六号室/中二階のある家
チェーホフ/中村白葉訳
目 次
六号室
中二階のある家
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六号室
一
病院の構内に、|ごぼう《ヽヽヽ》や、|いら《ヽヽ》草や、野生の大麻《たいま》の森のような茂みにとりかこまれて、ささやかな別棟が立っている。その屋根は赤くさび、煙突はなかばこわれ、入口の段々は腐朽して草におおわれ、|しっくい《ヽヽヽヽ》はわずかにその名残《なご》りをとどめているにすぎなかった。その建物は、正面が本棟《ほんむね》に向かい、裏面は野にのぞんでいて、その野からは釘《くぎ》を植えた灰色の塀《へい》で仕切られている。この先を上へ向けた釘も、塀も、別棟そのものも、わが国ではただ病院か監獄の建物にかぎって見られる、あの一種特別な、陰気な、のろわれたような外観を呈している。
もし、あなたが|いら《ヽヽ》草に刺されるのを恐れないなら、ひとつ別棟《べつむね》へ導く狭い小道を通って、内部のありさまを見てみようではないか。まず第一のドアをあけてわれわれは玄関へはいる。そこには、壁ぎわと暖炉のまわりに、病院のがらくたが山のように積まれている。わらぶとんや、古いぼろぼろの患者服や、ズボンや、青い縞のあるシャツや、ものの役にも立たぬ履《は》き破られた古靴や、――こうしたぼろくずが山と積まれ、踏みにじられ、ごっちゃにされ、くさって、息のつまるような悪臭を放っている。
がらくたの山にはいつも、にんじん色の袖章《そでしょう》をつけた兵隊あがりの老番人ニキータが、パイプをくわえて寝そべっている。彼は、しなびたような粗野な顔と、その顔に草原の牧羊犬のような表情を与えているたれさがった眉と、赤い鼻とを持っている。背も高いほうではなく、見かけはやせて筋ばっているが、どこかひと癖ありげな面魂《つらだましい》をして、がんじょうなげんこつを持っている、これは、この世の何物よりも秩序を愛し、したがって人間は打つべきものときめこんでいる、あの、単純で、積極的で、実行的で、愚鈍な人間の部類に属する男である。彼は、顔だろうと、胸だろうと、背中だろうと、手あたりしだいになぐりつける。そして、そうしなければ、この秩序は保てないものと思い込んでいるのである。
それからあなたは、玄関を除けばこの別棟全部を占めていることになる、大きな、がらんとした部屋へはいる。この部屋の壁は、薄ぎたない青ペンキで塗られ、天井は、煙突のない百姓家の中のようにすすけている。――冬はさだめし暖炉が煙って、炭気《たんき》がこもることであろう。窓は内側から鉄格子《てつごうし》をはめられて醜くされている。床は灰色で、ささくれだっている。すっぱいキャベツや、焼けたランプのしんや、南京虫や、アンモニアなどの臭気がこもっていて、このにおいが、最初の瞬間には、まるで動物園へでもはいったような印象を与える。
室内には、床に|ねじ《ヽヽ》どめにされた数脚の寝台が立っている。その上には、青い患者服を着て、昔ふうに夜帽をかぶった人々が、すわったり寝たりしている。これはみな――狂人である。
ここには全部で五人の患者がいる。そのうちひとりだけが身分のある者で、残りの者はいずれも町人である。戸口にいちばん近い、にんじん色のつやのいい口ひげに涙ぐんだような目をした、背の高い、やせ形の町人は、寝台の上にすわったまま、片手で頭をささえて、じっと一点を見つめている。昼となく夜となく、彼は頭を振ったり、ため息をついたり、にが笑いをもらしたりしながら、嘆き悲しんでいるのである。人の話にはめったに仲間入りをしないし、質問にはまず返辞をしない。そして与えられたときだけに、機械的に飲み食いする。苦しそうな、絞るような咳嗽《せき》や、憔悴《しょうすい》や、ほおの紅潮から判断すると、この男にはどうやら肺病がきざしているらしい。
その向こうには、とがったあごひげのある、ニグロのように髪の黒い、小柄な、元気のいい、ひどく落ちつきのない老人がいる。日がな一日彼は室内を、窓から窓へと行き来したりトルコふうに足を組んで自分の寝台の上にすわったり、|うそ《ヽヽ》のようにのべつぴいぴいさえずったり、小声でうたったり、忍び笑いをしたりしている。子供っぽい快活さと、生き生きした性格とを、彼は、夜中に神さまに祈りを上げるために起きるときにも、発揮する。つまり、こぶしで自分の胸を打ったり、指でドアをほじくったりするのである。これは、モイセーイカというユダヤ人で、二十年前、所有の帽子工場が焼けたときから気の変になった、痴呆《ちほう》症患者である。
六号室の全患者中で、この男ひとりは、別棟からばかりか、病院の構内から街へ出ることさえ許されている。彼がこうした特典を与えられているのは、おそらく、彼がもう古い病院居住者で、町でもとうの昔から、あくたれどもや犬にとりかこまれているところを見慣れている、おとなしい、無害な白痴、町の道化であることに対してであったろう。患者服にこっけいな夜帽、スリッパばきといういでたちで、ときにははだしで、ズボンもなく、彼は町を歩きまわり、他家の門や店先にたたずみ、一カペイカ二カペイカの合力《ごうりき》を乞《こ》う。ある家ではクワスをふるまわれ、ある家ではパンを与えられ、ある家ではカペイカ銭を恵まれるので、彼はまず満腹したお大尽《だいじん》になって、別棟へ帰ってくる。ところが、彼が持って帰るものは、片端からみなニキータが取り上げて、わがものにしてしまう。兵隊あがりはぶりぶりおこって、手荒くポケットを裏返したり、神さまを証人に呼び出して、自分は二度とユダヤ人を町へ出してやらないとか、自分には不秩序ほど気にくわないものはないのだとかどなり散らしたりしながら、これをやってのけるのである。
モイセーイカは世話好きである。彼は仲間の者に水を持って来てもやれば、彼らが眠っているときには夜具をかけてもやり、またみんなに、町から一カペイカずつ持って来てやるとか、新しい帽子を作ってやるとか約束したりもする。彼はまた、左側の隣人である中風患者には、さじで物を食べさせてやる。もっとも、彼が、こんなことをするのは、決して同情からでもなければ、親切気からでもなく、右側の隣人グローモフを見習って、ついその感化を受けてしまったに過ぎないのだ。
イワン・ドミートリイチ・グローモフは三十三、四になる男で、生まれもよく、かつては廷丁だったこともあり、県の書記を勤めたこともあるが、いまは強迫観念に悩まされているのだった。彼はたいてい巻きパンのように丸くなって、寝台の上に寝ころがったり、あるいは運動でもするように、すみからすみへと歩いたりしていて、じっとすわっていることはめったにない。彼は絶えず興奮し、いらいらして、一種漠然とした、えたいの知れぬ期待に緊張している。玄関でコトリという音がしても、庭で人の叫び声が聞こえても、彼はすぐ頭をもたげて、聞き耳を立てる――だれかが自分を尋ねて来たのではないか? 自分をさがしているのではないか? そしてそのとき彼の顔は、極度の不安と嫌悪を表現する。
わたしには、この男の幅の広い、ほお骨の高い、いつもあお白い色をした、不幸らしい顔、苦しい心のたたかいと持続的な恐怖とをまるで鏡のように反映している顔が気に入っている。彼の渋面は、奇怪で、病的ではあるけれど、深い、真剣な苦悶によってその顔に刻みつけられた微妙な線は、理知的であり知性的であって、その目には暖かい、健全な輝きがある。わたしには、ニキータ以外のすべての人に対する彼の態度に見える、いんぎんで、奉仕的で、並みはずれてデリケートな彼の人柄が気に入っている。だれかがボタンとかさじとかを落としでもすると、彼はいち早く寝台から飛びおりて、それを拾ってやる。毎朝彼は仲間の者にお早うと声をかけ、よる寝るときにはおやすみとあいさつする。
ふだんの緊張状態や渋面のほかに、彼の狂気はなお、次のようなことのうちにも現われている。夜になると、ときどき彼は、病衣にくるまったまま全身をわなわなふるわせ、歯をかちかち鳴らしながら、寝台の間を縫って、すみからすみへと早足に歩きはじめる。まるで烈《はげ》しい熱病にでもかかったようなぐあいである。が、ときどきふいに立ちどまって、仲間の者を見まわすようすを見せると、何か非常に重大なことでも言いたげなふうなのだが、どうやら、言っても聞く者はあるまいとか、どうせわかりはしないのだとかくらいに思うらしく、いらだたしげに頭を振って、歩き続ける。しかしまもなく、しゃべりたい欲求がすべての考慮を征服すると、彼は自分に自由を与えて、熱烈に情熱的にしゃべり出す。彼の言葉は、うわごとのようにとりとめがなく、熱病的、発作的で、まず要領を得ない場合が多いが、そのおしゃべりは、彼のうちに狂人と人間とが同居していることを示している。彼の支離滅裂な演説を紙の上で伝えることは困難である。彼は、人間の卑賎弱小について、真理を蹂躙《じゅうりん》する暴力について、まさにこの地上にきたらんとする美しい生活について、圧制者と迂愚《うぐ》と惨虐とを一刻ごとに思い出させる窓の格子について、しゃべるのである。こうして、古くはあるがいくらうたってもうたい尽くされない歌の、秩序もなければ連絡もない混成曲がかなで出されるのである。
二
十二――十五年前のこと、この町の目抜きの大通りに自分の家を持って、グローモフという着実で裕福な官吏が住んでいた。彼にはセルゲイとイワンというふたりのむすこがあった。もう大学の四年まで進んでから、セルゲイは奔馬性肺結核にかかって死んでしまった。そしてこの死があたかも、とつじょとしてグローモフ一家の上に襲いかかった不幸の連鐶《れんかん》の第一鐶となった感があった。セルゲイの葬式後一週間たって、老年の父親は、詐欺と公金費消のかどで裁判を受け、それからまもなく監獄病院で、チフスのために死んでしまった。家と動産全部とが競売に付され、イワン・ドミートリイチと母親とは、無一物になって取り残された。
以前、父の在世中には、イワン・ドミートリイチはペテルブルグに住んで大学に学びながら、月々六、七十ルーブリの仕送りを受けていて、貧乏の観念など少しも持たなかったのだが、今やその生活を思いきって一変しなければならぬはめに立ち至った。彼は朝から晩まで、安い報酬で学課を教えたり筆耕をしたりしたが、それでもやはり飢えなければならなかった。というのは、収入の全部を母の生活費に送る必要があったからで、イワン・ドミートリイチは、こうした生活をささえきれなかった。彼は意気阻喪して、健康をそこね、大学を放擲《ほうてき》して、わが家へ帰った。そしてこの故郷の町で、ある手づるによって郡小学校教師の職を得たが、同僚たちとそりが合わず、生徒たちにも好かれなかったので、じきそのいすをも投げ出してしまった。母が死んだ。半年ばかりというもの、彼は職もなくうろつきまわり、ただパンと水だけで露命をつないでいたが、その後、裁判所の廷丁に任命されたのであった。そして病気のために解雇せられるまで、その職務についていた。
彼は、若い大学生時代でさえ、ついぞ一度も健康らしい印象を与えたことがなかった。いつもあお白くやせていて、かぜをひきやすく、食も細く、夜もよく眠らなかった。わずか一杯の酒にも頭がぐらぐらして、ヒステリを起こすのだった。彼は日ごろ、人と交わりたい欲求は持ちながら、そのいらだちやすい性格と猜疑《さいぎ》心とに妨げられ、だれとも親しくなれず、友だちという者をひとりも持たなかった。この町の人たちのことは、彼は頭から軽蔑《けいべつ》的な態度で悪口し、彼らの下等な無学と、眠ったような動物的生活は自分には鼻もちならぬ、忌まわしいものに思われるなどと豪語していた。彼はテノールで、大声に、熱烈に、悲憤|慷慨《こうがい》とでもいうほかないような、また一方では歓喜と驚きに満ちたような口のきき方をしたが、調子は常にまじめであった。どんな話がはじまっても、彼はすべてを一つの結論――この町の生活は息苦しく退屈である、社会には高尚な興味がない、社会は、あいまい模糊たる無意味な生活を、ただ圧制や、下等な放蕩・偽善などによって変化づけながら送っているにすぎない。卑劣漢どもは飽食暖衣しているが、正直な人々はパンの皮を食って露命をつないでいる。学校、公正な傾向を持った土地の新聞、劇場、公開講演、知識階級の力の団結が必要である。社会みずからおのれを認識しておじ気をふるうようにしなければならぬ――こういう結論へ持ってくるのである。人間に対する見解では、彼はどんな陰影をも認めないで、ただそれを白と黒とのふた色に色濃く塗りわけるのだった。彼にあっては人間は、正直な者と卑劣漢の、この二つに分類されるにすぎなかった。中間の者はなかったのである。女や恋愛のことになると、彼はいつも歓喜の調子で情熱的に語るのだったが、自分自身はまだ一度も恋をしたことはなかった。
見解の峻厳と、性質の神経質にもかかわらず、町では彼は愛されていて、陰ではやさしくワーニャと呼ばれていた。彼の持って生まれたデリカシイと、親切と、上品さと、方正な品行と、着古されたフロックと、病身らしいようすと、家庭的不幸とが、人々の心に、暖かい、悲しい、同情の念を起こさせるのであった。そのうえ彼は、高い教養があって、博識で、町の人たちの意見によると、なんでも知っていて、この町では一種の生き字引であった。
彼は非常な読書家であった。よく、終日クラブに坐りこんで、神経的にあごひげをむしりむしり雑誌や書物のページをめくっていたものである。その顔つきでみると、彼は読んでいるのではなくて、よくもかまないで鵜《う》のみにしているといったふうであった。もっとも、ここで注意すべきは、読書は、彼の病的習慣の一つであったということである。なぜなら、彼は、手にはいったものはなんでも、去年の新聞やカレンダーに至るまで、いちように、むさぼるような目を向けるというふうだったのだから、家では年じゅうごろごろ寝ころんで読んでいた。
三
ある秋の朝、外套のえりを立てて、ぬかるみ道をぴちゃぴちゃ踏みながら、イワン・ドミートリイチは横丁や裏庭伝いに、ある町人のところへ、執行命令書を持って金を受け取りに行った。毎朝の例で、彼の気分は陰うつであった。とある横丁へさしかかったところで、足かせをつけたふたりの囚人と、銃をになった四人の護送兵とに行きあった。これまでにもイワン・ドミートリイチは、よく囚人たちに出くわして、そのつど同情と気づまりとを覚えたものであるが、今日はこの邂逅《かいこう》が一種特別な、奇体な印象を彼に与えた。どうしたのか、ふいと、自分もいつ同じように足かせをつけられて、ああしてぬかるみ道を監獄へ連れて行かれるかもしれない――こういう気がしたのである。町人のところにしばらくいて、家の方へ帰る途中、彼は、郵便局のそばで、かねて知り合いの警部に出会った。すると、相手にあいさつして、彼と並んで街路を五、六歩歩いた、と、彼にはそれがなぜかうさんくさいように思われた。わが家へ帰ってからも、終日彼の頭からは、囚人や銃をになった兵隊の姿がはなれないで、えたいの知れぬ心の動乱が、読書や、気分の集中を妨げた。日が暮れても、彼は灯《あかり》さえつけず、夜になっても寝もやらずに、絶えず、自分も、いつなんどき捕縛されて、足かせをはめられ、監獄へ入れられるかも知れぬということばかり考えていた。自分にはなんにも犯した罪の覚えはなかったし、将来も、殺人や、放火や、盗みなどを働く気づかいのないことは保証できた。しかし、ついしたはめから心にもなく罪を犯すということが、それほど困難なことであろうか。他人の讒訴《ざんそ》とか、最後には、裁判の誤りとかいうようなことも、はたしてあり得ないことであろうか? その証拠に、年来の人間の経験が、乞食《こじき》と監獄ばかりは禁じきれないものであることを教えているではないか。今日のような裁判制度では、裁判のまちがいはきわめてありうべきことであって、少しもふしぎはないのである。他人の苦痛に対して、職務的な事務的な関係を持つ人々、たとえば、裁判官とか、警察官とか、医者とかいう人々は、時の流れにつれ、習慣の力にひきずられて、いかにそうしまいと思っても、相手を形式的に扱わずにはいられない程度にまで、慣れてしまうものである。そして、この一面からのみすれば、彼らは、裏庭で羊や子牛をほふって、その血をごうも意としない百姓どもと、なんら選ぶところはないのである。個人の人格に対する、この形式的な無情な態度からすれば、罪なき者のいっさいの身分権を剥奪して、懲役に処するくらいのことは、裁判官にとってはただ一つ――時間さえあればこと足るのである。そのためには裁判官の俸給に払われている一定の形式を遵奉《じゅんぽう》するだけの時間、それさえ経過すれば、それで万事は終わるのである。そのあとになって、この鉄道線路から二百露里も距《へだ》たった、ちっぽけな、きたならしい田舎町で、正義や弁明を求めるがいい! いったい各種の強圧が、合理的な、便宜な必要事として社会に迎えられ、すべての慈悲的判決、たとえば、無罪の宣告などが満たされざる復讐的感情の爆発を起こすような時代に、正義についてうんぬんするなどは、むしろ笑うべきことではあるまいか?
翌朝イワン・ドミートリイチは、額に冷汗をびっしょりかいて、ぎょっとして寝台からはね起きた。もうすっかり、自分はいつ捕縛されるかも知れぬものと思い込みながら。なんにしても昨日の重苦しい想念が、こんな長いこと自分を見棄てないところをみると、――こう彼は考えた。――それはつまりその中に、それだけの理由があるからに相違いない。じっさい、なんの理由もなく、こんな想念が頭へはいり込むわけはない。
巡査がひとり、ゆっくりした足どりで窓ぎわを通り過ぎた――これもただごとではない。見よ、ふたりの男が家のそばに立ちどまって、黙っている。なんだって彼らは黙っているんだ?
こうしてイワン・ドミートリイチには、悩ましい日夜がはじまった。窓ぎわを通ったり、庭へはいって来たりするものは皆、探偵か間諜のように思われた。正午にはきまって警察署長が、二頭びきの馬車で街路を通った。これは彼が、近郊にある所有地から警察へ通うのだったが、イワン・ドミートリイチにはそのつど、彼の馬の走らせ方があまり早過ぎ、その顔にも何かしら特別な表情が浮かんでいるように思われて、これはてっきり、町に重大犯人が現われたので、その報告に急いでいるに違いないという気がするのであった。イワン・ドミートリイチはベルが鳴るたびにふるえ、門をたたく音にきもをひやし、下宿の主婦のもとで新しい顔に出会うたびにおびえた。警察官や憲兵に出会うと、彼は平気を装うために、微笑をふくんだり、口笛を吹いたりした。彼は毎晩、検挙を予期しながら、ひと眠りもしなかったが、しかし、主婦には眠っているように思わせようとして、眠ったふりをして、大いびきをかいたり大息をついたりした。だって、人が夜眠らないのは、良心の呵責《かしゃく》に悩まされていることになるのではないか――これはりっぱな手がかりだ! 事実と健全な論理とは彼に、こうした恐怖がすべて――取るに足らぬ精神病的な現象であること、よしまた逮捕されて獄につなェれたところで、もっと広い見地に立ってみれば、じっさい恐ろしいことはなんにもない――良心はあくまで平静でいられるに違いないことを説き聞かせるのだったが、しかし彼が知力を傾けて論理的に推理すればするほど、彼の心の不安はますます強く苦しくなって行った。これはちょうど、ひとりの隠者が処女林の中で自分の住むべき場所を伐《き》り開こうとしているさまに似ていた。彼が斧をもって懸命に働けば働くほど、森はますます深くますます強く繁茂して行くのである。イワン・ドミートリイチはついにこの努力のむなしいのをみてとると、ぜんぜん考慮を放擲《ほうてき》して、全心身を絶望と恐怖にゆだねてしまった。
彼は閉じこもって人を避けはじめた。勤めはかねがね不快なものに思っていたが、今ではもう堪えがたいものになった。彼は、いつなんどき人に陥《おとしい》れられたり、知らぬ間にそっとポケットへわいろを押し込まれてそのあとで告発されたり、自分自身つい公文書のなかで、偽書同様のあやまちをしでかしたり、あるいはまた他人の金をなくしたりするようなことが起こりはしまいかと恐れたのである。奇妙にも彼の思考力は、今彼がこうして毎日、自分の自由と名誉にとって真剣に危惧《きぐ》するにたる数千のさまざまな理由を考え出すときほど、しなやかに巧妙に働いたことはかつてなかった。しかしそのかわり、外部の世界、とくに書物にたいする興味はいちじるしく弱められて、記憶力がいたく彼を裏切りはじめた。
春になって、雪が解けたとき、墓地の近くの谷間に、半ば腐乱した二個の死体――他殺の形跡ある老婆と少年の死体が発見された。町はもう、この死体と、不明な下手人についてのうわさで持ちきりであった。イワン・ドミートリイチは自分が殺したなどと思われないために、町を歩いて笑顔を見せたり、知った顔に出会うとあおくなったりあかくなったりして、世の中に、か弱い防御力のない者を殺すほどけしからぬ罪はない、などと論じ出したりした。しかし、このうそもじき彼を疲らせたので、しばらく思案を凝らしたうえ、現在の状態における最良の方法は――主婦の穴蔵へ身を隠すことだと決定した。彼はその穴蔵のなかに、その日と、その夜と、次の一日をすわりとおして、すっかり凍えてしまい、暗くなるのを待ちかねて、どろぼうのようにこっそり自分の部屋へ忍び込んだ。そして夜の明けるまで部屋のまん中に立ち尽くして、身動きもせずにじっと耳を澄ましていた。朝早く、日の出前に、主婦のところへ暖炉職人が来た。イワン・ドミートリイチは彼らが台所の炉を積み替えに来たのであることはよく知っていたが、恐怖が彼に、これは暖炉職人に変装した警官に違いないとささやいた。彼はそっと下宿を出て、恐怖に駆られながら、帽子も上着もなしで町通りを駆け出した。あとからは、二、三匹の犬がほえながら追っかけてくるし、どこかうしろの方では百姓がわめくし、耳もとではひゅうひゅう風が鳴った。そしてイワン・ドミートリイチには、世界じゅうの圧制暴力が彼の背後で一つになって、肉薄してくるような気がした。
人々は彼を取り押さえて、家へ連れもどし、下宿の主婦を医者の迎えに走らせた。ドクトル・アンドレイ・エフィームイチは――この医者のことはあとになって出てくるが――頭を冷やす罨法《あんぽう》剤と、鎮静剤の水薬を処方すると、憂うつそうに頭を振って、主婦に、もう見舞いにはこない、人間の気の狂うのを妨げるのはよくないからと言いおいて、帰って行った。ところが、家では糊口の資をうる手段も、治療の方法もなかったから、まもなくイワン・ドミートリイチは病院へ送られて、そこで、花柳病患者の病室へ収容された。が、彼は、夜は眠らずわがままばかりふるまって、他の患者たちのじゃまをしたので、しばらくして、アンドレイ・エフィームイチのさしずで、六号室へ移されたのであった。
一年たつうちに、町ではもうイワン・ドミートリイチのことはすっかり忘れてしまい、主婦の手で軒下のそりのなかへほうりこまれていた彼の蔵書は、子供たちにきれいに持ち去られてしまった。
四
イワン・ドミートリイチの左側の隣人は、前にも述べたとおりユダヤ人のモイセーカであるが、右隣の隣人は――鈍い、完全に無意味な顔をした、脂肪ぶとりの丸っちい百姓であった。それは――もう久しい前から考えたり感じたりする能力を失っている、無精で、大食いの、不潔きわまる動物である。そのからだからは絶えず、鋭い、息づまるような悪臭が発散する。
ニキータは彼の身のまわりを片づけるときには、きまって思いきりなぐりつける。自分のこぶしを惜しまないで、力まかせに。ところが、この場合に恐ろしいのは、人が人を打つということではなくて、――これには慣れることができる。――むしろ、この知覚を失った動物が、音声でも、動作でも、目の表情でも、打撃にたいしてなんの反応も示さず、ただ重いたるのように、軽く揺れるにすぎないことであった。
五人目、すなわち六号室の最後の住人は――いつか郵便局で分類係をしていたことがあるという町人で、善良らしい、しかし、どこかずるそうな人相をした、小柄でやせ形の金髪男であった。明るく快活そうな光をたたえた、利口そうな、落ちついた目色から判断すると、これはなかなか抜けめのない、何か非常に重大な、愉快な秘密を持ってでもいそうな男である。彼は、まくらの下やわらぶとんの下に、何か隠しているものがあって、それをだれにも見せなかったが、それは、取り上げられるとか盗まれるとかいう心配からではなく、きまりがわるいせいであった。どうかすると、彼は窓ぎわへ行って、仲間の方へ背を向け、何かを胸に押しあてて、頭をさげてはしきりに見ている。そんなときもしだれかがそばへ行くと、彼はきまりわるげに胸からそれをもぎとってしまう。しかし、彼の秘密を見破るのは、造作ないことである。
「どうかわたしを祝ってください」と彼はよくイワン・ドミートリイチに言ったものである――「わたしは、星のついたスタニスラーフ二等勲章に推薦されています。星のついた二等勲章は、ただ外国人にかぎって授けられるものですのに、どうしてかわたしには、例外がおこなわれようとしているのです」こう言って彼は、何かためらうように肩をすくめながら微笑する。「じつをいうと、これは思いがけないことだったのです!」
「そういうことは、ぼくにはさっぱりわからんよ」とイワン・ドミートリイチは、気むずかしげな調子で言う。
「ですが、わたしがおそかれ早かれ何を手に入れるかごぞんじですか?」と、前の郵便分類係は、ずるそうに目を細めながらつづけるのである。「わたしはどうでも、スウェーデンの『北極星章』をもらうつもりです。これこそ十分運動するだけの値打ちのある勲章です。白い十字章に黒リボンがついていましてね、すてきにきれいなものですよ」
おそらくどこをたずねても、この別棟ほど単調な生活はないであろう。朝になると、中風患者とふとった百姓以外の患者たちは、玄関の大きなおけで顔をあらって、患者服のすそでふく。それから、ニキータが本棟から運んでくるお茶を錫《すず》の柄つきコップで飲む。ひとりに一杯ときまっている。正午にはすっぱいキャベツ汁と麦がゆ、晩には昼の残りの麦がゆをすするのである。そしてその間には、寝ころがったり、眠ったり、窓をのぞいたり、すみからすみへと歩いたりする。くる日もくる日もこんなふうに過ぎて行く。前の郵便分類係までが、のべつ同じ勲章のことばかりしゃべっているのである。
六号室では、新しい顔はめったに見られない、ドクトルがもう久しく新患者を収容しないし、瘋癲《ふうてん》病院を見舞う参観者も、世間には多くないからである。ふた月に一度ずつ、理髪師のセミョーン・ラザリーチがこの別棟へやってくる。彼がどんなぐあいに狂人の髪を刈り、ニキータがどんなぐあいにその手伝いをするか、この常住酔っ払ってにこにこしている理髪師が現われるたびに、患者たちがどんな騒ぎを演じるか、それは語るにも及ぶまい。
理髪師以外には、だれひとり別棟をのぞく者はない。患者たちは明けても暮れても、ただニキータひとりを見て暮らすように、運命づけられているのである。
ところが近ごろになって、本棟内にかなり奇怪なうわさがひろまった。
ドクトルが足しげく六号室を訪れはじめたといううわさが立ったのである。
五
奇怪なうわさ!
