたし出して、そりを呼びに人を走らせた。
彼女が家へ着いたときには、ニーナ・フョードロヴナは片手にロウソクを持ち、クッションに身を支えられながら座っていた。顔は暗い色を帯び、眼はもう閉じられていた。寝室の中には、乳母をはじめ炊事女、小間使い、下男のプロコーフィーなどのほかに、顔馴染みのない近辺の人達が、戸口に群がって立っていた。乳母は、囁き声で何やら命じていたが、誰もそれを解する者はなかった。部屋の奥の方の窓際に、真っ蒼な寝ぼけ顔のリーダが立っていて、そこから、厳しい目つきで母親を見ていた。
パナウーロフは、ニーナ・フョードロヴナの手からロウソクをとり、気むずかしげに眉をひそめて、箪笥の上へ投げ出した。
「実に恐ろしいことだ!」と彼は言った。彼の肩はわなわな震え出した。「ニーナ、お前寝てなくちゃ駄目だよ」と彼は優しく言った。「さ、お寝よ、ね」
彼女は彼を見たが、もう彼がわからなかった……彼女は仰向けに寝かされた。
司祭とドクトル・セルゲイ・ポリースイチが来たときには、下婢はもううやうやしく十字を切って、彼女を弔っていた。
「ああああ、実になんということだ!」ドクトルは客間へ出て来ながら、思いあまったような調子で言った。「まだあんな若い身空で、四十にもならないで」
小さい女の子達の高い慟哭の声が聞こえた。真青になって、泣き濡れた眼をしたパナウーロフは、ドクトルのそばへ近づいて、弱々しい、疲れきったような声で言った――
「先生、まことに恐縮ですが、モスクワへ電報を打って下さいませんか。わたしにはどうしてもその力がない」
ドクトルはインキを持って来て自分の娘宛にこういう電報を書いた――「パナウーロフ夫人、今夜八時死す。夫に伝えよ――ドゥヴォリヤンスカ街に肩代わりの売家あり、追加金九千、競売十二日。好機を逃すな」
九
ラープチェフは、スタールイ・ピメンから程遠からぬマーラヤ・ドミトローフカの横町のひとつに住まっていた。街路に面した大きな家のほか、彼は、自分の友人コチェヴォーイのために、同じ構え内の二階建ての翼屋を借りていた。コチェヴォーイは、ラープチェフ一家の庇護の下に人となった男で、そのためラープチェフ一家の者からは、単にコスチャと呼ばれていた弁護士補であった。この翼屋と向き合って、もう一軒、同じ二階建ての翼屋があって、そこには、夫婦に娘五人というフランス人の家族が住まっていた。
零下二十度という寒さであった。窓は一面霜で蔽われていた。朝、眼をさますと、コスチャは心配そうな顔付きをして、何かの薬を十五滴ばかり飲み、ついで本箱から鉄亜鈴を二つ取り出して、体操をはじめた。彼は、大きな人参色の口髭をはやした、背の高い、ひどい痩せっぽちであった。しかし、彼の外観のうちで一番眼に立つもの――それは彼の並はずれて長い脚であった。
中年輩の百姓で、深い長靴のなかへ押し込んだ更紗ズボンに背広服といういでたちのピョートルが、サモワールを運んで来て、お茶をいれた。
「今日は大変いいお天気でございますね、コンスタンチン・イワーヌイチ」と彼は言った。
「そう、いいお天気だ、ただ残念なのは、なんだな、兄弟、お前とおれとの生活は、大していいともいえないな」
ピョートルは、礼儀を思う心から溜息をついた。
「女の子達はどうしている?」とコチェヴォーイは訊いた。
「神父さまがお見えになりませんでしたので、アレクセイ・フョードルイチが、ご自分で教えていらっしゃいますだ」
コスチャは、窓ガラスの上に一ヶ所氷の張っていないところを見つけ、そこから望遠鏡で、フランス人の一家の住んでいる窓をのぞきはじめた。
「見えんわい」と彼は言った。
このとき階下では、アレクセイ・フョードルイチがサーシャとリーダに聖書を教えていた。彼女達がモスクワへ引き取られて、この翼屋の階下に自分達の女家庭教師と住むようになってから、早くも一ヶ月半になっていた。そして、彼等の許へは週に三度、市立小学校の教師と、司祭とが教えに来ているのだった。サーシャはもう新約聖書をやっていたが、リーダはまだ、旧約聖書をはじめたばかりだった。そしてこの前のときにリーダには、アブラハムまでをよくさらっておくようにと、言いつけられていたのである。
「こうして、アダムとイヴにはふたりの息子があった」とラープチェフは言った。「よろしい。だが、その名前はなんと言ったかね? 言ってごらん!」
リーダはいつものとおり、硬《こわ》ばったような顔をして、じっと卓を見つめたまま黙っていた。そして肩だけをむずむず動かしていた。姉のサーシャは彼女の顔を見て、身悶えしていた。
「お前はよく知っているんだが、ただおじけるのがいけないんだよ」と、ラープチェフは言った。「さ、アダムの息子達はなんという名だったかね?」
「アヴェルとカヴェル」と、リーダは呟いた。
「カインとアヴェルだよ」と、ラープチェフは訂正した。
リーダの頬を大粒な涙が伝って、書物の上へぽたぽたと落ちた。サーシャも同じようにうなだれて、泣きそうな顔をして真赤になった。ラープチェフは不憫がさきに立って、もう口を利くこともできなかった。涙が咽喉をふさいでしまった。彼は卓の前を立って、巻き煙草に火をつけた。このとき二階からコチェヴォーイが、新聞を手にしておりて来た。少女達は立ちあがると、彼の方は見ないで、右脚を後へひいて膝を屈める古風な礼をした。
「コスチャ、お願いだ、ひとつ君、この子達の日課を見てやってくれたまえ。僕はこっちが泣き出しちまいそうで駄目なんだよ。それに僕は、午《ひる》までに倉庫へ行かなくちゃならないんでね」
「よろしい」
アレクセイ・フョードルイチは出て行った。コスチャはひどく真面目な顔をして、眉をひそめ、卓の前に腰をおろすと、聖書を手許へ引き寄せた。
「さてと?」と彼は訊いた。「今どこをやっているの?」
「リーダはね、洪水のことは知ってるの」とサーシャが言った。
「洪水のこと? よろしい。じゃ洪水のことをよくやりましょうね。じゃ洪水からはじめよう」とコスチャは、書物の中の洪水の簡単な記述にざっと眼を通してから、言った――「ここであんた方に言っておかなければならぬのはね、こんな、ここに書いてあるような洪水は、実際にはなかったのだということですよ。それから、ノアのような人だって、決していやしなかったんです。キリストの生れる何千年か前に、この地球に大変な大水の出たことはあった。このことは、ユダヤの聖書ばかりでなく、ほかの古い国民、例えば――ギリシャ人とか、カルデア人とか、インド人とかの本の中にも書いてあるのです。しかし、たとえどんな大水だったにしろ、それが地球全体を浸す筈はないからね。そりぁ平地は水浸しになったろうが、山はきっと残っただろうからね。あんた方はこの本を読むのはよろしい、けれど、そっくりそのままほんとうだと思ってはいけないのだよ」
リーダの頬には、またしても涙が流れ出した。彼女は顔をそむけて、急に大声でわっと泣き出したので、コスチャはびっくりして、すっかりまごついて椅子から立ちあがった。
「あたしお家へ行きたいの」と彼女は言い出した。「お父さんや乳母《ばあ》やんとこへ」
サーシャも一緒になって泣き出した。コスチャは二階の自分の部屋へ戻って、ユーリヤ・セルゲーエヴナに電話をかけた――
「ああもしもし、小さい連中がまた泣いてるんです、どうにも手がつけられません」
ユーリヤ・セルゲーエヴナは、服の上へ毛糸の肩かけをひっかけただけで、寒さに身を縮めながら母屋から駈けて来て、少女達をなだめはじめた。
「あたしを信じてね、信じてね」と彼女は、ふたりをかたみ代りに抱きしめながら、祈るような声で言った――「今日はお父さんがいらっしゃいますからね、ちゃんと電報が来たんですから、あんた方はお母さんのことを泣いているんでしょう、あたしもそうなのよ。まるで胸が裂けるようだわ、だけどどうしましょう? 神様の思《おぼ》し召しにそむくわけにはゆきませんものね!」
少女達が泣きやむと、彼女は二人をすっぽりとくるんでやって、ドライブに連れ出した。初め彼女達は、マーラヤ・ドミトローフカを走り、それからストラーストヌイの傍を通って、トヴェルスカーヤ街へ出た。イーヴェルスカヤの礼拝堂付近でそりを止め、蝋燭を上げて、跪いてお祈りをした。帰りに彼等はフィリップへ寄り、バターのはいらないケシの実のついたドーナツを食べた。
ラープチェフ家では二時過ぎに午食をした。給仕はピョートルがした。このピョートルは、昼のうちは郵便局へ行き、倉庫へ駆けつけ、コスチャのために地方裁判所へ走り使いをし、宵のうちは内職の煙草を巻き、夜半にはたびたび扉をあけに駆けつけ、朝の四時にはもう暖炉を燃しつけるという工合で、誰も、彼がいつ寝るのか知る者はなかった。彼はゼルテル水の壜《びん》の栓を抜くのが非常に好きで、それをまた器用に、音もたてず一滴もこぼさないで、手際よくやってのけるのだった。
「やれやれ、有難い!」コスチャは、スープの前にウォーッカを一杯やりながら言った。
初めのうちコスチャは、ユーリヤ・セルゲーエヴナの気に入らなかった。彼のバスや、追い払うだの、鼻面をぐわんとやるだの、けちな野郎だの、サモワールをご覧に入れろだのという言葉遣いや、すぐコップを合わせて乾杯したり、飲むときに感傷的なことを言ったりする癖が、いかにも月並に思われたのだった。が、だんだんよく知るに従って、彼のそばにいると、非常に安易な気分を覚えるようになった。彼は、彼女に対し極めて素直で、毎晩彼女を相手に、小声で何かと話すことを好み、それまでは、ラープチェフやヤールツェフのような親友達にさえ隠していた自作の小説まで、彼女には読ませたりするのだった。彼女は、それらの小説を読むと、彼を失望させないために、ほめた。彼は、早晩有名な作家になりたいと思っていたので、非常にそれを喜んだ。彼は、田舎というものを見たことはごく稀で、ただ知人の別荘に滞在したときや、裁判上の用件でウォロコラームスクへ赴いたときなどに、生れて初めて地主の荘園に住んだことがあるきりだったのに、その小説の中では、田舎や、地主の荘園だけを書いていた。恋愛的要素を彼は、羞《はに》かんででもいるように避けて、しばしば自然描写をやり、その場合には、山々の気まぐれな輪郭とか、奇跡的な雲の形とか、神秘な韻律の諧調とかいったふうの表現を用いることが好きであった……彼の小説は、どこでもまだ印刷に付されたことはなかったが、彼はそれを、検閲のせいだと言っていた。
弁護士の仕事は彼の気に入っていたが、でもやはり、自分の一番大切な仕事は、弁護士ではなく、これらの小説だと思い込んでいた。自分は繊細な、芸術的な体質なので、つい芸術へ心を惹かれるのだという気がしていたのである。彼自身は、歌ひとつうたいもしなければ、どんな楽器を弄《もてあそ》んだこともなく、言葉に対する耳など全然持たなかったにもかかわらず、どんな交響楽会にも、素人音楽会にも顔を出すし、慈善を目的とした音楽会も催せば、歌うたい達と交際もしていた……
食事のあいだに、彼等はいろんな話をした。
「どうも驚いたよ」とラープチェフは言った――「うちのフョードル先生、また僕をすっかりまごつかせよったよ! あれは、われわれの貴族昇格を奔走するために、うちの商会の百年祭をいつやるか、それを早く極めなければならぬというのだ。しかもこれを、大真面目で言うんだからね。いったいあれはどうしたというんだらう! 正直のところ、僕は少々心配になってきたよ」
彼等は、フョードルのことや、今日《こんにち》では自分になんなり色をつけることが流行だということなどを話した。例えば、フョードルは、彼自身もはや商人ではないのに、ただの商人らしく見せかけようと努めていて、老ラープチェフが後継者になっている小学校の教師が彼のところへ俸給を受け取りにくるときなど、声や歩きつきまでを変えて、その教師に対して、まるで長官のような態度をとるのだった。
食後は、別にすることがなかったので、彼等は書斎へはいった。そしてデカダンについて論じたり、オルレアンの少女のことを話したり、コスチャは長い独白をやってのけたりした。彼には、自分がエルモーロワの真似に妙を得ているような気がしていたのである。それから彼等はギント(一種のカルタ遊び)をはじめた。少女達も自分の翼屋へは帰らないで、蒼白い、悲しそうな顔をして、ふたり一緒にひとつの肘掛椅子に腰掛け、街路の物音に耳を澄ましていた――父親の馬車の音が聞えないかと。夕方になって、あたりが暗くなったり蝋燭がついたりすると、ふたりはつい滅入り込んでしまうのである。ギントをやりながらの話し声や、ピョートルの足音、暖炉のぱちぱち爆《は》ぜる音などが、ふたりの気分を苛立たせたので、彼等は火を見ることを好まなかった。日が暮れると、ふたりは、もう泣き出しこそしなかったが、なんとなく無気味で、胸を圧《お》しつけられるようだった。そして、母が死んだときに、人々が何かと口を利いたり笑ったりしたことが、どうしても腑に落ちなかった。
「今日はあなた、望遠鏡で何をご覧になって?」と、ユーリヤ・セルゲーエヴナはコスチャに訊いた。
「今日はなんにも、昨日はフランス人の爺さんが風呂を浴びていましたがね」
七時に、ユーリヤ・セルゲーエヴナとコスチャとは、小劇場へ出かけた。ラープチェフは少女達とあとに残った。
「お前達のお父さんが、もう着いてもいい時分だがね」と彼は時計を見ながら言った。「きっと汽車が遅れたのに違いない」
少女達は押し黙ったまま、まるで寒がっている獣のように、互いにくっつき合って、肘掛椅子に掛けていたが、彼はのべつ室内を歩き廻って、待ちきれないように時計ばかりを眺めていた。家の中はひっそりしていたが、やがて九時近くなった頃に、誰かが外のべルを鳴らした。ピョートルが扉をあけに行った。
懐かしい声を聞きつけると、少女達はわっと歓声を挙げ、泣き出しながら、玄関の方へ飛んで行った。パナウーロフは贅沢な毛皮外套を着て、顎鬚や口髭は霜で白くなっていた。
「今すぐ、今すぐ」と彼は呟いたが、サーシャとリーダとは、泣きながら笑いながら、彼の冷たい手や、帽子や、外套に接吻した。美しい、疲れたような、恋に甘やかされた男の彼は、急ぐ様子もなく少女達を愛撫してから、やがて書斎へはいって、手をこすり合わせながら言った。
「わしはね、ほんのちょっとのつもりで来たんだよ。明日はペテルブルグへ立たなければならないんだ。別の街へ転任させてもらえることになったんでね」
彼は「ドレスデン」に宿をとっていた。
十
常住ラープチェフ家へ出入りする友人は、ヤールツェフ――イワン・ガヴリールイチであった。これは髪の黒い、利口そうな、感じのいい顔をした、健康そうな、逞しい男であった。彼は美男子として許されていたが、近頃少しふとりはじめたので、それが彼の容貌と姿態とをいくぶんそこねていた。なお彼の男振りをそこねたのは、彼が髪を思いきり短く、まるで剃ったように刈ってしまったことであった。大学にいた頃には、彼はその上背と力とで、学生間に守衛という綽名《あだな》をつけられていた。
彼は、ラープチェフ兄弟と一緒に文学部を卒業したが、その後、自然科学部へはいったので、今は化学のマギストルであった。が、講座を持とうというような野心はなく、どこの研究室の助手にもなったことはなくて、ただ実科学校と二ヶ所の女学校とで、物理と自然科学史とを教えているにすぎなかった。自分の生徒達、ことに女生徒達に、彼は夢中になっていて、つねづね、今は素晴しい時代が成長しつつあるときだなどと言っていた。化学以外に、なお彼は、自宅で社会学とロシア史とを研究していた。そして、自分のちょっとした覚え書を、時々、ヤーなる署名で、新聞雑誌に寄稿していた。彼は、植物学や動物学の問題について話すときには、歴史家らしく見え、歴史上の問題を論ずるときには、自然科学者らしく見えた。
