神曲 煉獄篇
ダンテ・アリギエーリ/三浦逸雄訳
目 次
第二部 煉獄
第一歌
第二歌
第三歌
第四歌
第五歌
第六歌
第七歌
第八歌
第九歌
第十歌
第十一歌
第十二歌
第十三歌
第十四歌
第十五歌
第十六歌
第十七歌
第十八歌
第十九歌
第二十歌
第二十一歌
第二十二歌
第二十三歌
第二十四歌
第二十五歌
第二十六歌
第二十七歌
第二十八歌
第二十九歌
第三十歌
第三十一歌
第三十二歌
第三十三歌
解説 ダンテの煉獄
訳者あとがき
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第一歌
第一歌は煉獄全篇の序詞にあたる。地獄を出て、煉獄の島の清澄な大気のなかに出たダンテは、そこで島の番人のカトーネに会う。彼はダンテが島に来たいわれをきいて、罪をきよめる山に登ることを許して、まずダンテに渚《なぎさ》へおりて藺草《いぐさ》で腰をしばることをすすめる。藺草は謙譲の象徴だ。ダンテとウェルギリウスは、人気のない山麓の原をとおって渚に出、そこで藺草を腰に巻いて登りにかかる。その時刻は復活祭の日曜日の夜があけてゆくころである。
もっとおだやかな水〔凄惨な地獄と比べてもっとおだやかな題材を扱おうとして、の意。〕の上を駛《はし》ろうとして、(一)
あのおぞましい海から抜けでたことだから、
わたしの歌〔才〕の小舟は 帆をたかだかとあげた。
わたしは歌おう、ひとのこころが浄められ
天上へのぼるにふさわしくなるところを、
その第二の王国〔罪をきよめる煉獄のこと〕のことどもを。
ああ、聖《あら》たかな|詩の神《ムーサ》たち、わたしはあなた方を尚《たっと》ぶ者ですから、
泯《ほろ》びの〔国〕の歌を ここによみがえらせてください。
そして、ここで カリオペさま〔詩や音楽をつかさどる女神たち《ムーサ》の一人〕も すこしお起《た》ちになって、(九)
あのあわれなピュロスの娘たちが〔テッサリアの王ピュロスの娘たち。彼女たちは、ムーサたちと歌の技をきそい合ったが、カリオペに負けた。それでも、不平をいうので、彼女たちはコウノトリにすがたを変えられたという故事がある〕 赦される望みもあきらめたほどの
あれほどうつくしく胸にひびかせた調べを、わたしの歌におつけください。
ひんがしの碧玉のような青い光が、
水平線のはてにまで澄みわたって
透きとおった大気のおもてに集まっていたが、
いまのいままで わたしの目や胸を痛めつけていた
暗い大気から 抜けでたばかりのわたしの胸には、
歓びがふたたび立ちかえっていた。
愛に誘《いざな》ううつくしい星〔明星〕が、(一八)
あとにしたがう双魚宮《うおざ》の星々をおおっていて
東の空をすっかり〔光で〕ほほえませていた。
右手をふり向いて 南極のあたりに気をとめると、
〔最初の〕にんげんの祖《おや》〔アダムとイヴのこと〕のほかは見たこともない
四つの星々〔四つの星からできた南十字星だろう〕がわたしに見えた。
空はその星々のかすかなきらめきを喜んでいるようだった。
ああ、その星々を見たこともないお前は、
北半球のやもめの〔荒れはてた〕土地だ!
やがて わたしはその星々からすこし目をそらして(二七)
他の極へうつすと、そこでははや北斗の星は消えていたが、
身近かに老翁《おきな》〔カトーネ〕がひとりいるのに 気づいた。
その様子にふさわしい恭《うやうや》しさは、
どんな子供も父親に払えないほどの深さがあった。
その長いひげには白いものもまじっていたし、
ふた房にして胸にたれている髪の毛も半白になっていた。
そして あのきよらかな四つの星が、
翁のおもてをその光でかがやかしていたので、
わたしには 翁が太陽の前にでもいるように思われた。(三六)
「お前たちは何者だ。盲目の川〔地獄をながれる川〕をさかのぼり、
永遠の牢獄《ひとや》をのがれてきたようだが」
その翁はいかめしい鬚《ひげ》をうごかしていった。
「ここへはだれが導いたのか。
常闇《とこやみ》の地獄の渓谷《たに》のふかい夜のそとへ
お前らを連れだした灯《あかり》は何だったのか。
さては奈落の掟〔地獄の掟〕をお前らはやぶったのか。
それとも 天上の定めがあらたに変わって、
おまえら罪の魂が わしの岩山へ来ることにでもなったのか」(四五)
そのとき 導師はわたしをつかまえて、
言葉と手つきとそぶりとで
わたしに目を伏せ 跪《ひざまず》かせてから、
翁にこたえた、「自分の考えで参ったのではございません。
天上からお降《くだ》りになったひとりの淑女《あてびと》〔ベアトリーチェ〕の請いによって
この者の連れとなって助けている者です。
しかし、わたしどもの身分をもっと
ありのままに申し上げるのがご意向でしたら、
何でわたしにお断わりできましょう。(五四)
この者はまだ最後のたそがれ〔死〕は見ておりませんが、
おろかにも そのきわにまで参り、
いますこしのところで 引き返した者です。
申し上げましたように、この者を救うために
遣わされた者ですが、わたしのとった道は
これしかございませんでした。
わたしはこの者にあらゆる罪の者どもを見せましたが、
こんどはあなたさまのお目の下で
罪をきよめる魂を見せたいと存じております。(六三)
どうしてこの者を伴ったかということは 話せば長くなりましょうが、
徳の力が天上からお降《くだ》りになって、この者を導いて、
あなたさまにお会いさせ〔真実を〕お耳に入れるようにお助けくださったのです。
どうぞこれの来たのを大目に見て 受けてやってください。
この者は自由〔罪から解放されること〕をもとめて行きますが、それがどんなに貴いかは、
そのためには命さえ惜まないことでもわかります。
あなたさまはそれをご存じのはずです。自由のために
死をも苦にされなかったあなたさまは、ウティカで
大いなる日〔最後の審判の日〕に輝くはずの衣〔肉体〕をお棄てになられたのですもの。(七二)
わたしたちは永遠の法を破りはせず、
この者は生きており、わたしもまたミノス〔地獄で亡者の罪をきめる判官〕につながれずに、
あなたのマルツィアさま〔カトーネの妻で、辺獄で罪なき罪のものどもといっしょにいる〕の貞淑な目のある圏谷《たに》にいる者です。
ああ、あらたかなお胸、あの女《かた》はそのそぶりから見ても、
あなたさまの夫人になられるように いまでも祈りつづけておられるのです。
あの方の愛のためにも わたしたちをお許しくださって、
あなたさまの七つの国々〔煉獄の罪をきよめる七つの圏〕を行かせてください。
もし下界〔地獄〕でお噂《うわさ》をしてよろしければ、
あのお方にあなたさまのことを つつましく申し上げましょう」(八一)
「わしがこの世にいたときには」と翁は語りだした、
「マルツィアはわしの目に入っても痛くないほどだったから、
あれがわしに望むことは何なりと かなえてやったものだ。
だが、いまでは、あれは禍いの川〔地獄のアケロンテの河。地獄行きの亡者たちが、この世から地獄へ入るとっつきの河〕の彼方にいるし、
そこ〔辺獄《リンボ》〕を出たときに定められた掟によって、
わしの慈悲をかけてやるわけにはいかないのだ。
お前のいうとおり、天上の淑女《あてびと》がおまえをうごかして
みちびいているというなら、世辞などいう必要はない。
そのお方の名でわしに頼めば十分だ。(九〇)
では、いくがいい。一本のつるつるした藺草《いぐさ》で
この者の腰を巻き、その顔をきよめて、
いっさいの汚《けが》れをおとしてやることだ。
〔地獄の〕霧でくもった目のままで、
天国の天使方のなかでも第一のお方の前に
まかり出るわけにもいくまいからな。
ここの小島のずっと低くなったあたりの
波のうち寄せる濡れた泥土には、
藺草が何本も生えている。(九九)
ほかの草は、はびこるか 堅くなるかして
波がぶつかってもなびかないので、
生きのびることができないのだ。
藺草を巻き身をきよめたら、ここへは戻るには及ばない。
いま昇っている太陽が、
山へ登るにいちばん楽な道を教えてくれるだろう」
そういうと、老翁はすがたを消した。で、わたしも物もいわずに起《た》ちあがり、
わたしの導師にぴったり身を寄せて
目はまじまじと師を見あげた。(一〇八)
師はいいはじめた、「わしが行くからついて来い。
この広野はここから浜辺へだらだら下がっているから
あともどりすることにしよう」
あかつきの光が、その前をのがれていく
暁闇《ぎょうあん》の時を追いだしたので、
遠くに波のゆれうごくのを わたしは認めた。
わたしたちは、見失った道を引きかえす人が
あてもなくさまよいでもするような気になって、
その人影もない広野を歩いていった。(一一七)
夜露が太陽とあらがいながらも
片蔭になって 消えのこっているほとりに
わたしたちがいたとき、
師はしずかに両の掌をひろげて
〔その濡れた〕小草の上においたので、
わたしは師のしぐさをさとって、
涙にぬれた頬を師の方にさしだした。
すると、師は、地獄〔の汚れ〕でかくされていた
〔もとの〕顔色をすっかり拭いだしてくださった。(一二六)
わたしたちは、それから、寂しい渚へたどり着いた。
そこは、その海を航海した者が
またと還ってきたためしのないところ〔罪をきよめる煉獄の山の近くの海域をさす〕だった。
そこで、翁の望んだように、師は〔藺草で〕わたしの腰をしばってくださったが、
なんという不思議なことだろう、
師がその目立たない草を引き抜くと、
ひき抜くさきから たちどころにその草がまた生えだしてきたのだった。(一三三)
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第二歌
あけ方のことである。沖合から魂たちを乗せた舟が、あっという間に渚《なぎさ》へ近づいてくる。その舟の白くかがやく船頭は天使だ。聖歌をうたう魂たちは上陸したが、その群のなかにダンテの旧友カゼルラがいて、思いがけぬところでダンテを見て抱きついてくる。そして、死んだあと、テヴェレの河口に集まった魂が、海をわたって浄罪のためにその島へ運ばれてきたいきさつを話す。カゼルラはダンテにすすめられて、得意の歌をうたうが、その声にききほけている魂たちは、島の守護者カトーネに一喝されて、ちりぢりになって山の斜面へかけのぼっていく。
陽はすでに水平線にあらわれていたが、(一)
その子午圏は すごく高い頂点で
エルサレムをおおっている。
夜は、太陽と反対の圏にいて、〔昼を〕しのぐときは、
その手からこぼれる天秤座《はかりざ》〔の星〕をともなって、
ガンジス河から そとへ出ていった。
そして、わたしのいたそこ〔煉獄の山裾〕では、
うつくしい女神アウロラ〔夜あけの空の色を朝の女神と見たてている〕の紅《べに》をさした白い頬が、
時のたつにつれて オレンジいろに変わってしまった。(九)
わたしたちは、行手のことを案じて
気ばかりあせって身体のこわばるひとのように、
まだその海辺にかなりながくたたずんでいた。
と、そのときだ。あけ近くのことで、
靄《もや》がふかくかかっていて 西の海面にひくく明星があかく光るように、
一条の光芒《こうぼう》が、またと見ることもないその光が、
どんな鳥もそれほどには飛べないほどの
すばやさで 海をわたってくるのが見えた。
わたしは師にたずねようとして、(一八)
目をちょっとそらしてから また眺めると、それはさらに耀《かがや》いて大きくなっていた。
それの左右には、得体のわからぬ白いもの〔天使の翼〕があらわれ、
その下にも 別の白いもの〔天使の衣〕がしだいに現われてきた。
わたしの師は それでも一言も物をいわなかったが、
やがて初めの白いものが翼だとわかると、
それが漕ぎ手だとはっきりさとって叫びだした。
「さあ、跪《ひざまず》いて 手を合わすのだ。
おん神のお使いだ。(二七)
これからはこういうお方にお目にかかることになるぞ。
ほら、人間の使うものなどには目もくれずに、
あんなに遠い岸のあいだを
櫂も帆もお使いにならずに 翼だけでお渡りになる!
天に向けて たかだかとあげる翼を見ろ、
永遠《とこしえ》の羽根で大気をゆすっている。
あの翼は生きものの羽根のように毛は変わらないのだ」
その神の鳥〔天使〕はやがて、
わたしたちの方へさらに近よってきて(三六)
いちだんと耀いてあらわれたので、
わたしの目はそれを近ぢかと見るにたえなかった、
わたしは目を伏せた。すると、水にも濡れずに
すばやく かるがると
天使は小舟を岸へ乗りつけた。
その舟の艫《とも》には、物腰からもそれとおん神の恵みの読みとれる
天人の船頭が立っていたが、
百にあまる魂たちがその舟の中に坐っていた。
「イスラエルの民 エジプトを出でしおり」
と、魂たちは声をあわせて歌ってから、(四五)
それにつづいて 聖歌のあとに録《しる》された詞《ことば》をうたいおわると、
天使は魂たちに十字を切った。
そこで、みんなは汀《みぎわ》におり立ったが、
天使はひとりで、また来たときのように瞬く間に行ってしまった。
そこに残された魂たちは、そんなところは初めてとみえて、
珍しいことを経験するひとのように、
あたりをじろじろ見まわしていた。
〔そのときには〕すでに きらきらした光の矢で
中天から山羊座《やぎざ》の星々を追っぱらった太陽が、(五四)
光を八方から降りそそいでいた。
着いたばかりのそのひとたちは
わたしたちに顔をむけていった、
「君たち、知っているなら 山へ登る道を教えてくれないかね」
ウェルギリウスは応えた、「どうやら わしたちが
ここのことに詳しいとお思いのようだが、
わしらもご同様に他国《よそ》から来た者だ。
たった今、別の道から お前さん方よりすこし前に着いたばかりだ。
その道はひどく荒れて苦しかったから、(六三)
これからの登りなぞ鼻歌まじりでいけそうだ」
魂たちは、わたしが呼吸をしているので
まだ生き身でいることに気づいて、
おどろきのあまり 蒼くなっていた。
よくあることだが、オリーヴの枝をもつ使者〔平和の使者ということ〕のまわりへ吉報を聞こうとして、
ひとびとが押しかけて 踏んづけ合っても苦にしないものだが、
そこの神恵《めぐみ》をうけた魂たちは、
身をきよめにいくことも忘れたようで、
わたしの顔をじっとのぞきこんでいた。(七二)
そのなかの一人〔ダンテの友人のカゼルラのこと〕が すごく親しそうに
わたしに寄ってきて抱きつこうとするのを見たので、
わたしもそうしようと 身をうごかした。
だが、姿こそ見えるが むなしい影なのだ!
わたしは三度も 両手をそのひとの背にまわしたが、
そのたびに 手はわたしの胸にかえってきた。
怪訝《けげん》ないろがわたしの面《おもて》に出たのだろう、
その影は微笑して あとずさりしたので、
わたしはそれにつられて一歩ふみだした。(八一)
その影はしずかに わたしにやめるようにいった。
そのとたんに、わたしはそれがだれなのかわからなかったので、
しばらく立ちどまって わたしと話してくれまいかと頼んだ。
その影は答えた、「僕は生き身のときに君を愛したように、
〔肉体から〕離れたいまでも君を愛している。
だから立ちどまろう。だが、君はなんでこんな旅をしているのだ」
「カゼルラ、僕はいま ここへいつか立ち戻るために
この旅をしているのだ」わたしは応《こた》えた、(九〇)
「だが、君はどうして こんなに時間がかかったのだ」
彼はわたしに、「いつ、だれを選ぶかをお決めになる方〔天使のこと〕が
僕がここへ渡ることを幾月もお許しにならなかったとしても、
別にあやまちをなさったというわけではないのだ。
その方はおん神のご意志によってなされたからだ。
まったく その三月《みつき》のあいだ〔法王ボニファキウス八世がきめた期間で、このあいだに罪をあがなう大赦に浴した者はみな天使の船に乗って、地獄へ行かないでもすんだ〕に そのお方は、
煉獄に入りたい者をやすやすと舟に乗せたのだ。
そこで、僕はテヴェレの川水に汐がさすあたりで
汐待ちをしてすごしていたとき、
そのお方にやさしく舟に乗せていただいたのだ。(九九)
そのお方は さきほどテヴェレの河の河口へ翼をお向けになったばかりだ。
そこには、〔地獄の〕アケロンテの河へ墜とされぬ者が
いつも集まっているからだ」
そこで、わたしはいった、「もしもあたらしい掟が 君の思い出をうばったり、
あの僕の雑念をいつもしずめてくれた恋の歌を
うたうことをとめられていないのなら、
生き身とともにここへ来て
ひどく疲れているこの僕の魂を
その歌ですこしは慰めてくれないかね!」(一〇八)
「こころのうちにわたしへ問いかける愛の女神は」
そのとき彼はしんみり歌いはじめたが、
うっとりするその声音は いまでも胸にひびいている。
師もわたしも そこにいた魂たちも
我を忘れて聞きほけていて、
ほかのことなど心にもないようだった。
わたしたちはみな耳を澄まして
その歌に聞き入っていたが、とたんに
凜然として翁〔前出のカトーネで、ストア派の哲人〕が叫んだ、「なんてことだ、たわけた魂め。(一一七)
なんていうふしだらだ。この道草《みちくさ》はなんてことだ。
さっさと山へあがって 身のけがれを洗え、
さもないと、おん神さまは手前たちにはお出ましにならないぞ」
牧場にあつまってくる鳩たちは、
いつものように胸を張らずに
しずかに燕麦《えんばく》やほそ麦をついばむものだが、
何かこわいものでもあらわれると
たちどころに餌をすてて逃げだすものだ、
鳩をおそうものがもっと気がかりだからだ。(一二六)
そのように、この着いたばかりの連中が、
歌をすてて山の斜面へのがれていくのを見たが、
そのさまは、あてどもなくほっつき歩く人のようだった。
それで、師もわたしも、その魂たちに遅れまいと出立したのだった。(一三〇)
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第三歌
ダンテと師は、浄罪の山の麓にたどりつくが、岩が屹立《きつりつ》して登る足場もないので、向こうから歩いてくる一群の霊たちに、山に入る道をたずねて教えをきく。その群にかつてのナポリ王マンフレディがいて、自分の身の上をダンテにあかし、寺院に背いて死んだ者のうける刑罰のことを語る。そして、やがてこの世に帰るダンテに、彼は娘コスタンツァに自分のありさまを伝えることを頼む。この歌では、神の正義のこらしめと、その罪の許しのあり得ることが、抽象的に語られるようになる。
その魂たちは 広野にちらばって、(一)
おん神の正義がおたしなめになるその山をさして
あたふたと遁げだすことになったが、
わたしは師を頼ってぴったり身を寄せていた。
師がいなくて どうしてわたしが行けるものか、
だれがわたしをあの山の上へ導いてくれるだろう。
師は〔遅れたことを〕悔んでおられるようだった。
本当にきよらかなご立派なおこころは、
わずかな過誤《あやまち》にさえ どんなにかお痛みを覚えられることだろう!(九)
せかせかする物腰は気品をなくするものだが、
師の足どりがいつものようにゆったりしたので、
さっきまで〔くさぐさのことに〕とざされていたわたしの心は、
待ちこがれていたように 想いをひろげて、海から天空へたかく聳《そび》え立っている
その山の傾斜面へ わたしは目をあげた。
太陽はうしろで赤く燃えていたが、
わたしのからだの前で影をつくって砕けていた、
その光がわたしにさえぎられていたからだ。(一八)
目の前の地面には 自分の影しかないので、
もしや置き去りになったのではと心配して
わたしが脇をふりむくと、
師はやさしく、「何を気にするのだ」と、
からだごと振りむいて いいだした。
「わしがお前についていることを信じないのか。
わしの影を身内にやどした肉体の葬られたあたりには、
もう夕闇がしのびよっているよ。
そこはナポリで、〔肉体を〕ブリンディツィオ〔いまのブリンディシで、紀元一九年に、皇帝アウグストゥスについて、ウェルギリウスがアテナイから帰ってきて死んだ港町〕から移されたところだ。(二七)
いま、わしの前に影ができないからといって、
おどろくにはあたらない。天上では
天がたがいに光をさえぎらないようなものだ。
痛みと熱さと寒さに責められるこんな〔透明な〕からだは、
神のお力が 形をおつくりになったものだが、
そのおん神の業《わざ》は わしらには明かされてはいないのだ。
三位一体《さんみいったい》のおん神のつかさどる無窮の道を
わしらの知恵で探りだそうなどと
のぞむ者こそ こけの骨頂《こっちょう》だ。(三六)
にんげんは「何か」というところで満足すべきものだ。
もしお前に万有のものがわかるくらいなら、
マリアさまは御子《みこ》〔キリスト〕をお生みになる必要がなかったのだ〔ヤーウェ(ユダヤ教の救世主)から、天啓をうけるくらいなら、キリストが出てくることはなかった、との意〕。
そういう望みで足りるひとなのに、
永遠に憂き目を背負うひとたちの
甲斐もない望みを お前は見てきたではないか。わしは、アリストテレスやプラトンや、そのほか
おおぜいのひとのことをいっているのだ」
そこで、師は面《おもて》を伏せて、もう一言もいわずに、思いをみだしたままでいた。(四五)
そうこうする間にも、わたしたちはその山裾にとりついていたが、
そこは岩が切り立って見えて、
足強《あしづよ》の者にも登りにくそうだった。
これにくらべると、レリーチとトゥルビアのあいだの
すごく荒れて崩れた難路でさえ、
坦々とした楽な登りである。
「さあて、どちらの勾配がゆるいのかな」
師は歩みをとめて、そういった、
「何しろ、翼なしで登ろうというのだからな」(五四)
師が面を伏せて、道順を
こころで案じているあいだに、
わたしは目をあげて 岩山のあたりを見ていたが、
左手から わたしたちの方へ
足をうごかして、魂の一群があらわれた。
うごくとも思えぬほど ゆるゆると来るのだ!
「先生」 わたしはいった、「お目をあげてごらんなさい。
相談できそうなひとが向こうにいますよ。
先生に道の見当がおつきにならなくても」(六三)
師は魂たちを見て、さぱさぱした様子で応えた、
「こちらから行こう、向こうはのろのろ来るのだから。
息子よ、望みはきっとかなうよ」
彼らはまだかなり遠かった。
わたしたちは千歩も歩いていたのに、
〔距離は〕うまく投げても 石がとどくかとどかないかくらい間があった。
魂たちはみな 高い断崖の堅い岩角に身をよせ合っていて、
〔左手から〕来るひとをけげんそうに見ているのか、
ぴたっと足をとめて立っていた。(七二)
「ああ、恵まれて生をおえた方々、はやばやとおん神に選ばれた魂がたよ」
ウェルギリウスはいいはじめた、「あなた方が
お望みの後世《ごせ》の平安にかけてのお願いですが、
この山のどこが わしらの登っていける
ゆるやかな斜面か お教えくださらんか。
時の尊さを知る者には 時間の費《つい》えはいちばんいやなことですから」
羊が囲いから 一匹、二匹と出てくると、
ほかの羊は、目と鼻とを地面につけて
おどおどしているものだが、(八一)
さきに立つ者のすることを あとの者もして、
さきがとまれば それにもたれかかって、
生一本でおとなしくて 理由などはどうでもいいものだ。
そのさまに似て、そこの祝福《さきあわ》れた羊たち〔キリスト信者の表象〕のさきに立つ者〔皇帝フリードリッヒ二世の庶子のマンフレディのことで、ナポリ王。ローマ法王に支援されたシャルル・ダンジュウに攻められて死に、遺骸はナポリ王国の外のヴェルデ河畔に投げ捨てられた〕が、
しとやかな面《かお》つきをして 重い足どりで
こちらへ歩いてくるのが見えた。
その先頭の者が、わたしの右手で、
光が地面にとぎれて
影が岩のところまでのびているのを見ると、(九〇)
急に立ちどまって ちょっと後ずさりした。
すると、くっついて来たほかの者も、
みんな理由もわからずに 同じように退《さが》った。
「おたずねになるまでもない 申し上げますが
この者はご覧のように生き身のからだですから、
日の光が地面でとぎれているのです。
お驚きにならないで、信じていただきたいのです。
この岩壁を登ろうとして道をもとめておりますのも、
天上のお力によらないではないということです」(九九)
そう師が言うと、そのやんごとないひとたちは、手の甲で合図をしていった、
「向きを変えて われわれの前をとおれ」
と、そのうちの一人が口を切りはじめた、
「お前はだれだか知らないが、
そうやっていくからには 顔をこちらに向けて
さきの世でおれを見たことがあるかどうか 気をつけてみろ」
わたしはふりかえって そのひとをじっと見つめた。
髪は金髪で、品のいい ととのった顔立ちだったが、
片方の眉は刀疵《かたなきず》で切れていた。(一〇八)
わたしが見たおぼえのないことを
遠慮がちにこたえると、「それじゃ見るか」
といって、胸の上の傷口をさし示した。
それから微笑をふくんでいった、「おれは、
女帝コスタンツァ〔フリードリッヒ二世の母〕の孫マンフレディだ。
頼みがあるが、お前がこの世へ戻るときに、
シチリアとアラゴーナのほまれの母の
おれのきれいな娘〔マンフレディの娘〕のもとへ行って、
別に取沙汰されているなら、この真実を伝えてくれ。(一一七)
おれが命とりの傷を二つ受けたあとで、
おれは〔悔悟の〕涙で、罪をお許しくださるお方のもとへ、
われとわが身をゆだねたということをな。
おれのかずかずの罪はおぞましいかぎりだったが、
はてしないおん神の恩寵《めぐみ》は、み許に向かう者どもに
こんなにもひろい腕をさしだしてくださるのだ。
あのとき、法王クレメンス〔四世〕の下知で
おれを追いたてていたコセンツァの牧者〔大僧正〕が
この福音書の神の言葉をよく読んでいたなら、(一二六)
おれのからだの骨は、うずだかい石にまもられて、
ベンベヌート近くの橋のたもとで、
いまでもながらえていただろうに。
だが、いまも、ヴェルデの川ぞいの
〔ナポリ〕国の領外で 雨にうたれ風にさらされている始末だ。
それは牧者が燈を消して〔破門された人の死骸の野べおくりは灯をともさないで行なう〕 骨を移したからだ。
ひとがちょっとでも悔い改めるかぎりは、
牧者の呪いのために 永遠に〔神の〕愛に帰れないほど
〔罪は〕消えないものではないからな。(一三五)
だが、神聖な教会で破門されて死んだ者は、臨終《いまわ》のきわに悔い改めたとしても、
おん神をあなどってすごした生前の三十倍を
この山のそとにいなければならぬことは事実だ。
もちろん そんなおん神の思召しが、
この世の虔《つつ》ましい祈りで もっと短くなることでもあれば別だが。
どうだね、これからおれを悦ばすというなら、
おれのかわいいコスタンツァに
お前の見たおれのさまや ここでの掟のことをいうてくれぬか、(一四四)
ここではな、この世の者〔の計い〕次第で、物事はぐんとはかどるのだからな」(一四五)
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第四歌
ウェルギリウスとダンテは、岩壁の間のせまい急坂を四つんばいになって登って、最初の台地にたどりつく。そこで、師はダンテに、太陽が左から出るわけを説きあかし、ひとつの巨岩に近づいて、その背後に多くの魂のいるのを見る。そこの魂たちは、怠惰のために死ぬときにやっと悔い改めをした者どもで、そのなかのベラックワという楽器職人が、悔い改めのおくれた罰に、生前と同じ時間をそこの煉獄の門前で待たされているのだという。この歌では、理論的な問題で、中世風な問答のかたちが、ちょいちょい顔を出している。
喜ぶにつけ 苦しむにつけ、(一)
わたしたちの〔感じる〕力が〔それを〕感じとるときには、
魂はすっかりそれに集中してしまって、
もうほかの力は働こうとしなくなるものだ。
そのことは、身内には〔魂が三つあって〕
その一つに火がつくという〔プラトン学派の〕説の誤りなことの証明になる。
だから、魂をつよく引きつけるようなものを
見たり聞いたりするときは、
ひとは時がたってもそれに気がつかないものだ。(九)
というのは、時をはかる力は、
魂から離れているが、もう一つの力は魂とくっついていて
魂のすべてをそこに集めるものだからだ。
そのことは、マンフレディの話すのをきいておどろいたとき、
わたしがほんとうに経験したことだ。
「ここだよ、お前たちのたずねるとこは」と、
その霊たちが口をそろえて叫んだ所へ来たときには、
太陽がすでにたっぷり五十度も昇っていたことに、
わたしたちは気がつかなかったからだ。(一八)
ブドウが褐《かち》いろに色づくと、村の者は
茨で小さい熊手をつくって しばしば
〔畠の〕口〔ブドウを盗むためにつくった穴〕を棘のついた枝でふさぐものだが、
魂の群がわたしたちから遠のいてから、
師をさきに わたしがつづいて 二人きりで
登っていった径は、その口ほども大きくなかった。
サン・レオへ行こうと ノーリへ降りようと、
ビスマントーヴァやカックーメへ登るにしても、
足が頼りだが、ここでは飛ばないわけにはいかないのだ。(二七)
すばやい翼をつけ、大きな願いの羽根をつけて
この導師のあとにつづくだけで、
わたしに希望を与え、光になってくれたといえるからだ。
わたしたちは、岩場のえぐれた径を登っていったが、
岩壁は両側から迫っていて、
足もとの地面を手足をつかって這いあがらねばならなかった、
それから きり立った崖の岩鼻に出て
山の斜面がひらけてくると、
「先生」 とわたしはいった、「どの道をまいりましょうか」(三六)
すると師は、「一歩もさがるな。
だれか道にあかるい者が来るまで
わしについて山を登るのだ」
その山の頂は見きわめられないほど高く、
側面がすごく嶮《けわ》しくて
四十五度以上に傾斜している。
わたしは疲れはてて、いいだした。
「ああ、やさしい父上、ふりかえってご覧ください。
とまってくださらないと、はぐれそうです!」(四五)
「わしの子よ、あすこまでたどりつくんだ」
上手《かみて》の すこし突きでたところをさして、師はいった。
その台地は、こちら側からぐるっと取り巻いていた。
師の言葉にはげまされたので、
その台地を足の下にふむまで、
懸命に四つんばいになって わたしは師につづいた。
二人とも そこでとまって腰をおろし
それまで登ってきた東の方をふりかえって見た、
だれでも通ってきた道を顧みるのは気楽だからだ。(五四)
で、まず足もとの渚《なぎさ》に目をすえ、
それから太陽を見あげると、おどろいたことに、
陽の光が左側からさしていたことだ。
師は わたしが太陽の光に呆気《あっけ》にとられていることに
はやくも気づいておられた。
太陽はそこでは わたしたちと鷲座の間にあったのだ。
そこで師はいった、「もし〔双子座の〕|α星《カストレ》と|β星《ポルーチェ》とが
それぞれ上と下へ光をおくるあの鏡〔太陽〕と
いっしょにいることでもあれば、(六三)
赤味を帯びたあの黄道帯はまだ
大熊座の星々にもっと近くまわるのが見えるはずだ、
もっとも それまでの軌道〔黄道〕をはずれていない場合のことだが。
なぜそうなるのか、それが考えられるなら、
お前自身で考えてみるがいい。
あの地上にあるシオンの山〔エルサレムにある山。ここでは、山というよりエルサレムそのものをさす〕と
この〔煉獄の〕山とは、いいか、
二つとも同じ地平線にあるのに 別の半球だということだ。
だから、パエトンが愚かなばかりに 馬車を駆りそこねたあの軌道で、(七二)
なぜこの山へ行くのには山のこちら側を、
シオンの山へはあちら側を行かねばならぬかは、
お前の心がはっきり注意すれば わかることだ」
「まったくです 先生」 わたしはいった、
「これほどはっきり判ったことは これまでございませんでした、
わたしの頭はぼけていたようです。
ある学問〔天文学〕で赤道という
太陽〔夏〕と冬との間にいつものこっている
天体の運行する中央の帯は、(八一)
先生のおっしゃる理由で、ここから北の方に、
ヘブライの民がそれを熱帯の方に見たと
同じくらい 遠ざかっているのです。
ところで、およろしければ教えていただけませんか、
まだどれくらい歩かねばならないのでしょう。
この斜面は目もとどかないくらい上までせりあがっていますが」
すると、師はわたしに、「この山はな、
麓の登り口はいつも取っつきにくくなっているのだ。
だが、登るにしたがって骨折りがへるのだ。(九〇)
だから、お前の登る足が軽くなって、
小舟で川下りをするような格好で
気がはればれするようになれば、
そのときには、お前はこの径のはてに着くことになるのだ。
そこでお前も疲れをやすめることもできようというものだ。
それが本当なことはわしが知っている。これ以上お前にいうことはない」
師がそういいおえると、
そばで声がした、「行きつく前に、坐りこむことになりそうだら!」
その声にわたしたちは二人とも振り向いた。(九九)
と、わたしたちは左手に
大きな岩を見ていたが、
師もわたしも 声をきくまでそれには気がつかなかった。
そちらへ行くと、そこには数人の魂がいて、
ひとがぐうたらな格好で坐っているように、
その岩のうしろの日蔭にたたずんでいた。
その一人は疲れはてた様子で、
顔を膝のあいだへ低くおとして
両膝をかかえこんで坐っていた。(一〇八)
「先生」わたしはいった、
「すごく自堕落な格好のあの男をご覧なさい。
まるで怠惰と兄弟分のようですよ」
すると、その男は腿のうえで顔だけをうごかして
こちらを振りむくと、ちらと見ていった、
「さあ、登って行きなされ、あんたは元気だもの!」
その声で その男がだれだかわかった。
わたしは喘《あえ》いでいて 息がまだはずんでいたが、
その男のところへ行く妨げになるほどでもなかった。(一一七)
わたしが行くと、その男は頭をわずかにもたげていった。
「太陽が、左肩から馬車を曳っぱったのを、
あんた、本当に見たのかね」
そののろくさしたしぐさと 物をぽつりぽつりいうのに、
わたしの唇にはかるく微笑がうかんだ。
そこで、わたしは口を切った、「ベラックワ〔フィレンツェの楽器製造人。その怠け癖は生前から有名だった〕、
僕はもう君のことなぞ気にもしないよ。
なぜ君はここででんとしているんだ。だれか案内でも待ってるのかい。
それとも例の怠け癖がぶりかえしたのかい」(一二六)
すると、彼は「兄弟〔煉獄では、たがいに兄弟、姉妹と呼び合うしきたり〕、上の方へ行って何のたしになるかね。
〔煉獄の〕門の上にいる神の鳥〔天使〕が、
あたしには罪を洗いにいくのを許してくれないものね。
なにせ、あたしがこの世ですごしただけ、
天がこの門の外であたしをまわることになっているんだもの。
臨終《いまわ》のきわまで 悔い改めをためらっていた罰《ばち》ですよ。
おん神の寵《めぐみ》に生きるこころの人の祈りが
その前にあたしを救ってくれることでもなければ、
ほかのことではとてもとても 天上ではお聴き入れにはなりますまいて」(一三五)
師はすでにわたしにさきんじて登っておられて こういった、
「さて、行くとするか。
太陽が子午線にかかって見える。
夜〔の闇〕はその足で モロッコの岸辺をつつんでいるよ」(一三九)
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第五歌
「あわれみの歌」をうたいながら、一団の魂たちが近づいてくる。彼らはみな非業の死に方をした霊たちだ。しかし、臨終の床で悔い改めたので、地獄落ちはしなかった連中だ。そのなかの、ヤーコボ・デル・カッセロが、エステ家の者に殺されたさまを、モンテフェルトロがカンパルディーノの合戦で喉を突かれて死に、屍がアルノの河に流されたいきさつを、それから、シエナ生まれのピーアが、それに哀っぽい願いを一言いいそえる。
わたしはすでに それらの〔懶惰《らんだ》な〕魂たちから離れていた。(一)
そして、導師の足跡を追うていったが、
そのとき、うしろからわたしを指さして 一人が叫んだ、
「おい見ろよ、下からあがっていく奴〔ダンテのこと〕の左側には、
天道さまの光がさしていないようだぜ。
それに 歩きっぷりが生き身のにそっくりだ!」
わたしはその声のした方へ目をやると、
おどろいて、わたしだけを、わたしと光のとぎれ〔影〕だけを、
見つめている魂たちが目に入った。(九)
「お前のこころはなぜそんなものに惹かれて、
のろのろ歩いているのだ」 師がいう、
「そいつらの私語《ささやき》など お前と何のかかわりがあるのだ。
わしについて来るのだ。それらにはいわせておけ。
風が吹こうと、びくともせぬ
毅然たる塔のようにしていることだ。
ひとはとかく つぎつぎに想いが湧くと
ひとの想いがほかの考えをよわめて
目標をふみはずしがちなものだ」(一八)
「まいりますとも」というほかに わたしに何がいえただろう。
そういうと、わたしは赤面した。
ひとは ときには顔をあからめて許されることがある。
そうこうしていると、山腹を横ぎって
一団の霊が 「ミゼレレ」〔『詩篇』の句「ああ神よ、ねがわくはなんじの仁慈《いつくしみ》によりて我をあわれみ、なんじの憐憫《あわれみ》のおおきによりて、わがもろもろの愆《とが》をけしたまえ……」とあるのをミゼレレという〕をひと節ずつ歌いながら
わたしたちの方へ じわじわ寄ってきた。
そして わたしのからだが
日の光を透さないことに気づくと、
彼らの歌は「おお!」という長い嗄《しわ》がれ声に変わった。(二七)
そのなかの二人が、使いとみえて、
わたしたちに駆けよると たずねた、
「尊台《そんだい》のご身分をうかがいたい」
そこで師は、「きみたちを遣わした者に
戻って いうがいい、
この者のからだには本当に肉がついているとね。
わしが考えるように、この者の影を見て立ちどまったのなら、
それが何よりの答えだからな。
この者は亡者の後生《ごしょう》を祈れるのだから 粗略《そりゃく》にはするなよ」(三六)
かわたれどきの静かな空をきり裂く流星でも、
日の落ちるきわに八月の雲をたち切る稲妻でも、
またたく間に上手へとってかえしたこの二人ほど
すばやいものは見たことがない。
二人はそこへ着くやいなや、ほかの魂たちといっしょに
一目散にこちらへ駆けおりてきた。
「こっちへ押し寄せる連中はおおぜいだ、
お前に頼みにやってくるのだ」師はいった、
「だが、足はやすめまいぞ。歩きながら聞こう」(四五)
「おお、生まれたままの手足をもって、
悦びに身をきよめにいく魂よ」
叫びつつ彼らはやって来る、「足をしばらくとどめたまえ!
こちらにだれか見識りの者がいるかどうか見たまえよ。
もしおれば、この世へ消息を伝えていただきたい。
ああ、なぜとまってくださらぬ。なぜ そなたは聞こうとされぬのです。
われらはみな かつて非業の最後をとげた亡者で、
息をひきとるきわまで罪の者だったのです。
そのとき おん神の光が われらの目をさまし、(五四)
悔い許されて、おん神との和解にこの世から出てきた者です。
おすがたをあおぎたい願いに
おん神はわれらをお苦しめなさったのです」
そこで、わたしは、「あなた方の顔をとっくり見ても、
だれ一人見おぼえはないが、生まれつき善良な魂たちよ、
わたしにできることで お望みのことでもあれば いってください。
この導師のお方の足にしたがって、
世から世へ〔天の〕平安をもとめて歩いているわたしです。
その平安《やすらぎ》のためにも わたしはいたしましょうから」(六三)
すると、ひとりがいいはじめた、「誓わなくても、
だれひとりお前さんの善意を信じないものはない。
力にあまってご意向がものにならぬときは別ですが。
それで 他人《ひと》よりさきに わしにいわせてもらいますが、
もしお前さんがロマーニャとカルロの領地の間にある国〔マルカ・ダンコーナをさす〕へ
行きなさることでもあれば、お願いだが、
わしの重い罪がきよめられるため
わしのためによしなに祈ってくれるよう、
ファーノ〔マルカ・ダンコーナにある町〕でわしのことを鄭重《ていちょう》に頼んでみてくださらんか。(七二)
わしはそこの出だが、
アンテノーリ家の領内〔パドヴァ〕でわしは生命にかかわる深傷《ふかで》をうけ、
わしの魂のよりどころだった血がそこで流れだしたのだ、
そこでこそ 至極安泰だとわしは考えていたのだが。
エステ家のあいつ〔アッツォ八世〕が、理不尽な怨みをわしに抱いて、
そこで深傷《ふかで》を負わせたのだ。
オリアーゴ〔パドヴァとヴェネツィアのあいだの村〕で追いつかれたとき
ミラ〔プレンタ河畔の村〕の部落の方へでも逃げていたら、
わしはまだこの世で息をして生きていられただろう。(八一)
だが、わしは沼の方へ走っていったので、
葦や泥に足をとられて倒れるという始末だった。
そこで、地面が血管から流れた〔血の〕湖になるのを見たというわけだ」
するとまた、別の男がいった、「ああ、
お前さんをあの高い山〔煉獄にある浄罪の山〕へ行かせて、
わしを深くあわれんで助けてくれるように うまく運ぶといいのだが!