ドクトル アンドレイ・エフィームイチ・ラーギンは、いっぷう変わったところのある人物であった。なんでも、ごく若いころには非常に信心深くて、宗教方面で身を立てることを考えていたので、一八六三年に高等学校を出ると、宗教大学へはいる計画を立てたのだったが、すると、医学博士だった彼の父が、どうやらしんらつに彼を嘲笑して、もし彼が坊主なんかになろうものなら生涯《しょうがい》わが子とは思わぬと、頭ごなしに宣言したらしいのである。この話がどの程度まで真実か――それはわからないけれども、アンドレイ・エフィームイチ自身も一度ならず、自分はついぞ一度も医学ばかりでなく、一般的に専門科学なるものに対して使命を感じたことはなかったと告白したものである。
ともかく、彼は医科の業をおえて、司祭にはならなかった。そして信心深いようすもいっこうみせなかったし、医者として世に立った最初のうちにも、今と同じように、宗教家らしいふしはあまりなかった。
彼の外貌《がいぼう》は、重々しく、粗野で、百姓然としている。その顔つき、あごひげ、癖のない頭髪、がっしりした不かっこうな体格は、どうみても、食いふとった、放恣《ほうし》でがんこな、街道筋の居酒屋の亭主である。顔は荒けずりで、青筋がいっぱい、目は小さくて、鼻は赤い。背が高く、肩幅が広いのに応じて、手足も人いちばい大きいので、げんこつ一つ見舞われても――息の根がとまるだろうと思われる。そのくせ足音は静かで、歩きぶりは注意深くいんぎんである。狭い廊下などで人に会うと、まず自分のほうから道を譲るために立ちどまって、期待されるバスではなく、細い柔らかなテノールで「失礼!」と、こう言うのである。彼のくびには、ちょっとした腫《は》れ物《もの》ができていて、それが糊の堅いカラーをつけるじゃまをしたので、彼はいつも柔らかいリンネルか|さらさ《ヽヽヽ》のシャツを着ている。概して、彼の服装は医者らしくない。同じ三つぞろいを十年も着ているので、彼がおもにユダヤ人の店で買う新しい服も、彼が身につけると、古い服と同じように、すり切れて、しわくちゃのように見えるのだった。年じゅう同じフロックコートで、患者の診察もすれば、食事もし、また客にも出かけるのである。しかし、これはりんしょくからではなく、風采などにはまったくむとんじゃくだったからにほかならない。
アンドレイ・エフィームイチが任につくべくこの町へ来たころ、「慈善病院」は惨憺《さんたん》たる状態になっていた。病室といい、庭といい、悪臭ふんぷんとして呼吸《いき》をつくのも苦しかった。病院の小使、看護婦、その子供たちが、患者たちといっしょに病室で寝ていた。油虫や、ナンキン虫や、|ねずみ《ヽヽヽ》がひどくてやりきれないという苦情があった。外科室には丹毒が絶えなかった。病院じゅうにメスは二本きり、検温器一個ないしまつで、浴室にはばれいしょがかこってあった。監督や、病衣係の女や、助手たちは患者をかすめ、アンドレイ・エフィームイチの前任者である前のドクトルについては、彼が病院のアルコールを密売したり、看護婦や婦人患者を手なずけてりっぱな後宮を作ったりしていたというようなうわさがおこなわれていた。町ではこうした乱脈をよく知っていたばかりでなく、むしろそれを誇張していたくらいであるが、しかも、それに対してははなはだ冷淡で、ある者は、病院へはいるのはただ町人や百姓ばかりで、そんな連中は、家にいればどうせ病院よりずっと劣った生活をしているのだから、不足などいえた義理ではない。まさかあの連中に|しゃこ《ヽヽヽ》を食わせなきゃならんこともあるまい。こういって病院を弁護していたし、またある者は、地方自治会の補助なしに町だけでりっぱな病院を維持して行くなどは、とうてい望めることではないから、よしんば|ぼろ《ヽヽ》病院でも、あるだけけっこうだ、こういって弁護した。しかも若い自治会は、この町がすでに自分の病院を持っていることを理由にして、町にも、付近にも、診療所を設けなかったのである。
病院を視察したうえで、アンドレイ・エフィームイチは、この施設が不道徳であり、住む人々の健康にとって最高度に有害であるという結論に到達した。彼の意見によると、採りうべき最も賢明な策は、患者を解放して病院を閉鎖することである。しかし彼は考えた。それは実現するには彼一個の意志だけでは不十分だし、また無益でもあるだろうと。いまかりに、肉体的ないし道徳的不潔のいっさいを一つの場所から駆逐したところで、それは他の場所へ移るにすぎない。やはり、それ自身で風化する時を待つよりほかはないであろうと。第一、人々がこうして病院を開き、それを維持している以上、この病院が必要なのに違いないのだ。偏見や、すべてのこうした俗世間的な醜悪や、卑賎が必要なのだ。なぜなら、それらも時の流れとともに、糞《くそ》が沃土《よくど》に変化するがごとく、何か役立つものに変化して行くであろうからだ。元来この地上には、その萌芽《ほうが》において醜悪を持たないようないいものは一つもないのだから。
で、任についてからも、アンドレイ・エフィームイチは、こうした不秩序にたいしてさえ、表面はきわめて無関心な態度しか見せなかった。彼はただ、病院の小使や看護婦たちに、病室に寝ないようにたのんだり、器具入れの戸だなを二個備えつけたりしただけで、監督も、病衣係も、助手も、外科室の丹毒も、そのままにしておいた。
アンドレイ・エフィームイチは知性と正直とを非常に愛していたが、自分の周囲に知的な、正直な生活を建設するには、性格の強さと、自己の権利にたいする信念とを欠いていた。命令するとか禁止するとか、主張するとかいうことは、彼には断じてできなかった。まるで彼自身、決して大声を出したり命令法を用いたりすることをしまいという誓いでも立てているようなぐあいである。「くれ」とか、「持ってこい」とかいう言葉使いさえ彼には困難だったので、何か食べたいような場合には、彼は遠慮しいしいせきばらいをして――「お茶をひとつもらいたいんだがね……」とか、「飯にしてもらいたいんだがね」とか、女中に言うのだった。だから、監督に向かって、物をかすめることをやめるように言うとか、彼を放逐するとか、この不必要の寄生虫的職務を全廃するとかいうことは――しょせん彼の力には及ばぬことであった。あざむかれたり、へつらわれたり、見えすいた不正な勘定書に署名を乞《こ》われたりする場合には、彼は、|えび《ヽヽ》のようにまっ赤になって、自分がわるいと感じながらも、勘定書にやはり署名してやるのだった。また、患者たちが彼に、空腹を訴えたり、看護婦の虐待を訴えたりしてくるときにも、彼は当惑して、さもすまなさそうにつぶやくのだった――
「よろしい、よろしい、わたしがあとで調べてあげる……おおかた何かの思い違いだろう……」
初めのうち、アンドレイ・エフィームイチは非常に熱心に働いた。毎日朝から正午まで、彼は患者を診察し、手術をし、ときには産婆の仕事までやってのけた。町の婦人たちは彼のことを、あの先生は診察がていねいで、病気を見つけるのがうまい。とくに小児科と婦人科がじょうずだと言っていた。しかし、日がたつにつれて、この仕事も、その単調さと、あまりに明らかな無益さとで、目にみえて彼を飽かせてしまった。今日三十人の患者を診《み》れば、翌日は三十五人にふえ、翌々日は四十人になる。こうして一日一日、一年一年とたっても、町の死亡率は減らず、患者の足も門に絶えない。朝から午《ひる》までの間に四十人の外来患者に真の援助を与えることは、肉体的に不可能である。つまり、知らずしらずでたらめをやってしまうことになるのである。一会計年度は一万二千人の人間をあざむくことになるのである。重症患者を入院せしめてそれを科学の法則通りに治療することも、同じくできない相談であった。なぜなら、法則はあるが科学がないからである。よしんば哲学を放棄して、他の医者たち同様|衒学《げんがく》的に法則を遵奉《じゅんぽう》するにしても、そのためには何よりもまず、こんな不潔でない清潔と換気法が必要であり、臭くてすっぱいキャベツ汁でない健全な食餌が必要であり、どろぼうどもでなくてよき助手たちが必要である。
それに、もし死が、人間として尋常で合法的な最後なのだとすれば、なんのために人の死んで行くじゃまをするのか? かりに、その辺の小商人や小官吏が、五十年十年よけいに生き延びたとして、それがいったいなんになる。もしまた医学の目的が、薬剤の力で苦痛を軽減させるにあるならば、自然ここにひとつの疑問が生じてくる――なんのために苦痛は軽減されなければならないのか? 第一に、苦痛は人を完成に導くものであるというではないか。第二に、もし人類が事実その苦痛を丸薬や水薬で軽減することを習得するとすれば、今日までその中に、ひとりあらゆる不幸の防護ばかりでなく、幸福をすら求めてきた宗教や哲学を、すべて顧みないことになるだろう。プーシキンは死の前に恐ろしい苦痛を経験し、不幸なハイネは中風を病み、数年間を寝て暮らした。してみれば、そこいらのアンドレイ・エフィームイチとか、マトリョーナ・サーヴィシニャとかいう人間どもに、なんで病んでならない法があろうか? こんな人間どもの生活は、しょせん無内容で完全に空虚で、もしせめて苦痛でもなかったら、アミーバのそれにもひとしいものになってしまうではないか。
こうした考察におしひしがれたアンドレイ・エフィームイチは、ついにさじを投げて、病院へも毎日顔を出さなくなってしまった。
六
彼の生活は、こんなふうにして送られる。普通朝は八時に起き、着がえをして、お茶を飲む。それからは自分の書斎にこもって読書にふけるか、病院へ行くかである。病院では、狭い廊下に診察を待つ外来患者が腰掛けている。彼らのそばを、小使や看護婦たちが、れんがの床に靴音を立てながら駆けとおり、病衣姿のやせ衰えた患者どもが往来し、死体や汚物器が運ばれ、子供たちが泣きわめき、通し風が吹きぬける。アンドレイ・エフィームイチは、熱病患者、結核患者、その他一般に感じやすい病人たちにとって、こうした環境が苦痛であることは知っている。しかし、どうすればいいのだ? 診察室では助手のセルゲイ・セルゲーイチが彼を迎える。それは、きれいにかみそりをあててみがき立てた、むくんだような顔の、小柄な、でっぷりとふとった、もの腰の柔らかく軽快な男で、いつも新しい、ゆったりとした服を身につけているようすが、医員助手というよりも、元老院議員とでもいいたげな風采である。町に患者をたくさん持っていて、白ネクタイをつけており、ぜんぜん患家を持たない院長よりは自分のほうが腕は上だと思っている。診察室の一|隅《ぐう》には、龕《がん》にはいった大きな聖像が立ち、重い燈明がさがっていて、そのそばには白いおおいをかけた読経台が置いてある。壁には、僧正たちの肖像や、スヴィャトゴールスキイ〔聖山の意〕修道院の写真や、しぼんだ矢車菊《やぐるまぎく》の花冠などがかかっている。セルゲイ・セルゲーイチは、宗教的ではでなことが好きである。この聖像も、彼の自費ですえられたもので、日曜日にはかかさず診察室で、彼の命令によって患者のうちのだれかが、声高々と賛美歌をうたい、そのあとでセルゲイ・セルゲーイチ自身が、香炉を持って各病室を巡回して、香煙をまいて歩くのである。
患者が多いのに時間が少ないので、しぜん、診察は、ほんの型ばかりの質問と、軟膏とかヒマシ油とかいったふうの投薬で片づけられてしまうことになる。アンドレイ・エフィームイチは、腰掛けたまま、こぶしにほおづえをついて、考え込んだような顔をして、機械的に容態を尋ねる。セルゲイ・セルゲーイチもいすに掛けたまま、小さい手をこすりながら、たまに口出しするのだった。
「われわれが病気をしたり、貧乏したりするのは」と彼は言うのである。「慈愛深い神さまに祈り方がたりないからだよ。そうだとも!」
診察のときにもアンドレイ・エフィームイチは、手術にはいっさい手を出さなかった。彼はもうだいぶ前からそれに遠ざかっていたので、血を見ても気持ちがわるくなるのである。赤ん坊の口をあけてのどを見なければならぬときなど、もし赤ん坊が泣いて、小さな手で押しのけようとでもしようものなら、彼は、耳鳴りのために頭がぐらぐらして、両の目に涙がにじみ出す。彼は急いで処方を書くと両手を振って、母親にいちじも早く赤ん坊を連れ出させる。
診察室でも、彼はじき、患者たちの臆病、彼らの物わかりのわるいこと、風采の堂々たるセルゲイ・セルゲーイチの身近にいること、壁の肖像、二十年以上もまるで判を捺《お》したようにくり返している自分自身の質問にあきあきしてくる。で、彼は、五、六人の患者をみるだけで引き揚げてしまう。残りの患者は、彼が出て行ってから、助手が診察するのである。
ありがたいことに、もうだいぶ前から町に患家を持たないので、だれにもじゃまをされないですむという楽しい想念をいだいて住居へ帰ると、アンドレイ・エフィームイチはさっそく書斎の机の前にすわり込んで、読書をはじめる。彼は非常な多読家で、常に大きな喜びをもって読むのである。俸給の半分は本代になってしまい、六室ある住居のうちの三部屋は、書籍と古雑誌で埋まっている。彼のいちばん多く好んだのは歴史と哲学に関した書物で、医学に関するものはただ「ヴラーチュ〔医者〕」という雑誌を一冊とっているだけ、しかもそれは、きまって終わりのほうから読み出すのである。彼の読書は普通何時間もぶっ通しに続けられるのであるが、それでも彼を疲らせはしない。彼は、昔イワン・ドミートリイチが読書したように、早く、衝動的に読むのではなく、ゆっくりゆっくりと、意味を考えて、気に入ったり難解だったりする個所では、しばらく一服しながら読むのである。書物のそばには必ずウォーツカのびんと、塩漬けきゅうりか砂糖漬けのりんごかが、器なしに、じかにラシャの上に置かれてある。三十分ごとに彼は、書物からは目をはなさないで、コップにウォーツカを注いでそれを飲み、それからやっぱり見ないで手さぐりに、きゅうりをつまんでひと口かじる。
三時になると、彼は、用心深く台所の戸口へ歩み寄って、せきばらいをして、こう言うのである――
「ダーリュシカ、そろそろ食事にしてもらいたいんだがね……」
かなりお粗末な不潔な食事のあとで、アンドレイ・エフィームイチは両腕を胸に組んで、家の中を歩きまわりながら、考える。四時が打ち、やがて五時が鳴っても、依然として歩いて考えている。まれに台所のドアがきしんで、中からダーリュシカのあかい寝ぼけ顔が現われる。
「アンドレイ・エフィームイチ、もうビールを召しあがる時間ではございませんか」と、彼女は気がかりらしく、きく。
「いや、まだ時間じゃない……」と彼は答える。「もう少し待とう……もう少し……」
晩にはたいてい、郵便局長のミハイル・アヴェリヤーヌイチがやってくる。これはアンドレイ・エフィームイチにとって町じゅうでただひとりの気のおけない相手である。ミハイル・アヴェリヤーヌイチは、昔は非常に裕福な地主で、騎兵連隊に勤務していたのであるが、破産したためよぎなく、いい年をして郵便局入りをしたのである。いたって元気で健康そうな顔つきに、りっぱな白いほおひげをはやした、もの腰の上品な、気持ちのいい大きな声の持ち主である。彼は善良で、情けの深い男だったが、それだけむかっ腹を立てやすかった。郵便局へくる客のうちで、抗議したり、なっとくしなかったり、あるいは単に理屈でもこねだしたりする者があろうものなら、ミハイル・アヴェリヤーヌイチは紫色になって、全身をぶるぶるふるわせ、雷のような声で「黙れ!」と一喝する――それで、この町ではもうよほど前から、郵便局はこわいところという評判になっていた。ミハイル・アヴェリヤーヌイチはアンドレイ・エフィームイチを、その教養と高潔な精神にたいして愛し、かつ尊敬していたが、ほかの住民たちには、まるで自分の部下にたいするような見下した態度をとっていた。
「やあ、またやって来ましたよ!」と彼はアンドレイ・エフィームイチの部屋へはいりながら言う。「こんにちは、きみ! どうやらわたしはもうあなたの鼻についたようですな、ええ?」
「とんでもない、大満悦ですよ」とドクトルは答える。「あなたの顔さえ見れば、わたしはいつでも愉快なんです」
ふたりの友は、書斎の長いすに腰をおろして、しばらくは黙ってたばこをふかすのである。
「ダーリュシカ、われわれにビールを出してもらいたいもんだがな!」とアンドレイ・エフィームイチは言う。
最初の一びんは、これも無言のうちにあけられてしまう――ドクトルは考えこんでいるし、ミハイル・アヴェリヤーヌイチは、何か非常におもしろい話でも持っている人のような、朗らかな生き生きした顔をして。会話はいつもドクトルのほうからはじめられる。
「じつに情けないことじゃありませんか」と彼は、頭を振りながら、相手の目は見ないで(彼は決して相手の目を見ない男である)、ゆっくりした口調でもの静かに言う――「まったくもって情けないですよ。ミハイル・アヴェリヤーヌイチ、気のきいたおもしろい話のできる人、そうした話の好きな人が、この町にはひとりもないんですからねえ。これはわれわれにとって、とても大きな損失ですよ。知識階級すら凡俗以上に出てないんですからね、彼らの発達のレヴェルは、あえて言うが、下層社会を一歩も出ていないんですからねえ」
「まったくそうです。同感ですよ」
「あなたもご承知のとおり」とドクトルは静かに、間をおいてはつづけるのである――「この世の中に、人知の高遠な精神的表示を除けば、無意味かつ無興味でないものは何一つありません。知性は動物と人間との間には截然《さいぜん》たる限界を画し、後者の神性を暗示し、ある程度まで彼のために、実際には存在しないところの不死の代償をなすものです。その結果として、知性は悦楽の唯一の可能性ある源泉として役立つのです。ところがわれわれは、自分の周囲にはその知性を知ることも聞くこともできません――すなわちわれわれは、悦楽を奪われているという形です。もっとも、われわれの手もとには書物がある、しかし、これは生きた会話や交際とはぜんぜん別個のものです。あまり適切な比喩ではありませんが、書物は楽譜で、会話は歌ですからね」
「まったくそうですね」
沈黙がくる、台所からダーリュシカが出て来て、にぶい悲しそうな表情を浮かべながら、こぶしで顔をささえて話を聞くために戸口にたたずむ。
「ああ!」とミハイル・アヴェリヤーヌイチは嘆息する。「あなたとしたことが、現代の人間から知性を求めようなんて!」
そして彼は、昔はどんなに健全で、おもしろかったかということ、ロシアにはどんなに賢明な知識階級があったかということ、そしてそれが名誉や友情といった観念を、どんなに高く評価していたかということなどについて語りはじめる。金は手形なしで貸借されたし、困っている友人に救いの手を延べないのは恥辱と考えられていた。行軍にしても、冒険にしても、戦争にしても、ものすごいものだったし、同僚にしても女にしても、すてきなものばかりだった! それからカウカサス――なんというすばらしいところだったろう! おまけにある大隊長の夫人などは、一ぷう変わった女で、これが将校服を着ては、毎晩、案内者も連れずただひとり、馬で山の中へはいって行く。なんでもその夫人には、土地の豪族との間にローマンスがあったという話である。
「あれまあ、驚いた……」とダーリュシカがため息をつく。
「それに、われわれはどんなに飲んだものでしょう! どんなに食ったものでしょう! なんという向う見ずな自由主義者どもがいたものでしょう!」
アンドレイ・エフィームイチは、聞いてはいるが、耳にとめてはいない。何か考え込みながら、ビールをちびりちびりやっている。
「わたしはよく、賢明な人々のことや、その人たちと話をする夢を見ることがありますよ」と彼はだしぬけに、ミハイル・アヴェリヤーヌイチの言葉をさえぎりながら言う。「父はわたしにりっぱな教育を授けてくれましたが、しかし六十年代の思想の影響で、わたしをむりやりに医者にしてしまいました。もしあのとき父の言葉に従わなかったら、今ごろわたしは知的運動の中心にいただろうという気がするのです。おそらく、どこかの文科大学の一員ぐらいにはなっていたでしょう。もちろん、知識も永久的なものではなく、はかない、つかのまのものではありますが、しかし、わたしがそれにたいしてなぜこんなに傾倒しているかは、あなたもごぞんじのとおりです。人生はいまいましい罠《わな》です。思索的な人間が成年期に達して、成熟した意識を持つようになると、その男は、えて自分が出口のない罠にかかっているように感じるものです。実際、人間は自分の意志にかかわりなく、ある偶然によって無から生に呼び出されて来たものです……それはなぜか? 彼は自分の存在の意味と目的を知りたいと思う。が、だれひとり教えてくれ手はなし、よしあっても、聞くにたらぬことばかりです。扉《とびら》をたたいても開かれないのです。そうするうちに死がやってくる――同じく彼の意志にかかわりなく、そこで、共通の不幸によって結ばれている獄中の人々がいっしょに集まっているときには、いくらか楽な気持ちでいられると同様に、この人生にあっても、分析的普遍的傾向をもった人々が一堂に会して、互いの誇りとする自由な思想の交換に時を送る場合には、例の罠を感じないでもすむのです。この意味で知性は、ほかに代わりのない悦楽ですよ」
「まったくそのとおりですな」
相手の目は見ないで、静かに、間《ま》をおきながら、アンドレイ・エフィームイチは、賢明な人々のことや、彼らとの会談について話しつづける。ミハイル・アヴェリヤーヌイチは注意深く傾聴しながら、いつも同じ言葉で賛意を表する――「まったくそのとおりですな」
「ところであなたは、霊魂の不滅をお信じなさらないのですか?」とだしぬけに、郵便局長がきく。
「いや、ミハイル・アヴェリヤーヌイチ、信じませんな、信ずべき根拠を持ちませんよ」
「じつをいうと、わたしも疑ってはいるのです。とはいうものの、わたしには、自分は決して死なないものというような感じもあるのです。おい、老いぼれおやじ、とわたしは考えます。おまえはもうそろそろ死んでいい時だぞ! が、腹の中では一種の声がこんなことをいう――そんなことを信じるな、おまえは死にゃしないよ!」
九時をまわったところで、ミハイル・アヴェリヤーヌイチは帰って行く。玄関で毛皮外套を着ながら、彼はため息まじりに言う――
「それにしても、運命はなんという辺鄙《へんぴ》なところへわれわれを連れて来たものでしょう! なによりいまいましいのは、こんなところで死ななきゃならんということですよ。やれやれ!……」
七
友人を送り出すと、アンドレイ・エフィームイチは机に向かって、ふたたび読書をはじめる。宵《よい》の静寂、やがて夜の静寂は、なんの物音にも乱されることなく、さながら時がその歩みを止めて、本の上にかがんでいるドクトルもろとも、知覚を失ってしまったように、そしてこの書物と緑の笠《かさ》をかけたランプのほか何ひとつ存在しなくなったように思われる。ドクトルの粗野な百姓じみた顔は、人知の動きにたいする感動と歓喜の微笑に、すこしずつしだいに輝いてくる。おお、なぜ人間は不死でないのか? 彼はこう考える。もし人間の脳の中枢や褶《ひだ》、視覚、言語、自感、天才などが、ついには、土中にはいって地殻とともに冷却し、その後数百万年の時を意味も目的もなく、地球といっしょに太陽の周囲をまわっていなければならない運命だとしたら、それらのものはいったいなんのためにあるのだろう? もし、冷却させ回転させるだけのためなら、その高尚な、ほとんど神のごとく叡智《えいち》を持つ人間をことさら無から引き出しておいて、まるでなぶりものにするように、もう一度土にかえらせる必要はどこにもない道理である。
新陳代謝! しかし、こうした不死の代用品をもって自分を慰めるとは、なんたる卑怯なことであろう! 自然界に発生する無意識なる過程は、人間の痴愚にすら劣るものである。なぜなら、痴愚のうちにはまだそれでも意識と意志があるが、こうした過程のうちには、完全に何物もないからである。自己の尊厳よりも死の恐怖をより多く感ずるおくびょう者だけが、自分の肉体はいつかまた、草や、石や、|ひきがえる《ヽヽヽヽヽ》の中に生きるだろうという観念で、自分を慰めることができる……新陳代謝のうちにおのれの不死を見ることは、あたかも貴重なヴァイオリンがこわれて用をなさなくなったときに、そのケースに向かって輝かしい未来を予言すると同じ程度に奇妙なことである。