ラープチェフ家の内輪の人には、もうひとり、永遠の大学生と綽名されているキーシがいた。彼は三年間医学部にいてから、数学部に転じ、そこで各学年に二年ずつ居坐っていた。地方の薬剤師である彼の父は、月々四十ルーブリずつ送金してきたし、その上に母親が、父に内緒で、十ルーブリずつ送ってよこしたので、彼にはそれだけで、生活費ばかりでなく、ポーランド産の海狸の襟のついた毛裏外套だの、手套だの、香水だの、写真(彼はむやみに写真を写して、それを知人達にふりまくのだった)だのといったふうの贅沢をするにも充分であった。彼は、頭の少し禿げた、耳のあたりに金色の頬髯のある、身ぎれいなおとなしい男で、いつも、人のためにはなんでもするという顔付きをしていた。で、彼は常に、人のことで忙しかった――寄付金帳簿を持って駈け廻ったり、知り合いの婦人のために切符を求めるとて、早朝から劇場の切符売場で凍えたり、誰かの頼みで花環や花束を註文に行ったりしていた。人々は彼のことを、ただこう言っていた――キーシがやってくれるさ、キーシが買ってくれるさ、しかし、こうした依頼を彼は、手際よく果したことはほとんどなかった。彼には非難が浴びせかけられ、買物代の支払いを忘れられることも往々だったが、彼はいつも黙々として、困ったときにもただ溜息をつくだけであった。彼はどんな場合にも、特に嬉しがりもしなければ、悲しみもせず、話をさせればきまって長たらしく退屈で、その洒落はいつの場合にも、ただそれがおかしくないという理由によって、人の失笑を引き起こすに過ぎなかった。あるときなど、彼は冗談を言うつもりで、ピョートルに向ってこう言った――「ピョートル、お前は大魚じゃないよ」すると、それが一同の笑いを買ったので、自分でも長いこと、自分の洒落が成功したことに満足して笑っていた。教授の誰かの葬式があると、彼はいつも葬列の先頭を、炬火《たいまつ》と一緒に歩いて行くのだった。
普通ヤールツェフとキーシとは、晩のお茶の時分にやって来た。主人達が芝居とか音楽会とかへ出かけないときには、晩のお茶は夜食のときまで長びくのが例であった。とある二月の晩のこと、食堂では次のような会話が行われていた――
「芸術上の作品は、それがその思想の中に、何より真面目な社会問題を含んでいるときだけ、有意義であり、有益であるのさ」とコスチャは、怒ったようにヤールツェフを見ながら言っていた。「もし作品の中に、農奴制に対する抗議があるとか、著者がそれをもって上流社会の卑劣さを相手に闘っているとかいうなら、そうした作品は有意義であり、有益である。ただ、おおとかああとか、彼女は彼を愛したとか、彼は彼女を愛しなくなったとかいうことばかりを書いた小説や物語――そういう作品は、僕はいうが、実に下らないもので、悪魔にくれちまうものなのだ」
「あたしあなたのご意見に賛成よ、コンスタンチン・イワーヌイチ」とユーリヤ・セルゲーエヴナは言った。「ある作家は恋の逢びきを、ある作家は恋心を、ある作家は別れた後の邂逅を書いています。けれどほんとに、このほかに題目がないのでしょうか? だって、世の中には、病人や、不幸な人や、貧乏に苦しんでいる人が、非常に沢山いるんだから、こういう人達には、こんな小説を読むことは、きっといやな気をさせるに違いありませんものね」
ラープチェフには、まだ二十二にも満たない程度の若い女である彼の妻が、こんなに真面目に冷やかに、愛の問題について論議し得ることが不愉快であった。彼は、どうしてこんなだろうかと、しきりにその理由を考えていた。
「もし時が、君達に重大と思われる問題を解決しないというのなら」とヤールツェフは言った――「よろしく諸君は、技術や、警察法や、会計法に関する文章でも読みたまえ、科学的小品でも読みたまえ、ロミオとジュリエットの中で、いったいなんのために、愛の問題の代りに、例えば教授の自由とか、監獄の消毒法なんてことについて、論じる必要があるだろう、そういうものについては、別に専門の論文なり、教科書なりがちゃんとあるのに?」
「やあ君、そいつは少々極端だよ!」とコスチャが遮った。「われわれはそんな、シェクスピアだの、ゲーテだのという巨人のことをいってるんじゃない。われわれがいうのは、凡百の、相当才能ある中堅作家のことであって、もしそういった連中が、恋を棄てて、大衆のあいだに知識と人道的思想を普及することに従事すれば、遥かに多くの利益をもたらすことができるだろうというのさ」
キーシは、舌たるいような、いくらか鼻にかかった声で、近頃に読んだ小説の内容について語りはじめた。彼は悠々として、事細かに物語った。三分たち、五分たち、さらに十分たって、彼は依然として続けているけれども、誰ひとり、彼はいったいなんの話をしているのやら、理解することが出来なかった、そして彼の顔はますます無関心になり、眼はどんよりと曇ってきた。
「キーシ、もっと早くお話しなさいな」とユーリヤ・セルゲーエヴナがしびれを切らした――「さもないと、聞いてるのも苦しいくらいじゃありませんか!」
「よしたまえ、キーシ!」とコスチャが彼に叫んだ。
みんな笑い出した。キーシ自身も笑い出した。
フョードルがやって来た。頬に赤い斑点を浮かべ、あたふた急ぎながら、彼はちょっと挨拶すると、兄を書斎へ引張って行った。最近彼は、多勢の会合を避けて、なるべくひとりの人と会うようにしているのだった。
「若い連中には向こうで笑わしておいて、われわれはここで、腹蔵なく話し合おうじゃないか」彼はランプから少しでも遠い方の、深い肘掛椅子に腰をおろしながら言った。「兄さん、お互いに大分暫く会わなかったね。兄さんはもうどれくらい倉庫へこなかったかね? もう一週間にはなるだろう」
「そう。行っても、僕にゃなんにもすることがないんでね。それに、実をいうと、親父にもう飽きあきしたのさ」
「そりゃもちろん、君や僕がいなくたって、倉庫じゃ困りゃしないさ。だが、お互いに何か仕事を持たなくちゃいけないからね。いわゆる、額に汗して己がパンを得よさ。神様は勤労がお好きだからね」
ピョートルがお茶のコップを盆に載せて運んで来た。フョードルは砂糖なしでそれを飲み、もう一杯と所望した。彼は恐ろしくお茶が好きで、ひと晩に十杯でも飲むことができるのだった。
「ところでね、兄さん」と彼は立ちあがって、兄の傍へ歩み寄りながら言った。「あまりごたくを並べないで、ひとつ市会議員に打って出ないか。すりゃわれわれが、少しづつ目立たないように、君を市参事会員にして、それから助役くらいに祭り上げるよ。そうして進んで行くうちにゃ、兄さんは利口だし教育もあるから、社会から認められて、ぺテルブルグへ招聘されるようになる――地方自治会議員とか市会議員とかが、あちらじゃいま大もてなんだからね、すりゃなんだよ、兄さんは、五十の声を聞かぬうちに、もう三等官になって、肩へ綬《じゅ》をかけるようになれるんだぜ」
ラープチェフはなんとも答えなかった。彼はこうしたことはみな、――三等官も、綬も、フョードル自身が欲しがっているのであることを察した、で、彼は、なんと答えていいかわからなかったのである。
兄弟は、腰掛けたまま黙っていた。フョードルは、自分の時計を開いて、長いこと、非常に長いこと、まるで針の動きを観察してでもいるように、緊張した注意の面持でそれに見入っていた。と、その顔の表情が、ラープチェフに奇妙な印象を与えた。
夜食にと呼びに来た。ラープチェフは食堂へ行ったが、フョードルは書斎に残った。議論は既に終っていて、ヤールツェフが、講義中の教授のような調子で喋っていた――
「気候、精力、趣味、年齢等の不同によって、人間の間の平等は、物理的に不可能である。しかし文化人はこの不平等を、彼が既に沼や熊に対しておこなったと同じように、無害なものたらしめることができる。ある学者は、自分の飼育している猫と、鼠と、鷹と、雀とが、ひとつ皿から物を食うまでに飼い慣らしたということだが、教育は人間に対して、これと同じことをするに違いないと思わねばならぬ。人生は常に先へ先へと進んでいる。文化はわれわれの眼の前で、大なる進歩を遂げている。そして現在の工場労働者の状態が、昔、女の子を犬の代りに使った農奴制なるものが今日われわれに思われると同じ不合理と考えられるようになるときが、必ずくるに違いないのだ」
「それはそう早くゆくまいぜ、なかなか容易なことにはゆくまいぜ」コスチャはこう言って、笑い出した――「ロスチャイルドに、金貨いっぱいになっている彼の窖《あなぐら》が不合理と思われるようになるまでには、まだ大分間があるだろうぜ、そしてそれまでは労働者は、依然背中をまげたり、飢えに悩んだりしてゆくのだろう。だから、駄目なこったよ、小父さん。そんなことを待ってるより、闘わなくちゃ駄目なんだ。猫が鼠とひとつ皿から物を食ったというので、君は、猫がそれだけの意識を持っていると思ってるのか? そんなことがあってたまるものか。猫は力づくで、無理やりそうさせられてるんだよ」
「僕とフョードルとは金持だ。われわれの親父は資本家で、百万長者だ。つまり君は、われわれと闘わなければならんというわけだね!」とラープチェフは言って、掌で額をこすった。「この僕と闘うこと――僕の意識の中でこれほど片付かない思想はないね! なるほど、僕は金持だ、だが、今日までに金が僕に何を与えたろう、この力が僕に何をしてくれたろう? 僕のどこが君より幸福だろう? 僕の少年時代は懲役同然で、金も笞《むち》から僕を救ってはくれなかった。ニーナが病気になって死んだときにも、僕の金は、彼女のためになんの救いにもならなかった。また、人に愛されない場合には、たとえ一億ルーブリやったところで、無理に愛させることはできやしない」
「その代わりあなたは、多くの善事をすることができるじゃないですか」とキーシは言った。
「へえ、どんな善事ができますかね! 昨日君は僕に、仕事を捜しているある数学家のことを頼みましたね。だが、信じてくれたまえ、僕のその人のために為し得ることは、君同様に甚だ些細なものですよ。僕は金をやることはできる、が、これは、彼の欲するところでないじゃないですか。いつか僕は、ある有名な音楽家に、ひとりの貧乏なバイオリン弾きのために地位を世話してやってもらいたいと頼んだことがある、すると、その音楽家が言うには――「君が僕にそんなことを言われるのは、君が音楽家でないからだ」と、こうですよ。で、今僕も君にそう答えようと思う――君が僕に人を助けてやってくれなどと、こんなに押しつけがましく言われるのは、君自身がまだ一度も、金持の人間の境遇にいたことがないからですよ」
「まあ、こんなところへどうして有名な音楽家などが引き合いに出されるのでしょう、あたしわかりませんわ!」とユーリヤ・セルゲーエヴナは言って、真赤になった。「こんな問題に、有名な音楽家がなんの関係があるのかしら!」
彼女の顔は憎悪のためにふるえ出したので、彼女はその感情を隠すために眼を伏せた。が、ひとり夫ばかりでなく、食卓に就いていた一同が、彼女の顔の表情をさとった。
「こんな問題に、有名な音楽家がなんの関係があるのかしら!」と彼女は小声で繰り返した。「貧しい人を助けてやるくらい、易しいことはない筈なのに」
沈黙が来た。ピョートルは樹鶏を出したが、誰一人それにフォークをつけようとはしないで、一同はサラダばかり食べていた。ラープチェフは、自分が何を言ったかは最早覚えなかったが、憎悪を招いたのは彼の言葉ではなく、彼が会話に仲間入りをしたこと、そのことだけであることは明らかに知っていた。
夜食が済むと、彼は自分の書斎へはいった。そして緊張して、胸をどきどきさせ、なお新らしい屈辱を待ち受けながら、広間で起ることに耳を澄ましていた。そこでは、またしても議論がはじまった。するうちに、ヤールツェフがピアノに向って、感傷的な小唄をうたい出した。彼は万事に器用な男で――歌もうたえば、演奏も出来、手品を使うことすら出来たのである。
「あなた方はどうか知らないけれど、あたし家にじっとしていたくありませんの」とユーリヤが言った。「どこかへ出かけて行きたいわ」
そこで彼等は、郊外へドライブすることにきめて、キーシを商人クラブへ三頭橇《トロイカ》の註文にやった。が、彼等はラープチェフを、一緒にとは誘わなかった。なぜなら、普通彼は、郊外へのドライブなど喜ばなかったし、ことに今夜は、彼のところへ弟が来ていたからであったが、彼はそれを、自分の同席は彼等に退屈なのだ、この朗らかな若い仲間に入っては、自分などは全くの余計者なのだ、こんなふうに考えた。この彼のいまいましさと苦い感情とは、彼が危うく泣き出さんばかりになったほど激しいものであった。そして、彼はむしろ喜んでいた、自分がこんなに無愛想に取り扱われていること、軽蔑されていること、自分が愚かな退屈な夫であり、金袋であることを、なお彼には、妻が今夜にも自分の親友と彼を裏切って、後日それを、憎悪の眼で彼を見ながら告白してくれたら、自分はもっともっと喜ぶだろうという気がしていた……彼は常々、知り合いの大学生達に対し、歌うたい達に対し、ヤールツェフに対し、また行きずりの男どもに対してすら、彼女を嫉妬していた。しかも、今や彼には、彼女が実際に彼に不貞であることが、情熱的に望ましく、彼女の不義の現場を見届けた上、毒でも仰いで、ひと思いにこの悪夢からのがれたいという気が切にするのだった。フョードルはお茶を飲んでは、大きな音をたてて咽喉を鳴らしていた。が、やがて彼も帰り支度をはじめた。
「うちの親父のはきっと黒内障《くろそこひ》に違いないぜ」と彼は、毛皮外套に手を通しながら言った。「すっかり視力が衰えてしまったよ」
ラープチェフも毛皮外套を着て、外へ出た。弟をストラーストヌイまで送ると、彼は辻ぞりを雇って、ヤールへ走らせた。
〈ああ、これが家庭の幸福というものか!〉と、彼は自分を嘲笑った。〈これが愛か!〉
彼の歯はカチカチ鳴っていた。が、これは嫉妬のためか、それとも何か別のことのためか、知らなかった。ヤールへ着くと、彼は卓のあいだを歩き廻ったり、広間で流行唄を聞いたりした。もし仲間の連中と出会っても、彼には言うべきなんの言葉の用意もなかった。で、彼は前もって、自分は妻と落ち合っても、ただみじめな、気の利かない笑顔をするくらいが関の山で、たちまちみんなに、どんな感情が彼をここへ連れ出したかを、見破られてしまうに違いないと思い込んでいた。電燈の光や、賑やかな奏楽や、白粉の匂いや、行き会う女達が、じっと彼を見て行くことなどが、彼を狼狽させた。彼は、戸口に佇んでは、別室に行われていることを、隙見したり立ち聞きしたりしようとした。と、彼には、自分も流行歌手や、そこらにうろうろしている女達と一緒になって、何か低級な役割を演じているような気がしてならなかった。それから彼は、ストレーリナへそりを駈ったが、そこでもうちの連中には誰にも会わなかった。で、そこからもとへ引き返し、二度目にヤールへ乗りつけたときに初めて、三頭橇《トロイカ》が賑やかに彼を追い越した。酔払った馭者は大声に喚いていたし、ヤールツェフが高声にハハハと笑っている声などが聞えた。
ラープチェフは、三時過ぎに家へ帰った。ユーリヤ・セルゲーエヴナはもう床にはいっていた。彼女が寝ていないのを見て、彼はそのそばへ行き、鋭く言った――
「僕には、あなたの嫌悪や憎悪はわかっています。しかしあなたは、他人の前では、少しは僕を容赦してもよさそうなものだ、自分の感情を隠してくれてもよさそうなものだ」
彼女は、足をだらりと下げて寝台に腰掛けた。燈明の灯影で、彼女の眼は黒く大きく見えた。
「あたしお詫びしますわ」と彼女は言った。
興奮と全身のふるえから、彼はもはや口を利くこともできなくて、彼女の前に突っ立ったまま、黙っていた。彼女も同じようにわなわなふるえながら、相手の言葉を待って、罪を犯したもののような面持ちで掛けていた。
「僕はどんなに苦しんでいるだろう!」彼は遂にこう言って、両手で頭を掴んだ。「地獄にいるも同然だ、気が狂いそうだ!」
「すると、あたしは楽な気持でいるとでも仰しゃるの?」と彼女はふるえ声で訊いた。「あたしがどんな思いをしているか、神様だけがご存じですわ」