わしはモンテフェルトロ出のブオンコンテ〔「地獄」の第二十七歌に出てくるグイード・ダ・モンテフェルトロの子で、アレッツォのギベリーニ党のために出陣してカンバルディーノで戦死した〕だ。
ジョヴァンナ〔ブオンコンテの妻〕もだれも わしをかばおうとしないので、
顔をふせて わしはこの連中と歩いている」(九〇)
そこで、わたしはいった、「どんな力ですか 運命ですか、
あなたをカムパルディーノから こんなに遠ざけたのは。
あなたの死場所もわからないなんて」
「おお!」 彼はこたえた、「カセンティーノの麓で、
アルキアーノという名の川が アペニーノ山脈から出て
エルモ〔カマルドーリ会の修道院〕の上手で〔渓を〕横ぎっている。
わしは喉を突かれて、その川の名が
なくなるあたり〔アルノ河〕まで たどりついて、
足で逃げまわり 野を血だらけにしたのだ。(九九)
そこで、わしは目が見えなくなり、
マリアさまのおん名を口にして身をはてた。
そこでわしは倒れて、骸《むくろ》だけが残ったというわけだ。
本当のことをいうから、生きている者どもに伝えてくれ。
おん神のお使いがわしを掴むと、地獄の使いが叫んだのだ、
≪おい、天の者よ、なぜおれから横取りするのだ。
こいつをたかが一滴の涙でおれから取りあげるのかよ、
こいつから不朽のもの〔魂〕をさらっていくというなら、
おれは残りを存分に処分するぞ!≫(一〇八)
しめっぽい水蒸気が空にあつまって、
寒気がそれを固めるところまで昇ると、
とたんに水にして降らすことは よくご存じのことだ。
地獄の使いの悪意は邪《よこしま》なことばかり望んでいて、
〔雨風を呼ぶ〕知恵と結びついて、その本性の与える力で、
煙雨と風を捲きおこしたのだ。
やがて、日が落ちると、
プラトアーニョの山〔カセンティーノの西境にある高山〕の出っぱりから高い頂にかけて、
霧が包んで、その上空を深くとざした。(一一七)
こうして、湿気をはらんだ空が水になる。
それが雨となって降り、
土がもちこたえない雨は渓流におちこむ。
そして、それが大きな谷川になって、
大河〔アルノ〕の方へすごい奔流となると、
もう何ものも 押しとどめられないのだ。
おれの冷えきったからだを
その河口で見つけたアルキアーノの急流は、
それをアルノの河へ押しながし、死のきわに罪をさとって(一二六)
おれが胸に組んだ十字の腕をときほぐしたのだ。
それから 河べりへ河底へ おれのからだをころがして、
ついにその餌食〔砂礫〕でおれをおおいくるんだのだ」
「ああ、あなたさまがこの世にお帰りあそばして、
この長旅の疲れをおやすめなさいますときは」
第三の霊が第二の魂につづいて、いいはじめた、
「あたくしのことを思いだしてくださいまし、ピーア〔シエナの名門トロメイ家の淑女。初めバルド・デ・トロメイに嫁したが、夫の死後、ネルロ・デ・パンノッキエスキに嫁した。新しい夫は、アルドブランスキ伯爵の未亡人マルゲリータと結婚するために、ピーアをひそかに殺したとも、ピーアがマレンマ城から身を投げて死んだとも噂された〕でございます。
あたくしはシエナで生まれ、マレンマで身まかりました。
そのことは、あたくしにまず指環を贈って(一三五)
あたくしを娶ったあのひと〔二度目の夫ネルロのこと〕だけが存じておるのでございます」(一三六)
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第六歌
ダンテに、この世への伝言を頼む魂たちがつぎつぎにあらわれて離さない。非業の死をとげた人たちの霊である。ダンテはこの世の敬虔な祈りで煉獄の罪が許されるということに疑問をもったが、そのことは楽園へ入ってからベアトリーチェにきけという師の言葉に納得して、一刻も早く山上へ登りたいと、やきもきする。途中でソルデルロの魂に会って、マントヴァの郷里を同じくするウェルギリウスと、祖国をしのんで、たがいに歓晤《かんご》にふける。その有様を見て、ダンテは祖国イタリアと彼の故郷フィレンツェの府《まち》の荒廃したさまに心いためるが、歌では反語的にその国、その府を讃めたたえている。第六歌の後半がそれで、皮肉として、意味は反対にとるといい。
ザラ〔中世に流行したさいころ遊びの一種〕の賭《かけ》事がおきまりになると、(一)
負けた男はがっくりして居のこり、
骰子《さいころ》を振りなおしてみて あとから穴に気づくものだ。
連中はぞろぞろ〔勝った〕相手について出ていく。
前にまわったり、うしろからつかまえたり、
ある者は脇から出て自分のいることを知らせようとする。
勝った男は足もとめずに、そこそこに聞きながし、
手をのばして そいつらに何がしかをやって たからせない。
こんな風にして、押し合いから抜けだすものだ。(九)
それと同じで、わたしもそのひしめく霊の群のなかで、
あちこちのその魂たちに顔をむけて
約束をしては、やっとそれから抜けだした。
そこには、ギン・ディ・タッコ〔シエナの貴族出身の盗賊〕の凶手にかかって
最後をとげたアレッツォ出の判官もいたし、
あわてふためいて走りこんで溺れ死にした別の男もいた。
またそこには、フェデリゴ・ノヴェルロ〔カセンティーノの伯爵グィード・ノヴェルロの子〕が手をつきだして祈っていたし、
善良なマルツォッコをしたたか者に思わせた例のピサのあの男〔ピサのマルズッコ・デリ・スコルニジャーニの息子ガーノのこと〕もいた。
わたしは オルソ伯〔伯爵ナポレオーネ・デリ・アルベルティの子〕と、肉体から断ち切られたその魂〔ピエル・ドゥ・ブロッスの魂のこと〕も見た、(一八)
本人もいうように、それは罪を犯したからではなくて、
恨みとねたみのためだという。
それはピエール・デルラ・ブロッチァのことだ。ブランバンテ家のその|御料さま《マドンナ》は、この世にいるあいだは
あんな悪党といないように、
だから、ここで償いをするがいいのだ。
罪の魂がきよめられるのが早まるように
他人の祈りをばかり願っている そこの魂のだれからも
身軽になったわたしは いいはじめた、(二七)
「ああ、わたしの先生はご本〔『アエネイス』〕のどこかで、
天の法は祈りではかわらぬと
はっきりお書きになっておられると思いますが、
ここのひとたちはそればかりを願っております。
あのひとたちの希望は結局むだになるのでしょうか、
それとも、先生のお言葉をわたしが読みちがえているのでしょうか」
すると、師はわたしに、「わしの書いたことは、お前の解したとおりだ。
健全な頭でよく考えてみれば、
あれらの望みが間違っているわけでもない。(三六)
ここに住む魂が〔神に対して〕果すべきことを
愛のほのおが瞬間にやりとげることがあっても、
〔おん神の〕裁きの〔高い〕頂が譲るはずがないからだ。
それに、わしがそのことを論じたところ〔冥府〕では、
祈ったところで 過ちが償えるわけではなかったからだ。
だが、こんな深遠な疑問については、
真理と知性のあいだで 光となられるお方が、
何かお前におっしゃるまでは お前は決めない方がいい。
わかったか どうかな。わしがいっているのはベアトリーチェのことだよ。(四五)
お前はこの上の 山のてっぺんで、
はれやかに微笑する彼女に会えるのだよ」
で、わたしは、「先生、もっと急いでまいりましょう、
わたしは前ほど疲れなくなりましたから。
それに、いまはもう丘が影を落しています」
「この陽《ひ》のある間に」 師は答えた、
「行けるだけ行くとするか。
しかし、実際は、お前の考えているのとは別だな〔実際はダンテが考えているより遠いから〕。
お前が日の光をさえぎらずにいられるのは、(五四)
日がとっくに斜面にかくれているからだが、
あの上へ着く前に 日がもどってくるのが見えるはずだ。
さあ、向こうを見ろ。
魂がひとり
つくねんと坐って わしたちをじっと見ている。
あれがもっと近い径を教えてくれるかもしれん」
わたしたちがその男のところへ行くと、ああ ロムバルディアの魂〔ソルデルロ〕ではないか、
気品のある想い深げな目をうごかして
どうしたっていうのかしら 高ぶってつんとしておいでなのは!(六三)
そのひとは一言も物をいわずに
わたしたちを ただじろっと見るだけで通したが、
獅子のように目を据えていた。
それでも ウェルギリウスは近づいていって、
いい登り口を示してくれるように頼んだ。
そのひとはそれにもこたえずに、
わたしたちの国と身分だけをたずねた。
そこで、やさしい師が「マントヴァ……」と口をきると、
うちとけないその影の人は、(七二)
はじめいたところから師の方へ身を起こしている、
「おお、マントヴァの者か、おれもお前の国の者だ〔ソルデルロのこと。マントーヴア付近のゴイート出身の彼は、伝記が詳かでないが、十三世紀のトルヴァドル派の詩人だったらしい〕」
そういって二人は抱き合った。
ああ、奴僕となったイタリアよ、苦しみの宿よ、
船頭〔王家〕もなくて 嵐の中をただよう舟よ、
諸国の女王でなくて淫らな女の巣くう宿よ!
その気だかい魂は、なつかしい故園の名をきいただけで、
ここ〔煉獄〕でも 故里のひとをいそいそと
こんなにも歓んで迎えたではないか。(八一)
だのに、いまもお前の国に生きている人たちは、
戦いのない日をすごすこととてなく、
城壁と濠による徒輩《やから》が噛みあっているのだ。
あわれな国よ、お前の海辺をさがしまわっても、国の中を見まわしても、お前の国の
どこに平和をたのしんでいるところがあろうか。
お前の鞍《くら》がからっぽなのに、ユスティニアヌスが
手綱をひかえたとて〔ユスティニアヌスの出した法律のこと〕何の足しになるだろう。
手綱のない方が 恥のうわ塗りをせずにすむのだ。(九〇)
ああ、おん神をひたすら敬う〔教会の〕ひとたちよ、
神のおさとしをわきまえているのなら、
皇帝を鞍に乗せておくべきだ。
きみたちが手綱をとってからというもの、
乗り手の手さばきがまずいので、
見ろ、この馬〔イタリア〕の荒れ加減を!
ああ ドイツのお方アルブレヒトか〔ハプスブルク家のアルブレヒト一世のこと。一二九八年に選ばれてローマ皇帝になったが、イタリアへは行かないうちに、一三〇八年五月に甥のヨハンネスに殺された〕よ、その馬を
見捨てたから 向かってきて手におえなくなった、
あなたはその鞍にまたがるべきだった。(九九)
正義の〔おん神の〕裁きよ 星々からあなたの血族へ下って、
あなたの後継ぎが畏れるほどに
常にもあらぬ明白な裁きがあってほしいのだ。
あなたも あなたの父祖も、あの地の
利欲に目がくらんでいては、
帝国の花園は蕪《あ》れはててしまうだろう。
思慮のないひとよ、見に来るがいい。
モンテッキ家とカッペッレッティ家と
モナルディ家とフィリペスキ家〔のありさま〕を〔モンテッキとカッペッレッティは、ともにヴェローナの名家。ともにギベリーニ党である。モナルディ家はグェルフィ党、フィリペスキ家はギベリーニ党で、ともにオルヴィエトの名家。ともに地方の政争のはげしさを述べている〕。(一〇八)
あれは悲運をこぼし、これは疑心におののいている。
情《つれ》ないひとよ。ここへ来て見るがいい、
お前の侯伯の逆境を、またその荒廃を思いやるがいい、
サンタフィオーラの伯爵領が どんなに悩んでいるかわかるだろう〔サンタフィオーラはシエナのアルドブランデスコ家の領地だったが、この一族はシエナのグェルフィ党と争って勢力を失い、その結果サンタフィオーラには盗賊が横行するようになった、ということ〕。
お前にひとり捨てられた寡婦《やもめ》のローマを
見に来るがいい。夜も昼も〔お前を〕呼んでいるぞ、
「皇帝《カエサル》さま、なぜいっしょにいてくださらないの」と。
彼らがどんなに愛し合っているか、見に来るがいい、
われわれを憐む心がお前をうごかさないのなら
来て、お前の名に恥じるがいい!(一一七)
われわれのために磔刑《はりつけ》におかかりになった
ああ、いや高いおん神《ゼウス》さま、申し上げるのも何ですが、
正しいお目をよそへお移しになられたのでしょうか。
それとも おん神のおぼしめしが深いもので、
わたしたちの想いおよばぬ遠いところで
この禍《わざわ》いを福《さいわい》にするお心づもりかもしれませんもの。
と申すのは、イタリアの府《まち》はどこも
暴君がいっぱいだし、賎民は賎民で徒党をくんで、
マルケールス〔カエサルの敵のクラウディウス・マルケールスをさす〕のようなことになっているからだ。(一二六)
わたしの府《まち》フィレンツェよ、お前にはかかわりのない
こんな本筋をそれた話ですっかり納得してるのも、
お前の市民の頭のいいおかげだ〔このあとの部分はダンテの皮肉〕。
こころに正義感をもつ者は多いが、分別もなく
弓をとりはしないので、矢を射るのがおくれる。
その癖、お前の市民は正義を口の端にのせるのだ。
一般に公共の仕事を拒む者は多いが、
お前の市民は呼ばれなくても買って出て、
「おれが引き受けた!」と叫ぶのだ。(一三五)
いまにお前は幸福になるよ、それだけの理由があるからね。
お前はたしかに富んでるよ、平和だし、頭もいい。
わたしが本当だといっても 結果はやがてあらわれるのだ。
アテナイとラケダイモン〔スパルタ〕は古い律法をつくり、
あんなに開けた国だったが、
暮らしよくする点では、お前にくらべると
大して手本にはならなかった。
お前の法規はいやに細かすぎて、十月に紡《つむ》いだものが
十一月の半ばまで もたないのだ。(一四四)
お前のおぼえているだけでも
法律、通貨、役職、しきたりを
何度変えたか、人間を何度入れかえたことか。
もしお前の記憶がたしかで、〔分別の〕目がきくのなら、
羽根布団の上でやすみもならず、
身もだえして苦痛をまぎらわす
病みほおけた女とそっくりなお前が見えるはずだよ。(一五一)
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第七歌
ソルデルロとウェルギリウスが話をしているうちに、復活祭の日曜日が暮れかかる。夜の闇には煉獄の山へ登れない理由をソルデルロにきいて、夜明けまで山窪の平地で待つことになる。そこには、この世では皇帝、国王だった魂たちがいて「あわれみ深き聖母さま」の歌をうたっている。透きとおるような大気のなかで、樹々や草が目もさめるようにあざやかに色どられ、かぐわしい芳香がたちこめていて、舞台はますます天国風になってくる。ルドルフ皇帝、ボヘミアの国王オットカル、フランス王フィリッブ・ル・ベルなどが集まっている。
いんぎんに ほくほくして、会釈を三、四度くりかえしてから、
ソルデルロは身をひいていった、
「どなたさまでしょうか あなたさまは」
「おん神のみもとに昇るにふさわしい魂が、
この山へ向かうその前に、わしの骨は
オクタウィアヌスの手で葬られたのだ。
わしはウェルギリウスだ。信仰をもたなかったばかりに、
ほかに罪とてなかったが、わしは天国を失ったのだ」
そのとき、わたしの導師はそう答えた。(九)
あたかも 目の前に思いもかけぬものを見て
半信半疑で 「そうかしら……とても」
といいながら おどろくひとのように、
彼もそんな感じで 目を伏せると、
うやうやしく師のところへ来て、
目下の者がすがりつく〔腰の〕あたりを抱いていった。
「ああ、ラテンびとのほまれよ、あなたのお作を通して
わたしたちの言葉〔ラテン語〕のできるかぎりをお示しくださいました。
ああ、わたしの生まれた故郷〔マントヴァ〕の永遠のほまれよ、(一八)
あなたさまにお会いできるとは、何という功徳《くどく》でしょう。恩寵《めぐみ》でしょう。
あなたのお言葉をきく資格がございましたら、
地獄のどの圏谷《たに》から来られたか おきかせくださいませんか」
師はこたえた、「憂《うれ》いの国のすべての圏谷《たに》をめぐって、
わしはここまで来たのだ。
天上のお威力《ちから》がわしをうごかし、そのおかげでいくのだ。
何かをしたからでなくて、これという罪を犯さなかったから、
きみがいま待ちのぞんでおり、わしが死んでから知った
あの高いおん神にお目見えする福《さいわい》をなくしたのだ。(二七)
この下の辺獄《リンボ》では罪を呵責《かしゃく》する苦しみはないが、
ただ闇黒《くらやみ》で そこで聞こえる悲嘆《かなしみ》は、
いたいたしい叫びではなくて溜息だ。
そこで、わしはいとけない幼児《おさなご》たちといっしょにいるのだ。
にんげんの原罪を洗礼できよめられる前に
死の歯が噛んだ幼児《こども》たちだ。
そこでわしといるのは、三つの神聖な徳〔信仰、希望、慈悲のこと〕で
身づくろいしなかった者たちもそうだ、
悪徳はないが、ほかのあれこれの徳を知ってしたがった者たちだ。(三六)
それはそうと、もしきみが知っていて 許されているのなら、
わしに道を教えてもらえまいか。
煉獄の正しい入口のあるところへ片時《かたとき》もはやく行けるように」
彼は応えた、「ここでは、きまった割り当てられたところなどありませんから
上の入口のあたりまでは参れます。
わたしの行けるところまでお伴いたしましょう。
だが、ご覧なさい、もう日がかたむいていますよ。
夜になると登れませんから、
足どまりにいいところを考えるのがいいでしょう。(四五)
ここの右手の離れたところに魂たちがいますから、
よかったら、そこへご案内いたしましょう、
みなもあなたさまにお見知りねがえば喜ぶにちがいありません」
「それはどうしてだ」 師はまたはじめた、
「夜分のぼる者は他人に邪魔されるからか。
登れないので登らないのか」
すると、ソルデルロは気さくに 指で地面に一本線を引いて、いった、
「いいですか、日が落ちたあとでは この線でさえまたげませんよ。
上へのぼるのに 夜の闇のほかは 別に何の妨げるものもありません。(五四)
闇が登らせませんし、
気持をくじくのです。
地平線が太陽をとじこめているあいだは、
闇といっしょに下りて、
山の裾野をさまよい歩くことになりかねませんからね」
すると、わたしの主は、
おどろいたといった様子でいった、
「連れていってもらおうか。さっききみがいった気持よく足をとめておられるというところへ」(六三)
わたしたちがそこからすこし遠ざかっていたとき、
この世の峡谷が深くえぐれているように、
その山が窪んでいることに わたしは気がついた。
「あそこへまいりましょう」 その魂がいった、
「あの 斜面が山の窪地になっているところへ。
そこで夜明けを待つとしましょう」
その窪地の側面をはすに通じている小径は、
急になったり 平らになったりして、
一方の縁はそこで半ば以上も崩れおちていた。(七二)
純金や純銀のいろ、緋のいろや純白のいろ、それに
濃紺のいろ、またつややかに明るい樹木のいろ、
砕いたばかりのみずみずしい緑玉石《エメラルド》でさえ、
この峡谷のふところにある草花には、
色としては どれもまさりそうにもなかった。
小さいものが大きいものにかなわないようなものだ。
自然はそこでは ただ色づけしたにとどまらない、
さらに何千というかぐわしい匂いが、
えもいえぬ 渾然とした香りをかもしだしていた。(八一)
そこのみどりの上、花の上に坐って、
魂たちが≪憐みふかきおん母≫の歌をうたっているのが見えた。
その群は谷の窪《くぼ》にかくれて そとからは見えなかった人たちだった。
「いま落ちかかっている日が寝《やす》みにいく前には」
わたしたちを連れていったそのマントヴァのひとはいいはじめた、
「あの群のなかへお連れするわけにはいきません。
下の谷であの人たちのなかへ入りこむよりも、
この岩場からの方が、みんなのしぐさや顔つきが
もっとよくご覧になれますよ。(九〇)
いちばん高いところに坐って、
なすべきことをなおざりにしたような面つきをして
ひとが歌うのに 口一つうごかさないひとは、
かつての皇帝ルドルフで〔ハプスブルク家のルドルフ。これにつづく数行は、ハインリッヒ七世がイタリアの統一をはかって成功しなかったことをいっている〕、
傷をいやそうとしたイタリアを殺したひとです。
彼は別のひと〔アリーゴ七世〕の手で立ち直らせようとしたが手遅れだったのです。
ルドルフを慰めてるように見えるひと〔かつてのルドルフの仇敵だったオッタッケロ二世〕は、
モルダウで起こった水がエルベ河にそそぎ、
さらにエルベ河がそれを海へもっていくあたり〔ボヘミア〕を治めていたのです。(九九)
オッタッケロという名だったが、襁褓《むつき》にくるまれていたころでさえ、
安逸と盲信ですごしたその子の髯のヴェンチェスラウスより高く買われていたのです。
いかにも優しそうな男〔ナヴァル王テバルド二世の兄弟エンリケ〕によりそって
相談事でもしているような鼻べちゃ〔フランス王フィリップ三世。スペインのアラゴーナの王ペドロ三世に敗れ、退却中に死んだから、フランス王朝の家紋のユリの花をしぼませたという〕は、
逃げながら ユリの花〔フランチャ家の紋〕をしぼませて死んだ男です。
ご覧なさい、あそこであんなに胸をたたいていますよ。
ほら、もう一人のも 溜息をついて
頬をてのひらに乗せているでしょう。
あの二人〔フランス王フィリップ三世と四世のこと〕はフランスの禍いの父と岳父です。(一〇八)
身の堕落と汚れをさとっているし
それに〔槍に〕突かれて苦しんでいるのです。
鼻筋がりゅうっととおった男〔シャルル・ダンジュウ〕といっしょの
歌をうたっている筋骨《きんこつ》たくましい男は、
あらゆる美徳の帯をまとったひと〔スペインのアラゴーナのペドロ三世〕です。
そのうしろに坐っているあの若者が、
王としてそのあとを継いでいたとしたら
父から子へと徳がうまくつながったでしょうが。
ほかの世嗣ぎのことは いわずもがなです。(一一七)
ヤコモとフェデリーゴ〔ヤコモはペドロ三世の次男。フェデリーゴはペドロ三世の三男〕は その領国をもってはいますが、
とてものこと 父君にまさる徳などもっていないのです。
にんげんの善徳が子孫〔枝々〕に伝わることはめずらしいことですが、
それは、徳をお与えになるもの〔神〕が、
人間から求められることをおのぞみになっておられるからです。
わたしのいうことは、あの鼻べちゃばかりか、も一人のいっしょにうたっているピエールにもあてはまるし、
プーリアやプロヴェンツァ〔この二つの地は、シャルル・ダンジュウについでその子のシャルル二世が治めているが、悪政で人民が心配している、ということ〕が悩んでいるのも同じことです。(一二六)
〔芽ばえた〕樹は、その種子よりもひどく見劣りするものですが、
コスタンツァもそれで、ベアトリスやマルグリットを見さげて
いまでも自分の夫を鼻にかけています。
あそこでひとり坐っている 質素な一生をおくった王をご覧なさい。
イギリスのヘンリ王です。
あの王はその枝〔イギリス王ヘンリー三世の子のエドワード一世をさす。名君のほまれがあった人〕から すぐれた芽を出しました。
ずっと下の方のひとにまじって 地面に腰をおろして
上の方を見あげているひとは、グリエルモ侯〔モンフェラートの侯爵グリエルモ七世のこと。北イタリアに多くの領地をもち、ギベリーニ党員としてグェルフィ党と戦った。一二九〇年に、ピエモンテのアスティの住民が、アレッサンドリアの住民に反乱を起こすようにそそのかしたので、グリエルモはそれを鎮定に行って、あべこべに捕えられて死んだ〕です。
あのひとのせいで、アレッサンドリアに戦さを起こさせて(一三五)
モンテフェラート〔領〕とカナヴェーゼ〔の府〕を涙にくれさせているのです」(一三六)
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第八歌
ここも地上楽園へ入る前域である。その暮れなずむ窪地には、痛悔を怠った魂たちがいる。魂たちが「光きえざるさきに」という夕暮れの祷《いの》りの歌をうたっていると、剣をもった天使が二人、天上から降りてきてその谷間の見張りをする。ダンテは旧知のニーノ判事を見つけて話すと、彼はこの世においてきた幼い娘のジョヴァンナのことをくれぐれも頼む。と、イヴを誘ったかのような蛇があらわれるが、たちまち天使に追いはらわれる。霊のなかから、クルラード・マラスビーナも出てきて、ダンテに七年後にはその一門の世話になるだろうと予言する。
なつかしい友に別れをいった日の、(一)
船出するひとの想いが〔故郷に〕かえってきてこころがほぐれ、
暮れていく日を悼《いた》むかのような遠い鐘の音をきくと、
異境を旅するひとが、はやくも
愛に〔胸を〕刺されるような
そんな〔夜の〕時刻だった。
そのとき わたしはもうひと〔ソルデルロ〕の声など聞こえなくなって、
魂のひとりが立ち上がって 手で指さしてしたがわせているのを、
じっと見はじめていた。(九)
その魂は神に、「祈りのほかには気など散らせません」とでもいうように、
東の方を目できっとにらみながら
合わせた掌をたかだかとあげた。
≪光のきえざるさきに≫〔という祈りの歌〕がその口から虔《つつ》ましく出たが、
その節まわしがとてもきよらかだったので、
わたしは我を忘れんばかりだった。
すると、ほかの魂たちも、みな目を天のめぐる方へむけて、
つつましげに こころ優しく
その歌をおわりまで すっかりつづけてうたった。(一八)
読者よ ここで気をつけて〔事の〕真実を見きわめてほしい。
その〔比喩の〕帷《とばり》は いまではほんとに薄くなっていて、
その内にある真実を見とおすことは たしかにたやすいからだ。
わたしは見たのだが、そのけだかい魂の群は、
口もきかずに天を仰いでいて、
蒼ざめてへりくだって 何かを心待ちしているようだった。
と、切っ先をたち切ってなくした〔敵から身を防ぐための剣だから〕ふた振りの燃える剣をたずさえた天使がふたり、
天上〔のマリアさまの膝〕を出て 降りてくるのを見た。(二七)
天使たちは、出たばかりの嫩葉《わかば》のような
浅緑《あさみどり》に身づくろいをしていたが、
それをうしろに曳いて みどりの羽根をうちなびかせていた。
ひとりはわたしたちの上手《かみて》に来てとまり、
もうひとりは向かい側の端《はし》に降りたったので、
魂たちをその中にして囲むようになっていた。
わたしは、その天使の金髪はたしかに見分けがついたが、
その顔〔のかがやき〕には、ひどくどぎまぎさせる力があって、
目がくらんでしまったのだった。(三六)
「おふたりともマリアさまのお胸〔聖母マリアの座エンピレオのこと〕から来られたのです」
ソルデルロがいった、「じきに蛇が来ましょうから、
この谷間の見張りに来られたのです」
そう聞くとわたしは、蛇がどっちの道から来るのかわからないので、
あたりを見まわしてから、こころも凍る思いで、
頼もしい〔師の〕肩へぴったり身を寄せた。
ソルデルロはなおも続けた、「これから谷間の
名だたる人の影のなかへ降りていって 話し合ってみましょう。
魂たちもあなたに会えて 本当に喜ぶでしょうから」(四五)
三歩ばかり降りたかと思うだけで、わたしは下におりていた。
そして、ひとりの魂がわたしだけを じっと見ているのに気がついた。
わたしを思いだしたいふうだった。
そのときは空がすでに暗くなりかかっていたが、
彼の目にもわたしの目にも、はじめに見えなかったものが
はっきり見えないほどではなかった。
彼はわたしに寄って来、わたしも彼に近づいた。
やさしい判事のニーノ〔ピサのグェルフィ党員ジョヴァンニ・ヴィスコンティとウゴリーノ伯の女との間に生まれたニーノ・ヴィスコンティのこと〕、すごくうれしかったぞ、
きみが罪人どもと〔地獄に〕いなかったとわかったときは!(五四)
たがいに心から いそいそと挨拶をつづけたが、
彼はたずねた、「どれだけ経ったのかい、きみが海をはるばる渡って
この山の麓へたどりついてから」
「ああ!」 わたしは彼にいった、「けさ着いたばかりだ。
かなしい場所をとおり抜けてね。まだ第一の生にいきているが、
こうやって旅をして 第二の生をつかもうとしているのだ」
わたしの返辞をきくやいなや、
ソルデルロとニーノは後ずさりして、
突然のこととて とまどったひとのようだった。(六三)
ひとりはウェルギリウスに、もうひとりは
そばで坐っていたひとをふり向いて叫んだ、
「起《た》てよ、クラード! お恵みとしておん神の望まれたことを見に来いよ」
それから、ニーノはわたしに向かって、「御業《みわざ》のそもそもの理由を
おかくしになるお方、またわれわれには到り得る手段《てだて》のないお方〔神〕に
きみが負うているこの特別の恩寵によって、
きみがあの広い波のかなた〔現世〕に行くことでもあれば、
ぼくの〔娘の〕ジョヴァンナに、ぼくのために
罪のない者にはお答えなさる天に 祈りをあげるよう伝えてほしい。(七二)
あれの母親〔ニーノの妻〕は、〔喪の〕白い面帛《おもぎぬ》をはずしたからには、
もうぼくを愛してはいまい。
だが、かわいそうに、あれはいまだにあこがれている。
あれを見ても わかりすぎるくらいわかることだが、
女というものは、目で見、肌にふれて、しばしば火をつけないと、
愛のほむらはなかなか燃えつづかないものだ。
ミラノ勢の野営でかかげる蝮《まむし》〔ミラノのヴィスコンティ家の紋章〕は、
ガルーラの雄鶏〔ピサのヴィスコンティ家の紋章〕がつくってくれるほどには
その墓をきれいに飾ってはくれまい」(八一)
そう彼はいいながら、その顔には
まっとうな熱意がはっきり現われていたが、
心のなかではそれの燃えるのを抑えている様子だった。
わたしの目は、何か不思議なものをもとめて、
空ばかりを、星々がすごくのろのろしてるあたりばかり追っていた。
地軸に近すぎるので、星々のめぐりが遅いのだ
すると、導師はわたしに、「わしの子よ、上の方に何かあるかね」
わたしは師に、「こっちの南極〔の空〕をすっかり燃やしている
あの三つの星〔実在の星ではなく、ダンテのイメージだろうという。すなわち、三つ星は信仰、希望、愛を表わしていて夜の星、四つ星は思慮、公儀、剛気、節制の徳を表わしていて活動的で昼の星だという〕の光です」(九〇)
師はそこで、「お前が今朝がた見た
四つの明るい星は〔水平線の〕向こう側へ沈んだのだ、
それのあったところへ この星々がのぼってきたというわけだ」
師が話している最中に、ソルデルロは話を自分がとって、いった、
「ご覧なさい、向こうにわれわれの敵〔蛇のこと〕が」
そちらを見るように指をむけた。
この狭い谷合いの、囲いもない側に
一匹の蛇がいた。
おそらくこんな風にしてイヴに苦いものを食わせた奴だろう。(九九)
草花のあいだから呪いの紐〔蛇〕が這いでてきた、
ときどき頭をもたげて、獣が毛並みをととのえるように
背中をなめていた。
それに、天上の鷹〔天使〕がどんな動きをしたかは、
わたしは見なかったから 述べるわけにはいかない。
だが、鷹があいついで飛んできたのは よく見えた。
その緑の〔天使の〕翼が大気を切る音をきいただけで、
その蛇は逃げてしまった。すると、天使たちも
とびたって、そのさだめの場所へ たかだかととって返すのだった。(一〇八)
名を呼ばれて 判事のそばへ寄ってきていた影は、
天使たちが蛇を襲っていた間でも、
わたしから目を離さなかった。
「こうしてきみを天上へ導くかがやかしい恩寵《みめぐみ》が、
花の綾なす七宝の頂上〔地上楽園〕へ行きつくに要るだけの
蝋〔の助け〕をどっさり きみの自由な意志のなかに見つけられるといいが〔神の恩寵の灯がもえつづくためには、ダンテの自由意志のなかに、それをもやすだけの蝋を十分にととのえる必要がある、ということ〕」
その影はいいはじめた、「ヴァル・ディ・マグラ〔マグラ渓谷地帯〕やその界隈の
確かなニューズを知ってるなら、わしに話してくれまいか、
わしはかつてそこの領主だった。(一一七)
クルラード・マラスピーナと呼ばれていたが、
先代ではなく そのあとを継いだ者だ。
わしが一族にだけそそいだ愛を ここできよめられているのだ」
「おお!」と、わたしはいった、「あなたの国へは
わたしはまだ行ったことはありませんが、
ヨーロッパじゅうの、いやしくもひとの住むところでなら、
あなたのお国の名は あまねく知れわたっています。
あなたのご一族のお名のほまれとして
ご領主をその国を讃めたたえない者はないのです。(一二六)
それで、お国へ行ったこともない者でさえ、
それを承知しているのです。
こうやってこの〔煉獄の〕上へ行けるわたしですもの、
あなたに誓って申しますが、剣のほまれにせよ、財布〔施し〕のほまれにせよ、
あなたのご一族の名はまだ汚れておりません。
罪ふかい法王〔ボニファキウス八世〕が、人の世をはずれているからに、
あなたのご一族の家風と資質だけが、特権を与えられて、
ただひとり邪道をさげすんで正しく歩いておられるのです」
すると、彼はいった、「そうか、では、いくがいい。(一三五)
牡牛座〔の星々〕がすっぽり四本の脚にかくれたりかがやいたりする床《とこ》〔空間〕へ
太陽が七度いこいに来ないうちに
もしおん神の裁きが 順調なら、この鄭重なきみのご意見は、何人の言葉にもまして、
大きな釘をきみの頭の芯にぶちこむことになるはずだから」(一三九)
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第九歌
眠りこんで、ダンテが神秘的な夢をみているうちに、ルチアが彼を煉獄の門前まで運んでくれた。目がさめてみると、すでに復活祭の月曜の朝の八時をまわっていた。ウェルギリウスが事の次第をいってくれたので、不安もなくなって、ダンテは歩きだして、煉獄の入口の門の前までいく。そこの煉獄の門の石段にいる天使に、ダンテは跪いて門をあけてくれるように頼むと、天使は剣の尖《さき》で、ダンテのひたいにPの字を七つ刻みつけた。そして、天使が金の鍵、銀の鍵をまわすと、門がひらいて、楽の音が嚠喨《りゅうりょう》とひびいてきた。
老人ティトーネ〔太陽〕の側女《そばめ》〔のあけぼの〕は、
やさしい夫《つま》の腕《かいな》をかいくぐって、(一)
はやばやと東向きの露台でしろく輝いていた。
彼女のひたいには宝石〔星〕がきらきらして、ひとを打つ尾をもった
冷たい生きもの〔蠍《さそり》〕の形をしていた。
夜の歩みは、わたしたちのいたそこでは、
二歩〔二時間〕のぼっていたが、
三歩目〔三時間目〕には はやその翼を下に向けていた〔夜の八時半すぎ〕。
そのとき アダムからうけたわたしのからだ〔肉体〕は眠りに負けて、
わたしたち五人〔ダンテ、ウェルギリウス、ソルデルロ、ニーノ、クルラードの五人〕が坐っていたあたりの
草の上で 横になってやすんでいた。
あけ方ちかいころなので 燕が
すぎさったかなしみ〔トラキア王テレウスにはずかしめられて燕になったピロメラが、その悲しい出来事を思いだしている〕でも想いだしたのか、
ものわびしく歌をうたいはじめていたが、
そのときのわたしたちの心は、
からだから遠くさまよいでて、くさぐさの思いにとらわれることもなく、
夢さえも おん神のように神々しく、(一八)
その夢のなかで、空にいる一羽の鷲が、
黄金の羽根のつばさをいっぱいにひろげて
まさに舞いおりようとするのを見たようだった。
わたしはまるで、神々のつどいのためにガニュメデスがさらわれて、
仲間をおき去りにしたあの山〔プリュギアのイーダの山〕の上に
いるような気がしたものだ。
わたしは心のなかで考えた、「たぶんこの鳥がここだけ襲うのは、
この鳥のならわしだろう。ほかのところで〔獲物を〕爪にかけて
舞いあがるのは いやなのだろう」(二七)
それからしばらくは、鷲は大空をまわっているようだったが、
すさまじく、雷電《いなずま》のように舞いおりてきて、
火天〔火炎界のこと。空気のまわりにある火で、地球と月天との間でもえていると信じられていた〕にまで わたしはさらわれていったようだった。
そこでは わたしも鷲も燃えあがるかと思われた。
夢のなかの火勢がひどく激しいので、
わたしの眠りはやぶられることになった。
〔いにしえの〕アキレウスの母親が息子を
ケイロンから奪って
スキュロス〔の島〕へ腕にかかえて運んだとき、(三六)
(そこからギリシア人〔オデュッセウス〕に連れ去られはしたが)
われに返ったアキレウスは寝ぼけ眼《まなこ》で、
あたりを見まわすことしかしなかった。
わたしも、顔から眠気がとれると、
ぎょっとして血も凍るひとのように、
息をふるわせて まっ青になってしまった。
そばには 慰め顔の師がひとりいるだけで
太陽は昇ってから二時間の余も経っていた。
そして、わたしの顔は海の方を向いていた。(四五)
「こわがることはない」 師がいった、
「安心するんだ、願ってもないところへ来ているのだ。
おずおずせずに、気をたしかにもつことだ!
お前はとうとう煉獄へたどり着いたのだ。
ほら、向こうにぐるっと取り巻いている岩場が見えるだろう。
向こうの岩の切れ目に入口が見えるだろう。
いましがた、日の出の前のあけ方に、
この下をかざる花々の上で
お前の魂が〔肉体の中で〕眠っていたとき、(五四)
ひとりの淑女《あてびと》が見えていわれたのだ、≪あたくしはルチア〔神恩の光、という意。ベアトリーチェ側近の女神のひとり〕です。
この眠っている者をあたくしに連れださせてください。
連れだして、この者の旅を助けるのです≫
で、ソルデルロもほかの気だかい影たちもそこに居残ったのだ。
すでに日はあかるかったから、その淑女《あてびと》は
お前を抱いて上へのぼられたのだ。このわしもそのあとについて。
そのお方はお前をここに置かれたが、その前に、
うつくしい眼眸《まなざし》で あの開いている入口をそれとなくお示しになられたのだ。
そのお方が行かれると、とたんに眠りもいってしまった」(六三)
ひとはあるがままの姿が見えると、
疑いが確かめられて安堵し、
怖れがなぐさめに変るものだが、
わたしもそのように変った。師はわたしから
疑いと怖れが消えたのを見てとると、
岩場をのぼりはじめ、それにつづいて わたしも上をめざした。
読者よ、わたしがこの歌の内容をどんなに高尚にしたか
よくわかってくれるだろう。だから、さらに高い調子で
その内容をうたっても おどろかないでほしい。(七二)
わたしたちは さらに近づいた。すると、さっき
崩れたように思われた場所の一角に来ていた、
岩壁の切れた割れ目のようなところである。
門が一つ見えた。その下にはそこに通じる
色のちがった石段が三段〔煉獄の門の前の三つの石段は、それぞれ、心の悔い、罪の告白、行ないのつぐない、の表象だという〕あって、
番兵がひとり まだ一言もいわずにそこにいた。
そこで、目をいっぱいに見はると、
いちばん上の石段にその番兵は坐っていたが、
その顔は、目がくらくらして見るに堪えないほどだった。(八一)
その番兵は抜き身の剣を手にしていたが、
それが光をこちらに反射するので、
わたしは何度目を向けても見えなかった。
「お前らは何が望みだ、その場でいえ」
番兵は口を切った、「どのお権威《ちから》だ、みちびくのは。
みだりに登って ほぞを噛まぬように気をつけろ!」
「こういうことをよくご存じの天上の淑女《あてびと》に」
と、師は番兵に返した、「いましがた
≪あちらへ行け、そこに門がある≫と 目で
お示しになられたばかりです」(九〇)
番兵はていねいに また言葉をつないだ、
「うん、そのお方がお前たちの歩みを福《さいわい》にしてくださるだろう。
では、この石段のところまで来るがよかろう」
わたしたちはそこへ行った。最初の石段は、
つるつるに磨きあげて塵ひとつない白い大理石で、
わたしの姿がありありとそこに映っていた。
二段目の石段は紫いろよりはもっと暗い
灼けてざらざらした石で、
縦に はすかいに 亀裂《ひび》がはいっていた。(九九)
いちばん上に置かれた三番目の石段は、
血管から噴きでた血かとも見える
もえるような色のまだらの石である。
この石段には、天使が両足をのせて、
わたしには金剛石らしく見える閾《しきい》の上に坐っていた。
そこの三つの石段を「閂《かんぬき》をはずしてもらうよう
つつしんで頼め」
という導師に手をひかれて
わたしはいそいそと登っていった。(一〇八)
わたしは天使の足もとに恭《うやうや》しくひれ伏して、
慈悲をもって わたしに門をおあけくださいと懇願したが、
その前に、わたしは自分の胸を三度たたいた。
天使は わたしのひたいに 剣の先で
Pの字〔Peceati(罪)という字の頭文字で、煉獄では七つの罪がきよめられねばならないので、天使が剣でダンテのひたいにそれを七つ刻んだ〕を七つ刻みこんでから いった、
「中へ入ったら、この傷は洗いおとすのだぞ」
灰か、掘りだされた土の乾いたのか、
天使の衣はそんな一色で、
その衣の下から 天使は鍵を二つ曳きずりだした。(一一七)
一つは金で、一つは銀である。
まず白い方を使い、それから黄いろい方を使って、
わたしの望みどおりに 門をあけてくれた。
「この鍵のどれか一つでも
錠前にぴったり合ってまわらないと」
天使はいった、「ここの入口は開かないのだぞ。
金の鍵はもちろん大事だが、銀の鍵とて
開けるときには すごく技術と知恵がいるのだ。
これが物の結び目をときほぐすものだからな。(一二六)
この鎖はピエートロ上人から授かったもので、
わしの足もとに跪くものがあって、思案に窮することがあっても
〔門を〕とじるよりは開けてやるがいい、と 申しつかっているのだ」
それから、天使は神聖な門の扉を押してから いった、
「はいれ、だが注意しておくが、
うしろを振りむくと またそとへ戻ることになるぞ」
その神聖な門の柱のほぞは、
〔扉の〕蝶つがいがまわると、
金属のような音をたてて つよく鳴りひびいた。(一三五)
その軋《きし》る音は、良官メテルロが遂われ、
宝物が奪われたときに、タルペイア〔の門〕が
するどく立てた物音にも劣りはしなかった〔古代ローマのタルペイアの丘には、サトゥルヌスの神殿があって、ローマ政府の宝庫になっていた〕。
その物音をきくと、わたしは聞き耳をたてて振りかえったが、
≪おん神よ、おん身を讃《たた》えまさん」という歌声が、
さわやかな楽音にまじって
聞こえてくるような気がした。
わたしのきいたそのひびきはまさに、オルガンの伴奏でうたうとき
いつも聞くものと同じような感じだと思った。(一四四)
その〔歌の〕文句が聞こえたり 聞こえなかったりするのである。(一四五)
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第十歌
門から煉獄のなかへ入ったダンテと師は、煉獄の山をめぐる第一の環道へ出た。その道の片側になってる山腹の岩には、「受胎告知」やダヴィデ王、トラヤヌス皇帝などのことが絵巻物のように刻まれている。岩は白い大理石である。ダンテがそれに見とれているうちに、高慢の罪のつぐないに岩を背負って、人々が腰をゆがめて泣き顔で寄ってくる。ここでは謙譲の徳を知らせるところだから、たかぶって過ごした者は、地面に腰がつくほど背をまげて歩かねばならないのだ。
それから わたしたちは門の閾《しきい》をこえて〔煉獄の〕中へ入った。(一)
というのも、よこしまな愛を心にもつ者には、曲がった道も
まっすぐに見えるものだから、その門の開かれることはまれだからだ。
すると、音がして、門がまた閉じるのが聞こえたが、
それにわたしが目をやりでもしようものなら、
その過ちに値するような言訳があっただろうか。
わたしたちは岩の割れ目からのぼっていったが、
その岩は左右がへこんでいて、
寄せては返す波のようにつづいていた。(九)
「ここではちょっと頭を使わにゃならんな」
導師はいった、「時にはこちら、時にはあちらと、
岩のくぼみに身を寄せるがいい」
だから、わたしたちの歩みは遅々としていて、この針の目から抜けだす前に、
下弦の月はすでに
やすむために水平線〔床〕に帰ってきたほど時間が経っていた。
しかし、山が背後にしりぞいて ひろびろとしたところへ
登りついて ほっとしたときには、(一八)
わたしは疲れていたし、二人とも行く手が不安だったので、
砂漠をたどる道よりもさらに淋しい
その平地の上で立ちどまっていた。
大空と境を接しているその縁から
そそり立っている高い岩の脚までの、その平地〔環道〕の幅は、
ひとのからだの〔丈《たけ》の〕三倍くらいかと思う。
右を見ても 左を見ても、
わたしの目のとどくかぎりは、
その台地は同じ広さで〔煉獄を〕とり巻いていた。(二七)
わたしたちの足が まだ登りにかからないうちにも、
周囲に切り立っていて 登るどころではないこの岩壁が、
まっ白い大理石でできていて、
ポリュクレート〔古代ギリシアの彫塑家ポリュクレイトスのこと〕ばかりか、自然でさえ顔負けするほどの
薄肉の〔みごとな〕彫刻で
飾られていることに気がついた。
〔その石には〕わたしたちが涙ながらに何年となく願ってきた安らぎを、
おん神の長い禁令をといて 天国〔の門〕をひらいて、
おん神の指図でそれを地上にもたらしに来た 天使〔大天使ガブリエーレ〕が、(三六)
楚々たる姿で ありありと
わたしたちの目の前に刻まれていて、
とても物いわぬ像《すがた》などとは思えないほどだった。
その天使が「|幸あれ《アヴエ》!」といっているといっても、だれが疑うだろう。
そこにはおん神の愛をひらくために鍵をおまわしになった
あの〔処女マリアさまの〕お像《すがた》も刻まれていたし、
そのおん物腰には、「神の稗《はしため》を見よ」
という言葉が、蝋に捺された形のように、
まざまざと あらわれていたからだ。(四五)
「そんなに ひと所にばかり気をとられるな」
師はやさしくいった。わたしは師の
心臓のある〔左の〕側に立っていたのだ。
そこで、わたしは視線をうつして、
マリアさまのうしろの方、
わたしをはげましてくださる師のおられる右の方を見ると、
そこの岩には、別の物語が彫ってあった。
わたしは 師の前を横ぎって、
この目でそれをたしかめようとして近寄っていった。(五四)
そこの同じ大理石には、
神聖な櫃《はこ》〔神がモーゼに命じてつくらせた契約の櫃〕を曳いていく車と牛が刻まれてあった、
おん神がお言いつけにならぬ仕事には手を出すなということだ。
そのさきの方にも 人たちが見えた。
つっこめて七人の合唱隊だが、わたしの〔耳と目の〕二つの感覚の
耳は〔彼らが〕「歌っていない」といい、目は「たしかに歌っている」という。
同じように、そこに描かれている香《こう》の煙にしても、
目と鼻とは、
煙だ、いや煙じゃないと、いがみ合った。(六三)
そこの祝福された者の柩の前を、讃歌の作者〔ダヴィデ王〕がつつましく
裾をからげて鄙《ひな》びた踊りのふりで進んでいったが、
この場合、〔衣裳は〕王らしくもあり、〔しぐさは〕王らしくもなかった。
その向かいの大きな館《やかた》の窓には、
もの悲しくミコール〔サウルの女で、ダヴィデ王の妃となったミカルのこと〕が迷惑そうに
あきれて見ているさまが刻まれていた。
わたしの立っていたところから、
ミコールのうしろで ひときわ白くかがやいている
別の物語をじかに見ようとして、わたしは足を運んだ。(七二)
そこでは、ローマの君主のたかい栄光〔の事蹟〕が
物語られていたが、そのひとの徳が
グレゴリオをうごかして〔地獄に対する〕勝利をもたらしたのだ、
そうわたしがいうのは、皇帝トラヤヌスのことだ。
そのそばには、苦しみと涙にくれて、
ひとりの寡婦が馬の馬銜《はみ》をとっている。
皇帝のまわりには 騎士たちがいっぱい詰めかけていて、
黄金の地にうきでた〔ローマの〕鷲が、
風にのって それらの頭上にゆらめいていた。(八一)
その群のなかで、あのあわれな寡婦が
訴えているようだ、「皇帝さま、死んだ息子《せがれ》の仇をおとりくださいませ。
わたくしは身も世もあらぬほど恋しゅうございます!」
皇帝はそれにこたえているようだ、「帰る日まで待て」
すると女は、「でも陛下」、苦しみに追いたてられる人のように、
「お帰りがないときには?」皇帝は「自分に代る者がするだろう」
そこで女は、「ご自身がなおざりになさいますのなら、
他人の善行などあなたさまに何のお役に立ちましょうか」
帝はそこで、「そうだ、お前は安心するがいい。(九〇)
出陣の前に自分の義務は果たすとしよう、
正義は自分をうごかし、慈悲が自分を引きとめるからだ」
物として新しいもののないお方〔神〕〔神は時間に超越するし、万物はみな神のあらわれだ。だから、神には新しいものはないという意〕が、
この目に物語るものをおつくりになられたのだが、
わたしたちには この世ではついに見られぬ珍しいものだった。
このような深いへりくだる心のあらわれたさまざまな像《すがた》を見て
その像をつくられたお方〔神〕を身近かに思って
わたしはひとりで悦びにひたっていると、
詩人がおつぶやきになるのだった、「ほら、こちらにも
ひとが大勢歩いてくるぞ、ゆるゆる。(九九)
あのひとたちが
上の段へ〔わしらを〕みちびいてくれるだろう」
珍しいものを見たい一念で
それをつくづく見て満足していたわたしの目は、
それに見とれていたが、師の方をふり向くのも早かった。
だから、読者よ、
〔罪の〕負い目を払うのにおん神が
どんな罰をお望みになるかを聞いたとて、
きみのよい決心をひるがえすことを わたしは望まない。(一〇八)
その苦しみの重さなど気にかけないで、
あとのことを考えてくれ。まずくいっても、
最後の審判からさきへは続かないのだから。
わたしはいいだした、「先生、こちらへやってくるものが見えますが、
どうやら人間らしくないのです。
何だかわかりませんし、見ても見分けがつかないのです」
すると、師は、「罰が重いので、
みんな地面すれすれに腰がまがっているのだ。
わしの目もはじめは、〔人か物か〕思いまよったものだ。(一一七)
だが、きっと目をすえて、
あの岩を背負ってくる者を見きわめてみろ、
胸をたたいているさまが もう見えるはずだ」
ああ、思いあがったキリストの信者よ、あわれな奴ら。
お前らのこころは曇っていて、
うしろ向きに歩いて それを正道だと思っている。
お前らにはわかるまいが、わたしたちが
被いもなくて 審判《さばき》の前にとんでいく
天使のような蝶になるために生まれてきた虫けらだということが。(一二六)
なぜお前らの魂はあんなに高く舞いあがっているのか、
お前らはまだできそこないの虫けらだから、
影にもならぬ虫のようなものではないか。
天井の枠や屋根を支えるために、
膝を胸につけてしゃがんだ人像を、
張り出しに使うのを ときたま見うけるが、
そんな人像はもちろん本物ではないけれど、
それを見る人を いやな気にさせるものだ。
わたしが見た〔そこの〕人たちも、気をつけて見ると、そんなふうだった。(一三五)
背中にせおった荷の多少で、
膝のまげ方の多い少ないのあるのは事実だ。
そんな格好の者のなかで、とても辛棒づよそうな男でさえ、
泣きながらいってるようだ、「とてもとても、もう我慢がならんわい」(一三九)
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第十一歌
たかぶりの罪をきよめて、その第一の環道をいく人たちが、ダンテたちに「主への祈り」を唱えてくれる。ウェルギリウスが道をたずねると、オンベルト・アルドブランデスコが自分の身の上を語る。またグッビオの細画の名手オデリージがつつましやかに世の名声の移り変わりを述べ、その例として、チマーブエ、ジョット、グイード・グイニッツェリ、グイード・カヴァルカンティなどの画家や詩人のことを語る。みな世の有為転変がしみじみと身にしみているようだ。
≪ああ 天にまします われらが父よ、(一)
おん身が不壊《ふえ》におわしますは、ただおん身が
上天にもちたもう原初《はじめ》の被造物《みつくり》をいたく愛したもう故ぞ。
讃えまさん、おん名とおん身の権能《みちから》を、
そは、ありとある被造物《みつくり》が、おん身のうるわしき精霊に
謝しまつることを得べければなり。
おん身の国の平安《やすらぎ》をわれらにももたらし給え、
そが来たらずば、われらがありとある才智とて、
その平安《やすらぎ》に到ることを得ざればなり。(九)
おん身の天使《みつかい》たちの願いのこころが、
ホザンナ〔神を讃美する言葉〕をうたいつつ おん身に捧げらるるごとく、
人々のこころにも かくはなさしめ給わんことを。
きょうの日も われらに日用の糧《マンナ》〔むかしイスラエルの民がアラビアの曠野で飢えに苦しんだとき、空から下った天上の食物〕を与え給え、
糧《かて》なくば、切《せち》に進まんと努むる者も、
かの荒れはてし曠野《ひろの》にしりぞき行かん。
われらがうけし害悪《そこない》を何人にも許したもうごとく、
おん身は われらが功徳《くどく》を見そなわすことなく、
神恵《みめぐみ》によりて われらを赦したまわんことを。(一八)
囚われやすきわれらが徳を、
年を古りし仇《あだ》〔悪魔〕もて試したまわずに、
かくも急《せ》かする悪の手より われらをば救いたまえ。
慕わしき主よ、この最終《おわり》の祈りとて、
その要のなきわれらがための祈りならず、
やがてわれらが後につづく者のための祈りぞ≫
これらの影の魂は 自分とわたしたちのために、
こういって祈りをとなえて、重荷を背負って出ていったが、
ときおり夢にみる夢魔の重荷のそれに似て、(二七)
それぞれが〔背負う〕悩みは雑多だが、
この世でもった〔たかぶりの〕瘴気《しょうき》をきよめながら、
最初に突き出たところを環のようにめぐって登っていった。
こんな魂たちが いつもわたしたちのために祈っていてくれるのなら、
こころにおん神の恩恵をもつ〔この世の〕ひとは、
ここで魂たちに何を唱え 何をすべきだろうか。
地上からつけていった〔罪の〕汚点《しみ》を洗いおとして、
星くずのかがやく天空へ 軽やかにきよらに昇っていけるように、
魂たちに手をかしてやるべきではないだろうか。(三六)
「ああ、おん神の正義と慈悲とで あなたの荷が軽くなればいいが、
思いどおりに翼をうごかすことができて、
〔天国へ〕昇れるようにお祈りしましょう。
ときに、どちら側へ行けば階段にいちばん近いか、
教えてくれまいか。また道がいくつもあるなら、
いちばん急でない道を教えてもらいたい。
というのは、わしが連れているこの者は、
まとっているアダムの肉の重みゆえに、
心ならずも登りの歩みがのろくなるからだ」(四五)
わたしがしたがっている師のこの言葉に対する返事は、
だれがいうことになったのかわからなかったが、
こういうことになった、「この岩のはずれを右手にとって
われらと来るがよい。生き身の者でも登れる道が見つかるだろう、
おれはたかぶりの項《うなじ》を矯《た》められているので
顔を伏せていかねばならぬことになっているが、
もしこの岩が邪魔になっていなければ、
まだ名乗りもせぬ生き身のその者が
おれの知る辺《べ》かどうか見られるし、(五四)
この荷の重みにその者が憐愍《あわれみ》をかけてくれるのもわかるはずだ。
おれはイタリア人で、トスカーナの名家の出だ。
これまでにその名をその者が耳にしたかどうかしらんが、
おれの父はグリエルモ・アルドブランデスコだ。
おれの先祖代々の血統と
先祖の高慢な事績が おれをあんなにたかぶらせたのだ。
ひとが同じ母〔大地〕の出だということを忘れて、
世間のひとを とるに足らぬものと侮《あなど》っていたので、
それがもとで死んだのだが、そのことはシエナの者は知ってるし、(六三)
カンパニァーティコでなら
子供でも知っている。
おれはオムベルトだ。
たかぶりがわざわいしたのは おればかりではない、
おれの一族はみな それが災難に引きずりこんだのだ。
だから、ここではそのため こんな重荷を運んでいるし、
おん神のお気のすむまで、
亡者のなかで運ばねばならんのだ。
生きているうち 〔お気のすむことを〕何もしなかった罰だ」(七二)
話をききながら、わたしは顔を下に向けていた。
すると、いま話していた者とは別のひとりが、
身動きもできぬ荷の下で からだをくねらせていたが、
彼らといっしょに身をかがめて歩いていたわたしを、
その目がやっととらえて わたしを見るや、
見おぼえがあるとみえて わたしを呼んだ。
「おお!」 わたしはその男にいった、
「きみはオデリージ〔グッピオの彩飾画家〕じゃないか。パリで彩飾絵師の名のあった
アゴッビオ〔マルケ州の町グッピオのこと〕のほまれ、絵師のほまれじゃないのか」(八一)
「兄弟」 彼はいった、「ボローニャのフランコの
描いた絵の方が色はもっときれいだよ。
いまでは誉れはみんなあいつのもの。ぼくは助手格だからね。
ぼくが生きていたときには、〔細密画家を〕凌ごうという
野望で胸をときめかせていたから、
こんなにいんぎんにはしていなかったな。
その思いあがりの償いをここでしているというわけさ。
でも、罪を犯したとき、おん神に近づきもしなかったら、
まだここにもいられなかったにちがいない。(九〇)
ああ、にんげんの栄華なんて なんてむなしいものだろう!