時計が打つと、アンドレイ・エフィームイチは肘《ひじ》掛けいすの背へ身を投げて、考えるために目を閉じる。そしてわれにもなく、今書物の中で読んだすぐれた思想の影響のもとに、自分の過去と現在とに向かってその目を投げる。過去は不愉快だ、思い出さないほうがいい、とはいえ、現在もまた過去と同様である。彼は彼の思想が冷却した地球とともに太陽の周囲を回転しているときに、彼の住居と並んだ病院の本棟の中では、人々が病苦にあえぎ肉体の不潔に悩んでいることを知っている。あるいは、そのうちだれかは、寝もやらず、虫とたたかっているかもしれないし、だれかは丹毒に感染するか、包帯の巻き方のきつすぎるためにうめいているかもしれない。またある患者たちは、看護婦たち相手にカルタをやったり、ウォーツカを飲んだりしているかもしれない。一会計年度に一万二千人の人が欺かれた。病院の全事業は、二十年前と同じく、どろぼう、饒舌《じょうぜつ》、告げ口、身びいき、下等な詐欺などの上に築き上げられている。そして病院は依然として、不道徳な、住民たちの健康にとって高度に有害な施設になっている。彼はなお、六号室の鉄格子の内部では、ニキータが患者たちを打擲《ちょうちゃく》することも、モイセーイカが毎日町をほっつき歩いて、施しを乞うていることも承知している。
また一面からは、最近二十五年の間に、医学にうそのような変化の起こったことも彼にはよくわかっている。彼が大学で学んでいたじぶん、彼には医学も、まもなく錬金術や、形而上学と同じ運命に遭遇するものと思われていたが、こうして彼が毎夜読書している今日では、医学は彼を感動させて、彼のうちに、驚異ばかりでなく歓喜の情をさえかきたてるのであった。じっさい、なんという思いがけない光輝、なんという革命だろう! 防腐術のおかげで、偉大なるピローゴフにしてなおかつinspe〔望みをかけること〕さえ不可能としていた手術が毎日おこなわれている。平凡な地方自治会医さえ、膝《しつ》関節の切開手術をやってのけるし、百回の開腹手術にたいして死の機会はわずかに一回くらいなものだし、結石症のごときは、記録の必要もないほど簡単なものとされている。梅毒も根治される。それに遺伝論の学説、催眠術、パステルやコッホの発見、衛生統計学、それからさらにわがロシアの地方自治体医学はどうだ? 現在のごとき病気の分類、診断および治療の方法を持った精神病学――これを従前のものと比較すると、じつに雲泥《うんでい》の相違である。今日ではもう精神病者にたいしても、頭から冷水を浴びせかけたり、緊衣《きんい》を着せたりなどはしない。彼らをも人間並みに待遇して、新聞などでみると、彼らのための芝居や舞踏会まで催されているということだ。アンドレイ・エフィームイチは、今日の見解と趣味に徴しては、六号室というような醜悪なものは、ただ鉄道線路から二百露里もあり、町長や町会議員たちもあまり教育のない町人で、医者を見ること僧侶のごとく、たとえ彼がとかした錫《すず》を口へそそぎこもうと、いっさい文句なしに信じなければならぬものと思っている町においてでもなければ、見られない図なのを知っている。これがもしほかの町だったら、公衆や新聞がとっくの昔に、この小さなバスチーユなど、木っ端みじんに打ちくだいてしまったにちがいないのだ。
≪しかし、それがどうだろう?≫とアンドレイ・エフィームイチは、目を開きながら自問する。≪そのためにどれだけのことがあったろう? 防腐術も、コッホも、パステルも、事実の本質を少しも変えていないではないか。病気をすることも死ぬことも、依然として同じである。精神病者のために舞踏会や演劇は催すが、やはり彼らを自由に解放してはいない。つまり、すべては無意味でから騒ぎで、第一流のウィーン大学付属病院と、この病院との間にも、実質においてはなんの相違もないことになるのだ≫
しかし、悲哀と羨望《せんぼう》に似た感情が、彼に無関心でいることを妨げる。これはおそらく疲労から起こったものであろう。重い頭は書物の上へたれる、彼はあたりが柔らかであるように両手を顔の下にかって考える――
≪自分は有害な職務に従事し、自分のあざむいている人から俸給を受けている。自分は正直でない。しかし、自分自身が何もわるいのではない。単にやむをえざる社会悪の一分子たるにすぎない――郡の役人どもはことごとく有害だ。ただで俸給をむさぼっている……つまり自分の不正直の罪は自分にあるのではなく、今日の時代にあるのだ……おれだって、もし二百年遅く生まれていたら、おそらく別の人間になっていただろう≫
三時が鳴ると、彼はランプを吹き消して、寝室へ退く。いっこう眠くはないのだが。
八
二年ばかり前に、地方自治会が寛大になって、じらい自治会病院を開設するまでのあいだ、町立病院の医員を増員するために、補助金として年々三百ルーブリずつを寄付することに決議したので、町ではアンドレイ・エフィームイチの補佐として、郡医のエヴゲーニイ・フョードルイチ・ホボトーフを招聘《しょうへい》した。それはまだずぶ若い男で――三十になっていなかった――ほお骨の広い、目の小さい、背の高い、ブルネット(髪の黒い男)であった。おそらく先祖は異種族だったにちがいないのだ。彼は、一文なしで、小さなかばんを一つさげたきり、女中だという若い、不器量な女をひとり連れて、町へやって来た。その女は赤ん坊を抱いていた。エヴゲーニイ・フョードルイチはひさしのついた帽子をかぶり、深い長靴をはき、冬は外套を着ている。彼は、助手のセルゲイ・セルゲーイチや会計と親しくなったが、その他の役員のことは、なぜか貴族と名づけて、敬遠している。彼は家じゅうにたった一冊――「一八八一年ウィーン医科大学付属病院の最新処方」なる書物を持っている。患者を診《み》に行くときには、彼はいつもこの書物を携行する。彼は、毎晩クラブで玉突きをやるが、カルタ遊びは好まない。彼は、会話の中で好んでよく次のような言葉を使う――「長談議」「でたらめ」「お茶をにごすのはたくさんだ」等、々、々。
病院へは彼は週に二度出勤して、病室を見まわったり、外来患者を診察したりする。防腐剤や吸血器などの完全な欠如が彼の心を乱したが、それを言いだしてアンドレイ・エフィームイチを侮辱するのを恐れて、新しい秩序を立てようとはしなかった。自分の同僚アンドレイ・エフィームイチを年よりのペテン師だと考え、彼をたいへんな金持ちだろうと疑って、心ひそかにうらやんでいる。
彼は喜んでその後任にすわったであろう。
九
地上にはもう雪が消え去って、病院の庭でムクドリがうたっている三月末のある春の夕方、ドクトルは友人の郵便局長を送って門のところまで出て行った。ちょうどこのとき、門内へいましも物もらいから帰って来たユダヤ人のモイセーイカがはいって来た。彼は帽子もかぶらず、素足へじかに小さいオーヴァシューズをはいたまま、手には施し物のはいった小さな袋をさげていた。
「どうぞ一文!」と、彼は寒さにふるえながら、笑顔でドクトルに声をかけた。
断るということの決してできなかったアンドレイ・エフィームイチは、彼に十カペイカ銀貨を一つ与えた。
≪これはどうもよくないな≫と彼は、ユダヤ人の素足と、赤くなっているやせたかかとを見ながら考えた。≪あんなにぬれてるじゃないか≫
そして、憐愍《れんびん》とも嫌悪《けんお》ともいえるような感情に動かされて、彼はユダヤ人の後ろから、その|はげ《ヽヽ》を見たり、|くるぶし《ヽヽヽヽ》を見たりしながら、別棟へはいって行った。ドクトルがはいって行くと、|がらくた《ヽヽヽヽ》の山からニキータがはね起きて、不動の姿勢をとった。
「こんばんは、ニキータ」とアンドレイ・エフィームイチは柔らかな口調で言った。「このユダヤ人にひとつ長靴をあてがいたいもんだがね、どうだろう。さもないとかぜをひくからね」
「かしこまりました。閣下。監督にそう申しあげます」
「どうぞたのむ。おまえわたしの名前でたのむがいいよ。わたしがたのんだというがいいよ」
玄関から病室へ通ずるドアは開かれていた。イワン・ドミートリイチは、寝台の上に寝そべったまま、ひじを突いて身を起こし、不安らしく、聞きなれぬ話し声に耳を傾けていたが、急にそれをドクトルと気がついた。彼は、怒りのために全身をふるわせながらはね起きると、まっ赤な、毒々しい顔をして、どんぐり眼《まなこ》をむき出し、病室のまん中へ駆け出した。
「ドクトルが来たぞ!」と彼は叫んで、からからと笑い出した。「とうとうやって来た! 諸君、おめでとう、ドクトルがわれわれを訪問してくれたぞ! こんちくしょうめ!」彼はこう叫ぶと、この別棟ではまだ一度も見られなかったようなものすごい怒り方をして、どしどしと足を踏みならした。「あんちくしょうを打ち殺せ! いや、殺すだけじゃたりないぞ! 便所ん中でおぼらせろ!」
アンドレイ・エフィームイチは、それを聞くと、玄関から病室をのぞき込んで、もの柔らかにこう尋ねた――
「なぜですね?」
「なぜだとう?」とイワン・ドミートリイチは、威嚇するような顔をして彼の方へ近づきざま、けいれん的に病衣の前をかき合わせながら叫んだ。「なぜだとう? どろぼうめ!」さも憎さげにこう言って、つばでもひっかけようとするような口つきをした。「山師め! 首斬り人め!」
「まあ少し落ちつきなさい」とアンドレイ・エフィームイチは、自分に罪でもあるような微笑を浮かべながら言った。「はっきり言いますが、わたしはついぞ一度も、何ひとつものを盗んだことはありませんし、またそのほかのことも、すべてどうやらたいへんなあなたの誇張です。あなたはわたしにだいぶ腹を立てておいでのようですね。どうか、落ちついて、できるなら、ひとつ静かにお話しください――何をそんなに腹を立てていなさるのか?」
「いったいなんのためにあなたは、ぼくをこんなところへ入れておかれるのです?」
「あなたが病気だからですよ」
「そうだ、病気だ。しかし世間には、何十何百という狂人が、あなたの無学が彼らを健全なものから区別しえないばっかりに、自由に歩いてるじゃないですか。いったい何のために、ぼくやここにいる不幸な人たちばかりが、みんなのかわりにこんなところに、まるで贖罪《しょくざい》の|やぎ《ヽヽ》のように、入れられなければならんのですか? あなたにしても、助手にしても、監督にしても、あなたの病院の悪魔どもは全部、道徳的関係ではわれわれのだれよりも、はかりがたいほどに低級ですよ。それなのにわれわれだけがここに閉じこめられて、あなたがたがはいらないのはどういうわけだ? どこにそんな論理があるんだ?」
「道徳的関係だとか論理だとか、そういうことはここになんの関係もありません。すべては機会の問題です。入れられた者はすわっているし、入れられない者は歩いている、それだけのことですよ。わたしが医者で、あなたが精神病患者だということには、道徳も論理もありゃしません。ただ無意味な偶然があるきりです」
「そんなつまらぬ話はぼくにはわからん……」イワン・ドミートリイチはうつろな調子でこう言うと、自分の寝台に腰をおろした。
モイセーイカは、今日はドクトルがいるためにニキータが遠慮して捜索しなかったので、自分の寝台の上に、パンの破片だの、紙きれだの、骨だのをひろげた。そしてまだ絶えず寒さにふるえながら、うたうように、早口に、ユダヤ語で何事かしゃべりはじめた。どうやら彼は、小店でも開いたつもりらしい。
「ぼくを放免してください」とイワン・ドミートリイチは言った。その声はふるえていた。
「わたしにはできません」
「なぜです? どういうわけで?」
「なぜって、それはわたしの権限ではないからです。まあ考えてもごらんなさい。たとえわたしが出してあげたとして、そのためにあなたにどんな利益があるのです? 出て行ってごらんなさい。町の者か警察かがすぐあなたを取り押えて、またここへ連れもどすから」
「そうだ、そうだ、それはほんとうだ……」とイワン・ドミートリイチは言って、額を押しぬぐった。「恐ろしいことだ! だが、ぼくはどうしたらいいんです? どうしたら?」
イワン・ドミートリイチの声音と、その若々しい、利口そうな、渋面した顔つきが、アンドレイ・エフィームイチの気に入った。彼は、この若者をいたわって、落ちつかせてやりたいと思った。彼は相手と並んで寝台へ腰をおろすと、ちょっと考えて、こう言った――
「あなたはどうしたらいいかとおっしゃる。あなたの立場として最善の方法は――ここから逃げ出すことですよ。しかし残念なことに、それは無益です。すぐ取り押えられますからね。社会が、犯罪者とか、精神病者とか、一般に自分に都合のわるい人々から自分を守ろうとするときには、それは天下無敵ですから。で、あなたに残されているのはただ一つ――自分のここにいることは必要やむをえないのだと考えて、その考えに安住することです」
「こんなことはだれにも必要じゃありませんよ」
「だが、すでに監獄や精神病院が存在する以上、だれかがその中に住まわなければならないのです。あなたでなければわたし、わたしでなければだれか第三者が。しかし、まあお待ちなさい。遠き将来に監獄や精神病院が存在しなくなる時がくれば、そのときは鉄格子も、患者服もなくなるでしょう。もちろん、そうした時代は早晩やってくるはずです」
イワン・ドミートリイチはあざけるようににやりと笑った。
「あなたはふざけていらっしゃるんですね」と彼は、目を細めながら言った。「あなたとか、あなたの助手のニキータとかいうような紳士がたは、未来などにはなんの関係もないくせに、それでもいい時代が来ることは信じていられるんですからね! ぼくは言い方がまずいから笑われるかもしれませんが、新生活の曙光《しょこう》は輝き、真理は凱歌《がいか》を奏し、いずれこの町でも、祝典が催されるにちがいありません! ぼくはそれまで生きずに死んでしまうでしょうが、そのかわりだれかの子孫がその時代に会うでしょう。ぼくは衷心から彼らを祝福します。彼らのために喜んでいます。喜んでいます。前へ進め! 諸君、神は諸君を助けたもうだろう!」
イワン・ドミートリイチは目を輝かして立ちあがると、両手を窓の方へさし延べながら、興奮を帯びた声でつづけた――
「この鉄格子の中から、おれは諸君を祝福するぞ! 真理ばんざい! おれはうれしい!」
「わたしには喜ぶべき特別の原因はわかりませんがね」とアンドレイ・エフィームイチは、イワン・ドミートリイチのふるまいをまるで芝居のようだと思いながら、同時にそれがとても気に入って、こう言った。「監獄や精神病院はなくなるだろうし、また真理は、あなたのおっしゃるとおり勝利を占めるでしょう、が、それでも、事物の本質は変わらないし、自然の法則も依然として同じことでしょう。人間はやはり今日同様、病気もすれば、年もとり、死んで行くでしょう。どんなに輝かしい曙光があなたの生活を照らしたにせよ、やはり最後には、あなたは棺の中へ釘《くぎ》づけにされて、墓穴へ投げ込まれてしまうでしょう」
「では、不死は?」
「ええ、もうたくさんですよ!」
「あなたは信じていられないんですね、だが、ぼくは、信じていますよ。ドストエフスキイだかヴォルテールだかの小説の中でだれかが言っていますよ、もし神がなかったら、人間はそれを案出するだろうって。で、ぼくは深く信じています。もし不死がなかったら、偉大なる人知が、おそかれ早かれそれを案出するだろうと」
「うまいことを言いますね」とアンドレイ・エフィームイチは満足感からにこにこしながら言った。「あなたがそれを信じていられるのはいいことです。そういう信仰があれば、壁の中に塗り込められても、鼻歌《はなうた》で生きて行かれるでしょう。失礼ですが、あなたはどこかで教育を受けられたんですね?」
「ええ、ぼくは大学にいました。が、卒業はしませんでした」
「あなたは考え深い、思索的なかたですね。どんな環境にあっても、あなたは自分自身のうちに安心を見いだしてゆける人ですよ。人生の理解をめざして進む、自由な、深い思索と、愚劣な浮き世の虚栄にたいする十二分の軽蔑――これこそは、人間がかつてそれ以上のものを知らなかった、二つの高い幸福です。あなたは、たとえ三重の鉄格子のなかに住んでいても、この幸福を享《う》け得られるかたです、ディオゲネスは、たるのなかに住んでいました。それでも、この地上のあらゆる国王よりも幸福でした」
「あなたのディオゲネスなんかばかですよ」とイワン・ドミートリイチは、苦《にが》りきった調子で言った。「あなたはなんだってぼくに、ディオゲネスだの、何かの理解だのってことを言うのです?」と彼は急に腹を立ててとびあがった。「ぼくは生活を愛しています。熱烈に愛しています! ぼくは迫害妄想にとらわれて、絶えず恐怖を感じているが、ときには生の渇望につかまれる瞬間もあって、そういう時には、気が狂いそうでこわくなるのです。ぼくは、無性に生活がしたいのです、やたら無性に!」
彼は興奮のあまり、病室内をひとまわりしてから、声を低くしてこう言った――
「ぼくが空想しかけると、いろんな幻影がぼくを訪れます。どこかの人たちがぼくの方へ歩いて来たり、人声や音楽が聞こえたり、自分がどこかの森の中や海岸を歩いているような気がしたりして、ぼくには浮き世のわずらいや、から騒ぎがとてもたまらなく望ましくなってくる……どうぞぼくに話してください、いま世間にはどんな新しいことがあるか?」とイワン・ドミートリイチはきいた。「どんなことがありますか?」
「この町のことですか、それとも一般のことですか?」
「じゃあ、まず町のことから話してください。それから一般のことも」
「さあ、何がありますかね? この町はやりきれなく退屈ですよ……第一、話をしようにも相手はなし、また聞かしてもらうような人もいません。なにしろ、新しい顔とかいうものがひとつもないんですからね。もっとも、近ごろホボトーフという若い医者がひとり来ましたがね」
「その医者は、ぼくがまだ外にいる間に来たんですよ。いったい、どんな人間ですか?」
「さよう、無教育な人間です。まったく不思議ですねえ……すべての事情から推して、わが首都には知的停滞はなくて活動がある――つまりそこには、まことの人間もいなければならぬはずですが、どういうものかこの町へは、いつもそろいもそろってあんな、見たくもないような人間ばかり送られてくるのですからね。不幸な町ですよ!」
「さよう、不幸な町です!」とイワン・ドミートリイチはほっとひとつため息をついて、笑いだした。「じゃ、一般はどうですか? 新聞や雑誌はどんなことを書いていますか?」
病室内はもう暗かった。ドクトルは立ちあがって、立ったまま、外国やロシアの新聞雑誌に載っていることや、現在認められている思潮の傾向などについて語りはじめた。イワン・ドミートリイチは熱心に耳をかたむけ、質問を発したりしていたが、そのうちふいに、なにか恐ろしいことでも思い出したらしく、両手で頭をひっつかむと、ドクトルの方へ背を向けて、寝床の上へころがってしまった。
「どうしたのです?」とアンドレイ・エフィームイチはきいた。
「あなたは、このうえ、もうひと言だってぼくから聞き出すことはできませんぞ!」とイワン・ドミートリイチは荒々しく言い放った。「ぼくにかまわないでください!」
「どうしてです?」
「かまわないでくださいって言ってるんですよ! なんという悪魔野郎だ!」
アンドレイ・エフィームイチは肩をすくめ、ため息をついて、出て行った。玄関を通りぬけながら彼は言った――
「この辺を少し片づけたらどうかな、ニキータ……とてもたまらん臭いがするじゃないか!」
「かしこまりました。閣下」
≪なんという感じのいい青年だろう!≫とアンドレイ・エフィームイチは、自分の住居の方へ帰りながら考えた。≪この土地に住みついて以来、語るにたる人物に出会ったのは、あの男がはじめてのような気がする。理屈もひととおりわかるし、持つべきところに興味を持つし≫
読書しながらも、それから床についてからも、彼は絶えず、イワン・ドミートリイチのことを考えていた。そして翌朝目をさますとすぐ、昨日は聡明な興味ある人物と知り合いになったということを思い出して、機会ありしだい、いま一度彼をたずねてみようと決心した。
十
イワン・ドミートリイチは、昨日と同じ姿勢で、頭を両手でかかえ、両足を縮めて、横になっていた。彼の顔は見えなかった。
「ごきげんよう、お友だち」とアンドレイ・エフィームイチは言った。「寝てるんじゃないでしょう?」
「第一に、ぼくはあなたの友人ではない」とイワン・ドミートリイチは、まくらに頭を埋めたままで言った。「第一に、あなたはむだに骨を折っているのです――もうひと言だってぼくから聞き出すことはできませんよ」
「それは変ですね……」とアンドレイ・エフィームイチは、困惑のていでつぶやいた。「昨日われわれはあんなに仲よく話していたのに、あなたはなぜか、急に腹を立てて、それきり黙っておしまいなすった……たぶんわたしの言い方がわるかったか、あるいはおそらく、あなたのご意見と合わないことでも述べたのでしょうね……」
「ふん、だれがあなたの言うことなんぞ信じるものか!」とイワン・ドミートリイチは起きあがって、あざけるような、不安そうな目でドクトルを見ながら言った。彼の目はまっ赤であった。「あなたなんか、どこかほかのところへ、探偵でもなんでもしに行くがいい。ここじゃどうしようもありませんよ。ぼくはもう昨日、あなたがなんのために来たかちゃんと見ぬいちゃったのです」
「これは不思議な妄想ですね!」とドクトルは笑った。「するとあなたは、わたしを探偵だと思っているのですね?」
「ええ、思ってますよ……探偵だろうと、ぼくを試験するためにまわされた医者だろうと、――そんなことは同じですよ」
「ああ、あなたはほんとになんという、失礼だが……変わり者だ!」
ドクトルは寝床のそばの床几《しょうぎ》に腰をおろして、非難するように頭を振った。
「しかし、まあかりにあなたが正しいとしましょう」と彼は言った。「かりにわたしが背信的に、あなたの言葉をそのまま警察へ渡すとしましょう。そうすれば、あなたを検挙して、それから裁判するでしょう。しかし、裁判所にしろ、監獄にしろ、あなたにとって、はたしてここよりわるいでしょうか? もしまた流刑に処せられるか、懲役に服せしめられるかするにしても、それがはたしてこの別棟に閉じこめられているよりわるいでしょうか? わたしは思いますが、ここよりわるいはずはありませんよ、としてみたら、いったい何を恐れることがあるんですか?」
どうやらこの言葉は、イワン・ドミートリイチにある作用を及ぼしたらしかった。彼は落ちついて腰をおろした。
ちょうど夕方の四時、――いつもならアンドレイ・エフィームイチは自分の部屋を歩いていて、ダーリュシカが彼に、もうビールを召しあがる時間ではないかとききにくる時刻であった。戸外は静かな、晴れわたった天気である。
「わたしは、昼食のあとで散歩に出て、ここへ寄ったまでですよ、ごらんのとおり」とドクトルは言う。「もうすっかり春ですな」
「今は何月です? 三月ですか?」とイワン・ドミートリイチはきいた。
「そうです、三月も末です」
「外はぬかってましょうな?」
「いや、そんなでもありません。庭にはもう小道がついていますよ」
「今ごろはほろ馬車で、どこか郊外へでもドライヴしたらいいでしょうな」とイワン・ドミートリイチはさも眠そうに、まっ赤な目をこすりながら言った――「それから家へ帰って、暖かな、居心地《いごこち》のいい書斎へはいろうとして……そしてドクトルに頭痛を直してもらったら……ぼくはもういつにも人間らしい生活をしなかった。ここはじつにいやなところだ! たまらなくいやなところだ!」
昨日の興奮以来、彼は疲れて、ぐったりして、口をきくのも大儀そうであった。彼の頭はふるえ、その顔つきだけでも、彼がはげしい頭痛に悩んでいるのは明らかであった。