「お前が僕の妻になってからもう半年になる。が、お前の心には、愛の火花一つすらない、なんの希望も、なんの光明もない! どうしてまたお前は、僕なんかと結婚したんだ?」と、ラープチェフは絶望的に続けた。「なんのためだ? どういう悪魔がお前を僕の胸の中へ投げ込んだのだ? お前は何を望んでいたのだ? 何が欲しかったのだ?」
が、彼女は、彼に殺されはしまいと恐れてでもいるように、恐しそうに彼を見ていた。
「僕がお前の気に入っていたのか? お前は僕を愛していたのか?」と彼は喘ぎ喘ぎ続けた。「いいや! では、どうしたのだ? なんのためだ? 言ってくれ――なんのためだ?」と彼は叫んだ。「おお、呪われた金め! 呪われた金め!」
「あたし神様に誓って申します、それは違いますわ!」彼女はこう叫んで、十字を切った。彼女の全身は受けた侮辱のために縮みあがったように見え、彼は初めて彼女の泣き声を聞きつけた。「神様に誓って申します、それは違いますわ!」と彼女は繰り返した。
「あたしは、お金のことなど考えもしませんでしたし、またあたしには、お金なんていりもしませんわ。あたしにはただ、あなたに拒絶することは、わるい行いのような気がしただけですわ。あたしは、あなたと自分の生活を台なしにしてしまうのを恐れただけですわ。で、今もあたしは、自分の過ちゆえに苦しんでいますわ。たまらないほど苦しんでいますわ!」
彼女は烈しく泣き出した。で、彼は、彼女もまた悩んでいることをさとった。彼は言うべき言葉を知らないで、彼女の前の絨毯の上へ崩折れてしまった。
「もういい、もういい」と彼は呟いた。「僕がお前を侮辱したのは、無茶苦茶にお前を愛しているからだ」彼は急に彼女の足に接吻して、情熱的にそれをかき抱いた。「せめて愛のひと火花でも!」と彼は呟いた。「さ、嘘でもいい!嘘でもいい! そんな、過ちだなんて言わないでくれ!……」
しかし、彼女は泣き続けた。そして彼は、彼女は彼の愛撫をも、ただ自分の過失の避けがたい結果として堪えているにすぎないことを感じた。彼が接吻した足をも、彼女は小鳥のように自分の下にちぢこめた。彼には彼女が可哀そうになってきた。
彼女は、床へはいると、頭から毛布をかぶってしまった。彼も服を脱いで、床に就いた。朝になると、彼等はふたりとも混乱を感じて言うべき言葉を知らず、ことに彼には、彼女が彼の接吻した方の足をそっと踏んでいるような気さえするのだった。
午餐前に、パナウーロフが暇乞いにやって来た。ユーリヤはたまらなくわが家へ、故郷へ帰りたい思いに駆られた。故郷へ帰って、こんな家庭生活や、この居心地わるさや、わるいことをしたと思う絶え間ない意識を忘れて、休息することができたらどんなによかろう、彼女はこんなふうに考えた。食事のあいだに彼女は、パナウーロフと一緒に帰省すること、飽きるまで、二三週間父の許に滞在することが決せられた。
十一
彼女とパナウーロフとは、特別室に乗って行った。彼の頭には、一種妙な形をしたアストラハンの毛皮帽子が載っていた。
「そう、ぺテルブルグはわたしを満足させてはくれませんでしたよ」と彼は間をおきおき、溜息まじりに言った。「約束だけは沢山してくれたが、何ひとつ決定したことはないのです。そうですよ、あなた、わたしは治安判事もやったし、常置員もやったし、治安判事会議長もやったし、最後には県会議員もやって、国家のためには相当尽しているので、多少の注意は受ける権利があるような気がしていましたが、どうしてなかなか――別の街へ転勤したいという希望すら、なんとしても達しられない有様ですよ」
パナウーロフは、眼を閉じて頭を振った。
「わたしなんか、てんで認めてくれないんですよ」と彼は、睡りかけてでもいるような調子で続けた。「もちろんわたしは、天才的な行政官ではありません、だが、その代りにわたしは、礼儀正しい、正直な人間です、しかも今日では、これだけのことすら珍らしいことなんですからね。正直のところ、わたしはちょいちょい、少しばかり女を騙したことはありますが、ロシア政府に対する限りでは、常にゼントルマンでした。だが、こんな話はもう沢山です」と彼は、急に眼を見開きながら言った――「それより、あなたのことをお話ししましょう、あなたはどうしてこんなに急に、お父さんのところへ行こうなんて思い立たれたんですか?」
「実は、夫と少しそりが合わないことがあったものですから」とユーリヤは、彼の帽子を見ながら言った。
「そう、あの男にはどことなく変なところがありますね。ラープチェフ一家のものは、みんな変ですよ。あなたの旦那さまはまだいい方ですよ、あれでね。だがあの弟のフョードルときたら、からきしの馬鹿ですからね」
パナウーロフは一つ溜息をついて、真面目に尋ねた――
「それで、あなたにはもう恋人があるんですか?」
ユーリヤは、びっくりしたように彼を見て、微笑んだ。
「まあ、何を仰しゃるんでしょう」
十時過ぎに、大きな駅に着くと、ふたりは車室から出て、夜食をしたためた。汽車が動き出すと、パナウーロフは外套と例の帽子を脱いで、ユーリヤと並んで腰をおろした。
「あなたは非常に可愛いらしい方だから、わたしは言わなければならぬが」と彼は始めた。「料理屋の品物などを引き合いに出しては甚だ失礼だが、あなたはわたしに、新らしい塩漬の胡瓜を思い出させますよ。それは、いわばまだ温床の匂いが残っているのに、もういくぶん塩気もあれば、茴香《ういきょう》の匂いもしているという代物ですよ。いまにあなたは、だんだんに素晴しい、優婉な、立派な婦人になられるでしょう、もしわれわれのこの旅行が、もう五年早く起っていたら」と彼は嘆息した――「わたしはあなたの崇拝者の列に身を置くことを、愉快な義務と考えたでしょう。が、今では――悲しいかな!――わたしはもう廃兵です」
彼は悲しげな、同時に優しい微笑を含んで、彼女の腰をかき抱いた。
「まあ、あなた、気でもお違いになったんですか!」彼女は真赤になってこう言うと、手足が冷たくなったほど怯《おび》えてしまった。「よして下さい、グリゴーリイ・ニコラーイチ!」
「何をそんなに恐がることがあるんです?」と、彼は物柔かに訊いた。「あなたはただ慣れていないだけですよ」
もし女が拒んだ場合でも、彼にとってはそれはただ、彼が印象を与え、女に気に入った意味に他ならなかった。ユーリヤの腰を抱いたまま、彼は強くまずその頬に接吻し、それから唇に、自分は相手に大なる満足を与えているのだという満腔の信念をもって、接吻した。ユーリヤは恐怖と混乱から気を取り直すと、思わず笑い出してしまった。彼はもう一度彼女を接吻して、例のおかしな帽子をかぶりながら、言った――
「これが、廃兵のあなたに捧げ得るすべてです。あるトルコの総督が、それは人のいい老人だったが、それが誰かから贈物として、あるいは遺産としてだったかも知れん、立派な後宮を手に入れたのです。彼の若い、美しい妻達が、彼の前にずらりと並んだときに、彼は一巡彼女達のまわりを廻り、ひとりひとりを接吻してやって、こう言ったものです――『これが、わしが今お前達に与え得るところのすべてじゃ』わたしの言うのもこれと同じ意味ですよ」
こうしたことがすべて、彼女には、馬鹿げた、途方もないことのように思われて、彼女の心を浮き立たせた。ふざけたいような気がしてきた。彼女は長椅子の上に立って、鼻歌をうたいながら、棚から菓子の箱を取りおろし、チョコレートを一つ投げながら、叫んだ――
「とってごらんなさい!」
彼は捕えた。彼女はきゃきゃと笑いながら、第二の菓子を投げ、やがてまた第三のを投げたが、彼は片端からうまく止めては、口に入れていた、絶えず祈るような眼で彼女を見ながら。彼女には、彼の顔の中に、その輪郭に、その表情に、多分の女らしいところや、子供らしいところがあるような気がした。やがて、彼女が息を切らして長椅子に腰を落ちつけ、なお笑いながら彼を見ていると、彼は二本の指で彼女の頬に触り、どこやらいまいましげな口調で言った――
「お転婆娘!」
「さ、召し上がれ」彼女は、彼に箱を渡しながら言った。「あたし甘い物は好きませんのよ」
彼は、その菓子を一つ残らず食べてしまい、空箱を自分のカバンの中へしまった。彼は美しい絵のついた箱が好きだったのである。
「したが、悪戯《いたずら》はもう沢山ですよ」と彼は言った。「廃兵はもうねんねする時間ですからね」
彼はサックからブハラ織りのガウンと枕を取り出し、横になって、ガウンにくるまった。
「おやすみ、可愛い人!」彼は静かにこう言って、総身が痛みでもするような溜息を一つほっと吐《つ》いた。
そしてじき、鼾《いびき》の声が聞え出した。なんの不安も覚えないで、彼女も同じように横になると、じき寝入った。
翌朝、故郷の街を停車場から家へと馬車で通ったとき、彼女にはそれらの町々が、荒涼として人気がないように思われ、雪は灰色に、家は小さく、まるで誰かに圧し拉《ひし》がれたもののように見えた。葬列に出会った――遺骸は、吹き流しと一緒に、蔽いなしの棺で運ばれていた。
〈お葬式に出会うと幸福になるっていうけれど〉と彼女は考えた。
以前ニーナ・フョードロヴナが住んでいた家の窓々には、今は白い紙ぎれが貼ってあった。
心臓の凍るような思いとともに、彼女はわが家の中庭へ乗り込んで、戸口のべルを鳴らした。彼女のために扉をあけてくれたのは、彼女の見知らぬ、ふとった、寝ぼけ面をした、暖い綿入れの上衣を着た下婢《はしため》であった。階段をあがりながらユーリヤは、そこでラープチェフが愛の告白をしたときのことを思い出した。が、今では階段は、洗われないとみえて、足跡だらけになっていた。階上には、寒い廊下に、外套姿の患者達が待っていた。なぜともなく彼女の心臓は烈しく鼓動して、彼女は興奮から辛うじて歩みを運んだ。
ドクトルは、また一層肥満し、煉瓦のように赤い顔をして、髪をもじゃもじゃにしたままお茶を飲んでいた。娘を見ると、いたく喜んで涙さえこぼした。彼女は考えた。この老人の生活にとっては、彼女はたった一つの喜びなのだと、そして感動のあまり、ひしと力まかせに彼を抱いて、今度は長く彼の許に、復活祭までいると言った。自分の部屋で着更えをしてから、彼女は、一緒にお茶を飲むために食堂へ行った。彼は両手をポケットへ突っ込み、隅から隅へと歩きながら、「ル、ル、ル」とうたっていた、――つまり、何かに不満な気持でいたわけである。
「お前はモスクワでさぞ愉快に暮らしていることだろうな」と彼は言った。「おれは、お前のために非常に喜んでいる……俺はもう年寄りだからなんにもいらない。おれはもうじきくたばって、お前達みんなを開放してやる。おれがまだ生きてるなんて、どうしてこう業《ごう》つくばりなのだろうと驚くくらいだよ! 呆れたもんだよ!」
彼は、自分はみんなに乗り廻される、年老いたる、頑丈な驢馬《ろば》だ、と言った。ニーナ・フョードロヴナの治療から、その子供達の面倒から、彼女の葬いまでを、人々は彼に負わせた。あのしゃれ者のパナウーロフは、何一つ知ろうともしないで、おまけに彼から百ルーブリ借り出して、今日まで返そうとしない。
「おれを、モスクワへ連れて行って、癲狂院へでも入れてくれ!」とドクトルは言った。「おれは狂人だ、おれは無邪気な赤ん坊だ、なにしろおれは、いまだに真理と正義とを信じてるんだからな!」
それから彼は、彼女の夫が眼先が見えない――あんなに有利な売り物だった家を買わなかったといって非難した。そして、今ではもうユーリヤには、この老人の生活において彼女は決して唯一の喜びでないという気がし出した。彼は患者の診察を済まして、往診に出かけて行くと、彼女は何をしたらいいか、何を考えたらいいかを知らないで、家じゅうの部屋部屋を歩き廻った。彼女はもうこの故郷の街にも、生まれた家にも、すっかり馴染みを失ってしまっていた。今ではもう、街路にも、知人達にも心を惹かれず、昔の友達や、娘時代の生活について思い出してみても、一向に悲しい気にもならなければ、過去を惜しむような気も起らなかった。
夕方になると、彼女は精いっぱいの盛装を凝らして、晩拝式に赴いた。しかし教会には、庶民階級だけが集まっていて、彼女の素晴しい毛皮外套も、帽子も、なんの印象をも与えなかった。そして彼女はなんとなく、教会にも、自分自身にも、一種の変化が起ったような気がした。以前の彼女は、晩拝式のときに讃歌をとなえたり、唱歌隊が聖歌の首節、例えば「わが唇を開かん」をうたったりするときが好きであった。また、会堂の真ん中に立っている司祭の方へと、群衆の中をのろのろと動いて行くのが、それから自分の額に聖油の滴りを感ずるのが、好きであった。が、今の彼女は、ただ勤行の終るのばかりを待ち侘びていた。そして、会堂を出て行きながらも、乞食どもに施しを乞われはしまいかとびくびくしていた。彼女には、立ちどまったり、ポケットをさぐったりするのがさぞうるさかろうと思われたのである、それに第一、今では彼女のポケットには、銅貨などは全然なくて、みなルーブリばかりだったから。
彼女は早く床に就いたが、おそく寝ついた。彼女には、いろんな人の肖像や、朝見た葬列などが夢に見られた。遺骸を納めた蔽いなしの棺が中庭へ運び込まれて、戸口に舁《か》きすえられ、それから長いことシーツの上で揺り動かされて、物凄い勢いで扉に叩きつけられた。ユーリヤは眼をさまし、ぎょっとして挑ね起きた。実際、階下で扉がばたんと鳴って、べルの針金が壁の面で揺れていたが、べルの音は聞えなかった。
ドクトルが咳をし出した。やがて、下女が下へおりて行き、また戻ってくる音が聞えた。
「奥さま」と彼女は言って、扉を叩いた。「奥さま!」
「なんです?」とユーリヤは訊いた。
「電報でございます!」
ユーリヤは、蝋燭を手にしてその方へ出て行った。下女の後ろには、シャツの上に外套をひっかけたドクトルが、同じく蝋燭を手にして立っていた。
「うちのべルはこわれてるのさ」と彼は、半分夢見心地で欠伸しながら言った。「とうに直ってなきゃならないのに」
ユーリヤは電報の封を切って、読んだ――「あなたの健康のために飲みつつあり、ヤールツェフ・コチェヴォーイ」
「まあ、なんて馬鹿な人達だろう!」彼女はこう言って、ほほと笑い出した。彼女の心は、晴ればれと快活になった。
自分の部屋へ帰ると、彼女は静かに顔を洗い、服を着更えて、それから長いこと、夜が明けるまでかかって荷物を纏めた。そしてその正午には、もうモスクワへ向けて出発した。
十二
復活祭週に、ラープチェフ夫妻は、美術学校で催された絵画展覧会を見に出かけた。彼等はモスクワふうに、一家揃ってそこへ行ったのだった。ふたりの少女も、女家庭教師も、コスチャも一緒に。
ラープチェフは、すべての有名な画家の名前を知っていて、展覧会という展覧会は一度も見のがさなかった。夏、別荘にいる時分には、時々自分でも絵具を使って風景画を描いてみたこともあり、自分はなかなか趣味の豊かな人間で、もし真面目に研究したら、あるいは立派な画家になれるかも知れないなどと考えているのだった。外国にいたときには、彼は折々骨董屋をのぞいて、いっぱし通らしい顔をして古画を見たり、意見を述べたり、何かしら買い込んだりしたもので、そんなとき古物商は、彼から好きなだけの代償を貪るが、そうして買われた品物は、その後、どことも行方知らずになるまでは、箱の中に突っ込まれたまま、馬車小屋などに転がっていたものだった。
ときにはまた、版画店へ立ち寄って、長いこと、仔細に、絵やブロンズを眺め、あれこれと批評をした挙句、だしぬけに下等な額縁や、碌でもない紙箱を買ったりした。彼の家にあった絵画は、大きくはあるが拙いものばかりで、いいものは、かえってとんでもない場所に懸けてあった。後になってひどい贋物であることがわかるようなものに、莫大な金を投じたことも、一再ではなかった。そして最も注意すべきは、一般に生活上では臆病である彼が、絵画展覧会では、人並はずれて勇敢かつ自信に満ちていたことである。なぜだろう?