みどりがその梢にあるのは なんとみじかい間のことだろう、
でなくても、荒涼とした世がやってくるのだからね!
絵の方ではチマーブエ〔ルネサンス初期のフィレンツェの画家〕がきめ手と思われていたが、
いまでは呼び声はジョット〔ルネサンスの代表的な画家の一人〕だ、
そんなわけで チマーブエの影はうすれている。
同じく、グイード〔グイード・カヴァルカンティのことで、ダンテの詩友〕はもう一人のグイード〔ボローニャの詩人のグイード・グイニツェルリのこと〕に
言葉のほまれを奪われているが、
どうやら、ふたりのグイードを巣から追いだす者〔ダンテ自身のこと〕が生まれたようだ。(九九)
この世の名聞《みょうもん》なんど 風のひと吹きにことならないので、
いまこちらへ吹くかと思えば、あちらへ吹いて、
風向きが変われば 名もうごくのだ。
年が寄って肉がきみから離れようと、
「パン・パン」とか「お銭《ぜぜ》」とか、いい残す前に死のうと、
千年〔の歳月〕がすぎたあとでは、
その上に きみはどんな名声が得られるだろう。
〔その歳月も〕永遠なものに比べると、すごく短い時間だし、
天を悠々とまわる〔恒星の〕軌道に比べても目ばたき一つするくらい〔の時〕だ。(一〇八)
ぼくの前をあんなにゆっくらした足どりでいく奴は、
その昔はトスカーナで名をひびかせていた男〔シエナの市長になったプロヴェンツァン・サルヴァーニのこと〕だ。
だが、いまじゃシエナでも噂《うわさ》すら出まい。
あいつはフィレンツェ人の怒りが滅ぼしたときの〔その府の〕首領だったからだ。
フィレンツェもいまでは落ちぶれているようだが、
当時は肩で風を切ってたものだ。
きみたちの名声は、出てはうせる
草っぱの色だよ。それをういういしく
地上に出すもの〔太陽〕が、また色をあせさせるのだものな」(一一七)
そこで、わたしは、「あなたの真実のお言葉で、
身のつまらなさが心にしみます。わたしの思いあがりをしぼませます。
しかし、いまお話のお方はどなたでしょうか」
「そいつは、プロヴェンツァン・サルヴァーニだ」 彼は返した、
「シエナ全市を手に入れようとして
目にあまる所業があったから、ここにいるのだ。
死んでからは、休みなく あいつはああして
駆けずりまわっている。この世で思いあがった奴は、
おん神が嘉《よみ》されるまで つぐないの金を払わねばならんのだ」(一二六)
そこで、わたしは、「いのちの臨終《きわ》まで
罪を悔いそこなった魂が、
だれかの祈りで助けられたいのなら、
生きていただけの時間がたたないと、
地下にいて 天上へは昇れないというのに、
どうしてあの方に ここへ入る思召《おぼしめ》しが許されたのでしょう」
その魂はいった、「あれは、栄耀をきわめて生きていたとき、
恥も外聞もかなぐり捨てて
すすんでシエナの大広場《カンポ》へ立ったのだ。(一三五)
そこで、シャルル帝の牢獄で堪えている
その友を刑から救いだすために、
自分の血管がふるえるほど〔恥ずかしい喜捨を〕もとめたのだ。
おれの言葉も〔ふるえていて〕わかるまいから、もういうまい。
だが、近々《ちかぢか》に、きみの府《まち》の者の仕打ちで、
おれのいうことがわかるだろう。
あれには、その行ないがあったればこそ、この〔地獄と煉獄との〕境がとかれたのだ」(一四二)
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第十二歌
ダンテとウェルギリウスは第一の環道を歩いている。足下を見ると、舗石にもいろんな像が刻まれている。みんな高慢の罪で罰せられる十三の場面が、聖書とギリシア神話から取材されている。夢中になってそれに見とれているうちに、時間がたって、復活祭の月曜日の正午すぎになっていた。すると、白い装いの天使が向こうから現われて、腕をひろげ翼までひろげて二人を招いて、岩壁の間から狭い道へみちびく。そして翼でダンテのひたいを打って罪のpの字を一つ消してくれた。身軽になった気がしたのはそのせいだった。
師が黙認してくださるままに、(一)
わたしはその重荷を負った魂とならんで
軛《くびき》をつけた二匹の牡牛のようにして進んでいった。
だが、師はいった、「それをおいて、さきへ出るんだ。
ここではだれでも、帆や櫂《かい》をつかって〔懸命に〕
自分の舟を進めなければならん」
わたしはすっくと身を起こして、
もとの人間のすがたにかえって歩いていったが、
こころはくず折れていて しずんだままだった。(九)
わたしは歩きだして、師の歩みにいそいそと
ついていったが、二人とも知らぬまに
〔足どりが〕軽くなってみえた。
すると師がいった、「目を足もとに向けるのだ。
楽にのぼろうと思えば、足のふむところを
じっくり見るのがいいようだ」
地面につくられた墳墓の上には
亡きひとの思い出でもあろうか、
世にあったときの姿が刻まれてのこっていた。(一八)
だから、悲しみふかい心には 踵《かかと》でふむさえ、
思い出にこころが刺されて、
そこではしばしば涙にくれるものだが、
そんなにも哀れっぽく わたしもそれを見た。
だが、山から突きでたその道には、
芸術的にはさらにみごとな姿が彫られていた。
見ると、かたわらに、ほかのものよりも
はるかに気だかい者〔ルチフェロ〕が、稲妻のように
まっさかさまに空から墜ちていた。(二七)
見ると、ま向かいの側には、ブリアレオ〔ゼウスと争った巨人たちの一人。ゼウスの雷電にうたれて死んだ〕が、
天上の矢に射ぬかれて、凍え死にして
どったり地面に横たわっていた。
見ると、ティムブレオ〔アポロ〕とパラーデ〔ミネルヴァ〕とマルテ〔軍神マルス〕とが、
鎧装束《よろいしょうぞく》で父〔ジォヴェ〕をかこみ、
巨人たちのばらばらの手足を〔フレグラの戦いの跡のことをさす〕のぞきこんでいた。
また見れば、ニムロデ〔ニムロッド〕が高楼《たかどの》〔バベルの塔〕の下で、
気もそぞろに センナールの野で
その身さながら たかぶっていた民を睇《なが》めていた。(三六)
ああ、ニオベ〔テーバイの王アンビオンの妃で、七男七女を生んだ。彼女は自分が神レトよりすぐれていると自負して、テーバイの人にこの神への捧げものをすることを禁じた。そこでレトはニオベの子供たちを皆殺しにしたので、ニオベは悲しみのあまり石と化した〕よ、
消えうせたお前の七人の息子と、
七人の娘にまじって、この道に刻まれているのを
どんなに悲しい目でわたしは見たか!
ああ、サウル〔傲慢なイスラエルの王で、ペリシテ人と戦って敗れ、パレスティナのギルボア山上で自刃してはてた〕よ、ギルボアの山で、
お前の剣に仆《たお》れたと ここには出ているが、
それからは雨も露もおりないというではないか。
お前の禍《わざわ》いになった機織《はたお》りの布《きれ》はしの上で、
蜘蛛《くも》になりかかっているお前〔アラクネの故事。彼女はリディアの王女だったが、機織の技を誇り、傲慢にも女神アテネと技をきそったので、その罰に蜘蛛にされた〕を見たぞ!(四五)
ああ、ロボアム〔レハベアムのこと。イスラエルの王ソロモンの子で、父の神殿建設のために重税を課し、人民が苦しみを訴えたとき、傲慢な態度で拒んだ。しかし、その執事の一人が殺されたので、馬車でエルサレムから逃げた、という故事〕よ、ここのお前のすがたは、
もうひとを脅《おど》すどころか、だれも追っかけもせぬに、
あわてふためいて 馬車で遁げだしている。
このかたい舗石《しきいし》には まだまだ刻みこまれていた、
アルメオン〔ギリシア名でアルクメオンまたはアルクマイオン。アルクメオンの父アンフィラオスは自分の死を予見して、テーバイ攻撃に加わらなかったが、母親のエリピュレーはポリュネーケースから黄金の首飾りをもらって夫の隠れ家を教え、結局、父親は戦いにかりだされて死んだ。そのため、アルクメオンは母のエリピュレーを殺した〕が母親に 不幸な首飾りが
どんなに高くついたかを思いしらせたさまを。
また神殿の中で 子供たちが
センナケリブ〔アッシリア王。傲慢で真の神をあなどっていたが、かつて自分の神ニスロクを宮殿の中で拝したとき、その二人の子は、父を殺して逃げた〕におどりかかって、
どうしてそこへ屍をのこしていったかが彫られていた。(五四)
また女王タミリ〔スキタイの女王トミリスのこと。ペルシア王キュロスが彼女の子を欺いて殺した。その後に女王はキュロスを殺し、血の袋の中にその首を投げこんで傲慢な言葉を吐いた〕がチロ王に、
「あなたは血に渇いておられますから、わたくしが血で満たしてさしあげましょう」
といって、どんなにむごたらしい仕打ちで滅ぼしたかも刻んであった。
またオロフルネ王〔ホロフェルネスのこと。傲慢なアッシリアの将軍で、ユダヤのベトゥリアを包囲したとき、寡婦のユウディットは彼の本営へ乗りこみ、彼に愛着したふりをして殺し、アッシリア人を潰走させた〕が死んだときは、
どんなにアッシリアの軍勢が敗走したか、
その王の首級がどんなだったかも刻まれていた。
見れば、トロイアも灰燼となり、空洞になっている。
ああ、イリオン〔トロイアの城〕のなんというみじめな落ちぶれようだ。
その明らかなすがたがそこにあらわれていた。(六三)
感じやすいひとなら だれでも見とれるにちがいない
その陰影《かげ》や線を描いた絵筆やのみの巨匠は
いったいだれだったのかしら。
うつむいて踏みつけられているだけに、
死人は死人らしく 生きているものは生けるように、
目の前でそれを見たひとより かがんで行くわたしのほうがずっとよく見えた。
エヴァの子たちよ、たかぶるがいいぞ。
そうだ、顔をたかだかとあげて、頭はさげるでないぞ。
でないと、お前どもの道が目に入るからな!(七二)
〔その像から〕離れられないわたしの心が 思いもしなかったことだが、
わたしたちは山のまわりをかなり行っていたし、
太陽もさらにその道を進んでいた。
たえず前の方に気をくばって歩いていた師が、
いいはじめた、「頭をあげるんだ。
そんなに〔像に〕かかわり合っている時ではない。
見ろ、向こうにこちらへ来ようとしている天使がひとりいなさる。
やがて第六の侍婢《はしため》〔昼の六時〕が日の勤めをおえて、
帰ってくるのも わかるだろう。(八一)
天使にはわれわれを天上へ喜んでみちびけるよう
面《おもて》やそぶりにうやまいのこころを出すがいい。
きょうという日はまたと還って来ないからね」
時を無駄にするなという師の誡めには
かねがね慣れていたし、そのことでは、
師はわたしには あいまいにいわなかった。
白い装いをしたうつくしいもの〔天使〕が、
わたしたちの方へやって来たが、
その面《おもて》はあかつきの星のようにきらきら耀いていた。(九〇)
腕をひろげ、ついで翼までひろげていった、
「こっちへ来るがいい。こっちが石段に近いが、
こんどは登るにも楽なはず。
こうして招かれる者はほとんどない。
ああ、生き身の者よ、にんげんは天上にのぼるために生まれながら、
なぜわずかの風〔悪の誘惑〕にも ああして墜ちていくのか」
岩のえぐれたところへわたしたちを連れていくと、
天使は翼でわたしのひたいをはたいて、
それから、わたしに〔これからの〕旅の安全を保証してくれた。(九九)
ルバコンテの〔橋の〕上手に、
ご政治のゆきとどいた府〔フィレンツェ〕を見おろす寺があるが、
その丘を右にのぼると、
急な登りの坂道をゆるやかにして、
記帳も尺度も正しかったころ〔もちろんダンテの皮肉〕
石段をつけたものだが、
その石段のように、第二の環道からの
嶮《けわ》しい坂はここでおわって、傾斜はなだらかになっている。
だが、両側の高い岩が身に触れんばかりに迫っていた。(一〇八)
わたしたちがからだをねじって そこへ入ると、
≪こころ貧しき者は幸なるかな≫
と、得もいえぬうつくしい声がうたっていた。
ああ、地獄の入口にくらべて、ここの入口はなんという違いだろう。
地獄ではおそろしい叫喚のなかへ入ったが、
ここでは歌声とともに入るのだ。
その聖なる石段をわたしたちは登っていったが、
さきに平地のときに感じたよりも
ずっと身軽になったような気がしたので、
わたしはきいた、「先生、歩いてみても、(一一七)
ちっとも疲れないようですが、
何か重いものが
わたしから取り除かれたのでしょうか」
師はこたえた、「あらかた消えかかってはいるが、
まだお前のひたいにはPの字が残っている。
それが、はじめのようにみんな消えてしまえば、
お前の足は 善意にうちまかされて、
疲れを感じないばかりか、よじ登ることを
楽しむようにもなるだろう」(一二六)
何かが頭についているのに
それに気づかずに出歩くひとは、
他人のそぶりでそれと察して、
それをたしかめるために
手でさわってみて見つけだすものだが、
そういうしぐさは 目ではできないことをするというわけだ。
それと同じに、わたしは右手の指をひろげてみて、
鍵をもった天使がわたしのひたいに刻んだ文字が
六字しかないことがわかった。(一三五)
わたしの導師は、それを見てにっこりしておられた。(一三六)
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第十三歌
第二の環道に出て右手へ進むと、盲目の霊魂が群になって空をとんでいく。やがて前方に粗織《あらお》りの服を着た魂たちが近づいてくる。みな瞼を針金で縫いつけられていて、その瞼のあいだから涙が流れている。これらは、この世で嫉妬と羨望のひどかった者の霊で、そこでその罪をきよめているのだ。その一人にサピア・ダ・シエナという女性がいて、それが生まれた府《まち》のシエナの敗れることを、嫉妬のため喜んだ身の上を話す。ついでに、シエナの市民のつくるタラモーネの築港計画も失敗することを予言する。
わたしたちは、石段の上にいたが、(一)
そこは、登るにしたがってひとの罪の消える山で、
またしても へずりとられていた。
そこでも、曲がりがすごく急になっているほかは、
最初の圏のそれと同じようで、
環道が、山の中腹をぐるっと取り巻いていた。
そこには、影も物のかたちもなくて、
見えるのは崖だけで、
その岩山に鉛いろした むきだしの道があった。(九)
「ここで道をきくために人を待つとすると」
師はいった、「〔道を〕選ぶのに
時間がかかりすぎはしまいか心配だ」
それから、目を太陽の方へ見据えて、
〔右上の日を見るために〕右〔側〕を軸として、
からだの左側をぐるっと前に廻した。
「ああ、うるわしい日の光よ、あなたを頼りにして、
わたしは新しい道に入るのですから おみちびきください」
師は〔太陽に〕いった、「おみちびきがなければ、ここへは入れません。(一八)
あなたは世界を温め、その上にかがやいておいでです。
何か理由《わけ》があって、別の道へ追われることでもないかぎり、
あなたの光は いつも道標《みちしるべ》であるはずでございます」
この世でなら、さしずめ一マイルというところを、
わたしたちはすでに ちょっとの間にそこへ来ていたのだ、
しゃにむに行こうとしたからだ。
すると、すがたは見えなかったが、魂〔天使〕の群が、
ねんごろに愛の食卓〔うらやみと反対の徳を養うための霊の糧の饗宴〕に招じ入れようと語りかけて、
こちらの方へ飛んでくる羽音をきいた。(二七)
第一の声がとび去りながら、
「主《あるじ》のブドウ酒がなくなった」と大声でいって、
わたしたちの背後の方へ それを繰り返してとんでいった。
と、その声が遠ざかって、まったく聞こえなくなるかならぬに、
別の声が「おれはオレステスだ〔ギリシア軍の司令官アガメムノンの子〕」と、
叫んで通りすぎて、それもとまらなかった。
「ああ」 わたしはいった、「わが父、これは何の声ですか」
わたしがそうたずねた時、第三の声が叫んだ、
「汝を憎む者を愛せよ!」(三六)
そこで師はやさしく、「この国では、
ねたみの罪がたしなめられている。
その鞭の綱は慈悲のこころで編まれているのだ。
〔妬みをおさえる〕轡《くつわ》は、それとは別で〔おそろしい〕音を立てるはずだ。
わしの考えでは、お前が罪を拭うところ〔第二円から第三円へ通ずる罪をきよめる小径〕へ着くまでに、
その叫びは聞けると思うのだ。
だが、目をこらして 大気を透かして見てみろ。
わしらの前にひとの坐ってるのが見えるだろう。
みんな岩にそって坐っている」(四五)
そこで、前より目を見ひらいて
前方をながめると、岩とそっくりの色の
マントを着た魂が何人か見えた。
わたしたちが歩みをすこし進めると、叫び声が聞こえた、
「マリアさま、われらのためにお祈りください!」
それにつづいて、ミケーレ、ピエートロなど、
もろもろの聖人たち〔の名〕を叫ぶ声〔聖人たちを連祷でとなえている。ミケーレは大天使ミカエル、ピエートロはサン・ペトロの呼び名〕も。
いま地上で暮らしているどんな気丈なひとでも、
わたしがそのあとで見たさまに、
憐みのこころを刺されないものはあるまい。(五四)
そのひとたちのそばへ寄っていって、
そのさまをしかと目にとらえたとき、
そのいたいたしい苦しみゆえに わたしの目からは涙がながれた。
彼らは粗末な荒布〔苦行のために着る衣服〕を身にまとっているようだった。
そして、たがいに肩でからだを支えあって、
みんな岩壁にもたれかかっていた。
それはあたかも 食にことかく盲人たちが
寺の罪ほろぼしの日〔贖宥の日のこと〕に物乞いをしに行って、
ひとりがもうひとりの上へ頭を垂れているようなものだ。(六三)
物を哀れっぽくいうばかりか、
それにまけずに悩ましい見せかけで
いちはやく他人に憐みを起こさせるしぐさだ。
盲人たちには太陽が何の恵みも与えないように
いまわたしが話しているところの魂たちは、
空の光を自分にうけようとはしなかった。
というのは、みなの瞼《まぶた》には孔をあけて鉄線をとおしてあるからだ、
ちょうどじっとしていない
気の立った鷹の目をそうするようなものだ。(七二)
ひとには見られないで、こちらだけが相手を見て歩けることが、ぶしつけなような気がしたので、
わたしは賢《さか》しい師の方へふり向いた。
師は、口にはしないがいおうとすることを察して、
わたしがたずねるまでもなく いってくれた、
「話すもよかろう、要点をみじかめに!」
そこは道の縁には何もないし、
環道からずり落ちかねないところだったが、
ウェルギリウスはわたしの外側を歩いてくれた。(八一)
縁の反対側には 聖歌をとなえる魂たちがいたが、
ぞっとするような〔瞼の〕とじ目から涙があふれて出て、
頬をてろっと濡らしていた。
わたしは魂の方に向き直っていいはじめた、
「ああ、信心ぶかい方々、
おん神の光を見ること、ただその願いだけをこころにかけておられるようですが、
お恵みによって あなた方の良心のけがれがすぐ消え、
良心ゆえに記憶の流れ〔知的な光〕が きよらかに流れおりることをお祈りします。(九〇)
わたしには親身なことでもあり うれしいことですから、
いってください。あなた方のなかにイタリアの魂がおられましょうか、
わたしがそのことをきけば、あなたにもおん神へのとりなしになるかもしれません」
「ああ、あたくしのご兄弟。ここの方々はみな真《まこと》の〔天国の〕市民でございます。
しかし、あなたさまのいわれようとなさるのは、
天国への道すがら〔煉獄の魂たちにはそこが本国で、この世は天国へいく旅路だとの考えから、そういう言葉が出てくる〕 イタリアで暮らした方ということでございましょう」
そういう返事が、わたしのいたところより
かなり向こうの方に聞こえたようだったので、
わたしはそっちで もっとよく聞こうとした。(九九)
それらのなかに わたしを待ちうけている様子の魂がひとり見えた。
「どんな様子か」いえというなら、
盲人がするように顔をあげていたのだ。
「天に昇るために身を苦しめている魂よ」
わたしはいった、「あなたが返事をしてくださった方なら、
お国なりお名前なりを わたしに教えてください」(一〇八)
「あたくしはシエナの者でございました」
と、その女は応《こた》えた、
「この方々とごいっしょに この世の罪を洗いきよめて、
お恵みを願って おん神に涙しておりますの。
サピア〔聡子《さとこ》〕と呼ばれておりましたものの、
利口な女ではございませんでした。
ひとの災《わざわ》いを自分の幸《さいわ》いよりも
ひどく喜んでおりましたのですもの。
あたくしのたわけ言とお信じくださらないのもごもっともですが、
ひとのいのちの半ばをすぎたと申しますのに、(一一七)
どんなにおろかでしたか、あたくしの申すことをお聞きくださいませ。
あたくしの府《まち》の者がコルレ近くの野で
敵〔フィレンツェ勢〕と戦っておりましたが、
あたくしはおん神のご意志どおりになることを祈りました。
シエナ軍はそこで敗れ、悲惨な潰走にうつりましたが、
軍の追撃されるのを見ながら、あたくしは
たとえようもない悦びを味わいました。
ふてぶてしく顔を天にあげて、おん神に叫んだほどでした、
≪いまとなってはおん神がこわいなんて!≫(一二六)
小春日和に鶫《つぐみ》がさえずるようでしたわ。
あたくしは臨終《いまわ》のきわに おん神と和解いたしましたけれど、
あたくしの罪の負い目は悔悟しても
まだ足りなかったのでございましょうが、
ありがたいことに、櫛屋のピエール〔トスカーナ地方のキァンティの出身で、幼少のときシエナへ来て櫛屋をひらいたので、そんなあだ名がつい〕が思いだしてくれて、
お慈悲から気の毒がって、あたしの名をおごそかなお祈りに入れてくださったのです。
ところで、通りすがりに あたくしどもの身の上をおたずねくださるあなたは、どなたさまでございます。
どうやら目もあいて 呼吸《いき》をしながらおたずねのご様子ですが」(一三五)
「わたしの目も やがてはここでとじられるでしょう」
わたしはいった、「しかし、妬みの目でひとを見る罪は
それほど犯されなかったから、〔罰の〕時は短いでしょう。
わたしの心を不安がらせる あの下の方〔第一環道〕の
呵責のおそろしさのほうがはるかにすごいのです。
あそこでの重荷が いまでもわたしを抑えつけているのですから」
すると、その女がいった、「また下へお戻りのお考えといたしますと、
あたくしどものいるこんな上まで どなたのお導きでございましょう」
そこでわたしは、「わたしのそばで一言もおっしゃらないお方です。
わたしは生きている。だから、この世であなたのため
この生きている足をうごかすことがお望みでしたら、
選ばれた魂ですもの、何なりと申されたい」(一四四)
「ああ、ほんとに珍しいお話ですこと」彼女は相槌をうった、
「これこそ おん神があなたさまを愛《め》でていられる大きな徴《しるし》ですわ。
それなら、ときおりお祈りであたくしをお救《たす》けください。
そして、あなたさまが何よりも強くお望みのことでお願いがございます。
もしトスカーナの土地をおふみになることでもございましたら、
あたくしの名の立つよう 家の者におとりなしくださいまし。
あなたさまは、家の者どもが タラモーネ〔の港〕にあこがれている
空頼《からだの》みのひとたちの間にいて、ディアナ〔の地下の水脈〕を見つけるよりも
大きな望みを失うのをご覧になられるでしょう。(一五三)
しょせんは、提督がおおぜい そこでいのちを捨てる〔マラリヤにかかって死ぬだろう、との意〕のですわ」(一五四)
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第十四歌
第二の環道では、グイード・デル・ドゥーカやリニエール・ダ・カルボーリも罪をきよめている。ダンテがアルノ河のほとりの出身だとわかると、そのアルノ河ぞいの渓谷地方の小領主の町々の悪徳をならべ立てる。ついでロマーニャ地方の頽廃ぶりも話に出るが、その地方の生活の悲惨なさまは中世の実情がダンテの手で再現されているといわれる。ダンテとウェルギリウスがその場を立ち去ろうとすると、天上からの戒めの声が雷鳴のようにひびいてくる。神秘的な雰囲気の中でのことである。
「あの男はだれだろう。死んで魂が肉体からとびだす前に、(一)
この山をめぐって歩いたり、
思いのままに 目をあけたり閉じたりしてるのは」
「だれだかわからんが、一人でないことはたしかだ。
お前が近いから たずねてみろ、
口を割らせるように ていねいに迎えるのだ」
ふたりの魂〔グイード・デル・ドゥーカとリニエーリ・ダ・カルボーリ〕はたがいにもたれあったままで、
右手の方で わたしのことをこんな風に話していた。
それから、わたしに物をいおうとして 顔をあげて
ひとりがいった、「もし。まだからだの中に入ったままで(九)
天上の方へ行きなさる魂よ。
お慈悲です、どこから来なさったか、どなたさまかを
物語って わしらを慰めてくださらんか。
これまで起こったこともないことを、
おん神があんたにお許しになってるのに驚いているのですよ」
そこで、わたしは、「ファルテローナを水源《みなもと》とする川〔アルノ川〕は
トスカーナの真中にひろがっているが、
百マイル流れても流れたという顔をしない。
その川岸のところから わたしはこのからだを運んできた。(一八)
わたしの名はまだそんなに知られていないから、
わたしがだれだかを話したとて 無用なことでしょう」
と、そのとき、最初にしゃべった男〔グイード〕が答えた、
「よく考えて、あんたのいった意味を掘りさげてみると、
それはアルノ〔河〕のことだろう」
すると、もう一人〔リニエール〕が仲間にいった、
「なぜこの男は、あの河の名をあかさないのだろう、
まるで怖《こわ》くて、名をききたがらないみたいだ」
すると、さっき問われた魂は、返事にこう切り返した、(二七)
「知らないね。
だが、その渓谷《たに》の名〔アルノ渓谷〕はなくなるのが当然だな。
なぜというに、ペロロ〔岬〕で切れてる高い山脈のなかの
あんなに水の豊かなアルノの水源から、
そのあふれた水が流れでるのは二、三箇所しかないが、
それが幾筋もの川になって 海から天が吸いあげたもの〔水蒸気〕を合わせて
もとへ戻そうとしてそそいでいるところ〔海〕までの間といったら、
徳は仇《あだ》として、蛇蝎《だかつ》のように ひとびとに逐っぱらわれているのだ。
その土地の宿命かもしれないし、
あれらをそそのかす悪習のためかもしれないのだ。(三六)
そこで、その不幸な渓谷《たに》に住むものは、
みな性質が変わってしまい、
まるでキルケに飼われているみたいなのだ。
その河は、はじめこそ人間につくられた食物よりも
どんぐりの実がふさわしい汚い豚ども〔カセンティーノの住民を豚にたとえている〕の間をながれるが、
やがて下ると、力もないくせに
大げさに吠えたてる犬ども〔アレッツォの人々〕を見つけると、
それらを小馬鹿にして鼻さきをまげるのだ。(四五)
河はさらに下る。川幅がひろがるにつれて、
この呪われた不幸な溝河《みぞかわ》は、
狼になった犬どもの群〔フィレンツェ人〕と出食わすことになる。
それがさらに深い淵瀬におちこむと、
狐ども〔ピサ人〕を見つけるが、こやつは奸智にたけていて、
自分をとらえる罠《わな》なんど
屁とも思わぬ手合だ。
ほかに聞いてる方〔ダンテと師〕がいるからとて、
いわずにはおくものか。(五四)
真実《まこと》の魂がわしに予言してくれたことは、
それを思いだすだけでも その方〔ダンテ〕のためになるだろうからな。
わしの見るところでは、お前〔リニエーリ〕の孫は、
このたくましい河〔アルノ〕の岸で、
狼ども〔フィレンツェ人〕の目付け役になるが、みんなに怖がられているよ。
そいつらを生かしながらその肉を売る〔黒党から賄賂をとって白党をその敵に売り渡すこと〕のだ。
そのあとで老ぼれの畜生のようにばさっとやる、
ひとびとはいのちを失い、自分は評判をおとすというわけだ。(六三)
そいつは血まみれになって その悲惨な森〔フィレンツェ〕を出ていくが、
そうして残されたからには、千年たっても、
そこはもとどおりの繁った森にはかえるまい」
危害を加えるのがどっちであっても、
いたましい被害の報《しら》せには
それを聞く者は心配顔をするものだが、
相手に向かってきいていたもう一人の魂〔リニエーリ〕は、
その話に自分で聞き入っていたと思うと、
わくわくして 悲しそうになるのが見えた。(七二)
その一人の話ともう一人の様子とから、
ふたりの名前を知りたい気がしたので、
わたしはそれを願うようにしてたずねた。
すると、最初に物をいった男がまた口を切ることになった。
「あんたは、わしにしてくれたくないことを、
わしにするように頼んでいなさる。
しかし、おん神の恵みにかがやいていなさるあんたのことだ、
返事をしぶるわけにもいくまい。
さあ、知ってもらおうか、わしはグイード・デル・ドゥーカ〔ラヴェンナのジョヴァンニ・デル・ドゥーカの子で、リミーニで裁判官をしたこともあって、ギベリーニ党に好意を示した〕だ。(八一)
わしの血は嫉妬でたぎっていたから、
ひとが愉《たの》しくしていようものなら、
やっかんで狂っていたわしをご覧でしたろう。
種子を蒔いたからこそ こうやって藁を刈っているのだ。
ああ、人間というもの、なぜ仲間をしりぞけるような
そんなことに心をくだくのだろうかね。
こいつはリニエーリ〔リニエーリ・ダ・カルボーリのこと。フォルリの名家の出で、グェルフィ党員だった〕だ。
カルボーリ家の栄光《はえ》であり誉《ほま》れだったが、
いまにその器量をつぐものは一人もいない。(九〇)
ポオ川と山脈と海とレイ川とのあいだの地域で、
真実と悦びのもとめる美徳がはぎとられたのは、
こいつの血筋ばかりではないのだ。
なにしろ、この国境《くにさかい》〔ロマーニャ〕には、
毒をもった茨の藪〔背徳の市民のこと〕がいっぱいだ。
いまから引き抜いて耕そうとしても手遅れだ。
善良なリツィオ〔ラヴェンナの君主で礼儀正しくひとをもてなすので有名だった〕とアルリゴ・マナルディ〔ブレティノーロの名家の出で、徳がたかく客を厚くもてなした〕はどこにいる?
ピェール・トラヴェルサーロもグイード・ディ・カルピーニャ〔ともにグェルフィ党の名士〕もどこだ?