「暖かい、居心地のいい書斎とこの病室の間にも、なんの相違もありゃしませんよ」とアンドレイ・エフィームイチは言った。「人間の安静と満足とは、外部にあるのではなくて、彼自身のうちにあるのですから」
「というと、どうなんです?」
「普通の人間は、よいこともわるいことも外部に求めます、つまり、馬車だとか書斎だとかに求めますが、考え深い人間は――自分自身に求めますよ」
「そんな哲学は、暖かでオレンジのにおうギリシャへでも行ってお説教なさい、ここでは気候に合いませんよ。さて、ぼくがディオゲネスの話をしたのはだれとだったかしら? あなたとでしたかね、ええ?」
「そうです、昨日わたしとしたんです」
「ディオゲネスは、書斎とか暖かい住居とかには事欠かなかった。そんなものはなくても、あすこは暖かですからね。たるの中に寝ころがって、|みかん《ヽヽヽ》や橄欖《かんらん》の実を食べていればいいんですよ。だが、もしあの男をロシアへ連れて来て住まわせてごらんなさい。十二月はおろか五月でも、部屋の中へ入れてくれと頼んだにちがいありません。寒さでからだが曲がっちまいますからね」
「いや、寒さなんてものは、他の一般の痛み同様、感じないでいることもできるものです。マルクス・アウレリウスは言っています――『痛みは痛みについての生きた観念である――意志の力をもってこの観念を変え、それを捨てて訴えることをやめよ、痛みは消滅するであろう』と。まったくこのとおりです。賢人とか、あるいは単に思想的な人、考え深い人でも、その衆にすぐれている点は、つまりこの、苦痛を軽んずるという点にあるのです。彼らは常に満足していて、何事にも驚きませんよ」
「するとなんですね、ぼくなどは、苦しんだり、不満だったり、人間の卑しさに驚いたりしているから、白痴だというわけになるんですね」
「それはきみ、むだですよ。もしあなたが、もっと深く考えるようになられたら、あなたの心を騒がす外部的なことがみな、いかにつまらないことであるかというわけがおわかりになるでしょう。人は、人生を理解するように努力しなければなりません。そのなかにこそ、真の幸福があるのですから」
「理解……」とイワン・ドミートリイチは眉をひそめた。「外部だの、内部だの……失礼ですが、ぼくにはそんなことはわかりません。ぼくの知ってるのはただ」と彼は立ちあがって、腹立たしげにドクトルの顔をにらみつけながら言った――「ぼくが知ってるのは、神があたたかい血と神経からぼくをつくってくれたという事実だけです、そうですよ! そしてもし、有機的組織に生活力があるとすれば、それはいっさいの刺激にたいして反応を示さなければならん。だから、ぼくも反応を示すのです! 痛みにたいしては絶叫と涙をもって答え、卑劣には憤激を、陋劣《ろうれつ》には嫌悪《けんお》をもって答えるのです。ぼくに言わせると、これこそ生活というものなのです。有機体が下等になればなるほど感じ方がにぶく、刺激にたいする反応も弱まり、それが高等になればなるほど、感受性が強く、現実にたいしてより精神的に反発するのです。こんなくだらないことを知らないなんて! 苦痛を軽んじたり、常に満足して何ものにも驚かなかったりするためには、そら、ああいう状態になるか」とイワン・ドミートリイチは、脂《あぶら》でぬるぬるしているような、ふとっちょの百姓を示した。――「あるいはまた、苦痛にたいするあらゆる感受性を失うまでに自分を苦痛で鍛えるか、つまり言いかえれば、生活することをやめるか、そのどちらかになる必要があるのです。失礼ですが、ぼくは賢人でもなければ哲学者でもありません」とイワン・ドミートリイチはいらいらしながらつづけた――「で、そんなことを議論する力はありませんよ」
「どうしてどうして、あなたはりっぱに議論してらっしゃるじゃありませんか」
「あなたが、勝手しだいに引用していられるストア学派の人たちは、すぐれた人たちにはちがいないです。しかし彼の教義は、二千年前に凝結してしまって、それ以来一滴の進歩も示していないし、今後も進むことはないでしょう、なぜなら、それは実際的でなく、生活でないからです。それはただ少数の人々、いろんな教義の研究|翫味《がんみ》にその生涯をささげている少数の人々の間でだけは成功をみたが、大多数の者は、てんで理解しなかったのです。富や生活の便宜にたいする無関心とか、苦痛や死にたいする蔑視とかを説教する教義は、大多数の者にはぜんぜん不可能です。なぜなら、この多数者は、富も生活の便宜も決して知らなかったからです。また、苦痛の蔑視は、多数者にとって、生活そのものの蔑視になります。なぜなら、人間の生存全体が、飢えと、寒さと、侮辱と、喪失と、死にたいするハムレット的恐怖の感覚から成り立っているからです、生活はすべてこうした感覚のうちにあるのです――生活に圧迫を感じ、それを憎むのはいい、しかし、それを軽蔑すべきではありません、そうです、だからぼくはくり返して言います、ストア学派の教義は、決して未来を持つことはできないで、ごらんのとおり、世紀の初めから今日まで進歩してやまないものは、やはり闘争と、苦痛にたいする敏感と、刺激に反応する能力とです……」
イワン・ドミートリイチは、とつぜん思想の緒《いとぐち》を失い、口をつぐんで、いまいましげに額をぬぐった。
「ぼくはなにか重要なことを言おうとしていて、混乱してしまった」と彼は言った。「ええと、なにを言うつもりだったかな? そうだ! ぼくはこう言いたいのです――ストア学派の中にもだれか、身に近い者を救い出すために、わが身を奴隷に売った者がある。これすなわち、ストイックすら刺激に反応したというわけになるじゃありませんか。なんとなれば、近き者のために一身を犠牲にするというようなこうした義侠的行為を遂行するには、憤激させられた、同情深い魂が必要だからです。ぼくはこの牢獄《ろうごく》の中でせっかく習ったものをすっかり忘れてしまった。でなければ、もっと何か思い出すことができるんだがなあ。じゃあこんどは、キリストを例にとりましょうか? キリストは、泣いたり、笑ったり、悲しんだり、怒ったりはもちろん、憂いに沈むことによってさえ、現実に反応しました。彼は、微笑をもって苦痛を迎えたわけでもないし、死を軽んじたわけでもなく、むしろゲッセマネの園では、この苦難をしてわれを見のがさしめよと祈っているくらいじゃありませんか」
イワン・ドミートリイチは笑いだして、腰をおろした。
「ところで、かりに人間の安静と満足とは、その外部でなく、彼自身のうちにあるとしましょう」と彼は言った。「かりに苦痛を軽んじ、何事にも驚かないようにしなければならぬとしましょう。しかし、いったいあなたは、いかなる基礎の上に立って、これを説教なさるのですか? あなたは、賢人ですか? 哲学者ですか?」
「いや、わたしは哲学者ではありません。しかしこれを説教するのは各人の義務です。だってこれは道理なんですから」
「いや、わたしの知りたいのは、あなたがこの理解だとか、苦痛にたいする軽蔑だとかいう問題にたいして、どうして自分をその適任者だと考えていられるかということです。いったいあなたは、いつか苦しんだことがおありですか? 苦痛というものについての理解をお持ちなんですか? じゃうかがいますが――あなたは子供の時分にむちで打たれたことがありますか?」
「いや、わたしの両親は体刑がきらいでしたから」
「ところが、ぼくはずいぶんひどく、おやじに打たれたものです。ぼくのおやじは、鼻の長い、くびの黄色い、痔《じ》持ちの、厳格な官吏だったのです。しかし、まああなたのことを話しましょう。あなたは生涯だれにも指一本さわられたことはなく、脅かされも打たれもしなかった。そして雄牛のように健康です。父親の翼の下に成長して、親の金で学問し、それから一挙にわりのいい職にありついたのです、そしてもう二十年以上も、暖房もあれば、照明もあり、女中までそろっているロハの家に、おまけにいくらでも気のむくだけ働けばいい、また何もしなくてもいいという権利を持って住んでいられる。ところであなたは、生来が怠け者の柔弱者ときてるものだから、自分の生活をできるだけなんにも煩わされないよう、めんどうのないように築き上げようと努めてきた。で、あなたは、仕事を助手やそのほかの悪党どもに押しつけてしまって、自分は暖かで静かな部屋の中にすわりこみ、金をためたり、本を読んだり、いろんな高尚がったくだらぬことを考えたり、(イワン・ドミートリイチはドクトルの赤い鼻を見て)飲んだくれたりして、ひとりでいい気になっているんです。これを要するに、あなたは生活を見ていない、生活を少しも知らない、現実ともただ理論のうえでだけなじみになっていられるにすぎん。そして、とほうもない単純な理由――浮き世は無常だとか、外部と内部だとか、生や苦痛や死に対する軽蔑だとか、理解だとか、真の幸福だとかによって、苦痛を軽蔑したり、何事にも驚かなかったりしているが、しかし、こんなことはみな哲学ですよ、ロシアの怠け者にとってうってつけの哲学ですよ。たとえばです、百姓が女房をなぐっているところをあなたが見るとする。なんのために干渉するのだ? なぐりたきゃなぐるがいい、どうせふたりともおそかれ早かれ死んで行くのだ。それに打った男は、打つことによって相手でなく自分自身を侮辱しているのだ。こんなふうに考える。飲んだくれるのは愚劣で不作法だが、でも人は、飲んでも死ぬし、飲まないでも死ぬのだ。百姓女がやってくる。歯が痛むという……ふん、それがなんだ? 痛みは痛みについての観念じゃないか、それに、病気なしにこの世に生きて行くことはできない、人間はだれしもみな死ぬのだ、だから、おまえも早く帰れ、そしておれが考えたり、ウォーツカを飲んだりするじゃまはしないでくれ。こうだ。また若い男がきて、何をしたらいいか、どういう生活をしたらいいかを相談する。ほかの者だったら、答える前に考えるだろうが、あなたにはもうちゃんと返辞のしたくができている――人生の理解に努めなさいとか、真の幸福をうるように努めなさいとか。ところでこの、夢のような『真の幸福』とはいったいなんだ? もちろん、答えなんかありゃしない。われわれをこんな鉄格子の中へ監禁して、腐らせたり苦しめたりしているが、これはりっぱな合理的なことなんだ、なぜなら、この病室と暖かい居心地のいい書斎との間にはなんの相違もないのだから。いやはや、じつにどうも調法な哲学ですよ――どうもしかたがない。それで良心も清らかだし、賢人気取りでもいられるんですからね……ところが、先生、これは哲学でも、思索でも、見解の広さでもなくて、怠慢ですよ。ごまかしですよ。悪魔ですよ……そうですとも!」とまたしてもイワン・ドミートリイチは憤然となった、「あなたは苦痛を軽蔑していられる、が、ドアに指一本でもはさんでごらんなさい、きっとのどいっぱいの声を出してほえるから!」
「ところが、ほえないかもしれませんよ」アンドレイ・エフィームイチは、おだやかに微笑しながら、言った。
「へえ、そうですかね! じゃ、もし急に中気にでもかかるとか、かりにどこかのばかな無礼者が、自分の地位や官等を利用してあなたを公然侮辱するとかする、そしてあなたが、その男はそれでもなんの罪も受けないだろうことを知っているとしたら――そのときこそあなたも他人に、人生の理解だの、真の幸福だのをしいることがどういうものか、さだめし理解がとどくでしょう」
「これは独創的だ」アンドレイ・エフィームイチは、満足のあまり思わず笑って、両手をこすり合わせながら言った。
「わたしは今あなたのうちに概念化の才能を認めて、快い驚きを感じているのです。あなたが今みせてくだすったばかりのわたしの性格描写には、まったく光輝|燦然《さんぜん》たるものがあります。白状しますが、あなたとの会談はわたしにこのうえない満足をもたらしてくれます。さて、これでもうあなたのお話は十分うかがいましたから、こんどはどうぞ、あなたのほうでもわたしの話を聞いてください……」
十一
この会話はなお一時間ばかりつづいて、どうやらアンドレイ・エフィームイチに深い感銘を与えたらしかった。彼はそれから毎日別棟を訪れるようになった。朝のうちに行き、午後にまた行き、そしてイワン・ドミートリイチとの会話中、夕やみに見舞われるようなこともよくあった。はじめの間、イワン・ドミートリイチは彼を恐れ、なにか悪だくみでも持っているように疑って、その不快感を露骨に口に出したりしていたが、後には彼になれて、そのきびしい態度をいつか、寛大な、皮肉な態度に変えたのである。
じき、ドクトルがしげしげ六号室をたずね出したといううわさが、病院じゅうにひろがった。だれも――助手も、ニキータも、看護婦も、彼がなんのためにそこへ行き、なんのために何時間もそこにすわりこんで、何を話しているのか、なぜ処方を書かないのか、さっぱりわけがわからなかった。彼の行為は不思議に思われた。ミハイル・アヴェリヤーヌイチはよく彼の不在《るす》に行きあわせたが、こんなことは前には決してなかったし、またダーリュシカは、ドクトルがこのごろでは、ビールを定刻に飲まなかったり、ときには食事にさえ遅れるので、ひどくまごつかされていた。
あるとき、それはもう六月末であったが、ドクトル ホボトーフが、何かの用件で、アンドレイ・エフィームイチを訪れた。が、不在だったので、庭へさがしに出てみると、老ドクトルは精神病者のところへ行ったという話であった。ホボトーフは別棟へはいって行って、玄関に立ちどまった。と、ちょうど次のような話し声が聞こえた――
「ぼくらはどうしたって一致しませんよ、ぼくにあなたの信仰をそそぎこもうたって、それはむだなことです」とイワン・ドミートリイチが、いらだたしげな声で言っていた。「あなたは現実というものをまったくごぞんじない、あなたはかつて苦しんだことがなく、ただ、|ひる《ヽヽ》のように他人の苦痛のまわりで生きてきたにすぎない。ところがぼくは、生れ落ちるから今日まで、絶えず苦しんできたのです。だから、ぼくは露骨に言うんだが――ぼくは自分をあなた以上の人間で、あらゆる点により通暁しているものと思っている。あなたにぼくを教える資格はありませんよ」
「わたしはなにも、きみに自分の信仰をそそぎこもうなんて、そんな野心はさらさら持っていませんよ」とアンドレイ・エフィームイチは静かに、自分の理解されないのが残念らしい面持ちで言った。「それに、問題はそんな点にあるんじゃありません。きみ、問題は、きみが苦しんだとか、わたしは苦しまなかったとかいうことにあるのではありません。苦しみや喜びは、つかのまのものです。そんなものはどうでもいいのです。そんなものは神さまにまかせておきましょう。問題は、わたしとあなたが、思想をともにするということにあるのです。われわれはお互いに、相手を思想し論議する能力のある者と認め合っていますが、この一事はわれわれを、お互いの見解はどんなに異なっても、その点で一致させてくれるのです。もしわたしが一般の無知、無能、愚鈍にどんなにあきあきしているか、どんな喜びをもっていつもきみとお話しているかを、きみが知ってくだすったらなあ! きみはじつに聡明な人だ、わたしはきみを享楽しているのですよ」
ホボトーフはドアを細めにあけて、病室をのぞいた。夜帽をかぶったイワン・ドミートリイチとドクトル アンドレイ・エフィームイチとは、並んで寝台に腰掛けていた。狂人はしかめ面《つら》をしてぶるぶるふるえながら、けいれん的に病衣の前をかき合わせていたし、ドクトルはうなだれたまま、身動きもせずにすわっていた。その顔は赤く、たよりなげで、もの悲しそうだった。ホボトーフは肩をすくめると、にたりと笑って、ニキータと目を見合わせた。ニキータも同じように肩をすくめた。
翌日、ホボトーフは、助手を連れて別棟へやって来た。ふたりは玄関にたたずんで、立ち聞きした。
「うちのじいさんも、どうやら本物になったようだね!」別棟から出てきながら、ホボトーフはこう言った。
「主よ、われら罪深き者をあわれみたまえ!」と、堂々たる風采のセルゲイ・セルゲーイチは、ぴかぴかにみがいた長靴をよごさないように、注意深く歩きながら嘆息した。「じつを言いますと、エヴゲーニイ・フョードルイチ、わたしはもうずっと前から、こんなことになるだろうと思ってましたよ」
十二
このことがあって以来、アンドレイ・エフィームイチは、自分が一種神秘的な空気に取りかこまれているのを気づきはじめた。小使、看護婦、患者たちは、彼に出会うと、うろんくさげなまなざしで彼を見て、その後でひそひそとささやき合った。彼がいつも病院の庭で会うのを楽しみにしていた監督の娘の小さいマーシャは、いま彼がその頭をなでてやろうとして、にこにこ笑いながら近づいて行くと、どうしたのか、すっと逃げてしまった。郵便局長のミハイル・アヴェリヤーヌイチも、彼の話を聞きながらも、もう「まったくそのとおりで」とは言わなくなり、変にまごまごして、「さよう、さよう、さよう……」とつぶやいては、もの思わしげな目つきで彼を見るのである。そしてどうしたのか彼に向かい、ウォーツカをやめるように、ビールをやめるようにとしきりに忠告しはじめたが、それさえ、遠慮ぶかい人の常として、あからさまには言わないで、大隊長をしていたあるすぐれた人物のことだの、ある連隊づきの牧師をしていたいい若者のことだのを例にとっては、いずれも飲んで病気をしたが、酒をやめたら完全に回復したという話をして、暗示的にいうのだった。また同僚のホボトーフも、二、三度アンドレイ・エフィームイチのところへやって来た。彼も同様、アルコール飲料をやめるように忠告したり、なんのこれという理由もなしに、臭素カリを服《の》むことを勧めたりした。
八月にはいって、アンドレイ・エフィームイチは町長から非常に重要な用件についてご光来をわずらわしたいという手紙を受け取った。指定の時間に役場へ行くと、アンドレイ・エフィームイチはそこで、連隊区司令官や、郡の視学官や、町会議員や、ホボトーフや、もうひとり彼に医者として紹介された、でっぷりとふとった髪の白っぽい見知らぬ紳士などと落ち合った。この医者は妙に発音しにくいポーランドふうの姓を持った男で、町から三十露里ばかりの養馬場に住んでいて、今日通りがかりにこの町へ寄ったというのであった。
「ちょっとその、あなたの所管事項について申しあげたいことがあるんですがね」と、一同があいさつをすませて席についたときに、町会議員がアンドレイ・エフィームイチのほうを向いて言った。「じつはその、エヴゲーニイ・フョードルイチの言われるところではですね、本病院の薬局が狭いので、それを別棟のひとつに移さなくちゃならんということなので。もちろん、これは造作もないことでして、いつでも移せるわけなのですが、そこで問題になるのは、その別棟がもう修繕を要するということなのです」
「さよう、修繕はしないじゃすみますまいな」とアンドレイ・エフィームイチは、ちょっと考えてから言った。「たとえば、かりにすみの別棟が薬局に適当だとしても、それには、最小限五百ルーブリはかかりましょうからな。ところが、これは不生産的な費用ですから」
一同はしばらく沈黙した。
「わたしはもう十年も前に申しあげたことですが」とアンドレイ・エフィームイチは、静かな声でつづけた――「この病院は、現在の状態では、この町として資力以上のぜいたくになっています。この病院は、四十年代に建てられたものですが、当時は、今とは比較にならぬ貧弱なものだったのですからね。町は、現在不要な建物や、よけいな官職にあまり金を使い過ぎていますよ。わたしは思うに、それだけの金があるなら、やり方さえ変えれば、模範的な病院を二つ維持してゆくこともできるはずですからね」
「では、ひとつやり方を変えてみようじゃありませんか!」と、町会議員は勢いこんで言った。
「わたしはもう前にも申しあげたことですが、医療事務のほうは、自治会の管轄に移したほうがいいでしょう」
「なるほど。ですが自治会へ金を渡してごらんなさい、うまくくすねられてしまいますから」と髪の白っぽい医者が笑いだした。
「いや、それはもう」と町会議員は同意して、同じように笑いだした。
アンドレイ・エフィームイチはものうげに、ぼんやりと、しばらく髪の白っぽい医者の方を見ていてから、言った――
「しかし、われわれは公平でなくちゃなりませんからね」
一同はふたたび沈黙した。お茶が運ばれた。連隊区司令官は、どうしたのかひどく混乱したようすで、テーブル越しにアンドレイ・エフィームイチの手にさわって、こう言った――
「あなたは、すっかりわれわれを忘れてしまわれましたね、ドクトル。もっとも、あなたは坊さんです――カルタもなさらなければ、女もおきらい。われわれとのおつきあいはさだめしお退屈ではありましょうがね」
そこで、一同は、こんな町で暮らすのは相当な人間には退屈で困るという話をはじめた。芝居もなければ音楽会もなく、クラブにおける最近の舞踏会には、およそ二十人の婦人たちと、たったふたりの男子しか出席しなかった……青年たちはダンスなんかせずに、しじゅう食器だなのまわりへ群がるか、カルタばかりやっている。アンドレイ・エフィームイチは、だれの方も見ないで、静かな口調でぽつりぽつりと、この町の住民たちが、その生活力や、感情や、知力を、カルタや、かげ口などにばかり費やして、興味ある談話や読書に時を送ろうともしなければ、またその力もないことや、知力が与える悦楽を享受しようともしないことに言及して、深い遺憾を表明した。ただ一つ知力だけが、興味ありすばらしいものである。それ以外はみな、ちっぽけな、とるにたらぬもばかりである。ホボトーフは、自分の同僚のこうした言葉を注意深く聞いていたが、そのうちにとうとつにこう尋ねた――
「アンドレイ・エフィームイチ、今日は何日でしたかな?」
その返辞を聞くと、彼と髪の白っぽい医者とは、自分の無能を感じている試験官のような態度でアンドレイ・エフィームイチに向かって、今日は何曜日だとか、一年は何日だとか、六号室にはすばらしい予言者がいるというのは事実かと言ったふうのことを、尋ねはじめた。
最後の質問にたいする答えとして、アンドレイ・エフィームイチは顔をあかくしてこう言った――
「さよう、あれは患者です。しかし、なかなかおもしろい青年です」
それっきりで、もう質問は出されなかった。
彼が玄関で外套を着ていたときに、連隊区司令官が彼の肩に手をかけて、ため息まじりにこう言った――
「われわれ老骨は、そろそろ休息すべきときですな!」
役場を出ながらアンドレイ・エフィームイチは、今日のは、自分の精神能力を検証するために召集された委員会であったことを、悟った。彼は自分にかけられた質問を思い出して、あかくなった。と、どうしたのかこのとき、生涯にはじめて、医学というものが非常にみじめに思われてきたのである。
≪やれやれ≫と彼は、たった今、ふたりの医者が自身を試験したときのことを思い出しながら、考えた――≪あの連中は、また近ごろに精神病学を聞いたばかりでいて、人を試験しようなんて――ああした完全な無教育は、いったいどこからくるのだろう? 彼らは精神病学についてはまるでなんの理解も持っていないのだ!≫
そして生まれてはじめて彼は、侮辱され、いきどおらされた自分を感じた。
この日の晩に、ミハイル・アヴェリヤーヌイチが彼をたずねて来た。郵便局長は、あいさつもしないで彼のそばへくると、いきなり彼の両手をとって、うわずったような声で言った――
「ああきみ、どうぞひとつ、わたしの心からの友情を信じて、わたしを親友と思っていられることを証明してください……まあきみ!」と、彼はアンドレイ・エフィームイチの何か言おうとするのをさえぎりながら、興奮のていでつづけた――「わたしはきみの教養と高潔な魂とを愛しています。どうかきみ、わたしの言うことを聞いてください。ドクトルたちは、学問の法則に縛られてきみに真実を明かすことはできないらしいが、わたしは軍人式にずばりと真実を言います。いいですか、きみは病気なんですよ! 失礼だが、これは真実です。これはもうだいぶ前から、周囲の者一同が気づいていたことなのです。今もわたしに、ドクトル エヴゲーニイ・フョードルイチがきみの健康のためには休息と保養が必要だと言っていました。まったくそのとおりですよ! すばらしい意見です。近日中にわたしは休暇をとって、変わった空気をかぎに出かけようと思っています。きみひとつ友だちがいにわたしにつきあってくださらんか? ひとつどこかへ出かけて古いあかをふるい落としてしまいましょう」