ユーリヤ・セルゲーエヴナは、夫のするように、拳をのぞいたり、オペラグラスをあてたりして、絵を見てまわり、画中の人物が生けるがごとく、樹木が実物そっくりに見えるのに、驚いていた、が、彼女は絵を理解しなかったので、会場にある多くの絵が、いずれも同じように思われ、絵画の目的とするところはすべて、つまり、それを拳を管にしてのぞいて見たときに、画面の人物なり物体なりが、実物のように浮き出して見えるように描くことであるような気がしていた。
「ほら、ここにシーシキンがある」と夫は彼女に説明した。「この男は、いつも同じものばかり描いている……ここをよく注意してごらん――こんな薄紫色の雪なんか決してありゃしない……それから、この子供の左の腕は右より短い」
みんなが疲れてしまったので、もう家へ帰るとてラープチェフがコスチャを捜しに行ったとき、ユーリヤはちょっとした風景画の前に足を止めて、ぼんやりとそれを見ていた。前景にささやかな流れがあって、その上に丸太橋がかかり、向う岸には、暗い草叢《くさむら》のなかへ消えている小径があり、野があって、右手には森の一角が見え、その傍に焚火が燃えていた――おおかた夜飼い(夜、馬を放牧すること)の番人が燃しているのであろう。遠くには、夕映えが燃えつきようとしている。
ユーリヤは、彼女自身がその小橋を渡り、それから小径伝いにどこまでもどこまでも歩いて行くさまを想像してみた。四辺はひっそりとして、睡そうな水鶏《くいな》が鳴き、遠くには灯影がちらちらしている。と、なぜか急に彼女には、空の赤い部分にたなびいているその横雲も、森も、野原も、ずっと以前に度々見たことのあるもののような気がして来て、しみじみ自分を孤独に感じ、その小径をどこまでもどこまでも歩いて行きたいような気がし出した。夕映えの燃えつきようとしていたあたりには、何やらこの世ならざる、永遠なるものの反映が、潜んでいるような気がし出した。
「まあ、なんてよく描けているんだろう!」彼女は、絵というものが急にわかりかけてきたのに眼を瞠るような気持で、こう言った。
「ご覧なさいな、アリョーシャ―! ほんとに静かな絵じゃありませんか?」
彼女は夢中になって、その絵の気に入った理由を説明しようとしたが、夫も、コスチャも、彼女の言葉を理解しなかった。彼女はもの悲しげな笑みを含んで、ずっとこの風景画を眺め続けた。
他人がその中に少しも美点を見出さなかったという事実は、彼女の心を動揺させた。それから彼女は、改めてホールを歩き直し、絵を見直して、それらを理解したいと思った。と、もはや彼女には、会場の絵の多くが、同じようには思われなかった。やがて家へ帰り、これまでに初めて、ピアノの上にかかっている大きな画を注意して見たときに、彼女はそれに反感を覚えて、こう言った――
「こんな画を持つなんて、なんというもの好きだろう!」
そして、それ以来というもの、金塗りの蛇腹や、花模様のついたヴェネチア製の姿見や、ピアノの上にかかっていたような絵や、同時に夫やコスチャの美術についての考え方が、彼女の心に退屈と、いまいましさと、ときとしては憎悪感をすら喚び起すようになってしまった。
生活は一日一日と、なんの変化をも約束しないで、平凡に過ぎて行った。芝居の季節はすでに終って、暖いときが来た。天気は引き続き素晴らしかった。ある朝、ラープチェフ夫妻は、裁判所の命令で誰かの弁護人に指定されていたコスチャの弁護ぶりを傍聴するために、地方裁判所へと出かけて行った。出かけが遅かったので、彼等が裁判所へ着いたときには、もう証人調べがはじまっていた。ひとりの予備兵が押し込み強盗の廉《かど》で裁かれていたのだった。証人には洗濯女達が大勢出ていた。彼女達は、被告は次々洗濯屋の持ち主である女主人のところへ出入りしていた者であることを証言した。聖十字架日の前夜、彼は晩おそくやって来て、迎い酒をやる金を無心したが、誰もくれてやらなかった。それで彼は出て行ったが、一時間ばかりすると、ビールと、娘達のためにハッカ入りの食パンなどを持って戻って来た。そしてみんなで、ほとんど明け方まで、飲めやうたえで騒いでいたが、朝になって気がついてみると、屋根部屋へあがる戸口の錠前がこわれていて、洗濯物の中から――男物のシャツが三枚と、女のスカートと、敷布が二枚なくなっていたというのである。コスチャは、証人の女のひとりひとりに冷笑するような口調で――彼女は、聖十字架日の前夜に、被告が持って来たビールを飲みはしなかったか? と訊いた。明らかに彼は、洗濯女達が、自分で自分達の洗濯物を盗んだことにしようとしていたのである。彼は、陪審員達の方をきっと見ながら、少しも悪びれた様子はなく、自分の弁論を述べ立てた。
彼は、押し込み強盗と、一般の窃盗との区別を説明した。彼は非常に詳細に、言葉巧みに、誰しもがもうとっくに知っていることを、真面目な調子で長々と喋る非凡な才能を現わしながら、まくし立てた。が、彼が何を言おうとしているのか、それを理解することは困難だった。彼の長広舌からも、陪審員達は、ただ次のような結論を抽き出し得ただけであった――「押し込みはあった、が、盗みはなかった、なぜなら、洗濯物は洗濯女どもが自分で飲んでしまったのだからだ。で、仮に盗みがあったとしても、押し込みはないのである」しかし明らかに彼は、緊要な点を述べたのであった。なぜなら、彼の弁論は陪審員達を動かし、聴衆を感動させて、大いに彼等を喜ばせたからである。無罪の宣告があったときに、ユーリヤはコスチャにうなずいて見せ、あとになってから、強く彼の手を握りしめた。
五月に、ラープチェフ夫妻はソコーリニキの別荘へ移った。そのとき、ユーリヤはもう懐妊していた。
十三
一年以上の時が過ぎた。ソコーリニキの、ヤロスラーヴ鉄道線路から程遠からぬ草原に、ユーリヤとヤールツェフとが腰をおろしていた。それから少し脇へ寄ったところに、コチェヴォーイが寝ころんで、両手に頭を支えながら、空を見ていた。三人とももう散歩に飽きて、お茶を飲みに家へ帰るとて、六時の別荘列車の通るのを待っていたのである
「母親というものは、わが子の中に何かしら普通でないものを見ているものですわね、自然がちゃんとそういうふうに創ってるんですよ」とユーリヤは言った。「母親は何時間でも、小さいベットの傍に立って、赤ん坊の耳や、眼や、鼻を見て、うっとりとなっているものなのよ。そしてもし誰か他人が、その子に接吻でもすると、可哀相な母親には、それがその人に大きな満足を与えているような気がするのですわ。そして母親というものは、話といえば、ただもう赤ん坊のこときり言わないものですわね。あたしは、母親のこの弱点を知っているので、自分ではよっぽど気をつけてるんですけど、でも、あたしのオーリャは、ほんとに少し変っていますわ。乳を吸っているときのあの子といったら! それからあの笑い方! あの子はまだやっと八月《やつき》になったばかりですけど、ほんとに、あんなに利口そうな眼は、三つの子供にだってあたし見たことがありませんわ」
「それはそうと、じゃ、聞かせて下さい」とヤールツェフは訊いた――「あなたはどちらを余計愛しているんですか――夫と子供と?」
ユーリヤは肩をすくめた。
「あたしわかりませんわ」と彼女は言った。「あたしはまだ一度も、そんなに強く夫を愛したことはないんですもの。でも、オーリャ――これはほんとに、あたしの最初の愛ですわ。あなたもご存じの通り、あたしは、愛があってアレクセイのところへ来たのではありません。前にはあたしは無考えだったもんで、随分苦しんで、あの人の生活も自分の生活も滅びてしまったなんて、そんなことばかり考えていたものですけれど、今ではもうわかりましたの、愛なんかちっとも必要なものではないということが、そんなことはみんなどうでもいいものなのだということが」
「ですか、もし愛がないとしたら、どんな感情があなたを夫に結びつけているのですか? どうしてあなたは、あの男と一緒に暮していられるのですか?」
「知りませんわ……まあ、習慣とでもいうんでしょうね、きっと。あたしはあの人を尊敬しています。あの人が長く不在《るす》だと、あたしは淋しくてなりませんの、けれど、これは愛ではありませんわ。あの人は利口な、正直な人です。あたしの幸福としては、これだけで充分ですわ。あの人は非常に善良な、単純な人ですわ……」
「アリョーシャは利口です、アリョーシャは善良です」とコスチャは、ものうげに頭をもたげながら言った――「しかし、なんですよ奥さん、あの男が利口であること、善良であること、面白い人間であることを知るためには、あの男と一緒に、塩の三プードも舐めなきゃなりませんよ……第一、あの男の善良性とか知性とかにどんな意味があるのですか? そりゃあの男は、金はいくらでも、好きなだけあなたにくれるでしょう、それだけのことはできますが、しかし、性根を見せなければならぬときとか、無礼者とか破廉恥漢などに敢然と立ち向わなければならぬ場合には、あの男は尻込ごみして、意気消沈してしまいますよ。愛すべきあなたのアリョーシャのような人々は、立派な人達ではあるけれども、拳闘のためには、全く役に立たない人達ですよ。いや、一般的になんの役にも立たない人間ですよ」
遂に、汽車の姿が現われた。煙突からは真紅の蒸気がもくもくと湧いて、森林の上へ捲きあがり、最後の車の二つの窓が、眼に痛いほどきらきらと、夕日の光を受けて輝いた。
「さ、お茶の時間ですわ……」とユーリヤ・セルゲーエヴナは立ちあがりながら、言った。
彼女は近ごろ少しふとり、歩き振りがもう貴婦人らしく、いくらかものうげになっていた。
「が、とにかく、愛がなくてはいけませんな」と彼女の後について歩きながら、ヤールツェフは言った。「われわれはのべつ愛のことばかり読んだり口にしたりしていながら、自分では一向愛していないなんて、これはほんとによくありませんよ」
「そんなことみんなつまらないことですわ、イワン・ガヴリールイチ」と、ユーリヤは言った。
「幸福はそんなことにあるのではありませんわ」
彼等は、木犀草や、紫羅蘭花《あらせいとう》や、煙草の花が咲き、早咲きの刀菖蒲ももう開きかけていた小園でお茶を飲んだ。ヤールツェフとコチェヴォーとは、ユーリヤ・セルゲーエヴナの顔付きから、彼女が現在は精神的平安と平衡との幸福な時代を送っていること、彼女には最早、既にあるもの以上になんにも必要でないことを知った。と、彼等自身の心もまた、穏かな、安易な気持になった。そして、誰がどんなことをいっても、それがみな時宜に適した、賢明なことのように、聞えた。松は美しく、樹脂のにおいがかつてなかったほどに素晴らしく感ぜられ、クリームは非常にうまく、サーシャは利口な、愛すべき少女であった。
お茶の後でヤールツェフは、自分でピアノを伴奏しながら、小唄をうたい、ユーリヤとコチェヴォーイとは、黙って腰掛けて聞いていたが、ユーリヤだけは、どうかすると立ちあがって、赤ん坊やリーダを見るために、静かに出て行った。リーダはもう二日、ひどい熱を出して、なんにも食べないで寝ていたのである。
「――わが友よ、わが優しき友よ――」とヤールツェフはうたった。「いや、なんですよ奥さん、僕はたとえ斬り殺されても」と彼は言って、頭を振った――「僕にはわかりませんね、なぜあなたが恋に反対でいられるのか! もし僕が、一昼夜に十五時間も忙しくなかったら、きっと恋をするんですがね」
夜食はテラスに用意された。暖かく静かだったが、ユーリヤは肩掛けにくるまつて、湿っぽいのをこぼしていた。あたりがとっぷりと暮れてしまうと、彼女はなぜか気分がすぐれなくなり、絶えずわなわな震えながら、客達にできるだけ長くいてくれと頼むのだった。彼女は彼等に葡萄酒を振舞ったり、夜食がすんでからも、彼等を帰らせまいとして、コニャツクを出すように命じたりした。彼女は、子供達と召使達だけになるのがいやだったのである。
「あたし達、別荘にいる者達でね、ここで児童劇をやろうと計算しているんですのよ」と彼女は言った。「もうすっかり支度はできていますの――劇場も、俳優も、ただ脚本のために停頓しているんですわ。二十篇もいろんな脚本を送ってきたんですけれど、どれも使えないんですのよ。あなたは芝居がお好きだし、歴史をよくご存知だから」と彼女は、ヤールツェフの方へ顔を向けた――「あたし達のために、何か史劇をひとつ書いて下さいません?」
「ええ、いいですとも、書きますよ」
客達はコニャックを飲み終わると、帰り支度をはじめた。もう十時すぎであった。別荘生活としては、これはおそい時間だった。
「なんて暗いんでしょう、一寸先も見えませんわ!」とユーリヤは、客達を門の外まで送り出しながら言った。「これであなた方、道がおわかりになるかしら。それはそうと、寒いこと!」
彼女は一層しっかりからだをくるんで、入口の段々の方へ引き返した。「うちのアレクセイは、きっとどこかでカルタでもしてるんでしょうよ!」と彼女は叫んだ。「おやすみなさい!」
明るい室内から出てきた眼には、何ひとつ見えなかった。ヤールツェフとコスチャとは、盲人のように手さぐりで、鉄道線路まで辿りつき、それを越した。
「何にも見えやしない」と、コスチャは立ちどまりながらバスで言って、空を見上げた。「そして星がさ、星が、まるで新らしい十五カペイカ銀貨みたいだ! ガヴリールイチ!」
「ああ?」と、どこかでヤールツェフが返事をした。
「なんにも見えないっていうことさ。君はどこですか?」
ヤールツェフは、口笛を吹きながら彼の方へ来て、いきなり彼の腕をとった。
「おーい、別荘の人達!」と突然コスチャが、咽喉いっぱいの声で叫び出した。「社会主義者をつかまえたぞう!」
浮き立ってくると、彼はいつも落ちつきがなくなって、喚いたり、巡査や馭者に食ってかかったり、放歌したり、狂暴に笑ったりするのだった。
「自然よ、貴様なんか悪魔に食われろ!」
「まあまあ」とヤールツェフは彼をなだめた。「もういいですよ。お願いだ」
間もなく、ふたりの友は闇に慣れて、高い松の木や、電柱の影像を見分け得るようになった。
モスクワの各停車場の方からは、たまに汽笛の音が聞えて来て、電線が泣くような唸り声を立てていた。が、森自身はそよとの音も立てず、そしてこの沈黙の中には、何やら傲然とした、力強い、神秘な力が感ぜられて、今この夜更けには、松の梢がほとんど空と触れ合っているように感ぜられた。ふたりの友は、いつも森の中の空地線を探しあて、それについて進んで行った。そこはまた完全に真暗で、ただ頭上に星屑の撒き散らされた長い帯と、足の下に踏み固められた地面があるのとで、自分達が小径を進んでいることがわかるのだった。ふたりは肩を並べて黙々と歩いて行ったが、ふたりとも、向うから人がくるような気がしてならなかった。ほろ酔い気分はいつかふたりを見棄てていた。ヤールツェフの頭には、ひょっとするとこの森の中に、今でもモスクワ王国の諸王や、貴族や、僧正達の亡霊がさまよっているかも知れぬという想念が浮かんで、それをコスチャに話したい気持が起ったが、口には出さなかった。
彼等が市門近く辿り着いた頃には、空はわずかに白みかけていた。依然として黙りこくったまま、ヤールツェフとコチェヴォーイとは、安っぽい貸別荘だの、飲食店だの、材木置場だのの並んでいる舗道を歩いて行った。両側から樹枝のさしかわしたアーチの下では、菩提樹の香のこもった、快い湿気が彼等をとらえた。やがて、広い、長い街路がひらけて来たが、その上には人影一つ、灯影一つ、見えなかった……クラースヌイ・プルーと(赤い池の意)へ着いたときには、もうすっかり明け放れていた。
「モスクワ――これは、まだまだ沢山の苦悩を嘗めなければならぬ街だな」とヤールツェフは、アレクセーフスキイ修道院を眺めやりながら言った。
「なんだってまたそんなことを考え出したんです?」
「どうもこうもない。僕はモスクワが好きだからさ」
ヤールツェフもコスチャもモスクワで生まれたので、それを崇拝していた。そして他の都会に対しては、なぜか敵意を抱いていた。彼等はこう信じ切っていた。モスクワは素晴しい都である。ロシアは素晴しい国であると。クリミヤでもカフカーズでも、外国でも、彼等は退屈で、不愉快で、不便だった。そして、自分達のモスクワの灰色した天候をも、彼等は最も快適な、健康な天候だと考えていた。寒い雨が窓を叩いて黄昏が早くおとずれ、家々や教会の壁が、褐色した、物悲しげな色を呈し、街路へ出るのに何を着て行ったらいいかわからないような日、――そんな日も、彼等を愉快に刺戟するのだった。
やっと、停車場近くで、彼等は辻馬車をひろった。
「実際、史劇を書くのは面白いだろうな」とヤールツェフは言った――「しかしそれは、リャプーノフとかゴドゥーノフのことでなく、ヤロスラーフとかモノマーフとかの時代を書けばという意味だ……僕は、ピーメンの独白以外には、ロシアの史劇はみんな憎むです。例えば、君が何か歴史的文献と交渉を持つとか、ロシアの教科書を読んだだけでも、そのときには、ロシアの事はすべて並はずれて天才的な、有能な、面白い事ばかりのような気がするのに、劇場の舞台で史劇を見ると、すなわちロシア生活は、無能で、不健全で、独創性を持たぬもののように思われてくるんですからね」