ああ、雑草に変わりはてたロマーニャのひとびとよ(九九)
ボローニャには ファッブロ〔ギベリーニ党員で、賢明で実行力のあった名士〕のような人物がいつ根を張るだろうか、
ファエンツァには 賤しく生まれて気だかい仕事をした
ベルナルディーノ・ディ・フォスコ〔一二四〇年フェデリーゴ二世の攻撃に対してファエンツァを守った中心人物〕のような人がいつ出るだろう。
トスカーナの人よ、わしが嘆いたとて おどろくことはない。
わしとともに生きていたグイード・ダ・プラータと
ウゴリン・ダッツォを、フェデリゴ・ティニューゾとその仲間を、
またトラヴェルサーラ家とアナスタージ家〔ともにラヴェンナの名家〕のことを
(だが、この両家とも世嗣ぎは絶えた)、
それに、貴婦人たちと騎士たちの(一〇八)
その恋ごころと騎士のたしなみが、
わしらの思いに生きる戦の悲哀と愉しい余暇とを、
ひとの心がこんなにもすさんだこのロマーニャで
わしは思いだしているのだからな。
ああ、ブレッティノーロの町よ、なぜお前は消えてしまわなかったのだ。
お前の〔領主の〕一家も、おおぜいのお前の住民も、
罪を避けて逃げてしまったのに。
バニャカヴァルの町は、〔領主に〕男の子ができないで うまくやったよ。
まずいのはカストロカーロの町、もっと悪いのはコニオの町だ。(一一七)
なにしろ、そこの伯爵どもと来たら、ごたごたの因《もと》になったものね。
鬼〔家長のマギナルド〕が死んでしまえば、パガン家〔ファエンツァの名家で、マギナルド・パカーニは狡滑で悪業が多かったから悪鬼とあだ名された〕はうまくいくだろうが、
もはやいい評判は残るまい。
ああ、ウゴリン・デ・ファントリンよ、
きみの名は安泰だ。後継ぎが絶えたのだもの。
名をけがそうにも もう後がないものね。
さてと、トスカーナの方々、もう行っていただこうかね。
わしはしゃべるより 泣きたくなってくるからな。
きみたちの話が、こんなにわしの心をしめつけているのだ!」(一二六)
わたしたちが立ち去っていくのを、
その魂たちは しんみり感じていることがわかった。
彼らが黙っているので、〔行く〕道がはずれていない証しにはなった。
それから、ふたりで歩みを進めていると、
空をつんざいて、雷鳴のような声が、
真正面からひびいてきて、
「われに遇う者われを殺《あや》めん」〔ねたみのために弟アベルを殺したカインの叫んだ言葉〕
といったかと思うと、
やにわに雲を突きぬける稲妻のように逃げていった。(一三五)
その声がおさまって 聞こえなくなったとき、
つづいて 同じような大轟音が
だしぬけに 新しくひびいてきた、
「われは石と化せしアグラウロなり!」〔アテナイの王ケクロップスの娘アグラウロスのこと。その妹ヘルセがヘルメスに愛されたのを羨望し、神罰をうけて石と化した〕
そのとき、わたしは師にすがりつこうとして、
前には進まずに 師の右の方へまわった。
やがて、あたりの大気が静まってから、
師はわたしにいった、「あれはにんげんに
その身のほどをわきまえさせる きびしい轡《くつわ》だ。(一四四)
だが、お前たちは餌《えさ》にとびついて、
海千山千の敵の〔悪魔のこと〕針に自分から引っかかるので、轡も呼び声も さっぱり役には立たんのだ。
天はお前たちを呼び、お前たちのまわりをめぐって、
その永遠のうつくしさのかずかずをお示しになっているのに、
お前たちの目は地上にばかりそそがれている。
だから、何事も心得ておられるおん方が、
お前たちをこらしめておられるのだ」(一五一)
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第十五歌
時はすでに日暮れに三時間しかないころだった。ダンテは天上のまぶしい光に身をさらして、頭もおもく気のとおくなるのを感じはじめた。そして夢遊病者のように、夢みながら、いろんな具象を幻想として意識する。ダンテは石のきざはしを登って、ウェルギリウスに嫉妬や愛について疑問をときあかしてもらう。すでに第三の環道にさしかかっていて、マリアやステパーノの忍苦のさまを夢にみる。歩いているうちに、二人は夜のように暗い煙のなかに包まれてしまう。
子供がたわむれてあくこともない〔まわりやめない〕ように(一)
天球〔の軌道〕は、一日の初めと第三時の終りのあいだで、
いつも同じ〔ところに〕あらわれるものだが、
その時ははや、夕暮れに それと同じくらい〔三時間〕しか、
太陽の軌道は残されていないように見えた。
煉獄では日没前〔の三時間〕で、イタリアでは真夜中だった。
わたしたちはそうやって山を迂回して
すでに西の方へ向かってまっすぐに歩いていたので、
太陽の光が真向《まっこ》うから 顔に照りつけていた。(九)
そのとき、わたしは前よりもさらに烈しい光のきらめきに
ひたいが重くなって うなだれる感じがした、
その〔光の強くなる〕わけが判らないので、ぼやっとしていたのだ。
そこで、両手を眉のうえにかざして、
目には強すぎるその光の
覆いにして それをやわらげた。
光が水面や鏡にあたって
反対側へはねかえるとき、
射しこんだと同じ角度ではねかえるように、(一八)
それが垂直の線に対して
等しい距離にとびでることは、
実験と学理が示していることだ。
そのようにして、光が反射して、
目の前から打たれたような気がしたので、
わたしは急いで目をそらした。
「おん父よ、あれは何でしょう。
わたしに食いこんできて 目をおおえませんが」
わたしはいった、「それにこちらへ近づいて来るようです」(二七)
「天上の方々がお前の目をくらまそうとも、おどろくことはない」 師は応えた、
「天のお使いが、人間をのぼらせようとなさって 迎えに来られたのだ。
こうしたもの〔天使〕を見ても じきにお前の重荷にはならなくなるだろう、
お前のこころがそれを感じる準備さえできれば
お前には歓びになるだろう」
やがて祝福された天使たちのもとに着くと、
天使がはればれとした声でいった、「お入り。
これからは、これまで来た石段ほど急ではない」(三六)
わたしたちはすぐそこを離れて登りにかかっていた。
すると、「憐みある者は幸《さいわい》なり」と、
背後の方でうたう声がした、「喜べ、そなたは勝ちたるぞ!」とも。
師とわたしは二人だけで上の方へ歩いていった。
そして、歩きながら わたしは考えた、
師の言葉から何かためになることを聞きだそうと。
で、師の方を向いて こうたずねた、
「あのロマーニャの人の魂が、≪しりぞけろ≫とか≪仲間≫とかいったのは、
何をいおうとしたのですか」(四五)
だから、師はわたしに、「あれ〔グイード・デル・ドゥーカのこと。彼は生前他人の苦しみを見ることを楽しみにしていたが、いま煉獄で憐憫ということを学び、他人が同じ罪を犯して自分のように嘆かないように、ダンテに警告している〕は自分の最大の悪徳〔嫉妬〕の罰が
身にこたえているから、ひとがその罪を嘆かないように
それを責めたとて、お前が驚くことはない。
仲間のあいだで分前《わけまえ》が減《へ》るような場合に、
お前たちの身欲が集中すると、
妬みが〔胸の〕ふいごをうごかして溜息をつかせるからだ。
だが、至高の天を慕うこころを、
お前たちの欲望を上の方へ向けるなら、
そんな怖れはお前の胸からかき消えるだろう。(五四)
天上で≪われらのもの≫と呼ばれるものが多いほど、
ひとはそれぞれに〈もの〉をより多くもつことができて、
結局その僧院〔天国〕で愛のこころがますます燃えさかるからだ」
わたしはいった、「はじめから黙っていましたら、
わからないながら納得していたわけですが、
わたしの心には、しかし、疑いがすごくつのってきているのです。
一つのものを、おおぜいの人に分けるほうが、
わずかな人に分けるよりも
どうして物を豊かにもてるのでしょうか」(六三)
すると、師は、「それはお前がこころのなかに
まだ地上のものばかり描いているからだ。
お前は、真実の光から闇〔の実〕をもぎとっているのだ。
天上のあの限りない 言葉でもいいがたいおん神の恵みは、
光が、それをうけて輝くものへ向かうように、
おん神を慕うこころへおさずけになられるのだ。
施しのこころが強ければ強いほど おん神は多くおさずけになる。
そのように、いつくしむお心の伸びていくかぎり、
その上に 永遠の徳がふえて伝わっていくのだ。(七二)
それに、天上におん神を慕う者が多くなればなるほど、
おん神に愛されることも多く、その愛も深まって、
鏡のようにたがいに映しあうことになる。
もしわしの話が腑におちないようなら、
ベアトリーチェさんに会うがいい。あのお方が納得のいくまでに、
このことやほかのお前の望みを 一つ一つときほぐしてくださるだろう。
すでに消された二つの〔お前のひたいのPの字の〕傷のように、
あとの五つの傷口も消えるように努めることだ、
苦しめばふさがる傷だからな」(八一)
「お話はよく」といおうとしたとき、
気がつくと、わたしは第三の環道の上へ出ていた。
そして あちこちへ目をやると、わたしは口が利けなくなった。
そこで、わたしはやにわに引きこまれた夢のなかで
うっとりするような気になった。
一基の寺院の中におおぜいの人を見たのだ。
その寺の入口の閾《しきい》で、ひとりの女のひと〔マリア〕が、
母親らしいやさしいそぶりでいった、「わが子よ、
なぜあたくしたちにあんなことをなさったの。(九〇)
あたくしもそなたの父さんも 心配してさがしていたのですよ」
そこでそういって その女のひとがおし黙ると、
そのはじめの幻のすがたは かき消えたようだった。
そのあとで、
別の女のひと〔ペイシストラートス夫人〕があらわれて、
他人にひどく腹を立てたのがもとで
くやしさがしぼりだす涙で頬をぬらしていたが、
いうのだった、「あなたがもし、あらゆる学芸がひろがっていた府《まち》で、
その名〔アテナイ〕のことで 神々がひどく争ったあの府の君主でしたら、(九九)
うちの娘を抱いたあのぶしつけな両腕を
切りおとしてください。ペイシストラートスさま!」
しかし、その女におだやかな顔でこたえる
その君主は 寛大で柔和な様子だった、
「われらを愛する者をこらしめるのもいいが、
害《そこな》おうとする者には どうすればいいのだ」
とかくするうちに、怒りで火のようにかっとなったひとびとが、
ひとりの若者〔ステパーノ〕を石で殺そうとして、
口々に「殺せ! 殺せ!」と叫んでいるのが見えた。(一〇八)
やがて、見る見るうちに、死の重みにしめつけられていた
その若者は、地面にくず折れていたが、
その目はずっと天の方に見ひらいたままだった。
そして、そんなひどい騒ぎのなかでも、
憐みのにじみでた顔つきで、
自分を殺《あや》める者たちを赦したまわるように
いとも高い主に祈りつづけていた。
わたしの魂が目ざめて、その女のひとのそとに実際にある
外部のいろんなものに気づいたとき、(一一七)
わたしの見たものが夢だったにしろ 空《くう》なものではなかったことがわかった。
そして、眠りからさめたひとのように
振舞っていたわたしを見て導師がいった、
「どうしたのだ、立っていられないのか。
目はつぶるは、足はよろめくはで、
それでもお前は半レガ〔一レガは二三マイル〕の余もやって来ているぞ。
まるで酔っぱらいか夢遊病者みたいにね」
「ああ、やさしいおん父、おききくださるなら」
わたしはいった、「こんなに足をとられたときに(一二六)
わたしの見たことをお話いたしましょう」
すると師が、「たとえお前の顔に百の仮面をつけたとしても、どんな些細なことでも
お前の考えがわしの目をのがれることはあるまい。
お前の見たもの〔夢〕は、永遠の泉〔神〕から流れでる
平安の水〔恩赦の情〕に対して
お前のこころをひらくことを大目に見るためのものだったのだ。
わしがさっき≪どうした≫と訊いたのは、
魂が肉体から離れると見えなくなる目〔肉眼〕でしか
物の見えないひとに いうたのではなかったのだ。(一三五)
ただ、お前の足に力をつけてやりたいばかりにいったまでだ。
まったく、目がさめても、のろくさと自分の力を出そうとしない
怠け者には、そうでもしてせかさねばならないからだ」
わたしたちは、まさに沈もうとする夕陽のぎらぎらする光りにさからって、
目のとどくかぎり それを越えてみつめながら、
夕暮れのさなかを歩いていった。
やがてそこには、夜の闇のように、
煙霧がじわじわと わたしたちにせまってきたが、
それを避けるところなどなかった。(一四四)
煙はわたしたちから 目の働きとさわやかな大気とを奪っていたのだった。(一四五)
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第十六歌
暗い見とおしのきかない大気の中を、ダンテは師に手をひかれて進んでいく。第三の環道では、魂たちは怒りの罪をきよめて神に祈りをささげている。そのなかにマルコ・ロンバルトがいて、ダンテの質問に答えて、人間の行ないは必然性の結果ではなくて自由意志から来るものだと説く。また世俗の権力と宗教上の権力とは分立すべきだといって、それの混同からくる弊害について力説する。ローマ教会の堕落はそこから来るといい、ダンテは祭司が世俗の財産を継がない理由に思いあたるのである。
地獄のなかの闇黒《やみ》でも、また雪のせいですっかり昏《くら》くなって(一)
見とおしのきかぬ空の下での
星かげも見えぬ夜の暗さでさえ、
わたしたちをそこ〔第三の環道〕で包んでいた煙ほどに、
わたしの目を厚い面帛《おもぎぬ》でおおって、
ごわごわした毛の感じにさせたことはない。
わたしは目をあけていることができなかったからだ。
そこで、わたしが頼りにするさかしい導師は、
わたしに近寄ってきて肩を出してくれた。(九)
こうやって、盲人は道に迷ったり、物にぶつかって怪我したり、
あやまって死んだりしないように、
自分を手引きする者についてゆくが、それと同じに、
わたしは、「いいか、わしから離れるなよ!」
という師〔の声〕をききながら、
その呼吸《いき》もしづらい 暗い大気のなかへ突きすすんだ。
わたしはおおぜいのひとの声を聞いたが、
その声は口々に、罪をきよめるおん神の小羊〔キリストのこと〕に、
やすらぎとあわれみを請い願っているようだった。(一八)
それらの唱える初句はきまって、「|おん神の小羊よ《アグネス・デイ》」だったが、
みんな同じ祈りを同じ抑揚でとなえていたから、
めいめいの声が相和しているように思われた。
「先生、いま聞こえてくるのは魂たちの祈りですか」
わたしがそういうと、師は答えた、「まさしく そうだ。
あれらは怒りの罪の結び目を解いている〔怒りの罪をしずめて、との意〕ところだ」
「はて、きみはだれだね。おれらの煙をおし分けて進み、
おれらのことばかり話しているが、まるでいまでも
時を〔毎月の〕朔日《ついたち》の数でかぞえているようだが」(二七)
そう ひとつの声がいった。
すると師がわたしに、「お前が答えてやれ、
ついでに、ここ〔第四の環道への石段〕から上へ行けるか訊《き》くのだ」
そこで、わたしは、「ああ、あなたをお創りになったお方の前へ
無垢《むく》のすがたで帰ろうと 身をきよめておられる方々、
わたしについて来れば 珍しいことを聞かせてあげよう」
「許されているところまでなら ついて行こう」
と、その声は応えた、「煙がたがいを見えなくしているが、
そのかわり声をきいて一緒にいけるだろう」(三六)
そこで、わたしは話しはじめた、「死んだら解ける
この産衣《うぶぎ》〔肉体のこと〕をつけて 上をめざして登っています。
わたしは死の苦しみの地獄を通って ここへ来たのです。
それは、おん神がわたしを恩寵にお召しになられてから、
近頃の慣わしには絶えてない仕方で、
おん神の宮居をかいま見るように たってお望みになられたからです。
あなたが生前はどなただったか、わたしにはおかくしにならないで。
それから、わたしがどの道をのぼればいいのか教えてください。
あなたのお言葉が わたしたちの標《しるべ》になるでしょうから」(四五)
「わしはロンバルディ家の者で、マルコという名だった。
世間の仕事をやってきて、いまではだれも鼻洟《はな》もひっかけない徳を愛したのだ。
それはそうと、登るなら、真すぐに行くがいい」
そのひとはそういってから つけ足した、
「頼んだぞ、上へ登ったら おれのために祈ってくれ」
そこで、わたしはそのひとに、「誓って
わたしの頼まれたことは果たします。
しかし、ある疑いに心がしめつけられています、どうもはっきりしないので。
〔その疑いは〕はじめのうちは単純でしたが、あなたのお話から(五四)
いまでは疑いが二重になっているのです。
こことよそで聞いたことが確かになって、
それがわたしの疑いとつながってくるのです。
世の中からは、たしかに徳という徳が
剥ぎとられています。それに悪の種子をはらみ それに包まれています。
あなたのいわれるとおりです。
しかし、お願いです。その理由をお示しください。
それをわきまえましたら、他人にも知らせたいと思いますので。
あるひとは悪の種子を天のものにしていますし、地上におくひともいますが」(六三)
そのひとはまず溜息を深くついて、
なやましげに「うーん」と結んでから、いいはじめた、
「ああ、兄弟〔煉獄では、魂がたがいに「兄弟」と呼び合っている〕。世間ではまことは見えないよ。
きみもまさしくその伝《でん》だが。
きみら生きてる人間は、なにかというと その理由を天のせいにしている、
まるで、天が万物をうごかすべきように神がしているようにね。
もしそうだとすると、きみらの自由な判断力はなくなって、
善行が福《さいわい》をうけ、悪行が呵責をうけるのさえ、
正義にもとることになるのだ。(七二)
きみらの動きは天〔の星のたたずまい〕にはじまるが、
それに尽きるとはいわぬ。いや、かりにそういったからとて、
きみには、善と悪とに〔知の〕光が与えられている。
そして、その自由な意志は、初めのうちこそ戦いでは
天体の影響〔人間のうけた本能のこと〕をうけて骨を折るかもしれぬが、
そのあとでは、十分に力さえつけば 万事にうち克つのだ。
きみらは、もっと大きな力〔神〕と もっと良い性質に
こだわりもなく属している。そしてこの性質は、
星々の意向《おもんばかり》をうけない魂を きみらの身内につくるのだ。(八一)
だから、現在の世の中が道をあやまるなら、
その原因はきみのなかにあって きみの身内にもとめられるものだ。
いまわしは、そのことをきみにはっきり示してやろう。
生まれる前から〔その魂に〕見とれておられた
おん神の手を離れると、童女さながらに、
泣いたり笑ったり 子供のふりをする
その魂は、うぶでたのしいおん神にうごかされただけに、
自分をしあわせにしてくれるものへ よろこんで帰るほかは 何も知らないのだ。
〔その魂は〕はじめにささやかな〔地上の〕歓びの味がわかると、(九〇)
やがて〔本当のものと〕見あやまって、導き手か手綱が
その好みを抑えないと、そのあとを追いまわすことになる。
だから、抑えるための法律が要ることになり、
せめてまことの府〔天国〕の塔〔正義〕を
見わけられる帝王も必要になってくるのだ。
法律はあるが、それを守っていく者が だれかいるだろうか。
だれもいないのだ。
にもかかわらず、さきに立つ牧者〔法王〕は、
反芻《はんすう》はするが、蹄《ひづめ》が割れていないのだ。(九九)
ひとびとも、牧者〔法王〕が貪欲に
地上の富だけに食いつくのを見て、
天上のよろこびをもとめずに 地上の富を食いちらしているからだ。
世の中が堕落した原因が、
指導のまずさにあって、きみらの腐った根性でないことが、
きみにもよくわかってもらえるだろう。
善い世界をつくったローマは、いつも
〔人間の〕世界と神の道を
それぞれ照らしだした二つの太陽〔法王と皇帝の二つの権威〕をもっていた。(一〇八)
だが、その一つが他を消してしまい、
剣〔地上の権力〕と杖〔精神的な力〕とが結びつき、
この二つが力ずくで一緒になれば うまくいくはずがない。
結びついたが最後、たがいに怖《こわ》いものがなくなるからだ。
おれのいうことが信じられないなら、〔草の〕穂を見るがいい。
どの草もその実を見ればそれがわかる。
アディーチェ河とポオ河のながれる地方では、
フェデリゴが面倒をおこす前〔皇帝フェデリゴ二世と法王との争い〕までは、
いつも礼節と徳義が行なわれていた。(一一七)
だが、かつては善人と話したり近づいたりするのを
恥じて はばかっていたような連中が、
いまでは しゃあしゃあして歩き〔善人がいないので、誰にもはばかることもなく、との意〕まわっているのだ。
もっとも、古い時代にいて新しいものを
とがめ立てする老人が まだ三人はたしかにいるが、
おん神が彼らをより良い世にかえすには遅すぎたようだ。
クラード・ダ・パラッツォ〔パラッツォ侯爵のクルラド三世〕と、良将ジェラルド〔ジェラルド・ダ・カミーノのこと〕と、
それに、フランス風に素朴なロンバルディア人と呼ばれている
クイード・ダ・カステル〔北伊のレッジョ・エミーリア地方のロベルティ家に属する三家の一つの出身〕の三人だ。(一二六)
要するに、ここでは結論をつけておくことだね。
ローマ教会は、〔俗界と神界との〕二つの権威を教会でごっちゃにしたので、
泥沼におちて、教会もその荷物もよごしてしまったということだ」
「そうですね、マルコ」 わたしはいった、
「ごもっともなお話です。わたしにはいま
司祭職《レビ》の子たちが なぜ世俗の財産を継がなかったかが はっきりしました。
しかし、古い世の義人として生きのこって、
この野蛮な時世を責めているとおっしゃる
そのジェラルドとは いったいどなたさまですか」(一三五)
「おお、そういって きみはおれを試すつもりかね」
彼は答えた、「きみはトスカーナ弁のくせに、
良将ジェラルドのことを何にも聞いていないようだな。
だが、おれはあれのほかの呼び名は知らんよ。
たってというなら、あれの娘のガイアの名で呼ぶんだな〔ジェラルドの娘ガイアは、ふしだらな女として当時有名だった。だから、「ガイアの父」と呼ぶことにするか、というほどの意味〕。
さあ、おん神が見えるはずだ。これ以上おれはきみらについていけないのだ。
あれ、煙をとおして光る空の色が、すでにぎらぎら白くかがやいている。
天使がそこにおいでだ――」(一四五)
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第十七歌
ダンテは濃い霧のような煙霧のそとに出る。だが、そのあいだにも彼にはさまざまの幻想がうかんでくる。その幻想は、怒りが罰せられる場面で、ペルシアの王妃エステルや十字架につけられて昂然としていたハマンや、早まって首をくくったアマタなどギリシア神話や聖書から取材した伝説が出てくる。いつしかダンテは第四の環道へ出る石段の上に出ていた。そこでしばらく憩うあいだに、師は、自然の愛と意識的な愛について、それの犯す過誤について、スコラ的な解釈をする。すでに月曜日の日は暮れてしまっている。
読者よ、思いだしてみてくれないか、(一)
きみが高い山で霧にまかれた経験があるなら、
土竜《もぐら》が膜をとおして見るようにしか、
その山を見られなかったということを。
しめっぽい濃い水気がうすれはじめても、
太陽の光は、霧をとおして、うっすらとしかとどかなかった。
そうして、すでにたそがれていた太陽を
わたしがどんな気持で見直したかは、
きみが想像しても たやすく思い描くことができるだろう。(九)
こんな状態で、わたしは自分の足を、
師のしっかりした足どりに合わせて、
その霧を抜けでて 光のなかへ出てきた。
その光も〔山の上だけで〕 足もとの渚《なぎさ》ではすでにかげっていたのだ。
ああ、何千というラッパが鳴っていても、
それに気づかないほど わたしたちの心を
そとのものからそらせる 夢みる強い力はよく経験することだ。
それが五官の働きでないとすれば 何がきみたちを動かすのか。
それは、天でおのずから形づくられた光がきみらを動かすのだ。いや、
下界にみちびかれるおん神のこころでもあろうか。(一八)
わたしの幻想のなかには、ことさらに歌いほうける
うぐいすに姿を変えたプログネ〔トラキア王テレウスの妃プローニェのこと。妹のピロメラがテレウスに辱しめられたとき、仇をうつために、自分とテレウスとの間に生まれた子イテュスを殺して、その肉を夫に食べさせた。神々は、その罪を憎んで、彼女を鶯に変えた〕の
神をあなどるしるしがあらわれた。
このようにして、わたしの心はそのまぼろしのなかに集まってしまっていたので、
そのとき 心に当然うけられるはずの
そとのものは入りこむこともなかった。
そうするうちに、わたしのきよらかな幻想のなかに、磔刑《たっけい》にかかった
きかん気のひとりの男〔アマノまたはハマンのこと。ペルシア王アハシュエロスの臣下。彼は王の寵愛が厚く、人民も彼を重んじていたが、ユダヤ人のマルドケオだけが彼を拝しなかった。アマノは怒って、諸州のユダヤ人を皆殺しにすると王妃エステルにその計画を告げた。王は王妃からそのことをきいて、アマノを十字架にかけて殺した〕が雨さながらに降ってきたが、
その見くだすような様子は 死に臨んでも変わらなかった。(二七)
そのまわりには、大王アッスエロと、
その妃のエストロ、それに言行ともに正しかった
義人マルドケオなどが居ならんでいた。
すると、それらの面影は、水の泡《あぶく》が
水の膜がなくなると自然とこわれるように、
ひとりでに消えてしまった。
わたしのまぼろしにはまた、ひとりの少女〔ラウィーニァのこと。ラティーノ王妃のアマータはその娘ラウィーニァをルトウリの王トゥルノにとつがせようと望んでいた。ところが、トゥルノが殺されたものと思って、自分の憎んでいたアエネアスがラウィーニァを妻にすることを恐れ、怒って自殺した。ただし、ダンテの幻想に出てくるのは、アマータでなくて娘のラウィーニァである〕があらわれて、
ひどく泣きじゃくっていった、「ああ、王妃さま、
何とてお怒りでご自分で無きものにおなりになられたのです。(三六)
母上はラウィーニァを失うまいと ご自分でおはてになられましたが、
いまとなっては わたくしもお失いになられましたわ。
わたくしはあの方のなくなる前から 母上の死を悲しんでおりますのよ」
ふさがっている瞼《まぶた》にいきなり新しく光がさすと、
眠りがやぶられるものだが、それは
すっかり夢のさめる前に まだこわれて揺らめくものだが、
わたしたちが見慣れている日の光と比べると
ひどく強い〔天使の〕かがやきに 面《おもて》がとらえられたとたんに、
わたしのまぼろしは消えておちてしまったのだった。(四五)
わたしは自分がどこにいるかを見さだめようとして
うしろを振り向くと、「登りはここだ」という〔天使の〕声がした。
それをきくと、わたしはほかのことを考えるのをやめて、
その声を出したのはだれだったか、
それを確かめようという強い願いがおこった。
その顔を見なければ 気がすまないからだ。
しかし、太陽に直面すると、わたしたちの目はくらんで、
おびただしいその光が太陽のすがたさえ隠すものだが、
そのように、わたしの視力は そこの光には向かっていられなかった。(五四)
「これは天上の霊だ。別にお願いはしなくても、登りの道をわしらにお導きくださるのだ。
しかも、ご自分は ご自分の光のなかにかくれておられる。
ひとがご自分にしてくれるようなことを わしらにしてくださるのだ。
〔手をかす〕必要を知りながら 頼みにくるまで待つようなひとは、
もともと手をかす気などない薄情な手合だからな。
さあ、ご親切なお招きだ、足を立てなおして、
暗くなるまでに できるだけ登ることにしよう。
おくれると、日の出るまでは登れないからね」(六三)
そう導師がいった。師とわたしは
歩みをかえて石段の方へ向かった。
そして、最初の段に足をかけるとすぐ、
わたしは翼の羽ばたきのようなものを身近かに感じ、
それが顔をあおって いうのである、「平安なる者は幸《さいわい》なるかな
悪しき怒りにも染まらず!」
そのときは 太陽の最後の残光がすでに
わたしたちの頭上をはるかに遠のいていて、夜がそれにつづき、
星々が万遍なく現われはじめていた。(七二)
「ああ、わたしを動かす力、なぜこうして行ってしまうのです」
わたしはこころの中で叫んだ。わたしは自分の足が頼りなく感じられたからだ。
わたしたちのいたところは、〔第四の環道の〕石段のてっぺんの
もう登る段もないところだった。そこで、わたしたちは、
汀《みぎわ》にあがった舟のように じっと立ちどまっていた。
わたしは、この新しい環道で
何か聞こえるものはないかと、
しばらく耳を澄ましていた。
それから、師の方を振り向いていった、(八一)
「やさしい父上、おっしゃってください。
わたしたちのいるこの環道では どんな罪がきよめられているのでしょうか。
足をとめても お話はやめないでください」
そこで、師はわたしに、「ひとが当然にもつべき
善に対する愛の乏しさが ここで償われている。
のろのろして漕ぎおくれた者が ここでまた漕ぎなおしているわけだ。
もっとはっきり知りたいなら、
お前のこころをわしに向けることだ。こうして立ちどまっているうちに、
何かいい結果を引きだすがいい」(九〇)
師は語りはじめた、「造物主〔神〕も創られたものも、
生まれつきのものであれ こころから出るものであれ、
愛のなかったものはなかったのだ。子よ、お前の知ってのとおりだ。
生まれながらの愛はつねに誤ることはないが、
こころが生む愛〔後天的にあとから心にめばえる愛〕は、目的をあやまるか、力が乏しいか、多すぎるかで、
あやまちを犯すことがある。
愛が第一の幸《さいわい》〔神〕をめざすか、
第二の幸〔物欲〕のなかで自分を抑えるかぎりでは、
罪をよろこぶ原因になることはない。(九九)
しかし、それが道をはずして悪に向かうとか、また第二の幸を度をこして愛しすぎるとか、
〔第一の〕幸へ強いられていくほど 愛がとぼしくなると、
おん神に創られたものがおん神にさからうことになるのだ。
そういうことで、愛がお前たち人間のあらゆる徳の種子であり、
罰に値するあらゆる行ないの種子であることが、
お前には理解することができるだろう。
さて愛は、愛の主体〔神のこと〕である救い〔善〕から
目をそらすことができないから、愛を感じやすいあらゆるものは、
自分自身を憎むことなどあるはずはないのだ。(一〇八)
その上、存在するものは 原《もと》からの存在〔神〕から切り離されて
自分で生きていけるとは考えられないから、
創られたものはみな、原初の存在〔神〕を憎むことなどとは もともと無縁なことだ。
このように〔憎しみを〕分けるわしの考えが正しければ、
残るところは、他人の不幸をよろこべるのは隣人だけだ。
して、その〔他人の不幸を〕よろこぶ心は、
お前たち泥のなか〔人間は泥からつくられたと考えられていたから〕では三様に生まれてくる。
世の中には、自分の隣人をふみつけて自分の優越をねがい、
そのためにひたすら隣人の威勢が落目になることをねがう者がある。(一一七)
ある者はまた、相手が出世すると、
自分の権力や恩寵や栄誉を失うことを惧れて、
それを苦に病んで 他人の不幸をよろこんでいる。
また侮辱をうけた者が火のついたように怒って、
復讐の鬼になるが、そいつは自分を痛めつけた者を
不幸におとし入れようと身構えているものだ。
この三様の〔非道を〕よろこんだものは、この下〔の環道〕で 泣いて償いをうけている。
だが、ここで、お前は別の愛のことをわしに聞くがいい。
それは正しい方法を見きわめないで善を追うことだ。(一二六)
ひとはだれでも 善ということにぼんやり気づくと、
それによって自分のこころを鎮めようとして、
善に達しようと努めるものだ。
お前たちの愛が、そういう善に関心をもったり、
それを手に入れることを怠りでもすると、
この棚の環道で 当然の償いをしたあとで呵責《かしゃく》せられるのだ。
もう一つの〔俗生の〕善は、〔不完全だから〕ひとを幸福にはしない。
それは、至福でもなく、あらゆる善の
果《み》であり根である高い善の本質〔神〕ではないのだ。(一三五)
例の〔俗生の〕善に夢中になって それを愛した者は、
この上の三つの環道で償いをしているが、
それがどのように三つに分かれているか〔貪欲、暴食、邪淫の三つ〕 ということについては、
わしはいうまい。お前が自分でさがすことだから」(一三九)
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第十八歌
ウェルギリウスは、なおも愛の性質について語りつづける。疑いを解きあかしてもらったダンテは、ぼんやりして思いかえしていると、そのそばを一群の霊たちが駆け抜けてゆく。口々に性急に神の愛をもとめる叫びをあげていくのだ。師がたずねると、その一人はヴェローナのサン・ゼノの僧院長だというが、その一団におくれた者は、懶惰《らんだ》の罪をつぐなっている魂だった。ダンテはふたたび夢のなかに入ったようだ。時刻はその月曜日の夜中である。
この博識の学匠〔ウェルギリウス〕は、語りおえると、(一)
はたしてわたしがわかっただろうかと
わたしの顔をじっとのぞきこんだ。
わたしはわたしで、新しい渇きにまた駆りたてられていたが、
うわべでは口をつぐんで 心のなかでつぶやいていた、
「あんまり質問ばかりすると、先生はきっとおうるさいにちがいない」
しかし、この慈父は、わたしが口も切らずに
もじもじしてると見てとると、
話しかけて わたしにいいだす元気を与えてくださった。(九)
そこでわたしは、「先生、先生の光のおかげで
わたしの目はこんなにはっきりひらきました。
先生のお話の問題も説明もよくわかります。
でも、やさしい父上、お願いいたしますが、
いっさいの善行も その反対の行ないも
みな帰するというその愛とは何か お示しくださいませんか」
「こころの鋭い目を わしの方へ向けることだ」
師はいった、「そうすれば、自分を導者だとする
盲人のあやまり〔精神的な盲人、すなわち無智な徒の過誤ということ〕が、お前にもわかるだろう。(一八)
たやすく愛にうごくように創られているひとの魂は、
楽しみにめざめて動きだすとすぐ、
好むものになら何でも 移っていくものだ。
お前たちの認識する力は、真に在るものから
印象を引きだして、それを心のなかでくりひろげ、
そうして、魂を幻想の方へ向けさせているのだ。
もし魂がふり向いて そちらの方へなびいていけば、
そのなびくことが愛だ。これこそ、楽しみによって
お前のなかに新しくむすびつけられた自然なのだ。(二七)
それはあたかも、火がもっとも永く燃えつづくところ〔大気圏の上にある火炎天のこと〕へ
のぼろうとする本来の性質から
たかだかと燃えあがるように、
愛にとらわれた魂は、こころの動きである
欲望のなかに入って、愛するものが
それを喜ばせてくれるまでは とどまることがないものだ。
さあ、お前にはわかっただろう、
愛であれば 何でもほめたたえるものとばかり思っているひとにも
案外真実がかくされていることが。(三六)
これはおそらく、愛にかたむくことが つねにいいように見えるからかもしれん。
だが、たとえ蝋《ろう》が上質であるからといって、
それに刻《きざ》む印《しるし》がどれもいいとはかぎらないからね」
「先生のお言葉とそれをおききするわたしの頭とで、
愛というものが明らかになりましたが」わたしは師にこたえた、
「お話からでも まだまだ疑いが出てまいります。
もし愛がそとからわたしたちに与えられるもので、
しかも魂が別のやり方で動けないものとすれば、
まっすぐ行こうが曲がろうが、それは魂の責任ではないでしょう」(四五)
そこで師は、「道理のことなら ここで説きあかしてお前にもいえるが、
それからさきは 信仰の問題だから、
ベアトリーチェさんを待つしかない。
実体〔魂〕はそれぞれ 物質と分かれてはいるが、
またそれと結びついていて、
そのなかに特別な力を蔵しているものだが、
それは働かないと感じられないものだし、
植物のいのちがみどりの葉で知られるように、
それが効果となって現われないかぎり、出て来ないものだ。(五四)
というわけで未経験の事実を知る力や
未知の味わいを好む性向が
どこから来るのかを ひとは知らないのだ。
蜂が蜜をつくるような働きは、
お前らにもあるもので、この初めてのものを〔知ろうとする〕欲望は、
ほめようと けなそうと その価値はわからないものだ。
さて、このめいめいの別の欲望の集まるところでは、
お前らには生まれながらに助言する能力がある。
ものを肯《うけが》う閾《しきい》をまもる力がそなわっている。(六三)
これが原則だ。この原則から お前らの価値をきめる
理由が出てくるのだ。ひとは善悪によって、
愛をあつめて選びだすのだからだ。
〔ものの〕根本にまで理をきわめていった人は、
この人間の生まれながらの自由をみとめていたから、
道徳の教えを世にのこしたのだ。
だから、お前らのこころに燃えさかる愛が、
どれも必然的に燃えあがったとしても、
それを抑える力はお前らの手にあるのだ。(七二)
ベアトリーチェさまは、この貴い力を
自由な意志と呼んでおられるから、そのお方と話すときには、
そのことを頭に入れておくよう 気をつけるんだな」
真夜中ちかくのことで、のっそり昇る月は、
かがやく大きな桶のかたちになって、
星々をさらにまばらに薄れさせるようだった。
そして、ローマからは、サルデーニャ島とコルシカ島のあいだで(八一)
ぎらぎらした太陽がたそがれて見える季節〔夏至〕に、
その太陽のとおる道を、月はその逆〔東〕に天をのぼっていった。
そこで、ピエートラ村の名をマントヴァの市より有名にした
このやさしい影〔ウェルギリウス〕は、
わたしがもちかけた〔疑いの〕重荷をおろしたのだった。
わたしも、自分の質問にはっきりした解りやすい答えをいただいたので、
夢見ごこちのひとのように ぼんやりしていた。
しかし、わたしたちの背後から すでに〔環道を〕まわって来ていたひとたちのために、
わたしの夢はたちどころに破られてしまった。(九〇)
あの〔昔の〕イズメノとアンポの二つの川ぞいに、
テーバイのひとたちが
バッコスの神の助けをもとめて
夜じゅう踊り狂って足をふみつけたように、
そのひとびと〔この跳り狂うひとたちは、怠惰の罪をきよめるために罪をつぐなっているのである〕はこの環道を〔馬のように〕跳《おど》りあがってやって来るのだ。
見たところ、よい願いと正しい愛にせかされて来るようだ。
そのおおぜいの魂たちは みな走ってうごいていたから、
わたしたちにすぐ追いついてしまった。
すると、そのなかの二人が 泣きながら叫んだ、(九九)
「マリアさまはいそいで山へお行きなされたぞ。
カエサルもイレルダを従えようとて、
マルセーユに手間どることなく エスパニアへお駆けなされたぞ〔ユリウス・カエサルが、マルシリアを囲み、プルートゥスをそこにとどめて、長駆イスパニアへ行って、ポンペイウスの部下のアフラニオの軍をレリダで攻めにかかった、という意。どちらも急いでいるという例〕」
「早よう、早よう、愛がたりぬとて時をつぶすまいぞ」
ほかのひとびとは口々に叫んだ。
「善行を心がければ 神のお恵みが立ちかえるぞよ!」
「おお、きみたち。いまやっきとなって
狂わんばかりに償いをしているのは、
善行をおろそかにし、ぐずついて善行をし遅れたからだろう。(一〇八)
わしはたぶらかすわけではないが、この者はたしかに生きている。
日がまたかがやきさえすれば、この者は山の上へ登ろうとしているのだ。
だから、どちらが石段〔石段に通ずる入口、の意〕に近いか 教えてくれまいか」
これが、わたしの導師の言葉だった。
すると、ひとりの霊がいった、
「われわれについて来れば、石段へ出られるよ。
われわれはこうして動きたい一心なので、
立ちどまっていられないのだ。だから、許してもらいたいのだが、
こんなにそっ気なくするのも おん神の刑罰をうけているからだ。(一一七)
わしはヴェローナのサン・ゼノ寺の僧院長〔ゲラルドのこと。サン・ゼノはミラノの有名な修道院だが、そこの院長の任命権はヴェローナの君主アルベルト・デラ・スカラの手にあった。スカラは自分の庶子で骨盤のはずれた不具のジュゼッペをその修道院の院長に任命した。そういう事情を前提とすると、ミラノ人がうらむ理由がわかる〕だった者だ。
いまだにミラノ人がうらんで物語る
あの善良なバルバローサ帝〔フェデリゴ一世のあだ名。この「あか髭」というあだ名は歴史書にも通用している〕の時代だった。
また、例の、墓穴へ片足突っこんだ男〔ヴェローナの君主アルベルト・デラ・スカラのこと〕が、
やがてその修道院へ泣きこむことになるだろうし、
そこの権力を握ったことを悲しむにちがいない。
その男は、れっきとした然るべき聖職者の代わりに、
不具のからだの 頭のわるい生まれそこないの
自分のむすこを据えたからだ」(一二六)
そう話した男は、わたしたちを追いこして、かなり遠く通りすぎていたので、
その男がこれ以上にしゃべったのか、口をつぐんでいたのか わからないが、
そんなことが耳に入ったので よろこんで心にとめた。
すると、いつも必要なときに助けてくださる師がいった、
「むこうを見てみろ。懶惰《らんだ》にかまれて
悔みながらやってくる二人を見ろ」
しんがりになったその二人はいっていた、
「そのために海がひらかれた民〔その民というのは、モーゼの教えを怠惰ゆえに守らず、紅海を越えられず、ヨルダン河の流れる地パレスティナへ着かない間に死んだ一人のこと〕は、
ヨルダンの河がその子孫を見る前に死にたえてしまった。(一三五)
アンキーゼの子〔アエネアスと漂流の苦しみをともにしなかったトロイア人〕ともどもに 最後まで
苦しみに堪えられなかった者は、
ほまれのない生涯にその身を捧げた」
やがて、この霊たちもわたしたちからはるかに遠ざかって、
もう後を追えなくなったころ、
あたらしい思いがわたしの心にうかび、
それからさらに さまざまなちがった想いが生まれた。
そして、あれやこれやと思いまどうているうちに、
目はうつつなに閉じられて(一四四)
わたしの思いは夢に変わってしまっていた。(一四五)
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第十九歌
ダンテの夢のなかに魔女のセレーナがあらわれる。貪欲、大食、好色の権化である。歌声で舟人をまどわせる、と歌にうたうが、そのとき聖女ルチアが来て、その女の衣裳を引きちぎって、ダンテにその女の腹を見せる。とたんに悪臭が出て、それでダンテは夢からさめる。やがて天使にみちびかれて第五の環道へ出ると、そこでは貪欲の罪をきよめるため魂たちは地面にうつぶせになっている。そのなかに、法王アドリアーノ五世もいて、ダンテは跪《ひざまず》こうとするが、法王は地上のものに執心した酬いだといって、身の上を物語るのである。
日なかの熱さが、地球やときには土星〔の冷え〕に消されて、(一)
月の寒さをもうゆるめられなくなる明け近いころには、
土占い師〔地相によってうらないをする者。しかし実際は地の形を天の象にふりかえて占いをするので、星占いと本質的には変わりない〕が その夜明け前の
まだうす闇ののこっている東の空に、
大吉《だいきち》という星々が のぼるのを見まもっている。
そのころ、わたしの夢のなかにひとりの女が出てきた。
どもりで やぶにらみで 足も曲がっていて、
両手ともにない 顔色の蒼ざめた女〔魔女の一人〕だ。
わたしはその女を見た。(九)
と、夜っぴて
冷えきった手足を太陽があたためるように、
わたしのまなざしは その女の舌をなめらかにした。
とかくするうち、その女はすっくと起ちあがった、
その蒼い面《おも》には、恋する者のように、
ほんのり 色がさしてきた。
やがて、その女は楽に物がいえるようになると、
歌をうたいはじめたが、その女から
わたしは気をそらすことさえ できそうになかった。(一八)
その女は歌った、「あたしはやさしいセレーナよ〔この魔女は、イタリア西南の島にいた妖女で、うつくしい歌声で船乗りをまどわしていたという伝承がある。セイレンともいう〕。
おおわだつみのさなかでも船乗りの気を狂わせる、
みんなうっとり聞く歌だもの。
その歌でウリッセさまも舟路を変えた。
あたしとしたしむ殿方《とのがた》が 別れるなんて
おかしいわ そんなにあたしはお気に入り」
その女の口がまだとじないうちに、
聖らかな淑女《あてびと》〔聖女ルチア〕が、すばやくわたしのそばに現われると、
その女はひどくとりみだして羞《はずか》しがった。(二七)
「ああ、ウェルギリウス、ウェルギリウス。この女は何者です」
その淑女はさも見さげたようにいった。
すると、師は、目を聖女にそそいだまま近づいてきた。
聖女はセレーナをつかまえて、その衣裳を引き裂くと、
からだの前をひらいて わたしに女の腹を見せた。
と、わたしは、その腹から発散する臭気に、はっと気がついて目がさめた。
わたしが目をうごかすと、善い師はいった、
「お前の名を三度も呼んだぞ。さあ、起ちあがって来るのだ。
お前が入っていける門を見つけるのだ」(三六)
わたしの起ちあがった上には、神聖な山の環道いっぱいに、
すでに日がたかだかと輝いていた。
わたしたちは、そのあたらしい太陽を背にして歩きだした。
わたしは師のあとから、想いがつまって、
まるで反《そ》り橋の上をこごんでいくひとのように、
ひたいを垂れて歩いていった。
そのとき、「こちらへ。ここなら入れるぞよ」という
ひとの世では耳にすることもできない
さわやかで情のこもった声を わたしは聞いた。(四五)
そういったひと〔天使〕は、白鳥とも見える翼をひろげて、
堅固な岩壁が両側にせまった間を、
わたしたちに登るように うながした。
それから、〔天使は〕翼をうごかして風をおくり、
≪この心かなしき者≫〔『マタイ伝』の「哀しむ者は福なり。其人は安慰を得べければ也」から引いている〕が その魂に慰め得るように
おん神に嘉《よみ》されていることをたしかめた。
「どうした、地面ばかり見ているが」
ふたりが天使から離れて すこし登ったところで、
導師はわたしに口を切った。(五四)
そこで、わたしは、「わたしの身にこびりついてる
さっきの夢が、いろんな疑いを生んで、
その想いからのがれることができないのです」
師はいった、「お前は古い世の魔女を見たのだ。
あれはいまでは、ここの上〔煉獄の上方の三つの円、すなわち貪欲、暴食、多淫の三つの圏〕でひとりで泣いている。
にんげんがどうしてあれから遁《のが》れるのか お前は見たのだ。
それでいい。さあ、かかとで地面を蹴っていそぐことだ。
永劫の王者〔神〕が 天球をめぐらしておられる
そのお招きに 目をむけることだ」(六三)
あたかも鷹が、はじめは足もとを見、
声に応じてふり向いて、それから自分を中天に引きよせる
餌につられて 翼をひろげるように、
わたしも歩きだした。そして、岩が裂けて、
登るひとには道にもなっているあたりを、
環道へたどりつけるところまで 登っていった。
見通しのきくその第五の環道に出たとき、
だれもかれも地面にうつ伏せになって
泣いているひとたちが わたしに見えた。(七二)
「わが魂は塵につきぬ!」
と、そのひとたちが 深い溜息のあいだに唱えるのが聞こえた。
やっと聞きとれるほどの声である。
「ああ、おん神に選ばれたきみ方、
きみ方の苦しみは 正義と希望が軽くするにきまっている。
ところで、わしらを上の石段へみちびいてくれまいか」
「もし罪なくて腹ばいもせずに行ける身なら、
またいちばん手近かな道を知りたいのなら、
教えよう、いつも外側を右手にしていくことだ」(八一)
詩人がそういう風にきくと、
すぐ前の方から こういう返事がかえってきたのだった。
だから、わたしは目には見えないが、だれか物をいうひとがいることがわかって、
ふり返って、師と目と目を合わせた。
すると、師はわたしの目のいわんとすることを
うれしそうに目くばせして許してくれた。
わたしは、こうして思いどおりにできることになると、
さっき口をきいて わたしの注意をひいていた
あの魂に近づこうと思って、いった。(九〇)
「泣いて償いをはたしている、
またそうしなければ、おん神のみもとに帰れない魂よ、
きみの大事な仕事を わたしにちょっと控えてくださらんか。
きみは〔生前に〕どなたでしたか、なぜに背を上に向けているのです、
いってください。わたしが生き身のままで出てきた
この世のことでお希《のぞ》みなら、きみのためにしましょうから」
すると、その魂は、「わしらの背中を天に向ける理由《わけ》は、
いずれわかるだろうが、わしはもとはといえば、
聖ピエートロの後継ぎ〔アドリアーノ五世〕だったことは知っとくがいい。(九九)
シェストリとキァヴェリの町のあいだには
きれいな川が流れおちているが、
わしの血族の名は その誇りをそれからとったものだ〔ジェノヴァの東にあるこの二つの町のあいだをラヴァーニァ河が流れているので、その河の名をとってラヴァーニァ伯家ができたということ〕。
一と月の余も、わしは泥から護る者にとって、
〔法王の〕衣がどんなに重いものかを体験したが、
それにひきかえ、ほかの荷なぞは羽根のように軽いものだった。
わしの改心は、ああ! 遅すぎたのだ。
しかし、わしがローマの牧人〔法王〕に選ばれたときには、
それでもひとの世の偽りを見破っていたのだ。(一〇八)
法王の座についてみると、わしの心のなかに
永遠の世の愛がもえたってきて、こころは落ちつかず、
この世ではもう高い位にのぼれないことがわかった。
それまでのわしは、おん神から見離された
みじめな欲ぶかい魂だったが、
いまでは、見てのとおり ここでそのつぐないをしているのだ。
貪欲のさせるむくいがどんなものかは、
ここで悔悛した魂がこころをきよめるさまで明らかだが、
これほど苦々《にがにが》しい罰は この山では見当るまい。(一一七)
わしらの目が地上のものにばかりとらわれていて、
天上を仰ぎみることもなかったから、
おん神の正義が こうして地面に目をしばりつけているのだ。
貧欲がわしらの善へ向かう愛を消し、
そのため善を行なうことさえ失わせたからに、
〔おん神の〕正義が わしらの手足をとらえてしばりつけ、
こうしてここで きつく締めあげているのだ。
〔おん神の〕正しい思召しがおよろこびなさるかぎり、
わしらは身じろぎもせずに これからも伏せつづけるのだ」(一二六)
わたしは膝をついて話をしようと思った。
しかし話しはじめると、その魂は声をきいただけで、
わたしが〔その魂を〕うやまっていることに気づいて、いった、
「いったい、なぜきみはそんなに跪《ひざまず》くのだ」
で、わたしは、「あなたの尊いご身分を思いますと、
立っているのは、わたしの良心がとがめるのです」
「兄弟! 足を伸ばして、起ちあがれ」その魂は応えた、
「思いちがいをするな わしはきみや他のひとたち同様に
お一人の権威〔神〕に仕える僕《しもべ》なのだ。(一三五)
きみがこれまでに「人は娶《めと》らず」という
神聖な福音書の言葉を聞いたことがあるなら、
わしのいう意味がよくわかるはずだ。
さあ、行ってくれ。もうきみを引きとめはすまい。
きみがいると、わしは泣きしぶるからだ、
わしは泣いて きみのいったことを果たそう。
わしはアラージァ〔ニッコロ・ディ・フィエスキの娘で、アドリアーノ五世の姪。ルニジアーナのモロニエルロ・マラスピーナ将軍の妻となった徳のたかい婦人〕という姪《めい》を この世にのこしてきたが、
わしの下品な家風に染まりさえしなければ、
気だてはもともといい姪だ。(一四四)
わしがこの世に残してきたのは その姪ひとりだけだ」(一四五)
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第二十歌
第五の環道では、腹這いになった魂たちが、涙をながして罪を悔いている。貪欲のむくいである。その群で、財宝よりも清貧を愛したマリア、ファブリキウス、ニコラウスなどのことを、泣きながら物語るひとがいる。フランス王家の始祖のユーグ・カペである。彼は自分と自分の子孫のフランス国王のことを述べて、その罪ふかいことを訴える。それから、それにつづいて、そこで貪欲が罰せられていることを語った。話しおえると、大地が震動して、「いや高きおん神にみ栄えあれ」という歌が八方から起こってくるのだった。
〔話を切りあげたい法王の〕かたくなな強い意志の前には、(一)
〔わたしの〕意志などは歩が悪い。
わたしはそのひとによろこんでもらうために、
自分の〔話しつづけたい〕意志にさからって、
まだ十分に水を吸ってもいないのに、海綿は水から引きあげられたのだった。
わたしは歩きだした。すると、導師もながながと岩壁に沿って、
ひとが城壁の上の胸壁〔城壁の上の長方形の垣〕に食っついていくように、魂たちのいない場所を選んで歩いていった。
それは、世の中にいっぱいたまっている〔吝嗇の〕悪を、
ひとしずくずつ目から流しているひとたちが、
向こう側から外の方へと壁ぎりぎりに迫っていたからだ。(九)
呪われるがいい、古狼〔吝薔と貪欲を象徴するもの〕よ、
お前の餓えは底ぶかくて きりがなく、
ほかのどの獣よりもおびただしく餌食にしている!