「わたしは自分を完全に健康だと感じています」とアンドレイ・エフィームイチは、ちょっと考えてから言った。「だからおともはできません。わたしの友情は、なんとかまた別の方法で表明させていただきましょう」
これという理由もわからずどこかへ出かけて行くということ、書物とはなれ、ダーリュシカとはなれ、ビールとはなれて二十年来なれて来た生活の秩序を急に破壊すること――こうした想念は、最初の瞬間には、とほうもない空想的なことのように思われた。しかし、役場でおこなわれた会話や、役場からの帰途に経験した重苦しい気分などを思い出すと、おめでたい連中が自分を狂人扱いしているこの町からしばらくはなれ去るという思いつきは、彼にほほえみかけた。
「だがあなたは、いったいどこへお出かけになろうというんです?」と彼はきいた。
「モスクワへも、ペテルブルグへも、ワルシャワへも……ワルシャワではわたしは、生涯でいちばん幸福な五年間を過ごしました。あれはなんというすばらしい町でしょう! ぜひ行きましょう、ねえ、きみ!」
十三
一週間後に、アンドレイ・エフィームイチは、休養すなわち退職せよという勧告を受けた。これにたいしては彼はいっこう平気であった。だが、それからさらに一週間たったときには、彼とミハイル・アヴェリヤーヌイチとはもう郵便馬車に乗って、いちばん近い鉄道の停車場さして出発していた。涼しい晴れ晴れとした日がつづいて、空は青く、遠方までくっきりと澄みわたっていた。停車場までの二百露里に彼らは二昼夜かかり、途中で二度宿泊した。駅逓《えきてい》でお茶を飲むのによく洗ってないコップを出されたり、馬のつけかえにひまどったりすると、ミハイル・アヴェリヤーヌイチはまっ赤になり、全身をふるわせてどなるのだった――「黙れ! 文句を言うな!」そしてふたたび車上の人になると、彼は一分間も黙っていないで、カウカサスやポーランド帝国を旅行したときの話をするのだった。どんなにいろんな事件があり、どんなにいろんな邂逅《かいこう》があったろう! 彼は大きな声でしゃべり、しゃべりながらあまりぎょうさんな目をしてみせるので、かえってうそをついているのではないかと思われるほどであった。おまけに彼は、話をしつつアンドレイ・エフィームイチの顔に息を吹きかけたり、彼の耳もとでからからと高笑いをしたりした。これはドクトルの気分をみだして、考えや、精神の集中を妨げた。
経済観念から汽車は三等にして、禁煙者用の箱に乗り込んだ。乗客は、半分がた身ぎれいな人たちであった。ミハイル・アヴェリヤーヌイチはじきすべての人と懇意になって、座席から座席へと移り歩いては、大声に、こんないやな汽車なんかで旅をするものではないなどと放言するのだった。周囲にいるのは|かたり《ヽヽヽ》ばかりだ! これからみると馬はどうだ――一日に百露里は飛ばせられて、おまけに自分を健康に爽快に感じられる。この地方に飢饉の多いのは、ヒンスコエ沼をからしてしまったからだ。いったいにだらしのないことおびただしい。彼は熱して、あたりかまわずわめき散らし、人には口を開かせなかった。この、合い間合い間に高らかな哄笑とぎょうさんな身ぶりを伴う果てしのない饒舌は、アンドレイ・エフィームイチをうんざりさせた。
≪自分たちふたりのうちでいったいどっちが狂人だろう?≫と彼はいまいましく思って考えた。≪何事にも人のじゃまにならぬようにしている自分だろうか、それとも、ここには自分より賢くおもしろい人間はいないように考えて、そのためにだれにも平安を与えないこのエゴイストだろうか?≫
モスクワでは、ミハイル・アヴェリヤーヌイチは、肩章のない軍服に、赤い縁飾りのついたズボンをはいた。町を歩くときには軍帽をかぶり、毛裏外套を着たので、兵隊たちは彼に敬礼した。アンドレイ・エフィームイチには、今ではこの男は、昔持っていた貴族階級の美点を失いつくして、欠点ばかりをとどめている人物のように思われた。この男は、それがぜんぜん必要でない場合にも、人に奉仕されるのが好きであった。マッチは目の前のテーブルに載っていてちゃんと見えているのに、彼は人を呼んでそれを取らせた。女中の前でも下着一枚で歩くことをはばからなかった。ボーイたちにたいしては、いっさい無差別に、年のいった者にもおまえ呼ばわりをして、少し気に入らぬことがあると、間抜けだのばかだのとののしった。これが貴族というものだろうが、いやなことだと、アンドレイ・エフィームイチは考えた。
まずまっ先に、ミハイル・アヴェリヤーヌイチはその友をイウェルスカヤ〔治病力があるといわれる有名な聖像〕へ案内した。彼はその前で地にぬかずき、涙を流して、熱心に祈った。それが終わると、ほっと深いため息をついてこう言った。
「信仰はなくても、お祈りをあげるというやつは、なんとなく心の休まるものですね。きみもひとつ聖像に接吻《せっぷん》なさいよ」
アンドレイ・エフィームイチは、まごまごしながら、聖像に接吻した。ミハイル・アヴェリヤーヌイチは、くちびるを突き出し、頭を振って、ひそひそ声で祈りをささげた。と、またしてもその目には涙が浮かんだ。それからふたりはクレームリへ行き、そこで、大砲の王さまや、鐘の王さまを見物して、指でそれにさわってみたり、モスクワ河対岸の景色にみとれたり、救世主の寺院や、ルミャンツェフスキイ博物館にまわったりした。
彼らは、チェストフ〔レストランの名〕で昼食をしたためた。ミハイル・アヴェリヤーヌイチはほおをなでながら、長いことメニューを見ていてから、レストランをわが家のように感じ慣れている料理通らしい口吻で言った――
「さあ、今日はどんなごちそうを食わしてくれるか、ひとつ拝見するとしようかね、きみ!」
十四
ドクトルは、歩いたり、見たり、食ったり、飲んだりしたけれども、彼の感情は一つ――ミハイル・アヴェリヤーヌイチにたいするいまいましさだけであった。彼はもういちずに、友からはなれて休息したい、彼からのがれて身を隠したいと思うのだったが、友は、彼を一歩もかたわらからはなさずに、彼にあとう限りの気晴らしをさせるのが自分の義務だと心得ていた。何も見物するもののないときには、おしゃべりで相手を慰めようとするのだった。二日間は、アンドレイ・エフィームイチもがまんしたが、三日目にはとうとう、今日は気分がすぐれないから一日家に残りたいと言い出した。友は言った。そういうことなら自分も残ろう。じっさい休む必要がある、これでは足が続かないと。アンドレイ・エフィームイチは、長いすの上に横たわって、もたれのほうへ顔を向け、歯を食いしばって、友の話――フランスは早晩必ずドイツを粉砕するだろうとか、モスクワには非常に|かたり《ヽヽヽ》が多いとか、馬の値打ちは見かけだけでわかるものではないなどと、熱心に説く友の話を聞いていた。ドクトルは耳ががんがん鳴り、胸がどきどきしだしたが、友に向かって出て行ってくれとか、黙ってくれとかいうことは、遠慮深い気性から口に出せなかった。幸い、ミハイル・アヴェリヤーヌイチのほうで、一室にこもっているのに退屈して、昼食をすますと散歩に出かけた。
ひとりになると、アンドレイ・エフィームイチは、休息の感情に心身をゆだねた。じっと長いすの上に身を横たえて、部屋じゅうに自分ひとりだと意識するのは、どんなに快いことだったろう! 真の幸福は、孤独をおいてほかにはあり得ない。堕落した天使が神にそむいたのもおそらくは、仲間の天使たちの知らない孤独を望んだからであったろう。アンドレイ・エフィームイチは、この数日間に見聞したことについて考えてみたいと思ったが、ミハイル・アヴェリヤーヌイチが彼の頭からどうしても出て行かなかった。
≪だってあの男は、友情と寛大な心から休暇をとっていっしょに来てくれたのじゃないか≫とドクトルはいまいましげに考えた。≪世の中にこうした友情的おせっかいほどやっかいなものはない。現にあの男なんか、あのとおり善良で、寛大で、愉快な男のように思われるのに、そのじつとても退屈だ。やりきれなく退屈だ。世間にはよくこうした、利口そうな、きいたふうな口ばかりきくくせに、どうもぴんとこない人間があるものだて≫
その後、引き続いてアンドレイ・エフィームイチは、病気と称して部屋から出なかった。彼は長いすのもたれの方へ顔を向けて横になったまま、友が夢中になってしゃべっている間は、うんざりするし、友がいなくなると、うとうと眠ったりしていた。彼は、こんな旅に出かけて来たことを心外に思い、日一日と饒舌になり陽気になって行く友を不愉快に思った。まじめな、高められた調子に自分の思想を合わせて行くことが、彼にはどうしてもできなかった。
≪これは、イワン・ドミートリイチがよく口にした現実が、自分を呵責《かしゃく》しているわけだな≫と彼は、自分のふがいなさに腹を立てながら考えた。≪しかし、これもつまらぬことだ……自分は家へ帰ろう。そしたら万事もとどおりになるだろう≫
ペテルブルグでも同様――彼は終日部屋から出ないで、長いすに寝そべってばかりいて、ただビールを飲むときだけに起きた。
ミハイル・アヴェリヤーヌイチは、のべつワルシャワへ行くことをせき立てた。
「ねえ、きみ、なんだってわたしがそんなところへ行くんでしょう?」と、アンドレイ・エフィームイチは祈るような声で言った。「どうぞきみひとりで行って、わたしは家へ帰らしてください! お願いです!」
「とんでもない!」と、ミハイル・アヴェリヤーヌイチは反対した。「あすこは驚くべき都会ですよ。なにしろわたしが、生涯で最も幸福な五年間を送ったところですからね」
アンドレイ・エフィームイチには自己を主張するだけの意力がたりなかったので、しおしおワルシャワへ出かけた。そこで、彼は、宿屋の一室から出ないで、長いすに寝ころんだまま、自分に対し、友に対し、がんこにロシア語を理解しようとしないボーイどもに対して腹を立てていたが、ミハイル・アヴェリヤーヌイチは、例によって健康で、元気で、朗らかで、朝から晩まで市中を歩きまわって古い知人をさがし歩いた。幾晩も彼は宿で寝なかった。どことも知れぬところで一夜を明かした後に、彼は朝早く、ひどく興奮して、まっ赤な顔に髪を乱したまま、宿へ帰って来た。彼は長い間すみからすみへと歩いて、なにかぶつぶつひとり言を言っていたが、やがて立ちどまって、こう言った――
「何よりも名誉がいちばんたいせつだ!」
なおしばらく部屋を歩きまわってから、彼は両手で髪をつかむと、悲劇的な声で叫んだ――
「そうだ、何をおいても名誉がいちばんたいせつだ! こんなバビロンへこようという考えが最初おれの顔に浮かんだときこそのろわれるがいい! ああ、きみ」と、彼はドクトルの方へ顔を向けた。「どうぞわたしを軽蔑してください――わたしは負けたのです! 五百ルーブリ貸してください!」
アンドレイ・エフィームイチは五百ルーブリの金を数えわけて、黙ってそれを友に与えた。こちらは羞恥《しゅうち》と憤りになおも紫色の顔をしたまま、連絡もなく、要でもない誓いの言葉をつぶやき、帽子をかぶって出て行った。二時間ばかりするともどって来て、肘掛《ひじか》けいすにひっくりかえると、大きなため息をついてこう言った――
「名誉は救われた! さあきみ! 出かけましょう! わたしはもう一刻も、こんないやな町にはいたくない。|かたり《ヽヽヽ》どもめ! オーストリアの密偵め!」
ふたりが自分の町へ帰って来たときには、もう十一月で、町は深い雪に埋もれていた。アンドレイ・エフィームイチの地位は、ドクトル ホボトーフが占めていた。彼はまだもとの住居に住んでいて、アンドレイ・エフィームイチが帰って来て、病院の官舎を明けるのを待っていた。彼が女中だといっていた不器量な女は、もう別棟の一つに住まっていた。
町には病院に関する新しい悪声がひろまっていた。なんでもその不器量な女が、監督とけんかして、監督が女の前にひざまずいて許しを乞うたという話であった。
アンドレイ・エフィームイチは、帰る早々、その日のうちに、自分の住居をさがさなければならなかった。
「ねえきみ」と郵便局長が、おどおどした調子で彼に言った。
「こんなことをきいてまことに失礼だが――あなたはどれくらいお金をお持ちですか?」
アンドレイ・エフィームイチは、黙々と自分の金を数えて、言った――
「八十六ルーブリです」
「わたしが伺っているのはそれじゃありませんよ」とミハイル・アヴェリヤーヌイチは、ドクトルの言葉を解しかねて、まごまごしながら言った――「わたしが伺ってるのは、あなたの財産がおおよそどれくらいあるかということです」
「だから言っています――八十六ルーブリだって……それ以上は一文もありません」
ミハイル・アヴェリヤーヌイチは、ドクトルを清廉潔白な人だとは思っていたが、それでも、少なくとも二万ルーブリぐらいの蓄えはあるだろうと疑っていた。ところが今、アンドレイ・エフィームイチが乞食《こじき》同然の境涯で、生活費すら持たないのを知ると、なぜか急に泣き出して、友を堅く抱きしめた。
十五
アンドレイ・エフィームイチは、町人女ヴェロワーヤの三つ窓の家に住むことにした。この家には台所以外に部屋が三つあるきりであった。そのうちの、窓が二つ通りに面している部屋をドクトルが占めて、第三の部屋と台所に、ダーリュシカと、三人の子供を持つ町人女とが住んだのである。この主婦のところへは、ときどき、その情夫である酔っ払いの百姓が泊まりに来て、夜中にわめいては、子供たちとダーリュシカをおびえさせた。彼がやってきて、台所に陣どり、ウォーツカを出せとせがみはじめると、みんながひどく窮屈がるので、ドクトルは憐愍《れんびん》の情から、泣いている子供たちを自分の部屋へ連れてきて、彼らを床《ゆか》の上へ寝かしてやった。それが彼にいつも大きな満足をもたらした。
彼は従前どおり八時に起きて、お茶を飲んでから、すわって古い本や雑誌を読んだ。新しいのはもう買う金がなかったからである。あるいは本が古いからか、それとも環境が変わったせいか、読書ももはやさほど深く彼の興味をひかず、かえって疲れるばかりであった。時間を浪費しないために、彼は蔵書の詳細な目録を作って、書物の背に貼紙をしてみた。と、この機械的にめんどうな仕事が、彼には、読書以上に興味深いものに思われた。単調でめんどうな仕事が、一種不可解な形で彼の思想を眠らせたので、彼は何事も考えず、時はどんどん過ぎて行った。台所にすわり込んで、ダーリュシカといっしょにばれいしょの皮をむいたり、|そば《ヽヽ》の中からゴミを選り出したりするようなことまでが、彼には興味深く思われた。土曜日と日曜ごとには、教会へ出かけた。壁ぎわに立って、目を細め、賛美歌に聞き入りながら、父や、母のこと、大学、宗教などについて考えた、彼は落ちついた、うら悲しいような気持ちであった。そして、やがて教会から立ち出るときには、礼拝のそんなに早く終わってしまったのが残り惜しいような気がするのだった。
彼は二度ばかり病院へ、話をするためにイワン・ドミートリイチをたずねて行った。しかし二度ともイワン・ドミートリイチは、ひどく興奮してぷりぷりおこっていた。彼は、自分はもうとうからくだらないおしゃべりには飽き飽きしているので、もう自分にはかまってくれるなと頼んだ。そして、自分はあののろわしいいやな人間どもに向かい、いっさいの苦痛に対してたった一つの報酬――ひとりきりで幽閉されることを願っているのだと言った。いったいこんなことまで、彼は拒絶されているのだろうか? アンドレイ・エフィームイチが別れを告げて、お休みなさいと言うと、二度とも彼はかみつくようにどなりつけた――
「失せやがれ!」
そしてアンドレイ・エフィームイチは、いまはもう三度目彼をおとなうべきかどうかを知らなかった。が、行きたいことは行きたかった。
以前はアンドレイ・エフィームイチは、昼食後にはきまって家の中を歩きまわって考えごとをしたものだが、今では昼食から晩のお茶まで、もたれの方へ顔を向けて長いすの上に寝ころがったまま、どうしても征服し難い、つまらない考えにふけるのが常であった。彼には、二十年以上になる勤務に対して、自分には年金も一時金も支給されなかったということが、心外でならなかった。もっとも、彼の勤務ぶりが忠実でなかったのは事実である。しかし、忠実であると否とにかかわりなく、年金はすべての勤務者が平等に受けているものではないか。現代の正義はつまり、位階や、勲章や、年金によって褒賞されるものが、道徳的素質や能力でなくて、その内容のいかんを問わない一般の勤務なのだという事実のうちにある。しかるに、なぜ彼ひとりが、その例外にされなければならないのか? 彼には金がもう少しもなかった。彼は商店のそばを通って、店の主人を見るのが恥ずかしかった。ビール代だけでもすでに三十二ルーブリたまっている。女町人ヴェロワーヤにも、同様借りになっている。ダーリュシカは、こっそり古服や書物を売ったり、ドクトルはまもなく大金を受け取るはずになっているからと、主婦にうそをついたりしている。
彼は、せっかくたまっていた千ルーブリを、旅に出て使い果たしたことに対して自分に腹が立った。この千ルーブリがあったら、今ごろはどんなに役立っているだろう! 彼にはまた、人々が自分をそっとしといてくれないのが、いまいましかった。ホボトーフは、ときたま病める同僚を見舞うのが自分の義務と心得ていた。ところが、アンドレイ・エフィームイチには、この男のいっさいがいとわしかった――食らいふとった顔も、恩にきせるような、いやな調子も、「同僚」という言葉も、深い長靴も。が、なかんずく最も不愉快だったのは、彼がアンドレイ・エフィームイチの病気を治すのが自分の義務と考えて、現にいま治しつつあるもののように思い込んでいることであった。で、訪問にくるたびに、きまって彼は、臭素カリを一びんと大黄《だいおう》の丸薬を持ってくるのだった。
ミハイル・アヴェリヤーヌイチも同様、友を見舞って慰めることを自分の義務と心得ていた。いつも彼は、ことさら気軽なようすでアンドレイ・エフィームイチの部屋へはいってくると、とってつけたようにからからと笑って、今日はたいへん顔色がいいとか、ありがたいことに病気はいい方へ向かっているらしいとか、言い出すのであったが、この一事からだけでも、彼が自分の友の状態を絶望視しているに疑いないことが推定された。彼はまだワルシャワでの借金を払っていなくて、重苦しい気恥ずかしさに圧倒され、おおいに緊張していたので、努めて大きな声で笑ったり、おかしな話をしたりするのだった。彼の笑顔や物語は、今は無尽蔵の感があって、アンドレイ・エフィームイチにも、彼自分にも、むしろ悩ましいものであった。
彼がいるあいだ、アンドレイ・エフィームイチは普通、長いすの上に顔を壁の方へ向けて寝ころがり、歯を食いしばって聞いていた。彼の心には、あとからあとからと残滓《ざんし》がたまり、友の訪問の一回ごとに、彼はこの残滓がしだいにうずたかく、だんだんのどもとまでこみ上げてくるような気がするのだった。
さもしい感をまぎらすために、彼は急いで彼自身も、ホボトーフも、ミハイル・アヴェリヤーヌイチも、おそかれ早かれ、自然界になんの痕跡も残さないで滅びてしまわなければならぬものであることを考えた。もし百万年後に、この宇宙を飛んで地球のかたわらを過ぎるなにかの精霊があるとすれば、それはきっとただ一個の粘土と、裸の岩を見るにすぎないであろう。すべては――文化も、道徳も――影を没して、|ごぼう《ヽヽヽ》すら生えないであろう。思えば、小商人に対する羞恥や、とるに足らぬホボトーフや、ミハイル・アヴェリヤーヌイチの重苦しい友情のごときに、なんの意味があるだろう? そんなことはみなつまらないことだ、とるにたらんことだ。
しかしこうした推論も、もはやなんの助けにもならなかった。彼が百万年後の地球を想像しはじめるかはじめないに、早くも裸の岩かげから、深い長靴をはいたホボトーフが顔を出したり、はりつめたような顔をして笑っているミハイル・アヴェリヤーヌイチが現われて、その恥ずかしそうなささやき声までが、聞こえたりするのだった――「ワルシャワでの借金はね、きみ、近日中にお返ししますよ、きっと」
十六
あるときミハイル・アヴェリヤーヌイチは、アンドレイ・エフィームイチが、食後、長いすのうえに横になっているところへやってきた。ちょうどそこへまた、臭素カリを携えたホボトーフが来合わせた。アンドレイ・エフィームイチは大儀そうに起きあがって腰を掛け、両手で長いすにもたれかかった。
「ああ、きょうはきみ」とミハイル・アヴェリヤーヌイチははじめた――「顔色が昨日よりずっとよろしい、とても元気に見えますよ! まったく元気な人に見える!」
「もう治ってもいい時分ですよ。治ってもいい時分ですよ、同僚」と、ホボトーフはあくびをしながら言った。「たぶん、あなたご自身も、この長いのにあきあきされたでしょう」
「ああ治るともさ!」と、ミハイル・アヴェリヤーヌイチは快活に言った。「まだ百年は生きられますよ! そうですとも!」
「百年はどうか知らんが、二十年は大丈夫ですよ」とホボトーフは慰めた。「大丈夫ですよ、大丈夫ですよ、同僚、悲観なさることはありません……真実をおおう必要はありませんよ」
「われわれはまだこれからです!」とミハイル・アヴェリヤーヌイチは高らかに笑い出して、ぴたぴたと友のひざをたたいた。「これからおおいに発揮しましょう! こんどの夏はひとつカウカサスへ飛んで、あの辺いったいを馬で征服しようじゃないか――ぱっ! ぱっ! ぱっ! とね。そしてカウカサスから帰って、うまくいったら、ひとつ結婚式で一杯やることにしようじゃありませんか」ミハイル・アヴェリヤーヌイチはこう言って、ずるそうに片目を目くばせした。「われわれはどうでもきみを結婚させますよ……結婚させますよ」
アンドレイ・エフィームイチはとつぜん、例の残滓《ざんし》がのどへこみ上げてくるのを感じた。動悸《どうき》が恐ろしく高くなった。
「なんというくだらない!」と彼はすばやく立ちあがって、窓の方へ行きながら言った。「あなたがたは、そんなくだらないことばかり言っていて、ほんとに自分で気がつかないんですか?」
彼はおだやかに愛想よくつづけようと思ったのだが、意志に反して、にわかにこぶしを握り固めると、それを頭上高く振り上げた。
「おれにかまわないでくれ!」彼はまっ赤になって、全身をわなわなふるわせながら、自分のとも思われない声で叫んだ。「出て行け! ふたりとも、出て行け!」
ミハイル・アヴェリヤーヌイチとホボトーフとは立ちあがると、初めは疑い惑うように、やがて恐怖の色を浮かべて、彼の顔を見つめた。
「ふたりとも出て行け!」とアンドレイ・エフィームイチは叫びつづけた。「にぶいやつらだ! ばかなやつらだ! おれにはきさまらの友情や薬はちっとも必要でないんだぞ、鈍いやつめ! 下司《げす》野郎め! うじ虫め!」
ホボトーフとミハイル・アヴェリヤーヌイチとはあっけにとられて顔を見合わせ、戸口の方へあとずさりして、玄関へ出た。アンドレイ・エフィームイチは臭素カリのガラスびんをつかんで、ふたりの背後へ投げつけた。びんは敷居にあたって音高くみじんにこわれた。
「失せやがれ、ちくしょう!」と彼は玄関へ駆け出しながら、泣き声で叫んだ。「失せやがれ!」
客が出て行ってしまってからも、アンドレイ・エフィームイチは、熱病やみのようにふるえながら長いすの上にころがって、長い間繰り返していた――
「にぶいやつらだ! ばかなやつらだ!」
やがて気がしずまると、何よりさきにまず頭に浮かんだのは、気の毒なミハイル・アヴェリヤーヌイチが今ごろはてっきり恐ろしく恥ずかしい重苦しい気分でいるだろうし、こうしたまねはみな恐ろしいことだということであった。これまではついぞ一度、こんなふうのことは起こったためしがなかった。知力や分別はどこへ行ってしまったのだろう? 事物の理解だの哲学的冷静だのは、どこへ行ってしまったのだろう?