ドミトローフカの近くでふたりの友は袂《たもと》をわかち、ヤールツェフはそのままずっと、ニキートスカヤの自分の家まで乗って行った。彼は、馬車に揺られてうとうとしながら、しきりに脚本のことを考えていた。ふと彼は、恐しい騒ぎや、凄まじい音響や、まるでカルムイク語ででもあるような、不可解な言葉の叫び声を想像した。全村火炎に包まれたどこかの村や、霜に蔽われて、火事のために柔かい薔薇色をした付近の森や、周囲一体が遠くぐるりと見えて、一本一本の樅の木までがはっきり見えるほど、明るかった。そしてどこかの蛮人、馬に跨がったのや徒歩の人間が村内を駆けめぐり、彼等の馬も彼等自身も、空焼けと同じように真赤な色をしている。
〈ポロヴェツ人(十一〜十三世紀、南露を横行した遊牧民族)だな〉とヤールツェフは考えた。
その中のひとり――全身焼けただれて血みどろの顔をした、物凄いひとりの老人が、白いロシア人らしい顔をした若い娘を鞍に縛りつけている。老人は何やら狂暴に叫んでいるが、娘は悲しそうな、利口そうな眼をして眺めている……ヤールツェフは頭を振って、眼をさました。
「わが友よ、わが優しき友よ……」と彼はうたい出した。
馭者に払いをすまして、二階の自分の住居へ上って行きながらも、彼はまだどうしても夢からさめきれなくて、火事の火炎が樹木に移り、ぱちぱち音を立てて燃えはじめて、黒煙で森を押し包むさまを見ていた。恐怖に狂ったようになった巨大な野猪が、村じゅうを駈け廻っていた……鞍に縛りつけられた娘は、依然としてじっと見ていた。
彼が部屋へはいったときには、もう明るかった。ピアノの上には、開いた楽譜のそばに蝋燭が二本燃えつきようとしていた。長椅子の上には、黒い服に帯をしめたラズスーヂナが身をよこたえて、新聞を手にしたまま、ぐっすりと睡っていた。きっと、ヤールツェフの帰りを待ちながら、長いことひとりで弾いていた挙句、待ちくたびれて、寝てしまったのであろう。
〈やれやれ、疲れたものとみえる!〉こう彼は考えた。
注意深くそっと彼女を膝掛けでくるんでやってから、蝋燭を吹き消して、彼は自分の寝室へ行った。床に就いてからも彼は、史劇のことを考えていたし、その頭からは、例の文句――「わが友よ、わが優しき友よ……」が、依然として抜け切らなかった……
二日後にラープチェフが彼の許へ、リーダがジフテリヤに罹《かか》ったこと、ユーリヤ・セルゲーエヴナと赤ん坊とがそれに感染したことを言いに、ちょっと立ち寄った。それからまた五日して、リーダとユーリヤとは直ったが、赤ん坊は死んでしまったことと、ラープチェフ夫妻は、ソコーリニキの別荘から街へ逃げ帰ったという通知があった。
十四
ラープチェフはもう、長く家にいることが不愉快になっていた。彼の妻は、少女達を見てやらなければならないからとて、しげしげと翼屋の方へ行った。しかし彼は、彼女がそこへ行くのは、少女達のためではなく、コスチャのところへ泣きに行くのであることを知っていた。いつか九日になり、やがて二十日を過ぎ、更に四十日になっても、彼は、アレクセーエフスコエの墓地へ出かけて読経を聴いたり、日となく夜となく思い悩んで、一途にあの不幸な赤ん坊のことを考えたり、妻にいろいろと、型にはまった慰めの言葉をかけたりしなければならなかった。彼はもう、倉庫へもたまにしか顔出しせず、自分のためにいろんな心遣いや仕事を考え出しては、ただ慈善事業に日を送っていた。そして何よりも、ちょっとした用ができて、終日馬車を乗り廻すような機会のくるのを、喜んでいた。最近になって彼は、無料宿泊所設置に関する調査のため、外国へ行こうと考え出した。そしてこの考えが、今では彼を惹きつけて放さなかった。
とある秋の一日であった。ユーリヤは今しがた翼屋の方へ泣きに行ったばかりで、ラープチェフは書斎の長椅子に寝そべったまま、どこへ出かけたものかと考えていた。ちょうどこのときピョートルが、ラズスーヂナの来訪を取り次いで来た。ラープチェフはいたく喜び、跳ね起きると、かつての女友であり、いつかもうほとんど忘れかけていた、思いがけない女客を迎えに駆け出した。彼が最後に彼女を見た晩以来、彼女は少しも変っていなかった。依然として、昔のままの彼女であった。
「ポリーナ!」と彼は、彼女の方へ両手を差し延べながら言った。「随分しばらくぶりですね! お目にかかれて僕がどんなに喜んでいるか、わかって下すったらなあ! さ、どうぞ!」
ラズスーヂナは挨拶しながら、彼の手をぐんぐん引っ張り、外套も帽子も脱がずに、書斎へはいって腰をおろした。
「わたし、ほんのちょっと伺ったんですよ」と彼女は言った。「下らないお喋りをしてる暇なんか、わたしにはありませんからね。まあ座って、聴いて下さい。あなたがわたしに会って、喜んで下さろうと下さるまいと、わたしには断じて同じことです。だって、わたしはもう殿方のどんな注意にも一文の価値もおいていないのですから。今日わたしがお宅へ伺ったのも、実はもう五軒も歩き廻って、どこでも断られたのに、肝腎の用件がどうしてもほおって置けないことだからですよ。まあ聞いて下さい」と彼女は、ひたと彼の眼に見入りながら続けた――「わたしの知ってる五人の大学生。浅はかな、お馬鹿さんの、でもほんとに貧乏な人達ですが、それが授業料を納めなかったので、今日除名されることになったのです。あなたの富があなたに、これからすぐ大学へ行って、その人達の代りに払っておあげになる義務を負わせていますよ」
「喜んでそうしましょう、ポリーナ」
「これがその人達の名前です」とラズスーヂナは、ラープチェフに紙きれを渡しながら、言った。「今すぐ行って下さい。家庭の幸福のお楽しみは、あとでも結構間に合いますわ」
このとき、客間へ通ずるドアの向うに、何やらさらさらという音が聞えた――きっと犬が身体でも掻いたのに違いない。ラズスーヂナは真赤になって跳びあがった。
「あなたの愛人が立ち聞きしてるのね?」と彼女は言った。「なんて卑しいことでしょう!」
ラープチェフはユーリヤのために侮辱を感じた。
「あれはここにはおりません、翼屋の方にいるのです」と彼は言った。「あれのことをそんな風に言わないで下さい。僕達の子供が死んだので、あれはいま恐しい悲しみに浸っているのです」
「あの女を慰めることぐらい、いくらでもできますよ」とラズスーヂナは再び腰をおろしながら、嘲笑《あざけ》った。「子供なんかまだまだ十人でもできますよ。子供をこしらえるのに知恵の足りないという人がどこにあるでしょう?」
ラープチェフは、これと同じ言葉を、あるいはこれに似寄った言葉をいつかずっと前に、もう何度も聞いたことのあったのを思い出した。と、かなたへ過ぎ去った時代、自分は若く、なんでもしたいことができるような気がしていた、自由なひとりぼっちの独身時代、妻に対する愛も、わが子についての思い出もなかった時代のにおいが、一篇の詩のようになって漂って来た。
「じゃあ一緒に行きましょう」と、彼は伸びをしながら言った。
大学へ着くと、ラズスーヂナは門のところに残り、ラープチェフひとり事務所へはいって行った。暫くすると彼は戻って来て、領収証を五枚、ラズスーヂナに渡した。
「これからあなたはどこへ行くんです?」
「ヤールツェフのところへ」
「じゃ僕もお伴しましょう」
「だって、あなたはあの人の仕事の邪魔になりますわ」
「いや、大丈夫です!」彼はこう言って、祈るような眼で彼女を見つめた。
彼女は、縮緬の飾りのついた、まるで喪服のような黒い帽子をかぶり、ポケットのふくれあがった、ひどく短い、すり切れた外套を着ていた。彼女の鼻は、以前よりも長くなったように見え、その顔には、この寒さにもかかわらず、血の色ひとつ見えなかった。ラープチェフには、彼女のあとについて歩いて行くことが、彼女に服従し彼女の小言を聞いていることが、快かった。彼は歩きながら、彼女のことを考えていた――こんなに醜い、ごつごつした、落ちつきのない、服ひとつ満足に着られないで、年じゅう髪をだらしなくさげ、いつもどことなく調子はずれなところのあるこの女が、それでいて、やはりどこかに人を惹きつけるところのあるのは、きっとこの女に、それだけの内部的の力があるからに違いない、こんなことを考えていた。
ふたりは、裏口から台所を抜けて、ヤールツェフの住居へはいって行った。台所では、白い捲き毛の小ざっぱりした老女が、彼等を迎えた。彼女はひどく羞《はに》かんだような様子をして、甘ったるい微笑を浮かべた。そのとき彼女の小さい顔は、パイでも見るようになった。そして言った。
「どうぞおはいり下さいまし」
ヤールツェフは不在であった。ラズスーヂナはピアノの前に腰をおろし、ラープチェフに邪魔をしないように命じておいて、退屈な、難しい練習曲にとりかかった。彼は、彼女に話しかけて注意を乱さないようにと、わきの方に腰をおろして、「ヨーロッパ報知」を飜《ひるが》えしていた。二時間弾きつづけると――これが彼女の日課であった――彼女は台所で何か食べて、出教授にと出て行った。ラープチェフはある小説の続きを読んでしまうと、それからはもう読みもせず、退屈も感じないで、午餐に家へ帰るには時間の遅れたことに満足して、長いこと漠然と座っていた。
「は、は、は!」ヤールツェフのこういう笑い声が聞えて、健康そうな、元気な、赤い頬をした彼自身が、光ったボタンのついた新らしい燕尾服姿ではいって来た。
「は、は、は!」
友達同士は一緒に昼食をしたためた。食後、ラープチェフは長椅子に寝そべるし、ヤールツェフはそのそばに腰掛けて、葉巻に火をつけた。黄昏が迫って来た。
「僕はきっと、そろそろ老人くさくなり出したろうね」とラープチェフは言った。「姉のニーナが死んでからこっち、僕はなぜか、よく死ということを考えるようになったよ」
ふたりは死について、霊魂の不滅について話し出した。一度死んで、実際にもう一度甦えり、それからどこか火星へでも飛んで行って、永久に閑散な、幸福な身の上になれたら、いや、肝腎なことは、なんなり特に浮世ばなれのした考えを持つことができるようになったら、どんなによかろう――こんなことを話し合った。
「だが、死ぬということはいやなもんだね」とヤールツェフは静かに言った。「どんな哲学をもってきても、僕を死と妥協させることはできんよ。僕はやっぱり簡単に、死は滅亡と観じるね。生きていたいよ」
「じゃあ君は生を愛していますか、ガヴリールイチ?」
「ああ、愛していますよ」
「ところが僕は、この点においては、どうしても自分がわからないんです。僕にあるのは、陰鬱な気分か、でなければ無関心な気分だ。僕は臆病者で、自信というものが少しもない。僕にあるのは臆病な良心で、僕はどうしても生活に適応して行くことができない。その主人となることが出来ない。ある者は、愚劣なことを喋ったりいかさまなことをしたりしながら、生活を楽しんでいるのに、僕はとかく、意識していいことをしていながら、ただ不安を感じたり、完全な無関心を感じたりしている。これをだね、ガヴリールイチ、僕は自分が奴隷だから、農奴の孫だからという一事で説明している。われわれ下層民は、真実の道へ逃れ出る前に、われわれ兄弟の大部分が、骨になって倒れてしまうだろう!」
「いや、それはそれで結構なんだよ、君」とヤールツェフは言って、溜息をついた。「それはただ、多種多様なわがロシア生活がいかに豊富であるかという余計な証明に過ぎませんよ。ああ、ほんとになんて豊富だろう! いいですか、僕は日一日と益々多く、われわれは今偉大なる勝利の前夜に生活しているものであることを、確信するものなんです。そして僕は、どうかしてその日まで生き延びて、自身それに参加したいと思っているんだ。君が信じようと信じまいと、それは勝手だが、僕にいわせれば、とにかくいまは、素晴しい時代が成長しつつあるときですよ。僕は、子供達を相手に課業に従事しているとき、特に少女達を教えているときには、まったく喜びを感じますよ。驚くべき子供達だよ!」
ヤールツェフはピアノのそばへ行き、両手で協和音を試みた。
「僕は化学者だ、考え方も化学的なら、死ぬにも化学者として死ぬだろう」と彼は続けた。「しかし、僕は欲が深いから、自分は恐らく不満の気持で死ぬだろうと恐れているのだ。僕には化学だけでは物足りない。僕は今、ロシア史に手を染めかけている。美術史に、教育学に、音楽に手を染めかけている。いつかこの夏、君の細君が僕に史劇を書けと言ったことがあるが、今でも僕は、それが書きたくて書きたくてたまらないのだ。今なら、このまま、三昼夜ぐらい座ったまま、立ちもしないで、いくらでも書いていられそうな気がする。いろんな妄想が僕を疲れさせ、頭の中には思想がいっぱいになって、脳髄の中でどきどき脈を打っているのを感ずる。僕は決して、自分が何か特別なものになることを望んでいない。自分が何か偉大なものを創造するようにとも望んではいない。僕の望んでいることは、ただ生活し、空想し、希望を持ち、どこへでも顔を出したいことだけだ……人生は君、短いんだからね、できるだけよく生きなくちゃいけないよ」
夜半まで続いてやっとおしまいになったこの打ち解けた会談以来、ラープチェフはほとんど毎日、ヤールツェフを訪れはじめた。彼は彼に惹きつけられた。普通彼は、夕方前に来て、横になり、少しも退屈を感じないで、辛抱強く友の帰りを待つのだった。ヤールツェフは、勤めから帰って食事をすますと、早速仕事に取りかかるのだったが、ラープチェフが何か質問するや否や、たちまち会話がはじまって、もう仕事どころでなくなり、夜半になってやっと、ふたりは互いに非常に満足しながら、袂をわかつのであった。
しかし、これも長くは続かなかった。あるとき、ヤールツェフの許へ来てラープチェフは、ラズスーヂナがひとりきりピアノに向って練習曲をひいているところへ行き合わせた。彼女は冷やかな、ほとんど敵意ありげな眼で彼を見、手を出そうともしないで、尋ねた――
「どうぞ言って頂戴な、これはいつになったら終るんですの?」
「これとはなんですか?」と、ラープチェフは理解しかねて訊いた。
「あなたは毎日ここへ来て、ヤールツェフの仕事の邪魔をしてらっしゃる。ヤールツェフは商人なんかとは違って、学者ですからね、あの人の生活の一分一分は、なかなか貴重なんですよ。それを理解して、ちっとはデリカシイを持たなければいけませんよ!」
「もし僕が邪魔をしているとお思いなら」とラープチェフは戸惑いして、おとなしく言った――「今後訪問をやめてもいいです」
「結構ですね。じゃすぐ帰って頂戴、さもないと、あの人がもうじき帰って来て、あなたに会うかも知れませんから」
この言葉の言われた調子と、ラズスーヂナの冷淡な眸とが、心から彼を狼狽させた。彼女には最早、少しでも早く帰ってもらいたいという願い以外、彼に対してなんの感情もなかった。――そしてこれは、以前の愛に比べてなんという変り方であろう! 彼は、彼女の手も握らないでそこを出たが、でも彼には、彼女があとから声をかけて、呼び戻すだろうという気持がしていた。が、じきまた音階が聞え出したので、彼はのろのろと階段をおりながら、自分がもう彼女にとって完全に他人であることをはっきりと了解した。
三日後に、ヤールツェフが、一緒に宵を過ごすべく、彼の許へやって来た。
「僕にひとつ珍聞があるのさ」彼はこう言って、笑い出した。「ポリーナ・ニコラーエヴナがすっかり僕のとこへ来てしまったのさ」彼はいくらか狼狽の気持で、小声でつづけた――「どうだね? だが、もちろん、僕等は別に惚れ合ったわけじゃない。しかし、僕思うにだ、これは……まあそんなことはどうでもいいさ。僕は喜んでいるのさ、あの女に隠れ家と、平安と、病気でもした場合に働かなくてもいい可能性を与えることのできるのをね、ところが、あの女はまたあの女で、あの女が僕と一緒になったために、僕の生活がずっと秩序だって、あの女の影響の下に僕がえらい学者になるだろう、こんな気がしているらしい。あの女は、こんなふうに考えているんだ。まあ、好きなように考えさしとくがいいさ。南国人の間には――『馬鹿は想像で金持になる』って諺があるくらいだからね。は、は、は!」
ラープチェフは黙っていた。ヤールツェフは書斎の中をひと廻りして、以前にもう度々見た絵を眺め、溜息をつきながら、言った――
「そうだよ、君、僕は君より三つ上で、真の恋愛なんかを考えるにはもう遅いのだから、実のところ、ポリーナ・ニコラーエヴナのような女は、僕にとって天の賜物なんだ。で、もちろん僕は、あの女と老年になるまで無事に暮して行くだろうと思う。が、どういうわけかわからないが、やっぱり何か惜しいような、何かもっと欲しいものがあるような、そして自分が今もダゲスタンの谷に寝そべって、舞踏会の夢でも見ているような気がのべつしている。これを要するにだ、人間という奴は、現在自分の手許にあるものでは、決して満足しないように出来てるものなんだね」
彼は客間の方へ行き、まるで何事もなかったような調子で、小唄をうたい出した。が、ラープチェフは、自分の書斎に座ったまま、じっと眼を閉じて、なぜラズスーヂナがヤールツェフと一緒になったか、その理由を考えてみようとした。その後では彼は、堅固な、変らぬ愛着というもののないことを、大いに悲しんだ。と、彼には、ポリーナ・ニコラーエヴナがヤールツェフと一緒になったことも心外なら、妻に対する自分の感情が、以前とは全然変ってしまったことに対しても、自分自身をいまいましく思ったりした。