ああ 天よ、地上のさまは天の運行で変わるものと
ひとは信じているようだが、
この牝狼をこの世から追いたてるお方は いつ来られるのか。
わたしたちはゆるゆる 小きざみに歩いていった。
そして、魂たちに気をくばっていたが、
泣きながら 圧しころすように嘆く声が聞こえた。(一八)
と、だしぬけに、「おやさしいマリアさま!」と、
お産のときに女が立てるように 涙声で叫ぶのを、
わたしたちは行く手にきいた。
その声はつづける、「あなたさまがどんなに貧しかったかは、
あなたさまが神聖な荷〔子イエズス〕をお預けになられた
あの客舎《かりやど》〔厩〕のわびしさからもお察しできます」
それに続いて また聞こえた、「ああ、善人のファブリキウス〔ローマの執政官ガイウス・ファブリキウス・ルスキヌスのこと。サニティ人と和解したとき賄賂を拒んだ。その死に当たって、余財がなく、市民は公金で葬式を出したといわれる〕さま、
あなたは悪徳と富貴をあわせもつよりも、
美徳を清貧とともにお望みになられました」(二七)
わたしはその言葉がひどく気に入ったので、
それを口に出したと思われる魂のことを
もっとよく知ろうとして近づいた。
その魂はなおも、ニコラウス〔聖ニコラウスのこと。小アジアの町ミーラの司教だったが、ある人が貧困のために三人の娘を売ろうとしているのをきいて、全財産を窓から投げ入れて少女たちを醜業につくことから救った〕が乙女たちに、
その青春をきれいに過ごさせるために
気前よく施しをしたことを話しもした。
「ああ、いい話をどっさりしてくれる魂よ、
生前きみはだれだったのです いってくれまいか」
わたしはいった、「きみはひとりで、こんな世の鑑《かがみ》になるようなことを、(三六)
なぜ事あたらしく話しているのです。
わたしが、いやはてに向かって飛んでいるこの生《せい》の
短い道程をおえるために もしこの世へ帰ることでもあれば、
きみの話に〔いい〕酬《むく》いのないはずはないでしょう」
するとその魂は、「おれは別にこの世からとりなしの祈りを望んでいるわけではない。
だが、きみが死にもしないのに、
こんなにおん神の恩寵《おめぐみ》にかがやいているのだもの 話すことにするか。
おれはキリスト教の土地をすっぽり影でおおう悪の樹の根もと〔元祖〕だった。
そういうわけで、その樹からは いい木の実はまれにしかとれないのだ。(四五)
しかし、ドゥエ、リール、ガン、ブリュッゲ〔のちのブルージュ。四つともフランドル地方の町〕の町々は、
力さえあれば すぐ復讐もできただろうが、
そうなることを 万事をお裁きになるお方におれは願っている。
この世では おれはユーグ・カペと呼ばれていたのだ。
おれからフィリップという王、ルイという王なぞ たくさん出た。
それらにフランスは今日まで治められているのだ。
おれはパリの肉屋の伜《せがれ》だったが、
そのころ 灰色の法衣をまとった〔聖職者になったという意味〕一人のほかは、
古くからの王たちが死に絶えたので、(五四)
おれは王国を治める手綱を
しっかり手中にしていることに気づいたのだ。
そして、あらたに掴んだ権力とおおぜいの友だちによって、
空位だった王の冠を おれの息子の頭に
戴かせることが〔ロベール一世のこと〕約束されたのだ。
その子から代々の祝福された骨がつづいて出たわけだ。
プロヴァンス伯〔シャルル・ダンジュウは、プロヴェンツィア伯ラモンド・ベリンギエーリの娘ベアトリスをめとった〕の莫大な持参金が、おれの血族から
羞恥心をうばうまでのあいだは、
ほめるほどではないが、それでも悪事だけはしなかったはずだ。(六三)
それからは、たちどころに
暴力と瞞着《まんちゃく》とで掠奪がはじまったし、
それからは、そのつぐないに、ポンティウ、ノルマンディ、
ガスコーニュをさらに奪ってしまった。
シャルル〔・ダンジュウ〕はイタリアへ来て、
身代りに、クラディーノ〔クルラド四世の子で、ナポリで殺された。ここの数行の「そのつぐないに」とか「償いついでに」とかいうのは、ダンテの皮肉で、罪のつぐないの反対の意味である〕を生け贄にした。
そのあと、償いついでに、聖トマス〔聖トマス・アクィナスのこと。中世を代表するイタリアの神学者で、キリスト教神学を組織立てた『神学大全』の著者、博学でスコラ哲学の開祖。一二七四年リオンの宗教会議へ行こうとしてナポリを出立したとき、シャルル・ダンジュウは自分の非行を法王に告げられるのをおそれて彼を毒殺した〕をさえ天国へ帰らせたのだ。
おれの予見では、いまからそれほど遠からぬうちに、
別のシャルル〔シャルル・ド・ヴァロアのこと。フランス王フィリップ四世の弟で、法王ボニファキウス八世に招かれて、平和使節としてフィレンツェへ行ったが、黒党を助けて白党を圧迫したので、フィレンツェの政争が激化した〕がフランスの外へ出てきて、
自分やその一族のことをよく知らせることになる。(七二)
彼はユダヤがすでに用いた〔裏切りの〕槍一本だけで、
武器も持たずにやってくるが、その槍さきで
フィレンツェの腹は裂かれることになる。
彼は領地は獲《あさら》ないが、罪と恥はしこたま獲《あさ》るだろう。
その手の悪事を自分では軽く考えているから、
それだけ重く〔来世では〕苦しむことだ。
囚われていた船からすでに出てきている もうひとりのシャルル〔シャルル・ダンジュウの子シャルル二世〕は、
海賊がひとの娘たちにするように、
自分の娘を売りに出して〔シャルル二世は、その娘ベアトリスを、フェラーラのエステ家のアッツォ八世に嫁がせて莫大な金を得た〕取引きしてるのが見える。(八一)
ああ貪欲よ、お前がおれの血〔縁者〕をこんなに惹きつけてからというもの、
そいつらは自分の肉〔身〕をすら顧みなくなったが、
この上 お前はそいつらに何をしようというのだ。
〔おれの子孫の〕過去と未来の罪を小さく見せようとして、
ユリの花〔フランス王の家紋〕がアラーニャの国〔アナーニのこと。ボニファキウス八世の郷里〕に入り、
キリストがその代理人に捕えられるのも見える。
キリストがふたたび嘲られ笑われ、
醋《す》と胆《きも》〔の酸っぱい苦さ〕をあらためて味わわされ、
生きている偸盗《ちゅうとう》にはさまって殺されていくのも見えるのだ。(九〇)
おれには見える、こんなに残忍な新しいピラト奴が、
それにも満足せずに、法令を無視して
強欲の帆を張って神殿に押し入るのが。
ああ、おん主よ、おれが復讐を見てよろこぶのは
いつのことでしょう。それが隠されているからこそ、
あなたさまのお怒りがお胸のなかでやわらいでいるのではないでしょうか。
聖霊のただひとりの花嫁〔マリア〕のことで
おれのいったこと、きみを振り向かせて
なにほどかの説明をおれにさせようとしたことは、(九九)
陽のあるあいだ おれらの祈りの言葉がみんな答えてくれる。
しかし夜になると、あの言葉の代わりに、
あべこべの言葉を おれは唱えるのだ〔昼は清貧をたたえて祈って唱えるが、夜になると吝薔、貪欲などの例を大声で叫ぶ、ということ〕。おれらは夜っぴてピグマリオン〔フィニキアのテュロスの王女。その姉のディドの夫であるシュカイウスの財宝を奪おうとして、これを殺し、ディドを欺いて自分の罪をかくした、という〕のことをくり返すのだ。
黄金に欲の目がくらんだばかりに
裏切者となり 偸盗となり 親族殺しまでやった奴だ。
それから貪婪《どんらん》なミダス〔フリュギア王で、自分のからだが触れるものはみな黄金に変わるようにバッカス神に頼み、願いはかなったが、食物まで黄金に変わるのに困り、ふたたびバッカス神に頼んだ〕の王のあわれさもそうだ、
あくこともない物欲にしたがったので、
ながく世の笑いぐさになる奴だ。(一〇八)
さては分捕品をくすねたあの
気ちがいのアカン〔ユダヤ人。エリコの分捕品のなかから金銀を盗んだので、ヨシュアは人に命じて彼を石でうち殺させた〕のことや、それゆえそこで
噛みつかんばかりに怒るヨシュアのことも思いだすのだ。
それから、サッピラ〔サッピラとその夫アナニアは、自分たちの利欲のため使徒たちを欺き、ピエートロに責められて倒れて死んだ〕をその宿ろくと一緒にかきこなし、
足蹴にされたヘリオドロス〔シリア王セレウコスの命で、彼がエルサレムの神殿から宝物を奪おうとしたとき、一人の騎士が現われて、馬蹄にかけて追った〕に おれらは溜飲をさげるのだ。
すでにポリドロスを殺《あや》めたポリュムネストル〔ラキア王。トロイア王プリアモスの依頼でその末子のポリュドロスを養育していたが、トロイアの衰えるのを見て、ポリュドロスの富を奪おうと思って、これを殺して海へ投げた。ところが、プリアモスの妃ヘカベがギリシア軍に捕われてその海辺を通ってわが子の死体を発見、復讐のためボリュムネストルに近づいて、両眼をえぐりだして殺した〕の悪評は、
この〔煉獄の〕山じゅうにひびきわたっているので、
最後におれたちはそこで叫ぶのだ、≪クラスス〔マルクス・リキニウス・クラッススのこと。カエサル、ポンペイウスとともにローマ共和政治時代の三頭政治の一人だったが、ひどく強欲だったという。パルティア人が彼を捕えたとき、その王オロデスはクラッススの口へ、溶かした黄金をながしこみ、これで満足だろう、といったという逸話がある〕よ、
お前は知っているから いうのだぞ、
黄金はどんな味がするかってことをな≫(一一七)
おれたちには 声だかにいう者も 声をおとしていう者もいるが、
それは、ときに強く ときに弱く変わる、
物をいわせる情《こころ》のさせることなのだ。
だから、昼間には おれらは善徳ばかり口にしているわけだ。
さっき声を出したのも おれだけではないのだ、
この近くに声を立てる者がいなかっただけのことだ」
わたしたちはすでに彼らから遠のいていた、
そして力の許すかぎり 道をのり越えていこうと
心がまえをしていた。(一二六)
と、何か落ちてくるものでもあるのか、
山が揺れうごくのを感じた。
それは死地に入るひとが覚えるようなもので、
わたしはひやっとした。
天が二つの目〔太陽神アポロと月神ディアナ〕を生むために、
巣をかまえたデロスの島でも、
こんなにひどく揺れなかったことはたしかだ。
それにつづいて 四方から一つの叫びがわき起こった。
すると、「いぶかることはない。わしがお前を連れていくうちは」といって、
師はわたしに向きなおった。(一三五)
「いや高きところ、栄光おん神にあれ」霊たちがみな唄っていた。
わたしのそばの霊たちから聞いたところでは、
その霊たちの叫び声は そのように解された。
かつての〔ベツレヘムの〕牧者《ひつじかい》がはじめてその歌をきいたときのように、
わたしたちは、地の震えがやみ、歌声のおわるまで、
そこで いぶかりながら じっと立っていた。
それから、わたしたちは 地に伏せているひとの影を見くだして、
この浄罪の道をふたたび歩きはじめた。
すでに霊たちはもとに返って 涙をながしていたのだ。(一四四)
何も知らなかったこととはいえ、わたしは
ひどくいらいらして そのいわれを知ろうとあせっていた。
わたしの記憶にあやまりがなければ、
〔そのことを〕考えて、いまほどその理由を どんなに知りたいと思ったことか、
でも、さきを急いでいたので 訊くわけにもいかないし、
わたしの力では事を明らかにすることもならずに、
わたしは思いをあとに残したままで おずおずと歩いていった。(一五一)
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第二十一歌
ダンテは地震と歌声との関係を知りたいと思いながら、道をいそいで歩んでいる。すると、墓壙《はかあな》から起きあがって二人の前に現われた亡者が、その地震は煉獄にいる魂が罪をきよめたことをさとったとき起こるのだという。その霊は、もとはラテンの詩人スタティウスだと名乗って、ウェルギリウスに深い敬愛をもって傾到していることを語る。眼前の影が、そのウェルギリウスだと聞かされて、おどろいてその足を抱こうとして跪《ひざまず》く。
いつかのサマリアの婦がおん神の恵みをもとめた(一)
〔井戸のそばに坐っていたキリストは、サマリアの女が水を汲みにきたのを見て、自分に飲ませよといった。女はユダヤ人がそういったのを怪しむと、キリストはいった、「汝もし我にもとめば我は活水を汝に与えよう。およそこれを飲む者は永遠に渇くことがない」と。女は「主よ、その水を我に与えよ」といったという〕
あの≪いき水≫を飲みでもしなければ、癒えることもない
自然の〔真実を知るこころの〕渇きが、
わたしを悩ましていたし、わたしは師のあとから
〔魂たちで〕ごった返す道を せかせか歩いていって、
〔魂たちへの〕おん神の正義の酬いに憫然としていた。
すると、そこに、通りすがりの二人の前に、
墓壙《はかあな》から起きあがって、キリストがお現われになった〔ルカ伝に、十字架にかかって三日のち、エマオという村にいた二人の弟子の前に墓壙から甦えったキリストが現われ、パンをさいて与えられた、とある〕と
ルカ伝に記してあるように、(九)
ひとりの人影があらわれて、臥せている魂の群を
足もとにながめている間に、わたしたちのうしろへやってきていた。
わたしたちはそれに気づかなかったが、その影がまず口を切った、
「兄弟よ、おん神がきみたちに平安をおさずけなさるように」
わたしたちがすぐ振りかえると、
ウェルギリウスはそれにふさわしい挨拶をかえしていった、
「おん神の法廷が きみを平安のうちに
祝福された集いに加えられることを。
わしはその法廷〔神の正しい審判のこと〕から 永劫の流罪《るざい》に結びつけられた者だ」(一八)
「何だと!」 その男はいったが、わたしたちは足をふみしめて歩いていた。
「きみたちがおん神に昇ることを許されぬ者だというなら、
あの神の多くの石段を いったいだれが導いてきたのだ」
そこで師は、「きみがこの者のひたいにある
天使のつけた〔Pの字の〕しるしをよく見るなら、
この者が福者とともに おん神に選ばれたことがわかるだろう
だが、〔運命の女神の〕クロートの〔いのちの〕糸を架けて捲く糸捲き棒が、
夜も日も紡ぐ女神〔ラケシス〕の手で
まだこの者には紡ぎおわっていないので、(二七)
きみとわしとの姉妹〔同じく神につくられたものだから、こういういい方をした〕のはずのこの者の魂は、
わしらのようには物がよく見えず、
この山に来ながら ひとりでは登れなかったのだ。
そこで、わしはこの者の案内をするために、
地獄の広い口〔リンボ〕のそとへ おん神に呼びだされたが、
わしの学問の及ぶかぎりは この上とも道しるべになるつもりだ。
ところで、知ってるなら教えてくれぬか、
さっきはなぜ あんなに山が揺れたのかね、
また山裾までもなぜ みんなが口を揃えて叫び声をたてたのかね」(三六)
問いに答えて、そのひとはつぎのようにいったが、
それは、わたしの望みの針の孔に希望〔の糸〕をとおすばかりでなく、
わたしの〔心の〕渇きまでも すこしはやわらげてくれるものだった。
そのひとはいいはじめた、「ここでは、
秩序をもたぬことで山の掟《おきて》の
きき入れるものなどありはしない。しきたりに外れるからだろう。
ここでは変化するものなど何もないからだ。
天が自分で自分のなかへ受け入れるもののほかには、
〔変化の〕因《もと》になるものがないからだ。(四五)
雨もふらず、霰も雪もふらず、
露もおりないし、霜がおくのも
石段の短い三段目の石の上だけなのも、
そういう理由からなのだ。
厚くも薄くも 雲というものは見られないし、
稲妻も光らない、遠くの道でしょっちゅう姿を変える
タウマンテの娘〔虹〕も出ないのだ。
乾いた熱風でさえ、さっき申したピエートロ牧者が足をふまえている
三つの石段から上へは昇って来ないのだ。(五四)
なるほど、この下の方〔この山裾〕では、多少地の震えることもあるだろう。
しかし、それは地にひそんでいる風によることで、
それがどうしてだか知らないが、この上の方では決して揺れることなどないのだ。
きみたちが揺りうごかされたのは、罪のきよめをさとった魂が、
こうして〔山の〕上の方へうごきだして、ああして合唱の叫び声が
すぐとそれにつづくときなのだ。
〔浄天にのぼる〕望みだけが きよめのおわったしるしになるので、
その望みは魂をおそって気ままに所を変えさせるものだが、
魂はその望みをよろこんでうけているのだ。(六三)
はじめからその望みはあったが、本能が許さなかったのだ。
というのは、さきには罪をもとめたように、
いまではおん神の正義が こころにそむいて、呵責をもとめているからだ。
このわしも五百年の余も この重い呵責に臥せていたのだが、
このわしにもいま もっといい座へ
気ままにのぼる望みが感じられたので、
きみたちが地の震えを感じ、
信心ぶかい霊たちが いちはやく昇るようにと、
おん神に山をあげてほめ捧げるのを聞くことになったのだ」(七二)
そのひとはそういって、ひどく愉しげにしていた。
渇きが大きいほど水を飲むのも多いというわけで、
それがどんなに愉しかったかを わたしはいうすべもない。
すると師は、「やっといま、きみたちがここにおかれている綱〔神の意志〕のことや
きみたちのゆえに地が震え、よろこんで歌を合唱するわけの
ほつれがほぐれてきたのだが、
ときに、きみはどなただったかしら。それがわかるとうれしいのだが。
それになぜ何世紀もこうして臥せていたのか、
きみの口から それを知りたいものだ」(八一)
「あの頃のことだ。善将ティトウス〔ローマ皇帝ウェスパシアヌスの子ティトウスが七〇年にエルサレムを討ったことをいっている〕が
いや高い帝《みかど》の助けで、〔キリストの〕手足の裂け目に仇をうったころだ。
その裂め目からはユダに売られた血が出ていたのだが、そのころ
わしはまだこの世にいて 信心はなかったが、
名はとどろいていたのだ。
その名はこれからも永く続き、わしのほまれになるだろう。
わしの歌はすごく調子がよかったから、
トゥルーズにいたわしはローマへ招かれ、
そこで、ひたいにミルテの冠をさずけられた。(九〇)
いまでもわしはこの世ではスタティウスと呼ばれている。
わしはテーバイを歌い、のちには大アキレウスのすばらしい事蹟を詠んだが、
第二巻をかいている途中で〔病いに〕たおれた。
わしの詩情をもやした火花は、
わしを昂奮させて、千人の余も照らしだした
神聖な炎の種だったのだ。
いえば、それは『アエネイス』〔ウェルギリウスのローマ建国をうたった長篇叙事詩。ホメロスの『イリアス』『オデュッセイア』を範とした叙事詩で、ラテン語の文学的なはたらきを極度に洗練したものとして、そのあとのラテン文学者の軌範となった。ダンテの『神曲』もそれに直接触発されたところが多く、その敬慕の強さはウェルギリウスを冥界の導師として師事することで明らかである〕で、
その生みの母が詩をつくらせて 育ての母にもなったので、
それがなかったら、一ドラルマ〔古代ギリシアの貨幣単位〕の重さもない作品だったのだ。(九九)
だから、ウェルギリウスの生きていた世でともに生きていられたら、
煉獄を出るのが一年おくれても
いいと思ったくらいなのだ」
こういうのをきくと、師はわたしを振りむいて、
物はいわずに 目顔《めがお》で「黙ってろ」といったが、
物事は思いどおりになるものではない。
というのは、笑うのも泣くのも それぞれ
出てくる感情にしたがうものだから、
それがもっと誠実に 思いにしたがうことはまずないからだ。(一〇八)
わたしは目くばせするひとのように
ただ微笑するばかりだった。
すると、その人影はだまって、
わたしの目を食い入るようにみつめた。
目にはこころのすがたがよく出るものだからだ。
そして、「きみの骨折りがうまく実を結ぶといいが」といった、
「だが、きみの顔がわしに見せた微笑がわしにかがやきを見せたのはなぜか」
このとき、わたしは両方から捉えられてしまったのだ。
一方はわたしをだまらせるし、他方からは話せとせがまれる。
そこで、わたしは溜息をついたとき師の声を耳にした。(一一七)
「話すのをためらうことはない。
あんなに聞きたがっていることだ、
話してやるがいい」 師はいうのだ。
だから、わたしは、「古い代の魂よ、
あなたはわたしが微笑したのにおどろいたと思いますが、
もっと大きなおどろきがあなたを捉えることをわたしはのぞんでいるのです。
わたしの目を天上へと導いてくださるこの方こそ
ウェルギリウスさま そのひとです。
あなたが神々と人びととを唄う力をえられたその人です。(一二六)
わたしの微笑んだのを別の理由からとお考えでしたら、
それは事実ではないのですから お捨てください。
そして、それはこの方のことを語ったあなたの言葉から来たものと思ってください」
そのひとは、すでに身をかがめて、わたしの師の
足を抱こうとしていたが、師はそのひとにいった、
「兄弟、抱かないで。きみも魂だし、きみの見ている者も魂だから」
すると、そのひとは起ちあがって、「いまこそ、
あなたにわしがもやす敬愛のこころのほどがおわかりでしょう。
わしらの身のむなしいことも忘れて、(一三五)
影を身のあるもののように 抱こうとするんですからね」(一三六)
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第二十二歌
第六の環道へ出る石段をのぼりながら、師はスタティウスに罪を犯したいきさつをたずねる。彼は、第五の環道にいても貧欲の罪からではないという。いや、反対に浪費の罪だという。スコラ的な考えでは、浪費も貪欲と同じ不道徳な倫理としていることが示される。二人は辺獄《リンボ》にいるギリシア、ラテンの詩人たちの様子について、どこで罪をつぐなっているかを話し合っている。ダンテはいつの間にか身が軽くなって、登りも楽になったことに気がつく。やがて果実をたわわにつけた樹が第六の環道に繁っているのが見えるが、その樹の葉蔭から、とつぜん一つの呼び声がおこる。
天使はすでにわたしたちの背後にのこっていた。(一)
わたしのひたいから傷痕《きずあと》〔Pの字〕を一つ消して、
第六の圏の環道を示してくれた天使である。
その天使は、おん神の正義をしたう者は幸なりと、
わたしたちにいって、「|渇く《ステイウント》」という言葉だけで あとはつづけずに
その句をとじるのだった。〔「餓え渇くごとく義を慕う者は福なり」(マタイ伝)というのが、天使のいう言葉だが、「渇く」とだけいって「餓える」とはいわなかった、というのである〕
わたしは、これまでの小径を通ったときより
身軽になっていたので、別に苦にもせずに、
さきを急ぐ霊たちについて歩いていた。(九)
そのとき、ウェルギリウスがいいはじめた、
「徳にもえる愛は、その炎が他人に感じられさえすれば、
他人の愛をも燃えたたすのが常だ。
そのためか、ユヴェナーリス〔デキムス・ユニウス・ユウェナリスのこと。スタティウスと同時代のラテン文学黄金時代末期の諷刺詩人〕が地獄へ下って
辺獄《リンボ》でわしらといっしょにいたときから、
きみの愛情をわしに感じさせていたので、
きみへのわしの親愛の情は、
まだ見もしないひとにあんなにも強く惹かれたことはなかったくらいだ。
そのためもあって、この石段がいまではひどく短く思われるのだ。(一八)
だが、わしの手綱がゆるんで、ひどく気楽に物をいうとしても、
友だちだてに許してもらいたいし、
いまは友だちとして話してもらいたいのだ。
いったい、きみの胸のなかに
貪欲が見つけられるというのはどうしたことだ、
智恵があんなにつまっているそんな分別のなかでだ」
この言葉はスタティウスをうごかしたようで、
彼はおもむろに微笑をうかべてから 応えた。
「あなたのいたわりのお言葉は ひとつびとつわたしには親しみのこもったしるしです。(二七)
実際によくあることですが、
真実の理由が隠されているために
あやまって事が疑われる場合があるものです。
あなたのおたずねから察すると、
わたしがこの世で貪欲ですごしたようにお考えのようですが、
あの辺獄《リンボ》にいたことからも それは無理もないことです。
しかし、ご存じになっていただきたいのですが、
わたしはあまりにも貧欲から遠ざかりすぎていたのです。
それとはうらはらのこと〔浪費〕で、何千回も月がめぐってくるあいだ〔五百年のあいだ、スタティウスは浪費家として罰せられていたというのである〕
呵責をうけていたのです。(三六)
そこで、あなたが、にんげんの本性に愛想をおつかしになって、
「ああ、黄金をもとめる聖なる饑えよ、
なぜお前は人間の欲を正しくまもらないのか」と、
〔歌で〕お叫びになるのをお読みして、
わたしの想いをただすことがなかったら、
わたしは〔地獄で〕重い荷をころがして ぶつかり合いをやっていたでしょう〔地獄の第四圏での罰で、そこではたえまなく浪費者と貪欲者とがぶつかってなぐり合いをつづけている〕。
そのとき、わたしはさとったのです、
浪費に手の翼をひろげすぎたと。
そこでこうして、ほかの罪とともに自分で非を悔いているのです。(四五)
知らぬこととはいえ、生きながらまた臨終《いまわ》のきわでさえ、
この非を悔いもせずに 髪を剃って
生まれかわる者〔最後の審判のときには、浪費者は髪の毛まで失ってよみがえる〕が何と多いことでしょう。
ご存じかと思いますが、ここでは
罪はそれと反対の罪とともに
同じように みどりが枯れること〔罰がつぐないで消える、ということの文学的ないい方〕になっているのです。
だから、わたしはここで、
貪欲を嘆く連中のなかで身をきよめていても、
それらとは反対の罪で つき合っているのです」(五四)
「ところで、きみがイオカスタに二重の苦しみ〔テーバイの王オイディプスとイオカステのあいだの二人の子供エテオクレスとポリュネイケスが父の死後王位を争って死んだこと〕を与えた
あの兄弟殺しの戦を歌にうたっていたころは」
その牧歌の詩人〔ウェルギリウス〕はいった、
「クリオ〔クレイオのこと。詩神ムーサの一人で、スタティウスが『テーバイス』をかくとき、その助けを願ったことをいう〕がきみとともにそれにふれているところから見ると、
きみはそのころはまだ信仰に入っていなかったようだが、
信仰がなければ 善行だけでは十分ではないはずだ。
もしそうだとすると、どんな太陽〔神のみちびき〕が また燭《ともしび》〔人のみちびき〕がきみに光を与えて
きみに漁人《いさりびと》〔聖ピエートロ〕のあとを追って
帆をあげて行かせるようにしたのだろう」(六三)
すると、そのひとは師に、「あなたはわたしを
まずパルナソスの山〔ギリシアの山で、アポロやムーサのような詩歌をつかさどる者がすむ〕にみちびいて行ってその窟《いわや》の水を飲ませてくださった。
またはやばやと おん神のそばで光を与えてくださった。
あなたは夜歩く人のようにしてくださったのです。
燈火《あかり》を自分のうしろにかざして、自分のためにでなく、
あとから来るひとの導き手になられたのです。
そのとき あなたはいわれた、≪世はあらたまり、
神の正義は立ち帰り、人間の原初の時ぞ戻りぬ。
新しき族天上より降りましぬ≫と。(七二)
あなたのおかげで わたしは詩人になり キリスト者になったのです。
さて、いま粗描《あらが》きしたことを もっとよく見ていただけるよう、
色をつけて すこし手を入れてみましょう。
世はすでにいたるところに 永遠の王国〔神のいます王国〕の使徒の手で
種子の蒔かれたまことの信仰が
満ちみちていたのです。
その上、さっき申したあなたの歌の句が、
あたらしい教えと合っていましたので、
わたしはよく彼らを訪れていたものです。(八一)
それからは、彼らがすごく尊く感じられたので、
ドミティアヌス帝〔八一年から九六年までローマ皇帝〕が迫害したときには、
彼らの嘆きに涙をながさずにおられなかったのです。
この世にわたしがいたあいだ、わたしは彼らを助けたし、
そのすばらしい振舞を見るにつけて、
ほかの教えをみなさげすむようになったのです。
わたしが歌の中で ギリシア人をそれぞれの川〔イスメノス河とアソポス河〕に連れていく前に
わたしはすでに洗礼をうけていたのです。
でも、わたしは〔迫害を〕おそれて 信者であることをかくし、
長いこと異教の信者のふりをしていました。(九〇)
その優柔不断が、四百年の余も、
第四の圏を経めぐらせることにさせたのです。
あなたは、わたしが申した〔キリスト信仰の〕善徳を
わたしにおおっていた蓋を とりのけてくださったお方です。
ごいっしょに登るあいだに 教えてくださいませんか、
わたしの先輩のテレンティウス〔ローマ共和制初期の劇作家〕やカエキリウス〔ローマ帝制時代のラテン文学黄金期の詩人〕、プラウトス〔ラテン文学初期の劇詩人〕、ウァルロ〔ラテン文学黄金期の詩人〕たちが、
罪をつぐなっているのなら どこででしょう」(九九)
導師はそれに答えて、「その連中も、
ペルシウス〔ラテンの諷刺詩人〕も わしも その他おおぜい、
あの歌の女神にことさら乳をふくませてもらったギリシアの詩人たちといっしょに、
盲《めしい》の牢獄《ひとや》の第一圏に住みついているよ。
わしらは暇さえあれば わしらが乳をふくませてもらった
〔その女神のいる〕山のことを話したものだ。
エウリピデス〔ギリシア古典期の悲劇作家〕も わしらとそこにいるし、
アンティポン〔ギリシア古代の劇詩人〕も シモニデス〔ギリシアの抒情詩人〕もアガトン〔ギリシアの悲劇詩人〕も
そのほか月桂樹でひたいを飾ったギリシアの詩人たちもそこにいる。(一〇八)
そこにはきみが歌にうたったひともいるよ。
アンティゴネ〔テーバイの王オイディプスとイオカステのあいだに生まれた娘〕、ディピュレ〔アドラヌトス王の娘でテュデウスの妻〕、アルゲイア〔ディピュレの姉妹でポリュネイケスの妻〕、
それに、昔ながらに哀れをとどめるイスメーネ〔アンティゴネの妹〕も見える。
そこにはまた
ランギア〔の泉〕をさし示したあの女〔イシフィレ(ヒュプシプュレ)のこと〕も、
ティレシアスの娘〔『地獄』に出たマントのこと〕とテティユス〔アキレウスの母〕、ディダメィア姉妹〔アキレウスの恋人〕もいっしょにいるよ」
そういうと、この詩人たちはふたりとも黙ってしまった。
坂を登りつめて岩場に出ると、目の前にひらける
あたりの眺めに あらためて見とれているのだった。(一一七)
すでに昼間の四人目の娘〔四時〕がしりぞいて、
五人目の娘〔五時〕が 燃えたつ角を上にむけて、
〔日の車の〕轅《ながえ》のところにいた。
そのとき、わたしの師は、「これまでどおり
右肩を崖っぷちにむけて 山をまわっていくのがいい
と思うね」といった。
そのことは、同行する魂〔スタティウス〕も認めたことだし、
わたしたちはこれまでのしきたりどおりに
ためらうことなく その道をとることにした。(一二六)
ふたりはさきに立った。わたしはそのうしろから
一人でついていったが、その二人のやりとりを聞いていると、
詩というものに 目がひらける気がした。
と、とつぜん すばらしい話がとぎれた。
得もいえぬいい香りのする木の実が
たわわについた一本の樹木〔アダムとイヴの禁断のリンゴの樹を思わせる樹だが、このさきにも善と悪の果実のなる智恵の樹があらわれてくる。地上の楽園を連想させる雰囲気がしだいにあらわれてくるのである〕が 道の真中にあったのだ。
ひとに登らせないためなのか、
樅《もみ》の木が上へいくにつれて枝がすかすかするように、
そこではかえって、下の方で枝が透《す》けているのだ。(一三五)
わたしたちの道にせまっている〔山〕側からは、
清洌な水が見あげる岩から落ちてきて、
その梢の葉をばらばらにみだしていた。
ふたりの詩人がその樹に近づくと、
その葉のなかから 声が出てきて叫んだ、
「その木の果実で飢えをみたすな」
それにつづけて、「マリアさまはそれを口になさることより
〔カナの〕婚礼がとどこおりなく見事に行なわれることを気にかけておられるぞ〔カナの婚礼の宴の席に聖母マリアとイエズスは招かれていたが、宴半ばで、ブドウ酒がなくなったというのをきいて、とどこおりなく宴をつづけるため、イエズスが水甕に水を満たしてそれを酒に変えたという奇蹟の故事〕。
いまはお前たちにそのとりなしをなさっておられるのだ。(一四四)
古い代のローマの女たちは 飲みものといえば
水で満足していたものだ。で、ダニエルは
食べものをいやしんで 智恵をもとめられた〔予言者ダニエルがバビロニア王ネブカデネザルの与えた食物と酒を拒んだという話〕。
原初の世は黄金のようにきれいだったからだ。
飢えれば どんぐりにも味があり、
渇けば せせらぎ〔の水〕でのどを沾《うるお》した。
蜜といなごが 砂漠の洗礼者〔ヨハネ〕を養う食べものだった。
それなればこそ、ヨハネさまはかがやかしく、
福音書でも明らかなほど(一五三)
すごくご立派なお方でおいでなさった」(一五四)
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第二十三歌
ここは貪食の罪がきよめられるところだ。骨と皮ばかりになった痩せこけた亡者が黙々と近づいてくる。そのなかから、ダンテに声がかかる。それは昔の遊び仲間のフォレーゼ・ドナーティである。彼が死んでからまだ五年しか経っていないが、その遺した妻のネルラの敬虔な祈りのおかげで、地獄にも行かず、下の方でつぐないもせずに、煉獄の第六の環道まで登ることができたのだ、という。フォレーゼは、霊の予見する力で、フィレンツェの町の女の将来のありさまをダンテに語るのである。
こうして 小鳥のあとを追うなりわいのひとのように、(一)
わたしが 目をみどり濃い木の葉に
こらしていると、
父親にもまさる師がいった、「息子よ、
さあ、行くとするか。与えられた時間は
もっと大切に使いたいからね」
わたしはすぐさま顔を向けて、ふたりの賢者の方へ ひと足ふみだした。
ふたりはそうして わたしが歩くのが苦にならぬようなことを(九)
話し合っていた。
するとそこで、泣き声とも歌う声ともつかぬ
「主よ、わがくちびるを」〔『詩篇』のこの歌は「主よ、わが口唇をひらきたまえ。さらばわが口なんじのほまれをあらわさん」というのである。ここで口や唇と関係のある聖歌を歌うのは、暴飲暴食の徒が罪のつぐないをするところだから、とくに効果がある〕 という声が聞こえた。
それは、よろこびと悲しみとをこもごも みだすような声音《こわね》だった。
「ああ、おやさしい父上、わたしに聞こえてくるあの声は何でしょう」
わたしがいいはじめると、師は、「天に昇る魂だ。
たぶん自分の負債《おいめ》の結び目をほごさねば〔罪をつぐなうこと〕ならぬ亡者だろう」
ちょうど物思いにふけって旅行くひとが、
道すがら知らぬひとに追いつくと、
追い抜いてからふり向くが 足はそのまま歩きつづけるものだが、(一八)
わたしの背後からも わたしより早い足どりで、
信心ぶかい亡者の一群が黙々と近づいてきて、
追いこしざまに わたしたちに驚いてふり返った。
彼らの目はいちように窪んでいて かげができ、
顔は蒼ざめて すっかり肉がおちていて、
骨の形が皮膚の上までまざまざとあらわれていた。
そのさまは、エリュシクトン〔テッサリアの人。デメテルの神の森に斧を入れたので神罰をうけ、限りない飢餓に悩んだ末、最後には自分のからだを食った(オウィディウスの『転身物語』)〕が痩せこけてしまって
ひどく飢えになやんだときといっても、
これほど骨の上に皮がつっぱって乾いたとは考えられないくらいだ。(二七)
わたしは考えながら ひとりごとをいった、
「ほら ここにエルサレムを失った連中がいる。
あのとき、マリアという女が自分の子を口に入れたそうだが〔ティトゥスがエルサレムを包囲したとき、ユダヤの貴族の娘マリア・ディ・エレアガーロという女が、飢えて自分の児を食べたという〕」
それは宝石《たま》の抜けた指環の感じだった。
ひとの顔のなかにOMO〔人間ということを意味するイタリア語OMOまたはラテン語HOMOは、人間の顔のなかにある形象だという中世の説教者の奇想。つまり、二つのOは目、Mは鼻のことだというのである〕を読みとるひとは、
ここにはっきりM〔鼻の形〕が出ていることに気づくにちがいない。
その理由を知らなければ、木の果《み》や水の匂いが
こんなにも烈しい欲望を生み、
こんなにも魂を支配するものだとは
だれが信ずるものか。(三六)
わたしはさっきから、こんなに彼らが飢えていること、
さらにまだその理由をきいていないので、
彼らの痩せこけた姿、そのいたいたしい皮膚の瘡《かさ》に すっかり胆をつぶしていた。
すると、そこで、顔の奥からわたしに目を向けていたひとりの亡者が、
じっと見つめるなり、やにわに大声で叫んだ、
「こりゃ何ていう冥加《みょうが》だ!」
たしかにその顔かたちでは 見わけがつきかねたにちがいないが、
その声に、
わたしは、自分で自分のすがたを変えたひとが感じとれた。(四五)
その〔声の〕火花が、変わりはてた彼の容貌の記憶に火をつけて、
わたしにはフォレーゼ〔フィレンツェの名士の子で、黒党の首領。ダンテの政敵コルソ・ドナーティの弟だったが、ダンテとはむしろ友人として親しい間柄だった〕の面影がありありと浮かんできたからだ。
「頼む、おれの乾いた瘡《かさぶた》をそうじろじろ見るなよ、
皮膚《かわ》の色も変わってしまってるし、
おれの削《そ》げた肉も見るなよ。
それよりお前のことをいってくれ。
その人はだれだね。
お前の案内をしているふたりの魂はだれだね。
おれにしゃべらせてばかりおくなよ」(五四)
わたしは彼に答えた、「きみが死んだとき
ぼくは泣いたが、そのきみの顔が
こんなにゆがんだのを見ると、
いまでも前にもまして 悲しくて涙が出てくる。
神かけていってくれ、何がきみをこんなに痩せさせたのだ。
ぼくが動顛《どうてん》してるあいだは物をいわせるなよ、
ほかの想いにつかれている者は あらぬことをしゃべりかねないからね」
すると、彼はわたしに、「永遠の〔神の〕おこころから、
いま過ぎてきた背後《うしろ》の水や樹に おん神の力がくだり、それで、
こんなに痩せほそるのだ。(六三)
ここにいる連中はみな たらふく飲み食いして生きてきた奴らなので、
ここできよめられて、飢えと渇きに泣きながら歌っているのだ。
木の果《み》や 樹々の青葉にひろがって、
ほとばしる水などのはなつ香りが
飲み食いの欲をそそのかすからだ。
この圏を歩きまわるおれたちが
苦しみを思いしらされるのは一回とはかぎらないのだ。
いまおれは苦しみといったが、
それは慰めというべきかもしれん。(七二)
なぜなら、おれが樹々へみちびかれて苦しもうとする願いは、
キリストが血であがなわれて おれたちを救ってくださったとき、
たのしげに≪エリ≫といわれたのと同じ願いだからだ」〔その樹には水がふりかかっても落ちて来ないので飲むこともできないし、もちろん樹の上の果にも手が出せないので、飢え渇く状態でいつも「エリ、エリ、ラマ、サバクタニ(わが神、わが神、なんぞわれを捨てたもう)」といったキリストの叫びが身にしむ、というのだ〕
そこでわたしは彼に、「フォレーゼ君、きみが世を変えて
よりよい生に入った日から数えても、
きょうまでまだ五年とは経っていないぜ。
もうそれ以上に罪を犯す力が
きみから消えたのが、
おん神とふたたびいっしょになるよい嘆き〔臨終〕の前だとすると、(八一)
どうしてはやばやと こんな上の方までやって来たのかい。
ぼくはきみには、もっと下の方で会えると思っていたんだが。
罪を犯した時間だけつぐない〔煉獄の門外の前域では、この世で罪を犯した年数だけ呵責をうけて、それを償うことになっている。だから、罪のつぐないがすんでいないのに不思議だと、ダンテは思っている〕をするあすこでだ」
すると、彼はわたしに、「おれの女房のネルラのあふれる涙で、
こんなに早く〔煉獄の償いの〕心あたたまるニガヨモギを飲むように
おれをみちびいてくれたのだ。〔ニガヨモギは苦いので、罪の呵責をあらわしている〕
ネルラの敬虔な祈りと溜息とが、
おれを、待たされていた〔煉獄の〕斜面から連れだして、
ほかの環圏《みち》からもはなってくれたのだ。(九〇)
おれがこころから愛していた死に別れの女房は、
ひとり残って かずかずの善行をしたから、
おん神にこんなにもかわいがられ またよろこばれたのだ。
それは、おれが女房を遺してきたバルバージャ〔サルデーニャ島のバルバージャは風紀のみだれたところと見られていた。それと同じに風紀のみだれている府というので、フィレンツェをさしている〕よりは、
サルデーニャ島の〔未開な〕バルバージャの女の方が、
身持ちの方でははるかにきれいだからな。
ああ、兄弟。きみはおれに何をいわせようというのかい。
おれにはこれからさきのことが 手にとるようにわかるようだ。
そして、そのときがそんなに遠いさきのことにはならないはずだ。(九九)
そのときに、フィレンツェの面《つら》の皮の厚い女どもは、
乳房と胸をまるだしにして出歩くのを
禁止する説教壇のなかにいるだろう。
たとえ未開な女でも サラセンの女にしてもだ、
胸をかくして歩くために
僧職どもの訓戒の必要なことがあったかしら。
だが、この恥知らずの女どもも、
天がすばやくあやすことがはっきりしていたなら
大口あけて喚きたてるにちがいないのだ。(一〇八)
というのは、おれの見通しがあやまっていないなら、
いま子守唄であやされている赤ん坊の頬に
ひげが生えだす前に、女どもはひどい目にあうだろうからだ。
どうだ兄弟。こうなっては きみの身の上も かくさないでくれよ。
見ろ、おればかりではないのだぞ。
ここの者はみんな 太陽が影をつくっている そこを見ているのだ」
ということになって、わたしは彼に、「きみとぼくと、
またぼくときみとが どんな生活をしたかを
思いだすと、いまでもその記憶で気が重くなるのだ。(一一七)
そんな生活から ぼくを引きだしてくれたお方が、
ぼくの前をいくこの方だ。数日前〔四月八日の冥界入りの日のこと〕、これの」
といって わたしは太陽を指さした、
「妹〔月〕がまどかに見えたときのことだ。
この方がぼくを真の死人の森をふかく導いてくださったのだ。
ぼくは生き身のままの肉をつけて この方についてきたのだ。
この方のおかげで ぼくは上の方へあがって来られたし、
この世で汚れたきみたちを正すこの山を
まわりながら登って来られたのだ。(一二六)
ベアトリーチェのいるところへ着くまでは
ずっとぼくの道連れになってくださると、いわれるのだ。
だが、そこではこの方はおとどまりにはなれないからだ。
ぼくをみちびいてくださったこのお方はウェルギリウス先生だ」
わたしは師を指さし、またつづけた、「もう一人の方は、
さっき、きみたちの国からそとへ出た魂だ。
さきほど山腹の斜面が震えたのは そのためだ」(一三三)
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第二十四歌
旧友のフォレーゼ・ドナーティが、大食いの罪をきよめている群から、ルッカのボナジュンタなどのいることを教えてくれる。そして彼とダンテとは、ダンテたちのやっていた「清新体」の詩のことを話題に出した。フォレーゼは別れぎわに、「君にいつまた会えるかね」という。ダンテは、「さあ、望むほど早くはこの岸辺には帰れそうにない」という。そして、フォレーゼは去ったが、やがて第六の環道の第二の果樹が目に入る。やはり樹の葉陰から声が出てくる。天使が現われて、三人に道を曲がるようにやさしくいう。
話をするので足が遅れることも 歩むために話がとぎれることもなかった。(一)
それどころか、順風にのる小舟のように、
わたしたちは話をはずませながら、足をしっかと踏んで進んでいった。
すると、あらためて死に直したかと〔ひどく痩せていること〕思われる魂たちが、
わたしの生きていることに気づいて、
眼窩《がんか》の奥でおどろいてわたしを捉えていた。
しかし、わたしはかまわずに話をつづけていった、
「あのひと〔スタティウスの魂〕はひょっとすると ひとりでふだんより
ゆっくり登ってるかもしれない、他人に気がねして。(九)
ところで、知ってるなら教えてもらいたいね。