ドクトルは慚愧《ざんき》の念と、自分に対するいまいましさから、その夜は夜通し寝つけなかった。そして翌朝十時に、彼は郵便局へ出かけて、局長にわびを言った。
「あんなことはもう忘れましょう」と、感動したミハイル・アヴェリヤーヌイチは、堅く彼の手を握りしめながら、ため息まじりにこう言った。「過ぎたことを言いだす者は盲目になれさ、リュバーヴキン!」とつぜん彼は、全局員と客たちがふるえあがったほどの大声で叫んだ。「いすを持ってこい。おまえは待て!」と彼は、格子越しに彼の方へ書留郵便を差し出した百姓女をどなりつけた。「おれの手のふさがってるのが、おまえには見えんのか? 古いことは忘れましょう」と彼はアンドレイ・エフィームイチの方を向いて、やさしくつづけた。「さあ、どうぞお掛けください、きみ」
彼は、一分ばかり黙って自分のひざをなでていたが、やがて言った――
「わたしはあなたにたいして腹を立てたことなんか、腹の中でだって一度もありませんよ。病気ばかりはしかたがありませんさ。わたしだってわかっていますよ。昨日のあなたの発作には、わたしもドクトルもびっくりしましてね。わたしたちは、あれから長い間あなたのことを話しましたよ。ねえきみ、あなたはどうしてもっと真剣に自分の病気を考えないんですか? いったいそれでいいんですか、どうか友人として素直に言うのをお許しください」と、ミハイル・アヴェリヤーヌイチは、ささやき声になって言いだした――「あなたは今きわめて不都合な環境に生活しておいでだ――狭苦しくはあり、不潔であり、看護する者はなし……そこでですねえ、きみ、わたしはドクトルといっしょに衷心《ちゅうしん》からきみにお願いするのだが――どうかぼくらの忠告をいれて――病院へはいってくださらんか! そこへ行けば食物の心配はなし、看護にも治療にもことは欠かない。エヴゲーニイ・フョードルイチは、ここだけの話だが、少々下品じゃあるけれど、腕は確かですから、十分信頼するに足りますよ。この男がわたしにあなたを引き受けると約束したんですから」
アンドレイ・エフィームイチは、この心からなる配慮と、とつじょとして郵便局長の双頬《そうきょう》に輝き出した涙とに動かされた。
「ねえきみ、きみはどうか信じないでください!」と彼は片手を胸にあてながらささやき出した。「彼らの言うことを信じないで! あれは間違いです! わたしの病気というのはただ、二十年間この町じゅうでたったひとりしか聡明な人間を見いださなかったということ、しかもそれが狂人だったという事実にあるのです。べつだんどこがわるいというわけではないのです。ただ出口のない循環論法に落ち込んでしまったというだけなのです。わたしはどうだっていいのです。わたしはどんなことでも覚悟しているから」
「病院へおはいりなさい、ねえ、きみ」
「わたしはどうでもよろしい。穴のなかへだってはいりますよ」
「じゃあね、ひとつきみ、今後万事エヴゲーニイ・フョードルイチのさしずに従うと約束してくださらんか」
「よろしい、約束しましょう。しかし、くり返して言いますが、わたしは循環論法に落ち込んでしまったのですよ。今となってはもう何もかもが、友人たちの心からなる同情までが、ただひとつのこと――わたしの破滅の方へ向かっているにすぎません。わたしは滅びつつあるのです。わたしはそれを意識するだけの勇気を持っています」
「いやきみ、きみはよくなりますよ」
「なんのためにそんなことを言うんです?」とアンドレイ・エフィームイチはいらだたしげに言った。「生涯の終わりに近く、今わたしが経験しているようなことを経験しない人は、珍しいと言っていいですよ。世間の者があなたに向かい、あなたは腎臓がわるいとか心臓肥大だとか言い出して、あなたが治療にかかる時分には、またあなたは狂人だとか罪人だとか言い出す時分には、つまり、ひと口に言えば、世間の者が急にあなたに注意を向けかけた時分には、あなたはもう出口のない循環論法に落ち込んだものと、覚悟しなくちゃいけません。出ようとしてもがけばもがくほど、ますます迷い込むばかりです。そうなったら、もう降参するのです。なぜなら、どんな人間の努力も、もうあなたを救うことはできないからです。わたしにはそんな気がしていますよ」
その間に、格子のところには公衆がだいぶつめかけてきた。アンドレイ・エフィームイチは、そのじゃまをしないように立ちあがって、いとまを告げはじめた。ミハイル・アヴェリヤーヌイチは、もう一度彼にしっかり約束させて、彼を外の戸口まで送って出た。
その日の夕方前に、アンドレイ・エフィームイチのところへだしぬけに、半外套に例の深長靴姿のホボトーフが現われて、昨日は何事もなかったかのような調子で言った――
「今日はちょっと用件があって参上したんですがね、同僚、じつはあなたをお迎えにあがったので――いかがでしょう、ひとつわたしといっしょに立会い診察にお出かけくださいませんか。どうでしょう?」
ホボトーフはたぶん散歩でもして自分の気をまぎらせようとするのか、あるいはじっさい、なにか金もうけをさせようとしているのだろうと考えたので、アンドレイ・エフィームイチは服をあらためて、彼といっしょに通りへでた。彼は、昨日の罪を償って和解する機会のできたことを喜び、腹の中では、ホボトーフが昨日のことをおくびにも出さないで、どうやら自分をいたわってくれているらしいのに感謝していた。この無作法な男から、こんな細かい心づかいが得られようとは思いもかけなかったから。
「それで、患者はどこにいるのです?」とアンドレイ・エフィームイチはきいた。
「うちの病院です。もうだいぶ前から一度お目にかけたいと思っていたのです……非常におもしろい症状なのです」
ふたりは病院の構内へはいり、本棟をぐるりとまわって、精神病者の収容されている別棟の方へおもむいた。その間、ふたりはなぜか終始黙々としていた。別棟へはいると、ニキータがいつものとおりとびあがって、不動の姿勢をとった。
「ここの患者のひとりに、肺に併発症を起こしたのがいるんですが」とホボトーフは、アンドレイ・エフィームイチといっしょに病室へはいりながら、小声で言った。「あ、あなたちょっとここでお待ちください。すぐまいります、ちょっと聴診器をとって来ます」
そして出て行った。
十七
もうたそがれていた。イワン・ドミートリイチは自分の寝台の上に、顔をまくらに押しあてて横たわっていた。中風患者は身動きもせずにすわったまま、静かに泣いて、くちびるを動かしていた。ふとった百姓と、前の郵便分類係とは、眠っていた。静かだった。
アンドレイ・エフィームイチは、イワン・ドミートリイチの寝台に腰掛けて待っていた。しかし半時間ばかりすると、ホボトーフのかわりにニキータが、病衣と、だれかの肌着《はだぎ》とスリッパをかかえて、病室へはいって来た。
「閣下、どうぞお召し替えを」と、彼は静かに言った。「これがあなたさまの寝台でございます、どうぞこちらへ」と彼は、明らかに近ごろ持ち込まれたばかりらしい空《から》の寝台をさして、言いたした。「なあに、なんでもありません、きっとじきによくおなりになりますよ」
アンドレイ・エフィームイチはいっさいを了解した。彼はひと言も言わずに、ニキータがさした寝台の方へ移って腰をおろした。ニキータが立って待っているのを見ると、彼は素っ裸になったが、すると少々きまりがわるくなった。それから彼は病衣を着た。ズボン下は非常に短かったし、シャツは長かったうえ、病衣は燻製《くんせい》魚のようなにおいがした。
「じきにお治りになりますよ。だいじょうぶでございますよ」とニキータはくり返した。
彼は、アンドレイ・エフィームイチの服をひとかかえにして、出て行った。そして、うしろ手にドアを閉めた。
≪同じことだ……≫とアンドレイ・エフィームイチは、恥ずかしそうに病衣の前を合わせて、服装の変わった自分を囚人のようだと感じながら考えた。≪同じことだ、燕尾《えんび》服も、制服も、この病衣も……≫
だが、時計はどうしたろう? わきかくしに入れてある手帳は? たばこは? ニキータはどこへ服を持って行ってしまったのだろう? こうなってはもうおそらく、死ぬまで、ズボンや、チョッキや、長靴をはくことはあるまい。こうしたことはすべて、初めのうちはなんとなく奇態《きたい》で、不可解でさえあった。アンドレイ・エフィームイチは今なお、女町人ヴェロワーヤの家と六号室の間になんの相違もないこと、この世の中のことはすべて、ばかげた、空なものにすぎないのを確信していたが、しかも彼の手はふるえ、足は冷えて、いまにイワン・ドミートリイチが起きて、自分の病衣姿を見るだろうと思うと、何か変に無気味であった。彼は立ち上がって、部屋をひと歩きすると、またすわった。
こうして半時間一時間とすわっているうちに、彼は苦しいほど退屈になって来た。ここにいる人たちのように、はたしてこんなところで、一日も、一週間も、まして何年も、じっと暮らしていられるだろうか? 今も彼は、すわって、歩いて、またすわった。窓の方へ行って外を見たり、またすみからすみへと歩いたりすることはできる。が、そのあとは? こうして年じゅう偶像のようにすわって、考えるのか? いや、こんなまねは、とてもできやしない。
アンドレイ・エフィームイチは横になったが、すぐ起きて、袖で額の冷たい汗をふいた。と、自分の顔全体が燻製魚のにおいがしだしたような気がした。彼はもう一度室内を歩いた。
「これは何かの誤解だ……」彼は困惑のあまり両手をひろげながら、こうひとり言を言った。「よく話し合わなければならん、これは誤解だ……」
ちょうどこのとき、イワン・ドミートリイチが目をさました。彼はすわって両のこぶしでほおをささえた。べっとつばを吐いた。それから、ものうげにドクトルの方を見たが、初めはどうやらなんにもわからないようすであった。が、じき、彼の眠そうな顔は、毒々しく嘲笑的になって来た。
「ほほう、あなたもここへ入れられましたね!」彼は一方の目を細くして、かすれた寝ぼけ声で言い出した。「ぼくは非常にうれしいですよ。あなたはこれまで人の血をすすっていたが、これからは反対にあなたの血がすすられるんだ。ばんざいばんざい!」
「これは何かの誤解ですよ……」とアンドレイ・エフィームイチは、イワン・ドミートリイチの言葉にぎょっとしながら言った。彼は肩をすくめて、くり返した――「何かの誤解です……」
イワン・ドミートリイチは、またべっとつばを吐いて横になった。
「のろわれたる生活め!」と彼はつぶやいた。「だが、何よりつらくてしゃくにさわるのは、この生活が苦痛に対する報いもなければ、オペラにあるような神に祭られることもなくて、死に終わるということだ。小使どもが来て、死骸の手足をひっつかんで、穴倉のなかへひきずって行く。ぶるる! だが、まあいいや……そのかわりあの世では、おれたちの祭日があるだろう……おれはあの世から、幽霊になってこの世へ現われ、ここの虫けらどもをおどろかしてやるから。やつらの頭を白髪《しらが》にしてくれるから」
モイセーイカがもどって来て、ドクトルを見ると、片手をさし出した。
「どうぞ一文!」と彼は言った。
十八
アンドレイ・エフィームイチは窓側へ行って、野の方をながめた。もう暗くなって、地平線上には右手の方から、冷たい銅紅色の月が昇っていた。病院のへいからほど近く、百サージェンとはないと思われるあたりに、石べいをめぐらされた、高い白い建物が立っていた。それは監獄であった。
≪ああ、これが現実か?≫とアンドレイ・エフィームイチは考えた。と、彼は恐ろしくなってきた。
月も、監獄も、へいの上の釘も、骨焼き場の遠い炎も、恐ろしかった。うしろにため息が聞こえた。アンドレイ・エフィームイチがふり返ってみると、そこには、胸にぴかぴかひかる星章や勲章をつけた男が立っていた。その男はにこにこして、ずるそうに目をしばたたいていた。これもおそろしく思われた。
アンドレイ・エフィームイチはみずからしいて、月や監獄にはなんの変わったところもないこと、精神的に健全な人でも勲章をつけていること、そして、万事は時とともに朽ちて土にかえるのだということを、考えようとしてみたが、急に烈《はげ》しい絶望に襲われたので、両手で鉄格子につかまると、力の限りにそれをゆすぶった。がんじょうな格子はびくともしなかった。
それから、恐ろしさをまぎらすために、イワン・ドミートリイチの寝床のそばへ行って、腰をおろした。
「わたしはもうがっかりしてしまいましたよ、きみ」と彼はわなわなふるえ、冷たい汗をかきながらつぶやいた。「意気消沈しましたよ」
「じゃ、また哲学でも持ち出しなさいよ」とイワン・ドミートリイチはあざけるように言った。
「やれやれ……そうです、そうです……あなたはいつか、ロシアには哲学はないくせに、あらゆる人間が、|めだか《ヽヽヽ》までが哲学を談ずると言われたことがありましたね。しかし、|めだか《ヽヽヽ》が哲学を論じたとしても、だれにも害はないじゃありませんか?」とアンドレイ・エフィームイチは、泣きださんばかりの、哀れっぽい口調で言った。「だのに、あなたのその意地わるい嘲笑はなんですか? |めだか《ヽヽヽ》だって不満な場合には、どうして哲学を論じないでいられますか? ましてや賢明な、教養あり、矜持《きょうじ》あり、自由を愛する、神の模型たる人間が、医者になって、不潔で愚劣な田舎へ行き、生涯薬びんや、|ひる《ヽヽ》や、|からし《ヽヽヽ》粉などをいじって暮らす以外に、どんなのがれ道もないというときに? 詐欺、狭量、卑劣! ああ神よ!」
「くだらないことばかり言ってますね。もし医者がいやだったら、大臣にでもなったらいいでしょう」
「どうしてどうして、そんなことが。われわれは弱い者ですよ、きみ……わたしはこれまで何事にも無関心で、勇敢で、健全な思想を持っていたつもりですが、一朝生活のあらあらしい手がふれるやいなや、たちまち意気消沈してしまいました……虚脱してしまいました……われわれは弱い者です、いくじのない者です……あなただって同じですよ、きみ。あなたは聡明で、上品で、お母さんの乳といっしょに幸福な感情を吸われたのですが、実生活にはいるやいなや、たちまち疲れて、病気になってしまわれた……われわれは弱い者です!」
恐怖と屈辱の感じ以外に、もう一つ何やら執拗な感じが、日が暮れてからというものずっと、アンドレイ・エフィームイチを悩ましていた。ついに彼は、これはビールとたばこが欲しいのだということに気がついた。
「わたしはここを出て行きますよ」と彼は言った。「そして、ここへもあかりをつけるように言いましょう。これじゃとてもたまらない……やりきれない……」
アンドレイ・エフィームイチは戸口へ行って、ドアを開けた。ところが、すぐニキータがはね起きて、彼の行く手に立ちふさがった。
「どこへいらっしゃるんです? いけません、いけません!」と彼は言った。「もう寝る時間です!」
「だがちょっと一分間だよ、庭を歩いてくるだけだ!」とアンドレイ・エフィームイチはおどおどした。
「いけません。いけません、そういう命令はないのです。ご自分でもご存じじゃありませんか」
ニキータはばたりとドアを閉めて、背中でそれにもたれかかった。
「だが、わしがここを出たからといって、それが、人にどんな関係があるんだ?」とアンドレイ・エフィームイチは、肩をすくめながらきいた。「わからんね! ニキータ。わしはどうでも出なきゃならんのだ!」彼はふるえ声で言った。「わしは用があるのだ!」
「法則を破るわけにはいきません。それは、よくないことです!」と、ニキータはさとすような調子で言った。
「何をばか言ってやがるんだ!」ととつぜん、イワン・ドミートリイチが叫んで、起きあがった。「やつにどんな権利があって、おれたちを出さないんだ? どうしてやつらはわれわれをこんなところへ閉じ込めておくんだ? 法律にだってたしか、裁判をへないで人が自由を奪われるはずのないことは、明記されてあるはずだ? これは圧政だ! 暴虐だ!」
「もちろん、暴虐だ!」とアンドレイ・エフィームイチも、イワン・ドミートリイチの叱咤《しった》に励まされて、叫んだ。「わしには用があるのだ、わしは出なければならんのだ! やつにそんな権利はない! 出せといったら出せ!」
「聞こえないのか、とんちきめ!」とイワン・ドミートリイチは叫んで、げんこでどんどんドアをたたいた。「あけろ、さもないとドアをぶちこわすぞ! 人非人め!」
「あけろ!」とアンドレイ・エフィームイチも、全身をふるわせながら叫んだ。「おれが要求するんだ!」
「いくらでもほえろ!」と、ドアの向こうでニキータが答えた。
「いくらでもほえろ!」
「じゃ、せめてエヴゲーニイ・フョードルイチをここへ呼んで来てくれ! わしがちょっとおいでを願いたいと言っていると伝えてくれ……ちょっとでいいんだから!」
「明日になりゃ、自分からおいでになりますよ」
「いつになったってやつらがわれわれを出すものか!」と一方ではイワン・ドミートリイチがつづけていた。「われわれをここでくらさせやがるんだ! ええくそ、じっさいあの世に地獄がないものだろうか、そしてあの悪魔どもが許されるだろうか! 正義はいったいどこにあるのだ? あけろ、悪魔、おれは息がつまりそうだ!」彼はかすれ声でこう叫び、どしんとドアに身を投げつけた。「おれは自分の頭をぶち割ってくれるぞ! 人殺しめ!」
ニキータはさっとドアをあけて、両手とひざとでじゃけんにアンドレイ・エフィームイチを突きのけ、それからげんこを振りまわして、その顔を、したたかなぐりつけた。瞬間、アンドレイ・エフィームイチには、塩《しょ》っぱい大波が頭からくずれかかって、そのからだを寝台の方へひき寄せたような気がした。じっさい口の中は塩《しょ》っぱかった――たぶん歯から血が出たのであろう。彼はさながら泳ぎぬけようとでもするように、両手を振りまわして、だれかの寝台につかまった。そしてそのとき、ニキータが二度自分の背中を打ったのを感じた。
イワン・ドミートリイチも大声でわめいた。彼もきっと打たれたのであろう。
それからすべてが静かになった。水のような月光が鉄格子越しにさし入って、床の上へ網に似た影をおとしていた。恐ろしかった。アンドレイ・エフィームイチは、横になって息を殺した。彼はもう一度打たれるのを、恐ろしい気持ちで待っていたのである。ちょうどだれかが鎌《かま》をふるって、いきなり彼の身に打ち込むと、二、三度胸の中や腸の中をひっかきまわしでもしたようなぐあいであった。痛みに堪えかねて、彼はまくらをかみ、歯を食いしばった。と、急にその混沌の中から、今この月光の下では黒い影のように思われるこれらの人々は、これまで何年もの間、夜となく昼となく、これと同じ呵責《かしゃく》を堪え忍ばなければならなかったのだという、恐ろしい、堪えがたい想念が、まざまざと頭の奥にひらめいた。二十年以上もの長い間、彼が知らないでいるようなことが、また知ろうともしなかったようなことが、どうしてあり得たのだろう? 彼は知らなかった。苦痛についての理解を持たなかった。つまり、彼に罪はないのである。しかし、ニキータのようにがんこで融通のきかない良心は、彼を、頭の頂点から足のさきまで、ぞっと悪寒《おかん》に戦慄せしめた。彼ははね起きて、声を限りに叫び立て、少しも早く走って、ニキータを、それからホボトーフを、監督を、助手を、次に自分を殺しに行こうと思ったが、その胸からはなんの声も出ず、足もいうことをきかなかった。彼はあえぎあえぎ、病衣とシャツの胸をかき破り、引き裂きつつ、やがて意識を失って、寝台の上へ倒れてしまった。
十九
翌朝は頭痛がして、耳が鳴り、全身に倦怠《けんたい》を感じた。昨日の自分のいくじなさを思い出しても、べつに恥ずかしくもなかった。昨日の彼はおくびょうで、月までをこわがったり、それまでには自分の心にあろうとも思われなかった思想感情を、真剣に表白したりした。たとえば、哲学する|めだか《ヽヽヽ》の不満というがごとき思想である。しかし、今では彼にはすべてが同じであった。
彼は飲まず食わずで、じっと寝たまま、沈黙していた。
≪自分には同じことだ≫と彼は、いろいろきかれたときに考えた。≪返事なんかするものか……自分にとっては同じことだ≫
午食後、ミハイル・アヴェリヤーヌイチがやってきて、お茶を四斤半と、砂糖漬けのくだものを一斤持ってきてくれた。ダーリュシカも見舞いにきて、鈍い悲しみの色を浮かべたまま、まる一時間も寝台のそばに立ちつくしていた。ドクトル ホボトーフも彼を見舞った。彼は臭素カリのびんを持ってきて、ニキータに、病室に何か香をくべろと命じた。
その夕方近く、アンドレイ・エフィームイチは卒中の発作で死んでしまった。はじめ彼は、激しい悪寒《おかん》と嘔吐《おうと》を感じた。なんとも知れぬ異様な不快が、全身を指のはしばしまで貫きながら、胃から頭へつき上げ、目や耳にまでしみわたるような気持ちであった。目の中が青くなった。アンドレイ・エフィームイチは、その身に死期の迫ったのを悟ると同時に、イワン・ドミートリイチやミハイル・アヴェリヤーヌイチをはじめ、数百万の人間が、不死を信じているのを思いだした。もしもとつじょとして、そういうものがあることになったらどうだろう? しかし、彼は不死を願わなかったので、それについてはただ一瞬考えてみたにすぎなかった。昨日書物で読んだ、なみなみならず美しい、優雅な|しか《ヽヽ》の群れが、彼のそばをはせ通った。それからひとりの百姓女が、書留郵便を持った手を彼の方へさし出した。ミハイル・アヴェリヤーヌイチが何かしら言った。やがていっさいが消え失せ、アンドレイ・エフィームイチは永遠にわれを忘れた。
小使どもが来て、彼の手足をつかんで礼拝堂へ運び去った。そこで彼は、目を開いたまま、台の上に横たえられた。夜になると、月が彼を照らした。翌朝、セルゲイ・セルゲーイチがきて、うやうやしく十字架像に祈りをささげてから、自分の前の長官の目を閉じた。
一日おいて、アンドレイ・エフィームイチは埋葬された。葬儀に参列したのは、ミハイル・アヴェリヤーヌイチとダーリュシカのふたりだけであった。(一八九二年)
[#改ページ]
中二階のある家
――ある美術家の話
一
これは、六、七年前、わたしがT――県某郡の、ベロクーロフという若い地主の領地に住んでいたときのことでした。彼は毎朝非常に早く起きて、袖なし胴着一枚でそこいらを歩きまわり、ビールを飲んで、わたしをつかまえては、のべつ、どこへ行ってもだれひとり自分に同情してくれる者はないと、泣きごとばかり言っている男でした。彼は庭の翼屋に住まっているし、わたしは古い地主邸の、円柱のあるだだっ広い大広間に寝起きしていました。そこには、わたしがベッドの用に当てている幅の広い長|椅子《いす》と、わたしがページェンス〔トランプのひとり占い〕をひろげる一脚のテーブルのほか、家具と名のつくものは一つもありませんでした。そこではいつも、おだやかな天気の時ですら、古風なアモス式の暖炉のなかで、何ものかが妙な声をたててうなるし、雷鳴の時などには、家全体が家鳴りして震動して、今にもばらばらにくだかれてしまうような気がするし、ことに深夜など十ばかりある大きな窓全体が、突然ぴかぴかと稲妻に照らし出されるようなときには、いささか気味がわるいくらいでした。
運命から不断の安逸を授けられていたわたしは、徹底的になんにもしませんでした。何時間でも部屋の窓から空を眺めたり、小鳥を見たり、並木道を見たり、郵便で送ってくる書物を手あたりしだいに読みあさったり、眠ったりして暮らしていました。また、ときには戸外へ出て、夕方遅くまであてどなしにさまよい歩くようなこともありました。
ある時、家へ帰る途中で、偶然わたしは、とある馴染みのない荘園へ迷い込みました。太陽はすでに沈み、花をつけた裸麦《はだかむぎ》の上には夕影が長くひいていました。二列に密接して植えられたおそろしく背の高い|もみ《ヽヽ》の古木が、ちょうど二重につづいた塀のように、陰うつな美しい並木道を作って並んでいました。わたしはてもなく垣を乗り越えて、この並木道づたいに、一ウェルショーク〔約五センチ〕も地面をおおっている|もみ《ヽヽ》の針葉にすべりながら歩いて行きました。あたりはしんかんとして、暗く、ただ高い梢の上だけに、ところどころ明るい金色の光がふるえ、くもの巣の網が虹色に光って見えるだけでした。強く、息苦しいほどに針葉の匂いがしていました。やがてわたしは、ながい|ぼだい《ヽヽヽ》樹の並木道へと曲がり込みました。そこにもやはり、荒廃と老朽とがありました。去年の落葉が足の下でかさこそと悲しげな音をたてるし、たそがれの木立ちの間にはものの影がひそんでいました。右手の古い果樹園の中では、たいぎそうな弱々しい声で、高麗鶯《こまうぐいす》が鳴いていました。おおかた、これも老鶯に違いありません。が、やがて、|ぼだい《ヽヽヽ》樹の並木も終わりました。わたしはテラスと中二階のある白い家のそばを通り過ぎました。と、思いがけなくわたしの前に、地主屋敷と、ひろびろとした池の眺めが開けました。その池には、水浴小屋や、ひとむらの青々とした|やなぎ《ヽヽヽ》の木立ちがあり、向こう岸には村があり、背の高い細い鐘楼が立っていて、その上には沈みゆく太陽の光線を反映しながら十字架が輝いていました。と、一瞬間わたしの心を、なにかしらあわただしい、非常に親しみのある、あたかもこの同じパノラマを、いつか子供の時分にすでに一度見たことがあるような、魅惑的な気分が吹いて来ました。