十五
ラープチェフは肘掛椅子に掛けて、からだを揺りながら読書していた。ユーリヤも同じ書斎でやはり読書していた。どうやら、話のたねもなくて、ふたりは朝から黙っていたものらしい。彼はときたま、書物越しに彼女の方を見て、考えていた――熱烈な恋愛から結婚しても、全然恋愛なしで結婚しても――結局同じことなのではないだろうか? そして、彼が嫉妬したり、興奮したり、苦しんだりした時代は、もう遠い昔のように思われた。彼はもう外国へも行ってきて、今はその旅疲れを癒《いや》しながら、春のくるのを待って、もう一度、非常に気に入ったイギリスへ行こうと考えているのだった。
が、ユーリヤ・セルゲーエヴナは、いつか悲しみにも慣れて、翼屋へ泣きに行くこともしなくなっていた。この冬には、彼女はもう、店あさりに馬車を駆けることも、芝居や音楽会へ行くこともやめてしまって、家にばかり引きこもっていた。彼女は広い部屋を好まなかったので、多く夫の書斎か、自分の部屋かにいた。そこには、結婚のときに持って来た聖像厨子がおかれてあり、壁には、いつかの展覧会で大変気に入った、あの風景画がかかっていた。彼女は、自分自身のためにはほとんど金を使わなくて、今では、以前父の家にいた時と同じくらい質素な生活をしていた。
冬はなんの楽しみもなく過ぎて行った。モスクワでは、どこへ行ってもカルタばかりで、もしその代りに何か別の娯楽を考え出しても、例えば歌うとか、朗読するとか、絵を描くとかしてみても、その結果はかえって退屈であった。それに、モスクワには才能ある人々が少なく、どこの夜会へ行っても、いつも同じ歌手や朗読者が出るので、芸術の享楽そのものが次第に飽かれて、多くの人々にとって退屈な、単調な義務になってしまうのだった。
その上、ラープチェフ一家の者にとっては、一日として何かしら悪いことなしにすんだことはなかった。フョードル・ステパーヌイチ老人は、視力がすっかり衰えてしまったので、もう倉庫へも出なかった。そして眼科医達は、彼はじき失明するだろうと言っていた。フョードルも、どうしたのか倉庫へ行くことをやめてしまい、ずっと家にこもって、書き物をしていた。パナウーロフは四等官に昇進して、別の街へ転任することになり、今はホテル「ドレスデン」に滞在して、毎日のようにラープチェフの許へ金の無心にやってくるのだった。キーシはやっと大学を出、ラープチェフ達が何か職を見つけてくれるのを心あてに、例の退屈な長話をやりながら、毎日毎日彼等の許に入り浸っていた。こうしたことがすべて、気分を苛立て、疲れさせて、日々の生活を不愉快なものにしているのだった。
ピョートルが書斎へはいって来て、どこかの見知らない奥さんが来たと取り次いだ。彼の差し出した名刺には、「ジョゼフィーナ・ヨシフォーヴナ・ミラン」としてあった。
ユーリヤ・セルゲーエヴナは大儀そうに立ちあがると、足がしびれていたので、軽く跛《びっこ》をひきながら、出て行った。戸口に、恐しく蒼白い顔をした、痩せた、眉の黒い、上から下まで黒ずくめの服装をした、婦人の姿が現われた。彼女は、両手で胸を抱くようにして、祈るような声で言い出した――
「ムッシュー ラープチェフ、どうぞわたくしの子供達をお救い下さいまし!」
腕環の鳴る音と、白粉のむらについている顔とが、ラープチェフはすでに馴染みのものであった。彼はいつか結婚前に、ひょんなことから午餐の馳走になったあの婦人をそこに認めた。それはパナウーロフの第二の妻であった。
「どうぞわたくしの子供達をお救い下さいまし!」と彼女は繰り返した。
彼女の顔はふるえ出して急に老けたみじめな顔付きになり、ふたつの眼は真赤になった。
「わたくしどもをお救い下さる方はあなたさまのほかにはございません、で、わたくしは、最後のお金を旅費にしてモスクワへ、あなたさまのところへ出てまいりました! 子供達は飢えて死にそうなのでございます!」
彼女は、いまにも跪こうとするような動作をした。ラープチェフはびっくりして、彼女の腕の肘より少し上のところを掴んだ。
「お掛け下さい、お掛け下さい……」と彼は、彼女を掛けさせようとしながら、呟いた。「さ、どうぞ、お掛け下さい」
「わたくし達には今、パンを買うおあしもないのでございます」と彼女は言った。「グリゴーリイ・ニコラーイチは、新らしい勤め先へまいっているのですが、わたくしや子供達を連れて行こうとはしてくれませんで、あなたさまが寛大なお心からお送り下さいましたお金も、みんな自分だけで使っているのでございます。わたくしどもはどうしたらよろしいのでございましょう? どうしたら? 可哀そうな、不幸な子供達でございます!」
「まあ落ちついて下さい、お願いです。これからは、そのお金はあなたに宛ててお送りするよう、係りの者に申しつけますから」
彼女は泣き出したが、やがて落ちついた。そこで彼は、彼女の化粧をした頬に、涙のために小径ができたことと、彼女には口髭がはえていることとを、認めた。
「あなたさまは、どこまで寛大なお方でしょう、ムッシュー ラープチェフ、ですけれど、どうぞお願いでございます。わたしどもの天使におなり下さいまして、善き守り神におなり下さいまして、グリゴーリイ・ニコラーイチに、わたくしを見棄てないで、一緒に連れて行ってくれますようにお勧め下さいまし。だって、わたくしはあの人を愛しているのでございますもの、気も狂うほど愛しているんでございますもの、あの人はわたくしの歓びなんでございますもの」
ラープチェフは彼女に百ルーブリ与えて、パナウーロフを説いてみることを約束した。そして玄関まで送り出しながらも、彼女がまた泣き出したり跪いたりしはしまいかと、絶えずびくびくしていた。
彼女のあとへキーシが来た。それからコスチャが、写真機を持ってやって来た。最近、彼は写真に夢中になっていて、毎日何度となく、家じゅうの者を写すのだった。そしてこの新らしい仕事が、彼に多くの失望をもたらしたので、彼はいくらか痩せたくらいであった。
晩のお茶の前にフョードルが来た。書斎の片隅の椅子に腰をおろすと、彼は書物を開いて、いつまでも同じ頁ばかりを見ていた、どうやら読んではいない様子で。それから、長いことかかってお茶を飲んだ。彼の顔は赤かった。彼が傍にいると、ラープチェフは心に重苦しさを感じた。彼の沈黙までが彼には不愉快であった。
「君は、新らしい評論家の誕生を、ロシアのために祝していいんだぜ」とフョードルは言った。
「しかしまあ冗談はぬきにして、兄さん、僕は小論文を一つ書いたよ、いわゆるペンの試みという奴をね、そして、君に見せようと思って持ってきたんだ。ひとつ読んで、批評してくれたまえ。ただ、真面目にね」
彼はポケットから一冊のノートを取り出して、それを兄に渡した。論文は「ロシア精神」と題されていた。それは普通、才能のないくせに、ひそかに自惚れている人が書くように、精彩のない文章で、退屈に書かれていた。そしてその中心思想は、つぎのようなものであった――知識階級人は、超自然的の事象を信じない権利を持っている。しかし彼は、この自己の不信を、他人を誘惑し、他人の信仰を動揺せしめないために、隠すべき義務を持っている。信仰なくして理想主義はない。しかるに理想主義には、ヨーロッパを救い、人類に真の道を指示すべき使命が、あらかじめ付託されている。
「しかしなんだね、お前はここに、何からヨーロッパが救われなければならないということは書いてないね」とラープチェフは言った。
「そりゃ自然にわかってるじゃないか」
「一向にわかっちゃいないよ」ラープチェフはこう言って、興奮して部屋を歩いた。「いったいお前はなんのためにこれを書いたのか、それがわからないよ。もっとも、おれの知ったことじゃないがね」
「僕はパンフレットにして出版しようと思ってるんだよ」
「それはお前の勝手さ」
一分ばかりふたりは沈黙した。フョードルは溜息をついて言った――「われわれがお互いに意見を異にしてるのは、実になんとも、限りなく遺憾だ。ああ、アリョーシャ、親愛なる兄さん! 僕達はロシア人だ、正教徒だ、心の広い人間だ。ドイツ人やユダヤ人のいろんな思想が、果たして僕達にふさわしいだろうか? 僕や兄さんは、そんじょそこらの下等な成り上がり者とは違うんだ、立派な商人の家柄の代表者だ。
「何が立派な家柄だい?」とラープチェフは、苛立たしさを押さえながら言った。「立派な家柄か! 僕達の祖父《じい》さんは、地主達にゃもちろんのこと、一番身分の低い官吏にでも、鼻面をびしびし打たれたものだ。その祖父さんは親父を打ち、親父はまた僕やお前を打った。お前のいわゆる立派な家柄が、いったい僕達に何を与えたかね? どんな神経やどんな血を、われわれは譲り受けたろう? お前はもうかれこれ三年、寺男のように考えたり、いろんな下らないことを言ったりして、今はまたこんなものを書いた――だって、これは下司のたわ言だよ! ではおれは、ではおれは? まあこのおれを見てくれ……柔軟性もなければ、力強い意志もない。今にも鞭打たれはしまいかと、一足毎にびくびくふるえている。おれは知的にも、道徳的にも、測り知れぬほど自分より低いところに立っているつまらない奴や、白痴や、畜生どもに対してまで、びくびくしている。おれは家畜や、玄関番や、巡査や、憲兵を恐れている、おれはすべての人を恐れている、なぜだろう、それはおれが、いじめられていじけてしまった母親から生まれたからだ、子供の時分から、打たれ脅かされて育ったからだ!……僕やお前はお互いに、子供を持たないようにするがいいんだよ。ああ願わくば、こんな立派な商人の家柄は、われわれ一代で滅びてしまいますように!」
書斎へユーリヤ・セルゲーエヴナがはいつて来て、卓のそばに座った。「あなた方は、何か議論をしてらしたのね?」と彼女は言った。「あたし、お邪魔じゃなかったこと?」
「いや、姉さん」とフョードルは答えた――「僕達は本質的な話をしているのです。そこで、兄さんは言うんだね――つまらない家柄だって」と彼は兄の方へ顔を向けた――「だってこの家柄は、数百万ルーブリの事業を創り上げたじゃないか。これは何事かに値いするものだよ!」
「なるほど、大したものだね――数百万ルーブリの事業! 特別な知恵があるでも才能があるでもない人間が、たまたま小売商人になり、それから小金を作り、一日一日と、なんの秩序もなく、目的もなく、また金に対する貪欲すらなしに商いを、機械的に商いをしているうちに、金の方から自然とその男の方へ集まったので、彼が金の方へ行ったわけではない。商人は生涯、自分の仕事を後生大事に守って、それを好いているが、それはただ、番頭達に君臨したり、お客をなぶりものにしたりすることができるからだ。また、彼が教会の長老でいるのは、そこで唱歌隊員に威張り散らしたり、彼等を屈伏させたりすることができるからだ。また、彼が学校の後援者でいるのは、教師が自分の手下であること、彼等に対して上役ぶることができるという意識が気に入ってるからだ。商人が好いているのは、商いをすることではなく、人に対して威張ることだ。お前達の倉庫は商売の店ではなくて、拷問所だ! そうだ、お前達のやっているような商売のためには、骨抜きにされ、無性格になってしまったような番頭どもが必要なので、お前達自身そういう人間を、子供の時分から、一片のパンのためにお前達の足につくまで頭を下げるように躾けながら、作り上げる。そして子供の時分から彼等を、彼等がお前達を恩人だと思うように教え込む。現にお前だって、大学出の人間を、倉庫へとろうとはしないじゃないか!」
「大学出の人間は、われわれの事業には不向きだよ」
「違う!」とラープチェフは叫んだ。「嘘だ!」
「失敬だが、僕には兄さんの言うことは、自分の飲んでいる井戸へ、唾を吐き込んでるような気がするね」フョードルはこう言って、立ちあがった。「兄さんは、うちの仕事をきらいながら、それでいて、それからあがるものだけは利用してるんだからな」
「ほほう、とうとうそこまで仰しゃいましたね!」とラープチェフは言って、腹立たしげに弟の顔を見つめながら、笑い出した。「そうだ、もしおれがお前のいう立派な家族の一員でなかったら、せめてこれっぽちでもおれに意志と勇気があったら、おれはとっくの昔に、こんな収入なんかほうり出して、自分のパンを稼ぎに出かけただろう。しかし、お前達があの倉庫で、子供の時分からおれを骨抜きにしてしまったからな! おれはお前達のものなんだよ!」
フョードルは時計を見て、そそくさと別れの挨拶をし出した。彼は、ユーリヤの手を接吻して出て行ったが、玄関へ行く代りに客間へ通って、それから寝室へはいって行った。
「僕はこの家の部屋の配置を忘れてしまった」彼はひどく狼狽の態でこう言った。「変な家だ。そうじゃないですか、変な家でしょう?」
毛皮外套を着るときにも、彼はまるで茫然たる様子で、その顔には苦痛の色を現わしていた。ラープチェフはもはや怒りを感じなかった。彼は驚くと同時に、フョードルが可哀そうになって来た。と、この三年間、彼の中で消えてしまったように思われていた肉親に対するあの温かな、よき愛情が、卒然として彼の胸奥に眼ざめたので、彼は、その愛情を表白したいという強い欲求を感じ出した。
「ああフェーヂャ、お前、明日、うちへ食事に来ないか」彼はこう言って、弟の肩を軽く撫でた。「くるね」
「ええ、ええ、それはそうと、僕に水を一杯下さい」
ラープチェフは、自身食堂へ駈けて行き、戸棚の中から最初に手にあたったものをとり――それは背の高いビール注ぎであった――水を注いで、弟のところへ持って来た。フョードルは貪るように飲み出したが、いきなりビール注ぎを噛んだので、かちかちと歯の鳴る音が聞え、ついで嗚咽《おえつ》の声が聞えた。水は毛皮外套の上や、フロックの上へたらたらとこぼれた。これまでに一度も男の泣くのを見たことのなかったラープチェフは、まごまごし、呆気にとられて突っ立ったまま、為すべきことを知らなかった。彼は茫然として、ユーリヤと小間使とがフョードルの毛皮外套を脱がせてもとの部屋の中へ連れ込むのを見ていてから、自分を罪あるもののように感じながら、そのあとについて歩き出した。ユーリヤはフョードルを寝かして、その前に跪いた。
「こんなことなんでもありませんわ」と彼女は慰めた。「きっと神経のせいよ……」
「ねえ、姉さん、僕はとても苦しいのです!」と彼は言った。「僕は不幸です、不幸です……しかしこれまで僕は、それをずっと隠してきたのです!」
彼は彼女の首を抱いて、彼女の耳に囁いた――「僕は毎晩、ニーナ姉さんを見るのです。姉さんは毎晩やってきて、僕の枕許の肘掛椅子に腰をおろすのです……」
一時間たち、再び玄関で毛皮外套を着たときには、彼はもうにやにやしながら、小間使いに対してもきまりわるそうであった。ラープチェフは彼を、ピャトニーツカヤ街まで馬車で送った。
「お前、明日うちへ食事に来てくれ」彼はみちみち彼の腕をとりながら言った――「そして復活祭には一緒に外国へ出かけよう。お前はちっと新らしい風にあたらなきゃいかんよ。さもないとすっかり腐っちまう」
「ああ、ああ。行くよ、行くよ……そして姉さんも一緒に連れて行こう」
家へ帰ると、ラープチェフは、妻が烈しい神経の興奮状態にあるのを見出した。フョードルに起ったことが彼女を震撼させたので、そのあと、どうしても気を鎮《しず》めることができなかったのである。彼女は泣きこそしなかったが、真っ青な顔をして、寝床の上をのたうち廻り、冷たい指で、夜具や、枕や、夫の手に、力の限りしがみついた。彼女の眼は大きく、びっくりしたように見開かれていた。
「あたしのそばを離れないで頂戴、離れないで頂戴」こう彼女は夫に言うのだった。「ねえ、アリョーシャ、どうしてあたしは神様にお祈りするのをよしてしまったんでしょう? あたしの信仰はどこへ行ってしまったのでしょう? ああ、どうしてあなた方は、あたしの前で宗教の話なんかなすったんでしょう? あなた方は、あたしの気持を撹き乱しておしまいになったのよ、あなたとあなたのお友達とで、あたしはもうお祈りができませんわ」
彼は彼女の額に湿布をのせたり、手を温めたり、お茶を飲ませたりしてやったが、彼女は恐怖に憑《つ》かれて彼にしがみついていた。
朝方になって、彼女は疲れてぐっすり寝入ったが、ラープチェフはそのそばに座ったまま、彼女の手を握っていた。こうして彼は、睡ることもできなかった。その後一日、彼は打ちのめされたような、ぼんやりとした気持で、何ひとつ考える気力もなく、ふらふらと家じゅうの部屋を歩き廻っていた。
十六
医師達は、フヨードルには精神的欠陥があると言った。ラープチェフは、ピャトニーツカヤの方をどうしていいかわからなかったし、老人もフョードルも顔を見せなくなった暗い倉庫は、彼に墓穴のような印象を与えた。そして、妻が彼に、日に一度は倉庫へもピャトニーツカヤへも顔を出さなければと注意すると、彼はときによると黙っていたが、ときにはいらいらして、自分の子供時分のこと、自分の過去に対して父を許す力のないこと、ピャトニーツカヤも倉庫も、彼には不愉快でならないことなどを言い出すのだった。