ピッカルダさん〔フォレーゼの妹。彼女は聖キアーラの修道女となって、フィレンツェの近くのモンティチェルリ女子修道院にいた〕はどこにいる。それに、こうしてぼくを見つめているなかに
これという者がいるかね」
「あの妹は、美人といおうか 善人といおうか、
どっちともいえないが、はやばやとオリムポス〔もとはギリシアのテッサリアの山オリムポスのことだが、それを天国の意味に使っている〕の高みで
冠〔この世で善行があったから、ピッカルダは天から光明の冠をたまわった、ということ〕をいただいて たのしそうに得々としているよ」
彼はまずこういってから、「ここでは、
ひとの名を呼ぶことはとめられていないよ。
絶食するので みんな顔かたちが変わってしまっているからね」(一八)
「こいつは」と指さして「ボナジュンタだ。
ルッカのボナジュンタ〔詩人〕。そいつの向こうの
いちだんと引きつったように痩せ面をしてるのは、
かつては神聖な僧院を抱えこんでいた男〔法王マルティーノ四世のこと〕だ。
トゥールの出で、ボルセーナの鰻と白ブドウ酒を断《た》って
罪を洗われているところだ」
彼はおおぜいの魂をひとりひとり名をあげたが、
名前をいわれた魂は みな満足そうな様子に見えた。
まったく一人として浮かぬふりをする者をわたしは見かけなかった。(二七)
見ると、ピラのウバルディン〔大司教ルジェーリの父〕と、杖で衆徒をみちびいていた
大司教のボニファツィオ〔法王イノケンツォ四世の甥でラヴェンナの大司教〕とが
飢えて歯をがつがついわせていた。
また侯爵殿〔フォルリの貴族〕も見える。この男は渇きもしないのに、
かつてはフォルリで浴びるほど飲んでも
飲みあきることを知らなかったものだ。
わたしは、おおぜいをながめまわして、中から一人だけ値ぶみする人がやるように、
さきのルッカの男に目をとめた。
その男はほかの者よりもひどくわたしのことを知りたがってるようだったからだ。(三六)
その男はつぶやいていたが、その「ジェントゥッカ〔ルッカのボーナコルソ・フォンドーラの妻ジェントゥッカ・モルラのことだろうと推測されている〕」というつぶやきを、
彼をかさかさにさせるおん神の正義の痛みを感じるあたり〔口〕で
わたしは聞いたが、その意味はわからなかった。
「ああ、魂よ」 わたしはいった、「きみはしきりにわたしと話したがってるようだが、
わたしのききたいことを話してくれないかね。
話してくれれば、きみもわたしも渇きがいえるのだが」
「女の子が生まれた。まだ首帛《かしらぎぬ》もつけていないが〔結婚前ということ〕」
彼はいいはじめた、「その女がわしの府《まち》〔ルッカ〕を
きみの気に入るようにするだろう。もっとも府《まち》の者はあれをけなしているようだが。(四五)
きみはそういう予感をもって その府《まち》へいくことになる。
たとえ、わしのつぶやきをきみがあやまってとったとしても
本当のことがやがてきみに明らかになるのだ。
だが、いってくれ。ここで見ているきみは、≪恋を知ります貴《あて》の女《ひと》たち≫〔ダンテの『新生』の第一カンツォーネの第一行にある句〕
ではじまる新しい音律をつくったご仁《じん》かね」
そこで、わたしは彼に、「わたしは愛が語りかけてくるとき、こころにそれをとどめ、
愛がわたしの心に語るとおりに
それにふさわしい言葉であらわす詩人のひとり〔ダンテたち清新体の詩人〕だ」(五四)
「ああ、兄弟。いまやっとわかったよ」 そのひとはいった、
「公証人〔シチリア派の抒情詩人ヤコポ・ダ・レンティーニのこと〕やグイットーネ〔俗語詩人で、シチリア派と清新体派の中間にいた人〕やわしが、
かねがね聞きおよんだ清新体のうしろの方でじゃまになってることが。
きみたちの筆が、語るあとからおのずから動くというのは、
わしにはよくわかる。
わしらの筆はたしかにそうはいかないからね。
だが、これ以上どんなに吟味をするとしても、
両派の詩体のちがいが さらによくわかるというわけでもなかろう」
そういって、そのひとは満足そうに口をつぐんだ。(六三)
ニロ〔ナイル〕の河のあたりで冬籠りをする鳥は、
空に群がっているが、ときとして、
にわかに飛びたって つらなっていくものだが、
そこにいた一群の霊たちも
痩せているためか 願いに気がわくわくするためか、
面《おもて》をめぐらすと 足も軽げにはやばやと立ち去っていった。
すると、フォレーゼは、走り疲れたひとが、
仲間をさきにやりすごして、
胸の動悸のおさまるあいだ歩きだすように、(七二)
そのきよらかなひとの群をやりすごすと、
わたしといっしょにそのあとを追いながら こういった、
「きみとまたいつ会えるだろうな」
「さあ」 わたしは答えた、「あと何年生きられるか知らないが、
ぼくは初めっからこの岸辺に望みをもっていたわけじゃないんだから、
そんなに早くは帰って来られまい。
なにしろ、ぼくが生きるように生まれついた土地〔フィレンツェ〕は、
日一日と善いものが剥ぎとられているのだ。
そして悲惨な破滅が待ちかまえているようだからね」(八一)
「そうか、じゃ」 と、彼はいった、「ぼくは、
あの罪業をかさねた奴〔フォレーゼとピッカルダの兄にあたるコルソ・ドナーティのこと。この黒党の首領はフィレンツェの支配者になろうとして反逆罪に問われ、町から逃げだしたが落馬して殺された〕が罪のきえることのない谷間の方で
馬の尻尾に括《くく》りつけられて引きずられていくのが見えるのだ。
その馬はひと足ごとに足を早めて 速さをまし、
その男をたたきのめして、
無惨に変わりはてた屍体を棄てていくのだ〔フィレンツェでは、反逆者は馬の尾に結わえられて曳ずりまわされた〕。
星空がそう何度もめぐらぬうちに」
と、彼は天をきっと睇《なが》めてから、「ぼくの口からはっきりいえぬことも
きみには明らかになるだろう。(九〇)
さて、ここできみはぼくのあとからゆっくりやって来い。
この国ではな、時間が大切なのだし、ぼくはきみの足に合わせていたので、
時間を大分へらしてしまったよ」
あたかも騎馬隊のなかから
ときに騎士がひとり 先陣を争うように、
馬を駆って走りだすように、
彼も大股にわたしたちから離れていった。
だから、わたしは師など二人と途上にのこされたが、
その二人は、この世では大将軍に匹敵する者だった。(九九)
フォレーゼの姿が わたしたちの前方はるかに遠のくと、
わたしの目は彼のすがたのあとを追い、
胸に彼の言葉を思いかえしていたが、
そのとき、もう一本のあおあおした果樹〔アダムとイヴの運命を変えたリンゴの樹〕のたわわな枝に気がついた、
その樹は、さして遠くはなかったが、
その樹を目にしたのは そのときが初めてだった。
見ると、ひとびとがその樹の下で、
まるで甲斐もなく物をねだる幼児のように、
手をあげて枝の繁みに何か叫んでいる。(一〇八)
みんな祈願していたが、その願いには答えず、
かえって望みをさらにそそるかのように、
のぞみのものを隠さずに高くかかげるようだった。
やがて、ひとびとはあきらめたようにして立ち去ったが、
わたしたちも、そのときひとびとの祈りと涙を無下にしりぞけた
その大樹の下へやって来ていた。
「近寄らずに 通りすぎよ。
エヴァが果実をかじった樹はもっと上の方〔煉獄の山の頂〕だが、
この樹はそれから生えたものだ」(一一七)
だれかが、葉の繁みのなかから
師とスタティウスとわたしにむかって 声を出したのだ。
わたしたちは その樹の立っている側から
食っつき合ってそとへ歩いて出た。
「思ってもみよ」 その声はさらに叫んだ、
「雲に形づくられた呪われの半人半馬《ケンタウロ》〔ケンタウロスのこと。イクシオンと雲《ネペレ》のあいだに生まれたが、ラピティ人の王ペイリトゥスとヒッポダメイアとの婚礼の席に招かれ、飲食にあきると乱暴をはじめてテセウスなどを殺傷したという〕を。
貪食ゆえに〔人と馬との〕二重の胸でテセウスと決闘したのだぞ。
さらに思いだせ、ヘブライ人を〔あまり水を貪り飲むので、ギディオンが攻撃に同行することを断わったユダヤ人たち〕。
大酒|食《くら》いなばかりに ギデオンがマディアさして丘を下りたときも
仲間はずれにされたのだぞ」(一二六)
こうして、わたしたちは、大食いの罪が
どんなに悲惨な刑罰を食《くら》うかをきいて、
その二つの縁《ふち》の一つを伝って通りすぎた。
それから、坦々とした寂しい道を
めいめい口もきかずに思いにふけって
千歩あまりも歩いたであろうか、
「きみたち三人だけで 何をそんなに考えこんで歩いているのだ」
いきなり そういう声がきこえた。わたしは、
生まれて間もない獣が物怖じするように ぎょっとした。(一三五)
で、頭をあげて、声を出した者が何者かと見ると、
そこでわたしが見たものほど 赤々とぎらつくガラスや金属は
炉の中でも見かけたためしはなかった。
わたしが見ると、そのものがいった、
「もっと登りたければ、ここで曲がるのだな。
平安をもとめていく者はここを登るのだ」
その姿はと見れば、わたしの目はくらんで見えなかった。
だから、わたしは声をたよりに歩くひとのように
わたしの師の背中へからだを向けた。(一四四)
すると、夜明けのさきぶれをする五月のそよ風がながれてきて、
樹々の葉や花の匂いをはらんだまま
得もいえぬ香りをはなっていた。
その風がわたしのひたいを吹くかと思うと、
翼がゆるく動くのがはっきり感じられて、
天上の芳香がながれるのを感じた。
すると、耳もとにまた声がきこえた、
「幸《さいわい》なるかな、おん神の恵みをうけてかがやく者、
その者の胸にはかつて過ぎたる望みを燃やしたることなく、(一五三)
飢餓にもつねにほどほどに甘んじたりき」(一五四)
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第二十五歌
復活祭の火曜日の午後二時ころのことである。ダンテは、煉獄のひとが養分をとる必要がないのに、なぜ痩せるのかという疑問をもった。そのことで、スタティウスが詳しく説明するが、肉体と精神との有機性について、中世風の生理学説が語られる。性と生命との関係についてもアヴェロエスの東方の生理が紹介される。三人は最後の第七の環道に出るがそこでは好色の罪の者が、猛火のなかできよめられている。貞操を守った人たちを讃える声が、火のなかから起こってくる。
そのときは、登るのをためらう必要のない時刻だった。(一)
太陽はすでに子午線を牡牛座《おうしざ》にのこし、
夜はそれを蝎座《さそりざ》のあたりに捨てていたからだ。
何かのことで焦眉の急にいらだつと、
ひとは目前のことにかっとなって 何が出てもとまらずに、
やみくもに自分の道を突っぱしるものだが、
それと同じで、わたしたちは岩の切れ目から
ひとりずつ石段を登っていったが、
道がせまいので 並んで歩くわけにはいかなかった。(九)
鸛《こうのとり》の雛がとび立とうとして羽根をひろげると、
巣立ちするのがおそろしくなって また羽根を下へおさめることがあるが、
わたしもその雛のようなもので、
問いただしたい思いにもえていながら、それが消えてしまって、
結局は、いいだそうと努めながら
口だけうごかすようなことになってしまった。
わたしのやさしい師は 足早に歩いておられたが、
わたしのいおうとするそぶりを察してから いわれた、
「鏃《やじり》までつがえたお前の言葉の弓は射るがいいよ」(一八)
そこで、わたしはほっとして口をほぐして質《たず》ねた、
「栄養をとる必要のないところで、
どうしてひとは痩せるのですか」
「もしお前が、炬火《たいまつ》の燃えつきたときに、
メレアグロス〔カリュドン王のオイネウスとアルタイアのあいだに生まれた子で、生まれたとき、運命の女神は木片を火中に投げ入れ、その木片が燃えつきるときその子の生命も尽きるという。アルタイアはすぐ木片の火を消して大切に保存していたが、メレアグロスは成人してから、二人の叔父を殺したので、彼女はふたたび木片に火をつけて兄弟の恨みをはらした(オウィディウス『転身物語』)〕のいのちも尽きてしまったことを思いだせば」 師はいった、
「このことはお前にもたやすくわかることだ。
また、お前の姿が、お前のうごきにつれて
鏡の中でうごくことを考えれば、
むつかしく見えることも楽に理解できるはずだ。(二七)
しかし、お前がかかえこんでる問題を納得させるために、
ここにスタティウスがいるから わしが頼んで
お前の〔疑っている〕傷をなおしてもらおうか」
「あなたのいる前でわしが」 スタティウスは応《かえ》した、
「永劫の摂理《せつり》を彼に解きあかすのもおこがましいが、
あなたにはいやとはいえない」
それから、彼はいいはじめた、「息子よ、
きみが注意ぶかくわしのいうことに耳をかすなら、
きみの疑問に〔それを解く〕光がさすだろう。(三六)
血をほしがる血管にも吸いこまれない純粋な血は、
食卓からさげられた食べもののように残されるが、
その血は、心臓のなかで、
にんげんのすべての五体の形をつくる力ができていて、
手足になるために血管をながれていく。
その血はふたたび精化〔血液が醇化されて精液になること〕されて、
口にするよりしない方がたしなみのいいところ〔男性の性器〕へ下りてきて、
そこから自然の器〔子宮〕のなかで
他人〔女性〕の血にしたたりおちるのだ。(四五)
そこで 血と血とはまじわり合うのだが、
一つは受けるはたらきをする血で、も一つの血には
しぼりだされたところが完全なので しかける働き〔女性の血は受動的な機能があり、男性の血は積極的な機能がある、ということ〕がある。
それが相手の血に出会うと 働きはじめて、
まず凝り固まり、ついで自分の物質で形のできたものにいのちを与えることになる。
〔男性の血のなかの〕活動する力は、草木のそれのような魂になるが、
その違いはただ、しかける力〔積極的な生命力〕がまだ〔発達の〕途中なのに、
〔草木の〕魂の方はすでに〔発達の〕岸についているというだけだ〔草木の魂は生育を限度としてそれ以上には進めないけれど、人間の魂はさらに進んで別の性を備えるようになる。すなわち、草木の魂は発達の彼岸に達しているが、人間の魂はなお発達の道程にある、ということ〕。(五四)
しかける力はなお働いて 水母《くらげ》のように
動いたり 感じたりできるようになると、
種《しゅ》としての五官をもつように
働きはじめるのだ。
自然がすべての手足を形づくろうとする
父親の心臓から出た力は、息子よ、
ときには伸び ときにはひろがるのだ。
だが、この胎児がどうして考えたり物をいったりするものになるかは、
まだきみにははっきりしないようだ。(六三)
が、その問題はきみよりはるかに賢いひと〔アラビアの哲学者アヴェロエス〕でさえ間違えている。
まったく、その説によると、潜在する智恵を魂から離してしまっている。
そういう働きをする器官を彼は認めていないのだ〔アリストテレスは、人間の智恵を二つに分けて、一つを潜在的な智、他を能動的な智、と呼んだ。そして、ひとは前者によって外部の印象をうけ、後者によってその印象を理解しいろんな観念を構成するようになる、という。能動的な智は魂から分離し、非情であって不死である。潜在的な智は死滅するし、能動的な智を欠くことはできない。そこで、アリストテレスは真の智恵は、魂から分離する智恵で、これは永久に不滅であると説いている。アヴェロエスは、この説によって、能動的な智は分離し、個性がない。その個人と合するのは補助的であって、補成的ではないと、いった。これは個人の魂の不滅を否定するようなものだ。そのように、アヴェロエスが魂からの分離をいったのは能動的な智のことだが、ダンテはそれを潜在的な智のことをいったとばかり思っていたらしい。これは明らかにダンテの誤解である〕。
しかし、きみは、いま話した真理に胸をひろげるがいい。
そして知ることだ、その胎児にどうして脳の組織がすぐに完成するかということを。
原初《はじめ》の創造主〔神〕は、たのしそうに胎児をふりかえって、
自然のさまざまの工《たくみ》のうえに
力をいっぱいつめこんだ魂をあらたに吹きこむのだ。(七二)
そこで見られるしかける力は、
その骨肉に引き入れられて、生きて 物を感じて歩きまわる
一つの霊魂になるのである〔生命力をもつ魂を吹きこむというのは、中世人の通念だったらしい。たとえば、フラ・アンジェリコの『聖母受胎』でも天使がマリアに息をふきかけている。これをスコラ的にいうと、神に新しく吹きこまれる魂のことで、胎児のなかで活動している他の二つの魂、すなわち植物性の魂と動物的な魂をともに自分と合一させる。そうすることで、一つの魂のなかには、植物的、感覚的、理性的の三つの性質がそなわってきて、生き、感じ、反省するのである〕。
そう聞いてもきみは驚くにあたらないよ。
太陽の熱を見たまえ。ブドウの蔓からしたたりおちた汁にそれがあたると、
酒にかもされることをみても明らかだからだ。
ラケーシスに〔いのちを〕紡ぐ麻糸がなくなると〔ラケーシスは人間の運命をつかさどる三女神の一人で、人間ひとりびとりに割りあてられている麻糸を紡いでいる〕、
魂は肉から離れて 人の性質と神の性質とを
自分のなかに力としてそなえるのだ。(八一)
しかも、ほかの力はみな鳴かずとばずだが、
記憶、洞察、意志だけが
前よりも活溌にはたらくようになる。
そして、驚くことに、魂は肉から離れるやいなや、
自分からどっちかの河岸〔地獄行きの魂は地獄のアケロンテの河岸から、煉獄行きの魂はテベレ河の河口から、それぞれ船に乗るので、河岸に行って魂ははじめて自分の最後の運命がわかる〕へ落ちていく。
そこで魂ははじめて自分の道をさとるのだ。
魂は 落ちつくところに落ちつくとすぐに、
形づくる力がまわりを照らしはじめるが、
その光は肉のなかで生きていたときのようで、その出方も度合もそのままだ〔形となる形成力は、そのまわりにも作用するが、その方法や程度は生きていたときに、肉体におよぼしたのと同じだ、という。つまり、魂は生きていたとき大気の中でつくっていた形と同じ形を大気の中でつくりだす、ということ〕。(九〇)
ところで、たとえば大気が水気をふくむと、
ほか〔太陽〕の光のために反映して
さまざまな色で飾られるように、
その魂のちかくの大気は、
そこにとどまる魂が自分の力で捺《お》した
魂のかたちを大空にとどめるのだ。
火の場合と同じで、
焔が火にしたがってところを変えるように、
その新しい形は魂にしたがうというわけだ。(九九)
ところで、魂はこの大気のなかの形から姿をつくるので、
影と呼ばれている。それに、あとからそれぞれ感覚する働きがついて、
最後には、見る働きさえついてくる。
そこで、たがいにしゃべったり笑ったりできるし、
また涙をながしたり、
きみがこの山のあちこちで聞いただろう溜息さえ出てくるのだ。
いろんな願いや他人の愛情などが
わしらの心をうつごとに 影の形は変わるのだが、
それがきみを驚かした原因だ」(一〇八)
わたしたちはすでに道の曲がり角に来ていた。
そこで右手に向きをかえたが、
そのとたんに 別のものに心が奪われた。
そこの崖には、火の焔が道の外側に向かって噴きだしていて、
崖の出っぱりからは風がものすごく吹きあげてきて その焔を押しかえし、
火をくぐって 道がほそぼそと通じていたからだ。
そこで、わたしたちはわずかにひらいている細い崖っぷちをひとりずつ歩かねばならず、
わたしは左手には焔におびえ、右手に崖から
墜ちることを気にしなければならなかった。(一一七)
導師がいった、「ここでは、瞬時も
目を足もとから離すでないぞ。
一歩あやまればとりかえしのつかぬことになるからな」
「いや高きおん神|慈《いつく》しみたまえ」〔教会で土曜日の朝の礼拝で歌う聖歌〕と、そのとき
猛火のなかから歌う声が聞こえてきた。
わたしは足もとに気を配っていたが、その方へふり向いた。
見ると、その焔のなかを魂たちが歩いていくのだ。
で、わたしは彼らを見たり、足もとを見たりして、
そのときどきに目をあちこちへうつした。(一二六)
亡者らは讃歌をうたいおわると、
たかだかと叫んだ「われ夫《ひと》を知らざるに」〔『ルカ伝』での「マリア天使にいいけるは、我いまだ夫《ひと》に適《ゆ》かざるに、いかにしてこの事あるべきか。天使こたえて曰けるは、「聖霊なんじに臨る、至上者の大能《ちから》なんじを庇《おおわ》ん。これ故になんじが生むところの聖なる者は神の子と称えらるべし」の一句。聖母マリアに原罪のないことを大天使ガブリエルに答えたもの〕と、
それからまた低い声になって讃歌をうたいだした。
その歌がもう一度おわると、「ディアナ森にこもり、
ヴェネレ〔ギリシアのアフロディテ、恋の女神のこと。その毒とは色欲のこと〕の毒うけしエリーチェを
森より逐《お》いて去らしめたり〔処女性の女神ディアナ(アルテミス)に仕えたニンフの一人カリストのこと。ゼウスに辱しめられたので、この女神が神聖な森から追われた〕」と叫んだ。
このように、彼らは歌をうたうかと思うと、
それにつづいて、徳と婚姻の命じるままに貞潔
だった淑女や良夫をほめたたえるのだった。(一三五)
おそらく火が彼らを灼いているあいだは、
ああして繰り返していることだろう。
こんな栄養と こんな療法とが、
彼らの傷をついには癒してしまうにちがいない。(一三九)
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第二十六歌
炎の噴きだしている細い径を、一人ずつ歩いていると、焔のなかへダンテの影がおちるのに驚いて、一群の魂が近寄ってくる。口々に「ソドム」「ゴモラ」と叫び、また「パシパエ」と叫ぶのは、男色や女色に淫した罪をここで自責している魂たちである。そのなかに、ダンテが敬慕する詩人グイード・グイニッツェルリがいることで、ダンテは暗然としてたたずむ。彼はダンテに、詩や詩人の名声の移りやすいことを語る。と、プロヴァンス語で、抒情詩人アルナウが名乗りをあげる。
わたしたちが、こうして道の縁《へり》を(一)
ひとりずつ渡っていくあいだにも、師はひっきりなしに わたしに声をかけた、
「いいかね。気をつけて。わしの注意がわかっているね」
太陽は右の肩ごしにさしていたが、
西の空はすでに かがやきながら
碧い色がすっかり白っぽく変わってしまっていた。
それに わたしの影が 焔をひときわ赤く燃えたたせていたので、
のっけからぎくっとして、おおぜいの魂は
歩きながら それを気にしはじめているようだった。(九)
これが、彼らにわたしへ話しかけるきっかけをつける原因になった。
彼らはやがて たがいに話し合いはじめた、
「あの男、身のないからだじゃなさそうだぜ」
そして、何人かが、
火の燃えてないところへ出ないように気をくばって〔この円の魂は身がけがれるために焔のそとへは出られないから〕、
ぎりぎりのところまで わたしに近寄ってきた。
「おい、そこを歩いていくきみ。ひとのあとからついていくが、
足がのろいのじゃなくて、そのひとを敬っているのだな。
答えてくれるかい、火と渇きに燃えてるおれに。(一八)
きみの返事を待ってるのは
おれだけじゃない。ここにいるみんなだ。
みんなインド人やエチオピア人が冷水をほしがるよりもっと〔返事に〕渇ききっている。
わけを話してくれ。
どうしてきみは太陽をさえぎっているのだ。
きみはまるで死の網目にもまだかかっていないようだが」
その群のひとりがそうわたしにいった。わたしも、
そのときそこに起こった変な出来事〔肉欲にふけった罪の魂のおこす出来事だが、一つは自然の本能的な肉欲にふけった者、もう一つは不自然な男色をした者。男女の間の肉欲にふけったものはダンテたちと同じ方向に歩いているが、男色組の方は反対の方向に、ダンテとは向かい合って歩いてくる。二つの群が会うと、たがいにちょっと抱き合って別れていくが、前者は男女の間の肉欲の権化のパシパエの名を、後者は男色のソドム、ゴモラと大声で叫び合って、罪のつぐないをしている〕に気づかなければ
即座に名乗りをあげていただろう。(二七)
出来事というのは、火の燃えている道の真中を、
いまの連中とぶつかり合うように別の魂たちがやってきたので、
それがわたしの言葉をとぎらせて じっと見すえさせたのだ。
二つの魂の群は そこであわただしく出会うと、
たがいに抱きあい、そのちょっとした出会いに満足すると、
足をとめもしないのだ。
それは、ちょうど褐色《かちいろ》の蟻の群が出会うと、
顔をつき合わせて道をきき、
餌のありかを確かめるのに似ていて、(三六)
彼らは親しそうな会釈をやめて、
一歩ふみだすか出さぬかに、
たがいに声たかく 力をこめて叫び合った。
あとから来た連中が「ソドムとゴモラ!」と叫ぶと、
別の群が「牝牛の中へパシパエ〔自分の肉欲を満足させるために木製の牝牛の中に入って牡牛とまじわった女王〕が入ったぞ。
男を誘いこんでたのしもう魂胆《こんたん》だぞ!」
それから、鶴にも、
太陽を避けてリーフェの山〔中世では北欧にあるとされた〕へとぶ群と
氷をきらって砂漠へとぶ群とがあるように、(四五)
あっちへ行く魂もあり、こっちへ来る魂もあるが、
彼らは初めの讃歌を泣きながら歌い、
また彼らにもっと似合うように叫びたてて帰って来た。
そして、さっきのように わたしに話をもとめた同じ連中が、
わたしのそばへやって来た。
その表情には話をききたい気持がありありと浮かんでいた。
わたしは二度までも 彼らに望まれたので
いいはじめた、「ああ、親しい魂よ、
いつかは平安の状態になるきみたちよ、(五四)
わたしは未熟〔若年〕でも熟しすぎても〔老年〕いないのだ。
五体をこの世においてきたのでもない。
いや、こうして血も関節もからだといっしょにつけている。
わたしはこれ以上|盲《めしい》にならないように〔人間の情欲におぼれないように、との意〕、ここから登ろうとしているのだ。
天上の淑女《あてびと》〔聖母マリアのこと〕が恩寵をおさずけくださったので、
そのおかげで 生き身のままできみたちの世界へ来た。
きみたちの賢い大きな願望《ねがい》が いちはやく満たされることがあれば、
きみたちがこんなにも愛にみちた
あの広大な天国に迎えられることを祈っているのだ。(六三)
この世の生きている者のとりなしの祈りを得るためにも
紙に書いておかねばならぬが、教えてくれぬかね。
きみたちはいったいだれなのか。
きみたちと反対に出ていった連中はだれなのか」
そのおどろきとあわてさ加減は、
粗野で朴訥《ぼくとつ》な山だしの男が町へ入ったときの
物もいわずに目を見はるのと大したちがいはない。
いくたりかの魂の表情には それがはっきり見られた。
しかし、茫然自失した荷をおろしたあとでは、(七二)
こころの高い者はすぐに気もしずまるもので、
さきほどわたしに質《ただ》したひとがまた口を切った、
「めぐまれたきみよ、よりよく死のうとして
きみが〔おれらの世の〕経験を積もうとしてるのだね。
わしらとともに来ない連中は、
かつて勝ちほこったカエサルが「王妃」呼ばわりされるのを聞かされた〔カエサルがガリアから凱旋したとき、その集会で兵士の一人オクタウィウスがカエサルを罵って「ピチュニアの王妃」と叫んだ。その理由は、カエサルがピチュニアの王ニコメデスと男色にふけったからだという故事〕
その罪〔男色〕を犯したひとたちだ。
だから、あれらは自分を責めて
きみにも聞こえたように「ソドム」と叫んで去り、
その恥ゆえに焔をもえさからせているのだ。(八一)
だが、おれらのは男と女のあいだの罰だ。
ひとの道の掟を守らずに
けもののように情欲にふけったからだ。
おれたちは自分を辱しめるために 別れぎわに、
けものの形の木箱の中でけもののようなことをした女の名前〔パシパエ〕を
自分のために大声でとなえたのだ。
いまとなっては、きみにもおれらの所業と罪業がわかっただろう。
きみはおれらの名をみんな知りたかろうが、
〔おれには〕それをいう時間もないし、知りもしない。(九〇)
おれのことだけなら、きみの望みも叶えられるだろう。
おれはグイード・グイニッツェルリ〔ボローニャの名門の出で、他のギベリーニ党員とともにフィレンツェを追われた。イタリアの抒情詩の元祖ともいえる詩人で、プロヴァンスやシチリアの抒情詩のあとをうけて、婦人のうつくしさを肉体的なものよりも、精神的なものに発見して、ダンテらの清新体詩派のモティフとなった。ダンテはこの人にひどく傾倒していたので、こういう男色のつぐないの場で、その師を見ることは意外だったらしい〕だ。息のきれるきわにさきだって
幸にもおれは非を悔いたので はやばやと身をきよめられたのだ」
わたしの父ともいうべき またわたしより
もっと優れたうつくしい優婉な恋の歌をつくった
詩人たちの父ともいわれるそのひとが、自分から名乗りでたとき、
リュクルゴスが悲嘆にくれているとき
母と再会した二人の息子がしたように〔ネメアの王リュクルゴスの婢イシフィレは、テーバイを攻囲中の諸王に、ランジァの泉を教えようと案内した留守に、彼女が草の上にのこしておいたリュクルゴスの幼児が毒蛇にかまれて死んだ。王は怒って婢を殺そうとしたが、初めて彼女を母と知ったリュクルゴスの二児が彼女のもとに走っていって母子の対面をよろこんだ。ダンテは、私淑するグイニッツェルリとの出会いをイシフィレの対面にたとえている〕
わたしもしたかったが、わたしの心はそんなにたかぶらなかった。(九九)
わたしはただ、
長いこと彼を見て歩き、問わず語らずで、
火がもえていたので そこまでわたしは近づけなかった。
それから まじまじと彼をながめた揚句、
だれでも信じるような誓いを立てて
そのひとにこころから仕えるわたしの気持を申し出た。
そのひとはわたしに、「きみから聞いたことは、
おれの心にあざやかに刻みつけられた。
レテの河〔地上楽園にながれている罪を忘れる河〕もそれを消したりうすめたりできないだろう。(一〇八)
だが、きみの言葉が本当に誓っているなら、
何が言葉にいわせ 目に親しみを見せるのか
そのわけをいいたまえ」
そこで、わたしは彼に、「あなたのうつくしい歌がそれです。
近代〔言葉の〕のしきたり〔ラテン語を使わずに俗語で詩をかく習慣は、当時はまだ新しい試みだったから〕のつづくかぎり、
〔あなたの〕お作はいつもよろこんで読まれるでしょう」
「ああ、兄弟」 彼はいった、「わしが指をむけてる者は」と、その前にいる魂をさして、
「愛の歌でも散文の物語でも
何人《なんびと》にもひけをとらないひとだ〔プロヴァンスの抒情詩人ダニエル・アルノオのこと〕。(一一七)
馬鹿どもにはいわしておくが、
このリモージュの男〔ジロー・ドゥ・ボルネイユのこと。アルノオとともに、プロヴァンス風の抒情詩人〕の作が上手《じょうて》だと思いこんでいる。
評判がたかければ
〔世間の〕顔が真実よりそちらへ向く。
こうして世間の評判が 手法や道理をきく前にきまってしまうのだ。
むかしの人はグイットーネ〔イタリアの詩人グイットーネ・ダレッツオ〕にもそれをやった。
真実がおおぜいの人によってうち克つまでは
口々に彼だけをほめそやしたものだ。
さて、もしきみが、キリストを学寮の修道院長としていただく(一二六)
修道院〔天国ということ〕へ入る許しをもつほどに
そんなに広い特権をもっているなら、
おれのために主祷文《パテル・ノストロ》を唱えてくれまいか。
ここでは、おれらは罪は犯せまいから、
この世で行なう懺悔でもいい」
こういうと、
うしろにいる者に席でもゆずるのか、
水底ふかくもぐる魚のように
彼は焔の中へとびこんで見えなくなった。(一三五)
わたしは彼が指さしたひとの方へ二、三歩すすみ出て、
そのひとの名のために こよない場所を用意するという
わたしの願いを告げると、
彼は快よく〔プロヴァンス語で〕よどみなく語りはじめた。
「あなたの 鄭重《ていちょう》なおたずねが
たいそう気に入ったので、あなたに隠すことはできないし、
そうすることは欲しないのです。
わたしはアルナウです。泣いてはまた歌って歩いています。
すぎ去った狂気の沙汰を思うと憂《うれ》いごころがおもく、(一四四)
行く末のよろこびを望みみると 心がよろこびにおどります。
あなたをきだはしの頂〔煉獄にある神聖な山のいただき〕まで導かれるお力によって
ときどきわたしの苦しみを思いだしてください」
そういうと、彼もその罪をきよめる火の中へ姿を消した。(一四八)
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第二十七歌
復活祭の火曜日の日暮れのころ、天使があらわれて、ダンテたちに炎の中を通っていくように命じた。ダンテがおそろしくて、ためらっていると、師はそれがベアトリーチェとお前を隔てている壁だといって、はげます。ダンテもその炎の中を通り抜けて向こう側に出ると、すでに日は暮れていて、三人は岩場で憩うことになり、その睡眠のなかで、ダンテはレアという淑女の幻を見る。やがて水曜日の朝があけて石段の頂に来ると、師はダンテに、もはや導者として何もできなくなったという。三人は地上楽園に着いていたのだ。
造主《つくりぬし》が血をお流しになったところで(一)
初めてさす光が顫《ふる》えたときのように、
〔西の涯の〕エブロの川〔イスパニアの河〕は天秤宮の下へおち、
〔東方の〕ガンディスの川波が第九時にまた灼《や》かれている、
〔そんな位置に〕太陽があった。ここ〔煉獄〕では、昼間が〔夜に〕うつり変わるときだが、
そのとき おん神の天使がいそいそと姿を見せて、
焔のとどかない道にいて、
わたしたちよりずっと澄みとおる声で、
「こころ浄き者に幸《さいわい》あれ」という歌をうたった。(九)
歌いおわると、「きよらかな魂よ、
この火に噛まれずには さきへは行けませぬぞ。
この火をくぐって かしこの歌声に耳をふさぐまいぞ」
わたしたちが近づいたとき 天使はそういったが、
それをきくと わたしはまるで
墓穴におかれたひと〔生き埋めにされるべき人の意〕のようになってしまった。
わたしは腕を組んで身を乗りだすと
焔のなかをのぞきこんだが、
いつか見た灼けただれた人のからだをまざまざと思いうかべた。(一八)
すると、わたしを護ってくださるお二人がこちらにふりむくと、
ウェルギリウス師がいった、「わしの子よ、ここは痛みはあるかもしれぬが 死にはしないよ。
思いだしてみよ、わしはお前をゲリオン〔ジュリオーネの背に師とのって、地獄で空をとんだことがある〕の背に乗せて
無事に連れてきたではないか。
お前はいまおん神にさらに近づいているのだ。わしが何をするというのだ。
しっかり考えることだ お前がたとえ千年ものあいだ
この焔の腹の中にいるとしてもだ、
髪の毛一本焼かれることはあるまい。(二七)
わしがお前をたぶらかしているとでも思うなら、
もっと火に近よって お前の着物の縁に手をやって
ためしてみるがいい。
いまは捨てることだ。怖れごころを捨てるのだ。
こっちを向いて 安心してわしと行くことだ」
それでも わたしは心ならずもなお佇《た》ちつくしていた。
わたしがなおも かたくななまでに立ちどまっていると見ると、
師はちょっととまどっていった、「子よ、見よ、
これがお前とベアトリーチェとを隔《へだ》てている壁〔壁とは、この焔のこと〕だ」(三六)
ピュラムスが死にかかったとき
ティスペの名をきいて 目をひらくと
〔白い〕桑の実が赤くなったように〔ピュラモスとティスペはバビロニアの若い男女でたがいに愛していたが、両親は結婚を許さなかった。二人は相談して大きな桑の木の下で会う約束をした。夜になって、ティスペがそこへ行くと、獲物を食った獅子が水を飲みに来たので、月光でそれを見て洞窟にかくれる。獅子はティスペが落したヴェールをくわえて去った。ピュモラスはおくれて血に染まったヴェールを見て、ティスペが獅子に食われたものと思って自殺した。するとその血が桑の木にかかって、白い桑の実が赤くなった。ティスペもあとでそこへ来て、恋人の刀で自殺した。桑の実の赤くなったのはそれからだ、という(『転身物語』)〕、
わたしのかたくなな心もやわらかくなり、
つねに心に去来するその名をきいて
わたしは賢《さか》しい導師をふりかえった。
すると、師は頭をふりながらいった、
「どうした。わしらとこちらにいたいのか」
そして、林檎《りんご》であやす児にして見せるように 顔をほころばせた。(四五)
それから師は、それまで道々わたしと師のあいだにいたスタティウスを
わたしのうしろへいくように頼んで、
わたしの目の前で
猛火の中へ入っていった。
そのいいようもない烈火の中へわたしも入ると、
熱さをさますためなら
どろどろに溶けたガラスのなかへ入ってもいいと思うほどだった。
やさしい父は、わたしをはげますように、
「あの方の目がもう見える気がする」といって、(五四)
ベアトリーチェのことしか話さずに 歩いていた。
向こうの方から 歌声がわたしたちを導いていたし、
その声だけをたよりに わたしたちは焔のそとの
登りつめたところへ たどり着いていた。
「来ませよ、おん父に嘉《よみ》される者」
と、そこのまばゆい光の中から 声が聞こえてきた。
それは、目もくらんで 仰ぎ見ることもできないまばゆい光だった。
その声はなおもつづく、「日の神は去《い》にましき
やがて夜も来まさん。西方《せいほう》の暮れぬ間にこそ、
足とめず 道を見わけよ」(六三)
道はまっすぐに岩場を上の方へ伸びていた。
すでに傾いていた太陽が その影をわたしの前におとしていたが、
その方へと 岩場はつづいていた。
ふたりの賢者がまだ岩場をいくらも登らないのに、
わたしの影が消えているので、
太陽がすでにうしろで沈んだことに わたしたちは気づいていた。
そして、かぎりなくひろがる水平線が、
黒一色になって、(七二)
夜がそのすべてのものを占める前に、
わたしたちはめいめい岩場を臥床《ふしど》にした。
それは山の夜道が、それ以上に
登る力やよろこびを奪ってしまったからだ。
餌にありつく前まで 崖のあたりですばやく跳ねまわっていた山羊は
おとなしくなって 物を噛みなおすように、
日ざしの暑いあいだは樹蔭でひっそり憩い、
杖に身をもたせた羊飼いに見まもられ、
さらに羊らもその杖に身をゆだねるものだが、(八一)
野獣に追いちらされぬよう
山羊のそばで夜どおし野宿して
ひっそり見張ってる羊飼いさながらに、
そのときのわたしたち三人も そんな格好だった。
わたしは山羊で おふたりの師は羊飼いみたいなもので、
そこここの高い岩場に はさまっていたのだ。
そこからは 岩のそとのものはすこししか見えなかったようだ。
だが、岩間からわずかに見える星々は
普段よりはるかにはっきりして大きく見えた。(九〇)
わたしはいろいろ思いかえして その星を見ているうちに
眠りにおちていた。
それは、何か事が起こる前いつもそれを報らせてくれる眠りだった。
たえず愛の炎にもえている明星《チテレア》が
東から山のあたりにかがやきだす時刻だと思うが、
うつくしい若い女のひとが
わたしの夢のなかに現われて、
その曠野《こうや》で花を摘んで歩いているのが見えた。
そのひとは歌いながらいった、(九九)
「あたくしの名をおたずねになるお方になら、
どなたにもお知りいただきたいのですが、レア〔ラバンの長女で、活動的な生活を代表している。花環をつくって身をかざるのは善行の象徴〕と申します。
あたくしは花の綵《つな》をつくるので あちらこちらをか細い手をうごかして歩いておりますの。
あたくし、鏡の前でたのしむように ここで身を飾っておりますが、
妹のラケル〔ラバンの次女で、黙想の生活を代表している。鏡の前に坐るのはそのため〕ときたら、ひねもす鏡の前に坐って
離れようとはいたしませんのよ。
妹は自分のうつくしい目に見とれておりますが、
あたくしはこの手で身を飾りたいと願っております。
妹はきれいな目を見、あたくしは花で飾ってたのしんでいるのですわ」(一〇八)
遠国から故郷に帰る旅人にとって、
ふるさとにほど遠からぬところで宿るつれづれに、
あかつきの光が昇るのは 心たのしいことだが、
夜の闇はわたしの夢とともに八方にのがれてしまっていた。
そこで、わたしは起きあがったが、
見ると、師とスタティウスはすでに起きていた。
「この世の人たちが こころにかけて
あちこちの道に探しにいったあの甘い木の実が、
今日こそ お前の飢えをいやしてくれるだろう」(一一七)
ウェルギリウスはわたしにそんないい方をしたが、
これほどうれしい贈物をおくられたことは
かつてわたしにはなかったことだ。
すると上の方へ登りたい気持がたかまったので、
それからの一歩一歩はとぶようで、
わたしは望みに羽根が生えたようにも感じられた。
石段がみな わたしたちの足下へいってしまって
いちばん上の段にたどりついたとき、
師の目がじっとわたしを見つめた。(一二六)
師はいった、「子よ、お前は永遠の劫火〔地獄のこと〕と、かりそめの焔〔煉獄のこと〕を
いま見て来たのだ。そしてお前は、
わしがもう何の分別もしてやれぬところへ来ているのだ。
わしはお前をここまでは智恵と才とで連れてきたが、
これからさきは、お前は自分のよろこびを導師とするがいい。
お前はすでに嶮しい せまい径を抜け出たからだ。
そら見てごらん、目の前にかがやく太陽を、
草立ちを 花々を 灌木を。
ここではみんな大地から おのずと生えているのだ。(一三五)
お前は、かつて涙ぐんで わしにお前を連れてくるようにお命じになった
うつくしい目のお方が にこやかにおいでになるまでは、
この草木のあいだで 坐ろうと歩こうと お前のこころのままだ。
これからは、もうわしの言葉や身ぶりに頼るではないぞ。
お前のこころは自由で、すなおで 健《すこ》やかだからだ。
そのこころのいいつけどおりしないと お前の過《あやま》ちになるだろう。
そのために、お前の頭に わしは司祭冠〔というこころの導き〕をかぶせてやろう」(一四二)
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第二十八歌
地上楽園の森の中をダンテは逍遙する。清流の向こうから淑女がひとり花をつみながら歩いてくる。ダンテが呼びかけると、ほほえんで彼のいぶかることを解きあかしてくれる。地上楽園にながれるそよ風や、そこを流れている悪を忘れさせるレテの川や善を想いおこさせるエウノエの川などのことである。この神話的な雰囲気のなかに現われた淑女は、あとで名前がわかるが、マテルダ夫人である。
あたらしい日の光を わたしの目になごめてくれる(一)
みどりの色濃いこのきよらかな森の樹立《こだち》のあいだを
逍遙《しようよう》する気持にかられて、崖っぷちを離れると、
わたしは〔師の言葉を〕きくまでもなく
どこまでも草花のかおりのただよっている
その野原の土の上を ゆっくり歩きだしていた。
ありなしのやわらかいそよ風を、
吹くとも思われないほどかすかに
わたしはひたいのあたりに感じていた。(九)
その風のながれに、そこの灌木の枝や葉は
しなやかに揺れて、あの聖らかな山が
まず影を曳くあたりへ なびいていた。
その樹々は風にしなったが、
枝さきにいる小鳥たちが
さえずりをやめるほどではなかった。
そればかりか、朝の風が木の葉のなかでひと息すると、
小鳥たちは よろこびにみちて歌い、
その歌声が さらさら鳴る樹の葉のさやぎに和して、(一八)
さながらに、それは風神アイオロスが南東風《シロッコ》を吹きつけるときの
キアッシ〔アドリア海ぞいのラヴェンナの近くの地名〕の渚《なぎさ》にある松林の枝をわたる
松籟《しようらい》のようなひびきを立てた。
わたしはゆっくりした足どりを
この神《かん》さびた森にふかく運び入れていたが、
森に入ったところをすでに見うしなっていた。
しかし、なおも進むと 一筋のながれ〔レテの河〕がわたしをさえぎった。
その流れは、さざ波をたてて、右手の方へ
土手から生えでた草を流れになびかせていた。(二七)
この世のどんなにきれいに澄んだ水といっても
底の底まで見とおせるこの流れにくらべると、
何かがまざっているような気がする。
それでも、その流れは、日も月も光をそそぐこともない
永遠の陰翳《かげり》の下で、
くろぐろとうごいているようだった。
わたしは足をとめ、その小川の向こうに目を馳せて、
さわやかな五月の さまざまに花をつけた枝の広闊とした眺めにじっと見入った。