ところが、屋敷から野へみちびく白い石門のところに、獅子《しし》像などのついている古風ながんじょう作りの門のそばに、娘がふたり立っていました。年上の方のひとり、房々と盛りあがるような豊かな栗色の髪と、小さい、きかぬ気らしい口もとをした、細おもての、あお白い、びっくりするほど美しい娘は、きびしい表情をしていて、わたしの方へもほとんど注意を向けませんでしたが、もうひとりの、まだずぶ若い――十七か八それ以上ではなかったでしょう――同じように細おもてであお白い顔はしていたが、口も大きければ目もぱっちりしたほうの娘は、わたしがそばを通りかかると、驚いたようにわたしを見て、英語でふた言三言なにやら言ってきまりわるそうな様子をしました。と、わたしには、このふたりのかれんな人たちも、もう久しい馴染みであるような気がしました。で、その日わたしは、なにかしらいい夢でも見たような感じを抱いて家へ帰って来ました。
この後いくばくもなく、ちょうど正午ごろでしたが、ある日わたしとベロクーロフとが、家のそばを散歩していますと、思いがけなく草をそよがす音がして、一台のバネつきほろ馬車が屋敷へ乗りつけ、その中にあの娘たちのひとりが乗っていました。それは姉娘のほうでした。彼女は寄付名簿を持って、焼け出された人たちのために義捐金《ぎえんきん》を集めに来たのでした。わたしたちの顔は見ないで、彼女はえらくまじめくさった態度で、詳細に、シヤーノヴォ村で家が何戸焼失し、何人の男女や子供が宿なしになったか、そしてそれについてまず第一着手として、罹災《りさい》者救済委員会の設立が企図され、彼女も今ではその一員であることを説明しました。わたしたちに署名をさせて名簿をしまうと、彼女はそこそこに別れを告げはじめました。
「あなたはすっかりあたくしたちを忘れておしまいになりましたのね、ピョートル・ペトローヴィッチ」と彼女は、ベロクーロフに手を与えながら言いました。「どうぞちとお出かけくださいまし、そしてもし |monsieur《モンシェル》 何々(と彼女はわたしの姓を言いました)が、ご自分の天才の崇拝者の生活ぶりをごらんになりたいとお思いになりましたら、あたくしどもへお越しくださいますと、母やあたくしは大喜びでございますわ」
わたしはおじぎをしました。
彼女が立ち去ると、ピョートル・ペトローヴィッチはこう話しだしました。彼の言葉によると、この娘はいい家庭の生まれで、名はリディヤ・ウォルチャーニノフといい、彼女がそのとき、母や妹といっしょに住んでいた領地は、池の向こう岸にある村と同じように、シェルコーフカと呼ばれていました。彼女の父はいつかはモスクワで顕要の地位を占めていて、三等官にまでなって死んだのでした。相当な財産があったにもかかわらず、ウォルチャーニノフ一家の人たちは、どこへも出ないで、夏も冬も田舎に住み、リディヤは自分のシェルコーフカ村の自治会小学校に女教師を勤めて、月に二十五ルーブリの手当てを受けていました。彼女は、自分用にはその金だけを使って、自分は自活しているのだと、それを誇りにしていました。
「なかなかおもしろい家庭ですよ」とベロクーロフは言いました。「いつか一度行ってみましょう。あなたが行かれたら、さぞ喜ぶでしょうよ」
ある日のひる過ぎ、それは祭日のことでしたが、わたしたちはウォルチャーニノフ一家を思い出して、シェルコーフカなる彼らの住居をおとずれました。彼女たち、母とふたりの娘とは、家にいました。昔はたしかに美しかったにちがいないが、今では、年に似合わずぶくぶくふとった|ぜんそく《ヽヽヽヽ》病みで、沈んで放心したような顔をしている母のエカテリーナ・パーヴロヴナは、しきりに絵の話をして、わたしをもてなそうとしました。彼女は娘から、わたしがひょっとするとシェルコーフカへくるかもしれぬということを聞き知ると、急いで、いつかモスクワの展覧会で見たわたしの風景画の二、三を思い出したので、今もさっそくそれを持ち出して、わたしがそこに何を表現しようとしたのかときくのでした。リディヤ、あるいは家での呼び名どおりに呼べばリーダは、わたしとよりも、ベロクーロフとよけいに話をしました。彼女はあくまでまじめに、にこりともせず、彼がなぜ地方自治会に勤めないのか、なぜ今日まで自治会の会合に一回も出席しなかったのかと尋ねていました。
「いけませんわ、ピョートル・ペトローヴィッチ」と彼女はなじるように言いました。「いけませんわ。恥辱ですわよ」
「ほんとうだよ、リーダ、ほんとうだよ」と母夫人も口を合わせました。「いけませんわね」
「あたくしどもの郡はただいま、完全にバラーギンの掌中に握られておりますのよ」とリーダは、わたしの方へ顔を向けながらつづけました。「自分自身、会の代表者になり、郡のすべての職務を自分の甥《おい》や婿《むこ》たちに分けて、したい放題のことをしてるんですわ。ですから、たたかわなければいけませんのよ。青年が自分たちで有力な団体をこさえなければならないのに、ごらんのとおり、ここの青年ときたらどうでしょう。恥辱ですわよ、ピョートル・ペトローヴィッチ!」
妹のジェーニャは、地方自治会の話の出ている間は黙っていました。彼女は、まじめな話には仲間入りをしませんでした。家庭内ではまだおとなとは思われていなくて、少女のように、ミシュースと呼ばれていました。というのは、子供の時分に彼女が、自分の女家庭教師をミスと呼んでいたからでした。絶えず彼女は、わたしの顔ばかりもの珍しそうに眺めていて、わたしが写真帖を見ていたときには、「これは叔父さん……これは教父」というふうに、いちいちその写真を指して説明してくれるのでした。そんなとき彼女は、無邪気に肩でわたしにさわるので、わたしはちかぢかと、彼女のひよわそうな、まだ発育しきらない胸や、ほっそりとした肩や、お下げ髪や、きつくベルトをしめたやせたからだつきなどを見るのでした。
わたしたちは、クロケットやローン・テニスをやったり、庭を散歩したり、お茶を飲んだりした後に、長いことかかって夜食をしたためました。円柱などのある、がらんとしただだっぴろい大広間にいたあとで、壁には油絵ふうの石版画も掛かっていないし、召使たちにもていねいな言葉を使うこのささやかな、居心地のいい家へ来てみると、なんとなくのびやかな気持ちになって、リーダやミシュースのいるおかげで、見るもの聞くものすべてが若々しく清らかに思われ、すべてが優雅を呼吸しているような気がしました。夜食の間にリーダは、またしてもベロクーロフを相手に、自治会のこと、バラーギンのこと、学校の図書室のことなどを話しました。これは生き生きとした、まじめな、自信の強い娘で、その話を聞いているのはかなり興味がありました。いくぶん口数が多く、高調子には過ぎましたけれども、――もっともこれは、学校で話す癖がついていたからだろうと思われます。そのかわり、学生時代から、すべての会話を論争に導く癖の残っていたわがピョートル・ペトローヴィッチは、明らかに、賢明な進んだ人間と思われようという願いをもって、退屈に、大儀そうに、だらだらと口をききました。身ぶりする拍子に、彼は袖でソース容器をひっくりかえして、卓布の上へ大きな溜まりを作りましたが、わたし以外にはだれも、気のついた者はないようでした。
わたしたちが帰途についたときは、暗くひっそりとしていました。
「|しつけ《ヽヽヽ》がいいということは、卓布の上へソースをこぼさないということではなく、だれかがそういうあやまちをした場合にも、知らん顔をしていられるというところにあるのですよ」ベロクーロフはこう言って、ほっとため息をつきました。「まったく美しい、知識的な家庭だ。ぼくはいい人たちから離れてしまった。ああ、なんて離れちまったんだろう! これもみんな、仕事のせいだ、仕事だ! 仕事だ」
彼は、模範的な農村の主人になろうと思ったら、どれほどけんめいに働かなければならぬかということについて話しました。わたしは考えました――これはなんという重苦しい、怠け者だろうと! 彼は、何かまじめな話をするだんになると、つい固くなって、「ええええ」とばかり言うし、働くときも口をきくときと同じで、――のろのろと、てまどって時期をはずしてしまうのでした。彼の事務的才幹には、わたしはもういっこうに信をおいてはいませんでした。なぜなら、いつかわたしが郵便に出すように頼んだ手紙を、何週間もポケットへ入れたまま持ち歩いていたことがあったからです。
「何よりつらいのは」と彼は、わたしと並んで歩きながらつぶやきました――「何よりつらいのは、働いても働いても、だれからも同情されないことですよ。 どんな同情も受けられないことですよ!」
二
わたしはちょいちょいウォルチャーニノフ家へ訪ねて行くようになりました。そこでは、わたしはふつう、テラスの下の段に腰をおろすのでした。わたしはいつも自己不満に悩まされていて、かくも早くなんの興味もなく過ぎ去る自分の生活が惜しまれてならなかったので、そういう場合きまって考えるのは、この胸から、いかにも重苦しく感じられるようになった心臓を、ひと思いにえぐり出してしまったら、さぞせいせいするだろうということばかりでした。そんなときに、テラスの上では、人々の話し声や、衣《きぬ》ずれの音や、本のページをくる音などが聞こえていました。わたしはまもなく、リーダが、昼間は病人を治療したり、パンフレットを頒布《はんぷ》したり、帽子もなしのす頭で、傘《かさ》をさして、しばしば村へ出かけたり、夜になると、地方自治会や学校について大声に話すことにも慣れました。この、ちいさい優美な口つきをしているきゃしゃで、美しい、いつも変わらぬ厳格な娘は、実務的な話がはじまるたびに、かわいた調子でわたしに言うのでした――
「こんなお話、あなたには興味がおありになりませんわね」
わたしは、彼女には好意を持たれていませんでした。彼女は、わたしが風景画家であって、自分の作品の中で民衆の窮乏を描かないし、なお、彼女に感じられたところでは、彼女がこれほど堅固に信じきっていることにわたしが無関心なのにたいして、わたしを好いていなかったのです。忘れもしません、わたしがバイカルの沿岸を旅行しましたときに、青いシナ木綿《もめん》のシャツにもも引きばきといういでたちで、馬に乗っていたブリャート人の娘に会ったことがあります。わたしが彼女にそのパイプを売ってくれないかときいて、ふたりで話しているうち、彼女は軽侮の目で、わたしのヨーロッパ人らしい顔と帽子を見ていましたが、急にわたしと話すのがいやになったらしく、とつぜんギイと叫ぶと、馬を飛ばして駆けて行ってしまいました。ちょうどリーダがこれと同じように、わたしの中にある他人を軽蔑していたのです。彼女も決して顔に出してはわたしにたいするその気分を見せるわけではなかったけれども、わたしは常にそれを感じていて、テラスの下の段にかけていながらも、つい焦燥にかられ、医者でもないのに百姓を治療するのは彼らをあざむくものだとか、二千デシャティーナの土地を持っていれば、慈善家になるのも骨は折れないなどと毒口をきいたりしました。
が、妹のミシュースのほうは、心づかいらしいものは何ひとつ持たないで、わたし同様、完全な遊惰の中で生活を送っていました。朝起きると、すぐさま本を手にしてテラスの、掛けると彼女の小さい足が地面にとどかないくらいに深いひじ掛け椅子に身を埋めてそれを読むか、あるいは、本を持ったままぼだい樹の並木道にかくれてしまうか、あるいはまた、門の外の野の方まで出て行くかするのでした。彼女は終日、食い入るように本をのぞきこみながら読書していました。そしてただ、彼女のまなざしがときどき疲れて、ぼんやりにぶったようになり、顔がひどくあおざめてくることによってのみ、この読書がどんなに彼女の頭を疲労させるかを察することができるのでした。わたしがそばへ行くと、彼女はわたしを見て心もち顔をそめ、本をわきへおいて、大きな目でじっとわたしの顔を見ながら、そのおりおりのできごと、たとえば下男部屋で|すす《ヽヽ》が燃えたとか、下男が池で大きな魚をとったとかいうようなことについて生き生きと話し出すのでした。平日には、彼女はふつう明るいルバーシカに、濃紺のスカートをつけていました。わたしたちはいっしょに散歩したり、ジャムを煮《に》るための桜んぼをもいだり、ボートをこいだりしました。桜んぼをもごうとして彼女が飛び上がったり、オールをこいだりするときには、その広いそで口を通して、彼女の細い、よわよわしい腕がすいて見えるのでした。また時には、わたしが習作をやっているかたわらに立って、うっとりとそれに見入っていることもありました。
七月末のある日曜日に、朝の九時ごろ、わたしはウォルチャーニノフ家へ出かけて行きました。わたしは家からできるだけ遠くはなれて、公園を歩きながら、その夏は非常に多かった白い|きのこ《ヽヽヽ》をさがしさがし行きました。そして、あとでジェーニャといっしょにそれを取るために、そばへ|しるし《ヽヽヽ》をつけておきました。暖かい風が吹いていました。わたしは、ジェーニャと母夫人とが、ふたりとも祭日らしいはなやかな服装で、教会から家の方へ帰って行くのを見かけました。ジェーニャは、風にとられまいとして帽子をおさえていました。やがてわたしはテラスで人々がお茶を飲んでいる音を聞いていました。
自分がのべつ遊んでばかりいることにたいする弁解をさがしている、のんきな人間のわたしにとって、わが荘園におけるこうした夏の祭日の朝は、いつもなみなみならず魅惑的なものでした。まだ夜露にしっとりとしめっている緑の果樹園が、太陽の日ざしを受けて全面きらきらと輝き、いかにも幸福そうに思われるとき、家のまわりに|もくせい《ヽヽヽヽ》草や|きょうちくとう《ヽヽヽヽヽヽヽ》の香《かお》りがして、たったいま教会から帰ったばかりの若い人たちが園でお茶を飲んでいるとき、また、一同がいかにもかれんな装いをして、ほがらかでいるとき、さてはまた、これらの健康で、みちたりた、美しい人たちが、長い一日を終日なんにもしないで送るであろうことを知るとき、そんなときわたしには、人生全体がこんなふうであればいいとしみじみ思われるのでした。いまもわたしは同じことを考えて、この一日を、このひと夏をこのように、なんの仕事も、なんの目的もなく遊び暮らそうと覚悟をきめながら園の中を歩いていました。
ジェーニャが籠《かご》をさげて出て来ました。彼女の顔には、園へくればわたしに会えることを知っていたか予感していたかのような表情がありました。わたしたちは|きのこ《ヽヽヽ》を取ったり、話したりしました。彼女は、何かきくときにはきまって、わたしの顔を見るためにわたしの前へまわるのでした。
「昨日《きのう》ね、うちの村で奇跡が起こりましたのよ」と彼女は言いました。「|びっこ《ヽヽヽ》のペラゲーヤは、もう一年以上も病気で、どんなお医者も薬もちっとも|ききめ《ヽヽヽ》がなかったのに、昨日おばあさんが来て、ぼそぼそと何か言ったら、たちまち直ってしまったんですって」
「そんなことはなんでもありませんよ」とわたしは言いました。「病人やばあさんのそばでばかり奇跡をさがしたってはじまりません。じゃあ、いったい、健康というものが奇跡でないでしょうか? 生命そのものが? わからないものは、みんな奇跡じゃありませんか」
「じゃあ、あなたには、わからないものでもこわくありませんの?」
「こわかありませんね。自分の理解できない現象にもわたしは勇敢に近づいて、決してそれに屈服するようなことはしませんよ。わたしはそれ以上のものです。人間は自分を、獅子《しし》や、虎《とら》や、星以上のもの、自然界にある一切のもの以上のもの、不可解なるがゆえに奇跡的に思われるもの以上ですらあるものと、認識しなくちゃいけません。さもないと、彼は人間でなくて、すべてを恐れる|ねずみ《ヽヽヽ》と選ぶところがなくなってしまいます」
ジェーニャは、画家のわたしは非常に多くのことを知っていて、また知らないことでも正しく推測できるもののように考えていました。それで彼女はわたしに導かれて、永遠にして美なるものの領域、彼女の意見によると、わたしがその道の人であったこの高い世界へはいりたいとの願いから、わたしを相手に、神や、永遠の生命とか奇跡的なことなどについて話すのでした。で、日ごろ、自分と自分の想像力が、死後永久に滅びてしまうものとは考えていなかったわたしは、こう答えました――「そうです、人間は不死です」「そう、わたしたちを待っているものは永遠の生命です」彼女はこれを聞いて、そのまま信じ、なんらの証明をも求めませんでした。
わたしたちが家の方をさして歩いていたとき、彼女は急に立ちどまって、こう言いました――「うちのリーダはすばらしい人ですわね。そうお思いになりません? あたしとてもあの女《ひと》を愛してますのよ、あたしあの女《ひと》のためならいつでも命だってささげられますわ。だけど、おっしゃってちょうだいな」とジェーニャは、指でそっとわたしのそでぐちにさわりました――「おっしゃってちょうだいな、どうしてあなたはお姉さまと、しょっちゅう議論ばかりしてらっしゃいますの? どうしてあなたはあんなに怒りっぽくていらっしゃるの?」
「なぜって、あの女《ひと》が間違っているからですよ」
ジェーニャは否定的にかぶりを振りました。と、その目には涙がにじみ出ました。
「あたし、どうしてもわからないわ!」と彼女は言いました。
このときリーダは、どこからか帰って来たばかりの様子で、鞭《むち》を手にして、入口の段々のところに、すらりと、美しく、太陽に照らされた立ち姿のまま、下男に何かを言いつけていました。せかせかと高調子に口をききながら彼女は二、三人の患者を見てやり、それから忙しそうな、ものものしい顔をしてあっちこっちの戸だなをあけながら、家じゅうの部屋を歩きまわったあげく、中二階へ上がって行きました。みんなは長いこと彼女をさがして、食事に呼んでいました。そしてわたしたちがもうスープを終わったころに、彼女はやっと出て来ました。こうした必要でもないささいなことを、わたしはなぜかよく記憶しています。そしてそれを愛しています。ことにこの日は、かくべつ変わったことも起こらなかったのに、なにからなにまでまざまざと記憶に残っているのです。食後ジェーニャは、深いひじ掛けいすに身をうずめて読書し、わたしはテラスの下の段に腰掛けていました。わたしたちは黙っていました。空は一面に雲に閉ざされていて、細かい霧のような雨が落ちてきました。むしむしと暑く、風はもうだいぶ前から死んでしまって、この一日は、いつになっても終わりそうにないような気がしていました。やがてテラスのわたしたちのところへ、ねぼけ顔のエカテリーナ・パーヴロヴナが扇子を使いながら出て来ました。
「ああ、お母さま」とジェーニャは、彼女の手を接吻しながら言いました――「昼寝なんかなすっちゃ毒よ」
ふたりはお互い敬愛しあっていました。ひとりが果樹園へ出て行くと、ひとりはきまってテラスに立ち、木立ちの方を見やりながら――「あーい、ジェーニャ!」とか、「お母さま、どこう?」とか声をかけるのでした。ふたりはいつもいっしょに祈り、同じ信仰を持ち、黙っているときですら、互いによく理解しあっていました。また人にたいしても、同じような態度で接していました。エカテリーナ・パーヴロヴナは、この娘と同じようにわたしにもじき慣れて、親しみを深くし、わたしが二、三日顔を見せないと変わりはないかと尋ねてよこすといったふうでした。わたしの習作をも、彼女はミシュースと同じような喜びをもって見、同じ饒舌《じょうぜつ》をもって、同じように率直に何かとそのおりおりのできごとをわたしに話し、しばしば家庭内の秘事までもうちあけて話すというぐあいでした。
彼女は、姉娘のほうは畏敬していました。リーダは決して人におもねるようなことはなく、いつもただまじめなことばかり口にして、彼女独自の生活を営んでいたので、母親にとっても、妹にとっても、ちょうど水夫たちにとって、いつもその居室にどっしりとかまえている提督がそうであるように、神聖かついくぶん謎めいた存在だったのです。
「うちのリーダはえらい子ですわね」と母夫人はよく言うのでした。「そうじゃありません?」
今も、雨がびしょびしょ降っているあいだ、わたしたちはリーダのうわさをしていました。
「あれはえらい子ですわ」母夫人は、まずこう言っておいてから、きょろきょろとあたりを見まわし、反逆者のような口ぶりで、声をひそめて言いたしました――「あんな人は、昼日《ひるひ》なか堤燈《ちょうちん》をつけてさがしまわったって、なかなか見つかりゃしませんわ、けれどどね、わたしはこのごろ、少々心配になってきましたのよ。学校も、薬局も、本も――これはみんなけっこうなことですわ、けれど、なんだって極端に走るんでしょう? だって、あれはもう二十四ですわ、そろそろ自分のことも真剣に考えなければならない時です。今のように、本だ、薬局だで夢中になって、どんどん日のたってゆくのに気がつかないでおりましちゃね……いいかげんに結婚してくれなくちゃ」
ジェーニャは、読書のせいであお白くなった髪の乱れた顔を上げて、母親のほうを見ながら、ひとりごとめいた調子で言いました――
「お母さま、何事も神さまのみ心よ!」
そして、ふたたび読書に没頭してしまいました。
そでなし胴着に刺繍《ししゅう》のあるシャツといういでたちでベロクーロフがやって来ました。わたしたちはクロケットやローン・テニスをして遊び、そのあと、もう暗くなりかけてから長い間かかって夜食をしました。と、このときもリーダは、学校のこと、全部を手中におさめてしまったバラーギンのことを言いだしました。この晩ウォルチャーニノフ家を辞去するときには、わたしは長い長い祭りの一日の印象とともに、よしんばどんなに長かろうとも、この世のことはすべて終わるというもの悲しい意識をいだいてそこを出ました。門のところまで、ジェーニャがわたしたちを送ってくれました。おそらくその日は、朝から晩までずっと彼女といっしょに送ったせいでしょう、わたしは彼女と別れるのが、なんとなく寂しいような、この愛すべき家族全体が急に自分に近くなったような気がしました。そしてこの夏期を通じてはじめて、絵を描きたい気が起こりました。
「ときに、あなたはどうしてそう退屈そうに、そんなに色彩のない生活を送っていられるんですか?」とわたしは彼といっしょに帰途をたどりながらききました。「ぼくの生活も退屈で、重苦しくて、単調ですが、その理由は、ぼくが画家で、変人で、若い時分から嫉妬《しっと》や、自己不満や、自分の仕事にたいする不信に悩まされていて、おまけにいつも貧乏で、放浪者だからですが、あなたのほうは、健康で、ノーマルな人で、地主で、旦那《だんな》じゃありませんか、――なんだってあなたは、そんなに索漠《さくばく》たる生活をして、人生を楽しもうとなされないのです? たとえば、どうしてあなたは、今日が日までも、リーダなりジェーニャなりに恋をされなかったのですか?」
「あなたは、ぼくがほかの女を愛していることをお忘れですね」とベロクーロフは答えました。
これは、彼が翼屋でいっしょに暮らしている女友達の、リュボーヴィ・イワーノヴナのことを言ったのでした。わたしは毎日、その恐ろしくふとった、飼いふとらされた雌鵞鳥《めすがちょう》のようにもったいぶった女が、ガラス玉のついたロシア服を着て、きまって傘をさして庭を歩いていると、女中がまたのべつ彼女を、食事だ、お茶だといって呼びにくるのを見ていました。三年ばかり前に彼女は、翼屋の一つを別荘に借りて、それ以来ずっと、どうやら永久にベロクーロフのもとで暮らすようになったのでした。彼女は彼より十歳も年上で、彼を厳重に支配していましたので、家をはなれるときには、彼はまずもって、彼女の許しをえなければならないのでした。彼女はよく、男のような声でわんわん泣きました。そんなとき、わたしはいつも人をやって、あんまりいつまでも泣きやまなければ、下宿を変わると言わせました。と、彼女は泣きやむのでした。
家へ帰ると、ベロクーロフは長いすに腰をおろし、眉をよせてもの思いに沈みました。わたしは、まるで恋する人のような静かな興奮にひたりながら広間の中を歩きはじめました。
「リーダは、彼女と同じように、病人や学校のことに夢中になる地方自治会議員しか愛せない女だ」とわたしは言いました。「おお、あれだけの娘のためなら、自治会議員になることはおろか、おとぎ話にあるように、鉄の靴をはき破ることだってできる。では、ミシュースは? ああなんという魅力だろう、あのミシュースは!」