ある日曜日の朝、ユーリヤは自身、ピャトニーツカヤへ出向いて行った。彼女は、いつか彼女がこの家へ初めて来たときに祈祷式の行われたあの大広間で、フョードル・ステパーヌイチ老人に会った。彼は、いつものズック製の背広にネクタイも結ばず、スリッパばきで、肘掛椅子に身を沈めたまま、見えない眼をぱちぱち瞬いていた。
「あたくしでございます。嫁でございますよ」彼女は彼のそばへ寄りながらこう言った。「あたくし、お父さまのお見舞いにあがりましたの」
彼は、興奮から苦しそうな息をつき出した。彼女は、彼の不幸と孤独に心を動かされて、その手に接吻したが、彼は、彼女の顔や頭を手さぐりして、それが彼女であることを確かめると、彼女に向って十字を切った。
「有難うよ、有難うよ」と彼は言った。「が、わしはこの通り眼をなくしてしまったので、なんにも見えない……窓だけはぼんやり見えるし、灯《あかり》も同じくらい見えるのだが、人や物の見分けはとんとつかん。そうだ、わしは盲目になる、フョードルは病みつく、主人の眼が届かんので、この頃は、商売の方も滅茶苦茶じゃ。どんなふしだらが起っても、誰も小言をいうものがないから、店員どもはいい気になっているのだ。それはそうと、フョードルは、どうして病気になんかなったものだろう? 風邪でもひいたのかな? わしは、今日まで一度も病気というものをしたことがないし、医者にかかったということがない。わしはどんな医者にも、医者というものをひとりも知らなかったよ」
そして老人は、例によって自慢話をはじめた。するうちに、下女が急いで広間に食卓を用意して、その上に、ザクースカと葡萄酒の瓶を並べた。十本近い瓶が並べられたが、そのうちの一本は、エッフェル塔の形をしていた。熱いピローグを山のように盛った皿が出された。それからは、煮た米や魚のにおいがしていた。
「さあ、大事なお客さまにひと口あがっていただくのじゃ」と老人は言った。
彼女は彼の腕をとり、卓の前まで連れて行って、ウォーッカを一杯|注《つ》いでやった。
「あたし明日も伺いましてよ」と彼女は言った――「そのときあなたのお孫さんの、サーシャやリーダを連れて来ますわ。あの子達はきっとあなたをお気の毒に思って、お慰めしますわ」
「いや、それはいかん、連れてこんで下さい。あれ達は私生児だでな」
「どうして私生児なんですの? あの子達のお父さんとお母さんとは、ちゃんと結婚なすったじゃありませんか」
「わしの許しなしにな。わしはあれらを祝福しなかったし、今更知ろうとも思わんよ。あれ達はあれ達で勝手にするがいいのさ」
「あなたは変なことを仰しゃいますのね、フョードル・ステパーヌイチ」とユーリヤは言って、溜息をついた。
「福音書にも言ってあるよ――子供達はわが両親を、尊び恐れなければならんとな」
「そんなことがあるもんですか、福音書に書いてあるのは、あたし達は自分の敵さえ赦《ゆる》さなければならぬということだけですわ」
「わしらの商売では、赦すということはできませんて、もし誰彼なしに赦していたら、三年後には、煙突へ飛び込まなきゃならないでな」
「でも、人を、罪人すら赦すこと、優しい、愛想のいい言葉をかけてやること――これは商売以上、富以上のことでございますわ!」
ユーリヤは、老人の気持を和らげて、彼に憐憫の情を吹き込み、彼の心に悔い改めの念を起させたいと思ったのだが、彼女がどんなに言葉を尽くしてみても、彼はただ、大人が子供のいうことを聞いているように、恩にきせるような態度で、耳をかしているに過ぎなかった。
「フョードル・ステパーヌイチ」とユーリヤは決然とした語調で言った――「あなたはもうお年寄りですから、もうじき神様がお傍へお召しになりますわ。そして神様があなたにお訊きになるのは、きっと、あなたがどんなご商売をしていらしたかとか、あなたのご商売がうまく行っていたかどうかというようなことではなくて、あなたが他人に対して慈悲深くいらしたかどうかということですわ。あなたがご自分より弱いもの、例えば召使いやお店の人達に対して、むごくなさりはしなかったかどうかということですわ」
「自分の使用人にとっては、わしはいつも恩人だったよ、あれらはわしのことを永久に神様に祈ってくれる筈じゃ」老人は自信を持ってこう言った。が、ユーリヤの真実のこもった調子には動かされて、彼女を喜ばしたい心から、言った――「いいよ、明日は孫達を連れて来て下さい。何か贈物を買わせておくからね」
老人はだらしないみなりをしていた。胸や膝には葉巻の灰がこぼれていた。誰ひとり、彼の長靴をも着物をも、払ってやるものがないらしい。ピローグの中の米は生煮えだし、卓布は石鹸のにおいがするし、下女は大きな足音をたてて歩いた。老人も、ピャトニーツカヤ街の家そのものも、見棄てられたような外観を持っていた。ユーリヤはそれを感じて、自分のためにも夫のためにも、気恥かしいような感じを覚えた。
「あたくし、明日きっともう一度まいりますわ」と彼女は言った。
彼女は部屋部屋を見廻って、老人の寝室を片づけるように、そこの燈明をともすようにといいつけた。フョードルは自分の部屋に座り、読みはしないで、開けた本を見つめていた。ユーリヤは彼と二言三言話してから、そこをも片づけるように命じると、今度は階下の店員達の部屋へおりて行った。店員達がいつも食事をする部屋の真中には、天井が崩れ落ちないように下からそれを支えている、なんにも塗ってない、白木の円柱が一本立っていた。そこは天井が低く、壁には安っぽい壁紙が貼ってあって、炭気がこもり、台所のにおいがぷんぷんしていた。ちょうどこの日は祭日だったので、店員達はみんな家にいて、めいめいの寝台に腰掛け、食事になるのを待っていた。ユーリヤがはいって行くと、彼等は一斉に飛びあがって、まるで囚徒のように、額越しに彼女を見ながら、彼女の質問に対しておずおずと答えるのだった。
「まあ、あなた方はなんてひどいところにいるんでしょう!」彼女は、はたと両手を拍《う》ち合わせながら言った。「これであなた方狭くないの?」
「狭いことは、侮辱ではございません」とマケーイチェフが言った。「こちらさまにはいろいろお世話さまになっておりますので、つねづねお慈愛ぶかき神様にお祈りを捧げている次第でございます」
「人格の野望に対する生活の適合でございます」とポチャートキンが言った。
そして、ユーリヤが呑み込みかねているのを見ると、マケーイチェフが急いで説明した――「わたくしども卑しい人間は、身分相応に生活しなければならないのでございます」
彼女はなお、小僧達の部屋や台所を見まわり、家政婦とも馴染みになったが、結局非常な不満を感じたにすぎなかった。
家へ帰ると、彼女は夫に言った――
「あたし達、一日も早くピャトニーツカヤへ引越して、あちらで暮すようにしなければいけませんわ。そして、あなたは毎日倉庫へいらっしゃるようになさらなくちゃ」
それからふたりは、書斎に肩を並べて腰掛けたまま、黙っていた。彼は気分が重かったので、ピャトニーツカヤも倉庫へも行きたくなかったが、妻の腹の中を察したので、それに反対するだけの気力もなかった。彼は彼女の頬を撫でて、言った――
「僕にはね、われわれの生活はもう終ってしまって、われわれにとってはいまや、灰色をした後半生がはじまってるような気がしてるのさ。フョードルが望みのない病気になったと知ったときには、僕は泣いた。われわれは少年時代と青年時代を一緒に送ったので、昔は僕も、弟を心から愛していた。それが今は、こんな終局になってしまった。そして僕には、弟を失うと一緒に自分が自分の過去からきれいさっぱり切り離されてしまうような気がしているのだ。ところが今、お前に、是が非でもピャトニーツカヤへ、あの牢獄へ引越さねばならぬといわれてみると、僕には今度は、自分にはもう、未来もないような気がし出すんだよ」
彼は立ちあがって、窓の方へ行った。
「とにもかくにも、僕はもう、幸福などという観念とは袂をわかたなければならないようだね」と彼は往来を眺めながら言った。「幸福なんてものはないのだ。そんなものは、僕には一度もあったためしがなかったが、大かた一般的にも、それは全然存在しないものに違いない。とはいうものの、生涯に一度だけは、僕も幸福だったことがある。よるお前の傘をさして腰掛けていたときだ。お前覚えてるかね、いつかニーナ姉さんのところへ傘を忘れて行ったことのあったのを?」
彼は妻の方へ向き直って、こう尋ねた。
「あのとき、僕はお前に恋していたので、今でも覚えているが、夜通しその傘をさして腰掛けたきり、幸福な気分を味わっていたものだったよ」
書斎には、本棚の傍にブロンズのついた紅木の箪笥がすえてあり、ラープチェフはその中へいろんな不用品をしまっていた。その中にあの傘もあった。彼はそれを取り出して、妻に渡した。
「これがそれだよ」
ユーリヤは、一分ばかりじっと傘を見つめていて、それとわかると、悲しそうに微笑《ほほえ》んだ。
「覚えてますわ」と彼女は言った。「あなたは、あたしに恋の告白をなすったとき、これを両手に持ってらしたのね」そして、彼が外出の支度をしているのに気がつくと、彼女は言った――「お差し支えがなかったら、なるべく早く帰ってらして頂戴ね、どうぞ。あなたがいらっしゃらないと、あたし淋しいんですもの」
それから彼女は、自分の部屋へ行って、いつまでもその傘を見ていた。
十七
倉庫には、事業の複雑さと莫大な取引額にもかかわらず、簿記係がいなかったので、帳場の男がつけていた帳面では、何ひとつ理解することはできなかった。倉庫へ毎日、ドイツ人やイギリス人の仲買がやって来て、店員達は、そういう連中を相手に、政治を論じたり、宗教を語ったりしていた。年中酒浸りになっている、病身な、哀れな男であるひとりの貴族がやって来ては、それが事務室で外国からの通信を翻訳していた。店員達はその男をがらくたと呼んで、この男には、塩を入れたお茶を飲ませたりしていた。そして総じてこうした商売そのものが、ラープチェフには一種大きな奇怪事に思われてならなかった。
彼は毎日倉庫へ出向いて、新らしい秩序を制定することに努力した。彼は、小僧達を鞭打ったりお客をからかったりすることを禁じ、店員達が、陽気に笑いながら、送り先が田舎だというので、店ざらしの不良品などを、新らしい最新流行品か何かのようにして発送したりすると、われを忘れて叱りとばした。
いまや彼は、倉庫で最も重要な人物であったが、依然として彼には、彼の財産がどんなに大きいか、事業は順調に行っているのか、古参の店員はどれだけの給料をとっているのかなどということは、全然わかっていなかった。ポチャートキンとマケーイチェフとは、彼を若い、無経験者と侮《あなど》り、多くのことを彼には隠して、毎晩盲目の老人に、何事かひそひそと囁いていた。
六月初旬のとある一日、ラープチェフとポチャートキンとは、ランチをやりながら何かと仕事の打ち合わせをするために、ブブノーフスキイの料理店へ赴いた。ポチャートキンはもう久しくラープチェフ家に勤めていた。彼が初めてこの店へ奉公に入ったのは、まだ八つのときであった。彼は内輪の人間として皆から充分信用されていたので、倉庫から帰るときに、売上げを全部金庫から出して、それをポケットへ詰め込んで行っても、なんの疑いをも招かなかった。彼は、倉庫でも家でも、また教会でさえも主《おも》立った人間で、そこでは老人の代りに、長老の職務を執行していた。部下の店員や小僧達に対する苛酷な態度のために、彼はマリュータ・スクラートフ(イワン皇帝の寵臣で、残忍酷薄の代名詞)と綽名されていた。
料理店へはいると、彼は給仕に顎をしゃくって見せて、言った――
「おい君、われわれに珍事を半分と、不愉快事を二十四個持って来てくれ」
給仕は暫くすると、盆にウォーッカの半瓶と、いろんなザクースカの皿を数枚のせて、運んで来た。
「それからな、君」とポチャートキンは言った――「さ、今度は、つぶし馬鈴薯を添えた悪口と毒舌の職工長を一人前持って来てくれ」
給仕はわからなかったので、まごついて何か言おうとしたが、ポチャートキンは厳しく彼をにらみつけて、言った――
「以外は!」
給仕は緊張の面持ちで考えてから、仲間の者と相談に行き、遂にやっと、それでもどうやらあたりをつけて、舌の料理を一人前持って来た。彼等が二杯ずつ飲みザクースカをやり出したときに、ラープチェフは訊いた――
「ねえ、イワン・ワシーリイチ、うちの事業が、近年下向きになりだしてるというのは、ほんとうかね?」
「決して、そんなことはございません」
「じゃあひとつね、僕に隠さないで、正直に、これまでどれくらいの収益があったのか、また現在あるのか、それからわれわれの財産なるものはどのくらいか、それを聞かせてくれないか。おさき真っ暗じゃ歩いて行けないからね。このあいだ倉庫の精算をやったが、失敬だが僕は、あの計算を信じないのだ。君達は、僕にはなぜか隠す必要を認めて、親父だけにほんとうのことを話してるようだ。君達は子供の時分から掛引きに慣れているので、それなしには何事もすませないんだろう。だが、掛引きがいったいなんになるかね? だからさ、君にお願いする、どうか正直に言ってくれ給え。現在われわれの事業は、いったいどんな状態になっているのか?」
「何事も信用の動きひとつでございますよ」とポチャートキンは、ちょっと考えてから答えた。
「じゃ、その信用の動きってのは、どういう意味だね?」
ポチャートキンは説明し出したが、ラープチェフにはさっぱりわからなかったので、マケーイチェフを呼びにやった。と、その男はすぐにやって来て、お祈りを上げ、ひと通り食べて、それから例のしっかりした、ふといバリトンで、まず第一着に、店員達は自分の恩恵者のために日夜神に祈る義務を持っているということからはじめた。
「なるほど、結構だね、だが、僕にだけは、自分を君達の恩恵者だなどと考えさせないでくれたまえよ」とラープチェフは言った。
「人は誰しも、自分が何者であるかを知り、自分の身分を弁《わきま》えていなければならぬものです。あなたさまは、神様の思召しによりまして、手前どもの父であり恩人でいらっしゃいます。手前どもは、あなたさまの奴隷でございます」
「そういう話はみな、僕にはもう飽き飽きしてるんだよ!」とラープチェフは、むっとして言った。「どうか今度は、君達の方で僕の恩人になって、そして僕に、うちの事業がどういう状態にあるのか、それを説明してもらいたい。どうか、僕を子供扱いにしないでもらいたい。それでないと僕は、明日にも倉庫を閉めてしまうよ。親父は盲目になったし、弟は癲狂院へはいったし、ふたりの姪《めい》はまだ子供だし、しかも僕は、こんな仕事はきらいなんだから、いつでもやめてしまいたいんだが、代わりがないから仕方なし毎日出てきていることは、君ら自身も知ってる通りだ。後生だから掛引きは一切やめにしてくれ!」
彼等は精算のために倉庫へ行った。それから晩には家で計算をしたが、そのときには老人自身も手伝った。息子に自分の商売の秘密を教えるとき、彼はあたかも商売でなく、魔法でも授けるような調子で話した。やってみると、収益は毎年、ほぼ一割ずつ増大していること、ラープチェフ家の財産は、ただ現金と有価証券を計上しただけでも、六百万ルーブリにのぼっていることなどがわかった。
もう夜中の十二時過ぎ、計算をすましてから新鮮な外気の中へ出たときにも、ラープチェフはまだ、これらの数字の幻惑にかかっている自分を感じていた。夜は静かな、蒸暑い月夜であった。モスクワ河向うの家々の白壁や、重々しく閉ざされた門の光景や、静寂や、黒い影やが一つになって、何か要塞ででもあるような印象を与えた。足りないのはただ、銃を携えた哨兵だけであった。
ラープチェフは小庭の方へ行き、同じような小さい庭のある隣りの屋敷との地境の、垣根ぎわのべンチに腰をおろした。|まはれぶ《ヽヽヽヽ》桜の花が咲いていた。ラープチエフは、この|まはれぶ《ヽヽヽヽ》桜は彼の子供の時分にも同じように曲りくねり、同じような背丈であって、それ以来少しも変っていないことを思い出した。庭や屋敷の隅々も、彼に遠い過去を思い出させた。彼の少年時代にも、今と同じように、疎《まば》らな樹々の間から、月光を浴びた中庭全体が見えたし、物の影も同じように、神秘的で厳かだったし、中庭の真中には同じように黒い犬が寝そべり、番頭達の部屋の窓々は、いっぱいに開け放されてあった。そしてこうしたことはすべて、心の楽しまぬ思い出であった。
垣の向うの隣家の中庭に、軽い足音が聞え出した。
「ねえ、僕の大事な人、僕の可愛い人……」垣のすぐそばで男の声がこう囁いた。ラープチェフには呼吸の音までが聞えた。
向うでは接吻をはじめた。ラープチェフは、すこしも気のはいらない数百万ルーブリと事業とが、彼の生涯を台なしにして、徹底的に彼を奴隷にしてしまうであろうことを確信し、自分が次第に自分の状態に慣れて、次第にひとつの商社の首脳という地位に納まってゆき、次第に鈍くなり、老い込んで、遂には、一般に普通の人が死ぬように、周囲の者に憂鬱な思いをさせながら、ぶざまに、醜く死んで行くであろうことなどを想像した。とはいえ、それにしてはいったい、彼にその数百万ルーブリや事業を見棄てて、まだ子供の時分からいやでならなかったこの小庭や中庭から逃げ出すのを妨げているのは、なんであろうか?