すると、向こうに何かがあらわれた。(三六)
ほかのあらゆる思いを
即座におどろきが掠《さら》っていくようなものが
その前にあらわれたのだ。
女のひとがひとり〔マテルダ夫人のこと〕、
その歩んでくる小径をいろどる
草花をひとつずつ選びとっては 歌いながら歩いてくるのだ。
「ああ、おうつくしいお方、お顔だちは
おこころの証《あか》しと申しますが、
おすがたから察しますと、あなたさまは愛の光にほてっておいでと存じます。(四五)
この水ぎわにまでおみ足をおすすめくださいませんか」
わたしはその女のひとにいった、「ここの流れのところへです。
わたしはあなたのお歌いになるのを もっとよくお聞きしたいのです。
あなたのお歌は、わたしに昔のプロセルピーナ〔冥府の男ハデスに奪われて妻とされた娘ペルセポネのこと〕が母〔デメテル〕を喪《な》くしたとき
彼女も春をなくした
あの愉《たの》しい花野とうつくしいかがやきを憶《おも》いださせるのですから」
その女のひとは踊るようにして 足うらで地面をするように、
また片方の足が前に出ないようにでもするのか、
足と足をすり合わせるようにして 向きを変えた。(五四)
それから、朱《あけ》いろの花や黄ろい花の上で、
慎ましい目をしたおとめしかしないように、
目を伏せたしぐさで わたしの方へふり向いた。
そして、そのうつくしい声が
言葉の意味まで伝わってきて
わたしの願いをかなえさせてくれた。
その女のひとは、草がその流れに濡れているところまで来ると、
わたしにその眼眸《まなぎし》をあげてくれた。
その眸《ひとみ》のかがやかしいことは、ヴェネレがあやまって(六三)
その息子に矢で射られたとき〔ウェヌスの子クピド(エロス)は、いつも母以外のひとに矢を射るのだが、あるとき母に接吻しようとして、あやまって矢を母に立てた〕でも
こんなに眉の下でかがやいていたとは思われない。
そのひとは向こう岸でにこやかに立って、
種子もなくて咲きでたその高地の
とりどりの色をした花を手にとっていた。
その小川はわたしたちを足で三歩へだてていた。いまでも人間の慢心のいましめになっている
クセルクセス王〔ペルシア王ダリオスの子〕が渡った あのヘレスポントス〔の海峡〕は、
セストスとアビュトスの間で海のように荒れたので、(七二)
レアンドロス〔ダーダネルス海峡のアジア側の町アピド(アピュドス)に住む青年。対岸の町セスト(セストス)の町の娘ヘロに恋して、毎夜海峡を泳いで会いに来たが、ある夜波が高くて溺れ死んだ〕が堪えきれずにひどく憎んだものだが、それどころか、
いやこの流れは、道も通じないので わたしからもうらまれていた。
「そなたたちは来たばかりなので、
おん神が人間の巣として
お選びになられたここで、
わたくしがほほえむのを見て
おどろいて不思議がっているかもしれませんわね。
しかし、光があの≪汝《みまし》らを楽しませたまえり≫という聖歌をお与えになって、
そなたたちの智恵にかかった霧をすっかり払いのけてくれるはずですもの。(八一)
そこの二人の前に立っているお前は、わたくしに願い事をしましたが、
何か聞きたければ 何でもいうがいい。
わたくしはそなたのどんな問いにも 心ゆくまで答えるために参ったのですから」
わたしはいった、「この水とこの森の妙音が、
わたしの聞いたあたらしい信念とあべこべなので、
わたしのこころは とまどっているのです」
すると、そのひとは、「そなたをおどろかせている
森のさやぎがどうして起こるのかを申し上げて、
そなたを包んでいる霧を払いのけてさしあげましょう。(九〇)
おん神の善は、それだけでも善にかなうものですが、
それはひとを善人につくり 善行をおこなわせるものです。
それに、ひとにはこの地が永遠の平安の保証として与えられております。
落度のあるひと〔ひとの落度とはアダムが犯した罪〕は ここにはすこししかとどまれませんし、
そういうひとには嬉しい笑いも晴々しい遊びも涙と苦しみに変わったのです。
と申しますのは、この山は天空に突きぬけて立っておりますので、
この〔煉獄の〕入口から上は、どんな〔下界の〕騒ぎからも影響されないのです。
それは、水と土から蒸発して起こりますもの〔風、雨、雹《ひょう》など〕が、
〔太陽の〕熱のおよぶところならどこへでも行って、(九九)
ここの下の方でひどく騒ぎを起こしておりますので。
ですから、ひとびとにそんなごたごたをさせないように、
この山は天表にたかく聳え立っていて、
そういう騒ぎから離れて 門をとじているのでございます。
つまり、どこかで循環する力をとぎらせられないかぎり
原動天〔ダンテ天文学の第九天〕といっしょに廻っている大気は、
〔下方の〕廻るところだけをめぐっているのでございます。
この山の高さでは、そこを流れる大気は、そんなものすべてから自由になっておりますので、
その〔天の〕動きが樹にあたり、(一〇八)
葉がしげっておりますので さざめきを立てるのでございます。
また風になびく樹木は そのいのちを微風にはらませることもできますので、
その風はそれから そこらあたりを廻りながら揺るがすと、
よその土地で、その土地と天の性質にしたがって
それぞれ別のいのちと別な樹をはらませて生むのでございます。
このことをお聞きになったからには、
この世で何かの草木が種子も蒔かずに生えたからとて
もうお驚きにはならないでしょう。
それに、このきよらかな曠野には、(一一七)
いっさいの種子が蒔かれていて、
この世では
摘みもならぬ果実が
ひとりでになることも そなたにはおわかりでしょう。
またそなたの見ているこの水も みなぎったり涸れたりする川のように、
冷えるとかたまる蒸気の生きかえる水脈から
ながれ出ているのではありません。
いえ、それはおん神のご意志で この二つの川にそそぐほどたくさん
お取りになられる 豊かな まことの泉から出るのでございます。(一二六)
こちらの水は、ひとに罪のおもいを失わせる力をもって流れ、
あちらのは、あらゆる善を与える流れ〔レテとエウノエの二つの川〕でございます。
ひとはこちらのをレテと呼び、
あちらのをエウノエと呼んでおりますが、
何よりも それぞれの水を味わいませぬことには、
功徳《くどく》はございません。
その味は世のすべてのうえをいく味わいでございます。
これ以上 わたくしがくどくど申さなくとも、
そなたの渇きは 十分にみたされたことになりましたね。(一三五)
お許しをねがって、もう一言そなたに申しましょうか。
わたくしの話が そなたと約束したことから外れたとしても、
そなたのためにならないとは思いません。
むかし黄金時代とその幸福なさまを
詩にうたったひとたちが 夢にみたのは
パルナッソスの山ではなかったかと思います。
しかし、ここには人間の根〔アダムとイヴ〕がおりましたし、
ここでは常春《とこはる》と、ありとある木の果《み》がありました。
それは だれもが ネッターレ〔天の甘露〕と申すものでございます」(一四四)
わたしはそのとき
わたしの二人の詩人たちをふり向いた。
そして、ふたりが笑みをふくんで この最後の言葉をきいているのを見て、
ふたたびわたしは目を、そのうつくしい淑女へうつした。(一四八)
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第二十九歌
小さい流れの両岸で、ダンテとマテルダ夫人は水をへだてて並んで歩いた。すると、稲妻のような光が林の中を駆けめぐるかと思うと、天上の妙音がきこえ、七つの金の樹木と見まがうものが近づいてくる。それは七基の燭台で、二十四人の長老がそれにつづく。そのあとから、四匹の霊獣グリフィンに輓《ひ》かれた華車《はなぐるま》が七彩の大気の幡《はた》をながして、しずしずとやって来る。その車の輪の両脇には天女がいて、絶えず撒かれる花の雲のなかで夢のように現われたり陰ったりする。雷鳴がとどろくと車はとまった。
そういいおえると、(一)
想いにもえる女のように、話をうけて
「罪をおおわるる者は福《さいわい》なり!」
と歌った。
そして、それぞれに太陽を見ようとし またのがれようとして
ひとりひとり森蔭を足どり軽くさまよう水の精〔ニンフ。マテルダ夫人のしとやかな歩みをニンフにたとえている〕のようだ。
その淑女が土手の上を歩いて 流れをさかのぼりはじめると、
わたしもそのひとと同じように
小刻《こきざ》みな足に合わせてついて行った。(九)
そのひととわたし〔の歩数〕が合わせて百歩と進まないうちに、
その両岸の土手はともに、
わたしを東へ行かせるように 向きを変えていた。
その径《みち》をまだそんなに遠くも歩かないのに、
その淑女はくるっとわたしにふり向いていった、
「そら、ご覧なさい。お聞きにもなって」
と、やにわに烈しい光が、
その深い森のあたりを八方に馳けめぐったので、
わたしはそれを稲妻かしら、といぶかった。(一八)
しかし、その光は出るかと思うとすぐ消えるが、
光はさらにかがやきを増して きらきら光りつづけた。
わたしは心のなかで「何だろう、これは」と叫んだのだった。
すると、こころを奪われるような楽の音が、
光芒にあかるむ大空にひびきわたった。
そこで、わたしはこころに、
エヴァの大それた振舞い〔蛇にいざなわれて禁断の果実を食べたこと〕にきびしい憤りを覚えた。
天も地もおん神にしたがっていたところで、
彼女はまだ無垢なひとりの女性になったばかりだったのに、(二七)
その面帛《おもぎぬ》〔服従または無智のヴェール〕の下にいるに堪えられなかったからだ。
エヴァがその面帛にとどまっていてくれさえしたら、
わたしはこのいいようのない悦楽《たのしみ》を
はやばやと もっと長く味わえただろう。
気もそぞろになって、はじめて味わうこの永遠のさまざまな楽しさのなかを
さらにそれにもまさる愉悦《よろこび》をもとめて歩いていたとき、
わたしたちの前で、燃えさかる炎のように
みどり濃い樹の下で 大気があかあかとかがやいて、
さっきの妙音が歌声となってひびいてきた。(三六)
ああ、浄くあらたかな〔詩歌の〕おとめ〔女神ムーサ〕よ、
みましらを愛すればこそ 寒さにも飢えにも不眠にも耐えられたわたしだ。
その強い動機が みましらにお返しをしきりにもとめさせているのだ。
いまこそ わたしにはエリエーネの山〔ギリシアのポイオティアの山で、詩の女神のいるところ〕も歌の泉になっているからに、
ウラニア〔詩の女神たちの一人で、天の仕事をつかさどる〕よ 思うだにむつかしいことを歌にするこのわたしに、
みましらの合唱の声で 力を貸したまえ。
わたしたちのいたところとそことの中間の
さほど遠くもないところに
金色にかがやく七本の木立かと見まごうものが感じられた。(四五)
しかし、遠くにあるので 錯覚をおこさせがちな
感覚をまどわすものが〔スコラ哲学の術語では共通対象。アリストテレスは感覚するものを共通対象と特殊対象とに区別した。特殊対象は一つの感官で感知できる特質、たとえば目による色とか耳による音などがそれで、共通対象は、一つ以上の感官で共通に感知される特質で、たとえば運動、休止、数、形、大きさなどである。ここでは枝燭台が黄金の木の枝に見えたり、その光が稲妻に見えたりするのは、距離が遠くて共通対象が感覚をあざむくからだ、ということをいおうとしている〕、 そのものの特質をわたしに見失わせないほどに、
例の七本の木立に近づいたとき、
理性にものを判別させる〔神の恩寵の〕力さながらに、
その金いろの木立が枝燭台だったことが明らかになった。
しかも、声がして ホザンナ〔神を讃美する言葉〕を歌っていたのである。
この〔七本の〕うつくしい祭具〔枝燭台のこと〕の上からは焔が立っていて、
澄みきった夜半の満月よりも明るかった。(五四)
わたしは心から感じ入ってウェルギリウス師をふりむくと、
師がわたしを見かえした目にも
わたしに劣らぬ驚きの色がうかんでいた〔キリスト教の奥儀は、理智の権化ともみえるウェルギリウスにも理解しかねるということ〕。
そこで、わたしは面《おもて》をその高い燭台の方へ向けた。
と、それは花嫁にも追い越されるほどの早さで
しずしずとわたしたちの方へうごいていた。
淑女〔マテルダ夫人〕が怒るようにしてわたしに叫んだ、
「なぜそんなに 光のもえる上の方ばかり見入ってるのです。
そのうしろから来るお方たちが見えないのですか」(六三)
そのとき、わたしは燭台にみちびかれて、
白衣をまとった人たちが それにつづくのをはるかに見た。
それはこの世にはたえてない神々しい純白なものだった。
左手には、水面が〔灯をうつして〕光っていた。
その水をのぞきこんだら、鏡のように
わたしの左半身がうつったにちがいない。
わたしが こちらの土手の、
ただ流れだけがわたしを隔てていたそこにいたとき、
もっとよく見ようと思って 足をとめた。(七二)
見ると、その炎はうしろの方へ
色のついた気流をながして さきへ進んでいたが、
それはまるで絵筆で刷《は》いたようだった。
大気には七色のすじが残っていて、
太陽がつくる弧〔虹〕とデロスの娘が帯にした
〔七色の〕いろどりにみな彩られていた。
そのながれる〔七色の〕幟《のぼり》はうしろに尾を引いていて、
わたしの目はとどかないが、感じでは
幟のはしとはしとは 十歩のへだたりがあった。(八一)
そのうつくしい空の下を、
いま話した二十四人の長老〔『黙示録』には、宝座の上に二十四人の長老が白衣をつけ頭に黄金の冠をつけていることが記されているが、二十四人の長老は旧約聖書を示しているのかもしれない〕たちが
ふたりずつ並んで ユリの花〔純潔を表象する〕を冠にかざして歩いてきた。
長老たちは歌っていた、「汝《なんじ》アダムの女《むすめ》の中にありて福《さいわい》なり。
汝の美もとこしえに福《さいわい》あらん」
わたしと対《むか》い合ってる岸の
花々やいきいきした草立ちが
その選ばれた人たちからとり残されたあとから、
大空で〔星の〕光が光にしたがって動くように、(九〇)
めいめいに青葉の冠〔希望の表象〕をつけた四頭の霊獣〔幻想的な動物で、頭と翼は鷲で、ほかの部分は獅子。翼にある目は、福音書の一切のものを洞察する力を意味する。これはキリストの表象であるが、このけものが四頭いるところから、それを新約の四つの福音書の象徴と見、翼にある無数の目を福音書が早く世に広まることの象徴だとする説もある〕が、
あとを追うようにして やって来た。
みな六枚の翼をつけていたが、
その羽根には目がいっぱいついていた。
その目はアルゴス〔百の目があった怪物〕が生きていたら こうもあろうかと思われるほど いきいきしていた。
読者よ、その姿かたちをかくために これ以上に
歌をひろげるわけにはいかないのだ。
このことでひろげられないほど
ほかのことに費やさねばならないからだ。(九九)
その代わりに、エゼキエルの書を読んでもらいたい。
それには、この霊獣が寒地から風と雲と火の玉をともなって
やって来たことを 見たように書いてあるからだ。
ここで見たありさまは その書でも読めるだろうが、
翼のことでは彼とわたしとは説がちがうが、
ヨハネとは意見が同じだ〔聖ヨハネは怪獣の翼の数を六枚としていて、ダンテと同意見〕。
その四頭の霊獣が囲むなかには、
車輪の二つついた華車《はなぐるま》〔教会の表象〕があって、
グリフィン〔さきの怪獣と同じようだが、翼は二枚。キリストの表象〕が頭でそれを曳いてすすんでいた。(一〇八)
グリフィンの二枚の翼は、
〔七色の気流の〕真中のと、三条ずつの左右の条《すじ》のあいだから、
高く突きでていたが、別にそれらの〔七彩の〕
すじを断ち切ったり みだしたりはしなかった。
〔その翼は〕目にも見えぬほど高くあがっていたし、
からだの鳥にあたるところは金色で、
そのほかの部分は白で 朱がまじっていた。
こんなに美しい華車でローマの市を湧かせたことは、
アフリカ将軍〔スキピオ〕でもアウグストゥス皇帝でも なかったにちがいない。
日の車〔太陽の火の車〕でさえ これにくらべると見劣りするくらいだからだ。(一一七)
その日の車のことだが、道をそれたので、
信心ぶかい地球の祈願をきいて、
大神《ゼウス》がそっと断《だん》を下して炎《も》やしたことがあった〔フェトンがその火の車をめぐらせたときのことで、地《テルラ》が火焔になやみ、その滅亡を免がれようとゼウス神に祈願をささげた、という故事〕。
右側の車輸のところから、
三人のおとめ〔キリスト教理の三徳、すなわち、愛(赤)、望(緑)、信(白)の表象〕が
輪になって舞うようにして歩いてきた。
そのひとりは 炎のなかにでもいれば 見分けられぬほど真赤だったし、
もうひとりは 肉も骨も緑玉《エメラルド》でできているかのようだったし、
三番目のひとは 天上から降ったばかりの雪かと思えるほどだった。(一二六)
そして、ときには白い天女〔白(信)が愛と望をみちびく場合〕が、ときには赤い天女〔赤(愛)が信と望をみちびく場合〕が拍子をとる風で、
ひとりが歌えば あとの二人はそれに合わせて歩みをはやめたり おくらしたりしていた。
左側の車輪では、
嚥脂《えんじ》いろに身づくろった四人の天女〔四大徳すなわち思慮、公義、剛気、節制の表象〕が、
そのうちの頭に目を三つつけた〔思慮の象徴。その三つの目で、過去、現在、未来を見るのだという〕ひとりの動きにつれて、
うかれ気味に歩いていた。
また、いま話した天女たちにつづいて
それぞれ身なりはちがうが 物腰のおなじい厳《おご》そかで
落ち着いたふたりの老人〔『使徒行伝』とパウロの書翰をかいたひとを示唆している〕が見えた。(一三五)
そのひとりは 自然がひどく愛した人間のためにつくった
あの偉大なヒポクラテスの
家業を継ぐもののようだった〔『使徒行伝』の作者だった医者のルカをあらわす〕が、
別のひとりは、それとはあべこべ〔ひとを死から守る医師とは反対に、ひとを殺す役をする軍人ということで、ここでは情熱的な宣教者の聖パウロを暗示している〕で、
切尖《きっさき》がするどく光る剣を手にするのが見えて、
流れのこちらにいるわたしをさえ ぞっとさせた。
それから、一行からおくれて、
眉宇《びう》のけわしい老人が四人〔新約中のヤコブ書、ペテロ書、ヨハネ書、ユダ書をさす〕と 粗末な身なりで
夢みるように ひとり〔黙示録のこと。新約聖書の最後にあって、しかももともと経外聖典の一つだから、「一人おくれて」といっている〕がおくれてとぼとぼやって来た。(一四四)
これらの七人のひとたちも 第一の群のひとびとのように
白い身づくろいではあったが、頭には
ユリの花の環はつけないで、
バラか何かの赤い花環〔純潔の花でなくて、愛の花〕だった。
だから すこし離れてみたら、彼らの
眉の上は あかあかと燃えさかる〔火〕とも見えたことだろう。
そうこうして、その華車が わたしの前にとまると、
雷鳴がとどろいた。すると、そのいかつい人たちは
もうさきへ進むことが禁じられてるようで、(一五三)
先頭に立った燭台ともども そこで足をとめてしまったのだった。(一五四)
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第三十歌
歌声があがり、花が雲のように撤かれると、華車《はなぐるま》の上へ王女とも見える凛々《りり》しい気品のあるベアトリーチェが起ちあがる。ダンテの身内には、すぎ去った愛の炎がはげしく燃えあがる。ウェルギリウスの名を呼んでかえり見ると、すでに彼の姿は見えなかった。ダンテが涙をながすと、ベアトリーチェは、きっとした態度で、ダンテをたしなめる。その言葉の強くきびしいのは、すでに神性をもった彼女の権威を示している。彼女はダンテが正道をふみはずした十年の行状を責めて容赦しない。
日の入りも 日の出も知らず、(一)
ましてや罪をかくす霧〔罪を犯した者には、この枝燭台も見えないので、霧にたとえている〕さえ知らぬ
第一天の七つの星〔燭台をさす〕は、
〔その〕もっとも低い星〔小熊座の星〕が
港へ帰る〔舟に〕舵をとらせて
めいめいに自分の務めをさとらせたように、
〔そこに〕とどまって 〔ひとに〕見あげさせたとき、
グリフォーネと燭台のあいだをさきに立って進んできた誠実なひとびと〔さきの二十四人の長老のこと〕は、
自分の平安〔キリスト教会〕をあおぐようにして 華車〔キリスト教会を表象するが、平和の象徴でもある〕に向きなおった。(九)
そして、そのひとりが 天から遣わされた者〔天使〕ででもあるのか、
「来ませよ 新婦 レバノンより」と、〔『雅歌』の句を引いて、ベアトリーチェを呼んでいる〕
声をはりあげて三度うたうと、ほかの者もそれにつづいた。
それから、おん神に恵まれた者たちが、
最後の〔審判の〕ラッパのひびくのを聞くと、
それぞれの墓壙《はかあな》からすばやく起ちあがって、とりもどした声〔死者はよみがえると声をとりもどす〕でハレルヤを歌うのだが、
そのさまもかくやとばかり、おん神の車の上には、
永遠のいのちをもつ僕《しもべ》〔天使〕や使者たちが、百あまり起ちあがった。(一八)
口をそろえて唄うのは、「福《さいわい》なるかな ここに来ます者」
それから頭上やまわりに花を撒《ま》いて、
「手にもして 遺《や》らんかな、ユリの花々!」〔『マタイ伝にある言葉で、天使たちがベアトリーチェの来たのをよろこんでいった言葉〕
わたしはすでに、東の空がバラ色になり、
西空が澄みきってうつくしく明けていくのを、
一日のはじまるなかで見ていた、
そして、太陽のおもてが、水気にやわらいで
かげがさして隠れるのを、
ながい間それを目で追っていたのだが、(二七)
まったくそのように、天使の手からのぼり
ふたたび花のなかへ舞いおちる
花の雲のなかから、
真白い面帛《おもぎぬ》のうえに橄欖《オリーブ》の枝を巻きつけ
緑いろの外衣の下はもえる焔の〔色の〕ように
身づくろいした淑女《あてびと》が〔純白は信頼をあらわし、オリーブは智恵と平和の象徴、緑いろは希望、焔はつよい愛〕
わたしの前に現われた。
すると、たえて久しくそのひとの前で
気をうしない ふるえ くじけたことのなかったわたしのこころは、(三六)
目がそれと知らせるのも待たずに、
そのひとから出る不思議な力に、すぎ去った愛がつよくはたらいてくるのを感じた。
わたしがまだ幼さからぬけださぬころ〔ダンテがベアトリーチェをはじめて見た九歳ころ〕、
はやくもわたしの心を射ぬいた気だかい力が
いままたわたしの目をつらぬくとすぐに、
おそれにつけ 悲しみにつけ、幼児が母親にかけよるように、
すっかり頼りきって 左手〔左手に見えるのはウェルギリウス〕をふりかえり、
「震えないわたしの血なぞ ひとしずくだってありません。
むかしの想いにもえた傷痕《きずあと》を思いしらされます」
と、ウェルギリウスにいおうとしたが、(四五)
そのウェルギリウス先生、
父親のようにいたわっていただいた
あのウェルギリウス先生、
わたしがいつも救いをもとめて身をゆだねてきた師のきみは、
わたしから姿を消しておられた。
〔そこの〕太古の母〔イヴ〕の〔罪〕ゆえにうしなった〔イヴがすっかり失ったものは地上の楽園だ、ということ〕ものは、
露にきよめられたわたしの頬が
涙にぬれて 悲しみのかげのさすのを
とどめるすべもなかったのだろう。(五四)
「ダンテ。ウェルギリウスが立ち去ったからとて、
なぜまた泣くのです。まだ泣いてはなりませぬ、
お前はほかの剣〔ベアトリーチェのたしなめる言葉の鋭さを剣にたとえていう〕になお泣かねばならぬ身の上です」
まるで士気を鼓舞するために
ほかの船に乗りうつって
舳《へさき》に櫨《とも》に海員を見まわる提督のように、
その華車の左はしの上を、
ここで名前を出すはめになった
わたしの名を呼ぶ声にふり向くと、(六三)
さきに天使の撒華《さんげ》のなかから
あらわれた気だかい淑女《あてびと》が、
せせらぎの向こうから わたしの方へ目をそそいでいるのが見えた。
ミネルヴァの葉〔オリーヴの葉〕をめぐらした面帛《おもぎぬ》が
すっぽりその頭から垂れていたので、
姿はさだかには見えなかったが、
情のたかぶるのを抑えて いきいきと話しだすひとのように、
凛《りん》とした気配をなおもしぐさにとどめて
女王のように語をつづけた。(七二)
「よく見よ、われこそ われこそはベアトリーチェぞ
お前はどうしてこの山に入ることができたのです。
ここは祝福された人の来るところだとは知らないのですか」〔お前は、神に祝福された者ばかりが来るところだということを知らなかったのか、との意。彼女はダンテが入るにふさわしくないというのではなくて、ダンテに自分の罪を自覚させようとした〕
わたしは目をきよらかな泉〔レテの河のこと〕におとした。
しかし、そこにうつった自分の姿に、わたしは目を草間にそらした。
羞《はじ》らいのいろが わたしの面におもくうかんでいたのだ。
子供は母親をきびしく思うものだが、
そのひともわたしにはそのように思えた、
きびしい慈愛の情は苦く感じられるものだからだ。(八一)
そのひとが口をつぐむと、天使たちは、
とたんに歌いだした、「主よ、わが望みは汝のうちにあり」と。しかし、
「わが足」からさきは歌わなかった。
イタリアの背〔アペニーニ山脈〕となる梁《うつばり》にふり積もった雪は、
スキアヴォニア颪《おろし》〔対岸のユーゴスラヴィアのダルマツィア地方から吹いてくる東北風〕に吹かれ
固められて 凍りつくが、
やがて物の影すらない土地〔砂漠〕の風が吹くと、
火にとける蝋燭さながらに
しみこんで 雪がとけるように、(九〇)
わたしもその雪のように、
悠久の天をめぐるその調べに合わせて 天使たちが歌いだす前に
わたしは涙も出さず 吐息もつかずにいた。
しかし、わたしをいたわってくれる温かい讃歌をきき、
さらに「マドンナよ、かの者になぜそうつらくなさるのですか」という
言葉が聞こえてくると、
わたしのこころに張りつめていた氷がとけた。
〔その氷は〕呼吸となり水となって、
苦しみをともなって口や目や胸からあふれ出ていった。(九九)
淑女はさきにいった車の左はしに立って 動かなかったが、
慈悲ぶかい天使たちをふりかえって、
やがて つぎのように 言葉をかけた。
「お前たちは永遠にきよらかな光〔至高天の光〕のなかでめざめているのだから、
夜ふけでも 眠っているあいだでも ときがめぐるあいだに起こることが
お前たちの目をのがれることはありません。
あたくしの返事は むしろあの川の向こうで泣いている者に〔レテの河のむこうのダンテ〕、
あたくしのいう 悩みは罪に応じて起こることを、
わからせようと おもんぱかってのことです。(一〇八)
ひとは、それにともなう星々の力で
〔善悪ともに〕その目的をただすものですが〔人間はそれぞれの生まれた年月にしたがって、自分の運命をつかさどる星をもっているということ〕、
それは、天体の影響ばかりでなくて、
あたくしたちの目がとどかないほど
あんなにも高く 熱気が雨とふりそそいでいる
おん神のかぎりない恩寵《がらさ》のおかげで、
あの者もああして早くから天にうけた力をもっていましたし、
そのよい素質をすばらしい証《あかし》として
身につけていたはずでしたのに、(一一七)
土地は種子が悪く 耕さずにおくと、
地力がつよければつよいほど
地味がおちて ますます荒れるものです。
何年かのあいだ、あたくしはあの者を見てたすけました。
うら若いおとめの目を見せて、あの者を正しい道にみちびいていたのです。
あたくしが第二の齢《よわい》の閾《しきい》〔人生を四期に分けて、第一期は発育の時代で二十五歳で終り、第二期は壮年時代で二十五歳から四十五歳まで、第三期は老年時代で四十五歳から七十歳まで、それ以後は第四期の老衰時代である。第二の齢の閾というのは、第一期と第二期の移り目というのだが、事実、ベアトリーチェは二十五歳で死んでいる〕に立って
世を変えると間もなく、
あの者はあたくしから離れて
他のもの〔『新生』の三五〜三九に記されているダンテの第二の恋人をさす〕に身をゆだねたのです。(一二六)
あたくしが肉をすてて霊にのぼり
美と徳に深まりましたのに、
あの者はもうあたくしを愛しもよろこびもしなかったのです。
そして何ひとつ約束を果たしもしない
うたかたの善の思いを追って
その歩みを真実でない道へ向かわせたのです。
あたくしはまたおん神のおさとし〔神の黙示〕によって
夢うつつのなかで あの者を呼びもどす手段《てだて》をしましたが、
あの者はそれをすこしも気にかけなかったのです。(一三五)
あの者は深く墜ちこんでいましたので、
どんな救いの言葉も
寂滅《ほろび》の民〔のさま〕を見せるほかは、
もはや手の尽くしようもなかったのです。
そこで、あたくしは死人の門〔地獄の門〕をたずねて、
あの者をここまで導いてきた者に
涙ながらに あたくしの願いを申したのでした。
もしレテの川を渡って その罪に苦しんで泣かない者が
その水を味わうことでもあれば〔レテの川の水を飲めば、罪を忘れるのだから、罪の自覚もしないで忘れてしまえば、神の秩序をみだすことになるという意〕、(一四四)
おん神の尊い掟がやぶられることですから」(一四五)
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第三十一歌
ベアトリーチェの叱責はきびしく、ダンテはやっとの思いで懺悔しはじめる。しかし、彼女の言葉はさらにきびしくて、ダンテは堪えきれずに卒倒する。気を失っているあいだに、ダンテはレテの川につかっていたらしく、さきに現われた淑女のマテルダ夫人が、水の中で彼を抱いて水につける。その水を飲んで罪をきよめたダンテを、彼女はベアトリーチェのいる華車の前へ連れてゆく。そこには天女たちがいて、彼をグリフィンの前に伴っていく。さらに三人の天女が出てきて、ダンテにほほえみを与えるよう、ベアトリーチェに、歌で頼んでくれる。
「ああ、神聖な流れ〔レテの川〕の彼方に立つ者よ」(一)
刃の切っ先かとも感じられたほど辛辣に、
そのお方はじかにわたしにふり向くと、
間もおかずに 言葉をつづけた、
「あたくしの責めたことは真実ですか。さあいいなさい。
こんなにたしなめられているのですよ。
お前が告白するようになるのも当然です」
わたしの思いはひどくみだれていたので、
声は出したが、口をうごかす前にきえてしまっていた。(九)
そのお方は、すこし間をおいてからいった、
「何を考えているのです。
あたくしに答えなさい。お前の悲しい思い出は
まだこのながれで消えてはいないのですから」
惑《まど》いと怖れとが いっしょにまじって、
「ええ」と ひとこと わたしは口から押しだしたが、
それは目で口のうごきを見ないと わからなかったくらいだった。
石弩《いしゆみ》を引くとき、それをしぼりすぎると、
弓も弦《つる》も切れて(一八)
矢が的《まと》にあたる力が弱まるように、
わたしもその重荷にひしがれて、
涙と溜息がほとばしり出たが、
声は口のあたりできえてしまった。
すると、そのお方はわたしにいった、
「そのほかにはひとの望むものが何もない
天上の善を愛するようにお前を導いてきた
あたくしの願いのなかに、どんな濠《ほり》がお前をさえぎり、
どんな鎖をお前が見つけて、さきへ進む望みをこんなにも失わせたのです。(二七)
またどんな気楽さと利益とが
ほかの善のおもてに示されていたのです。
それがかえってお前を往来させるようにしたのですか」
苦しい吐息をひとつついてから、
声はやっと それに答えたが、
脣は返事をする格好をしただけだった。
わたしは泣き声でいった、「あなたのお顔がお隠れになってしまうと、
この世のさまざまの善が、うたかたの快楽《けらく》に
すぐさま わたしの足を向けさせたのです」(三六)
そのお方はさらに、「いまお前がいったことは、
だまっていようと 否《いな》もうと、お前の罪は隠されはしませぬ。
おん神がご覧になって、お裁きになっておられるからです。
しかし、罪の懺悔が自分の頬から
涙となって苦しんで出るときには、天上の法廷では、
〔丸砥石《まるといし》の〕輪が刃とは逆に廻るもの〔神の追求が鈍くなるという意〕です。
それでも、いまお前は自分の過ちを恥じているから、
いつかシレーヌの声〔俗世の快楽へいざなう声〕をきくことがあっても、
もっと〔こころが〕強くなるように、(四五)
悲しみの種《もと》をうち捨てて 耳をかたむけるがいい。
あたくしのからだが埋められたことが、
お前を別の道〔正しい方向のこと〕へ行かせるべきだったということを。
お前にとっては、自然でも芸術でも、あたくしがそのなかに
とじこめられていた美しいからだほど、お前をよろこばせたものはなかったのです。
しかも、それはいまでは地に散らばっているのです。
あたくしが身まかったからとて、
そんなに深いよろこびが そんなにはかなく消えてしまうものなら、
この世のどこへ お前は惹かれていくべきでしょう。(五四)
お前はたしかに、かりそめのものから矢をうけたとき、
もはやこの世のものでなかったあたくしのあとから、
天へ昇るべきだったでしょう。
お前は翼を地に垂れて、若いおとめや
たまゆらの慣わしのむなしいものから、
さらに矢を射られるべきではなかったでしょう。
若い小鳥こそ 二の矢三の矢を気にかけますが、
翼のそろったものの前には 網を張り
弓をひくさえ 無駄なことです」(六三)
わたしは、すっかり羞《はずか》しくなって言葉もなく、
地面を見て〔叱責を〕ききながら突っ立って、
自分のあやまちをさとって悔やんでいる少年のように、
まさしくそんな格好で立っていた。すると、そのお方はいった、
「それを聞いて お前はこころを痛めていますか。
ひげをあげなさい。〔聞くだけでなく〕見たらもっとつらいでしょう」
頑丈なトルコ樫の木が、アルプス颪《おろし》や
イアルバの地〔ヤルバス王の始めた国、すなわちアフリカのリビア。そこから吹く風はシロッコという暑い南風〕から吹いてくる風に根こそぎにされて、
抵抗するといっても、(七二)
そのお方の言葉ではあったが、顔をあげないほどではなかった。
わたしはそのお方の言葉の針が心にとおるほどわかった。
顔をあげると、わたしの目には、
あの初めにつくられたもの〔天使〕たちが
花を撒く手をやすめているのが見えた。
そして、わたしの目はまだいくらかぼんやりしていたが、
あの二つの気質〔人と神の〕を
一つのからだにもっているけもの〔グリフォーネ〕の上の方で、
ベアトリーチェさまがふり向いているのを見た。(八一)
たとえ彼女が面帛につつまれていても、
向こう岸にわたしから離れているにしても、
どんな女のひとにもまさっていた彼女の生前のうつくしさには
いちだんと磨きがかかっているように思われた。
わたしはそのとき、後悔の蕁草《いらくさ》にひどく刺されたので、
わたしを愛に深くとらえたものがみな さらにひどく厭《いと》わしいものに思われた。
そういう心を噛むしぐさの思いにかまれて
わたしは地に倒れたが、そのさまは
わたしにそうさせたお方がご存じのことだ。(九〇)
しばらくして、我にかえると、
さきほど一人きりでわたしの前に現われた淑女《あてびと》〔マテルダ夫人〕が、
わたしをのぞきこんでいた。そしていう、
「つかまりなさい。あたくしにおつかまり!」
その瞬間、わたしは喉のところまで流れにつかっていたが、
彼女はわたしを引っ張ると、かるがると水の上を梭《ひ》のように歩いていった。
わたしがおん神に祝福された岸に近づくと、
「汝われに灑《そそ》ぎたまえ」〔『詩篇』に、「なんじヒソプをもて我をきよめたまえ。さらば我浄まらん。我をあらいたまえ、さらば、われ雪よりも白からん……」の句がある。これを、神父が改悔者に霊水をそそぐときに唱えるという〕という いともやさしい歌声をきいた。
その声は思いだすことも 書きしるすこともできないほどに たおやかだった。(九九)
そのあでやかな淑女はもろ手をひろげて、
わたしの頭を抱くと 水にひたした。
わたしは思わず水を飲んだ。飲まないわけにはいかなかったのだ。
それから、そのひとはわたしを濡れたままで
四人の天女の舞っているなかへ連れていった。
すると、めいめいに腕でわたしをかばってくれた。
「わたしはここの水の精、天上の星でございます。
ベアトリーチェさまがお降りになるその前から
侍女《はしため》となる運命《さだめ》のわたしら、おん前におともをせよとのお達しです。(一〇八)
こころまでお見とおしのお三方〔キリスト教理の三つの徳を象徴する三人の淑女で、ひとはさきにあげた四人の天女(四つの徳)の手びきで神のこころを体得できるが、神の家に入るには、さらにこの三人の天女に力をかしてもらわねばならない〕の
おん目のたのしい光のなかにおともせよとて、
あなたのお目を鋭《と》くなされようとて」〔この三人の淑女は、ベアトリーチェの目から出る強いよろこびを見られるように、ダンテの目を強くせよといわれていた、とのこと〕
そんなことを、歌のようにうたった。それから、
ベアトリーチェがこちらを向いて立っているグリフォーネの胸もとまで
いっしょに連れていくと いいはじめた。
「愛がいつかあなたから矢をお奪いになられた
緑玉《エメラルド》の〔君の〕おん前へ おともいたしましたからには、
一瞥をだにお惜しみあそばすな」(一一七)
炎よりもつよく燃えるかずかずの願いに灼かれて、
わたしは目を、グリフォーネにばかりそそいでいる
かがやくようなそのお方の両眼に、じっとまなこをこらした。
鏡の中の太陽〔太陽はグリフォーネで、鏡はベアトリーチェ〕ででもなければ、その〔神と人との〕二重の性格をもったけものは、
そのお方の目のなかで、あるときは神の、あるときは人のようにふるまって〔あるときは獅子の形を、あるときは鷲の形をあらわす。それは神が人間の姿をあらわしたり、神の姿をあらわしたりするのに似ている、という意〕、
光を放ちはしなかっただろう。
読者よ、わたしが驚かずにいられたかどうか考えてみてくれ。
そのけものは、そのものとしてはじっとして見えるが、
その面影はすがたをいつも変えていたのだ。(一二六)
わたしの魂は、うれしさに我を忘れて、
この〔聖女とけものという〕食べものにたんのうしたが、
それは食べあきると また渇きをおぼえるような味わいだった。
彼女らは物腰からみて おのずから身分のたっとさが感じられた〔四人の淑女より位のたかい淑女らしく神々しい徳があらわれている、の意〕が、
ほかの三人は天使たちの舞歌にあわせて
舞いながら進んでいった。
「ベアトリーチェさま、きよらかなお目を
お向けください あの方に。お会いするとて
はるばると長の旅路をお越しになったお方ですよ。(一三五)
われらの願いをおいれなさって
お口のとばりをおとりください。あなたさまの
かくれたほほえみをお見せください このお方に」
ああ、とこしえのいきいきとかがやく光よ、
パルナッソスの山蔭で蒼じろくなって
その泉の水を飲んだひとだといっても、
天があなたを包んでとけあっているところで、
あなたが面帛をとって ありのままの姿をあらわすとき、
そこにあらわれた姿を写そうとして(一四四)
こころの曇るのを どうして感じないことがあるだろう。(一四五)
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第三十二歌
ダンテは十年ぶりで、ベアトリーチェのほほえみを見る。まぶしくて目がくらむが、目はだんだん慣れてくる。彼女の乗った車が向きを変えてうごきだす。ダンテはスタティウスやマテルダ夫人とそのあとにつづく。その地上楽園には、枝も葉ももぎとられた一本の大樹があって、むかしイヴが罪をつくった樹だという。そこで、神の鷲が舞いおりて華車に一撃を加えると車は変形したり、車の下に穴が開いて竜があらわれたり、鬼が出たりして幻想的な事件が起こる。教会や法王庁の腐敗と堕落が寓意となって表わされている。
わたしの目は、十年ものあいだの渇き〔ベアトリーチェを見ようとあこがれた十年〕をいやそうと、(一)
じっと食い入っていたので、
ほかの感覚はすっかりその力がなくなっていた。
その〔ひとの〕右にも左にも、わたしの目には見ても見えぬ壁ができていて、
むかしの〔愛の〕網にとらえられて、
目はその神々しいほほえみに惹かれていた。
すると、「あんまり見つめないで!」
という天女たちの声がきこえたので、
わたしはやむなく 左の方へ顔を向けないわけにはいかなかった。(九)
ところが、日光が入ったばかりの目が、物を見るときに目がくらむように、
わたしはすこし物が見えなくなったようだった。
しかし、そのあとで、わたしは視力をいくらかとりもどした。
わたしが「いくらか」というのは、
〔彼女が〕ひどく視力を奪ったのにくらべてのことだ。
わたしにはおん神の恵みにかがやいた
あの〔長老の〕一団が右手に向かっているのが見えた。
彼らは太陽と七つの枝燭台に顔を照らして帰っていったのだ。(一八)
軍隊が撤退するときには
楯の下で方向を変えるものだが、
全軍がうごきだす前に軍旗がまず方向を示す。
そのように、このうごきはじめていた
天国の二十四人の長老たちは、車の轅《ながえ》が曲がる前に
みなわたしたちの前を通りすぎていった。
そこで、天女たちも車輸のところへ戻っていたし、
グリフォーネも翼ひとつ動かさずに、
おん神に恵まれた荷〔車〕をうごかしていた。(二七)
さっきわたしの手をひいて川を渉《わた》ったうつくしい淑女〔マテルダ夫人〕と
スタティウスとわたしの三人は、
轍がつけた〔地面の〕小さい輪をたどってついていった。
こうして、わたしたちは、蛇のいうことを真にうけた女〔イヴ〕の罪で
すかすかしている高い林に分け入って、
天使のうたう歌の調べに歩みを合わせていた。
三本の矢が射られるほどの距離だったか、
わたしがそこへうつると、
ベアトリーチェが車から降りてきた。(三六)
と、みんなが「アダモ」と責める声が聞こえた。
そして、枝という枝から花も葉ももぎとられた一本の樹〔『創世記』の善悪を判別する樹。神はこの樹を地上の楽園に生えさせて、その果実をとることを禁じた〕をとり囲んだ。
その樹のいただきは、
さきにゆくほど葉がひろがっていて、
その高さといったら、密林のなかのインド人でも
舌を巻くほどの高さだった。
「グリフォンよ、お前はおん神に嘉《よみ》されているぞ。
お前は口に甘いこの樹を嘴《くちばし》でついばみもしないものな。
これをついばむ者はあとで腹が痛むのだもの」(四五)
と、そう、そのがっしりした大樹のまわりで長老たちが叫んだ。
すると、その〔人と神との〕二つの性格をもったこのけものは、
「正しい道の種《たね》は、こうして保たれるのです」〔『マタイ伝』にあるキリストの言葉で、服従はすべての正義の根源だとの意〕といった。
そして、曳いてきた轅《ながえ》をふり返って
枝も葉もない幹の根もとに引きよせると、
轅と幹とを小枝でむすびつけた。
すると、その樹はふくれだしてきて、大きな光〔太陽〕が
天の双魚座《うおざ》の星々のうしろでかがやく光〔白羊宮の星〕とまざり合って、(五四)
太陽がその駿馬をほかの星につなぐ前に、
バラよりはうすく
スミレよりは濃く色に出て、
はじめあんなにすかすかしていた枝々を
いきいきと生きかえらせていた。
そのとき人たちの歌った
この世のものとも思えぬ讃歌を
わたしは聞き分けることはなかったし、
それをすっかり聞きおえることもできなかった。(六三)
もしわたしが、シュリンクスを語るのをきいて、
生命をかけて見張りとおしたあの非情な
〔アルゴスの〕目がまどろんだことを書けるのなら、
〔アルゴスは百の目をもって、不眠不休で見張って、近づくものを殺した。女神ヘラはゼウスの愛人イノを見張らせていたので、ゼウスはニンフのシリンクスに面白い話をさせて、アルゴスが眠ったところをヘルメスに斬らせた。そのようにダンテのうつつの間に起こったことを誰か書けるのなら、という意〕
手本を見て絵をかく絵師さながらに
わたしは眠りこけたことを書くだろうが、
だれか描きたいひとはその夢の中のことをうまく描くだろう。
だが、わたしは自分が目ざめたときのことをいうことはさておいて
わたしの眠りのとばりを引き裂いたきらめきのことと