ベロクーロフはながながと、「ええええ……」を連発しながら、世紀の病い――厭世主義について語りだしました。彼は自信ありげに、まるでわたしが彼と議論でもしているような調子で話しました。荒涼として単調な数百露里の焼け野原でも、ひとりの男――彼がすわって、くどくどとしゃべりつづけ、いつ立ち去るともわからないときに与えるほどの憂愁を吹きこむことはできなかったでしょう。
「問題は、厭世主義にあるのでもなければ、楽天主義にあるのでもありませんよ」とわたしはいらいらして言いました――「百人中九十九人まで、知識の欠けている点にあるのです」
ベロクーロフはこれをわがことにとって、むっとして、行ってしまいました。
三
「マロジョーモヴォ公爵がお客に来てらしてね、お母さまによろしくって」とリーダがどこからか帰って来て、手ぶくろをとりながら母夫人に言いました。「いろいろおもしろいお話があったわ……また県会で、マロジョーモヴォの診療所に関する問題を起こすって約束してくださったけど――まあ望みは少ないって言ってらしたわ」そしてわたしのほうを向いて彼女は言いました――「どうも失礼、あたくしはいつも、こういうお話があなたに興味がおありにならないだろうってことを、つい忘れてしまうのよ」
わたしは焦燥を感じました。
「なぜ興味がないのですか?」わたしはこう反問して、肩をすくめました。「あなたにはぼくの意見が知りたくないんでしょうが、ぼくは断言します。この問題はぼくにとって非常に興味があります」
「あら、そうお?」
「そうですとも。ぼくの意見では、マロジョーモヴォの診療所なんか、ぜんぜん必要ありませんよ」
わたしの焦燥は彼女にも移りました。彼女はわたしを見て、口を細くしてききました――
「じゃあ何が必要なんでしょう? 風景画ですか?」
「風景画も必要ありません。そこにはなんにも必要なものはありません」
彼女は手ぶくろをぬぐのをやめて、いま郵便局から配達されたばかりの新聞をひろげました。一分ばかりすると、彼女は静かに、明らかに自分をおさえながら言う――
「先週お産のためにアンナが死にました。けれど、もし近くに診療所があったら、あれも死ななくてすんだでしょう。風景画家諸氏にだって、この点に関しては、多少の信念がなくてはならないと思いますけど」
「はばかりながら、ぼくはその点に関して、きわめてはっきりした信念を持っています」とわたしは答えました。彼女は聞きたくもないというように新聞で顔をかくしました。「ぼくに言わせれば、診療所とか、学校とか、図書館とか、薬局とかいうものは、現存の条件では、ただ奴隷化助長に役立っているにすぎませんよ。民衆は偉大な鎖につながれているのに、あなたがたはこの鎖を断ってやるどころか、かえってそれに新しい環を加えているのですよ――これがあなたに申しあげるぼくの信念です」
彼女はわたしの顔へ目を上げて、あざけるような微笑を見せました。が、わたしは自分の思想の核心をつかもうと努めながら、言葉をつづけました――
「アンナがお産で死んだことが大切なんじゃありません。すべてのそうしたアンナや、マーヴラや、ペラゲーヤが、朝早くから暗くなるまで、背をまげて、力以上の労働のために苦しんだり、生涯、飢えて病気をする子供のためにふるえたり、生涯、死や病気を恐れたり、生涯、手療治をやったり、早くしぼんだり、早く年をとったり、不潔や悪臭の中で死んでいったりするその事実ですよ。彼らの子供は少し大きくなると、さっそくもう同じ音楽をはじめる。こうして何百年という年月が過ぎ、何十億という人間が動物にも劣った生活をしているのです――ただ一片のパンのために、不断の恐怖を経験しながら。彼らの境遇のすべての恐怖は、彼らには魂のことを考える暇が少しもなく、自分たちのしていることなど思いかえす暇もないことです。飢えや、寒さや、動物的恐怖や、山のような仕事などが、まるでなだれのように、精神的活動、つまり人間が動物と区別されるもの、生きる価値ある唯一の目的を構成しているものにたいするすべての道をふさいでしまっているのです。あなたがたは、やれ病院だ、それ学校だといって、彼らの救済を考えていられるが、しかしそれだけでは彼らを軛《くびき》から解放するわけにはゆきません。むしろ反対に、その奴隷化に拍車をかけられているのです。なぜなら、彼らの生活へ新しい偏見を持ちこんで、彼らの要求の数を増加させるからです。しかも、膏薬代だの、本代だのといって、彼らが地方自治会へ払わせられる、つまり、いっそう背中をまげて働かされることは、不問に付するとしてもですよ」
「あたくしあなたと議論はいたしませんわ」とリーダは、新聞をおろしながら言いました。「あたくしそのお話はもううかがいました。ただ一言だけ申しあげます――手をこまねいてすわっているのはいけません。そりゃあもちろん、あたくしたちは人類を救ってはいませんし、あるいはまた、多くの点で間違っているかもしれませんわ。けれど、あたくしどもは、自分たちにできるだけのことをしているのですわ、その点であたくしたちは正しゅうございます。最も崇高な、最も神聖な文化人の使命――それは近き者への奉仕ですわ。そしてあたくしたちは、できるだけそれをしようと努めております、そりゃ、あなたにはお気に入らないかもしれませんけど、だれの気にも入るということは、不可能でございますからね」
「ほんとうですよ、リーダ、ほんとうですよ」と母親が言いました。
リーダの前では、彼女はいつもおどおどして、話をしながらも、何かよけいなことや、場所にそぐわぬことを言いはしまいかと、心配そうに彼女の顔色ばかりうかがっていました。そして娘の言うことには決して反対せず、同意を表するのが常でした――ほんとうですよ、リーダ、ほんとうですよ。
「百姓の教育、低級な教訓や警句などのついた書物、診療所などが、無知をも死亡率をも少なくすることのできないのは、ちょうど、あなたの窓からもれる光が、この大きな園を照らすことができないと同じですよ」とわたしは言いました。「あなたがたは、なんにも与えてはいらっしゃらない。あなたがたは、これらの人々の生活にたいするいらざる干渉によって、ただ新しい要求、労働にたいする新しい動機を作り出していられるにすぎませんよ」
「あら、だって人間は、何かしないではいられないじゃありませんか!」とリーダはいまいましそうに言いました。彼女のこの調子によると、わたしの所論を取るにたらぬものと考えて、それを軽侮しているのは明らかでした。
「われわれはまず人類を、その重苦しい肉体労働から解放しなければなりません」とわたしは言いました。「彼らの軛《くびき》を軽くし、彼らに休息の時を与えて、彼らがその全生涯を、竃《かまど》や、洗濯槽のそばや、野良ばかりで送らないで、やっぱり魂のこと神のことについて考え、少しでも広くその精神的能力を発揮しうるようにしてやる必要があるのです。万人の使命は精神的活動の中にあります――真理と人生の意義の絶えざる探究の中にあります。どうか彼らのために粗野な動物的労働を不必要にしてやって、彼らにわが身の自由を感じさせてやってください。そうすれば、こうした書物だとか薬局だとかいうものが、本質的には、いかに笑うべきものであるかがわかるでしょう。ひとたび人間が自分の真の使命を認めたら、その上はもう、彼を満足させうるものは、宗教、科学、芸術だけであって、決してそんなくだらないことではありませんからね」
「労働から解放する!」とリーダは冷笑しました。「それができるでしょうか?」
「できますとも。彼らの労働のいくぶんを引き受けてやればいいのです。かりにわれわれ一同が、町と村の住民全体が、ひとりの例外なしに、肉体的要求を満たすために一般的に人類によって費やされている労働を、自分たちの間で分担することに同意するとすれば、われわれのひとりが一日に負担すべき労働は、おそらく二、三時間以上には出ないだろうと思われます。まあひとつ考えてごらんなさい。もしわれわれ一同が、富める者も貧しき者も一様に、日に三時間だけ働くことにすれば、あとの時間は自由です。なお考えてごらんなさい、われわれは、自分の肉体に頼ることをより少なくし、労働を軽減するために労力にかわる機械を考案して、自分たちの要求数を最小限まで少なくするように努力しつつあることを。われわれは自分を鍛《きた》え、子供たちを鍛えて、飢えや寒さを恐れないようにする。すればわれわれは、例のアンナや、マーヴラや、ペラゲーヤがふるえるように、子供たちの健康のためにのべつふるえることもなくなるでしょう。また考えてごらんなさい、われわれは治療もしなくなり、薬局や、たばこ工場や、酒醸工場を持たなくなることを。――そうなったら、どれほどの自由な時間が、けっきょくわれわれの手に残るでしょう! この自由な時間をわれわれ一同は、あいともに科学や芸術にささげることができます。百姓たちがときどき組合を作って道|普請《ぶしん》をするように、われわれ一同も団結し、組合を作って、真理や人生の意義を探求するでしょう。すれば――ぼくはそれを信じて疑わない者ですが――真理は非常に早くわれらの前に開かれ、人類は、この絶えまない悩ましいおしつけるような死の恐怖から、いや、死そのものからすら逃れることができるわけです」
「だけど、あなたはご自分で、自家撞着《じかどうちゃく》をやってらっしゃるわ」とリーダは言った。「あなたは――科学科学っておっしゃりながら、ご自分では読み書きを否定してらっしゃるじゃありませんか」
「人間がただ酒場の看板だけを読むことができたり、たまにわかりもしない本を読むことができたりする程度の読み書き――そんな読み書きなら、わが国にも、リューリックの時代からありますよ。ゴーゴリのペトルーシカ〔「死せる魂」の中の下僕〕は、もうとうの昔に読むことができるようになっているのに、村はリューリック時代そのままで、現在に残っているのです。必要なのは読み書きではなく、もっと広く精神能力を発揮することのできる自由です。必要なのは小学校ではありません、大学です」
「だってあなたは、医学まで否定してらっしゃるじゃありませんか」
「そうです。医学が必要なのはただ、自然現象としての疾病《しっぺい》を研究するためであって、それを治療するためではありません。もし治療するとすれば、病気でなくて、その原因を治療すべきです。何よりまず一ばん主な原因――肉体労働を除去するがいいのです。すれば病気はなくなります。ですから、ぼくは治療する科学は認めないのですよ」とわたしは興奮してつづけました。「科学とか芸術とかいうものは、それが真実のものである場合には、決して一時的なものや個人的なものを目的としないで、永久的なもの一般的なものを目標とするはずです、――それは真理と人生の意義を求め、神と魂とを求めます。だから、それを日常の不如意《ふにょい》や邪悪や、薬局や図書館に結びつけると、それはもう、生活を複雑にし煩雑にするだけのものになります。わが国には、医者や、薬剤師や、法律家は無数にあり、文字ある者の数はふえましたが、生物学者、数学者、詩人などは皆無です。すべての知力、すべての精神力が、うつろいやすい、一時的の欠乏をみたすために費やされてしまったのです……学者や、文士や、画家の仕事は進捗《しんちょく》し、彼らのおかげで、生活の便宜は日一日とふえ、肉体の要求は増大しつつあるのに、真理にいたる道はまだ遠く、人類は依然として貪欲きわまる最も汚穢《おえ》な動物の境地にとどまり、すべては、人類の大多数が退化して、永久に各種の生活能力を失うような方向へかたむいています。こういう条件のもとにあっては、芸術家の生活は意味を持たず、彼が天才的であればあるほど、その役割は奇妙不可解なものになります。なぜなら、結果において彼は、現存制度を維持しながら、貪欲で汚穢な動物の慰安のために働いているも同然ということになるからです。で、ぼくは働く気になりません。そして働かないのです……なんにも必要はありません。この地球なんか、地獄の底へ転落してしまえばいいのです!」
「ミシューシカ、あっちへいらっしゃい」とリーダは妹に言いました。どうやらわたしの言葉を、こういう若い娘にとって有害だとでも思ったらしい様子で。
ジェーニャは、悲しそうな目で姉と母とを見て、出て行きました。
「そういうことは、ふつう、人が自分の冷淡を弁護しようとする場合、口にすることですわ」とリーダは言いました。「病院や学校を否定なさるのは、病人をなおしたり、人を教えたりするのよりはずっと楽ですものね」
「ほんとうですよ、リーダ、ほんとうですよ」と、母は言葉を合わせました。
「あなたは、自分は仕事をしないぞ、っておどかしてらっしゃるのね」とリーダはつづけました。「あなたはたしかに、ご自分の仕事を高く評価してらっしゃるんですわ。もうこんな議論はよしましょう。どうせお互いに意見の合いっこはないんですから。だって、あなたがたった今あんなに軽蔑してお話しになった図書館や薬局のうちの一ばん不完全なものだって、あたくしは、世界じゅうのどんな風景画より高く評価しているんですもの」そしてすぐ、母親のほうを向いて、ぜんぜん別の調子で言いだしました――「公爵はたいへんおやせになって、いつかうちへいらした時分からみると、ずいぶんお変わりになりましたわ。あのかた、こんどヴィシー〔ドイツの温泉場〕へ派遣になるんですって」
彼女が母に公爵のことを言いだしたのは、わたしと口をきかないためだったのです。彼女の顔は燃えていました。その興奮をかくすために、彼女は、まるで近視ででもあるように、低くテーブルの上へかがみこんで新聞を読んでいるようなふりをしていました。わたしの同席が不愉快だったのです。わたしは暇《いとま》をつげて帰途につきました。
四
戸外は静かでした。池の向こう岸の村はもう寝しずまっていて、灯影ひとつ見えず、ただ水面にわずかにあお白い星影がうつっているにすぎませんでした。獅子《しし》像のある門のそばには、わたしを見送ってくれるためにジェーニャがじっと立って待っていました。
「村ではもうみんな寝ていますね」わたしは、暗やみの中で彼女の顔を見わけようと努めながら、こう言葉をかけました。そしてわたしの顔にじっとこらされている暗い悲しそうな目を見ました。「酒場の亭主も、馬どろぼうも、おだやかに眠っています。だのに、われわれ身分ある人間は、互いにいらだちあって、議論などしているのです」
うら悲しい八月の夜でした、――悲しいというのは、もう秋の気が動いていたからです。紫紅色をした雲におおわれながら月がのぼって、わずかに、道や、その両側の暗い冬麦の野を照らしていました。しきりに星が流れました。ジェーニャは、わたしと肩を並べて道を歩きながらも、流星を見まいとして、空へ目をやらないようにしていました。彼女はなぜかそれを恐れていたのです。
「あたしには、あなたのおっしゃることがほんとうのように思えますのよ」と彼女は夜のしめっぽさにふるえながら言いました。「もし人間がみんな心を合わせて、精神的活動に身をささげられたら、じきいろんなことがわかるようになるでしょうにね」
「そうですとも、われわれは万物の霊長ですから、もしじっさいに、われわれが人類の天才の力を認識して、ただ高い目的のためだけに生活したら、ついにわれわれは神に近いものになることもできますよ。しかし、こんな時はいつになっても来やしません、――人類は堕落し、その天才からは、痕跡すら残らないでしょう」
門の見えないあたりまでくると、ジェーニャは立ちどまって、急いでわたしの手を握りました。
「おやすみあそばせ」彼女はふるえながらこう言いました。彼女の肩はわずかに一枚のシャツにおおわれているだけなので、寒さに身を縮めていたのです。「明日いらしてくださいね」
わたしは、このいらいらした、自分にも人にも不満な気持ちでひとりぼっちになることを思うと、なにかしら無気味になってきました。で、自分でも、もう流星の方は見ないように努めていました。
「もう一分間、ぼくといっしょにいてください」とわたしは言いました。「お願いです」
わたしはジェーニャを愛していました。わたしが彼女を愛していたのは、たぶん、彼女がいつもわたしを送り迎えしてくれたことや、優しい、うっとりした目でわたしを見たことなどによるものだったと思います。彼女のあお白い顔、きゃしゃな頸《くび》、ほっそりとした腕、その弱さ、遊惰ぶり、彼女の書物、すべてがなんと感動的に美しかったでしょう。それから、知恵? わたしは、彼女には尋常でない知恵があるように思っていました。彼女の見解の広さはわたしを喜ばせましたが、あるいはそれは彼女が、わたしに好意を持たなかった、きびしい美しいリーダとは、ぜんぜん違った考え方をしていたからだったかもしれません。ジェーニャのほうでは、またわたしを画家として好いていました。わたしは自分の才能で彼女の心を征服してしまったのです。そしてわたしは、ただ彼女のためだけに絵が描きたくてなりませんでした。わたしは彼女のことを、将来自分といっしょにこれらの木立ちや、野や、霧や、空焼けや、この美しく魅惑的ではあるが、その中では、わたしが今日まで自分をひとりぼっちで不要なものと感じていた自然などを支配する自分の小さい女王のことを思うように、空想していました。
「もうちょっといてください」とわたしは頼みました。「お願いです」
わたしは着ていた外套《がいとう》を脱いで彼女の凍えた肩をくるんでやりました。彼女は、男の外套などを着て、おかしく不かっこうに見えるのを気にし、笑いだしてそれを投げ捨てました。そのとたんに、わたしは思わず彼女を抱いて、その顔を、肩を、手を、接吻の雨でおおいました。
「また明日ね!」彼女はこうささやいて、さながら夜の静寂《しじま》を破ることを恐れるかのように、注意深く、そっとわたしを抱きました。「あたしたちはお互いに秘密というものを持たないのですから、あたしこれからすぐ、なにもかもお母さんとお姉さんにお話ししなければなりませんわ……でも、これはどんなに恐ろしいことでしょう! お母さんはいいの、お母さんはあなたを愛してらっしゃるから、けれどリーダが!」
彼女は門のほうへかけて行きました。
「さよなら!」と彼女は叫びました。
それから二分ばかり、わたしは彼女のかけていく足音を聞いていました。わたしは家へ帰る気がしませんでした。それにべつだん、帰らねばならぬなんの用もありませんでした。わたしはしばしもの思いに沈んでたたずんでいてから、もう一度あの、彼女の住んでいるかれんな無邪気な古い家――その中二階の窓々で、まるで目のようにわたしを見て、すべてを理解しているような気のする家を見るために、静かにもとへ帰って行きました。わたしはテラスのそばを通り過ぎ、テニスコートのそばの、|にれ《ヽヽ》の古木の木下闇《このしたやみ》のベンチに腰をおろして、そこから家のほうを眺めました。ミシュースの寝起きしていた中二階の窓に明るい灯《ひ》がぱっとついて、まもなくそれが落ちついた緑色に変わりました――ランプに笠《かさ》がかけられたのです。やがて人影が動きだしました……わたしは優しさと、自己満足の気分にみたされ、自分が異性に心をひかれて、恋におちるような気になりえたことに感謝していました。が、同時に、この瞬間にも、わたしから数歩のところに、この家の一室に、わたしを愛していないどころか、わるくすると憎んでいるかもしれないリーダが住んでいるという想念から、なんとなく窮屈を感じていました。わたしはじっと腰掛けたまま、今にもジェーニャが出て来はしまいかと、そればかりを念じてけんめいに聞き耳を立てていました、中二階では、なにか話し声がしているような気がしましたので。
小一時間過ぎました。緑色の灯影は消えて、人影も見えなくなりました。月はもう高く、家の真上までのぼって、眠った庭や小道を照らしていました――家の前の花壇にあるダリヤと薔薇はくっきりと見えていましたが、色だけはなべて一色に思われました。たいへん寒くなってきました。わたしは庭から出て、途中で外套をはおると、ゆっくりゆっくり、家のほうへよろめいて行きました。
翌日、昼食後に、わたしがウォルチャーニノフ家へ行ったときには、庭に向かったガラス戸がいっぱいに開けられてありました。わたしはテラスに腰をおろして、いまにも花壇の向こうのテニスコートか並木道のひとつに、ジェーニャの姿が現われるか、家の中から彼女の声が聞こえてくるかと心待ちにしていました。それから客間へ通り、さらに食堂へはいって行きました。人っ子ひとりおりません。食堂からわたしは、長い廊下を通って玄関へ出、さらに元へ引っ返しました。その廊下には、いくつもの戸口があって、そのひとつの中で、リーダの声がひびいていました。
「|からす《ヽヽヽ》に、あるところで……神様が……」彼女は大きな声で、言葉を長くひっぱって言っておりました。たぶん書き取りでもしていたのでしょう。「神さまが、チーズをひときれ、おつかわしに、なりました……|からす《ヽヽヽ》に、あるところで……どなた?」と彼女は急にわたしの足音を聞きつけて叫びました。
「ぼくです」
「ああ! どうも失礼、あたくし、今ちょっと手がはなせませんのよ、ダーシャに勉強をさせてますから」
「エカテリーナ・パーヴロヴナはお庭ですか?」
「いいえ、母は妹を連れて、けさほどペンザ県の伯母《おば》のところへ立ちましたの。そして冬になったら、ふたりはたぶん外国へまいるだろうと思います……」と彼女は、ちょっと黙っていたあとで言いたしました。「|からす《ヽヽヽ》に、あるところで……神様が、チーズをひときれ、おつかわしに、なりました……書きましたか?」
わたしは玄関へ出ました。そして、なんにも考えないで、突っ立ったまま、そこから池や村を見ていました。と、そこまでも声は聞こえてきました――
「チーズをひときれ……|からす《ヽヽヽ》に、あるところで神様が、チーズをひときれ、おつかわしに、なりました……」
そこでわたしはこの荘園から、一ばん初めにここへ来たときと同じ道を、ただこんどは逆にとって立ち去りました。初めは中庭から果樹園へ、家のわきを通り、それから|ぼだい《ヽヽヽ》樹の並木道を通り……そのとき、ひとりの男の子がわたしを追いかけてきて、書いた物を手わたしました。「あたしなにもかもお姉さまに話しましたのよ、そうしたらお姉さまが、あなたとお別れするようにって要求しますの」わたしはこう読みました。「あたしには、自分の不従順でお姉さまを悲しませる力はありませんでした。神さまはあなたに幸福をお与えくださるでしょう、どうぞあたしをお許しください。あたしとお母さまとがどんなに泣いているか、あなたが知ってくださいましたら!」
それから暗い|もみ《ヽヽ》の並木道、倒れた垣《かき》……いつぞや裸麦が花をつけ、|うずら《ヽヽヽ》が鳴いていた野には、今は牝牛や、足をゆわえられた馬がさまよっていました。丘《おか》の上にはところどころ、秋|蒔《ま》き麦があざやかな緑を見せていました。まじめな仕事日らしい気分がわたしを領して、わたしにはウォルチャーニノフ家で自分のしゃべったことが一から十まで気恥ずかしくなり、前のとおり生きるのが退屈になってきました。家へ帰ると荷物をまとめて、その晩ペテルブルグへ立ってしまいました。
*
その後、わたしはついにウォルチャーニノフ一家の人たちには会いませんでした。近ごろになって、クリミヤへ行く途中、汽車の中でわたしはベロクーロフに会いました。彼は依然として、そでなし胴着に刺繍のあるシャツといういでたちでした。そして、わたしが彼の健康について尋ねたとき、こう答えました――「おかげさまでね」わたしたちは話しこみました。彼は自分の領地を売って、別のもうすこし小さいのをリュヴォーヴィ・イワーノヴナの名義で買いました。ウォルチャーニノフ一家のことは、ほんのちょっと話題にのぼったきりでした。リーダは、彼の言葉によると、前々どおりシェルコーフカに住んで、学校で子供たちを教えているそうです。彼女は徐々に、その周囲にお気に入りの人々を集めるのに成功し、その連中が有力な団体を組織して、最近の地方自治会選挙にさいし、それまで全部を牛耳《ぎゅうじ》っていたバラーギンを「追ん出して」しまったということです。ジェーニャについては、ベロクーロフはただ、彼女は家にいない、居所もわからないという消息を伝えてくれただけでした。
わたしはもうそろそろ、中二階のある家のことを忘れかけています。ただまれに、書いたり読んだりしている場合に、とつじょとして、なんのこれという理由もなく、あの窓に見えた緑色の灯影や、また、恋のやっことなったわたしが家路をたどりながら、寒さに両手をこすり合わせたりしたあの夜ふけに、野づらにひびいたわたしの足音などが、ふっと思い出されるのです。が、なおまれには、孤独の思いにさいなまれて、もの悲しい気分でいるときなど、漠然とながらその当時を回想すると、わたしにはなぜかしだいに、向うでもやはりわたしのことを思い出して、待っているにちがいない、そしてわたしたちは、いつかきっとまた会えるにちがいない、こういう気がしだすのです……
ミシュース、おまえは今どこにいるか?(一八九五年)