垣の向うの私語と接吻とは、彼の心を撹き乱した。彼は中庭の真ん中へ進み出で、シャツの胸ボタンをはずして、月を眺めやった。と、彼には、自分は今すぐ耳門《くぐりもん》をあけさせて、そこから外へ出、そのまま、もはや永久にここへは戻ってこないだろうという気がした。心臓は自由の予感から甘くしめつけられ、彼は嬉しそうに笑い出して、もしそうなったら、それはどんなに素晴しい、詩的な、神聖ですらある生活になるだろうと空想した……
しかし彼は、依然として佇立《ちょりつ》したまま、出ては行かなかった、そして自分に尋ねていた――〈いったい何が自分をここへ引き留めているのだろう?〉すると彼には、自分自身もいまいましければ、いつまでも石の上に寝そべっていて、そこへ行けば自由で楽しかろうのに、野へも森へも行こうとしないあの黒犬までがいまいましかった。そして、彼にも犬にも、この中庭から出て行くことを妨げているのは、明らかに同じ一つのこと――束縛に対する習慣、奴隷状態に対する習慣であった。
翌日、正午に、彼は妻の許へ出かけた、退屈しないために、ヤールツェフを一緒に誘って。ユーリヤ・セルゲーエヴナは、ブートウォの別荘に暮していたので、彼は今日で五日、彼女を訪ねなかったのだった。停車場へ着くと、ふたりの友は幌馬車に乗ったが、ヤールツェフは途中ずっとうたい通しで、素晴しい天気に陶然となっていた。別荘は、停車場から程遠からぬ大きな公園の中にあった。広い並木路がはじまろうとしている、門から二十歩ばかりのところに、枝を張ったポプラの老木があり、その下に、ユーリヤ・セルゲーエヴナが、客待ち顔に腰掛けていた。彼女は、レース飾りのついたあかるいクリーム色の、優美な、軽そうな服を着て、手にはいつも同じ、古い馴染みの傘を持っていた。ヤールツェフは彼女と挨拶してから、サーシャとリーダの声の聞えていた別荘の方へ歩き出したが、ラープチェフは、仕事の話をするために、彼女と肩を並べて腰をおろした。
「あなた、どうしてこんなに長く来て下さらなかったの?」と彼女は、彼の手をはなさないで訊いた。「あたしは毎日ここに掛けて、見ていたのよ――あなたがいらっしゃらないかと思って。あたし、あなたがいらっしゃらないと淋しいんですもの!」
彼女は立ちあがって、片手で彼の髪を撫でたり、物珍らしそうに、彼の顔や、肩や、帽子を眺めたりした。
「あなたご存知でしょう、あたし、あなたを愛しているのよ」と彼女は言った。そしてさっと顔を染めた。「あなたはあたしの大事な人ですわ。とうとうあなたは来て下すった、あたしはあなたを見ていると、もうなんともいいようのないほど幸福ですわ。さ、お話ししましょうよ。何か話して頂戴な」
彼女は彼に愛の告白をしたが、彼の心にあったのは、もう十年も彼女と結婚生活を送っているような感じだった、そして彼は、早く何かひと口食べたくてならなかった。彼女は自分の服の絹で彼の頬をくすぐりながら、彼の首を抱いた。彼は、そっと注意深く彼女の手をはずして、立ちあがると、無言のまま、別荘の方へ歩き出した。彼の方へふたりの少女が駈けて来た。
〈ふたりともなんて大きくなったものだろう?〉と彼は考えた。
〈そしてこの三年の間に、どれだけの変化があったことだろう……だが、われわれはまだ、ひよっとすると、十三年、三十年も生きて行かなければならないかも知れない……未来にはまだ何かがわれわれを待っているだろう! まあ生きていて……見てみよう〉
彼は、彼の首玉にぶらさがったサーシャとリーダを抱きしめながら、言った――
「お祖父《じい》ちゃんがね、よろしくって……フェーヂャ叔父さんは、もうじき死にそうだし、コスチャ叔父さんは、アメリカから手紙をよこして、お前達によろしくって。叔父さんは博覧会にも飽きたから、もうじき帰ってくるってさ。ところが、このアリョーシャ叔父さんは、もうおなかがぺこぺこなの」
それから彼はテラスに腰をおろして、並木路を別荘の方へ、静かに歩いてくる妻を見ていた。
彼女は何やら思い沈んだ様子で、その顔には物悲しそうな、うっとりした表情があり、双眸《そうぼう》には涙がきらきらと光っていた。それはもう以前のような、ほっそりした、脆《もろ》そうな、顔の蒼白い娘ではなく、成熟した、美しい、力強い女であった。そしてラープチェフは、ヤールツェフが彼女と出会ったときに、どんなに歓ばしげな眼で彼女を見たか、この彼女の新らしい、美しい表情が、どんなに彼の、同じく物悲しげな、うっとりしたような面上に反映したかに気がついた。まるで彼は、生れて初めて彼女を見たようなふうに見えた。そして、やがて彼等がテラスでランチをしたためたとき、ヤールツェフは何やら嬉しそうに、内気らしくにやにや笑って、のべつユーリヤとその美しい顔を見ていた。ラープチェフは、われにもなく、つい彼の素振りを見守りながら、あるいはなお十三年も、三十年も、生きなければならぬかも知れぬということを考えていた……
その間には、まだ、どんなことを経験しなければならないだろう? 未来には何がわれわれを待っているだろう?
そして、考えた――
〈まあ生きていて――見てみよう〉(一八九五年)
[#改ページ]
解説
『無名氏の話』は一八九三年、『三年』は同九五年の作である。この年代はチェーホフにとり、いわばその作家活動の最盛期であって、当時彼はすでに『草原』(一八八七年)を書き、『退屈な話』を書き、『決闘』を書き、『六号室』を書いて、押しも押されもせぬ一流作家になっていた。年も三十四五歳、健康も宿病の肺結核は身内に巣くっていたとはいえ、表面的には格別のこともなく、生涯の大事件であった樺太旅行もすでにすませ、それにつづく西欧旅行も終えて、精神的にも一応の落ちつきを取り戻し、生活的には、モスクワから程遠からぬメリホヴォ村に荘園を買って、かねての願いであった田園生活にひとつの安定を見出したという一時期であった。メリホヴォですごした数年間は、チェーホフの創作生活の黄金時代であったといわれる。
『無名氏の話』はこの時期〔一般的に樺太旅行の頃(一八九〇年)を境として前後の二期にわかつその後期〕に多い中篇の一つである。生涯長篇を書かなかったこの人としては、長いほうに属するもので、『決闘』『女の王国』『三年』『私の生活』『百姓』『谷間』等と並んで、力作(主要作品)の部に入るべき一篇である。
概して後期に多いチェーホフの主要作品は、大体において知識階級の問題を主題としているのが特徴だが、『無名氏の話』もこの点ではその揆《き》を一つにしている。ただ本篇は、取り上げられた主人公が革命家であるという点にやや異色があるといえばいえるのだが、しかしこれも、この作者の作品にこの種の人物の扱われたことが少いので、そこにやや特殊な興味があるというにすぎない。
元来チェーホフは、職業などという外的条件によって人間の扱い方を変えるような作家でないから、主人公が革命家であるからといって、生活のその方面を誇張したり、その言動を特殊化したりすることをしていない。同じ革命家を描きながらも、ツルゲーネフのそれとすらも肌合いに大分へだたりのあることが感じられるのである。さすがにツルゲーネフともなれば、よし革命家を描けばとて、その根底になる人間を忘れているようなことはないのだが、しかしその人物の周囲になんとなくある悲壮みの漂うことはやはり避けられなかったらしい。ところが、チェーホフにはそれがみじんもないのである。少くとも、作家にそうした観念――人間を外衣によっていささかでも特殊扱いしようとするような潜在意識のないことは、作家として大いに珍重されるべき資質でなければならぬ。もとよりツルゲーネフとチェーホフでは、その生きた時代も違い、その文学観にも時代による相違の見られることは当然である。だがチェーホフの、いかなる場合にも、人間に対して直ちにその裸身に迫らないではいられない作家魂は、天成のものと観るべきであろう。
さればこそ、チェーホフの革命家には、いうところの革命家らしい臭みはなく、革命という言葉からおのずと連想されがちの英雄的華やかさもない。いわば甚だ不景気な革命家である。そしてそれは、チェーホフの時代がそうした弱い、行動性に乏しい人間しか生みえない時代であったことによるのはもとよりだが、根本はやはり、この作者の人間を見る眼のきびしさによることを忘れてはなるまい。従って本篇の主人公が、当の敵である要路の大官を暗殺する目的でその息子の邸に下僕として住み込みながら、遂に何のなすところなく、時代的無気力をそのままに体現して、最後は、誰一人救うことのない消極的生活に落ちて行くという筋立ても、当時の知識人の生き方に共通した特徴であって、革命家という主人公の特殊性とは無関係に、ただ当時の人間の生活様相が主になっていることが注目される。
自然この作には、革命という文字にふさわしい底の出来事はほとんどなく、小説的葛藤はむしろその恋愛的方面に現れている。もっともチェーホフも、多くの作家の例にもれず、作品の上で恋愛を扱っている場合はかなり多い。だが、彼の作には、いわゆる恋愛小説らしい色調はほとんどなく、甘さよりも苦《にが》みの勝った複雑な恋愛の多いことを注意しなければならぬ。すなわち、彼にあっては、この一事においても、他の作家に比して、より高い現実性が観取されるのである。さればここでも、恋人同士は多く不幸である。女主人公ジナイーダは主人公に向って『退屈な話』のカーチャと同じことを訊く――「いったいわたしはどうすればいいの、教えて頂戴」――だが、この篇の主人公ウラジーミルも、『退屈な話』の老教授同様、それに対する答を知らない。そしてこれが、当時の知識人の生態であった。人間はどう生きるか? 人間にとって何が一番大切か? この探求に対するある程度の熱意は持ちながら、それを貫き通す気力の一般に欠如する社会。これはしかし、当時すなわちチェーホフの生きた一八八〇年代のロシアに限ったことだろうか? 今日の日本に果たしてその答が見出されるだろうか?
この設問に対する答はもちろん「否」である。そしてその故にこそ、チェーホフに対する興味は、今日なおいささかも失われないでいるのだともいえるのである。
『三年』にも恋愛的要素はある。いや、あるいはそれが作の中心課題だといってもいいかも知れない。そしてここでもその味は苦い。人間の知恵ではどうにもならぬ運命のくい違いがその根底になっているからである。『無名氏の話』でも、作中男女の運命は最初からくい違っているが、世にはなんとこの種のくい違いが多いことであろう。そしてそれが一篇の醸し出す深い人生的味わいの酵母となっているのである。
『三年』には、伝うべき筋というものがほとんどない。「日常の生活現象の巧みな芸術化に終始している」とされるこの作家の特徴を最もよく生かしている作品の一つといえば足りようか。いったいチェーホフほど人生における日常生活の意義――重要性を知っている作家は少ないといえるかも知れない。なんのへんてつもない日常生活の累積――少くとも単なる累積と見えるものを芸術化して、ここまで人に読ませることのできるのは、一つに作者の現実把握のたしかさによると観て大過ないかと思われる。
『三年』の主人公ラープチェフは、一八八〇年代のロシア知識人――それも雑階級出身の知識人という以外、取り立てて挙げるに足る特色を持たぬ人物だし、女主人公ユーリヤも、それに劣らず平凡な一女性にすぎない。しかも、その人々の悩みや悲しみや喜びが、なんと切なく私達の胸に迫ってくることだろう。このラープチェフは、本篇では、金銭にはいささかの不自由を知らぬ百万長者として描かれている。しかしその心情には、ほとんど完全に近い、人間としての普遍性が与えられており、チェーホフがそれに自分自身の生立ちを思い出として加味していることは、一応注意されてしかるべきであろう。篇中に「自分は農奴の孫だから……」というラープチェフの言葉があるが、それはとりも直さず、チェーホフ自身の出身を語るものだし、「人生は短いんだから、できるだけよく生きなくちゃいけない」と何気なくいわれる主人公の友人ヤールツェフの言葉は、チェーホフその人の人生訓にほかならないことを銘記すべきである。
本篇のほか、チェーホフにはなお、これと同巧異曲ともいうべき『女の王国』という中篇がある。巨万の富に圧《お》しひしがれて生活の意味を見出しかね、無感激な気分のうちにその日その日をただ生きているような市井人の一家を書いたもので、どちらも、かなり重量感のある作品である。チェーホフは好んでよくこういう生活を書いている。が、無論これは、チェーホフがそうした生活をよしと観ているからではない。むしろ、非常に端的かつ素朴な言い方を許されるなら、いま挙げた人生訓――できるだけよく生きることを心掛けよという言葉の意味を可及的鮮明に印象づけるための一種の対照法だという観方も十分成り立つのである。これについては、チェーホフには、一般に知られている厭世主義者《ペシミスト》だという格づけと、また一方に、高い程度の生活受容者――楽天主義者《オプティミスト》だとする、互いに相反する評価のあることを、特に付記しておく必要がある。これを忘れては、チェーホフの作品は結局、正しい理解の埒外へ逸し去るであろうからである。
昭和二十八年五月十日 訳者