「起きなさい、何をなさっているのです」と〔淑女に〕呼ばれたことを申しましょう。(七二)
それはちょうど、天使たちが林檎〔キリストのこと〕の小さい花を見て、
その果《み》〔キリストの栄え〕を見たいと熱望して、
それがやがて天上でも永遠の祭りになったのだが、
ぺトロとヨハネとイアコポは召されて
〔眠りに〕負け、もっと大きな眠り〔死〕を
そのひとの言葉でやぶられて我にかえったことがあったように、
そのともがらから
モーゼやエリアなどがいなくなり、
主の衣もお変わりになったのを見たというが〔イエズスの衣は雪のように白くなり、その顔は太陽のように輝いたと、福音書には記してある〕、(八一)
わたしもそのようにして我にかえった。と、だいぶ前に、
流れにそってわたしを導いてくれたあの情《なさけ》ぶかいひと〔マテルダ夫人〕が、
わたしをのぞきこんでいるのが見えた。
わたしはすっかりとまどって、「ベアトリーチェさまはどこですか」といった。
すると、そのひとは、「ご覧なさい。あのお方はあすこの繁みの下、
新緑の根もと〔ローマ帝国の象徴〕に坐っておいでですわ。
あのお方を囲む〔七人の天女の〕方々をご覧なさい。
ほかの方たちはグリフォーネのあとを追って、
いみじい讃歌をうたって いま昇天しておられます」(九〇)
そのひとはまだいろんなことをいったにちがいないが、わたしにはおぼえがない。
わたしの目は、あのもう一人の目につく淑女〔ベアトリーチェ〕のすがたから
離れなかったからだ。
その淑女は、あの二つの性格をもったけものにつながってると見えた車が、
そこに遺されたのを見張りでもするように、
ただひとりで 土の上にじかに坐っていた。
七人の水の精たちは 車をぐるっと取り巻いて、
手に手に燭台をかかげていたが、
その灯は北風にも南風にも吹き消されることはなかった。(九九)
「しばらくの間 お前はこの森〔現在いる森、すなわち地上楽園の森で暮らすことを意味している〕の人になるのですよ。
そして、あたくしといっしょに、
末ながくキリストをローマ人とするローマ〔ここでいう「ローマ」は天国の意味。法王の座のあるローマに対立させて真のキリストの座としてのローマ、すなわち天国をさしている〕の都の民になるのですよ。
ですから、けがれて生きるこの世の益となるため、
目をあの車にすえて 世に立ち帰ったとき 見たことを書くのですよ」
そうベアトリーチェはいった。
わたしは彼女がいいつけるその足もとへ
すべてを捧げようとして
目とこころを彼女の望むものへ向けた。(一〇八)
遠い天涯に 雨がひどく降るときの、
雲が凝《こ》って稲妻となるものすごい迅さでも、
おん神の鳥〔鷲〕が、樹皮を裂いて、
花も葉もないその裸木に舞いおりるのを見たのには
遠くおよばなかった。
その鳥は、力をしぼって華車に一撃を加えた〔華車は教会の象徴だから、これはネロやディオクレティアヌスなどのローマ皇帝のローマ教会への迫害をいっている〕。
車は嵐のなかの舟のように、
右に左に、大波に押されて傾くようだった。(一一七)
と思うと、すべての善い食べもの〔正しい教義〕に
飢えてるとみえる牝狐〔異端者〕が、
この華車の厨房へまぎれこむのも見た。
しかし、わたしの淑女が そのけがらわしい罪を叱りつけると、
肉のこけた骨と皮の身にできるかぎりの
精いっぱいの早さで逃げていった。
すると、さっき飛んできた方から
鷲がまた車の櫃《ひつ》のなかへ舞いおりてきて、
自分の羽毛をいっぱい散らして〔ローマ皇帝が世俗的な富を教会に捧げものとしたことの意〕いったのも見た。(一二六)
すると、嘆きかなしむこころから出るとおぼしい声が、
天上から出てきて、こういった。
「おお、わが舟〔教会〕よ。などて その荷〔寄進〕のけがれたる!」
ついで、車輸と車輪のあいだの地面に 口がぽっかり開いたようだった。
そこから一匹の竜が〔竜は『黙示録』でも悪魔になっている。ここでもあまりいい意味では使っていない〕出たとみると、
尾が車にからみついた。
そして、〔刺しこんだ〕針を抜く蜂のように、
竜は邪悪な尾をたぐり寄せると、
車の底の一部を引きちぎって ゆっくり立ち去った。(一三五)
あとに残った部分は
芝草の生えしげった地面のように、
おそらく健全な善意の捧げものかと思われる鷲の羽毛でぎっしりおおわれていた。
車輪二つも轅《ながえ》も同じく、
口をあけて溜息をつく間もあらばこそ、
すっかり羽毛におおわれてしまった〔教会はすっかり堕落してしまった〕。
こうして 神聖な造りものの形が変わると、
あちらこちらから頭〔これは唐突でよくわからない〕が出てきた。
轅に三つ、四隅から一つずつという風だ。(一四四)
三つの頭には牡牛のように角〔神と人間に対する罪だから角は二本だという〕が生えていたが、
四隅の首のひたいには角が一本だけ〔人間だけの罪だから一本の角だという〕生えていて、
こんな異形なものを わたしは見たことがなかった。
ところが、このこわれた車の上に、
高山の砦のようにでんと坐って、ひとりのだらけた遊女〔ボニファキウス八世とクレメンス五世による法王庁の腐敗をほのめかしたもの、といわれる〕が
あつかましく しきりにあたりへ目くばせしているのが見えた。
その女をとられまいためか、
その脇に巨人〔フランスの王、とくにフィリップ四世のことだという〕がひとり見張っているのが見えた。
巨人と女とは ときおり唇をつけ合っていた〔フィリップ四世と法王とが、いんぎんを通じていたというのである〕。(一五三)
しかし、その女が 物ほしげにみだらな目でわたしの方へふり返ると、
この荒っぽい情夫は、頭から足のさきまで
鞭で女をしたたか打ちのめした〔フランス王がボニファキウス八世を虐待したということ〕。
そうこうしているうち、巨人はねたみがつのって怒りもたけだけしくなり、
怪物〔に変形した車〕を樹から離して、森の奥ふかく引きずりこむと〔フィリップ四世の圧迫でクレメンス五世が、法王庁をフランスのアヴィニョンへ移したことをいっているという〕、
その林だけが、わたしには楯になって、
このきたない女も奇妙なけもの〔怪物となった華車、すなわち教会〕も、もうすがたが見えなくなってしまった。(一六〇)
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第三十三歌
「異邦の人は来ませり」と天女たちが歌いおえると、ベアトリーチェは、マテルダ夫人、天女たち、スタティウス、ダンテをともなって歩きはじめる。彼女はダンテとならんで歩いて、「兄弟」と呼びかけて、いろんな予言をして歩く。智と信仰の関係について、かなり哲学的なやりとりがある。やがて泉に着くが、そこからは、悪を忘れさすレテの川と善を思いだすエウノエ川がながれだしている。マテルダ夫人はダンテをその水につけると、ダンテはその川波から、新緑の若木のようないきいきした姿になって出てくる。時は、復活祭の水曜日の正午ころである。
「おん神よ、異邦《とつくに》のひとは来ませり」(一)
天女が 三人また四人と
涙ぐんでうつくしい聖歌をうたいつぎはじめ
ベアトリーチェは そこでうたわれる歌を
悩ましげに憐むように聞いていたが、
〔そのさまは〕十字架のほとりのマリアさまにもおとらぬほど変わっていた。
しかし、天女たちが歌いおえて、彼女にまわると、
すっくと立ちあがって、
火のようなあからみを頬にさして応《こた》えた、(九)
「さてしばし そなたらはわれを見じ、
いとしき姉妹《はらから》よ かくてまた
しばしがあとに われを見む」
それから ベアトリーチェは手前にその七人の天女をおき、
その背後に しぐさだけで、
わたしと夫人と、わたしから離れていた賢者〔スタティウス〕を並ばせた。
このかたちで めいめいに歩きだしたが、
地面を十歩ふむかふまないかに、
そのひとの目とわたしの目とが行きあたると、(一八)
そのひとはおだやかな面《かお》つきで、わたしにいった、
「もっといそぎなさい。
あたくしの申すことがわかるように もっとそばへお寄りなさい」
わたしはいわれるままに、そのひとと並んでいた。すると、そのひとはいった、
「兄弟、あたくしと歩いているいま、
なぜ思い切ってたずねようとなさらないのですか」
ひとはひどく身分のたかい人の前に出ると、
いいたいことが山とあっても、
声が歯のあいだからはっきり出ないものだが、(二七)
わたしもそれで、ぼそぼそふくみ声でいいはじめた、
「マドンナ、わたしがもとめているものは、
あなたさまがご存じでいらっしゃいます。
それに、もとめにふさわしいことも」
すると、彼女はわたしに、「これからはもう
そなたは はばかったり羞《はずか》しがったりすることはおやめなさい。
そんなに夢みるひとのように物をいうことも一切。
おわかりでしょう。竜がこわした器《うつわ》〔皇帝に迫害された教会〕は昔はあったが、いまはないのです。
その罪を犯した者は、おん神の復讐がスッペも怖れないことを信じているのです。(三六)
〔スッペとはスープまたは粥のこと。昔ギリシアでは、人を殺した者が殺した日から九日間、被害者の墓のそばで、ブドウ酒をまぜた粥またはスープを食べると、被害者の近親は、加害者に復讐できなくなっていたので、被害者の近親はその墓を守る風習があった。そこでダンテは、神の復讐は、そんなスッペなんか問題にならないで、必ず罰するのだといっている〕
羽毛を車にのこして異形なものにし
ついで餌食にした鷲〔ローマ皇帝のこと〕は
いつまでも世嗣ぎがないわけはないでしょう。
あたくしの目には〔未来が〕はっきり見えますから申しますが、
おん神からお遣わしになる
五百十五という者〔この謎めいた言い方については、ダンテ学者によっていろいろの憶測がある〕が、
盗みをはたらいたあの女〔さきの車に現われた遊女で、ベアトリーチェのいた座を占めたので「盗み」といった。しかし実際には教会で専権をふるったボニファキウス八世とクレメンス五世とに代表される当時の法王の意〕や それと通じた例の巨人を殺《あや》めるでしょう。
星々が あらゆる攻撃や妨げを乗りこえて、
時あって あたくしたちに近づくときのことです。(四五)
あたくしの話し方は、スフィンクスやテミス〔ウラノスとゲーとのあいだの子で、正義の女神。その神託は難解だったという〕のようで
あいまいかもしれませんが、そういう話し方は、
知性をまどわすので そなたにはわかりにくいかもしれません。
しかし、事実がすぐに、
羊や穀物の損失を出さなくて〔そのテミスは復讐のために野獣を放ってテーバイの人を苦しめて、羊や穀物に被害を与えたが、ダンテはそんな損害は与えないだろうとの意〕、
このむつかしい謎を解くナイアデス〔ナイアスのこと。河や水の精〕となるでしょう。
そなたはあたくしが話したことを心にとめて、
それを 死にいそいでいるこの世の
生きている者たちに伝えなさい。(五四)
またそなたが書きしるすことでもあれば、そのことに心して、
ここで二度までも〔最初はアダムに、二度目は鷲に〕 むしりとられたこの樹のことを
そなたの見たとおり あますことなく書きなさい。
あの樹を盗み、あの樹を引き裂く者はだれであっても、
けがらわしい行ないでおん神をけがす者です。
おん神はあの樹をご自分だけのために 聖なるものとしておつくりになったからです。
あの樹〔の果〕を噛んだために、
第一の魂は 五千年の長い刑罰と望みのなかで送って、
その咎《とが》をみずから負う方を待ちこがれていたのです〔禁断の果実をたべた人間の祖のアダムは、十字架にかかって人祖の罪をあがなったキリストの地獄に降りてくるのを 千年も待っていたという意〕(六三)
あの樹があんなに高くそびえ、
あんなに梢の張りだしているのを
何かの奇妙な理由からと考える〔この樹が円錐形をさかさまにしたような格好になってることに象徴する意味をさとるべきだ、ということ〕ようなら、
そなたのこころはまだ眠っているのですよ。
そなたのおろかな考えが、そなたのこころのまわりでエルサの水〔アルノ川の支流。その水には石灰石がとけこんでいて、ものを化石にするという〕とならず、
そなたのよろこびが桑の実を染めたピュラムスになった〔ピュラムスの血が桑の実を染めたように、お前の智恵がこんな歓楽に染まらないなら、との意〕のでなければ、
〔この樹の〕いろいろのさまを見ただけでも
あの樹の道徳的な意味のなかに、
戒律として示されたおん神の正義をさとるはずです。(七二)
しかし、あたくしの見るところでは、
そなたの石でできた知性は、石となり 色がついて、
あたくしの言葉の光に目がくらんでいるようですね。
そなたに望むことは、よしんばそなたがそれを書き綴らないとしても せめて心に描いて、
ここからそれを持って帰ることです。
それは、巡礼が棕梠《しゅろ》の葉を巻いた杖〔聖地エルサレムに参拝した巡礼をバルミエーリというが、現地から、棕梠の葉をまいた杖をもって帰る。そのように、ダンテもこのことを心にきざんでこの世へ持ち帰れ、ということ〕をもって帰るのと同じことです」
そこで、わたしは、「蝋は捺《お》された形を変えずに伝えますが、
いまおっしゃったあなたさまのお言葉は
わたしの頭に刻みこまれました。(八一)
しかし、わたしの待ちこがれたあなたのお言葉が、
わかろうとすればするほど
わからずに飛び去っていくのは〔言葉があまり高尚だから〕なぜでしょう」
「そのわけは」と、そのひとはいった、
「そなたのおさめた学問〔哲学〕〔の真実〕を知って、
その説であたくしの言葉が解けるかどうかを見ることです。
それに、そなたの〔学問の〕道が神の道から遠ざかっているのが、
大地が至高の天から離れているほど
遠いことをさとることです」(九〇)
そこで、わたしは、「いままで、わたしは
あなたさまから道をふみはずしたおぼえはありませんし、
そのことで良心の咎《とが》めをうけたこともありません」
すると、そのひとはほほえんでいった、
「そなたが思いだせないのなら、ともかく
今日レテの川の水を飲んだこと〔過去の罪を忘れるその水を飲んだということを思いだせ、との意〕は思いだしなさい。
火のないところに煙は立たぬといいますが、
こんなにさっぱり忘れるところをみますと、
そなたが想いをよそにうつした罪をもったということになりますよ。(九九)
実は、これからは あたくしもすぱすぱ申し上げるつもりですから、
そなたのにぶい目にも いくらかはっきり
わかるようになるでしょう」
太陽はますますかがやいていたし、わたしの歩みはさらにゆっくりしていた。
日は子午線のところにあったが、
それは、場所によってはあちこち動くものだ。
そのとき、先頭で道しるべをしていた者が、
何か行手に変な足跡でも見つけたかのように、
七人の天女がぴたりと足をとめた。(一〇八)
彼女たちは、アルプスの山のはこぶ清洌な渓谷にかぶさるようになっている
緑の葉と黝々《くろぐろ》した樹々の枝の下の
青ぐらい森蔭のつきるところに立ちどまっていた。
彼女たちの前で、ユーフラテス河とティグリス河〔エデンの園から流れでる四つの河の二つ〕とが、
ひとつの泉から出てきたように見えたが、
友だちのように 悠々と別れてながれていた。
「ああ、光よ〔ベアトリーチェへの呼びかけ〕、人類の栄光《さかえ》よ、
この源から あふれでて、ここで互いに遠ざかっていく
これは何の水ですか」(一一七)
わたしのこの問いに、ベアトリーチェが答えた。
「その願いはマテルダが申しましょう」
すると、罪をかばうひとのように、
うつくしい淑女がこたえた、「このことも、
ほかのことも あたくしからすでに申し上げたことでございます。
レテの水のことも この方には隠しはいたしませんでした」
そこで、ベアトリーチェが、「もっとも、気にかかることがあると、
こころが目をくらまして、しばしば(一二六)
記憶の力をうばうものです。
しかし、向こうから流れてくるエウノエの河をご覧なさい。
あすこへその方をお連れして、いつもお前のするように、
エウノエの水で その方の力をよびさましておあげ」
拒《こば》みようもない やさしいおこころ、
彼女はひとのこころが何かおもてに出ると、
すぐにその気持を自分のものにするひとだ。
そうして、そのうつくしい淑女に
手をとって伴われていった。彼女はスタティウスには
女らしくいった、「ご一緒にいかがです」(一三五)
読者よ、わたしにもっと書く余地があったら、
このいくら味わってもあくことのない甘い水のことを
すこしでも歌うところだが、
この第二部にあてた分量はすべて書きつくしたので、
これ以上は 芸術の手綱が
わたしを引きとめて行かせないのだ。
わたしは若葉でよみがえった
あざやかな樹木のようになって、
いともきよらかな川波から帰ってきて、
星々〔の国〕をさして昇ろうと 気がまえしていたのである。(一四五)
(完)
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解説 ダンテの煉獄
浄罪の山の構造
煉獄 Purgatorio は、もともと浄罪という意味だから、浄罪界というほうがいいかもしれない。その構造は本文でもはっきりしていないから、その輪郭をかいておくほうがいいと思う。
煉獄の位置は南半球で、北半球にある地獄とは反対側の海中の島で、浄罪の行なわれる舞台は、その島にそびえる山である。その山裾の広野に、地獄からの狭い出口があり、その山のいただきは火天のなかまで突き出ていて、自然と天上へつながる形になっている。この煉獄が、地獄と天国の中間にあって、上天へのつながりをもっているということに深い意味があるが、そのことはあとで触れる。
その山は水面上に突き出ていて、エルサレムの反対側にあるというが、ダンテはその大きさとか高さとかについては、何も手がかりを与えていない。ただ一度だけ、その山をめぐる環道の道幅が「ひとの背丈の三倍」あると具体的に述べている。それだけで、読者は自分のイメージでその山の大きさを想像するしか手がない。
山の麓《ふもと》の草原は、だらだらと渚《なぎさ》にまでつづいていて、海を前にした山のとっつきの突出部は、山の登り口になっているが、陰鬱な暗い地獄から出てきた者にとって、そこにはすでに、夜あけから日の出前のうつりやすい光の色があって、静かなほの明るい煉獄のムードがただよっている。煉獄の倫理的な区分の上では、この山裾の草原と、ダンテがひたいに罪のしるしのPを七つきざみこまれたピエートロの門の石段までの山地は、「前の煉獄」にあたる。
ピエートロの門をはいると、山には上から、色欲、大食、貪欲、懶惰《らんだ》、怒り、妬《ねた》み、おごりの順に、七つの罪をきよめるために、それぞれ一段ずつ七つの段丘ができていて、それが山をとりまく環道となって螺線形に一周する形で麓へ延びている。そして、さらにそれを罪の重さで分けて、下からたかぶり、妬み、怒りが下部の、懶惰が中部の、貪欲、大食、色欲が上部の煉獄となる。きよめられる七つの罪はほとんどここに集まっていて、区分的には、これが「中の煉獄」となるのである。
山のいただきの、もっとも高いところは、もはや雲のなかへはいることもあって、頂上にちかい色欲の環道をはいると、そこが地上楽園である。かつてアダムとイヴが原罪を得たところで、その中ほどに知恵の樹がある。この山上の狭い盆地が、区分上からは「後の煉獄」となるのである。
物理的にいえば、前・中・後の煉獄を、ダンテとウェルギリウスは、海につづく草原を迂回して山地にかかり、東から西へ向かって登りはじめる。地獄とはちがって、今度は右まわりに環道をのぼっていくのだ。彼らが最初にとった方向は西北で、二段目の環道へあがってから四分の一周くらいのところで、その方向は真西になる。ここがその段のおわるところで、それから上の五つの段では、環道の歩くコースは短くなって、だいたい南西にかたよって登っていくが、最後の段丘からは東へ曲がって地上楽園へ入ってゆく。
それらの方角や位置などを決定するものは、太陽や黄道帯などの天体の在り方や、日光や影のあらわれ方から推測されることで、ダンテは煉獄に、それが地獄と天国の中間にあるという在り方から、そこに地上的なもののほかに、天上的な秩序の作用を感じないわけにはゆかない。そこは要するに、空間が時間をもたずに神のおもかげにつながっていく無限の世界である。
この煉獄を領域として規定するものは、実は地球的な秩序のほかに、それとは相対的な軌道である天の太陽的、獣帯的な秩序であって、しかもこれらの軌道でさえも、原動天とか至高天とかいう別の軌道のなかで存在しているのだ。この複雑な秩序の交錯し合うなかで、ダンテは自分をいかに正しくそれに調整しようかと努力しているのだから、読者が空間的にも時間的にも、こういう神観的な世界の把握に困難を感じるのも当然のことだ。しかし、ここではその天のことは考えないことにする。
その倫理的な区分け
煉獄の物理的な構造のすべては、地獄でもそうだったように、倫理的な要素で貫かれている。だから、自然といえども、精神の広汎な象徴の一つに変わってしまうのだ。
われわれは事実、地獄と煉獄とが、古来の神話にしたがって、連関をもった一つのものだという基本的な思想から目をそらすことはできない。それは、ジルソンが指摘するような、「善悪の二重性をもちかえろうとする、本質的には世界の倫理的な二元性を一元化しようとする神話的な観念」だからだ。それは、物理的な地拡と山嶺、倫理的な地獄と煉獄とは、一つであるべき神の行為が二つになって対立するものだからだ。この二つの獄はしかし、人間自身によって、そのいずれを選んで所有するかは、自由意志に委ねられているものだ。人間の立場からいえば、自由意志がそのいずれかを選んではいっていくものだからだ。
ダンテは中世教会で規定した七罪から、浄罪の手順を発見している。そして、その七罪をもって中心的な煉獄を構成した。さらに、それに加えて、「前の煉獄」をおき、その上に真の意味での浄罪の場といってもいい「後の煉獄」(地上楽園)を加えている。こういう風に、煉獄は全体で九つの圏をもっているので、それは地獄で呵責する圏谷《たに》の数と同じだ。しかし、煉獄では、地獄で罪を二つに大別したようなディーテの府《まち》はない。それに反して、ダンテは煉獄を二分する意味でありながら、中間のブロックを入れて、全体を三分割しているのである。
最後のブロックは、色欲、大食、貪欲から成っているが、この三つの罪はすべて、人間の意志が神の至福や善の本質を望まないものばかりだ(煉。一八、一三四)。スコラ的にいうと、これらが、そのなかで人間がその自由意志で決定する最小の罪の段階になっている。
つぎのブロックは、懶惰の罪一つだけだが、これが二つの罪のブロックの中間にはいっている。この懶惰は、善と悪のいずれにもつかず、その故に煉獄では積極的に善の精神と対しない悪徳とされている。
とっつきのブロックは、もっともつぐないのしにくい罪として、怒りと妬みとおごりから成っていて、これらは「隣人の不幸をよろこぶ」ものだから、この三つは社会的な罪と呼ばれている。自由意志はこの三悪の前面におし出ていて、他人の意志をくじき、結局は自分の意志さえもそこなうものだ。罪とすれば最低のものである。
一般に考えられているような、罪のきよめは、中の煉獄の七圏だけでは、きよめの過程は終わらない。そこで、もっとも重点をおかれているのが、「後の煉獄」の地上楽園である。そこでは、地獄にもないダンテ自身の特殊な罪のきよめがあるから、とくに強調されているのだろうと思う。
ダンテがつぐなうその特殊な罪というのは何かというと、それはベアトリーチェに対する罪である。その罪は二つの意味をもっていて、一つは現世的な色欲の罪であり、も一つのは彼女の精神的な本性を拒否した罪だ。それはいうならば、地獄でエピキュリアニズムと呼んでいた異端、すなわち懐疑である。いいかえれば、それは霊魂の不滅性の否定であり、人間的な限界を越える精神に対する拒否だからだ。これは地獄にはなかった哲学的な煉獄の罪だと思う。
そこで、地獄と煉獄とでは、同じ罪がいかに価値づけされているかを山での浄罪の順序とは別に、最小の罪から最低の罪の順に表のかたちで対照してみたい。
[#ここから1字下げ]
〔地獄〕
色欲・大食・貪欲・憤怒――自制できない罪・個人的な罪
異端・懐疑――中間的な罪
暴力・詐欺――悪徳・社会的な罪
〔煉獄〕
色欲・大食・貪欲――個人的な罪(最小の罪)
懶惰――中間的な罪
怒り・妬み・おごり――社会的な罪(最低の罪)
[#ここで字下げ終わり]
この最後にあるブロックの怒り、妬み、おごり(驕慢)を、ダンテは地獄での暴力や詐欺と同じく社会的な罪だという。その理由は、悪徳が不正をとおして「他人を苦しめるもの」(地。一一、二四)だからで、その条件にあてはまるものが、煉獄では「おごり、妬み、怒り」だというのである。
この二つの表では、取り扱いの一致してる罪もあり、しない罪もあるが、解釈は必ずしも一致しているわけではない。たとえば、異端や懐疑などの、地獄でいうエピキュリアニズムは、主として知的なもので、ほかの罪とは異質なものであり、社会的というよりむしろ個人的なものだが、地獄ではこれを中間的なものに分類している。
エティナンヌ・ジルソンは、この二つの表から、その評価のちがいを指摘して、二、三の問いを出している。
[#ここから1字下げ]
一、おごり(驕慢)と妬みは、地獄のどこで罰せられているか。
二、暴力と欺瞞は煉獄のどこで償《つぐな》いをしているか。
三、懶惰は、地獄のどこで罰せられているか。
四、懐疑は煉獄のどこで償われているか。
五、怒りはなぜ地獄と煉獄で別のところにおかれているか。
[#ここで字下げ終わり]
まず、第一の問いを考えてみると、たしかに地獄ではおごりと妬みのいる圏谷《たに》はない。しかし、おごりを取りあげてみると、それは明らかにカパネウスに適用されていることがわかる。
「おお、カパネウスよ! お前のたかぶりはまだ消えていないな。お前はもっと罰を食らうぞ!」(地。一四、三四)
それでも、カパネウスには、おごりという性向の根がのこっていたから、神を汚す刑罰をうけている。またファリナータはたかぶりを越えて、おごりをもった人間に描かれていて、それが異端の罰をうけている(地。一〇)。
しかし、ここで、地獄と煉獄とでは、罪の評価にちがいがあることを注意する必要がある。概して、地獄では、人間の行為として表面化したものを罪と見ているが、煉獄では、もっと内面的にその行為を生みだす性向までも、浄められるべきものだと見ていることだ。それは、地獄の原則が、正義であり、煉獄が、精神的に人間の本性の甦生を原則とする相違から来るものと思う。
この間の事情についてジルソンはいう、「おごりはいろんな罪の行為の源となりうるものだ。それは、ルチフェロの場合では神に対する裏切りになり、カパネウスの場合には涜神《とくしん》となり、ファリナータの場合にはエピキュリアニズムをみちびきだすからである。おごりこそ、地獄のあらゆる悪を生む母たる罪だ。だから、煉獄の原則からいえば、おごりがもっとも重い罪になるのだ」と。
妬みの実体も、シエーナのサピアの場合を見ても、同じように考えられると思う。そのほかの罪についても、煉獄での罪の根源的な追求の原則から推測すれば、それぞれにその罪の受けとり方は見当がつくはずである。
ただ、地獄での異端、煉獄での懶惰が、なぜ七罪とは別な扱いをうけているかということで、ダンテ学者はいろんな意見を立てている。
懶惰は善を行なうことに無関心だ。この種の罪の魂は地獄では辺獄《リンボ》にいる。いわゆる「ほめられもせず、そしられもせずに生涯を生きてきた人たち」だ。悪行を罰する地獄では、懶惰の罪が軽すぎるので、正義は彼らをさげすんでいるのだ。だが、煉獄では、徳が積極的に善を行なうところだから、懶惰はそれを重く犯すことになるからだ(ドヴィーディオ)。
また、罪の行為のほとんどない懶惰は、実際にはミノスの断罪の下にあるのでもなく、いつかは篤信のキリスト者の嘆願で救われるのだから、地獄ではさして重大視することはない。しかし煉獄では、それがまさにその人を告発するほどの重大な罪だ(シュナイダー)と。
この懶惰が、地獄のどこにあるかということでは、古くから注釈君たちが地獄じゅうを探しまわった問題だ。「怠ける」というイタリア語の形容詞は accidioso だが、彼らはそれを地獄の第五圏で見つけて、懶惰の罪は第五圏にあるといって、これが通説になっていた。これは原文では、Portando dentro accidioso fummo というのだが、これをヴィッテがaccidioso を lento(徐々に)と解して、「胸中に怒気をうつぼつさせて」と解釈することになって、結局、地獄には懶惰は見あたらないことになった(ヴィッテの『ダンテ研究』)。ダンテが黙って通りすぎるのには、理由があったのだ。
「とりなし」ということ
煉獄は、地獄と天国の中間にある。このことは、地獄にいる罪の魂たちが天国へ昇るための、神へのとりなしをする場所だということを意味している。それは、罪のつぐないのためには欠かすことのできない条件である。しかも煉獄での罪のきよめのうごきは、決して偶発的なものではなくて、内面的なしずかな発展であり、また幽閉され限定された人間がその限定性から抜けだして、無限の永遠性に行きつくことだからだ。いいかえれば、キリスト者のいう「いたみと苦しみと悲しみをとおして浄める」日常の生活から、人間がその無限の性質を主張して行ない、その永遠の運命をもつことだからだ。
この煉獄のもつ発展のイデが、現在的だといわれ、神曲のなかでも『地獄』や『天国』よりも、現代の精神に対して、より深刻に刺激する理由を発見する学者もいる(ファガソン)。彼によれば、魂のうごきは地獄や天国では、たしかに現在的ではない。そして地獄や天国では、その限界で火とか天恵とかで魂は不変に結びついているかに見えるからだ。ある種の神学的なきびしさが、その魂を所有していて、人間の自由意志は、そのなかに幽閉されているのである。そこで、つぐないの観念は、来世にまでの発展を主張する近代の意識にもっとも受け入れやすいものになった(ファガソンの『ダンテの魂の戯曲』)と、いうのである。
そこで、神へのとりなし、和解というのが、煉獄全体の調子であり、またそれの性格となっている。それは人間の心がつねに神の吟味に立ち還る思想である。その意味で、この贖罪の手順は、地獄と天国が抽象化している部分を具体的にすることだ、といえると思う。ダンテはその事実を、『煉獄』でつまびらかに示しているからだ。しかも、ダンテのそれへのかかわり方を見ると、煉獄でのほうが、地獄よりも、はるかに積極的だ。それは彼が地獄では傍観者だったのが、煉獄では行為者の立場で、彼自身の問題として、浄められざるを得なかったからだ、と思う。
キリスト者と煉獄
教会史で見るかぎり、地獄と天国とのあいだの和解や仲介の役割をする煉獄の教理は、原始キリスト教会では、まだできていなかった。それを最初にキリスト教の教義の体系の一つにしたのは、五世紀の聖アウグスティヌスだったと信じられている。それにつぐ重要な段階は、六〇四年の聖グレゴリウスだ。死後の罪のつぐないのためにする悔悟、そして生きている篤信者の祈りをとおしてする、罪の部分的全体的なつぐないの免除は、カトリックの教会では、程度の差はあったが、通念として存在していたらしい。その問題で論議したフェラーラ、フィレンツェの二つの公会議、さらにそのあとのトレントの公会議(一一四〇年)では、教会の教義として浄罪の世界を確認した、と思われるからだ。
しかし、現在では、その問題については、プロテスタントとの間で論争する必要があると思う。なぜなら、スコラ派の神学者が、この煉獄の罪の手順とその免除の方法を精細に体系として仕上げてしまっているからだ。そうはいっても、スコラ体系が仕上がったあとでも、われわれはそれを原始教会へ帰そうとする反動的な信仰のうごきのあることを見のがすことはできない。
プロテスタントのほうでは、もちろん来世の教義としての煉獄などを認めないことは周知のとおりだ。宗教改革が、この罪をきよめる刑罰の免除にふれて、それがしばしば金銭であがなわれる免罪の濫用が動機になったことを知っているからだ。しかし、古い教会では、久しい前から、免罪符の売買は、罪を許すものでもなく、罰をまぬがれるものでもないという考えから、それが罪とせられていた(ブランドン)のだから、そのうごきは当然である。
したがって、プロテスタントは、臨終のきわのひとの心は完全に神聖になっているものとして、たちどころに神の栄光のもとに行くことができる、と確信している。だから、プロテスタントの教理からいえば、煉獄というものは、すでに魂の来世の状態からは消えうせてしまっているのである。
だから、その信仰の危機に引きずりこみかねないこのギャップを埋めるものとして、文学が、この場合では、ダンテの『神曲』が、プロテスタントの側からも、受け入れられることになる、とオザナムはいう、(オザナムの『ダンテの哲学』)。
その結果として、十九世紀には現象的に、『神曲』がドイツのプロテスタント社会に多くの読者を見いだすことになるが、それに引きかえ、イタリア人をのぞくカトリックのラテン民族のあいだでは、そういう現象は見られないという。その理由は明らかで、カトリックのラテン民族は、プロテスタント社会が、主として知的に抽出しなければならないものを、いまだに教会の中にもっているからだと思う。(その断層が、はからずも、『神曲』によってラテン民族とドイツ民族とを、再びむすぶ力になったというオザナムの見解はおもしろい)。
煉獄の神話は、こうしてある程度ダンテによって、プロテスタントの世界でよみがえったといえる。そうなってからは、もし和解とか、とりなしとかが、信仰個条や神学的な教理として、抽象的なかたちで与えられるものとすれば、プロテスタントはそれを再び神話化するだろう。なぜなら、彼らは自分自身の具体的なかたちを持ちはじめているからだ。その具体的なかたちとは、真に詩的なもの、あるいは詩となる真実の素材である。そこで、われわれは、この問題について、その原初の具体的なもの、すなわち神話をかいま見なければならないと思う。
つぐないの神話
私はすでに『地獄』の解説で、黙示録の神話が、遺伝的に『神曲』にかかわりをもつだろうことを推測しておいた。
ここでも、その立場で浄罪の神話が、ダンテにまでかかわりをもち、それがいかなる過程ではいったかを考えてみたい。その過程というのは、浄罪の神話がいかに展開したか、それが人間の意識にいかにひろがったか、という問題である。
この二つの問題を、われわれが関連的に取りあげようとするのは、いまでも神話と神学が、それぞれ浄罪の観念を形づくる上に果たした役割を区別して扱っているからだ。
罪のきよめの意識が人間の信仰的な幻想にはいったのは、教会や神学の教義からでないことは、神学者の側でも認めていることだ。この世と同じくあの世でも、神との和解という考えは、ヨーロッパでは通俗的なキリスト教文学の初期にもはいっていた。その見方からすれば、それの最後的な開花と詩的な変形が、説話や伝説や奇蹟のおびただしい変形したものをとり入れたダンテの煉獄だというのである(シュナイダー)。
黙示録の神話にある浄罪のかたちは、もちろんダンテの創造ではなく、キリスト教文学でもない。それよりもさらに古い時代の生んだもので、その起源ははるかに遠い古代東方の秘蹟の世界にさかのぼると考えられている。
その考えが西方にあらわれた最古のものは、やはりギリシアらしい。その明らかなあらわれは、プラトンの思想にある。彼のアケロンの沼は、悔悟した罪人が罪をきよめる場所だ。プラトンくらい罪のつぐないということを考える哲人もすくないが、神話や比喩や抽象的な教義のかたちで、きよめの観念が彼の著作をながれている。その黙示録の浄罪の観念がキリスト者の心にも魅力があったことは、たとえば第三の天に捉えられた聖パウロは、そこで言語に絶したものを見ているし、神の啓示における聖ヨハネも同じ経験をかさねている。新約聖書は、この浄罪の幻想から出発しているといってもいいくらいだ。
それが、説話として西方でもっとも早くあらわれたのは、八世紀のべーデ尊者の冥府記録とドリセルムの幽界見物だが、前者では世界の終わりに大火災が起こってあらゆる罪がきよめられるし、後者ではそれはさらに進んで、呵責される魂は、施しやミサと同じに、生きている者の祈祷で救われることになっている。十二世紀中ごろに流布した聖パトリックの煉獄巡行も、罪をおとすための巡礼の体験記だが、これもダンテより百五十年も前の説話にもとづいているというの.だ。(そのパトリックの修法の跡といわれたダルク湖には、そのあとも浄罪の巡礼が絶えず、きよめと許しの経験をして、その話をひろめたといわれる)。
そのほかにも、ダンテ前後のものでは、トゥボオの冥府めぐりの詩やヘルペーデの尼僧メッヒティルディスの煉獄説話などがあって、ダンテの浄罪観のさきぶれとも見えるものがある。
それらは、浄罪に関していえば、神話的な系列の説話の最後の断片とも考えられるが、それがスコラ的に、有徳と悪徳というように倫理的に性格づけられるにしたがって、しだいに抽象的になって行って、それの抽象性ゆえに、神学の世界にはいったというのが、神学者側の解釈のようだ。
それは方法的には、神話の解釈を本質的な教義に抽象化することか、もしくは幻想の形式を解釈の形式に立て直すことかである。しかし、この逆の場合ももちろんあるだろう。すなわち、神話を神学に組織し直すこと、また神学を神話に引きもどすことである。
ダンテの場合にも、この二つの過程がある。彼の努力したのは、おそらくこの神学ゆえにもたらされた二元性を一元化することにあったにちがいない。おそらくダンテの内面的なせめぎ合いは、無意識な神話的傾向と意識的な神学的傾向のあいだにあったと思われるからである。
ダンテの煉獄
ダンテはその二つの道のいずれをとったか。そこで、われわれがダンテのなかで、もっとも醗酵しているものを見つけようとするなら、人間がのぞめば辺獄《リンボ》から抜けだせるということを、無意識にほのめかしている個所をいくつも拾いだすことができるだろう。それがなぜかというと、彼がウェルギリウスと面とむかって物をいうときは、神学の教義的に筋がとおるが、声にもならぬつぶやきの場合は、人間のこころの自由をほのめかしているからだ。
聖アウグスティヌスが「人間は悪意をもつと、正義を行なう力が失せる」といってからは、地獄が永劫に罪を呵責する場所となって、そこからは抜け出せないことになっているのに、ダンテはいくたりかを救いだして煉獄へ連れだしている事実がある。リペウスはトロイアの異教徒だが、キリストのとりなしに救われて天国の高い席にいるし、トロヤヌス皇帝は聖グレゴリウスの祈りのおかげで地獄から救いだされているからだ。
その救いにかぎって考えてみても、神学は地獄に人間を幽閉して限定しているが、神話は限定せずに人間を煉獄にまで連れだしている。それは永遠につながる道だ。そこに、人間を律する信仰個条と信仰そのものとのちがいがあるのだ。
われわれは煉獄のなかに、その意味での有限のダンテと無限のダンテとがいるので、注意ぶかい読者には、その内面的なせめぎ合いが読みとれるだろう。そして結局は、無限が有限にうちかつのである。ダンテは神学の壁をつきやぶるものは人間の自由意志だと確信している。神にさえ譲り渡せないものは人間の自由だということである。ダンテの強さは、その人間的な自己決断の力だと思う。
だからダンテの煉獄は、その意味では神学から神話へ帰ることを示唆している。それは、人間性の根底に立ち帰ることだ。彼の煉獄には、そういう中世のダンテから永遠の無限の時に生きるダンテヘの転回があらわれているのだ。彼の天国へ行く心がまえは、このときにすでにできているのである。
このみじかい解説を草するにあたって、キリスト教の信者でない私は、その神観の意味するところを理解するために、左の諸著の意見に負うところが多かった。その結果、神曲におけるダンテの思想を理解するためには、神学的によりも、かえって哲学的に接触するほうが妥当ではないかという暗示をうけた。
Etienne Gilson: Dante, le Philosophe. (1948)
A. F. Ozanam: Dante et la philosophie catholique au Xlll siecle. (1923)
Francis Fergusson: Dante's Drama nf the Mind. (1953)
Denton Snider: Dante's Purgatorio. A commentary. (1892)
S. G. S. Brandon: The Fall of Jerusalem and the Christian church. (1951)
Karl Witte: Dante-Forschungen. (1898)
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訳者あとがき
この『煉獄』のテキストも、『地獄』のときと同じく、Scartazzini の La Divina Commedia(1925)を、同じ理由でとりあげた。また解釈の上でも、同じく古注を尊重したい考えから、スカルタッツィーニ氏の注釈のほかに、Giorgio Petrocchi の Dante Alighieri La Divina Commedia secondo l'antica vulgata(1967)を参照して、自由に解釈させていただいた。
ただ、私はキリスト教に信仰をもっていないので、煉獄のようにキリスト教神観が出てくると、そのモティフの理解にとまどうことがあって、それらはいっさいジルソン、ヴィッテ、オザナムなど、独創的なダンテ学者の見解にたよらねばならなかった。とくに、スコラ的な倫理観は、よく秩序づけられてはあるが、論理がきびしく、あまりに形式的にすぎて、現在のわれわれから見ると、考えの秩序がちがうので、それをいかに自分の考えに妥当させるかという点で、余計なおもんぱかりをしなければならなかった。
考えてみると、『煉獄』は、『地獄』の神学的な解決であるとともに、『天国』へひらく地ならしみたいなものだから、それぞれとの相関的な立場で見なければならないものだと思う。だから、読者はできれば、この煉獄と相関的な関係にある『地獄』や『天国』を併せて読まれたら、ダンテが神曲制作に意図したものを明らかに把握されることと思う。
『地獄』のときに書きもらしたが、書中の人名や地名の訓み方では、この訳述が音数律による定形詩のかたちではないので、音節の数を合わせる必要がないので、わが国での慣用の訓みのないかぎり、それぞれギリシア、ラテンの原音の訓みにしたがった。ヴィルジリオをウェルギリウスとしたのは、そのためである。
また宗教上の慣用語についても、仏教語やカトリックの用語はとらなかった。それは、仏教とキリスト教とでは、厳密には語義の成立がちがうし、カトリックの用語はその言葉になじみがないからで、もしそれにしたがうと、そのための概念規定で注をつけなければならないからである。その意味で、室町期の、渡来した教父たちが、天草版の切支丹本にのこしている訓み方、たとえば恩寵を「がらさ」と原音で訓ませていて、あえて「慈悲」などと仏教語の訓みをとらなかった深い用意を、さこそと思うのである。
なお、ダンテ時代の語法や慣用については、十五世紀にヴェネツィアから出たアルンノ著作集(1512)からも、いろいろ思いがけない示唆を得た。この書物の出たのは、ベムボの全盛時代で、ダンテ否定とはいわなくても、イタリアでダンテ評価のもっとも低かった時代のものだから、ダンテ讃仰のよけいな修飾符がなくて、ほぼ彼に対するナマの感じをうけとることができた。この書を恵まれたイタリア書房の伊藤基道氏に深い謝意を表する。
それから、ダンテの評伝とその年譜は地獄の解説につけたので、この『煉獄』には省いておいた。私はいま、煉獄の筆をおいて、フラ・アンジェリコのあの奥ゆかしい妙音と光彩の陸離たる天上の世界へはいろうとしている。やがて神のきびしい正義の眼に私はのたうちまわることだろう。
昭和四十五年八月